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[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 【第二部 完結】
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2014/01/18 21:39

 時は春。満開の桜が視界一杯にあでやかに広がり、吹く風は確かな春の温かさを宿して、優しく頬を撫でていく。
 家族に連れられてやってきたのだろう。幼い男の子が、浮かれた様子で桜の園のあちらへ、こちらへと走り回っていた。
 陽が中天に輝く時刻、周囲には花見客が笑いさざめき、その楽しげな雰囲気が子供心を浮き立たせずにはおかないようで、遠くからかかる母親の声も、男の子の足を止めることは出来なかった。
 さらに先へと駆け出していく子供は、しかし不意に停止を余儀なくされる。
 桜の花を見上げていた青年にぶつかってしまったのだ。


 小さな悲鳴と共に子供は足を止めた。思いのほか強い衝撃で鼻を打ち、その目にみるみる滴が溜まる。
 それは鼻の痛みのせいもあったが、怒られる、と本能的に恐れたためでもあった。
 だが。
「おっと、ごめんごめん。大丈夫かい?」
 青年は子供に気付くと、膝をついて目線を合わせ、そっと髪の毛に触れてきた。
 怒気を感じさせるものは何もなく、子供は目に見えてほっとしながら、小さく頷いてみせる。
「そっか、良かった良かった。ぽかぽか陽気に綺麗な桜だもんな、はしゃぎたくなって当然だ」
 言いながら、立ち上がった青年は軽く子供の頭を撫でてから、踵を返す。
 その後姿を見た子供は、何故だか青年の背から目が離せなかった。思ったよりもずっと大きく感じる背に、惹きつけられるように子供が口を開こうとした、その時。


 ――不意に吹き寄せる一陣の風。花びらを乗せた春風は子供の視界を一瞬だけ桜色で染め上げ、そして。


「あ、あれ?」
 視界から消えた青年の姿を求めて、子供は顔を左右に振るが、どちらの方向にも先刻の優しげな青年の姿はない。
 どこに行ったのだろうと首を傾げた途端、遠くから母親の声が聞こえてきた。その声を聞くや、子供はぱっと顔を綻ばせ、元いた場所に向けて走り出す。



 後に残ったのは、去り行く子供の足音と、宙を舞う花びら、遠くから響く笑い声。
 そして、もう一つ。青年が消えたあたりから、澄んだ鈴の音が小さく、ほんのかすかに空気を震わせ――誰一人、聞く者とてなく、やがて宙へと溶けた。



 それはただそれだけの出来事。
 時を同じくして。
 世界を異にして。
 常夜の時代を終わらせる、激しくも華やかな戦いの再開を告げる、小さな小さな合図であった。



         聖将記 ~戦極姫~ 【第二部 護国の雷鳴】



「義姉様(あねさま)」
 澄んだ呼び声を耳にした戸次道雪(べっき どうせつ)は、腰まで届く艶やかな黒髪を揺らしつつ振り返る。
 そこには予想に違わない人物の姿があった。もとより大友家加判衆筆頭たる道雪を義姉と呼ぶ人物は一人しかおらず、間違えようもない。
 その人物――おなじく大友家加判衆に連なる吉弘家の跡継ぎである吉弘紹運(よしひろ しょううん)は凛とした双眸に、めずらしく困惑の色を宿しながら道雪の傍らに歩み寄ってきた。
「紹運、どうでしたか」
「は、やはり此度の仕儀、南蛮神教側により多くの非があるように思えます。角隈石宗(つのくま せきそう)殿亡き後、その所領にある寺社を半ば強引に南蛮寺院へ建てかえさせている様子」
 予想どおりの報告に、道雪は思わずため息を吐く。


「あの宣教師らしい所業ですね。石宗殿の所領を、彼の者に与えたのは宗麟様。それ自体は是非もないことですが……」
 道雪の嘆きに、紹運は同じ表情で相槌を打つ。
「角隈殿は寺社の代表として、終生、南蛮神教と対立してきましたからね。政敵にも等しかった相手の所領で、寺社を取り潰して南蛮寺院を建立すれば、勝ったのは南蛮神教であると周囲は考えるようになるでしょう」
「御仏を信じるにせよ、異教の神を信じるにせよ、皆、大友という家の大切な臣民であることに違いはないのです。対立は避けられないでしょうが、あえて火に油を注ぎ、大火にする必要などないというのに」
 ここで言ったところで詮無いことですが、と道雪は再度ため息を吐いた。
 このところ、憂いの去らない義姉の顔に気遣わしげな眼差しを向けつつ、それを払う術を持たない紹運は、悄然と俯くしかなかったのである。




 鉄砲をはじめとした西海の知識が日の本にもたらされるようになって数年。海を渡ってきた道具、知識、信仰はすでに各地で少なからざる影響を与え始めていた。
 異なる文化が、戦国という乱世でぶつかりあったのだ。当然ながら、そのすべてが良い方向へ行くわけではなかった。無論、すべてが悪しき方向へ行くわけでもない。
 それを象徴するのが、近年、九国探題に任命された大友家の隆盛と、内の軋轢であった。


 大友家当主である大友フランシス宗麟は、大名の中ではもっともはやく南蛮神教に改宗した人物である。そのため、領内には南蛮由来の建物も多く、膝元の府内に建てられた南蛮寺院の壮麗さは、南蛮人をして感嘆の声をあげるほどであるという。
 自然、府内には多くの異人が住まうようになり、港には西の海を越えてきた外国船が毎日のように訪れる。彼らがもたらす産物と情報は大友家の財政を潤し、府内の繁栄は北九州の博多津に優るとも劣らぬものとなっていく。


 宗麟が家督を継いで数年。府内の街並みに建ち並ぶ南蛮様式の建物も、すでに目新しいものではなくなっていた。大友家と南蛮文化はきわめて密接な関係を保ちながら、日の本でただ一つとも言うべき異色の発展を遂げていたのである。  




 その一方で、大友家の内部では大きな歪が生じつつあった。主君みずから南蛮神教に改宗し、さらに積極的に南蛮神教の布教を押し進めていく過程で、従来の寺社勢力と深刻な対立が発生していたのである。
 家臣、領民を問わず、御仏の教えを信じる者は多く、また信仰はせずとも寺社と何らかの関わりを持っている者は少なくない。
 彼らにとって、急激に過ぎる南蛮神教の台頭は脅威以外の何物でもなかった。くわえて、寺社の建物が次々に南蛮神教に接収され、南蛮寺院に建てかえさせられるに及んでは、反目が生じない理由がなかったであろう。


 南蛮文化がもたらした恩恵は否定できない。だが、南蛮神教の強引な布教は、古来より日の本にある寺社勢力と、それに寄り添って生きてきた人々との融和を端から放棄したものであった。
 本来であれば、それは豊後の地を統べる大友家によって掣肘されるべきものであったが、主君である宗麟が南蛮神教側の頂点に立って事を押し進めている現状では、南蛮神教側の非を糾弾できる者はごく少なかった。
 その数少ない人物の一人が、先日、病を患い、他界した。この人物には跡継ぎがなく、死後、その所領は大友家の直轄になるものと思われていた。
 南蛮神教側は、この仇敵の死を勿怪の幸いとして、主君である宗麟に新たな南蛮寺院の建立を薦める。元々、彼の地に南蛮寺院がないことを案じていた宗麟は、これを即座に了承し、一切の差配を信頼する一人の宣教師に委ねたのである。
 フランシスコ・カブラエル。
 大友宗麟に洗礼名を与え、豊後における南蛮勢力の飛躍をもたらしたこの宣教師によって、事態は悪化の一途を辿ることになる。



 ――だが、南蛮文化の到来が表裏二つの面を持っていたのだとすれば。
 政敵にとどめを刺すべく行ったカプラエルの蠢動にも表裏二つの面が存在した。この一連の騒動は、大友家にとって一つの転機をもたらすものともなったのである。


 空前の繁栄の陰に拭い難い不和を抱えながら、止まることなき大友家の歩み。
 その途上に、一人の青年が現われようとしていた。

 

◆◆



「なんとまあ。傍若無人とはこういうことか」
 俺は知らせを聞き、呆れかえって頭を掻いた。
 角隈殿の四十九日を数日後に控え、粛然と静まりかえる屋敷に、慌てた様子で寺から知らせが駆け込んできたのは、つい先刻のこと。なんでも南蛮神教の使いが、ただちに寺を明け渡すように命じてきたらしい。
 無論のこと、代わりの場所など用意されておらず、寺で予定されていた角隈殿の四十九日をはじめとした数多ある法要の都合も考慮しない。ただただ出て行け、というわけだ。
 横暴だ、と声をあげたいところだが、これに大友家当主の許可があるというから呆れざるを得ない。領民はもちろんのこと、一坊の主である住職といえど、当主の命に逆らうことが出来ないのは当然であった。


 住職がこの家に使いを走らせたのは、この屋敷の主であった角隈石宗殿の名に縋ろうとしたのであろう。角隈殿は、大友家当主である大友宗麟の軍学の師であり、同時に南蛮神教の台頭著しい豊後にあって、寺社勢力の要と目されている人物であった。
 南蛮神教に傾倒する当主も、師である角隈殿の言葉を無視することは出来ないらしく、角隈殿は事あるごとにこの手の厄介事の始末に頭を悩ませていた。
 このように記すと、あたかも寺社と南蛮神教が均衡を保っているかのごとく映るかもしれないが、実際のところ、当主を改宗させた南蛮神教の勢力を押しとどめることは、角隈殿であっても不可能であった。
「南蛮神教が十の事を企むとき、妨げることが出来るのは、精々一か二でしてな」とは、生前の角隈殿の嘆きにも似た述懐である。


 それでも、大友領内でそれが出来るのは角隈殿を除いては一人いるかいないかというところらしく、南蛮神教側にとっては厄介な目の上のコブであったのだろう。角隈殿には、それこそ様々な圧力が、各方面からかけられていたようだった。
 お家大事の戦国の世にあって、角隈殿が最後まで跡継ぎを定めなかったのは、あるいはそんな針のむしろとも言うべき自分の立場に、他者を充てることを避けたかったからなのかもしれない。今となっては確認しようもないことではあるが、俺にはそんな風に思えてならなかった。


 それは、角隈殿亡き後の屋敷の寂れようを見ているうちに、俺の中でほとんど確信になっていた。屋敷に残ったのは、俺を含めて両の手で数えられるほど。外から弔問に訪れる者もごくわずかしかおらず、それも決まって何者かの目を恐れるように、夜間ひっそりと訪れるのが常であった。
 一時の客に過ぎない俺から見ても寂寥の観を禁じ得ないこの状況が、角隈殿の立っていた場所の苛酷さをまざまざと示しているように思われた。




 俺がそんな感慨に耽っていると。
「雲居(くもい)様……」
 いまだ耳慣れない呼び名に、少し慌てながら、俺は目の前の人物に意識を戻す。
 白布で顔を覆ったその人物は、低く、くぐもった声の中に、小さな非難を込めているように思われた。
 といっても、それは出会った時からずっと続いているものなので、この頃は逆にそれがないと落ち着かない気分にさせられてしまうのだが。


 この白頭巾の小柄な少女、名を大谷吉継という。
 業病を患い、その治療のためにはるばる畿内から九国にまでやってきた――ということになっている。
 実のところそれは方便で、吉継の顔も身体も、病の影響のない綺麗な乙女そのもの。開花を待つ蕾にも似た、未成熟な美しさを漂わせていた。
 何故、そんなことを断言できるのかというと……いや、まあ一度だけ見てしまったからなのだが。水浴びしてるところを、こう、思いっきり、これでもかというくらいまじまじと。


 ……言い訳させてもらうと、故意ではない。いや、まじまじと見たあたりは弁解のしようもないのだが、そこに吉継がいるとわかって行ったわけではないのだ。
 山中をさまよいつつ、ようやく見つけた泉に駆けつけたら、たまたまそこが吉継が頭巾をとれるほとんど唯一の場所だったという、ただそれだけの事なのである。信じてお願い。
 運良く――もとい、折悪しく、その時、吉継はまさに泉に入ろうとしているところで、つまりは顔も身体も外気にさらしている状態であった。
 で、俺は当然のようにそのすべてを目撃してしまったのである。


 自慢だが、俺は綺麗な女性とは少なからず縁がある。二年ほど前までは、芍薬、牡丹、百合の花という感じの、いずれ劣らぬ佳人たちと毎日のように顔を合わせ、共に戦ってきた。
 そのため、そうそう女性に見蕩れるということはないのだが――しかし。
 吉継は、俺の知る人たちと遜色ないほどに綺麗だった。我ながら似合わないことだが、泉の妖精か、などと思ってしまったくらいである。
 ただ、もう一度言い訳させてもらうなら、優れた容姿だけであれば、俺はすぐに正気づいてその場を立ち去ったであろう。そのくらいの自制心はある。俺が呆然としながら、まじまじと吉継のあられもない姿を見続けてしまった理由は、他にあった。


 雪の精のような白銀の髪に、紅玉を透かしたような緋の瞳。
 吉継の容姿は、物語でしか逢うことのできない妖精が、現実になった姿としか、俺には思えなかったのである。


 これが、衝撃的としか形容できない、俺と吉継との初対面であった。  
 ……まあ、向こうにしてみれば、俺は単なるのぞき魔以外の何者でもないのだが。だから、今なお吉継の声には俺への嫌悪と非難が入り混じっているのは仕方ないことではあった。
 俺が故意にのぞいていたわけではない、とわかってもらえただけでも僥倖というべきであろう。弁明に口添えしてくれた、今は亡き角隈殿に感謝しなくてはなるまい。


 そんな理由もあり――いや、もちろんそれだけではなく、角隈殿の人柄や八宿十六飯の恩(庶民は一日二食)もあって、俺は角隈殿の四十九日が終わるまではと、この屋敷に留まり続けていたのである。
 その四十九日が、このままでは行うことが出来なくなってしまうとあっては、黙っているわけにはいかない。吉継もそう考えればこそ、嫌いな俺のところに足を運んだのだろう。


 吉継は、かつて大友家に仕えていた大谷家の跡継ぎなのだが、南蛮神教と一悶着あった際、角隈殿によって救われた縁で、その下で仕えるになったそうだ。
 角隈殿の薫陶を受けた吉継は、若いながらにかなりの人物で、角隈殿亡き後の屋敷の諸事を一手に司っていた。
 ただ、頭巾で顔を覆った格好は他者の警戒を誘い、交渉ごとには向かない。南蛮神教側と話し合うにしても、誰か名代を差し向けなければならなかったのである。
 俺以外に屋敷に人がいないわけではなかったが、角隈殿は不思議なほど俺を高く買ってくれていた。そのことを、吉継は知っていたのであろう。


 俺がこの屋敷に世話になってから、角隈殿が眠るように逝かれるまで十日も経っていなかった。その間、身の上話をしたわけでもない。
 この地が九国であると知った俺は、まさか自分の名がここまで伝わっているとは思わなかったが、それでもただ「筑前」と名乗るにとどめた。万が一にも素性がばれてしまえば、彼の地にいる人たちにどんな迷惑と、そして心配をかけるかわからなかったからである。
 その名乗りと、普段の挙措、言動。まさかそれだけで、とは思う。思うが、角隈殿ならばあるいは、とも思ってしまう。
「筑前だけでは、それが姓やら名やら、あるいは生国やらわかり申さぬからな」
 そう笑いながら「雲居」という姓を考えてくれた時の角隈殿の顔を思い起こし、俺はそっと頭を垂れた。




 この程度で恩の一端なりと返すことが出来るなら、と俺が腰をあげた時。
 しかし、事態はすでに終わっていた。


 駆け込んできた第二の使い。彼方から上がる黒い煙と、昼なお赤く揺らめく炎の影が告げていた。
 角隈殿の菩提寺が、今まさに炎に包まれようとしていることを。

 



[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第一章 雷鳴(二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/04/20 00:49


 朝靄けぶる中庭で、ただ無心に刀を振るう。
 刀といっても真剣ではない。角隈殿に頂いた木刀である。
 数をこなすのではなく、一太刀一太刀を大切に。一振りを等閑にせず、そこに自らの渾身を乗せていく。かつて教わったその振りを、ただひたすら繰り返す。
 二年間。
 たえずこれを続けたことこそが、離れ離れになった人たちに、俺が誇れるただ一つ。
 鋭く呼気を吐き出し振り下ろされた一刀が、小気味良い音を立てて空を斬った。



 朝稽古が終わった後、ふと、視線を感じた気がして邸内に目を向ける。
 だが、そこには誰の姿もなく、周囲を見回しても人の気配はない。東の方角から差す陽光の眩しさに目を細めながら、俺は小さくかぶりを振った。
 生前、角隈殿は何が面白いのか、よく俺の朝稽古を見物していた。その時の記憶が、あるはずのない視線を感じさせたのかもしれない。
「さて、どうしたものかな」
 俺は懐から取り出した手ぬぐいで汗を拭いながら、今後のことに思いを馳せる。
 一番の目的は決まりきっているが、ここは九国。別れた人たちと再会するためには、この日の本の地を横断しなければならない。先立つものを持たない身には長く厳しい旅程になるだろう。


 もっとも自分だけのことであれば、労を厭うつもりはない。農家の下働きでも何でもして、意地でも帰ってみせるつもりである。
「……そうしないと、ずんばらりんだしなあ」
 知らず、額に手をあてながら、俺は口元を笑みの形に開きかけ――慌てて、一文字に引き締め直した。角隈殿が亡くなり、菩提寺が焼け落ちた今、客の俺がにやけていたら何を言われるかわかったものではない。


 それに下働き云々はあくまで俺に限った話。同行者がいるとあっては話は別である。
「まあ問題は、その同行者が自分が同行するって知ってるかどうかなんだが」
 同行することを知らない同行者。我ながら、何をわけのわからないことを、と思わないでもないのだが、実際、それが問題なのだから仕方ない。
 そもそもの淵源は一月以上まえに遡る。
 角隈殿の生前のこと、夕餉の後、俺を部屋に呼んだ角隈殿は開口一番、とんでもないことを口にしたのである。



◆◆



 呆然の数瞬が過ぎた後、俺は慌てて口を開く。角隈殿の真意が、さっぱりきっぱりわからなかった。
「吉継殿を連れて行くとは、どのような意味で?」
「そのままの意味と取っていただいて結構。雲居殿、貴殿がこの地を離れる際、吉継も連れて行ってくれまいか」
 体調が悪いゆえ申し訳ない。そう言って横になりながら、角隈殿はなんでもないことのように繰り返した。


 俺は角隈殿に宿と食事を世話してもらっている身である。雲居という姓も考えてもらったし、吉継の水浴びを目撃してしまった件の弁解にも口を利いてもらった。大抵のことなら快く引き受けるつもりであったが、さすがにこれは、はいわかりましたと頷くわけにはいかなかった。
 本人の意思がわからないということもあるが、出会って十日も経っていない人間に、家族に等しい人間の身柄を託そうという角隈殿の真意がわからなかったからである。
 角隈殿と吉継は主従の関係だが、実際は祖父と孫にも等しいと俺は考えていた。角隈殿も吉継も多弁な人ではなく、邸内での言動も厳しく律されていたが、時折交わされる会話には互いへの思いやりをはっきりと感じとることが出来た。


 そんな俺の疑念に気付いて――というより予想していたのだろう。角隈殿はあっさりと本音を口にした。
「これでも、人を観る目はあるつもりでしてな。それに、あれは南蛮神教との間に浅からぬ因縁があるのでござる」
「因縁、ですか?」
 俺の反問に、角隈殿はなにやら楽しそうな表情を浮かべる。そんなに面白いことを言ったろうか、と俺が首を傾げていると、角隈殿は表情を変えぬまま、口を開いた。
「奇しくも雲居殿はもうご覧になったわけだが、吉継の容貌のことでござるよ」
「う……」
「ふふ、まあ吉継も、雲居殿が故意に泉に来たわけではないことは、もう納得しておる様子。安堵されよ」
「かたじけないでございます」


 平身低頭する俺に、角隈殿は声に出して笑ってから、一転、表情を厳しく引き締める。
「実は吉継の容姿のことは宣教師たちも知っております。吉継の父、大谷吉房殿は異国の智恵をもって吉継の容貌を治せぬものかと考えたのでござろう。吉房殿は実直で武芸に長けた御仁で、大友家に随身してよりほどなく頭角をあらわされ、やがて吉継を南蛮の宣教師たちに診て貰う機会に恵まれたのですが……」
 西の荒海を乗り越えてやってきた宣教師は智勇に優れた偉人であるというのが定評である。事実、彼らの多くは優れた人物で、医学に通じている者も少なくなかった。
 そこで言葉を切った角隈殿は、苦いものを吐き出すように続きを口にした。
「彼奴ら、吉継の容貌を一目見るなり『悪魔だ』と騒ぎたて、ただちに火刑に処すべしなどと申し、必死に弁明する吉房殿まで悪魔の眷属として捕らえおったのです。幸い、わしの耳に入るのが早く、かろうじて連中から父子を取り戻すことはできたのですが、連中、今度は宗麟様のもとにまで押し寄せ、処刑の許諾を得ようとしおりましてな。わしと戸次殿らが口を揃えて諫止し、かろうじて処刑だけはくい止めることが出来たのですが、吉房殿と御内儀、そして吉継は国外追放となり……」


 大谷家は豊後を追放され、他国に行かざるを得なくなってしまった。角隈殿はかなう限りの援助をしたらしいが、角隈殿個人の発言力はともかく、その家は決して豊かではなく、おのずから援助にも限界があった。くわえて、国外追放となった者との関わりを察知されれば、今度は角隈殿が排除されてしまいかねない。
 それでも、自分一人のことならば、角隈殿は決然と事を行っていたであろう。
 だが、この時期、角隈殿が放逐されてしまえば、南蛮側の暴走を掣肘することが出来なくなるのは火を見るよりも明らかであった。寺社潰しの暴挙はもとより、宗麟を盾に政治や軍事にも口出しするようになった彼らを放っておけば、大友家は滅亡への道を転げ落ちるだけであろう。そうなれば、苦しむのは大友家の家臣であり、領内の民である。
 角隈殿はそう考え、大谷家を案じつつも、手を引かざるを得なかったのである。


 だが、憂慮は間もなく現実となってしまった。この沙汰に飽き足らなかった南蛮側は、その有り余る影響力を駆使して国外に出た大谷家に様々な迫害を加え続けたのだという。
 それらがよほど重荷になったのだろう。あるいは、直接的な手段をとったのか。間もなく父吉房が亡くなり、ついで支えを失った母が相次いで他界してしまった。
 風の噂でそのことを聞いた角隈殿が血相を変え、矢も楯もたまらず吉継の下へ向かってみると、そこには倒れる寸前までやせ細った吉継が、誰の助けを借りることも出来ず、一人、山中で野草を採っていたのだという……




 声もなく話に聞き入る俺に、角隈殿は深い悔恨を宿した声で続けた。
「わしは吉継を自分の屋敷に連れ帰り、なんとか宗麟様に寛恕を請おうとしたのでござる。元来、宗麟様は聡明で慈悲深い方、吉房殿の功績を忘れられたわけではなく、大谷家の末路に悔いと哀れみを感じられることは疑いなかった。ただ、一度追放処分を科した者を、堂々と領内に受け入れれば法のなんたるかを問われようし、南蛮人どもが黙っているはずもないと、それを心配しておったのですが……」
 なんと、南蛮側は反対するどころか、むしろ角隈殿の主張の後押しをしたのだという。
 これには角隈殿も面食らい、警戒せざるを得なかった。連中が何事かを企んでいるのは明らかであったからだ。
 この時、角隈殿に同意し、宗麟を説得した宣教師の名を――
「フランシスコ・カブラエル。まだ若いながらに日の本の言葉と政情に通じ、大友家の発展に少なからぬ貢献を為した人物でござる。そして、宗麟様にフランシスなる洗礼名を与えたのも、こやつでござる」


 以来、数年。
 吉継を迎え入れてからも、角隈殿と南蛮神教の対立は解消されることはなかった。しかし、吉継への手出しはぴたりと止み、南蛮側は吉継へ関心の目を向けることをやめたのだ、と判断しても良いと思われたのだが……
 角隈殿はゆっくりとかぶりを振った。
「これまでの彼奴らの所業を考えるに、そうたやすく矛を収めるとは考えにくい。何かしら理由があると思われるが、確たる証はついに掴めなんだのでござる。わしも年をとり、先の知れぬ身。この上は彼奴らの機先を制し、吉継を九国の外に出すが良策と、昨今、そう考えておった矢先、雲居殿が現われた。これこそ天の配剤と申すべきではござらんか。無論、そのための銭はこちらが用立てますゆえ、なにとぞお引き受けいただきたい」
 最後の部分は、着の身着のままで現われた俺への気遣いか、他愛ないからかいか。
 いずれにせよ、ここまでの話を聞かされれば、頷かないという選択肢を選ぶことは出来なかった。
 何より――



 俺が頷くのを見た角隈殿は、心底嬉しげな、童子のように澄んだ笑みを浮かべ、俺に礼を言った。
 長話が過ぎたと苦笑し、大きく息を吐き出す角隈殿に一礼すると、俺はそっと部屋を出ようとする。その背に向け、角隈殿はもう一度だけ、口を開いた。そして囁くような小さな声でこう言った。



「どうか吉継のこと、よろしくお願いいたす――天城颯馬殿」


 
 ――翌朝、角隈殿は亡くなられた。
 予想もし、覚悟もしていた俺は、角隈殿の枕頭で、深く深く頭を下げる。
 思い出されるのは先夜の角隈殿の顔。その肌の白さは、かつて看取った主のそれと酷似しており、俺は角隈殿の命が旦夕に迫っていることを悟らざるを得なかったのである。そして、角隈殿自身が、そのことを承知していることも。
 角隈殿の顔は、これより九国に吹き荒れる動乱の嵐を見据えるかのように引き締まり、死の淵にあってなお、その智謀にいささかの翳りもなかったことを、無言のままに示しているかのようであった。



 あの日から今日に到るまで、吉継の口から今後のことが語られることはなかった。
 角隈殿が俺に話したことを知っているかどうかさえわからない。確認すれば済むことなのだが、主君であり、家族でもあった人がなくなったばかりの傷心の少女に、これから先のことを問うのはなかなかに勇気がいることだった。
 もっとも、あの角隈殿が、吉継に何も話していないとは思えない。死期を察していたのなら尚更である。それゆえ、俺はいずれ吉継が落ち着いたら何かしら言ってくるだろうと考えていた。
 その返答が「同行する」になるか、「あなたと同行するなんてとんでもない!」になるかはわからんかったが。


 角隈殿には幾重にも恩がある。だからといって、当人の意思を踏みにじるつもりは毛頭なかった。
 だが、たとえ後者だとしても、俺なりに後の様子を確かめてから立ち去るつもりではあったのだ。吉継が同行するにせよ、しないにせよ、できうべくんば、穏やかな旅立ちになることを望んでいたのだが。
 事態は早くも兵火の匂いを感じさせるものになりつつあった。



◆◆



 俺と吉継が駆けつけた時、すでに建物を包む炎は手のほどこしようがない状態であった。
 領主であった角隈殿の菩提寺とはいえ、寺自体の規模はさほど大きくはない。それでもあたりの民家に比べれば、建物の規模が大きいのは当然で、寺を包んで激しく燃え盛る炎が周囲に飛び火してしまえば、あたり一帯を巻き込んだ大火へと発展する可能性もあるだろう。
 だが、この時点で俺の心配は無用のものであった。この寺を預かる住職が、すでに延焼への備えをしていたからである。


 後で知ったことだが、この時、仏像こそ運び出されていたものの、経典などの品々や寺の維持費はほとんど寺内に残ったままだったそうだ。
 住職は徳望のある方で、突然の火災にも関わらず、駆けつけた人たちは少なくなかった。延焼への備えを後回しにすれば、そういった品々を取り戻す機会はあったであろう。
 だが。
「大切なのは御仏と、その教え。そしてそれを伝え、受け継ぐ人。三宝あれば何事も為しえます。経典や銭を惜しんで、人を危険に晒すのは仏の道にそぐわぬ行為でありましょう」
 火が鎮まった後、屋敷に逗留することになった住職は、そういって俺に向けて、穏やかに微笑んだのであった。


 幸いというべきだろう。住職の努力の甲斐あって、寺の人たちに死者は出なかった。軽度の火傷を負った者はいるが、皆、命に別状はない。住職をはじめとした彼らは、現在、角隈殿の屋敷で傷を癒している最中である。
 もっとも住職はすでに精力的に歩き回り、突然の寺の消失に落胆を隠せない人たちを力づけてまわっていた。そういった姿を目の当たりにすれば、人の価値は難局にあってこそ現われるという言葉に、俺は頷かざるを得ない。
 そんな住職さんたちを、ただ見ているだけなのは心苦しいので、俺は俺なりに動くことにしたのである。


 すでに夜の帳がおり、火事の後始末で疲れ果てた人たちが皆寝入った時刻。
 天頂に輝く月の光に身をさらしながら、俺は一人、角隈殿の屋敷の門柱に身体を預けていた。そよぐ薫風は濃厚な緑の香を宿し、野で山で、萌える植物の息吹を肌で感じる。
 月を見上げ、風を感じながら、俺はただ立ちつづける。


 ――予期した人影が屋敷から姿を現したのは、それからほどなくのことであった。



◆◆

 

 俺の姿に気付いたのだろう。白絹の布で顔を覆った吉継が、はたと足を止めた。
「……雲居殿」
 その口からこぼれる声は低くかすれていたが、いつもの嫌悪はなく、ただ純粋な驚きが感じられた。
 一方の俺は、この状況を予期しつつも、この場に相応しい台詞を用意していなかった。結果、小さく首を傾げただけで、無言のままに吉継の進路を遮る形をとることになる。


 しばし後、驚きが去った吉継の口から、淡々とした声が発される。
「何故、貴殿がここにおられるかはお聞きしません。そこをお通しください」
「お断りします」
 間髪いれず、そう答える俺に、吉継が戸惑ったように身体を揺らす。
 最初の出会い以来、俺は徹底して吉継に頭があがらず、ひたすら下手に出ていたので、今のように強い言葉を返すのは初めてであった。
「奇妙なことを言われる。貴殿に、私を止める理由などないはずだが」
「理由ならあります。このような夜分、女性の一人歩きは危険でしょう。あの火災で人心も動揺している。何が起こるかわかりません」
「女といえど、私は武士。不届き者の一人や二人、物の数ではありません。ご心配いただいたことには感謝しますが、貴殿のそれは――余計な世話と申すものです」


 吉継の口から放たれた言葉には侮蔑と、そしてかすかながら焦慮に似たものが感じられた。
 それが俺の気のせいではないことは、すぐに明らかとなった。
「そこを退いていただこう。邪魔をするというなら、力ずくで通らせてもらいます。峰打ちとはいえ、当たり所が悪ければ命を落とすこともありえますよ。それとも白刃の方をお望みか?」
 それは明らかな脅しであり、同時にただの脅しではなかった。刀を抜き放った吉継から発される鋭気は、決して偽りではない。そのことを、俺は総身で感じ取り――
「そうですね。吉継殿を止めるためにそうしなければならないのなら、そちらを所望しましょうか」
 委細構わず、その眼前に立ちはだかったのである。




 反応は迅速だった。
 地面を蹴りつける音が聞こえた、その途端。
 あたりに甲高い音が響き渡る。鉄と鉄がぶつかりあうその音は、吉継の刀と、俺が懐から取り出した鉄扇が激突して起きた音だった。
 さすがに白刃を向けてこそいなかったが、吉継の打ち込みは一切の手加減がない本気の打ち込みだった。吉継自身が言明したとおり、峰打ちといえど、喰らえばただではすまないだろう。それくらい、吉継の武技は油断ならない域に達していた。


 小さな舌打ちの音に続いて振るわれる二の太刀、三の太刀。
 吉継は小柄な身体ゆえ、一撃一撃の重さこそさほどでもないが、刀を振るう速さは瞠目に値した。それでも、さばけないほどではない。続く四の太刀、五の太刀を凌ぎながら、俺は冷静にそう判断する。
 そして、それは吉継も同様だったのだろう。六の太刀は振るわれず、吉継の身体が後方に退いた。


 吉継の口から、どこか忌々しげな声がもれる。
「丸腰でたわけたことを、と思いましたが、鉄扇とは妙な得物を使うのですね」
「素手であなたを止めることが出来ると考えるほど、うぬぼれてはいませんよ」
「……どうして」
 不意に吉継の声が低まった。
 その声に、悪寒を覚える。
「どうして、私を止めるのですか。私が何をしようと、貴殿には関わりのないことでしょう」
 俺は悪寒を振り払うかのように、かぶりを振って答える。
「これから旅を共にしようとする人を、関わりないとは言わないでしょう」
「……確かに石宗様から話はうかがっていますが、私はこの地を離れるつもりなどありません。また、貴殿を引き止めるつもりもありませぬゆえ、東国へ行きたければ、どうぞお一人で行かれませ。無論、石宗様のお言葉を反故にしたりはしません。旅費は十分にお出しいたしましょう」


「いえ、吉継殿が同行しないなら、別に旅費などいらんのですよ。俺一人であれば、何とでもなりますから」
「ならば、もはやここに用はないはず。そして、私を止める必要もないでしょう」
 再び、俺はかぶりを振った。視界の端で、右手に持った鉄扇が、月の光を浴びて煌いている。
「『どうか吉継のこと、よろしくお願いいたす』」
「……え?」
「最後に角隈殿と話をした折、そう頼まれたのです。そのあなたが、一人、死出の旅に赴こうとしている今、どうしてそれを止めずにいられましょうか」


 その言葉を聞いた瞬間、吉継の怒気が膨れ上がったのが、はっきりと感じ取れた。
「……ふざけたことを。会って間もないあなたなんかに、石宗様がそんなことを言うはずがないでしょうッ!」
 甲高い声は、常とは比べ物にならないほど高く。
「いいです、もうあなたの妄言は聞き飽きました。そこをどきなさいッ!」
 相手を射抜くような鋭利な響きを帯び。
「さもなくば、今度は本当に――斬ります」
 それら全てを圧するほどの、苛烈な殺気に満ち満ちていた。




 そんな吉継の姿を目の当たりにしながら、俺は思う。
 吉継の怒りは当然のことだ、と。
 生まれ持った自身の容貌が原因で、幼くして父と母を奪われ。
 危ういところを救ってくれた、主であり養い親でもある人までもが非命に倒れた。
 吉継の年齢を思えば、よくぞ今日まで耐えてきたというべきであろう。吉継をここまで支えてきたのは、今は亡きご両親の愛情か、角隈殿の薫陶か、あるいは吉継自身の心の強さか。あるいはその全てか。
 いずれにせよ、吉継が耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んで生きてきたことは想像に難くない。


 だが、今。
 恩ある人の魂の安息すら汚された今。
 これを堪えることなど出来はしなかったのだ。
 放火の証拠はない。しかし、状況を考えれば答えはおのずと明らかであろう。吉継がどこに行き、何をしようとしているのか、推測することは簡単だった。
 だからこそ、俺はここにいて。
 だからこそ、俺は吉継にかける言葉を持てずにいる。
 とおりいっぺんの慰めなど口に出来ようはずもなく。
 復讐の無意味さを説くことなど更に出来ぬ。


 だから、ただ手に持つ鉄扇を構えた。
 俺が出来ることは、それしかなかったから。
 




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第一章 雷鳴(三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/04/21 04:46


 時に力任せに、時に技巧を絡めて、大谷吉継の剣は唸りをあげて雲居に迫る。
 その体格と、わずか十五という齢を考えれば、吉継の剣勢の鋭さと激しさは驚嘆に値した。若年にしてそれを可能とせしめた日々の鍛練は、苛酷の一語で説明できるものではなかったであろう。
 しかし。
 そんな吉継の剣撃を、雲居筑前は、ただ一本の鉄扇で真っ向から防ぎ止める。
 爆ぜるようにぶつかりあう刀と扇。二人の得物が絡み合う都度、鉄の軋む音が耳朶を打ち、火花が闇に弾けた。
 夜空の星月が煌々とあたりを照らし出す中、二人の戦いはいつ果てるともなく続くかと思われた。



 だが。
「……くッ」
 小さく呻き、先に退いたのは吉継であった。その肩が大きく揺れ、荒い呼吸が周囲に響く。
 元々、吉継は体力に優れているわけではない。それどころか、幼い頃は他人に比して脆弱でさえあった。それでも武芸に打ち込むことで、人並みの持久力は得たものの、これだけ激しく刀を振るい続ければ、すぐに息が切れてしまうのは自明のことであった。
 だが、それでも。


 気合の声と共に、吉継は再び前に出る。
 突く、斬る、払う、突く、突く、払う、翻って強引に斬る。
 かなう限りの力を込め、知るかぎりの技をもって、眼前の相手を斬り倒そうと鋒鋩を叩き込む。
 頭を覆っていた白絹は剥がれ落ちていた。吉継自身がそうしたのだ。視界を狭め、呼吸を妨げる布などいらないから。


 吉継の髪は月光を映して白銀色に輝き、それが吉継の動きに応じて揺れ動く様は、人ならざる者が舞い躍るかのようで。眼光鋭くこなたを見据える緋色の視線が、一際その観を強くする。
 秀麗な容姿は、この際、鬼気を増す役割を果たすのみで、生きながら夜叉と相対しているかの如き心地を相手に据え付ける。


 ――そんな人間を、一体誰が近づけるというのだろう。


 物心ついた頃から感じてきた忌み者を見る周囲の視線。あたかも、それが正しいことなのだとでも言うように加えられた迫害。
 その理由は、望まずして得た容貌、ただそれだけ。
 それでも吉継はその理不尽に、ずっと耐え続けてきた。幼い頃。生まれなければ良かったのだと嘆いた時に見たあの顔を――娘の頬をうった父の顔と、声を詰まらせた母の顔を、二度と見たくなかったから。


 それでも、やはり限界はあった。
 燃え落ちる寺を目の当たりにした時、思ったのだ。これ以上は無理だ、と。
 自分の周囲に災いと不幸が溢れているのは、自分が疫病神に憑かれているからではない。自分自身が疫病神なのだと、そう思って長からぬ生を終わらせようと決意した。
 自分が生きていればいるほどに、自分の周りにいる人たちに迷惑をかけてしまうから。


 その意味で言えば、吉継の前にたちはだかる人だって巻き込みたくはなかったのだ。
 たたっ斬る、というかつてない第一印象を覚えた相手ではあったが、短くとも共に同じ屋敷で暮らしてみれば、その人柄は決して不快なものではなかった。
 吉継の容貌を知った上で、嫌悪や色情をあらわにすることなく、隔意なく接してくれたことを思えば、好ましくさえあったかもしれない。
 師の話を聞いた時も、その突飛さに呆れはしたが、その案に厭わしさは感じなかった。
 しかし。
 だからといって、今、自分を止めることは許さない。所詮は出会って間もない赤の他人だ。
 乱れきった息をこぼしながら、それでも打ち込むのをやめようとは思わなかった。 


「…………私は」
 踏み込む。振りぬく。防がれる。甲高い擦過音。間合いで言えば、刀の半分にも満たない鉄の扇による防ぎを、どうして抜くことが出来ないのか。
 相手とて、決して余裕をもって戦っているわけではない。吉継の刃は時に雲居の身体を捉え、いくつもの傷を与えていた。こちらを見据える瞳は真剣そのもの、向こうも全力で戦っていることは明らかで――しかし、それでもやはり届かない。与えた傷は、いずれも有効打には程遠かった。


「……私は」
 どれだけ踏み込んでも届かない。どれだけ斬りつけても倒せない。そうして、あくまでも前を塞ぎ続ける。
 いつか、吉継は目の前の相手が、これまでの自分を包み込んできた世界そのものに思えてきた。あらゆる方法で自分を傷つける、安らぐ時さえ奪いつくす、どれだけあがいても抜けられない。吉継にとって世界とは、ただひたすらそういうものであった。


「私はッ!」
 それはもうただの八つ当たりだとわかっていた。わかっていても止められなかった。
 これまでの長からぬ人生で蓄積されていたあらゆる感情が、堰を切ったように溢れ出て、吉継の全身を押し流す。ここまでの激情に駆られたことはかつてなく、それゆえに止める術をも知らぬのだ。
 もう嫌だと、こんなのは嫌だと泣き叫ぶ。
 何が嫌なのか。それは――


「私は、もうこれ以上、生きていたくなんか、ないッ!!」


 それはきっと、両親の死以来、吉継の心の奥底をたゆたって消えなかった厭世の思い。
 それをはじめて――否、再び口にする。
 その途端であった。
 張り詰めた空気を揺らしたのは、吉継の頬が鳴った音。
 その衝撃を、吉継は半ば呆然と受け入れる。頬を押さえた手に伝わる熱が、込められた力の強さを物語っていた。
「あ……」
 視線の先には、先刻まで命を奪わんとしていた相手の姿。吉継の頬をうった右の手に、すでに鉄扇は握られていなかった。


 それを確認したところまでが、吉継の限界であった。
 視界が揺れたと思った瞬間、身体が傾き、崩れ落ちる。そのことに気付いたが、急速に薄れ行く意識は、指の一本でさえも動かすことを拒絶する。
 そんな自分の身体を何かが包み込む感覚があり――それが誰のものなのかを考えながら、吉継の意識は闇の底に落ちていった。



◆◆◆



 意識を失い、力の抜け落ちた吉継の身体を背に負いながら、俺の口から、知らず、力ないため息がこぼれ出た。
 自分のやっていることが間違っているとは思わない。しかし、正しいと誇ることはなお出来なかった。生きていたくなんかない、と口にした時の吉継の表情が、瞼の裏に焼きついている。声が、耳朶に染み付いている。
 月の無い夜にも似たあの暗がりを、どうやれば照らし出すことが出来るのだろう。
「どうしたものかな……」
 俺が、ぽつりと呟いたその言葉に。
 思いもかけず返答があった。


「その信ずる道を行くことでしょう。迷いめさるな」
「和尚……見ておられたのですか?」
 屋敷から姿を見せた住職に、俺は驚きを隠せない。そんな俺を見て、住職はゆっくりと頷いてみせる。
「僧たる者、刃鳴りの音は聞こえずとも、人の慟哭を聞き漏らすことはありませぬ。娘御のことは、石宗殿も案じておられましたからな」
「……角隈殿は、やはり気付いておられたのですね」
「一度だけ、法要の際に仰っておいででした。自らの過ちで、幼き心に鬼面を植え付けてしまった、と」
「……そうですか」
 その言葉に、俺は小さく頷いた。
 吉継の懊悩に気付いていた角隈殿が、吉継を頼むと俺に言ったということは、やはり……


 しかし、どうすればその意思に応えられるかが俺にはさっぱりわからなかった。これから先も、ずっと力ずくで制するわけにもいかない。かといって、赤の他人の俺が何を言おうと吉継の心には届かないだろう。住職であればあるいは、とも思うが、もしそれが必要だと考えたならば、住職はもっと早くに出てきていたのではないか。
 今になって姿を見せたということは、やはり住職も、それは角隈殿から託された俺の役割だと考えているに違いない。
 そんなことを考え、答えの見えない問いに表情を暗くした俺の耳に、住職の声が届いた。
 ――そこに込められていたのは、確かな安堵。


「……今宵のことで、石宗殿もようやく安堵されたことであろう」
「……は、あの、それはどういう?」
 言ったのが住職でなければ、皮肉だと信じて疑わなかったであろう言葉だった。だが、住職はしごく真面目な顔で言葉を続けた。
「娘御がいかなる業をおって今生の容姿を得たのかは、人の身にては計れぬこと。されど、それに屈さず、歩き続けた行いが石宗殿との縁を結び、そして今また貴殿との縁を紡いだ。これは運にあらず、娘御の日頃の善徳が導いた必然と申せましょう」


 その言葉に、俺は困惑を浮かべた。角隈殿との縁はともかく、吉継がこれまで頑張ってきたその結果が、俺との出会いというのでは、いささかならず釣り合わない。俺がやったことと言えば、ただ力ずくで相手を引き止めただけでしかなく……
「先の剣撃を止めることさえ、並の者ではできますまい。まして、まことの殺意を向けられた後、なんらかわらず相手のことを思いやることの出来る者が、果たしてどれだけおりましょうや――石宗殿がついに取ることあたわなかった鬼面を、貴殿は今宵、砕いてしまわれたのですよ」
「は、そうであれば……良いのですが」


 住職の言うところが理解しきれず、俺は内心で首を傾げざるを得ない。そんな俺の困惑に、住職は気付いたようだったが、穏やかに微笑むだけで、それ以上言葉を重ねようとはしなかった。
「これは要らぬ口出しをしてしまいましたな。はよう娘御を休ませておげねばなりますまい」
「っと、確かにそのとおりですね。では和尚、失礼いたします」
「うむ、だれぞ女性を呼んで、汗を拭うことも忘れぬようになされませ」
「しょ、承知いたしました」
 背に負った吉継の身体を抱えなおし、俺は勝手知った屋敷の中に戻っていく。
 背後で住職が何事かを呟いていたようだったが、その声は、彼方を吹き行く薫風と、揺れる木立の音、そして吉継の口から漏れるかすかな息遣いによって遮られ、意味ある言葉として、俺の耳に伝わることはなかったのである。


◆◆


 去り行く雲居の背に向け、住職は微笑みながら口を開く。
「袖振り合うも多生の縁……願わくば、この縁が互いにとって良きものとならんことを」
 そう言って一礼すると、住職は自らもその後に続いた。    




◆◆◆




 目覚めは不快なものではなかった。
 雀の囀る声で目覚めた吉継は、いつものようにゆっくりと寝具から身を起こそうとして。
「……え?」
 ――ぱたりと。力なく寝具に横たわった。
 全くといっていいほど力が入らない身体に、半ば呆然とした吉継は、不意にうめくような声をもらした。
「あ……」
 脳裏に甦るのは、先夜の出来事。
 かりそめにも客である人に刀を向け、斬り殺そうとまでした自らの狂態。


 眠りから覚めてみれば、昨夜の激情は心中から霧消していた。胸奥に溜まっていた澱を、ことごとく吐き出してしまったためだろうか。その真偽はわからないが、しかし自分が発した言葉も、取った行動も、鮮明に覚えていた。
 それゆえに。
「……なんて、ことを」
 吉継の顔から、音を立てて血の気が引いていく。顧みるまでもなく、先夜の自分の行いは狂気の沙汰以外の何物でもなく。師の憩う寺が焼き払われ、平静ではいられなかったとはいえ、半ば以上八つ当たりで人を手にかけようとした罪は、決して償えるものではない。


 自由にならない四肢を叱咤し、身体をひきずるように立ち上がった吉継は、その格好のまま襖に手をかける。どうして自分がこの部屋にいるのかはわからないが、今は一刻も早く客人に謝罪しなければならない。
 もっとも、命を奪おうとした相手がいる屋敷にとどまっているはずもなく、とうに出立しているだろう。それでも、旅銭のない身では、まだこの地からそう遠くへは行っていまい。
 そこまで考えた吉継は、かすかに面差しを伏せた。先夜、銭はいくらでも差し上げると口にしたのは自分だった。あるいは師が用意していた旅銭は、もうとうに彼の人物の懐に入っているかもしれない。そうであれば、追いつくのは至難であるが――


 そう考えつつ、襖を開けて敷居をまたいだ吉継は。
 そこに求める人の姿を見つけて、束の間、呆然としてしまった。


 胡坐をかき、腕を組みながら、雲居筑前はすやすやと寝入っていた。いっそ清清しいまでに熟睡しているように見えた。というか、そうとしか見えなかった。
 むぅっと。吉継の口元がへの字に曲がる。太平楽なその寝顔を見ていると、先夜のこと、そしてつい先刻までの焦燥が一人相撲だったのではないかと、そんな気にさせられてしまう。
 相手の両の頬に手を伸ばしたのは、これも多分、八つ当たりなんだとわかってはいたのだが。
「……えい」
 だからどうした。
 そんな思いと共に、吉継は相手の頬をつねっていた。 


 そうして。
 何がなにやらわからぬ様子で眼を覚ました相手の目を覗き込み、吉継はにこりと笑って目覚めの挨拶をしたのである。




◆◆◆




「……昨夜のこと、まことに申し訳のしようもなく。このとおり、心より謝罪いたします」
 そう言って、深々と頭を下げる吉継に、俺は慌てて頭をあげるように言った。
 美少女に頬をつねって起こされるという斬新な体験を経て、朝食をとった後である。 
 頭巾で顔を覆っていない吉継の姿を見るのは、屋敷の中とはいえめずらしいと言えた。というより、この屋敷の中で吉継の素顔を見たのは初めてかもしれない。
 無論、昨夜はのぞいてのことだが、などと考えながら、俺は頭を上げた吉継に視線を向ける。
 鮮麗な銀の髪と、緋色の瞳は昨夜と同じ。だがそこには昨夜のような激情は一片もなく、沈着冷静な、いつもの吉継であるように思われた。


 率直に言って、意外であった。
 その思いは、思わぬ方法で起こされた時から、たえず俺の内心をたゆたっており、そんな俺の疑念を察したのだろう。吉継は静かに口を開いた。
「憑き物が落ちた、というのは少し違うかもしれませんが……」
 ゆっくりと、呟くように内心を口にする吉継。千千に乱れた思いを、パズルのように一つ一つ心にあてはめていく。今の吉継は、俺の目にはそんな風に映っていた。
「……とても、胸が軽くなりました。いつのまにか胸の内に鬱積していたたくさんのものを、雲居殿に吐き出してしまったからなのでしょう」
 伏し目がちに話していた吉継の視線が、再び俺に向けられる。
「無論、それは雲居殿にとって何の関わりもないこと。あのように刃を向け、斬りかかった罪を免れようとは思っておりません。どうか何でも仰ってください。貴殿が私の死を望まれるのであれば、この場にて腹かっきってお見せします」
 そう口にする吉継の眼差しは真剣そのもので、それがまぎれもない本気であることを俺は悟る。


 ――莫迦なことを言うな、とでもしかりつければ格好がついたかもしれないが。
「……よろしいのですか、何ても言うことをきくなどと口にしても?」
 あいにく、その好条件を見過ごすほど、俺は聖人君子ではなかった。
「はい」
「ならば、先夜の礼に一つ、いや二つ、私の願いを聞き届けていただきたい」
 俺がそう言うと、吉継の顔にかすかな緊張がはしった。俺が何を言おうとするのか、計りかねたのだろうか。


 いや、まあそんなに難しいことではないのだけれど。
「初めて逢った時のことと」
「は?」
 戸惑う声を無視して、俺は強引に二つ目を口にする。
「昨夜、あなたを打擲したこと。この二つを許していただきたい」
 これ以上ないくらいに真剣に、俺は深々と頭を下げる。
 そんな俺を、おそらくは呆然と見つめていた吉継の口から、もう一度、おんなじような戸惑いの言葉が漏れた。
「……はい?」




「いや、まあひらたく言えば、のぞいたこととぶったこと、許してください。お願いします」
 改めて謝罪する俺を、吉継はなにやら奇妙な生き物でも見るような眼差しで見つめてくる。
「……あの、もしかして私に気を遣っているのですか?」
「いえ、きわめて真面目にお願いしてます」
「はあ……その程度でしたら、お安い御用ですけれど」
 なんと言えば良いやらわからない様子の吉継であったが、それでも俺の謝罪は受け入れてくれた。
 俺は心底ほっとして息を吐き出す。故意にのぞいたわけではないとわかってもらってはいたが、まだ許してもらったわけではなかったのだ。先夜のことについても、傷心の少女を打擲したなどと知られたら、あの方にどう思われることか。
 こういう状況にかこつけて許しを請うのは褒められたことではないだろうが――まあ吉継も、俺が昨夜のことは気にするなと言ったところで気にするに決まっているから、代わりの条件としては良い落とし所ではあるまいか。いや、そうに違いない。


 俺が一人で納得してうんうんと頷いている姿を、吉継は先刻と同じ視線で見つめていた。
 俺の態度をどう判断するべきなのか悩んでいる様子なので、他意がない旨を告げようと口を開こうとした途端、襖の外から慌てた様子で声がかけられた。
「吉継様」
「……どうした?」
「は、門前に南蛮人が参っております。吉継様と、和尚様にお会いしたいと」
 それを聞いた瞬間、おそらくは反射的に吉継の眉間に皺がよった。
 だが、報告にはまだ続きがあった。
 すなわち、小者は叫ぶようにこう言ったのである。



「そ、それだけではありません。その南蛮人、宣教師のフランシスコ・カブラエルでございますッ!」





[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第一章 雷鳴(四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/04/22 00:12
 稲穂の海を見るような黄金色の髪、湖面を思わせる水色の双眸。
 年の頃は二十台の後半から三十にかけてといったところか。端整な容姿に柔和な表情を浮かべ、清貧の精神を示すかのように質素な衣服に身を包む。
 手には常に聖書が握られ、口を開けば明晰な言辞で人をうつ。
 日本布教長フランシスコ・カブラエルの、それがいつもの姿であった。


 屋敷の一室でカブラエルと対面した際、最初に驚いたのはその若さであった。角隈殿から若いと聞いてはいたが、まさか俺と十も離れていないとは正直思っていなかったのだ。
 湛える笑みも穏やかで、邪まなものを感じさせることはなく。大友家の当主がこの人物に深い信任を与えるのもむべなるかな、と思わせた。
「雲居、筑前殿といいましたか。大谷吉継殿はどうされたのでしょう? 今日、ここに来た理由の一つは、あの方と話したいことがあったからなのですが」
 カブラエルの口から丁寧な日本語が紡ぎだされる。しっかりとした言葉遣いと流暢な発音で、違和感を感じることはほとんどなかった。


 そんなカブラエルに対し、俺は軽く頭を下げて釈明する。
「昨日の失火で衝撃を受け、今は臥せっておられます。布教長殿に見苦しい姿をお眼にかけたくないと申しておりまして、それがしが名代として参った次第。申し訳ございませんが、ご了承いただきたい」
「……そうですか。主の寺が焼け落ちたとあっては衝撃を受けて当然。安静になさるよう伝えてください」
 承知いたした、と頭を下げる俺。
 俺の隣では住職が黙然と座している。どうやらカブラエルとの対話は俺に一任するつもりであるらしい。
 それを察したわけでもあるまいが、相手は早速本題を口にした。


「すでに知っているでしょうが、私は先日、大友フランシス様より、この地における南蛮神教布教の全権を委ねられました。フランシス様は、この地に府内のそれに優るとも劣らぬ荘厳な教会を建てられるおつもりです」
 そう言って、俺たちに視線を走らせるカブラエルであったが、俺と住職が黙って聞き入っているのを見て、さらに言葉を続けた。
「当然、私もその意向に沿うつもりです。そして、そのためにもっとも適した地を選定しておりましたところ、昨日のこと、その地が奇禍にあったと聞き、こうして参ったのですよ」


 それはつまり、寺の焼け跡に南蛮寺院を建てるということ。
 主君の許可と自身の権限を示しつつ、穏やかにそれを告げる姿を見て、俺はなるほどと心中で頷いた。角隈殿が目の前の宣教師に警戒を禁じえなかった理由が良くわかる。
 そんなことを考えていると、カブラエルの背後に控えていた南蛮神教の従者が、俺たちの前に進み出る。彼らは数人がかりで、黒い布のかかった台座のようなものを持ち出してきた。
 数は二つ。
 それを見て、俺は軽い既視感を覚えた。なにやら、どっかで見た記憶がある光景だ。もっとも、あの時はこちらが差し出す側であったのだが。
 カブラエルが仰々しい仕草で布を取り払う前に、俺はその中身を察した。そして、取り払われて現われたものは、俺の予想と寸分たがわぬものであった。
 正確に言えば、ただ一つだけ違いがあった。それが発する輝きが、金色ではなく、銀色だったことである。


 それは、山と積まれた銀であった。
 銀の価値は改めて語るまでもないだろう。庶民や浪人にとっては目の飛び出るような大金であり、そこらの領主であっても、これだけの銀を実際に眼にする機会はないに違いない。
 それだけの大金を前に、再び、カブラエルが口を開く。
「これは今回の災難に対する見舞いと、彼の地を譲り受ける補償と考えてください。どうぞご遠慮なく」
 そう言いながら、カブラエルの視線が俺と和尚の顔を等分に見比べる。
 受け入れるか、拒絶するか。こちらが南蛮神教に敵意を抱いていることは、無論カブラエルとて承知していよう。
 しかし、これだけの大金を前にすれば、たとえ拒絶するにしても、動揺をおぼえて当然であった。そのあたりの反応を確かめたかったのだろう。


 まあ、もっとも――
「それはありがたい。これだけあれば、寺を再建する資金になってくれるでしょうし、焼失してしまった経典を求めることも出来るでしょう。布教長殿の無私の精神は異国の教えにも及ぶと、皆、尊敬を新たにすることでございましょう」
 佐渡の黄金を見慣れた俺にとっては、別に驚くほどの額ではない。札束で頬をはたくようなやり方を非難する資格は俺にはないし、非難するつもりもないが――残念、俺を驚かせたかったら、この三倍は持ってこい。


 きわめて淡々と口にする俺。
 一方の住職はといえば、先刻からかわらず口を閉ざし続けている。その目は銀の山に向けられても、わずかの動揺も示さなかった。
 いっそこの銀をつかって仏舎利(ぶっしゃり)でも求めて来ていれば、わずかなりと住職も興味を示したかもしれない。そんな風に思いつつ、俺はありがたく銀をいただくことにした。
 これを受けとるということは、住職の寺があった土地を南蛮側に譲り渡すということだが、相手は主君の威光を背負っており、ここで拒絶したところで、いずれ相手に譲らねばならなくなるのは明白だった。
 あくまで拒絶を続けたとしても、南蛮側は力ずくでこちらを排除することが許される立場にある。事態がそこまで及んでしまえば、寺社側、南蛮神教側を問わず、血が流れることもありえよう。相手が代償を払うというのであれば幸い、そっくりありがたく頂いておくべし。


 そんな俺と住職の反応は、明らかに南蛮側の予想を裏切っていたようだった。さすがにカブラエルは平静を保ったまま、怪訝そうな顔は見せることはなかったが、背後の従者たちは意外の観を隠せないようであった。
 俺たちが声高に相手を非難し、拒絶すると考えたか。あるいは我欲をあらわに銀を受け取ると思っていたのか。いずれにせよ、俺と住職は相手の期待どおりの反応を示すことが出来なかったらしい。


 ただ、それは相手の期待に添わなかったというだけで、この屋敷を訪れた南蛮神教の思惑を覆すことにはつながらない。何故といって、向こうの主張を受け入れたことには違いないからである。
 その証拠に、カブラエルは穏やかな笑みを崩さないまま、口を開いた。
「フランシス様の命を一日でも早く果たすため、今日からでも人の手を入れようと思っていたのですが、少々混乱がありましてね。実は今日ここを訪れたのは、その相談もあったのです」
 おそらく南蛮側と周囲の住人たちの間にもめ事が起きたのだろう。それも当然のことで、角隈殿の菩提寺が焼け落ち、そこに即日、南蛮寺院を建てようとすれば、恩顧の人々が反発を覚えるのは自明であった。


 カブラエルはさらに言葉を続ける。
「私とこの屋敷の主殿は、ついにわかりあうことは出来ませんでした。互いに立場があり、信仰があるため、それは仕方の無いこと。主殿を慕う方々が、私の邪魔をしようとする気持ち、理解できないわけではありません。しかし、私も宣教師として、そしてフランシス様の信任をたまわった身として、為すべきことを為さねばならない立場にあります。このまま、あの者たちが妨害を続けるようであれば、しかるべき処置をとらねばならなくなるでしょう」
 けれど、それは角隈殿が望むことではないのではないか。カブラエルは憂いを帯びた顔で、そんな言葉を口にしたのである。



 突きつけられた要求を、俺はこれまたあっさりと受け入れた。
「確かに仰るとおりですね。和尚や吉継殿と相談して、早急に皆を説得するといたしましょう」
「速やかな応諾、礼を言いますよ。それでは、私たちはこのあたりで失礼させていただきましょう」
「さようですか。大したお構いもできず、申し訳ありませんでした」
 立ち上がるカブラエルらに、俺は恐縮したように頭を下げる。  
 俺を見下ろすカブラエルの視線は相変わらず柔和であったが、そのひだに隠れた優越感と侮りを、俺は確かに感じ取っていた。



◆◆◆



「案外、容易いものデシタナ」
 屋敷の外に出た途端、おもねるように従者の一人がカブラエルに向かってそう言った。
 カブラエルほど上手く日本語を操れぬために、その語尾はやや聞き取りにくい。従者としては母国の言葉を使いたいのだが、それは日本の信徒との間に距離をつくるといって、カブラエルに禁止されていた。
「そうですね。やはり石宗ほどの人間は、そうはいないということでしょう。まああの男のような厄介な輩が、そこらにいてもらっては困りますがね」
「所詮は真の教えを理解でキナイおろかな人間、布教長がおきに掛けるほどの者でしたでショウカ?」
「――その愚かな人間のために、この国での布教が五年は滞ったのです。あれとトールがおらねば、すでにこの国のいたるところに教会が建てられていたことでしょう」
 何気ない様子を装った一言であったが、従者はカブラエルの発する怒気を感じ取って身を縮ませた。


 だが、すぐにカブラエルは言葉を和らげ、従者をなだめるように口を開く。
「石宗の跡目を継ぐ者はおらず、トールは孤立しました。これから、我らが神の行く道を遮る者は存在しません。これまでの遅れを取り返すだけの働きを、あなたたちには期待していますよ」
「は、おまかせクダサイ」
 従者たちは一斉にカブラエルに頭を下げる。
 そんな従者の様子を満足そうに眺めていたカブラエルに、一人が問いを向けた。
「布教長、例のシルバードールの件は、良かったのデスか? ゴアの総督閣下が執心していると聞きましたが」
「そうですね。石宗への楔の役割は終わりましたから、そろそろアルブケルケ様の要望に応じねばなりません。もっとも石宗の庇護を失った以上、あの人形を守れる者などいないでしょうから、そう急くこともないでしょう」
 そのカブラエルの言葉に頷きながら、従者は追従するように笑った。
「しかし、ゴア総督として、インド副王として、あらゆる者を手に入れられたお方が、何故にあのような小娘に執着なさるのでしょう?」
 その言葉に、カブラエルはわずかに目を細めて、ゴアの宮殿の奥深くに座す男の声を思い起こした。




 傍らに幾人もの美姫を侍らせながら、本国で軍神と謳われる男は、日の本における布教の成果を報告に来たカブラエルの話を聞くうち、異形の少女の話を聞き、愉快そうに哄笑した。
『金の髪と青の目は、神に選ばれたる使徒の証。ならば、銀の髪と赤の目は、悪魔に魅入られた証であろう。それとも、あるいは悪魔自身のものかもしれぬな。ならばその悪魔、飼いならすも一興であろうな、カブラエル』
 ゴア総督アルブケルケの意を悟ったカブラエルは恭しく頭を垂れ、再びこの地に戻ってきたのである……




「……あらゆる物を手に入れたればこそ、常人には思い及ばぬことに手を伸ばしたくなるのかもしれませんね」
 その時のことを思い出しながら、カブラエルはそう口にするにとどめた。
 いずれにせよ、まだこの地でやらなければならないことは山積している。総督のご機嫌とりに意を用いるのは、もう少し先で良いだろう。


 そう考えるカブラエルの下に、息せき切ってあらわれたのは、残してきた宣教師の一人であった。無論、カブラエルの子飼である。
「ふ、布教長様、大変でございます」
「どうしました、そのように慌てて」
 息を切らせる配下をなだめるように、その肩に手を置いたカブラエルは、次の一言を聞いた瞬間、その動きを止めた。
「ト、トールが――」
「――なに?」
「トールが、姿を現しましたッ!」
「どこにです? まさか……」
「は、はい、例の土地にです」
 それを聞き、カブラエルの口から小さな舌打ちがもれた。
「今回のことを聞きつけ――いえ、それにしては姿を見せるのが早すぎますね。いずれにせよ、放っておくわけにもいきません」
 そう言って、歩を速めるカブラエルの脳裏に、この時、すでに雲居筑前の名と姿は一片も残っていなかったのである。




◆◆◆




 すでにいつもの白頭巾をかぶった姿の吉継が、じとっとした眼差しで睨んでくる。
 しかし、睨まれても困るので、しれっとそ知らぬ風を装っていたのだが、業を煮やしたのか、吉継は低く、くぐもった声で詰問してきた。
「……それで、相手の言うがままに頷いたというわけですか」
「はい。それが最善と考え、そうした次第」
「……確かに、宣教師の相手を雲居殿に頼んだのは私ですし、和尚様が同意されたのですから、文句を言うのは筋違いかもしれませんが……」
 それでも、もう少し何とかならなかったのか、と吉継は声ではなく視線で問いただしてくる。その眼差しに、先夜のような激情は感じられなかったが、それでも不満をおさえることは出来ないようであった。


 ここに住職がいれば助けを求めたいところだったが、あいにくと住職はここにはいない。先刻の説得の件で動いてもらっているからだ。
 なので、ここは俺が自分の口で説明するしかなかった。
 俺は仕方なく、あの態度をとった理由を順を追って話し始めた。とはいえ、それは結局のところ、権力におもねっただけですとしか言いようがなかったりするのだが。
「……相手がどれだけの無理難題を口にしようと、大友宗麟殿の威光を背景としている以上、こちらはそれに従わざるを得ないのです。あえて背けば、ついには弓矢のやりとりになってしまう。それは望むところではありませんでした」
 まあ、この程度のことは吉継とて承知しているだろう。だからこそ、今の吉継は不満げではあっても、怒ってはいないのである。


 俺はさらに言葉を続けた。
「それを踏まえれば、こちらに出来ることは限られています。率直に言って、相手が情けをかけてくることは予想していました。他者の手を用いて敵を追い詰め、しかる後、慈悲の笑顔であらわれ、手を差し伸べる。あの手の輩の常套手段ですからね」
 自分も似たようなことをしたことがある、とは言わないでおく。
「はたせるかな、相手はそのとおりに動きました。あそこで反論ないし拒絶をすれば、あっさりと手を翻し、こちらを威迫してきたことでしょう。今、連中とまともにやりあっても勝ち目はありません。弓矢はもちろん、たとえ府内に訴えでたところで、放火の証拠がない以上……いえ、たとえ証拠を見つけても、連中にもみ消されて終わりでしょうね」
 ならば、ここは無用に抗うことなく、あの連中の慈悲にすがってみせるが得策。取るに足らない相手だと思えば、こちらへの警戒もいくらかは失われるだろう。


 つまるところ。
 南蛮神教が大友家の保護を受けている以上、それに敵対することは、大友家を敵にするに等しい。豊後、豊前を統べ、筑前、筑後にまで勢力を拡げる九国探題を敵にすることの無謀さは、いまさら口にするまでもないだろう。
 それだけの覚悟を俺は持っていなかったし、亡き角隈殿とてそんなことを望んではいまい。俺の中では、今の状況が選びうるすべての選択肢の中で最善であった。
 付け加えれば。
 ここで下手にカブラエルらをやりこめ、恥をかかせたりすれば、奴らがどんな報復に出るかわかったものではない。吉継には申し訳ないが、俺はあんな奴らを相手に九国で時を費やすつもりは毫もなかったのである。


 無論、吉継をそのような事態に追い込む気もなかった。
 そんな俺の言葉を聞き、吉継の顔を覆う白布がかすかに揺れた。
 感情では反論したいが、理性では頷かざるを得ない、というところだろうか。あるいは、俺と語る言葉を、吉継はもう持ち合わせていないのかもしれない。
 それも仕方ないと、そう思う。
 かつて、俺は幾度も戦をし、敵国に使いに立ち、その多くを成功させてきた。しかし、そのすべては主君の威光と同輩の助力、そして配下の献身あってのこと。俺一人ですべてを為しえたわけではないのである。
 その証拠に、それらがなければこの体たらくだ。情けない話だと、俺が小さく嘆息した時だった。


 住職の使いと名乗る若者が、息をきらせながら、思いもよらぬ知らせを伝えてきたのである。
 その知らせは、俺を一つの出会いへと導くこととなる。
 出会い――大友家加判衆筆頭、戸次道雪。戦陣における名を鬼道雪。九国最強と名高き名将との邂逅が、すぐそこまで迫っていた。


 それは同時に、雲居筑前という人物が、九国における戦乱と深く関わることとなる前兆であったのだが。
 この時の俺に、そんなことがわかるはずはなかった。





[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第一章 雷鳴(五)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/04/25 22:48


 ――豊後を本拠として、九国最大の勢力を誇る大友家。戸次氏はその大友家の臣であり、同時に庶流のひとつでもあって、代々の当主は加判衆(家老格の重臣)の一角として大友の治世に重きをなしてきた。
 しかし、栄枯盛衰は世の常である。大友氏が他国に勢力を伸ばすにつれ、大友家内部でも新興の者たちが力を揮い始め、先代親家の頃には、戸次家の権勢は明らかな衰えを見せていた。


 名門戸次氏も、戦国の世の理にならい、凋落の一途をたどるのみか。
 大友家中で囁かれていたその声は、戸次氏の今代当主が家督を継いだ頃に一際大きくなり、半ば公然と語られるようになっていた。
 その理由は、戸次氏の家督を継いだ戸次親家の娘鑑連(あきつら)にあった。
 若くして戸次氏の当主におさまったこの少女、幼き頃、落雷に遭って両の足を雷神に奪われていたのである。


 家運の傾き甚だしく、勢力減退著しい今この時、人もあろうに、よりにもよって不具の娘に家督を継がせるとは。
 そんな声がそこかしこから聞こえる中、戸次家を継いだ鑑連は、しかし焦りも怒りも見せることなく、むしろ悠然とした面持ちで当主としての道を歩き始めたのである。



 そして、それから数年。
 戸次家は往時を上回る勢いでその勢力を増大させており、豊後大友家の躍進に不可欠な存在となりおおせていた。
 傾きかけた家運を建て直し、主家の隆盛をも導いた戸次鑑連の名は九国中に鳴り響き、その勇名を慕う者は数知れず、輿に乗って戦場で采配を揮う姿は凛々しさと猛々しさを兼ね備え、時として雅にさえ映る。そんな鑑連に大友家の将兵は尊敬と憧憬に満ちた視線を送るのであった。


 向かい合う者の内奥を見通してしまいそうな澄んだ眼差し。
 穏やかでありながら威を感じさせる佇まい。
 たおやかな容貌に微笑みを浮かべれば、士卒の末端に至るまで感奮せざるはなく、一度号令を発すれば、その軍勢は怒涛となって敵陣を覆い尽くす。
 それが戸次鑑連という人物であった。その鑑連は、先年、名を改め、戸次鑑連改め戸次道雪と名乗っている。その武威を恐れた周辺諸国は、昨今、道雪を指して『鬼道雪』とよびならわし、他国の将士はその雷名を恐れること甚だしかった。



◆◆



 火災によって焼け落ちた寺の境内に、南蛮神教の者たちが居丈高に現れた時、焼け跡の復興にあたっていた者たちが、彼らといさかいを起こしたのは、ある意味で当然のことであった。
 ただ、当初のそれは、住職の薫陶を受けた僧侶たちの自制によって、一度は確かに鎮まったのである。
 しかしその後も、集まった人々はその場を離れようとせず、焼け跡を無造作に片付けていく南蛮神教側の行動をじっと睨み続けていた。


 この地の住民にとって、ここにあった寺は日々の信仰の対象であり、生きる支えでもあったのだが、南蛮側にとっては唾棄すべき異教の建物に過ぎぬ。彼らの態度や言動の端々には、この場所への軽侮がはっきりと感じられ、そういった言動が示されるたびに、人々の口から抗議の声があがる。
 そういった一つ一つの小さな諍いの積み重ねが、いつか再び両者の対立に火をつけてしまったのかもしれない。
 あたりには騒ぎを聞きつけて馳せ集まった者たちがあふれ、境内は先刻にもまさる騒然とした雰囲気に包まれようとしていた。


 そんな一触即発の空気が長く続くはずがない。臨界はすぐに訪れた。
 にらみ合う両者が、静から動へ、怒号と共に移ろうとする、その寸前。
 涼やかな、それでいて思わず背筋を正してしまうような威厳がこもった声が、場の空気を一変させる。
 現れたのは、遠く漢の世につくられたとされる車椅子に乗った妙齢の女性であった。


 艶やかな髪は漆黒と呼ぶに相応しく、凛とした双眸、形良く整った容姿は明眸皓歯の例えそのままである。
 微笑すれば誰もがその姿を記憶に焼き付けるであろう佳人は、しかし、今、激しい憤りにその身を委ねているように思われた。その内心を映すかのごとく、瞳には雷光が閃き、口から発される言葉は、語調こそ緩やかであったが、身の竦むような厳格さが感じられた。


「――領内において不穏の振る舞いを為すは、大友の家に仇なすこと。あえてそれを為さんと欲するのであれば、己が命を賭す覚悟を持ってもらわねばなりません」


 車椅子が進む都度、境内にしきつめられた砂利が鳴る。
 両者の間に割り入る佳人の後ろには、甲冑姿の将兵が続いていたが、たとえこの佳人一人であったとしても、この場にいる人々を承伏せしめることは可能であったろう。
 それだけの威と力を感じさせる人物であった。


 一時、突然の闖入者に鎮まりかえっていた境内は、この新たな人物の登場によって三度騒然となった。だが、それは先刻の騒ぎとは一線を画する。寺社側と南蛮神教側とを問わず、この場にいたほとんどすべての人間が、突然に現れたこの人物が誰であるかを知っていたのだ。
 それほどまでに、その姿は大友領内において隠れなきものであった。
「……ありゃ戸次様ではないか?」
「ほ、本当だ、鬼道雪様だ。加判衆筆頭ともあろうお方がなしてこんなところに」
 囁かれる声は驚愕に満ち、誰一人として動くことが出来ぬ。それは南蛮神教側も同様であった。彼らは主君フランシスの絶大なる信用を得て、その威光を背景に行動してきたのだが、それが通じぬ相手も存在する。
 戸次道雪は、まさにその一人であったからである。



 戸次道雪は、うろたえ騒ぐ民に向かって口を開く。大友軍にあって、万を越える将兵を叱咤する道雪の声は、決して大きくはないが、不思議なほどに良く通り、人々の心に染み入るように広がっていった。
「突然の災禍に遭い、皆が平静でいられないことはわかります。しかし、だからといってこの上騒擾を起こし、この地に眠る祖先の安寧を乱して何とするつもりですか。どのような理由があろうとも、乱が正当化されることはありません。皆、妻もあれば子もいるのでしょう。一時の短慮で法を犯し、家族を悲しませること、この道雪が断じて許しません」
 その言葉に、場はしんと静まり返り、しわぶきの音一つ聞こえなかった。


 大友家にあって不敗の名将として名高い戸次道雪。その為人は義を嗜み、財を軽んじ、兵と民とを慈しむ心に篤い徳望の人である。
 その道雪が、どうして『鬼』と呼ばれ、恐れられるのか。その由来は、ただ戦場での果敢な戦いぶりだけに求められるのではない。今代の戸次家当主は、領内の治安を乱す者、戦場で軍律を犯す者に対しては別人のごとく峻厳な態度を示し、容赦ない罰を加えることでも知られているのである。
 道雪は他界した角隈石宗と並び、隆盛著しい南蛮神教の勢力に対抗できる大友家中で無二の人であると思われ、また実際にそのとおりであった。それゆえ、寺社側にとっては味方も同然と思われていたが、寺社側の行動が大友の家法に背くものであった場合、雷神の怒りは、科人(とがびと)の信じる教えを問うたりはしないであろう。




 道雪の威に撃たれ、静まり返る境内。
 その状況に、今、新たに二人の人物が姿をあらわした。
 一人は角隈邸から駆けつけた住職である。住職はにらみ合う者たちと、その間に立ちはだかっている道雪の姿を見て、たちまち状況を察した。
「御仏の教えに、暴によって為しえるものは一つとしてありはせぬ。皆、落ち着きなされ」
 住職は穏やかに、しかしはっきりと訓戒の意を込めて、寺社側の者たちを制そうとする。
「和尚様、し、しかし」
「罰当たりな物言いであるが、寺が焼けたならば、また建て直せば良い。その形と所が違おうとも、うちにやどる教えは何もかわりはせぬだろう。だが、それはここにいる皆があってこそ。今、皆が罪もて裁かれてしまえば、どれだけ立派な寺を再建しようと、何の意味があろうか。心の昂ぶりに流されず、大切なものを見据えてくだされよ」


 そういって誠心で人々を教え諭す住職。
 その後、住職は道雪の下に歩み寄り、恭しく頭を下げた。道雪もまた礼をもってそれに応え、周囲はそんな二人の姿を粛然と見守るばかり。さきほどまで激昂していた者の中には、赤面して俯く者も多かった。
 そのまま時が移れば、事態は落着したに違いない。
 だが――


「これはこれは、トール殿。奇妙な場所でお会いしますね」
 それを望まぬ者もまた、この場には存在した。
 カブラエルである。



◆◆



 カブラエルの姿を見て、露骨に顔をしかめたのは、道雪を守るように傍らに立つ偉丈夫であった。
 この人物、名を小野鎮幸(おの しげゆき)という。
 年齢は三十代半ばというところか。彫り深く、精気のあふれる容貌の持ち主で、顔といわず身体といわず無数の戦傷が刻まれており、大友家中でも屈指の猛将として知られている。
 その容貌や言動はときに粗暴に映る時もあるが、見かけだけのことである。兵書に親しみ、政にも長じ、部下を思う心も厚い。豪放磊落な気性は目上からも、また目下の者からも好かれ、近年では智勇兼備の将帥としての令名を確立しつつある人物であった。


 そんな鎮幸であるが、平素の性情は直線的であり、感情を包むということをしない。カブラエルの姿を見て、はっきりと不快を示したのがその証拠である。
 だが、鎮幸がその表情を浮かべた途端、傍らにいた人物がほとんど間髪いれずに鎮幸の足をおもいっきり踏みつけたため、鎮幸の表情から侮蔑の意思はたちまち霧散してしまった。
「……こ、惟信?」
 鎮幸が顔をひきつらせて小声で声をかけると、かけられた側の人物は澄ました声で応じた。
「どうかされましたか、鎮幸殿?」
「い、いや、その、足をどけてくれると助かるのだが」
「ならば、その無思慮な表情を引っ込めることからはじめてくださいな」


 そう言って、咎めるように鎮幸を見上げた女性の名を由比惟信(ゆふ これのぶ)という。鎮幸と同じく戸次家の将の一人であり、鎮幸が猛将であるならば惟信は知将と目される。
 年齢は惟信の方が、鎮幸より十以上も若いが、鎮幸曰く「とてもそうは思えん」というほどに思慮に富み、沈着な為人で、その冷静さは彼ら二人の主君からも高く評価されていた。


 だが、今のやりとりを見てもわかるように、惟信はただ冷静で穏やかなだけの人物ではなかった。
 体格的に自分の倍もあろうかという鎮幸に対しても、時に容赦せずに苦言を口にし、軍令に違反する者への呵責なさは、主である道雪を越えるとさえ言われていた。
 豊かな黒髪を無造作に背に流し、惟信が陣中を歩けば、荒くれ者の兵でさえ姿勢を正す。女性らしい優美な曲線を描く肢体は、鎧甲冑を身に着けていても衆目を惹きつけるに足るものだった。
 その惟信は、一度戦場に立つと、鎮幸も顔色ないほどの勇戦を示すことがしばしばあり、鎮幸などは、惟信のたおやかな容姿と、その奮戦ぶりの落差は幾度見ても慣れることがない、と嘆息することしきりであった。




 そんな『戸次の双璧』のやりとりに、しかしカブラエルは気付かない。より正確に言えば気にしない。カブラエルが相手とするのはあくまでも道雪であって、その配下の者たちにまで一々注意を向けてはいなかったのである。
「……お役目ご苦労ですね、司祭殿」
「いえいえ、私にとってフランシス様の命を果たすことは何よりの喜びです。苦労などと思ったことは一度としてありませんよ」
 言いながら、カブラエルは意味ありげな視線を住職の方に向け、しかる後、道雪へと視線を戻す。
「しかし、実に良いところに来てくれました。この地の民の反抗には困惑を隠せずにいたところなのです。彼らはフランシス様の命だと言っても納得してくれず、私もいましがた、そこな和尚に彼らへの説得を頼んできたばかりなのですよ。トール殿、大友家の法では主君の意向に背いた者たちはどのように罰されるべきなのでしょうか?」


 道雪は小さく首を傾げながら、問いを放つ。
「それは南蛮神教に被害が出た、ということでしょうか?」
「ええ、そのとおりです。怪我人が出たわけではありませんが、この地に一日でも早く新たな教会を。その着工が半日遅れたのは、偉大なる主の威光を傷つけ、フランシス様の御意思を損なう無道な振る舞い。戦で例えれば、砦を築く作業を妨害されたに等しいのです。たとえ人が傷つかずとも、物は失われずとも、これは大きな被害と申せましょう。トール殿はそのような振る舞いをした者を無罪放免になさろうというのですか?」
 カブラエルの言葉に、静まりかけていた周囲の空気が軋んだ。


 この時、カブラエルの言葉は多少の誇張こそあれ、偽りではない。放火の証拠がない以上、罪は不法に南蛮神教側を妨害した者たちにあると考えられる。
 そうすれば、道雪は望むと望まざるとに関わらず、カブラエルの言葉を諒として、寺社側に裁きを下さねばならなくなるのである。
 これは寺社側にとって大きな打撃であることは言うにおよばず、同時に戸次道雪という人物の徳望に瑕をつける効果もあると考えられた。
 カブラエルは主君の威光を盾に道雪を苦境に立たせつつ、長年の怨敵である寺社側の動きを掣肘しようとしたのだが、実のところ、本当の狙いはもっと別のところにあった。そして、それを達成するために、カブラエルはより直接的な手段を用いようとしていたのである。



◆◆



 懐に隠し持った短筒の感触を確かめながら、その女性は何気ない風を装って人波を潜り抜けていた。
『何も難しいことはありません』
 金の髪を持つ彼女の神父は笑いながら言ったのである。
『私がトールに声をかけた後、合図をしたら群衆の間からそれを撃てばいいのです。使い方は、狙いを標的に向け、ここの引き金を引くだけ。簡単でしょう?』


 女性は、とある商家の一人娘だった。発展著しい府内の街は、比例して商いの争いも激しく、あちらこちらで金銭と財産を賭した興亡が繰り返されている。
 女性の生家はその争いに敗れ、身代を丸ごと失った。父母は失意のうちに世を去り、残された娘は無一文で路頭に迷うところであった。そこに救いの手を差し伸べてくれたのがカブラエルだったのである。
 命を救われ、さらに南蛮神教の教えに感銘を受けた女性は、新たな人生を与えてくれたカブラエルに心酔し、その言うことであれば、無条件で従うつもりであった。


『神の敵を討たんとする者には、神のご加護が宿ります。くわえて渡した短筒はわが国の技術の粋を凝らした最高級品です。至近から狙えば、いかに雷神といえど討ち取ることは出来るでしょう』
 そういって、カブラエルは女性の髪に手を伸ばし、撫でるように動かす。
 女性の目元が赤らんだところを見計らって、その手が腰にまわされ、さらにその下へと伸びていく。
 かすかにこぼれた女性の歓喜の声に耳をくすぐらせながら、カブラエルは囁くように、いくつかのことを言い含めると、最後にそっと女性の胸に伸ばした手を蠢かせながら、頼まれてくれますね、と微笑んだ。
 女性は法悦にも似た表情を浮かべながら、しっかりと頷いたのである。



 カブラエルは考える。
 フランシスの意を背景に、この地の民を道雪に処罰させるよう持っていく。その時、群衆から道雪を狙う矢玉が向けられれば、それは処罰されることを恐れた民が道雪の命を狙ったということになるだろう。
 道雪を討ち取ることが出来ればそれでよし。南蛮神教にとって目障りな二人が、まとめていなくなり、カブラエルらの道を遮る者はなくなろう。
 だが、討ち取ることが出来なくても、それはそれで構わない。人望篤い道雪が狙われたとなれば、フランシスはもとより、他の家臣も黙ってはいない。この地の寺社を力ずくで潰しても、非難の声があがることはないだろう。角隈石宗がなした愚行への罰は、その配下の者たちが甘受することになるであろうし、件の銀人形を強引に連れ去ったところで咎めようとする者もいまい。



 誰に言われるまでもなく、これが場当たり的な計画であることをカブラエルは承知していた。ただ、この奇貨は、見過ごすにはあまりにも惜しかったのだ。
 もし道雪が少数で来たならば、もっと大勢を動かし、万全を期したであろう。だが、道雪が戸次家の精鋭を引き連れてきている以上、下手に大きく動いて、失敗したときが面倒である。くわえて、府内にいるはずの道雪が、騒ぎが起きてほとんど間もないにも関わらず、ここに現れた。これは何を意味するのか、それを確かめる意味もあったのである。
 問題は失敗した場合だが、その時は一信徒の暴走として処理すれば良い。道雪らが黙っていないだろうが、この地で起きた騒ぎを見逃すことと引き換えであれば、もみ消すことは可能であろう。
 なに、向こうが納得しなければフランシスに訴えれば良いのだから、楽なものだ。



 女性はそんなカブラエルの内心を知る由もない。
 つとめて何気なさを装いながら、緊張に高鳴る鼓動をなだめつつ、憑かれたように歩を進めて行く。
 道雪の両脇には護衛の将兵がいるため、短筒で狙うためにはどうしても正面に行かねばならない。敬愛する人物の期待に添うためにも、何としても成功させなければ。
 その一念で少しずつ進み続けた女性は、間もなく道雪を視界に入れる位置に達することが出来た。
 だが、まだ女性と道雪の間には幾らかの人がいる。ここで短筒を撃っても、道雪までは届かないかもしれない。
 もう少し、と考えた女性の耳に、道雪に向かって話しかけるカブラエルの声が聞こえてきた。同時に、周囲の人々から怒りとも怯えともつかない声が発されていく。


 これがカブラエルの言っていた機だと悟った女性は、急がなくてはと慌てて懐に手を伸ばす。そして、与えられた短筒を取り出し、狙いをつけようとした。


 だが、その途端。
「待たれよ」
 近くから呼びかける声が、女性の動きを制したのである。
 


◆◆



 吉弘紹運がその女性に気付いたのは、少し前のことだった。
 そもそも紹運が粗末な衣服をまとって群衆に紛れ込んでいたのは、警戒のために他ならぬ。
『まさか、とは思いますが……あの宣教師ばかりは、どのような行動をとるのかわからぬのです』
 そんな義姉の言葉に頷いた紹運はつとめて何気ない風を装いながら、周囲の者たちの様子を窺い続けた。精鋭に周囲を守られた義姉に害を加えようとするなら、正面に位置するこのあたりまで来なければならない。
 そう考えていた紹運が、憑かれたような眼差しで、ゆっくりと、しかし確実にこちらに向かって来る女性に目をとめるのは当然であったろう。


 その身ごなしを見た限り、武人とは思えない。外見だけを見れば、平凡な村娘であると思われたのだが。
 ――紹運は無言で動いた。
 ちらと垣間見た娘の、どこか恍惚とした眼差しに寒気を覚えたのだ。仮にあの娘が害意を持っていたとして、飛び道具もないままに義姉の前に飛び出たところで、義姉にかすり傷一つつけることは出来ないとわかってはいたが、何故かあの娘を見ていると、肌に蟻走感を覚えてしまう。
 戦場を往来すること幾十度。ただの一度として怯んだことのない吉弘紹運が、動かざるを得ない何かがあの娘には感じられた。


 だが。
 あと数歩でその肩を掴めるというところで、その娘と紹運の間に、一人の娘が割って入ってきた。年の頃は先の女性よりも若く、おそらく年端もいっていまい。
 その少女は、意図して紹運の前に立ちはだかったというわけではなく、ただ自然に前に進み出て、結果として紹運の手を妨げたという感じであった。その証拠に、少女の視線は紹運の方にはまったく向いていない。
 紹運はそう考え、やや早口でその少女に声をかけた。
「すまない、そこを通して――」
 通してくれ、と言いかけた紹運は気付く。
 振り向いた少女の眼差しが、先の女性とまったく同じものであることに。そこに宿る奇妙な恍惚に。


「どうしたの、お姉ちゃん?」
 そういって、紹運を見上げてくる少女。
 無邪気なはずのその視線に、粘つくような厭わしさを感じるのは、決して気のせいではなかった。
 咄嗟に少女を避けて進もうとした紹運だったが、少女はまるでその意図を悟ったように紹運に手を伸ばす。
 この場にいたのが紹運と少女の二人であれば、鍛えた身のこなしで苦もなく避けることが出来たであろう。だが、今、周囲には幾多の人々がおり、紹運が躊躇を示したその隙に、少女の手はしっかと紹運の服の裾を掴んでいた。
「す、すまない、離してくれないか」
「だめー」
 にこにこと笑う少女に邪気は感じられない。
 ただ、この状況で見も知らぬ相手にここまで付きまとう理由も感じられなかった。


 果敢であることを第一義として戦場を駆ける紹運は 名だたる武将と武芸を競った時も、多勢の敵兵に包囲された時も、恐怖やためらいを感じたことはない。
 しかし、今、眼前にいる虚ろな笑みを宿す少女の存在は、戦場で殺気だった敵兵と対峙するのとは次元の異なる怖気を紹運に呼び起こした。
 まさかとは思うが、この少女も――
「……しまったッ?!」
 目の前の少女に気を取られていた紹運は、はっと我に返ると先刻の女性の姿を捜し求める。
 その姿はすぐに見つかった。女性はなにやら懐から短い筒状のものを取り出している。それを見た瞬間、紹運はうめきにも似た声を出してしまう。
「短筒、か。くッ!」
 鉄砲が伝えられて数年。すでに各地では量産と、改良の動きが起こり始めている。
 女性が持っているのはその中の一つ、軽さと取り扱い易さを追求し、馬上でも扱えることから、別名を馬上筒とも言われる鉄砲の一種。


 いかな鬼道雪といえど人である。鉄砲に生身で対することは出来ない。
 何故あのような女性が、まだ量産もされていないはずの新式の鉄砲を持っているのか。そんな疑問を覚えつつ、紹運は懐から礫(つぶて)を取り出す。
 印地――石を投擲に用いる戦闘技術であり、紹運はこれに熟達していたのだ。紹運の技量をもってすれば、ただの礫といえど、四肢の骨を砕くほどの威力を発揮する。
 咄嗟にそれを投じようとした紹運は、しかし、ほんの一瞬ためらってしまう。
 手加減できる状況ではない。だが、手加減しなければ、あの女性はこの後の生を片手で過ごすことになるだろう。おそらくはこの絵図面を描いた相手に利用されているだけの女性に、そこまでの傷を負わせることに、紹運はわずかに迷い――
「だめッ!」
 その迷いが消えないうちに、今度は眼前の少女が抱きつくように紹運の動きを妨害しようとする。


 戦塵で鍛えた紹運ゆえに、少女を振り払うことは容易かった。だが、力ずくで押しのけることに、またも紹運はためらいを覚えてしまう。
 ここが戦場であれば、たとえ女の将兵を相手にしたとしても、ここまで不覚をさらす吉弘紹運ではない。だが、今の状況は紹運にとって何もかもが異質であった。
 少女の叫び声で周囲の者たちも異変に気付いたようで、戸惑いとざわめきが此方に向けられるが、逆にそれが短筒を構えようとしている女性への視線をそらすこととなってしまう。


 かくなる上は、と紹運は腹に力を込めた。
 大事になってしまうのを覚悟の上で義姉に呼びかけようとした、その時。



 紹運の視線の先で、短筒を構える女性の前に不意に一人の青年が立った。
「待たれよ」
 その言葉と共に、魔法のように伸びた若者の指先が、女性の構えた短筒の、その筒先に差し込まれ。
「……え?」
 戸惑ったような声をあげる女性の手から、青年はもう片方の手であっさりと短筒を奪いとってしまった。


 それを見た紹運は、思わず呆気にとられてしまう。
 そして、自分と同じように呆然としている女性の姿を見ると、つい先刻まで、自分を捉えていた蟻走感が霧消していくのを感じた。
 青年は手の中の短筒を見て小さく肩をすくめると、不意にまっすぐに紹運の方へ視線を向けた。
 まるでそこに紹運がいることがわかっていたかのように、戸惑う様子もなく近づいてくる。
 そして。


「戸次殿の配下の……」
 と、そこまで言いかけた青年は、紹運の顔を見てわずかに首を傾げた。
「……いえ、朋輩の方とお見受けいたす。この短筒、お預けしたいのですが構いませんか?」
 唐突な物言いであったが、紹運は青年の眼差しを見て、反射的に頷いていた。
「うむ、お預かりしよう」
「ありがとうございます。では――」
 そう言って紹運に短筒を渡すと、青年はひざまずいて、先刻まで紹運を悩ませていた女の子と目線をあわせた。といっても、別に何を語るでもなく、というより何を言えば良いやらわからない様子で、じっと互いに視線をあわせるだけであった。
 少女はそんな青年の様子に戸惑ったように、視線をきょろきょろと動かしていたが、やがて脱兎のごとくその場から駆け去ってしまう。


 その後ろ姿を見送りながら、青年は頭を掻いていたが、すぐに自らもこの場を離れようと動きかける。
 そんな青年に、紹運は思わず声をかけていた。
「――お待ちいただきたい」
 その声に怪訝そうに振り向いた青年の顔を、紹運はじっと見つめる。
「それがし、豊後大友が家臣吉弘鑑理(よしひろ あきまさ)が娘、吉弘紹運と申す者。よろしければ、尊名をうかがいたい」
 紹運の名乗りに、青年は記憶をたどるようにわずかに目を細め、ほどなくして、なにやら納得したかのように深々と頷いた。
「なるほど。道理で衆に優れた稟質を感じるはずですね。俺、いえ、それがし、あ――」
「あ?」
「あ、ああ、その、雲居筑前と申します」
 何故だか慌てた様子で、青年はそう名乗ったのである。


「雲居、筑前殿……」
 その名を耳に馴染ませるように、紹運は小さく呟く。
 そして、もっとも気にかけていた問いを放とうとした。
「雲居殿は、何故――」
 何故、あの女性の動きに気付いたのか。何故、短筒の前に躊躇なく身を晒せたのか。何故、紹運がここにいることに気付いていたのか。いくつもの何故が脳裏を横切り、咄嗟にどれを口にしようか紹運は迷ってしまう。
 だが、雲居は勝手にその先を判断したらしい。かすかに表情を曇らせながら、口を開いた。
「この地の事情に、余計な口をはさむつもりはなかったのですが……これ以上、故人の安息を乱すことは許せなかったのです。分に過ぎた真似をしたことは申し訳なく思っております」
「故人――もしや、雲居殿は角隈石宗殿と?」
「はい。短い間ながら屋敷で世話になっていたものです」


 そう言って、会釈して場を立ち去る雲居の背に、紹運は奇妙な既視感を覚えた。
 だがこの時、それが何に由来するものか、思い出すことはなかったのである。




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第一章 雷鳴(六)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/05/05 19:02
「――筑後での戦のため、参るのが遅くなってしまいました。石宗様には、なお多くの教えを授かりたく思っておりましたのに……此度のこと、まことに残念でなりません」
 そう言って、戸次道雪は哀悼の意を込めて、深々と頭を垂れた。
 漆黒の髪が流れるように零れ落ちる様は、思わず息をのむほどに鮮麗で、同性である吉継も感嘆の吐息がこぼれるのを抑えられなかった。
 幸い、その吐息は頭巾に遮られて道雪の耳に届くまでに宙に溶けてしまったが、吉継は慌てて礼を返した。
 大友家の重臣中の重臣である道雪と、角隈石宗の家臣――つまりは陪臣である吉継とでは、身分に天地の開きがある。ましてや、相手は雷神、鬼の異名を持つ九国最高の名将である。緊張するなという方が無理な話であったかもしれない。


 そんな吉継の強張りを見抜いたのか、道雪は吉継と視線をあわせ、穏やかに微笑んだ。
「そして――お久しぶりですね、吉継殿。石宗様のことは残念ですが、あなたが壮健であることは、とても嬉しく思います」
「は、はい。道雪様にもご健勝の様子、嬉しく存じます。石宗様も、道雪様の令名を耳にするたび、頬をほころばせておられました。出藍の誉れである、と」
 吉継の言葉を聞き、道雪の笑みは苦笑にかわる。
「石宗様の先を見通す洞察、深い思慮に支えられた明晰な判断、いずれも私は遠く及びません。その評はいささか買いかぶりであると思いますが――師の期待に応えることが出来るよう、努力を怠らないようにいたしましょう」
「決して、買いかぶりなどでは……」
 買いかぶりではない、と言おうとした吉継だったが、道雪がとおりいっぺんの謙遜をしているわけではないことは、その眼差しを見れば明らかで、少なくとも道雪自身がそう考えていることは確かであった。
 ここで道雪の言葉を否定し、師の言葉を肯定するだけの見識と経験を持たない吉継は、まわらぬ舌に内心で苛立ちながらも、口を噤むしかなかった。


 だから。
 次に吉継が口にした言葉は、吉継自身が考えた言葉ではなかった。
「これより戦に赴かんとなされる身で、ここまでお出でくださり、そして事態を収拾していただいた。そのことを考えれば、石宗様のお言葉は決して買いかぶりなどではないと存じます」
 その吉継の言葉を聞いた途端、道雪の目が、それとわからないくらい、かすかに細まった。
「ふふ、驚きました。此度の出陣は極秘に進められており、府内の城でも、私は石宗様の霊前に花を捧げるために参ったと考えている者がほとんどでしょう。それをわずかの刻で見抜くとは……さすが石宗様の薫陶をもっとも近くで受けた方ですね」
 そう言ってから、道雪は小さく首を傾げる。
「後学のために聞かせていただきたいのですが、どのあたりで見抜きましたか? 兵を率いてきたこと自体は、護衛として不自然ではないと思うのですけれど」
「……は。その、確かにその通りなのですが……」
 吉継は束の間、ためらった末に、先刻のある人物とのやりとりを思い起こす。


『ただの護衛にしては兵の数が多いですし、率いる将が精強すぎます。石宗様の霊前に花を捧げるにしても、現在の大友家の状況を考えれば、これだけの将兵が一時に府内を離れるとは考えにくい。あるいは南蛮神教の横暴に対抗するためかとも思いましたが、それにしては府内からここまで、来るのが早すぎる』
 そういって、かすかに首をひねりながら、その人物はさらに言葉を続けた。
『であれば、おそらく、あれだけの兵と将が必要となる戦があり、その途中で立ち寄られたというところでしょう。あるいはたまたま近くを進軍中、先夜の出来事を聞きつけ、駆けつけてくれたのか。いずれにせよ、運が良かったとしか言いようがないですね――あるいは、角隈殿のお導きかもしれません』
  しごく真面目な顔で、そんなことを言ったその人物、名を雲居筑前といった。 



◆◆◆



 うららかな陽射しの下、心地良い薫風に頬を撫でられながら、俺は縁側に腰を下ろしていた。
 緑が萌えるこの季節、元々、好きな季節の一つであったが、かつての体験を経て、今では一番好きな季節になっていた。


 激しくも華やかな二年間、その始まりと終わりは、この季節であったから。


 そして再び始まったのもこの季節。かつて居た場所は遠く、焦がれるほどに再会を望んだ人たちの姿はない。それでも、皆が踏む大地を踏み、皆が見上げている空を見上げることが出来る。その事実に比すれば、再会までの時を待つことなど難事と呼ぶにも値しない。
 懸念があるとすれば、いまだ激しい戦が続くこの地にあって、皆が無事でいてくれるかどうか。だが、それは俺が案じたところで致し方ないことである。ついでに言えば、俺程度に案じられるほど、やわな人たちではない、という気もしたりする。
 それに、気になるのなら、さっさと彼の地に戻れば良い。それで、すべて解決するのだから。


 オンベイシラマンダヤソワカ、と毘沙門天の真言を呟く――いや、まあ呟いても出てくるのは神様ではないのだが。こういったことを考える時の口癖になってしまっているが、けっこう罰当たりなことをしているのかもしれない。
「いま少しだけ、お待ちくださいませ……」
 その呟きは、春風に溶け、誰の耳にも入らずに終わる――そのはずだったのだが。


「オンベイシラマンダヤソワカ……毘沙門天の真言、ですね」
 不意にかけられた言葉に、俺は思わず驚きの声をあげてしまう。慌てて振り返れば、その人物は意外なほど近くにいた。
 車椅子に乗った妙齢の女性。
 息をのむほどに艶やかな黒髪と、穏やかでいながら確かな芯を感じさせる深い眼差し。一瞬、胸裏に思い描いていた人が、現実に現れたのかと錯覚しそうになる。
 だが、無論、そうではない。
 遠目とはいえ、その人物を見たのは先刻のこと。眼前の女性が誰であるかを、俺は知っていた。
 一瞬の自失から立ち直るや、俺はすぐに姿勢を正してその女性――戸次道雪殿と向かい合う。


「これは、大変失礼いたしました、戸次様」  
 車椅子であるからには、足音を忍ばせて近づくなど不可能である。であれば、俺が道雪殿が近づく音に気付かなかったのだろう。いささか過去に遡りすぎていたようであった。
 しかし、どうして道雪殿がここにいるのか。屋敷を訪れていたのは知っているが、俺がいるのは客間ではなく、家人が寝起きする奥の棟である。客人がふと立ち寄るような場所ではないはずだが。


 そんな俺の訝しげな眼差しに気付いているのか、いないのか。道雪殿は微笑んで会釈した。
「こちらこそ、驚かせてしまったようで申し訳ありません。お察しのとおり、私は戸次道雪。この屋敷の主であられた角隈石宗様には、軍略の師として、また大友家の先達として、大変お世話になった者です」
「雲居筑前と申します。角隈殿に危ういところを救っていただき、屋敷で世話になっている者です」
 そう言って頭を下げながら、俺は内心で呟く。
 言えない。
 いきなり九国の山中に放り出され、途方に暮れつつ空腹と乾きに耐えて歩き回り、挙句、少女の水浴びを覗いて斬られそうになったところを救われた、なんて目の前の人には絶対言えない。


「雲居、筑前殿……」
 舌で転がすように俺の名を呟く道雪殿は、先刻、境内で見た厳しい姿とはうってかわって、どこか可愛らしく映る。俺より年上の女性に抱くには失礼な感想かもしんないが。
 予期せぬ出会いに、実は内心で結構慌てている俺の目を覗き込むようにしながら、道雪殿はくすりと微笑んだ。
「紹運から容姿は聞いていたので、半ば確信してはいましたが――やはり、あなたが私の命の恩人殿だったのですね。遅ればせながら、心よりお礼を申し上げます」
「う……あ、い、いえ、命の恩人などと、そのような……」
 道雪殿が言っているのは、あの境内での出来事を指している、というのはすぐにわかった。だから、俺が言葉を詰まらせたのはそのせいではない。では、何故なのかといえば。


 薫風になびく髪を片手でそっと押さえながら、微笑する道雪殿。
 風に揺れる一輪挿し、間近で見るその姿があまりにもたおやかで――率直に言って、俺は道雪殿に見惚れていたのである。


 多分、今、俺の顔は真っ赤に染まっているだろう、などと他人事のように考えていると。
「おや、どうしました、恩人殿。なにやら顔が赤いようですが……」
「あ、いや、それは……ですね」
 あなたに見惚れていました、などと言えるはずもなく、俺はもごもごと口を動かすことしか出来ぬ。
 すると、そんな俺を、なにやら楽しげに見ていた道雪殿が不意に俺の顔に手を伸ばし――
「――え、あの、戸次様?!」 
 そっと頬に手をあててきたのである。恐慌の頂点に達した俺は、咄嗟に身体を引こうとしたのだが、その動きは道雪殿の一言であっさりと押しとどめられた。
「そのままで」
「あ、いや、でもですね……ッ?!」
 物心ついた時から今日まで、これだけ動揺したのは初めて――とは言わないが、片手で数えられるくらいしかない。
 どこの林檎かトマトか、という感じで真っ赤になっている俺は、鬼道雪の猛攻の前に陥落寸前であった。そして、さすがは音に聞こえた九国の名将、そんな俺の動揺を見逃すことなく、しっかりと、とどめをさしに参られました。
 頬にあてた手を、今度は髪にまわしてきたのである。



「――ッ?!」
 もう言葉も出ません。
 髪に手をあてた、といっても大人が子供の髪をよしよしと撫でるような体勢なら、ここまでは動揺しなかった。
 道雪殿は俺の頬にあてていた手をそのまま後頭部に伸ばしてきたのである。そして、おそらくは撫でにくかったのだろう。俺の頭を少し自分の胸元に引き寄せることまでしたのである。
 多分、傍から見れば、俺は道雪殿に抱き寄せられているようにしか見えないのではあるまいか。


 治、極まれば乱に入り、乱、極まれば治に至るという。
 それは時代ではなく、個人についても同じことが言えるらしい。混乱の極みに達した俺の頭の一部は、かえって冷静になった。
 この体勢で、下手に動けば、それこそもっとまずい状況になりかねない。そう判断し、道雪殿に抗うのをやめたのである。
 決して、髪を梳く道雪殿の手が気持ちよいから、とか、道雪殿から漂う甘い芳香をもう少し堪能していたかったから、とかいう邪まな理由では――いや、まったく無いと言ったら嘘になるのだけども。もちろん、俺も男だからして少しはそんな理由もあった。いや、半ばくらいはその理由であったかもしれない。否、たとえすべてその理由だったとしても、何を恥じることがあろうか!


 と、内心で玩具箱をひっくり返したような大混乱に陥っていた俺の耳に、優しげで、どこか楽しげな道雪殿の声が響いた。
「少々強情なところはありますが、硬く張りのある髪をしていますね……ふふ、男児たる者、こうでなくてはなりません」
 ただ、少々長すぎますね、と道雪殿は呟いた。
 言われてみれば、確かに、少し伸ばし過ぎたかもしれない。こちらに戻って一ヶ月あまり。髪を切る余裕なんてあるはずもなかったからなあ。頼めるような人もいないし、金もなかったから尚更だ。
 そんなことを考えていると、不意に、俺の耳元で、短刀が鞘から抜かれる音がした。
 道雪殿が自身の短刀を抜き放ったのだということはすぐにわかったが、俺の心にはほんのわずかの危惧も宿らなかった。
 それは、このわずかな時間の邂逅で、道雪殿の人柄を感じたゆえか、あるいはその色香に惑わされたゆえか。さて、どっちだろうか。


 ただ、たとえ警戒していたとしても、何一つ為せなかっただろう。
 刃の煌きはわずかに一度。道雪殿はただそれだけで短刀を鞘に戻し、無造作に伸ばしていた俺の髪の先端、指一本分ほどの部分は道雪殿の手の中に収められていた。
「さあ、これですっきりしました。男の身であっても、身だしなみには気をつけるべきと思いますよ、雲居殿」
 そう言って、道雪殿はようやく俺を解放してくれたのである。


 小さな安堵と、大きな未練を感じながら、俺は今さらのように道雪殿から距離を置くと、くすくすと笑う道雪殿にこくこくと頷いてみせる。
「は、はい、向後は気をつけることにいたします」
 いまだ熱の覚めやらない顔で、そういうだけが、この時の俺の精一杯であった。




◆◆◆




 幸いというべきか、当然というべきか。
 道雪殿が訪れてから、南蛮神教側が手を出してくることは一度もなかった。もっとも、南蛮寺院の建設は、寺の跡地ですでに始められてしまっている。これは大友宗麟の決定によるものであったので、道雪殿には如何ともし難かったのである。
 住民からは相変わらず不満の声があがり続けていたが、その都度、住職が穏やかに諭し、小競り合いもあの日以後起こることはなかった。


 ちなみに短筒を持った女性の件に関しては、道雪殿は何も口にしていないそうだ。
 カブラエルが失敗した時のことを考えていないはずもなく、藪をつついて蛇を出すよりは、あえて無言を貫くことで相手の猜疑を煽ろうとしているのかもしれない。
 戸次道雪、なかなかに食えない方である――などと考えていたら。
「あら、花も盛りの女性に向かって、その評はあんまりではありませんか」
「な、何も言ってませんでしょう?!」
 道雪殿にあっさりと見破られてしまった。釈明を試みるが、道雪殿はつんと澄まして顔をそむけるばかり。その姿が、また悶えるほどに可愛らしいものだから、もう本当にどうしてくれようこんちくしょう、という感じである。


「ふはは、道雪様が会って間もない者を、かほどに気に入られるのもめずらしい」
 小野鎮幸が酒盃を呷りながらそう言うと、その隣にいた由布惟信も、めずらしく素直に同意した。
「ええ、本当に。このごろは気の滅入ることばかりでしたから、道雪様もどこか沈みがちであったのですが」
「うむ、雲居殿をからかう義姉様は、実に楽しそうで、見ていて微笑ましいな」
 二人に続いたのは、隣でにこやかに俺と道雪殿を眺めていた吉弘紹運殿である。あの時、俺が短筒を渡した人物だ。


 角隈殿の四十九日の法要が終わったのは先日のこと。
 今はその労を互いにねぎらっているところである。
 道雪殿をはじめ、小野殿も由布殿も、もちろん紹運殿も、実に人間として出来た方々であった。九州探題たる大友家の武威の源泉とでも言うべき将たちと面識を得られたのは、稀有な幸運であったといえる。
 まあ、もっぱら道雪殿にからかわれる俺を、他の人たちが肴にして楽しむだけなんですけどね、ええ。
 道雪殿には、いきなり初対面の時に弱点を見抜かれてしまったようで、以後、事あるごとにからかわれてばっかりなのである。
 ただ、そんな光景を見ていたせいであろうか。道雪殿らと、屋敷にいる人たちとの関係も良好で、法要も滞りなく終えることが出来た――というのは、こじつけかな、やはり。


 ただ、全員が全員、良好な関係を築けたかというと、そういうわけでもないようで。
 ふと周りを見渡せば、いつのまにか吉継の姿が消えていた。
 こういう席に、あまり長居しない人であることは承知していたが、吉継は角隈殿亡き後の屋敷を切り盛りしてきた人である。すすんで口を開かずとも、場にいなければ差しさわりがあると思うのだが――
「どうぞ、行ってあげてください」
 俺の視線に気付いたのか。あるいは、そもそもはじめから、吉継が去ったことに気付いていたのだろうか。
「――はい、申し訳ありません」
「お気になさらずに」
 立ち上がる俺に向けて、道雪殿は微笑んでそう言ったのである。



◆◆



 吉継の姿を見つけたのは、意外なことに中庭であった。
 いつもの白い頭巾をかぶった姿のまま、吉継は空を見上げていた。今宵の空には雲ひとつなく、黄金色に輝く月と、銀砂のごとき星々が煌いている。
 吉継の視線を追いながら、満月に到るまでには、まだ二、三日かかるだろうか、などと俺が考えていると、不意に吉継が口を開いた。
「……もうじき、月が満ちます」
「はい、あと二日、三日、そのくらいでしょうか」
「でも、月は満ちたその時から、欠けていく。欠けていって、また満ちて。果てなくそれを繰り返す。その営みに、私たちは魅せられる。父上も――」


 そこで、吉継はわずかに言葉を切った。
 吉継はこちらを向いていない。俺が見ているのは、吉継の後姿だけである。その姿に、かすかなためらいを感じたのは気のせいではあるまい。
 だが、吉継は再び口を開いた。
「父上も、月をこよなく愛していました。歌の一つも詠めない自分の武骨さを笑いながら、月を見上げて酒盃を傾けていた姿を、今もはっきりと思い出せます」
 そう言った後、吉継はこちらを振り向いた。頭巾に覆われた口元からかすかに苦笑めいた呟きがもれる。


「だから、私は月が嫌いでした。月なんかより、私にかまってほしかった。そう口にすれば、父上は困った顔で相手をしてくれましたが、だからこそ、そう口にすることは子供心に憚られて……」
 今、思えば、と口にする吉継の声は低く、俺に向けて話しているというよりは、独り言を言っているようにも思われた。
「月を見上げていた時だけ、父上は心安らぐことが出来たのかもしれません。まわりに目を向ければ、異形の私と、病弱な母が、ただ父上を頼りに暮らしている。父上がそれを厭っていたなどとは思いません。それでも、私たちが父上の荷であったことは事実なんだと思うんです。私たちがいなければ、父上は――いえ、私がいなければ、父上と母上は、もっと別の……」
 その声は震えておらず、吉継が、いつかの夜のように激情にかられているわけではないことは明らかであった。明らかであったからこそ、俺は返す言葉がなかった。
 そんなことはない、と否定することは簡単である。だが、その言葉に説得力を持たせるだけの重みが、俺にはないと思えたから。


 正直なところ。
 吉継が何を思って、そんなことを言い出したのか、俺にはわからない。否定してほしいのか、肯定してほしいのか、それともただ聞いてほしいだけなのか。多分、吉継自身もわかっていないのではないだろうか。
 だが、その言葉は否定しなければならない。そんな確信だけは、確かに俺の中にあったのである。


 ――しかし、何を言えばいいのだろう。俺がどれだけ真摯に考え、答えを口にしようとも、口を離れた瞬間、その言葉は薄っぺらいものに変じてしまうような気がして仕方ないのだ。
 だから、次にこの場に響いた声は、俺のものではなく。
「――しかり。たしかに重き荷であったことでござろう」
 びくり、と吉継の身体が震えた。
 俺は驚いて声がしてきた方を見る。そこには――
「……和尚?」
「申し訳ござらん、お二人を探しておったところ、なにやら声が聞こえてきまして。聞くとはなしに聞いてしまいもうした――吉継殿」
 吉継の名を呼んだ時。俺ははじめて、厳しく張り詰める住職の声を聞いた。


 住職の呼びかけに、吉継は小さく応えた。
「……はい」
「拙僧は、貴殿のご両親を存じませぬ。ゆえに、その人柄も知りもうさん。しかし、今の話を聞いただけでも、おおよそのことはわかります。確かに仰るとおり、貴殿の父御、母御にとって、貴殿は重き荷であったことでございましょう」
 それが、俺の発した言葉であれば、おそらく吉継にはなんら堪えなかったであろう。だが、住職の言葉が与えた衝撃は、鉄の槌にも等しかったかもしれない。それを示すかのように、吉継の身体が小さく揺れた。
「……は、はい」
「重き荷を捨てていれば、なるほど、確かに異なる生があったはず。それは、貴殿と共に歩むよりも、はるかに身軽で、そしてはるかに気軽であったことでござろう」
「……う」
 容赦のない住職の言葉に、吉継の口からうめきにも似た声がもれる。
 だが、住職は構うことなくさらに口を開き。


「――そして、ただそれだけの生を終えられたでござろうよ」


 そう、言った。
 住職の言わんとするところがわからないのだろう。吉継が戸惑いもあらわに住職を、そして俺に視線を向ける。
 だが、俺とて住職の真意がわからない。だから、ただ耳を澄ませ、その言葉を聞くことしかできなかった。


「一生(いっせい)とは重き荷を背負いて、遠き道をゆくが如し」
 住職はゆっくりと、聞く者の心に染み入るようにゆっくりと、言葉を紡ぎはじめる。
「多くを背負い、苦しみ、嘆き、それでも荷を捨てずに歩けばこそ、その道は万金にも優る価値をもって、人の心に刻まれましょう。誰かがその道を継ごうと志すことでござろう。人の命は限りあるもの。されど限りある命で為したことは、そうして引き継がれ、磨かれ、後の者たちへと受け継がれていくのではありませんかな」
 そう言って、住職はいつもの柔和な、人を包み込むような笑みを浮かべた。
「親と子の絆は、その最たるものであると拙僧は思いますぞ。貴殿のご両親は、最後までその道を歩き通したのでござる。ならば、その道にいかなる価値を見出すかは、吉継殿次第。自らを嘲り、銀を銅とみなすも、自らを誇り、銀を黄金へと高めるも、すべて貴殿のお心一つでござろう。それは大変に困難な道でありましょうが、幸い、貴殿のすぐ傍らには先達がおりもうす」


 そう言って、住職が視線を向けた先は――俺に向けられた。
「……和尚」
「これでも、多くの人を見て参りましたでな。石宗殿も、気付いておられた。貴殿が焦がれるように、何かを追い求めていることに。だが、そこに危うげなものは感じられず、深き思慮と、剛毅な心がそれを支えておられる――その若さで、よくぞそこまで」
 住職は感嘆もあらわに、俺に告げる。
「良き出会いを、そして良き別れを経てこられたのであろう。それは、これから先の吉継殿になにより必要なことだとは思われませんか」
「……和尚、一体、何を?」
 住職の言葉に戸惑いを禁じえず、問いを向けた俺に対し、住職は懐から二通の書を取り出した。


「これは?」
「石宗殿より託された書状でござる。一通は貴殿に、もう一通は吉継殿に。四十九日の法要が終わり、なお二人が屋敷にとどまっていたのなら、その時に渡してほしいと石宗殿は申されておりました」
 その言葉に、俺と吉継は驚きを隠せず、互いの顔を見やってしまった。
 角隈殿には、直接に思いを託されている。では、書状に書かれていることは何なのだろう。しかも、あえて四十九日が終わるのを待って渡すようにしたのは、何の意図があってのことか。
 いずれの答えもわからなかったが、しかし確かなことが一つだけある。それは、住職が差し出した書状は、俺と吉継がここにいなければ火中に投じられることになったであろう、角隈殿の最後の言葉でもある、ということ。


 ゆえに、読まないという選択肢だけは有り得なかったのである。
 




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 幕間
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/05/04 21:50


 越後の首府とも言うべき春日山城。
 近年、その城下には多くの武家屋敷が建設され、越後各地の小豪族たちが競って移り住むようになっていた。
 これは武力の中央集権化を進める上杉家の政策に拠るところが大きいが、言うまでもなく、豪族はその土地に根ざした勢力である。上杉家から見れば、越後各地の豪族が春日山城下に住居を定めるということは、新しい戦時動員体制の確立ならびに整備という面で望ましいものであるが、本拠から切り離される豪族たちにとっては利点となるものは見出し難いものであった。
 

 これに関しては上杉家も各地の豪族に対し、命令という形をとってはいない。ただ、進んでそうする者に対しては屋敷の建築、土地割りで便宜を計らい、また再編した上杉軍内部での地位も考慮する、という通達を出しただけである。
 それゆえ、春日山城下に集まったのは、所領らしい所領を持たない小身の者や、あるいは他家との勢力争いに敗れて没落の道を辿る者、そして信濃、上野をはじめとして、他国から上杉の武名を慕って集まった者がほとんどであった。


 しかし、古くから越後に居住する豪族の中にも、春日山城下に移り住んだ者もいた。
 たとえばそれは赤田の斎藤朝信であり、栃尾の本庄実乃であり、琵琶島の宇佐美定満などである。
 また、彼ら以外にも、上杉家が次代の組織再編を進めていることを敏感に察した者たちは、この機に遅れてはならじと次々に決断を下し、その流れは根拠地に居座り続けている古参の豪族たちをして、焦りを覚えさせるほどの勢いであった。



 そうした城下に移り住む豪族、その家臣や家族、屋敷を建てるために集まった職人、彼らを目当てとした商人など、春日山の人口は増える一方であり、その賑わいは他国に噂が届くほどになっている。
 そんな春日山城下の一画、上杉家にとって大身とされる家の屋敷が立ち並ぶ一角に、その屋敷はあった。
 この区画に建てられた建物の中では、おそらくもっとも初期に建てられたその屋敷は、金銀珠玉の類はほとんど使われておらず、門構えも屋敷の構造も、質実を第一義として造られている。
 建物自体も、いざ春日山城に敵が押し寄せてきた際、その盾となるように縄張りされており、家屋敷というよりは、小規模な出城とでもいうべきものであった。


 ただ、そういった造りをしている屋敷は、春日山城下ではさほどめずらしくはない。にも関わらず、その屋敷が城下でもとみに有名であったのは、屋敷自体ではなく、その主に原因が求められた。
 越後のみならず、周辺諸国にも名高き軍神、越後上杉家当主、上杉輝虎。近年、号して謙信と称する彼の聖将の懐刀として、令名を馳せた人物。
 その位は従五位下筑前守に及び、同じく従五位下山城守を有する直江兼続と並び称えられる上杉家秘蔵の璧。


 ――その名を、天城颯馬といった。 
 


◆◆



 その天城屋敷の一室で、今、一人の乙女が混乱の極みに達していた。
「う……あ、あの、やっぱりこれ着て、城にいかなきゃいけないのか?」
「いかなきゃいけないのか、じゃなくて、いかなくてはいけないのですか、でしょ、岩鶴」
 め、という風に弥太郎に睨まれた岩鶴は、困惑したように自分の姿を見下ろす。
 今日の日のために、わざわざ京から取り寄せたという生地を用い、越後でも指折りの職人が丹精をこめて仕立て上げた優美な衣装。
 男子の成人の儀を元服といい、女子の成人の儀を髪上げという。岩鶴としては、女とはいえ、一個の人物として世に出る今日の儀式は元服に等しいと考えていたが、用意されたのはこれ以上ないほどに鮮麗な着物であった。
 それに身を包んでいる自分に、どうしても実感がわかない。
 謙信の傍仕えとして、礼儀作法や言葉遣いは心得ていたはずだが、つい昔の口調に戻ってしまうくらい、岩鶴は混乱していたのである。



 そんな岩鶴の混乱もおかまいなしに、その顔に丁寧に化粧をほどこしていた段蔵は、仕上がりに満足の頷きを示してから、眼前の少女の姿を視界におさめる。
 直ぐに伸ばした黒髪の下、優美に調った眉、やや鋭すぎる観もあるが、強い意志を示す眼差し、軟らかな唇、どこをとっても非の打ち所がない容貌。丹念にほどこされた化粧はその輝きをいや増し、下手をすれば家が一つ建つんじゃないかくらいに高価な衣装に少しも負けていない。
 そういった意味のことを段蔵が述べると、岩鶴は目を剥いた。
「い、家一つ建つってなんだよッ?!」
「文字通りの意味ですが、何か?」
「『何か?』じゃないだろッ?! なんでそんな高価なもん、俺なんかのために」
 そう言う岩鶴に、段蔵は小さくため息を吐いてみせた。
「わかっていませんね、岩鶴」
「う、な、なにがだよ?」
「これでも必要最小限の出費にとどめたのですよ。当初はあなたのために行列を仕立てる案まで出ていたのですから」
「だ、誰だよ、そんなこと言い出したのはッ?!」
「謙信様です」
 あっさりと言う段蔵に、岩鶴はぴしりと固まる。
 困ったような顔で弥太郎がそれに付け足した。
「ちなみにね、直江様と宇佐美様も賛成してたんだよ。越後に名高い天城家の慶事であるからには、それくらいしても罰はあたるまいってね」
「まあ、直江様は明らかに面白がっていましたけどね。これは余計なことですが、今日にあわせて、気の早い輩から縁談まで持ち込まれていたのです。そういった諸々を全て却下して、その衣装一つに落ち着かせるために、私や弥太郎がどれだけ苦労したことか」
 はあ、ともう一度ため息を吐く段蔵を見て、岩鶴はそれが決して偽りでないことを悟り、ひきつった顔で礼を述べるしかなかった。



 すべての用意は整えられ、あとは春日山に登城し、謙信から成人の祝いを受け、新たな名を授けられるのを待つばかりである。
 束の間の沈黙を破ったのは、今日の主役である岩鶴の声であった。
「越後に名高い天城家の慶事、かあ。やっぱり、天城って名乗った方がいいのかな、おれ、ではない、わたし」
「名乗りたければ名乗れば良いし、その逆もまた自由。岩鶴の好きにすれば良いと思いますよ」
 段蔵が言うと、弥太郎も同意だというようにこくこくと頷く。


 そんな二人の顔を、じっと見つめる岩鶴。
 この屋敷の主である天城颯馬が、越後から姿を消して、およそ二年。
 天城は地位と役職のみで領土を持たなかったため、当人が姿を消してしまえば、天城という家名には何の利点も残らなかった。妻子眷属はなく、財産らしい財産もなかったため、地位と役職が代わりとなる者に引き継がれた後、天城家の名は文献の中にのみ残され、人々の記憶の中からゆっくりと消えていく――はずであった。


 だが、現実にはそうはならなかった。
 天城が姿を消した後、小島弥太郎と加藤段蔵の両名は、主君である謙信の許可を得た上で、城下に天城屋敷を建設、澄ました顔でその家に入ると、平然と天城の家名を掲げたのである。
 言うまでもないが、姿を消した人間の下で働くことの利点など、ないに等しい。特に天城は名声、功績ともに抜きん出ており、また他家との深いつながりもあって、不穏な噂の一つ二つたてられる要素を十二分に持っていた。下手をすれば叛逆の汚名を着せられる恐れさえあったのである――もっとも主君である謙信の為人と、天城への信頼を知っていれば、そんなことはありえないとわかるのだが、外から見ている者たちはそこまで知る由もない。


 そうして、当たり前のように天城家を存続――というよりつくり上げてしまった二人は、上杉謙信の麾下にあって、その名を辱めない働きを披露しつづけた。繰り返すが天城は領土を持っておらず、地位職責が他者に委ねられた以上、天城家の下にいることの利点はないに等しい。だが、二人はかけらも気にした様子を見せなかった。
 そうして天城家の名を高からしめる一方で、弥太郎は家族と岩鶴、そしてその弟妹を。
 段蔵は軒猿の中から厳選した手錬を、それぞれ屋敷に呼び寄せ、世間では彼らを天城家の者とみなすようになったのである。
 この時、弥太郎にせよ、段蔵にせよ、天城の家名を名乗ろうと思えば名乗れたであろうが、二人は小島、加藤の姓をかえようとはしなかった。
「姓なんかかえなくても、私たちが颯馬様の臣であることにかわりはないもの」
 そう言って笑う弥太郎と、肩をすくめる段蔵の姿を、岩鶴はまぶしい思いで見つめたものだった。決して口にはしなかったが。



 そんな岩鶴の内心に気付いているのか、いないのか。
 段蔵はめずらしく、表情を綻ばせて岩鶴の晴れ姿を見つめる。
「ふふ、戻って来た颯馬様を悔しがらせる話題が、一つ増えました」
「うんうん、颯馬様、くやしがるよね。『俺も岩鶴の晴れ姿を見たかったー』って」
「そ、そうかな……?」
 それを聞き、かすかに照れたように俯く岩鶴を見て、段蔵と弥太郎はきっぱりと頷いてみせた。
「確実です」
「絶対だよッ」


 二人の確言に、岩鶴が何か言おうと口を開きかけた時、ふすまの外から家人の声が聞こえてきた。いつのまにか、登場の時刻になっていたようであった。




◆◆◆




 春日山城、城主の間。
 緊張に身体を強張らせ、平伏する岩鶴の前に、ほどなくこの城の城主が姿をあらわす。
 越後守護職、軍神上杉謙信。
 岩鶴にとっては、常日頃から仕えている主であるのだが、小姓姿で傍らに控えているのと、艶やかな衣装に身を包み、髪上げの主役として相対するのとでは心持が全く違う。
 おまけに、謙信の後ろには重臣筆頭の直江兼続と、越後随一の智者として名高い宇佐美定満が控えているのだから尚更だ――否、それどころか。


「ほほう、あの凛々しい小姓が、衣装一つで可憐な乙女に大変身か。立ち会えなかった誰かさんが悔しがる姿が目に浮かぶわ」
「ま、政景様ッ?!」
 それどころか、なぜか越後守護代長尾政景までいるのはどうしたことか。
「ど、どうして」
「どうしてって、もちろん、岩鶴の晴れの門出を祝うために決まってるでしょうが」
 何を当たり前のことを、と言わんばかりの政景の様子に、岩鶴は頭を下げるしかなかった。天城ならば、何か一言、口にしたかもしれないが、守護代たる方にそうそう気安く話しかけられるものではなかった。


「政景様、そのあたりで」
「とと、ごめんごめん」
 やんわりと兼続が政景を押さえ、政景は頬をかきながら席に戻る。
 岩鶴は謙信の傍仕えであり、将来を嘱目される逸材であるとはいえ、ただの小姓に過ぎない。それを考えれば、その髪上げの儀に上杉謙信、長尾政景、直江兼続、宇佐美定満と、上杉家の文武の精髄が揃っていることが、どれだけありえざることか、岩鶴にはわかりすぎるほどにわかっていた。
 常は外見に似ず、剛毅、剛腹と言われる岩鶴であっても、さすがに緊張を隠せない。というより、生まれてからこれまで、こんなに緊張したことはかつてなかったかもしれない。


 だが。
 汗をにじませ、平伏する岩鶴の肩に、不意に誰かの手が乗せられる。優しく、緊張を解きほぐすようにしっかりと。
「河田岩鶴」
 呼びかけから、それが主君である謙信の手だと知った岩鶴は、その穏やかな声音と、温かい手の感触に、不思議と心が落ち着くのを覚えた。
「は、はい」
「これまでのそなたの働き、若年ながらまことに見事。忠誠、智勇、何一つ欠けることなき奉公ぶりは、他の模範となるものであった」
「は、恐れ入りますッ」
 ますます深く頭を下げる岩鶴に、謙信はさらに言葉を続ける。
「今日、この日をもってそなたは、一個の人物として世に迎えられる。これまでとても、そなたは決して容易な生き方をしてきたわけではあるまい。そのことは承知している。だが、これより先は、これまでにもまして、強く、しっかと地を踏みしめて歩いていかねばならぬ。この謙信に仕えるかぎり、戦を避けることは出来ず、多くを失う辛く苦しい道になることは確実だ。それを承知してなお、そなたは上杉に力を尽くしてくれるだろうか」


 その問いに対し、岩鶴は答えを――否、覚悟を示す。この時ばかりは、身体の震えは消えていた。
「はい、もちろんでございます。上杉が天道を祓い清める楯鉾となることこそ、私の望み。数奇な導きによって、京よりこの地に参ったは、すべてそのためであると信じております。どうか、この身が麾下に加わること、お許し賜らんことを」
 そう言って、岩鶴は眼差しを上げ、謙信の顔を見つめる。
 岩鶴を見る謙信の顔は穏やかでいながら、確かな威厳が感じられた。その眼差しに、心のひだまでも見通されているような気さえしながら、岩鶴は視線をそらすことなく、主君を見つめ続けた。自分の覚悟を、すべて読み取ってほしかった。


 その岩鶴の思いが伝わったのか。不意に謙信は相好を崩し、にこりと微笑んだ。
「そなたの覚悟、確かに見た。これより先も、よろしく頼む。そなたの力、私に貸してくれ」
「は、はい! ありがたき幸せにございます」
「うむ。ならば今日より、そなたは長親と名乗るが良い。河田長親、それが今日より上杉が精鋭に加わりし者の名だ」
「ながちか、河田、長親――は、はい、河田長親、これより上杉が臣として、謙信様よりいただいた名に恥じぬ働きをお見せいたしますッ」
 そう言って、岩鶴は――長親は額を畳にこすりつけるように、深々と頭を下げるのであった。



◆◆◆



 無論、髪上げの儀はこれだけでは終わらない。形式にのっとり、この後もしばらく続いた。
(えーい、私の時にも思ったけど、面倒ね。必要なことを、必要なだけやってさっさと終わらせなさいよ、まったく)
 とは、とある守護代様の心の呟きである。
 それはさておき、岩鶴の髪上げの儀は無事に終わり、岩鶴改め長親は、弥太郎や段蔵と共に天城屋敷へと帰っていった。
 あちらはあちらで、祝いの続きがあるのだろう。
 出来ればそちらも参加したい、と思った者が春日山城にも若干名いたのだが、髪上げの儀に要した時間だけでも政務に与えた影響は少なくなく、皆、そちらにとりかからねばならなかった。
 ――結局、その日の政務に一通りの目処がついたのは、もう月が中天に輝く時刻であった。 


「謙信様」
「……兼続か、どうした?」
 自室から庭に出て、春日山から吹き降ろす涼風に身を委ねていた謙信は、背後からかけられた声に応じて、そちらを振り向いた。
「冬は去ったとはいえ、まだ夜風は冷えます。あまりここにおられると、お体にさわりますよ」
「そうだな、すまぬ。ただ、身のうちから湧き出る熱が冷めやらぬのだ。風に吹かれれば、少しは良いかと思ってな」
「どこか、お具合でも?!」
 謙信の言葉に、兼続は慌てたように問いかける。
 だが、謙信はゆっくりと首を横に振った。
「そうではない。ただ、この季節になると、な」
「……ああ、なるほど。おまけに今日は、岩鶴――ではない、長親の髪上げの儀までありましたしね」
「うむ。京で我らを案内したあの童が、あれだけ大きくなったのかと思うと、時の流れの不思議を感じて仕方ない。兼続も私も、あまりかわっていないと思うのにな」
 呟くような謙信の述懐。それに対して、兼続はかぶりをふって答えた。


「これは謙信様らしからぬ仰りようですね」
 そういう兼続に、めずらしく謙信は戸惑ったように首を傾げる。
「む?」
「確かに外見はあまりかわってはいないかもしれません。しかし、私も謙信様も、その心の内は大きくかわっていると思いますよ。あの頃よりも前へ、前へと進んでいると、そう思います。それは決して、長親の成長に劣るものではないでしょう」
「そう、だろうか。兼続はそう思うのか?」
「ええ、思いますとも。それに……」
 兼続は小さく肩をすくめてみせる。
「京からこちら……颯馬が去ってから二年。私と謙信様の成長が、長親に劣ると知ったら、颯馬になんと言われることか。あいつに『何も成長してませんね』などと笑われるつもりは、私には断じてありません」
 思いがけない兼続の諧謔に、謙信は小さく吹き出す。
「ふ、ふふ、颯馬が面と向かって兼続にそんなことを言うなど、考えにくいが」
「無論、言うことはおろか、考えることすらさせません。むしろ、帰ってきた颯馬を鼻で笑うくらいの差をつけてやらなければッ」
 断言する兼続に、謙信はゆっくりと頷いてみせた。
「……そうだな。少なくとも、颯馬を失望させない程度の己になっておかねば、な」
「颯馬が謙信様に失望するなど、そんな増上慢を示したら、即座にそっ首ひっこぬいてやりますよ。それは無用の心配と申し上げておきます」


 むきになったように言う兼続に、謙信は笑いながら、小さく礼を言った。
「兼続」
「は?」
「気を遣わせてしまって、すまないな」
「い、いえ、そんなことは……」
 何かを吹っ切るように踵を返す謙信。慌てて、その後ろに従いながら、兼続はいずことも知れぬ場所に消えた人物に対し、内心で呟いた。


(謙信様にここまで気遣われておいて……万一にもその信を裏切るような真似をしおったら許さんぞ、颯馬)




◆◆◆




 同時刻。
 九国、某所。


 ぞくり、と。
 尋常ならぬ寒気を覚えた俺は、慌てて寝台からはねおき、周囲を見渡した。
 だが、不意に敵襲が来たわけでもなく、曲者が侵入してきたわけでもない。
「な、なんだ、今のは……?」
 わけもわからず、俺はその場に立ち尽くすしかなかった……
 



[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第二章 乱麻(一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/05/09 16:50


 足利幕府によって九州探題に補任された大友家。
 だが、時は戦国。ただ権威のみで九国すべてを統治できるはずもなく、大友家に対して牙を剥く豪族、国人衆は少なくなかった。その理由の一つに、南蛮神教への傾斜を強め、廃仏毀釈を押し進める大友宗麟への根強い反感があったことは疑いない。
 その反感は対外勢力にとどまらず、大友家臣の中にも確実に存在しており、その信仰上の対立が、家臣同士の争いに発展する例さえ出始める。だが、宗麟はそういった事態に直面しても、ただ神への信仰だけを解決の糸口とし、従来の姿勢をかえることはなかった。
 憑かれたように南蛮神教への崇拝を強める大友フランシス宗麟。近年、その南蛮神教への傾倒は、もはや耽溺の域に至っているとの評まで出始めており、九国で最大の勢力を誇る大友家の権勢をもってしても――否、九州探題たる大友家であるからこそ、当主の彷徨は、国の内外に無視し得ない変化を呼び起こしていくことになる。


 道雪が筑後方面へ軍を向けたことも、これと無関係ではなかった。
 反大友の旗を掲げる筑後国人衆の叛乱を、道雪はこの方面の大友軍指揮官である蒲池鑑盛(かまち あきもり)と共同して制圧した。
 鑑盛は「義心、鉄のごとし」と称えられる人物で、その名声は筑後はもちろん、肥前にまで及ぶ勇将である。その人物と、鬼道雪の挟撃を受けた筑後国人衆の叛乱はあっけなく潰えたのだが、逆に言えば、この二名でなければ、ここまですみやかな掃討は望めなかったであろう。それだけの粘りを感じさせる筑後衆の戦いぶりであった。
 それは同時に、今回の叛乱が、決して偶発的に起こったものでないことを意味していたのである。


 それを証明するかのように、筑後の戸次、蒲池から反乱鎮圧の報を受けた直後、府内の宗麟のもとに予期せぬ凶報がもたらされる。
 それは豊前国、門司城が他国の急襲を受け、陥落したというものであった。
 門司城は、その名のごとく関門海峡(馬関、門司に挟まれた海路)を司る城。大陸との交易や南蛮との貿易によって国を富ませている大友家にとって、この海峡の制海権は文字通りの意味で生命線となるものであった。
 そして、これは他家にとっても同じことが言える。ことに近年、瀬戸内の制海権を握った毛利家は西の海への出入り口となる関門海峡を欲してやまず、大友家との間で度々干戈を交えていた。今回の襲撃も、毛利家によるものであるとの予測は、誰もが抱くものであった。
 当然のごとく、この凶報を受けた大友家はただちに奪還の軍を催す。戸次道雪は筑後方面からまだ戻っていなかったが、鬼道雪なくとも、大友家には歴戦の名将が幾人も存在する。
 その中から宗麟が指名したのは大友加判衆が一、吉弘鑑理であった。


 吉弘鑑理は、吉弘紹運の実父にあたり、智勇兼備の名将として名を知られている。
 先代義鑑の時代から大友家を支え続ける宿将として、大友本家からの信頼は極めて厚く、その妻は義鑑の妹で、つまり、現当主の宗麟にとって鑑理は叔父にあたる。
 元々、宗麟は同紋衆(大友家の家紋である杏葉紋を許された分家)を信頼すること甚だ厚く、他紋衆から不満と不審の声があがっているほどなのだが、その同紋衆、しかも叔父である鑑理への信頼は推して知ることができるだろう。
 その鑑理に対し、宗麟は一万五千の兵を授けて門司城奪還を命じ、これを拝受した鑑理は豊前へと兵を進めて行く。筑後方面へ道雪率いる大軍を動かしながら、なお他方面へこれだけの兵を動かすことができることが、大友家の勢力の大きさを言外に物語る。
 いかに毛利家とはいえ、この大軍に抗するのは容易ではあるまい、と思われたのだが。


 事態は大友軍統帥部が考えるより、はるかに深刻なものであった。


 当初、門司城は他国の強襲によって陥落したと思われていた。門司城を守る将の名は小原鑑元(おばら あきもと)。鑑理と同じく、先代義鑑の代から大友家に仕える宿将であり、戦上手としても知られていた。その得意とするところは夜襲であり、こと夜襲の巧みさで言うなら、小原は鑑理を凌ぐとさえ言われていたのである。
 その小原が守る門司城である。たとえ毛利家の手に落ちたとはいえ、毛利勢が被った損害は少なくないはずと宗麟は考え、その点では鑑理も同じ考えであった。だからこそ、敵の防備が整わないうちに、と兵を急がせたのだ。
 しかし、道を急ぎながらも怠り無く情報を集めていた鑑理は、門司城が近づくにつれ、首を傾げていった。門司城から敗走してくる味方と出会わないのである。付近の住民に問うても、そういった落ち武者を見かけてはいないということだった。
 いかに毛利勢が侮れない強敵とはいえ、小原ほどの戦巧者が全滅の憂き目に遭うとは考えにくい。では、何故、城を失ったはずの味方の姿が見えないのか。


 その鑑理の疑問の答えは、間もなく明らかとなる。
 ――大友家を裏切り、城を挙げて毛利家に降った小原鑑元による夜襲、という形で。
 




 大友家の宿将の一人として、こと戦においては吉弘鑑理と並び称され、宗麟の当主就任以来、忠誠を尽くしてきた小原が何故毛利家に降ったのか。
 吉弘鑑理と、小原鑑元の決定的な違い。
 それはただ一つ、吉弘家が同紋衆であるのに対し、小原家が他紋衆であること――それだけであった。
 南蛮神教に耽溺する宗麟に批判の目を向けつつ、それでも忠節を捧げてきた鑑元であったが、同紋衆を重用する宗麟の政策によって、先年、なんら咎なき身で加判衆から外され、さらに府内から追放されるように門司城へと追いやられたことが、鑑元の不満と不審を急激に高めてしまう。その様は地下を流れていた伏流水が、湧出口を見つけたごとくであったかもしれない。


 その鑑元の不満を敏感に察したのが、安芸守護職毛利元就と、その一族である小早川隆景である。
 とはいえ、毛利家からの使者を招き入れた鑑元は、すぐにその話に乗ったわけではない。
 南蛮神教の崇拝はともかくとして、領内の寺社を排斥する動きと、同紋衆と他紋衆の間に横たわる格差を撤廃することについての嘆願と要望は、門司城から府内の宗麟に向けて幾度も繰り返され――結局、鑑元は、ただの一度も望む返答を得られなかった。


 これによって大友家の将来の衰退と、その果ての滅亡に確信を抱いた鑑元はついに意を決する。
 鑑元の不満と不審は多くの他紋衆が共有するところであり、密かな鑑元の誘いに応じた者は意外なほどに多かった。
 かくて、小原鑑元は門司城において反大友の旗を掲げて決起する。
 その総数は実に一万を越え、門司城のみならず、各地の勢力と合わせれば二万に達する勢いであった。
 これに毛利の援軍を加えた反乱軍は、夜陰にまぎれて討伐の第一陣である吉弘鑑理の陣を急襲、予期せぬ敵襲にさすがの鑑理も不意を衝かれ、手痛い打撃を受けてしまう。


 後に言う『大友他紋衆の乱』、または『氏姓遺恨事変』は、こうして豊前の地で幕を開けるのである。




◆◆◆
  



 その日、俺の目覚めを促したのは、中庭に飛来した雀のさえずりであった。
 寝ようと思えば野山でも寝られる俺だが、やはり布団で眠れるなら、それに越したことはない。陽だまりの布地に包まれながら、眠りに落ちるのは人生の楽しみの一つといって差し支えあるまい。
 そんなことを考えつつ、身支度を整えた俺の視界に一通の手紙が映る。昨夜、和尚から託された角隈殿から俺に宛てた書状。眠る前に読んだ内容が、自然と頭によみがえった。


 ――角隈殿が自身で記したと思われるかすかに震えを帯びた文字は、分量自体はそう多くはなかった。死を間近にした身体では、長文を書く体力がなかったのか、あるいはそこまで詳細に書く必要がないと、角隈殿は考えたのかもしれない。
 内容はある程度予測していたものと同じであった。記されていたのは、最後に言葉をかわした時、角隈殿が口にしていた言葉――吉継のことをよろしく頼むという願いと、角隈殿がその願いを俺に託すに至った理由。
 あえて四十九日後にこれを託すという形をとったことについては、不快を感じられたなら申し訳ない、という詫びの言葉も記してあったが、これに関しては角隈殿の考えすぎである。別に詫びる必要なぞないだろう。



「さて、どうしたものか」
 法要は終わり、俺がこの地に留まる理由はなくなった。後は一刻も早く、東に向けて旅立ちたい。その旅に吉継が同行することについては、かりに角隈殿の頼みがなかったとしても、吉継が望めば拒絶するつもりはなかった。
 だが、文意から察するに、角隈殿としては俺の方から吉継を連れ出してほしいのではないか、と思われるのだ。確かに吉継が自分の意思で俺についていくと言い出すとは考えにくい。この地に留まることの危険さも良くわかる。
 ただ、俺の旅に同行したところで危険さはかわらず、むしろ、より戦乱の渦中に近づく可能性さえある――というより、確実にそうなるだろう。危険という意味で言えば、この地に留まった方がまだましであるかもしれん。


 そんな旅に連れ出すとなれば、俺にも相応の責任が発生する。責任を忌避するわけでは決してないが、しかし。
「ここで本当のことを言うわけにもいかないよなあ」
 何か具体的な害が発生するわけではないが、口から出た言葉は飛翔する。俺の一言が、かりに厄介ごとを誘発してしまった場合、それは俺のみならず俺と近しかった人たちへと及ぶだろう――我ながら考えすぎだと思わないでもないが、わずかでもその可能性がある以上、真実を口にする気にはなれなかった。まあ、たとえ口にしても信じてもらえないだろうという気もするのだが。
 かといって、何も言わずに同行を強いるというのは論外だ。俺が強いたところで吉継が肯うとも考えにくいが……などと俺がああでもない、こうでもない、と考え込んでいると、襖越しに家人の声がかけられた。
 道雪殿が呼んでいるとのことだった。




「あなたがたが察されたように、此度、わたくしは戦へ向かう途次、この地に立ち寄りました」
 客間で俺を待っていた道雪殿は、前置きもなくそう言った。
 この場には吉継と道雪殿の他、戸次の双璧たる小野鎮幸、由布惟信の二人、それに紹運殿までいる。
 十万の兵もたやすく指揮してのけるであろう大友軍の精鋭が居並ぶ様は、壮観と称して差し支えないであろう。
 俺がそんなことを考えている間にも、道雪殿の言葉は続く。
「石宗様の法要も無事に終わり、これからわたくしたちは主君の命に従って戦に赴くことになります。ついては一つ、お二人にご助言をたまわりたいと思い、朝も早くからお出で願ったのです」
「……助言、でございますか?」
 吉継が白頭巾の下から怪訝そうな声を発する。雷神とも謳われる大友家最高の名将に、何を言えるというのだろう。そんな疑問が言葉の隙間から透けて見えた。


「はい、そうです。此度の出陣、あなたがたであればどのように戦い、勝利を得ようとするか。ご意見を頂戴したいのです」
 吉継の言葉と、俺の問う眼差しに気付いていないわけではないだろうが、道雪殿は委細構わずにこりと笑って問いを向け、答えを促すように首を傾げて見せた。
 だが、それは――
「あの、戸次様、それだけでは……」
 吉継が困惑した声を出す。頭巾の中で、戸惑っている吉継の顔がはっきりと想像できた。
 情報が足りない、というより、ほとんどない。吉継は角隈殿の下で軍略を学び、兵書を読み、占術を習って、そのすべてに通じているそうだが、その吉継であっても今の情報量でいかに勝利すべきかと問われても答えようがないらしい。
 まあ当然といえば当然である。敵が誰であるか、どこを攻めるのか、野戦か、城攻めか――それさえわからず、勝利の方途を見出せる人物がいるとすれば、それは天才を通り越して変人というべきであろうから。


 無論、道雪殿がそれを知らないはずはない。それは俺にも吉継にもわかった。
 知った上で問いかけているのならば、道雪殿は今の問いで何かを測ろうとしているのだろう。だが、この奇問にどう答えれば良いのか。奇問に奇答で応じるのは簡単だが、下手なことを言って、目の前の佳人を失望させることは避けたいと吉継は考えているのかもしれない。俺がそう考えているように。
 見れば、道雪殿以外の人たちも、なにやら興味深そうに俺と吉継を見つめている。その最中、ふと紹運殿と視線があう。紹運殿は、自分の義姉の悪戯じみた問いに首をひねる俺や吉継を気の毒に思ったのか、力づけるように小さく頷いて見せた。


 ふむ、それでは――
「……そうですね。私であれば、まず墨を磨る(する)ことから始めます」
 口を開いた俺と、その内容に、吉継が驚いたように見つめてくる。
 道雪殿も、さすがに俺の意図を察しかねたのか、確認するように俺を見つめた。
「墨、ですか?」
「はい、墨です。それも大量に。そして同じく大量の紙を用意します」
「それは戦にさきがけて、諸方に使いを出す、ということですか? そのための書状をあらかじめ用意しておく、と」
「文を用意するというのは仰るとおりですが、戦にさきがけて、というわけではありません。これを用いるのは戦が始まってからか、あるいはその直前です」
 俺が言うと、道雪殿は興趣をおぼえたらしい。では、参考までにその文を書いてくださいと言われたので、硯と筆、そして紙を家人に持ってきてもらった。
 そして、皆が見つめる中、俺は筆をとって字を記していく。それほど長い文章ではない。というより、むしろ短い。
 すなわち、俺はこう記したのである。


「参らせ候(そうろう) 戸次伯耆守道雪」


 筆を置いた俺は、わけもわからず目を点にしている人たちに向け、意図を説明する。
「戸次様の勇名は九国に知らぬ者とてないほどのもの。戦に先立ち、これを矢にくくりつけて敵陣に射込めば、相手の将兵は必ずや動揺するでしょう。あらかじめ戸次様がいると知っていればともかく、突如戦場にその姿を見ることになるのですから尚更です」
 戸次道雪の勇名を知る者であればあるほどに、その効果は大きくなる。俺はそう言った。
 敵も味方も問わない――否、あるいは敵以上に、味方は道雪殿の雷名を骨身に刻んでいるだろう、と。




 ――俺を見つめる道雪殿の目が、一瞬、恒星さながらに煌いたように見えたのは、はたして気のせいであったのか。
「知っているのか、いないのか……なるほど、石宗様や和尚様があれほど高くその人物を買った理由、わかるというものです」
 その声は囁きに等しく、俺はほとんど聞き取ることが出来なかった。
 ただ、じっとこちらを見据えている道雪殿の顔を見て、もしやふざけていると勘違いされたか、と冷や汗を流しつつ、口を開く。
「戸次様?」
「……参らせ候、ですか。みずからの名をそのように用いること、考えたこともありませんでした」
 そう言う道雪殿の顔はどこまでも真剣で、一片の笑みも浮かんではいなかった。あるいは機嫌を損じたか、と俺の背を流れる冷や汗の量が倍増する。
「す、済みません、思いつきを申しあげたのですが、無礼がありましたらお詫びいたします」 
「まさか。こちらから問いを向けたのです。その答えを無礼と咎めるつもりはありません。しかし、なるほど、参らせ候、ですか……」
 と、なにやら硬い表情で考え込む道雪殿。
 俺としては気が気ではない。鎮幸や惟信、紹運殿は何ともいいがたい微妙な顔でこちらを見るばかりだし、吉継にいたっては自分は無関係とばかりに、露骨に顔をそむけている。


 一人、混乱の淵に立っている俺の耳に、不意にそれまで考えに沈んでいた道雪殿の声が響いた。
「一つ、問いたいのですが……」
「は、はい、なんでしょうか?」
「吉継殿より、此度のわたくしの訪問の時期、供の数、同道した者たちの素性から、戦に赴く最中ではないかと推測したのは、雲居殿なのだとうかがいました。相違ありませんか?」
「は、それは確かにその通りです」
 これは本当のことだから、俺としては慌てる必要もない。
 筑後から戻ったばかりの道雪殿が、亡くなった恩師の墓前で手をあわせたいと望むのは自然なこと。ただ諸々のことが引っかかり、吉継にその旨を話したのである。


 無論、俺の考えすぎだという可能性もあったのだが、その線ははじめの道雪殿の発言で消えた。であれば、道雪殿は行き先をくらました上で出陣した、ということになる。自然、その目的は奇襲に類するものであろうと推測できる。
 そのあたりを踏まえて、文をつくるという解答に至ったわけで、俺はそういったことを道雪殿に話した――恥をかきたくなかったので、俺の知る知識を流用したのは内緒である。


「吉継殿」
「は、はい、戸次様」
「あなたは今の雲居殿の策、どうみますか?」
 道雪殿はそれまで口を開かなかった吉継に話を向ける。
 吉継はわずかに押し黙った後、考えをまとめるようにゆっくりと口を開いた。
「……雲居殿の仰る前提が、此度の戸次様の戦にあてはまるものと仮定した上で申し上げれば――有効な手立てであると存じます。戸次様の雷名を知り、それに動じない心を持つ者は九国でもまれでございましょう。その軍勢が突如として眼前に立ちはだかれば、将の心中に迷いが生じますし、兵の中には怯える者さえ少なくないでしょう。雲居殿の策は、敵の士気を挫く良き策であると存じます。無論、ただ矢を射込んだだけで敵が崩れるはずもなく、最後は撃斬の力を加える必要がありましょうが」


 普段の吉継は、あまり感情を感じさせない平坦な声音なのだが、軍略を語る時はそこに自然と熱が篭る。吉継自身がそう口にしたわけではないが、角隈殿の最後を看取った臣として、弟子として、心に期するものがあるのかもしれない。
 やや口惜しげなものが感じられたのは、俺の推測に今一歩及ばなかったゆえだろうか。文の件はともかく、これから道雪殿が向かわれる戦が奇襲に類するものであることは、吉継とて知りえる立場にいたのである。もっとも吉継のことだから、俺が口にしないでもじきに気付いたであろうが。


 俺と吉継、二人の意見を聞いた道雪殿は、無言で目を閉ざす。
 そしてしばし後、再び見開かれた瞳はまっすぐに俺たちに向けられ――俺は息をのむ。そこには確かに九国最高ともいわれる名将の苛烈な意思がにじみ出ていたからだ。
 しかし、今の状況でそんな目で見られても、俺も吉継も困惑するしかない。というか、もしかして俺の案は鬼道雪さんが我慢ならないほど不真面目であったのだろうか。同意を示した吉継にも厳しい視線を向けざるをえないほどに。


 下手に俺の知る史実を持ち出したのがまずかったか、などと俺が考えていると、不意に道雪殿がほうっと息を吐いた。
 道雪殿がまとっていた戦将としての覇気が、それだけで霧散する。そうして俺と吉継の緊張を解してから、道雪殿はゆっくりと口を開いた。
 それは道雪殿が、今この時に到るまでの詳細であった。無論、それは大友軍の重要な軍事情報である。それをあえてこの場で語ることの意味、そして聞くことの意味、双方が何をもたらすのかを、俺はこの時、はっきりと認識していた。
 認識しながら、それでも黙って耳を傾けたのは、そうしたいという意思と、それ以上にそうしなければならないという強い予感――確信が俺自身を衝き動かしたからである。





 筑後国人衆の叛乱を鎮圧した道雪殿は、府内に帰還するや、休む間もなく豊前に出陣した吉弘鑑理の後詰を、主君である宗麟から命じられた。
 大友家に他に人がいないわけではない。にも関わらず、戦が終わって間もない道雪殿に命令を下した宗麟は、豊前の戦況が容易ならざるものであることをはや悟っていたのだろうか。
 残念ながら、そうではなかった。宗麟は国内の不穏な空気を肌で感じとり、万全を期して道雪殿に命令を下したわけではない。かといって、神のお告げとやらに従って人選をしたわけでもなかった。
 宗麟が道雪殿に豊前の後詰を命じたのは、その方面に進軍している吉弘軍の中に、宗麟と、そして道雪殿にとって無視できない人物がいるためである。道雪殿はそう言った。


 その人物の名を――
「戸次誾(べっき ぎん)。わたくしにとっては養い子、ここにいる紹運にとっては甥、吉弘鑑理殿にとっては孫――そして、宗麟様にとっては、亡き親友の子であり、一時は我が子として大友宗家の後継に迎え入れたいと切望された者でもあるのです」
 そう口にした道雪殿の顔には、深い愛情と、浅からぬ憂いが相半ばしていた。




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第二章 乱麻(二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/05/11 22:10

 門司城の失陥は、毛利軍によるものではなく、城主小原鑑元の離反によるものであった。
 道雪殿のもとにその報告が届いたのは、角隈殿の四十九日の法要が終わった、まさにその日のことであったという。
 つまり、俺と吉継に話をした段階では、まだ一日と経っていなかったことになる。
 豊前に進出していた吉弘鑑理の軍は、味方であったはずの小原軍の強襲を受けたことで動揺し、少なからぬ被害を出して後退を余儀なくされた。それでも軍の秩序を保った状態で後退することが出来たのは、さすがに歴戦の武将である鑑理の面目躍如というものであったろう。


「鑑理殿によれば、小原鑑元殿の下に集った兵はおおよそ一万。これに毛利勢三千が加わっているとのことです。おそらく毛利の水軍も大きく動いていることでしょう。それだけではありません。これほどの規模の乱、しかも敵方に謀将として名高い元就公が控えていることを考えれば、眼前の敵がすべてであるとは思えません。おそらく、まもなく各地の他紋衆から、鑑元殿に続く動きを見せる者があらわれるでしょうね。あるいは、筑後の国人衆の叛乱も、此度の乱に連なる動きであったやもしれません」
 道雪殿の言葉に、紹運殿たちも厳しい顔で頷く。
 下手をすれば、今回の叛乱は大友家にとって燎原の大火となる可能性があった。否、すでに事態は可能性の段階ではなくなっているといってよい。そのことを、皆、承知しているゆえの厳しい顔つきであったのだろう。


 この乱の影響を最小限にとどめる方法があるとすれば、それは――
「……可及的速やかに、門司城を奪還すること」
 俺と同じ考えに達した吉継が、小さく呟く。その言葉に、道雪殿は頷きで同意を示した。
「そうです。しかし、門司城の守りは堅く、毛利水軍の後詰がある以上、一朝一夕で城を陥とすことは望めないでしょう。古来、城攻めには多くの兵と物資、そして時間が必要とされるものです。しかし――」
 道雪殿が憂いを帯びた表情で言葉をきる。
 俺は小さく肩をすくめて、その先を口にした。
「時をかければ、大友領内の不穏分子が動き出す。なるほど、さすがは音にきこえた毛利元就殿、空恐ろしい智略ですね」
「ええ、まったくです」
 はあ、とため息を吐きながら、俺の言葉に頷く道雪殿。おとがいに手をあて、困ったように口を開いた。
「できれば、あの御仁には山陰の尼子の方に目を向けていてほしかったのですが、瀬戸内の制海権を握っている以上、交易の要である関門海峡を欲するは必然、というところですか」
「北九州、ことに博多津の支配のためにも、ということですね――ところで、戸次様」
「はい、なんでしょう、雲居殿?」
 首をかしげてこちらを見る道雪殿。なぜかそこに悪戯っぽい光が見え隠れするのは気のせいなのかしら。
「……吉継殿は知らず、大友家の臣でもないわたしに、このような重要きわまりない情報を与える以上、なにかしら思うところがおありと考えるのですが、いかがでしょう?」
「あら、雲居殿はわたくしが下心あって、あえて情報をもらしていると仰いますの? 力添えを拒否したら、それを理由に身柄をおさえるために? そのような策多き女子だと思われていたなんて、わたくし、とても悲しいですわ」
 よよよ、と面差しをふせる道雪殿。涙を隠すように手で目元を覆っている。
 しかし、その口元がわずかに笑んでいることに気付かない俺ではない。というか、多分、あえて見せているんだろうけども、実になんというか、対応に困る方である。最終的には、どうあっても頷かざるをえないのだろうと自然に納得してしまうという意味で。


 まあ、元々そのあたりを承知の上で話に耳を傾けていたのだから構わないのだけども。今回の戦が長期化して困るのは大友家だけではなく、俺も同様なのだ。そして、おそらく道雪殿はそのあたりのことも承知しているはず。どこかわざとらしく悲嘆を装う今の姿を見るに、そうとしか思えない。やっぱり困った方だ。

 
 ただ、道雪殿が俺に何を求めているのかが、今ひとつわからない。俺が今の話から察した程度のこと、道雪殿はもとより、この場にいる鎮幸や惟信、紹運殿とてわからないはずはないのだ。
 なので、それを問うてみることにする。
「――今回の戦に毛利家が出張ってきた以上、水軍はかなり大規模に展開しているはずです。この時期、あえて九国から東へ向かう者は容赦のない詮議を受けることになるでしょう。それゆえ、私としてもこの戦は早期に終わってほしいと考えております。そのためにお役に立てることがあるのであれば、喜んで協力させていただきますが、しかし一介の浪人に過ぎない私に何をお望みなのでしょうか?」
 俺がそういうと、道雪殿は待っていたかのように面を上げ、俺を見つめた。当然のように、その目には涙のあとなどありゃしねえのである。
「そう言って頂けると、とても助かります。大友家家中において、こと軍略では優る者のなかった角隈石宗様、その石宗様が認めた吉継殿と雲居殿の智の力、わたくしどもに貸していただきたいのです。わたくしにせよ、紹運にせよ、あるいはここにいる鎮幸と惟信にせよ、戦場においてはいささか高名を得ておりますが、戦場の外にあって勝敗を決する智謀の持ち主ではありません。元就公の策に抗するには力不足と言わざるをえないのです」
 そう言って道雪殿は、どうかお願いします、と静かに頭を下げたのであった。



 鬼道雪に頭を下げられ、否と断れるはずがない。そのつもりもまたない。
「門司を陥とし、他紋衆の叛乱がこれ以上拡がらぬうちに食い止める。目的はそれでよろしいか?」
「はい」
「動かせる兵力は?」
「鑑理殿の一万五千、わたくしがここに連れてきた二百、くわえて我が配下の十時(ととき)が二千を引きつれ、豊前に向けて先行しています。四方の情勢を考えれば、現在動かせる兵力はこれが限界でしょう」
 おおよそ一万七千というところか。しかし鑑理の軍は小原軍の攻撃を受けているため、実際はもうすこし少なくなるだろう。
 敵方は小原鑑元の一万に、豊前に上陸した毛利軍三千。数の上ではこちらが有利だが、敵は門司城を抱え、背後には精強の毛利水軍が控えている。くわえていえば、大友領内の各地で、この叛乱に呼応する勢力が立ち上がる可能性は高く、実質的に数の差などないに等しい。
 この戦況で勝利を得ようとするのであれば――


「……はからずも、先を見据えた良い案だったのかも」
「雲居殿?」
 つぶやく俺を不思議そうに見つめる道雪殿に対し、俺はこう言った。
「やっぱり墨を磨りましょう、戸次様」



◆◆◆



 豊前、松山城。
 周防灘に面した松山の山頂付近に築かれた山城である。門司半島の根元に位置する要衝で、豊前支配の要の一つとされている。
 今、この城には門司城奪還のために派遣された吉弘鑑理以下一万五千の軍勢が集結していた。もっとも、先の敗戦で兵力は千ほど減じてしまっているが、それでもまだ敵軍を圧倒するにたる大軍であることにかわりはなかった。


 小原鑑元による奇襲を受けた吉弘鑑理は、混乱に陥った自軍を懸命に立て直しつつ、この松山城まで退いた。鑑理としては、この城で敗戦の傷を癒しつつ、情報を集め、後詰の来援を待って、再度門司へと進軍する心積もりであったのだ。
 しかし今、鑑理は全軍に対し、撤退の命令を下している。それは当初の鑑理の考えとは正反対のものであった。向かう先は豊前、香春岳(かわらだけ)城。門司城や松山城と同じく、豊前支配のために欠かせない拠点だが、先の二城と違い、香春岳城は内陸部にある。
 すなわち、松山城を捨てて香春岳城に退くということは、豊前湾岸の支配権を放棄するに等しいことなのである。


「さて、戸次殿のこと、何の策もなしにかようなことを申されるはずもないが」
 一人、そう呟いて首を傾げるのは吉弘鑑理であった。豊後三老の一人として、その勇名は他国にも名高い。加判衆筆頭である戸次道雪と比すれば、家格こそやや劣るものの軍歴の長さでははるかに優る。まして相手は妙齢の女性である。並の人物なら、このような奇怪な指示に唯々諾々と従うことはなかったであろう。頷くにしても、一度は再考を求めて使者を出したに違いない。そして、貴重な時間を費やすことになったであろう。


 しかし、鑑理は道雪からの書状を受け取るや、ほとんど即断といえる速さで退却を決断、麾下の将兵に命令を下す。外見、年齢、性別、そういった副次的な物事に拘泥し、戸次道雪の軍将としての器を見抜けぬ鑑理ではなかったのだ。
 この鑑理の指示には配下も驚きを隠せなかったが、鑑理の断固とした命令に反駁を試みる者はいなかった。
「『香春岳城にこもりし後は、ひたすら防備を固め、相手方の攻勢をいなされるべし。近き日、相手方は退却を開始しようが、追い討ちはくれぐれも無用のこと。ただ付かず離れず、その後背を追いしたって北進されたし』――鬼道雪殿らしからぬ詭道めいた物言いよな。まあ、その真意は近く明らかになろう。今は――」
 と、鑑理が何事か口にしかけたとき、甲冑を鳴らしながら、一人の若者――否、少年が鑑理の前に姿をあらわした。



◆◆

 

 大友家の宿将の一人として「豊後三老」の一角を担った吉弘鑑理は、主君の妹である妻との間に幾人かの子供をもうけた。
 その中でもっとも早く生まれた娘の名を、菊という。
 この時代、女性が家督を継ぐ例は少なくない。その意味で菊は吉弘家の跡継ぎになるべき身であるともいえたが、生来身体が弱く、床に伏せがちであった菊に、同紋衆にして加判衆である吉弘家を継ぐのは、いかにも荷が重いと思われた。


 また、菊は争いごとを好まない穏やかな性質で、家臣や領民にも気配りを欠かさなかった。これは菊自身が病弱であり、他者の助けを必要とする身であったことも、少なからず関わりがあったのだろう。
 その優しさと慈しみは人としては優れた美点であったが、戦国武将としてはいささかならず頼りないと言わざるをえない。鑑理はそんな長女を見て、早々に跡継ぎとすることを諦めた。
 幸い、次女の鎮理(後の紹運)は幼年の頃から活発で武芸に長じ、孫子呉子の兵法書を愛読する子で、その凛とした気性は、女児としてはともかく、武将としては申し分のないものであったから、吉弘家としては跡継ぎに不安はなかったのである。
 菊はそのわけへだてない優しさと気遣いから、家中の人望はきわめて厚く、ことに年少の子供たちからは大変に懐かれていた。妹である紹運も、姉を深く慕っており、病弱な姉の代わりに吉弘家を守るという意識こそが幼い紹運を成長せしめた要因であったといえる。


 その菊は、大友家の後継者である義鎮(後の宗麟)とも親密な間柄であった。歳こそ宗麟の方がやや上であったが、穏やかながら芯の強い菊を宗麟は深く頼りにしており、傍から見れば、菊の方が姉に見えたことであろう。
 後に、菊は府内を訪れた南蛮神教に感銘を受け、ジュスタという洗礼名を与えられる。与えたのはカブラエルの前の布教長であるトーレスという人物であるが、実はこの時、宗麟も改宗を望んでいた。これは宗麟の父である義鑑の猛反対にあって、結局とりやめになってしまうのだが、それでも宗麟は事あるごとに菊と同様に洗礼を望んでやまなかったと言われ、この点を見てもわかるように、宗麟への影響力という点で言えば、疎遠であった父の義鑑よりも菊の方がはるかに大きかったと思われる。
 だがこの一件は、この後の大友家の歩みに大きな――大きすぎる影響をもたらすこととなるのであった。




 一万田鑑相(いちまだ あきすけ)。同紋衆の一、一万田家の当主であり、文武に秀で、その為人は角隈石宗をして「英傑の風あり」と感嘆せしめたほどの人物である。
 この鑑相と、吉弘菊が婚姻を結んだ時、これを祝う者はあっても憂う者は皆無であった。
 戦場では退くことを知らぬ勇将であった鑑相は、しかしひとたび戦場を離れれば心根の優しい青年で、降伏した者をみだりに殺めず、略奪暴行にも厳罰をもって対処し、家臣や領民の信望はきわめて厚かった。
 主君である義鑑も鑑相の勇猛さと聡明さを愛してやまず、その信頼は他の宿将に優るとも劣らなかったと言われている。
 この鑑相と菊の結びつきは、同紋衆同士の紐帯の強化という一面はあったにしても、多くの者たちが心から祝福する良縁であったことは疑いなかった。


 そして、両者が夫婦となった翌年。
 鑑相と菊との間に珠玉のような男の子が産まれる。驍将一万田鑑相の血を継ぎ、慈愛の姫たる吉弘菊の腹から産まれた子供。一万田家と吉弘家という二つの同紋衆の血を受け、その誕生を聞いた大友宗家では、折り合いの悪かった父義鑑、娘宗麟が、ともに破顔して、喜びを分け合ったと伝えられた。
 為人こそ成長を待つ必要があったが、与えられた才能と血筋の良さは疑うべくもない。この幼子は長ずればどれほどの人物になるかと、家臣と領民とを問わず期待しない者はいなかったのである。



 だが、しかし。
 この世に生を受けたその時から「西国に並ぶ者なき侍大将となるであろう」と多くの者が信じた子供の前には、余人の想像を絶する苛酷な道程が待ち構えていた。
 それは一人、その子のみならず、大友家そのもの、否、日の本の歴史さえも揺るがすほどの巨大な揺動であり、その男の子が、数多の戦雲を潜り抜け、その名を歴史に屹立させることが出来るか否か、この時点でそれを知る者は誰一人としていなかった。


 すなわち、この男の子こそ、後に数奇な運命を経て、戸次誾と名乗ることになる人物、その人であった。



◆◆



 白皙の頬に、黒曜石の瞳。整った容姿は異国からもたらされる繊細な銀細工を思わせ、見る者の目を惹きつけずにはおかない。
 背は鑑理に頭一つ及ばず、身体つきも歴戦の鑑理に比べれば細く、繊弱で、女児と大差ないといっても言いすぎではないかもしれない。
 だが、それはあくまで外見だけのこと。
 肩口まで伸びた髪は無造作に首の後ろで一つに束ね、武骨な鎧兜をまとう姿はいかにも虚飾と華美を忌む武将らしい。その様を見れば、本人がみずからの容姿にいささかの関心も持っていないことは明らかであった。また、重い鎧兜をさほど苦もなく着こなしているところを見れば、少年が外見に似つかわしくない膂力の持ち主であることもうかがえる。
 だが、にも関わらず、その姿を見て、戦場に出るにはあまりに繊細なものを感じてしまうのは何故なのだろうか。吉弘鑑理は、我が孫を見て、ふとそんなことを考えていた。


「左近大夫(さこんたゆう 鑑理の官職)様」
 今は亡き娘を思わせる優しげな声音と、そこに込められた意思の強さ。その乖離に、鑑理はいまだに慣れることが出来ないでいる。少なくとも、菊の口から、これほどに勁烈な響きを帯びた声を聞いたことはなかった……
 その鑑理の戸惑いを察したのか、怪訝そうに少年はもう一度口を開いた。
「……どうなさったのです、左近大夫様?」
「いや、すまぬ、ちと考え事をしていたのだ――誾」


 名を呼ばれた少年は、滅多にみない祖父の動揺する姿を不思議に思ったが、すぐに心づいたように頭を下げた。
「さようでしたか。お考えを妨げてしまい、申し訳ございません」
「かまわん、我ながら埒もないことを考えていただけだ。それより、準備がととのったことを知らせに来てくれたのだろう」
「御意。各隊、出陣の準備がととのったとのことです。周辺の農民たちへも、しばし山野に難を逃れるように通達を出しました」
 誾の言葉に、鑑理は頷いた。
「ご苦労。鑑元めの軍勢がどう動くかはわからぬが、この城を放っておくとは考えにくい。難を避ける時間は残されていよう」
「ですが、それならばやはり、この城に火を放つべきではありませんか。これだけの規模の山城、敵に篭られれば厄介なことになるのは明白でありましょう」
「そなたの言うこと、いちいちもっともではあるが、此度に関しては不要ぞ。戸次殿には何ぞ策がある様子。こちらが勝手に動けば、その策に支障が出るやもしれぬ」
 その鑑理の言葉を聞いた誾は、束の間、何事か考えこむように顔を俯かせる。


 そして、次に顔をあげた時、そこにはぬぐえぬ疑問がたゆたっていた。
「左近大夫様、一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「む? なんだ、申してみるがよい」
「義母様(ははさま)――いえ、伯耆守様のことです。これまでの伯耆守様であれば、たとえ策を用いるにせよ、大友家の先達であられる左近大夫様にその内実を伝え、そのうえで協力を願うはず。しかるに此度は一方的な通達と命令が参ったのみです。もちろん、伯耆守様は加判衆筆頭の身、此度の件が僭越というわけではありませんが――」
「常の戸次殿に似つかわしくない、というわけか」
「……御意。敵は彼の謀将。門司の裏切り者どものこともあります。ここは慎重を期して、伯耆守様に使者を出すべきではありますまいか」


 鑑理は、今度はその誾の言葉を無用と断じることは出来なかった。
 有情の謀将――そう仇名される中国地方の彼の大名であれば、味方を装っていつわりの命令を送る程度のこと、たやすくやってのけるだろう。
 だが。
「送られてきた書は、間違いなく戸次殿本人の手によるもの。安芸の狐は祐筆を何人も抱えているとの噂だが、あの墨痕淋漓とした筆跡をそう容易く真似られようものか。それに、敵が彼のものであればこそ、戸次殿は詳しい内容を語れなかったとも考えられる」
「は、確かにそれはそのとおりですが……」
「それに、これはわしの勘だが、今、逡巡して、この地で敵を迎えてしまえば、此度の戦に勝利しえる機を逸する。そう思えてならぬのだ」
 勘などといえばいかにも胡乱である。だが、長年にわたって戦塵を潜り抜けてきた名将の閃きを否定するだけの実を、今の誾はもっていない。鑑理の言葉に、ただ頷くことしかできなかった。
「敵を警戒するは当然だが、一度、事を決した後は迷ってはならん。どっちつかずはもっとも悪しき結果を招くでな。これはおぼえておくが良い、誾」
「御意にございます。御教誨、胸に刻んでわすれません」


 深々と頭を下げる誾の視界に映らぬところで、鑑理は小さくかぶりを振る。その顔に浮かぶ表情は、鑑理が決して人には見せない類のものであった。
 眼前の孫の生真面目な性格は、疑いなく娘と自分に共通するものだ。そう鑑理は思う。そして、主君への忠義ゆえに乱に至り、大友家の歴史に拭えぬ汚点を記してしまったあの婿殿のものでもある――そんなことを考えてしまっていた。




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第二章 乱麻(三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/05/16 18:55
 豊前、小倉城。
 この城は、関門海峡の北西に広がる響灘(ひびきなだ)を見下ろす丘陵上の拠点である。福智山系を源流とし、響灘へと注ぐ紫川の河口に築かれた小倉城は、関門海峡の西の出入りを司る要地に位置しており、いざ戦が起こった場合は、門司城の出城として攻守に重要な役割を果たすことになると考えられていた。


 大友家から離反し、門司半島一帯に勢力を拡げた小原鑑元も、無論、そのことを承知していた。鑑元は腹心の一人である中村長直をこの地に派遣し、小倉城一帯を征圧して関門海峡の西の出口を確保することに成功する。
 長直は小倉城を拠点として、周辺の豪族や筑前の国人衆らを語らって反大友の機運を高めるために尽力し、その行動は一定の成果を得た。各地から、長直の下に集まった兵数は千を越え、兵を送らなかった者たちの多くも中立を保ち、謀叛を起こした鑑元らを攻撃しようとはしなかったのである。


 とはいえ、他紋衆の中にも大友恩顧の豪族たちがいないわけではない。また筑前の秋月などの諸勢力にしてみれば、今回の戦は豊前に勢力を拡げる絶好の機会に映っていることだろう。
 吉弘鑑理率いる討伐軍が豊前に侵入してきた際、長直が小倉城を動かなかったのは、そういった者たちの野心を未然に掣肘するためであった。無論、鑑元も承知済みのことである。
 幸い、戦は小原勢の勝利に終わり、吉弘鑑理は松山城に退却した。知らせを受けた長直は安堵の息を吐いたのだが、さらに数日を経ずして新たな情勢がもたらされた。小原勢の追撃を受けた大友勢が松山城をも放棄し、香春岳(かわらだけ)城に立て篭もっているというのだ。これがまことであるとすれば、門司半島は事実上、小原鑑元の手に帰したといってよい。


「沿岸部にあっては、常に毛利水軍を気にかけなくてはならぬからな。より内陸へ引きずり込もうというところか。だが、持久戦などと悠長なことをしていられる余裕があると思っているのか、宗麟。時が経てば経つほどに、貴様は不利になっていくというのに」
 元々、長直は南蛮神教に耽溺する主君をこころよく思っていなかった。毛利家からの誘いが来たとき、まっさきにこれに賛同し、主である鑑元を説得したのも長直である。
 それゆえ、大友軍の弱腰ともいえる戦ぶりに対し、宗麟ならばさもあらんと嘲弄を隠せなかったのである。
 


 ――だが、明けて翌日。長直の嘲弄は凍りつくことになる。



 終日降り続いた雨によって、水量が増した紫川。
 この雨量があと数日続けば、川の堤防が決壊する恐れがある。小倉城の見張り台から濁流と化した川面を遠くに見やりながら、櫓の上で二人の兵士が会話をかわしていた。
 そのうちの一人がぼやきに似た声を出す。


「天の底が抜けたってのはこういうことか? このままじゃあ間違いなく堤が壊れるぞ」
「そうだな。この雨の中、泥まみれになって土石を運ぶなんて勘弁してもらいたいもんだが」
「俺は土いじりが嫌で故郷を飛び出たんだぜ。なんで兵士になってまで土いじりしなきゃならねんだよ」
「まあ、そうくさるな。今回の戦いで勝てば、見返りは大きいからな。それにいつ敵が来るとも知れない以上、城の兵士を外に出したりはしないんじゃないか」
「そうかあ? 敵っつったって戦は福智山の向こうだろ。あの山を越えて、こんな小城を攻めに来るやつなんていやしねえって」
「敵は南から来るとはかぎらない。西の筑前から来る可能性だってあるんだ。油断するべきじゃないだろう」
「へいへい、真面目なこって」


 そう言いながら、大あくびをする同僚を見て、もう一人の兵士は苦笑を浮かべる。
 彼自身、自分で言っておきながら、敵がこの城に来る可能性は少ないと考えていたからだ。仮に敵が来るとしても、主要な道筋には当然見張りが立っている。城の櫓にのぼっている自分たちの肉眼に映るより早く、早馬で知らせがもたらされるだろう。そう考えていた。


 だから、再び川面に目を向けた時、上流から下ってくる筏らしきものを見ても、兵士たちは疑問に思わなかった。
「こんな天候でも川に出てる人がいるんだな。漁師か何かか?」
「こんな雨と泥ん中で何をとるってんだよ。莫迦じゃないのか、そいつ」
「しかし、一人二人じゃないみたいだが」
「なら、全員、莫迦なんだろ。ほっとけほっとけ、そんな奴ら」
 同僚はもう一度あくびしながら、ひらひらと手を振って、そのまま床に座り込んでしまった。
「城主さまに見つかったら、大目玉だぞ」
「はん、どうせ今頃、女中たちと寝間にしけこんでる頃だろうよ」
「……まったく。お前もその口の悪ささえなければな」
「ほっとけ」


 とうとう壁によりかかって、目を瞑ってしまった同僚を見て、兵士は肩をすくめてから、視線を城外へと据え直した。
 とはいえ、周囲には動くものの気配さえなく、視線は今なお川を下り続けている筏に向けられる。激しい雨で視界が遮られ、はっきりと見えないのだが、はじめは一つ、二つかと思っていた筏の数はさらに多いように思われた。
 一体、どれだけの筏が川に出ているのか。そう思い、数を数え始めた兵士は、しかし、確認できた筏の数が五を越えたあたりで、かすかに身体を緊張させた。


 今や先頭をきって川を下ってきた筏は、濁流の勢いに乗って河口へ迫っている。
 ――それはつまり、河口近くの丘陵に位置するこの城に迫りつつある、と言い換えることも出来るのではないか。
 そのことに思い至ったからである。


「お、おい」
「あんだよ、少しくらい寝させろ」
「違う、そうじゃない。おかしいぞ、あの数、あれは漁師なんかじゃないッ!」
「ああ? 何を慌ててんだ」
 億劫そうに身体を起こした兵士は、相方の指す方向に視線を向けた。そして、同じように顔をこわばらせる。
 今や、川面を下る筏の数は優に二十を越え、そのうちの幾つかは西側――つまり、この城がある側の岸に乗り上げていた。そして、筏からは何人もの屈強な男たちがおりてきて、後続の者たちに手を貸し始めたではないか。


 たちまち、その数を増やしていく男たち。すると、その中の一部が、こちらの動きを警戒してか、陣形のようなものまでととのえはじめる。
 その彼らの手に握られているのが長槍だと気付いた時、呆然と見ていた見張りの兵士は、慌てて相方に呼びかけた。
「おい、鐘を鳴らせ! ありゃあ敵だぞッ!」
「し、しかし、どこから来たんだ? まだ知らせはどこからも来てないはずじゃあ……」
「んなこと知るか! 長槍もった兵士が、川くだって目の前に集まってるんだぞ。どうみたって味方じゃねえだろうがッ!」
「そ、そうだな、そのとおりだ」


 そう言って、兵士は慌てたように鐘を打ち鳴らす。小倉の城中に、敵襲を知らせる鐘の音が、雨音を裂いて鳴り響いていく。それに応じて、各処から不審と戸惑いをあらわにした将兵が姿を見せはじめた。
 櫓上の兵士たちは、そんな味方の姿を見て、川向こうの敵とおぼしき一団とのあまりの差異に、思わず言葉を失ってしまうのであった。
 

◆◆


 強行軍に次ぐ強行軍。福智山系を踏破し、その木々をもって筏を組み、休む間もなく紫川を濁流にのって流れ下る。
 言葉で言うだけであれば誰でも出来るが、実際にそれを短期間に成し遂げることがどれだけ難事であるかは言うまでもあるまい。ましてその難事を、麾下の二千を越える兵すべてをともなって遂行できる武将など、九国はおろか日の本すべてを見渡しても一握りしかいないだろう。


「九国最高、か。その名にし負う精強さだな」
 着慣れない鎧兜を身に付け、紫川の岸に立った俺は感嘆の念を禁じえなかった。
 道雪殿と、その麾下の精鋭を侮っていたわけでは決してないが、それでも俺は大友軍を軽んじていたのかもしれない。その行動の神速ぶりは、俺の知る軍勢と比べてもまったく遜色ないものであった。


 そんな俺のすぐ近くから、野太い笑い声があがる。俺とは異なり、甲冑を見事に着こなすその姿からは歴戦の将の風格が感じられた。
「その我らとあっさり歩調をあわせる貴殿こそ何者なのかと問いたくなるぞ、雲居殿。並の兵では、我らについてくることさえ容易ではないというのにな」
「正真正銘、ただの浪人でございますよ、小野様」
 今は、という言葉をあえて伏せた俺だが、相手はそんな俺の心中を読んだかのようににやりと笑いながら言葉を続ける。
「なるほどなるほど、『今は』ただの浪人なわけだな」
 そういうと、先鋒部隊を率いる小野鎮幸は髭を震わせて再び大笑した。が、不意にげほげほと苦しげに咳き込み始める。
 何者かが鎮幸の口の中に、兵糧の梅干を放り入れたのである。


「ぐ、がは、ごほッ?! な、何をするか、惟信?!」
「それは私の台詞です」
 そう言って、由布惟信は俺と鎮幸の前に立って、厳しい調子で口を開いた。
「周りを見なさい。大将たるものが、大口あけて笑い呆けている場合ですか。雲居殿も、鎮幸殿と無駄口を叩いている暇があるなら、後続の者らに手を貸していだききたい」
「む、すまぬ」
「申し訳ございません、由布様」
 反論の余地なき批判に、男二人、かしこまって頭を下げるしかなかった。
 その姿は、惟信の目には図体がでかいだけの悪戯小僧に見えたのかもしれない。腰に手をあてた惟信が深々とため息を吐いた。
「まったくもう……手のかかる御仁が一気に倍に増えた気がします」
 呆れたような惟信の言葉に、俺と鎮幸は更なる叱咤を予期して、同時に首をすくめる。
 だが、さすがに惟信は時と所を心得た方だった。かぶりを振りつつ、こう言ったのだ。
「――ともあれ、わかれば良しとしましょう。すぐに行動に移りますよ。雨中をついた奇襲とはいえ、敵がいつまでも呆けているとは思えません。すぐに城攻めに取り掛かります」


 すると、その惟信の言葉を合図にしたかのように、小倉城から甲高い物音がかすかに響いてくる。遅ればせながら、敵がこちらの様子に気付いたようであった。
 もっとも、大友軍は俺と鎮幸が軽口をかわせるくらいには準備を整えている。正直、敵はもっと早くに動くと考えていたから、拍子抜けですらあった。
 惟信が自分の部隊を率いるために踵を返すと、鎮幸も麾下の兵を差し招く。この戦では鎮幸の下に配されている俺も当然それに従った。


「しかし、良いのか? 軍師たる者、後方で戦況を把握すべきだと思うが」
「その役割は吉継殿一人で十分でしょう。それに、縁もゆかりも無い私の献策を採ってくれた皆様の信に応えるために、私が出来るのはこれくらいです。足手まといにならないことはおわかりいただけたでしょう?」
「うむ。軍師や策士などは、箸より重いものを持ったことがないような連中だとばかり思っていたが。その点、貴殿を見損なっていたことを詫びねばなるまい」
「さすがにそれは偏見です、と申し上げておきましょう」
 詫びは受け入れますが、と俺は苦笑して言った。
「とはいえ、また由布様に怒られないためにも、そろそろ動くべきかと」 
「む、む、そのとおりだな――よし、皆、聞けィ! 我が隊はこれより、小倉城に攻めかかる。かような小城に時を費やす必要を認めぬ。我らが九国最強の部隊であることを、裏切り者どもに知らしめるのだッ!」
 野太い声で命じる鎮幸に、今や百をはるかにこえる人数に膨れ上がった奇襲部隊が喊声をもって応じた。


◆◆


 小野鎮幸、由布惟信、両部隊の攻勢が始まって一刻あまり。
 奇襲によって大友軍有利で始まった戦の趨勢は、時をおうごとにより一層、その観を強くしていた。
 緒戦で立ち遅れた小倉城の中村長直の部隊は、城壁によってかろうじて戸次の双璧の猛攻を凌いではいた。しかし防戦で手一杯である中村勢に、紫川をくだって次々と姿をあらわす大友軍の増援を阻止する余力も余裕もあるはずはなく、今や攻城に参加している大友軍の数は、守備側の中村勢一千を越えようとしていた。
 それら増援に大友軍の士気は高まり、眼前で次々と数を増していく大友軍を見せつけられる中村勢の士気は下降の一途をたどる。


 そして、ついに。
 軋むような音を立てて、小倉城の正門が開かれた。惟信麾下の別働隊が城壁を越え、内から門を開けることに成功したのである。
 それを見た大友軍から、大きな喊声があがる。小野鎮幸の一際高い号令が響き渡り、城門へと突入していく大友軍。数で及ばず、勢いに劣る中村勢に、その攻勢を凌ぐ術はもはや残されていなかった。




 紫川のほとり。
 戦況を後方から見据える三対の視線があった。
 その中の一人が口を開く。
「我らの出る幕はありませんでしたね、義姉様」
 城内へと突入していく精兵の勇姿を見守りながら、吉弘紹運はそう言った。
 雨滴にうたれ、額に張り付いた黒髪をそっと拭いながら、戸次道雪は義妹の言葉に頷いてみせる。
「ええ、ほんとうに。鎮幸と惟信の武勇に加え、雲居殿と吉継殿の智略があわさったのです。案じていたわけではありませんが、それでもここまで見事に運ぶとは、正直なところ考えていませんでした」
 感嘆の念をありありと滲ませた道雪の言に、その場にいた最後の一人――大谷吉継は、どこか沈んだ声で応じた。
「私がやったのは石宗様の教えから、天候を予測しただけです。智略などと言えるものではありません」
 事実、作戦の大筋は雲居が考え、詳細は鎮幸、惟信らが詰めた。吉継がやったのは、雨がまとまって降るであろう日時を推測しただけに過ぎない。先の三者と並び称されるほどの働きをしているとは思えないとは、吉継ならずとも考えるところだろう。


 だが。
「此度の奇襲が成功したのは、この天候があってこそ。視界を遮り、川に近づく者を遠ざける雨あってこそ、小倉城は寸前まで我らの動きに気付き得なかったのです。天候の変化が戦況を左右するなどめずらしくもないこと、それを高い精度で予め知ることが出来る――戦なすものにとって、それがどれほどの価値を有するかを知らないあなたではないでしょう」
 自らを評価しない吉継の物言いに、道雪は穏やかに、しかしはっきりと否を突きつける。
「石宗様の教えを受けた者が、皆、その妙なる業を継げるわけでもないのです。教えを授けた石宗様と、それを受け取った自分自身を軽んじる物言いは褒められたものではありませんよ、吉継殿」
「……は」
 吉継はかすかに俯くと、小さく道雪に返答する。
 その姿に、道雪は吉継の内面を垣間見たように思えた。




 雲居と吉継。与えられた情報と時間は同じ。否、石宗配下として大友家の禄を食んでいた吉継の方が、家中の情報、周辺の地理といった情報ははるかに優る。
 だが、その条件の中で、雲居が正奇両面の策を織り交ぜ、他紋衆の乱鎮圧までの道筋を瞬く間に描いてみせたのに対し、吉継は正攻法をもって小原鑑元を打ち破る以外の方策を見出すことは出来なかった。
 正確に言えば、奇襲に類する策は考え付いたが、いずれも成功の可能性の薄い机上の空論に過ぎないことを自覚していた為、口に出すことはしなかったのである。


 誰に言うつもりもないが、小倉城侵攻という策も、その中に含まれてはいた。だが、かりにこの奇襲が成功したとしても、有効な次手を思いつくことが出来なかった為、吉継は内心でその案を棄却したのである。
 だが、雲居はその案を用い、吉継が唖然とするほどに大胆な策を披露してのけた。
 それは綱渡りにも似た危険な作戦であったが、それでも大友軍歴戦の諸将に作戦の成功を感じさせる説得力を持つものであった。
 本来であれば、それは大友家の軍師であった角隈石宗の教えをもっとも近くで受けた自分が考え付かなければならなかったものだ、と吉継は思う。
 自分こそが師の衣鉢を継げる、などと大それたことを考えているわけではないが、それでも門司城奪還への端緒さえ掴めなかった自分と、雲居筑前との軍師、智者としての力量の差を思えば心が萎える。
 今回の戦で吉継に出来たことといえば、自分で口にした通り、天候を予測してみせただけなのである。両者の差は誰の目にも明らかであろう。


 そのことが、吉継には口惜しい。
 自分と誰かを比較して悔しがるなど、ほとんど経験したことがないのだが、それでも雲居に劣る自分を思うと――なんというか、こう、胸の奥からめらめらと燃え上がるものを感じてしまう吉継であった。




 その吉継の表情は、頭巾に覆われて他者の目に触れることはなかった。
 だが、この場にいる慧眼の持ち主にとって、その内心を見抜くことは容易かったのかもしれない。吉継の悔しげな声に、暗い感情が含まれていないことも、彼女らの洞察を許す一因であったろうか。
「ふふ、精進あるのみ、だな、吉継殿」
「紹運の言うとおり。武人としても、智者としても、また女子としても、あなたはこれからが盛りなのです。己という珠を磨くに、これに優る時はありません。いずれ雲居殿を凌ぐことは可能でしょうし――」


 そこまで口にした道雪は、なにやらくすくすと笑いながら、言葉を続けた。
「望むなら、今すぐにでもあの御仁に一泡吹かせることも出来ると思いますよ」
「あ、義姉様?」
「それは、あの、どういう……?」
 突然、雰囲気をかえた道雪に、紹運と吉継は戸惑ったように顔を見合わせる。
 一方の道雪は微笑みをそのままに、吉継に向かって口を開く。
「聞けば、石宗様はあなたの身を雲居殿に託したとか。まことですか?」
「は、はあ。確かにそれはまことですが……」
 それが今の話と何の関わりが、と吉継は困惑を隠せない。そんな吉継にかまわず、道雪はさらに言葉を続けた。
「具体的には、石宗様は何と仰っていたのです?」
「……はい、その『雲居殿を兄と慕い、父と頼んでついていけ』と」


 その言葉はまぎれもない事実である。しかし、東国に行くという雲居についていくことは、すなわち吉継が九国を出るということである。石宗の危惧は理解しているが、吉継としてもすぐに決断を下すことは出来なかったのだ。
 などと吉継が考えていると、道雪は良いことを聞いた、みたいな感じでぱちんと手を叩いて見せた。
「ならば、話は簡単です」
「……戸次様?」
 吉継の戸惑いに対し、道雪は実に良い感じの笑みで、こう言った。


「吉継殿は、『義兄様(おにいさま)』と『義父様(おとうさま)』、どちらが良いと思いますか?」


 しんと静まり返る。
 唐突な道雪の物言いのせいで、吉継はもとより、傍らで聞いていた紹運さえぽかんと口を開けることしか出来なかった。
「………………べっきさま?」
「『義兄上(あにうえ』か『義父上(ちちうえ)』でも構わないのですが、やはり相手に与える衝撃を考えると、ここは前者の方が良いでしょう。戦の最中では趣がありません。やはり、此度の戦が終わってすぐ、というあたりが妥当でしょうか。いえ、どうせ戦後にするならば、いっそのこと、戸次の屋敷で正式に名乗りをかわしてもらえば、亡き石宗様のご恩に一端なりと報ずることが出来るというものです」
 ええ、そうしましょう、と再度手を叩いて口にする道雪の顔は、いたって真剣に見えた。


 何やら、自分のあずかり知らない間に事態がずんどこ進んでいる気配を察した吉継は、額に汗を滲ませてもう一度口を開く。
「あ、あの、戸次様?」
「ええ、わかっています。兄と慕うか、父と頼むか。いずれかすぐに決めろというのも酷でしょう。此度の戦が終わるまでに心を決めておいてくれれば結構ですよ」
「いえ、あの、戸次様ッ?」
 わかっていると言いつつ、吉継の言い分をかけらも理解してないと思われる道雪の物言いに、吉継は眩暈をおぼえた。
「……たしかに、すぐに決めるのは酷だという言葉は的確だと思いますが……」
 そもそも決めるべき事柄に対する認識が、吉継と道雪の間では決定的に乖離している。それを口にしようとした吉継であったが、鬼道雪は吉継の反撃を許すほど寛大ではなかった。
「ええ、ですから時間はまだあります。じっくりと考えておいてくださいな。ただ、あまり悠長に構えていると、戦自体が終わってしまいますから、そのあたりは気をつけてくださいね」


 にこり、と微笑む姿は、同性の吉継から見ても十分に魅力的な笑みであった。
 だが、言っていることは見当違いも甚だしい、と吉継は思う。そのため、反論しようと吉継が口を開きかけたところで――道雪はこうのたまったのである。やっぱりにこやかに微笑みながら。



「――加判衆筆頭としての命令ですよ」



 大友軍が小倉城を陥としたのだろう。城の方向から猛々しい勝ち鬨が聞こえてきた。
 しかし、吉継は呆然としたまま、喜ぶことさえできず、その場に立ち竦むしかなかったのである。




◆◆◆




 長門国、勝山城。
 関門海峡を望むこの城は、毛利家にとって門司城と並ぶ海峡支配のための要地のひとつであった。
 門司城を巡る攻防が始まった今、この地には多くの毛利の精鋭が集結しつつある。
 その最大の部隊である毛利隆元率いる無傷の毛利軍八千が、安芸郡山城から到着したのはつい先日のことであった。


 隆元到着の報告を受けた吉川元春は、率いる部隊を門司城の郊外にのこして関門海峡を渡る。
 同じく小早川隆景は水軍を麾下の将に委ね、一時的に長門への帰還を果たしていた。
 そうして勝山城、軍議の間に集まった毛利の三将は再会の挨拶もそこそこに、すぐさま現在の戦況に関して意見を交換した。
 その主な理由は、安芸から到着して間もない隆元に現状を説明するためであった。



「鑑元殿も情けない。千や二千の敵に後背を塞がれた程度で兵を退くなど」
 そう口にしたのは小早川隆景であった。
 毛利家を支える両川の一。調略、諜報に通じ、その戦略眼と頭脳の冴えは元就に迫るものがあると言われている。
 近年では毛利家の張良と呼ぶ者もいるほどで、事実、隆景は政略や戦略の段階ではその異名のとおり思慮分別に富み、一部からは慎重居士と揶揄されるほどに石橋を叩いて渡る人柄である。しかし、その実、いざ戦が始まると、姉二人をさしおいて敵陣に猛進する困った姫君でもあって、一度ならず元就たちの心胆を寒からしめたことがあったりする。
 端整な顔立ちの少女だが、隆景を見る者はその容姿より、生気に眩めく眼差しを印象に残すことだろう。




「さて、並の者ならさもあろうが、音に聞こえた鬼道雪が出張ってきたとあっては、小原殿が兵を退いたのも仕方ないことではないかな」
 隆景の言葉に、首を傾げた者の名は吉川元春。
 隆景と同じく、毛利を支える両川の一。隆景が智の面で毛利を支えるならば、元春は疑いなく武の面で毛利を支える驍将であった。
 若年ながら武勇、兵略に長じ、敗北を知らぬ毛利の韓信。武に秀でる一方で、軍中で太平記を書写するなど、文にも通じる一面を併せ持つ。毛利軍では、軍議の席で、元春が悠揚迫らぬ態度で口を開けば、それで物事が決するとまことしやかに囁かれており、その文武双全の在り様は他の武将が模範とするに足るものであった。
 当主である元就、あるいは姉の隆元や妹の隆景と異なり、容姿という点で言えば良く言って十人並みという元春だが、本人はそのことを気にかける様子はなく、またその事実によって、元春の声価がわずかなりとも損なわれることはなかった。



「うん。小原様や、その側近の人たちならともかく、兵のみなさんにとっては武神を敵にまわすようなものだもの。雷神様を後背に控えて、吉弘様の一万と対峙するのは大変だよ」
 最後に口を開いたのは、毛利隆元。毛利宗家の跡継ぎであり、万一、元就に何事かが起これば、次期の毛利家当主は隆元になる。
 毛利家の跡継ぎに相応しく、文武いずれにも通じる隆元であるが、実のところ、その評判は元就はもちろん、妹二人と比べても精彩を欠いていた。
 妹二人が、前漢建国の三功臣のうち二人の名を冠されているのならば、隆元は最後の一人、蕭何で例えられるべきであり、実際、主に毛利家の政務を司る隆元の立場は蕭何のそれと酷似していた。
 にも関わらず、隆元が毛利の蕭何と呼ばれることはほとんどない。内政面に関しては、隆元よりも当主である元就と、重臣である志道広良の名声の方が隆元よりもはるかに高いからである。


 また、幼い頃に大内家へ人質となっていた時期がある隆元は、その経験のためか万事に控えめで、積極的に自分の意見や功績を主張することがなく、覇気に欠けるともっぱらの評判であった。
 偉大な義母(元就のこと)や、優れた妹たちの影に隠れ――というより、むしろ進んで彼女らのために縁の下の力持ちに徹している隆元は、その人格や能力を称揚される機会そのものがなかったのである。


 前述したように、隆元が毛利の蕭何と呼ばれることは『ほとんど』ない。
 ほとんど、ということは、わずかながら隆元をそう呼ぶ者もいる、ということである。では、ごく少数とはいえ、何者が隆元のことを毛利家の蕭何と呼ぶのであろうか。
 その答えは簡単で、隆元に支えられている当の本人たちであった。つまり毛利元就であり、吉川元春であり、小早川隆景であり、志道広良らが、隆元のことをそう呼んでいるのである。
 表だって呼ぶと隆元が嫌がるため、本人の聞こえないところで、ではあるが、彼女らは決してその評価を変えようとはしなかった。
 それは、常に控えめで、時に気弱とすら映る隆元が、いざ心を決した時、どれだけの器量を見せるのかを、皆、知っているゆえである。




 毛利家の命運がかかった厳島の戦いの前夜。
 あまりに勝算の薄い戦いに決断をためらう家中(元就含む)を一喝して開戦に踏み切らせ、誰よりも先に舟に乗り込んだ。
 上陸してから示した元春や隆景さえ顔色ない勇戦ぶり(ほとんど猪突猛進といってよく、元就は卒倒しかけた)は、毛利家中においてもはや伝説となっているのである。
 





「姉上たちの言うこともわかるんだけど」
 姉二人の同意を得られなかった隆景は、小さく頬を膨らませながら口を開く。
「昨日今日のことじゃないんだから、覚悟を決める時間くらいあったでしょ」
 その言葉に、元春はゆっくりかぶりを振る。
「戸次道雪を敵にまわすなどと将兵に触れたら、必ず離脱する者を招くだろう。秘密裏に事を運ぶためには、致し方なかったのだろうさ」
「そうだね。そもそも、そんなに戸次様を恐れるなら、はじめから謀叛なんて起こすべきじゃないんだけど……」
 隆元の言葉に、隆景は不満げにそっぽを向く。
「はいはい、ぼくが余計なことをしたせいですね」
「何をすねとるんだ、お前は」
 呆れたように言う元春。
 一方の隆元は、慌てたようにぶんぶんと首を横に振る。
「あ、違うよ、隆景の調略がどうこういってるんじゃなくてね。その、なんというか、主家に刃向かうなら、もっと覚悟を決めてやるべきなんじゃないかなって」
「ぼくが鑑元殿を焚き付けたから、覚悟を決める暇がなかったってことですね」
「あううう、そうじゃなくてー……」
 依然、そっぽを向き続ける隆景の姿に、隆元はどうしたものかとおろおろする。


 そんな姉と妹を見て、ため息を吐いた元春は無言で隆景に近づくと――
「あいたッ?!」
 拳骨をその頭に落とした。
「な、何をするのさ、春姉?!」
「悪戯がすぎる。姉上に要らぬ心労をかけるな。ただでさえ、我らは日頃から迷惑をかけているのだぞ」
「う、そ、それは……」
「え、え? 元春、私、べつに迷惑かけられてるなんて思ってないよッ?!」
「わかっております、姉上がそう考えておられることは。これはあくまで我らの心持の問題なのです――そうだな、隆景?」
 じっと元春に見据えられた隆景は、久方ぶりの姉たちとの会話で、自分が浮かれていたことに気付く。
 気付いて、慌てて頭を下げる。
「あ、はい、隆姉、春姉、ごめんなさい。隆姉に会うの、久しぶりだったから、つい、その……」
「甘えてしまった、と」
 さらりとそんなことを口にする元春に、隆景は顔を真っ赤にして俯くしかなかった。


 そんな隆景の正面に座った隆元は、そっとその頭を胸元に引き寄せた。
「そっか。隆景が門司に向かってからだから、もう三月も会ってなかったんだよね」
「……あ、隆姉」
 驚いたような、それでいて嬉しさをこらえかねたような、そんな声が隆景の口からこぼれ出た。
「任務、ご苦労様でした、隆景。それに元春も。明日から、また三人別々になっちゃうし、せめて今日くらいはゆっくりお話しましょう」
「う、うん、そうしよう」
「賛成です、姉上」
 胸元から隆景の、隣から元春の嬉しげな声を聞いた隆元は、心底嬉しげににこりと微笑んだ。



 その日、勝山城の軍議の間では、遅くまで灯火が消えることはなかった。
 門司城を巡る熾烈な攻防が始まる、前夜のことである……
 





[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第二章 乱麻(四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/08/05 23:55


 門司城における小原鑑元の蜂起によって始まった、いわゆる『大友他紋衆の乱』。
 大友軍、叛乱軍、共に一万以上の兵力を動員したこの戦は、当初、両軍ががっぷり四つに組んだ長期戦になると考えられていた。
 地力では大友軍がはるかに優るが、叛乱を起こした小原勢の背後には毛利家の存在があるため、容易に決着はつくまいと思われたのである。
 

 しかし、小原勢の奇襲によって出鼻を挫かれた吉弘鑑理率いる大友軍が、松山城を放棄し、香春岳城に退いたことにより、戦局は一気に叛乱側に傾いたように思われた。
 小原鑑元は、その武功によって、他紋衆でありながら加判衆の一人に数えられていた人物である。この機を逃がすはずはなく、麾下の主力を率いて香春岳城に押し寄せた。この城を陥落させれば、豊前の半ばは鑑元の掌中に帰することになるであろう。
 筑後方面に大兵を動かした直後の大友家に、これ以上の援軍を送る余裕はない。
 一方の叛乱側は毛利勢の後詰もあって後顧の憂いなく戦うことが出来る。
 また、小原勢が勝利を重ねていけば、他方面で志を同じくする者たちが次々と蜂起することも大いに期待できるだろう。
 鑑元の目にはあらゆる状況が自身の勝利を約束しているように思われたし、事実、その判断は決して間違ってはいなかった。


 だが、しかし。
 戦場において、戦機は常に揺れ動く。たとえ自軍に機がおとずれようと、それを掴み損ねれば、瞬く間にそれは遠く離れてしまうもの。
 歴戦の将である鑑元はそれを弁えており、訪れた機を逃がさぬよう努めた。そして、この一連の戦いにおいて、その機とは香春岳城を陥落させられるか否かであったろう。
 もし。
 短期間で香春岳城が陥落していたら、他紋衆の叛乱は、大友軍の反撃を未然に打ち砕き、ついには大友家衰退の切っ掛けにさえなっていたかもしれない。豊前半国は失われ、毛利家の援助を受けた他紋衆らはより勢いを増して、大友家の勢力をそぎ取っていったであろう。


 そんなありえたであろう未来は、しかし。
「申し上げますッ!」
 香春岳城を攻囲していた小原勢の下に届けられた一つの報告により、現実として結実することなく微塵に砕け散る。
「小倉城が大友の別働隊によって陥落いたしました! 城を陥とした部隊は急進して我が軍の後方を扼しつつあり、このままでは退路を塞がれてしまいますッ!」




 城攻めにあって退路を断たれてしまえば、城の内と外、両方の部隊を相手取らねばならず、それがどれだけ不利な戦いを強いられるものであるかは言うまでもあるまい。
 ただ、この時、門司半島の根元を横切る形で部隊を動かしたのは、吉弘主膳兵衛紹運率いるわずか七百。錬度に関しては折り紙つきの精鋭部隊であり、城攻めを行う敵軍の後方を扼すことに成功はしたものの、香春岳城を攻める小原勢は一万を越える大軍であり、寡兵の不利は否めないかに思われた。


 だが、吉弘紹運はわずかな手勢を率い、躊躇なく敵軍を直撃した。
 この時、小原勢の後詰を務め、後方の毛利勢との連絡役を担っていたのは鑑元配下の本庄新左衛門の部隊である。
 この時、本庄の兵力はおよそ千五百。倍近い数の兵を従えていたにも関わらず、スギサキの異名を持つ吉弘紹運の部隊の急襲を受けた本庄勢は、ほとんど一撃で粉砕されてしまう。


 スギサキ、とは戦場における一番槍の功名を立てた者に与えられる尊称である。
 戦場において、敵陣を食い破るべく突進する部隊を天上から俯瞰すれば、あたかも横たわる杉の木のように見える。その先頭にある者こそ一番槍の武辺者、すなわち杉先――スギサキとなるのだ。
 スギサキの功を立てた者は朱塗りの槍の使用を許される。これは身分の上下を問わず、戦場に立つ者であれば誰もが焦がれてやまない栄誉であると言って良い。
 ゆえに、朱槍を持つことは敵味方に自らの存在を強く知らしめることになる。戦場においては常にその栄誉に恥じぬ働きを求められ、また敵からは手柄首として狙われる。
 一度、スギサキの栄誉を得たにも関わらず、続く戦で不覚をとってしまう者が少なくない理由はここにある。


 そんなスギサキの栄誉を、同紋衆の家格に連なる一軍の将が得ることがどれだけ稀有なことか。
 まして、その栄誉をわずかの瑕瑾もなく守り続けることが、いかに至難の業であるか。
 倍する兵力を抱えるとはいえ、その紹運の部隊に急襲を受けた時点で、本庄の命運はすでに定まっていたのかもしれない。




 小倉城の陥落、後詰の壊乱は小原鑑元にとって予想の外であった。その二つの部隊を率いていたのは、鑑元の腹心である中村、本庄の両名である。小倉城の確保と、後方の情勢確認、ことに毛利軍との連絡の重要性を認識していた鑑元が、腹心二人に委ねた備えを一朝で突き崩されたのだ、平静ではいられなかった。


 だが、戦況の変化は、鑑元が呆然としている時間さえ与えない。
 香春岳城に立て篭もっていた吉弘鑑理率いる大友軍が突出する気配を示したからである。
 香春岳城を包囲し、諸方との連絡を絶っている以上、城将の吉弘鑑理は援軍の到着を知る術はない。にも関わらず、小原勢がひそかに後方への備えを固めるため、諸将の陣備えを変更した途端、それまで貝のように閉じこもっていた鑑理が兵を動かす気配を示したのである。
 その動きを見た鑑元は、城内の吉弘勢ははや味方の到来を悟ったのか、と慄然とした。



 事実は若干異なる。
 鑑元は知らないことだが、城内の大友勢は戸次勢の動きを書状で知らされているだけで、鑑元が指示した陣替が、援軍の到来を意味するという確証はもっていなかった。篭城戦の最中、陣備えをかえることはめずらしくないのである。
 だが、自軍の動きに対し、小原勢が示した動揺を見た吉弘鑑理は、戸次勢の援軍が後背を扼したことを確信する。


 武将として、共に令名のある吉弘家の父娘の連携は巧妙だった。香春岳城を、一万を越える大軍を率いて出撃した鑑理は、小原勢を相手に決して攻めかかろうとはしなかったが、繰り返し鬨の声をあげて重圧をかけ続けた。
 後方を紹運率いる小勢にかき回されながら、前方から大軍の武威を突きつけられた形の小原勢はたちまち動揺してしまう。
 勝勢に乗ってここまで攻め寄せてきたため、小原勢の士気は決して低くない。
 しかし、だからといって、吉弘家の父娘に前後を塞がれ、微動だにせぬ、というわけにはいかなかった。


 さらに鑑元を悩ませたのは、小倉城が陥ちたという知らせであった。
 大友軍の別働隊の規模まではわからなかったが、あの城が陥ちたということは、押し寄せた敵勢は五百や千では済まないだろう。この地で手間取っていると、本拠地である門司城を攻められる危険があった。
 無論、門司城には十分な守備兵を置いてあるし、毛利勢の後詰もある。そう簡単に陥ちるような城ではない。
 だが、万一ということもある。くわえて、毛利勢がどこまで信用できるのか。これは挙兵を決断してから、ずっと鑑元の胸を去らない疑念であった。
 毛利家の戦力がなければ、この挙兵は成功しない。だから、信用する。そう割り切ったはずなのに、不意に何者かが胸中で囁くのだ。相手は智略縦横を謳われるあの毛利元就なのだぞ、と。



 ――小原鑑元が松山城への退却を決断したのは、そんな自身の疑念を完全に払拭することが出来なかったことも理由の一つであった。無論、現在の劣勢を単独で覆すのは難しいという将としての判断もある。
 ほぼ同数の敵軍を前に、退却をすれば不利は免れない。鑑元は慎重に機を測ったのだが、不思議なことに大友軍は追い討ちをかけようとはしなかった。ただ一定の距離を保ったまま、小原勢に追随してくるのみである。紹運の軍勢も、すでに鑑理に合流したのか、後背や横合からの攻撃もない。
 これには鑑元も首を傾げたが、追撃がないのであれば、それに越したことはない。
 かくて松山城まで退いた小原勢は、本陣を据えなおし、吉弘父娘率いる大友勢と相対することになったのである。



◆◆◆



 豊前国門司城。
 今、その城内には傷つき、疲れ果てた兵士たちが五人、十人と固まりつつ、地面に座り込み、配られている握り飯を無心にほお張っていた。
 彼らはいずれも小倉城から落ち延びてきた兵士たちである。その数はすでに二百人を越えていたが、いまだに三々五々、逃げ延びてくる兵士の姿は絶えない。
 それを見て、門司城を守備する将兵は、小倉城の陥落を信じざるを得なかった。


「では、中村殿は討死したというのか?!」
「……は、はい。大友勢は湧き出るように城の近くにあらわれ、たちまち城を取り囲んで猛然と攻め立てて参りました。我ら必死に戦いましたが、多勢に無勢、いかんともしがたく……」
 門司城の城主の詰問に、小倉城から逃げ延びた兵士は深々と頭を下げる。
「たわけ、人間が湧き出てきてたまるものか! 大方、見張りを怠っていたのだろう!」
「敵は八千を越える大軍でした。見逃そうとて見逃せるものではございませんッ。まったく奇怪なことですが、大友軍は不意にその場にあらわれたとしか考えられないのでございますッ!」
 

 城主は視線を転じ、その場に平伏していたもう一人の兵士に視線を向ける。敵に斬りつけられたとかで、顔の右半分を血染めの布で覆ったその兵士は、隣の兵士の言葉が嘘ではないと言うかのように、自身も深々と頭を下げた。
 城主は小さく舌打ちする。
 目の前の兵士たちの言葉は信用できないが、他の兵士たちも同様のことを口にしているのだ。大友軍が予想だに出来ない奇襲を仕掛けてきたことだけは間違いないようであった。
 しかも――
「八千、だと。一体どこからそれだけの兵を集めた……?」
 門司城に差し向けられた大友軍は、吉弘鑑理率いる一万五千。それにくわえて八千もの別働隊を動かしていたというのだろうか。
 せめて小倉城主であった中村長直らが生きていれば、もうすこし実のある情報を得られたであろうが、雑兵ではこの程度が限界かもしれない。


「まあ、良い。いそぎ毛利の陣に使者を出せ。敵が寄せてきた際の対応を相談しておかねば……」
 そう口にした城主に対し、先刻の兵士が不意に頭をあげて口を開いた。
「あの、城主様」
「なんだ、もうさがってよいぞ」
「あ、はい、承知いたしました。ですが、その一つだけお話ししたいことがございまして……」
「話、とはなんだ?」
「は、それは……」
 そういいながら、兵士は隣の同僚に視線を向ける。口にしてはみたものの、言うべきかどうか迷っている様子であった。
 それを見て、城主は苛立たしげに口を開く。
「何でも良い。知っていることがあるのなら申せ!」
「は、はい! 実は、この目で見たわけではないのですが、小倉城でこんなことを言う奴がいました。『毛利の軍船から、大友軍が出てきた』と」


 そのあまりの突拍子の無さに、束の間、城主は絶句する。
 だが、すぐにその口から怒号が迸った。
「貴様、いい加減なことを抜かすと、そのそっ首、引き抜いてくれるぞ?!」
「も、申し訳ありませんッ! ただそう言った者がいたのは事実でして、一応、城主様のお耳にも入れた方が良いかと……」
「そのような戯言、真に受けるとでも思っておるのか。もうよい、下がれ!」
「ははッ! 失礼いたしました!」



◆◆◆



 城主に一喝され、そそくさと下がった兵士たち。
 その片割れ、半面を布で覆った兵士の口から、さも愉快げな笑い声が漏れ出した。
 それを聞きとがめた隣の兵士が困惑したように周囲を見回し、自分たちを見ている兵士がいないことを確認してから口を開いた。 
「小野様――ではない、鎮幸殿。怪しまれますよ」
「いや、すまぬすまぬ。昨今の軍師は芝居にも通じているのかと感心しておったのだ」
「明らかに笑ってましたよね?」
 そう言いつつ、兵士――つまり俺はじとっとした眼差しで鎮幸を見据える。


 顔立ちから正体がばれないようにと、わざわざ半面を覆っている鎮幸だが、俺としては、そこまで気が回るなら、きちっと城外で待機しておいてほしかった。
 面白そうだから、などという理由で一角の武将が潜入任務とかありえん。が、道雪殿が許諾してしまった以上、反対の立場をとることも出来ず、俺たちは敗兵にまぎれて、こうやって門司城に潜り込んだのである。


 鎮幸は情勢の不利を悟ったのか、とぼけた口調で話題を転じる。
「しかしあの城主、毛利の件、信じるかのう?」
「さて、鵜呑みにすることはないと思いますが、さりとて偽りだと断定することも出来ない、というあたりかと」
 俺の言葉に、鎮幸がふむと腕組みをして、なにやら考え込む。
「今の大友家に、八千もの軍勢を増派する余裕はありません。先ごろまで大友家に仕えていたのですから、それは城主も承知しているでしょう。ただの偽報であれば気にもしないでしょうが、小倉城が陥ちたという事実が付記されれば、その分、八千という数字にも現実味が増します」


 俺の言葉に、鎮幸はふむふむと頷く。
「そして八千という数字を信じれば、あとはそれがどこから来たのかが問題となる。大友家が不可能であれば、あとは筑前からか、あるいは――」
「あるいは、毛利の軍勢か。そこに考えが及ぶということか」
「はい。他紋衆と毛利家が強い信頼関係で結ばれているのであれば通用しないでしょうが、相手は謀将と名高い元就公です。他紋衆の者とていくらかの警戒心は抱いているでしょう。そこを刺激できれば、こちらとしても都合が良いのです」
「刺激できずとも、こちらのやることはかわらんしな」
「はい。やっておいて損はない程度の小賢しい策ですよ」
 
 
 俺は肩をすくめてそう言うと、小倉城から脱出してきた兵士の一団のところへ歩み寄る――より正確に言うならば、小倉城を守備していた将兵の甲冑をまとって、この城までやってきた兵士の集団、であるが。
 彼らにも、明後日の刻限までに、なるべく自然に噂を撒いておくよう伝えてあった。城主たちが信じる必要はない。兵士の不安をあおることさえ出来れば、城門を開くのは難しくないだろう。


 当たり前だが、こちらには八千などという兵力はない。この城の守備兵の数にさえ届かないだろう。仮に上手く城門を破ることが出来たとしても、その後も薄氷の道程が続くことにかわりはなかった。
 それでも――
「……それでも、道雪殿がいると思うと負ける気がしないのだから、不思議なものだ」
 俺が呟くと、隣の鎮幸が不思議そうにこちらを見やる。何を言ったか聞き取れなかったのだろう。
 俺はなんでもない旨を伝えると、ゆっくりと歩を進めた。
 道雪殿の不敗の戦歴に傷をつけないためにも、もう一頑張りしなければ、などと考えながら。

 
  



[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第二章 乱麻(五)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/08/22 11:56
 
 
 豊前国門司城。
 刻は黎明。関門海峡を見下ろす古城山に築かれた山城を、東の空から昇る朝焼けの光が照らし出していく。
 山々を彩る緑が陽の光を映して美々しく輝き、見る者が等しく嘆声をこぼすであろう優麗な景観を織り成していく。
 山全体が刻一刻と明るさと輝きを増していく様子は、山野に萌える草木が、人々に一日の始まりを優しく告げているかのようであった。


 そんな自然の妙なる声は、しかし、今、人の手で空しく汚されようとしていた。
 夜闇をついて城に肉薄していた軍勢は、景観に見向きもせず、頃はよしとばかりに城内に向けて数百の矢を射掛けたのである。
 突然の敵襲に城兵は乱れたった。
 降り注ぐ矢と響く喊声。
 見張りは何をしていたのかと問う声は、この際、なんらの意味も持たないと考えた兵士の一人が城壁の上に駆け上り、城に迫る一軍を見て声を失った。


 そこに翻る軍旗を知らない者などいるはずがない。大友軍に属していたのならば尚更に。
 『抱き杏葉』。九州探題たる大友家の家紋としてあまりにも高名なそれが、攻め寄せる敵軍の各処に林立していた。
 小倉城の陥落から、まだ幾日も経っていない。大友軍がここまで攻め寄せて来ているということは、小倉城を陥としてから、ほとんど日をおかずに軍を動かしたことになる。
 しかも――と兵士は敵軍に林立する軍旗を改めて見やる。
 大友宗家から杏葉紋を下賜された家を同紋衆と呼ぶ。いずれも九国に知られた名家ばかりだが、攻め寄せてくる軍は、その同紋衆の中でも特に名高い『あの家』ではないのか。
 そう見て取った兵士は、その事実を城内に知らせるため、力の限り息を吸い込んだ。


 だが。
「敵は大友軍だッ! 大友軍の戸次……お、鬼道雪だァッ?!」
 兵士が叫ぶよりも早く、城内から絶叫にも似た声があがる。それも、一つ二つではない。
 兵士は再び、声を失う。直接、敵軍を目の当たりにした者しかわからないはずの敵指揮官の情報を、どうやって城内にいる味方が知りえたのか。


 その疑問の答えは、城内に射込まれた矢にあった。
 すべての矢には一片の紙が結ばれており、それに気付いた城内の兵士が中身を確認したところ、中から一つの文があらわれたのである。
 すべての矢文に共通するその文は――


◆◆


「『参らせ候 戸次伯耆守道雪』――なんだ、これは?!」
 差し出された紙片を見た城主の口から、荒々しい誰何の声が発される。
 その眼前で跪いた武将は、顔面を蒼白にしながら城中の様子を報告した。
「敵軍から射込まれてくる矢文です! その文で戸次勢の襲来を知った将兵は動揺著しく、一刻も早く立て直さねば大手門が破られる恐れも……ッ!」
「矢文ごときで城門が破られるはずなかろうがッ!」
 城主は叱声を放つが、配下の表情は変わらない。また、今も城内各処から響いてくる混乱と恐慌に塗れた叫びを聞けば、配下の報告を一蹴することも出来なかった。


 苛立たしげに床を蹴りつけながら、城主は更に問いを向ける。
「敵の数はッ?」
「は、混乱のためはっきりとはわかりかねますが、兵の報告ではおおよそ二千ほどかと!」
「二千、だと?!」
 その数は城内の守備兵と等しい。
 城攻めには守備側を凌駕する兵数が必要になるのは兵家の常識である。孫子などは、相手に十倍する兵士を有していたとしても、城攻めは最後の手段であると説く。
 門司城ほどの堅牢な山城に立て篭もる相手に対し、同数の兵数で攻め込むなど無謀以外の何物でもなかった。
 あの雷将、戸次道雪ともあろうものがこのような下策を採るとは信じがたい。あるいは――勝利を確信する別の要素が潜んでいるのであろうか。


 
 そもそも、戸次勢は叛旗を翻した小原勢の主力部隊を挟撃するため、小倉城から東へ向かったのではなかったか。
 小倉城の敗兵が口にしていたその情報が偽りであり、大友軍が小倉城を陥とした後、まっすぐに北上してきたのだとすれば――だが、それはあまりに無謀な用兵である。
 なにしろ、門司城には二千の守備兵の他、毛利の援軍三千がおり、その後ろには精強な毛利水軍が控えている。二千程度の兵数では小揺るぎもしないことは誰の目にも明らかであり、大友軍とてそれは承知していよう。それでもなお軍を進めてきたということは、大友軍にはそれをするだけの勝算があるということであった。


 城主は、小倉城から逃げ延びてきた兵士たちが口にしていた大友軍八千という数字が急に現実味を増したように思えた。
 しかし、大友軍にそこまでの動員が可能なのか。
 叛乱軍の多くはつい先ごろまで大友家に仕えていた者たちであり、現在の大友家の内情を知り尽くしている。この戦況で、千や二千ならともかく、八千もの大軍を動員できるはずがないのである。
 であれば、大友軍は多くても二千という寡兵で進軍してきたことになる。


 城主は脳裏に戸次道雪の姿を思い浮かべた。たおやかな外見に似合わぬ剛毅苛烈な戦ぶりを披露する方ではあるが、それは十分な勝算があった上でのこと。こんな一か八かの博打じみた戦をよしとする方ではないはずだ。
 そう考えると、大友軍の勝算とは兵力以外の何か、ということになるのだが……
 そこまで考えたとき、不意に城主は敗兵たちが口にしていたもう一つの情報を思い起こした。


『小倉城でこんなことを言う奴がいました。毛利の軍船から大友軍が出てきた、と』


 まさか、と思った。
 取るに足らない、戦場の混乱が招いた妄言であろう、と。
 だが、もし毛利軍がこちらを裏切り、大友家に与したのなら、寡兵で攻め寄せてきたことも頷ける。こちらが頼りとする毛利の後詰は、そのまま大友家の後詰となり、叛乱軍は孤立し、なす術なく敗北するしかなくなるだろう。
 あるいは、もう毛利軍が至近まで攻め寄せてきている可能性も……



 と、そこまで城主が考えた時であった。
 不意に、これまでに数倍する喊声が城中に響き渡り、城主は考えを中断させられてしまった。
「何事だッ!」
 かしこまっていた武将が慌てて確認のために駆け出していく。
 だが、それよりも早く、一つの報告が城主の下にもたらされた。報告というより半ば悲鳴に近いそれは――


「も、申し上げますッ! 内部からの手引きによって大手門が破られました! 戸次勢、突入してきますッ!!」
「なッ?!」
 あまりに呆気ない勝敗の帰結を告げるものであった。



◆◆◆ 


 
 道雪殿が城門をくぐった途端、周囲から幾度目かの勝ち鬨があがった。
 その声に応じて道雪殿が右手をあげると、歓声は更に高まっていく。戸次勢は主の姿に尊崇の念に満ちた視線を送り、降参した門司城の将兵は驚愕と畏怖がない交ぜになった顔で敵将である道雪殿を見つめていた。
 そんな中、進み出た配下の顔を見て、道雪殿は穏やかに微笑んでみせる。
「ご苦労でした、鎮幸、惟信。共に大友の名に恥じぬ見事な戦ぶりでしたよ」
『は、ありがたき幸せ』
 異口同音に応じ、跪く由布惟信と小野鎮幸の両名。
 その言葉に異論はない。あえて付け加えるなら、両名だけでなく道雪殿自身の指揮も剴切の一語に尽きた、ということくらいか。まあ今さら言うまでもないことではあるが。


 鎮幸が内から城門を開き、惟信が先頭に立って突入。道雪殿は輿に乗った姿を敵味方の目に晒しつつ、全軍の進退を司る。
 この三将に指揮された戸次勢の勇猛は瞠目に値した。
 大手門を突破した段階で大友軍の優勢は動かぬものになったのだが、俺としては城を陥とすまでには、もう一山二山あると考えていた。あにはからんや、日が中天に達するまでに勝敗が決するとは。


 無論、門司城の奪還は、この場の奇襲や武勇だけによるものではない。
 この戦に先立ち、小倉城を一日の間で陥としたことは門司の城兵に少なからぬ動揺を与えた。それがなければ、俺が策略を仕掛ける余地もなかっただろう。
 そして、敵軍が動揺から立ち直る暇を与えない強行軍。戸次勢が小倉城を陥としてから、まだ何日も経っていないのである。将兵の疲労は相当のもののはずだが、道雪殿に率いられた戸次勢は一人の脱落者も出さず、果敢な戦意をもって門司城を攻撃した。
 あるいは、その時点で勝敗はすでに明らかだったのかもしれない。


 惟信と鎮幸の後ろで同じように畏まりながら、俺がそんなことを考えていると、輿の上から道雪殿の声が降って来た。
「雲居殿」
「はッ」
 声に促されるように顔をあげると、道雪殿はじっと俺を見つめていた。屋敷で見かける姿とかわりない様子を見ると、本当にここが戦場であるのかと疑いたくなってしまう。
 しかし、よく見ると道雪殿はわずかに眉根を寄せている。
 その視線は俺の右腕――血止めの布に向けられていた。


 この傷は、俺たち潜入組が大手門を開ける際に負った傷だった。
 俺が正面の敵兵と切りあっていたところ、横で戦っていた味方が倒れ、その敵がそのままこちらに突きかかって来たのである。
 攻撃自体は袖(甲冑の肩部分にあるビラビラである。肩鎧ともいう)に阻まれ、穂先が上腕部を抉る程度で済んだのだが、体勢を崩したところで正面の敵が斬りかかってきた時には背に氷塊を感じたものだった。
 幸い、鎮幸がすぐさま駆けつけてくれたので、事なきを得たのだが、下手すれば今頃は首だけの姿になっていたかもしれない。


 実のところ、それ以外にも所々に手傷を負っていたりする。
 考えてみれば過去の戦の時には、本営で采配を揮うか、前線に出ても頼りになる配下に護衛してもらっていた。
 自分よりも格上の相手と斬りあった時もあるが、その時も状況としては一対一だった為、集団戦で一兵士として戦ったことはほとんどないと言ってよい。
 特に今回は小倉城攻めの時と違い、周囲は敵兵だらけという状況で城門を開けなければならなかったので、結構危ない場面が多かったのである。


 とはいえ、それは戦であれば当然のこと。俺以上にひどい手傷を負った者、戦死した者も少なくないのだから、俺などはむしろ幸運の部類に入る。
 それゆえだろう、道雪殿も負傷のことに触れようとはせず、ただ一言、ご苦労でした、とねぎらいの声を発しただけであった。
 俺は深く頭を下げる。その一言で、十分すぎるほどであった。
 
 



「道雪様、城内の抵抗はほぼ潰えましたが、いずこかに敵兵が潜んでいないとも限りません。いま少し兵をお連れくださいませ」
 惟信が道雪殿に進言する。
 見れば道雪殿は輿を担ぐ兵士の他、数名の兵士しか連れていない。彼らはいずれも戸次家でも有数の使い手なのだと思われたが、さすがに無用心の観は拭えない。
 惟信の言葉に、鎮幸も同感だというように頷いていた。


 輿の上に座す道雪殿は、その容姿や威厳もあいまって、敵味方の目を惹かずにおかない。物陰から弓や鉄砲で狙われたなら避けようがないのである。
 勝敗は決したとはいえ、城内が完全に落ち着いたわけではなく、戸次家の家臣は、そういった事態を避けるためにも、当主には出来れば本陣で指揮を執ることに専念してほしいと考えているようだった。


 実のところ、惟信や鎮幸は、過去、幾度もこの手の進言というか諫言を行っているらしい。
 しかし、将兵の士気を高めるためには自身が前線に姿を見せることが必要だ、というのが道雪殿の言い分であり、それは確かな事実でもあった。実際、道雪殿が陣頭に立てば、大友軍の戦意は三割増す、とまことしやかに語られているほどなのである。
 そして道雪殿が姿を見せることで、敵軍に与える影響も無視できない。鬼道雪の雷名は敵対する軍勢の士気を確実に削ぐことが出来る。その事実が端的に明らかになったのが、今回の城攻めであった。
 これらの事実を前にしては、戸次家の家臣も前線に出るのを控えるように、とは口にできない。だが、それならそれで、せめてもっと大勢の護衛を引き連れて下されと口を酸っぱくして進言するのだが、道雪殿は配下のそういった意見はにこやかに受け流してしまうのが常である――とは、昨日、ふとした拍子に聞いた鎮幸の愚痴だった。





 そして。
 今日も今日とて、道雪殿は惟信の進言に頷こうとはしなかった。
「それよりも戦況の報告が先でしょう、惟信?」
 ほらほら、と言わんばかりに報告を急かす主君の姿に、おそらくは内心でため息を吐きつつ、惟信が口を開いた。惟信の背に哀愁が漂っているように見えたのは、はたして俺の気のせいなのだろうか。
「本丸の一部でいまだ抵抗している者たちがいますが、そちらには十時殿があたっておりますゆえ、間もなく制圧できるでしょう」
 続いて鎮幸が口を開く。
「城中の兵も大半は降参いたしました。これは軍議で決められたとおり、武装を解いた後、解放いたしまする。ただ、大友家への帰参を望む者も少なからずおりましてな、その者たちはどういたしましょうか?」


 鎮幸の言葉に、道雪殿はゆっくりと口を開く。
「兵たちは自ら望んで叛旗を翻したわけではありません。大友家への帰参を望むのであれば受け入れてかまわないでしょう。しかし、それは後日のことです。今は各々の家に戻り、家族を安堵させるように伝えなさい」
 御意、と応じた後、鎮幸は再度口を開く。
「士分の者たちはいかがなさいますか? 十名ほどが返り忠を申し出ております。いずれも小原鑑元殿に迫られ、仕方なく叛旗を翻したとのことで……」
 言いつつも、鎮幸は不快そうに口元を歪めていた。


 門司城の速やかな制圧は、彼ら城側の士分の者たちの降参、裏切りが大きく関与している。降参すれば命まではとらぬと呼びかけたのは大友軍であるが、それにあっさり応じた者たち――裏切りを裏切りで糊塗しようとする者たちに好意的でいられるはずもない。
 それは俺も同様ではあるが、この段階で降伏した者には使いみちがある。
 俺はそのことを口にしようと顔をあげかけたが、それに先んじて道雪殿がこんなことを言ってきた。
「それに関しては軍師殿らにも相談しなければならないでしょう。一人はなにやら策がおありのようでもありますし」
 主君の言葉に、惟信と鎮幸の二人がくるりと振り返り、俺を見る。
 口を開きかけていた俺は、咄嗟に何か言うことも出来ず、ぱくぱくと口を開閉させるのみ。
 そんな俺の姿を見た二人は、主君と同じ見解に達したのか、元の姿勢に戻ると、再び声をそろえて、御意、と畏まる。


 ……時折、思う。軍師を手玉にとる人に、軍師なんて必要ないんじゃないかなあ、と。




◆◆◆




「そのことに関しては全面的に同意いたします……」
 門司城、軍議の間。
 遅れて入城したもう一人の軍師である大谷吉継も、俺の道雪殿軍師不要論に同意してくれた。
 だが、連日の強行軍が響いたのか、その言葉に力がない。しかし、疲れ果てているにしては動きは機敏である。その声から力を奪っているのは疲労というよりは、困惑、だろうか。顔を窺えないのではっきりしたことはわからないのだが。


 心配になってたずねてみたのだが、当人が「な、何でもありませんッ」とややむきになった様子で口にする以上、あまりつっこんで聞くのもためらわれた。
 そんな俺と吉継のやりとりを見ていた道雪殿が微笑みつつ、上座で口を開く。
「雲居殿」
「は、なんでしょうか?」
「吉継殿は悩んでいるのですよ。父と兄、どちらを選ぶべきかと……」
「べ、戸次様ッ!!」
 なにやら口にしかけた道雪殿の言葉を、吉継の甲高い声が遮った。
 突然のことに、俺は驚いて吉継に視線を向ける。あの吉継が、目上の人間の言葉を遮るという無礼を行ったこともそうだが、その声が――なんというか、吉継らしからぬ『女の子』の声だったのである。


 当の吉継も、すぐに自身の行いに気付いたのだろう。なにやら呆然とした様子で、口元を押さえている。
「吉継殿……?」
「は、い、いえ、なんでも。そう、なんでもありませんッ、戸次様、大変失礼いたしましたッ!」
 吉継が勢いよく頭を下げる。道雪殿はその姿を見て「お気になさらぬように」とにこにこと笑いながら、何故か楽しそうに俺に視線を向けてくる。
 何が何やらわからない俺は、道雪殿へ問いを向ける。
「あの戸次様、父と兄というのは……?」


 しかし、俺の問いに応じたのは道雪殿ではなく、吉継だった。
「雲居殿!」
「はッ?!」
 そうして、再び響く甲高い吉継の声。
「我が軍は門司城攻略という目的は達しましたが、戦はまだ終わっていません。否、むしろここからが本番であるといえるでしょう。違いますかッ?!」
「そ、そのとおりであると思いますが、あの、吉継殿、何をそんなに慌てて……」
「慌ててなどおりませんッ。これよりの相手はあの毛利軍。小原勢などとはくらべものにならない難敵であると心得ます。ゆえに一分一秒が勝敗を分けることになりましょう違いますか?!」
「そ、それもそのとおりですが……」
 なんか明らかに吉継の様子がおかしい。一体、何が吉継をこれほどまでに追い詰めているのだろうか――いや、まあ、多分、上座に座ってる人の仕業だろうというのはわかるのだが、一体、何を言えばあの吉継がこうまで動揺するんだろうか?


 吉継の勢いに半ば呆気にとられながら、俺がそんなことを考えていると、それを察したのか、吉継の舌鋒がさらに勢いを増した。
「ならばッ!」
「はいッ?!」
「向後の手立てを一刻も早く練って動くべきですというかどうせもう練ってあるのでしょうからささっと策を示してくださいよろしいですかよろしいですねッ?!」
「か、かしこまりましてございますッ。ではまず降伏した者の話によれば毛利の援軍が長門の勝山城に到着したとのことですのでこれを利用してですね?!」
 勢いに押されてかしこまる俺。
 なにやら周囲でにやにやしている(にこにこ、ではない)人たちの視線なんぞ気にしていられない。
 俺の脳裏では、先ほどから同じ言葉が右往左往(?)していた。


 ――おのおの方! 乱心でござる吉継殿が乱心でござる!





[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第二章 乱麻(六)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/08/23 22:29


 長門国勝山城。
 毛利軍を率いる毛利隆元、吉川元春、小早川隆景の三将は、戸次勢の参入によって大友側に傾いた戦の形勢を覆すべく、入念に作戦を組み立てていた。
 その中で隆元が気にしていたのは、門司城からの知らせの中にある一項である。
 小倉城から逃げてきた兵は、攻め寄せた大友軍は八千の大軍であったと報告したらしいのだが――


「それはないよ。筑後の戦いが終わったばかりの今の大友に、そんな余力はない。筑前の国人衆が動いたって報告も来てないしね」
 隆景は敗兵の妄言だと切って捨てる。事実、門司城からの書簡にも、その旨は併記してあった。小倉城を陥とした大友軍は多くても二千を越えることはないだろう、と。
 だが、と隆元はなおも首を傾げる。
「戸次様は千か二千の兵で小原様の軍の後背を塞いだって、隆景は言っていたよね?」
「うん。それで、鑑元殿は香春岳城の包囲を解いてしまったって」
「つまり、小倉城を陥とした戸次様は、ほとんど全軍を東に向けて、小原様の後方を塞いだってこと、だよね」
 その隆元の言葉に答えたのは元春であった。
「おそらくそのとおりかと。しかし、我らにそれを察知されれば、自らが後背を衝かれるか、あるいは手薄になった小倉城を苦もなく奪還されてしまう。それを防ぐために、自軍を実数より過大に喧伝した――いや、あるいは報告をした敗兵も道雪殿の息がかかっているのかもしれませんな」


 小倉城が空だと知られれば、門司の叛軍と毛利の軍勢に行動の自由を与えてしまう。そう考えた道雪が、両軍の動きを掣肘するために策を施したのだろう。
 無論、掣肘するといっても、精々数日程度である。斥候を放てば、敵軍の多寡を確認することは難しくない。
 だが、この切迫した戦況にあって、数日であれ、時を稼げれば大きな成果といえる。しかも、偽報を流すなど大した労力を必要とするわけでもないのだ。


 元春がそう口にすると、同意するように隆景はこくりと頷いた。
「自軍を実数より多く喧伝するのは戦の常套手段だしね。ただ、八千はちょっと大げさかな。ここまであからさまだと逆効果だよ。そんな小手先の策を弄しなければならないほど、今の大友家が切羽詰っているって白状したようなものだし」
 だから、と隆景は続ける。
「こっちは下手に策を弄する必要はないと思う。隆姉が率いてきた援軍と、春姉の軍を合流させて、正面から小倉城を奪還する。その後、軍を東に向けて、鑑元殿の軍勢と対峙してる大友軍を挟撃すれば、この戦は勝てるよ」
「姉上の率いてきた八千と、私の率いる三千、すべてを小倉城に向ける必要があるのか? たしかに豊前は敵地、兵力の分散は避けるべきだとは思うが、一時的にとはいえ、小原殿が孤立するぞ」


 元春の反問に、隆景は小さくかぶりを振った。
「一万以上の兵を率いて、しかも門司城と松山城を確保して、それでなお鑑元殿が敗れるようなら、所詮その程度の人たちだったってことじゃないかな、春姉。確かに鑑元殿をはじめとした他紋衆の人たちをそそのかしたのはぼくだけど、主家に謀叛するって決断したのはあの人たちなんだ。ぼく達は援軍、いわば添え物としてここに来たんであって、他紋衆の人たちを手取り足取り勝利に連れてってあげる義理はないと思うよ」
 小原鑑元を筆頭とする他紋衆がここで敗れるなら、それはそれで良い。毛利軍は小倉城を陥とした後、小原勢と戦って疲労しているであろう大友軍を急襲しても良いし、とってかえして門司城を確保しても良い。どちらにせよ、漁夫の利を得る毛利軍の勝利は約束されている。
 もっといえば、毛利家が豊前を得るためには、ここで他紋衆側が敗れてくれた方がありがたいくらいなのである。


 ――だから『一時的に』小原鑑元が孤立したところでかまわないのだ、と隆景は刃物のように薄く、鋭い笑みを浮かべるのだった。





 その笑みを目の当たりにした隆元と元春は顔を見合わせ、どちらからともなく口を開く。
「……あの、隆景。とってもいいにくんだけど」
 困ったように首を傾げる隆元に、隆景は表情をかえずに先を促す。
「なに、隆姉?」
 応えたのは、隆元ではなく元春だった。嘆息まじりに隆景の両手を指差す。
 ――隆景の両の手は、しわになるほどに強く服を握り締めていた。しかも、ちょっと震えてたりする。
「……顔だけ見れば冷酷な策士なのだがな。それでは『ぼく、今、無理してます』といっているようなものだ。小原殿らに責任を感じているのなら、素直に松山城に援軍に行きたいと言えばよかろうに」
「にあッ?!」
 姉二人に指摘され、慌てて両手を服からはなす隆景。
 冷徹を装っていた仮面を、一秒にも満たぬ間に姉たちにはがされてしまい、頬がかあっと赤らんでいる。


 そんな妹の姿を、姉二人は実に微笑ましそうに見つめる。
「まったく。見ているこちらがこそばゆくなってきますね、姉上」
「ふ、く、う……だ、駄目だよ、元春、そんなこと言ったら隆景がかわいそう」
「……どちらかといえば、私の言葉より、なんかとろけそうな笑みを浮かべつつ、必死にそれをこらえている姉上の姿の方が、隆景には堪えているようですが」
「だ、だって頑張って悪ぶってる隆景が、もう可愛くて可愛くて……ああ、是非、義母様と広爺にも見せてあげたいッ」
「だそうだ。良かったな、隆景」
「なにがどこがどうして良いの春姉いまはずかしくて倒れそうなんだけどぼく?!」
「皆に愛されて結構なことではないか。末姫殿は人気者だ」
 そう言ってからからと笑う元春に対し、毛利の末姫は顔どころか首筋まで真っ赤に染めて、うーと唸ることしか出来なかった。


 そんな妹の姿に、さすがにからかいすぎたか、と姉たちは表情を改める――若干一名、まだちょっと蕩けてたが。
「まあ、末姫殿の微笑ましい演技はともかく」
「……まだ言うの……?」
「ともかく、だ。別に策の根幹を無理に毛利家の利に据える必要はない。大内、尼子、陶らに脅かされていた頃の我らではないのだ。今の毛利は、利でなく情を策に組みこんだところで、小揺るぎもせん」
「そうだよ、隆景。義母様が当主の座に就いた時、毛利はとても小さな家だった。義母様が情を押し殺して策謀を駆使したのは、そんな毛利の家を――そして、私たちを守るため。その結果として、あの優しい義母様が『謀将』なんて似つかわしくない名で呼ばれるようになってしまった」


 隆元の言葉に、二人の妹は姿勢を正す。誰に命じられたわけでもなく、自然と。
「あなたがそんな義母様を尊敬しているのは、私も元春も知ってる。あなたが、義母様の負担を取り除きたいって、一生懸命頑張ってるのも知ってる。けど、今のあなたが、昔の義母様を真似る必要なんてないんだよ。誰よりも義母様がそんなことを望んでない」
 そう言って、隆元はそっと隆景の髪に手をのばし、幼い頃、そうしていたように優しく撫で付ける。
「無理に冷酷な謀将になる必要なんてないの。あなたは、あなたのままに成長していけば良い。小原様を助けたいと思ったら、それを策に組み込んでかまわない。その策が間違っていると思ったら、私も元春もきちんと言うし、それでも隆景が納得できなかったら、何度でも話し合おう。元春が言うとおり、それが許されるくらいには、毛利は大きくなったんだから」




 今の毛利は、かつてのように一手を誤れば滅亡してしまうような小豪族ではない。安芸国内の統一に奔走していた当時の元就は、専横をはたらく重臣を一族もろとも滅ぼすなどの苛烈な策を断行し、出雲の『謀聖』尼子経久に迫る策士であると恐れられたが、毛利の領域が広がるにつれ、策謀の数と質に明らかな変化が見られるようになった。
 それは近年、元就の二つ名として定着しつつある『有情の謀将』という評によく現れている。ようやく、元就の情けを知る為人が他国にも知られた結果であろうと隆元たちは喜んでいるのだが、それでもなお謀事多き人であると警戒されていることに変わりはない。
 実際、毛利家は謀略の多くをいまだ元就一人の才覚に頼っている状況なのである。


 隆景としては、そんな義母の負担を少しでも減らしたかった。
 そのために自分が出来ることは何なのか。
 長女の隆元は、自国と他国をとわず、多くの人々から、戦や策略において妹たちに及ばぬと侮られている(これとて隆景からすれば業腹ものなのだが、本人が全然気にしてないので怒るに怒れない)が、その誠実な為人だけは各処で評価されていた。毛利家が背負った謀事多き家、という評は隆元が家督を継げば跡形もなく消え去るに違いない。
 武の面でいえば、次女の元春がいれば何の問題もない。すでにその力量は他国にまで轟いている。


 であれば、隆景が受け持つべきは策略、計略といった謀事の面しかない。今の時点からそちらに特化しておけば、一に義母の負担を減らすことが出来るし、二に隆元に代替わりしてからも、汚い部分は自身が受け持つことができる。より正確に言えば、辛辣な策を弄したとしても、人々の不審の目は当主である隆元ではなく、隆景の方に向けられるだろう。
 家の信用という面から見ても、策謀多き人物が当主に立っているのは好ましくない。隆元はあくまで清廉潔白な為人でいてもらう必要があり、汚れ役は自分が引き受ければ良い、と隆景は考えていた。そこまで考えた上で、今回もあえて酷薄な策謀を用いるつもりだったのだが――
「……全部お見通しだったんだ」
 ごしごしと目に入ったゴミを拭う隆景。
 それに対し、元春は軽く肩をすくめるのみ。
 隆元もまた、あえて言葉を紡がず、隆景の髪を梳くのであった……






 あけて翌日。
 満を持して軍を動かそうとした三姉妹のもとに、急使が訪れる。それは対岸の豊前の地に布陣する味方からのものだった。
 報告はただ一事。しかしそれは雷鳴さながらの轟音をともなって毛利軍を震撼させる。
 ――門司城陥落。
 それは毛利軍の戦略を根底から覆す重大事であった。



◆◆



「門司城が陥ちたって……本当なの、春姉?!」
「降参した門司城の守備兵は、皆、武装を解かれた上で解放された。半ばは野にまぎれたようだが、毛利の陣地まで落ち延びてきた者たちが三百人あまり。その彼らからの情報だ。真偽のほどはわからないが、おそらく間違いないだろう。関門海峡に布陣する我が軍に、大友軍が三百もの人員を費やして偽報を送る余裕などなかろうしな」
「小倉城を陥としてまだ何日も経っていないのに……速いね。さすがは戸次様」
 突然の事態に、さすがの毛利の三姫も驚愕を隠しきれていなかった。
 落ち延びてきた城兵は、門司城が落城に到った経緯まで詳細に話してくれたらしい。第一報が届いてから、ほとんど間を空けずに訪れた使者は、事細かに戦況の推移を口にした。


「……なるほど、小倉城の敗兵に自軍の手勢を紛れ込ませたのか。元はといえば同じ大友軍、紛れるのはさして難しくはあるまい」
 元春が腕組みしつつ述懐すると、隆元も頬に手をあてながら口を開いた。
「小倉城を陥としたのも奇襲なら、門司城を陥としたのも奇襲。戸次様の軍は、十日に満たない時日で信じられないくらいの距離を踏破して、その上で二つの城を陥としている。正しく疾風迅雷――私たちも急がないといけないね」
 隆元の言葉に、二人の妹は同時に頷いた。
 元春が隆元に向かって口を開く。
「私はすぐに豊前に戻ります。門司の道雪殿がすぐに寄せてくることはないでしょうが、門司が敵の手に渡ったと知られれば将兵の動揺は避けられないでしょう」
 隆元が頷き、隆景も同意する。
「うん、春姉、お願い。隆姉の言うとおり、向こうはこの短期間で尋常じゃない距離を戦いつつ移動してる。門司を陥とした大友がそのままの勢いで毛利軍を強襲しなかったのは、それだけの余裕がないからだと思う」


「うむ。あえて捕虜をこちらに放逐して情報を流したのは、毛利が敗兵に疑いを持つよう仕向けるためか」
「多分ね。落城の様子を聞かされれば、また同じ手を使うんじゃないかって心配になるもの。その不安がある限り、毛利は敗兵に武器を持たせることが出来ない。かといって追い払うことも出来ない。そんなことをすれば、毛利が他紋衆を裏切ったってことになっちゃうからね。大友軍にしてみれば、捕虜を食わせる必要がなくなった上に、相手に重荷を押し付けることができるわけだから、一石二鳥だよ」


 言っている間に、状況の厄介さを改めて思い知ったのだろう。隆景は小さくため息を吐いた。
「合理的というか、なんというか……立て続けに少数での奇襲を行うことといい、なんか話に聞いている鬼道雪の戦いぶりと随分違うような気がするんだけど、ぼく」
「そうだね。戸次様、というより大友軍の戦いは、他国から抜きん出た国力で大軍を編成して、それを的確に運用して勝利を得る正攻法。それに九州探題という名分が加わった今、まさに鬼に金棒だから、他国の軍がまともにぶつかっても勝機は薄い」
 隆元の言葉を、元春が引き取って続ける。
「だからこそ義母上が手を打ち、そのおかげで我らは互角以上の兵力で戦うことが出来ていたのですが……そのために道雪殿も策を用いないわけにはいかなかった、ということなのでしょうか」
「そう、なのかな? たしかに戸次様ほどの方だもの。大軍を手足のように操るのと同じように、小規模の部隊を操る術を心得ていて当然だけれど……」
 なにかしっくりいかない、とでも言うように隆元は小首を傾げた。


 だが、長考するだけの時間の余裕がないのも事実。
 門司という拠点を失えば、毛利軍はもとより、松山城の小原鑑元の作戦にも重大な支障をきたす。くわえて彼ら他紋衆の配下の将兵も動揺を禁じ得ないだろう。
 最悪の場合、蜂起は失敗だと考えた兵士が大量に脱落し、一気に勝敗が決まってしまう恐れがあった。
 それを防ぐためには、なによりも勝利することが肝要なのだが、敵は難攻の門司城に立て篭もるはず。いかに疲労が蓄積しているとはいえ、一日二日で城が陥ちるとも思えない。
 問題はそれだけではない。勝山城に集結している八千の軍勢を対岸に渡すためには、かなりの数の舟が必要になる。毛利水軍の主力は松山城の援護に向けられており、速やかな渡峡のためには、彼らを一度、引き返させなければならないのである。
 無論、時間さえかければ、今、海峡に展開している舟だけでも軍勢を移動させることは可能だが、その場合、全軍を渡すのに一体幾日かかることか。


「いずれにせよ、相手に貴重な時間を献ずることにかわりなし、か」
 元春がうめくように言うと、隆景はこくりと頷いた。
 頷きつつ、しかし、その顔は元春ほどに切迫してはいなかった。
「うん、そう。ならいっそのこと、目先を変えてみよう」
「目先を変える?」
「そう。報告じゃあ戸次殿の軍は千以上。ほとんど全軍を率いている小倉城を出たことになる――今、小倉城はほとんど空だよ」
 それを聞いた元春は、思わず膝を打った。
「なるほど、目先を変えるとはそういうことか。我らが小倉城を押さえ、小原殿が今のまま松山城を保てば、退路を失うのは大友軍の方だ。無理に門司城を攻める必要もなくなるな」
 大友軍が奇策を縦横に用いるのは、常のような正攻法を用いるだけの余力がないからである。その分、今の大友軍には穴が多い。戦況を見渡せば、乗じるべき隙は幾つも見出せるのである。


 元春と隆景の二人は、決断を仰ぐように隆元に視線を注ぐ。
 隆元は基本的に戦に関しては余計な口を挟まない。二人が決めたことに対し、了承を与え、その責任をとるのが自らの役割だと考えているためである。
 が、今日はいつもと少しだけ違っていた。
 今、隆元は何事か考え込むように腕を組んでおり、妹たちの視線に気付いてから腕組みを解き、口を開く。
 その口から発せられた言葉は、二人の妹が予期していたものとは異なるものだったのである……





◆◆◆




 豊前門司城。軍議の間。
 俺は傍らにいる吉継に対して、地図上の一点、門司半島の付け根にある城を指し示してみせた。
「一番望ましいのが、毛利軍が小倉城に攻め込んでくれることです。我らが門司城を確保している以上、陸ぞいに進めば後背を突かれる恐れがありますから、攻めるとすれば、おそらく水軍を用いるでしょう。この誘いの手に乗ってくれれば、この戦はほぼ間違いなくこちらの勝ちです」
 戦術の大枠については城を陥とした日にすでに話しているため、これは確認のようなものである。
 あの日の吉継は明らかに平静を欠いていたので、念のため、こうして説明しているのだ。
 幸い、吉継はもう、寡黙で落ち着きのあるいつもの吉継に戻っていた。


 ただ、こうして席を並べていると、先日の吉継もあれはあれで良いなあ、などとつい思ってしまう俺だった。
「――なにか私に言いたいことがおありですか、雲居殿?」
「い、いえ、なにもありません、はい」
 なにやら不穏な気配を漂わせながら詰問してくる吉継。
 どうも、先日のあれは、吉継にとって痛恨事であったらしい。あの時は俺も混乱の極みに達してしまったのだが、あの吉継も十分可愛らしいんだけどな――
「……雲居殿」
「何も考えていませんし思いだしてもいませんからご安心を」
 だから今にも鯉口を切りそうなその動作はやめてくださいお願いします。


 吉継との間に、なにかとても微妙な空気が流れてしまったので、あわてて軌道修正をはかる。
 つまりは説明に逃げ込むことにした俺だった。
「えーと。そうそう、こちらとしては毛利軍が小倉城に目をつけてくれれば幸いだ、という話でした」
「わざわざ捕虜を解きはなったのは、敵にその選択肢を与えるためでもあった、ということですか」
「そうです。聡い将ならば間違いなく気付くはずです。毛利軍を率いているのはあの毛利の三姉妹だとか。気付くのは間違いないと思います。問題はそこからです」
「問題、ですか?」
「はい。あちらが、俺の予想以上に賢明な人たちだった場合ですね。私が一番恐れているのは、毛利軍がこう動くときなんです」
 そう言って、俺は地図を指し示しながら、俺が考える最悪の戦況を説明する。
 吉継は食い入るように地図を見つめながら、俺の言葉に耳を傾けるのだった……
  
 



[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第二章 乱麻(七)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:dee53437
Date: 2010/09/21 21:43

 豊前国松山城。
 門司半島の付け根に位置する松山城は、豊前支配に欠かせない要衝の一つである。
 小原鑑元率いる叛乱軍と、吉弘鑑理率いる大友軍は、現在、この松山城をめぐって攻防を繰り広げていた。


 叛乱軍、大友軍、共に幾度かの戦いを経て、兵数は漸減しているが、それでも双方、一万を越える大軍を抱えており、戦力に大きな差は見られない。
 だが、それはあくまで戦場をこの地に限定した上での話であった。
 後方に広大な領土を抱える大友軍は糧食、武具などの物資の補給に関して不安はない。一方の叛乱軍には、後方で自軍を支える領土は存在せず、元々蓄えていた物資を使い果たせば、立ち枯れるしかない状況であった。
 門司城は、対中国勢力との最前線として多くの物資が蓄えられており、小原鑑元自身も密かに武器や糧食を買い集めていたが、所詮は中央から追いやられた一城主に過ぎない。備蓄といっても限度があり、万の軍勢を縦横に動かすことは無理――とは言わぬまでも、かなりの困難を伴うはずであった。


 それが開戦から今日まで、数度の戦いを経てなお叛乱軍の物資が欠乏する様子が見られない。現在、叛乱軍は松山城を背に軍勢を展開しており、大友軍はこれを半包囲する形で、陸路に関しては糧道を断つことに成功している。
 にも関わらず、何故叛乱軍は健在なのか。
 その理由は至極明快であった。
 松山城は毛利水軍による補給を受けていたのである。


 松山城に物資を運びこんでいるのは、周防灘に展開した小早川隆景率いる毛利水軍六百隻。
 本来、これを防ぐべき大友水軍は、陸戦に先立って毛利水軍と激突。主将である若林越後守の旗艦が撃沈される大敗を被り、退却を余儀なくされていた。
 制海権を奪われた大友軍は、毛利水軍を阻む術を持たない。
 小原鑑元も海岸から松山城へと続く補給路は厳重に固めてあり、大友軍がそこを衝こうとした場合、敵の主力と正面から戦いつつ、かたや松山城から、かたや海の毛利水軍から、それぞれ行われる側面攻撃を耐え凌がねばならない。
 くわえて、制海権が毛利の手中にある以上、上陸場所は敵が自由に選べるという点も厄介であった。仮に現在の補給路を断つことに成功したとしても、毛利軍が上陸場所を変えてしまえば意味がなくなってしまう。
 新しい補給路を断ちきったとしても、また別のところから――そんなイタチゴッコが繰り広げられるのは目に見えていた。
 常時、陸と海からの奇襲に備えつつ、そんな戦いを繰り返せば、遠からず将兵の負担が限界に達するのは誰の目にも明らかである。
 それゆえ、大友軍は松山城へ補給が行われる光景を、黙ってみているしかなかったのであった。



◆◆◆



 大友軍本陣。
 松山城を望む小高い丘の上で、今、二人の人物が並んで立っていた。
 いずれも大友軍中にあっては、その人ありと知られる者たちである。
 その中の一人が口を開く。その口調は波立ち、内心の苛立ちを隠しきれていなかった。
「――しかし、叔母さ――いえ、主膳兵衛様。このままではいつまでも松山城が陥ちることはございますまい。毛利とて無限の物資を抱えているわけではなし、補給時を狙い、犠牲を恐れず強攻すれば勝機はあると考えます」
 そう口にして、その人物――戸次誾は半ば見上げるように傍らに立つ相手を見やる。


 女性の身ながら、誾よりも頭一つ高い上背、全身を包む武骨な甲冑姿、長い髪は頭の後ろで簡素に黒布で結っているだけである。
 ただ純粋に、戦に臨むことだけを考えた女武者の姿。しかし、ただの戦装束も、この人物がまとえば、見る者に大河を望むかのごとき清冽な心持を芽生えさせる。
 吉弘主膳兵衛紹運。
 その紹運は誾の母である吉弘菊の妹、つまり誾にとっては叔母にあたる。
 まだ若く、しかも女性の身でありながら、スギサキの誉れも高く、大友家にその人ありと謳われる勇将。
 義母である戸次道雪に優るとも劣らないその威風は、いつか両者に追いつきたいと念願する誾に、道程のはるか遠きことを無言のうちに教え諭すようであった。


 その紹運は甥の言葉に軽やかに頷いて見せる。
「確かにそれはそのとおりだろう。だが、代償として我が軍も少なからぬ痛手を被ることになる」
「はい。ですが、このままこの地で対峙を続ければ、大友軍恐るるに足らずと考えた裏切り者がさらに現れるのではございますまいか。鑑元に続く謀叛者を出さない意味でも、ここは巧遅より拙速を尊ぶべきと考えます」
 無論、と誾は続ける。
「門司城が陥落したとすれば、話は違って参りましょうが――いかに伯耆守様が率いるとはいえ、二千に満たない兵士で門司城を陥とすのは難しいのでは、と」


 小原勢の後方を撹乱し、父の部隊と合流した紹運は、その時点で今回の戦における作戦を父に説明している。その場にいた誾も当然そのことを知っていた。
 だが、それを聞いてからというもの、誾は内心の腹立ちを抑えきれずにいた。
 作戦の骨子は少数の部隊による奇襲と陽動――そういえば聞こえは良いが、要は少数の戸次勢を危険に晒し、勝算の薄い戦いを繰り返すだけではないか、と。
 しかも小倉城の奪還だけでも十分に危険が伴ったというのに、さらに門司城にまで奇襲をかけるという。紹運の手勢である七百名が抜けた今、戸次勢は千五百名しかいない。死傷者を数に入れれば、戦える兵力はもっと少ないだろう。そんな戦力を率い、敵の領内を長駆した上で難攻の城と名高い門司城に奇襲をかけるなど正気の沙汰ではない、と誾には思われてならなかった。


 諸国には鬼道雪などと恐れられていても、道雪も、配下の将兵も人の身である。矢の一本、あるいは石の一つでも当たり所が悪ければ死んでしまうのだ。
 道雪自身が考案した作戦であればともかく、他者が世評のみをもとにして組み上げた今回の作戦に、誾は虚心ではいられなかった。
「率直に申し上げれば、小倉城で得た勝利さえ僥倖ではありませんか。この上、門司城まで奪おうとするは、隴を得て蜀を望むもの。伯耆守様は雲居なる策士の言をそこまで信じておられるのでしょうか?」
 誾の声は低く抑えられていたが、端々ににじみ出る反感は隠しようもない。


 そんな誾の様子を目の当たりにして、紹運はやや意外の観を拭えなかった。
 この甥が、ここまで他者に対して好悪の念をあからさまにするところを見た記憶がなかったからである。
 めずらしいこともあるもの、と内心で呟きながら、紹運は誾の問いかけに対し、ゆっくりと頷いてみせる。
「信ずるに足る。それが義姉様の、雲居殿へのご判断だ。それに私から見ても、現在の大友家の窮状を打開する策として、雲居殿の考えがもっとも秀でていると思える」
 確かに誾が危惧するとおり、今回の戦において、綱渡りにも似た局面が幾つもある。しかし、現状で安全確実な策などありえない。雲居の策には、大友家の将兵が命を懸けるに足る成算がある、と紹運は考えたし、道雪もまたそう判断した。だからその策を採ったのだ、と紹運は言う。


 紹運ほどの人物にそう言われてしまえば、誾としてもそれ以上の不満を口にすることは慎まなければならない。
 実際、雲居の策に優る代案が、誾の胸中に眠っているわけではないのである。他人の策の欠点を言い立てるならば、それに代わる策をたてなければならない。それを自覚するゆえに誾は口を噤む。
 そして、自問する。そも、それを承知しているのであれば、自分は何に対して腹を立てているのだろうか、と。 
 自答は得られなかった。何かが咽喉元までせりあがってはきたものの、それは明確な答えとしての形を持っていない。見たこともない人間に内心をかき乱されたようで、誾は不快さをこらえるために奥歯をかみ締める。



 すると、そんな誾の内心の煩悶を断ち切るかのように、第三者の声が響いた。
「ここにおったか、二人とも」
 姿をあらわした甲冑姿の偉丈夫は、紹運にとっては父、誾にとっては祖父――すなわち、この方面の大友軍を統べる吉弘鑑理、その人であった。
「父上」
「左近太夫様」
 誾と紹運は同時に頭を下げる。
 が、鑑理は軽く手を振って、この場では儀礼は不要だと告げる。そして、さらりと重大な報告を口にした。
「今しがた、戸次殿から使者が参った――門司城が陥ちた、とのことだ」
 な、と低く呻いたのが誾。
 紹運は無言で小さく頷いたのみであった。



 それは紛れも無く吉報であったが、喜び勇んでばかりはいられない。大友軍にとって、ここからが正念場であった。
「問題はこの後だ。当初の予定では、門司を奪われたことを知った毛利軍が退いてから、小原殿の下へ使者を出す予定であったが――」
「は、仰るとおりですが、なにか差し障りがございましたか?」
「うむ。使者殿によれば、あるいは毛利水軍は松山城から引き上げぬかも知れぬ、とのことでな」
「それは……」
 鑑理の言を聞いた紹運の顔がわずかに強張った。



 関門海峡を押さえる門司城を失えば、小原鑑元の影響力は激減する。各地の他紋衆は蜂起をためらうであろうし、そうなれば毛利家も手を引く可能性が高い、と大友軍は予測していた。
 何故なら、毛利が欲するのはあくまでも海峡の支配権であると考えられるからである。それが望めないのであれば、毛利は速やかに兵を退くだろう。制海権を握っているとはいえ、松山城への継続的な援助が毛利家にとって少なからぬ負担になっていることは誰の目にも明らかであった。


 門司城を失い、毛利の後詰を失えば、いかに小原鑑元が歴戦の武将とはいえ、それ以上の抗戦は不可能になる。仮に鑑元やその側近がなお戦いを続けようとしても、兵士たちが戦意を保てるとは思えない。
 門司城が陥ち、毛利水軍が姿を消した段階で降伏勧告の使者を送ることは、当然の行動といえる。


 そして今、門司城は陥落した。
 しかるに、道雪は毛利水軍が松山城から退かないかも知れないという。
 それはつまり――と、紹運は今回の作戦が披露されたときのことを脳裏に思い浮かべた。



◆◆◆



 今回の戦に先立ち、雲居筑前は角隈邸で道雪や紹運に対してみずからの策を披露した。その際、門司城を陥とした後に起こるであろう状況について、雲居は次のように予測していた。
『大友軍が門司城を奪った後、毛利軍がそのまま安芸に戻ってくれれば問題はないのですが、毛利家とて今回の戦でかなりの大軍を動かしており、成果のないまま引き上げることをよしとはしないでしょう。であれば、最も可能性が高いのは門司城を強襲することです』
 毛利軍が門司城に攻撃してくること、それ自体は構わない。問題は毛利の水軍がどう動くかであった。
 作戦通りに戦況が推移した場合、この時点で毛利の水軍は周防灘で松山城を援護しているはず。
 その彼らが船首を返して門司城攻撃に加わればよし。しかし、あるいは大友本隊を松山城に釘付けにするために、あえてそのまま海上からの援護を続ける可能性もあった。


 叛乱軍にしてみれば、たとえ門司城を失ったとしても、毛利の援護があるかぎり戦を続けることは可能であり、素直に降伏を肯うとは考えにくい。
 それゆえ、毛利水軍を釣るための餌が必要であった。その餌となるのが小倉城であった。
 門司城ほどではないにしても、小倉城も重要な拠点である。否、博多津の支配という観点から見れば、必須とも言える位置に小倉城はある。その城がほぼ無傷で手に入れられるとあらば、間違いなく毛利は動くだろう。


 そのために、あえて小倉城が空であることを毛利軍に知らせる。
 その時、毛利軍は具体的にどのように軍を動かすか。
 大友軍が門司を押さえている以上、陸伝いで小倉城に向かえば、その後背を衝かれる危険がある。であれば、水軍を用いるしかない。すると、必然的に松山城から毛利水軍の姿は消え、叛乱側は孤立し、将兵の士気は阻喪する。小原鑑元は降伏勧告を受け入れざるを得なくなるだろう。



 ――叛乱軍をして、降伏もやむなしと判断せざるを得ない状況に追い込むこと。それが雲居筑前の策の全貌であった。



 雲居はさらに言葉を続けた。
『元は旗を同じくする両軍です。流れる血の量は少なければ少ないほど良いでしょう。大友軍が相討ったところで、喜ぶのは他家ばかりです』
 小倉城の奪取も、門司の強襲も、すべては他紋衆を追い込むための作戦行動の一つ。
 吉弘鑑理率いる大友本隊にあえて松山城を放棄させ、香春岳城まで敵を誘き寄せたのは、小倉城と門司城から敵の主力を引き剥がす意味もあるが、それ以上に両軍がぶつかるのを出来るかぎり避けるためでもあった。
 紹運が小原勢の後背を衝いて退却させた後、鑑理に追撃を控えさせたのも同様。
 すべては、最小限の被害で、敵を追い込む為の布石であった。


 それを聞き、紹運は思う。
 大友家が置かれた戦況を考えれば、小原鑑元率いる叛乱軍を撃ち破ることさえ困難であるはずだった。にも関わらず、雲居が考えていたのは彼らを敵として撃ち破る方策ではなく、これから先――この戦よりもさらに先のことを踏まえ、敵味方の損害を少なくした上で、いかに相手を降伏まで追い込むか、というものであった。
 そして、雲居は事も無げにその方策を編み出した。机上の空論ではなく、確固とした実現性を備えた方策を。


 ――あの時、自らの背筋に走ったものが何であったのか。今なお紹運は適切な言葉を見つけ出すことが出来ずにいる。





 ただ、その際、雲居は一つの危惧を漏らしていた。
 小原鑑元らの叛乱軍と、毛利軍の紐帯を崩すためには、互いの急所を衝く必要がある。雲居が今回の作戦において、随所で毛利元就の謀将という評判を計算に入れ、叛乱軍の疑心を煽ろうとするのはその一環であった。
 同時に、毛利軍の動きを予測するに際し、雲居はその指標に『利』を置いていた。


 ――叛乱軍に与しても利がないことを示せば、毛利軍の戦意は失せる。
 ――陥落させた小倉城をあえて空城にして放置すれば、利を求める毛利軍はそちらに誘導できる。


 毛利軍は利をもってすれば動かせる。そう考えて雲居は作戦を組み立てたのである。
 そんな毛利軍を目の当たりにすれば、叛乱軍もまた、毛利軍が信用するに足らない相手であると認識するだろう。毛利という後ろ盾がなくなれば――より正確に言えば、そう叛乱軍側に思い込ませることが出来れば、この戦は終結するのである。


『逆に言えば』
 雲居はかぶりを振りつつ、口を開いた。
『毛利家が目先の利を捨てて行動した場合、それに対応するだけの余地が、私の作戦にはありません。毛利家が叛乱軍へ本腰を入れて援助を続ければ、戦いは長引かざるを得ないのです』
 毛利軍が小倉城に目もくれず、あくまで門司の奪取と松山城の救援に主眼を置いて軍を動かした場合、大友軍は苦戦を余儀なくされる。
 そうなれば、他の他紋衆や、大友家に従うことをよしとしない筑前、筑後をはじめとした各国の国人衆たちが一斉に動き出してしまうだろう。
 それはこの戦の敗北を意味すると同時に、九国探題たる大友家の威信に深い傷跡を残すものとなってしまうことは確実であった。



◆◆◆



 紹運がそのことを口にすると、鑑理は腕組みしつつ、考えを纏めるように口を開いた。
「門司城を陥とした後も、毛利水軍が退かない。それはつまり毛利が小倉城に水軍を動かさないということ。毛利は利ではなく、信を以って此度の戦に臨むつもりと見て良いか」
「はい。義姉様がそう伝えてきた以上、おそらく門司の毛利軍が相応の動きをしているのでしょう。毛利軍が小倉城という餌に飛びつかず、さらに損得を度外視して鑑元殿らに助力するとなると、厄介なことになります」
 毛利軍にとって、今回の戦いは家運を懸けた一大決戦というわけではない。紹運もまた、雲居と同じように、毛利軍は小倉城に攻め寄せるか、あるいは戦況が不利になったことを鑑みて、傷が浅いうちに兵を収めると考えていた。
 あにはからんや、本拠地を失った小原鑑元らに対し、毛利家が本腰を入れて援助をしようとは。
 ことによっては、此度の戦は大友家の衰運を招くものとなりかねない。
 自然、紹運の顔が厳しく引き締まった。




 ここではじめて、誾が口を開いた。
「敵の水軍はこれまで補給に専念しておりましたが、こちらと矛を交えるつもりになったとすると……どこからでも上陸できる彼らへの対処は困難を極めます」
 それだけではない。
 松山城の小原鑑元。周防灘の小早川隆景。それにくわえて、門司方面からも毛利軍が来襲した場合、この地の大友軍だけでは凌ぎきれないだろう。かといって、鑑理らが退却してしまえば、門司城の戸次勢が完全に孤立してしまう。


 今回の奇策の種ともいえる叛乱軍と毛利軍、両軍が抱える疑心。
 その疑心を巧みに突くことで、大友軍は門司城を得て。
 ひとたび逸らされたことで、たちまち危地に陥った。
 だからこそ、奇策は用いるべきではない、と誾は思う。それを用いるべきは、本当にそこにしか活路を見出せない時であるべきではないか。


 今回の戦で言えば、大友軍は叛乱軍に優る兵力を有していたのだから、はじめから道雪と鑑理の軍を合流させ、正攻法で押していけばそれで良かったのである。たしかに長期戦は望ましくなかったし、毛利勢を併せれば数の優位は覆されるが、道雪、鑑理、紹運ら大友の誇る名将たちが揃い踏みなのだから、いかようにも手をうつことは出来たはずだった。少なくとも、正攻法を用いていれば、道雪らが敵地のど真ん中で孤立するような戦況に陥ることはなかったはずだった。 

 
 とはいえ、今それを口にしたところで、繰言にしかならないことは誾も承知していた。
 今、求められるのは現状の打開である。
 しかし、それが困難を極めることは瞭然としていた。
 時が経てば経つほどに大友軍は不利になっていく。逆に言えば、門司城を陥とし、そのことを叛乱軍が知らない今この時が、大友軍が主導権をとることができる唯一の機会であろう。
 それを活かす方策は――と、誾が考えを進めようとした時だった。 
    




「――ここにおられましたか」
 そんな声と共に、見覚えのない人物が姿を見せた。
 戦場のただ中にあって、微笑めいた表情を浮かべる青年。誾に見覚えがないということは、少なくとも大友軍の士分の者ではないはずだった。
 何者か、と誾は無意識に腰の刀に手を伸ばしながら警戒の視線を向ける。周囲に兵の姿がないとはいえ、ここは大友軍の本営である。曲者が容易に侵入できるはずはないが、万一ということもある。


 そう考えた誾が、詰問のために口を開きかけた途端、それに先んじて口を開いた者がいた。紹運が驚きの声をあげたのだ。
「雲居殿、何故ここに……義姉様と共に門司城にいたのではなかったのか?」
「戸次様からの使者としてまかりこしました。毛利軍が厄介な動きを見せていることの報告と、その対策のため、といったところです」
 その言葉で、誾は目の前にいる人物が誰であるかを知る。
 しかし、警戒の念は緩むことなく、むしろさらに増したといってよい。
 ――雲居筑前。
 誾が胸中で青年の名を呟いた途端、まるでその声が聞こえたかのように青年の眼差しが誾に向けられ――そして雲居は、誾の勁烈な眼光に気付き、戸惑ったように目を瞬かせるのだった。
  
  



[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第二章 乱麻(八)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:dee53437
Date: 2010/09/21 21:42

 時を少し遡る。


 ほぼ当初の計画どおりに門司城を陥とした大友軍は、勝利の喜びに浸る間もなく篭城の準備にとりかかった。
 怪我人の手当てをし、城門や城壁の損傷具合を確認し、城内に敵兵が潜んでいないかを確かめ、武具糧食を点検し――やるべきことはいくらでもあった。早ければ明日にも毛利軍が城へ押し寄せてくる以上、時間はあまり残されていない。すべてを迅速に進めなければならなかったのである。


 だが。
 案に相違して毛利軍が押し寄せてくることはなかった。
 当初、関門海峡を渡っていた毛利軍は三千。こちらの兵力がその半分に満たないことは解きはなった捕虜の口から知らされているはずである。くわえて、大友軍は豊後を発してよりこの方、小倉城、門司城と敵地を長駆して連戦したため、重い疲労を抱えており、この地で鋭気を養っていた毛利軍との戦いでは不利を免れない。


 にも関わらず、毛利軍の指揮官である吉川元春は動かなかった。調べてみると、毛利軍は新たに到着した毛利隆元率いる八千の援軍の渡峡を厳重に守備しているという。 
 関門海峡は対岸を目視で確認できる程度の幅しかない。だが潮流の速さと、日に幾度も流れが変わる複雑さが、渡峡の難度を跳ね上げていた。まして八千の大軍を、水軍の力を借りずに渡すとなれば、一日二日で為せるものではない。大友軍の奇襲を防ぐ意味でも元春は動けなかったのだろうと思われた。


 連戦の疲労を癒し、守備を固める時間を得られたという意味で、この毛利軍の判断は大友軍にとって僥倖であると考える者もいたし、実際、その通りではあった。
 だが、俺はそれを素直に喜ぶことが出来なかった。得られた時間よりも、毛利軍が示した慎重さこそが恐ろしかったからである。
 正直なところ、俺としては元春に攻めかかってきてほしかったくらいであった。彼我の戦力や状況を考えれば、元春麾下の三千のみでの城攻めという手段は決して無謀なものではない。むしろ、こちらが城を陥とした間際こそ、もっとも奪還が容易であると断じても良いだろう。
 そうして戦に引きずり込んでしまえば、敵の対応も予測しやすい。だが、あえて捕虜を解放して、こちらの内実をさらけ出して見せたにも関わらず、毛利軍は動かなかった。


 あるいは、少し手の内を晒しすぎたか、と俺は小さく嘆息する。
 度重なる奇襲、そして鬼道雪がみずから軍を進めてきたことを知った毛利軍が性急な攻撃をためらうのは、ある意味で当然のことかもしれない。
 だが、ただでさえ八千もの想定外の援軍が加わった毛利軍に、冷静に構えられてはこちらが付け入る隙がなくなってしまう。というか、口からでまかせで出した八千という数字が、本当に敵方に加わるとはさすがに予想だにしていなかった。
 なにより一番まずいのは――
「これは小倉城の方も見抜かれたかな?」 
 無論、今の段階で断定はできない。陸兵が門司城を攻めるのはほぼ確定だが、水軍の方がどう動いたかまではわからず、あるいは今頃、こちらの思惑通り小倉城を攻めるために周防灘から関門海峡に向かっているという可能性もないことはないのだが……海峡付近に布陣する毛利軍の、磐石さを絵に描いたような陣構えを聞くに、水軍のみがこちらの期待通りに動いていると考えるのは楽観のそしりを免れないと思われた。


 ――利に惑わず、策に頼らず、正攻法をもって大軍を動かす毛利軍。


 先日吉継に話した、俺が予測しえる戦況の中で最悪のもの。それが、どうやら現出してしまったようだった。
 策に頼らざるを得なかった大友軍と、策に頼る必要のなかった毛利軍。それは端的に現在の大友、毛利、両家の勢力の差を示すものでもあったろう。


 そこまで考えて、俺は苦笑をこぼす。
「まあ、俺が言って良いことじゃないな」
 道雪殿に請われ、大友軍の策を考えたのは俺なのだ。その策が毛利軍に阻まれたからといって、責任を大友家に転嫁するようなことを考えるのはさすがにみっともない。
 となれば、ここは軍師らしく策によって状況を打開するしかあるまい。


 最悪の状況。俺は現在の戦況を指してそう言ったわけだが、それはつまり毛利軍が今のように動くかもしれない、ということを一応予測していたことを意味する。
 当然、そうなった場合に採るべき手段も考えてはいた。
 地力で優る毛利軍に対しては手出しが出来ない。必然的に策を仕掛けるのは叛乱軍ということになる。
 こういう場合のセオリーは、やはり頭立った人物を押さえてしまうことか。叛乱の首魁である小原鑑元さえ除けば、代わりに叛乱軍を率いることが出来るような人物は見当たらず、叛乱は終息するだろうと考えられた。


 まずは松山城に降伏を勧告する使者を出す。
 問題は向こうがこちらの使者を城内に迎え入れるか、という点であるが、これに関しては、門司城陥落の際にこちらに降伏してきた連中が役に立つ。彼らは末端の兵ではなく、士分の者たちであり、鑑元もその顔を知っている。彼らを連れて行けば、門司城が陥ちたという事実の証明となり、鑑元もこちらの話を聞かざるを得なくなろう。
 その際、鑑元が降伏を肯えば良し、それがかなわなかった場合、捕らえるなり、あるいは殺すなりするしかない。
 とはいえ、それが容易なことではないのは当然である。城内に入れたとしても鑑元の周囲には部下がいるし、こちらの武器は入り口で取り上げられるに決まっている。身柄を押さえるためには、素手で鑑元やその側近を制圧しなければならないわけだが、負傷した今の俺にそんな真似は不可能である。無論、負傷していなくても不可能だが。


 では、どうするか。
 それを考えたとき、俺の脳裏に浮かび上がったのは、いつぞや南蛮神教の女性から取り上げた短筒であった。鉄砲が普及してきたといっても、あれはまだ量産にも至っていない最新鋭の技術の塊。怪我で身体のあちこちに布が巻かれている今の俺ならば、隠す場所には事欠かないし、向こうも俺のような無名の若造をそこまで警戒することはないだろう。
 鑑元を押さえてしまえば、その隙に強襲をかけて松山城を陥とすことは不可能ではないはずだった。



 だが、この考えは早い段階で捨てた。
 理由は言うまでも無く成功の確率が低いからであるが、この策の成否以前に降伏勧告にも影響が出そうだったから、ということもある。こういった謀略を秘めて相手に対すれば、降伏を勧める言葉に実が伴わない。向こうとて戦乱の世を生き抜いてきた武将である、こちらの狙いを見透かすことは出来ずとも、語る言葉に誠意や真情が含まれていないことは察してしまうだろうと思われたのだ。
 くわえて言えば、仮に成功したとしてもこの方法では間違いなく後に禍根を残す。無論、失敗すれば俺の身がどう処されるかなど考えるまでもなく――脳裏によぎった、柳眉をつりあげ、あるいは涙を滲ませて此方を見つめる人たちの顔が、この策を採ることを俺にためらわせたのである。



 ではそれ以外の策を考えたのか、と問われれば、実のところ首を横に振らざるを得なかった。何故といって、道雪殿が『その必要はありません』と静かに断言したからである。
 当然、俺はその言葉に対して疑問を投げかけた。
 最悪の状況に陥ってしまった時、それを打開するための策が必要ないとはどういうことか、と。
 漫然と状況に流されていては、毛利軍の圧力に磨り潰されるのを待つばかりだ。そんなことは道雪殿も承知の上だろうに。


 だが、道雪殿は穏やかに微笑むばかりで確たる返答はくれず、俺は追求しそこねてしまった。
 まあ、そもそも最悪の状況などと言っても、そこに到るまでには小倉城への奇襲、門司城への強襲など綱渡りの連続なのである。そんな先の先のことを考えている暇があったら、もっと至近の難問について考えるべきだ、と道雪殿は言いたかったのかもしれない。 
 俺はそう考え、一旦、疑問を封印したのである。


◆◆


 そして今に至り、俺は無策で最悪の状況に対面することになってしまったわけである。無論、道雪殿のせいだ、などというつもりは微塵もない。あの時点で何をどう考えたところで、今の戦況に即した名案が思い浮かんだはずもなし。というか、この戦況をあっさりと覆すことが出来るのなら、俺はそれだけで飯を食えるだろう。
 しかし、さて、本気でどうしたものか。座り込んで腕を組む。こうすると――
「ポクポク……チーン、と名案が思い浮かぶ――わけないか」
 我ながら妙なことを考えてしまった。やはり疲れているのかな、と首を傾げると、不意に背後から声がかけられた。



「これは軍師殿。このようなところにお一人で、何を考えていらっしゃったのです?」
「わッ?! と、これは戸次様」
 振り返れば、そこには車椅子に掛け、微笑を湛えた道雪殿の姿があった。俺は足を組みなおし、慌ててかしこまる。
 その慌てぶりがおかしかったのか、口元に手をあてて笑いをこらえる道雪殿。その姿は、俺の目には常といささかも変わらないように映ったが、無論、そんなはずはなかった。
 道雪殿には俺と違って一軍の指揮官としての責務がある。度重なる移動と戦闘に俺以上に身心に疲労を抱えているのは間違いない。にも関わらず、眼前の佳人の表情や態度にはそういったものが欠片も感じられないのだ。指揮官が焦燥や苛立ちを面に出せば、麾下の将兵が動揺する。それをわきまえた道雪殿の振る舞いは、実に見事なものと感心するしかなかった。



 しかし、それはそれとして、いつぞやもそうだったが車椅子で音も無く背後に忍び寄るのはやめてほしいのですけれど。
 俺が控えめにそう口にすると、道雪殿は小さく首を傾げた。
「これは異な事を。わたくしは普段と同じように雲居殿に近づいただけですよ。気がつかなかったのは、そちらが他のことに気をとられていたからではありませんか?」
 にこやかにそう言われてしまえば、返す言葉がない。というか、もしかして――
「あの、戸次様、いつからそこに……?」
「今しがたですが、それがなにか?」
「い、いえ、特に何かがあるというわけではないのですが……」
 もしや今のぽくぽく、ちーんという独り言、思い切り聞かれてしまっただろうか。それはさすがに恥ずかしすぎる。


 かといって、聞いていましたかと確認をとるのも躊躇してしまう。道雪殿の耳に入っていなかった場合、追求は避けられないだろうし、聞かれたらどう説明していいかわからん。
 よって、ここはささっと話題を変えて誤魔化してしまうべし。
「ところで戸次様、何かわたしに御用がおありだったのでは?」
「朝餉の用意が整ったとのことなので、皆で共に、と思いまして。今後のこともあります。食べられる時にしっかりと食べておきましょう」
 その言葉に、俺は目を瞬かせる。いや、言っていることはまったくその通りなのだけれど、それをわざわざ一軍の指揮官が伝えに来るのはいかがなものか。
「それはそのとおりかと思いますが、わざわざ戸次様ご自身でお越しにならずとも……」
 傍仕えの一人にでも頼めば良いのに、と俺が言うと、道雪殿はいきなり表情を曇らせ、悲しげに俯いてしまった。


 何事か、と俺が戸惑っていると、道雪殿は何かを堪えるように唇をかみ締めて――
「戦がはじまってこの方、雲居殿と言葉を交わす機会をなかなか得られず、顔をあわせたとしても血なまぐさい話ばかり。ならばと、ほんの短い間でもお話がしたいと思い、惟信の制止を振り切ってわたくし自ら参ったのですが……雲居殿にはとんだご迷惑だった様子。申し訳ありません……」
「うぇ?! あ、いや、迷惑などということは……」
「しかし、今わたくしの顔など見たくもないと」
「言ってませんがなッ?!」
 どれだけ曲解したら、そういう結論に達するのか。
 思わず声を高めて否定する俺の顔を、道雪殿は伏し目がちにちらと見やった。
「……では、わたくしが参ったとしても構わないのですか?」
「もちろんですッ! ただ、戸次様ほどのお方が小姓のような真似をなさる必要はないと申し上げただけで、むしろ戸次様と顔をあわせるのは私も望むところ……」
 自分でも良くわからないうちに、良くわからないことを言い募る俺。今しがたも思ったが、ここ数日、戦況や今後の展開などを考え詰めだったので、少なからず疲労が積もっていたのかもしれない。


 一方の道雪殿は、俺の言葉を聞いた途端、嬉しげに顔を上げ、ぱちんと両手を打ち合わせた。
「それを聞いて安堵いたしました。では、今後も何か事あった時にはわたくし自らが雲居殿に伝えに参りましょう。雲居殿のご希望とあらば、惟信も納得してくれるでしょう。よろしくお願いしますね」
「は! もちろんでござ……」
 言いかけて、俺は唐突に口ごもった。
 ……おや?
 それはつまり、事あって道雪殿が動く都度、俺が惟信に睨まれるということではありませんか?
「……あの、戸次様。由布様にはきちんとせつめ――」
「それはそれとして」
 追求への手蔓を、笑顔を浮かべつつ容赦なく断ち切る鬼道雪。マジパネェです。



「先の問いを繰り返しますが。このようなところで、怖いほどに真剣な顔で何を考えていらしたのです、軍師殿?」
 渋面を浮かべていた俺は、その道雪の言葉におもわずはっと表情を改める。道雪殿はことさら態度や口調をかえたわけではなかったが、その眼差しは明らかに先刻までとは異なる真摯な色が浮かんでいた。
 俺が答えを返さないうちに、道雪殿はみずからの言葉を否定するようにかぶりを振って続けた。
「いえ、愚問でしたね。先日、あなたが仰っていた最悪の事態。今の戦況は、それよりもさらに悪しくなったといっても過言ではありません。そのことを考えておられましたか」
「は、仰るとおりです」
 道雪殿の言葉に、俺は頷く。
 毛利隆元の参戦に代表される、俺の予想を大きく上回る毛利家の動き。今、勝敗の天秤がどちらに傾いているかと問われれば、間違いなく敵方だろう。このままでは間違いなく手詰まりになるが、かといって簡単に打開策が出るような状況でもないのは、繰り返し考えたとおり。
 だからこそ、俺はいまだ対策を講じかねているわけだが――


 と、俺が表情を曇らせると、それを見た道雪殿がほぅっと息を吐く。そして、どこか困ったような微笑を浮かべた。
「そこまで考える必要はないと申しましたのに。その様子では随分と心を悩ませていたようですね。申し訳ないことをしました」
 その道雪殿の言葉に、俺は怪訝な表情を浮かべる。
 あるいは道雪殿には何らかの腹案があるのかもしれない、とは考えていたが、道雪殿自身が口にしたように、戦況は俺が考えていたよりも悪い方向に傾いている。生半なことでは事態の打開は難しいはずなのだが、道雪殿の様子を見るに、どうもそのあたりのことを大して気にかけていないように見えたのだ。
 

 そんな俺の疑問を察したのだろう。道雪殿はゆっくりと口を開いた。
「『門司を陥とし、他紋衆の叛乱がこれ以上拡がらぬうちに食い止める』こと。石宗様のお屋敷で助力を請うたわたくしに、あなたはそう言ってくださいました。そして、今、あなたの言葉どおり、門司城は大友家の手に帰りました」
 一旦、言葉を切った道雪殿は、俺を――というより、俺の身体のあちこちに巻かれた布に暖かな眼差しを向けつつ、さらに先を続けた。
「大友家に仕えているわけでもないあなたを戦場に連れ出し、その智に頼った。今でさえ、わたくしはあなたに返しきれない恩があるのです。これ以上の成果を求めては、望蜀も甚だしいというもの。わたくしはそこまで浅ましくはありませんよ」
 そう言うと、道雪殿は繊手を伸ばし、俺の額を人差し指でつんと突付いた。



 突然のことに、目を瞬かせる俺を見て道雪殿は楽しげに微笑んだが、すぐに表情を改め、言葉を続けた。
「心配はいりません。門司が陥ちた今、毛利家はともかく、鑑元殿はこれ以上の戦を望まないでしょう」
 ひとたび本拠地を失ったことで、鑑元の権威は大きく衰えた。たとえ毛利の力をもって奪還することが出来たとしても、取り返された門司城は鑑元の物ではありえない。失墜した発言力は戻らず、これまでのように対等に近い立場で毛利家と駆け引きをすることは出来なくなり、鑑元は実質的に毛利家の与力に成り下がる。


 鑑元の目的が自身の権力、あるいは大友家への恨みだけであるのなら、毛利家の下につくことになっても問題はないかもしれない。だが――
「大友宗家、そしてわたくしども同紋衆への恨みや憎しみがないわけではないでしょう。しかし、あの御仁は大友家を滅ぼすことも、それに成り代わることも望んではおりません。毛利の誘いに乗ったのは、主家を案じるゆえにこそなのです」
 そして言う。だから、門司城が『小原鑑元』の手から失われた段階で、彼の将の抗戦の意味は失われたのだ、と。



 その道雪殿の言葉に、俺は首を傾げざるを得なかった。
 毛利が鑑元に手を差し伸べた理由は幾つもあろうが、もっとも大きなものは関門海峡の支配権を欲したからであろう。門司城を押さえる鑑元が、そこに目をつけて毛利軍を引き出し、その力を利用しようとしたというのはおおいに有り得る話である。
 そして、大友軍が門司城を奪回した今、鑑元の手からその切り札は失われたというのも理解できる。
 しかし、鑑元の目的が大友家を滅ぼすことではなく、糾すことであり、門司城を失っただけで抗戦を断念するというのは、いささかならずこちらに都合が良すぎる考えであろう。
 毛利軍が叛乱軍から手を引き、独自の動きをはじめたというならまだしも、その確認もとれないうちに、どうして道雪殿は断言できるのだろうか。


 俺はそんな疑問を覚えたのだが、道雪殿には深い確信があるようだった。その確信の理由は俺にはわからない。おそらく大友家に仕える者だけが知る何かがあるのだろう、とそう思う。
 それならそれで、もっと早くにひとこと欲しかったと思うが、よくよく考えてみると、俺は敵将である小原鑑元の為人をろくに確認しようとしなかった。
 武名の高い他紋衆が、加判衆を辞めさせられた末に毛利家と手を結んで謀叛を起こした――ただこれだけで、大方の鑑元の人柄は把握したつもりになっていたのである。


 その意味で、責は俺にもある。
 まあ実際、事前に鑑元の目的を知っていたとしても、門司城を陥とさなければならないという状況に変わりは無かったわけで、俺の策に影響が出ることはなかっただろう。無論、道雪殿はそのあたりも考えた上で口を緘していたのだろうし、そうせざるを得ない理由もあったのだろう。
 そんなことを考えていると、ふと道雪殿がじっとこちらを見つめていることに気付いた。
 優しげな眼差しと真正面から見詰め合う形になり、俺は気恥ずかしくなって慌てて視線を逸らす。こちらの心のヒダまですくいとってしまうこの眼差し、ほとんど凶器ではなかろうか。



「雲居殿」
 穏やかな声音が、俺の耳朶をくすぐるように間近から発せられる。
「本来、あなたと大友家とは何の関わりもない身。此度の戦も、参加しなければならない謂れはあなたにはありませんでした。にも関わらず、あなたはわたくしの請いを容れてくださった。そのことは心より感謝しています」
 ですが、と道雪殿は表情を曇らせつつ、言葉を続ける。
 だからこそ、伝えずにおいたことがある、と。




 それは大友家にとって秘事であり、禁句。
 大友家の先代当主義鑑(よしあき)、現当主の宗麟、そして道雪殿や紹運殿、さらには今現在の敵手である小原鑑元を含めた多くの大友家臣たちを混迷の淵に叩き込んだ大乱。
 家中で語ることさえ憚られている出来事を、容易く外様の人間に話せるわけがない。それは大友家の秘事を晒すことであり、それを話した者はもとより、聞いた者さえどのような災禍に巻き込まれるか知れたものではないからである。


「此度の乱の淵源はそこにあります。鑑元殿が何故に此度の乱を起こしたのか、その理由も。安易に口にするべき事柄ではありませんし、間もなくこの地を離れるあなたにとっては知る意味は少なかろうと、これまでは口を閉ざしてきたのですが……」
 そこまで言って、道雪殿は一転、悪戯っぽく微笑んだ。
「率直に言って、わたくし、少々欲が出てしまいました」


「欲、ですか?」
 どういう意味だろうと首を傾げる俺に向け、道雪殿は例の眼差しを向けつつ、ゆっくりと口を開いた。
「雲居殿が知る大友の臣は、わたくしと紹運、鎮幸や惟信といった者たちです。そして遠からず、吉弘鑑理殿や、わたくしの養子である誾の顔を知ることになるでしょう。しかし、それだけではなく他の臣たち――味方ばかりでなく、今は敵となっている鑑元殿ら他紋衆の者たちを含めて、大友家と、大友家に仕える者たちのことを、もう少し雲居殿に知って欲しくなった――そういう意味です。もちろん、知ったがゆえに厄介ごとに巻き込まれる危険もないわけではありませんから、無理にとは申しませんが」
 いかがでしょうか、と小首を傾げて問いかけてくる道雪殿。


 ――はい、その視線と仕草だけで断るという選択肢は一瞬で消滅しました。


 もちろん、道雪殿の薫るような色香に惑わされただけではなく(惑わされたこと自体を認めるのに吝かではない)、大友家にとっての秘事――おそらく他者に知られることは出来るかぎり避けたいであろう出来事を話してくれるほどに、道雪殿が俺を信用してくれたことが嬉しかったという理由もある。
 そこまで考えた時、ふと気付いた。
 もしかしたら、このために道雪殿はひとりで俺のところに来てくれたのかもしれない、と。





 かくて、俺は道雪殿の口から、一つの乱を聞くに至る。
 古く鎌倉の時代まで遡る長い長い大友家の歴史の中で、血文字をもって記されるであろう悲劇。
 あの戸次道雪をして、思い返すことさえためらわせるその大乱の名を『二階崩れの変』といった……


 



[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第二章 乱麻(九)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:dee53437
Date: 2010/09/22 00:11

 大友家の家督を巡って起きた大乱――『二階崩れの変』
 戦乱の世にあって、親兄弟で権力を求めて争う話は枚挙に暇がない。
 それは大友家のように実力、名分共に兼ね備えた大家であっても例外ではなく――むしろ大家であるからこそ、その巨大な権力を巡る争いはより熾烈に、酷薄になっていくのかもしれない。
 


 大友家の先代当主義鑑は、自身が家督を継ぐ際に後継争いを経験している。結果として、義鑑は一族の大友親実を退け、第二十代大友家当主として立つことが出来たのだが、しばらくは乱の影響で国全体が不穏な状況に置かれ、他国の侵入を招きかねない事態に至ったという苦い思いを味わった。
 この経験を鑑みて、義鑑は早い段階から後継者に意を用いた。
 幸いというべきか、義鑑には義鎮(宗麟)という正嫡の跡継ぎがおり、幼い頃から聡明さと情け深さを併せ持った傑物であると評判が高かった為、跡継ぎを誰にするかに関しては悩む必要はなかった。
 後は内外に義鎮が後継者であることを明らかにし、他者が付け入る余地のないようにしておけば、家督を譲る際の混乱は最小限で済むであろう。義鑑はそう考えたのである。


 この義鑑の行動は大家の当主として称揚されてしかるべきものであった。もし家督相続が穏便に進められていたのならば、大友家の勢力を伸張させた功績とあいまって、大友義鑑の名は類稀な英主として、大友家の歴史に刻まれたに違いない。
 だが、義鑑はある時を境に娘である義鎮に家督を継がせることを危惧するようになっていく。
 その切っ掛けは、義鎮が南蛮神教の洗礼を受けようとしたことにあった。義鑑は南蛮神教に対して寛大な態度をとりつづけてきたが、それはあくまで交易の利を得るためであり、南蛮神教の教えに関しては無関心――というより、むしろ嫌悪していた。義鑑の目には、神を唯一絶対のものとする異国の教えは、日の本という国、ことに武士や大名の在り方とあまりにかけ離れていると映ったのである。


 だからこそ、娘が南蛮神教の洗礼を受けることを義鑑は許さなかった。これが市井の民であればともかく、次代の大友家を継ぐべき人間が異国の教えを奉ずるなど見過ごせようはずがない。
 大友家に仕える者の多くは、仏教をはじめとした古来より日の本に根付いた教えを、ごく素朴に信仰している。そんな彼らの上に、南蛮の教えを奉じた人間が立つと知られれば、家臣や領民の動揺は避けられず、最悪の場合、謀叛に到る恐れさえあったのである。


 結果として、この時、義鎮は洗礼を許されず、大友宗麟の誕生は後年へと持ち越される。
 この出来事に直接関わったのは、義鑑、あるいは義鎮に近しい者たちであり、彼らはこの話が家中に広がらないように腐心しなければならなかった。次代の大友家を担う者が、洗礼を望むほどに南蛮神教に傾倒していると知られれば、その影響は計り知れない。
 だが、当の義鎮はこの時、洗礼をうけることを断念したわけではなかった。ただ父の強硬な反対にあったために一時的に希望を抑えていたに過ぎず、この後も度々洗礼のことを口にするようになったため、いつか家臣のほとんどが義鎮が洗礼を望んでいることを知るに到っていた。


 この義鎮の振る舞いが、また義鑑にとっては不快であった。異教への傾倒ぶり、みずからの言動が家臣たちへ与える影響を理解していないと思われる娘の振る舞いを目の当たりにした義鑑。その胸中に、今後の大友家を娘に託すことへのはっきりとした危惧が生じたのはこの時であったのかもしれない。
 それまで大友家の父娘の間には、諍いらしい諍いが起きたことはなかった。だが、この洗礼騒動は父と娘の間に大きな歪みを生じさせる。その歪みは時を経るごとに少しずつ、しかし確実に大きくなり、やがて誰の目にも父娘の不仲は明らかなものとなっていく。


 家督相続は、大名家のみならず、その家臣たちにとっても無視しえない一大事である。それまで権力を振るっていた重臣が、新たな主君に疎んじられ、遠ざけられるなど珍しい話ではない。
 逆に言えば、それまで冷遇されていた者たちにとって、家督相続は絶好の挽回の機会でもあった。新たな主君の寵愛を得られれば、重臣の地位さえ夢ではないのである。
 それゆえ、大名家の後継ぎの周囲には、次代の権力を欲する者たちが引きも切らずに訪れる。当然、現在の重臣たちも、次の代にも自身の権勢を維持するべく行動する。これらの争いが高じれば、家を割った争いへと発展しかねないのだが、前述したように大友家の当主である義鑑は、家督相続に関して混乱が起きないように磐石を期し、義鑑と義鎮の親子仲も良好であったため、目立った諍いは起きていなかったのである――これまでは。


 では、これからは?


◆◆  
 

 入田親誠(いりた ちかざね)という人物がいる。
 ある意味で、二階崩れの変が勃発する原因ともなった人物である。
 洗礼騒動によって大友父娘の間に生じた間隙は、その実、決して修復不可能なものではなかった。乱後、義鑑が自身の意思で義鎮へ家督を譲った一事からもそれは明らかである。
 父娘の間隙を自らの利のために拡げ、深め、ついには流血の事態にまで至らせた要因こそ、この入田親誠であった。


 もっとも、親誠が大友家の実権を狙い、事態のすべてを影で操っていた黒幕であった――というわけではない。
 入田氏は大友宗家から杏葉紋を許された同紋衆の一。その当主であった親誠は加判衆の一角に名を連ね、義鑑の信頼篤い重臣であった。
 その信頼がどれほどであったかということを端的に示す一事として、親誠が義鎮の傅役であったことが挙げられる。
 傅役とは幼少時の養育係であり、その人物が長じて成人した後の重臣候補でもある。大友家の世継ぎである義鎮の傅役に任ぜられるということは、すなわち将来における大友家の筆頭重臣の地位を確約されたに等しいのである。


 それゆえ、親誠があえて二階崩れの乱を起こす必要はなかった。そんな危ない橋を渡らずとも、ただ待っていれば大友家の実権を得ることが出来るのだから。
 義鎮は傅役である親誠を信頼し、何事につけてもその助言を仰ぎ、その言を尊重した。洗礼騒動においても、最終的に義鎮が断念したのは親友ともいえる吉弘菊の諌めと、守役である親誠の強い諫止を受けてのことであった。
 騒動の後、義鎮は父へは隔意を示したが、親誠にはこれまでとかわらない態度で接した。親誠の諫止が、あくまで大友家の安定を願ってのことであり、父に加担し、義鎮の願いを押しつぶしたわけではないと考えたからである。


 無心に親誠を慕う義鎮が大友家の家督を継げば、親誠の政策に首を横に振ることはないだろう。それはすなわち、親誠が実質的に大友家の頂点に立つことを意味する。
 ゆえに親誠がするべきことは、父娘に生じた間隙を消すことであるはずだった。この時点で義鑑は、義鎮を廃嫡し、晩年になって授かった塩市丸という男児を世継ぎにすることを考えてはいたが、義鑑と義鎮、二人の信頼を得ている親誠であれば、両者の仲を取り持つことは決して難しいことではなかっただろう。


 だが、入田親誠は義鎮の傅役たる立場を放棄し、塩市丸擁立の姿勢を明らかにする。無論、はっきりとそう宣言したわけではないが、その言動はいっそあからさまなほどに義鎮を貶め、塩市丸を称揚するものであった。
 その胸中にどんな思いがたゆたっていたのかを知る者は当人以外にいない。
 主君である義鑑の意を重んじたのか。義鎮の純真すぎる為人に危ういものを感じていたのか。大友宗家に動乱の臭いを嗅ぎ取り、みずから独立する野心を滾らせていたのか。それとも――
 

 ともあれ、大友家に時ならぬ嵐が訪れたことは疑いないことだった。
 多くの家臣にとってはまったく予想だにせぬ宗家の混乱である。戸惑うばかりの者、黙して動かぬ者、胸中の野心を隠すためにうつむく者――
 狼狽と動揺の陽炎が家中を包み込む中、真っ先に明確な動きを見せた者がいた。
 その人物の名を一万田鑑相という。
 親誠と同じく同紋衆にして加判衆の一角に名を連ね、主君の寵愛という点では親誠に優るとも劣らない鑑相は、先年、義鑑から一つの命令を受けていた――大友塩市丸の傅役たるべし、と。
 


 この鑑相が自身の立場を鮮明にしたことで、事態は次の段階へと進むのである。   



◆◆◆



 豊前国門司城。
 城内の一室で話を続けていた道雪殿が、小休止を告げるように小さく息を吐いた。それに促されるように、俺もゆっくりと息を吐き出す。知らず、息を詰めて話に聞き入ってしまっていたらしい。
 道雪殿が一旦話を止めたのが、ここまでの話に疲れたためなのか、それともこれから語る本筋を口にすることへの躊躇いのためなのかはわからない。
 俺にわかったのは、ここで話を急かしてはならないということだけだった。


 二階崩れの変についての俺の知識はといえば、精々が大友家の御家騒動程度のもの。義鑑や義鎮の名はともかく、入田親誠などは正直どこかで聞いたことがあるかな、と首を傾げるくらいにおぼろげな記憶しかなかった。
 最後に出てきた一万田鑑相の名は明確に覚えているが、それは元の世界の知識としてではない。俺はつい先日、別の件でその名を耳にしたばかりであった。あれはたしか――
「おぼえておいでですか。石宗様のお屋敷にてお話ししたわたくしの養い子、誾の父の名です」
「はい。たしか奥方の名は吉弘家の菊様と」
「ええ、そうです。紹運の姉君であり、誾にとっては実の母君。生来病弱な方でしたが、心根清く、誰に対しても柔和で優しく、それでいて決して自分を失わない強さを併せ持った……わたくしにとっても得難い友でした」
 胸裏に亡き友人の顔を思い浮かべているのだろう。寂しげに目を伏せる道雪殿の顔は、俺がはじめて見るものだった。


 そんな道雪殿を見て、俺はためらいを覚えた。
 はっきりと聞いたわけではないが、戸次誾という人物が道雪殿の養子となっているということは、実の両親はすでに他界したのだろう。そして、それが二階崩れの変と深く関わっていることは明らかであった。
 このまま道雪殿の話を聞くことは、俺が考えている以上に道雪殿にとって苦行なのではあるまいか。


「これまでのことで何かお聞きになりたいことはありませんか?」
 そんなことを考えていたため、道雪殿の問いに俺は咄嗟に応えることができなかった。
 見れば道雪殿はかすかに目を細めて俺を見つめている。その眼差しには、どこかこちらの心中をうかがうような色合いがあるように思われた。
 何故だろう、と考えてふと気付く。二階崩れの変について初めて聞いたはずの俺が、あまりに平静であることが道雪殿の疑念を呼んだのか。道雪殿の目に、俺の態度はすでに事変を知っていた者のそれに映ったのかもしれない。なお悪いことに、それは事実に即していながら、決して口に出せない類のことであったから、俺はやや慌てて口を開かねばならなかった。


「大友の中の事情はおおよそわかりました。しかし、大友ほどの大家が混乱していたのであれば、他国の介入がなかったとは思えないのですが、そのあたりはどうだったのでしょうか?」
 話題を逸らすわけにはいかず、かといって大友家内部のことについて問うのはためらわれた俺は、外の状況について訊ねてみた。
 すると、俺の問いに対し、道雪殿は困ったようにおとがいに手をあてて吐息する。
 俺は予期せぬ反応に戸惑いを覚えたが、道雪殿はその仕草については特に言及することなく、問いに応じた。
「証拠があったわけではありません。ゆえに、おそらく、としか申せませんが……」
 介入はあった、ということか。明確な証拠がなかった以上、たとえ周囲に人がいないとはいえ、この場ではっきりと口に出せないのは道雪殿の立場上当然のことだった。加判衆筆頭の言葉が、万一にも外に漏れたら大事になりかねない。
 そこまで考え、俺は先の道雪殿の仕草の意味を理解する。こんな答えかねる問いを向けられたら、それは道雪殿も困ってしまうだろう。慌てていたとはいえ、我ながら思慮が浅かった。猛省。




 しかし、聞けば聞くほどに厄介極まりない動乱だ。御家騒動などそういうものと言ってしまえばそれまでだが、これでまだ本筋に入っていないのだから、ただ聞いているだけの俺でさえため息をつきたくなる。
 かつて俺はある御家騒動の渦中に放り込まれたことがあるが、あの時、他国の介入がなかったことは稀有の幸運だったのだと今になって思い至る。


 そうして、俺が脳裏に二人の主の姿を思い浮かべている間に小休止は終わる。
 道雪殿は再び口を開き、大友家の命運を左右するに至った大乱の真相、その続きを語りだした。



◆◆◆



 洗礼騒動に始まる大友宗家の父娘の仲違いは、一万田鑑相にとって奇貨だったといえる。義鑑が義鎮を廃嫡し、塩市丸を世継ぎとすれば、その傅役である鑑相は大友家中において更なる高みに立てるのである。
 それゆえ、塩市丸擁立を目論む者たちは、鑑相が自分たちに与することを疑わなかった。誰よりも義鑑自身がそう考え、塩市丸擁立のために尽力してくれると期待した。鑑相は若くして高い声望を得ており、彼が義鎮廃嫡に賛同を示せば、家中の若者や兵士たちの支持も得られるはずであった。


 ところが。
 義鑑が娘を廃嫡する内意を漏らした時、鑑相は一瞬の自失の後、それが義鑑の本心であることを確かめた上で、毅然と反対の意思を表明した。
 これには義鑑はもとより同席していた入田親誠も内心で仰天する。まず鑑相の賛同を得た上で家中に根回しするはずであったものが、初手から躓いてしまったのである。


 鑑相は傅役として、幼いながら聡明な塩市丸の人柄を愛し、その将来に期待していた。まるで少年のように鑑相は夢見ていたのだ――この幼い主の下で槍を揮い、大友の武威を輝かせる日を。
 だが、塩市丸が座るべきは、実の姉の血涙が染み込んだ穢れた席であってはならない。まして、これまで後継者たることを内外に示し続けてきた義鎮を廃嫡するとなれば、混乱は計り知れないものとなる。そんな政治と欲得の濁流に、幼い主を引きずりこむ意思など、鑑相には毛頭なかった。


 鑑相は昂然と主君に対して、そのことを口にする。
「誰よりもそれを憂えておられたのは御館様でありましょう。それゆえ、義鎮様にご家督をお譲りすることを、早くから大友家の内外に知らしめたのではありませんか。今この時、その義鎮様を廃嫡なさると触れられれば家中の動揺は避けられず、他国の介入を招くことは火を見るより明らかです。なにとぞ御心を平らかに、一時の御短慮で事を決することなきよう、愚臣、伏してお願いいたしまする」
 その言葉は正論であり、それゆえに義鑑は言葉を返すことができない。呻くように口元を引き結ぶだけである。
 ここで親誠が口を挟んだ。だが、正面きって義鎮廃嫡を口にすれば、また正論で返されると思ったのだろう。その言葉は明快さを欠くこと甚だしかった。
「一万田殿、御館様にむかって短慮とは無礼ではないかな。御館様が熟慮の上でお話になったことだ。もう一度よく考えて……」


 鑑相にとって、親誠は大友家臣の先達であり、上位者でもある。常日頃、敬意を欠かすことはなかったが、この時、この場において鑑相の舌鋒に容赦はなかった。 
「古来より、廃嫡の儀を軽々に持ち出すは御家衰退の第一歩。ゆえに無礼を承知で申し上げました。入田殿――」
 諭すような親誠の態度を見据える鑑相の目に雷火が走る。
「そも、なぜ義鎮様の傅役たる貴殿がこの席におられるのか。そして何故、義鎮様廃嫡の儀を耳にして一言も反対なさらないのか。まさかとは思いますが、傅役たるべき責務を放棄して、廃嫡に賛同する心算であられるのですか?」
「それは……」


 言いよどむ親誠を前に、鑑相は更なる舌鋒を叩き込もうとする。それを制したのは義鑑であった。
「鑑相よ、先ごろの義鎮の騒動、妻女殿より聞いておろう。あれは妻女殿に倣って異教を奉じようとしたそうだからな」
「は、一応の顛末は聞いております」
「であればわかるはずだ。次代の大友家当主たるべき身でありながら、義鎮は友に倣う、ただそれだけを理由で異国の教えを奉じようとしおった。その心根の未熟さは目を覆うばかりである。そのような柔弱者が当主となれば、大友家は間違いなく衰退しよう。わしは、座してそれを見るに忍びぬのだ」
 その言葉と表情には焦慮の色が濃い。義鑑が一時の感情で廃嫡のことを言い出したわけではないことを、鑑相は察する。あるいは、もっとずっと以前より考えていたことなのかもしれない。


 だが、ここで頷くことは出来なかった。
「お言葉ながら。たしかに義鎮様は時に他者への依存が過ぎる場合がございます。しかし、それは相手の言葉を理解できる聡明さと、相手を信じることの出来る純真さがあってのこと。此度のこと、軽挙の謗りは免れますまいが、事をわけて説明し、忠義をもって諫止すれば、それを等閑にされる方ではございません。事実、此度も洗礼の儀は思いとどまってくださったではありませんか」
 まして民や家臣に横暴を働いたわけではないのだ。今回の洗礼騒動のみをもって廃嫡を強行すれば、それこそ大友に大乱を招き寄せるようなもの。鑑相はそう言って、廃嫡に対して改めて明確に否を唱えたのである。


 毅然と、また昂然と正論を唱える鑑相に対し、親誠はもとより義鑑も返す言葉をもてなかった。
 それが気に障ったのだろうか。義鑑に促され、退室するために席を立った鑑相の後ろから、親誠が皮肉げに声をかける。
「家臣たる者、主の願いに添い、その栄達を願うは当然のことと思っていたがな。そなたは違う考えを持っているようだ」
 それは塩市丸を主君にする謀を蹴飛ばした鑑相へのあてつけであり、当然のように鑑相もそのことを理解した。そして――
「塩市丸様を、姉君の血に濡れた席に就かせることが臣下のあるべき姿とでも? その言葉は入田殿ご自身にこそ向けられよ」
 その切りかえしに対し、顔を青ざめさせながら口を閉ざす親誠を見て、鑑相は義鎮の傅役がすでにその責務を放棄したことを悟らざるを得なかったのである。





[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第二章 乱麻(十)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:dee53437
Date: 2010/10/01 00:27

 豊前国松山城。
 小原鑑元は配下を遠ざけ、一人、城外の景色に視線を走らせていた。
 彼方に広がる周防灘の海面を滑るように移動しているのは毛利水軍の舟だろう。幾十艘もの軍船が海面を蹴立てて右に左に軽快に動き回る様を見れば、毛利軍の錬度もおのずと知れる。鑑元の目から見ても、大友水軍が敗れたのは至当な結果というべきだった。
 視線を海から陸へ転じれば、城を遠巻きに取り囲む大友軍の陣容が見て取れる。林立する杏葉紋をじっと見据えながら、鑑元は小さく独りごちた。
「……道雪殿のこと、いずれどこかで出てくるとは思っていたが、まさか門司を直撃してくるとはな。してやられた。一日を経ずしてあの城を陥とすなど正に鬼神の業よ。鬼道雪、とはよくいったものだ」


 この時、鑑元の顔に浮かんでいたのは近づく敗北から逃れんとする焦燥ではなかった。笑みと称するには苦すぎる、しかしそれは確かに笑みだった。
 二階崩れの変から今日までどれだけの月日が過ぎたのか。そのほぼすべてをもって大友義鎮――宗麟の動きを注視し続けた鑑元は、熟慮の上で今回の謀叛に踏み切った。準備も戦略も万全には程遠かったが、それでも勝算は確かにあったのだ。
 それが。
 鬼道雪が動いてわずか一月にも満たない間に潰されるとは想像だにしなかった。かつては同じ加判衆として席を並べていたはずなのだが、と乾いた呟きをもらす。ここまで武将としての力量差を明らかにされてしまっては、もう笑うしかないではないか。それが鑑元の本音であった。
 


「これほどの臣を抱えている国は、日の本広しといえど二つとあるまいに……」
 道雪への賛嘆は、同時に宗麟への歯軋りを禁じ得ないほどの憤りに転じる。
 現在の大友家は名臣、名将を抱え、九国探題に任命された大家である――そう思われている。だが、その内実はといえば、当主は異教に耽溺し、同紋衆と他紋衆の溝は広がるばかり、家中にたゆたう不審と不満は留まることを知らず、四方の敵勢力は虎視眈々と爪牙を研ぎ続けている。
 その状況をかろうじて支えているのが、戸次道雪であり、先日他界した角隈石宗であった。彼らの力量は卓越したものであり、実際、鑑元は道雪の前に敗れ去ろうとしている。
 この現実を否定するつもりはないが、道雪とて一人の人間である。石宗亡き今、道雪一人で支えきれるほどに大友家は軽くないとの思いは揺らがなかった。


 大友家が一ヶ月後に滅亡するなどというつもりはない。一年後も、今と変わらぬ大友家であるかもしれない。だが五年後、大友家は九国一の勢力を保っていられるだろうか。十年後、豊後以外の領土を保持することが出来ているだろうか。二十年後、府内が炎に包まれていないと誰が断言できるだろう。
  大友家の衰退はもはや不可避であり、漫然と時が過ぎるのを待つことは、すなわち滅亡を待つことに等しい。鑑元はそう考え、今回の挙に及んだのである。


 府内から門司へと飛ばされたのは、ある意味で幸運だった。宗麟は、鑑元に対して毛利家と交渉する切り札を与えたに等しい。自身の培った勢力に、毛利家のそれを併せれば、現在の大友家を覆すことは可能である。戦将として鑑元はそう判断し、事実、戦況はほぼ鑑元の構想どおりに進んでいた――そのはずだったのだ。あにはからんや、まさか一戦で本拠地を奪われてしまうとは。
「こうも容易くこちらの死命を制されてしまうとはな。思えば鑑理殿の消極的な動きは、わしを門司から引き離すためだったか」
 門司城には鑑元が今回の挙兵のためにかき集めていた武具や糧食が山のように積まれている。くわえて本拠地を失った将兵の動揺は計り知れないだろう。


 もっとも単純に勝利だけを見据えるなら、まだ挽回の余地は残されていた。失われたものは大きいが、方法次第では取り返しがつく。
 といっても独力で、というわけではない。頼みとすべきは毛利軍だった。
 幸いというべきだろう、毛利軍はいまだ松山城への助勢を続けてくれている。毛利軍が門司の陥落を知らないとは思えないため、毛利軍は門司城を失った鑑元を切り捨てるつもりはないと考えられる。
 物資はこれまで通り毛利軍に頼れば良い。門司に篭る戸次道雪を破るのは簡単ではないだろうが、毛利隆元、吉川元春率いる一万の軍勢をもってすれば不可能ではあるまい。


 かくて戦況は再び元通り――否、あの鬼道雪を破ることは、大友軍の士気の柱を挫くに等しい。門司城を奪回すれば、戦況は圧倒的にこちらに有利となっているはずだ。
 その上で、毛利軍と共同して吉弘鑑理率いる本隊を打ち破り、府内に軍を進めて宗麟を当主の席から引き摺り下ろし、そして――


 そこまで考え、鑑元は自らを嘲るようにはき捨てた。
「毛利軍によって城を保ち、毛利軍によって門司城を奪還し、毛利軍によって宗麟を追放し……毛利、毛利、毛利、か。たとえ宗麟を退けたとしても、これではすべては毛利家の勲だ。それではわしが蜂起した意味がない」
 もとより毛利の力をあてにした蜂起であったことは否めない事実である。
 自身はもとより、家族や将兵の命さえ懸けて、九国の半ばを統べる大家に叛旗を翻したのは、他家の力にすがって自分たちの栄耀栄華を求めたから。そのことは否定しない。だが、それと同じくらい――それ以上に求めたものがあったのだ。


 ――変えたかったのだ。異教に呑まれ、穢されていく大友の家を。
 

 異国の宣教師が政治、軍事に介入し、寺社仏閣を破壊し、大友家累代の家臣たちでさえ彼らの顔色を窺っている。亡き朋輩は、こんな大友家を守るために命を、そして名誉を捨てたわけでは決してない。
 肩で風をきって城中を闊歩する宣教師たちの姿を見るたびに、鑑元は腸が煮えくり返る思いだったのである。


「今の大友家を、貴殿はどのような想いで冥府から見ておられるのだろうな……一万田殿」
 今の腐敗した大友家を糾すためにこそ、鑑元は決起した。そのためであれば、豊前一国にくわえて交易の利を毛利に差し出すことも致し方ない。
 むしろ毛利家が異教に犯された大友家を阻んでくれるのならば、こちらから差し出すべきとすら考えた。
 領土など豊後一国で良い。宗麟を当主の座から追い放ち、かつての誉れを取り戻しさえすれば、領土など後からいくらでも取り戻せるのだから。


 だが、戦況がこのまま推移すれば、鑑元は本拠地を失った無能な将として、毛利家と交渉するだけの力すら失ってしまう。たとえ大友軍を撃ち破ることが出来たとしても、鑑元の尻拭いを押し付けられた毛利家が、豊前一国で満足するとは思えなかった。
 鑑元が望むのは、あくまでも大友家に在りし日の栄光を取り戻すことであり、毛利家の傀儡となって大友家を牛耳ることではない。
 そして大友家を統べるべき人物として、鑑元は一人の少年に白羽の矢をたてていた。


 その少年は大友宗家の血こそ引いていないが、同紋衆の一族であるから、血統には何の問題もない。
 少年の父は、二階崩れの変において主家のために汚名を被り、自身の命、名誉、家名、そして家族さえなげうった人物である。その血を継ぐ者として、少年は多くの人々から侮蔑の視線を、時には罵詈を浴びせられたが、そのすべてを弾き返し誇り高く成長している。
 南蛮神教に淫して大友家を腐らせている宗麟とは、人として、そして将としての大きさは比べるべくもない。
 


 だが。
 少年を大友家の当主に据え、大友家を建て直す。当初思い画いていた形での勝利を得ることは不可能となった。それはすなわち、鑑元が渇望した新たな大友家の形が夢に終わったことを意味する。
 事破れたり。
 鑑元は胸中でそう呟く。
 すでに城内の将兵にも門司城が陥落したことは知れ渡っている。というのも、大友軍はその旨を記した矢文を大量に城内に向けて射はなってきたからだ。
 ただ矢文だけであれば、敵の策略だと言いぬけることも出来たかもしれないが、大友軍はとどめとばかりに、門司城の守備を任せていた鑑元の配下を陣頭に立たせ、門司城陥落が嘘偽りでないことを大声で呼びかけたのである。
 小倉と門司の攻め方といい、このあたりのそつの無さといい、今回の大友軍の戦い方には、呆れ混じりに感心するしかない鑑元だった。同時にどこか違和感を覚えもしたのだが、それについては今さら考えても仕方ないこと、と内心で切り捨てる。


 問題はここからどうするかであった。
 抗戦の意義が失われた以上、降伏するのが至当である。鑑元が腹を切り、兵たちに寛大な処分を願えば、道雪や鑑理であれば等閑にはしないだろう。失敗したときの覚悟などとうに出来ているし、これ以上、大友家が惨めに衰退していく様は見たくない。


 だが、と鑑元は腕を組んで考え込む。
 それでは、あまりに毛利に対して礼を失しているだろう。それが心残りであった。
 もし、門司城の失陥と共に毛利が手を引いていれば、こんなことは考えなかったと鑑元は思う。
 叛乱軍と毛利軍の関わりは、あくまで互いの利によるもの。なにも毛利家は鑑元の目的に賛同してくれたわけではなく、自分たちの利益のために兵を出したに過ぎないはずだった。
 その意味でいえば、今の鑑元に利用価値は無いに等しい。無理をおして鑑元を救ったところで、毛利軍には何の利もないのである。関門海峡を欲するならば、とっとと周防灘から引き上げ、陸と海から門司城を攻めれば済む話だった。


 鑑元にはそれがわかる。逆の立場であれば、鑑元とてそうするだろう。それゆえ、門司失陥後も毛利家がかわらず助勢を続けてくれていることが、鑑元には意外だったのである。
 門司城に使者としておとずれた小早川隆景の姿を思い出す。噂に名高い毛利の両川の一角、こと謀略に関して言えば、あの毛利元就に迫る才を持つともっぱらの評判である少女は、内心で身構える鑑元に対し、思いのほか朗らかな笑みを向けたものだった。
 その言葉は明晰かつ思慮に満ち、大友家を変革したいという鑑元の願いと毛利の利益は両立するものとして、こちらを説得してきた。そこに確かな誠意を見たからこそ、鑑元は最終的に首を縦に振ったのだが、内心では毛利家の『謀』を恐れてもいたのである。


 その毛利家が、何の利にもならないはずなのに、まだこちらを助けようとしている。そのことが鑑元の判断に迷いを生じさせていた。
「……有情の謀将、か。なるほど、これは下手に策を仕掛けられるよりも、よほど厄介だ。ここで腹を切れば、主家に叛した挙句、他家の信を踏みにじったと看做されよう。今さら我が身の評を気にかけたとて始まらぬが……」
 後に残る者たちに、大友武士とはその程度のもの、と思われることは出来れば避けたかったのだ。このあたり、自分の言動に矛盾があることは鑑元も自覚していた。
  

 もちろん、単純にこちらを見捨てない毛利への感謝の念もある。
 さてどうしたものか、と胸中で呟いたとき、配下の一人が鑑元に報告を持ってきた。
 大友軍から使者がやってきたという。
 その使者の名を聞いた鑑元は、両の目を見開くと、ただちに招じ入れるようにと命じる。
「……ここで、この人選、か。かなわぬなあ、戸次殿には」
 こぼれ落ちた声は、諦念と安堵が絡み合う複雑なものだったが、鑑元の表情はどこか穏やかさを感じさせるものだった。



◆◆◆



 松山城、城主の間。
「こうして顔をあわせるのは何時以来になるか――久しいな、紹運殿」
 大友軍からの使者を城中に迎え入れ、開口一番、そう口にしたのは紹運殿の正面に座す男性だった。
 かすかに白髪が混ざった髪、疲労を色濃く残した落ち窪んだ瞳、顎を覆う強い髭は剃る暇さえなかったのだろう、手入れもされず伸び放題となっている。
 年の頃は四十過ぎかと思われたが、この人物の顔どころか身体全体を覆う疲労を差し引いて考えると、いま少し若いかもしれない。
 この眼前の人物こそ、今回の叛乱を引き起こした他紋衆の雄たる小原鑑元その人だった。


 紹運殿と鑑元は、共に大友家中にあっては武勇で知られた武将。幾度も戦場で轡を並べたことがあるのだろう。
 その言葉に紹運殿が反応する前に、鑑元はかぶりを振ってみずからの言葉を否定する。
「いや、つい先日まで干戈を交えていた相手を前にして、久しいと言うのも妙な話か。スギサキの武勇のほどは承知していたつもりであったが、敵として相対すると、かほどに厄介なものとは思わなかったですぞ」
 その顔に皮肉の色はなく、率直な懐旧の情が浮かんでいた。


 かつての僚将、現在の敵将からの賛辞を受け、紹運殿は丁寧に頭を下げる。だが、口を開こうとはしない。久闊を叙するために来たのではない、と鑑元に向けられた視線が告げていた。
 今回、大友軍が松山城に使者を発したのは、停戦や講和を求めるためではない。
 門司城が陥落したことは、すでに鑑元ら叛乱軍の将兵も知るところ。こちらが何を求めているかは鑑元も当然察しているのだろう。たちまち表情が引き締まり、その眼差しは刃の鋭さを宿して紹運殿へと向けられた。



 
 今回の正使である紹運がはじめて口を開く。その声音はいっそ穏やかでさえあった。鑑元や周囲を囲む敵将たちに対して怯む様子など微塵もない。
「多言は無用と考えますゆえ、率直に申し上げます。門司城は陥ち、勝機は去りて戻らずと心得ます。小原殿、どうか降伏を。麾下の将兵に関しては出来るかぎり罪科が及ばぬよう、我らが責任をもって取り計らいましょう」
 その言葉に、周囲に座す家臣たちからざわめきが立ち上る。虚飾を排し、簡潔に過ぎる紹運殿の勧告に呆気にとられた様子だった。


 だが、言葉は短くとも、そこに込められた真情に偽りはない。鑑元もまた、それを感じ取ったのだろう。紹運殿への返答は硬く強張っていたが、そこに不快さを示すものは感じられなかった。
「飾りを排し、渾身の一太刀を。将であろうと、使者であろうと、貴殿の在り様は変わらぬな、紹運殿。だが、わしがその勧告に頷けぬことはわかっておられよう。一時の不利で、すべてを諦めるような、そんなやすい覚悟で起ったわけではないのだ」


 そう言うと、鑑元は息を吐き、小さくかぶりを振って言葉を続けた。
「門司城が陥ちたことはどうやら間違いがないようだ。どのような術を用いたか知らぬが、あの堅牢な城をこの短期間でよくぞ、と申さねばなるまい。だが、我が軍の主力はこの松山城にいまだ健在。食料や武具も、変わらず海上から毛利軍が運び入れてくれている。今しがた『機は去った』と申されたが、時を経るほどに困難を増すのは、むしろそちらではないかな。今ここで当方が矛を収めるべき理由は見当たらん」


 その言葉に俺は内心で頷かざるをえない。
 当初の計画では、今の時点で海上の毛利軍は姿を消しているはずだった。そして、本拠地を失って孤立を強いられた鑑元たちは降伏を余儀なくされる、それが俺が画いた戦絵図。
 しかし、鑑元の言葉どおり、毛利水軍はいまだ厳然と海上に展開しており、城内の将兵は門司城を失ったことで動揺こそしているが、抗戦の意思が挫けたわけではないだろう。たしかに鑑元が言うとおり、ここで降伏しなければならない理由は見当たらなかった。


 この展開は十分に予測しえる範囲だった。
 だからこそ、俺はあれこれと頭をひねって打開策を考えていたわけだが――


 不意に、鑑元が表情を和らげた。そして無造作に頭をかきながら言葉を続ける。
「――と、本来なら言うべきところなのだがな。戸次殿の御使者に表面を取り繕ってもはじまらぬ。まして亡き朋輩の忘れ形見の前で、この期に及んで無様を晒すような真似はできぬでな」
 そう言う鑑元の視線は紹運殿のすぐ後ろに向けられていた。


 今回の降伏勧告、正使は紹運殿。副使は――無言で鑑元を見据えている戸次誾という名の少年だった。俺は従者の一人として、席の端に座っているだけである。
 紹運殿にならって叛乱軍への隔意を隠そうとはしているようだが、その鋭すぎる眼光は誾の内心を示してあまりある。狷介な人物であれば、それだけで席を立ってしまいかねない勁烈さであった。
 鑑元は、一時は加判衆に名を連ねていたほどの人物である。誾の視線と内心に気付いていないはずはない。


 にも関わらず、鑑元の表情に変化はない。それは、決めるべきことを決めた者の顔だ、と俺には思われた。
 今は門司城にいる道雪殿が命じたのは、降伏勧告の使者の人選のみである。それだけで十分、というのが道雪殿の言葉であり、実際本当にただそれだけで――降伏勧告の使者に紹運殿と誾が選ばれたこと、ただその一事だけで、鑑元は決断を下してしまったようだった。


 あれだけ悩みまくったのはなんだったんだ、と内心で頭を抱える俺。
 だが同時に、小原鑑元という人物が抱えてきたものの大きさ、複雑さがなんとはなしに理解できたような気もしたのである。
 道雪殿から聞いた二階崩れの変の詳細が脳裏に甦る。今日この時まで、この人はどんな思いで生き、そして戦ってきたのか。 
 そんなことを思っていると、鑑元は誾を見ながらどこか懐かしそうに目を細め、ゆっくりと口を開いた。
「……やはり御父上、一万田殿の面影があるな。あと十年もすれば、生き写しといっても良いくらいに似るだろうよ」


 その言葉に対する誾の反応は素早かった。
 だが、それは肯定的なものではない。父に似ているといわれた途端、誾の顔は明らかに強張り、その眼差しには紛れも無い怒りの色が浮かび上がったのである。
 実の父と似ているという言葉自体に悪意はない。
 ではどうして誾の態度が硬化したのか。
 道雪殿の話を聞いた今の俺には、その理由が推測できた。
 それは誾の父、一万田鑑相が大友家にとって唾棄すべき謀反人であるから。誾にとって、父に似ているということは、すなわち誾を謀反人の子と蔑むことと同じ意味を持つのではないか。
 本人と話をしたわけではないから、それは俺の勝手な想像に過ぎない。しかし、今の誾の反応を見るかぎり、それ以外に考えようがなかった。



 思い出されるのは、悲しいまでに澄んだ笑みを見せる道雪殿の顔。
 二階崩れの変が大友家に刻み込んだ爪痕の大きさを思い、俺はそっと面差しを伏せることしか出来なかった。 




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第二章 乱麻(十一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:dee53437
Date: 2010/10/01 00:27

 失策が失策を呼び、より悪しき結果へ。
 二階崩れの変を端的に表現すれば、そんな言葉が相応しいのかもしれない。
 塩市丸擁立を目論む者たちが、真っ先に取り込むべき人物――塩市丸の傅役である一万田鑑相の為人を見誤ったのならば、一万田鑑相は彼らの焦りを見誤り、対応は後手を踏んだ。
 無論、それは致し方ない面もあった。義鎮廃嫡を口にしたのが入田親誠だけであれば、鑑相は公然とその非を指摘することも出来ただろう。だが、現当主である義鑑が相手であってみれば、それも難しい。
 みずからの保身ゆえ、というわけではなく、このことが家中に知れ渡った際の影響に思いを致せばためらわざるを得なかったのである。


 もし鑑相がこのことを公言すれば、下手をすると――否、間違いなく、家中は義鎮派と塩市丸・義鑑派の二つに分裂してしまうだろう。
 もっと言えば、分裂が二つで済めばまだマシとさえ言える。基本的に同紋衆は宗家当主の意思に反することはないが、事が廃嫡となれば意思の統一は難しいと言わざるを得ず、義鎮を支持する同紋衆も少なくあるまい。現に鑑相も世継ぎは義鎮であるべきと考えているのだから。
 同紋衆さえそうなのだ。家中の席次において、同紋衆の後塵を拝する形になっている他紋衆はさらに複雑だろう。
 つまり、義鎮派と塩市丸・義鑑派に分かれた陣営が、さらに分裂する恐れがあるのだ。大友家がいくら巨大な勢力を誇るとはいえ、これでは周辺諸国の好餌になるしかない。


 そんな事態を避けるには、事が義鑑の内意に留まっている今のうちに片付けるしかない、というのが鑑相の判断だった。
 その判断は間違いではない。鑑相が見誤ったのはこの状況を引き起こした主体が誰であるか、という点だった。
 鑑相は、入田親誠の讒言がこの事態を引き起こしたと考えていた。本来、真っ先に義鎮の側に立つべき親誠の言葉ゆえに、義鑑もその言を重んじ、廃嫡という結論に至ってしまったのだろう、と。



 他の加判衆や大身の家臣たちに話が漏れれば、どんな事態を招くかわかったものではない。事は慎重の上にも慎重を期して行うべきであった。
 親誠は義鑑の信頼厚い寵臣だが、廃嫡という大事を他の重臣の賛同なく押し通せるほどの権力は持っていない。鑑相を自陣営に引き込もうとしたのが何よりの証拠である。
 それゆえ、まだ時は残されている――そう考えたことを、鑑相は間もなく悔いることになる。



 
 鑑相は気付けなかった。すでに義鎮廃嫡の主体が親誠ではなく、義鑑であることを。
 何故、という疑問の答えは、義鑑の死と共に失われた。
 義鑑と義鎮は決して折り合いが悪かったわけではない。少なくとも義鑑が家臣の前で廃嫡を匂わせる言葉を口にしたことは一度としてなかったのである。
 あれほど家督争いを忌んでいた義鑑が、どうしてそれまでの態度を一変させてしまったのか。長じるに従って明らかとなっていく義鎮の為人への危惧か。晩年に授かった男児である塩市丸への愛情か。あるいは何か一つの決定的な出来事があったのではなく、様々なものが積み重なり、それがこの時に結実してしまったのかもしれない。
 いずれにせよ、かつて家督争いを経験し、二度と繰り返すまいと考えてきた義鑑は、自らの手で悪しき歴史を繰り返してしまう。




 その行動は鑑相の予測を裏切って迅速であり――予想だにしないほど苛烈だった。
 一日、義鎮は家臣である戸次鑑連、そして吉弘菊と共に湯治に出向く。これはさほど珍しいことではなかった。豊後には病気療養のための湯治場が各処にある。義鎮は自分のためというよりも、身体が弱く、病気がちな吉弘菊の療養をかねて、よく湯治に出かけるのである。
 これに鑑相が自身の手勢と共に従ったのは、妻の安全もさることながら、万一にも義鎮に危難が降りかからないようにするためだった。『運悪く』賊に襲われた、などという事態が起こらないとは限らない。鑑相はそう考えたのである。





 動きは速やかだった。
 義鑑は幾人かの家臣を大友館に呼び出した。館、とはいっても府内の中心に位置し、四方を堀と外壁で囲んだ大友館は、小規模な平城とでも呼ぶべき広さと防備を有しており、豊後守護たる大友義鑑の本城ともいえる。
 無論、府内の守りは大友館だけではない。その外側には府内を守るための備えが幾重にもわたって張り巡らされており、敵軍が万の軍勢をもって攻め寄せようとも、府内を陥とすことは不可能といわれていた。


 その大友館に、義鑑が呼び出した家臣たちには二つの共通点があった。
 一つは府内からほど近い場所に領地を持つこと。
 そしてもう一つは、義鎮ときわめて近い関係にあること。  
 その彼らを前に、義鑑はいっそ堂々と義鎮廃嫡の意向を告げたのである。


 反発があったのは、当然すぎるほどに当然のことだった。
 だが、義鑑はそれら家臣の反対意見をことごとく退けた上で、義鎮の欠点を並べ立て、これは決定である旨を言い渡したのである。
 いかに主君の言葉とはいえ、義鎮と近しい家臣たちにとっては、はいかしこまりました、と言える内容ではない。反発が反発を呼び、たちまち穏やかならざる空気が室内にたちこめた。
 やがて、たまりかねた家臣たちは声を荒げて立ち上がる。廃嫡には断固反対する、との意思を示した上で退室しようとしたのである。
 主君の許可なく部屋を去ることが礼を失した行為であるのは言うまでもない。彼らもそれは理解していたが、横暴とも言える義鑑の言動に忍耐が限界に達したのだろう――彼らの敵が、そう仕向けたように。


 無礼者、と義鑑が一喝する。
 襖は内からではなく外から開かれた。そこに入田親誠率いる完全武装した兵士たちが待ち構えていたのは言うまでもない。
 ここに、二階崩れの変における最初の流血が生じる。
 かろうじて大友館から逃げ出すことが出来たのは、わずか二人だけであった。




 
 無謀と暴挙を重ね合わせたこの行いは、しかし冷徹な計算の下に引き起こされたものだった。逃亡者が出たことさえ、当初の予定通りだったのである。
 この策を考えた親誠の狙いの第一義は義鎮派の勢力を削ぐこと。
 だが、それだけではない。この騙まし討ちから逃げおおせた者は当然のように反撃に出るだろう。彼らは府内から自領に戻り、そこで兵を催して攻撃してくるはずだった。
 義鎮に近しい者たちが大友館を攻撃する。その事実が出来上がりさえすれば、義鎮廃嫡の大いなる名分となるのである。



 筋書きとしては、義鎮派の家臣たちが近年の父娘の不和を慮って諫言を行うが、義鑑に受け入れられずに強硬手段に出るも失敗、逃げ出した後、今度は武力で侵攻するも、これも失敗。義鎮はこれをあらかじめ知らされており、暗黙の了解を与えた上で、乱に巻き込まれないように、かつ身の潔白を示すために湯治場に避難していた、というものだった。
 無論、これは事実を糊塗したもので、幾つもの不自然な点が存在するのだが、当主であり、襲われた当事者である義鑑がそう断言すれば、家臣がそれに対して否を唱えることは難しい。
 一万田鑑相あたりが余計なことを口にする可能性もないではないが、義鎮派の家臣が公然と主君に刃を向けた事実がある以上、有利なのは塩市丸派である。
 くわえて事態がここまで進めば、下手に異論を唱えることはそれこそ大友家の混乱を深めることになることは鑑相も理解するはず、というのが義鑑の考えであった。 


 哀れなのは謀略の贄となった家臣たちである。彼らは主家にたちこめる暗雲の深さと暗さを見誤り、夜露に倒れ伏すこととなってしまった。
 だが。
 彼らが義鑑と親誠を見誤ったように、親誠らも彼らを見誤った。
 大友館から逃亡した彼らは自領に逃げ込むものと親誠は考えた。それに備えて府内の守りを固め、大友館にも千の守備兵を置いて万全の構えをとっている。
 あるいは彼らが勝ち目なしとみて逃げ出しても、それはそれで構わない。その時は義鎮派の家臣が、義鑑に対して刃を向けたと声高に宣言すれば名分は得られる。逃げ出した者たちに反論する術などないのだから。


 そう考えていた親誠は想像さえしていなかった。
 ――まさか、彼らがその日のうちに戻ってくるとは。しかも逃亡してから一刻と経たずに戻ってくるなどとは。
 大友館を守備する将兵も、事態の全貌を知っていたわけではない。おそらく数日後には戦になるだろうと聞いていた程度だった彼らは、総身を赫怒の炎で包み込んだわずか数十人の強襲に対して突破を許してしまう。
 義鑑にとっては慮外のことだった。
 事態は想定どおりに進み、自分たちがいる館は千を越える守備兵に守られている。



 ――ああ、そのはずなのに。
 ――何故、眼球を鮮血色で染めた家臣が、自分に斬りかかって来るのだ?



 惨劇の場は大友館の二階にあった義鑑の居室。二階崩れの名はこれに由来する。
 短くも激甚な衝突の末、襲撃者たちは守備兵によって皆殺しにされるも、振るわれた刃は義鑑と塩市丸、そしてその生母に及んだ。ただ一人、入田親誠は偶然にも義鑑の部屋から席を外していたために、何とか大友館から逃れ出ることが出来たが、その行方は知れず。
 塩市丸と生母は即死。義鑑はかろうじて息はあったが、傷は深く、その命が旦夕に迫っていることは医者の言を待つまでもなく明らかだった……



◆◆◆



 道雪殿がほっと息を吐く。
 それを見て、俺はこれが二階崩れの変の全貌かと考え――そして首を横に振る。まだ肝心な点が語られていなかった。
 その内心の声を聞き取ったかのように、道雪殿は言葉を続ける。
「なにがしかの予感があったのか、あるいはわたくしたちが気付かないうちに義鑑様からの使者が来ていたのかもしれません。この時、鑑相殿は手勢の半ばをわたくしたちの護衛に残し、ご自身は残りの半分と共に、府内に急ぎ戻っていたのです。ですが、駆けつけた時にはすべてが終わった後でした」
 おそらく鑑相は呆然としたことだろう。いつの間にか始まり、いつの間にか終わっていた何かが、眼前に横たわっている。しかもそれに関わった者たちのほとんどがすでに世を去り、悪しき結果だけが残されている。
 一体どうしろというのか、と頭を抱えても不思議ではない状況だった。


 その状況の中で、一万田鑑相は決断する。
 彼は、今回の出来事、これすべて大友義鎮の仕業であるとして、塩市丸の弔い合戦を高らかに謳いあげたのである。






「――は? あの、それはどういう?」
 俺は唖然とせざるを得ない。今、何かものすごい展開の飛躍がなかったか?
 道雪殿は察しの良い方だが、この時、俺が言わんとしていることは道雪殿ならずとも十分に察せただろう。一万田鑑相のとった行動は、明らかに不自然だった。少なくとも、俺にはそう思われてならなかった。


 しかし道雪殿は小さくかぶりを振る。
「鑑相殿が採った行動は、十分な思慮に裏打ちされているのです。問題は、あの当時の状況があまりにも不自然だったことに起因します。当事者のほとんどが死に、結果だけがぽつんと残された。まるで何者かが何事かを企んだとしか思えないほどに。雲居殿、そんな時、あなたであれば、どうやって事態を理解しようと試みますか?」
「……そうですね。結果として、一番利益を得た人をまず疑ってかかるでしょ……あ」
 道雪殿に答えたところで、俺はその言わんとすることを察した。
 俺の問う眼差しを受け、道雪殿はこくりと頷く。
「洗礼騒動を機に、義鑑様と宗麟様の仲がぎくしゃくしはじめたことは、ほとんどの家臣たちが気付いていました。義鑑様の口から、廃嫡、という言葉は出ていませんでしたが、察しの良い者はすでに宗麟様から離れる動きを見せ始めていたのです。そんな中で起きたこの異変で、義鑑様は致命傷を負い、塩市丸様は亡くなられてしまいました」
 おまけにその時、宗麟は府内を離れて湯治場へ。そして何故か傅役である入田親誠は大友館へ残り、事件後、行方不明、か。
 これは誰がどう見ても――
「もっとも利を得るのは宗麟様でした。そして、もっとも疑われるのも宗麟様でした。そう思われても仕方ない状況だったのです。そして、その疑いを解く術が宗麟様にも、わたくしにもありませんでした。何一つ企んでいないと主張することは出来ても、それを証し立てるものがなかったのです」


 絡み合う思惑、いくつもの偶然によって織りあげられた無形の罠。なるほど、それは厄介きわまりない。
「誰かが企んだ謀事ならば、打つ手はいくらでもあったことでしょう。けれど偶然によって編まれた状況に絡めとられてしまったわたくしたちは、蜘蛛の巣に引っかかった蝶のようなものでした。どれだけ足掻いても抜け出せず、さらに絡みとられるだけ。仮にあの状況で宗麟様が後を継いだとしても、誰しも心にわだかまりを抱えずにはいられなかったはずなのです」


 そこを他国に付け込まれれば、大友家は四分五裂の状態に置かれていただろう。
 実際、この時、豊後の隣国である肥後の菊池義武は動きを見せていたそうだ。
 ちなみにこの菊池義武、以前の名を大友重治といい、すなわち大友義鑑の実の弟である。
 大友家の戦略の一つとして菊池家に入り、肥後に大友家の勢力を広めるはずだった。結局、兄と折り合いが悪く袂を分かつことになったのだが、大友宗家の血を引いていることは間違いない。兄の後を継ぐ資格があると強弁することも不可能ではなかった。
 他にも、この当時、大友家と北九州をめぐって争っていた大内義隆からの介入の動きを見せていた。義隆の姉は宗麟の母であり、大内家にも相応の名分が存在したのである。


 内憂外患、ここに極まれり。この時、大友家は多くの者が想像していた以上に累卵の危うきにあったのである。
 一万田鑑相は優れた将であり相である。そのことは十二分に承知していたに違いない。このまま義鎮が当主の座を継いだとしても、この流れはかわらず、大友家が衰亡の一途を辿るであろうこともわかっていたのだろう。
 それを避けるためにはどうするべきか。
 その答えこそが鑑相の行動であったのだ。いみじくも、さきほど道雪殿は口にした――誰かが企んだ謀事ならば、打つ手はいくらでもあった、と。


 俺は知らず、小さくため息を吐いていた。
「……なるほど。つまり一万田殿は日の本の王莽たらんとしたわけですね」
 平家物語の中に「遠く異朝をとぶらへば」で始まる奸臣四人が登場する一節がある。王莽はその中の一人であり、つまりは異国に名を轟かせるほどに悪逆の人物だった。
 漢の高祖劉邦が築いた西漢を簒奪し、新国をつくった王莽だが、その方法は一風かわったものだった。
 王莽はまだ世に出ない頃から、聖人の如く清廉潔白な為人を強調し、その種の逸話は枚挙に暇がないほど。その世評を背景に地位を高めていった王莽は、最終的に漢王朝から禅譲という形で帝位を譲られる。
 これだけ聞けば無血の帝位継承として評価できそうなものだが、その際、作為的な預言を捏造し、皇太后から玉璽を強引に譲り受けるなど、前半生の聖人君子ぶりを自身で台無しにする所業を繰り返している。すなわち全てはみずからが権力を握るための演技だった、というのが通説だった。


 鑑相が目論んだのは、つまるところそういうことなのだろう。
 これまで見せていた自身の清廉な為人は、すべて大友家の実権を握るため。二階崩れの変はそのための過程の一つ。すなわち一万田鑑相こそがすべての元凶であり黒幕である。
 ――そう、人々に信じ込ませる。
 わかりやすい『敵』をつくりあげ、すべての憎しみと恨みをそこに集中させ、それさえ除けば問題は解決するのだと大友家の内外に知らしめるのだ。そうすれば、大友家はこれまでどおりにやっていける。全てを元通りには出来ないだろうけれども、少なくとも四分五裂した上に他国に踏みにじられるような、そんな結末は避けられるだろう。


 確かに、塩市丸の傅役である鑑相であれば、その行動も不自然ではないかもしれない。塩市丸擁立のために、義鎮を排除しようとすることも十分にありえる――そう考える家臣も少なくないだろう。鑑相が、義鎮廃嫡に異を唱えたことなど、他の家臣たちは知る由もないのだから。


「結果だけを見れば、一万田殿の思惑通りになりました。二階崩れの報を聞いた宗麟様とわたくしたちは他の臣と共に府内へ引き返し、大友館に立て篭もった一万田殿と刃を交え……その最中、一万田殿は宗麟様を廃嫡へと追い込もうとしたのは己であると言明し、最後には炎の中で果てられました」
 鑑相の行動の意味を知る宗麟の指揮と、その後の立ち回りは見事なものだったそうだ。たちまちのうちに府内の治安を回復させると、今際の際の父から家督を譲り受け、混乱する家中を静め、肥後と周防に付け入る隙を見せず、大友宗家を継ぐに十分な器量の持ち主であることを自ら示してみせた。
 二階崩れの変はほとんどの家臣にとって寝耳に水の出来事だった。その突然の出来事に右往左往し、とるべき道筋すら明らかでない状況だったゆえに、宗麟が示した明晰な決断と行動はより光輝に満ちて衆目に映ったのだろう――大友家第二十一代当主、大友義鎮が誕生した瞬間であった。




 無論というべきか、すべてが穏便に済まされたわけではなかった。
 ことに乱の元凶とされた一万田家には悲惨な末路が待ち構えていた。当主である鑑相を失い、領地のすべてを召し上げられ、一万田家は事実上断絶する。宗麟は家名の断絶だけは避けようと試みたのだが、動乱の黒幕に慈悲を見せては要らぬ憶測を呼ぶことになる。ここは断固とした処置を採らざるを得なかったのである。
 それでも一万田家の家臣たちの多くは戸次家や吉弘家をはじめとした他家に召抱えられ、路頭に迷うことはなかったが、悲劇はまだ続いた。
 一万田鑑相の妻吉弘菊が、夫の死とそれに続く騒動の衝撃で病に倒れ、ついに再び起き上がることなく世を去ったのである。
 後に残されたのは幼い嫡子と、謀反人の一族という拭い難い汚名。そしてみずからの手で親友の命運を断ち切った宗麟の絶叫だけであった……



◆◆



 不意に、道雪殿が小さくかぶりを振った。まるで何事かを脳裏から追い払おうとするかのように。
 だが、それを承知してなお俺は口を開かずにはいられなかった。
「本当に、一万田という方がそこまでやらねば、切り抜けられなかったのでしょうか? 入田親誠は無事だったのでしょう。なら――」
 俺の問いに、道雪殿は面差しを伏せながら、そっと首を横に振った。
「入田殿が無事だとわかったのは、後になって肥後の阿蘇家から知らせが届いた時です。一万田殿にしても、入田殿の首級がないことはすぐに気付いたでしょうが、探している暇はないと考えたのでしょう。出てくるつもりがあるなら、一万田殿が府内に入った時点で名乗りでているでしょうからね」
 人探しをしている間に事態はのっぴきならない方向に進んでしまう。鑑相はそう考えたのだろう。
 結果として、今日の大友家の繁栄が、鑑相の判断が至当だったことを無言のうちに証明している。


 我が身を犠牲にしても、主家の為に尽くす。
 そんな一万田鑑相という人物に、俺は自分と似通った何かを感じた気がしたが、それは多分気のせいだろう。
 我が身を顧みないあたりは昔の俺に似ていると言えないこともないが、鑑相の場合、我が身だけでなく、同紋衆たる一万田の家名、妻子眷属、そして長年、一万田家に仕えてきた家臣とその家族までも等しく贄としているのである。決断の重みは、俺などとは比べるべくもなかったに違いない。
  



 それでも他に方法はなかったのだろうか、と考えてしまうのは、所詮は余所者である俺の勝手な言い草なのだろうか。
 そんなことを考えている俺の耳に、道雪殿の声が滑り込んできた。
「――念のために申し添えておきますが」
 そう前置きした上で道雪殿は眼差しに鋭さを交えて口を開く。
「わたくしが一万田殿の行動を肯定している、などとは思わないでくださいね。今日の大友家の繁栄は一万田殿の決断の賜物、それは疑うべくもありません。あの当時のわたくしに、一万田殿以上のことが出来たとも思っていません。それでも――」


 ――わたくしは、一万田殿に感謝することは出来ないのです。


 筆舌に尽くし難い、とは今の道雪殿の声に込められた悲哀をあらわす時に使うべきであろう。
 鑑相の立場に共感し、行動に理解を示しながら、結果に感謝することは出来ない、と道雪殿は言う。その目に涙は浮かんでいなかったが、何も泣くときに涙を流さなければいけないという理由はないだろう。


 道雪殿はさらに言葉を紡ぐ。
「夫を友に討たれ、家を失い、将来あるはずだった幸福を奪われた。生来病弱だった菊が倒れたのは、どうしようもないことでした。それでもなお、あの子は息を引き取るその瞬間まで、一言半句も恨み言を口にしなかった。病の床でわたくしの手をとり、残される子と家臣たちの行く末を頼むと……ただ、それだけを口にして、逝ったのです」
 その場に、宗麟はいなかった。道雪殿がどれだけ声を嗄らしても、服の裾を掴んで強諫しても、宗麟はついに菊の病床をおとずれることはなかったという。
 この時、宗麟は家中をまとめるために寝食を削っている最中だったが、理由はそれだけではないだろう。
 きっと、この時の宗麟は怖かったのだ。友から己に向けられる声が、視線が、感情が、何もかもが。大友家中は混乱し、命の危険さえあった。だが、そんな状況などよりもはるかに、友から向けられる憎しみが宗麟は怖かったのだろう。
 

 もう何度目のことか、道雪殿の口から重いため息が漏れた。 
「……父親に廃嫡され、傅役に叛かれ、友の夫を我が手で討ち、その家名を断ち……それを詫びることもできず、糾弾されることを恐れ、ついには死に目に会うことからも逃げてしまった。謝罪も、贖罪も、救済も、すべては宗麟様の手をすりぬけ、二度と再びかえることはなくなってしまいました。宗麟様が聡明であり、純真であればこそ、その痛みは余人が理解できるものではなかったのでしょう」


 二階崩れの変の後、宗麟は狂ったように後始末に没頭し、大友家は突然の当主交代にも関わらず、ほとんど揺らぎを見せなかった。それは疑いなく大友宗麟の大なる功績の一つ。しかし、その一方で宗麟自身は変わってしまった――否、変わらざるを得なかったのだろう。
 当主として、双肩にかかる重圧。私人として、総身を苛む苦悶。想像を絶する痛みに耐えかねた宗麟が、亡き友の信じた教えに救いを求めたのは、もはや必然ですらあったのかもしれない。



 そう、つまりは――
「今の大友家の光も影も、すべては二階崩れの変に端を発します。わたくしたちは未だにあの乱の始末をつけられずにいる。その意味では、あの乱はまだ終わってさえいないのでしょう。誰もがそれを知りながら、しかし誰一人として動かない、動けない。それが大友家の現状――雲居殿に知っておいていただきたかったことなのです」
 そう言って、話はこれで終わり、というように道雪殿はそっと微笑んで見せる。


 ――これほどまでに哀しく澄んだ微笑みを、俺は今まで見たことがなかった。
 
 



[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 幕間
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:dee53437
Date: 2010/10/01 00:26


 小島弥太郎貞興。
 強兵で知られる越後上杉家にあって、なおその武勇は群を抜く。越後国内はおろか、遠く京にまでその名を鳴り響かせ、軍神と謳われる上杉家当主謙信もまた手放しでその剛勇を称えている。
 誰が知ろう。上杉家中にあって『鬼』の名を冠する豪傑の士が、その実、花も恥らう乙女であろうとは。

 
 春日山城下の貧しい農家の娘として生まれた小島弥太郎が世に出たのは、およそ四年前。時の越後守護代長尾晴景と、現上杉家当主、当時は栃尾城主であった長尾景虎の間で起きた内乱にまで遡る。
 内乱初期、越後七郡にかなう者なしといわれた猛将柿崎和泉守景家は、晴景の本拠地である春日山城を直撃するために軍を進めた。
 この柿崎軍を迎撃する晴景軍の中に、小島弥太郎貞興の名が見て取れる。敗色が色濃く漂うこの戦が、戦国乱世にその名を刻む『鬼小島』が誕生する契機となろうとは、敵味方を問わず誰一人として想像すらしていなかっただろう。


 諸人の注目は、この時、晴景軍の指揮官に任じられた天城筑前守颯馬にあてられることが多い。著者もまたその功績を否定するつもりはない。
 しかし、彼が稀有な幸運に恵まれたことを諸人は想起するべきだろう。もしこの時、天より贈られた比類なき女傑を初陣で指揮するという幸運が天城に与えられなかったのならば――晴景軍に小島弥太郎の名がなかったならば、後に東国を震撼させる天城筑前の神算はついに発揮されることなく、春日山の露に成り果てていたに違いないのだから……



◆◆



 本を開いてから閉じるまで、要した時間は一分か、二分か。
 そこまでが限界だった。弥太郎は何故だか震えが止まらない手を、半ば無理やり動かして書物を閉じる。
 近頃、越後で評判の高い一作ということで、同僚から渡されたものだったが――
「……だんぞー」
 弥太郎は思わずじと目で呟いていた。とても面白いですよ、と実に良い笑顔で薦めてきた加藤段蔵の顔を思い起こす。
「絶対、楽しんでたよね、あれ」
 弥太郎にとって、段蔵は字の読み書きの師にあたる。天城の第一の臣下であるのならと焚き付けられ、習い始めて早数年。今では兵書を紐解くことも出来る程度に文字に習熟している弥太郎だったが――これは無理だった。色々な意味で、というかあらゆる意味で。


 『鬼将記』――近年の越後における争乱を、小島弥太郎に焦点をあてて綴った話題作である。




「――とりあえず、これはしまっておこう」
 鬼将記を棚の奥の方へと仕舞い込む。鬼小島がいなければ、この後の天城筑前の飛躍もありえなかった、などと記された導入部分を思い起こしながら、多分、二度と取り出すことはないだろうなあと考える。
「書いた人は誰だろ、ほんとにもうッ」
 天城の上に自らを据えるという視点には、違和感まじりの憤りを禁じ得ない。むすっと唇を引き結びながら、しかし、弥太郎の表情には憤り以外の何かが感じられた。


「……四年前、か。颯馬様とお逢いしてから、もうそんなに経つんだね」
 事実としてそのことをわきまえてはいても、実際にそれと意識することはこれまでなかったように思う。
 あえて理由を挙げるなら、上杉の家臣としての仕事が忙しくて、そんなことを考えている暇がなかった、といったあたりだろうか。もっとも天城が去ってから二年が経ち、その間、ずっと働きづめだったわけではないから、理由としては弱いかもしれない。
 率直に言えば、そもそも過ぎた時間を振り返る必要などなかったのだ。あえて思い描くまでもない。その姿が消えて二年が経った今なお、主の面影は弥太郎の胸から去っていないのだから。


 それでも、あらためて時の経過を口にしてみると、懐かしさと寂しさは彼方から響く潮騒のように弥太郎の胸中に絶え間なく響いてくる。
 過去を綴った一冊の本は、弥太郎の懐旧の情を刺激してしまったようで、天城と初めて出会ったときの情景が自然と思い出された。あの時、集められた将兵の前で、つっかえつっかえ話をしたことを思い起こすと、赤面まじりの羞恥を禁じ得ない。女で、背ばかり高くて、ちゃんと言葉を話すことも出来なかった自分は、あの時の主の目にどう映っていたのだろう。


 同時に弥太郎は思う。あの時の自分と今の自分に、どれだけの違いがあるのだろうか、と。
 文武両面において己を磨き続けてきた。あの頃よりも成長したという自負はある。しかし、ただ成長しただけで満足してはいられない。問題は成長の有無ではなく、どれだけ伸びたか、ということなのだから。
 越後に名高い天城家、その第一の臣という立場に誇りを抱く弥太郎としては、やはり主に相応しい自分で在り続けたいのである。



◆◆



 弥太郎は懐から一枚の紙を取り出した。
 鬼小島と畏れられる弥太郎が、文字通り肌身離さず持ち続けているもの。今は遠い所にいるはずの主から弥太郎個人へとあてられた手紙だった。


 万一にも汚れることがないように丁寧に巻いておいた厚紙の中から手紙を取り出す。
 文量は紙一枚。文面にも奇を衒ったものはない。内容にいたっては、今さら字を追うまでもなく脳裏に刻み込まれている。弥太郎がこの手紙を読み返した回数は優に三桁を越えるのだから、当然といえば当然だった。
 それでも、今なお飽くことなく読めるのは、この手紙が主との絆が形になったものだからだと弥太郎は考えていた――恥ずかしくて、誰にも言ったことはなかったけれども。
 そして手紙を読めば、自然とあの時の混乱と悲哀も甦る。



 ――上杉家において、誰知らぬ者とてない天城の失踪は、文字通りの意味で越後を震撼させた。
 当主である上杉輝虎は天城の姿が消えた直後、群臣に対して「天より上杉家に与えられた人物が、一時、天に帰ったのだ」と告げたのだが、当然というべきか、この説明で納得した者はほとんどいなかった。
 天城颯馬といえば、下民から成り上がり、筑前守の栄誉まで授かった人物。おりしも甲斐武田家との盟約が成って間もなかっただけに、巷間には様々な憶測が流れ、逐電、暗殺の疑いが半ば公然と語られるほどだった。
 騒擾自体は輝虎をはじめとした上杉家重臣たちの尽力によってほどなく沈静化したものの、近年の上杉家の政戦両略の多くに携わってきた天城の突然の失踪は、天城を肯定する者はもちろん、否定する者に対しても、その存在の大きさを改めて知らしめる結果となったのである。


 主の姿が消え、いつ帰るとも知れない。それを知らされた時のことを思い起こすと、弥太郎はいまだに胸が締め付けられる。比喩ではなく、言葉通りの意味で。実際、傍らに段蔵がいなかったなら、弥太郎はその場で息苦しさのあまり倒れこんでいただろう。
 その苦しみは、段蔵の提言によって天城の部屋を検め、そこに隠された(というよりは、たんに仕舞ってあった)二人あての手紙を見つけるまで続いたのだ。


 主に対して尽きせぬ信頼と敬愛の念を抱く弥太郎ではあったが、この一件に関しては一言いわねばなるまいと心に決めている。
「あらかじめ一言でも仰ってくれていればッ」
 あんな思いをせずに済んだのに。いや、知ってはいても実際に天城に会えなくなれば、それはそれで苦しいし悲しくなったと思うが、それでも痛みは多少和らいだはずなのだ。そう思い、まったくもう、と自然と唇がとがってしまう弥太郎だった。




 それでも手紙に目を移せば、そこに見慣れた文字を見出して自然と頬が緩む。
 内容は簡単なものだ。
 やむを得ずに越後を離れることとその詫び、さらにはこれまでの働きへの感謝に続き、自分が去ったあとの上杉家を頼むという言葉で結ばれていた。
 天城としては必要最小限のことを短くまとめたつもりなのだろうが、弥太郎としては疑問で一杯である。『やむを得ず』というが、どんな理由で越後を離れなければならないのか。天から上杉家に与えられた人物――輝虎は天城を指してそう言っていたが、天とは一体どこのことなのか。会いに行こうと思えばいけるのだろうか、などなど。
 
 
 一度、輝虎に直接たずねたことがあったが、輝虎は困ったように微笑むだけ、その微笑を間近に見て、弥太郎は慌てて御前から退出した。自分がひどくいけないことをしてしまったように思えたのだ。
 それ以後、弥太郎はこの疑問を誰かに問いかけることをやめた。そもそも輝虎以外の誰に問いかけるべきかもわからなかったし、よくよく考えてみれば、あの主が自分が去った後のことを予測しなかったはずがない。それでもなお何も語らなかった――語れなかったのならば、そこにはそれだけの理由があったに違いない。
 ならば自分がすべきは、主が去ったあとの混乱を鎮め、なおかつ主が帰る場所を守っておくこと。弥太郎はそう思い定めたのである。
 




 ――実のところ。
 弥太郎自身は意識していなかったが、そう考える横顔は見る者がはっとするほどに凛々しく、戦国の荒波を生き抜いてきた確かな自信と落ち着きが感じられた。
 くわえて、かつてはどこか不釣合いに感じられた女性らしからぬ長身(出会った時点で天城より背が高かった)も、四年という歳月が加わった今では弥太郎のたおやめぶりを惹き立てこそすれ、損なうようなことはなくなっていた。


 涼やかな武者ぶりと、たおやかな乙女ぶりをあわせもったその姿を見れば、戻りきた天城が目を剥くのは必定だ、と一部の家臣たちは確信していたし、またその天城失踪後の混乱に毅然と対処し、実質的に天城家をつくりあげた忠誠と手腕は上杉家中で高く評価されていたのである――あるいは鬼と仇名される武勇以上に。
 上杉家の当主である謙信にならって長く伸ばした黒髪を靡かせ、弥太郎が春日山城を歩けば、性別身分を問わず多くの人々がその姿に目を向ける。それは小島弥太郎という人物が成し遂げてきた、あるいは積み重ねてきたものの結果である――のだが。



「本人にその自覚がないあたり、本当に似た者主従といわざるをえませんね」
 ため息まじりに、加藤段蔵はそう評する。
 そして同時に思うのだ――やはり天城家第一の臣は弥太郎しかいない、と。
「……人、各々領分あり、ですか」
 苦笑に混ざったかすかな羨望を、段蔵は意識して振り払う。弥太郎が弥太郎であるように、自分は自分なのだ。持たざるものを嘆く、という選択肢は忍にはなかった。
 ゆえに今、自分にできることを全力で。まずは――
「……貴重な収入源をしっかりと確保するべきですね」


 そう呟くと、鬼将記の作者は自室へと足を向けるのだった。
 



[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第三章 鬼謀(一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:9e91782e
Date: 2010/10/17 21:15


『殿、今年こそ関東征伐をッ!』


 それはかつて、安芸国を領有する毛利家において、年初めを飾った言葉である。
 改めて論ずるまでもなく、近畿も海道もすっ飛ばしている時点で実現性は皆無であるが、たとえ半ば戯れではあったにせよ、それを口にするだけの覇気と気概を持つように努めることを、毛利家当主は家臣たちに示し、また求めたかったのだろう。
 だが、その思いとは裏腹に毛利家は当主の早世が続き、今代当主である毛利元就がその座に就いた頃には、安芸一国すら保持しえないほどに衰えていた。


 女性の身で当主になる者は決して少なくなかったが、それは衆に優れた才知があってこその話である。学問だけを見れば、元就は幼少の頃から聡明といって差し支えない能力を持っていたが、その長所をかき消すほどの欠点が存在した。聡明であったことの弊害だろうか、元就は他者に対して過分なほどに気を遣い、遠慮してしまうのである。たとえそれが家臣や領民であったとしても。
 相手を気遣えるということは、人として文句のつけようのない美点である。
 だが、時は戦国の世。尼子、大内という大国に挟まれた毛利家にあって、家臣どころか領民に対しても腰の低い元就の在りようは惰弱と切って捨てられてしまうものであった。


 父か兄が当主の座に就いていれば何の問題もなかった。毛利の血を継ぎ、相手を立てることを当然とする元就を、ぜひ妻に、と望む者たちは数多かったほどなのだ――もっとも申し込まれた縁談の類は、父と兄の双方が懇切丁寧に叩き潰したために、実際に話が輿入れの段階まで進んだことはなかったのだが――しかし、その二人が早世し、後継者として元就の名があがった時、多くの者が首を横に振ったのは、疑いなく元就の為人では毛利家の存続が危ういと感じたからだった。


 だが、結果として元就は、志道広良、井上元兼らの重臣たちに擁立され、当主の座に就くことになる。
 元就を擁立した者たちの心中は様々であり、先々代以来の恩顧で行動した者もいれば、主家の実権を握るために御しやすい当主を望んで動いた者もいた。それぞれの理由で毛利家の存続のために行動した彼らは、しかしその一方で毛利家の前途が極めて苦しいものとなるであろうことを覚悟ないしは予測していた。
 ことに井上元兼などは期待すらしていたのである。鎌倉以来の『一文字三ツ星』の旗印などといっても、弱肉強食の世にあっては示威以外の意味を持たぬ。たとえ毛利の旗が地に倒れようと、自身と自家が存続できるのであれば何も問題はない。元就を擁立したのは、あくまでもそれが井上家の利益となるからだった。
 逆に言えば、元就の存在が害になるようであれば、これを除くことに躊躇はない。毛利という名は傘のようなもの、雨をしのげば捨て去るだけだ――そんな風に考えていた元兼は、この時、予測どころか想像だにしていなかった。
 気弱と嘆かれ、惰弱と蔑まれていた毛利元就が、その類まれな才略によって中国地方に覇を唱えることを。毛利の名が日の本の歴史に刻み込まれる、その基を築き上げることを。そして自らが、その偉業の影で汚名に塗れて果てることを……




◆◆




「ゆえにわしは先々代弘元様に申し上げたのじゃ。『殿、ここはそれがしが殿軍を!』と。しかし弘元様は――」
 ところは安芸国の毛利本領、吉田郡山城。
 そこでは重臣筆頭の志道広良が、過去、毛利家に襲い掛かった危難と、いかにしてそれを切り抜けてきたのかを唾を飛ばして力説していた。
 それらの話は多少装飾が過剰であったが、戦国の世を卓抜と生き抜いてきた宿将の言葉であるだけに、どれも含蓄深く、若年の者たちにとって話を聞くだけでも得るものが多い――のだが。


「――さすがに二桁を超える回数を聞かされると、いいかげん得るものもないわけで」
「隆景、いらんことを言わんでよい」
「でも春姉、ぼく、もう広爺のこの話なら暗誦できるんだけど」
「だからといって聞かんでよいわけではない。見ろ、姉上は一言一句聞き逃すまいと、かじりつくように聞き入っているではないか」
「ぼくに隆姉とおんなじ行動を期待されても困ります」
 しごく真面目な表情で言い切る妹の顔を、元春はあきれまじりに見つめた。
 とはいえ、その言葉を否定することはしなかった。率直にいって、元春自身も隆元ほどには話に集中していなかったからである。
「……姉上の邪魔をせぬよう口を閉ざしておけ。それ以上のことは求めん」
「はーい」
 
 
 などという毛利の次女と三女のやりとりなど耳にも入らぬ志道広良は、老いた相貌に若者なみの清冽な気概を漲らせながら、先代興元(いつのまにか代替わりしていた)が上洛して将軍家に謁見したときの状況を事細かに述べようとしていた。
 とはいえ手に汗握って話に聞き入るのは隆元一人。元春と隆景はこの先の展開を承知しているために心ここにあらずといった感じだった。
 ことに隆景はさきの呟きでもわかるように、それこそあくびがこぼれそうなほどに退屈していた。
 そもそも北九州遠征の報告と今後の対策を練るための軍議が、どうして毛利家の歴史をふりかえる場になっているのか。隆景としてはいろいろと腑に落ちないことが多い戦だったので、義母に聞きたいことがあるのである。
(まあこうなったら、とりあえず話が一段落つくまで待つしかないんだけどねー)
 せめて将軍家への謁見までで終わってほしいのだが、話がその先の船岡山合戦にまで及んでしまうと、あと四半刻は続いてしまうだろう。さらにその先に行くと、今度は先代の死去にまで至ってしまう。そうすると今度は日暮れまでに話が終わるかどうか……




 と、隆景と同じ危惧を覚えたのか、それまで黙って耳を傾けていた最後の一人が口を開いた。  
「あ、あのね、広爺。そろそろ隆元たちの報告を聞きたいなあって思うんだけど……ほ、ほら、三人とも九国からの帰りで疲れてるだろうし!」
「む、たしかにそれは元就様のおっしゃるとおりですな」
「うん、うん。じゃあ……」
「では、いま少し先を急いで話すことにいたしましょう。さて、どこまで話しましたかな?」
 首をかしげる広良に、隆元が応える。
「興元様が義植様より直々に御言葉をいただいたところまでですよ、広爺。ささ、続きを」
「おお、そうじゃった。その興元様のご様子に、このわしも年甲斐なく感涙を禁じえず……」


「……うう、広爺の話を止めるだけでも大変なのに、隆元まで加わっちゃった……」
 悄然とうつむく元就。
 その様は他国に謀将と恐れられる鬼才の持ち主とは到底思えず、こんな光景を見慣れているはずの元春と隆景もため息を禁じえない。
「――この様子を尼子や大友に見られたら、手を叩いて喜ばれそうだよね、春姉」
「うむ。毛利、恐るるに足らずと雀躍しような。困ったものだ」
「……そう言いつつ、なんか口元が緩んでるよね、春姉は?」
「む、そうか? まあこの和やかな空気を好んでいることを否定はせんよ」


 そう言いながら、世はなべて事もなしとばかりに茶をすする元春の姿に、隆景は再度、深々とため息を吐くのだった。
「ああもう、ほんとになんで今をときめく毛利家の屋台骨を支える人たちがこんななんだろ……?」
「案ずるな、そなたも疑いなくその一人だぞ、強がりで恥ずかしがりの末姫殿」
「別に案じてませんッ! ていうかもうぼくの人柄、その設定で決まりなの、春姉?!」
 




 
◆◆◆



 


 そんなこんなで夕刻である。
 ようやく(本当にようやくだよ、と隆景はぶつぶつ言っていた)本題を切り出した隆景に対し、元就は小さくうなずいて見せた。
「門司城を割譲した大友家の狙い――それが隆景の気になっていることなのね?」
「はい、義母上(ははうえ)。隆姉と春姉にも言ったんだけど、どうしても大友の狙いがわからなくて……」


 大友家に叛旗を翻した小原鑑元を助勢するという名分で兵を出した今回の戦は、松山城において小原鑑元が大友家に降伏するという形で決着を見た。
 正直なところ、毛利軍の智嚢たる隆景はこれを予測できなかった。あの時点で鑑元は本拠である門司城を、大友軍の戸次道雪に奪われていたが、鑑元自身が篭る松山城は健在であり、毛利軍の海上からの援助もあって一月やそこらは耐え切るだけの余力は残っているはずだった。
 大友家の内情が、外から見るよりもはるかに危ういものであることを小原鑑元は良く知っている。それこそ隆景ら毛利軍よりもはるかに心得ていたことだろう。
 鑑元が長期に渡って抗戦を続ければ、豊前以外の地でも反大友の軍が動き出すのはほぼ確実であり、それが当初の戦略でもあった以上、あの段階で鑑元が降伏する必要はなかった――少なくとも隆景はそう判断していたのである。


 一時は大友軍の偽報かと疑ったが、次々に入ってくる情報はいずれも叛乱軍の降伏を肯定するものだった。疑念は尽きなかったが、しかし毛利軍はいつまでもそれに拘泥してはいられなかった。鑑元が降伏した以上、毛利家が北九州の情勢に介入する名分が消滅してしまったからである。無論、名分なしの侵略は可能だが、その場合、情勢は尖鋭化し、一朝一夕での解決は望めなくなるだろう。


 そういった考えをまとめた隆景は、急ぎ水軍をまとめて松山城を離れ、豊前の地に陣を構える隆元、元春らと合流した。それは今後の対策を練るためであったのだが、そこにはかったように大友軍からの使者が訪れた――まるで三姉妹の合流を待っていたかのように。
 そして、あらわれた大友軍の使者は、毛利家に対して和睦を申し入れてきたのである。


 その申し入れ自体はさして意外なことではなかった。鑑元らが降伏したとはいえ、大友軍の損害と疲弊は毛利軍を大きく上回る。ここでほとんど無傷の毛利軍とぶつかることは、大友家としては避けたいところだろうからだ。当然、毛利家としては簡単に首を縦に振る必要はない。最終的に頷くにしても、できるかぎりの利を引き出そうと試みることは当然の選択だった。
 だが、そんな毛利軍に対し、大友軍はいっそ無造作に最大の利を提示してきたのである。


 ――門司城の割譲。


 それは今回の騒乱において、毛利軍の最大の目的。門司城を得て、関門海峡の実質的な支配権を得られるのならば、あえてこれ以上の血を流す必要はなくなる。和睦の条件として、これ以上のものは存在しなかった。
 だが、無論それは毛利家から見ての話である。大友家にとっても門司城の確保と海峡の支配権は是が非でも確保しなければならないもののはずだった。苦労して叛乱軍から奪還した門司城を、ここであっさりと毛利に譲り渡すなど、どう考えても毛利家にとって話がうま過ぎる。隆景はもちろん、元春さえ大友家の提案を疑ってかかったのは、ある意味で当然のことだったのである。


 だが、疑わしいからといってその条件を蹴飛ばすわけにもいかなかった。蹴飛ばして戦になった末に得られるものは、結局最初に蹴飛ばしたものである。それでは他の将兵が納得するはずがない。大友家の真意はどうあれ、その申し入れが毛利家にとって願ってもないものであることは事実なのだ。仮に大友家が詐謀を用いるつもりだとしても、あらかじめ備えていれば対処することは難しくないだろう。
 そう言って、大友家の申し出を受け入れるべき、という隆元の主張に二人の妹は頷いた。より正確に言えば頷かざるを得なかった、というべきだろうか。


 隆景などは十中八九これが策略であろうと考え、特に城受け取りの際には、これでもか、とばかりに厳重に警戒した。陸はもちろんのこと、関門海峡に水軍を展開し、大友軍が矛を逆さまにして襲い掛かってきても即座に反撃に転じることができるようにしたのだが……
 結論から言ってしまえば、大友軍はいかなる策略も弄さなかった。大友軍は門司城を譲り渡すと、小倉城と松山城に守備兵を残して豊後に退き、毛利軍は損害らしい損害もなく、門司城を手に入れることができたのである。


 これは後から毛利軍に伝えられた話だが、門司城を割譲することは、小原鑑元が降伏する時点で実質的に決められていたらしい。
『それも小原様が降伏を決断する理由の一つだったんじゃないかな?』
 その事実を伝え聞いた隆元はそう口にしていたが、隆景は素直に頷くことが出来なかった。
 欲望と謀略が渦巻く戦国の世にあって、それはあまりに綺麗事に過ぎるように思われたからだ。




 であれば、大友家はそれ以外のしかるべき理由をもって門司城を手放したことになるのだが……
「それが何なのかがわからないってことかな?」
 元就の言葉に隆景はこくりと頷く。
 一応、隆景としても幾つか理由らしきものを思い浮かべることはしたのである。
 中でも最も可能性が高いのは、毛利家に対する他国の心象の操作である。そのことを隆景は口にした。


「今回の戦で、大友軍はぼくたちと鑑元殿の間の疑心を刺激するように動いてました。その……毛利軍は策略を弄するっていう先入観を逆手にとる形で」
 それを口にすることは、義母の『謀将』という評を肯定することになるため、隆景としてはあまり口にしたくはなかったのだが、この場ではそうも言っていられない。
 元就もまた気にするそぶりを見せず、隆景に先を促す。ちなみにその母の傍らで、隆元はにこにこと相好を崩していた。義母と話すときに限り、ですます口調に変じる隆景がかわいくて仕方ないらしい。


 だが、普段ならば間違いなく気づいたであろうその視線に、この時の隆景は気づかなかった。それほど、自分の思考に集中していたのである。
「でも今回、ぼくたちは隆姉の指示に従って鑑元殿の援護を優先させました。結果として鑑元殿は降伏してしまったけど、毛利軍は友軍への信義を最後まで貫いたことになります。それは大友家以外の九国の人たちにもはっきりとわかったと思うんです」
 実際のところ、隆景は小倉城へ欲目を見せたわけだが、それを知るのは極小数しかいない。今回の戦に関して言えば、毛利軍は愚直なまでに誠実に動き、他勢力に『謀』ではなく『信』の面を知らしめたといえる。


 仮に何一つ得られずに撤退する羽目になったとしても、他国に対し、毛利家は信義を重んじる家だという印象を与えられたことには大きな意義があったはずである。それは今後の九国の経略において無形の財産となるはずだった。
 だが大友家が門司城を割譲したことで、その印象が翳りを帯びた。隆景はそう感じていた。
「――実際、門司城の割譲は大友家から申し出たことだけど、これは破格――というよりは本来ありえない譲歩です。だから他国から見れば、ぼくたち毛利が鑑元殿を見殺しにした挙句、その混乱と弱体に乗じて門司城を強引に奪い取った、そんな風に見えていてもおかしくないと思うんです」
 無論、毛利家は口を封じられているわけではない。事の次第を公にすることも可能なのだが――
 隆景が言いよどむと、元就は義娘の心情を思いやって自らが口を開いた。
「……うん、大友家の譲歩が信じられないくらいに過ぎたものだから、私たちがそれを正直に口にしても信じてはもらえないかもしれないね。ただでさえ毛利は策の多い家だって思われてるし」
 元就の言葉に、隆景は小さく頷いてみせた。


 つまるところ隆景はこう考えたのだ。
 門司城を割譲した大友家の狙いは毛利家に寄せられる衆望を損なうことにあるのではないか、と。利用しただけで捨てられる――そんな風評を流して毛利家の影響力を殺ぐこと、それが枢要な城をあっさりと手放した大友家の深慮遠謀なのではないか、と。




 だが、その考えを聞いた元春は首を傾げる。
「効果があるかどうかもわからない風評をたてるために、城ひとつと交易の利を差し出す、か。ありえんとは言わんが、九州探題に任じられたほどの大家がそこまで我らを警戒するものか?」
 小原鑑元が降伏した時点で、毛利軍は一万を超える戦力を門司城近辺に展開させていた。一方の大友軍は門司城に二千に満たない兵力がいたのみである。毛利軍の優位は動かなかったが、相手は百戦錬磨の鬼道雪、そうそう都合良く事が運ぶと思えなかったのも事実である。
 あの戦況で、大友家が隆景が口にしたような理由で門司城を手放すだろうか。もし相手が吹けば飛ぶような小勢力であれば元春も隆景の考えに頷いたかもしれない。しかし相手は大友家、わざわざ悪評を広めるような真似をせずとも、正面から毛利と戦うだけの力を有しているのである。


 そんな元春の反論に、普段なら一言二言は言い返す隆景だったが、この時は率直に姉の疑問がもっともであることを認めた。
 なぜといって、それは隆景自身の疑問でもあったからである。
「確かに春姉の言うとおり、大友らしからぬ――っていうか、ぜんぜん割りにあわない策略です。大友の当主は異教に狂っているっていう話ですが、その麾下にはあの鬼道雪みたいな人たちもいます。こんな愚策を採るとは、ちょっと思えなくて……」


 しかし、事実として大友家は門司城を毛利家に譲り渡した。そして大友家が毛利家の悪評を広めようと動いている様子も見られない。
 毛利家にとっては万々歳な展開であるはずなのだが、隆景は奇妙に落ち着けないものを感じていた。何か重要なことを見逃しているような、そんな焦燥が胸を苛むのである。
 元春もまた隆景ほどではないにしても似たような危惧を抱いていた。
 一人、隆元は妹たちの危惧を理解できていない様子だったが、この姉に策略の類を理解しろとは隆景も思っておらず、また理解してほしいとも考えていなかった。
 隆元は策を弄することなく正道を歩んでくれれば良い。それを補佐することこそ隆景の仕事であるからだ。しかし、今回に関して言えばどれだけ頭をひねっても大友家の真意が読み取れず、万策尽きて義母の知恵に頼ることにしたのである。




 隆景はそういった自身の考えをすべて口にしたわけではなかったが、元就は娘たちの性格や為人を照らし合わせ、ほぼ正確に娘たちの考えを悟り、気づかれないようにこっそりと口元を綻ばせた。
 だが、隆景の視線をうけて慌てて表情を引き締めなおすと、自身を落ち着けるようにゆっくりと口を開く。今回の大友家の採った行動の裏にあるものを、元就はすでにおおよそ掴み取っていた。
「結論から言っちゃうと、大友家の人たちは、毛利家に門司を譲ったとは考えていないんだよ。一時の間、貸し与えただけ、そんな風に考えているんじゃないかって思う」


 今回、陸と海で二万を越える兵力を動員した毛利軍だったが、無論、これが限界ではない。その気になれば、今回の倍近い大兵力を催すことも可能だろう。
 だが、その兵力の多くは農民であり、時が来れば村々に帰さねばならない。要するに恒久的に一箇所に留めておくことが出来ない兵力なのである。敵にしてみれば、わざわざ目の前の大軍とぶつかる必要はなく、毛利が兵力の大半を引き上げてから攻め寄せれば良いと考えるのは当然だった。
 その結果、また毛利が大軍を動員してきたとしても、再び同じことを繰り返せば良い。兵の疲労にしても、物資の損耗にしても、遠征してくる側がより不利であることは自明であり、繰り返していれば遠からず毛利家の方が息切れするに違いないのである。


 門司を割譲するということは、毛利家に常にその選択を強いることに繋がる。毛利側にしてみれば、門司を手放してしまえばそれで済むが、あの城を押さえることで生じる莫大な利益がその選択肢を許さない。
 持つことは、時に持たざること以上の不利益を招き寄せる――今回のことは、これ以上ないほどにその言葉を具現していた。



 

 その元就の言葉に、三人の娘たちはそれぞれ異なる表情を浮かべたが、その中に完全な納得を見出すことは難しかっただろう。隆元でさえ、小さく首をかしげている。
 無論、元就はその理由を察している。
「もちろん、これは一面的な見方だよ。兵力の動員――数にも期間にも限りがあるのは他の国だって同じだし、現在の大友家がこんな悠長な作戦を採る余力がないのも明らかだよね」
 その言葉に、真っ先に隆景が頷いた。
 机上の争いなら知らず、敵対する二つの国がまったくの互角の条件を揃えていることなど実際にはありえない。それぞれの家が、それぞれの長所と欠点を持ち、相対的に上回った方が勝利する。その意味で言えば、家中をまとめ切れていない現在の大友家は、明らかに毛利家に及ばないと隆景は確信していた。  


 その隆景の考えは間違ってはいない。確かに両家を見比べれば、今の毛利は大友を上回るだろう。
 だが、大友家が内憂を抱えているように、毛利家にもまた大きな問題が存在した。内ではなく、外に――すなわち出雲の尼子家の存在である。
 現在の毛利家の所領は安芸、周防、長門、そして石見と備後の一部に及ぶ。
 ひるがえって尼子家は出雲、伯耆、美作、さらには石見、備中、因幡の一部に及び、中国地方は西の毛利と東の尼子でほぼ二分されている状況だった。これまでも毛利の勢力が西へ伸びようとする都度、尼子はその後背を襲う動きを見せており、毛利家の勢力伸張を阻む大きな要因となっていた。
 それゆえ、今回の遠征においても元就と広良は尼子に備えるために安芸に残らざるを得なかったのである。


 当然、大友家もそのことは承知しているだろう。
 門司城を得たことで、毛利家は豊前にも兵力を割かねばならなくなった。大友家の侵攻に備えるためには相応の兵力をつぎ込まねばならず、そうすると必然的に尼子に向けられる兵力は減少する。
 大友家と尼子家が足並みを揃えて攻めかかれば、必ず守りきれない局面が出てくるに違いなく、そうなった時、毛利はどこかを切り捨てなければならない。
 そして真っ先に切り捨てられるのは新たに得た領土であろう。狭いとはいえ、海峡を挟んだ地に兵や物資を送り込むのは容易なことではないし、無理をして確保しても、本国や石見の銀山を失えば交易どころではなくなってしまうのだから。


 かくて毛利家が兵を退いた後、大友家は悠々と門司城を奪還できる、というわけである。
 問題は尼子家が都合よく動いてくれるかどうかだが――門司城を得た毛利家が九国に勢力を広げ、交易で国を富ませれば、それだけで尼子家にとっては脅威である。そこに言及すれば、尼子家を動かすことは十分に可能だろう。
 門司城を手放し、毛利の勢力を肥らせた大友家は、同時に尼子家を動かしえる状況を作り上げてしまったのである。



 そして、さらにもう一つ。
 大友家は外交における切り札を持っていた。
 それは――
「将軍家との繋がり、だね」
 元就の言葉に、その場にいた者たちは、はっと表情をかえた。
「大友家は九州探題に補任されるために相当の人と財を費やしたと思う。それは今も続いている……そう考えた方が自然だよね」
「そっか。将軍家を通じて門司城の返還を……ううん、違う、そんな大友家に顎で使われるような方法じゃ将軍家は動かないか。将軍家の権威を知らしめる形で門司城を取り返すためには――もう一度戦端を開いてから、それを収める……?」
「たぶん、隆景の考えている通りだよ。和睦は一時のこと。じきに尼子は動くし、尼子が動けば大友も再び動く。東と西に大敵を迎え撃つことになるから、どうやっても私たちは不利を免れない。そこで頃合を見計らって将軍家に調停を願い出れば――」
 その元就の言葉を引き取ったのは元春だった。どこかあきれたように嘆息しながら、口を開く。
「門司城は労せずして取り戻せる、というわけですか。そう考えれば、確かに義母上の仰るとおり、大友家の今回の行動は割譲ではなく貸与にあたりましょうな。そこまで考えた上での此度の譲歩であれば、いっそ天晴れとでもいうべきでありましょうが……しかし」
 そこで元春は小首をかしげた。
「元春、何か気になることがあるの?」
「率直に申し上げます。義母上、大友はそこまで考えて事を運んだとお考えでしょうか? 聞けば智恵者として知られた角隈石宗殿はすでに亡くなられたとのことですし、これまでの大友家のやりようを振り返ってみても、そこまで――なんといいますか、七面倒なことを考えて事を処すとは考えにくいと思えてなりませぬ」


 それに対し、今度は元就が首を傾げる番だった。
「うんとね、それはわたしが三人に聞きたいことでもある、かな? 今回の戦に出て、何か気づいたこととか、違和感を感じたりしたことはなかった?」
 無論、元就は大体のところはすでに書簡で報告を受けている。だが、実際に対峙した者たちの口から相手の情報を聞くことは決して無駄ではないと考えたのだろう。
 元就の言葉を受け、三人は顔を見合わせた。心あたりがなかったから――ではない。その逆だった。
 三人が同時に思い浮かべたのは、伝え聞いていた大友軍らしからぬ今回の敵の戦ぶりである。それを踏まえて、今の元就の説明に耳を傾ければ、必然的に一つの推測が導き出される。


 何かが――誰かが、大友軍に影響を与えている。
 その変化が大友家にとって、また毛利家にとって何をもたらすものかはわからない。急激な変化は多くの場合、混乱をもたらすものとして忌避されるからである。ことに大友家のような大家には累代の重臣たちが多く居り、彼らは往々にして変化を嫌う。それが人であれ物であれ、あるいはなにがしかの集団であれ、大友家に変化をもたらしている『何か』を彼らが簡単に受け入れることはないだろう。


 ただ――
 隆元が小さく呟く。
「今の大友家は、南蛮神教によって大きな変貌を遂げつつあるよね。わたしたちはそれが日の本にとって好ましくないものだと考えてきたけど……」
 もしかしたら、その変化の波は思いもよらないものを招きよせることになるのかもしれない。
 その隆元の呟きは、確たる情報に基づくものではなく、単なる思い付きに過ぎなかった。一笑に付されても仕方ない妄言であるとさえ言えた。
 だが、その場にいた者たちは、その言葉に奇妙なまでの確信の響きを感じとり、一様に口を閉ざす。かつて感じたことのないその感覚が何を意味するものなのか、毛利家の人々がその答えを知るのは、いま少し先のことだった……




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第三章 鬼謀(二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:9e91782e
Date: 2010/10/19 22:32


 戸次家の本領は豊後の鎧ヶ岳城である。
 だが、その当主である道雪殿は加判衆筆頭として戸次家のみならず大友家の政務にも携わる身であり、事あるごとに領地と府内を往復するわけにはいかない。そのため、道雪殿は宗麟から府内の一画に屋敷を与えられており、現在、俺はそこに逗留していた。


 他紋衆の乱と呼ばれる先の戦が終わってまだ幾許も経っていない。叛乱軍を短期間で降伏まで追い込んだとはいえ、実際に謀反が起きてしまった以上、その影響は計り知れない。ことに小原鑑元はつい先ごろまで加判衆に任じられていた人物であり、それだけの重臣が背いたことによる家中の動揺は容易に鎮まることはないだろう。
 実際、屋敷の中でも、主の道雪殿はともかく、その他の人々の表情はピリピリと尖ったものがにじみ出ており、声をかけることをためらってしまうほどだった。


 そんな中で、大友家の家臣でもない俺が客人扱いで逗留するというのは結構きついものがあった。
 無論、なんだこの若造めが、と邪魔者扱いされたわけではない。それどころか戦で受けた傷の治療も含めて、これ以上ないほどに良くしてもらっている。
 ただ、やはり俺は部外者であるという感覚が強いのも事実なのだ。何か仕事でもあれば気を紛らわすことも出来たろうが、俺と同様に戸次屋敷にいる吉継はともかく、俺は大友家の正式な家臣ではない。戦の最中の助言であればともかく、終わった後の始末にまで口は出せない。
 ならば屋敷の雑用でも手伝おうかと声をかけても、お客様にそんなことはさせられません、とにっこり笑って断られてしまう。まあ、客人兼怪我人に雑用などさせられないというのは、当然といえば当然だが。
 結果、俺は屋敷の人たちが忙しげに立ち働く中、手持ち無沙汰のまま、ずずっと茶をすするしかなかったのである。




 ゆえに。
「……暇だ」
 自然、そんなつぶやきも零れてしまう。
 そもそも何で俺が府内の、それも道雪殿の屋敷にいるのかといえば、そうするように道雪殿に強く請われたからである。
 最初、俺は道雪殿の頼みを謝絶した。大友家と毛利家が和睦した以上、一刻も早く東に向かいたかったのである。
 ――いや、なんかこのところ、そちらの方角からしばしば妙な重圧を感じるのだ。重圧の種類は様々だったが、あえて一つ挙げるなら、先日の夜、とある筆頭家老の怒りを正面から浴びせられたような、もう重圧ってレベルじゃねえぞ的な悪寒を覚えたこともあったほどなのだ。思わず跳ね起きてしまいましたよ、ええ。


 ……まあそれは冗談(?)としても、すでに海上から毛利水軍の姿は消えており、東行を阻むものはないと思われたのだが、道雪殿いわく「戦の後こそ海は荒れる」とのこと。
 簡単に言えば、戦のせいで滞っていた物流が一斉に動き出し、それを狙った海賊もまた大きく動き出すそうだ。それを討つべき各国の水軍は戦の後ゆえにすばやく動くことが難しく、被害が無視できないものになることも少なくないらしい。なるほど、言われてみればそれも道理。ことに今回の戦で大友水軍はかなりの打撃を受けたらしいから尚更だった。


 では陸伝いで行けば、とも考えたのだが、そうすると当然のように毛利領を通り抜ける必要が出てくる。正式に臣下になったわけではないとはいえ、今回の戦で俺は大友家に策を献じ、その兵士として戦場で毛利軍と戦っている。さすがに雲居筑前の名を毛利軍が把握しているとは思えないが、身体の各処の傷は戦に加わった事実を示して余りある。不測の事態が起こる可能性は十分にあるのだ。


 ではどうすべきか。
 考え込む俺に向けて、道雪殿はこう言った。
「わたくしの屋敷で海が落ち着くのを待っていただければ、京の将軍家へ向かう船に同乗できるよう取り計らうこともできましょうし、あるいは時が惜しいのなら、豊後から伊予へ渡って四国伝いに東を目指すという手もあります。毛利家の勢力はいまだ四国には及んでいませんから、中国地方を通り抜けるよりはよほど安全な道のりになるでしょう。いずれにせよ、一度府内へお越しいただかねばなりませんけれど……」
 どうなさいますか、と問いを向けつつ、上目遣いにこちらを見やる道雪殿の顔には、どこか悪戯っぽい微笑が浮かんでいた。


 もうなんか見慣れた観すらあるその道雪殿の笑みを見ながら、俺はふとあることに思い至る。
 九国を離れてしまえば道雪殿や紹運殿たちと会う機会は永く失われてしまう。二人だけでなく、鎮幸や惟信、そしておそらく九国にとどまることを選ぶだろう吉継も同様だった。
 ことによると『次』はもうないかもしれない。戦国の世であれば、それは予想してしかるべき未来なのである。それはつまり、目の前の佳人の微笑を見ることがもう出来なくなるかもしれないわけで……



◆◆



「そんなわけで、こうしてここにいるわけですが、これは決して東をないがしろにしたわけではないのです。いや、もちろん道雪殿たちとの別れを惜しんだのは事実ですが、それは誰に恥じる必要もない感情であり、そもそも府内に来たといっても、精々出立が数日延びる程度の差しかないわけで……」
「……誰に何を釈明しているのですか、あなたは?」
「ぬを?!」
 いぶかしげな――というか、明らかに不審人物を見る視線と声を間近から浴びせられ、俺は思わず妙な悲鳴をあげていた。
 見ればいつのまに来ていたのか、そこには頭に白布を巻いた吉継の姿があるではないか。


「こ、これは吉継殿、何か御用で?」
「はい、雲居殿にお聞きしたいことがあって参ったのですが――」
 そこで吉継はいったん言葉を切った。明らかにさきほどの俺の様子に引いている。それはまあ、いい年した男が前触れもなくぶつぶつ独り言をつぶやきだしたら怖いわな……
「……なにやらお忙しいようですし、日を改めたほうが良さそうですね」
「いやいや、別に忙しくは! 少し暇を持て余して、気が緩んでいただけですッ」
 早くも腰をあげかけた吉継を、俺はあわてて引き止めた。
 ――言ってから気づいたが、これだと俺は気が緩むと独り言をつぶやく怪しい人だと自白したことになるような?
 

 いかん、言い訳するにしてももうすこしましな台詞を言うべきだったと内心で慌てるが、幸い吉継はそれ以上追及しようとはせず、再びその場に座りなおした。
 一言二言は皮肉を言われると思っていた俺は少し意外に思い、吉継の様子を伺う。すると、その指先が忙しなく動いていることに気づいた。見れば頭を覆う白布も落ちつかない様子で揺れ動き、視線もあちらこちらに向けられて定まる様子がない。
 明らかに落ち着きを失っている吉継を見て、俺は目を瞬かせる。


 そもそも聞きたいことがあるということだったが、何を聞きたいのだろうか。 
 吉継もこの屋敷の客人として世話になっているのだが、豊前から戻って数日、俺とはほとんど顔をあわせていなかった。
 吉継はその容姿や生い立ち、石宗殿と南蛮神教との関係もあって府内を気軽に歩き回ることができない立場であり、つまりこの屋敷から滅多に外に出ていないはずである。ずっと俺と同じ屋敷で過ごしながら顔をあわせていないということは、つまり会う意思がなかったということだろう。聞きたいことがあるなら、もっと早くにたずねてきても良さそうなものだが。


 疑問に思った俺は、それをそのまま口に出してみた。
 すると、何故か吉継の動きが倍速になった。
「? 吉継殿?」
「それは、その……戸次様に御命令の撤回を懇願して無理だと言われてどうしようどうしようと途方に暮れてえいもうどうしてこうなったと半ば自棄になって心の準備をしていたら気づいたら今日になっていたのです……」
「は、はあ、さようですか」
 動作にまさるとも劣らない早口の説明が、頭巾をくぐりぬけて俺の耳に届けられる。なにやら切羽詰っていることはわかるのだが……うん、すみませんさっぱり意味がわからんですよ。


 明らかに混乱している様子の吉継だが、いつかの夜のように我を失っている様子ではない。ここはとりあえず、吉継の言う『聞きたいこと』というのを聞いてしまうべきか。
 もっとも眼前の吉継が何を聞きたいのかは想像もつかないのだが。答えられる範囲であれば良いのだけど。
「ともあれ、私に聞きたいこと、というのをうかがってよろしいか?」
「は、はい……ッ!」
 俺の言葉を聞いた吉継は、一転して身体の動きを硬直させた。
 正座をした格好で背をこれでもかとばかりに伸ばし、膝頭に置かれた両の拳はきつくきつく握り締められている。


 ――なんかもう、壮絶なまでの緊張ぶりだった。こちらまで緊張が伝染してしまいそう……というか崩していた足を慌てて正座に直さざるを得なかった。
 一体、何を聞こうとしているのだ、吉継殿?! などという驚愕を内心に押し隠しつつ、俺は表面上は冷静を装って吉継の言葉を待った。
 
 
 すると、吉継は何を思ったのか、口ではなく手を動かしはじめた。
 首筋に手を伸ばすと、頭部を覆う頭巾の結び目をするりと解いたのである。
 ふわり、と柔らかい音と共に白布は吉継の手の中に落ち、秘められていた銀の髪と紅の瞳があらわになる。
 頭巾の中の容貌をあらかじめ知っていた俺だが、それでも吉継の容姿を目の当たりにすると息を呑んでしまう。
 人の手が届かない、神域の森の住人を目の前にしたような――いや、自分でも言っていて気恥ずかしいのだが、本当にそんな抒情的(リリカル)な形容が自然に浮かんできてしまうのである。ついでに初めて逢ったときの情景が脳裏にフラッシュバックしてしまい……


 と、そこまで考えた時、吉継がじとっとした眼差しを向けていることに気づく。
「……雲居殿、ご存知でしょうか?」
「は、はい?! 何をですか?!」
「石宗様より伺ったのですが、人間は頭に強い衝撃を受けると、それまで過ごしてきた記憶を失ってしまうことがあるとか」
「た、たしかにそういったこともあると聞いたことはありますね」
「それを聞いて安心しました、二人の智者のお墨付きがあるのであれば、嘘偽りではないのでしょう」
「――と言いつつ、なぜ刀の鯉口を切っておられるのでしょう?」
「人の顔をみる度に不埒なことを思い出しては顔を赤らめる変質者の記憶を削除しようかと思いまして」
「……念のために確認しますが、峰打ちですよね?」
「もう不埒云々のあたりは否定もしないのですね……」
 はあ、とため息を吐く吉継に対し、俺はわざとらしくこほんと咳払いした。
 脳内の光景をとっぱらいつつ、この場を切り抜けるために頭をひねる――かなり本気で。具体的に言うと対毛利戦の作戦を考えた時と同じレベルで。ここで選択肢を誤ると、かなり高い確率でどこぞに『完』の字が刻まれてしまいそうで怖かったのである。




 だが。
 そんな俺を見つめる吉継の口から、不意に小さな笑い声が零れ落ちた。失笑――ではない。本当に、思わず、という感じの微笑だった。
「……吉継殿?」
「……何日も悩んだ挙句、ようやく真摯に向き合う決心ができて、こうしてやってきたというのに……なんでこんな緊張感の欠片もないやりとりになってしまうんでしょう?」
「……いや、緊張感はけっこうあったと思いますが」
 俺も思わずつぶやくと、吉継はにこりと微笑んでみせた。それを見て、自分の頬がさっきとは別の意味で赤くなるのがわかったが、それはたちまちのうちに凍りついた。吉継がこう続けたからである。
「なにか言いましたか、いい年して子供の裸身を思い出して赤面してる軍師殿? というか、今度同じことをしたら、問答無用で戸次様に御報告しますからね。多分、その方があなたには堪えるでしょうし」


 覗いたこと自体は許しても、それ以外のことまで許した覚えはありません。
 ぴしゃりとそう言い放つ吉継に対し、俺は一も二もなくひれ伏して許しを請うしかなかったのである。









「――家族のことを知りたい、ですか?」
 あちらこちらに脱線した後、ようやく本題に入ることが出来た俺たちだったが、吉継の言葉を聞いた俺は戸惑いを隠せなかった。
「それは私の氏素性を知りたいということでよろしいので?」
「いえ、そうではなく。純粋に雲居殿のご家族の為人をお聞きしたいのです。差し支えがあるようなら、名前や生まれた地などは除いていただいて結構です」
「それはまあ、お安い御用ですが……なんでまた、そんなことを聞きたいんですか?」
 俺の疑問に、吉継は何故か恨めしげな視線を向けてきた。え、なんで?
「なんでもありません……とは言えませんね。なんで同じ当事者なのに私ばかり悩まないといけないのか。不条理を感じてもしょうがないというものです」
 と、なにやら低声でぶつぶつとつぶやく吉継。
 しかし、俺には何のことやらさっぱりだった。というか、今日の吉継はいきなり会話の波長がずれる時があるのだが、本当にどうしたのだろう。もしや石宗殿が亡くなって以来の疲労が、ここにきて一気に表面化したのだろうか。


「……私のことはお気になさらず。理由は近いうちに――というか多分、明日か明後日くらいに明らかになります。まあ、その時は逆にうろたえるあなたをのんびりと眺めていられるでしょうから、おあいこということにしておきましょうか」
「ほんとにさっぱり意味がわからんのですが」
 などと言葉を返しつつ、俺は両親のことを思い浮かべる。


 しかし、よく考えてみると――
(誰かに両親のことを話すのは、あの時以来か)
 俺という人間にとって、疑いなく転機となった出来事が自然と思い浮かぶ。同時にあれやこれやも思い浮かんでしまいそうになったので、慌ててそれらの情景、感触その他もろもろをシャットアウト。ここでまたにやけようものなら、本当に吉継に斬って捨てられてしまう。
 こっそりとそんなことを考えつつ、俺はどこか緊張した面持ちで話を待ち受けている吉継に向かって口を開いた。
 どこか郷愁にも似た懐かしさを覚えながら……






◆◆◆ 






 府内は豊後の国の政治、軍事、経済の中心として長い歴史を持つ古都である。大友家が豊後のみならず、豊前、筑前、筑後、肥前、肥後といった北九州全域に影響力を持つようになってからは、その大友家の枢要の地として、人と物の流れの中心地となっていた。。
 くわえて、近年には海外との交易の要としての役割をも担うようになっており、博多や堺に比肩しえる空前の繁栄を遂げていたのである。


 ひとたび街中に出れば、そこには南蛮様式の建物がそこかしこに立ち並び、道行く人の中には当然のように異国人の姿が見受けられる。そんな光景を見ることが出来るのは、日の本広しといえど、ここ府内だけだろう。
 だが、そんな府内の喧騒も日が沈めば落ち着きを取り戻す。もちろん、日が沈んでからが本番だ、という区画もあるにはあるのだろうが、少なくともここ戸次屋敷の周囲は静穏な空気に包まれていた。
 近づく夏の暑気も、今の時刻では海からの風でなだめられている。夜半を過ぎれば、時に肌寒さを感じることさえあるほどだ。
 屋敷の縁側に腰掛けながら、吉継は夜空を見上げていた。あらわになった髪が夜風になびき、月明かりを受けて鮮麗な銀光を映している。
 この光景を見ている者がいれば、自分が見ているのは夢か現か物の怪かと戸惑いを禁じえなかったことだろう。


 無論というべきか、吉継自身はそんなことを考えてはいない。夜空に浮かぶ月を、ただ無心に眺めやっているだけだった。
 否、正確に言えば無心に眺めているわけではなかった。その胸中には、先刻、話を聞いた雲居の声と姿がたゆたっていたからである。


 吉継が雲居に家族の話を請うたのは、無論、先日の道雪の命令が原因だった。
 正直に言って、吉継は道雪がどうしてあんな命令を口にしたのかはわからない。師である石宗の言葉に従ってか、とも考えたが、石宗とてまさか本当に養子縁組をさせるつもりはなかっただろう。あの手紙にあった父や兄という言葉は、あくまで例えに過ぎず、それは道雪とて十二分に承知しているはずなのだ。
 とはいえ、それを道雪に問うても答えてくれず、命令を撤回してもくれない以上、吉継に残されたのは従うか、それとも拒むかの二つに一つ。しかし、かりにも加判衆筆頭たる戸次道雪の命令である。これを拒めば、大友家に吉継の席はなくなってしまうだろう。石宗亡き後、領土も後ろ盾もなく、孤立無援の吉継をかばってくれる人がいるはずもない。


 もっとも、吉継は大友家の臣という立場に執着を抱いているわけではないから、放逐されたところで別にかまわないという気持ちもあった。一人で生きる術も持っている以上、理不尽な命令に唯々諾々と従う必要もない。
 その吉継をためらわせているのは、やはり石宗が残した手紙だった。道雪の命令は多少――いや、かなり行き過ぎた面もあるとはいえ、石宗の遺言に沿ったものであり、だからこそ反感を抱くことも難しいのである。
 無論、道雪本人への尊敬の念も、反感を抱けない理由の一つに含まれていた。明らかに面白がっている様子だったが、そこにはたしかに吉継に向けられたいたわりの念が感じられたから。


「まあ、別に妻になれと言われたわけでもないですし」
 ぼそりとそんなことをつぶやく。
 義理の兄妹、あるいは父娘。吉継と雲居の年齢は十も離れておらず、父娘は明らかに無理があるから、名乗るとすれば兄妹の方が相応しいだろう。実のところ、それ自体は別に構わない、とすでに受け入れている自分に吉継は気づいていた。


 無論、吉継が自発的に喜んでそうしたい、というわけではない。それはもう断じて違う。
 ただ、そうすることで亡き師や道雪がわずかなりと安心できるならば、あえて拒むこともないと思えるのである。 
 では、なんで雲居の家族の話などを聞きに行ったのか。その疑問に対する答えは二つある。その一つは、もう雲居本人に向かって口に出していた。
「なんで私だけ悩まないといけないのか、まったく……」
 何故か道雪は雲居本人に対しては命令を下していない。一度、それは何故かと問いかけたら、口元を手で覆って含み笑いをしつつ、雲居が大友家の家臣ではなく、道雪は命令を下せる立場ではないからだと言っていた。
 それは確かにそのとおりであり、反論の余地がないのだが、あの顔は明らかにそれ以外の理由があると吉継は見て取った。具体的に何を企んでいるかまではわからなかったが……


「結局、私も雲居殿も、戸次様の掌の上で転がされているのかな」
 さしずめ釈迦と孫悟空の関係かと吉継は考え、自分の発想に小さく噴出してしまった。あまりに的確な例えだと自賛したくなる。
 しばし笑いの発作に身をゆだねた後、吉継は口を引き結んだ。
「まあ、それはさておきましょう。今、考えるべきはそこではなく――」
 形はどうあれ笑ったことで、吉継の思考は再び眼前の問題に立ち戻る。


 雲居が順風な生を送ってきたわけではないことは吉継も察していた。
 明らかな偽名を名乗り、戦略に長け、戦術に通じ、九国最高の名将たる戸次道雪とまがりなりにも対等の立場で言葉をかわす人物が、安穏とした生を送っているはずもない。
 今でも思い出すと顔から血の気が引いてしまうのだが、以前、吉継が狂乱の態で雲居に斬りかかった時、和尚もそれをにおわせることを口にしていた。
 和尚が気づいていたということは、おそらく石宗も同様に察していたのだろう。だからこそ、出会って間もない雲居に吉継のことを託そうとしたのだろうか。


 吉継はまだそこまで雲居に信を預けているわけではないが、あらためて顧みれば、すでに十分すぎるほどに雲居の存在を受け入れている自分に気づいて驚いてしまう。石宗自身を除けば、ここまで他者を近くに感じたことはかつてなかった。
 これが人徳というものなのかと思い、あらためてその特異な存在に興味を惹かれる。
 雲居を訪ねた理由のもう一つがこれだった。
 師である石宗。
 その菩提寺の和尚。
 さらには戸次道雪。
 そんな人傑たちに認められる雲居筑前という人物を少しでも知ることが出来れば。そう考えたのである。


 結果として、少なからぬ事実を知ることが出来た、と吉継は思う。
 雲居の父と母に向けられた尽きせぬ尊敬と自責の念。驚いたことに、雲居もまた吉継と半ば重なる意味において二親の死に責任があるという。
 その事実に、自分では気づかぬままに壊れそうになっていたのだと、雲居はこともなげに語った。そして、とある人物に、その寸前で引き止められたのだ、と。


 そのことを語ったときの雲居の顔に、吉継は名状しがたい感情を覚えた。それが何という名前の感情なのかは今になってもわからない。羨望といえば羨望だろうし、焦燥といえば焦燥かもしれない。だが、あえて名前をつける必要はないのかもしれないとも思う。
 同時に、いつかの月夜、和尚が雲居に向け、感嘆と共に言った言葉が脳裏をよぎる。


『良き出会いを、そして良き別れを経てこられたのであろう。それは、これから先の吉継殿になにより必要なことだとは思われませんか』


 その言葉の本当の意味を知ることは、多分、今の自分には無理だろう。吉継はそう思う。他者との接触を避ける者に、出会いも別れもおとずれるはずがないのだから。
 しかし、だからといって、今日これから今までの生き方を転換させることなど出来ようはずもない。吉継は自分がそんなに器用であるとは思っていないし、かりに吉継がそうしたところで、他者がそれを受け入れてくれるとも思えない。手を差し伸べたところで、振り払われてしまうのが関の山だろう。


 そんなことを考えながら、吉継は空を見上げる。彼方に浮かぶ月に目を向け、そして――
「……でも、そんなことばかりは言っていられない、か」
 ぽつりと。本当に囁くように、吉継はその言葉を紡ぎ出していた。
 本当のことを言えば、ずっと悩んでいたのだ。ずっと――父と母の生に、どのような意味を込めるのかは吉継次第だと、あの日、和尚に言われてから、ずっと。


 今回の件で何もかも変えることは出来ないが、少なくともきっかけにすることは出来るだろう。
 半ば強いられるような形になってしまったが、逆に言えばこんな妙な出来事がなければ、いつまでも意を決することが出来なかったかもしれない。
 いや、あるいはもしかしたら――
「戸次様は、見抜いてらしたのかな?」
 だとすれば、やはりとてもかなわない、と吉継は嘆息する。嘆息しつつ、それを打ち消すように両の手で自分の頬を叩いた。


 思いのほか力がこもっていたらしく、ばちん、とやたら良い音があたりに響く。じんじんと伝わってくる頬の痛みは、目を覚ますには十分すぎるほどの刺激だった。
 そうして吉継はゆっくりとその場に立ち上がる。
 脳裏に浮かぶのは、さきほどの雲居の話の最後の部分。
『あとまあ、一人、妹がいるにはいるんですが、義理の……といっていいのかな?』
 たしかそんな風に言っていた。であれば――



「……やっぱり二番煎じというのは面白くないですね」
 そんなことを口にしつつ、銀髪の少女は屋敷の主の部屋へと足を向けた。
 一つの結論を告げるために。 




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第三章 鬼謀(三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:9e91782e
Date: 2010/10/24 14:48


 南蛮神教は清貧と奉仕の精神を尊ぶ宗教であり、自然、その信者の生活も質素を旨とするものとなる。
 俺の眼前に座る人物は、名実ともに九国の頂点に立つ身であるはずなのだが、みずからが信じる教えに沿ってのことなのだろう、普段の生活態度は驚くほどに慎ましやかなものであるそうだ。
 今も着ている衣服は黒を基調とした修道服のみで、装身具らしきものは簪一つ見当たらない。あえて贅沢をあげるなら、近年、西方から伝わってきた眼鏡をかけていることぐらいだろうが、これとて政務を執る上で必要だから用いているだけなのだと思われた。


 大友家第二十一代当主、大友フランシス宗麟。
 俺の眼前にいるのは、まさにその当人である。
 様々な話を聞いた後での謁見であるだけに、俺はあらかじめ宗麟がどのような人物であるのか、いくつもの予断をもってこの場に臨んでいた。
 大友宗麟が南蛮神教に耽溺し、国内に波風を立てたのは覆しようのない事実であるが、それでも道雪殿をはじめとした大友家重臣たちを統御する大国の主である。また、府内の繁栄を見るだけでも、その施政に見るべきものが多くあるのは明らかだった。
 単純に暗君、名君の二つで分けられるような人物ではあるまい。そう考えていた俺の前にあらわれたのは―― 


 一見したところ、他者と違う『何か』を感じさせるような人物ではなかった。
 質素な修道服に身を包み、所作も礼儀正しく控えめである。重臣筆頭である道雪殿とのやりとりも穏やかかつ明晰であり、連戦を強いた道雪殿に対して労を強いたことへの詫びを口にするところを見れば、配下に対する気遣いも出来る為人であるようだ。少なくとも、初見で欠点を指摘できるような人物ではなかった。
 強いて気になる点を挙げると、質素な修道服――言い換えれば布地が薄い衣服は、宗麟の豊麗な肢体を過度に強調しているように見えてしまい、俺のような男性から見れば、やや目の毒であった。付け加えれば、目元の泣きぼくろのせいか、どこか濡れたように見える眼差しや、あるいはちょっとした所作の中に見え隠れする科(しな)が奇妙に扇情的に映る時がある。


 そういった点が少し気になったのだが……まあ冷静に考えると、かりにも一国を統べる大名に対して「大名にしてはちょっと色気がありすぎませんか」と言っているようなもので、そんな感想を抱く俺の方がよっぽど問題ありかもしれん。道雪殿に悟られたら、ぽかりとやられそうな気がするのでいらんことは考えないようにしよう。





 ここは府内の中央に位置する大友館である。
 かつて二階崩れの変において全焼した大友館を建て直したものだが、建物自体は以前のそれとは大きく異なっている。随所に西洋建築の影響が見られ、館というよりは宮殿のような印象を受けた。
 聞けば臼杵の石工をはじめとした最高峰の人材と物資をつぎ込み、文字通り大友家の総力をあげてつくりあげたらしい。
 今では隣接する南蛮神教の大聖堂と並び、府内の景観を代表する建物となっており、大友家の権力の象徴として、また南蛮神教の威光を示すものとして、異国から訪れた南蛮人たちでさえ感嘆を禁じえないともっぱらの評判であった。


 言うまでも無いが、大友館は九国探題たる大友家の政治、軍事、経済の中枢である。
 そんな場所にどうして俺がいるのか。他紋衆の乱における功績ゆえ――ではない。俺の献策がそれなりに役立ったことは事実だが、大友家の家臣ではない俺の策を道雪殿が採用した、などと知られれば厄介事の種になりかねない。南蛮神教あたりに付け込む隙を与えることにもなってしまうだろう。
 そんなわけで、俺の献策の功績は丸々道雪殿に預けることにしたので、この場に呼ばれる理由にはならないのである。


 今日の俺の立場は単に道雪殿のお供であった。断ろうと思えば断れたのだが、大友館の様子や、宗麟の為人を見るには絶好の機会でもある。それに、南蛮神教が大友家の政治にどれだけ食い込んでいるのかを確かめることが出来るかもしれない、という狙いもあった。
 遠からず府内を離れる身とはいえ、それまでに向こうが何か仕掛けてこないとも限らないのだ。そんなわけで、こうしてここまでやってきたわけだが――



「――道雪をはじめとした皆々の奮戦の甲斐あって、領内における混乱は最小限で済んだといえるでしょう。改めて此度の征戦における皆さんの働きに感謝いたします」
 その宗麟の言葉に、道雪殿と紹運殿、そして今回の戦に従軍した吉弘鑑理らが一斉に頭を下げる。
 勝利を賞す場とはいえ、その雰囲気は決して明るいものではなかった。それも無理はない。勝利を得たとはいえ、戦った相手はつい先日まで轡を並べていた同輩なのだ。
「鑑元のことは残念でしたが……」
 それは宗麟も同様であるらしく、その表情には深い憂いが満ちており、祈るように左右の手を重ねる様子は、とてものこと異教に耽溺した暗君には見えなかった。


 宗麟の言葉に、ひときわ沈痛な静寂が周囲に満ちる。
 だが、次の瞬間、それは無造作に破られた。
「フランシス、あなたが心を痛めることはないのですよ」
 その声は宗麟の傍らに控えた宣教師カブラエルのものだった。
「カブラエル様……」
「誠心をもって神に仕える貴方の行いは、非の付け所のないものでした。神はそれを嘉したまうことはあっても、罰を与えることは決してありません。それは神の使徒たるこの私が断言します」
 宣教師の言葉に、宗麟は戸惑いをあらわにする。
「けれど、鑑元に叛かれたのはわたくしの不徳ゆえではないでしょうか?」
「それは心得違いですよ、フランシス。そも前提が間違えているのです。此度のこと、神の忠実な信徒である貴方への罰ではありません。むしろ逆なのです」


 主君と宣教師との会話は声を潜めることなく行われている。
 つまり俺たちの耳にもはっきりと届いており、俺はカブラエルが言わんとしていることを察した。俺だけでなく、この場にいる多くの者たちが気づいたことだろう。
 そして俺の予想にたがわず、宣教師は言葉を続けた。
「将来、貴方に害をなす獅子身中の虫を、神はあぶりだしてくれたのですよ。げんに小原なる者、我らの神を信じず、あまつさえ貴方に信仰を捨てるように求めていたとか」
「それは……そのとおりです」
 力ない呟きが宗麟の口からこぼれる。小原鑑元が幾度も宗麟の南蛮神教の傾倒を諌めていたのは事実だった。


「我らが神は唯一絶対のもの。けれどその存在はあまりに尊く、人がその慈悲を知るには時が必要となります。私の国でも、すべての国民が教えを奉じるに至るまで長い時がかかりました。ゆえに教えを信じられないという者がいても、それは仕方の無いこと。そういった者たちに神の慈悲と栄光を知らしめることこそ私たち宣教師の務めであり、喜びでもあるのです。しかし――」
 そこでカブラエルは一旦言葉を切った。その眼差しに刃の鋭さが宿る。
「他者に教えを捨て去るよう強いることは、たとえ一国の王であっても許されることではありません。それは暴挙と呼ぶことすら生ぬるい悪魔の所業――フランシス」
 宗麟にとって、カブラエルは常に優しさと穏やかさを失わない人物だった。そのカブラエルが鞭打つような勁烈な響きを持って言葉を発したため、宗麟は竦んでしまった。
「は、はい、カブラエル様……」


 宗麟が怯えていることにおそまきながら気づいたのか、カブラエルはやや慌てた様子で語調を柔らげた。
「すみません、少々感情が昂ぶってしまったようです。私もまだまだ修行が足りません、この様では信徒を導くなど夢のまた夢ですね……」
「い、いえ、そのようなことはございませんッ。カブラエル様のお導きなくば、今のわたくしはありえなかったのですから」
 慌てたような宗麟の言葉に、カブラエルは心底うれしげに微笑んだ。宗麟の頬が目に見えて赤らむ。
「ふふ、その一言で私が海を渡った甲斐があったというものですね――改めて問います、フランシス」 
「は、はい……」
「貴方は、神の教えを捨てるつもりはありますか?」
「ありませんわ、カブラエル様。それだけは決して――この身が煉獄の炎に包まれようと、わたくしの心は主と共にあり続けるでしょう」
「良い目です。貴方の信仰を妨げることが出来るものは、この世界のどこにもおらぬでしょう」
 ゆえに、とカブラエルは続ける。
「そんな貴方の信仰を快く思わぬ小原はいずれ必ず反逆したでしょう。避けられぬことであれば、むしろこの時期にあの者が暴発したことこそ幸運というもの。敵国との戦の最中にでも反逆されていれば取り返しのつかない事態になりかねなかったのですからね」    
 




 そのやりとりに対する家臣団の反応は、俺の目には三つに分かれたように見えた。
 すなわち忌々しげに顔をしかめる者と、追従するように笑みを浮かべる者と。
 どちらかといえば前者は年長者に、後者は壮年以下の若年層に多かった。
 そして最後の一つは――そんな主君の様子を沈痛な表情で見つめる者たちであった。


(なるほど、な)
 いわく言いがたい沈黙に満ちた場に立ち会ったことで、俺ははじめて大友家の内憂を実感することが出来たように思った。
 俺がこれまで出会った大友家の人々――石宗殿に道雪殿、吉継やカブラエルなどは、皆それぞれに複雑な事情と立場を抱える人たちであり、彼らと言葉を交わしたことで大体の問題を理解しているつもりだったが、この場の空気に触れたことで、その理解がいかに浅いものであることかもわかった気がした。


 すると。
 そんなことを考えている間に、いつのまにか宗麟が立ち上がり、こちらに向けて歩いてきた。
 その向かう先は道雪殿でも鑑理でもない。無論、俺でもない。宗麟が向かう先にいたのは――
「イザヤ、無事でよかったです」
 宗麟の呼びかけに応えたのは、俺の隣に座していた人物だった。
「……恐れ入ります、宗麟様」
 その人物、戸次誾は低く抑えた――つまりは感情が表に出ない声で主君に応えた。
「おおよそのことは道雪と鑑理の書状で知っています。二人のことですから、面と向かって貴方を褒めてはいないでしょうが、見事な手柄であったと記していましたよ?」
 そういって楽しげに、また誇らしげに微笑む宗麟。
 表情からも、また口調からも親愛の情をありありと感じ取ることが出来た。


 警戒心を感じさせない、どこか童女のような宗麟の姿を目の当たりにして、俺はいささかならず意外の観に打たれていた。
 それは主君と部下というより、ほとんど友や家族に対する距離感であるように思われたからだ。大友家当主が、これほど親しみを見せる相手は多分数えるほどしかいないのではないだろうか。
 だが。


「いまだ未熟、若輩の身。宗麟様からそのようなお言葉をいただくには恐れ多く、また不相応であると心得ます」
「そんなことはないでしょう。年若いとはいえ、すでにあなたは大友武士の一人なのですから。それと、できればわたくしのことはフランシスと呼んでほしいのだけれど、イザヤ」
「お許しくださいませ。いただいた洗礼名さえ、今のそれがしには相応しくないものと思っておりますゆえ」
 誾の口から出るのは硬く、強張った声。その顔はいまだ伏せられたままで、どのような表情が浮かんでいるのかを知る術はない。
 それでも、誾が宗麟に対して隔意を抱いているのは明らかであるように思われた。他人の俺でさえそう感じたのだ、当然宗麟もそうと悟っただろう。顔を伏せたままの誾を見る宗麟の表情は曇り、その目がさびしげに伏せられた。




 すると、そんな宗麟を気遣うように道雪殿が口を開いた。
 ただ、その口から出た言葉は俺が予想もしていなかったもので――
「宗麟様、こちらが先日お話しした方です」
 そう言って目で指し示したのは誾の隣にいる俺だった――って、はい? 先日話した?
「そうでしたか、雲居、筑前殿、でしたね」
 宗麟の眼差しがまっすぐに俺に向けられる。そう言われてしまえば、こちらとしても応じざるを得ない。内心の戸惑いを表さないように注意しながら、俺はかしこまって頭を下げた。
「はい、雲居筑前と申します。お初にお目にかかります」


 その俺の様子が可笑しかったのか、それともさきほどまでの空気を払拭したかったのか、宗麟は短く声をあげて笑った。
「ふふ、そのようにかしこまらずとも結構ですよ。此度のこと、道雪よりおおよそのことは聞いています。神と大友のために尽力いただけたこと、感謝しています」
「は、おそれいります」
 宗麟に応えながらも、これでは話が違うのではないかと道雪殿に視線を向ける。
 しかし、当の道雪殿は俺の視線に気づくや、澄ました顔でにこりと微笑みを返すだけで悪びれた様子もない。


 一体、何を考えているのやら。
 道雪殿の様子を見て、内心で深く息を吐く。ため息ではないが、限りなくそれに近い成分の吐息だった。
 そんな俺に向けて、なおも宗麟は言葉を向けてきた。
「雲居殿」
「はい」
「大谷家のことは、わたくしども大友宗家にも責があります。カブラエル様も、信徒の一部が暴走してしまったことを長い間悔いておられました。本来ならばわたくしが大谷家の名誉を回復し、臣として吉継を迎え入れるのが筋なのですが……ご存知のように、わたくしは師である石宗にその責を委ねました。府内に迎えることが、吉継にとって望ましいことかどうかがわからなかったからです」
 そう言って、宗麟はじっと俺を見つめた。
「正直に言えば、今も迷っています。今からでも吉継を大友家に迎え入れるべきではないか、と。しかし、吉継と貴方が望み、それを道雪が諒としたのならば、おそらくそれが最も良い方策なのでしょう。ですから、わたくしは神の膝元であるこの地で新たなる絆がうまれることを喜び、その幸福が長からんことを神に祈りましょう……御身らの行く末に神の御加護がありますよう」
 そう言って十字をきる宗麟に対し――


(……は?)
 その言葉の意味がさっぱりわからない俺は、ぽかんと呆けたように口を開けることしか出来なかったのである。  
 
 


◆◆◆




 そして数刻後。


 俺は大友館でそうしたのと同じように、口をあけて呆ける羽目に陥った。否、むしろ衝撃の大きさで言えば今の方が大きいほどだ。意味不明の度合いでいっても、比較にならん。
 なにせ――
「……おとうさま?」
 呆然と問い返した俺に、眼前に座る銀髪の少女はしごく真面目な表情で頷きを返してきた。
「はい、お義父様。不束者ではありますが、これからよろしくお願いいたします」
 いや、その挨拶はおかしい――そう指摘する余裕など、俺にあるはずもなかった。
 脳裏には無数といって良い疑問符が飛び交い、胸中には疑問の言葉があふれんばかり。それらをまとめることもできず、言葉を発することも出来ないままに俺の口は無意味に開閉を繰り返す。
 率直に言って、ここまで驚愕したことはいまだかつてない、と断言してよかった。


 だが、大きすぎる驚きは、かえって静まるのも早いのかもしれない。
 それでも線香が一本燃え尽きるくらいの時間がかかったような気がするが、その間、吉継は辛抱強く(という割には、どこか愉しげだったが)待っていてくれた。



「……まずは何からたずねるべきなのでしょうか」
 ようやく搾り出した問いに対する答えは迅速だった。
「とりあえず首謀者は戸次様です」
「了解しました」
 それだけで通じ合えるのは、一時とはいえ戸次軍で軍師を務めた者同士の共感(シンパシー)のなせるわざか。
 とはいえ、実際その一言で色々と不可解だったことの解答が出たのは事実である。 
「なにかやたらと豪華な酒食が並んでいるのはやはり……」
「固めの杯のつもりではないかと」
「やっぱりか……」


 道雪殿の悪戯はいいかげん慣れてきたが、さすがにこれは悪ふざけで済む話ではない。
 どこがどうなって『お義父様(おとうさま)』に繋がったのかは不明だが、吉継が自発的にそんな真似をするはずがない。
 であれば、おそらく道雪殿からなんらかの圧力(?)がかかったのだろう。たとえば、そう……『加判衆筆頭としての命令ですよ』などと道雪殿が口にすれば、生真面目な吉継のことだ、ごまかすことも出来ずに不承不承従ってしまうのではなかろーか。


 道雪殿がこんなことを企んだ理由や、何を望んでいるのかは何となくわからないでもないが――うん、やはりやりすぎだろうな、これは。
 あるいはこの席に呼んでおきながら、本人が姿を見せないのはこちらの追求を避けるためか。そう考えた俺はその場を立ちかけたのだが――


「お義父様、どちらへ?」
 いち早く察した吉継の声に機先を制された形になり、立ちあがる機を逸してしまう。
(というか、なんでこんなにノリが良いんだ、吉継は?)
 吉継の境遇を考えれば、たとえふざけ半分であっても、他者を父と呼ぶことに抵抗を覚えると思うのだが……


 そう思いつつあらためて吉継を見やると、そこにはこれでもか、と言わんばかりに頬を赤らめた少女の姿があった。
 日の光を浴びる機会の少ない吉継の肌が白いのは当然である。だからこそ、頬に朱を散らばせれば、余計にそれが映えるのも当然だった。
 ついさっきまでは、これほどあからさまに恥ずかしがってはいなかったように思うが、あるいは時間の経過と共に自分の言動をはっきりと自覚してしまったのかもしれない。




 そんなに無理をする必要はないのに、と俺は口にしかけた。
 しかし、ふと疑問がよぎった。いくら道雪殿に強いられたからといって(確認してはいないが、まあほぼ確定だろう)ここまで唯々諾々と吉継が従うだろうか、と。
 石宗殿亡き今、吉継は大友家の臣籍にそれほど執着は持っていないだろう。豊前での戦の時、吉継が積極的であったのは、石宗殿の代わりを道雪殿に求められたからであろう。手柄を立てて大友家における席を確保しようとか、そういった感じはなかったように思う。
 であれば。
 いくら道雪殿の命令とはいえ、望みもしない養女縁組を肯うはずがない。まして相手は良く知った相手ではなく、四ヶ月前までは存在も知らなかった俺なのだから尚更である。


 逆説的に。
 吉継がうなずいたのであれば、俺の養女になることを望んでいるということになるのだが――
「って、いや、それはありえん」
 思わず口をついて出てしまった言葉に、吉継が頬を赤らめたまま首を傾げた。
「お義父様、ありえないとは何のことですか?」
「今の俺の前に広がる状況すべてが」
「それはさすがに失礼だと思います」
 むっとした様子でこちらを見据える吉継。そこにはどこか見慣れた観のある険のある眼差しがある。それでも出会った頃を振り返れば、くらべものになるくらい柔らかいものだったが。
 


 いまだ状況が掴めず、困惑しきりの俺。
 すると、目の前の人物が不意に表情を崩して笑い声をあげた。
 それはこちらを嘲る素振りは微塵もなく。本当に楽しくて楽しくて仕方ないという感じの、子供のような笑い声。
 今の今までずっと堪えていたのか、一度あふれてしまった笑い声は容易におさまらず、しまいにはあまりに笑いすぎて咳き込みはじめてしまった。
「大丈夫ですか?」
 俺は唖然を通り越して、かえって平静になった。はじめて見る吉継の姿があまりに意外で、驚きの感情も飽和してしまったようだ。立ち上がって吉継に近づくと、げほごほと咳き込んでいる吉継の背を撫でてやる。
 それでもしばらくは苦しげに身体を震わせていたことから、俺の困惑ぶりはよほど吉継の琴線に触れてしまったと思われる――なんかもう、本当にわけがわからん。



 知らず、俺の口から大きなため息がこぼれ出た。
 と、その途端だった。
 今、俺は右手で吉継の背を撫でており、左の手は膝の上に置かれている。その左手を吉継がぎゅっと握りしめてきたのである。
「――なッ?!」
 突然の行動に驚き、咄嗟に左手を引いたのだが、吉継は思いのほか強い力で俺の手を握り締めて話さない。
 何事?! と慌てて吉継を窺うが、相変わらず顔を伏せたままで、身体もまだ震えている――それは笑いの発作がおさまっていないのだ、と俺はそう思っていたのだが……


「……雲居殿」
 呼びかけの声は震えていたが、そこに笑いの成分は一滴も含まれていなかった。
 俺の呼び名が元に戻り、よく見れば室内の灯火に映し出された吉継のうなじは朱に染まっている。 吉継が何かを堪えているのは間違いないと思うのだが、戦術や政略とはまったく異なるこういった方面の人生経験には悲しいほどに乏しい身、何をどうすれば良いのかさっぱりわからない。


 率直に言って、後背から一千の大軍に急襲されても、ここまで狼狽しなかっただろう。
 もうこうなったら逃げ出すしか、ときわめて後ろ向きな決断を俺が下しかけた時、それを察したのか吉継の手にひときわ力が篭る。
 そして――その口から今にも宙にとけてしまいそうなか細い声が紡ぎだされた。



 もしこの時、俺がその言葉をわずかでも聞き落とそうものなら取り返しのつかないことになっただろう。おそらく、吉継は二度は口にしてくれなかっただろうから。
 だが幸いにも俺は、吉継の言葉を聞き漏らすことなく、短からぬ話を最後まで聞き取ることが出来た。


 それはここ数日来――否、道雪殿から俺を『父』か『兄』のいずれかにするようにという命令を下されてからずっと吉継が考え続けてきたことの答えだった。
 父と母が守り続けたものを守り継ぐために。
 そして、みずからの手でその価値を高からしめるために大谷吉継が導き出したその答えを。


 ――俺が否定できるはずもなかった。






◆◆◆






 喉元を通り過ぎる酒はとうの昔に冷たくなっていたが、主観的にはえらく熱く感じられた。
 決して吉継が飲んだ杯をそのまま受け取って口にしたから、という理由ではないのだが……いやまあ、それを含めて羞恥の感情がないといえば嘘になるか。俺の向かいでは吉継も顔を真っ赤にしたままである。先刻からずっとあの状態が続いているし、そのうち頭に血がのぼって倒れてしまうのではないかと、半ば本気で心配してしまう。
 そんなことを考えつつ、俺は一息で杯の中に残っていた酒を飲み干し、杯を戻す。
 そして、俺と吉継ははかったように同時に頭を下げた。互いに相手に礼を示したのだが、半分くらいは顔を隠したかったためだった。吉継の顔が赤いなどと言ったが、多分、俺も負けず劣らず、といった感じだろう。


 しかし、たった今、固めの杯を終え、正式に家族となったという現実に、照れやら戸惑いやらを覚えるのは仕方ないことではなかろうか。
 とはいえ、年長者がいつまでも黙っているのもいささか情けないので、顔をあげつつ無理やり口を開く。
「では、その、なんですか……あらためてよろしくお願いいたします、吉継殿」
「……こちらこそ、よろしくお願いいたします、お義父様」


 俺はどうしても照れを消せずにいたが、吉継の方は経緯はどうあれ一応の落着を見たことで、意外に早く落ち着きを取り戻したらしい。
 次に俺に向けられた言葉は、若干の険があったものの、思いのほか穏やかなものだった。
「ところで早速ですがお義父様」
「は、なんでしょう?」
 吉継のやや強張った声音に気づいた俺は、ほとんど反射的にぴんと背筋を伸ばして吉継に対する。

  
 そんな俺を、吉継は呆れと苛立ちをない交ぜにしたような顔で見据えた。
「率直に言いますが、『雲居殿』を『お義父様』と呼ぶのはとても恥ずかしいのです」
 二つの呼び名に力を込めつつ、吉継はそう告げる。
 それはまあ当然といえば当然のことで、俺としてはうなずくしかない。そんな俺に、なおも表情をかえずに吉継は続ける。
「しかし、何事もまずは形からといいます。それゆえ、傍から見れば滑稽きわまりないでしょうが、羞恥をおさえて私はお義父様と呼んでいるのです。しかるにお義父様の方はかりそめにも娘に対して『吉継殿』などと……これでは私一人、猿芝居を続けているようではありませんか」
「む……それは、確かに……」
 その言葉に込められた説得力に、俺は頷く以外の選択肢を持たなかった。


 しかし、である。
 では娘は何と呼べばよいのだろう?
 吉継さん――むう、個人的には悪くないが、殿と付けるのと大差ない気がする。保留。
 吉継ちゃん――ありえん。かりにも大友武士の一人である人物に対して失礼すぎる。却下。
 桂松――吉継の幼名である。親が子を呼ぶには良いかもしれないが、吉継が俺に望んでいるのはそういうことではない気がする。保留。
 刑部――将来の吉継の官位・刑部少輔の略。知識は有効に使わなければならない。しかし今の吉継にとっては戯言以外の何物でもないな、はい却下。
「むうう……ッ」
「いや、そこまで顔を険しくするほどのことではないと思うのですが……」
 俺が真剣に悩んでいると、吉継は困ったように頬に手をあてた。とはいえ、自分からこう呼んでくれとは言いにくいのだろう、開きかけた口はすぐに閉ざされる。


 く、ここで選択肢を誤ると、いろいろとまずい気がするッ。
 しかし、人間焦れば焦るほど泥沼にはまっていくもの。思い浮かんだ呼び名の多くは却下となり、保留したものの中にも決定的な確信を持てるものはなく。
 そんな俺の苦悶を呆れまじりに見ていた吉継だったが、ついには頭を抱えて呻き出した俺を見かねたのだろう、ため息まじりに助け舟を出してくれた。  
「『吉継』と」
「……は?」
「普通に名を呼び捨ててくれれば良いですよ。というか、何をそんなに悩んでいるのやら。お義父様の脳裏に浮かんでいた呼び名を教えてほしいくらいなのですが」
「あ、なるほど……それがあったかッ」
「……普通、第一候補にくる呼び名に心底感心してますね。本気でどんな呼び名を検討していたのか知りたくなりました」




 呆れきった吉継の言葉に反論することも出来ず、照れ隠しの意味もあって俺は視線をあさっての方角に向けた――正確には障子の方に。
 そして。
 月明かりで仄かに障子に浮かび上がる影に気づいたのである。



 室内の灯火に半ば打ち消されていたため、はっきりと視線を向けるまでは全く気づけなかった。
 ――遺憾ながら、その人影の正体はなんとなく察しがついた。今に至る経緯を考えれば、その人物がここにいることは問題ではない、いやそれも問題といえば問題なのだが、肝心なのはそれが誰なのかではなく、いつからそこにいたのか、である。
 その人物の性格から察するに、途中からこっそりと聞き耳をたてていた、というほどの慎みを期待できるとは思えなかった。それどころか、最初からあまさず室内の様子に耳を傾けていましたと笑顔で答えるに違いない。それはもう俺の中で確信を通り越して事実になりつつあった。


 すると、凍りついた俺に気づき、吉継もまた不思議そうに俺が凝視している障子に目を向ける。
 まるでそれを待っていたかのように、室外から声が響いた。
「あら……気づかれてしまったようですね」
「あ、義姉様、ですからこのようなことはやめるべき、とあれほど申したのですッ」
「そう言いながら、あなたもかじりつくように聞いていたではないですか、紹運。そうですよね、こっそり離れようとしているそこの二人?」
「ど、道雪様ッ」
「むう、ここは主君がわが身をもって臣下をかばうべき場面ではありませぬか、道雪様」
「ふふふ、主を見捨てて逃亡をはかるような者を臣下にした覚えはありませんよ、鎮幸」
「ふむ……ここは諦めて首を差し出すか、惟信」
「わざわざ名を出さないでくださいッ。それに、わたしは道雪様のお供をしただけで中の会話を盗み聞いたりは――」
「といいつつ、雲居殿の甲斐性の無さに幾度も舌打ちしてたではないか」
「舌打ちなどしていないッ! あ、あれは、その、あまりに吉継殿が不憫だったから、つい……甲斐性のない男ほど、この世に厄介で面倒なものはないのだッ」



 唐突にはじまった戸次家(+吉弘家)主従の言い争いに、俺と吉継は知らず互いの目を見交わす。
 俺たちは、相手の目の中に自分とまったく同じ感情を見つけるや、同時にその場から立ち上がった。
 そして迷うことなく室外に向けて歩を進める。すると、何故か畳がたわみ、室内の調度が揺れた。
「――ふむ、すこし建物が老朽化してるようだな。普通に歩いただけでこの有様とは」
「同意です。これは盗み聞きのことと併せて、戸次様ときちんと話し合うべきでしょう」
 そう言い交わしながら、俺はゆっくりと障子を開ける。
 特に力を込めてもいないのに、何故だか物凄い勢いで障子は開き、戸次屋敷全体に響くような大きな音を立てた。


 俺はぽつりと呟く。
「掃除が行き届いているから、障子の滑りも良いんですね。さすが良い臣下を抱えておられる――戸次、道雪様」
「お褒めにあずかり恐縮です、雲居筑前殿」
 俺の目の前で、道雪殿はにこりと微笑んだ。ついさきほど想像したとおりである。
 だが。
 その額の冷や汗に気づかない俺ではない。
 そして、その隣であたふたしている義妹様にも声をかけた。
「――今宵は月が綺麗ですね、吉弘紹運殿」
「そ、そうだな、実に良い月だなッ、雲居殿」
「ええ、本当に。月の光強きゆえに、室外の人影がはっきりと障子に映っておりましたよ。ふふふ、半刻以上も気づかなかったとは、油断であったと責められても仕方ありませんね。身をもってそれを教えてくれたのであれば、それがしは紹運殿に感謝すべきなのですが……」
「あ、それは、だな……うぅ……」
 スギサキの武辺者が、一言も言い返すことができず、その場で力なくうつむいてしまった。


 その隣では。
「これは戸次家の双璧たる方々がこのような場所でおそろいとは、めずらしゅうございますね」
「うむ、この見事な月夜に誘われてな。みなで一献くみかわそうと吉継殿らを招きに来たところよ」
「それはありがとうございます、小野様。ご来訪に気づかず、半刻以上もお待たせして申し訳ありませんでした」
「なに、気になさるな。おかげで貴重なものを見聞きでき――」
「鎮幸殿ッ」
「――ぬ、しもうたッ、さすがは軍師殿じゃな」
 してやられた、と驚いている鎮幸を見つめる二対の視線。
 やがてぽつりと吉継が呟いた。
「……由布様」
「な、何かな、大谷殿」
「……ご苦労なさっておいでのようですね。お察しいたします」
「……お気遣い、痛み入る」


 一部、なにやら友情めいたものが芽生えていたが、それでめでたしめでたしで終わるはずもなく。
 この後、俺と吉継は地位も年齢も職責も自分たちよりはるかに高い、九国を代表する大友武威の象徴ともいうべき方々に対し、小一時間説教することとなったのである……




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第三章 鬼謀(四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:9e91782e
Date: 2010/11/12 22:44
 豊後国府内、戸次屋敷。
 吉継にお義父様と呼ばれても赤面しないようになったある日のこと。
 俺は屋敷の主殿に呼ばれて、その部屋に訪れていた。
「ご足労いただきありがとうございます、雲居殿」
「戸次様の屋敷で世話になっている身です。この程度のこと、礼を言われるまでもありませんよ」
 俺の言葉ににこりと相好を崩す道雪殿は、あいかわらずお綺麗でありました。


「そう言っていただけると助かります。わたくしから出向こうかと思ったのですが、少々表では話しづらいことですので……」
 ほう、と思わず道雪殿の顔を一瞬だけ凝視してしまった。
 そしてにこやかに告げる。
「『吉継殿とは上手にやっていますか、お義父様?』……とか仰るつもりではございませんよね?」
「……あら、なんのことでしょう?」
「いえいえ、違っていたのなら結構です。お答えになるまでの間が何なのかはあえて問いますまい」
「ご配慮感謝します、と言うべきでしょうか」
「それはそれがしが答えるべきことではないと存じます」
 あははおほほと笑いあう俺と道雪殿。我ながら何やってんだか。


 しばし後。
 こほん、と咳払いした道雪殿が表情を改めて口を開く。
「冗談はこのくらいにしておきましょう」
「承知いたしました」
 その眼差しに真剣なものを感じ取った俺は、姿勢を正して道雪殿の言葉を待ち受ける。
「それでは――」
 思わずこちらが怯みそうになるほどの深い黒の瞳に、俺の顔が映っている。
 知らず息をのんだ俺に、道雪殿は真剣そのものの調子でこう言った。
「お義父様と呼ばれることには少しは慣れまして、お義父様?」


 ……この時、俺が懐の鉄扇で道雪殿の頭を叩きたくなったとしても、一体誰がそれを責められようか?





「帰っていいですか?」
「駄目です」
 いろんな意味で脱力した俺がじと目で言うと、道雪殿は輝くばかりの笑みを浮かべた上で、首を横に振る。なんかもう悪戯が成功した子供のようで「我が事成れり!」と顔に書いてあった。
 確かあなた、俺より年上ですよね、鬼道雪様?
「それではあらためまして――」
「一応申し上げておきますが、次に同じことをしたら無言で席を立たせていただきますからね」
「ご安心を。わたくしは引き際を心得ぬ猪武者ではございません」
「たしかに。そして奇襲が大の好物なんですね」
 わかります。


 ふん、と俺がそっぽを向いていると、道雪殿はさすがに少し困ったように首を傾げていた。
 少々からかいすぎたと反省したのか、それとももう十分からかって満足したのかは不明だが、今度はまっすぐに本題を切り出してきた。
「京へ向かう船の支度がととのいました。おそらく数日のうちに上方へ発てるでしょう」
 それは俺にとって吉報と称するに足る知らせだった。
 元々、大友家は将軍家と緊密な関係を保ってきたから、そのための準備も対して時間はかからないだろうとは考えていたが、やはり早い。
 これでようやく東に向けて旅立つことが出来る――そう浮かれて良いところだったが、俺は浮ついた気持ちにはならなかった。なれなかった、と言った方が正確か。


 眼前の道雪殿が湛える厳しい表情が、これが単なる報告ではないのだと言外に告げていたからだった。


 俺は小さく息を吐く。
「これでようやく東に帰れる……というわけにはいかないのでしょうね」
 その言葉に、道雪殿は頷いた。
「はい。寸前で、わたくしは宗麟様に此度の使いは取りやめるよう申し上げるつもりですから」
「たしか、それがしが先の戦に協力する条件に、此度の件もはいっていたはずですが」
「わたくしもそう記憶していますが、それで採る行動がかわることはないでしょう」
 いっそ無造作に言ってのけた道雪殿の顔は、常になく硬かった。
 破約を公言しているのだから、それも当然であろう。俺はここで大声をあげて道雪殿を罵っても許されるだろうし、道雪殿もそれは覚悟の上だと思われた。


 だが。
「……少々、勝ちすぎましたか」
 俺の呟きに、道雪殿の表情がかすかに緩む。それはほっとしているようで。あるいはどこかで俺がそう口にするであろうと予期していた表情とも見て取れた。
「それは違います。雲居殿が講じた策は、この上なくわたくしの意図に添ったものでした。その戦果に感謝こそすれ、不平を唱えるなどありえません。ただ……」
 そこまで口にして、めずらしく道雪殿はため息を吐いた。
「わたくしの見通しが甘かったと言うしかありませんね。宗麟様があのような沙汰を下すとは、正直なところ考えておりませんでした」


 道雪殿が口にした沙汰。
 それは先の『大友家他紋衆の乱』における首謀者である小原鑑元に対する処分である。
 鑑元は切腹して果てた。それ自体は問題ではない。主家に叛旗を翻した時点で、鑑元自身も覚悟していたはずである。
 だが、宗麟はそれに先立って慈悲を示してしまった。


 鑑元が南蛮神教に改宗し、神のもとで懺悔するならば、此度に限っては許しましょう、と。


 宗麟は堂々と宣告したのである。
 鑑元たち他紋衆が主家に叛乱した理由を、自分はまったく理解していない、と。
 それは慈悲という形をとった、死刑宣告だった。むしろ鑑元の散り際の誇りを奪い去るという意味において、謀反を責めて切腹を申し付けるよりもはるかに性質が悪い。
 これを耳にした時の鑑元の心中を思うと、敵であったとはいえ、俺は鑑元への同情を禁じえなかった。面識などろくになかったが、その死を汚した宗麟に義憤すらおぼえたほどだった。 




 俺ですらそうなのだ。他の大友家の家臣たちがどう思ったのかは想像に難くない。
 今回、戸次勢がすみやかに豊前の地を押さえたために、鑑元に同調して蜂起した者はいなかった。だが、あの戦がもっと長引いていたら、各地で蜂起したであろう者たちは確実にいただろう。そう考えたからこそ、道雪殿はすみやかに門司城を陥とすことを望んだのである。
 そんな彼らが。
 今回は戸次勢の武威に屈する形で矛をおさめた彼らが、この宗麟の措置を知った時、何を思うのか。
 一時は怒りに蓋をされた。それゆえにこそ、溜まった怒りはより以上の勢いで噴出するだろう。
 もはや、その怒りを遮ることは誰にもかなうまい。



「鑑元殿を制すれば、しばらく――そう、少なくとも一年は時が得られると、わたくしはそう考えていました。それだけの時があれば、あるいは元を断つことが出来るかもしれません。それがかなわずとも、最悪の事態に備えることは出来る。そう思っていたのですが」
 道雪殿の表情が翳る。その声はこれまで聞いたことがないほどに苦い。
「このままでは、一年どころか半年……いえ、それどころか――」
 下手をすれば、この冬が訪れないうちに再び叛乱が起こるかもしれない。それは俺が言葉によらず察した道雪殿の胸中であった。
   

「……遠からぬうちに起こるであろう叛乱に際して、今一度力を貸せと。それが言を翻し、それがしを府内に留めおく理由でございますか?」
「恥を知らぬやりようだということは重々に承知しています。承知した上で、伏してお願いいたします。どうぞ大友家にお力添えを。類まれなるその智力、一臂なりとお貸しくださいませんか。もしお望みであれば、戦終わりし後、この首を献じても――」
「豊前で……」
 道雪殿の言葉を断ち切るように、俺は口を開く。道雪殿は伏せかけた頭を止め、姿勢を戻して俺を見つめてくる。
「先の乱についてお話しいただきましたね。もっと大友家のことを知ってもらいたいと、そう仰せでした」
「はい」
「吉継との縁を取り持ってもいただいた……まあ、やり方に物申したいところはありましたが、それはさておき、そういった行動は、これすべてそれがしの意を大友に向けるためのものであった、とそう考えてよろしいのか?」
「はい、と言いましたら、どうされますか?」
 また、と道雪殿はひっそりと続ける。
「違います、と答えたら信じていただけましょうか?」



 その言葉を最後に、室内に静寂の幕が下りた。
 息がつまるような重苦しい沈黙。これまで道雪殿と話をしていて、こんな空気に包まれたことはない。そして硬く強張った道雪殿の端整な顔――能面のような無表情の道雪殿の顔も見たことはなかった。




 はあ、と。
 俺は深々とため息を吐いた。それはもう盛大に。
 そして右手を頭にのせ、乱暴に頭を掻く。
「まったく、 なんと意地の悪い……」
 そういって、俺はじっとこちらを見据える道雪殿に苦笑を返した。
「それがしごときをそこまで評価していただいたのは光栄の至りというものですが、それでもその仰りようは反則です。そんなお顔で、そんなお声で、そんなお優しい言葉をいただいたら、応えざるを得ないでしょうに」
「雲居殿……」
 俺の言葉に、能面のようだった道雪殿の表情がかすかに緩んだように見えた。


 俺はなおも言葉を続ける。
「大友は九州探題に補任されるほど将軍家と近しい関係。であれば、使者の往来はこれまで幾度もあったでしょうし、外交にそれを利用したこともあったはずですね」
 俺の問いに、道雪殿は小さく頷く。
「それはつまり、今回もそうするであろうことは容易に予測がつくということ。当然、毛利とて大友がそうすると予期しているはずです」
「……将軍家への使者を襲撃などすれば、周辺諸国すべてを敵にするようなものですよ?」
「瀬戸内の海賊の多くは毛利の息がかかっているのではないですか。その連中に伝えればよい。積荷はすべてくれてやるから、大友の船を襲え、と。いえ、直接伝えずとも、噂という形で流すだけで金目当ての賊は動くでしょう」


 そう。別に道雪殿は俺を引き止めるために将軍家への使節を阻もうとしているわけではない。
 とはいえ、戦が終わった後にその使節の船に俺を乗せる、という話は確かにあったわけで、破約という事実は残る。俺が腹を立てて席をたつ理由はあるわけだ。
 石宗殿の恩に背を向ける理由。
 大友家臣である吉継に対し、大友から離れることを主張するには十分な理由に違いない。


 つまり、道雪殿はわざわざ俺に背を向ける口実を与えた上で、どうか力を貸してほしいと頭を下げようとしたのである。
 これを意地悪といって何が悪いのか。
 俺がじとっとした眼差しを道雪殿に向けると、道雪殿はおとがいに手をあて、困ったように首を傾げて見せた。
「困りました。わたくし、精一杯誠意を尽くしてお願いしたつもりなのですが……」
「ええ、ええ、そうでしょうとも。しかし、これで俺が道雪様に腹を立てて席をたっていたら、赤っ恥もいいところですよ? しかも話し方から表情にいたるまで、俺が断りやすいようにしてましたよね? これを意地が悪いといわず何と言えばよいのですかッ」
 言葉を連ねているうちに段々腹が立ってきた俺は、いつの間にか口調が乱暴なものにかわってきていた。


 そんな俺の憤慨を見て、道雪殿がくすりと微笑む。
 花が香るような笑みだったが、俺はあえてしかめっ面をしてみせた。ふん、そう何度も色気と笑顔に誤魔化されるものか、と内心で身構える俺に、道雪殿は今度は困ったように微笑みながら、口を開いた。
「しかし、すでに雲居殿には一度越後に戻ることを思いとどまってもらっているのです。これ以上引き止めることは、さすがにわたくしといえどためらってしまいます。それでも雲居殿の御力は是非とも必要、けれどそれはわたくしどもだけの都合であり、雲居殿には関わりなきこと。ゆえに、あなたの言葉を借りれば『背を向ける口実を与えた上で』お願いいたしました。それがわたくしに出来る精一杯の誠意だったのです。気分を害されたのでしたら、幾重にもお詫びいたします。しかし、決して悪意をもってそうしたわけではないことだけはご理解くださいませ」


「無論、悪意があるなどとは言いません。おれ……ではない、それがしが申し上げたいのは、頼むのであれば率直にそういってほしい、とそれだけです。こちらの事情を慮っていただいたのは感謝しますが、越後の皆とて、俺がここで道雪様たちの苦境を見て見ぬふりをして帰ったところで……」
 喜ぶはずはない。それどころか、かえって叱責されるのが落ちだ。
 そう言おうとして。
 俺は口をつぐんだ。



 ――待て。今、道雪殿はなんといった?



「……越後、と仰いましたか?」
 驚愕に震える俺の問いに対し、道雪殿はいっそ軽やかと評したくなるほどあっさりと頷いてみせた。
「はい、言いました」
「……東に、とは申し上げたが、地名を出した記憶はないのですけれど」
「たしかに、あなた様から聞いた記憶はありませんね、雲居筑前殿」
 それとも、と道雪殿は俺の緊張を溶かすかのように微笑み、こう続けた。   



 天城筑前守颯馬殿。そうお呼びした方がよろしいですか、と。




◆◆




 平静を取り戻すためには、お茶二杯が必要だった。
 俺は三杯めの茶を口に含み、それを飲み込んでから呟くように声を出す。
「そうですか。石宗殿から……」
 俺の呟きに、道雪殿はゆっくり頷く。
「はい。己が死期を悟られていた石宗様は、わたくしにも書を遺してくださいました。その内容を詳細に語ることはできませんが、大友家という枠組みを越え、九国全土を見渡す視野の広さをもって、様々なことが書き記されていました」
 そう言って、道雪殿は語調をととのえるために小さく息を吐く。
「……石宗様は、大友加判衆筆頭たるこの身を案じてくださったのでしょう。そして、その書の最後に、ただ一行、あなたのことが記されていたのです。おそらく、書自体は以前から用意されていたのでしょう。その最後の部分だけが、新しい墨で色鮮やかに記されていましたよ」


 道雪殿はてずから筆を執り、さらさらと字を記していく。
『奇瑞、紅瞳に映れり』
 道雪殿が書き記した文字は、これだけだった。
 俺はそれを見て、目を瞬かせた。率直に言って、これなんぞ? という感じだった。


 なので、率直に問いかける。
「あの、これは……?」
 これのどのあたりが俺についてのことなのだろうか。
 いや、紅瞳、というのが吉継を指すことはわかる。奇瑞、という言葉も知ってはいるが、ここからどうやって越後の天城颯馬まで辿りついたというのだろうか。
 俺が疑問で目を白黒させていると、道雪殿が苦笑まじりに説明してくれた。
「奇瑞とは天がしらしめす瑞祥のこと。紅瞳とは吉継殿のことです。ここまではわかりますね?」
「はい。吉継が瑞祥を見た、と。しかし、これだけでは何のことやら……」
「確かに、これだけではわかりません。しかし、石宗様が今際の際にあえて書き足した言辞です、何の意味もないはずはありません。わたくしはこの言葉を心に留め、石宗様の墓前を訪れました。そして、そこには吉継殿の傍らにあなたがいた」
 俺を見る道雪殿の目は真剣で揺らぎなく、自分にも他人にも誠実な為人がはっきりとあらわれていた。
「言葉を交わし、行動をともにし――短くともわかりましたよ。東方、越後の国にあって軍神と謳われし聖将上杉謙信。その傍らにありて、その王業を補佐したる天の御遣いの名は、天城颯馬。すなわち、石宗様が見た奇瑞とはあなたに他ならないのだ、と」




 ちょっと待ったァッ!
 今、なんかすごいこと言われなかったか、俺?!
「……天の御遣い、天城颯馬?」
 俺が震える声で問いかけると、道雪殿はきょとんとした顔で逆に問い返してきた。
「あら、ご存知ないのですか? すでにこの噂は京にまで届いているのですけれど」
「ご存知ありませんッ! というか、言われたことすらないですよ、なんですかそのこっぱずかしい称号はッ?!」


 などとわめいても、道雪殿は首を傾げるばかりである。まあ、当然だが。
 で、改めて聞いたところによると。
 無論というべきか、豊後の大友家に、遠く越後に至る情報網などあるはずがない。代わりに、京に繋がる太いパイプならあった。
 室町幕府が衰退したとはいえ、やはり京は日の本の中心、各地から伝わる情報はきわめて多いそうな。無論、情報といってもすべてが有用なものではなく、玉石混交というべき代物だったが。
 で、そんな情報の中に、越後からの情報も含まれていたらしい。京から見れば越後や甲斐など田舎もいいところだが、かつてその二国が上洛した際の振る舞いは、いまだに京でも語り草となっており、基本的に京の人々は上杉や武田に好意的であるらしい。
 必然的に、その噂はよく人の口の端にのぼる。誇張された俺の功績、氏素性の知れない人間が筑前守に補任されたという事実、そして不審な失踪。そういったもろもろのことが重なったとき、誰からともなく大陸の伝説を口にした者がいたらしい。


 曰く。人の世が乱れた時、天より下る者あり。其は御遣いなり。


 実際、唐の歴史にはそういった人物が幾人かいるらしい。
 確かに、あの別れの時、謙信様もその言葉を口にしていた。だからその言い伝え自体は事実なのだろう。


 しかし、だ。
 なんでよりにもよって、俺がその御遣いになってるんだッ?! 
 謙信様……は、こんなことを言い出したりはしないだろう。内心でそう思っていたとしても、それを公言したり、あまつさえ噂として他国に流して俺の存在と自らの業績を喧伝しようなどと考える方ではない。
 そして、そんな謙信様に仕える人たちが、こんなけれんみたっぷりな策を嬉々として実行するはずが……はずが……


「……いかん。実行しそうな心当たりが、それも喜んでやってそうな人たちが結構いる」
 ほら、政景様とか段蔵とか、ちょっとひねって信玄とか。
 いや、落ち着け俺。よし、競馬風に書いてみよう。



 ◎政景様 ○段蔵 △信玄 ×兼継



 ちなみに大穴にエントリーした人物の動機は、面倒ごとを丸投げして姿を消した俺へのあてつけである。
「うわ、めちゃくちゃありそうで怖いわぁ……」
 思わず頭を抱える俺。いや、本気でありそうなんですけど。というか、まさか全員グルになってやってるわけではあるまいなッ?!




 などと嘆いていると。
 不意に軽やかな笑い声が俺の耳朶を揺らした。
 誰か、などと確かめるまでもない。俺の醜態を目の当たりにした道雪殿がさも楽しげに笑い転げているのである。
 それも結構本気でツボにはいったらしく、あの道雪殿が目に涙まで浮かべているではないか。
 無論、俺にとっては恥の上塗りである。
 言い訳することも出来ず、恥じ入って顔を伏せるしかない。


 すると、ようやく笑いをおさめた道雪殿がこんなことを口にした。
「取り澄ました御姿ばかりを見ていましたから、若いに似合わず奇特な方と思っておりましたが……ふふ、それが本来のあなたの姿なのですね」
「い、いえ、本来といいますか、これはあくまで予期せぬ出来事にあって取り乱していただけでですね――!」
「その割にはとても楽しげに見えましたが? そう、まるで――」
 道雪殿はそう言うと、少し考えてから、こう続けた。



 ――まるで、ようやく自分の家に帰ってきたとでも言うような様子でしたよ。


 



◆◆◆






 越後、春日山城の一室にて。


「はっくしゅッ!」
 派手なくしゃみをした政景は鼻をこすりながら、城の外に目を向ける。
「ああ、もう。誰よ、私の噂してるのは」
「おそらく守護代様の机に山と積まれた書類の決裁を待っている文吏たちでは?」
「あのね段蔵。その現実から目を背けるために話題を振ったのよ。そこは察してくれないと。というより察しなさい」
「察した上で、現実に目を向けていただくために申し上げたわけですが――くしゅ」


 めずらしく、はっきりそれとわかるくしゃみをした段蔵に、政景は目を瞬かせた。
「風邪でもひいたの? めずらしいわね」
「私も人間ですから、くしゃみくらいします」
「案外、あんたも誰かに噂されているのかもよ。私と一緒に。なにせあんたもずいぶんと綺麗に――」
「私と守護代様を同じ話題に乗せるような人は、ごくごく限られますね。たとえば守護代様の机の上に山と積まれた――」


 同じことを繰り返そうとする段蔵に、政景はこれは取り付く島がない、と降参して両手をあげる。
「はいはい、ちゃんと仕事するわよ。今日は妙につっけんどんね、あんた」
「どうしても手が足りないからと、半ば無理やり私を連れてきた人は誰ですか。言っておきますが、私はこの後も片付けねばならないことが山積みなんです。一分一秒でも早く、守護代様には己が責務を果たしていただきます」
「あれ、なんだったら守護代権限で他の人に振ろうか?」


 政景の言葉に、段蔵はいわく言いがたい顔で首を左右に振った。
「……早くひ孫の顔が見たい、という祖父の愚痴を聞きつつ酒を飲むという苦行です」
「……ごめん。そりゃ代われないわ。あれ、でもあんたの祖父って軒猿の長じゃなかった?」
「そのとおりですが、何か?」
「……大変ね、あんたも」
「はい、大変なんです。だから守護代様はささっとご自身の仕事を片付けてください」
「りょーかいです」


 そう言って、ようやっと筆を執る政景。
 まさか本当に二人のことを話題にしていた者が九国にいたとは知る由もない二人だった……




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第三章 鬼謀(五)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:9e91782e
Date: 2010/11/12 22:44

 その日、豊後の戸次屋敷に一人の来訪者があった。
 供を連れておらず、いかにも身軽な様子でふらりと立ち寄った態を装っていたが、その人物の顔を確認した家人は仰天のあまり声も出せずに立ち尽くす。


 年の頃は四十半ばといったところか。鋭い面差しは歴戦の風格を漂わせ、しかしその一方で表情、挙措は穏やかなものであった。
 ただ、その穏やかな表情の奥――頬に刻まれた深い皺と、年齢に似ず半ば以上が白に染まった頭髪が、この人物が重ねてきた煩悶の年月の長さを思わせた。
 転げるようにやってきた家人の報告を受けた戸次道雪は、ほんの一瞬だけ目を見開くと、すぐに客室に案内するよう告げ、ついでにもう一つだけ言付けてから、みずからの身体を車椅子に乗せる。
「……そこまで……」
 自室を出る時、道雪は何事かを小さく呟いたが、それを聞く者は道雪以外、誰もいなかった。


◆◆


「お久しゅうございます、鑑載殿。こうして顔をあわせるのはいつ以来になるでしょうか」
「貴殿が加判衆筆頭となられた時以来ゆえ、かれこれ二年ぶりかな。壮健そうでなによりだ、道雪殿」
 そういって筑前立花山城城主、立花鑑載(たちばな あきとし)は、にかっと骨太に笑って見せた。
 西の大友。
 立花家はそう呼ばれるほどの大家であり、その当主である鑑載はその名に恥じない実力と名声の持ち主である。筑前の城主であるため、大友家の政務を司る加判衆には加わっていないが、能力だけで言えば加判衆に連なる資格を十分に持っていた。否、おそらく道雪の代わりに筆頭を務めたところで問題なくつとめ上げてみせるだろう。



 そんな人物が、今この時期、供もつれずに戸次屋敷を訪れる。
 鑑載は北九州の大友軍の中心人物であり、今回の叛乱による影響を最小限にとどめるために府内まで出向いてきていることは、道雪も知っていた。だが、その機を利用して、ただ久闊を叙しに来ただけ、というのは考えにくかった。
「まずは此度の急な来訪を詫びねばなりませんな。先触れの者もつかわさず、失礼をいたした」
 鑑載はそう言って頭を下げる。
「頭をおあげくださいませ。鑑載殿がそうしたのなら、そうせざるを得ないだけの理由があったのでしょう。一々詫びるには及びません。まして大友家の家臣としてはあなた様の方が先達なのですから」
「そう言ってもらえるとありがたい。それに、あまり長居しては互いに面白くないことになるであろうし、早速本題に入らせてもらおう」


 そう言うと、鑑載は表情を変えぬまま、眼光だけを鋭いものにして道雪の顔をじっと見据えた。
「率直に聞こう。道雪殿、貴殿、此度の仕儀、どう考えておられる?」
「此度の仕儀、とは具体的に何を指しているのでしょうか?」
 道雪の反問に、鑑載はわずかに目を細める。その口から出たのは、直接的な答えではなかった。
「……他紋衆の不満、鑑元の謀反、それらがただ毛利の調略によるものではないことは明らかだ。したが、事敗れた者たちへの宗麟様の指図を見るに、あの方はそのことに気づいておられぬ様子。南蛮神教の宣教師どもの蠢動はあるにせよ、すべてが彼奴らの責であるとは、わしには思えぬ」
 その顔に浮かぶ苦々しい表情は、意識してつくったものではないだろう。道雪はそう思う。
 だからこそ、問題なのだ。


 北九州の大友勢力を支える重鎮は、過ぎし日を振り返るようにゆっくりと続けた。 
「宗麟様が先代の後を継がれて、もう幾年が経ったか。大友家は宗麟様の精励と、多くの家臣たちの努力により、空前の版図を得た。それは確かだ。だがそれは、巣食った白蟻を放置していた期間でもある。大友家の屋台骨を支えているのは貴殿を筆頭とした加判衆だが、実質的には貴殿が大友家を支えてきたこと、大友の内外に知らぬ者はない。いや、ただ一人、角隈殿は貴殿と共に重責を担えていたな。だが、その角隈殿が亡くなられた今、貴殿はこれまでのように大友家を支えることができるのか? いや、今なお支えるつもりがあるのだろうか? 主家を案じるあまり、謀反に踏み切らざるをえなかった家臣の誇りを踏みにじった、あの暗く――」
「そこまでにしてください、鑑載殿」
 ぴしゃり、と。眼前で扉を閉じるかのごとく、道雪は鑑載の言葉を遮った。
 鑑載ははっとして口を噤む。話している間に感情が昂ぶっていたことに気づいたのだろう。


「それ以上を口にすれば、いかに鑑載殿といえど看過できません」
「む……すまぬな。年を考えずに張り切りすぎてしまったようだ」
 苦笑しつつ、茶をすする鑑載の姿を道雪はじっと見つめる。
 立花鑑載が何をしにここに来たのかは、その来訪が知らされた時から察しはついていた。
 そして鑑載もまた、道雪が察していることを察していた。
 ゆえに、二人に多言は必要ない。今の短いやりとりでも言葉が過ぎたほどだった。


「……思えば、これはこれで悪くない。どちらが勝とうと、大友宗家を思う人材は残るのだから」
「……大友宗家の当主は、宗麟様ですよ」
「本当にそうかな? わしの目には、今の大友家の主は、あの十字の旗であるとしか映らぬ。それを憂えた者の思いが届かぬことは、先の乱で証明された。宗麟様がかの教えを捨てるつもりがない以上、真に大友宗家を救う術を、わしは一つしか知らぬ」
 無論、と鑑載は苦い笑みを浮かべて続けた。
「貴殿の在りようが間違っているとは言わぬ。否、それを言えば宗麟様とて正しいと信じた道を歩いておられるのだろう。あの異教の者たちとても、西海を切り開いてこの地までやってきたのだ。それをするに足る、あれらなりの正義があるのだろうな。わしには到底理解できぬが、それを否定するつもりはない。そして――」
 鑑載は、深いため息をはく。
「鑑相も、鑑元も、己が正しいと信じたことを為した。それらの結果として、今の大友があり、わしと貴殿の道が分かたれたというのなら――道雪殿。わしらは、どこで何を間違えたのだろうな?」



 そこまで言ってから、鑑載は何かを思い切るように首を左右に振った。
「いや、これ以上は繰言だな。すまぬ、埒も無いことを口にしてしまった」
「埒もない、ということはないでしょう。ただ、その答えを知ることが出来るのは、わたくしたちの孫や、その子供たちでしょうね」
「ふむ、どれだけ才能に恵まれ、権勢を握ろうと、人の身では出来ることと出来ぬことがある、というわけか」
「だからこそ、わたくしたちは懸命に今を生きるしかありません。誰もが納得する正しさなどないゆえに、自らが信じるものにすがりながら」


 戸次道雪と立花鑑載。
 大友家にあって、雄なる二人の視線が正面からぶつかりあう。
 たちまちのうちに室内の空気が張り詰める。

 
 だが。それが限界に達する寸前、二人は視線をそらせた。ほとんど同時に。
「では、さらばだ道雪殿。できればこうなる前に、今一度、貴殿と戦場を共にしたかったが」
「鑑載殿からその言葉をいただけたことは、わたくしにとって生涯の誇りとなりましょう……御武運をお祈りいたします」
 道雪の言葉に苦笑を返すと、鑑載は席を立つ。
 その足音が完全に消え去るまで、道雪は一言も口にせず、ただじっと室内に座したままであった。




◆◆◆




「……そろそろ事情の説明を求めてもよろしいですかね、道雪様?」
「それはかまいませんが、とりあえずこちらにいらしてくださいな」
 俺が襖越しに声をかけると、道雪殿が同じく襖越しに声を返してきた。
 俺は頭をかきつつ、立ち上がって隣室に向かう。襖を開ければ、そこには道雪殿がいつもとかわらない佇まいで座っていた。
 ついさきほどの話の影響か、その表情は多少強張っているように見えたが、俺に笑いかけてきた時には、その強張りも綺麗に消えていた。


 吉継と戦戯盤で勝負していると、顔見知りの侍女がやってきて道雪殿がお呼びだという。なにやら急ぎの様子だったので、勝負をきりあげて(劣勢だったのでちょうどよかった――吉継は不満そうだったが)指定された部屋に来てみれば、そこには誰もいない。
 で、これから来るのかと思って座って待っていたのだが。
 何故か隣室で洒落にならない密談が始まってしまった時には、どうしたものかと冷や汗を流してしまったよ。まあすぐに道雪殿の狙いは察したのだけれど。


 立花鑑載は後世に残るような派手な軍功こそないが、大友家中における影響力の大きさは五指に入るだろう。あるいは三指にしても入るかもしれない。
 今回の豊前での戦いにおいても、筑前方面からの敵襲がなかったのは、立花山城の立花鑑載や、宝満城の高橋鑑種らの存在によるところが大きい。
 そんな大物が単身で護衛も連れずに戸次屋敷を訪れる。そこに込められた意味を考えれば、平静を保つことは難しいのだろう。普段は主の為人を反映して落ち着いた雰囲気の戸次屋敷も、今は少しばかり騒がしかった。


 そんな家人の慌てぶりに苦笑しながら、道雪殿は俺に問いを向ける。
「それで筑前殿、いかがでしたか?」
「事情の説明を求めたそれがしの問いは、どこに置き去りにされたのでしょうか?」
「必要ないように見受けましたので」
 平然と切り返してくる鬼道雪。説明した方が良いですか、とちょっと首を傾げる仕草が、こっちのプライドを刺激してやまなかった。


 俺はほぅっと息を吐いてから、率直に感想を言った。
「声を聞いただけですから、あてにはならないと思いますが、一言でいえば一生懸命な方でしたね」
 俺の倍以上を生きている人に対して、失礼な物言いかもしれないが。
「一生懸命、ですか?」
 はい、と俺は頷く。
 俺は鑑載の顔すら見ていないが、その声だけでも十分に伝わってきた。
 自分の士道を貫くために。大友宗家を守るために。南蛮神教を排するために。道雪殿を味方にするために。そして――


「道雪様を、討ち取るために」


 俺のその言葉に、道雪殿はかすかに目を伏せる。それだけで、俺の言ったことを道雪殿がとうに察していたことがわかった。
「やはり、鑑載殿はその気なのだと思いますか?」
「はい。それがしが聞いた言葉が偽りであったとは言いません。しかし、いずれも今更なことであるのは確かです。おそらくは、今回の件で道雪様が心変わりをしているのではないか、とわずかな期待をこめてやってきたのではないでしょうか?」
 それがどれだけ可能性が低いとわかってはいても。
 鑑載が最後に口にした言葉は、心底からのものだろう。


 同時に。
 道雪殿が宗麟にこれまでとかわらず仕え続けるのならば、筑前に向かう大友軍を率いるのはまず間違いなく道雪殿になる。
 鑑載が本気で行動している以上、これに勝つための布石を考えないはずがない。
 真情を口にしてみせたところで、道雪殿が手心を加えるはずもないし、立花家の当主ともあろう者が相手の情けを期待して事を起こすとも考えにくい。
 くわえて言えば、道雪殿の忠誠を確かめるなら、他にもやりようはいくらでもあるわけで、当主みずからがああも思わせぶりなことを言う必要はない。あれでは、自分を疑ってくれというようなものだろう。


 道雪殿であれば軽挙はしないと信用していたにせよ、あえて立花家の動向を知らせたのは何故か。
 それはおそらく、まもなく起こるだろう蜂起に際しての牽制のため。
 道雪殿は常に立花家の向背に注意を払わねばならず、その分、行動が掣肘されることになる。噂の一つも流せば同じ効果は得られるだろうが、当主みずから訪れたということは、それだけはっきりと道雪殿に知らしめておきたかったのだろう――立花家にのみ道雪殿の注意をひきつけるために。



「実直に行動しているように見えて、なかなかに策の多い方です。もっともその程度の剛腹さがなければ、この戦乱の世で家を保つことは難しいのでしょうね」
 俺の言葉に、道雪殿はしごく真面目な顔で頷いた。
「立花山城は博多津を見下ろす筑前の要です。その当主ともなれば、並大抵のことで務まるものではありません。これまで大友家が筑前の雄たりえた功の多くは鑑載殿に帰するのです」
「――であれば、機先を制するというのも難しいですね。まあ、そもそもまとまった数の兵が府内を出れば、どれだけ急いだところで筑前に着く頃には万全の備えで待ち受けられているでしょうが」
「立花家の名声、鑑載殿の人脈を考えれば、ろくな証拠もなしに攻めかかれば、窮地に陥るのはこちらでしょう。それに――」
 そこで道雪殿は一度言葉をきり、しばしためらった末、力なく続けた。
「なにより宗麟様が許可なさらないでしょうね。あの方は実際に叛かれてもなお家臣を信じる御人柄ですから」


 宗麟のそれは、人を信じるというよりは、単に現実を見ていないだけだと俺には映る。
 だが、そんなことは道雪殿とて承知していることだろう。いまさら俺が口にするまでもない。
 そんな風に考えて黙っていると、道雪殿は意外そうに口を開く。
「……てっきり苦言を呈されるものと思っていたのですが」
 その言葉に、俺は頬をかきつつ応じる。
「はあ、まあ大友家の当主殿にはいろいろと思うところもありますが、そのようなことは道雪様も承知しておられるでしょうし、他の方々からも耳にたこができるほどに言われているのではありませんか? いまさら俺――ではない、それがしが何を言ったところで意味はないでしょう」


 俺がそう言うと、道雪殿は不思議そうに首を傾げる。俺の態度が気になったようだ。
「いかにも確信ありげなお言葉ですが、筑前殿には何故おわかりに?」
 周囲からの突き上げに関しては、直接道雪殿から聞いたことはないし、その場を見たこともない。それでも容易に想像できたのは――
「……昔、一時ではありましたが、道雪様と似たような立場に立ったことがありまして。その際、周囲からいろいろと言われたのですよ」


 はじめて仕えた主のことを思い起こす。評判が良くない方だったから、その人物に仕えていることで周りからいろいろと言われたのである。露骨にそそのかしてくる者もいれば、真摯に越後の将来を憂えている者もいたが、その言うところは基本的に同じだった。
 ――つまりは過ぎた忠誠は時に盲信となって、国に害を及ぼす、というのが彼らの主張の根拠だった。
 それはある意味で真実なのだろう。しかし、あの時の俺に、その言葉は何の意味も持たなかった。それが正しいか否かは別として、世評がどうあれ、人に仕える理由は十人十色、他者がしたり顔で正理を諭してくることほど鬱陶しいものはなかったのである。
    

 無論、俺と道雪殿では為人も違えば立場も違う。同列に並べられては怒られてしまいそうだが、ただひとつ、世評や内実がどうあれ、主に対する忠誠を枉げないという一点において、俺と道雪殿は等しいはず。
 であれば、ここで賢しらぶったことを言っても道雪殿を不快にさせるだけだろう。かつての俺がそうであったように、だ。



 俺がそういったことを説明すると、道雪殿は興味深そうに聞きいり、幾度も頷いていた。
 そして、くすりと俺に微笑みかけてくる。
「はじめてお会いした時から、妙に馬が合う御仁だとは思っていたのですが、ふふ、同じ立場にあった者同士、知らずに惹き合っていたのかもしれませんね?」
「…………さて、それはどうかと」
 歯切れの悪い俺の返答に、道雪殿がわずかに頬を膨らます。
「あら、冷たいですね。恥ずかしさを押し隠して、親しみを言葉にしたというのに」
「それがしの記憶が確かならば、これまでの道雪様との会話の半ば以上は一方的にからかわれただけのように思うのですが……?」
 馬が合う、という表現には違和感を覚えざるをえないのですよ。
「気心の知れぬ方に、からかいの言葉など向けません。それこそ親愛の表現の一つではありませんか」
「できればもっと違う表現に変えていただけると嬉しいのですが」
「善処しておきましょう」
「それは一応考えてはみるけど変えませんという意味ですよね?」
「おほほ」
「露骨にごまかされた?!」


 どうやら今後とも道雪殿にからかわれる未来は確定してしまっているらしい。
「道雪様」
「なにか?」
「府内で一番高い山ってどのあたりですか?」
 胸の奥から湧いて出る何かを振り切るためにも、ちょっと遠乗りしてこようと思うのです。






◆◆◆






 立花鑑載は、戸次屋敷から戻ったその足で大友館に赴き、宗麟に出立の挨拶をした。
 小原鑑元亡き後の北九州の統治について、おおよその話し合いはすでに終わっており、これ以上府内に滞在する必要はなかった。また、いつまでも居城を留守にしていては差し障りがある。
 鑑載が口にする理由に不審を覚える者はいなかった。


 大友館を辞して、しばし後。
 鑑載は側近の一人を招きよせた。
「では殿、それがしはただちに宝満城へ赴けばよろしいのですな?」
「そうだ。そして鑑種殿に伝えよ、宗麟様は南蛮神教を捨てるつもりはない、とな」
「御意」
 返答と共に、立花家の家臣はすぐさま馬をはしらせる。手形は持たせているから、途中で引き止められることもあるまい。
 部下の後姿を見送ると、鑑載は後方を振り返る。
 そこには南蛮様式の奇妙な形状の大友館がそびえたっている。かつての大友館とは似ても似つかないその姿に、鑑載は言い知れぬ不快感を覚える。
 今日だけの話ではない。府内に来て、あのいびつな建物を見る度に、ずっとそう感じていたのである。


「……まったく、よくもあのような悪趣味な館で起居できるものだ。その図太さだけは大したものでござるよ、宗麟様」
 鑑載が小さく吐き捨てると、傍らの家臣が声を低めて注意をうながす。
「殿、そのようなことを往来で口にしては……」
「かまわん。たとえ何者かが注進したところで、わしが否定すれば宗麟様は疑わぬよ。まあ注進したのが宣教師であれば別だが、あの南蛮人どもがこのような場所にいるはずもない」
 それよりも、と鑑載は続ける。
「賽は投げられたのだ、これから忙しくなるぞ」
「それは我らも望むところでございます。このままでは、いずれ大友家は他家の軍勢に踏みにじられてしまいます」
「そのとおりだ。道雪殿に同心してもらえなかったは厄介だが、所詮は厄介というだけのこと。ただ一人で、しずみゆく船を支えることはかなうまいよ」


 鑑載の言葉に、部下も表情を曇らせる。
「しかし、戸次様ともあろうお方が、どうして暗愚の君に仕え続けようとなさるのでしょうか」
「信じておるからだろう。いつか、宗麟様が克目してくださる、とな。わしらがかつてそう信じていたように。だが、もはや待てぬし、幾年待ったところで、あの方は変わるまい」
 重い口調でそう呟いた後。
 立花鑑載は何かを振り切るように口を噤むと、その場を後にしたのであった。





◆◆




 大友館の一室。
 去り行く立花家の一行を見下ろしながら、宣教師の一人が口を開いた。
「……よろしいのデスカ、布教長? 今ならバ、まだあの者ども、捕らえることもできマスが」
「かまいません。好きにさせておきなさい」
 部下の不安を一顧だにせず、カブラエルはあっさりと頷いた。
「神にまつろわぬ者同士、殺しあってくれるならば重畳というものです」
「しかし、トールが敗れれば、あやつらが我々に敵対してクルことは確実でスガ」
「そうですね、博多からの報告によれば、かなりの物資が動いている様子。都からの書状にあったとおり、ずいぶんと大規模に動くようです。あるいはトールとて敗れるかもしれません」
「なラバ」


 宣教師たちは、なにも道雪の心配をしているわけではない。道雪が倒れることで、大友家が揺らぐことを案じているのである。南蛮神教にとってもっとも厄介な相手は、その実、南蛮神教を布教するための強固な壁でもあった。
 皮肉なものだ、とカブラエルは薄く笑う。
 宣教師たちにとって、もっとも都合が良い結末は大友軍の辛勝である。負けてもらっては困る。だが、勝ちすぎてもらっても困るのだ。道雪らの力が強まれば、いずれ宗麟の命令にも従わなくなるかもしれないから。


 もっとも現在の状況を鑑みれば、次の戦いにおいて大友家が勝つ可能性は極めて低い。むしろ大敗を喫する恐れさえある。
 今から使者をたてたところで、本国からの増援が着くまでは何ヶ月とかかる。道雪を破った敵軍が府内になだれこんでくれば、宣教師たちを守る盾は存在しないのである。
 これが故郷の戦いであれば、神に仕える者を殺すような蛮行は行われないだろう。しかし、この地は神を知らず、あるいは知ってなお信じない蛮人たちが闊歩する土地である。それが宣教師たちの不安の源だった。


 だが。
「繰り返しますが、好きなようにさせておきなさい。神を信じず、互いに殺しあうような蛮人どもの相手をしている暇はないのです」
 カブラエルの言葉に、不安を訴えていた宣教師が何かに気づいたように口を噤んだ。
 カブラエルの言葉が意味することを察したのだ。
「……もしヤ布教長」
「はい――聖戦の準備が、まもなく終わります」
 おお、と室内にいる宣教師たちのうち、半分の口から驚きと興奮の声が広がった。
 残りの半分はカブラエルの口にした『聖戦』の準備をしていた者たちであり、その顔に驚きはない。だが、いよいよだ、という意味での興奮は感じられた。


「幸いにも石宗は死に、トールは北部に釘付けでした。おかげで準備を滞りなくすすめることが出来たのですよ」
「邪教を排し、真なる神の栄光をしらシメス第一歩ですネ」
「そのとおりです。兵団の中心は神の教えを奉じる信徒たちですから、大友軍を動員する必要もなく、トールらも気づかぬでしょう。そして日向の異教徒たちも、トールらが北に出向いたことを知って油断しているはず。今年の万聖節は、日本の信仰史に永劫に語り継がれる神の祭典となることでしょう」
 微笑を浮かべて語ったカブラエルは、室内のすべての者たちにおごそかに告げた。それこそ神の託宣のように


「聖なるムジカ建国まであとわずかです。その栄光を我々の手で導くために、より一層の働きを皆には期待していますよ」


 日本布教長カブラエルの言葉に、南蛮神教を奉じる者たちは一斉に頭を垂れ、神の栄光のために邁進することを誓約したのである。






◆◆





 宣教師たちを下がらせた後、カブラエルは自室の机から二通の手紙を取り出した。
 一つは墨で染めたかのような黒い筒に収められており、京の都から送られてきたものだ。そこには北九州における様々な情報が記されており、カブラエルら南蛮側でさえ知らないような情報も列挙されていた。
 この京からの情報と、みずから集めた情報を照らし合わせれば、今回の北九州――それもおそらくは筑前国で起こる動乱を予見することは、カブラエルにとって難しくなかった。


 そしてもう一通。これは西洋でごく普通に用いられる書状だった。
 先刻、カブラエルはこう考えた。今から本国に使者をたてても、援軍が来るまで数ヶ月はかかる、と。それはまぎれもない事実である。だが――
「……さすがは我らが軍神、素早いものです。あるいは薩摩のコエリョあたりから、とうに泣き言がいっていたのかもしれませんね。ともあれ、こうなればドールの確保も急いだ方が良さそうです」


 カブラエルはそう言うと、手紙を引き出しに戻し、三重に鍵をかけてからゆっくりと立ち上がる。
「そろそろ、フランシスのもとへ行く時間ですね。さて、今日はどのように神の栄光を教え込むとしましょうか」
 すべては順調に進んでいる。そして、これからも順調に進むだろう。
 なにしろ、すべては父なる神のおぼしめしなのだから。
 カブラエルは神妙な顔で十字をきると、これから始まる悦楽を思い、わずかに口元を緩めるのだった……  









◆◆◆








 雲居筑前は、じっと彼方を見据えていた。
 山、というよりは丘陵といった方が良いかもしれない。戸次道雪から教えられたこの場所で、無心に馬をはしらせて汗を流した後、おりよく景観の良いところを見つけることが出来たのだ。
 その場所で、何をするでもなく、雲居筑前はただじっと見据えていた。
 ――彼方に見える、大友館を。
 





[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 幕間
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:9e91782e
Date: 2010/11/19 22:52

 戸次屋敷において吉継と父娘の契りを交わしてより数日、俺と吉継は手探りをするように互いの距離を縮めていた。
 とはいえ、戸次屋敷に逗留している身で出来ることといえば、精々がこれまでのこと、これからのことを話し合う程度なのだが、実のところ、吉継は知らず、俺にとってこれはかなり厄介なことだった。
 自身が天城筑前守颯馬であること。その事実を口にすべきか否か、という選択を迫られることと同義だったからである。


 道雪殿に聞いた話では、天城颯馬の名を知る者は九国でもさほど多くはないとのことだった。
 東国のことが語られることがあったとしても、まず人の口の端にのぼるのは謙信様であり、信玄であって、その配下のことまで人々は知ろうとしない、との言葉は確かな説得力があった。
 だが、それならどうして少数であっても俺の名を知る者がいるのか、というと、それは件の天の御遣いやら、あるいは氏素性の知れない身で従五位下筑前守を朝廷から正式に許されたことやらが原因であるらしい。


 まったくの無名か、あるいはいっそ大々的に知られていれば、かえって楽だったのだが、と俺は苦笑を禁じえなかった。
 信じてもらえるか否かは別にして、無名であれば昔こういうことがあったんだと口に出来るし、知られていれば、たとえ家族とはいえ口を緘する決断も下せる。
 知る人ぞ知る、みたいな今の状況ではかえって迷ってしまうのである。


 率直に言ってしまえば、仮にも吉継は娘なのだからして隠し事などしたくない。俺は吉継の口から、吉継の過去を聞いたことがあるから尚更である。
 それに俺がどうして東国に戻ろうとしているのか、その理由を吉継が知りたいと願うのも当然のことだった。


「とはいえ、なあ……」
 謙信様が毘沙門天を熱心に信仰していることは隠れも無い。現在の大友家に、その謙信様に仕える家臣が名を秘めて入り込んでいるなどと知られた時の影響が、俺には予測できない。そのことが迷いを深いものにしていた。
 無論、吉継はその事実を知ったところで容易く洩らしたりはしないだろう。
 しかし、だ。
 俺の存在は、道雪殿をはじめとした大友家の家臣たちに、少しずつではあるが知られはじめている。俺の素性を探ろうとする者がいないとも限らない。それは南蛮神教の連中も同様であろう。


 そして、彼らが俺を探ろうとするとき、真っ先に思いつくのは俺の近くにいる者――つまりは吉継のことだろう。
 この時、吉継が俺のことを知らなければ突っぱねるだけで済むが、知っていれば、それを隠そうとすることは吉継にとっての弱みになってしまいかねない。
 道雪殿の麾下に無法な真似をする者はいないと思うが、逆に道雪殿の麾下だからこそ、強硬手段に訴えてでも弱みを握ろうと画策する者がいないとは限らない。


 
 そんなわけで、ああでもない、こうでもないと頭を抱えていたのだが、吉継はそんな俺に気を遣ってくれたのか、苦笑しつつ首を左右に振った。
「無理に話して下さらずとも――ではない、話してくれなくてもいいですよ。いずれ時が来たら聞かせてください。今しばらくは戸次様の麾下にとどまるのでしょう?」
「ああ、そのつもりだ。まあいつまでになるかはさっぱりわからないけどな」
 当面の問題を片付け、道雪殿の重荷を少しでも取り除いてさしあげたいとは思うが、あいにくと俺に出来るのは大友家の勝利にほんの少し手助けする程度。そして大友家が幾度戦に勝ったところで、道雪殿の重荷が減ることはないような気がするのである。


「むしろ勝てば勝つほど、問題は増えていくだろうな……」
 俺の呟きに、吉継はわずかに面差しを伏せる。肩まで伸びた銀色の髪が、室内の灯火を映して淡く輝いていた。
 それを見て気づいたが、最近、吉継が素顔でいることが増えている気がするなあ。
「――それはともかく、隠し事をしているのは申し訳ない。いずれ必ず話すから。そうだな、俺が九国を出るときなら、もう隠す必要もなくなっているだろうし」
「つい今しがた、それがいつになるかはわからないと聞いたような気がするのですが」
 吉継はそう言って小さく笑う。
「それにお義父様、別に詫びる必要はありません。家族だからといって、誰も彼もが腹蔵なく話し合っているわけでもないでしょう。まして、わたしたちは家族となってまだ日が浅いのです。慌てることはないと思いますよ」


 ほのかな微笑に、かつて俺に斬りかかって来た時の鬼気は微塵も感じられない。
 こちらの迷いを察してくれた心遣いと同様に、あるいはそれ以上に、そのことがとても嬉しく感じられた。
 うむ、ここはこちらも同様に誠意を見せるべきであろう。さて、今の俺に出来ることといえば――
「よし」
「はい?」
 俺が力強く頷くと、吉継が不思議そうに小首をかしげる。その吉継に向かって、俺は笑顔で口を開いた。
「吉継、今日は俺が髪を洗ってあげよう」
 甲斐の虎直伝の技で。



 他意のない俺の言葉に、何故か吉継は言葉も出ないほど驚いていた。
 と、思う間もなく、白磁の肌が瞬く間に朱に染まっていく。その様は、不覚にも見とれてしまうほどにあでやかだった。
「な、ななな、なにを突然ッ?!」
「む? なにか変なことを言ったか?」
「むしろ今の言葉に変じゃないところを見つけろという方が無理でしょうッ?! 乱心されましたかッ?!」
「俺としては感謝と誠意を示すつもりだったんだが」
「感謝と誠意を示すために娘に肌を晒せという父親がどこの世界にいますかッ!」
「大丈夫、こと髪を洗うに関して、俺はすでに欲望を解脱した身だ。邪な心など微塵もないぞ」
「なんですか、その妙に限定された悟りの境地は……」
「聞きたいなら話すけど、聞くも涙、語るも涙な話になるぞ?」
「正直まったく興味はありませんが、聞かずに父の歪みを放置しておくのも娘としては気がかりです……」



   

 



◆◆◆


 
 
 時を遡ること、およそ二年前。



◆◆◆
  


 甲斐国躑躅ヶ崎館。  
 その一室で、俺は深いため息を吐いていた。
 武田信虎の乱が終結して、すでに二ヶ月あまり。出発前、春日山はとうに雪に包まれていたが、甲信の山々も似たようなもので、当然のように山道は雪で覆われていた。
 徒歩だろうが騎行だろうが、雪道を踏みしめての往来の辛さは大してかわりはなく、躑躅ヶ崎館が見えた時には思わず駆け出しそうになったものだった。
 ――とはいえ、着いたら着いたでまた面倒事が山積していたりするのだが。
 

 
「……お疲れさまでした、天城様」
 先刻、その面倒事の一つを片付け、ようやく一息ついた俺を見て、困惑しながらもねぎらいの言葉をかけてくれたのは武田家の重臣春日虎綱だった。
「……ほんとうに心底疲れたよ。一体、何人と会ったんだ?」
「えーと、今日は十七人、ですね。あの言いにくいんですけど、明日はもっと多いですよ?」
「ぬう……なんか見世物にされている気分だ」
 俺の言葉に、虎綱はあははと乾いた笑いを浮かべながら、視線をそむけた。否定できないのだろう。


「け、けれど、その仕方ないかな、と思いますよ? 天城様のように民の出で、くわえてその御年で正式に朝廷から官位を授かるなんてすごいことですし、それになんといってもあの御館様が兄と慕う方なんですから、皆、一目天城様に会ってお言葉をもらおうと必死なんですッ」
 あれでも十分に人数を厳選している、と虎綱は言う。
「別に俺に声なんぞかけられても、良いことなんてないんだけどなあ……」
 ぼやいても仕方ないと思いつつも、そんな言葉を口にする。 


 すると、室外から凛とした声がかけられた。
「失礼する。天城殿はおられるか?」
「真田殿、はい、おりますよ」
 俺が答えると、一人の姫武将が襖を開けて姿を見せた。虎綱と同じく武田の重臣である真田幸村である。
 その姿は、かつてはじめて相まみえた頃とは大きく異なっていた。
 厳しく張り詰めていた表情はゆとりを湛えた穏やかなものに変じ、抜き身の刃のように触れれば切れてしまいそうだった雰囲気も、今では和らぎ、それでいて確かな芯を感じさせた。たとえるなら、鞘に収まった名刀のよう、とでも言うべきか。


 それを言えば、虎綱だとて似たようなもの。あの信玄も、彼女らの成長には目を細めて満足の意をあらわしているほどだ。
 一応、越後と甲斐は敵国なのだから、俺が素直に喜んではいけないのだろうが、そこはそれ、素直に喜べるような関係を築き上げるために、何度も越後と甲斐を往復しているのである。 


「まあ、そのためにも甲斐の人たちと友好的な関係を築かねばならず、見世物にされても文句を言ってはいけないのだが、それでもきついものはきついのですよ」
「人の顔を見るや、いきなり弱音を吐くな、ばか者」
 幸村が呆れたように言う。
 その言葉があまりに直截的だったからか、虎綱が慌てたように言葉を続けた。
「雪道を割って来たのは他の皆さんも同じです。そうするだけの意味を、天城様に会うことに見出しているということ。甲斐と越後の盟約、それに携わる天城様はそれだけ注目されているんですよ」
「まあ、この時期に皆が集まったのは御館様の御意向があってのことだがな」
「ゆ、幸村さん、それを言っては……」
 虎綱のフォローをそっけなく粉砕する幸村。さすがは真田家の棟梁、舌鋒さえおそろしい破壊力である。


「……まあそれはさておき、真田殿は何かそれがしに用事がおありだったのでは? 信玄様のお召しですか?」
 俺が問うと、幸村は何故か言葉に詰まって黙り込んでしまう。
 そして、何やら視線をあちこちへとさまよわせた末、こほんと咳払いしておもむろに頷いた。
「うむ。間もなくお呼びがかかるであろうと知らせるべく来てやったのだ」
「はあ……それはつまり、まだ呼ばれてないのですよね?」
 間もなく呼ばれることはわかりきっているのだから、なにもその程度の用件で真田の当主がじきじきに来る必要はないだろうに。




 そんなことを話していると、次に部屋に来たのは山県昌景殿だった。この前来たとき、戦戯盤の勝負が千日手になってしまったので再戦を挑みに来たらしい。
 で、次に来たのは内藤昌秀殿だった。鎧兜を身につけない俺の戦い方に好感を抱いていたとかで、躑躅ヶ崎館にいる時は結構頻繁に訪れてくれるのである。
 その次は馬場信春殿までやってきた。まあ馬場殿はおれではなく山県殿に用があったらしいのだが、俺と山県殿の勝負に感銘を受けたのか、次の対戦を挑まれた。
 これで打ち止めだとおもったら、なんと山本勘助殿まであらわれた。何やら俺の部屋が騒がしいのをいぶかしんで来たらしい。
 そんなわけで、気がつけば武田家の誇る風林火陰山雷が勢ぞろいしている俺の部屋だった。


「……よほど暇なのか?」
「天城殿、何をしておられる。ささ、次手をうたれよ」
 目の前の馬――もとい馬場信春殿がせかしてくる。どうでもいいのだけど、屋内では兜(馬の着ぐるみ風)を脱ぎませんか? 
「見苦しく思われたなら許されよ。しかし拙者、勝って兜の緒をゆるめられぬ小心者なれば、常に己が戦場にあることを身に刻み込まねばならず、ゆえにたとえ部屋の中であろうと兜をとれぬのです」
「さ、さようですか。これは不心得なことを申し上げてしまいました。こちらこそ許されよ」
 えらく懇切丁寧に謝罪されてしまったため、俺も慌てて答礼する。


 まあいずれは慣れるだろう。現に他の武将たちはぜんぜん気にしている様子がないしな。
 茶菓子を摘みつつ、なにやら談笑している虎綱と山本殿や、槍隊の運用について意見を交換している幸村と内藤殿、山県殿らを見やりつつ、俺はそんなことを考えていた。




◆◆




「道理で皆の姿が見えぬと思えば」
 俺の話を聞いた信玄が苦笑する。 
 一時的ではあるが、重臣たちの姿が消えたのを不思議に思っていたらしい。まあ、まさか俺の部屋でくつろいでいるとは誰も思うまいよ。
 信玄の髪を丁寧に洗いつつ、俺は内心で苦笑する。


「ところで兄上」
「なんでしょう?」
「越後でも精進されていたようですね、前回にくらべれば成長が顕著ですよ」
「お褒めにあずかり恐縮です」
 返答しながらも、信玄の髪を梳く手は止めない。一度、手を止めてしまえば、それを取り返すのに三倍の手間がかかってしまうのだ。何より女性にとって命の次ともいえる価値を持つ髪を任されている身である。一瞬たりと気を抜くことは許されない。そう、これもまた一つの戦なのである。
「さすがは兄上、見事な覚悟です。そう、それくらい丁寧に、かつ大切に扱うものなのですよ、女子の髪というのはね」
 御意にございます。






 ……しかし、いつの間にかごく自然に信玄と湯殿で語り合えるようになってしまったなあ。
 いや、言い訳すると、最初は俺だって謝絶しようとしていたのである。しかし、いつぞやの隠し湯での出来事を口にされれば従わざるを得ないわけで、ついでにいえば「兄上はわたくしと湯を共にされるのがそれほど厭わしいのですか……?」とか言われたら断れないだろう常識的に考えて。
 それでまあ、甲斐を訪れるたびに謙信様たちには決していえない体験を重ねてしまっている俺であった。決してこれが目当てで何度も甲斐に来ているわけではないのです、はい。 



 今日も今日とて妹様の髪を懇切丁寧に洗い上げ、深い充実感と共に湯船に身をひたす。うむ、何かを成し遂げた達成感が総身を包み込むこの感覚は癖になる。
「……己で仕向けておいて何ですが、兄上はときおり妙な才覚を見せられますね」
 向かい合う形で湯につかっている信玄がくすくすと笑う。
 当たり前だが、今の信玄は肩から何からむき出しである。湯につかっているとはいえ、その下の裸身を見ることも容易い。普段の俺(髪を洗う前の俺)ならひとたまりもなく陥落するところだが、今の俺は信玄を前にしても不動の心をもって対処できた。


 その俺の様子を見て、信玄は苦笑しつつ呟いた。
「そこはもう少し心を動かしてほしいところなのですけど……ふふ、それには異なる時と場所があるのでしょうね」
「なんでだろう、今背筋に冷たいものがはしったのだが」
「おや、甲斐の虎に睨まれてその程度で済むのならやすいものではありませんか」
 そう言うや、信玄は俺に一度視線を向けてから、ゆっくりと立ち上がる。
 俺は心得て目を閉ざすわけだが、この辺はもう阿吽の呼吸というか、そんな感じだった。



 気がつけば随分と長く湯につかっている。俺もそろそろあがるか、とぼんやりと考えていると。
「ところで兄上」
「んー?」
「先日、虎綱と幸村に兄上の腕前を話したのですよ、名は伏せて」
「ほう?」
「武に生きるとはいえ、やはりそこは女子の身。二人とも興味を持ったようでしたので、近い日に引き合わせると伝えておきました。兄上も承知しておいてくださいね」
「おう、承知仕った……」
 俺は心地よい達成感とほどよい湯加減に包まれながら、とくに深く考えることなくそう返答していたのである……







◆◆◆






 ところかわって、豊後国戸次屋敷である。 
「……あの、お義父様」
「む?」
「どのあたりが、聞くも涙、語るも涙な話なのですか?」
「いや、悲劇はここから始まるのだ」
「……聞くまでもない気がするので、もう結構です」
 おお、具体的な人物名は伏せて話したのだが、さすがは吉継、俺の話だけで察してくれたか。
「つまりお義父様は妹様の指導よろしきを得て、こと女性の髪を洗うことに関しては人並み以上の技量を得た、とそういうことですね」
「うむ、まったくそのとおり」
「…………はあ」
「娘よ、なんで地の底に達しそうな深いため息を吐くのだ?」
「色々と、思うところがありまして」
「そうか、悩みがあればいつでも聞くが」
「はい。でも今日はもう疲れましたので、下がらせてもらいますね……」


 そう言う吉継は本当に疲れていたのか、何やら肩を落として部屋を出て行ってしまった。
 やはり色々とごたごたが続いたので、心身に疲労がたまっていたのだろう。
 俺はそう考えつつ部屋を出る。そろそろ道雪殿に部屋に来るようにといわれていた刻限が迫っていたからだった。 
 




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第四章 野分(一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:9e91782e
Date: 2010/11/14 22:44

 筑前国古処山城。
 現在は大友家が治めているその城は、先年まで筑前の有力国人である秋月氏の居城であった。
 先代の秋月家当主である秋月文種は、当初は大内家に属し、大内家が滅びた後は大友家に属した。だが、毛利元就が大内家の旧領を呑み込み、さらに九国へ勢力を広げてくるに及んで、大友家から離れ、毛利家に従うことを密かに決断する。


 しかし、この決断はただちに大友家に察知され、戸次道雪率いる大友の大軍を引き出す結果となる。
 秋月家は筑前においては有力な勢力であったが、北九州全域に影響力を持つ大友家とは比べるべくもない。結果、秋月軍は道雪率いる大軍の前に衆寡敵せず壊滅、当主である文種、その嫡子である晴種は共に討ち死にし、ただ一人、次男の種実のみが大友家の追撃を逃れることに成功する。
 しかし種実は生き延びたものの、道雪の猛攻によって散々に討ち減らされた秋月軍は、その後に種実を逃すために、先の戦いでかろうじて生き残った家臣たちのほとんどを失い、事実上の滅亡に等しい打撃を被ったのである。


 父を失い、兄を失い、さらには生家をうしなった秋月種実は、悲憤の涙を流しつつ毛利家を頼って、遠く安芸国まで落ち延びねばならなかった。
 それからおよそ二年。苦労知らずと父や兄に呆れられたこともある秋月家の次男は、見事に臥薪嘗胆に耐えぬいた。
 こけた頬と鋭すぎる面差しには、かつて紅顔の美少年ともてはやされた面影は微塵もない。その右目には大友家と鬼道雪に対する復讐の念を、その左目には秋月家復興の思いを秘めながら、秋月種実は再び故郷の地を踏んだのである。





「まさかこうも早くに戻ってこられるとはね。元就様に感謝しなくてはならないな」
 彼方に懐かしい古処山城を望みながら、種実は静かに微笑む。
 内心には様々な激情が吹き荒れているが、それを面に出すことはしない。浮かべた微笑は、半ば以上、周囲の者たちを落ち着かせるためのものだった。


「さようですな。こうして若と共に戦に臨めるときがこようとは思いませなんだ」
 種実の隣に立つ白髪の老将が感慨深げに頷く。
 この武将、名を深江美濃守といい、秋月家の旧臣の一人である。秋月の多くの旧臣たちが、内心はどうあれ、大友家に服属していく中で、美濃守は決して大友家に従おうとせず、あくまで旧主に対して忠誠を持ち続けた。
 その忠義と武勇を惜しんだ道雪からの誘いも断り、野山に隠れひそみつつ、同志を束ねて秋月家復興の機会を探り続けたのである。


 種実は毛利家でかくまわれていた二年の間、無為に徒食していたわけではない。だが同時に命の危機をおぼえたり、飢えに苦しんだりすることもなかった。
 みずからの労苦など、美濃守の半分にも達すまい。頭髪の半ば以上が抜け落ち、残った髪も白く枯れはてた家臣の姿に、種実は感謝せずにはいられなかった。
 だが、種実がそれを口にしても美濃守は笑うばかりで、己の苦労を口にしようとさえしない。
 からからと笑いながら、いつも同じ言葉を返すだけだった。
「拙者が好きで背負い込んだ荷でござる。それを苦労とは申しますまい」


 それに、と美濃守は孫を見る祖父のような眼差しで種実を見つめる。
「たとえ苦労だとしたところで、今の若を見ればすべてが報われたと、そう思えまする。たとえこの戦で朽ち果てようと、拙者、亡き殿に胸を張ってお会いすることができもうす」
「ここで美濃に倒れられては困るよ。大友を倒し、あの鬼めを討ち果たし、秋月を復興する。すべて見届けてもらわなくては。いや、その後も父上や兄上に成り代わり、ぼくを叱咤してくれ」
「承知仕った。この老骨がどれだけ動けるかはわかりませぬが、若の望みにそえるよう努めましょうぞ」


 美濃守がそう口にした途端、背後から馬の嘶きと、慌しい甲冑の音が鳴り響いた。
「申し上げますッ、大橋豊後守様より伝令、布陣は完了、予定の刻限となり次第、攻撃を開始するとのことです!」
 その報告に、種実は大きく頷いてみせる。
「よし、ぼくたちも出るぞ。古処山は天険の城なれど、我ら秋月の軍勢にとっては庭も同様。異教に狂い、日の本を侵す大友軍を殲滅せよッ! 『三つ撫子』の家紋を、再び九国の天地にしらしめすのだ!」
 軍配を掲げ、高らかに宣言する種実の言葉に、深江美濃守を筆頭とした三百の軍勢が喚声で応じた。




 これより数日の後、府内の大友館に急使が駆け込み、古処山城の落城を伝える。
 古処山城を陥とした秋月軍はただちに兵を動かして、旧領を次々に取り戻しており、その勢いはとどまるところを知らず、このままでは遠からず、かつての秋月家の領土すべてが大友家の手から失われるであろうと思われた。





◆◆




 古処山城の陥落、秋月種実の帰還を知った大友家はただちに奪還のための兵を集めようとした。
 だが、これが思いのほか手間取った。
 この時期、すでに収穫は終わり、農閑期に入っているため、その意味で兵を集めるのに支障はなかったのだが、先の豊前の叛乱が終わってまだ二ヶ月と経っておらず、先の乱に従軍した兵たちを除外するとなると、召集できる兵力がかなり限られてくるためであった。
 それでも最終的に二万に達する兵力を集めることが出来たのは、大友家の底力というものであったろうか。
  

 とはいえ、初動の遅れは戦況に大きく影響を及ぼす。
 筑前では古処山城を取り戻した秋月種実の下へ、かつての秋月の旧臣を中心とした将兵が集い、その兵力は加速度的に膨れ上がっていた。また、他の筑前の国人衆の中にも秋月と手を結ぶ動きが出始めており、それは大友家に従属する者たちとて例外ではなかったのである。


「つまりは速やかに古処山城を陥として、周辺勢力の動揺を押さえなければならないというわけか」
 どこかで聞いた話だ、と俺は苦笑する。
 そんな俺の表情を不謹慎ととったのか、隣で馬を進めていた吉継が咎めるような響きの声を出した。
「……お義父様」
「なんだ、吉継?」
「お義父様は客将とはいえ、かりにも一軍の将なのです。戦を前に苦笑いなどするべきではありません」


 その言葉に、俺は言葉を詰まらせる。
 たしかに戦の直前となれば、歴戦の将兵さえ緊張を覚えるもの。そんな萎縮しがちな将兵の士気をあげるために縁起を担いだり、勇壮に演説をぶつことは当然のこと。
 まあそれは道雪殿や鎮幸、惟信らに任せるとしても、確かに苦笑などしては兵たちにどう思われるかわかったものではなかった。
「む、確かにそのとおりだな。いかに道雪様から事前に何の通達もなく、開戦間際になっていきなり押し付けられた将の座とはいえ、そんなことは一般の将兵には関わり無いことだしな」
「……そのあたりは戸次様と直接話し合ってください」
 何かがにじみ出る俺の声音に、吉継はそっけなく答える。巻き込まれたくない、という心情があらわだった。


「娘よ、やはりここは父子の絆をもって再び鬼道雪をやりこめるべきではなかろーか」
「父よ、益体もない言い争いに可愛い娘を巻き込まないでください」
「うむ、やっと自分が可愛いと認めたか、善哉善哉」
「……ッ、言葉の綾です。誰かさんがしつこいもので」
「事実を事実として主張することに何の不都合があろうぞ」
「ああもう、わかりましたから、真面目にやってください。戸次様の軍を一翼を担うなど、望んでもかなうことではないのですよ」


 そう言ってそっぽを向く吉継。顔はいつものごとく白布で覆われているが、おそらくその中では赤面していることだろう。
 もうちょっと親子の会話(かどうか知らんが)を続けたいところだったが、さすがに自重する。
 吉継の言うとおり、食客の身で五百の兵を統べる役割は大役である。それも徴兵された農民兵ではなく、道雪殿直属の精鋭部隊なのだから尚更だ。俺が預かったのは、おおげさではなく、戦を決することが出来る戦力なのである。
 

 俺の処遇は、新参者の扱いとしては破格もいいところである。当然、面白く思わない者もいる。
 といっても、鎮幸はからからと笑って背を叩いて励ましてくれたし、惟信は問題児が増えたとかなんとかで頭を抱えてたが、それでも武運を祈ってくれた。
 他の将兵にしても、多くが先の乱で戦った者たちばかりなので、表立って不満を口にすることはなく、むしろ俺がまだ食客なのかと驚く人間の方が多かったくらいである。なんか俺が戸次家に仕えていると思われていたらしい。まあ戸次屋敷に住んでいるわ、道雪殿とはしょっちゅう話しているわ、あらためて振り返ってみれば、そう思われても仕方ないかもしんない。


 では、面白く思わない者とは誰なのか、というと。
「……雲居筑前殿」
 礼儀正しく呼びかけてくる声に応じて、ゆっくりと振り返る。
 そこには今考えていた当の本人が馬上で軽く会釈をしていた。
「伯耆守様(道雪殿のこと)よりの伝言です。まもなく大友軍は府内を進発、第一陣は小野鎮幸様、第二陣に十時連貞様、雲居筑前様は予定どおり第三陣とのことです」
「承知仕った」
 そんな予定は聞いてないのだが、この黒髪の戸次家嫡男、戸次誾殿にそんなことを言おうものなら、何を言われるかわかったものではなかった。
 何故だか俺はこの子に異様に敵視されているのだ。吉継に聞いたところ、戸次屋敷で俺の素性を尋ねられたこともあるというから、誾から向けられる敵意が俺の気のせいである、という可能性はなかった。



 それでは、これにて。
 そう口にして戸次誾が駆け去ると、俺は何故だか詰めていた息を吐き出す。
「ううむ、相変わらず警戒されまくってるな……」
 おそらくは任務にかこつけて俺の様子を見にきたのだろう。そうでなければ、養子とはいえ一家の嫡男が伝令役などつとめるはずもない。
 その俺の呟きに、吉継が白布を揺らして答える。
「客観的に見れば、今のお義父様は氏素性の知れない浪人風情、というところですから。そんな怪しげな人物が道雪様の周囲に侍っているとなれば、家臣としても、子としても、無視できるものではないのでしょう」
 むしろ、あれが普通の態度ではないか、と吉継は言っているのである。


 そして、言われてみればそのとおりではあった。
 仮に、謙信様の傍にぽっと出の男があらわれ、謙信様と親しげに話したり、重用されたりした日には俺とて平静ではいられないだろう。
 そう考えれば、誾のあの態度も納得がいく。というか手をうって賛同したいくらいに共感できるというものだった。
「惜しいな、もう少し年が上なら、酒にでも誘うところなんだが」
「……一体、何をどう考えたら、今の話からその結論に達するのかはわかりませんが、とにかくそろそろ動かねば他隊に遅れをとりますよ。軍監の由布様があちらで怖い目をしておられますが」
「はっは、そうそう都合良く――って、ほんとにいるし。これは大変、急いで動くとしようか」
 俺が慌てて移動を指示すると、さすがは戸次家の精鋭部隊、すでに俺以外はとうに準備が出来ていたらしく、速やかに移動がはじまった。


 戸次道雪率いる二万の軍勢が、筑前国を目指して府内を出たのは、それからまもなくのことであった。
 



◆◆




 そして十日の後、大友軍は秋月種実が立てこもる古処山城を完全に包囲していた。
 瞬く間に勢力を広げていた種実であったが、さすがに鬼道雪率いる二万の大軍の前には手も足も出ないようだ――と言いたいところなのだが。


「手も足も出ない、というよりは、あえて出さなかったという感じだな。手ごたえがないことおびただしい」
 大友軍の本営、いかにも不満だと言いたげに鎮幸がぼやく。
 その言葉に、集まった大友の武将たちがそろって頷いた。敵軍がろくな抵抗もせずに次々と背を向けていく戦況では頷く以外にない。
「陥とした城には武器も兵糧もほとんどなし。明らかにはじめから予定どおりの行動ですね」
 惟信の言葉どおり、大友軍は休松城をはじめとして幾つかの城を取り返したのだが、本来蓄えられているべき物資はまるで残っていなかったのである。


 ここまで条件がそろえば、秋月軍の作戦が古処山城での篭城だというのは誰の目にも明らかだった。
 だが――
「秋月も一時は三千近い数まで膨れ上がったようだが、我らに押されて今城に篭るは精々が千程度、こちらは二万。古処山がいかに要害といえど、勝算はなかろう。それでもなお篭城を選んだということは、だ――」
 何かを期するように一旦言葉をきる鎮幸。だが、その続きは鎮幸ではなく、別の人物の口から発された。
「援軍のあてがある、ということですね。それも先の乱とは違う確固としたあてが」
「……惟信、それはわしの台詞ではないか?」
「べつにためて言うほどのことではないでしょ。みんな承知してることです」
 寂しげな鎮幸の言葉に、惟信がぴしゃりと言い返す。
 いじけたように背を丸める鎮幸だが、生憎とこの場に慰めの言葉をかける者はいなかった。


「問題なのは、それがどの勢力かということです。筑前の他の勢力が合力したところで、我が軍に対抗するのは難しい、その程度は秋月とて承知しているでしょう」
 その惟信に応じたのは、これまで黙って軍議に聞き入っていた人物、十時連貞(ととき つれさだ)だった。
「……我が軍に対抗しえる勢力、と考えれば、そう数は多くござるまい」


 連貞は戸次家の席次において鎮幸、惟信に次ぐ武将である。
 年の頃は三十くらいなのだが、若いに似合わず沈着で、ほとんど無駄口を叩かない。
 聞けば連貞の父は、かつてある戦で大友軍が劣勢の中を殿軍を勤め、いまだ戸次家を継いでいなかった若き(いや、今も十分にお若いのだが)道雪殿を守りきって討ち死にした股肱の臣だったそうだ。


 連貞は、その父の忠義と武勇を正しく受け継ぎ、寡黙な為人ながら戦場での剛勇は鎮幸に迫り、戸次家、ひいては大友軍の勝利に幾度も貢献してきた。道雪殿の信頼もきわめてあつい。
 滅多に口を開かないせいもあるだろう。めずらしく連貞が言葉を発したため、皆が自然とその発言をきこうと口を閉ざし、連貞に注目した。
 が、周囲の注目を悟るや、連貞はすぐに口を閉ざしてしまう。困惑したような、またどこか迷惑そうな顔だったが、見る者が見れば連貞の頬がかすかに赤らんでいることがわかるだろう。
 それを見て、俺は思った。
『ようは寡黙というより、照れ屋なのですよ、連貞は』
 そう言って笑っていた道雪殿の言葉は、まったくもって正しかったのだ、と。



 連貞が黙り込んでしまうと、しばしの間、なんとも微妙な空気が流れたが、苦笑した惟信が再び口を開くことで、その空気はたちまち霧散した。
「どの道、古処山城は陥とさねばなりません。敵が何を企んでいるにせよ、乗じられる隙をつくらねば良いだけのこと。各将は周辺の警戒を厳に。また徴用した兵が不埒なまねをせぬよう手綱をひきしめておくように。略奪暴行には厳罰をもって処すが我が軍の法ですから」
 軍監の言葉に、一同そろって頭を下げる。
 それを見回した後、惟信は主に向かって問いかけた。
「道雪様、他に何かございますか?」
「いえ、特にはありません。皆々、惟信が今申したことを胸に刻み、怠りなく務めてください。それと――」
 ここで苦笑を一つ。
「鎮幸、大友家屈指の武将がいつまでもしょげているのはどうかと思いますよ?」
「……く、誰からも相手にされずにいたわしを気遣ってくださるそのお優しさに、この鎮幸、涙を禁じえませぬッ。というわけで軍師ッ!」
 そう言うや、鎮幸は不意に俺に視線を据えた。


 ……って、待てまて。
「……軍師とはそれがしのことですか?」
「他に誰がいるというのかッ」
「……いや、まあそれはともかく、今の話の流れでどうしてそれがしの名が出てくるのですか?」
 まるで俺は関係ないと思うのだが。
 そう思いつつ、困惑して問い返す。すると、鎮幸は胸を張って、こんなことを言ってきた。
「おぬしの困惑など知ったことではないッ。ここは一つ、お優しい道雪様のために素敵な助言の一つもしてさしあげるのだ、わしの代わりにッ!」


 ――どうしよう。言いたいことがありすぎて何を言えばいいのかわからない。
「…………由布様、何か理不尽な言いがかりをつけられているような気がするのですが、それがしの気のせいでしょうか?」
 助けを求めて惟信を見たが、惟信は「私にふるな」と言わんばかりに目を背けている。
 ならば連貞は、と視線を転じたのだが、こちらも首を左右に振るばかり。
 道雪殿? 見るだけ無駄だろう。というか、見ないでも大体どんな表情をしているかわかるしなあ。
 俺は仕方ない、とため息を吐いてから口を開く。
「……そうですね、では――」
「おう、やはりなんぞあったか。まったく、もったいぶらずにはよう言えばよいものを」
 何故か得意げに言う鎮幸を極力意識しないようにつとめつつ、俺は口を開いた。


「まもなく、九国に野分が吹き荒れましょう。皆様方には、準備に怠りなきように、とご忠告いたします」


「ほう、それは吉継殿の見立てかな?」
 鎮幸が興味深げに口にする。吉継が天候予測に長じていることは、先の戦いで皆がすでに知っていた。
「それもございます」
「そうか、角隈様の愛弟子の言葉とあらば等閑にはできぬ。皆、聞いたな。いざ戦となった時に兵糧や武具が水浸しでは話にならぬ、今から備えておくのだ!」
 機嫌よさげに言う鎮幸だったが、不意に俺を見るとにやにやと笑った。
「しかし、軍師殿、このような時でも父の助けとなってくれるとは、吉継殿はまことに良き娘御だ。大事にせねば罰があたるというものだぞ」
 ふわっはっは、と大笑する鎮幸につられたように、周囲からもくすくすと笑い声が零れ落ちる。
 中でも一番楽しそうに笑っていたのが誰だったのかは――あえて言う必要もないだろう。


 俺はひきつった笑いを浮かべながら、席を蹴立てて立ち去りたい衝動を懸命に堪え続けるしかなかった……




◆◆◆




 安芸国、吉田郡山城。


 足利幕府第十三代将軍、足利義輝の使者は耳を疑った。
 これまで将軍の手足となって、幾度も他国に赴いたことのある練達の士であったが、ここまでにこやかに命令を拒絶されたことはかつてなかったからだ。
「……なんと申された?」
 信じられない思いで問い返す。
 すると、当主元就の傍らに座したその女性――毛利隆元は再びにこやかに答えを返してきた。


「公方様のお心を煩わせたこと、まことに申し訳なく存じております。しかし、当家は先の乱において、十分な思慮の上で大友家と矛を交えたのです。戦は利あらず、また小原鑑元殿の御心を重んじて一時は和睦もやむなしと考えました。しかし、当家が大友家と戦う理由はいささかも減じておらず、両家が再びぶつかるはもはや避けられぬこと。我が毛利は、この期に及んで大友家と盟約を結ぶ必要を認めません。公方様にはそのようにお伝えください」
 隆元の顔に敵意はなく、その言葉は丁寧であり、幕府を軽んじる様子は見受けられない。
 しかし、将軍から伝えられた同盟締結を真っ向から否定したのは、まぎれもない事実である。それが意味することは明らかだった。


「……つまり、毛利は上意を拒む、とそう判断してよろしいか?」
「余のことであれば知らず、大友家と結べというのが公方様の御心であるならば、毛利はそれに従うことはできかねます」
「……率直に言わせていただくが、正気でござるか? 武家の棟梁たる将軍の意向に背くことの意味、わからぬとは思えぬが」
 威圧するような使者の言葉に、元就の顔がわずかに曇る。
 だが、隆元の方は微塵も表情を動かしていなかった。
「京と豊後は遠く離れているとはいえ、使者のやりとりは頻々であるとうかがっております。おそらく此度の使者も、大友の願いを容れられてのことでございましょう?」


 隆元の問いに、使者は返答しなかった。
 だが「毛利が他国の内乱に介入して不当に得た領土を返還せよ」という使者が将軍家のみの意思で出されるはずもない。
 ゆえに隆元は返答を待つことなく言葉を続ける。
「かの地が今どのような状態に置かれているかは公方様もご存知でありましょう? 毛利は鎌倉以来の家柄、日の本の民としての誇りを持たぬ者たちと手を結ぶつもりはございません。無論、宗麟殿が心を入れ替えたというならばその限りではございませんが――くわえて申し上げれば、門司を得たことが不当であるとの仰せでしたが、そも和睦は大友から申し出たことであり、門司の割譲もその一つです。これをつきかえせば、それこそ大友家との仲がこじれるというものではありませんか。使者殿にはそのあたりの事情を今一度公方様にお話しいただければ、と」


 毛利隆元の言葉は、穏やかながら断固とした響きを持っていた。
 外交に長じているゆえに、使者にはそれが良くわかる。そして、それによって毛利がどれだけの不利益を被るか、それを隆元が理解していることも。
 元就が先刻から一言も口を差し挟まないということは、隆元の言葉は毛利の総意であるということ。種々の不利益を理解してなお上意を拒む毛利家の面々と、それを貫くだけの実力に、使者は戦慄を禁じえなかった……





 この日、毛利家は将軍家からの調停を真っ向から拒絶する。これによって北九州における毛利、大友両家の争いが不可避になったことが内外に明らかとなった。
 そしてほぼ時を同じくして、周防山口城に赴いていた吉川元春、小早川隆景の二将は、筑前の諸勢力の動きを睨んだ上で兵を動かす。
 その軍勢はおおよそ一万。先の戦いに比べて大幅に数が減じたのは、戦が終わって間もなかったこともあるが、それ以上に数よりも質を重んじたからに他ならない。
 吉川、小早川の『両川』が率いる毛利の精鋭部隊は、ほどなく六百隻を越える船に乗り込み、海上の軍となる。これを止めるべき大友水軍は、まだ先ごろの戦いの痛撃から回復しておらず、毛利水軍を遮る者は海上には存在しない。
 それは、毛利軍が好きな時、好きなところに上陸できることを意味した。


 その船上で、毛利の次女と三女は、彼女たち姉妹にとって弟のような存在だったある人物について語り合っていた。
「さて、種実君はうまくやってるかな、春姉?」
「やっているだろうさ。種実は一日千秋の思いで、この時を待っていたのだからな。むしろ我らが来るまでに決着をつけようと焦っているかもしれんぞ」
「ああ、隆姉もそれを心配してたよね。種実君が焦りすぎるんじゃないかって」
「姉者は種実を実の弟のように可愛がっていたからな。そしてお前はそれを見てふてくされていたわけだが」
「……若き日の苦い過ちってやつだね……」
「遠い目をしてごまかすな。まあ、いかに隆景でも、そんな幼い妬心で軍の進退を誤るようなことはあるまい?」
「さすがにそれを心配されるのは心外だよ。というかそんなことしたら、ぼくが隆姉に殺される」
 ああ見えて怒るとこわい姉の顔を思い出し、隆景は小さく身を震わせた。


 そんな妹をよそに、元春は眼差しを伏せて思案する。
 今回の種実の蜂起は毛利の後援を得てのものだが、本来ならもっと時間をかけて行われるはずだった。より正確に言えば、元就は種実を戦の真っ只中に送るつもりはなく、毛利軍が筑前を制した後、古処山城に戻そうとしていたのである。
 それに否やを唱えたのは種実本人であり、先の小原鑑元の敗北とその後の情勢を睨み、今回の古処山奪還のために勇んで故郷に戻っていった。
 あの時、元就も隆元も種実を引きとめたが、元春は黙って見送った。大友家への復讐と秋月家の復興を望んでやまない少年に、これ以上の忍耐は望むべくもないと考えたためだ。


 今回の毛利の戦略を知る元春には、勝利は確実であるように映る。
 だが、先の戦とて毛利軍と小原軍は優勢だと思われていたのである。だが、その結果は今更語るまでもない。
 ならば今回とて何が起こるかわからない。確かにここまでは順調だ。だが、ここからも順調であるとは限らない。だからこそ――
(油断だけはするなよ、種実)
 あの弟が同じ思いでいてくれることを、元春は願わずにはいられなかった。





[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第四章 野分(二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:9e91782e
Date: 2010/11/16 20:19

 北九州に吹き荒れる野分の先駆けが大友本軍を直撃したのは、戸次道雪率いる大友軍が古処山城を完全に包囲してまもなくのことだった。
 筑前国立花山城城主、立花鑑載叛す。
 「西の大友」とも呼ばれる大友家屈指の重臣が謀反したのだ。
 その報告を受けた大友フランシス宗麟が色を失ったのを見たとき、多くの家臣が宗麟の動揺を当然のものと受け取った。彼らとて平静を保てずにいたから尚更である。


 ――だが、実のところ、宗麟の示した狼狽は家臣たちが推し量ったものとは似て非なる理由によるものだった。


 先に謀反を起こした小原鑑元は、元は加判衆の一人だったとはいえ、その出自は他紋衆に連なる。宗麟にしてみれば、鑑元個人に対する信頼の念はあったにせよ、他紋衆とは「いずれ叛乱を起こすかもしれない存在」に他ならない。
 だからこそ、今代になってから任じた加判衆はことごとく同紋衆であり、鑑元のような先代からの他紋衆たちは時間をかけて豊後の外に配していったのである。
 その事実こそが他紋衆の不満を煽るものとの忠言は幾度も聞いていたが、それでも宗麟は他紋衆を信任することが出来なかった。それをすれば、かつての乱が再び繰り返されるように思われてならなかったから。
 だからこその同紋衆重用。
 鑑元謀反の報を受けた時、宗麟はそのことを悲しんだものの、一方でこうも考えたのである。
 ああ、やはり、と。
 


 だが、今回叛逆の挙に踏み切った立花鑑載はれっきとした同紋衆である。
 宗麟の受けた衝撃は、ほとんどがその事実に収斂されていた。
 報告を受けた宗麟が、確認をとることもせず、翻意を促すこともせず、即座に立花家追討を命じたのは、立花家の勢力、筑前における影響、そういった大局的な視点によるものではない。
 同紋衆の謀反、その一事が宗麟にあの出来事を思い起こさせたからだった。それまで信じていた世界のすべてが壊れてしまった、あの乱を。
 だからこそ、その恐怖におされるように、宗麟はただちに古処山城を包囲していた道雪に立花家追討の命令を下したのである。



 ――立花鑑載が予測していたように。またその後ろで戦絵図を描いている者たちが予測していたように。



 かくて、大友軍の圧倒的優勢によって終わると思われていた筑前の戦況は一変する。
 大友家重臣立花鑑載の叛乱を受け、古処山城を包囲していた大友軍は一旦包囲を解き、周辺勢力に睨みを利かせつつ、主君の命令を待つ。
 そして府内の宗麟から立花鑑載追討の命を受けるや、戸次道雪は腹心の小野鎮幸を主将に、由布惟信を副将に据えた一万八千の部隊を編成、ただちにこれを立花家の本拠地である立花山城へと向けると、自身は残る二千の兵を率いて筑前休松城に拠った。
 休松城は古処山城の出城の一つであり、古処山城に篭った秋月種実ならびに筑前、筑後の国人衆の動きを見るに絶好の立地だったのである。


 この大友軍の動きをいち早く察したのは、やはり当の敵手だった秋月種実だった。
 あるいはこのことを予期すらしていたのか、種実は大友軍が軍を分かったその日に即座に反撃に転じる。
 古処山城に篭る秋月軍はおよそ一千たらず、道雪率いる大友軍の半数にすぎなかったが、道雪はあえてこれと戦うことなく休松城に篭ってしまう。
 鬼道雪らしからぬ消極的な動きは、秋月軍内部からも不審の声があがったが、当主である種実は内心で舌打ちしつつも、この大友軍の動きが理にかなったものであると認めた。一度、秋月軍と矛を交えてしまえば、周囲から群がり起こる敵勢力に城外で包囲されてしまうことを、道雪は察していたのだろう。


「……もっとも、城に篭ったところで結果は変わらないけれども。休松は所詮出城、古処山の天険とは比較にもならない。おまけに兵糧も武具もあらかた持ち去ったから、余裕なんてほとんどないだろう? いかに鬼道雪といえど、あの城で自軍に数倍する敵軍を支えることなど出来ないよ」
 その種実の言葉どおり、立花家謀反の報が知れわたるや、それまで拱手傍観していた筑前の国人衆および一部の筑後国人衆が一斉に蜂起、休松城を囲む秋月家のもとに参集した。
 古処山城に篭っていた一千、そして大友軍の目をくらませるために城外に潜ませていた二千の軍勢を併せ、種実の手兵は三千に膨れ上がる。これに他の国人衆の増援五千をあわせた総兵力はおよそ八千。
 この大軍を率い、秋月種実は戸次道雪が立てこもる休松城に対し、攻撃を開始するのである。



◆◆◆



 筑前国休松城。
 簡素な櫓の上から敵軍を見下ろし、俺は素直な感想を口にした。
「これぞまさしく槍衾、すごい数だな」
 合計八千にも及ぶと見られる敵軍が整然と陣形を組み、今にも攻め上らんと意気軒昂に喚声をあげている様子には戦慄を禁じえないところだ。
 そんな俺の声に、傍らで同じように敵軍を見下ろしていた吉継が怪訝そうに口を開く。
「その割には平生とかわらぬように見受けますが、お義父様。もしやこういった戦場には慣れていらっしゃるのですか?」
「いや、篭城自体ほとんどはじめてだな。お世辞にも慣れているとは言えない」
 本当である。上杉軍は将も兵も神速を尊ぶゆえに、篭城という選択肢が採られることはほとんどなかった。実際、謙信様に仕えてから武将として城に篭ったことは、まったくといっていいほどない。


 とはいえ、吉継の言うとおり、眼下に集った八千の軍勢――自軍の四倍にも及ぶ大軍に包囲されていることで動揺しているかというと、特にそんなことはなかったりする。
 何故なのかと考えてみると、答えはあっさり出た。今よりはるかに絶望的な篭城戦を経験したことがあるから、今の戦況に脅威をおぼえないのである。
「現状でも滅多にないほどの不利な戦なのですが……これよりもはるかに絶望的な戦とは、一体どんなものだったのですか?」
「ほとんど徒手空拳の身で、毘沙門天率いる三百の軍勢を迎え撃った」
 戦力比、実に一対三百である。それに比べれば今の戦況など蚊に刺されたほどにも感じないというものだ。


 そう俺が口にすると、吉継は何やら納得したように頷くと、すぐに声を高めて部下を呼んだ。
「衛生兵! 至急、父上を後方へお連れしてくださ――」
「ちょっと待て! 別に錯乱したわけではないッ」
「……申し訳ありません。そこまでお義父様が追い詰められていたとは露知らず、娘として恥ずかしい限りです。けれど大丈夫、お義父様の代わりはこの吉継がしっかと務めてご覧に入れますので、どうぞ草葉の陰でわたしを見守っていてください」
「死ッ?! いや、戦を前にその言い方はどんなものかと思うのですが」
「戦を前に軍神を愚弄するような物言いをする人に言われたくはありません。兵の士気に差し障ることは控えてくださいと、先日も申し上げたはずです」


 むすっとした吉継の声に、俺は頬をかく。
 別に嘘を言ったつもりはないのだが、吉継からみれば俺が不謹慎な冗談を言ったと思われても仕方ない物言いだったかもしれん。反省。
「さ、さて、そろそろ下におりて敵に備えるとしようか」
「……露骨にごまかしてますね。まあ構いませんが。それはともかく備えるとはどういうことですか? 戦況を見るならここからでも構わないと思いますが」
「見るだけならな。実際に刃を交えるとなれば、ここじゃ遠すぎるだろう。弓なら届くけど、あいにく俺が射ると吉継にあたりかねん」
「隣に立つ者に矢をあてるというのは、ある意味で名人芸だと思いますが……いえ、そんなことより刃を交える? まさか敵の矢面に立つつもりですか?」


 めずらしく本気で驚いたような吉継の声に、俺はしごく当然とばかりに頷いてみせる。
「将が前線に立たないでどうする。まして俺は新参の身だ、その程度のことをしなければ、兵がついてこないだろうさ」
「将が討たれれば戦は終わりです。その程度のことはおわかりでしょうに」
「だからこそ、将が兵の先頭に立つことに意味がある、ともいえるだろう。死中に生を求めるべし、というやつだ」
 確かに危険なことは間違いないが、それでもここは前に出るべき場面だった。そもそも、俺の内心はどうあれ、この戦が自軍に不利なことは否定しようのない事実である。兵を鼓舞する意味でもそうだし、また後方に引っ込んでいたからといって無事に済むとは限らない。
 むしろ、こういった戦では命を惜しめば、逆に討たれてしまうものだ。それに鎧兜をつけて出られるだけで十分安全は確保されているといえるだろう。


 俺がそう言うと、また吉継の声のトーンが下がった。耳に届いた吉継の声は、ほとほと呆れたという内心がにじみ出たものだった。
「……戦に鎧兜をつけて出るなど当然のことではありませんか。なんでそれで安全が確保されたとかいう言葉が出てくるのです? まさかお義父様はこれまで鎧兜をつけずに戦っていたとでも?」
 はいそのとおりです。
 ――なんて言えるわけもなく、俺は冗談いってすみませんと平謝りする羽目になった。


 いかんなあ。道雪殿に素性が知られていると知って以来、どうも口が軽くなっている気がする。
 道雪殿と話している最中に気づいたのだが、これまで天城颯馬のことがばれないように気をつけていたため、越後のことを口にすることが出来ず、結構ストレスがたまっていたようなのだ。
 道雪殿のおかげで、そのストレスが一気に発散できたので、全体的に気分が上向きな俺であった。
 だが、吉継は当然そんなことを知るはずもなく、俺の浮かれた言動を不謹慎なものと非難するのもまた当然といえた。それも一度ならず二度までも軽口を叩いてしまったのなら尚更だった。  


 どう釈明したものか、と困惑する俺に、吉継はため息まじりに告げる。
「……敵陣の兵気が盛んになってきました。まもなく秋月が動くでしょう。この続きは戦が終わった後にいたしましょう」
 そう言うや、吉継は無造作に顔を覆う布を解いた。必然的にこれまで隠されていた紅い瞳と銀色の髪があらわになる。
 突然のことに俺が驚いていると、吉継はどこか諦めたような顔で俺に言った。
「兜をつければ髪は隠れます。それに、戦場で目を血走らせている兵士などめずらしくもないでしょう?」



◆◆◆



 休松城をめぐる戦いは、秋月軍から放たれた無数の矢が飛来するところから始まった。
 数を利して次々に矢を射込んでくる敵軍に対し、大友勢はあらかじめ用意していた木板を掲げることで対処するも、四倍を越える敵軍によって放たれた矢は、たちまち木板をハリネズミのごとくかえてしまう。
 大友軍も負けじと矢を射返すが、兵力の絶対数の差はいかんともしがたく、矢戦は明らかに大友軍が不利だった。
 それでも城に篭っている大友軍は圧倒されるには至らない。秋月軍とて無限の矢を保持しているわけではないし、逆に大友軍にしてみれば、どれだけ矢を射はなっても、そこかしこに敵軍の矢が突き立っているため補充に困らない状況である。


 無論、種実は城に立てこもる敵に矢を射掛けるだけで満足する気は微塵もなかった。
 矢戦で敵軍が居竦まったとみるや、ただちに軍配を揮う。
 これを受けて動き出したのは種実配下の深江美濃守、大橋豊後守の二将である。二人はそれぞれ一千の部隊を動かし、休松城に攻め上っていっく。
 これに対し、城からも応射がなされたが、なお続く秋月軍の射撃の前に十分な効果を出すことができない。
 その隙を縫うように、歴戦の二将は休松城の正門へとたどり着くことに成功したのである。


 その様子を遠謀した本陣では、種実の配下や他の国人たちが我も我もと攻撃を請うたが、種実は首を縦に振ろうとはしなかった。
 種実は援軍をあわせれば、なお六千近い兵力を動かせるが、これ以上の兵力を投入するには、休松城は手狭だった。勢いに任せて突撃を指示しても、味方同士で兵の流れを滞らせてしまうのが関の山だろう。
 なにより、種実は自家以外の兵力をあてになどしていなかったし、彼らに道雪の首を渡すつもりもなかったのである。


 それゆえ深江、大橋らの援護を指示するにとどめた種実に対し、周囲は不満そうな声をもらしたが、種実の若さを侮り、あえてその指示に背こうとする者はいなかった。それをすれば、戦の後、自分たちが毛利に咎められることは明らかだったからである。
 内心ではどう思っていたにせよ、彼らが種実の指揮に服している理由はここにある。そのことは種実にもわかっていた。そして――


(それも、この戦で変えてみせる)
 毛利家への恩義は終生忘れることはない。だが、それは毛利家に仕えることをよしとすることではない。種実はそう考えていた。
 旧領を復し、秋月家をれっきとした大名として周辺諸国に認めさせてこそ、種実の望む復興は成るのである。
 そのためにも必要なのだ。大友軍を討ち、鬼道雪の首級をあげるという、誰もが認める大功が。




◆◆



  
「押せ、押せィッ! 大友はもはや昔日の大国にあらず、異教に蝕まれた愚者の群れぞッ! 鬼道雪といえど恐るるに足らず、我ら秋月が武威を示すのだッ!!」
 秋月軍の先頭に立ち、深江美濃守が大音声で呼ばわれば、大友軍の陣頭に立った十時連貞がまけじと言い返す。
「怯むな、押し返せ! 敵軍いかに多勢といえど、所詮は毛利の策略に踊らされる人形どもが、利につられて集まっただけの烏合の衆、九国最強たる我が軍の敵ではない!」
 叫びながら、連貞の頬がちょっと赤くなっていたりするのだが、戦の最中にそんなことに気づくほど余裕のある者はいなかった。


 大友軍、秋月軍、ともに二千。同数同士の激突だったが、休松城に篭っている分、利は大友軍になった。とはいえ、城外から絶えず矢が射こまれてきている状況では、その利もわずかなものだ。
 局面によっては大友軍が押される場面が幾つもあり、一時は秋月勢が城壁を越え、正門を破られる寸前まで行きかけた。
 だが、大友軍はそれまで後方で総指揮をとっていた戸次道雪が前線に姿をあらわしたことで士気を高め、かろうじてその危機を回避することに成功する。



 城内からあがった歓声に、深江、大橋の二将は敵将戸次道雪が前線に姿をあらわしたことを悟り、わずかに攻撃の手を緩めた。これは道雪を恐れてのことではなく、すでに秋月軍が攻勢限界に達していたためだった。正門を破ることが出来なかった以上、一度軍を立て直すべきだと判断したのである。
 だが、二将の思惑はどうあれ、形としてそれまで攻勢一辺倒だった秋月軍がわずかに退いたのは事実だった。これにより秋月軍の将兵の心身がわずかに弛緩したことも。そして――



 それを見逃す鬼道雪ではなかった。



 城内に侵入した敵勢を排除した道雪は、その勢いのままに正門を開き、自身が陣頭に立って秋月軍へと切りいったのである。
 精神的に息をついたところに、怒涛のごとき攻勢を受けた秋月軍の前衛はたちまち混乱を来たした。
 ただの攻勢であればともかく、戸次道雪が直接指揮する猛攻である。みずからを輿に縛りつけ、平然と矢玉の中に身を晒す道雪の姿は、まさしく雷神の化身かと思われ、大友軍は奮い立ち、秋月軍は動揺した。


 大友軍はもとより、秋月軍にとっても輿に乗った道雪の姿は目新しいものではない。かつて、その指揮によって滅亡に追い込まれた者たちにとって、道雪の姿は憎むべき敵以外の何者でもないはずだった。
 だが、それと承知してなお驚嘆を覚えてしまう。感嘆を禁じえない。憎悪以外の何かが湧き出るのを、大橋豊後守は感じずにはいられなかった。
 無論、だからといって敗北をよしとするわけではない。
 しかし、開戦以来、ひたすら防御に徹してきた大友軍の攻勢は凄まじく、大橋豊後守の一隊は散々に討ちくずされ、二百に近い死傷者を出して後退を余儀なくされる。それは開戦から道雪の攻撃が始まるまでに受けた損害をはるかに超える被害だった。


 当然、戸次軍は勇み立った。
 大友軍、秋月軍が混戦状態になったことで、弓矢の援護も途絶えた今、ここで秋月軍の主力を撃破することが出来れば、今後の戦は容易になるだろう。
 そうして追撃の動きを見せた道雪の部隊を遮ったのは、秋月軍のもう一方の将、深江美濃守だった。
 深江の隊は味方を追おうとする道雪の隊に対し、槍先を揃えて、その横腹を襲う動きを示すことで大友軍を牽制し、僚将が退く時間を稼ごうとしたのである。


 その行動は上手くいった。あるいは、うまく行き過ぎた。深江の行動はあくまで牽制であり、大橋が退却した後はみずからも退くつもりだったのだが、この時、深江隊の動きに動揺したのか、道雪の部隊が混乱の態を見せた。
 深江隊を迎え撃とうとする者、一度退いて距離を保とうとする者、道雪の命令を待つためにその場にとどまる者……時間にすれば、ほんのわずかな、けれど見逃しがたい隙。
 そしてその隙を見た瞬間、歴戦の深江美濃守の目には、敵将たる戸次道雪の輿にいたるまでの道筋が見えてしまったのである。
 突撃を叫んだのは、武将の本能とでもいうべきものだった。





 
 ……後から思えば、それは道雪の誘いの隙だった。だが、あの混戦の中、そこまで巧妙に混乱を演出し、みずからの身を危険に晒すことで敵将をおびき寄せようとは、さすがの深江も思い及ばなかったのである。
 ましてや、その誘いに応じた深江隊の動きに即応し、側面を衝いてくる部隊があろうとは予想だにしていなかった。
 結局、道雪の横腹を襲おうとした深江美濃守は、逆にみずからの側面を衝かれて痛撃を被った挙句、急襲するはずだった道雪の部隊に手痛く叩かれて退却する。
 その被害は大橋豊後守の隊を上回るものとなり、主君である秋月種実は恐れ入る二将を前に、渋面を押し殺すのに苦労しなければならなかった。



◆◆



 一通りの報告を聞いた種実は、感情を押しころすことに成功すると、平伏する配下に問いを投げかけた。
「……しかし、道雪の動きを察した上で美濃の横腹に食いつくなんて、なまなかな将では無理だろう。小野と由布はおらず、十時は城門を守っていた。一体誰がその部隊を指揮していたんだろう?」
「……は。拙者もそれを不思議に思っておりました。混乱を鎮めていた際も注意はしておったのですが、見覚えのある顔はなく、それらしき旗印も見当たりませなんだ」
「正体不明、というわけか。まったく、鬼道雪一人でさえ面倒な相手だというのに、その配下まで傑物ぞろいだというから始末に終えないね」
 種実はそう言って苦笑する。


 その主君の様子を見て、深江はみずからのふがいなさを恥じるように深々と頭を垂れた。
「若、まことに申し訳――」
「美濃、さっきも言ったけど、将であれば失態は功績をもって償えば良い。というか、美濃のこれまでの功績を思えば、一度や二度の失態で責めるような真似ができるわけないだろ? どうせ頭を使うなら、ぼくに下げるよりも、あの鬼の首をどう落とすか、そっちを考えるのに使ってくれ」
「……御意、豊後殿と共に、今一度策を練ろうと思いまする」
「そうしてくれ。定石でいえば夜襲の一つもするところだけど、その程度は向こうも読んでいるだろう。嫌がらせにちょっかいを出すように他の人たちに頼んでおくけどね」


 そこまで言って、種実は空を見上げる。
 すでに刻限は夜。秋の夜空には半月がくっきりと浮かび上がっている。
 そして、時折その輝きを雲が遮っていた。雲の動きは一見してそれとわかるくらいに早い。秋月軍本陣の周囲の草木も、夜半からざわめきが大きくなりつつある。
 そのざわめきに耳を傾けながら、種実は小さく呟いた。
「……今日の勝利に酔っているか、戸次道雪? でも嵐が過ぎ去れば、他の大友軍は壊滅する。あなたの軍はこれ以上増えず、援軍も来ない。孤立したあなたを討ち取るために、あらゆる勢力がこの地にやってくるだろう。でも案じることはないよ、彼らが来るまでに、城は陥とす。首級はもらう」



 やせこけた頬に、凄絶なまでの微笑を浮かべながら、種実は静かに断言する。
「勝つのは、ぼくら秋月だ」
 

  



[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第四章 野分(三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:9e91782e
Date: 2010/11/17 22:43

 視界を灼きつくす稲光にわずかに遅れ、耳朶を打ち据えるような轟音が響き渡る。
 大友軍本陣からほど近い陣屋から悲鳴にも似た声があがった。
 夜半から大友軍を襲った嵐は、まるで雷神と風神が競って猛り狂っているかのようで、どれほど時が経っても一向に収まる気配を見せない。
 軍律の厳しさにおいては九国一とも言える大友軍の将兵である。敵軍の襲撃であればかくも混乱を見せることはなかったであろうが、自然の猛威の前では、さしもの精鋭も、嵐が過ぎ去るのをただ待つことしか出来ないと思われた。


 だが。
 戦況は漫然と嵐が過ぎ去るのを待っていられるほど安穏としたものではなかった。
 立花山城城主である立花鑑載の叛乱、これを討つべく進軍していた大友軍のもとに更なる凶報が舞い込んできたのは、つい先刻のこと。
「な、なんと、高橋殿までが離反したと申すのかッ?!」
 大友軍の陣中にあって、驚愕の声をあげる僚将を横目で見やりながら、小野鎮幸は腕組みをして、眉間に皺を寄せた。


 主将である鎮幸の代わりに口を開いたのは、副将である由布惟信だった。
「立花殿に続き、高橋殿までが――これも元就公の策ですか。『有情の謀将』の名は伊達ではありませんね」
 どこか感心したような惟信の物言いに、鎮幸が苦笑まじりに口を開く。
「あっさりといわんでくれい。高橋殿が離反したということは、岩屋城と宝満城が敵にまわったということだろう」
 いずれも堅城で知られる二城だが、今重要なのは休松城からここまで来るために、大友軍がその二城を通過したという事実である。それはつまり――
「見事なまでに退路を断たれたな。我が軍が立花山城に迫りつつあるこの時に、高橋殿が離反したことは偶然ではあるまい」
「よかった、そのくらいはわかりましたか。これが偶然だとか言ったらどうしようかと思っていました」
「……惟信、どうも最近、僚将に対する親愛とか敬意とか、そういったものに欠けておるように見えるのだが、わしの気のせいか?」
「ええ、気のせいです。ともあれ、これで休松城の道雪様との連絡は絶たれ、互いに孤立することになりました。高橋殿の動きが計算づくなのだとしたら、すでに休松城は秋月らの手勢に囲まれていると見るべきでしょう。そして、敵がこの嵐さえ計算に入れているのだとしたら――いえ、おそらくは計算の内なのでしょうね。高橋勢、立花勢、共に嵐をついて出撃しているものと考えるべきです」


 その惟信の言葉に周囲からざわめきが起き、諸将は動揺した視線をかわしあった。
 この嵐の中、敵勢に挟撃を受けようものなら壊滅は必至である。動揺するな、というのは酷な話であったろう。
「そ、それならば急ぎとって返すべきでは? 我らが主力を率いている今、休松城の兵は少ない。強襲されれば、道雪様とてただではすみませぬぞ」
「この嵐の中、進むことさえ難しいのに、退却などしては、それこそ敵の思う壺であろう。追撃をうければ、戦うことも出来ずに壊滅してしまうわい。そもそも退くといっても、どうやって休松城まで帰るのだ?」
「だからと申して、ここでじっとしているわけにもいくまい。いっそ、急ぎ立花山城を陥とすべきではないか」
「立花山城は筑前の要ともいうべき城。兵力では我が方が勝っているが、しかしあの堅城がそう易々と陥ちるとは思えぬ。城攻めにてこずっている間に、後背を高橋殿の兵に衝かれたらどうする。敗れるとは言わんが、被害は無視できぬものとなるぞ」
「では、どうしろというのだ。このまま手をつかねて漫然と時を過ごせとでも言う気かッ」
 戦の方途を巡り、軍議は喧々諤々の騒ぎに包まれていく。
 それらの意見に耳を傾けながら、主将である鎮幸、副将である惟信、共に意見を口にすることはない。
 彼ら二人をもってしても即断できないほどに、戦況は混沌としているのだと思われた。




 が。
 不意に鎮幸の口から低い笑い声がもれはじめた。
 正確に言えば、最初は「くくく」みたいな笑い声だったのだが、しばらくすると「ふふふ」になり、最終的には「がっはっは」と大笑しはじめたのである。
 この主将の奇行に、大友軍の諸将は唖然となった。下手をすれば将兵そろって筑前の地に屍をさらすことになりかねない戦況である。誰がどう見たところで爆笑する場面ではない。
 とはいえ、正面から理由を問うのもためらってしまう僚将たちだった。まさかあの小野鎮幸が気が触れたわけでもあるまいが、今の鎮幸に進んで話しかけたいとは誰も思わない。だって怖いもの、と彼らの顔にはでかでかと書いてあったりする。


 必然的に、彼らの視線はこの混沌を鎮められる唯一の人物――副将の由布惟信に向けられる。
 当の惟信は深々とため息を吐いた後、やおら声を高めて言い放つ。
「衛生兵ッ! 可及的すみやかに小野殿を隔離してくださ――」
「待て待て! 別に気がふれたわけではないぞッ」
「では弓兵隊!」
「誰を射る気だ、惟信ッ?!」
「ならば最後の手段です――鉄砲隊、前へッ!」
「すまぬ、わしが悪かったから落ち着け、いや落ち着いてくだされッ?!」


 何やら据わった眼差しの惟信に睨まれた鎮幸は大慌てで言い募る。そこに、つい先刻までの浮かれていた様子はかけらも見て取れない。
 すると、惟信は瞬く間に表情を常の冷静なそれに戻すと、鎮幸ではなく、他の僚将たちに軽く肩をすくめてみせた。これでいいですか、とでも言うように。
 大友軍本営に時ならぬ万雷の拍手がとどろいたのは言うまでもないことだった。




◆◆




「いやいや、すまんすまん。こう、策を秘めてもったいぶっておるのが、思ったよりも楽しくてな。うむ、軍師の気持ちが理解できたような気がするわ」
 鎮幸は頭をかきつつ、そう言って詫びる。
「軍師、というと雲居殿のことでござるか? いや、それより策を秘めているとは……?」
 武将の一人が怪訝そうに口を開く。
 今の一幕は、期せずして諸将の動揺を取り払う効果を持っていたようで、すでに彼らは高橋家謀反の衝撃からの立ち直りを果たしていた。そして動揺が失せれば、鎮幸の言葉の意味を理解することは難しくない。
「……まさか、わかっておられたのか? 鑑種(あきたね)殿が離反することが?
 


 高橋家当主、高橋鑑種。
 その名は大友家にとって小さからざる意味を持つ。
 元来、高橋家は立花家と同じく同紋衆に名を連ね、立花家に勝るとも劣らぬ威勢を示す大家である。その祖は、遠く大陸にあり、漢王朝を創建した劉氏の流れをくむという異色の名門であった。
 その当主である高橋鑑種は宗麟の信頼あつく、先の秋月家討伐においても抜群の功績をたてたほどの勇将であり、同時に善政をこころがけ、領民たちから慕われる名君でもあった。
 高橋家が、筑前において立花家に並ぶ権限を宗麟から与えられているのはゆえなきことではない。
 ただ一つ、宗麟が残念に思っていることは、高橋家の領内に南蛮神教の建物がないことである。これは立花家も似たようなものだが、それでも鑑載は度重なる宗麟の命令もあって、すでにいくつかの教会を領内に建設していた――きわめて粗末なものであったにせよ。


 だが、高橋家に関しては事情が大きく異なった。そもそも、宗麟は鑑種に教会建設の命令を下していないのだ。あくまでも要請にとどまり――それも鑑種が府内に赴いたおり、おずおずと願う程度のことであり、鑑種は常にこれを謝絶していた。
 これに関しては、宗麟も南蛮神教の宣教師たちからも苦言を呈されていたのだが、こと高橋家に関しては宗麟は決して南蛮神教を強制するような命令を下そうとはしなかったのである。


 何故、宗麟はそれほどに鑑種をはばかるのか。
 それが重臣に対するとおりいっぺんのものでないことは、立花鑑載との差異を見れば明らかである。
 そして、その理由を多くの家臣たちは知っていた。
 高橋鑑種は、高橋家の生まれではない。鑑種は大友家庶流たる一万田家の子であった。男児に恵まれなかった高橋家が一万田家に請うて養子にもらいうけたのが鑑種なのである。
 そして養子に出されたことからもわかるとおり、一万田家には鑑種の他にもう一人の子供がいた。一万田家の嫡子であり、鑑種にとっては兄にあたるその人物の名を、一万田鑑相という……






 一万田家が断絶した折、鑑種に累が及ばなかったのは、鑑種が幼少時から一万田家を離れていたという事実があるにせよ、そこに宗麟の強い意志があったからである。
 当人が意識しているか否かは知らず、宗麟の行動は贖罪の一つの形だった。そして、そのために大友家中における高橋鑑種の存在は非常に特異なものとなってしまっていたのだが――その事実を指摘することは大友家にとっては禁句に等しかった。
 くわえて言えば、鑑種自身は宗麟からの特別扱いを誇るでも嫌うでもなく、淡々と家臣としての務めを果たし続け、その成果は誰にも非の打ち所がないものだったから、これまで特に問題視されることもなかったのである。
 


 その高橋鑑種が毛利の誘いにのって謀反する。
 どうして、どうやってそんなことがわかったのか。
 その疑問に、鎮幸は短いあごひげを摘みつつ返答する。
「正確に言えば、起こるかもしれん可能性の一つとして注意を受けていた、というところか。まあ、何故だか軍師は確信していたようだがな。何故かまでは聞いておらんし、聞く必要もなかろう。我らには我らの務めがあるのだから」
「それはそうかもしれんが……実際、どう行動する? これが突発的な叛乱ではないというなら、立花殿にしても高橋殿にしても、もてるかぎりの戦力を投入してくるだろう。あのお二人が背いたと知られれば、追随する者は必ず出てこようし、下手をすれば筑前すべてが敵にまわるぞ。たかだか二万程度で打ち払えるものではあるまい?」


 僚将の問いに、鎮幸は不敵に笑ってみせる。
「ふっふっふ、ならば今こそ明かそう。我らの秘さ――」
「雨が降ると知っていたなら、それに備えるのは当然のこと。まして嵐が来るとわかっていて、それに備えないはずがないでしょう。わたしたちの部隊はこの地で叛乱軍を待ち受けます」
「待ち受ける、ということはあえて動かぬということですか?」
「はい。とはいえ平野の真っ只中で迎え撃つつもりはありませんよ」
「近くに丸山城がありますが、そこへ篭られるのか?」
「これが千や二千の兵であれば無理やりにでもそうしたでしょうが、私たちは二万に近い大軍です。小城に篭ればかえって動きがとれなくなってしまうでしょう。城の外に配された兵は穏やかではいられないでしょうしね」
「では――」
「はい。少し北に行ったところに、手ごろな山がありますので、そちらへ」


 惟信の言葉に、武将は小さく笑った。
「なるほど、妙に斥候を多く出しているなとは思ったのですが、このことあるに備えてでしたか。しかし、これでは我らは敵中に孤立することになりますが?」
 惟信は小さく頷く。
「はい。けれど、そう長いことではありません。堅固な陣に篭るは怯え居竦むにあらず、やがて来る攻勢に備えてのことです」
 惟信はそう言うと、一つ息をついてから、さらに続けた。
「立花、高橋の軍勢が来るまで、まだ多少の猶予はあるでしょうが、のんびりしてもいられません。ただちに陣替えの準備をはじめてください。嵐の中での移動です、各々十分に注意するように。無論、高橋離反の報は兵にもらしてはなりませんよ」
「承知仕った」


 その言葉を皮切りに、諸将は一斉に立ち上がり、それぞれの部隊を掌握するために散っていく。
 そんな僚将たちの後姿を見送りながら、惟信はこれからの手立てを頭の中で並べ立て、検討を加えていく。その最中、知らず惟信の口からため息が零れ落ちた。
「……それにしても、立花殿に続き、高橋殿までが背くとは。このままでは遠からず筑前が失われるは必定、なんとかしなければならないですね」
 とはいえ、それが簡単に出来れば誰も苦労はしないのだが、と内心で呟きつつ、惟信は何故か隅っこでたそがれている鎮幸の首根っこを引っつかむべく、ゆっくりとその背後に歩を進めるのだった。





◆◆◆




 時を数日さかのぼる。



 筑前休松城。
 先夜の敵襲を追い返し、日が昇る頃にようやく眠りについた俺は、何故だか吉継に頬をつねられて目が覚めた。
「……えーと、なんで俺は頬をつねられてるんだろう?」
「寝顔が可愛かったもので」
「意味がわからないのだが」
 あと、この年で寝顔が可愛いといわれても嬉しくないぞ、娘。
「それは残念です。それはともかく、目が覚めたのなら道雪様に会いにいかれたほうがよろしいかと。無論、しっかり身支度を整え、将たる威厳をまとった上で」
「すまない吉継、さっぱり意味がわからないのだけど?」
 寝起きのせいだろうか、本当に吉継が言ってることがよくわからんかった。
 しかし、寝ぼけ眼の俺に対し、吉継はなにやら恥ずかしげに頬を染めて(めずらしく頭巾をしていなかった)こんなことを言ってきた。


「お願い、お義父様」
「道雪様に会いにいけばいいのだなッ、よし、すぐに行こう、早速行こうッ! ちょうどお話ししておきたいこともあったからなッ」






「……というわけでまかりこした次第ですッ」
「……勢い込んでたずねてくるから、何事かと思えば」
 道雪殿は呆れたように首を振った。はからずも鬼道雪を呆れさせるという武勲を、俺はたててしまったらしい。
 道雪殿は口元に苦笑を湛えながら、口を開く。
「誾のことを気にかけてくれたのでしょうから、礼を言うべきところではあるのですけど。ふふ、親子仲がよろしいようで、縁を結んだ身としても嬉しく思いますよ、筑前殿」
「そのことに関しては、それがしも心より感謝しております」


 それは俺の本心だった。
 まあ今の俺と吉継の仲は、言葉の響きは悪いが、家族ごっこのようなものだろうが、それでも家族という響きに焦がれる者同士の連帯感はあるし、今までなかった暖かいものが心の奥の方に感じられるのも事実である。
 時を重ねていけば、いつか「ごっこ」が消えてなくなるのだろうか。そんな風に考えながら、俺は道雪殿の言葉に気になる部分を見つけて問いを発した。


 だが。
「誾殿がなにか……って、あ、いえ、大体わかりました」
 問おうとした途端、大体の事情が察せられたので、俺は苦笑して問いを引っ込める。
 そんな俺に、道雪殿は困ったように笑いかけてきた。
「あの子も頑固なところがありますから。そのあたりは生みの母にそっくりなのですけど、菊と違い、誾は表に出さず、内に溜めるばかりなのが親としては心がかりなのです」
「そうですね、まあ俺――ではない、それがしとしては誾殿の御心がわからないでもないので、というか良くわかるので、複雑なところではありますね」
 ぶっちゃけ、俺が道雪殿の前から消えれば、誾の憂いの大半は拭われるだろう。それは半ば確信だった。


 無論、そういった目先のものではない、もっと深い事情に関しては俺の考えが及ぶところではない。ただ、それはおそらく道雪殿の下で成長していけば、遅かれ早かれ解決するのではないかと思う。
 嫌われているため、ろくに話したこともないのだが――というか、話しかけてもすぐに会話が打ち切られてしまうのだが――戸次誾という少年の聡明さは傍目にも明らかである。
 周囲には道雪殿や紹運殿をはじめとした『人』はそろっている。だから、あの子にとって必要なのは、おそらく時間だけだろう。克目すれば、いずれは西国一の侍大将として名を轟かせるのではないだろうか。


 ――と、まあそんなことを言ったら、めずらしく道雪殿が笑み崩れていらっしゃった。やはり母親、息子が褒められるのが嬉しくて仕方ないらしい。
 うむ、思わぬところで道雪殿攻略の鍵を握った気がする。だが、内心でこっそりほくそ笑む俺に気づいたのか、道雪殿はこほんと咳払いして表情を整えると、にこやかにこう言ってきた。
「それでは、今度はわたくしから見た吉継殿の為人を申し上げることにいたしましょう」






 互いの子を誉めそやし続けた俺と道雪殿が我に返ったのは、それからしばらく後のこと。
 この危急に、俺は一体何をやっているんだろうか。俺が頭を抱えていると、道雪殿も似たような心境なのか、やたらと手で髪をもてあそんでいた――ちょっと洗ってみたいなあ、と思ったのは内緒である。


「そ、それはともかく、今後のことです」
 いろんな思い(雑念)を断ち切るように、俺はあえて強い調子で声を押し出す。このままだと、またあらぬ方向に話が持っていかれてしまいそうだったからだ。
「吉継には話しましたが、おそらく秋月はまもなく総攻めに出てきます。であれば、おそらく凶報が舞い込んでくるのはまもなくのことです」
「わかりました。思えば、あえて鑑載殿が単身、わたくしを訪れたのも、この布石だったのですね」
「おそらくは。道雪様の目を、自分ひとりに向けておくおつもりだったのでしょう。それがしの考えすぎであれば良かったのですが……」


 立花、秋月、毛利、そして高橋。
 幸か不幸か、ここまでの情勢は俺の予測と大差なく進んでいる。
 ここまでなら、今回の筑前遠征軍で対処できるだろう。問題は――
「肥前の竜造寺が動いた時ですね」
「筑後の蒲池鑑盛殿には一切を知らせてあります。あの御仁の清廉は曇りなきもの、信じてしかるべきでしょう」
「はい。ですが、聞けば竜造寺は当主である隆信自身が剛勇の将であり、配下には四天王なる屈強の武将たちが控えているとか。くわえて鍋島直茂なる鬼面の切れ者が軍配を任されているとも聞き及びます。蒲池様お一人だけでは、あるいは後手を踏む可能性もありましょう」
 その俺の言葉に、道雪殿はかすかに目を細めた。
「そこまで言われるからには、何か策があるのですね?」
「策、というほどのものではありませんが、小野様、由布様と連絡がとれましたら――」
 それはすなわち、宝満城と岩屋城を陥としたら、ということである。



「それがしを肥前につかわしていただけませんか?」





◆◆◆





 筑前国岩屋城。
 高橋鑑種によってつくられた険阻な山城は、夜半、筑前を襲った野分の真っ只中にあった。
 雨はあたかも滝のごとく降り注ぎ、風は周囲の山々の木々をへし折りつつ荒れ狂う。この時期の嵐はさしてめずらしいものではなかったが、それでもこれほどの規模のものは滅多にないといってよい。
 雷光が煌くや、ほとんど間をおかずに轟音が響き渡る。岩屋城は、今や嵐の中心に位置しているようであった。



 稲光によって、一瞬の間だけ垣間見える岩屋城。
 その姿を、山中から遠望する者たちがいた。一人二人ではない。十人、二十人でもない。百人、二百人ですらなかった。
 その数、実に七百人。
 彼らの軍装は岩屋城を支配する高橋家のものである。旗指物も同様だった。
 彼らと他の高橋勢の違いをあげるとするならば、主力部隊が大友軍の後背を衝くべく岩屋城を出て北へと向かったのに対し、彼らは南から城への道を進みつつあるということだった。



 そして木々の間から、岩屋城の城門を指呼の間に望んだとき、それまでひたすら無言で進み続けていた部隊が、はかったようにぴたりと進軍をやめた。
「尾山、萩尾」
 七百人の部隊を統べる人物が、配下の二人に呼びかける。
「はッ」
「手はずどおりに行く。私と尾山が正門、萩尾は搦め手だ」
「御意」
 その言葉を聞くや、萩尾と呼ばれた人物は即座に部隊を率いて姿を消した。
 この嵐の中、命令を伝えることさえ困難であろうに、部隊の動きは整然と乱れなく動き、ただその一事だけでこの部隊の錬度を知ることが出来るだろう。


「では、我らも参りましょうか。しかし……」
 尾山と呼ばれた将は顔中を雨と泥で汚しながら、呟くように何かを口にしようとしたが、思い返したように首を左右に振るにとどめた。
 無駄口を叩くまいとしたのか、それとも一度口を開きながら、何を言うべきかわからなくなってしまったのか。本人にすら、それはわからなかった。
 そんな尾山の迷いを察したように、指揮官が声をかける。その声は先の命令する声より、ほんのわずかだけ柔らかかったかもしれない。
「今は戦に集中しろ。我らの部隊に、大友の未来が懸かっているのだから」
「は、申し訳ありません」
 そう言って、尾山はみずからの主君に視線を向ける。
 この風雨の中にあって、なお毅然と立つその姿。凛とした双眸に映るのはただ岩屋城のみか。それとも、その先にある何かを見据えているのだろうか。



 そんなことをかんがえながら、尾山中務は、主である吉弘紹運の攻撃の下知を待つのだった。
  




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第四章 野分(四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:9e91782e
Date: 2010/11/19 22:54
 吉弘紹運が今回の筑前遠征における己の役割を伝えられたのは、道雪率いる大友本隊が府内を発する直前のことだった。
 実のところ、当初、紹運は府内の留守居を命じられていた。これは紹運のみならず、先の戦で主力となった吉弘勢すべてがあてはまる。当然、紹運の父である鑑理も同様であった。
 この時、紹運は立花、高橋両家の叛意を察してこそいなかったが、秋月の蜂起ではじまった一連の騒乱がたやすく鎮められるとは思えず、父や義姉に従軍を願い出たのだが、いずれも首を横に振られてしまったのである。


 その義姉から出陣前夜に突然呼び出された時は何事かと首をひねったのだが、その言うところを聞いてさらに驚いた。冷静沈着を謳われる紹運が、思わず声を高めてしまうほどに、道雪の言葉は意外なものだったのである。
「立花様と高橋様が叛く恐れがあると……そう申されるのですか、義姉様?」
「ええ、そういいました」
 当然、紹運としてはこう問わざるを得ない。
「何かそれを示すものが見つかったのですか?」
 その問いに対し、道雪は小さく首を左右に振る。
「鑑載殿に関しては、府内を発たれるおり、御自身でこの屋敷まで参られ、現在の大友家にはもはや従えぬとの主旨のことを言っておられました。ですが確たる証があるわけではありません。鑑種殿にいたってはなおのことです」


 紹運としては、いかに敬愛する義姉の言葉とはいえ、はいそうですかと素直に肯えることではない。だが同時に、道雪が出陣の間際までこのことを秘していた、その意味に気づかない紹運でもなかった。
 なにより、誹謗中傷を信じて味方を疑うような戸次道雪ではない。直接的な証拠こそないとしても、大友家内部の不穏な気配や、筑前の状況、毛利の策動を鑑みて、そう判断せざるを得なかったのだろうと思われた。
 そんな紹運の内心を察してか、道雪はゆっくりと口を開いた。
「紹運、問いたいことは多々あるでしょうが、まずはわたしの話を聞いてくれますか? その後、あなたの疑問に答えますので」
「承知いたしました、義姉様」
 そのために人を払ってこの場を設けたのだと悟った紹運は、余計な言葉を口にせず、ただそう答えるにとどめた。




 そして。
 すべての話を聞き終えた紹運は、小さく頷いてみせた。
 機先を制するために、証拠もなしに奇襲を仕掛ける、などという策であれば反対を唱えるつもりだったが、今回の作戦はあくまで相手の動きに応じてのもの。立花、高橋両家が動かなければ、波風たつことなく戦を終えられるものだったからである。
 その場合、紹運とその部隊は無駄働きに終わってしまうように思われるが、危急の際に備えるためと考えれば、一概に無駄とも言い切れぬ。
 

 とはいえ問うべきことがないわけではなかった。
「……我らが謀叛を察していることを伝えることで、翻意を促すことはできないものでしょうか? 立花様はもう遅いかもしれませんが、高橋様ならばあるいは」
「紹運の言うとおり、鑑載殿に関してはすでに遅いでしょう。いまさら翻意するようなら、みずから出向いたりはしないでしょうからね。そして、その鑑載殿と同心している以上、鑑種殿もまた並々ならぬ覚悟で臨んでいるはずです。こちらが叛意を察していると知れば、鑑載殿と歩調をあわせて正面から離反を宣言する可能性が高いのです」


 そうなれば、大友軍は立花山城、宝満城、岩屋城という筑前屈指の堅城群を力ずくで陥としていかねばならなくなる。それも、おそらくは古処山城に立てこもるであろう秋月種実を背後に控えながら、だ。
 いかに名高き鬼道雪といえど、その戦況で必勝を期すことは難しい。かりに勝てたとしても、どれだけの兵と、金と、時を散じることになるのか……
「想像するだけで胃が痛みます」
 真顔で言い切る道雪だった。


 道雪はなにも冗談を言っているわけではない。ただでさえ先の戦で多大な戦費を失ったばかりだというのに、ほとんど間をおかずに次の大戦である。
 大友家は海外との交易などで多大な利益を得てはいるが、収入以上の支出があれば、府庫の蓄えが失われていくのは必然だ。中でも南蛮神教布教のために費やされる財が、大友家の経済に大きな影響を与えていることは周知の事実だった。
 加判衆筆頭として、また戸次家当主としても、戦費の調達には頭を抱えざるを得ない道雪だったのである。


 いまだ当主ではない紹運に、道雪の心労は完全には理解できない。それでも父吉弘鑑理も同様の悩みをもらしていたこと、その世継ぎとして補佐をしていたことから、推測するくらいは出来る。
 真顔の道雪に、紹運は表情の選択に困りながらも頷くしかなかった。


 こほん、と咳払いして表情をあらためた道雪に対し、紹運は今度は軍将としての問いを向けることにした。
「しかし義姉様、仮に戦況が推測どおりに動いたとして、この布陣では我が隊の働きに戦そのものの成否が懸かってしまうと思うのですが」
「そうなりますね」
「これだけの大任を務められることは武人としてこの上なき栄誉。ですが、確実を期すならば、ここは父上のような戦巧者をあてるべきではありませんか?」
 紹運は決して怖じているわけではない。だが、スギサキなどと称えられていても、紹運は自分を過大評価はしていなかった。
 今回の戦は、ただ陣頭で采配を揮い、突撃するような単純なものではなく、いたるところで臨機応変な対応が求められることは確実だった。
 そういった時にものをいうのは、なによりも戦陣に臨んだ経験の数である。まだ青二才の自分よりは老練な戦巧者である父をあてるべき、という意見は的を射たものであるはずだった。


 だが、道雪は首を横に振る。
「わたしたちが筑前に諜者を放っているように、筑前もまた府内に諜者を放っているのは確実です。そして諜者の目が『豊後三老』からそらされるとは考えにくいのですよ。鑑理殿に兵を預ければ、その報はたちまち筑前にもたらされ、警戒されてしまうでしょう」
 その点、まだ吉弘紹運の名は、それほど警戒されてはいない、と道雪は言う。
「スギサキの武名は隠れなきものですが、それは一戦場における勇者としてのもの。まだ軍将としてのあなたの声価は確立されておらず、その分、御父上よりも動きやすい。仮に動きに気づかれたとしても、千にも満たないあなたの手勢で何ができるかを把握している諜者はいないでしょう」




 その道雪の言葉に、紹運は深々と頭を下げ、すべての命令を了承したことを示す。
 同時に思う。
 万端の準備をととのえ、大友軍を待ち受ける敵軍にとって、今回の戦は思いもよらぬものとなるだろう。突発的な叛乱ではなく、必勝を期して待ち構えているからこそ、衝撃はより深いものとなるだろう。
 そんなことを考えていた紹運の耳に、不意に道雪の愉快そうな笑い声が飛び込んできた。
 眼差しをあげた紹運は咄嗟に警戒する。義姉がこの顔と笑いをするときは、大抵こちらをからかおうとする時なのである。想い人はまだ出来ないのかとか、それほどの胸を持っているのにもったいないとか、花の命は短いですよとか、そんな感じの。
 そんな紹運の警戒心に満ち満ちた表情を気にもとめず、道雪は口を開いた。
「正直に言えば、今のあなたではまだ荷が重いのではないか、とわたしも危惧しないわけではなかったのですけど、この策をたてた御方があなたなら間違いはないと断言されまして。先の豊前での戦においても、あなたの働きにことのほか感心していたようですよ」


「……それは光栄、と申さねばなりますまいが、その御方というのは雲居殿のことですか?」
「ええ、そうです。正確にはこう言っておいででした。『さすがは音に聞こえた豪傑、見事なものです。紹運殿を妻に迎えられる御仁は幸せものですね。さぞ立派な子をもうけてくれるに違いありません』と」
 ぶふ、と紹運の口から妙な声がもれた。
「な、な、なにを言って?!」
「そうそう。わたしが、紹運はあれだけの武烈を備えながら、いまだ恋すら知らぬ乙女であると申し上げたら、なにやら獲物をねらう鷹のような目をしておられましたね」
「あ、義姉様ッ?! な、何を言っておられるのですか?!」
「つまり此度の戦において、紹運こそが肝なのでがんばってください、と」
「ころっと話を変えないでくださいッ?! よりにもよって雲居殿に、その、恋すら知らぬ、とかそのような――それでは私が戦しか知らない女のようではないですかッ」
「事実そうではありませんか。あなたの口から色恋沙汰に関する話を聞いた記憶はかけらもないのですけれど?」
「そ、それはあえて義姉様に言わなかっただけですッ! 私とて女子、恋の一つ二つ当然経験しておりますし、今だとて想いを寄せる殿方がいないわけではありません!」 


 思わず断言してから、紹運は内心で、しまった、と臍をかむ。
 が、時すでに遅く。
 義姉様はこれ以上ないくらいのにこやかな笑顔でこう仰った。
「それはそれは、めでたいことです。ならばわたしも姉として、あなたの想いが成就するように務めなくてはなりませんね」
「あ、い、いえ、それには及ばないかと。こ、この手のことは当人同士の気持ちが何よりも大切だと……」
「何を言うのですか、紹運。明日の生死すら定かならぬこの戦国乱離の世。しかもわたしたちは弓矢を握るもののふです。好いた相手の子を産める幸運が、いつでも転がっているなどとは間違っても考えてはいけません」
「そ、それは、あの、そうかもしれません、が……」
 紹運は何と返したものかと視線をさまよわせる。この手の話にはまったく免疫がなかった。


 そんな妹の困惑をよそに、道雪はさらに言葉を続けた。
「まずは、いかなる手を尽くしてでも相手を己が腕の中に抱え込むことです。なんでしたから一気に祝言まで持っていくのもよろしいでしょう。想いを育むのはそれからでも遅くはありませんよ」
「あの義姉様、それは順番が違うのではないでしょうか……?」
 おずおずと異見を掲げる紹運に対し、道雪は微塵も動じずに返答する。
「今が平穏な世であれば、じっくりと想いを育むのも良いでしょう。しかし、繰り返しますが今は戦乱の世、女子にとっては恋すら戦と知りなさい。まったく、このようなことは初歩の初歩だというのにこの子は……」
「うう……」
 なにやら哀れみをこめた眼差しを向けられ、紹運は肩を縮こまらせる。
 紹運としてはいろいろと反論したいことはあるのだが、いかにも常識のように恋は戦と語る姉を見ていると、おかしいのは自分なのかと思えてしまう。
 この場に第三者がいれば、冷静な突っ込みが入っただろうが、人払いはとうの昔に済まされており、結局紹運は恋の何たるかを長々と道雪に説かれることになってしまったのである。



 さらには今回の戦の後、想い人に引き合わせることを半ば無理やり約束させられ、挙句、その後屋敷で出てきた夕餉が赤飯だったことに、紹運は内心でさめざめと涙を流すのだった。






◆◆◆





 筑前国岩屋城。
「紹運様。どうなさったのですか?」
「はッ?!」
 配下の武将に声をかけられ、紹運は我に返る。
 周囲を見渡せば、いまだ鳴り止まぬ雷鳴の中を、紹運の手勢が忙しげにはしりまわっている。とはいえ、敵兵と刃を交えているわけではない。すでに紹運の部隊は岩屋城の制圧を成し遂げていたのである。


 堅城で知られた岩屋城は、しかし大友軍が拍子抜けするほどあっけなく落城した。常は沈着な尾山が「狸にばかされたようですな」と呟くほどに。
 だが、その言葉は言いえて妙であったかもしれない。高橋勢にしてみれば、味方を装って大友軍を通過させ、雨中を衝いてその後背を襲うという必勝の態勢だったのだ。しかも、立花山城の軍勢も時を同じくして出撃しているはずであり、嵐の中、挟撃を受けた大友軍の壊滅は必至だと思われていた。
 留守居に残された兵士たちを見れば、嵐の中の行軍を免れたと安堵する者よりも、約束された勝利を味わえぬと不平をもらす者の方がはるかに多かったほどなのである。
 

 城門に怪我をした兵士たちが姿をあらわした時も、彼らはまるで慌てなかった。鎧兜は同じであるし、行軍中に足を滑らせてしまったという理由も、さして奇異なものとは感じられない。夜間の出陣、しかも激しい風雨の中でのこと、そういうことも十分にありえるだろう。
 そして、歩くことも出来ない兵士を城に戻すことも至極当然の決断だった。怪我人を山中にほうっておくわけにもいかず、馬や輿に乗せて奇襲に連れて行くわけにもいかないのだから。


 何より、この場、この時に敵が姿を現す理由がない。彼らは今なお自分たちを味方と信じて、立花山城に向かっている最中なのである。
 かくて城門はあっさりと開かれ――岩屋城は陥落する。
 抵抗はほとんどなかった。留守居の将兵はたちまちのうちに紹運の部隊に制圧され、ようやく我に返ったときには、すでに城は大友軍の手に落ちていたのである。
 今の大友軍に捕虜をとる余裕はない。大友軍は武具をのこらずはぎとった上で留守居の兵のほとんどを解き放った。無論、岩屋城陥落の報を広めることが目的だったのだが、この頃にいたってなお高橋勢の将兵の顔はどこかうつろであり、まるで悪夢が現実になったとでも言うような薄ら寒い表情に覆われれていた。




 紹運は彼らが受けた衝撃の強さを思って、同情を禁じえなかったが、戦はまだ始まったばかりである。
 従者に運ばせていた自家の甲冑を着けると、次の行動に移るべく腹心に話しかけた。
「では尾山、城は任せる。警戒を怠らず、敵勢に備えてくれ」
 おそらく敵軍が寄せてくることはない。それは紹運にも尾山にもわかっていたが、それを口にしてしまえば油断が生じる。一つの狂いが戦局全体を左右することを知るゆえに、主従はかけらも油断するつもりはなかった。
「承知仕った。紹運様も、御武運を」
「うむ」
 配下の激励に、紹運はしっかりと頷いてみせる。



 これより紹運は五百の手勢を率いて高橋鑑種の後背を衝くべく城を出るのである。
 岩屋城には尾山が二百の兵で篭る。これもまた当初の予定どおりだった。
 紹運は義姉の言葉を脳裏に思い浮かべる。
『高橋家が総力をあげれば万に近い軍を集めることも出来るでしょう。秋月家が蜂起している以上、兵を集める理由は十分です。それでも、岩屋城には兵力を集中させることは出来ません。古処山により近い宝満城よりも、岩屋城に兵を多く集めていると知られれば、不審に思われるでしょうからね』


 ゆえに、と道雪は続ける。
『まずは岩屋城を出た高橋勢の動きを封じます。本隊の方は、鎮幸と惟信に言い含めてありますので、時が至れば、二人が急使という形で高橋離反の報を諸将に知らせます。それから兵をまとめて陣を構えますので、紹運、あなたは岩屋城を陥とした後、一隊を率いて出撃した高橋勢の後を追うのです。奇襲する必要はありません。そして姿を隠す必要もありません。ただ、後を追いなさい』
『……高橋勢の動揺を誘う、ということでしょうか』
『はい。策士は策におぼれるといいますが、必勝を期した策をたやすく見破られたとあっては鑑種殿も落ち着いてはいられないでしょう。その下の将兵に至ってはなおのことです。そのためには、岩屋城の留守居の兵は捕虜とせずに解き放った方が良いでしょうね。その上であなたが後ろを塞げば、岩屋城の落城は隠れも無いもの、動揺した兵士たちの離散を防ぐことさえ難しいでしょう。無論、鑑種殿直属の部隊は別でしょうけれどね』


『承知いたしました。ですが、高橋殿が岩屋城に兵力を集中できないとはいえ、千や二千ということはありますまい。岩屋城をおさえる以上、私が動かせるのは精々が五百というところです。高橋殿が将兵の動揺を取り除くために、後背を塞ぐ私の隊に攻めかかってくることも十分に考えられるのではないでしょうか?』
『その時は退却して構いません。追撃してくるようなら、岩屋城に篭っても結構ですよ。それでも、本隊が挟撃される恐れはなくなります。ただ……』
 おそらくそんなことにはならないでしょう。
 道雪はかすかに微笑んで、そう言った。


『一度、策を破られた者は疑心暗鬼になるものです。あなたが奇襲もせずに姿を見せれば、これもまた誘いの隙かと警戒するでしょう。しかも高橋勢の後ろには二万近い大軍が控えている。岩屋城が陥ちた以上、みずからの離反が見抜かれていたことを鑑種殿は悟るでしょうし、それは必然的に挟撃するはずだった部隊もまた、それを知っていたということにつながります。その結論に達すれば、鎮幸らの部隊をも警戒しなくてはならなくなり、結果として鑑種殿は動きを封じられることになるでしょう』
『そして、時が経てばたつほどに、高橋勢の動揺はいや増していく、というわけですか……』
 あるいは立花勢と合流しようとする可能性もあるが、それをしたところで高橋勢が帰るべき城を奪われた事実は拭えない。そして高橋勢の離反失敗は、立花勢にも小さからざる衝撃を与えるのは確実だった。
『ええ。鑑種殿の手勢は、悪夢にのまれるように失われていくことになるでしょう。そして、鑑載殿もまた……』






 もちろん、御両所が謀叛に踏み切ったと仮定しての話ですけどね。
 そう口にした道雪の顔を思い起こし、紹運はかぶりを振る。
 最終的には謀叛に踏み切ってしまったとはいえ、立花鑑載も、高橋鑑種も大友家の朋輩だったのは事実である。
 紹運は吉弘家の嫡子として、彼らと戦場を共にしたこともあるし、親しく語り合ったこともある。その人たちを討ち破ったところで、勝利の喜びなどあろうはずがない。それは紹運も道雪もかわることはなく――否、大友家に仕えた長さを思えば、道雪の悲哀は自分などが思い及ぶところではないだろう、と紹運は思うのだ。


「……不甲斐ないな、私は」
「……紹運様?」
 思わずこぼれた呟きに、傍らにいた尾山が不思議そうに聞き返してくる。
 雨風にさらされた顔に気遣いを湛えた部下に、紹運はもう一度かぶりを振ってみせた。
「なんでもない。では、そろそろ出るぞ。留守居の大任、よろしく頼む」
「は、お任せくださいませッ」


 一歩を踏み出したときには、すでに紹運の眼差しからは迷いが掻き消えていた。
 戦にのぞんで雑念は死を招く。今はただ果敢に、一心に勝利を得るべく努めるとき。それが多くの兵士の命をあずかる紹運に課せられた役割であり、またみずから望んだ在り方でもあった。






◆◆◆ 






 筑前国休松城。
 戸外を吹き荒れる風雨の音と雷鳴の響きは、さして広からぬ城全体を包み込み、大友軍の将兵に緊張を強いていた。
 俺は城の一室で吉継相手に今回の策をあらためて説明していたのだが、やはり雷雨が気になって仕方ない。
 だが、吉継は雷は平気な子であるらしく、とくに気にかける素振りもなく問いかけてきた。
「おおよそのところはわかりましたが、宝満城はどうされるつもりなのですか?」
「無視する」
「……こちらは無視しても、あちらがそうしてくれるとは限らないのでは? 岩屋城に優る数の兵が篭っているのはほぼ確実でしょう。それがこちらに加勢すれば由々しき事態になりはしませんか?」
「それは二つの理由で気にしなくていいことだな」


 俺の言葉に、吉継はかすかに眉間に皺を寄せる。
 言葉の意味を考えているらしい。出来れば少し考える時間を与えてあげたいところなのだが、どうも嵐のせいか、先刻から落ち着かない俺は、ささっと答えを口にしてしまう。
「岩屋城に兵力を集中できない理由はさっき言ったとおりだが、その分、鑑種は錬度に気を遣っただろう。簡単に言えば、精鋭のほとんどを岩屋城に集める。そうしなければ、いかに不意を衝くとはいえ、大友軍に撃退されてしまいかねないからな」
「……なるほど、宝満城が秋月勢に攻められることはありえないのですから、理にかなっていますね。もう一つというのは、やはり秋月種実ですか?」
「ああ。高橋勢の加勢が来るとわかっていれば、とうに攻め込んできてるだろう。まだ秋月が動いてないということは、宝満城の高橋勢は動いていないということだ――まあ、こっちは多分そうだろう、くらいの理由だけどな。仮に加わっていたところで、種実は高橋勢を前線に配そうとはしないだろうし、それに高橋方の武将が異を唱えれば、敵同士で勝手に争ってくれる可能性もある。そうなれば、こちらにとっては御の字だが……」
 まあ、そこまで期待するのは虫が良すぎるというものだけれど。


 ともあれ、そういったわけで宝満城には手をうっていなかった。無論、斥候は出しているが、おそらく本隊を討てば戦わずして城門を開けるだろう。仮に抗戦したとしても、先に言った理由で大した脅威にはなるまい。城兵が奮戦するようなら、おさえの兵を残して包囲すれば良い。
 もう少し信用できる戦力があれば、岩屋城の紹運殿のような手も打てたのだが……まあ、ないものねだりをしても仕方ないだろう。


 それを聞き、吉継は頷きつつまとめるように自分の考えを口にした。
「……すると、こちらのすべきことは、吉弘様と由布様が立花、高橋両家を制してお戻りになられるまで、なんとしても持ちこたえてみせること、ですね」
「できれば小野殿も入れてあげてくれ、一応別働隊の主将だし」
「善処しておきます」
「よろしく。で、まあ吉継の言うとおりだな」
 表向きは、と内心で小さく付け加えて、俺はさらに言葉を続ける。
「本隊が戻ってくれば、城を囲む秋月勢は再び古処山に篭らざるを得ない。立花、高橋を制し、秋月を古処山に封じてしまえば、毛利軍は孤立する」
 孤立した軍を討つのは、その逆よりもはるかに楽であるのは当然である。
 当然、毛利は秋月を救援すべく、大急ぎで兵を動かしているだろう。もし秋月が毛利勢との合流を優先していたら、正直ちょっと厄介なことになっていたのだが、幸いにというべきか予測どおりというべきか、秋月種実は毛利勢の来着に先んじて兵を動かし、この城を包囲した。



 あとは吉継の言うとおり、時間との勝負である。
 秋月が城を陥とすのが早いか、それとも鎮幸らの本隊の到着が早いか。
 無論、種実はまだ岩屋方面の戦況はほとんどつかんでいないだろうが、出来るかぎり急いで城を陥としたいと思っている点では、双方の認識に差異はない。
 それはつまり現在の戦況に対する認識は、敵味方を問わず、攻める秋月、守る大友という形で固定されていることを意味する。また、それ以外に映りようがないとも言える。
 攻める側として主導権を握っている秋月種実にしてみれば、この嵐などは格好の奇襲日和としか映っていないのではなかろうか。




 
 そして。
「往々にして、虚というのはこういう時に生じるものなわけだ」
「お義父様?」
 ついでに言えば、俺は将も兵も篭城を好まない上杉軍の一員であり、この城の守将である鬼道雪のもう一つの異名は雷神である。
 さらに言えば、目の前の愛する娘のおかげで嵐の到来はあらかじめ予想されていたわけで。
「むしろ閉じこもっている理由がないよな」
 小さく笑う俺の顔を、吉継が戸惑いもあらわに見つめていた。 


 



[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第四章 野分(五)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:9e91782e
Date: 2010/11/21 23:58
 
 筑前国休松城。
 九国で生まれ育った種実さえも記憶にないような強烈な風雨が吹き荒れる中、秋月軍は密かに休松城に接近していた。
 種実の傍らに控えるのは腹心の深江美濃守である。
 もう一人の腹心である大橋豊後守は、すでに別働隊を率いて城の裏手にまわっていた。
 大友軍は連日の筑前衆の度重なる攻勢を受け、疲労も限界に達しているはず。嵐を裂いて、そこを衝くのが種実ら秋月軍の目的だった。
 しかし。
 寄せ手の総大将秋月種実は、今、内心の苛立ちと困惑を隠すのに苦心していた。
「……どういうことだ?」
 知らず、口をついて出た疑問に、しかし老練な深江美濃守も答えを返すことが出来ない。
 目の前に広がるのは深い闇と吹き荒れる風雨。
 そして。
 おりしも稲光が視界を純白に染めた、その彼方に、開ききった休松城の城門が映し出されていた。



◆◆



 現在、大友軍が篭る休松城は、元々は種実の父である文種が、古処山城の出城として建てた秋月家の持ち城だった。当然のように、種実はその特徴を熟知している。
 休松城は、安見ヶ城山、大平山という二つの低山に拠る形でつくられた山城であり、本城である古処山城や他の出城と緊密な連携を保てば、出城として十分な機能を発揮する。
 逆に言えば、ただそれだけの城だ。古処山城のように孤立しながら大軍を迎え撃てるほどの堅牢さは備えていない。
 くわえて言えば、種実は大友軍を迎え撃つ際、各地の出城、支城の物資をことごとく古処山城に集めさせており、城内には大友軍が府内から持ち込んだ武具や兵糧しか残っていないはずだった。その物資にしたところで、大友軍の半ば以上が立花山城に向かった今、城内に豊富に残っているとは考えにくい。


 にも関わらず。
 大友軍は数え上げれば七度に及ぶ筑前衆の攻勢をことごとく撃退してのけたのである。
 もっとも、主力というべき秋月軍が動いたのは七度のうちわずか二度だけ。
 それ以外は他の国人衆に命じて行わせたものであり、夜討ち朝駆けを主としたその攻勢は、城を陥落させるためというよりは、大友軍の士気を挫くための作戦行動といえた。
 だが、それとて決して生易しい攻撃ではない。それも当然で、大友軍と、その指揮官である戸次道雪を討ち取るという武勲は誰もが欲してやまぬところ、攻撃を仕掛けた諸将はいずれも本気で攻めかかったのだから。


 それでもなお、城は陥ちない。
 鬼道雪の将帥としての威令は知らぬ者とてなく、戸次勢が精鋭であることも隠れない事実だが、それにしてもこの粘りは種実の予想を超えていた。
 まるで、この事あるを予期して、十分な備えをしていたかのようだ。
 城の堅牢さに、種実の胸中にそんな考えが浮かんでくる。だが――
「……ありえない」
 それはつまり、毛利元就の策略を見抜いていなければ不可能なことだからである。
 しかし、元就の策略を見抜き、立花、高橋らの謀叛を察していたのなら、種実らが挙兵する前にとうに両家に兵を遣わして制圧しているはず。
 大友軍の動きを見る限り、彼らは立花、高橋の叛意に気づいていなかったとしか思えない。必然的に、休松城で種実らに取り囲まれることを予期できるはずがない。
 ならば、何故いまだに城は健在なのか――


「つまりは、これが鬼道雪の底力ということかな」
 戦陣に臨んだ数で言えば、今の種実は道雪の足元にも及ばない。道雪から見れば、種実など卵の殻をつけたひよこに過ぎないだろう。
 机上の計算など、実際の戦ではなにほどの役にも立たない。あの城から、道雪はそんな風に種実を見下ろしているのかもしれない。
 そう考えると腸が煮えくり返る思いだが、戦場にあって感情に身を任せる愚かさは元就や三姉妹たちから繰り返し説かれたところだ。くわえて父と兄を殺され、古処山城から落ち延びてもう二年近く。感情をねじ伏せるのは慣れたものだった。


 一際強い風が吹く。
 軍旗が激しくはためき、急造の陣屋が音をたててきしむほどの勢いだ。その風にあおられるように、ここ数日降り続いていた雨もますます激しくなりつつある。
 種実は予測されていた嵐が間もなく到来であろうことを悟り、苦い笑みを浮かべた。本来なら、これが来る前に城を陥としておきたかったのだが、そこはやはりみずからの見通しの甘さを認めるしかないだろう。
「机上の計算にしがみついた小僧っこだと嘲笑されてもやむをえないね。けど――」
 それでもなお勝ちの目は動かない。
 種実は声をあげて部下を呼ぶと、秋月軍を含めた筑前衆全軍を麓の陣営に戻すように命令した。
 これ以上、風が強まれば仮ごしらえの本陣が吹き飛ばされかねず、それ以外にも本格的な嵐が到来するまえにやっておかねばならないことは幾らでもある。また筑前衆は寄せ集めの軍勢ゆえに、危急の事態に脆い。嵐に乗じて山中で攻撃を受ければ、下手をすると同士討ちになりかねないからでもあった。




 総攻めは風雨が去った後。
 諸将にそう伝えた種実は、そのすぐあとに腹心の二将を呼び寄せる。
 連日連夜の攻勢に晒されていた大友軍にとって、ようやくおとずれた休息である。警戒の念を解くほど愚かではあるまいが、間違いなく注意力は失われるだろう。
 そこを衝く。
 そのためには他の軍は邪魔であり、秋月軍は味方すら気づかないほどに速やかに軍を動かし、休松城を奇襲しなければならなかった。



◆◆



 そして――
 自ら軍を率いて夜闇を潜り抜けてきた種実の視界に映ったのは、開かれた城門だったのである。


 大友軍が出入りするために、わずかに開かれているというわけではない。文字通りの意味で、完全に開放されていた。あれでは仮に大友軍が隠れ潜んでいたとしても、敵勢が押し寄せるまでに城門を閉じることは不可能だろう。否、それどころか――
「美濃、門扉が見えるかい?」
「……見えませぬな。容易に信じられぬことですが」
 老練な深江の声からも、明らかな不審と驚愕が感じ取れた。


 そう。敵兵の侵入を拒むための分厚い門扉そのものが取り外されているのである。たしかに連日の攻勢で門扉も大分傷ついており、戦が終わった後には修復しなければならなかっただろう。
 だが、敵を前にして門扉をはずす理由があるはずもない。まさか嵐に備えての一時的な退却を、総撤退だと思い込んだわけでもないだろう。
 あるいは、この嵐の間に門扉をつけかえるつもりなのだろうか。だが、そんな急造の門で自軍に数倍する敵軍を防げるはずがない。それに作業をしている大友軍の将兵の姿も見えないではないか。


 考え込む種実に、いち早く驚愕から立ち直った深江が声を励まして告げる。
「しかし若、敵の思惑はどうあれ好機には違いございませぬ」
「だが、間違いなく大友の罠だよ」
「罠なれば食い破れば良いだけのこと。どんな罠をしかけていたところで、我が軍が城門を押さえるという一手を省けることは確かでござろう」
 深江の言葉には一理あった。城門をこじ開けるという最初の難関を、向こうがあえて開いてくれたのである。ここで躊躇してしまえば、いつまで経っても城を陥とすことはできないだろう。


「くわえて、ここで逡巡してしまえば豊後殿が孤立してしまいましょう」
「……確かにそうだな。これまで真っ向から反撃してきた大友が奇策に出たということは、それだけ追い詰められているということでもある。ここは正攻法で押し切るべきか」
「御意。拙者が隊を率いて門をおさえます。若は後詰をお願いいたしまする」
「わかった。美濃、頼む」
「はッ」





 かしこまった深江は、みずからの言葉どおり自隊を率いて休松城に接近、警戒しつつ城門を越える。
 だが、そこには予期していた罠はなく、城壁上から大友軍の矢石が降り注ぐこともなかった。
 城内に少し入ったところには、木と桟を幾重にも重ね合わせた分厚い門扉が重ね合わせに置かれていたが、その周囲にも大友軍の姿はなかった。


 その時、不意に深江の視界に慌しく駆け寄ってくる複数の兵士の姿が映った。
 すわ大友軍か、と深江と麾下の兵士たちは迎え撃とうとしたのだが――
「朝!」
 そんな声がかけられ、深江は思わず叫び返していた。
「夜!」
 それは秋月軍の合言葉だった。嵐の中での戦いになるということで、あらかじめ定めていたのである。そのやりとりを聞いた周囲の兵からも殺気が失われていく。


 それは相手も同様だったようで、近づいてきた部隊の長がどこか呆然としたように声をかけてきた。
「やはり、美濃殿か」
「これは豊後殿であったか。ご無事で何より」
「美濃殿もな。もっとも敵兵がおらぬ以上、無事も何もないのだが」
 その大橋の言葉で、深江も事情を察した。裏手から回り込んだ大橋の隊も、敵兵に遮られることなく、ここまで侵入してきたのだろう。
「ごらんのとおり、門扉そのものがはずされておる。落とし穴などもなく、城壁に兵が潜んでおる様子もなし、だ――狸にばかされておるようだわ」
「こちらも同様。決死の覚悟で乗り込んでみれば、歩哨の一人も立っておらぬ。城の中には明かりさえ灯っておらず、まるで無人の城だ。門をあけるために急いだゆえ、まだ詳しくは調べておらぬが」
「山中に逃げ込んだのでござろうか。いやしかし、十や二十ならともかく、千を越える人数が隠れ潜むことなど出来るはずもなかろうし……」
 深江はわずかに考え込んだが、すぐにかぶりを振って意識を切り替えた。
 今は城を制圧するのが第一義である。敵が城内に潜んでいる可能性もまだ十分に残っているし、敵が逃げたのだとしたら、無用の時を費やせば、その分敵が遠くまで逃げてしまう。まあ二千近い人数が、包囲を抜けられるとも思えないが……
 そんなことを考えつつ、深江と大橋は種実率いる本軍を城内に呼び入れたのである。



◆◆



 そして。
 種実率いる秋月勢本隊はほどなく休松城を制圧した。
 城壁上には秋月家の旗指物が立ち並び、嵐が去れば誰の目にも勝敗は明らかとなるだろう。
 本来ならば、ここで勝どきの一つもあがるはずだったが、しかし、煙のように姿を消した大友軍の行方が知れない以上、そんなことをする余裕が秋月軍の将兵にあるはずもなかった。


 休松城、城主の間。
 おそらくはつい先刻まで戸次道雪が使っていたはずの部屋で、種実は苛立たしげに軍配をもてあそんでいた。嵐はいまだ去らず、種実の耳には雷鳴と風雨の音が絶えず飛び込んでくる。その音が、ただでさえ落ち着かない胸中をさらに騒がせ、種実は知らず奥歯をかみ締めていた。
 それでも、なんとか声を震わせることなく、深江に確認をとる。
「……まだ知らせは来ないのか?」
「は、いまだ」
 さきほどと変わらない答えを受け、種実は舌打ちをこらえる。
 もっとも使者が戻ってくれば真っ先にここへ通すように命じている以上、答えがかわるはずもない。そのことは種実も承知していた。それと知って、なお確認してしまうということは、要するに自分が落ち着きを失っているからだ。
 種実は誰に言われるまでもなくそのことを理解しており、その自覚がまた苛立たをかきたてるのである。


 深江の隊が城門を確保した時点で、種実はすぐに麓に布陣する筑前衆に使者を出した。
 大友軍が城中にいないとなれば、当然、城を出たことになる。このあたりの山は標高が四百にも満たない低山であり、千を越える人数が山中に隠れ潜むことは不可能だ。
 であれば、大友軍はおそらく嵐を衝いて包囲を破りに出るはずだった。というより、それ以外に考えようがない。


 問題はどちらの方角に逃げるか、ということだった。
 もし道雪が高橋の裏切りに気づいていないのならば、立花山城に赴いた本隊と合流しようとはかるだろう。あるいは宝満城に逃れ、城の高橋勢の助力を得てから、改めて反撃してくるつもりかもしれない。
 そうなれば、高橋勢は切り株につまずいた兎を得るような容易さで鬼道雪を討ち取ることが出来る。種実にしてみれば、到底許容できるものではない。


 ゆえに本来ならば即座に追撃に出たいところなのだが、もしかすると大友軍が豊後に戻ることも考えられるのである。
 大友軍二万を討ち破ったとしても、戸次道雪を逃してしまえば画竜点睛を欠くというもの。完璧な死地に追い落としながら、道雪を取り逃がした秋月種実の無能ぶりは九国中に知れ渡る。
 それもまた種実にとって受け入れられない結末であった。


 そのいずれも避けるためには、まずは大友軍がどの方面に逃げるつもりなのか、それを確認しなければならない。
 種実は筑前衆に包囲の輪を広げるように命じ、大友軍を発見したら即座に知らせるように厳命した。
 無論、その知らせがあり次第、全軍をもって追撃し、道雪の首級をあげるためである。


 だが、その知らせが来ないのだ。
 確かに使者を出してから、さして時が経ったわけではない。あるいは今なお大友軍は嵐の山野を進んでいる最中なのかもしれない。
 だが、万一にも包囲の隙をついて密かに抜け出られていたら、と思うと種実は落ち着いていられなかった。
 これまで年齢に似合わぬ泰然自若とした振る舞いをしていた種実だったが、事ここに及ぶと、内心の激情を制御することは難しかった。


 そんな年若い主君の様子を見て、深江や大橋といった家臣たちは無理もない、と内心でつぶやく。二年近く、耐え続けた悲願がかなうか否かの瀬戸際である。長く生きてきた自分たちでさえ落ち着いてはいられないのだから。
「……若」
 いっそ、今のうちに麓に向かってはどうか。深江はそう進言しようとした。
 現時点で休松城を占拠しておく必要はない。まさか大友軍が引き返して襲ってくることもあるまい。であれば、知らせを受けてすぐに追撃に移れるようにしておくべきではないか。


 深江の進言を聞き、種実は一瞬だけ呆然とした。
 深江の言うことはもっともであり、そんなもっともなことに気づかなかった自分に愕然としたのである。
「美濃の言うとおりだ。どのみち、知らせが来れば麓までおりねばならないのだから、今のうちに……」
 種実がめずらしく慌てて言い募り、勢い良く立ち上がった、その時。


「も、申し上げますッ!」
 その場にいたほとんど――否、すべての人間が、その使者が味方の陣営からの知らせだと考えた。
 大友軍の行方がわかったのだろう、と。
 無論、種実もその一人。それゆえ、種実は余計な前置きはせずにまっすぐに問いかける。
「大友軍はどちらの方角に逃げたんだ?!」


 だが――
 それを聞いた使者は答えなかった。その顔には、驚愕と困惑がありありと浮かんでいた。報告すべき言葉さえ呑み込んで。
 その使者の表情をいぶかしく思った種実は、同時にもう一つの事実に気づいた。
 嵐の中を駆け抜け、濡れ鼠のようになったその使者は、先刻、種実自身が麓に送り出した者ではなかったか――?



 奇妙に重苦しい沈黙は、長くは続かなかった。困惑から脱した使者が、内心の疑問を脇に置き、なにはともあれ報告せねばと声を張り上げたからである。
「も、申し上げます、麓に布陣していた宗像、原田、筑紫らの諸勢の軍が、大友軍の奇襲を受け壊乱! 皆々、陣を保つこともかなわず、すでに潰走をはじめた部隊もいた模様ですッ!」
「……なんだと?」
「嵐の中のこととて、それ以上の詳しい情勢は知りようもありませんでしたが、すでに使者の役割を果たせる状況にないと判断し、取り急ぎ報告せねばと立ち返った次第でございますッ!」



 ――最初に口を開いたのは深江だった。搾り出すように確認をとる。
「待て、何を言っている? 大友軍の奇襲? 豊後から援軍が参ったのか?」
 だが、使者はその問いに困惑を見せる。
「確認できたのは杏葉紋のみゆえ、しかとはわかりかねますが、おそらくは戸次勢ではないかと……」
 城の大友軍がうって出た。戦況を単純にそう考えていた使者にとって、深江の問いは意味をなさないものだった。
 そして、この使者の考えは的をはずしていない。そう、状況を考えれば戸次勢が城を捨てて麓の軍勢に攻め込んだのだろう。深江もまたそれ以外に、現状を説明できる言葉をもてない。
 だが、それはすなわち――



 はじめて。
「……そんな」
 種実の声がひびわれる。
 種実が他の国人衆を退かせた段階で、道雪は兵をまとめ、密かに城を出る。
 種実がひそやかに自軍を引き連れて休松城に攻め上っていたとき、道雪は逆に麓の筑前衆を指呼の間に捉えていたのだろう。
 筑前衆にしてみれば、参戦以来、ずっと有利な戦況だった。おまけにこの嵐だ。警戒など形ばかりだったろう。かりに真剣に警戒している軍があったとしても、百や二百なら知らず、二千の大友軍が雨中をさいて奇襲してくれば持ちこたえられるはずがない。
 そして、一度崩れてしまえば、そこは烏合の軍の悲しさ、再び陣を立て直すのは至難の業だろう。


 何故、その知らせが種実のもとにもたらされなかったのか。知らせが来ていれば、即座に軍を転じて後背から大友軍を討ち破ることも出来たのに。
 ――答えは明瞭だ。彼らは知らせようにも種実の居場所を知らなかったのだ。種実は武功を独占するため、孤軍でこの奇襲に臨んでいたから。


 主力である秋月軍の不在、嵐の中の奇襲、率いる将は戸次道雪。これだけの要素が絡めば、むしろ持ちこたえられたら奇跡だろう。使者が麓に赴いた段階で、諸勢が壊乱の兆しを見せていたのも不思議ではなかった。おそらく、大友軍は掌を指すように筑前衆の動きを見切っていたに違いない。
 否、それどころか――





「殿! 急ぎ山を下り、大友軍を討つべきでござる!」
 驚愕の表情を張り付かせて押し黙る種実を見た大橋豊後守が声をはげまして告げる。
 大橋とて動揺していないわけではないが、長く戦乱の世を生き抜いてきた秋月家の宿将は勝ち戦と同じ程度に負け戦を経験している。策が破られ、窮地に陥ったことは一度や二度ではない。
 こんな時、もっとも避けるべきは躊躇して竦んでしまうことである。将のためらいは、即座に士卒に伝播し、動揺をうむ。ここは無理やりにでも声を励まして、大友軍へ討って出るべきだった。そうすれば、将兵の怖気心も戦の昂揚に打ち消されよう。
 それに、と大橋は幾ばくかの余裕をもって考える。
 まだ、秋月軍が大友軍に優る兵力を有していることは確かなのだから、と。


 だが。
 次の瞬間、種実の口からは弾けるような叱声が飛び出し、大橋のみならず深江も驚きを隠せなかった。
「何を言っているッ?! 豊後、急ぎ兵をまとめてくれ! かなう限り急いで城門を守れ! くそ、この嵐じゃあ鐘をうっても聞こえないし、合図をしようにも……ッ!!」
「わ、若、落ち着きめされ。いまだわが軍は大友軍に優っております。たしかにしてやられはしましたが、挽回の機はいくらでもございましょうぞ」
 深江は、種実が策を破られて一時的に混乱していると思ったのだ。
 だが、種実はそんな深江の言葉に、苛立ちもあらわに口を開く。
「美濃までも何を呆けたことを! わからないのか?!」
「わ、わからぬか、とは……?」
「あの道雪が、寸刻を争うときに、どうしてわざわざ門扉を外して出撃したと思っているッ?! ただ城を捨てるだけなら、そのような手間をかける必要はないだろうッ! 空城計で時を稼ぐつもりだったにしても、なにも門扉自体をはずすことはない。門を開いておけばそれで済んだんだ! くそ、城中の兵は、大友軍をさがすために分散させてしまったし……くそッ、ぼくは何を呆けていたんだッ! 兵をまとめるように指示を出しておくくらい、もっと早くに出来たのにッ!!」


 半ば叫ぶような種実の声。
 おそらく、種実は言葉にしながら、自分の内心の考えをまとめてもいるのだろう。その声は深江らに説明するというよりは、焦慮をそのまま形にしたものだった。
 それでも、深江、大橋の二将は、種実が言わんとするところを理解した。理解して、蒼ざめた。
 だが、彼らが何事かを口にするよりも早く。



「申し上げますッ!!」
 それはついさきほどとまったく同じ報告の言葉。
 だが、そこにこめられた驚愕と苦痛は、比較にもならない。
 すでに朱に染まった甲冑を身につけたその兵士は、悲鳴にも似た声で告げた。
「大友軍の奇襲ですッ! すでに城門は突破され……ぐ、お味方は懸命に防いでおりますが、敵の勢いは凄まじく……ぐ、く」
 びしゃり、と紅い液体が、その兵士の口からこぼれ出る。よく見れば、その背には三本の矢が深々と突き刺さっていた。
「……間もなく、こちらまで押し寄せて来るかと、思われます…………種実、様」
 搾り出すような兵士の声に、種実は奥歯をかみ締めつつ、無理やり声をつむぎ出す。
「……なんだい?」
「……どうか、御武運を……筑前を、我らの……手……」
「承知した。君は下がってやすんでいてくれ……なに、大友軍ごとき、すぐに討ち破ってみせようから」


 種実は、最後の言葉が兵士の耳に届いたどうかを知ることは出来なかった。
 深々と頭を下げた兵士は力なく横たわり、そっと傍らに歩み寄った深江が、兵士の両目を静かに閉ざす。
 わずかに室内に落ちた沈黙は、次の瞬間、嵐さえ裂いて響き渡る喊声によって討ち破られる。思いがけないほどに近い。


「……美濃、豊後」
 兵士の言葉が、種実の狼狽をかき消したのだろうか。その声は静かだった。
「御意。お任せを、若」
「……最後に無用の言を呈してしまいもうした。お許しくだされ」
「最後などではないよ、豊後。ぼくたちは勝つのだから……勝たなきゃいけないんだから」   
 軍配を握り締めた種実の声に、二将のみならず、その場にいた全員が頭をたれた。
 最後まで主君に付き従うことを無言のうちに誓約するために。 
 



[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第四章 野分(六)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:9e91782e
Date: 2010/11/22 22:21
 筑前国休松城。
 策略を用いて秋月勢を城に追い込んだ大友軍は、敵将秋月種実が立てこもる本丸に猛攻を加えた。
 この時、休松城の秋月勢はおおよそ二千五百ほど。度重なる城攻めで大きく数を減らしていたが、それでもなお大友軍の二千よりはるかにまさる。数の上では互角以上の戦いが可能であるはずだった。
 だが、秋月勢は城内を制圧するために各処に分散しており、また嵐の中のこととて戦況を把握することも容易ではなかった。
 くわえて現在の秋月軍は、種実直属の部隊を除けば新たに徴用された者がほとんどであり、当主種実の下で組織化されてから一月と経っていない。変転を続けていた戦況に翻弄されていたこととあいまって、戸次勢の攻撃を受けるや四分五裂の状態となり、背を向ける者が続出する。


 結果、本丸に立てこもった秋月勢は三百に満たず、彼らの半ばも動揺を禁じえずにいた。
 ゆえに勝敗は明らかである――と思われたのだが。
 秋月勢は、ここにいたってなお敢然と戸次勢の前に立ちはだかった。当主種実が直接指揮する秋月勢の抵抗は凄まじく、勇猛をもって鳴る戸次勢を二度までも押し返し、さらには逆撃の気配さえ示してみせたのである。


 この頑強な抵抗を前にして、戸次勢は攻めあぐねた。このまま力ずくで制圧することは可能だが、被害が無視しえないものとなることが明らかだったからだ。
 本丸をめぐる攻防で、戸次勢はすでに五十名近い死傷者を出している。今日に至るまでの篭城戦で受けた痛手も決して軽くない。実のところ、戸次勢の数はすでに二千を大きく下回り、今回の戦いで動けたのはおよど千七百名ほど――それも軽傷の者を含めた上での数だった。無論、残る三百名が全員戦死したわけではなく、戦についてこられないと判断された者たちは、山中の一画に隠れ潜んでいる。
 大友軍にしても、決して余裕をもって戦っているわけではなかったのである。



「満身創痍というほどではないけれど。そんな感じだな」
 東の空がやや明るんでいるところを見るに、間もなく夜明けなのだろう。すぐそれとわかるくらいに、陽光を遮る雲は薄くなっており、頬に吹き付けてくる風雨もずいぶんと勢いを弱めている。
 嵐が去りつつあるのを感じ取りながら、俺は傍らの吉継を見た。顔を覆う頭巾を取り去り、鎧兜に身をかためた吉継は、秀麗な容姿もあいまって実に凛々しい武者ぶりである。戸次家の誾殿にもひけをとらないだろう。
 ちなみに吉継は表向きは病をわずらっている身なので、顔を晒して出歩いているのは色々とまずかったりする。まあ普段は顔を晒していないから、俺の傍らにいるのが大谷吉継だ、と外見だけでわかる者はほとんどいないだろうが、俺と吉継の会話を聞けば察するのは容易であるに違いない。
 そのため、緒戦以来、そこをどう誤魔化すかを考えあぐねていたのだが、吉継は大して気にした様子を見せなかった。
 普段は頭巾をかぶり、応戦する際には素顔を晒して兜をつける。特に名を伏せたり、偽ったりはしていないため、察しの良い者たちはとうに気づいているだろうし、それは吉継も承知しているはずだが、それでも気にかける素振りを見せない。吉継なりに思うところがあるのだろうと思われた。


 その吉継は俺の傍らで厳しい表情で本丸を見据えている。そして、それとわからないくらいかすかに、その脚が震えていた。
「吉継」
「お断りします」
 間髪をいれずに拒絶の言葉を口にした吉継は、厳しい表情はそのままに俺の顔を見つめる。
 その顔を見れば、吉継が何を言わんとしているのかは明らかだったので、俺は頬をかきつつ逃げるように口を開いた。
「……せめて心配を口にするくらいは許してほしいのだが」
「無用のことです。今、お義父様が気にかけるべきは私などではなく、貝のごとく閉じこもった秋月をいかに屠るかでしょう?」
 そう言うや、吉継は再び視線を本丸に戻した。


 日ごろの修練の賜物だろう、吉継の身体は女性らしい丸みを帯びつつも、刀槍を揮うことに耐えられる引き締まったものだ。
 かつてその腕前を身をもって知った俺は、吉継が戦場に出ること自体を止めようとは思わなかった。
 しかし、体格だけを見れば吉継は決して武将として恵まれているとはいえない――あくまで武将としてであって、女性としては小柄で可愛らしいのだが、それはさておき。
 武芸で身体を鍛えたとはいえ、やはり限界はある。ことに今回の戦いは重い鎧兜を身につけ、嵐の中、山を駆け下りては戦い、駆け上っては戦い、と大の男でもきついものだった。体力的に恵まれていない吉継にとっては苦行でしかなかったことだろう。


 それでも吉継は決して足手まといになることはなかった。弥太郎のように、その上で戦でも大活躍、というわけにはさすがにいかなかったが、それは当然といえば当然のこと。ついてこれただけで激賞するべきだろう。というか、弥太郎と比べて遜色ない姫武将なんて、九国中さがしても三人といないだろうし、比べる対象がおかしいな、うん。
 とはいえ、さすがにそろそろ限界だろう。おそらく、今、膝をつけば、吉継はしばらく立ち上がれない。だから後方で休むように言おうと思ったのだが、その気遣いは、たった今木っ端微塵にされてしまった。
 これが噂に聞く反抗期か、などと言おうと思ったが、さすがにそれは不謹慎だと考え、俺は意識を眼前の敵勢に切り替える。





 本丸に立てこもる秋月軍への攻撃は中断している。今は大友軍、秋月軍、いずれも次の攻勢に備えているところである。
 大友軍は決して万全の状況ではないが、それでも近づく勝利を思って意気軒昂だった。
 一方の秋月軍は、というと。
 今、俺が立っている場所は大友軍の最前線であり、本丸に立てこもる秋月軍の将兵の姿をしっかりと見ることが出来る。彼らは悲壮な雰囲気を漂わせてはいたが、敵に屈するつもりは微塵もなさそうだった。
 すでに筑前の国人衆は敗走し、他の秋月勢は壊乱状態である。そのことは彼らとて承知しているだろう。
 にも関わらず、秋月軍から戦意が失われていないという事実が、敵将秋月種実の器のほどを示していた。



 そして。
 実のところ、この秋月軍の抵抗は単なる悪あがき以上の意味を持っていた。
 俺の予定では捕らえるか討ち取るか、いずれにせよすばやく種実の死命を制し、最低限、秋月軍に代表される筑前衆の動きを制してから毛利軍にあたるつもりだった。


 先夜の戦いを端的に言えば、大友軍が嵐に乗じて大騒ぎし、それによって筑前衆が勝手に混乱を来たしただけで、双方の被害は大したことがない。
 無論、これは作戦どおりの行動で、その目的は極力自軍に損害を出さないためである。たとえ奇襲とはいえ、敵に打撃を与えようとすれば、こちらにも相応の被害が生じる。篭城戦で消耗した戸次勢では、秋月軍を除いても五千近い大兵力を有する敵軍に致命的な打撃を与えることは望むべくもなかった。
 またそこで欲をかけば、今度は城の秋月軍を討つのに支障が生じる可能性が高かったということもある。


 嵐が去り、落ち着きを取り戻せば、筑前衆の中でもそのことに気づく者は少なくないだろう。この時、総大将とも言える種実が健在であれば、逃げ散った筑前衆が将兵をかき集めて再び挑んでこないとも限らないのだ。
 当然、それは逃亡を選んだ他の秋月勢にも同じことが言える。彼らがそのことに気づくのが一週間後であれば問題はない。一日後でも、十分に種実に対処することはできる。だが、一刻後であればのんびりはしていられないし、それこそ一分後に気づく人間がいないとは限らないのである。



 不意に吉継が口を開いた。何やら低い声で、まるでだれかの真似でもするように。
「ことここに及べば、策をほどこす余地もない。勝勢に乗じて、力ずくで種実を討ち取るしかないだろう。三度目の正直ともいうしな……」
「これぞまさに以心伝心。よくわかったな、娘よ」
 内心をぴたりと言い当てられ、俺が驚くと、吉継は疲労を上回る諦観を湛えた表情で、深々とため息を吐いた。
「ここまでの戦を見ていれば、お義父様が存外好戦的であることは誰でもわかります。何も将みずから刀をとって敵と戦う必要はないでしょうに……」
 それは吉継なりの心配の表現だったのだろう。まあ、ただ単にあきれ果てているだけかもしんないが。


 言うまでもないが、別に刀をとって戦っているからといって、謙信様や政景様のようにばったばったと敵兵を切り倒しているわけではない。
 それでも将が怖じることなく刀を揮えば、配下の兵士も奮い立つもの。ことに戸次勢は道雪様を間近で見てきた将兵である。後方で采配を揮うだけでは、なかなか信望を勝ち取れるものではなかった。
 もっとも、当然、その分危険も増えるわけで、先夜からの戦に限って言っても、吉継に幾度も助けられたりしたあたりが、ちょっと情けなかったりするのだが。
 
 
「……とはいえ、決して好戦的なわけではないと強く主張する」
「勢いのままに自ら兵を率いて本丸に乗り込んでいき、あえなく撃退されても即座に態勢を立て直してまた攻め込み、戸次様の命令を受けてようやく戻ってきた人がそれを言いますか」
 何度肝を冷やしたことか、とぶつぶつ呟く吉継。
「男児たるもの、向こう傷をこそ誉れとすべしと言ってだな」
「普通、そういう人を指して好戦的というのですよ、お義父様」
「はっはっは、これは一本とられた」
「何を爽やかに笑ってごまかしているんですかッ」


 まったくもう、とため息を吐く吉継。
 そんな俺と吉継の周囲から、なにやらにやにやした視線が向けられている気がしたが、あえて気づかぬふりをする。「なんでここに小野様と由布様がいるんだろうな」というくすくす笑う声も聞こえないのである。




  
 だが、そんな時ならぬ和やかな雰囲気も、次の瞬間、即座に霧散した。
 にわかに後方が騒がしくなり、刀槍が連なる音がかすかに響いてきたからである。
 何事か、と誰もが思ったが、そこは物慣れた戸次勢である。秋月軍を前にして後方を気にするような素振りを見せれば、敵を勢いづかせることにつながる。
 あくまで平静を保ち、眼前の敵から視線をそらさない。知らせるべき事柄であれば、道雪殿から何らかの通達が来るだろう。
 そう考えていると、ほどなく道雪殿からの知らせがやってきた。


 聞けば後方――つまりは休松城の城門に、およそ三百ほどの騎馬隊が姿を現したのだという。
 はや先刻の危惧が現実になったのか、と思ったのだが、少し違った。その軍勢が掲げる軍旗は秋月家のものではなく、筑前のどの国人衆のものでもなかったからだ。
 では、どこの軍勢が今この時、休松城に姿を見せたのか。
 使者が語る名を聞いた途端、俺は思わず天を仰ぎ、顔中に雨滴の洗礼を浴びてしまった。
 現れたのは『一文字三ツ星』を掲げた軍勢。その旗印を掲げる軍勢を、俺は一つしか知らない。



 すなわち、中国地方の覇者、毛利家である。




◆◆◆




「安芸国守護毛利元就が息女、吉川元春と申す。貴殿の名は遠く離れた安芸にまで鳴り響いております。お目にかかれて光栄に存ずる、戸次殿」
「同じく、毛利元就が息女、小早川隆景です。お初にお目にかかります」


 周囲を敵兵に取り囲まれながら、微塵も動揺した様子のない元春。
 隆景は言葉すくなに、その元春の影に隠れるように座しているが、その眼差しに秘められた鋭利さは隠しきれるものではなかった。
 なるほど、世評にのぼるだけの実力は備えているようだ。道雪は毛利の姫たちをそう見て取った。
 

「丁寧な挨拶、いたみいります。名高き毛利の『両川』とこのような場所でお会いできるとは思っていませんでした。大友加判衆筆頭、戸次道雪です。どうぞお見知りおきを」

 
 道雪の澄んだ声音を聞き、元春はわずかに目を見張った。普段は知らず、敵将を前にして表情をかえるなど、元春にしては稀有な出来事である。
 世に雷神と恐れられる人物である。さぞ重厚な人物であろうと考えていたのだが、眼前の道雪は、女性の元春から見ても賛嘆を禁じえない佳人であった。
 これがあの鬼道雪なのか、と正直元春は仰天していたのである。


 一方の隆景はわずかに目を細めて道雪を見つめているだけだった。姉が仰天していることは察したものの、隆景にはそこまでの驚きはない。というか、そこまで驚くほどのことだろうか。毛利家だって外では散々恐ろしげに語られているが、内に入ればそれほどでもない――と思うし。
 隆景が注意を払ったのは、今、この場に隆景たち毛利の軍勢があらわれたことを、道雪がどのように判断しているのか、その一点だけだった。
 見た限り、道雪の目に驚きや焦りはない。内心に押し隠しているようにも見えない。
 それはつまり、道雪が毛利の登場にまったくもって驚いていないことを意味する。隆景としては、相手の動揺ないし誤解に乗じて、こちらの要求を押し通せれば、とかすかに期待していたのだが、眼前の道雪を見れば、それはやはり無理であるようだ。
 これから費やす労力をおもって、隆景は小さく息を吐いた。
 
  




 そもそもどうしてこの今この時、元春と隆景の二人が休松城に姿を現したのか。
 それは秋月種実が毛利軍の到着を待たずに、戸次勢に攻めかかったことを知ったからだった。無論、種実はわざわざ使者を出して、そのことを伝えたりはしていない。元春たちが独自に斥候を放ち、情報を集めたのである。
 秋月軍が古処山城を出て攻めかかった事実と、それを伝えようとしない種実。
 この二つだけで、毛利の両川が秋月家の思惑を察するには十分すぎるほどであった。


 そして、元春はそれを聞くや、隆景に毛利軍の指揮を委ね、自身はただちに馬廻衆だけを率いて種実の下へ赴こうとする。功に逸った種実を諌めるためでもあったし、同時に自分たちだけで戸次道雪を討ち取れると考えている種実の油断を感じ取ったからでもあった。
 種実の才は元春も十分に認めているが、どれだけ優れた才を持っていようと、また敵軍に数倍する大軍を抱えていようと、二十にも満たない若者にあっさり討ち取られるようならば、戸次道雪の名がここまで称揚されることはなかっただろうと元春は思うのだ。


 種実が苦戦する程度ならばまだ良い。むしろ道雪相手の戦は勝敗を別にしても良い経験となることだろう。しかし、下手をすれば逆撃に転じた大友軍に討ち取られてしまう可能性もある。それも少なからず。
 具体的な大友軍の作戦を読んだわけではない。ただ戦将としての直感に促されるままに、元春は馬を走らせようとしたのである。


 隆景が元春と行動を共にしたのは、逆に元春を気遣ったからであった。
 先に和睦したとはいえ、実質的に大友と毛利は敵国同士。まして国内をひっかきまわす毛利家を、大友家の君臣が憎悪しているだろうことは想像に難くない。他の筑前衆だとて、元春が少人数で戦場に踏み込めば、どう変心するか知れたものではなかった。
「……と、種実のことは気にしていない、あくまでついでだと必死に自分に言い聞かせる末姫殿であった」
「春姉、うるさい」
 そんな会話をかわしつつ、二人は三百の騎馬隊のみで筑前の地を駆け抜けたのである。



 そしてようやく到着してみれば、筑前衆はすでに壊滅状態であり、秋月軍は影すら見えぬ。
 そこに毛利家の旗を見つけた秋月勢の逃亡者たちがあらわれ、先夜来の情勢を知った元春たちは、種実が城で追い詰められていることを悟り、まっすぐに休松城に向かった。もはや手遅れか、と半ば覚悟しながら。



◆◆



 無論、この時点で元春も隆景も城内で種実が決死の抗戦を試みていることを知らない。
 それでも幾多の経験と大友軍の様子から、大友軍がまだ目的を達していないだろうことを察することは出来た。
 安堵はあったが、それ以上に眼前の問題の困難さに頭を抱えたくなる。
 毛利軍の本隊は、まだはるか遠方。この場にいる三百だけで種実を救出することは出来ない。
 であれば、交渉して種実の身柄の安全を確保するしかないのだが、はっきり言えばこちらから奇襲を仕掛けた挙句、失敗したから逃がしてくださいというようなものである。
 仮に元春が敵にそう言われたら鼻で笑うだろうし、隆景であればにっこり笑ったあとに総攻撃を指示するだろう。


 おそらく、戸次勢の将兵も毛利の狙いは察している。
 道雪は穏やかだし、元春たちをここまで案内してきた十時という将(元春たちが腰の大小を預けようとしたら、それには及ばないと言って返されたので、素直に感心して名前を聞いた)は無表情だったが、それ以外の者たちは明らかに隔意を抱いている様子だった。むしろ、はっきりと敵意、殺意を示さないあたりに戸次勢の真価を見て取れるかもしれない。


 とはいえ、だからといってこちらの申し出に友好的な対応をしてくれるはずもない。
 さてどう切り出そうか、と隆景が口を開こうとした時だった。


 ――不意に天幕の外からこんな声が聞こえてきた。




「なッ?! 秋月を逃がすというのですか?!」
「うむ。大友は敵将は逃がすけど筑前は得られる。毛利は策略は失敗したけど種実は助けられる。秋月は蜂起には失敗したけど再起の芽は残る。まさに三方一両損ならぬ三方一得一失、見事な大岡裁きだろう」
「まったくもって意味がわかりませんが、それはともかく、先の豊前の乱といい、今回といい、他国をかき回すだけかき回した家にその対応は甘すぎます。それに種実を逃せば、またいつ筑前に乱を持ち込まれるかわかりません」
「それはそうだが、仮にここで秋月を殲滅して、毛利の両川を討ち取ったらどうなる?」
「どうなるといって……大友の筑前支配を固め、毛利に大きな打撃を与えることになるのではありませんか?」
「そして怒り狂った毛利の大軍が周防灘を埋め尽くす。謀将は情の上に理を置くから、怒りに我を忘れることはない。でも『有情の』毛利は違うだろう。たぶん石見を尼子に熨斗をつけてくれてやってから、全軍をあげて攻めかかってくる。最初に殴ったのがどちらかなんて、耳を貸さないだろうな」
「……それは、そうかもしれませんが……」
「大友の目的が毛利の滅亡というならともかく、今の時点でそこまでする理由はないし、する必要もない。まあ、来たのが別の人間だったら少し考えないでもないけどな。ところで案内の方、道雪様たちはどちらに……って、え、ここですかッ?!」
「……その、さきほどからお伝えしようとしていたのですが、あまりにお二人の息が合いすぎていて、口をはさむ暇が……申し訳ございません」






 天幕の内と外でなんともいえない沈黙がわだかまる。
 やがて、元春がぽつりと呟いた。
「……なかなかに個性的な配下を抱えていらっしゃるようですね、戸次殿」
「毛利家の方にそう言っていただけると照れてしまいますね」
「……春姉は褒めてないけどね」
 口元に手をあてて微笑む道雪に対し、隆景は姉と同じように呟いたが、道雪はまったく動じず、天幕の外で立ち尽くしているであろう者たちに声をかけるのだった。





[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第四章 野分(七)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:9e91782e
Date: 2010/11/24 00:20

 筑前国休松城。
 本丸に立て篭り、決死の抗戦を繰り広げていた秋月種実は声を失っていた。
 眼前に佇む人物が、どうしてここにいるのか皆目見当がつかないために。
「は、春姉さま、どうしてここに……?」
「なに、先走った不出来な弟を叱りに来ただけだ」
 そう言うと、有限実行の乙女、吉川元春は種実の頭に拳骨を叩きつける。


 声もなく、頭を抱えて座り込む主君の姿を、深江美濃守が呆然と見やっていた。深江は長年筑前で活動していたため、毛利三姉妹の顔を知らなかったのである。知っていたのはもう一人の重臣である大橋豊後守の方だった。
「元春様、それに隆景様まで……一体、どうしてここに?」
「そなたも無事だったか、豊後殿」
 種実に負けず劣らず、呆然とした様子の大橋に、元春は先の口上を繰り返す。
「今いったとおり、種実を叱りに来たのだよ。秋月家が我らの到着を待たずに古処山を出たと知って、急ぎ駆けつけてみれば、秋月軍は城で追い詰められているという。種実が功に逸る可能性には思い至っていたが、豊後殿、そなたのような老臣までが引きずられてどうするのだ?」
「……まったく面目次第もござりませぬ」
 大橋はそう言って深々と頭を下げた。
 種実を止められなかったことを指して言っているのではない。そもそも大橋は一度も種実を止めていないし、止めようとも思っていなかった。種実と同様に筑前衆だけで、大友軍に勝つことが出来ると考えたためだ。
 その見通しの甘さと、それによって世話になった毛利に多大な迷惑をかけることになってしまった、そのことへの謝罪だった。


 それまで黙っていた隆景が小さく肩をすくめて、口を開く。
「ま、普通なら勝てて当然の戦だからね。あんまり責めちゃかわいそうだよ、春姉」
「なんだ、めずらしく寛大だな。隆景のことだ、てっきりねちねちと種実を責めるものとばかり思っていたのだが」
「いやだなあ、そんなことしないってば。ぼくだって可愛い弟が無事でいてくれて嬉しいんだし、それに叱るのは春姉と隆姉に任せるって決めてたからね」
 可愛い、のあたりを強調する隆景に、ようやく立ち直った種実が実に複雑そうな表情を見せた。
 ちなみに種実は隆元を「隆姉さま」、元春を「春姉さま」と呼んで慕っているが、隆景は「姉さま」をつけず、普通に「隆景様」と呼んでいる。
 一番年が近いこと、性格がびみょーに合わないこと――色々あるが、要するに国を失った種実にとって、慕っている二人の姉の愛情を一身に受けて育った隆景が小憎らしかったのである。


 これが平時であれば、明らかに意趣を含む隆景の言葉に、種実も一つ二つ言い返したであろうが、現状では何も口に出来ない。それに正直にいえば、口げんかをするほどの余裕も残っていなかった。
 そんな種実に向け、元春が問いを向ける。
「種実、生き残っている将兵はいかほどだ?」
「は、はい、およそ百二十名です、怪我人も含めて」
「ならば全員に伝えよ。ただちに城を出るとな」
 その言葉に、種実のみならず秋月配下の将兵全員が驚愕の表情を浮かべた。
 種実が慌てて問いただす。
「し、城を出るといっても……大友が許さないでしょう? い、いえ、そもそもどうやって春姉さまたちはここまで来たのですか?」
「大友の許可を得てに決まっている――種実」
「は、はいッ!」
 元春の言葉に、言い様のない凄みを感じた種実は知らず背筋を伸ばしていた。




「秋月は此度の大友との戦に敗れた。そして、それは我ら毛利も同じこと。我らは筑前より手を引く。無論、古処山城も大友に引き渡す」
「なッ?!」
「不服か? だが、従ってもらうぞ。もし否というなら、我らの手勢でそなたらを破った上で、首に縄をつけてでも安芸に連れ帰る」
 あまりといえばあまりの言い草に、それまで状況がわからずに口を閉ざしていた深江が憤然と口を開きかけるが、それを大橋が制した。


 元春はといえば、そのやりとりに気がつかないはずもないだろうに、一向に気に留める様子もなく言葉を続けた。
「何故、我らが到着するまでに軍を動かしたのか。一家の主として、お前が考えたであろうことはわかるし、否定するつもりもない。だが、勝利に拠らねば、その主張には一文の価値さえないのだ」
 そう言って、眼差しに厳しさを加えて言葉を続ける。
「今回に限り、大友は我らを見逃す。その代償として、我らは筑前より手を引く。それが戸次殿との約定だ」
「……道雪とて、消耗しているはずです。春姉さまの毛利軍ならッ」
「今、手元にいるのは騎馬のみ三百。本隊はいまだ古処山にすら着いておらぬだろう。たしかに大友軍もずいぶんと疲労しているようだが、こちらも嵐の中、昼夜兼行で駆けつけた身だ。戸次殿が望めば我らを皆殺しにすることは容易いのだ、種実。戸次殿がそれをしない理由が、わからぬお前ではないだろう。そして、お前の請いを我らが受け入れる理由がないことも、だ」


 元春の言葉に、種実は声もなくうつむいた。
 そう、種実にはわかっていた。
 完全に種実を追い詰めていた大友が矛をおさめたのは、毛利の存在ゆえだ。この場にあらわれた元春や隆景は、現時点で脅威ではない。では大友は毛利の誰をはばかったのか。決まっている、安芸の毛利元就だ。
 秋月家が毛利家の援助を得ていることは周知の事実。ある意味で、この戦は毛利が大友になぐりかかったに等しい。だが、大友にとって腹に据えかねるであろうこの事実があってなお、大友は毛利元就をはばからねばならない。種実の命を助けることで、毛利に筑前から手を引かせることが出来るのならば安いものだ、と大友は――戸次道雪は考えたのだろう。
 つまりは、秋月家の当主としての種実に、道雪はその程度の価値しか認めていないということである。本当に種実や秋月を脅威に思っているのだとしたら、毛利が何を言おうとも断固として種実の命を奪おうとしたに違いない。


 一方の毛利が種実を救おうとするのは、個人的な情誼のためだ。だからこそ、元春たちはここまで来てくれた。逆に言えば、秋月家の当主が種実でなければ、あえて危険をおかして駆けつけてくれることはなかっただろう。
 大友と半ば重なる意味で、毛利もまた秋月家当主に価値を認めていないのである。そんな人間から戦を続けるように頼まれたところで頷く必要がどこにあろう。


 その上で元春はこう言ったのだ。
 両家にそう思わせたのは種実自身の選択と行動の結果である。それをわきまえろ、と。
 
 




 悄然とうつむく種実を見て、元春は再びその頭に手を伸ばす。さきほどとの違いは、その手が拳骨ではなかったこと。
 ぽん、と軽く撫でるように種実の頭に手を置いた元春は、かすかに微笑んだ。
「まあ私からの説教はこのあたりにしておこうか――よくもちこたえたな、種実。正直間に合わぬと思っていた」
「春姉さま……」
「ちなみに説教の続きは姉上がなさるだろう」
「……そ、それは、その、出来れば春姉さまにおとりなしいただきたいと切にお願いしたいんですけど……」
「諦めよ」
「うぅぅ……」
 あっさりと断言され、さらに深くうつむく種実。種々の経験から、怒ったときの隆元の怖さは骨身に染みて知っている種実だった。




 ここで怯むくらいなら、最初から毛利軍を待っていればよかったのに。 
 常であれば、ここらで隆景がそんな言葉を口にし、種実と剣呑な視線を交し合うことになっただろう。
 だが、今の隆景はそれどころではなかった。
 種実の無事を自分の目で確かめてからは、他のことに気をとられていたのである。
 隆景はつい先刻交わした会話を思い浮かべた。




◆◆◆




「ご協力感謝、というべきなのかな、そこの方」
 皮肉っぽく笑いながら隆景が話しかけると、その人物――天幕の外で実にわざとらしく会話していた父娘の父親の方――は、なんのことやら、という感じで首を傾げてみせた。
「さて、小早川殿に礼を言われるようなことをした覚えはありませんが」
「そっか、じゃあ礼は述べないでおくよ。それはそれとして、敵味方の集う天幕のすぐ外で、ああもあっけらかんと軍略を語るというのは、いささか無用心の謗りをまぬがれないと思うよ」
「まったく返す言葉がありませんね。思った以上に事態が好転していくので、少々動転していたようです」


 その言葉を聞くや、隆景の大きな目に鋭い光がよぎった。
「好転、ね。ぼくたちが手を引いたところで、筑前の騒乱がおさまるわけではないんだけど」
「なに、ご心配には及びませぬ。毛利家の方々をこの騒乱に引き込んだ不心得者たちは、間もなく制圧される頃でしょう。立花山城に篭城したところで、呼応する者がいなければ脅威にもなりませんよ」
 そう言うと、その男は嘲るように低い声で嗤った。
「先の豊前も、今回の筑前でも、毛利家は実にたくみに兵を退かれる。くわえて御身内を助けるためには無理をも通す。名だたる両川がそろっていらっしゃるとは思ってもみませんでした。それは実にお見事な心がけですが……」
 それは、別の見方をすれば、自家以外は失敗すれば切り捨てるということでもある。男はそう言った。


「先の小原、今回の立花、高橋、いずれも毛利に利用されて捨てられた哀れな家……内実はどうあれ、そう考える者はさぞ多いことでしょう。これだけ実例が続けば、毛利の助力を得ようとする者たちがどう考えるかは自明の理というものです。向後、毛利家が策動する余地はずいぶんと失われることになりましょうな」
 無論、と男は口元をゆがめた。
「これは一面から見てのこと、貴家にとってみれば、九国からいらぬ厄介事を持ち込まれることがなくなり、その都度兵を出す必要もなくなる――双方の御家にとってまさしく万々歳と申すべきです。秋月の若殿の命を助けることで、これだけの成果を得られるのですよ。あまりの都合の良い展開に動揺を禁じえなかったとしても、仕方ないとは思われませんか?」




 男との視線がぶつかった時、空中に火花が散らなかったのが隆景には不思議に思われた。
 知らず、隆景はわずかに腰を落としていた。すぐにも斬りかかれるように、あるいは斬りかかられても対応できるように。
 それは相手の男も同様のようで、隆景を見据える視線は、今や刃のそれに等しい。
 張り詰めた空気は、たちまちのうちに破裂寸前まで膨れ上がり――
「やめよ、隆景」
 隆景の肩に手を置きながら、元春が発した一言で、たちまち散じたのであった。


「でも、春姉ッ」
「落ち着け、ここで揉めて何もかも水泡に帰すつもりか」
 そう言われてしまえば、隆景としても口を閉ざすしかない。
 妹を抑えると、元春はおもむろに男に向かって問いかけた。
「それはそれとして、私も貴殿に伺いたいことがあったのだ。お答え願えようか?」
「吉川殿の求めであれば、応じぬわけにはいきますまい」
「先刻、貴殿は言っていたな。ここに来たのが我らでなければ、和睦以外の方法を考えたやもしれん、と」
「確かに申しましたな」
「あれはつまり、ここに来た者次第では、たとえ毛利がほどなく総攻撃をしかけてくるとわかっていても、始末する気だったということだろう――誰のことを指していたのだ?」


 そういえば、と隆景もその言葉を思い返す。 
 だが、毛利の両川以上の影響力を持つ人物など元就以外にいない。少なくとも、外から毛利を見るかぎりはそうとしか見えないはずだ。
 だが――
「毛利の要たる人が誰であるのか、あえてそれがしが口にせずともおわかりになられましょう? まあ答えるといった手前、お答えしますが……そうですね、それがしが仮に戦場で毛利の一族の誰かを討つ機会に恵まれたとしたら、迷うことなくその人物を討とうといたしますよ」


 その人物――毛利隆元を。
 男はそう言って小さく嗤った。






 その言葉を聞いた瞬間、隆景はそれまでの擬態をかなぐりすて、本気の敵意を男に向けてしまった。それまでの底の浅いものではなく、歴戦の武将がおもわず怖気をふるいかねないほどの濃密な敵意である。
 すぐに気づいて、それまでと変わらない態度を装ったのだが、男の苦笑じみた表情を見るに、それも無駄であるように思われた。



 やがて口を開いたのは男でも隆景でもなく、元春だった。誰よりも先に敬愛する姉を討つと言明した敵将を前に、元春の目にはどこか面白そうな光が浮かんでいる。
「なるほど、な。聞くべきことは聞けた。これで失礼するとしよう。名をうかがってもよいか?」
「雲居筑前。戸次家の客将にござる」
「その名、おぼえておこう。いくぞ、隆景」
「あ、うん、春姉」
 雲居の名を聞くや、すぐに元春は踵を返す。隆景は雲居に警戒の一瞥をくれてから、すぐにその後を追った。





 二人の背を見ながら、雲居もまた踵を返そうとした、その寸前。
 まるでそれを見計らったかのように、元春が雲居の方を見ずに声だけ投げかけた。
「雲居殿、軍略は知らず、芝居の才は貴殿には乏しかろう。あまり無理をせぬことだ。まあそれはこちらにも言えることだが」


 返答は返ってこなかった。






◆◆◆






 あの場の状況を思い返し、考え込む隆景に気づいたのか、種実との話を終えた元春が声をかけてくる。
 あるいはとうに隆景の内心を察していたのかもしれない。前置きもなしに言ってきた。
「どう見た?」
 主語を省いた問いかけだったが、隆景もあえて確認する必要を認めず、あっさりと返答した。
「たぶん、間違いないね」
「ふむ、種実や豊後殿が言うには、雲居なる名に聞き覚えはないそうだが、此度の戦で妙に手ごわい敵将がいたらしい」
「豊前で見せた大友の妙な動き、義母上と隆姉が気にかけていた『何か』、全部が全部そうだとは言わないけど、少なくとも無関係ってことはないよ。ぼくはそう思う」


 隆景の言葉に、元春も異論はなかった。
「毛利の要が、我らでも義母上でもなく、姉上だと見ぬいている時点ですでに只者ではない。それに、隆景の小芝居も見抜いていたようだしな」
「……否定はしないけどさ。猿芝居って言われないだけましなんだよね、きっと」
 ふん、とすねたようにそっぽを向く隆景。


 雲居という人物がこちらの敵意を煽ろうとしていると察した隆景は、あえてそれに乗ってみせることで、小早川隆景くみし易しの印象を与えようとしたのである。
 それで相手が隆景を、引いては毛利家を侮ってくれればしめたもの、と考えたのだが、あの一瞬、姉隆元を討つと口にされたときだけは素の感情をむき出しにしてしまったのだ。
 しまった、と内心で臍をかむ隆景だったが、元春は別に気にする必要はないという。挑発を仕掛けてきた段階で、隆景の芝居は半ば見抜かれていたのだろう、と。
 その姉の言葉に反論することは出来そうもなかった。


「しかし、ふむ、口先だけではなく、将としても秀でているとなれば厄介な相手だな」
「雲居って名前に聞き覚えある、春姉?」
「これといって心当たりはないな。とはいえ、あの若さだ、先の戦から新たに戸次殿に登用されたのであれば、名前が知られておらずとも不思議ではあるまい」
「若いっていっても、ぼくたちよりは年上だろうけどね。ま、正体が知れれば対応も出来るし、むしろ今の時点で存在が明らかになってよかったのかもしれない。戸次家の客将なら、手の長さも知れたものだし、付け入る隙はいくらでもあるからね。その意味では種実の独走も無駄じゃなかったってことかな」


 その隆景の言葉に、元春は短く苦笑する。
「それは種実には言うなよ、傷口に塩を塗るようなものだ」
「そこまで鬼じゃありません」





 
◆◆◆






 休松城、大友軍本営。
 毛利、秋月の両軍が城を出て行くのを眺めながら、俺は何度目のことか、深いため息を吐いた。
 すると、傍らにいた道雪殿が不思議そうに問いかけてくる。
「どうしました、筑前殿。さきほどから、なにやら打ち萎れているようですが?」
「あ、いえ、なんでもな――」
「毛利軍に油断ならぬ策士の印象を植え付けようとがんばってはみたものの、あっさりと見抜かれた挙句、芝居の才はないと断言されて傷心の真っ只中なのです、戸次様」
 なんでもない、と答えようとしたら、反対側にいた吉継があっさりと理由を暴露しやがってくださいました。


 応じて道雪殿がなるほど、と頷く。
「ああ、そうでしたか。たしかにあの天幕での、いささか不自然な会話はわたしもどんなものかと思いましたけれど」
「私も、顔を頭巾で覆っていることに心から感謝したのははじめてでした」
「しかし、努力はその結果ではなく、為したこと自体に意味を持つのです。筑前殿と吉継殿が大友のために努めてくれたこと、わたしはとても嬉しく思いますよ」
「ありがたきお言葉です。しかし、お義父様はどうもご自分の演技力に並々ならぬ自信があったらしく、戸次様のお言葉も届くかどうか」
「その自信の源は何なのでしょうね?」
「なんでも、小野様に芝居の才を褒められたことがあったとか」
「それは判定する者に問題があったとしか言いようがありませんね」
「同感でございます」
 …………泣いても良いですか?



「ところで。冗談はさておき、筑前殿」
「…………なんでしょうかべっきさま」
 枯渇寸前の生命力をかき集めて返答する俺に、吉継が苦言を呈した。
「お義父様、死んだ魚のような目をしていないで、きちんと戸次様のお話をうかがってください」
「…………だれのせいだとおもってるんだだれの」
 というか、俺に何かうらみでもあるのか、娘よ。
「何をばかなことを。敬愛するお義父様に恨みなどあろうはずがないではありませんか。猿芝居に付き合わされたことなど気にしておりませんし、まして意趣返しをするなどありえぬことです」
「打ち合わせもなしに、見事な息の合い方だったと思うんだが」
「あらかじめ言っておいてくれたら、その時点で断固反対してました――息が合っていたのは否定しませんが」
「むう」



 何やら怒りの冷めやらない様子の吉継に、俺は戸惑った。思いついたときには良いアイデアだと思ったんだが、などと考えていると、道雪殿が口元に手をあてて笑いを堪えながら、こちらを見ていることに気づく。
「っと、申し訳ありません、お話の途中に」
「ふふ、仲がよろしくて結構なことです。ともあれ、これで秋月と毛利は片付いたと見て良いでしょう。あの方々の為人を見るに、約定を反故にするとは考えにくいですから」
「はい」
 道雪殿の言葉に、俺は頷いた。
 吉川元春と小早川隆景の二将は、おおよそ俺の考えていたとおりの為人だった。男女の別を問わず、できれば戦場では会いたくない類の人たちだが、一度交わした約定を違えるような人物ではないだろう。


「ゆえに、鑑載殿、鑑種殿の始末に向かわねばなりません。本格的に動くのは、紹運たちからの知らせが届いてからのことになりますが、あらかじめ部隊は宝満城に向けて動かそうと思います」
「それがよろしいでしょう」
 その方が、いずれの方角に動くにせよ、素早く部隊を展開できる。
 そう考える俺に、道雪殿は新たな命令を下した。
「宝満城の城主北原殿は、鑑種殿が敗れれば、おとなしく城を明け渡すでしょう。かりに紹運らが敗れたとしても、こちらが高橋家の裏切りに気づいていないと思わせることで、隙をつくることもできます。筑前殿は岩屋、宝満落城の後にと言っていましたが、もう構わないでしょう。肥前へ発っていただけますか?」


 ここからまっすぐ肥前へ向かうには、どうあっても高橋家の領内を通らなければならないが、一度筑後へ抜ければ、大友領内を通りながら肥前へ入ることが出来る。
 確かにここまでくれば筑前での戦はほぼ終わったと見て良いだろうし、良い頃合かもしれない。
 そう考え、俺が承知した旨を伝えると、道雪殿の口から思わぬ言葉が出てきた。
「そうそう、それと筑前殿も吉継殿も筑後の地理には詳しくないでしょうから、案内役として誾をつけますので、よろしくお願いしますね」


 実にあっさりとそう告げる道雪殿を前に、思わず固まる俺。
「……いや、よろしくって、あの道雪様?」
 かりにも一家の嫡子を道案内って、役不足も甚だしいというものではないでしょうか?
「獅子はわが子の成長を願い、千尋の谷に叩き落すというではありませんか」
「いつから肥前は千尋の谷にたとえられるような魔境になったのでしょうか……?」
「なんでも隆信殿は生身で熊を倒した豪傑であり、常にその熊皮を身にまとっておられるとか」
「なんと?!」
 それは知らなかった。熊殺しとはおそろしや。
「その軍師である鍋島直茂殿は鬼面の人物と聞きますし」
「それは存じておりますが……」
「中でもおそるべきは、成松、百武、江里口、円城寺、木下の四天王です」
「それも存じております……って、あれ?」
 なんか数があわないような?
「気がつきましたか。そう、五人なのに四天王なのです……」
 道雪殿はどこか緊張した面持ちで、指折り肥前の不思議を数え上げる。
「熊殺し、鬼面、そして五人なのに四天王。肥前が、凡人には理解できぬ不可思議な理が支配する魔境だと判断することに、何の不思議があるというのですか?」
「……どうしよう、なんか否定できない……」
「というわけで、誾のこと、お願いしますね、筑前殿」
「かしこまりました……ん?」
 首をかしげながらも、俺は道雪殿の言葉に頷いていた。傍らの吉継の深いため息が、何故か耳に痛かった。








◆◆◆







 それからしばし後。
 安見ヶ城山から北東の方角へ、毛利、秋月の軍勢が引き上げていく。
 その様子を小高い丘から望む一人の少女の姿があった。
「元就公に取り入るには良い機会だと思ったのですが……なんだか妙な展開になっているようですね」


 嵐が去り、見事に晴れ渡った空の下。
 どうしましょうか、と少女は馬上で呟いた。
 すらりとした長身に浅葱色の着物がよく映えた少女だった。商人のような目利きでなくとも、その着物がきわめて高価な布地であることは誰の目にも明らかだったろう。
 だが、それよりも驚くべきは、目と鼻の先で人死が出ている戦場で、それほどの高価な装束をまとっている少女の神経の方だったかもしれない。
 金目の物目当てに戦場を徘徊する者などめずらしくもない。わずかでも高価だと思われる物を身につけていれば、いつ何時襲われるとも限らないのだから。


 まして少女のように、人目を惹くに足りる端整な目鼻立ちの女性であれば、別の意味でも危険は増す。
 だが、腰に差した大小の刀がもたらす自信ゆえか、少女はそういった危険をまったく意に介している様子を見せなかった。
 不意に吹き寄せる風に、少女の長い黒髪が宙にたなびく。左の手で髪を軽くおさえ、少女が何やら考え込む。


「元就公に近づくためには、あの人たちを追うべきなのでしょうが、どうみても負けてますよね、あれ。元就公自身が敗れたというわけではないですから、気にすることもないのかもしれませんが、やはり敗軍に学ぶというのは面白くありません」
 そうすると、答えは一つ、ということになる。
「どの道、殿から逼塞を言い渡された身、時間はいくらでもあります。大友が駄目なのであれば、あらためて毛利に向かえば良い。まずは思うがままに行動してみましょうか」


 この場に少女の従者や弟子がいれば、それ以前に逼塞の身で堂々と出歩くな、と口をすっぱくして説いたであろうが、幸いここには少女しかいない。
 物心ついてから、当たり前のように聞いていた口うるさい諫言がないというのは、存外楽しいものだ、と少女は花が咲くような笑みを浮かべながら思った。



 その少女の目に、再び兵馬の群れが映し出される。
 だが、今度は先刻のそれよりもはるかに小規模の部隊だった。
 おそらく百騎もいない。進む方向も、さきほどの毛利軍とはほぼ正反対の方角だ。あのまま進めば筑後、さらにすすめば少女の生国である肥後に達するだろう。


 ふむ、とその兵馬の一団を見ていた少女は、不意にこくりと頷くと、誰にともなく呟いた。
「うん、決めました」
 そういって、軽く馬腹を蹴る。ただそれだけで騎手の意を感じ取った馬が、軽やかに大地を蹴った。


「きっと、あっちの方が面白いです」
 
 




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第五章 剣聖(一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:9e91782e
Date: 2010/11/26 23:10
 
 
 筑前国休松城。
 忙しげに、だが整然と宝満城へ向かう準備を整えている大友軍の陣中で、十時連貞はやや戸惑いながら主君に問いかけていた。
「……道雪様、よろしかったのですか?」
 その連貞の言葉が、秋月、毛利を見逃した判断のことを指しているわけではないことを、道雪はすぐさま看取する。
「かまいません。可愛い子には旅をさせよというでしょう、連貞?」
 道雪が微笑むと、連貞は困惑したように口を噤む。言いたいことは多々あれど、どれを口にするべきか、その選択に悩んでいる様子であった。



 無論、連貞が案じているのは、肥前に向かう雲居筑前の案内役として、道雪が戸次家の嫡子である誾をつけたことである。
 肥前の竜造寺は毛利の誘いに乗って大兵を動員したという。いわば今回の雲居の使いは敵国へのそれにあたり、それがどれだけ危険なものであるかは言うまでもないだろう。最悪の場合、即座にとらえられて首を刎ねられる恐れさえあるのだ。
 おそらく雲居のことだから、そのあたりは十分に配慮するだろうが、それでも危険であることに違いはない。


 くわえて言えば、誾という少年の特異な立場が、この件を厄介なものにする可能性がある。大友宗麟が亡き親友の子である誾のことを、特に気にかけているのは夙に有名な話である。一時は、わが子にと宗麟が望んだ人物を、危険な敵国への使者に出したなどと知られたら、道雪に隔意を抱く者たちがどう動くかわかったものではなかった。


 さらに連貞が気にかけているのは、このところ誾が示していた雲居筑前への明らかな警戒心である。誾は表に出さないように気をつけていたようだが、物慣れた者たちにしてみれば、誾の内心は掌を指すように明らかであった。当然、雲居も承知していることだろう。
 みずからに隔意を示す少年を、雲居はどう見ているのか。さらには、その少年を敵国への案内役につけた道雪の意図をどう考えているのか。
 連貞の心配の種はあっちこっちに散らばっており、そのどれもが座視して良いものではなかったのである。



「連貞」
「はッ」
「もう少し肩の力をお抜きなさい。まだ心配性になるような年でもないでしょう。今からその調子では、十も年を重ねた頃には頭髪が寂しくなってしまいますよ?」
「……は、はぁ」
 道雪の戯言に何と言葉を返してよいかわからず、連貞はあいまいに頷いて黙り込む。
 連貞は元々多弁な性質ではないし、主である道雪への遠慮もある。気の利いた切りかえしなど望むべくもなく、それは連貞自身が自覚するところであった。実のところ、いつも軽妙に道雪とわたりあっている雲居にこっそり尊敬の念さえ抱いてる連貞である。


 無論、道雪も連貞がそういう為人であることは十分に理解しているし、またそれでこそ連貞であるとも思っている。
 戯言を口にした詫びというわけでもないが、配下の心配を散じるために、道雪は言葉を続けた。
「諸事、目が行き届く連貞のことです、吉継殿の変化には気づいているでしょう?」
「は、それは確かに」
 諸事に目が行き届く、は過分な言い方ではあるが、確かに連貞は大谷吉継の変化には気がついていた。
 といっても、連貞はことさら吉継と親交があったわけではない。豊前での戦を共にしてから――つまりは一ヶ月にも満たない短い付き合いだ。
 だが、そのわずかな期間であっても、吉継の変化は明らかであるように連貞には思われる。
 はじめて会った時、吉継の固く張り詰めた雰囲気と寡黙な為人は、連貞に自分と似たものを感じさせたものだが、今では張り詰めた雰囲気などどこへやら、寡黙な為人に至っては夢か幻か、というほどの変貌ぶりである。いっそ姿形が同じ別人だと言われても、連貞は不思議には思わなかっただろう。


 連貞の内心を察したのか、道雪は愉快そうに微笑んだ。
 だが、すぐに表情を改め、その眼差しに切なげなものを宿す。
「大友は、多くの人々を巻き添えにして陥穽に陥ってしまいました。吉継殿はその一人。どれだけの器量を持とうとも、同じ陥穽に陥った身では救うには限界があります」
 だからこそ、あの石宗さえ、本当の意味で吉継を救い上げることはできなかった。それをするためには、なによりもまず大友家の外にいる人でなければならなかったからだ。
 無論、本人に這い上がるだけの器量が必要なことは言うまでもない。


「その意味で、誾もまた吉継殿と同様なのです。ただあの子の場合、大友家そのものが身体にまとわりついてしまっています。救い上げるのは容易なことではないでしょう。内から這い上がる者も、外から手を引く者も」
「……道雪様は、雲居殿に外から手を差し伸べる役割を期待しておいでですか?」
「出来ればそうなってほしいとは思っています。けれど、今の誾は陥穽の底ばかりを見つめてしまっている。かりに外から手を伸ばされたところで、それに気づくことさえ出来ないでしょう。まず、あの子が顔をあげねば話は進みません。そこに気づかせてあげるのは、本来、わたしの役割なのですけれど――」
 今の道雪は、穴の奥底へと沈み行く大友家を双肩に担う身である。それはつまり、道雪自身もまた誾にとって……



 道雪は浮かび上がるその思いを振り切るようにかぶりを振った。
 それは、どれだけ考えても詮無いことだったから。かりにそのとおりだとしたところで、道雪が誾に向ける情愛も、そのための行動も、何ひとつかわることはないのだから。
「――外からの風を感じれば、顔をあげる切っ掛けにもなりましょう。そのためには、わずかなりと大友から離れた方が良いのかもしれない。そう思ったのですよ」
「……御意」
 その言葉と、内に秘めた道雪の思いを察した連貞は、気の利いたことを口にすることもできず、またしようとも思わず、ただ静かに頭を下げるのだった。





◆◆◆





 なんというか、壮絶なまでの仏頂面だった。
 誰が、と問われれば、俺はこう答えるしかない――戸次家の嫡子、戸次誾殿が、である。 
 どのくらい壮絶かというと、配下の将兵がまったく声をかけられないくらいである。
 元々、他人と気安く接するような為人ではなかったが、それでもここまで露骨に他者を拒むのはめずらしい、と戸次家の家臣たちは目顔で語り合っていた。


 とはいえ、彼らにも、また俺にも誾が不機嫌になっている理由は推測できた。ただ、厄介な点はそれがわかっても問題解決には何の役にも立たないということなわけで……
 などと考えていたら、当の誾が声をかけてきた。
「……雲居殿」
「は、な、何でござろうか」
 思わず動揺してしまったが、誾は気にかける素振りを見せずに言葉を続ける。
「そろそろ日が暮れます。伯耆守様より肥前への案内を務めるよう申し渡されましたが、それがいかなる用向きかは伺っておりません。ゆえにおたずねしますが、火急の用向きなのでしょうか? もしそうであればこのまま夜行します。しかし、一刻を争う用向きでないのなら、兵を休ませるべきと考えますが」




 道雪殿から預かった戸次家の兵は休松城に立てこもった戸次家の精鋭であり、さらに言えばほとんどが俺が指揮した隊から選ばれた兵士である。馬に乗れて、かつ若い兵士が多いのは、強行軍に備えてのことだ。ちなみに馬に関しては、筑前の軍が置いてきぼりにした軍馬をありがたく頂戴したのである。
 それらの中から長い騎行に耐えられそうな馬を厳選して発ったわけだが、馬はともかく、それに乗る兵士たちは、若いとはいえ篭城戦の疲労を色濃く残している。そして、戦が終わるや即座に出発させられた彼らの内心は推して知るべしであった。不平不満を表立って口にする者はいなかったが、誾の言うとおり、休める時に休んでおくべきだろう。
 無理して走り続けた挙句、疲労困憊のところを強襲されでもしたら洒落にならん。


 実際、肥前への使いは急ぎではあっても、一刻を争わなければならないものでもなかったから、俺は誾の提言に頷いた。
 それを見た将兵の顔に、明らかにほっとしたものが漂う。口に出さずとも、誾が兵士たちの疲労具合をはかっていたことが良くわかった。
 どれだけ俺が気に食わなくても、課せられた責務はきっちりと果たし、さらに(限りなく表面だけとはいえ)相手への礼儀も失わない。それも慇懃無礼に振舞うわけではなく、ちゃんと礼儀を尽くすのである――より正確に言えば、礼儀を尽くそうと努力している様子がありありと見て取れる、というところだが。


 つまり何が言いたいかというと、この戸次誾という少年、実に好感の持てる人物なのである。
 これが俺への敵意をあからさまにするだけだったり、露骨に不満を示して、こちらの不快を煽ったりするような人物であれば、俺も相応の態度をとるだけなのだが。
 懸命に俺への不審と懐疑をあからさまにしないよう努め、かつ義母から受けた任務を誠実にこなそうと務める姿は、微笑みなしには見ていられない。


 年に似合わず、私的な感情と公的な役割を切り離すことができるのは道雪殿の薫陶なのだろう。
 俺への懐疑はかなり根深いものがあるらしく、戦場を共にした後でも態度に変化は見られない――というか、ますます硬化してしまった観があるのだが、それでも俺がこの少年を嫌いになれない理由はそういったところにあった。
 まあ、あからさまに俺が好意を示すと、誾は逆に馬鹿にされたと思い、さらに態度を硬化させてしまいかねないので、距離のとり方に苦労していたりするのだが。




◆◆◆




 そして夜になり。
 大友軍は数名の夜番を立てて、大半が眠りに就いていた。その中には吉継も含まれている。
 やはり先夜来の連戦で相当疲労が溜まっていたらしく、天幕で横になった瞬間、ほとんど一瞬で眠りに落ちていた。
「――というわけで、心遣い感謝いたします、戸次様。私が口にしたところで、あれは頷かなかったでしょうから」
「……別に、貴殿の息女を思いやって口にしたわけではありません。謝辞など不要です」
 そう言うと、誾は口をへの字に結んで、また黙り込んでしまった。



 そう。何故か俺と誾は同じ時刻の夜番にあたってしまったのである。決して礼を述べるために俺が調整した結果ではない。
 ではないのだが、やはりこういう機会は利用すべきだろう。色々な意味で。
(とはいえ、こうも相手が頑なだと、話しかける糸口すら掴めないな)
 周囲に警戒の視線をはしらせつつ、夜闇にも明らかな「話しかけるな」オーラを放出する誾の姿に、俺は苦笑を禁じえなかった。
 小柄な身体に重々しい甲冑を身につけた姿は、子供が無理して武士の真似をしているようにも見える。やや長めの髪を首の後ろで一つに束ねているので、見ようによっては「子供」の部分を「女性」に変えても可。ただし、どちらにしても、本人にばれたらただでは済むまいが。


 そんなことを考えていたら、まるで俺の内心を察したかのように、誾から鋭すぎる一瞥を投げかけられ、俺は慌てて前方の闇に視線を据えなおした。
 そうやってごまかしたのは事実だが、それだけではない。実際、いつ大友家に敵対する筑前の軍勢があらわれても不思議ではないので、夜番はしっかり務める必要があったのである。
 大方は先の戦いで逃げ散り、もう反抗する気力も残っていないだろうが、例外というのはどこにでもいるものだ。少人数で移動する大友軍であれば、捕捉も撃滅も難しくはないと考える者がいないとは限らなかった。 






 それから、どれだけの時間が過ぎたのか。
 もうすぐ交代の刻限か、と思った俺の耳に不意に奇妙な音が飛び込んできた。
 嵐の名残か、時折吹く強い風が木々をざわめかせる音――ではない。夜行性の動物がたてていると思われる草木の揺れる音でもない。
 それは――
「笛、か?」
 思わず呟いた俺に、誾が不審そうな眼差しを向けてくる。
「どうされたのです、雲居殿?」
「いや、今、笛の音のようなものが聞こえませんでしたか?」


 俺の言葉に、かがり火に照らされた誾の顔が顰められたのがわかった。
 何を馬鹿な、とでも言いたげに口を開こうとした誾だったが、次の瞬間、その表情が驚きにとってかわられた。誾の耳にも届いたのだろう。
 風の悪戯、あるいは動物の鳴き声と間違う可能性はなかった。何故なら、その音には奏者の明らかな意思が感じられたからだ。


 時に高く、時に低く。
 時雨のように侘しいかと思えば、野分のように猛々しく奏でられる音の連なり。
 芸術にはとんと疎い俺には、その曲が何なのかすらわからなかったが、それでも奏者は卓越した技量の持ち主だと確信する。それほどのものが、そこにはあった。



 思わず聞きほれてしまいそうになったが、冷静に考えると妙な話だ。
 これほどの腕前の持ち主が、戦場からほど遠からぬこの場所でのんきに笛を吹いているものだろうか。
 夜襲に先立ち、敵の注意を惹き付けるために音楽を用いることがないわけではない。
「とはいえ……まさかどこで吹いているかもわからない人間を探すために、皆をたたき起こすわけにもいかんしなあ」
 俺の呟きに、誾が眉をひそめながら声をかけてくる。
「それでよろしいのですか? 何かの合図である可能性もありますが」
「合図なら、こちらにそれとわからぬような工夫をするのではないですかね。かりに合図だとしても、警戒を解かなければ対処は出来るでしょう」
「……それが将の決断であれば従いましょう」
 不服そうではあったが、誾は頷いてそう言った。


 正直、誾の心配もわからないではない。
 だが――と、俺は上空を仰ぎ見る。そこには煌々と月が輝いている。一見、満月のように見えるが、ほんのわずか欠けている。おそらく、月が満ちるのは明日だろう。
 それでも月明かりがあるのは間違いない。音の源を辿っていけば、奏者を探すことも不可能ではないだろうが、夜の闇を裂いて草木も眠るこの時刻にそこまでする必要もないだろうと思うのだ。
 そんなことを考えていると、名も知らぬ奏者は一曲吹き終えて満足したのか、笛の音はぴたりと止み、その後、再び吹かれることはなかったのである。




 ――この日は。





◆◆◆






 明けて翌日。
 大友軍は筑前を抜け、筑後に入った。
 筑後は蒲池鑑盛を筆頭とした大友勢力が支配しているが、先ごろ国人衆の激しい反抗があったところを見てもわかるように、その支配は決して磐石なものではなかった。
 従って、案内役である誾は、筑後に入っても警戒を緩めることなく、肥前を目指して最も危険が少ないと思われる経路をとった。


 誾が筑後の地理に通じているのは、鑑盛をはじめとした筑後の大友家臣の下へ道雪の使者として幾度も赴いたことがあったからであるが、先の叛乱以降、誾が筑後をおとずれるのははじめてであり、諸勢力の動向には過敏にならざるを得なかった。
 出発にあたって、道雪から一応の情報は教えられているとはいえ、その道雪にしたところで筑後の叛乱を鎮めた後は鑑盛に後始末を委ねて帰国した身であり、教えられた情報を盲信するわけにもいかなかったのである。


 そんな誾の慎重さが活きたのか、あるいは思った以上に先の叛乱での痛手が大きかったのか、筑後の反大友勢力にぶつかることなく、大友軍は二日目の夜を迎えることが出来た。
 この時期、九国といえども夜は冷え込むことが多いのだが、野分が南の暖かい風を運んできたのか、時が二ヶ月ほど戻ったかのように暖かい。
 どのくらい暖かかったかというと、調子に乗った雲居筑前が、兵糧を腹に入れた後、兵たちに囃し立てられて近くの小川に飛び込んだほどだった。


 小なりとはいえ一軍を率いる将にあるまじき所業であり、誾は言語道断だと激昂する寸前だったのだが、何故だか兵士たちは大喝采で、誾は怒る機を逸してしまった。
 あるいは調子に乗ったわけではなく、他に何か理由があったのかもしれない。聞くとはなしに聞いていたところ、自分で飛び込んだわけではなく、彼の娘が突き落としていたとか、いないとか――まあ、誾にとっては心底どうでも良いことなのだが。

 
 当然というかなんというか、小川の水は晩秋の水温のままだったので、雲居は現在寒さに震えて暖をとっている真っ最中である。本当に心底あきれ果てる。
 しかし、今も誾と共に歩哨にたっている兵士たちは、笑いをこらえきれずに先刻の有様を話し合っていた。そこにあるのは好意的な感情であり、誾のように怒りを覚えている者は見当たらない。


 何故だろう、と誾は困惑を押し隠しつつ、胸中でそう呟く。
 それは一言でいって、雲居がすでに戸次家の兵士の信望を得ているから、ということになるのだろう。確かに休松城における雲居の奮戦は目覚しいものであったし、誾にしても雲居を見る目を改めなければ、とも思っている。
 であれば、さきほどの行いも所詮は悪ふざけ、一々目くじらを立てるほどではないと受け流せそうなものだが、誾はどうしても兵士たちのように考えることはできそうもなかった。




 それが何故なのか。
 誾がそのことに思いを及ばそうとした時、不意に先夜と同じ笛の音が響いた。それも、先夜とは比べ物にならないほどの近くから。
 それを聞いた瞬間、誾は背筋に悪寒を覚えた。
 近くの兵士は昨日の笛を聞いていないか、あるいはここでその音が聞こえる――その意味に気づいていないのだろう。ほう、という顔をしつつ、音の方に視線を向けるだけだった。


 無論、誾はそれどころではない。
 夜半に響いた笛の音が頭に引っかかっていた誾は、道を先行しつつ後方にも常に注意を向けていた。殿(しんがり)の部隊には追尾する者がいないか、常に気をつけるように頼んでいたのである。
 結果、大友軍を追っている者はいないとのことだった。騎馬のみの部隊が、休息をはさみつつもほとんど一日中移動し続けていたのだ。追おうとしても追えるものではない、と苦笑しつつ話す殿の言葉を否定する要素は何もなかった。


 にも関わらず。
 今、先夜と同じ笛の音を聞いている。その意味は――
 そんな誾の考えを遮るように、兵士たちが驚きの声をあげる。
「……ほう、このご時勢に白拍子というわけでもあるまいが」
 彼らの視線の先には、笛を口にあてて、ゆっくりとこちらに歩み寄る女性の姿があった。その背には、まるであらかじめ計算していたかのように満月が黄金色の光を注いでいる。
 近づくにつれて明らかになる女性の容姿は鮮麗にして、笛を吹くその姿は優美。誾でさえ、一瞬、見とれてしまうほどに美しかった。




 だが、さすがというべきか、戸次の将兵は女性の登場に呆けていたりはしなかった。
 普段よりは多少鈍い反応ながら、警戒の視線を女性に向ける。それでも、さすがにまだ刀槍を構えている者はいなかった。
 すると、笛の音がぴたりと止んだ。昨日と異なり、曲はまだ続いていたにも関わらず。それはすなわち、女性が笛を止めるに足る価値を戸次軍に見出したということであった。


 無論、そんな機微を戸次軍がわかるはずもない。
 誾が鋭く誰何の声を浴びせる。
「何者だッ?!」
「曲者です」
 いっそ軽やかに返答する女性。
 誾がどんな返答を予測していたにせよ、これは予測の外だった。


 思わず絶句する誾を前に、女性は持っていた笛を丁寧に袋に入れて懐にしまうと、ごく自然な動作で腰の刀を抜き放った。
 鎧兜をつけず、あでやかな着物姿のままに刀を構える女性。


 普段であれば、こんな相手を前にすれば、悪ふざけはやめろと叱声を浴びせ、きつい灸を据えるところだった。しかし、今、誾も兵士たちも等しく息を呑んで黙りこむしかない。
 鬼道雪に従い、数々の戦場を馳駆した戸次家の精鋭にはわかった。わかってしまった。
 たとえこの場にいる者たちが束になってかかったところで、眼前に立つ女性にはかなわないのだ、と。


「……くッ」
 誾もまた、それを理解した。せざるを得なかった。刀を構えた相手にここまで威圧されたのは、姉と慕う吉弘紹運以来だったから。
 ただ、それでも誾が怖じることなく刀を抜き放つことが出来たのは、その経験があったからこそだろう。
 そして、その鞘走りの音は、凍り付いていた他の兵士をも解き放つ効果を持っていたのである。





 自らの前に連なる刀槍の輝きに、しかし、女性はむしろ満足そうに頷いていた。
「うん、合格です。さすがは音にきこえた大友軍。進軍の速さといい、警戒ぶりといい、実に良い。ここで此方に怖じちゃうようだと減点かなと思いましたが、末端の兵もしっかりと戦意を保っていますね。錬度もよし、と。さて、あとは部隊を率いる将の為人ですけど……名乗った以上、ここはやっぱり曲者らしくいきましょうか」
 そう言うと、女性は刀を構えた。
 正眼でも上段でも下段でもない、誾が見たこともない構え。八相の構えにも似ていたが、それにしては型が崩れているように見える。
 我流か、と誾が考えていると、女性は少し首を傾げつつ、こんなことを言ってきた。


 
「そうそう、一つだけ忠告を。あなた方なら大丈夫だとは思いますけど、女だと思って甘く見たり、殺さずに捕らえようなんて考えないでくださいね? 死ぬ気でかかってこないと、死んじゃいますよ?」
 あっけらかんと言い切る女性に、誾をはじめとした大友軍の将兵は思わず唖然となる。
 だが、女性はそんな誾たちの様子を気にも留めず、むしろ言うべきことは言い終えたとばかりに、いっそ清清しささえ感じさせる顔で、大音声に呼ばわったのである。



「それでは丸目蔵人、大友軍を押し通らせていただきますッ!」

  
 



[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第五章 剣聖(二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:9e91782e
Date: 2010/11/28 21:45
 娘に「寝顔が可愛かった」といったら川に叩き込まれたでござる。


 くしゅ、とくしゃみをしながら、世の不条理について思いを及ぼしていると、隣で焚き火に枯れ枝をくべていた吉継が、不服そうに声をあげた。
「事態を四捨五入しすぎです、お義父様」
「大筋では間違っていないと思うんだが」
「それは、そうかもしれませんが。そもそも娘の寝顔がどうのと、兵たちの前で言うことですか。一応いっておきますが、私は病で顔を隠してることになってるんですからね」
 吉継はそう言うが、ぶっちゃけもうその設定は色々な意味で破綻していると思われます。


 吉継もそれを自覚しているのか、声に苦笑が混じった。
「……まあ休松城では素顔を晒して散々戦いましたから、戸次様の部隊には知れ渡ってしまっているとは思いますが。それにしたところで、兵たちが騒いだのはお義父様が無用に私に対する褒詞を積み重ねたからでしょう」
「ことごとく本心だったんだけどなあ」
「挙句、騒ぐ兵たちを前に『娘は誰にもやらんぞッ』と断言したのも本心だったのですか?」
「あれは一度言ってみたかった台詞だった」
「……やはりあの時、早急に頭を冷やしてもらわねば、と私が判断したのは間違いではありませんでした」


 とはいえ、と吉継は小さく身を縮めつつ、俺に頭を下げた。
「いかに今日は暖かかったとはいえ、川に叩き込んだのはやりすぎでした……ごめんなさい、お義父様」
「気にするな。かわりに豊後に帰ったら父娘仲良く風呂に入れると思えばやすいもの」
「……まったくもって初耳なのですが、いつのまにそのような話になっていたのですか?」
「いや、この際だからもう少し互いの距離を縮めようかと。そのためには裸の付き合いが一番だと思うのだよ」
「明らかに言葉の解釈を間違っています……というか、この前もなんかそんなこと言ってましたが、まさかとは思いますけど、あちこちで似たようなことを言ってたりしませんよね?」
「こんなことを言うのは吉継だけだ」
「……真顔で断言されるのも、それはそれで困ります」
「まさか道雪様に髪を洗わせてくださいとも言えないだろ?」
「……今度は氷風呂に叩き込んでさしあげましょうか?」





 川に叩き込まれたため、当然ながら今の俺は全身濡れねずみである。輜重隊でもいればともかく、騎馬隊のみで肥前に急行している今、替えの服などあるわけがない。
 よって服が乾くまでは褌一つで立ち尽くしていなければならない。
 とはいえ、だ。
 今日はこの季節にしてはかなり暖かかったのだが、日が落ちれば、やはりそれなりに冷え込んでくる。少なくとも服を着ずに平然と過ごせる気温ではない。
 ここで病で倒れたとか言ったら本気で洒落にならないので、天幕用の布地を適当に切ったやつを羽織り、吉継と戯れながら、服が乾くのを待っているのである。


 幸い天気が崩れる様子もない。吉継に聞いても、明日一杯は晴れるだろうとのこと。どのあたりで判断するのかと聞くと、月にかかる雲と、その流れる速さがどうとか、風が含む水の匂いがどうとか教えてくれたのだが、うむ、さっぱりわからん。まあ天気が崩れないのなら、明日の出立までには服も乾くだろう。
 唯一、心配なのは今ここで敵に襲われることなのだが、まあ今日は満月だし、夜襲にはもっとも向かない日である。心配はいらないだろう。



 そんなことを考えながら、俺は手に持っていた鉄扇に布地をあてる。
 もう水はとうに拭っているし、どこか壊れたわけでもないのだが、やはり持っていないと落ち着かないのである。
 ふと、これをもらった時のことを思い出す。あの時は鉄扇とは思わず、あまりの重さに取り落としそうになったものだが、今では苦もなく片手で扱えるようになっている。月日の流れるのは早いものだ、などと考えていると。


「あの、お義父様。それは?」
 吉継が鉄扇を指して尋ねてきた。
 具体的に何を聞きたいのか判然としない問いかけだったが、まあ鉄扇であることは見ればわかるだろうから、由来を聞きたいのだろう。
 そう判断して口を開く。
「昔、仕えていた方に頂いたものだ。なんとなく、持っていないと落ち着かなくてな」
 普段はともかく、今のような戦時は特に。護身の手段として、という面もあるが、それ以上にこれを持っていると、軍神の加護があらたかなのだ。
「大切な物なんですね」
「うむ、娘と命の次くらいには」
「それはそれは、うれしゅうございます」
 あっさり流されてしまった。


 その時、不意に吉継の顔が曇る。
「……あ」
 その視線は、鉄扇についた刀傷に向けられていた。
 何だろう、と首を傾げそうになったが、すぐに思い至った。そういえば、これで吉継の刀を受けたことがあったな。
「ああ、気にしないで良いぞ。元々、これ刀を受けた衝撃で歪んでたから」
「そうなんですか?」
「うむ、色々と語るに語れぬ戦の数々があってな」
「……かりにも鉄で出来ているのでしょう? 傷をつける程度ならともかく、歪むほどの衝撃とは……」
 そこまで言いかけて、吉継は何か思い出したように言葉を付け加えた。
「もしや、それが毘沙門天と戦った傷跡ですか?」
 声に笑いが滲んでいるのは、先日の俺の言葉が冗談だと思っているからだろう。
 俺は苦笑して言い返した。
「いや、これはその随分あとに受けた傷だな」
 そもそも、その毘沙門天にもらったものだし、と付け加えようとして、慌てて口を噤んだ。
 また冗談を言って、と睨まれそうだったからである。



 それを受け、吉継は何か言葉を返そうとしたのだと思う。
 しかし、俺はその言葉を聞くことが出来なかった。けたたましく、敵を知らせる打ち鐘の音が鳴り響いたからであった。
 まるではかったように敵が襲い掛かってきた。




◆◆◆
 



 敵襲の叫びがあがるのを聞いた時、吉継は父にこの場にいるよう言い残すと、即座に駆け出した。
 不測の事態が生じた時には、できる限り自分の目で確かめる必要がある。
 ただの野盗ならばこの規模の部隊を襲うことはないだろう。筑後の反大友国人衆に気づかれた可能性もあるが、案内役の戸次誾が、そういう輩に襲われる可能性があるところで夜営させるとは考えにくい。
 であれば、襲ってきた敵は、高速移動する大友軍を正確に捕捉して襲撃してきたことになる。それもあえて大友軍の勢力圏内で。
 誰であれただ者ではあるまい。吉継は敵襲の報告を耳にするや、たちまちそこまで考え、みずからその敵の正体を確認しようとしたのである。



 だが、吉継がどんな敵を予測していたにせよ、あらわれた敵兵の姿はその予測の外にあった。
 それも仕方ないことだろう。鎧兜すら着けていない女剣士が、ただ一人で戸次家の精鋭に襲撃を仕掛けてくるなど、予測できるはずがないのだから。



「ようやく将が出てきた――というわけではないみたいですね。腰が重い方なのかしら」
 決死の襲撃をかけてきたはずの剣士は、何やらぶつぶつと呟いている。
 緊張感のかけらもない様子で吉継を見やった剣士の目がかすかに見開かれたのは、吉継の頭巾ゆえか、それとも吉継が同性であることに気づいたゆえだろうか。
「奇妙な被り物をしていますね。戦場で顔を隠すなど無粋、と言いたいところですが、それはさておき。それなりの腕はお持ちのようですけど、そのようなものをかぶっていては動きがそがれますよ? 率直に言って、一太刀で済みます。死にたくなければ、無用な装いは取り去りなさい」


 吉継は、その剣士の言葉を大言壮語だと切って捨てることが出来なかった。
 剣士の後ろに累々と倒れ伏している兵士の数が吉継から楽観を奪い去る。なにより、剣士が構える刀に血糊らしきものが一切ついていない事実が、吉継を戦慄させた。
「……戸次家の軍勢相手に単身で切り込み、しかもすべて峰打ちで済ませる、ですか。さぞ名のある御仁とお見受けしますが、何ゆえこのような真似をなされるのか?」
「……と、相手に問いかけながら、兵が集まるのを待つというわけですね。うん、彼我の力量差を一瞬で見抜き、かなわぬと見るや即座に数に訴えようとする、その身の程をわきまえた振る舞いは実に良い。将としては、さっき斬りかかって来た少年よりもあなたの方が上ですね」
 もっとも、あの少年も嫌いではありませんが、と剣士はくすりと微笑んだ。

 

「大友は斜陽の時を迎えていると聞いていましたが、若い才は確実に育っている。やはり聞くと見るとでは大違い、旅はしてみるものです」
「……旅の一幕にするには、この振る舞いはいささか常軌を逸していると思いますよ。もっとも、今更引き返すといっても手遅れですが」
 剣士の気軽な物言いに、吉継は言い知れぬ不快を感じて声を低める。
 この剣士、言葉自体は丁寧なのだが、世のすべてを自分の下に置いている。そのことを感じ取ったからだった。


 意識して慇懃無礼に振舞っているわけではない。ごくごく自然に、それを行っている。圧倒的なまでの自信と自負が、剣士の振る舞いや言葉から尽きることなく湧き出ているようだ。
 この態度が鼻につくか、それとも頼もしいと思うかは人それぞれだろうが、自軍に斬り込んで来ている時点で、吉継にとって選択の余地などなかった。



 元々、夜営場所自体はさして広くもない。騒ぎを聞きつけて駆けつける兵士の数は増える一方であり、手ごわいと聞いて弓を持ってきている者もいた。
 誰が何を命じたわけでもなく、各々が判断して包囲を築き上げる。いかに剣士が手練であろうと、所詮は一人、百人近い戸次勢をことごとく打ち倒すことなど出来るはずがない。
 そのはずだった。



 しかし。
 敵意に満ちた戸次勢に四方を囲まれながら、剣士はなおも余裕を失わない。
 ただほんの少し、その顔に刻まれた笑みが深くなっただけ。
「やはり、あなた方は良いですね。ふふ、正直、峰打ちでは少々興が乗らないと思っていたところです。死合いこそが剣士の華、武士の本懐……」
 その言葉を口にした剣士に、吉継は――否、周囲を取り囲む戸次勢すべてが、息を呑む。



 浮かぶ表情は小春日和を思わせる麗らかなもの。
 改めて構えをとるその姿は流れる清水のごとく、静かで淀みなく。
 外観からは、猛々しさなど欠片も感じ取れないというのに。




 何故かわかってしまう。
 今、大友軍を包む静寂、それが嵐の前の静けさなのだ、と。
 山雨が至るとき、風が楼に満つる、その瞬間なのだ、と。



 この剣士はひとたび解き放たれれば、この場に集う戸次軍すべてを呑み込んで吹き荒れる野分と化す。そんなことはありえないと知りながら、それでも吉継はその恐れを総身に感じていた。
 だが、それでも。
 吉継は刀を握る手に力をこめる。
 相手の思うがままに振舞わせたところで、結果はかわらない。
 昨日あったものが。
 今日まであったものが。
 明日もあるとは限らない。
 そのことを、骨身に染みて知っている吉継だからこそ、目の前の剣士は排除すべき敵以外の何者にも映らなかったのである。 






「やめろ、吉継」






 だから、その言葉に従うつもりもなかった。
 この状況でじっとしている人ではないし、じっとしていて良い立場でもない。
 父がここに来ることはわかっていた。そう言うのではないか、とも思っていた。
 女性一人をよってたかって殺せ、などと命じられる人ではない。たとえ相手が得体の知れない危険な人物であろうとも。
 それでも、吉継は従うつもりはなかった。吉継に命令を下す権限はないが、この状況で声を張り上げれば、他の将兵も追随する。それは予想を越えた確信だった。


 しかし。
 そこまで考えた挙句、吉継は結局口を開かなかった。
 父に従うべきだ、と考え直したわけではない。
 では何故思いとどまったのか。それは――




 当の相手である剣士が、呆けたようにぽかんと口をあけ、刀を下ろしてしまったからである。
 先刻までの余裕と自信に溢れた剣士の姿はそこにはなく、まるで普通の街娘のように呆然と立ち尽くす女性。あと、なんでか頬が赤らんでいたりするのだが、どうしてだろう?




 ――なんとなく。
 本当になんとなく、嫌な予感を覚えながら、吉継は後ろを振り返る。振り返り、そして即座にそのことを後悔する。






 そこには褌一つの姿で駆けつけた雲居筑前の姿があったからであった。
 その手に鉄扇だけを携えて。





◆◆◆





 
 いつからかは覚えていない。
 何か一つのはっきりとした思い出があるわけではない。
 あるいはそれは、ただ生まれついての気性だったというだけのことかもしれない。
 丸目蔵人は、天という響きに焦がれながら生きてきた。
 天といっても、天命を与える不可視の存在のことではなく『上』すなわち頂点を意味する『天』である。


 もっと単純に言えば――すべてにおいて一番になりたがる、丸目蔵人はそんな為人だったのである。
 




 蔵人は本名を丸目長恵(まるめ ながよし)といい、九国は肥後の生まれである。
 丸目という姓は、初陣の折の武功によって主家である相良家から与えられたものなのだが、その事実からもわかるとおり、蔵人は若年ながら文武に長じた人物として主家の信頼を一身に集めていた。
 元々、幼少時から家中でも出色の人物と目されていた蔵人は、当時の主君であった相良晴広から特に請われて、嫡子である義陽の側役となったほど主家と近しい関係にあった。
 蔵人もまた、特に疑問もなく主家の信頼に応えて続けていたのだが、ある時から義陽との仲がうまくいかなくなってしまう。


 というのも、主家の嫡子であろうが何だろうが、学問、武芸、馬術、水練、あらゆることに関して蔵人は遠慮なく義陽を凌駕し続けたからだった。
 幼い頃は、すなおに蔵人の才を称え、羨望していた義陽だったが、長じるに従って蔵人の存在を疎むようになってきた。
 なにせ何をしても、何をやっても手も足も出ないのだ。義陽は決して暗愚というわけではなく、むしろ並の子供に比べれば優秀といっても良いほどだったが、相手が蔵人では分が悪い。悪すぎると言うしかない。


 蔵人は才能を鼻にかけたり、あるいは義陽を蔑むような言動を示したことはなかったが、それは逆に言えば、蔵人にとって義陽を凌ぐのは当然のことだということである。
 また、これだけの才能を示せば、家中の信望、とくに若者たちのそれが蔵人に集中するのは自然なことだった。まして蔵人は女性としても衆目を惹き付ける。いかに竹馬の友とはいえ、義陽が蔵人を疎むようになったのは、ある意味で避けられないことだったのかもしれない。





 かくて、些細な理由で側役を解かれた蔵人だったが、特に不満を口にすることもなく素直に従った。義陽の心情を察したから――というわけではない。そもそも蔵人は義陽が蔵人に向ける嫉視にさえ気づいていなかったし、また気づいたとしても特に言動を違えることはしなかっただろう。
 才能であれ、環境であれ、他者とまったく平等なんてことはありえない。ゆえに他者と己との間に差が生じるのは必然だった。そして、差を埋めたいと願うのであれば努力すれば良いのである。


 この頃、蔵人は頂点に固執する己の性向をはっきりとは自覚していなかったが、それでも他者に劣る自分を許すことは出来ずにいた。たとえばその相手が、十以上も年上の頑健な体躯をした剣術の師範であっても、祖父ほどに年のはなれた学問の師であっても、である。
 蔵人は心の命じるままに、学問でも剣術でも、他者に劣らぬように励みに励んだし、そのこと自体がとても楽しかった。
 元々持ち合わせた才能に、努力を積み重ねていけば、他人がそれを凌ぐのは容易なことではない。まして楽しんで励む蔵人には、およそ限界というものがなかったから尚更である。
 そんな蔵人であったから、差を自覚しつつ、それを埋めようとせず(あるいは埋めようとしても埋められず)相手をねたむという心境を理解することは不可能だったのである。





 ともあれ、側役を解かれた蔵人は、これは良い機会だと考えた。
 この頃、蔵人は相良家に物足りないものを感じていたのである。といっても、義陽や他の家臣に含むところがあるわけではなく、近くに切磋琢磨する相手がいないことが原因だった。
 剣ではとうに城お抱えの師範を上回り、学問でも兵術でもまともに論争できる相手がいない。同年代は相手にならず、年嵩の老臣たちは、孫のような年齢の蔵人と机上の争いをすることを避けたためである。一言でいって退屈だったのだ。
 側役を解かれた今こそ幸い、天下見物に赴くべし。そう言って父や主家を半ば無理やり説得した蔵人は、京へ向かった。荒廃したとはいえ、やはり都といえば京。日の本の中心に行けば、自分など及びもつかない人物がいるはず、と胸を高鳴らせての旅立ちだった。




 だが。
 長旅の末にようやくたどり着いた京の都で、蔵人は大いなる失望を味わうことになる。
 京の都には確かに思ったとおり、自称他称を含め、多くの剣客や軍配者が集まっていた。なかには彼の剣聖 塚原卜伝の高弟だの、諸葛孔明に匹敵するだのと仰々しい装いを自らに貼り付けている者もいたが、いずれも蔵人にとっては取るに足りない相手だった。
 十を越える仕合を挑み、そのことごとくに完勝した蔵人は、その腕前以上に若さと美貌で知られるようになり、ろくでもない輩に挑まれることが頻繁になった。
 京に着いてから三月が過ぎる頃には、すっかり都に嫌気が差した蔵人は、いっそ坂東の方まで行こうかと考えながら、旅支度を調えていた。
 しかし、坂東も京と大差なければどうしよう。まさか本当に天下に我より上はいないのだろうか。後から思えば笑止きわまりないのだが、この時、蔵人は半ば本気でそれをを案じていたのである。





 そんなとき、街で一つの噂を聞いた。
 東は越後の国より上泉秀綱なる人物が上洛してきた、というのである。
 聞けばこの人物、以前は関東管領に仕え、大胡秀綱と名乗っていたそうだが、関東管領が越後に逃れた後は、その護衛もかねて越後の上杉家に仕えるようになったらしい。それを機に大胡から上泉に改名したそうだが、蔵人にとってそれはどうでも良いことだった。
 蔵人が注目したのは、その秀綱なる人物が剣聖とまで称えられる凄腕の剣士だという、ただその一点だけであった。


 もっとも、この時点ではまだ蔵人の胸中には懐疑の念が燻っていた。
 塚原卜伝もそうだが『剣聖』とは衆に優れた剣士に冠せられる称号である。それゆえに、我こそ優れた剣士なり、と考える者が剣聖を称することはめずらしくなかった。実際、蔵人はすでに片手の指で数え切れない数の自称剣聖を討ち破っている。
 その経験もあって、件の越後の剣聖殿も、実際に会って確かめるまでは水物だと考えていたのである。




 そして、例によって上杉の一行の宿舎に押し通った蔵人は、そこで生涯の師と出会う。




 剣士として完膚なきまでに叩きのめされた――それは事実だが、それだけなら蔵人は秀綱に剣の教えを請うことはあっても、生涯の師と仰ぐことはなかっただろう。
 蔵人が真に打ちのめされたのは、むしろ剣で敗れた、その後だった。



 少しさかのぼれば、剣であれ、学問であれ、誰かに劣ったことは初めてではないし、技術や知識に優る人たちから、未熟や増長を厳しく指摘されたことはある。
 だが、乱入してきた蔵人を破った秀綱は、ことさら蔵人を咎め、あるいは諌めようとはしなかった。弟子にしてほしいという蔵人の願いを快く受け入れ、教えを授ける――それ以上のことをしようとはしなかったのである。


 そうして、秀綱の傍らで剣を学びはじめてから、蔵人はすぐに秀綱と自身の違いを悟る。
 一言でいえば、器が違う。剣士として、さらには人として。
 蔵人は秀綱に対し、過去に教えを受けた者たちの誰にも優る感銘を受けた。
 それは、日常のほんのささいなこと。秀綱の発するふとした言葉が、何気ない仕草が、立ち居振る舞いが――蔵人に己の小ささを訴えてきたのである。
 しかも、秀綱はそれを意識してやっているわけではないのだ。
 日常の挙措で他者を教化するような人物に、蔵人は初めて出会い――そして心酔した。


 新陰流を修めることは当然として、普段の物言いから他者との付き合い、果ては生き方そのものまで、蔵人はすべてを秀綱から学ぼうとした。
 それは端的に言えばこれまでの自分との決別を意味する。他者の下風に立つことを忌む蔵人の性情は、秀綱のそれとは似ても似つかないものであったからだ。
 実のところ、蔵人は師と仰ぐ秀綱に対してすら、負けを認めようとしない自分がいることに気づいており、この感情を敬意へと昇華させることこそ、師に近づく一歩であると考えていたのである。



 こうして、蔵人は己が生涯ではじめて自身の性情に反する努力をはじめ。
 はじめたその日に、秀綱からこっぴどく叱られた。



 無論、秀綱は声を荒げたわけではない。だが、その眼光の強さは、下手をするとはじめて無法に挑みかかったあの時よりも勁烈なものであったかもしれない。
 蔵人としては自分なりに考え、成長する術を探り当てたと思っていただけに、正直何で秀綱があんなに怒ったのか、最初はそれがわからなかった。
 だが――



『あなたがどれだけ努めたところで私にはなれません。私がどれだけ努めたところで、あなたになれないように。己を殺す必要はありません。あなたは、あなたのままに強くなりなさい。天を望む妙なる心を、こんなところで朽ちさせてどうするのですか』



 その言葉が、丸目蔵人佐長恵の在り方を決定付けた。
 秀綱を生涯の師と仰ごうと決意したのは、この時である。



 
◆◆



 
 秀綱が京に滞在したのは一ヶ月にも満たない短い期間であった。
 だが、その期間は蔵人にとって、今まで生きてきた十数年をはるかに上回る充実した時間であったといえる。
 同時に、それは剣豪としての丸目蔵人の名が知れ渡る契機ともなった。
 秀綱は会って間もない蔵人の剣の腕と為人をこれ以上ないほどに高く評価し、足利将軍の御前で開かれた上覧仕合の打太刀の相手に指名さえしてくれたのである。
 これが剣士にとってどれだけの栄誉であるのかは言うまでもあるまい。蔵人は師と共に足利義輝から感状を授けられ、その名は天下に喧伝されたのである。


 秀綱が越後に帰るとき、蔵人はそれに付き従うつもりだった。
 それは師である秀綱を慕ってのことだったが、秀綱の口から聞く越後の人々に興味を持ったからでもあった。
 中でも蔵人が深甚たる興味を抱いたのは、秀綱をして「剣の腕はほぼ互角、将としては遠く及ばぬ」と言わしめた上杉謙信なる人物だった。
 師から諭された蔵人は、すべてにおいて頂点を目指さんとする己の為人をはっきりと自覚し、それをむしろ誇りとして歩いていくと決めた。
 それはつまり、剣の腕では秀綱を上回り、将として師すらこえる軍神を凌駕する、ということである。その為人を間近に見るのは、決して無駄にはなるまいと考えたのだ。
 実のところ、秀綱が「遠く及ばぬ」と形容した人物はもう一人いる。蔵人はその人物にも興味を抱いたのだが、なんでも現在は行方知れずとのことだった。


 ともあれ、越後へ行くことは蔵人にとって既定のこととなった。
 秀綱もあえてそれを止める理由を持たなかったので、つつがなく出発できるかと思ったのだが、そんな時、生国である肥後からの急使がおとずれた。
 そして蔵人は、主君である相良晴広の死と、かつて側役として仕えた相良義陽の家督相続を知ったのである。







 相良家の当主である晴広はまだ初老と呼ぶほどの年齢でもなく、病弱というわけでもなかった。
 それゆえ、その死は蔵人にとって驚きだったが、蔵人以上に驚いたのは義陽であったろう。
 だが義陽には驚いている暇さえなかった。突然すぎる当主の死は、相良家に大いなる混乱をもたらしたからである。
 義陽は晴広の嫡子ではあったが、力量も実績も父に及ばぬと見られていた。若年であることも手伝って、家督を継いだ義陽を軽んじる者は決して少なくなかったのである。
 軽んじるどころか、親族の中には露骨な野心を見せる者さえおり、対する義陽には頼りとする相手さえいない有様であった。より正確に言えば、義陽に従う者もいることはいるのだが、いずれも若く、他の家臣たちを押さえられるほどの力量を持つ者はいなかった。


 家督を継いで十日と経たない内に、義陽はそのことを思い知らされた。
 家中の不穏な空気に、このままでは遠からず父の後を追うことになるかもしれないと怯える義陽の脳裏に浮かんだのは蔵人の姿だった。
 無論、義陽は蔵人が京にいることは知っていた。どうして蔵人が京に発ったのかも理解していた――つもりだった。義陽は、蔵人が自分を憚り、国を出たのだと考え、慙愧の念を覚えていたのである。実際は蔵人はそこまで殊勝なことを考えていなかったが、表面的な行動だけを見れば、義陽がそう考えたのも無理はなかった。


 蔵人の行動を聞き、自らの行いが狭量なものであったと自覚した義陽は、どうやって蔵人に詫びたものかと考えあぐねていたのである。
 そんな中での突然の父の死と、その後の混乱は、義陽に一つの行動を促す。
 すなわち、蔵人に過去の行いを詫び、自分の下に戻ってきてくれるように頼んだのである。

 

 蔵人にしてみれば、手紙に記された義陽の謝罪には面食らうばかりだった。
 率直にいって、ああ殿はこんなことを考えてたんですね、くらいにしか思わなかったのだが、肥後への帰国を願う一文には困惑せずにはいられなかった。
 蔵人は義陽や相良家に対し、絶対的な忠誠を誓っているわけではない。そうであれば、そもそも国を出ようなどとは考えなかっただろう。


 だが逆に、突き放して考えているわけでもなかったのである。
 幼い頃から仕えていた義陽には親愛の情を覚えていたし、蔵人なりにではあったが、主家への忠誠の念も持っていた。くわえて亡くなった晴広に対する敬意と、京への旅立ちを許可してくれたことへの感謝は疑うことなく存在する。


 何も知らなかったのであればともかく、知ってしまえば越後へ行くことができるはずもない、
 強くなるためとはいえ、さすがに主家の危機にそ知らぬふりをして越後へ行こうとすれば、秀綱とて良い顔はしないだろうし、なにより、この時は蔵人自身がそうしようとは思わなかった。
 短い困惑の後、蔵人はあっさりと越後行きを諦め、秀綱に対してひととおりの事情を述べて別れを告げ、再会を約した後、生まれ育った肥後の国へと戻ったのである。






 肥後に戻った蔵人は父と共に義陽を支え、相良家は家督相続後の混乱を脱した。
 新陰流を学び、将軍じきじきに「天下の重宝」とまで称えられた蔵人のもとには家中の若者をはじめ、農村や、あるいは他国からも立身を夢見る者たちが多く集い、剣豪丸目蔵人佐長恵の名は九国中に知れ渡った。
 その蔵人を麾下に従えていることで、相良義陽の名もまた重んじられるようになり、義陽を侮る者たちの姿はほどなく見えないようになる。義陽にしてみれば、蔵人の名声におんぶに抱っこという感じで釈然としないものを感じもしたのだが、かつての過ちを省みて、再び蔵人に妬心を向けるような愚を避けることが出来たのは、義陽もまた成長しているという確かな証左であったろう。



 そして数年。落ち着きを取り戻した相良家であったが、嵐は内からではなく外から――南から訪れた。
 隣国薩摩において、国内統一を志して兵を挙げた島津家が薩摩南部の制圧を終え、北上を始めたのである。
 この時、相良家は薩摩北部の国人衆――つまりは島津と敵対する国人衆に与しており、北進してきた島津軍と激しい戦いを繰り広げた。
 蔵人もまた相良勢を率いて勇戦したのだが、この時、島津軍は宗家の四姉妹全員が出撃するという、文字通り総力を挙げた大攻勢を仕掛けてきており、勝敗は容易に定まらなかった。



 蔵人他、肥後勢が拠点としたのは薩摩の大口城。ここは薩摩から肥後へはいるための玄関口に等しく、ここさえ押さえておけば、島津勢の北進を阻止することは容易いと考えられていた。
 相良家にとっては死守すべき、島津家にとっては奪取すべき、重要拠点だったのである。
 そして、ここで蔵人は痛恨の大失態を犯す。
 島津の末姫 島津家久の誘いにのった蔵人は肥後勢を率いて城を出た挙句、城外において島津勢に包囲され、大打撃を被ってしまったのだ。


 おそらくは肥後勢の要が丸目蔵人であることを家久は早くから察していたのであろう。
 その誘いは巧妙を極め、不覚にも蔵人は四方を島津勢に囲まれる、その寸前までまったく計略に気づくことが出来なかった。
 釣り野伏と呼ばれる薩摩島津家のお家芸。その存在を知ってなお、蔵人は家久にはめられてしまった。そうと悟ったとき、蔵人は思わず笑いたくなった。自分が見事なまでにしてやられたこと――まだ春を迎えてさえいないだろう少女が、蔵人が遠く及ばないほどの大器の持ち主であることを、一瞬で悟ったからであった。


 悟った次の瞬間、蔵人は大口城への退却を指示する。それが容易ではないことを承知しつつ、またそう命令することが敵の狙いであると知りつつ、そう指示せざるを得なかったのである。
 蔵人自身、剣を振るって幾人もの敵兵を切り捨てたが、個人の勇で戦局を打開できるほど、島津家の兵は弱兵ではなかった。
 また、おそらくあらかじめ家久に指示されていたのだろうが、島津兵は蔵人とまともに戦おうとはせず、蔵人の隊を遠巻きに包囲して矢を射かけ、時に鉄砲隊を用いるなど、その徹底振りはいっそ見事なほどだった。



 城に帰り着いた蔵人は、生き残りを数え上げ、知らず天を仰いでいた。
 肥後勢はただ一戦で、主力の半ばを失ってしまったのである。この有様では、間もなく押し寄せてくる島津勢に対抗することは出来ないだろう。
 包囲されれば、ほどなく殲滅されてしまうと考えた蔵人は、全軍に肥後への退却を指示する。
 九国中に名の知られた剣豪丸目蔵人の存在は、島津軍に対抗する者たちの士気の柱である。その柱が折れたのだ。勝敗の帰結は誰の目にも明らかであった。






 当然のごとく、丸目蔵人の敗北は義陽にとって衝撃だった。
 幸い、国内統一を優先する島津軍は大口城を占領した後は兵を動かさず、生き残った肥後勢は無事に相良家の本城である人吉城に帰り着くことが出来た。主だった武将も生存しており、それに関しては義陽もほっと胸をなでおろす。これは蔵人の勇戦と思い切りの良い判断の賜物であるといえた。
 とはいえ、敗北は敗北。そして、その責の多くが蔵人に帰せられることは明らかだった。義陽は蔵人に対し、何らかの罰を下さなければならなかったが、一部の重臣が声高に言い立てるような切腹は論外だった。敗北の罪は勝利で償えば良い。実際、これまで蔵人はいくつもの勝利をもたらしており、この義陽の発言は決して寵臣をかばうための詭弁ではない。


 しかし、さすがに何の罰も与えないというわけにはいかない。重臣たちへの手前というだけでなく、討ち死にした将兵とその家族に筋を通さねばならないからである。
 結果、義陽は蔵人に逼塞を言いつけた。門を閉ざし、人の出入りを許さない刑罰。
 これにより、丸目蔵人は長期にわたって相良家の軍事、政治から離れることとなったのである。




 ――が。




「人の出入りを許さないということは、わたしが家にいる確認もできないということ。つまり私が外に出たという確認もできないわけで、確認されない事象を証し立てることは誰にも出来ないのです。うん、一分の隙もない見事な論理です」
 そんなことを呟きつつ、丸目蔵人は逼塞を申し渡された翌日には人吉城を出ていたりする。
 別に逃げ出したわけではない。島津家久と対峙した蔵人は、即座に自分が家久に及ばないことを理解した。剣士としてはともかく、武将としては、おそらく十回戦って一回勝てるかどうかだろう。
 他の島津の姉妹の力量のほどは知らないが、あの家久の姉たちだ。同等の力量を持っていると考えて間違いあるまい。それはつまり、今のままではどうあっても蔵人では島津に勝てないということであった。


 特に家久に敗れたことは、蔵人にとって衝撃だった。
 蔵人は剣に重きを置くとはいえ、将としての学問も等閑にはしていない。孫子、呉子、六韜三略、おおよそ名の知られた兵書はことごとく学びつくしている。単純に知識だけでいうなら、蔵人に優る者は家中はおろか、九国中を見回してもさして多くはないだろう。
 家久がどれだけ軍略に傾注しているかは定かではないが、費やした時間は間違いなく蔵人の方が上であると断言できる。


 にも関わらず、完膚なきまでに叩きのめされた。
 もし、師である秀綱に会うまでに同じ目に遭わされていたら、もしかしたら蔵人は立ち直れないほどの衝撃を受けていたかもしれない。
 ここまで他者との差を――それも自分よりはるかに年少の相手に――思い知らされたことはかつてないことだったから。


 だが、今の蔵人は打ちのめされたりはしなかった。
 相手の力量を認め、己との差を認め、その上で差を縮め――いずれ追い越してみせる。
 敗北と、戦死した将兵への責任を背負った上で、蔵人は思うのだ。将として上を目指すに、これ以上の相手はいない、と。





 とはいえ、これからいくら兵書を読んだところで、家久を上回ることはできないだろう。
 すでに相手を上回る研鑽を積み、その上でなお遠く及ばないのだ。これまでと同じことをしていても、差は開く一方だろう。
 であれば、どうするか。
 物に学べないのなら、人に学べば良い。ことに自分に足りないのは軍略、策略、計略、謀略、そういった面である。そういったものをすべて兼ね備えた大器は存在しないものだろうか。家久を越えるためとはいえ、どうせ学ぶなら頂きの上にいるような人が望ましい。なにぜ、いずれその人をも越えねばならないのだから。
 そう考えた蔵人が、毛利元就の存在に行き着くまで、大した時間はかからなかった。
 そして、その毛利軍が九国に上陸していると聞き、じっとしている理由などあるはずもなかったのである。






◆◆◆






 そうして、筑前に赴いた蔵人は、そこで毛利軍の敗北を目の当たりにした。
 それにより、異国の人間に好き勝手されている家だと、それまで歯牙にもかけていなかった大友軍にはじめて興味を持った。
 大友軍を押し通ろうとしたのは、無論、その真価を知るためである。秀綱ほどの見事な対応は望むべくもないが、自分に対する態度で、大体のことは理解できる。蔵人はそう考えていたのである。





 だが、今。
 蔵人は慄いていた。
 かつてないほどの衝撃がその身を襲い、身体の震えがとまらなかったのだ。





 半ば呆然としながら、蔵人は口を開く。
「…………突然の敵襲に対して、鎧をつけず、それどころか服さえ着ない。不意打ちの相手に……不意打ちするしかない卑怯者相手に、わが身を守るものなど必要ない、とそう言うのですね。いえ、それ以上にその手に持つは扇ひとつ。刀さえ必要ないと……? ……なんと剛毅な……これがまことの武士が持つ、裸一貫の心意気……」


 先刻まで対峙していた頭巾をかぶった少女が「……は?」と呆けているが、蔵人はまったく気づいていなかった。というより、自分が何をくちばしっているかさえ、わかっていなかった。


「ああ、天へと屹立する志を持って歩く人に、小さな陰謀の刃が通るはずがない。これは、ことによると天下人の器かもしれません……いえ、きっとそう。あの元就公すら退けたのは、あなただったのですか……」
 








「……吉継、この人は何をいってるんだ?」
「……さあ……私にもさっぱり……?」
「むう。何やら騒ぎが静まらないから急いで来てみたんだが」
「……ッ! お義父様、さっさと服を着てください。というか刀の一つも持たずに何しに来たんですかッ?!」
「娘の危機に裸一貫で立ち向かう父親というのも素敵だと思いません?」
「……それで、その父親に死なれた日には、娘はどうすれば良いんですか?」
「……すみません」
「謝るのは後で良いので、とりあえず服を着てください。この人、もう戦うつもりはないようですが、他に仲間がいないとも限らないんですから。あと、きちんと刀も差してくるように!」
「御意」





[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第五章 剣聖(三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:9e91782e
Date: 2010/12/01 21:56
 今の状況を率直に述べると「何がなんだかさっぱりわからん」としか言いようがなかった。


 俺の前には丸目蔵人佐長恵と名乗った麗人が静かに端座して、じっと俺を見つめている。
 その名を聞いた俺は思わず目を丸くしたのだが、それ以上に驚いたのは周囲の将兵だった。
 それもそのはずで、若い女性の身でありながら、天下に名を知らしめた肥後の剣聖の名は、九国中に知れ渡っていたからである。
 長恵の襲撃で負傷した、誾をはじめとした兵士たちは、それまであらわにしていた警戒と敵意をたちまちのうちに引っ込めたほどであった。彼の剣聖が相手なら仕方ない、というところであるらしい。


 無論、俺も丸目長恵の名前は承知していた。あの剣豪が女性であるというのは驚いたが、まあそもそも秀綱殿からして女性だったし、これは今更だ。
 問題なのは、その長恵がどうして単身で大友軍に切り込んできたか、ということである。ついでにいえば、どうしてこの部隊なのか。まさか偶然というわけではあるまい。


 しかし、実のところ、それすらも俺にとっては大した問題ではなかった。
 では何が問題なのかといえば、長恵が俺に対し、どうか随身を許してほしいと頭を下げたことが、何よりも先に考えなければいけない大問題だったのである。
 聞けば、裸一貫、鉄扇一つで長恵の襲撃を迎え撃った俺の豪胆さに感じ入ったということだが、それは誤解も甚だしい。俺はそこまで肝が据わっていないし――というか、それは豪胆ではなく、ただの変態であろう――あの時はああするしかなかったわけで、決して普段から褌一つで敵襲に相対したりはしていないのである。




 とりあえず、俺はそこに至る事情を適当に端折って説明した。
 正直に言えば、長恵ほどの人物の協力を得られれば心強いので、随身を許したくなる。だが、さすがに相手の誤解につけこむのは気が引けるし、その上、長恵の信頼を損なわないためには、毎回褌姿で敵に挑まねばならなくなるのだ。あの丸目長恵の協力を得られる利点を差し引いても、これは重過ぎる代償だった。


 そんなわけで、俺は誤解を解くべく言葉を重ねた。
 誤解を解いたら解いたで、また襲ってこないとも限らないので、多分に賭けの要素もあったのだが、幸い長恵はこちらの話を聞いても特に感情を荒立てることはなく、静かにこう返してきた。
「――なるほど。つまり、普段の貴殿は敵と相対するに、鎧兜を身にまとい、刀を揮うということですね」
「そういうことです。先刻のあれは、なんというか、やむを得ない状況だったのです」
 冷静に考えれば、生乾きでもなんでも、服を着てから駆けつけるべきだったのだが、自軍の雰囲気がただ事ではなく、様子を見ようとこっそり表に出た際、遠目に見た長恵の姿が、明らかな脅威を孕んでいたのだ。
 それこそ、放っておけば俺を含めた大友軍をことごとく切り伏せてしまいそうなほどに。



 長恵はみずからに言い聞かせるように幾度も頷いている。
「――確かによくよく考えてみれば、おかしな話です。うん、思わぬ事態にあって、ちょっと気が動転していたみたいです」
「丸目殿ほどの御仁を動揺させることが出来たのならば、これは将として誉れとすべきでしょうな。まあ、手段が手段なので、声高に喧伝するわけにも参りませんが」
 俺の苦笑に、長恵の微笑が重なる。
「あら、あれはあれで男らしい御姿でしたけど?」
 次に重なった笑いは、互いに他意のないものだった。


 笑いをおさめると、俺はやや緊張を覚えつつ口を開く。
 問題はまだ山のように残っている。その一つを詳らかにするためであった。
「では、先の請いはなかったことにして、丸目殿がどうして我らに――」
「ちょっと待って下さい」
 俺の言葉を、長恵が片手をあげて遮った。その顔には不思議そうな表情が浮かんでおり、長恵はその表情をかえないままに首を傾げてみせた。
「どうして私の請いがなかったことにされているのでしょうか? 私は取り下げた覚えはありません」
「……は? し、しかし、それがしの格好が胆力によるものでないことはお話ししましたでしょう?」
「はい、それは伺いました」
 ごく自然に頷く長恵に、俺も首を傾げる。
 なんか話がかみ合ってないような?


「……えーと、最初の話によれば、丸目殿はそれがしの格好に剛毅さを感じ取り、それゆえに随身を願い出てこられたということでしたよね?」
「ええ、そのとおりです」
「それがしの行いは、剛毅とか豪胆とか、そういった類のものではないことは、今お話ししました」
「はい、それもそのとおり」
「……であれば、丸目殿がそれがしに随身を願う理由が失われたと判断してもよろしいのではないでしょうか?」
 俺の言葉に、長恵はなにやらおとがいに手をあて、視線を天幕の上へと向けて「んー」と考え込む。


(……ぬう、どうも呼吸が掴み難い人だな)
 俺が困惑しつつ、内心でそんなことを考えていると、答えが出たのか、長恵が再び視線を俺に戻す。
 その口から出たのは、半ば予期していたものであった。
「確かに、最初の理由はなくなりましたね」
「そうですよね。それなので、丸目殿の請いはなかったものになった、とそれがしは判断いたしました。間違っておりませんよね?」
「いえ、間違ってます」
「そうですよね。では話を戻して……って、はい?」
 間違ってると言ったか、今。


 俺は自分が何か勘違いをしているのかと思い、同席している吉継や誾たちの顔に視線を向けてみたが、皆困惑を隠せずにいる様子。
 ということは、やはり俺が勘違いしているわけではなく、長恵の言葉が奇妙なのだ。
「ふむ……よし」
 両の頬を叩き、考えを切り替える。
 相手の考えを推し測れないのならば、素直に聞くまでだ。


 
「最初の理由は失われても、随身を願う理由は失われていない。では、今、随身を願う理由は何なのでしょうか?」
「もちろん、天へと至るために必要だからです」
 ……く、いきなり挫けそうだ。しかし、ここは耐えねばならん。
「天に至るとは、具体的に何を指すのですか?」
「天とはすなわち、誰もが仰ぎ見れども届かぬ場所。けれど、私はそこに至ります」
 断言しますか。とはいえ、長恵の姿はごくごく自然で、言い切る姿に気負いは感じられない。
 他人の目にどう映るかは知らず、本人にとって、天に至らんと行動することは、もう呼吸するに等しいくらい当たり前のことなのだろう


「……それは剣士としてでしょうか?」
「いいえ。剣士として、将として、人として、女子として。すべてをひっくるめた上でのことです」
「それはまた……」
 長恵の言葉に、俺は知らず息をのむ。
 剣士として、将として最強、人として、女子として最高の人間になる、と。ここまで贅沢な、荒唐無稽ともいえる目標を、微塵も躊躇することなく他者に口にできる長恵に、俺は正直圧倒されていた。


(なんという気宇……)
 先刻の長恵ではないが、そんな思いが脳裏をよぎる。
 長恵以外の人間に問えば、十人中十人が無理だと断言するであろうし、それは俺も同様だ。
 そもそも最強だの最高だのは個人の主観でいくらでも変わるもの、万人に認められるなど不可能だろう。
 そんな俺の考えに、長恵は小さく肩をすくめた。
「誰かに認めてもらうつもりなんてありません。戦えば勝ち、攻めれば取る。認めてもらうのではなく、認めさせれば良いのです」


「剣士や将としてはそれでいいかもしれませんが、後半部分はどうなさるつもりです?」
 この時代にミス日本なんてねーですし。
「そちらは己を磨き続けるのみです。他の誰でもなく、私自身が認めることが出来れば、それで良いんですよ」
「なるほど。下手に他人に評価を委ねるより、貴殿の自己評価は厳しそうだ」
「はい、もちろん。なにせすでに師の上泉秀綱というおばけが、でんと立ちはだかっていますから。あの方を越えるために、甘い評価なんてつけてられません」


 俺は楚々とした秀綱殿の姿を思い起こし、なるほどと頷いた。あの姿で、その実、虎も裸足で逃げ出しかねない強さの持ち主なのだから、長恵のハードルが高くなるのも当然か。
「確かに、秀綱殿を越えるとなると、富士の山を越えるようなものですね」
 俺がそう言うと、長恵の目におや、と怪訝そうな光が浮かび上がる。
「まるで師をご存知のような物言いですね?」
「昔、一時ではありますが、教えを請うたことがあります。といっても、剣士としての見込みはなしということで、新陰流を学んだわけではありません。ただ稽古の相手を務めて頂いただけで……あ、いや、稽古の相手を務めさせて頂いただけ、というべきか?」
 俺は首をひねりつつ、そう言った。
 俺が東国へ戻ろうとしていることは吉継も誾も知っている。そちらに知己がいたところで不自然ではないだろう。


 一方の長恵は、何やら首を傾げつつ、じっと俺を見据えた。その視線は顔から首筋、胸元、腹、さらには脚といった具合に、なめるように俺の全身を見渡していく。
 といっても、無論、そこに色めいた感じはない。それはもう一切合財かけらもない。それどころか、その鋭い面差しは、戦いを前にした剣士さながらであった。
 そしてひとしきり眺めた後、なにやら納得いかなそうにぶつぶつと呟いている。
「……うーん、あのお師様が見込みもない人に稽古をつけるとは、ちょっと思えないんですけど。言うほど筋が悪いようには見えないんだけどな……?」
「丸目殿?」
「あ、はい、ごめんなさい。えーと……あれ?」
 長恵は何やら腕組みをして考え込む。
「どうされました?」
「いえ、結局何の話をしていたんでしたっけ?」
 俺がこけそうになったとしても、誰も文句を言えないのではなかろうか。



  
 要するに俺に仕えたいという理由を教えてくれ、という話をしていたことを伝える。
 すると長恵は、あ、そうか、みたいな顔で頷いていた。
 そして、頷いた後、また何やら考え始めてしまう。
 すると、それまで我関せずと黙っていた吉継がはじめて口を開く。
「……お義父様」
「……言いたいことはなんとなくわかるが、ここは我慢のしどころだと思う」
「……お義父様がいいなら結構ですが」
 そう言いつつ、はぁ、とため息を吐く吉継。色々な意味で、疲労が積もっている様子だった。
 

 もう一人、先刻から黙っている誾は、こちらも何やら疲れた様子だった。
 時折、顔をしかめているのは長恵に打ち据えられた傷が痛むからだろう。峰打ちだといっても、骨は折れるし、打ち所が悪ければ死んでしまうこともあるのだ。
 幸い、誾をはじめ、怪我をした兵士たちの中に重傷の人間はいなかった。逆に言えば、戸次家の精鋭を、長恵は重傷を負わせることなく無力化してしまったわけで――秀綱殿とどれだけの差があるのかはわからないが、剣聖と称するに足る力量を持っていることは、この一事をとってみても明らかだった。



 
「――そういえば」
 不意に、長恵が俺に問いを向けてきた。
「先夜、私が笛を奏していたのはご存知ですか?」
「笛、というと……ああ、あの夜半に聞こえてきた」
「はい。実のところ、押し通るのは、あの時でも良かったんですよ。というより、吹き終わったら押し通るつもりで奏していたのですけど――」
 そう言うと、長恵は天幕の上に視線を向けた。より正確に言えば、そのさらに上、夜空に浮かぶものに視線を向けたのであろう。


「とても月が綺麗でした」
 長恵は、そう言ってくすりと笑った。
「それを見て思ったのです。明日は満月。どうせ押し通るならば、満ちた月の下の方が華がある、と」
「……それは、なんというか、風流なことで……」
 いや、まあ単身、敵陣に突入する行いが風流かどうかは知らんけど。一騎駆けは戦の華というが、今回の長恵のはそれにあたるのだろうか。
 俺が困惑しつつ応じると、長恵は小首を傾げた。
「先の話を聞くかぎり、昨日押し通っていれば、今日のようにはならなかったですよね?」
「そう、なりますか。少なくとも、裸で丸目殿の前に飛び出すことはなかったでしょう」
「もし昨日、あなたと正面から対峙していたらどうなったのか。それは興味が尽きないところですけど、それは仮定に過ぎません。結果として、私は一日待ち、待ったがゆえにあなたは裸身で私の前に立ち、その姿に私は撃たれ、今、こうしてここにいる……」


 まるで詩を吟じるような、伸びやかな長恵の声。
 それを聞きながら、俺は目を瞬かせる。長恵が何を言わんとしているのかが、今ひとつわからなかった。
 そんな俺に向かって、長恵は花が開くような微笑みを浮かべ、告げた。


「あなたが示した裸一貫の心意気が偶然の産物であったとしても、私が随身を願う理由はなくなりません。何故ならその時は、その偶然を導いた、あなたの類稀なる強運をもって随身を願う理由とするからです。古来、運に優る才は無しと言いますもの。まして、あなたははるか東国のわが師を知っているとのこと、その一事をもっても合縁奇縁、果てしなし。ここで袂を分かつなんて、そんなもったいないことが出来るわけありません」
 




◆◆◆





 肥前国蓮池城。
 蓮池城は肥前と筑後を分ける筑後川を睨む竜造寺家の要衝の一つである。
 現在、竜造寺家はこの城に四天王のうち、二人を篭めて筑後からの大友軍の侵攻に備えており、その二人――円城寺信胤(えんじょうじ のぶたね)と木下昌直(きのした まさなお)は警戒と兵の訓練をかねて筑後川の畔までやってきたところであった。


 実のところ、現竜造寺家当主 竜造寺隆信は、元々大友家とは親密な関係にあった。より正確に言えば、大友家と、ではなく大友家に仕える筑後の国人 蒲池鑑盛と親密な関係にあったのである。
 というのも、竜造寺家は先代家兼ならびに今代隆信の二人ともが家臣団の叛乱にあって佐賀城を失っており、そして二人ともが蒲池鑑盛の助勢によって復権を果たした。
 竜造寺家にとって蒲池鑑盛は御家の大恩人であり、大友家に対して反感を禁じえない隆信も、鑑盛に対しては頭があがらなかったのだ。


 しかし、近年の大友家の乱脈ぶりと、竜造寺家を属国扱いする宗麟の態度に腹を据えかねた隆信は、大友家の将来に見切りをつけ、独自の勢力を築くべく肥前各地に侵攻を開始した。
 無論、これを知った大友家からは強い問責の使者がおとずれ、筑後の鑑盛からも自重を促す密使がやってきたりもしたのだが、ひとたび決断した後の隆信の行動は微塵も揺らがず、肥前における大勢力を築くことに成功するのである。


 この時、隆信は大友家に従っていた国人衆であっても容赦なく討伐したが、その一方で決して筑後川を越えようとはしなかった。それが隆信なりの、此方への謝意であることを鑑盛は悟ったが、だからといって竜造寺の造反を見てみぬ振りなど無論できぬ。
 それ以後、筑後川は竜造寺家と大友家がにらみ合う最前線となるのである。






「――というわけで、ここを守るのは竜造寺家にとって、とーっても大切なことなのです。わかりましたか、木下さん?」
 『とーっても』の部分で大きく両手を広げて、事の重要さを示した女性に対し、木下と呼ばれた武将は乱れた髪を、さらにかき乱しながら、つまらなそうに返答した。
「胤さんの言うことはわかったようなわからんような、そんな感じだけどさ。なんだかんだ言いつつ、筑後川で戦が起きたことなんてこれまでなかったじゃねえか。こんなとこより、今熱いのはなんてったって筑前だろ! ああ、ちきしょう、なんで軍師殿は俺をこっちに置いたんだッ! あっちに配置してくれりゃ、俺が鬼道雪だのスギサキだの、まとめて相手してやるってのに!」
「そんなおばかな木下さんが暴走すると困ったことになる。だから鍋島様は木下さんをこちらに配置したんだと思いますよー。私というお目付け役込みで」
「お、おばかって、胤さん、そりゃねえよ」
「あら、私としたことが、つい本音を口にしてしまいましたわ」
 ころころと笑う僚将を見て、竜造寺家四天王の一、木下昌直は情けなさそうに表情を歪めた。


 ふん、とそっぽを向きながら昌直が口を開く。
「ちぇ、そりゃまあ『円城寺の弓姫様』と比べりゃ、おれなんてぽっと出の下っ端のおばかですけどね」
「あらあら、いい年をした殿方が拗ねても可愛くないですわよ?」
 子供じみた抗弁をすっぱりと両断され、昌直は言葉に詰まる。
 そんな昌直を気に留める素振りも見せず、名門円城寺家の若き女当主 円城寺信胤は眼前に広がる筑後川の流れに目を向けた。


 実のところ、信胤にしたところで筑前侵攻を前に、筑後方面に差し向けられたことは残念なのである。
 のんびりとした口調、おっとりとした為人から誤解されがちだが、円城寺家の今代当主は血筋だけでその地位にいるのではない。城中を歩く信胤の姿を見た家中の将士はおのずから姿勢をただし、行き合った相手は敬意を込めて道を譲る。円城寺の弓姫と一度でも戦場を共にしたものであれば、誰もがその実力を骨身に刻み込んでいるためである。


 戦を好むわけではないが、どうせ戦わなければならないなら、より強い敵と戦いたい。そのあたりはもう一人の姫武将、江里口信常(えりぐち のぶつね)と同じ性情を持つ信胤であった。
 もっともその信常曰く「でも、他のみんなはそうは見ないんだよねえ……良い縁談はみーんな胤に持っていかれるからなあ。見た目と言葉遣いってのは重要さね。ま、行き遅れなんて陰口はもう聞きなれちまったから構わないけどさ、あっはっは…………はぁ」とのことだった。
 

 要するに外から見たかぎり、信胤は温雅で温和なお姫様なのである。
 まあ、その実態はといえば、見た目とは正反対――と、昌直が胸中で呟こうとした時。
「あら、木下さん。額に蝿がとまってますわ。わたくしが払って差し上げましょう」
「うをッ?! ちょ、胤さん、蝿を払うのになんで弓引いてんだよ?! というか、いつのまに弓を取り出したんだッ?!」
「女子に秘密はつきものですのよ。その蝿を払えば、木下さんもちゃんと命令に従ってくれますわよね?」
「す、すみませんしたッ! 木下昌直、余計なことは考えずに任務に精励させていただきやすッ!」
「はい、結構です――あら?」
 まさか実際に射ることはあるまいが、と思いつつ、信胤の日ごろの態度を思い返してちょっと不安になっていた昌直は、不意に信胤が首をかしげたので、思わず首をすくめた。


 だが、信胤の視線は昌直を通り越して、背面を眺める筑後川の水面、その先に向けられていた。
 信胤の様子から異変を察し、昌直も振り返る。そこには百騎ほどの騎馬隊が砂埃を舞い上げつつ疾駆している。どうやらこちらへ渡ってくるつもりであるらしい。
「大友軍、にしては数が少ないですわね。鍋島様が言っていた使いの方かしら?」
 その信胤の呟きに、昌直がきょとんとした顔をする。
「へ、おれは軍師殿から何も聞いてねえんですけど?」
「言っても無駄だと思われたのではありませんの? わたくしが何度いっても、ここの守りの重要さを理解してくれない木下さんだから、仕方ないかもしれませんわね」
 おほほ、と控えめに笑う信胤だったが。
 実は何度も何度も説明を繰り返して、ちょっとご立腹であったのかもしれない。


「あ、いや、その……そ、そうだ、はやく前の連中に命令しねえといけねえッ! んじゃ、俺がちょっくら先走って攻撃しないように言ってきますわッ!」
 そう言うや、馬腹を蹴って駆け出す昌直の後姿を見ながら、信胤は笑いをひっこめてほぅと息を吐いた。
「うーん、筋は良いんですけど、やっぱり問題はおつむの方ですわね。もうちょっと兵書でも読んでくれれば、わたくしも皆も、喜んで四天王の一角だと認められるんですけど……あの調子では、期待薄のようですわ。それでも勝ててしまうあたり、武力だけなら文句のつけようがないところが、また余計に始末に悪いんですのよねー」
 一度、誰ぞに手痛く叩かれれば、そこから学ぶことも出来るかもしれない。大友相手ならうってつけ、とも思うが、しかし大友相手の戦に敗北覚悟で昌直をぶつけられるほど、今の竜造寺に余裕はない。
 かといって、そこらの武将では昌直の相手にもならぬ。
「悩ましいところですわ」
 そう言って、円城寺の弓姫は頬に手をあてて、もう一度ため息を吐くのだった。





[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第五章 剣聖(四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:9e91782e
Date: 2010/12/01 21:55

「つまり、島津軍にしてやられたから、将としての経験を積むために修行の旅に出た、というわけですか」
「そのとおりです。より正確に言うなら『してやられた』わけではなく『こてんぱんに叩きのめされた』というべきでしょうか。これでもか、これでもか、えいえい、という感じでした、あれは」
「そ、そこまで言いますか……」
「他に形容のしようがなくて」
 自分のことだというのに、まるで他人事のように長恵はそう言った。


 特に表情を変えることもなく、淡々と先の島津との戦を語る長恵。それを聞き終えた俺は、嘆息しながらこう返した。
「なるほど。島津の総攻撃にくわえ、率いる将があの家久殿とくれば、それは厳しい戦況にならざるを得ませんね」
 おや、という感じで長恵が首を傾げる。
「雲居殿は島津の末姫をご存知なのですか?」
「直接の面識はありませんが、噂程度なら聞いたことはあります。長ずれば、歴史に名を残す名将となる人物かと」
「ふむ……? 姉の鬼島津ならともかく、末姫はまだそこまで知られていなかったと思いますけど。少ない情報で、よくそこまでの器量だと見抜くことができましたね」


 何気ない言葉だったが、俺はわずかばかり緊張した。
 今回の戦で剣聖を討ち破った島津家久の勇名は轟くことになろうが、俺自身は薩摩での戦の顛末を知らなかった。今回の戦以前に島津四姫の名を聞いたことはあったが、家久個人のことを称揚するようなものは聞いていない。
 この状況で、元の時代の知識をもとにした俺の言い方は、長恵にとってはおかしなものに聞こえるだろう。あるいは俺が下手な慰めを口にしていると思われてしまったかもしれない。


 だが。
「真の名将は些細な情報からでも真実を拾う。実際に相対した私などより、あなたの方がよほど家久を識っているのですね。やはり、御身は私が敬うに足りる方です」
 なんだか目をきらきらさせながら、尊敬もあらわに俺を見る長恵。
 なにやらまたしても剣聖の心の琴線に触れてしまったらしい。
「いや、それは、どんなものでしょう? そもそも私は兵略を誰かに学んだわけでもないですし、四書五経、六韜三略を諳んじているわけでもありません。誰かに教えを授けられるような人間では……」
 むしろそういった知識でいえば、俺は長恵の足元にも及ばないだろう。
 将として学びたいというのであれば、それこそ道雪殿という、これ以上ない方がいらっしゃることだし、なんなら紹介しても――


 しかし、俺の言葉を、長恵はゆっくりとかぶりを振って否定する。
「運用の妙は一心に存すとは往古の名将の言葉ですが、知識の多寡など実際の戦場では些細なこと、己が知る物をいかに活かすか、その能力こそが将の良否を分けるものと、私は先の戦で思い知りました。ですから、何も兵法を授けてほしいとは申しません。いえ、私のために、寸刻すら割いていただかずとも結構。ただ傍に侍ることをお許しいただきたい、と」
 願うのはそれだけです。
 そう言って長恵は眼差しに真摯さを込めて俺を見つめた後、深々と頭を下げた。


「学ぶべきことは、こちらで勝手に学びます。もちろん、随身する以上、いかような命令でも果たしてみせます。先駆けをせよと言われれば、我が剣をもって敵を切り裂きましょうし、使いをせよと言われたら千里の彼方でも赴いてみせましょう。もしも伽をお望みならば裸身を晒すことも厭いませ――」
「ぶッ?!」
 思わず吹き出してしまった。というか、いきなり真顔で何を言い出すかッ?!
「い、いえ、そこまでしてもらわずとも結構ですが――」
 慌てて長恵の言葉を遮る俺に、吉継と誾から冷たい眼差しが注がれる。
 いや、別に伽云々は俺が求めたわけではないのですけどね?


 げふんげふん、とわざとらしい咳払いをして、改めて長恵に向き直る。
「ま、まあ最後のはともかく、それではこちらは何一つせずに、剣聖殿を使い立てして良い、ということになってしまいますよ。それはあまりに不公平でしょう」
「無理やり押しかけ、無理やり随身を請うているのです。むしろ、これでもまだ足りないと思っているくらいですよ? ですから、お望みのことがあれば、なんなりとお申し付けくださいな。こう見えて、私、脱いでもすご―」
「ともかくッ!」
 ええい、今、何を口走ろうとした?! お前はもう何もしゃべるなッ、丸目長恵!


 俺はこれ以上の話し合いは無意味と判断し、さっさと結論を出すことにする。
「その条件であれば、こちらが断る理由も特にありませんねッ。とはいえ、俺は食客なので、仕官という形はとれませんよ。それに丸目殿の場合、立場が立場なので、あまり表立って動いてもらってはこまりますから、行動に制限がつくかもしれません。それに――」
 相良家で逼塞を命じられている剣聖が、大友家に仕えている、などと知られたら、どんな騒ぎになるか知れたものではない。
 そして長恵が相良家に仕えている以上、俺の傍でどんなに功績をたてたところで報われることはないだろう。それどころか正体が知られたら、その日のうちに追放処分になる可能性さえあった。


 だが、そういった自身に不利な諸々の条件を聞いても、長恵はあっさり頷くだけで、別に気に留めた様子はなかった。それどころか、うれしげに破顔して、どうぞよろしくお願いしますと丁寧に頭を下げてくる始末である。
 このあたり、実に礼儀正しい人で、しかも文武に長じており、報酬は不要とくれば、望んでも得られる人材ではない。ないのだが……


「……良かったですね、お義父様。とても頼もしい方がお供に加わってくださって」
 そういう吉継の背に、そこはかとなく怒りのオーラが漂っているような気がするのは、はたして気のせいなのかしら。


「……この隊の指揮は雲居殿に委ねられています。ゆえに反対を唱えることはいたしませんが、何事かあった場合、その責は雲居殿のものとなることを、ゆめゆめお忘れなきよう」
 ちなみにこれは誾の台詞である。その視線はこの季節の空気よりもなお乾き、冷たく俺を見据えていた……







 ――というのが昨日の出来事である。
「師兄、あれが筑後川です――って、なんで疲れ果てたようにため息をついてるんですか?」
 ああ、本当になんで俺は肝心の肥前に着くまでにこんな疲れ果てているのだろう? 戦に例えれば、まだ敵の先鋒部隊の影すら見えていない状況だというのに、すでに疲労困憊です。
 まあ、理由は明らかだが、言っても多分通じないので言わないでおこう。これ以上、疲れたくないし。しかし、それでも訊かねばならない点が一つだけあった。


「……いや、気にしないでください。それより、その『師兄』というのは?」
「師兄は私より先にお師様の教えを受けられたとのことですから、私にとっては兄弟子同然、敬意を込めてそう呼ばせていただくことにしました」
「いや、だからそれがしは新陰流を学んだわけではないと――」
 俺の抗弁を聞くと、長恵は小首を傾げた。
「それなら『お師様』は秀綱様と被ってしまいますから駄目ですし……ああ、そうですね、これなんてどうでしょう?」
「嫌な予感がしますが、拝聴しましょう」
「『ご主人様』とお呼び――」
「『師兄』で良いです」
 むしろ師兄にしてくださいお願いします。


「はい、では師兄、これからよろしくお願いしますね」
 にこり、と一点の曇りもなく微笑む長恵。
 その顔は、とりあえず細かいことはどうでもいいや、と思えるくらいに魅力的な表情ではあった。



 

 そんなことを考えていると、斥候に出していた兵士の一人が馳せかえってきて報告した。
 その報告は――
「対岸に竜造寺軍が?」
「はッ。旗印から見るに、四天王の円城寺、木下の両名かと」
「いきなり四天王、それも二人一緒にか」
 偶然と呼ぶには出来すぎた状況だった。
「数は? 騎馬はどれほどいる?」
「おおよそ四百。ほぼ徒歩の兵で、騎馬は、四天王の馬廻り衆とおぼしき二十騎ほどです。あちらもすでに此方に気づいている様子で、一部の部隊が河岸に展開をはじめました」
「上流に回りこんで渡河することも出来そうだが、下手に警戒されるのも面倒だな。戦をする意思はないと伝えてこよう。丸目殿、早速で申し訳ないが、付き合っていただけますか?」
「それはもちろん構いませんが、師兄、そのように堅苦しい話し方でなくとも結構ですよ。もっと気軽に、親愛と恋情を込めておよび下さいな」
「何故に恋情をこめねばならんッ?!」
「そうそう、そんな感じで」
「ああ、もう、とにかく行くぞッ」
「承知仕りました」
 
  


◆◆



 肥前蓮池城。
 竜造寺家にとっての対大友戦における最前線とでも言うべき城の中で、俺は途方にくれていた。
 別に捕らえられたわけではない。聞けば大友家からの使者の来訪は予想されていたらしく、木下の方はともかく円城寺の方は友好的にこちらの話を聞いてくれた。
 もっとも、木下が思ったことをそのまま言葉にする人物だとするなら、円城寺の方はその逆、言葉の端々から、見た目はあまりあてにならない類の人物であるとの印象を強く受けた。なので、友好的に見える雰囲気を、そのまま鵜呑みにはしなかった。


 とはいえ、使者として赴いた以上、あちらの言い分は基本的にのまねばならない。そんなわけで、すすめられるままに蓮池城までやってきたわけだが――  
「がおー」
 まさか、熊の着ぐるみを着た円城寺に襲われるとは。
 いや、正確に言えば、今にも襲い掛かろうとしているように両の手を高く掲げて「がおー」と吼えているだけなのだが。ひどくのんびりした声で。


 とりあえず、俺はこの状況で向こうが求めているであろう台詞を言ってみることにした。
「……きゃー、たすけてー」
 超棒読みだった。
「あらあら、随分冷静ですこと。皆さん、大抵もっと驚いてくれるのですけど」
「それは多分、別の意味で驚いていたんだと思いますよ……」
 主に、四天王の一人ともあろうものが、ぬいぐるみめいた熊の着ぐるみを着てることに対して。
 これが本物の熊の生皮を剥いだものでも着ていれば、本気で驚いたかもしれんが、今の俺の感受性は某剣聖のせいで摩滅寸前。ついでに言えば、東の方には馬の着ぐるみ(めいた兜)を着けている武将もいるし、いまさら着ぐるみ程度で驚いたりはしないのである。


「ちぇー、ですわ」
「いや、まあいいですけどね。もしかして、それがしたくてそれがしを呼ばれたのですか、円城寺様?」
 なら、帰らせてもらうけど。
「いえいえ、きちんと本命の用件はございますわ。これはかたいお話の前の、一服の清涼剤のようなものとお考えくださいまし」
 それと、と円城寺は言葉続ける。
「円城寺様、では呼びにくいでしょう? 信胤で結構ですわよ。親しい方は『胤』と呼んでくれますので、そちらでもよろしいのですけど」
「さすがに初対面の方を愛称で呼ぶほど肝は太くありませんので、信胤様と呼ばせていただきましょう。それで、信胤様、本命の用件というのは?」


 マイペースな相手につっこんでも、こちらのペースが乱されるだけだと学んでいた俺は、矢継ぎ早に言葉を重ねていく。これも長恵のお陰と思えば、自然と感謝の念が――湧かんけどね。
「はい、えっと大友軍の使者と会うために、当家の軍師がこちらに向かっております。一両日中には佐賀城からお着きになるでしょう、そのことをお伝えしようとお呼びしたのですわ」
「軍師、というと、鍋島様でございますか?」
「はい、そのとおりです」
 微笑んで頷く信胤に、俺は小さく首を傾げる。自ら使者に会いに来る理由は推測できる。筑後方面からの侵攻に関して、何の手も打っていないとは考えにくいから、それを大友方に知られたくないのだろう。


 問題は佐賀城から、という点である。あるいは信胤がわざわざ口にしたということは、こちらを誘導するつもりなのかもしれないが、さて――
「どうなさいました、不思議そうなお顔ですわね?」
 そう訊ねてくる信胤に他意は無さそうにも見える。
 確認の意味でも、俺は一歩踏み込んでみることにした。
「佐賀城から、というのが少し意外でして。てっきり竜造寺家の主力は筑前との国境に集中しているものとばかり考えておりました」
「ああ、そういうことですの」
 そうですわね、とおとがいに手をあてて天井を見上げる信胤。


 しばし後、視線を俺に戻すと、信胤は再び口を開く。
「早馬が着いたのは、つい昨日のことなのですけれど、それによれば、大友軍は筑前の立花、高橋の謀叛を、まるであらかじめわかっていたかのように見事に制圧しつつあるとのこと。残すところは立花山城の立花鑑載殿ただ一人。大友軍はこれを幾重にも包囲しているのですが、肥前の方面にはほとんど警戒している様子が見えないとか。両家の謀叛を察していた大友家が、肥前の動きに勘付いていないはずはなく、これは明らかに誘いの隙、というのが軍師様のご意見でした」
「……なるほど」
「もっとも、軍師様は毛利軍を待たずに秋月軍が動いた時点で、皆に自重を申し渡していたのですけどね。暴走しそうな木下さんをわざわざこの城に配置したのも、その一環でしょう。そして、おそらく自分の考えどおりなら、筑前での戦の決着がつく前後に大友家から使者が来るだろうとも仰っておいででした」


 淡々と語る信胤が、何を言わんとしているのかは容易に察することができた。ほんのわずか、信胤が秘める力量の端に触れた気がした――のだが。
(しかし、着ぐるみを着たまんまなので、迫力に欠けることおびただしいのが難点だ)
 ここはもうちょっと緊張感を持ってしかるべき場面なのだが。いや、あるいはそれさえ計算尽くなのだろうか? だとしたら円城寺信胤おそるべし。いろんな意味で。


「……というわけで、雲居筑前様」
「――なんでしょうか?」
「お話も済みましたので、一献付き合っていただけませんか?」
「……はい?」
「木下さんだとすぐに酔いつぶれてしまって、心行くまで飲むことがなかなかできませんの。その点、雲居様はなかなか強そうな方とお見受けしましたわ」
「いや、それがしも酒はそれほど強くは……というか、一応、敵国の使者なのですがッ?」
「かたいことはいいっこなし、ですわ。ささ、わたくしが酌をいたしますので、ぐぐっとどうぞ。円城寺家の家訓は『駆けつけ三杯? ええい、この三倍は持って来いッ!』でしてよ」
「あらゆる意味で嫌な家訓だな、おいッ?! くわえて、それがしは遅れてきたわけではッ」
「あら、わたくし、使者の到着を今か今かと待ちわびていたんですのよ。十分に遅刻ですわ」
「ああ、もう意味がわからんッ?!」





◆◆◆ 





「……なるほど、それでその有様、というわけですか」
「……鍋島様には、まことにみっともない様をお見せしてしまい、申し訳…………ぅぇ」
 こみあげてくる吐き気を堪えきれず、思わず口元を押さえる俺。
 その対面に座るのは、鬼面で顔を隠した竜造寺家の大軍師 鍋島直茂その人である。


 第一印象としては、思ったより小柄だな、というところだった。
 というか、その程度しか思い浮かばないほど、今の俺はぐてんぐてんだった。言うまでもなく、明け方まで信胤に付き合わされたせいである。途中からは木下昌直も引っ張り込まれた(騒がしいので様子を見に来たところを信胤に捕まった)のだが、その昌直も俺と似たような有様である。
 ちなみにこの場にはいないが、吉継は呆れを通り越して頭痛を覚えていたし、長恵はどうして私も誘ってくれなかったのだと残念そうだった。誾に関しては、まあ言うまでもあるまい。


 いかに自国の将が誘ったとはいえ、使者がこの有様では直茂が「無礼者!」と咎めだてしてもおかしくなかったが、鬼面に隠れた表情は知らず、雰囲気に怒りは感じなかった。
 むしろ、俺を見据える視線に鋭さが増したようにも思えたほどだ。
 そして、それは間違いではなかったのだろう。次に直茂の口から出た言葉は、声音こそ穏やかだったが、そこには確かに刃の煌きがあったからだ。


「率直に言って、勝ち誇った尊大な使者から、芸の無い脅しじみた文句を聞かせられるものとばかり思っていましたが……その様子では大友宗麟からの使者、というわけではなさそうですね。それどころか、あえて無様を晒してこちらの器をはかろうとするとは、なかなかに手が込んだことです」
「…………あ、いや、さすがに信胤様の行動はまったく予想してませんでしたが」
「けれど、竜造寺をはかるにはちょうど良いと思った――違いますか?」
「――さて、何のことやらわかりかね…………ぉぇ」
 顔を真っ青にしたまま唸る俺を見て、直茂はやや気の毒そうに声をかけてきた。
「大丈夫ですか? 苦しいようならば典医を呼びますが」
「いえ、そこまでしたいただくほどのことでは……ぅ、ぐ、ただ、水をいっぱい貰えると有難いのですけど……」
「お安い御用です。どうやら、この先の話は貴殿が落ち着かれてからの方が良さそうですね。さして急を要する話でもなさそうですし」
「はい……お聞きしたいことと、お話したいことが、一つずつあるだけですので」
「ほう……詳しいことは後刻伺うとして、それはどのようなお話なのでしょうか?」
 直茂の問いに、俺は出来るかぎり簡潔に、かつ要点を押さえてこう返した。



「……日の本の外に広がる世界と、南蛮神教の役割について」





[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第五章 剣聖(五)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:9e91782e
Date: 2010/12/03 19:37

 肥前国蓮池城。
 信胤と昌直の四天王二人と共に城を訪れた俺は、その翌日の夕刻に城を出た。
 竜造寺家の本城である佐賀城に赴くため――ではない。用件は済んだので、さっさと筑前に帰るためである。
 吉継は筑前に帰ることには驚かなかったが、ただ到着した翌日に城を出るとは思っていなかったらしく、頭巾の中から発される声には少なからぬ戸惑いが感じられた。


「用件は済んだとのことでしたが、この短時間で竜造寺を説き伏せることが出来たのですか?」
 その問いに、俺はあっさりと首を横に振る。
「別に説き伏せてはいないぞ。多分、これから筑前を攻めることはないと思うが、それはあくまで筑前の戦況を睨んだ上での竜造寺家の判断だ。俺は別にそのことに口出ししに来たわけじゃないからな」
「……では、わざわざ道雪様に請うてまで肥前にいらしたのは何のためなんですか?」
 その問いに、俺は肩をすくめて応じた。
「内緒」
「……お義父様」
 明らかにむすっとした声が返ってきたので、俺はからからと笑った。
「はっきりいえるのは、竜造寺との和議とか同盟とか、そういうことではないってことだけだな」
 そもそも、一介の客将が一国の外交に口を差し挟めるはずもない。道雪殿は加判衆筆頭ではあるが、大友家の外交を一存で決められる権限など持っていないのである。


 それに、だ。
 仮に宗麟の同意を得て和議なり同盟なりを求めても、おそらく竜造寺は応じないだろう。名目はどうあれ、大友家と竜造寺家では根本となる国力が違う。筑前を奪還した宗麟は、いずれ必ず肥前に圧力を加える――そのことを竜造寺家は承知しているだろうから。
 元々、竜造寺家が大友家と袂を分かったのは、その圧力に抗するためである。筑前の戦線で機を失ったくらいで、大友家の下風に立つことを肯うはずがなかった。


 もし大友家に余力があり、肥前侵攻が可能であれば、時間稼ぎの意味でも直茂は話くらいは聞いてくれたかもしれないが、二度の叛乱――筑後のそれもいれれば、三度の叛乱の後の大友家にそんな余力がないことは子供でもわかる。
 もっと言えば、現状でも竜造寺家が総力をあげて筑前に攻め込んでくれば、大友家は苦戦を免れないのである。
 直茂の話によれば、立花山城を囲む大友軍はかなり大胆に肥前方面を空けているようだが、これは精一杯の虚勢といっても良いだろう――無論、そんなことを口にはしなかったが。




 俺と吉継がそんな会話を交わしていると、それまで黙っていた長恵が参加してきた。
「ですが師兄。鍋島直茂といえば、竜造寺家にあって随一とも言われる切れ者。それが素直に大友の思惑に乗せられるとは、ちょっと思えないんですけど?」
「乗せられた、というわけではないな。多分、というかほぼ確実に見抜いているだろ。今の大友に余力がないなんてことは、ちょっと情報を集めれば誰にでもわかるしな」
 では、何故竜造寺が動かないと思うのか。長恵がそう問うてくると思った俺は、問われる前に答えを口にする。


「まずいのは、あくまで竜造寺家が『総力を挙げて』攻めこんできた場合だ。筑後に蒲池鑑盛殿がでんと構えている以上、総力を挙げて筑前に攻め込むのは至難の業だろう。それに平戸の松浦隆信や日野江の有馬義貞といった肥前国内の反竜造寺勢力も健在という話だしな。そういった四方の情勢に対処する兵を残した上での攻勢であれば、今の大友軍でも凌ぐことくらいは出来る」
 ちなみに松浦や有馬の情報は、酒に酔った木下昌直から聞きだした話である。信胤はころころ笑いつつ、肝心要の情報は何も口にしなかった。その一方で俺が昌直から情報を聞き出すのを特に邪魔立てする様子もなかったから、正直、何を考えているやらよくわからん人だった、というのが信胤への主な印象である。


 そんな俺の感慨をよそに、長恵が感心したように頷いている。
「――なるほど。恐るべきは大友家の底力ですか。国内が散々乱されているにも関わらず、なお竜造寺家が全軍をあげて攻め込まねば、筑前を取れないとは」
 長恵の言うとおりだった。
 北九州全域に影響力を持つ大友家と、肥前一国すら掌握しきれていない竜造寺家の、ゆるぎない優劣はここにきてなお生きているのである。


 もっとも。
 逆に言えば、筑前の戦況次第では、それだけの差があってなお勝利しえると直茂が考えるくらいに、両家の差は縮まっているとも言える。
 毛利家や謀反人の存在があったにせよ、両家の勢力を考えれば、これがどれだけまずい状況なのかは誰の目にも明らか――と言いたいのだが。


 俺の視線が、少し離れたところにいる誾に向けられる。
 俺の意を察した吉継が小さく嘆息し、長恵が小首を傾げる。宗麟を直接に知らない長恵に、大友家の現状を正しく把握するのは難しいだろうから、これは仕方ない。
 まあ長恵がこのまま俺の近くに居続けるなら、近いうちに嫌でも知ることになるだろう。



 それよりも、と俺は頭を切り替える。
 今のうちに二人に言っておかねばならないことがあった。
 南蛮神教――ことに吉継の身の安全について。





◆◆





 俺の話を聞き終えた吉継は、低く静かな声で確認をとる。
「――それはつまり、南蛮神教が私目当てで再び動く、ということですか、お義父様?」
「正確には、その可能性がある、というあたりか」
 俺が答えると、吉継は押し黙ってしまった。吉継にとっては、過去の悪夢を指摘されるようなものだから、落ち着いてはいられないだろう。
 俺としても確たる証拠もなしにこんなことを言いたくはないのだが、俺の予測が当たっていた場合、吉継が危難に遭う可能性がかなり高いと思えたのである。


「……何故、今この時に、そう思われたのですか? 石宗様の元に引き取られて数年、あれらが私目当てで動いたことはなかったというのに」
「だからこそ、というべきかな」
「だからこそ?」
 吉継は怪訝そうな表情を見せるが、これは一言では説明しづらいことだった。
 なので、俺は順を追って説明することにする。


「南蛮神教の役割――俺は宗教に関して門外漢だから、その教えが良いとか悪いとか言うつもりはない。何を信じるかはその人の自由だけれど、それはあくまで個人に限ってのこと。宗教がひとたび権力と結びつくと、ろくなことがないのは事実として知っている」
 その害悪は、時として一つの時代すら赤黒く塗りつぶす。
 無論、その罪は宗教になく、それを利用する人間にあるわけだが。
 そんなことを考えつつ、俺は話を続ける。


「南蛮神教は異国の教え。当然、それを奉じる国が大陸にはある。大海をものともせずに領土を拡げるその国にとって、布教は侵略に先立つ教化でもあるわけだ――もちろん、すべての宣教師がその意図を持っているわけではないだろうがな」
 真摯に神の教えを広めたいと願う人がいることは間違いない。むしろ、大半はそういう人たちなのだろうと思う。
 だが、彼らの思いがどうあれ、広められた教えが侵略と、その後の統治を容易にするという一面は否定しえない事実である。少なくとも、俺はそう考えていた。



 吉継が悪魔と罵られ、大友家を放逐されて、紆余曲折の末、再び石宗殿の元に引き取られた。
 あえて口にするつもりはないが、それは石宗殿にとって、南蛮神教側に弱みを握られたに等しいことだったのではないだろうか。
 なにせ相手は主君と直接つながっているのだ。宗麟は吉継に同情的だったというが、悪魔という言葉で煽り立てれば、再び吉継の身命に手を伸ばすことは十分に可能だったことだろう。
 石宗殿にしてみれば、南蛮神教のやることに手や口を出せば、いつ向こうがその行動に出るかわからないという恐れがあったはずだ。必然的に、南蛮神教を掣肘する行動に限界がうまれる。




 連中が吉継に手を出さなかった数年は、南蛮神教が石宗殿の掣肘を受けずに自由に(無論、まったく傍観していたわけではないにせよ)布教を進められた数年でもある。
 その結果、今の大友領内でどれだけ教徒が増えたかはしらないが、その数、一万や二万は下るまい。
 南蛮神教の勢力を支えるのは、当主である宗麟だけではないのだ。幾万とも幾十万とも知れぬ数多の信者を背景としているからこそ、大友家譜代の重臣たちすら南蛮神教を憚ってきたのである。




 大友家の内外に強い影響力を有するようになった南蛮神教。しかし、あのカブラエルという布教長は決して愚かではない。それは、一度、石宗殿の屋敷で向かい合った俺の確信であった。
 おそらく、カブラエルはあまりに過ぎた力は、反発を招くことを承知していたのだろう。他の家臣たちが南蛮神教を憚る程度ならば問題ないが、さらに進んで脅威を感じ、ついには危険だから排除しよう、などと考える者が出てくれば、大友家そのものが危うくなってしまう。
 大友家の当主と領民に強い影響力を持つ南蛮神教だからこそ、大友家そのものが揺らぐことは望まない。その隙に他国の侵攻を許せば、これまでの苦労がすべて水泡に帰してしまうからである。
 それを承知していたカブラエルは、巧妙に反対派との間で権力の綱引きを行っていたのではないか。だからこそ、ここ数年の大友家は、内実はどうあれ、表立った混乱は起きていなかったに違いない。





 しかし。
 筑後の国人衆の叛乱にはじまる一連の動乱は、宗麟の南蛮神教への傾倒を危惧する者たちの蜂起であり、それは大友家の屋台骨すら軋ませるほどのものだった。
 もし、カブラエルが大友家の倒壊を望んでいないのならば、重臣たちのうらみつらみを逸らすために、宗麟に何らかの働きかけをしたはずである。しかし、今回はカブラエルは動く様子を見せていない。石宗殿の法要ではちょっかいを出してきたが、あれは石宗殿の死に乗じて布教を更に押し進めるためのもので、実際、それ以降はまるで動きを見せなかった。


 それどころか、豊前の乱後の発言を聞けば、更なる騒乱を望んでいる節さえ見て取れる。
 カブラエルが現在の南蛮神教、および大友家を取り巻く状況を理解していないとは思えない。理解した上で、あえてその動きを止めるどころか、加速させているのだとしたら、その理由として考えられるのは――  




「南蛮神教は、もう大友家の庇護を必要としていない、と……?」
 それが意味することに気づいたのか、吉継の声がわずかな震えを帯びる。
 対して、俺は頷くことでそれに応えた。
「権力者の庇護は、つまるところ武力と、それを行使する正当性だ。その二つを得られる目処が立てば、カブラエルたちは別に大友家がどうなろうと知ったことではないだろう」
 無論、連中は大友家に恩義を感じて粛々と出て行ったりはしないだろう。可能なかぎりの財と権力を毟り取ってから去るに違いなく、当然、家中の反南蛮勢力は抵抗する。
 であれば、あらかじめそんな家中の力を殺いでおくに越したことはない。今回の一連の騒乱に連中が利を見ているのだとしたら、その一点しか考えられないのである。




 そして、俺の考えが正鵠を射ていた場合、問題は二つ。
 ひとつ、南蛮神教が手にした武力とは何か。
 ひとつ、大友家を必要としない正当性とは何か。



 前者は単純に信者の数かと思われる。着の身着のままの農民であっても、彼らが農具を手に取って立ち上がれば、それは立派な軍勢となる。中世、イスラム教世界を震撼させた十字軍とは比べるべくもないにせよ、国の一つや二つ征服することは不可能ではあるまい。
 あるいは、考えたくないが、今の宗麟であれば、宣教師たちが異国の軍勢を引き入れれば受け入れてしまうかもしれない。これが南蛮神教の武力である可能性もあった。
 ――まあ、さすがに宗麟でも異国の軍勢を、家臣に諮らずに受け入れたりすることはないだろうとは思うのだが。それに、仮に宗麟が肯ったとしても、普段は南蛮勢力を憚っている家臣たちも、こればかりは黙って承服することはないだろうから、現時点でそこまで考える必要はないように思われる。
 ただ、気になる点がないではない。そして、それは次の正当性にも絡んでくるのだが……




 南蛮神教が獲得する大友家に拠らない正当性とは何か。それを考えるとき、俺は一つの歴史的事実を想起せざるを得なかった。
 俺の知る歴史において、晩年の大友宗麟がキリスト教の理想郷を夢見て日向の地に建国したという宗教国家 『無鹿(ムジカ)』である。
 その正否や目的はさておいて、この世界の宗麟であれば、耳元で南蛮神教の、南蛮神教による、南蛮神教のための国家をつくりなさい、とカブラエルあたりに囁かれれば乗り気になるのではないか――そんな気がしてならないのだ。



 無論、そんな真似をすれば大友家は間違いなく分裂する。それどころか、その新たな宗教国家は九国中を敵にまわすことになるだろう。
 これまで南蛮神教が行ってきた布教と、それに伴う異教の排斥――寺社仏閣の破壊などは、あくまで大友家の領内に限定されていた。平戸の松浦隆信なども、領内に南蛮神教を広めるに際し、強硬手段を用いたとも聞く。両家が行った破壊の規模は大きく異なるが、いずれの破壊も自国内に限定されていたという一点で共通している。だからこそ、その影響は国内に留まっていたのである。


 しかし、南蛮神教の布教、異教排斥を名分とした『他領への』侵攻は、すなわち南蛮神教を奉じない大名、領主すべてに対しての宣戦布告に等しい。そして、九国はおろか日の本全土を見渡しても、南蛮神教のみを奉じている地域など存在しない。
 すなわち、無鹿建国は、日の本全土を敵にまわすことに等しいのである。



 この暴挙を黙って見過ごす者などいるはずはない。日向一国のみならず、九国全土の大名が南蛮神教――ひいてはそれを奉じる大友家を追討するための兵を挙げる。その包囲網には四国、中国の大名も間違いなく加わるだろうし、最悪、京の将軍家さえ動くかもしれない。
 そして、その先頭に立つのはおそらく島津家。現在でも南蛮神教を敵視している島津が、宿願の地(日向は古くは島津領)に異教の国家が建てられ、あまつさえ他の信仰を押し潰そうとする様を座視しているとは到底考えられない。


 島津は薩摩一国を制圧したばかり、周辺にはいまだ敵も多いだろうが、その敵対勢力とて、南蛮神教に国土を蹂躙されるよりは島津と手を結ぶ方を選ぶに決まっていた。
 形こそ違え、これはある意味「耳川の戦い」の再現。
 現状の島津家では余力を残して事にあたるほどの国力はないだろうから、おそらく全力出撃になると思われる。他国と異なり、薩摩は日の本の最南端。その後背を衝ける勢力は国内には存在しないから、動員自体は可能であろう。隣国の肥後はつい先日、手痛く叩いたばかりなので尚更だった。




 ここで、先に挙げた『気になる点』が絡んでくる。
 大友家と南蛮神教を討つために出撃する島津軍
 空になる薩摩。
 『国内』に、その背後を衝ける勢力は存在しない。



 ――では『国外』ならば?





◆◆






 ――筑後川の流れに目を向けながら、長々と語ってきた俺は、ここでようやく一息ついた。
 正直に言って、考えすぎなのではないか、と自分でも思う。そもそも仮定が多すぎるし、南蛮側が船団を派遣しているという確証などどこにもない。くわえて、元の時代の知識さえ流用しているので(さすがにこれは言わなかったが)俺以外の人にとっては推論と呼ぶにも値しない暴論、妄想の類に聞こえてもおかしくはない。というか、もし俺が知識なしに他人から聞かされたら、そう思うだろう。少なくとも全面的に信用しようとは思わなかったに違いない。
 ただ、一つの可能性として――最悪の未来の一つとして、そんな状況があり得るということは、幾度確認してもし過ぎるということはない。俺はそう考えていた。




 ここで、俺はようやく本題に立ち返る。
「南蛮神教が大友家そのものから離れようとしているなら、もう道雪様を憚る必要もない。連中が吉継を教会の敵としてみているのか、それともそれ以外の理由があるのかはわからないが、いずれにしても吉継の身柄を狙ってくる可能性はあるわけだ。だから、これからはなるべく一人では行動しないようにしてくれ。それで、出来れば丸目殿に吉継の護衛をお願いしたい……って、ん?」
 そこまで言って、俺はようやく吉継たちの反応が薄いことに気づいて、視線を二人に戻す。
 すると――



 そこにはいつもどおりの頭巾姿の吉継と、ぽかんと口を開けた長恵がいた。雰囲気から察するに、おそらく吉継も頭巾の中で長恵と同じ表情をしているものと思われる。
「どうした、二人とも?」
「…………どうした、と言われましても……」
「…………師兄の頭は、どうなっているんですか……?」
 いぶかしんで訊ねる俺に対し、二人からは何とも言いがたい言葉が返ってくる。
 吉継はわからないが、長恵の表情はどこか薄ら寒そうですらあった。




 しばしの沈黙の後、どこかおずおずとした感じで吉継が口を開く。
「……お義父様の言ったことが真実かどうかはわかりません。でも確かにそういう可能性もあるのだということは、理解できます。理解できないのは……」
 吉継は言いよどむように言葉を止めたが、訊ねたいという衝動に耐えられなくなったのだろうか、すぐに言葉を続けた。
「理解できないのは、今、この場所で、この時点で、そこに思い至ってしまうお義父様のこと……お義父様が筑前での戦絵図を描いたときにも思いましたが、一体どうやったら、ここまで精緻にこれから先に起こるであろうことを推し量れるのですか……?」
 吉継の疑問は、そのまま長恵の疑問でもあったらしい。長恵は吉継の言葉にこくこくと頷きつつ、返答を求めるようにじっと俺を見据えている。無論、吉継の視線も、頭巾の中からまっすぐに俺に向けられていた。



 それに対し、俺は小さく肩をすくめてみせる。
「どこも精緻なんかではないだろう。証拠もなく、こうなるかもしれない、ああなるかもしれないって言っているだけのことだぞ?」
「でも、お義父様はそうなると思っておいでなのでしょう? だって、そうでなければ、私の前で南蛮神教に関することを口にしたりはしないはずです、お義父様は」
「……む……いや、やはり愛する娘の安全には万全の注意を払いたいと思うわけで、どれだけ可能性が低いとはいえ、出来る限りの手を打つべきと思うわけだ」
「万が一に備えてのことで、別に確信なんて持っていない、ということですか?」
「うむ、さようでござる」


 そういって何度も頷く俺の表情に何を見たのか、吉継の口から小さなため息がこぼれた。
「……では、そういうことにしておきましょうか」
「……若干気になる言い方だけど、まあ納得してもらえたなら、よしとしよ――」
「まったくもって納得はしてませんが、訊いたところで、どうせはぐらかそうとするのでしょう? なら無駄な時を費やさず、いずれ話して下さる時を待つのが双方にとって最良だと考えただけです」


 吉継の言葉に、俺は一言もなく頭を下げるしかなかった。うーむ、この思慮深さでまだ十五、六か。我が娘は長ずればどれだけの大物になることか、楽しみなことである。
「……お義父様、何を笑ってるんですか?」
「いや、娘の将来に思いを馳せていたら、自然と笑みが」
「……今の話から、どうして私の将来に話が繋がるんです? 一応つけくわえておきますが、半分の半分くらいは秘密主義の誰かさんへのあてつけですよ?」
「そのひねくれ具合も含めて可愛いなと思うわけだ」
「……めずらしく真剣な表情を見られたと思ったら、もういつものお義父様に戻ってるし……」
「む、何か言ったか?」
「いいえ、なにも」
 何やらぶつぶつ呟いている吉継に問いかけたら、そっけない返答が戻ってきた。 
 どうも機嫌を損じてしまったようだが、しかしまさか今の話の大部分が別の歴史を元にしているなんて言えないしなあ……冗談を言うな、と怒られる程度なら良い方で、下手したら狂ったと思われかねん。




 俺がそんなことを考え、さてどうやって機嫌を直してもらおうか、と考えていると、すぐ近くから何やら楽しげな声が聞こえてきた。
「あは、師兄と姫様(ひいさま)は仲が良いのですね」
「ひ、姫さ――?!」
 長恵の思わぬ呼びかけに、吉継がめずらしく狼狽したような声をあげる。
「はい、師兄のご息女ということですから、そうお呼びしたんですけど、まずかったです?」
「い、いえ、まずくはない、ですが。その呼び方をされたのは、久しぶりだったもので……」
 わずかに吉継の声が低くなる。おそらく、そう呼ばれていたのは吉継の両親が健在だった頃なのだろう。
 長恵は吉継の生い立ちを知らないが、それでも吉継の声音に感じるところがあったのだろう。あえてそれ以上、言葉を続けようとはしなかった。



 しばしの間、あたりに沈黙が満ちる。
 吹きすさぶ風が、筑後川の河岸の草をそよがせる。その忙しない音に耳朶をくすぐらせながら、俺たちは期せずして、同時に馬の足を速めるのだった。


 


◆◆◆





 蓮池城内。
 城の一室から、去り行く大友家の一行を見下ろしながら、円城寺信胤が口を開く。
「軍師殿の目には、大友家の方々はどのように映りましたの? わたくしは、随分と愉快な方々とお見受けしましたが」
「たしかに、気さくな人たちではありましたね。しかし、いずれも尋常の人物ではない。後々のことを考えるなら、あるいはここで討っておいた方が、竜造寺にとっては良かったかもしれません」
 いつもどおり鬼面に顔を隠しながら、鍋島直茂は言う。その口調は間違っても冗談といえるものではなかった。


 だが、それを聞いた信胤は表情一つかえず、まるで今日の天気の話でもしているかのように気軽に応じる。
「あの方々が筑後川を渡るまででしたら、いかような手も打てますけれど、どうなさいますの?」
「やめておきましょう」
 鬼面に隠れていない直茂の口元が、苦笑を刻む。
「正式の使節ではないとはいえ、大友家の将士を謀殺などすれば、竜造寺の威信が地に落ちてしまいます。いずれ戦場でまみえる日を楽しみにしておくべきでしょうね」
 直茂の言葉に、信胤は小さく首を傾げた。
「あら、てっきり和議の打診かと思っていたのですけど、大友家の申し出を断られたんですの? それとも用件が違ったとか?」
「雲居という御仁の口からは、和議のわの字も出ませんでした。そもそも雲居殿が肥前に来たことも、大友宗麟殿はあずかり知らぬとか。加判衆筆頭の戸次殿の許可を得て来たと言っておいででしたよ」


 それを聞いた信胤は、おとがいに手をあて、むむ、と考えこむ。
「あの方はどれだけ飲んでも決して用件を口にはされませんでしたし、よほどに重要な用件のようですわね」
「胤殿、確か以前にも一度申しましたが、今一度、苦言を申します。仮にも他家の使いの方を酔い潰すのはやめていただけませんか?」
 直茂の厳しい言葉に、信胤はしゅんとうなだれた。
「す、すみません、家中の方はわたくしとちっとも飲んでくれないので、ついつい他家の方をお誘いしてしまって……」
「……まあ、それは」
 直茂は再び苦笑する。
 円城寺の弓姫が、その実、円城寺の蛇姫(うわばみ的な意味で)であることは、竜造寺の家中ではつとに有名だったりする。
 この場にはいない木下昌直(途中参加)が、いまだ寝所でうなされているあたりからも蛇姫のいかに恐るべきかは瞭然としていよう。



「――ともあれ、今回に関して言えば戦機は去ったと見るべきですね。筑前との国境に兵を出している兄者と四天王を呼び戻し、次の機を待つとしましょう」
「成松さんたちはともかく、殿がおとなしく言うことをきいてくださいますかしら? 『今回こそ大友に一泡吹かせてくれるッ!』」
 そう言って、信胤は高々と両手をあげる。いわゆる「がおー」の格好である。
「っていって、意気揚々と城を出られましたから、一矢も放たぬうちに退却して、なんて伝えたらぷんぷん怒っちゃうかもしれませんよ?」
「確かに兄者は一度振り上げた拳を、黙って下ろせる方ではありませんね。ならば、拳の落とし所を用意するのが軍師の務めというものです。幸いというべきか、そのあてはありますし、今回に関しては後背もあまり気にせずに済みます。胤殿をはじめとした四天王の皆々には、兄者にお話しした後に改めて伝えますので、今しばらくお待ちを」
 直茂の言葉に、信胤はにこりと笑う。
「事の軽重はわきまえておりますわ。ご心配なく。では、わたくしは木下さんに秘伝の酔い覚ましの薬でも持っていってさしあげましょう。一口飲むだけであら不思議、どんな二日酔いも一瞬で治る優れものですの。あいにくわたくしは一度もお世話になったことがないんですが、飲んだ方はみな泣いて喜ぶ一品ですわ」



 ……しばし後。蓮池城中に何やら騒々しい男性の絶叫が響き渡った。
 しかし、城中の将兵は誰一人として、その詳細を知ろうとはしなかったそうである。









 そしてもう一つ、城内の人々が知らなかったことがある。


 城内の一室で政務を執っていた直茂は、件の絶叫を耳にしてかすかに苦笑をもらした。
 だが、その時、直茂の耳は、ほんのかすかな別種の音を捉えていた。
 鬼面の下で訝しげな表情を浮かべた直茂は周囲を見渡し、怪訝そうに呟いた。
「鈴……?」
 だが、その言葉を証明するものは部屋のどこにも見当たらず。
 肥前の才人は、小さく首をかしげた後、何事もなかったかのように再び政務へと立ち戻っていったのである…… 






[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 幕間
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:9e91782e
Date: 2010/12/06 23:11

 武士の道とは、すなわち弓馬の道。
 戦国の世を生き抜く武士にとって、弓と馬の扱いは欠かせぬものといってよい。
 しかし、俺に関して言えば、馬の方は段蔵の猛特訓のお陰で不自由はなくなったものの、弓に関してはまったくといっていいほど手付かずだった。
 理由は幾つかあるが、一番の理由は、他にやることが多すぎて、弓にまで手がまわらなかったのである。それに馬と違って、早急に身につけねばならない理由もなかったのだ。


 これまでは俺自身、特にそのことを気にしていなかったし、周囲から問題とされることもなかったのだが、おれが筑前守に補任されてから、多少風向きが変わってきてしまった。
 某筆頭重臣曰く「殿上人の端に連なる者が、弓馬の道すら踏んでいないなどと知れたら、我が上杉の恥だろうッ」とのことで、これは確かに説得力がある言い分だと俺にも思えた。
 それゆえ暇を見つけて練習しようと思ったのだが、そもそもその暇というのが一向に見つからない。
 武田家との締盟に備え、それこそ東奔西走しているわけだし、それ以外にも通常の政務を処理しなければならないのだ。率直に言って、弓なんぞ引いている暇があったら、もうちょっと睡眠時間を増やしたいくらいであった。




 しかし、そんな俺でも例外的に時間ができる場合がある。
 それは俺が武田家に赴いた時だ。この時ばかりは外交上の務めを終えれば、あとは特にすることもなく、本を読んだり、温泉に入ったりとゆっくり出来るのである。まあそれだって、ほんのわずかな時間でしかないのだが。
 ともあれ、この時間を利用して、少しでも弓に習熟できないものか。とはいえ、武田と上杉の盟約はいまだ途上であり、上杉の重臣(一応いっておくと俺のことである)が弓も扱えないと知られたら、小さからざる影響が出てしまう。率直に言えば、上杉家を侮る者が確実に出てくるに違いない。


 武田家の家臣の目に触れることなく、気兼ねなく練習でき、かつ懇切丁寧に教えてくれる師匠がいる場所はないものだろうか――って、そんなところあるわけないか。
 と、我ながら間抜けなことを考えていたら、思いがけない声がかかった。



◆◆◆



 この時代、弓は戦のための術であって、道を云々するものではない。
 だがその一方で、古来から弓矢には霊妙な力があると信じられており、神事や祭事などで弓が用いられることも多い。
 それゆえ、弓道ならぬ弓術であっても、そのうちには確固とした道が存在した。
 つまり何が言いたいかというと、弓を引く虎綱の姿は、思わず見とれてしまうほど美しいということである。


「……あ、あの、天――ではない、颯馬さん。そのように凝視されると……」
 あまりに俺が強い視線を向けていたせいか、弓道着姿の虎綱が、困惑したように言った。
 弓を持っていない方の手で身体を隠すように身を縮める姿は、つい先刻まで堂々と射をおこなっていた人物とは思えない。
「……と、すみません、あんまり見事だったもので、ついじっと見入ってしまいました」
「そ、そうですか? そう言ってもらえると心強いです。射にはそれなりに自信がありましたから」
 そういって、ほっと息を吐く虎綱。以前の虎綱だったら、もっと自分を卑下するような物言いをしたかもしれないが、今の虎綱はそうではない。それはもちろん良いことだと思うのだが――


「『颯馬さん』?」
 俺は不思議に思って問いかける。これまでは普通に「天城殿」だったのだが、なんで急に呼び方を変えたのだろうか。
「あ、や、やっぱり不躾でしたでしょうか……すみません」
「いえ、別に不躾というわけではありませんし、構わないのですが、なんでまた急に、と思いまして」
「あの、それは、御館様が……」
 ……なんとなくその言葉だけでわかったような気もするが、ここはあえて黙っておこう。
「武田と上杉の締盟は間もなく成ります。ですが、まだ両家の臣は戸惑いを覚え、敵意を消せない者も少なくないでしょう。そういう中で、私とあ――颯馬さんのように、交流を持つ臣がいることは、両家の家臣にとって良い影響を及ぼすとのことで……」
「まずは呼び方を改め、周囲にはっきりと親交を知らせるように――というあたりですか?」
「は、はい。あの、もちろん天城殿がお嫌であれば、無理にとは……」
 恐縮しきりの様子の虎綱に、俺はあっさり首を左右に振る。


「いえ、今いったとおり、別に構わないですよ。で、その代わりというわけでもないんですが、ちょっとお訊ねします」
「は、はい、なんでしょうか?」
「いきなり春日殿のお屋敷にお招きいただき、あまつさえ弓の修練までしていただいているのも、やはり信玄様の?」
 それは問いかけというより、ほとんど確認だった。
 案の定、虎綱はこくりと頷いている。
 まあ明らかに都合が良すぎる流れだったからそうだろうとは思ったのだが、なんでまた信玄は知っていたんだろう。弓のことなんて口にしたことはなかったはずだが。


 その疑問には虎綱が解答をくれた。
「なんでも幸村さんから話があったとか」
「真田殿……?」
 なんで幸村が――って、まさか兼続経由か? 以前、俺と共に兼続が甲斐に来た折、二人が不思議なくらい意気投合していたのは知っていたが、そんなやり取りまでするようになってたのか。
「……まあ、別にいいか。お陰で武田屈指の弓の使い手に教えを請えるわけだし」
 俺の言葉に、虎綱は困ったように頬をかきつつ微笑む。そんな姿もまた新鮮だった。






 まあ要するに虎綱の屋敷にある弓練場で稽古させてもらっているのです。
 虎綱は武田家屈指の弓の腕、と言ったが、随一と言い換えても良いかもしれない。そのくらいに虎綱の射は流麗であり、放った矢はそのことごとくが的の中央を射抜いていた。
 で、一方の俺なのだが。
 矢を番え、弓を引き、放てばまっすぐに矢が的に向かって飛んでいく、などと思っていたわけではないのだが、実際、考えていた以上に難しかった。というか、普通に弓を引くだけで結構体力を消耗する。
 それも当然で、弓は戦において敵を射殺すためのものだからして、軽々とひけるようなやわな造りでは物の役に立たないのだ。
 俺でも引くのに苦労するような強弓を、ほっそい身体つきの虎綱がよくも軽々と、しかも連続で引けるものだと思う。
「童の頃から、何百、何千と繰り返してきた動作ですから、慣れもしますよ。それに、私のはこれでも軽い方ですよ。真に強弓と呼ばれるものの使い手であれば、甲冑ごと胴を射抜くことも出来るんです」
 俺の賛嘆の言葉にくすぐったそうな顔をしつつ、虎綱はそう教えてくれた。


 なるほどと頷いた後、的を見据え、虎綱から教わった基本を踏襲しつつ矢を射放つ。
 虎綱の矢が宙空を切り裂く征矢ならば、俺のは何と例えるべきか。
 的のはるか手前で力尽きて地面に落ちていく矢を見るに、俺が弓術を身につけたと胸を晴れるようになるまでの道程は、千里の彼方にあるようだった。




◆◆◆



   
 寒気が足元から忍び寄ってくる季節に食すほうとうは至高である。まして作ったのが美少女であるならなおのこと。
「び、美しょ――?! え、あ、お、おからかいにならないで、ください……」
 そう言って、顔を真っ赤にして俯くのは、かつて一国の守護職の座についていた人物――冨樫晴貞だった。
 現在では虎綱の屋敷に住んでいる、というか屋敷の内向きのことをほとんど取り仕切っているらしく、春日家の家臣たちとの関係も良好だとか。よかったよかった。まあ、上洛の最中であってさえ親衛隊(俺命名)が出来ていたくらいだし、なにより虎綱が傍にいるのだから、家中でのけ者にされているのでは、なんて心配はしていなかったけれども。


「からかっていると思われたなら残念です。ほうとうが美味いのも、晴貞さ――晴貞殿がお美しいと思っているのも事実だというのに」
「うぅぅ」
 何やら唸りつつ、やたら鍋をかきまわしている晴貞の姿が微笑ましい。ただ煮崩れが心配なので、あまりかきまわさないでほしかったりもするのだが。


 そんなことを考えていると、不意に腕が軋むように痛んで、思わず顔をしかめてしまう。
 普段使い慣れていない筋肉を酷使した影響だろうが、これは明日あたり、壮絶な筋肉痛になりそうな予感がひしひしとするなあ。
 しかも、あれだけ弓を引いたのに、ほとんど上達らしい上達がみられなかったのだが口惜しい。まあ、一日やそこらで目に見えるだけの成果を出せると思っていたわけではないにせよ、自分なりの手ごたえが欲しかったのも事実なのである。
 しかし、虎綱師曰く「千里の道も一歩から」とのこと。やはり修練を積み重ねる以外に上達への道はないのだろう。


 そんなことを考えながら、俺は黙々とほうとうを食べ続ける。
 虎綱と晴貞は自分から会話を広げる性格ではなく、俺はといえば食べるのに忙しく――というか、本気で美味いので、しゃべっている時間がもったいなかった――結果として、室内は物を食する音だけが響くことになってしまうのである。
 とはいえ、別に気詰まりな沈黙というわけではなかった。
 むしろ晴貞にしても虎綱にしても、俺の食べっぷりを見ながら時折笑みを零しているくらいである。
「やっぱり、男の方がいると鍋の減りが段違いですね」
「お見事です。私と晴貞さんだけでしたら、三日は保つ量が、一食で綺麗になくなりました」
 とは晴貞と虎綱の、俺の食いっぷりに対する感想である。
 実際、鍋の中身は七割方、俺の胃に入ったような気がする。一応言っておくが、二人にかまわず貪り食ったわけではない。きちんと良く噛んで、味わって食べ、椀が空になると晴貞がはかったようによそってくれて、またそれを食べ、と繰り返しただけである。


「俺としては、むしろ二人が小食すぎるんじゃないかと心配なくらいなんだが」
 特に虎綱は、俺に付き合って厳しい弓の修練をした後だというのに、よくあれだけの量で満足できるものだ。
 俺がそう言うと、虎綱は小さく首を傾げる。
「特に食を控えているつもりはないのですが……そこはやはり、殿方と女子の差なんでしょうね」
「そうかな? 弥太郎は俺に負けないくらい良く食べるけど」
 あと、段蔵も弥太郎ほどではないにせよ、あの小柄な身体のどこに入るのかと思うくらい、結構食べるのである。


 俺がそう言うと、虎綱は思わず、という感じに苦笑をもらした。
「育ち盛りのお二人と比べられると、少し困ってしまいます」
「む、そういうものですか。だが、とすると、二人と同年代の晴貞殿はもっと食べるべきですね」
「そうですね、晴貞さんはこれからが伸び盛りなのですから、確かにもうすこし食事の量を増やすべきだと私も思います」
「……え、え?」
 いきなり話の矛先を向けられ、晴貞は戸惑ったようにきょろきょろと俺と虎綱を向後に見やっている。
 給仕をしていたことを差し引いても(というか今きづいたが、加賀守護に給仕をさせてたのか俺は)晴貞は明らかに小食すぎた。それが気になっていたのだが、どうやら虎綱も気にしていたらしい。


 晴貞は困惑気味に口を開いた。
「あ、あの、わたしは、食事を用意している時に、味見を兼ねて少しお腹にいれてますし、それにわたしはあまり身体を動かすのが得意ではないので、食べすぎちゃうと、その……あ、でも、これでも昔よりは随分とたくさん食べるようになったんですよッ」
 拳を握り締めて力説する晴貞。どうも身体のラインが気になるお年頃であるらしい。
 それはともかく、晴貞が過去のことを口にしたので、嫌なことを思い出させてしまったか、と一瞬ひやっとしたのだが、表情を見るに特に厭わしいものを感じている様子はなかった。


 とはいえ、何も感じていないわけではあるまい。俺は内心で慌てつつ、話題を変えるべく口を開いた。
「そうでしたか、なら結構結構――というか、自分が鍋を空にしておいて、もっと食えとか、何を言ってるんでしょうね、俺は」
「いえ、天城さ――ではなかった、颯馬さんがたくさん食べてくれたのはとってもうれしいです。頑張ってたくさんつくった甲斐がありました」
「美味いものをたくさん食べて、礼を言うならともかく、礼を言われるというのはなんとも珍妙なものですが――それはさておき、まさか晴貞殿にも信玄……様からのお達しがまわっているんですか?」
「あ、あはは」
 困ったように頬をかいて笑う晴貞。本当にまわしてるのか妹よ。
 周到すぎる信玄の行動に戦慄せざるを得ない俺であった。



 まあ、それはともかく、頬をかく晴貞の仕草が虎綱のそれに似ていることに気づき、なんとなく微笑ましくなる。上洛の最中に出会った頃は、こんな風に楽しげに笑う晴貞の姿は想像できなかった。それを思えば、今、眼前にある晴貞の微笑みの価値もわかろうというものである。
 だが、それを意識してしまえば、話が過去に戻らざるを得ない。
 俺は短く微笑むと、意識を切り替えることにした。
 晴貞に気を遣って――というわけではない。折角の機会なので、もう少し弓に触れていたかったのである。


「無論、虎綱殿が良ければ、なのですが」
 俺の請いに、虎綱は微笑んで頷いた。
「もちろん喜んで。かがり火を焚けば日が落ちても修練は出来ますし、どうせなら今日は屋敷に泊まっていってください。御館様には使いの者を出しておきます。色々とお話ししたいことや、お聞きしたいことがありますから。さっきの話ではないですが、弥太郎さんたちがどうしているのか、とか」
 虎綱の言葉に、晴貞も両手を叩いて賛意を示す。
「ああ、それはわたしも是非お聞きしたいです。越後の冬は厳しいと聞いていますが、皆さま壮健でいらっしゃいますか?」
「それはもう、元気すぎるくらいに。この前など……あ、いや、これは後の楽しみにとっておきましょうか」
「ふふ、わかりました。では、お酒の用意をしておきましょう。修練の方、頑張ってくださいね」


 晴貞の励ましに背を押され、俺は再び春日屋敷の弓練場に足を運ぶ。
 この日、俺は日が落ちてからも虎綱の指導のもと、弓の練習に励み――多大な疲労と、かすかな成果を得ることが出来たのである。
 
 



[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第六章 聖都(一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:9e91782e
Date: 2010/12/06 23:13


「今さら宗麟様の下に跪いてなんとしよう。わしはこれ以上、異教の教えに犯されていく大友家を見たくはないのでな」
 立花家第七代当主 立花鑑載の、それが最後の言葉。
 城を取り囲んだ大友軍戸次道雪が送った降伏勧告の使者にそう応じた鑑載は、叛乱の責はすべて自らにありとして、他の者への寛恕を請うた後、城の一室で切腹して果てた。
 立花家の家臣の中で、当主の後を追おうとした者は少なくなかったが、彼らは「殉死は許さぬ」と厳命した鑑載の思いを汲み、涙をのんで大友軍の前に跪く。
 この瞬間、大友、毛利、竜造寺、さらには秋月、原田、筑紫ら筑前の国人衆すべてを巻き込んだ動乱は、大友家の勝利という形で終息したのである。


 大友軍を率いる戸次道雪は立花山城に入り、城兵を取り静めた後、豊後の大友フランシス宗麟に勝利を報告する使者を出す。
 この書の中で道雪は、毛利、秋月が筑前から手を引いたこと、竜造寺が筑前戦線に参入する動きを見せた後、ひるがえって国内の反竜造寺勢力である平戸城の松浦隆信討伐に動いたこと、さらには叛乱の首謀者の一人であった立花鑑載が自害したことを記した。
 ただ、今回の動乱にあってただ一人、高橋家の当主である鑑種だけは今もって行方が知れないことも併記した。鑑種は吉弘紹運、小野鎮幸、由布惟信らによって高橋軍の主力が撃破された後、戦場から落ち延びていったのだが、その行方は盟友であった立花家でさえ掴んでいなかったのである。


 とはいえ、高橋家の二大拠点の内、岩屋城は吉弘紹運によって陥落し、本拠地である宝満城は、鑑種の敗報を聞いた城代北原鎮久が戸次道雪の軍門に降ったことにより、大友家の手に落ちた。
 これによって、筑前における高橋家の勢力は著しく衰えており、たとえ鑑種が領内に舞い戻ろうと再起は困難である、というのが衆目の一致するところであった。


 筑前の国人衆による蜂起を打ち砕き、毛利、竜造寺ら他国の侵攻を防ぎとめ、立花、高橋ら重臣の叛乱を短期間で鎮圧した。
 長期に渡る攻防と、それによる領内の混乱を覚悟していた大友家の君臣は、道雪の報告を受けて、しばしの間、呆然となる。だが次の瞬間、大友館はたちまちのうちに感嘆と歓呼の声によって埋め尽くされた。
 宗麟は道雪、紹運らの武功を惜しみなく称え、同時に神の加護に感謝して深々と頭を垂れた。
 秋月らの蜂起だけならばともかく、毛利、竜造寺の参戦、さらには立花、高橋ら重臣による予期せぬ叛乱が重なった今回の筑前の騒乱は、鎮圧に数月どころか、数年がかかってもおかしくない規模だったのである。
 それを、まさかこうも早くに鎮圧してのけるとは。みずからの臣下の武烈と、敬虔な信徒にくだされた神の恩寵には、いくら感謝してもし足りない宗麟だった。



 だが、大友館のことごとくが勝利に浮かれていたわけではない。
 重臣たち――ことに吉弘鑑理ら『豊後三老』と呼ばれる者たちの顔色は優れなかった。
 なるほど、道雪の勝利は確かに喜ばしいが、その実、報告ははっきりとこの勝利が一時のものでしかないことを告げていた。


 筑前国人衆の主力であった秋月種実は毛利領に去り、禍根は残された。
 毛利、竜造寺にいたっては、矛を交えてすらいない。筑前から手を引いたとはいえ、それがあくまで今回に限ってのことであることは、子供でもわかるだろう。
 さらに、立花、高橋の両家は言うまでもなく大友家でも雄なる者たちであった。これまで筑前が大友家の支配下にあったのは、この二家の功績であると断言しても良い。その二家が失われたのである。今後の筑前の経営は困難を極めるものとなるだろう。


 無論、彼らは道雪のやり方を非難しているわけではない。むしろ、誰よりもこのことを理解しているのは道雪だろうと考えている。
 それでもなお、道雪はこうするしかなかった。現状の大友家にあって、困難を先送りすることが最良の手段であり、もっと言えばそれ以外に選択肢などなかったのである。
 そもそも、薄氷の勝利とはいえ、大友家中にこれほど早くにそれをもたらしえる者がいるとするならば、それは道雪以外にありえなかった。道雪以外の誰が出陣したとしても、今以上の成果を得ることは出来なかっただろう。それらを理解しながら、道雪を非難など出来るはずがなかった。



 そして。
 彼らとはまったく異なる立場にありながら、まったく同じように渋面を押し隠している人物が他にもいた。
 その人物――南蛮神教布教長カブラエルは、宗麟の傍らで笑顔で勝利を寿ぎながら、内心、この早すぎる決着にどう対処するべきかを考えあぐねていた。
 カブラエルは、少なくとも道雪らの今年中の帰還はないと考えていた。早くとも明年の夏までは、道雪は筑前の地に釘付けになるだろう、とも。
 四方の情勢を考えれば、それでも甘い見通しだといわねばならない。その程度には、カブラエルも道雪の将才を評価していたのである。


 だが、結果はといえば、大友家当主をも上回る情報を抱えているカブラエルでさえ、予想だにしない早さで戦は終わってしまった。
 このままではカブラエルたち南蛮神教が動く前後に道雪が豊後に帰ってきてしまう。無論、カブラエルが万端の準備を整えた聖戦は、道雪一人に妨げられるような脆い企てではない。しかし、だからといって、いまだ宗麟に強い影響力を持つ道雪の存在は軽視できるものではなかった。
 また、今回の大友軍の速戦と、それによる成果は、日向の諸勢力にも警戒心を植えつけてしまうだろう。
 聖戦を――聖都の建設を一日たりとも遅らせたくないカブラエルにとって、道雪の帰還は厄介以外の何物でもなかったのである。


 さて、どうするべきか。
 内心でそんな呟きを発したカブラエルに対し、傍らの宗麟が話しかけてくる。
 常の笑みを浮かべつつ、宗麟に応じたカブラエルだったが、はじめのうちは宗麟の言葉にほとんど関心を払ってはいなかった。だが、宗麟の言葉が進むにつれ、カブラエルは急速にその内容に興味を示しはじめる。
 それは厄介者を豊後から遠ざけるという一点において、これ以上ないほどの名案だったからである。




◆◆



 
 ひとつ。戸次道雪をして立花家を継がしめる。
 ひとつ。吉弘紹運をして高橋家を継がしめる。


 筑前の騒乱を鎮め、豊後の大友館に戻った道雪らに対して、宗麟が用意していた褒賞がこれであった。
 博多津を擁する筑前は、大友家にとって何としても確保しなければならない枢要の地であり、立花鑑載、高橋鑑種の両名が欠けた後の筑前の押さえは、相応の人物でなければならない。
 その意味で、道雪の立花家継承はともかく、紹運の高橋家継承は、大友宗麟の人物眼がいまだ衰えていないことの証明でもあっただろう。南蛮神教が絡まない場合に限る、というのが厄介な点であるにしても。


 紹運は吉弘家の嫡子であるから、容易に他家を継ぐことは許されない。だが、この時、宗麟はすでに吉弘鑑理に対して働きかけ、高橋家相続に関しては滞りなく進むように取り計らっていたのである。
 鑑理にしてみれば、自慢の世継ぎがいなくなるわけだから、少なからぬ打撃ではあった。家を重んじるこの時代、たとえ高橋家のような大家を継げるとはいえ、我が家の世継ぎを気軽に差し出せるものではない。


 だが、筑前の重要さと、高橋家の存在の大きさは鑑理も重々承知しており、また、主君である宗麟が、その大役を我が子に委ねようとしていることには誇りを感じずにはいられない。紹運であってみれば、立派に期待に応えてくれるであろうという信頼もある。
 さらに言えば、鑑理は現在の豊後の情勢に、これまでにない、どこかきなくさいものを感じはじめており、紹運が宝満城の城督として豊後を離れることは、吉弘家の血を残すという意味でも重要な一手になるとも考えていたのである。


 結果、鑑理は紹運の高橋家継承に関して諾を与えることとなり。
 大友家当主である宗麟と、父にして主でもある鑑理が肯った以上、紹運には承知する以外の選択肢はありえなかった。
 もとより、紹運もまた筑前の大友勢力がどれだけ危殆に瀕しているかを知る側の人間である。みずからの力で、その困難の一端なりと担えるならば、躊躇するようなスギサキの武人ではなかった。




 そして、承知する以外の選択肢を持たないという意味では、紹運の義姉である道雪も同様であった。
 とはいえ、道雪の場合、紹運とはまた異なる問題がある。
 紹運は吉弘家の世継ぎであるが、道雪は戸次家の当主であり、その道雪が他家を継ぐとなれば、それによって生じる煩雑さは紹運の比ではない。


 ところが。
 宗麟はこの件に関しても早々に手をうっており、にこやかにそのことを告げられた際、めずらしく道雪が戸惑いをあらわにした。
 宗麟がうった手とは、戸次家の新たな当主に関してのことである。
 当主である道雪が去れば、世継ぎである者が新たな当主となるのは当然といえる。
 すなわち、宗麟は戸次誾をして新たな戸次家当主と認め、飛騨守の称号をこれに与えることを、すでに決定していたのである。
 そして、もう一つ――




◆◆◆





 豊後国戸次屋敷。
 その一室に呼ばれた俺は、道雪殿の口から大友館における顛末を教えてもらっていた。
 立花家を道雪殿が継ぎ、戸次家の当主を誾にする、という宗麟の案を聞き終えた俺は、ため息まじりに口を開く。
「……なるほど、ついさきほどすれ違った際、なんか壮絶な仏頂面をしているな、とは思っていたのですが」
 話を聞けば、誾があんな顔をしていたことも納得が出来るというものである。


 道雪殿が立花家を継ぐことに関しては驚きはない。
 それは知識として知っていたからでもあったが、それ以上に現在の大友家を取り巻く情勢を鑑みれば、道雪殿以外に筑前を保てる者が見当たらないからでもあった。
 おそらく、誾もまたその推測くらいはしていたはずだ。当然、自身が戸次家を継ぐ可能性も考えていただろう。なんといっても、誾は戸次家の世継ぎなのだから。


 だが、立花家を継ぐとなれば、当然、道雪殿自身は筑前に赴かねばならず、おそらく加判衆の役目も辞すことになるだろう。
 その道雪殿の後を継ぐということは、戸次家当主として豊後に残り、宗麟を支えるということ。それは誾にとって、道雪殿と袂を分かつに等しいと映っているかもしれない。
 出来れば外れてほしかった予測が、見事に現実のものとなってしまったのならば、あの表情も仕方ないと思えるのである。


 道雪殿は俺と同じように小さく嘆息しつつ、再び口を開いた。
「あの子は、自身の年齢と経験の不足を理由に辞退したかったようですが……宗麟様の口から出た時点で、此度のことはすでに決定したも同然、よほどの理由がない限り、謝絶するというわけにはいかないのです」
 なにより、と道雪殿は言葉を続ける。困ったように、その手が頬に添えられた。
「飛騨守の名乗りを許したことを見てもわかるように、宗麟様ご自身が大変に乗り気ですから。よほど今回の奇手がお気に召したと見えます。宗麟様にしてみれば、誾への贖罪の一つでもあるのでしょうし……めずらしく家臣一同がそろって賛意を示したことも、その一因なのでしょう」


 俺は一拍の間を置き、確認のために問いを向ける。
「家臣一同、というと南蛮の者たちも?」
「ええ。反対するどころか、積極的に宗麟様の考えに賛成し、他の家臣に働きかけたそうです」
「なるほど……」
 道雪殿を府内から遠ざけられる。それはつまり、宗麟からも遠ざけられるということであり、今後、ますます宗麟を操るのが容易になることを意味する。それは諸手をあげて賛成したくもなるだろう。


「嫡男として、誾には当主としての心構えは叩き込んでありますが、それでも経験の不足は否めません。しかるべき者を側役に残して補佐させるつもりですが、筑前の情勢を考えれば、鎮幸と惟信の二人にはわたしに従ってもらわねばなりません。それゆえ十時に後事を委ねるつもりなのですが……」
 その言葉に、なるほど、と俺は頷く。
 十時連貞の為人については、今回の筑前遠征において身近で見聞きしている。あの人なら、気難しい面を持つ誾の補佐も的確にやってのけるだろう――まあ、俺が相手だと特に気難しくなるだけかもしれんけど。


 ともあれ、筑前の情勢を考えれば、小野と由布の双璧を豊後に残すことは出来ないという判断は納得できるものだ。というより、単純に戦力だけを見れば、十時連貞を残すことさえ道雪殿には痛手に違いない。
 それでも誾の傍に信頼できる人物をつけようとすれば、連貞以外に相応しい人物はいない、と道雪殿は考えたのだろう。そのことに問題はない。


 問題があるとすれば、この時点で道雪殿が筑前に赴くことで、南蛮側の動きを掣肘できる人物が豊後からいなくなること――と、俺が考えを進めようとした時だった。
 道雪殿は、何やら疲れたように右の手で眉間を揉み解しながら、口を開いた。
「話はまだ終わっていないのです」
「終わっていない、とは?」
「わたくしが立花家を継ぐとしても、鑑載殿の家臣をそのまま召抱えるわけにはいきません。いずれは旧臣たちの中からしかるべき者を選んで登用することになりますが、当面の間、特に軍事面では戸次家の者たちを主力とせざるを得ないのです」
「それは当然の判断だと思いますが……?」
 俺は首を傾げた。つい今しがた、道雪殿は自分の口でそれを説明してくれたばかりではないか。話が繰り返されたことを不思議に思った俺は、怪訝そうに道雪を見やる。


 その俺の視線の先で、道雪殿はめずらしく困惑をあらわにしていた。
 これから口にすることを、どう説明すべきか悩んでいるように見える。
「道雪殿?」
「……そのことは、宗麟様も承知しておられました。わたくしが戸次家の精鋭を率いて筑前に赴けば、当然、誾の元に残る戦力は限られます。そのことを案じた宗麟様は、一人の人物を登用して、誾の補佐をさせようとお考えになったのです」
「その人物、というのが問題なのですか?」
 俺の問いに、道雪殿は小さく頷いて見せた。
「ええ、まあ、問題といえば問題ですね。ただ、それは筑前殿が、今、考えているだろうこととは異なる意味なのですけど……」


 道雪殿らしからぬ、はきつかない答えに、俺は首を傾げっぱなしだった。
 てっきり南蛮神教絡みの人事が行われたのだとばかり思っていたが、そういった意味での問題ではない、と道雪殿は言う。
 では、どういった問題を抱える人物なのだろう?
「その人物は知略に優れ、将としても並々ならぬ統率力を持っています。人柄も信頼するに足り、でき得ればわたくしが召抱えたかったほどでした」
「召抱える、ということは在野の人物ですか」
 はて、と俺は首をひねる。道雪殿がここまで評価するような人物が無名であるとは思えないが、心当たりは特にない。道雪殿の口から、そういった人物の名が挙がったことも特に無かったように思う。


 俺が面識を得ていない智勇兼備の武将といえば、肥後の甲斐宗運あたりが思い浮かぶが、宗運は阿蘇家の重臣だから、この話には関係ないだろう。
 他にそれらしい人物は――
「……って、まさか吉継のことですか?!」
 俺は思わず声を高めた。考えてみれば、宗麟は吉継に同情的であったという話だし、豊前の乱といい今回といい、吉継の智勇は大友軍勝利におおいに貢献している。
 吉継は名目上は大友家の家臣だが、実際は石宗殿に近侍していただけで、正式な臣下とは言いがたい。石宗殿亡き後は、おそらく俸禄も受け取っていないだろう。


 そんな吉継を改めて大友家の臣下として迎える、というのはいかにもありそうなことだった。
 かつて吉継ら大谷家を逐った南蛮神教は強硬に反対しそうに思えるが、冷静に考えてみれば、吉継が正式な臣下として大友家に仕えれば、常に所在を把握でき、生殺与奪はカブラエルらの思いのまま――鳥を籠に入れたようなものである。あえて反対を唱える必要はないかもしれない。





 無論、俺は大反対である。
 吉継の立身はめでたいことだが、わざわざ愛娘を毒蛇の巣に放り込む親がどこにいようか。
 ……これは俺の全能力をもって撤回させねばなるまい。それこそ、最終手段として高飛びを考慮するくらいの勢いでッ!


 ――と、一人意気込んで策を練ろうとした途端、呆れ顔の道雪殿に額をこつんと叩かれた。ちなみに道雪殿の手にあるのは、いつも腰に手挟んでいる鉄扇である。地味に痛い。というか、あの扇が鉄で出来ていることをはじめて知った。
「落ち着きなさい。吉継殿がそうだとは言っていないではありませんか」
 いたずらに騒ぐ子供をしかりつけるような、そんな道雪殿の表情だった――つまりは、俺がそれほど子供じみた態度をとっていた、ということでもある。
 そもそも、と道雪殿は呆れ顔のまま、言葉を続けた。
「吉継殿に関わる話であれば、当の本人を呼ばないはずがないではありませんか」
「……言われてみれば、そのとおりですね。申し訳ありません、取り乱しました」
 道雪殿が言うことはしごくもっともなので、俺はおそれいって頭を下げる。
 まあ無様を晒してしまったが、吉継のことが取り越し苦労で良かった良かった。



 しかし、である。
 ほっと胸を撫で下ろす俺を見て、道雪殿はなおも呆れたように首を左右に振っているではないか。
 俺は怪訝に思って問いかけてみた。
「あの、道雪様、他になにか?」
「……筑前殿はご自分のこととなると、驚くほど察しが悪くなるのですね」
「は? あの、それはどういう……?」
 本気でわけがわからず、俺は目を瞬かせる。
 すると、道雪殿はなにやら首を振りつつ、深いため息を吐く。そして、おそらく色々と面倒になったのだろう、少し早口になって説明をしてくれた。



「先の豊前の乱、此度の筑前の乱、二つの乱は当初考えられていたよりもはるかに早く鎮定されました。そのいずれにも、その人物は深く関わっているのです。ただ、宗麟様ご自身は一度、顔をあわせただけでしたので、その人物を知る吉弘鑑理殿に人柄などを訊ねられたようですね。その上で宗麟様は登用を決断され、わたくしにこのようなものを預けられました」
 そう言って道雪殿が示したのは一枚の書状――もっと言えば、褒美を約束する公文書、とでも言うべき代物だった。
 それも肝心要の褒美が記されていない。これを受け取った者が、望むものを書いて良い、ということか。まさに白紙委任状。よほどに信頼が置け、かつ抜群の功績をたてた者にしか、このような物は与えないだろう。


 こんなものを発行してまで召抱えたい在野の人間――しかも二度の戦に参陣している人物で、かつ大友家に仕えていない、か。ふむ……む…………ん?
 該当しそうな名前を探しているうちに、ふと気づく。道雪殿はさきほど、もし吉継に用があるなら、最初から吉継を呼んでいる、と言っていた。しかし、この場にいるのは吉継ではなく、俺である。
 そして今ならべたてた条件、実のところ、ほぼ俺と合致しているような…………
「……………………あの、道雪様、まさか、とは思うのですが」
「ええ、そのまさかです」
 おそるおそる訊ねた俺に、道雪殿はあっさりと首を縦に振って見せた。
 そうして、道雪殿は唖然とする俺にこう言ったのである。




「大友家当主、大友宗麟からの使者としてお伝えします。雲居筑前様、その類稀なる智勇、ぜひとも我が家にて揮って頂きたく、伏して御願いいたします。これは大友宗麟より預かりし書。我が願いを受け入れてくださるにおいては、望むものすべてを与えるとの主君の言葉を証し立てるものです」




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第六章 聖都(二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:9e91782e
Date: 2010/12/07 22:20

 豊後国戸次屋敷。
 夕暮れの日差しで茜色に染まった室内に、俺と道雪殿は向かい合って座っていた。
 まったく予想だにしていなかった大友宗麟からの勧誘。
 つい先刻の道雪殿の言葉を思い返した俺は、それが意味することを飲み込むまでに多少の時間を要した。
 道雪殿はといえば、使者の口上を告げた後は、じっと俺を見つめているだけである。


 室内におりた沈黙の帳を引き裂いたのは、俺の声だった。
「……なんというか、宗麟様は本当に間の悪い方ですね。今このとき、しかも道雪様に使者を務めさせるとは」
 悪意があるのではなく、ただただ間が悪い。
 いっそこれが、道雪殿から軍師である俺を引き剥がすための策略だ、とか言うならなんとでも対処できるのだが、おそらく宗麟は心底から善意と誠意で行動している。
 それは件の白紙委任状を見ても明らかであった。


 道雪殿を使者としたことも、宗麟なりの気遣いなのだろう。
 大友館に呼びつけるでもなく、一片の書状で仕官を求めるでもなく、加判衆筆頭たる人物の口から登用のことを申し出られれば、悪い気がする人間はいないだろう。
 無論、それだけが理由ではあるまいが。
 俺は道雪殿の客将だからして、それを召抱えるとなれば、主客双方に筋を通す必要があるし、召抱えた上で俺を誾の補佐にするというのであれば、そのあたりの差配を道雪殿に委ねる必要もある。そういった諸々の一環として、道雪殿に使者の役目を委ねたのであろうことは想像に難くない。
 そして、主君である宗麟に命じられれば、道雪殿が拒絶できるはずがないことも、同様に想像に難くなかった。



「筑前殿は主を得るつもりはない。そのことは宗麟様にも申し上げたのですけど……」
 道雪殿が、申し訳なさげに口にする。
 それを聞いて、俺は一つの納得を得て頷いた。
「ああ、なるほど。一介の客将に対するには破格の条件だとは思ったのですが、道雪様の言葉があったから、その書状が付いてきたわけですね」
 宗麟にしてみれば、これだけの条件を出せば謝絶されるはずがない、という感じだろうか。


 問題は、どうしてあの宗麟が俺にそこまで目を付けたのか、ということだった。
 豊前での戦果については、道雪殿や吉弘鑑理らの口から伝わったことは容易に推測できる。実際、大友館で顔をあわせた時、宗麟もそう言っていたし。
 俺としては、あまり耳目を集めたくなかったのだが、臣下が戦の詳細を主君に伝えるのは義務であり、それを偽るような真似が許されるはずもない。道雪殿が宗麟に俺のことを伝えていたのは、考えてみれば当然のことだった。
 道雪殿があえてそのことを俺に言わなかったのは――まあ、俺が困惑する様を見たかったとか、そんなしょーもない理由であると思われる。あるいはうっかり忘れてたとか。実際には聞いていないから何ともいえないが。


 ただ、前回の豊前での戦、今回の筑前での戦、この二つの戦に関して俺の手柄を高く評価してくれたのだとしても、宗麟の態度には違和感が付きまとう。
 仕官を持ちかけてくるだけであればともかく、褒美の委任状まで用意して是が非でも召抱えようとするのは明らかに行き過ぎであろう。
 これが常日頃から、下層からの人材発掘に熱心な人物だったというなら、ここまで不審には思わないのだが――


 俺は、その疑問を道雪殿にぶつけてみた。すると、道雪殿はわずかに眼差しを伏せ、答えを教えてくれた。
「此度の登用の件に関しては、申し訳ありません、わたくしが浅慮でした」
 そういって頭を下げる道雪殿。当然、俺は何のことかと説明を求める。すると――
「宗麟様に此度の戦について訊ねられた際、口をきわめて筑前殿の手柄を称えたのです。戸次家の当主というだけでは、筑前殿の尽力に報いるにも限界がありますから、宗麟様からもしかるべき褒賞が与えられるようにと……」
 宗麟は吝嗇という欠点はない。くわえて、東国に帰るに際しても、大友家の名が使えれば様々な面で役に立つ。道雪殿はそう考えたのだろう。




「……まさか、宗麟様が同紋衆以外の方を――それも他紋衆ですらない、外様の士を召抱えようとされるとは考えてもみませんでした」
 そう語る道雪殿の目には、今なお驚きの余韻が漂っているように映る。
 二階崩れの変から今日まで、一貫して同紋衆のみを重用してきた宗麟であってみれば、道雪殿の考えは決して浅慮とは言えまい。
 そもそも、今では戸次家の双璧として名高い鎮幸殿も、元はといえば宗麟に仕えていたのである。とある戦で軍目付として戸次家の陣にやってきた鎮幸の才幹に驚いた惟信が、道雪殿に対し、鎮幸を戸次家に迎えるよう進言し、それをうけた道雪殿が宗麟に請うて麾下に招きいれたという経緯があったらしい。


 軍目付は重要な役割である。ゆえに鎮幸が宗麟の麾下にいる際、とくに粗略に扱われていたわけではない。だが、道雪殿の請いにあっさり応じた時点で、宗麟の鎮幸に対する評価は知れるだろう。
 あの小野鎮幸でさえその扱いなのである。
 一度や二度、手柄を立てたからとて、宗麟が俺のような氏素性も知れない人間に執着を見せようなどとは道雪殿ならずとも想像できまい。


 だが実際に、宗麟は道雪殿の進言――俺が主を求めていない――を蹴ってまで、俺を召抱えようとしている。当然、そこにはそれなりの理由があるはずであり、それを道雪殿が確認していないとは思えなかった。
 俺がそう口にすると、道雪殿はあっさりと頷いた。なんだか疲れたような顔ではあったが。
「筑前殿と同様、わたくしもおかしいと思ってお訊ねしました。すると、宗麟様は一つの歌を詠まれたのです」
 そう言って、道雪殿はみずからその歌を口ずさんでくれた。



 海神(わたつみ)の、豊旗雲(とよはたくも)に、入日(いりひ)さし、今夜(こよひ)の、月夜(つくよ)、さやけくありこそ



「……万葉集に載せられている歌の一つ、詠んだ方の名は中大兄皇子。百済救援に赴く際に詠まれたものであるといわれています」
 道雪殿の説明に、俺は頷くばかりである。意味も何となくではあるが、わかる気がする。
 わからないのは、万葉集の歌と俺の登用にどんな関係があるか、という一点だった。


 首を傾げる俺のために、道雪殿はなおも説明を続けた。
「内容自体にも意味がないわけではありませんが、宗麟様が気にかけていらしたのは、ここで用いられている『豊旗雲』という言葉です。ご存知かと思いますが、かつて豊前と豊後は一つの国であり『豊(とよ)の国』と呼ばれていました。そして、あなたの姓は雲居です」
「…………あの、もしかして?」
 困惑をあらわにした俺の問いに、道雪殿は似たような表情で頷いてみせた。
「豊の国になびく旗とはすなわち大友家のもの、そしてそこにかかる雲。歌の本意とは異なりますが、この偶然に宗麟様は意味を見出してしまわれたらしく……しかも歌が詠まれたのは百済救援に赴く際。そして此度は筑前救援に赴くという共通点があります。さらに言えば、あなたの名は筑前――大友家にとって決して失ってはならない地と同名なのです。ここまで偶然が重なるはずがない、というのが宗麟様のお考えです。雲居という名が天に通じることにも、意味がある。もしかすると、あなたこそ、天より神が遣わしたもうた大友の救世主なのかもしれない、と……」




◆◆



 
 気持ちを落ち着かせるために、お茶をすする。だが、一杯や二杯で落ち着くには、聞かされた内容があまりといえばあまりだった。
 知らず、俺の口からは深々とため息がこぼれおちる。
「先刻より、道雪様がお疲れのようだと思っていたんですが、その理由が、今はっきりとわかりましたよ……」
 それ以外に、何と言えば良いのやら。
 馬鹿らしいというのは簡単だが、それを宗麟に納得させるには、なるほど、奇妙なほどに符号が重なってしまっていて、難しいかもしれない。
 こういった感情の上に、戦の手柄を乗せれば、今回の宗麟の行動も納得がいった。


 俺は頭をかきながら、宗麟の考えを推測する。
「ある意味で、宗麟様も俺を天の御遣いだと思っておられるわけですね。だからこそ、大切に思っている誾殿を守り、助けるために、是が非でも俺を召抱えたい、と」
「そういうことになりますね。わたくしも、幾度も再考を願い出たのですが、宗麟様は人が変わったように頑として受け入れてくれず、ともかく本人に確認をとってくださいと、その一点張りで……筑前殿には最後まで迷惑をかけっぱなしになってしまいました。本当に申し訳のしようもありません」


 道雪殿はそう言うと、また俺に頭を下げようとする。
 俺はそれを慌てて止めた。
「あ、いや、頭を下げずとも結構ですよ。道雪殿が好んで使者の役割を務められたなどとは、はじめから思っておりませんでしたから。まあ……さすがにこの理由は予測してませんでしたけどね」
 そう言って俺は苦笑したが、実のところ、苦笑などしている場合ではない。
 ここまでの熱意を見せている以上、俺が謝絶したからといって、宗麟がはいそうですかと引き下がるとは思えない。道雪殿なり、他の家臣に命じて更なる誘いをかけてくるだろうし、最悪の場合――と、そこまで考えて、俺は遅まきながらあの連中のことに思い至った。


「……そういえば、このことは南蛮神教は知っているのですか?」
 どこの馬の骨とも知らない輩を宗麟が救世主と仰ぐ。連中にとって、それは許容できることではないだろう。下手をすると、襲撃さえしてくるやも……と心配になったのである。
 だが、道雪殿は首を横に振って、俺の心配を否定する。
「筑前殿を召抱える、ということに関しては話をしたと仰せでしたが、その時点では、まだ救世主云々ということまでお考えではなかったようで――というより、どうもわたくしの話を聞いて、そのことに思い至られたようでしたので、その意味でも筑前殿には謝罪せねばなりません」


 悔やんでも悔やみきれぬ、と言いたげな道雪殿だが、道雪殿ならずとも宗麟の考えをあらかじめ察するのは不可能だろう。それに、道雪殿はこちらのことを考えた上で行動してくれたのだから、感謝こそすれ、恨みなどするはずがない。
 ただ、そうは言っても眼前に立ちはだかる問題には対処しなければならない。
 道雪殿の話を聞くかぎり、登用を謝絶した場合、宗麟が諦めるという可能性はほとんど無いと見て良いだろう。それどころか、俺を豊後から出してくれないのではないか。だからといってこっそり東へ向かえば、それこそ大々的に褒賞金を出して捜索されかねん。


 責任を感じている道雪殿は、俺が断ったという事実をもって可能なかぎり宗麟を説得してくれるとのことだし、もし宗麟がどうしても諦めなかった場合は、戸次家の力で責任をもって俺を東国へ送ってくれるとも確約してくれた。
 だが、そんな事態になれば、宗麟と道雪殿の関係にも影響が出ざるを得ないだろう。そうなれば宗麟を諌められる者がいなくなってしまう。
 道雪殿が加判衆筆頭として諸事に気を配ってさえ今の有様なのだ。これで道雪殿という重石がなくなれば、もはや大友家は坂道を転げ落ちるように、滅亡への道をひた走ることになるだろう。


 それが大友家のみのことであれば――そして、大友家の滅亡が南蛮勢力の衰退を意味するのであれば、俺には関係ないとうそぶくことも出来たかもしれない。俺は道雪殿の依頼に応え、出来るかぎりのことをしたのだ。これ以上を求められる筋合いはない、と越後へ戻ろうと思ったかもしれない。
 しかし、現状において大友家の衰退は、南蛮勢力の衰退を意味しない。むしろ、外国勢力の侵入をより早める結果に繋がるだろう。






 改めて、考える。
 南蛮神教の動き。連動しているであろう南蛮勢力の動向。
 おそらく、カブラエルは道雪殿がこれほど早くに筑前から戻るとは考えていなかったはず。その道雪殿を筑前に追いやることが出来た今、本人はさぞご満悦のことだろう。
 当主である宗麟を握っているカブラエルにとって、警戒すべきは道雪殿のみ。少なくとも、石宗殿の屋敷で、あっさりとカブラエルに従った俺のことなど気にも留めていないに違いない。それこそ名前すら覚えていない可能性もある。なにがしかの警戒心があれば、俺を誾の補佐にするという宗麟の願いにくちばしを挟んだであろうから。





 改めて、考える。
 どうして越後へ戻りたいのか。戻って、何をしたいのか。
『好きな人のために、命を懸けて戦った。そして、守ることが出来た。その人の命も、志も。ならば、これ以上望むものはありません』
 かつて口にした言葉が、自然と脳裏によみがえる。
『それに、思うのです。いまだ戦乱は終わらず、にも関わらず私がこの地を去らねばならないのならば、それはその必要があるからではないか、と。私が一時、越後を離れることが、日の本の未来のためには必要なことで、それは結果として輝虎様の助けとなることなのではないか、と』
 今日という日があることなど想像だにしていなかったあの時。それでも、その言葉に確信を抱いていたのは他ならぬ俺自身だった。





 改めて、考える。
 九国に来てからのこと。出会った人々。目の当たりにした情景。託されたもの。
 最悪の未来図を思い描いたのなら、それを打破するために動くは当然のこと。率直に言って、肥前に発つことを道雪殿に進言したあの時から、越後に戻ることは二の次となっていた。九国に来て間もなくの頃ならばともかく、現状を知れば越後に戻る暇などないことは誰の目にも明らかだったから。
 とはいえ、どれだけ考え続けても、納得できる答えが出なかったのも事実である。ただ一つわかったのは、今の俺では変えることは叶わないということだけであった。
 俺が道雪殿に越後帰還を二の次にすることを言明しなかったのも、これが理由だった。戸次家の客将では、何をするにも限界がある。それゆえ、一度、東へ戻るという名目で大友を離れられれば、と考えていたのである。
 しかし、今、目の前に差し出されたものがあれば。
 つい先刻まで、想像だにしていなかった新しい選択肢を選びとることが出来たならば。
 その先に広がる光景もまた、これまで見ることが出来なかった新しいものであるのは必然だった。





 次々に思い浮かぶ策。
 変えることが出来ないと苦慮していた情景が、俺の頭の中で驚くほどの勢いで塗り替えられていく。
「……さすがは大友宗麟というべきか。あるいは、これは――」
 とんでもない妙手になるかもしれない。内心で小さくそう呟く。
 そうして、俺は今なお脳裏に湧き続ける新たな策に没入していった。そんな俺の態度に、道雪殿が怪訝そうな表情を浮かべていることにさえ気づかずに。






◆◆





 我に返ったのは、どれだけ経ってからだったろうか。一刻は経っていないにしても、優に半刻近くは過ぎ去っていただろう。
 気がつけば、室内に差し込んでいた茜色の光は山嶺の彼方に没し、今、周囲を明るく照らしているのは侍女が付けたのだろう燭台の灯火である。
 いつ入ってきたのやら、まったく気がつかなかった。
 否、それを言えば、それだけの時間、道雪殿が黙って俺を見つめていたことにさえ気づいていなかった。
 だが、無礼を詫びるのは事が済んでからで良い。今は一刻も早く、まとめあげた考えを伝えなければならない。
 何故といって、それは道雪殿にも少なからず関わってくることだからである――というよりは、思いっきり渦中の人となるな、うん。






 すべてを話し終えるまで、さらに一刻近い時間が必要だった。
 俺の話を聞き終えた道雪殿が、じっと俺の顔を見つめてくる。そこに浮かぶのは戸惑いではない。怒りや、あるいは感謝とも違う。ただ純粋にこちらの意図を汲もうとする、真摯な色合いであった。
 やがてゆっくりと道雪殿の口が開かれた。
「――宗麟様の請いに応じられるということは、宗麟様を主君とすることでもあります。そのことはどのようにお考えなのですか?」
「今のそれがしは天城颯馬ではなく、雲居筑前ゆえ――」
 そう言ってから、俺はそれが冗談であることを示すために、軽く肩をすくめた。
「などと、おためごかしを言うつもりはありません。二君に仕えぬ者を忠臣というのなら、それがしは忠臣ではない。そういうことだと考えております」


 ただ、これだけだと何やら開き直っている観があるので、俺はもうすこし言葉を付け加えることにした。
「天の御遣いなどと言われているところを見るに、世評では忠勇無双とでも思われているのかもしれませんが、元々、それがしは主の天道を尊しとしながら、その天道を歩けぬ者でした。必要とあらば、計略も策略もそれがしは用います。不祥の器たる兵を、楽しんでいることも否定しませぬ。天道に背こうと、結果として天道に復すればそれで良いのです」
 天城颯馬のことを知っている道雪殿が、上杉謙信のことを知らないはずがない。謙信様が掲げる天道を、改めて説明する必要もあるまい。
 異国との交流は否定されるべきものではない。だが、それが侵略となれば話は別だ。たとえ乱れていようとも、日の本は一つの国。他国の膝下に跪かねばならない理由などどこにもないのだから。


「それがしにとって、二君に仕えるとはそういうことです。変節漢との謗りは甘受せねばなりますまいが、それを恐れて竦んでいるつもりはありませぬよ」
 まあさすがに宗麟に仕えるという選択肢は、俺一人ではまったく思いつかなかったわけで、大きな口を叩いてはいけないのだが。
 ともあれ、そうと決めれば動くのは早い方が良い。これからの豊後は間違いなく危険になるので、出来れば吉継は道雪殿の下で働かせてもらい、長恵を護衛につける。
 二人への説明も、出来れば今宵の内に――と、俺がそこまで考えた時だった。



「筑前殿、もう少しこちらへ寄ってもらってよろしいですか?」
 道雪殿は、いつもより少しだけ小さな声でそう呼びかけてきた。
「は、はい、構いませんが、何か?」
 首を傾げつつ、近づいていく。不意にいつぞやの出来事を思い起こし、慌てて髪に手をやるが――うむ、まだそれほどぼさぼさにはなっていないから、身だしなみは問題ないだろう。
 ほっと胸を撫で下ろそうとした時、道雪殿の両手が、俺の左の掌を包み込むように握ってきた。
 驚く間もなく、道雪殿はそのまま俺の左手をみずからの額にこつりと当てる。


 その姿は、俺の左手を掴り、額に押し付けているという点を除けば、どこか神に祈りをささげる信徒のようにも見えた。
 左手を包む暖かさと、間近で見る道雪殿の姿にどぎまぎしていると、不意に道雪殿の囁きが、俺の耳朶を震わせる。


「礼を申し上げる資格など、ありませんね。あなたにその決断を強いたのは、疑いなくわたくしなのですから……不躾な願いで申し訳ありませんが、今しばらく、このままでいてもらってよろしいですか?」


 その声が震えているように聞こえたのは、俺の気のせいであったかもしれない。
 だが、俺の手を握る道雪殿の両手がかすかに震えを帯びていたことは、気のせいではない。
 ここで気の利いたことでも言えれば格好もつくのだろうが、生憎とそんな甲斐性はどこを探してもみつかるはずもなく。
 俺はそのままの姿勢で、道雪殿が手を離すその瞬間まで、その場で硬直し続けたのである。

  



[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第六章 聖都(三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:9e91782e
Date: 2010/12/09 21:42

 豊後国戸次屋敷。
 ひとたび決断を下せば、やるべきことは目の前に山のように積み重なっている。
 道雪殿の部屋を辞した俺は、とりあえず現時点で片付けることが出来る問題をささっと済ませてしまうことにした。
 最初にして、最大級の大きさを持つその問題の名を「娘の説得」という。



「――というわけで、吉継は長恵と一緒に筑ぜ」
「お断りします」
「……長恵と一緒に、筑前で道雪様の手助けを、だな」
「お断りします」
「……していただければ幸いに存じます」
「お断りします」
 全く同じ口調で俺の頼みを切り伏せていく吉継。
 頭巾に隠れて表情は見えないが、その口調はただひたすらに頑なだった。


 吉継のことだから簡単には承知しないかもしれない、とは考えていた。なにせこれから俺が相手取ろうとしているのは南蛮勢力――吉継にとっては仇敵ともいえる存在である。
 だが、敵の狙いが定かならぬ今、吉継が豊後にいることの危険性をすでに肥前で伝えていたこともあって、不満はあっても納得してくれるだろうと思っていた。
 あにはからんや、これほど頑なに拒絶されようとは。
 なんと説得したものか、と俺は腕を組んで考え込む。


「……南蛮神教から逃げ隠れするために筑前に行ってくれと言っているわけじゃない。おそらくは猫の手も借りたいほどに忙しくなるだろう道雪様の手助けをしてほしいんだ。そこは承知しているか?」
 なにしろ十時連貞をはじめ、戸次家の将兵の半ばは豊後に残され、誾の下につくことになるのだ。それはつまり、立花家を継いだ道雪殿の周囲がそれだけ手薄になることを意味する。今回の戦は大友家の勝利に終わったが、立花家の状況を知った筑前の国人衆や周辺諸国が再び動かないという保証はどこにもなかった。


 状況は高橋家の紹運殿もさして変わらない。しばらくの間、筑前の大友家臣団は、それこそ寝る暇もないほどに多忙になろう。そんな中で吉継と長恵の存在は、道雪殿にとっても有難いものとなるはずであった。
 事実、道雪殿は吉継と長恵を筑前に連れて行ってほしいという俺の頼みを、快く引き受けてくれたのである。まあ去り際に「お二人が承諾されれば、の話ですけどね」と意味ありげに笑ってはいたのだが。



 俺の問いに対し、吉継はそっけなく頷いて見せた。
 とすると、俺が口にした程度のことは、とうに承知しているということである。では、吉継の中では何が引っかかっているのだろうか。そんな俺の疑問を察したのか、吉継がどこか押さえた声で呼びかけてきた。
「お義父様」
 居住まいを正す吉継を見て、俺も知らず背筋を伸ばす。
 室内の灯火に照らされ、頭巾の隙間から俺を見つめる吉継の眼差しが紅く光ったように見えた。


「お義父様は豊後に残ることを選ばれた。今、私たちに口にされた理由は、多分、ほんの一握りなのでしょう。お義父様の決断の、本当の意味を私はわかっていない」
 吉継はそう言って、かすかに俯いた。
「――それを、教えてくれとは言いません。口にしないのならば、それに足る理由があるのでしょうから。そして、ご自身で危険だと口にしたこの豊後の地に、お義父様自身が残ろうとされることにも反対はしません。そうされるのは、そうせざるを得ない理由があるのでしょうから」


 ですが、とここで吉継は顔を上げ、鋭い眼差しで俺を見据えた。
「それゆえに、私の決断にも口を挟んでいただきたくありません。私には、私の理由がある。南蛮との確執は確かに理由の一つなれど、私とて、ただ過去のうらみつらみで行動しているわけではないのです」




 吉継は、反論は許さない、という感じできつく俺を睨んでおり、一方の俺はその視線の圧力に抗するだけで精一杯。
 室内に沈黙が満ちる。
 とはいえ、いつまでも黙っていては埒が明かない。それに、吉継の言うとおり、確かにまだ言っていないことは幾つもあるのだ。



 そのうちの一つを、俺はここで口にする。
「吉継」
「はい」
「宗麟殿から与えられる俺の任は誾殿の補佐だが、形としては戸次家ではなく、大友家に仕えることになる。つまりは道雪様と俺は、身分や身代こそ違え、大友家の同輩になるわけだ」
 ここでふと気づく。大友家に仕えるとなれば、宗麟『殿』はまずいよな。
 こほん、と咳払いしてから、改めて口を開いた。
「これからは道雪様を頼みとすることは出来なくなるわけだが、逆に言えば、道雪様に迷惑がかかるんじゃないかと、諸事に遠慮する必要もなくなった」
 現在の南蛮神教、大友家、その当主である宗麟について、これまでも思うところは多々あった。
 だが、俺が迂闊なことを口にすれば、必然的にその責は道雪殿や、あるいは吉継に及んでしまう。
 そのため、俺は言葉の一つをとっても慎重にならざるを得なかったのである。
 だが――



「宗麟様の臣下になったのであれば、俺の言動はすべて俺の責。必要なときに、必要な行動が出来るわけだ」
 ここで重要なのは『必要な』行動というのが、必ずしも世間一般で認められる行動だけではない、ということである。
 率直に言えば、批判や諫言を越えた、味方への謀略とか、味方への計略とか、味方への策略とか、そういった類の行動を指している。


 当然、そんなことをすれば家中に敵が出来る。新参の身が幅をきかせようとすれば、南蛮神教のみならず譜代の家臣たちも俺を敵視するようになるだろう。宗麟とて、俺の態度次第ではどう変心するかわかったものではない――大きな声では言えないが。
「豊後に残れば、そんな状況に巻き込まれる。かもしれない、ではなく、確実に巻き込まれる」
「だから、私は蚊帳の外にいろ、と?」
 感情を感じさせない、硬い声で問い返してくる吉継。
 俺は何と言えばわかってもらえるかと内心で頭を抱えつつ、首を横に振った。
「蚊帳の外じゃない。吉継、それに道雪様や紹運殿の力が必要になるのは、その後――」
「その後? 最も苦しい時に居ることが許されないのなら、それは蚊帳の外に置かれることと何が違うというのですか」  




 強い口調で言い返してくる吉継の語調に押されるように、俺は、む、と唸って口を閉ざす。
 すると、そんな俺の様子を見た吉継は、言い過ぎたと思ったのか、ぺこりと頭を下げた。
「すみません、少し感情的になってしまいました」
 頭を上げ、じっと俺の目を見つめてくる。
「お義父様が、私のことを考えた上で、そう言っていることはわかっているつもりです。大事にしようとしてくれているからこその、今のお話なのだ、と。ですが……」


 短い沈黙。
 吉継はそっと息を吐き、言葉の続きを口にした。
「父上が――大谷の父上が、昔、言っていました。信じるとは、無理をさせることなんだ、と」
「無理をさせる?」
「はい。もちろん、信じる相手にどう接するかは人それぞれです。父上が言ったことが、万人に共通する真理なのだと主張するつもりはありません。ただ、私は父上の言葉に頷ける。信ずればこそ、他の人には託せない重荷を、託すことも出来るのだ、とそう思うんです」


 吉継の視線が、どこか哀切さを帯びて紅く輝く。
 そして、つかの間、逡巡したように黙り込んだかと思うと、吉継はやおら頭巾を取り去った。
 あらわになる銀嶺の髪。先刻から黙って俺たちのやりとりを聞いていた長恵が、わずかに目を見開くのが視界の端に映った。


 その長恵の驚きに構わず、吉継はなおも言葉を続ける。
「私の力が、此度のお義父様の企てに何の足しにもならないというなら、こんなことは言いません。黙ってお言葉に従います。でも、そうではない。私は文武の鍛錬を怠っていません。どんな状況であれ、お義父様の力になれると自負しています。道雪様が猫の手も借りたいほど忙しくなる、といっていましたが、それはそのままお義父様にもあてはまるのでしょう?」
「む、それはまあ……」
 そのとおりではある。
「であれば――」
 吉継の目に、強い意志が煌く。まぶしいほどに。



 お願いします、と吉継は言った。
 信じてください。無理をさせてください、と。



「危険は承知の上ですし、復讐や報復の念に囚われているわけでもありません。私も日の本の民の一人。お義父様の話を聞き、それを黙ってみていることなんて出来ません」
「……それが、理由かな?」
「はい。辛いことの多い生ではありましたが、決してそればかりだったわけではありません。私は、いつか彼岸で父上と母上に逢った時に胸を張れる自分でいたい。二人が身命を賭して産み育んでくれたから、娘は誇り高く生き抜くことが出来ました、と……ありがとう、とそう伝えたいのです」


 そのためには、こんなところで怖じてなんていられない。吉継はそう言って、はじめて表情を緩ませた。
「たとえお義父様が反対なさろうと、私は残ります。駄目だなんて言わせませんよ? 石宗様と道雪様、それに和尚様、もちろんお義父様も……皆、私にとっては大切な人たちです。その人たちが築いてきた日の本の歴史を――そして、私が皆と共にこれから生きていく日の本の大地を、異国の軍勢に蹂躙されてたまるものですか」





 その時、吉継の頬が紅潮していたのは、多分照れていたからなのだろう。
 似合わないことを言っている、そんな自覚があったのかもしれない。
 それでも、視線だけはそらすことなく、こちらを見る吉継に対し、俺はきわめて真剣な顔でその名を呼ぶ。
「吉継」
「はいッ」
 何を言ってもごまかされるものか。そんな感じで応じる吉継に対し、俺はきわめて真剣に問いかけた。
「抱いて良い?」
「はいッ……………………はいッ?!」


 吉継は当惑――というか驚愕していたようだが、まあ許可をもらえたのでよしとしよう。そんなわけで、俺は吉継の小柄な身体を抱き寄せる。
「ちょ……え……なッ?!」
 吉継は何やらわたわたとしていたが、驚きのあまり、ろくに身体が動かないらしい。
 そんな吉継の身体を、俺は強く抱きしめる。
「お、お義父様、な、何を……ッ?!」
「我ながら唐突かなとは思ったのだけど」
「い、いえ、唐突とかそういう問題ではないですッ?!」
「しかし、誰のせいかといわれれば、それは吉継のせいなわけで」
「私の話を聞いてますか、お義父様ッ?!」


 娘の健気な覚悟に胸を打たれた父の当然の行動である。異論は認めない。
「――というわけで、しばらくこのままでいなさい」
「横暴ですよッ?!」
「それがどうした」
「開き直らないでくださいッ?!」
 ええい、だまらっしゃい。というか、あまりしゃべらせるな、素で泣きそうなんだから。


 先刻の吉継の言葉と姿、和尚や亡きご両親にぜひ見せてあげたかった。
 そんなことを思いながら、俺は心行くまで吉継の身体を抱きしめ続けたのであった。




◆◆




「ぐす、うう……」
 その少女が手に持った手拭は、涙を吸って重く濡れていた。
 少女は先刻から涙を拭き続けているのだが、それでもなお目からこぼれる雫は尽きる様子がない。
 落ち着かせるように優しく背を撫でながら、俺は首を傾げざるをえなかった。
 部屋にいたもう一人の人物に問いを向けてみる。
「……なんで長恵が泣いてるんだ?」
「……さあ、何ででしょうか?」
 そう答える吉継の頬は、先刻の抱擁の余韻でまだわずかに赤らんだままであった。   
 



 で、しばし後。
 ようやく落ち着きを取り戻した長恵は、赤くなった目をこすりつつ、頭を下げて詫びを口にした。
「……すみませんでした。師兄と姫様の姿を見ていて、思わず」
「いや、謝る必要はまったくないんだが……実は長恵って結構涙もろいのか?」
「そういうわけではないのですけど……」
「……目を兎みたいに赤くして言っても説得力がないのだが」
 ついそう言ってしまうと、長恵は俺から目を逸らしつつ釈明をはじめた。
「い、いえ、本当に。楽士の奏でる悲恋だの悲歌だのを聴いても、こうはなりませんよ? むしろあくびが止まらないくらいで……」
「まあ、それはそれでどんなものかと思うけど」
 俺は苦笑したが、人の好みはそれぞれだし、俺がどうこう言う筋合いはないだろう。


 長恵はその後も、自分は涙もろくない、という主旨のことをいくつか口にしたが、その最後に「ただ……」と困り顔で言い添えた。
「親子の絆とか、孝行娘とか、その類の話を聞くと、どうしてもこみ上げてくるものがありまして、何でなのか自分でも不思議なんですけど……もしかしたら、はじめて三国志を読んだときの、黄忠と黄叙のお話が印象的過ぎたのかもしれません」
 照れたようにそう言う長恵だったが、俺は内心で首を傾げた。黄忠と黄叙の話なんて、三国志にあったっけか??


 すると、思いがけず吉継が賛意を示した。
「それは私も少なからずありますね。荊州での劉家との出会いのくだりは、何度読み返したか知れません」
 そう言う吉継に対し、長恵はうれしげに頷いている。
 なにやらそれだけで話が通じているあたり、よほど有名なエピソードらしいが、はて?
 まあ天の御遣いとやらが出てくるらしいから、俺の知る三国志とは違っていて当然なのだろうが。


「ともあれ、師兄と姫様の抱擁は、私の心の琴線を、これでもか、というくらいにかき鳴らしたのです。うん、実に良いものを見せてもらいました」
 そう言って手まであわせる長恵を見て、先刻のことを思い出したのか、吉継が顔を真っ赤にさせ、うらめしげに俺を睨んできた。
「……お義父様」
「何度でも言うが、あれは吉継のせいですぞ」
「だから、なんで私のせいに――ッ」
 声を張り上げかけた吉継だが、不意にがくりと項垂れると、かぶりを振った。
 さっきから同じことを言い合っているので、いい加減に疲れたのだろう。
「……まあ、良いです。筑前で川に叩き落した件と、これでおあいこということにしておきましょう」
「む、すると髪を洗う件はご破算か?」
「当然ですッ」
 むう、それは残念。
 まあ、いずれ機会はまた来るだろう。





 そんなことを考えながら、吉継の銀髪に視線を向けていたのだが、そこでふとあることに気づいた。
 長恵は、吉継の容姿をはじめて目の当たりにしたわけだが、銀髪と紅瞳を見てどう感じたのだろうか。
 そんな俺の疑問に、長恵はあっさりと答える。
「姫様が何事かを秘しているのはわかっておりましたから、ああ、これがその理由なのか、と思いましたが」
 それだけらしい。
「うーん、あとは、こんなにお綺麗なのに、いつも顔を隠しているのはもったいないなあ、とも思いました。なにがしかの理由がおありなのだと推察しますが、いずれはそういうものを気にしないで済むようにしたいものですね」


 そう言って、長恵はどこか愉快そうに俺を見て、くすりと微笑んだ。
「まあ、私が言うまでもなく、師兄はそのつもりなのでしょうけれど」
「それはそのとおりだが、そうすると今度は相次ぐだろう縁談を蹴るのが面倒そうだというのが目下の悩みだ」
「たしかにこれほどの器量であれば、偏見さえなくなれば引く手数多でしょう。婿候補の方にはどう対処するつもりなんです?」
 吉継を嫁に出す、という選択肢が、俺の中に寸毫もないことを確信しているらしい長恵だった。
 まあ実際そのとおりだが。


「とりあえず、おとといきやがれと水をかけて追い払う」
「それでも帰らなかったら?」
「俺の屍を越えていけと刀を抜く」
「姫様の未来のだんな様に同情を禁じ得ません」
「なに、吉継から手を引けば見逃してやるさ」
「行かず後家となることが約束された姫様の未来に同情を禁じ得ません」
 などと長恵と言い合っていると、なにやらふるふると震えていた吉継が、我慢の限界とばかりに大声を張り上げた。



「――ああ、もう、いい加減にしてください、二人ともッ!!」
『ごめんなさい』



 先刻とは別の理由で顔を真っ赤にした吉継を見て、俺と長恵は揃ってはしゃぎすぎたことを反省するのだった。








 それからしばし後。
 吉継の怒りが収まるや、俺たちは改めて話し合いを行った。
 とはいえ、吉継の意思は明確であり、俺がそれを止める術を持たない以上、結論は一つしかありえない。
 そして俺と吉継が残る以上、長恵が他所へ行くはずもなく。
 結局、吉継も長恵も豊後に残ることになったのである。


 そうして、明日以降のことについて、俺たちが話し合っている最中のこと。
 不意に長恵が俺に問いを向けてきた。
「そういえば、師兄。褒美は思いのままなんですよね? 当主殿からもらった紙に何を書くつもりなんですか?」
 長恵の問いに、吉継も興味深そうな視線を送ってくる。
「確かに、それは聞いておくべきでした。望めば一城の主にさえなれるのですよね。その紙は、使い方次第でこちらの切り札になりそうですが……」
 その問いに対し、俺はあっさりと返答する。



「ああ、あれは燃やした」



 吉継が愕然とした様子で、目を瞠る。 
「燃やしたッ?!」
「うむ。道雪様にもらったその場で火にくべた」
 望めば一国一城の主になれたであろう夢の紙は、あっという間に灰になりました。
 俺がそう言うと、吉継はさらに問いを重ねてくる。
「どうして?!」
「いや、いらないし」
「いらッ?!」
「吉継、そう叫んでばかりだと喉に悪いぞ?」
「叫ばせているのは誰ですかッ!」
 ぜえはあ、と息を切らす吉継と、興味深そうにこちらを見つめる長恵。
  

 そんな二人に、俺は自分の行動の理由を説明する。
 といっても、別にそれほど大した理由はない。何でも望みが叶うということは、逆に言えば、それを見れば俺が何を望んでいるかがわかるということでもある。
 城を望めば野心があり、金を望めば欲があり、他者を掣肘しようとすれば敵意があることがわかってしまう。
 そう、つまるところ――
「大友家を救うために天からおりてきた救世主が、そんなものを持っているわけないよな?」


「……あ」
「……なるほど」
 俺の言葉を聞き、聡い少女たちは言わんとするところを悟ってくれたようだ。
「宗麟様がそうと意識していたのかはわからないが、あれは俺の為人を試すための道具だよ。もちろん、何を望んだって反故にはされなかっただろうけど、今の段階で宗麟様の信頼を失うのは絶対にまずい」
 そう考えると、道雪様の前で燃やすよりは、宗麟の前でそうした方がインパクトは強かったかもしれない。
 だが、一度でも自分の懐に入れてしまえば、あらぬ疑いを抱かれる恐れがあった。宗麟はともかく、カブラエルの耳にでも入れば、俺が燃やした紙が本物であったかどうか、確実に疑問を持つだろう。


 であれば、受け取ったその場で燃やしてしまった方が良い。道雪殿が嘘偽りを言うはずがないことは、宗麟も承知しているだろう。さらに、俺が受け取ったその場で、迷うことなく行動した事実は、宗麟の中の俺のイメージを確実に強めるに違いない。
 今の俺にとって、ほんのわずかでも宗麟に信を植えつけることが出来るなら、それは万金に優る価値があるのだ。


「そういうわけで、あの紙はもうない。切り札にはならな――のわッ?!」
 語尾に妙な声が出たのは、それまで黙っていた長恵が、不意に俺に顔を近づけてきたからである。
 さっき背を撫でていた関係上、俺と長恵の距離はとても近かったのだが、それを踏まえてなお、今の長恵の顔は近すぎる。
 本当に目と鼻の先に、ずずいっと顔を近づけられたのである。寸前まで気配を感じさせなかったあたりは、さすがに剣聖といえた――いや、さすがといっていいのかはわからんけど。


「ちょ、な、長恵?」
 おそるおそる声をかけるも、長恵は黙ったままである。
「何か……あ、や、まずはちょっと離れてほしいのだが……」
 さらに声をかけるが、それでも長恵は黙ったままである。
 怖いくらいに真剣な眼差しで、じっと見据えてくる長恵に対し、俺はどうしたものかと内心で大慌てだった。


 すると、不意に長恵が口を開いた。
「師兄」
「は、はい?」
 言葉を返すと、長恵はなにやらうんうんと頷いてみせた。
「うん、やっぱり師兄は実に良いです。姫様もとても素敵。あの時、師兄たちの方についていった方が面白いって思ったのは間違いじゃなかったです」
「む? それはどうも……」
「なので師兄、抱いて良いですか?」
「はいッ?!」
 なんでそうなる?!
 ……って、あれ、よく考えると、人のこと言えないのか、俺は。


「はい、では遠慮なく」
「ちょッ?!」
 なんだかわけがわからないうちに、長恵の胸に抱きすくめられる。
 慌てて離れようとしたのだが、さすがと言うべきか、長恵の力は尋常ではなく、容易に振りほどけそうにない。ゆえに俺はやむをえず――やむをえず、しばしの間、長恵のなすがままになるしかなかった。
 決して、細く引き締まってみえた腕が思ったより柔らかいな、とか、服越しに感じる胸の弾力が想像以上に凄いな、とか、そういったことに気をとられていたわけではないのである。



「……お義父様」
「ふぁい」
 妙な声になったのは、口が塞がれているためである。
 あわてて顔を動かし、かろうじて口は自由になったのだが――
「お忙しいようですので、私はこれで失れ――わぁッ?!」
「姫様もご一緒に」
「ちょ、な、長恵ど……お義父様、近い、近いですってばッ?!」
「こ、この状況で俺にそれを言ってもどうしようもないと思うわけですがッ?!」
「そ、それもそうですね。な、長恵殿、やめてくださ――ふぶッ」


 あわれ、吉継も長恵の胸に顔を埋める形になり。
 結局、長恵の気が済むまで、俺たち父娘は剣聖の腕の中で、赤くなった顔を付き合わせ続けたのであった。





[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第六章 聖都(四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:9e91782e
Date: 2010/12/17 21:02
 日向国佐土原城。
 伊東家第十代当主 伊東義祐(いとう よしすけ)は『三位入道』の呼び名で知られていた。
 これは義祐が朝廷から従三位に叙任されたことから付けられた名称であるが、義祐自身がみずから口にして広めていったという一面も持っている。
 従三位という位は、たとえば隣国の豊後大友家の当主である宗麟であっても遠く及ばないほどの高位である。みずからがその従三位であるという事実は、義祐の自尊心を満たすに十分な要因だったのである。


 ただ、それは同時に義祐の不満と鬱屈の裏返しでもあった。
 伊東家は日向の雄なる勢力の一つではあるが、日向全域を制しているわけではない。
 その地位を保つために、大友家と友好関係を保ちながら――より正確に言えば、その下に属することで勢力を広めてきたのである。


 自尊心の強い義祐にとって、女である宗麟に従うことは憤懣やる方ないことであった。
 また義祐は仏教に深く帰依しており、都から職人を招いて大仏殿を造り、さらには金閣寺を模した寺社を建立するなど、精力的に自身と仏教の権威を拡大しようとしてきた。
 その義祐にとって、南蛮神教に傾倒する宗麟に従うことがどれだけの屈辱であるかは言を俟たない。いずれ時が至れば、大友家の麾下から離脱せんとの思いは揺るがぬものであった。



 では、その『時』とは何時を指すのか。
 その答えは、日向南部の要衝たる飫肥城および要港たる油津を、島津家から奪取した時、であった。
 領内に良港を持たない伊東家にとって、薩摩島津家が押さえる飫肥城の奪取は累代の悲願といっても良い。飫肥城と油津の港をめぐる両家の戦の始まりは、義祐がこの世に生を受ける前まで遡るのである。


 飫肥城を陥とし、油津の港を得ることが出来れば、伊東家の国力は飛躍的に増し、同時に重要な収入源を奪われた島津家は国力を大きく損なうことになる。
 そうなれば、大隅国の肝付家、肥後の相良家を語らって島津を潰すことは容易い、と義祐は考えていた。そして島津という後顧の憂いさえなくなれば、忌わしい大友家と正面から戦うことが出来る、と。
 伊東家と大友家、両家の国力は天地の開きがあるように見えるが、大友家に従っている義祐は、大友家内部で起きている相克を察知しており、そこをうまく衝けば勝算は十分にあると踏んでいたのである。



 だが、そんな義祐の思惑を嘲笑うかのように事態は急変する。
 動いたのは南北の強敵の中の南側、薩摩島津家。
 島津家は先代当主貴久亡き後、後を継いだ義久の無能と凡庸ゆえに、薩摩と日向の自領を守るのに汲々としていると思わていた。
 義祐はこれを好機と捉え、島津家に使者を向けて威圧し、また、盟友である肝付家とはかって薩摩に手を伸ばすなど、その勢力を殺ぐことに務めてきた。先年、薩摩南部の国人の一つ、頴娃家が叛乱を起こしたのも義祐の扇動によるものであった。


 現在の島津家は宗家の四人の姫が中心となって動いているという。しかも末姫はまだ童といっても良い年齢である。つまりは、それほどまでに現在の島津家中は人材が払底しているということ。頴娃家もそんな島津を見限って叛乱に踏み切ったのである。
 だが、頴娃家の叛乱は思いもよらない早さで鎮圧されてしまう。それどころか、南部の叛乱を片付けるや、島津家はその余勢を駆って、突如として薩摩北部へ兵を向けたのである。


 その第一報を聞いたとき、義祐は鼻で笑った。小娘共が、一度の勝利で図に乗ったか、と。
 しかし、島津の動きは十全の準備と、高度な戦略に基づくものであった。 
 薩摩統一のために必要となる戦力と、それを支える国力。この二つを、他国に悟られぬよう時間をかけて養ってきた島津家は、今こそ薩摩統一の好機と捉え、宗家の四姫がみずから前線に立つ一大攻勢を開始、この島津軍の猛威の前に北薩に割拠していた反島津の国人衆はひとたまりもなく蹴散らされ、また援軍として薩摩に入った相良家、肝付家の軍勢も大敗を喫する。
 その報告を受けた義祐は、しかしそれを偽報と信じて疑わず、当然援軍を向けようともしなかったのである。
 あの柔弱な義久と、それに従う腑抜けたちが、報告にあるような見事な戦の冴えを見せるはずがないではないか、と。


 その伊東家の狐疑逡巡とは対照的に、島津家の行動は迅速を極めた。
 薩摩を制圧した島津は、さらに兵を展開。飫肥城の防備を固めて伊東家に備えると同時に、日向、大隅間の連絡を絶ち、孤立した大隅国へ侵攻する気配を見せたのである。
 肝付家の当主 肝付兼続(きもつき かねつぐ)は、島津家の先代貴久や、先々代忠良らと幾度も矛を交えてきた古豪の武士であり、領内の整備にも意を用いる有能な君主だった。
 しかし、その兼続といえど、勢いに乗った島津軍の攻勢を孤軍で支えることは不可能であった。
 くわえて、すでに北薩における戦いで少なからぬ損害を被っていた兼続は、腰の重い義祐に援軍を求める使者を差し向ける。
 肝付家の使者は途中、島津家の軍勢に発見され、手勢の半ば以上を討たれるも、自身はかろうじて戦場を離脱し、佐土原城へとたどり着くことに成功する。
 その使者の口から、一連の報告がすべて真実であると知った義祐は、驚きと怒りのあまり、しばらく口を開くことさえ出来ずにいた。 



 それでも、過去、勇猛を誇る薩摩隼人を相手に、一歩も引かずに戦い続けてきた伊東家の当主は、我に返るや、配下に対してただちに兵を集めるように命じる。
 同時に、豊後の大友家に対し、島津討伐のための援軍を求める使者を向けようとした。
 大友家に援軍を請うなど業腹だが、背に腹はかえられぬ。それに大友家と島津家が相撃てば、兵法の理にもかなうというものだ――それが義祐の考えであった。


 だが、その使者が城を発つ寸前のこと。土煙と共に北方から一騎の使者が佐土原城の門を潜り抜ける。
 日向北部の県(あがた)城主 土持親成(つちもち ちかしげ)から遣わされたその使者は、血相をかえて義祐に報告した。




 豊後の大友宗麟、突如、兵を催して国境を突破。
 南蛮宗徒を中心として、その数、おおよそ三万。口々に南蛮神教の聖句をとなえながら、各地の寺社仏閣を打ち壊しつつ軍を進めており、その勢い当たるべからず。速やかなる援兵を請う。




 さらに使者は、血を吐くような表情で報告を続けた。
「大友軍は此度の侵攻を先の南蛮宗徒虐殺に対する報復とし、我が国の寺社勢力およびそれに与する者たちの殲滅をうたっており、降伏を認めず、捕虜も取らぬと言明! すでに十を越える城砦が陥落し、五ヶ瀬川以北は地獄と化しておりますッ!」
「……待て、ひとまず待て。虐殺に対する報復とは、何のことだッ?!」
「そ、それが判然とせず……大友家からの一方的な通達によりますれば、豊後と日向の国境にあった南蛮神教の寺院が異教徒によって焼き討ちにされた、と。付近の大友軍が駆けつけた際には、寺院と、寺院があった村がすべて灰と化しており、わずかに生き残った者たちの口から出た下手人の正体が……」
「日向の者だったとでも言うのか?! ばかな、濡れ衣もはなはだしいわッ!」


 義祐の怒号に、使者は身を縮めてかしこまる。
「は。無論、我が殿も大友家の使者に対し、その旨を伝えたのですが、あやつらは聞く耳もたぬとすぐに城を去り……殿はただちに重臣たちを集め、対策を練ろうとしたのですが、使者が城を出て一刻と経たぬうちに、国境より大友軍襲来の報告が……ッ!」
 義祐は息をのむ。その大友軍の行動が意味するものは――


「問答無用というわけか……宗麟めがッ!」
 怒声をあげる義祐。
 だが、この場で大友家の悪辣をののしっても始まらぬ。
 義祐は、この大友軍の奇襲が、こちらの心底――島津を片付けた後、大友から離反する――を見抜いたゆえの先制攻撃だと考えた。
 してやられたことは否定できぬ。ここから戦況を巻き返すのは難しいが、しかし手段がないわけではない。現在の大友軍が疲弊しているのは、隠しようもない事実なのだから。


「大友軍は三万といったか? 今の大友に、それだけの兵を集める余力があるとは思えぬ。現にやつら、筑前に大軍を差し向けて間もないではないか。一体どうやってその数を確かめた?」
「前線から逃げ延びてきた兵や民、くわえて各地に出した斥候の報告をまとめた上での判断です。しかし、すでに五ヶ瀬川以北は大友軍の支配下にあり、情報を得るのも容易ではありませぬ。豊後からの援軍が加わっていれば、あるいはさらに敵の数は増すやもしれませぬ」
 義祐は舌打ちをしてから、さらに問いを続ける。
「南蛮宗徒を中心に、といっておったな。すると訓練された大友武士ではないということか?」
「御意にございます。おそらくはろくに訓練も受けておらぬと思われる雑兵が大半です。しかし、いずれも武具は立派なもので、それらが犠牲をものともせずに雲霞のごとく攻め寄せてくるため、多くの城が成す術もなく――」
 使者は唇を噛む。だが、まだ伝えなければならないことがあった。
 その凶報を口にする。
「しかも南蛮勢力が前面的に合力しているらしく、信じられぬ数の鉄砲に加え、海上から南蛮船が砲撃を加えてきております。そのため、我が軍の将兵の中からも怖気をふるう者が続出しており、このままでは一戦まじえることすら出来ずに退くしかない、というのが殿のお言葉でございます……」
  
 
 南の島津。北の大友。
 いずれか一方だけでも厄介な敵である両家が、時を同じくして攻め寄せてくる。
 はたしてこれは偶然なのか、との疑問が義祐の脳裏をよぎるが、今は事の真相を確かめている暇はない。身体にかかる火の粉は払わねばならないが、二正面作戦をするほどの余裕があるわけはない。
 であれば、まず戦うべきは――
「……兼続からの使者は、まだこのことを知らぬな?」
 その問いに、別の家臣が頷いた。
「は、一室で休んでもらっておりますので、ご存知ないかと」
「よし、大友の件は伝えるな。援軍が来ぬとわかれば、凌げるものも凌げなくなろう」
「承知仕りました」


 そう言って家臣が去るのを見届けるや、義祐は土持家からの使者に向き直った。
「役目大儀であった。聞いたとおり、すぐにでも兵を集め、県の救援に赴くであろう。そなたはこの城で休むが良い。代わりに我が配下を親成に遣わそう」
「有難き仰せですが、城では朋輩たちが生死を賭して戦っておりましょう。それがしも共に戦いたく存じまする」
「……そうか。ならば止めまい。県城で会おうぞ」
「ははッ!」




 

「殿、馬廻り衆を含めて三百ほどはすぐ出せますが、いかがなさいますか?」
 南北双方の使者が城から去った後、側近からそう問われた義祐はあっさりとかぶりを振る。
「急ぐ必要はない。何日かかろうと、現状で集められるだけの兵をこの城に集めるのだ」
「……は? し、しかし県城への援兵はいかがなさるのですか?」
「言ったであろうが。援兵が来ぬとわかれば、凌げるものも凌げなくなる、と」
 一瞬、主君の言った言葉の意味をはかりかねた側近だったが、すぐにその意を察した。
 義祐は肝付家だけでなく、県城へも援軍を向けるつもりがないのだ、と。
 ――それはつまり、県城を捨石とする、ということであった。



「県城を攻撃するためには五ヶ瀬川を越えねばならぬ。渡河の最中ならば、大軍相手でも付け入る隙はあろう。城に攻め込まれたとて、あの城は『千人殺し』の石垣もある。そうたやすくは陥ちまいよ。その間に、情報を集め、しかるべき手を打つ。それがもっとも親成の助けになろう」
「御意にございます」
 主君の意を察した側近は心得たように頭を下げる。
 だが、それは主君の非情の決断に納得したというよりも、目に浮かぶ非難の色を読まれないためであった。





◆◆◆





 日向国五ヶ瀬川河口付近。
 南蛮船の艦上にあって、カブラエルは渡河を果たしつつある大友軍を――聖戦に従う十字軍を遠目に見て、満足そうに幾度も頷いた。
 通常、困難を伴う大軍の渡河だが、南蛮船からの砲撃を恐れた土持勢は県城から出ることはなく。
 万を越える大軍が川を渡った時点で、事実上、南蛮神教の勝利は確定したといってよい。



「――勝ったな。まあ所詮は異教徒、我ら神の使徒の軍勢が負けるなどありえぬが」
 その声はカブラエルのすぐ後ろから聞こえてきた。
 振り返れば、そこには金髪碧眼の美丈夫が、カブラエルと同じように県城の方角を見据えている。
 不遜なほどに自信に満ちた顔と言葉は、現在のゴア総督を想起させるが、今、カブラエルの眼前にいる人物は、カブラエル自身よりなお若い。この人物はあのアルブケルケではありえなかった。
 その一方で、この若者は確かにアルブケルケであった。
 その意味するところは――


「しかし、まさかフランシスコ様が直々に参られるとは。御父上がよく許されましたね」
 カブラエルの問いに、フランシスコ・デ・アルブケルケは苦笑じみた表情を浮かべる。
「なに、カブラエルよ、貴様が送ってくるこの国の民に、ちと興味を覚えてね。まあおかげで父上から余計な任も受けてしまったわけだが」
「ドールの件は私の不手際。ご迷惑をおかけして申し訳なく思っております」
「謝罪は直接、父上にすることだ。まあ今回で片付ければ、お怒りもしずまろうさ」
 そう言うと、インド副王の息子は彼方の光景から視線を外すと、カブラエルに声をかけることもせず、そのまま踵を返して船室へと戻っていってしまった。
 そんな自侭な王子の後姿に、カブラエルは苦笑まじりに頭を下げる。


 と、その時、もう一つの視線が自分に向けられていることにカブラエルは気づく。
 先刻から影のように佇んでいた一人の女性騎士。亜麻色の髪と青色の瞳を持つその騎士の顔は、どこか険があるように見て取れた。
 その理由を知るカブラエルは小さく肩をすくめて、その騎士に呼びかける。
「トリスタン殿、まだ私をお疑いですか?」
「……疑ってはいないわ。ただ都合が良すぎると思っているだけ。戦いを知らぬ信徒を戦に駆り立てる準備が整い、殿下がこの地に着くのを待っていたように、同胞たちが敵の手にかかって殺されるなんてね」


 トリスタンの鋭い眼差しに、カブラエルはかぶりを振る、
「それは不幸な偶然であると何度も繰り返しお話ししたと思いますが? 私はこの地に住まうようになってから、多くの信徒を導いてきました。彼らはみな、私の子のようなものです。我が子を陰謀の犠牲にするなどという暴挙を、神がお許しになるはずがないでしょう?」
「……ええ、その言葉が真であれば、本当に良いのですけどね」
 そう言うや、トリスタンもまた踵を返す。
 カブラエルは特に引き止めるでもなく、その背に視線を向けていたが、すぐに興味を失ったように再び県城へと視線を戻した。




 県城は南北を川にはさまれた天然の要害であるが、万を越える軍勢にひた押しに寄せられれば、数刻ともつまい。
 城を陥とした後は、この地の異教を徹底的に撲滅し、聖都の建設に取り掛かる。
 古来より、文明は水と共にあった。新たな南蛮神教の拠点として、ここより相応しい場所は見当たらぬ。
 この地に関しては、すべてがカブラエルの計画どおりに進んでいるといえた。






 ――そう、この地に関しては。
 カブラエルはその思考に引っかかりを覚え、わずかに眉をひそめた。
 そして、すぐに違和感の正体を探り当てる。
「問題は高千穂の方ですか。宗麟が妙なことを言っていましたが……」
 天孫降臨の地とうたい、日の本の民の崇敬を集める高千穂には、当然のように多くの神社が立ち並ぶ。高千穂地方は峻険な山脈に閉ざされており、足を運ぶのも容易ではないのだが、高千穂をおとずれる者が途絶えることはなかった。


 日の本の人々にとっては尊重すべき霊所。
 しかし、南蛮神教を奉じるカブラエルにとっては唾棄すべき異教の総本山に等しい。これを撃滅するに、髪の毛一筋の葛藤も感じるものではない。
 当然、そちらにも十字軍の一部を向けてはいるのだが……
「救世主、ですか。宗麟も愚かなことを。このような蛮夷の地に、神の使徒が降るはずがないというに」
 宗麟が見出したという「大友の救世主」に対し、カブラエルは侮蔑もあらわに吐き捨てる。


 救世主という言葉は軽々しく扱われるものではない。常のカブラエルならば宗麟にそう聡し、ただちに改めさせたであろう。むしろ我が手で、その人物の化けの皮を剥がしてやろうとしたかもしれない。これまでも異教の神や仏の名をもって宗麟に近づいてきた者たちを、宗麟の眼前でことごとく――否、角隈石宗ただ一人を除き、論破してきたカブラエルであったからだ。
 だが、今回に限り、カブラエルは件の「救世主」の排斥を口にしなかった。より正確に言えば、出来なかったのだ。
 その救世主を戸次誾に仕えさえる、という自身の考えに、宗麟が固執したからである。



 カブラエルは宗麟の過去をことごとく把握していた。
 宗麟自身が口にしたからであり、単純に知識だけでいうなら、大友家中の誰よりも宗麟に近しいといえる。
 その知識と神の愛をもって宗麟の心身を篭絡し、思うが侭に布教を推し進めてきたカブラエルに対し、宗麟は基本的に服従の立場を貫いている。宗麟に向けられたカブラエルの言葉を覆すことが出来たのは、角隈石宗と戸次道雪くらいであろう。
 角隈はすでに死に、戸次道雪改め立花道雪は筑前に赴いた。
 今のカブラエルの言葉を否定できる者は大友家中には誰もいない――しかし、ただ一つ、宗麟自身がカブラエルの言葉を越える意思を見せる事柄があるのだ。


 戸次誾、洗礼名イザヤという人物。あの少年に関することだけは、宗麟はいまだ強い意志を示す。
 宗麟の過去を知るカブラエルは、宗麟があの少年に拘る理由を察していた。南蛮神教への信仰と、亡き親友の子に対する愛情。この二つが競合したとき、宗麟がどうなるのかは、カブラエルといえどわからない。
 だからこそ、これまでそういう事態は避けるべく務めてきた。カブラエルが戸次道雪の本格的な排除に動かなかった理由のひとつは、あの少年にあったのである。


 救世主とやらの存在は片腹痛いが、ここであえて異見を掲げれば、誾に対して救世主を付け、その安全と武運を祈ろうとしている宗麟がどう反応するかが読みきれなかった。まさかいきなりカブラエルに反抗するとも思えないが、なにがしかの不審を抱かれる恐れはある。
 カブラエルにとって、聖都が完成するその時までは、大友家の力は有用なものである。無論、大友家無しでも事は成就しえるが、今この時、あえて宗麟との間に隙を生じさせる必要はない――カブラエルはそう判断したのである。



 それゆえ、戸次誾を総大将とする別働隊に関してはカブラエルの意が及んでいない――というよりも、正確に言えば、カブラエルはあえて何もしなかった。
 別働隊の主力は南蛮神教の信徒たちであり、カブラエルが何もせずとも、虐殺された同胞の報復の念と、異教に対する敵愾心は滾り立っている。だから、あえて動く必要を認めなかった、という点が一つ。
 もう一つは相手の狙いを見定めるためであった。


 雲居とやらいう男は、宗麟が渡した褒美の委任状をその場で焼き捨てたという。その行動に宗麟はいたく感じ入り、救世主への信を積み上げていた。
 カブラエルにとっては最後の仕上げともいうべきこの時期に、突如あらわれた救世主――ただの道化なのか、それともそれ以外の何かを秘めている人物なのか。この戦の結果次第で、相手の狙いも見えてくるだろう。
 とはいえ、カブラエルにとって、それは大事の前の小事、自称救世主の三文芝居など本来ならまったく見る必要もないのだが……その相手が、ゴア総督執心のドールと共にあるならば、話は別だった。


 ドール――大谷吉継に関しては、いつでも手にいれられると思えばこそ、これまでとくに注意を払っていなかったのだが、今の段階で吉継を確保しようとすれば、雲居なぞはどうでも良いとしても、雲居が仕える誾を敵にしかねない。そして誾に手出しをすれば、その影響は宗麟にまで及んでしまう。
 先刻、フランシスコに詫びた不手際とは、その現状を指していた。
「……もっとも、最終的に大友家も潰す以上、手にいれるのが早いか遅いかの違いしかないのですがね。しかし、あまり遅れれば閣下のお怒りに触れてしまいます。まったく、面倒なことをしてくれますね、救世主とやら」


 カブラエルは忌々しげに舌打ちをする。
 とはいえ、雲居が何を企んでいようと、もはや流れは止められない。今回の戦いで醜態を晒せば良し、晒さぬならばしかるべき手を打つだけのことだ。
 カブラエルはそう考え、その考えに満足して、それ以上の手を打とうとはしなかった。


 この時、カブラエルは気づいていなかった。
 自身が以前、件の救世主と顔をあわせていることに。
 さらに言えば、たとえ誰かにそのことを指摘されたとしても、カブラエルは雲居の存在を思い出すことは出来なかったかもしれない。
 角隈屋敷で吉継の名代として出てきた相手。今も吉継と共にいる相手。その共通点があってなお、カブラエルは雲居筑前の顔を思い出せない。
 それほどに角隈屋敷での雲居の印象は淡く、薄く、カブラエルはひとかけらの警戒心も抱かなかったのである。


 当の相手が、そうあれかしと望んだとおりに……







 これより一刻の後、県城主 土持親成は城を捨てて退却、県城は陥落した。
 これにより、日向の北部沿岸はことごとく大友領となり、九国探題たる大友家はさらにその勢威を広げることとなる。
 しかし、それは同時に、あまりに大きくなりすぎた大友家に対する警戒と脅威の念を育むことでもあった。
 戦に先立つ虐殺と、それに対するあまりに速やかな大友軍の報復行動、さらには日向北部の寺社仏閣がことごとく焼き払われた事実。それらが九国全土に伝わるや、伝え聞いた者たちは等しく大友家にこれまで以上の警戒心を抱き、ある一つの結論に達することになる。
 だが、彼らが足並みを揃えるまでには、今しばらくの時が必要であり。
 ゆえに、南蛮神教の猛威をさえぎるものを国外に見出すことは、今の時点では出来なかったのである。






◆◆◆






 日向国 大友軍別働隊本営。
 高千穂方面の制圧を命じられた大友軍内にあって、別働隊を率いる戸次誾は苛立ちを隠しきれずにいた。
 一軍の将たるもの、勝って騒がず、負けて動じず、常に冷静沈着であれ、とは義母から繰り返し叩き込まれた将としての心得であったが、頭で理解することと、それを実践することは天と地ほどに違う。
 そのことを、誾は心の底から実感していた。


「十時殿、雲居殿はまだ来ませんか?」
「……は、いまだ。先刻出て行かれた時の言葉では、間もなく戻られるかと思いますが」
「総大将である私に何も言わず、一体、何をしているのかッ」
 みずからが発する言葉に、現在の戦況に対する焦りがにじみ出ていることを感じた誾は、唇をかみしめて内心の苛立ちを押し殺す。
 

 誾にとって、今回の戦ははじめから不本意の連続であった。否、戦に先立つ諸々も含めて、すべて不本意だと断言しても良い。
 宗麟の命令で戸次家を継いだ――継がされたことも。敬愛する道雪、紹運から引き離されたことも。この戦う意味さえ定かではない戦の、一方の指揮官に任ぜられたことも。そして、氏素性の知れない人間を側近として押し付けられたことも、何もかも。


 だが同時に、そのうちの幾つかは誾自身が望んで選択したものでもあった。
 それゆえに、こぼれ出る不満と不安に蓋をしなければならぬ。だが、ただそれだけでさえ容易ではない。
 道雪の下で九国最高とも謳われた戸次勢、その新たな当主としての初陣に七千を越える大軍を預けられ、ともすれば暴走しようとする麾下の将兵をしずめながら、峻険な山脈を踏破していく――年端もいかない少年にとって、課せられた責任はあまりにも重い。 


 そんな年少者の焦りに気づかないほど、戸次家の家臣の質は低くない。低くないのだが――
「…………むう」
 十時連貞は表情こそ変えていなかったが、その目にはわずかに困惑の色が漂っていた。
 南蛮宗徒の過剰な戦意を押さえつけることならば可能だが、年少の主君の心のひだをすくいとるような言動は連貞には難しい。
 本来ならば、こう言った時にこそ弁が立つ雲居が誾の傍にいるべきなのだが――
『ばれると、後々、色々と面倒になるのですよ。それがしであれば何とでも言い抜けられますが、戸次家に仕える連貞殿では弁明も容易ではありますまい。ここは黙って行かせてくだされ』
 そう言って、少数の兵を引き連れてさっさと陣を出て行ってしまった雲居の姿を思い起こし、連貞は小さくため息を吐いた。







「なにが知略縦横の士か。こんな泥沼のような戦いをふせぐことも出来なかったのに」
 自信に満ちた宗麟の言葉を思い出し、誾は知らずそんな不満をこぼしてしまう。
 だが、それが八つ当たりであることは、誰に指摘されるまでもなく誾もわかっていた。
 南蛮神教の寺院が、日向の武士に焼き払われたという報告が府内に届き、その報復として信徒を中心とした大軍が編成され、日向への侵攻が始まる――その一連の流れはあまりに速やかであり、一家臣がどうこうできるような状況ではなかったからだ。
 あるいは道雪であれば、出陣を止めるが出来たかもしれない、と誾は思う。
 だが道雪は筑前を離れることが出来ず、さらに言えば、仮に道雪が府内に駆け戻ったところで、本当に今回の出兵を防ぐことが出来るか、と再度自問すれば、答えは容易に出なかった。


 それほどまでに、現在の豊後は狂騒的な状況にある。
 南蛮神教の信徒は無論のこと、信徒以外の民でさえ、無辜の村人たちを血祭りにあげた隣国を討つべしとの声を高めており、慎重論を唱える者はそれだけで排斥された。聞けば、私刑じみた行いが横行しているとの噂さえある。
 この城下の声は、大友館の内部にも影響した。なにより大友館の主が、城下の民と同じ感情に支配されており、虐殺の真偽や、南蛮神教の早すぎる対応に不審を覚える者たちも、口を噤まざるを得なかったのである。


  

 だが、それでも誾は宗麟を諫止しようとした。
 少なくとも、虐殺に関する情報が間違いがないと確認できるまでは兵を動かすべきではない、と。
 道雪であれば、きっとそうしたに違いない。誾はそう考えたのである。


 しかし。
『なりません』
 誾を止めたのは、雲居筑前であった。
 その顔はやや青ざめていたものの声は明晰であり、その明晰さを保ったまま、雲居は誾にとって忌むべき進言を行ってきた。


 それは要約すれば、この戦は止められない、というものだった。
 あまりに早い事態の進行は、背後で糸を引く者の存在を無言のうちに知らしめている。彼らが、おそらくは何年もかけて準備してきたであろう今回の戦いを、今の段階から声を張り上げたところで、止めることは不可能だ、と雲居は口にしたのである。
 当然のように誾は反論した。
 ならば、このまま手をつかねて傍観していろというのか、と。
 すると、雲居は――



◆◆




「傍観しろなどとは申しませぬ。賛同なさいませ。日向の怨敵を討つは今この時である、と」
「なんだとッ?!」
 それまでかろうじて保持していた相手への礼儀を、この瞬間、誾は手放した。
「ふざけるな、こんな戦に賛同しろだと?! 戸次家の、義母上の名に泥を塗れというのかッ?!」
 そう言った途端、誾は右の手にかたい感触を感じた。それは刀の柄。無意識のうちに、腰の刀に手を伸ばしていたのである。


 そんな誾の動作に気づいていないはずはないだろうに、雲居はあっさりと首を縦に振る。
「しかり。それが今、戸次がうてる最善の手でございましょう」
「……それが、救世主殿の進言か? 宗麟様に媚を売り、南蛮神教に膝を屈して生きろと? それが戸次家当主たる私がとれる最善の手だというのかッ?! 答えよッ! 返答次第ではただではおかないぞ、雲居筑前ッ!」
 

 そう言って激昂する誾を前に、雲居は冷静を保ったまま――はっきりと頷いてみせた。


 抜刀から斬撃まで、かかった時間はごくわずか。もしこの場に丸目長恵がいれば、誾の剣術の切れ味の鋭さに賛嘆の意を示したであろう。
 ほんの一呼吸の間に、雲居の首筋には刀が擬されていた――否、刃ははっきりと雲居の首に食い込み、血がにじみ出ていた。しかし、雲居は眉一つ動かさず、誾をじっと見据えている。


 誾の口から、うめくような声がもれた。
「……説明しろ」
「このままでは、多くの犠牲が出ます。敵にも味方にも。兵にも民にも」
 それは豊後を覆う狂騒ぶりを見れば、誰の目にも明らかであった。
 ことに同胞を殺された南蛮宗徒たちは、口々に報復の大義を唱え、卑劣な異教を滅ぼす聖戦を渇望している。
 それが何者かによって導かれた狂熱であるとしても、一度燃え上がったそれを鎮めることは不可能に近かった。大友軍の進路に位置する村や寺社、町や城は、人と建物とを問わず、ことごとく焼き払われるであろう。


「そんなことはわかっている! だから、なんとしても止めないといけないんじゃないかッ! なのに、どうして賛同しなければいけないんだッ?!」
「戸次家がひとり反対を唱えたところで、止めることはかないません。それは誾様もわかっておられましょう? 吉弘や臼杵などの諸家と語らって諫止しようと、宗麟様が思いとどまることはありますまい。さらに言えば、仮に宗麟様が思いとどまったとしても、南蛮宗徒たちは止まりませぬ。大友という枠すら越えて、南蛮神教が日向に侵攻してしまえば、それこそ事態は取り返しがつかないものとなってしまいます」
 いまだ冷静さを保つ雲居の表情と言葉は、誾にとってこれ以上ないほどに忌々しい。忌々しいが……その内容は誾にも頷けるものであった。


 そして。
 誾は雲居の最後の言葉に違和感を覚えた。
 ここでようやく刀を引きながら、雲居に問いを向ける。
「南神宗徒が暴走すれば取り返しがつかなくなる……? それはつまり、まだ今の段階ならば取り返しがつくということか?」
「取り返しがつく、という言葉にどれだけの意味を込めるかにもよりますが……少なくとも、これを大友家滅亡の端緒にさせるつもりはありません。その意味でいえば……」
 と、ここで雲居は何かを口にしかけたのだが、小さくかぶりを振ってその言葉をのみこんだ。
 無論、誾は怪訝に思い、問いかけようとしたのだが、雲居が構わずに言葉を続けたため、その言葉は飲み込まざるをえなかった。


「さきほども申し上げましたように、誾様はただちに宗麟様に対し、此度の戦が正当である旨、言上なさいませ。その上で、みずからがこの征伐軍を率いたいと望まれるがよろしいかと」
「なに……? それはどういう……」
「この戦は止められずとも、戦で生じる被害をおさえることは可能です。そのためには、他の諸将や南蛮神教をおさえられるだけの権限が必要。征伐軍を率いる立場に立つことが出来れば――」
 その雲居の言葉に、誾はわずかに息をのむ。それは、誾が考えてもいなかった方策であった。


 しかし、雲居はみずからの言葉にかぶりを振って見せる。
「無論、そううまくは運びますまい。ことに此度の動乱の影で糸を引く者どもが、他者に主導権を渡すとは考えにくい。ですが、誾様の言葉であれば宗麟様も無下にはできませぬ。本軍の指揮が無理なのであれば、高千穂へ向かう別働隊の方を。おそらくこれならば拒否されることはないでしょう」
「……そうすれば、少なくとも別働隊に関してはいらぬ戦禍を撒き散らさないように出来る、というわけか」
「御意」
 頷く雲居の顔に視線を向けつつ、誾ははじめて進言を真剣に検討した。


 なるほど、確かにここで反対を唱えて戦から遠ざけられるよりは、進んで賛成を口にして、征伐軍の主要な地位を得た方が被害を少なくすることは出来る。
 吉弘家をはじめとした同紋衆の多くが沈黙を守る中、戸次家を継いだ誾が真っ先に賛成すれば宗麟の心証も良くなろう。くわえて言えば、あまり考えたくないことだが、宗麟が誾に特別な感情をもっていることも、この推測を補完する材料になる――いや。


(……そうか、はじめからそれを計算にいれての進言か)
 宗麟が執心する誾であればこそ、影で糸を引く者――十の内、十までが南蛮神教であろうが――の思惑を越えて、宗麟に働きかけることができる。連中のたくらみにこちらの考えを割り込ませることが出来るというのが、雲居の考えなのだろう。
 だが、それが可能であるならば、戦そのものを止める術もあるのではないか。どうしても誾はそう考えてしまう。


 そんな誾に対して、雲居は――
「宗麟様を説得する術が仮にあったとしても……さきほども申しあげたとおり、南蛮神教は止まりますまい。此度の戦の主力は間違いなく彼らの宗徒。戦力だけを見れば、大友軍など不要なのです」
 聖戦を唱えて各地から集結しつつある南蛮宗徒の数は三万を越え、さらにいまだに数を増やしつつある。もしやすると四万を越えるかもしれない。
 そんな彼らに対し、カブラエルらは豊富な武器糧食を提供しているのだ。その資金と兵糧の充実振りは、もはや一国に匹敵する。
 彼らは宗麟が意思を翻し、戦を許可しないといっても勝手に出撃して勝手に勝ってしまうだろう。


「……そうなれば、南蛮神教はもはや大友家の下にとどまってはいますまい。彼らは彼らの国を日向につくってしまうでしょう。そうなれば九国の他の勢力は、間違いなくその排除に動きます。大友家もまた、南蛮神教に与するものとして、四方八方から攻め込まれることになるでしょう」
 この時、うまく立ち回って南蛮神教に対する包囲網に加わることが出来れば、それが最善なのだが、これまでの大友家の国歩を見れば、南蛮神教と袂を分かちましたと宣言しても誰も信じないであろう。かりに信じてもらえたとしても、それで諸国が大友家に向ける敵意が減じるわけでもない。
 大友家が南蛮の力を背景に、周辺諸国を威圧して勢力を伸ばしてきたことはまぎれもない事実なのだから。



「……それは、そう、貴殿の言うとおりかもしれない。でも、このままの状態でも、結局は同じことになるのではないですか?」
 雲居の意図を知った誾は、先刻手放した礼儀を再び拾い上げ、雲居に問いかける。
 なるほど、たしかに南蛮神教が暴走すれば、大友家は危機に瀕する。だが、大友家と南蛮神教が今の関係を続けていっても結果はかわらないのではないか。誾にはそう思えるのだ。


 そんな誾の考えに、雲居は頷いてみせる。
「そのとおりです。南蛮神教が独立しようが、あるいは大友家が形の上では彼らの上に立っていようが、他国から見れば脅威であることに違いはないですからね。遠からず、大友家は窮地に立たされることになる――いえ、もうすでに窮地に立っていると考えるべきですか」
「……なッ、それでは……」
 それでは意味がないではないか。そう口にしようとした誾に対し、雲居はなおも言葉を続ける。


「色々と言い立ててしまいましたので、整理しましょう。要は、今の段階で南蛮神教の目論見を砕く手段はない――少なくともそれがしには見出せません。猶予はないとは思っていましたが、まさかこういう手で来るとはね……」
 そこで、はじめて雲居の表情が苦々しげに歪むが、その表情はすぐに消え去った。
 今はそんな感情に拘っている時ではない。そのことを自身と誾に知らしめるように。
「その事実に立った上で、可能なかぎり被害を減らし、悪評を食い止め、時間を稼ぐ――それが、今できる最善の手だとそれがしは考えます。そのためには――」




◆◆



  
(そのためには、戸次誾という人物が動かなければならない、か。好き勝手を言ってくれる)
 そう考えたものの、誾は結局のところ雲居の考えにそって動いた。
 戸次家の家名に泥を塗ることになるかもしれない。その恐れはあったが、それでも蚊帳の外で、したり顔で危惧を訴え続けるよりはどれだけましであるか知れない。そう考えたのだ。


 しかし、実際に兵を率いてみれば、その労苦は想像を絶していた。
 誾に預けられた兵力は七千。戸次勢が千、田北、佐伯家らの軍勢が千、それ以外――つまり五千近くが南蛮宗徒なのである。
 報復と異教排斥の熱に浮かされた彼らは、みずからの数を頼んで誾の命をまともに聞こうとしない。それどころか、なるべく無駄な血を流すまいと努める誾に対して、敵であり、異教徒である相手にどうして情けをかけるのか、それが神の使徒を率いる者のすることか、と抗議してくる者さえいる有様だった。


 すでに誾が率いる大友軍は、高千穂四十八塁と称される敵の備えの三つまでを抜き、高千穂へと足を踏み入れている。
 それでも、まだこのあたりは豊後との国境に近く、砦以外は寒村がところどころに点在するくらいであったから、誾はかろうじて自軍をおさえることができていた。
 しかし、これから高千穂の中枢に進んでいけば、当然、人の数は増えていくし、寺社も多くなってくる。このままでは、まず間違いなく報復に名を借りた放火略奪が行われてしまうだろう。
 神霊の地である高千穂を焼き討ちしようものなら、どれだけの悪名を被ることになるか、想像するだに恐ろしい。
 ゆえに、そんな事態を回避すべく、この戦況を現出させた人物に知恵を出してほしいのだが……



「当の本人がいないとはどういうことなんだ、ほんとに……」
「……はあ、それは……」
 誾の呆れたような呟きに、連貞はなんと言ってよいやらわからず、適当に相槌を打つしかなかった。
 だが、次の瞬間、その表情は鋭く引き締められる。
 それは誾も同様だった。


 祖母山の山間に響く、連続する破砕音。彼らの耳が捉えたその音は、疑いなく鉄砲の射撃音であった。それも一つ二つではない。
 山の面に反射してはっきりとは聞き取れないが、その数、おそらく十を下回ることはない。
 いずこからか「敵襲ッ!」との叫びも聞こえてくる。
「十時殿ッ」
「承知」
 迎撃を指示された連貞がその場を離れる。


 その姿を見送りながら、誾は自らの迂闊さに歯噛みする思いだった。
 大友家のことばかり考えていて、今現在の敵に対する備えを怠った。高千穂の敵勢は大友の大軍の前に居竦んでいるとばかり考えていたのだが、この峻険な山脈は彼らにとっては庭のようなもの、奇襲をかける場所に事欠くことはないだろう。
 その程度のことにさえ考えが及ばなかった悔いを、しかし誾は意思の力で押さえつける。今はそんなことを考えている場合ではない。
 そう考えた戸次家の若すぎる当主は、みずからの目で敵を確認するために、足早に歩を進めるのだった。




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第六章 聖都(五)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:9e91782e
Date: 2010/12/17 20:53

 豊後、日向、そして肥後の国境にまたがる山の名を祖母山という。
 かつての火山活動の名残とおぼしき巨大な岩石や断崖が随所に見られる峻険な山脈は、主要な山道以外はほとんど人の手が入っておらず、数千に及ぶ大軍が通過するには到底向かない地形であった。
 それでも、豊後から高千穂へ抜けるためにはこの山を越えねばならない。大友軍は草木を切り分けつつ、山中に踏み入っていったのである。


 山中には鹿やカモシカ、猪はもちろんのこと、狼や熊など種々の動物が生息しており、吉継も幾度かその姿を目撃していた。否、目撃どころか、一度は山中を徘徊していた熊とばったり遭遇さえしたのである。
 時は十一月。
 冬を間近に控え、おそらくは冬篭りの準備をしていたのだろう、首筋に見事な月の輪の模様が見て取れるその熊は、領域に侵入してきた吉継たちを不機嫌そうに睨み据えた。
 吉継を含めた雲居家の兵士(若干一名は除く)は、胃を鷲づかみされるような緊張を余儀なくされたのだが、人間の数が十名を越えるのを見て、その熊はしぶしぶという感じで背を向けて立ち去ってくれた。期せずして安堵の息が重なった。
 それ以外にも、狼らしき数頭の獣たちに後ろをつけられたりと、めずらしい経験を積む機会に事欠くことはない雲居家の一団だった。


 とはいえ、もっともめずらしい経験は、そういった山中の邂逅にはなく、彼らが主からうけた命令にあっただろう。
 なにしろ――
「まがりなりにも九国探題に任じられた大家に仕えての初めての戦、その最初の仕事が自陣に鉄砲を撃ち込むことだとは……」
 吉継はそう呟いて嘆息する。
 より正確に言えば、鉄砲を撃ち込むといっても、火薬を炸裂させているだけで実際に弾を撃っているわけではない。さらに言えば、その空砲さえ自陣に向けてはいない。
 吉継たちは大友軍七千の軍勢のなるべく近くで、山の斜面に向かって空砲を撃っているだけであった。


 だから何も心配することはない――作戦の説明をした人物、吉継にとっては義父にあたるその人はそんなことをいっていたが、それをそのまま鵜呑みにするほど吉継はおめでたくはない。くわえて言えば、言った当人も吉継が鵜呑みにするとは思っていないのがありありと見て取れた。
 その時の義父の顔を思い出し、吉継は知らずこめかみを揉みほぐす。
 たとえ実際に弾が飛んでこなくても、味方のものではない銃声が突然に鳴り響けば、誰もが敵だと思うだろう。突然の事態に混乱すれば怪我人が出ることもあろうし、下手をすれば同士討ちをはじめる兵さえいるかもしれない。
 戸次勢のように訓練された兵士ならばともかく、南蛮宗徒をかきあつめただけの雑軍であれば、その危険は少なからず存在する、と吉継は考えていた。


 そして、実際に吉継の危惧は的中する。
 昼夜を分かたぬ不意の銃撃に、兵士たちの緊張と疲労は積み重なり、慌てた味方同士で斬り合って重傷を負った者がいたのである。
 それでも、吉継たちはあくまでこの行動を止めなかった。彼らの主が止めようとはしなかったからである。



 吉継は考える。
 確かに時間を稼ぐという意味で、この行動は有効と言えるだろう。行軍を妨害するなど大友家への裏切り以外の何物でもないが、今現在の特異な戦況を鎮めるために必要なことなのだと言われれば、あえて反駁するだけの根拠を吉継はもっていなかった。
 そう、だからそこまでなら良い。
 事実、大友軍の進軍速度は目に見えて鈍っており、時間を稼ぐことは出来ている。その時間が長ければ長いほど、多くの人たちが助かるのだという言葉を信じられるくらいには、吉継は義父を信用していたから。


 しかし、である。
「実際に実弾で武将の一人を撃つとなれば、話は別です」
 吉継は草むらに身を潜めつつ、ぼそりと呟く。
 その吉継の隣では、鉄砲を構えた丸目長恵が不思議そうに問いかけてきた。
「姫様、何か仰いました?」
「……いえ、何でもありません。ただ……」
 何かを口にしかけた吉継だったが、すぐに思い直したようにかぶりを振って口を噤む。
 吉継が口にしようとしていた質問は、先夜から幾度も投げかけたものであり、その都度、長恵は同じ答えを返してきた。今ここで、改めて同じ問いを向けたところで意味はないのである。


 そう考えて口を閉ざした吉継だが、長恵は吉継の表情から、のみこんだ言葉を察したようだった。
 意識して難しい表情をつくりつつ、口を開く。
「ふむ、姫様はまだ私の腕をお疑いとみえます」
「いえ、疑っているわけでは……ただ、弓矢なら知らず、鉄砲で精確に敵将を撃ち、かつ傷だけを負わせるというのはかなり難しいのでは、と」
「それを疑っているというのでは?」
「……う」
 そう言われてしまえば、一言もない吉継だった。


 火薬を用い、鉄の弾を飛ばす新たな武器――鉄砲。
 火薬の扱い、弾込めに一定の熟練は必要だが、それでもその扱い易さは弓の比ではない。刀もろくに振るえないような人間でも、わずかの訓練で一軍の将を討ち取ることが可能となる、まさにこれまでの戦の常識をひっくり返す南蛮の新兵器である。


 南蛮との交易の窓口である九国には、かなり早い段階から鉄砲は流布しており、当然のように吉継も石宗から相応の知識を教授されていた。
 鉄砲は飛び道具という点で弓と比較されることがあるが、石宗は鉄砲と弓とはまったく別の武器である、と考えていた。
 数を揃え、柔軟に運用することが出来れば、天下を制し得ることもかなう――それだけの可能性を秘めた武器であろう、と。


 だが同時に、石宗がそれが容易ではないとも言っていた。
 最大の問題は鉄砲が高価すぎることにある。初期の一丁二千両よりは大分ましになったとはいえ、やはり鉄砲が高価であることには変わりない。くわえて鉄砲本体もそうだが、弾を飛ばすための火薬も、原料である硝石が日本に産しないために高値で取引されている。
 一つの戦場を圧するほどの鉄砲の数をそろえるためには、天文学的な金銭が必要とされるのである。


 それ以外にも、吉継が記憶している鉄砲の欠点は幾つもある。
 中でも鉄砲の飛距離――弾がどこまで届くかの距離ではなく、殺傷力と命中率を保てる距離――は弓よりもはるかに短いものであったはず。
 距離が遠ければ遠いほどに鉄砲の命中率は落ちる。当然、弓のように鏃をはずして殺傷力を落とすなどという真似も出来ない。


 つまりは遠距離から狙撃し、かつ殺さないように傷だけ負わせる、などという芸当をするのに、鉄砲ほど向かない武器はないのである。
 吉継のためらいは、ある意味でしごく当然のものであった。
 しかし、傍らの長恵は、吉継の不安をあっさりと退ける。
「大丈夫ですよ。この距離なら、師兄の頭の上に乗った林檎どころか蜜柑だって撃ち抜いてみせます。自慢ですが、私は銃の扱いも剣に劣りません」
 そう言う長恵に気負いは感じられず、先夜から幾度も同じ質問を繰り返されることへの苛立ちも見出せない。
 吉継としては、剣聖と謳われる人物が鉄砲を自在に操ることに違和感を禁じえないのだが、長恵にしてみれば剣も銃も武器であることに違いはなく、それを繰る技量は決して他者に劣らない、という自負があるのだろう。


(……いったい、何をどうすれば、ここまでの域に達せるのか)
 そんな長恵を見る吉継の眼差しには感嘆と憧憬、そしてほんのわずかながら嫉視が混ざっており、それは吉継も自覚するところであった。
 しかし、それも仕方ない、と吉継は内心でため息をつきながら思う。これが十も二十も年嵩の相手であればともかく、吉継とは精々が五、六歳しか離れていない女性なのである。横たわる実力差に無関心でいることは出来なかった。



 と、そんなことを考えているうちに、吉継の視界に山間の道を進んでくる一隊の姿が映し出された。
 先頭に翻る杏葉紋は、それが大友家の軍勢であることを示している。
 だが――吉継はわずかに眉をしかめながら思う。それ以外に、この軍勢を特徴付けるものが存在する、と。
 杏葉紋だけではない。この部隊は先頭に南蛮神教の聖像を掲げ、杏葉紋がかすむほどの数の十字軍旗を翻らせていた。くわえてほとんどの兵士が首からロザリオを下げている。
 日の本広しといえど、こんな軍勢は大友軍以外にありえないであろう。



 そして――
「……お義父様」
 吉継の視線の先に、義父の姿が映し出された。
 別働隊を率いる戸次誾のすぐ傍らで馬を立てる姿は見紛いようがない。そのすぐ近くには吉継と同じくらいの体格の兵士が顔を頭巾で覆って従っていた。
 無論、それは吉継の不在を悟らせないようにするための小細工である。実のところ、あの兵士、女性ですらないのだが、甲冑を身につけ、頭巾を被っていれば、見分けるのは容易ではあるまい、というのが義父の言い分であり、それは吉継も同感であった――まあ、多少納得いかない部分もあるのだけれど。


 吉継が、本人もよくわからない理由で眉をしかめていると、傍らの長恵が鉄砲に弾を込めつつ口を開いた。
「……それにしても」
「はい?」
「初陣で味方の軍を引っ掻き回した挙句、自分を撃てと命じるのは、日の本広しといえど師兄くらいでしょうね」
「……まったく同感です。というか、そんな人が二人もいてはたまりません」
「あは、確かにそうですね」
 吉継の言葉に、長恵は小さく微笑んでから、鉄砲を構える。
 呼吸を整えるでもなく、狙いを定めるでもなく、ただ無造作に構えるだけ。
 傍らの吉継は邪魔をしてはならじと口を噤む。わずかでも照準がずれれば義父の頭が吹き飛びかねないのだ。平静を保つことは難しかったが、事ここにいたっては長恵の腕を信じる以外にない。



 日向の山中に、鉄砲の轟音が響き渡ったのは、それから間もなくのことであった。



◆◆◆





 豊後を発した大友軍本隊は破竹の勢いで日向との国境を突破、日向北部の要衝県城を陥落させた。
 その一方、高千穂制圧をもくろむ別働隊は、未だはかばかしい戦果をあげることが出来ずにいる。高千穂を治める三田井家の備え――いわゆる四十八塁の幾つかは陥としたものの、彼我の戦力差を考えれば、それは率いる者が童であっても可能な程度の小功でしかなかった。


 大友軍が戦果をあげられない理由は幾つもあったが、中でも一番の理由は寒気であったろう。
 季節は晩秋を通り越して初冬に入ろうとしており、一日ごとに気温は下がっていく。まして祖母山は峻険な山岳である。朝晩の冷え込みは厳しく、そんな中で険しい山道を踏破する労苦は並大抵のものではなかった。
 今回の大友軍の主力である南蛮宗徒の中には、農作業で鍛えられた身体を持ち、戦の経験が豊富な者もいたが、その一方で、礼拝の時間以外は、府内の街はおろか自分の家からも滅多に出ないような繊弱な若者も少なくなかった。彼らにとって、この時期の山中の行軍は想像を絶するほど困難なものであった。


 ただ、それでも、同胞の死に憤り、聖戦を謳う大友軍――とくに南蛮宗徒の士気は非常に高く、当初の進軍速度は防衛側の三田井家の諸将が、報告を聞いて色を失うほどに早かった。戦意も高く、国境付近の三つの砦は瞬く間に大友軍に呑み込まれている。
 その大友軍の進軍の勢いが急激に失われたのは、三田井家が一撃離脱の奇襲を行うようになって以降のことである。


 奇襲、と言っても直接に刃が交わされたわけではない。
 おそらくは虎の子の部隊であろう鉄砲隊による、昼夜を分かたぬ銃撃。
 鉄砲の数自体は大したことがないと思われたが、狭い山道で密集して進む大友軍の将兵に、これを避ける術はない。
 これが平地であれば、数千の大軍にとってわずか数十の鉄砲など恐れるに足りないのだが、祖母山の険しい斜面に進軍の足をとられる中で、嫌がらせのように注がれる銃弾は厄介なことこの上なかった。


 くわえて言えば、数千の大軍といえど、それを構成するのは一人ひとりの兵士である。中には、神の加護を信じ、まったく動じない者もいないわけではなかったが、大半の信徒は、まさか自分には当たるまいと思いつつも警戒心を消すことは出来ず、結果、ほんのわずかではあったが進軍の足を絡め取られ――そのほんのわずかが数千も重なれば、進軍速度に影響を与えないはずがなかったと言える。
 兵を率いる将にしても同様。
 千を越える兵に周囲を守られていようと、山中を飛んでくる鉄砲の弾を確実に避ける術はない。ことに南蛮宗徒の指揮官たちは、周囲を信徒に守らせて自身の安全を確保しつつ、いつ襲ってくるともしれない敵の対応に苦慮しなければならなかった。



 しかし、すぐに大友軍はあることに気づく。
 奇襲による被害が、実は自軍の混乱による負傷者だけであり、実際に銃撃で死傷した将兵がいないのである。
 つまり、敵の狙いはあくまでも大友軍の進軍の足を止めることであると思われ、さらには本当に敵は鉄砲を持っているのかという疑問を抱く者さえ出てきた。
 鉄砲の音、というのは要するに火薬が炸裂する音である。逆に言えば、火薬を炸裂させれば、それを鉄砲の音と勘違いさせることが出来るということ。まして音が反響する山中であれば、両者の違いを正確に聞き取ることは不可能に近い。
 なにより、本当に鉄砲を持っているのであれば、わざわざ大友軍の将兵を撃たずに済ませる必要などない、という主張は確かな説得力を持っていた。


 軍議の席でその意見を聞いた者たちはそろって賛同し、敵軍の意図を見抜いたと確信した。
 小細工に過ぎないが、圧倒的な戦力差を前にしては、そんな小細工さえ名案に思えたに違いない。
 そう考えた指揮官たちは、翌日から自ら前面に立って怯む兵士たちを叱咤しつつ、一刻も早く高千穂を目指そうと試みた。
 そして――響き渡った銃声に、一人の将が崩れ落ちる音が重なったのである。



 撃たれた者の名は雲居筑前。
 別働隊を率いる総大将戸次誾の側近である。この日、雲居は誾の傍近くで立ち働いており、おそらく敵軍は雲居を誾と見間違えたのではないか、と推測された。
 というのも、華美を嫌い、質実を好む誾の鎧は見栄えのしないものであり――一応、戸次家には先祖伝来の当主用の甲冑があるのだが、誾の体格にはあわず、また新しい甲冑も今回の戦が急すぎたために間に合わなかった――また、誾自身も小柄で目立つ要素がないため、雲居を総大将と見紛った、という推測は十分な説得力を持っていた。
 それは同時に、大友軍が最初から最後まで敵軍の思い通りに動かされたことを意味する。実弾なき射撃は、大友軍指揮官の油断を誘い、確実のその命を奪うための布石であるとは、誰もが考えるところであった。
 ゆえにこれ以降、大友軍の進撃速度がそれまでにも増して鈍くなったのは致し方ないことだったのである。




◆◆◆
  



「……これで、ある程度の時間は稼げました。問題はここからです」
 大友軍の本陣の一画。
 頭に血止めの布を巻いた俺は、目を覚ますや、様子を見に来た誾と連貞に簡略にこれまでの経緯を説明する。
 これまで大友軍を悩ませていた事態はすべて俺の仕業である、と白状したのだ。


 それに対する二人の反応は。
 誾は俯いてしまったので表情は見て取れない。しかし、両の手がかすかに震えているところを見るに、やはりというか、当然というか、俺に対して虚心ではいられないようだった。
 陰でこそこそ動くと決めた時点でこうなるだろうという予測はしていたが、実際にその場に立ってみると、何といって詫びるべきか判然としない。
 自分がやったことが必要なことであるという確信は持っているが、それは総大将をないがしろにして良い理由にはならない。


 ただでさえ俺に良い感情を持っていない誾のこと、一軍の長としての責任を必死で果たそうとしている最中、連日連夜、その心胆を寒からしめる騒動が起き、その実、そのすべてが俺の仕業だと知れば、たとえそれが意味のあることなのだと理解できたとしても、決して良い気はしないだろう。
 それどころか逆鱗に触れられた竜みたいになっても、少しもおかしくはなかったのである。





 俺がそれを承知した上で、なお誾と連貞に本当のことを言わなかったのは、それを知ってしまえば、奇襲を受けた際の戸次軍の動きが不自然なものになってしまうと考えたからである。
 道雪殿であれば、真相を知った上で知らないように振舞い、奇襲に驚く戸次軍の動揺を取り静めるなど雑作もなかろうが、今の誾にそこまで求めるのは酷だろう。
 連貞に知らせなかったのは、兵への差配はともかく、誾に隠し事をし続けるのは連貞には無理だろうと踏んだからであった。


 俺がそんなことを考えていると、その連貞が訝しげに口を開いた。
「……しかし、最初の襲撃――いや、実際には襲撃ではなかったわけですな。ともあれ、あの時は確かに雲居殿はいなかったが、それ以後は常にそれがしらと行動を共にしていた。あれは……」
「出来たばかりの雲居家が、何人の家臣を抱え、その家臣が何をしているのか……そんなことに注意を払っている方は大友家にはおられますまい」
「鉄砲は無論のこと、火薬とて廉いものではないが……」
「どこぞに領地を、という宗麟様の御言葉を辞退するかわりにいただいた結構な額の支度金、すでにそれがしの手元には残っておりませぬ」
「……む」
 俺の説明に納得したのか、呆れたのか、微妙な表情ではあったが、とりあえず連貞はそこで口を噤む。



 残る一人は、というと。
「…………」
 誾は伏せていた顔を上げ、じっと俺の顔を見据えてきた。
 最近は見慣れた観すらある、例の壮絶なまでの仏頂面――ではない。
 しかし、かといって道雪殿の下にいたときのような疑念と不快のいりまじる眼差しというわけでもなかった。


 切れ長の双眸、細く整った鼻梁、頬は白皙、唇は柔らかく閉ざされ、漆黒の髪を無造作に頭の後ろで束ねたその姿は、字面だけを見れば女性の形容をしているようにしか見えないだろう。実際、誾はまだ第二次性徴がはっきりとあらわれておらず、いわゆる男っぽさを感じさせるものはあまりない。
 それでも、面と向かって相対すれば、誾を女性と間違う人物はいないに違いなく、仮にいたとしたら、その人物はよほど目が悪いとしか言いようがなかっただろう。


 それほどまでに、誾の深みを帯びた黒瞳に浮かぶ意思は苛烈なものだった。
 無論、誰彼かまわず睨みつけている、という意味ではない。
 おそらくは出生とそれに纏わる境遇が、この少年の心にその意思を植えつけたのだろう――自らを阻むものに対する激しすぎるほどの否定の意思。
 かつて――いや、おそらくは今なお吉継が心の片隅に抱えているであろう世界への拒絶と半ば重なるそれは、しかし吉継のそれよりもはるかに勁烈であるように、俺には思われてならなかった。


 その意思が戸次誾という少年の人格に陰影を与えている。
 それは外見上の特徴など問題にしないほどに、はっきりとした力を見る者に感じさせるのである。
 
  




 ――まあ、要するに何が言いたいかというと、自分より一回り年少の誾君に見据えられ、俺が内心で怯んでいたとしても、それは決して恥ずかしいことではない、ということだった。
 正直激昂されるのは覚悟していたのだが、無表情にじっと見据えられるとは思っていなかった。本当に怒ると、むしろ冷静になる人もいるというが、誾はそういう性格なのだろうか。
 俺がそんなことを考えていると――



「……はあ……」
 不意に表情を崩した誾が、深々とため息を吐いた。
 それはもうこれみよがしに。
 そして、じとっとした眼差しで俺を見つめてくる。さきほどまでの無表情のそれよりも多少圧力は落ちたが、それでも結構な迫力だった。


「……あの、誾様」
 なんと言ったものかと思いあぐねた末、とりあえず呼びかけてみることにする。
 すると、誾は大きく頷いて、こう言った。
「大体わかりました」
「は?」
「こっちのことです。とりあえず言いたいことは山のようにありますが、それは後にしましょう。何のためにこんなことをしたのか、そのすべてを詳らかにしてください。言うまでもないですが、もう隠し立ては許しません。もし次に私を謀るような真似をしたなら、その時は相応の覚悟をしてもらいます」
「は、承知仕りました」
 思ったよりもあっさりとした物言いに、俺は内心で驚いたものの、どの道この後についてはもう隠しておく必要もない。誾に言われずともこの場で伝えるつもりだったので、俺は素直に頷いた。





◆◆





「誾様や連貞殿には今さら申し上げるまでもないかと思いますが――」
 俺はそう前置きした上で、これから攻め寄せる高千穂という地の特異な点を挙げた。
 高千穂は今さら言うまでもなく日向の国の一地方なのだが、実のところ、日向の他の地方――たとえば五ヶ瀬川下流の県城、あるいはその県城の南方にある伊東義祐の居城佐土原城などと緊密な関係を保っているかといえば、答えは否であった。
 険しい山に囲まれた高千穂の地形が他の地方との交流を阻んでいるという一面はあるにせよ、高千穂の孤立の原因は自然のみではなく、人為にも求められた。
 つまり高千穂を統べる三田井家は、日向の他地域からの侵攻を恐れ、あえて孤立の状態を保っていたのである。


 ことに佐土原城の伊東義祐は日向統一をもくろみ、県城の土持親成と諮ってこれまで幾度も高千穂への勢力浸透を企んでおり、三田井家はこの対応に苦慮してきた歴史を持つ。
 高千穂は山に囲まれ、土地自体も貧しくはない。それでも伊東家の圧力に単独で抗するほどの国力は持ち得なかった。
 にも関わらず、三田井家がこれまで伊東家の野心を阻み、独立を保つことが出来た理由は、ひとえに肥後の阿蘇家との繋がりにあった。
 より正確に言うならば、阿蘇家というよりは、その重臣である甲斐家との繋がりであった。
 



 現在、阿蘇家の重臣として知られる甲斐家であるが、元々は高千穂の一豪族であった。 
 ある時、阿蘇家で内訌が起こり、阿蘇惟長によって大宮司職を追われた阿蘇惟豊が高千穂に逃げ込むという出来事が起きる。
 古くは高千穂地方を「上高千穂」、阿蘇地方を「下高千穂」と呼んだように、高千穂は日向の他地域よりもずっと阿蘇と近しい関係にある。
 それゆえ、阿蘇家を逐われた惟豊も高千穂に逃れてきたわけであるが、甲斐家の先代当主である親宣はこの時、惟豊の復帰に尽力し、ついには惟長を放逐して、惟豊の大宮司職復帰を実現させるという大功をたてる。
 これ以後、甲斐家は阿蘇氏に臣従して、その重臣となったのである。


 阿蘇家の重臣となった後、親宣は惟豊の絶対的な信頼の下で政戦両略に手腕をふるい、内乱で動揺する人心を立て直し、阿蘇家を安定ならしめた。
 惟豊はこの親宣の功績と忠誠心を認め、御船城を与え、さらに阿蘇家の直轄領から広大な田土を割いて甲斐家の所領とした。甲斐親宣を事実上の重臣筆頭に据えたのである。
 これには阿蘇家の家臣から、他国の人間に厚遇が過ぎるという不満が噴出したが、親宣の功績は誰もが認めるところであったため、不満の声は一定以上に大きくなることはなかった。
 また親宣は柔軟な政治手腕をもって不満を抱く人々を次々に自陣営に引き入れていったため、ほどなく阿蘇家における親宣の立場は不動のものとなったのである。


 阿蘇家の主権を握った親宣の力は、高千穂地方を統べる三田井家を上回るものとなった。
 もし親宣が望めば、高千穂地方を制することは決して難しくなかっただろう。否、それを言えば、阿蘇家を奪うことさえ掌の内にあったといえる。
 しかし、親宣は阿蘇家は無論のこと、三田井家に対しても以前同様に臣礼をとり、決して彼らの上に立とうとはしなかった。


 下克上が横行する戦国の世にあって、たぐいまれなる親宣の忠誠心。
 それは確かな力となって、阿蘇地方と高千穂地方を安定ならしめた。
 さらに親宣は惟豊を動かし、隣国豊後の大友家と友好関係をうち立てることに成功する。これにより、大友家を頂点とし、その下に阿蘇家、三田井家を、最後に甲斐家を据えた新たな勢力が形成されることとなったのである。





「――つまり、高千穂と、それを治める三田井家を動かすためには、甲斐家を動かす必要があるわけです」
 俺の言葉に、誾と連貞は互いに目を見交わす。両者の顔には、わずかだが戸惑いが感じられた。
「確かに、それはそのとおりだと思います。思いますが……」
「雲居殿、今、話されたのは甲斐家の当主が先代 親宣殿であった頃のこと。現在の情勢はさらに厄介なものとなっておるのですが、それはご存知で?」
 連貞の問いに、俺は頷いてみせる。
「そうらしいですね。急なこととて、それがしも道雪様からざっと説明を受けただけなのですが、一応のことは存じております。しかし、甲斐家の新しい当主となった親直殿も、ご父君に倣い、阿蘇家、三田井家に対して礼節を失うことなく仕え続けていると伺っています」


 実のところ、豊後を出る前に甲斐家へはとうに使者は出していた。戸次家から、ではなく雲居家からの使者という形でだが。
 その主な内容は、大友家の出兵が不可避なことを伝え、高千穂の人々に避難を促すことにあった。出来るかぎり――少なくとも半月は進軍の足を止めることを約束したのだが、どうやらそれは守れそうである。


 俺がそう口にすると、誾が目を白黒させながら、戸惑いをあらわに疑問をぶつけてくる。
「し、しかし、相手はかりにも一国の筆頭重臣。立花や戸次ならばともかく、雲居などという無名の家の使者がそう都合よく会えるはずがないと思いますが?」
「あー……実は、それがしもつい先日まで知らなかったのですが、甲斐家とはちょっとした縁がありまして」
「縁?」
「はい。使者にはその方の名を出すように伝えておきました。それゆえ、おそらく門前払いされることはないでしょう。まだその使者は戻っていないので、そのあたりの確認はとれておりませんが」
 状況が状況なだけに、使者が戻るまで待ってはいられない。
 それゆえ、親直がこちらの言葉を信じてくれた、という前提に立って俺は動いたのである。


 その俺の言葉を聞き、誾は眉をひそめた。
「……では、親直殿が使者に会わなかった、あるいは会っても相手にしなかった場合、雲居殿のしたことはまったくの無駄ということになるわけですか? ご自身を撃たせたことさえも」
「そうなりますか。もっとも、これだけ進軍が遅れれば、三田井家や高千穂の人々も状況を把握することは出来るでしょう。甲斐家が動かなくとも、まったくの無駄にはならないと思います」


 俺がそう言うと、誾は難しい顔で考え込む。
 しばし後、誾はぽつりと呟くように言った。
「『可能なかぎり被害を減らし、悪評を食い止め、時間を稼ぐ――それが、今できる最善の手だ』と言っていましたが、今回の策もその一環、ということですね」
「御意」
「確かに南蛮宗徒も、それを率いる者たちも連夜の襲撃に怯えている。雲居殿が撃たれたことで、その怯えはより一層深まったと言えるでしょう。このまま両軍がにらみ合いを続け、状況に変化が訪れるまでの時間を稼ぐことが出来れば……」
 誾の言葉に、しかし、俺は首を横に振った。
「それはいけません」
「いけない? それはどういうことですか」


 訝しげな誾に向かい、俺は次にうつべき手を説明する。
「そのままの意味です。誾様、今の時点でにらみ合いを続ければ、別働隊頼むに足らず、と本隊が動く可能性があります。それもかなりの確率で。そうなってしまえば、もう戦禍を防ぎようがなくなってしまう」
 その俺の言葉に、誾ははっとしたように口を閉ざし、連貞はゆっくりと頷いてみせる。
 本隊――県城を攻めている部隊の勝敗は定かではないが、あの戦力差があれば負けることはまずあるまい。陸だけでなく、海からの援護もあるとなれば尚更である。


 その本隊が五ヶ瀬川にそって高千穂に攻めのぼってくれば万事休すといえる。当然、大軍を率いながら何もできなかった俺たちへは相応の罰が下されるだろう。
 そんな事態を避けるためには何をすべきか。答えは一つしかない。
「本隊を納得させるに足る戦果をあげること――中崎城を急襲すべき、と進言させていただきます」
 中崎城は高千穂東部の要衝。守将の名は甲斐宗摂。名前からもわかるとおり、甲斐家の一族であり、高千穂でもそれと知られた勇将である。
 これを陥とせば、大友軍は三田井家を東と北から追い詰める形となり、本拠地である中山城を窺うことも可能となる。本隊の宗麟らを納得させることもかなうだろう。


 その俺の言葉を聞き、連貞が気遣わしげに口を開いた。
「……しかし、宗摂殿は親直殿のご一族。これを討てば、親直殿が黙ってはおりますまい。此方が裏切ったと思うは必定では?」
「大友家は――宗麟様は、阿蘇家と三田井家、甲斐家の関係を知りながら、一言の断りもなく高千穂に兵を出した。裏切ったというなら、我ら大友はとうに親直殿を裏切っているのですよ」
 もっとも宗麟は裏切ったつもりはあるまい。何故といって、大友家は阿蘇家と盟約を結んでいるが、三田井家とは何の盟約も結んでいないのだから。
 しかし、甲斐家が阿蘇、三田井両家を支えているのは周知の事実。一言の断りもなく、高千穂を――盟友の盟友を攻めるという行為は信義にそったものとは到底言えまい。


 あるいは、連貞は俺の出した使者のことを言っているのか、とも思えたので、それに関する説明も付け加える。
「もしそれがしの出した使者のことを言っているのでしたら、心配は無用です。そもそもが、内通や恭順を申し出たわけではない。こちらが攻め寄せるまでに、人と物とを避難させておくべきだと伝えたに過ぎないのですから。それをもって、こちらが手心を加えると解釈するほど、親直殿は腑抜けてはいますまい」
 仮に向こうが拡大解釈をしたとしても、こちらがそれにそった動きをする必要はない。
 高千穂を攻める。これを大前提とし、出来るかぎり被害を少なくするべく立ち回る。それが俺のしていたことだ。
 戦そのものを回避しようとしていたわけではない。大友家に叛旗を翻しでもしない限り、そんなことは不可能なのである。




 中崎城を陥とせば、少なくとも本隊が動くのを食い止めることは出来るはず。
 後は北部と東部の足場を固めつつ、本格的な冬の到来を待つ。雪でも降ってくれれば、兵を動かさない口実として言うことはないのだが、と俺は越後のことを思い出し、ふとそんなことを思った。
 まあ、さすがにそこまで都合の良い天候にはならないだろうが、雪がないとしても、冬の寒気が兵の機動力を大きく損なうのは事実である。それは本隊の兵とてかわりはあるまい。
 高千穂の北と東を押さえ、中崎城で冬を越すという戦略を宗麟に認めさせることが出来れば、春まで時間を稼ぐことが出来る。
 その間に、阿蘇家から大友家に対して抗議の一つも来れば、高千穂からの撤兵もあり得るかもしれない。それが無理だとしても、カブラエルたちが何を企んでいるのかを探るには十分すぎる時間だろう。
 俺の知識どおり、連中が県城に「ムジカ」を建設するようであれば――



 俺はムジカの点だけは省き、残りはことごとく誾に明らかにした。
 その上でこう言った。
「おそらく、ではありますが。遠からず、他国に向かわせてほしい旨、誾様にお願いすることになりましょう」
「他国というと阿蘇家――いや、甲斐家ですか?」
「状況によってはそのニ家に寄ることになるかもしれません。しかし、本命は薩摩です」



 薩摩島津家。
 様々な意味において、九国の要となる大家。
 その宗家の姫たちに南蛮神教の動向を伝え、説得することが出来てはじめて本当の意味で動き出すのである。
「動き出す、とは何が……?」
 俺の言葉を聞き、少しためらった末に問いを向けてくる誾。
 その誾の問いに、俺はかすかに微笑むだけで何も答えなかった。
 その俺の表情に何かを感じたのだろうか。誾も連貞も、あえてその先を訊こうとはしなかったのである……





[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第六章 聖都(六)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:9e91782e
Date: 2010/12/20 00:39

 肥後国御船城。
 その一室で、城主である甲斐親直は困惑をあらわにしていた。
 これは実にめずらしいことで、もしこの場に甲斐家の家臣がいれば目を丸くして驚いたであろう。
 常に泰然自若として物事にあたる親直は、表情を動かすことは滅多になく、味方からは冷静沈着と称えられ、敵からは鉄面皮と罵られる――そんな人物なのである。
 その親直がはっきりと内心を表に出しているのだ。親直を知る者であれば、敵であれ味方であれ、すわ何事か、と身構えざるをえないであろう。


 肥後における不敗の名将、甲斐親直。阿蘇家の筆頭重臣として内政、軍事、外交を司って誤ることなく、その能力と忠誠心から、隣国大友家の戸次道雪と並び称されることも少なくなかった。
 この二人が並べられる理由は、家の規模こそ違え、主家を隆盛へと導く手腕が評価されていたことに加えてもう一つ、親直と道雪がほぼ同年齢の女性であるという事実も加味されていたかもしれない。

 
 もっとも、親直にとってはそういった他者の評価など知ったことではなかった。
 よく見れば道雪に迫るほどの端整な容姿の持ち主なのだが、冷徹なること無比と噂される鋭い面差しを向けられて、なおその容姿を褒め称えようとする剛の者は阿蘇家中には存在しない。
 切れ長の目から放たれる視線は、北辺の凍土を撫でる寒風の如く冷たく乾き、前代の御船城主の叛乱を眼光のみで制圧したという伝説の源泉となっている。


 その親直の視線は、家中の統制ぶりをそのまま示していた。筆頭重臣として厳格に家中を統べ、それはときに厳酷でさえあった。
 阿蘇家においては先代親宣、今代親直の威令は、いずれもすみずみまで行き届いていると言えるが、その性質は大きく異なる。
 親宣は闊達で、政敵であっても酒を酌み交わすような為人であった。主君からの信頼も、家中における権力も、他の家臣の追随を許すものではなかったが「和をもって尊しとなす」が口癖であり、実際にその言葉を実践すべく努めていたことを親直は知っている。
 争いの耐えない戦乱の世にあって、たとえ相手がどのような者であれ、それを赦し、受け入れ、認めるという和の思想を貫くのは難しい。それでも、親宣は出来うる限り強権を用いることなく家中を統べようと努力し、そんな親宣を信頼する者は上下を問わず阿蘇家中に多かったのである。


 しかし、父の後を継いだ親直に、父と同じ道を歩もうとはしなかった。
 単純に父と親直では為人が違うという理由もあったが、より大きな理由としては、親直が家督を継いだ当時、甲斐家のみならず阿蘇家全体が凄まじい混乱の渦中に叩き込まれており、父のような実績を持っていなかった親直がその状況を鎮めるためには、甲斐家の権力をもって不穏な動きをする者たちを排除していく他なかった、という事実が挙げられる。



 親直が甲斐家を継いで、もう十年近く経つ。
 しかし、親直はいまだに当時の家中の狂騒ぶりを克明に思い出すことが出来た――などというと、いかにも他人事のようだが、実のところ親直自身も、あの乱の最中に平静を保つことは出来なかったのである。
 隣国大友家で起きた『二階崩れの変』に端を発する大混乱は、それほどに阿蘇の地を激しく揺り動かした。
 それでも阿蘇家の大黒柱であった父に後事を託された身として、親直は文字通り東奔西走し、大友家と渡り合い、家中の不穏分子を退け、他国に付け入る隙を見せず、阿蘇家の存続を確かなものとすることに成功する。
 これによって親直の器量は家中に知れ渡り、父が去った後の新たな阿蘇家の柱石として認められるに至るのである。



◆◆



 親直は甲斐家の当主であることを自身の第一義としている。
 幼少時は他人にうらやまれていた見事な黒髪を、首の後ろで無造作に切り落としているのは『女性』であるよりも『武士』であらんとする意思の表れでもあった。
 無意識のうちにその髪に手を伸ばしながら、親直はぽつりと呟く。


「……まさか、父上が動かれるとは。それほどの事態、ということなのか」
 豊後にいる父の親宣は、これまで親直に対して使者を差し向けることはもちろん、文の一つも出そうとはしなかった。実に十年近くにわたって、そうしてきたのである。
 親直は、それが大友家への配慮であることを承知していたので、不満を抱いていたわけではない。自分が父の立場であってもそうするだろう、と考えていたので尚更である。


 その父が、直接ではないにしろ、親直に接触してきたとなれば無関心ではいられなかった。
 それはつまり、かつての大乱に匹敵するほどの事態が現在の大友家で起きているということだからである。  
 知らず、親直の口からほんのかすかなため息がこぼれた。
「……人にとってはわずかな身じろぎでも、蟻にとっては天地が鳴動するに等しい。小国の悲哀と言えばそれまでだが……」


 実のところ。
 甲斐親直にとって、日向の伊東義祐や肥後の他の国人衆の存在はなんら脅威とするに足りない。
 親直にとって、真の脅威とは東の隣国、豊後の大友宗麟を指す。
 無論、親直はことさら大友家を敵視しているわけではない。それどころか、父と同じく阿蘇家と大友家の友好を重んじ、これを保つことこそ阿蘇家を保つための本道であると考えてさえいる。


 では、何故親直が大友家に対する警戒を絶やさないのか。絶やせないのか。
 それは、年々、南蛮神教に傾倒の度を深めていく大友宗麟の動向に危惧を覚えていたからであり、さらに言えば、その宗麟に討伐軍を向けられるに足る『理由』が阿蘇家にはあったからである。
 





 その『理由』は、遠く大友宗麟の家督相続時にまで遡る。
 二階崩れの変――その首謀者とされる宗麟のかつての傅役 入田親誠。
 その岳父(妻の父)の名を阿蘇惟豊という。
 そう、宗麟にとって不倶戴天の敵ともいうべき人物は、まさしく阿蘇家の一族だったのだ。
 無論、二階崩れの変に阿蘇家はかかわっていない。親宣も親直も、乱の発生を聞いて驚きを隠せなかったほどである。
 しかし、そんなことは関係がなかった。いくら阿蘇家が関わりを否定しようとも、大友家が関係ありと断定してしまえば、釈明の余地もなく阿蘇家は踏み潰されるだろう。
 この頃、大友家はいまだ九国探題に任じられてはいなかったが、それでもその勢力はすでに豊後、豊前、筑前、筑後にまで及んでいた。家督相続の混乱を差し引いたとしても、肥後の一地方を領有しているだけの阿蘇家とは、国力において雲泥の差があったのである。


 そして、事態はさらに阿蘇家にとって悪しき方向へと進んでいく。
 府内から逃げ延びた入田親誠が、当然のように阿蘇家を頼ってきたのだ。
 これにより、阿蘇家は隣国の御家騒動の渦中に巻き込まれることになってしまった。それどころか、阿蘇家こそが親誠の後ろで糸を引いていた――そう思われても、何の不思議もない状況になってしまったのである。



 当然のように、阿蘇家中は大混乱に陥った。
 大多数の家臣はもちろんのこと、主君である惟豊も動揺を隠せない。一部の家臣たちは、すでに大友家との修好は不可能と唱え、いっそ積極的にこの乱に介入すべき、と唱えはじめていたのである。
 この危急時にあって、甲斐親宣の判断は迅速を極めた。そしてそれ以上に苛烈であった。
 親宣はまず肥後に逃れてきた入田親誠を通じて、菊池義武を招く。
 少々ややこしいのだが、菊池義武は元の名を大友重治といい、先代の大友当主義鑑の弟であった。重治は肥後の名門菊池家に入って義武を名乗り、その家督を継ぐ。これは兄の命令で肥後に大友家の勢力を広める策略の一環であったのだが、義武は兄と袂を分かち、みずからの才覚で菊池家を統べようとしたのである。
 しかし結果としてその試みは失敗。義武は肥後の片隅でかろうじて命脈を保っている状況だった。
 その義武にとって、二階崩れの変は勢力回復の絶好の好機となりうる。入田親誠は義武をそう説いたのである。


 義武は親誠の考えに理があることを認めたが、すぐに腰をあげようとはしなかった。
 というのも、義武が治める菊池家の先代当主武経は、かつて阿蘇家の主権を惟豊と争った惟長のことだったからである。
 つまり義武は、現在の大友家とは敵対しており、その意味で入田親誠と立場を同じくしている。その一方で、阿蘇家と菊池家は犬猿の仲であり、たやすく手を組むことはできなかったのだ。


 義武は大いに悩んだのだが、この好機を見過ごしたところで、今以上の機会がめぐってくる保証はない、という親誠の言葉がためらいを押し流した。確かに、ここで義鎮(宗麟)が家督を継いで地歩を固めてしまえば、義鎮より年長の義武が大友家に返り咲く機会は永く来ないであろう。
 ここで狐疑逡巡してしまえば、二度と豊後の地を踏めなくなる。親誠から二階崩れの変の詳細を聞き取り、大友家中の混乱ぶりをまざまざと感じ取ったこともあって、義武はついに阿蘇家と手を組み、豊後に侵攻する決断を下すのである。
 親誠の説得のほとんどが、甲斐親宣の頭脳から出ていたことを義武は知る由もなかった。



 事態は一刻を争う、という親宣の言葉に急かされるように、義武と親誠は阿蘇に戻り――待ち構えていた親宣によって、手勢ともども捕縛されてしまう。
 義武はもちろん、親誠も驚愕してわめき声をあげたが、親宣は問答無用とばかりに二人の首を斬り、その首級をもってみずから豊後へと出向いたのである。




 叛乱の首謀者の首級。
 そして宗麟にとって政敵とも言える叔父の首級。
 ことに後者は、阿蘇家が、菊池家と手を結び、豊後を侵略する意思がないことをはっきりと示していた。
 この二つの首級をもって、親宣は大友家の君臣の眼前で、阿蘇家が今回の乱にいささかの関わりもないと言明する。
 それだけではなく、親宣はさらにその場で剃髪してみせ、周囲の者たちを驚かせた。
 そして驚く大友家の君臣の前でいっそ堂々と宣言したのである。
「阿蘇家には、大友家にたいする一片の敵意もございませぬ。されど、阿蘇家の一族の端に連なる者が貴国に多大なる迷惑をかけたは事実。その罪を謝すため、本日ただいま、それがしは出家して甲斐家当主の座を辞し、この国に身柄を預ける所存にござる」


 阿蘇家に叛意のない証として、みずからが人質となる。親宣はそう言ったのである。
 ただの家臣ではない。阿蘇家にその人ありと知られた甲斐親宣が身柄を預けるというのだ。しかも大友家にとって更なる御家騒動の種になったであろう人物の首級を添えた上で。
 これには大友家の家臣たちも、互いに顔を見合わせ、口を閉ざすしかなかったのである。






 その後、いくらかの問題は発生したが、親宣の行動と、肥後の親直の奔走によって阿蘇家はなんとか存続することが出来た。
 親宣は当初、大友館に軟禁されていたのだが、ほどなく角隈石宗預かりとなって、軟禁状態から解放される。無論、自由に歩き回ることは許されなかったが、親宣の行動に感嘆した石宗は、親宣を賓客として屋敷に迎え入れ、出来るかぎりの便宜をはかったのである。


 数年が経ち、大友家がある程度の落ち着きを取り戻した頃、石宗や道雪らは宗麟に進言して、親宣を阿蘇家へ戻そうと考えた。
 すでに阿蘇家に叛意がなかったことは判然としている。これ以上、阿蘇家の重臣を留めておくことは、九国中に大友家の狭量さを知らしめることになりかねなかったからだ。
 だが、これは親宣自身の口から拒絶された。
 大友家が落ち着きを取り戻したように、阿蘇家もまた親直を中心とした新たな秩序が形成されていることだろう。そこに親宣が戻れば、定まった人心が再び乱れてしまう。親宣が人質として角隈屋敷にいることが、大友家の体面を傷つけるというのであれば、どこぞの寺にでも預けてくれまいか――親宣はそういって石宗に頭を下げたのである。


 無論、石宗はこれを額面どおりに受け取ったわけではない。
 親宣ほどの人物だ。南蛮神教が恐ろしい勢いで豊後に浸透していることに気づいていないはずがない。
 南蛮神教という未知の要素を加えた大友家は、今後どのように動くか、まったく予断を許さない状況にあった。この時期、親宣が肥後に戻れば、不安定な大友家を刺激することになりかねない。それを親宣は恐れたのであろう。石宗はそう推測した。



 その石宗の考えは間違ってはいなかった。
 石宗や道雪が此方を謀るとは考えにくいが、要らぬ騒動の種をまく必要はない、というのが親宣の考えだったのである。
 そして、それ以上に、親宣は南蛮神教の動きを警戒していた。異教を廃絶するという名目で彼らが動くとすれば、肥後も高千穂も標的になる可能性がある。娘や阿蘇家への気遣いは嘘ではなかったにせよ、親宣が豊後に残ろうとした理由の一つは、間違いなく南蛮神教にあったのである。


 結果として、親宣は豊後に残った。
 石宗からの知らせで、親宣が一寺を任されたことは知らされたものの、前述したように当の本人からは何の便りもない。大友家や南蛮神教の動向を伝えることはおろか、親直が使者として大友家に赴いた折も会おうとさえしなかった。
 それが親宣なりの、大友家――というより石宗に対する誠意であったのだろう。親直はそう考え、父に会うことなく肥後へと戻ったのである。




 その親宣が、はじめて動いた。
 その事実は、親直が表情を動かすに足る一大事といえる。
 もっとも――
「……動いたとは言っても、私あての書を認めただけ。それも中身はなし、か」
 親直の名を記した墨痕淋漓とした筆跡は、親直の記憶にあるものと寸分たがわない。甲斐家に残っている親宣のものとも一致する。
 肝心の内容が空白ということは、要するに使者に話を聞け、ということか。
「……雲居、雲居家、か。大友の家臣にその名はなかったと思うが……雲居筑前。何者かの偽名か?」
 親直は推測してみたものの、ここでどれだけ頭をひねったところで答えがわかるはずもない。
 今の親宣は、肥後の情勢をほとんど知るまい。ゆえに親宣が関わる使者だからといって、その言うことを鵜呑みにするわけにはいかないが……
「内容はどうあれ、話を聞かぬわけにはいくまい」
 そう呟くと、親直は外に控えていた従者に、使者を案内するように告げた。


 従者がかしこまって下がっていく。その足音に耳朶をくすぐらせつつ、親直は表情を改める。
 常のごとく勁烈なその眼差しは、あたかも戦を前にしたかの如くであり、かつての大乱を彷彿とさせる事態が間近に迫っていることを、はや確信しているかのようであった。





◆◆◆





 日向国高千穂山中。
 高千穂北部を制圧した大友軍は、東部の要衝中崎城へと兵を進めている最中であった。
 大軍が通行できるような道がないこと、また敵軍の奇襲を警戒するためもあって、大友軍の行軍速度は遅々として上がらなかったが、大友陣営に焦りの色は見られなかった。
 これは捕らえた敵兵から三田井家の情報を聞き出し、現在、中崎城を中心とする高千穂の東部地方が孤立していることを知ったからである。


 中崎城の守将である甲斐宗摂は、三田井家に仕える家臣の中でも屈指の実力を有し、主家を支えんとする忠誠心の厚い人物であった。この点、甲斐家の一族というのは、親宣や親直に限らず、皆が忠義を重んじる為人であるらしい。諸国の大名が聞いたら、涎を流して欲する人材の宝庫であろう。
 それはさておき、そんな宗摂であるが、現在、主家の三田井家との確執が表面化しており、大友軍が中崎城へと進軍しつつある今も、三田井家から援軍を送ろうとする気配は皆無であった。


 君臣の仲がおかしくなったのは、つい先年のこと。
 この地方では鬼八という名の荒神の祟りを鎮める儀式が毎年行われているのだが、その供物というのが一人の乙女であった――つまりは人身御供である。
 甲斐宗摂がこの儀式を取りやめさせ、乙女の代わりに一頭の猪をもって代わりとするように取り計らったのが昨年のこと。なんでも宗摂の娘が生贄に選ばれたからであるとのことだが、そのあたりは判然としない。


 しかし、理由はどうあれ、生贄の儀式に娘を奪われた者たち、あるいは奪われることを恐れていた人々にとって、宗摂の決定は英断以外の何物でもない。彼らはおおいに宗摂に感謝し、名君と褒め称えた。
 しかし、高千穂地方を統べる三田井家は宗摂の決定を認めず、それどころか深甚な怒りを抱いた。なんといっても「天孫降臨の地」を統べる家である。伝統、格式、慣習を重んじるのは当然すぎるほど当然のことであり、それを自分の一存で勝手に変更した宗摂に対し、寛容を示せるわけがなかった。


 折悪しく、というべきであろう。今年、高千穂は天候が不順であり、早霜の害によって作物に少なからぬ被害が発生したという。餓死者が出るほどではなかったが、それに近い状況に陥った地域もあったそうだ。
 異なる時代の人々であれば、不幸な偶然で片付けることも出来たかもしれないが、この地の人々にとって――ことに三田井家にとってはすべてが必然としか思えなかったであろう。
 事実、彼らは宗摂に対し、ただちに生贄の儀式を執り行うように強硬に求めたのである。しかし、宗摂はこれを断固として拒否。
 これまでは確かにあったはずの君臣の絆は、今や高千穂全土を探しても見つけることは困難になりつつあった。





 大友軍が侵攻してきたのは、そんな時である。
 まるではかったようなタイミングであり、宗麟が聞けば神の思し召しだ、とでも言ったかもしれない。
 俺としても都合が良いと思ったことは否定しない。思うところがないではないが、だからといって引き返すことなど無論出来ぬ。


「問題があるとすれば……」
 宗摂が民に慕われているのであれば、中崎城を攻めるに際して激しい抵抗を受ける可能性がある、ということか。
 くわえて、宗摂と三田井家との繋がりが断たれていたのであれば、仮に肥後の親直が動いてくれたとしても、東部まで話が届いていない可能性もある。


 まあ、寒気の厳しい高千穂山中を、いつ敵に襲われるかと警戒しながら進んでいる南蛮宗徒たちの顔は、豊後を出た時のそれとは比較にならないほど弱々しい。これをおさえることは、少なくとも高千穂に踏み入った頃よりは容易だろう。
 俺はそんなことを考えながら歩き続けた。そして、大友軍は、明後日には中崎城を視認できる地点までたどり着いた。


 敵の城が近づいたということは、その分、敵襲の可能性も増すということである。
 もっとも、宗摂は中崎城に兵を集めており、篭城の構えを見せている。さらに幾人もの斥候を出しているから、不意に襲われる可能性はかなり低いのだが。
 早ければ明日にも戦になるとあって。大友軍は翌日に備え、かなり早い段階で夜営の準備をはじめた。当然、敵の夜襲に対する備えも怠っておらず、煌々と焚かれる篝火は山一つを明々と照らし出すほどである。
 それらの差配を終えた俺が、さて自分も休むかと思った時。
 とある人物から声をかけられた。




◆◆




「ここまで来れば、まあ大丈夫でしょう」
 丸目長恵はそう言うと、くるりと振り返って俺に向き直った。
 大友軍が夜営している場所から歩くこと数分。友軍との距離は、俺たちの声が届くほど近くはないが、何か異常が起こった場合、それを察せないほど離れてもいない……そんな距離だった。


 ところで、何が「大丈夫」なのだろう。俺は首を傾げる。
 長恵に求められるままについて来たものの、肝心の用件をまだ訊いていなかったりするのだ。
 戦を近くに控え、夜も更けた山の中、自軍から離れる長恵の目的は何なのか。
 それは俺ならずとも気になるところだろう。当然、俺も気になった。しかし、それを訊ねても長恵は、内緒です、と唇に人差し指をあてて教えてくれなかったのである。


 その長恵がそう言うからには、ようやく用件を教えてくれる気になったのだろう。
 そう考えた俺は、それをそのまま口に出した。
「ふむ、何が大丈夫なのかはよくわからんが、ともあれ、用件をお伺いしよう」
 一瞬、まだはぐらかされるか、と思ったが、予想に反して、長恵は俺を師兄と呼んだ後、あっさりとこう言った。


「立ち合ってくださいませ。真剣で」


 数秒――ことによったら数十秒の沈黙の後、俺はゆっくりと口を開く。
「何故、と訊いても良いか?」
 そう言いながら、俺が乱暴に頭を掻いたのは、これが長恵の冗談だとわかったから――ではない。その表情から、この申し出が限りなく本気であることを察したからである。


 何故、俺と立ち合いたいのか。何故、今この時なのか。
 そんな俺の問いに対し、長恵はゆっくりと言葉を紡いでいく。
 周囲は寒気厳しい高千穂の山々、あたりは清澄な空気に満たされ、空からは望月の光が降り注ぐ。その月明かりに照らされた長恵の姿は、どこか幽玄という言葉を俺に思い起こさせた。
「今宵は満月……師兄とお会いしてから、はや月が一巡りしました」
「……ああ、そう言えばそうだな」
 俺は改めて空を振り仰ぐ。太陽の光を受けて煌々と輝くその星は、欠けることなき姿を漆黒の夜空に浮かび上がらせている。


「なにか不満があった……いや」
 俺は長恵に問いを向けようとしたが、すぐにかぶりを振ってそれを止める。
 不満があるどころか、むしろ不満だらけかもしれない。そう思ったのだ。
 この一月の行動に悔いはないが、それはあくまで俺の自己評価でしかない。
 他者の――長恵の目から見て、俺の姿がどう映ったかは知る由もない。長恵が、もはや俺に付き従う価値なし、と判断したとしても、それに文句をつけるつもりはなかった。
 

 だが。
 長恵は俺のこぼした声を耳にして、きょとんとした表情を見せる。
「いえ、不満なんてとんでもないです。むしろ、師兄には感謝してもし足りないと思ってますよ?」
「そ、それはどうも……? あ、や、そこまで感謝されるようなことはしてないと思うんだが」
 吉継の護衛とか、先日の狙撃とか、むしろ長恵に頼りっぱなしのこちらが感謝しなくてはならないほどだ。
 しかし、そんな俺の言葉に、長恵は首を左右に振る。
「好きに使って下さいと言ったのは私なのに、それに対して感謝を求めたりしませんよ。ましてその程度の功を、師兄や姫様のお傍にいたこの一月と引き比べるつもりなど毛頭ありません」


 そう言って微笑む長恵は、思わず見とれてしまうほど魅力的ではあったのだが、しかしそうなると、なんで真剣で立ち合え、という話になるのだろうか。
 俺がそう問うと、長恵は特に構えるでもなく、こう返答した。
「師兄の本気を見てみたくなったから――では、理由になりませんか?」
「……本気と言われてもな。一応言っておくが、実力を隠したりはしてないぞ」
 そんな余裕あるわきゃないのである。
「それはわかってますよ。見せてもらいたいのは、あくまで『本気』であって、秘めた実力、なんてものじゃありません」
「今ひとつ違いがわからないが……まあそれは措くとしても、何で戦の真っ最中に?」
 府内にいた頃ならば、いくらでも機会はあったはず、と考えた俺はそう問いかける。
 ……いや、長恵のことだから、多分、今日が満月だから、とかそういう理由なんだろうなあ、とは思っているが。


「それはもちろん、今日が満月だからです」
 さも当然のように言う長恵。さいですか。
「それに、ですね」
「む?」
「府内で立ち合えば、どうしても人目に触れてしまいますから。その点、高千穂の山の中なら、見ているのは草木と動物、それにあちらの――」
 そう言って、長恵は天空を指差してみせる。
「お月様だけです」


 なるほど、確かに剣聖丸目長恵が雲居家にいる、などと知られるわけにはいかない。たとえ長恵の顔を知らない者でも、多少なりと剣術に心得があれば、その剣筋から長恵の腕前が尋常ではないことに気づいてしまうだろう。
 その意味で、府内で剣を振るうのを避けたいという長恵の言い分はもっともであった――と、俺はそう考えたのだが。


「いえ、確かにそれもありますが、私がこの場所を選んだのは師兄のことを考えたからですよ」
「俺のこと?」
「はい。だって師兄は、姫様や他の方々の前では、本気は出せないでしょう?」
 さも当たり前のようにそう口にする長恵に対し、俺は咄嗟に何と返すべきか判断に迷ったが、念のためにもう一度さっきの言葉を繰り返すことにした。
「繰り返すが、別に実力を隠したりはしていないぞ。俺の剣筋を見たところで、何がわかるわけでもないと思うけど……」
「そういうことを言いたいんじゃないんですけど、んー、何といえば良いかな……?」


 すると長恵は何やら考え込んだ末、口で説明するのを諦めたようだった。
 困ったように笑って言う。
「私は、師兄の氏素性を探るつもりはありません。ただ、雲居の果てにある『あなた』の本気を見てみたい。それだけです。不躾な願いだとはわかっていますが……」
「ふむ……よくわからんが、まあ長恵がそう言うなら――」
 じゃあ、やるとしますか。


 俺がそう言うと、今度は長恵が口を噤んだ。驚いたように目を丸くしている。
「よろしいんですか?」
「ここまで連れ出しておいて、何を今さら。断らせるつもりなんてないだろうに」
「あは、まあそれはそのとおりなんですけど。最終的には先の狙撃のご褒美という手段まで考えていたのに、それが無駄になって残念です」
「多分そんなことだろうと思ったので、さっさと承諾したのですよ、剣聖殿」
 俺はそう言って肩をすくめた。
 それに、ここまで無償で協力してくれた長恵が、はじめて願いを口にしたのである。断る、という選択肢ははじめから俺の頭にはなかった――まあ、出来ればもっと穏やかな願いの方が良かった、と思わなかったといえば嘘になるのだけれども。
 俺は腰の刀を抜き放ちながら、そんなことを考えていた。





[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第六章 聖都(七)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:9e91782e
Date: 2010/12/28 19:51

 では、参ります。
 その一言と共に長恵が構えを取る。
 八相の構えにも似た独特のその姿勢は、長恵と出会ってから一月の間に幾度も目にしているもの。目新しさはない。
 目新しさはないが、真剣を持って向かい合ってみれば、おのずと普段とは異なる感情――恐怖とか畏怖とか勝てるわけねーという諦観とか――が胸の奥から湧き上がる。この構えから繰り出される長恵の得手、相手を袈裟懸けに斬って捨てる剛速無比の斬撃を幾度も目の当たりにしていれば、それも致し方ないことではなかろうか。
 くわえて言えば、袈裟斬りはあくまでも得手なだけであって、それ以外の長恵の攻めが技術的に劣るわけではない。俺から見れば、長恵の繰り出す鋒鋩は、得手だろうが何だろうがどれも等しく必殺技にしかみえんかった。


 その長恵に対し、俺は中段に構えをとる。
 説明不要の基本形。その構えをとって、長恵の顔を見据えた。
 刀を抜いてからの長恵の顔は、俺の目にはどこか茫洋として映る。真剣で、と言ったわりには、こちらが居竦まるような殺気と敵意とか、その手の威圧は皆無であった。
 こちらを見る目にも常の闊達とした光は見て取れず、まるで霞みに包まれたかのようにとらえどころがない。


 ――だからこそ、恐ろしい。
 どう攻めるのか、いつ打ち込むのか、様子を見るのか、そういったことが何一つ読み取れないのだ。
 真剣で、と口にした長恵の意図は今もって定かではない。
 決着はいずれか、もしくは双方の死のみ――などというわけではあるまいが、互いに真剣を持っている以上、すでに命懸けの仕合ではあるのだ。彼我の力量差を見た場合、勝敗の行方は明らかであり、長恵の手加減を期待するしかないわけだが、それでは長恵が口にした『本気』の意味が薄れてしまう。
 確かに真剣を持てば常よりも緊張感は増すが、それを言うなら木刀だって、持ち手の意思一つで真剣にまさる武器になりえる。長恵の手加減が前提ならば、何も真剣で向き合う必要はないのである。


 もっとも意図がわかったところで、今この場での仕合には何の役にも立たない以上、あまり深く考える意味はないのかもしれない。なにより剣聖を前にして、余計なことに意識を割くような余裕があるはずもなく。
 俺は、視線を長恵の目ではなく、全身に据え、一挙手一投足を見逃さないように注意を払う。
 決してこちらからは仕掛けない。
 先手必勝などという言葉が通用するのは、相手に優る力量を備えている場合であり、格上の相手にそんなことをすれば確実に反撃をくらう。まして新陰流は相手の動きを利す剣術である。突っかかったところで、飛んで火にいる羽虫以上のものにはなりえない。
 かといって、ひたすら守りを固めても確実に崩される。力、技、いずれも自分を上回る相手に守勢にまわっても勝ち目はないことは、謙信様や秀綱殿との稽古で何度となく思い知らされたことだった。


 ならばどうすれば勝てるのか――自問。
 自答――そんな方法はない。


 当然といえば当然だった。大した疲労もない五体満足の剣聖に対し、こうすれば勝てる、などという都合の良い方策は存在しない。
 だからこそ、極小の――それこそ針の先ほどの勝機であっても見逃さないように心を落ち着ける。湧き出る恐怖と諦観に蓋をする。
 それを可能とするのは過去の経験――主に先の二人にこてんぱんにのされた記憶――であり、二年間たゆまず続けた稽古の感触。
 真剣と木刀の違いはあれ、この構えを日常の一部としたことが、今この場にあって平静を保つ一助となるのである。




 発されたかすかな呼気。
 気がついた時には、長恵の長刀が迫っていた。
 息をのむ暇さえない。咄嗟に左肩をかばう形で刀を寝かせると、間髪いれずに耳元で激しい擦過音が鳴り響き、柄を握る両の手に異様なまでに重い衝撃が伝わってきた。
 長恵得意の袈裟斬りである。その攻撃を十二分に予期していたにも関わらず、俺は圧された。
 謙信様たちもそうだったが、どうやったらこんな細い身体から、これだけの重みを持った一撃を繰り出せるのだろうか。
 しかもこれほどの鋭鋒も、まず間違いなく手加減しているに違いないのである。剣の才と、才を伸ばすために費やした歳月の密度はどれほどのものなのか、想像するだけで震えが走りそうだった。


 しかし、のんびりとそんなことを考えている暇はなかった。
 後ずさった俺に対し、長恵はわずかに息を吐き出した後、再び刀を振るってきた。今度は先ほどとは逆、右肩から左腋までを両断せんとする一閃である。
 左肩をかばった形で後ずさった直後であるだけに、右肩をかばうために刀を置く余裕はない。どうする、と考えるよりも早く、足は地面を蹴っていた。


 華麗なバックステップ――というわけには、残念ながらいかなかった。この場合、たたらを踏む、という表現が適切かどうかは定かではないが、倒れて尻餅をついたりしないようにあぶなっかしく数歩後退する。
 咄嗟の判断にしては上出来だったはずだが、それでも長恵の斬撃を避けるには至らなかった。右肩から胸のあたりまで、着ていた戦袍には一条の太刀筋が刻まれている。
 紙一重で身体には届かなかったようだが、それが果たして此方の動きによるものか、それとも長恵の配慮によるものか、この時点では判然としなかった。




 人気のない山中に連鎖する刃鳴り。鋼と鋼がぶつかりあう澄んだ残響音は、その実、一つ一つが冥府への片道切符となりえる猛威の象徴であった。
 冬の寒気すら両断する勢いで繰り出される長恵の斬撃に、俺は防戦一方に追い込まれる。
 もとより、この仕合が攻めの長恵、守りの俺、という形で推移していくことは覚悟していた。その中で相手の隙をうかがうというのが俺の基本姿勢だったわけだが――


(どこを探しても隙が見当たらん場合はどうしたものか)
 というか、隙を探そうとすれば、それが俺の隙になってしまうのである。
 結果、俺はただひたすら長恵の重く、鋭い斬撃を受け続けるしかなくなっていた。
 白刃が煌く都度、必死に刀をそちらに向かわせ、間に合わないとなれば、その場から飛び退る。
 ここまではかろうじて長恵の斬撃に身体がついていっているが、しかし、すでに手はしびれ、息はあがり、集中力を保つことも難しくなってきていた。
 かろうじで長恵の攻撃をさばけているとはいえ、それは俺がうまく守っているためではなく、長恵があえて俺が防御している箇所に打ち込んできているためであろうと思われる。


 このまま受け続けているだけでは、遠からず押し切られる。だからといって正面から向き合えば必敗、搦め手を使おうにもそんな隙はなく、そもそも俺自身にそんな余裕がない。
 それでも、集中力だけは途切れない。途切れさせない。
 焦慮も狼狽も押し殺し、ただただ剣聖の打ち込みをはじき返すことに専心する。
 一から十まで相手にかなわずに圧倒される感覚は、むしろ懐かしささえ感じるほどだ。二年以上も昔のことが、つい昨日のことのように思い浮かぶ。その感覚に、俺は知らず口元に笑みを浮かべていた。



 すると。
 まるでその瞬間を見計らっていたかのように、長恵の刀がこれまでと異なる軌道を描く。弧を描くように翻った剣先が、こちらの刀をすくい上げるように右斜め下方から、左斜め上方へと一閃する。
 まったく逆向きの斬撃に備えていた俺は、自身の刀に加えられる圧力に抗しきれない。
 結果。
 奇妙に澄んだ音をあげながら俺の手から刀が離れ、回転しながら夜空に向かって舞い上がった。






◆◆◆






 時を少しだけ遡る。



 丸目長恵は困っていた。
 それは自身の目論見が外れたから、というわけではなかった。事態は長恵が想定していたとおりに進んでおり、その点ではまったく問題はないと言ってよい。
 事実、長恵自身に関して言えば、望んでいた成果はほぼ得られたという感触がある。
 むしろ思っていた以上の成果が出ているほどで、それが長恵の困惑を招く一因でもあった。


 あらためて言うまでもなく、長恵は雲居を斬るつもりは微塵もない。真剣を持ち出したのは、言明したとおり雲居の本気を見るためであり、真剣はそれを引き出すための要素に過ぎない――はずだったのだが。
(ちょっと楽しくなってますね、私。どうしましょう?)
 長恵は内心でそんなことを考えていた。


 何故、雲居の本気を見たいのか。
 これまた言明したとおり、雲居の氏素性を探るためではない。率直に言って、雲居の素性に関しては探ろうと思えばいくらでも探れると長恵は考えていた。いくつもの点と点、それを線で結んで正解にたどり着くことは、おそらくそう難しくはないだろう、と。
 しかし、これに関しては長恵は本当に興味がなかった。長恵が興味を抱いたのは、雲居がどこの誰であるかという事実ではなく、その為人を根底で支える何かにあった。
 それを知るためにこそ本気で剣を交えたいと考えたのである。



 当初、長恵は雲居の動きを見て、内心で頷いていた。
 落ち着いた挙措、基本に忠実な動き。なるほど、素人ではない。技巧をまじえずに力と早さで押し込む単調な斬撃を繰り返しているだけとはいえ、長恵の攻撃は簡単にさばけるような代物ではない。 それを、危なっかしいところがあるとはいえ、なんとか防げている時点で、雲居の積んできた経験と修練が素人の域を越えているのは明白であえった。


 その一方で、長恵は首を傾げてもいたのである。
 なるほど、素人ではない。しかし、それ以上のものでもない。秀綱に新陰流を学んだわけではないと雲居は口にしていたが、その言葉に偽りはなさそうだ、と。
 もっとも長恵は、雲居の普段の立ち居振る舞いから見て、実は並々ならぬ実力を秘めている……などという可能性はとうに除外していたから、これは今さらであった。


 この程度ならば、あと五、六合ほどで力尽きるだろう。
 長恵は先刻、そう考えた。しかし、五合が十合になった今なお剣戟は続いている。
 繰り返すが、長恵は手加減していた。
 しかし、それを考慮にいれても雲居の粘りは尋常ではなかった。 
 中でも特筆すべきは、真剣をもって向かい合い、長恵の斬撃を受け続けながら、いまだに平静さを失わず、集中力を保っていることである。この一点に関しては、はっきりと凡庸の域を超えている。


 真剣を用いていようと、どうせ稽古なのだから――そんな甘えは、雲居の表情からはかけらも感じ取れない。
 決して踏み込んでこようとしないのは、そうすれば勝ち目はないと理解しているからだろう。ひたすらこちらの攻撃を受けつつも、雲居は勝ちの目を探し続けているのであり、だからこそ集中力が続いているのだと長恵は見て取った。


 最後まで決して諦めない――口で言うのは誰でも出来る。しかし、真剣をもって剣聖と向かい合い、その斬撃を受け続けながら、なおもそれを実践できる人間がどれだけいるか。
 そう考えた長恵は、途中から己の枷を段階的に外していった。雲居の力の篭った眼差しがどこまで続くか、それを試してみたくなったのである。
 そして――




(気がつけばなんか楽しくなってますし。これはちょっと予想外)
 いつまでも萎えない雲居の視線を感じているうちに、長恵は段々と抑えがきかなくなっている自分に気づいていた。
 そのことを自覚し、困惑しつつ、しかし同時に楽しんでしまっている。
 というのも、下手に名が知れ渡ったために、長恵は長らく本気で自分に勝とうとする相手と出会っていなかったからである。
 相良の家臣や弟子たちは、長恵と向き合っても負けて当然と考えている。名声や名誉のために戦いを挑んでくる相手でも、ある程度長恵と剣を交えれば、彼我の力量差を悟って敗北を認めた。
 こと剣の仕合において、これだけ打ち合って、なお勝利への意欲を失わない相手は実に久しぶりであり、それゆえに長恵は楽しい、と感じてしまったのである。 


 無論、そう感じながらも雲居に対する観察は怠らない。
 真剣を用いた剣術の仕合において、集中力が乱れる要因は幾つもあれど、突き詰めていけば命を惜しむ心情が端緒となることが多い。剣術を修めている者であれば、そういった怖気を払う術を身につけているだろうが、剣術を修めていない者であればなおのこと敗北と死への恐れは執拗につきまとうことだろう。
 しかし、雲居はあっさりとそれを乗り越え、高い集中力を保っている。それが不思議であった。


 自分の命を埒外に置くような真似、普通の人間がしようと思ったところで身体が拒絶する。心身ともに容易くそう出来る人がいるのだとすれば、それはよほどの愚者か、狂者か。
 思い返せば、これまでにも似た状況がなかったわけではない。しかし――
(師兄が狂っているわけはなし、かといって愚かというわけでは更になし。まあ親ばかという意味ではばかですが、それはこの際措いておきましょう)


 目的のためには手段を選ばない人であることは理解していた。
 その手段に、己の命が関わっていてもためらうことがない。意識してその覚悟を定めるのではなく、ごく自然にそれが出来る――出来てしまう。
 つまりはそこに至ったときこそが、雲居筑前と名乗る人物の本気、なのだろうか。


 ――もしその考えが正鵠を射ているのならば、眼前の人物はとても危うい。長恵はそう思う。
(水、急なるに月を流さず。不動の心は得難きものですが、生死の境を容易く踏み越えるそれはむしろ得てはならぬ類のもの……なるほど、だからお師様は術を伝えようとはしなかったのかな)
 長恵の視線の先では、雲居が長恵の斬撃をさばきつつ、口元に笑みを浮かべている。
 何が理由かわからないが、雲居もまた長恵と同じように楽しいと感じるものがあったらしい。


 状況が状況であるだけに、見る者が見れば不気味に思ったであろうその笑みを見て、長恵はむしろ得心した。
 同時に、見るべきものは見たと判断し、これ以上の斬り合いは不要であるとして、はじめて明確に勝負を決めるための一撃を放つ。
  



 
 そこから先は、瞬きの間の出来事であった。
 長恵の一撃は技巧をもって雲居の刀を絡めとり、宙へと弾きあげる。
 澄んだ響きと共に、雲居の刀が回転しながら舞い上がるのを見て、長恵はわずかに力を抜いた。
 ――それは多分、一連の剣撃ではじめて見せた長恵の隙であったろう。
 勝負が決したという長恵の考えは、まだ早すぎた。刀を失ったら負けなどという取り決めはなく、戦いの幕がおりるには、まだもう一幕必要だったのである。


 瞬きの間に、雲居の手に鉄扇が握られているのを見て、長恵も瞬時にそれを悟る。
 雲居は長恵に刀を絡め取られるや、躊躇なく右の手を懐に差し込んでいたのである。左手一本では長恵の膂力に敵うはずはなく、雲居の刀は宙を飛んだ。飛んだ瞬間に、雲居は右の手で鉄扇を握りしめ、長恵に向けて振るう。
 狙いは刀の柄。刀と鉄扇ではリーチが大きく異なり、雲居の位置から長恵の顔や身体を狙っても届かない。雲居は、長恵の刀を握る手を打ち据え、攻撃の手段を封じてから、もう一歩踏み込んでくるつもりだと思われた。


 この時、長恵は雲居の行動を予期してはいなかった。
 雲居が常に鉄扇を携えていることは知っていたが、この状況で刀を捨てて扇を取り出すなど予測できるはずもない。
 雲居の動きに遅滞はなく、相手の刀を弾きあげた体勢にある長恵では、繰り出される鉄扇の一閃を受け止める術はない。それはたとえ剣聖と呼ばれる者であっても変えられぬ事実であった。


 ゆえに、長恵は鉄扇を受け止めようとはしなかった。
 無論、黙って打たれるのを待っていたわけでもない。雲居が刀に執着せずに鉄扇を選んだように、長恵もまた刀に執着せず、刀の柄から手を離したのである。
 間一髪――いや、半髪の差さえなかっただろう。雲居の鉄扇は狙いあやまたず長恵の刀の柄頭をとらえ、刀は雲居の刀の後を追うように宙高くはねあがった。


 剣聖から剣を遠ざけることに成功した雲居。
 しかし、得物こそ失ったが、長恵はまったくの無傷である。
 これはいかん、と雲居が鉄扇を握る右の手を引き戻すその寸前、長恵の手がするすると伸びてきて雲居の右肘に触れた。
 勝負が決したのはこの瞬間。
「うおわッ?!」
 くるり、と。そんな擬音が聞こえてきそうなほどに軽やかに、かつ見事な勢いで雲居は宙を舞っていた。そして一瞬後、雲居の身体は勢いよく地面に叩きつけられる。
 右手を長恵に掴まれたまま、ろくに受身をとることもできなかった雲居は、自身の体重と長恵の投げ技の勢いを余すところなく己が身体で受け止めることとなり――
「…………きゅう」
 丁寧にそんな言葉を残した後、あっさりと意識を手放すのであった。





◆◆◆





「……なるほど、道理で背中が死ぬほど痛むわけだ」
 焼けるような背中の痛みで目を覚ましたものの、鉄扇を避けられた後の記憶がなかった俺は、長恵にそのことを訊ね、返ってきた答えに深く納得した。
 受身もとれずに背中から地面に叩きつけられたのなら、これだけ背中が痛むのも仕方ない。ついでに意識が飛んだのも仕方ない。
 長恵は申し訳なさそうにしていたが、無論、俺は責めたりはしなかった。勝負の一環だから仕方ないし、何よりそれよりも先に訊いておかねばならないことがあったからである。


「……で、それはそれとして、どうして俺は長恵に膝枕してもらってるんだ?」


 心からの真剣な問いかけだったのだが、長恵はむしろ俺がなんでそんなことを訊ねるのだろう、という感じで首を傾げた。
「師兄は女子の膝より、固い地面の方がお好きでいらっしゃる?」
「それは断じて違うが、この格好は様々な誤解をはらむと思われるのです」
「姫様は陣でお休みですし、将兵もあたりにはおりません。ご心配には及ばぬかと」
 それに、と長恵はやや眉根を寄せて口を開く。
「私がやりすぎてしまったのは事実ですので、この程度はさせていただきたく思います」


 仕合をしていたのだから、そこまで気にする必要はないのだが、それを口にしても長恵は納得しそうになかった。こうしていることで長恵の気が済むなら、まあ良いか、と俺は口を閉ざす。正直、背中の痛みがおさまるまではあと少しかかりそうだったので、ありがたいと言えばありがたかったのだ。
 とはいえ、やはり気恥ずかしさは隠せない。目を開けていると、上下逆に映る長恵の顔が間近で見つめ返してくるので、俺は目を閉じて痛みが去るのを待つことにした。


 ……しかし。
 目を閉じたら閉じたで、長恵の柔らかい膝の感触がより鮮明に感じとれて、これはこれで落ち着かない。しかも身体を動かした後であるせいか、ほのかな温もりを伝えてくるので尚更である。
 そのうち汗のにおいとか意識しだしたら、非常にまずい気がしたので、意識を別の方向へ向けるため、やっぱり口を開くことにする。
「ところで」
「はい、なんですか、師兄?」
「俺としては本気を出したつもりなんだが、剣聖のお眼鏡には適ったのかな、と」
「それでしたら、私としては言うことなしです。願わくばもう一方(ひとかた)もそうであるとうれしいのですが……」


 それは良かった、と頷きかけたところで、俺は動きを止めた。
「もう一方?」 
 だれのことか、と目を開けて長恵の顔をうかがう。
 俺の問いを受けた長恵は、しまった、と言わんばかりに両手で口をおさえたが、いまさら誤魔化すのは無理と判断したか、たははと笑いながらもあっさりと企みを白状した。
「んー、実は戸次様に、ここで師兄と戦いますよ、と伝えていまして。ついさきほどまでいらっしゃったんですよ。ほら、剣を交える前にも言ったじゃないですか。『見ているのは草木と動物とお月様だけ』って。人間も動物ですよね?」
「……ええと、訊きたいことや言いたいことは色々あるが、とりあえず一つだけ」
「はい?」
「なんで誾様?」
「今、師兄が一番に頭を悩ませている問題だと推察しましたので。師兄には無理を聞き入れていただき、随身を許していただきました。真に人に仕えるとは、言われて動くのではなく、みずから動くことであるとか。となれば気働きの一つもして見せねば丸目の名がすたるというものです」
 そうして考えた結果、俺と誾との仲を取り持とうという結論に達したのだという。


 聞けば、長恵は相良家の臣として、大友家の事情をおおよそ把握しており、戸次誾という人物の特異な生い立ちや、その為人――文武に優れた稟質を持つも狷介な人柄――も聞き知っていたらしい。
 しかし、筑前で刃を交え、肥前への道中を共にし、さらに府内では新陰流の伝授を請われた長恵は、誾の為人に関する伝聞は、所詮伝聞に過ぎなかったと知ったという。
「戸次様は何故か師兄に敵愾心を抱いておられるようですが、実際は礼も理も弁えた少年。であれば、何か切っ掛けさえあれば師兄との仲も好転するのではないかと思いました」


 とはいえ、剣聖たる身にも苦手なものは存在する。人と人の仲を取り持つなど、その最たるものであろう。
 しかし。
「先の謀事からこちら、少し戸次様の態度に変化があったようですし、あの方であれば、私と師兄の仕合から感じ取れるものもあるでしょう。師兄の本気を見てもらえれば、少しはお二人の仲も縮まるのではないかと思い、この場にお呼びしたわけです」
「ふむ……? もう陣に戻られたのだよな、何か仰ってたか?」
 長恵の気遣いは有難いが、その効果についてはいささか懐疑的にならざるをえない俺だった。


 案の定、俺が訊ねると長恵は短く苦笑する。
「特には何も。ただ、地面に横たわる師兄の姿にしばし見入っておられましたね」
「……なんだか醜態を晒しただけに思えるんだが」
「もしかしたら、そうかもしれません」
 おいこら、発案者。
 思わずつっこみそうになった俺だったが、その視線の先で長恵は苦笑とは明らかに質の異なる笑みを浮かべ、囁くように続けた。
「けど、もしかしたら、そうでないかもしれませんよ?」


 その長恵の笑みを見た途端、何故か言葉に詰まってしまった俺は、それをごまかすようにごほんと咳払いする。
「……ま、まあ、呆れられていないことを願うとしよう」
「はい。多分、大丈夫だと思いますけどね」
「その根拠は?」
「特にないです。こんな真似をしたのは初めてのことですから」
 そういう長恵は、根拠がないにも関わらず、どこか楽観的に見えた。
 俺は呆れながら口を開こうとしたが、しばし考えた後、思い直して口を閉ざした。ここで何を言ったところで誾には届かないし、長恵の気遣いが嬉しかったのは事実である。その一事だけで、ここで立ち合った意味は十分にあったと思えたからであった。




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第六章 聖都(八)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:8ca8dc29
Date: 2011/01/03 23:09

 大友軍の日向侵攻からおよそ一月。
 日向国内は、現在、奇妙な静寂に包まれていた。
 当初、日向北部を瞬く間に席巻し、日向でも雄なる勢力の一つであった県城の土持親成を鎧袖一触蹴散らした大友軍の猛威の前に、日向の他の国人衆は震え上がった。
 彼らは戦勝の勢いに乗った大友軍が、すぐにも中南部への侵攻を開始するものと考えたのだが、ここで大友軍は大方の予測を裏切って進軍を停止、五ヶ瀬川及び南の大瀬川の線を厳重に固めるや、県城の城郭部分を取り壊し始める。
 この作業に携わったのは、今回の大友軍の主力というべき南蛮神教の信徒たちである。三万を越える彼らが、昼夜の別なく働き続けた結果、県城が地上と地図から消えうせるまで半月とかからなかった。
 だが、この宗麟の行動には、大友軍の諸将はもちろん、同胞の報復に燃える信徒たちからも疑問の声があがる。今この時期、城一つを消し去ることに何の意味があるのか、と。


 この声に対して宗麟は、戦に先立って殺害された信徒たちの鎮魂のために大聖堂を建設すること、さらにそれを建てるに相応しい場所こそ県城であることを説明した。
 同胞の鎮魂のためと言われては、信徒たちが反対を唱えることは難しい。ゆえに反対を唱えた者の多くは、南蛮神教から距離を置く大友家の家臣たちであった。
 彼らの主張は日向の諸勢力――ことに伊東家が反撃の準備を整える前に軍を進めるべき、というもので、この主張は相応の説得力を有していた。 ゆえに宗麟はあえて彼らを翻意させようとはせず、言われるがままに大瀬川以南の伊東家の諸城の攻略を命じたのである。
 だが。
 宗麟が意図したか否かは定かではなかったが、この決定により、この遠征において少数ながら存在した反南蛮神教派の家臣は宗麟の身辺から遠ざけられた形となり、大友軍の本営は南蛮神教一色に染まることになる。


 そして、その状況を待っていたかのように、信徒たちの間である噂が囁かれるようになった。
 南蛮神教の、南蛮神教による、南蛮神教のための国。信徒たちにとっては夢の中にしか存在しえぬ理想郷を、この地に建設することこそ、大友軍の真の目的である、というそれは噂であった。
 この話は瞬く間に大友軍内を駆け抜け、信徒たちは事の真偽を求めて上位の者や宣教師たちの下に殺到する。彼らの期待が熱と光をともなって膨れ上がるのは必然であり、放っておけば、それは熱狂という名の暴走に繋がりかねない勢いであった。
 かくて、事ここにいたり、大友フランシス宗麟ははじめてその言葉を公の場で口にする。


 聖都ムジカ。


 その名が宗麟の口から発されたとき、九国を覆う戦乱は新たな段階を迎えることになるのである。




◆◆◆




 日向国県城址。
 大聖堂建設のために忙しげに立ち働く人々を、トリスタン・ダ・クーニャは黙然と眺めていた。
 五ヶ瀬川を遡り、海から吹き寄せてくる潮風がトリスタンの亜麻色の髪をそよがせる。乱れる髪を左の手で押さえつつ、トリスタンは内心の驚きを素直に口にした。
「これほどの人数が労役に従事していながら、不満の声もあがらず、反抗の一つも起きようとしない。この国の民の勤勉さと従順さは聞きしに優るわね」
 その呟きは風にまぎれ、誰の耳にも届かずに終わるかと思えたが、少し離れた場所で配下の宣教師に何事か命じていたカブラエルの耳には届いたらしい。
 宣教師たちに命令を伝え終えるや、カブラエルは顔に笑みを湛えながらトリスタンの方へ歩み寄ってきた。


「私もこの国に来た時は驚きました。邪教を奉じ、殺し合いに明け暮れる蛮人の国と聞いていたのですがとんでもない、みな驚くほどに速やかに神を理解し、その教えを受け入れてくれるのです。そんな彼らを目の当たりにして、私は確信したのですよ。この国こそが、東方諸国に我らが神の教えを広める拠点となるだろう、と」
 カブラエルの言葉を聞き、トリスタンはほんのわずかに目を細める。
「それが真であれば、あえて武を用いる必要はないように思えるがな。布教長らの努力次第で、この国を平和裏に教化することは可能なのではないか?」
「さて、生憎と総督に救いを求めたのは私ではありませんのでね。薩摩のコエリョ殿は、この国の民について私とは異なる考えがあったのでしょう」
「この国の布教に関して、全権を委ねられた人物の言葉とは思えないわね。コエリョもあなたの指図を仰ぐ者のはずだけど?」
「ふふ、残念ながら教会にも派閥というものがありまして。私とコエリョ殿は互いに相容れぬ間柄、というやつなのですよ。聖騎士殿であれば、そのあたりの事情は推察できるのではありませんか?」


 その言葉にトリスタンは言葉を詰まらせる。
 南蛮神教と一口にいっても、その内側は決して一枚岩ではない。東西両教会、さらにはそれぞれの内部でも様々な種類の信仰が成り立っており、それはカブラエルやトリスタンにとって今さら確認するまでもない当然の認識であった。
 しかし、布教する地にこの認識を持ち込むことは避けなければならない。唯一の神による絶対の教え――単純にして明快なその事実こそが、姿形から言語まで異なる異邦の民と布教者たちを結びつける一本の糸であり、これを断ち切ってしまえば布教そのものが立ち行かなくなってしまうからである。


 巧妙にトリスタンの批判を封じたカブラエルだったが、その表情はあくまでも穏やかなままである。
 にこやかに微笑みながら、カブラエルは言葉を続けた。
「とはいえ、私がコエリョ殿よりも恵まれていたことは確かですがね。フランシスと出会えなければ、十に満たぬ年月で、これほどまでに教えを広めることは出来なかったでしょうから。これもまた神のお導きによるものでしょう」
「……コエリョにはその導きがなかった、ということか?」
「まさか、そのようなことは言いません。コエリョ殿は懸命に励まれた――ただ残念なことに、あの地の者たちはコエリョ殿の言葉に耳を傾けなかったのです。神の存在を知らぬのならばいざ知らず、知ってなお教えを拒むは傲慢というもの。今、彼らに必要なものは手を差し伸べる慈悲ではなく、その驕りを砕く懲罰の剣。そう考えたゆえに総督は動かれ、トリスタン殿はそれに従っている。そうではありませんか?」


 カブラエルはそう言うや、不意に何事かに気づいたように恐縮して頭を下げた。
「いや、これは失礼。神の軍勢の先頭に立たれるトリスタン殿には、今さら申し上げるまでもないことでしたな。無用の言を呈しました、お許しください」
 トリスタンは厭わしげにかぶりを振った。
「それこそ無用の謝罪だよ、布教長。それに私の剣の腕など、布教長の舌の滑らかさに比べればまだまだだ。主の栄光を広めるため、布教長のますますの精励を期待している」
「御言葉、ありがたく頂戴します。ところで、フランシスコ様はやはりいらしてはいただけませんでしたか? フランシスなれば、殿下を上席に据えることに否やは言わぬのですが」
「ああ。殿下は旗艦で朗報を待つとのことだ。ろくに言葉も通じぬ者たちにかしずかれても面倒なだけと仰せだった」
 カブラエルは神妙な表情で二度ばかり頷いた。
「殿下らしい御言葉ですね。まあ率直に言ってそうなるのではないか、とは予測しておりました。トリスタン殿がいらして下さっただけでもありがたいことです」


 その言葉に、トリスタンはやや眉をひそめる。
「しかし、フランシス殿はこの国の王に等しい身分なのだろう? 私ごときを殿下の名代として認めてくださるのか? それに他の臣らも、みずからの王が侮辱されたと思うのではないか」
「それについては問題ありません。すでにフランシスの周囲は信徒たちしかおりませんからね。教会より正式に聖騎士に任じられた方がおいでになると伝えたのですが、皆、感激に目を潤ませていましたよ」
「……ならば良い。大聖堂とやらに案内してもらおうか」
「承知いたしました。もっとも、まだ本殿は建設にとりかかったばかりゆえ――」


 そこまで言いかけたカブラエルが不意に口を閉ざした。その顔には怪訝そうな表情が浮かんでいる。
 トリスタンは表情こそ変えなかったものの、何やら人々が沸き返る声には気づいていた。おそらくどこかの戦場から勝報でも届いたのだろう。そのことにはさして興味のなかったトリスタンだったが、カブラエルの表情にめずらしく困惑の影を見出したので、あえて口を開いてみる。
「勝報でも届いたのではないのか」
「さて、南はすでに兵力が先細りの状態であるため、援軍を求めて進軍を停止しているはず……」
 兵力の大半がムジカ建設に携わっている以上、伊東家を攻める兵力に不足が生じるのは当然だった。
 南に兵を押し出した諸将からは執拗に援軍を求める使者が派遣されてきたが、無論、宗麟もカブラエルも、この要請を受け入れるつもりはない。援軍を求めてきた諸将には占領した地域の防備に務めるように命令してある。


 ゆえに今この時、勝報が届くとは考えにくいのだが――そこまで考えた時、カブラエルはようやくもう一つ、別の戦場があったことを思い起こす。
「高千穂の戦況に変化が生じたのかもしれませんね。ともあれ、トリスタン殿、大聖堂に参りましょうか。フランシスもそこにいるはず、詳しい話を聞くことも出来るでしょう」
 トリスタンは言葉に出さず、ただ小さく頷くと、律動的な歩調で歩き出した。
 その身を包む西洋式の甲冑は、日本のそれとは異なる造りをしているようで、トリスタンが歩を進めても甲冑から音がこぼれることはなかった。それだけトリスタンの動きに無駄がなく、また甲冑自体の造りも精巧なのであろう。
 陽光を映して白銀色に輝く女騎士の姿を見た者たちは、半ば呆然としながら、そのしなやかな歩みに視線を注ぐ。
 彼らの多くは南蛮神教の信徒たちであったが、今この時に限っては、彼らの目は布教長たるカブラエルではなく、騎士であるトリスタンの方に注がれていた。






 大聖堂、とカブラエルは口にしたが、本殿の方は基礎工事に着手したばかりであるため、宗麟が起居しているのは臨時につくられた仮殿の方である。
 仮殿とはいっても、数千、数万の信徒が献身的に立ち働いてつくりあげた建物は、短時日で完成したとは思えないほどに大きな造りをしていた。さすがに府内の教会には及ばないが、それでも九国でも屈指の規模であることは疑いない。


 信徒たちの恭しい挨拶を受けながら、仮殿に入ったカブラエルは自身の推測が外れていなかったことを知る。
 この時、本陣に訪れた使者は高千穂の別働隊からのものであり、高千穂東部の要衝である中崎城の陥落を知らせるものだったのである。
 侵攻開始から瞬く間に日向北部を制圧した本隊に対し、別働隊は高千穂を治める三田井家の頑強な抵抗に遭ったらしく、はかばかしい戦果を挙げることが出来ずにいた。このため、別働隊を率いる戸次誾の采配に疑問を抱く者も少なくなく、宗麟はそのことを気に病んでいたところであった。
 そこにこの勝報である。宗麟が喜ばないはずがなく、カブラエルの前には喜色満面という言葉そのものの宗麟の笑顔があった。


 カブラエルはそんな宗麟に祝辞を述べたが、これはただのご機嫌伺いというわけではなかった。
 この勝報は宗麟のみならず大友軍、そして南蛮神教にとっても朗報であったからだ。
 というのも、別働隊が制圧した中崎城がある高千穂東部は五ヶ瀬川の上流部にあたり、下流に位置するムジカの安定のためには是が非でも確保しなければならない場所だったからである。
 土持家や伊東家を恐れていた高千穂の三田井家が、あえて大友家と南蛮神教に反抗するとは思えなかったが、川の上流から毒でも流された日には被害は甚大なものとなってしまうだろう。カブラエルが高千穂侵攻を唱えた理由の一つがここにあった。


 別働隊はムジカ建設を知らされておらず、その意図を知る由もないはずだが、元々、県城は日向北部の要衝であり、大友本隊の第一の攻略目標でもあった。その支配を確実なものとするため、誾がはじめから高千穂東部の制圧を目論んでいたとしても不思議はない。
 別働隊は北部から急激に矛先を転じて中崎城を急襲、これに対して中崎城の守将である甲斐宗摂は懸命に防戦するも、あえなく城は陥落する。
 彼我の戦力差が大きかったこと、また不意を衝かれたことによる将兵の動揺も否定できず、三田井家にその人ありと知られた甲斐宗摂も夜闇に紛れて城を落ち延びるのが精一杯であったという。


 やってきたカブラエルに対し、宗麟はそのことを告げ、嬉しげに言葉を続けた。
「イザヤは高千穂北部の攻略に手間取っていると思われていましたが、きっとはじめから東部の攻略を念頭においていたのでしょう。若年とは思えない見事な采配ですわ」
 そう言ってから、宗麟は湧き出る歓喜を自身で制し、表情を沈痛なものに変える。
「これで大聖堂の建設を滞りなく進めることが出来ます。無法にも異教徒に命を奪われた者たちの魂も、きっと安らぐことが出来るでしょう……」
「フランシスの言うとおりですね。彼らの魂が安らかならんことを私も祈りましょう」
 カブラエルはそう言って右手で十字を切る。宗麟もそれに倣った。


 しばし後、カブラエルは真摯な眼差しで宗麟を見つめ、口を開く。
「フランシス、私たちは彼らの無念を晴らさなければなりません。同時に、二度と同じことが繰り返されないよう努めなければなりません。そのために何をしなければならないか、あなたはすでにわかっていますね?」
「もちろんですわ、カブラエル様。彼らの魂が眠るこの地に、大いなる神の栄光に満ちた新しき国をつくりあげてみせます。それが私の贖罪であり、神の使徒としての使命。道ははるかにして険しいですが、神の教えを広める礎となって散れるなら本望というものです」
「良くいってくれました。けれど、散るなどと口にしてはいけません。フランシスにいなくなられては私が困ってしまいます」
 そう言って、カブラエルは宗麟の頬に手を伸ばし、優しく撫でる。
 宗麟の頬がたちまち朱に染まる様を微笑んで見つめながら、カブラエルはゆっくりと続けた。
「心配はいりません。我らは神に守られ、同胞に支えられているのです。困難はあれど、不可能なことなど何一つありませんよ。共に歩んでいきましょう、フランシス」
「……はい、カブラエル様」
 宗麟は潤んだ瞳でカブラエルを見つめ、感極まったように頷いてみせた。






「ところで、フランシス」
 宗麟が落ち着きを取り戻したと見たカブラエルは、先刻の知らせの詳細を聞き出そうと口を開く。
 宗麟としても我が子とも思っている誾の活躍である、喜んで語りはじめた。
 その話の中で、カブラエルは一つの事実に反応した。
「……そうですか。イザヤ殿は中崎城で冬を越すつもりですか」 
「はい。北と東を制したことで、三田井家の家中にも動揺が見られるとか。信徒たちに無駄な血を流させないため、冬の間は兵を休めつつ、調略によって敵を切り崩すつもりである、と書状には記されていました」
「ふむ、それでフランシスはそのことを許可したのですか?」
「ええ、流れる血は少ない方がよろしいでしょう? それに雲居様もイザヤの考えに賛同しているとのことですし……」


 カブラエルの表情にかすかな険が浮かぶ。それは宗麟に気づかれる前に意思の力で拭い去られたが、宗麟はカブラエルのわずかな沈黙に気づいたようだった。
「……カブラエル様、どうかなさいまして?」
「いえ、例の救世主殿はなんと言っているのかと思ったのですよ」
「それならばイザヤと同意見である、と。書状によれば中崎城を急襲するという案を最初に口にしたのも雲居様であるとのこと。大聖堂のことも、聖都――ムジカのこともご存知ではないのに、わたくしたちを守るように動かれる……やはり、あの方は大友家を守護するために神が遣わしてくれた御方に違いありませんわ」


 嬉しげに両手を叩く宗麟の顔は無邪気なもので、カブラエルや南蛮神教に対して含むところがある様子はない。それに先刻の態度からしても、カブラエルへの依存が薄まったわけではないだろう。
 しかし――
(フランシスはこの国の王。王が臣下に様付けをするなど聞いたことがない)
 その一事でもって、宗麟の内に占める救世主の価値がわかる。より正確に言えば、誾と、それを補佐する救世主の価値、と表現すべきであろうか。
 カブラエルは胸中で思案する。宗麟が誾と南蛮神教を天秤にかけるような事態を避けるため、あえてこれまで手出しは避けてきたのだが、あるいはそろそろ対処すべき刻なのかもしれない。


(どのみち、ドールを手中にするために動かねばならなかったところ。であれば、早い方が良いでしょう。殿下に対しての釈明にもなりますしね)
 内心で頷くと、カブラエルはいつもの笑みを湛えながら口を開く。
「フランシス、一つ提案があるのですが、イザヤ殿をムジカに招いてはどうですか?」
「イザヤを? けれど、イザヤは別働隊を率いて戦っている最中ですが……」
「冬に大きな動きをとれぬは敵とて同じこと。トール――道雪殿の部下たちであれば、イザヤ殿が不在の間もうまく事を処してくれるでしょう。みずから望んで聖戦の先頭に立ったイザヤ殿に報いる意味でも、聖都に招くのは当然のこと、誰も苦情を申し立てたりはしないでしょう。それに、フランシスもイザヤ殿に会いたいのではありませんか?」
 カブラエルの心遣いに、宗麟は嬉しげに微笑みながら頷く。
 だが、布教長の言葉にはまだ続きがあった。


「それにもう一人、吉継殿も招きたいと思っているのです」
「吉継を?」
 不思議そうな顔をする宗麟に、カブラエルはその理由を説明する。
「ゴアの総督閣下がフランシスのために派遣してくださった船には、軍人だけでなく医者も乗っているのですよ。本国の進んだ医療を学んだ彼らであれば、あるいは吉継殿の悩みを解決することが出来るかもしれません」
 その言葉が、吉継の髪と瞳のことを指しているのは明らかだった。
「実はすでに話だけは通してあります。医者が言うには、みずから診察しなければはっきりしたことは言えないが、おそらく治療は可能だろうとのことでした」
「まあ! それでは、吉継が世を忍んで顔を隠す必要がなくなるのですねッ」
「そのとおりです。元々、吉継殿は病の身として知られていますから、医者に引き合わせたところで不審には思われません。とはいえ、今の時点ではあくまでも可能性。高千穂を占領し、別働隊の方々が聖都に来られた折にでも伝えようかと考えていたのですが、幸い吉継殿は、今イザヤ殿と陣を同じくしています。戦況が落ち着いた今、共に招くのに支障はないのではありませんか」


 誾ほどではないにせよ、吉継もまた宗麟にとっては気にかけている存在である。このカブラエルの提言に否やを唱える理由は存在しなかった。
「すばらしいですわ、早速、中崎城に使者を……」
「っと、少し待ってください、フランシス。実はもう一つ提案――というよりは、私からのお願いがあります。救世主殿も呼んでほしいのですよ」
「雲居様はイザヤの補佐役ですし、吉継の義理のお父様でもあります。おそらく来てくださるでしょうが……カブラエル様は、どのような御用がおありなのですか?」
 不思議そうに問いかけてくる宗麟に、カブラエルはにこりと微笑んでみせる。
「府内では信徒たちの動揺を鎮めるのに忙しく、ろくに話も出来ませんでしたからね。いずれ改めてゆっくりとお話したいと考えていたのです。それに――」
 言いつつ、カブラエルは部屋の隅に視線を向ける。
 その視線を追った宗麟は、ようやくそこに立っているトリスタンの存在に気がついた。もっとも宗麟がいたのは、仮殿の中でも最も奥行きのある祈りの間であり、トリスタンは入り口から入ってすぐのところで他の従者や宣教師たちと共に控えていたため、宗麟がその姿に気づかなかったのは致し方ないことであった。


 しかし、ひとたびその姿に気づけば、トリスタンがただの従者や武人でないことは誰の目にも明らかであった。
「カブラエル様、あの方は?」
「トリスタン・ダ・クーニャ。女性の身ながら、ゴアの総督閣下の部下の中でも随一の剣の使い手です。ドゥイス・エスパーダ……この国では剣術に優れた者を剣聖と言うそうですが、今の言葉は本国でそれと同じ意味で用いられている称号です。くわえてトリスタン殿は剣の腕のみならず、信仰心も大変に篤く、教会から聖騎士の称号をも与えられている、まさしく真に神の刃と呼ぶべき武人なのですよ」
 その言葉に宗麟は驚きを隠せなかった。それほどの人物がどうしてここに、という宗麟の内心を察したカブラエルは小さく笑う。
「ご子息であるフランシスコ様の護衛として総督閣下が派遣された。それは事実ですが、それだけではありません。総督閣下はフランシスがこれまでいかに布教に力を尽くしてきたかを知っておられる。そしてその精励に感じ入ってもおられるのですよ。だからこそ、フランシスを守るために掌中の珠を遠く東の果てのこの地にまで遣わしてくださったのです。フランシスは、本国でそれだけの評価をされているのですよ」
「それは……光栄ですわ。本当に……」
 宗麟は胸の前で両手を組み、そっと頭を垂れる。感激のためか、宗麟の目尻には透明な雫が溜まっていた。


 宗麟が感激する有様を見やりつつ、カブラエルは言葉を続ける。
「それでフランシス、東の地でうまれた救世主殿と、西の聖騎士殿を引き合わせたいと思うのです。出来れば殿下にもね。その上で雲居殿に洗礼を受けていただければ言うことはありません。フランシスが神の遣いと信じる人物が、いまだ洗礼を受けていないというのはおかしな話でしょう?」
「それは……はい、たしかにそうですわ。わたしもそう考えておりました。府内では落ち着いて話すことが出来ませんでしたから、いずれ折を見て、と思っていたのですが」
「ですから、イザヤ殿や吉継殿と共に雲居殿にもお越しいただこうではありませんか。東の地でうまれた神の使徒が、新たに誕生する東の聖都で洗礼を受ける……これもまた神の導きというものでしょう」
 穏やかに微笑むカブラエルの言葉に、宗麟が反対する理由は存在せず――ムジカより高千穂に向けて使者が発ったのは、それから間もなくのことであった。




◆◆◆




 日向国中崎城。
 甲斐宗摂が立てこもったこの城は五ヶ瀬川の上流部に位置し、地図で見れば、五ヶ瀬川のすぐ近くに城があると記されている。実際、城から五ヶ瀬川の川面を見ることは容易だった。しかしその逆、つまり川面から中崎城を眺めるのはかなりの困難を伴うだろう。
 どういう意味かといえば、中崎城は切り立った断崖絶壁の上に築かれた拠点なのである。正確に測ったわけではないが、比高は優に百メートルを越え、川面からどれだけ視線を上に向けたところで、目に入るのは崖の斜面くらいのものであった。


 当然のように崖側からの攻撃は不可能であり、大友軍が城を陥とした際は他の方面からの力押しという強攻策を採らざるを得なかった。
 守将である甲斐宗摂は五百名の兵で守りを固めたが、大友軍は七千という大軍を利して、部隊を幾つにも分け、昼夜の別なく城を攻め立てた。
 彼我の戦力差から、すぐにも陥落すると思われた中崎城だが、その防戦は苛烈をきわめるものであった。


 元々、三田井家との確執で孤立していた甲斐軍の士気は芳しいものではなかったはずだが、その窮状がかえって将兵の底力を引き出したのかもしれない。無論、大友軍に対する侵略者憎しの憤激もあったであろうし、戦に先立って大友軍が周辺の村落はおろか神社や寺まで焼き討ちにしたという事実から、南蛮神教を奉じる大友軍に敗北すれば高千穂がどのような目に遭うかも容易に推測できたに違いない。
 そういった種々の要素があいまって、城兵の抵抗は苛烈を極めた。攻め寄せる大友軍の頭上からは岩や丸太が降り注ぎ、城壁にとりついた兵士には熱した湯や油が浴びせられ、大友軍の被害は加速度的に膨れ上がっていった。


 しかし、城攻め開始から三日も経つと、戦況に明らかな変化が生じた。
 城側が不眠不休で戦っているのに対し、大友軍は交代で休みをとって英気を養うことが出来る。時が経てば経つほどに、両軍の士気に差が生じるのは必然であったろう。
 ……まあ個人的なことを言えば、この間、俺も誾も城側の将兵と同じように不眠不休であったのだが。
 というのも、ともすれば作戦を無視して強攻しようとする南蛮神教の信徒たちの手綱を、常に引き締めていなければならなかったからである。
 結局、中崎城は城攻めが始まってから七日後に陥落したのだが、もう少し長引いていたら、冗談抜きで俺も誾も倒れていたに違いない。
 そして、甲斐宗摂と三田井家の間の確執がなく、三田井家が中崎城に援軍を向けていれば、天険を利した堅城がわずか七日で陥落するということはありえなかった。その意味で、確かに俺たちは幸運であったといえるだろう。





 ただ、城を陥としたところで、大友軍が内包する問題は何ら解決されるわけではない。
 それどころか大友軍の戦い方は、高千穂の人々に対し、これ以上ない形で敵愾心を植えつけてしまっており、城が陥落した後も心を落ち着ける暇などかけらも存在しなかった。誰を恨みようもない、それが大友軍の現状であった。


「痛ッ……吉継、出来ればもう少し優しくお願いしたいんだが」
 城内の一室。傷の手当てをしてくれている娘に、俺はそう言ってみたのだが、応じる声はかえってこなかった。
 それでも、わずかに軟膏を塗る手つきが優しくなったような気がするから、聞こえていないわけではないのだろう。
 右の眉の少し上あたりに出来た傷なので、吉継は俺の正面に膝立ちになって手当てをしてくれている。そのため、吉継の表情(傷をよくみるために頭巾はとっている)がよく見て取れるのだが、その顔は固く張り詰めたまま、先刻からほとんど変化を見せていなかった。
 もっといえば、中崎城攻めが始まる以前――城攻めの手始めとばかりに大友軍が周辺の寺社を焼き払ったあたりから、吉継は凍りついたように表情を変えていなかった。


 敵を攻めるにあたって、周辺の村落を焼き討ちするのは常套手段である。さらに今回の大友軍の遠征には、高千穂の寺社を掃滅するという任も含まれている。
 ここに至るまで、誾と俺は出来るかぎり村や寺に手出しをさせなかった。無論、それは無用の被害を出さないようにするためなのだが、そうと口にしては真っ向から大友軍の軍略の根幹を否定することになってしまう。ゆえに「こちらの軍の動きを敵に悟られないため」という理由付けをして、友軍の動きを掣肘していたのである。


 しかし敵の城を前にすれば、その言い分はもはや通らない。
 それはあらかじめわかっていたことでもあった。侵攻当初の勢いを失っているとはいえ、南蛮神教の信徒たちの数は五千を越える。対して戸次軍は一千、他家の力を借りたとしても二千……信徒たちを力づくで抑え込むことは不可能である。これ以上、確たる理由のない制止を続ければ、信徒たちの不満はたやすく不審に結びついてしまうだろう。そうなれば、本隊の宗麟やカブラエルあたりに報告がいくのは間違いない。それは避けなければならなかった。


 結果、大友軍は中崎城周辺の掃滅を開始し、周囲は炎で包まれることになる。
 七千を越える大軍が動いたのである。多くの家屋が焼け落ち、神社や寺はしらみつぶしに襲われ、瞬く間に灰と化していった。
 しかし、不思議なことに住民や僧の姿はほとんど見えなかった。すでに彼らの多くが、難を避けるために周辺の山野に隠れ潜んでいたからである。これは大友軍が襲来する何日も前から、何故かその襲撃と暴虐を示唆する噂が中崎城周辺に満ちていたためであるのだが、無論、大友軍はそれを知る由もなく、宣教師たちは苛立たしげに首を傾げるばかりであった。




 ただ、これで被害が少なくなったと口にすれば、冬の最中、ろくに準備も出来ずに野山に放り出された人々の憤怒で心身を焼き尽くされることだろう。彼らの中には年老いた者や、逆にうまれて間もない赤子も少なくないのである。
 くわえて信仰心の篤い高千穂の人々にとって、彼らの尊崇を集める寺社を焼き討ちにした俺たちの所業はそれこそ悪鬼に等しく映ったに違いなく、大友軍への敵愾心は膨れ上がる一方であった。


 中崎城の攻防が苛烈を極めた理由の一つもここにある。大友軍の蛮行に憤激した城兵の多くが降伏を拒否し、死を決して戦い抜いたのだ。
 最終的には五百名にのぼる城兵のほとんどが討ち死にし、一方の大友軍の死傷者は彼らの三倍を数え、あるいは四倍に達するかもしれないほどの甚大な被害であった。当然、その被害の中には戸次軍の将兵も含まれる。
 そして人々の抵抗は城が陥落しても止むことはなく、今、俺が吉継に治療してもらっている怪我も、麓の町を歩いている時に物陰から投じられた石片によって負わされたものであった。ちらっと見ただけだが、多分、あの石を投げたのは年端もいかない子供だったろう。



 
「……まあ侵略した側が、侵略された側に友好を求めるほどおぞましいことはないわな」
 俺が傷口にそっと指を触れさせながら口にすると、治療を終えた吉継がこくりと頷いた。そしてほとんど唇を動かさずに言葉を紡ぐ。
「これが、今後も続くのですね、お義父様……このままであれば」
「そうなるな」
 吉継の問いに、おれはそう答えざるをえない。今回の戦の傷が癒えるまで大友軍はしばらくここを動けないし、ここで冬を越すという案を宗麟が認めれば、その期間はさらに伸びる。それでも大友家が今のやり方で南蛮神教を奉じる限り、今後もこんな戦が続いていくのは間違いないことだからである。


 ――ただし、それには一つの条件がつく。
 ――いみじくも吉継が口にした。俺たちがこのまま何も動かなければ、と。


 高千穂という日向の一地方、その東の一拠点を潰すだけでもこの有様である。たとえ南蛮勢力の助力が得られるとしても、大友家が九国を制覇するのは至難の業だ。仮に成功したところで、それは砂上の楼閣、地に満ちる不満と憎悪はたやすく大友家の支配を覆すだろう。それは大友家にとっても、あるいは心ある南蛮神教の信徒にとっても避けなければならない事態であろう。


 こんなやり方が長続きするはずはない。そのことを宗麟に納得させなければならない。
 言うは易し、とはこういう時に使う言葉なのかもしれない。あの石宗殿や道雪殿が果たせなかった、あるいは今なお努めて果たせないことをやろうというのだから。
 それでも成し遂げる――成し遂げられると考えたからこそ、俺は今ここにいるのである。
 方策は胸にある。ただ問題は、最も重要な核心部分が俺の推測に過ぎないという点にある。
 幾つもの情報と知識から、ほぼ間違いないと考えているのだが、その点について確報がほしい。それがなければ、島津家の姫たちを説くことは難しいだろうから。


 その端緒を得るためにも、本隊に送った使者には色々といい含めておいた。予定どおりならば、そろそろ帰ってくるはずだが……
「さて、鬼が出るか蛇が出るか」
 おそらくは今この時も懸命にこの城目指して駆けているだろう使者の到着を、俺は今か今かと待ち続けるのだった。    




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 外伝 とある山師の夢買長者
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:cd1edaa7
Date: 2011/01/13 17:56

 一山あてるという表現がある。莫大な利を得る、あるいは得ようとする際によく用いられる言葉であるが、この場合、山とは鉱山を指す。
 似たような意味で山師という言葉がある。鉱山の発掘、鉱脈の発見を生業とする者を指す言葉だが、投機等で一攫千金を求める者たちを蔑んでそう呼ぶことも少なくない。


 守田氏定という人物を一言で言い表すならば、この山師という言葉こそ相応しかったであろう。
 氏定はまず言葉どおりの意味で山師――すなわち鉱脈を求め、各地の山を掘り返す鉱山師であり、同時に金銀を掘り当てて一攫千金、果ては都に居を構えるような大物になることを夢見る人物であったからだ。


 元々、氏定は貧家の生まれであり、生家は日々の糧を得ることも苦労するような生活ぶりであった。しかし、父母や兄弟たちが朝から晩まで農作業に勤しむ中、氏定は村はずれに住む老いた鉱山師の下を訪れてその話を聞いたり、あるいは商家の下働きをしながら、商いを学ぼうとするなど、まっとうな農民とはかけ離れた生活を送っていた。
 当然、父母はそんな氏定を叱り付け、他の兄弟のように働くよう口をすっぱくして言いつける。氏定が商家の下働きをして得たすずめの涙ほどの賃金を、老鉱山師の酒代に代えていたことを知った時には、尻が真っ赤に腫れ上がるほどに引っぱたきもしたのだが、それでも氏定の素行は一向に改まらなかった。


 そんなことがしばらく続き、ついには父母や兄弟は氏定に愛想を尽かしてしまう。
 氏定もまたそんな家族とは距離を置いた。氏定は決して家族が嫌いではなかったが、ろくに作物も実らない貧しい土をほじくりかえし、毎日を青息吐息で過ごすような生活を死ぬまで送る――そんな人生はまっぴらだと考えていたのである。


 十五になった氏定は郷里の農村を飛び出し、老鉱山師から学んだ技術で鉱山を掘り当てようと各地をまわるようになった。
 しかし、当然、そう簡単に鉱脈が見つかるはずもない。そもそも、鉱脈を掘り当てるためには資金も人手も必要となる。子供の氏定にはそのいずれもが欠けており、一山あてるなど到底不可能だったのである。


 しかし、氏定ははじめからそれは承知していた。郷里の鉱山師から、酒代の代わりにその手の話もしっかりと聞き出していたからだ。
 あの老人も、若い頃に鉱山を発見した際、その手柄を同輩に横取りにされ、そのことを訴え出たところ、同輩と手を結んだ役人に罪を被せられ、逃亡を余儀なくされるなど世の辛酸を嘗めてきた人物であった。
 酒を飲みつつ「山師なんぞろくなもんじゃねえ」とかすれる声で呟く姿には、半生を費やして一攫千金を求め、しかしついにそれを得ることが出来なかった人間の悲哀が、子供の目にもまざまざと感じられたものであった。


 しかし、その声に耳を傾けるには、氏定は若く、根拠のない希望に溢れてもいた。
 老人は失敗した。しかし、それは氏定の失敗を意味するものではない。
 そう考えた氏定は各地をまわって、老人から学んだ鉱山師の技術を磨きつつ、その一方で商人としても活動した。商いのやり方は、下働きの最中に目で盗み、耳で盗んでいる。これは鉱山を掘るための資金を得るためであり、ひいては役人や武士といった上の人間と繋がりを得るためでもあった。
 鉱山師としての技能を活かすためには、資金と人脈が必要。まずはそれを手に入れることが、氏定の当面の目標であった。





 そうして十年あまりの時が過ぎ。
 氏定は日向国の祖母山を、二人の商人仲間と共に南に向かっている最中であった。
 山麓の険しい道を、商売のための重い荷を担ぎながら進んでいくのは、旅なれた氏定たちでもかなりきつい。
 そのため、三人はすこし山道をはずれた場所に荷をおろし、一休みしているところである。
 連れの二人は荷を下ろすや、すぐに眠りに落ちてしまい、氏定は好むと好まざるとに関わらず不寝番を務めなくてはならなくなってしまった。
 心地良さそうな寝息をたてる彼らの顔を恨めしげに睨むも、文句を口にはしない。三人は商いを通じた友人同士であったが、氏定は三人の中では一番立場が弱い。なにせこの二人がいなければ、氏定はとうの昔に借金のかたに身ぐるみはがされていたに違いないのである。不寝番くらいで不平をならせる立場ではなかった。


「山師なんてろくなもんじゃねえ、か。いやはや、爺さん、あんたは偉い。まったくその通りだよ」
 氏定が横を見ると、そこには自分の荷が置かれている。荷車はなく、下働きの人間もおらず、さして体格に恵まれているわけでもない氏定が背負える程度のこの荷物が、今の氏定の全財産であった。
 一山あてるためには、技能と同じ、あるいはそれ以上に資金と人脈が必要となる。そう考え、それを得ようと努力したものの、生憎世の中は氏定の思惑よりもはるかに世知辛かった。
 もっとも、連れの二人の言葉を借りれば、世の中が世知辛いのではなく、氏定の思惑が甘すぎる、ということになる。元金もなく、まったくの無一文から、たかだか十年程度で成り上がるなど痴人の妄想の域を出ぬ、という友の言葉を氏定は否定できなかった。少なくとも今のところは。



 ただ、実のところ氏定は商人として失敗続きだったわけではない。
 生来、機を見るに敏であるのか、投機に成功して利を博したのは一度や二度ではなく、その点では二人を上回る氏定だった。
 だがこれも生来の為人か、商人としても山っ気の盛んな氏定は成功と同程度の失敗を繰り返し、稼いだ利益をドブに捨てたことも一度や二度ではなかった。結果、氏定の帳面では収入と支出がほぼ等しくなり、今の状況に至るのである。


 ただ、ぼやく氏定の表情はその言葉ほどに暗くはなかった。というか、むしろ明るいと表現した方が良いくらいだ。無意味なくらいにぺかっとしている。
「ま、これまでがそうだったからって、これからもそうだって決まったわけじゃねえからな。人生五十年の、おりゃまだ半分だ。こっから昇り竜になったところで何の不思議があろうか、いや、ないであろ――って、痛ッ?!」
 握り締めた拳を振りかざしたところで、横合いから小石をぶつけられ、氏定は悲鳴をあげる。
「――うるさい、あほう」
 眠っていた友の一人が、片方の目を薄くあけて氏定を睨みつつ、手近の石を投げてきたらしい。


 氏定が文句を言おうとした寸前、男はあくびまじりに言葉を続けた。
「もう少し寝させろ。誰かさんがどうしてもこっちが良いって言うから、やたらと道が険しい高千穂に行くことになったんだぞ」
「う、む、わるい」
 氏定が不承不承あやまると、男はすぐに目を閉じ、再び寝息をたてはじめた。
 その隣では、もう一人の連れが、こちらは目覚める気配さえなく、ぐーすか眠りこけている。ちなみにさきほどの男が細身で長身、こちらは太鼓腹にくわえて氏定の首にも届かない身長と、実に対照的な外見を持つ友人たちであった。




 氏定たちが商いをしている豊後を治める大友家は、現在、大軍を繰り出して日向へ侵攻している最中である。
 すでに日向北部の要衝である県城は陥落し、その地で大友宗麟がなにやら壮大な都を建設中であるとの噂はすでに豊後の商人たちの下にも届いていた。
 これを受け、彼らの多くが県城へ向かおうとした。万を越える人夫が参加するような大規模な土木工事であれば、商売の種も無数に存在する。くわえて府内をはじめとする豊後各地の主要な城市では、利権の多くを先発の大商人たちが握っているため、後発の者たちが入り込む余地が少ないのに対し、新しい都であれば、そういった枷も弱くなる。
 無論、まったくないわけではないだろうが、少なくとも府内よりは後発の者が入り込む余地があるだろう。


 そんなわけで、今ねむっている二人は、他の者たちにならって県へ向かおうとしていたのだが、氏定がそれに待ったをかけた。
 大した元手もない自分たちが今さら県へ行ったところで、大きな機会にめぐりあう可能性はほとんどない。それならばいっそのこと、高千穂の方に行こうではないか――氏定は二人にそう誘いかけたのである。
 二人はあまり乗り気ではなかったが、氏定の懇請に根負けした形でその申し出を肯った。結果、三人はこうして祖母山を越えて高千穂に入るべく、国境を越えたのである。



 そんなわけで二重三重に同行者たちに頭があがらない氏定であったが、氏定としてはそうまでしても高千穂を訪れたかった理由があった。これまで高千穂に足を踏み入れたことのなかった氏定は、あのあたりの山々に鉱脈があるかどうかを調べてみたかったのである。無論、二人に口にした理由も嘘ではないが。
 ともあれ、調べるだけならば氏定一人でも問題はない。どうやっても時間はかかってしまうが、それは仕方ないだろう。
「そろそろ、これはって発見をしてえもんだ」
 今度は連れを起こさないように小声で呟く氏定。


 その時、氏定の視界に不意に妙なものが飛び込んできた。


 どこからか山蜂と思われる蜂が羽音を立てて飛来してきたのである。
 とはいえ、これだけならば別に妙でもなんでもない。今が冬の最中ということを考えれば、蜂が飛んでいるのはめずらしくはあったが、冬眠前の蜂がいないわけではないだろう。
 だが、この蜂は太鼓腹の友人の鼻に止まるや、氏定が追い払う間もなく鼻の中に入り込んでしまったのである。
「んなッ?!」
 これには氏定も驚いた。鼻の中を刺されたりしたら大変である。慌てて傍に駆け寄ったものの、さてどうやれば蜂を追い出すことが出来るのか。下手に追い出そうとすれば、それこそ蜂を刺激して大変なことになりかねない。


 だが、幸いにも氏定の心配は杞憂に終わった。
 蜂は入ってきた鼻とは別の穴から出てきて、再び羽音をたてて飛び立ったのである。そうして手近の木にへばりつくと、その樹液をなめ始めた。
 変なものをなめてしまったから、口直しがしたかったのかしら、などと氏定が間抜けなことを考えていると、とうの本人がようやく目を覚ました。
「……ふああ、ああぁぁ……ふいー、よく寝たよく寝た……って、氏定、どうした、妙な顔して?」
「あ、いや、今ちょっと妙なことがあってな」
 なんて説明したものか……というか、そもそも説明する必要があるのか? などと氏定が考えていると、そんな氏定を怪訝そうに見ていた友人が、不意に無念そうに顔をしかめた。
「あー、しかし、あれは惜しかった」
「何だ、いきなり?」
「いや、今、夢の中でな、妙に綺麗な女が出てきて、黄金が出てくる場所に案内してやろうって言ってきたわけよ」
「ほうほう」
「おれは喜び勇んで、こう言ったわけだ。『その必要はありません。何故ならば、目の前に黄金に優るものがあるからです――あなたという』ってな」
「おう、それは実に女好きのお前らしい」
「するとその女、ころころと笑ったと思ったら『あいにく、私は黄金の案内しかできません』と言ったかと思ったら、煙のように消えちまって……」
「で、今に至る、と」
「そういうわけだ」


 それを聞いた氏定は、ふむ、と考え込む。もしやして、その女とやらはあの蜂の化身ではないか。
 黄金が出てくる場所などと聞けば、山師としては黙っていられない。
「どうだ、ひとつその夢、俺に売らないか?」
「なんだ、藪からぼうに」
 そう言った友人だが、黄金という単語に、眼前の人間の山っ気あふれる気質を思い出したらしい。
 この山っ気さえなくなれば、商人としてそこそこの線までいけるだろうに、と内心で惜しみつつ口を開く。
「言っとくが、具体的な場所なんて聞いてないぞ? ここらを掘ったって黄金なんぞ出てこんわい」
「なに、縁起担ぎってやつだ。あの北条の尼将軍様も妹の夢を買って大成したって話じゃねえか。俺がお前の夢を買ったって問題あるめえ」
「まあ、別におれに損のある話じゃないからかまわんが。で、幾ら出す?」
「ほれ、これが今の俺の全財産じゃ」
 そう言って、氏定は置いてあった荷を友人の太鼓腹の上にどすんとのせる。


 友人としては、冗談半分の問いかけであっただけに、迷うことなく商品をすべて差し出してきた氏定に驚き、それ以上にあきれ果てた。
「おめえはあほうか。これから商売いくってのに、商品全部売り渡す奴がどこにいるッ」
 そう言うと、友人は腹の上の荷の中から干魚を適当に取り出すと、残りはそのまま氏定に返した。
「これでいいわい。取引完了だな」
「おし、これで黄金の夢は俺のものだな」
「おう、精々頑張って一山あててくれい。さて、なんだかんだで結構休めたし、あいつを起こしてそろそろ出発しようか」
「……とうに起きている。というか、こんなやかましい場所で寝ていられるか」
 機嫌の悪さがにじみ出た声は、もう一人の連れのものであった。


   
 三人が支度をととのえ終わるのを待っていたように、先の山蜂が木から離れ、南の方角に向けて透明な翅を羽ばたかせた。
 それが、まるで夢を買い取った者を黄金へと誘うように見えたのは――
(ま、気のせいかもしれんが、信じたところで誰に迷惑をかけるわけでもねえしな)
 氏定はそんなことを考えつつ、高千穂に向けて足を踏み出したのであった。
 
 
 



[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第七章 繚乱(一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:cd1edaa7
Date: 2011/01/13 18:00

 日向国中崎城。


「待たせてしまったようで、申し訳ない」
 そう言って室内に人が入ってきた瞬間、守田氏定は床にこすりつけるように頭を下げた。後ろに控えていた友人二人も氏定に倣う。
 そのまま微動だにしない氏定たちを見て、室内に入ってきた男性が小さく笑った。
「顔をあげてください、それでは話もしにくい」
「は、ははッ」
 氏定は促されて、おそるおそる顔を上げる。


 視界に映ったのは三人。おそらくは氏定よりも年下と思われる若い男性。今、口を開いたのはこの人物だろう。
 一人は滅多にみないほどに綺麗な女性(後ろから、女好きの友人の嘆声が聞こえてきた)。長い黒髪と、どこか悪戯っぽく光る両の目が印象的であった。
 最後の一人は、男か女かも定かではなかった。何故ならその顔は頭巾で覆われ、身体つきを見ても今ひとつ性別の見分けがつかないのである。男にしては小柄で華奢だが、かといって女だとも断定できない。あの女性くらい胸が豊かなら迷うこともないのだが……
 そんな氏定の内心がわかったはずもないが、白頭巾の人物が強い調子で咳払いする。
 氏定たちは、慌ててもう一度あたまを下げねばならなかった。 
   



「さて」
 氏定の正面に座った男性が、ゆっくりと口を開いた。
「聞けば、豊後からこの地に商いにやってきたのだとか。さぞ忙しかろうに、此方の呼びかけに応えてくれたことに礼をいいます。私があの布令を出した大友家臣、雲居筑前です」
 その名は予期していたとおりだったが、それでもなお氏定は緊張を禁じえなかった。
 大友家中でも一、二を争う勢力を誇る戸次家。眼前にいる雲居筑前という男性は、その戸次家の補佐として、大友家当主からじきじきに遣わされた人物なのである。


 氏定も、背後の友人たちも、商いの中で役人や高官を相手取ったことは何度もあるが、ここまでの大物は初めてである。雲居は一見おだやかそうに見えるが、氏定たちは城下で大友軍の苛烈な戦いぶりを耳にしている。いつ何時、その本性をあらわすか知れたものではない、と考えていた。
 何故そんな恐ろしい相手の前に氏定たちはわざわざ姿を見せたのか。それは――


「いや、実際助かりました。鉱山師を探そうにも、高千穂の人たちが名乗りでてくれるはずもない。布令こそ出したものの、これは豊後に人を遣わすしかないかな、と考えていたところでしたので」
 その雲居の言葉どおり、高千穂に入った氏定らは鉱山師を求める雲居の布令を目にしたのである。
 布令は具体的に何をするかまでは記されていなかったが、能力次第では雲居が高値で雇ってくれるという。
 氏定がこの話に飛びつくのは当然、というよりは必然であったろう。
 友人たちは話が美味過ぎはしないか、とやや不安を覚えたようだったが、あえて氏定を留めるだけの根拠は持てず、結局は引きずられるようにして中崎城まで来てしまったのである。


「おれ――ではない、私でお役に立てりゃあいいんですが。鉱山師に訊ねたきことあり、と布令にはありましたが、具体的にはどのようなことなんで――なのでしょうか?」
「それを訊ねる前に聞かせてもらいたいのですが、守田殿は今まで鉱脈を見つけたことは?」
 雲居の問いに対し、氏定は正直に首を横に振る。
「有望と思われるところがなかったわけじゃねえんですが、実際に掘りあてちゃあいません。金も人も足りなかったもんで。ただ鉱山を見つけるための方法は、村はずれに住んでた爺さんから聞いてやした」
「ほう。後ろのお二人は?」
 氏定の後ろで、二人は慌てて答えた。
「あ、いや、おれたちは……」
「……ただの商人にて、山の知識は持ち合わせてはないです」 
 

「ああ、そうか、三人は商い仲間でしたね。これは無用な問いを口にしてしまいました、申し訳ない」
 雲居が軽く頭を下げると、二人も大慌てでそれに応じる。
「さて、それでは守田殿にうかがいます。具体的な方法は秘伝でしょうから口にせずとも結構です。ただ、私が口にしたことが可能か否かで答えてください」
 そう言うと、雲居は一枚の地図を広げた。そこには高千穂だけでなく、日向、大隅、薩摩、そして肥後――すなわち九国の南半分と、各地に割拠する勢力がおおまかに記されている。
「まず鉱山、もっと具体的に言えば金山ですが、実際に採掘せずとも、そこに鉱脈がある、とある程度の目星をつけることは出来ますか?」


 雲居の問いに、氏定は知らず眉根を寄せていた。
 しばしためらった末、かぶりを振って見せる。
「ある程度、という言葉がどこまでを指すのかにもよりやすが、ちと難しいですわ。掘らずに、ということはつまり見るだけでってことでしょう? それでわかるのは精々、ここは他の場所よりほんの少しばかり可能性が高い……そのあたりまでっす。それだって、見分けるのはけっこう骨ですわ」
「ふむ。その見分けというのは、守田殿でなければ無理ですか? 見分け方を知っていれば他の人でも出来るものですか?」
「そっすね、おれ――すみません、私でなければ駄目ってことはねえです。多分、それなりに経験積んだ山師なら、方法自体は知ってるはずです。私だって、元はといえば酒代の代わりに教えてもらったような知識ですから」
「なるほど……」


 そう言うと、雲居は何やら考え込んでしまう。
 氏定は、てっきり雲居が具体的な方法まで聞いてくると思っていたので、少し拍子抜けしてしまった。
 その後も雲居の問いは続いたが、それは氏定一人であれば一日でどの程度の範囲を確認できるか、とか、これこれこのような所に金山があるかもしれないという情報があった場合、それを確認するためにはどれだけの時間を要するか、といったようにさっぱり要領をえない問いかけばかりであった。少なくとも氏定や、後ろの友人たちにはそう思えた。



 そして、それはどうやら彼らだけではないらしく。
 雲居の傍らに控える二人もまた、どこか怪訝そうに雲居の様子をうかがっていた……
 




◆◆◆




 
 ふびー、と。あたり一体に響き渡った間の抜けた音をあえて言語化するなら、そんな文字になるだろう。
 聞く者が思わず足をつんのめらせてしまいそうなその音の発生源は――すみません、俺です。
 俺は手に持っていた横笛を睨むように見据えた。
「ぬう、思ってたより難しいな、これ」
「そうですか? おっかしいな、私はすぐに出来たんですが」
「長恵と比べるのは、さすがに勘弁してもらいたい」
「姫様も、問題ないようですよ?」


 そう言って長恵が少しはなれた場所に目を向けると、そこでは吉継がしっかりとした音を紡ぎだしている。怪鳥が叫ぼうとして失敗したような、怪しげな俺の音とはえらい違いである。
「……まあ、誰にも得手不得手はあるということで」
「なら、修練あるのみですね、師兄」
 そう言って長恵はなにやら楽しげにくすくすと笑いだす。俺にあれこれと物を教えるのが楽しくて仕方ないのか、俺の駄目っぷりが愉快で仕方ないのか、あるいはその両方だろうか。



 切っ掛けは、そう大したことではない。
 なにかと気が滅入ることの多い高千穂において、長恵の笛の音は一服の清涼剤として本当に有難いものであった。ことに中崎城を陥としてからは、俺と吉継は毎日のように長恵の笛を聴かせてもらっていたのだが、先日、長恵が「どうせなら師兄と姫様も奏してみませんか」と誘ってきたのである。
 音楽とか絵画とか、そういった芸術とはひたすら縁遠い俺であったから、はじめは言下に断ろうと思ったのだが、ふと思いなおした。大国の臣として、そういった教養を修めることは決して無駄にはなるまいと思ったのだ。
 今さらその道の人について学ぶ時間がとれるはずもなく、その意味で長恵が教えてくれるというのは願ってもない話であろう。



 そんな感じで始まった横笛の練習だが、いや難しい難しい。曲や音律がどうこうではなく、ただきちんとした音を出すだけで苦労するとは。
 練習を終えた俺が茶をすすりつつ、そんなことを考えていると。
「ところで師兄」
「ところでお義父様」
 なにやら剣呑な声と視線が向けられてくる。
 心当たりが山ほどある俺は、無駄な抵抗はしないことにした。
「察するところ、さっさとあの布令の意味を教えろ、というあたりか?」
「他に何があるというんですか。県――いえ、ムジカへの出立を先延ばしにしてまで、なぜ山師などを呼んだのですか。金銀を掘り当てて、雲居家の財政を豊かにしようというわけではないのでしょう?」
 吉継の紅い目が細くなり、俺はごまかすように頬をかく。


 高千穂の別働隊(つまり俺たち)が宗麟のもとに遣わした使者が戻ってきたのは、つい先日のこと。
 返ってきた使者の報告は、俺にとってこれ以上ないほどの凶報であった。
 県城を陥とした宗麟は、その地でとうとうムジカの建設に取り掛かった、というのである。より正確には犠牲者の鎮魂のために大聖堂を建設し、それがやがて出来るムジカの中心となるのだという。
 これは信者の噂に端を発する情報であったが、宗麟はすでに公の場でムジカの名を口にしたらしいので、撤回されることはないだろう。


 さらに使者は、誾と俺、吉継に対し、そのムジカまで来るように、という宗麟の命令を伝えてきた。
 宗麟が誾を招くのは何の不思議もない。今の俺の立場を考えれば、そこに俺が含まれるのも納得がいく。だが、ここで吉継の名前が出てきたのは等閑にできないことだった。
 宗麟からの書状を紐解いてみれば、なんでも南蛮の名医が来ており、吉継の病を癒すことが出来るかもしれない、とある。
 だが、生憎とそれを鵜呑みにするほど俺は素直ではなかった。ムジカの建設が始まった今この時に、南蛮神教が吉継を呼び寄せる。
 ――始まった、と見て間違いないと思われた。



 肥前の地で俺の考えを聞いている吉継と長恵も、俺の意見に同意した。
 ――そして、そんな状況にあって、俺は誾に頭を下げてまで出立を伸ばし、鉱山師を探していたわけで、吉継の声が尖っても文句なぞいえるはずもなかった。
「ただでさえ先の襲撃のために大金を投じて資金が不足しているというのに、この上、山師に投機とは。お義父様は、小なりとはいえ今や一家の長。配下と、その家族を守り、養う責任を双肩に担っていること、まさかお忘れになっているわけではありませんよね?」
「無論ですとも。今回のことも、きちんとした理由があっての行動なのです」
 決して、一山あてて一攫千金という計画性に満ちた財政運用を目論んだわけではないのです、と熱心に主張する俺。


 しかし、吉継の目は内心を映し出すように細くなったままである。
「理由、ですか。昨日今日会ったばかりの怪しげな山師に、大金を預けてどことも知れない地にもぐらせる――誰がどう見ても一攫千金を目論んでいるようにしか見えないと思いますが……」
 吉継がそう言うと、ここまで黙して話の様子をうかがっていた長恵が口を開いた。
「つまり姫様は、師兄が自分に隠し事をしているので拗ねてらっしゃるんですよ、家族なのに水臭い、と」
「すッ?!」
「む、そう言われると困るな……しかし、今回のは本当に秘中の秘であるからして、誰にも、万一にも気取られたくないんだ」
 俺の言葉に、長恵は頷いてみせる。
「そうですね、師兄が姫様にも話さないというのであれば、相応の理由があるのでしょう。それは姫様もわかってらっしゃるのですが、そこはそれ、自分には他人と異なる例外を適用してくれてもいいのではないかという複雑な娘心があり、けれどそれが我侭だと自覚できてしまうゆえに、口舌には鋭さが混じってしまうのでしょう」
「ううむ、なるほど」
 長恵の明快な指摘に俺は思わず唸り声をあげる。吉継の舌鋒の鋭さは、これから南蛮勢力の懐に飛び込むことに対する不安と緊張から来ていると思っていただけに、長恵の指摘に目から鱗がおちる思いであった。


 すると、そんな俺の声を打ち消すように吉継が声を高めた。
「私を無視して、何を二人で納得しあっているんですかッ。私は、苦労して工面した金銭を信用のおけない人に預けてしまったお義父様の行いを問い詰めているのであって、なんで自分を特別扱いしてくれないのかと拗ねているわけではありません!」
「あれ、あたらずといえども遠からずだと思ったんですが」
「外れてます、かすりもしないくらいに大きく外れてますッ」
 長恵が小首を傾げると、吉継の声がさらに一オクターブ高くなる。この様子を見るに、吉継の言うとおり長恵の指摘は見当違いであったようだ。
 まあ、たとえ指摘が的を射ていたとしても、ここで俺の狙いを口にしてしまうわけにはいかないので、外れてくれた方が俺としても気が楽だった。


 とはいえ――
「吉継」
 俺の呼びかけにいつもと違う何かを感じ取ったのか、頬を紅潮させて憤りを示していた吉継は、俺を見るやすぐに真剣な顔つきになった。
 その吉継と長恵を庭に誘う。落ちていた枯れ枝を手にとって地面に文字を記していくと、俺の行動に不得要領な顔をしていた二人にも意図が伝わったようだった。



 ……宗麟がムジカの建設にとりかかった以上、そこにカブラエルの意思が関与しているのは間違いない。そしてカブラエルの後ろに南蛮神教――大海の波濤を乗り越える技能を有する南蛮勢力が存在することも間違いない。日向侵攻のために軍船を派遣してきた以上、それは誰の目にも明らかである。
 これまで大友家という傘に隠れていた南蛮側が、その傘を押しのけるような大きな動きを見せ始めた――これは脅威というしかないだろう。


 だが、同時にこれは好機でもあった。南蛮神教の教えの陰に蠢く彼らの真意を、陽の下に引きずり出すことが出来るからである。
 無論、向こうもその危険は承知しているだろう。というより、ここまで大規模に動く以上、もはや南蛮側は自分たちの目論見を隠すつもりはなく、その必要もないと判断した可能性が高い。それはつまり、九国の人々がどれだけ異国の支配に反発を覚え、反感を抱こうとも、それを圧するだけの武力を投じる用意が出来た――そう判断するのは、それほど的外れな考えではないだろう。

 
 率直に言って予測していた事態である。肥前の地で吉継たちに口にしたように。
 だが、今の段階で宗麟がムジカの名を明らかにするのは、俺の予測の中でも最悪に近い状況だった。
 正直、もっとムジカが都市としての形をととのえ、ある程度の防備を施してから、満を持して南蛮神教の都として九国全土にその名を謳いあげるものと俺は考えていたのである。
 しかし、実際には中心たる大聖堂すら完成していない状況で、宗麟はムジカの名を口にした。他国がこれを聞いて、兵を発したとしても問題はない――否、それどころかそれを促してさえいる。


 ――もはや島津家を動かすために手段を選んではいられなくなった。彼女らの説得に手間取れば、南蛮勢力の侵攻を止めることが出来なくなってしまう。
 俺が件の鉱山師守田氏定に託した任は、島津を説得するための切り札となるものを見つけることだった。
 そんな都合の良いものに心当たりがあるなら、何故、今になって慌しく動いたのか。
 それは、俺の知識が必ずしもこの時代にあてはまるとは限らなかったからであった。確かめようとすれば、実際に薩摩に行かなければならず、そのための費用も人手も必要である。さらには、そんな怪しげな輩が領内にいれば、薩摩の国人衆が気づかないはずもない。


 そういった諸々の問題があって、俺はこれまで『それ』の確認のために動こうとはしなかったのである。
 しかし、宗麟がムジカの名を口にした以上、そんな悠長なことは言っていられない。危険は覚悟の上で動かざるを得なかった。
 で、肝心の『それ』とは何なのかというと――




『それは秘密』
 そう地面に記したら、右と左から、思わず、という感じで軽い拳骨が振ってきた。
 俺と同じように枯れ枝を手にとった吉継と長恵が、呆れ顔で地面に文字をつづっていく。
『引っ張りすぎです』
『現状の確認だけなら、なんでこんな面倒なやり方をするんですか』
 それに対する俺の答え。
『何となく雰囲気が出るかな、と』
 今度は両足を踏まれそうになったので、慌てて追記。
『さっきの吉継ではないが、大はずれの可能性もあるのでね。まあ鉱山師を向かわせた時点で、大体推測はついてるだろ』
『推測はついていますが、師兄がそれを知っている理由の方は想像もできません』
『同意です。薩摩に行ったことなどないのでしょう?』
『吉継は京に行ったことはないけど、長恵から話を聞いて京のことを知っているだろう。同じようなものだ。布令を出した理由は、大友軍の資金源確保のため、高千穂の山々を調査するためとなっているのでよろしく』
 俺はそう記し、二人が頷くのを確認してから、足で地面に書いた文字を消していく。
 何も寒空のもとでこんなことしなくても、部屋で筆をつかえば同じことができたよな、と今さらながらに思いながら。




◆◆◆




 日向国ムジカ大聖堂仮殿。


 現在、この場にはムジカにいる大友軍および南蛮神教の主要人物の多くが集められていた。
 当然、布教長であるカブラエルもまた、大友家当主たる大友フランシスの傍らに立っている。
 その手は常のように聖書を抱え、その顔には穏やかな微笑が湛えられている。そして、そのカブラエルに従うように、配下の宣教師や十字軍(すでに信徒たちは公然とその名を口にしていた)の主だった指揮官たちが居並んでいた。
 その数は大友家の武将たちを圧し、ムジカにおける主権を握っているのが何者であるかを無言のうちに知らしめるようであった。


 彼らが集められたのは、今日、遠く高千穂から別働隊の指揮官を務める戸次誾らが到着したからである。
 招いた宗麟にとっては、今日の集まりは誾たちの武勲を称えるための場であった。おそらく先方もそのつもりであろう。
 しかし、カブラエルの思惑はまったくの逆だった。
 今日、この場は彼らの功績を称えるのではなく、罪を糾弾するためのものとなるだろう。
 高千穂における消極的な戦い、異教の建物や指導者に対する手ぬるい対応など、責めるべき事柄はいくらでもあり、そのための準備もととのっている。


 それらをもって、カブラエルは突如として大友家にあらわれ、宗麟の信頼を勝ち取ろうと蠢動している救世主なる人物を追放してしまうつもりだった。そして、その人物がかくまう悪魔の少女を確保し、ゴアの総督に献上する。
 その行動に対し、カブラエルは緊張も不安も覚えない。
 自身の弁舌と、高千穂における別働隊の醜態があれば論争で負けるはずはない。相手が逆上して武器を手に取ろうと、この場でとりおさえることは容易い。万一、この場から逃げられたとしても、このムジカのほとんどが南蛮神教の支配下にある今、ここから脱出することは不可能に近い。


(つまりは恐れるべき何物もないということ。どうして緊張する必要があるでしょうか)
 本音を言えば、わざわざカブラエル自身が出たくはなかった。
 こんな勝敗のわかりきった論争は雑事に等しく、配下の宣教師に委ねてしまいたいところなのだが……
(下手に雲居の罪をあげつらうと、イザヤにまで責任が及んでしまいますからね。フランシスが口をはさむと面倒なことになってしまいます。そのあたりの加減が出来るほど心利いた者は、残念ながらおりませんし、私みずから論争の相手を務めるしかないでしょう)
 とはいえ、カブラエルが気を利かせても、誾の方がみずから口を挟んでくる可能性は捨てきれない。
 しかしカブラエルは、その時はその時、と割り切っている。今の時点で宗麟と袂を分かつつもりはないが、仮にそうなったとしても、このムジカであればいかようにも対処できるからであった。



 その時、入り口から戸次誾らの到着を知らせる声が響き、宗麟がそれに応じて中に招き入れるように伝える。
(さて、茶番の始まりですか。必要なこととはいえ、面倒なことです)
 カブラエルは心中でそう嘯く。


 この時、カブラエルはこれから始まる一連の物事に、その程度の意味しか見出しておらず。
 四半刻の後、この場で繰り広げられることになる舌戦を想像だにしていなかった……




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第七章 繚乱(二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:cd1edaa7
Date: 2011/01/17 21:36

 仮殿とはいえ、案内されたムジカの聖堂は荘重な造りと荘厳な雰囲気をかもし出す立派な建物であった。
 その中に居並ぶ者の多くは南蛮神教の信徒たち。南蛮神教を奉じていない大友家の家臣の姿はほとんど見当たらない。
 大友家当主たる大友フランシス宗麟と、南蛮神教日本布教長のフランシスコ・カブラエルは、信徒たちに守られるように、あるいは従えるように彼らの中央に立ち、歩を進める俺たちにそれぞれ異なる色合いの視線を向けていた。


 当初、聖堂内の空気は穏やかなものだった。
 宗麟が高千穂における別働隊の功績を称賛し、俺たちがかしこまってそれを聞く。周囲から向けられる視線には敵意も害意もなかった。
 変化が生じたのは、カブラエルが口を開いてからである。
 中崎城を陥とし、高千穂の東部を制した功績は功績として、別働隊のやりように不審な点がある、というのがカブラエルの主張であった。


 それは要約すれば、高千穂における別働隊の行動――なかんずく異教徒に対する手緩い対応を問いただすものであった。
 問いただすといっても、カブラエルの口調それ自体は穏やかなもので、声高に相手を非難するような真似はしない。
 あくまで丁寧に語りかけてくるカブラエルだが、その内容は露骨なまでに俺を排除する意思があらわであった。


「此度の聖戦は、何の罪もない我らが同胞を殺めた者たちへ神罰を下すためのもの。聖戦に従う我らは神の剣となり槍となりて、非道なる異教徒に神の怒りをしらしめねばなりません。しかるにあなたは高千穂において、同胞の行動を妨害し、あまつさえ異教徒を助けることさえしたとか。それも一度や二度ではないと聞き及びます。かの地における戦果がはかばかしくない理由の一つは、大友軍の頭だった武将の一人であるあなたの非協力、さらに異教徒を利するがごとき不可解な行動によるところが大きい、というのがそちらに同道した十字軍の軍監の報告です。信徒たちの間でも不満と不審の声が公然と立ち昇っているとも聞きました」


 無論、とカブラエルは穏やかな語調を崩さぬままに言葉を続ける。
「フランシスが信を置くあなたが、理由もなくそのような行いをするとは思っていません。なにがしかの理由があると推察します。実のところ、これまでもそちらの同胞からはあなたに対する数々の糾弾が送られてきていたのです。しかし、私はそれらを送ってきた者たちに対し、等しくあなたへの理解と協力を求めました。我らは同じ神の軍団に属する者同士、不和よりも親愛を、疑惑よりも信頼を重んじるべきと考えたからです」
 そこでカブラエルはかすかに表情をかげらせた。
「しかし、不明なる私には今にいたってなお、あなたの行いの内にある理由が見えてこないのです。このままでは湧き上がる不審の声をおさえることが出来なくなってしまうでしょう。こうしてあなたがムジカに来られたことこそ幸い、どうかここに居る私たちに、救世主殿の大いなる英知と妙なる思案をお聞かせいただきたいのですよ」



 しんと静まり返るムジカの大聖堂に、ただカブラエルの声だけが響き渡る。 
 その声が途絶えるや、宗麟の左右に居並ぶ者たちが一斉に俺に視線を向けてくる。彼らの外見からしてほとんどが南蛮神教の関係者――つまりはカブラエルの子飼いの者たちなのだろう。
 当然といえば当然だが、彼らはいずれも体格や顔つきが異なっている。少数ながら女性もいるようだ。しかし、それぞれに異なる外見と人格を持っている彼らは、不思議なことに表情だけは等しく同じに見えた。つまりは皆が操られたように無表情だったのである。
 その画一性はどこか機械を思わせる。そんな彼らが一斉に視線を向けてきたのだ。その異様な光景は、ちょっとしたホラー体験であった。俺を威圧することがカブラエルの目的であったならば、十分に目的を達成できたといえるだろう。


「……お義父様」
 そんなことを考えていると、右隣で跪く吉継が小声で呼びかけてきた。
 ちなみに俺と吉継の前には誾がおり、この場にいるのはこの三人だけである。長恵は中に入ることを許されなかった――まあ、素性がばれても困るので、仮に許されたとしても、ここにはいられなかっただろうが、ともあれそういうわけで長恵は各処を見てまわっているはずだった。


 俺の沈黙をいぶかしむように、カブラエルが再度口を開く。
「どうされました、別働隊の指揮官であるイザヤ殿に遠慮しておられるのですか? しかし、策の根幹を定めたのは雲居殿なのでしょう? まさかフランシスより特にイザヤ殿を助けるように命じられて無為無策であったはずもありますまい。であれば、その遠慮は不要のもの。あるいは、もしやと思いますが、ゆえなく異教の者どもをかばうような真似をしていたわけではないでしょうね?」
 その言葉に、吉継だけでなく誾までも気遣わしげにこちらをうかがってくる。
 吉継も誾も、この大聖堂に満ちる敵意を総身で感じ取ったのだろう。特に誾は戸惑いを隠せない様子だった。南蛮神教がなにかしら企んでいるだろうことは伝えておいたのだが、ここまであからさまに排斥を企んでくるとは考えていなかったのかもしれない。
 それも指揮官である誾自身ではなく、その下に配された俺を標的にしていることは、カブラエルの言葉からも明らかであったから、誾の戸惑いもむべなるかな。


 見れば、宗麟の顔にも戸惑いが感じられた。
 その一方で、周囲に居並ぶ者たちは先刻とかわらず無表情のままである。
 それら諸々の観察から、今回、カブラエルがどの程度まで踏み込んでくるつもりであったのかを推し量る。
 まあ、さして難しくもない。標的はあくまで俺、そしておそらくは吉継まで。現段階で誾を――ひいては宗麟との対立までもっていくつもりはない。
 島津がいまだ健在である以上、これは十分に予測できたことであった。
 ゆえに、俺は胸の内に温めておいた台詞を口にする。




「少し、驚きました」
 俺の言葉に、カブラエルが怪訝そうに目を細める。内容はもちろんのこと、俺が少しも動じた様子を見せないのが意外であったのかもしれない。しかし、すぐにその表情は微笑の下に隠れてしまう。
「驚いた、とは何に対してですか?」
「布教長に、そしてここにいる方々に、それがしの意図が伝わっていなかったことが、です。そこまで不満が高まっていることを知らずにいたはそれがしの責。布教長には要らぬ迷惑をかけてしまったようで申し訳ありませんでした」
「ふむ、ではやはりしかるべき理由があったということですね。説明していただけますか?」
「無論にございます。確かにそれがしは戦地にて、たとえ異教徒といえど無闇に殺さぬよう努めました。報復に猛る者たちをおさえるように戸次様に申し出たこともございます。それが大友家のためになり、ひいては宗麟様や布教長が説かれる神の教えに沿う行いであると考えていたからです」


 その言葉に、一瞬、聖堂内にざわめきがはしった。
 それは半ば怒りの声であったように思われる。同胞を殺めた異教徒への慈悲が、神の教えに沿うものである、という俺の言葉は彼らには到底受け容れがたいものであったのだろう。当然といえば当然の反応であった。
 彼らの中の何人かは声を荒げようとする素振りを見せたが、カブラエルが片手をあげると、それらの者たちはぴたりと口を噤んだ。
「……これは異なことを仰いますね。此度の聖戦の発端、忘れたわけではないでしょう?」
「無論、おぼえております。罪なき者たちを殺めた者どもには相応の報いを与えねばなりますまい」
「それがわかっているのであれば、異教徒への慈悲、という今のあなたの言葉は出てこないはずなのですが?」


 俺はわずかの沈黙の後、口を開いた。ただしそれはカブラエルに答えるためではない。
「布教長、それについてお答えする前に、一つお教えいただきたいことがございます」
「問いに問いで応じるのは褒められた行いではないと思いますが……しかし、雲居殿にとってそれが必要だというのであればお答えしましょう」
「感謝いたします。では――知らぬ、ということは罪なのでしょうか?」


 俺はそう言いつつ、懐から一冊の本――聖書を取り出してみせる。
 いちはやく反応したのは、カブラエルではなく、宗麟だった。
「雲居様、それは……」
「少しでも大友家と宗麟様のお役に立つべく、携えるようにしております」
 驚く宗麟に、平然と嘘をつく俺。
 隣では吉継が慎み深く、頭を下げて表情を隠していた。


 そうとは知らない宗麟は、胸の前で両手を組んで、素直に感動をあらわにしていた。疑う素振りも見せないその様子に、少しばかり胸が痛んだが、とりあえず今は気にしないようにする。
「すばらしいことですわ。雲居様がみずから神の教えに触れてくださるなんて……道雪からは、雲居様は別の教えを奉じていると聞いていましたから」
 俺はそれには直接こたえず、話を進める。
「それがしは宗麟様や布教長にお会いして、こうして真の神の教えに触れることが出来ました。これはとても幸運なことです。逆に言えば、世の人々の多くは、それがしのような幸運に浴することが出来ずにいる。宗麟様も神の教えに触れられる以前は、異なる教えを奉じておられたかと存じます」


 かつて宗麟が父の影響を受けた熱心な仏教信者であったことは有名な事実である。
 俺の言葉に、宗麟はカブラエルの方をうかがいつつも小さく頷いてみせた。
 俺は聖書を懐にしまいながら、なおも言葉を紡ぎ続ける。
「生に苦しむ者の目の前に、聖書と異教の書物が二つながらに置かれ、その双方を読み比べた上で異教を選ぶのならば、それは非難されてしかるべきなのかもしれません。しかし、その者の前に異教の書物しか置かれていなかった時、苦しみに耐えかねた者が異教に救いを求めること――神は、これを罪と断じるのでしょうか。その命を奪うに足る罪業とされているのでしょうか?」


 俺の問いに対し、カブラエルはやや目を細めつつ、ゆっくりと答えた。
「……それを罪と断じるならば、私たちのような宣教師は海を越えようとはしなかったでしょう。神の存在を知らぬ地に、神の教えを広め、迷い苦しむ人々を一人でも多く救うこと。それこそが私たちが神から与えられた試練であり、同時に喜びでもあるのです」
「返す返すも見事な志、布教長をはじめとした皆様がこの国に来てくださったことに、それがしは感謝の念を禁じ得ません」


 俺はそう言って、宗麟の顔に視線を据える。
「――もう、それがしの答えはおわかりになられたかと存じます。それがしが高千穂の地で守ろうとしたのは、まことの神を知らざるがゆえに異教を信じてしまった者たち――それはすなわち、宗麟様や布教長に出会う以前のそれがしに他なりません。彼らは、神に叛いたのではなく、ただ知らなかっただけなのです。まして高千穂の民が、此度の虐殺と無関係であることは地理的に見ても明らか。宣教師の方々がかの地に赴き、南蛮神教の教えを広めたならば、彼らはそれがしと同じように神の教えに従い、大友家のために尽くしてくれるものと考えております」


 一息でそう言い切ってから、俺はあらためて深々と頭を下げる。
「以上が、それがしが高千穂でとった行動の理由でございます。狭く拙い見識で、己を愛するごとく隣人たる彼らを愛したつもりになり、他の方々への説明を不要と判断したのはそれがしの責。その結果、要らざる混乱と不審を招いてしまったこと、まことに申し訳のしようもございません。いかような罰もお受けする所存にございます」




 俺の言葉が途切れるや、聖堂内は再び静まり返った。
 俺はことさらカブラエルや南蛮神教に対して異議を唱えたわけではなく、あくまで自身の行いを南蛮神教の教義に即して説明しただけであり、付け焼刃とはいえ、一応それらしく聞こえるように工夫した。
 この沈黙は得心や諒解にはほど遠かったが、少なくとも俺に向けられる敵意の量が増えたようには感じられなかった。


 とはいえ、所詮は付け焼刃。俺の言動を心得違いだと否定して、今この場で処断することは不可能ではない。なにせ聖書の解釈、神の教えの本義を判断する第一人者はカブラエルなのである。もしカブラエルがなりふりかまわす俺を始末するつもりで今日のことを仕組んでいたとしたら、俺が神の教えを歪めて聖戦を汚したなどと言い立て、この場で始末しようとしたに違いない。


 しかし、この場には宗麟がいる。南蛮神教に触れる以前は宗麟も異教徒であった、という俺の指摘はまぎれもない事実であり、カブラエルはこれを罪とする論調を用いることが出来ない。
 無論、それを避けて俺を処罰することも出来るが、今の宗麟の様子を見るかぎり、俺の言葉に反感を抱いた様子はなく、むしろ共感を抱いた節さえ見て取れる。俺は高千穂の人々を過去の自分に重ねたと口にしたが、それはつまり宗麟にも同様のことが言える――そのことに思い至ったのだろう。



 吉継たちにも話したが、おそらくカブラエルは、その気になれば宗麟を排斥できるだけの準備をととのえている。それはこの時期にムジカの名があらわれていることからも推測できた。
 しかしその一方で、島津をはじめとした敵国が健在な今、まだ大友家の力が利用できることも事実である。
 であれば、カブラエルは有用な戦力を敵にまわすような真似は出来るかぎり避けたいはず。もし俺を容易ならざる相手だと警戒しているのであれば、そういった不利益を覚悟の上で潰しにかかってきただろうが――まあその心配はなさそうだ。その表情や口調からは警戒のけの字も窺えない。もしやすると、石宗殿の屋敷で顔をあわせたことさえ覚えていないのかもしれん。


 カブラエルにとって、今の俺はうるさくたかる蝿のようなもの。ならば、これを追い払うために腰の刀を抜きはなつ必要はない。南蛮神教の教義を持ち出すまでもなく、俺の言動の矛盾を衝くことはできるのだから。
 俺のその考えは、次のカブラエルの言葉で現実となる。


「雲居殿のお話、とてもよくわかりました――そう申し上げたいところなのですが、残念ながらそれはできません」
 宗麟が驚いたように目を瞠ってカブラエルを見るが、カブラエルは視線を俺に据えたまま、言葉を続けた。
「何故なら、それを認めれば、他ならぬフランシスが大いなる罪を負うことになるからです。高千穂において異教の者たちに情けをかけた雲居殿の行いが、神の慈悲にそった正しいものであるとするならば、このムジカにおいて、同胞の無念を晴らし、邪教を殲滅すべく命がけで戦った信徒たちと、それを率いたフランシスの戦いが誤ったものであり、神の教えにそむくものである、ということになってしまうからです。雲居殿は主君であるフランシスが涜神の行いをしたと主張されているに等しいのですよ」


 これを諒とすることは、私には出来かねるのです。
 沈痛な表情で語るカブラエル。確かに高千穂の別働隊のやり方を是とするなら、ムジカの本隊のやり方は非とならざるを得ない。
 それはつまり、この場にいる者たちを否定することである。周囲からの視線の圧力が一気に増したように思われた。
 しかし――


「布教長。それがしはこの場に参ってより一度たりとも、みずからの行いが正しかったと主張してはおりません。口にしたのはただ驚いたという一事のみ。もとよりこの身は洗礼すら受けておらぬ凡夫に過ぎず、宗麟様と布教長らの深慮におよぶはずもないのです。ゆえに誤っていたは、疑いなくそれがしでありましょう。聖戦の一翼を担う栄誉を賜りながら、その責務を果たしえなかったことはどれだけ詫びても足りるものではなく、いかなる罰も謹んでこの身で受ける所存にございます――先刻申し上げたように」


 俺はあっさりとみずからの非を認め、再び深く頭を下げた。
 頭を下げたため、宗麟の表情も、カブラエルの様子も窺うことができなかったが、確かなのは俺の頭上に降ってきたのは沈黙のみである、ということであった。
 カブラエルが俺の反応をどう予測していたにせよ、ここまであっさりと非を認めるとは思っていなかったのか。あるいは、あまりにも予測どおりで、かえって手ごたえの無さにあきれ果てているのかもしれない。
 
 
 まあ正直どちらでもかまわない。
 もしカブラエルを論破する必要があったなら、俺はここで聖戦とやらの醜行がどれだけ大友家の害になっているのかを高らかに主張しただろう。
 しかし、今ここでそれをすれば、カブラエルを筆頭とする南蛮勢力との関係が敵対の方向で尖鋭化してしまう。カブラエルが今の段階で大友家を敵にするつもりがないように、俺もまた今の段階でカブラエルらを敵とするつもりはなかった――より正確に言えば、敵対するとしても、それを衆目に明らかにするつもりはなかった。
 その挙に出るのは、もう少し後――南蛮勢力がその野心をあらわにしてからである。


 つまりは、俺ははじめからカブラエルを相手取って宗教論を競うつもりなどなかったのだ。
 正直、それをしたところで勝ち目もない。カブラエルは曲がりなりにも石宗殿と論を戦わせたほどの見識の持ち主、おまけにこの場は完全に敵地であるから尚更である。
 ならば、何のためにわざわざ危地に足を踏み入れたのか。
 それは南蛮神教という名の神殿の奥深くにこもる人物――大友フランシス宗麟に声を届けるためであった。


 問題は、その神殿には常に柔和な微笑を湛えた司祭がおり、どれほど必死な声でも、どれほど真摯な願いでも、彼にとって都合の悪いものは掻き消されてしまい、神殿の中にいる人には届かないことである。
 しかし、どんな物事にも例外というものは存在する。
 たとえば今の俺の立場がそうであった。


 これまで宗麟に向けられた声はみな南蛮神教という枠の外からかけられたものだった。これは石宗殿にしても、道雪殿にしてもかわらない。どれだけ道理に即し、現実を見据えた意見であっても、枠の外からの声は宗麟には届かない。これに関してはカブラエルのせい、というよりも、宗麟自身に耳を傾ける意思が薄いのだ。


 その点、今の俺は洗礼こそ受けていないが南蛮神教という枠の中にいる。少なくとも、宗麟の目からはそう映っているだろう。
 そしてカブラエルと異なり、南蛮神教の枠の中で俺は宗麟の下に位置している。
 地位や立場に関係なく、ただ一介の信徒として、宗麟に信仰の何たるかについて教えを請うことが出来るのだ。それをするのは、おそらく俺がはじめてではないだろうか。なにしろ宗麟のすぐ近くにはカブラエルがいる。大抵の人間は、信仰について悩みがあったときはそちらに縋るだろう。
 個人としての宗麟が抱く神への思い。あるいは道雪殿であれば、過去にそこに触れようとしたことがあったかもしれない。しかし、やはり道雪殿は南蛮神教の外にいる人物である。宗麟としても虚心に語るわけにはいかなかっただろう。
 あるいは宗麟が道雪殿に幾度も改宗をすすめたのは、そういった意味も含んでいたのかもしれない。
 道雪殿が改宗すれば、宗麟は大友家当主としてではなく、一人の人間として、共に語ることのできる相手を得ることができるのである。



 ……無論、それらは俺の勝手な推測であり、真偽は定かではない。
 だが、今この場にあって、俺の問いかけは過去の誰よりも宗麟の耳に響くであろうという考えは揺らがない。
「宗麟様、先刻、私は知らぬことは罪なのかと布教長にお訊ねしました。今、もう一つの問いを、宗麟様に向けることをお許しいただけましょうか?」
「どうぞ、なんなりと。ここにはカブラエル様もいらっしゃいます。訊ねたいことはすべて明らかにしてくださいませ」
「ありがたき幸せ」


 俺は宗麟の許しを得て、ゆっくりと口を開いた。
「さきほど布教長は仰いました。『神の存在を知らぬ地に、その教えを広め、迷い苦しむ人々を一人でも多く救うこと』こそ神が与えた試練であり、幸福である、と。神は望むと望まぬと、好むと好まざるとに関わらず人に試練を与えられると聞きますが、宗麟様にとって試練とは何なのでしょうか?」
 俺の問いに対し、宗麟は静かに瞼を閉ざし、胸の前で両手を組む。
 その姿には力みも戸惑いもなく、あるいは俺の問いを予期していたのかもしれない――そんな考えさえ浮かんでくる。
 しかし、おそらくそれは違うのだろう。宗麟の答えを聞き、俺はそう思った。おそらく俺の問いに対する答えは、宗麟にとって今さら考えるまでもないほどに自然に胸に抱いているものだったのだ。
 すなわち、宗麟はこう答えたのである。


「……わたくしは咎人です。この身に背負う罪はあまりに重かった。そんな時、カブラエル様に出会い、真の神の教えを知り、慈悲を受け、わたくしは救われました。もしあの時、カブラエル様にお会いしていなければ、わたくしは遠からず罪の重さに耐えかね、押し潰されていたことでしょう」
 そう言って宗麟は信頼と親愛に満ちた視線をカブラエルに向ける。
 カブラエルはそれを笑顔で受け止め、そっと宗麟に手を差し伸べた。
 差し伸べられた手にそっと自分の手を重ねながら、宗麟は俺を見て言葉を続けた。


「わたくしは神とカブラエル様によって赦され、救われました。そうしてフランシスという洗礼名を授けられた時、思ったのです。この幸福と安寧を、わたくしだけでなく、より多くの人たちに与えたい、と。大友という大家に生を受け、多くの苦しみを経て当主となったのは、まさしくそのためなのではないか、と」
 柔らかい微笑を俺に向けながら、宗麟は問いへの答えを口にする。
「わたくしは日の本のすべてに神の教えを広めたい。それがどれだけ困難なことであるかは重々承知しています。それでも、わたくしは歩みを止めるつもりはありません。その困難こそが、神がこの身に与えたもうた試練であり、その試練を乗り越えることこそがわたくしにとっての幸福に他ならないからです」




 その言葉に込められた深い決意と確信に、俺は知らず息をのんでいた。
 思いがけない言葉――ではなかった。むしろ予想どおりといってよい。宗麟が盲信と呼べるほどに南蛮神教に耽溺していることは、誰知らぬ者とてない事実である。
 にも関わらず、俺は宗麟の真摯な眼差しに気圧されるものを感じていた。血と泥で水底さえ見えない川も、源流まで遡れば澄んだ水が湧き出しているもの。現在の大友家は内外に血泥を撒き散らす惨禍に等しいが、その源は宗麟のこの思いであったのか。


 無論、だからといってこれまでの宗麟の行動や選択が正当化されるものではない。悔い改めて、めでたしめでたしで終える術は、たぶん九国のどこを探しても見つからないだろう。
 しかし。
 宗麟がその妙なる意思と酷なる現実の乖離を正すことが出来たなら、それは大友家のみならず、九国、ひいては日の本にとっても佳良であろう――少なくとも、このまま宗麟が彷徨を続け、大友家が南蛮勢力に食いつぶされるよりは、はるかにましであるはずだ。



 そんなましな未来にたどり着くためにはどうするべきか。
 南蛮神教から離れるように口にしたところで、宗麟は決して肯わない。
 ならば、その信じる教えにそって問いかければ良い。宗麟のこれまでのすべてを覆すためではなく、省みることが出来るように。
「お答えいただき感謝いたします。フランシス様の御心を知るを得て、安堵いたしました」
 俺が「フランシス」と口にした時、宗麟はわずかに背筋を伸ばしたように見えた。宗麟が自身を「宗麟」ではなく「フランシス」と呼ばれることを望んでいることは幾人かの人たちから聞いている。


「雲居様……安堵、とは?」
「それがしの行いが、決して間違いではなかったとわかったからです」
 先のカブラエルの発言を思いっきり無視して、俺はそう言い放つ。視界の隅でカブラエルが口元を引きつらせているのが見えたが、横槍をいれる隙なぞ与えない。
「布教長は知らぬことは罪ではないと仰った。フランシス様は赦しと救いをもって、民の幸福と安寧を求めると仰った。高千穂において、まつろわぬ者たちをことごとく討ち滅ぼすがごとき行いをしていれば、それはお二人のいと高き心を汚し、千載に大友の悪名を残す結果となっていたことでございましょう」
 俺はそう言ってから表情を陰らせる。
「無論、裁かれねばならない罪というものは存在するのでしょう。神は幾度もまつろわぬ者たちを討ち果たしたと聖書には記されてありました。しかし、フランシス様も布教長も神ならぬ人の身、この地において神罰の代行者となられ、やむをえず多くの咎人を討ち果たし……そのことで、慈愛の心持つお二人がどれだけ心を痛められたのか、それがしには想像すら出来ませぬ」


 ……なんというか、心にもない言葉をこうも滑らかに発している自分に、我がことながら戦慄を禁じえない。
 右隣から頬を刺してくる視線が痛かった。が、ここで口ごもれば、わざわざムジカまで出向いた理由の一つが失われてしまう。あと少し、羞恥心に蓋をしておこう。

   
「ゆえにそれがしが出来るのは、これ以上、お二人がその心を痛めることのないように努めることのみ。まつろわぬ者たちを討つはそれがしにお任せください。フランシス様がなさるべきはそのような小事ではなく、己の敵すら赦し、慈しむこと。それはフランシス様でなければかなわぬことです。此度の戦で、大友軍は大いなる罰を体現いたしました。一罰百戒、もはや同胞がゆえなく害されることはなくなったと見て良いでしょう。これより後は、フランシス様の赦しと救いをもって、この地の民に神の慈悲の何たるかをお示しくださいませ。さすれば、布教長もいらっしゃること、皆、喜んで神の栄光をたたえ、その教えにひれ伏すことでございましょう」


 それはとても困難なことである。言うは易し、とは誰もが思うところだ。
 しかし、宗麟自身が口にしたではないか。
 日の本に神の教えを広めるための困難こそが、神から与えられた自分の試練である、と。
 殺すことと赦すこと。どちらがより困難であるかなど言を俟たない。
 ムジカを神の栄光で満たすために、宗麟がすべきことは何なのか、誰よりも宗麟自身がわかっているだろう。


「……それがしがフランシス様にお仕えするに至った奇縁の意味、今ならばわかるように思います。この雲居筑前、フランシス様をお守りする楯となることを改めてここに誓いましょう。どうか御身が信ずる道を往かれますように」
 言い終えて、俺はほっと息を吐き出す。沈黙の帳が聖堂を包み込んでいくのを感じながら、俺は言うべきことは言ったと示すために深々と頭を下げた。
 





◆◆◆






 路傍に品物を並べ、道行く人を呼び止める者たちが軒を連ねている。
 トリスタンは足早に街路を歩きながらも、その光景を興味深く眺めていた。
 並べられている品物は様々だが、主なところは野菜や肉といった食料のようだ。おそらくムジカ周辺の農民たちが金銭の収入を得るために足を運んできているのだろう。
 それ以外に目につくのは、寒気をしのぐための衣服や毛皮、あるいは年季の入った刀や槍をはじめとした武器を商っている者たちである。
 一方で簪や髪飾りといった装飾品の類はまったくと言っていいほど売られていない。しかし、それは不思議なことではない、とトリスタンは思う。ムジカにおける買い手のほとんどが、聖戦に従事する将兵――つまりは男性なのだ。装飾品なぞ売れるわけはないのである。


 その意味で、女性である自分の姿が人目を惹くのもまた致し方ない、とトリスタンは考えていた。
 しかし、実際はトリスタンの考えは微妙に的を外している。
 確かにムジカにおける男女比は著しく偏っているが、周囲に女性の姿がないわけではない。商いのために軒を連ねている者たちの中にも女性はいるし、少し奥まったところに入り込めば、こういった戦場では付き物の女たちの姿を目にすることもある。


 ゆえにトリスタンが注目を集めているのは、ただ女性であるという理由だけではなかった。
 今日は聖騎士の証である銀の甲冑は身につけていないが、そうでなくともトリスタンの亜麻色の髪と青い双眸はこの国の人間にとって珍しいもの。くわえて、その腰には精緻な細工の施された長剣がつるされているのだ。
 その容貌とあいまって注目が集まるのはむしろ当然といえるのだが、トリスタン本人にはあまり自覚がなかった。たとえ誰かにそれを指摘されたとしても、意に介すこともなかっただろう。




 人々の視線のただ中を、トリスタンは律動的な歩みで通り抜けていく。
 商人たちの声に混じって、街の各処から家屋敷を建てるための槌の音が響いてくる。三万を越える信徒たちが大聖堂建設に携わっている以上、その生活を成り立たせるための基盤を整えるのは、大友軍としては当然の措置であった。
 だが、それを考慮してなおムジカの発展ぶりは瞠目に値する。トリスタンは、事あるごとに五ヶ瀬川河口に停泊中の旗艦と、ムジカの大聖堂を行き来しているのだが、来るたびにそれとわかるほどに発展していく街並みと、それを成し遂げてしまうこの国の民には興趣が尽きなかった。


 いつぞやトリスタンはこの国の民の勤勉さと従順さに驚いたものだが、今ではその意見に多少の修正をくわえている。
 勤勉であることは間違いない。考えを変えたのは、この国の民が従順であるという点である。武力であれ、財力であれ、あるいは神の教えであれ。この国の民がただ他者に従うことをよしとする者たちであれば、ムジカを包むこの活気はうまれない。
 彼らは一見従順に見えるが、その内に驚くほどの狡猾さを秘めているのではないか。神の教えさえ吸収して、自分たちに都合の良いところだけを抜き取って、更なる発展へと繋げていくその様は、狡猾といって悪ければ柔軟と言い変えることも出来るかもしれない。


 もっともトリスタンは他の誰にもこの考えを口にしていない。言ったところで、誰の共感も呼べははしないことがわかりきっていたからである。
 特にカブラエルをはじめとした宣教師たちは、この国の民を自分たちにとって都合の良い面からだけ見ているように思えるから尚更だ――と、そこまで考え、トリスタンは不意に首を傾げた。
「……あるいは、今ならカブラエルも気がついているかもしれませんね。この国の民が、決して従順なだけの者たちではないということに」




 思い出されるのは、先刻の聖堂での出来事。
 あの慇懃無礼を絵に描いたような傲岸な男が、口元を引きつらせているところなど滅多に見られるものではなかった。
 もっとも、その姿を見て溜飲を下げるほどトリスタンは小さい人間ではないし、カブラエルにそこまでの関心を払ってもいない。ただみずからの考えが間違っていなかったことの証左を得た、と思っただけである。


 あれは戦だった、とあらためてトリスタンは思った。
 大声をあげて相手を論難し、自らの主張をぶつけあう――そんな戦ではない。しかし、あれもまた間違いなく戦の一つであった、と。


 こと宗教に関する論争において、カブラエルは並外れた力量を誇る。上位の人間に取り入る能力と同じ、あるいはそれ以上の冴えを見せるのだ。それなくして、あの若さで布教長の地位にまで駆け上ることは不可能であったろう。
 今回のことも、もし話が宗教に関するものに終始すれば、カブラエルが相手を叩き伏せて終わったであろう。
 しかし、相手はそれを知ってか知らずか、カブラエルが得手とする盤面にのぼろうとはしなかった――というより、そもそもカブラエルを相手にしていなかった、という方が正確か。
 噂の救世主とやらは、最初から最後までカブラエルではなく、みずからの主君である大友フランシスのみを見ていたように、トリスタンには思われた。


 もしカブラエルが、事のはじめから形振り構わずに相手の行動を宗教の面で問い詰めていれば、あるいは押し切ることが出来たかもしれない。
 しかし、カブラエルは大友フランシスを憚ってしまった。今の時点で大友家と袂を分かつ心算がないのであれば、それは当然のことである。
 相手はそんなカブラエルの反応を予期していたように、その点を執拗に衝いてきた。カブラエルを論破するのではなく、大友フランシスを説き伏せるために。
 カブラエルがどれだけ優れた弁舌を持っていようとも、口を開かねば力を発揮しようがないのだから、これは効果的な作戦であったといえるだろう。




 もっとも、口舌の徒を好まないトリスタンは、この時点ではまだ雲居という人物を冷めた目で眺めていた。してやられた形のカブラエルが黙っているとも思えなかった。
 事実、あの後、雲居はカブラエルから敵地への使いを命じられている。無論、実際に命じたのは雲居の主君である大友フランシスであるが、あれはカブラエルの命令と言っても差し支えないだろう。
 そしてその命令とは、これから矛を交えるであろう相手の城に赴き、此方へ従うようにと伝えること――それは事実上「死んでこい」と命じられたに等しい。


 トリスタンは、雲居がなんと言ってこの無茶な命令を拒絶するのか、とわずかながら興味を抱いた。その内容如何で、雲居の為人をはかることが出来るだろうと考えたのである。
 慌てふためいて拒絶するか。
 冷静さを保って理詰めで謝絶するか。
 あるいはトリスタンが考え付かない弁舌でもって拒否するか。


 答えはそのいずれでもなかった。
 ――雲居は、いっそ晴れやかに、にこりと笑って頷いたのである。
 むしろ命じたカブラエルの方が驚愕を隠しきれていなかったように、トリスタンには思われた。


「ただの口舌の徒、というわけではないようね。あれが虚勢でないとしたら見事なものだけど……ん?」
 トリスタンは不意に眉をひそめた。
 なにやら騒々しい物音が耳に飛び込んできたからである。しかも、なにやら剣呑な叫び声も聞こえてくる。
 発展著しいムジカには多くの人間が流れ込んできている。騒ぎも喧嘩もめずらしいものではないし、トリスタンにはそれを静める義務もない。
 しかし、血相を変えて駆け回る者たちが、いずれも同郷のものであれば話は別だ。
 まして彼らが追っているのが、見目麗しい黒髪の女性であるならば尚のことである。



 トリスタンはその光景を見ても、すぐに駆けつけようとはしなかった。女性の身ごなしや表情を見れば、追われているのか、追わせているのか、悩む必要もないほどに明確だったからである。
「どう見ても、追う者たちより追われる者の方が強いわね。放っておいても問題ないような気もするけれど……そういうわけにもいかない、か」
 そう呟くやいなや。
 トリスタンは飛鳥のようにその場から駆け出していた。 




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第七章 繚乱(三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:cd1edaa7
Date: 2011/01/23 15:15

 活気と喧騒が混じりあうムジカの街並み。その中を、丸目長恵は腕組みしながら歩いていた。
 明らかに考え事をしている風情ながら、道行く人の波に埋もれることなく、流れを見極めてすいすいと歩を進めていく。その姿に、露店で野菜を売っていた農夫らしき人物が不思議そうな視線を向けていた。
 しかし、長恵はその視線に気づくことなく、なおも腕を組んだまま歩き続ける。その胸中に去来するは、今この時、大聖堂でカブラエルらと相対しているであろう雲居や吉継への思い――ではなかった。


 潮の香を含んだ風が通りを駆け抜けていく。長恵は組んでいた腕を解き、たなびく髪を左の手でおさえながら、不満げに呟いた。
「んー。どうもいまひとつ効果のほどが見えません」
 何のことかといえば、先日来、長恵が気にかけている雲居筑前と戸次誾、この二人の関係についてであった。
 雲居と剣を交え、誾の見聞に供するという一計を案じた長恵が、それを実行に移したのは先ごろのことである。


 これは、雲居が口先だけの人間ではないとわかれば、多少なりとも誾の尖った感情をなだめることが出来るのではないかと考えた為であった。無論、長恵自身の思惑もあったことは否定しないが。
 そして計略は図にあたり、あれ以降、誾が雲居を見る眼差しには明らかな変化が生じたように長恵には思われた。これまで見え隠れしていた雲居への軽侮――あるいはそれを装った気負いの色が浮かぶことがなくなったのだ、これは大した成果であるといっていいだろう。


 しかし、長恵の期待どおりに事が運んだのはそこまでだった。
 誾の感情がなだめられれば、後は自然と二人の会話も増え、友好的な関係が築かれていく――長恵はそう考えていたのだが、あいにくとそうは問屋がおろさなかった。
「効果が見えないというか、なんか前にもまして師兄と距離を置くようになっちゃいましたよね、戸次様。師兄も遠慮か気遣いかわかりませんが、距離を縮めようとはしませんし……」
 うーむ、と長恵は再び腕を組む。
 こういう場合、年長者の方から歩み寄ってくれると助かるのだが、雲居は誾を気にかけつつも、どこか距離を縮めることにためらっているように見える。
 はじめは、戸次家という名家の当主への遠慮かと思ったが、聞けば先の当主である道雪とは進んで言葉を交わしていたという。つまり、地位に物怖じしているわけではない。
 小野鎮幸や十時連貞といった同性の武将たちとも友好的な関係を築いているところを見れば、男嫌いというわけでもあるまい。なにより、雲居が誾本人に悪い感情を抱いていないことは、その言動から容易に察することが出来た。


 もっと気軽に――それこそ吉継と対するような感じで誾とも接すれば良いのに、と思う一方で、このところ長恵の胸には一つの考えがきざしている。
 それは、案外、雲居は誾のような年頃の少年との接し方がわからないだけなのかも、というものだった。実際、吉継に話を聞いたところ、親子の杯を交わす前は吉継とも似たような状況だったらしい。少なくとも、今のように気軽に言葉を交わしたことはなかったという。


 そこから導き出される解答は――
「師兄は家族という言葉になにか思い入れがあるのかな? 姫様と戸次様では立場も性格も違いますが、ふむ、これは試してみる価値があるかもしれません」
 形から入ることも時には必要だろう――そこまで考え、長恵ははてと首を傾げる。
 仮に試みが上手くいき、雲居と誾が義理の父子になったとすると、今の誾は立花道雪の義理の息子であるからして……
「この場合、師兄と立花様は義理の夫婦になるのでしょうか?」
 それは雲居と誾の関係を考えた場合、なんだか逆効果のような気もする。そもそも義理の夫婦ってなんだろう??


「あるいは、いっそのこと師兄と戸次様に立ち合ってもらいましょうか。言葉ではなく、刀を交えることで見えてくるものもあるでしょうし」
 しかし、それだと余計にこじれてしまう可能性もないわけではない。
 うーむ、と考えこんでいた長恵は、不意に潮の香りが先刻よりも随分と強まっていることに気づいた。
 あれ、と首を傾げてあたりを見回す長恵の視界に、冬の曇天を映し出した鈍色の海が飛び込んでくる。考え事をしているうちに、潮風に手を引かれるように港まで足を運んでしまっていたらしい。


 冬の日向灘は、どこか寒々しく、荒涼たる印象を見る者に与えてくる。だが、周囲の人々はそんな陰鬱な印象を吹き飛ばすかのように騒々しい活気に満ち溢れていた。
 大友軍はこの地の人々にとって侵略者に他ならないが、生きるためにはそんな彼らですら生活の中に取り込んでしまう。この地に限った話ではない。同じような光景を、長恵は何度も見てきた。
「民とは逞しいものですね。あるいはしたたか、というべきなのかな」
 感心したような呟きが、その口から零れ落ちた。
 

 元々、ここ、五ヶ瀬川河口には港があった。しかし、その規模は府内や油津とは比べるべくもない小さなもので、それこそ港というよりは、ただの漁村といった方がしっくりくる程度のものにすぎなかった。
 その状況が一変したのは、やはり大友軍が県城を陥落させてからである。
 大友軍が県城を取り壊し、ムジカ建設にとりかかるや、そのための資材を運ぶ人や船で港はおおいに賑わうようになったのだ。
 港には船の数こそ少ないが(先の北九州戦役で小早川隆景に痛撃をくらったため)大友水軍や南蛮の軍船も停泊していた。それを見て、この地がムジカを守る新たな水軍の拠点となることを察した者たちによって、兵や水夫を相手にする店も軒を並べ始める。
 さらに、この港が将来は聖都と海外を繋げる窓口になることは半ば既定のことであったから、先を見据えた商人たちによって港自体の拡充も行われようとしていた。

 
 その賑わいの只中で、長恵は興味深げにあるものに視線を向けていた。
 かつて京へと赴いた長恵は、当然ながら往来で船を利用しており、海に関する知識も備えている。
 それゆえ港の賑わいに物珍しさを覚えることはなかったのだが、ただ一つ、長恵が見たことのない物がこの港には存在した。
 南蛮の軍船がそれである。
 ことに国旗を翻した旗艦とおぼしき巨船は、遠目にもその偉容が明らかであり、長恵の興味を惹いてやまなかった。
 左右両舷から筍の如く(長恵にはそう見えた)突き出た砲身の数は両手の指では数え切れない。船体自体も大きく、また見るからに頑丈そうでもある。雄牛の角のごとく突き出た船体正面の構造(衝角というものだと後に雲居から教えられた)は、あるいは頑丈さを利して敵船を蹴散らすための武装であろうか。


 もし南蛮と戦いになった場合、あれ一隻を沈めるために一体何隻の船が必要になるのか、長恵には推測することも難しかった。
 とはいえ、勝ち目がないと考えているわけではない。
「まあばか正直に船戦を挑まずとも、小舟で近づいて鉤をつかって乗り移り、中から制圧してしまえばそれでいいわけですが。けど、あの大きさだとけっこう乗っている人も多そうですし、そう簡単にはいかないかな」
 長恵はそうひとりごちる。南蛮との戦に関しては、遠からず現実のものになるかもしれないと思えば、考察にも熱がはいろうというものだった。


 ただ、よくよく考えてみれば、あれが一隻だけとは限らない。それこそ、あの巨船が何隻も、何十隻も連なり、波を蹴立てて突進してくるかもしれないのである。そうなれば一隻ずつ制圧していくというわけにもいかなくなろう。
「火矢や焙烙玉を山ほど用意したとしても、あの巨大な船体にどこまで通じるものか……師兄はどう考えているんだろう?」


 いや、と長恵はおとがいに手をあてて考え込む。
 これまで雲居は南蛮の脅威について語ることはあっても、実際にどう戦うか、具体的な策を口にしたことはなかった。それは用心のためもあろうが、もう一つ、相手の具体的な戦力を把握していなかったから、という理由もあるだろう。
 敵を知り、己を知れば、とは古人の説くところ。敵を知らずに策などたてられるはずもない。
 そう考えると、雲居がこの南蛮船のことを知らないというのはおおいにあり得る話だ。対抗策を練るためにも、早めに雲居の耳に入れておくべきか。



 そう考えた長恵だったが、しかし、その場ですぐに踵を返そうとはしなかった。
 どうせならもっと詳しく観察しようと考えたのである。
 だが、歩を進めかけた長恵は、すぐにその動きを停止させる。長恵だけでなく、周囲の人々も同様に動きを止め、その場にいた全員が一つの方向に視線を向けていた。


 彼らの視線の先では、何やら騒ぎが起こっていた。明らかに異国人とわかる風貌の者たちが殺気だった表情で何やら声をかけあい、道行く人々を乱暴に呼び止めたり、あるいは無理やり顔を覗き込んだりしているのだ。今も髪を引っ張られた女性が苦痛の悲鳴をあげている。


 だが、その女性も目当ての人物ではなかったらしく、その一団はさらに手近な人たちを掴まえながらも、少しずつ長恵がいる場所へと近づいてくる。
 周囲にいた者たちが、慌てたように足早に立ち去っていく姿を眺めながら、長恵は思案した。
 長恵の力量をもってすれば、あの手の連中から逃げる必要はない。女子供を問わぬ横暴な振る舞いは見ていて不快でもある。普段であれば、むしろ進んで連中のところに駆けつけているところなのだが――


 現在の長恵の立場からすれば、厄介事に巻き込まれるのは極力避けねばならないのは当然のこと。相手が南蛮の関係者である可能性が高いのであれば尚更であった。 
「君子、危うきに近寄らず、と言いますし」
 やや残念そうに呟きつつ、長恵は騒ぎに巻き込まれないように手近の路地に身を避けた。
 本音を言えば、ここは「虎穴に入らずんば……」の方を適用したい長恵であったが、自分ひとりのことなら知らず、雲居や吉継、誾の立場を不利にしてしまう危険をおかすことは出来なかったのである。



 しばらく人気のない路地を進みつつ、さて、軍船を観察しにいくか、それとも屋敷に戻ろうか、と考えながら長恵は周囲を見渡す。
 このあたりは港の賑わいを目当てとした人々が無秩序に家屋を増築した一画らしく、何やら迷路にも似た様相を呈していた。
 まだ時刻は昼過ぎなのだが、天候が曇りであることもあって、あたりは妙に薄暗い。しかも、何処からかすえたような悪臭が漂い、物陰からは粘るような視線が向けられてくる――とてものこと、妙齢の女性が一人歩きして良い場所ではない。
 長恵が表通りから路地に入って、まだ百も数えていない。にも関わらず、すぐにこんな区画にぶつかるあたり、このあたりの治安のほども推して知るべし、と長恵は小さく肩をすくめた。 


 だが、そんな場所だからこそ、表通りでの難を避けようとする者たちの格好の通り道にもなっていたらしい。
 前方の角から飛び出してきた人影が、一直線に長恵に向けて突っ込んできたのはその時であった。
 とはいえ、別に相手は害意をもっているわけではないようで、たんに後方をうかがいながら走っているので、角をまがったところに立っていた長恵に気がついていないだけのようだった。


 そうと知った長恵は親切心を発揮して、相手に注意を促すことにする。
「そこの御仁、危ないですよ」
 その一言は当然のように相手の耳に届き、向こうは慌てて後ろに向けていた視線を前に据え直し、急減速をかける。
 まるで覆面のように顔の下半分を布地で覆ったその人物は、長恵を見て警戒するように腰を落とし、背に負っていた刀に手をかける。長恵の目から見ても隙のない動作であったが、そこにはかすかな戸惑いが感じられた。こんなところで大小を差している女性の剣士が、敵かどうか量りかねたのだろう。


 その疑問は当然ですね、と長恵は他人事のように考えつつ、採るべき行動について考える。
 長恵としては思案のしどころであった。今ならば、そ知らぬ顔でこの場を去ることも不可能ではない。
 しかし。
 相手が立っている場所からは、今も小さな水音が聞こえてくる。それは相手の服から垂れた水滴が地面を打つ音に違いなく――要するに目の前の相手はずぶぬれの格好なのである。それこそ服を着たまま水風呂に入るか、真冬の海に飛び込みでもしないかぎり、こうはなるまいと思わせるほどに全身びしょぬれであった。


 体格的には吉継とさして変わらない。相違は胸の膨らみくらいであろうか、と長恵はこっそり考える。水で服が身体にへばりついており、胸や腰のあたりですぐに女性とわかる身体つきなのである。いや、決して吉継だとちょっとわかりにくいと思っているわけではないのだが……
「それはさておき」
「?」
 こほん、と咳払いした長恵がごまかすように口を開くと、相手が怪訝そうな視線を向けてくる。だが、その手は油断なく長刀の柄を握り締めたままであった。


(やはり苗刀)
 日本の刀を参考に唐で考案された刀、そしてそれを用いる刀術。
 長恵は相手が背負っている長刀がそれであることを確信する。となると、目の前の少女は唐の人間か。先刻見た殺気だった南蛮人たちが誰を追っていたのか、その答えが眼前にあるのかもしれない――瞬時にそう判断した長恵は、すぐに決断を下した。
「事情はよくわかりませんが、窮鳥懐に入る、と言います」
 そう言って、長恵は物陰を指し示し、隠れるように促した。


 少女は長恵の意図を量り損ねたのか、かすかな戸惑いを見せるが、どの道このままでは追っ手に追いつかれると判断したのだろう。承知した、と言うようにこくこくと頷くと、長恵が示した物陰に身を隠す。
 すぐにくずおれるようにその場に座り込んでしまったところを見るに、すでに気力も体力も限界に達していたのだと思われた。


 あれでは追っ手とおぼしき者たちを長恵が他所にひきつけたとしても、一人で逃げ出すこともかなうまい。それにここに留まれば、追っ手以外の人間から狙われないとも限らない。
「全員を叩き伏せて、私が担いで帰れば問題はないですけど、状況もわからずに剣を抜くのはまずいです。むー……」
 悩む長恵だったが、相手は答えが出るまで待ってはくれなかった。
 間もなく長恵の視界に姿を現した追っ手は、屈強な体格をした男たちだった。腕や足の太さは、長恵の倍どころか三倍くらいありそうだ。
 手に持っているのは鞭や棒といった刃物を用いていないものばかり。その意図するところは、相手をより長く痛めつけるためであろうか。


 人気のない路地で若い女性の姿を見つけた男たちは、驚きと疑念と好色を綺麗に三等分した表情を浮かべながら、ゆっくりと詰め寄ってくる。
 そんな男たちを前に長恵は、さてどうやってこの場を切り抜けようか、と真剣に考え込むのであった。  





◆◆◆




     
 この機会に、雲居様も是非とも洗礼を。
 大聖堂での一幕を終えた後、そういい募る宗麟をなんとか振り切り、宿舎として与えられた屋敷に俺が戻ってきた時、日はすでに大分傾いていた。
 この屋敷は元々この地を治めていた土持家に仕える重臣のものであったらしく、戸次家の一行をすべて受け容れても、まだ部屋数に余裕があるようだ――まあ、一行といっても総勢三十名に満たないのだが、それでも十分すぎるほど大きな屋敷であるといっていいだろう。
 庭園の手入れも見事なもので、池にはやたらとでかい鯉が泳いでいたりする。元の持ち主は造園に一家言ある人物だったのかもしれん。


 そんなことを考えながら門をくぐった途端、何やら香ばしい匂いが漂ってきて、俺の鼻腔を刺激する。
 はて、まだ夕餉の時間には早いはずだが、と首を傾げていると。
「あ、師兄、姫様、お帰りなさい」
 そう言って姿を現したのは長恵だった。それはすぐにわかったのだが、長恵が割烹着(正確にはそれに似た料理用の服)を着て、包丁を手に持っている理由はさすがにわからなかった。


「長恵殿、どうしたんですか、その格好は?」
 俺と同じく、きょとんとした様子で吉継が問いかける。
「久しぶりに料理の腕を揮ってます」
「はあ、それは見ればわかるんですが……」
 長恵の答えに、吉継が戸惑いつつ視線を空へと向ける。
 日は大分落ちているが、まだ夕餉には早い。なんでこんな時間に、とは吉継だけの疑問ではなかった。


 そんな俺たちの表情を見た長恵は、めずらしく困ったような顔で口ごもる。
 俺たちの疑問はわかっているのだが、どうやって説明したらいいのやら、と困惑しているように見えた。
「ん、そうですね、とりあえずお二人に紹介したい方が……あ、戸次様はどちらに? 出来れば戸次様にもお引き合わせしたいんですが」
「戸次様はムジカの様子を見てまわってる。日が暮れる前には戻るって言ってたから、急ぐなら探してくるが?」
「いえ、そこまですることはないです。一刻を争うわけではないですから、戸次様に報告するのはお戻りになられてからで大丈夫でしょう」
 長恵はそう言うと、こちらです、と俺たちを先導するように歩き出す。


 連れて来られたのは、中庭に面した一室だった。
 庭園の眺めを一望できるもっとも広い部屋で、おそらくは屋敷の主の部屋だったのだろう。
 当然この部屋を使うのは誾になるはずだったが、俺たちはムジカに着き、屋敷に入るや休む間もなく大聖堂に向かったので、どこの部屋を誰が使うのかといった細々としたことは、今のところ一切決まっていない。
 それゆえ、この部屋を長恵が使っていても問題はないのだが、しかし、勝手に一番上等な部屋を使うような真似を長恵がするとは思えない。たまに破天荒な行動をとることもあるとはいえ、それは長恵の上位志向や負けず嫌いに触れる場合のみであり、普段の長恵は礼儀礼節をわきまえた人物なのである。
 すると、誰か別の人間がこの部屋を使っていることになるのだが、俺にそんな人物の心当たりはない。
 不思議に思いつつ、部屋に足を踏み入れた俺は、その場の光景に驚き、立ちすくむことになる。




「山のように並べられた料理の数々を、小さき身体にてかぶりつくように次々と平らげていくその様は、とてものこと人界のものとは思えず、この人物こそ噂に聞く唐の妖怪、牛魔王の化身かと恐れおののきて候」
「誰が牛魔王じゃ、誰がッ?!」
 眼前の光景に戦慄を禁じえなかった俺が、身体を震わせながら呟くと、耳ざとくそれを聞き取った人物が憤慨したように叫び返してきた。


 おそらくは長恵がつくったと思われる料理を盛大に平らげていたのは、俺が初めて見る人物だった。
 黒髪黒目、背格好は吉継とほぼ同じくらいに見える。憤懣やるかたない、と言わんばかりに此方を見据える視線は矢のように鋭いが、晴れ渡った夜空のような瞳からは陰鬱なものは感じ取れない。
 端整な目鼻立ちからは人の好さがにじみ出ており、小柄な背格好とあいまって、どこか少年のような雰囲気を漂わせている。綺麗というよりは凛々しいといった方がしっくり来るだろう。
 もっとも、リスのようにもぐもぐと食べ物を租借している今の姿を見れば、可愛いと形容しても異論は出ないものと思われた。


「……で、長恵、このリスのような牛魔王はどちらさん?」
「だから誰が牛魔王じゃ?! 可愛らしい形容をしたところで、何の助けにもなっておらんわッ」
「えーとですね、師兄と姫様が聖堂に行っている間に、港の方で知り合いまして。南蛮人に追われていたので、ひとまずここにお連れしたんです。師兄や戸次様の帰りを待って話をうかがおうと思っていたんですが、とてもお腹が空いていると騒がれるので、こうして」
 長恵は持っていた包丁を示して見せた。
 それを聞き、俺は納得したように深く頷く。
「要するに助けられておきながら、なおかつ食事まで要求した、と。ふむ、その傍若無人なまでの剛腹ぶりはまさしく火焔山の主に相応しい」


 すると少女は、こめかみを引きつらせつつ、がーっと吼えた。
「ええい、あくまで吾を妖怪王扱いするかッ! この戚元敬に無礼を働いて、ただで済むと思うでないぞッ!」
 怒髪天を衝く、との表現そのままの怒号を浴びせられ、俺は反論のために口を開きかけた。
 ちょっと少女の反応が楽しかったのだ。聖堂のやりとりで、思っていた以上にストレスが溜まっていたのかもしれない。
 だが、少女の言葉の中に、ふと引っかかるものを感じて俺は口を噤んだ。
 何が引っかかったのか、と自問する。答えはすぐに出てきた。


 ――今、この少女は自分の名をなんといった?








 で、しばらく後。
「まったく、純情にして可憐な吾を掴まえて、こともあろうに牛魔王とは無礼もきわまるッ! さすがは倭寇の本拠、礼儀や礼節など期待するだけ無駄ということじゃなッ!」
 少女はそう言ってふくれっ面で怒りを示しつつ、一方で箸を動かすのはやめなかった。
 よほどに空腹であったらしい。すきっ腹に大量に食べ物を詰め込むのはよくないのだが――
「心配いらぬ。きちんと噛んで、時間をかけて平らげておるわ」
 とのことで、余計な心配であったようだ。



「さて」
 あれだけあった料理の山を一人で平らげた少女は、何故だか傲然と胸をそらせながら、俺たちを見渡した。
「無礼者にこちらから名乗るも腹立たしいが、一宿一飯の義理は義理。仕方ないゆえ名乗ってつかわそう――言うておくが、牛魔王ではないぞ」
 じろりと睨まれ、俺は慌てて頭を下げる。恐れ入ったわけではなく、少女がこれから口にするであろう言葉を早く聞きたいからであった。


 そして、少女の口から発された言葉は、俺が予期していたものと寸分違わなかった。
 すなわち少女はみずからの名を高らかにこう謳いあげたのである。
「姓は戚、名は継光、字は元敬。北に蒙古を討ち、南に倭寇を破って明軍最強を謳われし戚家軍が長。皇上より大明国きっての勇将と称えられ、民から救国の士と揚げられし武人とは吾のことぞ。わかったら先刻までの無礼を謝すがよいわッ。なお食後の杏仁豆腐を出すならば、吾もそなたらの無礼を許すに吝かではないぞッ」


 少しだけ訂正。最後の部分は、さすがに俺も予期していませんでした。





◆◆◆





 その夜のこと。
 俺は中庭の池で、のっそりと泳ぐ巨鯉に餌をやりながら、しみじみと世の不思議を思っていた。
「なんとねえ……この状況で戚継光が出てくるか」
 すでに長恵から事の顛末は聞いていた。
 合縁奇縁果てしなし、とは俺に随身を願ったときの長恵の言葉だが、今の俺は心底それに同意できる。長恵がいなければ、俺たちと継光は互いに顔を知ることもなく、この地ですれ違っていたに違いないのである。
 まあ、その方が面倒に巻き込まれずに済んだような気がしないでもないのだが、などと苦笑しつつ、俺は先刻の長恵との会話を振り返った。





 少女――戚継光からひととおりの話を聞き終えた俺は、すぐに長恵に問いを向けた。
「ところで、この場所は向こうには知られてないのか? 話を聞くかぎり、結構な人数に追われていたみたいだが」
 市井の揉め事ならともかく、南蛮船がらみだとすると、ここにいたところで安全であるとは限らない。
 そもそも、長恵一人ならともかく、体力が尽きて(というより単に空腹であったらしいが)いた継光を抱えて、どうやって窮地を脱したんだろうか。特に怪我などはないことはすでに確かめていたが、具体的にどうやって切り抜けたのかはまだ聞いていなかったのである。


 目の前の佳人は、気分が乗れば単騎で敵陣を押し通るような為人であるからして、その手の輩と相対した場合、穏便に事態に対処する、という図式が想像しにくい。そんな不安もあった。
 すると――
「ご安心ください。臨機応変に立ち回り、追っ手の人たちには穏便にお引取り願ったので、この場所は知られてないです、師兄」
「……」
「む、なんですか、その疑わしげな眼差しは。私が穏便に事を処すことが出来ない無作法者だとでも?」
「いや、具体的にどうやってお引取り願ったのかを訊ねてもいいものかどうか悩んでた」
 臨機応変、とかどうとでも取れそうな言葉で己の行動を装飾しているあたり、どうにも不安が拭えない俺であった。


「武器を持って追いかけてきていたんだろう? そう簡単に諦めるとは思えないんだが」
 俺の内心の危惧を知ってか知らずか、長恵の返答は実にあっさりとしたものだった。
「そうですね、女子には殿方にない武器が幾つもある、とだけ申し上げておきましょう」
「……やたらと艶かしく聞こえるんだが、気のせいか?」
「付け加えると、姫様にはまだちょっと早い方法です、いろんな意味で」
 気のせいではなかったらしい。
 ぬ、本当に大丈夫だったのだろうか。しかし、あえて追求しにくいように話すところをみるに、何か長恵なりの意図があるのかもしれない。


 ちなみに。
「……何故、そこで私を例えに出すのでしょうか、長恵殿?」
 そう口にする吉継の声が普段よりも一オクターブばかり低い理由は、俺にはわからなかった――ええ、ほんとにわかりませんでしたとも。







 ちょっと身体を震わせつつ、俺は回想から現実に回帰する。
 今後の行動について考えを進めることにしたのは、決して怖気を払うためではない。
「島津家に神の尊きを説き、南蛮神教の布教を認めさせよ、か」
 それが大聖堂で俺に与えられた命令であった。
 宗麟の前で、異教徒への赦しについて熱弁をふるい、その楯となりましょうなんぞと口にしたのだ。それを聞いたカブラエルなり、他の家臣なりが「ではフランシス様のために、当面の難敵である島津を説き伏せてこい」と口にすることは十二分に予測できることであった。


 あったが、しかしそれにしてもなんというか、清々しいまでの無理難題である。無論、南蛮神教の側もそうとわかって命じてきたのであろうが。
 実際に命令を下した宗麟はといえば、こちらはどうも本心から俺に期待している観があった。俺ならなんとかできるのではないか、と。
 とはいえ「使命を果たせずして帰国しても、これを咎めるようなことはいたしません」と口にしていたから、難題であることは宗麟自身も承知しているのだろう。


 カブラエルが俺に島津への使者の役割をあてたのは、当然、厄介払いのためであろう。それも大友家から追い払うのではなく、この世から追い払おうとしていることは明白であった。
 その点、宗麟の最後の言葉はカブラエルの意にそぐわないはずだが、カブラエルは特に訂正しようとはしなかった。
「口を挟めなかったのか、挟む必要がなかったのか」
 俺は首を傾げるが、ま、別にどちらでもいい。正式に島津への使者になれたことは、俺にとって都合が良い。それは間違いないのだから。


 それに相手が言い出さなければ、高千穂に戻ってから肥後経由で薩摩に向かうだけのこと、要は正式な使者として赴くか、秘密裏に赴くかの違いだけである。無論、正規の使者となった方が得られるものは大きい。
 まず、誰が聞いても無理難題とわかる使いをあっさりと肯ったため、宗麟には良い心証を与えることが出来た。くわえて、当然といえば当然だが、使いに必要な費用(島津への進物その他)も大友家が出してくれるので、我が家の財政的にも助かったりする。その意味では、カブラエルに感謝の念を禁じえない俺であった――もちろん皮肉である、念のため。


 そういったこともあって、島津家に関してはおおむね問題はない。あるとしても、それは薩摩についてからの話である。
 問題なのは――やはりあの大明国の名将殿のことだろう。




 今は部屋で横になって休んでいる継光から聞いた話は、俺にとって幸か不幸か判別が難しいものであった。
 なんでも継光は倭寇討伐と併行して、近年、東に向けて急速に勢力を広めつつある南蛮勢力の動向に注意を払っていたらしい。
『そなたらが知っているかは知らぬが、西域より伝わってくる南蛮の話はどれも眉をひそめる類のものばかりでな。まだ本格的にわが国に進出する様子はないのじゃが、近年、その影があちこちでちらつくようになってきおった。なにやら大規模な動きを画策している節もあって、危惧を抱いていたところ、連中の主力艦の何隻かが倭国に向かったという報告を受けたのじゃよ』
 杏仁豆腐が出されず(あるわきゃねーのである)ご機嫌ななめな継光であったが、話をしている間に大分機嫌が持ち直してきたようであった。こういった戦略話が大好きなところは、さすがは明の名将といったところか。
『倭国が南蛮の膝下に跪けば、わが国に侵略するための格好の足場となってしまおう。倭寇を野放しにしておったそなたらの国がどうなろうと正直知ったことではないが、それがわが国に影響を及ぼすとなれば話は別じゃ。ゆえに南蛮人どもが何を企んでおるのかを確かめるため、張宰相や胡元帥に後事を委ね、吾みずからこの国にやってきたというわけじゃよ』



 話を終えるや、継光は「眠いのじゃ」と言ってさっさと寝具にくるまってしまった。言うまでもなく一番上等のあの部屋で。名乗る際に「一宿一飯の義理は義理」とか言ってたので、最初からこの屋敷を今日の宿にする気だったのだろう。
 まあ疲れていたのは事実らしいし、継光の話はこちらとしても聞くべきところがたくさんあったので、細かいことはごちゃごちゃ言うまい。


 問題は継光の話の内容である。
 無論、すべてを鵜呑みにしたわけではない。むしろ率直に言って、とてもとても胡散臭い。
 内容もさることながら、今日会ったばかりの人間に、あそこまで口にする理由がないではないか。
 むしろこれは何らかの謀略の一環であると考える方がよほどしっくり来るというものである。
 しかし。 


「戚継光、か。なまじ知っている名前だけになあ」
 戚家軍を率い、北虜南倭を退けた明の名将。
 その口から出た言葉は、昨今の南蛮勢力の情勢を知らなければ口に出来ないことばかりであった。 南蛮の謀略、あるいは南蛮と明が手を結んだ、という最悪の可能性も考えてはみたのだが――
「まあ、それはないか。向こうがそんなに俺たちを警戒しているとも思えんしなあ」
 今の俺たちはある意味で敵陣に孤立しているようなもの。もっと直接的な手段に訴えることも出来るのだ。あんな騒々しい少女を埋伏の毒に仕立てるような、無意味に手の込んだ策を仕掛けてくるとは考えにくい。 


 となると、継光の話は事実であり、たんにその名を知っている俺が深読みしているだけなのだろうか。
 だが、そう断じるのはまだ早いような気もする。
 今の情勢を考えれば、一手あやまれば万事が水泡に帰すことも十分にあり得ること。何事も慎重にならねばなるまい。
 だが、慎重になりすぎて機を逃すことがあってはならない。
 突然あらわれた明の少女は、俺や大友家、ひいては日の本にとって吉なのか凶なのか。




 不意に水音がはねた。
「ぞわッ?!」
 少量ながら池の冷たい水を顔にかけられ、俺は妙な声をあげてしまう。
 まったく予期していなかったことで、何事かと池を見てみれば、鯉が何やら身体をくねらせている。考え込んで餌をやる手を止めた俺に、抗議の意を示したものらしい。
 かすかに生臭い水を拭い取りながら、悠然と泳ぎ去る鯉の背面を見つめる。この野郎めが、石でも投げ込んでやろうか、といささかならず大人げない考えに身をゆだねようとした時、背後から、今度は声がかかった。
「師兄、こちらでしたか……って、なんでそんな一抱えもありそうな石を持ってるんです??」
 心底ふしぎそうに目を丸くする長恵に、何でもないと言いつつ庭石を地面に下ろす俺。
 そんな俺をからかうように、池の中ほどでまたしても水がはねる音がした。




◆◆





「師兄のお耳にいれておかねばならないことがあります」
 長恵はそう言った。
 それはつまり、俺にだけ、ということだろう。
 俺はそれについて理由を問うことはしなかった。長恵の表情が滅多にみないほどに真剣なものであったからだ――否、滅多に、ではない。それは俺がはじめて見る表情だった。


「師兄も気づいておられると思いますが、あの戚元敬という御仁、かなりの腕の持ち主です。一流を興すに足りるほどに。私はもちろん、お師様の門下にもあれだけの剣士はなかなかいないと思います」
「そこまでのものだったか。ただものじゃないとは思っていたけど」
 生憎、見るだけで相手の力量を精確に見通すような眼力は俺にはない。ことに相手が俺より上の実力を有している場合は尚更だった。
 だが、まがりなりにも戦国の世を生き抜いてきたのだ。まったく察せないわけでもない。
 その意味で、長恵が口にしたとおり、戚継光が姿格好に見合わない腕の持ち主であることは気づいていた。
 長恵はその判断を補強しようとしてくれたのだろうか。



 だが、長恵の本題はその先にあった。
「先刻は口にしませんでしたが、実は今日、元敬殿以外にもう一人、剣士殿と出会いました。元敬殿と共に逃げている最中のことです。南蛮人の女性で、月のような髪と、海のような目をしていました」
 追っ手を撒くために街路を駆けていた長恵の前に、その人物は立ちはだかってきたらしい。
 その姿を見た長恵は咄嗟に足を止めざるを得なかった。何故ならば――
「剣を交えるまでもなく、相手の力量は察せられました。見立てでは、真剣で立ち合って私と五分。ということはつまり、戦えば私が負けるということです」


 長恵の奇妙な言い分に、俺は首を傾げる。
「ん? 五分なんじゃないのか?」
「どれだけ自分に厳しくあろうと努めても、やっぱり私も人間です。どうしても自分への評価は甘くなる。ですから、私が五分と感じたのであれば――」
「相手の方が強い、というわけか」
「はい」
 頷いてから、長恵はくすりと微笑んで言い添えた。もちろん簡単に勝ちを譲るつもりはありませんけどね、と。


「しかし、そんな相手からよく逃げられたな。元敬殿は本調子ではなかったろうに」
「逃げた、というよりは、半ば見逃してもらったようなものです。向こうも、あの場で剣を抜けばどうなるかを慮ったのでしょう」
「……ああ、なるほど」
 確かに、往来のど真ん中で剣聖級の人間が立ち合いを始めれば、大惨事に繋がりかねない。南蛮の剣士は、それを恐れたのだろうか。
「あの剣士殿は最初から敵意も殺意も持っていませんでした。単に南蛮人がこの地で揉め事を起こすのを忌んだか、あるいは追っ手の人たちを心配したのか、いずれかだと思います」


 その言葉に頷きながら、俺は長恵があえて吉継がいない場所で、その剣士について口にした意図を察する。
「そんな剣士が何人も南蛮にいるとは思いたくないが……」
「いない、という保証はどこにもありません。それにあの剣士殿一人でも十分に脅威です。師兄や姫様では、まず太刀打ちできません。今まではあちらも師兄のことを気にかけていなかったでしょうが、今日のことを聞けば、間違いなく排斥の意図を持ち始めています」
「まあ、俺についてはまだ実力行使するつもりはないだろ。島津に行かせるのも、命令にかこつけて敵の手で、というあたりだしな。問題は吉継の方か」
 南蛮側が強硬手段に訴えてきた場合、長恵一人では、その剣士をおさえるだけで手一杯。吉継は年に見合わぬ剣の腕を持っているが、それは複数人を一時に相手にするような卓越したレベルには至っていない。
 吉継の周囲に雲居家の家臣を張り付かせることも出来ないではないが、それだとて精々十人程度である。向こうが本気を出せば、一つ上の桁の人数を動かせる以上、対策にはならない。


 つまり、結論としては――
「……吉継を早急にムジカの外に出すべきか」
「はい。私たちをムジカに招く際、姫様の病を治せる南蛮の医者がどうとかいう話をしたということは、あちらは明らかに姫様個人を狙っています。無論、それは師兄も姫様もご承知でしょうし、私もお守りできると考えていたのですが……」
 正直、あそこまでの使い手がいるとは思っていなかった、と長恵は言う。無論、それは俺も同じである。長恵がいれば、向こうが本腰をいれて襲ってこない限りは大丈夫、とかなり楽観視していた。
 とはいえ。
 仮にあらかじめその剣士の存在を知っていたとしても、吉継を高千穂に残すことは出来なかっただろう。吉継自身が承知しないだろうし、なにより高千穂にいるからといって安全であるわけではないのだ。南蛮神教の影響が及ばない場所など、今の大友家には数えるほどしかないのである。


 となると、だ。
 南蛮と敵対し、かつ大友家に協力してくれる――そんな勢力を見つけるのが理想なのだが、そんな都合の良い相手がそうそういるわけもなく……ん?


 そこまで考え、俺はようやく長恵の言わんとすることに気がついた。
「……なるほど。向こうの言うがままに歓待したのはこのためか?」
 長恵はちょっと驚いたような、だが不思議に嬉しそうな顔でこくりと頷く。
「あら、もうばれてしまいましたか。さすがは師兄、そのとおりです」
「ふむ――元敬殿は信頼できる、と長恵は見たわけか?」
「陰謀や策略を事とする御仁には見えませんでした」
「確かになあ。初対面の相手にずいぶんとあけっぴろげに事情を説明してくれたし」
 俺が呆れまじりに応じると、長恵は小さく首を傾げた。
「あれは多分、元敬殿なりのお礼ではありませんか?」


 そう言われ、俺は腕を組んで考える。
 確かに、南蛮に追われている継光を助けた以上、こちらが南蛮と敵対していることは察しがつくだろう。細かい駆け引きなしに、話しても差し支えないところまでまとめて話してくれたのは、そういった意味も含んでいたのかもしれない。
 さらに長恵は続ける。
「もちろん、まだ何事かを秘しているのは間違いないと思いますが、南蛮の伸張を危惧する言葉に偽りがないのであれば、此方と手を携える道もありましょう。あとは師兄が三寸不爛の弁舌をもって相手を説き伏せれば完璧です」
「三寸不爛って……まあ、たしかに戚家軍の協力が得られるなら、頼もしいことこの上ないな。武力は無理でも、海戦の知識があれば随分と助かる。牛魔王とか言って、からかわなければよかった」
「あれはあれで、ずいぶんと緊張がほぐれたと思いますよ、双方共に」
 それにしても、と長恵は感心したように俺を見つめた。
「師兄は大陸の事情にも通じておられるのですね。私は戚家軍とやらの名も聞いたことがなかったのですが」
「そ、そこはそれ、色々とな。ともかく、明日の朝に元敬殿とは話をするとしよう」


 吉継とも話をしないといけないし、誾に対しても事情を説明する必要がある。その上で薩摩行きの準備もしないといけない。
 くわえて、南蛮側がいつ考えをかえて強硬手段に訴えてこないとも限らない。吉継だけでなく、俺たちもまたなるべく早くムジカを出るべきだろう。
 しばらくは寝る暇もないほど忙しくなりそうであった。







◆◆◆




 

 薩摩国内城。
 薩摩島津家の本城、その軍議の間に、今ひとりの少女が腰を下ろしていた。
 少女の前には薩摩、大隅、日向の三国に渡る詳細な地図が置かれている。
 島津家にとって、初代忠久が守護を務めたこの三州の奪還は御家の悲願であり、この地図はその象徴ともいえた。


 その地図を前に少女はひとりごちる。
「肝付は降伏しましたか。頼りの伊東家が自領に立てこもっている状況では耐え切れるはずがないとはいえ、もう少し粘るものと思いましたが……まあ、弘ねえと家久の猛攻にここまでよく持ちこたえた、と褒めるべきでしょう」
 薩摩統一、およびその余勢を駆っての大隅侵攻の作戦をたてた『島津の智嚢』――島津家三女、歳久はそう呟き、地図上の肝付家の本城である高山城に島津の旗を立てる。
 本城を陥とされたとはいえ、肝付家は大隅の古豪である。各地に拠点となる城砦を幾つも有していたが、そちらも間もなく片がつくだろう。歳久はそう考えていた。


「本城を奪われれば、彼らの抵抗する気概も失せるでしょう。いかに我等と積年の対立があるとはいえ、自分たちを見捨てた伊東家や、異教にかぶれた大友家に跪くような腑抜けはそうそういないはず。また、いたとしても、配下の将兵が素直に従うはずもなし。これで薩摩と大隅は島津の手に帰しました。あとは日向の暴君と、豊後の狂信者を退ければ――」
 その二人の名を口にするのも厭わしい、と言いたげに歳久はかぶりを振る。


 ことに後者に関して、歳久は苛立ちを禁じえずにいた。
 元々、大国を統べる身にあるまじき宗麟の無定見さに歳久は反感を抱いてはいたが、それが憎悪と称しえるほどになったのは、今回の戦からである。
 日向侵攻における大友家の仕打ちに激怒した――というわけではなかった。大友家の内情を知っていれば、大友家が他国に侵略した際に何が起きるかは十分に予測できる。それが現実になったところで、歳久は眉一つ動かすことはない。
 まして島津家は長年に渡って日向の伊東家と敵対してきた歴史を持つ。ことに父貴久が亡くなり、姉義久が後を継いでからは、伊東家の驕恣に歯噛みしたことは一度や二度ではなかった。その連中が大友家に蹂躙されたところで、同情など湧くはずもない。さすがに手を拍って喜ぶような真似はしなかったが、憤りを覚える理由はさらになかった。


 では、どうして歳久が大友宗麟を嫌うようになったのか。その理由は――
「この島津歳久ともあろう者が、あんな相手に心胆を寒からしめられるとはッ」
 歳久は今回、兵を挙げるに際し、当然のように大友家の動向にも注意を払っていた。
 薩摩国内の制圧には絶対の自信がある。それに続く大隅侵攻も問題はない。伊東家が援軍を出してきたところで、それを退けることは難しくない。
 ゆえに問題は、大友軍が出陣してきた時、ただそれのみだった。伊東家が大友家に従っている以上、その要請があれば大友軍は兵を出すだろう。薩摩兵の強さに全幅の信頼を置く歳久であるが、薩摩、大隅、日向、さらには豊後の兵を連戦で相手に出来るとはさすがに考えていなかった。


 だが、今回に関しては大友軍が出てくる恐れはないはずだった。大友家は内紛に次ぐ内紛で国力をすり減らしている。しかもさらに筑前では争乱の気配が濃厚に漂っている。
 自領を守るためならばともかく、今の大友家に他家を救うために大軍を南下させる余力はない。
 大友軍は動かない、というより動けない。そう判断し、歳久たちは薩摩統一の兵を挙げたのである。


 ところが、宗麟は歳久の予測をあざわらうように三万を越える大軍を南下させた。
 島津が動くのを見計らったかのようなその動き。薩摩を制し、侵攻した大隅の地で大友軍南下の第一報を聞いた際、歳久はめずらしく顔面を蒼白にさせた。自身の策が完全に見破られていたと考えたのだ。
 大友軍は三万というが、伊東家の軍勢をあわせればさらに膨れ上がる。大隅に着く頃には四万を越えているのは確実であろう。この情報が知れ渡れば、大隅の諸城も息を吹き返して、徹底的に島津軍に抗戦するようになる。大隅の制圧は当初の予定より大きく遅れてしまう――否、それどころか、大友軍が兵を分ければ薩摩すら危うくなる。
 そう考えた歳久は、姉妹と相談した上で、大友軍に備えるためにただちに薩摩に戻った。その道中、内城篭城の案を真剣に考慮するほどに、この時の歳久は衝撃を受けていたのである。



 だが、それゆえに。
 実は大友軍の動きが、単に自家の都合のみを考えた無定見な侵略であったと知った時、歳久は深甚な怒りを抱かざるを得なかった。
「……まあ、単にこちらが勝手に深読みしただけで、八つ当たりとか逆恨みに類する感情だとはわかっているんですけどね。むしろ大友家のおかげで大隅制圧はずっと容易になったのですから、感謝してしかるべきなのかもしれませんが」
 ぶつぶつと呟く歳久。戦略も戦術も考えていない宗麟の行動に脅かされたことは、知略縦横を謳われる歳久にとって、それだけ衝撃的な出来事だったのである。


 とはいえ、戦はまだ終わってはいない。歳久はあらためて睨むように地図を見据える。
 伊東家は佐土原城に兵力を集結させ、その北では大友軍がムジカなる新しい城市を建設している。 ムジカが南蛮神教のための都であり、異国の援兵まで来ているとの情報はすでに歳久の下に届いていた。
 伊東家はともかく、大友家の意図が奈辺にあるのか、歳久にはいまひとつ掴めない。
 その事実が、先の怒りとあいまって歳久の胸中を騒がせる。それは不安と呼ぶにはあまりに小さいものだったが、しかし確かに不安であったのだろう。あるいはその不安ゆえに、歳久はこうも宗麟に怒りを感じているのかもしれない。


 地図に記してある県という城。それを見据える歳久の視線は、室内の灯火を映してかすかに揺れていた。




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第七章 繚乱(四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:cd1edaa7
Date: 2011/01/30 23:49

 日向国ムジカ沖。
 波を蹴立てて日向灘を北へ北へと進んでいく船の上にあって、戸次誾は慌しく南へ――つまりはムジカへと戻っていく南蛮船を見据えていた。
 その南蛮船はつい先刻までこの船に接舷していたのだが、目当ての人間がこの船にいないとわかり、慌てて彼らの主へ報告に戻っていくところなのである。


 誾の目に映る南蛮船は日本の船とは形状が大きく異なっている。それは建造に際して竜骨を用いるか否かによってもたされる差異である、というのがこの船の主、戚継光の言であった。
 誾が今のっているこの船もまた明の竜骨船である。何故、明の船に乗って日向灘を北へ向かっているのかと言えば、これから関門海峡を抜けて博多津へ赴くためであり、さらには立花山城にいるはずの義母、立花道雪と会うためであった。


 道雪のもとに赴くことに関しては、主君である大友宗麟の許可を得ている。一方で、博多津まで海路をとることを伝えていなかったのは、とある小細工のために必要だったからである。
「……このような児戯にかかるとは、ね」
 誾は持っていた白布に視線を向ける。それはつい先刻まで誾自身がかぶっていた頭巾であった。
 未明、まだ夜も明けやらぬうちに頭巾をかぶってムジカを出たのは、屋敷を注視しているであろう南蛮勢力の目を惹き付けるためであったことは言うまでもない。


 雲居に頼まれて行動したとはいえ、雲居の語る南蛮勢力の侵攻、さらには彼らが理由は定かではないものの吉継を付けねらっているという予測に対し、正直なところ誾としては半信半疑であった。
 しかし、実際に行動に移ってみれば、雲居のいうとおりに南蛮船が姿を見せた。さすがにカブラエルや、話に聞いた聖騎士の姿はなかったが、それでも軍船を動かした以上、そこに南蛮の主たる人物の意思が絡んでいることは疑いない。 
 南蛮人が吉継を狙っているのが事実だとすれば、もう一方――すなわち南蛮国が日の本を狙っているのも事実、ということになるのだろうか。


「ムジカを日向の地に建設すれば、日向の奪還を念願とし、さらに南蛮神教を否定する島津が黙っているはずはない。ムジカが城砦として形を整える前に大挙して攻め寄せてくるは必定。そうして空になった薩摩本国を後背から南蛮勢が攻め寄せる、か……戦略としては十分にあり得ると思うけど」
 だが、と誾は首を傾げる。南蛮というのは、そこまでして海の外に領土を求める国なのか、と。
 南蛮という国が具体的にどこにあるのかを誾は知らないが、少なくとも船で十日や二十日でたどり着けるところにはないだろう。
 それだけの距離、大海を越えるだけでもかかる労力は並大抵ではない。かつて――それこそ数百年の昔、日の本は大陸の軍勢と海で矛を交えたことがあるが、目と鼻の先ともいえる大陸の国と争うことさえ国を挙げての一大戦役であったのだ。大海の彼方にある国を征服するなぞ正気の沙汰とは思えない。無論、あの頃に比べれば船や戦の技術は大きく変貌しているとはいえ……


 そこまで考え、誾はかぶりを振った。
 日の本の人間であれば、誰もがそう考える。だからこそ――そんな雲居の言葉が思い出された。





「ふむ、なにやら思い悩んでおるようじゃな、若人よ」
 不意にすぐ傍からそんな言葉をかけられ、誾は慌てて視線を横に向ける。
 すると、いつから居たのか、そこに紅い戦袍をまとった少女の姿があった――いや、聞けば人の妻だというから少女というのはおかしいのかもしれないが、外見だけ見れば少女としか言いようがないのである。
 そしてこの少女がれっきとした大明国の武将であるというのだから、本当に世の中というのはわからない、と誾は我知らずため息を吐いていた。


「む、人の顔を見るなりため息とは失礼な」
「も、申し訳ありません、戚将軍」
「まあ吾の美貌に見惚れたというのであればいたしかたないが」
「……」
「そこは素直に頷いておけ、若人」
「は、はあ」
 戸惑いつつ、誾は頷いてみせる。
 いまさら遅い、と言われるかと思ったがそんなことはなく、戚継光は誾の当惑した顔を眺めながら、なにやら愉しげにころころと笑うばかりであった。


 そんな継光の姿に、誾は困惑を禁じえない。
 雲居に引き合わされた初対面の時から、一貫して継光は誾に好意的であった。それこそ雲居とは比べるべくもないほどに――まあ、初対面時に面と向かって牛魔王とか言い放った雲居と比べるのは間違っているかもしれないが、それを差し引いても継光が誾に浅からぬ好意を示してくれたことにはかわりない。どうやらよほど誾のことが気に入ったらしい。


 この船に来てからも、竜骨のことについて、また南蛮のことについて、継光はすすんで誾に説明してくれた。
 誾としては好意に感謝しつつも、どうしてここまで親切にしてくれるのか、と首を傾げざるを得ない。
 すると継光が口を開いて曰く。
『若人は国にいる吾の夫によう似ておるのじゃよ。顔かたちではなく、人柄というか、雰囲気がな』
 顔は夫の方が数段冴えぬがの、と笑いながら言う継光の表情は、しかしあふれんばかりの情愛を湛え、その人物に向けられた想いの深さを誾が知るには十分すぎるほどであった。


「で、何を考えておったのじゃ?」
「……特段、何を、ということはないのですが」
 相手は仮にも一国を代表するような武将である。言葉遣いに気をつけつつ、素直に内心を告げるわけにもいかず、誾ははきつかない答えを返す。
 だが、継光はそんな誾の様子を意に介さない。
「で、何を考えておったのじゃ?」
「いや、ですから……」
「で、何を考えておったのじゃ?」
「…………」
「で、何を――」
「……南蛮のことについて」
 そう口にした誾の言葉は、半ばため息に近かった。





「ふむ、なるほどのう」
 誾から話を聞いた継光は、見ている誾が訝しく感じるほどに何度も頷いてみせた。
 誾と同様、継光もまた雲居からおおよその話は聞いているはず。それどころか、実際に日の本の外において南蛮勢力が大規模な動きを見せているという情報こそ、雲居の南蛮侵攻説の確証の一つ。その情報をもたらした当の継光が、いまさら誾の話を聞いて何を得心しているのだろうか。誾はそれを不思議に思った。


 しかし、継光は意識してか否か、誾の怪訝そうな様子を気に留めることなく、話を先に進める。
「まあ若人の疑念もわからなくはない。が、南蛮の輩が遠く国を出でて他国を侵しているのは確かなことよ。連中が東方攻略の拠点としているのは天竺のゴアという土地じゃが、こことて南蛮本国からは遠く離れておるという。吾は南蛮人は好かぬが、千里の彼方を遠しとせぬその覇気だけは見事なものと感心しておる。それが名声のためであれ、探求のためであれ――あるいは征服のためであれ、の」
 最後の台詞を口にした時だけ、継光の顔には皮肉の影がちらついたが、そんな表情さえ紅衣の海将は妙に様になっていた。





 元々、継光が倭国にやってきたのは、近年、急速に隣国で勢力を伸ばしている南蛮人の動向を確かめるためである。
 南蛮神教を広めるだけであればともかく、ゴア総督が誇る主力戦艦の一つが動いたとなれば黙視してはいられない。
 継光が語る戦艦の姿は、誾も出港時に目撃している。誾の目に映ったそれは船というより、もはや海上の砦であった。
『バルトロメウ――ゴア総督アフォンソ・デ・アルブケルケ、その嫡子フランシスコの旗艦よ。ゴアを守護する主力艦が、このような東の僻地に何用あって来ておるのやら』
 食い入るように戦艦を見つめる誾の隣で、継光はそう呟いていた。
 聞けば、このアルブケルケ父子の名は東方世界で広く知られているのだという。この場合、知名度は恐怖、畏敬にほぼ重なる。
 ことに父アフォンソの雷名は泣く子も黙るといわれるほどである。軍神――アフォンソに奉られたその呼び名こそがすべてをあらわしていた。


 その父と比べれば、子の方は大分見劣りがすると言われている。所詮、父の名声頼りの二代目に過ぎない、と侮る者もいるくらいであった。
 しかし、その一方で南蛮の勢力拡大を武で支えるのが父ならば、智で支えているのは子である、との評もある。
 相反するそれらの評のいずれが正しいのかは継光も知らない。が、おそらくは後者が正しかろうとは考えていた。具体的な証拠があったわけではない。それは長らく西方からの情報を分析してきた継光の勘といってもよかった。


 そのフランシスコが倭国に足を延ばしたと聞けば、継光としても座視してはいられない。しかし、勘によって戚家軍を動かすわけにもいかない。
 継光が愛する夫を残して異国にやってきたのは、みずからの勘を事実によって補うためでもあった。なんとか旗艦に忍び込めないかと苦心し、ようやく入り込めたと思った矢先に見つかって、真冬の海で(短時間ながら)泳ぐ羽目にもなったのもそのためだったのである。 


 


(そういった事前の知識と情報があれば、あの無礼者が示した南蛮侵攻、その真偽を真剣に考慮することもできるのじゃが)
 倭国に来て以来、継光のもとには南蛮が新たな艦隊を派遣したという情報は入っていない。そのため、本当に雲居が予測するように南蛮軍が動くという確証はない。
 しかし、南蛮軍にそれを感じさせる動きがあったことは事実である。それゆえ、継光は雲居の考えを妄想だと切り捨てることはしなかった。むしろおおいにありえること、と内心で首肯したほどであった。


 逆にいえば。
 そういった知識と情報なしに、南蛮が侵攻してくるかもしれないと言われても容易に信じることが出来ないのはある意味で当然のこと。雲居の話に戸惑いと不審を禁じえないでいるらしい誾の反応を、継光はもっともなものと受け取った。
 むしろこの場合、訝しむべきは継光の話を聞く以前から南蛮の侵攻を予期していた無礼者の方であろう。おまけにその人物の義理の娘を南蛮人が付けねらっているというのだから、もう本当に何が何やら――
「つくづく妙じゃな、そなたらは」
 それが偽りのない継光の本音であった。



 唐突に妙なやつ呼ばわりされた誾は目を白黒させているが、その中にほのかに不服げな色合いが見て取れる。それは多分、雲居と一緒にするな、という無言の抗議なのだろう。
 それを見て、やはり似ている、と継光は内心でこっそりと笑う。
 誾が誰に似ているのか。それは継光と出会った頃の夫と、であった。


 貧家の出である継光の夫は、父親の職を世襲した継光を事あるごとに目の仇にしてきたという過去を持つ。
 継光にしても、そんな相手の態度が面白かろうはずがない。実際に何かの失態があったとか、地位にあぐらをかいて職責を疎かにしていたとかいうならともかく、そんなことはないのである。
 当然のように両者は反目しあい、顔をあわせれば互いにそっぽを向くような関係であった。今の誾はあの頃の夫を思い出させるのである。
(ま、その後いろいろあって、おさまるべきところにおさまったわけじゃが……)
 で、現在の夫の姿は、誾とは違う別の人物を想起させるところがなかなかに興味深い。継光はそんなことを考えつつ、今回の一件を改めて振り返る。

  



 南蛮旗艦への潜入に失敗し、長恵に救われた形の継光だが、無論、何の打算もなしに長恵についていったわけではない。
 南蛮人に追われている身を助けるのだから、当然、助けた方も南蛮人と敵対しているはず。倭国の中で南蛮人と敵対している者たちから情報を得ることは無駄にはなるまい、と考えたのだ。
 敵の敵は味方、と決まったわけではなく、より厄介な状況に巻き込まれる可能性も少なくなかったが、体力さえ回復すれば相手が不埒な真似をしようとも独力で退けられる自信もあった。


 しかし内心で身構える継光に対し、相手の対応は予想外もいいところであった。疑い、騙し、利用し、あるいは助けた恩を着せてくる――継光が予期していたそういった反応はなく。それどころか継光の持つ情報抜きで南蛮軍の侵攻を予測していた。
 継光に求められたのは、ほんの二つ三つの情報と、誾を博多津へと送り届けることのみ。後者は欺かれた形の南蛮側の怒りを買う可能性があったが、余人なら知らず、戸次誾が乗っているのだから、たとえ欺かれたと知っても南蛮側が武器を向けてくる可能性はきわめて低い。
 情報の方にしても、国の機密とか、そういったものとは一切関わりがないときている。というか、なんでこの状況で『明に甘藷ってあります?』とか訊いてくるのだ、あの無礼者は。あるにきまっとろうがッ。焼いた甘藷は吾の好物であるッ。


 ……まあ、それはさておき。
 こちらの話を聞き終え、戚家軍、ひいては明軍を巻き込むための丁々発止のやりとりを仕掛けてくるかと思えば、そんなこともなかった。継光のいうこと――吾は明の将軍である云々――を信じていないのかと首を傾げたが、相手の態度を見るかぎりそういうわけでもないようだ。
 継光としては拍子抜けもいいところである。別に倭国と共同して南蛮に当たるために海を渡ってきたわけではないし、相手がそれを求めたところで素直に頷くつもりもないのだが、まったく気振りにも示されないとなると、逆に気になってしまうのが人の性というものか。


 だが、それを継光が口にしたところ、雲居はかぶりを振って口を開いた。
『戚将軍は北狄が攻め寄せてきたからとて、南蛮に助けを求めたりはしないでしょう? それと同じことです』
『ふむ。自らの国は自らで守る、それがそなたの誇りというわけか』
『そこまで大したものではありませんよ。恩も大きすぎれば報いるのが大変ですし、そもそれがしに貴国と交渉する権限などないのですから』
 そう言って肩をすくめるような仕草をしていたが、その時の雲居の目には思いのほか真摯な光が浮かんでいたように継光には思われた。



 
(やはり、妙な連中じゃ)
 連中、というのは間違っているかもしれない。継光が妙だと感じることのほとんどは、あの雲居という無礼者に関わることであり、その点、誾の無言の抗議は理にかなっている。
 しかし、では雲居のまわりにいる者たちがまっとうだと感じるかと問われれば、継光は首を横に振るだろう。
 別に詳しい身の上話を聞かされたわけではない。しかし、眼前の少年や、あの黒髪の剣士、さらには頭巾で顔を覆っていた少女と言葉を交わせば、その非凡な才はたやすく感じ取れる。若年で才が花開くには、相応の理由があるのだろう。そんな者たちが集ったのは偶然か必然か。
(大業をなす者の周囲には、自然と人が集うというがの)
 戚家軍の長は、東の方角から注がれる陽光に目を細めながら、そんなことを考えていた。





◆◆◆





 薩摩・肥後国の国境


「では若、くれぐれも――本当にくれぐれもお気をつけてくださいませ。短気は身を亡ぼす腹切刀と申します。若の言動はもはや若おひとりのものにあらず。丸目の家のみならず、主家の行く末にまで関わってくるのでござる。ゆえにくれぐれも……」
「ああ、爺、わかった、わかったから。さっきから何回『くれぐれも』って言ってるのよ?」
「今ので七回目でござるな」
「数えてるんだ……」
「若に大事なことを申し上げるときは、どれだけ口を酸っぱくしようと、これで十分、ということはございませぬ。ゆえに最低でも十は繰り返し申し上げることにしております。こうでもせねば、若はおのれの気性の赴くままに自由に行動してしまわれるではござらぬか。そもそも此度のこととて、ご主君より逼塞を命じられておきながら、家中の者にもろくにはからず、一人で国境を越えるなど決してあってはならぬことでござるぞ。若の姿が見えぬとの報告を受けた時、殿と拙者がどれだけ驚愕したことか。ただでさえ薄くなった頭がよりいっそう輝きを増してしもうたではござらぬかッ」
「……それは本気でごめんなさい」


 悄然と頭を下げる長恵、という非常にめずらしい光景を見やりつつ、俺は眼前の光景を一言で言い表した。
「剣聖が防戦一方だ」
 すると、隣で同じ光景を見ていた吉継もこくりと頷く。
「何度見ても新鮮ですね、お義父様」
「まったくだ。いっそあの方にも一緒に来ていただくわけにはいかないだろうか。すごい心強いのだが」
 冗談でもなく、そんな言葉を口にする。
 いちはやくその言葉に反応したのは、吉継ではなく、長恵と相対していたご老人の方だった。
「おお、それは良案ですな、雲居殿ッ! 不肖、この山本伝兵衛、老いたりといえど薩摩の者どもに遅れをとったりはいたしませんぞ。早速、支度をととのえてまいりますゆえ――」
「いいから、爺は支度しなくていいからッ! 師兄も余計なことは言わないでくださいッ」
 長恵からのかなり本気の制止を受け、俺は慌てて口を噤んだ。
 どうやら俺の何気ない一言は、一旦はしずまっていたご老人のやる気を再び燃え上がらせてしまったらしい。勢い込んで出立の準備をはじめようとするご老人と、それを何とか制止しようとする長恵のもみ合いは、なおもしばらく続くことになる。


 


 それから半刻ほど後。
 背中に重い疲労を宿した長恵に恨みがましい目でじとーっと睨まれた俺は、頬をかきつつ、つとめて何気ない調子で口を開く。
「いや、肥後もっこすとはかくありき、みたいな御仁だったなあ」
「たしかに。長恵殿にも苦手な御仁というのはいるのですね」
「……師兄は顔が、姫様は声が、明らかに笑っていますよ?」
「気のせいですよ、きっと」
 そう言いつつ、吉継の声は長恵の言うとおり楽しげに震えている。多分、頭巾をとれば微笑む顔が見られることだろう。
 

「人が困っているところを見るのが、そんなに楽しいのですか?」
 むすっと顔をしかめ、すねたようにそっぽを向く長恵。そんな表情も、俺と吉継の目には、やはりめずらしく映る。
 今思えば、俺たちが肥後に立ち寄ることを決めた時、長恵がやや怯んだ様子を見せていたのは、こうなることが澄明なまでにはっきりと予測できたからなのだろう。
 もし、俺が長恵の帰郷のためだけに肥後へ立ち寄ると決めたのであれば、長恵は固辞したに違いない。だが(長恵にとっては)残念なことに、今回の肥後行きはそれ以外にも幾つかの理由があった。それがわかっていたから、長恵もしぶしぶながら頷いたのであろう。




「なにはともあれ、長恵が大手をふって歩けるようになったことは良いことだと思うぞ」
「それは確かに師兄の仰るとおりですが」
 いまだ不服げな様子ながら、長恵は俺の言葉に素直に頷いた。
 今回、丸目長恵は、主君である相良義陽から正式に逼塞を解かれ、大友家の使者に同道することを認められた。向後は俺の傍らにあっても、堂々と丸目長恵と名乗れるようになったのである。
 無論、逼塞を無視して国外に出た挙句、大友家の一家臣に付き従っていたことについては散々に叱責されたらしいが。
 もっとも叱責程度で済んだことは幸運というべきだろう。長恵の振る舞いは、他家であれば叱責どころか追放、あるいは切腹沙汰になってもおかしくはないのだから。
 当然、俺としてもそこまで行く前に口ぞえする気はあったし、実際、長恵を弁護するための書状は差し出していたのだが、義陽は長恵に対して恩義やら借りやらが山ほどあったようで、こめかみを震わせつつも言葉の上で咎めるに留めたようであった。


 ――まあその分、丸目家における父、老臣からの叱責は壮絶の一語に尽きたらしい。翌日、あの長恵がしおれたもやしみたいになっていたから推して知るべし、いかに剣聖でも親と老人にはかなわぬものらしい、と吉継と二人でしみじみと頷きあったものであった。
 そんな俺たちを見て、長恵はしおれている自分の姿を俺たちが面白おかしく眺めていると思っているようだが、それは誤解である――いや、まったくそういった気持ちがないといえば嘘になるが、俺の、そしておそらくは吉継もだが、気持ちの半ばを占めるのは羨望だった。
 とはいえ、それを口にするのは色々な意味で憚られるのである。


「ところで師兄」
 俺がそんなことを考えていると、表情をあらためた長恵が話しかけてきた。
「本当に良かったのですか、殿を説得しないでも? 殿なら、頭から無視するようなことはなさらないと思いますが」
「つい先日まで矛を交えていた薩摩に、近いうちに南蛮人が攻め込んでくるかもしれない、なんて今の時点で言っても、相良様も対処に困るだろ。当面は島津を刺激する動きは控えてほしいという申し出に頷いてくれただけでも十分すぎるよ」
 それは混じりけなしの俺の本心だった。


 対南蛮戦に相良家を引きずり込むつもりは俺にはない。というか、これ以上、他家を巻き込んで事態をややこしくしたくない、と言った方が正確か。
 相良家は正式に大友家に属しているわけではないが、日向の伊東家や肥後の阿蘇家――というよりは甲斐家――と緊密な関係を保っている。その二家が大友家の盟下にある以上、真っ向から大友家の意向にそむく動きはとりにくい。
 そこを衝いて、大友家の使者たる俺たちが薩摩にいる間、静観を保ってほしいと申し出ること。それが、俺が相良家に立ち寄った理由の一つであった。


 とはいえ、巻き込みたくない、というのはあくまで対南蛮戦に関してである。
 島津家との交渉については、申し訳ないが、これでもか、とばかりに利用させてもらった。
 なにせカブラエルらを出し抜くためとはいえ、夜逃げ同然にムジカを出たので、本来、使者として島津家に献じる進物だの何だのはまとめて置いて来てしまったのだ。一応、屋敷には宗麟あてに「伊東家が今回の使いを妨害するために不穏な動きを見せており、その裏をかくため」などと記して置いておいたが、当然、嘘である。


 そんなわけで、敵対国に赴くには、いささかならず準備不足の状態であった。
 使者たるに必要なものは扇子一本に舌一つ、などと嘯くこともできたが、それで門前払いされてしまっては目もあてられない。余計な手間をかける時間もない。
 それゆえ、相手に拒絶を許さないためにも、相良家の丸目長恵が同道するという事実を公にする必要があったのである。
 ついでに言えば、その以前にムジカからまっすぐ南に下れば伊東家の領内に入ってしまうので、安全に島津領に入るにはどのみち肥後を経由しなければならない、という単純な理由もあった。


 そんな諸々の理由で相良家を訪れた俺は、長恵が義陽から許されたその日のうちに島津家に使者を出した。使者が使者を出す、というのも妙な話だが、国境まで行って足止めをくらうのはごめんである。まさかこっそり忍び込むわけにもいかないし。


 島津家への使者が戻ってきたのは昨日のこと。
 返事は諾。
 しかし、指定された場所は島津家の本拠地である薩摩の内城ではなく、薩摩北部にある大口城であった。
 外交の使者は元来、相手領内の情報収集も兼ねるものだから、接見の場が内城でないことは予測していた。おそらくは大口城になることも。
 なにせこの城は、先の戦で丸目長恵が島津家久に敗れて失った城である。島津の四姫が噂に聞くような者たちならば、相良家を帯同することで圧力をかけようとする俺の意思を汲み取れば、それを無言で、しかし真っ向からはねのけんとするに違いない。そのための最善の一手は何かといえば、接見の場を大口城に指定することしかないだろう。


「まあ、ここまでは予測どおり、か」
 俺が呟くと、横で吉継がつけくわえる。
「願わくば、今後も予測どおりにいってほしいものです」
「まったくだ」
 俺は満腔の同意を込めて頷く。
 実をいえば、大口城は、高千穂で雇った件の鉱山師たちを差し向けた場所にほど近い。そして彼らが一応の成果を出していることは、薩摩に出した使者が帰路に確認をとっている。さすがにいきなり鉱脈を掘り当てたというわけではないが、まったくの空振りでないとわかっただけでも十分である。


 俺は彼らの成果の一端を掌に転がした。使者が彼らから託されたのは、豆粒ほどの大きさの鉱石である。それこそ吹けば飛ぶような代物だが、陽光に照らされたそれは確かに黄金色の光を反射させていた――




 と、その時。
「おや、あれは?」
 不意に長恵が訝しげな声を発する。
 何事かと見れば、視線の先には厳しい甲冑姿の将兵の姿が見て取れた。
 彼らが掲げるは『丸に十字』――薩摩島津家の軍旗であった。
 とはいえ、国境に迎えを出すということは、すでに使者から伝えられている。まあ迎えといっても、領内で妙なことをされないようにという監視のための人員であろうが、ともあれ、ここに島津の兵がいることは別段不思議なことではない。
 では、長恵は何を怪訝に思ったのだろうか。


 俺がその疑問を口にする前に、島津軍から単騎、こちらに向かって馬を駆けさせてくる者が見て取れた。
 慌てて後を追おうとする者たちを制しているところを見るに、島津家の武将なのだろう。
 それにしては妙に小柄な人物だが――


 などと首をひねっている間に、その人物は俺たちのすぐ近くまでやってきていた。馬術の腕は間違いなく俺以上である。
 そう思うと同時に、その人物を間近に見て、俺は先の自分の観察評に訂正を加えた。眼前の人物は小柄なのではない。子供なのだ、と。


 化粧など無粋だといわんばかりの白皙の肌、秋の夜空を思わせる澄んだ瞳、鼻梁は形よく整い、微笑を浮かべる唇は綺麗な桜色である。抱きしめれば折れてしまいそうな華奢な身体つきといい、はかなげな微笑みを浮かべ、窓辺で花でも活けていれば「あえかな」という滅多につかわない形容を使わざるを得ないような少女であった――容姿だけを見れば。


 しかし、実際にこの少女を前にすれば誰もが思うだろう。
 か弱いだの、はかなげだのといった形容ほど、この少女に似合わぬものはない、と。
 こぼれんばかりに生気に溢れた眼差しは、少女の内なる活力を映して余りあり、動作の端々からにじみ出る躍動感は山野を駆ける雌鹿を思わせる。
 なんというか、見ていると自然とこちらも微笑んでしまいそうな、そんな少女なのである。この少女に敵意を抱くのは、きっとカブラエルと仲良くすることに匹敵する難事であろう。そんな風にさえ思う。


 そんなことを考える俺の前で、その少女は溌剌とした動作で右の手を高く揚げ、口を開いた。
「はじめまして、島津が末女、家久ですッ。姉義久の命により、大友家の御使者を案内するために参りましたッ」



 その名を聞き、俺の胸に去来したのが驚愕よりも諦観、動揺よりも納得であったのは、これまで積み重ねてきた経験の賜物というべきか。俺はしばし真剣に悩むことになる。
 
  



[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第七章 繚乱(五)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:cd1edaa7
Date: 2011/02/01 00:24

 日向国ムジカ港


 大友宗麟によるムジカ建設が始まって以来、活気の絶えないムジカの港であるが、今日この日ほど人が溢れたことはなかったであろう。港に集った人数は優に一千を越え、港湾部に入りきれなかった者たちも数に入れれば、二千に達していたかもしれない。
 現在、大友家当主、大友フランシス宗麟はみずから港に足を運んでおり、これだけの人数が集まった一つの理由となってはいたが、今日に限ってはその宗麟も主役とはなりえない。
 今日の主役となるべきは、宗麟の前に畏まって頭を垂れている十人の少年少女たちであった。




 白を基調とした衣服は、その一つ一つが聖職者の手によって織られた聖なる品であり、これを纏うことが許されるのは南蛮神教の信者の中でも一握り、本当にごく限られた者たちのみ。
 今、宗麟の前にかしずく彼らは、その栄誉を生来の容姿と自身の努力とによって勝ち取った者たちであった。
 上は十三、下は八歳で構成される彼らはいわゆる『遣欧使節』であり、南蛮の進んだ文化を学び、教養を深めるために異国へと渡ることになる。おおいなる神の栄光に満ちた地をその眼に焼き付けた彼らは、帰国後、その経験を日の本の各地に広めることになるであろうと思われていた。


 宗麟の代になってから、この種の使節団が派遣されるのは初めてではない。これまでも片手では数えられない回数の使節団が南蛮本国に差し向けられている。最初の派遣からまだ三年も経ってはおらず、いずれの使節団もまだ帰国してはいないが、彼らの評はカブラエルを介して宗麟の耳に伝わっていた。
 東の果てからやってきた少年少女たちは、ゴアでも本国でも、その聡明さと純真さをいたく愛されており、南蛮人の間でも日本に対する認識は大きくかわりつつあるという。
 これは宗麟にとっても喜ばしいことであり、同時にこの国にとっても喜ばしいことであるはずだった。そのため、宗麟はカブラエルの勧めるままに信者たちの中から優秀な子供たちを募って異国へと送り出しているのである。


 無論、強制してのことではない。
 南蛮に派遣されるということは、より神の膝元に近づくということである。くわえて、使節団に選ばれるということは、その能力と人柄が宗麟とカブラエルらの南蛮神教に認められることも意味し、帰国の暁には重職に就くことがほぼ約束されたようなものであった。
 幼い子供たちは信仰から、年を経た者たちは我が子の立身、あるいは自家の功利を求めて、すすんでこの使節団への参加を望み、人員の選定は常に大変な労力を必要とするほどであった。
 亡き角隈石宗などは、優秀な人材が他国へ流出してしまうことを危惧したのだが、本人や親たちが望む以上、強いてこれを制止することは出来ない。また、彼らは見聞を広めた後は帰国して、その知識を大友家や南蛮神教のために役立てるのだから、とカブラエルに言われれば、あえてそれ以上反駁することは不可能であった――先に派遣した者たちが戻らないことも、彼ら自身がより長期の滞在を希望しているといわれてしまえば確かめようもないのである。



 今、群集の視線の先に立つ子供たちは、幾多の審査を経た上で選び抜かれた者たちであり、その顔は見に積もる誇りと栄誉で上気していたが、幼い身で親元を離れ、異国に旅立つとあって、不安や恐れを滲ませる者も少なくなかった。否、多かれ少なかれ、彼らは皆、これからの旅路に対する不安を胸中に抱いていたに違いない。
 過去、幾たびも羨望の思いと共に子供たちを送り出した宗麟は、そんな彼らの思いを十分に察している。
 一人ひとりに親しく微笑みかけ、人の温もりを感じられるように彼らの髪や頬に手を添え、その眼差しから不安の色が消え去るまで優しく語りかける。
 この時の宗麟は大友家当主ではなく、目の前の子供たちと同じ、一人の南蛮神教の信徒として振る舞い、結果としてそれが子供たちから過度の緊張を取り除いていた。


「これより海を越え、神の膝元に赴く子供たちに神のご加護があらんことを。この尊き旅路が主の祝福で包まれますように。そして、今ここにいる子供たちと、送り出すわたくしたち、その誰一人として欠くことなく、やがて来る帰国の日を迎えることが出来ますように」
 宗麟のその言葉が響きわたると、港は千を越える人数がひしめき合っているとは思えないほどに静まり返り、厳粛な雰囲気に包まれるのであった。





◆◆





 その一方で。
 使節団が乗り込む南蛮船の一室からは、厳粛とは程遠い笑い声が零れ出ていた。
「つまり、いいようにしてやられた、ということか。貴様らしからぬ不手際だな、カブラエル」
「申し訳のしようもございません、殿下」
 そう言って、カブラエルは深々と頭を下げる。
「なに、そう何もかも思い通りに進んでは何事も面白くない。その意味でいえば、私にとっては良い余興だ。それに貴様が使節団の方に赴いていたことを考えれば、別段、貴様だけの責というわけでもあるまいが――」
 しかし、とフランシスコ・デ・アルブケルケは、自分と同じ名をもつ宣教師に皮肉げな笑みを向ける。
「父上がそう考えるかは、私の知るところではない」
「……は」
 カブラエルは首筋に汗が伝い落ちるのを自覚した。
 季節は冬。フランシスコの部屋は暖がとってあるとはいえ、汗ばむほどではないのだが……


 
 カブラエルとしてはすべてが順調に進んでいると考えていた。
 ゴア総督が執心する吉継にしても、ムジカに招きよせた時点で籠中の鳥に等しい。さらに、それを守る者がみずから敵国へと赴くことを承知した以上、カブラエルの意図を妨げる者は誰もいないはずであった。
 それでも万一に備えて高千穂への道には人数を配し、島津家への使者の中に紛れ込むことがないようにそちらにも注意を払っていた。まさか危険が大きい島津への使者に義理とはいえ娘を同行させるとは思わなかったが、薩摩へと向かう途中で使者の一行から抜け出す可能性もあったからだ。港も無防備にしてあったわけではない。


 それだけの手を打った上で、カブラエル自身が、豊後からムジカへとやってきた使節団を迎えに出たのは、ゴア総督は知らず、その子であるフランシスコにとってはむしろ彼らの方が本命だと考えたからであった。
 元々、第七次の使節団派遣の話は日向侵攻の前からあったのだが、カブラエルは聖都計画と重なることもあって、使節団派遣は延期するつもりだったのである。
 にも関わらず、それを強行させたのはフランシスコであった。フランシスコが旗艦バルトロメウを動かしたのは、日向侵攻のためではなく、彼ら使節団を迎えるため。フランシスコにとっては父が執心するドールや、カブラエルが知略の限りを尽くして築こうとしているムジカはあくまでついでに過ぎなかったのである。


 フランシスコが聡明と従順を兼ね備えたこの国の人間を、様々な意味で重宝していることをカブラエルは承知していた。顔をあげれば、フランシスコの膝にすがるこの国の少女の姿が目に入る状況であれば、承知しない方がおかしいだろう。
 宗麟がこの場にいれば、その少女が第二次使節団の一員であったことを知るだろうが、カブラエルにとってはそれはどうでもいいことである。
 問題なのは、カブラエルがムジカを離れたわずかな隙に、肝心要の人物をムジカの外に逃がしてしまった事実であった。


 経過を見れば、ある意味でフランシスコのせいともいえるのだが、まさかそんなことを口にするわけにもいかない。
 このまま計画を進め、島津と戦端を開いてしまえば、間違いなく大友家の使者は島津に殺される。その中にドールが含まれていれば、ゴア総督の怒りは雷挺となってカブラエルを撃つだろう。それを避けるためには使者を呼び戻さねばならないのだが、下手に時間をかけてしまえば、艦隊の方にも影響が――


 カブラエルが眉間に皺を寄せる。すると、そのカブラエルの内心を読み取ったようにフランシスコが含み笑いをもらした。
「とはいえ、使節団の派遣を急がせた私にも責がないわけではない、か」
「とんでもございません。殿下に責任などあろうはずが……」
「おためごかしはよい。異国の者に、わが国が侮られるのも面白くないしな。我らを謀った輩には、相応の報いを与えてやるべきであろうよ――トリスタン」


「――はッ」
 それまで無言で部屋の片隅に控えていた聖騎士が、フランシスコの呼びかけに応じて、すっと前に出てきた。
「貴様は適当な人数を連れ、高千穂とやらいう邪教の巣窟に赴け。たしかかの地には五千近い十字軍兵がいるという話だったな、カブラエル。そして大友の兵は二千に足らず、と」
「は、確かにそのとおりでございます」
「五千の人数にトリスタンの武威を併せれば、邪教徒と大友、双方を制することは容易かろう。カブラエル、貴様の配下の宣教師も何人かトリスタンにつけよ。牙を抜かれたかの地の者たちを今一度煽り立てるためにな」


 そのフランシスコの命令を聞き、なるほど、とカブラエルは内心で頷いた。
 戸次誾が筑前へ去り、雲居筑前が薩摩に赴いた今、トリスタンが高千穂の五千の十字軍を率いれば、それを止めることが出来る者はいない。あの地に残った大友家の者たちは、雲居や誾の今後の行動について何らかの報告を受けていると考えられる。少なくとも、危急の際の連絡方法くらいはあらかじめ打ち合わせているだろう――


「この国の民は己よりも、近しい者を傷つけられることを忌む。留守居の将の首をとり、それをもってドールを釣り出せ。こちらに来なければ、高千穂に残った残余の将兵をことごとく同じ目にあわせるとでも伝えてな。情報がもれた場合はカブラエル、貴様が握りつぶすなり、この地の王を説き伏せるなりするがいい」
「かしこまりました」    
 カブラエルは即座に返答する。


 一方、トリスタンはかすかに首を傾げ、口を開いた。
「布教長を手玉にとった人物が、なにやら小細工をする恐れもございますが、そちらはいかがなさいますか? 此方への対応を見るかぎり、すべてとはいわぬまでも、こちらの動きを予期しているようにも思えます。あるいは艦隊の件も察しているかもしれません」
 そのトリスタンの言葉に、カブラエルは失笑をこぼす。
「まさか、そのようなことは考えられません。たしかにドールを手中にせんとする狙いは勘付いていたようですが、それは大方、わたしの前任者の悪魔騒ぎからの推測でしょう。この国の人間に、今回の計画の全容を見透かすことなど不可能ですよ」
 それこそ、あの石宗が生き返りでもしない限りは、とカブラエルは内心で呟いた。


「確かにトリスタンの言うように、我らに対して無知ではないようだ。だが、カブラエルの言うとおり、すべてを見透かしているとも考えられぬ。もしそうであれば、まもなく火の海と化す地にのこのこと出向くなどありえないだろうからな。それに――」
 仮に艦隊のことを察していたとしても、とフランシスコは微笑する。
「八十八隻から成る我が艦隊を独力でどうこうできると考えている程度の相手だ。ならば、恐れるに足るまいよ」
 とはいえ、自由に泳がせておくほど親切にしてやる理由もない。こちらを謀り、侮った報いは与えねばならぬ。
 フランシスコは少しの間、目を閉ざして考え込んだ。無意識の仕草なのだろうか、その手は膝にかしづく少女の頬をなで、少女は恍惚とした表情で怜悧なフランシスコの美貌に視線を固定させる。



 やがて、フランシスコが目を開けたとき、その顔には再び皮肉げな笑みが戻っていた。
「護衛艦を一隻、油津の港に差し向けよ。そして十ほども砲弾を撃ち込ませるのだ。無論、大友の軍旗を掲げた上でな」
 そうすれば、大友家の使者が何を口にしようと、島津家が耳を傾けることはないだろう。それどころか、良くて牢屋、悪ければ刑場行きであろうか。


 フランシスコの言葉にトリスタンは、それと気づかれないほどに目を細め。
 カブラエルは狼狽した。
「しかし殿下、それではトリスタン殿が高千穂に赴く前に、ドールが殺されてしまう恐れが……」
「この国の民は礼を知る。そう申したのは貴様ではないか、カブラエル。油津を陥としたのならともかく、たかだか十発ほどの砲弾を試射したところで、いきなり使者を斬るような真似はしないのではないか?」
 そう言いつつ、やはりフランシスコの口元からは微笑が去らない。
 仮に使者が皆殺しにされたところで構わない。高千穂まで無駄足を踏むのはトリスタンであり、ドールを手に入れ損なって憤慨するのは父であり、その怒りを浴びるのはカブラエルである。フランシスコ自身はいかなる損害も被らない。そう考えていることは明らかであった。


 それは同時に、失態を犯したカブラエルへの処罰でもあるのだろう。
 自身だけでは如何ともしがたい状況。カブラエルは南蛮神教を拒絶し、排斥した島津家に対し、使者を処罰しないように祈らなければならない。それこそ、神に祈るにも等しい必死さで。
 野心や欲望はあっても、カブラエルの神に対する思いに嘘偽りはない。余人の目にどう映ろうと、カブラエルにとってはそれが真実である。ゆえに、これからおとずれる状況はカブラエルにとって耐え難いものになるであろう。




 土気色に変じたカブラエルの顔に、フランシスコの愉しげな声がぶつかって弾ける。
 そんな二人の姿を、トリスタンは瞳を閉ざすことで視界から閉め出した。






◆◆◆






 薩摩国大口城


 今、俺が座しているのは軍議の際に用いられる部屋であるらしい。少なくとも、長恵がこの城に居た時はそうしていたそうな。
 そのことを教えてくれた長恵は、すでにこの場にはいない。吉継も同様である。
 それゆえ、俺はただ一人で四人の姫武将の圧迫に耐えねばならなかった。
 無論、その四人とは名高い島津の四姫。
 末姫殿を見た時から予測はしていたのだが、上の三人も家久に劣らぬ美姫ぶりであった。



 今、俺の正面に座っているのが長姫の島津義久。
 容姿については、さすがは姉妹というべきか、家久が年齢を重ねればこうなるだろうな、という感じの――まあ要するにえらい美人だった。
 もちろん相違はいくらでもある。切れ長の眼差しには、相対する者の敵意さえ包み込むような深みが感じられ、落ち着いた物腰とあいまって、邪な心を持っている俺はどうにも居たたまれない思いに苛まれてしまう。
 ちなみに邪な思いとは何なのかといえば。
 これは義久と家久との一番の違いになるのだが、その豊麗な身体つきに求められた。無論(?)豊麗といっても、あくまで胸や臀部あたりの話、腰の細さというかくびれは、正面に座っている俺が思わず息をのんでしまうほどである――もちろん着物越しなのだが、それでも十分にそれとわかるのだから、どれだけスタイルが良いかは推して知るべし。


 そんな邪念に苛まれている俺と異なり、義久当人が俺に向ける視線に敵意は感じられない。だが、だからといってこちらを歓迎しているわけでもないだろう。
 義久の内心を、俺は今ひとつ計り知れずにいた。というのも、先刻から義久はずっと口を閉ざしたままなのである。あえて黙したまま、俺の内心を見抜こうとしているのだろうか。そんな風にも思うのだが、真摯な表情からにじみ出る、そこはかとない人の好さはこれまた末姫殿と似通っており、そういった細工を弄するようにも見えない。
 義久に関しては、どうにも調子の狂う御仁だ、との思いを俺は早くも確かなものとしていた。





 そして、その義久の右斜め前――俺から義久を守るように座っているのが二姫の島津義弘である。
 こちらは姉の容貌から柔和さを薄め、凛々しさを加えたような感じである。もっとも笑顔になれば、案外、姉君に劣らない人の好さを見る者に感じさせるかもしれない。
 だが、今はひたと俺の顔に視線を据え、わずかの隙も示さない。
 といっても、絶えず敵意をぶつけてきている――というわけではない。多分、義弘本人は己の責務を果たすべく、ただ油断なく座っているだけなのだろう。
 しかし、その凛冽な眼差しは、ただそれだけで俺に緊張を強いてくる。先刻からかいた汗の半分くらいはこの鬼姫のせいであ――
「……今、何か失礼なことを考えませんでしたか。具体的には鬼島津、とか」
「……いえ、そのようなことは一切考えておりません」
 具体的に鬼姫とは考えましたが。
「ならば結構です。失礼しました」
 どこか疑わしげな眼差しながら、義弘はそう言って矛を収めた。


 こんな調子なので、スタイル云々に関しては視線を向けることさえ出来なかった。まあ別に島津四姫のスリーサイズを調べるために来たわけではないので、全然問題ないだろう。
 あえて付け加えるなら――鬼という異称が重なっているからでもあるまいが、義弘はどことなく道雪殿を思い起こさせる。歴戦の驍将としての覇気を、人としての器量で覆うようなその在り方が似通っているためであろうか。
 しみじみと思う。この人と、戦場で相対したくはないものだ、と





 その義弘の傍らに座る家久については、これ以上詳しく語る必要もないだろう。
 ゆえに、義久の左隣に座すのが最後の一人。島津が三姫、島津歳久である。
 容姿については、もう「美少女」の一語で十分だろう。上二人の姉もそうだが、詳細に語ると俺の語彙が尽きる。それでもあえて述べるならば。
 歳久を見て、真っ先に俺が思い浮かべたのは、空を翔ける燕であった。
 人の身では決して届かない速さで宙を疾るその姿。鋭く、流麗に、それでいて確かな生命力を感じさせる飛燕と、歳久が重なったのは何故なのか。


 第一声から「ばかですか、あなたは」との叱責を浴びせられた俺が、成す術なく燕についばまれる羽虫のごとき心持になったからだ、とはあまり考えたくない今日この頃である。
 まあ、その台詞からも察せられるように、歳久は俺の話に大きな憤りを感じているようで(というか、歳久に関しては他の姉妹と異なり、どうも会う前からこちらに敵意を抱いていたような気がしないでもない)、その頬は上気して朱に染まり、常は冷静さを崩さないであろう表情は明らかに此方へ対する怒りに染まっていた。
 あるいは、俺は今、大変貴重なものを見ているのかもしれない。家久のびっくりしたような表情を見るに、それはあながち的外れな考えではなさそうであった。






「もう一度言います。ばかですか、あなたは。私たちがムジカに攻め寄せれば、海を渡って南蛮が攻め込んでくる。だから薩摩の防備を固めよ、などと戯言も大概になさい。そのような確たる証拠もなき偽りの情報で、私たち島津がムジカに投じる兵力をわずかでも減じると考えているのならば、大友家はよほど此方を女子供と侮っていると判断せざるをえません」
 このままでは歳久に怒られるだけで、この場が終わってしまう。そう考えた俺は、歳久が息継ぎをする瞬間を見計らって、無理やり言葉をねじこもうとする。
「誤解なきように願いたいのですが――」
「仮にあなたの言に一寸でも真実が含まれているとして」
 無理でした。
 歳久の舌鋒は、いまや物理的圧力さえともなって、俺の顔面に雨あられとふってくる。俺はそれをいなすだけで精一杯の体たらくである。


「大友家の使者としておとずれておきながら、主家に害なすような言を弄する人物を、いかなる理由があって信頼できるというのです? まあ呆れるほどに謀叛が相次ぐ今の大友家において、忠節という言葉は島津の辞書とは異なる意味で用いられているのかもしれませんが、そんな無定見な有り様を他家に強いるとは笑止千万というもの」
「いや、ですから話には続きがありま――」
「そもそも異教に溺れ、領内のみならず他国の寺社まで打ち壊し、古来より日の本をまもりたもうた八百万の神々を排斥せんとするとは何事かッ。大友家の行動をあらわすには、暴虐という言葉では到底足りぬ。蛮行と称することさえ生ぬるい。大友といえば鎌倉以来連綿と続く誇りある名家。その名を、お前たちはどこまで汚せば気が済むのかッ」
「あー、その、ですね……」
「そも大友家の今代、大友宗麟は幕府より九国探題の重職に任じられ、この九国を戦乱より守る責務を負う身であろう。それがなんぞや、みずから異教に淫し、戦禍を各地に撒き散らすとはッ。あまつさえ南蛮の国をこの日の本に築こうとは何たる愚かッ、偉大なる宗祖に恥じるがいいッ!」
「……」
 ……いかん、止められん。なんか歳久のスイッチが入ってしまったっぽい。
 くわえて舌鋒の鋭さもそうだが、口にする言葉がことごとくこちらの痛いところをついてくるので、反論すらままなりません。


 ふと家久を見れば、片手で口元を隠しながら、こちらに向けて何やら囁きかけている。声自体は歳久の嵐のごとき難詰に遮られて届かなかったが、その口の動きから何を言っているのかを推し量ってみた。
(お……あ……いや「あ」ではなく「わ」か。えーと、る……ま……で……が……ま……)
 最後に家久はきゅっと唇を引き結び、人差し指を立てて口にあてた。


 終わるまで我慢してね


 俺は諒承の意を込めて、こくりと頷いた。
 頷くことしか出来なかった。






 ――なお、大友の軍旗を掲げた軍船が、島津領の要港である油津を砲撃したという報告が届いたのは、ようやく歳久が落ち着きを取り戻して間もなくのことであった。




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第七章 繚乱(六)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:cd1edaa7
Date: 2011/02/08 20:54
 薩摩島津家は代々、名君を輩出することで知られている。
 先々代日新斎忠良、先代貴久、今代義久と続く近年の島津家当主を眺め渡せば、世に「島津に暗君なし」と称される評は、幾分かの誇張が含まれているにしても、虚偽であるとはとうてい言えまい。
 もっとも今代に関しては、名君という評に首を傾げる者がいないわけではない。しかし、名君とはなにも政治に長け、軍事に秀で、策略に通じた当主を指すのではない。それぞれに長じた一族や家臣権限を委ね、その成果を活かし、家の繁栄に繋げることが出来るならば、それは十分に名君たりえる資格を満たしているといえるのではなかろうか。


 その意味では、島津家第十六代当主、島津義久はまぎれもなく歴代当主に劣らぬ名君であったといえる。
 それは同時に義久が多くの人材に恵まれていたことを意味していた。
 ことに義久の妹たちの声価はきわめて高い。
 将兵から寄せられる声望は姉をも越えるといわれる「鬼島津」こと島津義弘。
 島津家の戦略を総攬し、頼りない姉に代わって領国の統治をも司っているとされる島津歳久。
 そして長女の仁、次女の武、三女の智、それらすべてを一身に兼ね備えるとまで言われる末姫島津家久。
 この三人の妹の存在だけでも、周辺諸国から見れば羨望の的であったことは想像に難くない。
 事実、薩摩統一、またその後の大隅侵攻において彼女らの活躍は他を圧しており、それ以外の家臣の名が外に知られることはほとんどなかったのである。


 とはいえ、当然といえば当然ながら、島津家にも優れた人材は存在する。そうでなければ、いかに宗家の姫たちが優秀な将帥であっても、ああも見事に勝利を得ることは出来なかったに違いない。
 そんな島津の家臣の一人に「親指武蔵」と呼ばれる者がいる。その官職である武蔵守から「鬼武蔵」とも称されるその人物、名を新納忠元(にいろ ただもと)といい、智勇に優れた剛の者として家中に知らぬ者はいなかった。
 異名の「親指武蔵」とは、島津家中において、家臣の中から剛勇の士を挙げるとき、誰もがまず最初に「まずは新納殿」といって親指を曲げることに由来する――決して、男性にしては小柄な体格がおとぎ話の親指姫とか、親指太郎とかを連想させるからではない、とは本人が熱心に主張するところである。



 新納忠元の所領は薩摩の大口城である。
 忠元は先の北薩侵攻において、若い家久の副将として奮戦、この城を守る国人衆や相良、肝付との援軍と激しく干戈を交えている。
 忠元が大口城を任されたのはその武功ゆえであったが、大口城は薩摩の北の玄関口、肥後相良家との最前線でもある。
 ただ戦働きに優れているから、という理由だけで任せることができる場所ではない。この城の守りを委ねられたということは、武のみならず、文の面においても忠元が主家から信頼されていたことを意味する。
 つまるところ。
 衆目の一致するところ(明確にそう定められているわけではないにせよ)新納武蔵守忠元は薩摩島津家における家臣の筆頭だったのである。





 その新納忠元は、今とても不機嫌であった。
 理由の一つは今も耳に響く笛の音色である。が、これを音色というのは、他の奏者に対してあまりに無礼ではあるまいか。室内から響いてくる笛の音は、それくらい酷いものであった。
 豊後や肥前の者どもは、島津など南隅の蛮人に過ぎぬとでも思っているかもしれないが、実際のところ島津家は先々代の日新斎が詩歌芸術に深く通じていたこともあって、その後の当主や一族も教養をおろそかにはしていない。
 家臣たちもそんな主家の恵風に浴しており、忠元も戦場にあって歌の一つ二つは詠める程度の嗜みは持っていた。さすがに笛や琴のような楽器を極めるまでには至っていないが、それでもこの奏者よりは自分の方がよほど上だ、と忠元は苦々しく考えていた。


 そして、それはなにも忠元一人の考えではなかったようで。
「……お義父様、そろそろ耳をおさえているのも疲れてきたのですが」
 その声と共にぴたりと音が止まり、奏者とおぼしき男性の声が応じた。
「では長恵みたいに今からはちゃんと耳を傾けてみる、というのはどうだろう?」
「……耳を傾けているのは確かなようですが、長恵殿の場合、お義父様が求めていることとは違った意味で笛の音を聴いているように思えてなりません」
「さすが姫様、鋭いです。師兄の奏でる音は平静を保つための修行にちょうど良いんですよ。こう、いかなる騒音、叫声にも動じない不動の心を養う、みたいな意味で」
「……一国の命運を懸けて国を出でた身で、敵城の一室に閉じ込められ、半刻後の生死も知れない。不動の心を養うには、この状況だけで十分すぎるほどです」
 きわめて素っ気無い言い草だが、聞いていた忠元が思わず頷いてしまうくらい説得力に満ちた台詞であった。


 しかし、言われた当人はそうは思わなかったらしい。
「とはいえ、他にすることもないしなあ」
 奏者の声がのんびりと応じる。
「だからといって、他者の心をささくれ立たせてどうするんですか」
「下手だからといって、すぐに投げ出しては上達するものもしないだろう」
「その意見を否定するつもりはありませんが、時と場所を選んでください、という此方の意見もご考慮くださいませ、親愛なるお義父様」
「承知した、親愛なる娘よ。というわけで長恵、すまないがここで終わりだな」
「はい、師兄。まあ、ないならないで全然構いませんし」
「二人から、そこはかとなく非難されているような気もするが、細かいことは気にしないようにしよう」
 その声に娘とやらの声がかぶさった。
「まったく細かくないし、そこはかとなくもないんですが……まあいいです」
 語尾に混じったため息に、自然と同情の念を覚える忠元であった。




「ともあれ、どうするのですか、これから。下手の横好きに耽っている暇に、弁疏の一つもしておけば、今頃は島津の者も聞く耳をもってくれたかもしれませんのに。大友の軍旗を掲げていたとは言いますが、大筒を備えた船など明らかに南蛮人のもの。大友の使者が訪れている間に彼らが島津を攻撃したという事実は、見方をかえればお義父様の言葉を証明するものになりえると思いますが」
「――と、こちらが考える程度のことは向こうも承知しているだろうさ」
 相変わらずの覇気のない言葉に、忠元は小さく舌打ちする。


 大友家からの使者(といっても三人だけだが)は刀を取り上げられた上で一室に閉じ込められている。とはいえ、女性二人もいること、縛り上げているわけではないし、笛を奏していたことからもわかるように、刀以外の品には手を出していない。おそらく彼らは短刀の一つ二つは秘していると忠元は考えていた。つまり、いつでも脱出のための行動を採ることができるのである。
 今、こうして自由に会話させていることも含めて、それらはすべて主家の指図による。彼ら使者の会話や行動から、すこしでも情報を得るための策であった。
 もっとも、室外で控える小姓の役割を忠元が務めているのは、忠元自身の意思によるものであった。小柄な体格と童顔も、こんな時には役に立つ。他者からそれを指摘されるのは業腹だが、自身の特徴を利用しないのももったいない、というのが忠元の考えであった。


 忠元がここまでしたのは、なにも大友家に義理があったからではない。それどころか、他の多くの家臣と同様、日向の伊東家の後ろ盾となって島津家を圧迫してきた大友家を忠元は嫌いぬいている。 忠元が気にしたのは、その大友家に付き従ってきた相良家家臣、丸目長恵の方であった。
 九国に名高き剣聖。先の戦では島津家久の釣り野伏に敗れたとはいえ、女性とは思えぬ勇猛な戦ぶりと冷静な指揮に、忠元は深く感嘆したものだった。敗れたりとはいえ、その器量は主家の姫君たちに優り劣りなしと見た忠元は、隣国の相良義陽が敗戦の責を長恵に求め、逼塞を命じたと聞いて鼻で哂ったものだった。
 長恵なればこそ、薩摩に入った相良家の軍兵の半ばは帰還できたのである。余の武将であれば全滅したとて不思議はない。島津の猛攻はそれほどまでに凄まじいものであった。
 その長恵を逼塞させて、義陽はどうやってこれから島津家と相対していくつもりであろうか。
 
 
 あるいは、彼の剣聖を島津家に招く一助にならんか、とも密かに考えていた忠元は、その長恵が、どのような紆余曲折を経たのやら、大友の使者と共に薩摩に訪れるときいて仰天した。しかも大友の使者の雲居とやらに師事しているという。大友嫌いの忠元としては到底黙ってはいられない。
 長恵の真意、そして雲居とやらの為人をわが目で確かめてくれん、と鼻息あらく小姓に扮したのであるが――


(あにはからんや、へたくそな笛を聴かされることになろうとは。おまけに今の苦境を乗り切るために努めるでもなく、流れに身を任せておる。いつ討たれるとも知れぬ状況で泰然としておるところを見れば、肝の太さだけは認めてやらんでもないが……)
 主家のために命を惜しまない気性。そんなものは島津家にあって大した美点でもない。忠元にとって、それは目が二つであると相手を褒め、鼻が一つであるとて感嘆するようなものであった。ようは持っていて当然、ということである。


 忠元がそんなことを考えている間にも、部屋の中では何事か言葉が交わされていたようだが、忠元はすでに彼らから興味を失いつつあった。本物の小姓たち(無論、彼らは忠元のことを承知している)に顎をしゃくってこの場をかわるように促すと、みずからは音もなくその場から立ち上がった。
 無駄な時を費やしてしまったという思いが、忠元の顔を苦々しい表情で覆っている。
「――つまり、このまま黙って島津の気が変わるのを待つ、ということですか?」
 その忠元の耳に、雲居の娘とおぼしき者の声が響く。
「まあ、そういうことになるか。あらゆる意味で俺の話が信用ならないという歳久殿の言には、反論の余地がなかったからな。それと承知した上で、こちらの言い分を聞き届けてもらう方策は持ってないよ」
「手土産の件はどうなのです?」
「手土産を渡すには、せめて客として認めてもらってからでないとな。今の状況じゃ逆効果だろう」


 はあ、とため息が室外にまでこぼれてきた。
「厄介な使いであることは承知していましたが、いきなり万策尽きた状況になるとは思っていませんでした」
「ま、そう悲観したものでもないだろ」
「……先刻から不思議で仕方ないのですが、お義父様のその楽観はどこから来るのですか?」
「これまでの経験からして、語るべき言葉は聞くべき者の耳に入るもんだ。言葉が届かないなら、それはどっちかが、あるいは両方がその言葉に相応しからぬわけで」
「よく意味がわからないのですけど?」
「つまり二流の聴衆には二流の演奏こそ相応しいということだな」
「やっぱり意味がわからないのですけど?」
「はっはっは」
「……まさか言葉に窮して適当なことを言っただけ、とか言いませんよね?」
 わずかの沈黙に続き、何やら騒々しい音が響いてきたが、忠元は後ろを振り向くことさえしなかった。
 言葉をひねくりまわすだけの人間に何を求めて師事したのか、長恵の気が知れぬ、と忠元が内心で吐き捨てようとした時。




 ふと、忠元の足が止まった。
「二流の聴衆には二流の演奏、か」
 そう呟いた後、まさかな、とかぶりを振る。
 まさかそんなはずはない。己の拙劣な技量を、聞く耳もたない相手へのあてつけに利用するなど。
あの程度の輩がそこまで手の込んだことをするとは考えにくい。
 もし、仮に考えたとしても実行に移すとは思えない。何故なら、その意思が島津に通じたとしても、あてつけられた側の島津家が不快に思うだけで交渉の利にはならないからである。それどころか、余計に態度を硬化させるだけであろう。


 そう考え、忠元は再び歩き出す。
 古の軍記物語でもあるまいし、島津家が雲居の行動を「見事な機転よ」と褒め称え、交渉の席に座るなどありえない。それを狙っているのだとすれば、あの雲居という男、いささかならず物事を甘く見すぎている。そこまで物事が都合よく進むはずが――


『語るべき言葉は聞くべき者の耳に入るもんだ。言葉が届かないなら、それは――』


「……その時は、島津が語るに足りぬ家、ということになるわけか?」
 今度は忠元は足を止めなかった。これ以上考え込んでいては、軍議の間で忠元の報告を待っている姫たちを待たせることになってしまうからであった。




◆◆




 忠元が軍議の間にやってきた時、姉妹のうち下三人はすでにそろっており、何通かの書状を片手に何やら話し合っていた。
 接見の場では大友の使者の言葉を斬り捨てた――というよりは叩き潰した観のある歳久であったが、その内容をまるきり無視することはせず、幾つかの手を打って確認することにした。万一にも使者の言葉が真実であれば、島津にとっても巨大な災禍となるは必定であったから、それは当然の措置であったろう。
 もっとも、大海の彼方を見通すなど人の身には不可能なこと。確かめるといっても島津領内随一の港である坊津に使者を走らせるくらいしか出来ず、当然、その使者はまだ帰って来ていない。そのため、歳久は内城に急使を向かわせ、ここ数ヶ月の海外との交易資料を取り寄せたところであった。


 忠元の姿に気づいた姫たちが姿勢をあらためる。その姫たちの前に座り、さて何と報告すべきか、といまだ若干の迷いを抱きながら、それでも忠元が言葉を発そうと口を開きかけた。
 しかし。
 結論から言えば、忠元がいましがたの使者の言動を主家の姫たちに報告できたのは、一日以上の時間が経過してからとなる。この日に限っては、それどころではなくなってしまったのだ。




 大口城を揺るがす爆発音が轟いたのは、次の瞬間であった。




 島津家は海外との交易も盛んに行っており、家の規模に比すれば、その鉄砲の保有数は膨大といってもいい。当然、島津家中の者たちは戦場や訓練における鉄砲の爆音――火薬が炸裂する音に慣れている。
 その島津軍の頂点に立つ者たちが、そろって腰をあげてしまうほどに、その爆発音は巨大であった。あたかも大筒でも撃ったかのようだ。その上、轟いた場所がいかにも近い。間違いなく城内であると思われた。


「何事かッ?!」
 真っ先に声をあげたのは、姫たちではなく、この城の城主である忠元である。
 その顔はすでに戦場の雄たる武将のそれに変じていた。
 傍仕えの小姓たちが、主や主家の姫たちを守るために駆けつけてくる。ほどなく刀を帯びた城の将兵も姿をあらわしたが、彼らはいずれも事の詳細をいまだ知らずにいた。


 軍議の間を、じりじりとした時間が流れていく。
 まさかとは思うが南蛮の奇襲であろうか。日向からの急使が来ていないが、相良領内を通れば、大口城を直撃することは不可能ではない。それにしては、砲撃の音が一回きりというのが不審であったけれど。
 忠元や姫たちが短い間にそこまで話し合っていると。


「も、も、申し上げますゥッ」
 なにやら奇妙に場違いな報告の声が軍議の間に響き渡った。
 見れば、そこにはやや年嵩の女中の姿があった。姫武将、というわけではなく、正真正銘、ただの奉公人である。忠元の記憶では、台所を任されている者の一人であったはずだ。
 忠元がそう口にした途端、それまで戦場の雰囲気を湛えていた姫たちの顔が、一様に「まさか」と言わんばかりに激しく歪んだ。否、姫たちのみならず、忠元の顔も歪んだ。
 彼らは同時に一つの推測を胸中に育んだのである。


「……そういえば、義久様の姿が先刻より見えませぬな……?」と忠元。
「……そうですね、私たちが資料片手に話し合っている間にいつのまにか姿が見えなくなっていました」と歳久。
「……まさかお姉ちゃ――こほん、姉上は……」若干赤面しながら義弘。
「……あはは、そういえば最近、腕を振るってないって不満げだったよねー」と家久。


 そんな忠元たちの様子をおそるおそるうかがいながら、女中は先刻、台所に島津家当主が姿をあらわしたことを告げる。
 なんでも久方ぶりに腕をふるいたいので、しばし場を借りたい、と申し出たらしい。
「お止めしなかったのか、おぬしらッ?!」
「は、は、はいッ?! ご、御当主様のお言いつけにそ、そむくなど、と、とんでもないことでございますからッ」
 思わず声を高めた忠元に、女中は首をすくめ、床に頭をこすりつけながら弁明する。
 その弁明に、忠元はじめ姉妹たちは、はかったように一斉に額に手をあてた。


「本城(薩摩内城)だったら、皆、すでに姉上の腕前のことは承知しています。台所を明け渡すなど決してしませんが」と義弘。
「この城の者たちにそれを求めるのは酷というものですね……」と歳久。
「申し訳ござらん。それがしの配慮が足りませなんだ」と忠元。
「んー、でもいつもの義姉(よしねえ)なら、料理できたらすぐに持ってくるよね? さっきの完成音(爆発音)から、もうかなり経ってるんだけど」と家久。


 家久の言葉に、一同、そういえばそうだな、と顔を見合わせる。
 皆、若干、腰が浮き気味なのは、すぐにでも退避できるようにという戦場巧者の習性のようなものであった。
 そして、家久の疑問の答えは、女中の次の言葉で明らかとなった。
「御当主様が仰るには『結果がどうなるにせよ、せっかく遠国からはるばるいらっしゃったのだから、せめて手ずからおもてなしをするのが礼儀というもの』とのことでしたが……」






◆◆◆






 周囲から驚倒とも愕然とも、あるいは憧憬ともとれるような、きわめて特異な視線を向けられつつ、俺は目の前の土鍋の中から、最後の一切れとなった猪の肉を取り出し、口内で噛み砕いた。染み出してくるのは肉汁か、獣血か。
 そこらに生えてる雑草と、腐りかけの野菜と、生の猪肉を土鍋にぶちこみ、それを三日三晩、青汁で煮詰めればこんな味になるんじゃないかな的な目の前のリョウリからは、いわく言いがたい芳醇(?)な香りがあふれ出ており、先刻からそれを食し続けている俺の舌は、すでに麻痺同然の状態であった。もしかしたら俺の味蕾は、眼前に鎮座する『青菜と季節の野菜と猪肉の冷製スープ(仮)』のために壊滅的打撃を被ったかもしんない。


「……ご馳走様でした」
「はい、お粗末様でした。あの、お味はどうでしたか? 最近、妹たちは忙しくて、全然食べてくれないので、ちょっと腕が鈍っちゃったかもと心配だったんです」
 でも、全部食べていただけてほっとしました、と安堵の息を吐く義久。
 俺としては、忙しさを理由に逃げ続けているのであろう妹姫たちの悲痛な思いが手に取るようにわかり、勝手なシンパシーを抱いてしまいそうだった。


 リョウリの出来を訊いてくる義久殿は心底嬉しそうである。
 きらきらと輝くような笑みを浮かべながら、俺の顔をのぞきこんでくる。普段の俺なら照れてそっぽを向いたかもしれないが、今の俺の心境はといえば、久秀と茶席を同じくした時に等しい。油断したら殺られる(とられる)的な意味で。
 よって、その言動からは一切の遠慮が欠如していた。


「――実に不味かったです」
「……え……え…………ええー?」
 俺の率直な感想に、義久は一瞬きょとんとした表情を浮かべた後「がーん」と効果音が轟いてきそうな顔で驚愕した。
「そ、そんなに不味かったですか?」
「なんというか、既存の料理という概念を覆す新たな物質という感じです。このリョウリは料理ではない」
 後半の言い回しには義久は首を傾げていたが、俺の評価が芳しいものでないことは理解したらしく、悄然と俯いてしまった。


 後から考えれば随分と失礼な言い草であったから、周囲で息をのんで様子をうかがっていた島津家の小姓や女中にとっ捕まってもおかしくなかったのだが、彼らも彼らなりに思うところがあったらしく、俺の評価に異を挟もうとはしなかった。
 無論、この時の俺はそこまで頭がまわっていない。脳裏には先刻、自分が口にした言葉がぐるぐるとまわっている。


『下手だからといって、すぐに投げ出しては上達するものもしないだろう』


 俺自身の料理の腕は大したものではない。元の世界では一人暮らしであったから、それなりに包丁には触れていたが、それでも他者に振舞えるような料理をつくる腕はない。
 だがしかし。
 そんな俺でも、眼前の島津家当主殿に対して物申すことは可能だった。


「まず、面倒でも野菜は皮を剥きましょう」
「は、はい」
「あと、味見はしてますか?」
 そこからか、みたいな驚愕の視線が周囲から義久に集中する。その雰囲気を感じ取ったのか、義久はやや慌てながら、こくこくと頷いた。
「え、えーと、は、はい――」
「……」
 じっと見つめる。陥落は案外早かった。
「……してない、かもしれません」
「ならば今度からは一に皮むき、二に味見。この二つを忘れないようになさると、たぶん義久様も、食べる方も幸せに一歩近づくことになるでしょう」
「わ、わかりました、がんばりますッ」
「はい、がんばってください。ともあれ、当主おんみずからのおもてなしには、感謝の念を禁じえませんでした……ぉぇ」
 何とか言い終えた途端、胃から何かよからぬものがはいあがってきそうになったので、慌てて口をおさえようとしたが、それではあまりに義久に失礼だろうと考えた俺は、咄嗟に深々と頭を下げた。



 すると。
 まるでそれを合図にしたかのように、周囲から感嘆の声と拍手が響き渡る。なにやら涙ぐんでいる者までいるようだ。無論、島津の家臣の中に、である。長恵と吉継はとうに彼方に避難していた。



 そして。
「……これ、どういう状況だと思う、歳ちゃ――ではない、歳久?」
「……さあ、私にもさっぱり……?」
「……うー、この匂いだけは、あたし苦手だよぅ……」
「い、家久様、お気を確かにッ?!」
 そんな声が聞こえた、と思ったあたりで、俺の記憶はぷつりと途絶えるのだった。




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 幕間
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:cd1edaa7
Date: 2011/02/08 20:53

 山城国二条御所


 その日、足利幕府第十三代将軍 足利義輝は一人の臣下を引見していた。
 名を和田惟政といい、細川藤孝、幽斎の姉妹に並ぶ義輝の直臣の一人である。征夷大将軍の御前で、小柄な身体を精一杯縮めてかしこまる惟政の姿は、いまだ髪結いの儀を済ませていない女童のようにも見えた。しかし、実際はとうに成人の儀を終えており、義輝の直命を仰ぐようになって二年近くが経過している。


「遠国での任、まことに大儀であったの、惟政」
「あ、ありがたき御言葉でございます、殿下。報告が予定より遅れましたこと、まことに申し訳のしようも……」
「ああ、よいよい。中国はおろか九国まで行っていたのだ。そうそう予定どおりにはいかぬであろうよ」
 惟政の深謝に対し、義輝はあっさりとかぶりを振ってみせる。


 だが、主君が気にせぬと言明しても、惟政は内心の忸怩たる思いを拭えずにいるようであった。
「し、しかし、お姉様がたであれば、このような不手際は……」
「なに、藤孝にせよ幽斎にせよ、お主くらいの年の頃は派手な失敗をしていたものよ。しくじったと思うたなら、繰り返さぬように努めよ。唐では過ちを改めぬことを過ちというそうじゃが、つまりそれは、過ちを犯しても改めれば過ちではない、ということであろう」
「……? そ、それはちょっと違うような気が……?」
 惟政が思わず首を傾げると、首のあたりで綺麗に切りそろえられた黒髪がさらりと揺れる。そんな惟政の姿を見て、義輝はからからと大笑した。
「細かいことを気にするでないわ。それよりも、はよう報告を聞かせてくれ」
「は、はい、承知いたしました。それでは、毛利の動向ですが、先日、書状でもお知らせしましたとおり、殿下の御意向に従うつもりはまったくないようで――」





 ……惟政の報告を聞き終えた義輝は、やや不機嫌そうに手に持っていた扇で、トン、と床を突く。
「やはり、毛利はあくまで大友を討つ心算、ということか」
「御意。秋月家の援護という形をとっておりますが、此度の筑前侵攻が毛利の策謀によるものであったこと、疑いございません」
「ふむ。まあわらわが遣わした上使を真っ向から退けた以上、今さら翻意するはずもなかろうが……」
 義輝は厳しい表情を浮かべつつ、しずかに目を閉ざす。


 日の本の各地で闘争を続ける戦国大名たち。彼らの力はいまや名目上の主筋である足利家を大きく凌駕していた。
 かつては日の本全土を統べた足利幕府も、今では膝元である山城一国の支配さえ危うい有様である。義輝は剣聖将軍と謳われるほどの卓越した剣の力量を有していたが、個の力で戦に勝つことなぞできるはずもない。将軍家を圧迫する三好家をはじめとした周辺諸国を、武力をもって斬り従え、将軍家の栄光を取り戻すなど夢のまた夢であった。


 それゆえ、将軍家の復興を志す義輝は異なる方法を採らなければならない。その一つが紛争を繰り返す諸国の大名たちを調停することであった。
 これは大名たちの争いを静めてみせることで、将軍家の威光がいまだ健在であることを天下の人々に知らしめると同時に、調停に尽力した双方の家から謝礼の品や金銭をせびり――もとい、受け取ることもできるという非常に有用な方策であった。領地からの収入がろくに得られない現在の状況にあって、諸大名からの進物は足利将軍家の貴重な財源となっているのである。


 さらに、義輝にとって諸国の有力大名との繋がりを深めることには別の意味合いもある。すなわち将軍家に手を出せば、それら大名たちが敵にまわるという状況をつくりあげておけば、不遜な野心を抱く者を掣肘することが出来るのである。
 毛利家が見抜いていたように、北九州を巡る毛利、大友両家の争いに義輝が介入したのは、大友家からの要請を受けてのものであった。しかし、仮に大友家が何も言ってこなかったとしても義輝は動いたであろう。


 ともあれ、門司城の返還を条件として伝えた以上、毛利があっさりと肯うとは義輝も考えていなかった。しかし、さすがに正面から拒絶してくるとは予想の外にあった。
 当然、これを座視できるはずがない。毎年のように多額の献金と進物を欠かさない大友家は、将軍家にとってなくてはならない大切な家である。その苦境を傍観しているわけにはいかなかった。



 だがその一方で。
 毛利家の申し条に理がないわけではない、とも義輝は考えていたのである。
 近年、大友家に関する情報の中には、義輝が眉をひそめる類のものが少なからず含まれている。そして、その多くが南蛮神教に関わる事柄であった。
 上使に対して毛利隆元が述べ立てた言葉は的確にそこを衝いており、無礼の一言で斬り捨てることを許さないだけの説得力を有していたのである。


 南蛮神教に関しては京の都でも意見が分かれている。その教えの急速な広がりに危惧の念を抱いている者たちは幕臣や朝廷の中にも少なくない。
 義輝自身は、各々がその責務を果たしているのであれば、誰が何を信仰しようと気にかけたりはしない。義輝の眼前にいる和田惟政にしてからが、熱心な南蛮神教の信者なのである。
 だが、誰もが義輝のように考えているわけではないことも承知しており、そういった諸々の情勢を鑑みた末に、側近の一人である惟政を西へと遣わした。毛利家の真意、大友家の現状を確かめるために。忍びの技術を持ち、南蛮神教に通じている惟政は格好の人材だったのである。




 まさか豊前の乱が終わって二月と経たぬうちに、筑前における争乱が始まろうとは、さすがの義輝も予想だにしていなかったが、結果として惟政は毛利、大友両軍の動きを克明に観察することが出来た。
 義輝は、惟政の報告を頭の中で整理しつつ、ゆっくりと目を開く。
「……此度の筑前での戦、結果だけを見れば、大友軍の勝ち戦であるが、それにしてはちと妙だとわらわは思う。惟政、そちはどうだ?」
「は、仰るとおりかと存じます」
 義輝の疑念を、惟政は首肯する。
 義輝は惟政の同意を得て、自身の考えをまとめるように、ゆっくりと言葉を紡いでいった。
「立花鑑載、高橋鑑種といえば筑前の雄、大友家にあっては重鎮として隠れなき者どもである。これがそろって裏切るなど尋常なことではない。筑前の大友軍は、苦戦はおろか、全軍潰走にいたってもおかしくはなかったであろう」


 今でこそ将軍として二条御所に落ち着いている義輝であるが、以前は三好、六角、細川といった大名たちとの間で和戦を繰り返し、矢石の中で兵を指揮したことも一度や二度ではない。戦の最中に、先刻まで味方であった国人衆から後背を衝かれたこともあった。
 その経験から推し量れば、今回の筑前争乱の結果は義輝の目には奇妙なものに映るのだ。
「にも関わらず、戸次道雪らはまことに見事な機転を見せて対処しておる。あたかも、あらかじめ両名の離反を見抜いていたかのように、な」
「御意にございます。毛利の調略を、大友の策謀が上回っていた、ということではないかと愚考いたしますが」
「まあ、そういうことになるのかのう……? しかし、毛利の調略を見抜いていたのであれば、それに先んじて手を打つこともできたと思うのだが。謀叛を思いとどまらせるなり、いっそ府内に呼び寄せて蟄居させてしまってもよかろう。あえて謀叛に踏み切らせる理由でもあったのか?」


 惟政の眼前で、むむむ、と頭をひねる義輝。しかし、解答は杳として出てこない様子である。
 それゆえ、惟政は僭越かと思いつつも口を開くことにした。
「恐れながら申し上げます」
「うむ?」
 普段は控えめすぎるほどに控えめな惟政が、自分から口を開いたことに義輝はわずかに驚きを示す。
「愚見でございますが、大友フランシス宗麟殿、手を打たなかったというより、打てなかったのではないか、と思われます。毛利元就殿であれば、謀叛を使嗾したとて証拠になるような物を残すはずがありません。先の豊前の叛乱から幾ばくも経っておらず、大友家臣の動揺は明らか。そこに証拠もなく、ただ謀叛の気配ありとて『西の大友』とも称される大身の家臣を捕らえるような真似をすれば、他の家臣の動揺は、たちまち反感へと変じましょう」
「なるほどのう、それゆえ戦場において備えることは出来ても、先んじて未然に手を打つことはできなかった、というわけか」
「はい。そこまで考えた上で立花、高橋らを選んだのだとすれば――いえ、おそらくはそのとおりなのでしょう。やはり恐るべきは毛利元就殿であるかと」


 惟政の言葉に、義輝は、ふむ、と頷いた。
 それを見て、わずかに安堵を見せる惟政。すると義輝はその惟政の反応を見計らったかのように、不意ににやりと笑ってみせた。
「――と、申すように義秋に言われたか?」
「うえッ?!」
 思わぬ主君の問いかけに、惟政の口から奇声がこぼれる。慌てて口を押さえたものの、義輝の表情を見れば、今さら言い繕っても無駄であることは明らかであった。




 悄然と俯きながら、惟政はおそるおそる口を開く。
「……うう、お見通しでいらっしゃいましたか」
「万事控えめなそちが、こうも滔々と、自信満々で語るのはめずらしいゆえな。何者からか、知恵を拝借してきたのではないか、と考えるのは当然であろう」
 かっかっか、と笑う将軍の御前にあって、惟政は、あうう、とひたすら身を縮めるしかなかった。
 

 惟政は情報を集めることに長けているが、分析に関しては並の域を出ない。筑前の争乱に関して、奇妙に思う点は多々あったが、それが何に由来するかまでは洞察できなかった。
 惟政がただの忍であれば情報だけ届ければ良い。しかし、惟政は幕臣の一人である。報告をした後、義輝から諮問があることは間違いない。義輝を失望させたくない惟政としては、自身の疑問の答えを何としても得なければならなかった。


 敬愛する細川姉妹がいてくれればと思ったが、二人は今、別命を帯びて堺と近江に行っている最中である。幕臣の中に智者がいないわけではなかったが、三好、松永、六角といった諸大名の息がかかっているかもしれないと思えば、安易に情報をもらすわけにもいかない。
 困じ果てた挙句、惟政が考え付いたのは足利義秋――大和興福寺に籍を置く女僧、覚慶を頼ることであった。


 義輝はみずからにはない謀画の才を持つ義秋を信用しており、様々な相談事を持ちかけている。惟政はその繋ぎを任の一つとしていた。
 当然、覚慶との間に面識はある。くわえて、これは惟政の自惚れかもしれないが、覚慶に目をかけてもらっているとも感じていた。その証拠に、今回の任に関しても、今代の南蛮神教布教長への書状を認めてもらったりと様々に便宜をはかってもらっていたのである。


 覚慶の口からそのことを聞いたときは惟政も驚いた。興福寺に籍を置く覚慶が、南蛮神教と関わりを持っているとは思いもよらないことだった。
 だが、聞けば先代の布教長が南蛮神教布教の許可を得るために京を訪れた折、覚慶は興福寺の代表として布教長と語り合う機会があったのだという。異なる教えを信じる者同士、反発を覚えても不思議ではなかったが、両者は互いに相手の見識に感銘を受け、それ以来、幾度か手紙のやりとりをしていたとのことだった。



「まあ、あやつのことだから、ただそれだけでもあるまいがの」
 そう言って笑う義輝は、当然そのことを知っていた。知っていて、自由にさせているところを見ても、妹に対する義輝の信頼の厚さが見て取れる。惟政にしても、妹に対するこの義輝の信頼を、事あるごとに目の当たりにしていなければ、義輝への報告に先んじて覚慶に会うような真似は慎んだであろう。



 ともあれ、覚慶からの助言は惟政はもちろん、義輝をも納得させるものであった。
 覚慶のいうとおり、毛利元就の謀略の冴えは警戒してしかるべきである。彼の家が将軍の上使を退けた上は相応の対策を練っていることだろう。
 同時に、その毛利の謀略と攻勢を凌いでのけた大友家も、やはり大したものと言わねばならない。
 惟政の報告によれば、当主である宗麟は南蛮神教に傾倒すること甚だしく、それが家臣たちの不満と不審を煽り、うちつづく謀叛の一因となっているとのことだが、それでも毛利を退けることが出来るあたりに大友家の底力がうかがえた。


 南蛮神教のことも含め、当分の間、西の情勢から目を離せぬ。幕臣の中から人を選んで――いや、いっそ惟政を西国の情報収集の専任に充てようか、などと義輝が考えた時だった。
 惟政が懐から一通の書状を取り出してみせた。それは覚慶から義輝にあてたものだった。







 書状を差し出しながら、惟政はそれを預かった時のことを思い起こす。
 覚慶からの書状を差し出せば、義輝に報告する前に覚慶に会ったことを見抜かれてしまう。それを心配する惟政に、覚慶は口元に薄い笑みを浮かべてあっさりと言ったものだった。
『案ずることはない。あの姉君なら、そちの報告を聞くなりすぐに見抜くであろうよ』
 それを聞いた惟政は、それならはじめから覚慶の意見として具申すべきだ、と考えたのだが、それは覚慶に止められた。
 覚慶は手元の黒い筒に視線を向ける。それはカブラエルという名の布教長から覚慶にあてられた返書であった。
『今の助言は、これを届けてくれた礼でもある。とりあえずそちの意見として具申してみよ。通れば幸い、通らずとも姉君は笑うてお許しくださるわ』
 そう言ってくすりと微笑む姿は正しく嫣然という言葉そのもの、僧形にも関わらず奇妙に艶やかであり、惟政の目には姉たる将軍よりもはるかに大人びて映っていた……





◆◆◆




 河内国 飯盛山城


 その家は日の本でも屈指の大勢力を誇っていた。
 畿内にあっては摂津、河内、和泉の三国に加え、大和の北半分、山城の一部、丹波の一部を支配下に置き、海を挟んだ四国の阿波、讃岐、そして淡路島をも領有する。
 その広大な領土に支えられた豊富な財力と強大な武力は、事実上、この国における最大勢力といっても過言ではないだろう。その証拠に、近江、紀伊、土佐をはじめとした周辺諸国はもとより、武家の棟梁たる足利将軍家さえ、その意向をおろそかにすることは出来なかった。



 ――阿波の守護代より始まり、戦国の動乱を駆け抜け、幾多の戦いを勝ち抜いて現在の栄華を掴み取ったその家の名を、三好家、といった。





 飯盛山城は三好家が阿波より移した本拠地である。それは同時に、三好家の天下経略の策源地であることをも意味する。
 今、飯盛山城の一室に集っている者たちは、まさにその中枢に位置する者たちであった。
 上座に座るのは三好家の現当主である三好長慶(みよし ちょうけい)である。


 足利将軍家さえその顔色をうかがう大家の当主は、直ぐな黒髪が印象的な女性であった。
 ただ、逆に言えば黒髪以外にあまり印象に残るものがない顔立ちであるともいえた。整った目鼻立ちは十分に美しいといえるのだが、化粧らしい化粧をしておらず、身にまとう衣装も華美や瀟洒という言葉とは縁遠いものである。
 三好家の当主であれば、それこそ全身に金銀珠玉をちりばめることも可能なのだが、長慶はそういった装いを好まない――というよりも興味を持たなかった。今も半ば俯くように目を閉じ、配下の報告に聞き入るのみであり、そこに見る者の目を惹くような華は感じられない。本人の穏やかで物静かな気性も手伝い、長慶と対面したとしても、鮮烈な印象を受ける者はまずいないといってよいだろう。


 華美、瀟洒、あるいは鮮烈という言葉を用いるのであれば、今、その長慶の前で報告を行っている松永久秀の方がよほど相応しいに違いない。
 語る言葉の一つ一つに、あるいは何気ない仕草の端々に、滴り落ちるほどの色香を漂わせながら、しかしそれらは決してその人物の気品を損なうことがない。それは当代一とも噂される久秀の教養と儀礼があって、はじめてなしえる業であるのだろう。
 教養や儀礼に関する造詣の深さでは長慶とて決して久秀に劣るものではない。しかし、両者を見比べれば、少なくとも外見の秀麗さに関しては久秀に軍配があがるに違いなかった。


 部下が当主を凌ぐのは僭越であるとはいえ、事が容貌や技能に関わるのであればいたしかたない面もある。まして女性が己を飾り立てるのは、男性が武具や茶器を磨き上げるようなもの、咎めだてするなど無粋も極まるというものだろう。
 しかし。
 久秀本人がそのことを自覚し、のみならずその事実を利用して三好家の中で権力を増大させているのであれば、それは僭越を越えて不遜というべきである――この場に集った者たちの中には、そう考える者もいた。
 そして、久秀が報告を終えるや口を開いたのは、その筆頭たる人物であった。



「――越後上杉家に管領職を与える、とはまた奇妙なこと。管領殿(細川氏綱)は淀城に健在ではないか。その情報はまことなのか、久秀?」
 重々しい声と特徴的な髪型の主は十河一存(そごう かずまさ)という。
 三好長慶の弟であるが、幾筋も戦傷がはしる剛強な面構えは、どう見ても一存の方が年嵩に見えた。精強を謳われる四国の讃岐衆を率い『鬼十河』の異名を冠する三好家随一の猛将である。『十河額』とも称されるその髪型を真似する者が三好家中に絶えないのは、一存の武勇にあやかるためであると同時に、それだけ一存が将兵の信望を集めていることの証左でもあった。


 三好家中にあって、近年とみに影響力を強めている松永久秀。一存は味方であるはずの眼前の少女に対して、警戒心を消すことが出来ずにいた。
 とはいえ、久秀の言動にすべて噛み付くほど一存の視野は狭くない。その言に理があるならば、いくらでも耳を傾けたであろう。
 しかし、今回の報告に関しては一存は疑義を挟まずにはいられなかった。


 その一存の疑問を受け、久秀は微笑みながら頷く。
「ええ、十河様の仰るとおり、管領様は淀城にて健在です。ゆえに上杉に与えるは管領相当の待遇であるとか。仄聞したところ、将軍家は上杉に対し、文の裏書、塗輿、菊桐の紋章、朱柄の傘、屋形号の使用を許すつもりであるらしゅうございます。上杉家当主謙信は先の上洛の後、越後守護として白傘袋、毛氈の鞍覆の使用を許されていますので、これで七つもの免許を得ることになりますわね」
 その久秀の言葉に周囲から驚きの声があがる。
 久秀は「仄聞」などと言ったが、それを文字通りの意味でとる者はこの場にいない。将軍の身辺に潜ませた諜者からの情報であろう。久秀の情報の精度は余人の追随を許さず、限りなく事実に近い。それはこれまでの実績からも明らかであった。


 ここで別の人物が新たに口を開いた。
「……それが真であれば、確かに管領職に任じたも同じことですね。しかし、何故に殿下は急にそのようなことを仰られたのか?」
 呟くように口を開いたのは安宅冬康(あたぎ ふゆやす)といい、一存と同じく三好長慶の弟である。一存が讃岐の十河家の家督を継いだように、冬康は淡路の領主である安宅家の家督を継いだ。
 武勇や政略は姉兄に及ばず、線の細い外見は繊細さすら感じさせる。だが、冬康は繊細ではあっても決して柔弱ではなかった。その誠実にして実直な為人は他家にも高く評価されており、将兵の信望も厚い。
 戦にあっては沈着で粘り強い指揮をとり、兄である一存のような派手な戦功こそないものの、堅実な戦ぶりでこれまで幾度も三好家の勝利に貢献してきた。また、そうでなくては冬康のような若年の棟梁が、荒くれ者の集団である安宅の水軍衆を束ねることなど出来るはずもなかった。



 その冬康の問いに、久秀はよどみなく応じる。
「表向きは先の上洛、さらにその後の東国平定の功績によって、というところでしょうか。越後の存在が現在の東国の平穏に一役も二役も買っていることは確かでございますから。しかし、まことの目的は越後に逃げたままの関東管領の存在かと」
 久秀の言葉に、冬康と一存は知らず視線を合わせていた。




◆◆




 関東管領上杉憲政が北条家に逐われ、越後へ逃げ込んで数年が経つ。
 居城である平井城はとうの昔に関東管領家に復していたが、当主である憲政はよほどに越後の風物が気に入ったのか、上野に帰国しようとせず、越後で建築や造園、あるいは歌舞音曲に勤しんでいるという噂であった。
 上野の統治は重臣である長野業正によってつつがなく行われているものの、関東管領が越後にいるという事実は、関東の情勢にねじれをもたらすに十分な要素である。
 ことに関東経略に主眼を置く北条家にとって、関東管領が越後に滞在している事実は到底黙視できるものではなかった。


 北条家が関東支配のために各地に兵を出せば、攻められた相手は他の関東国人衆に助けを求める。当然、関東管領を庇護する上杉家にも使者はおとずれる。
 越後上杉家の当主である謙信は、他者に助けを求められれば否とはいえない為人であるが、こと関東の情勢に関しては、憲政の意思に拠らずして介入することは極力避けていた。
 これは関東管領の庇護という大義名分を濫用せぬように、という謙信の自制の結果であったが、とある人物が遺した『関東に一歩踏み込めば、京より一歩遠ざかることをくれぐれもお忘れなきように』という進言に拠るところも大きかった――無論、それを知る者はごく限られていたが。


 とはいえ、その進言は関東に兵を出すことを否定するものではない。上杉憲政が関東管領として北条家と決戦するつもりであれば、謙信はこれに合力し、北条家と決戦することにためらわなかったであろう。
 しかし、憲政にそれだけの覇気はなく、関東からの救援を求める使者は厄介事として春日山城にまわされ、謙信以下越後諸将の困惑の種になっていた。
 弱小大名同士の争いであれば、あえて兵を出さずとも、越後守護の威をもって承伏せしめることも出来たであろうが、北条家は内治、外征、いずれの面をとってみても越後と同等以上の強大国である。示威だけで矛をおさめるはずもなかった。




 一方、北条家としても困惑の度合いは越後上杉家とさほどかわりはない。
 北条家は関東管領家――というよりも上杉憲政に対して尽きぬ恨みがある。憲政は関東一の美姫と名高い氏康に執心し、古くは関東管領の威をふりかざして相模に乱入してきたこともある。
 この時は氏康みずからが最前線で槍をふるい、敵の大軍を撃退せしめたのだが(憲政軍の放火により、収穫前だった小田原城下の沃野がことごとく灰燼と化したことに氏康が激怒した)、その被害は無視できるものではなかった。
 それ以後も事あるごとに北条家に圧迫を加え、氏康を手中にせんとしてきたのが上杉憲政という男である。北条家は、上は当主から、下は農民に至るまで、これを討つことに何のためらいもなかった。今は越後でのほほんと過ごしているとしても、いつ気が変わって再び北条家に敵対してくるか知れたものではないのである。


 その一方で、北条家は越後に対してはそこまで深い恨みがあるわけではなかった。
 無論、これまで憲政に与してきた上杉家に好意など持ちようもない。上野では実際に矛を交え、互いに少なからぬ被害を出している。
 しかし、それは戦国の世であればめずらしくもないこと、越後が憲政に与することを止め、関東から手を引けば、あえてこれ以上矛を交える理由はない。
 それどころか、出来れば越後とは戦いたくない、というのが北条家の主だった者たちの偽らざる心境であった。
 越後の軍神と真っ向からぶつかれば、その被害が甚大なものとなることは誰の目にも明らかである。越後が関東支配を望んで兵を出す、というのであれば、無論これと戦うことに否やはない。しかし、上杉謙信の目的が上杉憲政の援護にあることは周知の事実。憲政を討つために、越後の精鋭とぶつかるなど一利を得るために百害を受けるようなものである。


 くわえて、甲斐の武田家の動向も気にかかる。
 今川、武田、北条の間に結ばれた先の三国同盟は、今川家の滅亡によって事実上崩壊した。武田と北条の間の盟約が正式に破約になったわけではないのだが、東西に二分された駿河の支配権を巡って、両家は緊張が絶えない関係にある。破約は時間の問題であった。
 それに比べると、越後と甲斐の盟約は動乱後に結ばれただけあって、より強固であるといえる。北条が関東で上杉と戦っている間に、武田が駿河に兵をいれる可能性は少なくない。あるいは、直接に本国である相模を衝いてくるかもしれない。
 北条家は関東随一ともいえる富強を誇るが、越後の竜と甲斐の虎を同時に相手取ればどうなるか。結果は火を見るより明らかであった。
 


 つまるところ。
 関東情勢の焦点は、上杉憲政が何を望むか。その一点にかかっていたのである。
 あくまで関東管領として戦うのか。越後で一人の風流人として生きるのか。
 憲政に個としての力はない。あるのはあくまで関東管領という名のみである。これを手放せば、北条家の敵意も緩むであろう。
 ただ関東管領は幕府の顕職であって容易に代われるものではなく、なにより憲政にはその座を離れるつもりが全くなかった。
 かといって、関東管領の職分を果たす意思は薄い。越後の重臣である直江兼続などは、憲政に物申したいことが山脈一つ分ほども溜まっているのだが、主君である謙信をおしのけて、その配下が苦言を申し立てるわけにもいかなかったのである。


 無論、謙信とて盲目的に憲政に従ってきたわけではない。これまでも事あるごとに憲政に決断を願ってきた。
 しかし憲政は、謙信が口を開けば迷う素振りを見せるものの、やはり地位に執着を見せた。あるいは憲政としては、歴史ある関東管領の家を自分の代で途切れさせることに忍びず、我が子が元服するまでは、と考えているのかもしれない。
 しかし、現在の関東情勢を鑑みれば、憲政の悠長な考えを容れることは難しい。謙信はそれをも説いたのだが、謙信の性格上、どうしても目上の憲政に対して口にできることには限りがあった。


 結果、憲政は関東管領職にありつづけ、関東の情勢は発火にはいたらぬまでも、火種は各地でくすぶり続けているのである……




◆◆




「……つまりは謙信に対して、関東管領を掣肘し得る権限を与え、関東の情勢を鎮めること。それが公方様の狙いなのでしょう。関東が乱れれば、事あったときに越後や甲斐を動かしにくいですから」
 そう言って、久秀は意味ありげにくすりと微笑む。
 その言葉が先の両家の上洛を意味していることは、三好家の者にとってはあからさまなくらいに明らかなことであった。


 同席していた三好政康ら三人衆などからは「我ら三好家を差し置いて」という怒りの声も聞こえたが、長慶、一存、冬康らは騒ぎ立てることなく、何事か考えにしずんでいた。
 そんな三好一族を等分に見やりながら、久秀は核心となる報告を口にする。
「長慶様、公方様はこの件にことよせて、今一度、謙信を京に招きよせる心算らしゅうございます。すでに使者は京を発った頃でございましょう。あの律義者が公方様の意向を無視するとは思えませぬゆえ、上杉軍は間違いなく上洛して参りましょう。その対応を定めるべく、此度、皆様をお呼びたてした次第なのです」 


 その久秀の言葉に、一存がぎろりと鋭い視線を久秀に向けた。
「……久秀、使者が出るとわかって、それをそのままにしたのか?」
 捕らえるなり始末するなり出来たのではないか、と一存が詰問する。
 それに対し、久秀は小さく小首を傾げてみせた。
「長慶様の指図を仰ぐことなく、将軍家の御使者に手を出すような真似が出来るはずがありませんわ、十河様。それは越権というものです」
 そう言って無邪気に微笑みかけてくる久秀の顔を見て、一存はそれとわかるくらいにはっきりと顔をしかめてみせる。ぬけぬけとよくも言うものだ、との内心の思いがあらわであった。


 その一存に向けて、久秀が口を開こうとした時。
 はじめて上座にいる長慶が言葉を発した。
「久秀の申すことはわかった。でも、対応を話し合うのは義賢が着いてからにしようと思う」
 義賢、というのはこの場にいない三好姉弟の最後の一人である。


 智謀においては長慶に劣り、武勇においては一存に下回り、家中の信望においては冬康に及ばない――義賢はそんな人物であった。これだけ述べると役立たずの観を拭えないが、別の言い方をすれば、武勇においては長慶に優り、智謀においては一存を上回り、文武両面において冬康を凌駕する、とも表現できる。
 突出した長所がないかわりに、突出した欠点も見当たらない。それが義賢の世評であるのだが、弟の一存などから見れば、あらゆる面で平均をはるかに上回る義賢の器用さは立派な長所であるとしか思えない。
 だからこそ、長慶が畿内に進出した後、本国である阿波の統治を委ねられたのであり、三好家の後方を磐石たらしめるという難事をいとも軽々とこなすことも出来たのである、と。


 もっとも義賢当人はとある理由で、己の役職に不満たらたらであることを一存は知っている。
 何故そんなことを知っているのかといえば。
 一存は讃岐衆を率い、事あるごとに海を渡って畿内で戦っている。当然、その命令は四国方面の責任者である兄を通じて届けられる。腰の軽い兄は往々にして自ら馬を飛ばして十河城にやってくるのだが、長慶からの命令を伝える時の兄の顔は、誰の目にも明らかなほどに不満の塊であった。一存にしてみれば、海を渡って敵と戦うよりも、兄の不満をなだめるほうがよほど難事であるといってよい。


 義賢はなにも戦功が欲しいとか、都にあこがれているとか、そういった理由で四国を出たがっているのではない。むしろ畿内や都よりも、阿波の方がよほど落ち着けると広言してやまない性格である。
 現状、その望みが満たされている義賢は、では何に不満を抱いているのか。
 それは――




 そこまで一存が考えた時だった。
 不意に、その場にどたどたと慌しい足音が響き渡った。
 そして、室内にいた者たちが怪訝に思う間もなく、足音の主が姿をあらわす。
「おお、姉上、お久しゅうございますッ!」
 そう言うや、歴戦の一存の目にもそれとわからぬくらいの素早さで、その人物は長慶の眼前に畏まって座っていた。
 小太りの体格からは信じられないほどの身の軽さである。よほど慌てて来たのか、その額にはじっとりと汗が滲み出ているが、当人も、向かいあう長慶もそんなことは気にしていないようだ。
 めずらしく長慶の顔には、はっきりとそれとわかる笑みが湛えられていた。


「義賢、久しぶり」
「まっこと久しぶりでござる。最後にお会いしてから幾星霜の時が過ぎ去ったことか。この弟めは、一日千秋の思いでこの日をお待ちしておりましたぞッ」
 そう言って三好義賢はにじり寄って姉の手をしっかりと握る。
 長慶は汗で湿ったその手を厭う様子もなく、微笑んでされるがままに任せていた。




 しばらく姉の手を握りしめていた義賢であったが、ようやく満足したのか、その手を離すと、今度はすぐに一存のところにやってきた。
「おお、一存、少し見ぬ間にますます厳しい顔つきになった。もうすっかりお主の方が年上にしか見えんな」
 わはは、と笑いながら親しげに肩を叩いてくる義賢に、一存は苦笑まじりに頭をさげた。
「お久しゅうござる、兄上。海が荒れているゆえ、到着は遅れるだろうと冬康から聞いておりましたが」
「ふん、久方ぶりに姉上や弟たちに会えるというに、嵐ごときで足止めされてたまるものかよ。阿波の船乗りは荒天ごときに屈しはせぬぞ」


 義賢が笑うと、ここで冬康が、すぐ上の兄と似たような表情を浮かべながら話に加わった。
「また家臣に無茶を言ったりはしていませんよね、大兄」
「おお冬康も久しいな、それと案ずるな。無事に堺に着けたら金十両と申したら、みな喜び勇んでやってくれたよ」
「世間では、それを無茶というのですよ、大兄」
 そう言いつつも、冬康は愉しげに笑うばかりであった。この兄の気性は、それこそ生まれた時から知っている。姉に会いたさに相当な無茶をしてきたに違いない。




 姉弟たちに挨拶を終えた義賢が、次に声をかけたのは松永久秀であった。
「おう、弾正。今回はよう皆を集めてくれた。お陰で久方ぶりに家族がこうして顔をあわせることが出来た。礼を申すぞ」
 そういって笑いかけてくる義賢に対し、久秀は小さく微笑んでみせる。しかし、それは長慶らのそれと異なり、儀礼以外の意味を持たない乾いた微笑であった。
「義賢様のためにしたことではございませんが……結果として義賢様のためになったのであれば重畳でございますわ」
「うむ、なったなった。また何事かあれば頼むぞ。何なら毎月――いや、半月――いやいや、十日に一度くらいでもわしは一向にかまわんッ。報告がないのであれば、そなた主催の茶会でもいいのでな」
「ふふ……まあ戯言はその程度にしておいてくださいな。義賢様にも報告を聞いていただかねばなりませんの。それにしても、堺から使者の一人でも出していただければ、御到着までお待ちしていたのですけれど」
「無論、使者は出したぞ。たんにわしが使者より早く着いてしまっただけだ」


 義賢はそういって、再びからからと笑う。
 しかし、その周囲では久秀に対して厳しい視線が向けられていた。特に一存のそれは、気弱な者なら震え上がるほどである。
 義賢は主君である長慶の弟であり、四国方面の政治と軍事の全権を握っている。その義賢に対し、面と向かって「戯言」などと口にすれば、その無礼を咎められてもおかしくはない。弟たちや家臣が色めきたつのは当然であった。
 しかし、義賢は気にする素振りも見せず、久秀に話を促す。
 そして、先刻の話を聞き終えるや、あっさりとこう言った。


「放っておけばよかろう」


 その言葉に、久秀はわずかに目を細め、他の者たちは義賢に驚きの視線を集中させた。
 一存が周囲の疑念を代表する形で口を開く。
「しかし、兄上、越後の者どもが管領に任じられ、京にのぼってくれば、我らとしても困ったことになるのではありませんか?」
「それはまあ面倒なことにはなるだろうな。しかし正式に淀城の管領殿が任を解かれるわけではない。であれば上杉が何を言ってきたとて手のうちようはいくらでもあろう。まあ、仮に上杉が正式に管領になったとて、雪に閉ざされし越後からでは京は遠すぎる。我らの優位は揺るがぬよ」
 大体、上杉と敵対しなければならんという決まりもないしな、と義賢は言葉を続ける。
「先の上洛の時、弾正がそうしたように表向き将軍家に従っておけば、向こうも手出しは出来ん。決め手となるは官位でも軍勢の多寡でもなく、本国と京との距離よ。これに優っている以上、越後は我らに及ばぬわ」


「確かに大兄の仰るとおりかとは思いますが……」
 冬康は首を傾げる。
「しかし、何の対策も立てずに放っておくのは、いささかのんびりとしすぎてはおりませんか?」
「放っておけ、とは言ったが、のんびり過ごせとは言っておらぬ。越後なぞより、もっと気をつけねばならぬ者がおろう。まずはそちらの対策が先だということさ」
「気をつけねばならぬ者、でございますか? それは――」
 冬康の問いに、義賢はあっさりと応じた。


「尾張の織田信長だよ」


 その名に対する反応は、きわめて薄かった。
 少なくとも、その名を予測しえた者はこの場でも片手で数えられる数しかいなかったであろう。
 桶狭間にて「海道一の弓取り」と謳われた今川義元を討ち取った織田信長。
 しかし、当時の今川家に幾多の問題があったことは、桶狭間後に起こった東国の動乱から明らかとなっており、義元を討ち取った信長の功績は怪我勝ちに等しい、との評が多数を占めている。
 桶狭間の合戦の後、信長はたちまち尾張を掌握し、間もなく美濃へと侵攻を開始。数年が経過した現在、織田家は美濃のほぼ全土を制圧するに至っているが、これとて油売りに勝っただけであるとして、信長に対する評価はいまだ実績に及んでいないのが現状であった。


 しかし、義賢はそんな信長を謙信に勝る脅威だという。
「今も言ったが、謙信は将軍さえ立てておけば敵にまわることはない。仮に戦となったとしても、遠く越後からの出兵では明らかな限界がある。だが尾張の信長はそうはいかぬ。織田家が美濃を制してしまえば、京までは近江一国を余すのみだ。北近江の浅井を抱き込めば、浅井と縁の深い越前の朝倉は容易に動けず、南近江の六角や佐々木なぞ道端の石ころのように織田の軍勢に蹴飛ばされよう。信長の世評を聞くかぎり、謙信とは対極に位置する為人だぞ。我らが将軍を立てたところで、躊躇せずにこちらに兵を向けてくるだろう。謙信と信長、どちらが我らにとって脅威であるかなど考えるまでもあるまいて」


 滔々と語る義賢に、諸将はただ黙って聞き入ることしか出来ない。
 そんな家臣や弟たちに、義賢は小さく肩をすくめてみせた。
「まあ信長とて美濃を奪ってすぐに上洛、というわけにもいくまいがな。新しい領地が落ち着くまでには時がかかるし、上洛の名分もないのだから」
 だが、あるいはそう考えることこそ、信長の思う壷かもしれぬ。義賢はそこまで考えていた。
「ゆえに、今は遠く越後の動向を案じるよりは、近くの美濃、尾張に注意を払うべきであろう。それに西の情勢も気になるしな」



 義賢の言葉が終わると、それまで黙って聞き入っていた長慶がゆっくりと口を開いた。
「義賢」
「は、姉上」
「織田のことはわかった。けれど西の情勢、というのは大友と毛利のこと?」
「それも含めた西国の情勢でござる。ここ数年、南蛮船の多くが堺ではなく豊後に向かうようになったのは姉上もご承知でありましょうが、さらに先ごろ、大友はまた新たな港を日向の地に建設いたしました。なんでもムジカとやらいう南蛮神教の城市だとか――弾正、ムジカで間違いなかったか?」
 義賢の問いに、久秀は頷いた。
「ええ、間違いございません。越後の件が終わった後に報告するつもりだったのですが……」
「ふはは、早いもの勝ちだ。まあ、それはともかく、ムジカとやらが出来てしまえば、これまで以上に堺に来る南蛮船が減り、海外との交易が難しくなってしまいます。この対策も早急にしておくべきですな。豊後は越後と同じほどの遠国ですが、海で繋がっている分、比較にならぬほどに近いとも申せます。越後への対応を定めるのは、尾張と豊後の後でよろしいかと、姉上」



 弟の進言に、長慶はこくりと頷いた。 
「わかった……義賢の考えは?」
「まず織田に関しては、これまで以上に諜者を放って情報を集めるべきでしょう。同時に将軍家の監視をより強め、間違っても織田に上洛を促すような真似はさせぬこと。当面はそれでよろしかろうと存じます。西に関しては――これはまあわしよりも、堺を治める弾正の方が詳しゅうござろう。弾正の話を聞いてからにいたしますか。よいか、弾正?」
「承知仕りましたわ、義賢様」


 訊ねた者と応じた者。双方の視線がつかの間交わり、互いに刃の気配を宿したが、それはほんの一瞬だけ。当人たち以外にそれと悟れた者はほとんどいなかった。





[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第七章 繚乱(七)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:cd1edaa7
Date: 2011/02/13 01:07
 薩摩国 内城


 島津歳久は軍議の間で先刻届けられた書状をじっと見据えていた。そこに記された報告の意味を読み取ろうとするように。
 そんな歳久の耳に、とたた、と軽い足音が響き、間もなく歳久のただ一人の妹が姿を見せる。
「歳姉、おはよー」
「おはよう、家久」
 挨拶に応じてから、歳久は表情をあらため、苦言を口にする。
「家久。島津の姫ともあろう者がみだりに城内を走り回るものではありませんよ」
「あ、そっか。ごめんなさーい。歳姉からの呼び出しに遅れちゃいけない、と思って」
 てへ、と舌を出す家久を見て、歳久は何か言いたげに口を開きかけたが、結局、苦笑と共に口を閉ざした。


「それで、何の話なのかな?」
 家久の問いに、歳久は書状に記された情報を妹に伝えた。
「先刻、肥前より報告が届きました。松浦隆信が竜造寺家に降伏したそうです」
「そっか。思ったより早かったね」
 家久は特に驚くでもなく、あっさりと頷いた。


 先の筑前における争乱終結とほぼ時を同じくして、肥前の竜造寺隆信が松浦家に攻め寄せたことはすでに島津家も掴んでいた。
 平戸を治める松浦隆信は、南蛮神教を積極的に庇護し、のみならず自身も洗礼を受けて信徒となり、領内に多数の信者を住まわせることで南蛮船の寄航を増やすという、ある意味で大友宗麟と同様の方針を採ってきた人物である。さらには海を挟んだ隣国である明との交易も盛んに行っており、それらの交易によって得られた莫大な富をもって肥前の地に地盤を築き上げてきたのである。


 しかし、その松浦隆信も竜造寺家の急激な拡大にはほとんど為す術がなかった。貿易港である平戸を擁するとはいえ、肥前北西部の一部を領有しているに過ぎない松浦家に対し、竜造寺家はすでに肥前の半ば以上を制圧しており、その麾下には鍋島直茂や四天王を筆頭とした勇将知将がずらりと居並んでいる。両家の力の差は誰の目にも明らかであった。
 それでも、これまで松浦家が竜造寺家と何とか拮抗できていたのは、東の大友家の存在があったためである。
 だが、竜造寺家の軍師鍋島直茂は、近年、続発する叛乱によって、現在の大友家に肥前をうかがう余力なしと判断、竜造寺家の総力を挙げて松浦領への侵攻を開始する。
 こうなれば松浦家に勝機は少ない。交易で得た銃火器をもって抵抗するも、竜造寺軍の勢いを押し留めることはかなわず、ついに降伏を余儀なくされたのである。



 この肥前における勝敗の帰結は島津家の予測どおりであった。
 とはいえ、島津家にとって肥前の情勢はさして重要なものではない。少なくとも大友の動静ほどに注意を払う必要はない、というのが歳久、家久の二人に共通する見解であった――つい先日までは。


 しかし、今の島津家にとって、肥前からの知らせは無視できない要素が含まれている。それは――
「松浦隆信は南蛮神教を奉じる大名。宗麟ほどではないにせよ、南蛮に対しては好意的であり、平戸には南蛮神教の信者たちが多く住まっていると聞きます。一方の竜造寺はそこまで南蛮に寛容ではない。平戸が竜造寺の手に帰したとなれば――」
「南蛮は無条件で自分たちを受け容れてくれる拠点を、一つ失ったことになるね」

 
 遠く大海を越えて異国への征旅に発つとなれば、補給の問題はどこにいってもついてまわることになる。率いる兵力が大きければ大きいほど、それに比例して水や食料の確保が難しくなるのは当然であった。
 無論、南蛮側とてそれは承知しているであろうし、補給には万全を期しているに違いない。それでも平戸港を使えなくなったことは、南蛮艦隊にとって痛手……とまでは言えないにせよ、その軍事行動に無視できない影響を及ぼすことになるだろう。




 もっとも、と歳久は不機嫌そうに付け足す。
「……本当に南蛮艦隊とやらが迫っているのであれば、ですけれど」
「もう、歳姉ったらまだ疑ってるの?」
「むしろ家久たちがあっさりと信じすぎなのです。あの男の言うことに、確たる証拠など何一つとしてないではないですか」
 歳久は呆れたように小さくかぶりを振る。家久の視界の中で、短く切りそろえられた歳久の黒髪がかすかに揺れた。


 世に言う島津の四姫の中にあって、歳久はひとり、己の髪を首のあたりで短く切りそろえている。 女性の美しさを見るとき、髪が大きな要素を占める世の中にあって、あえて髪を短くするということは、すなわち『女性』としての自分の一部を切り捨てるに等しい。
 そこに込められた歳久の決意に、無論、他の姉妹たちは気づいている。
 だが、家久はそんな素振りを微塵も見せずに話を進めた。


「確かに来るって証拠はないよね」
 それは家久も認めざるを得ない。だが――
「でも、逆に言えば来ないって証拠もないよね?」
 少なくとも、雲居の説を明確に否定し得る根拠を島津家は持っていない。家久はその点に言及する。
 もっとも、来ないと証明できないからといって、来ると決まったわけではない。そのことも家久は承知していた。
 ゆえにこの場合、判断の基準となるのは雲居の言葉を信用するか否か、その一点に懸かっている。


「筑前さんが言ってたこれまでの南蛮神教の動きとか、ムジカの建設とかを見れば、南蛮が艦隊を派遣しているっていうのは十分にあり得るんじゃないかな」
「その南蛮神教の動きとて、あの男が偽りを述べたのかもしれないではないですか」
 こちらは時間さえあれば調べることは可能である。だが、雲居の話が本当であれば、そんなことに時間を割いている余裕はない。偽りであったとしたら、なお悪い。時間と人の無駄遣いに終わり、大友家に貴重な時間を与えてしまうことになる。



 今、島津家は大友家という大敵と相対している。島津家が総力を挙げて戦ったとしても、勝ちを得るのは難しい相手だ。
 そんな状況にあって、大友家に仕える者があらわれ、実はすぐ後ろに南蛮という海向こうの大国が攻め寄せてきているかもしれないなどと言い立てる。おまけに大友家で影響力を強めている南蛮神教は、そんな南蛮国の侵略の先手に等しいという。


 この言葉を信用して南蛮に備えれば、当然、大友家と戦うための戦力に不足を来たす。そんな状態で両家がぶつかれば、勝敗の帰結は火を見るより明らかであろう。
 大友家が日向北部でどのような蛮行を為したのかはすでに九国各地に伝えられている。大友軍に薩摩の地を一歩たりとも踏ませるつもりのない歳久が、雲居の言葉に簡単に頷けるはずもなかった。


 その一方で。
 仮に雲居の言葉が真実だとすれば、大友家の侵入を阻んだとしても、南蛮という異国の軍勢に薩摩は蹂躙されることになる。それもまた歳久にとっては決して認められない未来である。
 苦悩する姉の姿に、家久は気遣わしげな眼差しを向ける。
 歳久の迷いは、事情を知る島津の君臣すべてに通じる迷いでもある。当然、家久も同じように考え、迷った。


 そして、それは話を持ち込んだ当人――雲居筑前が十分に予測するところであった。
 雲居がいうところの『手土産』は、島津家の君臣が抱くであろう信頼と疑念の天秤、それを一方の側に傾けさせるものだったのである。


「――もし、筑前さんが嘘を言っているのなら、菱刈の金の存在を知っている人をわたしたちに教えたりはしないと思うんだけど」
 守田氏定という名の鉱山師が、菱刈付近に金鉱を発見した――その情報が雲居の口から出た際、島津の君臣でそれをすぐに信じた者はいなかった。それは雲居の言を疑ったというより、呆気に取られたためである。
 歳久はもちろん、家久でさえ「この人は突然なにを言い出すんだろう??」と戸惑いを隠せなかった。


 そんな島津家の面々が顔色をかえたのは、雲居が証拠の一つとして懐にしまっていた小粒の鉱石を取り出してみせてからである。
 日の光を受けて鈍い黄金色の輝きを放つそれが何なのか、雲居が口にするまでもなく明らかであった。



◆◆



 その後に起こった騒ぎは、今なお鎮まったとは言い切れぬ。


 この騒ぎでもっとも注目を浴びたのが守田氏定であったのは当然であろう。同時に、もっとも割を食ったのも氏定以外にありえなかった。何故といって、命じられて菱刈近辺の調査に従事していたはずが、肝心の金鉱脈を『発見した』人物として島津の家臣たちに菱刈から引っ張ってこられた上に、その真偽を確かめるために昼夜の別なく質問――というか尋問――というより詰問を受ける羽目になったからである。


 無論、これには相応の理由が存在した。
 氏定は高千穂で雲居に雇われ、その指示に基づいてはるばる薩摩までやってきて鉱脈を探った。
 率直にいって、そう簡単に金山が見つかるものか、と思っていたが、報酬は破格であり、たとえ空振りであったとしても、高千穂で商いをしているよりもよほど儲かるのは明らかであった。
 それゆえ、氏定は手を抜かずに調査にあたった。金の気配がなくとも、鉱山師として、各地の山を見ることは今後のためにもなるはずだった。
 そう考え、指示された菱刈近辺の調査を開始し――ほどなく、氏定は顔色を一変させる。


 菱刈の光景に、かつてないほどの『何か』を感じたのは、鉱山師としての氏定の力量ゆえであったろうか。
 氏定は目の色をかえて周囲を歩き回り、自分の知るかぎりの知識をもって綿密に調査した。その結果、幾つかの候補地を絞り込み、その周辺でもう一歩踏み込んだ調査を行い――それを繰り返すうちに、金鉱脈の存在を証し立てる物を幾つか手に入れることができた。雲居に託したのは、その一つである。


 早くも夢買いの成果が出たか、と氏定は喜んだが「別にお前が見つけたわけではあるまい」という連れの冷静な指摘に赤面する。
 言われてみればその通りで、氏定は命じられてこの地を調べただけで、ここに埋まっていると思われる(氏定本人は、あると確信しているが)鉱脈を自分の足で見つけ出したわけではない。これを「俺の手柄だ」と口にするのは自分自身に憚られた。


 薩摩領内の金山を大友家の家臣が見つけ出した、という奇妙な構図である。氏定が小利口に立ち回れば、いくらでも利を得る術はあっただろう。実際、氏定もそれに気づかないわけではなかった。
 だが、氏定が島津家に駆け込むこともせず、大友家に鉱脈の証拠を隠すこともしなかったのは、ひとえに鉱山師、というよりは男児としての誇りゆえ――とでも言えれば格好がつくのだが、実際はそれをした場合の大友家の怒りを恐れたためである。
 もっとも、氏素性の知れない氏定をあっさりと信用し、大金を託してくれた雲居筑前の信義に報いたい、という気持ちも幾分かは理由に含まれていたが。



 ともあれ、氏定は命じられたとおりに調査を続けたのだが、あまり大規模に動けば島津家に気づかれてしまうだろう。それに、鉱山師が一箇所に留まり続けているという事実は、ただそれだけで人の想像力を刺激する。
 さてどうしたものか、と氏定たちは困惑して顔を見合わせた。
 まさか、こうも短期間に成果が出るとは思っていなかったので、成果が出た際にどうするか、という指示を受けていなかったのである。
 資金を託された時、遠からず確認に行くから、と雲居は言っていたのだが、大友家の人間がほいほいと島津領内に入り込めるのだろうか。


 そんなところに、雲居からの使者が来た。なんでも、雲居本人が大友家の使者として間もなく薩摩に入るらしい。氏定らと顔をあわせた男は、その旨を島津に知らせる途中に氏定たちのところに寄ったのだという。
 無論、一介の鉱山師(と商人二人)に大友家の戦略など何の関わりもない。氏定がこれまでの成果の一部を使者に託し、次の指示を待とうとしたのは当然の行動であった。
 当然でなかったのは、そんな氏定に対する雲居の返答である。雲居はすでに使者に次の指示を託していた。それは成果が出ている時と出ていない時の二通に分けられていたのだが、氏定はそこまでは知らない。


 そして渡された雲居の書状に目を通し、氏定は絶句する。
 ほどなく島津家の者が『氏定が発見した』鉱山の確認に行くだろうから、しばらくそこで待機しているように、という指示であった。そして、氏定がこの書状を読んだ段階で、それは『事実』になる、との文言が付記されてもいたのである。
 氏定の様子を怪訝に思った連れの二人は、書状を覗き込んで同じように言葉を失う。
 それは要するに、雲居が資金を出し、場所すら特定して調べさせた鉱脈の権利を、丸々氏定に譲り渡すに等しい。
 同時に、書状にはそのための条件も記されていた。
 といっても、それはただ一行。此方との関係――つまりは雲居の指示で動いたことを生涯口外するな、というだけである。


 あまりにも話が美味すぎる。それは氏定ならずとも考えるところであったろう。
 しかし、ここで氏定を欺いて雲居に何の得があるのか、という疑問の答えは杳として出てこない。氏定には地位も権力も、富も人脈もない。そんな人間を、ここまで大掛かりなことをして欺く理由が思いつかなかった。


 書状の最後には、このことに伴う面倒事への対処も記されていた。まず間違いなく島津家は氏定たちを相当に厳しく取り調べるだろう。特に氏定が持つ資金の出所は必ず確認してくる。だが、幸いというべきか、氏定の友人二人は(というか本当は氏定もなのだが)商人であり、二人に出資してもらったとでも言えば、それ以上追求されることはないだろう。
 いかに島津家の情報網が優れていようと、高千穂の東のはずれでほんのわずかの間、鉱山師を募っていた事実を探り当てられるはずもないのだから。




 もしや友人二人を同行させたことさえ、計算の内だったのだろうか。
 氏定は雲居の底知れなさを思って身体を震わせた。
 使者は「もし面倒事を厭うのであれば、強いることはしない」という雲居の言葉を伝えてくれたが、熟慮の末、氏定は首を縦に振る。これが千載一遇の好機であることは誰の目にも明らかであったからだ。


 氏定の返答を得るや、使者は頷いて書状の返却を請い、手にもどったそれをあっさりと火中に投じてしまった。
 氏定が、本当の意味で、自分が菱刈鉱山の発見者となったことを自覚したのは、去りいく使者の後姿を見送っていた時である……




◆◆




「……一国の使者として訪れた地で、偶然に以前の知人と出会い、その者が偶然に鉱山師であり、さらに偶然、有望な金鉱脈を見つけたばかりであった。こんな話、童とて信用したりはしないでしょう」
「でも、実際にその知人さん以外の鉱山師が見ても、相当に有望だって話だったでしょ?」
 大友家の家臣が、それをわざわざ島津家に知らせる必要なぞどこにもない。それどころか、敵国の財政を豊かにしてやるなど百害あって一利なしである。あえてそれを行ったところに雲居の誠意が見て取れる――などと考えていては、島津の軍師は務まらない。


 歳久は言う。
「それこそ、こちらを謀る証左であるとも考えられます。そもそも、守田氏定とやらも、有望な鉱脈を見つけたのであれば、何故すぐに私たちに知らせなかったのか。それだけではありません。付近の者たちの話では、彼らが菱刈に姿を見せて、まだ一月も経っていないというではありませんか。今回の件、あまりにも時期が符合しすぎています」
 歳久の疑念に、家久はあえて反論しようとはしなかった。
 というより、その疑念は正鵠を射ているのだろう、と家久は判断していた。今、歳久が口にした以外にも不審な点はいくらでも挙げられる。おそらく、守田氏定を少し締め上げれば――もとい、もう少し親身に話し合えば、真相はすぐにも明らかになるだろう。


 では、何故家久はそうしないのか。
 それは正直確かめるまでもない、と考えているからであった。
『雲居が菱刈の金の存在を知り、それを自身を信用させる切り札として利用した』
 いつ、どこで、どのように知ったのかという疑問はあるにせよ、この一事は確定だった。何故といって、歳久の言うように、雲居の言動と周囲の状況を見比べれば、すべてがあまりに符合しすぎているからである。
 要するに、それ以外に考えようがない、というのが家久の率直な見解であった。


 そして――妙な言い方になるが――だからこそ家久は雲居の言葉を信用した。
 もし南蛮艦隊の話が偽りであり、歳久の危惧するように兵力の分散を画策しているのだとしたら、ここまでする必要はない――というより、他にやりようは幾らでもある。それこそ丸目長恵あたりを将として、相良家の軍勢を国境に配置すれば、島津家とて対処せざるを得ない。
 あるいは油津を砲撃したと思われるムジカ沖の南蛮船を薩摩にまわしてもいい。坊津や、あるいは鹿児島湾に侵入して直接に内城を砲撃すれば、十分すぎるほどに島津軍への牽制になるだろう。
 さらに言えば。
 島津軍がムジカを攻撃するためには、伊東義祐が立てこもる佐土原城を陥とさねばならず、今の時点で相手領内の金鉱脈の存在を示唆してまで、兵力分散をはかる意味は薄いのだ。時間が経てば経つほどに情報の真偽は明らかになっていくのだから。



 とつおいつ考えていけば、雲居の言動が何のためのものかも段々と見えてくる。不審にも思える数々の行動は、個として動かざるを得なかった雲居が、南蛮艦隊を退けるために、島津家の信用をいかにして得るかを精一杯に考え抜いた末のものである――その考えを家久はすでに受け容れていた。
(まあ、個としてこれだけ動けるっていうのも、それはそれで怖いんだけどね)
 家久はこっそりとそう思う。菱刈の金の存在にしても、一体どうやって知ったのやら、と不思議に思うのだが、それはまあ仲良くなって追々教えてもらおうと考えていた。




 そして、そんな家久の心の動きを、歳久は呆れと微笑の入り混じった、実に複雑な表情で見つめていた。
 敵かもしれない相手をあっさりと信じてしまう妹の暢気さに呆れを感じ。
 敵かもしれない相手をあっさりと信じてしまえる妹の強さに喜びを覚える。
 そのいずれもが、歳久には持ち得ないものであったから。


 家久の考えていることは歳久にも理解できる。家久の考えていることは、ほぼすべて歳久のそれと重なっているからだ。違うのは、それらを承知した上で雲居を信じるか否か、という最後の部分だけであろうか。
 島津歳久は智謀の士として知られる。だから、というわけでもないのだろうが、その為人を温雅と狷介ではかるならば、狷介の方に大きく傾くのは当人も認める事実であった。
 それは生来の性格でもあったのだろう。ゆえに、判断の基となる情報のない状態で他人を信じるか、疑うかの二択を迫られたのならば、後者に傾くのは必然であった。
 眼前の妹のように他者を信じる強さは、自分には持ち得ないものであると歳久は自覚しており、またそれを良しともしていたのである。




 
 しかし。
 そんな歳久の自己評価を聞けば、家久は困った顔で首を傾げただろう。
 家久は姉を狷介であるとは――少なくとも、それが生来のものであるとは思わない。そういった側面がないとは言わないが、それは多分に後天的な要素によるものであった。
 姉たちを補佐し、妹を守り、島津の家を拡げるために、安易に人を信じ、頼るような真似は決してしてはならなかった。島津の智嚢として働き続けてきた歳久が、為人に圭角を宿すようになったのは避け得ないことであったろう。
 だが、だからといって他者を信じる強さが歳久にないはずがない。
 歳久と家久の違いは、ほんのささいなことに過ぎないのだが……


(それを口にしても、多分、歳姉は素直に認めないだろうからなー)
 家久はそう思うと、眼前の不器用な姉の姿に微笑まずにはいられなかった。
 当然、歳久はそれに気づき、目をすがめた。
「……なんですか、家久。その意味ありげな笑いは? 微妙に腹立たしい気分にさせられるのですが」
「んー、歳姉って可愛いなーって思って」
「かッ?! な、何を突然ッ?!」
「あはは、なんでもないでーす。あ、もう話は終わりでいいよね? じゃあちょっと筑前さんのところにいってこよーっと」
「ま、待ちなさい、家久! 話はまだ終わったわけでは……い、いえ、それよりあの男のところに行ってどうするつもりですかッ?!」
「それはもちろん、筑前さんの前ではいつも仏頂面の歳姉が、実はこんなに可愛い人なんですよーって教えてあげるためだよッ」
「な、なにを元気よく、とんでもないことを口走っているのですかッ! そのようなこと、許さ――」
「それじゃ歳姉、また後でねー」
「家久ッ!!」


 内城の通路に家久の軽やかな笑い声と足音が響きわたり、それを追うように、やや遅れて歳久の憤慨した声と荒々しい足音が木霊する。
 何事かと振り返り、あるいは室内から顔をのぞかせた家臣たちは、そこに風のように駆け抜ける二人の姫の姿をみとめ、笑いをこらえるのに苦労しなければならなかった。




◆◆◆

 


 救荒作物。
 飢饉となり、主食となる作物が打撃を受けた際に代わりとなる作物のことである。
 その特性上、荒天に強く、貧困な土壌でも生産が可能な種がそう呼ばれる。中でも有名なのは――というよりも俺が知っているのは、じゃがいもとさつまいもの二つであった。
 特に後者に関しては、薩摩の名を冠していることからも明らかなとおり、火山灰の降り積もるこの国の名物であった――が。
(確か、まだこの頃には薩摩に伝わっていなかったはず)
 そうであれば、この情報はある意味で菱刈の金に並ぶほどに島津にとっては有用であろう。俺はそう考えていた。


 とはいえ、自信をもって断言できるほどはっきりとした知識ではないし、そもそも、この世界のさつまいもの歴史が俺の知るものであるという保証もない。
 越後や京、あるいは九国に来てからも、さつまいもを食べたことはないし、市場などで見たこともなかったから、この国に普及していないのはほぼ間違いないのだが、実はさつまいもそのものがこの世界にない、という可能性も捨てきれなかった。


 だが、幸いというかなんというか、戚家軍の将軍殿の「甘藷(さつまいもの中国名)は好物」という発言によってその可能性は否定された。
 となれば、これを活かさない手はないだろう。俺が菱刈騒動の合間に、これこのような食べ物がありまして、という話を島津側に伝えたのは、俺の話に疑念を拭えずにいる島津家の君臣に対して、わずかであれ信を植えつけることが出来るかもしれない、と考えたためであった。
 金山に救荒作物。敵対するつもりの相手にわざわざその二つを教える必要はないのだから。




 ……そのはず、だったのだが。
「……なんで俺はこんなところで焼きいもをつくっているのだろう?」
 内城の一画に立ち昇る焚き火の煙。枯葉やら枯草やらでつくった小山を棒でつつきながら、俺はしみじみと呟く。
 ふと気づけば、服の両袖がかすかに灰色に染まっていた。上を見上げると、先刻まで澄明な輝きを放っていた空の青は、いつの間にか煙るような暗灰色の霧に侵されつつある。
 無論、それはただの霧ではない。視界の彼方、鹿児島湾に毅然と聳え立つ桜島から降り注ぐ火山灰であった。


 降灰、などという天候はこの地に来るまで見たことがなかったが、逆にこの地に来てからは珍しくもないものであった。
 冬のこの季節、風は薩摩から大隅に向かって吹くことが多いのだが、もちろん逆の場合もあり得る。今日は運悪くその日にあたるのだろう。
 俺は右手に持った棒の先でいもを転がしつつ、左手で服にはりついた灰を落としていく。まあこうしたって灰はすぐに積もっていくわけで、結局は気休めにしかならないのだが。


 この灰と付き合って生活していかなければならないなんて、薩摩の人たちは大変だ――などと俺がやや現実逃避気味にそんなことを考えていると、傍らからいやに弾んだ声が聞こえてきた。
「筑前さん筑前さん。そろそろ良いんじゃないかな、と思うんですけど」
 その声を聞いた瞬間、何故か俺の口内にいわく言いがたい感覚が満ち満ちる。何を口に含んでいるわけでもないのに。


 強烈な食事というのは、やはり強烈に記憶を刺激するものらしい。味とか、噛み応えとか、咽喉越しとか。
 俺は胃の方から這い上がってくる嘔吐感を平静を装って(その実、必死になって)飲み下しつつ、傍らの人物――島津家当主である島津義久に視線を向けた。
「もう少し待った方が良いと思いますよ、義久様」
「むむ、そうかな?」
 真剣な眼差しで焚き火を見つめていた義久は首を傾げたが、不意に悪戯っぽい仕草で俺に一礼する。
「畏まりました、師の仰るとおりにいたします」
「誰が師か、誰が」
 思わず素で突っ込んでしまう俺。料理に関して些細な助言をしたことは何度かあるが、断じて師になった覚えはない。ゆえに、試食の義務は皆が等しく分け合うべきである、と俺は熱心に主張しているのだが、生憎、誰一人として耳を傾けてくれなかった。しくしく。





 ちなみに現在の俺は半ば客人、半ば囚人の身である。
 諸々の確認のために大口城から内城に連れて来られて十日あまり。室内に閉じ込められているわけではないが、刀はまだ返してもらっていないし、部屋を出れば監視のために必ず小姓か女中がついてくる状態である。
 もっとも、今は俺と義久の二人だけであった。義久自身がそれで良い、と家臣に言ったのである。ゆえに、すくなくとも俺の目のつくところに小姓の姿はない。
 とはいえ、まず間違いなく物陰からこちらを窺っているだろう。俺が不審な行動に出れば、たちまち飛びかかってきて、取り押さえられるに違いない。
 だから義久が護衛の一人も連れずに俺とこうして話していても特に危険はないのだが――
「それでも無用心だと思うんですが?」
 どこかおっとりした観のある義久に、俺は忠告まじりにそう言ってみる。刀がなくても、人を殺める手段はあるし、人質とすることも出来る。


 無論、俺にそんなつもりはないが、料理の試食だの、焼きいもをつくるだのといった用事の度に、島津の当主が単身で訪れるのは、やはりなんか違うと思わざるを得ないのである。
 しかし。
「大丈夫、大丈夫。私の料理を食べてくれる人に悪い人なんているわけないよ」
「……なんとも返答に困る断言ですね」
 大口城での俺の料理批評がよほど堪えたらしく、義久はこのところ料理の修業に精を出しているらしい。
 当初、島津の家臣たちはそんな義久を真っ青になって止めようとしたようだ。特に台所を任された者たちの顔は相当に悲壮なものであったという。


 しかし今では、おそるおそるではあるものの、そんな義久の行動を皆が黙認しているとか。それどころか、爆発がなくなったのは大した進歩だ、と手を叩いて主君の成長を寿ぐ者もいるそうな。
 ……まあ、ほとんどが家久経由で聞いた話だから、どこまで本当か知らんのだが。しかし少なくとも、出される料理の野菜の皮が剥けていることは確かな事実であった。


 とはいえ、肝心の味の部分は……まあ、察してほしい。義久ならずとも、十日やそこらで劇的に料理の腕があがるわけもないのだが、味見をして(そこは確認した)この料理が出来るということは、やはり義久の舌に異常があるのではないか、などという失礼きわまりない推測を俺は温めているのだが――



(それにしては、焼きいもは普通に美味しいって言うんだよなあ)
 ほどよく焼けたさつまいもを頬張りながら、頬を綻ばせる義久を見て、俺は首を傾げざるを得ない。
 義久はそんな俺をみて首を傾げる。歳こそ離れているが、そんな仕草は家久と良く似ていた。やはり姉妹というべきだろうか。
 しかし、今の島津家、特に主だった地位にある者たちはかなり多忙であるはず。その主要な原因をもたらした俺が言うのもなんだが、当主がこんなところでいも食ってていいのかしら。


 そんな俺の疑問に、義久が答えていわく。
「政治も戦も外交も、妹たちや家臣たちに任せた方が絶対、確実、完璧にうまくいくんだから」
 だから任せる、ということらしい。
 島津のみなさんの日ごろの苦労を思って、俺はおもわずほろりと涙をこぼすところだった――その涙は、続く言葉で未然に防ぎとめられたが。
「だから、私はででんとみんなの前で構えて、みんなに任せたことの責任をとるのがお仕事なんですよ」
「……なるほど。これは不心得なことを伺ってしまったようです。申し訳ありませんでした」
「ん? 別に筑前さんは謝るようなことは何も言ってないと思うんだけど??」
 そう言って不思議そうに目を瞬かせていた義久の顔が、不意にひきつった。
 なんだ、と俺が疑問に思う間もなく耳朶を震わせたのは、遠雷の如く轟く重低音。


「……姉上の仰ること、私も同意いたします。謝るべきは雲居殿ではなく、政務を投げ出しておいて、のんびりと焼きいもを食している姉上の方でございましょう」


「うおおッ?!」
 俺は驚きのあまり、慌ててその場から飛び退る。何故といって、その声は本当にすぐ近くから聞こえてきたからであった。
 振り向いた俺の視界に映ったのは、満面の笑みを浮かべつつ、こめかみを引きつらせた鬼島津の姿。義弘は足音どころか気配さえ秘して接近していたものらしい。
 俺を警戒して――ではなく、姉をひっとらえるために。


「あ、や、やっほー、弘ちゃん」
「姉上、以前も申し上げましたが、他家の者や家臣がいるところで、そのちゃん付けはおやめください。島津の威信が下がります。よろしいですね?」
「えー、でも呼びなれた名前の方が親しみが感じられていいじゃない。弘ちゃんだって、お姉ちゃ――」
「いいですね!」
「うう、弘ちゃん、怖い……」
「こうでもせねば姉上はいつまで経ってもそのままではありませんかッ。今だとて、あれだけ口をすっぱくして申し上げたというのに、こうして政務を抜け出しておられる」
「抜け出したんじゃなくて、ちょっと休憩しようかな、と思ったのよー」
「……今現在の敵国の方のもとをおとずれ、いもを焼いてもらうのが姉上の仰る休憩ですか?」
「うん、ほら弘ちゃんも好きでしょ。焼きいも」
 そう言って、持っていたいもを差し出す義久。
 説明が遅れたが、今、俺が焼いているさつまいも=甘藷は、国内で栽培こそされていなかったものの交易はされていた。
 坊津の商人の一人にえらく甘藷好きな人物がおり、その人に頼んで譲り受けたものが、内城に運び込まれたのである。
 それでまあ、どうやって食べるのか、と訊かれた俺が一番ポピュラーな調理法たる焼きいもを実演してみせたのだが――


 これが大うけした。


 甘味に乏しい時代にあって、焼きいもの仄かな甘みとほくほくした触感は、島津家の人々の感性をクリティカルに刺激したらしい――もとい、島津家のみならず、吉継や長恵も同様だった。
 俺としては救荒作物としてさつまいもの情報を提供したつもりだったのだが、なんだか嗜好品みたいな扱いにされている。
 そんな状態で、この作物が薩摩の土壌に適しているかもしれない、と言ったものだから、今やそっちの方面でも大騒ぎが起きていたりするのである。


 鬼と恐れられようと、義弘もまた一人の女性。焼きいもの魅力には抗しがたいらしく、義久の差し出したいもを見て、一瞬――ほんの一瞬だけ義弘の目が輝いたような気がした。
 しかし、さすがは鬼島津、すぐに動揺から立ち直ってみせる。誘惑を払うように義弘が小さくかぶりを振ると、わずかに灰が積もった髪が揺れた。無粋な灰さえ降っていなければ、義弘の見事な黒髪を間近で鑑賞できたのになあ、などと俺が考えている横で、姉妹の言い合いは延々と続いていた。


「そ、それとこれとは話が別です。姉上、話を逸らそうとなさっても、そうはいきませんよッ」
「えーん、弘ちゃんが怒るー」
「姉上ッ! もう童ではないのです。島津家当主としての自覚と責任をもっと――」
「大丈夫よー、弘ちゃん、歳ちゃん、家ちゃんっていう立派な妹が三人もいるんだし、家臣の人たちも頼もしい人ばっかり。当主が少しくらいぼんやりしてても、島津の家は小揺るぎもしないんだから」
「私を立派と評していただけるのはまことに光栄ですし、妹たちの優秀さに関しては今さら口にする必要もございますまい。そして島津家が家臣に恵まれているとは、私も常々感じているところ。ゆえにこの義弘、姉上の仰ったことに心から同意いたします――ただし前半だけ」
「でしょう――って、あれ、前半だけなの?」
「当たり前ですッ! 一族や家臣が優秀だからといって、当主がぼんやりして良いなどという法がどこにありますかッ!」




 ……これはしばらく続きそうだな、と判断した俺は、注意を姉妹から焚き火に戻すことにした。
 あと三つばかり焼いているので、その一つを差し出せば、義弘の怒気を多少なりとも緩めることが出来るかもしれない。
 ちなみに残り二つに関しては、今こうしているうちにも段々とこちらに近づいてきている様子の、もう一組の姉妹の分になるものと思われた。





[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第七章 繚乱(八)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:cd1edaa7
Date: 2011/02/17 21:02

 シンデレラを知らない、という人はおそらくあまりいないと思うが、一応説明すると、継母や姉たちに虐げられ、炉端で灰をかぶりながら働き続けた不遇な少女が、魔女やら白い鳩やらの助けを借りて、最終的には王子様と結ばれる物語である。
 『シンデレラ』は灰を意味するフランス語から派生した言葉であるが、中国にも同じような内容で掃灰娘という説話がある。そのほかにも似たような物語は世界各地に遍在しており、貧しい少女が不遇に耐え忍びながらも懸命に働き、ついには幸せを掴みとるという物語が、古今東西を問わず、広く人々に受け容れられてきたことがうかがえる。
 これはすなわち、健気な少女に幸せになってほしいと願うのは万国共通の心理――否、真理であることを意味すると断言しても差し支えあるまい。


「……なるほど。だから、内城の片隅に位置する井戸の近くで、髪にはりついた火山灰を落とそうと苦戦していた島津家の下働きの女の子にお義父様が手を貸したのは、人の情として当然――と、そう言いたいわけですね?」
 吉継は半眼でこちらを見やりつつ、なにやら頭痛をこらえるかのようにこめかみに手をあてている。
「うむ、まったくそのとおり」
「その結果、噂を聞きつけた他の女中からも同様の手助けを請われたこともいたしかないことだ、と?」
「うむ、まったくそのとおり」
「……お義父様。これまでは何とか喉元でせき止めていたのですが、今日という今日は言わせていただきます」
「拝聴しよう」
「お義父様は、一体、何をしに薩摩まで来たんですか?」
「少なくとも、いもを焼いたり髪を洗ったりするためではなかったはずなんだけどなあ……」
「なにを遠い目をしてるんですか、まったくッ」
 今の吉継は部屋の中で頭巾を解いているため、紅い瞳から向けられるじとっとした眼差しがいつもに増してはっきりと感じ取れてしまい、抗しかねた俺は知らず視線をそらしてしまった。


 台所の灰だろうが火山灰であろうが、髪に害があるのは間違いない。これを落とすのにどうして躊躇する必要があるだろうか。
 そうは思うものの、それをそのまま口にしても吉継は納得してくれないだろう。
 それに正直、俺も自分のしていることを何だかなあとは思っていたのである。


 俺は大友家の――つまりは島津にとって敵国の使者なのだが、やっていることといえば、義久の料理を脂汗流しながら食べたり、時には一緒に台所に立ったり(監視)、あるいはのほほんといもを焼いたりといったことばかり。おまけに今度は洗髪である。
 近頃では女中さんたちとも普通に会話を交わしているし、見張りの小姓の人たちとも同様だったりする。長恵に言わせれば「すごい勢いで島津家に馴染んでいる」とのことだった。まったくもって否定できん。
  

 そんなこんなで、吉継が物申したい気分になるのも当然といえば当然であった。しかし、一応釈明しておくと、伝えるべきことはすでに島津家に全部伝えているのだ。南蛮を相手とした戦略も、その艦隊を相手とした戦術も。
 だが、当然ながらそれらは島津家の助力がなければ不可能なことであった。島津家が南蛮勢力に関して俺と異なる判断をするか、あるいは判断は同じでも、異なる作戦を選ぶようであれば、俺に出来ることは何もない。すべてを伝えた今の俺に出来るのは、島津の決断を待つことだけなのである。


 そんな風に今日までの流れを振り返っていると、傍らにいた吉継がなおも尖った声を俺に向けてくる。
「要するに、暇をもてあましていたから趣味に走った、と?」
「はっはっは」
「都合が悪いことを訊かれたとき、笑ってごまかすのはお義父様の悪い癖です」
「すみません……」


 普通に娘に叱られてしまい、俺が素でへこんでいると、部屋の外から軽やかな足音が響いてくる。はや耳に馴染んだ観のあるその音を聞き、吉継は慣れた動作で頭巾をかぶった。
 俺と吉継の予想どおり、島津の末姫殿が姿を見せたのはそのすぐ後である。
「こんにちはー、筑前さん、吉継さん」
「これは家久様、こ――」
 いつもの明るい家久の声につられるように、俺は気軽に挨拶を返そうとした。
 しかし、返せなかった。声が詰まったのは家久の顔を見たからである。いつもどおりの足音。いつもどおりの挨拶。しかし、その顔にいつもの笑みはなかった。


 その家久の表情を見たとき、俺は来るべき時が来たことを悟ったのである。




◆◆◆




 九国――すなわち豊前、豊後、筑前、筑後、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩の九カ国の中で、この年に戦が起こらなかったのはわずかに豊後と肥後の二国のみ。だが、その二国を治める大名たちも他国に兵を送って戦を行ったことを考えれば、戦乱は文字通り九国全土を包み込んだといってよい。
 時を追うごとに激しさを増す戦乱の渦中にあって、九国を統べる大名たちは自国を守るために兵を募り、その一方で隙あらば他国を併呑せんと虎視眈々と近隣諸国に野望の眼差しを向けていた。


 豊後の地では、相次ぐ重臣たちの謀叛をはねのけ、他国を戦慄させる底力を発揮した大友家が、他国に南蛮神教の城市ムジカを建設して更なる争乱の種をまき。
 肥前の地では、その大友家と袂を分かった竜造寺家が肥前制圧――さらには筑前をはじめとする北九州制覇の野望を明らかにし。
 薩摩の地では、父祖以来の悲願であった三州奪還に向けて、いよいよ島津の四姫が歴史にその姿を現そうとしていた。


 この三家の他にも筑前の秋月家や肥後の阿蘇家、相良家、日向の伊東家、さらには遠く中国の毛利家、尼子家をはじめ、九国の動乱に関わってくる勢力は枚挙に暇がない。
 一波動けば万波生ず。
 大友、竜造寺、島津の一つでも動けば――否、たとえ彼らと関係のない小豪族が動いたとしても、それを皮切りに各勢力は一斉に動き出すに違いない。
 互いに目的も志も異なる諸勢力は、ただその一点においてのみ、同じ見解を抱いていたのである。


 それゆえに、というべきだろうか。
 幾多の動乱を経験したその年の暮れ、九国は不思議なほどに静かであった。
 無論、その静けさは穏やかさと同義ではない。嵐の前の静けさとたとえるには、あまりにも立ち込める戦雲が厚すぎる。台風の目に入ったようなものであったかもしれない。
 焼けるような静けさ――その年の終わりに九国を包みこんだ静けさを、人々は後にそう呼んだ。
 道行く誰もが身体を縮め、足早になり、語り合う声は囁くように低く。触れれば切れるような張り詰めた空気の中、間もなく訪れる新しい年を祝う心さえ、立ち込める戦の気配がかき消した。


 すでに人々の関心は戦が起きるか否かではなく、いつ、誰が始めるかにあった。
 大友か、竜造寺か、島津か、毛利か。それともそれ以外の勢力か。
 誰もが固唾をのんで『その時』を待ち受ける中――最初の烽火は九国の南東に位置する日向の国で上がった。

 
  
◆◆



 日向国 佐土原城


 大友軍の日向侵攻によって県城をはじめとする北部を奪われた伊東家は、さらに時を同じくして大隅に侵攻した島津軍によって盟友であった肝付兼続を失い、日向の地で孤立を余儀なくされることとなった。
 これに対し、伊東義祐は両家の侵攻に備え、自家の兵力の大部分を佐土原城に集結させて防備を固める。
 しかし、予想に反して、大友、島津の両家はすぐに攻め寄せてこようとはしなかった。


 県城を陥落させた大友家はムジカの建設に国力を注ぎ込み、一方の島津は新たに領土に組み込んだ北薩と大隅の整備に意を用いている。
 その情報を得た義祐は、両家の意図を悟ったように思った。
 伊東家の領土は大友家と島津家の狭間に位置しており、本城である佐土原城も堅城で知られている。無理にこれと戦えば、いかに勢いに乗る両家といえど無傷では済まない。互いに大敵を後に控えた状況である、これ以上の兵力の損耗を防ぎたいと考えるのは当然のことであったろう。


 おそらく、大友家は島津家と伊東家の激戦を望み、島津家は大友家と伊東家の死闘を期待している。義祐が彼らの立場であってもそう考えただろう。
 だが、そうとわかればむざむざ連中に漁夫の利を貪らせたりはしない。
 なんとしても連中の鼻を明かしてやらねば、三位入道を称する義祐の気がすまなかった。
 ――この時、伊東家を存続させる最も確実な手段は、義祐が大友か島津のいずれかに頭を下げて臣従を誓うことであったかもしれない。しかし、過去の経緯からも、また義祐の誇りからも、そんな真似が出来るはずはなかったのである。 



 九国中が奇妙な静寂に包まれる中、義祐は居城の防備を今まで以上に固めることに専念し、状況の変化を待った。今の佐土原城には、兵も糧食も十分に蓄えられている。たとえ大友軍や島津軍が攻めてきたとしても半年は持ちこたえてみせる。
 それだけ抗戦しつづければ、大友にせよ島津にせよ、いつまでも伊東家に拘泥してはいられず、兵を帰さざるを得なくなるだろう。
 そこを後背から追い討てば、強兵を誇る両家といえど如何ともしがたいに違いない。さすれば義祐が再び日向の地に覇を唱える芽も出てくるだろう。





 ――そう考えて待ち構える義祐のもとに「島津軍あらわる」の報告がもたらされたのは、佐土原城が新しい年の幕開けを迎えた、まさにその日のことであった。
 息せき切ってあらわれた急使は、あえぐように義祐に報告する。
「も、申し上げますッ! 島津軍はすでに大淀川を越え、宮崎、木脇の両城は未明に陥落! 敵数、およそ一万! 敵総大将は旗印から島津義弘と思われますッ!」
 敵将の名を聞いた瞬間、義祐の左右から怒声が沸き起こった。


 鬼島津の勇名はすでに九国中に鳴り響いているが、その魁となったのは、かつて伊東義祐が起こした薩摩征討軍を、義弘が寡勢で撃ち破った「木崎原の戦い」である。
 この戦いで伊東家は多くの将兵を失ったのだが、ことに重臣の子弟を中心とした若者たちの被害が大きかった。彼らの多くが鬼籍に入ったことにより、伊東軍は撤退を余儀なくされ、その損失は今日なお埋められるに至っていない。
 すなわち、義祐やその重臣たちにとって島津義弘は一族の仇であり、その名は悪鬼のそれに等しい。鬼島津の名を聞いて彼らが赫怒を示したのは当然のことであったろう。
 だが同時に、彼らの表情には拭いえぬ動揺と恐怖の影が色濃く浮かび上がっていた。戦場における島津義弘の勇猛を知る身であれば、それもまた当然のことであったかもしれない。


 いち早くそのことを察した義祐は、ことさらに嘲るような笑いを響かせた。
「たかだか一万程度で、この城を陥とせるとでも思ったか。先の戦の勝利に酔って、鬼島津の戦の勘も狂ったとみえる。所詮は女子ということか」
 義祐の言葉は、根拠のない妄言ではなかった。今回は以前と異なり、野戦ではなく、佐土原城に立てこもっての戦いになる。佐土原城の伊東軍は六千、対する島津軍は一万。篭城の利を鑑みれば、十分な成算をもって島津軍を撃退することも出来るはずだった。
 義祐の言動でその事実に思い至った重臣たちの顔から、先刻まであった動揺の影が急速に薄れていく。
 それを確認した義祐は、あらためて口を開いた。
「あるいは薩摩の田舎者どもが、わざわざ我が家のために勝利を献じに来おったのか。その心根やよし。されど新年の祝いに戦の血泥とは無粋も極まるというもの。彼奴らに都の典雅とはいかなるものか、武士の風流とはいかなるものかを、この三位入道が叩き込んでくれようぞ」
 その義祐の言葉に重臣たちは一斉に頭を垂れ、佐土原城はたちまち戦の空気に包まれていった。



◆◆



 島津軍、動く。
 その報はたちまちのうちに九国各地へと伝えられていった。
 その動きはおおよそ次のようなものであった。
 まず島津義弘率いる一万の軍勢はいったん日向南部の飫肥城に入り、ここから伊東家の居城である佐土原城を直撃すべくまっすぐ北へと進軍を行った。
 これにやや遅れて、内城を発した島津義久率いる同じく一万の軍勢は、南西の方角から日向との国境を突破、日向南西部の諸城の攻略を開始する。
 義久の用兵の才は妹たちに遠く及ばなかったが、伊東義祐が自家の兵力を佐土原城に集中させていたため、他の地域の兵力は大きく減少しており、たとえ主将が義久であっても攻略に手間取ることはないものと思われた。


 現在の島津の国力を考えれば、二万という数字はほぼ全力の出撃である。
 おそらく薩摩には最低限の兵力しか残っていないだろう。本国を衝かれれば島津は兵を返さざるをえないものと思われたが、九国最南端に位置する島津家の後背を衝くことが出来る勢力など日の本のどこを探しても存在せず、それを知るがゆえに島津家も本国を空にすることが出来たのであろう。
 それはつまり、島津家が本腰を入れて伊東家およびその北方に位置するムジカの攻略を開始したことを意味した。 



 この島津軍の攻勢により、日向の国はたちまちのうちに争乱に包まれ、諸勢力はそれぞれの思惑をもって動き出す。
 しかし、そんな慌しい状況の中、最大の勢力を誇る大友家は驚くほどに静かだった。
 豊後から増援を呼ぶでもなく、前線に兵を送り込むこともせず、ただ島津侵攻以前と変わらずムジカの建設に勤しむだけなのである。
 この大友家の反応には多くの人々が首を傾げたが、考えてみればさほど不思議なことでもない。島津家と伊東家がぶつかりあい、互いに疲弊するのを待っているのだろうという見方が大半を占めた。


 ――この時点で大友家の静黙の真の意味を知る者は、その策を練り上げた者たち以外に存在しない。するはずがない。
 彼らは島津軍の侵攻を察知するや、ただちに動き出したのだが、それは誰の目も届かない深い闇の中でのこと。
 その動きを受け、やがて南の海から時ならぬ颱風が姿を現す。その時、はじめてこの国の者たちは自分たちが未曾有の危地に立っていることを知るであろう。


 もっとも――
「知ったところで、対処することなど出来ぬがな」
「殿下の仰るとおりかと」
 とある船の奥まった一室。
 奇妙に甘く、粘るような空気が充満する中、血の色をした酒を喉奥に流し込んだ半裸の青年が嗤い、聖書を腕に抱えた男がうやうやしく首肯する。


 幾つかの齟齬はあったものの、計画に支障を来たすことはなく、事態はおおよそ彼らの思惑通りに進んでいる。
 神の栄光がこの地に顕現するまであとわずか。たとえ悪魔であっても、この流れを覆すことは不可能であろう。


 ――ましてや、東方の蛮人どもになど。


 期せずして二人は同じ考えを抱き、口元に嘲るような笑みをのぼらせるのであった。





◆◆◆





 その日。
 薩摩の南方海上に姿をあらわした船の数は十八隻を数え、そのことごとくが両舷に大砲を備えた戦闘艦であった。
 船の大きさは様々で、兵員の数が百人に満たない小型船もあれば、二百人を越える大型船も含まれている。その中で最も巨大な船は、艦隊先頭に位置する旗艦『ファイアル』であった。
 十八隻の艦船の中でただ一隻、三百人を越える兵員数を誇るファイアル。その艦上にあって、船長を務めるニコライ・コエルホは、前方に広がる未知の海域、未知の大地を黙然と見据えていた。


 十八隻から成る南蛮艦隊の指揮官でもあるニコライは、麾下の将兵と同じく南蛮神教の信者である。だが麾下の将兵と異なり、『聖戦』を前に戦意を昂揚させることはなく、略奪によって得られるであろう財貨に対する執着も感じていない。
 かといって、ほどなく故郷を蹂躙されることになる異国人たちに同情や憐憫を覚えていたわけでもなかった。


 いかにして勝利を得るか。
 ニコライが考えているのは、ただそれだけであった。
 今回の作戦行動に関して思うところがないではないが、フランシスコの剣として、フランシスコに勝利を捧げる以外の行動、思考をニコライは自身の内から排除する。
 それでも、とニコライは考える。
(神ならぬ身です。自身の務めも果たせず、余計な火種を持ち込んだ者たちに対して好意的ではいられないのですけどね)


 その視線はニコライの隣に立つ一人の宣教師に向けられていた。
 黒の修道服に身を包んだ女性の宣教師。まるで彼女のまわりだけ日が陰ったかのような心持にさせられるのは、服の色はもちろん、この宣教師自身がかもし出す雰囲気に、見る者があてられてしまうからであるかもしれない。


「提督、間もなく薩摩が見えてくると思います。しかし、本当に坊津を奪わなくてよろしいのですか? 提督の兵力があれば、港一つ、容易く奪えると思いますわ。島津領内に拠点を設けておけば、今後の行動にも――」
「コエリョ殿、それに関してはすでに説明しているはずです。我が艦隊は聖戦の開始を今か今かと待っているところ。この戦意に水を差すような真似はできません。敵の城ならばともかく、折角の貿易港を灰燼に帰してしまえば、殿下もご不快に思われることでしょう」
「ですが――」
「コエリョ殿」
 どこか思いつめたような光を浮かべる碧眼を見返しながら、ニコライは冷然と告げる。
「貴女の役割は我らの案内です。作戦に関しては口出し無用に願いたい」


 ニコライの言葉に、コエリョは憤激したように頬を紅潮させる。
 だが、ニコライはその表情を見てみぬふりをして、視線を前方に戻した。この人物に妥協や駆け引きの話をしても無駄だということを、ニコライは知っていた。


 コエリョは個人としては善良な為人で、一人の信徒としては篤実な人物であるが、だからこそというべきか、宣教師としての布教の方法は妥協とは無縁であり、その方法はただ一つ、ひたすら神の教えを説くというものであった。
 コエリョにとって神の教えはあまりにすばらしいものであり、ゆえにそれを理解できない者を、コエリョは理解することができない。
 神の教えに対する、いささか偏狭なまでのゆるぎない確信は、コエリョの言葉に他の信徒や宣教師たちと一線を画する力を与えた。彼女を慕う信徒たちは数多く、若いながらに幾つもの地域を教化してきた実績はおさおさ他者に劣るものではない。


 その一方で、政治的な理由で南蛮神教の改宗を拒み、布教を許さない者に対しては、コエリョの言葉は効果を持たなかった。それはつまり、南蛮と敵対する土地の有力者たちのことである。
 カブラエルのように相手に利を示し、布教を認めさせるような駆け引きはコエリョには不可能なことであった。そういった時、コエリョはどう対処してきたのか。それは今回の派兵を見れば明らかであったろう。


 南蛮神教の外にも世界が広がっていることを、この宣教師は理解していない。このあたりは幼い頃から変わっていない、とニコライは内心でやや辟易しながら考える。
 ――実のところ、ニコライとコエリョは互いに面識があった。年齢も近い。これは二人に限った話ではなく、艦隊を構成する各船の船長の中にも二人の知人は少なくなかった。
 アルフォンソやフランシスコによって見出され、教育された子供たち。その中でも特に優秀な者たちは成長した後、南蛮の国事の最前線に立っているのである。
 しかし、面識があるからといって、親交があるわけではない。ニコライはコエリョの偏狭的な宗教観を好まず、コエリョは自身の布教を邪魔立てした島津への報復に否定的なニコライに不満を感じていた。


 両者がそれぞれの不満を抱え、口を閉ざしたその時。
 不意に周囲から大きな歓声が湧き上がった。いよいよ目的地が見えてきたのである。
 ニコライは薩摩、大隅の地形を頭に思い描く。コエリョや他の宣教師の情報によってつくられた詳細な地図は、すでにニコライの脳裏に刻み込まれていた。
 コエリョは、島津の重要な収入源である坊津をはじめ、各地の島津軍をしらみつぶしに討ち滅ぼしていくことを主張したが、ニコライはそのような非効率的な作戦をするつもりはなかった。


 まずは敵の居城である内城を、海上からの砲火でなぎ倒し、彼我の戦力差を見せ付ける。敵がそれで抵抗の意図を放棄するならば良し。屈さぬのならば、手近な拠点を同様に一つずつ潰していく。
 海上からの砲撃であれば、敵に反撃の手段はない。コエリョにとって、今回の派兵は島津を滅ぼすためのものであろうが、ニコライにとっては東方世界へ侵攻するための足場づくりに他ならない。麾下の将兵に無用な損害を出す戦いは慎むべきであった。


 予想どおりというべきか、海上に彼らを迎撃するための船の姿は見当たらない。
 まさか南の海から侵略者が来るなどと考えてもいなかったのだろう。十八隻の南蛮艦隊は、悠々と波を蹴立てて進み、間もなくニコライの視界に特徴的な山容が映し出された。
 その山の名を開聞岳という。
 あの山が見えれば、目的地まではあと少しである。


 ニコライは麾下の艦隊に戦闘準備を命じつつ、先夜の軍議を思い出していた。
 これから進入する薩摩、大隅の両国にはさまれた湾形を『雄牛の角のごとく突き出た』と形容したのは誰であったか。その言葉を借りれば、湾内にある敵の本拠地を滅ぼすということは、雄牛の両角の間に割ってはいり、その頭蓋を一閃で断ち割るに等しいだろう。
 何処かの海上から、この地の戦況を見つめているであろうフランシスコのためにも、最善を尽くす。勝利か敗北か、ではない。勝利か、より完璧な勝利か、である。


 そうして、いよいよ湾内に侵入しようとした時。
「……ん?」
 不意に、ニコライは奇妙な感覚を覚えた。
 すべてが順調に進んできた。そして、これからも順調に進むであろう。そのことは、今も南蛮艦隊を照らす陽光のように明らかである。日が陰ることなどありえない。
 そのはずなのに。
 堂々と湾内に侵入していく麾下の艦隊の姿が、まるで違ったものに思えたのだ。


 ――雄牛の角にも似たこの地形、別のものにも似てはいないだろうか? たとえて言えば、そう、侵略者を食らい尽くさんと口を開いて待ち構える竜のようにも見えはしないだろうか……?


 そう思った次の瞬間、ニコライは小さくかぶりを振り、自身のうちに芽生えた危惧を振り払う。
 我ながら埒も無いことを、とおかしく思い、口元に苦笑を滲ませる。
 やはり大戦の先鋒を任されたことで、多少なりとも気負うところがあったらしい。
 そうでもなければ、自分たちがそうとは知らずに竜の顎に飛び込んでいく愚者の群れである、などという想念にとりつかれるはずもない。


 そうして雑念を振り払い、再び眼差しをあげたニコライの胸中には、先刻の奇妙な悪寒はすでに一片も残ってはいなかった。

 



[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第七章 繚乱(九)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:cd1edaa7
Date: 2011/03/02 15:45

 薩摩国 内城沖


「左舷、全砲門、準備整いましたッ!」
「よし、左舷、全砲門、放てェッ!」
 号令の直後、耳をつんざくような轟音が海上に響き渡った。
 十八隻に及ぶ艦隊の一斉砲撃である。その凄まじさは容易に想像できるだろう。
 もし内城やその城下の町で眠り込んでいる者がいたならば、さては桜島が噴火を始めたかと飛び起きたに違いない。


 無論、砲撃は一度限りではない。すぐに第二射、第三射が放たれ、その都度、南蛮人たちの視界の先では、炸裂する砲弾が家々を砕き割り、城壁を打ちこわし、地面を抉り取っていく。砲弾のうちの幾つかは敵城内にも届いており、城内からは早くも火の手があがっていた。
 それを見つめる南蛮軍の将兵の口元には、等しく同じ種類の笑みが浮かんでいた。武力で、あるいは知識で、相手よりも圧倒的な優位に立った者がみずからを誇る笑み。
 この地に住まう者たちは、自分たちが何を相手に戦っているかもわからず、砲弾の雨を浴びながら城や家の奥で震え上がっているに違いない。その光景を想像することは、南蛮軍にとって快いものである。
 今回の遠征に参加している南蛮兵たちの多くは、これまで幾度も見てきた。南蛮勢の圧倒的な火力を前に、まるで天変地異にでも遭ったかのように呆然とした表情を浮かべ、放心して立ち尽くす民衆の姿を。


 剣や槍では立ち向かうことさえ出来ない、圧倒的な火力による一方的な蹂躙。踏みにじられる側にとってはたまったものではあるまいが、踏みにじる側にまわれば、これほど獣心を解放できる機会は滅多にあるものではない。ましてこれは神の栄光を知らしめるための聖戦である。異教の輩を殺しつくし、長きにわたる邪教崇拝の罪に報いをくれてやることは、南蛮兵たちにとって正義の行いに他ならない。
 長い航海の果て、ようやくたどり着いた異国の地で、これから行われる殺戮と獣欲の宴を前にして南蛮兵たちは興奮の坩堝と化していた。




 しかし、さすがに指揮官たちはいまだ冷静さを保っていた。ことに船長クラスの者たちは、兵たちの感情の奔流に左右されることなく、皆一様に沈黙を貫いている。
 それは指揮官であるニコライも同様であった。最初の号令以後、その表情は動いておらず、勝利や力に酔っている様子は微塵も感じられない。
 それどころか、ニコライの両眼には訝しげな光が浮かんでさえいたのである。その光はだんだんと輝きを強め、砲撃が第五射を数えた時、ついにニコライは左の手を大きく掲げて口を開いた。
「撃ち方、やめィッ!」
 その声を聞くや、砲手たちは慌てて砲撃を中止した。信号によって伝達された砲撃中止の命令は、ほどなく麾下の全艦船に伝わり、つい先刻までとはうってかわって、静寂があたり一帯を包みこんでいく。


 将兵の多くが、突然の砲撃中止の命令に戸惑いと、そしてわずかな不満を覚えていた。
 だが、やがて彼らは否応なしに指揮官たちと同じ疑問にたどりつく。
 突然の砲撃によって家を吹き飛ばされ、城壁を砕かれ、さらには城内にまで被害が出た。民と兵とを問わず、混乱と恐怖で阿鼻叫喚の地獄絵図が展開されていなければおかしいはずなのに――彼らの視界の先にあるのは、砲撃前と同じく静まり返った内城と、その町並みのみ。
 悲鳴も、絶叫も、慟哭の声も。そこにはかけらも存在しなかったのである。


 無論、まったくの無音ではない。今も各処で砲撃による火災は燃え広がっており、土や木でつくられた家々が轟音と共に燃え崩れている様子が見て取れる。城から立ち昇る炎と煙は先刻よりも勢いを増しており、火の手はすでに城の奥にまで及んでいるものと思われた。
 問題なのは、そんな状況であるにも関わらず、それらを鎮めようとする人々の声がないことである。姿が見えないことである。
 怯え、居竦まっていると考えることも出来ないではなかったが、それにしても、ただの一人も姿が見えないなどということがありえるのだろうか。


「確認! 付近の入り江や後方の島から、敵が出てくる気配はありますかッ?!」
 ニコライが思い至ったのは、この襲撃が予測されていたのではないか、というものだった。
 そうであれば、間をおかずに敵船が襲来してくるかもしれない。
 コエリョはそれについてはありえないと断言していたし、ニコライも同様の見解を抱いていたが、敵の本拠地を砲撃しても人の姿が見えないなど、どう考えても尋常の事態ではない。
 あるいは艦隊の襲撃そのものは予測できていなかったとしても、湾内に侵入してきた艦隊の姿をいち早く捉え、早急に対策を講じたとも考えられる――ただ、そうだとすれば、民の避難があまりにも早すぎるのが不審ではあったが。


 いずれにせよ、この襲撃に敵が対応策を考えていたのであれば、次は反撃を試みてくるだろう。そう考えてニコライは周辺に注意を向けたのである。
 大海の波濤を乗り越えてきた南蛮の艦船と、外洋を越えることも出来ないこの国の兵船とでは、機動力と火力に雲泥の差がある。ゆえに海戦であれば決して負けることはない。
 ただ一つ、ニコライが危惧していたのが、浅く、狭隘な海域に誘い込まれ、機動力を奪われた上で接舷戦闘を挑まれることであった。
 その意味で、湾内に浮かぶ桜島の存在はニコライにとって邪魔の一語に尽きる。この島によって視界は大きく遮られ、湾内の行動が大きく制限されてしまう。地形を熟知した敵軍が、島影から躍り出てくる可能性は十分に考えられた。


 だが、ニコライの命令を受けた見張りの兵士から返って来た答えは「敵影なし」というものだった。
 敵はどういうつもりか、とニコライは厳しい表情で考え込む。
 すると、ニコライの傍らで、黒衣の宣教師が甲高い声を発した。
「何をためらっておられるのですか、提督。島津は我らにかなわじと逃げ出したのです。急ぎ上陸して、徹底的に異教徒どもを殲滅すべきですッ。躊躇していては異教徒の首魁を取り逃がすことにもなりかねません!」
 島津に対する恨みさめやらぬコエリョの言葉に、ニコライは目をすがめる。


 報復に逸っているとしか思えない言葉であったが、しかし、ニコライはコエリョの意見を聞き流すことはしなかった。
 コエリョの言うとおり、敵が南蛮艦隊の偉容を前に矢も楯もたまらず逃亡した、という可能性はないわけではない。そう考えたからである。
 だが、王やその側近だけならばともかく、兵や民の避難が一時間や二時間で終わるわけはない。これもまた確かなことであった。
 あるいは、こうやって迷わせることこそ敵の狙いか。そうであるならば、コエリョの言うとおり、この場のためらいは敵の主力を取り逃がすことに繋がってしまいかねない。


 ――しかし。
 結局、ニコライは即時上陸を望むコエリョとは異なる決断を下す。
「予定を変更します。まずは半数をもって横山城を撃ちます。十番艦以降はこの場で待機してください」
 横山城、というのは桜島の西端に位置する城である。内城を掃滅してから叩くつもりであったが、敵の出方を調べるためにも、まずは後背の危険を潰しておこう。
 このニコライの決定には、コエリョのみならず他の将兵からも不満の声があがったが、ニコライは断固として命令を徹底させた。
 兵員の補充が出来ないこの地では、極力、陸戦を避ける。それがニコライの基本方針であり、極小の可能性を慮って、どこに罠や伏兵があるかもしれない土地に不用意に踏み込む決断を下すことは、ニコライには出来なかったのである。



◆◆



 だが、横山城に攻め寄せた南蛮軍が見たものは、内城と同じく静まり返った城の姿であった。
 結局、この日、ニコライ率いる南蛮艦隊はただ一人の敵兵の姿さえ――否、敵兵どころか、民の姿さえ見ることが出来ずに終わる。
 内城や横山城といった軍事拠点だけでなく、その周辺の漁村にも人の姿はなかったのである。無論、湾内には南蛮艦隊以外、小船一艘さえ見当たらない。
 当初はニコライの慎重さに不平を漏らしていた者たちも、徐々にその異様さに気づき、言葉すくなになっていったのである。


 そして皮肉なことに、その事実がニコライの決断を促した。
 敵と刃を交える以前から士気を阻喪させては戦いになるはずがない。不安と疑念を抱えて海上でさまようよりは、多少被害が出ようとも、上陸して敵の尻尾を掴むべきであろう。
 そう考えたニコライは、明けて翌日、みずから薩摩の地を踏んだ。念には念を入れ、内城から離れた海岸に上陸したニコライは、一千人の兵士を率いて島津軍の本拠地に足を踏み入れる。


 ニコライ麾下の陸戦兵員、その総数は三千人にのぼる。すなわちニコライはわずか三分の一のみ上陸させ、残りは海上で待機させていた。
 一千人とはいかにも数が少ないように思えたし、実際にニコライにそれを指摘した者もいたが、ニコライはこれで十分と言って、その進言を退けた。
 なぜなら、今回の遠征軍はすべて職業的な専門兵で構成されており、その錬度はこの国の半農半武の兵士の追随を許すものではないと考えていたからである。


 また、彼らの装備は世界的に見ても最新鋭のものであった。長槍を持った板金鎧の兵士が足先を揃えて行進し、その周囲には真新しい銃やクロスボウ(西洋の弩)を持った兵士たちが整然と居並んでいる。その行軍は極東の蛮人たちの動揺を誘うのに十分な迫力を持っていたであろう。
 少なくとも、この地にいたコエリョはそれを確信していた。半裸に等しい格好で刀を振り回すだけの雑兵では、たとえ三倍の数が押し寄せたところで、この部隊はびくともしないに違いない。


 この時、ニコライはいわゆるテルシオに近い陣形を布いていた。テルシオとは、欧州で一世を風靡している戦闘隊形であり、重装槍兵を中核として、その周囲に弩兵、銃兵を配置する野戦方陣である。
 この隊形を維持しつつ、城下に突入したニコライであったが、予測に反して敵の奇襲は行われなかった。南蛮兵が侵入してなお周囲は静まり返り、猫一匹見当たらない。
 将兵は、かつて経験したことのない事態に遭遇し、薄気味悪そうに顔を見合わせながら、作戦通りに港湾部を占拠する。そしてあらためて安全を確認した後、海上に待機していた艦隊を受け容れた。


 ここでニコライはさらに五百の兵を上陸させ、城下町の占領を命じるや、みずからは千人の兵を率いて内城へと攻め上った。
 この時、ニコライは念のために海上からの砲撃と併用して、虎の子である砲兵部隊をも動員して城門を打ち砕いたのだが、やはりここでも敵兵の姿は影も形もなかったのである。




 一体どういうことなのか。
 敵の居城を損害なしで占拠するという異常な事態に困惑する南蛮勢であったが、上陸した彼らのもとに数名の信徒たちが姿を見せたことにより、ようやく島津軍の動きを掴むことに成功する。
 彼らははじめ、コエリョのもとを訪れた。島津家から薩摩での布教を許されず、最終的には国外に放逐されてしまったコエリョであったが、そこに至るまでに幾度も人々に神の教えを説き、何人もの忠実な信徒を獲得している。
 この時、姿を現したのそんな信徒の一部であり、彼らの口から島津軍の動きを知らされたコエリョは、ただちにニコライのもとへ駆けつけるのであった。





 すでに日は西の山並みの彼方に隠れ、上空には星の光が瞬き始めている。
 城下の将兵に夜襲への備えを命じた後、ニコライら南蛮軍の主だった指揮官たちは占領した内城の一室に集まり、コエリョが得た情報に耳を傾けていた。


「一宇治城、ですか?」
「はい。薩摩の内陸部に位置する城で、島津がこの城を築く以前は彼らの居城だったそうです。このあたりの住民を含め、薩摩に残っている島津軍のほとんどは、現在その城に集まっているとのことですわ」
 コエリョの得意げな言葉を聞き、ニコライはわずかに眉をしかめた。
 といっても、別にコエリョの手柄顔に不快を覚えたわけではない。内陸部に引きずり込まれれば、海からの援護が届かない。それを忌んだのである。


 くわえて、ニコライは他にも気になることがあった。この国に山野が多いことはあらかじめコエリョや他の宣教師から聞いていたのだが、実際に我が目で見れば、想像よりもはるかに険しい国土である。
 ニコライ麾下の兵力は、その重厚な装備からもわかるように機動力に難がある。この国の山容の厳しさを考えれば、重装槍兵や銃兵を主力とした部隊の足は著しく鈍くなってしまうに違いなかった。


 とはいえ、そういった純軍事的な問題は作戦によって補うことが出来る。
 それよりも問題なのは、海上でも危惧したように、南蛮軍の侵入に対する敵の対応があまりに早すぎることであった。
 ニコライは険しい表情で口を開く。
「これだけの規模の移動です。昨日今日のことではないでしょう。一体、何時ごろから島津は動き始めていたのですか?」
 その質問の意図を察したのだろう。コエリョの顔がわずかに引きつった。


 そんなコエリョを見て、ニコライは内心でため息を吐く。
 先刻の得意げな表情を見たときにも思ったが、コエリョは表情を繕うことを知らない。嬉しいときには喜び、悔しいときには顔をしかめる。良い意味でも、悪い意味でも、素直すぎるのである。
 いっそ宣教師として異国に渡ったりせず、ただ一介の信徒として教会に奉職していれば、彼女自身も、また周囲の人々も、より穏やかな生を送ることが出来たのではないだろうか。ニコライはそんな風に思うときがあった。無論、彼女にとっては余計なお世話以外の何物でもないだろうが。


 ……ニコライがそんな益体もないことを考えている間に、コエリョはやや低い声で質問に答えていた。
 それによれば、島津家が移動を始めたのは、南蛮艦隊が姿を見せる十日以上前のことであったという。さらに海岸線に位置する村々にも、同様の命令がまわったらしい。当然、素直に頷く者たちばかりではなかったらしいが、そこは薩摩国内で根強い人気を誇る島津の姫たちが、文字通り東奔西走して、頑固者たちの説得にあたったとのことだった。 


 ニコライはこの国の姫たちの人柄など知らないし、知る必要もない。
 彼がその報告で気にかけたのはただ一点。島津が明らかに南蛮艦隊の到来を予期し、それに先んじて兵の移動と民の避難をはじめていたことだった。
 島津家が南蛮艦隊の到来を察知するなどありえないと主張していたコエリョも、そのことに気づいていたのだろう。だからこそ、表情に動揺を滲ませたのである。



 どこから情報が漏れたのか――その疑念が生じるのは当然のことであった。
 だが、ニコライは素早くその疑念を胸奥に押し込め、先送りすることにした。原因の追究は後でいい。なんだったら、敵の将軍か姫を捕らえて尋問すれば、それで済む。
 今、問題なのは、南蛮の襲来を知っていた敵軍がどう動くかにあった。
 そして、その推測はさして難しくはない。彼らは出来るかぎり守りを固め、南蛮軍を内陸に引き付けようとするだろう。海上からの砲撃が届かない地点に南蛮軍を誘い込み、地の利を活かして奇襲を繰り返す。そうしてニコライたち南蛮軍をこの地に釘付けにしている間に、他国に攻めこんでいる主力部隊が取って返し、南蛮軍の後背を衝く――現在の敵の動きを見れば、これ以外には考えられないだろう。



 ニコライたち指揮官は、この国の地形と共に情勢も知らされている。それぞれの勢力についても十分な情報を与えられていた。
 それを鑑みれば、島津家の目論見を挫くための手段の一つは、フランシスコに状況を知らせ、大友軍の動く時期を早めてもらうことであろう。
 伊東家ならばともかく、大友軍の主力が動けば、島津も容易に兵を返すことは出来なくなる。
 だが、それではニコライたちがはるばる海を越えてきた意味がなくなってしまう。
 本来のニコライたちの使命は、主力が出払った薩摩の掃滅である。どうやらその作戦は島津に見抜かれていたようだが、だからといって勝手に作戦を変更するわけにはいかないし、もっと言えば変更なぞする必要もない。この島津の作戦には致命的ともいえる欠点があるからだ。


 だが、そこを突くには今しばらくの時間が必要であった。ゆえにニコライは「動かない」という選択肢を選ぶことも出来る――が。
 異教徒に先手を取られ、為す術なく立ちすくむような真似をすれば。、フランシスコの不興を被ることは確実であった。かつて王子の傍近くに仕え、その気性を知り抜いているニコライにはそれがわかる。
 くわえて、将兵からも不満の声が噴出するだろう。
 遠征軍の士気を保つことは指揮官にとって最重要任務の一つ。その上でフランシスコの意に沿うためにはどうするべきか。


 ――答えは一つしかなかった。
(やはり、戦うしかありませんか。出来れば、こんな土地で殿下の兵を損じたくはなかったのですが……)


 この時、ニコライは自分が思っている以上に傲慢であったかもしれない。将兵の犠牲をいかに少なくするかについて考えはしても、勝敗そのものを案じていたわけではなかったから。すなわち、ニコライはごく自然にこう考えていたのである――戦えば必ず勝つ、と。
 そして。
 まるでニコライがその決断を終えるのを待っていたかのように、この場に集っていた者たちの耳に立て続けに轟音が響き渡った。その音はやや遠くから聞こえてきたが、南蛮軍の中にその音を聞き違える者などいるはずもない。紛うことなき銃火の轟音であった。


「――コエリョ殿の報告にもありましたね。島津とやらは、なかなかの数の銃を保有している、と」
 ニコライの声に動揺の気配はかけらもなく、その落ち着いた声音は周囲の者たちに冷静さをもたらした。
 彼らの一人が愉しげに笑う。
「ようやっとおでまし、ということだな。我らが来るのがわかっているのであれば、妙な小細工などせず、跪いて地面に頭をこすりつける練習でもしておけば良かったものを」
「それが出来る者たちであれば、コエリョ様を放逐するなどという愚かな所業をするはずがないでしょう。所詮は東夷の猿人です。彼らに神の栄光を知らしめるには、慈悲の手ではなく、懲罰の鞭こそ相応しい。神に仇名す者たちの末路を、その心身に刻み付けてやりましょう。もう二度と、我らに逆らうことが出来なくなるように」
 その言葉に、周囲の者たちは等しく頷きを返すと、眼差しに猛々しい戦意を宿して次々に部屋を飛び出していった。
 ニコライも彼らに続き、ひとり部屋に残ったコエリョは、そんな将軍たちの背を見送りながら、彼らに神の加護があらんことを願い、十字を切るのであった。
 



 かくて、薩摩の地における島津軍と南蛮軍の戦いは闇夜の中で幕を開けた。
 闇夜に乗じた島津軍の奇襲は、しかし、筒先を揃えた南蛮軍の圧倒的な火力によって、たちまちのうちに撃退されてしまう。
 鍛え抜かれた南蛮軍の銃火は、夜の闇にあっても驚くべき命中率を誇った。これは夜襲を警戒していたニコライが、炎を絶やさぬように厳命していたためでもある。
 その銃火を潜り抜けた敵兵を迎え撃ったのは、完全武装の槍兵隊。全身を覆う板金鎧を前にしては弓や刀で致命傷を与えることは難しい。
 結果、島津軍は少なからぬ死傷者を出して撤退を余儀なくされる。全滅を免れたのは、同士討ちを怖れたニコライが追撃を禁じたからに他ならない。
 この戦闘における南蛮軍の死者はわずか五名のみ。負傷者の数は三桁にのぼったが、そのほとんどは軽傷者であり、明日以降の戦闘に支障はなかった。
 この結果を受け、南蛮軍の将兵は自軍の強さをあらためて確信し、上陸以降、まとわりついていた不安の影を一掃することに成功したのである。






◆◆◆




 
「まったく、これで何度目だ? 馬鹿の一つおぼえの奇襲なんて通用しないことが、まだわかんねえのかな」
「わからないからこそ、何度も繰り返してるんだろうさ。猿には猿の知恵しかないんだろうよ」
「は、それは猿に失礼だろう。カタナ、とか言ったか? 連中のしょぼい剣じゃ俺たちの鎧は斬れんし、あいつらが持ってる旧式の銃をいくら撃ったところで、こっちの新式銃に対抗できるわけがない。猿でさえ二度、三度と繰り返せば学ぶだろうに、連中はそれでもまだ懲りずに襲ってくるからなあ」
「コエルホ提督は油断するなってしつこく念を押してるが、さすがに慎重も度が過ぎるってものだろうよ」


 そんな兵士たちの意見は、いまや南蛮軍に属するほとんどすべての兵士たちが共有するものとなっていた。
 貧弱な武装と寡少な兵力によって繰り返される襲撃は脅威と呼ぶに値せず、襲われた回数はすなわち撃退に成功した回数であった。
 一つだけ厄介な点をあげるならば、重武装の南蛮軍では、軽装の敵兵を追撃することが出来ず、敵軍を殲滅することができないことであろうか。とはいえ、銃火による反撃は襲撃のたびに敵に相応の打撃を与えており、決していたちごっこを繰り返しているわけではない。彼我の損害を見れば、南蛮軍の優勢は誰の目にも明らかであった。


 それゆえ、遠からず敵軍は音をあげ、異なる作戦を採ってくると南蛮軍の指揮官たちは考えていた。
 しかし、敵軍はまるで何かにとりつかれたように執拗に南蛮軍を襲い続けた。
 南蛮軍の将兵は余裕をもって襲撃を退け続けていたのだが、あまりの敵軍のしつこさに、次第に彼らの顔には苛立ちが目立つようになってきていた。
 南蛮軍の将兵にとって、この地の敵兵は掃っても掃ってもたかって来る蝿のようなものであったかもしれない。脅威にはなりえないが、その不快さは例えようもない。
 襲撃が繰り返されれば、少ないながらも死傷者は増え続ける。おまけに、この敵は昼夜わかたず少数での襲撃を繰り返してくるので、おちおち眠ってもいられないのである。将兵の間から、敵軍の本拠地を潰すべし、との声があがるのは必然といえた。


 この声にニコライが応えたのは、なにも将兵の不満に迎合したためではない。
 効果の薄い少数での奇襲、それを執拗に繰り返す敵の思惑をニコライは早々に察していたのである。
 上陸したばかりの南蛮軍の戦力を量り、同時に将兵の心理に不安を植え付ける。大海を越えて見知らぬ土地に侵略してきた兵士たちは、興奮の底に不安を抱えるものである。古来より長征における兵士の士気の維持は、食料の確保に並ぶ難事として、軍を率いる者たちを悩ませてきた。
 島津軍は一見して無謀な戦闘を繰り返しているように見えて、その実、洋の東西を問わず軍という存在が抱える不可避の弱点を巧みに衝いてきている。不利な戦闘を繰り返す敵に、将兵は苛立ちと共に不気味さを感じはじめており、繰り返される夜襲は将兵の眠りを妨げ、より一層の不満と不安をかきたてる。


 これが戦戯盤の盤面の勝負であれば、ニコライはこのまま守りを固めつつ敵を撃退していく方法を選んだであろう。それが被害を最小限にとどめた上で勝利する、もっとも確実な方策であったからだ。
 しかし、今現在の戦況ではその選択肢は選べない。兵士は盤面の駒ではなく、意思を持った人間である。軍令で不満をおさえることは可能だが、現在の戦いはあくまで緒戦に過ぎず、ここで麾下の将兵に不満の種を植え付けることは得策ではなかった。



 ゆえにニコライは敵の根拠地である一宇治城を制圧するために軍を進めることを決定した。
 先鋒隊は槍兵三百、弩兵百、銃兵二百から成る。それだけの兵力にくわえ、必勝を期したニコライは五台の移動式大砲を先鋒隊に与えた。装備と火器に劣るこの国の軍では、たとえ三倍の兵力があっても太刀打ちできない重厚な陣容である。この一部隊だけで敵城を陥とすことさえ不可能ではないだろう。
 くわえて、用兵家としては慎重なニコライは、この先鋒隊の後にみずからが率いる二千の本隊を後詰としてあてた。
 内城を守備する兵力が四百あまりになってしまうが、海上からの援護があれば多少の不利は顧慮するに足りない。
 それどころか、敵が内城奪還に動くようであれば、かえって幸いというものであった。そうなった場合、ニコライはただちに軍を転進させ、海と陸から敵主力を挟撃する心算であった。


 とはいえ、そんな事態にはならないだろう、とニコライは考えている。
 先鋒隊の将兵に「油断するな」と繰り返し命令したのは、誘われているという確信に似た思いがあったからだ。敵の狙いは、南蛮軍を内陸に引きずり込むこと。この推測はおそらく的を外していない。
 繰り返すが、ニコライは用兵家としては慎重な性質であった。そのニコライが、ここまで敵軍の思惑を読んだ上であえて誘いに乗るような真似をしたのはなぜか。


 それは簡潔にいって、乗らざるを得ないから、であった。戦局を睨み、将兵の士気を慮れば他に採り得る手段がない。
(嫌らしい戦い方ですね)
 ニコライはそう思い、この作戦を考案した名も知らぬ敵将に対し、皮肉まじりの賛嘆を禁じえなかった。


 だが、同時にニコライはこうも思う。
 南蛮軍を海上の砲撃の援護がとどかない内陸部にひきずり込むためには、これ以上の手段はあるまい。しかし、たとえ内陸に引きずり込んだところで、自分たちの勝算がわずかでもあがると敵は考えているのだろうか、と。


 たとえ海からの援護がなくても、圧倒的なまでの武装と火力の差は、容易に覆せるものではない。今日までの奇襲における彼我の損害を見比べるだけでも、それは瞭然としていよう。
 これまでの敵軍の動きから推測するに、それがわからないほど今回の敵は愚かではないだろうとニコライは思う。
 それがわかった上で、あくまで彼らが抗おうとする理由は――


(故郷を異国の侵略から守るため、ですね。当然といえば当然のことです)
 これまで何度も見てきたことだ。南蛮軍にかなわないと知って、諦め、女子供を差し出して地に頭をこすりつける者たちばかりではない。大切なものを守るため、あくまで戦い続けようとする者たちは、どこの戦場にあっても必ず存在した。


 そして、ニコライは前者よりも後者に好感を抱く。ニコライのそれとは色も形も違えども、彼らには誇りがあった。ニコライが、神とフランシスコのために戦う源泉と共通するものを、彼らは持っていたからである。
 それゆえにこそ、ニコライはこれまで彼らのような敵を完膚なきまでに叩き潰してきた。下手な情けをかけるのは、それこそ彼らを侮辱するもの。自分が彼らの立場に立ったならば――ニコライもまた、決して敵に膝を屈しようとはしなかったであろうから。


 だから、この地でもニコライはこれまでと同じように戦う。敵が万に一つの勝機を掴もうとしているならば、その希望をもねじふせる。神の慈悲を示すのは、戦争が終わってからで良い。それこそが、民をも含めた敵味方の被害をもっとも少なくする方法である、とニコライは考えていた。




 おそらく、ニコライは将と兵とを問わず、南蛮軍の中でもっとも慎重な人物である。
 その慎重なニコライが攻勢を決断した以上、南蛮軍をとどめる者はもはや何もない。誰もいない。
 薩摩の地の奥深くへと進軍を開始する将兵の顔には、ただ勝利への確信だけがあり、敗北の憂いを宿す者は一人として存在しなかった。
 自軍の武力に対する絶対的な自信と、みずからを神の尖兵と信じて疑わぬ信仰心。
 南蛮軍将兵の士気の根底を支える二つは、いまや確固たる真実として南蛮軍の将兵の心を満たし、その士気は天をも衝かんばかりとなっていたのである。

 




 ――崩さんと欲するならば、まずは高く積み上げよ。
 ――そんな言葉を発した者が敵軍にいるという事実を、南蛮軍はいまだ知らずにいた。






[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第七章 繚乱(十)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:cd1edaa7
Date: 2011/03/02 15:46

 その男は、南蛮軍でも屈指の巨躯を誇っていた。どれほどの大きさかといえば、彼に合う甲冑が軍に一つもなく、仕方ないので一つ一つの部品を手ずから調整して、なんとか格好を整えているほどである。
 男はまた巨躯に相応しい膂力の持ち主でもあり、手に持っている巨大な長槍は、これまた特注の大業物であった。
 その長槍を手に男が敵陣に突進すれば、敵兵の群れは巌にぶつかる波濤のごとく左右に砕けていく。
 今、男の足元に倒れ伏す異国の敵兵の死屍は、そうして砕け散った波濤の一片であった。


 男は周囲の仲間たちに気づかれないよう、肌身離さず持っている十字架を片手に握り締めながら、そっと祈りの聖句を唱えた。つい先刻まで命がけの殺し合いを演じていた相手である。一歩間違えれば、倒れていたのは男の方であったろう。それでもこうして決着が着いた今、その冥福を祈らずにはいられなかった。
 男は仲間たちからエルファと呼ばれている。これは本名ではなく『象』からとったあだ名であり、男の人間離れした巨躯や膂力を称えて名づけられたものなのだが、それ以外に、戦闘以外の諸事における動作の鈍さや、相手が異教徒であっても戦うことをためらう軟弱な気性を揶揄する意味も少なからず込められていた。



 エルファの周囲では、同じ部隊の同輩たちが勝利の興奮さめやらぬ様子で、口々に雄たけびをあげ、今なお逃げ続ける敵兵に追撃をかけようとしている。
 もう勝敗は決したであろうに、とエルファは思う。これ以上は戦闘ではなくただの殺戮であり、神が望むものではない。しかし、一介の兵士風情が作戦に口を出せるはずもない。
 ましてエルファは敵の本拠地である城(イチウジ、という非常に言いにくい名前であった)を陥とすために編成された部隊、その先鋒に加わっている。戦いの手を止めるなど許されるはずもなかった。


 せめてこれまでのように速やかに逃げてくれたら、とエルファは思う。
 しかし、本拠地を直撃されることを悟った敵は必死であった。進軍を続ける南蛮軍の前にあらわれたのは、これまでの奇襲部隊とは一線を画した規模の敵部隊。その動きは兵卒であるエルファから見ても、明らかな動揺が感じられた。あるいは敵は、南蛮軍がこうも早くに彼らの本拠地を突き止めるとは考えていなかったのかもしれない。
 この部隊はエルファたち重装槍兵が先鋒となって撃退したのだが、敗れた敵軍はこれまでのように蜘蛛の子を散らすような逃げ方はしなかった。南蛮軍の圧力に抗しきれず、徐々に退きつつも、これ以上の侵攻を許さぬとばかりに苛烈な逆撃を加えてくる。


 しかし。
 そんな敵の反抗も、南蛮軍の銃兵によってあえなく蹴散らされた。
 銃兵はおろか砲兵まで動員した六百名の先鋒部隊は、千人を越える敵軍を半刻たらずで撃ち破ることに成功したのである。



 すでに敵は全面的な潰走に移っている。組織的な抵抗を試みる部隊は、さきほどエルファたちが撃ち破った部隊で最後であったようだ。なおも抗戦を試みる敵兵がいないわけではなかったが、それは個人の勇に留まり、部隊として戦う者たちはもうどこにも見当たらない。
 指揮官であるニコライ・コエルホから「油断するな」との命令を受けていた南蛮軍であるが、この敵の潰走が偽りであるとは思えなかった。また仮に罠であったとしても、なにほどのことがあろう、との思いもある。ここで敵を見逃して、これまでのように昼夜の別なく奇襲を受けるのは面倒であり、不快でもあった。


 つまるところ――
「全軍、追撃せよッ!」
 先鋒部隊の長の号令に応じた将兵の猛々しい喊声こそが、南蛮軍の総意だったのである。





 かくて、エルファは槍先を鮮血と肉片で覆いつつ、同輩たちと共に戦場を駆け続けることになった。
 当初は追撃しつつも陣形を組んでいた南蛮軍であったが、散発的な反撃に対応しているうちに、徐々に陣形は崩れはじめていた。もっとも、兵士はおろか指揮官たちでさえ今は追撃を優先している。
 隊形を整えていれば、その隙に敵主力を逸することが確実だったからである。
 おそらく敵は多数の怪我人を抱えているのだろう。朋輩とおぼしき者たちに肩をかしながら、懸命に逃げ続ける敵兵の姿を、エルファは何度も目撃した。その彼らはことごとくエルファの同輩たちによって討ち取られ、無念の形相を浮かべながら野に屍を晒している。


 エルファたちが『その場所』に着いたのは、間もなく西の稜線に陽が隠れようかという時分であった。
 日が暮れれば追撃も終わる。いつか、その時を心待ちにしていたエルファの視界に映ったのは、窪まった盆地のただなかを逃げ続ける敵軍の姿であった。
 おそらく殿軍を務めていると思われるその敵の数は、おおよそ百名といったところか。一際立派な甲冑を身につけた騎士と、それを取り囲む兵士たちの姿が見て取れる。おそらく敵の有力な将軍なのであろう。
 良き獲物、と左右の兵士たちが勇んで突撃していけば、エルファも遅れるわけにはいかなかった。


 背後から迫る喊声を聞き、敵軍は南蛮軍の追撃が思ったよりもはるかに早く接近していたことに気づいた様子であった。
 しかし、おそらくもう抗戦する力は残っていなかったのだろう。彼らはこれまでのように抗戦しようとはせず、エルファらに背を向け一目散に逃げ始める。その姿は、肉食獣に追われた草食獣さながらであった。


 南蛮軍は嘲笑を浴びせつつ、追撃を開始した。戦意の失せた相手を後ろから討ち果たすほど楽な戦いはない。
 しかし、エルファは動かなかった。より正確に言えば動けなかった。
 エルファはこれ以上の戦いは無益だと考えており、追撃もやめたいと願っていた。これまでエルファは何十、何百もの敵兵を討ち取ってきたが、そのすべてが泣きたいほどに嫌な記憶であったから。


 だが、エルファのような一介の兵士が感情のままに自侭な振る舞いをするなど許されるはずもない。エルファもそれは十分に承知していた。だから、気が進まずとも、自軍の先頭に立って駆け出すつもりであり、実際、ここまではそうしてきたのだが――


 エルファの足は主人の意図を裏切り、先へと進むことを拒み続ける。それは人殺しを厭うエルファの優しさゆえであったのか、あるいは戦士としての本能が危険をかぎつけていたのだろうか。
 そのいずれにせよ、エルファが大きく出遅れたことは間違いなかった。当初は軍の先頭に位置していたエルファであったが、彼がためらっている間にも後続の南蛮軍の兵士たちは次々に左右を追い抜いていっており、気がつけば南蛮軍の先頭はすでに敵軍の最後尾を捉えようとしていた。



 その南蛮軍の先陣に向けて、退却していた敵軍から銃火がほとばしる。
 筒先を揃えた一斉射撃ではない。数人の兵士たちが火縄銃の狙いを南蛮軍の指揮官に定め、撃ち放ったのだ。
 いずれも優れた技量の持ち主であるらしく、一発が板金鎧の隙間をぬって命中し、部隊長の一人が顔をおさえながら地面に倒れる。
 だが、銃兵はそれを見ても喜ぶ素振りさえ見せず、抜刀して追撃部隊の前に立ちはだかってきた。数百名の追撃を、たかだか十人たらずの人数で防げるはずがない。にも関わらず、抜刀して斬り込んで来る兵士たちに迷いは感じられなかった。
 

 味方を逃がすための、文字通り必死の防戦である。
 この退却方法が捨て奸(すてがまり)あるいは座禅陣とも呼ばれていることを、エルファも南蛮軍も無論知らない。だが、味方が退却するためのほんのわずかな時を稼ぐために、みずからの命を路傍の小石のごとく投げ捨てる敵兵の恐ろしさは、すべての将兵が思い知らされていた。南蛮軍がここにいたるまで、敵主力を討つことが出来なかったのは、彼らのような死兵に幾度となく追撃を妨げられてきたからなのである。


 だが、いかに効果的な足止めとはいえ、繰り返せば対応の方法も見えてくる。
 敵の銃のほとんどは南蛮軍にとって旧式のものであり、数も少ない。よほど至近距離から撃つか、さもなくばいましがたのように、運悪く顔などの露出部に弾丸が命中しないかぎり、なかなか致命傷になるものではない。白兵戦に至ってはなおのことである。この国の武器では南蛮兵にろくに手傷を負わせることも出来なかった。


 要は冷静に対処すれば、何とでもなるということである。気をつけるべきは、南蛮兵から見れば無駄死にとしか思えない行動を、平然と繰り返す敵軍の異様なまでの錬度と士気の高さであった。
 だが、結局のところ、それとても銃火の前では意味をなさず、反撃の銃弾の前に敵兵は次々と地面に倒れていくしかなく。


 こうなれば恐れるべき何物も南蛮軍には存在しない。これだけ追い詰めたのだ。眼前の殿軍を鏖殺し、しかる後、今度こそ敵の主力部隊を撃滅してみせる。
 南蛮軍が必殺の気概もあらわに敵軍に殺到していく――『その時』





 ようやく。
 『場所』と『時』が重なり合った。





 次の瞬間、凄まじいまでの轟音が盆地一帯に響き渡る。
 これまでの銃火を雹か霰で例えるならば、今回のそれは宙空を切り裂く霹靂に等しい。
 一瞬、南蛮軍はまた例の捨て身の戦術か、と疑ったのだが、今回の銃撃は規模も破壊力も、これまでの反撃とは完全に一線を画していた。
 なによりも――
「ぐ、ああああッ?!」
「腕が、ああああ、俺の腕があああッ!!」
「いてえ、いてえよッ、なんだ、いきなりなんなんだよッ?!」
 地面に倒れ伏し、驚愕と激痛にもだえる将兵の数が、これまでとの違いを克明にあらわしていた。


 鉄砲の数だけではない。放たれた銃弾は、装甲の薄い部分であれば板金鎧さえ撃ちぬいていた。
 その威力は決して旧式の銃では出せないものである。だが、どうしてこの地の敵兵が新式銃を保有しているのか。
 混乱する南蛮軍の将兵は知る由もなかった。
『他国の者にわざわざ自国の武力を詳らかにする為政者などどこにもいません。まして得体の知れない異国の宣教師などに、秘中の秘を見抜かれるような愚を、この私がおかすとでも思っているのですか?』
 彼らが目的地としている城の一室で、一人の少女がそう言って冷たく眼差しを光らせていることを。


 もっとも。
 たとえそれを知らされたところで、誰一人として感謝する者はいなかったであろう。
 何故といって、そんな疑問に拘泥している余裕を、南蛮軍は与えられなかったからである。
 動揺しずまらぬ南蛮軍の只中に向けて、続けざまに第二射が放たれた。
 地を穿つ銃火の雨が轟音を響かせるや、南蛮軍の兵士たちは絶叫をあげながら、血泥とともに地面に倒れ伏していく。
 こうなれば、もう追撃どころではない。銃弾が飛来する方向から推測するに、新手は木立にまぎれて山の斜面から南蛮軍を狙い撃っているようだ。
 先鋒部隊の指揮官たちは陣形を立て直し、新たな敵兵に備えようとした。不意を撃たれて混乱を余儀なくされたが、南蛮軍にも銃兵はいるし、大砲さえ預かっているのだ。きちんと隊列を組むことさえ出来れば、いかに銃兵とはいえ重装槍兵の壁はそうそう破れるものではない。


 指揮官たちの考えは、この時点では決して間違ってはいなかった。
 だが。
 敵――島津軍は、そんな南蛮軍の思惑を容赦なく打ち砕く。
 第三射、第四射、第五射。
 雷神がたけり狂ったかのような続けざまの轟音は、紛うことなき銃火の霹靂である。
 だが、南蛮軍の将も兵も、すぐにそれを信じることが出来なかった。何故といって、こんな短い間隔で鉄砲を放つことは不可能なはずであったからだ。


 いかに新式の銃とはいえ、一度、弾を発射すれば、筒内の掃除から次弾の装填まである程度の時間が必要となる。これは鉄砲という武器の不可避の欠点でもあった。
 南蛮ではこの欠点を克服すべく、様々な試みが為されており、実際、幾つもの成果が出ていた。銃兵たちが持つ弾薬(銃弾と火薬を詰め込んだもの)は、装填時間の短縮のために編み出された技術の一つである。
 無論、弾薬といっても筒内に入れれば即座に次弾が放てるような便利な代物ではない。装填の工程を幾つか短縮することが出来る程度ではあったが、それでも弾薬を用意しているか否かで、次弾の発射までにかかる時間は大きく左右された。だからこそ、有用な技術として銃兵の正式な装備に組み込まれているのである。



 しかし、その南蛮軍の銃兵でさえ、今しがたの敵軍のような連続した射撃は不可能であった。
 この国は連発する銃でも開発したというのだろうか。
 ありえない。こんな東のはずれの蛮人たちが、南蛮国ですらいまだ成功していない技術を開発するなどありえない。だがしかし、それならば、今なお止まない轟音は、一体なんだというのだッ?!


 勝利の確信に満ちていた、つい先刻からは考えられないほどの混乱と怒号と絶叫が南蛮軍を覆おうとしていた。
 先頭に位置していた重装槍兵らは慌てて踵を返す。周囲に倒れている朋輩たちに手を貸す者もいたが、飛来する銃弾は容赦なく彼らを撃ちぬいていく。頑丈な板金鎧は多くの南蛮兵を致命傷から守ったが、それはかえって苦痛の時間を長引かせるだけであったかもしれない。
 地面に倒れ伏した槍兵たちは、腕や足を貫いた銃弾の痛みに耐えながら、いつ首や顔を撃ちぬかれ――あるいは切り裂かれるかと恐れおののくことしか出来ずにいた。




◆◆◆




 そんな南蛮軍の惨状を見下ろしながら、惨状をもたらした当の本人は忌々しげに舌打ちしていた。
 一見、童とみまがいそうな小柄な体格と幼い顔つきをしたこの男性、名を新納忠元という。薩摩島津家の重臣の一人である。
 忠元は今、不機嫌な表情をあらわにしながら、眼下に視線を注いでいる。忠元の目には、南蛮軍の姿がとても醜いものに映っていた。
「たかだか数度、銃撃を浴びせただけではないか。肝付や伊東の兵でさえ、ここまで見苦しい姿は晒さぬぞ」
 所詮は武器の力に頼っただけの無法者の集まりか、と忠元は吐き捨てる。
「これでは油断を誘うという筑前の策も、本当に必要であったかどうか疑わしいわい」
 唸るように不満の声を押し出した忠元であったが、無論、忠元はわかっていた。南蛮軍が島津軍を侮りきっていたからこそ、予期せぬ反撃に遭っただけで、南蛮軍がここまでうろたえているのだということが。
 ことのはじめから正面きって戦っていれば、いかに島津軍が敵の予測を越えた大量の鉄砲を抱えていようとも、南蛮軍は堅陣のうちにこもって容易に突き崩すことは出来なかったであろう。少なくとも、今、忠元の眼前に広がっているような惨憺たる敗走をすることはなかったに違いない。


 それがわかっていて不満の声をもらしたのは、薩摩の国を、そして島津の家を守るための策が、大友家の家臣の頭脳から出たものであることが口惜しいからに他ならぬ。
 それは本来、島津の家臣が考えねばならなかったこと。他国の手をかりて島津家を守るなぞ『親指武蔵』の名が泣くというものだろう。
 ここは是が非でも南蛮軍を撃ち破り、島津の武のなんたるかをしらしめてやらずばならぬ。南蛮軍に対しても、そして大友家に対しても。忠元はそう決意していた。
 決して、決して頭の働きで劣ったから、腕の働きで見返してやる、などという子供じみた対抗心はない。断じてないのである。



 小柄な身体に、大きな志と小さな対抗心を秘めた島津家随一の猛将は、麾下の鉄砲隊に視線を向けた。
 もし、この場に島津家以外の武将がいれば、その陣形を見て眉をひそめたかもしれない。
 三十名の鉄砲隊が横一列に並び、その後ろに同人数の鉄砲隊が同じく横一列に並んでいる。それがあわせて五列――計百五十名の鉄砲隊がこの場に集っている。
 しかし、この陣形では敵陣に鉄砲を撃てるのは一列目の三十人のみ。一列目を座らせたり、あるいは隙間を縫って撃てば二列目の兵士も撃てないわけではないが、それでも精々六十人である。部隊の半ば以上が遊兵と化す奇妙な陣形であった。



 だが、これこそが島津家が新兵器たる鉄砲を存分に活用するために編み出した新しい陣形であった。
 すなわち一列目の兵士が筒先を揃えて敵を銃撃するや、最後列の五列目が一列目の前に移動し、続けざまに敵に銃火を浴びせる。そして五列目が撃ち終われば、今度は四列目がまた前に出て敵を撃つ。撃ち終わった兵士はただちにその場で次弾の発射準備を整え、順番が来ればまた前に出て銃撃する――これを繰り返せば、弾と火薬が尽きないかぎり、敵は絶えず銃弾を浴び続けることになる。


 百五十の鉄砲隊が一斉に敵兵を撃つ方が、無論破壊力は勝る。だが、一発撃っては装填に時間をかけ、また一発撃っては時間をかけ――それよりは、三十の鉄砲隊が絶え間なく撃ちつづける方がはるかに敵にとって脅威になる。敵軍に接近を許さないという意味で、防御にも優れていると言えるだろう。くわえて、この陣形であれば機動力に難がある鉄砲隊であっても、隙を見せることなく敵陣に向けて前進できるのである。
 ひとたび戦況が不利になれば、動きを逆にして後退すれば殿軍の務めを果たすことも難しくない。


 鉄砲という新兵器の欠点を補い、利点を増幅させる新しい陣形にして戦法――漸進射撃戦術を編み出した人物の名を島津歳久という。
 歳久はこれを『車撃ち』と名づけ、早い段階から将兵に訓練を施してきた。
 それは大友家からの使者が訪れるずっと以前のことであり、すなわちこの戦術の考案に歳久は誰の手も借りていない。
 島津の鉄砲隊は、そんな卓越した軍事的才能を誇る歳久によって選ばれ、編成され、鍛え上げられてきた虎の子の最精鋭部隊なのである。そして、その鉄砲隊を指揮するのが島津家随一の将たる新納忠元である以上、島津軍を侮りきって押し寄せた南蛮兵に勝機など寸毫もあるはずはなかった。




 無論、忠元は敵にまだ鉄砲隊、弓隊が残っていることは承知している。それどころか大砲なるものまであるらしいことも。
 だが――
 そこまで忠元が考えたとき、不意に彼方から鬨の声があがった。元々、追撃の余勢でくずれかけていた敵の陣形は、逃げ崩れる槍兵によってさらに乱れ、鉄砲隊や弩兵隊の陣列は混乱に陥っている。その敵陣めがけ、山の斜面の半ばあたり――丘陵状になっている地点に展開していた島津の弓兵隊が、猛然と矢の雨を浴びせはじめたのである。
 この絶妙な間による攻撃は、島津の末姫、家久の手になるものであった。


 元々、銃は長弓に比べて有効射程距離(単純な飛距離ではなく、殺傷力と命中率を共に保持できる距離)に劣る。そしてもう一つ、南蛮軍が使用しているクロスボウ――日本でいうところの弩もまた単純な飛距離はともかく、有効射程距離においては長弓に及ばない。
 それはつまり適切な距離を保つことさえ出来るならば、ただの弓隊であっても南蛮軍の銃兵やクロスボウ部隊に十分に対抗できるということを意味する。
 くわえて、銃兵は長槍兵のように重装備で身を固めているわけではない。常であれば長槍兵が楯となり、敵との距離を詰める援護をするのだが、島津軍の鉄砲隊に撃ち崩された槍兵にその役割は望むべくもない。
 結果、南蛮軍の投射兵(銃兵と弩兵)は降り注ぐ矢の雨の中で右往左往することになり、次々にその数を減らしていったのである。



 そして。
 投射兵が崩れたことで、南蛮軍の戦列は完全に崩れたった。
 それを確認した島津軍は、最後の兵力を投入する。山間から姿を現した騎馬兵が南蛮軍めがけて突撃を開始したのである。
 より正確に言えば、南蛮軍めがけてというわけではなく、弧を描くようにして巧妙に南蛮軍の退路を塞ぐ進路をとっていた。
 軽装の騎馬兵は、銃兵や弩兵の的であるが、すでに南蛮軍の指揮系統は乱れに乱れており、新たにあらわれた敵兵の動きに対応しきれていない。おまけに付近の地理に精通した騎兵の機動力は、重装備の南蛮軍の及ぶところではなかった。


 完全包囲。
 それが島津軍の作戦目的。
 何のためか。無論、南蛮軍を完膚なきまでに撃滅するためである。
 そこに思い至った者は、南蛮軍の中にも少なくなかった。過酷な戦況の中にあって、彼らは敗北を免れるために懸命に打開策を探るものの、敵の行動は迅速を極め、すでに包囲は完成されつつある。
 事ここにいたり、戦局を打開する方策は一つしかない。南蛮軍にとっての切り札――砲兵である。


 五門もの大砲を一斉に撃ち放てば、人も馬もひとたまりもない。鉄砲を新兵器と捉えているこの地の人間には、そも大砲が何なのかさえ理解できず、恐怖のあまり逃げ出すかもしれない。
 前線の将兵は知らず、砲兵は戦闘の開始からずっと後方に配されており、いまだ敵軍の実力をはっきりとは認識していなかったため、そんな楽観が脳裏をよぎっていた。
 無論、彼らとても味方が崩れていることは承知しているが、それでも大砲の威力をもってすれば、戦局を覆すことは可能だと信じた――より正確に言えば、そう信じたかったのである。


 だが、大砲は鉄砲とはくらべものにならないほどに装填に時間がかかる上に、たとえ装填が完了したとしても照準やら弾道の調整やらが必要となり、すぐに発射できるものではない。
 すなわち、護衛となる兵がいなければ、たちまちのうちに敵に接近を許してしまうのである。そして現在、護衛となる兵士は数えるほどしかいない。ここで大砲を使用すれば、敵の注意を自分たちに向けた挙句、多数の敵兵になぶり殺されることになりかねぬ。
 その危惧が皆無ではなかったから、指揮官から一斉射撃の命令が下った時、砲兵部隊の初動はわずかに遅れてしまった。もっともそれは本当に些細な遅れであり、本来であれば気にする必要もなかったはずのものである。


 しかし――ことのはじめから、島津軍は砲兵部隊の存在に気づき、その危険も承知していた。
 騎馬隊の一部は大砲を鹵獲するため、すでに動いていたのである。
 砲兵部隊が示したわずかなためらいは、その部隊にとって十分に付け入ることの出来る隙であった。






◆◆






 その兵士が倒れた時、まるで地震が起きたかのように地面が震えた。
 大砲を奪われるのを防ぐためか、あるいは逃げ崩れる味方の将兵の退路を守るためか。今となってはその兵士――厚い甲冑をまとった、見上げるほどの大男――が何のためにこの場で抵抗していたのかは定かではない。しかし、いずれにせよ、その兵士が倒れた瞬間に南蛮軍の抵抗が潰えたことは確かであった。


 人の背丈ほどもある長槍を縦横無尽に振り回し、暴風のように荒れ狂った兵士の武勇は、ただ見ていることしか出来なかった俺でさえ、背に悪寒を禁じえなかった。男は南蛮軍の中でも屈指の勇士であったに違いなく、まともにぶつかれば、いかに強兵を誇る島津家といえど、無視できない被害が出たであろう。
 実際、退路を塞ぐと同時に大砲を鹵獲する、という島津軍のやや(?)欲張りな作戦行動は、前線近くから馳せ戻ってきたその大男一人によって妨げられる寸前であった。


 ――そんな勇士が、一人の女性の手で討たれたのである。その情景を目の当たりにした南蛮兵が、こちらに抵抗することさえ忘れて呆然と立ち尽くしたところで、何の不思議があったろうか。


 そして俺はそんな敵軍の隙を突いてこの場を制圧し、大砲の確保に成功する。
 すでに他の部隊によって南蛮軍の退路は塞がれつつあり、忠元の鉄砲隊と、家久の指揮する弓隊によって南蛮軍は壊滅しつつある。
 それにくわえて、こうして敵の虎の子である砲兵を無力化した今、この戦局が覆ることはもうないと断言して良いだろう。




 
「長恵」
 そう判断した俺は気遣いを込めてその名を呼ぶ。
 すると、相手は小さく微笑みながら、軽く手をあげてきた。
 その顔にはめずらしく、明らかな疲労と憔悴の色が浮かんでいる。
 つい先刻まで繰り広げられていた死闘は、剣聖の力をもってしても決して易しいものではなかったことが、その表情からうかがえた。
 その口から出たのは、嘆息にも似た感嘆の一言であった。


「やっぱり『人』というのは、どこにでもいるものですね、師兄」
 俺は満腔の同意を込めて、長恵に頷いてみせる。
 その巨躯に相応しい剛勇はもちろんだが、こちらの奇襲に先んじ退路を守ろうとした戦術眼や、守りきれぬとみるや、迷うことなく敵軍の指揮官(つまりは俺のことだが)に狙いを定め、一直線に此方へ向かって突撃してきた状況判断能力は、敵ながら見事の一語に尽きた。
 惜しむらくは、男が一介の兵士であったことか。味方の援護があれば、あるいは――


「おーい、筑前さん、長恵さーんッ」
 血臭と硝煙の臭いが立ち込める戦場のただなかにあって、場違いにも感じられる明るい声音が耳朶を打つ。
 無論、俺も長恵もその声の主が誰であるかを知っていた。
「あら、家久殿」
「長恵さん、遠くからですが見てました、凄かったです! さすがは『天下の重宝』ですねッ」
 軽やかに馬を操ってあらわれた家久は、興奮したように手綱から手を離し、両の拳を握り締めながら、長恵の勇戦を称える。
 家久の左右に控えている島津兵たちも、こくこくと同意の頷きを示していた。武勇を尊ぶ島津家の将兵の目から見ても、やはり長恵の武芸は卓越しているようであった。


 まあ、その長恵を完膚なきまでに――これでもか、これでもかえいえいとばかりに(長恵談)叩き潰したのは、この小柄なお姫様だったりするわけだが、一応陣営を同じくしている今、そんなささいなことは忘れた方が互いにとって幸せなのだろう、きっと。
 それに、そんなことよりも先に言わなければならないことがあった。


「家久様、まだ戦が終わったわけではありません。どこから狙われているとも限りませんし、後方に下がってもらえませんか。家久様の身に万一のことがあれば、俺が新納殿に殺されます」
「あはは、大丈夫大丈夫。見たところ、もう刃向かう気力が残っている兵はいないみたいだし、それにね、忠元はああ見えて、結構筑前さんのこと気に入ってるんだよ?」
「……新納殿は、気に入った相手を毎日のようにぶんなげるのですか?」
 稽古と称して。


 俺の反問に、家久は困ったように、たははと笑う。
「うーん、忠元なりに、筑前さんに思うところがあるんだろうねー。でもほら、もし本当に嫌ってたり、疑ってたりするようなら、筑前さんに島津の兵を預けたりしないでしょ?」
「……ふむ、それは確かにそうかもしれませんね」
 まあ実際は「口を出すだけなら童でも出来るわい」といって、尻を蹴られるように前線に放り出されたわけだが。
 表向きは、猫の手も借りたいほどに多忙を極める今の島津家中にあって、遊ばせておける人材などない、ということになっていたが、もしかしたらあれは忠元なりの信頼のあらわれであったのだろうか――うーむ、単に策士然とした俺を前線に送り込んで、その慌てっぷりを酒の肴にしようとした、と考えた方がはるかに説得力に富むような気がするなあ。


 あるいは南蛮軍を撃退する、というこちらの覚悟と真意を試す意味もあったのかもしれない。戦場で俺がおかしな動きを見せれば、何処からか銃弾が飛来してきた可能性もないわけではない。
 無論、俺は島津軍を罠にはめるつもりなどない。それどころか、南蛮軍の戦力を自分の目で確かめるのは望むところであったから、忠元の提案に渡りに船とばかりに頷き、こうしてこの場にいるのである。
 なにしろ報告だけではわからないことがあまりに多い。南蛮軍の実際の兵力はどの程度のものなのか。兵の錬度は、装備は、士気は、陣形は――なにより、島津家だけで勝てる相手なのか。
 今回、俺がもっとも危惧していたのは、攻め寄せてくる南蛮軍の規模と装備がまったく分からなかったことである。九国全土の戦力を糾合しても勝てないほどに巨大である可能性も、決てないわけではなかったのだ。


 幸い――というべきかどうかはわからないが、南蛮軍の戦力は俺の予測を越えるものではなかった。かぎりなく最悪に近いものではあったが、それでも決して勝てない相手ではない。それは眼前の光景が証明している。
 無論、ここにいたるまでに多くの将兵が血を流し、命を投げ出した事実を忘れてはいない。島津以外の勢力であれば、ここまで持ってくることさえ難しかったであろうことも。
 その意味で薩摩の国を治めるのが島津家であったことは、日の本にとって、こちらは疑いなく幸いであり――同時に南蛮にとっては不幸であったといえる。


 そして、重要なことは南蛮軍の不幸がまだ始まったばかりであるということだった。
 今回は勝ったとはいえ、まだ緒戦である。敵の先鋒を打ち破ったにすぎず、後ろには南蛮軍の主力部隊が控えているのだ。これをも撃ち破るために、危険をおかして敵の退路を塞いだのである。
 ここで先鋒部隊を完全に壊滅させておけば、本隊が戦況を把握するまでに時間がかかる。それまでに南蛮軍が保有する大砲や銃、クロスボウといった武器を奪い、戦力を向上させる。南蛮兵が着込んでいる金属製の甲冑も鋳直せば有用な資源に変じるだろう。弾丸とか、刃物とか。


 やってることは強盗そのものだが、残念ながら敗者に礼を尽くすような余裕はない。降伏した捕虜を養う余裕がないように。
 では降伏した兵士はどうするのか。これを軍議の席で討議したとき、処刑を口にした者は多かった。他国に侵略行為を働いた以上、敗れて殺されるのは当然の末路でもある。南蛮兵とて覚悟はしているだろう。


 だが、俺は反対した。
 侵略してきた南蛮兵を殺すな、という俺の意見に、周囲の視線が疑惑と不審を帯びたのは当然のことであったが、無論、俺の意見は慈悲とは対極に位置する心情から出ている。
 すなわち――
「南蛮の人たちに、不和の種をばらまくため、だったよね」
 家久の声に、俺は頷きで応じる。
「降伏した兵士を殺そうが殺すまいが、遅かれ早かれ情報はもれます。六百人近い部隊をことごとく殺しつくすのはまず不可能。どれだけ完全に包囲したとおもっても、必ず逃げおおせる兵士は出てくるでしょうからね。であれば、降伏した兵士を殺して敵に決死の覚悟を決めさせるよりは、適当に縄でしばって山の中にでも放っておく方が面倒がありません」


 助け出された兵士は、常勝不敗であるはずの神の軍勢に相応しからぬ敗北を喫したとして、周囲から排斥されるだろう。あるいは生かされたことで、蛮人たちと何かの取引をしたのではないかと不審の目を向けられるかもしれない。
 いずれにせよ、勇戦した末に生き延びた兵士の処遇としては業腹ものであろう。
 こちらの思惑に反して、よくぞ生き延びた、とあっさり受け容れられてしまう可能性もないではないが、その時はこちらから不和を煽ってやればいい。
 府内や堺ほどではないにせよ、坊津にも南蛮船は訪れる。当然、異国の言語に通じた者はおり、そのうちの幾人は、今も一宇治城に控えているのである。


「ともあれ、家久様、急ぐことにしましょう。異変を察した本隊が急進してくる可能性もあります。それに銃はともかく、大砲に関しては野戦での扱いは難しいでしょうし、下手に持ち運んで取り返されては元も子もありません。今のうちから梅北殿のところへ送っておいた方が良いかもしれませんね」
「そうだね、国兼も本物があった方が計算もしやすいだろうし」
 その家久の言葉を皮切りに、島津軍は撤収の準備にとりかかった。


 勝利したとはいえ、島津軍の被害も少なくない。とくに囮となって敵を引き付けた部隊は多数の死傷者を出している。彼らに治療をほどこし、明日以降の戦のために再編成を行い、一宇治城で薩摩全軍を統括している歳久に勝利の報告を送り――あと、個人的なことだが、人質扱いで城に残っている吉継に無事を知らせる。
 やるべきことは山のようにあり、そのための時間は有限である。のんびりと勝利の余韻にひたっているような時間は、どこを探しても見つかりそうもなかった。








 南蛮軍本隊を率いるニコライが先鋒部隊の壊滅を知ったのは、日が完全に沈み、空が一面の星明りに覆われた時刻である。
 先鋒部隊からの連絡が途絶えたことを不審に思ったニコライが確認のために兵を派遣し、戦場から命からがら逃げ出してきた敗残兵と出くわしたのである。
 彼らの報告を聞くや、ニコライはわずかに上体を揺るがすと、右の手で口を覆い、瞑目した。
 その口から命令が発されるまでかかった時間はわずかであったが、かすかに震えるその声が、短い間にニコライの内心に吹き荒れた嵐の大きさを物語っていた……





[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第七章 繚乱(十一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:cd1edaa7
Date: 2011/03/04 23:46
 薩摩国 一宇治城


 かつて薩摩島津家の居城であった一宇治城は、十を越える大小の曲輪に囲まれた堅固な造りをしており、守ることに主眼を置いた典型的な山城である。
 ただ一方で、政務を執るにはいささかならず不便な点が散見された。先の当主である島津貴久が、薩摩の中部から南部を平定した後、居城を内城に移した理由の一つはそこに求められるであろう。


 政治の中枢から離れてしまった一宇治城であったが、島津の統治を支える重要な拠点であることにかわりはない。くわえて、多少の難があったとはいえ、十年以上にわたって島津家の居城であったこの城には、政治や軍事を滞りなく進めるための工夫が今なお残されている。
 内城を一時的に放棄することを選んだ島津軍が、この城を根拠地としたのは当然すぎるほど当然のことであった。



 大谷吉継はその城内の一角に部屋を与えられ、そこを起居の場としていた。
 形の上では人質の身であり、軟禁されていることになるのだが、実際はといえば、城内の移動は吉継の随意であり、囚われの身である実感はほとんど湧かない。さすがに監視の人間は付いていたが、彼らのほとんどは吉継に好意的であったから尚更である。
「……この身は敵国の使者、くわえて病の身でもあるのですけれど」
 過ぎた厚遇に対し、吉継が頭巾の隙間から戸惑いとも呆れともつかない呟きをもらすと、対面に座っていた少女がかすかに苦笑して応じた。
「久ね――義久姉上の件ではずいぶんとお世話になりましたから。あの脅威を取り除いてくれた方のご家族を粗略に扱うなどとんでもない、とみな口々に話しています」
 冗談めかしてはいたが、その少女――島津歳久の目には意外に真剣な光が浮かんでいた。


 それを見た吉継は、島津家の今代当主の趣味はよほどに家臣を困惑させていたらしい、と苦笑を浮かべ――ようとして、その実物と匂い――というか臭いを思い起こし、あわててかぶりを振った。
 世の中には冗談として扱って良い物と悪い物がある。義久のそれは疑いなく後者であった。


 歳久も吉継と同様の心境だったのだろう。
 こほん、とややわざとらしい咳払いをした後、すぐに話題を転じた。
「ともあれ、今伝えたとおり緒戦はこちらの勝利。あなたの父君も、丸目殿も無事とのことです」
 歳久の言葉に、吉継はかすかに俯いた。その口からは、ほう、と小さく安堵の息がこぼれでる。
「それは幸いでした。お義父様はああ見えて猪突というか、好戦的な人ですし、長恵殿はそれを止めるどころか微笑んで見守る為人。無茶をしないかと心配だったのです」


 でも、無事で良かった。
 そう言って胸をなでおろす吉継を見て、歳久は意外そうな表情を浮かべた。
「好戦的、ですか?」
 歳久は雲居に対してその印象を持ったことはなかった。というより、むしろまったく逆の捉え方をしていただけに、歳久は吉継の言葉を看過することが出来なかった。
 敵を知り、己を知らば、とは古の兵法家も諭すところである。今現在は手を組む形となっているが、雲居が大友家に仕えている事実が消えてなくなるわけではない。それはつまり、この戦が終わった後、敵として相対するかもしれぬということである。その情報を得る機会を逃がすべきではなかった。


 わずかに瞳の光を強めた歳久を見て、吉継は相手の思惑を半ば察した。
 だが、吉継は特に気にする素振りも見せず、あっさりと口を開く。隠す必要はないのだ。一度でも戦場を共にすれば、大体の人が気づく程度のことだから。
「筑前国の戦いでは制止するのに苦労しました。お義父様は作戦はたてるときは慎重すぎるほど慎重なのですが、いざ戦場に立つと危険をかえりみずに前線に立ちたがるのです。それが将たる者の務めだ、といって」
「それは……見上げた心意気、と言うべきではありませんか」
「確かに、将兵の士気を高めるという点では有効です。戦がはじまっても、矢玉の飛んでこない後方で居竦んでいる輩とは比べるべくもないほどに」
 しかし、と吉継は嘆息する。
「周りの者たちは気が気ではないのです。長恵殿並の武勇の持ち主であるというならともかく、お義父様はそうではありません。戦のたびに輿にのって前線に立つ立花道雪様もそうなのですが、どうしてこう大友家には無茶をする武将が多いのか。おかげで由布様や私が要らない苦労をすることに――」


 そこまで言うや、不意に吉継はぴたりと口を噤んだ。
 そして、先刻の歳久と同じようにわざとらしい咳払いをする。いつの間にか愚痴になっていることに気づいたのだろう。
 その吉継の姿を見て、またここまでの話を聞いて、歳久はそこはかとない共感を覚えていた。
 歳久は歳久で、姉の義久に苦労させられていたからである。
 吉継も吉継で、歳久が抱いた共感と似たものを感じていたらしく、なんとも言いがたい微妙な沈黙が室内に満ちた。二人の視線をあえて言語化するならば、お互い大変ですね、といったところであったろうか。


 その時、沈黙を破るように障子の外から雨音が響いてきた。
 はじめ、雨足はぽつぽつと緩やかなものであったが、ほどなく勢いを強め、よりはっきりとした雨滴の音が、吉継と歳久の耳朶をうちはじめた。
(降り始めましたか)
 歳久は内心でそう呟いた。
 朝方から雲の多い天候であったが、とうとう本格的に降り出したようであった。


 薩摩の雨は黒い――歳久は以前、他国の人間からそんなことを言われたことがあった。滅多に薩摩から出ない歳久に実感は薄いのだが、薩摩の外から来た者たちは大なり小なり似たような感想をもらす。
 無論、本当に黒色の雨が降るわけではない。他の地域に比べて、多少雨の色が黒ずんでいる、といった程度であろう。あるいは雨に濡れた衣服や建物が黒く汚れてしまうことも、外様の人間がそう感じる理由の一つになっているかもしれない。


 これは桜島の火山灰が雨に混じることで起こる現象であり、それゆえに歳久もあまり雨が好きではなかった。とくに出かける用事がある時は。
 しかし、いつ雨が降り出すかなど、人の身には知りようもないことである。もっとも山での狩猟や、海での漁を生業とする者の中には、雨の気配を感じとり、あるいは時化を読む者もいると聞くが、それとて長年の経験と勘なくして不可能な業であろう。
 それゆえ、島津の智嚢たる歳久であっても、雨と用事がぶつかってしまえば、ため息まじりに諦めるしかないのだが――実のところ、この雨の到来は予測されていた。それも今朝方や昨日の話ではなく、三日も前から。


 それを為したのが、まさに今歳久の前にいる頭巾姿の少女であった。
 吉継の天候予測は偶然の産物ではありえない。吉継は今日にいたるまで、その精度を幾度も証明してみせており、はじめは疑いの眼差しを向けていた歳久も今では信じざるを得なくなっていた。
 作戦計画に組み込めるほどの的中率を誇る吉継の天候予測、その技能の有用性はことさら述べるまでもあるまい。農政に戦に、活用すべき局面はいくらでも存在する。
 歳久から見れば、大谷吉継という少女は、南蛮侵攻を予測した雲居筑前に優るとも劣らない脅威であった。


 知る術のないはずの物事を知ることが出来る者たち。どちらか一人であっても厄介極まりないというのに、それがどうして義理の父娘として一緒に行動しているのか。さらには父娘ともども大友家の使者となって島津家を訪れたのか。
 歳久にしてみれば、今回の戦いで南蛮軍に勝ったとしても、それでめでたしめでたし――で終えるわけにはいかない。戦乱の世はそこまで甘くも優しくもない。南蛮軍を退け、国力が減退したところに他国の侵入を招けば、たちまちのうちに島津家存亡の危機に陥ろう。
 そして、その『他国』が大友の名を冠していないという保証はどこにもないのである。


 雲居がそれを目論んでいる、と歳久は本気で疑っているわけではない。しかし、たとえ雲居にその意図がなかったとしても、状況次第で戦局がどう転ぶかは誰にもわからない。
 であれば、予想しうるあらゆる状況に備えておくのが軍師の務めというものである。
 それはすなわち、雲居や吉継が敵にまわることを想定し、それに備えておくということであった。
 歳久としては頭痛の種に事欠かない今日この頃なのである。



 無論、歳久とて今の戦況は承知している。南蛮軍が攻め込んできた今、要らぬ不審を撒き散らし、内に敵をつくるほど愚かではないつもりであった。
 それどころか、出来うべくんば吉継を島津家に招きたいとすら歳久は考えていたのである。吉継が一宇治城に残った理由は幾つもあるのだが、その一つに歳久が誘降の可能性を探るため、という理由も存在した――もっとも、そちらに関しては見込みはなさそうだ、と早々に見切りをつけていたのだが。




 歳久が襖を開けて外の様子を見てみると、雨はすでにかなりの勢いで降り出していた。
 雨が降れば銃も大砲も思うようには扱えず、忍び寄る敵軍の足音をもかき消してしまう。軍隊――ことに鉄砲隊を主力とする軍にとって、雨は利よりも害の方がはるかに多い。
 くわえて、南蛮軍にとっては上陸以後、はじめての薩摩の雨である。
 灰色に染まった雨滴は、鎧や衣服を醜く汚し、その感触は将兵にとって不快を催すものだろう。
 地面につもっていた火山灰は雨に溶けて泥濘となり、将兵の足を絡め取って進軍を妨げる。
 いずれも南蛮兵の誰一人として体験したことのない状況である。戸惑いは多かろう。


 とはいえ、先鋒部隊を失った南蛮軍が雨程度で退くとは考えられない。むしろ敗北の恥を雪ぐためにも更なる攻勢に出てくるのは必定であった。
 ただでさえ重武装の南蛮兵が、冷静さを欠いた状態で不案内な雨の山中に足を踏み入れる。
 これを好機と呼ばずして、何を好機と呼ぶのだろう。
 吉継と歳久は期せずして同時にそう考え、それぞれの胸に異なる人物を思い浮かべながら、彼方の戦場に思いを馳せるのだった。






◆◆◆






 重い甲冑をまとい、険しい斜面を登っていた兵士の一人が、不意に罵声を張り上げながら目を拭った。降り注ぐ灰色の雨の雫が目に入ったのであろう。
 ひりつくような痛みに、たまらず兵士は毒づく。
「くそ、甲冑どころか身体さえ腐っちまいそうだ。本当にこの雨、毒はないんだろうな?」
「コエリョ様の言葉を疑うつもりか? それに毒の雨が降るような場所に人が住めるはずないだろうが」
 応じる声も刺々しさを隠しきれていなかった。
 苛立っているのは、その兵士だけではない。多少の違いはあれ、南蛮軍の将兵すべてが現在の状況に不快を感じているのである。


 自軍に倍する敵軍と戦っても怯まぬ南蛮兵であったが、悪天候と険阻な地形を前にしては為す術がない。
 彼らが誇る鉄砲も大砲も、雨だの山だのといった自然を前にしては何の役にも立たない。それどころか、かえって行軍の邪魔になるばかりであった。


 不幸中の幸いというべきは、敵軍の襲撃がなかったことであろう。
 つい先日までは執拗に襲撃を繰り返してきた敵であったが、南蛮軍の先鋒部隊が敗れてからというもの、ぴたりと姿を見せなくなっていた。
 先鋒部隊を撃ち破り、士気を高めた上で篭城に移ったのか。予期せぬ驟雨で敵も動きがとれずにいるのか。あるいは、それ以外に何か理由があるのか。
 南蛮軍の指揮官たちは様々に敵軍の動きを推測したが、答えは杳として出てこなかった。


 実のところ。
 士気だけを見れば、先鋒部隊の敗北後も南蛮軍将兵のそれは依然として高い。むしろ先鋒部隊の敗北を知った本隊の将兵は、自軍の油断と無様を苦々しく思うと同時に、今頃勝ち誇っているであろう小癪な敵に対し、今度こそ鉄槌を喰らわせてやろうと勇み立ったほどであった。
 だが、その戦意も悪天候で水を差された形となり、さらに不案内の山中をいつ襲ってくるともしれぬ敵軍を警戒しながら進まなければならないとあって、南蛮軍の動きは重く、鈍くなる一方であった。
 いっそ敵があらわれてくれた方がすっきりする――そんな思いを抱く兵も少なくなかったのである。




 南蛮軍の本陣でも、ニコライがわずかに顔をしかめつつ、髪から流れ落ちてくる雨水を手で拭っていた。
「天候までが敵にまわるとは厄介なことです。もっとも、それは敵にとっても同じことでしょうが」
 雨が降れば銃兵、砲兵は使えなくなるが、相手にとっても条件は同じである。
 おそらく島津軍は、勝勢にのって一気に決着をつける心算であったろう。そうしなければ、南蛮軍に立ち直る時間を与えてしまうからだ。
 その意味で、南蛮軍にとって不快きわまる驟雨は、島津軍にとっても厄介なものであるはずだった。


 先鋒部隊の生き残りによれば、島津軍は質、量ともにこちらの予想を越える鉄砲を保有していたという。
 それはつまり、島津軍の情報をもたらしたコエリョら宣教師たちと、その情報を分析したニコライら南蛮軍の双方が、まんまと島津軍に欺かれたということ。
 南蛮軍は情報戦において完全に相手の後手にまわってしまった。その結果が先の敗戦に繋がったことを、ニコライは認めざるを得なかった。


 だが、いってしまえば、それはただそれだけのことである。
 一度の敗北は一度の勝利で償えばいい。島津軍は戦えば戦うほどに、勝てば勝つほどに奥の手を晒していく。種がわかった手品に驚く者がいないように、奥の手を晒した軍隊に脅威はないのである。
「もはや出来る限り損害を少なくして――などとは言いません。それが出来る相手ではないことは理解しました。緒戦でこれだけ叩かれるとは予想外でしたが、それがわかったことは大いなる収穫。これよりは全力をもってあなたたちと戦いましょう。油断せず、過信せず、持てる戦力のすべてを投入して、ね」


 そのための手を、ニコライはすでに打っている。
 ゆえに後は緒戦の屈辱を雪ぐべく戦うだけである。敵がまだ切り札を持っているのならば、そのすべてを晒させて見せよう。
 ニコライがそう考えた時。
 不意に雨の音が変わった。より正確に言えば、雨の音に別の音が混じったのである。
 それは宙空を裂いて飛来する無数の矢の音であった。


「敵襲! 敵襲だぞッ!」
「うろたえるな! 陣形を崩すな! 乱れれば敵の思う壺だぞ!」
「槍兵部隊、前進せよ! 銃兵は楯を掲げ、クロスボウ部隊は応射だッ! 矢が飛んでくる方向に向けて撃ち続けろ! あてようと考えるな、敵に自由に撃たせなければそれでよい!」
 将兵の声が交錯する中、飛来する矢は南蛮兵に向けて次々と降り注ぐ。しかし、もともと重装備の槍兵部隊に被害はほとんどない。先の戦闘では多くの被害を出した銃兵や弩兵も、報告をうけてすでに対策はとっている。一部の部隊で多少の被害が出たが、それも全体的に見れば微々たるものであった。


「ご報告いたしますッ! 西の山陰より、敵軍およそ六百、突っ込んできます! いずれも徒歩!」
「迎撃してください。しかし、通達しておいたように、敵が退いても決して追撃はしないように。彼らは偽りの敗走をもって敵軍を誘い込むことを得手としているようです。逆に言えば、こちらが陣形を保ち、整然と進軍すれば手も足も出ないということ。二度までもしてやられるつもりはありません」
「ははッ!」
「敵が寄せてきていない側の指揮官にも再度通達。ここは敵の庭、どこに新手が潜んでいるとも知れません。陣形を乱さず、決して独断で動かぬように」
「承知いたしました、伝令、出ます!」


 指示を伝えるや、ニコライは腰の剣に手を伸ばす。甲冑が揺れ、ニコライの耳に鈍い金属音がかすかに響いた。
 その音に耳をくすぐられながら、ニコライは小さく呟く。
「切り札たる銃兵が使えないのは痛手でしょう。まだ何か秘めているのなら、見せてもらいましょうか。ないのであればここで終わりですが、さて」
 そう言って、南蛮軍先遣隊を率いるニコライ・コエルホは、口元にそれとわからないくらいかすかな微笑を浮かべるのだった。




◆◆




「堅実だな。昨日の部隊とはえらい違いだ」
 眼下で繰り広げられる戦闘を眺めながら、俺はそうひとりごちた。
 南蛮軍は二千、新納忠元が指揮する島津軍は六百。数の上では三倍近い差があるが、平野とは異なり、険しい山間の地形では正面に展開できる兵力に限りがある。南蛮軍二千のうち、前線で島津軍と刃を交えることが出来るのは精々二百から三百というところであった。


 無論、偶然そうなったのではなく、忠元が巧妙にそういう地形を選んで仕掛けた結果である。
 それゆえ現在のところ、兵力差はさほど戦況に反映されてはいなかった。
 時が経てば、兵力に劣る影響は如実にあらわれてくるであろうが、戦闘が始まってまだ四半刻。今しばらくは互角の形成を維持することができるだろう。
 あるいは天候が回復し、鉄砲や大砲が使える状態になれば、火力に優れる敵軍は後方からの攻撃で島津軍を追い詰めることが出来るかもしれない。
 しかし、雨はいまだ止む気配はなく、両軍の将兵を灰色の雨滴が覆い続けている。当分の間、銃兵、砲兵は身を守ることしか出来ないだろう。
 それはすなわち、南蛮軍二千の中で七百近い兵力が戦闘に参加できないことを意味する。


 一方の島津軍はこの天候が夜半まで続くことを『知って』いた。
 ゆえに鉄砲隊は帯同しておらず、島津軍の兵力は槍と弓、そして騎馬のみであり、その点でも南蛮軍との実質的な兵力差はわずかに縮まる。
 このうち、槍と弓は忠元が率いて南蛮軍と矛を交えており、騎馬部隊の方は家久が率い、この場で戦の様子をうかがっているのである。


 俺の傍らで馬に跨っていた家久が、俺に同意するように頷いてみせた。
「正直、もっと攻めてくると思ってたけどねー。昨日の屈辱、晴らさでおくべきかッ、みたいな感じで」
「はい。敵の指揮官はよほど冷静な人物のようですね」
 さすがに猪突猛進してくれると期待していたわけではないが、正直、ここまで堅実な指揮をしてくるとは思わなかった。


 忠元は槍隊と弓隊の反復攻撃によって南蛮軍に出血を強いているのだが、これに対して南蛮軍は、統一された指揮系統の下で整然と対応し、被害を最小限にとどめている。
 両軍のせめぎ合いは尚しばらく続くだろう。騎馬隊を投入することで南蛮軍の陣形を乱したいところなのだが、今の南蛮軍にはその隙が見当たらない。
 この場にいる騎馬隊はおおよそ百。力づくで敵陣をこじ開けることは不可能ではないが、それをすれば騎馬隊の被害も無視できないものになるだろう。


 かといって、無策のまま戦況が推移すれば、兵力にまさる南蛮軍が有利になっていくは必定である。そして雨が止めば、無傷の銃兵部隊が動き出す。
 そうなる前に、島津軍はどこかで損害覚悟の攻勢に転じなければならない。不利な状況で無理押しをすれば致命的な損害を被りかねないが、それを恐れて立ち竦んでいれば、より確実な敗北が待ち受けているだけなのである。


 選択肢と呼ぶことさえ躊躇われるような答えのわかりきった二者択一は、彼我の戦力差が反映された結果であった。南蛮軍が驕りを捨て、冷静になってしまえば、たとえ天候を味方につけていてさえ両軍の戦力はこんなにもかけ離れているのである。
 南蛮軍の指揮官は精確にそれを把握している。眼下の戦場を見るだけで、そのことは明らかすぎるほど明らかであった。 
 家久の言葉ではないが「神の栄光のために死ねやものども!」みたいな相手であれば、先日と同じように釣り野伏で険阻な地形に誘い出し、落石、落木で痛めつけた後、総攻撃を仕掛けるという手段も採れたし、実際、その準備はしているのだが、今の南蛮軍の様子を見るかぎり、偽退に引っかかるとは思えなかった。


 家久もまた同じように考えていたらしい。その口から発せられた言葉は、あたかも俺の内心を読んでいたかのようであった。
「この様子だと、後方で伏せている兵も忠元に合流させた方が良さそうだね」
 家久はそう言うと、騎馬の一人を伝令として差し向けた。
 後方の兵はおおよそ三百。忠元の六百とあわせても千に達しないが、それでも援軍の存在は島津軍を勇気付けるだろう。


 しかし、逆に言うと、これでもう一宇治城までの道に守備兵力は存在しない。
 この戦で島津軍が敗れた場合、城に残っている歳久直属の二百名の兵が最後の砦ということになる。
 元々、一宇治城の兵力は二千に届かない程度しかいなかった。くわえて、これまでの戦闘で死傷した将兵は少なくない。家久と忠元が主力を率いて出てしまえば、城に残る兵力がごくわずかになってしまうのは避けられないことであった。


 とはいえ。
 内城を放棄し、かりにも一国の中心となった城がなんでこんなに手薄なのかという疑念は当然のものであろう。
 義久と義弘が各々一万の軍勢を率いて国を出たため、本国たる薩摩が手薄になったのは事実である。だが、それはある意味で陽動のようなもの。実際、この二つの軍は兵の数こそ多かったが、兵の錬度、鉄砲の数、ともに大したものではなかった――あくまで島津家を基準とすれば、の話であるが。他国からすれば、それでも十分な脅威であった。


 ともあれ、遠征軍から削がれた分の力は当然のごとく薩摩に集中している。
 薩摩の守備兵力はおおよそ五千。兵の錬度、火力、いずれも島津軍の最精鋭と呼ぶに相応しく、それを率いるのは歳久、家久を筆頭として新納忠元、鎌田政年、山田有信、梅北国兼、川上久朗ら薩摩島津家を支える勇将たちである。
 彼らが総力をあげて南蛮軍に挑んでいれば、決着はとうの昔についていたかもしれない。


 しかし、現在、南蛮軍と対峙しているのは家久と忠元の二人のみ。兵力も千と数百というところである。歳久は一宇治城を守っているから仕方ないとしても、他の武将と兵力はどこに消えたのか。
 答えは簡単である。
 彼らは南蛮軍が異なる場所に上陸した時に備え、薩摩の各地に散っていたのだ。
 ことに貿易港でもある坊津、あるいは薩摩北西部に位置する京泊(きょうどまり)の港は西海に通じており、南蛮軍がこちらに兵を向ける――あるいは南蛮軍の規模によっては兵を分けて襲来してくる可能性があった。余の軍勢はそれに備えているのである。


 ことに俺が気にかけたのは京泊の港であった。京泊は、博多津や坊津には及ばないが、薩摩はおろか九国でも屈指の要港であるといえる。島津の水軍の根拠地でもあり、なにより坊津よりも平戸に近い。
 平戸をおさめる松浦隆信が南蛮神教に好意的であるのは周知の事実である。兵糧や水、あるいは火薬や弾丸、矢といった軍需物資の補給に万全を期すために、南蛮軍が京泊の占領を目論む可能性は決して低くなかった。


 幸いというべきか、すでに松浦家は竜造寺家によって滅ぼされており、京泊を占領する利点は大きく殺がれているが、南蛮軍がその情報を持っているとは限らず、さらに言えば情報を持っていたとしても占領を断念するとは限らない。
 無論、それ以外の地点から上陸してくる可能性も捨てきれぬ。 
 かくて、島津軍は薩摩各地の拠点に散らざるをえなかったのである。




「まあ、そんな状況だから俺が駆り出されたわけだが」
 仮にも大友家の将である俺を用いるなど、思い切った人事と言わねばならない。というか、常であれば決してありえない人事であろう。
 だが、眼前の状況はそれをしなければならないほど切羽詰っていた。そういうことなのだろう。
 ――島津家の君臣が殺人的な多忙さでてんてこ舞いになっている時、俺がのほほんと下手な笛を吹いていることに彼らがきれたとか、そういう理由ではないのである。決して。きっと。たぶん。


「段々と確信が薄れていってるよ、筑前さん」
「仕方ありません。こればかりは完全に予想外だったもので」
 家久の突っ込みに、俺は肩をすくめる。
 まあ予想外といえば、そもそもここまで島津家に馴染むことも予想外だったのだが。
 内城の広間で向かい合う俺と島津の君臣。冷たい雰囲気の中で丁々発止のやりとりを繰り広げ、その中で何とかして島津家の指針を南蛮艦隊の襲来に備えるという方向で定めていくことになるだろう――そんな俺の予想は見事なまでに外れた。
 その端緒となったのは何なのか、と考えてみる。すると、わざわざ城外まで使者を出迎えに来てくれた末姫殿の笑顔が思い浮かんだ。




 俺の視線に気づいたのか、家久が小首を傾げる。
「ん? どしたの、筑前さん?」
「……いえ、何でもありません。失礼しました」
 その返答に、家久はきょとんとした顔で目を瞬かせる。


 俺はやや慌てて話の接ぎ穂を探したが、咄嗟に何も出てこない。
 すると、次に口を開いたのは長恵だった。
 別に俺にたすけ舟を出そうとしたわけではなく、戦場の只中でのんびりと話をしている俺と家久の行動を不思議に思ったのだろう。こう問いかけてきた。
「あの、師兄、このようなところで話し込んでいてよろしいのですか? 先ほどの話をうかがえば、時が経てば経つほどに南蛮軍が優勢になってしまうのでしょう?」
 うむ、まったくそのとおり――と言いたげに、周囲の騎馬武者たちもこくこくと頷く。彼らも俺と家久の様子に違和感を禁じえなかったらしい。



 俺は長恵に頷いてみせた。
「そうだな。これが戦戯盤の勝負だったら、もう詰みだ。南蛮の指揮官の目論見どおりにな」
「戦戯盤であれば、ですか?」
 長恵がその意味を解しかねたように、頬に手をそえる。
 応じたのは家久だった。
「そうそう。駒は人の兵士と違って食べないし、疲れないし、考えないし、なんでも言うことを聞くからね。指し手が落ち着けば兵も落ち着くし、指し手が油断しなければ兵も油断しない。でも、実際の戦場ではそんなことはないでしょう?」
「ふむ、それは確かに」
 長恵は頷いた。


「筑前さんが言ったとおり、南蛮軍の指揮官は堅実で隙がないよね。昨日の敗戦で驕りを捨てて、しっかりと配下の手綱を締めなおして、冷静に戦いを進めている。このままなら私たちは負けちゃうかもしれない。けど――」
「将自身はともかく、兵たちはそこまで堅実ではない、と?」
「そそ。ただでさえ何ヶ月も船に揺られて遠い異国にやってきて。おもーい鎧をつけて、山がちな道を登ってはおり、登ってはおり。夜は鉄砲の音で良く寝ることもできないで、やっと戦えたと思ったら罠にはまって、こてんばんにしてやられて。おまけにこの雨の中を、また登っておりて、戦って。普通の兵士さんたちにはきついんじゃないかな?」


 家久の言葉に、俺も自分の見解をつけくわえた。
「驕りや油断は連中の信仰やこれまでの勝利に根付いた感情だからな。それをあっさり払い落とせるような賢明な奴はそうそういないだろう。自分たちに敵はいない――そう心底信じているのに、正面からぶつかって、じき半刻だ。そろそろ南蛮兵たちも苛立ってる頃だろうな」
 家久はこくりと頷くと、戦場に視線を投じた。
「こんなはずじゃないのにってね。その戸惑いは隙になるよ。私たち島津にとっては、この戦いは自分と家族と故郷を守るための戦いだもん。勝って当然、なんて考えて戦っている人たちとは、そもそもの覚悟からして違うんだよ。忠元もそれをわかってるから、今は鎬を削るように見せかけながら、力を溜めてるの」


 あっさりと、それでいて深い確信を込めて断言する家久。
 幼い外見には似つかわしくない言葉だったが、戦将としての家久の能力を知る長恵は、なるほど、と素直に感心して頷いた。
 だが、ふと何事かに気づいたようで、小さく首を傾げる。
「しかし、敵将は気づかないのでしょうか?」
「気づかない、というよりは気づけないだろうな」
 俺が口をはさむと、長恵は怪訝そうな表情を浮かべた。
「気づけない、とは?」
「戦えば勝ち、攻めれば取る。そんな勝ち戦ばかり続けていれば、どうしたって学べないものがある。南蛮軍の指揮官はかなりの人物だと思うが、それでも、な」


 能力ではなく、経験の不足。
 南蛮軍の指揮官は、将帥としてはかなりの素質を秘めていると思われるが、今のところ場数の不足が将器の拡大を妨げているように思える。
 俺がいうところの場数は、火力で相手を蹂躙する戦いに慣れた南蛮軍では決して積めない類のものだ。
 自軍に優る数の敵軍と相対した時、どうすれば良いのか。
 自軍ではとても及ばない敵の精鋭部隊と戦場で矛を交える時、何をしなければいけないのか。
 敗色濃厚な戦場にあって、兵士たちの士気を高めるためには何をすべきなのか。
 苦戦も敗戦も知らない軍隊にいれば、それらに対処する術など学べないのは当然のことであった。

 
「師兄はそういった経験を豊富に積まれているのですか?」
 何気ない長恵の問いに、俺は遠い目をして応える。
「……初陣からして、そんな戦の連続だったからなあ」
 柿崎景家率いる騎馬隊とか。上杉謙信率いる精鋭部隊とか。今おもえばよく生き残れたもんである。
 九国に来たら来たで、一兵卒に扮して敵城に忍び込んだり、休松城では四倍近い敵軍に囲まれたり。敗戦はともかく、苦戦だの辛勝だのといった経験は枚挙に暇がない。この一点において、俺は南蛮軍の指揮官に優ると断言できる。まあ、自慢になることではないのだが。


 ただ、見方をかえれば、この戦いは名も知らぬ南蛮軍の指揮官にとって貴重な戦訓となり得るということでもあった。
 ここで逃がせば厄介な敵になるだろう、この相手は。
 かなうならば討ち取ってしまいたいが、それを目的の一つとしてしまえば、島津軍の作戦行動に無理が生じてしまうかもしれない。その結果、戦自体の勝敗に影響が出る可能性もあるだろう。
 ここは変に欲を出さず、ただ南蛮軍を撃退することに集中しよう。仮に敵将を逃がしたとしても、陸戦の本隊を叩いておけば南蛮軍の脅威は激減する。実戦力の半ばを失えば、採り得る作戦行動がごくごく限られてしまうからである。



 その時、眼下から一際大きな喊声があがった。
 ここまで島津軍は槍と弓の反復攻撃に終始し、相応の成果をあげていたのだが、ある意味で単調な攻撃ゆえに対応するのも難しいことではなかった。
 忠元は南蛮軍が此方の攻勢に慣れた頃合を見計らい、不意にそのリズムを崩し、前衛を突出させたのである。
 俺たちの耳に届いたのは、その際の喊声であった。


 新納忠元みずから率いるその突撃は、これまでの攻勢とは一線を画した猛攻であり、その圧力を真っ向からうけた南蛮軍の重装槍兵部隊は混乱を余儀なくされた。
 南蛮軍の板金鎧は槍や刀で貫くことは出来ない。それはすでに周知のことであるが、板金鎧といっても、文字通り全身を隙間なく金属で覆っているわけではない。まとっている人間が動きやすいように、肘や膝、あるいは首といった間接部分には隙間があいている。そこに刃を突き立てれば、甲冑自体を傷つけられずとも、中の将兵の戦闘力を奪うことはできるのである。
 ゆえに島津軍は、まず一人目が敵兵に組み付き、地面に引きずり倒したところを、後続の兵士が覆いかぶさって弱点部分に刃を突きたてるという戦い方をとった。


 当然、南蛮兵はそうはさせじと抵抗するが、死を決したかのように猛然と――それこそ猿のように素手で飛びかかってくる敵兵を前にして、兵士たちは動揺を禁じえなかった。
 最初の一人を槍で貫いても、その兵士は槍を持ったまま地面に倒れ、引き抜くことを許さない。すると、後ろにいた兵士がすぐさま組み付いてくるのである。
 板金鎧は防御力に優れているが、その分、重量は並大抵のものではない。一度地面に倒れれば、一人で起き上がることさえ容易ではなかった。
 そして、倒れてしまえば、周囲の敵兵が甲冑の隙間に刃を突き立てようと群がり寄ってくる。


 動揺が恐怖に変じるまで、かかった時間はごくわずかであった。
「く、この、猿どもがッ、離れろ、離れんかッ!」
「ぐ、く、くそッ。誰か、助け……ぐあッ?!」
「よるな、蛮人どもが! この、薄気味悪い猿どもがッ!!」
「落ち着け! 数はこちらが優っているのだ! 隊列を乱すな、槍先をそろえよ! 落ち着いて戦えば恐れるべき何物もない!」
「た、隊長! 敵陣から新手ですッ、ここは退くべきでは?!」
「落ち着けといっておろうがッ! 千や二千も加わったわけではあるまいッ! このまま退けば、銃兵部隊に笑われるぞ!」


 指揮官たちは部隊の混乱をしずめようと声を嗄らしたが、それにも増して島津軍の攻勢は激しかった。なにより、奇襲もなく、鉄砲も使わぬ正面からの激突において、こうまで押された経験が将兵にはなかったことが大きかった。
 こんなはずでは――そんな思いに苛まれて、混乱しているうちに隊列は崩れ、その隙間から次々と敵軍の進入を許してしまったのである。


 前衛部隊の混乱を見て取ったニコライは、突然の混乱に意外の念を覚えつつもただちに手を打った。
 前線からの報告を受け、敵軍の凄まじい勢いを察したニコライは、別方向からの奇襲に備えていた部隊を再編し、第二陣の構築に移ったのである。仮に前線を突破されても、この第二陣で敵の攻勢を食い止めようという作戦であった。


 戦闘開始からすでに一刻以上。その間、動いたのは正面の敵のみであった。もし敵に伏兵がいるならば、とうに動いているはず。
 ここまでまったく動きを見せていないところを見ても、敵に伏兵はない、とニコライは判断した。
まさか敵の指揮官たちが、自軍の優勢を確信してのんびりとおしゃべりに興じていたなどとは想像できるはずもない。


 想像できるはずもないが、それとは関係なく、ニコライは当初の陣形をかえることに危惧を抱いていた。
 本来であれば、遊兵となっている銃兵部隊を第二陣に配置して、勢いにのって攻め込んでくる敵を一網打尽にすべきなのである。
 しかし、今はそれが出来ない。なぜなら――
「まだ、止みませんか」
 空を見上げたニコライは、そこに厚くたれこめた黒雲を見出し、小さく嘆息した。
 天候ばかりは人の手では如何ともしがたい。全体の陣形を崩すことに一抹の不安を感じながらも、現状ではこうするしかない――そう自分に言い聞かせたニコライが、胸奥を苛む不安の影を振り払うためにかぶりを振った、その時だった。




「申し上げますッ!! 東の山間より敵と思われる騎兵隊、多数出現! 銃兵部隊に向けて突っ込んできます!」
 まるで、内心の影がそのまま形となったかのような凶報が飛び込んできた。
 一瞬、ニコライはこれが現実か、という思いにとらわれたが、すぐに我に返り、指示を飛ばす。
「我が軍に騎兵はいません。敵以外の何だというのですか。ただちに銃兵は後退。移動中の部隊の内、東の槍兵隊はただちに銃兵の援護にまわれと伝えてください。敵の正確な数は――」
 だが、その言葉が終わらぬうちに、また一人、急使が現れる。
「報告ッ! 槍兵隊長リカルド様、戦死! 同じくパウロ様も右腕を失われる重傷を負って後退! 指揮官を失った部隊は混乱しており、このままでは突破を許すのは時間の問題かと!」
「前衛には、第二陣が態勢を整えるまでは何としても持ちこたえるように伝えなさい! 私の直属部隊は銃兵部隊の援護のため、敵騎兵にあたります。ただちに移動を――」


 ニコライは矢継ぎ早に指示を送り続け、その内容はきわめて的確であった。
 惜しむらくは、麾下の将兵が敗勢に浮き足立ってしまったことだろう。常であれば速やかに機能したであろうニコライの命令も、動揺した将兵にとっては混乱を助長するものにしかならず、南蛮軍は的確な行動をとることができなかったのである。
 戦って敗北を知らぬ常勝軍。神の栄光に守られた南蛮軍の将兵は、今、敗北という未知の事態を前に平静を保つことが出来ずにいた。


 一方の島津軍は、さほど複雑な動きをする必要はない。新納忠元が外から南蛮軍を突き崩し、島津家久率いる騎馬隊が南蛮軍を引っ掻き回すだけである。
 単純な作戦行動は、単純であるがゆえに機能しやすい。敗北を知らない南蛮軍が勝手に混乱してくれるのだから尚更である。




 挽回ならず、とニコライが判断するまで、さほど時間はかからなかった。
 その判断の早さは、ニコライの将軍としての資質の高さを示すものであったろう。
 ニコライは直属部隊を率いてみずから殿軍を務め、麾下の軍勢が戦場から退却するまで剣を振るい続けた。
 この奮戦が功を奏し、南蛮軍は島津軍の猛追をなんとか退けることに成功する。
 しかし、この一戦で南蛮軍が受けた傷は深かった。
 戦死者は槍兵およそ三百、銃兵と弩兵はあわせて百。計四百の将兵が異国の地に屍を晒すこととなったのである。負傷者の数はさらにその倍以上にのぼった。
 簡潔に言えば、南蛮軍は五人に一人が討ち死にし、さらに生き残った者も二人に一人は何らかの手傷を負ったことになる。
 目を覆うばかりの大敗であったが、南蛮軍にとっては屈辱的なことに、これだけの被害を受けてなお、南蛮軍は被害を最小限に食い止めたといえるのである。ニコライら殿軍の奮戦がなければ、死傷者の数はさらに増えていただろう。ことに銃兵部隊は敵の騎馬隊に蹂躙され、壊滅的な打撃を被っていたかもしれなかった。




 南蛮軍の将兵は敗れてなお千五百を数える。これは眼前の島津軍を上回る数であり、数だけ見ればいまだ南蛮軍の優位は崩れていない。
 しかし、常勝であるはずの――常勝でなければならないはずの自軍が、二度にわたって東の蛮人に敗れてしまった。その事実が生き残った南蛮軍将兵に与える影響は想像を絶するほどに大きかった。
 天に届くほどであった南蛮軍将兵の士気は、島津軍によって根を張る地面ごと突き崩され、彼らは大地に叩きつけられた。彼らの士気は戦闘前とは比べ物にならないほど落ち込んでおり、将兵の中には無様な敗戦を指揮した上官たちに不平不満をぶつける者さえいたのである。
 夜半、雨は止んだのだが、南蛮軍は再戦を口にできる状態ではなく、また、仮に再戦を強行したとしても、敗戦の数が二から三にかわるだけであったろう。それほどまでに、南蛮軍は意気消沈していた。



 これにより、当面の間、南蛮軍の一宇治城侵攻は不可能となった。それは島津家にとっては、薩摩各地に散った自軍を集結させるための貴重な時間を得られた、ということである。
 各地の兵力をあわせれば、態勢を立て直した南蛮軍が再び攻めてきても恐れるに足りない。
 当初の予定では、敵の規模次第では日向国に差し向けた兵を呼び戻すつもりであったのだが、あるいは薩摩に残った兵力のみで南蛮軍を撃退することが出来るかもしれない。
 勝利に沸き立つ島津家の陣営では、南蛮軍なにするものぞ、と声高に勝ち誇る声が各処から聞こえてきていた。
   

 

 


◆◆◆







「見事、というしかないわね」
 勝利に沸く島津軍の陣営に視線を向けながら、白の頭巾で顔を覆ったその人物は低声で呟いた。
 もしそれを聞く者がいたならば、鋭くも情感豊かな声が女性のものであることを悟って驚きを禁じえなかったであろう。
 すでに雨雲はいずこかに去り、天頂には煌々と月が輝いている。松明を持っていなくても、月の光があたりを照らしているので、ただ歩く分には支障はあるまい。
 しかし、彼方の灯火を除けば、あたりには人気がなく、村落も見当たらない。おまけに足元は降り続いた雨ですっかりぬかるんでしまっている。
 女性が一人でふらりと立ち寄るような時間でも場所でもなかった。


 しかし、女性はみずからの安全を気に留める様子もなく、なおも鋭い視線を彼方の篝火に向け続けた。
 それが島津軍が陣中で焚いている篝火であることは言うまでもない。
「軍隊において、長所と短所は紙一重。火力に優れ、常勝であるがゆえの心の緩みを、ここまで巧妙に衝いてくるとは。海ではかなわじと見て、内陸に引きずり込んだ判断の速さと的確さも申し分ない。コエルホ提督ではここが限界ね。まさか、こんな緒戦で我が軍が敗れるとは思わなかった」
 そう言うや、女性は頭巾を取り払う。
 白布の中から現れたのは、月光が形となったかのような亜麻色の髪と、夜の闇にあってなお鮮やかに輝く碧眼である。


 トリスタン・ダ・クーニャ。
 南蛮軍にあって知らぬ者とてない聖騎士は、敵に対して最大限の賛辞を向けた。それは偽りのないトリスタンの本心である。
 だが。
 なぜかその表情には翳りがあった。その眼を見れば、落胆の色さえ見て取れたかもしれない。
 それは決して気のせいではなかったのだろう。トリスタンはこう続けたのである。


「本当に見事だわ。ただ……それでは私たちには勝てない」
 トリスタンは上空に浮かぶ月を見つめ、しずかに目を閉ざした。
 みずからの内にわだかまる感情の正体を確かめるために。
「……これが失望だというなら、やはり私は期待していたということなんでしょうね。自分では出来ぬことを他者に望み、叶えられなければ落胆するとは、我ながら勝手なものだ」
 口元にかすかに苦笑を浮かべた後、トリスタンは踵を返した。
 異国の山、深き木立の中を迷う様子もなく歩き去るその姿を追うのは、ただ天空の月のみ。
 彼方に陣を布く島津軍の中に、女騎士の姿に気づく者は誰一人としていなかった。








 そして、同様に。
 島津軍は誰一人として気づいていなかった。
 まさに今この時、遠く薩摩南方の海域を、夜の闇を裂くように進む大艦隊が存在することを。
 月明かりに照らし出された大艦隊。それを構成する艦船の数は実に七十隻に及んだ。
 艦隊は悠然と――あるいは傲然とみずからの偉容を星月に示しながら、着実に目的地に近づきつつあった……
 
 



[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 幕間
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:cd1edaa7
Date: 2011/03/02 15:45

 越後国 春日山城


 年の瀬も押し迫ってきたある日のこと。
 越後守護職にある上杉謙信のもとを一人の配下が訪れた。
 小姓頭を務める河田長親に案内されて姿を現したのは、栃尾城主 本庄実乃である。
 領地である栃尾から雪道をかきわけて戻ってきたばかりの実乃は、室内の暖かさにほっと安堵の表情を浮かべながら、主君に対して深々と頭を下げた。
「雪道を越えるのにちと手間取りまして、遅れてしまいもうした。まことに申し訳ございませぬ」
「よい。多忙のそなたを、この雪の中、栃尾から呼び寄せた。無理を言ったのは私の方なのだ。すまないな、実乃」
「なんの、主君の命とあらば雪道を越えるなど苦労でも何でもありませぬ。ともあれ――」


 実乃はそういうと、室内を見渡した。
 謙信の私室でもある部屋の中には、直江兼続、宇佐美定満の両名が静かに座している。
 そして障子の外には、さきほど実乃を案内してきた河田長親がそのまま控え、周囲に警戒の視線を走らせているのだろう。
 実乃は謙信の旗揚げ時からの家臣であり、主君に対して絶対の忠誠を誓っているが、兼続のように一国の政務をつかさどるような手腕はないし、定満のように帷幄で謀をめぐらす智謀も持ち合わせていない。
 そんな実乃であったが、突然の主君の呼び出しと室内の雰囲気から、何かただならぬことが起きたのだ、と察することは可能だった。


 そして実乃は自分が呼ばれる心当たりがあったのである。
「やはり、此度の呼び出しは上野と下平の件でございましょうか?」
 その問いに謙信が頷いてみせる。
 予想どおりの返答に、実乃はわずかに顔を伏せた。


 越後節黒城主の上野家成と、千手城主の下平吉長の両名が領土争いを起こしたのが今年の秋。以降、実乃はこの問題の解決に専心しているのだが、年明けを間近に控えた今なお争いは解決していない。
 正確に言えば冬前に一旦は解決したのだが、上野の側が裁定に問題ありとして裁定のやり直しを要求したことで、事態は一層紛糾してしまったのである。
 

 国人衆同士の領土争いというのは、実のところそれほどめずらしいことではない。
 元々、守護職や守護代の主な役割は、そういった国人衆の争いを調停し、国内を平穏に保つことにあった。調停に失敗すれば守護の権威は失墜し、国人衆の信望は失われる。そのため、守護の威を振りかざすような真似は極力避け、双方が納得いく裁きをしなければならない。
 だが、この手の問題は往々にして双方に言い分があり、双方に理があるため、調停するといっても一筋縄ではいかないことが多かった。
 一方の主張を認めれば、一方は必ず反発する。猫の額ほどの土地であっても、当事者にとっては譲れぬ領土であり、取るに足らない小競り合いだと思って問題を放置すれば、一国を揺るがす大火になる可能性さえあったのである。
 

 本庄実乃は、謙信の旗揚げ当時から一貫して謙信に忠誠を捧げてきた硬骨の武人である。
 兼続や定満のような図抜けた力量こそなかったが、文武に堅実な手腕を有し、謙信が春日山城に移った後は、栃尾城の政務をつかさどって越後国内の安定に力を尽くしてきた。
 そんな実乃であったから、上野と下平の領土争いの調停を命じられた時も、決してお座なりな対応はしなかった。
 実のところ、実乃は上野家成と親交があり、今回の訴えでも尽力を頼まれていたのだが、実乃はあくまで公正を心がけ、双方の言い分や提出された証拠を綿密に調査した。
 そして、実乃と共に調停の任にあたった箕冠城主の大熊朝秀とも幾度も話し合った結果、実乃は下平側に理ありとの裁定を下したのである。


 だが、それでは上野側が納得しないと考えた実乃は、謙信の許可を得て春日山の府庫から幾ばくかの金を引き出し、これを上野側に与えた。公正に見て、上野側にもわずかながら理があったからである。
 訴えを退けられた形の上野家成は不服の塊となったが、この処置によって一応は春日山の裁きに服することを肯い、かくて問題は解決したかに思われたのだが――





「下平吉長は魚沼衆の一人として、かつての内乱では政景様の側に与した人物。あの裁きは守護代たる政景様の意向を受けた不公正なものである――でしたか」
 上野家成の不服の申し立てを口にしたのは、直江兼続であった。
 兼続は不快そうに顔をしかめたが、無論、それは実乃に向けたものではない。一度くだされた裁定にあえて異を唱え、のみならず兵を出して問題の土地を占拠した愚か者に向けた感情であった。
 幸い、下平側がすぐに引き下がったので血が流れることはなかったが、下手をすればそのまま戦になっていた可能性さえあったのである。上野家成の暴挙に、重臣筆頭である兼続が憤るのは当然のことであった。


 無論、実乃は報告を受け取るや、すぐに上野家成のもとに赴いたのだが、家成は頑強に裁定のやり直しを要求するのみで、せめて兵を退くように、という実乃の言葉さえ拒絶した。
 下平側にしてみれば、上野側の無法、極まれり、である。こちらも実乃に対して強硬に上野家成の排除を要求してきた。即答できない実乃であったが「私情をもって公事を乱されるか」と詰め寄られれば、なんとかすると答えざるを得ない。 
 かくて実乃と朝秀は冬の間中、雪道をかきわけかきわけ、節黒城、千手城、春日山城を幾度も往復したのだが、今もって問題は解決していないのである。
 

 しかし、よくよく考えれば、これはおかしな話であった。いかに一城の主とはいえ、上野家成は一介の豪族に過ぎず、上杉家が本気を出せば一朝で滅びる程度の実力しかない。
 裁定のやり直しを要求するだけならばともかく、兵を出して問題の土地を占領するなぞ、みずから滅亡を望むようなものであった。


 人々は家成の行動の理由を様々に推測した。
 やがて巷間に流布したのは、次のような考えである。
 家成がここまで強硬に出たのは、そうはならないという確信があったからである。その確信とは、すなわち謙信の内密の許可。つまりは上野と下平の争いは、その実、謙信と政景の争いであり、春日山城では水面下で守護と守護代のせめぎあいが行われているのではないか。
 この説はなかなかの説得力があったらしく、いまや魚沼周辺だけでなく、越後各地で似たような話が語られるまでになっていた。


 ――だが、この噂の伝播する早さは、冬に入り、雪に閉ざされた越後にあっては異常としか言いようがないものであった。実乃ならずとも、なんらかの作為を感じずにはいられなかったであろう。
 他国の家臣の欲心を刺激する――ただそれだけで、些細な諍いをたちまちのうちに不和と不穏を撒き散らす大火へとそだてあげる。みずからは一兵も損なうことなく、敵国を混乱させる巧妙な策略の仕掛け方は、越後の君臣に一人の人物の名を想起させた。


 隣国の甲信地方を統べる大名 武田信玄である。
 上杉と武田は三年ほどまえに盟約を結んでおり、以降、両国が矛を交えたことはない。
 両国の国境から戦火が絶えた後、上杉は国内の整備に注力し、武田は新たに領土に組み込んだ海道地方の発展に国力を注ぎ込んできた。だが、盟約を結ぶ以前は激しくぶつかりあった両家である。いつまた戦火が燃え広がるとも知れず――あるいは、今回の件はその魁なのではないか。そんな危惧を抱く者も、上杉家中には少なくなかったのである。



 実乃もまた、その危惧を抱く者の一人であった。
 ゆえにこの場に呼ばれたのは、武田の関与を証し立てる証拠が見つかったためではないか、と推測していたのだが――
「……この前、根知城の村上様から連絡があった。信濃に向かう街道で不審な人がいて、見回りの人が詮議しようとしたら逃げ出したんだって」
 そう言ったのは、今までどこか眠そうに目を瞬かせていた宇佐美定満であった。
 定満が口にした根知城というのは、春日山城の南西部に位置し、南に信濃、西に越中を睨む要衝である。謙信はおよそ一年の月日をかけて、この城を大々的に改修した後、村上義清を城主として任命した。
 義清は北信濃の所領を武田家に奪われた後、事実上、上杉家に臣従して春日山城で起居していたが、これによって再び一城の主に返り咲いたことになる。


「なんとか捕まえようとしたみたいなんだけど、抵抗が激しくて、結局、首をはねるしかなかった。それで、その人の懐からこの書状が出てきたの」
 差し出された書状を手に取った実乃が謙信にうかがうようなまなざしを向ける。
 謙信が無言でこくりと頷くのを確認した実乃は書状に目を通し――驚愕の声を発した。


「大熊殿が、武田家と……?!」
 そこには箕冠城主大熊朝秀の筆で、甲斐の武田信玄へ向け「指示された謀略は計画どおり進行中」といった主旨のことが記されていた。
 大熊朝秀は実乃と共に今回の仲裁で立ち働いていた人物である。当然、実乃もその為人は知っている。
 朝秀は無骨者が多い越後の家臣団にあって、珍しく機知と人当たりの良さを併せ持った人物である。
 実乃と顔をあわせるときはいつも柔和な表情を浮かべている朝秀だが、その柔和さは決して軟弱さを糊塗するものではなかった。剣の腕はかなりのもので、一軍を指揮しても疎漏は見せず、かつて謙信の麾下で武田軍と激しく刃を交えたこともある。


 そんな人物であったから、謙信の信頼も厚く、実乃と共に家臣の調停を任せるほどであった。
 朝秀もその謙信の信頼を喜び、上杉家に忠誠を尽くしていると実乃は考えていたのだが、あれは偽りであったのだろうか。そういえば大熊家は、元々、越後守護上杉家の家臣として春日山長尾家と肩を並べる家柄であり、朝秀の父の政秀は謙信の父である為景と対立した時期があったと聞いたが……


「武田信玄殿が盟約を破り、謀略を仕掛けてきたということなのでしょうか?」
 実乃が顔を強張らせて問いかけると、定満は「んー」と天井を見上げてつぶやく。
「……その可能性もないことはない、かな。こちらが盟約に安住して隙を見せたら、容赦なく攻め込んでくる子だしね」
 隣国の大名をどこぞの乱暴者の子供みたいに言い表す定満を見て、実乃は呆気に取られ、謙信は小さく噴出した。
「ふふ、定満にかかっては信玄公も女童に等しいようだな」
「悪戯好きな点は子供と同じ。颯馬もよく困ってた」
「……ああ、そうだったな」
 その名を聞いた謙信は、ほんの一瞬、何かを懐かしむように表情を緩めた。


 だが、一方の実乃はそれどころではなかった。武田が盟約を反故にしたとなれば、一刻の猶予もない。今回の調停でも朝秀は最初から下平側の肩を持っていた。それは証言や証拠の精度ゆえと考えていた実乃であったが、朝秀が武田家に通じているとしたら、下平――というより政景とも繋がりを持っているかもしれないではないか。
 まさか政景が謙信に叛くことはないと思うが、謙信と政景の対立は当人同士のものではなく、その家臣団の対立であった。上田長尾家の当主として、家臣と越後にとってそれが必要であると思えば、政景は私情を捨てて決起するだろう。
 武田信玄が、そのあたりを衝いて来るようであれば、越後国内はたちまちのうちに戦火に包まれてしまう。
 そうなれば――


 これからおとずれるかもしれない受難の時を思い、実乃が思い悩んでいると。
「実乃、それは無用の心配」
「……は? 宇佐美殿、それはどういう……?」
「将来は知らず、今の時点で武田が越後に牙を向ける理由は薄い。駿河と遠江の領国経営もようやく軌道に乗ったところだし」
 東海地方は日の本屈指の豊沃の地。これを手に入れた武田家が、今の時期にあえて北に兵を向ける理由はない、と定満は言う。無論、絶対にありえないというわけではない。今しがた定満自身が口にしたように、武田家の当主はそれが必要と判断すれば、盟約を反故することも厭わないだろう。


 しかし――
「あの子の目的は天下だから。謙信様を相手に戦えば容易に決着がつかないことを知っている。どんな理由があれ、謙信様が一度結んだ盟約を反故にする人ではないことも知っている。なら、わざわざ謙信様を敵にまわすよりは、上洛する時の後方の盾にしてしまえば良いって考えているはず。謙信様と決着をつけたいと考えているのは間違いないと思うけど、自分の欲求は後回しにすると思う」
 その定満の言葉に、謙信と兼続も頷いた。
「そうだな。確かに信玄公はそういう御仁だ」
「利用できるものはとことん利用される方ですからね」
 

 この三人の意見が一致したのならば、実乃にそれを覆す術はない。信玄と面識のない実乃は、元々その詳しい為人も知らないのである。
 だが、もし信玄が今回の件に関わっていないのであれば、この書状は何を意味するのだろう。
 なぜか背筋に冷たいものを感じながら、実乃はその点を口にする。
「しかし、そうだとすると大熊殿が武田家にあてた書状というのはいったい……?」
「実乃を呼んだのは、まさにその件を伝えるためだ。実は義清殿もこの密使の件には不審を覚えられていてな。密使が発見されることも、抵抗の末に書状が奪われることさえも、すべては何者かの計算どおりなのではないか、と」


 書状に付記された義清の疑念は、書状を読み終えた謙信や兼続が抱いた疑念と等しかった。
 上杉家中において、この手の謀略の専門家といえば、やはり軒猿である。
 そして謙信から諮問を受けた加藤段蔵は、言下にこの書状が偽物であると断定した。筆跡を調べることもしなかった。
 もしこの書状が本物であるとすれば、これは大熊朝秀にとって自身と家の命運を左右するもの。それを託する相手は吟味に吟味を重ねるに違いない。その末に選ばれたはずの人物が、いくら義清麾下の兵に怪しまれたからといっても、密書を破りも燃やしもせず、敵の手に委ねるなどありえない。
『ましてや』
 と段蔵は続けたそうだ。
『これが凡百の相手であればともかく、切れ者で知られる大熊殿と、あの妹君の間でやりとりされる密書です。それが労せずして手に入ること自体、策略の証と見るべきでしょう』


 謙信からそれを聞いた実乃は、段蔵の言い分はもっともだと頷いた。
「しかし、武田ではないとすると、一体何者がこのような策を仕掛けてきたのでしょうか?」
「うむ、実は義清殿の手勢が書状を手に入れたのと同じ頃、越中との国境を通り抜けた商人の一団があったのだ」
 商人たちは越中から青苧等の買い付けをするためにやってきたのだという。雪で国境が閉ざされる前に発ちたい、との要望はさしてめずらしいものではなく、荷を調べても異常はなかった。
 越中と越後は緊張が絶えない間柄であり、国境警備の兵士も上役から注意を促されていたが、この分ならば問題はないだろうと兵士たちは判断した。お役目ご苦労様、と通行銭と共に差し出された酒も多少は影響したかもしれない――賄賂ではなく、あくまで厚意である。そして、こういったやり取りもまた、さしてめずらしいものではなかったのである。

 
 かくて、商人の一団は滞りなく国境を越え、兵士たちもすぐにそのことを忘れた。雪がちらつき始めたこの時期、似たような旅人は非常に多く、彼らも多忙だったのである。
 ゆえに、その一団に不審を覚えたのは兵士たちではなかった。
 それはこの関所に詰めていた軒猿の一人だった。
 餅は餅屋。他国から侵入する細作を発見するのは軒猿の仕事である。そのため、越後各地の国境には軒猿が派遣されていた。


 その一人が、この商人の一団に不審を覚えた。
 あからさまに挙動が不審であったり、何事かを秘めて落ち着かない様子を見せたりしたわけではない。彼らはいたって落ち着いており、物慣れた素振りであった。
 だからこそ、兵士たちは疑うことなく通行を許したのであり。
 だからこそ、軒猿は彼らが怪しいと直感した。


 ただ。
 あまりにも落ち着きすぎているとの疑いの理由は、率直にいって言いがかりに等しかったであろう。だから、軒猿はその場で彼らを引きとめようとせず、後をつけることにした。
 越中は半ば敵国に等しく、向こうも越後からの細作の侵入を警戒しているため、単独で動くのは危険が大きかった。しかし、かつて上洛の際に越中の地を通ったことのあるこの軒猿は落ち着いていた。
 いざとなれば、敵を振り切って逃げ切ることもできる。そう考え、商人らを追って越中の地深くへと赴いた軒猿が、越後に戻ってきたのはつい先日のこと。その報告を聞いた謙信は、即座に実乃を春日山に呼び寄せたのである。
 その理由は――
「その一団は越中の地を素通りし、加賀の国へ入ったそうだ」
 どくん、と。
 その地名を聞いた実乃の心臓が大きくはねた。
 理由もわからぬままに、実乃は口を開く。
「加賀、でございますか。まさか……」
「うむ。御山御坊に入ったそうだ。入り口は素通りであったそうだから、一向宗徒の中ではよほどに顔の知られた者であったのかもしれぬ」
「一向宗……本願寺でございますか」


 実乃の言葉に、室内の空気が一気に張り詰めた。
 一向宗の総本山、本願寺。その勢力は日の本全土に及び、越後にも民と兵とを問わず数多くの信徒がいる。重臣の中にも一向宗に帰依した者は少なくない。
 その頂点に立つ本願寺法王は石山に巨大な寺院を築き上げ、そこは五万の兵士が三年かけても攻め落とせないと言われるほどの厳重な防備を誇っている。
 謙信が口にした御山御坊とは、その石山本願寺に匹敵するほどの巨大寺院。一向宗の誇る北陸最大の拠点の名であった。


 本願寺が上杉家に謀略を仕掛けてきた。その意味はあまりに重い。
 実乃の顔が強張ったのも当然のことであった。
 そんな実乃に対し、謙信は淡々と言葉をつむぐ。
「無論、この報告と先の密使の件に関わりがあると決まったわけではない。たまさか時期を同じくした、ただの偶然であるという可能性もないわけではない。だが、もしもすべてが繋がっているとしたら、家成の近くにも本願寺の手が伸びている恐れがある。場合によっては、実乃や朝秀を排除してでも騒ぎを大きくしようとするやも知れん。それを知らせるためにそなたを雪の中、呼び寄せたのだ」 

 謙信の言葉に、実乃は小さく頷いた。
 たしかに本願寺が絡んでくれば、いかに実乃が謙信の信頼厚い重臣だとしても身の安全が保障されたとは言い切れない。
 仮に本願寺がこの件に関わりがなかったとしても、問題は一向に解決しない。何故なら、そのときは大熊朝秀と武田の内通が現実味を帯びてくるからである。あるいは本願寺でも武田でもない、まったく別の勢力が絡んでいるのだろうか。
 今回の件が公になれば、越後は蜂の巣をひっくり返したような騒ぎになるだろう。
「厄介なことになりましたな……」
 その実乃の言葉は、半ばため息に近かった。




 だが。
「なに、そう悲観したものではない」
 そういった謙信の顔には、悲壮な色合いはかけらもなく、あくまでも穏やかなままであった。
 実乃はそんな謙信の落ち着きぶりを不思議に思った。すると、それを察した謙信はゆっくりと口を開く。
「この策略がどこの誰が仕掛けたものであれ、その者は焦っているのだろう。信玄公との和議から三年。上杉も武田も兵を発することなく、国力の増大に努め、それは確実な成果をあげている」
 その主君の言葉に、居並ぶ三人は等しく頷いた。
「このままでは、互いの勢力の差が覆しようがないものになってしまう。それを恐れたゆえに、この時期に策を弄した。いわば今回の件は、我らの努力と献身が正しく報われていることの証だよ。他国に脅威を覚えさせるほどに、上杉の国力の増大が著しいのだ」




 確信と清爽をともなった謙信の言葉に、実乃は胸奥に巣食っていた不安がたちまち吹き払われるのを感じとり、穏やかに破顔した。
 かつて実乃はみずから謙信に軍略を講義したことがある。大きな眼差しに真摯な光を浮かべ、食い入るように実乃の言葉に聞き入っていた幼い女童は、いまや師の遠く及ばぬ高みに足をかけているようだった。
 謙信が軍略も気宇も実乃を大きく凌いでいることは、実乃自身、とうに承知していたが、こうして面と向かって弟子の成長を目の当たりにすると、やはりなんとも感慨深いものがあった。 



◆◆



「あとは謙信様の花嫁衣裳とお子様の顔を見ることができれば、我が生涯に悔いなしと大往生できるのですがな、宇佐美殿」
 実乃はそう言って、からからと笑った。
 すでに謙信と兼続は兵士の教練のために席を立っている――謙信はともかく、兼続がいる場でこんなことを口にするほど、実乃も命知らずではなかった。
「……謙信様や兼続ほどじゃないけど、実乃もまだ若い」
「なに、若しとはいえ弓矢とるもののふの身なれば、いつ何時はかなくなるとも知れず。我が主の武威が越後を覆うを見た上は、一人の女子として幸せを掴む姿も見たいと思うのですよ」


 もっとも、それが限りなく困難であることは実乃とてわきまえている。
 越後国内は静穏であっても、他国はその限りではない。今回の謀略もそうだが、越後は上杉憲政という関東の火種を抱えている。
 あるいはそういった問題が解決したとしても、謙信は日の本の戦乱を座視できる為人ではない。遠からず、戦乱の平定のために立ち上がることになるだろう。


 越後の聖将、上杉謙信。軍神毘沙門天をその身に降ろす器たるべく、日々荒行を己に課し、清浄な生き方を貫く実乃の主君。
 古来より神の器となる乙女に求められる資質と、実乃の望みは両立せざるものであった。
 謙信の武威は上杉家にとっても、越後にとっても、そしておそらくは天下にとっても不可欠なものであるが、それは結果として一人の人間としての謙信の生き方を縛ることに繋がってしまう。


 謙信自身がその生き方をよしとしている以上、それに口を挟むつもりはない。それこそ僭越であり、余計なお世話というものだ。
 そうと承知してなお実乃は思うのだ。謙信には一人の女性としての幸せを掴んでほしい、と。
 無論、幸福の形は一つではない。無骨な実乃は素朴に男は漁り、女は紡ぐものと考えているが、異なる価値観があることを否定するほど頑迷ではなかった。
 なにより謙信の在り方に物申すならば、その前に謙信や兼続、定満、政景ら女性陣に頼りきりの越後の群臣――実乃を含む男どもの情けなさこそ糾弾されねばなるまい。


 あれやこれやを考えるにつけ、ため息を禁じえない実乃に対し、定満は小さく笑った。年齢的には実乃よりも二十近く年長のはずなのだが、その微笑は童女のように柔らかく澄んでいた。
「……大丈夫。謙信様は、人ではない何かになったりはしないから。実乃ががんばって生き残れば、見たいものが見られると思う」
 その言葉に実乃は目を見張った。
「ほう……それはまことでござるか?」
「うん。栃尾で兵を挙げた頃は、わたしもちょっと心配だったけど。今の謙信様は軍神でもあり、女の子でもある。心の奥の方で、暖かくて柔らかいものが女の子の謙信様を守ってる。だから、大丈夫」


 確信ありげな定満の言葉を聞き、実乃はふむと腕組みする。その顔にはびみょーに苦いものが混じっていた。幼い娘が好きな男の子の話をしたとき、父親はこんな顔をするのかもしれない。
「それはあれですか、やはり天城殿ですかな?」
「んー?」
 定満は小首をかしげる。その姿は実乃の目に妙にかわいらしく映った。眼前の智者は、少なくとも四十歳を越えているはずなのだが。
 そんな実乃の内心も知らず、定満はゆっくりと口を開く。
「颯馬もそう。実乃もそう。兼続もそう。政景様もそう。亡くなられた姉上様も、定実様もそう。みんなが謙信様を守ってて、だからこそ今の謙信様はお強いの。あの日、謙信様は姉上様の手をとったから――手をとることができたから。謙信様はもうお一人にはならない。だから大丈夫」




 実乃は定満の言葉のすべてが理解できたわけではない。
 しかし、越後随一の智者が大丈夫といったのだ。これ以上悩む必要はないだろう。
 元々、実乃は無骨な越後武士、考えるのは得手ではない。要はこれまでと同じく――否、これまで以上に謙信に忠節を尽くし、その負担を少しでも取り除くように努めれば良い。その結果として、謙信の花嫁衣裳が見られるならば、何を迷う必要があるのだろうか。
「さて、それではそれがしもそろそろ失礼するといたしましょう。上野殿がどの程度まで此度の件に関わっているのかを確かめねばなりませんしな。この冬は、この問題で忙殺されることになりますか」
 実乃は苦笑しながら言った。
 笑っていられるような状況でないことは実乃も承知していたのだが、自然とそんな表情になったのだ。それだけ心が解きほぐされたということなのかもしれない。


 だから、というわけでもないが。
「…………うん、そうだね。そうだと、いいね」
 そう応じた定満が、どこか遠くを見るような眼差しになっていることに、実乃はしばしの間気づかなかった。
 そして気づいた後もさして気にかけなかった。





 ――遠く京の将軍家からの使者が、雪道を割って春日山城に到着したのは、それからまもなくのことであった。






[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第八章 火群(一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:cd1edaa7
Date: 2011/03/03 18:36

 薩摩国南方の海上。
 七十隻に及ぶ南蛮軍の大艦隊の中にあって、一際巨大な戦艦がある。
 その船の名を『エスピリトサント』といい、第三艦隊の総旗艦であるバルトロメウに代わり、南蛮艦隊の臨時旗艦となっていた。
 この船の長は、すなわちバルトロメウの船長であるフランシスコ・デ・アルブケルケに代わって、南蛮艦隊の総指揮を執る人物でもあった。
 名をドアルテ・ペレイラ。フランシスコの父アフォンソとは三十年来の付き合いとなる古豪の将軍である。


 ドアルテはアフォンソから嫡子であるフランシスコの傅役に任じられるほどに信を置かれており、同時に、軍神と謳われるアフォンソと三十年の長きにわたって戦場を共にしてきた――共にできる能力の持ち主でもある。
 第三艦隊が征旅に発つ時、総帥はフランシスコが務めたが、麾下の軍勢を実質的に動かすのはドアルテであった。戦略、戦術に長じ、将兵の信望はきわめて厚い。当人の為人も厳正にして謹直、たとえ相手が主君あるいは主君の嫡子であっても言葉を飾るような真似はせず、それがためにフランシスコに煙たがられることもあるほどだった。


 そのドアルテは今、旗艦に二人の提督を呼び寄せ、軍議を開いていた。
 一人は女性、一人は男性。ドアルテが知る限り、女性は二十四、男性は三十二といずれも若い。
 この二人や、先遣隊を率いるニコライがそうであるように、第三艦隊に属する提督たちは、本国やゴアの他の艦隊と比べて際立って若いことで知られている。
 彼らはいずれもフランシスコの子飼いであり、その意味でドアルテはただ一人の例外であった。


 フランシスコが若い軍人を抜擢することに、ドアルテは反対をしているわけではない。
 ただ、時に彼らの前に立つと、そのあまりの若さに嘆息したくなる時がある。
 なにせドアルテは、彼らが今日まで生きてきた年月と同じか、それ以上の時間を戦場で過ごしているのだ。麾下の提督たちを頼りないとは言わないが、いささか心もとない思いを抱いてしまうのは、致し方ないことであったろう。





「――つまりはいいようにしてやられたということか。コエルホめ、このような僻地の蛮族相手に恥を晒しおって」
 表情と声とに険をにじませながら、腰の左右に長剣を差した女性がはき捨てる。
 ロレンソ・デ・アルメイダ。先のゴア総督の娘であり、女性の身ながら提督の称号を得た南蛮軍屈指の人物である。父以来の人脈を受け継ぎ、軍内における影響力は侮れない。
 その血筋も手伝ってか為人は傲岸そのもので、ごく少数の例外を除いて、他者を見下すことに疑問を覚えることはない。
 見る者に冷たい印象を与えるつり目を除けば、実は十分すぎるほどに端整な顔立ちをしており、宮廷でドレスでも着ればさぞ映えると思われたが、当人は宮殿の中よりも外に興味を持っているようであった。


 苛立たしさを隠し切れない様子のロレンソに対し、その対面に座る男性はこれみよがしに肩をすくめてみせた。
 ガルシア・デ・ノローニャ。南蛮軍にあって、こちらは屈指の智将として知られる人物である。
 かつてゴアを南蛮軍の手から奪回せんとして、現地の国々が大軍を催して攻め込んできたことがあった。この時、ガルシアはディウという要塞にこもって、自軍の十倍以上の敵軍の攻撃を一ヶ月に渡って退け、援軍が到着するまでただの一人も城内に侵入を許さなかった。
 それどころか、南蛮軍の増援が近づいていることを察した敵軍の撤退の動きを看破し、夜陰に乗じてこれを強襲、敵の指揮官を討ち取るという大功をたててのけた俊英であった。


「いやいや、蛮族の一言で切って捨てていい相手じゃないと思うぞ。坊やの報告どおりなら、な」
 その軽薄な仕草に、ロレンソが厳しい視線を向けてくるが、ガルシアはどこふく風と気にする様子を見せなかった。
 再びロレンソが口を開く。
「どんな策をほどこそうが、蛮族は所詮蛮族であろう。神の使徒たる我らが勝てぬはずはない。勝てぬとすれば、それは指揮官たる者の力量不足だろうッ」
 インド副王の座は、南蛮本国の国王が決定する。つまりは世襲というわけではないのだが、ロレンソはかつての一族の栄華と周囲から向けられた尊崇のまなざしが未だに忘れられずにいるようで、相手が僚将や上官の時でも、その言動や態度には不遜の影がちらついた。このロレンソの態度が影を潜めるのは、フランシスコと相対した時くらいであろうか。


 そのことを知るガルシアは、あえて反論しようとはしなかった。言うだけ無駄だ、とわかっているし、ロレンソがただ口だけの女性ではないことを知るゆえでもあった。
 ロレンソは戦略こそ主観にひきずられ、不覚をとることはあったが、兵の指揮や個人の武勇では南蛮軍でも指折りの実力者である。フランシスコ麾下にあって、エスパーダの名を冠することを許された七人の一人。第三艦隊の中で、女性の将校はロレンソとトリスタンくらいのものである。その事実ひとつで、ロレンソの実力のほどが理解できるだろう。


 ガルシアも、ロレンソの実力は十分に認めている。先のインド副王の娘という血統を抜きにしても、である。
 しかし、実力を認めることと、親しく付き合うことはまったく別の話だ――というのがガルシアの内心のつぶやきだった。
「ま、そうかもしれんが、敗北の責任追及なんぞ後回しでいいだろう。あの慎重居士の坊やが蛮族相手にしてやられた挙句、早急に援軍を求めて来たんだ。俺たちが坊やの二の舞にならんという保障はどこにもないぞ」
「たわごとを。貴官なら知らず、私が蛮族相手に不覚をとるなどありえん!」
「さて、それはどうかな?」
「……私を侮辱するというなら、味方といえど容赦はせぬぞ」
「いやいや、別に侮辱はしてないぞ。ただ、蔑視と油断は分かちがたく結びつくもんだろう。剣を交える前から相手を侮りきっているお前さんの態度はどうかと思っただけだ。少なくともドゥイス(南蛮で二番をあらわす言葉、トリスタンのこと)であれば、そんなことは言わんだろうさ。そうは思わんか、トレス(三番をあらわす言葉)?」


 挑発された、と思ったのだろう。
 ロレンソの白皙の頬が一瞬で朱に染まり、机を叩いて立ち上がろうとした、まさにその寸前。
 ドアルテの声が室内に響き渡った。
「わしは軍議のために貴公らを招いたのだ。下らぬ口論を続けるつもりならば、疾く去れ」
 その語調は穏やかといってもよかったが、そこに込められた威厳はさすがに歴戦の軍人ならではであった。
 ロレンソとガルシアの二人は即座に表情を改めてかしこまる。もっとも、ガルシアの動作はやや芝居じみたものであったが。



 そうして、三人の提督はあらためて机の上に広げられた地図に視線を向けたが、実のところ軍議といっても、議論すべき内容はただひとつしかなかった。
 すなわち――
「コエルホの進言どおり全軍で先遣隊が占拠した地へ向かうか、それとも艦隊をわけて別の地点でも上陸を試みるか。いずれを採るかな」
 ドアルテの言葉に最初に反応したのは、やはりというかロレンソの方であった。
「迷う必要などないでしょう。そもそも、はじめの策では全軍で敵の本拠地を陥とすことになっていたはず。蛮族が小手先の策を弄したからといって、こちらが軍略の根幹を動かす必要を認めません」
 ロレンソの意見を聞いたドアルテが、問う眼差しをガルシアに向ける。
 それを受けて、ガルシアも自らの考えを述べた。


「刻一刻と変化する戦況の中で、下手に最初の作戦に拘泥すれば勝てる戦も勝てなくなると思いますがね。とくに今回の作戦は、向こうさんは俺らの存在に気づいていない、という前提でたてられてる。しかし坊やの報告によれば、相手はどう見てもこっちの動きを読んでいたとしか思えない。であれば、最初の作戦も見直してしかるべきでしょう」
「具体的には?」
「坊やへの援軍は送りますが、これに艦隊すべてをあてる必要はないでしょう。半分を坊やの援護にあてて、もう半分は、そうですね、このあたりに――」
 そういってガルシアが指差したのは、薩摩では京泊と呼ばれる北西部の港であった。
「展開させて、連中の背後を衝くのはどうです? コエリョによれば軍港もここにあるということですし、ここをおさえれば向こうさんの首根っこを掴まえたも同然だ、と思いますが」


 ガルシアの言葉に、ドアルテはかすかに目を細める。
 反論したのはロレンソの方であった。
「なぜわざわざ兵を分けねばならんのだ。そのような面倒なことをせずとも、直接に敵を叩き潰せばそれで良いだろうが。彼奴ら、今頃は我らに勝ったつもりで凱歌をあげているだろうが、この艦隊の偉容を見れば蒼白になって立ちすくむしかなくなろう」
「ま、それも一理あるが……」
 ロレンソの意見に、ガルシアはめずらしくわずかに口ごもる。
 ドアルテの太い白眉がぴくりと揺れた。


「何か案じておるのか?」
「はあ、案じているというか、気になっていることが」
 ドアルテが無言で先を促すと、ガルシアは右手で顎の無精ひげをつまみながら口を開いた。
「どうもね、誘われてるような気がしてならないんですよ。連中の本拠地は、さして広くもない湾内に、馬鹿でかい島がでんと腰をおろしている。小回りの利かない大型艦が大挙して押し寄せても、いいことはないのでは、と」
「ふむ……しかし、彼奴らの船の性能はお主も聞いていよう。たとえ狭い海域に押し込まれたとて、遅れをとることはないと思うがの」
「俺もそう思ってたんですがね、ほら、坊やの報告書にあったでしょう。向こうさんが新式の銃を保有してるって」


 敵軍の装備は旧式銃のみ、というのがコエリョらの報告であった。
 これはコエリョらの調査に穴があったというよりは、敵が一枚上手であったということだとガルシアは見ていた。
 それは、ただ鉄砲だけにとどまるのだろうか。万が一、南蛮軍の動きが察知されていたのだとすれば、軍船に関する情報も再考の余地があるかもしれない。
 そう言ってから、ガルシアは軽く両手を掲げ、おどけるように笑った。
「まあ、向こうさんがこちらに匹敵するだけの最新型の戦艦を隠し持っていた、なんてことはないでしょうがね。いくらなんでも」
「それは確かにな。そんなものがあるならば、コエルホはとうに海の藻屑となっていよう」
「ええ、そのとおりです。坊やが侵入するや、ろくに抗戦せずに内陸にひきずりこんだところを見ても、海戦能力はほとんどないと見ていいでしょう。少なくとも、コエリョの報告を覆すような一手は用意されていないと判断できます」
「にもかかわらず、敵の軍港を襲うは何ゆえか?」
「……消えないんですよ、嫌な予感が。だから、その元を叩き潰してしまえば、と思いまして」


 ガルシアはそこまで言った後、ただまあ、と肩をすくめた。
「今回はトレス――アルメイダ提督の言うとおりにした方が良いかもしれませんな。向こうさんがこちらの動きを読んでいたのだとすれば、他国に攻め込んでいる本隊が、予想以上にはやく帰ってくるかもしれません。下手に兵力を分散していると、そちらに対処できなくなる恐れもありますから」
「ふむ……」
 考え込むドアルテとは対照的に、ロレンソはガルシアの考えが慎重の度が過ぎると思ったらしい。口元を歪めて言葉を発した。
「ノローニャ提督は慎重というよりは迂遠だな。蛮人ども相手にそこまで注意を払ってどうする? ぐずぐずしている間に戦機を逸することにならねばよいが」
「俺に言わせれば、アルメイダ提督は迂遠というより迂闊だな。そもそも、これから攻める国の言葉も覚えようとしないこと自体、俺には信じられん。ゴアにも倭人はいたというのに」
「ふんッ、なぜ私が猿に頭を下げ、猿の言葉なぞ覚えねばならんのだ?!」
「猿は系統だった言語なぞ使ったりせんよ。大体、この国を制したとして、連中の言葉がわからなければ統治することもできんだろうに」


 ガルシアの言葉に、ロレンソは冷たく笑う。
「我らがこの国を制した暁には、我らの言葉を連中に教え込んでやればいいだけのこと。この国の言葉を使ったものをことごとく斬り殺せば、耳障りな猿語を聞くこともなくなろう」
「いやあ、連中の言葉は結構面白いんだがね。たとえば『そのでかい胸を思う存分もみしだきたい』とかな」
 そのガルシアの言葉を聞き、ロレンソは眉をひそめた。当然だが、ロレンソはガルシアが何を言ったのか、わからなかったのだ。
 反応したのはもう一人の方であった。ドアルテはほんの一瞬、白い眉をぴくりと震わせた。


 ロレンソが不快げに口を開く。
「誇り高き南蛮軍人が、軍議の席で猿の言葉を口にするな! 言いたいことがあればはっきりと言うがいい!」
「なに、相手の考えを知るのも勝つための知恵だ、と言いたくてな。トリスタンの奴もそうしていただろう? ま、お前さんも倣えとは言わないがね」
「当然だッ! なぜ私がそんなことをしなければならん!」
 苛立ちもあらわにはき捨てると、ロレンソは口を噤んだ。
 その態度は、最終的にすべての艦隊をニコライの援軍にあてると決定するまで変わらなかった。



◆◆



「……あまり若者をからかうな、ガルシア」
 軍議が終わった後、室内に残ったガルシアに向け、ドアルテが顔をしかめてそう言うと、ガルシアは小さく肩をすくめて応じた。無論、ロレンソは軍議が終わった瞬間に足早に立ち去っている。
「なに、陰で部下どもにささやかれるよりは、俺が面と向かって指摘してやった方がまだ良いでしょう。俺を相手に毒舌を吐けば、気散じにもなりますしね。もっと余裕を持てるように、というささやかな気遣いですよ」


 ガルシアは、ロレンソが出て行った扉を見て、ゆっくりと言葉を続ける。
「殿下がトリスタンのみ連れていかれてからというもの、傍目にも痛々しく感じますよ、アルメイダ提督は」
「ふむ、先の総督閣下のこともあり、女の身で一軍を預かる責任も軽いものではあるまい。ロレンソなりに、この戦にかけるものがあるのだろうな。であれば、なかなかに平静を保つとはいくまいよ」
「軍議の前に副官に声をかけましたがね。自分の船でもぴりぴりしてばかりだそうですよ。あれだけの器量なのだから、だまって部下に微笑みをくれてやれば、誰も彼も喜んで指示に従うでしょうに」
「色を売るような真似はせぬ、ということだろう。その気概は頼もしく感じるがの」


 ガルシアは両手を頭の後ろにまわし、おおげさにため息を吐いた。
 しかし、深刻そうな表情とは裏腹に、その口から出たのは軽薄そのものの言葉だった。
「トレス・エスパーダ殿は寄らば切ると言わんばかり、ドゥイス・エスパーダ殿はお堅い女の見本そのもの。どうして我が軍はこうも潤いってやつがないんでしょうなあ」
 聞けば、これから攻める国には姫武将なる女性仕官が山のようにいるという。ガルシアとしては興味を抱かざるをえない。決して、彼女らを口説くために言語を学んだわけではないのだが。


 そんなガルシアの内心を読んだわけではあるまいが、ドアルテは鋭い一瞥をガルシアに向けた。
「身持ちが堅いのは別に悪いことではあるまいて。わしからすれば、ウム(一番)・エスパーダたるお主が行く先々で女漁りをする方がよほど問題じゃわい」
「なに、何の位を得ようが俺は俺というだけですよ、元帥。エスパーダの称号なんぞ、報酬を釣り上げるための化粧みたいなもんです」
 だいたい、とガルシアはにやりと笑う。
「元帥だってかなりのものでしょうに」
「寄る年波に勝てる者なぞおらんわ」
「ふむ、しかし研鑽は怠っておらんでしょう? 腕だけでなく頭の方も。倭人の言葉も習得されたようですしな」


 ガルシアの指摘に、ドアルテは渋面になる。
「……なぜわかった?」
「さっき俺が『トレスの胸をもみたい』って言ったとき、あからさまに眉が動いたでしょうが。いいですなあ。油断もなく、驕りもなく、齢六十を越えてもなお学問を修めんとするその気概。生涯勉強。うちの若い連中は、どこにいるかもわからん神様より、元帥を崇めるべきですな」
 そのガルシアの言い方に、ドアルテは不快げに鼻をならす。
「いまさらおぬしに敬虔な信徒たれと説教をたれるつもりはないが、わしへの軽口で神の御名を軽々しく口にするのはやめてもらおうか」
「おっと、これは失礼。無頼の傭兵あがりの戯言と聞き流してください」
「ふん――此度の戦、先鋒はロレンソ、後詰はわしがする。お主は後衛で様子を見てくれ」
「そいつは願ってもない。楽が出来そうですな」
「さてな。それほど容易い相手ではない、とロレンソに言ったのはお主ではなかったか?」





◆◆◆





 薩摩国 伴掾館(ばんじょうやかた)


 南蛮軍の本隊を退けた島津軍は、かつて仇敵たる肝付氏の祖先が築いたという館に陣取り、軍の再編成を行っていた。
 本来ならば、先の戦闘の勝利を機に一息に敵を追い討ち、戦全体の勝敗を決してしまいたいところである。しかし、結果として勝ったとはいえ、先の戦闘で死傷した者の数は少なくない。むしろ、後方にいた兵士をのぞけば、まったく無傷の兵はめずらしいくらいの激戦だったのである。
 無論、南蛮軍にはこちらが受けた被害以上の損害を与えたが、彼らには内城を守備していた――言い換えればまったく無傷の軍がまだ後ろに控えている。
 ここで無理押ししても勝機は薄いと考えた島津軍は、一旦、攻撃の手を緩めることにした。どのみち、援軍と合流するためにはどこかで軍を止めなければならなかったのである。それに、それ以外にも理由がないわけではなかった。


「あー、歳姉、歳姉、こっちこっちー」
「家久、そう大きな声で呼ばずともわかります。島津の一族がむやみにはしゃぐものではありません」
 しかつめらしい顔で妹を諌めつつも、歳久の顔には隠しきれない安堵の色が浮かんでいた。
 館の中では、負傷した将兵がそこかしこで手当てを受けていたので、家久の身を案じていたのだろう。
 姉の心配を察した家久はにぱっと笑う。
「心配しなくても大丈夫だよ、歳姉。みんなに守ってもらったから、あたしは傷一つないもん」
 その言葉どおり、家久は激戦の中で指揮を執ったにも関わらず、周囲の将兵の献身によって、その玉の肌には傷一つついていなかった。


 とはいえ。
 家久にしてみれば、周囲の気遣いぶりに思うところはあった。若いとはいえ、成人の儀を済ませた一軍の将に対して、みんなちょっと過保護すぎじゃないかなー、とか。
 無論、家久も好んで傷を負いたいとは思っていないが、だからといって将兵を盾にしてまで無傷でいたいとも考えていなかった。一軍を率いる者として、相応の覚悟はすでに済ませている。将ではなく、掌中の玉を守るがごとき兵たちの過ぎた献身は、かえって不本意でもあったのである。


 もっともそんなことは絶対に口にしないし、表情にも出さない。それは命がけで守ってくれた将兵に失礼だし、そもそも彼らがそうまでして家久を守ろうとするのは、家久が未だ彼らの目に頼りなく映るからであろう。
(その証拠に、ほら、弘姉のまわりの人たちは、ここまで弘姉のことを気にかけてないもんね)
 鬼島津と呼ばれる(本人は呼ばれるたびに不本意そうな表情をするが)姉と、その率いる部隊の姿を思い起こし、家久は内心でそっとため息を吐く。いつか三人の姉たちに追いつくことを念願とする島津の末姫であるが、道はまだまだ遠そうであった。




 この時、島津歳久が率いてきた兵力は五百を越えた。
 歳久直属の二百はともかく、追加の三百はどこから来たのか。
 それはもっとも一宇治城の近くに布陣していた山田有信の軍の一部だった。
「一宇治城は有信に任せてあります。兵の過半を割いてくれたので、有信の手元の兵は二百程度ですが、守城に長けた有信であれば、たとえ敵が寄せて来ても私よりよほど上手く守ってくれるでしょう」
 歳久の言葉に対して同意を示すと、家久は現在の戦力を指折り数え始めた。


 先の戦に加わったのは忠元が指揮した槍兵、弓兵あわせて六百と、家久が指揮した百の騎兵である。このうち、忠元の部隊は敵に大打撃を与えたものの、こちらの被害も大きかった。次の戦闘に耐えられる者は、おそらく四百に達するかどうか、といったところだろう。
 幸いにも騎兵はさして被害は出なかったため、両部隊を併せて五百。くわえて、後方で待ち伏せていた無傷の将兵が三百加わるから、計八百の兵が家久の指揮下にいることになる。

 
「元々わたしたちが率いてた兵と、歳姉の兵とをあわせて大体千三百くらいかな。まだ南蛮軍には及ばないけど、これで少しはまともに戦えるね」
「まともに、ね」
 家久の言葉に、歳久は小さく肩をすくめる。
「今回の戦、どうも好んで苦戦を求めているような気がして仕方ないのですけど」
「それは仕方ないよ。向こうの戦力が全然わからないんだからねー。歳姉だってわかってるくせに――あ、そっか、なるほどー」
 言葉の途中で何事かに気づいたように家久が相好を崩す。
 その妹の表情を見て、歳久はとっさに内心で身構えた。どうも最近、この妹は姉をからかうことを覚えたらしく、そんな時は決まってこの表情を浮かべるのだ。


「な、なんだというのですか、家久?」
「んー、なんでもないよ? ただ、そういえば歳姉って作戦のことで筑前さんとやりあってる時は、妙に楽しそうだったなーって思い出しただけ」
「だから、あえて私が作戦に異議を唱えていると? わかっていませんね、家久。島津の将来のみならず、日の本の未来さえかかっているのです。慎重に事を処すのは当然のこと。けれど慎重に徹してばかりでは勝利は覚束ない。状況の変化に応じて時に思い切った手を打つことも必要になるのです。それを提議するのは、軍師としてむしろ当然のことで……」
「筑前さんは偵察に出てるけど、もうすぐ帰ってくると思うから、もうちょっと待っててね、歳姉ッ!」
「人の話を聞きなさい、家久ッ! それはまあ、たしかにあの男に渡さなければならないものもありますが……」
「え、なになに、恋文? うわー、歳姉ってば大胆」
「な、なんで私があの男にそんなものを渡さなければいけないんですかッ! 大谷殿から預かった文を渡すだけですッ!!」
「えー、そんなのつまんなーい」
「家久、いい加減にしなさいッ!」


 姉に雷を落とされた家久は、身体を縮めて口を閉ざしたが、姉の視界に映らぬように伏せた顔からは小さく舌が出ていたりする。 
 家久は本気で歳久と雲居の仲を疑っているわけではない。しかし、まるきり冗談を口にしているわけでもなかった。そこには家久なりに意図があったのである。


 上の姉二人はともかく、すぐ上の姉である歳久はかなりの男嫌いである。正確には、歳久自身より頭脳の働きが劣る男を異性として見ることが出来ないのだろう。
 島津家中において、歳久と並ぶほどに頭の回転が速い者など数えるほどしかいない。そして、彼らは歳久に対して宗家の姫として接するので、必然的に歳久の周囲からは男っ気が絶えてしまう。


 今は良いとしても、これから先もこれでは何かと困るだろう。ある程度、男性に耐性をつけねば、婿を取るにしても、嫁に行くにしても上手くいくはずがない。
 本来であれば、こういうことは上の姉たちが考えるべきなのだが、性格的にこういうことにはあまり気づかない人たちだし、当の本人はといえば、家久がこんなことを口にすれば「余計なお世話ですッ」と顔を真っ赤にして怒るに決まっていた。


 家久としては、頑固で可愛い姉のために一肌脱いであげたい。
 そんなわけで、さてどうしたものか、と家久が考えているとき、目の前に格好の人材が飛び込んできたのである。
 敵国の臣ながら軍略に長け、島津の姫に対して物怖じしないとくれば、これを利用しない手はない。
 軍議だろうが何だろうが、とりあえず歳久が面識の薄い男性と話す経験を積んでくれれば、家久としては言うことなし、なのである。 
 ……まあ時々、なんで末の自分がこんなことまで心配しなきゃいけないのかなー、という疑問が脳裏をかすめることもあったが、こういう自分が家久は決して嫌いではなかった。



 
 そんなことを考えていた家久であったが、次の歳久の発言を聞き、本気で驚くことになる。
 すなわち、歳久はこんなことを言い出したのだ。
「とはいえ、少し――ええ、本当に少しだけですが見直したことは事実です」
「ふえ? 筑前さんのこと?」
「他に誰がいるのですか。まあ見直したといっても、小指の爪の先ほどですけれど」
 そう口にする歳久の口元には微笑が浮かんでいる。


 家久たち姉妹と話している時はともかく、他者――ことに話の内容が男性に関わるものであった場合、歳久がこの表情を浮かべるのはきわめてめずらしい。
 これはひょっとするとひょっとするのだろうか、と家久はこっそり拳を握り締める。


 ――だが、当然というかなんというか、歳久の考えに色恋めいた感情は露ふくまれていなかった。そのことを、家久は次の歳久の言葉で悟る。
「合流の場所をここにしたのは、雲居の案なのでしょう?」
「うん、そうだよ――って、ああ、そっちのことか」
「そっちのこと?」
 家久の残念そうなため息に、歳久は怪訝そうな顔をする。
 気づかれては大変、とばかりに家久はあわてて言葉を続けた。
「確かに気が利いてるよねー。筑前さんは偶然だって笑ってたけど」
「偶然、ですか。そうであればまだ……いえ、それはそれで厄介なことにかわりはありませんか」




 この伴掾館は、肝付氏の祖である伴氏が薩摩に赴いた際に築いた館である。
 以来、数百年。館は幾度もの改装を経て、戦乱に耐えうる城として装いを新たにしていた。
 もっとも島津家が薩摩を統一したことで、城としての機能はすでに大半が失われており、城兵もわずかしか配置されていない。その城兵も今回の南蛮侵攻に際して引き上げており、実質的にこの城は空城であった。
 こういった城や砦はいくつもあったが、南蛮軍はそれらの城を占拠しようとはしなかった。おそらく兵力の分散を避けたのだろうと思われた。


 島津軍がこの地を合流場所に定めたのは、この館が内城と一宇治城を結ぶ直線上に位置しているためである。つまり合流が容易であり、内城をうかがうにも適した地なのだ、この伴掾館は。
 だからこそ、雲居の提言はあっさりと受け容れられたのだが、同じように合流に適した場所が他になかったわけではない。その中でとくに雲居が伴掾館を推したのは何故なのか。


 歳久はもとより、家久もすぐに気がついた。
 伴掾館は、地名である『かんじき』から『かんじき城』と呼ばれることもある。
 かんじき――すなわち神食である。


 生死をかけた戦だからこそ、人は些細なことに吉兆を見出し、凶兆を憂う。いわゆる三献の儀式において口にする「打鮑(うちあわび)」「勝栗(かちぐり)」「昆布」の三品が「討(打)って、勝って、喜ぶ(こぶ)」に対応しているのは周知の事実である。
 中国地方の雄たる毛利元就は、かつて出陣に際して沢瀉(おもだか 勝ち草)にとまる蜻蛉(勝ち虫)を見つけて幸先良しと将兵を鼓舞したという。
 縁起を担ぎ、ふとした出来事に吉兆を見出して将兵の不安を掃うことも、将帥としての重要な仕事であった。


 歳久はそれを承知している。だからこそ、南蛮軍が絶対のものとして崇める『神』を『食』らう地に軍を集めるよう主張した雲居の智を評価したのである。
(問題は、これがはじめから計算してのことであったのか否か)
 歳久は内心でつぶやく。
 もし計算づくであれば、今日にいたる戦況と敵味方双方の動きを雲居は予期していたことになる。歳久が戦慄を禁じえないほどに恐るべき精度で。


 では、仮に雲居本人が口にしたとおり、すべてが偶然であったとしたら問題はないのか。
 そんなことはない。むしろ偶然であった方が、計算づくよりも恐ろしいかもしれない。
 将兵の士気が戦を左右する重要な要素であることは、いまさら口にするまでもない。その重要な要素をただの偶然で手に入れられる人間などいてたまるものか。


 たかだか地名の一つが戦に符号しただけである。歳久自身、考えすぎだと思わないわけではない。しかし、相手は今回の南蛮艦隊襲来を予測した人物である。警戒してし過ぎるということはないだろう。
 見直した、と家久に言った言葉は嘘ではなかったが、だからといって家久のように気安く口をきくことはできそうになかった。






 歳久の視界に、今胸中で思い浮かべていた人物の姿が映ったのはその時だった。
 家久の言うとおり偵察から帰ってきたのだろう。傍らには丸目長恵の姿も見て取れる。
「あ、筑前さーん、長恵さーん」
 家久が大声で呼びかけて手を振ると、あちらもすぐに気づいたようだった。
 兵たちの姿を見て、歳久が到着していたことは察していたのだろう。家久の隣に立つ歳久の姿を見ても驚いた様子は見せなかった。


「二人ともお疲れさまー」
「恐れ入ります、家久様。歳久様も――」
 挨拶を口にしかけた雲居の言葉を封じるように、歳久は懐から取り出した書状を雲居の眼前につきつけた。
 突然のことに、雲居は目を丸くする。
「歳久様、これは……?」
「大谷殿から頼まれたものです」
「吉継から?」
 雲居は怪訝そうな表情を浮かべながら、歳久から書状を受け取る。
 

 歳久はこの書状の内容を知らなかった。
 大友家の策謀を警戒するなら、吉継に詮索するなり、ひそかに中身を確かめるなりするべきであったかもしれない。それをしなかったのは、何だかんだ言いつつも雲居や吉継らを信用する気持ちが、歳久の中に育ちつつあったからだろうか。
 なにより真に秘すべき書状なら歳久にわざわざ渡す必要はない。出陣する兵の一人にでも頼めば済む話である。至急に、と頼まれたわけでもないことだし、緊急性のない言伝だろう、と歳久は判断していた。




 ――だからこそ。
 それを読んだときの雲居の反応は、歳久の想像を絶していた。
 知らず、息をのむ。
 顔を蒼白にし、驚愕に震えながら、食い入るように書状を読む雲居の姿を見て。
 歳久は雲居とは軍議の時をのぞいて言葉を交わすことは稀であったから、その為人を詳しくは知らない。それでも、内心の動揺を他者の目に触れさせる人物ではないということはわかっているつもりだった。


 その雲居が、完全に色を失っている。
 丸目長恵でさえ、そんな雲居の姿に驚愕をあらわにしている。ただその一事だけで尋常ならざる事態が起きたことは明らかであった。
 しかし、南蛮との戦そのものはきわめて順調に進んでいる。日向の戦局に変化が生じた可能性はあるが、もしそうならばとうに歳久の耳に情報が届いているはずだった。
 あるいは大友家内部で何事か起きたのだろうか。だが、南蛮との戦の趨勢に関わる事態であれば、吉継はまず歳久に何が起きたかを告げたであろう。歳久に黙っているということは、それだけ島津家の対応が遅れるということであり、それは雲居や吉継にとっても好ましからぬ事態に繋がるはずだった。



 やはりわからない。
 一体何事が起こったのか、それを知るためには雲居が我に返るのを待つしかなさそうであった。





[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第八章 火群(二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:cd1edaa7
Date: 2011/03/04 23:39


 トリスタンにとって高千穂の制圧はさしたる難事ではなかった。
 彼の地の信徒の数は、中崎城の激戦で五千を下回ったとはいえ、なお四千をはるかに越える。それに対し、おさえつけるべき戸次家の兵は千に届かないのだから当然であった。それ以外にも、他の家臣の兵が千ほども留まっていたが、彼らにとって重要なのは自家の安寧であって、危険をかえりみずに戸次家に助力しようとはしないだろう、とトリスタンは考えており、結果としてそのとおりになった。無論、トリスタンも彼らの判断の秤が一方の側へ傾くように努めたのだが。 


 高千穂の戸次勢を統べる十時連貞は決して凡将ではなかったが、謀略には疎い面があった。南蛮信教の信者たちは、時に不平を漏らしつつも、積極的な行動に出る気配を見せなかったので、やや気を抜いていた面もあったかもしれない。
 だが、連貞がトリスタンの動きに気づかなかった最も大きな理由は、その殺人的なまでの多忙さにあった。
 占領した地域の行政、大友軍と南蛮信教に強い敵愾心を抱く民心の慰撫、さらに北部と東部を奪われた三田井家の逆襲にも備えなければならない。
 連貞はそれらと平行して南蛮宗徒たちに監視の目を光らせていたわけだが、道雪に鍛えられたとはいえ、連貞も麾下の将兵も人間である。激務が続けば疲れもするし、注意が散漫になることもある。多忙な日々が続けば、不満の一つも口をついて出ようというものであった。


 ゆえに、トリスタンが衝くべき隙はそこかしこに存在した。
 皮肉なことだが、だからこそ余計な血が流れずに済んだ一面も確かにあったのである。
 一千の戸次勢とはいえ、常にまとまって行動しているわけではない。
 ある夜、トリスタンは掌握した信者たちを動かし、彼らを各個に分断してとりおさえていった。抵抗しようとした兵士は少なくなかったが、彼我の兵力差は誰の目にも明らかであり、しかも相手は完全武装の上に鉄砲まで持ち出していた。
 占領中の城下であるから、戸次勢も遊んでいたわけではない。しかし、連日の激務が将兵の心身の余裕をすり減らしていたことは事実であった。
 夜半ということもあり、戸次勢の半分は眠り込んでおり、もう半数は武装こそしていたが、状況の急激な変化についていくことができなかった。
 トリスタンの周到な準備と優れた実行力の前に、戸次勢は完全に機先を制されたのである。
 

 十時連貞が状況を把握した時には、すでに事態は半ば終わっていた。
 それと承知してなお連貞は側近と共に抵抗を試みた。今ここで南蛮信教に主導権を握られれば、高千穂で何が起こるのか、そしてそれが大友家と戸次家にとって何を意味するかをこの地の誰よりもはっきりと認識していた連貞が、刃を収められるはずがなかった。


 当初、南蛮宗徒たちは数に任せて連貞をとりおさえるつもりであった。
 しかし、常の無口さをかなぐりすてて気合の声を張り上げ、猛然と抵抗する連貞の前に、南蛮宗徒は終始押されっぱなしであった。
 怪我人は刻一刻と増え続け、ついには死者が出るにおよんで、無血での制圧を厳命されていた南蛮宗徒たちも、たまらず銃火に物を言わせようとした。
 この時、トリスタンが駆けつけるのがわずかでも遅れていれば、十時連貞はこの世の者ではなくなっていただろう。
 そして、もし連貞が死んでいれば、一旦は刀を手放した戸次勢は憤激と共に立ち上がり、中崎城は大友軍同士が相打つ凄惨な戦場になったに違いなく、ついには高千穂の大友勢力の撤退に繋がっていたかもしれない。


 トリスタンはそのことがわかっていた。情でも慈悲でもなく、計算によって連貞らを生かして捕らえたのだ――同胞の報復を望む兵たちに、トリスタンは冷ややかにそう宣言した。
 兵士たちが不承不承ながらも引き下がったのは、トリスタンの威もあっただろうが、それ以上に連貞がトリスタンの剣によって、右の肩を貫かれる重傷を負っていたからでもあったろう。
 それが兵士たちを納得させるための手段であったのか、それとも連貞の武勇がトリスタンの予測を越えており、そうしなければ取り押さえることが出来なかったためなのか――その答えを知るのはトリスタンただ一人であった。

 


 かくて高千穂の制圧はほぼ予定通りに終わった。
 だが、この作戦はトリスタンにとって目的ではなく手段である。アルブケルケが執心する人物を捕らえるためには、相手の動きを正確に掴まなければならない。
 薩摩にいることはほぼ間違いないと思われるが、それだけでは連絡のとりようがないのだ。人質をとるのは相手に要求を呑ませるためであるが、相手に要求を伝えることが出来なければ、人質そのものに意味がなくなる。これほど間の抜けた話はないだろう。


 その意味でも、連貞を生かして捕らえるのは必要なことだったのである。
 そして、その口を開かせる術もトリスタンは心得ていた。
 難しい手練手管を用いる必要はない。ただ真実を伝えれば良いのだ。


 ――すなわち、大谷吉継を捕らえるのは、ひとえにゴア総督の好色ゆえであって、現在の戦況とはいささかも関わりのないことなのだ、と。


 この真実に加え、トリスタンは捕らえた戸次勢に手出しをしないことと、高千穂における南蛮勢の妄動を固く戒めることを約束することで、連貞に情報の提供を求めたのである。


 連貞がトリスタンの言葉を信じるか否かは定かではない、とトリスタンは思う。
 しかし、断れば主家から預かった将兵は処刑され、高千穂は炎に包まれる。それがただの脅しではないことは、すでに日向北部で事実によって証明されている。
 ゆえに連貞は首を横に振ることは出来なかった。かかっているのが自らの命だけであれば、決して採らない選択肢。しかし、戸次家に仕え、一軍を率いる立場にある連貞にとって、トリスタンの言葉を拒絶することは決して許されないのである。内心にどれだけ忸怩たる思いを抱えようとも。





 ……かくて、トリスタンは薩摩の地に足を踏み入れた。
 島津家が南蛮信教を禁じているため、薩摩における南蛮信教の信者の数はごく少ない。しかし、だからこそ彼らは強固な関係を築き、ひそかに神を崇め続けていた。
 トリスタンはそんな人々の協力を得て、敵国の奥深くへと潜入したのである。


 本来であれば、トリスタンは連貞から聞き出した情報をもとに、すぐにでも吉継を手中にするべきだった。信者たちの協力があり、顔を隠しているとはいえ、今の時期に南蛮人が薩摩に入り込んでいることの危険は言を俟たない。
 だが、トリスタンはあえて時間を置いた。島津軍が――ムジカで見たあの青年がどこまでやってのけるか、それを確かめたかったのだ。もし青年の力量がトリスタンの予測をこえるものであり、南蛮軍がこの地で敗れるようなことがあれば、あるいはこの胸の悪くなる任務を切り上げることが出来るかもしれない。
 それが極小の可能性だとしても、それでもあのカブラエルを退けた頭脳に、トリスタンはわずかながら期待を抱いていたのだ――自身、そうと気づかぬうちに。


 その結果は、ある意味で予想外であり、ある意味で予想通りだった。
 種々の工夫を凝らし、ニコライ・コエルホ率いる先遣隊を討ち破ったのは予想外。しかし、その戦い方ではこの後に押し寄せるドアルテ、ガルシア、ロレンソらには到底対抗できない。
 彼らは善戦した。しかし、ただそれだけだ。最終的な勝敗の帰結は明らかであった。
 トリスタンはため息と共にその事実を受け止めると、内心にわだかまる思いに蓋をして、任務を遂行するべく動き出したのである。



◆◆



 兵と民を人質にとって連貞を屈服させ、その連貞をもって吉継を従わせる。
 誰に言われるまでもなく、これが下劣な真似であることはトリスタン自身も承知していた。少なくとも、神の使徒を謳う者のやることではない。
 しかし、これがもっとも流血を少なくする方法であると考えたから、トリスタンは躊躇わなかった。


 当初、吉継が素直にこちらのいうことを聞くとはトリスタンも考えていなかった。しかし、どのように面罵されようと引き下がるつもりはない。最終的に相手が折れざるを得ないことは、連貞を見てわかっている。この地に住まうのは、そういう人々なのだ、と。
 トリスタンは自嘲まじりに口元を歪めた。
「……どちらが蛮族なのだかわからないわね」
 これまでトリスタンは、この国の民が「南蛮人」という言葉を用いるのを苦々しく思っていた。しかし、今回の行動を眺め渡せば、たしかにトリスタンやフランシスコらの行動は蛮人と蔑まれて当然の醜行であった。それは認めざるを得ない。


 大谷吉継は、正にその醜行の被害者である。銀の髪と紅い瞳という類稀な容姿を持っていた――ただそれだけの理由で異国の王に興味を持たれ、その欲望の前に肌身を晒さねば、当人のみならず周囲の人々までが巻き込まれていく。
 それは過去、幼き少女に見合わぬ膂力の持ち主だともてはやされ、それゆえに彼の王に目をつけられたトリスタン自身を彷彿とさせる境遇だった。
 トリスタンは家族と故郷を守るため、その境遇を受け容れた。だが、だからといって――




「……どうしたのです、騎士殿」
 わずかに歩みを緩めたトリスタンに気づいたのか、吉継が足を止めて振り向いた。
 白い頭巾の隙間から、紅い瞳がトリスタンを見つめている。状況が状況なだけに、そこには敵愾心が込められていて当然なのだが、気のせいだろうか、不思議とその視線は穏やかであった。
 トリスタン自身、容姿を隠すために頭に布を巻いており、その周りを南蛮宗徒たちが警戒しながら進んでいる。もしこの場に人が通りかかれば、この奇妙な一行の姿に注意を惹かれずにはいられなかったことだろう。


 尤も時刻はすでに夜であり、今は月も雲に隠れている。くわえてトリスタンたちは人気のない間道を進んでおり、あたりには人どころか野鼠一匹見あたらなかった。
 その一行の中にあって、吉継は身体を拘束されることなく自分の足で歩いていた――抵抗もせずに従う者をわざわざ縛める必要はないからだ。



 今回の一連の出来事で、トリスタンにとって最も予想外だったのは、この吉継だった。
 吉継は連貞からの書状と、血で染まった佩刀を見てからというもの、感情を荒げることなくトリスタンに従った。
 味方に裏切られた傷心も見せず、人質という手段に訴えたトリスタンを罵るでもなく、求めたのはただ一つ、家族にあてた手紙を書くことだけだった。


 当然、トリスタンは内容を確認したが、そこにはトリスタンが口にした高千穂の情勢と、吉継自身の決断を綴った文があるだけであり、とくに何かの細工をした形跡はない。たとえこれを受け取った相手が吉継を取り戻そうとしたところで、吉継自身が救出を拒絶するだろう。そうしなければ、高千穂の十時連貞と一千に及ぶ戸次家の将兵が炎に包まれることになるからだ。


 そんな状況にあって、どうして吉継はトリスタンを気遣うような真似が出来るのだろうか。 トリスタンは問わずにはいられなかった。
「あなたは、何故そこまで落ち着いていられるのです?」
 そのトリスタンの問いに、吉継は小さく首を傾げた。
「取り乱した方がよろしかったですか? あるいは声高にそちらの卑劣さを罵るべきでしたか?」
 その問いに答える前に、トリスタンは周囲の信者たちに少し離れるように命じた。これから口にすることを彼らに聞かれては、今後に支障が出てしまうかもしれない。
「……そうね、そうすると思っていたし、そうされると思っていた。自らには何の咎もないのに、他者の色欲のために異国に連れ去られようとしている。これほど理不尽なことはないでしょう。にも関わらず、あなたはどこか安堵しているようにさえ思える。それは何故?」


 ふむ、と吉継は腕組みした。
 頭巾のために表情は見えなかったが、その動作に悲愴の色はうかがえない。吉継自身は頑として否定したであろうが、その仕草はどこか彼女の義父を思わせた。
「安堵、ですか。言いえて妙かもしれませんね。事のはじめから、どうしてもわからなかったことがやっとわかったのです。たしかに私はほっとしているのでしょう」


 そう、どうしてもわからなかった。南蛮信教がどうして吉継の身柄を欲するのか。
 かつて吉継を悪魔と罵り、豊後から追放し、ついには両親を死においやる原因となった彼らが、どうして急に態度を翻したのか。
 最初の理由は、吉継を引き取ってくれた石宗の弱みを握るためだったのかもしれない。石宗亡き後に手出しをしてこなかったのは、もはや彼らが吉継に価値を認めなかったからだ、と考えれば一応の説明にはなる。
 しかし、ならば今になって、再び吉継をねらいだしたのは何故なのか。ことにムジカにおいては、これまでとは異なり、あからさまにその意思を示していた。


 吉継にはどうしてもその理由がわからなかった。 
 南蛮艦隊の襲来を予測した吉継の義父さえわからなかった。
 わかるはずがない。異国の王が、吉継の容姿を聞き知って情欲をそそられたなど。その王の意向を受けた宣教師がカブラエルであったなどと。
 神ならぬ人の身に、そんなことがわかるはずはなかったのだ。 


「理由がわかったところで、あなたを取り巻く状況が好転するわけではないのですよ?」
「いいえ、好転しますとも」
 トリスタンの言葉を、吉継は迷う素振りも見せずに否定する。
 別に語気を強めたわけではなかったが、その反応の速さにトリスタンはわずかに戸惑ったようだった。
「南蛮の中枢に座する者が、私のような小娘一人を捕らえるために、騎士殿のような有能な将を遣わし、兵を動かす。事の軽重をわきまえぬこと甚だしい。これまで警戒し、ひそかに恐れてさえいた相手がその程度の人物だとわかったのです。この一事だけでも十分に事態は好転したといえるでしょう」


 吉継の言葉にトリスタンは理を認めた。
 しかし、とトリスタンは思う。吉継の考えは前提が間違っている、と。
 フランシスコは愚者ではない。トリスタンがこの戦に必要だと思えば、こんな任務に用いようとはしなかっただろう。
 フランシスコがトリスタンを高千穂に向かわせたのは、今回の戦でトリスタンが必要となる時は来ないと考えていたからである。つまりは、ムジカの大友軍と、ドアルテら第三艦隊、この二つの軍だけで薩摩、大隅の制圧は成し遂げられる、とフランシスコは踏んだのである。
 すなわち、今回の件はフランシスコにとって軍事行動ではなく、ただの余興に等しい。その余興にエスパーダの称号を持つトリスタンを投入することが出来るほどに、彼我の戦力差はあまりに圧倒的なのだ――それがトリスタンの考えであった。


 しかし、それを吉継に口にするのは憚られた。
 吉継は未だドアルテら主力艦隊の存在を知らない。今日まで戦っていた南蛮軍がすべてだと考えているだろう。その指揮官が愚者であることに安堵しているならば、事実を知った時の衝撃は並大抵のものではあるまい。
 胸裏にかつての幼馴染の姿を思い浮かべながら、トリスタンは何と言うべきか、言葉を捜しあぐねた。


 結局、思いついたのは芸のない警告の言葉だけだった。
「あなたが希望を持つのは自由です。しかし、約定にそむけば相応の報いを受けますよ」
「ご心配なく。ムジカに着くまではおとなしくしています。その代わり、高千穂の将兵は無事解き放ち、あの地の信徒たちは高千穂に手を出さずにムジカに帰還する――この約定に背くつもりはありません」
 そこから先に何が待ち受けているのかは予測しているだろうに、吉継の態度に不安の陰はない。
 助けが来ると信じているのか、どうせ南蛮軍は敗れるとたかをくくっているのか。
 あるいは、吉継の義父は宗麟の覚えめでたい救世主である。そのあたりが吉継の考えを楽観に傾けているのかもしれない。


 しかし、主力部隊が島津軍を打ち破り、薩摩を制圧すれば、南蛮軍はもはや大友家に遠慮をする必要はなくなるのだ。
 これまでの大友家と南蛮信教の主従の関係は逆転し、南蛮信教の意向こそが第一となる。そうなれば吉継は表向きは使節団の一人として、実際はアルブケルケへの贈り物として、ゴアへ赴くという以外の選択肢は選べない。
 トリスタンの中で、それはもはや確定した事実であった。だからこそ、未だ未来に希望を見ている吉継が哀れで仕方ない――はずなのだが。


 何故だろう。理由はわからないが、トリスタンはそうは思えなかった。
 むしろ吉継を見ていると、間違っているのは自分の方なのではないかとさえ感じてしまう。
 そんなはずはないのに。自分の目で戦況を確かめ、その上で南蛮軍の勝利は疑いないと考えたのだ。
(なのに、どうして)
 こうまで確信が揺らぐのか、トリスタンにはわからなかった。




◆◆




「騎士様、あの峠を越えれば国境です。あのあたりは関所やぶりが多いので、かえって間道は危ないです。ここからは街道を進もうと思うんですが……」
「……任せます。金が入用であれば、これを使ってください」
 考え事をしている最中に信徒の一人に話しかけられ、トリスタンはやや慌てて懐から幾ばくかの金銭を差し出した。この国の通貨基準が今ひとつわからないトリスタンは、適当に掴んで渡したのだが、渡された方はあまりの大金に腰を抜かしそうになった。夜の関所を越えるにはそれなりの金が必要になるが、だからといってこんな大金を差し出したりすれば、関所の番人はひっくりかえってしまうだろう。かえって疑われる羽目になりかねない。


「き、騎士様、こ、これはさすがにいただきすぎで……」
「余るようなら、今後のあなたたちのために役立ててください。間もなく、隠れ潜むことなく神の御名を称えられる日がやってきます。その日まで、いま少したえてくださいね」
「あ、ありがたきお言葉です」
 南蛮信教が禁じられた薩摩の国で、それでも神を信じ続けた信徒たちは、トリスタンの言葉に感涙さえ浮かべている。
 純粋なまでの信仰心。しかし、彼らはトリスタンが何のために動いているのかを知らず、これから吉継に待ち受けている悲惨な未来も知らない。疑うことなく、知ろうともせず、トリスタンに協力してくれているのである。


 なんて醜悪な戯画(カリカチュア)。
 見慣れてしまったのは、いつ頃からなのだろう。
 トリスタンがそんなことを考えた時、不意に視界が広がった。
 今まで月を隠していた雲が切れたのだ。
 現れた月はほぼ完璧な円形を描き、地上の野山を柔らかく照らし出す。


 トリスタンにとって一番厄介なのは、事情を知らぬ島津の兵に見咎められることであった。薩摩から出てしまえば、その心配はなくなる。やはり多少無理をしても、今夜のうちに国境を越えてしまいたい。先刻の奇妙な感覚を振り払うために、トリスタンは今後のことに思いを及ばせる。
 それゆえの不覚というべきであったろうか。
 月光が照らし出したものが、野山とトリスタンの一行だけではないことに、すぐには気づかなかった。





 もっとも早く気づいたのは吉継だった。
 知らせたわけではなかった。そもそも吉継は、トリスタンたちがどの道を通って薩摩を出るつもりであったかなど知らないのだから、知らせようがなかった。
 にも関わらず、その人影を見つけた時、何故か吉継は驚かなかった。


 吉継は思う。
 期待も予測もしていなかったが、なんとなく――本当になんとなく、こうなるのではないかな、という予感はあったのかもしれない。
 吉継にとっては死神の使者に等しい南蛮人たちに素直についてきたのは、そうするしかないと考えたためであるが、あるいはこれも理由の一つであったのか。吉継は他人事のようにそう考えた。
 なにしろ自分を助けに来たとおぼしき人たちに対し「余計な世話を焼かないでください」と言って追い返さなければならないのだ。下手に反抗して身動きとれない状態にされてしまえば、それも出来なくなってしまう。


 吉継がそこまで考えたとき、トリスタンも峠の上から此方を見下ろす人影に気づいたらしい。
 その手が腰の剣に伸びる前に、吉継はみずから足を踏み出した。
 逃げ出すためではなく、みずからの決意を告げるために。


「お義父様」
 吉継の口がゆっくりとその言葉を紡ぎ出した。
 
 



[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第八章 火群(三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:cd1edaa7
Date: 2011/03/06 18:36

 大谷吉継にとって、今回の南蛮軍の行動はまったく予想だにしないものであった。
 危急の事態と銘打って高千穂から届けられた連貞の書状を見た際は、驚愕のあまり声も出なかったほどである。
 偽報を疑わなかったわけではないが、書状と共に示された刀を見て、吉継は早々に楽観を捨てざるを得なかった。血に濡れたその刀が、連貞が腰に帯びていた物と同じであることがわかったからである。


 すべてが事実だとすれば、吉継の採るべき道は一つしか残されていなかった。
 ――迷った時間はごくわずかであった。
 決して恐怖がなかったわけではない。南蛮軍の陣営に赴けば、どのような仕打ちをうけるかは明らかであり、未だ恋すら知らぬ乙女がそれをたやすく許容できるはずもない。
 それでも吉継は手早く雲居にあてた文を書き、一宇治城の島津軍の隙をぬって城外に出た。
 何故、恐怖を覚えながらもすぐにそんな行動がとれたのか。それは吉継がとうに覚悟を済ませていたからにほかならぬ。


 諸国に姫武将は数多い。大友家の中にも立花道雪、高橋紹運、由布惟信ら文武に優れた女将軍たちがいる。彼女らもまた吉継と同じ覚悟をもって戦陣に臨んでいるだろう。
 ひとたび戦場に立てば、死は男女の別なく襲ってくる。それを覚悟するのは当然であった。
 同時に、女の身で戦場に出る以上、敵の虜囚となった場合、戦で猛り立った敵兵から辱めを受けることも覚悟しなければならない。勝ってなお礼節を忘れぬ敵ばかりではないのである。


 自身を戦場から遠ざけようとした雲居を説き伏せ、南蛮軍との争いに加わったその時から、吉継は敵に囚われた際の覚悟を決めていた。さすがにこの展開は予想していなかったが、結果としては戦場で虜囚となった場合となんら変わらないのだから、慌て怯える必要はないと自らに言い聞かせる。

 


 一宇治城を抜け出すのは、さして難しいことではなかった。
 守将が島津歳久から山田有信に代わり、歳久率いる軍勢が出立する直前だったので、城内はかなり騒然としていたからだ。くわえて見張りの侍女や小姓も、すでに吉継が逃げ出すとは考えていなかったため、吉継さえその気になれば隙はいくらでもあったのである。


 抜け出す前に書状の内容をトリスタンに確認させたのは、吉継らしい用心であった。密かに書状を歳久に渡したことがわかれば、それを知った南蛮軍がどう動くか知れたものではないと考えたのだ。
 大友軍の使者を装って訪れた南蛮信教の信者の一人が、手ずから吉継の文をもって城外のトリスタンに確認をとり、その上で吉継は歳久に書状を託したのである。





 書状を読んだ雲居の反応を、吉継はある程度予測していた。
 まずは驚くだろう。ムジカを建設した南蛮信教が、今になって高千穂の戸次軍の排除に動くことを予測できるはずがない。
 何故なら、ムジカでの対面において、高千穂における別働隊の行動が南蛮信教の教義にそった行いであることを、事実上、宗麟が認めたからである。
 将来は知らず、現時点でカブラエルが大友家と袂を分かつ意思がないことは対面時の様子からも明らかであった。ゆえに、カブラエルが宗麟の言葉にあえて叛く理由はなく、注意すべきは信者たちの暴走のみであるはずだった。
 だが、十時連貞が高千穂に残って目を光らせている以上、数に勝るとはいえ主だった指導者がいない信者たちが事を成せるとは考えにくい。
 雲居が対南蛮の戦略図から高千穂という地名を除いたのは、十分な思慮を経た上でのことだったのである。


 南蛮の王が吉継の身体を望み、その意を受けた者たちが、現在の戦況とはまったく関係なく高千穂に手を出すなど、どうして知ることができようか。
 あるいはそれが南蛮軍の戦略として機能する一手であるならば、気づくことも出来たかもしれないが、彼らの目的はひとえに吉継のみ。ただ王の好色を満たすためだけに南蛮軍が将を遣わし、兵を動かすことを仮に予測できる者がいたとしたら、その者は天才を超えて奇人、変人の領域に達していよう。
 少なくとも吉継は、今回の南蛮軍の動きを予測できなかったことを迂闊だと口にするつもりは微塵もなかった。



 ともあれ、書状を読んで驚いた後はどうするか。
 おそらく――というか、ほぼ確実に吉継を止めようとするだろう。
 それがわかっていたから、吉継は書状でそれは無用だと断った。
 南蛮軍との戦が佳境を迎えつつある今、雲居の注意が他にそれることは絶対に避けなければならないからである。


 ゆえに、そもそも雲居に知らせない、という選択肢もあった。実のところ、吉継は真っ先にその選択肢を考慮したのである。
 しかし、吉継の姿が一宇治城から消えれば、当然、島津家は雲居に事の次第を確認するだろう。
 それを聞けば雲居は動揺し、吉継の行方を捜そうとするだろうし、それによって島津家が雲居に不審を抱く可能性もある。何事かたくらんでいるのではないか、と。
 戦の最中に雲居と島津の間に不和が醸成されてしまえば、勝てるものも勝てなくなる。
 その事態を避けるためにも、吉継は筆をとらざるをえなかったのである。


 吉継はこの時、雲居は理解してくれる、と考えていた。
 もちろん動揺もするし、怒りもするだろうが、最終的には、吉継が南蛮陣営に赴く以外の選択肢はない――そのことを認めてくれるだろう、と。
 仮に吉継を救おうとするならば、トリスタンを討たねばならない。これはさして難しくないだろう。いかに手練の剣士であろうと、数の暴力、あるいは鉄砲の力に勝てるはずはないのだから。
 だが、そうやってトリスタンを退ければ、間違いなく高千穂の南蛮宗徒たちは刃を握る。戸次勢を鏖殺し、今度こそ高千穂の寺社仏閣を焼き尽くして、邪教崇拝の罪を裁こうとするだろう。


 それを食い止めるためには、今から高千穂の情勢を探り、五千近い宗徒たちを押さえなければならないのだが、そんな手段がどこにあるというのか。トリスタンが、こちらにそんな猶予を与えるはずはなかったし、そもそもトリスタンらがそういったこちらの策動に対して手を打っていないはずもない。
 くわえて――繰り返すが南蛮軍との戦は今が佳境なのである。
 確たる証拠もなしに南蛮艦隊襲来を訴える敵国の臣の言葉を信じ、その策を受け入れ、命を懸けて戦ってくれている島津の君臣。雲居や吉継は、怪しい奴として首を切られたところで不思議はなかったのだ。にも関わらず、島津家の人々は吉継たちを受け容れてくれた。形としては虜囚、その実際は客人として。
 無論、彼らには郷里を守るという目的があって南蛮軍と戦っているのだが、だからといって彼らが示してくれた好意と信頼に、吉継たちが応えずにいていい理由にはならない。彼らが命を懸けて戦っている戦場から、背を向けて去るなど許されることではない。
 吉継はそう考えていたし、それは雲居も同様であろうと信じた。


 つまるところ、選択肢は二つ。
 吉継が南蛮軍に赴くのを止めるか、止めないか。
 前者を選べば、戸次勢は見殺しにされ、高千穂は焦土と化す。そして島津の信頼を裏切ることは、雲居が南蛮の暴虐を食い止める術を失うことを意味する。吉継が守りたかったこの国のすべてが失われることになるだろう。


 後者を選べば――前者の裏返しとなる。無論、戦の勝敗はなお不透明だが、それでも島津家と雲居がこれまでどおり協力していけば、少なくとも大敗を喫するような事態にはならないだろうと吉継は判断していた。
 その代わり、吉継は南蛮軍の陣営に連れて行かれることになるのだが、別に殺されるわけではないのだ。それどころか、彼らの王の下へ連れて行かれるまでは、これ以上ないほどに丁重に扱われることになるだろう、吉継はいわば王への献上品なのだから。


 二つの選択肢を比べてみて、どちらを選ぶのか。
 迷う余地はどこにもない、と吉継は思う。

 
『辛いことの多い生ではありましたが、決してそればかりだったわけではありません。私は、いつか彼岸で父上と母上に逢った時に胸を張れる自分でいたい。二人が身命を賭して産み育んでくれたから、娘は誇り高く生き抜くことが出来ました、と……ありがとう、とそう伝えたいのです』


『たとえお義父様が反対なさろうと、私は残ります。駄目だなんて言わせませんよ? 石宗様と道雪様、それに和尚様、もちろんお義父様も……皆、私にとっては大切な人たちです。その人たちが築いてきた日の本の歴史を――そして、私が皆と共にこれから生きていく日の本の大地を、異国の軍勢に蹂躙されてたまるものですか』


 戦に先立ち、雲居に告げたあの決意は心底からのもの。
 雲居がそれを覚えていてくれるのならば、自分の決意に理解を示してくれる――吉継はそう考えていたのである。





◆◆◆




 だが。
 その考えは、実は大きな間違いだったのかもしれない。
 峠の上から此方を見下ろす雲居の姿を間近にとらえ、吉継の胸によぎったのはそんな思いだった。


 静かな――静かすぎるほどに静かなその眼差し。
 南蛮人への怒りはない。吉継の決断をどう思っているのかも読み取れぬ――無論、書状で救出無用と伝えた吉継の言葉をかえりみず、こうして国境へと通じる峠の上で待ち構えている時点で、雲居の意思は明らかであったが、ただそれがいかなる感情に由来するのかが見て取れないのだ。
 怒っているのか、嘆いているのか、あるいはそれ以外の何かか。


 吉継が雲居と初めて出会ったのは、桜の花が咲き誇る頃であった。
 この冬を越えれば一年――父娘の杯を交わしてから数えても半年近い月日が過ぎている。
 それだけの時間を共に過ごしながら、吉継はこんな表情の雲居を一度たりとも見たことがなかった。
 この時点で吉継にわかったのは、雲居が吉継をこの先にいかせまいとしている、その一事だけだったのである。


 吉継は頭巾をとりはらい、顔を外気に晒した。
 月明かりに照らされ、銀色の髪が端麗な煌きを発する。
「お義父様」
 吉継は再び雲居にそう呼びかけた。
 すると、雲居はゆっくりと口を開き――はっきりと断言した。
「通せ、という言葉なら聞く耳もたないぞ」
 よくよく見れば、そういう雲居の服は泥と砂塵で汚れきっていた。雲居のやや後方で、気遣わしげに父娘を見つめる長恵も同様である。
 おそらくは書状を読むなり、わき目も振らずにここまで駆けつけてきたのだろう。でなければ、この時、この場に間に合うはずがなかった。


 どうして吉継たちがここを通ることがわかったのか。
「戦場となっている日向を避けて高千穂に戻るなら、このあたりを通るだろうと家久様に教えてもらったんだ――間に合うかどうかは賭けだったが」
 間に合って良かった、と雲居はつぶやく。
 その口調からは、吉継の決意と覚悟を汲み取った痕は微塵も感じられず、ただその行く手をさえぎろうとする意思だけがあらわであった。


 吉継は雲居の無理解に憤るつもりだった。
 吉継は角隈石宗の薫陶を受けた武将の一人。彼我の情勢を見据え、戦略を鑑み、その上でみずからが南蛮軍に赴くことが、日の本を南蛮軍の侵略から守るための最善の一手だと確信して書状を記したのである。
 決して、みずからの悲劇に酔って事を決したのではない。


 だが、雲居がここにいるということは、そんな吉継の内心を汲み取ってくれなかったということであろう。雲居がここにきてくれたことに喜びを覚えなかったといったら嘘になるが、現在の情勢はそんな個人の感傷が許されるほど生易しいものではない。吉継はそう考えていたし、それは雲居とて承知しているはずだった。
 余人は知らず、もっとも近しい人物の無理解に直面して、吉継の心に憤りが芽生えたところで不思議はなかったであろう。
 


 だが、その感情は表に出るまえに心のどこかで溶けてしまった。
 そんなことよりも、吉継は能面のような雲居の表情が、何故だかむしょうに気にかかって仕方なかったのである。目の前にいる人物は本当に自分の知る義父なのか、確信が持てなかった。


 吉継の知る雲居筑前という人物は常に余裕を持ち、闊達で、吉継をからかうのが大好きで、長恵とふざけた会話を真面目に交わす困った人。
 その一方で、大友家の名将たちをうならせるほどに優れた知略の冴えを示す人でもある。どうしてそれだけの情報で、あれほどまでに敵の意図を見透かすことが出来るのか――そう驚いたことは一度や二度ではない。今回の南蛮軍襲来を予見した手並みなど、未来を知っているとしか思えない凄まじさであった。


 その雲居筑前が、どうしてこんな顔をするのか。 
 それがわからなかった吉継は、あえて穏やかな口調で、今一度みずからの決意を繰り返すことにした。
「私を通さなければ、連貞殿をはじめ戸次家の将兵は鏖殺され、高千穂は信徒たちによって炎に包まれるでしょう。お義父様はそれをよしとなさるのですか?」
「そうなる前に南蛮の使者をこの場で討ち、その足で高千穂に入ればいい。中崎城の配置は知悉している。連貞殿を助け出し、戸次軍を解放すれば済む話だ」
「南蛮軍との戦いは未だ続いています。様々な紆余曲折があったとはいえ、彼らはお義父様を信じ、その策を受け容れ、南蛮軍と生死を賭けた戦いを繰り広げているのですよ。これから高千穂に赴くということは、その彼らに背を向けるということです。お義父様はそんな不義理な真似をするつもりなのですか? 娘が――私が南蛮軍に捕らえられるから、ただそれだけの理由で?」


 吉継の言葉に、はじめて雲居は表情を動かした。鞭打つような鋭い響きの声が、その口から発せられる。
「それだけ? 十分すぎるほどの理由だろうッ」
「どこが十分なのですか? 島津軍の死者はすでに何百という数です。そして、これからももっと増え続けるでしょう。親を、子を、夫を、友を――かけがえのない人たちを失いながら……そうです、亡くなったのです。怪我をしたのでもなければ、私のように捕らえられるのでもない。それなら、また逢える。また話すこともできる。でも、亡くなった人たちとはもう二度と逢えない。大切な人ともう二度と逢えなくて、それでも必死に戦い続けている人たちに、お義父様はなんと言って背を向けるのです? 娘が捕まるかもしれないから後は任せた、とでもいうつもりですかッ」


 言葉を重ねるうちに、知らず感情が昂ぶっていたらしい。吉継の語気は、雲居をして怯ませるほどの勁烈な響きを帯びていた。
 それに気づき、吉継は小さく息を吐き出し、平静を取り戻す。
 だが、その舌鋒を緩めることはなかった。
「高千穂を取り戻すことが、南蛮軍との戦いにおいて必要なことなのであれば、お義父様がこの地を離れることも一つの手段になるでしょう。けれど、そうではない。お義父様だってわかっているでしょう? これは作戦でも何でもないのです。彼らはただ王の意向にそって行動しただけで、これを退けたところで、南蛮との戦は何一つ好転なんてしないのです。しかも、私が赴けば彼らは兵を退くとはっきり言明している。お義父様が高千穂に行かなければならない理由はどこにもありません」
「……娘を助ける、というのは、人としてこれ以上ないほどの理由だろう」
「その娘が言っているのです。助けは不要だ、と」




 昂然と顔をあげ、雲居を見つめる吉継と。
 決然とした眼差しで、吉継を見つめる雲居と。
 いまや義理の父娘はにらみ合うように対峙していた。
 傍らに控える長恵も。そしてトリスタンもまた、口を挟むことが出来ない。というより、父娘が他者に口を挟ませなかった、というべきかもしれぬ。 



 不意に。
 雲居がわずかに眼差しを緩め、淡い微笑を浮かべた。
 それはやはりいつもの雲居の笑みではなかったが、それでも能面じみた表情よりは、はるかに雲居の内面を良く映した表情だった。
「誇り高く生き抜くために」
 その言葉に、吉継はわずかに驚きの表情を浮かべた。
「そして、この国を守るために――自分が行くのが最善だと思ったんだな」
「……はい。お義父様、覚えて……」
「忘れるわけがないだろう。まあ、今更確認するまでもなく、書状を読んだときにすぐにわかってたんだけどな」
「なら――」
「だが」


 何事か口に仕掛けた吉継の言葉をさえぎるように、雲居は強い口調で言葉をつむぎだす。
 その顔を、たちまち先刻の表情が覆っていった。
「他のことなら知らず、こればかりは吉継の望みどおりにはさせない。たとえお前自身が望まずとも、力づくで引き戻す」
「……その結果として、何が起こるかわかった上で、その言葉を口にされているのですか? 何もかもを救う術などないことは、誰よりもお義父様がおわかりのはずです。そして、もっとも血が流れず、戦に影響を及ぼさない手段が、私が南蛮に赴くことだということも」
「そうだな、何もかもを救うなんて都合の良い結末はない。そんな手段は思い浮かばない。けどな、吉継。だからといって娘を――家族を犠牲に差し出したりはしない」
 雲居はそこで一旦言葉を切ると、ゆっくりと確かめるようにその言葉を口にした。



 ――もう二度と、失いたくなんかないからな。
  


◆◆



 その瞬間、ようやく――本当にようやく、吉継は気づいた。
 能面のようだと感じていた雲居の表情の意味に。
 それと同時に思い出したことがある。
 かつて、吉継は雲居に家族のことを聞いたことがあった。あれは道雪のはからいで、父娘の契りを交わす前夜であったか。
 その時、雲居が吉継と同じように二親と死別したこと、そしてその死に少なからぬ責任があったことを教えてもらったのだ。


 だが、正直、吉継は今日この時まで、そのことを思い出すことはほとんどなかった。何故なら、雲居がそのことを悔やみ、自責の念に苛まれている姿を一度たりとも見たことがなかったからである。
 雲居は二親の死を乗り越えたのだ、と吉継が考えたとしても、何の不思議もなかったであろう。
 いや、実際に乗り越えてはいたはずだ。敬してやまぬ人物に助けられた、と言ったのは雲居自身である。


 だが。
 家族という言葉、その存在に対する雲居の想いは、おそらく本人さえ気づかないほどに深く、深く、心に根ざしていたのだろう。


 ――もう二度と。
 ――決して失わぬ、と。





(ああ、これでは……)
 吉継は思う。理非曲直を説いた言葉で説得など出来るはずはなかった、と。
 そして心底ほっとした。雲居がこの場に現れたことに。その奥底に秘められた、本人さえ気づいていなかったであろう心に触れられたことに。
 

 吉継は歩を進めた。一歩一歩、確かめるようにゆっくりと雲居の下へ歩み寄っていく。
 吉継の突然の行動に怪訝そうに眉をひそめていた雲居の表情が、次の瞬間、一転して驚きに満ちたものに変じた。
 何の前置きもなく、吉継が雲居の身体に手をまわし、抱きしめてきたからである。
「ぬあッ?! ちょ、吉継?!」


 吉継は小柄な体格であり、両手をまわして抱きしめれば、雲居の胸に顔を埋めるような形になる。
 顔をあげれば、戸惑いと驚きをあらわにする雲居の顔が間近に見える。それはたしかに吉継の見慣れた義父の姿であった。
 そのことにほっとすると同時に、こうして抱きしめてみると、これまで気づかなかったものも見えてくる、と吉継は思う。
 雲居の身体は思っていたほど大きくはないのだ。無論、吉継よりは大きいが、それは小柄な吉継が、両手で抱きしめることができるくらいの差しかない。これまでは、吉継が勝手に相手を大きく捉えていただけだったのである。


(父よ娘よと呼び合って、いつかそれに慣れてしまったけれど……考えてみれば、十も離れていないのですよね)
 雲居もまだ若いのだ。身体も心も、円熟に至るにはまだまだ長い時が必要になるのだろう――吉継と同じように。
 そんな当たり前の事実に、吉継は今更ながらに気づく。
「吉継……?」
「お義父様」
「は、はい?」
「言いたいことがたくさんありますが、今は時がありません。ですから必要なことを二つだけ申し上げます」


 時がない、と吉継が口にした瞬間、雲居は表情を翳らせたが、もう吉継は構わなかった。
「まず一つ目ですが、これはお説教です」
「せ、説教?」
「さきほど言ってましたね。家族を犠牲に差し出したりはしない、と」
 確かにそれを口にした雲居は頷かざるを得ない。


 吉継は間近で雲居の顔を見据えながら、表情に険を宿して言葉を発した。
「――いつ、誰が犠牲になるなんて言いました? まさかとは思いますが、私が何の思案もなく、この身の貞操を捧げることで事態を収めようとしている、とか考えていたんですか? もしそうなら、説教ではなく折檻に移らせていただきますよ?」
「い、いや、それは……けど、えーと」
 まさしくそう考えていたのだろう。雲居はあからさまに狼狽した。


 そんな雲居に、吉継はわざとらしくため息を吐いてみせる。
 首筋にその息をあびた雲居の頬が紅潮するのを見て、くすりと微笑んでから吉継は言葉を続けた。
「あなたの娘は、昔話のお姫様ほど可憐でも無力でもありません。大人しくしているとの約定は、ムジカに着くまでのこと。この身を嬲られようと、汚されようと、簡単に屈するものですか。必ず敵の頸木から脱してみせます。ただ……」
 雲居の身体にまわした吉継の両手に力がこもる。
「相手は仮にも一国の中枢に座を占める者たちです。私の思うようにはいかないかもしれません。ですから、その時は――お願いです、私を助けて下さい」


 ――この国を救った、その後で。


「……吉継」
「これが必要なことの二つ目です。他の人にはこんなことは頼めませんが、お義父様にならお願いしても良いですよね」
 まずは南蛮軍を撃ち破れ、と吉継は言う。その間、吉継は吉継で戦い続けるから。
 その上で、もし吉継が負けてしまった時は助けてほしいという。その時は海の上か、ゴアか、南蛮本国か――どこにいるかもわからないけれど。
 他の人にはこんな勝手なことは言えないが、雲居になら、父になら、こんな自分勝手な願いを言っても許されるだろう。許してくれるだろう……


 雲居は深々と、本当に深々とため息をはいた。
 その顔に、明らかな苦笑が浮かぶ。吉継が見慣れた苦笑が。
「負けたりしないから、今は助けなんていらない。でも負けたときは助けてね、というわけか? なんという我がまま、ひどい娘もいたもんだ」
 吉継はくすりと微笑む。
「はい、ひどい娘です」
「ひどいと言いながら、反省の色がないな」
「愛想を尽かしましたか?」
「まさか。ますます手放したくなくなった」


 そう口にしながらも、雲居の眼差しには翳りが見えた。
 雲居は家族を失いたくないと願い、吉継は助けてほしいと願った。
 二人の願いは合わさった形になる。
 ――だが、それは今ではない。
 吉継が言いたいのは、極言すればただそれだけだった。




◆◆


 

 しばし後。
 雲居は吉継を促して、わずかに距離をとると、懐から一本の鉄扇を取り出した。
 これまで吉継が幾度も見かけた、あの鉄扇である。
 雲居は、それを吉継に向かって差し出した。
「お義父様?」
「いつかも言ったが、これは俺にとって大切な人からもらった、大切な物だ。これをもらってからというもの、俺は敗戦を経験したことがない」
 その扇を、雲居は吉継の手に握らせた。
「私に預ける、と?」
「ああ。軍神の霊験あらたかな物だから、必ず吉継の助けになる。下手をすると、俺よりもずっと、な」


 眼差しの哀切な光をごまかすように、雲居はかすかにおどけた仕草をした。
 その雲居と、手に持つ鉄扇を交互に見た吉継は、何事かを考え込むように、すこしだけ眼差しを伏せ――次の瞬間、眼差しをあげるや、鉄扇を一瞬だけ胸中に抱きかかえた後、雲居の手に返したのである。
 驚く雲居に向けて、吉継は小さく微笑んだ。
「お志はありがたくいただきます。けれど、その扇を受け取ることは出来ません。そこに込められた想いは、他の誰にでもなくお義父様に向けられたもの。家族とはいえ、余人がその恩恵に浴しようとすれば、軍神様も怒ってしまうでしょう」
「む、それほど心の狭い方ではないぞ」


 ん、と吉継は内心で首を傾げた。まるで軍神と知己であるかのような雲居の言い方が気になったのだ。
 しかし、今はそんなことを気にしている場合ではない。吉継は言葉を続けた。
「それに、鉄扇は立派な武器です。島津の方なら知らず、南蛮人が私に持つことを許すとは思えません。お預かりしても、彼奴らの手に渡ってしまうでしょう。霊験あらたかな品であるなら尚のこと、お義父様が持っているべきです」
 吉継の言葉は正論であり、雲居も言葉に詰まる。
 だが、これから孤独な戦に赴く娘に対して、せめて何かしたいのである。
 雲居がそう考えていることを察した吉継は、みずから希望を口にすることにした。


「お義父様。南蛮軍に赴く前に、一ついただきたいものがあるのですが」
「なんだ? やれるものならなんでも――」
 やや口早に応じた雲居に対し、吉継は簡潔に口にした。
「名を」
「……なに?」
「お義父様の名前をいただけますか? いつぞや、時が来るまで待っていると言いましたが、気が変わりました。今、教えてください」


 吉継の言葉に、雲居は目を瞬かせる。
 まったく予想だにしないことだったのだろう。
 だが、吉継がきわめて真剣な眼差しであることに気づくと、すぐに表情をあらため、吉継の耳元で小さくみずからの名前を呟いた。



 吉継は舌の上で転がすように、その名を二度、囁いた。
 どこかで聞いた覚えはあったが、すぐにその素性は浮かんでこない。しかし、吉継は気にとめなかった。別に詮索するために名を問うたわけではなかったから。
 雲居筑前が天城颯馬に代わっても、あまり違和感はない。なにせここ半年近く、ずっとお義父様と呼び続けていたのだから、それも当然であろう。
 かわったことと言えば、吉継が父の名を知っているか否かだけ。そして、それこそが吉継にとって重要なことだったのである。







 周囲にたゆたう静寂が、近づく別離の刻を吉継に告げる。
 雲居の表情が硬く強張っているのは、雲居もまたその時が近づいていることを察しているからだろう。
 吉継はその雲居の表情を見て、ふと思い立って両の手を伸ばした。
 吉継の手は、すぐ傍に立っていた雲居の顔を包むように頬に置かれる。
 傍から見れば、まるでこれから接吻でもするかのように見えたかもしれない。雲居が驚いたように口を開きかけたが、その口から言葉が発される前に吉継は行動に移っていた。


 すなわち――
「えい」
 左右の頬をつねったのである。

 
「――ッ?!」
 言葉も出ず(というか頬をつねられていたので出せず)痛みと驚きに目を丸くする雲居の頬を、吉継はしばらくつねり続けた。
 それは雲居に似合わない表情を咎めるようでもあり、硬く強張った義父の表情を――心を解きほぐすようでもあった。




 しばし後。
「心配をしていただけるのは嬉しいですけど、心配のしすぎはよくありません。私に心を残して、南蛮軍との戦に不覚をとった、なんてことにならないようにしてくださいね」
「承知した」
 吉継の言葉に頷きながら、雲居は痛そうに頬をさする。
 それを見て、さすがに少しやりすぎたと思ったのか、吉継は心配そうに雲居の頬に手をあてた。はっきりと赤くなっている頬から、熱が伝わってくる。
「すみません、少し強すぎましたか」
「ああっと、まあ弱くはなかったな。でもまあ、戒めにはちょうど良いかもしれん。戦で気が逸れそうになった時には、この痛みを思い出すことにするさ」

  

 言葉が途絶える。
 頬に置かれた手の感触。手から伝わる頬の熱だけが雲居と吉継をつなぎとめ。
 やがて、吉継の口から、別離の言葉が放たれた。


「お義父様――御武運を、お祈りしております」
「…………ああ。吉継、も……」
 ぎり、と。一瞬だけ、雲居の口から歯軋りの音がこぼれる。
 しかし、内心の憤懣に囚われている暇はない。雲居は、無理やり声を絞り出した。
「すぐに……南蛮軍を片付けたら、すぐに行く。それまで、待っていてくれ」


 その言葉に微笑んで頷いた吉継は、頬から手を離すと、そのまま雲居の傍らを通り抜けていく。
 背を向け合う二人。吉継は振り返らない。雲居もまた振り返らない。振り返れば、耐えられないことがわかっていたから。


 互いの肩がかすかに揺れるのを隠すように、月は再び雲間に隠れ、周囲を闇が包み込んでいった。
   







◆◆◆







   
 トリスタンは父娘の会話を聞いていた。
 二人はことさら声を潜めてはいなかったから、聞き耳をたてる必要もなかったのだ。
 その内容は南蛮軍にとっては看過できないものであったが、トリスタンはあえて口を挟みはしなかった。
 それは口を挟む隙がなかったためであるが、トリスタン自身に口を挟む意思がなかったからでもある。
 この時、この場において、南蛮人であるトリスタンが端役に過ぎないことは誰に言われるまでもなく理解していた。


 だからこそ。
「南蛮の騎士殿」
 雲居から声がかけられた時、トリスタンは驚きを禁じえなかった。
 幸い、その表情は頭巾のうちに隠れて、雲居の目に触れることはなかったが、発した声にはかすかな驚きの余韻が漂っていたかもしれない。
「……何か?」
「吉継が書状に記したトリスタン殿、というのはあなたでよろしいか?」
 こくり、とトリスタンは頷いてみせる。
 言葉にしなかったのは、相手の意図が読めなかったためだ。こちらの戸惑いを察すれば、向こうに乗じる隙を与えてしまうかもしれない。そう考えたのである。


「ならば礼を申し上げる」
「……不思議なことを言いますね。貴殿に礼を言われる筋合いはありませんが」
「貴女の主の為人は知りませんが、此度のやり方を見ていれば推測はできます。今回の件で、連貞殿をあえて生かして捕らえよ、などと命じるような人物ではないでしょう。吉継が素直に従えば、戸次勢を解放し、高千穂にも手を出すな、などと命じるとも思えない。むしろまったく逆のことを言ったのではありませんか?」


 その言葉にトリスタンは沈黙で応じた。
 雲居にしても、別に答えを求めていたわけではなかったのだろう。大して気にもせず言葉を続けた。
「であれば、今回の差配は貴女の一存ということになる。この国の民の流れる血を少なくしてくれた貴女に、礼を申し上げたかったのです」
「……皮肉なのか、本心なのか。たとえ本心だとしても、私が貴殿らを欺いている可能性を考慮しないのですか?」
「偽りであったのなら、それはこちらに見る目がなかったというだけのこと。是非もありません」



 そう言って肩をすくめる雲居の姿に、トリスタンは警戒に満ちた視線を向ける。
 雲居の意図が今もってわからない――それは確かにある。だが、それ以上に、別の何かがトリスタンの警戒心を刺激してやまなかった。
 それが何か掴めないうちに、トリスタンは何者かに急かされるように、知らず口を開いていた。
「それを口にする貴殿の目的は何ですか?」
「貴女の行動に対する礼として、忠告をしてさしあげようと思いました」
「忠告?」
「はい、忠告を」



 月が隠れた今、あたりの闇夜を照らすのは南蛮宗徒たちが掲げる松明の頼りない明かりだけである。
 その中におぼろに浮かぶ雲居筑前の姿。
 刀も差さぬ無防備な姿で、ただ言葉を紡いでいた雲居が、手に持つ扇を此方に向けた――その瞬間。



 トリスタンの視界の中で、不意に闇が牙を剥いた。
 あたりを包む闇夜に満ちる濃密な気配。まるで周囲すべてを敵兵に取り囲まれたかのような、その圧力にトリスタンは息を呑む。
 それはトリスタンの錯覚ではなかった。トリスタンの近くにいた信徒たちの口から、かすかな悲鳴が漏れ聞こえる。


 そんな相手の様子にかまうことなく、雲居の口から声が発される。
「俺は貴様らを叩き潰す。今いる将兵も、これから来る艦隊も、すべてを叩き潰し、燃やし尽くして娘を迎えに行く。だが、もし――もしも、その時に貴様らの穢れた手が吉継に触れていたら、燃え上がるのは貴様らだけではないと知れ。貴様らも、貴様らの王も、友も、民も、兵も、宣教師も、ゴアも、本国も、神も、ことごとく灰燼に帰してやる」


 それはひどく穏やかで、だからこそあまりにも濃密な敵意が直に感じられる言葉だった。
 いっそ激語であれば、まだ耳にした者たちの衝撃は小さくて済んだかもしれない。
 だが、闇夜にあってなお明晰さを保つ言葉は、それを聞く者たちにはっきりと示していた。
 可能か否かは知らず。
 その言葉を口にした者がまぎれもない本気であることを。




「敵国の民を案じる心があるならば、より以上に自国の民を案じるだろう。気をつけろ、騎士殿。吉継から決して目を離すな。それが、忠告だ」
 雲居はそう言うと、長恵を促して歩き出した。
 吉継とは反対の方向――薩摩の国の方角へ。
 トリスタンは、横を通り過ぎる雲居を止めようとはしなかった。無論、斬ろうともしなかった。
 ただ、去り行くその背に、一つだけ問いを向けた。
「――できると思っているのですか?」


 その声に雲居は足を止め、顔だけをトリスタンに向ける。
 言葉は発されなかった。発する必要もなかった。言葉よりもはるかに雄弁に、その眼差しが――火群のごとく燃え盛るその瞳が、雲居の答えを語っていたからであった。
  









 そして。
「長恵」
「はい、師兄」
「……冗談ではなく、死ぬほどこき使うことになると思うが、ち――」
 雲居の言葉を、長恵はあっさりとさえぎった。
「力を貸してもらえるか、などとおっしゃらないでくださいね。そもそものはじめに申し上げたはずです。随身する以上、いかような命令でも果たしてみせる、と。まして此度の戦は、国を救い、姫様を守るためのもの。参じない理由がありません」


 そう言って、長恵は真摯な眼差しで雲居を見つめる。
「――この身は御身の剣として、付き従いましょう。お師様をして、遠く及ばぬと言わしめたその力を発揮するため、どうぞ存分にこき使ってくださいませ、師兄」
「――ありがとう」
 交わされた言葉は、ただそれだけ。
 それ以後、彼らは城に着くまで互いに無言であった。


 そうして、二人が城に帰着して数日後。
 島津軍は着実に南蛮軍を追い詰め、その戦力を削ぎ落としていった。
 薩摩各地から集まる援軍も日に日に増え続け、すでに陸の上の兵力では島津軍が南蛮軍を上回っている。
 島津軍を率いる島津歳久、家久の両姫は今こそ南蛮軍を薩摩の地から追い落とす時と判断し、麾下の全軍に出撃を命じる。
 その命令を受け、勝利は目の前と沸き立つ島津軍。
 そして、そんな島津軍を討ち滅ぼすべく、南蛮軍第三艦隊も刻一刻と薩摩に近づきつつある。


 決戦の刻はもうすぐそこまで迫っていた。





[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第八章 火群(四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:cd1edaa7
Date: 2011/03/14 20:49

 第一次南蛮戦争――またの名を錦江湾の戦い。
 島津軍と南蛮軍との決戦は、後にそう記されることになる。
 しかし、前者はともかく後者の名称に関しては若干事実とは異なった。両軍の戦いは錦江湾――海だけでなく、内城やその城下をはじめとした陸地でも激しく行われたからである。


 この決戦の火蓋が切られたのは、その陸においてであった。
 刻は黎明。処は内城。東の空が明るみ、この日最初の陽光が錦江湾を照らした、まさにその瞬間、島津軍の銃火が城に立てこもる南蛮軍に向けて咆哮を発したのである。
 これに対し、城内の南蛮軍も筒先を揃えた一斉射撃で反撃を行った。
 陽光が闇夜を払い、銃声が静寂を破る。奔騰する戦意は喊声となって迸り、もう幾度目のことか、薩摩の大地は日本と南蛮、二つの国の人血を浴びることになったのである。


 この時の両軍の配置を見れば、南蛮軍は陸戦兵力千三百をもって城に篭り、十八隻の艦隊を港近くに展開させ、砲門を城の方角へと向けていた。
 指揮官であるニコライ・コエルホの作戦は、島津軍が城に攻め寄せるならば、城内から反撃を加えつつ、港からの艦砲射撃でその側面を襲う、というものであった。
 逆に島津軍が艦隊の方に矛先を向けるのであれば、艦隊は沖合いに避難しつつこれに砲撃を加え、城内の兵は突出して島津軍の後背を衝いて海に叩き落とせば良い。


 これは奇策でも何でもない。多少なりとも兵を率いた経験があれば、ニコライと同じ戦法を考え付くことは容易いだろう。
 ましてこの時、島津軍を率いるのは島津家久である。ニコライの狙いを察しないはずがなかった。
 家久は城内に立てこもる南蛮軍に対し、兵力を西門に集中させた。島津軍が西門に攻めかかれば、城自体が障害となって、東の湾内に展開している艦隊は援護射撃を行えない。城の上を通り越して正確に島津軍を狙う、などという曲芸じみた真似が不可能である以上、艦隊は遊兵とならざるを得ないのである。


 だが、家久がニコライを読んだように、ニコライも家久を読んでいた。より正確に言えば、島津軍にこの戦法を採らせることこそニコライの目的だったのである。
 攻め手が西門に集中するということは、守り手もそちらに兵力を集中できるということである。
 島津軍の兵力は各地から駆けつけた援兵をあわせ、この時点で二千を越えており、南蛮軍を凌駕している。しかし、城という拠点を得ている以上、戦局は五分と五分――否、むしろ南蛮軍の方が有利といって差し支えあるまい。
 まして西からしか攻めてこないとわかっているのだ。いかに島津軍が勇猛であっても、これを撃退することは不可能ではない。
 しかもこの時、南蛮軍の目的は島津軍の撃退ではなく、ただの時間稼ぎであった。間もなく姿をあらわすであろう主力艦隊――ドアルテ・ペレイラ率いる精鋭が参戦するまで耐え抜けば、おのずと勝利は南蛮軍の手に転がり込んでくるのである。
 ニコライが迫り来る敵軍の猛攻を前に、むしろ余裕さえもって対処することが出来たのはその事実ゆえであった。



 時間稼ぎを目的としたニコライの作戦は、決して間違ってはいなかったろう。
 だが、戦況はニコライの思い通りには進まなかった。ニコライ麾下の南蛮軍将兵の動きが、予想以上に重かったからである。
 南蛮兵にしてみれば、今日までの連戦で犠牲と疲労は蓄積しており、しかも何の成果も出せていない。勝てるはずの敵に負け、負けるはずのない戦に勝てず、無様に城にこもって援軍を待つ。みずからを神の使徒と任じる彼らにとって、徒労感は耐え難いものがあった。


 いかに指揮官であるニコライが必勝を説いたとしても、これまでの敗戦が彼らの記憶から消え去るわけではない。また負けるのではないか、との思いを、特に下級の兵士たちは禁じえなかった。
 ニコライにとって、みずからの指揮に将兵が追随してこれないことは誤算であった。
 確固たる勝算を示しさえすれば、敗戦で落ち込んだ兵の士気は回復すると踏んでいたニコライであったが、打ち続いた敗戦は予測以上に兵の心を蝕んでいたのである。敗戦を知らぬ将と兵は、それゆえに敗戦から立ち直る術を知らなかった。


 それでも敵が攻めてくる以上は戦わざるを得ない。
 降伏など論外であるし、仮に降伏したとしても、相手は神の存在を理解できぬ蛮族ども。まとめて首を切られて終わりだろう。
 そう考えるゆえに、彼らは傷ついた手で武器をとり、重苦しい心を奮い起こして敵に立ち向かっていったのである。


 しかし、やはりその足は重く、動きは鈍い。
 ニコライがいかに戦況に即した指示を送っても、兵がそのとおりに動けなければ意味はない。むしろ、その動きによって味方同士の連携が崩れてしまう分、有害ですらあった。
 上と下、南蛮軍の指揮官と兵士の不調和によって生じた混乱は、すなわち島津軍にとっては乗ずべき隙である。
 戦闘開始からおよそ一刻後、家久率いる島津軍は西門を突破する。
 これに対し、ニコライはなお本丸に立てこもって抗戦しようとしたが、島津軍にとっては勝手知ったる城の中である。その展開の速さはとうてい南蛮軍の及ぶところではなく、南蛮軍は城内の各処で分断されては各個撃破されていった。




 湾内で砲門を城に向けていた艦隊の砲手は、東門から味方の将兵が溢れるように押し出される光景を見て、驚きのあまり声を失った。
 戦況が芳しくないことは、城内から立ち上る火の手を見てわかっていたが、まさか隊列を組むこともできず、一方的に自軍が押されているとは予想だにしなかったのだ。
 とはいえ、砲手たちが自失していたのは一時のこと。逃げ崩れる味方を援護しようと、彼らは飛びつくように砲に取り付いたのだが、すぐにその口からは焦慮と狼狽の声がこぼれでた。


 彼らの視線の先では、島津軍が逃げ崩れる南蛮兵の後尾に食らい付き、両軍が入り乱れるように港になだれ込もうとしていた。
 島津軍に砲撃を加えようとすれば、自軍にも被害が及ぶ可能性が高い。否、ほぼ確実に巻き込むだろう。
 元々、大砲は精緻に狙いを定める類の火器ではない。入り乱れる敵味方の将兵を前に、巧妙に敵だけを狙い打つような技は、いかに訓練を受けた砲兵たちであっても持ち得ないものであった。


 いまや島津軍の狙いは南蛮軍の目にも明らかであった。
 混戦を維持したまま港に迫れば、海上からの攻撃をためらわせることが出来る。
 艦隊が味方を収容しようとすれば、それに乗じて船に切り込む。彼らが味方を見捨てる決断をしたならば、そのまま南蛮兵を冬の海に叩き落とす。無論、叩き落とした後は、一転して敵軍の砲火に晒されることになるのだが、島津軍の将兵は城下の構造を知悉している。分散して撤退すれば、致命的な損害を被ることはないだろう。


 この時、ニコライ・コエルホは南蛮軍の後尾にあって、島津軍の猛追を必死に防ぎとめている最中であり、各船の船長らは指揮官を置きざりにして撤退する決断を下すことが出来ずにいた。
 ここにおいて、勝敗の秤は一方の側に大きく傾いたように思われた。
 しかし。
 次の瞬間、天地を震わせる砲撃音が鳴り響き、島津軍、南蛮軍が入り乱れて矛を交える戦場に鋼鉄の雨が降り注いだことで、戦況は再び混沌としはじめる。


 無論、この砲撃は南蛮艦隊からのものであった。これにより島津軍の勢いは明らかに鈍り、各処で混乱が生じた。まさか味方もろとも撃ってくるとは、との驚きがあらわであった。
 この時、南蛮軍が一斉に矛先を揃えて逆撃に転じれば、あるいは島津軍を撃ち破ることが出来たかもしれない。
 しかし、突然の砲撃による動揺と混乱は、島津軍のみならず南蛮軍をも飲み込んでいた。あるいは混乱は南蛮軍の方がより深刻であったかもしれない。島津軍は敵の砲撃に晒されているのだが、南蛮軍は味方の砲弾が頭上から降り注ぐ戦況なのだ。その戦況で、なお平静を保てる兵士はほとんどいなかった。




 味方の損害覚悟で島津軍を撃ち破る――否、むしろこの程度の敵に苦戦し、神の栄光を汚す惰弱な僚軍など、敵もろとも葬り去ってくれる。
 そんな苛烈に過ぎる意思を感じ取り、指揮官であるニコライの背に氷片がすべりおちた。
 同時に、ニコライはこの砲撃が自分の麾下の艦隊によるものではないことを瞬時に悟る。それはすなわちニコライが待ち望んでいた援軍の到着を意味するのだが、その到着は安堵ではなく戦慄をともなった。
 この砲撃を実行した指揮官の為人を知るニコライは本気で思ったのだ。これ以上、この場でまごまごしていると、冗談でなく僚軍に粉砕されてしまいかねない、と。


 幸い――というのも妙な話だが――島津軍は味方もろとも砲撃してきた南蛮軍のやり方に戸惑いを見せている。
 ……いや、それだけではないかもしれない。敵将兵の目には、いまや戸惑いを凌駕する驚愕と恐怖が浮かびあがりつつあった。
 彼らの目にも、波を蹴立てて接近してくる新たな艦隊の姿が映し出されたのであろう。
 その数が眼前の南蛮軍の何倍にも達する規模であることも理解できたはずだ。これまで必死に戦ってきた相手がただの先遣隊であるとわかれば、いかに勇猛な軍といえど動揺を禁じえまい。
 今ならば、南蛮軍が背を向けて逃げ出しても彼らは追ってこれないだろう。


 あるいは先の容赦ない砲撃は、この状況を生み出す目的もあったのだろうか。
 ニコライはそんなことを考えつつ、うろたえ騒ぐ兵を叱咤して、港で待つ艦隊と合流すべく後退を開始したのである。
    







 この時、海上に姿を見せたのはロレンソ・デ・アルメイダ率いる無傷の南蛮船二十隻であった。
 その後方には元帥ドアルテ率いる三十隻、さらに後ろにはガルシア率いる二十隻が接近しており、これらすべての船の陸戦兵力を上陸させれば、一万を越える軍勢が出来上がる。
 当初、ニコライが率いていた兵力の三倍以上。しかも、当然、この一万は未だ無傷にして無敗、士気軒昂たる南蛮軍の精鋭である。幾多の策を弄し、ようやく南蛮軍を追い詰めようとしていた島津軍にとって、あまりにも予想外の援軍であるはずだった。


 もっとも、ロレンソは後続の到着を待っているような悠長なことはしなかった。陸の様子を見て、たちまち戦況を察するや、迷う素振りも見せずに砲撃を命じたのである。
 半ば無理やり敵味方の陣列を引き裂いたロレンソは、そのまま麾下の艦隊を港に寄せると、自ら率先して異国の大地に降り立った。
 上陸するや、わずかの遅滞もなく隊形を整え、兵を展開する手腕は水際だったもので、その一事だけでもロレンソの指揮官としての能力を知るには十分であったろう。

 
 港に堅陣をつくりあげたロレンソは、ニコライ麾下の敗兵を吸収しつつ、島津軍の動向に目を向けた。
 損害覚悟で押し寄せてくるようならば、テルシオによってはじき返す。鉄砲の運用に妙があるとニコライは報告してきたが、重装兵の展開が難しい山中であればともかく、港のような開けた場所で悠長に漸進射撃などさせるつもりはなかった。
 距離を置いて対峙してくるようなら、遠慮なく海からの砲撃で壊滅させる。
 かなわじと見て逃げ出すなら、やはりその背に向けて砲撃を放つ。


 島津軍は逃げ出した。突撃しても、あるいは対峙しても勝てない相手なら逃げ出すしかない。その判断の早さは、ロレンソをして「ほう」と驚きの声を発させるほどであった。
 しかし、逃げ出したところで戦況が好転するわけではない。急速に後退していく島津軍に向けて、ロレンソは全艦隊に砲撃を命じる。今回はニコライ麾下の艦隊が躊躇する理由もなく、僚軍に追随した。


 圧倒的なまでの砲火を浴びながら、此方に背を向けて逃げ出す敵軍の姿を見て、ロレンソはどこか見る者の心を冷たくする微笑を口元に浮かべる。
 この時点で、ロレンソは勝敗の天秤が完璧に自軍に傾いたことを確信していた。別に喜びはない。勝って当然の相手に勝っただけなのだから。ロレンソが冷笑を向けたのは、この程度の敵相手に慎重論を唱えた忌々しい僚将に対してであった。

 
 その僚将――ガルシアは千里眼ではなかったから、ロレンソが此方に冷笑を向けていることを知るよしもない。仮に知ったとしても、肩をすくめるだけで済ませたと思われる。
 この時、ガルシアが気にしていたのは、僚将の心の動きではなく、この海域の潮の方であったから。




◆◆◆




 
「どうみる?」
「厄介というほどではないけれど――という感じですね」
 ガルシアの問いに、副長を務める人物はそう答えた。
「潮流の速さはたいした問題にはなりませんが、所々で面倒な動きを見せてますね。とくにあの島あたりでは」
 そういって副長が指さしたのは、湾内に浮かぶ巨大な島であった。


 とはいえ、と副長は船長そっくりの仕草で肩をすくめる。
「艦隊の動きを乱すほど厄介なものじゃありませんよ。コエルホ提督やアルメイダ提督の船が出来たんです。俺らに出来ないわけはありませんて」
 ガルシアはそれを聞き、にやりと精悍な笑みを浮かべる。
「ほう、頼もしいな」
「どうせ隊長だってそう思ってるんでしょうが。ま、念には念を、と隊長が考えているのはわかってますがね。まったく、宣教師どもが海のことをもっと詳しく調べてくりゃ、こんな面倒なことはしないで済むってのに」
「えせ神父や熱血修道女がそんな細かいことに気を回すわけないだろうが。仮に回したところで、海を知らない連中の情報なぞあてにならんよ」
「確かに、それはその通りなんですがね」
 ガルシアの言い回しに、副長は思わずという感じで笑みをもらした。
 南蛮軍のすべてが聖戦に意義を感じているわけではない。ことにガルシアの船は、船長であるガルシア自身をはじめ傭兵からの叩き上げの兵が多く、宣教師たちが事あるごとに戦の火種を持ち込んでくることを苦々しく思っていたのである。


 その時、ふとガルシアが何かに気づいたように口を開いた。
「それと『隊長』はいいかげんやめられないものか? もう俺もお前も傭兵じゃないんだぞ」
「おや、それでは『南蛮軍にその名も高き偉大なるノローニャ提督閣下』とお呼びすべきですか? 承知いたしました。この船に乗っている全員にただちに伝え――」
「ああ、わかったわかった。隊長でかまわん」
 わざとらしく敬礼する部下に、ガルシアはうんざりしたように右手を左右に振る。

   
 その姿を見て、副長が何事か口にしかけた時だった。
 甲板にたたずむ二人の耳が、遠方で響く砲声をとらえた。先鋒のロレンソの部隊が接敵したのだろう。
「始まったようですね。この国にとっては終わりの始まり、というやつですか」
「さて、そうなれば俺たちにとってはめでたしめでたしなんだが……」
 めずらしく洒落た言い回しが成功して、どこか得意げな様子の副長に対し、ガルシアは苦笑まじりに応じる。


 その様子を見て、副長は小さく首を傾げた。
「そううまくはいかないとお考えで?」
「ああ。だが、今回の相手はどうもよくわからんからな。ただの考えすぎかもしれんが……ま、もうじき答えは出る」
 そう言ったガルシアは砲声轟く前方ではなく、穏やかな海面が広がる後方を見据えた。まるで、そちらから何者かが襲来してくるのを待っているかのように。


 ガルシアは思う。
 もしも、島津とやらが今回の南蛮艦隊襲来を予見していたのだとしたら。
(俺が連中なら、ここで叩く)
 今、ガルシアら南蛮艦隊は、薩摩本土と湾内に浮かぶ桜島に挟まれた海域に侵入している。
 地理的に見て、敵の本拠地である内城を制圧するためには、ここに侵入するのがもっとも効率的であり、現にニコライもそのようにした。
 相手から見れば、南蛮艦隊がこの海域に攻め寄せてくることが高い確度で予測できるのである。仕掛ける場所としては絶好の位置だろう。


 それと承知してなお、ガルシアやドアルテらが艦隊を進めた理由は、大別して二つ。
 一つは、敵に南蛮艦隊とまともに戦える海戦能力がないと推定されるからである。つまりは、そもそもこの海域での奇襲はほぼ確実にない、と南蛮軍首脳は考えていたのである。実際のところ、ガルシアもこの考えに与していた。
 ガルシアの考えは一見して矛盾しているように見えるが、実際はそうではない。
 来るならばここだろう。そう考えてはいても、必ず来る、と考えているわけではない。いってみれば、万一に備えて警戒しているだけのことだった。


 無論、そう考えるにいたった理由は存在する。
 敵に備えがあるならば、ニコライが攻め寄せてきた時に動かなかった理由が説明できないのだ。
 島津軍は南蛮軍の戦力を知らない。彼らにとっては、ニコライ麾下の戦力でも十分すぎるほどに脅威だったはずであり、湾内に侵入してきたニコライの艦隊を見た瞬間「少なすぎる」と判断して、後続の本隊に備えて静観を保つ、などという決断ができるはずはないのである。



 副長は目を瞬かせた。
「そうお考えなら、あるはずのない奇襲なんて別に気にする必要はないでしょうに」
「まあ、な。だが、こういう考えも出来る。つまり坊やの艦隊を見た敵はこう判断するわけだ。『これが敵の全力なら、陸にひきずりこめば勝てる』とな。船の大きさを見れば、乗ってる兵力も大体推測できるだろう。連中にとったら、俺たちの総兵力はわからない。目の前にいるのがすべてかもしれないし、後続に主力部隊が控えているかもしれない。もし、陸に引き込んでも勝てないような相手だったら動かざるを得なかっただろうが、そうじゃなかった」
 だから、あえて海では戦いを挑まなかった。
 陸に引きずり込めば勝てるなら、そうすれば良い。あせって虎の子の海戦兵力を投入して、たとえ眼前の艦隊を撃ち破ったとしても、その後ろから主力部隊が攻め込んでくれば、もう成す術がなくなってしまう。


「万一、陸で手間取るようなら、坊やが上陸した後にその後背から襲い掛かることも出来るしな。どうだ、この考えは?」
「どうだも何も、明らかに考えすぎでしょ。敵さんを過大評価しすぎですよ。ま、戦ったことのない相手を過小評価するよりゃましでしょうけど、正直、どっちもどっちですわ」
「……だよなあ」
 副長のあきれかえった視線と指摘を受け、ガルシアは乱暴に頭をかいた。
 ガルシア自身、考えすぎだとは思うのだ。だが、己の中の何かが囁きかけてくるのである。油断するな、と。


 そんな上官の様子を間近で眺めながら、副長はやや表情を改めた。
 智将として知られるガルシアではあるが、実のところ戦場における勘の良さにもぬきんでたものを持っている。
 理詰めで戦いながら、いざという時は理を越えたところで勝機を掴む。血統や財産と縁のない傭兵上がりが、この若さで一軍を率いることができる立場まで成り上がれたのは、ひとえに武人としては特異なその在りように求められた。


 誰よりもそのことを良く知る副長は、ガルシアの煩悶を等閑にはしなかった。
「ですが、気になるなら備えておいた方が良いのでは、隊長。それこそ万が一ということもないわけではないでしょう」
 その副長の問いに対し、ガルシアはかぶりを振った。
 それはガルシアが罠の存在を疑いながらも、平然と艦隊を進めた二つ目の理由と重なる。


 南蛮艦隊が侵入した薩摩と桜島に挟まれた海域は、決して狭隘な海峡ではない。ガルシアやドアルテが麾下の艦隊を横一列に並べても、余裕をもって通過することが出来るだけの幅があり、軍艦が通過するための十分な水深もある。潮流も案じていたほど複雑なものではなかった。
 つまり、南蛮艦隊にとって、たとえ敵の奇襲を受けても十分に対処できる戦場なのである。


 無論、油断はできぬ。
 敵の奇襲に対処できるとはいえ、やはりさえぎるものとてない大海原とは違い、艦隊行動の自由度は大きく損なわれるし、未知の潮、風の動きは時に熟練の南蛮水兵をして戸惑いを覚えさせるものであった。
 だが、いってしまえばそれだけのこと。あるかどうかもわからない敵の罠に怯え、他方から上陸するなど論外だし、なにより敵に戦力が残っているのなら、今のうちに叩き潰しておくべきであった。


 伏兵はおそらくない。だが、もしあった場合、ここで下手に警戒してしまえば、その戦力が温存され、後々厄介事の種になるかもしれない。
 であれば、あえて傲然と進み、敵を暗がりから引きずり出してやれば良い。それが南蛮軍の結論だったのである。





 その説明を聞き、なんとまあ、と副長は小さくため息を吐いた。
 提督ともなれば、気楽な傭兵時代のようにはいかないことはとうに承知していたが、艦隊一つ進めるだけでも、ここまであれこれと考えねばならないのか。
 やはり自分はいいとこ副長どまりの人間なのだな、とひとり内心で頷いていた副長の目が、視界の端に奇妙な黒点を捉えた。


 それは南の方角――すなわち南蛮艦隊が進んできた方角からあらわれた。
 穏やかな海面を黒々とした物体が埋めていく様は、晴れ渡った夏の空を黒雲が覆っていく様に似ていたかもしれぬ。黒く蠢く地上の雲が、一直線に此方へ向かって突っ込んでくる敵の船であることは明らかであった。
 おそらく、何処かの海岸に伏せていた船が、南蛮艦隊の通過を確認して動き出したのだろう。


 この時、副長の顔に浮かんだ表情は、苦笑ではなかったが、限りなくそれに近いものだった。
 そこにはガルシアの勘の良さに対するあきれ混じりの感嘆があり、南蛮船に比して粗末きわまりない敵船に対する憫笑があった。おそらく軍船だけでは足りず、漁船から何からかき集めてきたのだろう。数だけはたいしたものだが、副長はその軍容に対して一片の脅威も感じなかった。
「……隊長、相変わらず見事な勘ですが、敵があれでは取り越し苦労でしたね」


 副長の軽口に、しかし、ガルシアは応じようとしなかった。
 敵軍を見つめる眼差しには、長年、その下で働く副長さえ滅多に見たことがない真剣な光が浮かんでいた。





[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第八章 火群(五)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:cd1edaa7
Date: 2011/03/16 23:27

 薩摩に攻め寄せた南蛮艦隊は、船体の大きさや人員の数に差異はあったが、そのすべてが帆船である、という一点で共通していた。
 帆船は、たとえばガレー船のように大量の漕ぎ手を必要とせず、その分、ガレー船よりも多くの物資を積載できるという利点を有する。南蛮の商船などは余剰の空間に大量の商品を載せるのだが、軍船はここに大砲や火薬、あるいは糧食といった軍需物資を詰め込んで海に出るのである。
 また、この時代、漕ぎ手は主に捕虜や囚人で構成されていた。遠征の際、指揮官は彼らの反乱や、あるいは不衛生な環境から生じる疫病の発生に神経を尖らせてきたのだが、帆船はそういった問題を過去のものとすることが出来た。
 なおかつ、長い航海や激しい海戦に備えて多量の物資を積み込むことが出来るのである。近海の戦いならば知らず、大海を越えて他国を征する軍船としてはどちらが優れているかは瞭然としていた。


 無論、帆船にも欠点は存在する。特に軍船として厄介なのは、帆に風を受けることで航行する帆船は、ガレー船のような自力航行が出来ないという点であった。風がなければ船は動かず、ただ波間に漂うことしか出来ないのである。敵軍と相対した時、動かない船など標的以外の何物でもないだろう。
 とはいえ、海の上で完全な無風状態になること――しかもちょうど海戦の時にその状態になることなど滅多にない。
 この時も錦江湾には風が吹いていた。そして熟練した船乗りであれば、わずかな風をとらえて船を動かすなど容易いことである。
 迫り来る島津水軍を前に、ガルシア麾下の南蛮艦隊はすばやく戦闘隊形をとるために動き出す。その反応の速さと、整然とした艦隊行動は、南蛮艦隊の高い錬度を眼前の敵に存分に知らしめるものであった。





 南蛮艦隊のすばやい展開を目の当たりにして、島津軍の胸中に不安のさざ波が立たなかったといえば嘘になってしまうだろう。
 しかし、たとえそうだとしても、その船足が鈍ることは決してなかった。
 島津軍は南蛮艦隊と異なり、その兵船のほとんどが漕ぎ手を必要とする。かき集められた漁舟や小早(こはや 小型の軍船)にも島津の水兵や、あるいは志願して参加した漁師(といってもそのほとんどが戦を経験した兵なのだが)らが乗り込み、彼らは全力で櫂を漕いで南蛮艦隊に突っ込んでいった。


 南蛮軍がこれを黙ってみている理由はない。舷側に並べられた砲門が次々に火を吹き、迫る敵船の列を穿とうと試みる。
 しかし、島津軍の兵船は南蛮船に比して小型であり、容易にこれを捉えることは出来なかった。
 無論、島津軍がまったくの無傷であったわけではない。たとえ直撃を食らわなかったとしても、至近に着弾すれば、小さい船なら転覆してしまうほどの衝撃をうみだすのだ。島津の軍船が密集して進んでいることもあって、降り注ぐ砲弾の雨の中、島津の船列は各処で綻びていった。


 だが、島津軍は空いた隙間をすぐに後続の舟が塞ぎ、なおも猛然と前進を続けた。
 先遣隊を率いるニコライ・コエルホが幾度も目にした、犠牲を恐れぬ島津軍の勇猛さ。その一端をガルシア麾下の将兵は初めて目の当たりにしたのである。
 南蛮軍は敵の無謀ともいえる勇敢さに目を見張ったが、だからといって恐れたりはしなかった。あるいは恐れたとしても、それを表情に出したりはしなかった。


 この時、各船長は甲板上に所狭しと鉄砲部隊を展開し、島津軍が射程距離に近づいたならば、一気にこれを撃滅せんと待ち構えていた。
 この光景は当然のように島津軍の目にも映った。船縁に居並ぶ鉄砲隊の姿を見れば、南蛮軍の狙いは明らかである。不用意に近づけば、たちまちのうちに致命的な損害を被るだろう。
 ――だが。
 それと承知してなお島津軍は前進しなければならなかった。何故なら、大砲を持たない島津水軍にとって、海戦とは敵の船と接舷して斬り合うことを意味するからである。近づかなければ、戦うことさえ出来ない以上、たとえ鉄砲隊の砲口が待ち構えているとわかっていても、船を進めざるを得ないのだ。
 南蛮軍は宣教師らの情報でそのことを知っている。それゆえの配置であった。




 しかし。
 間もなく鉄砲の射程範囲に到達する、という距離まで来るや、島津軍は南蛮軍の予期せぬ行動に移る。
 なんと、みずからの船に火を放ったのである。
 島津軍――ことに前面に位置する小舟の多くは、あらかじめ柴や枯れ草などを敷き詰め、これに油を染み込ませていた。頃はよしと一斉に放たれた火は、たちまちのうちに船体を包む猛火に変じ、海上に炎の壁を築き上げる。
 島津軍はこれを潮の流れに乗せ、一挙に南蛮艦隊に向けて叩きつけたのである。




 改めて言うまでもなく、木材でつくられた船に火は大敵である。それは南蛮だろうが日本だろうがかわらない。
 ゆえに迫り来る炎の塊を見た南蛮艦隊は大混乱に陥った――かと思えば、そんなことはなかった。
 確かに船にとって火は大敵であるが、それがわかっていれば備えることも出来る。
 もとより南蛮の軍船は敵と戦い、大砲を撃ち合うことを想定してつくられた戦船であり、くわえて、大海を越えるために様々な補強がなされている。当然、火に対する備えもそこに含まれていた。


 鉄で覆うような破天荒な改良をしたわけではないので、完璧に火攻めを防げるわけではないのだが、少なくとも、柴を詰め込んだだけの小船にぶつかられた程度で沈没してしまうような船は、南蛮艦隊には一隻たりとも存在しない。
 事実、南蛮艦隊に接触した島津軍の火船は、その船体をわずかに焼いた程度で、与えた損傷は微々たるものでしかなかった。南蛮艦隊の健在ぶりを見れば、いっそまったく無傷であった、と表現しても良いと思われるほどであった。 





 艦隊の将兵は自船の頑強さを誇り、それ以上に敵の稚拙な攻めを嘲った。
 南蛮船に匹敵するほどの巨船を火船に仕立て、それをぶつけてくるというならまだしも、そこらの漁師が扱うような小船に火を付けた程度で、南蛮技術の粋たる軍船と対等に戦えると考えているのか、と。
 もしそうだとすれば、敵の幼稚さには軽侮を通り越して哀れみすら抱いてしまう。
 所詮は僻地の蛮族。その必勝の策など、この程度の浅知恵か。兵士だけではなく、彼らを指揮する船長たちの多くもそう考え、口元を緩ませた。



 ――南蛮軍を構成する将兵が、大小はあれど、等しく抱く過剰なまでの自信と戦意。それは容易に敵軍への蔑視に結びつく。将兵の口に浮かんだ微笑が、雄弁にその事実を物語る。
 いみじくも先の軍議でガルシア自身が口にしたように、蔑視と油断は分かちがたく結びつくもの。ガルシア麾下の艦隊は、他の部隊よりその弊は薄かったが、それでも敵軍の惨めな抵抗を目の当たりにして、将兵の心底に余裕とも油断ともつかない空隙が生じるのは避けられなかった。


 だから、だろうか。彼らが気づかなかったのは。
 炎の壁に隠れるように、密やかに近づく数隻の小早。
 それは一見、他の船と同様に柴や枯れ草で覆われているように見えたが、南蛮船に近づいても炎に包まれることはなく、また船に乗る数名の兵士も海に逃れようとはしていなかった。
 この船が燃えない理由は単純で、敷き詰められていたのは柴や枯れ草ではなく、それに似せた冷たい泥だったからである。そして、船の中央には泥と似た色の――だが、確かに金属の光沢を放つ『ある物』が乗せられていた。




◆◆◆




 次の瞬間、周囲に轟音が響き渡る
 だが、ガルシアの旗艦にあって、その音――大砲の発射音に不審を覚えた者はいなかった。なにしろ、今この時も自艦から、あるいは僚艦から敵軍に向けて何十もの砲撃が放たれているのである。その一つ一つに注意を払うことなど出来るはずもない。


 だから――
「ほ、報告ッ! 『サンクリストバン号』が被弾しました!」
 その報告には誰もが耳を疑った。
 副長は血相をかえ、声を高めて報告する見張りに詳細を求めた。
「被弾したとはどういうことだ? 敵に大砲はない、僚艦が誤射したのかッ?!」
「わ、わかりませんッ。しかし『サンクリストバン』の船腹が破損して――ッ?!」
 再び轟音。
 次撃は先の破損箇所とほぼ同じ部位に撃ち込まれた。
 南蛮船は耐久力にすぐれており、一発や二発の直撃弾を受けたところで、即座に沈没したりはしない。だが、横腹に二発、正確に砲撃を受けてしまえば、その限りではなかった。


 舷側に駆け寄って『サンクリストバン号』に視線を向けた副長は、そこに船腹に正確に二発の砲弾を受けている僚艦を見つける。見張りの報告したとおりであった。
 だが。
「ばかな、どうやってッ?!」
 敵軍に大砲はないはず。あるいは、宣教師たちの報告が間違っており、敵が大砲を保有していたとしても、ここまで正確に――まるで測ったように致命的な部位に砲撃を加えることができるはずはない。一度目は偶然だと考えることもできたが、その偶然が二度も続くとは考えにくかった。
 まして敵からの砲撃は、あの二発だけである。それを考えれば、明らかに敵軍は狙って船腹を砲撃したのだろう。だが、どうやって?!


 副長の傍らにいるガルシアも、眼前の光景に険しい視線を向けている。
 その目に理解の灯がともったのは、三度目の砲撃がなされた瞬間だった。
 今度は、先の二発からはやや離れた場所だったが、それでも船腹に見るも無残な穴が穿たれたことに違いはない。視界の先では、水兵たちが必死に海水を掻き出し、あるいは負傷者を運んでいる様子が見て取れたが、もはや『サンクリストバン号』の命運は誰の目にも明らかであった。


「……なるほどな。考えたものだ」
「隊長?」
「見てみろ」
 苦々しげな、だが奇妙に感じ入った声に促されるように、副長はガルシアが指差す場所に視線を向ける。
 そこには入り乱れる火船にまぎれるように、一際小さな舟が浮かんでおり、舳先を『サンクリストバン号』に向けて接近していた。舟の上には敵兵らしき数名の影が見て取れる。


 やがて、両者が目と鼻の距離まで近づいた――と思った瞬間だった。
 副長の視線の先で、砲声が轟き、『サンクリストバン号』は四度目の砲撃を受けていた。ほぼ同時に、先の小舟は半ば砕けるように海中に沈んでいく。小さな船体では砲撃の衝撃に耐え切れなかったのだろう。無論、敵兵はその以前に海中に逃れたに違いないが。


「隊長、あれは……」
 知らず、副長は問う形で言葉を発したが、答えはみずからで見つけることが出来た。
「小舟に無理やり大砲を据え付けた……?」
「だろうな。火船はこちらを油断させ、ついでにあれを隠すための目くらまし、というところだろう」
 ただでさえ命中精度の低い大砲を、ろくに扱ったことのないこの国の兵士が使用する。しかも揺れる海上で、まともな船もなく。
 この条件で敵船に砲撃を命中させるには、なるほど、確かに至近距離から撃つしかあるまい。これが大型の兵船なら、南蛮軍も相応の警戒をしたであろうが、まさか数名しか乗れないような小舟に大砲を積んで迫ってくるなど予測できるはずもない。
 なぜなら――


 副長は、思わず、という感じで声を高めた。
「し、しかし、あれでは一度撃てばそれで終わりです。大砲一門で、鉄砲が何十丁揃えられると思って……ば、ばかですか、あいつらはッ?!」
「ああ、ばかだな。敵にまわすと、とことん厄介な型の大ばか野郎だ。まさか、大砲を使い捨てにするとはな」
 ガルシアは胸中で唸った。
 その内心には予期せぬ戦術に対する驚きと、感嘆の念が相半ばしている。
 言明したように、ばかな戦法である。確かに砲撃の命中率は著しくあがるだろうが、一発の砲撃をあてても、それで大砲自体が失われてしまっては損得を論じる以前の問題であろう。敵の財政の責任者がこの光景を見れば、顔面を蒼白にするか、発狂するかのいずれかではないか、とガルシアは思う。


 たとえ何者かがこの戦法を考え付いたとしても、それを了承するような為政者はいないだろう。
 この戦法が許されるのは、大砲一門を、鉄砲一丁か二丁程度で製造できるだけの技術を保有し、ありあまるほどの鉄を産する国しかないが、そんな国は世界のどこにもありはしないのである。


 だが。
 一国の存亡を懸けた、絶対に負けることの許されない戦いであれば――あるいはこれを許可する王も存在するかもしれない。
 否、「かもしれない」ではない。今、ガルシアの眼前に立ちはだかる敵の王は、まさしくその決断を下したのだ。見たことのないその人物の凄みが、ガルシアの背筋を冷たくする。



 自然と、ガルシアは乱暴に頭をかいていた。
「これはロレンソを笑えんな。俺もいつのまにか、敵を侮る癖がついていたらしい」
 敵軍がどこから大砲を調達したのかはわからないが、貴重であるはずの大砲をこんなやり方で消費するということは、それだけ南蛮軍の撃滅を心に期していることを意味する。


 ガルシアは敵の戦意の高さは承知していた。正確に言えば、承知しているつもりだった。しかし、それは戦局全体を見回してのことで、この一戦にここまでの気概をもって挑んでくるとは考えていなかった。
 何故なら、敵はたとえ海で負けても、まだ陸の上に幾十もの拠点を持っているからである。当然、この戦で敗れたあとのことも想定して動いているだろうと踏んでいたのだ。


 しかし、もし敵がそんな考えをわずかでも抱いているならば、虎の子の大砲をこんな使い方で失うことは避けるに違いない。
 すなわち、敵はこの海戦に全力を傾注しているのだ。この一戦に負ければ、もう後はない―それくらいの気持ちで戦に臨んでいるのだろう。
 これはこちらも全力をもって応じなければ、冗談ではなく負けるかもしれん。ガルシアはそう考え、心を引き締める。


 胸奥から、久しく感じていなかった猛々しい戦意が、滾々と湧き出してくるのを感じながら。




◆◆◆




 島津軍の大砲運用を見抜いた南蛮軍はただちに対応をとる。
 潮に乗って迫ってくる火船に対しては、舷側から幾十もの棒を伸ばしてこれを押しのけ、その隙間をぬってくる小舟には鉄砲部隊の砲火を浴びせかけたのである。
 平行して、大砲の砲手には火がつけられていない舟を集中的に狙うように命令が下る。これは直接砲撃を浴びせるためというよりは、敵兵に対して圧力を加えるためであった。直撃を食らう可能性は低いとはいえ、数十の砲門に一斉に狙われれば、恐怖を覚えない人間はいない。それは勇猛な島津兵とて例外ではないだろう。


 その南蛮軍の考えを証明するように、間もなく火船の後方に控えていた島津の水軍が動き始めた。
 これは徹底した南蛮軍の対応によって、大砲を載せた小舟が密かに南蛮船に近づくことが難しくなったためであり、さらに潮の流れが変化したことで、放った火船がかえって自分たちの陣に押し寄せて来かねないと判断したからであろう。
 あるいは、はや奇策が見破られたと悟って退却するつもりか。
 そう考えたガルシアの艦隊はたちまち色めきたった。
 失われたのは戦艦一隻。決して浅い傷ではないが、それでも二十隻の中のたった一隻である。艦隊にとっては致命傷にはほど遠い。


 だが、戦えば勝ち、進めば破ってきた無敵艦隊たるの矜持が、小癪な敵軍に対する報復の念をかき立てた。
 ただでは逃がさぬとの思いはすべての将兵に共通する。もとより提督であるガルシアも、この海域で敵軍の伏兵をおびき出し、殲滅する心算だったのである。敵が退くなら、追撃をためらう理由は存在しなかった。




 だが、ガルシアはここで一つの読み違いをしてしまう。
 いや、読み違いというよりは、一つの事実に思い至らなかった、というべきか。 
 すなわち、今しがた行われた奇襲は、島津軍にとって余技に等しいという事実をガルシアは知ることが出来なかったのである。


 もっとも、これをガルシアの失策と捉えるのは酷であったろう。
 島津軍が南蛮艦隊の全容を知らなかったように、南蛮軍も島津軍の正確な戦力を掴んでいなかった。
 ゆえに。
 島津軍は本来大砲を保有していなかったこと。現在、保有している大砲は、すべて南蛮軍の先遣隊から強奪したものであり、この方面の島津水軍が保有する大砲はわずかに五門のみである、という事実をガルシアは知りようもなかったのである。


 だからこそ島津軍は、貴重であるはずの大砲をああもあっさりと海中に沈めることができたのだ。もし島津家が保有する大砲が、彼らが苦心の末に集めたものであったなら、小舟もろとも大砲を使い捨てるような策が認められることはなかったであろう。
『最初からなかったものであると思えば、別に惜しくもないでしょう。それによって勝利が得られる可能性が上がるのであれば尚更です』
 軍議の席でその策を献じた青年の言葉に、島津家の君臣は苦笑まじりに頷いたのである。
 




 島津軍の攻勢はここからが本番であった。
 動いたのは島津水軍の中核とも言うべき関船(せきぶね)である。
 先に火船に仕立てられた漁舟や小早よりも大きな船体には、船上の兵士を守るように垣楯(敵の矢玉を防ぐため、楯や板を垣のように並べたもの)が二重にめぐらされており、敵軍の矢や銃弾から将兵を守る構造となっている。
 島津水軍は、この関船に乗って南蛮艦隊に迫ったのである。


 無論、関船といえど大砲の直撃を受ければひとたまりもないし、船の大きさ自体も南蛮船に及ばない。切り込みを仕掛けるにしても、船縁の位置が違うため、南蛮船と並べばすぐに乗り移れるというわけではない。船を並べた上で、縄なり梯子なりを渡して敵船に攻め上る必要が出てくる。それがどれだけ困難であるかは言を俟たないであろう。
 くわえて、下から上を狙うより、上から下を狙う方が有利なのは自明の理。つまり至近距離からの鉄砲の撃ち合いになったところで、南蛮軍が遅れをとることはないのである(もっとも、この関船隊に鉄砲隊はいなかったが)。
 仮にそれらの困難を克服して、島津兵が南蛮船に切り込んだとしても、そこには三桁にのぼる南蛮兵が待ち構えている。十や二十の島津兵では、たちまちのうちに海に叩き落されてしまうに違いない。


 どこをとっても島津軍の勝ち目は薄かった。しかし、それでも島津軍は退こうとはしなかった。
 それは決して捨て鉢の戦意ではなく、明確な勝算に裏打ちされた闘志であった。
 しかし、その勝算を現実のものとするためには、やはり敵船に肉薄しなくてはならない。
 この時、島津軍の関船の数は十五隻。一隻一隻が単独で敵船にあたっては、近づくことすら出来ずに撃沈されてしまうだろう。
 島津水軍を束ねる梅北国兼は、ここで新たに二十隻近い小早を展開させた。先の火船戦法を繰り返すためではない。火攻めに効果がないことは、もう証明されてしまっている。
 では今さら小早のような小舟を展開させたところで意味はないのか。
 

 そんなことはなかった。とくにその小早に大砲を載せて、これみよがしに動いて見せれば、すでにその戦法によって船を一隻失っている南蛮艦隊は警戒せざるを得ない。
 無論、この大砲は偽物である。しかし、丸太をそれらしい形に組み、それらしい色をつけ、それらしく見えるように布でもかけておけば、南蛮軍の方から勝手に警戒してくれるだろう。
 何故といって、この場に展開している島津軍が保有する大砲の数が五門しかないことを南蛮軍は知らないからである。
 五門のうち四門は役割を果たして海に沈み、もう一門は運悪く南蛮船からの大砲の直撃をうけ、役目を果たすことなく波間に没したことなど、南蛮軍には知りようもないことであった。
  

 とはいえ、火船による目くらましがなければ、小早が砲船を気取って徘徊したところで、敵船からの銃撃によって殲滅されてしまうだろう。再び火船を放つには今は潮の流れが悪い。くわえて、いかに小舟とはいえ、用いることのできる船の数には限りがあった。
 この状況で国兼はどう動いたのか。
 彼は有する関船のうち、なんと三分の一にあたる五隻を火船に仕立てたのである。
 関舟であれば、船首に火種を山と積み込んで燃え上がらせても、船尾の漕ぎ手が船自体を進めることは可能である。すなわち潮の流れを気にする必要がないのだ。


 また、先の火船とは異なり、関船であれば、その船体自体が一つの武器になる。
 元々、関船をはじめとした和船は竜骨構造を用いておらず、衝角による突撃戦法などには向かないのだが、単純に火船としてぶつけるだけであれば――つまり乗っている人間の安全を考慮する必要がないのであれば、いくらでも無茶が出来るというものだった。漕ぎ手は接触を確認した後か、またはその寸前に海中に脱すれば良いのである。




 この島津軍の目論見は成功を収めた。
 ガルシア麾下の南蛮艦隊は炎の塊となって突っ込んでくる関船はもちろんのこと、その影でうごめく小早の存在にすぐに気づいた。先刻は見逃したが、すでに指揮官と同じく、兵たちも眼前の敵を侮ることの危険を認識しはじめている。そして、小早の存在に気がつけば、その上に載っている大砲(と見張りの兵は判断した)にも気づかざるを得ぬ。
 いっそ無能な提督の艦隊であれば、敵の細かい動きに気づかず、かえって島津軍の目論見を外すことができたかもしれない。
 しかし、ガルシアの艦隊は有能であり、それゆえに敵の動きに対応せざるを得なかったのである。


 その混乱に的確に乗じた梅北国兼の手腕は、称賛されてしかるべきであったろう。
 国兼は南蛮船のうち、外縁部に位置していた二隻に狙いを定め、みずから指揮をとって十隻の関船を殺到させた。当然、敵船からは大砲の洗礼が浴びせられたが、島津軍はたくみに船を操り、この砲撃をかいくぐっていく。
 それでも内の一隻が直撃を受け、さらにその隣に位置していたもう一隻があおりを食って航行不能に追い込まれたが、残る八隻は目論みどおり南蛮船に肉薄した。





 島津軍の接近を目の当たりにして、しかし、南蛮軍の将兵は慌てなかった。
 二隻対八隻とはいえ、そもそも船の性能が圧倒的に違う。これだけ近づけば、大砲を避けることも難しかろう。敵の船の大きさを見ても、乗っているのは一隻に精々数十名、多くても百名といったところで、それも漕ぎ手を合わせての数である。恐れるべき理由は何ひとつ無いはずであった。


 ほどなく敵船を射程内にとらえた鉄砲部隊が、一斉に銃撃を開始した。
 敵の船は周囲を盾のようなもので覆っているが、それでも飛来する銃弾すべてをはじき返せるわけではない。船の大きさの関係から、斜め上方から撃てるという利点もあいまって、南蛮軍の銃撃は十分な効果を発揮しているように見えた。敵の船から鉄砲はおろか、弓矢の一つも放たれないのがその証拠である――南蛮兵たちが、そんな思いを胸中に抱いたとき。


 彼らの頭上に『それ』が降ってきた。


 はじめ、南蛮軍はそれが何なのかわからなかっただろう。
 それはいわゆる焙烙であった。簡潔にいって、ただの焼き物である。盾の影に隠れながら、南蛮船に投げ入れることが出来るくらいだから、重さも大きさもしれたものだった。
 これを敵船に投げつけるのは、石を拾って敵兵に投げつけるようなものか。印地という、石を投擲に用いる戦闘技術があり、熟練者の手にかかれば、人ひとりを制することも容易いというが、しかしこの焙烙投げは、印地のような技術や業が介在する余地はないように思われた。これにあたったところで、精々が手傷を負う程度であろう。


 それがただの焙烙であれば。


 焙烙を直接ぶつけたところで、脅威にはならない。だが、ただの焼き物である焙烙も、一つの工夫で危険きわまりない凶器に変じる。たとえば、そのうちに火薬を詰め込む、といったような。
 この工夫がなされた武器を、人々は焙烙玉と呼んでいた。



 次の瞬間。
 突如、小さな爆発音が南蛮船の上で起こり、わずかの間をおいて、南蛮兵たちの悲鳴と絶叫が海原に響き渡った。
 焙烙に詰められていた火薬が引火し、その爆発力によって焙烙が砕け、破片が鋭い刃物となって周囲に四散したのである。


 四散した焙烙は至近に位置していた銃兵の腕を傷つけた。別の兵の肩を切り裂いた。もっとも運の悪い者は目をえぐられた。
 だが、周囲の兵たちは彼らを助けることが出来なかった。
 投げ込まれた焙烙玉は一つや二つではなかったからである。



 ほんの数分前までは想像すらしていなかったような混乱が船上に現出した。
 焙烙玉を投げ込むだけであれば、多少の位置関係の不利など気に留める必要もない。
 焙烙玉は次々に放物線を描いて南蛮船に放り込まれ、更なる混乱をいざなった。船縁で筒先を揃えていた敵の鉄砲隊も、すでにそれどころではなくなっている。
 それを確認した者の中には、焙烙玉ではなく弓矢を手にとる者も現れた。鉄砲隊の迎撃がなければ、盾の陰に身を潜めている必要もない。
 南蛮船一隻に対して、島津軍は関船四隻をもって取り囲み、矢と焙烙玉によって南蛮船を脅かしていったのである。


 そして。
 敵の混乱が、もはやとどめようもないと判断した梅北国兼は、南蛮船に対して切り込みをかけるよう指示を下す。
 島津軍は喊声で応じ、縄梯子をかけるなどして南蛮船に乗り移るべく動き始める。
 これに対し、南蛮軍からも反撃が行われるが、それは組織だったものとはなりえず、島津軍の勢いを止めることは出来ないものと思われた。


 もう一隻の方も、戦況はほぼ同様であり、戦いは島津軍有利のままに進んでいるように思われた。
 しかし。
 それはあくまで戦況をこの場に限定した場合の話であった。
 たとえこの二隻を失ったとしても、ガルシア麾下の艦隊はなお十七隻を余している。
 それに対し、島津軍はすでに関船の半数を投入しており、今回の陽動でただの一度も砲撃がなかったことから、島津軍が保有する大砲がないことも敵に悟られてしまっただろう。
 南蛮船から敵兵を駆逐すれば、船も、船に積んである大砲も奪うことが出来るが、大砲の扱いに長じた者など島津軍にいるはずもない。帆船を動かすことも同様である。
 

 火船として敵に突っ込ませた関船も、ガルシアの巧みな指揮によってただの一隻も敵船を道連れにすることが出来ず、空しく燃え朽ちるのみであり、なにより、仮にガルシアの艦隊を撃ち破ったところで、その先にはドアルテ率いる無傷の三十隻が待ち構えている。
 いまだ島津軍は圧倒的に不利な戦況に置かれたままであった。




 ――たとえ鬼神であっても、この戦況は覆せぬ。
 ――そんな南蛮軍の確信にひびを入れるべく、一隻の船が動き出した。






[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第八章 火群(六)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:cd1edaa7
Date: 2011/03/18 23:49

 錦江湾の戦いにおいて、島津軍と南蛮軍の戦力差は隔絶していた。
 島津軍が幾度も奇策を繰り出し、その都度、南蛮軍に被害を強いながら、それでも戦の帰趨そのものを覆すにはいたらなかったことからも、その事実は明らかであったろう。
 島津軍が切り札たる『その船』を出した時点での南蛮軍の被害は、撃沈された船が一隻、間もなく拿捕されるであろう船が二隻――それがすべてであった。
 併せれば八十八隻にも及ぶ第三艦隊の中の、たった三隻。勝敗の天秤がいずれの側に傾くかは誰の目にも明らかであると思われた。


 だが。
 この時、すでに数字に表れないところで、戦況は密やかに動きつつあった。
 数字に表れないところとは、すなわち人心――将兵の士気である。
 南蛮軍、ことにガルシア・デ・ノローニャ麾下の将兵の多くは、一つの想念にとりつかれつつあった。
 それは、敵軍への恐怖や不安、あるいはそれにともなう動揺といった類のものではない。
 繰り返すが、このまま戦況が推移すれば南蛮軍の勝利は動かない。多少の被害を受けたとはいえ、それは南蛮軍の将兵が動揺をきたす理由にはならなかった。


 この時、ガルシア麾下の将兵の心に巣食っていたのは警戒心だった。
 圧倒的に不利な戦況にありながら、予期せぬ奇手を繰り出し、恐れげもなく立ち向かってくる敵軍に対して、南蛮軍は慢心を戒め、油断を禁じ、対等の敵手として警戒を抱くようになっていたのである。
 ――本来、それは称揚に値する出来事であったろう。
 南蛮軍の兵士たちが敵軍に対する蔑視を捨て、眼前の戦の勝利を真剣に求めだしたということなのだから。しかも、指揮官であるガルシアの指図によらずに。


 島津軍にしてみれば、ただでさえ強大無比である南蛮軍が、より一層付け入る隙のなくなった強固な軍勢になってしまったのである。もはやガルシアの艦隊の油断に乗じるのは不可能。その事実は、今後の作戦の幅を著しく狭める要素となるであろうと思われた。
 だが、それゆえに、というべきだろうか。
 島津軍の次の一手を目の当たりにした時、南蛮軍はためらってしまったのである。




 それは一隻の船だった。
 より正確に言えば、二隻の関船を強引に一隻に仕立て直し、船体総てを黒一色で塗り固めた船だった。
 通常の関船は船の上を垣楯(敵の矢玉を防ぐため、楯や板を垣のように並べたもの)で囲み、将兵を守るのだが、この船はその垣楯の材料に木ではなく鉄を用いるなどの工夫を加え、さらに垣楯の大きさそのものを拡げていた。
 それはもう単なる垣楯というより、ある種の兵車を無理やり船に据え付けたといった方が良いかもしれない。二隻の船をつなぎ合わせたのは、その重量と大きさを一隻で支えるのは難しいという判断からであったろう。



 奇怪な船体が黒々と海上を進む様は、見る者の目を惹く意外性に満ちていたが、しかし、軍船としての機能を比べれば、この黒船が南蛮船に遠く及ばないのは明らかであった。それどころか、元となった関船にすら届かないかもしれない。
 なぜなら、二隻の関船を一隻に仕立て直したことで、関船の長所であった機動性が大いに損なわれてしまったからである。
 機動性の代わりに船体強度が増したと言えなくもないが、垣楯を鉄で強化したといっても、それで守れるのは垣楯部分のみ。垣楯の下――船体部分はこれまでと同じ木造船が用いられているのだから、たいした意味はない。
 そもそも、大砲の直撃を食らえば鉄の楯だろうが木の楯だろうが容赦なく撃ち抜かれてしまうのだから、機動性を犠牲にした意味はほぼ皆無であると言える。


 それ以外の利点といえば、垣楯部分を拡げたことで、その内に収容できる兵士の数が増えたことか。
 だが、それは大砲を主力武器とする南蛮船が相手である場合、たいした意味を持たないのは前述したとおりである。
 すなわち、南蛮軍の前に現れたこの奇怪な船は、追い詰められた島津軍の児戯に等しく、到底脅威とするに足るものではなかったのである。



 
 突如あらわれた奇怪な黒の船。
 その船首部分に翻る、これは船体とは対照的な白一色の大白旗。
 白旗が降伏を示すものとして認知されるのは、はるか後年のことであり、この時、この場にあって、南蛮軍に攻撃を躊躇わせる理由にはなりえない。
 結果からいえば、この時、南蛮軍はさっさと砲門を開き、この船を沈めてしまうべきであった。南蛮軍の火力を持ってすれば、それは容易なことであったろう。


 だが、ここまで繰り広げられた戦いが。
 島津軍の繰り出す奇策に対する警戒心が。
 南蛮軍を躊躇わせた。


 この時、ガルシア麾下の艦隊は、先の関船による火船突撃を潜り抜け、戦場外縁部で梅北国兼率いる島津軍に苦戦している味方艦を援護するべく動き始めていた。
 黒船はその南蛮艦隊の中央に割り込むように船足を速めていく。
 大砲による砲撃はおろか、鉄砲による銃撃も、弓矢による攻撃もなく、ただ静かに進んでくる黒船に対し、各船の船長たちは対応に迷い、ガルシアからの指示を待った。
 味方からの援護もなく、ただ一隻で突っ込んでくる敵船への不審と、そしてわずかな不安は、将と兵とを問わず南蛮軍に共通する感情だったのである。




◆◆◆




「隊長、どうしますか?」
 こころなしか、ガルシアの耳に届いた副長の声はいつもより低いように思われた。
 その理由は問うまでもない。ガルシアはそう考え、とんとんとこめかみのあたりを人差し指で叩く。
 いかに早く、いかに正確な判断を下せるかが将帥としての資質の一つだとすれば、ガルシアは疑いなくその資質を有しているのだが、この戦に限ってはそれがなかなかに通用しない。
 開戦前から胸中にたゆたっていた奇妙な予感もあいまって、ガルシアも慎重にならざるを得なかった。
「苦しまぎれの悪あがき……ってわけじゃなかろうな」
「……そう、ですね。そういう敵ではないと、俺も思います」
「では、あのけったいな船の狙いは何だ?」
 ガルシアの問いに、副長はわずかに首を傾げる。
「皆目、検討がつきませんね」
「俺もだ」


 あっさりとうなずくガルシアを見て、副長は目を丸くする。
「隊長?」
「だが、俺とお前が考えても狙いがわからん――それがもう答えなのかもしれん」
 その言葉の意味を副長はすぐに悟った。
「……つまり、いかにもな船を持ち出して、こちらの攻撃をためらわせる為、ですか?」
「そうだ。このままあの船に割り込まれると、艦隊行動が乱される。敵の攻撃にさらされている二船への援護も遅れる。無論、わずかな時間だが……それが奴らの狙いかもしれん」


 そう言いながらも、ガルシアの眼差しはいささかも緩まない。
 自分の考えが楽観に基づくものであることを承知しているからだろう。ほんのわずかな時間を稼ぐためだけに、ああも大げさな船を仕立てるというのは、ガルシアならずとも解せないことであった。
 しかし、では他にいかなる目的があるのか、と問われれば答えに詰まってしまうのも事実である。


 常のガルシアであれば、迷うにしてももっと早く決断を下していただろう。
 たとえその決断が間違っていたとしても、南蛮軍の戦力をもってすれば挽回の余力は十二分に存在する。
 しかし、今回の敵は得体が知れぬ。一つの悪手が、戦局すべての趨勢を決してしまいかねない――その考えが根幹にあるため、ガルシアは常になく慎重に事を進めようとしていた。



 ここまでの戦況を鑑みれば、このガルシアの考えは至当であったといえよう。
 ただ、ガルシアと間近で接する副長や、旗艦の他の兵たちはそのことを理解していたが、旗艦から送られる命令にそって動く他の船の将兵がそこまで察することは難しかったかもしれない。
 彼らにしてみれば、すでに三隻の被害が出ており、今なお敵軍の動きはやまない。常になく遅い旗艦からの命令は、提督であるガルシアの不安と迷いをあらわしているように思われたのだ。


 そんな彼らの眼前には、漆黒の船が刻一刻と迫ってくる。
 決して急ぐことなく、しかし確実に南蛮艦隊との距離をつめてくる黒船を撃沈して良いのか。それとも手を出さずに避けるのか。
 この時代、船と船との連絡はおもに手旗で行われ、それを任とする兵士がいる。
 黒船からもっとも近いところに位置する南蛮船の上で、船長が苛立たしげに声を張り上げた。
「提督から命令は届かぬのかッ?!」
「いまだ旗艦に動きはありませんッ」
 かえってきた報告に、船長が思わず舌打ちした矢先であった。
 突如、黒船に動きが起きる。


 漕ぎ手と思しき者たちが次々に海に飛び込み始めたのである。
 それも整然とした動きではなく、尻に火がついたような、という表現そのままの慌しさであった。
 この船長は決して無能ではなかった。無能者が、ガルシアの麾下で船長を務めることが出来るはずもない。
 この時、眼前の光景が意味するところを正確に読み取ったわけでもないのに、とっさに独断で動いたことは、結果が伴えば臨機応変の判断であったと称されたであろう。
 だが、そういった理屈を抜きにして船長の心底を探れば、そこにはこれまで抱えていた焦慮が、行動による発散を望んだという一面が確かに存在した。
 様子を見る。命令を待つ。そういった選択肢を飛び越え、明確な攻撃を指示してしまったのである。


「砲手、敵船に照準! 準備が出来た者から撃ち始めよッ!」
 その船長の命令に不服を示した者はいなかった。兵もまた不安と緊張を掃うために行動を欲していたのである。
 照準などとうに終わっていたのだろう。次々と砲門が火を吹き、黒船の周囲に水柱が立ち上る。一発が右側の船首部分に命中し、黒船が目に見えて揺れ動くと、船中から歓声が沸きあがった。


 それを見て、周囲の船も次々に砲撃を始めた。
 砲撃の密度があがれば命中する弾が増えるのは当然である。
 まして黒船は今なおこちらに近づいているのだ。直撃弾が出るのは時間の問題であった。
 船長が勝利を確信した笑みを口元に浮かべた時、先の兵士が慌てた様子で報告を行った。
「せ、船長ッ! 旗艦より通達ですッ! 『ただちに砲撃を中止せよ』と!」
「なに? な――」
 何故だ、と船長は口にしようとしたのだろう。
 だが、その声が口をついて出ることはなかった――永遠に。


 砲弾の一つが黒船の中心部を撃ち抜いたその瞬間、黒船が爆ぜたからである。
 砲撃によって船体が壊れたのではない。黒船が内に蓄えていた多量の火薬が、砲撃によって引火したのである。





 
 
 爆発は凄まじい規模であった。
 もっとも近くにいた南蛮船は、船体そのものが海面から浮かび上がるほどの衝撃を横腹に受け、たちまちのうちに転覆してしまう。船上にいた船長や兵士たちは、何が起きたかもわからないうちに海面に叩きつけられ、命を落としていた。
 大砲の砲声とは比較にならぬ轟音は、南蛮軍のみならず、島津軍の将兵の耳をも引き裂いた。この戦で生き残った兵士の多くが、後に「頭上に雷が落ちたかのよう」とそろって表現したほどの大音響であり、余波は遠く離れた場所を航行していたドアルテ麾下の艦隊にまで及んだという。


 しかし。
 いかに火薬を満たしていたとはいえ、ガルシアの艦隊すべてを覆すほどの破壊力は望むべくもない。事実、爆発にあおられて転覆したのは至近の一隻のみであった。
 だが、島津軍は巧妙であった。あるいは狡猾であった、というべきか。
 爆発の直接的な被害はわずか一隻に留まったが、その周囲の船にも甚大な損害を与えていたのである――爆風によって弾き飛ばされた破片によって。




 原理としては特に難しいものではない。先に使用された焙烙玉と同じく、爆発によって生じる力を利用したに過ぎない。
 違いがあるとすれば、焙烙玉の爆発によってはじけ飛ぶのは焼き物の破片であり、黒船の爆発によってはじけ飛ぶのは垣楯に用いられていた鉄の欠片である、という点だけだろう。
 島津軍が黒船の垣楯に鉄を用いたのは、船体の強度を上げるためではなく、爆破によって生じる破壊力を引き上げるためであった。


 これは南蛮兵を討つための工夫ではなかった。
 船上の兵を討つために、わざわざ木製の楯を鉄のそれに切り替える必要はない。
 島津軍が狙ったのは、人ではなく物。すなわち四散した鉄片が周囲の南蛮船に被害を与えるように計算していたのである。
 船体、帆柱、ことに帆船の命である帆に対して損傷を与えれば、その機動力を根こそぎ奪うことが出来る。帆船の戦において、帆を狙うのは定石であった。
 無論、南蛮軍もそれは承知している。南蛮船は帆柱が複数あり、張られている帆も一枚や二枚ではない。多少の損傷では航行に支障はない上に、帆自体も燃えにくく、傷つきにくいよう工夫がなされている。
 しかし、どれだけ丈夫につくられていようとも、爆発によって目にも留まらぬ勢いで飛来する鉄の欠片をはじき返すほどの強度は望むべくもない。それは当然のことであった。




 とはいえ。
 この破片とても、そうそう都合よく帆に向かってくれるわけではない。四散した鉄片の大半は海面へと沈み、中には先に逃げていた島津兵を襲う形となったものまであった。
 それでも、転覆した船の近くを航行していた南蛮船は、船体といわず、帆柱といわず、無数の破片を正面から受け止める形となり、航行不能に追い込まれる。
 たった一隻であったが、島津軍の目論見は最低限は達されたといえるかもしれない。


 
 この船に転覆した船を含めて二隻――それが島津軍の切り札の戦果であった。
 残る南蛮船は十五隻。中には今の爆発で損傷を負った船もあるが、航行に支障が出るほどのものではない。
 数字だけを見れば、まだ南蛮軍には余力が残っている。しかし、今の爆発は船よりも、むしろ将兵の心に多大な影響を与えていた。
 先の大砲による奇襲や、焙烙玉の攻撃はまだ理解できる範疇の出来事だった。しかし、今の爆発とその損害に関してはまったく想像の外だったのである。


 時間さえあれば、あるいは状況を理解し、立ち直ることが出来たかもしれない。しかし、島津軍はその時間を与えなかった。
 半ば呆然として海面を見つめる南蛮兵の目に映ったのは、海上に黒々と浮かび上がる新たな黒船であった。
 その数は七隻。
 先の一隻が二隻の南蛮船を航行不能に追いやったと考えれば、新たに現れた七隻の船はガルシアの艦隊に致命傷を与えるに十分な数字である。


 あの船を近づかせてはならない。
 裏返る寸前まで高められた船長たちの口から、砲撃の指示が下された。
 
 
 



◆◆◆






 時を少しだけ遡る。


 島津軍の基本戦略は、薩摩、桜島間の海域に南蛮艦隊を押し込み、殲滅することである。
 南からは島津水軍を統べる梅北国兼が襲い掛かる予定だったが、一方からの攻撃だけでは、たとえ国兼が南蛮軍を破ったとしても、南蛮軍はそのまま北側を抜けて戦域を脱出してしまい、敵の大半を取り逃がす結果に終わるだろう。


 ゆえに島津軍は北側にも水軍を配置していた。
 北と南から攻めかかり、逃げ場のない南蛮艦隊を殲滅して、はじめてこの戦に勝利したといえるのである。
 無論、逆に敗れる可能性も少なくない。むしろ、その可能性の方が高いくらいだろう。両軍の戦力を見比べれば、そう考えざるを得ない。
 少なくとも、この方面の水軍を率いる島津歳久はそのように考えていた。


 歳久の前に広がる情景は、南側よりもさらに厳しい。
 ニコライ率いる十八隻、ロレンソ率いる二十隻に加え、ドアルテ率いる本隊さえほど近い位置にいるのである。
 救いがあるとすれば、ニコライ、ロレンソの艦隊の多くが上陸のために停泊していることであろうか。つけくわえれば、こちらの艦隊の多くは後背――すなわち海側からの奇襲に注意を払っておらず、火攻めを仕掛けるには適した条件が揃っていた。


 問題となるのは、やはりドアルテ率いる本隊三十隻であった。
 先鋒部隊とは異なり、あらゆる方面に注意を向けているのが見て取れるのだ。先鋒を援護するために湾内に展開しつつ、ぬかりなく奇襲にも備えている。
 この時点で歳久は南蛮軍の陣容を知らないが、それでも最も注意すべき敵がこの敵であることは即座に読み取ることが出来た。 



 彼方から響く砲声が、歳久に戦の始まりを告げる。
「国兼が動きましたか。我が隊もまもなく出ますよ」
 本来、攻撃は一斉に行われる方が望ましかったのだが、歳久は南蛮軍の布陣を見て考えを変えた。
 常道であれば、停泊して身動きのとれない先鋒部隊に火力を集中させるべきなのだが、歳久がそれをすれば、たちまち後背を敵の本隊に衝かれて敗れてしまう。
 かといって、敵の本隊に戦力を向ければ、現在は停泊している先鋒部隊の準備が整い、海戦に参加してくるだろう。数だけ見れば、先鋒の方がはるかに多いのだ。そうなればやはり敗戦は免れない。


 つまり、今動けばどのみち敗北してしまうのである。
 であれば――
「国兼が例の船を使えば、本隊の注意もそちらにそれるでしょう。勝機があるとしたら、そこしかありませんね」
 歳久は例の船――火薬を満載した漆黒の船に目を向ける。


 船体を黒く塗ったのも、船首に純白の旗を用意したのも、これすべて敵の目を惹くためのこけおどしに過ぎない。
 だが、そこに積まれた火薬は本物であった。鉄砲隊を軍の主力とするべく努めてきた歳久が、それこそ精魂込めて蓄えてきたものである。これに、南蛮艦隊の襲来に備え始めた日から、島津家が金に糸目をつけずに買い求めてきた分も加わっている。
 当然、そのための金は歳久や姉妹、家臣、領民らが長年苦心して貯めてきたものである。
 いまや島津の府庫は空に近い。実のところ、日向方面に侵攻した二人の姉の軍には、鉄砲隊はほとんど含まれていない。本来はそちらにつぎ込まれるはずだった分までが、この海域に集められているのである。


 そして。
 そこまでしてなお、用意した黒船すべてを満たす量には到底たりなかった。真実、火薬を積みこめたのは二隻のみ。一隻は歳久の見つめる船であり、残る一隻は国兼の部隊に配されていた。
 つまり、残りの黒船は敵の動揺を誘う囮に過ぎないのである。



 歳久にしてみれば、このような物を切り札にする戦など愚の骨頂であった。
 だが彼我の戦力差を鑑みれば、これが採りえる最良の手段であろうとも判断していた。
 もう少し猶予があれば、と歳久は思う。南蛮艦隊が襲来するまでいま少し猶予があれば、こんな博打じみた戦に家運を――否、生国の未来を懸ける必要はなくなる。なくしてみせる。


 しかし敵の動きは速やかであり、なおかつ腹立たしいことに、歳久はその動きさえ他者に指摘されなければ見つけることが出来なかった。
 最悪の場合、何一つ準備のできていない状況で、眼前の強大な艦隊に急襲されていたかもしれないのである。そのことを思えば、歳久も身体の震えを打ち消すことが出来ない。


 確実性に欠ける策であったとしても、一握りの勝機を得られるだけの準備を整えることが出来たことに感謝するべきなのだ。その選択肢をもたらしてくれた者たちに感謝するべきなのだ。
 妹である家久が事あるごとに口にするその事実を、歳久ももちろん承知していた。実際、感謝もしているのだ――決して口にも表情にも出さないけれども。
『それじゃあ意味がないんじゃないかなー?』
 困ったように首を傾げる家久の姿が自然と脳裏に思い浮かび、歳久は慌ててかぶりを振る。
 礼云々は戦の後に考えればいい。今は勝つことに集中しなければ。


 この時、歳久が動かせる戦力は国兼のそれとほぼ等しい。
 もう島津家には予備戦力も、奥の手もない。正真正銘、歳久が最後の戦力である。
 ひとたび動けば、あとは島津軍か南蛮軍、どちらかが倒れるまで戦い抜くしかなくなろう。


「――無論、勝つのは島津ですが」
 甲冑の胸部に刻まれた『丸に十字』の家紋に手をあて、歳久は静かにそうつぶやく。その眼差しが、ここにはいない誰かを思うようにかすかに伏せられる。
 彼方から響くは耳をつんざく炸裂音。国兼が切り札を出したのであろう。
 それを聞くや、歳久は決然と顔を上げる。
 右手が天を指すように高々と振り上げられ。
 次の瞬間、勁烈な号令と共に、まっすぐに振り下ろされた。


 



[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第八章 火群(七)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:cd1edaa7
Date: 2011/03/21 22:11
 錦江湾の戦いが始まるすこし前のこと。
 南蛮軍第三艦隊臨時旗艦エスピリトサント号――南蛮艦隊の中にあって、一際巨大な船の甲板に立ち、陸地に視線を注いでいる老人がいた。
 ずんぐりとした体型、髪も髭も白に染まり、頬には深い皺が刻まれている。外見だけを見れば、どこぞの屋敷で楽隠居していてもおかしくないと思われるが、その実、眼光は鷲のごとく鋭く、激しく揺れる船上をあたかも地上を歩くがごとくに進む姿にはまったく危うげがない。頬に刻まれた皺は、長い年月を戦場に捧げた武人の年輪であった。
 元帥ドアルテ・ペレイラ。
 南蛮軍にあって、その名と顔を知らぬ者などいようはずもない人物である。



 そのドアルテの傍らに、今、一人の少年が立っている。
 海上を吹き渡る寒風に、頬を林檎のように赤くするその少年は、すでに戦が始まっているというのに身に寸鉄も帯びていなかった。
 だが、それを咎める者はどこにもいない。この少年の役割が、人を殺すことではなく、人を助けることであることを皆が承知しているゆえである。


 ルイス・デ・アルメイダ。
 姓は先鋒部隊を率いるロレンソと共通するが、直接的な血の繋がりはない。
 ルイスはドアルテの養子の一人である。生涯の半ばを戦場で過ごしたドアルテは、この年まで妻を迎えることはなかったが、戦場で親を失った子や、あるいは戦死した部下の子を引き取って、養子として育てていた。


 ルイスが気遣わしげに口を開いた。
「閣下、寒風はお身体に障ります。戦いが始まるまでは船内で休んでいてくださいませんか?」
「年寄り扱いするな、ルイス。この程度で身体を損なうほど衰えてはおらぬ。それに、戦いが始まるまでというが、戦いはとうに始まっておるわ。砲火を交えるのは、戦いの最後の局面に過ぎぬのだ。ゆえに敵が見えぬからとて、船の中にこもってはおれぬのよ」
「そ、そういうものなのでしょうか?」
 ドアルテとしては、軍人として当然の認識を述べたに過ぎないが、ルイスにとっては理解しがたいことであったらしい。周囲を取り囲む艦隊や穏やかな海面に視線を向け、首を傾げるばかりであった。


 それを見て、ドアルテは内心で苦笑する。
 ドアルテは引き取った子供たちに軍人という選択肢を強いたことは一度もない。だが、ドアルテに恩を感じる子供たちの多くは、ドアルテを慕って南蛮軍に加わっていった。
 そして、ルイスもまた軍人を志した一人なのである。もっとも、この少年の場合、武に対する才能が致命的なまでに欠如していたため、早々にその道を諦めざるを得なかったのだが。
 そんなルイスに、戦いの機微を察しろ、というのは無理な話であったかもしれない。


 ところで、軍人となることを断念したルイスがどうして旗艦に乗っているのかといえば、これはれっきとした理由がある。
 軍人になる志を断たれたルイスであったが、そこでへこたれたりはしなかった。武の才がないなら、文の才を磨けば良いんだ、とばかりにわき目もふらずに学問に励み、神、医、言語といった多くの分野を学び、学んだ分だけ己の内に修めていった。
 たしかにルイスは文の面において並外れた才能があったのだろう。今のルイスの立場はドアルテ付きの見習い医であったが、船内の将兵からは半ば船医として扱われていた。また、ドアルテに倭国の言葉を教授したのもルイスであった。当然、ルイス自身も倭や明の言葉に通じている。


 ドアルテにしてみれば、養子であり、医師であり、さらには通訳をも務められるルイスが傍らに控えていることの安心感はたとえようもない。
 しかし、出来ればルイスをこの遠征には連れて来たくはなかった、というのが正直なところであった。
 ルイスの神学の師はトーレスという人物なのだが、彼はかつて日本布教長を務めた人物であり、倭国に対して深い知識と愛情を持っていた。そのトーレスから倭国や、そこで暮らす民のことを聞かされていたルイスは、東方の島国に対して大いなる興味を持っている。その言語を学んだのも、いずれかの地や、明という大国に赴きたいという希望があったためであった。


 その意味で、今回の遠征はルイスにとって渡りに船といえる。
 しかし、遠征は物見遊山の旅ではない。まして今回の戦いは、倭国を南蛮に屈服させるための第一陣である。おびただしい量の血が流れることは火を見るより明らかであった。
 もっともルイスとてそれは承知していた。武の才能こそ欠けていたが、ルイスは胆力がないわけではない。これまで何度もドアルテと共に戦場に出て、敵味方の血が流れるところを目の当たりにしている。それに、たとえその経験がなかったとしても、血を見て倒れるほどやわではない。そんな性情であれば、そもそも医術を学ぶことなどしなかっただろう。


 そのルイスの主張を、ドアルテは最終的に受け容れた。
 ルイスがこれまでに経験した戦と、今回の遠征の差異がドアルテにはわかっていたが、それを言葉だけでルイスに説明し、納得させることは難しかったからである。くわえて、ルイスが今後どのような道を選ぶにせよ、この戦を見れば将来の益になるだろうと考えたからでもあった――良い意味でも、悪い意味でも、この遠征は南蛮軍の在り方を示すものになるであろうから。
 そしてなにより、やはりルイスの諸事における能力と安心感をドアルテは欲したのである。


 



 軍神アフォンソ・デ・アルブケルケの戦友にして、第三艦隊を実質的に統べる大元帥。
 南蛮軍にあって知らぬ者とてないドアルテ・ペレイラであったが、やはり彼もまた南蛮軍が抱える宿痾からは逃れられずにいた。
 どれほど優れた軍事的手腕を持っていても。
 敵に対する警戒と味方に対する心遣いを欠かさなかったとしても。
 やはりドアルテも心の底では疑うことなく信じていたのである――勝つのは南蛮軍である、と。だからこそ、ルイスの同行を許すことも出来たのだ。



 積み重ねられたのは三十年を越える経験と実績。
 誰一人及ばぬものから導き出された確信であったからこそ、誰一人としてそれを糾すことはできず。
 その確信がひび割れて、はじめてドアルテは――そして南蛮軍の将兵は、敗北という名の現実が足元まで忍び寄っていることに気づくのである。






◆◆◆






 開戦前にガルシアが口にしていたように、南蛮軍の提督たちはこの海域での敵の襲撃を、可能性の一つとして考慮していた。
 当然、敵軍があらわれた場合の対応もあらかじめ想定している。
 この海域は東と西が陸で塞がれている。敵が南蛮軍の撃破を望むのなら、南と北、どちらか一方を空けておくとは思えず、南北両方向からの挟撃を仕掛けてくる可能性が極めて高いものと思われた。
 その際は、後方に位置するガルシアが南からあらわれる敵軍と対峙する。先鋒のロレンソはニコライの援軍に赴くため、北からあらわれる敵軍にはドアルテがあたる手筈となっていた。


 島津歳久の部隊が動いた際、いち早くドアルテの艦隊が反応できたのはそれゆえである。
 この南蛮軍の反応の速さは、歳久の予測を上回った。ガルシアの艦隊を文字通りの意味で震撼させた黒船の影響をほとんど感じさせない動きで、ドアルテの艦隊は歳久の部隊に即応したのである。
 歳久としては、作戦に修正を加えざるを得ない。
 南側の水軍を率いる梅北国兼は、小早による大砲運用をはじめとした奇手を次々に繰り出すことで、南蛮艦隊の動揺と警戒を誘い、船足の遅い黒船による突撃を成功させた。
 だが、歳久はドアルテの艦隊以外に時間とも戦わなければならない。眼前の艦隊だけに集中すれば、港に停泊しているニコライとロレンソの艦隊が準備を整えてしまうだろう。その数はドアルテの艦隊三十隻を上回る三十八隻であり、彼らが参戦した時点で敗北は確定してしまう。
 それゆえ、歳久は港の艦隊を牽制しつつ、ドアルテ率いる本隊と相対しなければならなかった。


 国兼以上の難題に直面した歳久であったが、圧倒的な戦力差がかえって迷う余地をなくしたのかもしれない。その指示は素早かった。
 歳久はまず、大小を問わずすべての火船を港に向けた。関船を火船に仕立てたとしても、海上に展開している南蛮艦隊は巧みな操船で避けてしまう。そのことは先に動いた国兼が証明してくれた。
 であれば、港で停泊している船にぶつける方が効果的であろう。


 その一方で、火薬を積んだ黒船に関してはドアルテの艦隊にぶつけなければならなかった。
 単純に考えれば、港で密集して停泊している艦隊にぶつけた方が、多くの戦果を得られるのは明白である。ガルシアの艦隊の被害が二隻で済んだのは、戦闘機動による衝突を避けるために、それぞれの船が一定の距離を置いていたからであった。密集陣形の中央で炸裂させることができれば、南蛮軍の被害は五隻や六隻ではすまないだろう。


 にも関わらず、歳久は黒船を港で停泊している艦隊ではなく、ガルシアと同じように戦闘陣形を整えているドアルテの艦隊に向けた。
 その理由は何なのか。


 ――この海戦において最も重要なのはいかに多くの船を沈めるか、ではない。無論それも必要なのだが、大前提として、どれだけ島津軍が奮闘しようと、八十八隻の南蛮船、すべてを一時に葬ることは不可能である――この事実を、歳久はじめ島津軍の将帥は心に刻み付けていた。
 その圧倒的な戦力差、物量差こそが南蛮軍の勝利の確信を根底で支えるものである。南蛮軍がこれを信じる限り将兵の士気は落ちず、将兵の士気が落ちない限り、島津軍に勝ち目はない。


 島津軍が奇策を縦横に駆使し、先手を取り続けたのは、南蛮軍のその確信を突き崩すために他ならぬ。
 つまり、少しずつでも敵に驚きと戸惑いを与え、こう思わせねばならないのだ。
 このままではまずいのではないか、と。
 どうせ最後にはこちらが勝つ――そんな確信を覆し、もしかしたら負けてしまうかもしれない、そう思わせることが出来て、はじめて島津軍にも勝利の芽が生じるのである。
 

 そのためには、すべての部隊を等しく圧迫しなければならない。
 たとえ黒船で港の南蛮船十隻を葬ったところで、ドアルテの艦隊に行動の自由を許せば、相手は冷静になってしまう。そして一度冷静になってしまえば、たとえ囮で黒船を用いようとも、たちまちのうちに見抜かれてしまうだろう。
 船ごと爆破するには大量の火薬が必要である。東のはずれの島国、その一部を領有するだけの勢力に、そんな大量の火薬が必要となる策略が何度も使えるはずがない。それを悟られてしまえば、あとはもう戦力差で押しつぶされるのみであろう。




 歳久は軍議の際、雲居が黒船について発した言葉を思い起こす。
『南蛮軍の総数が数隻であれば、あえて使う必要はありません。船の大きさにもよりますが、十隻や二十隻程度であっても、陸に引きずり込めば勝てるでしょうから、同じく使う必要はありません。これを切り札として用いるべきは、南蛮軍が三十隻、四十隻に達する場合です。これを殲滅するためには、よほどに大掛かりな仕掛けが必要となる。これは、その時のためのものだとお考えください』


 これに対し、歳久は素早く反応した。
 南蛮軍の数がそれ以上であった時はどうするのか、と。
 この時点で島津軍は南蛮軍の正確な戦力を掴めていなかった。船の数も、大きさも、総兵力も、武装も何もかも。ゆえに、どのような可能性も否定できないのである――決して意地悪で言ったわけではなかった。


 これに対し、雲居は小さく肩をすくめて応じた。
『たしかに。正直、あまり考えたくはありませんが、南蛮軍の数がそれ以上――それこそ五十隻をはるかに越え、百隻近い数である可能性も否定できません。あるいはそれすら越えるかもしれませんね。しかし、たとえそうであっても、この船は切り札になるのですよ』
 たとえば南蛮軍が百隻だとする。そこまで戦力差が広がれば、一戦で勝敗を決するのは難しい。
 しかし。
『弱いならば弱いなりの戦い方があります。猫だましも立派な切り札ですよ』
 そう口にしてから、雲居はふと何かに気づいたように慌てて説明した。
 猫だましとは、相撲において相手の眼前で強く両手を叩くことで、相手の集中力をかき乱す技である、と。


 猫だましは相手の顔の前でやらねば意味がない。
 それについて歳久には異論はなかったが、火船を港に向けた以上、国兼のようにあらかじめ敵に警戒心を植えつけた上で、満を持して黒船を出すという手段は使えなかった。
 ゆえに歳久は正攻法を用いる。
 黒船を中央に据えた陣形を組み、みずからはその先陣に立って南蛮艦隊に突っ込んだのである。


 動かせるすべての関船と小早を盾として、黒船を敵にぶつける戦法。
 形としては島津軍は魚鱗陣で南蛮軍に突撃したことになる。
 これに対し、ドアルテは麾下の艦隊を鶴翼陣――というよりはU字の形に布陣し、島津軍をその内側に誘い込む。
 これはドアルテらしい巧妙さと慎重さの賜物であった。
 元々、島津水軍は南蛮艦隊に対して数で劣り、大きさで劣り、武装で劣っている。ドアルテは、わざわざ島津軍を誘い込まずとも、正面から砲火を浴びせれば十分に勝利を得ることが出来たであろう。


 しかし、ドアルテは完璧を期し、島津軍をみずからがつくりあげた死地に誘った。その上で、正面、左右の三方向から苛烈に砲火を浴びせたのである。
 島津軍はこれを避けるべく懸命に船を動かしたが、三方向から襲い来る砲弾を避ける術などあろうはずもない。
 のたうつように進みながら、刻一刻とその数を減らしていく島津軍。
 このままでは、半刻とかからず、すべての船が溶けるように海上から姿を消してしまうだろうと思われた。



 だが。
 この時点で南蛮軍元帥ドアルテ・ペレイラは、敵将島津歳久が仕掛けた陥穽に陥っていた。
 繰り返すが、南蛮艦隊の火力をもってすれば、正面から砲火を浴びせるだけで勝つことができた。しかし、優れた将帥であるゆえに、ドアルテはより自軍に有利な陣形を築き、島津軍を徹底的に叩き潰そうとしたのである――歳久の目論見どおりに。


 この時、もしガルシアからの報告が届いていれば、あるいはドアルテは歳久の狙いに気づくことが出来たかもしれない。
 しかし、ガルシアは麾下の艦隊の動揺と混乱を鎮めるために、みずからの船を離れることが出来ずにいた。
 先の尋常ならざる爆発音はドアルテの艦隊まで響いていたが、音だけで状況を察することは難しい。敵の火船によって、南蛮船の火薬庫に火が付いたのではないか、と推測するのがやっとであり、またそれが妥当な判断というものであった。まさか敵軍が、蓄えた火薬のほぼすべてをこの海戦に注ぎ込み、あまつさえそれを船に乗せて爆発させたなどと誰が想像できようか。


 
 また。
 島津軍の突撃が形だけのものであれば、ドアルテは不審を覚えたかもしれない。
 しかし、四姫の一人たる歳久が陣頭に立った島津軍の勢いは凄まじく、歴戦のドアルテをして、それが誘いの一手であることに気づかなかった。歳久が気づかせなかった、と言い換えても構うまい。
 結果、降り注ぐ砲弾の雨によって多大な損傷を受けながらも、島津軍は要たる黒船を守りながら、南蛮艦隊の奥深くまで導くことに成功する。


 この時点で、島津兵が次々と船を捨てるのを見て、ドアルテ麾下の南蛮兵は勝利の確信をさらにゆるぎないものとする。
 当然である。敵が船を捨てるのは、いよいよ敗北を免れないと悟った為――南蛮兵にとって、その光景は勝利以外の何物をも意味しなかったのだから。


 だが、その確信は須臾の間に消えうせる。
 彼らの眼前で。
 三十隻の南蛮船によって編まれたU字陣の只中で。
 黒船が爆ぜた。




◆◆◆




 実のところ、二回目の黒船の爆発による直接的な被害は、一回目のそれに及んでいなかった。少なくとも、爆発によって破砕、ないしは転覆した南蛮船は皆無であった。
 ドアルテは島津軍を三方から包囲していたが、ことさら接近していたわけではない。砲撃に必要な距離はしっかりと保ち、あくまで密な砲撃によって島津軍に打撃を与え続けていた。その中央で大量の火薬が爆発したところで、その衝撃は至近の味方を吹き飛ばしこそすれ、周囲に展開する南蛮船を覆すことはかなわなかったのである。


 だが、爆発によって四散する鉄片の被害に関していえば、話は逆となる。
 人の頭ほどもある鉄の破片が四方に飛び散り、船体を傷つけ、甲板上の将兵を襲い、帆を切り裂いていく。ある程度の距離があったため、航行不能に追い込まれるほどの損傷を受けた船はいなかったが、それでもドアルテ麾下の艦隊の多くが損傷した。
 何よりも。
 ほぼすべての兵が、船体を黒く染め、白旗を掲げた船が凄まじい爆発を起こしたところを目の当たりにしたこと――これが大きかった。




◆◆◆  




「――やりおるわッ」
 旗艦エスピリトサントの船上にあって、忌々しげにドアルテははき捨てる。
 つい先刻の黒船の爆発を目の当たりにした衝撃は、南蛮軍に小さからざる影響を与えていた。あの光景と轟音、それによってもたらされた被害はそれだけの威力を持っていたのである。
 この旗艦に限って言えば、ドアルテ自身の目が届き、声が届くため、混乱を鎮めるのはさして難しくはないかもしれない。
 だが、旗艦以外の船はそうはいかない。旗艦から手旗で命令を伝えるにも限度があった。


 この南蛮軍の混乱が収まらないうちに、敵軍は新たに先の黒船と同形の船をこちらに向けてきた。 それに気づいた者たちの口から、驚愕と狼狽の声があがる。ドアルテ麾下の艦隊の多くが今の爆発を目の当たりにしている。十分な距離があって、なおあれだけの被害を受けた。接近を許せば、船ごと吹き飛ばされるのは明らかであった。


 U字陣を敷いたままでは対応できない。そう考えた何人かの船長は、新たに出現した黒船に砲門を向けるべく転舵を試みた。
 だが、すべての船長が同じ考えであったわけではない。ある者はドアルテの指示を待ち、ある者は兵士の混乱を鎮めるために動くことが出来なかった。もっとも不運な船では、そもそも指揮すべき者がいなかった。先の爆発によって飛来した破片が船長の右の腕をもぎとり、副長は腹部を大きく切り裂かれ、両名とも瀕死の重傷を負っていたのである。


 動く船、動かない船、そして動けない船。
 動く船にしても、全員が共通の理解のもとに行動したわけではなく、ある者は面舵を命じ、ある者は取り舵を指示する。
 各処で衝突が生じたのは必然であった。
 歴戦の艦隊にとっては信じられないほどの不祥事だが、それほどまでに先の爆発による衝撃は大きかったのである。


 仮に島津軍が大艦隊を組織して襲ってきたとしても、南蛮軍はこれほど取り乱したりはしなかっただろう。相手が人間であれば、いかようにも戦える。その実績が彼らにはあった。
 だが、爆発する船なぞ見たことも聞いたこともない。そんなものに吹き飛ばされ、命を失うことを受け容れられる者がいるはずはなかった。



 そして、歴戦の将兵が動揺するほどの光景を目の当たりにして、兵士ですらないルイスが平静を保てなかったのは当然であったろう。
 ドアルテの傍らで、ルイスは声を上ずらせて問いかける。  
「閣下、どういたしましょうか?」
 ドアルテは、その声の主を見る。不安げな眼差しであったが、兵士でもない身で取り乱すのをこらえているところは立派である――孫可愛さにも似た気持ちで、そんなことを考えつつ、口を開く。
「落ち着け。はよう負傷した者の手当てをしてやるのだ」
「あ、はいッ、そうでしたッ!」
 飛来した破片で、この船にも被害は出ている。常のルイスなら真っ先に負傷者の治療をはじめていただろうが、そこはやはり平静を欠いていた証拠であった。


 やるべきことをこなすうちにルイスは次第に落ち着きを取り戻しつつあったが、不安が消えたわけではない。
 なにしろ、さきほどの大爆発を起こした船とそっくりの船が、何隻も接近しているのである。不安を感じるな、というのは無理な注文であった。
「か……」
 ルイスは治療の手を動かしながらも、不安に耐え切れずに口を動かそうとする。
 だが、声が押し出される寸前で何とかこらえた。ドアルテの思考を遮ってはならない、という配慮が働いたのである。


 だが、ドアルテはルイスの不安と、ついでに配慮の方も察していたらしい。
 つまらんことを気にするな、と言わんばかりに「ふん」と鼻をならす。
「案ずるな、あのような手はそうそう使えぬ。あれだけの爆発だ、よほどの量の火薬を用いねばなるまいからな」
「は、はい。しかし、万一、ということも……」
「ない、とは確かに言えぬの。接近される前に片付けておくに越したことはない」
 そう言う間にも、ドアルテは周囲の兵士たちに命令を下し、船内の秩序を回復させていく。
 連絡が可能な――つまりは手旗信号を読み取れるだけの余裕のある船に向けても指示を発していく。


 この時、ドアルテは敵の船が爆発することはまずない、と考えていた。
 理由はルイスに口にしたとおりである。実際、南蛮軍からの砲撃を受けた黒船の一隻は、船体から煙をあげつつも、爆発することなくこちらに接近してきている。すべての船が火薬を積んでいるのなら、あの船もとうに爆発していなければおかしかった。


 だが、そういった細かい説明は手旗信号では不可能である。正確に言えば、時間と余裕さえあれば可能だが、この戦場にあって、その二つがあるはずはない。
 それゆえ、ドアルテは一つだけ命令を発した。
 黒船の接近を許した場合、敵の漕ぎ手の動きを見ろ、と。


 敵とて犬死を望んでいるわけではない。本当に火薬を積んでいる船であれば、火を放つ寸前に将兵は海に逃げ出すだろう。先の黒船もそうしていた。
 逆に言えば、どれだけ接近しても漕ぎ手が逃げ出さないのであれば、それは火薬を積んではいないということになる。おそらく兵士を乗せているか、あるいは火薬ではなく、柴などを載せた火船であろう。


 このドアルテの命令は、信号を受け取った船のみならず、旗艦の兵士たちをも納得させた。
 確かに冷静に見れば、新たに現れた船の方は爆発する気配はない。むしろ鈍重な船体が災いして、こちらにたどり着く前に砲撃によって沈んだ船さえ見てとれる。
 落ち着きを取り戻せば、容易に判明することであった。


 だが、未だ艦隊の半ば以上は混乱から脱しきれていない。
 その中の一隻が、砲撃を潜り抜けてきた黒船に接近を許してしまう。
 南蛮兵の一人が海に飛び込んだのは、爆発の恐怖に耐え切れなかったためだろう。そして、その行動はたちまちのうちに船中に拡大した。


 沈む船を見捨てて逃げ出す鼠の群れのような光景に、ドアルテは歯軋りを禁じえなかった。みずからが指揮する艦隊で、こんな愚劣な行動を目のあたりにすることになろうとは。
 もし、あの黒船が火薬ではなく、兵士を載せているのなら、あの南蛮船は容易く拿捕されてしまうだろう。そして、漕ぎ手が逃げ出していないところを見るに、まず間違いなくあの黒船は火薬以外の物――おそらくは兵士を載せているに違いなかった。



 だが。
 幸いにもドアルテの予測は外れる。
 黒船は混乱する南蛮船に目もくれず、そのすぐ近くを通り過ぎただけであった。味方の船を撃つ危険があるため、そして今なお爆発の可能性を捨てきれず、多くの南蛮船がその黒船に対して砲撃の手を止める。


 そして。
 まるでそれを待っていたかのように、その黒船は一直線に進み出した――まっすぐに旗艦に向けて。すなわち、ドアルテの下へ。



 それを見て、ドアルテは即座に敵の狙いを察する。砲撃という手段を封じた上で、直接旗艦を制するつもりなのだろう。
 だが、とドアルテは平静を保ったまま考える。
 すでに旗艦の兵の多くは冷静さを取り戻している。先の南蛮船のような無様な真似はさらさない。ドアルテはその確信を込めて、命令を発した。
「落ち着けッ! あの船は火薬を積んではおらぬ。兵が逃げぬがその証。砲手、落ち着いて船体を狙え。おそらく敵は船に兵士を満載しておる。接近を許すでないぞ、小癪な輩に目に物見せて――ぬッ?!」


 ドアルテは命令を中途で止めた。止めざるを得なかった。
 視界の中で、黒船から逃げ出す敵兵の姿を見て取ったからである。
 一人や二人ではない。何十という数である。それが我先にと逃げ出している。 
 当然のように、旗艦の兵士はドアルテと同じ光景を目の当たりにした。そして、多くの兵士は先のドアルテの言葉を思い起こす。


 敵兵が逃げ出さないということは、その船が火薬を積んでいない証。これはきっとそのとおりだろう。
 だが、それは逆に言えば。
 敵兵が逃げ出すということは、その船に火薬が積まれている証。




 ――そういうことにならないだろうか? 





◆◆◆





 南蛮軍の視線の先で。
 島津軍は、黒船の垣楯の中で身を潜めていた。
 いつ砲撃を受けるとも知れない船の中で、騒ぐことなく、ただ戦う時をじっと待っている猛者たち。
 彼らを率いる新納忠元もまた、配下にならい、腰を下ろしてじっと待ち続けていた。
 ただ、時折その視線が傍らに向けられる。
 そこには間もなく戦を控えているというのに、身を守る防具一つ着けていない二人が座していたからである。


 海の上で重い甲冑をつけて戦う者は、あまり賢いとはいえない。下は海。重い甲冑で身体をよろっていれば、一度落ちれば死は避けられないからである。
 しかし、だからといって身を守る防具の一つもつけずに戦いに赴くのは莫迦のすることであろう。 忠元はその二人を知っていた。彼ら――正確には彼と彼女が莫迦ではないことも重々承知していた。だからこそ、その真意を問いたいという思いが胸中を去らないのだが、それを口にすることは出来ずにいた。


 別に相手が話しかけられるのを拒んでいるわけではない。実際、戦が始まる前には幾度か言葉を交わしている。しかし、その際でも必要以上のことを口にすることが憚られてしまった。
 『鬼武蔵』とあだ名される常の忠元であれば、戦をなめるな、と大声で咎めるであろうに、ついにここまでそれをすることが出来なかったのである。


 気圧されていると言われれば、忠元は頑として否定したであろう。事実、気圧されているという表現は忠元の心情からはやや遠い。
 では、今の気持ちをなんとたとえるべきかと問われれば、忠元はその言葉を探し出すのに苦慮せざるを得ないであろう。なにしろ、こんな思いを抱いたことは、いまだかつてなかったからである。


 その忠元の視界の端で、不意に当の二人が立ち上がった。
 それは何故か、などと忠元は問いかけない。忠元や他の兵たちもまた、敵の旗艦が近づいていることを察して立ち上がった。声をあげないのは敵に気づかれないための用心である。
 ここまで来れば不要の用心であるとも思えたが、逆にここまで来たからこそ、つまらないことでつまづきたくはない。
 やがて、波の音や彼方で響く砲撃音に混じって、敵旗艦の混乱する声が船内に響いてきた。鉄砲の音が聞こえないのは、こちらの目論見どおり、積荷は火薬だと信じ込んでいるためであろう。
 ――つまりは、そういったことを察することができる距離まで近づいた、ということである。


 ここではじめて、忠元は大声で命令を下した。
「焙烙玉、投げ込めィッ!」
 その声に応じ、忠元がよりすぐった島津の精兵が次々に敵船に向けて焙烙玉を投げ込んでいく。
 小さな爆発音と共に、南蛮兵の悲鳴と怒号が耳朶を振るわせる。
「よし、乗り移るぞ。板を渡せ、後方の兵は弓で援護。者ども、島津の興亡、この一戦にありと心得よッ!」
 その声に島津兵は喊声で応じる。
 黒船は構造上、関船よりも高い位置で接舷することが可能である。接近することさえ出来れば、縄や梯子をかけるまでもなく、直接に板を渡して南蛮船に乗り移ることが出来た。



 この時の島津軍は知る由もなかったが、ドアルテ・ペレイラの旗艦エスピリトサント号は、建造から今日まで、ただの一度も敵兵の侵入を許したことがないことで知られていた。
 敗北を知らぬ南蛮軍の中にあって、なお輝かしい光を放つ伝説の一つ。
 それが今日、失われたのである。


 この時の南蛮軍は知る由もなかった。
 今まさに旗艦に乗り移ってきた人物こそが、その伝説を地に叩き落した当人であることを。
 そして、今日という日に失われるものが、その伝説一つではないことを。



 ――終わりが、始まろうとしていた。





[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第八章 火群(八)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:cd1edaa7
Date: 2011/03/25 21:53

 それは不思議な光景であった。
 鎧も兜も身につけず、ただ一振りの刀を構え、白無垢の衣をまとって佇む女性。
 この場所が戦場である、という厳然たる事実を忘れさせるほどにたおやかなその姿は、羽を休めるために船に舞い降りてきた白鳥のようだ、とそんな風に思った者もいたかもしれぬ。


 だから、というべきだろうか。一片の躊躇すら示さず、女性が前に進み出るのを見て、そのあまりにも自然な姿に、南蛮兵は一瞬だが切りかかるのをためらってしまった。
 騎士道、などと表現すれば、南蛮の侵略を受けた国々からは嘲りの声があがるであろうが、国としてはともかく、個々の南蛮兵の中には高潔と称しうる者は存在する。ことにこの旗艦では元帥たるドアルテの薫陶が行き届き、戦場の外で血を流すことを忌み、国を護り、民を守ることこそ騎士の精華、と考える者が少なくなかった。


 だが、この女性――丸目長恵は、いかに外見が白鳥のごとく優美に映ろうと、その内実は猛禽のそれである。ためらいは、すなわち乗じるべき隙であった。


 いっそ軽やかに振るわれた刀の切っ先が、先頭に立つ南蛮兵の左の肩口から右の肩口へまっすぐに通り抜ける。首を断ち切るような真似はしない。骨を切れば、刀の傷みが早まってしまう。敵を討つには、ただ喉元の柔らかい肉を切り裂けば済むのである。
 同じ理由で、長恵は得手としている袈裟斬りを用いることもしなかった。
 今、船上にいる南蛮兵のほとんどはなんらかの防具を身に着けている。海の上であるから、陸よりは軽装といえたが、中には少数ながら全身を覆う板金鎧をまとっている者もいた。そんな南蛮兵に、真正面から刀で挑みかかっていけば、どんな名刀であってもたちまち用を為さなくなってしまうだろうからである。


 切り裂かれた喉をおさえながら、南蛮兵が甲板に倒れ伏す。
 その空恐ろしいまでの正確な一閃に、歴戦の将兵が息を呑んだ。そして、それもまた長恵にとっては乗じるべき隙となる。
 白の戦衣をまとった剣聖が甲板を蹴る。先の南蛮兵が倒れたことで開いた陣列の隙間に、ふわり、と飛ぶように割り込みながら、再びその剣が振るわれる。


 ごとり、と。
 重い音と共に甲板に落ちたのは、長恵の至近に位置していた南蛮兵の手首であった。
 当の南蛮兵は、自分の身に何が起きたのかわからなかったのだろう。奇妙に間の抜けた顔で長恵を見て、慌てて剣を振るおうとして――ようやく、その剣が自分の手ごと切り落とされたことを理解する。
「……あ、ああァァァァッ?!」
 腕から這い登ってくる激痛が、南蛮兵の口から絶叫となって迸った。


 斬られた者にさえ、すぐにはそれと悟らせぬ手練の業であったが、南蛮軍はもはや驚愕を覚えている暇もなかった。
 長恵の剣が翻るたびに、そこには血風と悲鳴が沸き起こる。しかも一度ではなく、二度、三度、四度と続いていく。すべての南蛮兵が倒れ伏すまで止まらず、止められぬかに思われる真紅の連鎖。その刃先にかかった者すべてが命を失ったわけではなかったが、手首を落とされ、肘を断たれ、あるいは腱を切られ、動くこともかなわない彼らに、これ以上戦う力が残っているはずもなかった。


 混乱の中にあって、曲がりなりにも整えられていた南蛮軍の陣列が、ただ一人の剣士によって見る間に食い破られていく。
 刀の損耗を避けるために骨や鎧を出来るかぎり避けたとしても、人を斬れば刀には否応なく肉や脂がこびりつく。刀の切れ味が鈍るという点では、こちらの方がよほど厄介であるはずだが、舞うように繰り出される長恵の剣撃は時が経つほどに冴え渡り、微塵もその影響を感じさせなかった。



「おのれッ」
 その有様を見かね、進み出たのは南蛮軍でもそれと知られた人物だったのだろう。
 大柄な身体から繰り出された一撃は力感に満ち、速さも正確さも申し分ないものであった。並の兵士ならば、受け止めることさえ出来ずに身体を両断され、地面に倒れていたに違いない。


 しかし、長恵は様々な意味で「並」とは縁遠い武人である。
 その攻撃を受け止めることはしなかった。受け流すこともしなかった。かといって、後方に飛んで避けたわけでもない。
 その場から一歩も動かず、ただほんの少し、身体をひねる――長恵が採った行動はただそれだけ。 そして、それだけで十分だった。
 長恵の眼前を剣が通りすぎていく。刃風だけで額を断ち割りそうな豪速の一閃である。もし、この一撃が長恵を捉えていたら、頭蓋ごと頭部を断ち割られていたであろう。


 だが、実際には 剣先で切られた数本の黒髪が、この攻撃の成果のすべて。
 絶対の自信をもって放った一撃をかわされた南蛮兵は、驚愕に目を見開く。
 その南蛮兵に向け、長恵は小さく言葉を発した。
「見事でした」
 見切ったはずの攻撃を、前髪に触れさせた相手への心からの賛辞。
 だが、この南蛮兵は日本語を知らなかったので、その意味を解することは出来ず――かりに理解できたとしても、次の攻撃を避けることは出来なかったであろう。
 

 寸前の回避の動作から、得手とする八相崩しの構えまで瞬き一つの遅滞もなく。
「――ッ!」
 短い呼気に次いで振るわれた長恵の一撃は、相手の左の肩から右の腰へ一条の剣閃を刻みつける。
 一瞬の後、斜めに両断された南蛮兵の身体からは、血と臓物と、鼻を刺す悪臭があふれ出した。
「な……た、隊長ッ!」
「カルロス様ッ?!」
 ドアルテの信頼厚い騎士隊長が、一合すら交えることができずに討たれてしまった。剛速の一閃は、騎士隊長の身体を甲冑ごと断ち切り、しかもそれをなしたのは隊長の半分にも満たない異国の女である。その光景を目の当たりにした南蛮兵の口から、驚愕と悲鳴の声がたちのぼったのは必然であったろう。


 この場にいる南蛮兵は、旗艦に乗ることを許された猛者であり、先刻から続く混乱の最中にあって、なお勇敢に敵兵と刃を交える精鋭中の精鋭である。
 その彼らをして自失せしめるほどに、眼前の光景は現実感を喪失していた。南蛮兵の表情に漂う凄愴さは、起きながらに悪夢を見せつけられた者のそれである。
 人の身では阻めない脅威を災厄と呼ぶのなら、南蛮軍にとって眼前の女性こそ正に災厄そのものであった。




 この時、長恵があえて鎧ごと断ち切る、などというこれまで避けてきた荒技を使ったのは、この表情を引き出すためである。
 エスピリトサント号に切り込むことに成功した者は三十七人。後方から弓矢で援護している兵を含めても、島津軍は六十人に達していない。
 一方、これを迎え撃った南蛮軍は、少なくとも島津軍の倍――おそらくは三倍近いだろう、と長恵は判断していた。ゆえに南蛮兵の士気を殺ぐために、打てる手はすべて打っておくべきと考えたのである。




 兵力に関する長恵の観察は正確であった。
 百五十四名。これがこの時点における南蛮兵の総数であり、敵旗艦への切り込みが成功したとはいえ、島津軍は苦しい戦いを強いられていた。
 もっとも、エスピリトサント号は本来三百名を越える戦闘要員を抱える船である。それが半分近く減じているのは、無論、先刻からの混乱が旗艦を包み込んでいるからに他ならぬ。
 爆発による恐怖に耐えかね、海に逃れた者がいた。先の黒船の爆発によって負傷した者がいた。あるいは、切り込む前に投げ込まれた焙烙玉によって傷ついた者がいた。
 そういった者たちを差し引いた数が百五十四名なのである。


 六十対百五十。島津軍にとっていまだ勝利は遠い。
 だが同時に、かつてないほどに近づいてもいたのである。八十八隻の大艦隊を向こうに回し、この戦況に持ち込めたことこそ、奇跡という言葉では足りないくらいの大戦果であったから。


 この機を逃せば、もはや勝機は再びめぐってくることはないだろう。
 船上にいる島津軍の全員がそのことを承知していた。そして、勝利を得られなかった時――すなわち敗北を喫した時、薩摩の地にどれだけの災厄が降りかかるのか、そのことも。
 ゆえにその士気と勢いは、多勢ながら動揺をぬぐいきれない南蛮兵を圧していく。


 丸目長恵が剣の切っ先であるならば、それに続く島津の逞兵は鋼の刀身。
 護国の刃となって押し寄せてくる島津軍に対し、南蛮軍が受身になってしまったのは避けられないことであったろう。
 ことに眼前で名だたる騎士隊長を討ち取られた南蛮兵は明らかな狼狽を示していた。島津軍がこれを見逃す理由はなく、長恵を先頭として、更なる攻勢をかけていった。



◆◆
 


 南蛮軍を率いるドアルテ・ペレイラは、自軍が徐々に押されていく中、冷静に戦況を見据えていた。
 南蛮兵は大きく数を減じたとはいえ、逆に言えば、今残っている兵士は数々の混乱を耐え抜き、指揮官の命令に従った精鋭たちなのである。完全に動揺が拭い切れたわけではないとはいえ、三倍近い彼らを相手にしては、島津軍とて容易く勝ちを得るというわけにはいかない――そのはずだった。


 しかし、現実は異なる結果を示している。
 その理由は、と問われれば、ドアルテは二つの要因を挙げたであろう。
 一つは無論、白の戦衣をまとう女傑である。ドアルテが手塩にかけて鍛え上げた兵士たちを、次々と屠っていくその力量は恐るべきものがあった。南蛮軍に属していれば、間違いなくエスパーダの称号を――それも上位のそれを与えられているだろう。
 

 女傑と並んで兵を指揮する敵将も侮れぬ。その敵将は妙に小柄で、ともすれば子供にも見えたが、南蛮兵が女傑を囲んで討ち取ろうとすればその包囲を崩し、距離をとって対峙しようとすれば更に押し込み、女傑の武技によって崩れた南蛮軍の隊列を、さらに広く、深く穿っていく統率力は目を瞠るものがある。
 南蛮軍が押されている理由は、この二人以外にありえない。


 ――ありえない、はずなのだが。
 先刻から奇妙なほどに胸が騒ぐ。これが何に由来するものなのか、ドアルテは計りかねていた。
 敵の猛攻に脅威を覚えなかったといえば嘘になる。旗艦に切り込みを許す失態を演じたのは久しくなかったことであり、その点も兵の士気が奮わない理由であろう。
 だが、挽回の手段はある。たとえば、同士討ちを恐れて発砲を控えさせている鉄砲隊に命じれば、敵を殲滅することは可能であろう。いかに女傑が優れた剣士であっても、鉄砲の弾を防げるはずはなく、女傑を討ち取りさえすれば、いかに敵が精鋭であったとしても数を利して押し包めば勝利を得ることは出来よう。


 ゆえに、胸にわだかまる奇妙な焦燥が、あの二人によるものであるという可能性は低いように思われるのだ。
 では、何がここまで胸を騒がせるのだろう。この、全身の毛穴という毛穴が残らず開いたような感覚を、ドアルテはもう三十年近く味わったことがなかった。最後に味わったのは、あれは――




「カルロス様ッ!」
 傍らに控えていたルイスの口から悲痛な声が発される。
 ドアルテもまた、ルイスと同じ光景を見た。
 自身が信頼を寄せる三人の騎士隊長の一人が、先の女傑によって身体を斜めに両断されるその瞬間を。


(いかん)
 ドアルテは咄嗟にそう思った。騎士隊長が討たれた衝撃は無論あるが、それ以上に問題なのは、眼前でその光景を目の当たりにした兵士の動揺を抑えきれなくなることであった。
 これは自ら前線に出なければおさまりがつかぬか、とドアルテは即座に判断し、行動に移そうとする。
 しかし――


「……お待ちを、元帥」
 そのドアルテの行動を遮るように前に出たのは、それまで油断なくドアルテの身辺を守っていたもう一人の騎士隊長であった。
「なんじゃ、ギレルメ」
「元帥は船の中へ。ここは私が引き受けます」
「敵を前にして、逃げよと申すか?」
「あの敵を残らず討ち取ったところで、旗艦に侵入を許した不名誉は消せませぬ」


 その言葉にドアルテは声を詰まらせる。自身、そうと意識していたわけではなかったが、自らの手で敵を討ち、汚名を返上せんとする気負いが、ドアルテの中には確かにあったのだろう。そこを正確に突かれたのである。
「たとえ連中を皆殺しにしたところで、元帥が討たれては南蛮軍が瓦解します。弓矢ならばともかく、鉄砲で狙われては防ぎようがありませぬし、この敵ならば自ら火薬を抱いて突っ込んできたところで不思議ではありますまい」
 だから兵の指揮は自分に任せ、船内に避難するように――ギレルメという名の騎士隊長はそういって頭を下げた。


 その頭の半ば以上から頭髪が失われているのは、過去、とある攻城戦で城壁から投げつけられた煮えたぎった油を浴びてしまったからである。
 その傷跡は頭部だけでなく、顔の半分近くにも及んでおり、はじめてギレルメと相対した者はその醜い相貌から視線を背けるのが常であった。
 元々、ギレルメは有能な軍人として将来を嘱望されていた身であったが、これによって栄達の機会を失ってしまう。軍人として、容姿は不可欠の要素ではないとはいえ、将兵や民衆が怯えを示すような面貌の軍人が前線に立つわけにはいかない。ことにゴアを治めるアルブケルケは、麾下の将兵に能力は無論のこと、容姿の秀麗さをも求めるような為人であるから尚更であった。


 だが、ドアルテはそんなギレルメの下に自ら足を運んで麾下に加わるように請い、ギレルメが幾度謝絶しても諦めず、ついに根負けした形でギレルメが首を縦に振るや、ただちに隊長職に据えたのである。
 以来、十年あまり。ドアルテの燦然たる軍歴を支えてきたギレルメの功績は誰の目にも明らかであり、その容貌を忌避する者は、少なくとも旗艦の中には一人もいなかった。ギレルメに対するドアルテの信頼はきわめて篤く、ギレルメもまた、ドアルテのためならば死をも厭わぬ、と特に気負うでもなく考えていたのである。


 他の者であればともかく、ギレルメの進言を等閑には出来ない。また、その内容も頷くに足りるものだった。
 にも関わらず、その進言を退けようとしてしまうのは、やはりギレルメの指摘したとおり、ドアルテの中に汚名返上を望む気持ちがあるからであろう。
 そう悟ったドアルテは、短く命令を発した。
「……任せる」
「御意」
 つかの間、交錯した互いの視線に何を見たのかは、当人たちにしかわかるまい。


 ギレルメは、三人の兵士にそのままドアルテについていくように命じた。
「護衛は不要ぞ。そこまで老いてはおらぬし、相手はカルロスを討った者だ、全力で当たらずばなるまい」
「元帥ではなく、ルイス様の護衛でありますれば」
「ぬ」
 ギレルメの言葉にドアルテは呻くような声を発し、面白くなさそうな顔で頷くのであった。



◆◆



 エスピリトサント号は三百名を越える兵員を載せることが出来る巨大な船だが、乗船しているのは兵員だけではないのは当然のことである。水夫や料理人、理容師、司祭、ルイスのような従軍医師まで含め、多くの人員が船内での生活を送っている。
 航海には欠かせない要員である彼らも、戦いにあっては船内でじっとしているしかない。無論、彼らもドアルテ麾下の人員である。いたずらに騒ぐような真似はしないが、それでも常になく騒然としている船上の様子に不安を隠せない様子であった。


 ドアルテは彼らの動揺を鎮めるべく声をかけながら、船尾の船長室へ向かった。
 危急の際に指揮官の所在が知れないようでは落ち着くものも落ち着かない。戦況に変化が生じたのであれ、あるいは船内で何かしらの異常が起きたのであれ、船員が真っ先に思い浮かべるのは船長室であろう。それがドアルテが船長室を目指す理由であった。


 そしてもう一つ。この時、ドアルテが船長室に向かった理由がある。
 それは航海日誌をはじめとした重要な書類を、事あったときにすぐに持ち出せるようにしておくためであった。
 おそらく、ギレルメもそれを考えて船内に戻るように進言したのだろう、とドアルテは考えていた。


 それを口に出さなかった理由は簡単である。船長が航海日誌を外に持ち出すのは、航海が終わった時か、あるいは自らの船を捨てる時しかない。
 つまりは今の時点で航海日誌を持ち出す準備をはじめたと知られれば、この戦いに敗北するのではないか、という不安を将兵に与えてしまうのである。


 無論、ドアルテは負けるつもりは微塵もない。
 だが、敵に切り込みを許したことで、わずかではあっても敗北の目が出てしまったのも事実。そしてドアルテが敗れた場合、船内の軍資金や食料、弾薬などの物資が丸々敵の手に落ちてしまうのは避けられない。
 とはいえ、それらの物資は貴重なものとはいえ、代わりとなるものはある。取り返すことも不可能ではない。
 だが、第三艦隊の旗艦であるこの船には航海日誌や今後の作戦行動を記した物、さらにはゴアからの指令をはじめとした軍事機密が山ほど積まれている。その重要さは物資の比ではなく、これを敵の手に渡すことは断じて避けなければならなかった。


 ゆえに、たとえ万が一の可能性に過ぎないとしても、これを運び出すための用意はしておかなければならない。
 そう考えて船長室に戻ったドアルテは、そこで白い眉を急角度にはねあげる。部屋の前にいるはずの兵の姿がなかったのである。
「変ですね、どうしたのでしょうか?」
 同じことに気づいたルイスが首を傾げる。その顔はやや青ざめてはいたものの、それは先刻来の衝撃がおさまっていないためであり、眼前の光景に不吉さを感じたわけではないのだろう。


 ドアルテは小さくかぶりを振った。
 この場を離れないように、という厳命を受けている者たちがどうしていないのか。今の時点でドアルテにわかるはずもない。敵の切り込みを知って甲板にあがったのか、あるいは――
「わからぬ。ルイス、一応さがっておれ。すでに敵が入り込んでおるとも思えぬがな」
「かしこまりました」
 ルイスは促されるままに、護衛の兵士たちの後ろに下がろうとする。


 その寸前だった。
『――がああ、ああァァァァッ?!!』
 医師であるルイスが思わず身を竦めてしまうほどに、苦痛に染め抜かれた絶叫が響き渡る。
 その源が眼前の船長室であるのは明らかであった。


 いちはやく反応したのはドアルテ本人である。
 滑るように船長室に近づくや、待ち伏せを恐れる色もみせずに扉を開く。
 誰が隠れ潜んでいたところで、抜き打ちに切って捨てる自信をドアルテは持っていたが、室内にいたその人物には、身を隠す意思は欠片もないようであった。
 部屋の奥に位置するドアルテの机、その上に置かれていた航海日誌のページを左手でめくりながら、青年はどこか煩わしげにドアルテに視線を向ける。


 一方のドアルテは素早く室内を確認していた。
 部屋の隅には、今なお苦痛の悲鳴をもらしつつ、顔をおさえて床にうずくまっている南蛮兵がいる。顔をおさえる手はすでに真っ赤に染まっており、ドアルテが入ってきたことにすら気づいていない様子である。よほどの激痛に苛まれているのだろう。
 そして、その痛苦を与えたのが、青年が右手に持つ短い鉄の棒のような何かであることは間違いないと思われた。鉄棒の先端をそめる赤黒い液体が、雄弁にその事実を物語っている。


 ドアルテにやや遅れて室内に飛び込んだ三人の護衛兵は、室内の様子を見てとるや、すぐに行動に移った。
 二人はドアルテを守るために青年とドアルテの間に立ちふさがり、一人はうめき声をあげる味方の兵に駆け寄っていく。


 だが、青年はその三人の動きに対し、特に気に留めた様子を見せなかった。
 その視線はドアルテに据えられ、微動だにしない。いつの間にか、煩わしげな表情も消え去っていた。
 防具らしき物を何一つ身に着けていない姿は、先の女傑と酷似している。だが、あの女傑のような武威を感じられず、その外見だけを見れば、なんら脅威とするに足らぬ相手であったろう。
 だが、ドアルテは青年の視線に無視しえないものを感じ取っていた。一瞬でも視線を外してしまえば、次の瞬間、青年の持つ何かが心の臓を抉り取ってしまうかのような、夢想じみた考えさえ脳裏をよぎる。
 強い意志によって濃縮され、さらに尖鋭化された戦意。あるいは敵意。ドアルテの長い軍歴の中でも、ここまでのものを浴びせられた経験は数えるほどしかない。



 何者か。
 その問いをドアルテが発するよりも早く、青年が動いた。
 穏やかな――そう形容することも出来そうな声音で、青年は口を開く。
「南蛮軍総司令とお見受けする。それがし、この国の士にて雲居筑前と申す者。願わくば尊名をうかがいたし」
 ドアルテはその言葉を理解できた。言葉を返すことも出来なくはなかった。だが、元帥ともあろう者が異教徒の言葉に堪能である、と将兵に知られることはあまり好ましいことではない。
「ルイス」
 呼びかけられたルイスは、怪我人を気にする素振りを見せたが、ここで勝手に動いてはドアルテたちの邪魔になると考え、衝動をこらえつつ、口を開いた。


「こちらは南蛮軍第三艦隊を率いるドアルテ・ペレイラ元帥であります、倭国の武士よ」
 流暢な日本語が返ってくるとは思っていなかったのだろう。雲居と名乗った青年は一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに表情をあらためた――というよりは、驚きを凌駕するほどの喜びを覚えたようであった。
「第三艦隊を率いる、元帥、か……」
 雲居は左手に持ったままであった航海日誌に今一度視線を向け、今度ははっきりとした笑みを浮かべた。
「返答を感謝します。それは何にもまさる良き知らせ」
 一瞬、ルイスは自分が相手の言葉を解しそこねたか、と不安になった。
「良き知らせ、ですか?」
「いかにも。八十八隻もの艦隊を率いながら、旗艦に切り込みを許すがごとき将が元帥とは。生憎、そちらの文字は解せぬが、図や数字を見るかぎり、これ以上の増援はなしと判断できる」


 つまりはこの海戦に勝てば、南蛮軍に勝てるのだ。
 この部屋に山と積まれた情報があれば、たとえ南蛮軍が再来しようとも恐れるに足りぬ。知らないからこその脅威。あらかじめ知っていれば、いかようにも対処できる。 


 いかなる遠慮も躊躇も、もはや不要。
 雲居はそう言ってもう一度微笑むと、航海日誌を机の上に放り投げ、右手に持った鉄の棒を音高く開いた。
 それが鉄扇という名の道具であることをルイスが知るのは、もうすこし先の話。
 この時、ルイスはそれが何なのかを知らず。
 ただ雲居の声を聞いていた。穏やかでありながら、灼けるような戦意に満ちた、その声を。



 ――では、死合おうか、元帥殿。





[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第八章 火群(九)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:cd1edaa7
Date: 2011/03/27 10:04

「では、死合おうか、元帥殿」


 青年が発したその言葉を聞き、ドアルテは眉間に皺を寄せた。
 眼前の相手を恐れたわけではない。どれだけの戦意を内に秘めていようとも、青年の武威が女傑に届かないことは明白で、それはつまりこの場での勝敗ははや明らかになったということでもある。
 五対一。ルイスを除いても四対一。だが、たとえ護衛の兵がいなくとも、ドアルテは青年にひけをとることはなかったであろう。それだけの力量差が、この場で対峙する両者の間には存在する。


 にも関わらず。
 何故、先刻から続く胸騒ぎが消えないのだろうか。むしろ消えるどころかますます胸奥で荒ぶり、もはや悪寒に等しくなっている。
 脳裏に鳴り響く警鐘の源は疑いなく青年である。しかし、その武は恐れるに足りぬ。では、何がこうも引っかかるのか。敵船に切り込んでおきながら、勝利よりも情報を求めた相手に対する警戒か。 否、そんな難しいものではないような気がする。何かもっと別の、もっと単純な――だが、それゆえに致命的な何かを見過ごしているような気がしてならなかった。


 奇妙に悠然とした青年の言動。胸奥を苛む理由の分からぬ焦燥。
 ドアルテの目に宿ったそれを青年は読み取ったのだろうか。その口が再び開かれた。
「――もう一人は、どこにいると思う?」
 先刻、ドアルテは青年への返答をルイスに委ねた。相手はドアルテが日本語を解することを知らないはずである。だが、なにかしら感じるものがあったのかもしれない。この時、青年の眼差しはルイスではなく、まっすぐにドアルテに向けられていた。


 そして、その言葉は的確にドアルテの肺腑を抉る。   
 そう、ドアルテは船長室にたどり着いた時、こう考えた。
『この場を離れないように、という厳命を受けている者たちがどうしていないのか』
 ――厳命を受けている者たち、と。


 見張りにせよ警護にせよ、単独では危急の時に不覚をとってしまう。ゆえに兵たちに二人一組での行動を叩き込んだのはドアルテ自身である。
 そして、部屋の中にいたのは一人のみ。
 あの時は、船上の様子を見に行ったのかと考えたのだが、一人が残っていた以上、二人一組での行動を叩き込まれたもう一人が別行動をとったとは考えにくい。
 ――もう一人はどこへ消えた?


 その答えは、四対一という状況にありながら、微笑すら浮かべてこちらを見据えている青年の不可解な態度の答えでもあるはずだった。
 そこまで考えを進めた時、ドアルテは気づく。背後から殺到する気配に。


 ドアルテは自ら扉を開けて船長室に踏み込んだ。部屋の中央には青年。護衛の兵のうち、二人はドアルテと青年の間に立ちはだかり、一人は部屋の隅で苦しむ見張りの兵のもとへ駆けつけている。
 そして――ルイスはドアルテの後ろに控えていた。
 それはつまり、後方から襲い来る刃の一番の標的になっているのはルイスである、ということであった。





◆◆◆





 それは錦江湾の戦が始まるより少し前のこと。
 俺は島津家の将である新納忠元から、一つの提案を切り出された。

 
「長恵を、そちらに?」
 俺は訝しげに問い返す。
 その俺に対し、忠元は小さく頷いてみせる。
「左様。此度の戦、すべてが上手く運んで敵の船に切り込めたとしても、数の上で我らの不利は免れぬ。これを覆すために、剣聖の力を借りたいのだ」
 その忠元の言葉に、俺はわずかに目を細める。相手の言わんとするところは理解できるが、安易に頷ける話ではない。なにしろ、俺は俺で敵の懐に潜り込まなければならないのだ。護衛なしでは成功が覚束ないのである。


 敵の情報など船を制圧してからゆっくり探せばいい――そういう意見もあったが、仮にも一軍の旗艦である。そう簡単に制圧できるはずはない上に、いざとなればそういった機密書類は処分されてしまうだろう。
 それに、たとえ旗艦を制してこの戦に勝ったとしても、南蛮国の戦力や情報が判明しなければ、薩摩は今後も長く敵の影に怯えなくてはならなくなる。いつ何時、水平線の彼方から何十隻もの軍艦があらわれるかも知れない生活なぞ俺はごめん被りたい。当然、薩摩に暮らす人々もそう考えるだろう。


 ――無論、すべては薩摩のためを思っての行動であるなどとおためごかしを言うつもりはない。その情報は吉継を救うために欠かせぬものであり、ひいては大友家に染み付いた南蛮という名の泥を掃うために必要なものでもあった。
 だからこそ、失敗は許されない。そのためにも長恵を身辺から離すわけにはいかなかったのである。




 隣で話を聞いていた長恵も難しい顔をしている。
 もっとも、それは忠元の提案を言下に拒絶する表情ではなかった。
「新納殿の手勢だけでは心もとない、と?」
「正直、わからぬ。同数であれば必ず勝つ。倍の敵であっても負けるつもりはない。が、敵の旗艦にそれ以上の兵がいた場合に備え、もう一手ほしいのだ」
「……そうですね。師兄をお守りするのが私の役目ですが、それに拘って島津軍が敗れてしまえば本末転倒というもの。しかし、だからといって私がお傍を離れ、師兄に何事かあれば姫様に申し開きが立ちません」


 この時、長恵が話の主導権を握ったのは、俺を気遣ってくれたからだろう。人と話をする気分ではなかったので有難い。
 どちらかといえば、忠元もそれを望んでいたようだった。あまり自覚はなかったが、よほどに俺の様子は常軌を逸しているように見えるのだろうか。


 俺がそんなことを考えているうちに、長恵はとんとん拍子に話を進めていく。
「雲居家から私という兵を借り受けようというのですから、当然、島津家から代わりの兵を貸し出してくれるのですよね?」
「無論だ。もっとも丸目殿と同等の力量を持つ者、というのは無理な話ですぞ。将来は知らず、今の時点で丸目殿の代わりが務まる者がいるなら、そもそも貴殿に力を貸してほしいなどとは申さぬゆえな」
「それは当然。しかし、最低でも私が、私の代わりに師兄をお守りできるだけの力量を持つ、と判断できる者でなければ、この話、肯うわけには参りませんよ」
「それは直に確かめてもらった方が良かろう。幸いというか、知らぬ顔でもないというしな」 


 そう言って忠元が招き寄せた人物を見て、長恵が目を丸くする。
「あれ、藤兵衛じゃないですか」
「……お久しゅうございます、師父」
 物堅い顔、物堅い声、そして物堅い動作で、藤兵衛と呼ばれた人物は深々と頭を垂れる。
 俺より頭一つ高そうな身長、かすかにかすれたように聞こえる声は低く重い。物堅い印象とあいまって、俺より少なくとも五歳は上だろうと思われたのだが、よくよく聞いてみると、実際は逆で五歳年下だそうだ。大きな声では言えないが、忠元とは実に対照的な若者である。


 年に似合わぬ貫禄を備え、老成という言葉がぴたりとあてはまるこの若者、相良家に仕えていた当時の長恵の弟子であったそうだ。
「拙者、瀬戸口藤兵衛と申す。見知り置いてくだされ」
 そういって師に劣らぬ篤い礼を呈する藤兵衛に悪い感情など抱きようがないが、果たしてこの若者を死地に伴っていいものか、俺は戸惑わざるを得ない。


 だが、長恵は俺のそんな迷いを見抜いたように、こくりと頷いてみせる。
「藤兵衛なら安心です。冗談も風流も解さない子ですけど、剣の腕は図抜けていますから」
「……一つのことにしか手を伸ばせぬ不器用者にござる。せめて雲居殿の足を引っ張らぬように努める所存」
 長恵が認め、本人が承知しているならば、俺に異存はない。
 俺は承知した旨を忠元に告げると、目を閉ざして座り込んだ。考えるべき事柄は山のようにあって、一分一秒でも惜しかったからである。
 その俺の姿に三者三様の視線が向けられていることは承知していたが、あえて気にする必要を俺は認めなかった。





 そして開戦。
 戦が始まって後、俺がしたことと言えば、船の中でただじっと待つこと――それだけであった。
 戦況がどうなっているのか、などと気にかけたところで詮無きこと。策をすべて出し尽くした上は、突入の刻を待つことしか俺には出来ないし、それ以外のことをするつもりもなかった。


 結果として、島津軍は敵旗艦への切り込みに成功し、剣聖が巻き起こした颱風で南蛮兵が混乱に陥った隙を突き、俺と藤兵衛は船内への潜入を果たした。
 もっとも、潜入といってもこそこそと身を潜めていたわけではない。そんなことをすればかえって目立ってしまう。時間がないこともあって、俺たちはむしろ堂々と顔をさらして歩き出した。


 不審の目が向けられなかったわけではない。
 藤兵衛の武装は最小限、俺にいたっては防具の一つもつけていないとはいえ、服装や髪の色から、俺たちが南蛮人でないことは明白である。そんな二人組が悠然と船内を歩く姿を見咎められないはずはなかった。
 だがこの時、大半の兵士は甲板にあがっており、船内に残っていた者の多くは武器らしい武器を持っていなかった。藤兵衛の腰にある刀を見て、口を噤んだ者も少なくない。
 無論、刀を恐れず、大声をあげて兵士を呼んだ者もいたが、船の上から響いてくる激しい戦いの音がその声を掻き消してしまう。しつこい者には藤兵衛の当て身で黙ってもらったが、戦いの喧騒は船内の人々の冷静さをも奪い、俺たちの歩みを援けてくれた。


 この時、船長室の場所を捜してうろうろしていれば、さすがにまずかったろうが、俺は船内に入るや、まっすぐに船尾を目指していた。
 軍船の船長室は基本的に船尾にある。あえて旗艦だけが造りを変える理由はないし、仮に違っていたとしたら、その時は改めて捜せばいい。
 どこを、と問われれば、俺はこう答えただろう――この状況にあって兵士が立っている部屋を、と。
 ましてこの二つの条件が重なり合っていれば、船長室を特定することは造作も無いことであった。




 俺と藤兵衛は短く言葉を交わした後に行動に移る。
 扉の前に立っていた一人は藤兵衛がほとんど一瞬で意識を刈り取った。ここに来るまでの道のりでとうにわかっていたが、やはり長恵が太鼓判を押すだけあって、年に見合わぬ恐るべき使い手だった。将来はさぞ名のある剣豪になることであろう。
 だが、その技に感嘆している暇はない。俺は間髪いれずに部屋の中に踏み込んだ。
 中にいたのは一人。室外からの物音はほとんど聞こえなかったはずだが、それでも異常を察していたのだろう。あるいは俺たちに気づいたわけではなく、船上の喧騒から、敵兵が船内に侵入してくることを想定していたのかもしれないが、いずれにせよ俺が侵入するや、間を置かずにカトラスが襲い掛かってきたのは事実であった。


 侵入者の額を断ち切るために振り下ろされた刃が、ほんの一瞬だけ勢いを緩めたのは、俺の無防備な姿があまりに予想外だったからだろうか。
 その真偽は不明だが、おかげで俺はその一撃を避けることができた。
 その俺の背後で扉が閉ざされる。無論、藤兵衛の仕業だが、別に裏切られたわけではない。一対一なら助太刀無用とあらかじめ俺が言っておいたのである。船長室を任された兵が弱兵であるはずもないが、混乱と動揺に苛まれる南蛮兵一人を制する程度のことは俺にも出来る。
 藤兵衛の仕事は船長室の異変を悟られないようにすることと、悟られた場合の保険となることであった。







 そして。

  
「では、死合おうか、元帥殿」
 

 ことさら大仰にそう口にしたのは、南蛮兵の注意を俺に引きつけるためであった。
 俺は吉継にこう言った――南蛮軍を片付けたら、すぐに行く。待っていてくれ、と。
 ゆえに死ぬつもりなど微塵もない。それなら本陣でじっとしていろ、それが無理ならせめて鎧くらい着ろ、と吉継には怒られそうな気もするが、そこは勘弁してもらわねばなるまい。


 繰り返すが、俺はことさら死地に身を投じたつもりはなかった。勝算があったればこそ、こうして多対一の状況に身を置いていた。
 だが、同時に俺はこうも思っていた。眼前の四人――日本語を話した少年を含めれば五人を相手にしても負けはしない、と。
 それほどにこの時の俺は浮き立っていたのである。そうでもなければ、言葉や態度のどこかに不自然さが混ざってしまっていただろう。それを思えば、これも一つの怪我の功名であったのかもしれない。





◆◆◆





 それは一瞬の出来事だった。
 室内に踏み込んできた瀬戸口藤兵衛の刃はルイスに向かって突き出され。
 その刃からルイスを守るべく動いたドアルテの身体に、深々ともぐりこみ、貫通した。


 この時、ドアルテはルイスを己が胸元に引き寄せ、その身体をかばうためにあえて敵兵に背を晒した。鎧で刃をはじくように咄嗟に計算したのである。
 しかし、藤兵衛の刀は背甲の隙間にすべりこみ、ドアルテの右の胸部を、背から胸にかけて抉りぬいている――明らかな致命傷であった。


 ドアルテの胸に抱かれる形となったルイスは、ドアルテの動きも、背後から迫っていた藤兵衛の動きにもほとんど気づいていなかった。ゆえに、ただ目の前で震える刀の切っ先を――ドアルテの身体を貫き、その血で濡れた刀の切っ先を見て、呆然とすることしか出来ない。


 護衛としてついてきた兵士たちは、ルイスよりもはるかに戦いに慣れていた。
 それでも、眼前の光景が信じられないという一点で、ルイスとなんら異なることはない。
 三人の兵士は声も出せず、行動にも移れなかった。南蛮軍にあって、軍人の鑑とも謳われる人物の身体を敵兵の刃が貫いているのだ。それを見て、咄嗟に動ける者などいようものか。


 ドアルテの口から赤い何かが吐き出される。それを見て、はじめて兵士たちの硬直は解けた。
「げ、元帥閣下ッ?!」
「ペレイラ様ッ!!」
 彼らは慌ててドアルテを助けようと動き出す。が、その動きはあまりに遅きに失した。
 彼らが寸前まで対峙していた相手は、南蛮兵の動揺を見過ごすほどに甘くも優しくもなかった。


 滑るように前に出た雲居が、手に持っていた鉄扇を声もなく一閃させた。
 開かれた扇はすでに元の形にもどり、一本の鉄の棒となっている。それを呆然とする敵兵のこめかみに叩き付けたのである。まともに対峙していれば、避けることも受けることも出来たであろうが、今の南蛮兵にそれは望むべくもない。
 こめかみを強打された南蛮兵はもんどりうって床に崩れ落ちる。
 この時点で南蛮兵は残り二名。だが、すぐにそれも一名減った。ドアルテを討った藤兵衛が、短刀で南蛮兵の一人を斬り捨てたからである。


 元々、乱戦において突きを放つことは望ましいことではない。敵兵を討ったとしても、すぐに敵の身体から刀を引き抜くことが難しく、自らの得物を失う恐れがあるからだ。
 藤兵衛があえてこれをしたのは、狭い室内、それも五人の敵がいる状況では刀よりも短刀の方が良いと判断したためである。要は一人討ったところで、刀から短刀に持ち替えるつもりだったのだ。一度きりしか刀を使わないのであれば、あえて突きを避けなければならない理由はない。

  
 かくて、あっさりと――あまりにもあっさりと、この場における勝敗は確定した。
 ほどなく残りの一名も藤兵衛によって討ち取られ、床に倒れた兵もとどめを刺される。
 残るはルイスただ一人。


 ――いや、正確にはまだ二名、残っていた。


「……ふん、ぬかったわ」
 奇妙に感情の感じられない声が、ドアルテの口からこぼれ出る。それは当然であった。この時、ドアルテは何故かあえて日本語を使っていたからである。
 だが、ルイスはその不自然さに気づかず、ただ目を見開き、慌てるばかりであった。
「か、閣下ッ、お、お、お待ちください、すぐに手当てを……」
「……よい。手遅れである、ぐ……手遅れであることは、誰よりもお主が知っていよう。それよりも……」
 そう言って、ドアルテは視線を敵兵へと向ける。
 それを見て、ようやくルイスも今の状況に思い至ったらしい。ただでさえ血の気がうせていた顔色がさらに悪くなり、青を通り越して土気色に変じていた。


 わずかに身体に残った力を使ってルイスを脇に寄せ、ドアルテが何事か口にしようとしたときだった。当のルイスがドアルテの制止を振り切って思いがけない行動に出た。
 敵兵の眼前で地に足をついて頭を下げ、裏返る寸前の高い声で懇願したのである。
「お、お願いします、武士殿。どうか、閣下に――お義父様に手当てをすることをお許しくださいッ! それが済めば、この身を切り刻んでいただいて構いません。ですから、どうかお願いします!」
 ルイスはそう言うや、床に頭をこすりつけるように平伏した。それゆえ、言葉の途中に相手がかすかに眉を動かしたことに気づかない。気づかぬままに懇願を繰り返した。


 だが、相手からは一言の返答もなされなかった。
 それは迷いゆえの沈黙ではない。答える必要のない問いに対する沈黙であることに、ルイスは気づいた。気づかざるを得なかった。いかにルイスが戦に疎くとも、敵の元帥の代わりに従卒を討って満足してくれ、などという請いが容れられるわけがないことは理解できる。
 だが、ここで諦めては――その思いで、ルイスはもう何度目のことか、口を開こうとした。次の瞬間にも鉄靴が頭蓋を蹴り砕くかもしれない、そんな恐怖に耐えながら懇願の言葉を発しようとする。


 そのルイスの頭上に鉄靴ではなく言葉がふってくる。
「南蛮軍は一人たりとも生かしておかぬ。まして元帥を見逃すなどありえぬこと。少年、その望みをかなえたいのであれば、剣を取れ。俺たちを討つ以外に、君の望みをかなえる術はない」
 その声は決して優しくも暖かくもなかったが、どこかに人の情を感じさせた。少なくとも、ルイスにはそう思われた。


 だが、その内容はやはり冷厳としたもである。
 ルイスはそもそも剣など持っていない。たとえ持っていたとしても、目の前の相手を斬れるはずはなかった。
 おそらく相手もそれは察しているだろう。ルイスが剣を持っていないことなど見ればわかる。それでもあえて、剣を取れ、と口にしたのは倒れた南蛮兵のそれを握れと示唆したものと思われた。
 きっとこの青年――雲居筑前と名乗った相手はこう言っている。それだけが、今この時、自らにできる最大限の譲歩なのだ、と。


 これを受けないのであれば、ドアルテと共に容赦なく殺される。
 ルイスにはそれが理解できた。
 だが、たとえ剣を取って歯向かったとしても、どのみち結末はかわらない。
 歯向かうことも出来ず、懇願することも出来ず。身体を包む震えと絶望に、ルイスの視界の半ばが覆われようとした時だった。
「……ルイス」
「閣下……?」
 瞳に涙を湛えながら振り向くと、そこには苦笑に似た表情を浮かべるドアルテがいた。


「……それでは、交渉にならぬよ……ふん、最後の土産には、相応しからぬ、が。お前に、手本を……見せて、やろう……」
 そういって、紅く染まった口元に明らかな笑みを浮かべたドアルテは右手を胸元に差し込んだ。
 何気ない動作であったが、おそらくは渾身の力を振り絞っているのだろう。その額には無数の雫が浮かび上がっている。


 そして、いかにも自然な動きでドアルテが懐から取り出したものを見た時、それまで冷然とドアルテを見据えていた雲居の眉間に雷光が走った。
 一方で、その傍らに控えていた藤兵衛は怪訝な表情を隠せずにいる。短い筒のようなそれが何なのか、藤兵衛は知らなかったのである。




 雲居が苦々しげに口を開いた。
「……短筒、か。そういえばカブラエルも持っていたな」
「……なるほど……妙に、此方への恨みが、感じられるから……もしや、とは思ったが……」
 雲居が口にした人名から、何事か察したのか。ドアルテの顔から笑みが掻き消えた。


 形勢が逆転したかに思われたが、雲居の声はなお落ち着いていた。
「しかし、火薬の準備もなしに弾は出ないだろう」
「……ふん、どうかな……? 戦の最中だ、準備はしていたかも知れぬ、ぞ。あるいは……火薬を、用意する必要のない、新式の銃……かもしれぬ」
「ならば撃ってみろ」
「あいにく、これは一発限りでな……貴様を撃ったところ、で。わしも、ルイスも……隣の兵に、斬られて、しまう……」


 それでは意味がない。
 では、何を求めてこんな行動に出たのか。ドアルテはそれを口にした。
「……どのみち、わしは……もう助からぬ。こうして、話しているだけでも……じきに。貴様も、それを承知して……こうして、しゃべらせているのだろう?」
 雲居は口を開かない。ドアルテは気にする様子もなく言葉を続けた。あるいはもう、そんなことを気にする余裕もないのかもしれない。


「ふん、この身は兵士。敗れて死ぬは、もとより……覚悟の上。なれど、そこなルイスは……兵、ではない。医師で、あり……司祭である……南蛮軍を、一人たりとも生かしておかぬ、と貴様は言った……だが、ルイスは……軍人では、ないのだ」
 そして、ルイスと同じ立場の者は他にも大勢いる。ドアルテは短くそう続けた。


「だから、助けろと?」
「わしが……今、貴様を撃たぬ代償として、な……悪い話では、ないと思うが……?」
 にやり、と笑った瞬間、ドアルテの口から、これまで吐いた量を上回る血が吐き出された。
 それを目の当たりにして、ルイスの口が悲鳴の形に開くが、そこから声は発されなかった。ただ笛が壊れたような空虚な音が、その口からはひゅーひゅーと漏れるばかり。



 そして。
 当のドアルテは。
 苦しげに血を吐きながら、それでもなお短筒を握った右の手を、雲居の眉間に据え続けていた。 
 やがて吐血はおさまったが、それは小康状態に戻ったというよりは、吐ける血をすべて吐いてしまったからであろう。もはやその顔色は死者のそれであった。
 にも関わらず。
 最後に発された声はいまだ明晰さを保っていた。


「……もう、時間もない。返答を聞こうか……小僧」


 自らを討った若者に対する敵意と称賛を複雑に溶け合わせた呼びかけ。
 その口元は笑みの形をとったが、それがいかなる感情によるものであったかはドアルテ本人にしかわかるまい。
 だが、すくなくとも嘲笑ではなかったことだけは確かである。それがわかるくらいにドアルテの表情は穏やかであった。全身を苦痛に苛まれていたであろうに、微塵もそれを感じさせない。


 それは、蝋燭の炎が消える寸前に一際強く輝くようなものだったのかもしれない。
 だが、たとえそうであっても、迫り来る死を前に毅然と敵と相対するドアルテの姿は、確かに他者を惹きつけるに足るものであった。



 ――雲居をして、その首を縦に振らせるほどに。





 薄れいく意識を、半ば無理やり手繰り寄せていたドアルテは、それを見てわずかに息を吐き出す。
 そして、ふと気づく。負傷するずっと以前から、己を苛んできた焦燥。いつだったか、それを感じたことがあったように思ったのだ。それを思い出した。


 あれはもう三十年以上も昔のこと。当時、ドアルテはアルブケルケと敵味方に分かれて争っていた。その最後の戦い――すなわちドアルテがアルブケルケの膝下に屈した、生涯ただ一度の敗北の記憶。この戦いでドアルテが覚えた感情は、あの時のそれとほぼ重なるのである。
(ふん……だからどうだというわけでもないがの……)
 そんなことを考えながら、ドアルテは自分の意思によらず、ゆっくりと瞼が閉ざされていくのを感じていた。視界に映るルイスの泣き顔に、せめて一言なりと声をかけたかったが、もうそれだけの力も残っていないようだ。


(……すまぬ、な)
 すべてに向けたその思いを最後に。
 常勝を謳われた南蛮軍元帥の意識は、闇に沈んだ。




◆◆◆




 この時、船上では島津軍新納忠元の手によって最後の騎士隊長であったギレルメが討ち取られており、南蛮軍の被害はもはやとどめようがなくなっていた。
 そして、ほどなくしてドアルテの死を知らされた南蛮兵たちにもはや抗戦する気力は残っておらず。
 彼らは船から身を投げて敵兵から逃れ、あるいはみずからの剣を首にあてて敬愛する元帥に殉じていった。


 南蛮軍第三艦隊旗艦エスピリトサント号の船上から南蛮軍の軍旗が引きずりおろされ、島津軍の『丸に十字』が掲げられたのは、それから間もなくのこと。
 だが、ほとんとの南蛮兵は咄嗟にその意味するところを察することが出来なかった。
 ドアルテ・ペレイラ元帥が座す敵兵不可侵の軍船に何が起こったのか。背筋を這い回る悪寒に抗しつつ、南蛮兵はその事実を受け容れることを拒む。
 だが、いかに拒もうとも、彼らの視界から十字紋が消え去ることはなかった。やがて、否が応でも南蛮兵は悟らざるを得なくなる。すなわち、旗艦が敵の手に落ちたのだ、という厳然たる事実を。


 海戦において旗艦を失うことは、陸戦において総大将を討たれることと同義である。錦江湾に翻る十字紋を見て、南蛮軍の士気が挫かれたのは致し方ないことであった。ましてや元帥たるドアルテの死を知って、なお戦いを継続するだけの気力が兵たちに湧くはずもない。


 ――無論、元帥であるドアルテが倒れても、なお南蛮艦隊は残存しており、その戦力は強大であった。事実、この後も南蛮軍と島津軍の戦いは数日に渡って続く。
 しかし、その強大な戦力を実際の戦に反映させる元帥をなくしては、どれだけ多大な戦力を抱えていようとも意味を為さない。
 ニコライ・コエルホ。ロレンソ・デ・アルメイダ。そしてガルシア・デ・ノローニャ。
 いずれも指揮官として有能有為な人材であったが、全軍を統率する力量においてドアルテに優る者はおらず、ゆえに第一次南蛮戦争の趨勢が決したのは、ドアルテ・ペレイラが倒れたこの日、この時であった――そう断じてかまわぬであろう。



 島津軍は、南蛮軍に勝利したのである。



◆◆◆



 九国の南の外れで起きたこの海戦は、多くの者たちにとって寝耳に水の出来事であった。
 はるばる海を越え、異国の軍勢が大挙侵攻してくるなど誰が想像できようか。
 ゆえにこの結果を注視していたのは、それを誘導した者たちのみ。彼らの目に燃え落ちる艦隊の炎が映らぬはずはない。映って、すぐに信じられるはずはない。


 だが、それこそが事実。
 ありえるはずのなかった結果が、ありえたはずの未来をかき乱し、自らの企みが音を立てて瓦解していく様を見て、彼らはしばしの間、呆然としてなすところを知らなかった。


 ――この時、呆然としている彼らはある意味で幸せだったのかもしれない。
 ――自らのもとへ迫り来る脅威を知らずにいることが出来たのだから。
 



[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 幕間
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:cd1edaa7
Date: 2011/05/16 22:03

 山城国 二条御所


 足利幕府第十三代将軍、足利義輝は楽しげに笑っていた。元来、義輝はその地位職責に比して闊達な為人で知られているが、それでもここまで機嫌が良いのはめずらしい。常日頃将軍に近侍する者たちでさえ、こんな義輝は滅多に見ることは出来なかった。
 この上機嫌の理由は、義輝の視線の先で深々と頭を垂れて恭順の意を示す者たちにあった。
 義輝の凛とした声が謁見の間に響き渡り、遠来の臣の名が呼ばれる。
「久しいの、輝虎――いや、今は謙信と呼ぶべきであるか。壮健そうで何よりじゃ」
「恐れ入りまする。殿下に置かれましてもご健勝の様子、臣としてこれにまさる喜びはございません」
 恐縮した態で言上する謙信に対し、義輝はさも愉快そうにからからと笑った。
「ふはは、貧乏将軍としては、せめて健康くらいは保たねば幕府が成り立たぬからのう。ともあれ、遠く越後よりよう来てくれた。しかし――」
 そう言って義輝は謙信のやや後方で、同じように頭を垂れている人物に視線を移す。視界に映る紅茶色の髪に向けて、義輝は笑みを含んだ声を発する。
「越後の守護と守護代が揃って来るとは思っておらなんだわ。長尾政景、であったな。面をあげよ」


 義輝の声に応じ、政景はゆっくりと顔をあげる。
 はじめて将軍家の膝元である京の二条御所を訪れたにしては、その顔に不安も動揺も感じられない。完璧に近い礼儀作法で、しっかりと将軍に相対する様は軍神、聖将と称えられる上杉謙信と並び称されるに足る威厳を感じさせた。
 だが、政景をよく知る者であれば、その顔にめずらしく、ほんのわずかに緊張の色がたゆたっていることに気づくことが出来たかもしれない。


 その政景の口がゆっくりと開かれる。
「殿下にはお初にお目にかかります。越後守護代、長尾政景にございます」
「うむ、よう来てくれた、政景。余が義輝じゃ。見知りおいてくれい」
「ははッ」
 将軍の口からみずからの名が呼ばれるのを聞いた政景は深々と頭を下げる。その頬には、おそらく感激のためだろう、かすかに朱がのぼっていた。





 雪に閉ざされた越後の国へ将軍家の密使が訪れたのは年が明ける前のこと。
 それからまだ一月あまり。にも関わらず、この短期間で越後の頂点に立つ二人が揃って招きに応じて京の都に姿を現したのである。将軍として、配下の忠誠と献身に喜びを覚えるのは当然のことであったろう。
 とはいえ、たとえ将軍家に招かれたとしても、守護と守護代の二人が共に国を空けるなど通常では考えられないことである。義輝としては管領待遇の免許を与えるため、また宮中への参内などのために謙信自身の上洛は欠かせないと考えていたが、まさか政景までが上洛してくるとは思っていなかった。もちろん書状でもそこまで求めてはいない。


 つまり、謙信はともかく、政景の上洛に関しては完全に上杉家独自の判断なのである。
 越後の国がいかに安定しているといっても、守護と守護代がそろって国を空ければ不測の事態は起こりえよう。にも関わらず、政景が上洛してきたということは、将軍家に対する越後の忠誠が、いかに深きかを物語る証左であるといえる。
 この越後側の対応には将軍はもとより、近習の者たちも感激しており、彼らが越後の主従に向ける眼差しは篤い好意に満ちていた。



 もっとも。
 上杉家はただ将軍家への忠誠を示すためだけに、国の頂点に座す二人を他国へ出したわけではない。特に守護代たる政景にとっては、将軍家への忠勤を示す以外にも様々な理由を秘めた上洛であった。
 無論、謙信はもちろんのこと、政景にしても将軍家への忠誠はしっかりと胸に抱いている。しかし、どうせならこの上洛を上杉家の次手の布石としよう。そう考えていることも事実であった。


 ――そう。決して、謙信一人が再び上洛して都の風韻に浴する一方、自らは雪に閉ざされた越後で政務にまみれるなど不公平きわまる、などという子供じみた考えで上洛の一行に加わったわけではないのである。


 ……上杉家の重臣たちの中で、その政景の主張を容れた者がどれほどいたかは定かではないが、政景いうところの次手、すなわち数年来、越後の内外で燻っている諍いと、その背後で蠢動しているとおぼしき勢力に対する反撃の布石として、今回の上洛を位置づける策に対しては多くの者が賛同を示した。
 だからこそ、政景はこうして京の地を踏むことが出来たのである。




◆◆◆




 少し時をさかのぼる。


 将軍家の密使から、上杉家に管領相当の待遇(従来の二つに加えて、新たな五つの免許)を与える、という将軍の内意が伝えられ、上洛を求められた謙信は、ただちに重臣を春日山城に集める。
 その重臣の雄なる一人である越後守護代長尾政景は、雪深い道をかきわけて春日山城に到着し、将軍家の意向を知るや、常にない勢いで口を開いた。


「これは好機ね!」
 謙信、兼続、定満、さらには弥太郎や段蔵らが集まった席で、政景はそう断言した。
 その政景の勢いに、謙信がやや戸惑ったように問い返す。
「たしかに、殿下のお考えは上杉にとってこれ以上ないほどの栄誉ですが……?」
 公の場ではともかく、私的な話し合いの場では謙信はいまだに政景に対して、一族中の目上の人間として丁重に接している。その言葉は丁寧なものだった。


 一方の政景は、基本的に相手が目上であろうと目下であろうと態度をかえる為人ではなかった。もちろん、それは礼儀知らずであるという意味ではない。
「『ですが』なんていらないでしょ。いい、謙信? 越後一国の守護が、関東管領殿をすっとばして管領相当の待遇を与えられるだなんて、望んだって得られない栄誉だわ。上洛といっても兵を率いて来い、というわけじゃないんでしょ?」
 その政景の問いには兼続が応じた。
「は。御使者によれば、殿下は『必ず兵を率いて』とは仰っていなかった、と」
「やっぱりね。それは要するに言うまでもないと思われたんでしょ。わざわざ雪深いこの時期を選んで上洛を求められたということは、雪が解ける前に謙信に関東管領殿を掣肘できる権限を持たせたいってことに違いないわ」


 関東管領上杉憲政の存在は、越後の重臣たちにとって頭痛の種である。
 その関東管領を上回る権限が謙信に与えられるのならば、これは実に喜ぶべきことであった。謙信が憲政を掣肘すれば、関東の騒乱の半ばは解決できる。北条家との間で盟約を交わすことも可能となるだろう。そうすれば、北条は関東の経略に、上杉は北陸の経略に、共に専念することが出来るようになる。将軍家にしてみれば両家に恩を売ることができると同時に、上杉が京の地に近づけば、その分連携も取りやすくなる。


 今回の件は、上杉にとっても、北条にとっても、そして将軍にとっても損のない話である。
 政景はそう主張し、他の者たちもこれに同意した。大方の者たちははすでに政景と同様の結論に達していたのである。
 だが、それをはっきりと口にしたのは政景が初めてであった。それというのも――


 一同のなんとも言えない視線を受け、政景は小さく肩をすくめた。そして、その視線を一人の麗人に向ける。
「ああっと、別に関東管領殿が邪魔だとか、厄介者だとか、いっそさっさと謙信にその席を譲り渡さないかしらこの数寄者は、とか思ってたわけじゃないからね、秀綱。ま、それに近いことは考えていたけど」
「政景殿ッ!」
 あまりといえばあまりの政景の物言いに、謙信の鋭い声が飛んだ。


 だが、話しかけられた当の本人は穏やかに(さすがに少し苦笑が混じっていたが)微笑むだけで、特に憤った様子を見せなかった。というよりも、そう思われて当然の関東管領の行状であることを秀綱――大胡秀綱改め上泉秀綱は承知していたのである。
「越後の皆様の厚情には、憲政様はもちろんのこと、上野の業正様も、私も感謝を禁じえぬところ。此度の上洛に関してもお役に立てることがあるのであれば、なんなりとお申し付けくださいますよう、これは憲政様のお言葉でもあります」
 そういって秀綱が頭を下げると、艶やかな黒髪がさらりと揺れ、ほのかな薫香が立ち上った。




 上杉憲政が越後に逃れた当初から、秀綱はその護衛役として越後に出向いている。
 とはいえ謙信の庇護を受けて安楽に暮らしている憲政は、特に護衛を必要としておらず、また業正の配下に目付けのように日常を監視されることも好まなかった。
 そのため、秀綱は憲政や業正の名代という形で春日山城に詰めており、もっぱら越後上杉家の用を務めてきたのである。


 その秀綱が正式に越後上杉家の家臣に名を連ね、姓を改めてからもう二年近くが経つ。だが、それで秀綱の役割――越後と上野の橋渡し――が変わるわけではない。秀綱自身、以前とかわらず上杉憲政や長野業正へ臣礼をとり続けており、謙信もそれを諒としていた。
 だからこそ、先の政景の発言は関東管領である憲政はもちろん、秀綱に対しても礼を失するものであるとして謙信は注意を促したのである。


 もっとも、この政景の態度は今に始まったことではなかった。
 元々、政景は憲政個人に対してなんら敬意も好意も抱いていない。それどころか、越後に厄介事を持ち込んできた輩として忌避すらしており、それは上杉の重臣たちの間では周知の事実であった。
 無論、政景は関東管領に対して公然と礼儀を欠くような振る舞いはしなかったが、謙信の心底からのそれと比べれば、政景の態度はとても褒められたものではなかったであろう。


 政景の本音をいえば、蹴り飛ばしてでも憲政をとっとと上野の平井城に送り返してやりたいところなのである。そうしないのは守護である謙信の意向を尊重しているからに過ぎない。
 ただ、政景は越後国内にあってほとんど唯一、公然と謙信に異見を掲げることができる存在である。もしも本当に憲政の滞在が越後に一利ももたらさないようならば、謙信と言い争ってでも憲政を上野に逐ったであろう。少なくとも無為の滞在を数年もの間、許すことはなかったに違いない。


 越後守護代たる政景がまがりなりにも関東管領の滞在と、それにともなう面倒事を甘受しているのは、それが越後にとって少なからぬ利益をもたらすからに他ならぬ。
 その利益とは、すなわち上野の長野業正の存在であり、ひいてはその下にいる上泉秀綱であった。越後が憲政をかばう限り、業正は越後の盟友であり続ける。かつての関東遠征で業正と戦場を共にした政景は、業正の武将としての能力はもとより、その為人をきわめて高く評価していた。その業正を実質的に越後の麾下におけるからこそ、政景は今日まで関東管領の滞在に目を瞑ってきたのである。


 無論というべきか、秀綱を春日山に引き抜いたのも政景の仕業である。越後から申し出られてしまえば、業正も、そして秀綱当人も否とは言いにくい。
 恩義を盾に他家の家臣を望むやり方は褒められた行いではなかったろう。しかし、自身で平井城を訪ねた政景が口にした「この程度はしてもらわないと引き合わない」との言葉は、まぎれもない政景の本心であった。
 それと悟った業正は苦笑をこぼすこともならず、老いた相貌に曰く言いがたい表情を浮かべつつ、こくりと頷いたそうな。


 

 かくて、幾つもの思惑を孕みつつ、上杉憲政は越後に留まり続けているのだが、その存在は年を経るごとに越後にとって重荷となってきている。
 そろそろ本格的に手を打たないと、なし崩し的に関東で北条家とぶつかることになりかねぬ、とは皆が等しく危惧するところであった。
 それゆえ、重臣たちは政景が口にした「好機」とはこの関東の問題を一挙に片付けることの出来る機会、という意味であると捉えた。
 その解釈は決して間違いではない。だが、政景の言葉にはもう少し奥行きがあった。
 すなわち、政景はこう続けたのである。


「この際だから」
 政景はそう言って、やや声を低める。
「家成と吉長の争いの件も片付けちゃいましょ」
 政景が口にしたのは、秋口から続く上野、下平両家の領土争いのことである。
 それは政景の言葉を聞いた全員が了解したが、あの件と今回の上洛がどのように重なるのか、と内心で首をひねった者も少なくない。


 政景は言葉を続ける。
「あの二人の争いに他国が絡んでいるらしいってのは謙信から聞いてるわ。本願寺だがどこだか知らないけど、武田と越後の家臣の密書まで偽造したからには、狙いは上杉と武田の仲違いで間違いないでしょ。ついでに国内でもあたしと謙信の不和を撒き散らして、上杉家そのものを弱体化させるってところか。今になって急に蠢動し始めたってことは、近々大きな動きを見せるつもりなんでしょうね」
 そこで政景は一旦言葉を切り、けれんみたっぷりに続けた。



 そこで肝心要の二人が越後から消えると知ったら、連中はどう動くかしらね、と。




◆◆◆




 越後国 春日山城


 城中の一室で、重臣筆頭の直江山城守兼続はいつにもまして仏頂面で政務を執っていた。
 時折頭痛をこらえるようにこめかみを揉み解しながら、押し殺した声で呟く。
「……つまりは自分も謙信様と京に行く。政景様にとってはそのための『好機』であったというわけかッ」
「あ、いや、そ、それはどうでしょうか? わ、わたしにはわかりかねますです、はい」
 たまさか執務室に顔を見せていた小島弥太郎は、兼続の恨み節に何と答えたら良いものか、とあたふたしつつ、かろうじてそう返答する。
 かつて一介の足軽であった少女は、戦に政に多くの経験を重ね、今では一廉の武将として上杉家にその人ありと称えられるまでになっている。
 それに従い、仕草や言葉遣いにも相応の落ち着きが出てきているのだが、予期できない事態に遭遇すると、かつてのようにあわあわと慌ててしまうこともあった。ちょうど今のように。


 もっとも、謙信と離れ離れになっている現在の兼続が始終不機嫌であるのは十分に予想できることである。そのとばっちりが来る可能性に思い至っていないあたり、予測と洞察に関して弥太郎はまだ甘い、とは共にやってきた加藤段蔵の密かな呟きであった。


 その呟きを発した当人は、こちらは慌てる様子もなく簡潔に答えを返す。
「――しかし、確かに守護代様の仰ることも一理はあります。今この時、越後の守護と守護代が揃って姿を消したと知れば、相手も何かの策略かと疑って行動を躊躇するかもしれません」
 その段蔵の言葉を受けても、兼続の不機嫌はなおも鎮まった様子を見せない。
 それは謙信と別行動を強いられたことに、今なお納得できていないからだろう。
 守護と守護代に万一の事態があった場合、越後を統べなければならないのは重臣筆頭の兼続である。政景からその旨を言い渡され、謙信からも頼まれたので不承不承頷きはしても、護衛らしい護衛も連れずに京へ向かった謙信一行のことを考えれば、不安に思うなというのは無理な話であろう。


 段蔵の推測を肯定するように、兼続の口から出た言葉からはまだ苛立ちが感じられた。 
「逆にここを先途と動きを活発にするかも知れないぞ」
「それはそれで、こちらとしても相手の動きを掴みやすくなります。それゆえに守護代様は私も越後に残るように言われたのでしょう」
 それを聞いた兼続の声に、わずかに悔しげなものが混ざる。
「まったく……突拍子もないことを言い出しておきながら、肝心要なところはしっかりおさえるから始末に困るのだ、政景様はッ」
「その点に関しては、全面的に同意いたします」


「あ、あはは……」
 弥太郎はそんな二人の横で困ったように乾いた笑いをこぼしていたが、これではいかん、となんとか兼続の心労を和らげるべく頭をひねる。
「で、でも大胡様――じゃなかった、上泉様もご一緒ですし、そんなに心配することはないんじゃないかって思うんですけどッ」
 だが、兼続は渋い表情でかぶりを振った。
「確かに謙信様と政景様、それに秀綱殿がおられれば、その威は衆を圧するに足りる……足りるが、三好や松永は先の上洛でもかなりの数の鉄砲を揃えていた。あれから数年、田舎の越後と違い、堺を統べる彼らの保有する鉄砲の数はかつてとは比較になるまい。まして京は奴らの庭のようなもの。油断はできないだろう」
「そ、それは確かにそうですね……」
 兼続の返答に弥太郎は頷くことしかできない。


 今回、将軍の命に応じて上洛したのは謙信と政景、そして上泉秀綱のみであった。無論、護衛や小者らも含まれるが、それでも二十人に達しない。実はほぼ同数の軒猿の手錬が密かに護衛の任についているのだが、彼らをあわせても越後の一行の総数は五十に届かないのである。
 上洛となれば、将軍家や公家などへの貢物も欠かせないのだが、今回に限ってはそれも用意していなかった。というより、用意している暇がなかったのだ。
 先の上洛と異なり、武力と財力、この二つの後ろ盾がない状況ではどんな事態が起こるか知れたものではない。兼続が不安を消せない理由はここにあった。


 もっとも都に着きさえすれば、青苧の取引などを通じて越後と深い付き合いのある豪商たちが幾人もおり、当座の費用は彼らから融資してもらえるので資金不足に陥ることはないだろう。
 今日まで異変を知らせる使者が到着していないということは、今頃は無事に都に着いているはず。そう考えながらも兼続はなお不安を消すことが出来ず、その兼続の補佐として越後に残された弥太郎と段蔵は、そんな上役をなだめるために言葉を尽くさなければならなかったのである。



◆◆



 兼続の不安をなだめる側にまわった弥太郎と段蔵であったが、当然二人とも謙信たちの安否については程度の差こそあれ案じてはいた。
 特に段蔵の危惧は兼続に優るとも劣らないほどに深い。だが、両者の考えには若干の違いがある。
 実のところ、段蔵は三好や松永の策動に関しては、兼続ほどには危惧していなかった。


 三好家の影響力を考えれば、上杉家が管領待遇を許されるという今回の秘事はまず間違いなく漏れているだろう。
 だが、それでも彼らが武力を用いる可能性は限りなく低い、と段蔵は判断していた。
 三好家にとって上杉家の権威が増すのは望ましいことではあるまいが、たとえそうなったところでいくらでも対処のしようはあるのだ。なにしろ本物の管領は三好家の領内に健在なのだから。
 なにより三好、松永は征夷大将軍を庇護しており、いざとなれば上杉に与えられた待遇を取り消すなり、有名無実化するなり、あるいはなんらかの不名誉をおしかぶせるなり、打てる手はいくらでもある。
 この状況であえて武力を用いる必要はない。それは四方の群雄に上洛の大義名分を与えるだけの愚策に過ぎず、先の上洛において「動かない」という選択肢を選び、上杉、武田両軍を本国に追い返した三好家の君臣がそのことに気づいていないはずはない。それが段蔵の結論であった。



 段蔵が案じているのは三好家ではなく、むしろ三好家に敵対する者たちであった。
 世のすべての人間が理屈で行動するわけではない。理非、利害をわきまえずに暴走する者はどこの国にも存在する。そして、暴走を装って利を得ようとする者もまた。
 特に今回は上杉側が兵を率いていないため、即時報復の恐れがない。三好家の仕業を装って、上杉の一行に手出しをしようと目論む者がいないとは限らないのである。あるいは、それを装って本当に松永あたりが動く可能性もないとは言えぬ。


 錯綜する思惑がどんな事態をうみ出すのか、現段階では推測も容易ではない。しかし、舞台は雪深い辺鄙な越後ではなく、権謀術数の渦巻く京の都である。どれだけ考えても、考えすぎるということはないだろう。
「京の闇は越後よりもずっと深い……でしたか」
 兼続の執務屋を辞し、兵の教練に向かう弥太郎と別れてから段蔵はひとりごちた。





 実のところ。
 段蔵は今回の上洛について、積極的に賛同したわけではなかった。
 関東の騒乱、越後国内の争い、それにともなう他国の蠢動――今回の上洛は、そういった近年の越後を悩ます問題を一挙に片付ける好機であるとの政景の主張には、段蔵も理を認めている。
 だが、だからこそというべきか、いささか時宜にかないすぎている、という疑念を段蔵はことの始まりから抱いていたのである。


 端的に言って、上杉にとって今回の上洛はあまりに都合が良すぎるのだ。それこそ、上洛をしない、という選択肢が選べないほどに。


 だが、今回の将軍の招請が何者かの誘いの手だとしたら、何者が、何を企んでいるのだろうか。
 もっとも可能性が高いのは、謙信を都に誘い出して謀殺しようとしている、といったあたりだろう。
 しかし、将軍を動かせる三好、松永といった者たちがこの時期にあえて謀略で謙信を除く必然性はない。本願寺あたりから依頼があったとしても、事に及べば悪名をかぶるのは、依頼した側ではなく、実行に移した三好家である。本願寺であれどこであれ、三好家が他家のために悪名を甘受しなければならない理由はないだろう。
 くわえて言えば、たとえ成功したとしても、謙信という股肱の臣を謀殺された将軍が怒り狂うのは火を見るより明らかであり、京は一触即発の状況に置かれることになる。この時期、三好家がそんな危険を冒すとは考えにくかった。


 他にも幾つかの可能性を考えてはみたが、そのいずれも立案、実行、結果のどこかで矛盾が生じてしまう。考える者、実行する者、利益を享受する者、この三つを一本の線で結ぶことが出来ないのである。
 これに関して、段蔵は宇佐美定満とも話し合いをもったが、定満もまた段蔵と似たような疑念は抱いていても、今回の上洛が何者かの罠であるという確信を持つには至っていなかった。


 杞憂であれば良いと願いつつ、段蔵は上洛前に謙信と政景、秀綱に対して、一つの可能性として自分たちの考えを告げ、注意を促した。
 謙信たちは真剣な顔で段蔵の考えに頷いてくれたし、一行を影から護衛する軒猿を率いているのは頭領――すなわち段蔵の祖父である。ゆえに滅多なことはあるまいと思うのだが、それでも段蔵の胸裏を覆う不安の雲が晴れることはなかった。



 とつおいつ考えていくうちに、知らず段蔵はかすかに嘆息をこぼしていた。その唇の間から愚痴にも似た声がこぼれでる。
「まったく……こういう時こそ御身の出番でしょうに。どこで何をしているのですか、主様?」
 やや恨みがましい響きを宿したその言葉は、発した当人以外、誰の耳に届くこともなく、春日山城の廊下に溶けていくのだった……




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第九章 杏葉(一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:cd1edaa7
Date: 2011/06/15 18:56

 薩摩国 内城


 軍議の間で歳久、家久の姉妹を待っていた俺は、柱に刻まれた刀傷を見つけ、わずかに目を細めた。
 先の南蛮軍との戦いにおいて、薩摩島津家の本拠地である内城は一時的に南蛮軍に占領される憂き目を見た。その後、島津軍は激闘の末にこれを奪還し、城内の修復も進んではいるのだが、それは目に付くところを取り繕っているに過ぎない。
 怠慢だ、などと非難するつもりは無論ない。現在の島津家に、城内の修復に人手を割く余裕がほとんどないのは、俺も重々承知していた。
 承知していたからこそ、俺は今もまだ薩摩に残っているのである。



 錦江湾にて島津軍が南蛮艦隊を破ってはや十日。南蛮軍の元帥であるドアルテを討ちとり、実質的な勝利を手中に収めた島津軍であったが、戦火はいまだ薩摩から去ってはいなかった。
 残敵の掃討、と言えば聞こえはいいが、ドアルテが討たれた後も南蛮艦隊は半ば以上が健在であり、これを撃ち破ることは決して容易なことではなかったのである。


 南蛮軍、ことに下級の兵たちは元帥の死や度重なる敗北で戦意を喪失している者も多く、そこまでいかずとも戦力の再編と休養を求める者が大半を占めていたが、一方の島津軍にしても火薬船等の切り札を使い果たしており、すぐに南蛮軍を追い討つだけの余力は残っていなかった。
 島津家の府庫はすでに空に近く、内城やその周辺の復興を考えれば、戦に割ける費用は零に等しい。再度の海戦は戦力的にも、また財力的にも非常に厳しいものがあったのである。



 それでも島津軍は――そして俺もまた南蛮軍が去るに任せるわけにはいかなかった。
 錦江湾で敗れた南蛮艦隊は、追撃がないと分かれば、態勢を整えるためにムジカに向かうだろう。
 先の戦いでいくらか戦力を減じたとはいえ、彼らがムジカで補給と修復を済ませ、指揮系統を立て直してしまえば、再びこれを討つのは困難を極める。否、いっそもうはっきりと不可能と断じるべきかもしれない。それは南蛮軍の恐るべき火力を目の当たりにした者であれば、誰もが感じずにはいられない恐怖であった。
 ゆえに、南蛮軍が元帥を失い、士気を阻喪しているこの機に乗じて叩けるだけ叩き、潰せるだけ潰しておかねばならなかったのである。


 島津軍が余力を残していない状況にあって、どうやって敵を叩くのか。
 これに関してはことさら目新しい策は必要ない。自軍に物資が無いなら、奪った敵軍の物資を活用するまで。
 この場合の物資とは拿捕した南蛮船のことである。
 今回襲来した南蛮艦隊は規模の大小はあれ、すべて戦船で構成されていた。当然、船内には軍資金はもちろん、食料、武器弾薬などが豊富に蓄えられている。
 

 中でも特に重要なのは大砲だ。
 俺は島津軍の諸将とはかってこれらをすべて小早に乗せた。
 錦江湾の戦いで用いた戦術と同じだが、大砲の数が揃わず、決定打になりえなかった前回と違い、今回は十分すぎるほどの数が揃っているので、かなりの戦果が期待できるだろうと考えたのだ。それに小早であれば、関船と違い、現在の島津軍でも数を揃えるのは難しくなかった。
 

 俺が一番心配していたのは、これらの準備をしている間に南蛮艦隊がさっさと錦江湾を離れてしまうことだったのだが、幸いというべきか、南蛮艦隊の動きはそれほど素早くなかった。
 あるいは、南蛮軍は元帥を失った混乱から立ち直ることが出来なかった、と評するべきかもしれない。それは先の海戦後の南蛮艦隊の動きを見ても明らかで、内城沖から離脱した艦隊は二手に分かれたのである。
 桜島を挟んで北と南、船舶の数は南北ともほぼ同数。先の戦いで捕虜にしたルイスという少年によれば、北の艦隊はロレンソ・デ・アルメイダ提督が、南の艦隊はガルシア・デ・ノローニャ提督が、それぞれ率いているという。


 聞けばこの両者、常日頃から事あるごとに角つきあわせる間柄であるという。
 その意味で俺たちは幸運に恵まれたというべきかもしれない。もっとも、両者の進路が分かれたのは別に互いを嫌いあったからではなく、先鋒と後詰という当初の配置から最善を尽くした結果であろうけれど。
 本来であれば、俺たちは南に向かったガルシア艦隊を先に討っておくべきであった。なんとなれば、そのままムジカに向かわれるのを防ぐことにも繋がるからである。
 しかし、島津軍が先に矛先を向けたのは北のロレンソ艦隊であった。これは、ルイスの情報により、ロレンソという人物の方がガルシアよりも与しやすいと判断したからである。くわえて、内陸側に逃げたロレンソが、万一薩摩なり大隅なりに上陸してしまえば、ムジカに逃げられるよりももっと面倒なことになりかねないという危惧も、この決断を下した理由の一つであった。


 結果として、この判断は吉と出た。
 月の隠れた夜、ひそかに南蛮艦隊に忍び寄った家久率いる島津軍は、至近距離からの大砲の一斉砲火によって、新たに十を越える南蛮船を沈めることに成功する。その代償として、島津軍は新たに鹵獲した大砲のほとんどを失ってしまったが、これははじめから覚悟していた損害であった。
 すでに当初の勢いと戦意を失い、指揮官同士の不和をも抱えていたロレンソ艦隊はこの奇襲に対応しきれず、島津軍は苦戦というほどの苦戦を経験することなくこれを撃破することに成功、千近い捕虜を得てその士気は高まるばかりであった。
 ロレンソの旗艦とこれを守る数隻の船は逃してしまったが、ただ一夜にしてのこの戦果は快挙と言って差し支えなかったであろう。
 


 だが、勝利に沸く島津軍にも不安要素は存在した。
 桜島の南で不気味に沈黙を続けるガルシア・デ・ノローニャ率いる南蛮艦隊である。
 すでにガルシアの艦隊は三十隻を下回るが、いまだに錦江湾から出ようとせず、桜島の南岸に船をつけ、島津軍の動向をうかがっていた。
 これは此方の戦力を見極め、隙あらば再度の襲撃をしかけようとしているのだと思われた。あるいはそう見せかけることで、こちらを牽制し、ロレンソ艦隊の退却を援護しようとしているのかもしれない。
 ガルシアが島津軍をおさえている間に、ロレンソが大隅側の水路から離脱し、ガルシア艦隊と合流する、という作戦は誰もが考え付く有効なものであった。
 もっとも、ロレンソはそれに気づかなかったか、あるいは気づかないふりをしたのか、あくまで内城を狙う姿勢を崩さず、結果として家久の奇襲に遭ってしまったのだが。



 ともあれ、ガルシア艦隊が内城を直撃することが可能な位置にいる、という事実は島津軍の作戦行動を大きく阻害した。この艦隊の存在がなければ、ロレンソを取り逃がすこともなかっただろう。
 ガルシアが島の北側の戦況をどれだけ把握しているかは定かではなかったが、島津軍がロレンソの艦隊を撃破した後もガルシアは依然として動かなかった。
 このため島津軍も警戒を絶やすことが出来ず、両軍は今なおにらみ合いを続けているのである。


 島津軍にしてみれば、将兵の緊張は解けずに疲労は積もるばかり、住民を呼び戻すことができないため城や町の復興も思うように進まない。ただにらみ合っているだけとはいえ、その影響は着実に島津家の根幹を侵しつつあった。
 一兵も損じず、一矢も放たず、敗勢を覆そうとするガルシアの動きは恐るべきであったが、南蛮軍とてこのままでは食料や弾薬の補給ができず、異国の地で立ち枯れるのを待つばかりだろう。なにがしかの打開策があるのか、それとも島津軍が耐えかねて動き出すのを待っているのかはわからなかったが、偵察によれば南蛮兵たちの顔は明らかな憔悴を見せているという。


 その報告を聞き、俺は相手の思惑を察したように思った。
 ガルシアは島津軍の現状を知らない。こちらから攻めて出ないことから、こちらの戦力に余裕がないことは察しているだろうが、だからといって追撃も難しいほどに困窮しているとまでは読めていないだろう。もしそこまで読んでいるなら、とっとと退くなり、攻めるなりしているだろうから。
 ゆえに退くもならず、進むもならず、というのが今のガルシア艦隊の状況なのだろうと思われた。
 そして、それは島津軍もほぼ同様である。
 互いに攻め込む決め手がなく、かといって相手に歩み寄ろうとすれば、自軍の苦境を知らせるようなもの。
 膠着した戦況は打開の糸口が見えないまま、ただ時間だけが無為に過ぎ去っていった。




◆◆




 ……俺にとって、今の戦況はある意味で敗北よりもなお性質が悪かった。敗れたなら敵に討たれて終わりだが、敵を討ちながら、なお身動きがとれない今の状況は焦燥ばかりかきたてる。
 胸が潰れる、という言葉をここまで実感したのは久しぶり――というより、ほとんど初めてのことだ。
 それでも、ここで焦って行動すれば、これまで積み重ねたものを水泡に帰してしまいかねない。そうして考えに考えた末、俺は一つの案を思いつくにいたり、今、こうして歳久たちと相対しているのである。


 

「人質を解放する?」
 怪訝そうな顔で俺の提言を聞いていた歳久は、聞き終えるや柳眉を逆立てた。
 その顔色があまり良くないのは、先の海戦の最中、冬の海で泳ぐ羽目になったからである。あれからすでに十日あまり。ここにいることからも明らかなように、すでに床払いは済ませていたが、落ちた体力が元に戻るにはまだしばらくかかりそうであった。


「それってニコライさんやルイスさんのことだよね?」
 こちらは不思議そうな顔の家久である。
 おとがいに手をあてて小首を傾げる姿はいかにも可憐であったが、その実、歳久が身動きとれない状態であったため、今日まで島津軍の総指揮をとっていたのはこの家久なのである。その指揮は文句のつけようがなく、敵の指揮官の一人であるニコライ・コエルホを捕らえたのも家久であった。今の家久の姿をロレンソ艦隊の兵が見れば、自分たちはこんな少女に追い立てられていたのかと驚愕するに違いない。


 そんなことを考えつつ、俺は二人に頷いてみせた。
「はい。あの二人だけでなく、捕虜にした南蛮兵も。無論、ただ解放するのではなく、条件付きで、ですが」
「当然です。ルイスという少年はともかく、ニコライとやらは家久が苦労して捕らえた敵の提督の一人。それにこれまでに虜囚とした南蛮兵はすでに千名をはるかに越え、二千に近いのですよ。それを無条件で解放などさせるものですか」
 俺に鋭い視線と声音を向けてくる歳久を見て、家久は、まあまあ、と興奮する姉をなだめた。
「ほら、歳ねえ落ち着いて落ち着いて。捕虜にした南蛮の兵士さんたちがいろんな意味で負担になってるのは事実なんだし、筑前さんの案を聞いてみようよ」
 これを聞き、歳久は不承不承といった様子ではあったが、一応こちらの話を聞く姿勢を示した。


 家久が口にした「負担」といいうのは、南蛮兵の処遇をめぐって島津家中でおきている騒ぎを指す。 言葉も通じず、無闇やたらとこちらを恐れ、常に反抗の気配を漂わせる南蛮兵に対しては、すぐにもこれを皆殺しにすべき、と主張する者は多い。捕虜が蜂起する危険はもちろん、彼らを食べさせる負担も、今の島津家にとっては決して軽くないのである。
 一方で、今は捕虜を殺すべきではない、と唱える者も少なくなかった。といっても、こちらは思惑は様々で、戦い終わった後の敵将兵に対しては寛大に接するべしと考える者もいれば、殺すにしてもすぐに楽にしたりはせず、労役で死ぬまでこき使ってやればいいと言う者、あるいは帆船や大砲といった異国の技術を習得するため、彼らは生かしておくべきであると主張する者までいて、城内では毎日のように議論が交わされている。
 それは時に議論の枠を越えて激論(口も手も出るようなやつ)にまで発展することもあって、家中に黙視できない空気が醸成されつつあった。このため、歳久たちはこの問題に関して早期に決断を下すことが求められていたのである。


 そんな中で、捕虜を解放するという案を唱えたのは、多分俺が最初であろう。
 無論、南蛮兵に情けをかけたわけではない。というより、俺の心ははっきりと処刑側に傾く。
 そもそも南蛮軍とて、使者の一人も差し向けずに他国へ侵略してきた以上、事破れればどうなるかは覚悟の上のはず。捕虜の処刑を非道だと謗る権利などないだろう。
 それに現実問題として、これまでの一連の戦いで捕虜とした千名以上の南蛮兵が一斉に反抗をはじめれば、これを制圧するのは容易なことではない。今なおにらみ合いを続けるガルシアの艦隊がその機に攻め寄せてくれば、再び内城を奪われる可能性さえあるのだ。
 ここで禍根を断っておく理由は枚挙にいとまがないほどであった。


 にも関わらず、俺が捕虜解放を口にした理由は、これが南蛮艦隊を実質的に無力化する一手となりえると判断したからである。
 人質の解放には身代金が必要。これは古今東西、どの国であってもかわりはあるまい。俺が口にした条件とはつまるところ身代金のことである。もっとも要求するのは金ではないが。


「金銭ではないとすると、食料でも要求して飢えさせるつもりですか?」
 歳久の言葉に俺は首を横に振った。
「それも考えましたが、長い航海で腐りかけの水や保存食を得ても、島津家にとっては意味はないでしょう。要求するのは武器です。剣や鎧ではなく、鉄砲や大砲、火薬の類ですね」
 南蛮軍の強さとは、ようするに火力である。南蛮人自体の運動能力や武芸が卓越しているというわけではないのだから、火力さえ奪ってしまえば、これを討つことは十分に可能だろう。無論、火力を失ったとはいえ、数千に及ぶ南蛮兵は十分な脅威ではあるけれども。


 それにこちらであれば、苦労して捕らえた南蛮兵を引き渡す代価として家臣たちの納得も得られると思われる。
 俺がそういうと、歳久は鋭い眼差しをやや緩めて考え込む仕草をした。
「……それは確かにそのとおりですね。大砲は無論、鉄砲も火薬も喉から手が出るほど欲しい物です。まして南蛮の新式であれば尚更に」
 ですが、と歳久は続ける。
「そもそも向こうが頷かぬでしょう。あれらとて、火器を奪われれば戦力が致命的な不足を来たすことは十分に承知しているはずです」
 これを聞いて、家久が追随するように頷いた。
「そうだねー。捕虜を引き渡すかわりに鉄砲とか全部よこせーって言ったとしても、十のうち、一か二くらい渡して誤魔化そうとするんじゃないかな。こっちも向こうがどれだけの数を保有しているかなんてわからないわけだし――」


 と、家久はそこで小さく首を傾げたと思ったら、ぽんと両手を叩いてみせた。
「あ、そっか。わかるよね。筑前さんが敵の旗艦から持ち帰ってきた書類にみんな書いてあるもの」
「御意。それゆえ、ごまかしはききません。最初の交渉の際に、それは向こうにも伝えておきましょう。次に歳久様がおっしゃるとおり、向こうが拒否してきた場合ですが。拒否してきたら拒否してきたで、一向に構わぬのです」
「構わない、とは――」
 何か訊ねかけた歳久は、何事かに気づいたように、そこで口を噤んだ。



「……ふむ。流言を仕掛けますか」
 あっさりと見抜かれ、俺はわずかに苦笑する。だが、すぐに表情をあらためて説明を開始した。
「御意。今や捕虜は千名以上……正確には千五百くらいでしたか。今、にらみあっている者たちの中には彼らの知己や家族も多いはず。ガルシア・デ・ノローニャはそんな彼らの解放を拒絶した、と声高に宣伝すれば、兵たちの間には不満と動揺が広がるでしょう。無論、ガルシアは拒絶した理由を明らかにして不満をなだめようとするでしょうが、常の南蛮軍ならばともかく、今の追い詰められた状態でまともな判断を下せる兵がどれだけいるか」
 仮に南蛮兵たちがガルシアの言葉に理を認めたとしても、解放を拒絶された捕虜の末路は万人の目に明らかであり、必ずどこかに不満は残るだろう。


 問題は、ガルシアがその不満をこちらに対する戦意へとかえて、叩きつけてくる可能性があることだが……
「その時はその時。捕虜を盾として前面に押し出して戦えば、必ず連中の矛先は鈍るでしょう」
 あっけらかんと督戦隊を示唆した俺の顔に歳久の鋭い視線が突き刺さる。家久はどうかと見れば、こちらは先刻までと変わらない様子であった。今ここでその理由を問うのもおかしな話なので、俺は言葉を続けることにした。
「それに提督に見捨てられたと知れば、捕虜の中からもこちらに協力してくる者の一人や二人は出て来るでしょう。そうすれば、また別の手段をとることもできます」
 島津軍から脱出してきた、と偽らせて敵に偽情報を渡したりとか、色々と。まあ歳久あたりからは陳腐な手だとか言われそうだが……


「陳腐な手ですね」
「……」
 思わず黙り込んでしまった俺を見ながら、歳久はなおも続けた。
「それに、少し考えれば、こちらが捕虜を利用しようとすることは容易に推察できるはず。ガルシアなる敵将がはじめから交渉そのものを拒否してくる可能性もあるでしょう。その際はどうするのですか?」
「その時は敵のすぐ傍で、かくかくしかじかで交渉を望むものなり、とでも叫びましょう。それだけで兵を動揺させることは出来ます」
 歳久の言うとおり、ガルシアがこちらの手を読んでいる可能性は否定できないし、そうであれば、今、口にした案がことごとく失敗することも十分にありえよう。
 だが、そうなったらまた別の手を考えるまでのこと。捕虜の扱いについても他に案がないわけではない。


「へえ、その案ってどういうもの?」
 興味深げに問うてくる家久に、俺は簡潔に応じた。
「兵として大海を越えてくるだけの体力の持ち主が千人以上。人夫として鉱山に放り込むには十分すぎる数ではありませんか?」
 鉱山の掘り方など俺が知っているはずもないが、それが激務であることは容易に推察できる。閉ざされた鉱山内部での作業では病気や事故が付き物だろう。だからこそ多額の報酬が出るのだし、それに惹かれて多くの人々が集うわけだが、今の島津家に多額の報酬を支払う余裕はなく、さらに現段階で薩摩に有望な鉱山ありと諸国に知られることも望ましくない。
 かといって、人夫を制限してしまえば、それだけ発掘が遅れることになってしまう。


 南蛮兵の投入は、この現状に対する最良の解答であった。報酬は不要、この国の言葉が話せない以上、情報が外に漏れる恐れもない。体力はありあまっているだろうから、食事の条件を一日の労働の成果とすれば、安定した働きも期待できるだろう。
 なにより南蛮兵が病気で死のうが、事故で死のうが知ったことではないのだ。こちらの胸は痛まないし、どこからも文句は来ない。
 非道? 捕虜として処刑されるよりはましだろう。戦う意思のない者を殺さない、というのは敵の元帥との約定だが、それ以上を求められる筋合いはない。扱いに耐えられないというのならば、勝手に死ねばいい。恨むなら、神の名のもとに喜々として侵略戦争に従った己の浅見を恨め。


「……まあ、最後については多分に私情が混ざってしまいましたが、ともあれ解放するにせよ酷使するにせよ、捕虜の使い道に関してのそれがしの意見はこんなところです」
 噴出しかけた冷たい感情をなだめつつ、俺は二人の姫に頭を下げた。頭を下げたのは、今の自分の表情を二人に見られたくなかったからでもある。


 しばしの沈黙の後、そんな俺の頭上に歳久の声が降りかかった。
 






◆◆◆

  




 大谷吉継が初めてその名を耳にしたのは二年ほど前、今は亡き角隈石宗の口からであった。
 そのことを思い出すまで吉継は幾ばくかの時間を必要としたのだが、それは致し方ないことであったろう。何故といって、当時の吉継にはその名を記憶にとどめておくべきいかなる理由もなかったからである。
 くわえて言えば、石宗の言葉自体も吉継本人に向けられたものではなく、石宗と客人との会話の中でちらと出たところを吉継がたまさか耳にしただけであった。


 それでも一度思い出せば、それにまつわる様々な事柄も思い浮かんでくる。
 その時、訪れていた客人の名を島井宗室といった。
 宗室は筑前は博多の商人であり、同時に茶人でもある。名高い日本三大肩衝(茶器)の一つである『楢柴』の持ち主として、その名は広く世に知られていた。
 その活動範囲は九国に留まらず、中国、四国はもちろんのこと、遠く近畿にまで及び、各地の大名や、京の将軍家、さらに堺の大商人たちとも親交を持っている。その一方で朝鮮や明といった諸外国とも交易を営み、その影響力は凡百の大名家に優ることはるかであった。


 その宗室が特に懇意にしている大名家が大友家である。あるいは、大友家がもっとも頼りにしている商人が宗室である、と言い換えた方がより実情に即しているかもしれない。


 宗室と石宗の間には茶の湯を介した親交があり、宗室は豊後に足を運ぶ都度、ご機嫌伺いと称して石宗の屋敷を訪れる。
 もっとも、宗室は博多でも屈指の豪商であり、石宗は大友家の軍師にして重臣、その両者の間で語られる内容が単なる茶飲み話だけで終わるはずもない。
 ことに台頭著しい南蛮勢力については片や商人の立場から、片や家臣の立場から、それぞれに深い危惧を抱いており、ひそかに協力しあっている両者であった。


 この時、吉継が室外に控えていたのは、余人をはばかる相談事が他者の耳に届かないようにするためである。
 ただ、石宗は真に他聞をはばかる事柄に関しては声には出さず、紙と筆で語り合い、終わった後はその場で火にくべて燃やしてしまう。室外に声が聞こえてきた時点で、最重要の話は終わったものと判断して良いだろう。


 そんなことを考える吉継の耳に、石宗の寂びた声音が響いてきた。
『ほう、筑前守を?』
『はい。成り上がり者のために大金を投じて官位を得るなど上杉らしからぬ奇妙な仕儀である、と京ではみな首を傾げているそうです』
 わずかな沈黙の後、石宗は言葉を続けた。
『明応の政変によって幕府の権威が凋落してよりこの方、官位を金で購う例はつとに耳にしておる。その、天城颯馬と申したか、その者の氏素性が知れぬとはいえ、格別めずらしいこととは思えぬが』
 戦国乱離の世にあって、前身が定かではない、あるいは下層から成り上がって権力を得た者などいくらでも存在する。
 そういった権力者の中には、みずからの権威を衆目に明らかにするため、朝廷に大金を積んで官位を得ようと企てる者が少なくない。献じた金銀の量によっては、昇殿が許される従五位下以上の官位を与えられる者もいるのである。
 ことさら天城なる人物の名が京の都で挙げられるのは何故なのか、と石宗は疑問を感じたのであろう。


 これに対し、宗室は柔らかい声音で応じた。
『先の上洛以来、京における上杉と武田の世評は高まる一方でございますれば、その動向には京童も無関心ではいられぬのでありましょう』
 宗室の声は聞く者の胸のうちにするりと入り込んでしまうような気安さを感じさせるが、それは相手に狎れようとする軽薄さとは一線を画するものである。
 石宗の武人らしい落ち着いた声音とはまた違った、一廉の人物の声であると吉継は思う。


 室内ではさらに宗室が言葉を続けていた。
『くわえて申し上げれば、上杉の当主殿の為人は今回のような横紙破りな申し条とはいささかならずそぐいません。そのあたりも人々の口の端にのぼる理由かもしれませぬな』
『ふむ。毘沙門天の化身、越後の聖将上杉輝虎殿、か。縁あらばお会いしてみたいものだが……』
 そう口にしてから、石宗はかすかに苦笑をこぼしたようであった。
『さすがに越後の仁とまみえる機会はなかろうな。ところでさきほど言っていた博多での南蛮人たちの様子だが……』
 その石宗の問いに対し、宗室は何事か答えていたようだが、その声は低く抑えられており、吉継の耳に届くことはなかった。



 ――この時、吉継が耳にした会話はこれがすべてであった。
 それ以後、越後や、その地の人物について石宗が語ったことはなかったし、吉継が興味を持つこともなかった。
 どうして興味を持たねばならないのだろうか。
 吉継に限らず、大友家のほとんどの人間にとって、越後など南蛮よりもなお遠くの国としか感じられない。九国が平穏であれば、遠い雪国の風物やそこに暮らす人々に思いを馳せることもあったかもしれないが、大友家、なかんずく石宗や吉継を取り巻く状況は平穏の対極にあった。近隣の国ならばいざ知らず、生涯赴くこともないだろう遠国の情勢を気に留めておくべき理由はどこにもなかったのである……




◆◆




 あれから数年。はからずもその人物の義理の娘となっている自らをかえりみて、吉継はしみじみと呟いた。
「……思えば奇妙な縁もあったもの。遠く越後で昇殿の許しを与えられるほどの功績を挙げた人物が、どうして九国の山中で人の水浴を覗き見ていたのやら。おまけにその人を父と呼ぶことになるなんて――」
 頬にかすかに朱をのぼらせつつ、吉継は人と人とのめぐり合わせの不思議さを思い、小さく息を吐くのだった。



 所はムジカの沖合い。海上に城砦のごとき偉容を示す巨船の一室である。
 バルトロメウと呼ばれるこの南蛮船に連れて来られた吉継は、枷で繋がれることこそなかったが、その行動には大きな制限が設けられていた。具体的に言えば、自由に動くことを許されているのは室内のみ、事実上の軟禁状態である。
 調度は壁際に置かれた寝台、それに机と椅子のみで、机の上に置かれた小さな燭台の明かりが、力なく室内の光景を照らし出している。


 もっともこの船が軍船であることを思えば、そして吉継の立場を考えれば、狭いとはいえ一室を与えられ、さらに室内のみとはいえ自由を許されているのは十分な厚遇を意味するのかもしれない。
 吉継をここまで連れて来た南蛮の騎士――トリスタンによれば、吉継の身柄を欲しているのはゴア総督その人であるとのことだから、この待遇もそのあたりに由来しているのだろうと吉継は判断していた。
 トリスタンの言葉を素直に受け取れば、ゴアに着くまで危害を加えられることはないだろう。
 だが、吉継は楽観していなかった。トリスタンが偽りを口にしたと考えているわけではない。そうではなく、この船に着いてすぐに引き合わされた人物の為人が、吉継に楽観を戒めるのだ。


 フランシスコ・デ・アルブケルケ。
 吉継はバルトロメウに連れて来られた際、その人物と顔をあわせていた。もっとも互いに言葉は通じないので、間にトリスタンを介してのことで、直接に言葉を交わしたわけではない。
 それでも吉継はアルブケルケの為人に警戒を禁じえなかった。
 トリスタンの報告を聞き終えたアルブケルケは、一度だけ吉継に視線を向けた。それが吉継の容貌に対する嫌悪ないし色欲であれば、吉継はここまで警戒することはなかったであろう。それは十分に予測するところであったから。
 だが、あの時のアルブケルケの視線にそういった感情はまったくといっていいほど感じられなかった。
 金色の髪に青い瞳、秀麗としか言いようのない端整な顔立ちをした異国の貴人の視線は、あたかも物を品定めしているかのように冷めており、それを見て吉継は、高千穂の人々を質にとる今回の策謀が誰の指図によるものかをはっきりと悟ったのである。


 人を人とも思わない人間は、南蛮に限らず、この国にもいくらでもいる。他人に苦痛を与えて平然としている輩もめずらしくはない。ことに吉継は、これまでの生でそういった人間を数多く見てきた。
 だから、アルブケルケがその手の人間であったことに驚きはない。
 それでも恐れはあった。
 アルブケルケの姿を思い浮かべた吉継は、知らず二の腕を抱え込んでいた。武力と財力、地位と権勢を併せ持ち、誰の掣肘を受けることもない人物が自らの命運を握っている。その事実は、吉継の心胆を寒からしめるに十分なものであったのだ。





「……天城颯馬」
 その名を呟いたのは、何のためであったのか。
 吉継の請いに応じ、自らの名を口にした義父雲居の姿が思い浮かぶ。
 実のところ、あの時、雲居は自らの名を告げただけで、上杉家の家臣である、あるいは天城筑前守颯馬である、などと名乗ったわけではない。
 ゆえに石宗が口にした天城颯馬と、雲居筑前が名乗った天城颯馬を同一人物だと考える確たる根拠があるわけではなかった。


 普通に考えれば他家の重臣、それも遠く越後の人間が九国にいるはずもなく、同姓同名の別人だろう。
 しかし、天城という姓も、颯馬という名もありふれたものではない。
 くわえて言えば。
 吉継は越後の天城颯馬の事績について詳しくは知らないが、少なくとも上杉というれっきとした大名家において重用されるだけの実力を備えた人物であることは間違いない。
 それは、これまで雲居が示してきた智略の冴えと重なるものを持っているように思われるのだ。
 他にも雲居が幾度か口にしていた「東国に帰る」という言葉、そして――


『ほとんど徒手空拳の身で、毘沙門天率いる三百の軍勢を迎え撃った』
『軍神の霊験あらたかな物だから、必ず吉継の助けになる。下手をすると、俺よりもずっと、な』


 石宗も口にしていた。越後上杉家当主は軍神たる毘沙門天の化身である、と。
 雲居が時折口にしていたのは、遠く離れた主君のことであったのだと考えれば、その言動にも整合性が生まれるのである。
 無論、いずれも確たる証拠にはほど遠いのだが……と、そこまで考え、吉継は小さくかぶりを振った。
「お義父様が上杉の重臣であるか否かなど、たいした問題ではないのです」


 そう。そんなことはたいした問題ではない。吉継が彼の人の義理の娘となることを肯った理由に、越後だの官位だのはいささかも入っていないのだから。同一人物であれば驚く、別人であっても落胆はしない。その程度のものだ。
 本当に問題なのは、こんな状況だというのに、その人のことを考えると胸奥にほのかな暖かさを感じる吉継自身のこと。
 つい先刻まで感じていた寒気はいつの間にか消え去っていた。これまでと同じように。
 その事実に吉継はどこか羞恥めいた感情をおぼえてしまう。心細さを覚えたとき、誰かの姿を思い描いて不安を散じるなどと、これでは本当に助けを待つ囚われの身のお姫様ではないか。すると、さしずめ雲居はお姫様を助ける士の役回りか。


「……似合わないにもほどがあります」
 二つの意味を込めてそう言うと、吉継は二の腕を抱え込んでいた手を半ば無理やり引き剥がす。
 今、この時も薩摩の地で繰り広げられているであろう戦いを思えば、敵の手中にあるとはいえ、こうして座しているだけの自分が怯えるなど笑止であろう。
「可憐でも無力でもない、と大見得を切ったのは私です。自分の発言には責任をとらないといけません」
 自身の境遇。薩摩の戦い。胸中でせりあがってくる二つの不安に蓋をするように、吉継は自らに言い聞かせる。前者は独力で何とかしてみせる。後者は信じるしかない。今、ここで思い悩むことで解決するものなど、何一つないのだから。



 吉継は改めて考える。
 この船からみずから抜け出すにせよ、脱出の機会を待つにせよ、いざという時のために手札が多いに越したことはない。
 当然ながら、室内には刃物の類は置かれていないが、いま吉継が座っている椅子でも、抱えて持てば武器になる。なんだったら壁に叩きつけて壊してしまい、足のあたりを木刀に見立ててもいいだろう。
 混乱を起こすだけでいいなら、室内を照らす灯火を用いて、この部屋を燃やしてしまうのも一案。先行きを儚んで自殺するつもりは無論ないが、それを装って火をつければ兵の動揺を誘うことは可能だろう。


 そこまで考え、吉継はどこか困惑したようにおとがいに手をあてた。
「壊すだの燃やすだの、我が事ながらいやに考え方が過激になってますね……」
 しばし、自身の変化を確認するように目を閉じた吉継であったが、すぐに澄ました顔で続ける。
「墨に近づけば黒くなり、朱に近づけば赤くなるとはよくいったものです」
 墨ないし朱にあたる人物に綺麗に責任を押し付けると、吉継は危急の際に備えて行動に移るのであった。





[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第九章 杏葉(二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:cd1edaa7
Date: 2011/07/06 16:51

 日向国 ムジカ大聖堂


 その日、大友家当主である大友フランシス宗麟と、南蛮神教の日本布教長であるフランシスコ・カブラエルは大聖堂で礼拝を行っていた。
 この大聖堂は先ごろまで使用されていた仮殿ではなく、れっきとした本殿である。数万に及ぶ信徒が寝る間も惜しんで築き上げた大聖堂は、ムジカにおける信仰の中心として荘厳な佇まいを示し、多くの信徒が朝に夕に此方を向いては恭しく頭を垂れていた。


 その大聖堂で神への祈りを捧げるのは二人にとって日課であったが、今日のそれは常とは意を異にしている。この礼拝は日々の神の恩恵に感謝を捧げるためではなく、再び始まる聖戦の勝利を願うものだったからである。


 日向佐土原城をめぐり、年明けから続いていた伊東、島津両家の攻防。
 この戦に大きな動きが生じたのはつい先日のことであった。
 日向中南部に進出していた大友諸将からの報せによれば、戦局を有利に進めていた島津軍が突如として軍を退いたという。
 兵力、勢い、共にまさり、しかも当主である島津義久、さらにその妹であり『鬼』と渾名される島津義弘が前線に立ち、必勝を期していた島津軍の突然の撤兵は、伊東家のみならず、この戦を傍観していた大友家の諸将をも驚かせた。
 伊東家の当主である伊東義祐は従三位の位を有する戦国大名であり、六千の兵力をもって佐土原城に立て篭もり、島津軍の猛攻に頑強に抵抗していたが、それでもこのまま戦況が推移すれば、堅固な防備を誇る佐土原城とてあと一月も保つまい、というのが大方の予測であった。ゆえにここで島津軍が退却すると予見していた者はほとんどいなかったのである。


 この撤退は伊東軍を平野につり出す島津軍の策略である、と唱える者もいた。しかし、勝利が見えた攻城戦の最中、あえて策を弄する必要性は薄い。敵に策だと見破られれば、態勢を立て直す貴重な時間を敵に献ずることになってしまう上に、味方の勢いを殺ぐことにもつながるからである。
 であれば、目前の勝利を諦めなければならないほどの重大事が後方で生じた、ということになろう。
 薩摩で何事が起こったのか。島津軍の唐突とも思える撤退は様々な憶測を呼んだが、いずれの説も推測の域を出ることはなかった。


 一方、裏面を知る者にとって事態は明々白々であった。すなわち、南蛮艦隊が薩摩への侵略を開始し、島津軍はその報を受け取って慌てふためいて退却を開始した――宗麟の傍らに侍るカブラエルはそう判断した。それ以外に、島津軍が突然撤退する理由があるはずもない、と。
 時至れり。
 この事あるをあらかじめ知っていたカブラエルによって、準備は万端に整えられていた。
 急使が到着してから、宗麟が聖戦の再開を公にし、さらにムジカから二万に及ぶ軍勢が南下を開始するまで、かかった時間はごくごく短かった。


 佐土原城の防備は島津軍の猛攻によって突き崩された状態であり、これを奪うことは容易いこと。精強を誇る島津軍といえど、本国を南蛮艦隊に襲われている状況で、背後から強襲されればひとたまりもあるまい。
 すべては自分たちの手のひらの上。
 島津軍退却が報じられた際、カブラエルはそう考え、独り静かにほくそ笑んだ。
 

 だが、そんなカブラエルにとって予期せぬ出来事が起きる。
 それは―― 



◆◆




「フランシス。もう迷いはありませんね?」
「……はい、カブラエル様」
 大聖堂の中、カブラエルから向けられた言葉に、宗麟はゆっくりと頷く。
 そこには否定の意思は含まれて居なかったが、常よりもほんのわずかだけ返答が遅れたことにカブラエルは気づいていた。
 自然と目が細くなるが、そのことに宗麟が気づくよりもはやく、カブラエルの顔はいつもの柔和な笑みに覆われる。しかし、見る者が見れば、その口元がわずかに引きつっていることに気づいたであろう。


 聖戦の再開に先立ち、宗麟はこれ以上の戦いが必要なのか、とカブラエルに問いかけた。
 それは明確な否定の意思を示すものではなく、胸中に生じた疑問の芽を摘むための問いかけであり、事実、カブラエルが言葉を重ねると、宗麟はすぐに納得してカブラエルの言葉に従った。
 だが、常日頃カブラエルの言葉をすべて受け容れる宗麟が疑問を唱えたという事実は、カブラエルにとって決して座視できるものではなかったのである。




 ――カブラエルが考案した聖都建設と、島津に布教を拒まれたコエリョが欲した薩摩征服。
 本来、異なる二つの計画は、ゴアの大アルブケルケによって一つにまとめられ、そして実行に移された。
 計画といっても、さして複雑なものではない。
 カブラエルが宗麟の力を利用して日向の地に聖都を建設し、それを討つべく島津が動き出したところを、コエリョを案内人とした南蛮艦隊が後方から襲う、という単純なものである。
 無論、これを単純と思えるのは両国の事情に通じている者に限った話であり、島津などからすれば、異国から大軍が押し寄せてくるなど想像だにできない奇策であろう。


 この計画が完遂されれば、南蛮国は日の本の地にムジカと薩摩、この二つの拠点を得ることができる。それは南蛮の東方支配のための大いなる布石となり、ひいては南蛮神教が東夷の地をあまねく照らし出す契機となるであろう。
 当然のようにカブラエルはこの計画を熱心に推し進めた。この計画の重要性と、自身に課せられた責務の重さ、そして成功した暁に与えられるであろう栄誉を思えば、熱心にならざるを得ない。


 そして、事態はほぼカブラエルの思惑通りに進みつつあった。
 誤算がなかったわけではない。ことにカブラエルにとって、ゴア総督が執心していた少女を取り逃がしたことは痛恨とも言える失策であった。
 しかし、その少女もすでに捕えた。再びこれを取り逃がすことのないように海上の虜囚としており、二度と逃げ出すことは出来ないだろう。
 大聖堂は完成し、それを包み込むように聖都も着々と完成へと近づきつつある。ムジカはこの国における信仰の中心として、相応しい偉容を示そうとしていた。
 あとは南蛮艦隊が薩摩に攻め寄せるのを待って、ムジカの十字軍を動かせば計画は完成を見る――そう考えていたカブラエルにとって、宗麟がこれ以上戦を続けることに対して疑念を口にしたのは予想外のことであった。





 今後の東方経略において、大友家をどのように扱うのか。
 これはカブラエルら南蛮勢力にとって無視しえない問題である。もっとも、それは大友家をいかにして味方に取り込むか、という意味ではない。
 ゴアの大アルブケルケが艦隊の派遣に際し、大友家の意向を一切気にしていなかったように。またムジカの小アルブケルケが、高千穂において大友軍に躊躇なく刃を向けたように。南蛮勢力は大友家を切り捨てることを、事実上、すでに決定していた。
 彼らは宗麟が当主として立つのはすでに限界である、と見なしていたのである。
 事実、先年来、繰り返される叛乱は大友宗家の統制力が著しく弱まっていることを示している。
 そんな状況にあって、多大な財貨を費やしてムジカを建設し、しかもそれを大友家ではなく南蛮神教の城市としたのだから、大友家が内部崩壊を起こすのはもはや自明、とアルブケルケ父子の目に映ったのは当然であったろう。


 だが、カブラエルは二人とは異なる考えを持っていた。
 外から見ている者たちと違い、長年に渡って大友家を内側から見続けてきたカブラエルは、この国の家臣はいまだに宗麟を見捨てていないと映る。無論、心を離した者は少なくないであろうが、それでも国の中枢に位置する者たちは、今なお宗麟への忠誠を抱き続けているのではないかと思われるのだ。


 愚直と嗤うべきか。蒙昧と嘲るべきか。
 カブラエルは幾人かの顔を脳裏に思い浮かべながら、考えを進める。
 愚直であれ蒙昧であれ、彼らが宗麟に忠誠を誓っている限り、大友家には利用価値がある。南蛮が根拠地を得れば、遠からずこれを討つべしと唱える者たちが国境を越えてくるだろう。南蛮艦隊の火力があれば、これを退けることは難しいことではあるまいが、この時、大友軍を盾とすることが出来れば、南蛮軍の被害をおさえることが出来る。 


 であれば、当主である宗麟を手中におさめている今、あえて大友家を切り捨てる必要もない。カブラエルはそう判断し、小アルブケルケを説き、その了承を得た。
 そうして過日のこと、適当な脚色を施して南蛮艦隊派遣の事実を宗麟に伝えたのである。さすがに驚きを禁じえない宗麟に対し、カブラエルは穏やかな声で説明する。東の地に聖都を築いた宗麟の功績を嘉し、ゴア総督が難敵を始末するために援軍を派遣してくれるのだ、と。




 これまでの宗麟であれば、疑うことなくカブラエルの言葉を信じ、目に涙さえ浮かべて感激したに違いない。
 事実、この時も宗麟は感謝の念を示していた。
 だが、その顔には小さからざる戸惑いも浮かんでいたのである。
 己の敵すら赦し、慈しむこと。日向の北半を制し、聖都を築き、信徒たちの鎮魂を為しえた今、それこそが自分たちが為すべき行いではないか――そう問いかけてくる宗麟は、これ以上戦火を広げることに明らかなためらいを見せていた。


 この宗麟の反応はカブラエルの予想しないものであった。
 意外の念に打たれながらも、カブラエルは宗麟を説き伏せるために言葉を続ける。
 この説得は、島津家の南蛮神教排斥の事実があったため難しいことではなかった。
 カブラエルは言う。
 宗麟の考えは尊いものだが、島津家を討たない限り、九国における布教は完璧なものになりえない。先に遣わした雲居の説得が成功すれば流血は未然に防がれるであろうし、かの救世主殿の言葉さえ通じぬほどに島津が頑迷であれば、尚更これを討たないわけにはいかない。その際、南蛮艦隊の武力をもってすれば、信徒たちの犠牲は最小限で済むであろう。
 このカブラエルの主張は理にかなっており、宗麟もほどなくためらいを排して頷いたのである。



◆◆



 結果として、事はカブラエルの目論見どおりに進んだのだが、これまでカブラエルの言葉に疑問を挟まずに頷いてきた宗麟が、わずかとはいえ自身の考えを差し挟んできたことに、カブラエルは不快を禁じえなかった。その変化をもたらしたものが何であるかを考えれば尚更である。
「まったく、余計な真似ばかりしてくれますね、救世主とやらも」
 カブラエルは忌々しげに呟く。
 だが、その表情には余裕が戻りつつあった。事態の主導権を完全に握っているという実感が、カブラエルに落ち着きを与えたのだろう。


 一万をムジカの守りに残したとはいえ、それでも十字軍は二万の大軍である。これを南下させれば、日向は労せずして手に入る。
 南蛮艦隊の猛攻にさらされた島津軍は成す術なく本国を失うに違いなく、征服したばかりの大隅一国で薩摩の南蛮艦隊と日向の十字軍、この二方向からの攻撃に耐え切れるはずがない。


 現在、大友家の領土は豊前、豊後、筑前、筑後にまたがり、今、新たに日向を加えようとしている。南蛮軍が薩摩、大隅を制圧すれば、九国のうち、実に七国が南蛮神教を奉じる国によって治められることになる。
 残る二国は肥前と肥後。しかし肥前の竜造寺はつい先ごろまで大友家に従っていた小勢力であり、肥後の阿蘇家、相良家などは大友家と浅からぬ関わりがある。この二国が、今の流れに抗うことは容易ではあるまい。
 そして、この二国が頭を垂れれば、九国は名実共に大友家の――否、南蛮国の領土となって、日の本に神の栄光を知らしめる要地となるであろう。
 さすればフランシスコ・カブラエルの名は、東方布教の歴史に黄金の文字をもって記されることになるに違いない。


 現実は確実にその未来へと向かって進んでいる。
 もはや道雪さえ恐れるに足りぬ。まして雲居などという名に脅威をおぼえるはずもない。そんな思いを胸に抱きながら、カブラエルはゆっくりと宗麟に語りかけた。
「ではフランシス、参りましょうか。この地を神の栄光と慈悲で満たすという十年来のあなたの悲願をかなえるために」
「はい、カブラエル様」
 宣教師の言葉に、大友家当主は目を閉ざし、胸の前で両手を組んで深々と頭を下げる。
 自らの前に広がる理想の園を瞼の裏に映しながら……


 


◆◆◆




 
 筑前国 立花山城


 立花山城は、その名の通り筑前は立花山に築かれた山城である。
 別名、立花(りっか)城。九国最大の商都たる博多津を眼下に見晴るかすこの城は、博多津の支配、ひいては筑前の支配に欠くことのできない要衝であった。
 その頂きに立てば、博多の街並を越え、遠く玄界灘に浮かぶ壱岐島まで望むことができる。それはすなわち、博多津の富をねらった敵兵が、東西南北、いずれの方角から押し寄せてきたとしても、すぐさま発見できることを意味した。
 この眺望に加え、幾つもの峰から成る立花山の堅固な地形が、立花山城の重要性をより一層引き上げているのである。


 その立花山城の城壁の上で、今、戸次誾は彼方に去りゆく明の軍船を見送っていた。
 ムジカからこの立花山城まで、誾を乗せてきてくれたその船は、今や誾の視界の中で豆粒ほどの大きさになっている。
 その船影を見やる誾の脳裏に浮かぶのは一人の姫武将の姿。戚継光、字を元敬と名乗った異国の武将の莞爾とした笑みと、その言葉を思い起こし、誾は自身にもわからない理由で小さくため息を吐いた。


 すると、不意に誾の吐息を吹き消すかのように、一陣の風が山裾を駆け上って吹き付けてきた。
 早朝の冬の冷気を宿した寒風は、思わず首をすくめてしまうほどに冷たかったが、それでも誾は救われたような思いで、小さく呟く。
「『遺せる物は国土のみ』……か」


 その言葉は誾に向けられたものではない。
 継光が、かつて父からおくられた言葉であるとのことだった。



◆◆



『娘の吾がいうのも何じゃが、父上は呆れるほどの堅物でな』
 船旅の最中。彼方の白波を見やりながら、継光は渋面を隠そうともせずに誾にそう言った。
『おまけに、そこらの岩を投げつけたなら、投げつけた岩の方が砕かれるのではないかというほどの石頭でもあってのう。質素倹約は当たり前、祖父や祖母が吾に買い与えてくれた高価な服や靴はその日のうちに父上に処分されたわ。幼少の頃より贅沢な品を身に着けていると、長じた後にろくなことにならぬから、とな。賄賂はもちろん、礼儀の範囲にとどまる贈り物さえ受けとろうとはせなんだゆえ、母上や吾は身代に見合わぬ苦労を強いられたものよ』


 水清ければ魚棲まずという。
 継光の父である戚景通の職務に対する清廉さは讃えられるべきものであったが、それも過ぎれば禍を呼びかねぬ。
 景通は自身の清廉さを他者に求めるようなことはしなかったが、それでも周囲からは付き合い難い人物であるとみなされていたようで、戚家に景通の友人や知人が訪れることは稀であった。
 ある時、見かねた祖父が景通に問い質した。


 武人として清廉であることは誇るべきことである。しかし、お前は国に仕える武人であると同時に戚家の長でもある。一家の長として、お前は継光ら子供たちに何を遺すつもりなのか、と。


 景通はこれを聞くと、中庭で剣の稽古をしていた継光を呼び出し、祖父の言葉を伝えた上で娘に語りかけた。
『私に利殖の才はない。そなたに遺せるのは、夷狄に支配されぬこの国土のみ。そなたの手でこれを守り、やがて生まれ来る子らへ継がせるのだ』
 明王朝が誕生してよりおよそ二百年。継光はもちろん、父である景通も、祖父ですら異民族の支配を受けた経験はない。
 それでも、かつて夷狄に支配された記憶は中華に住まう者たちの心に刻まれ、これを忘れ去ることは不可能であった。
 夷狄に支配される悲劇を二度と繰り返してはならない。武門たる戚家の長として、子孫に遺すべきものがあるとすればこの思いと国土のみ。いたって生真面目な顔でそう告げる父の顔を、継光は今なおはっきりと思い出せるという。



◆◆



 継光があんな話をしたのは、果たして偶然なのだろうか。
 誾は自身の実父の所業を思い起こしながら、そんな疑問を抱いた。誾は会って間もない継光に、自身の生い立ちを語ったりはしていないが、雲居や丸目らが継光にもらした可能性は否定できない。
 もっとも、その可能性はごく低いだろうと誾は判断しているが。
 様々な意味で予測の内に納まらない二人だが、礼儀や礼節をわきまえていないわけではない。他者の生い立ちを軽々に口にするようなまねはしないだろう。


 となると、継光は本当にこちらの生い立ちを一切知らずに父親の話をした、ということになる。あるいは態度の端々から、誾が生い立ちに関して鬱屈を抱えていることを見抜いたのかもしれない。
 姿形は小さくとも、その眼力はさすが大明国の名将というべきか。そんなことを考えながら、誾はもう一度同じ言葉を呟く。
「国土を遺す、か」
 その声は、風に紛れてしまうほどに力ないものであった。




 誾は元服に際し、道雪から『二階崩れの変』の詳細をすべて伝えられている。
 大友家の分裂を避けるため、みずから汚名を被り、謀反人に堕したという実父一万田鑑相。
 それが真実なのか、虚偽なのか、誾には知りようもない。『二階崩れの変』の折、まだ赤子であった誾は二親の顔すら覚えていないのである。
 義理の母である道雪、叔母である紹運がそろって実父の為人を見誤るとは思えないから、実父がただ権力を求めて主君に刃を向けた可能性は限りなく低いだろう。二人の語るとおり、大友家を救うため、止むに止まれぬ決断であったのだと信じたい。誾はそう思っている。


 だが、そうと信じきることができない自分に、誾はとうに気づいていた。
 戸次家、吉弘家、さらには大友宗家の助力もあり、誾は表向きは何不自由なく成長した。
 だが、陰で謀反人の子供だと後ろ指をさされたことは幾度もあった。それは決して一度や二度ではない。
 時に家の外ではなく、家の中で囁かれているのを耳にしたこともある。戸次家は道雪の威令が行き届いているが、その種の陰口を根絶することは鬼道雪といえど難しかったのだろう。
 それに、それを口にする者たちは決して間違ったことを言ったわけではないのだ。二階崩れの変の内実を知らない者にとって、一万田鑑相は主家に仇なした謀反人であり、誾がその実の子供であるのはまぎれもない事実なのである。


 幼い頃は、誾自身、どうして自分を厭わしげな目で見る人がいるのかが理解できなかった。謀反人の子、という言葉の意味もよくわからなかった。
 だが、長じれば嫌でも理解できてしまう。それが根拠のない誹謗などではなく、まぎれもない事実なのだ、ということも。
 誾が元服に際し、実父が用意していた名ではなく、実母がつけた誾千代という幼名から一字を取ったのは、誾の内心の表れであった。
 『誾』とは慎むの意。人として、また将として恥ずかしからぬ名乗りであるが、その実、実父に対する誾の苛烈なまでの意思がはっきりと示された名でもあったのである。


 そんな誾の思いを、道雪は理解していたのだろう。
 かすかに表情を翳らせながらも、誾の選んだ名に異を唱えようとはしなかった。もっとも、仮に道雪が異を唱えたところで、誾がそれを肯うことはなかっただろう。道雪はそれをも理解していたのかもしれない。
 そんなことを思いつつ、誾は三度、同じ言葉を呟いた。
「国土を遺す……父上もそう考えていたのかな」
 大友家が他国に支配されることのないように。誾や母たちが生きる豊後の地を侵略されることのないように、あえて自らを贄としたのだろうか。すべての罪を一身に背負い、悪名をその身に引き受けて。


 たとえそうだとしても、と誾は思う。
 残された妻子が謀反人の一族として苦境に陥ることはわかっていたはずだ。それを承知して、なおその道を選ばざるを得ないほどの危機に、当時の大友家は瀕していたのだろうか。
 父の行動により、乱の当事者であったはずの宗麟の家督継承が速やかに進んだのはまぎれもない事実である。その後の宗麟の統治が、大友家の繁栄の礎となったことも確かであろう。


 だが、その果てに今の大友家の迷走があるのなら。
 異国の教えに蝕まれ、君臣の結びつきは薄れ、挙句に他国の軍を招く者が当主の傍らに座す今の大友家があるのなら。
「……何の意味があったのですか、父上。あなたの行動と、それによって私が受けた数々の仕打ちに」
 謀反人の子よ、と罵られたことを厭うのではない。父の行動が正しく大友家の未来を願うものであり、それが確かな成果を示しているのであれば、いかなる罵詈雑言も誇りをもって受け止めてみせる。誾は強がるでもなく、そう考えている。


 だが、物心ついてより大友家の――宗麟の迷走を見続けてきた誾にとって、父の行いを誇りとすることは出来ないことであった。
 無論、当主となった宗麟が南蛮神教に耽溺するなど、父に予期できるはずもないことは誾も承知している。
 それでも、当主として彷徨する宗麟と、そんな宗麟を懸命に支え続けてきた道雪や紹運の苦悩と苦心を目の当たりにしてきた誾にとって、父の行いを誇りとすることはやはり出来ないことだったのである。


「まして、本当に南蛮軍が侵攻してくるのだとしたら……」
 知らず、誾の声は震えていた。
 日向の地に南蛮神教の城市を建設した宗麟であれば、それが異国の侵略者であっても、南蛮神教を奉じる者たちであれば喜んでその手をとるだろう。
 それは日の本にとって文字通りの意味で売国の行い。大友家は全国の大名――否、民さえ敵にまわすに違いない。
 万に一つの僥倖を得てこれを撃ち破ったとしても、その先に大友家の天下はない。勢力を広げるのは南蛮ばかりであるのは火を見るより明らかであろう。だが、おそらく――否、きっと宗麟はそのことに気づくことなく、神の恩寵に感謝して、さらに戦いを続けるに違いない。誾にはそう思われてならなかった。



 こんな大友家を築くために父は死んだのか。自身は謀反人の子として蔑まれてきたのか。そう思えば、全身から力が抜ける。
 そんな事態にならぬよう務めることこそ己の役割であると承知しているし、だからこそ雲居の言に従ってこの地まで来た。
 しかし、今の誾はもっと根本的な部分で迷いを拭うことが出来ずにいた。
 今は亡き父と母の願い。二人の死を理由として目をかけてくれる主君。その主君を支える義母。
 子として親を疑い、臣として主君を厭う今の自分は、向けられた幾つもの思いに一つとして応えることが出来ていない。わかっていながら改められない自身の未熟さを思い、誾は強く、強く奥歯をかみ締める。
 元服してかわったのは、ただ名前のみなのかと思えば、自分自身に対して目眩にも似た失望を感じざるを得なかった。


 そして、そんな誾の嘆きをあざ笑うように、大友家を取り巻く状況は誾の成長を待つことなく先へ先へと進み続ける。


「若様、ここにおられましたか!」
 その呼び声に誾が振り返ると、見知った顔の家臣が駆け寄ってくるところであった。
 道雪が立花家を継ぎ、誾が戸次家の当主となった今、その呼びかけは間違っているのだが、呼んだ者も呼ばれた者もそれには気づかなかった。
 それどころではなかったのだ。
「道雪様がお呼びでございます。至急、大広間にお越しくださいませ!」
「大広間? 呼ばれたのは私だけではないのか?」
 誾の問いに、家臣は激しく首を左右に振った。
「主だった者たちはことごとく集めるようにとのこと。城外に出ている者たちにも急使が向かいました」
 ただ事ではない、とは誰もが感じるところであった。
 眼差しを鋭くした誾に向かい、家臣は自身を落ち着かせるように胸に手をあてながら、つい先ほどもたらされたばかりの情報を口にした。


「高千穂の十時殿より報せが参りました。豊後にて、此度の宗麟様のなさりように不満を抱く者たちが不穏な動きをしているとのこと。田原家、奈多家を中心としたもので、その動きはかなりの規模らしゅうございます」
 確認はとれていない、と家臣は言ったが、高千穂遠征に加わった家の一つである田北家は、田原、奈多両家と血縁関係にある。その筋からもたらされた情報である以上、限りなく真実に即した報せであろう。
 さらに家臣は続けた。
「先ごろより、門司城の毛利軍が活発に動いていることが確認されております。道雪様はこの両者の動きが互いに呼応したものであるとお考えなのでしょう。その対応のためのお召しであると存じます。若様は急ぎ向かわれますよう。それがし、他の者にも伝えねばなりませぬゆえ、これにて失礼いたします」


 そう言って慌しく立ち去る家臣の背を見やりながら、誾は知らず背筋を震わせていた。
 豊後の動きも、豊前の動きも誾にとっては初耳である。少なくとも誾が高千穂にいる間、そんな話を耳にすることはなかった。
 であれば、この動きは誾が雲居らと共にムジカに赴いた後のこと、ということになる。ムジカの存在が噂ではなく、確かな事実として知れ渡れば、その反発は大友家の内と外とを問わず凄まじいものになるだろう。そう予測していた誾であったが、あるいは事態はそんな誾の予測すらはるかに越えているのかも知れぬ。


 くわえて、今の時点では誾と、誾の報告を受けた道雪しか知らないことだが、大友家内外の不穏な動きに加え、海の外から異国の軍勢が日の本に押し寄せる可能性すらあるのだ。
 道雪が家臣たちにそれを告げないのは、現時点でそれを知らせたところで筑前では打つべき手がないのに加え、これ以上家臣たちが動揺せぬように、との思案からだろう。
 とはいえ、実際に南蛮軍が姿を現せば、これを隠しておけるはずもなく、大友家は今以上の危機と混乱に晒される。


 一体、大友家はどうなってしまうのか。
 いずこを向いても、そこに待っているのは暗澹たる未来のみ。
 この時の誾にはそう思われてならなかった。




◆◆◆




 安芸国 吉田郡山城


 中国地方に巨大な版図を有する毛利家、その本拠地である吉田郡山城は、今、人馬の波で覆われつつある。
 その数、およそ二万二千。これに水軍は含まれていない。
 この事実から明らかなように、今回、郡山城に集められた兵力は、先に豊前で起きた小原鑑元の叛乱や秋月種実の蜂起を援護するために差し向けた兵数を大幅に上回る規模であった。


 しかも、集められた兵力はこれがすべてではない。
 毛利家当主、毛利元就が下した動員令は安芸、周防、長門、そして石見と備後に及び、それはすなわち全毛利領に動員がかけられたことを意味する。
 現在、郡山城に集っているのは安芸、石見、備後の軍勢が中心であり、これより西方へ向かう毛利軍は周防と長門の軍勢を併せてさらに膨れ上がるであろう。
 毛利家中の概算では、最終的に自軍だけで四万を越える大軍になると目されていた。これに毛利家に追随する他勢力が合流すれば、総兵力は五万に達するやもしれぬ。


 先の二度にわたる九国への派兵では、毛利軍は水軍を除けば戦らしい戦をしておらず、その被害はきわめて小さかった。とはいえ、万を越える兵力を二度にわたって差し向けたのだから、毛利家にかかった負担は決して小さなものではない。
 それでも大友家から門司城を割譲され、関門海峡の支配権を得たことを考えれば、負担に見合うだけの戦果を手に入れたといえるだろう。


 今は軍事力の行使を控え、豊前に得た新たな領土を完全に毛利家のものとし、さらに交易路の安全を維持するよう努めなければならない時である。それが元就をはじめとした毛利家上層の考えであった。
 その根底には、門司城を割譲した大友家や、毛利家の勢力伸張をおそらくは歯軋りしつつ見守っているであろう尼子家が遠からず動くことは明らかである、との思案があった。彼らに容易に付け入ることのできる隙を与えるべきではない、と毛利家中は考えていたのである。


 だが、今、毛利家は先の二回を上回る規模の大動員を命じている。
 無論、これにはしかるべき理由があった。
 九国から伝わる大友家の動静が、毛利家に出兵もやむなしという決断を下させたのである。
「日の本の地を、異人に譲り渡すなど言語道断!」
 とは毛利家の重臣筆頭である志道広良の言であり、同時に元就、隆元ら毛利宗家の意思でもあった。




「大友家の当主が南蛮神教に心酔しているのはわかってたことだけど、ここまでくると、心酔というより耽溺、耽溺というよりは狂信って感じだね」
 吉田郡山城の軍議の間で、今回の遠征軍を率いる将の一人である小早川隆景が辛辣な表情で、辛辣な言を吐く。
 常であればそんな隆景をたしなめる役回りを務める吉川元春も、今回ばかりは妹に賛同せざるを得なかった。
「うむ。おのが領内で異教を保護するのは自由。寺社仏閣を打ち壊す行いは非道ではあるが、我らが武力をもって糾す筋はない。何を信じ、何を敬うかはあくまで大友家内部の問題だ。だが――」
「さすがに今回みたいに、自分から南蛮の手先になりますと言わんばかりの行動をとられたら黙ってはいられないよ。このまま大友の暴走をほうっておいたら、あの家を足がかりにして南蛮人が日の本に入り込んできてしまうもの」


 そう自身の見解を口にしつつ、隆景は密かに嘆息する。
(まあ、もっともこれも半分以上は隆姉の受け売りなんだよね)
 隆景が視線を長女の隆元に向けると、隆元は妹たちからやや離れたところで、他の家臣たちと熱心に今後の行軍予定を話し合っていた。
 常の軍議であれば基本的に聞き手にまわる隆元だが、今回の出兵に関しては驚くほどに積極的である。こちらまで戦意が伝わってきそうだ、などと思いながら隆景はゆっくりと口を開いた。


「……隆姉、いつ頃から大友の危険性に気づいていたんだろう?」
 ここでいう危険性とは、大友家の広大な版図や強大な兵力を意味しない。そんなものは童でも承知していることだ。
 隆景が口にしたのは、大友家が――より正確に言えば、その当主である宗麟が売国の行いを為しかねない人物である、ということを隆元はいつの時点から把握していたのか、ということであった。


 妹の問いを正確に把握した元春は腕を組んで考え込んだ。
「さて、少なくとも先に将軍家の意向をはねのけた時点では察しておられたとは思うが。だからこそ、将軍の不興をかってでも大友家と手を組むことを拒否されたのだろうしな」
 それを聞き、隆景は、はあ、と小さくため息を吐いた。
「……ぼく、あれは毛利家の利害を考慮した上で、あえて強気に出たんだとしか思ってなかったよ。ぼくが門司城の件で義母上に話を聞いたときも、隆姉、特に何も言ってなかったし」
「隆景の考えも間違いではないと思うぞ。姉上とて、まさか今回の件をすべてあらかじめ察していたわけでもなかろう。ムジカの件をきいて愕然とされていたお顔は本物であった」


 隆元が大友宗麟の為人に危惧を覚えていたのは確かだろうが、その危惧はそこまで明確なものではなかったろう、と元春は判断していた。隆景は隆元が口を噤んでいたことが気になるようだが、隆元にしてみれば、そこまで明確な根拠があっての危惧ではなく、あえて妹たちや義母に告げる必要もないと考えていたのではないか。
 ムジカの報せを聞いた時、隆元もまさかと思ったに違いない。疑いを抱いていたとはいえ、まさか大友家の当主ともあろう者が異教に耽溺するあまり、国土を売り渡すようなまねをするはずがない、と。


 だからこそ、その報せが間違いないと判明した後、隆元は強硬に出兵を主張したのだろう。これまでの危惧が明確な形で眼前に現れてしまったから。これをほうっておけばどうなるか、隆元はかなりの確度で予測できたに違いない。
「あのように意気軒昂な姉上を見たのは久方ぶりだったな」
 元春の言葉に、隆景は小さく肩をすくめた。
「厳島以来、かな? 義母上が口をはさむ暇もないくらいだったからね」
 それにしても、と隆景は言葉を続ける。
「日の本に南蛮神教の城市を築くとか、何を考えているんだろうね、宗麟は」
「さてな。寺社や朝廷に土地を寄進するのとはわけが違う。こればかりは当人に訊いてみねばわからぬよ。まあ、訊いたところで理解できるとは思えんが」
 期せずして、姉妹のため息が重なった。




 毛利家は、大友家が日向の地にムジカなる城市を建設していることは早くから察知していた。
 だが、大友宗麟が常々口にしているという聖都という言葉とその意味を鵜呑みにしていたわけではない。
 九国に南蛮神教の城市を築く。それは南蛮神教を広めるための根拠地にして聖地である、などという言葉はあくまで信徒たちに対する名目上のこと。
 毛利家は宗麟の言葉をそう捉えていたし、またそれが当然の判断というものであった。まさか自家の財貨、兵力を投じてまで異教のために尽くすようなまねを、大友ほどの大家の当主がするはずがない。それではまるで大友家の上に南蛮神教があるようではないか。


 だが、九国から送られて来る情報は、当然であるはずの判断を覆すものばかりであった。
 決定的であったのは、ムジカの建設にともない、本国である豊後でも動揺が広がっているという事実である。元就の下には、幾人もの大友家臣から書が届けられており、家中の動揺をつぶさに伝えてきた。
 それによれば、宗麟は日向に侵攻して以来、一度として府内に戻っておらず、その身をムジカに留め続けている。ゆえに家臣たちは南蛮神教に従うがごとき宗麟の行動とその真意がわからず、重臣たちですら平静を保てずにいるという。


 これまでも南蛮神教に傾倒する宗麟の行動は重臣たちの頭痛の種であったが、今回のムジカ建設は従来のそれとはっきりと意を異にしている。
 ムジカを建設している人夫の大部分は南蛮神教の信徒たちであるとはいえ、本をただせば彼らも大友家の領民である。これを使役することは大友家の力を用いることに他ならない。
 くわえてムジカを建設する石材や木材は、やはりこれも大友家の財産である。カブラエルら南蛮神教側も相応の費用を投じているとはいえ、彼らの財の多くは大友家から献じられたものなのだ。これらを費やしてムジカをつくりあげ、それをそっくりそのまま南蛮神教に献じるなど正気の沙汰ではない。


 この時代、主君への忠誠は無条件のものではありえない。主家のために命がけの働きをするのは、ただ忠誠の念ゆえではなく、相応の報いを望んでのこと。これにあてはまらない忠臣も存在するが、大部分の家臣にとっては主君から与えられる『御恩』あっての『奉公』なのである。
 ムジカの建設は、この君臣の関係に深刻な疑念を植えつける結果となった。
 すなわち、今後、大友軍が戦に勝って得た土地や城は、家臣ではなく、南蛮神教に分け与えられるのではないか、と。


 大友家の家臣が仕えるのは当主である宗麟であって南蛮神教ではない。その宗麟でさえ、無条件で配下の忠誠を得られる立場ではないのだ。
 宗麟が当然であるべきこの理をわきまえず、当主が当主たるべき責務を放擲するのなら、家臣が家臣たるべき責務を果たす必要はない。
 大友家に忠誠を誓う武士の中に、南蛮神教の走狗に堕することを望む者など一人としていないのだ――元就の下に送られて来た書状に、この憤りが込められていないものは一つとしてなかった。


 今ならば、謀略をもって大友家の膝元である府内で騒擾を起こさせることも難しくはない。
 大友家の混乱と分裂を促し、それが頂点に達した段階で兵を発すれば――おそらく一年もかかるまい――豊前、筑前はおろか豊後さえ毛利家の版図に加えることが出来るだろう。元就のその判断に、隆景も賛意を示した。
 それからもわかるように、当初、毛利家は謀略によって大友家を突き崩し、しかる後に兵を発する心算だったのである。


 それに異を唱えたのが隆元であった。
 今は巧遅よりも拙速を。
 武辺者の元春ではなく、隆元がそう主張したことに、多くの者たちが驚いた。
 だが、常は戦を厭う毛利宗家の嫡子は、この時は人が変わったように強硬に出兵を主張した。
 隆元は言う。
 大友家の迷走は、これと対峙する毛利家にとって願っても無い好機のように映る。しかし、その実、もっと大きな危機を内包しているのだ、と。
 大友や毛利といった『家』という枠組みを越え、日の本という『国』をも揺るがすほどの巨大な危機の先触れ。今回の戦は、これまでの領土争い、権益争いとは一線を画するものである――


 隆元がこの考えに至ることができたのは、彼女自身の才覚はもちろんのこと、幾人もの商人たちから南蛮神教の危険性について忠告されていた為である。
 政治、軍事、外交、経済――国を治めるために大名が為すべきことはいくらもあるが、そのすべてにおいて資金は必要不可欠なもの。当主や家臣が国政においてどれだけ優れた手腕を有していようとも、金がなければ国は動かない。
 毛利家にあってこの資金調達を任されているのが隆元であり、当然のように隆元は商人たちとの付き合いが深く、その中には堺や博多といった商都でも指折りの人物も含まれていた。
 南蛮をはじめとした海外の事情に通じている彼らは、折に触れて隆元に対して他国との交易がもたらす利と、それにともなう危険性を説いていた。ゆえに隆元は大友家が内包する危うさに早くから気づくことが出来たのである。


 常日頃は温和で、時に覇気がないと苦言を呈されるほどの隆元であるが、必要なとき、必要な場所で発揮する資質は義母や妹たちに劣るものではない。
 かくて、隆景をして「厳島以来」と評するほどの鮮烈な態度で家中の意思をまとめあげた隆元は、毛利家にとっても空前の規模の遠征軍を編成してのけたのである。


 この時、軍の編成を進める隆元、元春の動きの影で、元就や隆景も積極的に動いていた。兵を発するからといって、謀略をためらう理由はどこにもない。
 すでに毛利家の使者は九国の各地に飛んでおり、その影響は豊前、筑前はもちろん大友家の本国である豊後にも及んでいた。
 そして、使者の一人は大友家の領国を越え、遠く肥前にまで達していたのである……




◆◆◆




 肥前国 佐賀城


 肥前の一地方領主から、名実ともに肥前の国主へと成長を続ける竜造寺家。
 その本拠地である佐賀城の軍議の間では、竜造寺家の文武の要ともいうべき者たちが一堂に会していた。
 竜造寺家当主、竜造寺隆信の傍らには重臣筆頭である鍋島直茂が座し、彼ら二人の前に成松信勝(なりまつ のぶかつ)をはじめとして百武賢兼(ひゃくたけ ともかね)、江里口信常、円城寺信胤、木下昌直ら四天王が勢ぞろいしている様は壮観の一語に尽きるであろう。


「では今度こそ、本当に大友家と敵対するということで間違いないのだな、直茂?」
「御意にございます、殿」
 『肥前の熊』とも渾名される隆信は、その名のごとく熊に似た相貌と巨大な体躯の持ち主である。
 これでも笑えばそれなりに愛嬌のある顔になるのだが、今の隆信に笑みはない。それどころか、その目にはどこか疑わしげな色が浮かび上がっていた。
 もっとも、それは直茂に対して深刻な疑惑を抱いているというわけではなく、大友家と一矢も交えないうちに撤退に至った先の筑前攻めを、少しだけ根に持っているのである。

 
「まことか? また先ごろのように、寸前で待ったをかけるつもりではあるまいな?」
「その可能性が全く無いとは申しませんが……」
 主君であり、義理の兄でもある隆信の内心を察し、直茂は鬼面の内で小さく苦笑をもらした。
「それには大友宗麟殿が南蛮神教に対し、日の本を侵すことは許さぬという断固たる姿勢を示すことが不可欠です。しかしながら、これまでの彼の御仁のなされようを見るに、今にいたって克目される可能性は低いと申さざるを得ません。よって此度の出兵、戦の勝敗によらずして兵を退くようなことにはならぬでしょう」
「そうか! ふはは、ならばよし、ならばよし! 今の腐りきった大友になど、このわしがおくれをとるなどありえんわい。筑前を奪った後は府内まで押し寄せ、わしの力を思い知らせてくれようッ!」
 ここで口を開いたのは四天王では新参にあたる木下昌直である。
「おお、さすがは殿です! この木下もふんこ……つ? いや、えっと、ともかく全力で付き従いますぜ!」
「よくいった、昌直。我が下で存分に手柄をたてるが良い! 期待しておるぞ!」
「ははッ!!」



 気炎を吐く当主に盛んに迎合する木下。
 そんな二人を尻目に、直茂と他の四天王はさらに話を進めていた。
「鍋島殿。今回の出兵、総勢はいかほどに?」
 四天王筆頭である成松信勝の問いに、直茂はよどみなく応じる。
「今回は竜造寺家の総力をあげての出陣になります。総兵力はおよそ二万」
 その直茂の言葉に、おお、という驚きとも賛嘆ともとれる声がこぼれおちる。四天王らにとっても、それだけの数の軍を率いるのはかつてないことであった。


 だが、疑問を抱く者もいた。主君に優るとも劣らぬ屈強な体躯の持ち主である百武賢兼は、外見に似合わぬ(?)思慮深さを感じさせる声で問いを発する。
「数だけなら、肥前中の男どもをかきあつめれば何とかなるとは思いますが、どうしたって錬度は落ちますぜ。むやみに兵力を増やすよりは、少数でも精鋭の兵を集めた方が良いと思いますが?」
 これに対し、直茂は素直に頷いてみせる。
「百武殿の言はまことに正しいでしょう。敵より多くの兵を集めるのは兵家の常識ですが、質をともなわない軍は烏合の衆に過ぎません。よって戦の主力となるのは動員した兵の内、八千に限ります。これを四天王の皆様に率いてもらい、残りの一万二千は後方で私が統率し、糧道を固めましょう」


 それを聞いた信常が怪訝そうな顔をする。
「それなら最初っから八千だけで良いんじゃないですかね、軍師殿?」
 円城寺とならぶ姫武将である江里口家の当主は、戦に用いないならば、一万を越える兵に無駄飯を食わせる必要はないと考えたのだろう。
 これに応じたのは直茂ではなく、それまで黙ってにこにこと一同を眺めていた信胤であった。
「数の圧力というのはなかなかにばかにできませんわよ、エリちゃん? それに一万に足りない軍勢では、どうしたって毛利家の後塵を拝することになってしまいますし、筑前の国人衆にも侮られてしまうでしょう」
「この年でエリちゃんはやめとくれよ、胤。でもまあ、なるほど、そういうことなら納得です。要は示威のためですね」


 その信常の言葉に直茂はこくりと頷いた。
「はい。此度の戦の結果次第では、九国の勢力図は大きく様変わりするでしょう。今後の竜造寺家の行く末を左右する戦です。よって先に申しあげたとおり、竜造寺家は総力を挙げてこれに臨みます。皆様もそのように心得ておいてくださいね」
 その言葉に込められた直茂の意図を汲み取り、信勝をはじめとした四天王は一斉に頭を下げるのだった。
 


◆◆



 そして、軍議が散じた後。
「そういえば、以前、大友家の使者としていらしていた方はどうしているのでしょうね?」
 不意に信胤はそんな言葉を口にした。
 すでに隆信や信勝らは退出しており、軍議の間に残っているのは信胤と直茂のみである。あるいはこの話題を口にするために、わざと信胤はこの場に残っていたのかもしれない。


 信胤が言わんとするのが誰であるかを直茂はすぐに察したが、生憎とその答えは持っていなかった。
「さて、どこでどうしているのやら。わざわざ敵国に赴いてまで南蛮神教の手法を伝えてきた以上、彼らを脅威とみなしていることは間違いないでしょう。にも関わらず、大友家の動きにこれといって変化は見られません。それほどに南蛮神教が大友家中で勢力を伸ばしているのか、あるいは宗麟殿の信仰心が篤いのか、いずれにしても雲居殿や、その主である立花殿が大友家の現在の在り様を正すことができなかったのは間違いありませんね」
「そうすると、とうに南蛮の方たちに除かれている可能性もあり、ですわね。今頃はどこぞに埋められているのかもしれませんわ」
 のんびりとした調子で物騒な予測を口にする信胤であったが、直茂は特に気にする様子もなく(いつものことなので)わずかに首を傾げただけであった。


「胤殿に酔い潰されながら、それでも私と渡り合った御仁です。そう易々と敵に屈したりはしないでしょう。道雪殿の下で時節を待っているか、あるいは……私の考えすぎかとは思いますが……」
 めずらしく直茂が曖昧な物言いをするのを見て、信胤は不思議そうに目を瞬かせた。
「あるいは、なんですの?」
「……それどころではない、という事態に襲われているのかもしれない、と」
「それどころではない? 当主は愚行に愚行を重ね、時を経れば豊前、筑前はおろか本国である豊後にも敵国の手が届きかねない状況よりも、なお悪いことが起きている、と? わたくし、とても想像できませんわ」


 驚いたというよりは、突拍子のない考えに呆れたような信胤の言葉に、直茂はわずかに苦笑をもらす。
「そうですね。胤殿の仰るとおり、今の大友家を取り巻く状況よりなお悪い事態など、それこそ天変地異でも起こらぬ限りありえぬことだと私も思います。そして、そんな事態が起きているならば、なにがしかの報せが来ていておかしくない」
 その報せがない以上、やはり何処かの地で時節を待っていると考えるべきだろう。直茂はそう判断したが、内心で首を傾げてもいた。


 雲居筑前と名乗っていた大友家からの使者。その口から南蛮の侵略の手口と、南蛮神教が果たす役割について知ることが出来たのは、直茂にとって少なからぬ意味があった。ゆえにそれを教えてくれた相手には相応の感謝の念を抱いているが、それはあくまで私情であり、大友家に手心を加える理由にはなりえない。
 そもそも、向こうからもそんなことは一切求められていないのだ。
 では何のためにわざわざ肥前の地までやってきたのだろうと考えた直茂は、一つの推測を胸中で育んでいた。すなわち、大友家が内からの力で止まることが出来ない状況に陥ってしまった時、外からこれを止められる勢力をつくっておきたかったのではないか、と。


 ただ、これは一歩間違えれば裏切りと判断されかねない所業であるし、雲居の為人にもそぐわないように思える。
 雲居が南蛮勢力の排除を第一に考えるのであれば、あえて大友家に留まる理由はない。それをしない以上、雲居は大友家を大友家たらしめることを第一義としているはず。であれば、先の訪問はそのために竜造寺家を動かす深慮が秘められていると思われるのだが、直茂にはとんと見当がつかなかった。
 すでに竜造寺家は毛利家からの締盟の使者に応じ、大友家を敵として筑前に大軍を向ける決定を下してしまっている。これは雲居にとって避けなければならない事態であったはずなのだ。


「まさか本気で私が恩に感じて、大友家に好意を持つと期待していたわけでもないでしょうに……」
「そこまでのお人よしには見えませんでしたわねー」
 直茂の呟きに、信胤がうんうんと頷いてから、おとがいに手をあてて小首を傾げた。
「わたくしたちの手で平戸を討たせたかった、というのはどうでしょう? 南蛮神教の勢力をこれ以上拡げないために」
 信胤が口にしたのは、先ごろ竜造寺家に降伏した平戸の松浦隆信のことを指している。松浦隆信は南蛮神教を熱心に保護し、自ら洗礼を受けて南蛮神教の信徒なり、平戸に大勢の南蛮人を受け入れて交易を盛んにし――つまりは豊後における大友宗麟の似姿であった。
 先の筑前争乱の介入を未然に防がれた竜造寺家は、返す刀で松浦家を討ち、これを降伏させた。
 この時、直茂が他の敵対勢力ではなく、松浦家を選んだのは南蛮神教の危険性を雲居に説かれた後である。松浦家を討つという決断に、雲居の言葉が一寸たりとも混じっていないかと問われれば、答えは否であった。


 とはいえ――
「それは私も考えましたが、元々、当家と松浦家は犬猿の仲だったのです。くわえて平戸は交易の拠点として重要な土地。大友家が策を弄さずとも、遠からず私たちは矛を交えることになっていたでしょう。それは多少なりとも情勢に通じている者であれば簡単に予測できるはずです。あえて危険をおかして敵国に来る必要があったかと問われれば――」
「こちらがまともに話を聞くという保障もないですからねー。命をかけるには、少々危険と利益のつりあいがとれていませんわね」
「そのとおりです。くわえて、確かに平戸の南蛮勢力は私たちによって除かれましたが、逆に竜造寺家の力は大きく増しました。大友家――いや、ここはあえて雲居殿といいましょうか。雲居殿にとって、当家の勢力が増大するのは南蛮勢力が肥え太るのと同じか、それ以上の脅威のはずなのです」


 竜造寺家が力を増せば、その分、大友家にかかる圧力が増すのは当然である。あるいは雲居は竜造寺家と松浦家が平戸をめぐって血みどろの乱戦を繰り広げることを期待していたのか。
 だが、それならそれでもっと説きようはあったはずだし、竜造寺家を説いた後に平戸に向かわなければおかしい。南蛮の在り様と、南蛮神教の脅威を伝えただけであっさりと筑後川を越えて立ち去ったあの行動に、そんな底意があるとは考えにくかった。


 他に考えられるとすれば、と直茂は目を瞑る。
 たとえば……そう、雲居にとって竜造寺家以上に南蛮神教が脅威であったのならば。たとえ竜造寺家を利する結果になるとしても、平戸から南蛮色を消し去るために動くことはありえるかもしれない。
 だが、これも可能性は低いと言わざるを得ない。近年、南蛮神教は九国各地で急速に勢力を拡げつつあるが、それはあくまで一つの宗教としてである。当面の敵国である竜造寺家よりも、南蛮神教を敵対視するなど考えにくいのだ。
 それこそ南蛮神教が竜造寺家以上の武力を手に入れた、というならばともかく――



「…………まさか、そんなことが」
「どうかなさいまして?」
 不意に動きを止めた直茂を見て、信胤が怪訝そうに声をかける。
 直茂がその声に応じるまで、ほんのわずかだけ間が空いた。
「……いえ、何でもありません。どのみち、相手の思惑がどうあれ、此度の戦は避けられません。竜造寺家の隆盛のためにも、足元をすくわれることのないよう気をつけねばなりませんね」
「特に殿と木下さんの足元を、ですわね」
「ふふ、そういうことです。殿には私が注意を促しておきますゆえ、胤殿には木下殿のことをお任せしたいものです」
「あらあら、わたくし、さりげなく面倒な仕事を押し付けられそうですわね?」
 ぷく、と頬を膨らませる信胤に、直茂は口元に笑みを湛えながら応じた。
「お二人はなかなかに良い組み合わせである、と私などは思っているのですが」
「そう言われても、木下さんが相手ではあんまり嬉しくありませんわね」
 ころころと笑いつつ、何気に毒舌ぶりを披露する信胤であったが、最終的には仕方ないですわね、といって直茂の請いを受け容れた。


 ほどなく信胤が軍議の間を辞すと、残ったのは直茂ただ一人となった。
 その直茂はひとり軍議の間に座りながら、身動ぎ一つしない。何事かを深く考え込んでいる様子であった……





[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第九章 杏葉(三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:cd1edaa7
Date: 2011/07/16 20:42

 薩摩国 錦江湾


 南蛮軍提督ガルシア・デ・ノローニャの旗艦『カタリナディアス』号。
 その甲板にはじめて倭国の人間の足跡がつけられた時、日はいまだ中天に達していなかった。
 旗艦の周囲は、ガルシア麾下の二十八隻から成る南蛮艦隊が取り囲んでおり、甲板上では甲冑で身を固めた南蛮兵が、陽光を反射して鈍く輝く銃を捧げ持ち、使者を威圧するようにずらりと居並んでいる。
 完全包囲、絶体絶命、四面楚歌、そんな言葉を使いたくなってしまうような光景であった。


 だが、武器らしい武器も持たずに甲板に降り立った島津家の使者は、周囲から向けられる南蛮軍将兵の視線に特に動じた風もなく、しごく落ち着いた様子で歩を進め、ガルシアと相対する。
 島津軍と南蛮軍。両軍の代表者の視線が、つかの間、交錯する。
 最初に口を開いたのは南蛮側であった。
「まずは、ようこそ、と言っておこうか。南蛮軍提督ガルシア・デ・ノローニャだ」
「はじめまして、ノローニャ提督。薩摩島津家の使者として参りました、雲居筑前と申します」


 周囲の将兵がやや戸惑った様子を見せたのは、ガルシアが日の本の言語を用いたからだろう。同時に、つい先ごろまで激しく矛を交えていた間柄であるにもかかわらず、二人の言葉に敵意や憎悪が込められていなかったことに対する驚きもあったものと思われる。
 無論、だからといって両者が無条件に親愛や敬意の念を抱いたわけではない。
 むしろその逆であった。雲居とガルシアは、互いに相手を一目で油断ならぬ相手と見て取り、軽々に内心を示す愚を悟って、礼儀という名の甲冑をまとったのである。


 穏やかな言葉や表情とは裏腹に、二人の周囲はたちまちのうちに緊迫感に包まれていく。通訳という名目でこの交渉の場に席を与えられていたルイス・デ・アルメイダは、膨れ上がる剣呑な気配を鋭敏に感じ取り、額に汗を滲ませていた。



◆◆



(見事なまでに想像どおりの人だな)
 はじめてガルシアと相対した俺は、内心でそう呟いた。
 当然のことながら、俺は交渉に先立ってルイスから南蛮軍の主要な人物の情報を聞き出している。
 俺の眼前にいる人物、ガルシア・デ・ノローニャの過去の戦功についても、大体のところは把握していた。
 そういった情報からおおよその為人は想像していたのだが、まさかここまで想像どおりの人物が出てくるとは思わなかった。


 鋭く整った眉目は秀麗、日に焼けた顔は精悍、その外見からは長きに渡る航海や、幾多の戦いによる疲労がまったく感じられず、見るからに精力的である。くわえて、言動こそ穏やかだが、こちらを見据える双眸には獲物を狙う鷹にも似た鋭い光が灯っており、とてものこと戦に敗れたばかりの人物とは思えなかった。
 おそらく香油かなにかを使っているのだろうが、濃茶色の髪は綺麗に整えられており、美々しい軍装とあわさって、いかにも瀟洒な雰囲気を醸し出している。近づくと鼻をくすぐるこの香りは、かのハンガリアンウォーターというやつだろうか。


(洒落者で切れ者、か……)
 ガルシア・デ・ノローニャ、あらゆる意味で気に食わん。
 われながら身も蓋もないが、それが嘘偽りのない俺の第一印象であった。
 無論、どれだけ気に食わなくても、ここで回れ右するわけにはいかない。
 今回、島津家が南蛮軍に申し入れた交渉――南蛮軍の捕虜を解放する代わりに、大砲、鉄砲、火薬といった軍需物資を島津家に差し出す――は俺の発案であり、歳久らを説き伏せる形で単身ここまでやってきたのだから尚更であった。
 

 実のところ、俺が内城で捕虜解放の話を歳久と家久にしてから、まだ一週間も経っていない。
 これほど話が速やかに進んだのには、もちろん理由がある。
 そもそも、島津軍から持ちかけた今回の交渉は、南蛮軍としては即断即決できる類のものではなかった。
 苦戦の末に捕らわれの身となった将兵を見殺しには出来ないが、大砲も鉄砲も南蛮軍にとっては欠かせないものである。自慢の火力を丸々引き渡した末に、敵軍の強襲を受けてしまえば全滅の恐れさえあるのだ。
 くわえて、この地に着いて以来、補給らしい補給を受けていない南蛮軍は、水や食料にもあまり余裕はないだろうから、千を越える捕虜を受け容れることは少なからぬ負担になってしまうのである。


 南蛮軍としては簡単に応じることは出来ない。かといって無視することも難しい。そして、そういった迷いや、迷いの元となっている内情を敵に悟られることも避けねばならない。
 そのあたりを考慮すれば、南蛮軍は島津軍の申し入れに対し、まずは強気に出てきて主導権を握ろうとするだろう、と俺は予測した。


 そして、この予測は正鵠を射る。
 南蛮軍は交渉自体は拒否しなかったものの、交渉の場をカタリナディアス号――すなわち、今、俺がいるガルシアの旗艦に指定したのである。
 ガルシア率いる艦隊は、現在のところ桜島南方の小島を中心として展開している。そこまで足を運べというのが南蛮軍が出した条件であり、かつ交渉の成否に関してはいかなる言質も与えようとしなかった。
 まずはそちらから出向け、話はそれからだ、というわけである。
 一見、強気に過ぎるように思える条件だが、これは南蛮軍が敗北を認めていないこと、そしていまだに島津と戦い得るだけの戦力と士気を保っていることを、こちらに知らしめる目的も兼ねていたゆえであろう。


 最初の使者が持ち帰ったこの条件に対して、島津家中からは激しい不満が噴出した。
 それはそうだろう。
 かなりの損害を受けたとはいえ、先の海戦で勝利した側が、どうして敗北した側の陣営に赴かねばならないのか。南蛮軍と交渉するにしても、出向くのは南蛮側であるべき、と島津の家臣たちが考えるのは当然のことであった。


 本来であれば、ここから両軍の駆け引きが始まるはずだった。
 だが、あいにくと今の俺に駆け引きに時間を割いている暇も、気の長い交渉をしている余裕もなかった。時間的にも、精神的にもである。
 ゆえに俺は、南蛮側がはね付けられることを覚悟の上で口にしたであろう条件を、そのまま呑むように島津側に請うたのである。


 島津の家臣たちを納得させるのは非常に骨が折れたが、結論から言えば何とかなかった。
 といっても交渉が成功すると納得させたわけではない。むしろ大多数の者たちは、どうせ失敗するに違いないが、成功したらもうけもの。やるだけやらせてみよう、という感じであった。最悪の事態になったとしても、失うのは使者一人(俺)だけなので、島津家にとっては何の損もないのである。


 理由はどうあれ、島津家の許可を得られれば後は簡単。
 無理難題と思ってふっかけた条件をこちらがあっさりと受け容れた以上、南蛮軍は内心はどうあれ交渉の席につかざるを得ないのだから。

 





 一人で敵中にやってきたにもかかわらず、至極落ち着いた態度の俺をどう思ったのかは定かではないが、ガルシアは特に表情を変えることなく、手ずから俺を船長室に案内してくれた。
 船長室に入ったのは俺とガルシアの他、副長らしき壮年の男性とルイス、さらにもう一人、黒衣を着た女性のみ。女性の服装を見るに、南蛮神教の宣教師か何かだろうか。


 甲板と同じように周囲を兵に囲ませて威圧してくると思っていたのだが、その予想は外れたようだ。さすがに若くして提督の称号を帯びるだけのことはある――と言いたいところだが、これはことさらガルシアが豪胆であるというわけではなく、たんに俺が警戒されていないだけだろう。
 ルイスによれば、ガルシアは将としてだけでなく、剣士としても一流であるという。軍内の序列だけで言えば、長恵が警戒していたトリスタンをも上回るらしいから、それは俺程度を相手に護衛なぞ必要とはしないだろうと納得できる。


 そのガルシア以外で気になったのは、部屋の中でただ一人の女性である黒衣の人物だった。射るようにこちらを見据える瞳は敵意と、そして嫌悪に満ちており、いっそ清々しいまでにはっきりと俺の存在を忌んでいるのが感じとれる。
 ルイスから聞き出した南蛮人の中に、この女性にあてはまる名前は出てこなかったように思うが、一体誰なのだろうか。この場にいるということは、宣教師ではなく艦隊の従軍司祭なのかもしれない。相手の視線を受け流しながら、俺はそんなことを考えた。


 ちなみに島津側の人員は俺一人であり、島津家の家臣はおろか長恵もここにはいない。というか、長恵にいたってはすでに薩摩にさえいなかった。
 ついでに付け加えると、ルイスは今日の交渉に先立って、すでに捕虜の身から脱している。 
 無論、これは歳久らの許可を得た上でのことで、最初に南蛮軍に交渉を申し入れる際にルイスを解放したのである。
 これには幾つかの理由があるが、その最たるは、現在の南蛮軍の捕虜の様子や、ペレイラ元帥が間違いなく討たれたこと、さらにエスピリトサント号の航海日誌等の機密書類がことごとく島津軍の手に渡ったことを、南蛮人であるルイスの口から伝えさせるためであった。
 島津家の人間が声高に主張するよりは、同国人であるルイスの口から聞いた方が南蛮側も耳を傾けやすいだろうと考えたのである。




「お互い、無益に時を費やすことは望むまい。すぐにも交渉をはじめたいところだが、先の戦いについて一つだけ言わせてもらいたい」
 さして広くもない船長室の中ほどには、今日の交渉のために据えられたとおぼしき机と椅子が置かれていた。
 そこに座るや、ガルシアは精神の骨太さを感じさせる深みのある声でそう言うと、にやりと笑った。
「所詮は東のはずれの蛮人。陸の上なら知らず、海では相手にもならぬと思っていたが、どうしてどうして見事な戦いぶりだった。第三艦隊が設立されてから今日まで、異国人にここまで叩きのめされたことはかつてない。まして元帥殿を喪うなど想像すらしていなかった。その智、その勇、敵ながら称さざるを得ん」


 ガルシアの声に皮肉や自嘲がまったくないわけではなかったが、それでも本心からこちらの勇戦を称えているのは間違いないようである。
 お褒めにあずかり恐縮、とでも返すべきだったかもしれないが、あいにくと南蛮軍に誉められたところで、こちらは嬉しくも何ともないのである。
 ゆえに、俺は率直にその旨を口にした。
「それはどうも、と言いたいところですが、布告もなく、名分も掲げずに攻め寄せた蛮族の群れを退けた程度の武功、誇る者などこの国にはおりませんよ。まして当の蛮族から勇戦を称揚されたところで誰が喜びましょうか。その賛辞は無用のものです」


 かちゃり、と鉄と鉄がこすれる音が響いたのは、副官が腰の剣に手をかけたからである。どうやら、ガルシアだけでなく、こちらも日本語が理解できるらしい。
 その副官の動きを、ガルシアは軽く片手をあげることで制する。その顔はどこか愉快げであった。
「そうか、俺たちは蛮族か」
「こちらから見れば、それ以外に形容のしようがありません。もしあなた方の故国に私たちが攻め入ったら――しかも何一つ害を与えたわけでもないのに。そう考えれば、こちらの気持ちは容易に理解できるのではありませんか?」
「ふむ……一応こちらには、布教を邪魔された、という名分があるのだがな」
「宣教師や信者の命を奪ったわけではない。ただ、これ以上教えを広めることを止めよ、と命じただけです」


 俺はそう言った後、小さく肩をすくめた。
「まあ、布教をやめるように命じただけ、と言うのはあくまでこの国の人間である私の見方。ただ一柱の神を信じるあなた方にとっては、決して許せないことだったのかもしれませんが……」
 だが、たとえそうだったとしても、ここは南蛮ではなく、日の本という一つの国。文化も習俗も異なる場所であるからこそ、とるべき手段、とるべき態度というものがあったはずである。


「たとえ南蛮国から見れば取るに足りぬ小国であろうとも、小国には小国なりの歴史があり、文化があり、誇りがあるのです。それが南蛮神教と相容れぬ結果を生むこともあるでしょう。神の教えをもってこれを教化せんとするならばともかく、武器を手にとって神の教えを押し付けようとする者たちの器など知れたもの。まして他国の騒擾に付け込み、宣戦布告もせずにいきなり兵を差し向けてきたあなた方南蛮人を例えるに、蛮族以上に相応しい言葉はないと思いませんか?」



 その俺の言葉が終わるよりも早く激発した人物がいた。
 ガルシアの副官ではない。ガルシアの制止を受けてから、副官は落ち着きを取り戻したようで、すでにその手は剣の柄から離れている。
 足音荒く俺に詰め寄ってきたのは、黒衣を着た女性であった。
「黙って聞いていれば好き勝手なことを! 調子に乗るのも大概になさいッ!」
 絹を裂くような、甲高く、鋭い叫び声だった。
 一瞬、室内の調度が揺れたように思えたのは、果たして俺の気のせいであったのだろうか。


 驚くほど滑らかな日本語を口にしているところを見るに、この女性、やはりこの国に来た宣教師の一人なのかもしれない。
 俺はそんなことを考えつつ、怒りをあらわにする女性を冷めた目で見返した。
「別に調子に乗ってなどおりませんよ。私は事実を事実として述べたまで。それともそちらの国では、我意を通すためにいきなり殴りかかるような人物を紳士淑女と呼ぶのですか? だとしたら、やはり蛮族と呼ぶに相応しい国柄であるといえますが」


 俺の言葉に対する反応は、ある意味で予想どおりのものだった。
「黙りなさい! 相手が人であればいざ知らず、神の教えを知らず、知ろうともせず、あまつさえその教えを排斥しようとする猿どもに、どうしてこちらが人としての礼儀をもって接する必要がありますか?! 猿を躾けるには、まず懲罰の鞭をもって叩き伏せ、その愚かさを身心に刻み込む必要があるのですッ!」
 俺には相手の価値観を糾す義務はなく、その意思も持ち合わせていない。この人物と友好を育む必要も、そのつもりも、ない。
 ゆえに、俺は女性の暴論に対してあえて反論をせず、ただ事実を指摘するにとどめた。


「その挙句、猿に負けていれば世話はないな」
「あなたはァッ?!」



◆◆



 激昂して手を振り上げた女性――コエリョを、慌てたように副官とルイスが左右から取り押さえる。
 その光景を見て、ガルシアは苦りきった。
 コエリョはなおも声高に騒ぎ立て、落ち着く様子を見せない。困惑した副官がガルシアの顔をうかがってきたので、ガルシアは苦い茶でも飲んだ気分で頷いてみせる。
 心得た副官がコエリョを半ば抱きかかえるように室内から連れ出すと、ようやく室内に静寂が戻った。


 しばし後、ガルシアは半ば独白するように、何とも言いがたい表情で口を開いた。
「ガスパール・コエリョといってな、薩摩における布教の責任者だった者だ。戦の術など何も知らぬ身で、ここまで逃げ延びてきたあたりは大したやつなんだが……」
 もともと、コエリョは先遣隊のニコライ・コエルホと共に薩摩の地を踏んでいた。
 錦江湾の戦いではコエルホに守られて海上へと逃げ延び、そのコエルホが島津家久に捕らえられると、今度はガルシアの下までやってきたのである。逃げる先として、近くのロレンソではなく、遠方のガルシアを選んだあたり、戦を知らぬとはいえ、ある種の嗅覚は備えているのだろう。
 また、薩摩の地理に通じ、この地の信徒たちの協力を得られるコエリョでなくては、敵地を突っ切ってガルシアのもとに来ることも出来なかったに違いない。


 当初、コエリョは今回の交渉の話を聞きつけるや、異国人と話し合う必要などない、と騒ぎたてた。それでもガルシアが折れなかったので、是非にも、とこの交渉に加わることを望んだのである。
 ガルシアにしてみれば、何事につけコエリョに引っ掻き回されるのは御免被りたかったのだが、この女性宣教師、為人はともかく信仰心の篤さと教会への影響力は侮れないものを持っている。あまりその進言を無視していると、今度はガルシアを敵視してこないとも限らない。
 まかり間違って、ガルシア提督に謀反の恐れあり、などとゴアや教会に報告されてはたまったものではなかった。


 それゆえ、ガルシアはコエリョの懇請を断りきれず、この場に席を設けたのである。
 だが、そこにはガルシアなりの思惑も秘められていた。
 端的にいって、コエリョを雲居に対する当て馬にしようと考えたのである。
 コエリョが交渉に口を挟んでくるのはほぼ確実。南蛮側の出した無理難題をあっさりと呑んだ相手が、コエリョに対してどう反応するか。それを見てみたいと思ったのだ。


 そのコエリョが、まだ交渉が始まらない段階から激発したのはガルシアにとっても予想外だった。まさか雲居があそこまであからさまにこちらを嘲弄してくるとは、ガルシアも考えていなかったのである。
 しかし、結果として早い段階でコエリョを交渉の席から追い払うことが出来たのは、ガルシアにとっても悪い話ではなかった。
 しかも、コエリョを激昂させたのは雲居であって、ガルシアは一切関与していない。それはつまり、ガルシア自身がコエリョの恨みを買う恐れがないということである。
 ある意味で幸運だった。
 そう考えたガルシアは、ふと脳裏に引っかかるものをおぼえた。
 本当に、今の一幕は『幸運』の一語で片付けて良いものなのだろうか、と。





 思えば今回の交渉は、はじめから奇妙なものであった、とガルシアは振り返る。
 島津軍から捕虜解放の話を持ちかけられた時、交渉の場を自らの船に指定したのはガルシアなりの駆け引きであった。
 この交渉が膠着した戦線を打開するための手段であることは明らかである。現在の南蛮軍の状況はお世辞にも良いものとは言えないが、だからといって交渉で下手に出れば、相手は南蛮軍の窮状を悟り、嵩にかかって攻め寄せてくるだろう。
 ゆえに最初に強い姿勢を示し、屈服はもちろん譲歩するつもりさえないのだと相手に知らしめる心算だったのである。


 だが、島津軍はこれをあっさりと呑んでしまう。
 これにはガルシアも目論みを外されたことを認めざるを得なかった。そして同時に訝しく思った。
 島津軍にしたところで、事情は南蛮軍とさして異ならないはず。なりふり構わずに交渉の成立を求めたりすれば、それだけ余裕がないことを相手に――この場合はガルシアたち南蛮軍にさらけ出すことになる。それは向こうにとっても望ましいことではないだろう。


 ゆえに、まずは互いに強気の姿勢をぶつけ合い、そこから交渉のための交渉が始まる、とガルシアは考えていたのである。
 だが、その推測はあっさりと外れてしまった。
 一体、島津軍は何を考えているのか。ガルシアは相手の思惑を忖度しようとして果たせず、困惑を禁じえなかった。
 また、交渉に先立って解放されたルイスの口から聞かされた事実は、ガルシアの困惑をさらに深めるものだった。


 ルイスによれば、島津軍に捕らわれた南蛮兵の中で処刑された者は一人もいないらしい。反抗した者には相応の処罰が下されているようだが、それも精々が強制労働に過ぎず、反抗をしない者たちにいたっては虐待はもちろん、労働に扱き使われることもなく、水も食事も日に二回、きちんと与えられているという。
 少なくともルイスが話した捕虜たちは全員がそう言っていたそうだ。顔にはっきりと戸惑いを浮かべながら。


『ぼくは倭国の言葉と南蛮語を話すことが出来ますし、教会にも席を持っています。だから捕らわれていた間は、おもに島津軍と、虜囚となっている方々との話し合いの仲立ちをさせてもらっていたんです』
 ルイスはガルシアにそう言った。
 具体的にルイスが行ったのは負傷者の手当てであり、処刑を恐れる者たちを宥めてまわることであり、両者の通訳を務めることであったそうだ。
 おそらく島津軍はルイスをずいぶんと重宝し、またその働きを認めていたのだろう。だからこそ、交渉に先立って真っ先に解放されるという特別扱いを受けることが出来たに違いない。
 だが、それはそれとして。
 ルイスの話を聞いたガルシアは内心で唸った。
(ありえん)
 捕虜に対する扱いがぬるすぎる。いつ反抗するかもわからない敵国の兵に、どうして水や食事を日々与えたりするのか。
 この地は島津の領土であり、補給に関しては南蛮軍のような苦労はないだろうが、それにしたところで千人を越える捕虜を食わせる費用は決して廉いものではないはずなのに。


 第三艦隊の内だけにとどまらず、ゴアにおいても智将といえば真っ先に名を挙げられるガルシアであったが、この敵の真意を見抜くことは容易ではなかった。
 それゆえ、コエリョのような、ある意味で南蛮人の典型ともいえる人物と相対した時、使者がどのような対応をとるのかを見てみたくもなったのである。
 その結果が今しがたのやりとりであるならば――これは思っていたよりもはるかに厄介な相手が出張ってきたのかもしれない。
 ガルシアは心ひそかにそう考えた。




「失礼したな、使者殿。互いに時間は有限、そろそろ交渉を始めようか」
 ガルシアは内心の警戒を綺麗に拭った表情で、雲居に向かってそう語り掛けた。
 それに対し、雲居は特に気を悪くした様子もなく、あっさりと頷いてみせる。
 そして、こう言った。
「たしかに、具体的な段取りを決めるに早いに越したことはないですね。こちらは人、そちらは物。時を経れば経るほど、負担が大きくなるのは私たちですから」



◆◆



 あたかもすでに交渉が成立したかのような俺の言葉に、ガルシアはかすかに目を細め、ルイスは驚きの表情を浮かべた。
「あ、あの雲居殿。ぼく……いえ、私は今回の件については何も提督には言っていないのですが……」
 ルイスの顔にどこか焦りが見えるのは、俺の発言を聞いて不安に思ったからだろう。
 もしかして自分を解放したのは、ガルシアを説得させるためだったのではないか、と。


 無論、俺にはそんなつもりは欠片もない。あわあわと慌てているルイスに苦笑を返す。
「何を心配しているかは大体わかるが、その心配は不要だよ。使者の用件について、君をあてにしたりはしていない」
 その言葉に安堵の表情を見せるルイスを見て、今度は別の意味で苦笑がこぼれる。
 この少年にとって、俺は義父を目の前で殺した仇である。憎んでもあまりある相手だろうに、以前も今も、ルイスが俺を見る目に憎悪は宿っていなかった。


 内城にいる時、一度だけ、それについて訊ねたことがあった。訊いても詮無いことだとはわかっていたのだが、恨みも憎しみもあらわさないルイスの態度があまりにも不可解だったからである。
 あの時、ルイスは俺の問いに対し、透き通るような青の双眸に悲しみを湛えつつ、こう返答した。
『憎しみに憎しみで応じてはならない。それは更なる憎しみを広げるだけだから。ぼく……私は、師であるトーレス様からそう教わりました。そして、私自身、たくさんの信徒たちに同じように説いてきました。お義父様を失ったことは悲しく、雲居殿や瀬戸口殿、丸目殿に遺恨がないといえば嘘になります。でも、だからといって報復を望めば、私はこれまでの私を否定することになってしまいます。それは私の言葉に耳を傾けてくれた、たくさんの人たちに対しても不実な行いであると思うのです』


 それに、とルイスは俯きながら続けた。
『今回の戦い、私たち南蛮に完全な正義があったわけではありません。いえ、そもそも正義が……神の御意思がわずかでもあったのかどうか……この城に来て、そのことがわからなくなりました。そして思ったのです。私は、お義父様が何を思い、何を願ってこの戦いに臨んでいたのか、それさえ知らないのだ、と。だから、今は報復なんかよりもただ知りたいんです。この戦いが、南蛮国にとってどういう意味を持っていたのか。私自身が強く望んだこととはいえ、お義父様が私をここに連れてきた理由は何だったのか、そのことを』


 肉体と精神、双方の疲労からだろう、ルイスの頬はこけて見えた。だが、その眼差しの強さが、俺に二の句を告げさせなかった。
 あのルイスの言葉が本心からのものなのか、あるいは怨念を遠ざけるための自分自身への適当な言い訳に過ぎないのか、それは俺にはわからない。戦術だの戦略だのならともかく、こういった人情の機微には疎い俺に、真偽を判別することが出来るはずもなかった。
 結局のところ、俺に出来たのはほとんど不眠不休で捕虜たちのために立ち働いたルイスを、真っ先に捕虜の立場から解放することだけであったが、それさえ今回の交渉を成立させるための一つの手段として利用しているわけで、俺は何一つ間違ったことをしていないにもかかわらず、心に忸怩たる思いを抱かずにはいられなかったのである……

 
 


 つい数日前のことを思い起こしていると、そんな俺の内心を知る由もなく、ガルシアが口を開いた。
「……まるで話し合いがもう済んだとでも言いたげだな。俺はそちらの申し出を応諾した覚えはないんだが?」
 先ほどよりも心なしか低くなったガルシアの声を聞き、俺はかぶりを振って気持ちを切り替える。
 今は過去を振り返っている場合ではない。それに、ルイスに対して思うところはあるにせよ、それでも吉継を救うためにはこれが最善であるとの気持ちは少しも揺らいではいなかった。


 この交渉をもって、少なくとも数年の間、南蛮艦隊の脅威を日の本から完全に排除する。
 その意思を両の眼にこめて、俺は眼前の提督に対して口を開いた。
「応諾した覚えはなくとも、応諾する意思はあるでしょう? これほど都合の良い口実はまたとないのですから」
「確かに捕虜となった同胞を解放することは重要なことだが、こちらの切り札を丸々引き渡す、という代償は決して軽いものではないぞ。今回の件、そこまで南蛮軍にとって都合が良い話とは思えないのだがな?」
「さきほどの提督の台詞ではありませんが、南蛮軍にとって都合が良いなどと言った覚えはありませんよ。私が口にしたのは、提督、あなたにとって、この交渉は都合が良いはずだ、ということです」


 南蛮軍にとって都合が良いのではなく、ガルシア・デ・ノローニャにとって都合が良い。


 返答がなされるまで、少しだけ間があった。
「……なかなかに興味深い発言だが、事ここに至って下らん策を弄するつもりなら、相応の覚悟を決めるべきだ、と忠告させてもらおうか」
 ガルシアの眼光は、いまや抜き身の刃にも等しく、低くなった声音に戦慄を禁じえない。
 ここで選択を誤れば、ガルシアの腰の長剣は躊躇なく俺の首に振るわれるだろう。


 だが。
「忠告はありがたく」
 俺は小さく肩をすくめるだけで、ことさらガルシアの反応に注意を示さなかった。正確に言えば、そう見えるように自制した。
「しかし、別に策を弄するつもりはありません。提督が今回の遠征にさして乗り気でないのは、その動きをみれば明らかです。ゆえにこちらの申し出は、提督にとっても渡りに船のはず。そう申し上げただけですよ」






 ガルシアは、俺が反逆を唆すなり、離間の策を仕掛けるなりしてくると考えたようだが、そんな大仰なことをするつもりはない。また、仮に水を向けたところで、異国の人間に反逆行為を唆され、ほいほいとそれに乗る阿呆がいるはずもない。
 ガルシアが南蛮軍を裏切ることはない。それは明らかである。
 だがその事実は、ガルシアが今回の遠征に乗り気であることを意味するものではなかった。


 南蛮軍の書類によれば、今回、ゴア第三艦隊が動かした船は八十八隻。内十八隻をニコライ・コエルホが、二十隻をロレンソ・デ・アルメイダが、同じく二十隻をガルシア・デ・ノローニャが、そして余の三十隻を元帥であるドアルテ・ペレイラが率いていた。
 現在、ガルシアが率いる二十八隻は、もとからガルシアが率いる船に、錦江湾で敗れた船が合流したものであろう。
 ここで特筆するべきは、ガルシアは先の錦江湾の戦いにおいて、麾下の戦力の大部分を保ったということである。
 ガルシアとぶつかった島津軍の梅北国兼によれば、大砲を使い捨てる戦法で沈めたのが一隻、近接戦で拿捕に成功したのが二隻、件の火薬船で吹き飛ばし、あるいは航行不能に追い込んだのが二隻。計五隻がガルシア艦隊に与えた損害のすべてであった。
 つまり、火薬船の爆発で混乱したガルシア艦隊は、元帥の戦死という凶報すらくぐりぬけ、それ以上の損害を受けることなく戦域からの離脱に成功したのである。


 この一事を見ただけでもガルシアの統率力がいかに恐るべきかがわかろうというものであった。
 また、あの戦いの後、桜島南方に腰を据えて敗走してきた味方の船を収容するかたわら、むやみに動くことなく、内城の島津軍に重圧をかけ続けてきたことも見事の一語に尽きる。
 孫子に『四路五動』という言葉がある。四路とは前後左右のことで、四つの動は四路に対応している。では、五つ目の『動』とは何かといえば、すなわちその場にとどまることである。
 動かないことも時に戦術の一つとなる。ガルシアが孫子を知っているかどうかは知らないが、今回のガルシアの動きはまさしくこれであった。


 一連の動きを見るに、ガルシアの動きは一切の無駄がなく、一軍の将として敗北を免れるために最善を尽くしていると思える。
 だが、だからこそというべきか、俺はガルシアの動きにずっと違和感をおぼえていた。
 端的に言って、消極的すぎるのだ。
 ガルシアの動きは基本的に守勢である。戦場にあっては被害を最小限にとどめ、戦場の外にあっては戦闘を最小限にとどめ、その上で勝利を追い求めていく。
 それは将軍、提督として一つの見識であろうが、三十そこそこの若さで、しかも傭兵あがりの身で南蛮軍の提督に任じられるような男が、そんな消極的な戦いを事とするものだろうか。


 そして、今日こうして本人と相対するに及んで、疑問は俺の中で確信へと変じた。
 ガルシアは明らかにこの遠征に全力を傾注していない。より正確に言えば、何が何でも勝利をもぎとろうとは考えていない。
 どうしてガルシアはこの遠征に限って『勝つ』ための戦いではなく『負けない』ための戦いに専念しているのか。
 おそらく、そもそものはじめから、ガルシアはこの遠征に意義を認めていなかったのだろう。


 エスピリトサント号の資料によれば、今回、南蛮軍はゴアの戦力のおよそ三分の一をこの地に差し向けている。
 南蛮の東方経略において、日の本が重要な位置を占めることは確かであろうが、だからといってこの数の戦力を投入するのは明らかに過剰であろう。
 ゴアにしてみれば、大軍を送り込むことで一気に決着をつける心算なのだろうが、大友家や上杉家が隣国に兵を送るのとはわけが違うのだ。大海を越えて艦隊を派遣するだけでも費用は莫大なものとなるであろうに、それに引き続いて侵略、征服、統治とくれば、それらにかかる費用は天文学的なものになる。いかに南蛮が大国であり、ゴアが富に溢れていようとも、この負担は決して軽いものではないだろう。


 無論、東方諸国の征服に成功すれば、南蛮軍の府庫には莫大な富が流れ込んでくる。東方の金銀や茶、絹、陶器、刀剣といった産物を手中にすれば、侵略のための戦費を補ってあまりあるに違いない。
 だが、それはあくまで征服することが出来ればの話である。
 南蛮側から見れば十分な勝算があったとはいえ、ガルシアにしてみれば、今回の遠征は無名の師としか思えなかったのではないか。
 ガルシアが常になく守勢で戦に臨んだのもこのためであろう、と俺は考えた。


 ただ、疑問は残る。
 そこまで先が見えていたのならば、どうして遠征そのものをやめさせようとしなかったのだろうか。
 無論、一介の提督に出兵の決定権が与えられるはずもないが、戦略的見地から再考を願い出ることくらいは出来たはずである。
 しかし、押収した記録には、ガルシアがそういった行動に出たという記載はどこにもなかったし、ルイスも耳にしたことはないという。
 ガルシアが今回の遠征に疑念を持ちながらも、武人として己の分をわきまえ、命令に忠実に従った、と考えることも出来るが、だとすると、この遠征に限って戦い方を変えた理由がわからなくなってしまう。



 この疑問の答えは、ガルシアの出自が半ば明らかにしているように俺には思われる。
 傭兵上がりの若き提督。実力と運あってこその立身であろうが、それにはなによりもガルシア自身に上を目指す意思が、野心がなければならない。
 前述したように、ガルシアは自立だの反逆だのを目論んでいるわけではあるまいが、南蛮軍が――というよりも大アルブケルケが実行に移した今回の遠征が、ゴアにおける軍神の権勢を揺るがし、ガルシアの栄達に寄与するような状況になれば、それを見過ごすほど無欲でもないだろう。


 その意味で、大アルブケルケが東方経略に執着を見せれば見せるほど、ガルシアにとっては都合が良いと言えるのである。
 実際、南蛮軍は元帥を討ち取られ、艦隊の半分近くを失うという惨憺たる結果に陥っている。いかに軍神と名高きゴア総督といえど、これに関しては本国の糾弾を避けることは出来ないだろう。
 一方で、ガルシアは元帥亡き後も艦隊を維持し、統率力の高さを内外に知らしめている。その応変の才は、麾下の艦隊を失って捕虜となったニコライや、残り数隻にまで討ち減らされて今なお逃げ回っているロレンソとは比べものにならぬ。
 ガルシアに限って言えば、この戦いでむしろ株を上げたと言えるだろう……





 ――などと仮定と推測が無秩序に交錯する考えを組み立ててはみたものの、こんなことを面と向かって口にすれば、それこそガルシアにぶった切られてしまう。傍で聞けばガルシアの叛意を指摘しているようにしか聞こえないだろうし。
 だから俺は、ごくごく穏当な返答を口にするにとどめた。
「異国人に捕らわれた同胞を救うため、あえて危地に踏みとどまったという名誉は、貴族たちはともかく、一般の将兵にとっては重要なものでしょう。決して部下を見捨てない、という評判は後々まで提督に益することになります」
「……なるほど、な。たしかにそう考えれば俺にとって都合が良い話と言える。だが、それをここで口にするお前さんの真意はどこにある? なにやら端倪すべからざることを考えていると見たが、俺にどんな役割を振るつもりだ?」


 こちらの心底を見透かそうとするかのような、ガルシアの勁烈な視線を受け――
「別にそれほど大したことを考えているわけではありませんよ」
 俺はあっさりとそう返した。
「提督の考えが私の目的に益すると思ったから、こうして交渉の席を設けただけのこと。提督に願うことがあるとすれば、捕虜と火器の交換に関しては誠実な履行を、とそれだけです」
「ペレイラ元帥亡き後、艦隊の総指揮権はムジカにおわす殿下にある。交渉を誠実に履行し、捕虜を取り返してしまえば、これ以上この地に留まることはできん。俺たちはムジカに向かうことになろうが、それでも構わんと?」 


 それを聞いた瞬間、俺は一度だけ身体を震わせた。
 ガルシアがこちらの事情をどれだけ把握しているかは定かではないが、俺が大友家の人間であることはルイスから伝わっているに違いない。だからこそ、南蛮艦隊にムジカに向かわれるのは避けたい、という俺の考えはとうに読まれていたのだろう。
 とすると、今の台詞はガルシアの牽制か。そうそう俺の都合どおりに事を運ばせたりはしない、とガルシアは言いたかったのかもしれない。



 だが。
 そんなことは正直どうでも良かった。俺にとって、今のガルシアの発言で重要なのは、いまだに小アルブケルケが――バルトロメウがムジカに留まっている、という一事のみ。
 それはすなわち、まだ吉継は日の本から連れ出されていない、ということを意味するのである。


 吉継と最後に言葉を交わしてから、どれだけの時間が過ぎ去ったのか。とうに日の本の外に連れ出されていてもおかしくない、と半ば覚悟していた俺にとって、今のガルシアの言葉は何にも勝る吉報であった。
 だが、それを面と向かってあらわすわけにはいかない。俺は緩みそうになる表情を、顔の筋肉を総動員して引き締め、務めてそっけなく言い放った。


「島の北側で逃げ隠れしているお仲間を見捨てていかれるのですか?」


 無論、これはロレンソ・デ・アルメイダのことである。
 別にこの事あるを予期して逃がしたわけではないが、利用できるものは利用するべきであろう。相手が勝手に誤解してくれたらしめたものだ。
 そんな俺の態度をどう見たのか、ガルシアはわずかに目を細めた。
「彼らを助けるためと言えば、捕虜を取り戻した後もこの地に留まる理由になります。というより、今、あちらの艦隊がかろうじて無事であるのは、提督がここにいて私たちに睨みをきかせているからです。その提督が去れば、あちらは即座に捕斬されてしまうでしょう」
 それは南蛮軍にとっても、ガルシアにとっても好ましからぬことではないか。
 俺はそう言ってガルシアを見据えた。


「それよりは、ムジカにいる殿下とやらにここまでお越しいただく方が効率的ではありませんか? どのみち、バルトロメウは一度ゴアに帰るのでしょうから、その中途でここに立ち寄ったところで、さして予定が変わるわけでもありますまい?」






◆◆◆





 半刻ほど後。
 カタリナディアス号の甲板で、副官は小船で去っていく島津側の使者を見送りつつ、怪訝そうにガルシアに語りかけた。
「隊長、えらく早く終わりましたね? 一日二日はかかると思ってましたが」
「それは早くもなるさ。向こうが、こちらの条件をほぼそのまま容れたのだからな」
 どこか呆れた様子のガルシアが口にしたとおり、捕虜に関する交渉についてはとんとん拍子に話が進んだ。
 ガルシアとしては、出来るかぎりこちらから差し出す火器を少なくするよう務めるつもりだったのだが、雲居は南蛮軍の出した「引き渡すのはすべての火器の四分の一」という条件を実にあっさりと肯ったのである。ほとんど考える素振りさえ見せなかった。


 無論、雲居が頷いたからといって、それですべてが決まるわけではない。内城に戻った後、島津の君臣にはかった上で決断が下されることになるだろう。
 だが、雲居は南蛮軍の要求が通るように全力を尽くすと口にし、実際にそのとおりに出来る自信があるようだった。
 となれば、これ以上話し合う事柄など何もないのである。ガルシアにしても、雲居にしても、相手に何かの確約を求めるつもりはなかった。
 状況が変化すれば、先のやりとりは即座に意味を失い、すぐにも矛を交える間柄に逆戻りすることを、双方ともにわかっていたからである。


「ルイス君も、なんでまた親の仇についていっちまったんだか。まあ本人の希望なら無理に引き止めることもできんですけどね。なんだか色々と夢でも見ている感じですが、しかしまあ、これでまた存分に船を動かすことができるようになると思えば、やっぱりありがたいもんです」
 無為の滞陣に飽き飽きしていた副官のおどけた声に、しかしガルシアは普段のように反応しようとはしなかった。
 そんな上官の様子に気づいた副官が、先ほどとは別の意味で訝しげな顔になる。
「隊長? どうしたんすか?」

 このとき、ガルシアは副官の声に気づいていなかった。より正確に言えば、声は届いていたが、それが自分に向けられたものであることに気づいていなかった。
 ガルシアの脳裏には、つい先刻、雲居と交わした会話が繰り返されていたからである。




『一つだけ訊かせてくれるか、使者殿』
『なんなりと』
『先ほど言っていたな。俺の考えが自分の目的に益するから、この交渉を設けた、と。それはつまり、この交渉はお前さんにとって目的ではなく手段であった、ということだろう。ならば、お前さんにとっての目的とは何だ? まさか本気で南蛮国を滅ぼそうとしているわけでもあるまい?』
 それを聞いて、雲居は思わず、という感じで笑みを浮かべた。
『はは、その時にこうも言ったはずです。それほど大したことを考えているわけでもない、と。私はただ、奪われたものを取り返したいだけなのです』


 そう言った雲居は、特に語調をかえることなく続けた。
『その邪魔をするならば……あくまで私から家族を奪おうというのなら、たとえ相手が軍神であれ容赦などしません。私の全てで、叩き潰します』
『……元帥の書類をすべて見たのなら、今回の艦隊が、あくまでゴアの戦力の一部でしかないことはわかっているだろう。それでも、その言葉が出るのか?』
『無論です。今回の南蛮艦隊はゴアから見れば一部であったかもしれませんが、これだけの艦隊を遠い異国に派遣するのは、南蛮国にとってもかなりの無理押しだったはず。再び同じ規模の艦隊を組織して攻め寄せるまで、どれだけの時間が必要になるか。一年や二年では不可能でしょうし、今回以上の大軍を動員するなら、やはりそれだけの時間が必要になるでしょう。それはつまり、それだけの時を、私たちは迎撃の準備に費やせるのです。知らないからこその脅威、知っていればいくらでも対処はできる。初手で躓いたのは致命的でしたね』
 そう言うと、雲居は詠うように呟いた。


 ――そちらの神は一柱。
 ――対するこちらは八百万。


『来るならば、相応の覚悟をもってお越しあれ。日の本が誇る戦神(いくさがみ)たちの力、その時までに結集させてみせますゆえ』





 ガルシアは、その言葉の意味を正確に理解したわけではない。むしろ、一体何を言っているのか、と怪訝に思った。
 だからこそ。
 この時、自身の背を滑り落ちた氷塊の正体に、ガルシアは気づくことが出来なかったのである…… 





[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第九章 杏葉(四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:cd1edaa7
Date: 2011/08/03 22:53

 ――それは硬き石を砕き割る鏨(たがね)の一撃。



「……今、なんと言いました?」
 ゴアへの報告書を書いていた手を止めたフランシスコ・カブラエルは、わずかな沈黙の後、口元に苦笑を滲ませて問い返した。
 場所はムジカ大聖堂にあるカブラエルの私室である。
 カブラエルに与えられた部屋はさして広くもなく、豪奢でもない。内装や調度は質実を旨としており、そもそも調度の数自体が必要最低限におさえられていた。
 実質的にムジカを動かす人物の部屋とは思えない質素な佇まいは、清貧を掲げる南蛮神教の信徒に相応しいと言えるだろう。


 カブラエルはことさら自身の清貧さを誇示しているわけではない。
 元々、カブラエルは信仰における名誉や栄光を強く求めてやまなかったが、即物的な意味での栄華や権勢にはさして関心がなかった。カブラエルにとって、富や権勢、それに付随する人や物は、あくまで神の栄光を地上にもたらすための手段であって、それらを得ることを目的としているわけではないのである。
 他者の目にどう映っているかは知らず、カブラエル自身にとって、今も昔も一番重要なものはあくまでも信仰であった。
 唯一絶対の神とその教えに対し、誰よりも忠実に生きていると一点の曇りもなく信じていればこそ、カブラエルの言動には確信が宿り、他者に対して説得力を生むのである。無論、それは南蛮神教という共通の価値観を持つ者にしか効果を及ぼさないものではあるが……


 ともあれ、カブラエルはペンを机に置くと、狼狽を隠せない配下の宣教師に対し、落ち着くように手振りで示す。
 そして、もう一度口を開いた。
「報告は落ち着いて、正確になさい。ここが私の部屋であるから良かったようなものの、公の場であれば虚偽の報告を為したとして叱責は免れなかったところですよ」
「も、申し訳ありまセン、布教長。し、しかシ、薩摩より報告があったのはまことなのデス!」
 その切羽詰った表情を見たカブラエルは、少なくとも眼前の宣教師は偽りを言っていないと判断し、わずかに目を細めた。
 そして、先ほどの報告を自身の口で繰り返す。


「……ふむ。『南蛮艦隊、薩摩内城沖で島津軍に敗北。ドアルテ・ペレイラ元帥戦死』ですか。この報告をもたらしたのは、どこの誰なのです?」
 取るに足らぬ偽報ではあるが、とカブラエルは考え込む。
 佐土原城に向けて十字軍が進発して、まださして時間は経っていない。今、ムジカにこんな謀略を仕掛けてくるということは、相手は事態をかなり精確に把握しているということを意味する。


 しかし、とカブラエルは一つの疑問を抱く。
 まだカブラエルの下にも、あるいはバルトロメウの小アルブケルケの下にも正式な知らせは届いていないが、島津軍の突然の撤兵を見ても、南蛮艦隊の主力部隊が島津領に攻め込んだことはほぼ確実である。
 ゆえに艦隊の存在を知る日本人がいてもおかしくはないが、ドアルテ・ペレイラという指揮官の名まで把握している者がいる、とは少しばかり考えにくい。
 であれば、これは教会の中でカブラエルの失脚を目論む者が動いているのかも知れない。カブラエルはそう考えた。


 日本人でなければ南蛮人、それはごく簡単な推理である。
 カブラエルは若くして日本布教長の座に就いた身。本国でもゴアでも嫉視や反感は当然のように向けられていたし、いまだ先任のトーレスを慕う者もいないわけではない。
 これまではこの手の動きが表面化することはなかった。無論、それはカブラエル自身がその芽を摘んできたためであるが、あるいはその手を逃れた者が、現在の状況の変化を好機と見てカブラエルに牙を剥いて来たのかもしれぬ。


 それはいかにもありえそうなことであった。
 しかし、偽報で混乱を煽るにしても、もっと信憑性のある情報を用いなければ、まったく意味を為さないではないか。常勝提督たるドアルテが、こんな僻地の軍勢相手に敗れるはずはないというのに。
 この偽報を仕掛けてきた相手の稚拙さに、カブラエルは内心で失笑を禁じえなかった。
「季節はずれの暴風雨ですべての船が沈没した、という報告の方がまだ信憑性があるかもしれませんね。我らが無敵艦隊の真価を知らぬにも程があるというもの――」




 ――不意に。
 カブラエルは奇妙な悪寒をおぼえ、口を噤んだ。
 自身の考えの矛盾に気がついたのだ。
 つい今しがた、カブラエルはこう考えた。
 状況から見て、この謀略を仕掛けてきた相手が日本人である可能性はきわめて低い。ゆえに南蛮神教の中でカブラエルに敵対する者が動いているのだろう、と。
 そして、そのすぐ後でこう続けた。
 艦隊が敗れ、ペレイラ元帥が戦死するなどありえない。この謀略の仕掛け主はあまりに南蛮艦隊の恐ろしさを知らなすぎる、と。


 この謀略の仕掛け主は南蛮人であろうと予測した上で、その相手が南蛮艦隊を知らぬという、その矛盾。
 はるばる日の本の地までやってきた南蛮人の中で、自国の艦隊の凄みを知らぬ者などいようはずもない。たとえそれがどれだけ低い地位の者であっても、だ。 


「……しかし」
 知らず、カブラエルの声は低くなっていた。それは否応なく震えを帯びてしまう声を押さえつけるための、無意識の行動。
 気づいたのだろう。この矛盾は「報告が虚偽である」という前提を用いる限り、決して解消されることはない、ということに。
 謀略の仕掛け主が南蛮人であれば、ドアルテが戦死した、などという信憑性のかけらもない情報を流すはずはない。
 謀略の仕掛け主が日本人であれば、現在の時点でドアルテの存在を把握できているはずはない。
 両国の人間が共同してカブラエルを排除しようとしている? たとえそうだとしても、南蛮人が計画に含まれている限り、もっとましな偽報を送ろうとするはずだ。


 軍神たる大アルブケルケの戦友にして盟友。三十年以上の長きにわたり、敗北を知らぬ大元帥。今まで矛を交えた幾多の敵は、彼の旗艦に足跡をつけることさえかなわなかったのである。
 そんな英傑が、東の果ての島国で蛮族相手に敗れるはずはない。日の本のすべての戦力を結集した大軍が相手である、というならまだしも、今回の相手は日の本の中でも一地方に過ぎない九国の、さらに南隅の小勢力に過ぎない。しかも、相手は南蛮艦隊の存在すら知らないのだ。
 戦略、戦術、兵力、武装、士気、錬度、いかなる点においても南蛮軍は優っている――


 カブラエルの頭には次から次へと南蛮軍が勝利するであろう根拠が湧き出でる。意識するまでもなく自然に。それほどに彼我の優劣は明白であった。
 南蛮人であれば、カブラエルほどではなくとも、自軍の勝利を疑ったりするはずがなく、当然、それを否定する謀略が効果を発揮しないことは理解できるはずだ。
 そう、つまるところ、先の報告を矛盾なく理解するためには前提を変えなければいけない。


 報告は真実である、と。
  

 南蛮艦隊の敗北は、南蛮神教にとって切り札の消失であり、計画の破綻を意味する。
 カブラエルにとっては長い年月をかけて実現へと努めてきた、そしてついに実現せしめた聖都が潰えることを意味する。
 そんなはずはないし、あってはならない。
 カブラエルは本能的にそう断じると、より詳しい報告を聞こうと配下の宣教師に目を向ける。


 そして、おそまきながらようやく気づく。
 報告をもたらした宣教師が唇を震わせ、顔面を蒼白にしていることに。
 この様子ではカブラエルの言葉も耳に届いていなかったかもしれない。相手を宥めるため、カブラエルはいつもの柔らかい笑みを浮かべ、ゆっくりと語りかけた。
「どうしました? このような子供じみた偽報を信じるなど、聡明なあなたらしくも――」
 とりあえず、偽報ということにしておけば、宣教師も落ち着くだろうと考えたカブラエルの言葉。
 だが、そんなカブラエルに向け、宣教師は短い、けれどあまりにも決定的な事実を口にする。
「……報告をもたらシタのは、ガルシア・デ・ノローニャ提督なのデス、布教長。署名も、提督本人のモノであると確認されマシタ……」






 ――どこか遠くで、何かが砕ける音を耳にしたように思った。






「…………そう、ですか。ふむ、これは早急に殿下の下に赴いて、今後の対策を話し合わねばなりませんね。大丈夫ですよ。艦隊の敗北が事実だとしても、すべての船が失われたわけではないでしょう。少なくともノローニャ提督は無事なのですから。ああ、あとはフランシスにもこの旨を告げておかねば」
 口早に話す自分の声が、いやに遠くに聞こえる。
 そんなことを思いながら立ち上がったカブラエルの身体が、不意によろめいた。
「布教長?!」
 慌てて駆け寄る宣教師に支えられながら、カブラエルは小さく笑う。
「ああ、すみません。私としたことが、予期せぬ報せに少しばかり動揺してしまったようです」
 いかにも何でもないことのように振舞うカブラエルであったが、その表情はこれまで配下が一度として見たことのないものだった。くわえて、カブラエルの身体を支える宣教師の手は、布教長の身体が今なお微かに震え続けているのを感じ取っていた。


 何よりもそのことが宣教師を不安にさせた。薩摩からもたらされた報告が南蛮神教にとって何を意味するのか。考えることさえ恐ろしいゆえに、問いかけることしか出来ぬ。ただ否定されることだけを願って。
「布教長……聖都が敵の手に落ちるようなコトには……」
 しかし、震える問いかけは、中途で断ち切られた。
 問いを向けられたカブラエルが、宣教師の言葉に構うことなく部屋の扉に向かって歩き出したからである。


「まずは艦隊の被害の程度を調べねば。それにペレイラ元帥がどのように討たれたかも。この国の造船技術で我らが無敵艦隊を正面から撃ち破れるはずもなし、何かしら小細工をされたのでしょうが、それにしてもペレイラ元帥ともあろう方があっさりと討たれるとは情けない。しかし、過ぎたことを言っても仕方ないですね。いま考えるべきは、いかにして汚名を返上するかです。このままではたとえ勝利したとしても、閣下の不興をかってしまうのは明らかですから……」
 カブラエルの口からは絶えることなく言葉がこぼれ続けている。それは状況を整理するためではなく、カブラエル自身が平静を取り戻すためのものであることは明白だった。


 そうと悟ったからこそ宣教師は口を噤み、ただカブラエルの背を見送った。
 ここまで動揺をあらわにした布教長の姿は、いまだかつて見たことがない。今、何を言ったところでカブラエルの耳には届かないだろう。
 南蛮神教にとって、すべてが順調に進んでいたはずなのに。
 一体、何が起きようとしているのか。
 得体の知れない悪寒に身体を震わせながら、この時、宣教師はただその場に立ち尽くすことしか出来なかったのである……





◆◆◆





 日向国 ムジカ沖 


 ムジカ沖に傲然と偉容を示す南蛮の戦船『バルトロメウ』号。
 その姿は、ムジカの人々にとって見慣れたものになりつつあった。
 元々、バルトロメウは遣欧使節団を乗せた後、すぐにゴアへと向かう予定だったが、出発の予定日を過ぎた今なおムジカから動こうとしない。
 これは使節団の少年の一人が、おそらくは未知の航海に対する不安と恐れからだろう、体調を崩してしまった為であった。


 遣欧使節は二国間の約束事であり、本来であれば病の少年をのこして船を出すべきであったが、バルトロメウの船長であり、ゴア総督の子息でもあるフランシスコ・デ・アルブケルケは少年の快癒を待った。
 数多くの難関を経て、渡欧の資格を得た少年を置いていくのは忍びない、との小アルブケルケの言葉は、少年本人はもとより、ムジカの多くの信徒たちに感銘をもたらすものであり、大友家の当主宗麟もまた、小アルブケルケの判断を、南蛮の王子に相応しい大度であるとして感謝の言葉を送ったのである。
 少年の快癒を待つと称してバルトロメウがムジカに停泊している間に、遣欧使節団に含まれない日本人が船内に連れ込まれたことを知る者は、日本人と南蛮人とを問わず、ほとんどいなかった。


 トリスタンは、その事実を知るごく限られた人物の中の一人である。
 トリスタンが吉継の存在を味方にさえ出来るかぎり秘したのは、大友家に吉継の存在を悟られないように、という用心のためであったが、同時に南蛮の船員たちに対する配慮でもあった。
 吉継の銀の髪や赤い瞳を見れば、ほとんどの南蛮人はこれを忌避するだろう。悪魔であると恐れおののき、職務に支障が出る者さえいるかもしれない。
 かといってその顔を布で覆えば、今度は病人を船に連れ込んでいるのかと不満と不安の声があがってしまう。陸の上と違い、船の上では伝染病から逃げる術はなく、その恐怖は船員であれば誰もが骨身に沁みている。


 そういった混乱を避ける意味でも、吉継のことを知るのは最小限の人数でいい。それがトリスタンの判断であった。
 必然的に、船内における吉継の行動はトリスタンの監視下に置かれることになった。
 吉継には部屋の外に出る自由などないので、見張りさえきちんと立てておけば、ことさらトリスタンが出張る必要はなかったのだが、トリスタンは吉継の行動力や機略を侮ってはおらず、吉継に付け入る隙を与えようとはしなかった。
 見張りに立つ兵士もトリスタン自身が厳選した者たちで固め、彼らに対しても、決して許可なく扉を開けないこと、仮にトリスタンがいない時に騒ぎが起きたとしても、トリスタンが駆けつけるまで勝手な行動は慎むこと、その結果として何事が生じても全ての責は自分が負うと言明し、徹底して吉継の行動を封じたのである。


 その結果、望むと望まざるとにかかわらず、トリスタンと吉継、この二人が言葉を交わす機会は増えた。
 日がな一日、顔をあわせていればそれは当然のことであったろうし、トリスタンはトリスタンでこの国の人間に興味を覚え始めており、吉継は吉継で少しでも南蛮の事情を探れれば、という思惑があったため、二人の間にはそれなりに会話が成立した。
 今では――少なくとも表面上は――二人の会話は警戒心を感じさせない、自然なものになっていたのである。


 ゆえに。
 その日、トリスタンの声が常になく揺れていたのは、話しかける相手ではなく、話す内容の所為だった。
 南蛮軍主力艦隊の敗北。ドアルテ・ペレイラ元帥戦死の報は、聖騎士トリスタンをして、平静を失わせしめる凶報だったのである。
 対して、その報を聞いた吉継は――


「そう……ですか」
 こくり、と。
 ただ一度だけ頷いたのみで、南蛮軍の敗北を喜ぶでもなく、トリスタンに勝ち誇るでもなく、あくまでも冷静にその報告を受け止めている様子だった。
 そんな吉継に対し、トリスタンは低い声で問いを向ける。
「……あなたの父君は、魔術でも扱うのか?」
 それは半ばトリスタンの本音であった。トリスタンはコエルホらの先遣隊と、島津軍の緒戦をその目で見ている。あの寡兵、あの装備で、どうすればドアルテ率いる主力艦隊を撃ち破れるというのか。トリスタンには想像もつかないのだ。


 吉継の返答は、これも静かで落ち着いたものだった。
「否、と断言できるほど、お義父様のことを知っているわけではないのです。私が言えるのは、お義父様が長けているのは話術であって、魔術ではありません、ということくらいでしょうか」
 それに、と吉継は言葉を続ける。
「お義父様一人の力など知れたもの。兵数において劣り、武装において及ばぬ劣勢の中、南蛮軍を撃ち破った島津の将兵こそ、あなた方にとっては魔術に優る脅威なのではありませんか?」
「……それはそのとおりだろう。だが――」
 何事かを口にしかけたトリスタンは、自身でもわからない理由で口を閉ざしてしまう。


 吉継の言葉はしごく道理である。というより、この敗報を聞き、真っ先に雲居のことを思い浮かべた者など、南蛮軍の中にはトリスタンしかいなかった。
 貴様らを叩き潰す。
 いっそ穏やかにそう言ってのけた青年の顔がトリスタンの脳裏をよぎる。
 トリスタンが、自身が吉継を監視できるように計らったのは、誰かの指図によるものではない。吉継の周囲を自分の信頼できる者で固めたのも、ゴアまでの道程を危険なく乗り切るためにはそれが最善であろう、とトリスタン自身が考えたからであった。


 だが、最善とは何に対してのものなのか。
 南蛮軍でも屈指の戦船たるバルトロメウは、侵入も脱出も許さない海上の要塞である。
 先頃、ネズミに入り込まれそうになったこともあったが、結局は即座に海に叩き落している。ゆえに外からの襲撃を恐れる必要はないし、内からの脱出も容易ではない。その意味で言えば、注意すべきは敵よりも、むしろ味方であろう。
 どれだけトリスタンが存在を隠そうとしても、実際に吉継が船内にいる以上、その存在を完全に秘すことは不可能なのだ。
 ゴアの総督の下に着くまでに吉継に何らかの危害を加えられては、トリスタンや小アルブケルケの責任問題になりかねない。それを目論んで、吉継に手出しする人間がいないとも限らないのだ……


『吉継から決して目を離すな。それが、忠告だ』


「……ッ」
 再び脳裏をよぎった声に、トリスタンは知らず目を伏せる。
 あの青年の言葉を戯言だと思っていたわけではない。少なくとも言った当人は本気であるとわかっていた。
 しかし、だからといって、その言うがままに吉継から目を離さないようにしていたわけでは決してない。繰り返すが、トリスタン自身がそうすべきと考えたからこそ……



(……今は、そんなことを考えている場合ではない、か)
 思考が迷走しかけたことを感じ取り、トリスタンは小さくかぶりを振る。
 あの大言が現実になるなど、トリスタンの想像の地平を越えている。しかし、ガルシアが偽りの報告書を送ってくるはずもなく、少なくとも現時点で、南蛮軍が遅れをとったことは間違いない。
 無論、勝敗がすでに定まったわけではないだろう。ドアルテが討たれたとはいえ、ロレンソも、コエルホも、そして艦隊の大半も今の時点では健在である、とガルシアからの書状には記されていた。であれば、敗北を覆すのは決して不可能ではない。そのはずなのだが――
(本当にそうだろうか? 元帥が討たれた今、誰が艦隊を指揮統率できる?)


 生き残った提督たちの有能さはトリスタンも承知しているが、彼らの中の誰が立っても、他の僚将が承知しないように思われる。特にロレンソは、ドアルテと小アルブケルケ以外の人物が上に立つことを決して認めまい。かといって、ロレンソが艦隊すべてを統率した上で、あのドアルテを撃ち破った敵に勝利しえるかと問われれば、トリスタンは否定的にならざるを得なかった。


 当面はガルシアに指揮権を預けて時を稼がせ、その間にバルトロメウを急行させ、小アルブケルケが艦隊を掌握する。
 艦隊を立て直す最善の手段はこれであろう。だが、敵がそれだけの時間をこちらに与えてくれるとは思えない。あちらにしてみれば、南蛮軍が態勢を立て直す前にこれを叩き潰し、勝敗を決してしまいたいところだろう。


 ゆえにトリスタンが小アルブケルケの立場であれば、今は寸暇を惜しんで主力艦隊を掌握するために行動するところなのだが……
(殿下はカブラエルと話し合うばかりで動こうとされない。ムジカの信徒と歩調をあわせるつもりであるにせよ、今は悠長に軍議を繰り返している場合ではない。それがわからない方ではないはずなのだけれど) 


 衆目の一致するところ、ドアルテの敗死は今回の遠征の成否に直結しかねない凶報であろう。だが、それだけでは済まない、というのがトリスタンの考えだった。
 ドアルテの死はゴアの軍事力の根幹そのものを揺るがし、遠征の失敗は大アルブケルケの支配力を根底から揺り動かす。
 大げさではなく、今この時の決断一つが、ゴアや本国の政情にまで影響を及ぼしかねない事態なのである。


 何故といって、これだけの大軍と、それに伴う資金を投じた遠征が失敗に終われば、その責はトリスタンら従軍した将兵だけでなく、その上に立つ大アルブケルケに及ぶのは必至。
 軍神と謳われ、インド副王、ゴア総督を兼ね、かの地の権力を総攬している大アルブケルケであるが、それゆえにこそ敵も多い。ゴアでも、本国でも。
 彼らは今回の遠征失敗を大アルブケルケの責としてとらえ、これを糾弾するだろう。むざむざと東夷の蛮族に敗れたとあっては、本国の国王も黙ってはいまい。最悪の場合、内乱が発生する。


 無論、大アルブケルケも、南蛮国王も、そこまで短慮な決断は下さないとは思うが、大アルブケルケの武力と権力が、臣下の域を大きく越えていることは前々から囁かれていたことだった。
 その片腕たるドアルテ・ペレイラの死は、危うい均衡の上に成り立っていた南蛮国の安寧を打ち崩す契機となってしまうかもしれない。


(まさか、そこまで考えて元帥を狙ったわけではないでしょう。ペレイラ元帥の立場や職責をこの地の民が知っているはずもない。おそらくは、単純に艦隊の指揮官を狙っただけなのだろうけれど……致命的、と言わざるを得ないわね。負けるはずのない戦力を注ぎ込み、必勝を期した遠征で、よもや元帥を失うことになろうとは)
 つい先日までは想像すらしていなかった事態。これをいかにして収拾すべきか、トリスタンは苦慮せざるを得ない。
 否、そもそも収拾する手段などあるのだろうか。今のトリスタンにはそれさえわからなかった。




◆◆◆




 トリスタンが部屋から去った後、吉継は一人で部屋に残る形となったが、だからといって喜びを爆発させるようなまねはしなかった。
 無論、嬉しくないわけではなかったが、この勝利によって吉継が置かれている状況が何か変わるわけではない。むしろ、吉継の安全だけを見れば、かえって状況は悪くなったとさえ言える。
 もしも南蛮軍が完全に戦況を優位に進めているのなら、捕らわれの相手に対して優越感なり慈悲心なりを示そうという余裕も生まれるかもしれない。しかし、窮鼠に噛み付かれた猫に等しい今の南蛮軍には、そんな余裕なぞ欠片もあるまい。


 吉継は島津家とはいささかも関わりのない身の上であるから、敗北の報復として危害を加えられる理由はない。まして吉継の身柄を欲しているのはゴア総督である。吉継をここで傷つければ、その者はただではすまないだろう。
 しかし、戦場は時に人から理性をはぎとってしまうものだ。感情にあかせて、日の本の民である、という一事を理由に吉継に報復しようという者が出てこないとは限らなかった。


「南蛮軍が混乱しているなら、ここから抜け出す好機でもあるのですが……」
 吉継はその選択肢を考慮してみたが、トリスタンがいる限り、それは難しいと言わざるを得ない。
 トリスタンがいない時を見計らって騒ぎを起こすことは可能だが、トリスタン麾下とおぼしき兵たちの油断のない見張りぶりを見れば、騒ぎに乗じての脱出もほぼ不可能だろう。よしんばこの船から逃げ出せたとしても、南蛮神教の信徒で溢れているムジカで、吉継のような目立つ容姿の人間が逃げ隠れ出来るとは思えない。
 それに、今はまがりなりにも客人の扱いであるが、脱出に失敗すれば罪人以下の扱いになることは疑いない。そうなれば、当然のように今よりもさらに脱出の機会は少なくなってしまうだろう。


 これまでどおり、機を待つしかない。
 それが吉継の出した結論だった。
 そして、どんな形であれ、一応の結論が出たことで、それまで張り詰めていた心の一部が緩んだのだろう。吉継の小さな口から、意識せずに、ほぅ、と小さな息がこぼれでた。


 あからさまなくらいに安堵に満ちた吐息を耳にして、吉継は思わず手で口をおさえてしまう。その頬はたちまち朱に染まっていった。
「……ッ、し、しかし、どうにも妙だと言わざるを得ませんね」
 その言葉は誰が見ても明らかな照れ隠しであったが、幸い室内には吉継しかいない。くわえて言えば、それはただの照れ隠しというだけでなく、現在の吉継の素直な心境でもあった。


 吉継は自身の身柄に異国の王が執心しているという事実に、いまだに実感がわいていない。衆を圧する美貌の持ち主だとでもいうならともかく、髪と目の色が他人と異なる程度の小娘、しかも人伝に話を聞いただけの相手に、どうしてそこまで欲望を抱けるのか、理解の外というしかない。
 だが、実際に相手は多くの兵と、トリスタンほどの騎士を動かして吉継を捕らえた。理解は出来ないし実感もわかないが、相手が本気であるのは確かなのだろう。吉継はそう考えていた。


 ――だからこそ、わからない。
 ――どうしていまだにこの船はムジカを動かないのだろうか。


 王がそこまで執心しているのなら、配下はかなう限り急いで身柄をゴアに送ろうとするのが普通だろう。
 実は王の執心というのは偽りであり、それ以外の理由で吉継を捕らえたという可能性もないわけではない。鬼だ悪魔だと、石もて豊後を逐われた記憶は忘れられるものではなかった。
 しかし、吉継の部屋に宣教師が異端審問に来ることはなく、信徒の前に引き出され、悪魔だと罵られて鞭うたれることもなく、特異な容貌に興趣を覚えた何者かが欲望にあかせて襲ってくることもなかった。


 率直に言って、吉継は現在の奇妙な静穏に困惑していたのである。
 トリスタンがかばってくれているのだろうか、とも考えた。船内の待遇は不自由ではあったが、深刻な不快さを感じることはほとんどなく、それらがトリスタンの配慮によるものであるのは明らかだったから、この考えはまるきり間違いというわけではないだろう。
 だが、南蛮国が吉継をどのように扱うつもりであったにせよ、その決定を覆すほどの権限がトリスタンにあるとは思えない。もしあの騎士にそれだけの権限があるならば、最初から吉継を捕らえる任務を肯ったりはしなかったろう、と吉継は思う。あるいは、捕らえることは肯ったとしても、高千穂の民を人質にするような所業は避けただろう、とも。


 つまるところ、トリスタンはあくまで自己の権限の中で吉継に配慮を示してくれているのであり、現在の吉継が置かれている奇妙な状況、その根底に関わっているとは思えない、というのが吉継の結論だった。
 では、誰が関わっているのかと考えれば、思い当たるのはただ一人しかいなかった。
(フランシスコ・デ・アルブケルケ、でしたか。あの王子しかいませんね)
 だが、南蛮軍の頂点に立つ人物が吉継を放っておく理由がどこにあるのか。
 唯一考えられるとすれば、フランシスコはあくまで父王の命令によって吉継を捕らえただけであり、本人にとっては吉継のことなぞどうでも良く、適当に放置しているだけ、という場合である。
 

 この説は現在の吉継の状況を説明する場合、それなりの説得力を有している。だが、しかし――
(だとしても、南蛮艦隊が敗れたというのに、この船が動かない理由がわからない)
 南蛮軍が敗北の報せを受け取って、すぐにトリスタンを介して吉継の耳に入ったとは考えられない。少なくとも、フランシスコは吉継よりもずっと早くにこの報せを受け取っているに違いないのだ。
 先ほどのトリスタンの様子を見れば、この敗北が南蛮軍にとっても無視しえない打撃であったことは明らかであり、フランシスコは南蛮軍の総帥として一刻も早く動き出さなければならないはず――なのだが、今日になってもバルトロメウが出港の準備をはじめる気配はつゆなかった。


「……何も考えていないのか。それとも、私がなにか大きな見落としをしているのか」
 前者であれば良い、と思う。しかし、それはただの希望であり、楽観。直にフランシスコとまみえた吉継は、あの王子が無能であるという説を躊躇なく捨て去った。
 方向性を見定めることは出来なかったが、あの王子が内に秘めた才略は決して侮れるものではない。それこそ、吉継の知る名だたる武将たちに優るとも劣らない、と感じていた。


 であれば、ここで吉継を半ば放置していること、そして南蛮軍を動かさないことには、此方の思い及ばない深慮がある、ということになる。
 それが何であるか、推測するための端緒さえ掴めないわが身が口惜しい。
 吉継は唇をかみ、小さくかぶりを振った。
 元帥を討ち取り、勝利したとはいえ、トリスタンの言葉によれば南蛮艦隊の半ばと、他の提督たちはいまだ健在であるという。ムジカの十字軍――信徒たちは当然無傷であり、宗麟とカブラエルは南征を続けるだろう。大友家の他の家臣たちは、日向における当主の動きをどのように見ているのか。また大友家を取り囲む毛利、竜造寺らの動向も気にかかる。
 それらのことに思いを及ばせた吉継は重いため息を吐き、ほとんど聞き取れない声で、囁くように言った。


「ひとたび艦隊を破り、敵の元帥を討ち取ってなお……まだ何一つ終わってはいないのですね、お義父様……」





◆◆◆




 薩摩国 内城


『残存する艦隊はいまだ戦意衰えず、姫様の行方は知れず、ムジカには当主殿と宣教師がかわらずにありつづけ、島津と大友の争いは本格化する。敵の元帥を討っても、まだ何一つ終わってはいないと思うのです』
 丸目長恵が雲居筑前に向かってそう言ったのは、雲居が南蛮艦隊に使者として赴く数日前のことだった。



 その日、長恵は雲居から突然に使者としてムジカに向かってほしい旨を告げられた。
 護衛として共に南蛮船に赴くつもりだった長恵は、それを聞いて目を瞬かせる。雲居が差し出した、蝋で封をされた書状を反射的に受け取りながら、長恵はある危惧を抱かずにはいられなかった。


 その危惧とは、南蛮軍が使者たる雲居に危害を加えること――ではない。
 雲居が長恵をムジカに遣わそうとする以上、そちらの交渉に関しては相応の自信があるのだろう。
 長恵が危惧したのは、交渉が成立した後――すなわち、南蛮艦隊の脅威が事実上消えた時の島津の動きであった。


 今回の一連の南蛮軍との戦いにおいて、島津家は雲居の案を柔軟に取り入れてきた。それは雲居が金山や甘藷といった有用な情報をもたらすことにより、島津の信頼を勝ち得た結果であるのだが、それを差し引いても、他家の臣、それも今現在は敵対している国の家臣の献策を、ほぼそのまま受け容れる島津の度量は瞠目に値する、と長恵は思う。


 しかし、この協力関係はあくまでも雲居と島津家の間に築かれたものであり、大友家と島津家の仲が改善されたわけではない。それどころか、南蛮軍の襲来により、元々こじれていた両家の仲はこれ以上ないほどに悪化したとみるべきだろう。
 なにしろ、南蛮軍は南蛮神教の手引きによって薩摩を強襲したのであり、大友家はその片棒を担いだに等しい。大友家の臣である雲居と異なり、島津の君臣には南蛮軍と大友軍を分けて考えるべき、いかなる理由も存在しないのである。
 ゆえに南蛮軍との決着がつき次第、島津軍は大友軍と雌雄を決するために動き始めるだろう。あるいは、もうすでに動き始めている可能性もある。


 大友家と矛を交える際、島津は雲居に対してどのような行動に出るのだろうか。
 問答無用で雲居の命を奪いに来るとは思わない。宗家の姫たちの為人を見れば、そんな陰惨なまねはしないだろうと信じることは出来る。
 しかし、だからといって素直に雲居を大友家へ帰すとも思えない。
 実際に南蛮軍の侵略を受けた島津だからこそ、その猛威は骨身に沁みているはず。その侵略を退ける要因となった雲居の智略、その尋常ならざる冴えに対する警戒も一方ならぬものがあろう、と長恵は思うのだ。


 そんな危険人物を、まさにこれから矛を交える相手に返してやるほど島津は甘くあるまい。
 下手をすれば、南蛮艦隊との交渉を終えて戻った雲居は、その場で島津に幽閉されかねぬ。
 それが、長恵の抱いた危惧の正体であった。
 敵の元帥を討っても、まだ何一つ終わってはいないのだ。くしくも吉継と同じ結論に達した長恵は、率直にみずからの危惧を雲居に伝えたのである。





 だが、それを聞いた雲居は、つい先ほどの長恵のように目を瞬かせた。さも意外な言葉を聞いたとでもいうように。
 わずかの沈黙の後、小さくかぶりを振った雲居の表情を見て、長恵は驚きを禁じえなかった。
 いまだ翳りは見て取れるものの、それは確かに笑みだったからである。
「そんなことはないさ。もちろん全てが終わったわけじゃない。吉継はまだ敵の手中にあって、居場所すらわからないんだからな。けど、逆に言えば、それ以外はほとんど片付いた。九国の戦乱を鎮めるために越えるべき坂は、多分あと一つだ」
 だから、何一つ終わっていないなどということはない。それほどに先の海戦での勝利は重要だったのだ、と雲居は迷いなく断言した。


 確信に満ちたその言葉に、しかし長恵は当惑を禁じえない。
 南蛮軍に関してだけ言うならば、わからないわけではない。しかし、ムジカの情勢や大友と島津の争いに関しては、雲居はまだ何一つ手をうっていないはず。ほとんど片付いた、という言葉はどこから来るのだろうか。
 今日まで雲居は南蛮艦隊を撃ち破ることに専心していた。少なくとも長恵はそう判断していたのだが、あるいはムジカにいる味方と密かに連絡をとりあっていたのだろうか。


 もしそうなら、と長恵は考える。
 先ほど手渡された書状が起死回生の策を記したものであり、それを届けさせるためというのなら、この時期に長恵を身辺からはなす理由になるかもしれない。
 だが、雲居は首を横に振って長恵の推測を否定する。
「その書状に起死回生の策なんで書いてないぞ」
 そもそも薩摩に来てからこちら、日向より北の詳しい情勢を知らない自分にそんな策が編めるわけがない、と雲居は肩をすくめる。
 そして、さらに言葉を続けた。
「それに、ムジカの誰かと連絡をとっていた、なんてこともない。それを一番知っているのは長恵だろうに。ちなみにそれの中身は南蛮軍の作戦計画書だよ。敵の旗艦で押収したやつだ。それを道雪殿に届けてもらいたいんだが」
「む? 今の状況で、筑前にいる立花様に南蛮軍の計画書などを届けてどうし――あれ?」


 不意に長恵が怪訝そうな声を発する。
「……師兄、たしかムジカに行ってくれ、という話でしたよね?」
「ああ、そうだけど」
「届ける相手は立花様、とも仰いました?」
「そう言ったな」
「薩摩に来てからというもの、誰とも連絡をとっていないし、日向より北の詳しい情勢も知らない、とも仰いましたね?」
「ああ」
「……ふむ」


 ――問いを終えた長恵の目がすっと細くなる。
 道雪は立花山城で筑前の戦線を支えている。当人と連絡をとらず、また他の情報源があったわけでもないのに、ムジカで道雪に書状を渡せ、という命令が矛盾でなくてなんであろう。


「――やはり師兄は相当にお疲れのご様子。これまでは『大丈夫だ』とのお言葉を信じてまいりましたが、事ここに至った以上、無理やりにでも休んでいただきます。異存はありませんね? あっても、もう聞きませんけど」
 吉継が捕らえられてからというもの、雲居がほとんど不眠不休で働き続けていたことを知る長恵は、真剣そのものの様子で、ずずぃ、と雲居に詰め寄った。
 蓄積した心身の疲労が限界に達した。雲居の言葉を、長恵はその証拠と判断したのである。


 対する雲居は慌てたように右手を掲げ、長恵の動きをせき止める。
「待て、待った、待ちなさい。それは確認を取る意味はあるのか? というか、別におかしくなったわけじゃないぞ。きわめて論理的な思考の末に、道雪殿はムジカにいるか、少なくとも府内までは下ってきているという結論に達したんだ」
「では、その論理的な思考とやらを詳らかにしてくださいませ。出来ないならば、やはり無理やりにでも休んでいただきます。ここで師兄に倒れられては、私が姫様にあわせる顔がなくなってしまいます」
 限りなく本気の長恵の言葉を前に、雲居はこくこくと頷くことしかできなかった。





◆◆◆





 返答次第では即座に無理やり休ませます、と言わんばかりの(というか、思い切り言明していたが)長恵を目の前にして、俺は何と言ったものか、と頭をかいた。
 思えばこのところ、策を練るのも、今後の展開を考えるのもすべて自分一人で行い、しかも行動に移す時もろくに説明をしなかった。長恵が俺の言葉に疑問を覚えたのも当然といえる。
 冷静に考えてみれば、天下の重宝、丸目長恵ほどの人物が、俺の手前勝手な命令に文句一つ言わずに付き従ってくれていたのだ。長恵自身にそれをするに足る理由があるとはいえ、それは俺が長恵の献身を当然のことだと受容する理由にはならない。
 今すぐ地面に拝跪して、これまでの無礼を謝すべきか、と俺はしばし本気で悩んでしまった。


(まさか、長恵にこんな思いを抱く日が来ようとはなあ)
 出逢ったばかりの頃は、その為人に困惑したり圧倒されたりしてばかりで、まさかその献身に心から感謝する日が来ようとは想像だにしていなかった。つくづく人の縁とは不思議なものである。


 そう思い、俺はもう一度同じ言葉を胸中で呟いた。
 ――そう、本当に不思議なものだ。人の縁なんて。
 運命、因縁、良縁、悪縁、めぐり合わせに合縁奇縁。『それ』をあらわす言葉は多々あれど、言葉一つで収めるには、人の世はあまりに複雑に過ぎるように思われる。
 悪縁契り深し、などというが、出会いが悪縁か否かなど出会った時点で誰にわかろうか。また、たとえ悪縁と呼ばれる類のものであったとしても、それから先、良き縁に変じる可能性がない、と誰に言い切ることが出来ようか。


 そんなことを考えてしまうのは、ムジカの大聖堂で相対した宗麟様とカブラエルの姿が思い浮かんだからだ。
 現在の大友家の迷走、その大部分はあの二人のよるところが大きい。それは確かだが、しかし、二階崩れの変の後、崩れかけていた宗麟様の心を立ち直らせたのはカブラエルであり、その宗麟様によって大友家は南蛮と日の本の文化が入り混じる異色の、しかし空前の発展を遂げた。
 現在のムジカを見てもわかる。単純な事実として、南蛮神教を信じることで救われた人々は存在するし、カブラエルが大友家の発展に大いに貢献したことは否定しようのない事なのだ。
 それを思えば、宗麟様とカブラエルを結んだ縁を悪縁だと断じることは出来ない、と俺は思う。


 ――まあ、だからこそ余計に性質が悪いとも言えるのだが。




 ともあれ、俺は長恵の危惧を払うべく、口を開く。
 俺が道雪殿がムジカにいると推測した理由はしごく簡単である。
 南蛮軍は吉継を捕らえるため、高千穂の大友軍を質に取り、あまつさえ守将である十時連貞を負傷させた。これが虎の尾を踏む行為であったからだ。


 俺がそういうと、長恵はかすかに眉根を寄せた。
「……十時殿は元はといえば立花様配下の武将。これを南蛮軍に傷つけられたから、立花様は動いたはずだ、と?」
「連貞殿と道雪殿の関係は、この際はあまり重要じゃないな。『大友家』の武将が『南蛮軍』に傷つけられた。大事なのはここだ」


 元々、カブラエルは個人の才覚のみで大友家を牛耳っていたわけではない。
 カブラエルが南蛮神教という組織に属している事実も、ゴアや南蛮本国であればともかく、この島国では絶対的な優位を保障するものにはなりえない。
 この国に確固とした地盤も人脈も持たなかったカブラエルが、何年にも渡って大友家を操ることが出来たのは、大友家の当主である宗麟様の庇護があったからこそ。だからこそ、石宗殿や道雪殿といった錚々たる方々でもカブラエルを排除することが出来なかったのである。


 カブラエルの優れていた点は、宗麟様の絶大な信頼を得てからも、決して自身を宗麟様の上に置こうとはしなかったことだ。まあ、これは保身の意味もあったのだろうが、カブラエルなりに大友家の家臣の性情を理解してもいたのだろう。宗麟様さえしっかりと掌握しておけば、他の家臣たちは自分に手が出せぬ。あるいは手を出そうとしても、別の家臣に掣肘される、と。




 長恵は興味深げに俺を見つめつつ、こくりと頷いた。
「己を当主様の下に置き、物事を決するのはあくまでも当主様である、という姿勢を崩さなかった。それにより、他の方々の口を塞いだ、ということですね」
「そうだ。カブラエルと南蛮神教を除こうとすれば、どうしても宗麟様と対立せざるを得ない。カブラエルは瞬く間にその形をつくりあげてしまったわけだ」
 南蛮神教の弊害を知って、なお宗麟様を当主として戴き続けるか。
 あるいは南蛮神教は国を蝕むと断じて、それを奉じる宗麟様もろとも放逐するか。
 近年の大友家の混乱は、その選択のせめぎ合いだった、と断言してもかまうまい。


 この二つの選択肢に共通しているのは、宗麟様と南蛮神教が不可分のものであるということ。宗麟様が南蛮神教を否定すれば――あるいは、そこまで行かずとも、自身の信仰と当主としての責務を区別できるようになれば、大半の問題は消失することになるのだが……
 そんな可能性の芽をことごとく摘んできたのが、常に宗麟様の傍らに侍るカブラエルであった。カブラエルは繊細とも表現しえる処世で、決して一線を越えることなく、自らの立場を守りつつ、大友家の勢威を利して布教を続けてきたのである。


 ところが、今回に限り、カブラエルは失策を犯した。
 これまで決して越えなかった一線を越えてしまったのだ。それが高千穂における南蛮軍の行動だった。
 無論、これまでとても宗麟様の目の届かないところで、カブラエルは多くの策動を行ってきたに違いない。今回の日向侵攻のそもそもの発端である南蛮神教の信徒虐殺も、疑おうと思えばいくらでも疑える。
 だが、それらはたとえ発覚したとしても釈明の余地があるものだった。カブラエルが「すべては南蛮神教と自分を陥れるための陰謀だ」と口にすれば、宗麟様はよほど確固たる証拠でもない限り、その釈明を受け容れてしまうだろう。


 しかし、占領したばかりの高千穂の地で、南蛮軍が大友軍に刃を向け、あまつさえ守将である十時連貞を負傷させた行動については釈明の余地がない。
 無理やり正当化する方策としては、戸次軍が高千穂で謀反を企んでおり、それを先んじて制したのだ、とでも強弁すれば表面上は取り繕うことが出来るかもしれない。
 無論、戸次軍謀反の証拠などあろうはずもないが、カブラエルならば証拠を偽造することくらいは容易くやってのけるだろう。


 しかし、戸次家の先の当主は道雪殿であり、現当主は誾である。余人なら知らず、彼らが謀反を企むなど宗麟様が信じるはずがない。たとえそれを主張するのがカブラエルだとしても、こればかりは宗麟様は決して頷くことはないだろう。
 すなわち、南蛮軍および南蛮神教は独自の意思で軍を動かしており、大友家のことなど意に介していない。その事実を押し隠すことは、カブラエルといえど不可能になってしまったのである。



 カブラエルであれば、この程度のことはあらかじめ察することが出来ただろう。にも関わらず、何故今回はこんなあからさまなくらいに大きな失策を犯したのか。
 その答えは、おそらく南蛮艦隊という強大な武力がもたらした油断、であったのだろう。
「南蛮軍の指揮官にしてみれば、カブラエルのように大友家の意向を慮って綱渡りをする必要なんてない。だから、吉継を捕らえるために大友軍に刃を向けても気にはしなかった。大友家が敵対するなら武力で打ち倒せば良い、とでも考えたんだろうな。一方のカブラエルは、大友家を敵にまわす危険には気づいていただろうけど、ムジカの建国、南蛮艦隊の到着で、これ以上は道雪殿らをはばかる必要なし、とでも判断したのだろうさ」
 あるいは今日までの経験から、ここまでしても宗麟様を手中にしている限りは道雪殿たちが動くことはない、とでも考えたのかもしれない。


 南蛮軍は大友軍に注意を払う必要を認めず、本来はそれを掣肘すべきであったカブラエルははっきりとした武力を手にしたことで細心さを投げ捨てた。
 ――それはつまり、これまでは宗麟様をはばかって南蛮神教に対して身動きとれずにいた人々が、正面から南蛮神教の非を糾弾できるようになった、ということである。
 しかもその理由たるや、武力を用いた敵対行動という弁明の余地のないものだ。この事実を正面から突きつけられれば、宗麟様も……



 南蛮軍の行動が明らかになれば、当然「何故」そんなことをしたのか、ということも追求される。そして、少なくとも連貞はその理由を知っている。何故なら、薩摩に吉継がいることをトリスタンに告げたのは連貞だからである。
 トリスタンが吉継に示した約定を守っているのであれば、連貞は今も存命であり、その報告を受けた道雪殿を通じて、今回の全容は宗麟様にも明らかになるだろう。
 もしも、すべてを知ってなお宗麟様が何も変わらないのであれば――



「……手遅れ、だろうな。あらゆる意味で」
 その俺の言葉を聞き、長恵はわずかに首を傾げた。
「率直にいって、ムジカを南蛮神教に献じた時点で手遅れだと思うのですが」
 歯に衣着せぬ長恵の言葉に、俺は思わず苦笑してしまった。
「ああ、まあ否定は出来かねるな。ただ、まだ完全に手遅れというわけではない……と思う。最初に言った、九国の戦乱を鎮めるために越えなければならない最後の坂っていうのは、つまりそれのことだ」


 もっとも、こちらに関しては策なぞ微塵も考えていない。吉継のことと南蛮艦隊のことでその余裕がなかったことはもちろん、何度も繰り返すが俺は現在の日向以北の情勢をほとんど何も知らないのである。ここまで語ったことも、実はまったく見当違いで、今もまだ道雪殿が立花山城にいる、という可能性だってないわけではない。
 これでなにがしかの策が思い浮かぶなら、その人物はもう天才というより変人というべきであろう。

 




 ここで、長恵が何やら神妙な様子で背筋を伸ばし、俺の顔に視線を向けつつ口を開いた。
「……姫様が捕らえられた後、師兄は姫様をお救いするため、南蛮艦隊の殲滅にのみ心を向けておられるのだ、と思っていました。それはそのとおりなのでしょうが、あそこまで一心不乱に南蛮軍に専心することが出来たのは、十時殿から連絡を受けた立花様が動くのは確実であり、ムジカ以北のことを考える必要はもうなくなった、とあの時点でわかっておられたからですか?」
 俺は小さく頷いてみせた。


 もっとも、別になにがしかの確証があったわけではない。トリスタンが約定を守らなければ、連貞が筑前に事情を報せなければ、あるいは報せを受け取った道雪殿が動かなければ。
 この中のどれか一つでも現実にあてはまれば、俺の予想は妄想に堕す。そして、それに備えて別の手を打つ余力はなかった。だから、俺がしたのは三人を信じたことだけである。
 どのみち、あの時の俺に出来たのは南蛮艦隊を撃滅することのみ。吉継を助けるためにも、大友家を守るためにも、そしてこの国を護るためにもそれは必要なことであったから、全力を傾けた。深慮遠謀など必要ない。結局は、ただそれだけのことだった。



「……すると、この書状をムジカの立花様にというのは、当主様の目を開かせるために、ということになりますか?」
「そういうことだ。状況によっては切り札にも化けるだろう。もちろん、それ以外にもあちらの情勢がどうなっているのか、それに吉継の所在を調べてほしいっていう目的もある」
 多分、今頃はムジカの南蛮宗徒や大友家だけではなく、島津も島津で独自の軍略で兵を動かしているだろう。詳しい動きは調べようがないが、日向のどこかで大規模な戦がおきていてもまったく不思議ではないのだ。
 そんな状況の土地に、ただの兵に重要な書状を持たせ、さらに重要な役目を与えて向かわせるわけにもいかない。武勇と応変の才を併せ持ち、俺が動かせる人物――周囲を見渡すまでもなく、該当者兼適任者は長恵しかいなかった次第である。


 俺が改めてお願いすると、長恵はこくり、とはっきり頷いて見せた。
「はい、これ以上ないほどに納得いたしました。謹んで承ります」
「頼む」
 俺は長恵に頭を下げた。
 南蛮軍との交渉自体はさほど手間取らないと思うが、もちろんそれは俺が勝手に考えているだけのこと、予想外の事態はいつだって起こりえる。
 なにより、一番の問題は吉継の居場所だ。すでにゴアへと送られてしまっている可能性もあるのだ。それも少なからず。


 ……この総身を蝕む苦悶が晴れるまで、あとどれほどの時が必要なのか。今の時点では誰にも答えようがない疑問を押し殺し、俺はいかにしてガルシアを説き伏せるか、それを煮詰めるために考えに沈むのだった。






◆◆◆





 明けて翌日。まだ夜も明けぬ時刻から、長恵の姿は内城から消えていた。
 無論、黙って抜け出したわけではなく、島津を説き伏せた上での出立である。説き伏せたのは雲居なので、どうやって説き伏せたのかは長恵もよく知らないのだが。
「今の時点で、この先の戦に関して考えが及ぶなら、天才を通り越して変人だと師兄は言っていましたが、誰が見たところで――」
 そこまで言ってから、長恵は頬をかき、小さく肩をすくめた。
「……まあ、この先は言わぬが花、ですか。藤兵衛にはしっかりと、これでもかというくらい念を押しておきましたから、師兄の身に何事か起こる恐れはないですし、私は私として、しっかりと与えられた役目を果たすとしましょう」


 長恵が軽く馬腹を蹴ると、騎手の意を悟った馬が軽やかに走り出す。
 ほどなくして内城の城下に馬蹄の音が轟き、その音は北東の方角へと駆け抜けていった。
 




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第九章 杏葉(五)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:cd1edaa7
Date: 2011/08/19 21:53

 伊東家の居城である佐土原城が、新年早々から続いていた島津軍の攻囲から解放された時、当主である伊東義祐には幾つかの選択肢があった。
 その中で最も堅実な選択は城の防備を固めることであったろう。
 島津軍の猛攻によって義祐自慢の佐土原城も少なからぬ損傷を被っている。南の島津が退いたとはいえ、いつ北の大友が襲ってくるとも知れぬ。さらに島津軍の退却の理由が不分明であり、伊東軍を誘い出そうとしている可能性が否定できない以上、あえて危険を冒して追撃に出るよりは、本拠地の防備を固めるべき――伊東家の家中でも、そう考える者は多かった。


 しかし、義祐はその意見に頷くことなく打って出ることを選択する。
 これは義祐が島津軍を甘くみたから――その一面は否定できなかったが、決してそれだけが理由ではなかった。
 今回の戦において、伊東家は終始島津軍に押されっぱなしであった。その上で島津軍の退却を指をくわえて見送るようなまねをすれば、周辺の国々は義祐が最初から最後まで島津家の武威に居竦んだと判断するだろう。否、周辺の国々だけでなく、日向の国人衆や伊東家の将兵でさえそう考えるに違いない。


 日向伊東家第十代当主『三位入道』伊東義祐。
 その威信が失われることは義祐個人の声望の失墜のみならず、伊東家をまとめあげる権威の喪失を意味する。
 そうなれば、たとえ篭城のみによって今回の戦を切り抜けることが出来たとしても、後に家臣団の離反を招くことは火を見るより明らかであった。
 ゆえに、一つでも良い、実際の戦場における勝利を、義祐は必要としたのである。


 無論、義祐は北の大友軍の脅威を忘れたわけではない。
 しかし、現在、大友軍は佐土原城のはるか北、小丸川の線まで進出してきているものの、兵力の不足からか、それ以上の進軍を停止していた。もし大友軍が佐土原城を攻撃しようとするなら、まず小丸川を越えて南下し、さらに佐土原城北方の一ツ瀬川を越えなければならない。
 仮にムジカから大軍が到着したとしても、大友軍が佐土原城に着くまでには相応の時間が必要となる。
 ゆえに島津軍追撃に出た後背を衝かれるような事態にはなるまい、と義祐は判断したのである。



 かくて伊東義祐は佐土原城を出撃し、島津軍への追撃を開始する。
 両軍の兵力差は大きく開いていたが、通常、退却時に追撃に遭えば雑兵の大半は逃げ散るものであり、義祐はさして兵数を気にかけることはなかった。
 事実、退却する島津軍は、義久、義弘の旗印周辺こそ静まっていたものの、それ以外の部隊には動揺があらわであり、すでに千の単位で兵士が脱落したものと思われる――とは物見に出した数人の兵、すべてに共通する報告事項であった。


 逆に伊東軍は恩賞目当ての農民や野武士を加えて数を増している。義祐はそれらの事実を声高に喧伝することで、篭城によって消沈していた将兵の士気を回復させながら、島津軍を執拗に追い続けた。
 その追尾は、島津軍の殿軍を肉眼で捉えても、なお続く。これは島津軍に圧力をかけると同時に、伊東軍にとって有利な決戦の場に島津軍を追い立てるためであった。


 義祐が想定する決戦の場とは、日向南部をはしる大淀川である。
 飫肥城に向かうにせよ、あるいは薩摩に戻るにせよ、島津軍はこの川を越えなければならない。その後背を急襲すれば、いかに勇猛を誇る島津軍とて手も足も出ないであろう。
 そんな義祐の考えどおり、大淀川に達した島津軍は、義久、義弘を先頭としてすぐさま渡河を開始する。その慌しい動きを遠目にのぞんだ義祐は、勝利の確信を笑みへと変えた。
 島津軍の渡河の様子を見れば、これが伊東軍を罠にはめるための偽りの敗走でないことは明らかである。そう考えた義祐は本陣で哄笑する。


「水辺は死地である程度のことは知っているか。だが、だからというてむやみに渡河を強行するなど笑止というもの。半渡に乗じるは兵法の基本なり。容色のみをもって当主となった愚将や、進むことしか知らぬ猪武者に言うたとて詮無きことではあるがな」


 それは、ただ義祐がこれまでの溜飲を下げるために発した言葉ではない。先の篭城戦において、為す術なく防戦一方に追い込まれたのは、あくまでも今日の勝利を得るための布石である、と周囲に知らしめるためのものだった。
 このあたりの呼吸は、九国の戦乱を幾度も潜り抜けてきた義祐ならではといえる。
 これを聞いた周囲の諸将も、さすがは三位入道様、と感嘆の声を洩らす。そこには追従の色が皆無ではなかったが、それでもその大部分を占めるのは義祐の武将としての能力識見に対する賛嘆であった。
 義祐はそのこと感じ取り、満足げに頷くと、手に持った軍配を高々と掲げる。
 そして、それを今まさに渡河している島津軍に向けて振り下ろす――否、振り下ろそうとした、その時。


「申し上げますッ!」
 本陣に駆け込んできた伝令の、悲鳴にも似た声音が義祐の動作を妨げた。
 戦には機というものがある。ほんの一瞬の指示の遅れが勝敗に繋がることもあることを知悉する義祐は、伝令に叱声を浴びせようとするが、それよりもはやく伝令の声が義祐の耳朶を打つ。



 伊東軍の後背より数千の島津軍が急速に接近しているという、それは報告だった。




◆◆◆




 ふう、と島津義弘はにわかに乱れたつ伊東軍の陣営を見て小さく息を吐いた。
「おとなしく佐土原城に立て篭もっていれば、余計な損害を出さずに済んだのになあ。なまじ能があるもんだから、相手の裏をかこうとして要らないことをしちゃうのかな」
 そう言った後、義弘は短く苦笑する。
「まあ、動かなかったら動かなかったで、三位入道殿の威信は地に堕ちちゃうわけだから、打って出ざるを得ないわけだけど。でも、打って出たところで勝算なんか全く無し、と。いやー、我が妹ながら、歳ちゃんはほんっと容赦ないよね」
 右に進んでも、左に進んでも、その場に留まっても、待ち受けるのは破滅のみ。選択の違いは、ただそれが訪れるのが早いか遅いか、その差をもたらすだけ。そんな状況に追い込まれた伊東義祐に同情の念さえ覚えてしまいそうになる義弘であった。


 ところで、もしこの場に雲居がいれば、義弘の砕けた口調に違和感を禁じえなかっただろう。内城にいる間、義弘はいささか堅苦しいまでに丁寧な口調を貫いていたからだ。
 しかし、どちらかといえば、こちらが義弘の素であった。内城でのそれは外向けのものであり、もっと言えば、相手が家臣だろうが領民だろうが他国の臣だろうが、まったくもってかわらない姉義久に、少しでも公私の別をつけてもらうべく努力していたのである。


 ともあれ、今、義弘が指揮している手勢は、伊東軍の追撃を受けている最中、闇夜に紛れて逃亡した――と思われていた兵たちである。彼らは本隊から離れた後、それぞれに指示された地点に集結して百名、二百名の部隊を編成し、期日を揃えて伊東軍の後背で合流したのだ。
 伊東軍はこの動きにまったく気づかなかった。これは、それだけ義弘直属の部隊の動きが見事だったためであったが、それ以前に、伊東軍のかしらだった者たちの頭に、所詮島津は女子供の軍だ、という侮りが拭いがたく残っていたことも理由に挙げられるだろう。


 つい先日まで、その女子供の部隊に本拠地を囲まれていたという事実は、追撃戦の喧騒にまぎれてしまったのか。鬼島津の旗印が敗走の先頭に立っているところを目の当たりにしても、誰一人として違和感を覚えないあたりに、伊東軍の限界を感じ取る者もいたかもしれない。




 義弘率いる部隊が伊東軍の後方に姿を見せた時点で、島津軍の諸隊は渡河を中止し、踵を返して伊東軍を挟撃する態勢に移る。
 ちなみに、義久率いる本隊はそのまま川を渡っている。これは、義久には今回の策が伝えられておらず、本気で伊東軍から逃れるために渡河していたからであった。
『久ねえに細かい戦術を伝えてもあまり意味がありませんし、逆に詳しく知れば兵の動きに不自然な点が出て、敵に気づかれてしまうかもしれません。久ねえには一生懸命逃げてもらってください』
 内城から届けられた歳久の書状の一節を思い起こし、義弘は頬をかきながら、ほんとに歳ちゃんは容赦ないよね、と呟く――ただし、と義弘は続けた。
「忠実にその指示を実行している私が言っていいことじゃないけどね。お姉ちゃんにはあとでしっかり謝るとして、ここは三位入道殿をしっかりと叩き潰しておきましょうかッ」
 姉に対して申し訳なさを感じながらも、義弘はここでは将としての意識を優先させる。
 手に持った槍をりゅうりゅうとしごきながら、眼光鋭く敵陣をにらみすえるその姿には、年に見合わぬ戦将としての覇気が確かに感じられた。


「みな、聞けィッ! 我が父、先代貴久亡き後、我らを蔑み、見下し続けた怨敵はいまや袋の鼠である。彼の将を討ち取り、我ら島津の三州統一の悲願をかなえるは、今この時をおいて他になしと知りなさい!」
 義弘の口から発される雄々しい叱咤に対し、音に聞こえた薩摩隼人たちが猛々しい喊声で応じる。
 義弘の部隊にとどまらず、これまでひたすら伊東軍に背を向けて逃げ続けてきた諸隊からも、同様の雄たけびがわき起こっていた。


 対する伊東軍は、自分たちが罠にはまったことを悟っていたが、素早く展開した島津軍はすでに敵の逃げ道をことごとく塞いでいる――否、ただ一つ、南東の方角だけは包囲が完成していなかった。
 その方角は佐土原城とは正反対の方角であり、かつ少し進めば大淀川と日向灘によって行く手を遮られる死地であった。あえてそちらの方角をあけた島津軍の狙いは、多少なりとも戦に通じた将兵ならば、誰もが理解できるだろう。
 そちらに逃げるくらいなら、後方を塞ぐ義弘の二千の軍勢を突破する方が、まだ生き残る成算は高くなる。義祐をはじめ、伊東家の武将たちはそう考えた。


 しかし、鬼島津に後方を塞がれたという事実に加え、急速に狭められていく包囲の鉄環を前にして、急遽伊東軍に加わった農民や野武士たちは冷静さを保つことが出来なかった。
 彼らは包囲が完成される前に戦場から脱するべく、なだれをうって南東の方角へ殺到する。
 それを見て、満を持して突撃を開始する鬼島津。
 これに対するのは伊東軍の最後尾に位置する部隊であったが、すでに動揺と狼狽は陣全体を覆っている。陣を守る兵士の一人が、島津軍の圧力にたまりかねたように後ろを向くと、たちまち周囲の兵士たちもそれに追随した。


 その流れを押しとどめるべく、部隊の長は馬上で声を嗄らすが、甲冑をまとったその身体に島津軍から射掛けられた矢が次々と突き刺さり、長は右の手で空を掴みつつ、奇妙にゆっくりと鞍上から転がり落ちる。
 そして、長の身体が地面に達するよりも早く、島津軍の先鋒は伊東軍の眼前に迫っていた。


 圧倒的に有利な追撃戦に従事していたはずが、気がつけば周囲を敵軍に取り囲まれている。しかも後方から襲い掛かってくるのは島津義弘――伊東軍にとって憎んでも飽き足らぬ、しかし、同じくらいに脅威を感じざるを得ない敵将である。
 まさか後方から敵軍が襲ってくるとは考えていなかった伊東軍は、主力を前面に押し出し、後方は錬度の低い部隊が無秩序に混在している状態であった。
 この状態で指揮官を失った部隊が、島津軍の猛攻を防ぎとめることが出来るはずもない。




 最後尾の部隊を鎧袖一触、蹴散らした義弘の部隊は、その鋭い矛先を義祐の座す本陣へと向ける。本陣を守る兵は伊東軍の精鋭であったが、前後左右から迫り来る島津軍を前にしては、いかな精鋭部隊といえど為す術がなかった。
 結果、大淀川の戦いは、両家の抗争の歴史からすれば「あっさり」と形容できてしまうくらいに呆気なく、その勝敗が決せられた。
 これは島津軍の策が図にあたったから、というのはもちろんのこと、佐土原城に篭城する以前、義祐が配下の土持氏や、同盟者である肝付家を見捨てたことが、家臣たちの忠誠心にひびを入れていた等の理由も挙げられるだろう。
 勝勢に乗っている間ならばまだしも、窮地におちいった義祐に殉じようとする者は、伊東家の中でもごく一握りしかいなかったのである。



 義祐はかろうじて戦場を離脱するも、その身辺を守る兵は百にも届かず、また北への道は島津軍に遮られていたため、漁舟を奪って日向灘に出た。
 だが、佐土原城に戻ったところで、今の義祐では島津軍に対抗することは出来ず、他家を頼ろうにも、北の大友、南の島津、共に敵対している今、義祐を匿ってくれる勢力は九国の何処にも存在しない。
 困じ果てた挙句、義祐は伊予の河野家を頼ろうとする。しかし、冬の荒天に遮られてそれさえも果たせなかった。
 結局、義祐は半死半生の態で日向中部の海岸に漂着したところを島津軍に捕らえられ、ここに長きに渡って抗争を続けてきた島津、伊東両家の争いは終止符を打たれることとなったのである。




◆◆◆




 この一連の合戦――いわゆる『大淀川の戦い』により、伊東軍は壊滅的な打撃を被った。戦の常道に従うならば、島津軍はすぐさま軍を北に向け、再度佐土原城を攻囲するべきであったろう。伊東軍の主力を撃ち破った今ならば、ほぼ無血で開城させられるであろうことは誰の目にも明らかであった。


 だが、島津軍はすぐに動こうとはしなかった。
 北へ向かって佐土原城を制することはせず、かといって薩摩に兵を退くこともせず、その場に留まり続けたのは、無論、錦江湾の戦いの趨勢を注意深く見守っていたからに他ならない。
 薩摩に残した戦力で南蛮艦隊を首尾よく撃退できたのならば、即座に日向制圧への行動を開始する。逆にわずかでも戦が不利であるようならば、薩摩を守るために退却しなければならない。ことに後者に備えるために、島津軍は一旦は佐土原城の攻囲を解き、南へと下がらざるを得なかったのである。


 結果として伊東軍を撃ち破る形となったが、率直に言ってしまえば、それは島津軍にとってついでのことであった。
 無論、伊東軍を釣り出す意図がなかったわけではないが、仮に伊東軍が佐土原城に立て篭もって防備を固めたとしても、大して気にも留めなかっただろう。すでに佐土原城以南の伊東家の城砦はほぼ破却し終えており、再度の侵攻はきわめて容易であった。


 ともあれ、伊東軍を破った義久、義弘は大淀川の線にとどまり、南からの報せを待った。
 彼女らのもとに南蛮艦隊撃破、敵元帥戦死の報が届けられたのは、それから間もなくのこと。
 南蛮艦隊の脅威が完全に排除されたわけではないにせよ、少なくとも薩摩全土が制圧されるような事態は起こり得ない――歳久から届けられた書状は、要約すれば「もはやこちらに援軍は不要、日向侵攻を再開されたし」という明確な指示であった。
 これを受け、義久と義弘率いる島津軍はその日のうちに北上を開始。瞬く間に佐土原城を重囲下に置く。すでに兵力の大半を失い、なおかつ主不在の城には、降伏以外の選択肢は存在しなかった。

  



 日向伊東家の勢力の消失は、すなわち島津家と大友家が直接に境を接することを意味する。おりしもムジカを発した大友軍二万が佐土原城目指して南下中である、との報告がもたらされた為、島津軍はこれと決戦すべく、軍をさらに北上させて一ッ瀬川を越えた。
 この時、一ッ瀬川を越えた島津軍の数はおおよそ一万三千。
 当初の二万を大きく割っているのは、佐土原城の攻囲、大淀川の合戦等で負傷した兵を後方に残し、さらに伊東軍の残党や伊東家恩顧の民が蜂起することを警戒して要所に兵を配置したためである。


 一方の大友軍は無傷の信徒たちに、日向中部を制圧していた先鋒部隊が加わり、その数は二万を大きく越え、おそらく二万五千に達しているものと思われた。
 大友軍は、島津軍のおよそ二倍。両軍の兵力差を考えれば、島津軍はあえて一ッ瀬川を渡らず、川を挟んで対峙する形に持っていくのも一つの手段であっただろう。
 それでもあえて島津軍が川を渡ったのは、大友軍の動きが予想以上に鈍かったからである。二万もの援軍が派遣されたのなら、島津軍が佐土原城の攻囲を解いた段階で小丸川を越えることは出来たはずだが、大友軍は動かなかった。
 その理由は定かではなかったが、島津軍はこれを好機と見て、前線を一気に小丸川まで押し上げるべく、一ッ瀬川を渡ったのである。


 島津軍の最初の攻略目標は一ッ瀬川、小丸川の間に位置する財部(たからべ)城であった。
 伊東家の持ち城の一つである財部城であったが、義祐が兵力の大半を佐土原城に集結させていた為、城兵はわずかしか残っておらず、島津の大軍の前にたちまち城門を開いて降伏する。
 当初、実質的に島津軍を率いる義弘は、この城を拠点として小丸川南岸に陣を敷き、大友軍と対峙するつもりであった。両軍の兵力差は覆しようがなく、また鉄砲などの武装も南蛮神教の助力を得ている大友軍には及ばないが、地形を利用すればいかようにも渡り合える自信が義弘にはあったのだ。


 だが、島津軍が財部城を陥とし、小丸川に達したにも関わらず、いまだに大友軍が姿を見せないことで、義弘はさらに一歩踏み込んだ決断を下す。
 すなわち、みずから少数の別働隊を率い、小丸川上流に位置する高城を攻略することにしたのである。




 高城は小丸川の北岸に位置する難攻の城であり、これを島津軍の有とすれば、その戦略的効果は計り知れない。
 ひとつ。大友軍は常に後背に注意せざるを得ず、前面の島津軍本隊との戦に全力を傾けることが出来なくなる。
 ひとつ。仮に大友軍が小丸川を越えたとしても、高城を保持していれば、大友軍の兵站を脅かすことはきわめて容易である。大友軍が南に進めば進むほど、高城の存在は無視しえない脅威となっていくだろう。
 いわば、高城の存在は大友軍の首筋に押し付けられた匕首に等しかった。


 もっとも、これは義弘の戦術眼が鋭いからこそ気づけた策、というわけではない。
 義弘ほどの武将でなくとも、高城の重要性を見抜くことは難しいことではなかっただろう。
 実際に大友軍(これは南蛮神教の信徒たちではなく、早くから日向中南部を攻略していた諸隊)はすでに伊東軍から高城を奪取しており、ここに兵力を込めている。
 ただし、その守備兵力はきわめて少ない、というのが義弘の下にもたらされた報告だった。


 実のところ、これは高城に限った話ではなく、小丸川以北の大友軍の城や砦すべてに共通する弱点であった。大友宗麟がムジカの建設を優先させた為、この地の大友軍は長らく兵力不足に悩まされていたのである。相応の兵力が与えられていれば、彼らは少なくとも一ッ瀬川の線までは進出していたに違いない。
 とはいえ、ムジカから援軍が派遣された今、その兵力不足は解消された。大友軍が小丸川を越えなかったのは、島津軍との決戦に備え、高城をはじめとする各地の城砦の防備を固めるためであろう、と義弘は考えていたのだが――


 その予測に反し、高城の兵力に変化はないという。そして、此方に向かってくる大友軍が援軍を派遣した様子も見えない。
 であれば、それに乗じるのは当然のことだった。
 無論、罠ではないか、との疑いは義弘ももっていたが、前線の、それも戦略的にきわめて重要な城の防備を薄くすることで大友軍が得られる利とは何なのかと考えれば、答えは杳として出てこない。
 島津軍を誘いこむために高城を囮とした、というのがもっともありえそうな解答であるが、兵力に優る大友軍がそんな小細工を弄する必要はないし、なによりこの策はしくじった後の始末が大変なのだ。島津軍が高城に入れば、今後の大友軍の動きが大幅に掣肘されるのは前述したとおりである。
 あるいは島津ごときに高城を陥とせるわけがない、という自信のあらわれなのかもしれないが、それならばその自信を正面から打ち砕き、過信であることを知らしめる。



 ――義弘がそうと決断した時点で、あるいはこの戦の勝敗は決していたのかもしれない。
 



◆◆◆




 後の話になるが。
 日向国を南から北――大淀川からムジカに至るまで――へと切り裂いた島津義弘の電撃戦は『二川の合戦』と通称されることになる。
 これは『二川』という川が九国にあったのではなく、伊東軍を撃ち破った『大淀川の戦』と、大友軍を退けた『耳川の戦』をあわせた呼称だった。


 この二川の合戦において、大友軍の動きが鈍かった理由はただ一つ。
 南蛮神教の信徒たちと、大友軍の諸将の間に、作戦における齟齬が生じていたのである。


 この地に侵攻していた大友軍――佐伯惟教(さえき これのり)、斎藤鎮実(さいとう しげざね)をはじめとする諸将は、今回の日向侵攻に全面的に賛成していたわけではなく、むしろ南蛮神教に対しては否定的な感情を持つ者が大半であった。しかし、ひとたび主君の命令を受ければ、これを拒絶することなどできるはずがない。
 ことに惟教などは、他紋衆であるがゆえに、これまでは枢要な戦いに参加することが出来ず、結果として自家の戦力を温存する形となったため、今回の日向遠征に加わることが出来たという経緯があるため、この戦で佐伯家の名を高からしめん、と十分すぎるほどの戦意があった。


 当然、彼らにとって日向の攻略は、ムジカの建設よりも優先する。敵が伊東家だけならばまだしも、すでに島津軍が薩摩統一、ならびに大隅侵攻を開始したという情報は大友軍にも伝わってきており、島津軍がいずれ日向に矛先を向けるのは明白だった。
 それに備える意味でも、一刻も早く日向を陥とさなければならない。城や寺など、そのあとでゆっくり建てれば良い――そんな諸将の考えを、宗麟は真っ向から否定してムジカ建設を優先した。


 それでも宗麟は諸将の意見は等閑にしたわけではなく、五千の兵で日向中南部への侵攻を命じたのだが、いかに伊東家が大友家に遠く及ばない小勢力だといっても、わずか五千では佐土原城に達することさえ出来ない。
 攻勢限界に達した惟教らは、幾度も宗麟に援軍を求めたが、結局一度として聞き入れられることはなかった。


 その諸将のもとにようやく派遣されたのが、二万に及ぶ信徒たちである。
 だが、これは惟教らの要請に応じた援軍ではなく、カブラエルが南蛮艦隊の到着を知って組織した部隊である。日向攻略という目的こそ同じであったが、両者が協調して戦を行うなど、どだい無理な話であった。


 それでも、宗麟は信徒たちに対して、佐伯、斎藤ら諸将の指示を尊重するように伝えていたのだが、数において優る信徒たちは容易にその命令に頷こうとはしなかった。
 惟教らにしてみれば、信徒たちは数だけ多い農民の集まりに過ぎず、信徒たちから見れば、惟教らはろくな戦果も挙げられていない無能者にしか映らない。さらに南蛮神教をめぐる長年の対立が、両者の険悪な感情に拍車をかける。


 諸将が前進を命じれば、信徒は待機を主張する。信徒が攻勢を唱えれば、諸将を慎重論を譲らない。そんな対立沙汰が、この頃の大友軍では毎日のように起こっていた。
 主君である宗麟がいれば。あるいは宗麟の威を巧妙に用いることの出来るカブラエルがいれば、話はまた違っていたかもしれない。
 しかし、両者ともムジカに留まり、この侵攻には参加していないため、大友軍の作戦行動は停滞せざるを得なかった。


 結果、この不協和音に乗じた島津義弘(義弘は大友軍の内情はつゆ知らなかったわけだが)の奇襲により、大友軍は重要拠点である高城を失うに至るのである。



 
 高城陥落の報を受け、大友軍はにわかに色めきたつ。
 ことに信徒たちはただちに全軍を挙げてこれを奪還すべしと主張した。高城の重要性を鑑みれば、これは決して間違った判断ではない。
 だが、戦に慣れた大友軍の諸将はこれに否定的であった。率直に言って、島津義弘が立て篭もる高城を陥落させる力が、自分たちにあるとは考えにくかったのだ。


 高城は北、東、南の三方を絶壁に囲まれた天然の要害であり、ただ一つ平地に通じる西側の防備はきわめて厚くなっている。
 大友軍が伊東家からこれを奪った時は、城を囲んで糧道を断った上で降伏させたのであり、力ずくで陥落させたわけではない。
 奇襲であり、なおかつ城には十分な守備兵力がいなかったことを差し引いても、あの難攻の城をたやすく陥としてのけた島津義弘の武烈に、諸将は戦慄を禁じえなかった。


 当然の帰結として、その義弘が立て篭もる高城を陥とすのは至難であると言わざるを得ない。
 報告によれば、義弘率いる島津軍はおよそ三千あまり。二万五千の大友軍が総力を挙げて攻め寄せれば、城を陥とすことは決して不可能ではないだろうが、小丸川の南には島津軍一万が黙然と控えている。大友軍が高城を衝けば、彼らが川を渡って、大友軍の後背に襲い掛かってくることは火を見るより明らかであった。


 もっとも、たとえそうなったとしても、両軍の戦力を見れば大友軍が敗北することはないだろう。だが、損害が無視できないものになることは確実であった。
 であれば、視点をかえれば良い、と惟教は考える。
 高城は三方が崖で囲まれた難攻の城だが、逆に言えばただ一つだけ平地に通じている西側を塞いでしまえば、猛将たる鬼島津を城に閉じ込めてしまえるということである。
 これには二万も要らない。三千の倍、六千もあれば高城の島津勢は無力化できる。
 しかる後、島津義久率いる一万の軍勢を討つことは難しいことではないだろう。少なくとも、義弘を相手にするよりは楽に戦えることは明白であった。



 だが、日向侵攻から今日まで敗北を知らなかった信徒たちは、すでに敗報にいきり立っており、惟教の案を考慮さえせずに独自に行動を開始する。
 より正確に言えば、いきり立っていたのは個々の信徒以上に宣教師たちの方であったのだが、結果として二万の大軍が高城へ向かったことに違いはない。
 この信徒の行動に惟教は激怒し、自身もすぐさま行動に移った。
 すなわち信徒たちを除く五千の軍勢をまとめあげると、小丸川から後退し、本陣を切原川の北に移したのである。


 切原川は高城の北を流れる川であり、陣の配置だけを見れば惟教は信徒たちの後詰を行ったように映る。
 だが、無論のこと惟教にその意思はない。さすがに同士討ちを演じるほど思慮を失ってはいなかったが、川を挟んだ安全な場所から、信徒らの戦闘を見物するつもりだった。
 信徒たちの行動は、自分たちだけで戦をすると宣言したに等しい。ならばお手並み拝見といこうか――それが惟教の考えであった。
 とはいえ、露骨に戦を回避すれば、戦が終わった後に宗麟やカブラエルから処罰される可能性がある。だからこそ、一見、信徒たちを援護するような場所に陣を敷いたのである。




 この惟教の動きは信徒たちもつかんでいたが、彼らは一向に気にかけない。
『我らには神の加護あり、何条もって異教徒どもに敗れようか』
 そんな声と共に十字旗を掲げ、手に十字架をもって進軍する大友軍の姿は、日向北部を朱に染めた際と何一つ変わることはなかった。
 その結果もまた、何一つ変わることはないであろう。特に宣教師たちはそう信じて疑わなかった。
 どれだけ高城が堅固な防備を誇ろうとも、二万の大軍、それも神の加護を得て聖戦に望む精鋭たちを前にしては三日と保つまい。
 島津軍の本隊が後方を衝こうと川を渡るなら勿怪の幸い、高城を屠ったその足でこれを撃滅すれば良い。しかし、そうなる可能性はごくごく低いだろう。なにしろ島津軍の後背には南蛮艦隊が攻め寄せているのだ。遠からず、連中は兵を退くに違いない……それが宣教師たちの考えであった。




 ――宣教師や信徒はもちろんのこと、惟教ら大友家の諸将にしても、眼前の敵ではなく、別の何かを見ているという点では共通していた。ゆえに、彼らは島津義弘という傑出した闘将によって、木っ端微塵に撃ち砕かれることとなる。





 元々、島津義弘の名は『鬼島津』の異名と共に、島津家随一の猛将として広く知られていた。だが、島津家は先代貴久亡き後、薩摩一国すら保持しえないほどに勢力が縮小してしまったこともあり、たとえば大友家を支える『鬼道雪』などと比すれば、義弘の武名はあくまでも「地方勢力の雄」に留まっていた。
 それゆえ、鬼島津の名を、道雪と並ぶ九国を代表する武烈へと押し上げたのは、大淀川の戦いから耳川の戦いへと続く二川の合戦であったといえる。





 大淀川の戦では、義弘は歳久の策を用いて伊東軍を撃破した。
 しかし、続く耳川の戦では、義弘は特に策を用いようとはしなかった。攻め寄せる大友軍――南蛮神教の信徒たちを、高城の堅固さを利して真っ向から退けたのである。


 島津軍は南蛮艦隊に対抗するため、精鋭と火器の大半を薩摩に集中させており、火力という点では大友軍に遠く及ばない。篭城という利を差し引いても、兵力、火力の差から島津軍の苦戦は免れないものと思われた。
 しかし、この戦において高城に立て篭もった義弘の守城指揮は完璧であった。
 大友軍は二万の大軍とはいえ、西側のみが開けている高城の特殊な地形から、全軍を同時に動かすことは不可能である。一方の島津軍は三千の兵力を縦横に駆使して防戦に努めることが出来た。
 七つの空堀を利用し、時に退いて誘い込み、時に突出して蹴散らし、大友軍を翻弄する義弘の指揮に、南蛮神教の信徒を中心とする大友軍はまったく太刀打ちできなかったのである。


 日向侵攻の初期においても似たような戦況がなかったわけではない。
 だが、その時は戦に慣れた大友正規兵の援護があり、なにより宗麟のもとに大友軍の指揮系統は統一されていた。信徒の数や火力を活かすだけの条件が整っていたゆえに、信徒たちは敗北を知らずにいることが出来たのである。


 今の信徒たちにはそれら兵力を活かす条件が欠けている。もっとも、相手が島津軍でなければ、あるいは率いる将が鬼島津でなければ、数にあかせて攻め寄せるだけでも高城を陥とすことは出来たかもしれない。
 しかし、今、信徒たちの眼前に立ちはだかる高城は、単純な力押しで攻め落とすことの出来たこれまでの城とは、まったく異なる次元の堅固さを示していた。


 大友軍が城を囲むこと三日。
 七度に及ぶ総攻撃は、七度はね返され、大友軍は千を越える死傷者を出していた。
 無論、島津軍にも被害は出ているが、おそらくその数は大友軍の十分の一にも達しないだろう。
 兵力の絶対数が違う以上、この攻撃を繰り返していけば、やがて島津軍も力尽きるだろうが、今の調子では島津軍が力尽きるより早く、大友軍の方が先に崩壊してしまう。
 その考えが胸中にあるために、大友軍の攻勢は勢いを失い、八度目の総攻撃は実行されなかった。


 ――その事実が示す意味は重要だった。
 本来、そういった有利不利を計算する思慮を宗教的狂熱で覆いつくし、ただひたすらに敵を討とうと行動することこそ、十字軍という軍隊の大いなる脅威の源泉である。策略は通じず、交渉には応ぜず、猛り狂って押し寄せる信徒の大軍を前にすれば、多くの者は恐怖を禁じえないだろう。ムジカにいるカブラエルもそれを意図すればこそ、聖戦という大義に加え、虐殺された同胞の仇討ちという名分を掲げ、信徒たちの憤激を煽ったのである。


 だが、ここで大友軍は敵を前にして迷ってしまった。
 それはムジカ建設という中断を経て、彼らが多少なりとも狂熱から冷めてしまった為であったろうか。
 聖戦に従事しているという誇りは失せておらず、また南蛮神教を排斥する島津と戦うことに疑問を持ってはいないのだが、それでも日向侵攻当初から比べれば、信徒たちの勢いは確かに減じていたのである。


 この迷いが、信徒たちをして無謀な二正面作戦へと踏み切らせる。
 すなわち、惟教らが小丸川から去ったために楽々と渡河を果たした義久が戦場に姿を見せるや、信徒たちは五千あまりを高城の押さえに残すと、余の兵力をもって義久と決戦すべく動き出したのである。
 このまま攻め続けても、すぐには城を陥とせない。ならば先に敵の本隊を討とう、というのが大友軍の考えであった。


 島津軍とて七度にわたる総攻撃を受けて疲弊しているはず。まさか城外に突出してくることはないだろう、という楽観を基にした大友軍の作戦は、だが、その日のうちに瓦解する。


 大友軍は島津軍に気づかれないように夜のうちに行動を開始。多くの旗指物を指し連ね、篝火を盛んにして兵力の減少を悟られまいとしたのだが、逆にその動きで義弘は敵主力の動静を鋭敏に察知する。
 そして、まだ夜が明けぬうちから、城門を開いて城外に布陣する大友軍に一斉に攻めかかったのである。島津の逞兵の英気に満ちた顔を見れば、大友軍が期待していた疲弊など欠片もないことは明らかであった。


 ……無論、正確には島津軍とてまったく疲労がなかったわけではない。しかし、そんなものは鬼島津の号令と、勝利の確信を前にすれば容易く耐えることができる。
 逆に、島津軍の武将たちにしてみれば、あまりに都合良く戦況が推移するので、もう幾度目のことか、罠の存在を想起せずにはいられなかったほどであった。
 しかし、すでにこの時、義弘は大友軍内部で深刻な対立が発生していることをほぼ確信するに至っていた。
 ここまでの大友軍の動きの鈍さを考えれば、それ以外に考えられない。であれば、ここは不和に乗じ、勢いに乗ってひたすら突き進み、大友軍の主力を壊滅させるべきであろう。
 突撃の先頭に立ちながら、義弘はそう考えていた。





 その後の戦の経緯は、詳しく記すまでもないだろう。
 それは事実上、島津軍の鋭鋒から逃げ惑う大友軍の描写にしかならないからである。
 切原川の北に陣を移していた佐伯惟教らにしても、まさかここまで短期間に、かつ一方的に信徒たちが敗れるとは考えていなかった。
 だが、彼らがその戸惑いを払えずにいるうちに、島津軍の矛先は惟教らにも向けられた。島津軍にしてみれば、大友家内部の事情など知ったことではない。十字旗を掲げていようと、杏葉紋を掲げていようと、等しく敵である。
 二万の信徒を蹴散らして、なお島津軍の数は一万を越えており、わずか五千の軍勢では勝勢に乗った猛攻を持ちこたえることは出来なかった。そして、退却するだけの時間も与えられなかった。


 ここに、あわせれば二万五千に及ぶ大友家の大軍は、言い訳の余地のない大敗を喫する。
 しかも、なお戦は終わったわけではなかった。
 敗れた大友軍の将兵は、もはや南蛮神教も何も関わりなく、ひとかたまりになってひたすら北――ムジカに向けて敗走を開始する。
 これに対し、島津義弘は姉義久に後方を任せると、自ら先頭に立って追撃を指揮、大友軍の徹底的な掃滅を指示したのである。


 戦に勝利したとはいえ、敗兵がムジカに逃げ戻ってしまえば、再び英気を回復して島津軍の前に立ちはだかってくるだろう。大友軍と島津軍の国力差を考えれば、総力戦になれば島津軍に勝機は薄い。ゆえに、ここで徹底して大友軍を叩き、島津軍の脅威を骨の髄まで刻み込む。それが義弘の目論見であった。


 かくて展開された追撃戦は、もはや戦と呼ぶことさえ躊躇われる一方的なものとなる。ほんの数月前、日向北部で繰り広げられた地獄絵図は、場所をかえて、立場をかえて、大友軍の頭上に降りかかった。
 ことに、この追撃戦をしめくくる形となった耳川における両軍の激突は、島津軍がおよそ百の死傷者を出したのに対し、大友軍は死者だけで二千、負傷者を含めればその数倍に達するという壊滅的な被害を出した。
 島津軍対大友軍の戦いが『小丸川の戦い』でもなく『高城の合戦』でもなく『耳川の戦い』と呼ばれることになったのは、あまりにも凄まじいこの戦果が理由である。


 それは同時に、猛将『鬼島津』の名が九国を越えて遠く京にまで達する契機ともなったのだが、もしも義弘が更なる追撃をかけていれば、大友軍の被害はなおも増したであろう。そして島津軍の中でも、なお追撃を行うべき、との意見が多数を占めていた。
 しかし、義弘はその意見にかぶりを振り、兵を収める。
 義弘が口にした、ムジカを攻めるために一旦態勢を立て直す、という言葉は偽りではなかった。しかし、それが理由のすべてでもなかったのである。


「……こんな光景、お姉ちゃんに見せるわけにはいかないもんね」
 紅く染まった耳川の流れを見つめ、小さく呟く義弘。その横顔には、隠し切れない憔悴の色が見て取れた……





◆◆◆





 日向国 ムジカ沖


 この日、バルトロメウの船長室を訪れたカブラエルは、かすかに震えを帯びた声で耳川の戦いの詳細を小アルブケルケに伝えた。
 その顔色が蒼白であるのはいたしかたないことか。小アルブケルケはそんなことを考えつつ、口を開く。
「……なるほど。ドアルテの件を伏せておいたのが裏目に出たか」
 その言葉に、カブラエルは頷きはしなかった。それは指示をした小アルブケルケを非難することになってしまう。
 しかし、経過を見れば、小アルブケルケの言葉を否定することは出来ない。高城をめぐる攻防において、従軍した宣教師たちは島津軍が間もなく退却することを前提として行動し、結果として大敗を喫したからである。


 もっとも、だからといってドアルテの死を公にしていれば、ドアルテのことを詳しく知らない信徒はともかく、宣教師たちの動揺は防げなかっただろう。
 なにより島津軍の北上によってムジカが危機に晒されている今、もしもの可能性を論じている時間はない。
 ムジカには、今回の戦いに従軍しなかった一万に加え、高千穂から戻った五千の軍勢が控えている。これに逃げてきた兵士を加えれば、なお三万に近い大軍を編成することは可能であろう。だが、それはあくまで数字上の話。耳川で敗れた将兵は、三々五々、ムジカの城門に到着しており、その惨憺たる姿を見て、信徒たちは動揺を禁じえずにいるのである。


 住民の中に、ムジカを離れる動きも出始めている今、カブラエルは一刻も早く手を打たなければならなかった。
 だが、どうすれば良いのかがわからない。もっと正確に言えば、どうすれば良いかはわかっている。迫り来る島津軍を撃退すれば良いのだ。ただ、どうすれば撃退できるのかがわからなかった。


 カブラエルは騎士でも武将でもなく、武器をとって戦った経験がない。これまで南蛮神教のために実際に戦ってきたのは宗麟であり、宗麟麾下の将兵であって、カブラエルではないのだ。
 そして、大友軍はわずかな例外を除いて、ことごとく戦に勝利を収めてきたゆえに、敵軍が本拠地に迫り来る今のような状況を、カブラエルは経験したことがなかった。


 無論、カブラエルとて剣刃の上を歩くにも似た苦難を経て、今日の立場を築きあげた人物、相応の胆力は備えている。この状況に慌てふためくほどの小人ではない。
 ただ、自らが身命を賭して築き上げた聖都が灰となって滅ぶかもしれない事態を前に、冷静を保てるほどに豪胆でもなかった。


 そんなカブラエルを、小アルブケルケは冷徹な眼差しで見据えている。
 やがて、その口から出た言葉はカブラエルの予想だにしないものであった。


 カブラエルは一瞬押し黙り、うめくような声を搾り出す。
「……ゴアに戻る、と仰るのですか、殿下?」
「そうだ。先日のガルシアの書状によれば、島津の側より捕虜解放の申し出があり、これを受諾したものの、ロレンソがいまだ抵抗を諦めずに難儀しているらしい。出来うれば私の直接指揮を仰ぎたいとのことだ。どの道、使節団と例のドールをゴアに連れて行かねばならぬところでもある。そろそろ腰をあげてもよかろう。あまり遅れれば父上の不興をかってしまうしな」
「それは、その通りでありましょうが……」
 そこで、カブラエルは何事かに気づいたように、かすかに声の調子をかえる。
「それでは、殿下、私も共に――」
「不要」
 小アルブケルケは、カブラエルの言葉を皆まで言わせずに切って捨てる。


「このような時に布教長がゴアに戻ると触れれば要らぬ誤解を招く。それは一人貴様のみならず、南蛮神教や南蛮国そのものの評にも関わってこよう。今後、この国を経略する上でも、南蛮人は臆病者であるなどと思われるわけにはいかぬ。カブラエルよ、貴様は聖都に残り、貴様が築き上げたあの都市を守ってみせよ」
「……は、承知いたしました」


 応じるカブラエルの顔を見て、小アルブケルケは口元を歪めるように、小さく嗤った。
「そう悲壮な顔をするな。何も貴様一人でやれと言うつもりはない」
「それは、どのような……?」
「ゴアに戻るのはバルトロメウだけだ。ガルシアと合流した後、艦隊はここに向かわせよう。ロレンソにはガルシアに従うように命ずるし、それでも異議を唱えるようなら、ロレンソもゴアに同行させる」
 まあ、あれが命令に背くはずはないがな、と呟いた後、小アルブケルケはさらに言葉を続けた。
「この時期に捕虜解放などを持ち出すところを見るに、島津とやらもさして戦力に余裕はなかろう。艦隊が姿を見せれば、ムジカに拘泥することなく退却する。カブラエル、貴様はガルシアらが到着するまでの間、この都市を守れ。これならば、貴様にとってもそれほど難しいことではあるまいよ」


「確かに――仰るとおりかと」
 カブラエルは小アルブケルケの言葉に頷いた。
 退却する島津軍を追い打てば勝利は容易いだろうし、たとえ追撃を控えたとしても、窮地を泰然として乗り切ることが出来れば、カブラエルの株は大いに上がる。
 それから態勢を整え、改めてガルシアらの艦隊と連動して南下すれば、日向を制圧することもさして難しくはないだろう。
 まだ、聖都計画が潰えたわけではないのだ。


「承知したならば、早くムジカに戻れ。そして王の傍にいてやるが良い。このような状況だ。いつ何時、不測の事態が起きるかわからないからな」
 そう言った後、小アルブケルケは奇妙に抑揚の利いた口調で囁いた。
「あるいは、万一に備えて王をムジカから逃がしても良いかもしれぬな。予期せぬ事というのは、いつであれ、どこであれ、起こりえることだ……」









 カブラエルが何事かを考えながら退出した後、小アルブケルケは一人の騎士に声をかける。
「トリスタン、ドールはどうしている?」
「相変わらず大人しいものです。逃亡の気配もありません。もちろん、注意を怠りはしませんが」
「そうか……貴様と似た境遇の娘だ。話も合うのではないかと思って貴様に世話を任せたが、少しは我らに理解を示すようになったか?」
「……失礼ながら――」
 何事か言いかけたトリスタンをさえぎるように、小アルブケルケは嗤う。
「ふふ、人質をもって同行を強いた者が、強いられた者に理解を求めるのは醜悪きわまる。言いたいことはそんなところか」
「…………」


 トリスタンは否とも応とも口にしなかったが、その表情を見れば答えは明らかであったろう。
 それを見た小アルブケルケは、机に両肘を乗せ、口元を隠すように掌を合わせて目を閉じる。先刻のカブラエル同様に何事か考え込んでいる様子であったが、隠された口元に浮かぶのが嘲笑であることが、何故かトリスタンにはわかっていた。




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第九章 杏葉(六)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:cd1edaa7
Date: 2011/08/24 23:48
 日向国 ムジカ


「……いてぇ、いてえよ、ちくしょう……」
「ああァァァァッ、手が、俺の手があああ」
「誰か、水をくれ……たの……む」
「……神よ、どうかお助けを」
「宣教師どもめ、なにが神のご加護だッ! あいつら、俺たちを置いてさっさと逃げやがったッ!」
「あああ……あああ、来るな、来るな、殺さないで、殺さないでェェッ!!」


 苦悶、呪詛、懇願、絶望……耳川の戦いで敗れた大友軍将兵の祝福されざる四重奏は、いつ果てるともなくムジカの街路に響き渡る。
 高城の戦いに始まり、耳川に達するまでの追撃戦、ならびに耳川における激突で、ムジカを出陣した信徒のうち五人に一人は討たれ、三人に一人は負傷した。手傷を負わなかった幸運な者も、その多くは飲まず食わずの敗走で飢えと渇きに苦しみ、ようやくムジカに帰り着いた後も、疲労と恐怖に苛まれ、気力を根こそぎ奪われた状態であった。


 敗戦からすでに幾日も過ぎているにも関わらず、彼らは立つことさえろくに出来ず、ただ座り込み、ある者は痛みを、ある者は恨みを、またある者は恐怖を訴える。
 島津軍の猛追を思い起こし、夜な夜な悪夢にうなされる者も少なくない。中には恐怖のあまり、正気を失って暴れまわる者さえいた。
 彼らはすぐに他の信徒によって取り押さえられたが、これら敗残兵の姿を目の当たりにすれば、ムジカに残っていた信徒らも平静ではいられない。なにしろ戦はまだ終わっていないのだ。今この時も、島津軍は刻一刻とムジカに迫りつつある。今、目にしている敗残兵の姿が、明日の自分のそれかも知れぬと思えば背筋が凍る。

 
 打って出るのか、篭城するのか、そもそも神の加護を得て聖戦にのぞんでいたはずの自分たちがどうして敗れたのか。
 尽きせぬ疑問は山となり、信徒たちは大聖堂へと足を運ぶ。大友家の当主である宗麟と、布教長であるカブラエルが起居し、多くの宣教師たちが日々神の教えを説く大聖堂に行けば、然るべき答えを得られると信じて。


 しかし、信徒たちはそこで望んだ答えを得ることは出来なかった。
 宣教師たちもまた、惨憺たる敗戦に動揺を禁じえずにいたからである。
 常日頃、ムジカの信徒たちは宣教師らに対してきわめて従順であったが、悪鬼のごとき島津軍が攻め寄せてくれば、聖都は灰となり、自分たちは皆殺しにされてしまう。この状況では、いかに従順な信徒といえど自然と感情は高ぶり、声は鋭く尖ってしまう。望む答えが得られないとあれば尚更だった。




 刻一刻と不穏な気配を募らせていく信徒たち。
 そんな中、大聖堂の宗麟の私室では、バルトロメウから戻ったカブラエルが、宗麟に対して一つの提案を口にしていた。



◆◆



「わたくしに府内に戻るように、と仰るのですか、カブラエル様?」
 不思議そうに小首を傾げる宗麟に向け、カブラエルははっきりと頷いて見せた。
「そうです。神にあだなす悪鬼のごとき敵軍に、この聖都が攻撃されるのははや時間の問題。無論、ムジカは神の祝福を受けた都市、陥落するなどありえませんが、それでも相応の被害は出てしまうでしょう」
 そして、その被害の中に宗麟の名が含まれる可能性は否定できない、とカブラエルは言う。


「フランシス、あなたは大友家の当主であり、同時にこの地に生きる南蛮神教を奉じる者たちの導き手であり、守り手。その身に万に一つでも間違いがあってはなりません。ゆえに聖都が敵に包囲される前に脱出してほしいのです」
 カブラエルの言葉に、宗麟ははっきりと顔を曇らせる。
「それは……」
「わかっています。聖都で暮らす多くの信徒たちを見捨てるわけにはいかない、と言うのでしょう? もちろん、私とてそのような非道をあなたに勧めるつもりはありません。府内に戻るは逃げるにあらず、聖都を救うための援軍を募って欲しいのですよ」


 元々、今回の聖戦に従軍した大友軍将兵の大半は農民たちであった。中には佐伯惟教られっきとした大友武士も含まれていたが、その数はわずか数千に過ぎず、余の三万を越える兵力は、皆、南蛮神教の信徒たちで構成されている。
 逆に言えば、豊後には宗麟に仕える家臣たちの兵力が、まだ十分に残っていることを意味する。彼らを動員して、聖都を救う軍勢を組織してほしい。カブラエルは宗麟に向かってそう言った。
「大友家の中で南蛮神教に帰依した者のほとんどは、今回の聖戦に従軍しています。つまり、今、府内に残っているのは我らに好ましからぬ感情を抱く者たちばかりということ。ゆえに、書状で援軍を求めても無駄でしょう。彼らを動かすのは、フランシス、あなたしか為しえないことなのです。今、聖都を離れることは、決して同胞を見捨てることにはなりません」






 ――熱心に宗麟を説得するカブラエルであったが、その内心に去来するのは宗麟のことでも、あるいは信徒のことでもなく、バルトロメウで意味ありげな笑みを浮かべて此方を見つめていた小アルブケルケの顔であった。
 最後に発されたあの言葉、この国の王をムジカから逃がしたが良い、という言葉の意味を、カブラエルはすでに理解していた。より正確に言えば、理解したつもりでいた。


 小アルブケルケは宗麟のことを「王」と呼ぶ。それはつまり、その名を覚える必要さえ認めていないということ。事実、小アルブケルケはこれまで全くと言っていいほど宗麟に関心を示さなかった。
 それがどうして、この期に及んでその安全を図るような言葉を口にしたのだろうか。
 カブラエルがその真意に思い至るまで、かかった時間はごく短かった。小アルブケルケは宗麟の身の安全を慮ったのではない。むしろ逆である。
 ゴア総督の実子は、おそらくこう言いたかったのだ。


 ――もはや大友家など不要。この機にムジカのすべてを掌握しろ、と。


 策略としては、さして独創的なものではない。
 まず、カブラエルは宗麟に対し、安全のために府内に避難するように口にする。宗麟が拒絶するようなら、聖都を救うために豊後から援軍をつれてきてくれ、とでも説得すれば良い。
 宗麟が頷けば、島津側に気取られないために、という理由で密かにムジカから出てもらう。
 そして、宗麟が去ったムジカで、カブラエルはこう言うのだ。
『大友フランシス宗麟は、迫り来る島津軍に恐怖して、聖都を捨てて逃げ去った』と。


 耳川の戦の敗残兵の声が街路という街路を埋めている今の状況であれば、このカブラエルの言葉は十分な真実味をもって信徒たちの耳に響くだろう。仮にその言葉を疑う者がいたとしても、宗麟がムジカにいない以上、その無実をすぐに証し立てることは不可能である。時間さえあればそれも可能だろうが、島津軍が迫る今、悠長にそんなことをする時間があるはずもない。
 結果、カブラエルは宗麟に見捨てられた信徒たちを率いてムジカに立て篭もることになる。


 ――当主が逃げ出し、援軍のあてのない絶望的な戦況。
 しかし、突如として現れた南蛮艦隊の援護により、この戦は奇跡的な勝利で幕を閉じる。
 卑劣な宗麟とは異なり、最後まで信徒たちと共に戦い続けたカブラエルの存在は光輝に満ち、遠い異国の同胞を救うために駆けつけてくれた南蛮艦隊に対して、ムジカの信徒は限りない感謝と尊敬を捧げるだろう。
 そして彼らは、今まで以上に南蛮神教に心酔し、南蛮国の民として生まれ変わる。
 ……これが小アルブケルケの思い描く筋書きだろう。カブラエルはそう考えた。


 現在の戦況、さらに今後の展開を考えれば、ムジカを完全に南蛮のものにするためには大友家の存在は邪魔である、という小アルブケルケの思惑は理解できる。
 さらに「不測の事態」という言葉を幾度か繰り返していたことを考えれば、あるいは小アルブケルケは、宗麟を豊後に逃がすのではなく、逃がすふりをして始末してしまえ、と言いたかったのかもしれない。今のムジカの現状を考えれば、動揺した信徒や島津軍など、罪をかぶせることの出来る相手はいくらでもいる。


 確かに、とカブラエルは考えを進める。
 小アルブケルケの策が思惑通りに進めば、利用された宗麟が豊後の地で何を考えるかは瞭然としている。この後、宗麟がカブラエルら南蛮勢の障害となる可能性も否定できない。ならば、始末できるうちに始末するのは当然のことかもしれない。


 しかし、一方で、万一にも宗麟を討ちもらすことがあれば、かえって事態が厄介なものになりかねないのも事実である。くわえて、島津軍が今日明日にも姿を現そうとしている今、下手にムジカの兵を動かしたくはない。
 ――結局、明確な指示ではない以上、細部はこちらの裁量で構うまいと考えたカブラエルは、宗麟は素直に豊後に返すことに決めた。
 小アルブケルケの不興をかうことになるかもしれないが、仮に、今後、宗麟が大友家当主として南蛮軍の前に立ちはだかろうと、なんとでも説き伏せることが出来る自信が、カブラエルにはあったのである……







 そんな底意を持って宗麟の説得にとりかかったカブラエルであったが、意外なことに宗麟はカブラエルがなんと説いても府内へ戻ることを肯おうとはしなかった。
 これにはカブラエルも慌てざるをえない。
 宗麟がムジカに残っていては、小アルブケルケ策略の根幹が成り立たなくなる。そうなれば不興をかうどころの話ではない。
 カブラエルは深い憂いを込めて宗麟に語りかける。
「フランシス、あなたの身体は、もはやあなた一人のものではないことを理解してください。避けうる手段がないのであればともかく、今ならばまだ危難を避けることができるのですよ」
「この身を案じてくれるお言葉の数々、とても嬉しく思いますわ、カブラエル様」
 宗麟はそう言ってカブラエルを見つめる。その目に浮かぶのは心底からの感謝であり、感激であって、カブラエルの底意を見抜いた上で首を横に振っているわけではない。それは確実であった。


 では、どうしてこれほどまでに頑ななのだろうか。敗残兵で溢れかえった今のムジカは、争いを忌み嫌い、戦を知らない宗麟にとって耐え難い場所であろうに、とカブラエルは首を傾げざるを得なかった。
 実のところ、このカブラエルの考えは一部ではあるが間違っていた。宗麟は確かに争いを忌み嫌っていたし、それゆえに実際の戦場に出ようとはしなかったが、戦を知らないわけではない。
 そのことをカブラエルが知らなかったのは、宗麟が大友家当主として、鎧兜に身を包んで戦場に出ていたのだが、二人が出会う以前のことだったからである。


 二階崩れの変を経て、宗麟が大友家を継いで間もない頃。
 当時、大友家はありとあらゆる内憂外患に苛まれていた。筑前、筑後、豊前の反大友の国人衆は、時は今とばかりに一斉に蜂起し、豊後国内で宗麟に反感を抱く家臣たちは、水面下で激しく策動していた。
 府内周辺はかろうじて平静を保っていたとはいえ、いつ敵兵が押し寄せてきても不思議ではない状況だったのである。一万田鑑相が悪名を一身に引き受けて、なおその有様。彼の行動がなかったならば、おそらく戦火は府内を含む豊後全土を覆っていただろう。


 そんな状況を打破するために、宗麟や道雪らは文字通り東奔西走して、大友家のために戦い続けた。湯はおろか水で体を拭くことさえできず、草の上で眠り、砂まじりの握り飯にわずかな味噌をそえて貪るように食べながら戦場を駆けた。
 すべては大友家を守るために。大友家と、そこで生きる人たちを守るために。そうする以外に、胸を苛む痛苦から逃れる術がなかったからとはいえ、それでも宗麟が将兵の先頭に立って戦い続けた事実が色あせることはない。
 この事実が、重臣たちをして、今日まで宗麟を主君と仰がしめた主たる理由なのである。


 やがて君臣の働きの甲斐あって、大友家は平穏を取り戻し、宗麟の周囲はかわっていった。
 カブラエルとの出会いを経て、宗麟の前に現れたのは慈悲と慈愛に満ちた、穏やかで、苦しみなどない優しい世界。それは宗麟が願ってやまなかったものであり、だからこそ、ひとりわが身のみならず、大友家の家臣が、領民が、日の本すべての民が、この安らぎを得られるならば、それはどんなにすばらしいことなのかと夢に見た。


 その夢の結晶こそが聖都ムジカ。
 ゆえに、再び泥濘にまみれ、戦火を被ることになろうとも、宗麟がムジカを離れるはずがなかったのである。


 カブラエルは、宗麟の穏やかな笑みを見て、しばしの間、言葉を失う。
 宗麟の願い、想いは誰よりも承知しているつもりのカブラエルであったが、恐るべき敵兵が迫り来る今の状況にあって、宗麟がこうも毅然とした振る舞いを見せるとは思ってもいなかった。
 ……いや、毅然とした振る舞い、というわけではないのかもしれない。宗麟は別に悲壮な決意をしているわけではなく、ただいつもどおり、これまでどおり、神を信じて、己が信じる道を歩いているだけのこと。その場所が平穏な府内であれ、敵が迫っているムジカであれ、宗麟にとっては何も変わらない、ということなのだろう。


 それを器が大きいと見るか、現実から目を背けていると見るかは人それぞれだろうが、少なくとも、今の戦況に宗麟が怖じていないことだけは確かであった。
 この宗麟の一面をカブラエルが知らなかったのは、これまで大友家が敵に追い詰められるという事態が一度としてなかったからである。


 ……厄介なことになった、とカブラエルは内心でうめく。
 つい先ほど、宗麟には手を出さず、豊後に逃がそうと決めたばかりであったが、宗麟がムジカから動かないというのであれば、根本から考え直さなければならなくなる。


 カブラエルは宗麟を積極的に害そうとは考えていない。それどころか、個人としての情誼は確かに存在する。
 だが、それはあくまで宗麟がカブラエルの思惑どおりに動くことを前提とした上での感情である。ただでさえ、このところ、しばしばカブラエルの思惑を越える宗麟の言動に対して虚心ではいられなかったところだ。
(……あるいは、そろそろ潮時かもしれませんね)
 南蛮艦隊の敗北、小アルブケルケの指示、今後のムジカと南蛮神教のあり方。様々な要素を考え、突き詰めていくと、大友宗麟と歩みを共にする利益と不利益の秤は、大きく一方の側に傾いていく……


 カブラエルは自身の内面の動きを冷静に観察しながら、こちらを見つめる宗麟に対して柔和に微笑みかける。その脳裏で蠢く策謀を、砂一粒たりとも察されないように。




◆◆




 ムジカは土持氏の居城だった県城跡に建設された城市である。
 構造としては、かつての本丸部分に大聖堂が築かれ、その周囲を囲うように南蛮神教の建物が立ち並んでおり、ムジカの政治、軍事、さらに宗教、経済の中心として、多くの信徒たちが日々活動していた。
 さらにその建物群を取り囲むように、信徒たちが暮らす町並が広がり、北の五ヶ瀬川、南の大瀬川を天然の外堀として、外敵からの脅威に対抗する備えとしている。


 逆に言えば、この二つの川を敵に越えられてしまえば、ムジカの町を守るものは何もない、ということでもある。
 南北の川に沿った形で城壁をつくる予定はあり、実際に少しずつではあるが着手されてもいたが、大友軍がムジカの前身である県城を制してまだ数月。大聖堂の完成が最優先とされていたこともあり、とてものこと、長大な城壁が形となるだけの時間はなかったのである。


 だが、ムジカは住民の大半が南蛮神教の信徒であり、さらに日向征服において実戦を経験しているという特異な性質を有している。
 敵が川向こうに現れれば、大聖堂からの命令により、信徒たちはたちまち兵士となって駆けつけ、渡河をはかる敵軍を撃滅すべく武器を構えるだろう。
 南蛮神教の城市であるムジカでなければ成り立たないこの性質こそが、この都市最大の防壁だった。


 しかし、島津軍によって大敗を喫した今、その防壁がはたして機能するのか、自信をもって断言できる者はムジカのどこにもいない。
 この点、カブラエルは現状に対する認識がいささかならず甘かった。ムジカを守るためには、何よりも優先するべきは信徒たちの動揺を静めること。そのためには、援軍である南蛮艦隊の存在を示唆し、この戦いに勝算があることを早々に明らかにするべきであったろう。


 そういったことを考慮せず――というより思い至ることもなく、カブラエルは小アルブケルケの示唆した策略だけを念頭に行動した。
 この時、カブラエルの脳裏にあったのは、島津軍は多くても二万を越えることはなく、自軍はなお三万を越えるという明らかな数の優位である。先の戦いで大友軍はかなりの物資を失ってしまったが、それでもムジカを守るには十分すぎるほどの鉄砲、弾薬は残っているし、兵糧の蓄えもある。
 ましてここは聖都。神の恩恵が満ち溢れた都市であり、カブラエルら多くの聖職者たちが起居する南蛮神教の聖地である。異教徒に敗れるなどありえるはずがない。
 事と次第によっては、耳川の敗戦を経て、なお彼我の戦力差が大きくかけはなれていることを知った島津軍は、ムジカを見ることなく兵を帰すかもしれぬ。


 ……心底からそう信じていたカブラエルは、それゆえに内なる策謀に主眼を置き、当面の敵手である島津軍を軽視した。宗教指導者としての力量はともかく、その軍事的才幹には明らかな限界があったといえる。
 


 それでも、敵手が並の相手であれば通用したかもしれない。
 だが、ムジカに攻め寄せる島津義弘は、カブラエルとはあらゆる意味で対極に位置する人物だった。
 カブラエルが、思い通りに動こうとしない宗麟に対して密かに手を打とうとしていた頃、義弘はすでにムジカを指呼の間に捉えていたのである。




 ……その夜、ムジカの各処から火の手があがったとの報告を受けたカブラエルは、かすかに眉をひそめた。火の手があがったのが一箇所ならば失火であると考えるところだが、複数の場所から同時に火の手があがったと聞けば、何者かの作為を疑わざるを得ない。
 咄嗟にカブラエルが思い浮かべたのは、信徒たちの一部が不穏な動きをしている、との配下の宣教師の報告だった。
 その報告については、今はそれどころではない、とほとんど気にかけていなかったのだが、あるいは信徒たちの一部が暴走したのか。
「一分一秒でも惜しいこの時に、要らざることを」
 カブラエルはそう吐き捨てると、宗麟の下へと急いだ。一瞬、この混乱に乗じて、という思考が脳裏を横切ったが、今は混乱を収拾するのが先決だと思い直す。大聖堂の中で事を行うのは出来れば避けたかった。


 この時、カブラエルが島津軍のことを考慮にいれなかったのは、いまだ島津軍が大瀬川に姿を見せたとの報告が届いていなかったからである。
 信徒たちの暴走ならば、鎮圧するのにさして時間はかからないだろう――そんなカブラエルの推測に反し、届けられる報告は、いずれも被害の拡大と状況の悪化を伝えるものばかりだった。
 どうやら、かなりの数の集団がムジカの各処に火を放ってまわっているらしい。しかも、これを制止、もしくは取り押さえようとする同胞に対して、容赦なく攻撃を加えているとのことだった。


 それを聞いて、宗麟の顔がはっきりと青ざめる。
「……まさか、ムジカの民が同胞に手をかけるなど……」
 これはもう一時の暴走では済まない。明確な反逆行為である。
 顔を青ざめさせる宗麟の横で、カブラエルは眉を吊り上げて口を開いた。
「フランシス。いかなる理由があれ、彼らが為したことは許されざることです。これ以上、彼らをほしいままに行動させてしまえば、他の善良で忠実な信徒たちが傷ついてしまうでしょう。ここは断固とした措置をとるべきです」
 ムジカのすべての信徒に対し、暴徒を殲滅するよう指示すべき、とカブラエルは言ったのである。


 これに対して、宗麟ははっきりと戸惑いとためらいをあらわにする。同胞同士で殺しあうなど、宗麟がもっとも忌み嫌う行為だった。
 だが、カブラエルの言うとおり、事態をこのまま放置することは出来ない。このままでは死傷者が増え続けるばかりだし、火の手が広まれば、信徒の大半が冬の寒空に焼け出されることになってしまう。最悪の場合、ムジカの火の手を見た島津軍が長駆して襲ってくる可能性さえあるのだ。


 だが、そうと知ってなお宗麟は命令を下すことが出来なかった。
 これが島津軍の攻撃であれば、こうもためらい、戸惑うことはなかった。だが、同胞を討つという命令は、どうしたところで宗麟にかつての乱を思い出させる。
 これまで大友家で起きた幾度もの反乱、その追討を命じる都度、宗麟は全身を切り裂かれるような痛苦に苛まれてきた。聖都を建設し、ようやく理想の園へ一歩踏み出したというのに、またあの痛みを味わわなければならないのかと思えば、宗麟は怯まずにはいられなかったのである。



 そんな宗麟のためらいにいちはやく気づいたのは、やはりカブラエルであった。
 宗麟の苦悶を幾度も受け止めてきたカブラエルは、内心で焦りを抱きつつも、つとめて穏やかな声で宗麟を諭そうとする。
 しかし、幸か不幸か、宗麟の痛苦も、カブラエルの説得も不要となる。
 何故ならば、次の瞬間、大聖堂に駆け込んできた信徒の一人が、顔どころか声まで蒼白にしながら、一つの報告をもたらしたからである。


 すなわち――島津軍、来襲せり、と。





◆◆◆





 大友軍の敗残兵に島津兵を紛れ込ませる。
 耳川を渡った後、まっすぐ北に向かうのではなく、精鋭のみを選びぬいて大きく西に迂回し、大瀬川を越える。
 この時、島津義弘が用いた策はただこの二つのみ。
 そして、この二つだけで十分だった。


「かかれェッ!!」
 吼えるような義弘の号令と共に、選び抜かれた島津軍三千は西方よりムジカに突入する。
 ムジカの防備は南北に厚く、西に薄い。くわえて大友軍の注意はことごとく南に向いていた。おまけにムジカの各処では敗残兵に扮した島津兵が混乱を拡大している。
 結果、島津軍の奇襲は絵に描いたように見事に成功した。
 大友軍にしても、島津軍がわずか三千であると知れば、あるいは持ちこたえることが出来たかもしれないが、時刻は夜、しかも予期せぬ方角から襲い掛かってきた敵兵の数を冷静に判断できる者は、今のムジカには存在しなかった。


 とはいえ、義弘もわずか三千でムジカを陥落させられる、と考えたわけではない。
 義弘としては、この奇襲は本格的なムジカ攻略戦の前に大友軍の士気を挫くための、いわば前哨戦であった。
 大友軍は耳川で大敗を喫したとはいえ、島津軍からみれば、なおその兵力は圧倒的である。しかも今回は先の戦と違い、大友宗麟や他の重臣、さらに南蛮神教の実力者たちががじきじきに出てくるのは確実。大勝に驕って勢いのままに攻め寄せたりすれば、今度は島津軍が一敗地に塗れることになりかねぬ。


 島津軍にとって朗報だったのは、先の戦いで大友軍は武器や兵糧のほとんどを放棄して逃げ去ったことである。
 元々、今回の戦で島津軍は精鋭と火力の大半を薩摩に割いている。火力という点では、南蛮神教の助力を得た大友軍に一歩も二歩も遅れを取っていたのだが、その大友軍が残した膨大な物資をほぼ無傷で手に入れたことにより、島津軍は武装の点では大友軍に迫ることが出来た。


 しかし、繰り返すが、両軍の兵力差はなお甚大である。
 ゆえに義弘としては、西方からムジカを撹乱して勝機を探る心積もりであった。
 大友軍の敗残兵に島津の手勢を紛れ込ませるなどという陳腐な手を用いたのも、一度、ムジカの内から混乱を起こしてやれば、たとえ今回の奇襲で大した成果を挙げられずとも、大友軍の中に不和の種をまくことが出来るだろう、と考えたからに過ぎない。
 言ってしまえば、やらないよりはまし、程度のつもりだった。まさか、ここまで見事に己が策がはまるとは、義弘自身もほとんど予想していなかったのである。



 大混乱に陥ったムジカの只中を、島津軍は縦横無尽に駆け巡る。ムジカにおいては民と兵はほぼ同義であり、義弘もそれを承知しているからこそ十分な警戒をもって戦に臨んだのだが、彼らは島津兵の姿を見るや、ほぼ例外なく後ろを向いて逃げ出した。
 時折、手向かってくる者もいないわけではなかったが、それらは組織された抵抗ではなく、個々の兵が気力と武勇を振り絞ったに過ぎない。
 戦場において、個の武勇で戦局を変えられる勇士など万人に一人いるかいないかである。そして、ムジカにそんな勇士はいなかった。つまりは、抵抗した兵士はみな、義弘の指揮の下、部隊として動く島津兵の前にあえなく敗れ、その屍をムジカの街路に晒すことになったのである。



 義弘は存分に大友軍を蹴散らしつつ、町中を暴れまわったが、しばらくすると、右手を掲げて麾下の将兵に足を止めさせ、自らも愛馬の手綱を引いてその場に立ち止まった。
「……脆すぎる」
 そんな呟きが義弘の口からこぼれ出る。
 先の戦でも似たような感触はあったが、あれは大友軍の内部で何らかの対立があったからだろう、と義弘は考えていた。
 だが、ムジカには大友家の当主である大友宗麟がいる。当然、その周囲には戦に慣れた大友武士たちが控えているはず。こうまで島津軍にかき回され放題にしているなど、どう考えてもありえない。


 あるいは、密かに包囲されているのだろうか、とも危惧したが、偵察の兵によればそんな気配はないという。
 それどころか、ムジカを覆う混乱は一向に終息する気配を見せず、場所によっては大友軍同士で切りあっているところもあるとのことだった。混乱のあまり、闇夜の中で同士討ちを始めたのだろう。


 もはや大友軍は、軍としての秩序を完全に失っているとしか思えない。こんな奇襲一つで崩れるほど大友軍は弱いのか、と義弘は疑問に思った。
 ――無論、そんなはずはない。そんな家が九国の大半を領有する大家になれるはずはなく、将軍家から九国探題に任じられるはずもない。
 では、このあまりに情けない戦況は何によってもたらされるものなのか。


 大友家の内部で信仰をめぐった対立があるのは承知していたし、近年、多発する叛乱を見れば、宗麟が当主としての権威を失いつつあることも瞭然としている。
 でも、まさか、と義弘は思うのだ。
 まさか、あの大友家が、それも当主みずからが率いる部隊が、これほど脆いはずはない、と。


 だが、将としての義弘の識見は、今こそムジカを陥とす好機であると告げている。
 策の匂いも感じないとなれば、ためらう理由もない。
 義弘は内心の戸惑いに蓋をして、ムジカの中心部へと視線を向けた。小高い丘陵の上に築かれた南蛮風の巨大な建物は、闇夜の中にあって幾十もの篝火に包まれてその偉容を浮かび上がらせており、その光景は一種奇妙な美々しさを義弘に感じさせる。
 大聖堂。
 信徒たちがそう呼びならわす建物に、義弘はゆっくりと馬首を向けるのだった。




◆◆◆




「申し上げますッ! 島津軍の主力とおぼしき部隊がこちらに向かってきます!」
 その報告を受け、大聖堂の中は一斉に緊張と恐怖に包まれた。
 当然のように迎え撃つようにという指示が下されたが、元々、信徒らは軍勢として高度に組織化されているわけではなく、混乱を極める今の状況で整然と行動することはほぼ不可能だった。
 ゆえに、この時動いたのは、耳川の戦をからくも生き延び、帰還した佐伯惟教らの部隊であったが、この動きも妨げられた。
 敵ではなく味方、逃げ惑う信徒たちによって。


 信徒としては、ムジカの町が燃え盛り、敵の攻撃と味方の混乱が際限なく拡大している今、平静でいられるはずもない。そんな彼らが真っ先に頭に思い浮かべたのだが、ムジカで最も目立つ場所にあり、朝夕に祈りを捧げる大聖堂であったのは、むしろ自然なことであったろう。
 中には混乱に怯えるだけでなく、大聖堂だけは守らねば、と考える剛毅な信徒もいたが、いずれにせよ、万を越える信徒たちが無秩序に大聖堂に集まろうとしたのだ。その混乱ぶりは容易に想像できるだろう。


 惟教は島津軍に対抗するべく陣をしこうとしたが、次から次へと押し寄せる信徒たちのためにそれすらままならない。これが普通の城であれば、本丸に敵の侵入を許さないために城門を閉ざすという非情の手も使えるのだが、今のムジカではそれは不可能だった。
 元々、大聖堂は宗麟の意向を反映して信徒に開かれた場所であり、つまりはムジカの町と結びついた建物である。ムジカの町を突っ切って攻め込んでくる島津軍を遮るような機能は持っていないのである。


 島津軍を防ぐためには、人の力に拠るしかない。
 しかし、惟教は島津軍と戦う前に、島津軍の圧力におされるように流入してくる信徒を何とかしなければならなかった。だが、数千、数万の人々の混乱を容易に静められるはずもなく。
 結局、惟教は、ろくに陣形も整えることができない状態で、島津義弘の部隊とぶつかりあう羽目に陥る。この時点で、勝敗の帰結は明らかだった。





 両軍の兵士が発する怒号と叫喚がぶつかりあい、周囲にはたちまち血と臓物が放つ生臭い悪臭が立ち込める。
 銃声が起きなかったのは同士討ちを恐れたゆえであるが、そもそも鉄砲隊が悠長に整列、弾込めをしていられる戦況ではなかったのである。


 両軍が激突する音は大聖堂の中にあっても聞き取ることが出来た。それはつまり、それほど島津軍が大聖堂に接近しつつあるということ。
 そうと悟ったカブラエルは数人の宣教師を連れ、一時、宗麟の下を離れて自室に戻っていた。負けるはずはないとの思いはなお揺らがないが、万一に備えて持ち出さなければならないものがあったのである。


 それは金銀珠玉の類ではなく、何通かの書状だった。机の底に秘されたそれらを、カブラエルは懐にしまい込む。一瞬、その中の一つ、墨で染めたように黒く染められた書状が目に映ったが、カブラエルがその内容に思いを及ばせるよりも早く、宣教師の一人が口を開いた。


「布教長、これからどうされマスカ? このままでは、大聖堂もいずレ……」
「落ち着きなさい。この聖都には、神のために命を捨てることのできる数万の信徒がいるのですよ。ましてここは神の膝元たる聖堂です。異教徒の手が及ぶはずはありません」
「し、しカシ……」
 不安を禁じえない様子の配下に対し、カブラエルは常と変わらない笑みを浮かべてみせる。
「落ち着きなさいと言っているのです。確かに私はこの書状を取りに来ましたが、それはあくまで万に一つに備えてのこと。今はまだ、みな突然の奇襲に慌てているだけです。島津軍にしても、全軍がこぞって攻め寄せてきたわけではないでしょう。この夜を越えれば、敵は勝手に退いていきます」


 問題は、夜を越えることが出来るか否かであるが、これに関してはカブラエルは楽観していた。今、口にした言葉は紛れもないカブラエルの本心である。
 カブラエルの中では、自分たちと島津軍の間には数万の信徒たちが存在している。敵の手が届くはずはないとの思いは揺らがなかった。


 一方の宣教師たちはそこまで楽観してはいられない。彼らはカブラエルよりは、現在のムジカの状況を把握しているのだ。
 しかし、カブラエルの悠然とした態度を見て、なにがしかの確固たる理由があるのだ、と配下の者たちは解釈した。
 実のところ、カブラエルのそれは中身のないがらんどうであったが、本人はそれと気づかず、配下は常日頃のカブラエルの周到ぶりを過大に評価し、今この時もそうであろうと信じ込んだ。
 あるいはそう信じたかっただけかもしれないが、いずれにせよ、すべてを弁えている者がこの場にいれば、苦笑や失笑を越えて憫笑を禁じえなかったことだろう。


 惟教ら大友軍を瞬く間に撃ち破った島津義弘が、今まさに大聖堂に突撃の命令を下そうとしていることを知れば、なおさらにその観は強くなる。





 ――だが。
 やはり神は忠実な信徒を嘉したのだろうか。あるいは、自覚なき道化ぶりを披露する者たちに哀れみを禁じえなかったのか。


 この時、島津義弘は突撃の命令を寸前で飲み込んだ。
 無論、それは敵に情けをかけたわけではなく、哀れみを抱いたからでもない。
 義弘の視界の片隅に、奇妙な灯火が映し出されていた。
 方角は北。それはムジカの町を嘗めるように燃え広がる炎――ではない。無秩序に燃え広がるそれと異なり、義弘の視界に映る灯火は整然と立ち並んでいる。


 その光が目に映ったのは、大聖堂が丘陵状の地形の上に建っていたからであった。すなわち、その光源はムジカの町並を越えた先、五ヶ瀬川の向こう岸であろうと思われた。
 光源の数は一つや二つでは無論ない。十や二十では到底足りぬ。百や二百ですらないだろう。その数は、おそらく千をはるかに越え、二千に達するのではなかろうか。
 それが兵士たちが手に持つ松明の明かりであることを義弘は瞬時に悟った。


 この距離では兵士の姿はおろか、旗指物さえ確認することは出来ないが、夜闇の中、燃え盛るムジカを前にして、なお整然と立ち並ぶ灯火の列を見れば、近づく将兵が微塵も動揺していないことは明らかである。
 ただその一事だけでわかる。彼らを率いる将もまた、ただものではないことが。


 大友軍の脆さを目の当たりにし続け、滾る戦意の中に戸惑いを消せずにいた義弘の眼差しが、はじめて本当の意味で見開かれ、たちまち戦将のそれへと変じた。
 精神の地平の彼方で轟く遠雷の音を耳にした義弘は、自分が九国最高の名将と相対したことを悟る。
 誰に信じてもらう必要もなかったけれども…… 




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第九章 杏葉(七)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:cd1edaa7
Date: 2011/08/24 23:51
 少し時をさかのぼる。


 豊後国 大友館


 大友家の統治の中心である府内の大友館。
 昨年来、主である宗麟不在の状況が続いているこの館にあって、寝食をけずって施政を司っているのが、吉岡長増(よしおか ながます)、臼杵鑑速(うすき あきはや)、義弘鑑理らの、いわゆる『豊後三老』だった。
 もっともこの名称は少し流動的で、長増、鑑速を指して『豊州二老』と称し、道雪、鑑速、鑑理の三人を三老と称する場合もある。
 だが、そのいずれにせよ、彼らが豊後大友家の中心人物であることに変わりはなかった。


 道雪を除いた三人については、政治は長増、外交は鑑速、軍事は鑑理と、一応の分担は為されているが、彼らはいずれも必要とあらば政、軍、外、いずれの役割もこなせるだけの能力を持っており、他の家臣たちからぬきんでた経験と実績を有している。
 年齢を見れば、長増が最年長、以下、鑑速、鑑理と続き、彼らはいずれも道雪より十以上も年長であった。当然のように、大友家に仕えてきた経歴は道雪よりもはるかに優る。


 ゆえに、本来であれば、加判衆筆頭に任じられるべきは道雪ではなく、この三人のいずれかであるべきだったろう。
 もっとも、鑑速に関しては、京の将軍家をはじめとした他国との交渉で国元を空けることが多いために選からもれたであろうが、長増、鑑理、いずれに決まっていたとしても、他の家臣から不満の声は上がらなかったに違いない。無論、道雪も喜んで彼らを支持しただろう。


 しかし、この三人、道雪が戸次家を継いで家運を立て直すや、一致団結して道雪を加判衆筆頭に推し、これに宗麟が諸手をあげて賛同したため、道雪が筆頭職を引き受けることになってしまったのである。
 彼らはことさら責任を忌避したわけではない。しかし、二階崩れの変を経て、常に張り詰めた様子を隠せない宗麟を支えることができるのは、自分たちのように先代義鑑の代から仕えている重臣ではなく、幼少時より宗麟と親しみ、気心の知れた道雪の方だろう、と判断したのである。
 無論、選任の理由はそれだけではない。道雪本人の能力、そして為人も、大友家の重臣筆頭として相応しい、と認めた上でのことだった。


 道雪が若いながらに加判衆筆頭の重職を務めることが出来たのは、道雪本人の力量や主君である宗麟の信頼もさることながら、この三人の信任が得られたことも理由の一つに挙げられるだろう。
 当然、道雪としてもこの三人には感謝の念を禁じえない。まあ、そもそも重責を押し付けてきたのが当の三人なのだから、信用、協力するのは当たり前だ、という考えがなかったといえば嘘になってしまうのだが。
 『細かいことは気にしてはいかんぞ』という長増の言葉に、加判衆筆頭となって間もなかった頃の道雪は苦笑まじりに頷いたものだった……



◆◆



 そして今、道雪は久方ぶりに豊後三老と相対していた。
 だが、現在の大友家を取り巻く状況は不穏の一語に尽き、久闊を叙する時間さえ惜しんで、道雪は今回の一連の騒動で自らが知りえた情報を詳らかにする。
 それは大友館にあって、四方の情報に接していた三老でさえ、驚きを禁じえないほどに衝撃的な内容だった。


「……なん、じゃと? それはまことか、道雪ッ?!」
「まさか……いや、だが確かに……」
「ぬ……ただでさえ厄介な事態であったというに、輪をかけて面倒なことになったの……」


 豊後三老たる長増、鑑速、鑑理が、ここまで驚愕と動揺をあらわにすることは滅多にない。この三名と長い付き合いのある道雪にとっても、それは貴重な光景であると言えた。 だが、今はのんびりと先達の驚いた顔を眺めている場合ではない。道雪にとっても、今は寸刻を争うのである。


「……以上が、高千穂の十時殿が知らせてくださった、かの地における南蛮神教の振る舞いの全てです。その行状を聞くかぎり、飛騨守殿(誾のこと)がムジカで得たという南蛮軍の情報には、ある程度の信憑性があると判断できるのではないでしょうか?」
 その道雪の問いかけに、真っ先に反応したのは長増である。
「まどろこしいことを言うでないわ、道雪。『ある程度』どころではない。十時や兵を質にとり、年端もいかぬ女子を攫うなどという行いをなす者どもであれば、どんな卑怯未練な策でも用いるであろうよ。まず南蛮神教をもって民を篭絡し、しかる後に艦隊を派遣して武力で占領する……ふん、いかにも南蛮神教の輩が好みそうな策じゃて」


 あまりのことに顔を真っ赤にして憤激する長増に対し、鑑速は両の眼を閉ざし、道雪がもたらした情報を冷静に吟味しているようであった。
 ほどなく、鑑速の口から思慮深さを感じさせる落ち着いた声が発された。   
「……此度の高千穂での件、これまではあくまで宗麟様を立ててきたカブラエル殿らのやり方とは、明らかに一線を画しています。この変化が、海の外からの援軍を得て、もはや大友家は不要だとカブラエル殿らが判断したゆえであるとすれば、一応の筋は通りますね……しかし、これは非常にまずいことになりました」
 その鑑速の言に、鑑理は顔中を苦渋に染めつつ頷いた。
「ただでさえ、ムジカを南蛮神教に献じた件で、家臣の不満と諸国の不審を免れぬところだというに。そこに、こちらは知らぬこととはいえ、異国の軍勢がさも大友家を援護するように島津の後背を衝いたとすれば、これを知った者は皆、大友家が南蛮国に与したと判断するに決まっておる。この誤解を解くは容易なことではないぞ」
「……そも、本当に誤解なのか、という疑問は残るがな」
 長増の言葉に、鑑理は息をのみ、鑑速は顔を伏せた。


 すべては宗麟を利用した南蛮側の仕業であるとは思う。
 異国の軍勢を頼みに島津を討とうとするほど宗麟は愚かではない、と。
 だが、今回のムジカの一件は三老たちにとってもまったく予想だにしないものであり、ゆえに今、宗麟が何を思い、何を考えて行動しているのかが三人にはわからなかった。


 鑑速などはムジカの件が事実と知るや、早々に宗麟の真意を質すためにムジカに発とうとしたのである。しかし、鑑速と同様、伝え聞くムジカの噂が事実と知った大友家の家臣たちの間では動揺と混乱が瞬く間に広がっていき、三老はこれを抑えるために文字通り寝食を削って駆け回らなければならなかった。ムジカに赴く暇など、どこを捜しても見つからなかった。


 宗麟は日向から戻らず、道雪が筑前に去った豊後が、まがりなりにも平和を保てたのは、ひとえに彼ら三老の功績であるといってよい。
 だが、このまま状況が推移すれば、三老をもってしても国内の動揺を抑えられなくなってしまうのは確実であった。
 否、それを言えば、とうに抑えられなくなっている。
 豊前における毛利軍の慌しい動きを見れば、田原家、奈多家を中心にした反宗麟の動きが他国の知るところとなっているのは、ほぼ間違いないのだ。


 このままではまずい、とは誰もが考えるところであった。吉岡家、臼杵家、吉弘家の力をもってすれば不穏分子を制圧することは可能だが、ここで武力を用いてしまえば、ますます他国に付け入る隙を与えることになってしまうだろう。
 どうしたものか、と頭を悩ませていたところに、道雪のこの話である。三老の顔がひきつったのは致し方ないことであったろう。



 しばし後、長増がゆっくりと口を開いた。その顔からはすでに先刻の怒気は去っている。
「道雪。書状ではなく、みずから府内に来た以上、なんぞ考えがあるのだろう? どうするつもりじゃ?」
 それに対し、道雪はゆっくりと、そしてはっきりと応じた。
「わたくしはこれより日向に入り、宗麟様にお目にかかる所存です。お三方には、今しばらくの間、国内の混乱を静めて頂きたく思い、こうして参った次第なのです」
「……直接に、説くか。確かにこれまでとは状況が異なるゆえ、宗麟様も耳を傾けてくださろうが、筑前の守りはいかがするつもりか?」
「宝満城の主膳正殿(紹運のこと)には、すでに事の次第を伝えてあります。立花山城の守りは飛騨守殿に委ね、我が家の小野、由布の両将を補佐としてつけておりますゆえ、滅多なことにはならぬかと存じます」



 それを聞いた鑑理が口を開いた。
「なるほど、誾……ごほん、戸次殿であれば、立花家の御家来衆のほとんどとは馴染みが深い。齟齬が生じる恐れは少ないですな」
「ふむ、それはそのとおりだが、立花山城は筑前の要。毛利、竜造寺はもちろん、秋月らの国人衆も動きはじめておろう。こう言うてはなんだが、この事態に対処するには、少々若すぎはせぬか?」
 長増の歯に衣着せない評に、道雪はかすかに面差しを伏せた後、こくりと頷いた。
「それは仰るとおりです。わたくしが筑前に残り、飛騨守殿にムジカに赴いてもらうということも考えたのですが……」


 道雪の憂いを察した鑑速が、気遣わしげな眼差しを向けつつ口を開いた。
「宗麟様も戸次殿には深い情誼を抱いておられます。その言葉に耳を傾けてくださるのは間違いありませんが、しかし、若年の戸次殿に今の宗麟様の心情を察しろというのは酷な話です」
「……いずこに行こうと、未だ若し、か……誰よりも歯がゆいのは当人であろうな」
 長増の言葉を受け、その場に沈黙が満ちる。
 まだ少年と言っても良い戸次誾の背にのしかかる重荷。その多くは、大友家の先達たる自分たちの不甲斐なさがもたらしたものであることを自覚するゆえの沈黙であった。



 しかし、ここで自分たちの不甲斐なさを責めても、事態は何一つ解決しない。
 至らなさを自覚するのなら、それを補うべく動くだけのことだ。これまでと同じように。
 そう考えつつ、道雪は三老に注意を促した。
「……どうか周辺諸国、ことに毛利家の動きにはくれぐれもお気をつけ下さい。あるいは筑前ではなく、豊後の混乱に乗じて一気に府内を衝いてくるやも知れません」
「任せておけ。たとえ安芸の謀将が相手といえど、毛利の軍勢、一兵たりとも府内に入れたりはせぬ。また、彼奴らが豊後ではなく筑前を襲うようならば、後詰にはわし自ら赴こう」
 胸を叩いて頷く長増を見て、ようやく道雪の表情がわずかにほころんだ。


 ここで、鑑理がふと気づいたように問いを向ける。
「ところで、ムジカにはどれほどの兵を連れて行かれるおつもりか? 立花家の手勢はほとんど連れて来られなかったと聞いたが」
 その言葉どおり、道雪はわずか百名弱の手勢をもって、立花山から府内までの道のりを走破したのである。万一にも大友家に敵対する勢力に気取られていたら、間違いなく襲撃を受けていたであろう。


 幸い、今回は無事に府内まで着いたとはいえ、それと同じことを、ムジカまでの道程でやることは自殺行為であった。
 日向北部は一応大友領になっているとはいえ、先の報復戦によって、住民の大友軍への反感は凄まじいものになっている。その上、ムジカにいる兵の大半は南蛮神教の信徒である。高千穂で戸次勢に刃を向けた者たちが、ムジカで道雪に刃を向けたとしても何の不思議もない。
 当然、ムジカに赴くに際しては相応の兵士を連れて行かねばなるまい、とは鑑理ならずとも考えるところであった。


 鑑理は、道雪にどれだけの手勢を与えられるか、と内心で計算しながら問いを向けたのだが、しかし、当の道雪はあっさりと首を横に振った。
「一兵も惜しい状況であるのは、筑前も府内も同じこと。新たに兵を貸し与えていただく必要はございません」
 これを聞き、鑑理と鑑速の顔が驚きに染まる。
「では、百の手勢でムジカまで行かれるおつもりか?! いや、それはあまりに危険でござろうッ」
「いかさま、鑑理殿の仰るとおりです。道雪殿は大友家の屋台骨、それは加判衆を辞された今でもなんら変わってはおりません。かなう限り多くの兵をお連れいただきたい。それに、相応の数の兵がおらねば、カブラエル殿らを掣肘するにも支障が生じましょう」
 鑑速の言葉には、最悪の場合、ムジカのすべての信徒が敵にまわる可能性が内包されていた。
 鑑速はそれを声には出さなかったが、その言わんとするところを、この場にいた者たちは瞬時に悟る。


 無論、道雪もそのことは承知していた。宗麟と話し合うにしても、まずはカブラエルらの妨害を排除しなければならないのだから、鑑速の言うとおり相応の兵を連れていくべきであろう。
 しかし、豊後の兵を動かすことに関しては、あくまで道雪は首を横に振り続けた。
 この時、道雪は毛利軍の動きのすべてを把握していたわけではなく、毛利隆元を中心として、毛利軍が空前の規模で大動員を命じたことを未だ知らずにいた。
 それでも、今回の宗麟の行動を知った場合、毛利や竜造寺らがこれまでの領土争い、権益争いとは一線を画した覚悟で兵を動かすであろうことは予測していたのである。
 何故なら、仮に道雪が他家に仕えていたとすれば、間違いなくそうしたであろうから。


 ゆえに、今は豊後の兵を動かすべきではない、との道雪の考えは揺らがなかった。
 そして、代わりとなる兵については、筑前にいる頃にすでに手を打っていた。
 戸次誾が立花家の将兵と馴染みが深いのならば、その逆もまた然り。立花山城を発つ以前から、高千穂の十時連貞には撤退の命令が伝えられていたのである。
 加判衆筆頭を辞した道雪に、勝手に高千穂から兵を退かせる権限はない。三老たちにしても、立場は道雪と異ならない。


 ――しかし、大友宗麟から高千穂方面別働隊の主将に任じられた戸次誾には、その権限が与えられているのである。


 それを聞いた鑑速は目を瞠った。
「なるほど。確かにこの戦況では高千穂を保持する意味は薄い。南蛮勢の横暴が明らかになった今となってはなおのことです」
 次いで、長増が呵呵と笑う。
「まあ事ここに至れば、当初の宗麟様の命令をばか正直に守る必要はないとはいえ、れっきとした名分があるかなしかでは、将兵の動きもずいぶんと違ってこよう。こうなると、偶然とはいえ誾が立花山城に赴いたは妙手であったな」
 その言葉に道雪はかすかに首をかしげる。だが、長増はそれには気づかず、なおも言葉を続けた。


「しかし、信徒たちがその、トリスタンと申したか、南蛮の騎士と共に去ったというなら、今、かの地にいるのは戸次、田北らの二千のみ。三田井家の追撃は何とかなるとしても、これだけの兵でムジカに向かうのは、やはり危険ではないか? 日向を攻めた時点で信徒の数は三万を越えていたのだ。相次ぐ戦で消耗はしていようが、それでも千や二千で何とかなる数ではあるまいて」
「それもまた仰るとおりです。しかし、何事も心の持ちよう一つで異なる側面を見せるもの。少なくとも、徒手空拳で敵国の懐に飛び込み、これを説き伏せた上で、数すら知れない未知の軍勢を相手にすることと比べれば、今のわたくしの立場で千人『しか』兵がいない、などとは口が裂けても申せません。千人『も』いる、と考えるべきなのです。まして一応はお味方の城に赴くのですから、この程度で怯んでいては鬼道雪の名がすたるというものでしょう」


 この道雪の言葉を聞き、長増は大きな目をぱちくりとさせた。
「……その心意気は見事、と言いたいところだが、比較の対象がようわからんぞ? 敵国云々というのは誰を指して言っているのだ?」
 目を瞬かせているのは長増だけでなく、鑑速も同様である。
 しかし、道雪はその疑問に答えようとはせず、ただたおやかに微笑むにとどめた。


 道雪は誾を通じて雲居の考えを聞いてはいたが、それを詳しく説明することはしなかった。説明したのは島津軍の後背を異国の軍勢が襲撃する可能性についてのみ。
 雲居が宗麟らに命じられて薩摩に赴いたことも、そこで何をしようとしているかについても道雪が口にしなかったのは、単純に説明の時間が惜しかったということもあるが、それ以前に、どう説明すれば良いのかわからなかったのだ。
 なにしろ――


(率直に言って、わたくし自身、筑前殿の思い描く策の全貌を把握しているわけではありませんし)
 当面の敵国である島津家に赴き、その協力を得て、来るかどうかもわからない南蛮艦隊に備え、これを撃ち破る――言うは易く、行うは難し、という言葉がこれほど見事にあてはまる例もなかなかあるまい、と道雪は思う。
 どうすればそれが可能になるのか、一応道雪も考えてはみたものの、そもそも大友家の家臣たる身が、どうすれば島津家の信頼を得られるというのか。南蛮艦隊をどうこうする以前に、その時点で躓かざるを得なかった。
 ゆえに、道雪は怪訝そうな長増の問いに微笑を浮かべることしか出来なかったのである。




 当然のように、長増と鑑速の顔から怪訝な表情が消えることはなかった。
 しかし、一時的にではあるが、雲居と戦場を共にしたことのある吉弘鑑理は、道雪が誰のことを指して言っているのか、なんとはなしに察したようであった。
 助け舟を出すつもりでもあるまいが、鑑理は話題を転じる。
 といっても、すでに語るべき事柄は語り終えているため、鑑理が口にしたのは最後の確認とも言うべきことだった。


 すなわち、もしこの状況でも、宗麟がこれまでと何一つ変わらなかったならば、その時はどうするのか、ということである。
 ――それは事実上、大友家が南蛮神教、ひいては南蛮国に屈し、その走狗に堕すことを、当主たる宗麟がそうと知った上で……カブラエルらの欺瞞に因らずして認めたということであり、この決定を受けいれれば、大友家の君臣の名は、売国奴として日の本の歴史に永世に消えぬ汚名を刻みこまれることになるだろう。
 それを避けるために採りえる手段は、もう……



 この鑑理の問いに対し、道雪はもう一度、ただ静かに微笑むことで応じた。
 それは先の笑みとは全く異なる色合いのもの。決して他者を威圧するものではないが、それでも、その笑みを見た誰もが何も言えなくなってしまうような……そんな微笑であった。




◆◆◆




 日向国 ムジカ


 ムジカをめぐる攻防において立花道雪と島津義弘が相対した事実は、当時よりもむしろ後世において、より大きく取り上げられた。
 くしくも同じ異名を戴く、九国を代表する名将同士が『もしも』この時に激突していたら、はたしてどうなっていたのだろうか――そんな『空想』に胸を躍らせる者は後を絶たなかったのである。


 ――そう。それは『もしも』であり『空想』の範疇に属する出来事。
 すなわち、この時、ムジカを巡る攻防において、この両者が直接矛を交えることはなかった。
 島津義弘にしてみれば、眼前の大聖堂を放置して、道雪の部隊と対峙するなど自殺行為である。道雪が川を渡りきる前に大聖堂を陥とし、しかる後に道雪と対峙することは不可能ではなかっただろうが、たとえ短時間で大聖堂を陥とすことが出来たとしても、それでムジカの信徒たちが一斉に島津軍に降伏するわけではない。結局、後背に不安を抱えながら戦うことに違いはないのである。


 鬼道雪といえば九国最高の名将。互角の条件でさえ勝利を期し難い相手に対し、そんな不利な条件で挑むほど義弘は無謀ではなかった。
 くわえて言えば。
 仮に、ムジカを蹂躙した勢いに乗じて道雪の部隊に挑んだとしよう。松明の数を見れば、道雪率いる部隊は多くても二千を越えることはないと判断できる。兵力差で押し切ることは可能かもしれない。
 だが、鬼道雪率いる精鋭を相手とすれば、たとえ勝てたとしても、そこに至るまでには相応の時間と出血を強いられる。
 今でこそ夜の闇と、大友軍の混乱にまぎれて島津軍の総数は把握されていなかったが、夜が明ければ島津軍がわずか三千の小勢であることはたちまち明らかになってしまう。そうなれば、ひとたび敗れたムジカの大友軍とて黙ってはいまい。それこそ敗れた道雪の下に集まり、一斉に反撃に転じてくるかもしれない。


 とつおいつ考えれば、ここで道雪の増援とぶつかるという選択肢を、義弘は早々に放棄せざるを得なかった。
 これが、島津家の存亡のかかった戦であるというならともかく、そうではないのだから、ここで無理押しする必要はない――そう考えて兵を返した義弘だが、しかし、その胸裏にまったく迷いがないというわけでもなかった。


 ムジカの腑抜けた大友軍も、道雪の直接指揮を仰げば、たちまち九国一の大家である大友家、その軍勢に相応しい精鋭軍へと変じてしまうだろう。
 ここで道雪を討ち取らなかったことに対し、深刻に後悔の臍をかむ日が来るかもしれない。
 翻って考えるに、今の道雪の部隊は多くても二千。ムジカの大友軍は大混乱の真っ只中。
 あるいは、今こそ鬼道雪を討ち取る千載一遇の好機なのではあるまいか。そんな思いも、義弘は確かに持っていたのである。

 
 だが、最終的には義弘はその思いをねじ伏せて退却した。
 そもそも川向こうの道雪の部隊が二千程度であるという保障はどこにもない。夜の闇で相手の兵力が把握できないのは、島津軍とて同様なのである。
 ムジカの大友軍の士気を挫くという当初の目的は十分に達成した。ここで欲をかいて配下の将兵を要らぬ危険に晒し、挙句、もしも義弘が討たれでもしたら、大瀬川の南にいる姉の義久が、残る島津軍を率いて鬼道雪と対峙することになってしまう。


「……うん。言ったらなんだけど、絶対勝ち目ないよね。ま、私だって似たようなものだけど」
 苦笑をこぼしつつ、義弘はみずから殿軍を務めて島津軍をムジカから撤退させる。
 混乱する大友軍とは対照的に、整然と陣列を整えて退却していく島津軍。その光景は、数字よりもはるかに雄弁に、この戦における勝敗の帰結を明らかにしていた。




◆◆




 島津軍、退却。
 その報はほどなく川向こうの道雪の陣にももたらされた。
 すでに道雪の部隊は渡河に取り掛かっており、将兵は島津軍の襲来に備えて緊張を余儀なくされていたのだが、この報告によって陣内には明らかな安堵が満ちた。
 夜間の渡河、敵前での渡河、いずれか一方でも十分すぎるほど危険かつ困難だというのに、二つをあわせて実行しなければならなかったのだ。道雪率いる戸次勢といえど、無心で事を行うというわけにはいかなかったのである。


 しかし、わずかであるが弛緩した空気は、すぐに道雪の命令によって引き締められた。
「これが策でないと決まったわけではありません。また、島津が兵を退いたのが事実だとしても、ムジカの民が混乱しているのもまた事実。何事が起きても不思議はないのです。ムジカの混乱が静まるまで、決して油断せぬように」
 そう命じながら、道雪はすでに次の手を打っていた。
 混乱した信徒らが、道雪の部隊を島津軍と間違えることのないよう盛んに篝火をたかせ、杏葉紋を前面に押したてながら、立花道雪の到着を叫ばせたのである。


 当然といえば当然ながら、武将としての道雪の令名を知らぬ大友家の民などいるはずがない。また、道雪は南蛮神教の一般の信徒たちに対しては寛厚であり、その信教の自由を侵そうとしたことはなかったため、信徒たちの中でも道雪の名を慕う者は少なくなかった。
 無論、宗麟を巡る道雪とカブラエルとの相克を知る者たちは道雪を敵視すること甚だしかったが、それらはあくまで南蛮神教の上層部と、それに関わる一部の者たちだけである。
 一般の信徒たちにとって、大友館での争いは雲の上の出来事であり、それを理由に大友家の誇る名将を敵視するはずもない。まして島津軍の猛攻に晒され、逃げ惑うしかなかった戦況にあって、突如として救援にあらわれた道雪を忌避する理由などあろうはずがなかった。


 彼らは鬼道雪の到着を知り、はじめ呆然とし、次いでその情報の真偽を疑い、間違いないと知るや歓喜の声をあげた。
 筑前の守りについていたはずの道雪がどうしてムジカにいるのか、という疑問を持つ者もいたが、彼らも道雪が輿にのって川向こうから姿を現したところを見れば、感激のあまり涙を禁じえず、胸中の疑問はたちまち彼方に押し流された。


 道雪はそんな信徒たちを安心させるために、あえて未だ混乱しずまらぬムジカの町中に輿を進ませた。
 その最中にも、道雪の口からは矢継ぎ早に指示が発される。これ以上火災を拡大させないために建物の取り壊しを命じ、あるいはいまだに混乱して暴れている信徒たちを取り押さえるよう指示するなど、命令の内容は多岐に渡った。
 その都度、戸次家の兵が陣から離れていき、必然的に道雪の傍をかためる護衛の兵は少なくならざるを得なかったが、道雪はいささかも気にかけない。
 みずからの安全よりも、ムジカを包む混乱の方がよほど気にかかって仕方ない様子であった。


「この様子では、夜が明けるまで持ちこたえることは叶わなかったでしょう。そうなればどれほどの犠牲が出ていたことか」
 そう言って、道雪は傍らの人物に視線を向ける。
 周囲が鎧兜で身を固めている中、着物姿で道雪に付き従うその姿は明らかに異彩を放っていたが、当の本人はまったく気にする素振りを見せない。
 その姿が道雪の傍で見られるようになってから、まだほんの数日しか経っていなかった。


「長恵殿にはどれだけ礼を言っても足りませんね。よく知らせてくれました」
 道雪の呼びかけに、丸目長恵は小さく首を横に振った。
「私は師兄の命に従ったまでのことです。それに、姫様の行方がわからぬ今、姫様がいるかもしれぬムジカを陥とされるわけにはいきませんでしたから」
 ゆえに礼を言うべきは自分である。そう言って、長恵は道雪に向かって頭を下げる。
 その顔には、純粋な感謝と、そして感嘆の念が浮かんでいた。


 雲居の指示で薩摩を発った長恵は、ムジカにいる(と思われる)道雪に会うために、日向の地を南から北に向かって騎行したわけだが、道々で現在の日向の情勢を調べることも怠らなかった。
 これもまた雲居の指示の一つであったわけだが、その結果、佐土原城の陥落と、大友、島津両軍がぶつかりあったことを知ったのである。


 高城を巡る攻防と、その後の大友軍の敗勢を遠望した長恵は、最後まで結果を見ることなく馬首を北へ向けた。
 今度は道々で情報を拾うことなく、昼夜兼行してムジカへ向かったのは、島津軍の凄まじい勢いはムジカに達するまで続くだろうと判断したからである。相良家に仕えていた長恵は、島津四姫の能力について、大友軍や南蛮神教とは比較にならないほど精確に把握していた。


 この長恵の判断が正しかったことは耳川の敗戦で証明されるのだが、ムジカに着いた長恵はそれどころではなかった。道雪が未だムジカにいないことがわかったからである。
 このままムジカで吉継の行方を捜しつつ、道雪の到着を待つという手もあったが、遠からず島津軍がムジカに押し寄せてくるのが確実である以上、そんな悠長なことはしていられない。そもそも、吉継が必ずムジカにいるという保障はなく、道雪がムジカに向かっているという確証もないのだ。


 雲居の配下として宗麟に直訴するか、いっそカブラエルの部屋にでも忍び込んで、直接吉継の居場所を吐かせようか、とも考えたが、どちらも確実性に欠ける上に、失敗したら目も当てられない。かかっているのがわが身の安全だけであれば長恵は躊躇などしなかっただろうが、今、長恵が背負っているモノはそう軽々に放り投げて良いものではない。
 考え込んだ末に、長恵はムジカを出て、さらに北へ向かうことにした。
 内城で聞いた雲居の言葉――『道雪殿はムジカにいるか、少なくとも府内までは下ってきている』という言葉を思い出したからである。


 仮に道雪が府内にいるとすれば、もうムジカの救援は間に合わぬ。だが、今まさに向かっている最中であれば、あるいは間に合うかもしれない。
 どのみち、長恵がムジカに留まったとしても、戦況に影響を与えることは出来ないのだ。ゆえに長恵としては一縷の望みに賭けたわけだが、結果として、この判断が奏功した。

 府内への途次、まさにムジカに向かう最中であった道雪の部隊を発見できたのは幸運であった。
 長恵にとっても、また道雪にとっても。
 今回、道雪が率いてきたのは戸次勢一千のみ。ムジカにおいて、夜闇をすかして戸次勢を遠望した義弘は、戸次勢の総数を二千近いと誤認した。
 これは、長恵から予想を上回る島津軍の侵攻速度を聞いた道雪が、通常は兵一人に一つ持たせる松明を、あらかじめ二つ分用意していた為である。
 もし、戸次勢がわずか一千であると知っていれば、あるいは義弘は異なる決断を下していたかもしれない……





 ムジカの街路を進むことしばらく。道雪と長恵の視界に大聖堂の偉容が大きく映し出される。
 長恵の目には、闇夜の中、ムジカの町を燃やす炎に照らされた大聖堂は、あたかも逃げ惑う信徒たちを睥睨しているかのように映り、とてものこと好意的に見ることは出来そうになかった――多分、それは先入観による錯覚に過ぎないのだろうけれど。


 そんなことを考えつつ、長恵は道雪に視線を向ける。道雪が何を感じているのかが気になったのだが、当の道雪は表情こそ厳しく引き締めていたが、そこには嫌悪や忌避は感じられない。
 大聖堂を見据える道雪の視線はいささかも揺らがず、それを見れば、これから直面するであろう事態に対して、道雪がすでに気組みを整えているのは明らかだった。
 その姿は、長恵をして思わず息をのんでしまうほどに凄烈であり、同時に清冽でもあった。矛盾する言葉が、何の違和感もなくあてはまるその様を見れば、これからこの道雪と相対しなければならない人物に対して、長恵は同情すら感じてしまう。


(もし師兄がその立場に立つことになったら、きっと裸足で逃げ出すしかないですね。まあ、意味のない仮定ですけれど)
 長恵はふとそんなことを思って、周囲に悟られないように小さく微笑んだ。
 道雪の右手は今もそっと胸元に添えられている。そこには、長恵が雲居から託され、そして道雪へと渡した書状が収められているはずであった……





[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第九章 杏葉(八)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:5a0ff9f8
Date: 2011/08/28 22:23

 日向国 ムジカ大聖堂


 島津軍の奇襲から一夜が明けた朝、東から差し込む朝日に照らされた町並を見て、ムジカの住民たちは、そのあまりに変わり果てた様を見て呆然と立ち尽くすしかなかった。
 燃え落ちた建物、倒れ伏す同胞、鼻を刺す異臭は何を発生源としているのか、考えたくもない。
 ただ一箇所、ムジカの中心に聳え立つ大聖堂は、寸前で島津軍の攻撃を免れたことにより、昨日とかわらない佇まいを見せていたが、大聖堂が健在であるからこそ、その周囲の凄惨さはより一層際立っていた。


 だが、人々はいつまでも呆然自失しているわけにはいかなかった。
 島津軍は一旦は兵を退いたとはいえ、それは全面的な撤退ではなく、ただ態勢を立て直して再度の攻撃を図るためであることは明白だったからである。
 戦はまだ終わっていないのだ。
 しかし、今のムジカには、かつてこの城市を包み込むように充溢していた鋭気はすでにない。
 神の加護を得た聖なる戦。聖戦に従事する誉れある戦士。そんな宣教師たちの言葉も、敗北という現実を前にしては力を失ってしまうようであった。


 打ち続く敗戦に意気消沈する信徒たち。この有様では、次に島津軍が全面的な攻勢に出た際には持ちこたえることは出来ないだろう。それどころか、ひと支えも出来ずに潰走する羽目になることは明らかであるように思われた。


 しかし、間もなくムジカの人々は一つの報せを耳にする。
 高城が陥ちて以来、ムジカへもたらされる報せは凶報に次ぐ凶報であった。そんな状況であれば、必然的に士気は下がり、将兵の気力は失われていく。
 だが、その報せは――立花道雪来援の報せは。今のムジカにあって唯一の、そして最大の朗報であった。それこそ、今日までの凶報すべてを補ってあまりあるほどの。


 島津軍、いかに勇猛なりといえど、百戦錬磨の『鬼道雪』に優ることなし。
 失陥は免れないかと思われていたムジカであったが、道雪が来てくれたからには、この劣勢を覆すことは決して不可能ではないだろう。否、むしろ道雪ならば必ず覆してくれるに違いない。
 それは今現在の戦況を分析した末の結論ではなく、これまでの名声と実績のみを頼りとした、さしたる根拠のない無責任な期待に過ぎなかった。だが、それゆえにこそ、というべきだろうか、その無責任な期待と願望は、ムジカの人々の間で際限なく膨れ上がり、いつか一つのうねりとなってムジカの士気を押し上げる原動力となっていったのである。


 並の君主であれば、その有様を見て、道雪に対する嫉視と警戒を禁じえなかったかもしれない。
 救われた恩は恩としても、道雪の人望と影響力が、家臣としての枠を大きく越えているのは誰の目にも明らかだったからである。
 しかし、大聖堂の中で道雪と対面した時、大友家の当主たる宗麟の顔には嫉視も警戒もまったく……それはもう砂一粒たりとも存在しなかった。そこにあるのは、ただただ純粋な感謝のみ。誰よりも道雪の来援を喜んでいたのは、ほかならぬ宗麟だったのである。




 大聖堂の中は、窓から差し込む陽光で明るく照らし出されている。その只中を、宗麟は駆け寄らんばかりの勢いで道雪に歩み寄り、畏まるその手をとって、己の手で包み込んだ。
「ああ、道雪。よく、よく来てくれました。本当に、よく……あなたが来てくれなければ、聖都は敵の手に落ちていたかもしれません。ムジカのすべての信徒になりかわり、礼を言います。そして神よ、我が股肱をもって聖都の窮地をお救いいただいたこと、心より感謝いたします」
 強く握られた手を厭う様子も見せず、道雪は柔らかく微笑む。
「恐れ入ります、宗麟様。しかし、無断で任地を離れた者に対しては、感謝を口にするよりも先に言わねばならぬことがあるかと存じますが?」
「戦場にあって、将は時に主君の命令を越えて行動しなければならぬもの……そうでしょう、道雪? あなたの判断で聖都は救われたのです。これを罰するようなまねをすれば、それは忘恩も甚だしいというもの。そんなことをすれば、神も、人も、わたくしを見捨ててしまうことでしょう」


 その宗麟の言葉に、周囲の人々も感激に目を潤ませて幾度も頷いていた。
 しかし、中には周囲の空気とは裏腹に、道雪に対して厳しい眼差しを向ける者もいた――日本布教長、フランシスコ・カブラエルである。
 カブラエルは、表面上は宗麟と同じように感謝の笑みで顔中を覆っていたが、その眼差しは針のごとく鋭く尖り、道雪の面貌に向けられていた。




 カブラエルには疑問があった。
 府内にいた大友家の家臣が、日向の戦況を伝え聞いて駆けつけてきた、というならばまだ理解できる。しかし、筑前の守りについていた道雪が、どうして今この時、ムジカにやって来たのか。来られたのか。しかも、道雪自身が言明したとおり、宗麟に対して一言の断りもなく、任地を離れてまで。
 

 道雪到来の報を聞いたカブラエルは、助かったという安堵よりも先に、この疑問を覚えた。そして、すぐに配下の宣教師にとある事実を確認させたのである。
 その解答がもたらされたのは、つい先ほどのこと。
 道雪が率いているのは、高千穂に侵攻していたはずの戸次勢。それがわかれば、カブラエルにとって、道雪の行動とその目的を推察することは難しいことではなかった。


 すなわち、道雪は高千穂におけるトリスタンの行動と、ドール――大谷吉継の略取について、カブラエルら南蛮側の罪を問いに来たのだ、とカブラエルは判断した。
 すぐにその可能性に思い至ることが出来たのは、カブラエルが密かにこの展開を憂慮していたからに他ならない。
 本来であれば気にする必要はないはずのことだった。予定どおりに事が進んでいれば、今頃は薩摩は南蛮艦隊によって征服され、高千穂の大友軍はトリスタン率いる信徒たちに討たれ、かの地の寺社仏閣は燃え朽ちているはずだったからだ。
 その報せが届き次第、カブラエルは「戸次勢はかの地の敵に卑怯な手段によって討たれ、信徒たちはその仇を討ったのだ」という『事実』を宗麟に伝えるつもりであった。 


 しかし、現実を見れば、南蛮艦隊は島津軍に敗れ、高千穂に赴いたトリスタンは、何を血迷ったのか、大友軍も、かの地の異教の建物もそのままに残して、ただ信徒たちだけを率いてムジカに帰還してきた。
 このトリスタンの独断に関しては、間違いなく小アルブケルケの逆鱗に触れる、とカブラエルは考えていたのだが、何故か小アルブケルケはトリスタンを罰しようとはしなかった。
 あるいは、吉継を確保した以上、後のことはどうでも良い、と判断したのかもしれない。


 しかし、カブラエルにしてみれば、それだけでは済まない。
 信徒たちによって傷つけられた高千穂の大友軍が、今回の件を黙っているはずはない。それは大友家の重臣たちも同様である。最悪の場合、ムジカは北から大友軍の攻撃を受けることになりかねぬ。
 もっとも、道雪や豊後三老を中心とする同紋衆は、愚鈍なまでに宗麟に忠実である。その宗麟がムジカにある限り、豊後の軍勢がムジカに矛を向けてくるようなことはまずあるまい。しかし、事が事なだけに、今回ばかりはかなり強硬に南蛮側の罪を糾弾してくることは確実であった。


 問題はそれがいつ、どこで行われるか、ということ。多数の生き証人がいる以上、知らぬ存ぜぬ陰謀だ、という手段で切り抜けるのは難しい。
 カブラエルが宗麟の排除を真剣に考慮するに至った理由の一つは、実のところ、この追求をかわすのが難しいと判断したからであった。
 追求をかわせないということは、南蛮側の真意をもはや隠しようもないということ。であれば、これまでの経緯から南蛮側と敵対することは確実である大友家を混乱の淵に叩き込む意味でも、宗麟を排除するというのは有効な策であるはずだった。


 そこまで考えていたカブラエルであったが、まさかこれほど早く、しかも糾弾してくる相手が立花道雪という姿をとるとは予測の外であった。
 戸次勢を率いてきたということは、当然、将たる十時連貞もいるはず。トリスタンが彼の将につけたという肩の傷を目の当たりにすれば、たとえカブラエルが南蛮神教は無関係であると主張しても、宗麟はそれを鵜呑みにはしてくれないだろう。十時が他家の家臣であればともかく、戸次誾の家臣であるから尚更だった。




 カブラエルはそっと宗麟の様子をうかがう。 
 宗麟は今回の道雪の行動に対して、いまだ疑問を覚えていないようだが、時間が経てばいやでも気づくであろうし、仮に宗麟が気づかなかったとしても、道雪の方から口火を切るだけだろう。
 争論というのは、能動的に仕掛ける側が有利なもの。カブラエルは自身の経験からそのことを承知していた。無論、例外はいくらでもあるが、道雪の側から高千穂の件を持ち出されるのを漫然と待っているよりは、こちらから口火を切った方が対処はしやすい。


 すでにカブラエルの脳裏では、道雪の追求をかわすための架空の設定が出来上がりつつある。付け焼刃のものゆえにどうしても限界はあるが、当面の間――少なくともこの場だけでも、宗麟を迷わせることが出来ればそれで良い。
 この場を切り抜けることが出来れば、あとは宗麟と二人きりになった際に情へ訴えかける。それでも宗麟がカブラエルの思惑に反するようであれば――
(……最悪の場合、バルトロメウに避難して、薩摩に向かうことになるかもしれませんね。殿下の不興をかうのは確実ですが、此度の件は殿下の策にも原因の一端がある。あの方はそれに気づかない方ではない、私を処罰することはないはず)


 カブラエルが考えたのは、吉継を捕らえるために高千穂の将兵を質にとる、という小アルブケルケの考案した策のことである。元はと言えば、あの策が今回の失態の遠因であった。
 無論、そんなことは小アルブケルケには言えない。それに、正確に言えば、あの策自体は別に間違ってはいない。トリスタンの独断がなければ――否、それ以前に。
(……やはり、艦隊が敗れたのが致命的でしたか)
 南蛮艦隊が健在であれば、そもそも島津軍がムジカまで攻め上って来ることもなかった。そして、高千穂でのトリスタンの独断が、ここまで尾を引くこともなかっただろう。
 やはり破綻の端緒は艦隊の敗北であるとしか考えられなかった。




 戸次勢の存在を確認した段階で、カブラエルは港に停泊中のバルトロメウに配下を向かわせている。現在の状況を説明し、出港の準備を整えておいてもらうためである。
 配下はまだ戻って来ていないが、小アルブケルケがこの状況であえてムジカに拘る理由はないから、カブラエルの要請を断ることはないだろう。


 ――すべてを確認し終えたカブラエルは、いまだ感激さめやらぬ様子の宗麟の横で、ゆっくりと口を開いた。



◆◆



「トール殿、私からも幾重にも礼を申し上げます。悪鬼のごとき敵兵の手から、聖都と、聖都に生きる我ら神の僕を救っていただいたその武烈は、まさに大友家の柱石というに相応しいもの。神もトール殿の功績を嘉したまうことでしょう」
 カブラエルの言葉を聞き、宗麟はそっと目元を拭いながら幾度も頷いてみせる。
 一方の道雪は、これも微笑を湛えつつ、カブラエルの顔を見返してきた。しかし、その眼差しが笑っていないのはカブラエルと同様である。
 一瞬、両者の視線が交錯し、宙空に火花が散ったように思われた。


 カブラエルは言葉を続ける。
「しかし、疑問を感じる点がないではありません。私の蒙を啓くためにも、こころよくお答えいただければ、と思うのですが」
「なんなりと」
 必要最小限の言葉で応じる道雪に対し、カブラエルは再度にこりと笑ってみせた。
「ありがとうございます。それでは――」


 カブラエルが口にしたのは、道雪がムジカにいるはずの戸次家の兵を率いてきたことである。
 宗麟の許可なく任地である筑前を離れるだけでなく、立花家とは関わりない家の将兵を独断で使役したのはいかなるわけか。
「トール殿は、その以前は戸次家の当主でありました。しかし、それはあくまで以前のこと。今のトール殿には戸次家の兵を動かす権利はないはずです。フランシスの許可なく筑前を離れ、フランシスの許可なく他家の兵を動かし、フランシスの許可なく聖都へと来ようとしていた。結果として聖都を救った功績は功績として、それを可能とした直前までの貴方の行動が、私にはいささかならず妥当性を欠いているように思えてならないのです」


 ――まるで謀反でも起こそうとしていたかのようだ。
 カブラエルはそうはっきりと口にしたわけではなかったが、主君の許可なく、という言葉を三度も繰り返せば、その意を悟ることは難しいことではない。
 実際、カブラエルの言葉を聞き、周囲の信徒たちの中には、驚きと疑念を浮かべる者も少なからずいた。指摘されてみれば、なるほど、どうして道雪がムジカにいるのだろうか。宗麟がひそかに招き寄せたわけではない。それは、さきほど道雪が自身の口で否定したことである。



 カブラエルの言葉を聞いた宗麟は、道雪を疑うことはしなかったが、やはり不思議には思ったらしい。宗麟は道雪に問いを向ける。
「道雪、戸次家の兵を率いてきたというのはまことなのですか?」
 宗麟は首を傾げたが、不意に表情を明るくした。何か別のことに思い至ったようであった。
 しばらく前、宗麟は高千穂から戸次家の当主である誾を呼び寄せた。その際、誾の要望で筑前に向かうことを許可したのは宗麟も記憶している。そのことと今回のことを考え合わせた宗麟は、一つの推測を口にした。
「では、もしかしてイザヤも来てくれたのですか?」


 しかし、この推測は道雪によって否定される。
「いえ、飛騨守殿には、立花山城の守りを委ねてまいりました。ここに来たはわたくしと、飛騨守殿の配下である十時連貞殿です」
 そうでしたか、と答える宗麟の顔はずいぶんと残念そうであった。そんな宗麟に困ったような表情を向けつつ、道雪はなおも続ける。
「無論、すべては飛騨守殿とわたくしの間ではかった上でのことです」
 誾は戸次家の当主であると同時に、高千穂遠征軍の総大将でもある。当然、高千穂の兵をどう動かすかは誾の権限の内である――道雪はそう言った後、眼差しに鋭いものを交えてカブラエルを見据えた。


「そして、飛騨守殿が高千穂を放棄せざるを得ないと判断するに至った理由は、布教長どの、あなた方の勝手な行動によるものです。まさかご存じないとは申されますまい?」
「道雪、それはどういう意味ですか?」
 宗麟の怪訝そうな問いかけに、道雪は淡々と応じた。
 ここではじめて、宗麟は高千穂の信徒と、戸次勢らの間で戦闘が行われた事実を知ったのである。


 これにはさすがの宗麟も驚いた。
 何故、そんな事態になったのかと問えば、南蛮軍が大谷吉継を捕らえるための質とするためであるという。これは推測ではない。南蛮人であるトリスタンが、そうとはっきり口にしたのを、十時連貞はその耳で聞き届けている。
「必要とあらば、この場に十時殿を呼んで説明させますが?」
 そんな道雪の言葉に対し、カブラエルはかぶりを振ることで応えた。
「その必要はありません。確かに、今、トール殿が口にしたことは事実です」
「カ、カブラエル様……?」
 まさかこうもはっきりと認めるとは思わなかったのだろう。宗麟は戸惑いをあらわにカブラエルを見つめる。



 カブラエルはすべての罪を認めて、潔く振舞うことで宗麟の寛恕を請おうとしたのであろうか――否である。



「ただし、それはやむを得ぬ事情があってのことなのです。フランシス、そもそも何故吉継殿をムジカに招いたのかは覚えていますね?」
「はい。吉継の病を治すために、進んだ南蛮の医療を受けさせるためですわね」
「そのとおりです。しかし、吉継殿は医師に診てもらうことなく薩摩へと去ってしまわれました。これを聞いた殿下は、大変悲しまれまして。生まれながらに与えられた呪いに抗って生きてきた健気な少女を、その頚木から解き放つことが出来る好機だというのに、何故、と」


 カブラエルは悲しげに首を振る。
「薩摩に赴いたのが当人の意思なのか、あるいは義理の父である雲居殿の意思なのかはわかりません。しかし、此度の使命が危険と背中合わせであることは雲居殿とて承知しているはずです。であれば、あえて吉継殿を薩摩に同道させる必要などないはず。たとえ吉継殿が父君と共に行くことを望んだとしても、これを説得し、ムジカで医師に診せることこそまことの親の振る舞いではないか――殿下はそう仰せになり、吉継殿をムジカに連れ戻すように命令なさいました。余計なお世話と言われれば反論できません。しかし、我ら南蛮神教は、かつて吉継殿をゆえなく迫害してしまった罪を負うています。殿下は、今こそその罪を償う時であるとお考えになったのです」


 たとえ一時的に当人の意思にそむくことになったとしても、結果として、この決断は吉継の今後の人生に益することになるに違いない。そう考えての行動だ、とカブラエルは言う。
 そう言った後で、カブラエルは慙愧の念に堪えない、と言わんばかりに面差しを伏せた。
「本来であれば、私はフランシスに相談するべきでした。しかし、雲居殿はフランシスが救世主と信じる方。そして、殿下はその御仁の意思に真っ向からそむく決断を下された。お二人の間でフランシスが板ばさみになることは明らかで、そんな苦痛をあなたに与えるに忍びなかったのです」


 無論、小アルブケルケとてはじめから血を流してでも連れ戻せ、などと命令したわけではない。もっとも信頼する聖騎士トリスタンを、この任にあてたのがその証。
 トリスタンに雲居と吉継を説得させるつもりであったのだが……


「薩摩に向かったことはわかっても、その詳しい居場所は調べようもありません。それを知るため、高千穂に赴いたトリスタン殿を、しかし、かの地の者たちは受け容れようとしませんでした。両者の言い分は平行線をたどり、結果として血が流れる事態になってしまったのです。そして、ひとたび血が流れてしまえば、後はもう行き着くところまで行かねば収拾がつかなかったのでしょう。トリスタン殿はなんとしても吉継殿を今の頚木から解き放ってさしあげたかった。無論、十時殿らとて、吉継殿のことを思って善意でトリスタン殿を退けたのでしょう。互いの善意が不幸にもぶつかりあってしまった悲しい事故、それが高千穂での一件なのです」


 南蛮側の行動は、あくまで吉継のことを思ってのことだ、とカブラエル主張する。
 南蛮側が底意をもって大友軍を攻撃したのなら、トリスタンがおとなしくムジカに戻った理由が説明できないだろう、とトリスタンの独断さえ己の説の正当性を補強するための材料としながら。
 そして、そのことをこれまで秘していたのは、これもやはり宗麟の心中を慮ってのことであると述べ立てた。すべては善意に基づいての行動なのだ、と。




 口を動かし続ける一方で、カブラエルの視線は常に道雪に向けられていた。
 カブラエルの主張は、道雪にとっておためごかしもいいところ。いつ、どこで厳しい反論が為されたとしても不思議ではない。いつ道雪が口を挟んできても、即座に言い返す準備を整えながら、カブラエルは絶えることなく言葉を紡ぎ続けたのである。
  




 だが。
 カブラエルにとっては意外なことに、道雪は一切の反論をしようとしなかった。
 黙然と聞き入る顔には苛立ちも嫌悪も浮かんでおらず、それどころか、道雪はカブラエルが言葉を切ろうとするたびに、伏せていた顔をそっとあげて「もうよろしいのですか?」と言わんばかりに小さく首を傾げてみせた。
 その様は、まるでカブラエルが言うべき言葉を飲み込んでしまわないように気遣っているようでさえあった――否、事実、道雪は気遣っていたのだろう。


 道雪の気遣いが、ある種の余裕に基づくものであることは明らかだったが、その余裕の源が何であるのか、カブラエルにはわからない。わからないゆえに、それは得体の知れない戸惑いを与え、その戸惑いはすぐに重圧へと変じた。
 中途で言葉を途切れさせてしまえば、積み上げた虚構が瞬く間に道雪によって突き崩されてしまうのではないか。そんな不安にかられたのである。


 カブラエルが主張し、道雪が反論する。そんな形を思い描いていたはずが、いつかカブラエルはまるで演説でもするかのように、一人、自らが練り上げた偽りの設定を述べ立てていた。
 道雪が異論を差し挟めば、その都度、それに応じながら細部を調整するつもりだったのだが、こうなってはもうそれも出来ない。


 ――結局、カブラエルが自らの語彙の限りを尽くして南蛮側の行動を擁護し終えるまで、道雪は一言も口を挟まなかった。




◆◆




 カブラエルが語り終えると、大聖堂の中には奇妙な静寂が訪れた。
 それはカブラエルの説に対する理解や納得を物語るものではなかったが、かといって反発や疑念を意味するものでもない。
 それは一言でいえば戸惑いをあらわす沈黙だった。
 この場にいるほとんどの者たちは、大友軍、あるいは南蛮神教の上層部に属する。その彼らをして、この場で語られる物事のほとんどは寝耳に水であった
 島津義弘の奇襲にはじまる先夜からの混乱もまだ冷めやらぬうちから、このような秘事を明かされれば、戸惑い、すぐに理解が及ばないのも無理はないことであったろう。


 その静寂を穏やかに破ったのは、道雪の呼びかけであった。
「宗麟様」
 その呼びかけを受け、宗麟ははっとしたように目を瞬いた。これまで、宗麟は周囲の者たち同様、目に戸惑いを浮かべながら、じっとカブラエルの姿に視線を注いでいたのである。


「……なんですか、道雪?」
 ――宗麟様はただいまの布教長どののお話、どのように思われましたか?
 そんな問いが向けられるに違いない、とは宗麟ならずとも考えるところであった。
 応じる声が不安に揺れたのは、道雪から厳しい非難が向けられることを察したゆえであろうか。


 宗麟はカブラエルの言葉に疑いを差し挟むつもりはない。しかし、それは理非曲直の区別をつけた上での判断というわけではない。それを云々する以前に、近しい者を疑う、という行為そのものが、今の宗麟には出来かねるのである。
 ――これ以上、裏切られるのは耐えられない。だから裏切らない、疑わない。
 実の父に否定され、傅役に裏切られ、血と怨嗟の中をもがきまわった記憶が決定付けたその性情は、宗麟が一介の民であったならば、何の問題にもならなかった。むしろ、決して人を疑わず、裏切ることのない誠実な為人であるとして、称えられさえしたかもしれない。


 だが、一国を背負う大名としては、その心根は惰弱と切って捨てられても仕方のないものであり、そのことは宗麟も自覚していた。
 自身の性情と、現実の立場との乖離。
 大友家の家臣の多くは、宗麟が当主として成長し、みずからその乖離を埋めてくれることを期待したが、宗麟はそこまで剛毅にはなれなかった。それどころか、乖離がもたらす重圧に押しつぶされる寸前であったのだ。
 だからこそ、異国から府内に訪れた宣教師が、一つの教えをもってその乖離を埋める方法を教えてくれた時、宗麟は飛びつくようにそれにすがりついたのである。


 南蛮神教との出会いは宗麟を救い、それは必然的に当主としてのあり方をも変容させる。それは必ずしも家臣たちが望むものではなかったけれど、宗麟にとっては南蛮神教との出会いは天佑であり、それをもたらしてくれたカブラエルへの感謝は計り知れない。
 また、その後もつねに傍らにあって支え続けてくれたカブラエルを疑うなど、宗麟にとっては決して出来ないことだった。



 無論、それは道雪に対しても同じようなことが言える。宗麟には道雪を疑うつもりはつゆなかった。
 宗麟が、心の柔らかな部分を委ねている二人。その二人が互いを非難し、あるいは疑惑をぶつけあうようなところを見たくはない。それゆえに宗麟の声は不安に揺れたのである。



 そんな宗麟の内心を知ってか否か。
「宗麟様」
 道雪はもう一度、宗麟に呼びかけてから、ゆっくりと口を開いた。
「『この幸福と安寧を、わたくしだけでなく、より多くの人たちに与えたい。大友という大家に生を受け、多くの苦しみを経て当主となったのは、まさしくそのためなのではないか』
「……え?」
 道雪の言葉を聞き、宗麟は、思わず、というように怪訝な声を発した。
 道雪が何を言っているのかわからなかったから――ではない。
「はやお忘れ、ということはないでしょう。宗麟様ご自身が口にされた御言葉と承っております」
「ええ、そのとおりです。以前、正にこの場所で、わたくしが雲居様に口にした言葉です」
 どうして道雪が知っているのか。不思議そうな表情を浮かべる宗麟に対し、道雪は小さく微笑むだけで、その疑問に答えることなく話を続ける。


「いかがでしょう。まだそのお考えは変わらずに胸の内にお持ちでいらっしゃいますか?」
 すでに死傷した者の数は万に達する。それだけの犠牲を出しながら、なお日向一国すら制しえぬ。これから先、大隅、薩摩と兵を進めるうちにどれだけの民人が犠牲になるのかは計り知れない。
 そのことを承知した上で、なおこれまでと同じ道を歩き続けるつもりなのか。道雪はそう問いかけたのである。
 カブラエルの語った言葉など、そこには微塵も含まれていなかった。


「道雪、わたくしは……」
 明らかな迷いを見せながら、宗麟はカブラエルに視線を向ける。
 助け舟を期待した、というよりは、ついそちらをはばかってしまったといった感じだった。カブラエルもそれと悟ったが、ここはあえて曲解して口を挟む。
「たしかに此度の戦では、多くの痛ましい犠牲が出てしまいました。しかし、だからといってここで矛をおさめては、それこそ彼らの死が無駄になってしまうのではありませんか? 彼らは神の敵を討つために、命を捨てて戦い抜いたのです。ならば残された者が為すべきは、その遺志を継ぐこと以外にないはず。犠牲なくしては何事も為しえない……トール殿には、いまさらこの理を説明する必要はありますまい? それとも、あえて主君たるフランシスの意に背くおつもり――」
「日の本の地には」
 カブラエルの言葉が終わらないうちに、道雪は再び口を開く。
 それはカブラエルの言葉を断ち切るためではない。そもそも、道雪はカブラエルの方など見てもいなかった。その眼差しは、先刻からかわることなく、ただ宗麟だけをひたと見据えていたのである。


「古来より多くの神々が息づいております。そして、その神々と共に歩んできた人々の思いが根付いております。宗麟様がおのが神を信じるように、宗麟様の前に立ちはだかる者たちもまた、それぞれの神を奉じ、その加護を信じて生きているのです。ゆえに、ただ神の加護のみをもって百戦して百勝するなど不可能。それは此度の戦を見れば明らかでございましょう?」
 その上で今一度お伺いいたします、と道雪は続けた。
「――宗麟様は大友家の当主として、南蛮神教を日の本のすべてに根付かせるため、あくまで戦い続けるおつもりですか? 南蛮神教の教えを奉じ、幸福と安寧の中で暮らしている民を、聖戦という名の無名の師に駆り立て、その死屍の上に理想の園を築き上げる。宗麟様が多くの苦しみを経て大友家の当主となったのは、このような血塗られた道を歩むためなのだと、今なお信じていらっしゃるのですか?」


「……道雪」
「『日の本のすべてに神の教えを広めたい』」
 それは、先刻のものと同様、宗麟がこの場で雲居に向けて発した言葉。
「その願いを否定するつもりはございません。宗麟様の決意によって救われた者は確かに存在するのですから。しかし――」
 そこで、道雪ははじめて感情で声を揺らす。
「『それがどれだけ困難なことであるかを重々承知している』のならば……『それでもなお歩みを止めるつもりがない』と断言するほどの覚悟があるのであれば……どうして武を用いたりなさったのですかッ!」
 常に冷静沈着である道雪の感情の発露に、宗麟はびくりと全身を震わせた。


 一瞬の激情は、しかしすぐに強い自制心によって静められた。
 なおも道雪の言葉は続く。
「今、血を流さずとも、時をかけさえすれば、他家を説得する道はあったはずです。仮にどうしても肯わない勢力があったとしても、外交で首を縦に振らせることは不可能ではない。あるいは、一樹百穫とも申します。学び舎を建て、多くの民に文字を教え、南蛮神教の何たるかを伝え、宗麟様の願いを語るならば、その思いに賛同し、共に歩んでくれる者もいたことでしょう。宗麟様の願いを叶えるために、あえて今、武を用いる必要が一体どこにあったというのです?」


 その道雪の言葉に、宗麟はあえぐように応じた。
「道雪、それは仕方がなかったのです。信徒の村が伊東家の兵に襲われ、多くの者が殺されました。島津家は神の教えを排斥し、かの地の信徒たちは塗炭の苦しみに喘いでいるといいます。これを座視するわけには、どうしてもいかなかったのです」
「その真偽はきちんと確認されたのですか? 仮に真実だったとしても、伊東家の兵が信徒を殺した。だからこちらも伊東家の民を殺す――その行為に慈悲などございません。島津に対しても同じこと。神の教えを信じようとしない相手に対しては、武力をもって従わせ、殺してでも信じさせる……その行いのどこに慈悲があります? そんな教えを、一体どこの誰が喜んで奉じるというのですか? 相手を理解する努力をせず、自身を信じてもらう努力をせず、ただ己の都合のみをもって隣国を侵し、信仰を押し付ける。そんな人物が、どうして他者を教化することが出来ましょう……」


 道雪の口から吐息がこぼれる。
「宗麟様は赦されることで、救われたのでしょう? その幸福と安寧を、一人でも多くの人々に与えたいと願われたのでしょう? それが何故……」


 ――何故、此度のような血塗られたものに成り果ててしまわれたのですか?


 その道雪の問いに、宗麟は何もこたえることが出来なかった。 




◆◆




 ぎり、と。
 カブラエルは音がこぼれるほどに強く、奥歯を噛み締める。
 ここまで来れば気づかざるを得ない。道雪は、カブラエルを相手にするつもりなど欠片もないのだ、ということに。
 道雪が先刻、反論をしてこなかったのはこのためか。それに思い至ったカブラエルは深甚な不快感をかき立てられたが、さらに忌々しいのは、この不快感を覚えたのが初めてではない、という事実に気づいた――あるいは気づかされたからである。


(雲居筑前ッ)
 この大聖堂でカブラエルと相対したあの男は、今の道雪と同じようにカブラエルの存在を無視してのけた。否、順序を考えれば、道雪があの男と同じように振舞った、というべきか。
 今この時まで、カブラエルは雲居の存在をほとんど気にかけていなかった。意識したのは、宗麟の言動にその影を感じた時くらいだろう。
 それが油断である、とはカブラエルは思わない。この戦況で大友家の使者として薩摩に赴いている者をどうして気にかける必要があるのだろう。とうに島津の手で討たれているに違いないのだから……


 そんな風に考え、放念していた相手の存在を、まったく予期せぬところから感じ取ったカブラエルは、苛立ちと同時に疑問を覚えた。
 雲居と道雪、この二人が連絡をとりあうには、彼らの居場所はあまりにかけ離れている。やはり筑前に赴いた戸次誾あたりから、雲居の言動が道雪に伝わったと見るべきか……




 ――だが、それがどうしたというのか。
 忌々しさに歯噛みしながらも、つとめて冷静にカブラエルはそう考える。道雪はともかく、雲居など何の脅威にもならぬ。先の大聖堂でのやり取りに関しては、なるほど、確かにしてやられた観は拭えないが、所詮はただそれだけのこと。手段を選ばなければ雲居を処分することはいくらでも出来たのである。そうしなかったのは、ひとえに雲居相手にそこまでする必要を認めなかったゆえ。
 その程度の相手が道雪に知恵を貸したからとて、何が変わるというのか。

 
 それに、とカブラエルは内心でほくそえむ。
 どうやら道雪は宗麟に対して、宗麟の目指す理想と、南蛮側の利益が混同されていることを指摘するつもりであるらしい。
 確かに、宗麟の理想の成就だけを考えるならば、今この時、あえて武力を用いて他国を侵す必要はないのだ。道雪の言うとおり、平和裏に事を運ぶ手段はいくらでもある。
 だが、それではカブラエルら南蛮勢にとって都合が悪いゆえに、カブラエルは言辞と策略を駆使して宗麟の思考を誘導した。
 道雪は宗麟にそのことを気づかせようとしているのだろう。


 しかし――
(無駄なことです。道雪もそれがわからない人ではないでしょうに、悲しいまでの愚直さですね)
 宗麟にとって、その事実を受け容れることは――カブラエルが宗麟を裏切り、利用していたという事実を受け容れることは決して出来ないことなのだ。そのことを誰よりも知るがゆえに、カブラエルは落ち着きを取り戻す。


 道雪は、今回の南蛮側の横暴を機に宗麟に克目してほしい、と考えたのだろう。しかし、繰り返すが、大友フランシス宗麟という人間にとって、心を許した人間が己を裏切っていたという事実を認識することは不可能なのだ。どれだけ明白な証拠があろうと、どれだけ確実な根拠があろうと、宗麟は決してそれを認めない。認めてしまえば、今度こそ、己の心が千々に砕けてしまうことを知っているがゆえに。


 だからこそ、道雪の言葉も、今は亡き石宗の言葉も、宗麟には届かなかった。
 彼らが、宗麟を縛る呪いにも似た枷に気づいていないとはカブラエルは思わない。気づいていて、それでもなお呼びかけているのだろう。いつか、宗麟が自らの手でその枷を外し、一歩を踏み出してくれることを信じて。



 ――ああ、哀れ。
 ――信ずれど、報われることなき君臣よ。 



 声に出さず、唇だけを動かして、カブラエルがそっと十字を切ろうとした、その時だった。
 まるで、聞こえるはずのないカブラエルの言葉を聞き取ったかのように、不意に道雪がカブラエルに視線を向ける。
 動じることなく、その視線を受け止めたカブラエルの前で、道雪は懐から何かの書状らしきものを取り出した。


 何を持ち出したのか、と眉を顰めたカブラエル。
 その書状に心当たりはなかった。だが、道雪が宗麟に向かって書状を手渡すのを見ながら、カブラエルは胸中がざわめくのを感じていた。何か非常にまずい事態になっているのではないか。何の根拠もなかったが、そんな気がしたのだ。
 いや、根拠がないわけではない。
(……先刻からのトールの奇妙な余裕は、あの書状ゆえですか)
 わざわざこの場で取り出す以上、今の情勢にまったく無関係ということはないだろう。
 だが、あの内容が何であれ、宗麟を説得することなど出来ないのだ。


 ――どう考えているカブラエルの眼前で。書状を一読した宗麟が、傍からみてもそれとわかるほどに身体を震わせはじめた。





◆◆





「なッ?!」
 カブラエルの驚愕の声が大聖堂に木霊する。
 その顔色は一瞬で蒼白――否、土気色に変じた。
 今の今まで示していた落ち着きはたちまち失せ、カブラエルの額には無数の脂汗が浮かび上がる。
 道雪がこの場で示した数枚の書状。それを一読しただけで、日本布教長フランシスコ・カブラエルの狼狽の度合いは、瞬時に天辺に達したのである。


 常のカブラエルを知る者たちは、そのあまりの変わりように唖然とした表情を浮かべているが、カブラエルはそれどころではなかった。というより、周囲の視線などまったく気づいていなかった。それほどの驚愕に襲われていた。
 それも当然だろう。
 インド副王にしてゴア総督、南蛮国に知らぬ者とてなき軍神、アフォンソ・デ・アルブケルケが発した公式の日の本侵略の命令と、その詳細な計画が記された書。
 南蛮軍の枢機に参画する者たちすら、まず見ることはないであろう『それ』が、何故このような場所にあるのか。カブラエルには想像もつかなかった。


 これは偽書である、と主張することは出来ない。
 混乱する頭の片隅で、妙に冷静にカブラエルはそんなことを考えていた。大友家は、過去六度にわたってゴアに向けて遣欧使節を派遣しており、その際、ゴアとの間で正式に文書を取り交わしている。これが偽書であるか否かなど、その折の書状を調べればすぐにわかってしまうのだ。
「……カブラエル、様……?」
 どこか戸惑ったような宗麟の声。その手元には、件の書状の中の一枚が握られている。
 当然ながら書状はすべて南蛮の言語で記されているのだが、宗麟はこれを読み解くが出来るのである。


 このような物、一体どうやって手に入れたのか。カブラエルは道雪にそう詰問を浴びせようとしたが、寸前で自制した。それは、この書状に記されていることがすべて事実である、と認めることと同義だからである。
 しかし、黙していても結局は同じこと。それはカブラエルにもわかっていた。
 現に、今もこちらを見つめる宗麟の眼差しは、かつてないほどに揺れている。さすがに宗麟も、ここまで明々白々な証拠を持ち出されては、自身が利用されていたことに気づかざるを得ない。


(……なるほど、つまり――)
 カブラエルは悟る。大友家の家臣たちは、ついにしびれを切らしたのだろう、と。
 ここで宗麟に強引にでも現実を認識させ、正道に立ち返らせる。成功すれば無論よし。もしも失敗し、宗麟が正気を保てなかったその時は――それも止む無し、と判断したのか。


 どうやらカブラエルが思っていた以上に、向こうは本気であったようだ。
 そう判断したカブラエルは、半ば強引に思考を切り替える。
 窮地ではある。だが、事ここに至れば、逆に思い切った行動がとれるというものだ。
 大友家との関係はもはやこれまで。ムジカにも留まり得ぬ。そう決断した。
 もとよりそれも選択肢の一つに含め、すでに準備しているのだ。この場を切り抜けてバルトロメウに戻り、一から計画を練り直すしかあるまい――そんなカブラエルの決断は、しかし、次の瞬間、微塵に打ち砕かれた。



 激しい物音と共に大聖堂の扉が開かれ、その場にいた者たちの多くは突然のことにびくりと背筋を震わせた。扉の開閉は静かに行う――それは信徒たちにとって常識である。ゆえに、敵兵が侵入してきたのかとうろたえる者さえいた。
 だが、彼らの視線の先にいるのは、金色の髪と青い瞳の南蛮人の宣教師。カブラエルは、それがバルトロメウに遣わした配下であることを瞬時に見て取った。
 一体何事か、とカブラエルは眉をひそめ、問いただそうと口を開きかけるが、それに先んじて、その宣教師はわななく声で、叫ぶようにカブラエルに一つの事実を伝える。


 すなわち。バルトロメウはすでにムジカの港から出航した後である、ということを。




 この時、カブラエルの総身を一息のうちに貫いた衝撃は、この数日来、最大のものであった。
 先夜来の混乱は、当然、五ヶ瀬川河口にいたバルトロメウからも遠望できたであろう。その上で、何一つこちらに知らせることなくバルトロメウがムジカを去ったというのであれば、それはつまり、カブラエルらムジカに残っている者たちは小アルブケルケに見捨てられたということ。


 大友家に居場所がなくなり、南蛮国からも見捨てられた。今のカブラエルには拠って立つ基盤が――権威が何もない。
 大友家の威信、南蛮国の武威、あるいは南蛮神教の教義。
 それらすべてが失われれば、残るのはフランシスコ・カブラエルというただ一人の人間である。それでは今の窮地を脱することが出来ない。
 カブラエルはそれを無意識のうちに悟ったからこそ、配下の報告にかつてないほどの衝撃を受けたのである。




「……事、破れたり、と悟ったようですね」
 呆然自失しているカブラエルの耳に道雪の声が響き渡る。
 何か言わなければ、己の立場が悪くなるばかりだ、ということはカブラエルもわかっていたが、何を言えば良いというのか。今更カブラエルが何を口にしたところで、もはやこの状況は覆しようがない……そう、考えた時だった。


「さて、布教長どの。あなたはどうなさいますか? 大人しく罪に服するも、罪を認めずにあがくもご随意に。それとも、己は何一つ知らなかったのだ、と主張なさいますか?」


 その道雪の言葉は、おそらくカブラエルを追い詰めようとして発されたものだったのだろう。だが、それを耳にした瞬間、カブラエルの脳裏に閃光のように一つの考えが閃いた。
「……そのとおりです」
「……え?」
 カブラエルの呟きに、道雪はかすかに怪訝そうな表情を浮かべる。
 その道雪に、カブラエルは沈痛な眼差しを向けた。みずからに福音をもたらしてくれた道雪に対する感謝の念が零れ落ちないように注意しつつ、カブラエルは今度ははっきりと言った。


 自分は、日の本侵略などという企みは、何一つ知らなかったのだ、と。


 そう口にするや、カブラエルは宗麟の前に跪き、深々と頭を垂れた。
「申し訳ありません、フランシス。まさかゴアの者たちが、神の御名を利用してこのような悪辣な陰謀を企てていたとは……まったく考えてもいませんでした」
「カブラエル様……では、カブラエル様は、ご存じなかった、と……?」
「無論です。私がフランシスを裏切るはずが……ッ!」
 カブラエルは宗麟を見つめ、憤慨したように声を高めかけたが、すぐにその顔は悔恨の痛みで覆われる。
「……いえ、何も知らなかったとはいえ、私がこれまでしてきたことは、結果としてこの国の皆と、フランシスを謀ったも同然です。であれば、そんな私の言葉をフランシスがもう信じることが出来ないというのは……当然のこと、ですね……」


 慙愧の念に堪えぬというように声を震わせ、顔を俯かせる。
 そうしながら、カブラエルの脳内では、幾つもの思惑が火花が散るほどの勢いで交錯していた。
 南蛮側が大友家を利用して勢力を広めようとしていた事実は、先の書状によって、もはや否定しようがない。ゆえに、南蛮人たるカブラエルの罪も否定しようがないと考えていたが、そんなことはないのだ。
 宗麟は近しい者に裏切られることを認められない。宗麟にとって、近しい者とはあくまでもカブラエル個人であって、南蛮国そのものではない。であれば、カブラエル自身が南蛮国に裏切られた側に身を置けば、宗麟の中で物事がどのように解釈されるか――予想するまでもない。


「そ、そのようなことはありません! わたくしがカブラエル様を信じないなどと、そのようなッ。カブラエル様もまた、ゴアの方々に利用されていたということなのでしょう?」
「……フランシス。私があなたを裏切っていないということ、信じてくれるのですか?」
「もちろんですわ。カブラエル様と出会ってから今日まで、わたくしがカブラエル様のお言葉と行動によってどれだけ救われたか、とても言葉には出来ません。その恩を忘れ、カブラエル様の誠実を疑ったりなどすれば、わたくしは忘恩の罪で地獄の業火に焼き尽くされることでしょう」
「おお……フランシス。生まれ育った故国の者に欺かれた私を、異国の地で生まれ育ったあなたがそこまで信じてくれるとは。これまでも、あなたと出会えた幸運に感謝したことは数え切れませんが、今一度、言わずにはおれません――神よ、異なる国に生まれ、異なる土地で育ったフランシスと私を引き合わせてくれた妙なる導きに、心からの感謝を捧げます」


 その目に感涙すら浮かべる宗麟に微笑みながら、カブラエルは道雪の様子をうかがう。
 道雪がこちらの虚言を見抜いているのは確実である。だが、今の宗麟に何を言っても無駄であることは道雪とてわかっているだろう。
(であれば、私に問いを向けざるを得ませんね、トール殿?)
 その内心を知ってか否か、道雪の口がゆっくりと開かれる。その顔が常になく強張っているように見えるのは、決してカブラエルの気のせいではあるまい。


「……布教長どのまでが欺かれていたとは驚きました。しかし、ゴアの者たちの真意を知った今、布教長どのはどうなさるおつもりなのですか?」
 道雪としては、そう問わざるを得ない。
 その問いに対し、カブラエルは面上に覚悟を漲らせ、言った。



「説得してみせましょう。殿下を、そしてゴアの総督閣下を。この地に生きる多くの人々のために。そして、なによりもフランシス、あなたのために」


 毅然と言い切るカブラエルを、宗麟は頬に朱を散らせて見つめている。
 その願いが受け容れられるか否か。カブラエルのみならず、誰の目にも答えは明らかであった……







◆◆◆



 日向国 ムジカ港


 それから、わずか半日後。
 カブラエルと配下の宣教師たちの姿は、ムジカの港にあった。
 これからカブラエルたちはバルトロメウを追って南に向かうことになっている。状況によっては、そのままゴアに向かわなければならないとあって、船の確保に時間がかかると思われていたのだが、幸い、ゴアに帰還予定の交易船が停泊していたため、宗麟は船長に頼んで(多額の報酬も支払って)カブラエルらの乗船許可をとったのである。


 これほど急いだのは、バルトロメウに一刻も早く追いつくためであるが、同時に、再び島津軍が攻め込んでくる前に、カブラエルを発たせたいという宗麟の思惑もあってのことだった。
「フランシス様は、実に情の深イ女性ですネ、布教長」
「そうですね。ありがたいことです、本当に」
 配下に応じながら、カブラエルは周囲を見渡す。ここにいるのは、すべて南蛮人の宣教師――すなわちカブラエルの子飼いの部下だけである。
 宗麟は護衛をつけようとしたのだが、カブラエルは「今は一兵でも惜しい状況でしょう」とそれを断った。
 ついでに言えば、見送りの信徒たちの姿もない。これも現在の戦況を慮ってのことで、今この時、カブラエルがムジカを離れると知られれば、信徒たちの動揺は避けられない。ゆえに、カブラエルらの出立を知るのは、ごく一握りの者たちだけであった。


 宗麟との別れも、大聖堂で済ませてある。
 その時のことを思い起こし、カブラエルは嘲るように口元をゆがめた。
 それに気づいた宣教師の一人が、怪訝そうに口を開く。
「どうしまシタ、布教長?」
「いえ、聖堂でのトールの顔を思い起こしていたのですよ。あの剛毅な御仁が顔をひきつらせているところなど、滅多に――いえ、初めて見たもので」
「確かに。しかし、それハ仕方のないことでショウ」
「ええ、仕方のないことです。はからずも、自らの口で私たちに活路を開いてしまったのですからね。ふふ、トールにしてみれば、一生の不覚というものでしょう」


 なお楽しげなカブラエルの姿を見て、宣教師たちは顔を見合わせる。彼らにしてみれば、窮地を切り抜けたという安堵はあるにせよ、小アルブケルケに見捨てられたという事実が消え去るわけではない。今後、自分たちはどうなるのかと考えても、前途に光明など見出しようもない。政敵の失態を嘲る気にはなれなかった。
 それでも、彼らはカブラエルに追従するように笑みを浮かべた。宣教師たちにしてみれば、いまやカブラエルだけが頼りなのである。その機嫌が良いに越したことはない。


「トールの失言と仰いマスガ、あの一言を聞くや、たちまち窮地を脱することが出来たのは布教長なればコソ。トールも口惜しく思っておりまショウ」
「これまでの成果を台無しにされたのです。これくらいの意趣返しをさせてもらわねば、引き合わぬというもの――」
 と、そこで不意にカブラエルは言葉を切った。
 その眉が訝しげに顰められる。配下の者たちもすぐにその理由を悟った。
 港から響く潮騒の音に重なるように、どこからか笛の音らしき音色が響いてきたのだ。





 訝しげにあたりを見回した南蛮人たちは、すぐにその音の主の姿を見つけ出す。
 いつからそこにいたのか誰も気づかなかったが、元々、隠れるつもりもなかったのだろう。笛の奏者である若い女性は、瞳を閉ざしながらも驚くほどに清澄な音色を奏し続けた。


 そして、聞こえてきた時と同様、その終わりもまた唐突であった。
 女性は余韻にひたるでもなく、あっさりと笛を懐にしまい込むと、迷う様子もなくカブラエルらに近づいてくる。
 南蛮人たちが警戒の表情を浮かべたのは、女性の腰に大小の刀が差してあったからだ。
 カブラエルもまた、そっと懐に手を差し入れた。不意の襲撃に備えて、短筒を用意していたのである。


 だが、緊張するカブラエルたちとは裏腹に、その女性はいっそ雅と形容できそうなほどに礼儀正しく一礼した後、穏やかに語りかけてきた。
「清聴に感謝いたします、異国の方々」
「……何者です?」
「丸目蔵人佐長恵……といっても、あなた方にはわからないか」
 女性――丸目長恵はそう言うと、どこか悪戯っぽさを感じさせる眼差しでカブラエルらをひとなでする。


「そうですね。雲居筑前が配下の者、といった方がわかりやすいですか?」
 それを聞いた瞬間、ぴくり、とカブラエルの手が動きかける。だが、それを知ってか知らずか、長恵はのんびりと言葉を続けた。
「とはいえ、今は立花道雪様のお指図で動いているんですけどね――ああ、別にあなた方を密かに闇に葬れとか、そういった命令は受けていませんのでご安心ください」
 道雪の名を聞き、慌てて周囲を見渡す宣教師たちを見て、長恵はそう付け加える。


 相手の意図が読めず、カブラエルはわずかに目を細めた。
「では、何のためにこの場にいるのです? トール殿の名を出した以上、偶然居合わせたというわけではないのでしょう?」
「もちろん偶然ではありません。私が受けた命令は、あなた方に万一のことがないよう、ムジカを出るまで護衛するというもの。ついでに言えば、今の演奏は、あなた方の今後の無事を祈ってのものです」
「……なるほど。トール殿とあなたと、お二人の心遣いには感謝しましょう。しかし――」


 眼差しをさらに鋭くしたカブラエルが、長恵に舌鋒を向ける。
「雲居殿の配下、ということは、吉継殿とも知己であるということですね。吉継殿を南蛮人に奪われたあなたが、その南蛮人を守れ、というトール殿の命令によく唯々諾々と従う気になれましたね?」
「おや、あなた方は姫様をかどわかした奴輩とは無関係なのでしょう? 少なくとも、悪意をもっていたわけではない。大聖堂でそう話していたではないですか。であれば、あなた方に恨みつらみをぶつけるのは八つ当たりに類するというもの。そのような無思慮な行いをするつもりはありません」
 その言葉で、カブラエルはこの相手があの場にいたことを知る。その目がますます細くなり、今やカブラエルの眼光は針となって長恵に突き刺さるが、当の長恵は特に気にする素振りも見せず、その場にたたずんでいるだけだった。


 長恵の言葉は今ひとつ信用ならないが、とカブラエルは内心で呟く。
 たしかに長恵からは、カブラエルらに対する害意は感じ取れない。あるいは道雪は、長恵には詳しいことを説明せず、ただ護衛だけを任じたのかもしれない。
 カブラエルがそんなことを考えた時だった。
「……まあ、今のあなた方を見れば、その無思慮な行いこそが慈悲であるような気もしますけれど」
 しごく真面目な様子で呟いた長恵を見て、カブラエルは懐で短筒を握る手に再び力を込める。
「どういう意味ですか、それは?」
「あら、聞こえてしまいましたか」


 しまった、と言いたげに長恵は頬をかく。それを見る限り、先の言葉はあえてカブラエルに聞かせたというより、本当に思わず呟いてしまっただけなのかもしれない。
「忘れてくださいな。知らぬが仏といいますし」
「そうと聞けば、ますます聞きたくなるのが人情というものではありませんか? それでなくても無思慮な行い――つまり、あなたに八つ当たりで斬りかかられることこそが私たちにとっての慈悲である、などと聞けば、その真意をただしたくなって当然でしょう」


 そのカブラエルの言葉に理を認めたのだろう。長恵はおとがいに手をあてて考え込む。
「ふむ……そうですね。そちらの問いに応じる義務はありませんが、あなたには私的な恩もありますし……」
「恩? あなたも南蛮神教の信徒なのですか?」
「いえ、違いますよ。あなたがいなければ、たぶん私は師兄にも姫様にも出逢うことはできなかったでしょう。恩とはそれのことです」
 そう言うと、長恵はカブラエルに向き直った。
「まあ聞いたところで命がなくなるわけではないですし、一応は警告もしました。その上であなたが訊きたいというのであれば、今の言葉の真意、お話しましょう」
「是非お願いしたいですね。出港までの無聊の慰めにはちょうどよさそうです」





 それでは、と長恵は口を開く。
 しかし、口をついて出たのはやや迂遠な問いかけだった。
「南蛮にも道化というのはいますよね?」
 唐突な問いに、カブラエルは眉をひそめつつ頷いた。
「ええ、中には宮廷で王に近侍する者もいますが、それが何か?」
 それならばわかると思いますが、と長恵は前置きした上で、こう言った。


「一流の道化は他者を笑わせる者です。二流の道化は他者に笑われる者です。では三流の道化とは何かといえば、他者を笑わせているつもりで、その実、他者に笑われている者です」
 長恵はそういうと、小さく首をかしげてカブラエルを見つめた。
 相手の意図がわからず、カブラエルは怪訝そうな顔をする。
 その反応を見て、長恵は肩をすくめた後、再び口を開いた。


 その言葉を聞くにつれ、はじめは怪訝そうであったカブラエルの表情は、徐々に驚愕にとってかわられていった。カブラエルだけではない、周囲の宣教師たちも同様であった。
 すなわち、長恵は錦江湾の戦いにおいてドアルテ・ペレイラを討ち取った以降の、己の行動をカブラエルらに聞かせたのである。


 長恵はさも当然のようにムジカに来た目的も包み隠さず話してのけた。
 それを聞いて、カブラエルは道雪がなぜあの書状を持っていたのか、ようやくその答えを知るに至る。
 そして、れっきとした証拠があるゆえに、長恵の話を荒唐無稽だと否定することは出来なかった。
 否、そんなことよりも――


(……トールも、このことを知っていた?)
 その事実が、カブラエルの胸裏を不吉に揺さぶる。
 なにか……なにか、自分はとてつもない過ちを犯しているのではないか。そんな気がしてならぬ。
 だが、それが何なのかがカブラエルにはわからない。まるで凍りついたように頭が働かなかった。




 その間にも、長恵の言葉は続いている。
「薩摩を発つ前日、師兄は仰いました。当主様が南蛮神教を否定すれば――あるいは、そこまで行かずとも、自身の信仰と当主としての責務を区別できるようになれば、大友家を蝕む大半の問題は消失することになる。しかし、そんな可能性の芽をことごとく摘んできたのが、常に宗麟様の傍らに侍る者である、と」


 それは言葉を換えれば。
 カブラエルさえいなくなれば、問題のほとんどは解決する、ということである。


「……だから、私を殺す、と?」
「いえいえ、さっきも言ったじゃないですか。立花様はそんな命令は下していません。当然、薩摩にいる師兄が、ムジカの状況も知らずにあなたを討てなんて言うはずもありません。大体、あなたを殺したりしたら、当主様が正気でいられるはずもありませんし、南蛮神教の信者たちも大騒ぎになってしまうでしょう」


 それに、と長恵は続ける。
「立花様は仰っていましたよ。『南蛮神教の教えが多くの民を救ったことは事実。南蛮文化が大友の発展に大きく寄与したのも事実。そして、あの布教長どのがそれらに少なからぬ役割を果たしたことも事実なのですよ』とね。多分、立花様は大友家中でもっともあなたを評価している方だと思いますよ。もちろん、個人的な感情はまた別でしょうけれども」
 ここではじめて、カブラエルははっきりと苛立ちを声に込めた。長恵が何を言わんとしているのかがまるでわからない、という不快感がそうさせたのだろう。
「つまり、あなたは何を言いたいのですか? 先刻から、迂遠なことばかり言っているように聞こえますが」
「ふむ、まだわかりませんか。出来れば自身で気づいてほしかったのですが……では、もっと直截に言いましょう」
 そう言うと、長恵は詞でも吟じるように涼やかな声を発した。



 あわれかなしき異国の道化
 おのが無様を知るを得ず
 嗤う様こそ痛ましき



 詞を吟じるように、とはいっても、言葉自体には何の技巧も工夫もない。誰もが知る言葉の連なりである。
 ゆえに。
 カブラエルが意味を理解することも容易だった。


 訝しげなカブラエルの表情が、ある一瞬を境に、劇的に変化した。
「……ッ」
 愕然と目を見開いたカブラエルを見て、長恵はゆっくりと口を開く。
「気がつきましたね。そうです。立花様ははじめからあなたを討つつもりなどなかった。すべては、当主様の傍からあなたを排するための布石。それも、強いてそうしたのでは意味がない。ゆえに、あなた自身がそう行動するように仕向けたのです。正直、私もびっくりしましたよ。立花様があんなにお芝居が上手だったとは知りませんでした」
 長恵の脳裏に、年の功、という言葉が思い浮かぶ。
 ――慌ててそれを飲み下してから、長恵は先夜のことを思い起こした。





 内城での雲居の言葉を長恵から伝え聞いた道雪は、吐息まじりにこう言った。
『確かに、縁というのは不思議なものです。わたくしがそれを言ってはいけないのですけれど』
 もし、宗麟とカブラエルの出会いが、かの動乱の後でさえなければ、宗麟があそこまでカブラエルに依存することはなかっただろう。
 けれども、もしカブラエルに出会っていなければ、宗麟の心は千々に砕けてしまっていたかもしれない。そうなれば、大友家が南蛮文化を吸収し、異色の繁栄を遂げることもなく、南蛮神教に入信した人々が、今抱えている平穏を得ることもなく、多くの寺社が打ち壊されることもなく、君臣の間に信仰を介した不満が醸成されることもなく、小原鑑元や立花鑑載が謀反を起こすこともなく……


 良縁であるのか、悪縁であるのか。一体、誰がそれを断じることが出来るのだろう。
 そんな雲居の言葉を思い出しながら、長恵は言葉を続けた。
「善き事をもたらした功をもって命はとらぬ。悪しき事を引き起こした責をもって日の本を逐う。あなたがこれから乗ることになる船に積まれた財は、大友家の寸志だとのことですよ。そして、すべてが片付いた後、命をかけて南蛮を説得せんとしたあなたの行動を、信徒の方々に詳らかにするそうです。真実を知る者は口を緘し、ただその功績だけが語られる。あなたの名は黄金の文字をもって、この国の信徒の脳裏に刻みこまれることになるでしょう」


 見事な解決策ではないか、と長恵は思う。ことにカブラエルにとっては、これまでの行状からすれば、文句のつけようがないくらいの円満な結末だろう。
 ただし――真実を知らなければ、という前提の上でだが。
 真実を知ってしまえば、一から十まで他人の掌の上で踊りまわり、しかもそうとは知らずにその他人を嘲っていたという無様な己を自覚しなければならなくなる。
 それは一体どれだけの屈辱なのか、長恵は考えたくもなかった。


「そういうわけで、いっそここで私が斬ってしまうことこそ、あなた方にとっての慈悲なのではないか、と思った次第です。ご理解いただけましたか? まあここまで言えば、よほどの愚者でもないかぎり理解できるでしょうが」
 ついでに言えば、と長恵は言葉を続けた。
「立花様はあなたに真実を告げるつもりは微塵もありませんでした。それは、意図を知らぬあなたを良い気分で帰国させて、その様を陰で笑おうとした――なんて理由ではありませんよ? 立花様にしてみれば、当主様の傍からいなくなってくれさえすれば、あなたがどこで何をしていようと、まったく関心などなかったのです」


 道雪は、カブラエルがいなくなりさえすれば、宗麟がたちまち蒙を啓き、以前の英明さを取り戻してくれる――などと考えているわけではない。
 二階崩れの変の後、宗麟は短からぬ歳月を費やして、今の己を築き上げた。ならば、それを改めるためには、やはり同じ程度の時を費やさねばならないだろう。
 だから、急激にかわる必要はないのだ。たとえどれだけ遅い歩みであっても良い。大切なのは、改めようとする意思があるか否か。それさえあれば、豊後大友家は再び宗麟を中心としてまとまることが出来るだろう。
『――もっとも、それが許されるだけの余裕が今の大友家にあるかどうかはわかりませんので、ゆっくり急げ、という感じになってしまうでしょうけれどね』
 道雪は穏やかな、そしてかすかに苦笑が混ざった表情で、長恵にそう言ったものだった。


 そう言ったときの道雪の顔を思い出しながら、長恵は口を開く。
「私も主に仕える身ですが、とても立花様のように振舞うことはできません。見事なものだ、としみじみ思います。そして、立花様がそれほどに信じておられる当主様が凡人であるはずもなし。遠からず、昔日の英姿を取り戻されることでしょう」
 そう言うと、長恵は苦笑を浮かべ、先刻から固まったままのカブラエルに語りかける。
「しかし、事もあろうに、あのお二人に対して『ああ、哀れ』などと悟ったようなことを口にするとは、実に勇気ある行いでした」
 蛮勇も勇気には違いないですしね、と肩をすくめる長恵。


 それを聞き、ようやくカブラエルの口から言葉が発された。
「……何故、それを……?」
「ん? 私が大聖堂にいたことはもう言ったでしょう? 唇の動きを見れば、あなたが何を言っていたかなんて手に取るようにわかります。ええと、正確にはこうでしたっけ? 『ああ、哀れ。信ずれど、報われることなき君臣よ』……ふふ、私から見れば、哀れなのは間違いなくあなたの方でしたが、まあそれと知らなかったのですから、仕方ないといえば仕方ないですね」






 長恵は言い終えると、んー、と伸びをして、肩のこりをほぐすように首を動かした。
「さて、ずいぶんと長々と語ってしまいましたが、もう知りたいことはおおよそわかったでしょう? 船の準備も終わる頃でしょうし、私はこのあたりで失礼させてもらいますね。良き航海を」
 そう言うや、長恵は本当にくるりと踵を返し、さっさと背を向けて歩き出してしまう。


 カブラエルにも、配下の宣教師にも、長恵を止めるべき理由は何もなかった。今の話に衝撃を受けていない者などどこにもいないが、あえて言うならば、それはただそれだけのこと。たとえ道雪の情けによって生かされたのが事実だとしても、それをどう処理するかは自分たち次第であって、これから採る行動が変わるわけではない。
 そう考えながら、しかし、カブラエルは口を開いていた。


「……待ちなさい」
「ん、まだ何か?」
 足を止め、怪訝そうに振り返る長恵。長い黒髪が潮風に揺れるが、カブラエルは気にする様子もなく、急くように言葉を続けた。
「どうしてです?」
「どうして、とは?」
「どうして、私を見逃すのです?」
「それはさきほど答えたでしょうに」
「ええ、確かにトールが私を殺さぬ言い分はききました。しかし、あなたのそれは聞いていない。先刻、あなたは私があの娘の件とは無関係ゆえに、私を斬るは八つ当たりに等しいと言っていましたが――」


 長恵がそれ以上の情報を持っているのはすでに明らか。カブラエルが主体的に吉継を捕らえるために動いていたことも承知しているはずである。
 吉継に近しい者たちにとって、自分は憎んでもあきたらぬ相手であるはず。その自分を、どうして吉継のことを聞き出そうともせずに見逃すのか。
 道雪にしても同様である。ここで自分を見逃せば、今後、どのような報復を企むかも知れぬというに――カブラエルはそう問うたのである。


 それに対して長恵は。
 一瞬、さも驚いたというように目を瞠った後、軽やかな笑い声をあげた。
 この反応には、カブラエルも当惑せざるを得ない。
「な、何がおかしいのです?」
「ふ、くく……い、いえいえ、失礼しました。たしかに笑うことではありませんね。ええ、笑うことではないのですが、しかし、笑わざるを得ないというか……あなたは生きるに困ったら本当に道化師になったら良いと思いますよ。最低でも二流にはなれますから」


 あまりにも無礼な物言いに、土気色だったカブラエルの頬が朱に染まる。
 憤激のあまり、懐から短筒を取り出しかけたカブラエル。
 だが、その動きを制するように、長恵は言葉を続けた。


「そもそも前提が間違っているのですよ。私にとっても、おそらく立花様や師兄にとっても、あなたは憎んでもあきたらない相手などではありません。だってそうでしょう? あなたがこの国でしたことと言えば――」




 ――ある一人の女性の傷心に付け込んだ。
 ――ただ、それだけなのだから。




「な……ッ?!」
「そんな相手、憎む価値もありません。報復をしたいならば、どうぞご自由に。もっとも、当主様の庇護のないあなたに何が出来るとも思えませんけれど。立花様もそう思っていればこそ、あなたをあっさりと放逐することにしたのでしょう。そして、それは私や師兄も同様です。南蛮勢の中に討たなければならない者がいるとしても、それは断じてあなたではない」
 


 それを聞いた瞬間、カブラエルの脳裏に浮かんだのは、大聖堂で対峙した――対峙したと思っていた二人の顔。
 雲居筑前。立花道雪。いずれもカブラエルを見ず、宗麟に向けて語りかけていた二人。 口で勝てないのならば、初めから相手にしなければ良い。そんな思惑を秘めていたのだ、とつい先刻までは信じて疑わなかったが、それはまったくの勘違いであったのか。あれらは元々、カブラエルなど見てもいなかったのか。
 そして、今カブラエルの前にいる長恵も。吉継をさらった憎むべき敵であるはずの自分を相手に、緊張感も敵意もなく話を続けているのは、優れた自制心の賜物などではなく……


「まだわからぬというのなら、もっとはっきり言いましょう。あなたは、あなた自身がそうと信じているほどに、重要な人間ではないんです。ただそれだけのことですよ」
 長恵は軽く――本当に軽く、そう言い切った。



 これまで敵だと考えていた者たちは、カブラエルなどろくに見てもいなかった。カブラエルを、今ここで討っておかねばならないと考えている者など、日の本のどこにもいない。宗麟の庇護のないカブラエルなど、何の脅威にもなりえない。
 それらを知らず、他者を嗤う姿がどれだけ惨めであったことか。眼前の女性は、そんなカブラエルの姿に哀れを感じ、いっそ真実を知る前に斬られた方が幸せかもしれぬ、と考えていたのだ。
 ――ああ、フランシスコ・カブラエルとは、なんと惨めで哀れな道化であったことか



 自覚は羞恥をもたらし、羞恥は憤激を招き、憤激は絶叫へと変じた。
「う、あ………………ああああああああああァァァアアアアアッ」
 それは半ば、自身へ向けた叫びであったかもしれぬ。
 しかし、心身を千々に引き裂かれながらも、カブラエルは冷静に行動に移っていた。先刻から抜き放つ準備をしていた短筒。それを一瞬の遅滞もなく引き抜いて、正確に長恵の眉間に狙いを定める――



 斬、と。
 一陣の剣風が舞った。



 数秒遅れて、何か小さな物がカブラエルの足元に落下する。
 それが、引き金に置かれていた自らの指であるとカブラエルが悟るまで、かかった時間はごくわずかであり。
 ムジカの港に、再びカブラエルの絶叫が響き渡った……





[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 幕間
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:df30deaf
Date: 2011/09/13 22:08

 山城国 三条西家


 京に到着した越後の一行が宿泊しているのは、三条西家という公家の邸宅であった。
 この時代、公家というと貧窮、没落といった言葉を連想させる。実際、生活苦によって都を落ちていく公家は後を絶たなかったが、三条西家はこれに含まれなかった。
 その理由の一つとして挙げられるのが、三条西家が青苧の本所という確たる収入源を抱えていたことである。


 青苧に関して強い権限を持つ三条西家。
 一方、青苧の生産量において日の本随一を誇るのが越後の国である。その国主である上杉家と、三条西家の間に深い結びつきがあるのは当然のことであった。
 今回の上洛において、上杉家の一行が三条西家に宿泊することになったのはこの縁による。


 なお、三条西家の代々の当主は文化人としてきわめて高名であり、細川幽斎に古今伝授をさずけたのは、まさに三条西家の現当主である。
 その邸宅は風雅の香に満ち、雪深い越後からおとずれた者たちは感嘆を禁じえなかったのだが、中でも最も目を輝かせたのは越後守護代、長尾政景その人であった。
 政景にとっては種々の難関を排した上での念願の上洛である。今回の上洛は、越後の国にとっては目的のための手段に過ぎず、政景当人もそれは重々承知していたが、だからといって、しかつめらしくしなければならない理由などどこにもないのである。




 京に着いてより十日あまり。
 政景は三条西家の屋敷の一室で謙信と向かい合いながら、なにやら頬を染めながら、うっとりとした顔で口を開いた。
「雅とはかくあるべし、と言わんばかりの佇まいよね。なんかくらくらするわ……」
 それを聞いた謙信は、一瞬、何かを指摘したそうな表情を閃かせた。
 今、政景は寸暇を惜しんで都の文化を少しでも多く習得せんとしている。昼は洛内をまわって高名な文化人のもとをおとずれて教えを請い、夜は夜で詩歌や舞楽の稽古にはげんでいるようで、政景の部屋の明かりは夜遅くまで灯りっぱなしであった。
 そのことを知っているだけに、謙信は政景の言う「くらくら」が、雅がどうこうというよりも、単に寝不足のせいであると思ったのである。


 とはいえ、それを指摘したところで無駄なことは謙信も承知していた。何故といって、すでにもう片手の指では数えられない回数、注意を促しているのだが、政景は一向に改めようとしないからである。
 これはもう当人が満足するまで放っておくしかあるまい、とは謙信と、ここにはいないが上泉秀綱の両人が話し合った末の結論であった。

 それでも、謙信としては注意せざるを得ないわけで。
「政景殿、根を詰めすぎるのは身体に毒です」
「わかってるって。でも、都に来る、それもあの三条西家に世話になる機会なんて、そうそうあるわけないじゃない。今は一刻たりとも無駄に出来ないのよッ」
「そのお気持ちはよくわかりますが」
 だからといって、身体を壊しては元も子もない、と思う謙信だった。


 咎める――というより、はしゃぐ幼子をたしなめるような謙信の眼差しに気づいたのだろうか。あるいは、政景もそのあたりはちゃんと考慮していたのかもしれない。やや慌てた様子で口早に言い立てる。
「でも確かに謙信の言うことも一理あるわね。というわけで、青苧の件やら何やらの細々としたことはあんたに任せたわ。都の風雅の何たるかを調べ、これを修めて越後にもたらす役目は任せてちょうだいッ」


 ここに段蔵がいれば「要は面倒事を丸投げするつもりですね」とでも言い返しただろう。
 しかし謙信は慎ましく沈黙を保った。
 天にも届かんばかりの気炎を上げる政景を前に、これは何を言っても無駄だと悟っただけかもしれないが、しかし謙信ならずとも、念願の京文化に接して恋する乙女のように夢中になっている政景を見れば、苦情を口にするのは憚られたことだろう。




 政景が口にした青苧の件というのは、青苧座にからむ京商人、越後商人らの悶着を指している。
 三条西家から青苧の購入、販売における独占的な権利を認められた京商人は、主要な産地である越後に赴き、そこで越後商人たちから青苧を買い求めるわけだが、独占的に購入できるということは、言い換えれば競り合う相手がいないということでもある。競り合う相手がいなければ、買う側が値段を低くおさえるのは当然のことだった。なにしろ原価が低ければ低いほど、これを売りさばいた時に彼らの懐に転がりこむ利益は大きくなるのだから。


 一方の越後商人たちにしてみれば、ほとんど足元を見て買い叩かれているような状態である。たまったものではない、という不満がうまれるのは、これまた当然のことだった。
 だが、三条西家の許可を得て動いている京商人たちに対して文句を言うことは出来ない。守護である謙信に訴えることも、同様に出来なかった。
 京商人たちはことさら法を破って利を貪っているわけではなく、しかるべき金銭を払い、正当な権利を得て、商いをしているだけなのである。


 いっそ独自の販路をつくるべきではないか、という案が過去に越後商人たちの間で出されたこともあったが、これは議論の余地なく不可能であるとして却下された。
 近年、楽市楽座なる政策を実行する大名もいるが、青苧の販路は越後や近江、京にまで及ぶ巨大なもので、国内だけの政策では実効力をもたないのである。なにより、越後がそんな動きを見せようものなら、三条西家や京商人たちが黙っていないだろうことは確実であった。


 そういった理由で、これまでは旧来の仕組みの中でなんとか工夫してきた越後商人たちだったが、ここ数年、再びその不満が高まりつつあった。
 これは与板城の直江景綱などからも度々報告があげられており、謙信も承知していた。
 上杉家としても、地元の商人たちの不満を等閑には出来ない。かといって、青苧座に強権的な介入をするなど論外である。前述したように京商人や三条西家の反発は必至であり、彼らと決裂するような事態になれば、上杉家の府庫にも甚大な影響が及んでしまうからである。


 となれば、後は話し合うしかない。
 京商人に与えられた独占的な購入、販売の権利。その全てを購うことは不可能であろうが、一部ならば可能であろう。
 無論、これまで青苧で莫大な利益を得てきた京商人たちが素直に頷くはずはなかったし、彼らと深いつながりのある三条西家が簡単に越後側のいい分を呑んでくれるとも考えていないが、それでもまずは行動に移さなければ始まらない。
 常であれば、越後と京は遠く、書状のやりとりすら容易ではない。しかし、上洛している今この時であれば、距離の問題はなくなる。青苧に関して話し合う絶好の機会というべきであった。



 神余親綱(かなまり ちかつな)という人物がいる。上杉家の臣下の一人で、外交に長じ、主に京の将軍家や朝廷との折衝を任されている。青苧に関して、三条西家とたびたび交渉の席を設けてもいた。
 同じく蔵田五郎左衛門(くらた ごろうざえもん)という人物がいる。こちらは上杉家の正式な臣下ではない。蔵田家は越後の青苧座を統括する有力商人であり、五郎左衛門は蔵田家の代々の当主が襲名する通り名である。
 今代の五郎左衛門は、家を継いでまだ三年も経っていないのだが、その能力と人柄を見込んだ謙信によって引き立てられ、今では御用商人として上杉家の財政に重きをなす身となっていた。



 謙信が、今回の上洛にこの二人を連れてきたのは、青苧の問題の解決をはかるために他ならない。
 京に着いてから、二人はもっぱらこちらの方面で駆け回っていた。
 ただ、当然といえば当然ながら、交渉の進展具合ははかばかしくなかった。
 親綱や五郎左衛門は、かたや外交、かたや財政に長じた、越後でも数少ない能吏なのだが、日頃から将軍家だの三好家だの本願寺だのを相手として渡り合っている畿内の商人たちからすれば、迫力不足の観は否めない。
 今回は事が事なだけに、どうしても相手の譲歩が必要となるので、越後側としてもある程度、押しの強さ、というものが必要になる。
 そのためにはどうするのが最善か、というと……


「つまり、直接あたしたちが出向いて、商人たちの相手をしろってわけね」
 言いよどむ二人を前に政景はあっさりとそう言い、親綱と五郎左衛門は深々と頭を垂れた。まったくそのとおりだったからである。
 無論、直接に武力で威圧するわけではないが、親綱や五郎左衛門が交渉する際、謙信なり政景なりがその場にいてくれることの意味は計り知れない、と二人は考えていた。


 そのあたりの機微は政景も、そして謙信も理解した。
 だが、政景としては、事の重要性は十分に承知しているものの、文雅の香りと銅の臭いを比べれば前者を選びたくなるのが当然であった。
 ただでさえ、先の上洛においては越後の留守居を務めざるを得ず、鬱憤がたまっていたのだ。これで適任者が自分しかいないというならともかく、代わりを務められる人物がすぐ近くにいるのだから、ようやく巡ってきた好機を見過ごす必要なぞ欠片もない。
 そんなわけで、政景はいっそ堂々と謙信にすべてを押し付け、謙信はそんな政景の思惑を察して(政景は隠そうともしていなかったわけだが)親綱らの頼みには自分が応じることを承知したのである。




 ――しかし。
 事態は謙信が腰をあげるまでもなく、奇妙な形で落着する。
 一日、かねてより交渉を続けていた京商人たちに呼び出された親綱と五郎左衛門の二人は、突然のことに首を傾げつつ相手の屋敷を訪れたのだが、そこで、今回、越後側から申し出た条件のほぼすべてを受け容れる旨を伝えられ、しばしの間、絶句する羽目になる。


 もちろん、この決定は上杉家にとっては喜ばしいものだった。京商人たちが首を縦に振れば、三条西家もこれにならうだろう。
 だが、つい先日まで、頑なに越後側の要求を拒んでいた商人たちが、どうして突然に心変わりしたのか。
 その理由を問うた親綱たちは、相手の口から出た予期せぬ名前を聞き、再び絶句する羽目になるのだった。






◆◆◆





「よくぞお越しくださいました。名高き越後の聖将様、ならびに明星様のお二人を我が庵にお迎えできたこと、とても嬉しく存じます」
 あふれんばかりの気品と、滴るような色気を二つながらに身にまとったその人物は、謙信と政景の前で深々と頭を垂れた。
 松永弾正久秀。
 朝廷、禁裏と深いつながりを持ち、幕政にも多大な影響力を有する畿内――否、日の本でも屈指の武将である。
 その実力は、今や主君である三好長慶に匹敵するとも言われていた。


 家臣と主君の名前が並び称されるなど、それだけで尋常なことではない。
 だが、楚々とした風情の中に、端倪すべからざる覇気を包みこんだ久秀の姿を見れば、その世評もむべなるかな、と越後の二人は同時に考えた。
 先の上洛で久秀と面識のある謙信と異なり、政景は久秀と相対するのはこれが初めてである。しかし、久秀の容易ならざるを見抜くには、このわずかな時間だけで十分だった。


(ま、ことさらあたしの眼力が秀でているってわけじゃないけどね)
 政景は皮肉げにそう考える。何故といって、久秀の言動を見るに、こちらに見抜かれることを承知してやっているとしか思えないからだ。わざわざ謙信と政景を異名で呼ぶあたりは、特にその意図が強く感じられる。


 久秀が口にした『明星様』――これは、近年、政景を指して越後で使われるようになった言葉である。
 政景としては気恥ずかしいことこの上ないのだが、異名というのはその人物の功績が世間に認められた証であり、当人のみならず、配下にとっても価値あるものだった。ゆえに、政景もしぶしぶながら甘受せざるを得ないのである。
 しかし、政景がそう呼ばれるようになって、まださほど時が経ったわけではない。越後国内でも知らない者は多かろうに、京にいる久秀がはや把握しているあたり、久秀が全国に張り巡らせている情報収集の網の目の精緻さは、空恐ろしいほどだった。


 とはいえ、それだけならば大した問題ではない。幕政にも関わる久秀が、他国の動静を注視するのは当然のこと。
 問題なのは、この呼び名が巷間に流布された裏には、謙信と政景を両立させる意図がある、と囁かれていることであった。つまり、政景の功績、名声が決して謙信に劣っているわけではないと証拠立てるために、政景に与する者たちが越後各地に政景の異名を広めた、というわけだ。
 無論、これは事実無根であり、政景は一笑に付しているのだが、越後の中に政景側の作為を言い立てる者が存在する――その事実は無視できるものではない。


 おそらく、久秀はそのあたりをあてこすりつつ、こちらがそこに気づくかどうかを笑貌の奥で観察しているのだろう。
 好きになれそうもない奴だ。
 それが政景の、久秀に対する第一印象だった。


「こちらこそ、名高き松永弾正殿にお会いできて光栄よ。もっとも、噂は色々と聞いているから、あんまり初対面って感じはしないんだけど」
「あら、それは偶然ですわね。実は久秀も同じことを考えておりましたの。話に聞いていたとおりの御人柄のようだ、と」
 にこりと微笑む久秀に対し、政景はわずかに目をすがめる。
「都の動静を左右する弾正殿に、片田舎の越後守護代の話をする者がいるとは驚きだわ」
「片田舎などと、とんでもありませんわ。ここ数年、越後の国が東国の動乱を静める要となっていたのは誰の目にも明らか。久秀が、明星様のことを詳しく知りたいと思うことに何の不思議がありましょうか?」


 もっとも、と久秀は笑みを湛えつつ言葉を続ける。
「先の上杉家上洛の折、明星様の御人柄については事細かにお聞きしていましたので、改めて情報を集める必要はありませんでしたけれど」
 政景の眉がぴくりと動く。
「……ちなみに、その人はあたしのことをなんて言っていたのかしら?」
「闊達にして不羈、豪放にして磊落。およそ戦って勝たざるなく、攻められて退けざるなく、将としての武威は越後全土に轟きわたり、相としての令名は越後すべてを覆い尽くして余りある。一軍をあずかる武将としても、一国をあずかる宰相としても、明星様に優る者は、越後はおろか、日の本全土を見回しても数えるほどであろう……」


 激賞である。手放しの褒めようを聞き、政景が目をぱちくりとさせる。
 しかし、久秀の言葉には少しだけ続きがあった。
「――『これで性格さえ良ければ言うことなしなんですが……まあ、ある意味でイイ性格はしてるんですけどね』と何やら遠い目で仰っていましたわ」
「ほほう、それはそれは………………あんにゃろう」
 その一言で発言者が誰であるかを察したらしい政景は、何やら口の中でごにょごにょと呟いていた。 




 それまで、二人のやりとりに黙って耳を傾けていた謙信が、ここではじめて口を開いた――別に、ここにはいない誰かに助け舟を出すつもりでもあるまいが。
「親綱と五郎左衛門から、此度、弾正殿が我が上杉のために骨を折ってくれたと聞いた。まずはその礼を言わせてもらいたい」
 そう。青苧に関して、京商人たちに越後側の言い分を呑ませたのは松永久秀だった。
 無論、ただではない。譲歩の代償として、久秀は彼らに様々な便宜をはかり、なおかつ秘蔵の茶器を進呈までした。それくらいしなければ、いかに久秀みずからの頼みとはいえ、京商人たちも首を縦に振ることはなかったであろう。


 交渉の推移を親綱と五郎左衛門の口から聞いた謙信と政景は、思わず顔を見合わせてしまう。
 二人の考えはほぼ同じだった。
 『あの』松永久秀が、越後のために尽力する理由などあろうはずもない。ただの気まぐれにしては払った代価が高すぎる。特に謙信は、久秀が茶器に対して尋常ならざる思い入れを抱いていることを聞き知っていたから、なおさらその観が強かった。


 今回の上杉家上洛の理由が理由である。これは三好、松永の徒からの何かしらの働きかけか、と二人が考えたのは当然であったろう。
 事実、間もなく松永家からの使者が三条西家を訪れ、上杉家に向けた――というより、謙信と政景に向けた久秀からの要求が伝えられた。
 その要求が、今日、この場の席に繋がるのである。




 久秀は謙信に対し、小さくかぶりを振って見せた。
「礼は不要ですわ、謙信様。秘蔵の茶器といっても、真に秘していたものではなし、その他のことに関しても久秀にとっては容易いこと。越後の守護と守護代、お二人をお招きするための招待状代わりのつもりでしたの」
 上杉家でも屈指の能吏たちが苦慮していた交渉、それを片付けることを些事であると言明する久秀。そこに何一つ意趣がない、とは誰も思うまい。


 だが、謙信は表情をかえることなく、しごく真面目に応じた。
「弾正殿には容易いことであったかもしれぬが、それで我ら上杉家、さらに越後の商人たちがおおいに助けられたことは事実なのだ。当主として、一言の礼もなしでは済まされぬ」
 お骨折り、感謝する。
 そう言って頭を下げる謙信にわずかに遅れて、政景も頭を下げた。




 久秀はそんな二人を見て、かすかに目を瞠った後、微笑んで口を開いた。
「久秀の行いが、皆様のお役に立てたのでしたから、これにまさる喜びはございません。お顔をあげてくださいな。ふふ、都で過ごす時が長いせいでしょうか。越後の方々の律儀な為人を前にすると、己が性根がずいぶんと捻じ曲がっているように思えてしまいますわ」
「それはまあ、謙信と比べたら大抵の人間の性根は曲がりまくってることでしょうよ。あたしも例外じゃないしね」
 顔をあげた政景が、特に声を低めるでもなく言うと、久秀はわずかに首を傾げる。
「あら、久秀は明星様も謙信様の側に含めたのですけれど?」
「さすがに謙信ほど律儀なやつは越後でも数えるくらいしかいないわよ。言うまでもなく、あたしはそれに入ってないから。それはそうと弾正」


 『殿』をつける必要なし、とはや見切った政景。対する久秀は特に気にする様子もなく、平然と問い返す。
「なんでしょうか、明星様?」
「それよ。なんで謙信は『謙信様』なのに、あたしは『明星様』なの?」
 どこか剣呑さの漂う政景の問いに対し、久秀は今度は曇りのない輝くような笑みで応じた。
「久秀としては、そちらの呼び名の方があなた様には相応しいように思えましたの。決して他意はございませんわ」
「……なるほど。たしかに性根の曲がり具合は足元にも及ばないみたいね。ま、誰が誰に及ばないかは慎み深く黙っておくけれど」



 それからしばしの間、おほほうふふと笑いあう政景と久秀の傍らで、謙信は小さくため息を吐くのだった。




◆◆




 謙信たちが招かれた茶室は、茶人としても令名のある久秀が丹精を込めてつくりあげただけあって、客人たちにとって興趣が尽きなかった。
 内装、調度、活けられている花、使用される茶器、いずれも目を惹くが、それはむやみやたらと金がかかっているからではない。無論、一つ一つが高価なものであるのは事実だが、それらをより一層引き立て、一つ上の『美』を体現せしめているのは、費やされた金銭ではなく、茶室の主の審美眼であろう。
 久秀が点てた茶を喫した謙信と政景は、思わず、という感じで感嘆の息をこぼす。その為人に思うところは多けれど、茶人としての久秀には感服するしかない二人であった。


 謙信が素直にそう口にすると、久秀は嬉しげに微笑む。
 その笑みは先ほどまでのそれとは違い、見る者にどこか淡い印象を与える。しかし、不思議なことに、謙信が強く印象づけられたのは、今の久秀の笑みであった。
 謙信の耳に、久秀の声が響く。
「茶の湯とは、すなわちもてなしの心。客人にくつろいでもらえるならば、茶人として、これにすぐる喜びはございません。茶器も、作法も、すべてはそのためにこそある、と久秀は考えております」


 そう言った後、久秀は表情を曇らせ、何やら悩ましく息を吐いた。
「ただ、久秀が茶の湯にお招きしようとすると、何故かみなさま、顔を引きつらせてしまって……このところ、なかなか客人をおもてなしする機会がありませんでしたの。ですから、謙信様と政景様が招きに応じてくださったこと、久秀はとても感謝しておりますわ」


「断れないように外堀を埋めたやつがよくいうわ」
 政景はそう言ったが、その口調は内容ほど厳しいものではない。おそらく、先の明星様云々に対する軽い仕返しのつもりなのだろう。
 久秀の方も心得ているようで、軽やかに応じた。
「そう受け取られてしまうのは、きっと久秀の不徳のいたすところなのでしょうね。先にも申し上げましたが、あれは招待状代わりのつもりでしたの」
「ま、そういうことにしておきましょうか。で、そろそろ本題に入らない? 他者の耳目のない茶室に、越後の守護と守護代をそろって招く。世間話をするためってわけじゃないんでしょう?」


 それは問いかけの形をとった催促だ、とは久秀ならずとも感じるところであった。
 ここではぐらかす意味はないと考えたのか、久秀は素直に頷いてみせる。
「お見通しでいらっしゃいましたか。たしかに政景様の仰るとおり、お二方にお話しておきたいことがございました。今日、このようにお呼びたてしたのは、そのことをお伝えするためですわ」
 もっとも、と久秀は言う。
「今回のそちら様の上洛の件と関わりのないことですので、お二方の受け止め方によっては、久秀の話はただの世間話に感じられてしまうかもしれませんが」


 それを聞き、政景はもちろん、謙信もかすかに表情を動かす。
 今回の久秀の招きは、上杉家に管領相当の待遇を与える、という将軍家の申し出に対する三好・松永側からの何らかの牽制であろう、と考えていた。
 だが今、それとは関わりはない、と久秀は断言した。では、わざわざここまで手間をかけて呼び出した理由とは何なのだろうか。
 そんな疑問の眼差しに応じるため、久秀は口を開く。




 久秀の口から出たのは、謙信たちが聞いたことのない人物の名であった。
 すなわち、久秀はこう言ったのである。




 ――雲居筑前という人物をご存知でいらっしゃいますか?







[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第九章 杏葉(九)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:8d85e572
Date: 2011/09/26 00:10
 薩摩国 錦江湾


 南蛮艦隊提督ロレンソ・デ・アルメイダは、今、不機嫌の極みにあった。
 常勝を謳われる南蛮軍にあっては、ただ一度の敗戦であってもその不名誉は拭いがたい。まして僻地の蛮族を相手に一度ならず敗北を喫し、挙句、軽侮し続けてきた傭兵上がりの同輩に窮地を救われたのだ。ロレンソの矜持が致命傷を被ったとしても、何の不思議もなかった。


 厭悪の炎で心身両面を炙られるにも似た心境なのだろう。ロレンソの顔は憔悴の色があらわであり、その一方で、吊り上がった眼差しは鋭さを増すばかりだった。
 元々、倭国への遠征が決まってからというもの、ロレンソの機嫌が良かったことは一度としてなかったのだが、今のロレンソの内心に吹き荒れる嵐は、この国に来た当初とは比べ物にならぬ。
 視界に入ったものを、その視線だけで切り裂いてしまいかねない指揮官を前に、麾下の将兵は震え上がり、必要な用がない限りは指揮官の視界に入ることさえはばかるほどであった。


 そんなロレンソの前に、今、一人の人物が立っていた。
 歴戦の将兵が恐れる勁烈な眼光を前にしても、怯む色も見せずに平然と見つめ返すその様は、この人物の胆力を示すというよりは、他人の感情に対する鈍さを示しているように思われる。
 黒衣の修道服をまとったこの人物の名を、ガスパール・コエリョといった。


 ロレンソ艦隊がガルシア艦隊と合流するや、密かにロレンソに面会を求めてやってきた宣教師は、先の島津軍と南蛮軍との交渉を事細かにロレンソに述べ立てた。
 聞き終えたロレンソは、忌々しげに拳を机に叩きつける。その圧力に耐えかねたように四隅の脚がぎしりと軋んだが、ロレンソはそれに気づくことなく吐き捨てた。
「傭兵上がりの無頼者め。忌々しい蛮族どもと取引するなど、何を考えているッ」
「捕虜となった同胞を救うため、だそうですわ。それを欲するならば、敵を討ち破ればよろしいのに。ノローニャ提督も迂遠なことをなさいます」
 ロレンソの激昂に同調するように、コエリョは声を尖らせる。 


 激昂さめやらぬロレンソは、憎々しげに拳を打ち合わせた。むろん、その感情は眼前のコエリョに向けられたものではない。
「その通りだ。私が島の北側で戦っている間、あの無頼者が敵の本拠地を衝けば、それで事は済んだのだ。ただそれだけで先の敗北の汚名は拭われ、元帥殿と将兵の仇を討つことが出来た。捕虜を取り戻し、水と食料を得ることも出来た。それなのに、攻勢をためらった挙句、貴重な火器を差し出して蛮族どもに和を請うなどと……どれだけ南蛮軍の武威に泥を塗れば気が済むのだ、ガルシア・デ・ノローニャッ!」


 そのロレンソの姿を見て、コエリョは口惜しげに唇を噛んで俯いた。
「あの時、アルメイダ提督がいらっしゃらなかったことが悔やまれてなりません。私も南蛮国のため、出来るかぎりのことをしようとしたのですが、ノローニャ提督に遮られてしまって……」
「コエリョ殿の責ではあるまい。あなたには何の権限もなかったのだ。あの無頼者がその気であった以上、あなたに出来ることは何もなかった。その点について、あなたが気に病む必要はない」


 ロレンソの言葉はコエリョをなぐさめるようでもあり、あるいは宣教師ごときが軍略(たとえロレンソ自身が気に食わぬものであっても)に口を差し挟むなと突き放すようでもあった。
 もっとも、コエリョは特に疑問もなく前者だと受け取ったようで、表情を変えることなく言葉を続ける。
「それは……そのとおりです。けれども、何かが出来たのではないか、という思いを消すことが出来ないのです。その思いが消せぬゆえに、こうしてアルメイダ提督のもとに参りました」


 それを聞き、ロレンソはかすかに目を細める。
「先日、ガルシアからこちらの艦隊でも解放された捕虜を引き受けてほしいという要請が来た。捕虜の解放と、火器の引渡しはすでになされたのだろう。今さら何が出来るというのだ?」
 その問いを受け、コエリョは得たりとばかりに口を開く。
「殿下が、この地に向かわれていることをご存知でしょうか?」
「なにッ、それは本当か?!」


 弾けるように顔を上げたロレンソに、コエリョは頷いてみせた。
「やはり、アルメイダ提督はご存知ありませんでしたか。殿下が参られることについては、ノローニャ提督から直接うかがったことですから間違いありません。聞けば、殿下は一度はゴアに戻られるおつもりだとか。おそらくノローニャ提督は、殿下からじきじきにペレイラ元帥亡き後の南蛮軍の指揮権を授かるつもりなのでしょう。ペレイラ元帥はお亡くなりになり、コエルホ提督は一度は捕虜となった身。アルメイダ提督に事を秘しておけば、先の海戦や今回の交渉に関して、殿下に何を言上するもノローニャ提督の思いのままです」


 それを聞き、ロレンソはわずかに目を細め、その言わんとするところを汲み取ろうとするかのように、じっとコエリョの顔を見据えた。
 ことさら考えるまでもない。コエリョは、このまま手をこまねいていれば、すべてはガルシアの思い通りに事が進んでしまう、と訴えているのである。もっといえば、ガルシアの思惑を阻むために行動しろ、とロレンソを使嗾しているのだ。


 ――実のところ、ロレンソはコエリョに対し、さして親しみを抱いているわけではない。ロレンソから見れば、コエリョは一介の宣教師に過ぎず、また錦江湾の戦いの後、コエリョがロレンソの艦隊ではなく、ガルシアの艦隊に逃げ込んだ一事も忘れてはいなかった。
 だが、ガルシアと同じく、ロレンソもまたコエリョを粗略に扱うことはできない。教会を敵に回す事態を避けたい、とは南蛮人であれば誰もが考えるところであった。
 くわえて、今回に限って言えば、コエリョの考えは正鵠を射ているとロレンソは考えた。小アルブケルケが薩摩までやってくるという情報を、ガルシアがロレンソに秘していたのがなによりの証拠である、と。


 もっとも、これに関してはロレンソの側にも責任がないわけではない。
 ロレンソの艦隊がガルシアの艦隊と合流したのがつい先日のこと。麾下の艦隊をわずか六隻にまで討ち減らされたロレンソと異なり、ガルシアは三十隻に近い数の船を掌握している。
 ガルシアとロレンソ。共に敗北した事実は拭えないが、敗北を喫した後、どちらが今後の指揮官として相応しく振舞ったかは、麾下の艦隊を見れば誰の目にも明らかであったろう。


 それは当のロレンソでさえ認めざるを得ない厳然たる事実であった。ゆえに、ロレンソはガルシアの麾下に組み込まれることを嫌い、合流してからも半ば独自に行動し、ガルシアと情報を共有しようとはしなかったのである。
 このため、ガルシアはロレンソに対して小アルブケルケのことを告げる機会を得られなかった。
 むろん、ガルシアがその気になれば伝える手段などいくらでもあったろうが、ガルシアもガルシアで、解放された捕虜をどのように戦力に組み込んでいくかについて頭を悩ませている最中であり、そこまでロレンソに配慮する必要を認めなかったのだろう。


 ただ、当然というべきか、ロレンソにしても、コエリョにしても、そこまでガルシアの事情を慮ろうとはしなかった。
 二人はこの一事をガルシアの怠慢――というより、専権のための布石と受け取る。
 そう受け取った以上、それに対抗するのは当然のこと。ここにいたって、ロレンソはコエリョが密かにこの船を訪れた理由を、はっきりと口に出してみせた。
「ガルシアよりも先に、殿下のもとへ赴くということだな」
「はい。ノローニャ提督は解放された捕虜たちのせいで、ここから動くことができません。しかし、アルメイダ提督はそうではない」


 その返答を聞き、ロレンソは腕を組んで考え込む。
 コエリョの思惑どおりに動くのは癪であるが、ガルシアに先んじて小アルブケルケに拝謁しなければ、あの傭兵上がりが何を口にするか知れたものではない。くわえて、ここでコエリョに同調しておけば、今回の敗戦について教会からの口ぞえを得られるよう話を通すことも出来るだろう。
 ロレンソは決断した。
「……なるほど、確かにガルシアの小細工をつぶすには、コエリョ殿の案が良かろう。殿下が何時ごろ参られるかについては、わかっているのか?」


 コエリョはロレンソの言葉を聞いても、特段、嬉しげな表情を見せることはなかった。コエリョにしてみれば、自分の言葉に頷くことは当然のことなのだ。
「それについてはノローニャ提督は何も仰いませんでした。おそらく、提督ご自身もご存知ではないのでしょう」
「ムジカの情勢もあること、それも当然か。万一にも行き違うことのないよう、気をつけねばなるまい」
 ロレンソの言葉に、コエリョはこくりと頷いてみせた。




 それから、半刻後。
 ロレンソ率いる六隻の艦隊は南の方角に向けて動き出す。
 この突然のロレンソ艦隊の離脱は、当然のように他の南蛮船の知るところとなり、南蛮軍提督ガルシア・デ・ノローニャは、めずらしく慌てた様子の僚将を自室に迎え入れることになるのである。




◆◆




 ガルシア・デ・ノローニャの旗艦。
 その一室でロレンソ艦隊離脱の報告を受けたガルシアは、あっさりとこう言った。
「かまわんさ、好きなようにさせておけ」
 息せき切って船長室を訪れたニコライ・コエルホは、その言葉に驚きをあらわにする。
「……よろしいのですか、ガルシア卿?」
「ああ。それに制止したところで、あの二人は聞く耳をもつまい」
 ニコライは怪訝そうに問い返す。
「二人、とは――あ、いや、まさか」


 ニコライの表情の変化を見たガルシアが言葉を付け足す。その顔はいつの間にか渋面になっていた。
「俺の態度は『南蛮軍にあるまじき弱腰であり怠惰』だそうだ。『異教徒と通謀するがごとき交渉は許されざるところ。ただちにこれを悔い改め、異教徒殲滅のために兵を動かすべし――』」
 それを聞き、ニコライは、ガルシアと酷似した表情で深くため息を吐いた。
「……と、コエリョ殿に言われたわけですね」
「ああ。どう言っても一向に引き下がってくれんのでな。間もなく殿下がお越しになるゆえ、御前で改めて話し合おうと伝えたんだが……一日も経たぬうちにこれだ」


 お手上げだ、と言うようにガルシアは両手を広げ、おどけたように笑ってみせた。
「殿下が参られるまで待つのは堪えられん。とはいえ、こちらから向かおうにも、ここは敵地の真っ只中。そこらの小船では、殿下のもとにたどり着くまでの安全を期し難い。ロレンソのもとへ行ったのは、俺に頼めば妨害されるとでも思ったのだろうさ」
「そしてロレンソ卿はロレンソ卿で、ガルシア卿に対して隔意を抱いておられるので、コエリョ殿の提案は渡りに船、ということですね」
 ロレンソの合流後の動きを思い起こし、そう呟くニコライに、ガルシアはあっさりと頷いた。


 たしかにそういった状況ならば、いまさらガルシアが制止したとて、ロレンソとコエリョの二人は聞く耳をもたないだろう。それにガルシアとロレンソは同格の提督であり、あちらの艦隊行動を掣肘する権限などガルシアにはないのである。
 ニコライは納得したが、しかし、なおもその顔には不安の翳りが見て取れた。
 少し迷う様子を見せたニコライだったが、その表情に気づいたガルシアが促すと、思い切ったように口を開く。
「本当によろしいのですか、ガルシア卿?」
「何についてのことか言ってもらわんと、なんとも答えかねるぞ」
「殿下のもとにロレンソ卿とコエリョ殿を向かわせることです。お二人がガルシア卿に対して意趣を抱いているのは明らか。殿下は讒言に惑わされるような御方ではございませんが……」
 そこでニコライは言いよどむように言葉を切った。


 ニコライが飲み込んだ言葉を察したガルシアは愉快そうに笑う。
「異教徒と勝手に交渉して捕虜を取り戻し、講和にも似た休戦状態を甘受している。なるほど、これを見れば俺が異教徒と通謀したという言は、必ずしも讒言とは言えんだろうなあ」
「……無論、私も、解放された他の捕虜たちも、ガルシア卿には深く感謝しております。殿下に対してもその旨はお伝えするつもりですが、敵に敗れ、一度は捕虜となった者の言葉を、殿下がどこまでお聞きくださるかは……」


 そう言って、力なく俯くニコライ。
 ガルシアは椅子から立ち上がると、ニコライの傍に歩み寄って、二度、三度と肩を叩いた。
「そう気に病むな、坊や。戦いとは相手あってこそのもの。百戦して百勝するというわけにはいかんさ。まして、相手はあの元帥殿を討った連中だ。俺や坊やがしてやられたとしても、何の不思議もあるまいよ」
 ガルシアはそう言ったが、ニコライはあくまで生真面目に言葉を重ねていく。
「しかし、いかなる大敵が相手であれ、神の使徒たる身に敗北が許されるはずがありませぬ。まして、我らはフランシスコ様直属の部隊なのですから」


 ガルシアは小さく肩をすくめた。
「そのとおりだな。だからこそ、これまで俺たちは全身全霊をもって幾多の敵と戦い、これを討ち破ってきた。が、今回はしてやられた。これが現実というやつだ。これを受け容れるか、受け容れずに目を逸らすかは坊やの自由だが、年長者として一つ忠告させてもらうとな、敗因の分析もできん奴は将としては三流だぞ。あの殿下が、そんな愚物を望まれると思うか?」
 それを聞いたニコライは押し黙る。若くして提督に抜擢されたニコライだからこそ、今回の惨憺たる敗戦に思うところは大きいのだろう。
 ガルシアは本来さして説教くさい性格ではないのだが、この時はごく自然に言葉が口をついて出た。
「諺にも言うだろう。『逆境が英雄をつくる』とな。あの元帥殿とて、栄光の始まりは総督閣下に敗れたことだった。それを忘れんことだ」 
「は。御教誨、胸に刻みます」


 ニコライはそう言って深く頭を下げる。常日頃、坊や坊やと子供扱いしてくるガルシアを苦手としているニコライだが、今の言葉には素直に頷くことが出来た。
 異教徒に敗れ、その捕虜になった事実は消しようがなく、その不名誉を拭い去るのは容易なことではない。あるいは小アルブケルケから死を賜る可能性もあるが、もしも猶予を与えられたのなら、その時は汚名を返上するために死に物狂いで働かなければならぬ。
 そのためには、敗北を受け容れるところから始めなければならないのだろう。そう考え、ニコライは表情を引き締めるのだった。




 ――ニコライ・コエルホは若くして小アルブケルケに抜擢された俊英である。
 その為人は謹直にして忠誠心にすぐれ、長じれば南蛮軍を背負って立つ人材となるだろうと周囲からは目されていた。
 だが、現時点において、ニコライはいまだ提督の中でも最も経験の浅い若輩者に過ぎない。ことに戦以外の面において、ニコライの洞察は他の提督に及ばない。


 だからこそ――
「卿の幕僚の中で、捕虜となっていた者たちがじきに集まることになっている。新たな旗艦についても、すでに船長には話を通してある。『ファイアル』ほどではないが、あれも良い船だ。同輩として、卿の奮起を期待しているぞ」
「重ね重ねありがとうございます。必ずや提督の期待に応え、殿下のお役に立ってみせます」
 そういって頭を下げるニコライは、この時、気づくことが出来なかった。
 ガルシアが、当初ニコライが抱いていた危惧から、意図的に話を逸らしたことに……




◆◆




(坊やは妙に鋭いところがあるからな)
 ニコライが部屋を辞した後、ガルシアは内心でそんなことを考える。
 一昨日のことだったか、先の錦江湾における海戦について話し合っていた時、ニコライが憔悴した顔で発した言葉が思い出された。
「侵略者を喰らわんとする竜の顎か。まあ、確かにそう見えんこともない」
 机上に置かれた九国の地図を見やりながら、ガルシアはひとりごちる。


 ニコライは先遣部隊を率いてこの国にやってきた時、そんな着想を得たらしい。もっとも、その時は自分の考えに呆れ、すぐに忘却の淵に放り込んだそうだが、今となってはそれは戦の勝敗を告げる天啓であったとも言える。
 案外、ニコライ・コエルホは、そちらの方面にも優れた才を持っているのかもしれない、とガルシアは思う。それは半ば以上はただの思いつきであり、真面目にそう考えているわけではなかったが、それでもわずかでも可能性がある以上、ふとした拍子にガルシアの本心を悟られないものでもない。
 ガルシアが、ニコライの前で小アルブケルケの話題を避けたのはそのためであった。



 ガルシアは南蛮軍に不利益を与える何事かを企んでいるわけではない。ただ、他者に知られれば、そうとられかねない事を考えている、という自覚はあった。
 ガルシアが内心の憶測を口にすれば、ロレンソやコエリョはもとより、ニコライでさえ声を震わせて怒りをあらわにするだろう。
 なんとなれば、それは第三艦隊を率いる小アルブケルケを――


 ガルシアはあごひげをつまみながら、口を開く。
「まったくなあ。もとより今回の遠征に意義なぞ見出してはいなかったが……」
 そう言うと、ガルシアはあごひげから手を離し、両手を頭の後ろで組みなおすと、背もたれに身体をあずけて天井を見上げた。
 もし、ガルシアの推察が的を射ていたのなら、事態は『南蛮軍』という括りさえ意味を為さないものになってしまう。少なくとも、その可能性があるのは確かだった。


 ガルシアにしても、どう動くか思案のしどころであった。ここで選択を間違えれば、ガルシア本人はもちろんのこと、配下の将兵の命さえ異国の魚の餌に変じてしまいかねない。考えて考えすぎるということはないのだ。
 その意味で、今回のロレンソ艦隊の行動は、ガルシアにとって重要な指標となりうるものであった。


 ガルシアは先のニコライの言葉を思い起こしながら、瞼を閉ざす。
「古の昔から、姫君を狙う悪竜の退治は聖人の務めと相場は決まっているが、さて――」
 いずれが、いずれであるのか。そんな呟きは、発した当人以外、誰の耳に入ることもなく、室内の空気に溶けさっていった……







◆◆◆







 大谷吉継は、ふと何かに気づいたように顔を上げる。
 絶えず揺れ動く船体から、自身が乗っている船がムジカを離れたことはすぐにわかった。
 だが、どこに向かっているのかは知らされておらず、今どこにいるのかは尚のことわからない。
 しかし、推測することは出来る。薩摩で南蛮艦隊が敗れたことはトリスタンから聞いており、その混乱の収拾が容易でないことは察せられる。おそらく、この船は薩摩へと向かっているのだろう。


 吉継は脳裏に九国の地図を思い浮かべる。ムジカを離れて、まだ幾日も経っておらず、船がどこかに停泊する様子もない。ということは、この船はムジカと薩摩を結ぶ航路――おそらくは日向灘のあたりを今も進んでいる最中なのだろう。
 灘とは波が荒く、航海に適さない海域を指す。その吉継の知識を補足するかのように、船体が一際強く揺れた。船腹に打ち付ける波濤の音も、心なしか先刻より強く耳に響く。


 余人ならば気に留めることもないであろうほんのわずかな予兆を、しかし、吉継は鋭敏に感じ取る。
 吉継が師より受け継いだのは、人外の能力ではなく、研鑽によって磨きぬかれた知識であり、その知識を活かす術である。
 予兆の示す意味を読み取った吉継は、そっと瞼を閉ざして呟いた。


「……嵐が来ますか」
 軽挙は慎まなければならない。そう思い、吉継は今日までじっと動かずにきた。
 それは他者の助けをあてにして、漫然と時を過ごしていたことを意味しない。脱出の好機が訪れるのを、じっと待ち続けていたのだ。
 むろん、相手が容易にそれを許すとは考えておらず、それゆえにこそ今日まで動かずに来たのだが、慎重も過ぎれば逡巡と同義である。このままゴアに着くまで来もしない機会を待ち続けて過ごせば、大谷吉継の名は愚者の代名詞に成り果てよう。


 そう考える一方で、ここで動いたがゆえに悪しき結末を招き寄せてしまう可能性も少なくない、と吉継は冷静に判断していた。
 吉凶、定かならず。
 ――吉継が決断まで要した時間はごくわずかだった。


 吉継は瞼を開け、静かに断言した。
「吉凶が定かでないのならば、自分の手で吉を掴み取るまでのことです」
 その声が囁くようであったのは、他者に聞かれまいとする用心のためであったろう。室内には吉継以外の人影はないが、どのような仕組みが施されているか分かったものではないのだ。
 だが、その眼差しは。
 紅い瞳に宿る意思の光は、何者にもひけをとらぬほどに強く、激しかった。


 ――勁烈、と称しえるほどに。






◆◆◆


 
 日向国 日向灘


 ムジカを離れ、一路、薩摩へと向かう南蛮国の軍船バルトロメウ。その甲板にあって、トリスタン・ダ・クーニャは先夜の嵐が嘘のように凪いだ海面を見ながら、バルトロメウを襲った昨夜の嵐のことを思い起こす。
 滝のような豪雨に加え、ともすれば体ごと持っていかれそうになるほどの強風が吹き荒れ、船腹にあたって砕けた波濤が雨と共に甲板に降り注ぐ。
 冷たい海水を浴びた水夫たちが、罵声を張り上げながら甲板から水をかき出す一方で、船内では海に慣れていない遣欧使節の少年少女たちが、上下左右に揺れ動く船室の中で金切り声を張り上げる。
 そんな光景が、実に一晩中続いたのだ。


 本来、トリスタンは大谷吉継の監視を任としているのだが、その吉継は室内で大人しくしていた。この嵐の中、船を抜け出したところで逃げようがないのだから、これは当然のことであろう。
 そのため、先夜のトリスタンは遣欧使節の部屋に赴き、様々な意味で惨憺たる状況に陥っていた室内で、彼らの面倒を見ていたのである。



 その嵐も夜が明ける頃にはおさまった。死んだように寝台に横たわっている子供たちの姿を思い起こし、トリスタンは嘆息するように呟く。
「なるべく早く、あの子たちの身体が海に慣れることを願うしかないわね」
 外海では昨夜のような嵐は珍しいものではない。それこそ、あんな揺れが幾日も続くこともあり、船に慣れない兵士の中には、嘔吐を繰り返して命を失う者さえいるのである。
 もっとも、軍船に乗る兵士は厳しい訓練を経ているため、そこまでの事態になることは滅多にない。だが、身体も出来ていない子供たちでは、その限りではなかった。


 バルトロメウにも船医はいるのだが、南蛮の進んだ医術でも船酔いに効く特効薬は未だ開発されていなかった。このため、医師であっても使節団の子供たちのために出来ることには限りがあった。まして医師でもないトリスタンに、子供たちのために出来ることはほとんどない。口にしたとおり、彼らが一刻も早く海に慣れるよう願うばかりであった。


 そこまで考えたトリスタンは、ふと、医師であり、司祭でもある年少の知己の姿を思い起こし、ひとりごちた。
「こういう時、ルイスがいてくれれば心強いのだけれど」
 あの少年はいまだ見習いの身であるが、少なくともトリスタンよりは医療の面で頼りになるし、あの優しい人柄は子供たちにとっても親しみやすいものだろう。ここにいてくれれば、彼らの良き話し相手となってくれたに違いない。
 だが――


 トリスタンの表情が曇ったのは、この時点で未だルイスの無事を知らなかったためだった。ルイスの軍内における立場はドアルテ付きの見習い船医に過ぎず、ガルシアは小アルブケルケへの報告の中で、その無事を告げることはしなかったのである。
(ペレイラ元帥の傍近くに控えるルイスが、元帥が討たれて無事であるとは考えにくい。おそらくは……)
 そう考えたゆえに、トリスタンは表情を曇らせたのである。


 そして、もう一つ、トリスタンが表情を曇らせた理由があった。
 視界の先に広がる九国の大地を見据えながら、トリスタンはそのことについて考える。
(……殿下はいったい何を考えていらっしゃるのか)
 トリスタンは、ムジカを離れることについては、事前に小アルブケルケから説明を受けていた。正確にはカブラエルへの説明を横で聞いていたのだが、ともあれ、今回の行動を採る小アルブケルケの意図は理解している。
 薩摩の残存艦隊を掌握するためにムジカを離れる、という小アルブケルケの目的はトリスタンの考えとも合致するものだった。
 しかし――
(動くならばもっと早く――それこそ元帥敗死の報が届いた段階で動くべきであったのに)


 トリスタンは思う。
 ムジカに敵軍が迫ってからバルトロメウの姿が消える。それはムジカの信徒たちにしてみれば、見捨てられたとしか思えないのではあるまいか、と。
 むろん、小アルブケルケの計画通り、ガルシアらが艦隊を率いてムジカに戻れば、その疑いを一掃することは出来るだろう。だが、果たしてガルシアらが戻るまで、ムジカが持ちこたえることが出来るのだろうか。
 トリスタンは否定的にならざるを得なかった。


 カブラエルは弁こそ立つものの、戦場の機微を知らぬ。おまけに、小アルブケルケはカブラエルに対し、大友家の当主を除くよう使嗾していた節がある。カブラエルがどう考えたかは知る由もないが、篭城の最中、当主の姿が見えなくなれば、その真相はどうあれ将兵の士気は大きく損なわれる。
 ただでさえ、バルトロメウの姿が消えたことで、信徒たちの動揺は避けられないというのに、その上に当主さえ姿を消してしまえば、ムジカの将兵に抗戦の気力が残るかさえ疑問である。戦場を知らないカブラエルが、その事態に対処できるとはトリスタンには到底思えなかった。


 

 ――と、トリスタンがそこまで考えた時、不意に、音をたててバルトロメウの帆が鳴った。わずかに遅れて、強い風が甲板の上を駆け抜けていく。
 潮風になびく亜麻色の髪を左の手でおさえながら、トリスタンは囁くように言った。
「……私が考える程度のこと、殿下がお分かりにならないはずはないのだが……」
 この考えを抱くのはもう何度目のことか。トリスタンは自問しつつ、それでも考えずにはいられなかった。


 このところ――ことにドアルテ・ペレイラ戦死の報が届いてからというもの、小アルブケルケは悪手ばかり打っている。トリスタンにはそう思われてならぬ。
 同時に、それは無理からぬこと、とも思う。小アルブケルケにとって、ドアルテは傅役であり、軍略の師でもあった人物だ。その死を聞いて動揺するのは、人として当然のことであろう。



 ――だが、本当にそうなのだろうか?



 ドアルテの死が伝えられてからこの方、小アルブケルケが死者を悼むところを、トリスタンはただの一度も目にしていない。
 むろん、南蛮軍の指揮官として、小アルブケルケはほしいままに悲しむことは許されない。そんなまねをすれば将兵の士気に関わってしまうからだ。
 ゆえに配下の前では、そういう姿を見せぬように努めているだけ。そう考えるのが当然なのだが――

  
 トリスタンは、小アルブケルケとカブラエルが謀議していた姿を思い起こす。あれは、指揮官として悲しみを律しているというより、そもそも悲哀の感情そのものを抱いていないように見受けられた。
 その考えがトリスタンの脳裏に刻まれたのは、此方に語りかけた小アルブケルケが嘲笑を押し隠したのを目の当たりにした時である。
 悲しみを律して事に当たっている者が、他者を嘲るようなまねをするはずがない……





 その時だった。
「――聖騎士様」
 不意に背後から声をかけられ、トリスタンは驚きをあらわにしないために僅かばかりの自制を必要とした。
 振り返ったトリスタンの視界に映し出されたのは、黒髪黒瞳――すなわち、倭国の少女である。
 といっても、遣欧使節の少女たちではない。今なお船室で苦しんでいる彼女たちと異なり、トリスタンの前に立つ少女は先夜の嵐の影響を微塵も感じさせず、たおやかな笑みを浮かべて佇んでいる。


 その笑みを見て、トリスタンは眼前の少女が、このところ小アルブケルケの寵愛を受けている少女と同一人物であることに思い至る。
 すると、まるでトリスタンがそのことに気づくのを待っていたかのように、少女は深々と頭を垂れながら用向きを告げた。
「殿下がお呼びでございます。お部屋までお越しくださいますよう」
「……承知した。すぐに参る」
 トリスタンの返答を聞いた少女は身を翻し、トリスタンを先導するように歩き出す。


 その背を追おうとしたトリスタンは、つかの間、自分でもわからない理由で躊躇してしまう。
 だが、すぐにかぶりを振って内心のためらいを払うと、甲板に歩を踏み出した。
 小アルブケルケの呼び出しを無視するなど許されるはずがなく、また、あえて無視する理由もない。それどころか、疑念をただすにはちょうど良い機会ですらある。
 そう思い直し、トリスタンは歩き出す。先を歩く少女は、トリスタンの一瞬の躊躇に気づいた様子もなく、腰まで届く黒髪を風になびかせながら、ゆっくりと甲板の上を歩いていた……




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第九章 杏葉(十)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:71906f0a
Date: 2011/10/02 20:06

 トリスタンはゴア総督たる大アルブケルケが第三艦隊を設立した際、その命令によって小アルブケルケの麾下に属した。
 小アルブケルケは配下の人間と親しく語らう為人ではなく、両者の関係は命令をする者とされる者のそれであり、個人的な情誼は存在しない。
 だが、それでも短からぬ歳月、第三艦隊に属して戦ってきたトリスタンは、小アルブケルケが父の威光にすがるだけの愚者ではないことを承知していた。


 小アルブケルケの戦に対する姿勢は、ドアルテに全権を委ね、自身はドアルテが十全に指揮を揮えるよう飾り物に徹する、というものである。
 いまだ散見される小アルブケルケの無能論はこのあたりに端を発するのだが、小アルブケルケはドアルテに戦の指揮を委ねる一方で、ニコライのような優秀な若者を抜擢し、元傭兵のガルシアを提督に引き上げ、女性であるトリスタンとロレンソに重任を与えるなど、積極的に人材を登用してきた。
 トリスタンは聖騎士として、ロレンソは父の名声と自身の才覚により、南蛮軍でも相応に名が知られていたが、指揮官として軍上層部に席を与えられたのは、第三艦隊に属して以後のことなのである。


 父の大アルブケルケのように、自ら陣頭に立って敵軍を蹂躙するような分かりやすい武勲ではないゆえに、その真価を知る者は多いとは言えぬ。
 だが、その後の第三艦隊の活躍ぶりを見れば、小アルブケルケの人材を見抜く目の確かさは明白である。
 軍将として見た場合、小アルブケルケは大アルブケルケよりも配下を活用する術を知る。それがトリスタンの、小アルブケルケに対する評価であった。





 バルトロメウの最後尾に位置する船長室。
 小アルブケルケに呼び出されたトリスタンは、室内に入り、わずかに歩を進めてから跪いて頭を垂れた。
「トリスタン、参りました。ご用向きをお伺いいたします、殿下」
「気忙しいな。だが、愚にもつかぬ礼儀に時を費やすよりはよほど良い」
 小アルブケルケはそう言うと、特に構えることもなく、あっさりと用件を口にする。
 大谷吉継を連れて来い、と。


 トリスタンが応じるまで、ほんの一呼吸ほどの間があった。
「……何故、今この時に、とお訊ねしてもよろしいでしょうか?」
「今、この時だからこそ、と答えようか」
 小アルブケルケの返答を受け、トリスタンは伏せていた顔を上げ、小アルブケルケの面上に視線を注ぐ。


 黄金を溶かしたかの如き髪と、遠洋の海面を思わせる深い青の瞳。顔立ちは端整の一語に尽き、容姿が時に人の上に立つための要素になりえるという事実を、無言のうちに証拠立てるかのようである。
「どうした、何をためらう? 他に何か質したいことでもあるのか」
 そう口にする小アルブケルケの表情は平静そのもので、特段苛立たしげな様子は見受けられない。トリスタンに向けられた眼差しは、常は迅速に命令に従う配下のためらいを興がるように細められていた。


 トリスタンは再び顔を伏せ、小アルブケルケの問いに応じる。
「……は。大谷殿をお連れする前に、殿下の御意を得たく存じます」
「許す」
「ありがたき幸せ」
 頭を下げたトリスタンは、かねてよりの疑念を質すために口を開く。
「お訊ねしたき儀は此度の戦についてでございます。先の布教長とのお話はうかがっておりましたので、殿下のお考えは承知しております。しかし、薩摩における敗戦により、わが軍は人的、物的に多大な損害を被りました。これにより、当初想定していた戦果を得ることはきわめて困難になったと推察いたします。薩摩より一度手を引き、ガルシア卿らの艦隊をもってムジカを保つ――それが殿下のお考えでありますが、言うをはばかることながら、布教長の力ではガルシア卿らの来援までムジカを保つことは難しいものと思われます。また、仮に間に合ったとしても、それは一時のこと。彼の地を長く南蛮の領土とすることは至難の業ではないか、と」


 トリスタンがそこで言葉を切ったのは、小アルブケルケの叱声に備えてのことであった。
 トリスタンが口にした『想定していた戦果』とは、この国の征服に先立つ九国制圧を指す。現在の戦況、そして南蛮軍の戦力を鑑みれば、その遂行は不可能に近い――遠征軍総司令の眼前で、トリスタンはそう言明したのである。
 また、ムジカを長く保持することは出来ないだろうというトリスタンの意見は、すなわち、あの都市で小アルブケルケが口にした策を否定することにつながる。小アルブケルケが激怒したところで何の不思議もなかった。




 だが、トリスタンの予測ないし危惧とは裏腹に、小アルブケルケは声にも、また表情にも怒りを示さなかった。
 肘掛に乗せた右手をあごにあてた小アルブケルケは、じっとトリスタンの言葉に耳を傾けている。黄金と翡翠をちりばめた、それ一つで一財産になるであろう豪奢な椅子に腰を下ろし、脚を組んで話に聞き入る姿は、まるで一幅の絵画を見るようだった。
 その傍らでは、先にトリスタンを案内した黒髪の少女が潤んだ眼差しを小アルブケルケに向けている。


 やがて、小アルブケルケはゆっくりと口を開いた。 
「貴様の言の正否はさておき、今の言葉はただの現状の分析に過ぎぬ。訊ねたいこととは何か」
「……は、殿下が現在の戦況をどのように考えておられるのか、それについて伺いたく存じます。また、私の推察に誤りがあるのであれば、ご指摘をいただきたく」
「ふむ、なるほどな」
 小アルブケルケは納得したように頷くと、あっさりと言った。



「指摘するべき誤りなどない。貴様の推察は正鵠を射ているよ、トリスタン」



 あえて付け加えるならば、と小アルブケルケは言葉を重ねる。
「ガルシアらが赴くまで、カブラエルがムジカを守りきるなどということは万に一つもありえぬ、ということか。貴様はあれの将器を指してそう言ったのだろうが、それ以前に艦隊をムジカに行かせるつもりなど私にはない」
 そもそも艦隊は救援には向かわない。ゆえに、艦隊の救援までムジカを守りきるなど不可能。『万に一つもありえぬ』とはそういうことだ、と小アルブケルケは口にしたのである。





 その言葉の意味を理解したトリスタンは息をのむ。トリスタンが次の言葉を発するまで、しばしの時間が必要だった。
「……殿下、仰る意味がわかりかねます。布教長に対し、ガルシア卿らが向かうまで聖都を守れと命じたは殿下ではございませんか?」
 トリスタンの問いに小アルブケルケは答えなかった。だが、それはことさらごまかしているわけではなく、ましてや自身の言葉を忘れ去ったわけでもない。トリスタンに向けられた小アルブケルケの眼差しは微塵も揺らいでおらず、言葉よりもはるかに明確に小アルブケルケの内心を代弁していた。


 トリスタンの唇から、重く低い声が押し出される。
「……殿下は、布教長を欺かれたのですか?」
「そうだ」
「何ゆえにそのような……」
 この時、咄嗟にトリスタンの脳裏に閃いたのは『捨て駒』という言葉だった。
 だが、小アルブケルケの答えはトリスタンの予測を超える。
「褒美だよ。功をたてた者に褒美を与えるは貴族の義務であろう」


 はじめて。
 トリスタンは小アルブケルケの意図を測りかねた。
 偽りをもってムジカに押し留め、押し寄せる敵軍の相手をさせる。それは褒美ではなく、罰ではないのか。
 口には出さないトリスタンの思いを読んだのだろうか。小アルブケルケはどこか愉しげに口元を笑みの形に動かし、告げた。
「カブラエル『への』褒美ではない。カブラエル『が』褒美なのだ」
「……は? 殿下、何を……」
 戸惑うトリスタンを見て、今度はよりはっきりと、小アルブケルケはくつくつと嗤ってみせた。
「貴様とて無関係ではないのだがな、トリスタン。直接ではないにしろ、高千穂での貴様の行動が、南蛮軍を敗北へと導く一つの因となったのだから」




 それを聞いた瞬間、トリスタンは身体を強張らせた。
 小アルブケルケが何を言わんとしているかは明らかだった。トリスタンが高千穂において、小アルブケルケの命令を破り、彼の地の異教徒や寺社仏閣に手を出さずに信徒たちを退かせたことに言及しているのだ。
 トリスタンとしては、吉継との約定を守るために必要な措置であったのだが、高千穂に同行したカブラエル配下の宣教師たちからは最後まで執拗な非難を浴びた。実際、小アルブケルケから受けた掃討の命令に反していることは確かであったから、理は彼らの方にあったであろう。
 宣教師たちは間違いなくカブラエルに事の次第を報告したはずであり、カブラエルは小アルブケルケにその事実を伝えるはず。
 そう考えたから、トリスタンはみずからその旨を小アルブケルケに伝え、処分がくだされるのを待ったのである。


 しかし、小アルブケルケはトリスタンを罰しようとはしなかった。これにはカブラエルも驚いていたようだったが、より驚いたのは当のトリスタンである。
 ――吉継に執着しているのは小アルブケルケではなく、父の大アルブケルケである。父王からの命令は小アルブケルケにとって絶対的であり、過程はどうあれ、結果としてトリスタンはそれを果たした。その功績をもって罪を免じることにしたのだろうか。


 トリスタンは小アルブケルケの内心をそう推測したが、実際に確かめることはしなかった。
 二人に敵意を持つ者が、吉継を害する可能性は絶無ではない。トリスタンが罪に問われた場合、吉継の身柄は当然、別の人間の手に委ねられる。そして、その人物が吉継に害意を持つ人間ではないという保障はどこにもないのだ。
 ゆえに、小アルブケルケの気まぐれで罰を免れたのであれば、それはそれでよし――トリスタンはそう判断したのである。




 それを今この時に持ち出す意図は何なのか。
 トリスタンは緊張を余儀なくされたが、それは高千穂における違命を責められることを恐れたというより、今の小アルブケルケの言葉に潜む、無視し得ない意味に気づいたからであった。
『高千穂での貴様の行動が、南蛮軍を敗北に導く一つの因となった』
 この言葉は、小アルブケルケがすでにして南蛮軍の敗北を受け容れていることを意味する。
 そして。
『褒美だよ。功をたてた者に褒美を与えるは貴族の義務であろう』
(褒美、といった。カブラエルが褒美である、と。何故、自軍を討ち破った相手に対して褒美を与えるなどという言葉が出てくる?)


 そんなトリスタンの疑問が聞こえたわけでもあるまいが、小アルブケルケはつい先ほどの笑いの余韻を残しながら、言葉を発した。
「彼奴らにとって、カブラエルは憎んでもあきたらぬ仇であろうからな。カブラエルにしても、己のすべてをかけて築き上げた聖都で果てることが出来るのならば本望であろう」
 そう語る小アルブケルケはいつになく上機嫌であり、いつになく饒舌であった。少なくともトリスタンの目にはそう映った。
 その姿をトリスタンは凝視する。貴人の姿を凝視するのは礼を失することなのだが、今はそんなことを気にしている場合ではない。


 トリスタンはムジカを離れる寸前の小アルブケルケとカブラエルの謀議を思い起こす。
 ガルシアらの名を出すことでカブラエルの希望を繋ぎ、大友家当主に言及することで南蛮軍によるムジカの直接支配を使嗾した。
 ただ、カブラエルをムジカに留め置くためだけに、あのやりとりを為したのか。
 だが、それではまるで……




「率直に言って、意外であったな」
 小アルブケルケの声で、トリスタンは思索の海から引き戻される。
「意外、とは」
「貴様がまだ気づいていなかったことがだよ。貴様が私の行動に疑問を抱いているのはわかっていた。一度疑問を抱いたのなら、すぐにも気づきそうなものだが……」
 そこまで言って、小アルブケルケは小さくかぶりを振った。
「いや、貴様の為人では想像もつかないか。中途で変心したわけではないゆえ、かえって貴様が気づく機会はなかっただろうしな。私はな、トリスタン、貴様が麾下に加わってから今日まで、南蛮国の勝利を望んだことなどただの一度もない」
「な……ッ?!」
「この事実を推測に組み込めば、貴様のことだ、おおよそのことは理解できるだろう」


 小アルブケルケの言葉は正鵠を射ていた。
 小アルブケルケが南蛮軍の勝利を望んでいなかった。その一事が明らかになれば、これまで抱いていた疑念の大半に答えが見出せる。
 だが、わからないこともあった。
 インド副王、ゴア総督を兼ね、南蛮国の東方支配の象徴ともいえる大アルブケルケの正嫡たる小アルブケルケが、南蛮国の勝利を望まないその理由である。




◆◆




 何故。
 そう問いかけてくるトリスタンに対し、フランシスコ・デ・アルブケルケは沈黙をもって応じた。
 父との間に深刻な不和や確執があったわけではない。廃嫡を言い渡されたわけでもなく、父の統治に限界を見た末に涙をのんで造反を決意したわけでもない。そんなもっともらしい理由はどこにもなかった。
 にも関わらず、長じてゴアの軍事力の一部を預けられるに至った時点で、子はすでに父の排除を決意していたのである。


 強いて理由を挙げるならば。
 父アフォンソ・デ・アルブケルケこそ南蛮国の東方支配の象徴。南蛮軍の勝利とは、すなわちあの父の武勲と名声が増し、その支配が強まることに他ならぬ。
 フランシスコ・デ・アルブケルケにとって、それが否定されるべき現実であった、というだけのこと。
 その思いが根ざす土台は何なのか。権力欲といえば権力欲であろうし、自尊心といえば自尊心だろう。きっかけさえ忘れた父への反抗心、その延長であるかもしれないし、あるいはそれら総てかもしれない。
 だが、そのいずれであれ、ゴアの若き王子が、父への造反を決意した事実を覆すものではない。小アルブケルケは望まぬ現実を変えるために行動を始めたのである。


 一方で、小アルブケルケは自分の望みが容易にかなうものではないことを理解していた。
 相手は南蛮国の英雄、軍神大アルブケルケである。
 人望、武力、知識、経験、どれをとっても小アルブケルケは父に及ばない。正面きっての反逆など論外。謀略をもって父を王の座から蹴落とすことも不可能に近い。
 そもそも、小アルブケルケがどの手段を選んだとしても、大アルブケルケに迫ることすら容易ではないのだ。何故なら、小アルブケルケの傍には、常にドアルテ・ペレイラがいたからである。


 ドアルテは小アルブケルケの傅役であったが、それ以上に大アルブケルケの股肱であり、そしてなにより南蛮国の安寧を第一とする兵であった。
 大アルブケルケが倒れれば、南蛮国が乱れるのは誰の目にも明らかであり、兵と民とはいつ果てるとも知れない戦火で焼け出されることになる。それが明白である以上、ドアルテは小アルブケルケの背信を知った段階で、あらゆる情を押し殺して主君の子を斬り捨てることだろう。


 大アルブケルケを除くことで、南蛮国がより安定する。そんな施策を打ち出せれば、あるいはドアルテを説き伏せることが出来たかもしれない。が、そんな都合の良いものがあるはずはなく、結果、小アルブケルケはドアルテの傍らで南蛮国の転覆を画策するという、氷刃の上を歩くにも似た綱渡りを余儀なくされる。


 とはいえ、小アルブケルケは乾坤一擲の気概をもって父王に挑むつもりはなかった。父の支配を覆す意思に変わりはないが、己の命やら運命やらをかけて挑む必要は認めない。
 ゆっくりと、だが確実にその支配の土台を蝕み、食い荒らし、自らの重みで沈みゆく父の様を嗤ってやろう。表立って動くのは、彼我の戦力差が完全に逆転したその時である……



 大アルブケルケが自身の矜持を面上に漲らせ、覇道を歩んで今日まで来たのとは対照的に、小アルブケルケはそれを心の奥深くに秘め、詭道を歩んで目的を果たさんとした。
 あるいは、この父子はとても似ていたのかもしれない。その表し方はおおいに異なるものであったけれども、理由の如何を問わず、自分の上に誰かが立つことを許容できない、という一点において二人は共通するものを持っていた。






 小アルブケルケが若い人材を抜擢してきたのも、突き詰めればこのためだった。
 壮年以上の者たちは大アルブケルケに対する畏怖ないし忠誠の念が強すぎるが、若者であればその弊はない。彼らに恩を売り、機会を与え、自らの股肱として育て上げる。
 経験の浅い彼らがしくじって南蛮軍が敗れたとしても問題はない。何故なら実質的に第三艦隊を率いるのはドアルテであるからだ。無論、小アルブケルケも罪を免れないが、ドアルテの為人を知っていれば、あの元帥が敗北という事態を前にどう行動するかは容易に予測できる。みずから責任をとって命を絶ってくれれば御の字というものだった。


 また、今回の遠征において、大谷吉継を捕らえるためにトリスタンを提督から直属の騎士としたのも、小アルブケルケの策動の一つ。
 結果として、ドアルテは信頼できる提督を一人失い、採り得る作戦行動の幅はおのずと狭まった。トリスタンのように人格的にも能力的にも安定している提督を失うことの不利益は言を俟たない。
 くわえて、ロレンソは小アルブケルケが自分よりもトリスタンを選んだことで動揺し、その動揺が他者への敵意に変じて第三艦隊の中に不和を生じさせた。これもトリスタンがドアルテ麾下に残っていれば起こりえなかったことである。


 仮にドアルテやトリスタンがこの人事に異を唱えたとしても、小アルブケルケはこう言えば良い。
 すべては父王の命令を果たすためである、と。
 異国の娘一人を捕らえるために提督級の人材を投入する。それはトリスタンにとって役不足の観を拭えないが、万に一つの失敗もないようにするためだ、と言われれば反論も難しい。
 また、南蛮と倭国の戦力差を考えれば、トリスタン一人が欠けたところで勝敗に影響を及ぼすはずがない――それが当然の認識というものであった。
 事実、ドアルテは多少渋い顔をしながらも、トリスタンが別行動をとることに反対は唱えなかったのである。


 改めて言うまでもなく、トリスタンの離脱が南蛮軍の敗北に直結したわけではない。だが、たとえわずかであっても、この布石が勝敗の天秤に影響を与えたことは事実である。
 一方で、この命令から小アルブケルケの叛心を察することは不可能に近い。小アルブケルケは父王の命令という誰も異議の唱えようのない名分を掲げ、それを誠実に果たすために動いていたのだから。




 ――つまりは、これが小アルブケルケのやり方だった。
 滾るような野心をもって、父王に反逆するわけではない。
 凍えるような覚悟をもって、南蛮軍の敗北を画策するわけではない。
 南蛮軍の敗北を望みつつ、勝とうが負けようが小アルブケルケ自身は何一つ傷つかず、責を負わない。そういう距離を常に保つ。


 野心家と呼ぶには保身が過ぎ、策謀家と呼ぶには小心に過ぎる。このやり方を採る限り、小アルブケルケの行動には明確な限界が生まれてしまう。
 しかし、それはそれで構わないのだ。南蛮軍の勝利は父王に益し、小アルブケルケを落胆させるが、一方で小アルブケルケ自身の名声と実力も確実に増していく。それは父王を凌ぐために欠かせないものなのである。




 今回の戦いで、小アルブケルケが大谷吉継を捕らえた理由も、すなわち保身だった。
 南蛮軍が勝利した場合、吉継の身柄を父王の下へ送らなければ、小アルブケルケが罰せられてしまう。トリスタンほどの人材を投入して、失敗しましたで済むはずがない。


 もっともこれに関しては、失敗したら失敗したで別に構わない、とも小アルブケルケは考えていた。
 そも、吉継の身柄は南蛮国の戦略とは何の関わりもない。失敗したからとて公に罰することは出来ないのである。
 むろん、大アルブケルケの不興を買えば、小アルブケルケとてただでは済まないが、一国の軍事行動に際し、自らの子に私欲に基づいた命令を与え、その挙句、失敗して息子を処罰したなどという事実が知れ渡れば、軍神の名声に傷がつく。それはそれで、小アルブケルケにとっては悪くない結果といえる。
 処罰が自身の想定を超えるようであれば、トリスタンやカブラエルに責任を押し付けることも出来る――そう考えたからこそ、小アルブケルケは雲居らが薩摩へ向かった際、吉継に危害が加えられる危険を承知の上で、平然と油津への砲撃を命じることが出来たのである。




 では、トリスタンが吉継を捕らえて帰還した後、吉継に一切の危害を加えなかった理由は何かと言えば、これもまた保身であった。
 島津の手で処断されたのならまだしも、一度、獲物を掌中に入れてしまえば、これを害することはかえって危険だった。下手なことをすれば、父王はおろかトリスタンをはじめとした配下にまで不審を抱かれてしまう。
 ある意味で、吉継は虜囚となったゆえに小アルブケルケの害意を免れることが出来たのだ。


 逆に言えば、小アルブケルケは吉継に対してその程度の関心しか抱いていなかった、ということでもある。 ゆえに、高千穂でのトリスタンの違命を不問としたのは、吉継の世話を任せるのにトリスタンが適任であったから、などという理由ではない。
 そもそも、小アルブケルケはトリスタンが命令に従わない可能性をはじめから考慮していた。というより、おそらくは従わぬだろうと考えていた。
 にも関わらず、あえて高千穂掃討の命令を出したのは、トリスタンの違命の事実を握るのに良い機会だと考えたからである。
 トリスタンはかつて大アルブケルケの直属であり、さらに教会から聖騎士に任じられた人物。小アルブケルケの独断で処理するにはいささか問題がある相手なのだ。


 だが、明確な命令違反を犯した事実があれば、しかもその命令が異教の掃滅という名分を備えたものであり、これにトリスタンが従わなかったのであれば、小アルブケルケの独断でトリスタンを処断するに十分すぎるほどの理由となる。
 そして、トリスタンが見逃した者たちの口から、高千穂における南蛮軍の行動が知れ渡れば、カブラエルにいいようにかき回されているこの国の民とて反抗に転じよう。それはそれで、南蛮軍を追い詰める要因となりえるのだ……




◆◆




 父王の命令。異教徒の討伐。様々な大義名分を掲げながら、小アルブケルケは己の目的を果たすために敗北の種を蒔き続けた。
 ――ただ、と小アルブケルケは口を開く。
「まさか私もドアルテが討たれるとまでは考えていなかった。この国の複雑な地形では重装備は枷になり、火器も大した意味を持たなくなる。それゆえ、戦いが長期化することは予測もし、期待もしていたのだがな」
 そう言いながら、小アルブケルケは左の手で、控えていた少女の髪を撫でる。その動作が、小アルブケルケにこの国の情報をもたらした者が誰であるかをトリスタンに告げていた。
 考えてみれば、小アルブケルケの下にはこの国の人間が何人もいる。彼らは南蛮の言語をもって、小アルブケルケに母国の情報を事細かに教えていたのであろう。
 あるいは小アルブケルケは、カブラエルやコエリョよりもはるかに倭国に通じているのかもしれない。


 その両者を見据えるトリスタンの視線が鋭くなったのは、無理からぬことであったろう。自然、トリスタンの声は低くなる。
「……それゆえの褒美、ですか」
「そうだ。これまでは私がどれだけ敗北の種を蒔こうとも、ことごとくドアルテによって刈り尽くされてきた。それを思えば、この国の者どもはまことによくやったよ。どれだけ褒賞を積んでも足りぬところ。ゆえに最も欲しているであろうカブラエルの命をくれてやったのだ」
 南蛮艦隊を討ったのは島津であり、カブラエルを憎むのは大友である。小アルブケルケは両者の区別がついていないのだろうか――そうではなかった。


「『敵国の民を案じる心があるならば、より以上に自国の民を案じるだろう』」
 その言葉を聞いた瞬間、トリスタンは目を見開いた。それは、トリスタンが雲居筑前の口から聞いた言葉であったから。
「……何故、それを」
「あの場にいたのは貴様だけではあるまい。カブラエルから聞かされた時は失笑を禁じえなかったが、まさか本当に艦隊を燃やしてくれるとは思わなかった。しかもドアルテごと。ふふ、ムジカでの事といい、雲居とやらはカブラエルにとって天敵であったようだな」


 そう言うと、不意に小アルブケルケは椅子から立ち上がり、壁際に据えられている書棚に歩み寄った。
 そこに収められていたバルトロメウの航海日誌を取り出しながら、小アルブケルケは言葉を続ける。
「この国の制圧に手間取れば手間取るほどに、かかる戦費は膨れ上がっていく。ゴアの富をもってしても、この遠征軍を支えるのは容易ではない。本国の者たちが付け入る隙も生まれるというものだ」


 何気ない小アルブケルケの言葉。だが、その意味するところはトリスタンならずとも気づくことが出来たであろう。
「……まさかッ」
 小アルブケルケの造反。その予想だにしない根の深さを感じ取ったトリスタンの驚きの声を受け、小アルブケルケは小さく嗤う。
「第三艦隊は蛮族に敗れ、ドアルテは死んだ。ドアルテの死の意味が、ただ一軍人の死にとどまらないことは貴様とて理解していよう。しかし、遠征は終わらぬ。終わらせぬ。何故ならば、父からの命令は倭国の制圧であり、それは未だ果たされていないからだ。果たしてどれほどの兵と財をつぎ込めば、この失態を埋められるのかな。軍事的にも、財政的にも、ゴアの根幹を揺るがすには十分すぎる出来事だ」


 ――そして、大アルブケルケの支配を突き崩すには十分すぎる失態だ。
 それは、トリスタンの耳ではなく心が聞き取った小アルブケルケの本心であった。
 


◆◆



 そっと。無意識のうちに剣の柄へと伸びかけた手を、トリスタンは意思に力で押さえつける。
 だが、手は押さえても、言葉を抑えることはできなかった。小アルブケルケの言葉は、トリスタンにとって到底座視できるものではなかったのだ。
「第三艦隊の指揮官は殿下でございます。殿下お一人が敗北の責を免れることはできますまい」
「先の敗戦の責はドアルテのもの。何故なら私は父の命令に従い、やむを得ずに艦隊を離れていたのだからな。仮に私に罪ありとするならば、公私を混同した命令を下し、総司令官を本隊から引き離した者の責はそれを上回る――本国はそう判断するだろう。いずれであれ、私にとっては悪くない結果だ」
「……本国の宮廷狐どもが、殿下の思い通りに動くとお考えですか」
 それを聞き、小アルブケルケは小さく肩をすくめた。
「彼奴らが何を考えようと知ったことではない。利用できる間は利用するまで。当然、向こうも同じことを考えていようがな」
「ですが――」


「トリスタン」
 なおも硬い声で口を開きかけたトリスタンを遮るように、小アルブケルケは手にしていた航海日誌を書棚に戻すと、刺すような眼差しでトリスタンを見据えた。無駄話は終わりだ、とでも言うように。
「何故、私がこのような話をしたのか、すでに察していよう。貴様は父によって強いられて故国を離れ、身を穢されぬよう処女の祝別を受け、生涯、子を産めぬ身となった。その挙句、望まぬ戦に駆り出され、多くの血で手を汚し、聖騎士などと呼ばれるようになった。一つとして、貴様自身が望んだものはなかったはずだ。父への恨みは骨髄に徹しているのではないかな?」
 大アルブケルケを恨むのであれば、自分の企みに加われ。
 トリスタンは小アルブケルケの言葉をそう受け取った。



 
 ――たしかに。
 トリスタンは大アルブケルケに対し、心底から忠誠を誓っているわけではない。
 しかし、その存在が南蛮国を支える強く太い柱であることは認めていた。大アルブケルケが倒れれば、ゴアを中心とする東方の南蛮領はおろか、本国も激震に襲われるだろう。
 そうなれば、これまで大アルブケルケの武威を恐れて慴伏していた大小の国々は一斉に南蛮国に牙を剥くであろうし、大アルブケルケを失った南蛮軍ではこの反抗の波濤を防ぎとめることは出来まい。


 この動乱によって苦しむのは貴族や領主だけではない。南蛮軍が敗れた場合、本国はまだしも、ゴアやその周辺に暮らす一般の南蛮人たちがどのような目に遭うかは想像に難くなかった。そこにはトリスタンの故郷も含まれるのである。
 大アルブケルケに対する恨みや憎しみがないと言えば嘘になる。あの男に奪われた、ありえたであろう未来に未練がないはずがない。
 だが、最終的にトリスタンは自らの意思で大アルブケルケに仕えることを肯ったのだ。選択肢などあってないようなものであったが、それでもトリスタン自身の決断には違いない。小アルブケルケが口にしたことは、トリスタンにとって昔日の苦悩に過ぎなかった。


 まして、小アルブケルケの造反は、ただ彼個人を満足させるだけのもの。
 自らは安全な場所を動かず、人や物を弄んで勝敗の天秤を揺り動かすそのやり方は、トリスタンに生理的な嫌悪感をもたらすだけだった。
 熱も光もない、常温の悪意。
 そんなものを共有するつもりなど、トリスタンには微塵もない。




 だが、ここで否と答えて無事に済むはずがないこともトリスタンは察していた。ここまではっきりと内心の叛意を口にした以上、小アルブケルケはトリスタンが首を横に振れば、先の違命の件を持ち出して処断しようとするに違いない。
 ここは海上、乗っている船は小アルブケルケのものであり、トリスタンに逃げ場はない。
 ここに来て、トリスタンは自分が完全に追い込まれていたことを自覚する。


 そして。
 トリスタンがその自覚を得るのを待っていたかのように、小アルブケルケはゆっくりと、一歩一歩トリスタンに近づく。
 応じて、咄嗟の行動に備え、全身に力をこめたトリスタンの耳に、小アルブケルケの声が響いた。
「返答を聞こうか、トリスタン・ダ・クーニャ」 
 トリスタンは小アルブケルケに表情を察されないよう顔を伏せ、何かを悔やむようにわずかに唇を噛んだ。
 だが、その表情がトリスタンの顔を覆ったのはほんの一瞬だけ。次の瞬間には、トリスタンは顔を上げ、面上に決意を漲らせ、決然と返答しようとして――






 ――火薬が炸裂するその音は、いっそあっけないほどに小さかった。






 しかし、その音と共に撃ち出された銃弾をまともに食らったトリスタンにとって、その事実は何の意味も持たない。
「……グッ?!」
 銃弾が抉ったのは、トリスタンの右の肩口。致命傷には至らぬ部位だが、撃った人間はトリスタンを即死させるつもりはなかったのだろう。いかにエスパーダの称号を得た武人とはいえ、肩口を撃ちぬかれては、痛みで満足に手を動かすことが出来ない。当然、剣を操ることも出来ない。それを狙ったのだろうと思われた。


 突然の不意打ちであったが、トリスタンは無様に床を転げまわったりはしなかった。苦痛の声をもらしながら、咄嗟に自分を撃った相手を睨み据える。
 小アルブケルケではない。今なお短筒を構えたその人物は、黒髪も美しい倭国の少女だった。
 トリスタンは小アルブケルケの動きには注意を払っていたが、少女に対しては完全に意識の外にあったのである。
 それは油断といえば油断であったろう。だが――


 歴戦の兵でさえ正視しかねるであろうトリスタンの勁烈な眼光を正面から受け止め、少女は微動だにしない。それは少女の優れた胆力を示すものであったろうか。
 トリスタンにはそうは思えなかった。
 何故なら、筒先をこちらに向けている今この時でさえ、トリスタンは少女の目から殺意も敵意も感じとることが出来ないのだ。少女の黒い瞳は硝子玉のように透き通り、まるで……



「貴様が私の誘いに頷くとは思っていなかった。それでも可能性がないわけではない。そう思って語らってみたのだが……先刻からの様子を見れば、やはり答えを聞くまでもない」
 肩だけでなく、腕全体を覆うような激痛をこらえつつ、トリスタンは歩み寄ってくる小アルブケルケに視線を向ける。その顔を彩る嘲笑を見て、トリスタンは総てが――この部屋に呼び出されたその時から、すべてが小アルブケルケの思惑の内にあったことを悟った。


「でん、か。あなたは……」
「素直にあの人形を連れて来たら、また話は違ったのだが……いや、貴様のことだ。あの人形が犯され、壊されるのを見れば、どの道、同じような結果になったか」
 愉しげな小アルブケルケの声。トリスタンは激痛に苛まれながら、その意味を考える。
 しかし、トリスタンが答えに行き着くよりも早く、小アルブケルケは答えを口にしていた。


「ドアルテの死により、もはや父の命令を果たす必要はなくなった。人形は父へのあてつけに飼ってやろうかとも思っていたが、それよりはドアルテを討った手並みを買ってやろう。狂うほどに犯し抜いた末、四肢のうち三つばかりを削いで薩摩の地で晒してやる。手を触れることさえ許さぬと言った娘がそのような目に遭えば、ふふ……焼き尽くしてもらおうではないか。灰燼に帰してもらおうではないか。王も、民も、兵も、宣教師も、ゴアも、本国も、貴様の故郷も、ことごとく。東方の蛮族がどこまでやってのけるのか、実に楽しみだ」
「きさ、ま……ッ」
 それを聞き、トリスタンは確信した。父を凌ぐかつてない好機を前に、小アルブケルケが保身という名の自制を取り払ったことを。
 思えば、ドアルテ敗死の報が届いてから今日まで、小アルブケルケはずっと哄笑を押し隠して過ごしていたのだろう。すべての言動が、その事実を示して余りある。
 だが、今になってそうと悟ったところで、トリスタンに出来ることは何一つ残っておらず。


「そのためには、そろそろ手をつけねば間に合わぬのでな」
 言いながら、小アルブケルケは腰間の剣を抜き放つ。
 咄嗟にトリスタンも剣を抜くべく利き腕に力をこめるが、肩口から全身を貫くようにはしった激痛のため、柄を握ることさえ容易ではない。
 トリスタンの傍らまで歩み寄った小アルブケルケは、冷めた眼差しでその様を見下ろし、無造作に剣を振り上げた。
 そして――



「さらばだ、聖騎士」



 無造作に振り下ろした。
 室内に響く刃鳴りの音。肉を絶つ鈍い音が、それに続いた。




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第九章 杏葉(十一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:7a1194b1
Date: 2011/10/22 23:24

 トリスタン・ダ・クーニャが故郷の景色として記憶しているのは、二つの青である。
 果ての見えない抜けるような空。水平線の彼方まで続く澄み切った海。
 物心つく前から、毎日のように見ていた故郷の空と海を、トリスタンは今なお昨日のことのように思い出すことが出来る。
 トリスタンの生家は、ゴアを中心とする南蛮国の東方領、その中でも中程度の町を治める領主であった。南蛮軍がゴアを陥落させてから、すでに数十年。領主の座は祖父から父に移り変わり、トリスタンは生まれも育ちも東方領である。南蛮軍に侵略され、土地を奪われた者たちにとっては業腹であろうが、トリスタンにとっては本国ではなく、東方領こそが故郷であった。


 トリスタンは他の女の子と異なり、歌や踊り、あるいは刺繍といったものに一向に関心を示さず、男の子たちにまぎれて野山を駆け、あるいは海辺で泳ぐなど、一日のほとんどを家の外で過ごす幼年時代を送る。ある時など、幼馴染の少年と共に、数にして三倍を越える男の子たちを二人で叩きのめすなどして武勇を轟かせ、両親に苦笑されたりもした。
 南蛮では明国や倭国と異なり、女性が武の道へ進むことはほとんどない。ましてれっきとした領主の娘であれば尚更である。だが、その点、トリスタンの両親は非常に大らかであり、もっと率直に言ってしまえば、とても暢気な人たちだった。祖父にいたっては、幼いトリスタンに手ずから剣を教えた張本人であったりする。


 元々、祖父は南蛮の東方攻略軍において武勲をあげて領主となった人物で、武芸以外に秀でたところはない、自ら認めるような為人であった。
 領主時代から政治や経済に関しては息子――つまりはトリスタンの父に委ね、自らは叛乱の討伐や盗賊退治などに明け暮れており、南蛮の統治が固まるにつれてそういった荒事が減ってくると、今度はあっさりと領主の座を息子に譲り渡してしまう。
 これまで息子たちに任せきりにしてきた仕事に口や手を出しても疎まれるだけであろう――祖父はそう笑いながら、屋敷の一画に設けた隠居部屋で、時間をもてあます日々を送るようになったのである。


 そんな祖父にトリスタンが剣の教えをせがんだのは、寂しげな祖父の姿を子供心に気にした為でもあったろう。少なくとも祖父はそう思い、孫の思いやりに感謝しつつ、あくまで手慰み程度のつもりで、トリスタンやその友人に剣を教え始めた。
 間もなく、祖父はトリスタンが並々ならぬ才能を持っていることを見抜く。が、この子が男であれば、と嘆きはしても、女剣士として育てようとは露思わなかった。女性が剣を握るという発想そのものが浮かばない、祖父はそういう人物だった。ことさら祖父が旧弊であったわけではなく、これが南蛮人としてのごく一般的な考え方であった。


 一方のトリスタンとしては剣の上達が楽しくて仕方なかった。基礎を修めるや、その先を望むようになったのは、誰に強いられたわけでもなく、トリスタン自身の意思である。
 祖父としては女性であっても身体を鍛えることには意味があるし、自衛の術を持つのは悪いことではない、という思いからトリスタンの請いに応じて様々な教えを授けた。息子たちから苦言を呈されれば、あるいは思いとどまったかもしれないが、両親は仲むつまじい祖父と孫の姿を暖かく見守るばかり。かくてトリスタンは誰に妨げられることもなく、剣術に打ち込むことが出来たのである。
 後年の聖騎士の基礎は、一家を挙げて築かれたものであった――むろん、当人を含め、誰一人としてそんなつもりはなかったのだけれども。


 言葉をかえれば、トリスタンの腕白ぶりを一つの個性として受容してしまえるくらいに、東方領が平穏であったともいえる。
 また、どれだけトリスタンが男まさりの性格になってしまったとしても、婿のなり手には困らないという事実も、家族の行動を後押ししていたかもしれない。
 トリスタンの隣には、半ばお目付け役となっている少年の姿が常にあったのだ。




 トリスタンにとって、何の迷いもなく幸福だったと言える時代は、しかしほどなくして終わりを告げる。
 ある時、家を訪れた騎士は、みずからをゴア総督アフォンソ・デ・アルブケルケの使いであると名乗った。
 『黄金のゴア』『ゴアを見た者はリスボンを見る必要なし』などという言葉で示される東方領の繁栄を担う軍神。失地奪回を目指す現地民の反抗は、そのすべてが軍神と、その麾下の軍勢によって微塵に砕かれ、多くの住民たちはすでに南蛮の支配を受け容れていた。
 南蛮国東方領を統べる英雄は、使者を通じてトリスタンに一つの命令を下す。トリスタンと、その周囲の人々の運命を大きく歪めることになる命令を……  





◆◆◆





「さらばだ、聖騎士」


 小アルブケルケが無造作に剣を振り下ろした。
 室内に響く刃鳴りの音。肉を断つ鈍い音が、それに続いた。


 ――続いたのは、肉を断つ音だけ。小アルブケルケの斬撃は、トリスタンの骨まで達しなかった。斬撃が頸部を断ち切る寸前、トリスタンは後方に身を投げ出すようにして致命的な一撃を回避したのである。
 だが、傷の影響もあったのだろう、完璧に避けることは出来ず、小アルブケルケの剣先はトリスタンの肩から胸にかけて鋭利な傷を刻み付けていた。
 それでも必殺を期して放った一撃がかわされたことには違いない。ち、と小アルブケルケの口から舌打ちの音が零れ落ちた。


「往生際の悪い。いまさら足掻いたところで、何ひとつ変わりはしないというのに」
 それに対し、トリスタンは荒い息を吐きながら立ち上がり、毅然と言い返す。
「……諦めて貴様の手にかかったところで、それこそ何一つ変わらない。どれほど小さくとも、貴様の思惑を覆すことが出来るなら……足掻く意味はある」
 言いながら、トリスタンは左の手で剣の柄を握る。利き腕である右手は、さきほどの銃撃で神経が傷ついたのか、ほとんど動かすことが出来なかった。
 左手で剣を抜くトリスタンの姿は、普段の流れるような動作とは比べるべくもない不恰好なもので、小アルブケルケは冷笑まじりにそれを指摘する。
「その様で、私を斬ることができるとでも思っているのか」
「出来ないでしょう……けれど、あの火群を熾してしまった者として……贖わなければならないものがあるのです」
 

 トリスタンの言葉に、小アルブケルケはわずかに怪訝そうな顔をしたが、すぐにその言わんとするところを察したようであった。その口元が嘲るように歪む。
「ほう、それほどにあれらを心に掛けていたか。ふむ……今からでも遅くはない。貴様が私に従うならば、あの人形は生かしておいてやってもいいのだが」
「……戯言を。先の言葉を聞かされて、貴様の下になど……誰がつくものか……」
「贖わなければならないものがあるのだろう? 一時の屈辱に耐えることくらい、易いものだと思うがな、聖騎士。たとえ首に鎖をかけられようと、心だけは決して屈さぬ、くらいのことは言ってほしいものだ――そこなパウロのように」


 小アルブケルケはそう言って、いまだ短筒をトリスタンに向けたままの黒髪の少女に視線を向ける。
 対してトリスタンは、哀切と憐憫を溶け合わせた視線を少女に向けた。すでにトリスタンは二度の不覚――甲板の上で後ろをとられたことと、先の銃撃を察せなかったこと――の理由に思い至っていた。
 トリスタンが気配や殺意を察することが出来なかったのは、少女の行動が少女自身の意思によらないからであろう、と。
 硝子玉のような少女の瞳が、無言のうちにその事実をトリスタンに教えていた。


 一体、何をすれば人ひとりの意思をここまでそぎ落とすことが出来るのか。
 そんなトリスタンの疑問とも嫌悪ともとれない思いを察したのか、小アルブケルケは言葉を続けた。
「カブラエルは、この国の人間は己よりも他者の苦痛を忌むと言っていたが、己が苦痛に耐えられる者も、快楽には抗えぬ。昼夜の別なく快楽に浸け込めば、抵抗の気概など火であぶられた砂糖菓子の如く崩れ去るわ」
「……下種が。かりそめにも一国の覇権を握らんとする者が為すことかッ」
 吐き捨てながら、トリスタンはわずかに腰を落とし、小アルブケルケの斬撃に備える。


 トリスタンは自分が死ぬことに対してさほど恐れを抱いてはいない。
 南蛮軍の一員として、直接、間接を問わず、数多くの死を他者に強いてきた。自らの意思でその道を選んだ時から、いつか自分の番が来ることは覚悟している。今日この時、小アルブケルケの手にかかって果てることを、理不尽だ、と嘆くつもりはなかった。
 だが、とトリスタンは思う。
 強いられた死に抗う権利くらいはあるだろう、と。


 南蛮国のため。故郷のため。そう思って剣を取った。であれば、剣を手放すその時までそれを貫こう。小アルブケルケの存在は、トリスタンが守りたいと願うすべてにとって害にしかならぬ。今の自分に出来ることなどたかが知れているが、それでも気に食わない相手に従容として討たれてやるのは、トリスタン・ダ・クーニャの流儀ではない。
 もとより幼少の頃より淑やかさとは無縁だったのだ。いまさら往生際が悪いと罵られたところで、痛痒を感じるはずもなかった。





 そんなトリスタンの内心を察したわけでもあるまいが、小アルブケルケは顔から冷笑を拭い去ると、その眼差しに明確な殺意を込めてトリスタンに迫った。
「その下種の手にかかって死ぬのだよ、貴様は」
 そう言って、剣を掲げようとした小アルブケルケだったが――不意に、その動きが止まった。
 トリスタンが何かしたわけではない。それどころか、トリスタンもまた一瞬ではあるが、眼前の小アルブケルケから意識をそらしていた。
 部屋の外、おそらくは甲板から鳴り響く鐘の音が、二人の耳に飛び込んできたのである。
 船では時刻を知らせるために決まった時間に鐘を鳴らすが、この鳴らし方は時鐘ではない。やや慌しい観はあるが、敵船の襲撃を知らせるものでもない。これは不明船の接近と、警戒を促す鐘であった。


 そして、鐘が鳴ってからほとんど間を置かずに船長室の扉が激しく叩かれる。小アルブケルケが人払いを命じていたにも関わらず。
「お話中、申し訳ございません。殿下、よろしいでしょうかッ?!」
「何事か?」
 小アルブケルケは不快げに目をすがめたが、それはほんの一瞬だけ。報告の兵がもたらした名前を聞き、その顔には心底からの驚きの表情が浮かび上がる。兵の口から、死んだはずの元帥、ドアルテ・ペレイラの名前が出たからであった。
 といっても、実はドアルテが生きていた――などという報告では無論ない。ドアルテの養子であり、従者であった人物が、接近中の船の上に姿を見せているというのである。


 常にドアルテの傍近くに控えていたはずの従者がどうやって生き延びたのか。そして、薩摩の南蛮艦隊とも、日向のムジカとも離れたこの海域で姿を見せた理由は何なのか。
 いずれも、小アルブケルケにとって無視できることではなかった。まさかとは思うが、本当にドアルテの意思が関わっている可能性もある。
 無論、それこそ万に一つの可能性ではあったが……




 ――トリスタンが動いたのは、この時であった。
 それまでの、傷口をかばいながらのぎこちない動きから一転、滑るようになめらかにトリスタンの剣が翻る。
 常のごとき流麗なその動きを見て、小アルブケルケはトリスタンがこれまで機を測り、あえて負傷を感じさせる動きをしていたことを悟る。
 とはいえ、負傷の影響はやはり厳として存在するようだった。右手が半ば以上使えないのは偽りではないらしく、今もトリスタンは左の手で剣を握ったままだ。今のトリスタンであれば、たとえ真っ向から斬りあったとしても、小アルブケルケが遅れをとることはない。


 が、直前に聞いたドアルテ・ペレイラの名と、それにともなう思考が、小アルブケルケに咄嗟に回避の動きをとらせていた。
 大きく後方に飛び退った小アルブケルケに対し、トリスタンは追撃をかける――持っていた剣を無造作に投げつける、という形で。
 室内に響く甲高い金属音。小アルブケルケがトリスタンの剣を打ち払った時には、すでにトリスタンは身を翻し、船長室の扉を開け放っていた。


 驚いたのは、報告のためにやってきた騎士である。
 小アルブケルケが人を払った上で聖騎士と密談する。
 その騎士がどんな想像をしていたにせよ、眼前に広がる光景はその予想とはまったく異なるものであったから。
 鼻をつく血の臭い。床には鮮血が飛び散り、憧憬の念を覚えていた聖騎士は、上半身を血に染めて傍らを駆け抜けてゆく。
 さらに、主君である小アルブケルケの手には、これも血塗られた剣が握られており、さらに室内には短筒を構える少女の姿まで見える。
 騎士が木偶のように立ち尽くしてしまったのは、いたしかたないことであったろう。


「殿下、これは……一体、何事ですか?!」
 問いかけた騎士は、主君の顔を見て息をのむ。
 小アルブケルケは常と変わらぬ様子であったが、幾多の戦いを生き抜いてきた騎士は、今ここで部屋の状況に言及することの危険を、ほとんど本能的に察したのだ。
 慌てて頭を垂れたのは、表情を読まれないための咄嗟の判断であった。
 それでも驚愕の去らない騎士の口から、思わず、という風に疑問の声が零れ落ちる。
「何故、聖騎士様が……?」
「異教徒と通謀した疑惑あり、とカブラエル布教長より告発があった。まさか、とは思っていたが、問い詰めたところ認めた。異教徒のために私の命令を無視したことを、な」
「し、信じられませぬ」
「貴様が信じようと信じまいと事実はかわらぬ。それとも貴様も異教徒に与するか?」


 その言葉で騎士ははっと我に返り、自身が小アルブケルケの言葉を否定した、という事実に顔を青ざめさせた。
「いえ、そのようなことは決してッ。申し訳ございません、ご無礼を!」
「頭を下げている暇があるならば、疾く動け。トリスタンの裏切りを周知させ、狩り立てろ。異教徒に通じた罪人だ、捕らえる必要もない。殺せ」
「ぎょ、御意ッ!」
 バルトロメウが洋上にある以上、トリスタンはどこに逃げることも出来ず、またあの傷ではそうそう動き回ることも出来ないだろう。トリスタンが小アルブケルケの命令に背いたことは事実であり、ここで処断することの正当性は揺らがない。


 問題は、トリスタンの口から小アルブケルケの本心が明らかにされてしまうことであった。
 少々、口が過ぎたかもしれぬ。小アルブケルケはそう思わないでもなかったが、それが致命的な事態を招くとは考えていなかった。どのみち、すでに賽は投げられているのだ。雌伏の時が終われば、小アルブケルケの本心は万人の目に明らかになる。今さら多少の疑惑に怯える必要もない。
 それよりも、今は姿を見せたというドアルテの養子が気にかかった。
 騎士が立ち去るのを見届けた小アルブケルケは椅子に座りなおすと、考えをまとめるようにひとりごちた。 
「どうやって生き残り、何故いまこの時に姿を現したのか。まさかとは思うが、ドアルテから何事か伝えられている可能性もある。放ってはおけまい」
 パウロ、と小アルブケルケは傍らの少女に呼びかける。
「はい、殿下」
「床の血を始末した後、珍客をこの部屋まで案内せよ――先のトリスタンと同じように、な」
「かしこまりました。仰せの通りにいたします」
 少女は微笑みながら頭を垂れる。艶やかな黒髪が、室内の灯火を映してほのかに照り映えた。 




◆◆◆



 少し時をさかのぼる。


 この日、バルトロメウの内外では幾つもの出来事が平行して起こっていた。
 その一つに見張り台の水夫が気づいたのは、彼が見張りを交代してしばらく経った頃である。
 水夫は交代の際、この海域には大小の島が点在すること、さらに近くに敵国の軍港があることを伝えられていた。
 油津という名のその港は、以前、南蛮軍が砲撃を加えた場所でもあり、報復の恐れが皆無ではなかった。警戒を絶やすな、という航海長の命令に、水夫はかしこまって頷いたのである。


 見張りに選ばれるだけあって、この水夫はバルトロメウの船員たちの中でも抜きん出て目が良く、さらに言えば、水夫個人もいたって真面目な為人で、命令に忠実であった。
 バルトロメウは南蛮艦隊でも随一の巨船であり、装備も充実している。この国の玩具のような舟が束になって襲い掛かってきたところで、苦も無く打ち払うことが出来るだろう。南蛮兵であれば誰もがそう考えるところだが、水夫は決して見張りを疎かにしようとはせず、その視線は絶えず四方の海面に向けられていた。


 水夫の目にはすでに三艘の舟が映っていたが、いずれもバルトロメウの舷側に備え付けられている連絡艇よりも小さい舟で、乗っているのも精々二、三人というところである。
 しかし、小さいからといって油断はできない。航海長から聞いたところによると(信じがたいことに)この国の人間は小舟に大砲を据え付け、使い捨てるように撃ち放すというのだ。
 もっとも、大砲はその大きさゆえに隠すことがむずかしい。水夫の視界に映るいずれの舟にも積まれていないのは一目瞭然であった。釣り糸を垂れているところを見るに、嵐の後の大物を狙って、付近の住民が海に繰り出してきた、というところなのだろう。


 怠りなく、小舟の一艘一艘に至るまで脅威がないことを確認し、再び周囲の索敵に移ろうとした水夫は、次の瞬間、視界に飛び込んできた物を見て思わず息をのむ。
 それは、南蛮神教の神旗を掲げた船であった。
 はじめ、水夫は神旗を見て驚き、次に神旗を掲げる船を見て更に驚いた。竜骨がなく、つまりは明らかに倭国のものだったからである。
 先の釣り舟と異なり、こちらは優に十人以上は乗ることができる大きさで、大砲を隠しておく余地も十分にあるものと思われた。


 南蛮神教の旗を掲げている以上、南蛮軍に敵対する勢力であるとは思えないが、その船体は南蛮のものではない。何者かの策略かと思われたが、その判断は見張りの任ではなかった。取り急ぎ、警戒の鐘を鳴らした水夫は、あらためて報告のために声を張り上げようとしたのだが、不明船の船首に立つ人物を認めた途端、吸い込んでいた息を残らず吐き出してしまうほどの驚愕に襲われた。
 遠目にも明らかな南蛮人の特徴を備えた姿、まだ少年かと思われるほどに年若いその人物の顔に、水夫は見覚えがあったのだ。


 直接の知己ではない。しかし、その顔は知っていた。何故といって、この遠征において常に元帥たるドアルテ・ペレイラの近くに控えていた少年だったからである。バルトロメウで働く水夫は、ゴアでの出陣式や、あるいは軍議のためにドアルテがこの船を訪れた際に幾度もその顔を目の当たりにしている。
 少年の名を、ルイス・デ・アルメイダといった。





◆◆◆




 
 南蛮軍と島津軍との間で捕虜解放の交渉が成立した際、ルイスは自らの意思で南蛮軍を離れ、敵である島津家の所へ戻ることを選んだ。
 義父を討たれた者が、あえて敵国に舞い戻ってくるとしたら、その理由は一つしか考えられない。雲居筑前と共に内城に戻ったルイスに対し、島津家中の者たちが不審と警戒の眼差しを向けたのは、当然過ぎるほど当然のことであった。
 そして今。
 バルトロメウの甲板に降り立ったルイスは、同胞である南蛮人たちから、まったく同じ眼差しを向けられていた。
 とはいえ、今のルイスの立場を考えれば、それは予測してしかるべき状況でもあった。なにしろ戦死した元帥の従卒が、聖都ムジカからも、南蛮艦隊からも遠いこの海域で、倭国の船に乗って姿を見せたのだ。不審や疑念を抱かれない方が不自然であったろう。


 この遠征に参加する以前のルイスであれば、たとえ予測していたとしても、他者から不審の感情を浴びせられれば、居た堪れずに顔を伏せてしまったに違いない。
 しかし今、ルイスは俯くことなく前を見据えている。
 それはルイスがすでにある程度の耐性を――他者から不審を向けられることに対する――得ているためであったが、同時にルイスの覚悟がどれほどのものかを示す証左でもあった。




 唐突に姿をあらわしたルイスに対し、バルトロメウの航海長を務める騎士から向けられる問いかけは、半ば以上詰問の様相を呈していたが、それに対してもルイスははっきりと、怯むことなく応じてみせる。
 ルイスが航海長に対して述べた来訪の理由は、義父である元帥ドアルテ・ペレイラの最後を、主たる小アルブケルケに伝えるため、というものであった。
 この理由は偽りではない。さらに、自身がどうやって生き延びたのかについても、一切隠し立てをしなかった。


 さらにルイスは航海長の問いに答え続ける。
 ――バルトロメウがムジカにいることについては、ガルシアから聞かされていた。
 ――ガルシアと共に錦江湾にとどまっていれば、いずれ小アルブケルケに会えることはわかっていたが、ルイスとしては一刻も早く義父の最後を伝えたかった。だが、ルイスは一介の従者に過ぎず、ルイスのために艦隊を動かしてムジカに向かってくれなどと言えるはずもない。
 ――ゆえに危険をかえりみず敵地に戻り、数少ない協力者の力を借りて、ここまでやってきたのである……


 バルトロメウの甲板で、航海長はわずかに眉をひそめる。
 ルイスの言葉に偽りの痕跡を見つけたわけではなかったが、それでもルイスが口にする理由はどこか不自然さを感じさせるものであった。
 その一つ一つを取り上げてみれば問題はない。協力者というのは、この地の信徒のことであろう。また、ルイスは医術にも通じているということだから、そういった者たちの好意もあったのかもしれない。だが、それらが重なった末に、この時期、この海域に姿を見せたバルトロメウと偶然に行き交うなどという幸運があり得るのか。ルイスにとって、あまりに都合が良すぎはしないか。航海長はそう疑ったのである。


 ルイスがただの一兵卒であれば、航海長はとうにルイスを船室の一つに叩き込み、拷問まじりの尋問を開始していたであろう。いや、そもそもルイスの乗った船を寄せることさえ許さなかったに違いない。
 だが、ルイスがドアルテ・ペレイラの養子であるという事実は、南蛮軍に属する者――特に第三艦隊に籍を置く将兵にとって無視できない意味を持つ。軍制上、ルイスに何らかの権限が与えられているわけではないのだが、その言動を疎かにすることは、あの大元帥の存在を疎かにすること。そんなことが出来るはずはなかった。
 くわえて、面と向かってルイスと相対した航海長は、その丁寧な物腰とまっすぐな眼差しに好感に近いものを抱きさえしたのである。


 それでも航海長がルイスが乗ってきた船をあらためさせたのは、やはりこれが何らかの策謀ではないか、という疑いを禁じえなかったからであった。ルイス自身にその意思がなくとも、異教徒に強いられて挙に及ぶ可能性はあるだろう。
 しかし、ルイスの船からは火薬も大砲も見つからず、乗っていた十名も刃物の類を秘めていないことが確認された。南蛮人は一人としていなかったが、いずれも南蛮神教の信徒であるらしく、胸から十字架を下げている。さらに彼らのうち一名は、まだ二十歳にも達していないと思われる少女であった。
 航海長としては、彼らが突如として刺客に変じる可能性は少ない、と判断せざるを得なかった。そして、そう判断した以上、ルイスと小アルブケルケを会わせることを拒絶する理由もまたなかったのである。





◆◆◆





 同時刻


 薩摩国 山川港 


 薩摩半島の南に位置する山川港は、その特異な地形によって外洋と分かたれた天然の良港である。
 その地形上の特徴に加え、錦江湾の入り口部分に位置する山川港は、古くから交易の中継点として栄えてきた。
 その賑わいは同国の坊津に迫るものがあり、島津家によって支配される以前は、近隣の豪族たちが激しい争奪戦を繰り広げてきた歴史を持つ。
 その争奪戦は、島津家の先代貴久がこの地を直轄地として組み込むことで終結し、以来、山川港は島津家の重要な収入源の一つとして、その庇護のもとに発展を重ねてきた。


 南蛮艦隊の襲来に際し、この山川港の防備が重視されたのは当然すぎるほど当然のことであった。南蛮艦隊の戦力次第では、山川港を占領し、ここを足がかりとして薩摩南部を席巻することは十分に可能だと考えられたからである。
 だが、島津家にとっては幸いなことに、南蛮艦隊は山川港には目もくれずに内城に向かい、港は無傷で島津家の手に残された。
 その南蛮艦隊も、錦江湾の戦いで島津軍と激闘を繰り広げた末に敗れ去り、山川港の危機は去ったものと思われたが、ガルシア率いる残存艦隊はいまだ錦江湾に留まっており、つい先日、これにロレンソ艦隊が合流した、という報告がもたらされたばかりであった。


 彼らが今になって山川港の占領を目論むとは考えにくいが、水や食料を求めて来襲することは十分にありえる。
 島津の末姫にして、今や南蛮軍の天敵となりつつある島津家久がこの地にやってきたのは、そういった事態に備えるためであった。
 家久に預けられた戦力――元々この港に配備されていた兵船に加え、錦江湾の戦い以後、京泊、坊津等から集められた兵船――のほとんどは小早であり、関船は両手の指で数えられるだけの数しかない。つまるところ、いまだ錦江湾に居座っているガルシア艦隊と交戦すれば、一戦で蹴散らされる程度の戦力でしかないのである。


 だが、家久はしごく落ち着いていた。
 元々、戦力的に自軍が不利な戦には慣れていたし、錦江湾の戦い以後、幾度もロレンソ艦隊と矛を交えた経験から、現在の南蛮艦隊からはすでに開戦当初の士気が失われていることを察していたからである。
 付け加えれば、家久自身はガルシア率いる主力艦隊が山川港を襲う可能性はごくごく少ないとも考えていた。
 より正確に言えば、山川港に限った話ではなく、今、ガルシアは島津軍と戦うどころではないという状況に陥っているはず、と家久は考えていたのである――




「家久様」
 その声に振り向いた家久は、そこに重臣である新納忠元の姿を見出す。
「あ、忠元。報告、きた?」
「は、今しがた」
 忠元が受け取った報告は、桜島南方の海域で停泊している南蛮艦隊の中の数隻が、南――すなわち家久たちのいる山川港の方角へと動き始めた、というものであった。
 また、報告の最後には、動いた南蛮船の数、また船体の損傷具合を見るに、それがガルシア艦隊と合流したばかりのロレンソの艦隊であることは確実である、と付け足されていた。


 それは山川港を守る島津軍にとって容易ならざる報告であるはずだったが、家久の言葉からもわかるとおり、島津側はこの敵軍の動きを事前に予測していた。というより、この分派したロレンソ艦隊を叩くためにこそ、家久と忠元はこの地までやってきたのである。無論、それが目的のすべてではなかったが。
 忠元は深々とため息を吐く。その顔には呆れと驚きと、すこしばかりの諦観がないまぜになっていた。
「……またも雲居殿の予測どおり、ですな。敵の提督や宣教師の為人を知るとはいえ、こうまで軍の動きを先読みされると、空恐ろしくなってきますわい」
 雲居のことを嫌っているとばかり思っていた忠元の口から、その才を認めるような言葉が発されたのを耳にして、家久は目を丸くする。
「忠元が筑前さんを褒めるなんてめずらしいねえ」
「別に褒めたつもりはござらん。が、此度の戦を見れば、その才はもはや認めざるを得ぬでござろう」


 心底嫌そうな表情で雲居の才能を認める忠元を見て、家久はあははと苦笑いする。
「忠元ってば、ほんとに筑前さんが嫌いなんだねー」
「嫌いなのではござらん。苦手なのでござる。男児たるもの、心根も生き様も直ぐにまさるものなし。戦となれば、多少の策を弄するは当然でござるが、ああも策多き輩と戦場を共にするは、今回かぎりにしたいものでござる」
「でも、敵にまわしたらもっと大変だよ?」
 家久の言葉に、忠元はげんなりとした表情を浮かべる。
「でしょうな。敵にまわせば厄介、味方にしても厄介ときては、さて、どうするべきか。いっそ九国から離れ、京にでも去ってくれれば良いのでござるが」
 冗談めかしてはいたが、その言葉は半ば以上本気であるように家久には思われた。


 家久としても、色々と思うところはあるのだが、今は他に考えなければいけないことが山のようにある。
 家久は話を眼前の戦況へと据え直した。
「バルトロメウ、だったっけ。向こうの旗艦と合流されると厄介なことになるから、しっかりここで叩いておかないとね。あのロレンソっていうお姉さんの艦隊なら、もう弾も火薬もほとんど残ってないだろうから、この港の戦力でもなんとかなるし」
「家久様に島の北側でさんざんに叩かれましたからな。しかし、ガルシアとやらから補給を受けている可能性もありますぞ」
「うーん。聞いたかぎりじゃ他の提督さんに頼ることはしない、かな。それにガルシアさんの方も余裕はないと思う。解放した捕虜だけで千五百人、それだけの数の兵士さんや水夫さんたちを一気に抱え込んだことになるからねー」




 島津側が先の交渉によって解放したのは捕虜のみで、当然のように武器や食料などは一切含まれていない。
 ガルシアは解放した捕虜を再武装させるだけでも一苦労だろう。また、ガルシアの艦隊は三十隻に満たず、一隻につき五十人近い捕虜を引き受けなければならない計算になる。
 五人や十人であればともかく、五十人もの人間がいきなり加われば、それは各船にとって人員的な余裕が出来るというより、過剰な人員による負担を強いられる構図になる。特に水や食料において、その影響は大きいにちがいない。


 元からの船員たちは、おめおめと捕虜になった挙句、味方に負担を強いる者たちに対して心穏やかではいられないだろう。
 捕虜となっていた者たちにしてみれば、好きで虜囚の身となったわけではないのだから、卑怯者、厄介者扱いされるのが面白いはずはない。捕虜だった時よりも解放された後の方が待遇が悪いとなれば尚更である。両者の不満が、対立に結びつくのは時間の問題であろう。
 ただでさえ、南蛮軍の将兵は予期せぬ敗北で混乱と動揺を禁じえないところ。異国の地で、今後に不安を覚える将兵は少なくあるまい。
 そこに不満と対立が生じれば、それはたやすく衝突へと変じていく。
 神への信仰だけでそれらの不平不満を抑えることが出来れば良いが、それはまず不可能だろう。となれば、ガルシアら指揮官の苦労は推して知るべし。南蛮艦隊は敵と戦うどころではあるまい、と家久が考えたのはこのためだった。
 捕虜解放は、南蛮艦隊の戦力を増すどころか、その動きを縛る枷として機能するのである。


 そんな状態では、たとえ味方といえど貴重な物資を割き与えることは難しい。むしろ、ロレンソはその負担を強いられるのを忌避して、ガルシアと距離を置こうとしたのではないだろうか。少なくとも、それが分派行動をとった理由の一つであることは間違いあるまい。
 となれば、当然のようにロレンソはガルシアからの援助を受けていないことになる。ゆえに、現在こちらに向かってくる艦隊は、島の北側で家久が矛を交えた時から今日まで、一切の補給を受けていないという推測が成り立つのである。




 これを撃ち破ることは家久にとってさしたる難事ではなかった。
 それが思い上がりではないことは、すでに戦果によって証明されている。無論、だからといって油断するつもりはかけらもない家久であるが、率直に言って当面の敵手であるロレンソにそれほどの脅威は感じていなかった。
 表情や言葉に出したことはないが、脅威、というのならば、交渉の段階から今の戦況を見通していたと思われる人物――雲居筑前に対するものの方がずっと深く、重いくらいである。
 なにしろすでに島津軍は日向の地で大友軍との間に戦端を開いている。今は南蛮という共通の敵がいるが、その南蛮軍を退けた後、南蛮軍に向けられていた雲居の智略は、転じて家久ら島津軍に向けられる。家久としても、なかなかに虚心ではいられなかった。


 家久は、はぅ、と小さく息を吐く。
「今のところは味方のあたしでさえこんな風に考えているんだから、ルイス君はもっと必死なんだろうね」
 南蛮軍に向けられた、雲居の透徹した戦意――というより、あれはもう殺意そのものだ、と家久は思っているが――について、雲居本人は、おそらく心に秘しているつもりだろう。しかし、別段、聡い者でなくとも、雲居の言動の端々から零れ出る冷えた感情は感じ取れてしまうのだ。
 まして、ルイスは以前にその感情を直接にぶつけられ、その場で義理の父の命を奪われている。その後、捕虜として雲居の近くで過ごしたルイスは、雲居の冷えた感情が今なお南蛮軍に向けられていることに、否応なく気づいてしまったであろう。その理由となる出来事を教えられているのだから尚更だ。


 あの南蛮人の少年が、あえて敵国の只中に戻ってきたのは何の為なのか。
 家久は、少なくともその理由の一端は理解しているつもりであった。




 ――もっとも。
 実のところ、ルイスに吉継の一件を教えたのは他ならぬ家久であった。ゆえにルイスが下した決断、引いてはその決断を受けて構築された今回の策について、家久は少なからず関与していることになる。
 それどころか、ルイスの存在がバルトロメウに近づくために不可欠であることを考えれば、家久の一言が今回の策を可能にしたとさえ言えるかもしれない。
 しかし、家久はその事実を誰かに告げることはしなかった。当然、ルイスがあえて家久の名を他者に告げる必要もない。
 結果として、策を編んだ雲居さえ、家久の密かな、しかし重要な関与を知らずにいるのである。
 もし雲居がこの事実を知れば、怖いのは一体どちらだ、と戦慄と共に呟いたに違いない。






 そこまで考えた家久の思いは、自然、敵の総大将へと向かった。
 フランシスコ・デ・アルブケルケ。
 その為人や目的について、家久はガルシアとの交渉を終えて戻った雲居から聞かされていた。
 あくまで推測である、と雲居は口にしていたが、ルイスから得た情報や、ガルシアとの対話を経て、雲居なりに確信を抱く何かがあったのだろう。
 総大将でありながら艦隊を離れて行動し、重要な戦力であるはずの提督を投入してまで一介の少女を追い求める。そこまでなら、日の本の民を甘く見た愚将の愚行であると思えなくもないが、そうであれば吉継を捕らえた後に長々とムジカに留まる理由がない。まして、ドアルテ・ペレイラが討たれてなお動かないなど不自然極まる。
 であれば、フランシスコとやらが、南蛮の王子に等しい身分でありながら、自国の敗北を望んでいるという雲居の推測もあながち間違いとは言えない。少なくとも、明確にその考えを否定する根拠を、家久はじめ島津家中の者たちは誰も持ってはいなかった。


 家久ら薩摩の国人にしてみれば、南蛮人はにっくき侵略者以外の何者でもない。
 だが、その南蛮人の多くは命令されたからこそ、こんな東の果ての地へとやってきたのだ。無論、信仰や名声、財貨への欲望など、侵略に積極的に従事する理由は持っていたにせよ、自分たちの頂点に立つ者が自分たちの敗北を望み、そのために策動しているなどとは夢にも思っていないに違いない。
 そんな南蛮人を哀れと思うほど家久はお人よしではない。繰り返すが、家久にとって、南蛮軍の将兵が侵略者である事実はいささかも揺らがない。
 だが、自国の民すら欺き、弄んだ敵将に対して、好意的ではありえなかった。たとえ敵将の行動が島津家に利していたとしても、である。


「人を弄べば徳を喪い、物を弄べば志を喪うっていうけれど」
 書経の一節を思い浮かべた家久は、ぽつりと呟いた。
「国を弄んだ人は何を喪うことになるのかな?」


 国とは人と物とで紡がれるもの。それは日の本であれ、南蛮であれかわりはない。その意味で、敵将は人と、物と、国と、それら全てを弄んだことになる。
 彼の人物が何を喪うことになるのか。島津の末姫は、その目に深い思慮を宿し、東の方角をじっと見つめるのだった。








◆◆◆








 日向国 油津港沖


 ドアルテ・ペレイラは小アルブケルケの傅役であり、ルイスはその養子である。だが、この二人の間に交流らしい交流は存在しなかった。
 ルイスにとって小アルブケルケは雲上の貴人であり、小アルブケルケにとってルイスは一介の従卒に過ぎぬ。ゆえに、小アルブケルケはルイスの生死に関心を払ったことはただの一度もなかった。
 では何故、ルイスをバルトロメウの船長室に招き入れたのかと言えば、ドアルテが本当に死んだのか否か、それを確認するためであった。
 まさか、とは思う。思うが、従卒であったルイスが生き伸びていたのだとすれば、ドアルテ自身が実は生きているという可能性を考慮せざるを得ない。まして、ルイスがこのような場所で姿を見せたのであれば尚更である。


 その疑念を確認するため、小アルブケルケはトリスタンの捕縛を後回しにしてまでルイスを部屋に迎え入れた。
 しかし。
 ルイスの口から語られる錦江湾の戦いとドアルテの死、そしてその後の顛末を聞けば、自身の疑念が杞憂に過ぎないことは明らかである、と小アルブケルケはそう判断するに至っていた。
 ルイスの言葉に虚言の陰は見て取れない。それはつまり、ドアルテはやはり報告どおり戦死したということである。
 そうとわかれば、あの老将の最後も、眼前の従者の労苦も、小アルブケルケにとっては些事に過ぎない。そう考えた小アルブケルケは、これ以上、従卒ごときと言葉を交わす必要はない、とルイスに退室を命じたのである。


 功臣たるドアルテの死について、養子であるルイスに一言もなしとくれば、小アルブケルケの対応は冷淡と言わざるを得ない。しかし、ルイスは不満を示すことなく、頭を垂れて小アルブケルケの命令を肯った。
 だが、顔をあげたルイスは、一つだけ問いを向けることを許してほしい、と口にし、小アルブケルケの答えを待たずにこう言った。


 ――すべては御身の思い通りに進んだのでしょうか、と。







「――聞き捨てならないことを言う。ドアルテが遺言でも残したか?」
 語調自体は決して激しいものではない。だが、小アルブケルケの目には剣呑な光がちらついていた。
 当然、その視線を向けられている当人であるルイスが気づかないはずはない。しかし――
「……それは、お認めになられた、と受け取ってよろしいのでしょうか」
 そう言うルイスは、表情こそ硬く強張っていたが、威圧に屈することなく、ひたと視線を小アルブケルケの面上に据えている。
 ルイスの問いかけは、裏面の事情を知らない者にとってはまったく意味を為さないものであったろう。
 だが、小アルブケルケにとって、その問いが何を意味するかは明白であった。
 裏面の事情を知らない者にとっては意味を為さない問いかけ。それは言葉を換えれば、その問いを発する者は裏面の事情に通じている、ということになる。そう考えたからこそ、小アルブケルケは半ば答えでもある反問を口にしたのである。
 ごまかすなり、無視するなりすることも出来たが、従卒を相手に取り繕うようなまねをする必要はどこにもない。ルイスが小アルブケルケの真意に気づいたのであれば、トリスタンともども始末してしまえばそれで済むのである。


 ほとんど一瞬でルイスの口を封じることを決意した小アルブケルケであったが、問題はルイスがどうやって真相に至ったかであった。
 ルイスのような従者が自力で考え付くことではない。誰かがその考えをルイスに吹き込んだのであろう。
 それが誰であるかについて、小アルブケルケはすぐに察した。
 小アルブケルケの密かな企図に気づくだけの智恵と識見を備え、なおかつルイスと繋がりがある者などドアルテ以外にいるはずもない。


「まさかドアルテが察していたとはな。となると、貴様の目的は義父のあだ討ち、というところか」
「……そのお言葉を聞く限り、やはり『そう』なのですね」
「認めよう」
 それを知ったところで誰に語ることも出来ぬが、と小アルブケルケは内心で嗤いつつ、言葉を続ける。
「ドアルテめはどのあたりから気づいていた? いや、そもそもあれは何と言い残して死んだのだ?」


 その問いに、ルイスは小さくかぶりを振ることで応じた。
「お義父様は何も言い残してはおられません」
 きっと、それだけの力も残ってはいなかったのだろう。その以前に、敗れて死ぬのは覚悟の上、と口にしていたが、それでも思うところがなかったはずはない。最後の時、ルイスに向けられた眼差しは、ここで果てることを詫びていたように思う。
 きっと、あれはただルイスにのみ宛てられたものではない。ドアルテの死を悲しむ全ての者に宛てられた思いであり、そこには小アルブケルケも含まれていたはずである。


 そのルイスの言葉に、小アルブケルケは目をすがめることで応じた。
「ドアルテは私の真意を知りながら、それでも私がドアルテの死を悲しむと考えていた、と言いたいわけか」
 それはお人よしに過ぎる考えだ、と小アルブケルケは思う。ドアルテはそこまで甘い人間ではない。長きに渡りドアルテから教育を受け、かつドアルテを排除するべく努めて来た小アルブケルケだからこそ、はっきりとわかる。
 ゆえに、おそらくドアルテが小アルブケルケの思惑に気づいたのは戦の最中。その以前であれば、何らかの形で小アルブケルケのもとに詰問が来ていたはずだ。
 どのような切っ掛けがあったかは知らないが、戦の最中にそれを確信するに至ったドアルテは、死の際にルイスにその事実を伝え、小アルブケルケの毒が南蛮を侵すことのないように願ったのであろう。まさか、当のルイスが単身で真偽を確認するためにバルトロメウにやってくるとは思ってもいなかったに違いない。
 結果として、ドアルテは最後の言葉で愛息の命すら縮めてしまったことになる。浮かばれぬな、と小アルブケルケは師とも言うべき人物に対し、内心で皮肉を込めて語りかけた。




 しかし、小アルブケルケは自分の考えが的を外していることを知らされる。
 すなわち、ルイスはこう返答したのである。
「殿下。私は殿下の目論見について、お義父様から聞かされたのではございません」
「……なに?」
「それゆえ殿下が南蛮軍の敗北を望み、のみならず画策さえしていたという事実にお義父様が気づいていたのかどうか、ぼくには……私にはわからないのです」
「待て。では、貴様は何者から私の考えを聞いたというのだ?」
 まさか従卒ごときが自力で思い至ったわけではあるまい。その小アルブケルケの問いに、ルイスはこくりと頷いた。


 そうして、ルイスの口から語られる名。小アルブケルケはその名に聞き覚えがあった。くしくも、トリスタンとの会話でも出てきた名である。
「雲居、か……ふん、であれば、やはり貴様の目的は仇討ちか。異教徒に与し、神の教えに背いてまで私を討ちたかったというわけだな」
 倭国の勢力が小アルブケルケの動向を推測し、この海で待ち伏せている。ルイスはその尖兵か。小アルブケルケはルイスがこの海域に姿を見せた理由をそう読み取った。
 異教徒がこちらの動きを読んでいたというのは信じがたいが、ルイスのような少年が敵地をさまよった挙句、偶然にバルトロメウを探し当てた、などという話よりは幾分か信憑性に優る。


 だが――
「貴様ごときでは、バルトロメウに傷をつけることすらかなうまい」
 バルトロメウは同じ南蛮の軍船と比較しても群を抜く戦力を有している。ドアルテの旗艦と比較しても、錬度は同等、兵の数と火力においては優るのだ。
 圧倒的なまでの自信をこめて語る小アルブケルケに対し、ルイスはあえて逆らおうとはしなかった。涼やかに、けれどどこか哀しげな表情でルイスは口を開く。
「承知しております。もとより、ぼくなどが割り込める戦いではないでしょう。それでもこうしてやってきたのは……」


 殿下、とルイスはまっすぐに小アルブケルケの顔を見て、言葉を重ねる。
「ぼくは虜囚の身から解き放たれた後、自分の意思で異国の地に留まりました。このまま無為に時を過ごせば、この地の南蛮人すべてがあの業火の中で燃え尽きてしまう。それはお義父様の死が無意味になることを意味します」
 それが怖かった、とルイスは言う。
 その言葉の意味は、小アルブケルケには理解しかねるものであった。訝しげな小アルブケルケに対し、ルイスはゆっくりと語りかけるように話し続ける。
「殿下がこの国はおろか、母国をも弄ぶような策を弄したりはしていないと証明したかった。その上で、総督閣下の命によって捕らえたという少女を解放してくださるようお願いしたかった。それがかなえば……あるいは……」
 ルイスは一度だけ強く唇をかみ締める。小アルブケルケの言葉を聞けば、その望みがかなうことはありえない。それでも、ルイスは一縷の望みをもって、小アルブケルケに懇願する。
「殿下、お願いいたします。どうか雲居殿のご息女を解放してください。ご家族のもとへ帰してさしあげてください。それはきっと、殿下にとっても意味がある行いになるはずです」


 声を震わせ、頭を下げるルイス。小アルブケルケの答えはこれ以上ないほどに簡潔であった。
 否、と。
 ただそれだけであった。


「……そう、ですか」
 予測もし、覚悟もしていたのだろう。その答えを聞いて、ルイスはぽつりと呟いた。
「戯言は終わったか? 貴様は偽りをもってこの場に来た。それは国を裏切り、神の教えに背く行為であろう。そんな者の言葉を聞かねばならぬ理由がどこにある。この事実を明らかにすれば、たとえ貴様がドアルテの養子であったとしても、貴様の処刑に反対を唱える者など現れぬわ。大方、あたりに兵でも潜ませているのだろうが、貴様らごときの刃が、この身に届くとは――」
 思わぬことだ、そう続けようとした小アルブケルケは、顔をあげたルイスの目を見て、知らず言葉を途切れさせていた。
 そこには憎悪はなく、憤懣もなく、失望も落胆も存在せず。
 ただ、これから起こるすべてを受け容れる覚悟だけが在った。



「殿下に言伝がございます」
 誰から、とはルイスは言わず、小アルブケルケも問わなかった。
「聞こうか」
 はい、と頷いたルイスは哀しいほどに穏やかな声で、託された言葉を伝える。



 Eu perco virtude se eu jogar com uma pessoa


    ――人を弄べば、徳を喪う



 ルイスと小アルブケルケの言葉は南蛮語で交わされている。当然、言伝も南蛮語をもって伝えられたが、これはルイスが訳したわけではなく、はじめから南蛮語で託されていたのである。



 Eu perco vai se eu jogar com uma coisa


    ――物を弄べば、志を喪う



 ルイスに言伝を託した人物が、どうして南蛮語を知っているのか、ルイスは詳しくは知らない。ルイス以外の南蛮人に教えを受けたのか、元々知っていて知らぬふりをしていたのか。あるいはそれ以外の理由か。



 Eu perco uma fruta se eu jogar com um pais


    ――国を弄べば、実を喪う



 いずれにせよ、その言伝は文法としては単純なものであったから、ルイスは特に苦労せずに覚えることが出来た。
 ただ、単純であるがゆえに、そこに込められた苛烈な意思はより克明に伝わってくる。言葉を伝える、ルイスの役割はただそれだけであったが、にも関わらず、額に滲み出る汗をルイスは自覚した。






 Eu perco vida se eu jogar com tudo


    ――全てを弄んだ貴様は、ここで死ね






 バルトロメウの船内に、異変を知らせる鐘が鳴り響いたのは、ルイスが言い終えたのとほぼ同時であった……
  
 




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第九章 杏葉(十二) 
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:7a1194b1
Date: 2012/02/02 22:29
 それはまだルイス・デ・アルメイダが倭舟に乗って姿を現す前のこと。


「おう、ご苦労さん」
 そんな声と共に、手に食事の盆を持った同僚がやってくるのを見て、大谷吉継の部屋の前で見張りを務めていた二人の南蛮兵は、そろって意外そうな顔をした。
 見張りを務めていた二人のうち、年長の方の兵士が口を開く。
「お前か。トリスタン様はどうしたんだ?」
「殿下がお呼びだそうだ。それで俺が代わりを命じられたってわけ」
「殿下が、か。それならばトリスタン様がおられないのはわかるが、お前の相棒はどうした? 二人一組の行動は規則だぞ」
 問われ、兵士は片手で盆を持ちながら、もう片方の手で頭をかくという器用なまねをしてみせた。
「昨日の後始末が終わって、ようやく眠ったばかりだからな。起こすに忍びなかった」
「……ああ、あいつ、倭人のガキどもの部屋の掃除を命じられていたな。それは確かに叩き起こすのは気の毒か」
 年長の兵士は、そういって小さく肩をすくめた。


 先夜、バルトロメウを襲った嵐は一晩中はげしく船体を揺り動かした。船に慣れた者でもそれなりにこたえる揺れであったから、はじめて洋上の嵐を経験したであろう遣欧使節の子供たちがどんな状態に陥ったのかは考えるまでもない。
 そして、そんな子供たちが何人も詰め込まれた部屋が、どれほど惨憺たる状態になったのか、その部屋の掃除がどれほどの苦行であったのかに至っては考えたくもなかった。
 食事を持ってきた兵士は、これも小さく肩をすくめて言葉を続けた。
「まあ、ずっと子供らに付きっきりだったトリスタン様よりはマシだろうがな。で、どうする? 俺は規則を守るために、気の毒な同僚を叩き起こしてくるべきだろうか?」
「いやな訊き方をする奴だ」
 見張りをしていた兵士はそう言って苦笑すると、部屋の錠の鍵を取り出した。


 それまで黙っていた見張りの一方――年少の兵士が、ここで困惑したように口を開いた。
「い、いいんですか? 聖騎士様のお言葉にそむくことになってしまいますが……」
 トリスタンは吉継の機略を警戒し、部屋に立ち入る時には基本的にトリスタン自身が立ち会った。しかし、今のように状況によってはそれが出来ない場合もある。その際には必ず二組四人であたるように、というのがトリスタンの指示であった。年少の兵士はそれを指摘したのである。
 年長の二人は視線をあわせ、まるで申し合わせたようにそろって苦笑を閃かせる。
「道理だな。じゃあ言い出しっぺのお前さんが俺の相棒を叩き起こしてきてくれるか?」
「え、あ、いや、それは……」
 困ったように口ごもる年下の同僚に、兵士は苦笑を向けた。
「確かにトリスタン様のお指図に背くことではあるが、何も不正をしようとしているわけじゃない。部屋に入り、食事を置き、部屋から出る。それだけだ。もし中の人間が逃げ出そうとしたら、ここにいる三人で取り押さえればいいさ。別に難しいことじゃないだろう」


 部屋の中にいる人物について、兵士たちが知らされているのは、ゴアの大アルブケルケがその身柄を欲していること、ただそれだけである。常に白布で顔を覆っているので、どんな顔をしているのかすら知らなかった。
 しかし、その小柄な体格やトリスタンと会話する声を聞けば、女性――というより少女であることはほぼ間違いないと推測できる。
 訓練を受けた屈強の兵士にしてみれば、そんな少女を取り押さえるなど一人でも十分。二人ならばなお確実。三人目、四人目は余剰であろう。
 トリスタンが、自身がいないときに兵士四人をつけると決めたのは、万一にも逃げられることのないように、という用心ゆえであろう。そのトリスタンの慎重さをわらうつもりはないが、しかし、ただ食事を部屋に運ぶためだけに、先夜の疲労で眠りこけている同僚を起こす必要があるとは思えなかった。


 まして、この部屋の人物は、バルトロメウに連れてこられてから今日まで、まったくといっていいほど反抗的な態度を見せていない。トリスタンが逃亡を警戒している以上、自主的にゴアに赴こうとしているわけではないのは確かだが、船がムジカに停泊していた間に逃走を企てなかった人間が、わざわざ航海の最中を選んで逃げ出すはずがない。たとえ部屋から脱したとしても、四方に広がるのは冬の海。どこに逃げ出すことも出来ないのだから。


「わ、わかりました」
 異議を唱えた年少の兵士は、同僚の説得力に満ちた言葉に反駁することが出来ず、こくこくと首を縦に動かす。
 それでも、食事を持ってきた兵士が部屋に入る際、若い兵士は危急の事態に備えるべく腰のカトラスを抜いていた。
 その年少の同僚の態度を慎重とほめるべきか、臆病と嘲るべきか、そんな風に考えながら兵士は扉を開けた。





 真っ先に目に飛び込んできたのは、寝台の上で人の形をとって盛り上がった布であった。それを見て、兵士はごく自然にこう考えた。
 おそらく、遣欧使節団の子供たちと同じように、いまだ先夜の嵐による船酔いに悩まされているのだろう、と。
 そう考えた兵士は、一歩、部屋の中に足を踏み入れ――そこで、何かが兵士の足を引き止めた。


 兵士はあらためて室内を見渡す。
 兵士は眼前の光景に、確かな違和感を覚えた。その源が何なのか、兵士はすぐに気づく。
 室内が綺麗すぎるのだ。
 もし、少女が立ち上がることも出来ないほどに船酔いに悩まされているならば、室内はもっとひどい有様になっているはずだ。本来、この場にいなければならない同僚は、遣欧使節団の子供たちの『それ』の後始末という貧乏くじを引かされ、今も死んだように眠っているのだから。
 しかるに、この部屋の床には吐瀉物のあと一つ残っていない。
 それはつまり――




◆◆◆




 大谷吉継がこの日に行動することを決意したのは、自身に迫る悪意を直感で悟ったから――などという理由ではもちろんない。
 最たる理由は先夜の嵐であった。
 船室で座しているだけの吉継でさえ、一晩中続いた揺れに悩まされたのだから、船を操っている船員たちの疲労はそれ以上だろう。
 むろん、大海の波濤を乗り越えてきた船乗りたちが、たかが一晩の嵐で困憊するとは吉継も考えていないが、それでもなにがしかの影響は残るに違いない。
 一晩中続いた嵐を乗り切った今ならば、船員たちの多くは休息しているだろうし、働いている者たちも体力、注意力ともに削がれているはず。
 嵐の到来を悟っていた吉継が、嵐の前ではなく、最中でもなく、過ぎ去った後に行動に移ったのはそのように考えたためであった。


 当初、吉継は部屋に火を放つことで脱出を試みようと考えていた。
 船室の中には燭台があるため、火をつけること自体は難しくない。航海中の船に火を放てば、ついには自分が火にまかれる羽目になることくらい、少し考えれば子供でもわかる――だからこそ、それを逆手にとって兵士たちの虚を衝くことも可能だと考えたのだ。
 だが、吉継はムジカに停泊している間にその案を放棄していた。大友領内から集められた遣欧使節なる少年少女たちの存在を、トリスタンから聞かされたからである。
 トリスタンがことさら彼らのことを口にした理由が、吉継の行動を縛るためであったかどうかは定かではない。案外、単に話の接ぎ穂の一つとして口にしただけかもしれない。しかし、聞いた吉継としては無視できる話ではなかった。


 自身が放った火で南蛮の水夫や兵士が海の藻屑となろうとも、心が痛むことはない。しかし、何の関わりもない子供たちを巻き込むかもしれないとあっては、吉継も考えを改めざるを得なかった。
 自分自身の身命が危うい時に、見ず知らずの子供たちのことまで考えてどうするのか――そんな風に思わなかったといえば嘘になるが、しかし、それでも吉継はやはり火を放つという案をとる気にはなれなかった。
 手段を選んでいられる状況ではない。しかし、いかなる状況であっても、とってはいけない手段というものもあるはずだった。




 火を用いないのであれば、別の手段を考えなければならない。
 ただ、病を装ったり、あるいは悲鳴をあげるなどの派手な行動は、その分、兵士たちの疑念を呼び、トリスタンへと連絡がいってしまうだろう。
 吉継が考えるべきは、いかにしてトリスタンを介さずに兵士たちに扉を開けさせるかであるが、それを考え出すのは容易なことではなかった。
 ――結論から言ってしまえば、吉継はいかなる策も思いつかなかったのだ。

 
 食事時、というのは考えあぐねた末の苦肉の策というより、消去法の末に残った唯一の選択肢であった。
 室内に食事を運んでくる際には南蛮側も最大限の警戒をしており、ほぼ確実にトリスタンが付き添っている。不意を衝くのはほとんど不可能であったが、それしか方策が見出せないのであれば、それをとるしかない。
 吉継はいつぞや考えたように、壁に椅子を叩きつけて壊し(音で怪しまれないように嵐の最中に実行した)武器として折れた椅子の脚を取ると、残った部分を寝台の上に積み上げ、上から布をかぶせていかにも人が眠っているように見せかけた。しかる後、扉の陰に身を潜め、南蛮兵がいつ扉を開けても、即座に行動に移ることが出来るように待ち構えたのである。 


 貴重な機会を空費しているかもしれぬとの思いに苛まれながら、しかし、吉継は不思議と落ち着いている自分に気づき、こんな状況にも関わらず奇妙な可笑しさを感じたものだった。
(……まあ、不利な戦いやら分の悪い賭けやらには、この七、八ヶ月でずいぶん慣れましたし。徒手空拳で軍神を相手にするよりは幾分かマシなのでしょうね)
 内心でそんなことを呟きながら、吉継はじっとその瞬間を待ち続けた。
 そして。





 食事の盆を持った兵士が部屋に一歩入り込んだところで、吉継はほとんど体当たり同然の勢いで、開かれたばかりの扉に身体をぶつけた。
 開かれた時に倍する速さと勢いで閉じる扉。盆を持った兵士が避ける暇があろうはずもなく――
「ぐァッ?!」
 分厚い扉に半身を殴打される形となった兵士の口から苦痛の声があがり、持っていた食事の盆が騒々しい音をたてて床に転がり落ちた。
 スープに入れられた肉や野菜が四散する中、痛みに顔を歪めた兵士は、それでも素早く腰のカトラスに手を伸ばす。その反応の早さは称賛されるに足るものであったろう。


 しかし、先夜来、じっとこの瞬間を待ち続けていた吉継の反応は、南蛮兵の上を行く。
 隠れていた扉の陰から弾けるような勢いで飛び出した吉継は、持っていた木片――砕いた椅子の脚――を横薙ぎに兵士の鼻頭に叩きつけた。
 今まさにカトラスを抜き放つ寸前であった兵士は、鍛えようもない部位に強烈な一撃を叩き込まれ、再度苦痛の声をあげる。
 たまらずカトラスの柄から手を離し、顔をおさえながら部屋の外へと逃れ出ようとする兵士。逃がさじ、と追撃のために足を踏み出した吉継の視界には三人の南蛮兵の姿が映し出された。


 室外に転がり出た兵士が一人、その後ろで事態を悟って表情に緊張を漲らせている兵士が二人。そのうちの一人、年若い兵士はすでにカトラスを構えていた。
 最初の奇襲は成功し、トリスタンはいない。およそ考え得る中で最上位に位置する幸運な状況だったが、それでも決して油断はできないし、してはいけない。
 視覚で得た情報から、ほとんど一瞬でそこまで考えると、吉継は即座に次の行動に移る。苦痛で顔を歪める眼前の兵士の革鎧に足をかけ、カトラスを構えている年若い兵士の方向に向かい、思い切り蹴り飛ばしたのだ。
 さして広くもない軍船の通路である。緊張感の中に隠しきれない狼狽の色を示していた年少の兵士は、蹴り飛ばされた仲間を支えることが出来ず、かといって避けることもならず、もろともに床に倒れこむ。持っていたカトラスが仲間の身体を抉らなかったのは、幸運以外の何物でもなかったであろう。


 この時点で、吉継の前に立っている南蛮兵は一人だけ。
 その一人は、味方の兵士たちが倒れこんでいる間に素早く腰のカトラスを抜き放っていた。
 が、すぐに吉継に斬りかかってこようとはしない。否、それどころか、カトラスを抜いた格好のまま、ほとんど呆然と立ち尽くしていた。
 反抗の意思を、行動によって明らかにした吉継を前にして、南蛮兵が一瞬とはいえ自失した理由は、あらわになった吉継の相貌にあった。
 雪山を仰ぎ見るような銀色の髪と、血で染められたような紅の瞳。
 そう。この時、吉継はいつも顔を覆っている白布をつけていなかったのである。



 
 吉継の素顔を知るトリスタンはともかく、他の南蛮兵にとって吉継の相貌は異相に他ならぬ。あるいはトリスタンから聞いている可能性もあるが、たとえそうだとしても、実際に目の当たりにすれば、わずかの間であれ、動揺を示すかもしれない。吉継はそう考えたのだ。
 そして、眼前で凍りついたように此方を凝視する南蛮兵を見て、吉継は自分の考えが正しかったことを悟る。もっとも吉継の考えは経験から来る予測でもあったから、的中したところでさして驚きはない。むろんのこと、喜びもない。ただ、かすかな痛みを胸に残すだけだった。


 その痛みは、しかし、すぐさま強い戦意にとってかわられる。
 吉継は相手の隙に乗じて素早く距離を詰めると、自身の左手で、カトラスを持った相手の腕をむんずと掴みとった。
 武器を持つ手を押さえられた南蛮兵は、ようやく我に返ったようで、慌てたように吉継と距離を置こうとしたが、その時にはすでに吉継の身体は滑るように南蛮兵の懐に入り込んでいた。


 南蛮兵の耳に、からん、という乾いた音が響く。今の今まで吉継が立っていた場所で、吉継が手放した椅子の脚が床面に落ちた音であった。
 と、次の瞬間には、南蛮兵の身体は跳ねるように宙に浮かびあがっていた。
 左手で南蛮兵の腕を掴んだ吉継は、木片を手放して自由になった右手で大胆にも南蛮兵の胸倉を掴むと、己が身体を基点として一息で南蛮兵を放り投げたのである。


 あまりにも鮮やかなその技は、組討の技術の一つであった。
 郷里の近江でも、また九国でも、吉継は他者からの迫害と背中合わせで生きてきた。自衛のための術は必要不可欠であり、この組討術はそんな術の一つであった。
 むろんというべきか、吉継の腕前は名手の域にはほど遠い。相手が組討術を知る日の本の武士であれば、こうも見事にきまることはなかっただろう。
 だが、相手は南蛮兵、しかも動揺している状態となれば、吉継にとっては案山子を相手にするも同様であった。



 

 先に吉継によって通路に転がされていた年少の兵士は、その光景を目の当たりにして驚愕に目を見開いた。
 吉継は決して大柄な体格ではない。それどころか、年齢に比して小柄ですらある。一方、投げ飛ばされた南蛮兵は革鎧を着込んだ大のおとなであり、双方の体格差はあらためて口にするまでもなく明瞭であった。
 にも関わらず、吉継はいとも軽々と南蛮兵を放り投げた。これは並の人間に出来ることではない。その容貌からも、少女が何かしら人外の力を有していることは疑いない――床に倒れたまま、年少の兵士はそう考えた。少なくとも、彼にはそれ以外に考えようがなかったのである。


 その目の前で、受身を知らない南蛮兵は、吉継の組討術に対して為す術なく頭から床に叩きつけられる。
 周囲に響いた鈍い音は、南蛮兵の頸骨が軋む音であったか。
 その音にわずかにおくれて、南蛮兵が持っていたカトラスが床ではねる甲高い音が通路に響き渡った。


「ひィッ?!」
 年少の兵士の口から、引きつったような悲鳴がもれた。
 吉継がそちらを見やれば、悲鳴をあげた兵士は、もう一人の南蛮兵にのしかかられながら、早く立ち上がろうと手足を動かしている。だが、うまく身体に力が入らないらしい。もがくように必死に吉継から離れようとする姿は、どこか蜘蛛の巣に囚われた羽虫を連想させた。


 それこそ鬼か何かを前にしたような兵士の恐慌ぶりを見て、吉継は何事かを思案するように目を細める。そして、ことさらゆっくりとした動作で床に落ちていたカトラスを拾い上げた。
 それを見た兵士の狼狽はさらにひどくなる。そのため、もう一人の兵士もいまだに立ち上がることが出来ずにいた。険しい声を発しているのは「落ち着け」とでも言っているのだろう。
 この時、吉継がその気になれば、眼前の二人を殺すことは容易い――とは言わぬまでも、さして難しいことではなかったろう。
 ここで見張りの兵士を始末しておけば、脱走の事実を隠すことが出来る。むろん、遅かれ早かれ南蛮側に知られるのは避けられないが、発覚が遅ければ遅いほど脱出の可能性が高まるのは当然のことであった。




 しかし、吉継は混乱する兵士たちに斬りかかろうとはしなかった。
 まるで吉継の動きを遮るように、突如として船内に警鐘が鳴り響いたのである。
 これはルイスが乗った倭船を発見した見張りの兵士が打ち鳴らしたものであったが、当然、吉継はそうとは知らない。
 状況が状況なだけに、吉継はこの警鐘が自身の脱走を知らせるものだと考えた。脱走を実行してから警鐘が鳴らされるまで、かかった時間があまりに短すぎることに違和感を覚えもしたが、そこは南蛮独自の技術があるのだろう、と楽観を戒める。


 すぐにも他の兵士たちが駆けつけてくるか、と考えた吉継は鋭い視線で周囲を睨むが、その視界に別の南蛮兵が映し出されることはなかった。
 実のところ、吉継が閉じ込められていた部屋は士官室の外れ、通常の船員の業務の流れから離れた位置にある。吉継の存在を秘すべくトリスタンがそう計らったのだ。
 ゆえに、このあたりの区画に他の兵士や水夫が入り込んでくることはあまりない。それにくわえて、先の警鐘は吉継とは無関係に鳴らされたものであったから、ここで増援の兵士があらわれる可能性は限りなく低かったのである。


 だが、それらはやはり吉継には知る由もないことであった。
 奇妙に静まり返った周囲の様子に、吉継はわずかに怪訝そうな表情を閃かせたが、ためらっている時間が惜しいと考えたのだろう。すぐにその場から駆け出した。
 残った兵士たちを放っておいたのは、彼らにかかずらっている間に他の兵士が現れることを恐れたからであるが、同時に、彼らを生かしておけば、他の兵士は治療のために人手を割かなければならなくなる。そのことを咄嗟に計算したからでもあった。






 二度ほど角をまがったところで後ろを振り返り、兵士たちが追ってきていないことを確認すると、吉継はわずかに足を緩めた。
 このままあてどなく船内をさまよっていれば、ほどなく別の兵に誰何されてしまうだろう。かといって物陰に潜んで様子を見ても、数を頼りに見つけ出されるに決まっている。
 吉継はバルトロメウに連れ込まれる際、舷側の小舟を目にしている。避難用か連絡用かわからないが、あれを奪うことが出来れば冬の海で遠泳する事態は避けられるだろう。
 だが、小舟といっても優に五人は乗れそうな大きさで、吉継一人では海に下ろすことさえ出来そうにない。南蛮語を操れない吉継には、人質をとって船員を従わせるという手も使えない。


「……であれば、木板なり、浮き袋なりを見つけ、南蛮人に気づかれないように海に逃れ、あとはすぐ近くに陸地か、せめて島があることを期待するしかありませんか」
 知らず、吉継は内心を声に出して呟いていた。
 冬の海で吉継の体力が尽きる前にたどり着ける距離、ということを考慮すれば、これはずいぶんと都合の良い考えである。吉継自身、そうと承知してはいたが、この船から脱出するためには、それくらいの幸運が重ならなければ難しい――




 と、その時、二人組みの兵士が、前方の角から姿を現した。おそらく見回りか何かの途中だったのだろう。通路の真っ只中、吉継には隠れる場所も、そのための時間もなかった。
 彼らは吉継を視界に捉えると、一様にぎょっとした表情を浮かべたが、その手にカトラスが握られているのを見るや、たちまち表情を厳しいものに一変させ、鋭い声を向けてきた。
 だが、吉継には南蛮語の誰何に答える術がない。一方の兵士たちは、カトラスを持った吉継が一人で行動していること、そして自分たちの誰何に反応しないことで、吉継のことを敵対者と断定したらしい。即座に腰のカトラスを抜き放つや、大声を張り上げる。おそらく「曲者だ」とでも言っているものと思われた。


 吉継としては、ここで南蛮兵に取り囲まれてしまえば万事休してしまう。
 かといって踵を返したところで、先に退けた兵士たちと再び顔をあわせる羽目に陥るだけ。別の通路に踏み込んだとしても、この船に不案内な吉継が逃げ切れるはずもない。
 であれば、吉継が選ぶことが出来るのは、眼前の二人を退ける、という選択肢だけであった。
 二対一、という状況は先刻の三対一よりも吉継に分があるように思われるが、今回は奇襲が通じず、真っ向から南蛮兵二人を相手取らなければならない。
 さきほどよりも有利な点といえば、吉継の手にカトラスが握られていることだが、当然のように吉継は南蛮のカトラスを扱ったことなどない。船上、船内での戦闘に備えて湾曲した刃は刀に似ているが、それはあくまで似ているだけだ。刀と同じようには扱えぬ。
 くわえて言えば、いつどこから新手が姿を見せるかわからないという状況である。吉継の不利は誰の目にも明らかであった。



 むろん、吉継もそのことを理解していた。だが、だからといって諦めることなど出来るはずもない。
 此方に殺到してくる南蛮兵たちに対し、吉継は怯むことなく歩を進める。
 両者が激突するまで、必要な時間はほんの数秒たらずと思われた。



 ――が、しかし。
 ここで事態は思わぬ方向に転ぶ。
 敵意もあらわに吉継へと向かってきた二人の兵士が、同時に足を止めたのである。彼らの目は戸惑いを孕みつつ、吉継を通り越して、後方の通路へと向けられていた。
 そこにいたのは、亜麻色の髪の女性であった。
 おそらくは先ほどの兵士の警告の声を聞いて駆けつけたのだろう、上衣の半ばを血で染めたその女性の名を、トリスタン・ダ・クーニャといった。





◆◆◆




 
 トリスタンは困惑する兵士たちに事をわけて説明しようとはしなかった。より正確に言えば、しなかったのではなく、出来なかった。小アルブケルケの叛心を一から説明するような余裕は、時間的にも体力的にもなかったのである。
 ゆえにトリスタンが口にしたのは、船内で一部の船員による叛逆が発生した、という一事だけであった。
 このように言えば、兵士たちはトリスタンの負傷が叛逆者によるものである、と考えるだろう。その上で、トリスタンは兵たちに対し、吉継を探していた旨を告げた。叛逆者によって負傷させられた聖騎士が探す異相の少女。ただそれだけで、吉継がただの不審者でないことは明らかとなる。南蛮兵たちは、カトラスを握る手の力を緩めた。


「あなたたちは……殿下を、お守りしなさい」
 虚言を弄することが出来ないトリスタンは、叛逆者から小アルブケルケを守れ、とは口にできない。小アルブケルケ自身が叛逆者なのだから。
 だが、兵たちは当然のようにトリスタンの命令を『そういう意味』だと受け止めた。実際、兵たちにしてみれば、それ以外に考えようがないのである。
 トリスタンはかすかに顔を伏せる。
 もし、目の前の兵たちが、小アルブケルケの命令でトリスタンを追う者たちと出くわしたならば、彼らはそれを反逆者の企みであると考えるだろう。少なくとも、その疑いを抱き、即座に命令に従うことにためらいを覚えるはずだ。
 そして彼らが迷えば迷うだけ、トリスタンは吉継を逃がすための時間を稼ぐことが出来る。トリスタンにとっては都合が良い。


 ――そのかわり、事が終わった後、この兵たちは小アルブケルケの冷徹な怒りに晒されることになるだろう。
 トリスタンにはそれがわかっていた。だが、ここですべてを話し、彼らに討たれてやるわけにはいかない以上、他にとるべき手段はない。
 トリスタンは内心で彼らに頭を下げつつ、改めて、小アルブケルケを守るように、と厳として命じた。
 これに対し、兵士たちは顔に緊張を湛えたまま頷いた。もとより上位者である騎士に逆らうことはできない。くわえて、トリスタンほどの騎士が重傷を負っていることからも、何か尋常でないことが起きているのだ、と悟るには十分すぎるほどであった。


 立ち去る間際、彼らの視線が吉継に向けられたのは、この不審な人物と、負傷したトリスタンを同じ場所に残していくことにためらいを覚えたからであろう。
 そうと察したトリスタンは苦しげに息を吐きながら、低い声を押し出した。
「この方は総督閣下が極秘に招いた客人です。心配は無用、すぐに行動に移りなさい」
「は、かしこまりました!」
 トリスタンの言葉でためらいを排した兵士たちは船尾――船長室の方向へと駆け出していく。
 その背を見やったトリスタンは、同時に船尾方向から自身を追ってくる兵士の姿がないことを確認した後、状況を飲み込めずにいるであろう吉継へと向き直った。



◆◆



 トリスタンと南蛮兵たちが言葉を交わしていた間、吉継は安穏とその場に留まっていたわけではない。
 当初、吉継はトリスタンが自分を捕らえるために、この場に現れたのだと考えた。それ以外に考えようがないはずであった。
 だが、吉継の姿を認めたトリスタンの顔には安堵の色が浮かんでおり、なおかつトリスタン自身も深い傷を負っていた。罠である可能性も考えたが、トリスタンが吉継を捕らえるためにここまでする必要はない。そんな面倒なことをせずとも、実力で正面から取り押さえることが出来るのだから。
 であれば、この場に現れたトリスタンの目的は吉継を捕らえることではない、ということになる。それは同時に、今、この船で何事かが起きていること、そしてそれが吉継の脱走とは比べ物にならない規模の異常であることを示していた。





「……なるほど。そういうことですか」
 トリスタンに肩を貸すようにして通路を歩きながら、吉継は小さく呟いた。与えられた情報を吟味するように、吉継の目に思慮深い光が躍る。
 一方のトリスタンは苦しげに息を吐き出しながら、必要と思われる情報を口にしていった。
「今ならば、ルイス……私の知己が乗ってきた舟が近くにいるはず。それに乗れば……ここから抜け出すこともできるでしょう……」
「他国の人間を捕らえたり、逃がしたり、忙しいことですね」
「……返す言葉も、ないですね」
 吉継の皮肉げな物言いに、トリスタンは力なく頷く。
 吉継は思う。トリスタンが言い訳や自己弁護を口にしなかったのは、もともと自身の行いの是非を承知していたこともあるが、なにより余計なことに体力を使いたくないからであろう、と。


 吉継が一度だけ大きく息を吐き出したのは、表情と、そしてなによりも感情を切り替えるためであった。
 今、肝要なのはここを抜け出すこと。そう考えた吉継は、トリスタンに向けた舌鋒をおさめ、端的に問いただした。
「私に出来ることは?」
「……今になっても追っ手があらわれない、ということは……おそらく、私を討てというアルブケルケの指示は、すでに甲板に伝わっています。航海長は私を逃がさないように動いているでしょう。しかし、あれも、他の将兵も、あなたが逃げ出したことはまだ知らない……」
 それを聞いた吉継は、かすかに眉根を寄せる。
「――あなたが囮になっている間に逃げろ、ということですか」
「ええ……申し訳ないのだけれど、今の私にはそれくらいしか出来ません……これを――」
 そう言って、トリスタンが懐から取り出した袋の中には大粒の金銀が入っていた。量自体はそれほどでもないが、それでも十分すぎるほどの大金である。
「この船から逃げる役には、立たないでしょうが……逃げた後に、必要となるでしょう……」


 その言葉はトリスタン自身の今後を考慮していないものであった。吉継は、眼前の麗人がすでに自身の死を前提として動いていることを悟る。
 一瞬、吉継は何事か口にしかけたが、その口はすぐに閉ざされた。前方から人影が現れるのを見たからである。
 現れたのは二人組の水夫であり、彼らは吉継とトリスタンの組み合わせ、なによりトリスタンの傷を見て驚きを隠せない様子であったが、トリスタンの説明を聞くや、先刻の兵士たちと同じく、すぐに行動に移った。






 同様のことを二度繰り返した後、吉継とトリスタンは甲板へ通じる扉が見える位置にたどり着く。
 見るかぎり、扉の前に人影はない。これは常ならば何の不思議もない光景である。
 だが、ルイスの舟があらわれ、先の警鐘による船内のざわめきが静まりきっていない今の状況にあって、奇妙なまでに常とかわらないその光景は、トリスタンに一つの作為の存在を感じさせた。
 そして、それはあらかじめトリスタンが予測していたことでもある。
「やはり、航海長には……私のことは伝わっている、ようですね」
 トリスタンはそう呟くと、肩を貸してくれていた吉継に礼を言ってから身体を離す。
 傷口をおさえながら通路に立つトリスタンの姿は、風がそよげば倒れてしまいそうなほどに儚げであったが、ただ、その眼だけは今なお明敏な輝きを放っていた。


 トリスタンは、何かをこらえるように顔をゆがめてから、ゆっくりと口を開く。
「ここであれば、少しの間は、身を隠すことが出来るでしょう。ここから先は、事態がどのように転がるかは……わかりません。ただ、機があるとすればそれは、私が討たれた後、あなたの脱走が知られるまで……の短い間しかない。機というには、あまりに成算の薄いものですが……」


 その言葉を聞いた吉継は、トリスタンの心情を思いやるかのように穏やかな表情を浮かべた。しかし、直後に発された言葉は、あんまり穏やかではなかった。
「なにやらご自分の死を前提にしていらっしゃるような口ぶりですが、簡単に討たれてもらっては困ります。あっさり死なれてしまっては囮にもなりません。私を逃がすというのなら、懸命に足掻いてもらわなければ。それこそ土を食んでも生き延びる、くらいの覚悟で。そうしなければ、そもそも機など生じないでしょう」


 それを聞いたトリスタンは、思わず、という感じで目を瞬かせる。それがトリスタンに対する悪態や痛罵であれば、予測もし、覚悟もしていたが、吉継の意がそのいずれでもないことは、その顔を見れば明らかであった。もしかして、これは吉継なりの励ましなのだろうか。
 そんなトリスタンの内心に構わず、吉継は言葉を続けた。
「死を覚悟して事にあたることと、生を諦めて事にあたることはまったく別のものです。あなたの生き方に口を出すつもりはありませんが、かといって目の前で諦めたまま死なれては寝覚めが悪い。私を助けるために、などと思ったまま逝かれては尚更に。ですので――」
「……生きろ、と?」
「はい」


 あっさりと頷く吉継。
 そんな吉継を見て、トリスタンはしばしの間、絶句してしまった。この脱出が失敗した後、どのような目に遭わされるか、吉継はすでに承知しているはずだった。にも関わらず、その顔に恐怖はない。焦燥もない。吉継をこんな状況に追い込んだトリスタンに対する恨みも、憎しみも感じない。
 ことさら強がる風もなく、かといって諦観に身を委ねた様子はさらにない。そこにあるのは、ただ前を見据える意思だけだった。



 そんな吉継を見て、トリスタンの口元には自然と笑みが浮かんでいた。
 だが、それは明るさとは無縁の、半ば自嘲であった。
 トリスタンは自身の行動を償いのためだと考えていた。
 何の償いか。むろん、不法に他国に押し入り、権謀をもって吉継を捕らえたことに対してのものである。だからこそ、こうして吉継を逃がそうとしている。それは同時に、トリスタンが熾してしまった火群を鎮めるためでもあった――小アルブケルケの前でそう言明したように。


 だが、それ以外の理由がないわけではなかった。


 トリスタンは、吉継の境遇にかつての自分を重ね見ていた。そして、吉継をはじめとしたこの国の人々の末路を予想してもいた。
 ――どれだけ抗おうとしても、最後には抗えなくなろう、と。
 ゴアをはじめとした南蛮国東方領のみならず、本国にまでその影響力を有するアフォンソ・デ・アルブケルケ――大アルブケルケの力はそれほどに巨大なもの。東方の島国に住まう者たちは彼を知らぬが、やがてその威を身をもって知ることになる。その時が、反抗の意思が潰える刻になるだろう……


 その悟ったような考えが傲慢――否、滑稽であったことに、今のトリスタンは気づいている。
 この国の者たち、吉継も、その周囲の者たちも、南蛮に屈する意思など一片もない。それはバルトロメウに来てからの吉継の態度や、南蛮艦隊とぶつかりあったこの国の将兵の動きを見れば明らかである。
 そんな彼らに対し、反抗を諦めたトリスタンが同情ないし共感を寄せる――これを滑稽と言わず、何を滑稽というのだろう。


 今、トリスタンは小アルブケルケの叛逆を知り、命を捨てて吉継を逃がそうとしている。悲壮感に酔っているつもりはなかったが、しかし、これまでの自身の愚かさの清算を望む気持ちが、そこにまったく含まれていないといえば嘘になってしまうだろう。
 独りよがりの同情と共感を滑稽と承知しながら、今度は独りよがりの犠牲と献身を押し付けようとしていた。相手のためにではなく、ただ自分のために。
 吉継の言葉は、トリスタンにそのことを自覚させた。それゆえに、トリスタンは自嘲を禁じえなかったのである。


 ――おそらく、吉継自身はそこまで意図したわけではないと思われる。吉継はトリスタンの生い立ちを知らない。だから、トリスタンが安易に死を選ぶことのないよう、最後まで諦めないで、と少々きつい調子で言ったに過ぎないのだろう。
 しかし、結果として、その言葉はトリスタンの独善と自己満足をこれ以上ない形で衝いていた。


 知らず、トリスタンは深いため息を吐いていた。
「……本当に、もう。この年で、ここまで自分の至らなさを自覚することになろうとは……」
 情けない、というその呟きは南蛮語であったため、吉継は理解できずに怪訝そうな顔をする。
 そんな吉継に向け、トリスタンは言う。何かを吹っ切るように、強く。
「確かにその二つは別のもの。諦めたまま死んだ挙句、他者の夢見を妨げるのも迷惑な話です。ならば……ふふ、言われるとおり、せいぜい生きのびるために、足掻くことにしましょうか」
 自分の心構えがかわった程度で切り抜けられるほど、状況は甘くない。トリスタンはそのことを承知していたが、それでも吉継に向かって微笑んで見せた。今度は自嘲のかげりのない笑みで。




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第九章 杏葉(十三)   
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:7a1194b1
Date: 2012/02/02 22:29

 バルトロメウの航海長は、名をフェルナンという。
 航海長は文字通り、船長の下で航海に関する職務を総攬する役職であるが、バルトロメウの船長である小アルブケルケは基本的に操船には携わらない。よって、実質的にバルトロメウを統べるのは航海長であるフェルナンであった。
 バルトロメウは第三艦隊の旗艦であり、その旗艦を任せられているフェルナンの権能は他船の航海長の比ではない。
 それほどの役職に任じられたことからも明らかなように、フェルナンの能力と識見は南蛮軍の中でも指折りであり、それはトリスタンも認めるところであった。


 ゆえに、甲板に出れば、今のように兵たちに囲まれるであろうことを、トリスタンは半ば覚悟していた。
 さらによく見れば、フェルナンの隣にいる騎士は、先刻、トリスタンが船長室から逃げ出した際、報告に訪れていた騎士と同一人物である。
 小アルブケルケにトリスタンを捕らえるよう命じられたこの騎士は、その足でトリスタンを追うのではなく、甲板に出て航海長であるフェルナンに事の次第を報告したのであろう。


 その判断は的確だ、と他人事のようにトリスタンは考える。
 騎士の報告を聞いたフェルナンは、トリスタンの性格や負傷の状況などを考慮した上で、最終的に甲板まで来るのは間違いないと判断し、将兵を取りまとめて待ち構えていたのだろう。
 ともすれば薄れそうになる意識をはげまし、眼前の相手の思惑を推測するトリスタンの前で、フェルナンが口を開いた。
「叛逆には死を。たとえ教会より聖騎士に任じられた方といえど、この鉄則に変わりはありません。何を血迷ったのか知りませんが、晩節を汚しましたな、トリスタン卿」
「……フェルナン。あなたは『知って』いるのですか?」
「あいにく、叛逆者の戯言を聞く耳は持ち合わせておりませぬ。事やぶれた上は潔く果てていただきたい。これ以上の醜態をさらさぬためにも」
 そう言った後、フェルナンはかすかに口元を歪ませた。
「――もっとも、叛逆という愚行で、尊き『聖騎士』の称号を穢すこと以上の醜態など、想像もできませんがね」


 フェルナンの言葉は、当然のようにトリスタンに向けられたものである。だが、同時に周囲の兵士たちに向けた言葉でもあった。聞こえよがしな語り口が、そのことを物語って余りある。
 フェルナンの狙いは明らかであった。
 トリスタンは他の提督に比しても、将兵の信望が一際篤い。それはトリスタンの功績、容姿、あるいは為人から来るものであるが、そんなトリスタンをろくな詮議もなく彼らの眼前で討ってしまえば、後々の疑心の種になりかねない。フェルナンはそれを案じ、トリスタンを討つ正当性をこの場で声高に述べ立てているのだろう。


 フェルナンが小アルブケルケの企てにどの程度関与しているかは定かではない。だが、この様子を見れば、まったくの無関係ということはないだろう。であれば、トリスタンがどれだけ言葉を重ねたところで意味はない。それ以前にフェルナンはトリスタンが言葉を重ねる時など与えないだろう。
 その推測を肯定するように、フェルナンは次の行動に移る。


「死んでいただこう、トリスタン卿――否、叛逆者トリスタン」
 その短い言葉が合図であったのか、十を越える筒先と鏃がトリスタンの身体に向けられる。負傷したトリスタンに、それらを避ける術はない。兵士の中には表情にためらいを宿す者もいたが、彼らも命を捨ててトリスタンを庇うほどの覚悟はなかった。叛逆の罪は、当人のみならず、故郷の家族にまで累が及ぶのである。
 ゆえに、トリスタンの身体が弾と矢によって抉られ、その命を散らす未来は変えようがない――他ならぬトリスタン自身がそう覚悟していた。吉継に言ったとおり、出来るだけ足掻くつもりではあったが、さすがに鉄砲の弾やクロスボウの矢はかわせない。


 では、何をもって足掻くのか。
 その答えは眼前の航海長の存在にあった。トリスタンは航海長が甲板に罠を張っていることを予測していた。そして、トリスタンを討つ正当性を得るために、兵の前に出てくることも予測していた。
 バルトロメウの航海長の権能は他船の比ではない。逆に言えば、これを討つことが出来れば、バルトロメウを混乱に陥れることは可能なのだ。むろん、小アルブケルケがいる以上、その混乱は一時的なもので終わるだろうが、吉継を逃がすだけの隙を得ることは出来る――それが先刻までのトリスタンの考えであった。


 今となっては、トリスタン自身も逃げられれば、という欲張った気持ちも芽生えてはいるが、すべてはフェルナンを討ってからのこと。
 トリスタンの鋭い視線を受けたフェルナンは、そこになにか不穏なものをかぎとったのだろう、わずかに目を細めた。
 見たところ、トリスタンは剣すら持っていないようだが、短剣の一つ二つ、袖に潜ませるのは容易なことだ。今のトリスタンは身動き一つするにも辛そうに見えたが、それが演技でない保証はどこにもない。あるいは演技ではなく、本当に体力が尽きようとしているのだとしても、蝋燭の炎は消える瞬間、一際強い輝きを放つものではなかったか――


 瞬間、フェルナンは背筋に冷たいものを感じ、兵に「殺せ」と命じようとした。
 一方のトリスタンも、自身が口にした『生き足掻く』意思を行動に移そうとする。
 だが、この両者の行動はいずれも未発に終わった。
 鐘声。
 突如として降り注いだ、耳をつんざく船鐘の音が、甲板にいるすべての者たちの動きを封じ込めたのだ。否、より正確に言えば、鐘声は甲板のみならず船内にも鳴り響き、多くの者たちが足を止め、手を止め、口を閉ざした。


 小アルブケルケとルイスが聞いた異変を知らせる鐘の音はこれである。




◆◆◆




 この日、バルトロメウの見張り台にのぼった水夫は船鐘を二度鳴らした。
 一度目はルイス・デ・アルメイダが倭船に乗って姿を現した時。そして二度目はそれから半刻も経たないうちに。
 大きく、激しく打ち鳴らされた鐘は、一度目のそれとは比較にならないほどにけたたましく船中に響き渡り、どこか弛緩していた船内の空気を一変させた。
 しかし、この時、見張りの水夫は明確に敵船の姿を捉えていたわけではなかった。周囲を見渡したところで、バルトロメウに向けて殺到してくる敵船などどこにも存在しない。
 では、見張りの水夫は何ゆえに二度目の鐘を打ち鳴らしたのだろうか。



 結論から言ってしまえば、この時、マストの上で見張りを務めていた水夫が見たのは、南蛮軍にとっては取るに足らないであろう些細な出来事だった。
 すなわち、水夫は先刻確認していた三艘の釣り舟が、バルトロメウに近づいて来ていることに気がついたのである。いずれの舟も、すでにバルトロメウのすぐ近くまで接近しており、その中の一艘は、さきほど接舷したルイスの舟と隣り合う位置にまで近づいているようだった。
 ようだった、というのは、その釣り舟がルイスの舟の影に隠れており、見張り台から詳しい状況を確認することができなかったのである。


 通常であれば、たかだか二、三人で漕ぐ小舟がバルトロメウの船足に及ぶはずはないのだが、この時、バルトロメウはルイスが乗ってきた舟と船足をあわせるために大きく速度を落としていた。
 釣り舟に乗っている者たちにしてみれば、南蛮の軍船、それもバルトロメウのような巨船を見ることは滅多にない――どころか、おそらく生まれて初めてのことだろう。その船を間近で見られる機会があれば、興味を惹かれるのは当然のことである。
 ゆえに、三艘の小舟が近づいて来ることは、それほど不自然なことではない。少なくとも、鐘を打ち鳴らして船中に警戒を促すような異変ではない。見張りの水夫はそう考えたが、それでもこの水夫は力の限り、それこそバルトロメウに乗る者すべてに届けとばかりに大きく鐘を打ち鳴らした。


 そうすることでトリスタンの窮地を救える、と考えたのだ。


 一介の水夫と聖騎士では身分に天地の開きがある。ゆえに、水夫とトリスタンがことさら親しい間柄だったわけではない。
 だが、以前にトリスタンから常日頃の真面目な働きぶりを称されたことのある水夫は、トリスタンに対して深い感謝と憧憬の念を持っていた。海戦で敵の長を討ちとった、などという華々しい功績をあげたわけではない。騎士階級の者たちにしてみれば、取るに足らぬであろう水夫の働きぶりにまで目配りを行き届かせ、かつ称してくれるような人物は滅多にいるものではない。
 そんな人物が味方であるはずの将兵に銃や弩を向けられている。
 水夫はずっとマストの上の見張り台に居たため、眼下で起きている状況を把握していたわけではなかったが、それでもトリスタンが命を断たれるほどの罪を犯したとは思えなかった。
 だから、さして脅威と判断したわけでもない小舟を利用して、味方の注意を逸らそうと試みたのである。後々、無用に騒ぎを大きくした罪を問われることは覚悟の上であった。




 ――皮肉、というべきであったろうか。
 この時、水夫自身すらその必要性を信じていなかった警鐘は、実のところ、これ以上ないほど的確に事態の核心を衝いていた。
 ルイスの舟があらわれたことも、それによってバルトロメウが船足を緩めたことも、その後に三艘の小舟が近づいてきたことも、すべては一本の糸で結ばれた策謀。
 鐘を打ち鳴らした当人はそのことに気づいていなかったが、打ち鳴らされた鐘の音は、南蛮軍が策謀に気づいた証として響き渡る。
 結果、南蛮軍に敵対する者たちが、雌伏の時はこれまでと判断して行動に移るのは当然のことであった。
 そして、彼らが今なお鐘を鳴らし、異変を知らせ続ける見張りの水夫を真っ先に狙うのもまた当然のことであった。




 はじめに水夫が感じたのは、痛みよりも衝撃だった。
 ブレるように視界がかすみ、わずかに遅れて、かつて経験したことのない悪寒が全身を貫く。
 悪寒の源――顎に手をあててみれば、そこには一本の矢が突き立っている。
 見張り台のはるか下方から放たれたその矢は、板で組み合わされた見張り台の隙間を縫い、まるで吸い込まれるように水夫の顎部を射抜いていた。
 空恐ろしいほどに精妙な弓術である。鏃が口蓋にまで達していることから、弓勢も並大抵のものではないことがうかがわれた。しかし、当の水夫はそうと認識することは出来ず、ただ奇妙に力の入らない身体をもてあますように、見張り台の縁によりかかり――それでも身体を支えることはかなわず、水夫の身体は見張り台の外へと転がり落ちていった。



 一方、甲板の南蛮兵たちにとっても状況は混沌の一語に尽きた。
 つい先刻までは雲上の人であった聖騎士が叛逆を起こしたと知らされ。
 その人物の命をまさに絶とうとした瞬間、敵船の姿も見えないのに警鐘が打ち鳴らされ。
 かと思えば、唐突に鐘の音が途絶え。
 事情を知るために見張り台を見上げようとした途端、顎に矢をはやした見張りの水夫の身体が落ちてきたのである。
 重く、鈍い音を立てて甲板へと叩きつけられる見張りの姿を目の当たりにして、一般の兵や水夫はもとより、フェルナンをはじめとした小アルブケルケ側近の騎士たちでさえ戸惑いを隠せなかった。一体、何事が起きたのか、と。


 常であれば敵襲だと即断できる状況である。が、今この時、バルトロメウを襲う戦力などどこにもないはずであった。周囲を見渡しても敵船の姿はない。先にルイスが乗ってきた舟に武器がないことはすでに確認してある。であれば、一体どこから、誰が攻撃を仕掛けてくるというのか。
 戸惑う南蛮兵たちに対し、解答は言葉ではなく行動で示される。
 次の瞬間、南蛮兵の多くが同じ光景を目撃した。左右の舷側を越え、船内に投げ込まれる球状の物体。
 片手の指では数え切れない数のそれらを見た瞬間、トリスタンは息をのみ、咄嗟に甲板に倒れこむ。トリスタンにわずかに遅れて、フェルナンも危険を察知して甲板に身を伏せた。だが、他の南蛮兵の多くは、この二人ほど鋭い反応を示すことが出来ず、その場に立ち竦む者がほとんどであった。




 日の本において『焙烙玉』と呼ばれる海戦用の武器が炸裂する。
 立ちすくむ南蛮兵に向け、爆風によって弾け飛んだ破片が襲い掛かり、バルトロメウの甲板はたちまちのうちに騒然とした雰囲気に包まれた。
 ある者は今さらながらに甲板に伏し、ある者は負傷して倒れ、またある者は治療のために仲間のもとに駆け寄った。だが、それ以上に多かったのは、敵襲に備えるため、トリスタンに突きつけていた武器を船の外へと構え直した兵士たちである。
 それは第三艦隊の旗艦たるバルトロメウの錬度を知らしめる光景であった。
 が、南蛮軍の機先を制した襲撃者たちは、その有利を手放すつもりは毛頭なかったらしい。南蛮兵が戦列を整えるよりも早く、彼らの先陣はバルトロメウの甲板にその姿を現していた。




 そして。
 甲板に倒れこんだトリスタンは、そんな襲撃者たちの姿を視界に捉えていた。むろんのこと、トリスタンは彼らの姿に見覚えなどない――ないはずなのだが、しかし、真っ先にバルトロメウに乗り移った人物を見た瞬間、トリスタンは知らず、かすかに口元を緩ませていた。疑念よりも、困惑よりも先に、奇妙な可笑しさを感じて。
 ――つまるところ、トリスタンがどう動こうと、今日この日、バルトロメウが騒乱に包まれることは定まっていた、ということなのだろう。
 船の内と外であらかじめ示し合わせることは不可能。
 ゆえに、すべての行動がこの時に結実したのは偶然の産物に過ぎない。
 だが、ただの偶然であるはずがない。一人は外で、一人は中で、彼らは強大な南蛮軍を前にしても、屈することも、諦めることもしなかった。だからこそ訪れた、奇跡的な偶然――


「……それを、必然というのかな……」


 そこが、トリスタンの体力の限界であった。
 血が流れすぎたせいだろうか、すでにその身体を覆うのは痛みではなく、痺れであり、その痺れですら刻一刻と薄くなりつつある。
 南蛮艦隊にその人ありと謳われた聖騎士は、半ば眠るように甲板の上で意識を失った。





◆◆◆





 むろんと言うべきか、この時、バルトロメウに侵入した者たちは、ルイスが乗ってきた倭船に同乗していた者たちである。
 だが、実のところ、彼らも事態のことごとくを把握していたわけではなかった。
 彼らが乗ってきたのは、バルトロメウとは比べるべくもない小さな舟である。当然のように、二つの船の舷側の位置は上下方向に大きくずれている。それこそ渡し板をかけることも出来ず、ルイスがバルトロメウに乗り込む際には縄梯子を用いたほどであった。
 それはつまり、倭船からバルトロメウの甲板の様子を見ることは不可能であるということ。甲板から響く騒音や、南蛮兵の緊張や興奮をはらむ声を聞けば、何事かが起きているのだ、と推測することは出来たが、具体的に何が起きているかまでは知りようがない。


 ゆえに、彼らはバルトロメウの見張りが此方を向いて船鐘を打ち鳴らすのを見た時、自分たちの謀事が露見した、と判断したのである。
 折りしも釣り舟に偽装していた舟からひそかに武器を受け取っていた時である。バルトロメウ側からは見られないように配慮していたつもりだったが、南蛮船の見張りの兵はよほどに目も勘も良い人物らしい――そう彼らが考えたのは無理からぬことであった。
 神ならぬ身に、見張りの行動が今まさに討たれようとしているトリスタンを救うためのものである、などと見抜けようはずもない。そして、別段見抜く必要もなかった。どのみち、強襲する段取りが変わるわけではない。バルトロメウに乗り込む刻限がほんのわずか、早まるだけなのだから。





◆◆◆





 バルトロメウの航海長フェルナンは小さく、だが鋭い舌打ちの音をもらした。
 ルイスの舟を検分したフェルナンは、乗り込んできた者たちがあの舟にいた者たちである、とすぐに察したのである。
 船底まで確かめたというのに、どこに武器を隠していたのか。その点が気になったが、それ以上に問題なのが、フェルナンが彼らの思惑にしてやられ、バルトロメウに異国の民の侵入を許した、という事実である。
 フェルナンは自身の能力に自信を持っていたが、同時に南蛮軍の中に――もっといえば、小アルブケルケの麾下の中に自分の代わりが幾人もいることも承知していた。失態を犯し、なおかつその失態に対処しえないような愚者を、小アルブケルケは許さないだろう。
 この上は速やかに侵入者を撃退し、そしてトリスタンを討ち取って小アルブケルケの寛恕を請うしかない。


 だが、眼前で繰り広げられる戦いを見るかぎり、敵もそれなりに考えて動いているようだった。侵入者たちは、南蛮兵たちが態勢を整える前に、その只中に斬り込んで来た。乱戦となってしまえば鉄砲も弩も使えないと考えたのだろう。
 ただ、それを見てもフェルナンは慌てなかった。
「辺境の蛮族にしては考えたようだが……一を知って二を知らぬな」
 確かに乱戦になってしまえば飛び道具は制限される。が、実のところ、乱戦は南蛮側にとっても望むところなのだ。
 乱戦となれば、物を言うのは数である。侵入者たちの数はおおよそ十人あまり。対して、バルトロメウの甲板にはその三倍近い数の南蛮兵がひしめいている。
 多くの兵を集めていた分、先の焙烙玉によって負傷した兵の数もまた少なくなかったが、負傷者を差し引いても南蛮兵の数は侵入者にまさる。勝敗の帰結は明らかであり、だからこそフェルナンは狼狽したりはしなかったのである。




 そのフェルナンの考えは間違いではない。だが、ほどなくバルトロメウの航海長は表情に厳しい色を浮かび上がらせることになる。
 数に劣る侵入者たちの錬度は、バルトロメウの精鋭と比してさえ並ではなかったのだ。
 ことに目を惹くのは、侵入者の中にあって一際背の高い剣士である。
 表情、佇まいはこの状況にあっても静粛であり、一見しただけでは別段脅威を感じる要素はない。
 だが、剣を構えた途端、その男の印象は一変する。さして肉厚な身体ではないというのに、巍々たる城壁を前にしたような圧迫感を漂わせるのだ。
 そして、ひとたび剣を振るえば、その印象すら砕かれる。城壁は『守り』。しかし、この剣士の気質は疑いなく『攻め』にあった。
 その一閃は、ただひたすらに速く、重い、剛の剣。
 剣士の攻撃を受け止めた南蛮兵は、カトラス越しに伝わる剣勢の凄まじさにたまらず後ずさり、時にそのままカトラスを弾き飛ばされる。中にはカトラスごと頸部を断ち切られる者さえいた。


 右に左に、縦横無尽に太刀を振るう剣士――瀬戸口藤兵衛によって、バルトロメウの甲板には瞬く間に南蛮兵の死屍が積み重なっていった。
 いずれもただの兵士ではない。第三艦隊の旗艦、バルトロメウに乗ることを許された南蛮軍の精鋭である。だが、藤兵衛の剣の前には、その事実は何の意味もなさないらしい。
 そんな藤兵衛を前に、南蛮兵の一人が怯んだように一歩、二歩と後退する。すると、たちまちその兵士の怖れは周囲に伝染し、藤兵衛が進むところ、南蛮兵は岩に裂かれる波のように左右に分かれていった。


 それを見たフェルナンは、部下のあまりの不甲斐なさに眉を鋭角に跳ね上げた。
「辺境の蛮族相手に何を怯んでいるのだ、貴様ら!」
 フェルナンの叱咤を受けた騎士の一人が、声を励まして藤兵衛に斬りかかる。この騎士は海上にあって金属鎧を身に着けており、にもかかわらず、その動きは他の軽装の者たちと比べても遜色はなかった。
 衆に抜きん出た体力がなければ不可能な業であったが、そんな騎士でも、藤兵衛の剣よりも速く動くことは不可能であった。翻った藤兵衛の剣先は正確にこの騎士の喉笛を切り裂き、騎士は傷口から壊れた笛のような音をもらしながら倒れこむ。
 騎士の身体が甲板に届く頃には、藤兵衛の剣はすでに次の敵と渡り合い、これをも一刀の下に斬りすてていた。



 後年、その剣速は雲耀に至ると称された稀代の剣士。
 大きく武芸の発展した日の本の国にあってもほんの一握りしか存在しない、天頂への階に足をかけた者。
 自分たちが、まさかそんな卓絶した剣士を相手にしているとは南蛮軍は知る由もない。
 しかし、たとえその事実を知らずとも、南蛮軍が藤兵衛を恐るべき敵と見なすまで長い時間はかからなかった。放っておけば、ただ一人で南蛮軍のことごとくを斬り倒してしまうのではないか、そんな恐れを抱いた兵たちは藤兵衛から距離を置こうとした。
 先ほどのように、ただ恐れて退いたのではない。斬りあったところで勝機なし、と見て取り、飛び道具に頼ろうとしたのである。
 フェルナンもまた、藤兵衛の強豪をあらためて思い知らされ、この際、同士討ちで多少の被害が出たところで致し方なしと判断し、銃兵たちに射撃を指示しようとする。



 南蛮側の判断は的確であった。だが、的確であるゆえに、その意図を読むこともまた容易であった。
 藤兵衛に銃口を向けた南蛮兵の首筋に、一本の矢が突き刺さる。鉄砲を構えた格好のまま、その兵士はくずおれるように甲板に倒れ伏す。
 敵味方が入り乱れる中で、的確に急所を射抜く技量に周囲の南蛮兵から驚愕の声があがったが、彼らに驚いている暇はなかった。何故なら、最初の兵士が甲板に倒れたその時には、ずでに二の矢、三の矢が飛来していたからである。


 もし、フェルナンがこの射手の顔を見たならば、それが先刻ルイスの舟で見かけた、ただ一人の女性であることに気がついただろう。
 ある者は首を射抜かれて倒れ、ある者は肘を射抜かれて苦痛の声と共にカトラスを取り落とし、またある者は足を射抜かれ、身体を甲板に縫いとめられた。
 無慈悲なほど正確に南蛮兵をしとめていくこの射手は、先ほどバルトロメウの見張りを一矢で射落とした人物でもあった。


 その名を島津歳久という。島津の智嚢と称される島津四姫の一角である。
 むろんのこと、それと知る者は南蛮軍には存在しない。南蛮軍にわかったのは、歳久が並々ならぬ射手であるという事実だけ。
 歳久の精妙な弓術の前には防具など意味をなさない。バルトロメウの甲板に、銃兵たちの悲鳴がこだまする。
 その銃兵の混乱に、藤兵衛がつけこまない理由はなかった。南蛮兵の只中に飛び込んだ藤兵衛は、さらに苛烈に敵兵を斬り立て、それに他の島津兵が一斉に続く。
 バルトロメウの甲板に漂う血臭は、時と共に濃くなるばかりであった。





 思いもよらない敵の猛攻を受け、フェルナンは苦りきったが、その目にはなお緊張はあっても狼狽はなかった。
 侵入者たちが一筋縄ではいかない相手であることは、眼前の光景を見れば明白である。しかし、バルトロメウが抱える兵員は二百名をはるかに越える。侵入者たちがどれだけ手ごわくとも、たかだか十名たらずでそれらすべてを殺しつくせるはずがない。
 遅かれ早かれ、侵入者たちはその死屍を甲板に晒すことになるのだ。


 ――だが、その前にやっておかねばならないことがある。

 
 フェルナンの視線は侵入者たちから離れ、甲板に倒れ伏したままのトリスタンに向けられた。最早立ち上がる力もない、というよりはもう意識を失っているのだろう。
 その傷を見れば、放っておいても息絶えるのは確実だが、この騒乱に紛れてトリスタンをかくまおうとする者が出ないとも限らない。
 ゆえに、トリスタンは今ここで、確実に殺しておく。侵入者の撃退はその後でもいい。どのみち、意識を失ったトリスタンを討つために要する時間などせいぜい数秒でしかないのだから。
 カトラスを持ったまま、無造作にトリスタンのもとへ歩み寄るフェルナン。
 もはや声をかける必要もあるまいと考え、カトラスを振りかざしたフェルナンの視線の先で、トリスタンは何故か微笑を浮かべているように見えた。
 フェルナンには、その表情の意味はわからなかったが、せめてもの情け、これ以上、無意味な苦痛を与えぬように、とカトラスを握る手に力を込める。


 だが、その刃がトリスタンに向けて振り下ろされることはなかった。
 邪魔者が現れたのである。
 先の侵入者たちではない。何故なら、その邪魔者は船の外からではなく、中から――すなわち船内に通じる扉から現れたからだった。その手に持つカトラスは、すでに何者かの血を吸って赤く濡れていた。その目もまた、血に塗れたように紅く染まっていた。






◆◆◆






 トリスタンが甲板に出た折、背後から扉を閉ざした南蛮兵たちは、トリスタンを罠にかけた自分たちが、その実、罠にかけられた側であるとは想像だにしていなかったらしく、後背から襲い掛かった吉継にまったく対処できなかった。
 首尾よく南蛮兵を排した吉継は、すぐにも甲板に飛び出すつもりだった。その顔はやや青ざめていたものの、それは仕方のないことであったろう。吉継ならずとも、この状況では自分が死地に飛び込もうとしていることを悟らざるを得ない。
 だが、死中に生を求めるべし、と内心で呟く吉継の顔は、青ざめてはいたものの、ゆるぎない覚悟を映して鋭く引き締まっていた。


 しかし、ここから事態は吉継の想定から大きく逸脱しはじめる。
 吉継が扉外に打って出ようとした途端、けたたましく打ち鳴らされる警鐘が耳朶を打った。何事か、と思う間もなく、扉越しにでもそれとわかる炸裂音が轟き、さらにほとんど間を置かず、刃と刃がぶつかりあう剣戟の響きが伝わってきた。
 何者かが襲撃を仕掛けてきたのだ、と吉継が察するまで、かかった時間は瞬き一つか二つ分だけである。
 だが、問題は襲撃の有無ではなく、それが何者によるものなのか、という点であった。南蛮軍の巨船に対し、そこらの海賊が挑みかかるはずもない。それは無謀を通り越して愚行の領域にある行動だからである。


 ありえるとすれば、どこぞの大名の軍だろうが、南蛮軍に挑むことができるほどの勢力となれば、大友軍か島津軍しかない。だが、大友軍が突然に矛を逆さまにするとは考えにくく、ゆえにもっとも可能性が高いのは島津軍であった。
 しかし、ムジカを出てから今日までの日にちを考えれば、バルトロメウが薩摩に着くまでには、まだしばらくかかるはず。南蛮艦隊を撃ち破ったとはいえ、島津の水軍も相応の被害を受けたはずであり、薩摩の外に打って出るほどの余裕があるとは思えない。


 とつおいつ考えるに、今の段階でバルトロメウに襲撃をかけてくる勢力はない、という結論しか出てこない。バルトロメウ側から迎撃の砲声ひとつ発せられなかったことも訝しい。
 だが、実際に襲撃は行われ、襲撃者たちはすでに甲板に足を踏み入れている。これはどういうことなのか。一体、どこの誰がこんな無謀で奇妙なまねをしたのだろうか。


 ……一瞬、脳裏に兆した名を、吉継は意識して振り払う。その予測は、あまりに自身の願望が混ざりすぎているように思えたから。
 それに、と吉継は思う。
 これが何者の襲撃であれ、吉継と、そしてトリスタンにとって好機であるのは間違いない。敵の敵は味方、と決まったわけではないが、少なくともつい先刻より脱出の可能性が高まったことは確かであろう。
 そう考えた吉継は、今度こそ何に遮られることもなく、扉を蹴り破るように押し開き、甲板へと躍り出る。そして、今まさに倒れ伏すトリスタンに向かってカトラスを振り下ろそうとしていた騎士――フェルナンの姿を見出したのである。




 吉継とフェルナン、どちらがより驚いたかはわからない。
 確かなのは、二人が即座に驚きを排し、互いを敵として刃を振るったということであった。
 二人のカトラスが空中で音高くぶつかりあい、刺すような金属音が互いの耳朶を打ち据える。
 南蛮人と日本人。互いに相手の言葉を解さない両者は、刃に殺意を乗せることで、己の意思を相手へと知らしめる。
 激しい音を立ててカトラスとカトラスがぶつかりあい、真っ向から衝突する刃の残響音が絡み付くように耳の奥で木霊した。


 一合、二合、三合、四合。
 徐々に剣戟の回数が増えていく。そして、増えていくにつれ、形勢が不利になっていくことに、吉継ははっきりと気がついていた。
 女性、しかも年齢に比して小柄な吉継は、フェルナンとの間に大きな体格差がある。自然、一撃一撃に込められる力にも差が出てくることになるが、初撃に関して言えば、吉継は甲板へと飛び出した勢いをそのまま剣勢に乗せたため、吉継とフェルナンの力は拮抗した。
 だが、それは言葉を換えて言えば、二撃目以降は互いの体格と膂力の差ゆえに、吉継はどうしても後手にまわらざるをえない、ということでもあった。


 むろん、体格や膂力の差が勝敗に直結するわけではない。が、その二つが勝敗を決する重要な要素であることはまぎれもない事実。
 相手がただの兵士や水夫であれば、あるいは吉継でも何とかなったかもしれない。それこそ先刻のように組討術に持ち込む、という手段もある。
 しかし、バルトロメウの航海長を務めるフェルナンは、個人の技量も図抜けたものを持っている。少なくとも、吉継の武芸で圧倒できる相手ではなかった。


 幾度か態勢を挽回すべく仕掛けをしてみたものの、フェルナンに付け入る隙は見出せない。
 戦闘は刻一刻と吉継の不利に傾いていく。
 その一方で、南蛮兵は襲撃者たちに苦戦を余儀なくされていた。フェルナンの耳に聞こえてくるのは、南蛮語の絶叫や苦痛の声ばかり。振り返って見るまでもなく、自軍が押されているのは明白であった。
 ここで、フェルナンは周囲の兵士たちに対し、襲撃者たちにあたるように、と指示を下す。吉継程度の技量ならば自分ひとりで事足りる、と踏んだのである。
 応じて駆け出す兵士たち。
 吉継としては、そんなフェルナンの余裕ないし慢心につけこみたいところなのだが――


「くッ」
 フェルナンが渾身の力を込めて振るった重い斬撃を、吉継はかろうじて受け止める。が、その勢いに押され、こらえきれずに一歩だけ後退を余儀なくされる。その隙を逃さず、フェルナンは素早く距離を詰め、続けざまに斬撃を放ってきた。
 吉継はそのいずれも受け止めたが、やはり相手の勢いを殺すことは出来ず、なおも二歩、三歩と後退を重ね――やがて、とん、という軽い音と共に、その後退も停止した。吉継の背が、壁とぶつかったのである。
 ある意味、これも一つの幸運だった。もしも先ほど吉継が蹴り開いた扉部分に後退していれば、そのまま船内に逆戻りになっていただけでなく、扉付近に倒れている南蛮兵に足をとられ、フェルナンの眼前で倒れ込む羽目になっていただろう。


 しかし、絶望的、という意味では、どちらであっても大差はなかったかもしれない。
 吉継は背中から伝わる感触に、ほんの一瞬だけ、背後に意識をとられてしまう。その分、フェルナンの攻撃に対する反応が遅れてしまった。
 横薙ぎに振るわれたカトラスは、空恐ろしいほどの正確さで吉継の頸部に迫る。対して、吉継はカトラスを縦に構え、相手の斬撃をしのごうとする。
 一際高い音を立ててぶつかり合う二つの刃。
 勝敗を分けたのは、やはり一瞬の反応の差であったろう。奇妙に澄んだ音と共に、吉継の手からカトラスが弾き飛ばされ、フェルナンの刃はそのまま吉継に向かって振るわれた。


 宙空に、鮮血が飛び散る。
 フェルナンの刃は確実に吉継の身体を捉えていた。だが、その刃先が抉ったのは首ではなく、顔。
 吉継の命を繋いだのは、咄嗟に構えたカトラスが、ほんのわずかだけ、フェルナンの刃の軌道をずらしたからであった。
 しかし、命を繋いだといっても無傷であったわけではない。右の頬を裂かれた吉継の半面が、瞬く間に血で染まる。首を切り裂かれるよりはマシであるとはいえ、その痛苦は決して軽いものではない。まして女性の身である吉継にとって、顔の傷はそれ以上の意味を持つ。


 ただ、その心配をするにはこの場を切り抜けなければならない。
 状況はいまだ絶望的であった。
 フェルナンは無傷であり、武器を持っている。吉継は負傷し、武器を失った。素手で刃を受け止めることが出来ない以上、吉継に残された手段は組討術に持ち込むことだけであったが、フェルナンはまったくといっていいほど隙を見せておらず、行動に移ったところで即座に切り倒されておしまいであろう。
 むろん、それは吉継がこのまま黙って立っていても同じこと。
 つまるところ――万事、ここに休した。
 相手もそう考えたのだろう。吉継の眼前で、南蛮人が口を開く。
 発したのはただ一言。



 Dado   

     ――死ね



 吉継は南蛮語を解さないが、それが意味することは理解できた。その言葉と共にカトラスを振りかぶったフェルナンの顔を見れば、嫌でも理解せざるをえない。





 だが、そんな吉継にも理解できないことがあった。





 O senhor

     ――お前がな  





 南蛮人が発した言葉を断ち切るように発された、もう一つの言葉。南蛮人ならざる者が発した南蛮語。
 言葉の意味はわからなくとも、耳になじんだその声を聞き、吉継の表情が驚きに染まる。
 その眼前で、フェルナンもまた驚愕をあらわにしていた。フェルナンにとっても、背後から聞こえてきたその声は、まったく予想だにしないものであったのだろう。


 ――そして、自身の胸から、生えるように突き出された刃もまた、フェルナンの予想せざるものであったに違いない。


 驚きと、それ以外の何かのために歪んだ顔で、フェルナンは何事か言葉を発する。
 だが、吉継は南蛮語を理解できず。
 フェルナンを背後から突き殺さんとした人物は、南蛮語を理解できたとしても、フェルナンの言葉に耳を傾けるつもりなど微塵もないようであった。
 その人物が無造作にフェルナンの身体を脇にのけると、胸から刀を生やしたまま、フェルナンの姿は吉継の視界から消え、その身体は甲板へと倒れこんだ。
 


「……え?」
 思わず、吉継の口から呆けたような声がこぼれ落ちる。
 フェルナンが退けられた今、吉継の視線は何に遮られることもなく、その人物の姿を克明に捉えていた。
 その姿を吉継は良く知っていた。先ほどの声を聞いた時、脳裏に浮かび上がった人物と寸分たがわない。もっといえば、この襲撃を行った勢力を考えたとき、脳裏によぎった人物とも変わらなかった。
 おそらく、自分はこの場にあって誰よりもこの人物と近しい関係だろう、という自覚も吉継は持っていた。
 だからこそ、わからなかったのだ。どうしてこの人が、今この時、この場にいるのか。
 そのことが、吉継にはどうしても理解できなかった。




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第九章 杏葉(十四)   
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:7a1194b1
Date: 2012/02/02 22:28
 瀬戸口藤兵衛が、師である丸目長恵の訪問を受けたのは、島津軍と南蛮軍の間で捕虜解放に関する交渉が行われる以前のことだった。




 藤兵衛は、戸口に立って師を招じ入れながらも、訝しげな表情を隠さなかった。師の訪問自体は喜ばしいことなのだが、なにしろ時刻はすでに真夜中といってもよく、とてものこと、他家を訪ねるのに相応しい時間であるとはいえない。
 当然、長恵もそれは承知しているであろうに、屋敷に入る足取りは常のそれと変わらなかった。


 寝静まった家人を起こさないように気をつけながら、藤兵衛は自ら長恵を自室に案内する。
 そうして長恵を上座に据えた藤兵衛は、かしこまって話を聞く姿勢をとった。長恵は普段の言動から傍若無人な印象が強く、また事実そういった振る舞いをすることもあるが、決して礼節をわきまえていないわけではない。少なくとも藤兵衛はそう考えている。
 その長恵が深夜に訪ねてきたのならば、そこには相応の理由があるはず、と判断したのである。
「うん、さすがに藤兵衛です。よく察してくれました。ご褒美に一献どうぞ」
 どこから取り出したのか、酒が入っているとおぼしきとっくりを掲げた長恵は、ご丁寧に酒盃まで持ってきていたらしく、その一つを藤兵衛に向かって差し出してきた。
「……頂戴いたす」
 長恵の行動について、いちいち細かいことは気にしてはならない。藤兵衛は素直に酒盃を受け取り、注がれた酒をあおった。




 互いに幾度か杯をあおった後、長恵は再び口を開く。
 その口から唐突にこの場にいない者の名前が出されたとき、さして驚きを覚えなかったのは、藤兵衛自身、どこかでその人物のことを気にしていたからであろうか。
「藤兵衛は、師兄のこと、どう見ました?」
 長恵が師兄と呼ぶのはただ一人、雲居筑前だけである。藤兵衛は南蛮艦隊との戦で雲居と戦場を共にしている。その返答は速やかだった。
「剣士として見るならばまだ未熟。策士として見るならば端倪すべからざる御仁であるかと」
「ふむ、では一個の人としては? 今の師兄は、傍目にはずいぶんと危ない人に映ると思いますけど」


 藤兵衛が答えるまで、今度は少しだけ間があった。
「……さよう、どこか鬼気を感じさせる御仁ですな。もっとも、それがしが雲居殿と面識を得たのは、娘御が南蛮人にかどわかされた後のことと聞き及んでおりもうす。その為人に鬼を宿すは、いたしかたのないことでありましょう」
 藤兵衛自身に子や娘はいないが、妻や老いた父母を南蛮人にかどわかされれば、それを取り戻すために手段を選ぶことはないだろう。そう考えれば、雲居に対して同情の念を抱きこそすれ、反発や嫌悪を覚える理由はなかった。


「――鬼を宿す、ですか。藤兵衛らしい表現です。端的で、的確だ」
 藤兵衛の返答を聞いた長恵は、ほんの一瞬だけ、視線を揺らした。動揺したというよりは、誰かを、あるいは何かを案じるような、そんな顔。浅からぬ縁のある藤兵衛が、かつて見たことのない師の表情だった。


 だが、藤兵衛の視線の先で、その表情はすぐに拭われた。
 長恵はなにやら得心したように二度、三度と頷いた後、不意に酒盃を手放して居住まいを正す。
 その口から出たのは、これも、弟子である藤兵衛でさえ滅多に聞いたことのない長恵の真摯な声音であった。
「藤兵衛、お願いがあります」
「うかがいましょう」
 こちらも姿勢を正しながら、藤兵衛が返答する。


「私はこれから、師兄の命で日向に向かわなければなりません。姫様がおられない今、私が薩摩を離れれば、師兄は一人になってしまわれます」
「守れ、とおっしゃいますか。雲居殿を」
 藤兵衛はわずかに眉根を寄せた。師である長恵の頼みとあらば、引き受けるに否やはない――と言いたいところなのだが、今の藤兵衛は島津家に仕える武士である。大友家に仕える雲居の立場を考えれば、いつ何時、敵対することになるか知れたものではない。
 それどころか、もし島津家が雲居斬るべしと決断したならば、その役目は藤兵衛が引き受けることになるかもしれないのだ。それゆえ、安易に長恵の頼みに頷くことは出来なかったのである。


 しかし、長恵はふるふると首を横に振り、藤兵衛の危惧をあっさりと否定した。
「いえいえ、守れなんて言いません。藤兵衛の立場はわかりますし、師兄は自分の身を自分で守れないような状況に陥るほど迂闊ではありません。仮にそうなったとしても、自分で何とかするでしょう」
 藤兵衛としては、首を傾げざるをえない。
「む? では、それがしに何をしろと仰せか?」
「見張っていてくださいな。師兄がこれ以上無茶をして、倒れたりすることのないように。藤兵衛の目から見て限界だと思えたら、休むように言ってください。従わないようなら力づくで落としても可です。これなら、島津の臣としての藤兵衛の立場を危うくするようなことにはならないでしょう?」
「は、はあ。それはそのとおりでござろうが……その、落とすというのは、雲居殿が休息せなんだら、無理やり意識を奪ってでも休ませろ、ということでござるか?」
「ええ、そのとおりです」


 長恵は澄ました顔で頷く。仮にも主と仰ぐ人物に対する言とも思えない。
 藤兵衛は困惑したように目を瞬かせたが、ややあって思慮深さを感じさせる低い声を発した。
「師父の仰られる無茶というのは、雲居殿が己が鬼気をおさえきれなんだ時のことを指しているのでござるか?」
 雲居が家族大事のあまり、激発する可能性は否定できない。万一、そうなった時は力ずくでも引き止めろ――今、長恵が口にしたのはそういった意味の言葉なのか、と藤兵衛は問いかけたのである。


 それに対し、長恵はあっさりとかぶりを振った。
「いえ、そんなややこしいことではなく。単純に、師兄がきちんと食べて、きちんと寝ているか見張っていてください、ということです。姫様がおられなくなってからというもの、師兄は放っておくと寝食を忘れて謀(はかりごと)に没頭してしまわれるので。藤兵衛にとっては役不足に思えるでしょうが、まげてお願いしたいんです」
「いえ、師父が仰るならば相応の理由があるのでござろう。役不足などと申し上げるつもりはござらん。その程度ならば、いと易きことです。ただ、それがしも役儀がござるゆえ、常に雲居殿の傍にいることは出来ませぬ。いっそ新納様にお頼み申し上げ、だれぞ見所のある者を側役につけるよう取り計らいましょうや?」


 実際は側役ではなく監視役なのだが、そこは大した問題ではない。問題は別にあった。
 長恵は難しい顔をして腕を組む。
「その場合、最低限、今の師兄の傍にいても動じない胆力を持ち、師兄の口車に惑わされないだけの識見を持ち、ついでにいざとなった場合、師兄を叩き伏せるだけの力量を持った人でないと駄目なんですけど、藤兵衛、誰か心当たりのある人います?」
「……む、一つ一つを取り上げれば幾人か心当たりはありまするが、三つすべて併せ持つとなると、これはなかなか」
 藤兵衛はうなる。
 複数の人間を用いれば問題は解決するが、それでは雲居が煩わしく思うだろう。くわえて今の島津はどこも猫の手もかりたいほどの忙しさ、雲居の見張りに何人も割くことはできない。


「迷惑をかえりみず、この夜更けに失礼したのはそういうわけなんです」
 どこか恐縮したような長恵の声は、藤兵衛の耳にはめずらしく響いた。否、そもそもあの師が、自身が無茶をするためではなく、他者の無茶を案じて先んじて動くなど、前代未聞のことではあるまいか。
 藤兵衛のそんな内心を知る由もなく――あるいは知っていても気にかけず、長恵は言葉を続ける。
「師弟の絆に甘え、藤兵衛には厄介事をおしつけることになってしまいますが、どうかよろしくお願いします」
「あいや、厄介事などととんでもござらぬ。先にも申し上げましたが、この程度ならばいと易きこと。安んじてお任せあれ」


 その藤兵衛の言葉は、その場しのぎのおためごかしではない。長恵に師事することで得たものを思えば、この程度のことは難儀と呼ぶには値しない。
 ただ、藤兵衛としては確認しなければならないことがあった。
「師父、ひとつ確認しておきたいのですが」
「はい、なんです?」
「先にもちらと申し上げましたが……雲居殿が鬼気をおさえきれなんだ時は、これをも力ずくでせき止めてよろしいのでござるか?」
「ええ、かまいませんよ――と言っても、その心配は無用のものでしょうけれど」
 長恵は藤兵衛の言葉を、特に気に留める様子もなく流してしまう。
 それが、藤兵衛にはやや意外であった。雲居をとりまく状況を考えれば、それは最も注意しなければならないことであるはずなのだが。


 そんな藤兵衛の戸惑いを察したのか、長恵は何といったものか迷うように視線を宙にさまよわせる。 
「藤兵衛の心配はもっともだと思うんですが……それは氾濫した川を見て大雨を案じるような、あるいは旱魃に苦しむ地方で干天を憂うようなものなんです」
「む、む……? それはどのような意味なのでござろう?」
 咄嗟に意味がわからず、藤兵衛は思わず間の抜けた声を出してしまう。
「つまりは、いまさら心配したところで手遅れだ、ということです」
「余計に意味がわからなくなったのでござるが……」
「まあ、藤兵衛が師兄の傍にいれば、そのうちわかりますよ。とりあえず、暴走とか激発とかの心配はしないで大丈夫、とだけ覚えておいてくださいな」
 


◆◆◆



 日向国 バルトロメウ甲板上


 瀬戸口藤兵衛は右に左に南蛮兵を斬り倒しながら、昔日の記憶を思い起こしていた。
 その視線の先には、敵の将とおぼしき南蛮人を後背から一突きで突き殺した雲居筑前の姿がある。
 丸目長恵が薩摩を出て以後、藤兵衛は師の頼みと主家の命令、その双方によって雲居の身辺を見張ってきた。それは同時に雲居の身を守ることでもあったわけだが、その間、雲居は一度として感情を激発させたことはなく、表面にあらわれる言動は、時折なにか冷ややかなものが混ざることはあるものの、常に感情よりも理性が優っていた。少なくとも、藤兵衛にはそう見えた。
 藤兵衛はそんな雲居を見て感心すると同時に、師が言っていたのはこのことか、と思った。つまり、雲居の強靭な理性に対する信頼が『暴走も激発もありえない』という言葉を師に言わせたのだろう、と考えたのである。


 だが、今の雲居の姿を見れば、藤兵衛の考えが的を外していたことは瞭然としていた。
 先刻、雲居が突然に前に躍り出た時、藤兵衛は咄嗟にその動きに追随することが出来なかった。
 そして、それは藤兵衛だけでなく、南蛮兵たちも同様であった。彼らは藤兵衛の剛剣に対しては強い警戒心を抱いていたが、その藤兵衛の後方で隠れるように戦っていた雲居に対しては、ほとんど注意を払っていなかったのである。
 敵はおろか、味方の虚すらついた雲居の行動が計算づくであったのか否か、藤兵衛にはわからない。
 だが、乱戦における独行は死と同義。感情を理性で抑えられる人間であれば、そんな無謀なまねはしない。雲居が敵将の下にたどり着けたのは、歳久らの援護があったこと、南蛮兵が雲居よりも藤兵衛を恐れたことなど、幾つもの理由が挙げられるが、極言してしまえば、ただの幸運に過ぎないのだから。




 同時に、そんな雲居の姿を目の当たりにした藤兵衛は、師が口にしていた不可解な言葉の意味に気づいていた。
『氾濫した川を見て、大雨を案じるようなもの』
『暴走も激発もありえない』
 ――それはつまり、暴走であれ、激発であれ、すでに起きていたということだ。ただ、藤兵衛がそうと気づいていなかっただけで。


 おそらくは、大谷吉継が南蛮人にかどわかされたその時から、雲居の憤激は許容量を大きく超過していたのだろう。
 常人ならば、溢れた感情の飛沫を周囲に撒き散らしていたであろうが、雲居はそれを娘の奪還というただ一点に注ぎ込んだ。
 意図してのことではない。意図したならば、それは暴走とも激発とも言わないだろう。理性の手綱を振り切った激情を、意図せずに目的へと向けられるならば、それはもう理性だの才能だのは関係なく、ただその人物がそういう人間だ、というだけのこと。



「――冷静に狂うていたゆえの、鬼気であったか」
 藤兵衛の口からこぼれた声は、藤兵衛自身にすらわからない理由で低く、ささやくようで。
 この時、藤兵衛の脳裏によぎったのは、自身がその言葉を口にした際の丸目長恵の表情であった。
 あの師がめずらしくも他者のために動いていた理由、それが本当の意味で理解できたような気がした。



(……であればなおのこと、お助けせねば、な)
 孤立した雲居のもとへ駆けつけるべく、藤兵衛は静かに刀を構えなおす。それを見た南蛮兵が、一様に表情を強張らせた。
 師が動いた理由がわかれば、それを藤兵衛にゆだねた――ゆだねざるをえなかった師の思いもまたわかる。
 もとより藤兵衛ははじめから雲居を守りきるつもりであったが、いまやその意思は鋼に等しく、その決意は無言の威迫となって、対峙する南蛮兵を押しつぶさんとしていた。






 ただ、この時。
 瀬戸口藤兵衛は、師である丸目長恵が口にした言葉のうち、幾つかを気にとめていなかった。
 あの夜、丸目長恵はこう言っていたのではなかったか。



 ――師兄は自分の身を自分で守れないような状況に陥るほど迂闊ではありません
 ――仮にそうなったとしても、自分で何とかするでしょう





◆◆◆







 戦の最中とはいえ、指揮官とおぼしき敵将に対し、名乗りもなしに背後から襲い掛かるのはほめられた行いではない。
 その自覚はあった。あったがしかし、それは俺の行動をとどめる理由にはなりえなかった。
 手に持っていた刀を無造作に、その実、渾身の力を込めて南蛮兵の背に突き立てる。
 刀は、この戦いに先立って藤兵衛から借り受けたものなのだが、剣聖の目にかなうだけあって素晴らしい切れ味を発揮し、南蛮兵の革鎧を苦も無く貫く。刀を通じて、俺の腕に重い手ごたえが伝わってきた。


 敵将は何事か口にしようとしていたが、俺は委細構わず、刀が突き刺さったその身体を脇に押しやった。
 討ち取った相手に対する関心はない。いや、正確に言えば、ひとつだけあった。アルブケルケとやらはこいつなのか、という関心が。
 だが、おそらく違うだろう、と俺の中の冷静な部分が告げていた。その装備や態度、あるいは周囲の南蛮兵の様子から察するに、頭だった騎士の一人には違いあるまいが、敵の総大将ではない。
 そして、アルブケルケでないのなら、相手が誰であるかはどうでもいいのだ。この戦いに手柄首というものがあるとしたら、それはアルブケルケのものだけだから。


 末期の言葉を聞き届ける情けも必要ない。
 ことさら冷酷を気取っているわけではない。単純に、敵に情けをかけるだけの余裕が、今の俺にはないのである。
 甲板を見渡せば、傷つき、倒れ伏した南蛮兵がそこかしこで見て取れる。南蛮軍がこちらの奇襲による混乱から抜け出せていないことは明らかだ。
 しかし、それでもなお南蛮兵の数はこちらを大きく上回る。しかも、敵は船内にまだこれに数倍、否、下手をすると十倍近い戦力を残している。
 この段階で吉継を発見できたことは僥倖以外の何物でもないが、この状況では助け出せたとは口が裂けても言えはしない。
 俺はまだ、何一つ取り戻せてはいなかった。






「……え?」
 焦がれるほどに再会を望んだ相手は、唖然とした様子で俺を見つめている。その口からこぼれた疑問の声は、おそらく吉継自身、無意識のうちに発したものだろう。
 そんな吉継に対し、言いたいこと、問いたいことはそれこそ山のようにあったが、俺はそれらすべてを胸奥に押し込め、意識をこの状況の打開へと据え直す。


 吉継をここから逃がすためには、俺たちが乗ってきた舟に戻る必要がある。釣り舟に扮して武器を隠し持っていた小舟、あれに乗せれば戦場から離脱することが出来るだろう。
 だが、そのためには周囲の南蛮兵を突破しなければならない。
 吉継を助けるため、独行して南蛮軍の陣列に切り込んだ形の俺は、甲板の中央で孤立してしまっている。
 当然、藤兵衛の助力は受けられず(藤兵衛の存在自体は、今なお少なからぬ数の南蛮兵の注意をひきつけてくれているが)、歳久には弩兵、銃兵の相手をしてもらわなければならないため、こちらも過度に頼ることはできない。他の兵たちは、数に優る南蛮兵を相手に勇猛に刀を交えている最中であり、俺の援護などできるはずもない。
 ――つまるところ、周囲にいる南蛮兵を斬り散らすのは俺の役目、ということだった。



 状況を確認し終えた俺は、右足を伸ばして、先に突き殺した敵将の背を踏みつけると、柄を握る手に力を込め、敵将の身体に埋まったままであった刀身を引き抜いた。
 その際、ほんの一瞬だが、うめき声のようなものが漏れたところを見ると、敵将はまだ絶命したわけではなかったようだ。
 そのことに気づいたためか、あるいは俺の行為に怒りを覚えたためかは分からないが、周囲の南蛮兵から敵意に満ちた声が沸きあがる。俺としては、別段、故意に残忍さを示そうとしたわけではないのだが、確かに南蛮兵から見れば許しがたい行為だったかもしれない。
 そんなことを頭の片隅で考えながら、俺は引き抜いた刀を一振りし、刀身についた血を払うと、視線をこれまでとは異なる場所へと向けた。
 といっても、遠くの彼方を見据えたわけではない。むしろその逆、それこそ足元といってもいいくらい、すぐ近くの場所である。



 そこには一人の南蛮人が倒れていた。
 亜麻色の髪を持つ女性。甲冑こそまとっていないが、この船にただの一般人が乗っているはずはなく、まず間違いなく南蛮軍に属する兵士、否、おそらく騎士だろう。
 倒れている女騎士の顔を見ても、それが誰であるのかは俺にはわからない。が、心当たりはあった。
 薩摩の地で言葉を交わした時、あの南蛮の騎士は顔を頭巾で覆っていた。だから、今、目の前で倒れている亜麻色の髪の女騎士が、あのときの騎士と同一人物であるという確証はどこにもない。しかし、確証はなくとも確信はあった。この女騎士こそが、吉継を連れ去り、長恵が気にかけ、ルイスが憧憬の眼差しで語っていた聖騎士――トリスタン・ダ・クーニャであろう、と。


 敵将の血と脂がこびりついた刀を携えたまま、女騎士を見据える俺に気づいたのか、吉継が、思わず、という感じで俺の腕をおさえた。
 言葉もなく、しかし何かを請うように俺を見上げる吉継。
 足元に倒れ伏す人物がトリスタンであるならば、どうして衣服を血に染めて倒れているのか。吉継が自身を連れ去った相手を気にかけているのは何故なのか。
 問いたいことは幾つもあったが、いずれも後回しにして行動に移る。
 迷っている暇はなかったし、今日までに起こった出来事や、ルイスから聞いたトリスタンの為人、さらには船内の奥深くに閉じ込められていたであろう吉継がこの場にいること、そういったことを考え合わせれば、バルトロメウの中で何が起きていたのか、推測が出来ないわけではなかった。
 吉継の訴えるような視線も、その推測を補強する材料となった。



 俺は持っていた刀を逆手に持ちかえ、甲板に突き立てた。むろん、トリスタンが倒れていない場所に、である。
「……お、とうさま?」
 吉継が当惑もあらわに口を開く。俺がトリスタンを殺そうとしなかったことに対する安堵と、俺が敵前で武器を手放したことに対する疑念が等分にこもった声――いや、あるいはそれ以前に、吉継は、俺が目の前にいる、という事実をいまだはっきりと飲み込めていないのかもしれない。俺を見上げる眼差しは、言葉以上に雄弁に内心の混乱を伝えていた。
 あらためて考えるまでもなく、ずっと船内に閉じ込められていたであろう吉継にとって、現状は俺が感じる以上に不可解なものであるはず。すぐに今の状況を認識しろ、というのは酷な話だろう。
 だが、今に至るまでの経緯をゆっくりと説明している時間などあろうはずもない。
 それに、と俺は少しばかりの罪悪感と共に内心でつぶやいた。
 これから俺がとる行動を見れば、吉継は嫌でも正気づくだろう、と。




 俺が刀を手放すのを見た南蛮兵の幾人かが距離を縮めてくる。
 いきなり斬りかかってこないのは、刀の柄がいまだ俺の手の届くところにあるからだろう。
 だが、当然ながら甲板に突き立てた刀では咄嗟の動きには対応できないし、なにより複数の南蛮兵に同時に斬りかかられれば、たとえ刀を持ったままでも成す術がない。
 先ほど、吉継を逃がすために周囲の南蛮兵を斬り散らすのは俺の役目、などと考えたが、一人二人ならともかく、何十人という南蛮兵を相手にそんなことが出来るわけはなかった。


 だから、俺ははじめから刀に頼らず、懐から『それ』を取り出した。この状況を予測していたわけではないが、似たような状況はありえるかもしれない、と考えて用意していたもの。
 当然、俺の傍らにいる吉継も『それ』に気づいた。 
「…………え?」
 ぽかんとした顔で――歯に衣着せずにいってしまえば、どこか間の抜けた声をもらす吉継。
 まあ、眼前でいきなり焙烙玉を取り出されれば、吉継ならずとも驚くだろう。が、俺はかまわず焙烙玉に火をつけ、近づく南蛮兵に見せ付けるように差し出して見せた。



 南蛮兵が、焙烙玉という武器や、その仕組みを知っているかは定かではない。
 が、つい先刻、甲板上で炸裂した物と同じものだ、ということには気づいたらしい。真っ先に俺に斬りかかろうとしていた騎士らしき人物が、怯んだように足を止めた。
 俺が持っているのは懐に秘しておける程度の小さな焙烙玉であり、威力も先刻のものより数等劣る。だが、至近で爆発ないしその余波を浴びれば、生身の人間が無事で済むはずがない。


 ――そう、無事で済むはずがない。だが、それは焙烙玉を投げつける当人にも同様のことがいえるのだ。
 爆発に指向性を持たせる技術が存在しない以上、この至近距離で焙烙玉が炸裂すれば、必然的に俺自身も致命的な傷をおいかねない。まして今の俺は鎧や着込みといった防具を身に着けていないから尚更だった。
 言い訳になるが、これは手抜かりというわけではない。本来なら防具を着けた上で斬り込む予定だったのだ。しかし、バルトロメウの見張りに俺の策が見抜かれたため、最低限の武器を持っただけで斬り込まなければいけなくなってしまったのである。


 吉継は我が身でかばうとしても、防具なしでは盾にもなれぬ。 
 ゆえに、ここで俺が焙烙玉を見せつけることは、示威以上のものにはなりえない――そのことに、眼前の騎士は気づいてしまったらしい。
 怯みを帯びた表情を一変させた騎士は、周囲の兵士に声高にその事実を告げた。
 応じて、生色を取り戻していく南蛮兵たち。
 その彼らの先頭に立った騎士は、短く何事か俺に向けて口にした。よく聞き取れなかったが、おそらく「残念だったな」とでも言ったのだろう。


 俺は何も言い返さなかった。
 手に持っている焙烙玉の導火線は刻一刻と短くなっていく。
 その様を、じっと見つめていたのだ。ただ、じっと。


 そんな俺の姿に、何かを感じたのだろうか。
 騎士は一瞬、訝しげな表情を閃かせた後、無言のままに間合いを詰めて来た。剣を握る顔には此方への敵意が満ちていたが、ほんのわずか、躊躇にも似た不審の色が混ざっているようにも見えた。
 だが、俺はその表情を確かめることはしなかった。確かめたところで意味はなく、そもそもそんな余裕もありはしない。
 まもなく導火線がその役割を果たし終える、と見た俺は、無造作に持っていた焙烙玉を放り投げた。騎士に向けて、ではなく、その後方、ひときわ南蛮兵が密集している場所に向かって。





◆◆◆





 雲居は知る由もなかったが、この時、雲居の前に立っていた南蛮騎士は、小アルブケルケから「トリスタンを殺せ」と命じられ、それを航海長であるフェルナンに伝えた騎士と同一人物だった。
 ゆえに、騎士は現在の状況に関して、他の南蛮兵よりも幾らか深い疑念を抱えていた。が、むろんのこと、その疑念は襲撃者たちと結びつくものではない。眼前に立ちはだかったのがトリスタンであればともかく、名も知らぬ異国の異教徒に情けをかけるいわれはない。


 この至近距離で爆発物を用いれば、用いた当人も無事にはすまない。そのことに思い至った騎士は、周囲の味方に対し、相手の虚勢にごまかされないように注意を促すと、みずから進んでその言を実行しようとした。
「小細工ご苦労、痴れ者め」
 相手を小ばかにした物言いは、南蛮語であるゆえに眼前の異教徒には通じないだろう。そのことが騎士にはわかっていたが、気にとめることはなかった。何故なら、騎士があえて相手を嘲弄するような態度をとったのは、味方の兵の怖気を払うためであったからだ。
 相手の小細工を見破った。その事実をことさら誇示することで、自陣の真っ只中に斬り込まれ、あの航海長を討たれてしまった事実を、たとえ一時でもいい、兵士たちの脳裏から払いおとす。
 それが騎士の狙いだった。


 突然の異教徒の襲撃、その混乱による乱戦が長引いていることで、かえってフェルナンの死は味方に伝わらずに済んでいる。
 むろん、いずれはどうあっても伝わらずにはおかないだろうが、今この時、更なる混乱に見舞われることだけは絶対に避けねばならない。そんな事態になれば、たかが十数人の敵に甲板を制圧されてしまいかねない。
 たとえそうなったところで、バルトロメウ自体が制圧されることなどありえないが、しかし、万一ということもある。
 それに、と騎士は思う。
 この敵に増援がないと決まったわけではない、と。


 だからこそ、数が少ない今のうちに敵を討ち果たしておかねばならない。
 その第一歩が、航海長フェルナンを討ち取った眼前の異教徒を、ここで確実に討ち取っておくこと。
 そう考え、さらに一歩を踏み出した騎士は、そこでようやくひとつの事実に気がついた。
 小細工を見抜かれ、打つ手を失ったはずの敵兵が、微塵も動揺を示していない、という事実に。


 異教徒が南蛮語に通じていないとしても、こちらが爆発物に怯むことなく近づいている時点で、脅しが通じていないことは伝わっているはず。
 にもかかわらず、異教徒は手にもった脅しの道具を投げ捨てようとはせず、甲板に突き立てた武器に慌てて手を伸ばすこともしなかった。
 その視線は南蛮兵にではなく、徐々に短くなっていく導火線に据えられたまま動かない。
 瞬きすらせずに爆発物を見つめる視線はどこか澄んでおり、その表情は真剣そのものだった。
 まるで――そう、まるでそれが『本物』であるかのように。




 その瞬間、騎士の背筋を氷塊がすべりおちた。
 胸中で膨れ上がった疑念は、物理的圧迫感さえともなって騎士の咽喉をふさぎ、悪寒が全身を駆け巡る。
 騎士はほとんど無意識のうちに相手に向かって駆け出していた。
 この異教徒は、ここで討ち取っておかねばならない。
 絶対に。
 絶対に。
 そうしなければ、こちらが討たれてしまう――そんな、どうしようもない確信に駆られたのである。





 その騎士の眼前で、異教徒がようやく動きを見せた。
 持っていた爆発物を此方へ放り投げたのだ。放物線を描いたそれは、騎士の頭上を越え、後方に向かって飛んでいく。
 ――この時、爆発物を投げ終えた異教徒は、何かを求めるように甲板に向かって手を伸ばした。
 その動きを見た騎士は、異教徒が武器を探しているのだ、と考え、続けてこう思った。
 やはり自分の考えは正しかった。あの爆発物はただの脅しであり、小細工を見破られたと悟った相手は、役に立たなくなった道具を投げ捨てて、騎士を迎え撃つための武器を欲したのだ、と。


 だが、その考えは的を外していた。
 他ならぬ騎士自身が、すぐにそのことに気がついた。
 何故といって、異教徒が手繰り寄せたものが武器ではなかったからだ。
 それは、甲板に倒れこんでいた『人』。トリスタンではない。つい先刻、異教徒自身が討ち取ったバルトロメウの航海長フェルナンの死屍。
 ……否、正確に言えば死屍ではない。まだ、かろうじて息はあるようだ。
 だが、異教徒は何の感慨も見せずにその身体をつかみ起こす。革とはいえ、鎧をまとった大の男の身体だ。軽々と、というわけにはいかなかったようだが、かといって、さして苦労する様子もなく、異教徒はフェルナンの身体を引きずり起こした。
 異教徒はさして頑強な体格とも見えないが、それでも戦場に出るに不足ないだけの膂力の持ち主ではあるらしい。


 だが、そんなことはどうでもいい。
 今、肝要なのは、眼前の異教徒が何をしているのか、という一事のみ。
 まさか人質のつもりか。それはない。フェルナンがもう長くないことは明らかだ。
 世の中には戦場で死んだ将兵の遺体をもてあそび、敵を挑発する唾棄すべき輩がいるが、それの同類だろうか。
 それもないだろう。目の前に敵が迫っている状況でそんなまねをする必要はなく、そこまでして南蛮兵を挑発する理由も見当がつかない。


 では、間もなく死にいく敵将の身体をひきずり起こしたのは何のためか?


 決まっている。
 盾にするためだ。


 何に対する盾なのか?


 考えるまでもない。
 間もなく自身を襲うであろう爆風から身を守るための盾だ。


 つまり、さきほどの爆発物は本物であった、ということか?


 そのとおり。
 それ以外に考えようがない。


 であれば、早く逃げなくては。
 自問自答の末にその結論に至った騎士だったが、それが手遅れであることは、誰よりも騎士自身がよくわかっていた。






 バルトロメウの甲板で、焙烙玉が炸裂する。
 爆発の規模自体はさして大きくはなかったが、彼我の将兵の動きを冷静に見極めた上での一投は、先の焙烙玉に数倍する被害を南蛮軍にもたらすことになる。
 実のところ、被害を受けたのは南蛮軍だけではない。はじけ散った破片は、敵味方の区別なく襲い掛かったから。
 だが、被害を受けた者のほとんどが南蛮軍であったことはまぎれもない事実。
 その事実を前にした騎士は、しかし、混乱する兵士たちを取り静めるべく、声を張り上げることはしなかった。
 より正確に言えば、しなかったのではなく、出来なかった。頭蓋に受けた重い衝撃の影響なのだろう、騎士は声ひとつ思うように発することが出来なくなっていたのである。


 後頭部から首筋、さらには背中にかけて、奇妙に粘る液体が皮膚を伝っていくのを感じていた騎士の眼前で、重い音が甲板に鳴り響く。
 それは、先の異教徒が、盾にしていたフェルナンの身体を無造作に投げ出した音。
 あらわれた異教徒のこめかみから血が流れているのは、はじけ散った破片のひとつがかすめたゆえか。
 しかし、負傷らしい負傷はその程度。爆発の至近にいた南蛮兵とは比べるべくもない軽傷である。その眼差しは先にもまして冷たく澄み渡り、南蛮勢の混乱を見据えていた。
 それを見た騎士は改めて思う。やはり、この相手はここで討ち取っておかなければならない――


 と、そこまで考えた騎士は、不意に自分の視界が閉ざされたことに驚いた。
 それは騎士の身体が甲板に倒れたためだった。後頭部に破片の直撃を受けながら、かろうじて立っていた騎士の身体が限界を迎えたのである。
 だが、騎士はそうと気づかない。自分の身体が自分の意思で制御できない。物心ついてから初めて遭遇した事態に際し、騎士が感じていたのは、恐怖ではなく戸惑いであった。
(こんなことをしている場合ではない。早く、あの異教徒を止めなければ――)
 ともすれば薄れいく意識の中で、騎士はそう考え。
 それが、最後の思考となった。


 騎士の意識は、生と死の境界を乗り越える。苦痛と無念ではなく、驚きと戸惑いを伴侶として……




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第九章 杏葉(十五)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:7a1194b1
Date: 2012/02/02 22:28

 薩摩国 山川港


 油津港は日向国における島津家の重要拠点の一つである。
 この油津港は、南蛮軍が襲来するずっと以前より、日向伊東家の執拗な侵略を受けてきた歴史を持つ。油津港の支配は伊東家にとって累代の悲願であり、この港をめぐる両家の抗争の歴史は他に類を見ないほどに長く、激しい。
 当然のように島津家はこの地に精兵を置き、防備に意を用いてきた。今回のバルトロメウ襲撃において、島津歳久がこの油津港の兵力を計算にいれたのは当然のことであろう。
 だが、問題が一つだけあった。油津港は、島津家久が赴いた山川港とは異なり、島津宗家の直轄地ではなかったのだ。
 豊州家(薩摩島津家の分家)第五代当主にして飫肥城城主、島津忠親。油津港の兵を動かすためにはこの人物を説き伏せなければならず、だからこそ歳久みずからが説得のために赴いたのである。


 もっとも、ごく一部の人間――たとえば妹の家久などにしてみれば、それが口実に過ぎないことは明らかだった。というのも、忠親は他家から養子としてやってきた人物であるだけに、分別は十分にわきまえており、宗家の四姉妹が決定した作戦について異を唱えたことは今まで一度もなかったからである。実際、すでに二人の姉である義弘は、先の佐土原城攻めの前に飫肥城に赴き、忠親の手勢を借り受けているのだから、いまさら忠親が宗家の作戦に異を唱える理由はないはずであった。
 当然、歳久とてそのことは承知しているだろう。
 にも関わらず、歳久は何故そんな名目を持ち出してまで油津港に赴いたのか、というと――


「歳ねえってば照れちゃって。可愛かったなあ、もう」
 山川港の詰め所で、家久はそういってくすくすと笑う。
 その隣では、この頃、妙に頭痛をおぼえることが多くなった新納忠元がため息まじりに童顔を曇らせていた。
「歳久さまは島津にとって欠かせぬ御方。照れ隠しなどで、いちいち前線に赴かれてはたまったものではありませぬぞ。そも雲居自身が口にしておったように、こたびの敵将のアルブケルケとやら、南蛮国で謀反をたくらんでおるならば、これを生かして逃がすもまた一策ではありますまいか」
「そんなことしたら、吉継さんは国の外に連れて行かれちゃうよー。筑前さんだけじゃ旗艦はおとせないもん」
 家久にいわれ、忠元は口ごもる。忠元は吉継と言葉を交わしたこともある。雲居のことは好かない忠元であったが、だからといってその娘の不幸を願うような捻じ曲がった性根は持っていない。助けられるものならば助けたい、とは思っているのだ。
「む……それはたしかに不憫であるとは思いまするが」
「筑前さんはそれを承知であたしたちに選択肢を示してくれて、その上で協力してほしいって頭を下げた。これまで散々協力してもらってたんだもん、今度はこっちが協力してあげなきゃ。それに歳ねえにしてみれば、罪滅ぼしの意味もあったんじゃないかなー? 最初は筑前さんにきついこと言ってばかりだったし」
「さて、きつくはあっても、理不尽なことではなかったように思いますが。歳久さまが罪の意識を抱える必要なぞありますまい」


 くわえて言えば、罪滅ぼしなどという理由で将兵に命を懸けさせるのもいかがなものか、と忠元は思うのだ。 
 もっともこれに関しては歳久ははっきりと否を口にしている。今回の作戦を決した内城の軍議の間で、歳久は決然とこう言った。
『思惑はどうあれ、雲居の智が島津を救ってくれたのは事実です。そして、南蛮人が薩摩を侵したこともまた事実。恩には誠実に報い、仇には確実に報じる。これは島津の家訓にも沿うこと。侵略者の頭目が故国に謀反をたくらんでいるからとて、後の利益のためにこれを見逃し、恩ある者の願いを無下にするがごとき決断を下すことはできません』
 同時に、この決断は今後の島津家のためでもある、と歳久は言う。
『我が島津は侵略に断固として屈さぬことを大友をはじめとした周辺の国々に示し、そして日の本に手を出さば相応の報いがあることを南蛮人すべてに知らしめる。そのためにも、ここで敵将を討つは必要なことなのです。またそうあってこそ、南蛮軍を引き入れた大友家との差異が、他家の目により克明に映し出されることでしょう。九国を制するはいずれの家が相応しいのか、それをも含めて』
 情にほだされた、あるいは罪の意識を晴らすための決断ではない。すべては島津が正しい道を歩み続けるために必要なことなのだ、と歳久は言明したのである。居並ぶ家臣たちは誰一人これに反駁することができず、また反駁しようとも思わず、そろって頭をたれたのであった。



 忠元もまた頭をたれた一人である。それに、みずから口にはしたものの、侵略者の親玉を生かして帰すなど性に合わぬこと甚だしい。ゆえに、歳久の決断にいまさら異を唱えるつもりはなかった。
 しかし、である。
 よくよく考えてみると、これは別に歳久がみずから前線に赴くことを肯定する理由にはならないのだ。
 だがあいにくと、忠元がそれに気づいたのは歳久が内城を離れた後であった。思い返してみれば、油津港に向かう際の歳久は、常になくあわただしい出立であったような気がする。状況を考えればそれは当然のこと、と思っていたのだが、あれは単に重臣たちがごまかされている間に、とっとと内城を離れようとしていただけであったのか。


「……やはり、歳久さまは家久さまの姉君なのですなあ」
 忠元の慨嘆に、家久は困ったように頬をかいた。
「あはは……あ、でもね。別に歳ねえはごまかすつもりはなかったと思うよ? あれはあれで歳ねえの本心だと思うし。ただ、それにほんの少し自分のいろいろな気持ちを乗せたら、今回の配置になっちゃったんだと思う。急いで内城を離れたのは、それがみんなにばれるのが照れくさかったんだよ。普段は冷酷非情な策士ですって顔してる分、よけいにね。ほらやっぱり歳ねえってば可愛いでしょ?」
「むう……その言にうなずいてしまうと、後難がおそろしいことになりそうな気がしますゆえ、ここはあえて聞こえなかったふりをさせていただこう。歳久様のこと、前線に赴かれたとはいえ、まさか襲撃の先頭に立ったりされることはありますまい。その意味では過ぎた心配は不要でござろう。残る問題は雲居の策が成功するか否か、ですな」


 忠元の言葉に家久はわずかに首をかしげたが、ここではあえて歳久に関しては言及しなかった。口にしたのは、忠元の言葉の最後の部分である。
「そこもあんまり問題じゃないと思うな。筑前さんの刃は、絶対にアルブケルケさんの胸に届くもん」
「……絶対に、とはまた。相手はかりにも一国の軍を率いた将帥でありましょうに」
「今の筑前さんは、たとえて言うなら満月みたいに引き絞られた弓だからね。アルブケルケさんも只者じゃないとは思うけど、筑前さん――というより、この国、かな。この国の人のことは全然みてないって感じがするんだ。だから、筑前さんの刃は絶対にアルブケルケさんに届くよ。十回繰り返せば十回、百回繰り返せば百回とも、ね」
 そういって家久は自信ありげに微笑んだ。
 その微笑は常の無邪気なそれと異なり、忠元の目には奇妙に大人びた表情に映った。妙な表現だが、まるで忠元よりも年上の女性であるかのように、落ち着きと包容力を感じさせる。


 忠元はぱちぱちと目を瞬かせた。
 すると、家久は不思議そうに首をかしげて、そんな忠元を見つめてきた。その顔はもういつもの家久のものであった。
「どしたの、忠元?」
「あ、いや、今、なぜか家久さまがそれがしよりも年上に見えたもので」
「……んー、大人びて見えるのはうれしいけど、忠元より上って微妙。それもうおばさんだよー。あたしってそんな老けて見えるのかな?」
「いやいや、そんなことはないのですが……ふむ、それがしもいささか疲れておったのやもしれませぬ。思えばこのところ、妙に頭痛をおぼえることが多くなったような気もいたします」
「ちゃんと休まないと駄目だよ? 南蛮の人たちとの件が片付いても、まだ大友家とのことが残ってるし、忠元にはこれからもまだまだ頑張ってもらわないといけないんだから」
「これはありがたきお言葉。家久さまのそのお言葉だけで活力がみなぎってくる思いでござる」
 実のところ、忠元が頭痛をおぼえるのは、きまって宗家の姫たちが問題を起こした時ばかりなのだが、さすがにそれを口にしない分別は持っていた。
(これまでは主に義久さまと家久さまであったが、歳久さままでがこれに加わる始末。まったく、よく似た姉妹であることよ)
 そんなことを考えつつ、静かに茶をすする新納忠元であった。

 

◆◆◆



 日向国 バルトロメウ甲板


 くしゅん、とバルトロメウの甲板で歳久は可愛らしいくしゃみをする。
 それを見た雲居が心配そうに口を開いた。
「大丈夫ですか、歳久さま?」
「……それは私があなたに問いたいことです。もっとも私の場合、問うのは身体の調子ではなく、頭の具合についてですが。みずからの至近で焙烙玉を使うなど、ばかですかあなたは」
「島津の方々に被害が出ないように気をつけたつもりなのですが」
「そういう問題ではありませんッ」
 こめかみから血を流しながら、しごく真面目な表情で口にする雲居に対し、歳久は思わず、という感じで声を高めた。
 と、そのとたん、歳久の身体が大きく揺れる。耳をつんざく轟音と共に、バルトロメウの船腹から突き出た大筒の砲身が火を噴いたのだ。
 その標的となっているのは『丸に十字』の紋を掲げ、一直線にこちらを目指す船団である。言うまでもなく、近海に待機していた油津港の島津水軍だった。




 雲居が焙烙玉を使用した後、甲板での戦いは速やかに決着がついた。焙烙玉自体の威もさることながら、南蛮兵の死屍を盾に、それを平然と使う雲居の存在が南蛮兵の混乱に拍車をかけたためである。
 指揮をとっていた航海長が死に、後を継ぐべき名のある騎士たちも、その多くが討たれた。残った兵士や水夫が侵入者たちに背を向けたのは仕方のないことであったろう。
 南蛮兵は船内に、あるいは泳ぎに自信のある者は海へと逃れた。歳久はそんな敵を尻目に頭上に向けて二本の火矢を放った。
 それが待機している水軍への合図だった。


 何故、最初から水軍を用いなかったのか。その理由はあらわれた島津水軍の姿を見れば明らかであったろう。その数は千に届くかどうか、といった程度であったからだ。
 飫肥城の島津忠親は作戦への協力を約束してくれたのだが、その兵力には限りがあった。というのも、忠親の手勢の大半は先の佐土原城攻めの際、島津義弘に預けられていたからである。くわえて油津港の軍船の多くは薩摩にまわしており、こちらも数が少ない。
 それでも忠親は千人あまりの兵力をかき集めてくれたのだが、この兵を乗せる舟はほとんどが小早であり、中には五人も乗れば転覆してしまいそうな漁舟もあった。いずれも大筒の砲弾を一発でもくらえば、乗っている兵士ごと海の藻屑へと変じてしまうだろう。
 ゆえに、まずは水軍がバルトロメウに近づけるよう、その戦力を削ぎ落とす必要があったのである。


 結果として、歳久らは首尾よく甲板の南蛮兵を排することに成功した。
 だが、船腹の大筒までは手が回らなかった。大筒を撃っているのは、おそらく先の警鐘を聞きつけた南蛮兵の一部だろう。
 砲撃音が響き渡る都度、わずかに遅れて彼方の海面から高い水しぶきがたちのぼる。今はある程度の距離があり、また水軍の方も歳久らの助言を容れて散開して接近しているため、砲弾の命中率はゼロに等しい。だが、これから距離が縮むにつれて大筒の命中率はあがっていくだろう。
 仮に舟の半分が沈められても、島津水軍はなお五百余人。十分にバルトロメウを制圧しえるが、だからといってこのままじっとしているわけにはいかない。
 くわえて、南蛮軍とてこのまま甲板を明け渡しておくつもりはないだろう。今は甲板に散乱していた積荷の箱やら何やらで入り口を塞ぎ、バリケード代わりにしているが、こんなものは時間稼ぎにしかならない。南蛮軍が再び押し寄せてくるのは時間の問題であろう。


 これに関しては雲居がこんな案を出した。
「甲板の外に向けられている大筒を、内に用いてはならない理由はありますまい。船内に通じる入り口は限られており、ここに大筒を打ち込めば、南蛮兵はおそれて出てこられないでしょう」
「またさらりと無茶なことを言いますね……しかし、確かにそれは使えるかもしれません」
 歳久も同意した。問題は大筒の扱いに習熟した者が島津軍にはいないことだが、何も連続して使う必要はない。撃つのは一発か二発でかまわないのだ。そうすれば、南蛮軍の脳裏にその事実が刻み込まれる。将兵の混乱はより大きく、深くなるだろう。
 むろん、そんなことをすれば、下手をすれば船体に致命傷を与えることになりかねないが、島津軍にしてみれば、別にアルブケルケを生かして捕らえる必要はない。バルトロメウごと冬の海に沈めてしまっても何の問題もないのである。


 雲居にとっても同様だった。吉継が船内にいれば不可能なことであったが、すでに吉継は雲居の隣にいる。無理をしてまで船内に突入する必要はないといえる。
 ただ、雲居の言葉には続きがあった。
「しかし、ルイスを見捨てるわけにはいきません。それに、これだけ巨大な船体です。そうそう簡単に沈むとも思えない。沈むにしても、その際の混乱で逃げられる恐れはあります。確実を期すのならば、やはり敵将は直接、この手で討ち取るべきでしょう」
 ゆえに自分が行く、と雲居は言う。
 それに対し、歳久はわずかに目を細めて反論した。
「大筒を利用して甲板に陣取っていれば、ほどなく油津の兵が来ます。そうしてから突入しても遅くはないでしょう」
「その間、水軍の方々の被害は増え続けます。船内で騒ぎを起こすことができれば、大筒を撃っている南蛮兵も無視はできないでしょうし、結果として水軍への砲撃は薄くなると思われます」
「……単にあなた自身が討ち入りたいがための口実に聞こえますね。とはいえ――」
 歳久は小さくため息を吐く。
 油津港に赴く以前、内城で雲居と交わした言葉を思い出したのだ。


『一度敗れれば、子や孫の代まで日の本を蝕む惨禍となる……南蛮軍との戦いに敗れるとはそういうことです。そんな未来を一瞬でも視てしまえば、そこに至るすべての可能性を毟り尽くすのは当然のことでしょう』
 それはガルシアとの交渉を終えて戻ってきた雲居に対し、歳久が投げかけた問いの答えであった。大友家を裏切ったと判断されかねないような行動をとってまで、島津に与し、南蛮軍を討とうとするのは何故なのか。むろん、娘を助けるためではあろう。だが、雲居は娘を連れ去られる以前から、はっきりと南蛮軍を敵として行動していた。その心底を知るために、歳久は問いを向けたのである。
『裏切り、不義、変節、そういった汚名を気にかけながら行動するような余裕はそれがしにはありませんでした。そんなことを考えながら戦って、勝てる相手とも思えませんでした。だから、持てる力と知恵のすべてを出したまでのことです』
 そう口にした時の雲居の表情は、今の雲居の表情と一致する。
 であれば、ここでいくら止めても無益であろう。歳久はもう一度ため息を吐いた。
「……止めても無駄のようですね。もとよりあなたは島津の配下ではなく、私にその行動を掣肘する権利はありません」
 ただ、と歳久は付け加えた。
「あなたのご家族は、また違う意見をお持ちだと思いますよ?」



◆◆◆



 その歳久の言葉に促されるように、俺は吉継の顔に視線を注ぐ。
 先刻から黙ったままであることから推測はしていたが、吉継からはまだ戸惑いの気配が去っていなかった。目で見て、耳で聞いても、まだ眼前の俺たちの姿が夢幻の類ではないか、と疑っているらしい。
 視覚も駄目、聴覚も駄目となれば、次に頼るべきは触覚であろう。
 俺は吉継の右頬に手をあてた。そこには南蛮兵によって切られた傷がある。流れる血の量から見て、決して浅い傷ではない。むろん、命に関わるような傷ではないが――


「……大丈夫、か?」
 その言葉を発するためには、幾許かの時間が必要だった。
 その姿を見れば、命に関わるような傷を負っていないことはわかる。だが、表にあらわれない傷に関してはそのかぎりではない。
 はきつかない問いかけは、同時に俺の内心の怯えをそのまま映したものでもあった。
 ――後から思えば、他に言い様があった、と思う。もっと言えば、ここで問うことでもなかっただろう。もし吉継の身に危害が加えられていたのなら、それを正面から問いただす俺の言葉は、傷口に塩を塗りこむに等しいものであろうから。


 囚われの身となっていた娘に対して、配慮に欠けることおびただしい俺の問いに、しかし、吉継はくすりと微笑むことで応じた。
 その手が、頬に触れる俺の手に重ねられる。
「――この奇妙な襲撃といい、先の無謀な行動といい、今の配慮に欠ける問いかけといい……なるほど、確かにお義父様に相違ないようです」
「……断定する根拠が、あんまりだと思うわけだが」
 努めて平静を装ってこたえる。そうしないと、勝手に声が震えてしまいそうだった。
 もっとも、それは向こうも同様のようで――
「……斬られることも、時には益をもたらしますね。この痛みが、夢ではないと信じさせてくれるのですから」
 そう口にする吉継の声は、ほんのわずかにだが、震えを帯びていた。




 俺はさらに言葉を重ねるべく口を開きかけた。
 が、俺と吉継の会話はここで中断を余儀なくされる。
 次の瞬間、すさまじい轟音と衝撃が甲板の上を貫いたのだ。
 同時に、船内へと通じる扉を塞いでいたバリケードが木っ端微塵に砕け散り、その破片が周囲にはじけ飛ぶ。兵の一人がその直撃を受け、苦痛の声をあげることもできずに吹き飛ばされた。
 吉継や歳久が遅ればせながらその場に身を伏せる中、俺は立ったまま船内へと通じる扉に目を向けた。
 当然だが、今の一撃は人の身でできるものではない。おそらくは南蛮軍の中に、俺と似たようなことを考えた者がいたのだろう。入り口を塞ぐ障害を船内から大筒で吹き飛ばすという荒業を考え、そして実行した者が。
 船体そのものを傷つけるような攻撃を、一介の兵士や水夫が実行できるはずもない。であれば、これをしたのはおそらく―


 と、俺がそこまで考えた時だった。たった今の砲声でしびれかけた耳朶に、感情を押し殺したような低い南蛮語が響いた。
 そのほとんどは聞き取ることができなかったが、一節だけ、不思議に耳に残った言葉がある。


 ――Eu perco vida se eu jogar com tudo―― 


 俺はその言葉の意味を知っていた。何故といって、俺がルイスに託した伝言の最後の部分とまったく同じだったからだ。
 だが、聞こえてきた声は、まだ少年期のさなかにいるルイスのそれではなく、れっきとした大人の声だった。おそらく、俺とたいして年齢はかわらないだろう。
 そして、その声にわずかにおくれ、砲煙を裂いて完全武装の南蛮兵の一隊が押し出してきた。前面に騎士、その後ろには鉄砲隊。先刻のように兵士と水夫が入り乱れて、という様子はない。後ろで指揮をとる何者かは、数ではなく、質と火力で侵入者の殲滅をはかったのだろう。
 南蛮兵の様子を見れば、先刻までの混乱の色はきれいに拭い去られている。このわずかな時間で彼らに平静を取り戻させ、大筒を撃ち放すという行動を実行に移すだけの権限を持ち、俺がルイスに託した伝言を知っている相手とは誰なのか。


「――考えるまでもない、か」
 俺はつぶやきながら懐に手を伸ばす。その声が、先に聞こえてきた南蛮語と同じように低くおさえられていたのは、決して娘との語らいを中断させられた恨みからではない。
 ただ、隣では、俺の声に何かよからぬものを感じたらしい吉継が、顔をひきつらせていたりする。その視線は俺の手元に注がれていた。もっと正確に言えば――
「別に切り札が一つである必要はないしな」
 俺の手元にある、黒光りする焙烙玉に注がれていた。



◆◆◆



「騒がしいと思って来てみれば、ここまでの醜態を見せつけられるとは。『全てを弄んだ貴様はここで死ね』――か。大言を吐くだけのことはあるではないか」
 フランシスコ・デ・アルブケルケ――小アルブケルケの低い声を間近で聞き、ルイスは背筋を震わせた。
 小アルブケルケの声が感情の揺らぎを感じさせないのは、そこに感情がこめられていないのではなく、意識して感情を押さえ込んでいるからだ、ということがわかるからだ。
 ルイスの視線が小アルブケルケの右手に向けられる。そこに握られた剣は、すでに人血で赤く染まっていた。混乱し、逃げ惑う南蛮兵の一人を、小アルブケルケが手ずから切り捨てた時についた同国人の血であった。


 小アルブケルケの剣はすさまじい切れ味を発揮し、その兵士は右の肩から左の腰まで、身体を半ば両断された。その光景を目の当たりにして、周囲の南蛮兵は一様に静まり返った。それまで小アルブケルケがやってきたことにすら気づかないほど混乱していた南蛮兵たちは、氷の鞭で殴られたかのように秩序を取り戻し、小アルブケルケの指示に従って、大筒の一つを用いて甲板への道を封じる障害を取り除いたのである。
「身の程知らずにも我が船に足を踏み入れた蛮人ども。速やかに射殺せよ。一人残らず殺しつくせ」
 その命令に従い、騎士と銃兵の一隊が甲板へと踏み出していく。
 数で押すこともできたが、それでは同士討ちの恐れがある。そう考えた小アルブケルケは、精鋭のみで甲板の奪還に乗り出した。
 ここまで屈辱を強いてきた相手だ、出来れば生かして捕らえたいところだったが、生け捕りに拘泥した挙句、再び蛮人相手に不覚をとるようなことがあってはならなかった。これ以上の不覚は、小アルブケルケの自尊心が耐えられない。


 このとき、小アルブケルケは敵兵がどのように侵入し、どのように戦ったか、そのすべてを確認してはいなかった。確認する必要を認めなかった、ということもあるが、そもそも敵の動きをきちんと把握している兵自体がいなかったのだ。ひとりひとりから話を聞いていけば、襲撃の全体像を把握することは可能だったろうが、今まさに敵が甲板を占拠してしまっている状況で、そんなことをしている暇があろうはずもない。
 ゆえに、小アルブケルケが確認したのは航海長であるフェルナン・デ・マガラネスが討ち取られたことのみであった。フェルナンが討ち取られたのであれば、兵たちの混乱ぶりも頷ける。だから、小アルブケルケはそれを確認しただけでよしとした。
 ――よしとしてしまった。


 家久の言う『満月のごとく引き絞られた弓』が自らの胸に擬されていることに、小アルブケルケはついに気づくことが出来なかった。それは仕方のないことであっただろう。事のはじめから、小アルブケルケの視線はここではない別の場所に、ここにはいない別の誰かに向けられていたのだから。
 とはいえ、この戦闘に限っていえば、小アルブケルケは悪手を打ったわけではない。兵たちの混乱を一瞬で静め、大筒を用いて襲撃者の心胆を寒からしめ、さらに内心の腹立ちをおさえ、生け捕りにこだわらずに射殺を命じた。たとえばトリスタンやガルシアが船長であったとしても、小アルブケルケがとった指揮以上のことはできなかったに違いない。
 それを知るゆえに、小アルブケルケはこの不快な戦闘が当然のように勝利で終わると考えており、その思考はすでにこの戦いの後のことに及んでいた。



 ――その傲慢を砕くかのように、焙烙玉が炸裂する。



 炸裂音にわずかに遅れて、鋭くとがった破片の一つが小アルブケルケの右の頬を切り裂いた。ゴア総督の嫡子はとっさに顔をかばい、残りの破片から身を守る。
 幸いというべきか、小アルブケルケが受けた傷は頬のそれだけであった。しかし、小アルブケルケの部下たちは、主ほどの幸運に恵まれなかった。
 とくに炸裂した焙烙玉の至近にいた銃兵たちは、苦悶の声をあげて床をのた打ち回っている。騎士たちもまた、突然のことに狼狽を隠せなかった。彼らの中には先刻の光景を目の当たりにした者もいたのだが、敵は先の大筒の一撃で混乱しているに違いないという思い込みがあった。まさか、間髪いれずに反撃を繰り出してくるとは考えていなかったのだ。
 そして、そんな南蛮兵の混乱を敵が見過ごすはずがない。甲板は再び乱戦の舞台と化していった。



 半ば小アルブケルケに引きずられるようにこの場にやってきたルイスは、それらの一部始終を目のあたりにする。
 ルイスは医術に携わる者として様々な傷を治療してきた。だから、それがどれほどひどい怪我であれ、負傷者に怯むということはない。
 しかし、実際に命のやりとりが繰り広げられる戦場に出た経験はほとんどない。目の前で義父を失った、先のエスピリトサント号の戦いくらいのものである。
 それゆえ、砲煙がたちこめ、人血が飛散し、苦悶と絶鳴が交錯する戦場の光景を前にして、ルイスの身体は凍りついたように動かない。


 そのとき、不意にルイスの耳に聞き覚えのある声が響いた。
 驚いてそちらを見れば、混乱する南蛮兵の間を縫って、見覚えのある姿が飛び込んでくる。
「雲居、さん……」
 知らず、ルイスの口からその人物の名がこぼれでる。その声は驚きと戸惑いでかすかに震えていた。
 対して、雲居はルイスの万分の一も動揺していなかった。
 ルイスの姿を認めた雲居はわずかに目を細め、そして傍らにいた小アルブケルケに視線を据える。その口からささやくような声が発された。
「――フランシスコ・デ・アルブケルケ」
 それは問いかけではなく、断定だった。
 否、断定すらこえた、それは断罪だった。
 恨みも憎しみも感じられない乾いた声音。だというのに、確かに存在する排除の意思。首切り役人が、罪人の名前を読み上げるにも似たその声に、ルイスは全身の震えを抑えることができなかった。



 一方、小アルブケルケもまたルイスの呟きから、相手の正体を察したようだった。
「クモイ……雲居、か。ふん、よもや私が異国の蛮人ごときに手傷を負わせられるとは。これではカブラエルを笑えぬな」
 小アルブケルケはそう言って口元を歪める。
 自嘲まじりの声音は、いっそ穏やかと形容しても良いほど静かであったが、それはともすれば溢れそうになる感情を理性でかろうじて抑えているだけのこと。その内心は、細かく震える剣の切っ先を見れば明らかであった。
 そして、その理性も陽光に晒された薄氷のように、すぐに消えうせる。青の瞳を凍土のごとく冷たく輝かせながら、小アルブケルケは言葉を発した。


「忌々しい猿めが。娘ともども生きたまま四肢をねじ切り、煙をたてずに焼き殺してやる。その上で三日三晩、死屍を晒してやるわ。いにしえの聖女にならい、死後も続く汚辱に、父娘そろって苦悶するがいい」
 滴り落ちるような悪意に染まった声は、ルイスに悪寒をおぼえさせた。
 小アルブケルケが口にしたのはただの脅しではない。そもそも、日の本の言葉を話せず、理解できない小アルブケルケは、雲居に向けて話しかけているわけではないのだ。ただ、自分自身の心のうちを声にして示しているだけ。すなわち、今の言葉は雲居に向けた脅迫でも威圧でもなく、そのことごとくが本心であり、同時に、断固としてこれを行うという決意でもあった。


 ルイスはおそるおそる雲居に視線を向ける。だが、雲居は小アルブケルケの言葉を聞いても表情ひとつ変えていなかった。
 ルイスに南蛮語の伝言を託したことから、雲居がある程度南蛮語に通じていることは確かであるが、それがどの程度のレベルなのかはルイスにはわからない。小アルブケルケの言葉を理解できていないのか、それとも理解した上で聞き流しているのか。
 なんとなく――本当になんとなくではあるが、ルイスはいずれも正解ではないような気がした。
 小アルブケルケを見据える雲居の眼差しを見て、思ったのだ。
 南蛮語を理解するしない以前に、そもそも雲居は小アルブケルケの言葉に耳を傾けることすらしていないのではないか、と。


 そのルイスの推測を肯定するように、雲居が動く。一言も発さず、周囲の南蛮兵を意に介することもなく、ただまっすぐに小アルブケルケに向けて。
 ほぼ同時に、小アルブケルケもまた雲居に斬りかかるべく動き出していた。周囲の部下を動かさなかったのは、自身の面目を重んじたから、というわけではない。ただ単純に、度重なる屈辱を強いてきた蛮人に対し、忍耐が底をついたのだ。手足の一本や二本断ち切ったところで、そう簡単に死にはすまい――小アルブケルケは胸中でそんなことを考えていた。




 かくて、立場や関わり方こそ違え、二つの国の軍略を司ってきた二人は直接に刃を交える。
 だが、そこに猛々しい闘志だの、滾るような気迫だのといったものは皆無であった。
 雲居にとって、眼前の相手は排除しなければならない敵、それ以上でも以下でもなく。
 小アルブケルケにとって、眼前の相手は己が征途に紛れ込んできた薄汚い獣に過ぎない。
 ニコライ・コエルホ率いる先遣艦隊の襲来に始まる島津軍と南蛮艦隊との戦いの最終幕は、熱も光もなく、ただただ冷たく乾いた敵意の激突によって幕を開けたのである。






[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第九章 杏葉(十六)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:7a1194b1
Date: 2012/02/06 21:41

 東洋の刀と西洋の剣が絡み合い、幾度も繰り返し激突する。
 鉄と鉄がぶつかり合う音が周囲に響き渡り、時に刀が剣を受け流す際の甲高い擦過音が聞く者の心を騒がせた。
 雲居筑前と小アルブケルケ。
 両者の衝突は後者が攻め、前者が守るという形で推移した。これは二人の刀剣の技量がそのまま反映された結果である。幼少時よりドアルテ・ペレイラの練成を受けて育った小アルブケルケに対し、雲居は特定の師を持たず、系統だった技を習得してもいない。小アルブケルケの優勢は必然であったといえる。


 ただ、小アルブケルケが雲居を一刀の下に切り伏せる――そこまで圧倒的な差は、両者の間には存在しなかった。
 これが単純に技量の優越を競う模擬戦であれば、あるいは決着はもっとあっさりついていたかもしれない。しかし、ゴア総督の嫡子である小アルブケルケは剣技こそ修めていたが、実際にそれを戦場で揮ったことはなかった。小アルブケルケがこれまで斬ってきた者の中には名ある将軍や、一国の王すら含まれていたが、彼らはいずれも南蛮軍との戦いに敗れた末に小アルブケルケの前に引き出され、首をはねられたに過ぎず、小アルブケルケが戦場で彼らを討ちとったわけではなかった。


 実戦経験の不足。これが小アルブケルケが抱える弱点であった。
 とはいえ、一国の王子に等しい身分の人間が、敵味方入り乱れる戦場に踏み込んで戦う必要などまったくない。ゆえにこれを弱点と表現するのは誤りであるかもしれない。
 実際、小アルブケルケ自身も、またその傅役であるドアルテも、これを問題視したことは一度もなかった。王や将軍の役割は、万の配下に全力をふるわせることにあり、自身が勇をふるって敵を倒すことではない。
 ゴアの大アルブケルケのように、進んで陣頭に立ち、しばしば敵の雄将を斬り殺す王の方が例外なのである。


 先に配下の南蛮兵を一刀で切り伏せて統制を強化した時もそうであったが、小アルブケルケにとって剣を振るうとは、抵抗しない、あるいはすることができない相手を斬ることに他ならない。
 その行動によって得られた効果を十全に活かすことをこそ小アルブケルケは重視し、ドアルテもまたそちらに重点を置いて主君の嫡子を育て上げてきた。
 ゆえに、小アルブケルケは自身の剣に抵抗する者と戦った経験が極めてすくない。ましてや命を狙う者との戦いなど皆無といっていい。
 それが雲居の付け込む隙となっていたのである。



 一方の雲居はといえば、ある意味で小アルブケルケとは正反対であった。
 下地となる技量こそ及ばないものの、実際の戦場を踏んだ経験ならば小アルブケルケを上回ることはるかである。乱戦の中で命を危険に晒すなどめずらしいことではなく、自身より強い敵と戦った経験も枚挙に暇がない。
 そんな雲居にとって、小アルブケルケは脅威を覚える相手ではなかった。此方への敵意をあらわに小アルブケルケが繰り出す剣は、なるほど、威も技も及ぶところではないが、それはあくまでも抵抗しない、できない相手を斬ることに慣れたもの。
 小アルブケルケ自身、そのことを隠そうともしておらず、その目には自身への驕りとも、相手への侮りともつかない薄い油膜が張り付いている。
 いつか九国の山中で対峙した丸目長恵と、比較することすらできはしない。
 あのとき、長恵から感じた恐ろしさを、雲居は小アルブケルケから一片たりとも感じ取ることはできなかった。

 

 むろん、それだけの理由で技量の差を覆すことは不可能である。
 雲居はそのことを承知しており、だからこそはじめは相手の剣を防ぐことに注力した。
 勝利に慣れた――というより、勝利しか知らない相手だ。粘って食い下がれば、ほどなく隙を見せるだろう、という計算の下に。
 その計算が実を結んだのは、剣戟が十合に達してすぐのこと。
 はや焦れたのか、あくまで抵抗を続ける雲居に対し、小アルブケルケが眉間に雷雲を漂わせながら勝負を決めに出たのだ。
 大きく振りかぶり、刀ごと雲居の身体を叩き斬らんとする渾身の一撃――と見せかけた頸部への横薙ぎの一閃。フェイントを混ぜた攻撃は、しかし、威力を乗せようとした分、大振りであり、その太刀筋はこれまでの斬撃よりもずっと読みやすかった。


 雲居はこれを刀で受けず、わずかに後方に下がることでかわす。
 小アルブケルケの剣が、寸前まで自身の首があった空間を通り過ぎていく、その瞬間、雲居は鋭く呼気を吐き出すと、反撃にうってでた。
 すくい上げるように繰り出された雲居の刀は、正確に小アルブケルケの右肘を捉えていた。
 刀身を通して、肉を裂く確かな感触が伝わってくる。わずかに遅れて、乾いた音をたてて、小アルブケルケの剣が甲板に転がった。
 見れば、小アルブケルケは左手で右肘を押さえつつ後退しようとしている。右腕を落とすことこそできなかったが、負わせた傷は決して浅くないと思われた。


 次の瞬間、雲居の目に凍土さながらに凍てついた光が灯る。同時に、雲居はこれまでと攻守をかえるべく逆撃に転じた。小アルブケルケは手傷を負い、武器を手放した。勝負を決めるのはこの時をおいて他にない、とは雲居ならずとも考えるところであったろう。
 対する小アルブケルケは、その攻撃を避けるべく、無意識のうちにさらに二歩、三歩と後退した。それは雲居の攻撃を避けるためには当然の行動である。だが、我に返った小アルブケルケは、自らが蛮人によって後退を強いられた事実に気づき、その秀麗な容姿を大きく歪めた。


「一度ならず、二度までも……ッ」
 小アルブケルケの口からこぼれた言葉は溶岩のごとく熱く、煮え滾っていた。
 旗艦への侵入を許し、手傷を負わされた。せめて自らこれを討って鬱屈を散じようとすれば、かえって反撃を受けて不覚をとった。
 小アルブケルケの目は大きく見開かれ、興奮のきわみ、毛細血管が破裂するかとさえ思われた。





 ――小アルブケルケの手が懐に伸びたとき、雲居は咄嗟に警戒した。
 かつて対峙したドアルテが、短筒を秘していたことを思い出したのだ。
 だが、小アルブケルケが取り出したのは短筒ではなく、一本の短剣。柄にも鞘にも装飾一つ施されていない、何の変哲もない短剣である。特徴があるとすれば、それは抜き放たれた刃が濡れたような輝きを放っていることだけであっただろう。
 自身の優位は揺らいでいない。そう判断した雲居は小アルブケルケに斬りかかるべく足を踏み出そうとする。


 だが、何かが雲居の動きをせきとめた。
 いや「何か」などという曖昧なものではない。さきほどちらと見た、小アルブケルケの短剣の濡れたような輝きが、雲居の脳裏に最大限の警鐘を打ち鳴らしたのだ。
 物理的な圧迫感さえおぼえるほどの死の息吹に身体を押され、雲居は後方へと下がる。小アルブケルケから――より正確に言うならば、彼が握った短剣から距離をとるためであった。




 動きを止めた雲居に向け、小アルブケルケはゆっくりと距離をつめて行く。
 滑るような足取りで、左手に握った短剣をちらつかせるように。先ほど、雲居が斬った右肘は思ったより深手であったのか、その右手は今もだらりとさがったままであるが、小アルブケルケはまるで気にした様子を見せない。
 歩み寄ってくる小アルブケルケの姿は隙だらけであったが、雲居は刀を握ったまま、なおも動こうとはしなかった。
 それを見て、小アルブケルケは内心で小さく嗤う。
 察しのよいことだ、と。


 小アルブケルケが短剣の刃に塗っていたのは、古の毒竜の名を冠した毒薬である。神話の中で、不死の英雄さえその苦痛に耐えられず、不死を返上して死を選んだという猛毒は、ただ一筋の傷をもって、猛獣さえ狂死させると言われている。
 今回の遠征で、小アルブケルケはこの毒の短剣を常に懐中に秘していた。
 これは父の大アルブケルケから渡されたものであった。大アルブケルケとしては、戦場や暗殺など、いつ何時、命の危険にさらされるかわからない嫡子に、護身のための切り札の一つとして与えたのであろう。
 小アルブケルケとしてはありがた迷惑以外の何物でもなかったが、父王から与えられたものを拒むなど論外である。即座に廃棄することも考えたが、発覚すれば叛心を悟られかねない。それに、父から与えられた短剣で、父の命を奪うというのもまた一興、そんな風に考えもした。ゆえに、さも感激したかのようにありがたく受け取ると、以来ずっと懐中に秘していたのである。


 それがこんな形で役に立つとは、小アルブケルケは予想もしていなかった。
 だが、眼前の相手が狂い死ぬところを見られるのならば、父王に感謝さえできるかもしれぬ。
 知らず、小アルブケルケはこれを渡された時の父王の言葉を口にしていた。


 O trunfo isto mantem ate o ultimo


    ――切り札は最後までとっておくものだ
 
 
 それは雲居に対する皮肉でもあった。雲居が先に用いた爆発物を、今この場で使えば小アルブケルケとて如何ともしがたかったであろうから。
 もっとも、南蛮語を理解できない相手に皮肉を言っても意味がない――そう小アルブケルケが思った時だった。


「けだし名言だな」
 はじめて、雲居が言葉を発した。それも、小アルブケルケが理解できる言葉で。
 小アルブケルケはその事実に戸惑いを覚えた。そして、その言葉にためらいを覚えた。もしや先ほど用いた爆発物を、まだ雲居が持っているのではないか、と疑ったのだ。
 だが、小アルブケルケに倣うように雲居が懐から取り出したのは、ただの鉄の棒――小アルブケルケの短剣よりもさらに短く、刃すらついていない役立たずの棒に過ぎなかった。
 だというのに、雲居は持っていた刀をためらいなく放り捨てると、その鉄の棒を握って小アルブケルケと相対した。
 あたかも、小アルブケルケに対して、お前など刀を用いるまでもない、と嘯くかのように。



「どこまでも愚弄するつもりか、猿めがッ!」
 怒声と共に突き出された短剣は、まっすぐに雲居の胸元へと伸びていった。
 すると。
 キン、と奇妙に澄んだ金属音が周囲に響き渡る。
 小アルブケルケがただの鉄の棒だと思っていた物が左右に開き、扇状の盾となって短剣の刃を受け止めたのである。
 小アルブケルケは目を怒らせ、さらなる刺突を見舞おうとする。かすり傷であれ、刃を相手の身体に触れさせれば勝負は決するのだ。
 しかし、その機先を制するように雲居は鉄の扇を再び閉ざし、小アルブケルケの短剣を絡めとった。
「ぬッ?」
 咄嗟に短剣を引き戻そうとするが、その動きは鈍い擦過音を発するだけに終わった。小アルブケルケから見れば得体の知れない武器の扱いに、雲居は習熟していた。それこそ、刀よりもはるかに慣れ親しんだものであるかのように。



 ここから先の両者の攻防は、まるでスローモーションのようだった。
 短剣を引き戻そうとする小アルブケルケ。そうはさせじと短剣をからめとった鉄扇に力をこめる雲居筑前。
 訪れる一瞬の膠着状態。
 それを崩したのは雲居の方であった。単純な腕力で言えば、雲居は小アルブケルケに及ばない。このまま膠着状態を続けていても力負けするだけだと悟ったのか、雲居は故意に力を緩めたのだ。
 ただし、ただ力を緩めただけではない。短剣が鉄扇から離れようとする寸前、雲居の手首がすばやく翻り、短剣の刃の部分を下から上に向けて鉄扇で弾いたのだ。そうすることで短剣を弾き飛ばし、小アルブケルケの手から毒刃を奪い取ることが狙いだった。
 だが、小アルブケルケも容易く切り札を手放そうとはしなかった。咄嗟に柄を握りしめ、短剣を放すまいとする。



 ――その瞬間。誰一人として予期していないことが起きた。
 陶器が割れるような音と共に、短剣の刃が根元から折れたのである。
 雲居と小アルブケルケ、驚きが大きかったのはどちらであったろうか。少なくとも、両者とも、これほど容易く短剣の刃が折れるとは考えていなかった。
 そして、折れた刃の破片の一つが、小アルブケルケの顔面を襲うことも予期していなかった。
「ちッ?!」
 半ば反射的に小アルブケルケはそれを避けようとする。そして避けることに成功した――ように思えた。しかし、先刻、爆発の余波を受けて右の頬に生じた傷跡を、ほんのわずか、破片の切っ先がかすめてしまった。


 その事実が意味することに気づき、小アルブケルケの背に氷塊が滑り落ちる。
 すると、まるでそれを待っていたかのように、小アルブケルケの全身を異様な悪寒が貫いた。全身の毛穴という毛穴が一斉に開き、毛という毛が一斉に逆立つような、かつて経験したことのない感覚。小アルブケルケの身体を苛むのは痛みではなく、痺れでもなく、全身を無数の小虫が這いずり回るにも似た蟻走感だった。
 筆舌に尽くしがたい不快感に、小アルブケルケはたまらず声をあげかける。だが、またしても、それを見計らっていたかのように『次』が襲いかかってきた。
 今度はまぎれもなく激痛だった。全身の関節という関節を無理やり逆に捻じ曲げられ、神経の一本一本を踏みにじられるかのような痛み。あまりにも痛すぎて、痛いという感覚が麻痺してしまいそうになる激甚な痛苦に対し、小アルブケルケは耐えることも、抗うことも出来なかった。


 その口から、およそ人が発するとは思えない絶叫がほとばしる。
 小アルブケルケは甲板に倒れこみ、両の手で胸といわず腕といわず、身体中をかきむしる。その姿は狂者そのものであったが、その苦しみはなお終わりではなかった。
 小アルブケルケの両の目が赤く染まり、血涙が流れ出す。ほぼ同時に鼻と耳から吹き出るように血があふれ出した。
 その口からは今なお怖気がはしるような苦悶の声があがり続けていたが、やがてその声も徐々に小さくなっていく。苦痛がおさまったわけではなく、声をあげる力が失われているのだろう。ほどなくして、苦悶の声のかわりに、口角から血の泡がこぼれはじめた。


 ゴア総督の嫡子が死に瀕していることは、誰の目にも明らかであった。
 だが、敵である雲居はもちろん、味方であるはずの南蛮兵や、医師見習いであるルイスさえ近寄ることはできなかった。誰もが、その異様さを恐れずにはいられなかったのだ。
 小アルブケルケはなおもしばらくの間、もがき続けていたが、やがてもがくだけの力も失われたのだろう。かすかな喘鳴があたりに響きわたり、その喘鳴もある瞬間を境にぴたりと立ち消えた。
 それが、当人を含め、誰一人として予想していなかったであろう小アルブケルケ――フランシスコ・デ・アルブケルケの最後であった。




 その地位や功績、為人や策謀に比すればあっけないとしか言いようがない死に様である。苦悶と痛苦に苛まれながら、言葉ひとつ遺せずに逝った南蛮の王子の死は、しかし、一つの戦いの終わりを告げるものであることは間違いなかった。
 南蛮国東方領を守護する第三艦隊、これを率いるフランシスコ・デ・アルブケルケの死により、ゴア総督アフォンソ・デ・アルブケルケの日の本征服計画は失敗に終わった。再征の有無は定かではなかったが、少なくとも第一次南蛮戦役において、日の本が南蛮国の侵略を、総大将を討つというこれ以上ない形で撃退したのは、誰にも否定できない事実であろう。




 ――ただし、まだすべてが終わったわけではなかった。





◆◆◆





 志賀親次という人物がいる。
 志賀家は大友家の重臣の一つであり、親次の父も祖父も加判衆に名を連ねたほどの大家である。
 親次はその志賀家を継ぐ身として生を受けた。
 親次は生来明朗な為人で、大家の跡取りとして周囲から向けられる期待を重荷に感じることもなく、健やかに成長していった。
 武にも文にも如何なく才能を発揮し、その評判を聞きつけた大友義鑑(宗麟の父)により、親次は宗麟(当時は義鎮)の近侍として取り立てられる。
 ここで親次は道雪や、吉弘家の菊姫らとも面識を得る。年齢でいえば、親次は宗麟や道雪、菊とはやや離れていたが、その快活な人柄や聡明さを三人に愛され、妹のように可愛がられた。また、菊や宗麟の影響を受け、南蛮神教に興味を示したのもこの頃である。


 親次の運命が大きく揺れ動いたのは、やはり二階崩れの変からであった。もっとも、当時まだ幼かった親次は、乱そのものには関わっていない。しかし、宗麟の近くで乱を目の当たりにしたことは親次の生き方に大きな影響を与えずにはおかなかった。親次が宗麟にならって洗礼を希望したことも、あの動乱と無関係ではない。
 しかし、親次の希望はすぐには容れられなかった。親次の父は熱心な仏教徒であり、娘が異教の洗礼を受けることを断固として認めようとはしなかったからである。


 親次は父の反対を受けても、洗礼の希望を捨てようとはしなかった。しかし、このまま自分が洗礼を希望しつづければ、自分と父の間のみならず、大友家と志賀家との間にも険悪なものが生じてしまう。
 それを恐れた親次は一計を案じた。当時、南蛮国へ派遣されていた遣欧使節団に、自らも加わろうとしたのだ。
 南蛮神教を嫌う父は当然のように南蛮の文化も快く思っておらず、親次の希望に反対を唱えたが、親次はこの使節団に加わることが志賀家にとっても重要な意味を持つとして、父を説得した。
 使節団に加わる者の多くは、将来を嘱望された少年少女ばかり。彼らは南蛮の文化を吸収した後に帰国し、大友家において重要な職責を担うことになる――これはほとんど既定のことであり、親次がこれに加わることは、志賀家にとっても大きな意味を持つはずだった。


 それでも父はなんのかのと文句を言い続けたが、最終的には親次の熱意が優り、父は首を縦に振った。
 このとき、親次は洗礼を受けるために父をあざむいたわけではない。主家のため、また自家のために南蛮の文化や風物をこの目で見て、多くを学ぶことはまぎれもなく親次自身の希望だった――むろん、そうして見聞を広めた上で、南蛮神教を嫌う父を説き伏せ、今度こそ洗礼を受けよう、という思いがあったことも確かだが。
 ともあれ、父を説得し、宗麟の許しを得た親次は海を越えた。その先に何が待っているのか、知る由もなく……





 ――数年後、親次は望まぬ滞在を強いられる異国の地で、洗礼名を与えられる。
 ――親次自身の意思によらず与えられた名を、パウロ、といった。 






 パウロは混乱する将兵を避けるように、舷側のすぐ近くで立ち尽くしていた。
 その懐中には、小アルブケルケから渡された短筒がある。すでにトリスタンを撃った後の清掃と弾込めも終わっており、いつでも撃つことができる状態にあった。
 では、どうして小アルブケルケと雲居が戦っている際、パウロはこれを撃たなかったのか。答えは簡単で、そうしろと命じられていなかったからである。
 小アルブケルケは、トリスタンを自室に呼び寄せた際、あらかじめパウロに命令を与えていた。が、雲居と戦う際には何の命令も与えなかった。だから、パウロは戦いの最中、身じろぎ一つしなかったし、小アルブケルケが毒を受けて苦悶している時も、駆け寄って助けようとはしなかった。助けろ、と命じられれば助けようとしたであろう。だが、小アルブケルケは何も命じなかった。だから、パウロは動かず、無感動にその死に顔を見つめるばかりであった。
 小アルブケルケはこれを非難することはできない。パウロをこうしたのは、他の誰でもなく小アルブケルケ自身であったから。



 その小アルブケルケが死んだ今、パウロはもう動く必要はないはずだった。仇討ちなど考えることもない。やがて島津軍に捕らえられるか、あるいは斬り殺されるか、いずれにせよ何らかの形で決着がついたであろう。
 だが。
 小アルブケルケの死に顔に視線を注いでいたパウロの視界の中で、ふと何かが動いた――そんな気がした。苦悶にまみれた表情の中、両の目がパウロを睨みすえたような、そんな気がしたのである。


 むろん、そんなわけはない。血に塗れた小アルブケルケの眼球はとうに焦点を失い、何も見てはいないのだから。
 だが、パウロにとって、その事実は何の意味も持たなかったらしい。かすかに身体を震わせると、薄明をさまようような思考で、その視線が意図することを考える。


 ――切り札は、最後まで取っておくものだ


 浮かんだのは、その言葉。
 パウロの頭で、たちまちそれは自身への命令に書き換えられた。小アルブケルケから短筒を預かっていたパウロこそ、彼の王子が残した最後の切り札である、と。
 パウロは視線を転じた。その先にいるのは、小アルブケルケを討った雲居筑前。その顔に向けて短筒を構えようとしたとき、パウロの視界に別の人物が飛び込んできた。
 銀色の髪に赤い瞳という異相を持つ少女は、なにやら雲居に向けて猛然とまくし立てていた。小アルブケルケと向かい合っていた時は顔色ひとつかえなかった雲居も、その勢いにはっきりと気おされているのがわかる。
 二人が近しい仲であるということは、パウロにさえ理解できた。その理解が、パウロの脳裏からまた別の言葉を引きずり出す。


 ――この国の民は己よりも、近しい者を傷つけられることを忌む


 いつか、小アルブケルケはそう口にしていた。
 であれば、ここで撃つべきは雲居ではなく……



 パウロの視線と、その手に握られた短筒の筒先は銀色の髪へと据えられる。
 彼我の距離は、パウロにとって外しようもないものだった。敵意もなく、殺意もなく、そしてためらいもなく短筒を構えると、パウロはごく自然な動作で引き金に手をかける。その動作は淀みなく、滑らかであり、筒先にいる二人は、いまだ少女の動きに気がついていなかった。
  

 



◆◆◆






 それは油断以外の何物でもなかった。
 小アルブケルケを討ったとはいえ、南蛮軍が降伏したわけではない。周囲の南蛮兵が武器を捨てていない以上、何事も起こりえた。気を抜くなど言語道断であったのだ。
 だが、自滅に等しいとはいえ、小アルブケルケを討ったことで、俺はほっと安堵の息を吐いてしまった。さかのぼれば吉継と別れた時からずっと張り詰めていた緊張の糸が、ここで音を立てて切れてしまったのだ。
「お義父様!」
 おくればせながら駆けつけてきた吉継の声にもはっきりとこたえることができず、その口から出る言葉の大半も脳を経由せずに左の耳から右の耳へと抜けていく始末。
 それでも、吉継が俺の行動を咎めているのはわかったので、なんとか落ち着かせようと口を開こうとした、その矢先であった。



「――雲居ッ!!」



 甲板上の喧騒を切り裂いて、俺の耳朶を雷喝が打ち据える。
 その声が島津歳久のものであることに気づいたとき、俺は半ば反射的に背筋を正していた。薩摩を訪れて以来、口を開けば、強い口調で鋭く此方への非難や苦情を積み上げてきた歳久に対する、俺の防衛本能のなせるわざである。
 望んで得た反応ではなく、得られて嬉しいものでもないのだが、この時ばかりはこれが吉と出た。
 歳久は、気をつけろ、とも、逃げろ、とも口にしなかった。口にする暇がなかったのだろう。迫る危機に対し、ただ俺の名を呼ぶだけで精一杯だったのだ。
 だが、俺にとってはその呼びかけだけで十分だった。


 ――舷側のすぐ近くに黒髪も美しい少女が一人、両手で短筒を構えてこちらを見つめていた。その容姿を見れば、明らかに南蛮人ではない。南蛮兵の中に混じった少女ははっきりと周囲の光景から浮きあがっており、どうして今の今まで気づかなかったのか不思議なほどだ。
 だが、問題はそこではない。茫洋とした瞳とは裏腹に、少女の構えた短筒を無慈悲なほどまっすぐ、正確に俺に向けられている――いや、俺ではない。その筒先は俺が立っている位置とわずかにずれている。少女の筒先に立っているのは、俺ではなく、隣にいる吉継だった。




 このとき、俺の脳裏に最初に浮かんだ選択肢は、吉継を抱き寄せ、俺の身体で吉継を庇うというものだった。
 だが、俺はそれを選ばなかった。
 深い井戸の底を見るにも似た少女の暗い瞳を見て、なんとなく思ったのだ。俺が自身の身体で庇おうと、あるいはここで吉継の身体を突き飛ばそうと、どのみち、あの少女が撃った弾は吉継に届いてしまうのではないか、と。
 言うまでもなく何の根拠もない考えだ。怨念が弾の軌道をかえられるわけはなく、根拠がないというよりは、妄想に類する考えといったほうが正確だろう。
 だが、一瞬の判断を強いられた俺にとって、それは天与の直感に等しかった。庇うだけでは足りない。守りたければ、撃たせてはならないのだ。
 であれば、俺にとれる行動は一つしかなかった。


 音を立てて鉄扇を開き、少女に向けて投じる。
 この鉄扇をこんな風に使ったのは初めてであったが、鉄扇はまるでそれ自体が意思を持っているかのように、まっすぐに少女の手元に向かって伸びていった。
 対して、少女はそれをよける仕草さえ見せない。その目はひたと吉継に据えられたまま動かず、迫りくる鉄扇など目にも入っていないように指に力をこめ、引き金を引こうとする。


 次の瞬間、その場に響き渡った金属音は驚くほどに澄んだ響きを帯びていた。
 秒の半分の差さえなかったであろう。少女が引き金を引くより半瞬はやく、鉄扇は少女の短筒に到達した。少女の手から弾き飛ばされた短筒は、鉄扇と絡み合うように放物線を描いて宙を飛び、そのまま舷側を越えて海面へと落ちていく。むろん、鉄扇も一緒に、である。
 それを見て、俺は咄嗟に駆け出そうとした。だが、今さら間に合うはずもない。舷側の向こうへと消えていく鉄扇――数えれば五年近くの間、肌身離さず持っていた物が手の届かない場所へと落ちていくのを、ただ見守るより他になかった。


「……お、お義父様」
 状況を理解したらしい吉継が声をかけてくる。その声には安堵よりも自責の色が濃いように思われた。吉継はこの場にいる中で、ただ一人、あの鉄扇の意味を知っている人間だ。俺がどうしてその鉄扇を投じるようなまねをしたのか、そのことに思い至れば、その声に自責の色が濃くなるのは、吉継の性格を考えれば当然のことだった。
 むろん、俺はすぐにかぶりを振って、吉継に気にすることはない旨を告げた。
 失って何も感じないはずがない。だが、あの一瞬で少女の手から短筒を奪うためには、あれしか方法がなかったのも事実である。人の命を救う一助になったのであれば、鉄扇を譲ってくださった方も許してくださるだろう。


 そんなことを考えていた俺の視界の中で、件の少女がまるで糸の切れた人形のように、くたりとその場にくずおれた。妙な言い方だが、少女が短筒を扱っていたのではなく、短筒の方が少女を動かしていたかのように。
 そして、それと時を同じくして、バルトロメウの甲板に一際大きな喊声が響き渡った。
 大筒の弾をかいくぐってあらわれた、油津港の島津水軍、その先鋒部隊の声である。水軍は度重なる砲撃で浅からぬ被害を受けたようだが、それでもその数は南蛮軍に優ることはるかであった。
 総大将を目の前で失った南蛮軍に、これに歯向かう気力が残っているはずもない。
 かくて、バルトロメウの戦いは敵味方、すべての人の予測を裏切る早さで決着を見たのである。






◆◆◆






「そうですか……トリスタン殿が」
 吉継のつぶやきに、歳久がこくりと頷く。
「ええ、先刻、少しの間だけ意識を取り戻されて。『黒髪の少女に気をつけて』と」
 場所は船上、油津港へと戻る途中、両者とも座りながらの会話である。
 この舟は歳久や雲居、ルイスらが乗ってきたものである。もっともルイスはこの場にはいない。バルトロメウに残り、通訳として忠親に協力している。代わりに、トリスタンが舟の片隅で横たわっていた。その顔は透けるように白く、血に染まった衣服もあいまって、まるで死者のように見える。
「実際、並の者ならばとうに事切れているでしょう。至近で大筒を打ち込まれた影響もあったのでしょうが、わずかの間とはいえ、よくも意識を取り戻したものです。私とて、あの言葉がなければ、そこな少女に気づくのは遅れていたことでしょう」
 

 その歳久の言葉に頷きで応じながら、吉継はトリスタンのすぐ近くで座している少女に目を向ける。バルトロメウの甲板で、吉継に短筒を向けた少女だった。その左右には見張りのための兵士が二人ついているが、少女は抵抗の素振りさえ見せようとはしなかった。
 吉継にとってはあやうく殺されかけた相手であるが、瞬きする間のことだったので明確な恐怖を抱いたわけでもなく、憎いという気持ちはわいてこなかった。ただ、舟の一隅をぼんやりと眺めている空虚な横顔には、いわく言いがたい悪寒を感じずにはいられなかった。少女に対する嫌悪感ではない。もし南蛮国に連れて行かれていたら、自分もこの少女のようになっていたのかもしれない、とそんな風に思えたからだ。


 幸い、そんな事態は避けられたわけだが、と吉継は今度は視線を真下に向ける。正確にいえば膝の上に。
 そこには、これ以上ないくらいに深い眠りに落ちている義父がいた。
 バルトロメウでの戦闘が終了し、この舟に乗り込んだ時点で、コテンという感じで倒れてしまったのだ。
 すわ負傷していたのか、と吉継はおおいに慌てたのだが、その口から太平楽な寝息がもれてきたため、心配は杞憂に終わった。
「文字通り寝食を削って今日まで過ごしてきたようですから。あなたを助け、敵将を討ち、ようやく緊張の糸がほぐれたのでしょう」
「……そのようですね」
 吉継の手が、そっと雲居の頬にふれる。こけた頬を見れば、雲居が今日までどれだけ心身を酷使してきたのか、想像することは難くない。その顔を見下ろす吉継の視線は、限りなく優しかった。


 あらためて思い返せば、まだきちんと礼すら言っていないのだ。その一方で、先刻の戦いぶりには言いたいことが山のように積もっており、何を言うべきか、何を聞くべきかすら、今の吉継には決められそうもない。
 あれからのこと、これからのこと、一晩語り明かしたところで、話が尽きることはないようにさえ思われる。
 そんなことを考えながら、そっと義父の頬をなでていた吉継の耳に、舳先にいた者たちの声が響いた。
 間もなく油津港に到着する、という内容だった。









◆◆◆








 同時刻


 豊後国 府内港


「姉御、見えてきましたぜ!」
 舳先にいた船頭が発した威勢の良い声を聞き、舷側から海面に視線を注いでいた女性は、その視線を前方に転じた。
 船頭の言葉どおり、そこには府内の港が遠望できた。ただ、港に出入りする船の数はきわめて少ない。加えて言えば、出入りする船の多くは戦船であった。現在、大友家は四方に敵を抱えているという。その影響であろうと思われた。


「船を着けることは出来そうですか?」
「はっはっは、姉御、誰にいってるんですかい。瀬戸内の海水を産湯に育ったあっしらにとっちゃ、戦場でもない場所に船を着けるなんざ茶を沸かすより簡単なことですよ」
 ここで女性は少し困ったように首をかしげた。
「いえ、海賊と間違われてしまわないだろうか、と思ったので」
「はっは、間違われるも何も、あっしらは海賊っすよ。でもまあ、このあたりまで足を伸ばしたことはないっすから、まず大丈夫でしょうや」
 船頭はそう答えて呵呵大笑する。


 彼も、またその配下の水夫たちも、筋骨たくましい、いかにも海の荒くれ者といった風情の者たちばかりである。
 瀬戸内の海を通過する船に通行料を求め、それを払わない船は実力をもって追い払う。それが彼らの生業であった。船頭が口にしたとおりの海賊稼業である。もっとも、彼らが武器を用いるのは不法に領海を侵す者のみであり、罪のない者たちを襲うようなまねはしなかった。


 その海賊船に乗り込んでいる女性は何者なのか。
 花顔雪膚、柳眉柳腰と非の打ち所のない容姿は、男たちとつりあわないこと甚だしい。それこそ、海賊に捕らわれたどこぞの姫君だと言われても納得できそうだった――女性の腰に大小が差さってさえいなければ、だが。
 船頭が不安げに、またどこか未練を感じさせる表情で口を開いた。
「しかし姉御、ほんとにここまででいいんですかい? 尋ね人が府内にいるかどうかもわからんのでしょう?」
「構いません。いなければいないで、自らの足で探すまで。九国には知己もいますから、力を借りることもできるでしょう。これ以上、皆さんを使い立てしてしまうのは申し訳ありません」
「いや、あっしらに遠慮なんぞ無用ですぜ。姉御にゃ命を救ってもらった借りもありやすし」
 船頭の言葉に、水夫たちもそうだそうだとばかりに頷いている。


 女性は小さく苦笑した。
「酒の席での刃傷沙汰を止めただけのこと。命を救ったなどと大げさです」
「いやあ、あのとき、姉御が両手にあまる人数を叩き伏せてくれなかったら、あっしらは鮫の餌になってましたぜ」
 酒の席でのいさござが発端だったのは事実だが、敵対する勢力同士の争いはたちまち本格的な戦闘に変じてしまった。この女性が割って入らなければ、船頭の言葉は現実のものとなっていただろう。
 だが、女性は恩義を口にする船乗りたちに、ゆっくりとかぶりを振ってみせる。
「毛利家や大友家が戦時で警戒を強めている中、こうも早く府内まで来られたのは皆さんのおかげ。借りがあったとしても、それで帳消しということにしましょう」


 女性がそう言うと、船頭はなおも何か言いたげにしていたが、やがて仕方なしに頷いた。故郷に妻子を残している以上、府内でのんびりと過ごすわけにはいかなかったのだ。
 それに、と船頭は女性の顔に視線を向け、いかつい顔にわずかに朱をはしらせる。
 いい年をして一目ぼれもないのだが、この女性の凛とした立ち居振る舞いや、一度だけ見た流麗な剣技に、船頭は心底から惹かれていた。彼の女房はそれを見抜いていたようで、恩返しに船を出すことは認めたものの、用が終わったらさっさと帰ってくるように、ときつく言い渡されているのである。


「そうだ、姉御、まだ名前を教えてもらうわけにはいきやせんか?」
 女性は目的があっての旅であるという理由で、その名を口にしようとはしなかった。男たちを信用しなかった、というよりは、名前を知ることでかえって厄介ごとに巻き込まれてしまうことを案じたのだろう。
 恩人から強いて名を聞きだすことも出来ず、この船の男たちは好奇心にフタをしてきたのだが、これでお別れだというのなら、せめて恩人の名前くらいは知っておきたい。
 その船頭の言葉に、女性はすこしの間だけ考え込み、やがて小さく微笑んだ。
「そうですね。袖すり合うも他生の縁といいます。まして、こうして道中を共にした相手に名前も名乗らずでは、せっかくの縁も意味をなさなくなってしまう」
 そう言って、女性はみずからの名を口にした。


 秀綱――上泉秀綱、と。  




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第九章 杏葉(十七)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:7a1194b1
Date: 2012/02/10 20:57

 日向国 油津港


 夢さえ見ない深い眠りから目覚めたとき、俺の気分はきわめて爽快だった。どのくらい爽快だったかというと、ぱちりと目を開けたときには、すでに意識がすっきりしていたくらい爽快だった。
 だが、そんな爽快な俺をもってしても、目を開けた途端、そこに吉継の顔があるとは予測できなかった。吉継の紅玉のような赤い瞳が、それこそ目と鼻の先にある。
 吉継にとっても、俺がいきなり目を開けたことは予想外であったようだ。至近で見詰め合ったのは、それこそ瞬く間だけのこと。
「わッ?!」
 そんな声と共に吉継はあわてて身体を起こす。
 見れば、その手には手ぬぐいが握られており、枕元には湯気のたちのぼるタライが置かれていた。俺の胸元が半ばはだけられているところを見るに、どうやら身体を拭いてくれていたらしい。


「お、お義父様、い、いきなり目を覚まさないでください! 覚ますなら覚ますと前もって言ってもらわねば?!」
「……おきぬけに、いきなり無理難題を突きつけられてしまった」
 目覚める前に、これから目を覚まします、とどうやって口にしろというのか。吉継らしからぬ理不尽な物言いである。それに、吉継にしてはめずらしいくらい慌てているのも気にかかる。
 俺はこの場の状況を冷静にかんがみた上で、一つの推測を口にした。
「もしやこれは夢か? 夢なら今のうちにやっておきたいことがあるんだが」
「夢だ、と申し上げたらどうなさるおつもりです?」
「とりあえず、幻でもいいから愛娘を抱きしめる」
「……現実だ、と申し上げたら?」
「とりあえず、助け出した実感を得るために愛娘を抱きしめる」
「……答える意味がない問いは、他者に向けるべきではないと思います、お義父様」
「善処しよう」
 そう言って、俺が布団から上半身を起こして手を伸ばすと、吉継は素直に身を委ねてくれた。互いに、互いの身体がそこにあることを確かめるかのような抱擁。それは室外から朝餉の用意が出来た旨を小姓が伝えてくるまで続いた。







 しばし後。
 今になって恥ずかしさに襲われているらしい吉継は、頬を赤らめながらも俺が倒れた後のことを説明してくれた。
 それによれば、俺が意識を失ってから、すでに丸一日が過ぎ去っているとのことだった。すでにバルトロメウは油津港に曳航されており、南蛮兵や水夫たちも島津軍の捕虜として捕らえられているらしい。中には大友家からゴアに派遣される予定だった子供たちなどもおり、油津港はかなりの混雑に見舞われているそうだ。
 もっとも勝利の結果としての繁忙ゆえに、冬の港を行きかう島津の将兵の顔に疲労の色はないらしい。おりしも山川港の家久からも勝利の報告が届いたこともあり、島津軍の士気は高まる一方であるようだ。


 だが、俺は彼らと共に勝どきをあげられる立場ではない。
 吉継を救出し、敵将を討ち、南蛮との戦いに終止符を打った。それ自体はこれ以上ないほどの成果であるが、これで終わりではないのだ。いつか長恵に語ったように、九国の戦乱を鎮めるための坂があと一つ残っている。これまでよりもはるかに大きく、越えるに難い坂が。
 それを越えるためにも、今は一分一秒も無駄にできない。にも関わらず、まさか丸一日寝こけてしまうとは不覚だった。


 俺がそのことを口にすると、吉継も表情を改めて頷いた。吉継は、自身が連れ去られた後のことも、歳久から一応の説明を受けているとのことだった。
「南蛮が兵を返しても、大友軍が矛をおろしたわけではありませんからね。歳久さまにうかがったところでは、島津軍はすでにムジカの手前まで達しているとのことです」
 それは俺がはじめて聞く情報であったが、驚きは特になかった。
「やっぱり、か……むしろ、よくムジカが持ちこたえているというべきか。長恵がうまく道雪さまとお会いできたのであればいいんだが」
 それを聞いた吉継が「え?」と戸惑いの声をあげた。
「お義父さま、どうしてムジカに立花さまが?」


 ここで、俺はいつかの夜、長恵に伝えた推測を口にした。
 それを聞き、吉継はなんとも言いがたい表情になって一つ息を吐いたが、同時に何かに得心したように頷いてみせた。
「長恵どのがお義父さまの命で日向に向かった、とは歳久さまからうかがっていましたが、なるほど、そういうことでしたか。すると、今、ムジカには立花さまと長恵どのがおられることになりますが……よく歳久さまを説き伏せられましたね?」
 長恵がムジカに入れば、島津軍にとっては厄介な相手となるのは必定である。吉継はそれを指して言っているのだろう。
 俺は小さく肩をすくめた。
「俺が長恵に頼んだのは道雪さまへ南蛮の作戦計画書を届けることと、日向以北の情勢を調べること、そしてなによりも吉継の行方を探すことだ。島津軍にとっては、別に脅威でもなんでもないだろ?」
 くわえていえば、長恵をムジカに差し向けた時点で、俺は吉継がすでにゴアに連れ去られている、という可能性を真剣に憂えていた。それが覆ったのは、ガルシアと会った後のことである。
 歳久も当時の俺の焦りは見抜いていただろうから、そのあたりも多少は歳久の判断に影響を及ぼしていたかもしれない。改めて思うが、島津の姫たちは良い方ばかりだ。


 それはともかく、当然だが、ガルシアと会った以降の俺の考えを長恵は知らない。長恵がムジカに行き着いたであろう時期と、バルトロメウがムジカを出港した時期はかなり接近しているが、うまく吉継の行方を知ることが出来たかどうか。日向以北の情勢を知らない俺は、ムジカに行き着いた後の長恵の行動については特に指示らしい指示はしていない。仮に道雪さまと会えていたとしても、その後に長恵がどう判断し、どう行動するかを知るのは本人ばかりである。
「吉継の無事を知っていれば、ムジカに留まるという選択肢も出てくると思うが、当然、長恵はそんなこととは知らないわけだから……吉継がバルトロメウにいたことを知ったとしたら、たとえ小舟しかなくても、自分で漕いで追いかけてきそうだ」
「それはさすがに――」
 ない、と言いかけて、吉継は困ったように口を噤んだ。言い切ることができなかったのだろう。


 まあさすがに長恵でもそこまではやらないだろうから、これは冗談の類である。とはいえ、長恵の行動が予測しがたいのは事実。下手な推測をするよりは、向こうから連絡をとってくるのを待った方が良いだろう。どのみち、ムジカに戻る必要があるのはかわらないのだから。
 ここで吉継は気遣わしげに俺を見つめ、口を開いた。
「しかし、大友家は聖都をつくり、これを南蛮に与え、なおかつその艦隊を招いてしまいました。それが南蛮神教の使嗾によるものであったとしても、大友家の名の下に事態が動いた以上、他国にしてみればすべては宗麟さまが為したことと映るでしょう。大友家と南蛮神教を分けて考えるべき、いかなる理由も彼らにはないのですから。であれば、周辺諸国は間違いなく大友家を脅威とみなして兵を発するでしょうし――いえ、もうすでに……」
 俺はその吉継の言葉に頷かざるをえない。
「ああ。たぶん、北は大変なことになってるだろう。もうどうしようもないってところまでいってしまっている可能性もあるな」
 頭をかきつつ、俺は率直に認めた。正直、言っているだけで頭を抱えたくなる状況だが、しかし、これを乗り越えなければ大友家は他家の猛攻の前に敗亡を余儀なくされてしまう。


 これまでの戦いでは、俺なりにではあるが、きちんと成算があった。だが、今回ばかりはそれがない。情報がないから、というのもあるが、ぶっちゃけると、たとえすべての情報を得られたとしても、成算を見出すことができないのではないか、という予感がひしひしとしている。それくらい、今の大友家を囲む四方の情勢は厳しいものだった。特に厄介なのは、明らかに大義名分が相手側にあることだ。
 とはいえ。
「だからって両手をあげて諦めるわけにもいかないからなあ。ほんの少しでもいい、勝機を見出すためにも、一刻も早くムジカに戻って情報収集だ――と考えていたんだが、あにはからんや、一昼夜も眠りこけてしまうとは」
「むしろ、あと一日二日はゆっくり休んでいただきたいところです。ほとんど不眠不休だったとうかがいました」
「それは大げさだ。きちんと食べて寝ていたよ。まあ、普段より眠りが浅かったことは否定しないが」
 そういって、目をつむり、おどけたように肩をすくめてみせる。こんな態度をとることができるのも、眼前に娘の姿があればこそである。



 ――が、吉継からの反応がない。どうしたのか、と思って目を開いてみると、そこには何か言いたげに俺の顔をじっと見つめる吉継の姿があった。
「ん、どした?」
「――このようなことを口にしてよいものかどうか迷いましたが……今をおいては訊ねる機会がないように思います」
「ふむ? よくわからんが、訊きたいことがあるなら答えるぞ」
 父娘の間で隠し事があるのはよくないことだと思うので。
 俺は特に構えるでもなく、気楽に吉継に応じたのだが、娘の次の言葉で姿勢を正さざるを得なくなった。




「ありがとうございます。では、お義父さま――天城颯馬さま」
「――む」
「その名は、かつて石宗さまの口より耳にしたことがございます。遠く越後の国にて、軍神とうたわれる方の配下である、と。お義父さまは、越後の重臣たる天城颯馬さまと同じ方、なのでしょうか?」
「ああ、そうだ。もっとも証拠は何もないが」
 吉継はゆっくりとかぶりを振った。
「お義父さまがそうだと仰るのであれば、これを疑う必要はありません。信じます。では、かつて越後で戦っていたお義父さまにお訊ねします。何故、それほどまでに大友家のために戦われるのですか?」


 吉継の赤い目が、射抜くような鋭さで俺へと向けられている。
「お義父さまは初めてお会いしたときから、いずれ東国に帰ると口にされておられました。何ゆえこの地にいらっしゃったのかは存じませんが、その心は越後に置かれていた、と推察します。九国の動乱に深く関わる意思を、お義父さまはお持ちではなかった。少なくとも、私と出会った頃は」
 俺は無言でうなずいた。それを見て、吉継はさらに言葉を続ける。
「それが今は、勝機など見出せぬと自ら口にするような困難な戦を、厭いもせずに戦っておられる。歳久さまからうかがいました――」


『一度敗れれば、子や孫の代まで日の本を蝕む惨禍となる……南蛮軍との戦いに敗れるとはそういうことです。そんな未来を一瞬でも視てしまえば、そこに至るすべての可能性を毟り尽くすのは当然のことでしょう』


「異なる名を名乗り、異なる家に仕えたは、日の本を侵そうとしていた南蛮の手を払いのけるため。そしてお義父さまはそれを成し遂げ、なおかつ私をも救ってくださいました。けれど……まだ九国には南蛮の影響が残っています。再度の侵略を招きかねない危険な家が、残っています。『そこに至るすべての可能性を毟り尽くす』のであれば、お義父さまはその家を潰さねばならないはず。そして今、お義父さまはそれを為す絶好の機会を目の前にしている、と私は思うのです」
 南蛮勢力を駆逐するための手段の一つとして、大友家を滅ぼすという選択肢は当然のように存在する。そして、今はそれを為す絶好の機会だといえる。俺があくまで南蛮軍から日の本を守ることを第一義とするならば――
「――なるほど。だから『何故、大友家のために戦うのか』という問いが出てきたわけか」


 俺の言葉に、吉継がこくりと頷いた。その動作に応じて、銀色の髪がかすかに揺れる。
「はい。大谷の父上は大友家に仕え、石宗さまもまた宗麟さまに仕え、大友家の将来を案じながら亡くなられました。私自身、今はお義父さまを通じて大友家に仕えている身。ゆえに私がこのような問いを口にすることは許されることではない。ですが、訊きたいのです。もしお義父さまが大友家のために力を尽くす理由に私が含まれているのであれば……すでに一度、お義父さまは命を懸けて私を南蛮の手から守ってくださった。この上また、私のために命を懸けようとなさっているのではないかと案じられてならないのです」
 のみならず、と吉継は続ける。その口調は段々と早く、強く、そして切羽詰ったものになっていった。
「もしかしたら、お義父さまは私のために本来望まぬ道に足を踏み入れているのではないかと……それと承知の上で、勝算などない戦いに身を投じようとされておられるのではないかと思われてならないのです。それほどまでに想われていると考えるのは増上慢であるとは思いますが、南蛮船の上でのお義父さまの振る舞いを見れば、どうしても――ッ」


 まるで何かに追い立てられているかのように、息を継ぐ間も惜しんで言葉を紡いでいく吉継。その話し方も、話す内容も、常の吉継とはかけ離れたものであった。俺を見る目は熱に浮かされた者のように潤んでいる。
 これ以上、話を続けさせるのはまずい、と判断した俺は、吉継を中途でさえぎった。その細い身体を抱き寄せることで。
「少し落ち着きなさい」
 そういって、わずかに震えている吉継の背を軽く叩いてやる。
 吉継から返答はなかったが、俺の腕を振り払う様子もないから、自分でも感情が昂ぶっていたという自覚はあるのだろう。俺の胸に顔を埋めた吉継は、別に泣いているわけではないと思うが、その身体の震えは容易に静まろうとしなかった。




 ――よく考えてみれば、南蛮軍に捕らわれていた間、吉継は俺以上につらい立場におかれていたのだ。具体的な危害は加えられなかったとしても、敵の手に捕らわれた状態で過ごす日々が、快いものであったはずがない。いつ何時、敵の気がかわるともしれず、扉を叩かれるたびに緊張を余儀なくされる――そんな日がいつ果てるともなく続く。それは吉継のような少女にとっては耐え難い時間であっただろう。
 そして、吉継がそんな状況から解放されて、まだ三日と経っていない。そう簡単に幽閉されていた時の影響が抜け落ちるはずがないのだ。思えば、おきぬけに吉継を抱き寄せたときも、まったくといっていいほど躊躇していなかった。あれもまた、吉継の今の心境をあらわしていたに違いない。
(そして俺は、そんな吉継に向けて、戦いについての話を延々としていたわけか。吉継が意識して普段どおりに振舞っていたからといって、気が利かないとかいうレベルじゃないぞ……)
 深く深く反省しながら、吉継の背においていた手を、今度は上下にさするように動かす。
 吉継の息遣いが十分に落ち着いた、と判断できるようになってから、なるべく穏やかに声をかけた。


「つまり、俺は本来は大友家を潰したいと思っているのに、吉継がいるからそれができない。あまつさえ、潰すべき家のために命を捨てるつもりではないか、と心配になったわけか?」
 返答はなかったが、吉継がうなずいたのは胸の感触でわかった。
 うーむ……色々なことが重なったから仕方ないとはいえ、妙に思いつめてしまっているっぽいな。いや、というより、助けられて間もない、まだ心身ともに不安定な吉継に、俺が今度の戦は厳しいだの何だのと口にしたせいで、おもいきり追い詰めてしまっただけか。
(これはまずい)
 ここで返答を誤ると、吉継に変な罪悪感を植えつけてしまいかねん。南蛮軍の手から救い出しておいて、自分で娘の心を傷つけるとか、本気で切腹ものだぞ?!
 ここは率直に胸のうちを語り、一秒でも早く吉継の誤解をとかねばならん。




「この冬を越えれば一年だな、吉継と出会ってから」
 吉継の耳に囁くように話しかける。相変わらず返答はなかったが、俺の背にまわされた吉継の腕に、わずかだが力がこもったのがわかった。
「吉継に出会って、石宗どのに出会って、道雪さまに出会って、紹運どのに出会って、誾さまに出会って……宗麟さま、小野さま、由布さま、連貞どのと数え上げればきりがないくらいたくさんの人たちと、この一年、九国で出会ったよ。そのほとんどが大友家の人たちだ。これを滅ぼすべき、なんて思うはずがないだろう」
 今は戦略だの戦術だのを語るべきときではない。俺はなるべく丁寧に自分の胸のうちを言葉にしていく。


 いつか、大友館を見ながら、垣間見た未来を変えたいと願った理由は、その出会いだった。
 その意味では、俺が戦う理由には吉継のことがたしかに含まれている。ただし、吉継の言うように、そのために自分の考えを捻じ曲げたりはしていない。
 石宗どのから受けた恩もある。長い間、宗麟さまを支えてきた道雪さまの忠に打たれたことも理由の一つ。紹運どのの為人に敬意を抱いたことも、誾の将来への期待もそこには含まれていた。今となっては、俺自身、本心から宗麟さまにかつての英姿を取り戻してほしいと願ってもいる。
 そして、それらすべてを束ねるのは――
「大友家は九国を守る要石。大友家も、大友家に仕える人たちも、これからの日の本に必要な人たちだ。大友家を守ることは、九国を南蛮から守ることにつながり、ひいては日の本を守ることにつながる。大友家を守るというのは、俺自身の目的にとっても必要なことなんだよ」


 今という刻は、たぶんすべての集大成。
 この戦の結果は、九国のみならず、日の本の未来にもおおきく影響を与えるだろう。
 大友家を守るという俺の考えが唯一無二の正答だ、などと主張する気はない。現在の状況を見て、異なる考えを持つ者もいるだろう。吉継が口にしたとおり、ここで大友家を潰す、というのも一つの手段ではあるのだ。
 だが、俺が、俺自身の行動を決めるとき、自らの考えを根幹に据えるのは当然のこと。九国に来てから今日まで、俺は自分の思いに沿って行動してきたし、これからもそうしていく。吉継がそれについて罪悪感を覚える必要など微塵もないのである。





 俺が言い終わっても、吉継はしばらく何の反応も示さなかった。
 うまいこと伝わらなかったかしら、と不安になってきたときだった。
 俺の耳に、いやにのんびりとした吉継の声が――もとい、寝息が届いた。すーすーと、それはもう実に健やかな感じで。
「……おーい」
 思わず半眼になり、小声で口走ってしまった。
 そういえば、先ほどからいやに吉継の身体の重みが感じられるな、とは思っていたのだが。
 南蛮軍に捕らわれていたときの心身の疲労に加え、ここ数日来の変転、さらに胸にのしかかっていた重い疑念を吐き出してしまったことで、緊張の糸が切れてしまったのかもしれない。それこそ、バルトロメウでの戦いが終わった直後の俺のように。
「……しかも、心労の主な原因は俺だろうしなあ。これは文句を言える立場ではないな」
 俺ははぅっと息を吐くと、疲れ果てたのであろう吉継をゆっくり休ませるべく、さきほど片付けた布団をもう一度引っ張り出すのだった。






◆◆






 雲居が吉継を布団に寝かせ、部屋を出て行く。
 その足音が消え、たっぷり十秒近くが経った後。
 それまで完全に寝入っていると思われていた吉継の手が不意に動いた。胸元までかけられていた布団を両手で掴み、額の上まで引っ張り上げ。
 そうして、自身の顔をすっぽりと覆い隠した吉継は、しばしの沈黙の後、羞恥のあまり震える声でうめくように呟いた。
「……何を、口走っているんですか、私は」



 結論からいえば、つい先ほど、吉継は狸寝入りをした。
 こちらから問いを投げかけておきながら、失礼きわまりないとはわかっていたのだが、どうしてもそうせずにはいられなかったのだ。
 自分の行動、口にした言葉を思い返せば、今になってもなお頬の紅潮をおさえられない。
 実のところ、吉継は自分が本調子でないことは気づいていたが、あんな恥ずかしい言葉を口走ってしまうほど心が弱っているとは思っていなかった。
 自分の言葉に急かされるように、内心の疑念やらなにやらをすべて吐き出してしまった後、吉継はなによりも自分自身に驚いていた。幸いというか、雲居が抱き寄せてくれたのでばれなかったが、もし距離を置いて向かい合っていたら、顔どころか首筋まで真っ赤に染めた姿を雲居に見られていたことだろう。


 雲居は吉継の胸中を思いやったのか、短く、けれど心をこめて胸中を語ってくれた。そのこと自体はうれしかったが、その内容は吉継にとって意外なことでもなんでもなかった。これまでの雲居の言動を見ていれば、十分に察することができるものだ。
 そう。察することができるものだったのだ。
 だというのに――
「……私のために無理をしているのではないか、などと……うー」
 なんであんなことを口走ってしまったのか。義父の身を案じる思いが、弱っていた心ととけあって、なんだか変な気持ちが出来上がってしまった。それをそのまま口にしてしまったことに、吉継は今、深刻に後悔の臍をかんでいた。
 うーうーという唸り声は、その後、時折中断をはさみつつ、四半刻ばかり続くことになる…… 







◆◆







 四半刻ほど後、早くも目を覚まし、起き出してきた吉継を見て俺は驚き、もう少し休んでいるようにいったのだが、吉継は大丈夫の一点張りだった。実際、先刻のどこか危うい感じはすっかり拭われており、声も表情も落ち着いているように見える。
 吉継は深々と俺に頭をさげた。
「先ほどは、その、すみませんでした……問いを向けておいて、寝入ってしまうなど」
「いや、それはぜんぜんかまわないんだが……というか、こっちこそ無理しているのに気づいてやれないで申し訳ない。聞こえてなかったのなら、もう一回こたえるけど?」
「い、いえ、その必要はありません。大体のことは覚えていますし、その、納得もしたというか、私の問い自体、ちょっと問題があったといいますか……」
 吉継はどこかぎこちなくかぶりを振るが、とりあえず思いつめた様子はなさそうだった。
 安堵の息を吐きかけたそのとき、詰め所の入り口の方から俺たちを呼ぶ声が聞こえてくる。なんでも港の方から報告が届けられたらしい。
 その報告を聞き、俺と吉継は驚いて顔を見合わせることになる。


 



「姫様(ひいさま)!」
「あ、長恵殿、このたびは心配をおかけぐふ?!」
 歓喜の声をあげて駆け寄ってきた長恵に、吉継が心配をかけたことをわびようとする。だが、その声は中途で途切れた。長恵が吉継の頭を胸にかき抱いたからである。
「こうして再び言葉を交わせる日が来ると信じてはいましたが、それでも……ああ、本当によかったです!」
「そ、それは私も同意しますが、ちょっと力をゆるめ……」
「この感激を余すところなく姫様に伝えるため、この長恵、全力を尽くす所存ッ」
「十分すぎるほど伝わっていますので、少し加減してください! お、おとうさあぅッ?!」
 ともすれば長恵の胸で口をふさがれながら、吉継は懸命に力をゆるめるよう訴えているのだが、感激しきりの長恵の耳には届いていないようだった。
 その光景を見て、俺は小さく息を吐く。むろんため息ではない。吉継と長恵のにぎやかなやりとり。かつては当たり前だったその光景を、もういちどこの手に取り戻すことができた、それを実感したゆえの安堵の吐息であった。
 一瞬、助けを求める吉継の声を耳にしたような気もするのだが、たぶん気のせいだろう、うん。決して長恵の抱擁から逃れるべく、我が娘を見捨てたわけではないのである。





 感激の再会がひと段落した後、俺は当然のように長恵が油津港にやってきた理由を問うた。隣では少しぐったりした様子の吉継が、救援要請を無視した俺にじとっとした眼差しを向けていたのだが、吉継自身、俺の問いは気になったらしく、その視線は長恵に向けられる。
 そうして俺たちは、長恵からムジカで起きた出来事を聞いたのである。


「……つまりカブラエルと同船してきたのか?」
「はい。姫様には追いつくには、それがもっとも早いと判断したので。これぞ正しく呉越同舟ですね」
「いや、さわやかに物騒なことを言わないでくれ」
 宗麟さまはカブラエルをゴアに派遣するため、交易船の一つに話を通したという。長恵はそれに同船してきたそうな。なるほど、それならばこの短期間で油津まで来られたことも納得できる。納得できるが――


「よくまあ、あの男と同船なんて出来たな」
「同船したといっても、布教長どのも宣教師たちも、一日中、船室に閉じこもっていましたから。今回のことがよっぽどこたえたと見えます」
 こともなげにいう長恵には疲労の陰はまったくない。船内で何が起こるか知れなかったというのに、さすがの胆力である。吉継が隣で小さく息を吐いていた。
 まあカブラエルらにしてみれば、自分たちこそ海上で斬り捨てられるのではないか、と戦々恐々としていたのかもしれない。
 俺がそんなことを考えていると、長恵はさらに説明を続けた。


「先日の嵐で船体の一部が破損したとかで、先刻、修理のために油津の港に入ったんですよ。そしたらそこに変わり果てた南蛮の戦船があるじゃないですか。で、話を聞けば先日、島津軍が南蛮軍に勝利したとのこと。これはまず間違いなく師兄の仕業、と判断した次第です」
「さいですか……ということは、カブラエルたちも知ったか」
「そうなりますね。船員さんたちには、あの人たちが騒ぎを起こす可能性があるから注意するように、とは伝えておきました。ああ、それとたまたま藤兵衛と会ったんで、船に見張りをつけておくことも提言しておきました。でも、たぶんあの人たちが私たちに危害を加えてくることはないと思いますよ。本当に心底消沈していましたから。それこそ、このまま消えてしまうんじゃないか、というくらいに」


「……ふむ。まあ長恵が言うなら問題ないか」
 どのみち、道雪さまが放免すると決めた以上、俺がここで動く理由はない。そんなことよりも、考えなければならないことが他に山ほどあるのだ。
「しかし長恵が来てくれて助かった。これで大体の方針がたてられる」
 特に宗麟さまと道雪さまの一件を知ることが出来たのは大きい。宗麟さまが南蛮国の野心について認識してくれたのであれば、話の持って行き方次第では説得の余地がある。少なくとも、今後の南蛮国との関係は、これまでのような一方的なものにはならないだろう。
 とはいえ、これだけではまだ島津を説き伏せるには弱い。宗麟さまにしても、南蛮国との関係を見つめなおすことは承知したとしても、南蛮神教を排する、あるいはムジカを放棄する、などという決断は下さないだろう。
 前途にわずかに光が差しこんだのは間違いないが、それはあくまで将来的なもの。今、目の前に迫っている危機をしのぐには、もっと直接的な何かが必要だった。
 ……問題は、その『何か』のあてがないことなのだが、これはいまさら言ってもどうにもならん。


「ともあれ、宗麟さまと道雪さまがムジカにいるなら、なおのこと早く向かわないとな」
 ここで俺は吉継に視線を向ける。
 さきほどのこともある。できれば吉継はもう何日か休ませてあげたいのだが……
「念のために言っておきますが、置いて行こうとしたら怒りますからね、お義父さま」
 こちらから口を開く前に、でかい釘を刺されてしまいました。
 正直、俺としても再会したばかりの娘と別行動をとる気にはなれなかったのだが、心配する気持ちは消せないわけで。
「無理だけはしてくれるなよ?」
「承知しています。ただそのお言葉、お義父さまにだけは言われたくない、と思ってしまいます」
 しごく真面目な顔で言い返され、俺は苦笑することもならず、視線をさまよわせることしかできなかった。無茶はしても、無理はしないと言い返そうかと思ったが、我ながら意味不明だったのでやめておく。


 と、俺はここで、長恵がどこか不思議そうに吉継の顔を見つめていることに気づいた。ほとんど同時に吉継もそれに気づいたらしい。
 吉継が目を瞬かせる。
「長恵どの、なにか?」
「ふむ、ふむ。姫様、思ったよりも元気そうですね」
「そ、そうですか?」
「はい。実は長らく敵の手に捕らわれていたことで、心気が衰えておられるのではないかと案じていたのですが、こうして拝見するかぎり、多少の疲れこそあれ、今後に尾を引くようなものではなさそうです。それに――」
「そ、それに?」
 ここで長恵はくすりと笑う。どこか悪戯っぽさを感じさせる微笑だった。
「いえ、たぶん気のせいでしょう。ふふ」
「意味ありげに笑われると、とても気になるのですが?!」
 めずらしく吉継が声を高めて問い詰めるが、長恵はころころと笑うばかりで、吉継の問いに応じようとはしなかった。


 





◆◆◆








「そうりん、さま……どうせつ、さま……」
 不意に背後から聞こえてきた声に驚いて振り返る。
 すると、そこにはどこかで見た黒髪の少女がぼんやりと立ち尽くしていた。
 いつの間にやってきていたのか、まったく気づかなかった。吉継も、そして長恵も同様のようだ。刀の柄に手をかけた長恵が、俺と吉継を守るように前に出る。
 だが、俺はそんな長恵をおしとどめた。少女が、バルトロメウで吉継を狙った人物だと気づいたからだ。


 さきほど、吉継を寝かせた後、俺は島津の人たちに色々と話を聞いて歩いたのだが、この少女のことも聞いていた。少女は聞かれたことには答えるし、食事なども勧めればきちんととるらしい。だが、その行動のほとんどすべてが受動的なもので、自分から何かをしようとすることはまったくといっていいほどないそうだ。
 当初は見張りの兵士をつけていたそうだが、今ではそれもなくなっている。端的にいって必要ないからだ。
 また、質問には答えるといっても、当然ながら少女の知らないことは答えられない。つまり島津が欲する南蛮軍の組織、あるいは南蛮国の統治体制に関する詳しい情報はまったく持っていないので、島津としても対処に困っていたそうな。なんでも歳久から「俺が起きたら押し付けろ」という命令が出ているらしい。


 ……正直、押し付けられても困るのだが、しかし、気になることもあった。それは少女の名前。志賀親次、という名前は俺の記憶にあるものだった。といっても、大友家にいたときに誰かに聞いたというわけではなく、元の世界の知識として、という意味だが。
(豊臣秀吉や島津義弘にも称えられた『天正の楠木正成』か)
 時代が合わないとか、女性かよとか、そういった疑問を覚えなくなったのはいいことなのか、悪いことなのか。まあどっちも今さらであるのは確かである。


 ともあれ、志賀家は大友家でも有数の家柄。放っておくわけにもいかない。むろん、吉継を狙った理由も確かめなければならないし――と、そこまで考えたところで、俺はふとあることに気がついた。


 ――今、目の前の少女は自分からしゃべらなかっただろうか?





[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第九章 杏葉(十八)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:7a1194b1
Date: 2012/02/16 21:31

 日向国 ムジカ


 ムジカは南北を川に挟まれた守るに易い要地である。かつて大友軍は北の五ヶ瀬川をはさんで伊東軍と対峙し、これを陥落させた。
 そして今は、南を流れる大瀬川をはさんで島津軍と対峙し、これを守ろうと奮戦している。
 その日の戦況が動いたのは、まだ夜も明けない時刻のことであった。


 初めに大友軍の将兵の耳朶をうったのは、癇癪を起こしたかのように猛然と撃ちかけられてくる鉄砲の轟音であった。大友軍の陣地を照らす篝火めがけて放たれる無数の弾は、川向こうからのものであるために命中率は極端に低い。だが、闇夜を裂いて響き渡る銃撃の大音響は将兵の眠りを妨げ、同時に不安をあおりたてる。いつ流れ弾が飛んでくるとも知れず、身を屈める大友軍将兵の顔には、またか、という苛立ちがはっきりと浮かび上がっていた。


 しばし後、本陣の道雪に前線からの報告がもたらされる。とはいえ、鉄砲の音は本陣にも届いており、道雪はおおよその状況をすでに把握していたが。
「申し上げますッ! 島津軍の一隊がまたしても川向こうにあらわれ、鉄砲を撃ちかけてまいりました。昨日と同様、朝駆けをもくろんでのことと思われます!」
「わかりました。ただちに敵の渡河に備えるよう、皆に伝えてください」
「はッ!」
 そういって駆け去っていく伝令の背を見送りながら、道雪は周囲の兵に気取られないよう、小さく息を吐いた。それはため息ではなかったが、限りなくため息に近いものではあった。何故といって、今のやりとりは昨日も、その前も、さらにその前の日も繰り返されたものだったからである。



 現在、島津軍と対峙する大友軍の数は四千あまり。これは道雪が率いてきた戸次勢一千と、もとからこの地に派遣されていた佐伯惟教らの軍勢をあわせた数である。ムジカには今なお二万をこえる南蛮神教の信徒たちがいたが、道雪は彼らを戦力として数えることはしておらず、実質的に今この場にいる四千が、現在のムジカの全戦力であった。
 この道雪の決断に関しては異論もあった。島津軍は一万三千の大軍であり、信徒たちを動員しなければ勝ち目がない、という意見は十分な説得力を持っていた。
 しかし、南蛮神教の信徒たちは先ごろ行われた耳川の合戦で島津軍に敗れ、武器や糧食の大半を奪われるに至っている。神の敵を討つという宗教的熱狂はすでに失われて久しく、彼らを煽って征服者に仕立てあげた宣教師たちもムジカを去った。そんな彼らを戦力に組み込めば、敵を討つどころか味方の足を引っ張るのが関の山であろう。
 道雪はそこまで直截的なことを口にしたわけではなかったが、信徒たちを前線に立たせるという意見には頑として応じようとしなかった。


 結果、道雪は四千の軍勢を率い、対岸の島津軍一万三千と対峙するに至っている。
 兵力差を考えれば、島津軍が即日総攻撃に出てもおかしくはなかったが、島津軍を率いる島津義弘は動かなかった。
 急激に兵力を減じた大友軍の陣容を見て道雪の策謀を警戒したのか、自軍にも休養の必要ありと考えたのか、あるいは現在の四方の情勢をかんがみて、ここで無理をして道雪と雌雄を決する必要はなしと見極めたのか。そのいずれにせよ、義弘は大友軍に対して積極的な攻撃に出ることはしなかったのである。


 しかし、だからといって義弘はのんべんだらりと大友軍と対峙したわけではない。大友軍の疲労を誘うかのように夜討ち朝駆けを仕掛けては退く、という行動を執拗なくらい繰り返した。
 その方法はきわめて単純で、深更(真夜中)か、あるいは今のような夜明け前に大規模に鉄砲を撃ちかけて喊声をあげるのである。島津軍は基本的にはそれを繰り返すだけであり、いわば鉄砲を用いた示威に終始するのだが、時折急進して渡河をもくろむこともあり、大友軍は昼夜の別なく警戒をし続けなければならなかった。
 川をはさんでのことであり、襲撃を仕掛けてもほどなく退却するため、両軍の被害はわずかしか出ていない。それこそ夜襲の訓練でもしているかのような島津軍の行動だったが、だからといって大友軍が気を抜いた対応をすれば、即座に全軍をあげて攻め寄せてくるであろう。


 大友軍にしてみれば無視することもならず、かといって敵が仕掛けてくる都度、全軍を動かしていれば、ほどなく将兵は疲労と寝不足に悩まされるのは間違いない。というより、すでにそれは大友軍にとって無視できない問題になりつつある。
 あたかも夏の夜の蚊のような島津軍の戦いぶりに、道雪は賛嘆とも慨嘆ともとれない呟きをこぼす。
「なんとも始末に困るやり方ですね」
 噂に聞く鬼島津の戦いぶりとは異なることから、三女の歳久あたりの知略か、と道雪は考えていた。
 別段、卑怯だの武士らしからぬ戦いぶりだのといって憤っているわけではない。耳川の合戦で大友軍から奪い取った火器を見せ付けつつ、彼我の兵力差を活かした戦いで確実に大友軍の士気をそぎとっていく。南蛮軍を撃ち破った島津にしてみれば、ムジカをめぐる攻防が長引いたところで大きな影響は出ない。それどころか、この地に宗麟と道雪を釘付けに出来れば、豊後以北の大友軍の苦戦は必至であるから、大友家を滅ぼすという面から見れば、戦いを長期化させる方が望ましいのである。
 自分たちが大友軍に優る部分をしっかりと把握し、いやらしいくらい的確にそこを突いてくる攻め方は、いっそ清々しいほどに厄介であった。




 むろんというべきか、道雪は何の思惑もなく防戦に追われているわけではない。半ば嫌がらせのような島津軍の攻勢をしのぎつつ、道雪はムジカを退去する準備を着々と整えていた。
 実のところ、宗麟はいまだにムジカの放棄には迷いを見せているのだが、それでも道雪の考えを退けようとはしなかった。それは豊後の吉岡長増からもたらされた、ある報告を理由とする。
「――毛利軍、門司に上陸。その数、およそ四万五千」
 報告の一部分を口にした道雪は、自然と表情を引き締めた。毛利軍の来襲自体は道雪の予測の内にあった。しかし、その数は道雪の予測を完全に上回っていた。
 しかも、これは毛利軍のみの兵数であり、豊前、筑前の反大友勢力を吸収した毛利軍の数はたちまち五万以上に膨れ上がったという。
 それは、かつて大友家が相対したことのない大軍であり、大敵であった。このままでは大友家に近しい国人衆や、大友家の内部でも動揺する者は現れるだろう。


 ――否、現れるだろう、などというのは悠長な考えだ。謀将として知られる毛利元就のこと、すでに九国各地に調略の手を伸ばしていることは間違いない。豊後を直撃するか、筑前を狙うかは定かではないが、これだけの大規模な出兵であれば相応の成算を持っているはず。実際、毛利軍が水軍や他の国人衆と連動して一気に豊後をついてくれば府内すら危うい、と道雪は判断していた。
 この状況でムジカを保持したところで意味はない。ムジカに拘泥してムジカ以北の領土を失えば、結果としてムジカをも失うことになるのは明白である。島津家は南蛮神教を禁じており、日向北部の民は大友家と南蛮神教の信徒に深い恨みを抱いている。ムジカが陥落したとき、何が起こるのかは容易に推測できるだろう。


 そんな事態を避けるためには島津軍を撃ち破るか、あるいは和議を結ぶか、いずれにせよムジカをめぐる攻防を早期に終結させる必要があるのだが、現状ではどちらもほぼ不可能といってよい。ゆえに少しでも余力がある間にムジカから兵を退き、府内に戻って家中の動揺をしずめつつ、毛利、島津両軍と対峙するべき、というのが道雪の考えであった。
 今、聖都にこだわれば他の領土はもちろん、家臣も、領民も、信徒たちをも失われることになる――この道雪の説得を宗麟は受け容れた。
 繰り返すが、宗麟は聖都を捨てることに納得したわけではない。それでも道雪の言葉に首を横に振らなかったのは、聖都に懸けた自身の願いよりも優先すべきものを道雪の言葉の中に見出したからに他ならない。
 それを感じ取り、道雪は短く、けれどはっきりと安堵の息を吐いた。




 だが、退却と一口にいっても、これは容易なことではなかった。島津軍の追撃はもちろんのこと、日向北部の民衆は先に大友軍が行った寺社仏閣の破壊や、それにともなう焼き討ちなどでこちらに激しい敵意を抱いている。大友軍の撤退を黙って見逃すはずがないのだ。
 島津軍の嫌がらせ的な攻勢に対処しつつ、そちらの手配も整えなければならないとあって、今の道雪は猫の手もかりたいほどの多忙さの中にある。前を向いても後ろを見ても、それどころか右も左も難問が山積している状況である。しかも無事に府内に戻りついたところで、状況が好転する保証は何一つないときている。


 やがていつものように「島津軍、退却」の報がもたらされる頃、ようやく東の空から曙光が差し込んできた。
 道雪はわずかに目を細めて暁の光に目をやり、誰にともなく小さく呟いた。
「夜明けを迎えるためには深更を越えねばなりません。しかし、深更を越えたとて夜明けはすぐには訪れず、暗さに迷い、寒さに凍える刻は続いてしまう。今、わたくしたちは何時(いつ)を歩いているのでしょうね」
 そう呟きつつ、しかし、道雪の眼差しは不思議と穏やかだった。二階崩れの変から今日まで続く混迷の夜がいつ明けるのか、道雪は明確に断言することができない。今なお夜は深く、大友家に曙光が差し込むのは遥か先ではないかとも思われる。
 だがそれでも、道雪は微笑むことができた。夜明けがいつ訪れるかはわからない。しかし、確かに夜明けが近づいているという実感が胸のうちにあったから。
 夜明けを思うことすらできなかったこれまでの道のりに比べれば、それがどれほど力を与えてくれるものか、道雪はうまく表現する術を持たなかった。




「――申し上げます!」
 そんなことを考えている道雪のもとに、ひとつの報告がもたらされる。
 それは先刻のように敵軍の襲来を告げるものではなく、後方のムジカにいる宗麟からの使者であった。宗麟からの言伝を聞いた道雪の口から驚きの声がこぼれる。
「鑑速どのが?」
 豊後三老のひとりとして知られる臼杵鑑速がムジカにやってきたと知り、道雪は怪訝そうに眉をひそめた。現在の情勢で鑑速が豊後を離れるなど、よほどのことがないかぎりありえないこと。一体なにがと思いつつも、良い予感など覚えようがないゆえに、道雪は眉をひそめてしまったのである。


 この懸念どおり、ムジカに戻った道雪に鑑速がもたらした情報は大友軍にとって凶報に他ならなかった。しかも一つだけではなく、三つ。


 その一つは毛利軍の動向である。鑑速によれば、今回の毛利の遠征軍を率いるのは当主の元就ではなく、その世継ぎである毛利隆元。その隆元は水軍を率いる小早川隆景に命じて豊後に睨みを利かせつつ、自身は吉川元春と共に主力部隊を率いて筑前国に侵入、秋月、原田、筑紫らの国人衆を加えて軍容を膨らませながら大友軍の拠点を次々と撃破し、たちまちのうちに戸次誾が立てこもる立花山城を重囲下に置いたという。


 凶報の二つ目は、この毛利軍の侵入と時を同じくして肥前の竜造寺軍が国境を突破、先ごろ高橋家を継いだ高橋紹運が守る岩屋城に攻めかかった、というものであった。もっとも、竜造寺軍が肥前で不穏な気配を示していることは紹運も察知しており、岩屋城にて竜造寺の矛先を受け止めつつ、後方の宝満城と連携してこれに当たる、というのが紹運の基本方針であることを道雪は紹運本人から聞いていた。ゆえにこの報告に関しては、凶報には違いないが、予想外の衝撃があったわけではない。


 だが、三つ目の凶報に関しては、紹運はもとより道雪もまったく予想していないものであった。
 紹運が岩屋城と共に対竜造寺戦の要と目していた――ということはつまり、筑前防衛の要と考えていた宝満城が、一夜にして陥落した、というのである。
 これは紹運の戦略の根幹を突き崩す一大事であり、一連の凶報の中で間違いなく最大の衝撃をもたらした。
 不幸中の幸いというべきか、紹運本人はすでに岩屋城に入って竜造寺軍と矛を交えていたため、その命に別状はなかった。しかし、高橋家にとって岩屋城はいわば出城であり、宝満城こそが本拠地である。その本拠地を一夜で陥とされたのだ。敵味方に及ぼす影響はきわめて大きいと言わざるを得なかった。
 高橋家を継いで以来、紹運が精魂を込めて防備を整えてきた堅城が、どうして一夜のうちに陥落したのか。何者がそれを為したのか。
 諸人の注目がその一点に集まったのは当然のこと。そして鑑速はその答えを携えていた。


 宝満城を陥とした人物の名は高橋鑑種(あきたね)。


 その名を聞き、宗麟は顔を蒼白にし、道雪の顔には苦渋が滲む。
 それは先年、立花鑑載(あきとし)と共に筑前で反乱を起こした高橋家の元当主の名であった。
 自害した立花鑑載と異なり、高橋鑑種はその死が確認されていなかった。主家に謀反を起こした者である。本来ならば徹底的な追及が行われるべきであったが、宗麟は一応は筑前周辺に探索の手を延ばしたものの、かなり早い段階でその手を止め、鑑種はいずこかで自害したものと判断を下していた。
 この決定には宗麟自身の苦衷が少なからず関わっている。鑑種は二階崩れの変において死亡した一万田鑑相の実弟であり、宗麟が長いあいだ信頼してきた重臣でもあった。宗麟としては、鑑種を狩り立てるようなまねは避けたかったのである。


 その鑑種が再び挙兵した。
 鑑種にとって筑前はかつての領国、宝満城はかつての我が城である。これを陥落させるに、鑑種以上の適任者はいない。あるいは鑑種のみが知る抜け道があったのかもしれぬ。
 ともあれ、宝満城が陥落したことで、岩屋城の紹運は孤立した。立花山城が毛利軍に囲まれた今、これを救援できる軍は筑前には存在しない。豊後の吉岡長増は道雪がムジカに赴くおり、毛利が筑前に入ればみずから筑前の後詰をすると口にしたが、今それをするためには、北方で虎視眈々と豊後をねらっている小早川隆景を何とかしなければならない。
 だが、隆景率いる毛利水軍は精強であり、大友水軍は先年に痛い目を見たばかりである。早期にこれを退けることは至難の業であった。


 このままでは遠からず大友家は筑前を失うことにある。しかも失われるのは領土ばかりではない。土地や城であれば後から取り戻すことも出来るが、将や兵はそうはいかないのだ。高橋紹運、戸次誾、小野鎮幸、由布惟信らをはじめとした忠臣、勇将、さらにはその配下の兵たちを一時に失えば、その痛手は筑前を失うことの比ではない。大友家にとって文字通りの意味で致命傷になりうる大損害である。何としても彼らを救い出さねばならなかった。


 だが、彼らを救い出そうにも、宗麟と道雪はムジカから動けず、三老も豊後で身動きがとれない。現在の配置では大友軍は進退きわまってしまう。
 臼杵鑑速がムジカにやってきたのは、この状況を動かすためであった。鑑速は三老の中では外交をつかさどる立場であるが、軍事に関しても十分な手腕と実績がある。鑑速がムジカに入って島津軍と相対し、宗麟と道雪には早急に府内に戻って大友全軍の指揮を執ってもらう、というのが三老が出した結論だった。




 ――鑑速本人の口からそう言われた道雪は納得と共に、少しばかりの違和感を覚えた。
 鑑速の手腕に疑問を持っているわけではないが、島津軍と対峙するのであれば、それこそ三老の中で軍事を受け持ってきた吉弘鑑理の方が適任であろう。あるいはすでに鑑理は小早川隆景と戦闘を開始しているのであろうか。
 その道雪の疑念に、鑑速ははじめに頷き、続いて小さくかぶりを振った。その奇妙な仕草の理由を鑑速は自身の口で説明する。
「今回の任、鑑理どのの方が適任である、というのは私も同意見です。実際、当初ここに来るのは鑑理どのの予定だったのですよ。それが急遽、私に変更になったのです。ただし、その理由は鑑理どのが毛利水軍との戦に出たからではございません」


 その理由は、これからムジカで必要とされるのは鑑速の本領である外交の力である、と三老がそろって判断を変更したからであった。
 では、どうして鑑理がムジカに赴く直前になって状況が変化したのだろうか。
 そのことについて鑑速が説明をしようと口を開きかけたちょうどそのとき、今度は島津軍と対峙する前線からひとつの報告がもたらされた。
 島津の軍中を通り抜けて、大友家の杏葉紋を掲げた一行が川を越えてきた、という報告であった。





◆◆◆





 招き入れられた部屋で道雪どのの顔を見た瞬間、懐かしさを覚えた俺は少なからず戸惑った。だが、考えてみると道雪どのと最後に顔をあわせたのは、道雪どのが立花家の当主として筑前に赴いたとき――つまりは俺が誾の配下として高千穂に赴く以前のことである。あれからはや数月。懐かしい、というのは大げさかもしれないが、久しぶりだと感じるのはさしておかしいことではないだろう。
 そして、道雪どのも案外、俺と似たような心持なのかもしれない。丁寧に挨拶を交わしてからその顔を見れば、柔らかい微笑の中に戸惑いの色がかすかに感じられた。


 ――いや、あるいは道雪どのの戸惑いは、この場にいる四人目に向けられているのかもしれない。俺と吉継、長恵のことは当然道雪どのも知っているが、頭を下げたままの四人目については道雪どのは知らなかったし、俺たちも伝えていなかったからだ。
 だが、すぐになにがしかの理由があると察してくれたのだろう。道雪どのの表情からためらいが排される。その口から真っ先に出たのは、俺たちの無事を喜ぶ言葉であった。
「薩摩でのこと、長恵どのよりおおよそはうかがっています。筑前どのと吉継どのにこうして再びお会いできたこと、この道雪、心より嬉しく思いますよ」
 久方ぶりに聞く澄んだ声音に促されるように、俺と吉継は同時に頭を下げた。
 本来ならばこちらからも再会を祝う言葉の一つや二つ、発してしかるべきなのだが、俺にしても、吉継にしても、とてものことそんな気にはなれなかった。
 むろん、道雪どのに含むところがあるわけではない。道雪どのはそんな俺たちの表情を見て、すぐに理由を悟ったようであった。自然、その視線はいまだに顔を伏せたままの四人目――黒髪の少女に向けられる。


「筑前どの?」
 道雪どのの問う視線を受け、俺はなんと言うべきか、一瞬判断に迷った。少女――志賀親次についてはルイスを介してバルトロメウの船員たちから事情は聞きだした。意識を取り戻したトリスタンからも、少しではあるが話を聞いた。
 それらを総合すれば、遣欧使節の一人としてゴアに派遣された少女の身に何が起こったのか、推測することは容易なことだった。そして親次自身の口から、その推測が大筋において間違いではないことは確認している――念のために言い添えておくが、直接に面と向かって確認をとったわけではない。あくまで遠まわしに色々と訊いた結果、まず間違いないと確信しただけである。


 それらをここで口にするのは簡単だ。だが、それはさすがにはばかられた。とはいえ、それを口にしなければ話は進まない。
 困じ果てた俺は親次の名を呼び、顔をあげるように言った。
 応じて、おずおずと親次が頭をあげ、ためらいがちな視線を道雪どのに向ける。相手が余人であれば、親次はもっと淡々と応じたであろう。この少女がはっきりと内心の戸惑い、ためらいをあらわすのは、決まって宗麟さまや道雪どののことに話が及んだときだけであった。


 道雪どのは俺が口にした名を聞いたとき、わずかに驚きを示した。聞き覚えがある名だったからだろう。
 とはいえ、その顔には、まさか、という思いがはっきりと浮かび上がっていた。しかし、それも親次の顔を見た瞬間、陽光を浴びた氷のように瞬く間に解け去った。氷の下からあらわれたのは、純粋な喜びの表情。
 それを見て、俺はわずかに顔を伏せる。その喜びが、すぐにも悲嘆の色に塗れてしまうことがわかっていたからである。
「親次……やはり親次ですか。驚きました、あなたがどうして筑前どのと――」
 と、道雪どのはここで不意に口を閉ざす。親次の表情に、看過しがたい何かを感じ取ったのだろう。
 次に俺に向けられた道雪どのの視線を受け、俺は背筋が震えるのをおさえることができなかった。ためらうこともならず、ごまかすこともできず。俺は、ただ知りえたことを伝えることしかできなかった。直截的な表現は避けたが、それでも道雪どのには十分に通じるであろう……





 ――話を聞き終えた道雪どのの顔を、俺はしばらく正視することができなかった。それは吉継も、長恵も、それどころか親次さえも同様であるようで、誰に言われたわけでもないのに、頭を深々と下げている。
 室内に重い沈黙がわだかまる。その沈黙を破ったのは、親次に呼びかける道雪どのの声だった。
「親次、こちらに来てくれますか?」
 はい、と応じる声は蚊のなくように小さなものだった。
 おずおずと距離を詰める親次に対し、道雪どのは自身のすぐ前を指し示す。そして、親次がその場に至ったとき、道雪どのはためらう様子もなく、親次の身体を抱き寄せた。
「……あ」
 親次の口から、驚きとも安堵ともとれない声がこぼれおちる。
 道雪どのは親次への慰めや南蛮人への恨み、あるいは自身の悔いなどを口にすることなく、ただただ優しく親次を抱きしめ続けた。道雪どのの胸に顔をうずめている親次の表情はわからない。ただ、拒否するような声や仕草がなかったことだけは確かだった。


 それ以上視線を向けることは礼を失しているような気がしたので、俺はやや慌てて視線をそらした。というより、俺たちはこの場にいていいものなのか。
 吉継たちに視線を向けると、二人もほぼ同時に俺の方を見ていた。無言で見つめあった俺たちは、ここは部外者は席をはずす場面であろう、と互いの見解の一致を見て、こっそりと立ち去るべく腰を浮かしかける。
 だが、結果から言えばこの気遣いは無用のものにおわった。
 親次が道雪どのの胸の中で静かに寝息を発し始めたからだ。その顔は母に抱かれた幼子のように、深い安堵に包まれているように思われた。






 侍女に命じて親次を別室に寝かしつけた後、道雪どのは俺たちを前に深々と頭を下げた。
「こたびの南蛮のこと、親次のこと。先ごろまでのことを含めれば、筑前どのには下げる頭が幾つあっても足りそうにありませんね……本当に、なんとお礼を申し上げたら良いのか」
「それがしがやりたくてやっていることです。道雪さまが頭を下げる必要はございませぬ。それよりも親次どののこと、あらかじめお伝えせずにいて申し訳なく思っております」
「書状で伝えることではない、と考えられたのでしょう? たしかに驚きはしましたが、筑前どのの判断は決して間違ってはいませんよ」
 そういうと、道雪どのはわずかに顔を伏せ、ささやくように言った。
「――いつも笑顔の絶えない、明るい子でした。宗麟さまやわたくし、それに菊にとっては妹のようなもので、南蛮に赴くと口にしたときには止めるべきか否か、真剣に悩んだものです」
 あのとき止めていれば、との思いが胸中にないはずはない。だが、道雪どのは俺たちを前に後悔を吐露したりはしなかった。現在の情勢を考えれば、過去を悔いている時間などない。そのことを、道雪どのは誰よりも承知しているのだろう。
 そして、それを承知しながら、それでもその口からこぼれでてしまった今のささやきに込められた想い。それを理解できない者はこの場にはいなかった。




 ――室内におりた沈黙の帳を破ったのは俺だった。いつまでも物思いに沈んでいるわけにはいかない。やらねばならないことは山積しているのだ。
「――ともあれ、まずは今後のことを考えなければなりません。筑前の様子は今どうなっているのでしょうか?」
 俺は気を取り直し、道雪どのに問いかけた。焦眉の急は島津軍との戦を終わらせることであるが、そのためにも現在の大友家を取り巻く情勢を正確に把握しておかねばならない。特に現在の豊後以北のことについて、俺はまったくといっていいほど知らずにいる。道雪どのであれば、そのあたりのことは知っているだろうと考えたのだ。


 だが、道雪どのはそんな俺を見て、どこか困ったような表情を見せた。
 不思議に思って目を瞬かせていると、道雪どのは表情を変えないままに、いつかどこかで聞いた覚えのある台詞を口にした。
「『九国の戦乱を鎮めるために越えるべき坂は、多分あと一つだ』――と口にされていたそうですが」
 俺はぽんと手を叩く。聞き覚えがあったのも当然のこと。それは長恵が日向に発つ前に、俺自身が口にした台詞だった。
 ついでに、俺は道雪どのが多分気にしているであろうことを察し、その口上を途中でさえぎった。
「共に越えてくださるおつもりですか――などと訊かないでくださいよ? それがしの考えは、府内ですでにお伝えしたはずです」
「……そう、でしたね。ひとたびその手にすがっておきながら、ここで迷いを見せても仕方ありません。筑前どの、いま少し、その力をお貸しください。この恩義、すべてが終わった後、わたくしのすべてでお返しいたしますゆえ」
「報いを望んでのことではありませんし、それにそのお言葉だけで十分すぎるほどですよ。道雪さまにそこまで頼りにされたのならば、張り切らざるをえません」
 深い感謝の念を示す道雪どのに対し、俺はあえて軽く応じてみせた。時間がもったいなかった――というのは建前で、単純に照れくさかったのである。




 だが、豊後以北の戦況を知り、そんな感情はたちまち霧散する。
「毛利軍だけで四万五千、これに竜造寺軍二万が加わり、筑前を東西から挟撃。しかも宝満城はすでに陥落……ですか」
 ひどい戦況になっているだろうことはわかっていた。わかっていたが、これは正直、俺の最悪の予測さえ越えていた。この戦況では、おそらく筑前のほぼすべてが敵にまわっているにちがいない。否、筑前のみならず、豊前や筑後でも反大友勢力は次々に蜂起していることだろう。立花山城や岩屋城がそう簡単に陥ちるとは思えないが、しかしこれは――
「どう少なく見積もっても、敵の総数が八万以下ということはないですね……」
 毛利と竜造寺だけで六万五千。これに秋月や原田、筑紫らの筑前国人衆らを加えれば、八万という予測でさえ楽観の謗りを免れない。まず間違いなく九万、下手をすると――
「十万を越えているでしょう。もっとも、毛利は小早川隆景の一軍を豊前に残し、府内をうかがっていますので、実際に筑前に進んだ兵はおそらく三万から三万五千というところかと思いますが」
「それを計算にいれても、軽く九万は越えますか。これは……」
 まずい、という一言はかろうじて呑み込んだ。だが、この場にいる人たちにはあっさりと見抜かれたことだろう。


 立花山城の誾や鎮幸、惟信らも心配だが、もっとも案じられるのは岩屋城の紹運どのだ。ただでさえ高橋家を継いで間もないというのに、いきなり要である宝満城を陥とされてしまった。しかもその相手が元当主である高橋鑑種だというなら、家臣や領民にも動揺が生まれているだろう。岩屋城の兵力がどれほどかはわからないが、あそこは堅城ではあっても、あくまで出城に過ぎない。おそらく紹運どのの手元にある兵は千か、多くても二千程度ではあるまいか。
 その状況で竜造寺の大軍に四方を囲まれているとなれば、戦況は深刻であるといわざるをえない。紹運どのは知勇兼備の人物だが、竜造寺軍にはその紹運どのに匹敵しうる者たちが存在するのだ。




 と、俺はここで先走る思考をかろうじて押さえ込んだ。
 筑前の戦況を打開する前に、まずはムジカのことを考えなければならない。
 ただ、幸いにもこちらの状況は俺の予測よりも大分マシであった。なによりの朗報は、すでに宗麟さまがムジカの放棄について了承していることだ。他に手段がないゆえの消極的同意、というあたりが正確らしいが、それでも宗麟さまがあくまでムジカに拘るだろうと考えていた俺の予測はものの見事に外れたことになる。


 むろん、宗麟さまがムジカの放棄を了承したから万事が解決する、というわけではない。ムジカからの撤退が容易でないのは当然であるし、仮に首尾よく撤退できたとしても、島津が矛を下ろすわけではない。
『島津はゆえなく他国の使者を幽閉するような信義のない家ではありません。戻るというのならば、あなたがもたらした多くの成果に感謝をしつつ、快く送り出しましょう。ただし、いうまでもないとは思いますが、それは大友家との交誼を約束するものではありません』
 とは、別れる際の歳久の言葉である。表情はどこか皮肉っぽかったが、おそらく歳久としてはせめてもの忠告のつもりだったのだろう。
 ムジカを放棄する代わりに和議を、と大友家が申し出たとしても、歳久は冷笑と共に拒絶するに違いない。なぜといって、現在の戦況をかんがみれば、別に譲られるまでもなく島津軍はムジカを陥としうるからだ。現状で、大友家が島津家と和議を結ぶためには相当の譲歩を――それこそ降伏に等しいレベルの譲歩を示さなければならないだろう。




 筑前のこと、日向のこと、豊後のこと。四方の戦況を打開するためには一刻も早く動かねばならないことはわかっている。だが、どこから手をつけていいものやらまるでわからない。
『たとえすべての情報を得られたとしても、成算を見出すことができないのではないか』――油津で脳裏をよぎった予感が、現実の重みをともなって胸にのしかかってくる。
 諦めるつもりは毛頭ないが、この重みをはねのけることは難しいかもしれない。
 俺がそんなことを考えたときだった。


「も、申し上げます」
 あわただしい声が室内に響き渡る。室外から声をかけてきたのは侍女のひとりであると思われるが、その声にははっきりと驚きが感じられた。
「道雪さま、臼杵さまがお見えなのですが、こちらにお通ししてもよろしいでしょうか?」
「鑑速どのが? 先刻、聖堂で顔を合わせたばかりだというのに」
「なんでも、急ぎ道雪さまと、それに雲居どのに引き合わせたい方がおられるとのことですが……」


 その声に、俺と道雪どのは思わず顔を見合わせる。
 聞けば、いましがた聞いた筑前での戦況をムジカにもたらしたのが臼杵鑑速である、とのことだった。豊後三老のひとり、臼杵鑑速のことはもちろん俺も知っている。その鑑速の話の途中で俺が戻ってきたため、宗麟さまが鑑速の報告を聞き、道雪どのは中途で席を立ってこちらに来てくれたらしい。
 おそらく鑑速としては、宗麟さまはもちろん、道雪どのにも直接伝えておきたい重大事があったのだろう。宗麟さまへの説明を終えた足で道雪どのの下へとやってきた――ここまでは俺にもわかる。
 だが、なぜそこで俺の名前が鑑速の口から出るのか、それがわからなかった。


「ともあれ、お待たせするわけにもいかないでしょう。いそぎお通ししてください」
「かしこまりました」
 侍女の足音が出口の方に向かって遠ざかっていくのを聞きながら、俺は首をかしげる。
「道雪さまはともかく、それがしにも引き合わせたい方、というのはどなたでしょう?」
「さて、それはわたくしにもわかりかねます。先刻お会いしたときには、そういったことは特に口にしておられなかったのですが」
 道雪どのも不思議そうだった。
 まあ、その人物が誰であれ、いやでもすぐに会えるのだから、今考え込んでも仕方ない。俺はこの部屋に通されたときに出されて以来、手をつけていなかった茶碗に手を伸ばし、ぬるくなってしまった茶をゆっくりと口に含んだ。


 その俺の姿に触発されたのか、道雪どのも、それに吉継と長恵の手も一斉にそれぞれの茶碗に伸びる。ぬるくなった茶で乾いた喉を潤していた俺たちの耳に、ほどなくして足音が聞こえてきた。
 そして侍女に案内され、二人の人物が室内に足を踏み入れてくる。
 ひとりは痩身の男性で、これは大友家重臣臼杵鑑速であった。同じ大友家の家臣とはいえ、俺と鑑速では身分が違うし、三老のひとりである吉弘鑑理のように戦場を共にしたこともない。府内で二、三度言葉を交わした程度の間柄であったが、もちろんその顔は覚えていた。


 問題は、その鑑速に続いて室内に入ってきた、もうひとりの人物である。その人物は長い黒髪に楚々とした風情を併せ持った女性だった。しかも、ただ顔かたちが美しいというにとどまらず、穏やかな眼差し、たおやかな物腰の下には、名刀のごとく硬くしなやかな芯が確かに感じられる。
 一目みれば、誰もがただものではないと感じ取れるような佳人が室内に足を踏み入れるや、道雪どのは目に賛嘆の色を閃かせ、吉継は思わずという感じで嘆声をこぼした。




 ――だが。
 そういった感嘆とは似ても似つかない反応を示した者がいた。それも二人も。いうまでもなく俺と長恵である。
「ぐ、がはッ! げほ、ごほッ?!」
 わずかに口に残っていた茶をあやうく吹き出しそうになった俺は、げふんげふんと激しく咳き込み。
「な、なな、な、なあッ?!」
 それまで泰然としていた長恵は、人がかわったようにはっきりと狼狽を示し、ひたすら「な」を繰り返している。


 そんな俺たち二人の突然の奇行を見て、道雪どのは目を丸くし、吉継は目を瞬かせた。鑑速もまた明らかに戸惑った表情を見せている。
 ただひとり、当の女性だけは微塵も動じた様子を見せず、しごく落ち着いた眼差しで俺たちに視線を向けていた。
 その女性に向け、俺と長恵の口から同時に呼びかけがなされる。



「ひ、ひ、秀綱どの?! な、なんでここにッ?!」
「お、おお、お師様?! な、なんでここにッ?!」



 期せずして重なりあう二つの驚愕の声。
 すると。
 まるでその呼びかけがなされるのを待っていたかのように、女性――秀綱はその場でかしこまると、室内にいる者たちに向けて――より正確にいえば道雪どのと吉継に向けて口を開いた。


「立花さま、ならびに大谷どのにはお初にお目にかかります。越後守護上杉謙信が臣、上泉秀綱と申します」


 そういって秀綱が頭を垂れると、その動きにあわせて艶のある黒髪がさらりと揺れた。なんというか、元々綺麗な人ではあったが、なんか輪をかけて綺麗になっていらっしゃる。言動の端々から伝わる凛とした雰囲気は以前にもまして澄み渡り、ただそこにいるだけで他者を教化してしまいそうなほどだ。一分のすきもない振る舞いも見事なもので、その挙措には気品さえ漂っていた。
 そんな秀綱を前に狼狽しきりの俺と長恵は、周囲の目にはさぞ滑稽に映っているに違いない。それはわかっていた。わかっていたが、だからといってすぐに平静を取り戻せるものでもない。
 というか、時間が経つごとに狼狽は増すばかりだった。どうして秀綱がここにいるのか。その意味を考えれば、落ち着いてなどいられない。


 秀綱の名乗りを聞いた吉継は小さく息をのみ、道雪どのは目に思慮深げな光を浮かべ、秀綱の姿に視線を注いでいる。
 沈黙の帳が下りた室内で、ただひとり詳しい事情を知らない鑑速が、戸惑ったように首をかしげていた。




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 幕間
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:7a1194b1
Date: 2012/02/21 20:13

 山城国 三条西家


 松永久秀に招かれ、その邸宅に赴いた日の夜。
 三条西家に戻った謙信と政景は、縁側で月を見上げつつ杯を交わしていた。
 正確には、一人で月を見上げていた謙信のもとに、政景が徳利と酒盃二つを持参して姿を見せたのである。
 いまだ洛中には春の息吹は感じられず、夜風は凍えるほどに冷たかったが、越後の冬に慣れた二人はさして気にとめなかった。


 しばしの間、無言で杯をあおっていた政景が、不意に口を開く。
 そこから発される内容が、昼間、松永久秀から聞かされた九国の情勢に関わるものであることは、謙信ならずとも察しがついただろう。
 事実、政景が口にしたのは九国の動乱を端的に示す言葉だった。
「ムジカ、か。九国には九国の事情があるんでしょうけど、正直なところ、大友の当主は血迷っているとしか思えないわね」
 どう聞いたところで好意的とは言いがたい政景の声であり、表情だった。
 それを聞き、謙信はかすかに首を傾げたように見えたが、言葉にしては何もいわなかった。政景に賛同するでもなく、かといって大友家を庇うようなこともない。批判であれ、擁護であれ、かの地の事情を人伝でしか知らぬ身では憚られる、と考えているのかもしれない。


 縁側で腰を下ろす二人の頭上では月が冴え冴えとした光を放ち、冷たい夜気に包まれた三条西邸を照らし出している。
「ね、謙信」
 つかの間の沈黙の後、謙信の名を呼んだ政景は、率直に内心の疑問を口にした。
「弾正が言ってた『雲居筑前』とかいうやつ、颯馬のことだと思う?」
 その問いかけは、直前の政景の台詞を考えれば唐突の観が拭えなかっただろう。
 だが、謙信は特に驚いた様子もなく、はっきりとした声音で返答する。
「少なくとも、弾正どのがそうだと確信しているのは間違いありますまい」
「ま、あそこまで手間暇かけてあたしたちを呼び出した以上、そうでしょうね。確かに大友家の豊前や筑前での戦ぶりを聞いたかぎりじゃ、颯馬のやつがやりそうな策ではあるわ」
「はい。あるいは雲居筑前なる者の行動は、上杉家の密かな指図によるものではないか、と弾正どのは疑ったのかも知れません」
「だから、こっちの反応を見るために呼び出したってわけ? ないとは言わないけど、京より遠方、しかも海を越えた土地に重臣を送り込む家がどこにあるっていうのかしら。兵法に『遠きと交わり近きを攻める』ってのはあるけど、さすがに豊後は遠すぎるでしょ」


 それとも、そんな突拍子もない疑いを抱かざるを得ないような策謀を、あの松永久秀は胸奥に秘めているのだろうか。そして、それを察した上杉家が重臣を九国に派遣した、と疑ったのか。
 政景はそんな風にも考えたが、それこそ突拍子もない話だ、と苦笑する。
 ――だから、政景はこの時、胸裏をよぎったその考えを捨てた。




「で、弾正の考えはともかく、あんたはどう思ってるわけ?」
「雲居なる人物が颯馬か否かについて、ですか?」
 政景は頷いたが、何故かすぐに苦笑を浮かべた。
「ま、今のあんたを見れば、聞くまでもないような気がするけどね。ずいぶんと嬉しそうだもの」
 それを聞き、謙信は驚いたように目を瞬かせる。どうやら自覚はなかったらしい。
「そんなことはない、と思うのですが」
「いやいや、弾正の話を聞いてからこっち、あからさまに嬉しそうな顔してるじゃないの」


 む、と頬に手をあててしかめっ面をする謙信を見て、政景は肩をすくめた。
 嬉しそうな顔、と形容したが、もちろん謙信が笑み崩れているわけではない。それどころか、謙信と馴染みの薄い者――たとえば三条西家の人間などが見れば、昨日までの謙信と何一つ変わるところがないように見えたであろう。
 だが、さすがに数年来の付き合いである政景から見れば、謙信の表情の変化は明らかだった。


 政景の説明を聞いた謙信は、むむ、と考え込む。やっぱり自覚はなかったようだ。
 だが、すぐに内心の懊悩に決着をつけたようで、謙信は、こほん、と咳払いしてから政景に向き直った。
「冷静に考えれば、今の段階ではまだ情報が少なく、判断を下すには時期尚早というべきでしょう。雲居なる人物についても、九国の情勢についても、私たちが知るのは弾正どのが口にしたことだけなのですから」
「確かに、あの松永久秀が何の企みもなく、あたしたちに事実だけを告げるとも思えないわね」
 政景は腕を組んで考え込む。


 むろん、政景も久秀の言葉を鵜呑みにしたわけではない。
 だが、久秀があそこまで手間暇かけて政景たちを呼び出した挙句、偽りの情報を口にする理由があるとも思えないのだ。あるいは、そう思わせることも久秀の思惑のうちなのかもしれないが、しかしそうやって政景らの考えを誘導したところで、久秀に何の得があるというのか。
 なにしろ――繰り返すが――越後と豊後はあまりに離れすぎている。兵を送ることはもちろん、米だの金だのといった物資を送るのも容易ではない。使者の往来さえ何ヶ月かかるか知れたものではなく、これまで上杉家と大友家の間には何の交誼もなかった。そんな両国に対し、あの松永弾正が謀略を企むとは考えにくいのだ。
 だとすると、あの才人が昼間口にしていた諸々は、偽りではなく確かな事実だということになる。


 ――と、そんなことを考えていると、不思議なくらい穏やかな謙信の声が、政景の耳朶を震わせた。
「ただ」
「ん?」
 怪訝そうにそちらを見やると、謙信は月を見上げていた。何かを懐かしむように、両の目を細めながら。
「正直に私の望みを口にするなら、颯馬であってほしい、と思っています。もっと言えば――」
「ふむ?」
「颯馬のことだ、と確信している自分がいますね。ここに」


 そういって、謙信は政景の方を見やり、微笑んで胸に手をあてる。
 月明かりを浴びて、冬の夜気に浮かび上がるその姿は、まるで一幅の絵のようで――政景は一瞬、不覚にもその姿に見惚れてしまった。
「……政景どの?」
 怪訝そうな謙信の声に、政景ははっと我に返る。
「なな、なによ、謙信?」
「いえ、心ここにあらず、という態でしたので。どうかされましたか?」
「……う、いや、別にあんたに見惚れてたわけじゃないっていうか、そもそもなんで女が女に見惚れなきゃいけないのよまったくッ」
「は、はあ?」
 わけがわからず、目を瞬かせる謙信。
 そんな謙信の姿を見て、政景はようやく少しだけ落ち着きを取り戻した。



 政景はやや口調を早めて謙信に問いを向ける。
「ところで謙信」
「はい、なんでしょう?」
「あんたの直感を信じて、雲居って奴が実は颯馬だった、と仮定して話すわね。弾正の話が事実だとすれば、颯馬のやつはもう半年以上も九国にいるわけよね」
「そうなりますね。戸次――いえ、今は立花道雪どのでしたか。その御仁の傍近くで姿が見られるようになったのが、昨夏に起こった豊前の乱の前後ということですから、かれこれ半年以上ということになりましょう」
「連絡の一つもせずに何をやっているんだ、とか思わないわけ、あんた?」


 政景の指摘に、謙信は目をぱちくりとさせる。
「は、あの、それはどういう?」
「いや、『は?』じゃなくてさ」
 不思議そうにこちらを見やる謙信を見て、政景は頭を抱えたくなった。
 自家に仕える重臣であり、一人の女性としても憎からず思っている相手(と政景は思っている)が行方知れずとなり、およそ二年半の後、遠く離れた九国から消息が伝わってくる。しかも当人からの報せではなく、伝聞という形で。


 ……普通、この事実を前にしたら、色々と思うことはあるのではなかろーか、と政景は思うのだ。
 しかも、件の雲居は先ごろ正式に大友家に仕えたという。
 これはさすがに口には出さなかったが、雲居と天城が同一人物だとすれば、この振る舞いは、謙信――上杉家から見れば、裏切り同然である。
 むろん、すべては雲居なる人物が天城颯馬であると仮定しての話であるし、さらに言えば、仮に天城本人だとしても、そうせざるを得ないだけの理由があったのだろうとは思う。
 天城がゆえなく上杉を離れるはずがない。そう確信する程度には、政景も天城を信頼していた。そのために色々と骨を折ったりもしたわけだし。天城が去る前も、去った後も。


 しかし、いたしかたない理由があるならあるで、越後にも一言あってしかるべし、というのが政景の腹立ちの原因だった。
 もし天城本人が目の前にいるのなら、ずんばらりんは勘弁してやるとしても、丸々一昼夜は詰問してやるところだ。
 当然、それは謙信も同様であろう、と政景は勝手に思っていた。だからこそ、こうして酒を持参してやってきたのだが、謙信を見るかぎり、とても腹立ちをおさえているようには見えず、政景としては拍子抜けもいいところだった。


 また、雲居筑前なる人物の件はさておくとしても、九国の動乱や南蛮神教、さらにムジカのことなど、松永久秀が語ったことはどれ一つとして吉報にはなり得ないものばかり。
 いかに遠国の事とはいえ、それらが事実であれば上杉家としても座視できるものではない。兵を送ることはできなくても、密偵の一人二人は派遣しておかねばならないだろうし、あるいはそれ以上の行動も必要か、と政景は考えていた。そのあたりも含めて、今の謙信の姿には色々と肩透かしの観を拭えない政景であった。




 そんな政景の思いが伝わったのだろうか。
 謙信は表情を改めて政景に向き直り、推測になりますが、と前置きしてから話し始める。
「颯馬は連絡をしなかったのではなく、出来なかっただけでしょう。九国から越後までの距離を考えれば、ただ使いを出すだけでもかなりの金子を必要とします。道中の費用、使者への報酬を考えればどれほどの額になるか。単身、すぐに用立てることが出来るものではありますまい」
 それを聞き、政景はむむっとうなった。政景や謙信であれば、信頼できる配下に使いを任せることが出来るし、相応の費用は府庫から引き出すことが出来る。
 だが、それを個人でまかなうとなれば、確かに謙信が言うとおり簡単にはいかないだろう。言われてみればその通りだった。


 守護代としては様々な意味で規格外の政景だが、大家の跡継ぎとして家臣たちに傅かれて育った身であるのは事実。ふとした拍子に世間知らずな面が顔を出すことがあった。
 その点、幼少時に城を出された謙信は、政景よりは世間を知る。
 さらに謙信は続けた。
「仮に金銭を用立てることが出来たとしても、この戦乱の世、隣国に行くことさえ容易ではありません。まして豊後から越後までの道のりを考えれば、使いをする者にも相応の才覚が必要になりましょう。それだけの使いに堪える人物がそのあたりを歩いているはずもなし、仮に心当たりがあったとしても、その者が道中で危難に巻き込まれる可能性は低くありません」


 それは豊後と越後の距離を考えた上での言葉だったが、それ以前にそもそも使者が豊後から出ることも容易ではない、と謙信は考える。
 大友家が内にも外にも多くの敵を抱えていることは、近年頻発している事変からも明らかである。
 であれば、敵対する者たちの見張りの目は、重臣である立花道雪の周りにも配されていると考えるべきであろう。そんな状況で、その客となっている者が、遠く越後と連絡をとろうとしたことが判明してしまえば、好んで敵対勢力に攻撃の口実を与えるようなものだ。
 ましてや、万が一にも天城颯馬の存在に勘付かれてしまえば、道雪は他国の重臣を自家に囲い、これを主君にも秘していたことになる。天城が本当に越後の重臣であるか否かを確かめることは困難だが、その疑いがある、という一事だけでも道雪を排斥する一つの理由となりえるのである。


 そういったことを含め、謙信は言葉を続けた。
「颯馬が九国にいるという情報は、使いようによっては刃に変じる情報です。これを安易に他者の手に委ねることは出来なかったのでしょう」
「ふーむ、そう言われてみれば確かに……あ、いや、でも大友家に仕えた後なら、そのあたりはどうとでもなるんじゃない?」
「確かに、費用や人の問題はなんとかなるかもしれませんが……」
 謙信はおとがいに手をあてる。
「弾正どのの言によれば、颯馬ははじめ立花道雪どのの下にいたとのことでした。大友家の当主殿の為人や、ここ数年の大友家の混乱、さらに先ごろ起きたという三度の謀反における立花どのの奮闘ぶりを聞けば、重臣である立花どのが主家を支えるために身命を賭しておられるのは明らかです」
 であれば、と謙信は小さく微笑んだ。
「颯馬が何を思って彼の地に留まったのかもおおよそ察せられましょう。立花どのの下を離れ、大友家に仕えたというのなら、そうせざるを得ないだけの理由があったのでしょうし、それほど切羽詰った状況にあったのなら、信頼できる人物は一人でも多く欲しかったはずです。ただの一人であっても、越後に差し向けるような余裕はなかったのではないでしょうか」


 それを聞いた政景は、どこか呆れたように謙信の顔を眺めやった。徳利を手に取り、空になった酒盃を満たしながら口を開く。
「なんていうか、甲斐の妹様のこともそうだけどさ、あんた、颯馬にはやたら甘いわよね」
 それを聞き、謙信は目を瞬かせる。
「甘い、でしょうか?」
「ええ、甘いわ。だだあまよ」
 ふつう、行方不明の重臣が他国で見つかったら、もうちょっと疑うとか怒るとかするだろうに、と政景はぶつぶつとつぶやいた。これでは色々と考えていたこっちがばかみたいではないか、と。


 しかしまあ、と政景はすぐに気を取り直した。
 謙信の天城への甘さが、信頼ゆえなのか、情愛ゆえなのか、あるいはその両方なのかは知らないが、そのいずれにせよ、主君が臣下を疑わないのはいいことだ。政景はそう考えることにした。というか、そうでも考えなければやってられなかった。あついあつい、とわざとらしく右手で顔をあおいだのは、ただのあてつけである。




 ただ、そんな政景の内心の動きに、謙信は今ひとつピンと来ないようであった。それでも謙信は律儀に答えをかえす。
「時を重ね、処は移り、多くのものが変わりゆく中で、変わらぬものもあると知った。嬉しく思いこそすれ、疑い、怒る理由はありますまい」
 久秀から伝え聞いた雲居筑前の行動、その根底にあるものは、謙信が知る天城颯馬のものと等しいと映る。変わらぬもの――この戦乱の世を終わらせるという謙信の天道と半ば重なり、半ば離れる、あの想い。それを雲居筑前の行動に感じ取ったればこそ、謙信はかの人物が天城颯馬であると直感したのである。
 天城のそれは謙信ほどまっすぐなものではなかったが、それでも行き着く先が戦乱の終結であることは疑いない。たとえ隣にその姿がなかったとしても、共に戦乱の終結に向かって歩いているという事実は動かないのだ。
 そのことこそが何よりも尊く、何よりも嬉しい。ゆえに、疑い、怒る必要はどこにもないのだ――謙信はことさら力むでもなく、ごく自然な調子でそう言ったのである。 






◆◆






 政景はしばしの沈黙の後、ぼそりと呟いた。
「…………なんなのかしら、この盛大なのろけ話を聞かされた時にも似た、物憂い感じは?」
「どうかされましたか、政景どの?」
「おまけに当人が全然意識してないあたりが脱力感に拍車をかけるわね」
「は? あの、政景どの?」
「別になんでもないですよー」
 ひらひらと片手を振った政景は、謙信に悟られないように小さく肩をすくめた。
 正直なところ、指摘したいことや突っ込みたいことは山ほどあるのだが、なんかもう最後の台詞で気力を根こそぎ持っていかれてしまった観のある越後守護代どのであった。


 それに、と政景は思う。
「どの道、ここであたしたちがどれだけ話し合おうと、真相がわかるわけでもないしね。なら、今できることをするしかないか」
 それを聞いた謙信は、やや戸惑いながらではあったが、こくりと頷いた。
 そして、何事か考え込むように眉根を寄せる。
「こんなことなら、弥太郎と段蔵の二人にもついて来てもらうべきでしたか。いや、今からでも遅くはありません。二人を京に呼び寄せて――」


「ああ、待った待った。それはだめ」
 政景は両手を振って謙信の言葉をさえぎった。謙信は不思議そうな顔をする。
「何故でしょう? あの二人ならば誰よりも颯馬に近しいですし、人柄といい能力といい、九国に赴いてもらうには適任だと思いますが」
「九国に関しては、ね。でも、今あの二人を越後から呼び寄せたら、兼続が発狂するわ。ただでさえ色々と押し付けてきちゃったんだから」
「む……それは確かに」
 謙信は申し訳なさそうな顔をして、越後に残っている忠臣の顔を思い浮かべた。守護と守護代がそろって国を空けている今、越後のすべては筆頭家老である兼続の双肩にかかっており、弥太郎と段蔵はその兼続を補佐している。今ここで二人を呼び寄せてしまえば、いかな兼続といえども政務に支障をきたしてしまうだろう。


「しかし、二人の心情を考えると、黙っているわけにもいきますまい」
「まあそりゃそうだけど、でも雲居ってやつが颯馬だってはっきりしたわけじゃないでしょ。へたに知らせて、ぬか喜びだったりしたら最悪よ。弥太郎なんか萎れて寝込んじゃいそうだし、段蔵もなんだかんだでしばらく不機嫌になりそうね。二人に知らせるのはしっかりと確認がとれてからの方が良いわ。とはいえ、まさかあたしたちが九国に行くわけにもいかないから――」
 行けるものならば、という思いを滲ませながら、政景はおとがいに手をあてる。しかし、さすがにそれを思いとどまる分別くらいは持っていた。
 となれば、代わりの者を遣わさなければならない。天城と面識があり、九国までの道のりを踏破するだけの力量を持ち、さらに必要とあればかの地で天城を助けることが出来る器量の持ち主、と条件を挙げていけば、今、京にいる者たちの中でも該当者は限られてくる。


 政景はその人物の名を挙げ、結論を口にした。
「当面は颯馬のことは秀綱に任せて、あたしたちはさっさと用件を済ませて越後に戻りましょ。そのときまでに颯馬のことがわかればそれでよし。もしわからなかったとしても、あたしたちが戻ればあの二人が越後を離れても問題はなくなるわ。二人にはそのときにあらためて話すってことで」
 それを聞いた謙信は、ややためらった末にうなずいた。二人には申し訳ないと思ったが、たしかに政景の説明には理があったからだ。
 それに秀綱のことはあの二人もよく知っている。使者としても、護衛としても、現状でこれに優る適任はいないとわかってくれるだろう。


「んじゃ、あとは秀綱に伝えて、なるべく早めに――そうね、できれば明日、明後日あたりには発ってもらうことにしましょうか」
 久秀から聞いたかぎり、九国の情勢はかなり切迫している。発つならば、早いに越したことはない。そう考えたゆえの政景の発言であったが、これに対して謙信は小さくかぶりを振った。
「使いの件に関してはすぐにも説明した方がよろしいでしょう。秀綱どのの意見も聞いてみたいところです。ですが、発ってもらうのは少し後に。少々考えがあります」
「ふむ? まあ、九国までとなれば相応の準備は必要か。向こうも向こうで大変そうだし、こっちで援護できるところはしてあげたほうが良いかもね」
 そう言うと、政景は持っていた酒盃を空にし、勢いをつけて立ち上がった。
「ともあれ、剣聖どのを呼んでくるわ。さすがにいい加減冷えてきたし、続きは部屋の中でしましょう」
「はい、承知しました」





◆◆◆





 数日後。
 諸方を駆け回って準備を整え、ようやっと秀綱を送り出した政景は、傍らに立つ謙信に呆れ混じりに声をかけた。もっとも、政景は謙信に呆れているわけではなく(それも皆無ではなかったが)、その感情の大半は自分自身に向けられていた。
「しっかし、勝手にいなくなった家臣のために、守護と守護代がここまでしてやる家は日の本広しといえど上杉くらいでしょうね。颯馬が戻ってきたら、向こう十年くらいは俸禄無しでこき使ってやってもいいんじゃないかしら」
 半ば以上本気でそう言ってから、でも、と政景は悪戯っぽく微笑む。
「その頃にはさすがにもう謙信とくっついてるでしょうから、俸禄なんて関係ないかしらね」


 このとき、政景は謙信の照れた顔や慌てた素振りを期待していた。この件については色々と繊細な問題が絡むので、越後ではあまり口にすることができない。だが、京でなら構うまい、と政景は考えた。謙信の発案にそって、目の回るような忙しさを味わわされたのだから、多少からかうくらいは許されるだろうと思ったのだ。
 だが、謙信の反応は政景がまったく予想していないものであった。驚いたように目を丸くした後、苦笑まじりにかぶりを振ったのである。


「臣としてなら、颯馬は私と共に歩むことを肯ってくれましょう。ですが、私と番となることは承知しますまい」
「………………はい?」
 思わず、という感じで、政景の口から間の抜けた声がこぼれおちる。
 我に返るや、政景はやや呆然とした調子で隣に立つ年下の上役に問いかけた。
「謙信、何いってんの、あんた?」
「何といって……その、颯馬は主君として私を仰ぐことは承知しても、伴侶として選ぶことはない、と申し上げたのですが」
 謙信の表情はしごく真面目であり、冗談を言っているようには見えない。だからこそ、政景は混乱した。
 何故といって、政景は謙信と天城が「くっつく」ことを既定のこととして捉えていたからである。これは何も政景に限った話ではない。越後の重臣たち、ことに先の上洛での一件を知る者たちのほとんどは同じことを考えている。むろん、そのことに対して覚える感情は各々違っていたけれども。


 政景は自分の子が謙信の後を継いで次代の越後守護となることが定められているため、謙信の婚姻は必ずしも吉事とは言えない面があった。謙信に子供でも出来れば、後継問題がややこしくなってしまうからである。
 しかし、それはあくまで表向きのこと。謙信にも天城にも浅からぬ好意を持つ政景は、二人の仲を積極的に肯定していた。後継問題なんてものは、子供たちが元服し、その器量が明らかになってから考えればいいのだ。二人がくっつくことを邪魔する理由はない。むしろ色々な意味でさっさとくっついてほしいくらいのものであった。


 とはいえ、実際にそれを実現させるべく動くにはいささか問題があった。上杉謙信という大名の持つ特性が、伴侶という存在を否定するからである。
 生ける軍神、毘沙門天の化身、蒼き聖将。
 謙信に奉られる異名の数々は、謙信に人ならざる在り方を求める。処女性の維持は絶対条件というわけではないが、しかし、謙信が人並みに伴侶を持てば、将兵が謙信に寄せる信望のいくらかは損なわれてしまうだろう。
 誰もが謙信の為人を知って忠誠を誓っているわけではない。噂や、自身の想像の中でのみ謙信を知る者たちの中には、男と乳繰り合う者を軍神とは認めないという者もいるに違いない。


 
 ――まあ、政景にしてみれば、そんな連中は上杉家から離れてもらっても一向に構わないのだが、それでもそういった者たちに対する配慮も為政者としては必要になる。上洛以来、謙信や天城が表立ってはこれまでどおりに振舞っているのも、そういったことを視野にいれてのことだろう、と政景は勝手に考えていた。
 結局、そうこうしている間に天城は越後から姿を消してしまったのだが、この際、まことしやかに囁かれるようになった『天の御遣い』の話を大げさに広めた首謀者の一人は政景だったりする。
 これは別にいなくなった天城に対する嫌がらせではなく、天城を『天が上杉のために遣わした人物』と位置づけることにより、天城と謙信を同じ立場に立たせるためであった。ふつうならばただの戯言で終わる噂だが、天城がこれまでに為してきた所業や、突然の失踪といった事態は、こんな戯言にさえ真実味を与えた。
 上杉家のために遣わされた『天の御遣い』が、『軍神』と謳われる上杉家の当主と結ばれるとなれば、不平不満を抱く者はぐっと少なくなるはず――それが政景の思惑だったのである。


 これまでのところ、政景の思惑はきわめて順調に進んでいた。進んでいるように思われた。だが、あにはからんや、まさか根本の部分で事態が止まっていようとは。
「謙信、ちょっとこっち来なさい」
「は、はい? あの、政景どの、どちらへ?」
「ゆっくり落ち着いて話せるところへ、よ。今までは訊くまでもないと思って、あえて訊かずにいたけど、今日は上洛のときのことをじっくりたっぷりと話してもらうわ」
 ぐわし、と謙信の左手を掴んだ政景は、その外見からは想像もできない膂力で謙信を引きずって歩いていく。ずりずりと引きずられながら、謙信はわけもわからず首をかしげるばかりであった。
 







 そして、およそ一刻後。
 政景は三条西家の一室で、力尽きたように畳に突っ伏していた。
 やおらがばっと起き上がった政景は、内心の憤懣(?)を声にして解き放つ。
「――つまりなに、あんたら、一ヶ月近く同じ場所で暮らしておいて、臥所(ふしど)を共にしたのは最初の一日だけだったのッ?! しかもそれだって文字通りの意味で一緒に寝ただけで、その後はろくに手も握らなかったとか、いくらなんでもありえないでしょうがッ!!」
「ま、政景どの、そのようなことを大声で……」
「声も高くなるわッ! そらまあ、あんたらが始終いちゃいちゃしていたとは思ってなかったけど、さすがにこれは予想外だわよ!」


 ふーふーと息をきらし、肩を怒らせる政景。その常ならぬ語気に、謙信は気圧されたように肩を縮めた。実際のところ、政景の怒りはかなり見当違いのもので、謙信が恐縮しなければならない理由はなかった。
 しかし、事が男女間のこととあって、謙信はそもそも政景が何に怒っているのか見当がついていなかった。だから謙信は、自分の行動が世間一般の目から見れば叱責されるに足るものであったのだろうと判断し、政景の怒りに身を縮めたのである。
 一方の政景にしても、自分の怒りが正当性を欠いていることは十分に理解していた。理解していたが、それでも我慢できなかったから怒鳴ったのである。だが、そんな自分の勝手な怒りを素直に受け止めている謙信の姿を見れば、あらぶった感情も静まらざるを得ない。


(なんていうか、二人とも、ここまで子供だったとはねえ……)
 政景から見れば、天城の思慕が謙信に向けられていることは明白だった。謙信のそれは天城ほど明確なものではないが、天城のことを憎からず思っていることは確かであろう。その二人が共に同じ場所で寝起きしていれば、とうぜんおさまるべきところにおさまっているはず、と思い込んでいたわけだが――
(土足で心に踏み込んでしまったゆえ、か)
 謙信は高野山における天城とのやりとりは頑として口にしなかったし、政景もその部分は強いて訊き出そうとはしなかった。しかし、謙信の口から出た言葉でおおよその事情は察することができた。


 好いた相手が恋情ゆえではなく、慰撫のために身体を差し出してきたとき、これにすがることにためらう者がいても不思議ではない。相手が大切であればなおのことだ。
 ただ、だからといって謙信の行動が間違っていたとは政景は思わない。謙信はまだ若く、武将としてはともかく、一人の人間としてはまだまだ未熟な面を抱えている。ことが男女間の問題であれば、その知識や経験は童にも劣るやもしれぬ。そんな謙信が懸命に考えた末にとった、精一杯の行動。それを否定することは政景には出来なかった。


 ただ、そういった互いの感情を脇に置き、事実だけを記せば、はじめに謙信の示した情に天城は応じず、以後は二人とも行動に出ることなく京へ戻ってきた、ということになる。
 天城にしてみれば、贖罪の念で謙信と肌を重ねることをしたくなかったのだろうと思われる。
 一方の謙信にしてみれば、天城の行動を見て、主君としてはともかく、それ以外の面で天城が自分を求めることはない、と判断した――のだろう、たぶん。
 思い返せば、京から戻った後、天城と兼続が見合いをするという一幕があった。あのとき、謙信がそれを認めたことに政景は引っかかるものを覚えたのだが、まあ与板城の直江景綱の勢いに押し切られたのだろう、と当時は深くは考えなかった。だが、あのとき、謙信は自分ではできないことを兼続に託し、本気であの二人がくっつくことを願っていたのかもしれない。


 政景は、上洛以後の二人が以前とかわらないように振舞っていると見ていたが、なんのことはない、事実、以前とかわっていなかったのだ。好意も敬意もあくまで主君として、臣下として。
 もし天城が一言でも謙信に想いを口にしていれば、おそらくまた違った在り方があったのではないか、と思われる。しかし、天城は想いを内に秘め続けた。謙信もまた同様。これでは二人の関係が進捗するはずがない。




「はあああ……」
 政景は深い深いため息を吐く。その眼前でかしこまる謙信の肩がびくりと揺れた。
 先ほどからひっきりなしに痛みを訴えるこめかみをもみほぐしつつ、政景は、さてどうしたもんか、と内心でつぶやいた。
 色々言ったり思ったりしたが、政景とて、こと男女の合歓に関しては他人に誇れるほどの知識も経験もない。というか、立場的には謙信と同等である。二人の問題は理解できたが、ではどうすれば良いのかとなると、これはなかなかに難問だった。
 ――ただし、答えがわからない類の難問ではない。単純に問題を解く気が起こらないのだ。なにが悲しゅうてあたしがそこまでしなければならんのか、と考えてしまうから。


 これがただの不器用者同士の色恋沙汰であれば、政景は、勝手にやってろー、と放りなげたであろう。だが、一方が軍神で、一方が天の御遣いとなると、そうも言っていられない。持ち上げてしまった責任というものもある。
 政景は再度、深々とため息を吐きつつ、眼前の謙信に向かって口を開いた――




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第九章 杏葉(十九)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:7a1194b1
Date: 2012/02/22 20:48

 日向国 ムジカ


 道雪どのから聞いたところによると、ムジカを巡る攻防が始まってからこちら、島津軍は昼夜の別なく攻撃を仕掛け、大友軍に緊張と疲労を強いる戦術をとってきたという。
 だが、この日に限っていえば、島津軍の動きはきわめて静かだった。襲撃は夜明け前の一度のみ。陽が昇ってからも鉄砲一つ撃ちかけてこようとせず、島津の陣営は森厳と静まり返って動かない。
 これはきわめてめずらしいことであり、かえって大友軍の警戒を誘う結果となった。島津軍の沈黙は大規模な軍事行動の前触れではないか、と大友軍の各武将が疑ったのだ。
 その危惧が正鵠を射ているのかどうかはわからない。あるいは島津軍の沈黙にはもっと別の意図があったのかもしれない。ただ事実としてこの日、島津軍は動かず、これによって俺は秀綱と腰を据えて話をする時間を得ることができたのである。




 今、室内にいるのは俺と秀綱、それに吉継と長恵だけである。道雪どのは別室で臼杵鑑速と話し合っているはずだ。これは秀綱が道雪どのに請うたことでもあり、道雪どのはこの請いを快く受け容れた。秀綱の名乗りを聞き、感得するところがあったのだろう。
 俺の傍らでは長恵が背筋を正したまま、借りてきた猫のようにおとなしくしている。こんな長恵は実にめずらしい。まあ俺も似たような状態なのだが。
 そして、そんな俺たちの雰囲気にあてられたのか、吉継も緊張しきりの様子だった。剣聖に対して礼を失すると考えたのか、すでに頭巾は取り去っており、銀色の髪と赤い目はあらわになっている。ただ、秀綱は吉継の素顔を見ても驚く素振りすら見せず、その緊張をほぐすかのように柔らかく微笑みかけていた。
 照れたように頬を染めてうつむく吉継を見て、秀綱が男でなくて良かったと思ったのは完全な余談である。



「さて」
 秀綱が口を開いた途端、俺と長恵の背筋が同時に伸びた。
 そんな俺たちを見て、秀綱はわずかに目を細める。
「人の姿を見て怯えるは、心にやましいことがある証です。今日まで歩んできた道のりに恥じるところがないのであれば、胸を張ってしかるべきでしょう。私はあなたたちを咎めるために来たわけではありません。しかし、そのような態度をとられれば、咎めるべき何かがあるのではないかと考えてしまいそうになる。借問します。あなたたちは、この地で私に咎められる行いを為したのですか?」


 ほんの一片のやましさすら見抜いてしまいそうな透徹した秀綱の視線を受け、長恵はぶんぶんと首を左右に振る。
 一方、俺は咄嗟にためらってしまった。
 九国に来てから今日までの行いを悔いたことなど一度もない。ただ、それが越後の人たちにとって、なんの免罪符にもならないことは承知していた。突然にいなくなった俺の身を案じてくれた人や、俺の不在で迷惑をこうむった人の数はかぞえ切れないだろう。彼らには幾重にも詫びなければならない。その意味で、俺が秀綱の咎めを受ける立場にいることは間違いない。


 だが、もし秀綱がそのために来たのであれば「あなたたちを咎めるために来たわけではない」とは口にするまい。秀綱は今、あくまで九国で何を為したかを問うている。それは秀綱の問いかけからも明らかであった。
 であれば、答えは一つしかない。
 俺は長恵にならい、静かにかぶりを振った。
 俺と長恵の答えを確認した秀綱は眼差しを緩め、穏やかな声音で言った。
「であれば、そうかたくなる必要はないでしょう。久方ぶりに会った知己から、そのように緊張と不安に苛まれた目で見られれば、私とて心が冷えてしまいます」


 そう言われて、俺はようやく自分の態度が秀綱に対して礼を失することはなはだしいことに思い至った。慌てて姿勢を正して頭を下げる。
「た、たしかに秀綱どのには失礼な態度をとってしまいました。申し訳ありません。つい、わが身のことばかり考えてしまって……」
「あ、わ、私も申し訳ありませんでした、お師様! あまりに突然のことだったので、心の準備が整っていませんでしたッ」
 ぺこりと同時に頭を下げる俺と長恵。秀綱はそんな俺たちの姿をしばしの間、じっと見つめていたが、やがてたえかねたように小さくふきだした。


「ふふ、さきほども思ったのですが、二人はずいぶんと親しくなったようですね。共に行動していることも驚きですが、ここまで親密になっていようとは想像の外でした。どのような出会いがあったのか、大変興味がそそられるところですが、その前に――」
 秀綱は居住まいを正すと、そっと微笑んだ。ようやく再会の挨拶ができる、とその嬉しげな表情が語っていた。


「久しぶりです、長恵。ずいぶんと腕をあげたようですね」
「お、お久しぶりです、お師様。まだまだお師様には遠く及ばぬとは思いますが、精進は欠かしておりませんッ」
 いまだ緊張は抜け切っていないようだが、長恵もまた嬉しげに応じる。秀綱の表情には特にいぶかしげな様子は見て取れない。してみると、どうも長恵は秀綱の前だとこれが普通らしい。


 当然のように、次に秀綱の視線が向けられたのは俺である。
 ひたと俺の顔に据えられた視線は、怖いほどに真剣であった。まるで心のひだまですくい取ろうとするかのような秀綱の視線を、俺は静かに受け止める。
 何を言われても真摯に受け止めよう――そんな俺の内心を知ってか知らずか、秀綱はゆっくりと口を開く。
「咎めるために来たわけではありません。それは先ほど口にしたとおりです。しかし、私個人として、言いたいことがないわけではありません」
「……はい」
 粛然とうなずく俺。
 対して、秀綱は「ですが」と続けた。
「今が一刻を争う事態であることは承知しています。すべてはこの戦が終わった後のこと、ということにいたしましょう」



 だから、この場は素直に再会を寿ぎます。
 秀綱はそう言って、にこりと他意のない笑みを浮かべた。
「お久しぶりです、天城どの。ご壮健の様子、とても嬉しく思います」
「――は、お久しぶりです。秀綱どのもお元気そうでなによりです」
 秀綱の笑みを見て、胸奥から湧き出る様々な思いにフタをして、俺は深々と頭を下げる。その返答がありきたりなものになってしまったのは仕方のないことだった。気の利いた答えを考える余裕など、俺にはまったくなかったのだから。





◆◆
 




 俺は九国に来てから今日までのことを。
 秀綱は俺が去った後の越後および東国の情勢を。
 互いに語り終える頃には、陽は西に大きく傾いていた。
 俺の話については、要所要所で吉継や長恵の説明が加わったおかげもあり、ほぼ完璧な形で秀綱に伝えることができたと思う。
 秀綱は終始真剣に俺たちの話に耳を傾けていた。ときおり、こらえかねたように吐息をこぼす場面があったりしたが、その口から叱声が放たれることはついになかった。
 ただ――
「一年に満たぬわずかな間によくぞここまで。人が乱を招くのか、乱が人を招くのか……」
 と呟いていたが、その真意は謎である。


 一方の俺は、秀綱ほどには平静を保つことができていなかった。
「まさか、久秀どのが勘付いていたとは」
 秀綱の口から語られた東国の情勢。越後のこと、甲斐のこと、関東の不穏な動き、越後国内で蠢く陰謀、再度の上洛に至った、その背景。そうしてやってきた京の都で、越後の一行は西国の情勢と雲居筑前の名を聞かされたのだという――あの松永久秀の口から。


 交易で栄える堺を牛耳る久秀が、九国や南蛮の情勢について耳目を光らせているのは当然といえば当然のこと。久秀がどのあたりで俺に目をつけたのかは定かではないが、数年来、同紋衆のみを重用してきた宗麟さまが、同紋衆はおろか他紋衆ですらない外様の俺を抜擢し、戸次誾に付けた人事は大友家の内部でも注目を浴びていた。おそらくあの頃だろうと推測できる。
 ――もしそれ以前にさかのぼるとすると、まだ道雪どのの客将であった頃に俺の存在に勘付いていたことになるわけで、さすがに久秀といえどそこまで精緻な情報網を持っているとは考えにくいのだ。それこそ、元々九国の動静を他地方のそれよりもずっと熱心に調べていた、というならともかく。


 それよりも気になるのは、久秀が俺のことを口にしたタイミングである。たまたま越後の一行が上洛したときに久秀が気まぐれを働かせた――ただそれだけのこと、で済ませることもできるだろう。
 だが、秀綱から聞いた東国の情勢をつぶさに思いかべてみると、今回の上洛令はいささか気味が悪いほどに時宜にかなっており、そこに何がしかの作為を感じずにはいられないのだ。その上洛の最中、久秀が西の情勢のことを――俺のことを口にする。これらはすべてただの偶然なのだろうか? 俺にはどうしてもそうは思えなかった。余人であればいざ知らず、あの松永久秀がからむこと、考えて考えすぎるということはない。




 だが、今はそれについて考えるときではない。大友家を取り巻く情勢のこともあるが、なにより秀綱が九国まで来た事情がいまだ明らかになっていないからだ。
 咎めるために来たわけではない、と秀綱は口にした。かといって無理やり連れ戻すためでもあるまい。秀綱がそのつもりなら、九国の事情など気にする必要はないからだ。
 今が一刻を争う状況であることを承知している秀綱が、それでもこれだけの時間をかけて西国の情勢を訊き出し、また東国の情勢を説明した。当然、そこには相応の理由があるはずだった。 
  

「こちらを」
 そういって、秀綱は懐から二通の書状を取り出した。汚れないように包んでいた油紙を取り払うと、秀綱はそのなかの一通をうやうやしく俺に向けて差し出す。
「これは?」
 かしこまって受け取りつつ問いかけると、秀綱は真剣な眼差しで応じた。
「さるお方より、天城どのに渡してほしいと頼まれたものです」
 俺は考える。
 さるお方。わざわざ俺宛に書状を書く人間、しかも秀綱を九国に派遣できるだけの人物とくれば、該当する人物は片手の指で数えられる。おそらくは、否、間違いなく――


 と、胸中でその名をつぶやきかけた俺は、しかし、書状の表に記されている家紋を見て思わず息をのんだ。
 そこに記されていた家紋は上杉家の『竹に雀』――ではなかった。むろん、長尾家の『九曜巴』でもない。山名や今川といった足利一門が用いる『二つ引両』……にしては少し形が違う。



 ――というかこれ、将軍家が用いる『足利二つ引』ではないか?!



 なんで俺がそんなことを知っているかといえば、以前上洛したときに兼続から叩き込まれた諸々の作法や知識の一つに、家紋のことも含まれていたからである。
 俺が驚いて秀綱に視線を向けると、秀綱はあえて何もいわず、ゆっくり頷いてみせた。
 それを見て、俺は自分の考えが正しいことを悟る。つまり、秀綱が口にしたさるお方というのは――足利幕府第十三代将軍、足利義輝。
「どうして、殿下が……?」
「まずはその中身をご覧ください。天城どのならば、おおよそのことは推察できると思います」
 秀綱に促され、俺はおそるおそる書状の内容を確かめる。
 そして、そこに記された内容を見て、今度こそ完全に言葉を失ってしまった。



「お、お義父さま……?」
「師兄、大丈夫ですか?」
 尋常ではない俺の様子を見て、吉継と長恵が気遣わしげに声をかけてくる。だが、俺には二人に応じる余裕はなかった。というか、あまりにも驚きすぎて、息を吸い込むことさえうまくできず、口から喘鳴じみた音がこぼれてしまう。
 それを聞いた吉継が慌てたように俺の背中をさする。それで、ようやく少しだけ落ち着くことができた。


「師兄、いったいどうしたのですか?」
 俺の様子があまりにも不審だったのだろう。長恵が再度問いかけてくる。長恵は俺の隣にいるので、書状を見ようと思えば見ることもできるのだが、なにせ将軍家からの書状だ、これを勝手に読むようなまねをすれば、秀綱が黙ってはいないとわかっているのだろう。
 吉継にしても内心は長恵と同様のようで、長恵の問いを耳にするや、俺の背をさする手にわずかに力がこもった。


 俺は一つ息を吐き出すと、書状に記されている内容を端的に二人に教えた。別に他聞をはばかる内容が記してあったわけではない。文面自体はとおりいっぺんのものだった。
「将軍の名の下に、大友家と島津家の争いを調停する――大意としてはそういうことだな。これは義久どのにあてたものだから、秀綱どのが持っているもう一通の方は……」
「はい。大友家の当主どのにあてたものです」
 吉継と長恵の口から驚きの声がこぼれた。それも当然であろう。秀綱がもたらした将軍家からの書状は、今の大友家にとって天佑に等しいとさえいえるのだから。


 かつて北信濃をめぐる上杉家と武田家の争いを調停したように、義輝は諸国の大名の抗争に積極的に介入し、これを治めることで将軍家の権威を高からしめるべく努めてきた。今回の件もその一環と考えれば、これはさして不自然なことではない。
 付け加えれば、大友家は九国探題職を得るために将軍家に接近し、その繋がりは今も断たれていない。将軍家にとって、大友家は潰れては困る家だ。そのことは――毛利の拒絶で不調に終わったとはいえ――大友家と毛利家の講和のために動いてくれたことからも明らかである。




 ただし、この考えでは説明できない部分がある。それは書状の末尾に記された使者の名前。
 通常、こういった重要な案件の使者は、将軍の信任厚い者が選ばれる。書状は将軍の意向と使者の身分を保証するものであり、実際の調停は使者の裁量に任されるのだ。北信濃の例でいえば、義輝の寵臣である細川姉妹が選ばれ、国境の決定などは両家の言い分を聞いた上で彼女らが決定した。
 その意味で、外交の使者というのは、ただ書状を届けるだけではなく、当主の代理人としての権限を備えているといえる。
 そして、秀綱が差し出した書状の末尾に記された使者の名前はこう記してあった。


 天城筑前守颯馬、と。


 すなわち、義輝は俺に――雲居筑前ではなく、天城颯馬に対し、将軍家の名のもとに島津家と大友家を講和させよ、と命じてきたのである。





 凝然と、彫像のごとく固まった俺の耳に秀綱の声が響いた。
「殿下よりのお言葉です。『正式に殿上人に名を連ねる其方であれば、将軍家の使者として不足はあるまい。まあ正確には色々と問題はあるのじゃが、今は危急のときゆえ細かいことは放っておくが吉なのじゃ。兵は拙速を尊ぶというが、ときに交渉事もこれにならうもの。吉報を待っておるぞ』と」
 それはいかにも義輝らしい豪放磊落な伝言で、にかっと笑う義輝の顔が目に浮かぶようだった。磊落すぎて、これでいいのか将軍家、などと思ってしまいそうになるが、しかし、いま気にするべきはそこではない。


 確かに俺は従五位下の官位を有し、いわゆる殿上人に名を連ねる身である。その意味で、将軍家の使者を務めることもできないわけではないだろう。
 だが、俺は将軍の――義輝の『信任厚い者』ではない。当たり前だ。陪臣の身であるという事実はもとより、俺はろくに義輝と言葉を交わしたこともないのだから。先の上洛の際の諸々で、義輝が俺に対して興味を持ってくれているのは確かだが、それは信任と称するにはほどとおい感情だろう。


 にも関わらず、義輝は俺に使者の大任を委ねてくれた。
 それが意味するところは明らかなように思われる。
 俺に与えられた信任は、俺と義輝を直接に結ぶものではない。両者の間には『誰か』がいるのだ。義輝はその誰かを信頼した。そして、その誰かが信頼する俺を信じてくれたのだろう。


 では、その誰かとは誰なのか。
 ――義輝の信頼を受け、俺を信頼してくれる人。思い当たるのはただ一人だけだ。書状に記された俺の名を見た瞬間から、その名ははっきりと浮かび上がっている。
 東国の情勢、久秀の行動、秀綱の来訪、義輝の書状とその内容。今に至る物事の流れを推測することは、俺にとってさして難しいことではなかった。


 ……だが。
 それは俺にとってあまりに都合が良すぎる考えだった。これまでの俺の行動をかえりみれば、それを望むことはもちろん、思い浮かべることさえおこがましい。
 そんな俺の内心を、秀綱は掌を指すように理解していたのかもしれない。それ以上、説明に言葉を費やそうとせず、懐からあるものを取り出した。
 今度は書状ではない。畳の上に置かれたそれは、黒光りする一本の鉄扇であった。
 むろんというべきか、それは先日俺が失ったものではない。歪み、刀傷が目だった俺の鉄扇とは異なり、この鉄扇は使い込まれた様子ながら、趣きのある光沢を放っている。その輝きを見れば、持ち主がこの鉄扇を大切に扱っていたことがうかがいしれた。


 何故だろう。俺は手にとって開くまでもなく、そこに記された家紋が何であるかがわかった。わからなかったのは、どうしてこれが、今このとき俺の手元に届けられたのか、その一点。
 俺は鉄扇に手を伸ばすこともできず、半ば呆然とつぶやくことしかできなかった。
「どうして……」
「問わずとも、答えは胸の内におありでしょう。謙信さまはあなたを信じた。あなたが謙信さまを信じることができない理由がどこにありますか?」


 はっきりとその名を聞き、俺は右手で顔を覆い、うめくように口を開く。
「名を変え、他家に仕え、連絡一つしなかったのですよ。額突いて釈明したわけでもないというのに……」
「名を変え、他家に仕えたことに関しては、そうしなければならない理由があったのだろう、と仰せでした。便りがなかった件については、政景さまはお冠でしたが、謙信さまはそれをなだめていらっしゃいましたよ」
 それを聞くだけで、その時の状況を簡単に思い浮かべることができる。不平そうな政景さまの顔も、それを穏やかになだめる謙信さまの顔も。


 思わず笑みがこぼれそうになる想像だったが、実際に俺がしたのは、ともすれば歪みそうになる表情を隠すために、顔を覆う手を一本増やすことだった。
「その上で、将軍殿下にこのようなことを願っていただいたのですか……」
 将軍家の調停。たとえ思いついたところで、今からでは到底間に合わず、採ることはできなかった手段である。
 謙信さまが九国の情勢をどのように見ていたかはわからないが、この手段に行き着いたということは、おおよその戦況を把握しているはずだ。今の大友家にとって、島津家との和議が成るか否かは、滅亡に直結する大事である。そこに思い至らなければ、こんな一手は考えつきもしないだろう。
 ましてやその使者に俺を任じてもらうなど、謙信さま以外の誰にも不可能な業であった。


 何故、謙信さまがそこまでしてくれたのか。
 その答えはすでに秀綱の口から語られていた――謙信さまはあなたを信じた、と。
 それは、願うことはおろか、思うことさえおこがましいと俺が考えていたことであった。だが、秀綱から伝えられた言葉と、眼前の鉄扇は、そんな俺のためらいを羽毛のごとく吹き払う。
 両の肩に、謙信さまの暖かい手が置かれたような気がした。


「ぐッ……」
 両手で顔を覆いながら、口から零れ落ちそうになる嗚咽を必死でかみ殺す。
 吉継と長恵がいてくれてよかった。さもなければ、いい年をして泣き崩れていたかもしれない。
 俺と謙信さまが共に過ごした歳月は二年に満たぬ。すでに、共に過ごした以上の時間が、この世界では過ぎ去っているのだ。にも関わらず、春日山で別れを告げたあの時から今日にいたるまで、謙信さまの俺への信頼は髪一筋たりとも揺らいではいないのだ、とはっきりと感じられた。
 嬉しくて、懐かしくて、申し訳なくて。様々な感情が入り混じり、もう自分でも今の気持ちが何なのか、はっきりとはわからなくなっている。



「謙信さまよりの言伝です」
 そんな俺の耳に秀綱の優しい声が響く。
「――存分に、と」
 短くも明晰な意思を、信頼をあらわすその言葉。
 ある意味、これがとどめだった。
 もはや顔をあげることもならず、俺は壁に――東の方角に向かって正対し、深々と頭を下げる。今このとき、これ以外にとるべき行動を、俺は何一つ思い浮かべることができなかったのである。
 
 



◆◆◆





 ――光は東方より
 ――九国を包む戦乱は、その最後の幕を開けようとしていた





◆◆◆









 以下は余談(?)である。




「と、ところで政景さまからは、何か言伝はございますか?」
 しばらく後、ようやく落ち着きを取り戻した俺が、慌ててそう言ったのは、先刻までの照れ隠し以外の何物でもなかった。
 ただ、あの政景さまのことだから、何も言っていないということはなかろう、と考えたのも事実である。


 すると。
「はい。政景さまからの言伝もございます……」
 そこで秀綱は何故かためらうように口を閉ざしてしまう。
 だが、すぐに意を決した様子で顔を上げると、剣聖さまはおとがいに手をあて、えらく軽やかな声で――
「『ずんばらりんがいやだったら、早く帰ってきてね、兄上♪』」
 そんな言葉を口にされた。



 ぶふ、と秀綱以外の者たちの口から同時に妙な声がもれる。内容はもとより、こんな華やいだ秀綱の声は初めて聞いた気がする。というか、間違いなく初めてだった。
 当の秀綱は瞬く間に表情や声音をいつものそれに戻し、頬を赤らめるでもなく、淡々と口を開く。
「――とのことです。口調や仕草も含めて正確に伝えてくれ、との政景さまのご要望でしたので、努力してみました」
 痛み入るしかなかった。京で色々と奔走してくれたであろう政景の厚意に。そして、その言伝を正確に再現してくれた秀綱の努力に――




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第十章 天昇(一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:7a1194b1
Date: 2012/09/12 19:56

 日向国 ムジカ


 夜半。
 日が西の彼方に沈み、夜空を彩る星々が輝きを増す時刻。常であれば、とうに寝入っているはずのムジカの街並みは、いまだ騒擾の只中にあった。
 道端で力なく腰を下ろしているのは、先の島津軍との戦いに敗れた兵たちであろう。多くは手傷を負っているのだが、彼らは傷の手当さえ受けられずにいた。島津軍の奇襲により、ムジカは人と物とを問わず甚大な被害が生じており、負傷兵の治療さえままならない状況が続いているのである。
 彼らが発する苦痛の声は、あたかも呪詛のごとくに街の各処にたゆたい、昼夜を問わず人々の神経にやすりをかけていた。


 深夜、屋敷の廊下を歩いていた俺は、遠くから響いてくる馬蹄の音に気がついた。おそらく戦況報告の伝令が、街路を駆け抜けて大聖堂へと向かっているのだろう。屋敷の中にいれば、かすかに耳朶をふるわす程度の物音に過ぎないが、焼け出された兵や信徒にとっては、眠りを妨げる騒音以外の何物でもないはずだ。傷の手当ては受けられず、ただ休むことさえもままならないとあっては、体力はもちろん気力も衰えていくばかり。このまま時が推移すれば、ムジカの人々は戦うことはおろか逃げることさえ出来なくなってしまうかもしれない。
 知らず、道雪どのの部屋へと向かう足の運びが速くなっていた。



 秀綱どのからすべてを伝え聞いてから、まだ四半刻と経っていない。平時であれば、すべては明日になってから、ということで早々に床についたかもしれないが、今の戦況を鑑みれば、一刻の遅れが致命的なものとなる可能性は否定できない。ゆえに、非礼にもこんな時刻に道雪どのの部屋を訪ねようとしているのである。
 幸いにも、道雪どのの部屋からはまだ灯りがもれていた。のみならず、わざわざ道雪どののお付きの侍女の方が出迎えてくれた。どうやら道雪どのは俺の訪問を予期していたらしい。うかがいを立てる必要もなく、俺は室内に招じ入れられた。



◆◆



「――そうですか。名高い剣聖どのの来訪からおおよそは察したつもりでしたが、颯馬どのが勅使とは予測の外でした」
 俺を室内に迎え入れた道雪どのの顔には、眠気や疲れを感じさせるものはまったくなかった。その瞳は思慮深い光を湛えて揺るぎなく、明眸という表現が違和感なくあてはまる。
 怖いほどまっすぐな眼差しを向けてくる道雪どのは「予測の外」と口にしながら、特に驚いた様子はなく、また俺が勅使に任じられたことに関しても、それ以上言及しようとはしなかった。
 軽口の一つも口にしないのは、そのためのわずかな時間さえ惜しんでのことだろう。この点、俺と道雪どのは認識を共有しているようであった。
 ……まあ、今の大友家に余裕がないことは誰の目にも明々白々な事実であるが。


 ともあれ、認識が共有できているとわかれば、余計な前置きに時間を費やすこともない。俺は単刀直入に本題を口にすることにした。
「むろんのこと、勅使の一語だけで島津が軽々に講和を承知することはありますまい。ですが、そちらはそれがしがなんとかいたします。少なくとも、筑前の戦況を鎮めるまで、島津家が大友家の後背をつくことがないよう義久さまたちを説き伏せましょう。ただ、どのように話が進むとしても、島津が大友家の日向からの撤退という条件を取り下げることはないでしょう。そのことはご承知おきくださいますよう」


 道雪どのはしっかりとうなずいて応じた。
「承知しております。現状、当家にムジカを保持する力はなく、たとえ島津との講和が成らずとも放棄せざるをえないところです。島津との交渉において、ムジカのことに意を用いていただく必要はございません」
「かしこまりました。では明日、朝一番に宗麟さまにお目にかかり、此度のことについてそれがしの口から説明を……」
 そう言う俺に対し、道雪どのはゆっくりとかぶりを振った。
「颯馬どのは島津との交渉に専念してください。宗麟さまへはわたくしがお伝え申し上げます」
 俺は驚いて口を開きかけたが、道雪どのの真剣な眼差しに見据えられた瞬間、発しようとしていた言葉は喉の奥に引っ込んでしまった。


「みずからのことは、みずからの口で。その颯馬どのの気持ちは理解できますし、常であればそうするのが筋だとわたくしも思います。しかし、今は一刻の猶予もないこと、颯馬どのも承知しておられましょう。颯馬どのを勅使として認めるよう宗麟さまを説くのはわたくしでも出来ますが、島津を説くことができるのは颯馬どのを措いて他にございません。何故なら、勅使に任じられたのは他の誰でもない、颯馬どの、あなたなのですから」
 そこまで言って、道雪どのは一転して柔らかく微笑んだ。
「上泉どのがお越しになる以前にもお話しいたしましたが、ムジカの放棄については宗麟さまも了承しておられます。今になって意見を翻されることはないでしょう」
 だから、こちらは気にせずに島津との交渉に専念してほしい。道雪どのは再びそう言った。


 確かに、島津との講和が一刻遅れれば、その分だけ大友家を取り巻く戦況は厳しくなっていく。宗麟さまに頭を下げるのは、この戦いを乗り切ってからでも遅くはない。
 そう自分に言い聞かせた俺が、次に口にしたのは、筑前の戦況をいかにして好転させるかであった。
 筑前大友勢力の要は、立花山城と岩屋城のふたつ。
 立花山城は毛利隆元、吉川元春らの毛利軍を主力とした五万以上の軍勢に包囲されており、岩屋城は竜造寺隆信みずから率いる竜造寺軍、そして大友家に叛旗を翻した高橋鑑種らの軍勢を含めた四万近い軍勢の攻撃にさらされている。
 立花山城に関しては、道雪どのがあらかじめ備えを固めており、城代たる戸次誾の配下には小野鎮幸、由布惟信ら立花家の精鋭が控えている。相手が相手なので油断はできないが、すぐにも落城、ということはないだろう。というより、早々に立花山城が陥落するような事態になれば、もう万事休す、ということである。誾たちの奮戦に期待するしかない、というのが正直なところだった。


 立花山城の状況も十分に憂慮すべきであるが、さらに問題なのは岩屋城の方だった。
 こちらは道雪どのの義妹である高橋紹運どのがたてこもっており、紹運どのの将としての資質はいまさら俺が語るまでもない。どれほどの大敵が攻め寄せようと、城を堅守してくれるだろう――後方が万全でさえあれば。
 岩屋城は宝満城の出城であり、城自体の規模は小さい。さしたる特徴もない山城である。その威はあくまで後方に宝満城があってこそ発揮されるのだが、その宝満城が先の高橋家当主であった高橋鑑種に奪取されてしまった。
 このため、現在、紹運どのは岩屋城にて孤立無援の戦いを余儀なくされてしまっている。いかに紹運どのが名将とはいえ、この状態ではながく城を保つことは難しいだろう。一刻も早く、救援に向かわなければならなかった。


 竜造寺らの大軍に囲まれた岩屋城を救援するためには、千や二千の兵では到底たりない。かなうならば敵と同数、最低でも一万以上の兵を集めなければならない。そして、その規模の軍を編成するためには、どうしても大友家中の意思をまとめなければならない。当主に対する不満と不審に揺れる家臣たちの心を、再び宗麟さまのもとで一つに束ねなければならないのである。
 こればかりは道雪どのひとりではいかんともしがたく、宗麟さま自身の克目が必要となる。それについては道雪どのに託すしかないのだが、俺には一つの気がかりがあった。
 ほかでもない、俺が連れてきた志賀親次という少女に関わることである。




 道雪どのは、カブラエルを深く信頼する宗麟さまの心情をおもんぱかり、細心の注意を払ってあの宣教師を放逐した。そのため、宗麟さまの中ではいまだカブラエルは誠実な宣教師として重きをなしているはずである。しかし、遣欧使節団の一員として南蛮国に赴いた親次が、バルトロメウで小アルブケルケに隷属していたという事実は、この宗麟さまのカブラエル像を砕いてしまう可能性があった。


 なにしろ、カブラエルはこれまで遣欧使節団の派遣を主導してきた人物であり、南蛮に赴いた少年少女たちについての報告は、カブラエルの口から宗麟さまに伝わっていたはず。当然、事実をそのままに伝えていたわけがない。
 信頼していたカブラエルが、妹とも思っていた親次を奴隷同然に扱う小アルブケルケの所業を隠していたこと。その上で、幾度もの遣欧使節団を主導し、多くの少年少女たちを南蛮国へと送り込み続けたこと。
 このふたつはカブラエルが宗麟さまを利用していたことのこの上ない証左であり、それを知った宗麟さまが狂乱の果てに自失してしまっても何の不思議もないと思われた。


 今の大友家に宗麟さまの傷心を癒している余裕はなく、立ち直るのを待っている時間もない。
 ゆえに、今しばらくは親次を道雪どのにかくまってもらわねばならない。いずれ宗麟さまに真実を伝えなければならないとしても、それはこの戦いが終わった後でもよいのである。
 ただ、そこまで俺が口にするのは、明らかに行き過ぎであろう。また、俺が考える程度のことは道雪どのも承知しているに違いなく、俺はこの件に関しては口を噤むことにした。


 かわりに口にしたのは、岩屋城救援に関する方策である。
「援軍がどれだけの数になるにせよ、開戦から今日までの岩屋城の消耗を考えれば、援軍が向かっているという『事実』を一刻も早く城中に報せる必要がございます。それがし、島津との講和が成立した後、その足で岩屋城に向かいましょう」
 それを聞いた道雪どのは、思わず、という感じで目を瞠った。
「岩屋城はさして大きくもない出城です。わたくしたちが戦った休松城よりも、規模としては小さいでしょう。敵軍の数を考えれば、包囲は文字通り十重二十重のものとなっているはず。まとまった数の兵もなく、これを通り抜けることは至難の業ではありませんか?」
「それに関しては、腹案がございますのでお任せを。うまくいけば、援軍が岩屋城に着くまでに包囲を解くこともできるでしょう」


 ――ほかの人間の耳に入れば、間違いなく身の程知らずの大言壮語と笑われたことだろう。あるいは、この危急の際に戯言を、と怒られても文句はいえないところだ。俺自身、大言を吐いているという自覚がないわけではない。
 だが、道雪どのは俺の言葉を笑うこともなく、怒ることもしなかった。さすがに、少し困惑した表情は浮かべていらっしゃるが――いや、これは困惑とは少し違うかもしれない。ではなにか、と問われると答えづらいのだが。
 俺がそんなことを考えていると、道雪どのが口を開く。
「――徒手空拳の身で四万の軍勢に包囲されている城に赴き、包囲を抜けて城中に入ることさえ至難であるというのに、さらに包囲を解いてみせるとおっしゃいますか?」
 その声音は不思議なくらい静かであった。だが、眼差しの鋭さは道雪どのの佩刀である『雷切』にも劣らない。偽りを口にするのはもちろんのこと、はぐらかすことも許されないだろう。


 もっとも、俺はそのどちらを選ぶつもりもない。どのように問われようと、正直に答えるだけである。
「はい、まさしくそう申し上げました」
 小さく、しかしはっきりとうなずいて、自らの言葉が虚言でも戯言でもないことを宣言する。
 このとき、俺は自身の策を確実に成功させる自信があったわけではない。だが、それでも俺の胸中に気負いはなかった。自分でも不思議に思うほどに、気負いはなく、焦慮もなく、そして発した言葉には揺らぎがなかった。
 そのことを、道雪どのは感じ取ったのだろう。俺を見据える視線から鋭さが失われ、かわりにいつもの穏やかな微笑がその顔を覆っていく。
 ただ、そこに何故だか哀しげな色合いが混ざっているように思えたのだが――それは、俺の気のせいであったのかもしれない。







◆◆◆







「男児、三日逢わざれば……とはいいますが」
 立花道雪はそう呟き、ついさきほどまで天城が座していた場所に視線を向ける。
 すでに天城は退室し、侍女も下がらせたので、室内にいるのは道雪だけ。ただひとり残った室内で、道雪は先刻の天城の姿を思い起こしていた。
 天城が志賀親次を伴って油津港より戻ってから、まだ半日たらずの時しか経っていない。にも関わらず、今しがたまで向き合っていた人物は、半日前の姿とは大きく異なっているように道雪の目には映っていたのである。


 おそらく、本人は自覚どころか意識さえしていないだろう。
 道雪にしても、具体的にどこがどう異なるのかを指摘することは難しい。別段、見違えるように凛々しくなったとか、あふれんばかりの覇気を感じさせるようになったとか、そういった変化ではないのだ。
 将軍家より勅使の任を授けられ、いまや誰はばかることなく天城颯馬を名乗れるになったことが、天城の心持ちに大きな影響を与えているであろうことは想像に難くない。
 だが、雲居筑前と名乗っていた頃の言動が、現在のそれに比べて見劣りするわけでは断じてない。道雪は、自分の声なき声を聞き取り、ためらいなく手を差し伸べてくれた雲居の姿を心に刻み込んでいる。感謝と共にその手をとった時の安堵を、昨日のことのように覚えている。ゆえに『天城颯馬』をして『雲居筑前』に優る人物だ、などとはつゆ思わなかった。


 ならば、どうして自分は先ほどの天城の姿を見て感じ入ってしまったのか。
 道雪が知る『雲居筑前』は持っておらず、さきほどの『天城颯馬』は持っていたもの。それはきっと――
「人の真価は危地にたって初めて明らかになるといいますが、能力、人品が等しいのならば、生じる差異は覚悟の強さに求められます。そして、覚悟とは他者の信頼によってより強く、より固くなるもの。まして、それが敬愛する主君からのものであれば尚更、ということなのでしょうね」
 さきほどの姿こそ、上杉家家臣としての天城颯馬、その本来の姿なのだろうと道雪は思う。主君たる上杉謙信から全幅の信頼を受け、その妙なる智略を存分にふるってきた上杉家の軍師。
 本人に向かって口にしたならば笑い飛ばされてしまったろうが、先刻、道雪は半ば以上、天城に見惚れていたのである。
 より正確に言えば、主君を心から信じる臣下と、そして臣下を心から信じる主君の絆に見惚れていた。君臣の姿とは、本来、こんなにも美しく、力強いものなのか、と。




 知らず、道雪は小さく息を吐く。
 そして、面差しを伏せ、両の手で強く胸をおさえた。
 先刻からずっと胸のうずきが消えないのだ。胸奥からわきいでる哀切な感情は尽きることなく、その一方で心の臓はうるさいほどに脈打っている。
 その原因が何であるのか、道雪はとうに気がついていた。
 目の当たりにした越後の君臣の絆を見て、痛切な憧れを抱いたから――という理由ではない。
 憧れとは手に届かないものに対して抱く感情である。道雪には信頼する主君がおり、その主君は道雪を信頼してくれている。ゆえに、道雪には他国の君臣に憧れを抱く理由はない。むろんのこと、得がたい主君を持った天城を羨んだから、などという理由ではさらにない。
 滾々とわきいでる感情は、天城や宗麟、あるいは謙信といった他者に向けられたものではなく、道雪自身に向けられたものであった。


 これまで、道雪は一度として宗麟に失望したことはなかった。
 苦言を呈したことはある。強諫したこともある。南蛮神教に耽溺していく宗麟の姿を見て、時に焦りにも似た感情を抱いたこともある。
 だが、道雪はどのようなときも宗麟を見捨てることなく、宗麟を、そして大友家を支えてきた。いずれ必ず。そう思い、そう信じて。
 先にカブラエルを放逐した際も、道雪は宗麟を信じて事を為し、また宗麟のためを思ってその心に波風が立たないよう計らったのである。
 いずれ必ず宗麟は克目してくれる。その時までは、とそう考えて。


 ――だが、それは
 ――本当に宗麟のためを思ってのことだったのか


 今日の今日まで、自らに問いかけることさえしなかった疑問が、道雪の胸中を騒がしている。
 繰り返すが、道雪は宗麟に失望したことはないし、今になって急に不満を抱いたわけでもない。
 ただ、いずれ必ずと胸中で繰り返しながら、いつかそれが当たり前になってしまった自分自身に対して、道雪は問いかけたのである。
 主君の心中をおもんぱかり、その限界を推し量り、将来に問題を先送りする。果たしてそれは、本当に信頼の名に値する行動なのか、と。


 道雪は黒髪に挿した桜の花飾りに手を伸ばす。
 脳裏に浮かぶのは、遠い昔、涙を流しながら、それでも懸命に笑顔を浮かべ、みずからの手で折った桜の枝を差し出してきた幼い宗麟の顔。そして、そんな宗麟に対し、こちらも涙を流しながら、桜の木は傷に弱いのだ、としかめ面でお説教をしている幼い自分の姿だった。
 ややあって顔をあげた道雪は、哀しげな表情はそのままに、呟くように声を発した。
「不思議なものです。誰が望んだわけでもなく、誰が計らったわけでもないのに、古きも新しきも問わず、すべての因縁がより合わされていく。すべてに決着をつけるべきは、今この時を措いて他にないのかもしれませんね……」
 






◆◆◆





 
「さて、謀略の時間だ」
 道雪どのの部屋を辞し、自分に与えられた部屋に戻る途中のこと。俺は冬の冷水で顔を洗い流しながら、そんな言葉を呟き、ぱしんと両の頬を叩いた。
 時刻は深更、草木も眠る丑三つ時というやつであるが、眠気はまったくといっていいほど感じない。それどころか、丹田のあたりから活力が尽きることなく溢れてきて、俺の頭脳はかつてないほどに冴え渡っていた。


「今の師兄ならば、雲の果てにある天の城を陥とせと命じられても、鼻歌まじりで実行してしまいそうですね」
 部屋に戻ってきた俺を出迎えた長恵が、俺の顔をしげしげと見つめてそんなことを口走る。さすがにそれは無理だ、長恵。
 念のために付け加えておくと、いくら俺自身は心身ともに絶好調とはいえ、他者にまで無理を強いるつもりはなかったので、道雪どのの部屋に向かう際「では今日のところはこれで」と言い置いていったのである。
 だが、部屋に戻った俺が見たのは、当然のように座に居続ける人たちの姿だった。具体的に名をあげれば、吉継と長恵、そして秀綱どのも当然のような顔でこの場にいらっしゃった。


 俺の視線に気づいた秀綱どのが口を開く。
「どうかしましたか、天城どの?」
「あ、いえ、この後、秀綱どのはどうなさるのか、と思いまして」
「謙信さまと政景さまの願い、私の望みに従い、天城どのが存分に働けるよう、かなう限りの手助けをするつもりです」
 黒髪の剣聖は、長旅の疲れなど微塵も感じさせない澄んだ表情でそう言うと、ふと何かに心づいたように小さく首を傾げた。
「不要、とは言いませんよね?」
 その言葉を聞いた俺に「どうかよろしくお願いいたします」とかしこまって頭を下げる以外に何が出来たというのだろう?



 そんなこんなで始まった作戦会議INムジカ。
 ただし、すでに俺の中で作戦の骨子は出来上がっていたので、実際には命令の伝達と説明の場になった。
 その席で、俺はまずはじめに長恵と吉継に、夜が明け次第、すぐに豊後に向かうよう命じた。
 それを聞いた長恵が、不思議そうに首をかしげる。
「筑前ならばわかりますが、豊後に向かうのですか、師兄?」
「ああ。豊後に着いたら、盛大に島津との講和について宣伝してくれ。将軍家が大友家のために勅使を派遣してくれた、将軍は宗麟さまの味方だ、とな」
 今度は吉継が、戸惑いもあらわに口を開く。
「容易いことですが、それはあえて広める必要があることなのですか? れっきとした事実なのですから、ことさら広めずとも自然と人々に伝わりましょう。仮にすばやく広める必要があるにしても、なにも私や長恵どのが赴くことはありません。それこそ道雪さまに頼んで豊後の方々に使者を遣わしてもらえば済むことです」


 どこか不服そうな吉継の顔を見て、俺はあっさりとうなずいた。たしかに吉継の言うことは正しいのだ。ただ話を広めるためだけであれば、なにも二人に豊後まで足を運んでもらう必要はない。
 長恵がぽんと両手を叩いた。
「ふむ、つまり師兄はこれから、大友家の方々には頼めない、否、聞かれることさえはばからねばならないような謀略を披露なさるということですね? さぞ後ろ暗く、卑怯未練で、それを聞いた者が一様に眉をひそめるような、そんな謀略を」
「やや装飾が過剰なような気もするが、大筋において間違いではないな。なにしろ将軍殿下の真意を故意に歪めて、大友家の人たちをだまくらかそうというのだから」


 
「……殿下の真意を故意に歪める、と仰いましたか?」
 静かな吉継の問いかけ(怒りをこらえているのだろう)に対し、俺は簡潔に応じる。
「義輝さまは、今回のムジカ建設はもちろん、過去にさかのぼって宗麟さまが行った政策のすべてについて、これをさし許した。大友家の危急に際し、勅使を派遣したことこそその証左である。大友家は今なお将軍家の大切な藩屏にして、宗麟さまは幕府の重臣のひとり。宗麟さまに逆らう者は、すなわち足利幕府に逆らう者である。まあ、そんなところか」


 現在の大友家臣団の動揺は、極言してしまえば当主である宗麟さまへの不審と不信にその原因が求められる。当主が異教のために都市を築き、そこに本拠を移して、本国たる豊後に帰還する素振りも見せぬ。宗麟さまのこれまでの振る舞いによる不満、さらには戦況の悪化がこれに重なって、豊後三老ですら静めがたい騒擾となってしまった。
 この状況では、島津との講和が成り、宗麟さまがムジカを放棄して豊後に帰還しても、すぐに騒ぎは収まらないだろう。そして、その騒ぎを静めるための時間は、致命的な遅れとなって戦況に反映されてしまう恐れがある。
 だから、それを避けるためにも将軍家の意向、というより将軍の威光をそえる。
 足利幕府第十三代将軍足利義輝は、これまでの大友宗麟の行い、そのすべてを承知してなお宗麟を頼みとする気持ちを持ち続けているのだ、と――もっといってしまえば、一国の大名として相応しからぬムジカの建設その他の行動を、将軍として不問に付してくれたのだ、と広まれば、動揺する大友家臣たちに対して効果があるだろう。少なくとも、やらないよりはマシである。


 俺はそんなことを考えているわけだが、案の定というか何と言うか、吉継、長恵、秀綱、いずれの表情も得心とはほど遠いものであった。 
「……お義父さま、確かに今の大友家を取り巻く情勢は厳しいものです。しかし、だからといって、他者から託された信頼を濫用するがごとき行いは……」
 吉継の指摘は、俺の痛いところを正確に突いていた。
 ムジカのこと一つとっても、義輝が宗麟さまの真意を知らなかったのは明らかである。
 宗麟さまはムジカを聖都と呼び、南蛮神教のためにこれを建設した、と公言している。義輝もそれは承知していると思うが、しかし額面どおり受け取ったりはしなかっただろう。南蛮国との交易の利を得るための政略のひとつ、くらいに考えていたはずであり、またそれが常識的な判断というものであった。
 もしも宗麟さまの真意を知っていたのなら、つまり宗麟さまが本気でムジカを南蛮神教に献じたことを知っていたのなら、今回のこととてどう転んだかわかったものではない。


 そのことに思いをいたせば、今の俺の考えは吉継のいうとおり、託された信頼を濫用することに他ならない。
 だが、しかし。
「吉継」
「はいッ」
 吉継に視線を向けると、ごまかされないぞ、と言わんばかりの強い視線が跳ね返ってきた。
 かまわず、言葉を続ける。
「たしかに、俺が勅使として与えられた任は大友家と島津家を講和させることだ。もっといえば、それだけだ。義輝さまは宗麟どのを信頼しておられる云々と口にするのは越権だろう。まして、勝手にムジカの件をさし許すなぞと口にすれば、勅使として不適格だとして秀綱どのにたたっ斬られても仕方ない。だから、俺はそんなことは言わない。道雪どのや鑑速どのといった重臣方も知らない。これから豊後に広まる噂は、今この時期に大友家のために勅使が訪れた、その事実をどこかの誰かが独自に解釈し、その解釈が広まっていったものなんだ、あくまで自然に」
 そう、無責任な噂、というやつである。勅使にも、勅使を派遣された家にも、無責任な噂を取り締まる義務なぞない。結果として、噂がいずこかの大名家の利にいささか結びついたとしても、それはいたしかたのないことなのである。
 白々しいというなかれ。昔の人も言っている。溺れる者はわらをもつかむ、あるいは、立っている者は親でも使え、と。せっかく授かった勅使の肩書き、存分に使わねば、かえって義輝に失礼であろう。
 なにより、結果として大友家が滅亡を免れれば、将軍家にとっても決して損にはならないはずであった。




 そんな俺の説明を聞いた吉継は、無言でかぶりを振った。ほとほとあきれた、と言わんばかりの仕草だったが、次に吉継が口にしたのは、俺への非難ではなく、別の角度から見た危惧であった。
「……そもそも、お義父さまは雲居筑前として大友家に登用された身。皆様に顔も名前も知られております。そのお義父さまが天城颯馬として勅使に任じられたこと、皆の理解を得るのは難しいでしょう。まして、そこから広まった根拠もない解釈に、どれほどの人が耳を傾けてくれるのでしょうか?」
「はっはっは、これは異な事を。そもそも、というなら、そもそも雲居筑前と天城颯馬が同一人物だ、などと公言するわけないじゃないか」
「え?」


 眉間のしわが常態化してしまいそうな吉継に向け、俺は爽やかに笑って言った。
「講和が成ったら、俺はその足で単身岩屋城に赴く。ムジカからの撤退や、豊後の問題は宗麟さまと道雪どの、それに鑑速どのらにお任せしてな。よって、豊後の人たちが知るのは、天城颯馬という勅使がいたことだけ。それが雲居筑前と同一人物だ、などと知るのはごく一握りの人間だけだ。彼らが口を緘してしまえば、こんなトンデモ話、想像する者さえいないだろうさ」
「ちょっと待ってください。今、噂などよりももっととんでもないことを、さらっと口になさいませんでしたかッ? おひとりで岩屋城に赴く、というのはどういうことですか?!」
「そのままの意味だよ。さっきの続きだが、ただ噂を撒くだけなら、吉継に豊後に行ってもらう理由は薄い。長恵だけで十分だ」
 吉継は容姿が容姿だから噂を撒くのに向かない。それでも俺が吉継に豊後に行けと命じた理由は、豊後で噂を撒き終わった後に筑前に行ってもらうためだった。
 本来ならば、長恵は豊後に、吉継は筑前に、と別々に行動してもらうべきなのだが、現在の筑前は敵地に等しい。ゆえに、二人には一緒に行動してもらう。筑前にはいった後は長恵は吉継の護衛役になる、という寸法である。


「筑前に入ったら、吉継は岩屋城とその周囲の様子をできるかぎり詳しくしらべてくれ。軍勢の配置、地形の険阻、今後の天候の推移までひっくるめて、できるかぎり、だ。特に天候について。こればかりは吉継自身に行ってもらうほかない」
「……次から次へと、無茶ばかり仰いますね、お義父さま」
「今は無茶をしなければならない時だ。もちろん他人に無茶を強いるつもりはないが、家族と配下には付き合ってもらう。申し訳ないが、否とは言わせないぞ」
 だから、事のはじめから、頼みではなく命令という形で口にしたのである。
 いやまあ、それでも二人が否と口にすれば、俺にはいかんともしがたいわけだが、幸いというかなんというか、吉継は否とは言わなかった。
 それが納得ゆえなのか、諦観ゆえなのか、はたまたそれ以外の理由なのかは定かではない。
 吉継の顔をよくみれば、どことなく嬉しそうにも映る。


 俺はいつかの吉継の言葉を思い起こしながら、声に出して訊ねてみた。
 すると、吉継は瞬く間に表情を取り繕い、ぴしゃりと言い放つ。
「当たり前です。なんで無茶を押し付けられて嬉しく思わないといけないのですか!」
「おや、姫さま、ご無理をなさらずとも。豊後に居たおり『どうか無理をさせてください』と師兄に仰っていたのは、他ならぬ姫さまご自身――」
「しかしながらッ!」
 長恵の言葉を遮るように、吉継は一際高い声を張り上げた。
「かりにも父たる御方の命令とあらば、これにさからうは孝道に背きます! ゆえにご命令はつつしんで承りましょう!」
「う、うむ、よろしく頼むが、その、吉継? 時刻が時刻だから、あまり声をはりあげないようにな?」
 あと、俺はあの時の吉継の言動を事細かに覚えているので、長恵の発言を遮っても意味はないのだが――まあ、これは黙っておこうか。
 注意を受けて我に返ったのか、両の頬を真っ赤に染めて俯く娘を見て、俺はそんなことを考える。
 そんな俺と吉継の姿を、長恵が実に良い笑顔で眺めている。
 そしてさらに、そんな俺たちの様子を、秀綱どのが穏やかに微笑みながら見守っていた。





◆◆◆




 しばし後。
「お師様、将軍殿下の御名を利用し、その信を濫用するような策をお認めになるのですか? 率直に申し上げて、師兄と姫さまが話し合っておられる間、お師様が師兄に斬りつけるのではないかとハラハラしていたのですが」
「謀略とは元々そういうものでしょう。それに、はじめから天城どのがどこに出しても恥ずかしくない、品行方正な策をたてるなどと思ってはいませんでしたよ。私も、謙信さまも――」
 そして、義輝さまも、です。
 上泉秀綱はこともなげにそう言うと、おやすみなさい、と弟子に告げてから背中を向けた。


 その背を見送った長恵は、みずからの修行不足を痛切に感じながら、答えの出ない疑問を抱えてひとりごちる。
「…………いったい、誰が一番の策士なのでしょう?」
 そうして頭上を振り仰いだ長恵が見たのは、まるで長恵の疑問の答えから逃げるように雲の向こうへと隠れる月の姿であった。  





[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第十章 天昇(二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:7a1194b1
Date: 2012/09/23 20:01
 日向国 大瀬川南岸 島津軍本陣


 あけて翌朝、密かに吉継と長恵を見送った俺と秀綱どのは、その足で島津の陣に向かった。
 道雪どのと顔を合わせなかったのは、昨夜のうちに言うべきことは言い、聞くべきことは聞いたからであるが、最たる理由は吉継たちの不在の意味を悟られないためである。
 当然というべきか、大友軍の将兵はいまだ勅使の到着や、島津との講和について知らされていない。もしかしたら、武将たちの中には道雪どのから連絡がいっている者もいるかもしれないが、雲居筑前として陣中を通り抜ける俺を呼び止めようとする者はいなかった。
 もっとも、さすがに大友軍を抜け、島津の陣に向かう際には最前線の兵に見咎められた。というか、対岸に渡るためには舟がいるので、こちらから声をかけねばならなかったのだ。
 当然、何のために敵陣に赴くのか、と詰問されたが、俺は宗麟さまの名を出して押しとおした。もともと、宗麟さまから島津との交渉(島津に南蛮神教を認めさせよ、というやつ)を命じられている身なので嘘をついたわけではない。


 結果、さしたる問題もなく大瀬川を渡って島津の陣営に赴いた俺は、将軍の書状を差し出して当主との謁見を請うた。しばし後、とくに待たされることもなく本陣に案内されたのだが「供の者はここで待て」と命じられ、秀綱どのと切り離されてしまう。
 あるいは、島津の家臣の誰かが、秀綱どののただならぬ力量を察したのかもしれない。大友軍が、使者に扮して刺客を送り込んできたのではないかと疑われたのだ。
 実に失礼な話である。この俺がそんな策をたてるわけはない。俺ならば、出し惜しみせずに剣聖を二人とも連れてくる!
 吉継がいれば「気にするのはそこですか?!」とか怒られそうな気がしないでもなかった。


 まあそれはさておき、速やかに交渉に移ることができるのはありがたかった。もとより秀綱どのの剣技をもって決断を強いるようなマネをするつもりもない。
 そして、案内された先で俺が見たのは、勢ぞろいした島津四姫の姿であった。
 義久と義弘はもともとムジカを攻めていた軍の指揮官であったからここにいるのは当然として、歳久と家久までいるのは少し驚いた。
 島津は勝ち戦を続けているとはいえ、短期間で急激に勢力を拡大させたため、後方が不安定であるのは否めない。下の二人はそちらに当たっている、と俺は考えていたのである。もうちょっと正確に言うと、そうであればいいなあ、と期待していた。何故といって、末姫さまはともかく、三姫さまがいると説得に要する手間が桁違いに増えてしまうからである。
 



「――私の記憶が確かならば、大友の家臣である雲居筑前なる者と別れてより、まださして時は経っていないはずです」
 俺はもともと新潟県、つまりは雪国の生まれである。くわえて、この地に来てからも、何の因果か同じ雪国である越後の国で二年あまりを過ごしてきた。つまり、寒さにはある程度慣れている。
 その俺をして裸足で逃げ出したくなる冷厳な視線の主は、今や事実上薩摩、大隅、日向の三国を支配する島津家の三女、島津歳久その人であった。


「その雲居が何故か再び敵陣に舞い戻ってきたと思えば、みずからの本当の名は天城颯馬であると言い、あまつさえ将軍の勅使であるなどと口にする。この戦国乱離の時代、世の有為転変はただならぬものですが、ただ一身をもってころころと名をかえ、立場をかえるその有様は、あたかも能面をつけて舞う演者のごとし。この歳久、その変わり身のすばやさに感服つかまつりました。次に顔をあわせた時、実は自分は南蛮の国王である、とあなたが口にしても驚かないようにいたしましょう」
 本当に怒った時ほど口調が静かになる、という人はけっこういる。どうやら歳久もその中に含まれるようで、歳久の隣に座っている家久が、うわあ、と声なき声をあげていた。


 歳久のことを良く知る家久が、思わず声をあげてしまうくらい、今の歳久は怒りのオーラを発しているのである。前述したように、この場には島津の当主である義久も、その妹で実質的に島津軍の総指揮を執っている義弘もいるのだが、二人とも微妙に歳久から身体を遠ざけている。つけくわえれば、俺と視線をあわせようともしない。
 どうやら俺は講和の件を切り出す前に、歳久の怒りを静めるという難事に挑まねばならないようであった。


 以下、その模様を音声のみ(?)でお届けしよう。


「ご案じなさいますな、歳久さま。それがしが持っている能面はひとつだけでございますれば、南蛮王などという役柄を舞うことはいたしませぬ」
「それで気の利いた切り返しをしたつもりですか、雲居。いえ失礼、今は天城でしたね。察するに、明日になればアルブケルケとでもかわっているのでしょう」
「……我ながら見事な切り返しだと自負しておりましたが、歳久さまには到底及ばないようです」
「それはどうも。しかし、私の言葉に切り返している暇があるなら、みずからの言葉で釈明するのが筋というものではないのですか」
「それがしは釈明をするつもりはございませぬ。歳久さまや皆様がたに偽りを申し上げたことはございませぬゆえ」
「偽名をもって他者に近づく行為が偽りでないのならば、世に偽りなど存在しません」
「夏には夏の衣服をまとうように。冬には冬の衣服をまとうように。人は必要に応じて装いを改めまする。名もまた同じこと。九国にて、それがしは確かに雲居筑前として生きておりました。そこに偽りはございません」
「笑止。古人いわく、名は体をあらわす。偽りの名があらわすのは、偽りの体のみです。偽りがないなどと、どの口で言いますか。詭弁を弄するのもほどほどになさい」


「………………家久さま、お久しぶりでございます」
「うわ、筑前さん、急にこっちに逃げてこないでよー。わたしも今の歳ねえの相手はしたくないんだから」
「そこをなんとか。どうみても孤軍では勝ち目がないのです」
「ここでわたしに頭を下げるくらいなら、最初から歳ねえに下げておけばいいのに」
「それとこれとは別の話なのですよ」
「むー、まあいつまでも二人の言い争いを聞いているわけにもいかないし、しょうがないか。でも、この貸しは高くつくよ?」
「家久は黙っていなさいッ!」
「でもでも歳ねえ、筑前さんが持ってきた将軍家からの書状は本物だったでしょ。なら、ここで筑前さんをねちねち苛めていても仕方ないんじゃないかな?」
「苛めるなどと子供じみた言い方はおよしなさい。書状などいくらでも偽装することはできます。大友家は将軍家と深い繋がりがある家なのですからね。むろん、常ならば勅使を偽装するようなマネはしないでしょうが、滅亡さえ見えてきた今の状況を覆すためならば、あれらが手段を選ばない可能性は十分にあります」


「そのあたりは京よりお越しくださった上泉秀綱どのにお訊ねください。秀綱どのは義輝さまより直接に使命を授かった方です。歳久さまの疑いはすぐに解けることでしょう。使者も偽物ではないか、と疑われるかもしれませんが、秀綱どのの人品、剣聖としての技の冴え、いずれも容易に真似のできるものでは――」
「え? 筑前さん、秀綱って、もしかして剣聖の上泉秀綱さん? うわ、ほんとに本物の剣聖さまなの? うわうわ、ひ、弘ねえ、どうしよう? 一手、お手合わせ願えるかも!」
「家久ッ! 弘ねえも、何をそわそわしているんですか?!」
「で、でも歳ちゃんもとい歳久。本当なら千載一遇の好機じゃないかなもとい好機ではありませんか?!」
「弘ねえ、筑前さんには普段の言葉遣いを聞かれてるんだから、無理することないんじゃない?」
「うん、それもそうだよね、家ちゃん。で、天城どの、本当に本物の剣聖どのなの?」
「間違いなくかの剣聖、上泉秀綱どのですよ、義弘さま。なんでしたら稽古の件については、それがしから秀綱どのにお頼みいたしますが……」
「ぜひお願い!」
「弘ねえ! 天城も少し黙りなさいッ!」




 と、こんな感じでその後もてんやわんや、激しいやり取りが繰り広げられたのだが、そのあたりはキリがないので省くことにする。
 歳久が他の姉妹たちの説得を受け、なんとか俺への怒りを解き、講和に関して話ができるようになったのは、俺が島津の陣を訪れて半刻ばかり経った頃であった。
 逆にいえば、俺はその間、歳久の口から発せられる尽きることない言葉の濁流にひたすら耐え続けたのである。終わった後はけっこうふらふらであった。


 そんな俺の視界の片隅で、歳久と家久がなにやらこそこそと会話を交わしていた。
「想定外の嫌いな歳ねえが、想定外の塊な筑前さんに黙っていられないのはわかるんだけどさ、将軍さまの使者を言葉責めにするのはどうかと思うよ? 筑前さん、息も絶え絶えだし」
「さきほどの様子を見れば、気力も体力も充溢していた様子。交渉ごともまた戦なのですから、多少は弱らせてから事にあたるのが得策というものです。あれの口車にのってしまえば、骨の髄まで利用されてしまいますからね。あなたといい、久ねえといい、ついでに弘ねえも、色々と甘いですから」
「あれ、けっこう計算づくだったの?」
「当然です。この島津歳久が、己の感情にあかせて他家の使者と対するわけがないでしょう」
「ほー、へー。ふーん」
「……家久、言いたいことがあるのなら、はっきり口になさい」
「ううん、別に言いたいことなんてないよ?」


 なにやら歳久が仏頂面になり、家久が含み笑いをしている。
 気にはなったが、下手に口を挟むとやぶへびになりそうだったので、俺は見てみぬフリをすることにした。
 冗談ぬきで、交渉に費やす体力がなくなりかねなかったので。



◆◆



 勅使として島津の陣に赴くにあたり、俺は当然のように義久らを説くために知恵を絞った。
 勅使に任じられたとはいえ、それだけで島津が講和を肯うとは考えにくい。昨年の毛利のように、島津が将軍家の意向をはねつける可能性は高いのだ。
 なにしろ、今の大友家は四面楚歌としか言いようのない状況に置かれている。
 さきほどの義弘の台詞ではないが、大友家を討つにはまさしく千載一遇の好機といえるだろう。
 また、島津は南蛮軍の襲撃を受けて間もなく、臣民の間には南蛮軍への、そして彼らと深くつながっていた大友家への恨みつらみが満ち満ちている。島津家にとって、大友家と結ぶということは、そういった臣民の感情を真っ向から切り捨てることを意味するのである。
 一見のんびりとした義久だが、その内に宿す主君としての覚悟は花崗岩に優る硬さである。将軍家の意向と自家の臣民の意向が対立したならば、義久はためらうことなく後者を選ぶであろう。 


 ただ勅使として将軍家の威光を振りかざすだけでは講和を成立させることはできない。
 俺は、この講和が成立することで島津家が得る利益を説かねばならなかった。


 島津家は義久が当主となってからこちら、薩摩半国の領主に過ぎなかった。近年の戦乱に乗じてその勢力は飛躍的に拡大され、わずか一年たらずの間に薩摩の北部、大隅全土、さらには日向中部までを勢力下に置いたわけだが、南蛮軍の襲撃があったこともあり、これ以上戦を続けることは不可能とは言わないまでも、困難であろう。
 言葉をかえれば、島津の攻勢は限界に達しつつある。
 仮に国力にまだ余裕があるとしても、将兵の休息、さらに占領した地域を完全に自家の領土とするためにも、ある程度の時日が必要となろう。今回の講和は、その時間を島津家に与えることになるのである。


 しかし、これだけではいかにも弱い。
 これで島津が首を縦にふるのならば、勅使という肩書きすら必要ないわけで、これだけではとうてい島津を納得させることはできない。
 そこで俺が考えたのが、時を限ることであった。
 同盟の歴史は、一方的な破棄の歴史でもある。講和とは永久不変の平和を約束するものではない。いずれ破られるものならば、最初から期間を限定してしまえば良い。
 一年、二年は無理だろうが、二ヶ月、三ヶ月と限れば、島津の方にも一考の余地がうまれるだろう。


 ここで島津が矛を収めずに豊後まで侵入すれば、大友家も全力で抵抗する。
 その抵抗を島津が力でつぶし、豊後を制圧したとする。結果、島津家は毛利、竜造寺らと境を接することになる。いかに島津軍が精鋭であっても、ここまで連戦が続けばいかにも苦しい。当然、島津は自分たちの窮状を隠そうとするだろうが、しかし、毛利家も、竜造寺家も、そんな島津軍の状況に気づかぬほど無能ではない。豊後には彼らの情報源となる家がけっこうある。それは敵国に内実が筒抜けの今の大友家を見れば明らかであった。
 なにより、毛利にしろ、竜造寺にしろ、島津家の急激な抬頭を見過ごすことはあるまい。時間をおけば島津の支配はより強固になってしまう。島津を叩くのならば、早いに越したことはない。
 かくて大友家を滅ぼした三国は、今度は豊後の地を舞台にして、次なる争闘を開始することになる。
 九国の覇権を握るためのこの争覇戦、島津にとっては明らかに時期尚早であった。


 一方、ここで講和に応じて矛を収めれば、大友家は毛利、竜造寺との争いに注力することになり、島津は大友、毛利、竜造寺による血みどろの勢力争いから距離を置くことができる。どの勢力が勝ち残ろうとも、戦力を温存していた島津は、和戦両面で有利に事を進められるだろう。
 仮に大友家が勝ち残ったとしても、講和の期間をきちんと守れば、その後に矛を交えても破約にはあたらない。
 つまり、俺が用意したのは講和とは名ばかりの、あくまで戦力を回復させるための一時的な休戦。島津にとって、戦略的にも、戦術的にも、きわめて有用であるよう考えに考えた申し出であった。


 くわえて、これに勅使という肩書きを利用して、政略的な価値を添付する。
 薩摩、大隅、日向の三州制覇は島津の悲願であり、現状、彼女らはほぼ独力でそれを成し遂げたわけだが、まだ朝廷から正式に統治を許可されたわけではない。そのあたりを勅使たる俺から将軍に対して働きかける。
 これは別に俺が仲介する必要はないのだが、実際に島津が単独で請願するとなれば、相応の手間も費用も必要となる。だが、講和との交換条件という形で守護職に任じられれば、そのどちらもいらなくなる。実際、信玄が信濃守護に任じられたのは、幕府の調停にしたがって上杉・村上両家との講和を受け容れた時だった。
 この件で問題があるとすれば、むしろ俺にそこまでの権限があるかどうかだった。なにしろ俺が勅使に任じられたのは特例中の特例であろうから。
 ただまあ、そこまで細かいことは義久さまたちは知らんので、働きかけて駄目だった場合は諦めてもらおう。




 以上のことを、俺は多少のオブラートに包んで島津の四姫に説いた。
 語り終えると、四人はしばらく無言で俺の言葉を咀嚼していたようだったが、やはりというべきか、最初に口を開いたのは歳久であった。
「――天城。仮に島津が講和に応じたとして、あなたは私たちの動きを封じた二ヶ月ないし三ヶ月の間に、大友家が今の筑前の騒乱を鎮めることができる、と本気で考えているのですか? その上で、豊後の備えをかため、こちらの再侵攻を許さぬ防備を敷くことができる、と?」
 言葉は静かだが、歳久の眼差しは苛烈である。偽りを口にすることも、問いをはぐらかすことも許さない刃の煌き。


 その眼差しを受け止めた俺は、わずかにかぶりを振って率直に内心を語る。
「筑前に関しては二、三ヶ月で『鎮めることができる』ではなく、二、三ヶ月で『鎮めなければならない』と考えています。筑前の戦況は厳しい。成算がないわけではありませんが、まず間違いなく計算どおりには進まないでしょう。その後、再び相対した島津といかように渡り合うかについては、その時になってみなければわからない、というのが正直なところです」
「それはいささか正直すぎますね。疲れ果てた大友家が、我が島津に蹂躙される可能性も当然考慮しているのでしょう?」
「むろんでございます。そんなことにはならぬよう全力を尽くしますが、それでもその事態に至ったならば、その時には覚悟を決めて抗うことにいたしましょう」
 一呼吸おいて、歳久の口から予期せぬ問いかけがなされた。
「……雲居筑前ならば知らず、天城颯馬に大友家に殉じる理由などないでしょうに。たとえ九国の土と化そうとも、あくまで私たちと戦いますか?」
 一瞬、俺は相手の意図をはかりかねた。だが、別段迷うような問いでもない。俺は歳久にはっきりとうなずいた。
「御意。ただいま、歳久さまはそれがしが大友に殉じる理由はないとおっしゃいましたが、策をもてあそんだ挙句、逃げ帰るような無様を晒す理由はそれ以上にございませぬ」


 存分に戦えるようはからってもらった身である。それにふさわしい成果を示さずに、どの面さげて帰れというのか。
 そんな俺の内心を悟ったわけでもあるまいが、歳久はここで問いを打ち切った。
「……わかりました。では、下がりなさい。返答については明日あらためて――と言いたいところですが、おそらく結論が出るまで、それほど時はかからないでしょう」
 そう言うと、歳久は俺の背後を指し示し、下がるよう促した。
 俺としても言うべきことはすべて言ったので、ここで食い下がる必要はない。素直にうなずき、義久さまたちに一礼してから立ち上がった。




◆◆◆




「二ヶ月。後方を安定させるのに、それ以上の時間は必要ありません」
 天城が下がった後、島津の四姉妹は人払いをして陣幕の一つに集まった。
 その席で、歳久があっさりとそう口にしたことに、他の姉妹は驚きを禁じえなかった。
「あら、びっくりだわ。歳ちゃんは絶対に反対派だと思ってたのに」
 先ほどは一言も発しなかった(というか、発する暇がなかった)義久が、目を丸くする。
 その隣で、義弘も同感だ、と言いたげにうなずいていた。
「うん。私も歳ちゃんは絶対に反対すると思ってた」
「久ねえ、それに弘ねえも勘違いしないでください。私は将兵の休息、兵糧の補給、後方の整備などに必要な時間を試算しただけです。別に講和に賛成しているわけではありません」
 あくまで判断材料のひとつを提供しただけだ、と口にする歳久を見て、他の姉妹たちはこっそりと目線で語り合った。
(素直じゃないよねー、歳ねえは)
(そうよね、でもそこが可愛いわー)
(うんうん)


「――コホン!」
 聞こえよがしに大きく咳払いする歳久と、慌てて背筋を正す他三名。
 歳久はそんな姉妹を見てため息を吐きつつ、ただひとりの妹に視線を向ける。
「聞くまでもない気もしますが、家久の意見は?」
「あたしは賛成、というよりも反対する理由がないって言った方が正確かも。ここで将軍さまの調停に応じても、島津はなんにも失わないもん」
「何も失わない、ということはないでしょう。仮に大友が筑前での戦に勝ち抜き、豊後に強固な防備を敷けば、戦況は五分に戻ります。今、島津が握っている戦の主導権は失われることになるのですから」
 しかめ面で語る歳久を見て、家久は首をかしげる。
「んー、歳ねえは今の大友家にそれができると思う?」
「十のうち九……いえ、百のうち九十九までは無理でしょうね」
「百のうち九十九までは無理だけど、でもそれが実現する可能性は無視できない?」
「大国の底力、というものがあります。くわえて大友家の問題は当主にあり、逆にいえばこの問題さえ片付けば、三老や鬼道雪をはじめとして優秀な家臣を多数かかえる大友は脅威とするにたります。まして、そこに南蛮軍を撃破した智略が加わるのです、無視などできるはずがありません」


 ここで義弘が口を挟んだ。
「歳ちゃんとしては、ここで無理押ししてでも大友家をつぶしておきたいの?」
「本音を言えば、そのとおりです。しかし――」
「しかし?」
 歳久はため息を吐く。
「さきほど天城が口にしていたとおり、大友家をつぶして豊後を奪えば、その後に毛利なり竜造寺なりとの対立は避けられません。宗麟に反感を抱く者たちも、その全員が島津の支配をよしとするわけではないでしょう。となると、豊後を押さえておくことは、不可能とは言いませんが、かぎりなく難しい。大隅や日向の人心はまだ定まっていませんし、竜造寺あたりが肥後経由で薩摩を襲わないともかぎりません。あるいは、肥後の相良あたりが兵を発する可能性もありますね。無理押しをして大友家を討った挙句、他国にその成果を奪われ、あまつさえ本国を荒らされたとあっては、島津の名は愚者の代名詞となりかねないのです」


 それを聞き、義弘も難しい顔でうなずいた。
「薩摩も、北の方はまだ何かと騒がしいしね」
 次姉の言葉に、歳久は首を縦に振る。
 それだけの危険をおかしてまで、今の大友家を討つ価値があるのか。
 言明したとおり、大友家が勝ち残る可能性は百のうちの一か二に過ぎない、と歳久は見ている。島津が手を下すまでもなく、滅亡への路を転げ落ちる可能性の方がはるかに高いのだ。
 となれば、将軍家の調停に応じて時間を稼ぎ、今のうちに戦力を整える方が得策であろう。ついでに官位も賜れるとなれば文句のつけようがない。
 島津にとっては良いことづくめの提案であり、一方の大友家にとっては、わずかであれ滅亡を免れる可能性を得ることができる。
 あの能面の勅使が提案してきたのは、つまりはそういうことなのである。


 歳久は他者に動かされることを嫌う。これは歳久に限らず、策士をもって自任する者の通弊であろう。
 ゆえに、頷く以外にないような天城の提案に対し、歳久は反感を禁じえない。何かタチの悪い細工が施されているのではあるまいか、と疑ってしまうし、相手の裏をかこうとも考えてしまう。
 だが、そんな自分の狭量を制するだけの度量も歳久は持っていた。少なくとも歳久自身は持っているつもりだった。


「繰り返しますが、私はこの講和に賛成するつもりはありません。ですが、反対をするつもりもありません。賛成であれ、反対であれ、久ねえの決断に従います」
 その歳久の言葉に、義久はこくりと頷いた。
「うん、わかったわ。家ちゃんは賛成……でいいのかしら?」
「うん、いいよー」
「歳ちゃんはどっちでも良い、と」
「……せめて中立といってください」
「はいはい、歳ちゃんは中立、と。弘ちゃんはどっち?」
「私は賛成。兵のみんなに休養をあげたいし」
「はーい、弘ちゃんも賛成ね。ということは賛成ふたり、反対はなし、中立はひとりね」
 家久が目を瞬かせる。
「あれ、久ねえはどっちなの?」
「わたしはいつもどおり、頼りになる妹たちの判断に従って責任をとるだけよ。重臣の人たちにも意見を訊きたいところだけど、反対は無しだし、今回は私たちで決めちゃいましょう。というわけで、今回の講和は受け容れることに決定しましたー」




 わー、と両手を掲げる義久を見て、歳久は何度目のことか、ため息を吐いた。
「久ねえ、『決定しましたー』ではありません。受け容れるなら受け容れるで、細かい詰めを行わなければならないでしょう。むしろ大変なのはここからです」
「そこはほら、頼りになる歳ちゃんに任せるから、お姉ちゃんとしては何の問題もないのよ」
「つまり、私に全部押し付ける、と?」
「あ、あはは、歳ちゃん、目が怖いわ……」
 目を三角にする歳久と、その視線に押されてそそくさと姿勢を正す義久。


 そんな二人を見ていた家久が、義久を真似るように元気よく手をあげた。
「はーい、提案があります」
「はい、家ちゃんどうぞ」
 歳久の視線から逃れるべく、義久はすばやく家久に反応した。
「あのね、弘ねえは軍をまとめないといけないし、歳ねえは後方を固めないといけないよね。なら、大友家や筑前さんとの交渉はあたしがやろうと思うんだけど、どうかな?」
 予期せぬ家久の発言に、歳久はいぶかしげに眉をひそめた。
「……家久、何をたくらんでいるのですか?」
「たくらんでいるなんて人聞きが悪いよー、歳ねえ。別に何もたくらんでなんていないよ? ただ――」
「ただ?」
「相手が困っている時こそ、恩を売る好機だよね?」


 首を傾げてにこりと微笑む家久の顔は可憐の一語に尽きたが、生気に眩めくその瞳の奥には、なにやら端倪すべからざる智略の光が躍っているようであった……




◆◆◆


 


 日向国 ムジカ


 立花道雪は、自身に与えられた屋敷の一室で筆を執っていた。
 卓の上にはすでに何通もの書状が置かれており、表面の宛名には高橋紹運や戸次誾らの名が見て取れる。いずれも道雪が夜明けから今までの時間を費やして書き記した書状であり、いま記しているのが最後の一通だった。
 ほどなくして、最後の書状を書き終えた道雪は、それを懐に入れると、残りの書状を侍女に託し、何事か言い含めた。
 すべてを聞き終えた侍女は血相をかえ、激しくかぶりを振って道雪の命令を拒絶する構えであったが、繰り返し道雪に諭され、最後には力なく首を縦に振った。ただ、それはうなだれたようにしか見えない力ないものであった。


 そんな一幕の後、大聖堂へ赴いた道雪であったが、肝心の主君の姿が見当たらない。ふと心づいて信徒のひとりに訊ねてみると、案の定、礼拝の間で朝の礼拝を行っている最中であるという。
 道雪は車椅子を進めて大聖堂の一画へと向かう。
 知らされたとおり、大友家の当主である大友フランシス宗麟は、礼拝の間の奥に安置された聖像の前で、両手を組んで無心に祈りを捧げていた。
 東の方角から差し込む朝陽が荘厳な室内を照らし出し、その中央で一心に祈りをささげる宗麟の後姿を鮮やかに浮かび上がらせる。
 他にどのような欠点があったとしても、信徒としての宗麟の敬虔さは誰にも否定することはできないだろう。


 カタカタ……と、車輪が床を鳴らす音を聞きつけた宗麟は、ゆっくりと振り返り、そこに予想した人の姿を見出した。
 道雪は主君に対し、頭を下げる。
「申し訳ありません。礼拝の邪魔をするつもりはなかったのですが」
「かまいません、道雪。ちょうど終わったところですし、それに私も礼拝が終わったら、あなたを呼びに行かせようと思っていたのです」
 それを聞き、道雪はわずかに首をかしげた。
「何事か起こりましたか?」
「いえ、特別なことは何も。ただ、島津の動きが徐々にまた慌しくなってきました。道雪には私の側に控えていてほしかったのです」


 そう言うと、宗麟は道雪を真似るように小さく首をかしげてみせる。
「何かあったのか、と問うのは私の方です。何の用もなく、礼拝の間に来るようなあなたではないでしょう。何か変事が起きたのか、あるいは、私に話したいことがあるのではありませんか? 今のあなたはそういう顔をしています」
 道雪はわずかに目を瞠る。
「……驚きました。お見通しでいらっしゃいましたか」
「ふふ、余人なら知らず、幼い頃から共にすごしてきたあなたのことを、他の者たちよりも良く知っているのは当然のことでしょう」
 そう言ったあと、宗麟はやや面差しを伏せた。道雪の様子から、あまり心楽しくなるような話ではない、と悟ったのだろう。それというのも、今の道雪の哀切な表情は、諫言するときのそれと酷似していたからである。


 だが。
「諫言をするつもりはございません。むしろ、その逆になりましょうか。宗麟さまには、主君を謀っていた我が身の罪を裁いていただかねばなりませんから」
「主君を謀っていた、ですか? 我が身……道雪、あなたが?」
 驚きを禁じえない様子の宗麟に、道雪は深くうなずいてみせた。
「はい。ですが、その前にお伝えしなければならないことがございます。それも一つならず。まずはわたくしの語ることを聞いていただけますか」
 そういってから、立花道雪は語り始める。
 耳をそばだてて、それを聞く宗麟には知りようもなかった。これから聞く話が、立花道雪にとって、大友フランシス宗麟にとって、そして大友家にとって、転機となるものだ、ということを。




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第十章 天昇(三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:7a1194b1
Date: 2012/09/23 19:47


 岩屋城はその名のとおり、筑前国岩屋山の中腹に建設された山城である。岩屋山は北の大野山、水瓶山、大原山とあわせて四王寺山と総称され、古くは白村江の海戦で敗れた日本軍が、新羅、唐からの侵攻に備えるために大宰府を置いた地でもある。
 かつては名実ともに九国の中心だった大宰府であるが、時が流れ、多くの国々が興亡を繰り返す中で、その重要性は次第に失われていき、北部九州の政治的、経済的中心地は北の博多津へと移っていく。
 しかしながら、そのことにより、この地の軍事的価値が失われることはなかった。四王寺山周辺は、筑前、肥前、筑後の各勢力が境を接する角逐の地であり、ここをおさえておくことは、北部九州を制するにおいて必要不可欠な一手だったのである。


 竜造寺家が真っ先に岩屋城に兵を進めた理由のひとつはここにある。
 この地を大友家におさえられている限り、竜造寺家の筑前支配は夢想の域を出ない。逆にこの地を制圧できれば、筑前の中心地である博多津、立花山城への道は開かれ、さらに筑前、筑後の国人衆にも強い影響力を及ぼすことができるであろう。肥前一国の主で満足するならいざ知らず、九国征服を望む以上、岩屋城と宝満城、この二城を陥落させることは竜造寺家にとって避けては通れない道なのである。


 本拠地である佐賀城を雷発した竜造寺軍二万は、まず東に向かって筑後川に達するや、すぐに北上を開始。筑後川、ついで宝満川にそって軍を北に押し進め、大宰府跡に本陣を据えた後、岩屋城を完全に包囲下に置いた。
 この竜造寺軍の侵攻に対し、岩屋城に立てこもった高橋家の当主、高橋紹運はまったく動かなかった。より正確に言えば、動くことができなかった。岩屋城の兵はおよそ千五百、竜造寺軍の十分の一にも達しない寡兵であり、当主竜造寺隆信、軍師鍋島直茂、さらにはその配下の四天王らが勢ぞろいする竜造寺軍に対し、城外で戦を挑んだところで、いたずらに兵力を損じるだけであることは明らかだったからである。


 竜造寺軍に城を囲まれることは覚悟の上。紹運が寡兵で岩屋城に立てこもったのは、この城が大軍が立てこもるだけの広さがなかったためであるが、同時に自らを囮として敵勢力を岩屋城にひきつけるためでもあった。
 先の筑前動乱以後、大友宗麟が立花道雪と高橋紹運の両名に筑前の支配を委ねたのは隠れもない事実。竜造寺軍にとって、また他の反大友の国人衆にとっても、高橋紹運の首級は大きな意味を持つ。
 くわえていえば、紹運はいまだ道雪ほどの武名を勝ち得てはおらず、その分、敵方にとってはくみしやすいという印象を与えてもいた。その紹運が孤軍、寡兵で岩屋城に立てこもれば、敵は功名目当てに集まってくるだろう。必然、他の大友勢力に対する圧力は減殺される。
 そうして多数の敵を岩屋城に引きつけた上で、後方の宝満城と連携して包囲軍を撹乱し、勝機を探る。それが紹運の作戦だった。
 宝満城を預かるのは紹運の腹心である尾山種速、兵力はおよそ三千。先年、高橋鑑種が一万を越える兵力をもって挙兵したことを思えば、この兵力は少ないように思えるが、紹運が高橋家の当主となって半年と経っておらず、信頼できる戦力はごく限られていたのである。



◆◆



 筑前国 岩屋城


 竜造寺軍と大友軍。岩屋城の南大手門において、この両軍の死闘の幕は切って落とされる。
「かかれェッ!」
 竜造寺軍の先鋒を務めるのは、名高き竜造寺四天王の首座たる成松信勝。
 常は寡黙な信勝であるが、ひとたび合戦の場に立てば、その号令は雷霆となって戦場に響き渡る。
 成松勢は、まず挨拶がわりとばかりに筒先をそろえて城に鉄砲を射ち込んだ。
 耳をつんざく轟音が、人間だけでなく山野の動物たちをも震え上がらせる。百を越える銃口から発射された銃弾は、山間の空気を切り裂いて岩屋城に襲いかかっていった。


 その鉄砲隊の轟音が耳から去らぬうちに、成松勢の先鋒が喊声と共に突撃を開始する。
 彼らに向けて城内から鉄砲や弓による反撃が行われたが、竜造寺軍の勢いに臆したのか、統率を欠いた反撃はまったくといっていいほど効果をあげられなかった。
 否、統率を欠いたというよりは、単純に大手門を守る兵士が少ないのかもしれない。大手門に攻め寄せた成松勢はおよそ二千。すでにこれだけで城内の大友全軍を凌駕する数であり、一方、大友軍は城を完全に包囲した竜造寺軍に対処するため、山の各処に兵を配置せねばならず、ただでさえ少ない兵力を分散せざるを得ない状況に置かれていた。


 大友軍の反撃に対し、お返しとばかりに成松勢の鉄砲隊が再び咆哮をあげる。さらに今度は、それに続いて千を越える火矢が城内に向けて放たれた。
 分厚い城門や、頑丈な城壁はともかく、櫓や兵舎に火が回れば一大事である。一部の兵は突き刺さった火矢の始末にまわったが、これによって反撃はますます散発的なものとなっていく。
 大手門はいわば城の正門であり、岩屋城に限らず、どの城であっても厳重な防備がほどこされ、攻城戦においては激戦となることが多い。
 しかし、必勝の意気高く、昂然と刀槍を掲げて突き進んでくる竜造寺軍を前に、大手門の大友軍は完全に意気阻喪してしまったらしく、先鋒部隊はさしたる苦労もなく大手門へと到達することができた。


 そのあまりの容易さに、信勝は喜ぶよりもかえって不審を覚えた。知らず、眉間にしわが寄る。
 いかに兵力差があるとはいえ、大友軍はここまで脆いのか。
 並の相手ならば、彼我の圧倒的な戦力差を前に臆したと考えるところだが、今の戦況でなお大友家のために戦っている者たちが、この程度の不利で怯むとは考えにくい。あるいは大手門は早期に放棄して、竜造寺軍を城内に引きずり込むことこそ敵の狙いか。となると、この脆さは竜造寺軍に慢心を与えるための策かもしれぬ。
 信勝はそう考えたのだが、しかし、これはいささかならず気が早かった。
 大友軍の反撃は、成松勢が大手門に達した、まさにその瞬間から始まったのだ。


「――放てェッ!!」


 鮮烈な号令は、竜造寺軍の喊声を、そして山野に響く鉄砲の轟音をもたやすく貫き、敵味方を問わず、すべての兵士の耳にはっきりと轟いた。
 それまでろくな反撃を行わず、戦意を失ったかのように静まり返っていた城内から、すさまじいまでの銃声が沸き起こる。
 それは岩屋城城主 高橋紹運の直接指揮による反撃開始の合図であった。
 弓矢であれ、鉄砲であれ、険阻な山道の下方から上方へ向けられたものより、その逆の方が威力、精度ともに上回るのは当然のこと。ましてや、互いの顔が確認できるほどの至近に迫った敵に向けて射放つのだ。その命中率は竜造寺軍の比ではなかった。


 元々、南蛮との交易で国を富ませてきた大友家が保有する鉄砲の数は、九国はもとより、日本全国を見回しても随一といえる。あらかじめ篭城戦を想定していた紹運が、それに対する備えを怠るはずもなく、時に麾下の兵が音を上げるほどの訓練を重ねて今日という日に備えてきたのである。
 大手門に詰めている兵力はおよそ四百五十名。鉄砲の数は二百弱。
 成松勢二千は、不幸にもこの四百五十名の訓練の成果を我が身で確かめることになった。


 最初の一斉射撃で倒れた兵士は、軽く百を越えたであろう。
 さらに癇癪を起こしたかのように、続けざまに炸裂する鉄砲の音。
 紹運は最初の一撃の後は、あえて攻撃を揃えず、準備の出来た兵士から次々に撃たせた。その方が敵の士気を殺ぐのに効果的だと考えたのである。
 繰り返すが、外す方が難しい至近距離からの射撃である。あえて筒先を揃えずとも、命中させることは難しくない。鉄砲を持たない兵士は続けざまに矢を放ち、これも面白いように命中していく。
 成松勢は降り注ぐ矢弾の驟雨によってばたばたと地面に倒れ伏し、大手門前は瞬く間に血と臓物の臭いで溢れる戦場(いくさば)へと変じていった。



 
 苛烈な反撃を受けた竜造寺軍は一時騒然としたが、信勝が手ずから鍛え上げた精兵の立ち直りは早かった。
 もとより、反撃は覚悟の上の突撃である。成松勢は少なからぬ犠牲を出しながらも、大兵を利して城門を撃ち破るための準備を完了させた。
「報告ッ! 大手門前、確保いたしました!」
 伝令の報告を聞いた信勝は一度だけ大きくうなずくと、次なる命令を下した。
「よし。門壊を開始せよ」
「ははッ、門壊を開始いたします!」
 ここで竜造寺軍が持ち出したのは破城槌――というと聞こえが良いが、なんのことはない、大木を削っただけの木槌である。
 これを何十人もの兵士の力で城門にうちつけ、力ずくで門扉を破壊するのだ。


 とはいえ、門の破壊に取り掛かれば、大友軍の反撃はこれまでにもまして熾烈なものとなるだろう。
 門壊に従事する兵士たちを援護するために、信勝は自身の本隊を含めた後陣全体を押し上げた。城との距離をつめれば、竜造寺軍の鉄砲や弓矢も効果を発揮するようになる。そうなれば、大友軍の反撃も勢いを失おう。
 さらに信勝はいくつかの部隊に命じて、大手門近くの城壁に兵士たちを取り付かせる。二千の成松勢が一箇所に固まっていれば、大友軍も少ない兵力をそこに集中させることができる。逆に、分散して布陣すれば、向こうもこれに対応せざるを得ない。ほうっておけば、そちらの方面から城内に侵入されてしまうからである。


 まず、城を包囲することで敵部隊を分散させる。次に、攻め口を複数つくることでさらに敵兵を分散させる。信勝は、軍師鍋島直茂の指示に従い、兵力に優るという一事をこれでもかとばかりに活用し続けた。
 いかに大友軍精鋭なりといえど、これをやられては反撃にも限界がある。とはいえ、それで両手をあげて降参できる戦いではない。
 兵が足りないなら、一人が二人分の働きをすればいいのだ、とは紹運の側近である萩尾麟可の一子、萩尾大学の言葉であった。



 そうして、両軍が血みどろの攻防を続けている最中、信勝は前線の兵士から座視し得ない報告を受けた。
「城主が大手門の指揮を執っているだと。まことか?」
「はッ、門を指揮する女将の顔を見た者が間違いないと申しております。その者、以前、わずかですが大友家に仕えていたことがあるそうで、その時に見たスギサキの武人に間違いなし、と」
「……わかった。相手が高橋どのとあらば、大手門の反撃の凄まじさも頷ける」
 だが、城主が大手門の指揮を執るなど妙な話。もしここで紹運が討たれてしまえば、それで岩屋城はおしまいだろう。
 いっそ、そうするべく部隊を動かそうか、と信勝は考えないでもなかったが、しかし、下手に紹運の首級を目的にしてしまうと、功名に逸った将兵が勇み立って、かえって損害を深めてしまう可能性があった。
 ここは妙な欲を出さず、作戦どおりに兵を進めていくべきであろう。それこそが、もっとも大友軍にとって苦しい選択であるはずだった。
 そう考えた信勝は、さらに攻勢を強めると共に、岩屋城内の大友軍の注意が大手門に集中しつつあると見て取り、待機している僚将に伝令を飛ばした。
「江里口どのに伝えよ。攻撃を開始されたし、とな」



◆◆



 成松信勝からの命令を受け、勇み立った武将の名は江里口信常という。
 竜造寺四天王のひとりにして、円城寺信胤と並ぶ姫武将、竜造寺家の双華の一方である。さらにいえば、勇猛なること無比、との評を持つ家中一の勇将でもあった。
 攻撃開始を今か今かと待ち構えていた竜造寺家きっての勇将は、槍をしごきつつ口を開く。
「よっし、やっと来たか。成松どのだけで片付ける気かと思ったよ」
 信常はそういって破顔すると、自身に付き従う配下の顔を眺め、高らかに告げた。
「江里口隊、ようやっと出番が来たぞ! あたしに続けェッ」
 戦場の騒乱を貫いて響く信常の澄んだ号令。信常麾下の猛者たちは将の号令に喊声で応じ、真っ先に駆け出した主の背を追うように岩屋城へ向けて攻め上がっていく。
 この時、江里口勢が向かったのは大手門ではない。成松勢二千が寄せている大手門に、江里口勢二千が加わっては、敵前で味方同士がおしくらまんじゅうをすることになりかねぬ。 江里口勢が向かったのは、岩屋城を守る砦の一つ。大友軍が二条の砦と呼ぶ拠点であった。


 この江里口勢と相対したのは、この方面の指揮を任されている萩尾麟可である。
 将兵一丸となって迫り来る江里口勢を、萩尾は鋭い眼光で睨みすえた。萩尾の眉は猛禽が翼を広げたような形をしており、生来の眼光の鋭さとあいまって、見る者に精悍さを強く印象づける。
 その印象を肯定するように、萩尾の声は静かでいて、力強さと落ち着きを同時に感じさせた。わずか百名あまりの砦に、二千近い敵兵が迫っているというのに。
「江里口の跳ね馬どのか。相手にとって不足なし」
 そう呟いた後、萩尾は麾下の兵に命令を徹底させるべく、再度口を開いた。
「鉄砲隊、弓隊、ともに敵が二十まで近づいたら攻撃を開始せよ。ただし、敵が城壁に取り付いた後は弓鉄砲に固執するなよ。用意してある石も油も存分に使え。物を惜しんで勝てる相手ではない」


 と、兵に訓示する萩尾のすぐ傍らの垣楯に、敵の矢が音をたてて突き刺さる。おそらくは江里口勢の弓自慢が射たものであろうが、もうすこし狙いがそれていれば萩尾は射倒されていただろう。
 周囲の兵士は肝を冷やしたが、当の萩尾と、もうひとり、その傍らに控えている息子の大学は微塵も動じた様子を見せなかった。二人ともに、江里口勢が放ったその矢が届かないことを見切っていたのである。


 萩尾は垣楯に突き刺さった矢を無造作に引き抜くと、矢がまだ使い物になることを確認し、それをそのまま己が弓に番えた。
「父上」
 諌めるような息子の声に、萩尾は小さく笑った。
「なに、挨拶がわりだ」
 そして、敵陣に向けて矢を射返す。
 萩尾の弓勢は、紹運麾下の精鋭の中でも一、二を争う。放たれた矢は宙空を切り裂き、江里口勢の先頭を走っていた一人の兵士の額をものの見事に射抜いていた。



◆◆



 萩尾麟可の強弓を目の当たりにした大友軍から感嘆の声がわきあがり、反対に竜造寺軍からは驚愕の声がたちのぼる。
 江里口勢は止まりこそしなかったが、突撃の勢いはいささかならず殺がれてしまった。
 ほどなく両軍は城壁をはさんで激突したが、数に劣る大友軍を相手に、竜造寺軍は苦戦を強いられてしまう。さきほどの矢の応酬の影響が尾を引いていたこともあるが、なんといっても地形が悪すぎた。
 岩屋山は標高自体は大して高くないのだが、山中の地形は起伏に富み、岩屋城を難攻の要害に仕立てている。当然、防御拠点の縄張りにはこの地形が活かされているし、それ以外にも各処に大友軍の仕掛けが施されている。一朝一夕に拠点を奪えるものではなかった。


 江里口勢の苦戦を後陣から見やり、困惑したように頬に手をあてたのは円城寺信胤である。
「あらあら、エリちゃんが大変そうですわ。といって、成松さんに待機を命じられているわたくしが勝手に隊を動かすわけにもいきませんし」
 そういいつつ、円城寺の弓姫は背負った矢筒から一本の矢を取り出す。他の矢よりも一際長く、頑丈であり、矢羽には鷹の尾羽が使われている最上級の一品である。一家の主である信胤といえど、そう何本も持てる物ではない。真紅に塗られた矢柄の中ほどに、鮮やかな黒文字で「円城寺信胤」の名が明記されているのは、稚気に駆られてのことだろうか。


「堅物の成松さんとはいえ、この程度の独行は大目に見てくれましょう」
 よいしょ、と気の抜けた声で、信胤は弓に矢を番えた。
 周囲の兵士がこれに倣おうとしないのは、到底城に矢が届く距離ではないからだが、信胤はなんら気にすることなく、視線を城壁上の萩尾麟可に据えた。
 ――瞬間。
 信胤の瞳が底光りする。寸前まで漂わせていた暢気さは一瞬のうちに霧散し、残ったのは息をのむほどに張り詰めた空気だけ。


 信胤は矢を放つ。力みはなく、気合もなく、まるで稽古場での試し矢のようなそれは、だが、信胤の弓からはなれた途端、まるで命を得たかのようにすさまじい勢いで宙空を駆け抜ける。あたかも迅雷のごとく、放物線を描かずにまっすぐに。その弓勢は、さきほどの萩尾麟可のそれを明らかに上回っていた。
 警戒していたのならばいざ知らず、通常射程の外からこの矢に狙われてしまえば避けようがない。江里口ら四天王をして「胤(どの)が敵でなくて良かった」としみじみ語らせる、これが円城寺の弓姫の神技であった。



 そうして、矢は狙いたがわず萩尾麟可の胸を射抜く――はずだった。
 しかし、寸前、動いた者がいた。
 父の傍らにいた萩尾大学は、視界の端できらめく真紅の輝きに気づくや、ほとんど反射的に刀を一閃させていた。
 その刀は確実に信胤の矢を捉え、それを見ていた信胤は思わず目を丸くする。
 並の矢であれば、大学の一撃で砕き折られ、萩尾麟可は無傷で済んだであろう。
 だが、信胤秘蔵の一矢は弓勢の助けもあり、わずかに狙いをそらしたものの確実に萩尾の左肩を射抜いていた。


 もんどりうって倒れる萩尾の姿を見て、城壁上の大友軍が目に見えて動揺する。
 反対に竜造寺軍からは、江里口、円城寺勢を中心として大きな歓声がわきおこったが、その歓声を浴びる信胤の顔は、いまだ矢を射た時の迫力を保ったままであった。
「……すごいですわね。この戦況で、この距離ならば、わたくしの姿に気がついていたということもないでしょうに」
 確かに信胤の矢は目立つが、弓勢を考えれば、宙空を駆ける矢を見てから刀で迎え撃つことなぞ出来るはずもない。
 しかし、今しがた、あの若者は確かにそれをしてのけた。おそらくは、咄嗟に振るった刀がかろうじて当たったのであろうが、それにしてもあの反応の速さは尋常ではない。
 信胤が、弱冠にして高橋家屈指の武勇を謳われる萩尾大学の名を知るのは、もう少し先のこと。
 この時、信胤は自身の矢に触れた若者の名を知らず、知らぬままにこの合戦の行く末に好ましからざる予感を抱いていた。


「これでエリちゃんも少しは攻めやすくなるでしょうけれど……」
 眼前で指揮官を射倒された大友軍の混乱をついて砦に迫った江里口勢は、次々に梯子を立てかけて城壁を攻め上っていく。
 だが、その前に立ちはだかったのは、やはり先の若武者であった。
 何かを声高に叫びながら、押し寄せる江里口勢を次々に切り倒していく。その奮戦を見て、城壁上の大友軍の混乱が、徐々にではあるが静まっていくのが信胤にははっきりと見て取れた。それどころか、射倒したはずの敵将萩尾麟可までが、負傷を押して兵士たちを指揮しはじめているではないか。
 信胤は再び背の矢筒に手を伸ばしかけたが、すでに江里口勢の何人かは城壁上に達しており、混戦は刻一刻、その激しさを増しつつある。弓姫といえど、さすがにこれではどうしようもなかった。  


 信胤は、ほぅっと息を吐き、背にまわした手をもとに戻す。
 すると、寸前まであたりに満ちていた重圧が夢であったかのように消えうせた。近くにいた円城寺の兵士のひとりが、安堵したような吐息をこぼす。
 それに気づかなかったのか、あるいは気づいていても咎めだてすることではないと考えたのか。信胤は弓をしまいながらひとりごちた。
「……もとより、容易く城が落ちると考えていたわけではありませんけれど、これは少々本気でてこずりそうですわね。百武さんと木下さんの二人に期待……しても良いものかどうか」
 信胤はうーんと首をかしげる。
 百武賢兼と木下昌直の二人は、岩屋城の裏手にまわり、そちら側からの攻撃が可能かどうかを調べている。百武はともかく、何かと騒がしく、ついでに手柄にうるさい木下を裏手にまわしたのは鍋島直茂の判断である。
 なにかと予想外の行動をとる木下ならば、正統派の武将である百武には思い浮かばないような奇想や発見があるかも、と期待してのことだった。より正確には、木下本人にはそういう説明がなされていた。


「あれはあれで偽りではないでしょうが、軍師さまは手柄に逸った木下さんが猪突して討たれる可能性をおもんぱかったのでしょう。となると、やはりある程度の苦戦は予測されていた、ということですわね」
 問題は、岩屋城の抵抗が直茂の予測の内に収まるものであるか否か、その一点。
 そんなことを考えつつ、信胤は行儀良く床几に腰を下ろす。
 成松信勝からの命令が来るとしたら、味方に攻め疲れの色が出てきた頃合だろう。となれば、今しばらくは敵味方の動きを観察しつつ、英気を養っておくべきだった。



◆◆



「そんなことより夜襲しようぜ!」


 もう何度目のことか、木下昌直が夜襲を主張するのを聞き、百武賢兼は内心で深々とため息を吐いた。
 聞き分けの悪い僚将に対し、勝手にしろと言ってやりたいところだが、一見粗暴に見えて、その実、思慮分別に富む賢兼は、鬼面の軍師が自らに課した役割を承知していた。昌直の短慮を掣肘する、という役割を。
「だから何度言ったらわかる、木下。わしらの任務は裏手からの攻撃が可能かどうかを調べることであって、実際に攻めよとは鍋島どのは一言もおっしゃっていなかったろうが」
「んなこと言ってたら、手柄なんていつまで経ってもたてられねえじゃんか。もうじき日が暮れちまうけど、まだ城は落ちてねえ。つまり、成松どのたちはしくじったってことだろう? ここで俺たちが城を落とせば一番手柄間違いなしだぜッ」
「確かにな。だが、落とせればの話だ。ただでさえ夜襲は危険が大きい。まして不案内の山中をのろのろ攻め上ってみろ。敵にどうぞ討ち取ってくださいと言うようなもんだ」
「はッ! そんなもん、奴らが迎え撃つ暇もないくらい、速攻で攻めれば良い話だろうが!」
「それができれば、誰も苦労せんわ」
「俺ならできる! だから夜襲しようぜ!」


 いっそ堂々と胸を張って断言する昌直を見て、賢兼は半ば本気で言うとおりにさせてみようかと考えてしまった。痛い目にあって突撃癖が矯められれば幸い、討たれたとしても昌直の自業自得というものだ。しかし、道連れにされる兵士たちが気の毒だと思い、危うく踏みとどまる。
 その賢兼の顔を見て何を思ったのか、昌直は真面目な顔で言い足した。
「いや、けど実際さ、成松どのにエリさんに胤さんが攻めて、一日で落ちなかった城だろ? まともにやってたら、落ちるまで何日かかるかわかんねえよ。いつだったか軍師どのが、奇襲ってのは予想できない所から攻めるから奇襲なんだって言ってたけどよ、百武の旦那から見て夜襲が無謀だってんなら、敵さんもおんなじこと考えてんじゃねえかな。だったら、ここで攻めれば敵さんの裏をかけるだろ?」


「ほう」
 思わず、賢兼の口から感心したような声がこぼれた。
「お前さん、案外いろいろと考えているんだな」
「そりゃま、俺だって竜造寺四天王のひとりだからな。ちったあ物を考えるさ」
 ふふん、と胸をそらす昌直を見て、賢兼は意地悪く笑う。 
「なるほど、胤どのの薫陶の賜物だな」
 ひいては軍師である直茂の配慮のおかげでもあろう。賢兼が内心でそう付けくわえる。
 一方、昌直は酢でも飲んだような顔で言葉に詰まっていた。
「う……い、いや! そらまあ多少は胤さんのおかげってのも否定はしねえけど、大半は俺の努力のなせる業ってやつで、はっきりいっちまえば胤さんに要らない世話を焼かれたみたいなもんよ!」
「ほうほう。では胤どのにはそう伝えておくか。一言一句、正確に」
「やっぱり胤さんのクントーあっての俺だぜ! 弓姫さま万歳ってなもんよッ!!」




 そんなしょーもない会話を交わしつつも、そこは竜造寺軍でもその名を知られた二人である。きちんと任務は遂行していた。
 しかし、成果の方に関しては今ひとつ、というしかない状況だった。
 大友軍の警戒は城の裏手にも及んでおり、要所要所に築かれた拠点には少なくない数の兵が篭っている気配が感じられる。
 偵察、ということで、賢兼と昌直が率いてきた兵力は百名あまりしかおらず、これでは攻めようがない。しかし、仮にこの十倍の兵を連れてきて攻めかかったとしても、一日二日では拠点のひとつも奪えないだろう。賢兼はそう見て取った。
「見事な縄張りだな。高橋紹運、あの宗麟が鬼道雪と共に筑前の守りを委ねただけのことはあるようだ」
「そうかい? 力ずくで攻めたてりゃ、なんとでもなる気がするけどな」
「ま、それも間違いではない」
 昌直の反駁を、賢兼はあっさりと受け容れた。


 賢兼にかぎらず、竜造寺軍の諸将は、岩屋城の堅固な防備を見て苦戦は免れないと考え始めている。しかし、それは「城を落とせない」という判断とはまったく別のものであり、時間と兵力を費やせば必ず落とせるという自信はゆるぎないものだった。
 おそらくは十日、てこずったとしても半月。それが賢兼の考える、岩屋城を落とすために必要な時間である。
 しかし。
「時も兵も貴重なものだが、わけても今回はそうだ。岩屋城を落とすのは対大友戦の緒戦だからな」
 岩屋攻めの後には宝満城攻めが待っているし、さらにその次は立花山城だ。戦況によっては、豊後になだれ込むことも十分に考えられる。こんな小城で時間と兵力を損じるのは避けたいと考えるのは当然のことだった。


 むろん、それは竜造寺軍からみてのことであり、大友軍はまったく逆のことを考えているだろう。
 そして、現在の戦況は大友軍の想定どおりに進んでいる。これを覆すには、あるいは昌直が口にした夜襲のような、予想外の一手が有効かもしれぬ。
 いつか真剣に昌直の言葉を考慮しはじめた賢兼。その耳に、不意に素っ頓狂な昌直の声が飛び込んできた。
「お……お、おォ?! 旦那、百武の旦那! あれ見てくれッ!」
「なんだ木下、やかましいぞ。敵に気づかれたらどうする……って、なにィッ?!」
 面倒そうに昌直を見やった賢兼は、その指差す方角を見て、寸前の自分の注意を忘れ、昌直にまけずおとらずの素っ頓狂な叫び声をあげてしまった。


 今、二人は岩屋城の裏手――岩屋山の北側の山腹を、城への攻め口を探してうろうろしている。
 そして、この岩屋山から平野ひとつをはさんだ向こうの山が宝満山であり、その山頂に宝満城が存在する。
 つまるところ、地勢や草木の繁茂具合にもよるが、岩屋山から宝満城を望むことは可能なのだ。もちろん、宝満城は遠く山頂にあるのだから、細かいところまでは観察しようもないが、それでも。


 暮れ行く空の下、彼方の宝満城が炎に包み込まれている光景は、見紛いようがないものであった。




◆◆◆




 大友軍にとって、そして竜造寺軍にとっても予想外の出来事であった宝満城の陥落。
 その経過は次のようなものであった。


 先の筑前の乱の後、宗麟の命によって高橋家を継いだ紹運は、高橋家の旧臣の多くを以前と同じ俸禄で召抱え、これまで紹運を支えてきた家臣たちとまったく同じ待遇を与えた。
 家臣の間で諍いが起きれば、情をはさまずに公平に判断を下し、その公平さは、たとえ処罰される側が古くから自分に付き従っている者であっても損なわれることはなかった。
 当初、高橋家の旧臣たちは紹運の言動に懐疑的であったが、しかし、大友家の筑前支配の基を固めるべく、日々領内を奔走する紹運の傍にいれば、その誠実な為人が利害や打算にもとづくものでないことは自ずと伝わってくる。
 紹運の公明正大な態度は、ゆっくりと、しかし確実に、旧臣たちの疑心を溶かし、わだかまりを解き、高橋家は新たな当主の下、新旧の垣根を越えて結束を固めていった。


 だが、すべての対立が解消されたわけではなかった。
 北原鎮久という人物がいる。先の高橋家の重臣、つまりは立花鑑載と共に謀反を起こした高橋鑑種(あきたね)の家臣であり、先ごろの合戦では宝満城を主君から預かっていた人物である。
 本城を主君から託されたことからわかるように、鎮久は高橋鑑種の下では重臣筆頭というべき地位にいた。だが、その後、主君鑑種は大友軍に敗れて行方知れずとなり、立花山城は陥落。さらに秋月軍が敗れ、毛利軍が筑前から手を引くに及んで、完全に孤立した鎮久は、旧領安堵を条件に大友家に下り、そのまま紹運の麾下に編入されていた。


 そして、この北原鎮久を、紹運は腹心の尾山種速、萩尾麟可に並ぶ重臣として取り立てたのである。
 鎮久は「勇あって智なく、貪欲無道」と称される為人であり、反乱における進退から、その評が偽りでないことを紹運は承知していた。にもかかわらず、紹運が鎮久を重用した理由は幾つかあるが、その最たるものは重臣筆頭であった鎮久を重んじる姿勢を見せることで、他の旧臣たちの心を慰撫するためであった。反乱に深く関与していた鎮久が、新たな高橋家の中できちんとした席が与えられているところを見れば、他の旧臣たちの不安も和らぐであろう。


 そして、この紹運の配慮は、少なくとも当初は有効に作用する。
 鎮久は立花、高橋両家の反乱を瞬く間に鎮圧し、さらには毛利、秋月勢をも退けた立花道雪の武威には心底から恐れ入っていたし、紹運の計らいには恩も感じていた。また、若年とはいえスギサキたる紹運の武勇を聞き及んでもいたので、その下につくことに関してはさしたる抵抗を覚えなかったのである。
 だが、紹運の側近である尾山種速、萩尾麟可らと同列に扱われることについては、口には出さないものの不満の色をちらつかせていた。
 紹運の下につくのは良い。だが、長らく高橋家の重臣筆頭を務めていた自分が、どうして身代、家格ともに自分に遠く及ばない尾山、萩尾づれと肩を並べなければいけないのか、と。


 その不満がはっきりとしたものに変じたのは、やはり紹運が宝満城の城代に尾山種速を指名した後であろう。紹運にしてみれば、自身が岩屋城に赴くにあたり、もっとも信頼できる人物に宝満城を託すのは当然のことであったが、鎮久にしてみれば、自身が尾山の下に置かれるこの人事は承服しがたいものであり、何かと理由をつけては尾山の指示に逆らうようになった。
 尾山はモノのわかった人物なので、常日頃は鎮久を立てて不満をなだめていたのだが、戦雲が筑前の地を急速に包み込んでいくにつれ、それも難しくなっていった。
 ことに今回の戦は厳しい戦況となることが予測されており、紹運から宝満城を託された尾山は、城代として城内を厳しく統制せざるを得ず、結果、鎮久にとっては不快感の募る日々が続くことになったのである。



 ――そんな鎮久の心情を、城の外から的確に見抜いている人物がいた。
 筑前国人衆のひとり、秋月種実(たねざね)である。
 高橋家は、立花家と並ぶ大友家の両翼として、秋月家とは幾度も矛を交えている。当然のように、両家は互いの軍法や陣立て、あるいは重臣たちの人柄等を熟知していた。
 当主である種実は長らく安芸国で毛利家の庇護下にあったが、重臣の深江美濃守らからそういった情報は細大もらさず聞き出しており、北原鎮久の為人もよく心得ていた。


 毛利隆元、吉川元春と共に筑前に侵攻した種実は、国境で隆元らと別れると、密かに秋月家の旧領に潜伏する。この時、秋月家の居城であった古処山城は大友家の所有となっていたが、今回、種実はそちらには手を出さず、宝満城の攻略に専念した。
 古処山城を落とすことは可能だが、そうすると種実が秋月領に舞い戻ったことが大友方に知られてしまう。結果として、宝満城の備えがより堅固になってしまうだろうことを種実は案じたのである。


 種実に作戦を説明した際、毛利隆元は次のように言った。
「毛利軍が立花山城を包囲し、その一方であなたがたが宝満城を陥落させれば、古処山城の大友軍は孤立します。古処山城に援軍を派遣できる大友軍は、少なくとも筑前にはいません。彼我の戦力を鑑みた場合、彼らは降伏しなければ豊後に退却するでしょう。あくまで城に立てこもって抗戦する可能性はごくごく低いと見て良いです。ですから、種実、古処山に秋月の家紋を翻らせるのは、それを確認してからにしてください。その慎重さを見て、あなたを迂遠だと笑う者がいたら、私がとっちめてあげます」
 だから、急いて事を仕損じることのないように。
 そう優しく諭す隆元の前で、種実は深々と頭を下げる。
 先の合戦の折、家名の復興を焦るあまり、性急に戦を進めて痛い目にあった種実は、同じ過ちを繰り返すつもりは微塵もなかった。


 ……ちなみに、この種実の素直な態度について、毛利姉妹の下の二人は陰でこんな会話をかわしている。
「もう一回同じことを繰り返したら、隆ねえ、今度こそ本気で怒るだろうから、種実くんも気が気じゃないだろうね」
「うむ。先の合戦では、半日にわたる説教を受けて種実は干からびていたからな。姉上が本気になれば、説教は一昼夜は続く。種実としては、そんな事態は是が非でも避けたかろうよ」
「……ま、種実くんじゃなくても避けたいけどね、そんなの。隆ねえのお説教の長さって、あれ絶対に広じい(毛利家重臣 志道広良)の影響だよ。春ねえもそう思わない?」
「……同意せざるを得んな」
 
 


 ――宝満城で不遇をかこつ北原鎮久の下に、秋月家臣 内田善兵衛が訪れたのは、それから間もなくのこと。
 善兵衛を迎え入れた鎮久は、自らの不満を掌をさすように言い当てられて驚愕する。そして、内通を勧める善兵衛の言に、さして迷うことなく頷くのである。
 もとより一度は大友家に叛旗を翻した身。その軍門に下ったとはいえ、前非を悔いたわけではなく、道雪ひとりの武威に抗しかねてのこと。命を捨てて大友家のために戦う気などあろうはずもない。毛利の大軍がすでに筑前に侵入したと知ればなおのことである。
「立花鑑載どののように、ただ一度の敗北で諦めて死を選ぶはおろかなこと。世に臥薪嘗胆という言葉もあるではないか。わしは宗麟めを討つために、ほんの一時、膝を屈したフリをしておっただけよ」
 鎮久はそう言って、善兵衛から伝えられたとおりに内通の準備を始める。


 だが、結論から言えば、鎮久の蜂起は失敗に終わる。
 鎮久の不満を承知していた尾山種速は、この高橋家の旧臣に絶えず注意を払っており、鎮久の内通の動きをいち早く察した。
 もっといえば、尾山はいずれ必ず鎮久が叛くであろうと確信しており、それを取り押さえることで処断の口実にするつもりであった。二度にわたる謀反の末であれば、鎮久の首を斬ったところで、それも致し方ないこと、と他の旧臣たちも納得するだろう。
 仮に彼らが納得しなかった場合は、紹運に請うて尾山自身を処断してもらえば良い。そうすれば旧臣たちの不満は消え、紹運の下で人心はまとまろう。それが尾山の考えだった。


 しかし、この尾山の目論見もまた失敗に終わるのである。
 正確に言えば、鎮久の内通を未然に防ぐまでは上手くいった。一夜、鎮久は尾山を捕らえるべく手勢を動かそうとしたが、この事あるを予期していた尾山に機先を制され、逆に捕らわれの身となってしまう。尾山はこの時点で、秋月の謀略を打ち砕いた、と考えた。
 だが、それこそ毛利、秋月が仕掛けた陥穽であった。
 秋月の策動を制した尾山の胸中に生じた、弛緩という名の虚。
 それに乗じて動いた者の名を高橋鑑種という。行方知れずとなっていた、先の高橋家当主その人である。


 元々、毛利家は高橋鑑種と交誼をもっており、先の乱の後、密かに人を遣わして鑑種を匿っていた。秋月種実が北原鎮久に内通を働きかけた一連の動きは、この切り札を隠すための、いわば陽動に過ぎなかった。
 尾山が鎮久を取り押さえた、まさにその直後、山間の抜け道を通って城内に侵入した鑑種の手勢により城に火が放たれ、混乱はたちまちのうちに拡大してしまう。
 鑑種の手勢は勝手知ったる城内を瞬く間に制圧していき、これに応じて城外からは秋月勢が攻め寄せる。また高橋家の家臣の中には、旧主鑑種の帰還を知って動揺する者も少なからずおり、攻め手の側も声高にその事実を叫びたてて城兵に降伏を促していく。
 短くも激しい戦闘の末、尾山は抗戦の不可を悟り、砕かんばかりに奥歯を噛み締めながら全軍に退却の命令を下す。そして、自身も側近の兵と共に宝満城から落ち延びていった……



 かくして、宝満城は陥落する。
 この報せを受けた古処山城主 朽網鑑康(くたみ あきやす)は、あまりに突然の事態に言葉を失う。
 鑑康は宗麟の麾下として長年尽力してきた老練な武将である。宗麟への忠誠心は篤く、また家中ではめずらしく、高位にありながら南蛮神教にも理解を持っていた。その篤実な性格と、柔軟な思考を見込まれて古処山城を任された鑑康であったが、その彼をして一夜で宝満城を失った衝撃は決して軽いものではなかった。
 さらに続報として、立花山城が毛利軍の重囲に置かれたことが伝えられるに及んで、鑑康は古処山城の放棄および豊後への退却を決断したのである。


 宝満城を落とし、古処山城へ向けて進軍を開始していた秋月種実は、途中、城を守る大友軍が火を放った後、退去したことを知る。 
 これにより、宝満城は高橋鑑種が、そして空になった古処山城へは秋月種実が入り、豊後から立花山、岩屋、両城に至る経路は完全に封鎖された。いまだ二城は陥落を免れているものの、援軍のあてはなく、連携をとることもできない状況では反撃のしようもない。
 ここにおいて、筑前の戦況はその大勢を決したかに思われた。  





[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第十章 天昇(四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:7a1194b1
Date: 2012/10/07 16:25

 岩屋山南方 竜造寺軍本陣


「――以上が、先刻、高橋鑑種どのの使者が口にした、宝満城陥落の顛末です」
 鍋島直茂が語り終えると、集まった竜造寺家の諸将は一斉に口を引き結んだ。
 厄介な敵城の一つが味方の手で落ちたのだからめでたいこと――などと考える者は、この場にはいない。木下昌直でさえ渋面になっている。
 直茂は高橋鑑種の名前を出したが、城を落としたのが実質的に毛利軍であることは明白である。今回は対大友の一点で協調しているとはいえ、竜造寺家と毛利家が将来的に九国の支配権を巡って対立することは避けられない。
 毛利に先んじられたことで、竜造寺は戦略的に一歩も二歩も出遅れたことになった。ただでさえ、数カ国を支配する毛利と、肥前一国をかろうじて支配している竜造寺とでは国力が違う。その上、戦略でも先んじられてしまえば、最悪、挽回が不可能になる可能性すらあった。


 昌直が盛大に舌打ちする。
「ちッ! 岩屋と宝満はこっちの獲物だろう。これは盟約に反することじゃないんですかい、軍師どの?!」
 それに対し、直茂はゆっくりとかぶりを振った。
「そこまで細かな取り決めはしていません。それをしてしまうと、毛利家の方は『立花山城と博多津はこちらのもの』という条件を出してくることが目に見えていましたから」
 江里口信常が小さく肩をすくめた。
「このあたりも重要な土地ではあるけど、さすがに立花山と博多、この二つと引き換えにできるもんじゃありませんね」
「ええ。それゆえ、大友領は切り取り自由、ということにしていたのですが……」
「おかげで安芸の謀将さまは、遠慮なくこちらにまで手を伸ばせた、ということですわね」
 ころころと円城寺信胤が笑う。


 それを見て、百武賢兼が眉間にしわを寄せた。
「胤どの、笑い事ではないぞ。使者の言ったことが事実なら、毛利は自家の兵を使わずに宝満城を落としたことになる。一方の我らは、四天王がそろいもそろって宝満城の出城ひとつ落とせなかったときている」
「あらあら、それはわたくしやエリちゃん、成松さんの戦ぶりが不甲斐なかったという非難ですの?」
 にこりと微笑む(その実、目はまったく笑っていない)信胤の顔を見て、賢兼は大慌てで首を横に振った。
「い、いや、まさか! ちゃんと『四天王がそろいもそろって』と言ったでしょうが! 俺も木下も、ろくにお役目を果たせなかったのだからして、それを棚に上げて僚将をとがめだてしたりはしませんよ!」
「わかっておりますわ。大きなお顔が団扇の代わりになりそうなくらい、一生懸命かぶりを振らなくても結構でしてよ。冗談です、冗談」
「冗談なら、もうちょっとわかりやすくお願いしたいですな……」
 思わず額の冷や汗を拭う賢兼だった。


 その後、諸将はなんとはなしに口を噤み、本陣に沈黙の帳が降りる。
 各々、宝満城のことで考えるところがあったのは事実だが、それだけではここまで沈黙は続かない。諸将のいぶかしげな視線が集まった先は、本陣の中央に座る主君 竜造寺隆信であった。
 隆信は決して暴虐の性質ではないが、その為人に直情径行な部分があることは何人も否定できない事実である。賢兼の言葉ではないが、竜造寺家の四天王が総力を挙げて攻めたというのに、岩屋城のような出城ひとつ落とせなかったという事実は、当主たる隆信にとって到底座視しえない結果であったはず。常の隆信であれば、家臣の不甲斐ない戦いぶりに激怒し、大声で怒鳴り散らしていてもおかしくはなかった。


 しかし、隆信は諸将が口を開いている間も、目を閉じ、口を閉じ、まったく反応らしい反応を示さない。明らかに不機嫌そうな顔はしているのだが。
「……まるで熊の置物ですわね」
 とは信胤のひとりごとである。
 ともあれ、そんな隆信の様子を家臣たちはいぶかしんだ。ことに、成松、江里口、円城寺の三人は、表面上はどうあれ、昼間の合戦で岩屋城を攻めきれなかったことに責任を感じており、隆信からの叱責を覚悟してこの場に臨んでいたから尚更であった。


「あ、あのー、殿。その、昼の戦、まことに不甲斐ない結果になってしまって、申し訳ございません……」
 沈黙に耐えかねた江里口信常が、意を決しておそるおそる口を開くと、隆信は片目を開けて家臣たちを睥睨した――が、その口から出た言葉は案外穏やかであった。
「かまわん。城が落ちなかったのが、おぬしらの怠慢のせいだというならただではおかんところだが、わしが攻めておっても、おそらく一日では落とせなかったろうよ。敵将の高橋紹運と申したか、なかなかやりおるわい」
 そういって、不機嫌な表情をわずかに崩して口元を緩ませたところを見るに、隆信はよほど敵将の戦ぶりが気に入ったらしい。


 ここで、信常とまったく同じように木下昌直が戦々恐々としながら口を開く。
「で、では、殿はなんでそんなに不機嫌そうなんですかい? やっぱ毛利の奴らに腹が立っていなさるんで?」
「毛利なんぞに腹を立ててどうする。あのようにうねうねした連中が何をしてこようと、今さら驚きも怒りもせんわ。わしが腹を立てておるのはな、昌直、わしの義妹がまたわしを騙しおったことに気づいたからだ」
「へ? 義妹ってーと……軍師どのですかい?」
「他に誰がおる?」
 ふしゅー、と鼻から荒い息を出す竜造寺家当主。
 どうやら、さきほどまでの沈黙は、半ば以上直茂に対するあてつけであったらしい。


 それと悟って(というより最初からわかっていたのかもしれないが)鬼面からのぞく直茂の口元が笑みを形作った。
「殿、騙していたとは人聞きが悪いですよ」
「他に言い様があるか、策士めが。義兄にして主君たるわしを、何度あざむけば気がすむのだ?! 先の戦ではろくに戦わぬうちに退かせよった。ゆえに此度こそは大友を滅ぼし、九国の北半分を我が物にせんと腕を撫しておったというのに、貴様、はなっからその気はなかったのであろうが?!」
「その点についてはご容赦ください。此度もろくに戦えぬ、とあらかじめ告げていれば、殿は佐賀城から動いて下さらなかったでしょう。ですが、わたくしが心から殿と竜造寺家のためを思って謀っておりますこと、これはまことにございます。そのことだけは、どうかご理解いただきたく」
「ふん、しおらしげに言いおる。だが、これでわしがへそを曲げたら、母に泣きつくつもりなのであろうがッ」


 この時、隆信の物言いがどことなく拗ねて聞こえたのは、家臣たちの気のせい――というわけでもなかった。
 隆信が母である慶誾尼(けいぎんに)に頭があがらないことは周知の事実であり、そして、その慶誾尼が、まだ幼かった直茂の器量を見込んで、直茂の父 鍋島清房のもとにおしかけて女房になったことも、これまた周知の事実だったりする。
 この義理の兄妹に感情的なしこりが生じた場合、慶誾尼がいずれに味方するか、その答えは火を見るより明らかだ、と隆信は考えていたのである――当然、隆信は味方されない方だった。


 こちらも当然というべきか、直茂もそのあたりのことは承知している。
 ただし、このできた妹ははっきりそうと口にしたりはしなかった。兄の言葉を「とんでもない」と言わんばかりにいささか大げさに否定する。
「まさか、そのようなことはいたしません! ――ただ、ですね」
「ただ、なんじゃ?!」
「殿の様子に不審をもった継母上から、事の次第を訊ねられたのならば、偽りを申し上げるわけにはいかぬと存じます」
 一瞬、隆信が言葉に詰まったのは、感情を秘すことのできない自分の性情と、何事にも目が行き届く母の眼力、その双方に思いを致したからであった。
 わずかな沈黙の後、隆信は苦々しく吐き捨てた。
「――ふん! まこと、わしは良い義妹を持ったわッ!」
「お褒めにあずかり恐縮です、兄者」
「皮肉じゃたわけ!!」





 そんな義兄妹のやりとりを、家臣一堂はわけもわからず眺めていたが、ただひとり、先刻から黙して考えに沈んでいた成松信勝が、得心したように二度うなずいた。
「……なるほど。いかに安芸の謀将が相手であれ、鍋島どのが何ひとつ気づかなかったというのは奇妙だと思っていたのだが」
 それを横で聞いていた百武賢兼が首を傾げる。
「んん、ということは、軍師どのはあえて宝満城を毛利に渡したってことか? 何のためにだ?」
「あえて渡した、ということはあるまい。だが、別に取られたところで大した問題ではない、と考えておられたのではないかな」
「それこそ何でだ? あの城を落とすのは、いくら俺たちでも骨だぞ。実際、その出城さえまだ落とせないでいる体たらくなんだからな」
「百武、オレに鍋島どのの軍略のすべてを推し量るなぞできるわけなかろうが。そこは直接本人にお訊きすればよい」


 その信勝の言葉を合図として、その場にいた者たちの視線が一斉に直茂に向けられる。
 彼らの視界の中で、直茂は佩刀の柄頭を軽く撫ぜながら、ゆっくりと口を開いた。
「皆、あまり私を買いかぶらないでください。此度の毛利の動き、あらかじめすべて承知していた、などということはありません」
 それを聞いた信胤は小首をかしげる。
「けれど、まったく予想外というわけでもなかった。そう拝察いたしましたけれど」
 今度は直茂も否定しなかった。
 直茂は淡々と言葉を続ける。
「反乱の首魁となった人物が、事やぶれた後で追求の手をかわして逃げ続けるのは容易なことではありません。敵の追っ手はもちろん、それまで味方であった家臣や民までがいつ敵になるかわからないのですからね。しかし、先の筑前の乱を起こした一方の首謀者である高橋鑑種どのはついに捕まらなかった。そこに他者の介入があったと考えるのは、そう見当はずれなことではないでしょう」
 そして、竜造寺が手を差し伸べていない以上、それをするに足る理由と実力を持っている家は片手の指で数えられる。いや、いっそ一つしかないというべきか。
「立花、高橋両家の謀反の裏に、毛利の使嗾があったのは周知の事実。であれば、当然のこと鑑種どのとの手づるは常に用意してあったでしょう。毛利が鑑種どのをかくまったとすれば、それを用いるにもっとも相応しい時と場所はどこなのか――いえ。どこで使うために、毛利は鑑種どのをかくまったのか」
 そこまで考えれば、おのずと答えは出てくる、と直茂は言う。


「……はあ、なるほどねえ」
 信常があきれたような、感心したような声を出す。その隣では、信胤が口元に手をあてて上品に微笑んでいた。
「『あらかじめすべて承知していた、などということはありません』ですか? あらあら、ここまで先を読んでいた方にそういわれてしまっては、木下さんの立つ瀬がありませんわね」
「ちょ?! 胤さん、なんでそこで俺の名前を出すんだよッ?!」
「モノを比べる場合、極端な方がわかりやすいんですのよ」
「なるほど、そういうことなら納得だぜッ。たしかに俺と軍師どのは竜造寺家の武と文の象徴、正反対だしな!」
 おう、とばかりにうなずく昌直を見て、信常は気の毒そうに首を横に振った。
「……いや、木下。その解釈は間違ってる。お前さん、かなり露骨にバカにされてるんだぞ?」
 だが、幸いにもその呟きは昌直に耳には入らなかったようだった。





「しかし、鍋島どの。毛利が宝満城を狙っていることがわかっていたのならば、いっそあちらも包囲しておいた方が良かったのでは? 我らの兵力をもってすれば、それも可能であったと思うが」
 成松信勝の疑問に、百武はじめ他の四天王もうんうんと頷く。
 竜造寺家の軍勢は二万。その半分以上は徴兵したての兵士だが、城を囲み、陣をかためて警戒するだけならば、錬度の不足を気にすることもない。確かに信勝のいうとおり、岩屋城と宝満城を二つながら包囲することは可能であっただろう。


 だが、その意見に対し、直茂はゆっくりとかぶりを振ってみせた。
「二兎を追う者は一兎をも獲ず、ですよ。宝満城の兵力は岩屋城の倍以上。地形の険阻さも、宝満山の方がまさります。そこに立てこもる高橋勢は精鋭であり、これを攻める気もなく包囲すれば、たちまち見抜かれて城兵から逆撃をくらってしまうでしょう。あるいはこちらを挑発して山中に引きずりこむことも考えられますね。そうなれば、戦に慣れない兵士たちが、それに引っかかってしまう恐れは十分にあります。そういったことに備えるために、四天王の誰ぞを宝満城の陣に配置すれば、今度は岩屋城に対する攻撃がおろそかになってしまう。おそらくはそれこそが敵将 高橋紹運どのの思惑なのです」


 強大な敵軍の攻撃を、岩屋城、宝満城という二つの堅城に拠って退け続け、敵軍の焦りと苛立ちを誘って勝機を見出す。
 高橋勢が、現在の追い詰められた戦況の中で活路を探るにはこれくらいしか手はない。高橋家の当主である紹運が、本城である宝満城を離れ、あえて岩屋城という出城に立てこもったのもこの作戦の一環であろう、と直茂は推測していた。
 だからこそ、直茂は竜造寺家の全力を投入して、出城に過ぎない岩屋城に襲い掛かったのである。宝満城を毛利に奪われることを半ば以上予期していた直茂であったが、紹運の意図を挫く意味でも、また竜造寺家の戦略目標を達成するためにも、それ以外の選択肢は存在しなかった。




 それを聞き、納得したようにうなずく一同の中で、ただひとり木下昌直だけがはてと首をひねっている。
 それを見た円城寺信胤が、不意に昌直に向けて問いを発した。
「ここで木下さんに問題ですわ。今、軍師どのが仰ったわたくしたち竜造寺家の戦略目標とはなんでしょうか?」
「うぇッ?! な、なんで俺ばっか?!」
「それはもちろん、この中で一番理解できていなさそうなのが木下さんだからですわ。ちなみに『大友家を滅ぼすこと』は不正解ですからね」
 まさしくそう言うつもりだった昌直は、口をぱくぱくと開閉させることしかできない。
 加速度的に顔色を悪くさせていく昌直を見かねたのか、直茂が口元に苦笑をうかべて助け舟を出した。


「木下、あなたも普段から口にしているではありませんか。筑前を制すること、ひいては九国すべてを竜造寺の旗で埋め尽くすこと。それが我が家の目的です。そのために私たちは大友家と矛を交えているわけですが――」
 大友家を滅ぼした後、竜造寺家の前に立ちはだかるのが毛利家であることは論を俟たない。
 ならば、今の時点で毛利家と袂を分かっても問題はないのか。
 むろん、そんなことはない。
 現在、両家の力の差は、それこそ先ごろまでの大友、竜造寺の関係と同じように大きく開いている。ここで竜造寺が毛利と戦端を開いても、待っているのは惨憺たる敗北だけであろう。


 直茂は言う。
「事実は事実として認めなければなりません。今はまだ、我らの力は毛利の驥尾に付す程度のものでしかないのです」
 国力の差からいって、大友家追討の主導権を毛利に握られるのは仕方ない。筑前の大半が、毛利の手におさまることを、直茂はとうに覚悟していた。
 ここで大切なことは、毛利と競って筑前に一寸でも領土を増やそうと奮闘することではない。そんなことをしてもたかが知れているし、最悪の場合、大友家を滅ぼすより早く、毛利と衝突する事態になりかねぬ。
 そうではなく、ここで竜造寺の君臣が意を用いるべきは、竜造寺はあくまで独立した大名家であり、秋月をはじめとした他の国人衆のように毛利の傘下にあるわけではないということを、諸国に強く印象づけることであった。


 だからこそ、竜造寺家は二万という、毛利家に次ぐ大兵を率いて筑前に侵攻した。毛利との締盟においても、あくまで対大友のための盟約であることを強調しており、従属をにおわせる一切を排除している。
 直茂が岩屋城を欲するのも、この一環であった。
 岩屋城はただの出城に過ぎないが、そこに立てこもる高橋紹運は凡百の将ではない。
 大友宗麟が筑前の支配をゆだねた、立花道雪と並ぶ大友家の要のひとり。その首級をあげたとなれば、大友家を滅ぼすにおいて、竜造寺家が決して毛利の尻馬に乗ったわけではなく、明確な決意と確かな戦力で事を為したことが万人の目に明らかとなるだろう。


 そして、その武功は竜造寺家を取り巻く虚名を、真の盛名へとかえる契機となる。


「虚名、ですか?」
「ええ」
 信胤の静かな問いかけに、直茂はためらう様子も見せずにうなずいた。
「繰り返しますが、今の我らの力は大したものではありません。毛利が中国地方に尼子という強敵を残しながら、五万近い兵力を動員したのに比べ、我らは二万足らず。大友家の混乱で筑後の蒲池どのが身動きできないという幸運に乗じてなお、毛利の半分以下なのです。しかし、今、衆目が一致するところ、九国北部の勢力争いは毛利、大友、そして竜造寺の三つ巴となっています。毛利や大友という複数の国を支配する大国と、肥前一国の竜造寺が同列に扱われているのですよ」
 これが虚名でなくてなんであろう。直茂はそう言った。


 居並ぶ将たちの中には、それに対して何事か口にしかけた者もいたが、今の直茂には異論や反論を許さない迫力があり、その迫力は四天王らをして圧伏せしめるに足るものであった。
 静まり返った陣幕の中を、直茂の声だけがゆっくりと流れていく。


 実戦力と世評の乖離はさしてめずらしいことではない。だが、そういったこととは別に、世評は時に万の兵に優る力を持つ場合がある。
 大友家の迷走は今さら語るまでもないが、昨今の毛利家にしても、九国で叛乱を使嗾しては失敗して敗れ去る、ということを繰り返している。この両家に一族郎党の運命を託するのに躊躇する者がいても不思議ではない。
 そして、そんな者たちが今頼ろうとしているのが、この両家と並び称される竜造寺家なのである。
「これはまさに千載一遇の好機なのです。竜造寺家が、今の大友家はともかく、毛利家に伍すなど戯言に過ぎませんが、世評がそう見ている以上、世評を信じる者にとってそれはまぎれもない『事実』になります。彼らの中で、大友にも毛利にも従いたくないという者たちは、私たちに頼るしかありません。実なき『事実』の流布が、まことの実をもたらすのです」
 その流れを加速させ、本当の意味で竜造寺が強国の一角に名を連ねるための重要な一歩。鍋島直茂は今回の大友家追討をそのように捉えていた。


 騎虎の勢いという言葉がある。
 虎に乗って走る者が途中で降りることができないように、物事の勢いが盛んになり、行きがかり上、途中でやめられないことのたとえである。
 今、竜造寺家はまさしく世評という名の虎の背に乗った状態であった。直茂の策は、すべてこの虎になんとかしがみつくべく考え抜かれたもの。もし、ひとたび虎の背から放り出されれば、竜造寺家は九国の地に割拠する他の国人衆たちと同様、毛利ないし他の大名の膝下に屈するしかなくなろう。
 それはそれで、戦国の世における一つの生き方であろうと直茂は考えているが、直茂の義兄はそんな生き方をよしとできる人物ではない。否、直茂とて、できればそんな生き方は御免被りたいのである。



 ――だからこそ、鍋島直茂は多くの人と、財と、時を投じてきた
 ――世評という名の虎を育てる、そのために



 そんな内心の思いを、直茂は髪一筋たりともおもてには示さない。
 やがて、その語る内容は、岩屋城を落とした後におとずれる毛利との戦いに及んでいた。
「どうやって国力に優る毛利家を打倒するのか。これはさして難しい話ではありません。九国を制覇するにおいて、竜造寺家が毛利家に優る最大の利点は、距離です。毛利家はたしかに動員力にぬきんでていますが、その巨大に過ぎる兵力を戦場で用いるためには、絶えず中国地方から長躯して九国にやってこなければなりません。また、戦の区切りがつくごとに兵を帰す必要がある。一方の私たちは、筑前まで国境ひとつ跨ぐのみ。兵を集めるも、帰すもきわめて容易です。当然、軍を維持する金も兵糧も、毛利とは比較にならないほど少なくて済む。この利は、数万の兵士に優るのですよ」


 今回の戦いで毛利が筑前の大半を奪ったとしても、毛利の本隊が去った後にその領土を切り取ることは難しいことではない。
 むろん、そうなれば毛利は再び大軍を動員して攻め寄せてくるであろうが、家中が崩壊寸前であった大友家と異なり、今の竜造寺家に内紛の隙はない。勝つことは難しくても、負けない戦をすることは可能であろう。
 九国の国人衆にしたところで、毛利元就に心酔している者など数えるほど。大半はその力に頼って家を存続させようとしている者たちばかりであり、彼らは竜造寺家が巨大になれば強い方になびく。なびかぬ者は滅ぼしていけば良い。
 そうして勢力を固め、竜造寺家を毛利家に匹敵する大家としたその時こそ、世評と実態の乖離は解消され、竜造寺の名は本当の意味で天下に鳴り響く。
 竜造寺家の君臣は、天下を争う舞台へ躍り出ることができるのである。




◆◆




 直茂の口からよどみなく、豊かに湧き出る言の葉は滔々と流れる大河にも似て、聞く者の心を覆っていく。そのせいだろうか、直茂が語り終わった後も、口を開こうとする者は誰もいなかった。
 しかし、その静黙も長くは続かない。
 天下を争う。
 将として名を馳せる者たちに、その言葉を聞いて感奮せぬ者がいようはずもないのだから。


 真っ先に口を開いたのは木下昌直である。過度の興奮のためだろうか、その顔は酒でも飲んだかのように赤く染まっていた。
「すげえ! 天下、天下かッ! おお、なんかすげえ燃えてきたぜッ!」
 その傍らで、江里口信常が眉をしかめつつ、笑みを浮かべるという器用なことをやってのける。
「うるさいよ、木下。でもまあ、気持ちはわかる。いいねえ、天下ってのは! うん、どうせ目指すなら、やっぱり頂点だよな」
「同感だ。肥前の山奥から出て天下を掴めば、殿と、その下で戦った俺たちの名前は日の本の歴史に永遠に残るなッ」
「天下を見据えていたからこそ、宝満城を奪われたとて鍋島どのは動じなかったのだな。その気概、視野の広さ、オレも見習わねばならん」
「がっはっは。わしが天下人か、身震いするわ! 武者震いなどいつ以来のことか。やはり、わしは良い義妹を持ったッ!」
 百武賢兼や成松信勝、さらにはあっさりと機嫌を直したらしい竜造寺隆信らが語り合う中、沸き立つ空気に染まらない者が二人いた。
 鍋島直茂本人と、円城寺信胤である。




「あらあら、殿も、皆さんも先走りがすぎますわ。天下のことを口にするのは、少なくとも岩屋城を落として、高橋さんの首級をあげてからにしませんと」
 信胤はそういったものの、主君や僚将のやる気に水を差すこともないと考えたのだろう、その言葉を聞いたのは直茂だけであった。
「胤どのの申されるとおり、今、私が申し上げたことは、すべて岩屋城を落としてから始まること。岩屋城を落としえぬ今の我らでは、天下のことは夢のまた夢です。ですが……」
「今の殿たちの耳には入りそうもありませんわね。軍師どのの名演説を聞いてしまえば、それも仕方ないことでしょうけれど」
「演説をしたつもりはなかったのですが」
 そういって、困ったように首を傾げる直茂を見て、信胤はくすりと微笑んだ。


 その信胤が、ふと小首をかしげて直茂に問いかけた。
「軍師どのの識見にはわたくしも感服つかまつりました。しかし、安芸の謀将さまは、どうご覧になっているのでしょう? 軍師どのがあちらの謀略に気づかぬはずがないように、あちらも軍師どのの思惑を見過ごすことはない、とわたくしには思えますわ」
「そうですね、はっきり言ってしまえば、おおよそのところは見抜かれていると思います。それは、近年の毛利の動きを見ても明らかでしょう」
 直茂の言葉に、信胤はわずかに眉をひそめる。
「と、おっしゃいますと?」
「ここ数年、毛利軍は幾度も九国に兵を派遣しています。そして、そこには共通する一事があるのです。名高き毛利の三姉妹、必ずそのいずれかが総大将となっているのですよ」
 そう言ってから、直茂は次のように付け加えた。


「あるいは、こう言い換えた方がわかりやすいかもしれません。元就公ご本人が出陣していない。それが、ここ数年、毛利家が九国で軍を動かすに際して共通していることなのです」


 信胤は目をぱちくりとさせる。
「それは、安芸本国の安定をおもんぱかってのことではありませんの? 毛利には後背に尼子という難敵がおりますし」
「むろん、それもあるでしょう。しかし、たとえば此度のように、かりそめにも九国探題に任じられた家を滅ぼそうという大戦に際し、一国の主が本国から動かない、というのは不自然だとは思いませんか? 将兵の士気や、国人衆の動向にも少なくない影響を及ぼすのは確実です。それを元就公がわかっておられないとは考えにくい」
 たしかに、と信胤はうなずいた。
「兵力にばかり目がいっていましたけれど……今回の戦は娘たちに経験を積ませる類の戦ではありませんわね。中国地方の家はともかく、九国の国人衆にとって謀将さまが実際に九国にいるといないとでは、ずいぶんと心証も異なりましょう」


 しかし、それと直茂の戦略と何の関係があるのか。
 そんな疑問を口にする信胤に、直茂は言う。まさにそれが答えなのです、と。
「元就公が大軍を率いて九国に来襲すれば、多くの国人衆は毛利に従うでしょう。しかし、元就公は安芸の国主であり、遅かれ早かれ安芸本国に戻らなければなりません。有情の謀将 毛利元就。その名声と影響力が巨大であるがゆえに、元就公が去られた後の毛利軍は否応なく弱体化します。実際の戦力はもちろんのこと、勢いの上でも」
 信胤は得心したようにうなずいた。
「謀将さまの不在に敵は勢いづき、味方は不安になる、ということですわね。戦において勢いは大切ですわ。ひとたびその状況に陥ってしまえば、あとはもう取った取られたの繰り返しですが、そうなると遠く安芸から軍を出さなければならない毛利の負担は尋常なものではありませんわね。繰り返せば繰り返すほどに、毛利の国力は損なわれていく」
 それは要するに、さきほど直茂が口にした対毛利戦の戦略そのものであった。


 おとがいに手をあてながら、信胤は考える。
 衆にぬきんでた国力を有する毛利とはいえ、そんな泥沼の消耗戦に踏み込むのは避けたいに決まっている。
 これを避けて九国に毛利の支配を浸透させるためには「巨大であるがゆえに不在時の影響が大きく、しかも国主であるゆえに必ず安芸に戻る必要がある」毛利元就という存在は、かえって邪魔にしかならない。
 では、必要な存在とはどういう者か。
 信胤の内心を読み取ったように、直茂が口を開く。
「元就公のように戦が終わるごとに安芸に帰る必要がなく、それでいて元就公と同じように九国の諸家に恐れられる人物。そんな将がいれば、毛利にとっていうことはありません」
「有情の謀将に匹敵する名声を持つ人物など、そうそういるはずがありませんわね。逆に、家臣の中でそんな将がいれば、それはそれで毛利にとっては頭痛の種になっているはずですわ」
「そのとおりです。だから、元就公は三人の娘たちにその役を擬したのです。九国の戦役で彼女らに大将の役割を委ね、その武威を九国中にしらしめる。吉川、小早川、いずれも毛利の一族ですし、毛利隆元どのにいたってはれっきとした毛利宗家の跡継ぎです。その名声が元就公に匹敵するほどになったとて何の問題もありません。その上で彼女らを恒久的に九国の地にとどめおくことが出来れば、本国と前線との距離は事実上ゼロになります。我らが付け込む隙はなくなってしまうでしょう」




 そこまで語り終えると、直茂は考えを整えるように、ほぅっと小さく息を吐いた。
「胤どのはさきほど、元就公が私の思惑に気づかないはずはないと申されましたが、元就公は私個人ではなく私と同じ考え、同じ野心を抱く者が必ず現れるだろうことを予測しておられたのでしょう。そして、それに備えるべく手を打った。おそらく、私がこの考えに至るよりもずっと早く。元就公ご本人が、いまだ一度も九国の地を踏んでいない事実から見ても間違いはないでしょう」
「……なんだか、お話を聞いていると、空恐ろしくなってきますわ。毛利元就。有情の謀将という異称は伊達ではなさそうですわね」


 しみじみと言って、信胤は吐息する。
 一方、直茂はそんな信胤を見て小さく笑った。
「と申されながら、顔色ひとつ変わっていないようですが」
「あら、戦いを好むわけではありませんけれど、どうせ戦うならば敵は大きな方がよろしいでしょう? その方が戦い甲斐がありますもの。それに、軍師どののおっしゃることをうかがえば、まだわたくしたちにも付け込む隙はあるとわかりますわ」
「はい。元就公はともかく、その娘たちの存在は、九国の諸家にとっていまだそこまでの影響力を持っていません。立花道雪どのを相手にしては仕方なかったとはいえ、豊前と筑前での立て続けの失策も少なからず影響しています。もちろん、それを考慮しても、吉川元春どのの武勇や小早川隆景どのの謀略は恐るべきものがありますが、それでも元就公には及ばない」
 毛利軍が九国に進出してきた。それを統べるのはあの三姉妹。さあ大変だ――大変だ、けれども。
 少なくとも、元就本人を相手にするよりは勝算はある。毛利に敵対する家々はそう考える。そう考え、兵士や民にそう信じさせることができる。
 今ならば、まだ。


 直茂は虚空に視線を向ける。
「あの姉妹は傑物だと私は見ています。いずれ母を越える日も来るかもしれません。しかし、そこに至るまでにはどうしても時が必要となります。十年とは言いません。あと五年、毛利の動きが早ければ、あるいは彼女らの実力が九国を風靡するに至ったかもしれませんが、当家にとっては幸いなことに、そうなるより早く、我らは肥前の外に踏み出す実力を得るにいたりました」
「そして、これまではどうしても肥前に据えざるを得なかった軍師どのの視線は、竜造寺の躍進にともなってはるか天下を望めるようになった。こうなれば、軍師どのの識見はおさおさ謀将さまに劣るものではありませんもの。なるほど、たしかに当家にとっては幸いでしたわ」
 ころころと笑いながら信胤がそう言うと、直茂はその過大とも思える評価に苦笑した。


「あとは、敵が一人前になる前にとっとと叩き潰すだけ、ですわね」
「身も蓋もない言い方ですが、そのとおりです」
 端的な信胤の言葉に、直茂は思わず苦笑を深める。
 ともあれ、それらはすべて岩屋城を落としてからの話である。
 毛利の三姉妹は元就に及ばないと直茂は言った。だからこそ、付け込む隙は存在する、と。
 だが、今の竜造寺家は、その三姉妹にすら及ばない。世間的に三大勢力の一角と目されていようとも、実質はその程度のもの。竜造寺もまた「これから」なのである。
 そのことを自覚している直茂が、改めて諸将に向けて口を開こうとした、その時だった。
 不意に、竜造寺軍の一画から、時ならぬ騒擾の声がわきおこったのは。






◆◆◆



   


 少し時をさかのぼる。




 岩屋城、軍議の間。
 今、そこには高橋紹運麾下の有力な武将たちが居並んでいた。
 二条の砦を預かる萩尾麟可は昼間の戦で左の肩を射抜かれ、その顔色は蝋のように青白い。ただ、その眼光はいまだ力を失ってはいなかった。
 その麟可の傍らに付き添っている若武者は、麟可の息子の萩尾大学である。若年ながら、高橋家屈指と称えられる武勇は昼の戦でも存分に発揮されていた。
 この二人の他にも虚空蔵台砦を守る福田民部少輔の沈着な顔があり、百貫島砦をあずかる入道姿の武将三原紹心がおり、いずれも高橋家の武の中心となる者たちばかりであった。


 竜造寺軍の猛攻を凌ぎきり、岩屋城を守り抜いた彼らの表情は、しかし一様に優れなかった。
 だが、それは仕方のないことであったろう。
 昼間の合戦では敵の攻撃を大手門と二条の砦に拠ってかろうじて撃退することができたものの、竜造寺四天王 成松信勝や江里口信常らの苛烈をきわめる攻勢により、城兵には多数の死傷者が出てしまっている。
 ことに二条の砦は、守将である萩尾麟可が負傷し、その混乱をつかれて一時は砦を奪われる寸前まで押し込まれた。その結果、砦を守っていた百名余の兵士のうち半数以上が討たれ、生き残った兵士もほとんどが深手を負うという痛烈な打撃を被り、事実上の壊滅状態であった。
 すでに紹運は、直属の三百名の手勢の中から百名を割いて麟可の指揮下に編入することを決定しているが、紹運の部隊とて大手門を巡る攻防で浅からぬ被害を受けている。そこからさらに百名が離脱するとなれば、大手門の戦力に不足をきたすのは明らかであった。明日、竜造寺軍が今日と同じ規模で大手門に攻め寄せれば、おそらく守りきることはできないだろう。


 もっとも、岩屋城を防衛するにおいて、大手門の放棄はあらかじめ予定されていたことでもある。
 大手門で出来るかぎり時を稼ぎ、それが果たせなくなったら次は虚空蔵台砦。虚空蔵台砦を守りきれなくなったら、次は百貫島砦――といったように、紹運は本丸に至るまでに数箇所の拠点を設けている。
 大手門が三日ともたずに落とされてしまうことは予想外といわねばならないが、それでもまだ作戦そのものが破綻したわけではない。
 高橋家の誰もがそう考えていた。
 つい先刻までは。



「すまない。皆、待たせた」
 軍議の間に立ち込める沈黙を破ったのは、高橋家当主の涼やかな声だった。
 居並んだ重臣一同は、そろって頭を垂れる。
 そして、顔を上げた彼らは、入ってきたのが主ひとりではないことを知る。
 紹運の隣には、山頂にある水の手上砦を任せられた村上刑部少輔の、緊張に強張った顔があった。
 紹運の表情も常になく厳しい。戦の最中であってみれば、それは当然のことであるともいえるが、それこそいつ敵の夜襲が行われるかもしれぬ戦の最中に、紹運が重臣たちをひとり残らず本丸に呼び集めること、それ自体がすでに事態の尋常ならざるを告げていた。


 そして、紹運の口から出た言葉は、この場に座す者たちにとって等しく最悪の報告だった。
「すでに皆も耳にしていようが、先刻、宝満城が落ちた」
 軍議の間に、複数のうめき声が交錯する。
 今回の戦、もとより苦戦は覚悟の上だったとはいえ、宝満城の陥落は余の事とはわけが違う。
 高橋家は本拠地を失い、有力な武将であった尾山種速を喪い、戦略の根幹を突き崩されたことになる。将兵の家族も、そのほとんどは宝満城に移っていたため、城内の動揺はいや増すであろう。


 だが、本当に宝満城は落ちたのか。宝満城と岩屋城の防備は、紹運が高橋家を継いで以来、精魂を込めて築き上げてきたものである。それが一朝一夕で崩されるとは信じられぬ。
 そんな思いが、重臣たちの視線を村上刑部に向けさせた。
 岩屋城は岩屋山の南の中腹に築かれている。ほとんどの砦からは、北に位置する宝満城を望むことはできない。それが出来る砦の一つが、山頂にある水の手上砦であり、そこの守将が村上なのである。
 再び紹運が口を開いた。
「刑部によれば、宝満城を包む炎は、兵の失火や敵軍烽火の見間違いではありえぬとのことだ。何故、どうやって、誰が。そういった疑問は残る。しかし、ここでいくら論じても答えは得られぬ」
 なにより、今、一番の悪手はこの報せに動揺して無為に時を費やすことである。それを避けるためにも、城が落ちたことは事実とて受け入れ、次にとるべき手段を考えなければならなかった。


 紹運の言わんとするところを重臣たちはただちに理解した。
 理解したが、愚者など一人もいないはずの彼らでさえ「次にとるべき手段」を考え付くことは出来なかった。
 それもそのはず。
 宝満城、岩屋城を拠点とした防戦の計画は、現在の大友家を取り巻く状況にあって、高橋家の君臣が取りえる唯一の策だったからである。
 宝満城が落ち、その策が潰えた今、他にとるべき手段など、岩屋山の苔の一つ一つまでしらみつぶしに探しても見つかりそうになかった。
 暗く、重くるしい雰囲気が軍議の間にたちこめてくる。この場にいる者の多くが、期せずして同じ疑問を胸に抱いていた。
 宝満城の陥落と共に、ただでさえ少なかった勝算は、今度こそ完全に失われてしまったのではないか、と。


 自然、彼らの視線は主たる紹運へと向かう。
 そして、彼らは自分たちの視界のうちに、深い決意を宿した主の姿を認めた。
 紹運がゆっくりと口を開く。
「皆をこうして呼び集めたのは、宝満城のことを報せるためであるが、もう一つ、命じることがあるからだ。明日――いや、今宵のうちに、城内の将兵すべてに宝満城が落ちたことを知らせよ。すでに噂という形で聞き知っている者は多いだろうが、事実として改めて皆の口から兵たちに伝えてくれ。そして、各自、配下の中で城から出ることを望む者を束ね、報告してほしい。私は、今日までの尽力に感謝しつつ、彼らを城から送り出すこととする」
 それを聞き、家臣たちは一様に唖然とした。
 筑後三原家の武人、三原紹心が吼えるように問いただす。
「お、おまちくだされッ! ただでさえ少ない兵を、さらに逃がすとおっしゃるのか?!」
「うむ。と、そうだ、城内にはまだ幾ばくかの銀が残っていたはずだな。今日までの給金がわりにそれも持っていってもらおう」
「ざ、財貨までくれてやるおつもりですかッ?! それはあまりに……」
「後生大事にとっておいたところで、敵に囲まれている状況では使い途がないだろう。さすがに兵糧を配るわけにはいかないからな」


 その紹運の言葉を聞き、家臣の中からひとりの初老の男性が進み出た。
 この人物、名を福田民部少輔という。元々は高橋鑑種に仕えていた人物であり、鑑種が行方知れずになって後は紹運の麾下に加わった。常に落ち着いた物腰を崩さず、戦の最中であっても取り乱すことはもちろん声を荒げることさえ滅多にない。その沈着な為人を紹運に見込まれ、岩屋城の要のひとつである虚空蔵台砦の守備を任されている。
 紹運の前に出ると、福田民部は長年の戦働きで枯れた声で静かに問いかけた。
「……殿。こたびの戦、もはやお諦めになられたか?」


 この問いに対し、紹運は即座にかぶりを振った。
「己以外の命を預かって戦う以上、諦めるなどあろうはずもない」
「では、どうなさるおつもりでしょうや? この期に及んで城から出ることを望む者は、とうに当家から去っていると存ずるが、それは措きまする。宝満城の陥落を知り、それでもなお城に残った者たちを束ね、殿は何をなさろうとしているのか、それをうかがいたく存ずる。率直に申し上げますが、それがしの目には、もはやとれる手段はないように思えてなりませぬ」
 紹運はうなずいた。福田のいうとおり、紹運はこの戦況をひっくり返す奇策も秘策も持っていない。
 だから、紹運は正直にそれを口にした。
「もとより、私は智略縦横とはほど遠い武辺者。事ここにいたって、とれる手段はただひとつだ。この岩屋城に立てこもり、援軍が来るのを待つ。義姉様と宗麟さまが来てくださるまで、粘って粘って粘り抜くさ」




 当然のことながら、高橋家の君臣は立花道雪がムジカに赴いたことを承知している。ムジカにおける諸事情を鑑みれば、道雪や宗麟が筑前に馳せ戻ることが限りなく難しいこともよくわかっていた。
 防備の要であった宝満城が高橋家の手からすべり落ちてしまった今この状況で、岩屋城に立てこもって援軍を待つという策は、万に一つの僥倖にすがるようなもの。高橋紹運は勝算を度外視し、大友家に殉じる覚悟を決めた、と諸人の目には映るだろう。城から落ちたい者は落ちさせる、という先の言葉もその推論を肯定する。
 事実、次に福田の枯れた声が呟いた言葉は、そのことを示していた。
「瓦となりて生をまっとうされるよりも、玉となりて砕けるまで戦うことを選ばれるか」
 それを聞いた高橋家の家臣たちの顔が一様に引き締まる。
 動揺した顔はない。もとより、今回の戦がそういう結末に終わる可能性が高いことは、誰もが承知していたからである。今さら慌てるような者は、高橋家の重臣の中にはいなかった。




 だが、ここで彼らの決意に否を唱えた者がいた。
 他でもない、高橋紹運その人である。
「民部。皆も聞け」
 そう切り出した紹運の声には張りがあり、玉砕を覚悟した者の密やかな諦観など、どこを探しても見つかりそうにない。
「この戦を諦めるなどあろうはずもない。そういったはずだ。玉となりて戦うは望むところだが、砕けるつもりはさらにない。なるほど、今の大友家にとって、勝利とは鏡に映った花であり、水に映った月だと、そう考える者は多いだろう」


 見ることはできる。語ることもできよう。しかし、決して掴み得ぬモノ。
 紹運は、大友家の勝利をそのように表現した。


「宝満城を失った今、我らに出来るのは、この城を取り囲む敵を一日でも長くこの地にひきつけ、押し寄せる敵兵をひとりでも多く討ち取ることしかない。そして援軍が来る可能性低きことを思えば、我らに待つのは玉砕となんら変わらない結末かもしれぬ。だが、たとえそうであっても、城に立てこもる我らは玉砕を念頭に置いてはならないのだ。死を決した兵は強いが、その強さはこの戦には不要」
 紹運は眼差しに力を込め、一語一語を丁寧につむいでいく。
「私が求めるのは、皆が一日でも長く生きのびることだ。敵一人を殺すより、味方一人を助けよ。死して名を残すことを考えるな。生き残り、浴びるほどの恩賞を授かることを考えよ。城が落ちたなら、次は野山に伏し、草木を食んで敵に挑めばいい。城に残った者たちに私はこう命じることになろう――死んでも生きのびよ。生きのびて、そして戦え、とな」


「……簡にして要を得ておりますな。殿らしゅうござる」
 福田民部はそう言って、唇をわずかに笑みの形に動かした。
「安易に死を求めるなどもっての他。見苦しいほどに生きあがいて、はじめて我らの死に価値が生ずるわけですな。本城を失った出城など、敵にとって『いずれ落ちる城』に過ぎませぬ。我らが死兵となってどれだけ多数の敵兵を道連れにしようとも、城が落ちてしまえばそれまでのこと」
 敵は高橋勢の勇戦を称え、自らの損害を飾り立て、何事もなかったかのように立花山城へと向かうだろう。仮に高橋勢が自軍に倍する損害を敵に与えようとも、大軍を擁する敵には、その損害を許容できるだけの余裕があるのだ。
 高橋勢の戦いは、敵に大きな打撃を与え――ただ、それだけで終わる。敵の戦略を突き崩すことはかなわず、大友家を救う一助となることもできない。
 残るのは、主家のために命を賭して戦いぬいたという美名か、それとも暗愚の主君に尽くして無用の血を流したという醜名か。
 そのいずれにせよ、紹運にはさしたる関心はない。
 前者に関しては望まぬでもないが、それはあくまで自身の行動の結果としてその評価を得られたのならば幸いだ、というにとどまる。その評価を得るために戦うつもりなどまったくなかった。


 福田のあとを引き取ったのは三原紹心だった。その頭は灯火の明かりを受けて、きらりと輝いている。
「本城を失った出城が十日も落ちねば、彼奴らは戸惑いましょうな。それが半月続けば苛立ちもしましょうし、一月ともなれば、はじめに描いた戦絵図そのものをかえる必要も出てくるでござろう。まあ、それで連中の優勢がそう大きく変わるわけではござらんが、彼奴らはしょせん一時の利を求めて集まった寄せ集めの大軍。わずかな遅滞が大きな隙をうむことは十分にありえましょう。さすれば、我らが反撃に出ることも可能ッ」
 三原の言葉に、福田がわずかに苦笑する。
「……さて、そこまでうまく行くとはなかなか思えませぬが、しかし、そうした動きを重ねていく以外、勝利へ至る道はあらわれませぬな。なにより殿もおっしゃられたように、岩屋城に押し込められた今の我らにできることは、それしかござらん」
 紹運が深く頷いた。
「そうだ。それに、生じた隙を突くのは、別に私たちでなくともかまわないのだ」


 それを聞いた三原が、入道頭を揺らしつつ呵呵大笑する。
「くはは、援軍が来るまで耐え抜けば大手柄。最悪でも、皆で城を枕に討ち死にするだけのこと。どちらに転んだとて、悪くはないですな」
「いや、それはどちらも気が早い。殿もおっしゃったではないか。まずは粘って粘って粘り抜こうぞ。我ら高橋家の武を、大友武士の意地を、岩屋山の木と土に刻み込む覚悟でな。結果は、そのあとにおのずとついてこよう」
 そう言うと、福田民部は床に額がつくほど深く頭を下げ、元の場所に戻る。


 今や、紹運の意図は誰の目にも明らかであった。
 紹運が部下に対して求めているのは、ただの玉砕よりもよほど厄介で苦渋に満ちたものであったが、それでも主の意思を知った高橋家の諸将の顔には覇気が戻りつつある。
 それはついさきほど、玉砕を覚悟しかけた時には現れなかったものであった。
 そのことを確認した紹運は、一つ大きく頷いた。その唇の端には、配下にそれと悟られないくらい小さな――誇らしげな笑みがひらめいている。
「よし、では皆、配下の者たちへの確認を頼む。言うまでもないが、強いて城にとどめるようなマネはするな」
「承知。しかし、民部どのが申されておったように、無駄手間になるような気がいたしますなあ」
 三原が笑うと、名を出された福田が軽く肩をすくめるような仕草をする。
 それを見て、三原はさらに言葉を重ねた。
「命令とあらばいたしかたなし。されど殿、もし誰も残らなんだらいかがなさるおつもりか?」
 その問いかけに、さして深い意図はなかった。あえていえば「たった一人でも立派に戦ってみせよう」というような勇ましい主君の言葉を聞きたかったのかもしれない。


 ところが、この問いを受けた紹運は、それまでの凛とした表情を一変させ、どこか悪戯っぽい笑みを浮かべた。今しがたの凛々しい武者ぶりとはうってかわって、滴るような愛嬌を漂わせはじめた今の紹運の姿は、常日頃接している家臣たちであっても滅多に見ないものだった。すくなくとも、戦の最中に紹運がこんな表情をしたのははじめてである。
 驚きの視線が集まる中、紹運は微笑みながら口を開く。
「なに、誰も残らないということはないだろう。少なくとも、ここにいる皆は共に戦ってくれるだろうからな」
 頼りにしているぞ、と紹運は重臣たちに微笑みかける。
 自らの命令の過酷さを誰よりも承知しているであろう紹運は、それでもなお目の前の重臣たちはついてきてくれる、と信じていた。無垢な信頼を宿した、その蕩けるような笑顔は、どこか彼女の『義姉様』を彷彿とさせたかもしれない。


 しばし、ぽかんとして紹運の笑みを見つめていた無骨な男どもの顔が、一斉に――それはもうはかったように一斉にボンと音を立てて赤くなる。
 ……ひそひそとした囁き声が、そこかしこでわきあがった。
「むう。今、なぜか殿のお顔と立花さまのお顔が重なって見えたのだが」
「わしもじゃ。朱に近づけば必ず赤し、とはよくいったものよな」
「スギサキの武に、義姉君ゆずりの人たらしの術まで身につけられたか。頼もしいような、末恐ろしいような……」
「い、いや、しかし、まさか殿が、あのような、その……こ、媚びるような笑みを浮かべられるとは……それがしなどが口を出すことではござらぬが、あまりよろしくないと存ずる! やはり殿は常に凛としておられるべきであり、あのような可愛らしいお顔を易々と他者に向けるのは、もったいないというか、その、なにかもやっとするというか……」
「…………大学」
「ち、父上、なぜそのようにあきれ果てた顔でそれがしをごらんになるのかッ?!」


 いつまでもざわめき止まぬ軍議の間で、当の紹運は、急に落ち着きを失った家臣たちを見て、不思議そうに首を傾げている。
 どうやら、先の仕草はことさら意識して行ったことではないようであった。






 しばし後。
 城主の間から、眼下の岩屋山の光景を見下ろしていた紹運の背後から声がかけられた。
「紹運さま」
「麟可か」
「は。百貫島砦の紹心より使者が参りました。百貫島砦を守る二百余名のうち、落ちることを望む者は皆無とのことです。落ちたいと望むどころか、これは自分たちに対する侮辱なのかと大荒れであったそうで、使者は『鎮めるのに難儀いたした』という紹心の言葉をたずさえてござった」
「そうか、ありがたいことだな…………本当に、ありがたいことだ」
 これですべての将から報告が届けられたことになる。
 反応は、どこも似たようなものであった。岩屋城全体で、城から落ちることを望んだ兵はおよそ五十名。そのほとんどは昼間の戦で深い傷を負った者たちであった。


 それきり口を閉ざした主の背に向け、萩尾麟可は低い声で問いかけた。
「紹運さま――出られるおつもりか?」
「ああ」
 返答には瞬き一つほどのためらいもなく。
 ただそれだけで、紹運の決意のほどが知れた。
「竜造寺の当主は苛烈な気性の持ち主であると聞く。降伏するならともかく、逃げる兵を見逃すほどの情けはあるまい。皆を無事に落ちのびさせるには、細工が必要だ」
 紹運の凛とした眼差しは、岩屋山を包む冬の夜気を貫き、ふもとの竜造寺軍の姿を捉えているのだろう。麟可は不意にそんなことを考えた。


「くわえていえば、宝満城陥落で落ち込んだ兵の士気を高めるためには、やはり勝利に拠るのが最も確実だ。それがどれほど小さなものでも、一度の勝利は味方の兵に確かな気力を与え、同時に敵兵の意気を挫く。そのためには、城で耐えるばかりではなく、こちらから打って出る必要がある」
 不幸中の幸いというべきか、宝満城の陥落は竜造寺にとっても予想外のことであったらしい。もし竜造寺軍が宝満城の陥落を事前に予測しうる情報を得ていたのならば、こちらの動揺に乗じて夜を徹して攻め続けただろう。
 だが、竜造寺軍は兵を退いた。それは、竜造寺にとっても宝満城の陥落が予想外のことであったことを示している。おそらくは今頃、竜造寺の本陣は情報の収集に躍起になっていよう。


 紹運が言わんとするところを察した萩尾麟可は、怪我の影響など微塵も感じさせない落ち着いた口ぶりで紹運の言葉を引きとった。
「……今ならば、竜造寺の将兵は状況をつかめずにおります。くわえて、昼間あれだけ叩いた城兵が、即座に夜襲にうって出るとはなかなか予測できることではございますまい」
「そのとおりだ。むろん、まったく警戒していないということはないだろうが、それでも切り込める機会があるとしたら、それは今宵しかあるまい――萩尾麟可」
 ここで、紹運ははじめて麟可に向き直った。
「は」
「これより、岩屋城の指揮をそなたにゆだねる。できるな?」
「御意。将として立ち働けぬのならば、軍議の席に出てきたりはいたしませなんだ。安んじてお任せあれ。しかしながら――」
 麟可はそこで言葉を切って、主君の顔を見据える。
「夜襲には、ぜひとも愚息をお連れくださいますよう」


 城主みずからの夜襲などとんでもない、とは口にしない。紹運の目を見れば、それが無益であることは明らかである。だから、麟可は無益な反対で時を浪費することを避け、かわりに自分がもっとも信頼する者を連れて行ってくれるよう願い出たのである
 その麟可の意思を、紹運は正確に汲み取った。
「――わかった。では、二条の砦の指揮は三原に、大手門の指揮は民部に任せよう」
「は。両名にはただちに使者を出します」


 すべての配置を指示し終えた紹運は、最後にもう一度、城の外の景色に目を向けた。
 夜はとうに更けているが、岩屋城の各処からは様々な物音が発生している。それは昼間の合戦で損壊した建物を修理する音であったり、敵襲を警戒する兵士たちのやり取りであったりした。
 本丸からそれらを眺め渡す紹運の胸に去来していた感情、それを知る術を萩尾麟可は持っていない。
 麟可に出来たのは、今やこの小さな山城のみが領地となった高橋家の当主が、静かに、それでいて何者にも犯し得ぬ決意を湛えて口にした言葉に、まっすぐに応じることだけであった。


「大友の勝利は鏡花水月にあらず。この戦を注視するすべての者たちに、そのことを知らしめる――ゆくぞ」
「ははッ」




 九国の――否、日の本の戦史上、屈指となる熾烈な攻防が繰り広げられた『岩屋城の合戦』
 その戦いが本当の意味で始まったのは、あるいは宝満城が陥落した、この夜からであったのかもしれない。 





[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第十章 天昇(五)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:7a1194b1
Date: 2012/10/24 22:59

 日向国 大瀬川南方 島津軍本陣


 島津側から講和に対する返答がもたらされたのは、さきほどの接見から半刻ほど経った後のことだった。
 俺がいる陣幕に入ってきた島津家久の口から語られた返答は、諾。
 それを聞いた瞬間、俺は思わず安堵の息を吐いた。
 これで「南で島津と戦いながら、北で毛利、竜造寺と争う」という悪夢のような展開は免れることができたのだ、心底ほっとした。
 二ヶ月という期間は設けられたし、これはすなわち島津家が大友家に対する敵意を捨てていないことの証左でもあるから、見方をかえれば面倒事を先延ばしにしただけ、とも言える。
 だが、現状において、これ以上の成果は望むべくもない。今はこれでよし。


 俺の眼前で慎ましく座っている女の子――しかしてその実態は、某剣聖や南蛮軍を武略で叩き潰したおっかない武将だったりするのだが――は、そんな俺の様子を思慮深げに見つめている。
 その視線に気がついた俺が怪訝そうな顔をすると、家久は微笑んで俺の顔を見つめ返してきた。
「筑前さんって不思議な人だよねえ」
 いつもの無邪気なそれではなく、どこか大人びた声音が耳をくすぐる。俺はわずかに首を傾げた。
「不思議、でございますか?」
「うん。大友家の使者として薩摩にやって来て、やったことといえば金にお芋に南蛮退治と島津に利することばっかりで。恩にも着せずにさっさとムジカに戻ったと思ったら、次に来たときは越後の重臣にして将軍さまの勅使になってて。かと思えば、今も大友家を助けるために一生懸命働いてる。これを不思議といわずして、何を不思議といえばいいんだろうってくらい不思議な人だよ」
「…………」
 うむ、自覚がないわけではなかったが、こうして他人の口から自分の行動を整理して聞かされると、よりはっきりとわかる。
 不思議以前に、もはやただの不審人物だな、俺。


 そんなことを考えながら恐縮する俺を見て、家久は鈴を転がすような笑い声をあげた。
「そんなかしこまらないでいいよー。その不思議な筑前さんに、あたしたちは助けてもらったんだから。そうだ。まだあたしの口からちゃんとお礼を言ってなかったよね」
 家久はこほんと咳払いして姿勢を正すと、俺の目をしっかりと見つめながら、一言一言区切るようにはっきりと言葉を発した。


「天城筑前守颯馬さま。この家久、薩摩を治める島津が一族として、心より御礼申し上げます。もしこの時、薩摩の地に御身なかりせば、我ら夷狄の侵略に遭いて国と民を損ない、父祖の地を奪われるという永世に消えることなき汚辱で、その名を穢されたことでございましょう。これを免れるを得たは、ひとえに御身の智勇あったればこそ。我らは、この恩義を終生忘れることはございません」


 そう言って深々と頭を下げる家久。
 一方の俺は、家久の唐突な物言いに対して困惑を禁じえなかった。
 とはいえ、いつまでも家久に頭を下げさせておくわけにはいかず、俺はなんと言うべきか困りながらも口を開いた。
「頭をおあげください、家久さま。それがしは己のために動いたにすぎず、そのように頭を下げていただく必要はございません。それどころか、こちらの言うことを信じてくださった島津の方々には、それがしの方が頭を下げなければならないくらいで……」
 それは本心からの言葉だったのだが、顔をあげた家久の返答は意外と頑固だった。
「それはそれ。これはこれ。筑前さんにどんな思惑があったとしても、あたしたちが恩義を捨てる理由にはならないの。だから、ありがとう、だよ、筑前さん」


 一瞬、なおも反論しようと口を開きかけた俺だったが、かたくなに謝辞を拒むというのもかえって失礼かもしれないと思いなおす。
 末姫さまがここまで言ってくれているのだから、と俺は無理やり自分を納得させた。
「は。お言葉、ありがたく頂戴いたします」
 家久にならい、かしこまって頭を下げる。
 むう、なんかここまで素直にありがとうと言われてしまうと、嬉しいよりも居たたまれなさが先に立つな。特に家久は、今しがた口にしたように、俺の不審な点に気がついているのに、それをほとんど気にかけずに感謝だけを示してくれているから尚更だ。




 すると、そんな感情が面に出たのだろうか、家久が妙に楽しげな表情を浮かべる。
「あはは、筑前さんのそんな顔、はじめて見るかも。歳ねえも来ればよかったのになー」
「それはご勘弁ください」
 間髪いれずに逃げ腰になる(?)俺。歳久の舌鋒で切り刻まれた記憶はまだ新しいのだ。家久ひとりを相手にしてさえ、すでに居たたまれないことこの上ないというのに、これに加えて歳久までがこの場に現れたら、用件がなんであれ尻尾を巻いて逃げ出すしかないではないか。


 ――ただ、冷静に考えてみると、だ。
 家久が「不思議」と形容した俺の言動や、その元となっている知識に、歳久もまた不審を抱いていることは疑いない。
 これまで島津は、前門の大友軍、後門の南蛮軍という虎狼に挟まれて身動きがとれなかったが、そのいずれの脅威も駆逐した今、有用ゆえにその異様さに目を瞑っていた人物の対処に動き出したとしても、何の不思議もないのである。戦場のことであれば、流れ矢(流れ弾でも可)はどこから飛んできてもおかしくないのだし。
 狡兎死して走狗煮らる、という箴言が頭をよぎる。


 しかるに、家久はそれを一笑に付し、歳久は舌鋒で切り刻むだけで勘弁してくれた。
 義久や義弘がどう考えているかはわからないが、俺が無事でいるという一事で、だいたいのところは推し量れる。
 島津家一同の深すぎる懐に対し、頭を下げるべきはやはり俺の方に違いない。


 考えを改めた俺は、表情と態度も改めることにした。
「――いえ、訂正いたします。やはり最後に歳久さまにもお目にかかりたかったですね。お越しいただけなかったのは残念です」
「それを聞けば、歳ねえ、きっと喜びのあまり渋柿を食べたみたいな渋面になると思うよ」
 楽しげに笑う家久。確かに俺が今いったことをそのまま歳久に告げれば、家久が口にしたような反応が返ってくるだろうが、それは間違っても喜びの表現ではないと思う。




 まあ、そういったことはさておき、歳久がここにいないのは、すでに講和後の動きに移っているからだろう。時間が惜しいのは、大友も島津も大して違いはない。
 俺も急いでムジカに戻り、講和成立を道雪どのと、豊後三老のひとりである臼杵鑑速に伝えなければなるまい。
 島津との交渉が半日かからずに終わるとは思っていなかったので、時間的にはかなり節約できたことになるが、それを計算にいれてなお岩屋城の戦況に楽観を持つことはできなかった。


「それでは家久さま、それがしは大友の陣に戻らせていただきます。ムジカ及び日向から大友軍が撤退する具体的な日時につきましては、おって大友軍より使者が参りましょう」
「そして、その使者は筑前さんではない――そうだよね?」
「ご推察のとおりです」
 細かいことを言うわけにもいかず、また言う必要もあるまいと思い、俺は短く答える。
 それを聞いた家久は問いを重ねることなく、うなずくだけにとどめた……ように見えたのだが。
 続けて口を開いた家久は、なにやら妙なことを言い出したのである。


 
「ところで筑前さん」
「は、なんでございましょう?」
「思ったんだけど、筑前さんっていう呼び方、もうかえた方がいいよね?」


 思わずきょとんとしてしまいました。
「……は? あ、いや、その、別にかえる必要はないかと存じますが」
 確かに「筑前」というのは俺の本当の名ではないわけだが、一応筑前守の官位を得ているから、別に「筑前さん」でも問題はない。
 だが、家久はふるふると首を横に振る。
「ううん、ここはかえるべきだと思うんだ。筑前さんの素性が明らかになったっていうのとはまた別に、もっとこう親しみと信頼を込めた呼び方があると思うの」
「……それは光栄なのですが、あの、家久さま?」
 それは今この時に口にすることなのだろうか。そんな疑問をあらわにする俺に対し、家久は迷うことなくこう言った。
「具体的にいうと『お兄ちゃん』って呼んでいい?」
「いきなり何を言い出すか?!」


 不要不急に思えた問いかけは、一瞬で理解不能な要求に変じた。
 素で家久の乱心を疑った俺だが、家久はまったくふざけた様子もなく、真摯に俺を見つめている。
 俺は一度、すーはーと深呼吸して落ち着きを取り戻そうとする。
 結果、なんとか声を低めることだけは成功した。


「……………………一応、確認いたしますが、正気――もとい本気ですか?」
 正気か、と問いかけても別にかまわんような気もするが。
 そんな俺の内心をよそに、家久はやっぱり真剣そのものといった感じでうなずいてみせる。
「この上なく本気だよ」
「…………その心は?」
「あたしの親しみと信頼を率直にあらわしたいから、かな。あたしがそう呼べば、この先、筑前さんに不審を持つ人が島津家に出てきたしても、それを口にしにくくなるでしょう?」
「む」
 まあ確かに島津の姫さまが兄と慕う人間に対して、そうそう疑念を口にできるものではない。もちろん、それですべての人間が口を噤むわけではないだろうが。


「それに、ここで可愛い妹として筑前さんの心をがっちりとつかんでおけば、また南蛮軍が襲ってきたとき、大友家とか南蛮神教とか抜きにあたしたちの助けになってくれると思うから。しかも京や越後との繋がりもできちゃうよね。自分を兄と慕う女の子を放っておける筑前さんじゃないもん」
「むむ」
「あ、本当に義兄妹の杯をかわそうとか、そういうつもりはないよ。あくまであたしがそう呼ぶだけ。ただ、できれば筑前さんの堅苦しい口調も、吉継さんと話すときみたいにくだけてくれれば嬉しいかなあ」
「むむむ」
「あとはそうだなー。うん、いずれ歳ねえとくっつける布石にもなるかな、なんて少しも考えてないよ!」
 明らかに考えている顔つきの家久だった。


 俺はしばらくの間、意図的に口を閉ざした。
 言いたいことがありすぎて、何から言っていいのかまるでわからなかったのだ。
 いやまあ、俺と家久の間での呼び方など何だって構わないといえば構わないのだが、ぶっちゃけ家久がそれを口にしたときの周囲の反応を予測したくない。特に吉継と歳久。
 下手な反論をすると、家久の弁舌にからめとられてしまう可能性もある。ここは時間がないことを理由としてさっさと辞去するべし。三十六計、逃げるが上策なり、である。


 だが、そんな俺の思惑は、名将 島津家久によってとうに読まれていたらしい。
 その証拠に、家久はこんなことを言い出した。
「承知してくれるなら、島津の極秘情報を教えてあげちゃうんだけどなー。たぶん、今の筑前さんがノドから手が出るほど欲しい情報だよ」
 開きかけていた俺の口の動きがピタリと止まる。
「……今のそれがしが欲しい情報、ですか?」
「うん、そう」
「むむむ」
 腕を組み、眉間にシワを寄せて考え込む。
 周囲からの冷えた眼差しに耐えるだけの価値がある情報なのかどうか、それを知る手がかりが欲しかった。


 すると、家久はおとがいに手をあて、何事か考え込んだ末に指を一本立ててこう言った。
「んー、じゃあ特別に一個だけ、先に話してあげる」
 先制譲歩って言葉があったな、とは思っても口にしない。
 俺は家久の話を聞くべく、傾聴の姿勢をとった。



◆◆



 
 家久のいう情報とは、俺が半ばその存在を忘れていたひとりの宣教師に関するモノだった。
 その名をガスパール・コエリョという。
 薩摩における南蛮神教布教の責任者であり、これを島津家に禁じられたため、教会を通じて南蛮艦隊の出動を促した人物でもある。
 俺は一度だけ、その人物と相対したことがある。錦江湾の戦いの後、南蛮軍の捕虜解放に関して話し合うため、敵の提督であるガルシア・デ・ノローニャの旗艦に赴いた際に俺にくってかかってきた黒衣の女性。
 南蛮軍の戦略に携わるような権限の持ち主ではなかったため、俺はほとんど意識していなかったが、島津家にしてみれば戦雲を呼び込んだ元凶という見方もできる。野放しにしておける相手ではない。


 家久によれば、コエリョはロレンソの艦隊に同行していたらしい。
 俺と歳久が油津で小アルブケルケを待ち伏せていた頃、家久は山川港でロレンソと戦っていた。これはロレンソとガルシアの反目を予測した俺の要請によるものだったわけだが、油津にロレンソの艦隊が現れなかったことからもわかるように、結果は家久の勝利。
 家久によれば、この時、ロレンソは捕虜となることを厭い、旗艦と運命を共にしたのだが、コエリョは燃え落ちる旗艦から脱出してきたという。当然、周囲を包囲する島津水軍に捕まったわけだが、不屈の信仰心の賜物であろうか、怪我らしい怪我もなく、捕らえようとする兵たちをたいそう難儀させたそうな。


「すごかったよー。かなきり声をあげたり、爪でみんなをひっかいたり。水に落ちた猫でもここまで暴れないだろうってくらいの大暴れ!」
 とは家久の弁である。


 家久としては、そこでコエリョを斬ってもよかった。コエリョが斬られるに足る罪業を持っているのは間違いないのだから。
 しかし、家久はすぐにコエリョを斬ることはせず、歳久からの報せで小アルブケルケの死を確認した後、捕虜として内城に連行する。
 はるばる南蛮から日の本に来たことからもわかるように、コエリョは行動力に優れた人物だった。薩摩には、コエリョに説伏された信徒が少数ながら存在し、彼らはコエリョに協力して行動している。家久はコエリョを斬ることで、彼らが激発することを恐れた――のではなく、コエリョをエサとして、彼らを一網打尽にしようとしたのである。南蛮神教の走狗となって薩摩侵略の片棒を担いだ者を見逃すつもりは、家久にはまったくなかったのだ。


 ところが、である。
 コエリョの執念が家久の予測を上回ったのか、黒衣の宣教師に心服する信徒たちの数が予想以上だったのか、あるいは神の祝福が信徒たちの上に降り注いだのであろうか。
 一日、コエリョは監視の目をくぐりぬけ、内城を脱走してしまったという。のみならず、その後も信徒らの手引きによって薩摩国内の関所を次々と突破し、ついには薩摩の国外に逃げ出してしまったらしい。



 義久に義弘、おまけに歳久までがムジカの陣に出張っている状況で、家久までが日向にやってきたのは、この件の報告もあってのことらしい。
 なるほど、と俺は了解したが、家久がコエリョの話を始めた、その理由まではわからない。
 俺の困惑に気がついていないはずもないだろうに、家久はなおも話を続けた。


「それで、コエリョさんの逃げていく方向を調べてみると、どうも天草の方に行くつもりみたいなんだよね。肥後との国境は警戒が厳しいから、そっちしかいけなかったんだろうけど」
「天草、ですか」
 その名には聞き覚えがあった。後年、とある騒動によって全国的に名を知られる地方である――この世界で同じことが起きるかはわからないので、後年という言い方はちょっとおかしいかもしれないが。



 みずから戦う力がないコエリョに出来ることといえば、他者の力をもって島津と戦うことだが、今の天草地方は小勢力が割拠して争いあっている状況であり、なおかつ現在のところ、南蛮神教は彼の地に根付いてはいない。信仰心のみを交渉のよりどころとするコエリョに、現在の天草地方を糾合する力はないとみていいだろう。
 となると、コエリョは次にどこへ向かうのか。
 コエリョにとって望ましいのは、言うまでもなく南蛮神教に好意的な勢力のところである。ある程度の武力と、南蛮との交易を行っている港があれば言うことはない。日の本で抗い続けるにせよ、一度ゴアへ戻るにせよ、南蛮本国と連絡をとる必要はあるだろうから。
 天草地方の近くにそういった場所はあっただろうか、と考えた俺は一つの地名を想起する。


 そして、まるで俺がそこに思い至るのを待っていたかのように、家久の口からその地名が告げられた。
「そうだね、天草の北にある日野江かな? あそこを治めている有馬さんって、南蛮神教にもずいぶん好意的だし、港もあるし、肥前の国なのに竜造寺家と敵対しているくらいに武力もあるから、条件的にはぴったりだよ」


 何気ない、その言葉。
 だが、俺は緊張を余儀なくされてしまう。それも今日一番といってもいいくらいに。
 なんとなれば、その地名は俺が考えていた岩屋城救援の策と、かなり密接に関わってくるモノだったからである。





◆◆





 ムジカで俺は道雪どのに次のように話した。
 筑前に赴いた後、まずは包囲を抜けて岩屋城に入り、城内に援軍の存在を知らせて将兵の士気を回復させる。うまくいけば、援軍の到着以前に包囲を解くこともできるでしょう、と。
 この「うまくいけば」というのは、日野江の有馬義貞という存在をうまく利用できれば、という意味であった。


 といっても、日野江城に使者を出して、義貞に竜造寺軍の後背を突いてもらう、というような策ではない。
 日野江城の有馬義貞が竜造寺軍と敵対していることは、以前肥前に赴いた際に木下昌直の口から直接聞いていた。それはつまり、竜造寺家が有馬義貞という敵手の存在を認識しているということであり、今回の出兵に際しても、その動きを封じるためにしかるべき手を打っていると見るべきだろう。
 俺は有馬義貞という人物を直接知っているわけではないが、鍋島直茂らの構築した備えを孤軍で突き崩せるほどの武将であるとはちょっと考えにくい。
 もっといえば、いかに竜造寺家と敵対し、かつ大友家と同じように南蛮神教に好意的である有馬家とはいえ、圧倒的に不利な戦況に置かれている現在の大友家の要請に応じて兵を出してくれるとはとうてい思えない。


 ゆえに、工夫が必要となる。


 有馬義貞を説得する必要はない。肝心なのは竜造寺家の諸将に後背の危険を認識させること。
 といっても、ただのデマや風聞を流したところで、竜造寺の軍師 鍋島直茂あたりにすぐ見抜かれてしまうだろう。ここは事実を軸にして、十分に実現性のある危険性を構築していかなければならない。


 その事実とは何かといえば、一は俺が勅使に任じられたことであり、二は勅使によって大友家と島津家が講和したことであり、三は島津軍が南蛮艦隊と矛を交え、苦戦の末にこれを撃退したことであった。むろん、講和が二ヶ月間のみの限定的なモノだとか、そういった余計なことについては口を緘する。


 俺が考えた手順は次のようなものだった。
 まずは竜造寺軍の陣中に使者として赴き、三つの事実を告げる。
 いずれも「はいそうですか」と納得される内容ではないが、勅使に任じられた件に関しては将軍直筆の書状があるし、秀綱という証人もいる。それは同時に、大友と島津の講和を将軍が望んでいるという証拠にもなり、講和に関する信憑性を高めるだろう。
 問題は南蛮軍に関することである。異国が大軍をもって侵略してくる、という状況を現実のものとして認識するのはなかなかに難しい。薩摩でも、実際に南蛮艦隊が姿をあらわすまでは、本当に南蛮軍が来るのか、という疑念の目は幾つも俺に向けられていた。


 ただ、ここで一つの布石が活きてくる。
 俺は以前、鍋島直茂と接見した際、南蛮神教が、南蛮国の侵略における尖兵としての役割を果たす危険性を伝えていた。直茂が、それをどれだけ真剣に聞いたかは定かではないが、少なくとも覚えてはいるだろう。
 あるいはもっと単純に、すでに噂という形で南蛮軍の情報は直茂の耳に届いているかもしれない。百隻近い南蛮の軍船がやってきたのだ、その様は農民、漁師、商人など、たくさんの人々の目にとまったのは間違いなく、それを見た人々が口を緘している理由はない。港経由で噂が広がれば、肥前まで届いていても不思議ではなかった。



 ともあれ、すべては事実なのだから、偽の証拠をでっちあげたりとか、そういった小細工は必要ない。竜造寺家に信じさせることは不可能ではないだろう。
 そうして、三つの事実を伝えた上で、俺は一つの忠告をする。
 南蛮軍を破った島津家は、南蛮神教の秘めたる役割を理解し、向後、南蛮軍の侵略拠点となりかねない地域の制圧を目論んでいる、と。
 それはつまり、家久いわく『南蛮神教にもずいぶん好意的だし、港もあるし、肥前の国なのに竜造寺家と敵対しているくらいに武力もある』日野江城のことであった。


 むろん、肥後西部を制することなく、いきなり肥前に兵を出すのは不可能である。
 だが、薩摩、大隅、日向をおさえ、豊後の大友家と講和を結んだ島津に対抗できるような勢力は肥後には存在しない。いきなり攻め込むのではなく、島津に従うよう勧告されれば、大方の肥後の国人衆はうなずかざるを得ないだろう。なんとなれば、拒絶すれば攻められるだけであるからだ。大友家に救援を求めるにしても、島津と講和を結んだばかりの大友家は動けず、必然的に彼らは自分たちで自分たちを守るしかなくなる。そんな状況では、島津軍が南蛮軍から奪い取った、あるいは捕虜交換の際にぶんどった大砲を五、六発うちこめば、それ以上の抵抗は難しい。


 ――言うまでもなく、現在の島津軍にそこまでの余力はないだろう。が、正直にそれを竜造寺側に伝える義務は俺にはない。竜造寺家が島津軍の内情を事細かに知っているはずもないから、島津軍の肥後進出については、ある程度の説得力をもたせることはできる。
 そして、肥後に進出した島津が、多少の無理をおして肥前における南蛮神教の拠点を潰そうと考えるのはさしておかしな話ではあるまい。有馬義貞が竜造寺家と敵対している以上、これを攻めても竜造寺家との関係が悪化することはないのだから、竜造寺家をはばかる必要もないのである。


 竜造寺家にしてみれば、敵対している有馬義貞が他国と戦い、勢力を弱めることは願ったりであろうが、その相手が島津であれば話は異なってくる。有馬家と島津家が戦えば後者が勝つに決まっており、そうなれば島津に肥前侵攻の橋頭堡を与えることになってしまうからだ。
 そうして肥前に足場を得た島津軍が、主力が筑前に出払った現在の肥前の状態を見てどう思うか――と、そんな風に直茂が考えてくれればしめたものだった。





 まあ、実際にそこまでうまくいくとは思っていないが、侵略を受けた怒りと、再び襲い来るかもしれぬという恐怖を抱え込んだ島津が、南蛮神教の影響が色濃く根付いた日野江を放っておくはずがない、との判断は決して無茶とは映るまい。
 実際に兵を出す余裕がないとしても、外交で有馬家に圧力をかける程度のことはすぐにできる。そうなれば、結果として島津の影響力が肥前に及んでしまう。そしてそれは、竜造寺家にとって無視しえない出来事であるはずだった。


 確たる事実に虚構を混ぜ合わせ、捏ね上げた『事実』をもって竜造寺家に後背への不安を呼び起こすこと。これが俺の考えた策であった。
 ――ただ、この考え、突っ込みどころはいたるところに存在する。
 島津がそこまで南蛮神教を憎悪しているなら、どうして有馬義貞などよりもはるかに厄介な大友宗麟と講和を結んだのか、とか色々と。
 まあそこを指摘されたら勅使の存在を強調するつもりだが、そうすると今度は、そもそもなんで立花道雪の配下として肥前を訪れた俺が勅使に任じられたのか、という根本的な部分で怪しまれる可能性が出てくる。将軍の書状など偽物だ、上泉秀綱など偽者だ、と決め付けられてしまえば、それ以上言い解く術が俺にはないのである。俺が怪しいのは、俺自身が認めざるをえない事実だからして。


 島津家の場合は、家久がさきほど口にしたように、俺への恩義によってそのあたりの疑念は飲み込んでくれたようだが、そういうものがまったくない竜造寺家が、義輝さまの書状や秀綱どのの言葉だけで疑念を払拭してくれるかは不分明であり、こればかりはその時になってみないとわからない。
 ゆえに俺は「うまくいけば」と運任せになる含みを込めて、道雪どのに口にしたのだった。




◆◆




 当然のことながら、俺はこの策に対して島津の協力を求めたりはしなかった。
 繰り返すが、今の島津軍に他国に兵を出す余裕はないし、大友家への敵意も捨てていないわけだから、この上さらに「大友家のために竜造寺を牽制してくれませんか」などと頼めるはずもない。
 恥をしのんで頼んだところで、図に乗るな、の一言でおしまいだろう。否、それで済めば良い方で、陣地から蹴りだされてもまったくおかしくはない――と考えていたのだが。


 コエリョという要素を絡めた上で、家久の口から日野江の名が出たのは、俺にとって無視できることではなかった。
 あるやなしやの再襲の危険性を潰すためではなく、コエリョという現実の脅威に対処するためであれば、島津が日野江に進出してくる可能性はより高まる。これもまた「事実」の一つ。
 実際にコエリョがそこまで脅威となる大物か、というと決してそんなことはない。だが、何度でも言おう、正直にそれを竜造寺に話す義務など俺にはないのである。


 知らず、声が低くなった。
「……なるほど、これは確かに」
 今の俺がノドから手が出るほど欲しい情報だった。
 というか、少しだけ、と口にした割には、結局全部口にしてないだろうか、家久。
「ん、全部じゃないよ? 実際に大砲積んでる船を準備させてる、とかはまだ言ってないし」
「………………ひとつ、確認したいのですが」
「ん、なあに?」
「コエリョを内城から逃がしたのは、南蛮神教の信徒たちだったのですか?」
 その問いに対する答えは、ある意味予測どおりだった。
「もちろん。何人か捕まえて確認したから、それは確実だよ」


 何を当たり前のことを、と言わんばかりの家久の顔を見ていると、なぜだろう、こう、大軍にひたひたと包囲を狭められているような、そんな圧迫感が全身を包み込んでくる。
 これはもう、どうあっても先ほどの請いにYESと答えるしかない気がするし、これだけの情報をもらえたのだから、その程度の代価はむしろやすいくらいだった。
 しかし、疑問は残る。
 何故、家久が、というか島津家がここまでするのか。
 当然、島津家の利を見た上でのことだろうし、実際に船を数隻動かすだけなら、そんなに大した負担にもならないだろうが、それでも大友家のためにここまでする理由にはなるまい。
 家久の言動はほぼすべて俺にとっての利益になることばかりなので、問い詰める必要などまったくないのだが、それでも俺は疑問を口にした。この疑問は等閑にしてはいけない気がしたから。


 島津家がここまでする必要がどこにあるのか、との俺の問いに対し、家久はあっけらかんと応じた。
「それはもう、これでもかってくらいに必要あるよ。筑前さんに恩を売れる絶好の機会だからね!」
「はい?!」
 かなり本気で慌てた。今の言葉はさすがに聞き逃せん。
 恩を返すならともかく、俺のような一個人に恩を売ってどうするのか。わるいが、こんな巨大な恩を売られたところで、返せるアテはまったくない。そんなことは家久だってわかっているだろうに。
「家久さまの中で、俺はいったいどんな扱いになってるんです?」
 すると、家久は答えて曰く。



「味方にならないなら斬らないといけない人、かな」






 ……どうやら、俺は知らぬ間に命の瀬戸際に立たされていたらしい。
 冗談と思いたいところだが、そうと聞けば思い当たる節がないでもない。
「まさかとは思いますが、この陣に着いたとき、それがしと秀綱どのを引き離したのは家久さまのお指図ですか?」
「さあ、どうだろうねー」
 にこにこ、にこにこ。
 天使のような笑みを浮かべる家久の背に悪魔のシッポがちらちらと――などと思った途端、家久が小さく舌を出した。
「なーんてね。それはあたしとは関係ないよ」
 じー。
「……あの、ホントにホントだよ?」
 じー。
「ホントだってばー?!」


 俺に疑惑の眼差しを向けられて堪えたわけでもあるまいが、家久はこほんと咳払いして口を開く。
「一応いっておくとね、筑前さんが普通の人じゃないってことは、最初に金鉱とか南蛮が襲ってくるとか、そういった話を口にした時からわかってたよ。歳ねえとも怪しいよねって話をしたし。でもさ、人間、誰だって秘密の一つ二つ持ってるものでしょう?」
「……それで済ませてしまってよろしいのですか?」
 俺が言うことではないが、ちょっと安易すぎないだろうか。


 だが、家久は俺の戸惑いなど気にかけず、くすくすと悪戯っぽく笑った。
「よろしいのですよ。筑前さんの為人は薩摩でも、その後の戦いでも十分見させてもらって、信じられるって思った。筑前さんの胸のうちに何が棲んでいたとしても、その気持ちはかわらないよ。おじいさまも言ってたもの。『その道が正しいと信じたら突き進むのだ、さすれば天が味方につくじゃろう!』って」
 ……ああ、そういえば島津忠良公のイロハ歌にそんなのあったなあ、と現実逃避ぎみに考える俺。
 こうも真正面から「あなたを信じてます!」とか言われた日には、照れくささのあまり逃げたくもなろうというものである。


 すると、家久は何事か思いついたように、さらにこんな言葉を付け足した。
「筑前さんを信じて、その果てに天城さんがお兄ちゃんになれば、うん、まさに天が味方についたことになるね♪」
「……それはさすがに苦しすぎる解釈ではないでしょうか?」
「あはは、だよねー」
 小さく舌を出し、自分の頭を軽く叩く家久を見て、俺の口からは自然と吐息がこぼれおちた。それはため息ではなかったが、かぎりなくため息に近かったと思う。
 このお姫さまには、まるで勝てる気がしなかった。




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第十章 天昇(六)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:7a1194b1
Date: 2013/08/11 21:30

「またねー、お兄ちゃん!」
 太陽は中天から西に傾き、しかしまだ日没には遠い時間帯。島津家久は将軍家と大友家、二つの家紋を掲げた舟が大瀬川を渡っていくのを笑顔で見送っていた。
 掲げた家紋、また家久の台詞から明らかなように、舟に乗っているのは勅使として島津軍をおとずれた雲居筑前改め天城颯馬の一行である。島津軍が油津の港で捕虜とした使節団の子供たちが同行しているため、その数は島津の陣を訪れたときの何倍にもふくれあがっていた。


 と、不意に家久の視界で陽が陰る。
 雲が陽光を遮ったのではない。陽射しと家久の間に人影が立ったのである。
 家久は驚かなかった。視線を動かす必要さえなく、その人影の正体を悟った家久は屈託のない笑みを浮かべる。
「歳ねえ遅いよー。お兄ちゃん、歳ねえに会いたがってたのにー」
 声をかけられた方はいかにも憮然とした様子で、腰に手をあてながらため息をはいている。たぶん、半ば以上あてつけだろう。
「……本当にこれから天城のことをそう呼ぶつもりですか、家久」
「もちろん! 理由は説明したよね?」
「そうですね、あなたの緻密な謀略は拝聴しました」
「んー、なんか歳ねえの言葉にトゲがあるような気がするんだけど、あたしの気のせいかな?」
「ええ、あなたが気のせいだと思うなら、きっとそのとおりなのでしょう」
 熱のない声で歳久が応じる。
 口にした当人がかけらも信じていない言葉というのは実に空々しく響く。その事実をあらためて学習した家久だった。




 首をすくめる家久を見て、歳久は再度ため息を吐いた。
 ただし、今度のため息は心底からのもの。歳久とて、あてつけのためだけに忙しい時間を割いてやってきたわけではない。もちろんこっそり天城を見送ろうという殊勝な考えをもっていたわけでもない。
 島津の誇る智将の視線は遠くの勅使ではなく、近くの妹に向けられていた。
「念のためにもう一度言っておきますが、兵を出すことは認めませんよ」
 聞く者によっては唐突な言葉であったろうが、家久は歳久の言いたいことを察した。この姉が何を気にかけているか、ということも含めて。
「うん、わかってる。ちょっと遠出して、大砲の試し撃ちをするだけ、だよね」
「本当はそれとて認めたくはないのですが、南蛮軍を招き寄せた元凶が逃げ出したとあらば致し方ありません。まあ、アレが元凶だと本気で思っているのも、自力で内城から脱出したと信じているのも、アレとその周囲の信徒くらいのものでしょうが」
 歳久はそういってじろりと家久を睨んだ。


 またしても首をすくめる羽目になった家久は降参を告げるように両手を掲げる。それを見て、歳久は三度ため息を吐いた。
「……まったく、よく企んだものです。そこまでアレを買いましたか」
 アレ、が指す人物が切り替わったのは指摘するまでもないことだった。
 この問いに対し、家久は遁辞をかまえることなくうなずいた。
「これ以上ないくらいに。あたしの案に反対を唱えなかったってことは、歳ねえもそうなんでしょ?」
「私があきれはてて言葉も出なかった、という可能性を考慮するべきですね」


 そういって歳久は視線を大瀬川に向ける。
 次に歳久が言葉を発するまでにわずかな沈黙があったのは、言葉を続けるべきか否か、歳久の中でなにかしらの葛藤があったからかもしれない。
 だが、歳久は家久の洞察を許す前に口を開いた。
「敵にまわせば厄介。味方になればなお厄介。そんな相手は恩を着せて遠ざけるにしかず、です」
「あはは、忠元も似たようなこと言ってたなあ」
 山川港での新納忠元との会話を思い起こし、家久は小さく吹き出す。
 歳久は肩をすくめた。
「それが常識的な判断というものです」
「つまり、あたしは暗に非常識だと責められてるの?」
「暗に、という部分をとりのぞけば、そのとおりですね」
「歳ねえ、ひどいー! 可愛い妹にその言い方はどうかと思うよ!」
「親愛なる姉に内密で事を運んでおいて何を口清く――家久」


 歳久の静かな呼びかけは島津の末姫をして無視できない圧力をともなっていた。どこか冷え冷えとした雰囲気を漂わせる姉を見て、家久はぎくりとする。もしかしたら、今回の家久の行動は無視できない独断専行ととられてしまったのかもしれない。
 その自覚が皆無でなかっただけに、家久は背に冷や汗が伝うのを止められなかった。そんな家久に対し、歳久はほとんど表情を動かすことなく言葉を続けた。
「どうもあなたは悪い意味で天城の影響を受けているように見受けられます。このまま放置しておくと、勝手に肥前に上陸して竜造寺と矛を交えかねません」
「あ、あはは、やだなあ歳ねえってば。いくらあたしでも、そこまでは……」
「しませんか?」
「もちろんだよ!」


 断言する家久の顔を歳久はじーっと見据えた。
 息詰まるような、と形容するにはやや緊張感が足りなかったが、それでも家久が自分の表情が強張るのを自覚できるくらいには張り詰めた雰囲気。
 ややあって、歳久が「まあ、今回は信用しておきましょう」と口にした時には、家久はおもわずぷはーと息を吐き出していた。
 そんな妹の様子を見て、歳久は唇の端に笑みをひらめかせる。
「適当なところで釘をさしておかないと、あなたはどこに飛んでいってしまうかわかりませんからね」
「あたしってば糸が切れた凧みたいだねー」
「糸を失った凧が自由に空を飛べるのは一時だけのこと。遅かれ早かれ、いずことも知れぬ場所に落ちることになるのです。気をつけなさい」
「はーい、了解だよ、歳ねえ」
 家久は素直にうなずいた。結局のところ、歳久は妹がやりすぎて痛い目を見ることがないように、と心配しているのである。それがわかっている家久に反発の気持ちがわくはずもなかった。


 ――もっとも。
 その忠告、本当は別の人にしたかったんじゃないかなー、と内心でこっそり考えていたりもするのだが、これはバレると手加減なしの拳骨をもらいそうなので、心の奥底に注意深く押し隠す島津の末姫であった。




◆◆◆




『これぞまさしく渡りに舟だね』
 そんな家久の言葉と共に俺は遣欧使節団と引き合わされた。
 聞けば島津の姫たちは、捕虜とした南蛮軍の将兵はともかく、使節団の子供たちをいつまでも虜囚の身としておくのは忍びないと考え、大友家に送り返すべく油津の港から呼び寄せていたらしい。
 俺の時もそうだったが、利用しようと思えばいくらでも利用できる使節団をあっさりと送り返すと決めた島津の判断には頭が下がる思いである。


 ただまあ別の見方もできないわけではない。
 味気ない話になるが、使節団の身柄を取り戻せたのは講和が成立したから=使者の功績に繋がるので、宗麟さまや他の家臣が勅使としての俺を見る目にも多少の影響を与えるだろう。道雪どのをのぞく大友家の君臣、とくに宗麟さまが雲居筑前から天城颯馬に変じた俺をどのように見るかが判然としない今、信用を得るための材料は少しでも多いに越したことはない。
 その意味では、使節団の送還も家久が俺に売った恩のひとつ、ということになるのかもしれない。我ながらうがった考えだと思わないでもないが、なにしろ相手はあの家久であるから、こんな考えも十分にありえるように思えてしまうのだ。こわやこわや。
 


 それはさておき。
 使節団に引き合わされた際、俺は予期せぬ人物と再会した。使節団に同道していた南蛮人の少年ルイス・デ・アルメイダである。
 どうして、と理由を問いかけた俺は、しかしすぐに事情を察した。
 ルイスは南蛮軍の元帥であったドアルテの養子であり、俺が島津家にいる間、南蛮語の通訳としてかなりの時間、俺と行動を共にしていた。バルトロメウを急襲する際は他の誰にもできない役割を担ってもらっている。
 むろん、それはルイスが自主的に申し出たことではなく、半ば以上俺が無理やりやらせたのだが、捕虜となったバルトロメウの乗員がそんな事情を知るはずもない。彼らにしてみれば、ルイスは異教徒に協力して自分たちを襲撃した裏切り者ということになる。捕虜たちがルイスに向ける視線の冷たさは想像するまでもなかった。


 驚きつつ再会の挨拶を終えた俺がルイスにそのことを確認すると、黄金色の髪の少年はこくりとうなずいた。
「ぼくは南蛮人でありながら拘束されていませんでしたから、それもあって余計に、その、そういう目で見られていました。それは当然のことなんですが、このままだと不慮の事態が起きかねない、とトリスタン様が心配してくださって……」
 南蛮兵が敗戦の鬱屈をルイスで晴らそうとするのではないか、とあの騎士は心配したらしい。島津軍にしても、南蛮人の叛乱は警戒しているだろうが、南蛮人同士のいがみ合いにはさして注意を払っていないだろう。ルイスは島津家からある程度の行動の自由を認められているが、もともと島津は南蛮神教を否定している家であり、将兵のすべてがルイスに好意的であるわけではない。トリスタンが案じたように不慮の事態が起きる可能性はないとはいえぬ。


「――家久たちもそのあたりのことは察していたのかな。そこにちょうど使節団の送還が重なった、という感じか」
 もしかしたら、家久が口にした「渡りに舟」というのはこれも含んでいたのかもしれない。
 島津にしてみれば、ルイスから聞きだせることはすべて聞き出した後であり、しかも情報源としてはルイスよりはるかに重要な地位にいたトリスタンを確保しているのだから、あえてルイスを留めておく必要はない。ルイスを送り出す条件として、トリスタンに南蛮軍の情報提供その他諸々の協力を要求するくらいのことはしているかもしれん。考えすぎかもしれないが、なにせ相手はあの家久以下略。
 


 まあ、そのあたりは俺が口をさしはさむ問題ではない。使節団の子供たちもルイスには懐いているようだし、ルイスを現在の状況に追い込んだ理由の一端は俺にあるので、ルイスをムジカに連れて行き、安全を保証するくらいのことはお安い御用である。宗麟さまのことだから南蛮神教の信者であるルイスを歓迎はしても拒むことはないだろう。むしろ心配なのはルイスが歓迎されすぎることだが、これは実際にそうなってから考えよう。
 そんなことを思っていると、不意に横合いから視線を感じた。そちらを見れば、秀綱どのがなにやら感心したように俺を見ている。
 どうしたのかと訊いてみると、剣聖どのはしみじみとした口調でこんなことを仰った。


「甲斐の虎に越後の守護代、そして島津の末姫。日ノ本に智将、猛将は数あれど、この三人から兄と仰がれる御仁は天城どのただお一人でしょう。くわえて二年の間に天下の重宝を麾下におさめ、子を得て、さらに南蛮の方との間に友誼を成り立たせるとは、この秀綱、感服のいたりです」
「…………ええと」
 過去、これほど返答に窮した覚えはあんまりない。
 これが冗談まじりのからかいであったり、あるいは苦笑と共に発された言葉であればここまで反応に困ったりしないのだが、秀綱どのを見るかぎり、なんか本気で言っているっぽいのである。
 困り果てた俺は、とりあえず最初の方でちらっと聞こえた人名に関しては事実無根を主張しておくことにした。
「政景さまに関しては俺が嫌がることを見越してからかっておられるだけでしょう」
 いつぞや「兄上♪」と呼ばれたとき、本気で気味悪がった(そして気持ち悪くなった)ことをいまだに根に持っているのかもしれない。だが、あれは仕方ないと思うのだ。その時のことを思い出すと、いまだに背筋が寒くなるくらいだし。


 いきなりおののき始めた俺をみて、秀綱どのは小さく首を傾げた。
「からかっているといえば確かにそのとおりかもしれません。ですが、政景さまが天城どのに少なからず好意を持ち、また信を寄せているのは確かなことだと私には思えます。此度のことも謙信さまと共に懸命に骨を折っていらっしゃいました。天城どのが嫌がることを見越して、というのは考えすぎではありませんか?」
「む、それは、そうかもしれませんが……」
 俺は再び返答に窮してしまう。秀綱どのの言葉を否定するつもりはないのだが、一度でも兄上発言を受け容れてしまうと、今後、政景さまに事あるごとに兄上兄上と呼ばれかねない。ずんばらりんよりはマシだが、それでもこの過酷な罰ゲームは絶対に回避したかった。


 と、眉間にしわを寄せて考え込んでいる俺を見て、秀綱どのは不意に微笑をこぼす。
 不思議に思った俺は秀綱どのに問いを向けた。
「秀綱どの?」
「はい、なにか?」
「い、いえ、とくに何というわけではないのですが……」
 俺がそう言うと、秀綱どのは頷いてから、今度はルイスに話しかけた。答えるルイスの頬が赤くなっているのは寒さだけが原因ではないと思われる。
 先ほどは使節団の子供たちとも色々言葉を交わしていたようだし、望まずして争乱に巻き込まれてしまった子供たちを秀綱どのなりに気遣っているのだろう。


 それはいいのだが、と俺は内心で首をひねった。いましがたの秀綱どのの微笑はなんだったのだろう。まさかと思うが、ひょっとしてからかわれた、のだろうか?
 今ひとつ確信がもてず、だからといって確認をとるようなことではない。結局、俺はムジカにつくまで悶々と答えの出ない疑問に思い悩むことになった。
 他に考えなければならないことが山ほどあったというのに、我ながら何を考えているのだか。
 ただ、島津との交渉からこちら頭を酷使してばかりだったので、結果として良い休憩になった気がしないでもない。
 もしかすると、秀綱どのはそこまで考えて妹がどうこうといういささか不真面目な話を振ってくれたのかとも考えたが、さすがにこれは考えすぎであろうと思われた。




◆◆◆



 少し時をさかのぼる。


 日向国 ムジカ


 聖都放棄。
 ムジカの信徒たちの間でその噂が語られ始めたのは昨日今日の話ではない。
 その主な理由は、ムジカの救援に駆けつけた立花道雪が下したいくつもの命令が、明確な言葉にこそなっていなかったが、いずれもムジカの放棄に備えるものだったからである。
 島津軍に敗れる以前であれば、この噂は信徒たちの激甚な反感を呼び起こしたであろう。
 日の本における南蛮神教の聖地たれ――その願いをこめて築かれた聖都ムジカを敵の手に渡すなどもってのほか。ましてや、敵である島津は南蛮神教の排斥を公言する怨敵ではないか、と。


 だが、今のムジカでこれに類する声は、少なくとも表立ってはあがっておらず、道雪が命令を下した後も混乱らしい混乱は起きていなかった。
 これは命令を出したのが民と兵とを問わず信望の篤い立花道雪だから、という理由によるものだったが、同時に、信徒たちに混乱を起こすほどの気力、体力が残っていなかったためでもあった。
 鬼島津の峻烈な号令や、薩摩兵の猛々しい叫喚が今なお悪夢となって眠りを妨げるような状態で、再びこれと相対する覚悟を決められる者は多くない。
 また、島津義弘のムジカ強襲を境に、これまで常に信徒たちの中心に立っていたカブラエルら南蛮人宣教師の姿がムジカから消えた。このことも信徒たちが動揺を隠せない一因となっていた。


 もっとも、後者に関してはすでに大友宗麟から布告が出されている。
 すなわち、日の本を侵そうとしていた南蛮国の謀略に、それと知らずに与してしまっていたことを知ったカブラエルが、故国の過ちを糾すべく一命を賭してゴアに戻ったのだ、と。
 それを聞き、カブラエルの誠心に感激する者もおり、理由はどうあれカブラエルが日の本から去ったことを嘆く者もいたが、総じてムジカの信徒たちのカブラエルへの反応は好意的であった。
 これは布告を出した大友宗麟にとって満足すべき結果であり、同時に、カブラエルに護国の聖人としての立場を用意することで、ムジカの混乱を最小限におさえようとした立花道雪にとっても望んだ結果であった。




 これでムジカからの退去を触れても大きな混乱が起きることはない。
 あとは島津との講和が成りさえすれば犠牲を出すことなく豊後へ退却できる。しかる後、豊後で兵を整え、筑前で苦闘している二つの城、立花山城と岩屋城を救援する――これが現在の大友家がとりえる最善の道であろう、と立花道雪は考えていた。
 その道雪は今、ムジカの大聖堂で主君である大友宗麟と向かい合っている。
 目的は幾つかあるのだが、そのうちのひとつは雲居筑前あらため天城颯馬のことを話すためであった。




 はじめに道雪の話を聞いた宗麟は驚きを隠せない様子だったが、それでもその驚きは怒りや不審に結びつくことなく、それどころか道雪の話が進むにつれ、ひざまずいて神に祈りを捧げんばかりだった。
 元々、道雪の食客扱いだった雲居筑前を登用したのは宗麟自身の意思である。道雪から語られた功績がきっかけであったにせよ、その名と存在に神の意思を感じて自ら引き立てた雲居が、今、将軍家の勅使となって大友家の危機を救おうとしている。そう聞いて、宗麟としては神と雲居、双方に感謝の祈りを捧げずにはいられなかったのだろう。
 島津との交渉の成否はいまだ明らかになっていなかったが、これまでに天城がもたらした成果を思えば偽名を用いていたことを咎めるには及ばないとして、宗麟はほとんど迷うことなく勅使としての天城の存在を認めたのである。


「――これもまた神のお導きといえるでしょう。尽きることなき神の御慈悲に感謝しなければなりませんね」
「天与の幸運であるのは間違いございません。どれだけ感謝をささげても足りるものではないでしょう」
 感激に瞳を潤ませる宗麟に対し、道雪はあえて主語をぼかして応じた。
 ここで肝要なのは勅使としての天城の存在を宗麟に認めてもらうことであり、宗麟が天城のことをどのように捉えるかは余事である、と道雪は割り切っている。


 道雪はさらに言葉を続けた。
「島津との講和が成ればムジカからの退去は容易になります。大友と島津が結んだことが知れわたれば、日向の民もあえて私たちの前に立ちふさがろうとはしないでしょう。問題は豊後に帰り着いてからなのです」
 それを聞いた宗麟は首をかしげた。
「国元で兵を募り、その軍を道雪が統率して筑前へ赴くのではないのですか?」
 その問いに対し、道雪はかぶりを振ることで応じる。
「長増どの(吉岡長増)や鑑理どの(吉弘鑑理)が奔走してくれているとはいえ、豊後の混乱はいまだ静まってはおりません。筑前の敵軍は強大です。対抗するためにはこちらも相応の数の兵を率いていかねばなりませんが、そのためには豊後の混乱を完全にしずめる必要があるのです。しかし、筑前の戦況はそれを許すほど悠長なものではございません」


 天城が協力を約してくれているとはいえ、彼の策だけで敵軍をくいとめることはできない。仮に天城の策がことごとく奏功したとしても、敵を退けるためにはどうしても撃斬の力を加える必要があった。
 その力というのが豊後で編成する援軍なのだが、今のままでは援軍が発する頃には筑前での勝敗は決してしまっているだろう。
 ゆえに、戦機を少しでも先に引き伸ばす――いいかえれば、筑前の敵勢をひっかきまわす策が必要になる。
 その策を道雪はひとつだけ胸中で温めていた。


「わたくしがムジカに赴いたことを知る者はごく一握りの味方だけです。筑前にひしめく敵勢のほとんどは、いまだ立花道雪が立花山城にこもっていると考えているでしょう。偵諜にすぐれた毛利家あたりは勘付いているかもしれませんが、それでもまだ確信にはいたっていないはず。これを活かさぬ手はございません」
 立花山城に立てこもっているはずの道雪が突如として他の戦場にあらわれれば、敵軍は間違いなく動揺する。山間に布陣して旗を連ねれば、あたかも豊後から大軍を率いてきたように見せかけることもできるだろう。
 もちろん、そんな奇術めいた作戦が長続きするはずはないが、なにも二ヶ月、三ヶ月と敵をあざむき続ける必要はない。豊後の混乱を鎮める間だけ敵軍を惑わせることができればいいのである。
 あるいは故意に兵の実数を敵軍に流す手段も考えられる。道雪が率いる兵が少数であるとわかれば、敵勢は争って道雪の首級を得ようとするだろう。なにしろ鬼道雪の雷名を知らぬ者は九国にはいない。その道雪を討つ好機であると知れば、猫にマタタビも同様、手柄を欲する者たちが群がり寄ってくることは疑いなかった。


「道雪、それではあなたが……!」
「はい。ひとつでも打つ手を誤れば、わたくしは敵に首級をさずけることになりましょう。それでも事ここにいたれば他に策はございません。この身を餌にしたところで成功が期しがたいことにかわりはないのですから――」
 命大事の策では尚のこと戦況は動かせない。道雪は静かに言い切った。
 天城の智略と道雪の武略をもって援軍を編成する時間を掴み取る。当然のことながら、筑前で働く道雪は豊後で宗麟を補佐できず、田原家や奈多家を中心とした豊後の混乱を鎮めるのは宗麟の力量にかかっている。長増や鑑理らが今日まで沈静化できなかった混乱を短期間で鎮めようというのだから、相当の難事になることは疑いなかった。


「講和が成らなかった場合、わたくしはムジカに留まって島津軍の北上を防ぎます。講和が成った場合はただいま申し上げたように筑前へ参ります。いずれにせよ、この身が宗麟さまのお傍にいることはかないません」
 状況がどのように転ぼうと、鍵となる豊後での募兵の成否は宗麟の双肩にかかっている。その事実を宗麟にはしっかりと認識してもらわなければならない。
 それにともなって、道雪はここで宗麟に伝えなければいけない事があった。
 他でもない、天城と共に大友家に帰ってきた志賀親次のことである。






 志賀親次。
 宗麟にとっても、道雪にとっても妹のような存在だったその少女は、数年前、遣欧使節団の一員として南蛮国に旅立っている。親次や、その他の使節団の子供たちの消息については、月に何度かの割合で南蛮国から報告が届き、それを聞くことを宗麟はことのほか楽しみにしていた。
 その親次が帰国している――それ自体は予期せぬことであったが同時に喜ばしいことでもある。本来であれば、道雪は笑顔とともに宗麟に報告できただろう。
 だが、それは親次が南蛮の地で勉学に励んだ末の帰国であればの話。
 満足に言葉も話せないほど心身を酷使された上での帰国となれば、喜びの感情など湧くはずがない。
 道雪としては、できれば親次が回復するまでそっとしておきたかったのだが、いましがた宗麟に告げたように、状況がどう転ぼうとも道雪は生還を期しがたい激戦に身を置くことになる。その間、親次を人目に触れない場所にかくまっておくことはできるが、その措置が感情を損なった親次の回復に益するとは思えない。
 やはり誰かが傍らにいることが望ましいだろう。そして、今の親次が主体的な反応を見せるのが道雪でなければ宗麟であることを思えば、その「誰か」にもっとも相応しいのは宗麟であるはずだった。



 むろん問題もある。
 先に放逐したカブラエルが親次を取り巻く状況に関与していたことは疑いない。あの布教長は親次がバルトロメウにいたことすら隠していたのだから、これはあらためて考えるまでもないだろう。
 つまり、親次のことを伝えるということは、カブラエルの欺瞞をあばくことにつながってしまうのである。
 道雪が当初の考え――カブラエルを護国の聖人としてまつりあげること――を貫こうとするのであれば、親次のことを宗麟に伝えるべきではなかった。


 それは道雪も承知していたが、しかし、道雪は伝えないという選択肢を採ることができなかった。なぜなら、当面の敵国である島津家に親次の存在を知られている以上、その存在を隠しとおすことはすでに不可能だからである。
 島津家には智略に長けた三女の歳久がいる。志賀家は大友の重臣であり、その後継者たる親次が南蛮軍の総大将の側近くに侍っていた事実を歳久が見逃すとは思えない。親次の事情はすぐにも調べられてしまうだろう。大友家を揺さぶる材料として、これ以上のものはそうそうあるまい。
 天城が考えた大友と島津の講和案は二ヶ月ないし三ヶ月というごく限定的なものであり、講和が成ろうと成るまいと、歳久は時期を見て握った情報を活かそうとするはずだ。遅かれ早かれ親次のことは宗麟の耳に達してしまう。
 であれば、他国の謀略で知らされるよりは、家臣の口から語った方がまだ動揺は少なくて済むだろう。




 親次のことを明かさざるを得ない消極的な理由と、明かすべき積極的な理由。
 いずれも道雪の口を閉ざす理由にはなりえない。それでも道雪の口が重くなったのは宗麟の心情を思いやり、同時に危惧を抱いていたからでもあった。カブラエルがすべてを知っていた――それを知ったとき、宗麟の心がどうなってしまうのか。


 だが、ここで口を緘してしまえばこれまでと何もかわらない。そんなぬぐいがたい思いが道雪の胸中には厳然として存在する。
 大友家の当主として宗麟以外に人はあらじと信じながら、治国の根底に南蛮神教を据えるという宗麟の決断を否定し、刮目を願ってただ時を重ねてきた、これまでと。


 二階崩れの変を経て、南蛮神教と出会ったことで宗麟は確かに変わってしまった。だが、変わらないものも確かにあった。
 桜の枝を手折って道雪に手を差し伸べてくれた宗麟と、南蛮神教を奉じて民に安寧をもたらさんと決意した宗麟。なに一つ重ならないように見えたとしても源流は同じ、自分以外の誰かを思いやる心であった。
 それはすべての統治の基本にして根幹となるものだ。どれだけ智略に秀でようと、どれだけ武略に長けようと、これをもたない者は決して善き君主たりえない。
 それを知るからこそ道雪は宗麟を選んだ。幼き日、再び立ち上がる契機となってくれた恩義は決して忘れるものではないが、それだけを理由に主を定めたわけではない。


(たとえ時を戻せたところで、今以外の道が選べたとは思えませんが……)
 宗麟以外の人物を当主として仰ぐことも、宗麟の意にそって南蛮神教を信仰することも、いずれも道雪には出来なかっただろう。宗麟に南蛮神教以外の救いをもたらすことができたとも思えない。
 すべてを満たす正答はいまだ見出せておらず、そもそも、二階崩れの変以降の大友家にそんなものがあったのかさえ道雪にはわからない。
 だが、どうすれば良かったのかはわからなくても、過ちを犯してしまったことはわかる。
 余人は知らず、道雪にとってそれを正すべき機会は今をおいて他にないことも。


 
「道雪、どうしたのです……?」
 常ならぬ道雪の様子に気づいたのか、宗麟が口調に戸惑いを滲ませる。
 その宗麟に対して道雪が決定的な一言を口にしようとした――まさにその寸前のことだった。
「礼拝の最中、申し訳ありませんッ」
 そんな言葉と共に、礼拝の間にひとりの信徒が恐縮した様子で姿をあらわした。
 そして、告げた。


「聖堂の前で不審な少女を見つけまして、追い払おうとしたところ、この者が志賀家の名を口にしたのです。いかがいたしましょうか?」




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第十章 天昇(七)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:7a1194b1
Date: 2013/08/11 21:31
 日向国 ムジカ


 間もなく西の彼方に日が落ちようとする時刻。
 島津家との交渉を終えて戻った俺と情報を交換した道雪どのは、なにやらしみじみとした顔で口を開いた。
「颯馬どのに驚かされるのはこれで何度目になるのでしょうね。戦場において掌を指すごとく敵将の胸中を読む者が、交渉の場で相手の心中を読むことに優れているのは当然のことなのかもしれませんが、それでもわずか一日、いえ半日で講和を成立させ、のみならず遣欧使節の者たちまで連れ帰ってくださるとは――」


 驚きました、という道雪どのの言葉に対し、俺はかぶりを振って応じた。
「すべては将軍殿下のご威光あってのことです。使節団については、島津の方々の大度こそ称えられてしかるべきでございましょう。それで、さきほど申し上げたルイスの件、ご承引いただけましょうか?」
 一連の報告を終えた後、俺は大友家にルイスを庇護してほしいと願い出た。ルイスが今後どういう選択をするにせよ、南蛮人の少年が異国で生活するのは厳しいだろうと考えてのことである。
 俺の請いに道雪どのは快くうなずいてくれた。
「もちろんお引き受けいたします。ただ、布教長どのが去って間もない今、金の髪と青の目という外見は人目を引いてしまうでしょう。聞けばずいぶんと使節の子供たちと打ち解けているということですから、当面は外出を控えてもらい、彼らと行動を共にしてもらいましょうか。あの子たちと同じく聖堂で起居してもらえば、無用の騒動に巻き込まれる恐れはありませんからね。諸事が落ち着いた後、当人の希望を聞き、それにそう形で力添えをいたしましょう」
「は、なにとぞよろしくお願いいたします」
 

 望みうる最良の返答を得た俺は、ルイスのことはこれでよし、と判断した。
 道雪どのが口にしたとおり、あの少年が南蛮に帰るにせよ、日本に留まるにせよ、具体的な話をするのは戦いを終わらせた後のことだ。
 そう考えた俺は話題を現在の戦況に戻した。
「講和に関してそれがしの果たした役割は道筋をつけただけですので、本当に大変なのはこれから島津家と折衝する方です。前線で小競り合いでも起こった日には面倒なことになりかねませんし」
 島津が講和に応じたといっても、まだそれは確定したわけでも周知されたわけでもない。もしもの話だが、前線にいる大友家の武将の誰かが先走って島津軍に攻め込んだりすればどうなることか。
 まあ、現在の大友軍に道雪どのの許可なく兵を動かす命知らずがいるとは思えないが、それでも場所が戦場であれば何をきっかけとして戦端が開かれてもおかしくはない。南蛮宗徒が暴発する恐れもある。


 当然、道雪どのもそのあたりのことは承知していたようで、俺の言葉に即座に答えが返ってきた。
「宗麟さまは颯馬どのを勅使としてお認めになりました。颯馬どのの成果とあわせ、ただちに全軍に通達を出しましょう。講和の細部については鑑速どの(臼杵鑑速)にお願いすることになりましょう。問題はその場に颯馬どのが居合わせないことを島津側が不審に思わないかという点なのですが、それはいかがでしょうか?」
「それに関しましては家久さまに話を通してあります。問題になることはないはずです」


 それを聞いた道雪どのの目がすっと細められる。
「講和の勅使が講和の場にいないことを了承する。島津の末姫はこれから先の颯馬どのの行動を予測していた、ということになりますか」
「……そうですね。おそらく、いえ、間違いなく読んでいたでしょう。もっといえば北の戦況もおおよそ把握していたと思われます」
 家久の口からコエリョや日野江の話が語られた以上、これはほぼ確実な情報だった。
 それを聞いた道雪どのは小さく息を吐き出した。
「人徳の長姫、武芸の次姫、智略の三姫にくわえて末の姫までが傑物とは。颯馬どのの報告で武略に長けていることは承知していましたが、話を聞く限り、交渉や情報の収集にも通じているようですね」
 ここで道雪どのは不意に悪戯っぽい表情を浮かべると、俺の顔をのぞきこむように見やった。
「そして颯馬どのの異才を見抜く人物眼と、これを受け入れ、さらには自家に取り込もうとする行動力。ふふ、あるいは島津の姫の中で、家久どのこそがもっとも大器なのかもしれません」


 それはいかにも道雪どのらしい言葉であったが、これまで何度もからかわれた経験を持つ俺の目から見ると、すこしばかりぎこちなさが感じられた。  
 おそらくは、さきほど聞いた大聖堂での一件が尾を引いているのだろう。
 道雪どのは宗麟さまと親次の対面について詳しく説明しようとせず、俺も訊ねようとはしなかった。詳細を知ったところで俺に何ができるわけでもない以上、こればかりは道雪どのに任せるしかない。


 となると、ここは内心を綺麗に押し隠し、道雪どのの冗談に追随するべきであろう。
 俺はにやりと笑ってみせた。
「そうですね。今でも十分に厄介な子ですが、長ずれば某家の筆頭家老どのに並ぶ曲者に化ける可能性を秘めています。末恐ろしいとはまさにこのこと」
 それを聞いた道雪どのは目をぱちくりとさせたが、すぐに俺の道化た言動の意味を察してくれたようで、見ている俺がドキッとするようなやわらかい笑みを浮かべた。
「ふふ、それはそれは。その筆頭家老どのがどなたかは存じませんが、お言葉から察するに、その御仁に対する颯馬どのの評価はとても高いようですね。曲者、という表現が気にはなりますが」
「人をからかう悪癖をお持ちの方なので、素直な称賛はしかねるのです。困ったことです」
 俺が澄ました顔で返答すると、道雪どのはおとがいに指をあてて言った。


「それもその御仁の親愛の表現のひとつなのかもしれませんよ?」
「親愛の表現をからかうことで示す。その性根の曲がり具合からして、やはり曲者という表現は的確であるということになりますまいか」
「なるほど、これは反論できませんね。もしもその御仁と出会うことがありましたら、ひん曲がった性根を矯めるように伝えておきましょう」
「いえいえ、それには及びません。そういったところも含めて、それがしはその方のことが好きなのですから」
「…………ときどき思うのですが、颯馬どのはもう少しご自分の言葉が他者に与える影響というものをお考えになるべきですね」
「あ、あれ?」
 ついっと視線をそらされてしまった俺は、会話のキャッチボールをミスったことを悟る。これはいかん、と咳払いして無理やりに軌道修正。


「ごほんッ。そ、それはさておきまして、これから先のことです。さきほどのお話をうかがえば、道雪さまも筑前に赴かれるとのことでしたが……」
 そういってちらっと道雪どのをうかがうと、道雪どのは視線を俺に戻し、どこか困ったような微笑を浮かべていた。わざとらしいにもほどがある俺の話題転換に苦笑を禁じえなかったのだと思われる。
 だが、幸いにも道雪どのはそれ以上俺を弄ろうとはせず、話を本筋に戻してくれた。
「はい、そのつもりでおりますが、颯馬どのには何かご異存が?」
「はい。おおありです」
 ためらうことなく大きくうなずくと、道雪どのの目が丸くなった。




 豊後の情勢が厳しいものであることは聞いている。その混乱をしずめて大兵を募るのは時間がかかることも理解している。
 家久のおかげで竜造寺との交渉で使える持ち札が増えたとはいえ、鍋島直茂、あの才人をこちらの思惑どおりに動かすのがいかに困難かはいまさら口にするまでもなく、その意味で道雪どのが筑前に入ることはおおいに意義があることだった。
 「参らせ候」の矢文を用いて効果を挙げた豊前戦の例もある。立花山城にいるはずの道雪どのが突然戦場に姿をあらわせば、竜造寺に限らず筑前の国人衆が動揺することは疑いない。毛利あたりは立花山城の攻防で道雪どのの姿が見えないことに不審を抱いているかもしれず、またムジカに道雪どのが姿をあらわした情報を得ているかもしれないが、それでも確信を持つにはいたっていないだろう。


 だが、そういったことを考慮しても、今回は条件が悪すぎる。
 敵の数、勢いはかつての戦の比ではないし、立花家の主力は立花山城で毛利軍と対峙している。道雪どのの周囲には小野鎮幸や由布惟信といった子飼いの将がおらず、十時連貞も高千穂での傷が癒えていないから従軍は難しい。必然的に鬼道雪の作戦行動には大きな制約がつきまとう。
 あるいは道雪どのであれば、この条件でも募兵までの時を稼ぐことはできるかもしれないが
、それは文字通りの意味で命懸けの戦いになってしまうだろう。たとえ大友家が勝利できたとしても、引き換えに道雪どのを失ってしまっては何の意味もないのだ。少なくとも、俺にとってはそうであった。


 道雪どのが何を決意し、何を覚悟しているのかがわからないわけではない。だが、ここで道雪どのの案に賛同するわけにはいかなかった。
 といって、何の代案も出さずにただ反対したところで道雪どのを説得することはできないだろう。吉継と長恵を豊後に差し向けたことは、策の性質上、道雪どのに伝えるわけにはいかないし、あれは必ず効果があると断言できるものではない。
 となると――
「道雪さまを過度の危険に晒すことなく、それでいて道雪さまのお考えよりも筑前での戦況を好転させられる。そんな作戦を提示すれば、道雪さまはこれを容れてくださいましょうか?」


 それを聞いた道雪どのは、俺の胸中を探るようにじっとこちらを見つめた後、落ち着いた声音で応じた。
「そのような策がまことにあるのであれば容れるも容れないもありません。わたくしは伏して颯馬どのに教えを請わねばならないでしょう」
 それを聞いて、俺はこくりとうなずいた。
 もちろん、ここまで意味ありげなことを言っておいて「実はそんな都合の良いモノはありません」なぞというつもりはない。口にした途端、道雪どのの腰にある鉄扇でぽかりと叩かれてしまいそうだ。
 策はあった。絶対確実にという保証はつけられないし、かなりきわどい綱渡りになってしまうのだが――冷静に考えてみると、これまで献じた策もだいたい似たり寄ったりだった気がするなあ。
 俺はひとつ咳払いをいれて脳裏をよぎった考えを振り払うと、道雪どのに簡潔に策の概略を伝えた。


 囲魏救趙――魏を囲んで趙を救う、と。


 この一言で道雪どのは俺の考えを洞察したようで、瞳に雷光にも似た鋭い輝きが宿る。
 その光が消え去らないうちに道雪どのが口を開いた。
「魏を囲んで趙を救う。かつて斉が魏を破った用兵ですね。筑前を救うために筑前に赴く必要はない、それが颯馬どののお考えですか」
「はい、そのとおりです」
 古くは中国の戦国時代、魏の大軍に攻め込まれた趙は隣国の斉に助けを求めた。斉はこれに応じたものの、正面から魏軍に挑んでも勝つのは難しい。そこで斉軍は魏の本国に攻め込んだ。主力が出払って防備が手薄になった隙をついたわけだ。
 これを聞いた魏軍は慌てて趙の包囲を解いて本国に引き返した。この時点で斉軍は強大な魏軍と直接干戈を交えることなく趙を救ってのけたのである。


 急ぎ帰国した魏軍は、要所で罠を張って待ち構えていた斉軍に散々に叩きのめされるわけだが、この例を現在の戦況にあてはめれば、各々の役割は明確である。岩屋城の包囲を解くために道雪どのが軍を進めるべきは筑前ではなく肥前であるべき――それが俺の考えだった。


 今まで俺がこの案を口にしなかった理由は単純かつ明快、実行が不可能だったからである。
 一口に肥前を攻めるといっても少数では意味がない。多少領土が荒らされた程度では、敵も岩屋城の包囲を解きはしないだろう。最低でも竜造寺の留守部隊を撃滅し、敵の本拠地である佐賀城を陥落せしめるだけの兵力が必要になる。
 だが、筑前や豊後の大友軍にその余力はない。あるとすればただ一国、筑前と同じく肥前と隣接している筑後の国だけなのだが、かつて道雪どのがこの地の叛乱を鎮圧したことからもわかるように、筑後の国人衆は宗麟さまの施政にかなり敵対的であった。
 幸い、筑後最大の実力者である蒲池鑑盛が親大友の立場であるため、いまだ筑後は大友領となっているが、筑後の兵をもって肥前に攻め込もうとしてもほとんどの国人衆が出兵を拒むにちがいない。


 その鑑盛にしても、この状況で肥前に兵を動かすことには同意してくれないだろう。なにしろ確たる勝算はなく、いつ背後を突かれるかわかったものではないという状況である。
 これはただの推測だが、おそらく筑後の国人衆には鍋島直茂の調略の手が伸びているはずだ。万が一、蒲池鑑盛が肥前に兵を差し向けた場合、蒲池家の居城である柳河城は瞬く間に筑後の反大友勢力に囲まれる。その手配ができたからこそ、竜造寺家は総力をあげて筑前に攻め込むことができた――こう考えるのは、それほど的外れなことではないだろう。
 たとえ俺が筑後に赴いたとしても、大友家臣として際立った実績もない俺の策を鑑盛が受け容れてくれるとは思えない。裏切り者をあぶりだす時間もない。
 さらに今回の場合、先にあげた中国の例とは決定的に異なる点がある。それは敵が竜造寺だけではなく、より強大な毛利が後に控えていること。ここで本格的に竜造寺軍と干戈を交えて戦力を消耗するわけにはいかないのである。


 そういったことを考え合わせた末、俺は肥前を突く案を捨てた。この時点で俺は豊後の大友本軍を率いるのは道雪どのだと考えていたので、道雪どのに筑後にいってもらう、という考えは浮かばなかった。
 だが、道雪どのがみずから動くと決めたのならば、捨てた案も生き返る。
 俺にはできないことでも道雪どのならばできる。もし道雪どのをもってしても筑後を動かせないようならば、それは誰にもできないことと同義である。



 ここで道雪どのが口を開いた。
「筑後の国人衆に睨みを利かせて身動きがとれないように封じ込め、しかる後に鑑盛どのと共に筑後川を越えて肥前に侵入し、竜造寺の本城である佐賀城を急襲する。これが成功すれば、さしもの竜造寺軍といえど兵を退かざるをえなくなりましょう。しかし、彼らは二万の大軍です。岩屋城での被害を考慮にいれても、わたくしと鑑盛どのの手勢だけでは勝利はおぼつきません。仮に勝ちを得たとしても――」
 道雪どのの危惧は俺にも理解できた。
 道雪どのらが竜造寺軍に勝てたとしても、すくなからぬ損害をこうむることは確実である。
 かといって、それを恐れて交戦を避ければ、竜造寺軍が再び筑前なり筑後なりに侵攻するだけのことで、これでは元の木阿弥だ。



 後背に毛利という大敵を控えている今、竜造寺と雌雄を決している時間も戦力も大友にはない。自軍に犠牲を出さずに竜造寺を叩き潰す妙計があれば話は別だが、それは要するに竜造寺隆信と鍋島直茂、あと五人の四天王が率いる二万の軍勢相手にパーフェクトゲームをするということ。そんな妙計がどこの世界にあるというのか。少なくとも俺には見つけられん。
 ゆえに、俺は別の案を提示する。
「いくつか考えがあります。筑前の戦況もからんできますゆえ、今の時点で確たることは申し上げにくいですが、たとえば紹運どのが見事に城をまもってくださっていた場合、このように動けばよろしいかと――」
 そう前置きして、俺は道雪どのに一つの作戦案を語っていった。
 





 ……しばし後。
 俺の説明を聞き終えた道雪どのは、ほぅっと息を吐き出した。
「――ただいまの颯馬どのの案、それがうまく運べば確かに戦況を切り開くことができるでしょう。いかにして味方の足並みを揃えるか、注意すべきはその一点ですね」
「はい。わずかな変化が作戦の成否を左右します。筑前と筑後の連絡をこれまで以上に密にする必要が――」
 と、そこまで言った俺は、道雪どのがなにやら考え込んでいることに気づいた。
「道雪さま、どうなさいました?」
「……考えていました。この策の起点となるのはやはり岩屋城です。岩屋城の戦況次第で、細部はもちろんのこと、策そのものを変更する必要が出てくるでしょう。そんな寸刻を争う状況で、筑前の颯馬どのから筑後のわたくしに報告なり献言なりをし、わたくしから颯馬どのへ指示なり許可なりを出すというのはあまりに悠長です」
「は、それは確かにそうですが……」


 俺は困惑しつつ考えこんだ。
 道雪どのの言葉はもっともなのだが、俺と道雪どのの配置を交換することはできない。より正確にいえば、筑前における俺の役割は道雪どのでもこなすことができる。こちらに必要なのは竜造寺を説く論法であり、それは俺が直接伝えれば済む。道雪どのは俺よりもずっと威厳のある使者になれるだろう。
 しかし、俺には筑後における道雪どのの役割を務めることは無理なのである。道雪どのの代わりを務められるのは、道雪どのと同等以上の武名と実績を持つ者のみ。そして、そんな人間がいないからこそ道雪どのは筑後に配さざるをえない。


「――であれば、とりえる手段は一つだけですね」
 悩む俺とは対照的に、道雪どのにはすでに答えを見出した者特有の余裕があった。
 いや、これは余裕というか、なんかちょっと楽しげ……?
 俺が訝しく思っていると、道雪どのはおもむろに脇に置いてある佩刀に手を伸ばした。
「颯馬どの、これを受け取ってもらえますか?」
「はい?」
 ここで俺がかわいらしく小首を傾げてしまったことを一体どこの誰が責められようか。


 道雪どのの佩刀はその名も高き名刀『雷切』である。かつて雷を切り捨てたという由来はいまさら俺が語るまでもないだろう。
 その刀を俺に受け取ってほしい、と道雪どのは口にしたのである。俺はわけがわからず目を白黒させた。
「あの、道雪さま、それはどういう……?」
「発想の転換というものです、天城颯馬どの」
 道雪どのは澄まし顔で仰られた。
「此度の策において、わたくしとあなたが戦う場をかえることはできません。しかし、指揮を執る者と従う者、その役割をかえることはできるでしょう。わたくしが宗麟さまから授かった軍配をあなたに託せば、危急の際に伝達に時間をかけた挙句、戦機を逸するような事態は起こりえません」


 それは要するに、俺に作戦全体の指揮を執れ、ということである。
 それを聞いた俺は「おお、なるほど」と膝をうって感嘆したりはもちろんしなかった。
「いや、いきなり何を仰いますか!? そのようなこと、他の方々がお認めになるわけがありませんッ」
「そのための雷切です。もちろん書状もしたためますが、紙の上に記した文字よりも腰に差した刀の方が味方の将士にはっきりとわたくしの意思が伝わるでしょう。筑前にあって作戦の全貌を把握し、かつ全体の戦況を俯瞰しうるのは颯馬どのただお一人なのですから、あなたに軍配を預けるのはじつに理にかなった采配です」
 問題なんてありません、ときっぱり断言する道雪どの。
 俺は戸惑いを消せないまま、それでも口を開こうとして――結局、何もいえずに開いた口を閉じた。


 戦場において想定外の事態はいくらでも起こりうる。それに対してどれだけ素早い対応をとれるかが勝敗を左右する鍵となるわけで、その点、戦局の焦点である筑前にいる武将が総指揮を執るべきであるのは間違いない。
 だからといってそれが俺である必要はない、と主張したいところなのだが、ここで問題となるのが、道雪どの以外の大友家の武将が指揮をとった場合、俺がこれまでのように自由に動けなくなることだった。
 なにしろ九国での俺の不審者っぷりは空前絶後(たぶん)。せめて紹運どのが自由に動ける状態であればよかったのだが、その紹運どのが岩屋城に閉じ込められている現在、道雪どのと同じくらい俺を信頼してくれる武将なんているはずがない。
 俺に軍配を預けるという道雪どのの案は突飛に見えて、その実、俺にとってこの上なくありがたいものであった。


 俺がその考えに至ったことを察したのだろう。
 道雪どのはにこりと微笑んで、雷切を差し出した。
 この時代、刀は武士の魂という認識があったかは知らないが、戦場で生死を共にする刀を大切にしない者がいるはずはない。それを他者に託すという行為の意味は、きっと俺が考えているよりもはるかに重い。
 仕方ないから、あるいはこれが一番効率的だから、などという理由で受け取っていいものではなかった。


 俺は一度目をつむり、小さく息を吐き出した。
 そして、心が落ち着くのを待ってから目を開き、覚悟を決めて道雪どのに手を差し出す。
 道雪どのはもう一度微笑むと、そっと俺の手に雷切を乗せた。
 手に伝わる確かな感触を得て、俺は静かに頭を垂れる。
「――しばしの間、お預かりいたします」
 そう言った瞬間、両の肩に刀のものではない重みを感じたのは、きっと気のせいではなかったにちがいない。






◆◆◆






 夜。
 大聖堂の自室を出た大友宗麟はおぼつかない足取りで礼拝の間をおとずれた。
 祈りを捧げるためではない。神に懺悔をするためでもない。いったい何のためにやってきたのか、それは宗麟自身にも定かではなく、ただ放心して立ち尽くすばかりだった。
 その脳裏に浮かんでいるのは寝台で深い眠りについている志賀親次の顔である。記憶にあるよりもずっと成長したその姿を思い浮かべても、今の宗麟に喜びの感情は浮かんでこない。かわりにあるのは心臓に杭を打ち込まれたかのような激しい疼痛だった。


「…………ッ!」
 ひときわ強い痛みが襲い、宗麟は胸をおさえてうずくまる。
 親次に何があったのか、それが何を意味するのか、理解が及ぶにつれて痛みは増すばかりだった。
 先に道雪の前ではなんとか平静を保ったものの、いまや宗麟の身体は瘧(おこり)にかかったように震え、額からはたえず生温い汗が伝い落ち、顔色は蒼白を通り越して土気色に変じている。


「……私は、間違って、いたのでしょうか……?」
 宗麟の口から老婆のように枯れきった声がこぼれおちた。問いかけの形をとっていたが、本当は宗麟にもわかっていた。感情という感情をそぎ落とされた親次の姿こそが答えである、と。
 その認識は宗麟の胸奥を苛み、いつか呼吸さえ満足にできなくなっていった。床に両手をつき、ひゅうひゅうと喘鳴を繰り返す。
 もう少しこのままの状態が続いていれば、宗麟はこの場で倒れてしまっていたかもしれない。徐々に混濁していく意識と、暗くなっていく視界に本能的な恐怖をおぼえた宗麟が、自らの身体を抱きしめるように二の腕に手を置いた、その時だった。



「――もし、お加減がすぐれないようですが、誰かお呼びしましょうか?」
 背に置かれた柔らかい手の感触に、宗麟の肩がびくりと震えた。
 道雪は大聖堂におらず、近臣は宗麟自身が遠ざけた。宗麟の身を気遣う家臣はここにはいないはず。一般の信徒がやってくる時間ではなく、そんな情勢でもない。
 いったい誰が、と振り返った宗麟は、そこで心配そうに自分の背を撫ぜている人物を見て息をのんだ。


 黄金色の髪と湖水色の瞳。この国の人間ではありえない外見が、一瞬、カブラエルを想起させたのである。
 だが、よくよく見ればその人物はカブラエルよりもはるかに若く、容貌も柔和であり、着ている服も日ノ本のものだった。
 どうみても南蛮人だが、宗麟にはまったく見覚えがない。南蛮人宣教師はすべてカブラエルと共に去ったはずであり、彼らの家族が残っているとは考えにくい。
 宗麟が不思議に思って名をたずねると、その少年は丁寧に頭を下げてから自らの名を名乗った。
「はじめまして。ぼくはルイス・デ・アルメイダと申します」






「――そうでしたか。そんなことが……」
 礼拝の間の椅子に腰掛けてルイスと言葉を交わすうちに、宗麟の顔色は徐々にもとの色に戻っていった。ルイスの優しい為人や物柔らかな声音がそれに寄与したことは確かだが、もっと単純に、誰かが傍にいてくれるという安心感が宗麟に落ち着きをもたらしたのだろう。気が弱っているときにひとりでいると、ロクなことを考えないものだから。


 ただ、ルイスがどうしてムジカにやってくることになったのかを聞き終えた頃には、宗麟の顔はふたたび悄然としたものになっていた。
 養父を討たれ、異郷の地で虜囚となり、人種さえ異なる敵国で働かされる。口でいうのはたやすいが、それがどれだけの苦難であるか、宗麟には想像することしかできない。ルイスの養父を討ち取ったのが雲居であるならば、雲居が仕える大友家の当主である宗麟もまたルイスにとっては仇のひとりということになる。


 しかし、宗麟にとっては意外なことに、ルイスの顔には悲嘆の色も恨みの陰も見当たらなかった。
 宗麟のことを知らなかった先刻までならいざ知らず、宗麟が名乗った今、ルイスも眼前の相手が仇のひとりであることには気づいているだろうに、宗麟と会話するルイスの顔にも声にもまるで変化がない。
 それは何も気づいていないゆえの空虚な落ち着きではなかった。すべてを知りながら、それを胸の内におさめて動じない清らかな強さが確かに感じられる。その優しさと思慮深さはとても少年のものとは思えなかった。


 さらに話を聞けば、ルイスは言語だけでなく神学や医学にも通じているという。特に宗麟が驚いたのは、ルイスの神学の師の名前を聞いた時だった。
 先代の日本布教長コスメ・デ・トーレス。
 その名は宗麟にとって決して忘れられないものである。なんとなれば、宗麟にとってかの神父との出会いは南蛮神教との出会いでもあったから。友であった吉弘菊にジュスタという洗礼名を与えたのもトーレスであり、父親の猛反対がなければ、宗麟もあの時に洗礼を受けていただろう。


 今日はじめて会った南蛮の少年と、自らを結ぶ不思議な縁を思い、宗麟はそっと目を伏せる。
 すると、ルイスは遠慮がちに先ほどの宗麟の不調の原因を訊ねてきた。見習いとはいえ医師であるルイスにとって、宗麟の苦しみ方は看過できないものだったのだろう。
 そのルイスの問いかけに対し、宗麟は少しためらった末に自身を苛んでいた思いを口にした。
 それは半ば懺悔に近かったかもしれない。ルイスが宣教師ではないことは宗麟も承知していたが、トーレスの教えを受けた者に今の自分が、今のムジカがどのように映るのか、それを知りたいという思いが心のどこかにあったのだろう。




 ――宗麟がすべてを語り終えるまで、どれだけの時が必要だったのか。
 その間、ルイスは時折相槌を打つように頷きはしたが、ただの一度も口を挟まなかった。宗麟はひとつひとつの事柄を吟味して口にしているわけではなく、時に衝動的でわかりにくいところもあったが、ルイスは眉根を寄せることなく、そのすべてに黙って聞き入った。
 そして。
「私の行いは、あなたの目にはどのように映っているでしょうか……?」
 宗麟の問いを受け、ルイスははじめて口を開く。
 ただし、それは宗麟が求めるような直接的な答えではなかった。



「……神を知らない人が神を信じないことは罪ではない、とぼくは思います。では、たとえばぼくが将来宣教師の道を選び、その資格を得て神を知らない人たちに教えを説いたとき、それでも神を信じようとしない人たちは罪ある方々なのでしょうか? ぼくはこれも違うと思うのです」
 神がどれだけ偉大でも、その教えを説くのは全能ならざる人間である。
 神を知らない者たちは、教えを説く者を通じて神を知り、行いを通して神を見る。彼らが神を信じられないというのであれば、その原因がどこにあるかはおのずと明らかだろう。


「トーレス師は仰っていました。神の偉大さを知り、己の小ささを知る。すべてはそこから始まるのだ、と。人の器は神を語るにはあまりに小さく、それでも相手の心に言葉を届けたいのであれば、互いに信頼しあうことが不可欠です。だからこそ、師は布教に赴いた地の食べ物をたべ、根付いている教えを知り、風習を学び、文化を尊ぶよう努めたのだと思います。その地に生きる人たちが何を願い、何を大切にし、そして何を許せないと思って暮らしているのかを知るために」
 相手に信じてもらいたいのなら、信じてもらえるように努力しなければならない。相手を知ろうとすることもそのひとつ。それは決してたやすいことではないが、理解を望む側が望まれる側より多く努めるのは当然のこと――ルイスはトーレスの教えを引いてそう言った。




 大して長くもないルイスの言葉は、しかし、ある意味で大友宗麟に対するもっとも痛烈な弾劾であったかもしれない。
 神を信じない者たちに教えを押し付け、ときに強制し、他者の理解を望みながららも他者を理解しようと努めたことなどほとんどない宗麟は、神の偉大さを知り、しかし己の小ささを知らない者である。トーレスが口にした始まりの地点にさえ未だ立つことができていない。
 そのことをルイスに、そしてトーレスに厳しく指摘された気がした。


 もちろん、ルイスはそこまで考えて今の言葉を口にしたわけではない。それでも――あるいはだからこそ、宗麟の胸を強く打つものがあった。
 さきほどまで胸を苛んでいた痛みとは異なる強い衝撃を感じながら、宗麟はなおしばらくルイスと語り続けた。ルイスは主にトーレスのことについて語り、宗麟はその話を興味深く聞きながらも、時にルイスがどう考えるかについて問いを向ける。
 二人の会話はムジカの上空に月が差し掛かる頃まで続き、その頃になると宗麟の胸にはひとつの決断が生まれようとしていた。
 





◆◆◆





 筑前国 某所


 小川のほとりに腰を下ろした大谷吉継は、顔を覆っていた白布を取り去ると、そっと両手で川の水をすくいとった。
 しびれるように冷たい水で顔を洗い、冷たくなった手で軽く首筋を拭うと、あまりの心地よさに思わず嘆声がもれる。
 と、視界の隅でなにやら不審な動きをする者がいた。そちらを見ると、同行者である丸目長恵が拾った枯れ枝を片手に自分の髪の毛を抜いている。


 何をしているのか、とは問わなかった。日向から豊後を経て筑前に来るまで、同じような光景を何度も見ていたからである。
 吉継がぼんやりと見ている間にも長恵は手際よく作業を進め、さほど待つこともなく即席の釣竿が完成した。
「今日こそ姫(ひい)さまに我が釣果をお見せいたします」
 吉継の視線に気づいていたのだろう、長恵はそう言うとむんを気合をいれて川面に釣り糸を投じた。



 道中、干飯ばかりでは味気ない。長恵はそういって旅の途中でよく釣り糸を垂れていたが、長恵の言葉からも明らかなように、吉継は長恵が魚を釣った光景を一度も見たことがなかった。
 もっとも、それを理由として長恵の腕前を疑うつもりはない。川の水が冷たい時期の釣りは難しいことを吉継は知っていたし、道中の休息は最小限のものだった。これではたとえ名人級の腕の持ち主でも釣果は期待できないだろう。
 吉継がそんなことを考えていると、長恵がなにやら残念そうな顔で口を開いた。
「うーん、時間さえあればもうちょっと山奥に釣りに行けるんですけどね。そうすれば猪や熊をしとめることもできますのに」
「……どうして釣りの成果に猪やら熊やらがあがるのですか?」
「肥後にいた頃はたびたびあったんですよ。山奥の釣り場に行く途中とか、釣っている最中に遭遇しまして」
「それはもう釣りではなく狩りというべきですね」
 吉継が溜息まじりに評すると、長恵は楽しそうにころころと笑った。
「これが不思議なことに、狩りの用意をして山に踏み込むと獲物が見つからないんですよね。ままならぬものです、世の中は」




 緊張感のかけらもないやりとりをかわす二人の頭上では、太陽がまもなく中天に差し掛かろうとしている。
 吉継は長恵の邪魔をしないように少し離れてから、草履をぬぎ、足袋をとって川に足をつけた。
 冷たい水の流れが足にたまった疲れを優しく拭っていく。吉継の口から自然と吐息がこぼれおちた。
 小柄で繊細な見た目とは裏腹に、吉継は甲冑を身につけて戦場を往来できるくらいの体力は備えている。だが、さすがに短期間で日向から筑前まで歩きとおすのは大変だった。状況が許せば馬を使ったが、馬に乗るのも結構疲れるのである。


 豊後で噂をまいた後、筑前に入って岩屋城の状況を探ること。
 二人が天城から命じられたことのうち、前半部分はさしたる苦労もなく終わらせることができた。
 いかに現在の豊後が混乱しているとはいっても、日向の戦況、ムジカの情勢は人々の関心の中心である。道端で、街中で、茶店で、いかにも今しがた聞いたかのように勅使による講和成立の話をすれば誰もが耳をそばだてた。そして、この話を聞いた者たちは、吉継らが企まずとも勝手に話を広めてくれた。
 案の定というべきか、白布で顔を覆った吉継はこの仕事でほとんど役に立てなかったが、長恵ひとりでも十分に話を広めることはできただろう。


 ちなみに、天城が広げるように命じたのはあくまで勅使の到来と、それにともなう宗麟の声価向上であり、講和成立を吹聴することは含まれていなかった。虚偽を混ぜてしまう(二人がムジカを発った段階ではまだ講和は結ばれていない)と、その分噂の信憑性が薄れてしまう。また、講和が不成立になってしまった場合、噂を聞いた豊後の人々は講和はもとより勅使の件も偽りであった、と判断するだろう。こうなっては逆効果もいいところだ。
 吉継たちはそこまで事細かに説明されたわけではなかったが、天城の考えはおおよそ察することができた。察した上で、二人は――というより吉継は勝手に講和成立を噂に含めることにした。


 吉継は当然のように講和の成否を知らないが、どのみち講和が失敗したら手詰まりになってしまうのだから、成功したという前提で行動しても問題はあるまい、と判断した。講和が失敗すれば勅使の件まで疑われるということは、裏を返せば、講和が成立すれば勅使の件はより確かな事実として人々に認識されるようになる、ということだ。そうなれば、豊後で不穏な動きをしている者たちの行動を掣肘する効果も期待できる。
 それを話したとき、長恵がなにやら楽しげに口元を緩めたので、不思議に思った吉継が理由を訊ねると、長恵はこんな答えを返してきた。
「なんのかんのと仰りつつ、師兄が失敗するとは微塵も考えていない今の姫さまをご覧になれば師兄はさぞ喜ばれるだろうな、と思いまして」
 唐突にもほどがある言葉に、吉継はげふんげふんとせきこんだ。
「な、何をいきなりッ!? 私はあくまで現在の戦況を鑑みて最適の判断をしようとしただけでして――!」
「はい、わかっております。師兄に報告したりはしませんのでご安心くださいな」
「そのにこやかな顔はぜったいわかっていないでしょうッ!?」


 などと、時に大声をあげたりすることもあったが、基本的には平穏な道中だった。
 かくて豊後を抜けて筑前に入った二人は、そのまま岩屋城を目指す。
 安全を重視するなら豊後から直接筑前に入らず、筑後を経て岩屋城の南に出るべきだったが、筑前国内の状況を確かめることも大切な役割である。
 筑前南部の有力な敵将といえば古処山城を奪取した秋月種実が挙げられるが、古処山城を取り戻して間もない種実は積極的に領土を広げようとしていなかった。これは豊後の大友軍を警戒しているためであり、また宝満城の高橋鑑種の動向に注意を払っているためでもあったが、その根本にあるのは先の筑前攻めの苦い記憶である。
 種実は先の筑前攻めにおいて敵の術中にはまり、手痛い敗北を喫している。同じことを繰り返すわけにはいかないという思いが種実の動きを慎重にさせていた。


 これが吉継たちに幸いし、二人はほとんど妨害なく進むことができたのだが、それも竜造寺軍を目にするまでだった。
 岩屋城を十重二十重に包囲する竜造寺軍の配置は完璧であり、周辺への警戒も厳重で、岩屋城に近づくことはもちろん、遠目にうかがうことさえできはしない。水も漏らさぬとはこのことか、と吉継は舌を巻く思いだった。
 唯一の収穫は、竜造寺軍がこれだけ厳重な警戒を敷いているということは、いまだ岩屋城が落ちていないということだ、と確信できたことくらいである。


 雨が降ってくれれば雨音にまぎれて近づくこともできたのだが、あいにくと雨の気配は感じられない。情報を得るために無理をして近づいた挙句、敵兵に捕まってしまえば元も子もない。
 結局、吉継たちは竜造寺軍の警戒網の外周をなぞって動くことにした。これであれば危険は最小限で済む。たいしたことはつかめないだろうが、何もせずにいるよりはマシだろう。


 確かにこの行動には成果があった。
 竜造寺軍が特に警戒しているのは南側であり、これは筑後の大友軍の動きを気にかけているからだろうと思われる。そしてもうひとつ、竜造寺軍は北東――つまり岩屋城の至近にある宝満城をかなり警戒している様子を見せていた。
 宝満城の高橋鑑種はもともと大友家の重臣だったが、今では毛利家の傘下に入っている。彼を警戒するということは毛利を警戒するに等しい。毛利と竜造寺は行動を共にしているが、信頼と友誼で結ばれた間柄ではないということだろう。




 このあたりを利用すれば、竜造寺軍の鉄壁の防備に穴をあけることができるのではないか――小川のせせらぎに耳をくすぐられながら、吉継がそんなことを考えたときだった。
 釣竿を動かしていた長恵の手がぴたりと止まる。
 少し遅れて、吉継の耳も「それ」をとらえた。下流の方向から響いてくるのは喚声と剣戟の音。
 吉継は川面から足を引き抜き、足袋をつけて草履を履く。そして慣れた手つきで白布を顔にまいた。
 長恵が肩をすくめて言った。
「ふうむ。筑前の川では釣り糸を垂らすと刀槍の騒ぎが釣れるのですね。なんとも奇妙なことです。それはさておき、どうなさいますか、姫さま?」
「無用な騒動に巻き込まれたくはありません。はやくここを離れましょう――と言いたいところなのですが……」
「ですね。普通に考えれば戦っているのは竜造寺方と大友方でしょう。もちろんそうでない可能性もありますが、確認はしておきたいです」


 長恵の言葉に吉継はうなずいた。味方であれば助けたいし、かりに何の関係もない者たちだとしても、竜造寺軍が神経を尖らせている今このとき、わざわざ騒ぎを起こす理由が何なのかは気になる。
 吉継は少し考えた末、大雑把な案を提示した。
「まずはこっそり近づいて様子を見ましょう。後は臨機応変で」
「承知しました」
 二人は頷きあうと見通しのきく川辺から離れた。そして、近くの木立に隠れつつ、慎重に下流の方向に進んでいく。


 すると、間もなく二人の視界に戦いを繰り広げる一団の姿が飛び込んできた。
 一方は予想どおりに武装した竜造寺の軍兵。数は十五人ほどだろう。
 もう一方は予想と異なり大友家の兵というわけではないようだった。竜造寺兵に押されながら、上流へ上流へと逃げ続ける彼らを一目見た吉継の感想は、行商人の一団、であった。
 しかし、ただの行商人にしては戦い方が激しすぎる。見たところ行商人側(仮称)は竜造寺軍の半分もいないのに、逃げながらとはいえ何とか渡り合っているのである。ただの商人にそんなことができるとは思えない。


 行商人たちが大友家に連なる者なのかは確かめようがない。昨今の混迷した情勢を思えば、敵の敵は味方という図式はなかなか成り立つものではなく、助けたことが仇になる可能性は十分に考えられる。
 しかし。
「ここで居竦まって機を逃すようでは、間もなくいらっしゃるお義父さまにあわせる顔がありません。よろしいですか、長恵どの?」
 強い決意に裏打ちされた吉継の声に、長恵の嬉しげな声が応じた。
「はい、どうぞご存分に。ただし無理はなさらないでくださいね。この長恵、姫さまのためなら十や二十の敵兵、軽く屠ってご覧に入れますので」


 強がるでもなく、当たり前のように断言する長恵を見て、吉継はこっそり敵兵に同情した。
 今の台詞がほどなく現実になることを明確に予感したからである。もちろん、だからといって油断するつもりはない。吉継はそっと右頬に手をやり、指先に傷跡を感じてから目を閉ざした。南蛮船で受けたこの顔の傷は間もなく消える。が、記憶の方はずっと消えずに残るだろう。たぶん死ぬときまで。
 もう二度と虜囚の身にはならない。自分はともかく、周囲の人たちに同じ思いを味わわせるわけにはいかないのである。


 二人は互いに機を見計らい、同時に木立の間から飛び出した。




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第十章 天昇(八)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:7a1194b1
Date: 2013/08/11 21:35
 世にいう筑後十五城とは、筑後各地に盤踞する有力な国人衆を指す言葉である。
 この十五城の一角に問註所鎮連(もんちゅうしょ しげつら)という人物がいる。
 筑後北部の長岩城を居城とする問註所家は、鎌倉時代から続く由緒ある名家であり、大友家とのつながりは深く、長い。当主鎮連は反大友勢力がひしめく筑後にあって、同じく筑後十五城のひとりである柳河城の蒲池鑑盛と並んで大友家への忠誠を堅持し続ける硬骨の士のひとりであった。


 ただ、一口に筑後十五城といっても蒲池家と問註所家の力には大きな開きがある。
 蒲池家は分家も含めれば二十万石に届こうかという大身であるのに対し、問註所家は一万石に届くかどうかというところ。これは問註所家がきわだって小さな家というわけではなく、筑後における蒲池家の勢力がそれだけ巨大であるということであり、だからこそ国人衆の大半が大友家に背を向けているにも関わらず、筑後はいまだ大友領であり続けているのである。


 石高の大小は兵力の多寡に直結する。問註所家の所領は筑前と隣接しているが、今回の戦いで鎮連は筑前に援軍を送ることはできなかった。それをすれば自領を守る兵力に不足をきたすことが火を見るより明らかだったからである。
 一日、長岩城の一室で問註所鎮連は重々しい声で言った。
「――そのことは筑前のお味方も承知してくださっている。立花山城の立花道雪どの、岩屋城の高橋紹運どの、他いずれの城からも当家に援軍を求める使者は来ておらん。くわえて府内からの命令も届いておらぬ以上、当家はこれまでどおり城を守って動かず、筑後の他勢力の動向に目を配るべきであろう」


 この鎮連の言葉を聞き、鎮連の前で端座していた人物はこくりとうなずいた。
 鎮連の嫡子である問註所統景(むねかげ)である。
 大柄な父とは対照的に身体は小さい。長めの髪は動きやすいように頭の後ろで団子状に結い上げており、双眸は筑後の山野を照らす陽光のように明るくきらめいている。そういった外見と、動作の端々から伝わる躍動感が、統景の活動的な人柄をあらわしていた。


 その統景は父を前にして、しかつめらしい表情をつくって口を開いた。
「大叔父さま(問註所鑑景)にくわえて星野に黒木、おまけに毛利の後援を得た秋月と、当家をねらう敵は枚挙に暇がありません。そのどれをとっても当家と同等かそれ以上に強大。この状況で筑前に兵を出せば即座にこの城を奪われてしまうことは疑いないでしょう。此度の戦において、問註所家が所領を守るのに汲々として他に何一つ為せなかったとしてもそれは仕方のないこと……」
 と、ここで統景は円らな目でうかがうように父の顔をのぞきみる。どこか悪戯っぽさを感じさせる仕草だった。
「――などと考えていらっしゃるのなら、それがしをこの場に呼んだりはなさらないですよね。前置きが長いのは父上の悪い癖ですよ?」


 統景のあっけらかんとした物言いに、鎮連の表情が渋くなった。
「無用な言辞を弄しているわけではないぞ。唯々諾々と命令に従うより、意義を理解して動いた方が力を尽くせるというものではないか」
「それはそのとおりと心得まするが、時と場合によりましょう。宝満城が落ちたとの噂、それがしの耳にも届いております。兵を出すのなら、急いだ方がよろしいかと」
「我が家が集められる兵は千にも届かぬ。この城に篭って守るならば知らず、出でて戦うにはとうてい足らぬ。よほどに無理をしても筑前に出せる兵力は百が精々。この寡兵では戦局をかえようもない」
 そういった後、鎮連は、しかし、と付け加えた。
「飛び交う蚊が熊を眠らせぬこともある。また、敵と渡り合うことはできずとも、落ち延びたお味方をこの城に迎え入れる手助けくらいはできるかもしれぬ」


 統景は表情をあらため、しっかとうなずいた。
「そのいずれにせよ、小を活かすためには筑前のくわしい情報が欠かせない。そのためのそれがし、ということですね」
 かしこまりました、と統景は軽やかにうなずいた。重苦しささえ感じさせる父の言葉とはいかにも対照的である。
 それを見て、鎮連の謹厳な表情に沈痛さが加わった。
「……言うまでもないが危険な役目ぞ。山野を駆けること猿(ましら)のごとく、河川を泳ぐこと河童のごとしといわれるそなたであってもだ」
「危険は覚悟の上でございます。その危険をおしてでもやらねばならぬことだから、父上は他の誰でもなくそれがしにお命じになったのでしょう。ご心配には及びませぬ。問註所を継ぐ者として、立派に務めを果たしてご覧に入れます――ですが、その前にひとつ」
「む、なんだ?」
 不意にぷっくりと頬をふくらませた統景に、鎮連は怪訝そうな視線を向けた。
「……父上。仮にも年頃の娘に対して、猿だの河童だのというたとえはいかがなものか、と思います」
「ぬ? 山を駆ける猿に人は及ばず、川を泳ぐ河童に人は届かぬ。それだけそなたが誉め称えられておるということであろう。喜びこそすれ、厭う名ではあるまいが」
「いえ、そういうことではなくてですね…………はぁ、ごめんなさい、なんでもないです」
「??」
 不思議そうに首をひねる武辺一徹の父を見て、統景は諦観と共に溜息を吐くのだった。




 その後、いくつかのやりとりを経て統景は生まれ育った城を離れた。
 鎮連は護衛として手練の家臣をつけようとしたのだが、これは統景が断った。今は一兵であっても貴重であり、武に長じた者となれば尚のことそうである。くわえて、単純な武芸であればともかく、険阻な地形を踏破することにかけて統景に優る者は家中にいない。情報を集める目的であれば、ひとりの方が何かとやりやすいと考えたのである。仮に敵兵に見つかったとしても逃げ切れる自信が統景にはあった。


 そうして筑後川を越えて筑前に入った統景が最初に行ったのは、宝満城の陥落が事実か否かを確認することだった。統景は問註所家の使者として宝満城に赴いたことがある。当時、城主は大友家に仕えていた頃の高橋鑑種であったが、城の堅い守りに感心した記憶が残っている。あの堅城がこの短期間で落ちるとはどうにも信じられなかったのだ。
 しかし、耳に入る噂はすべて落城を肯定するものばかり。統景は憂い顔で小さく息を吐き出した。


「――あの鑑種さまが毛利にくみして宝満城を落とす、か。ほんとう、一寸先は闇だね、人の世は」
 かつて宝満城で言葉を交わした鑑種の顔が思い浮かぶ。
 鑑種は物静かな為人で、言葉遣いも丁寧であり、目下の統景にも礼儀正しく対応してくれた。その姿は歴戦の武将というより古刹の名僧のようで、あの鑑種が主家を裏切り、毛利の走狗となった事実を、統景はいまだにうまく消化することができないでいる。
 それほどまでに主君の行いが許せなかったのだろうか……と、そこまで考えかけた統景は、軽くかぶりを振って物思いを断ち切った。
「それは私が考えても仕方ないことだね。一度謀反に踏み切った鑑種さま……は、もうまずいか……謀反に踏み切った鑑種どのが今さら返り忠するはずもなし、戦うしか道は残されていないんだから」


 統景は現在の筑前の状況を脳裏に思い浮かべつつ、考察を続けた。
「立花山城は毛利に囲まれている。古処山城は秋月が落とした。宝満城が鑑種どのの手に落ちて、このうえ岩屋城の紹運さまが敗れるようなことがあれば、もう筑前に大友に従う勢力は残されていないことになる。となると、岩屋城を落とした竜造寺の矛先は間違いなく筑後に向けられる」
 筑前を失った大友家に残るのは豊後と筑後のみ。豊後には毛利が、筑後には竜造寺が、それぞれ侵攻するつもりであろう。
 そして、竜造寺が筑後に踏み込めば、おそらく筑後の大半はこれに呼応する、と統景は見ていた。


「肥前の方から来る敵は鑑盛さまをはじめとした蒲池のご一族がいらっしゃるからいいけど、北の筑前から来る敵は問註所だけではもう止めようがないなあ……やっぱり、岩屋城で敵を食い止めないとどうしようもない、か」
 だが、その岩屋城は二万の敵に囲まれており、問註所家の百や二百の手勢でどうにかなる戦況ではない。
 筑前に入る前からわかっていたことではあるが、あらためてそのことを実感した統景は嘆息した。
 が、それでも統景の足は止まらない。
 これからどう動くにせよ、岩屋城の様子は確認しておかなければならない。最悪、城が落ちたとしても、父が言ったとおり、紹運や麾下の兵士が城外に逃れでてくれれば、これを助ける機会はあるかもしれないのだ。


 統景は竜造寺家の重囲に苦慮しつつ、なんとか城の状況を確かめようと歩き回った。途中、何度か竜造寺の兵に発見されそうになったこともあったが、山の狩りに慣れた統景にとって彼らを撒くのは難しいことではなかった。おかげで竜造寺兵の間には、岩屋の山中には天狗が出るという妙な噂がたったりしたのだが、統景はそのことを知らない。
 そうして統景が岩屋城の様子をさぐりはじめてから二日後のこと、木立の陰で残り少なくなった干飯をまずそうに食べていた統景の耳に刀槍の響きが飛び込んできた。


 駆けつけた統景が見たのは一方的な戦いの場であった。
 追われる者たちは、顔といい甲冑といい汚れていない部分はない、という有様で反撃もままならない様子である。岩屋城から脱出してきたのか、あるいは宝満城の敗兵が岩屋城に入り込もうとして見つかってしまったのか。いずれにせよ、追われる側が大友兵であるのは間違いないと判断した統景は、背負っていた短弓を取り出して矢を番える。


 短弓は通常の弓と比べて射程は短いが、小さくて使い勝手がよく、引く力も小さくて済む。長弓であっても問題なく引ける統景にとっては速射も容易な得物である。統景は狩猟はもとより戦の際にも好んで短弓を用い、扱いに習熟していた。
 統景はたちまちのうちに討ち手の兵を数人ばかり射倒してのける。敵が寄ってきたら弓から刀に持ちかえるつもりだったのだが、相手はあっけなく散り散りになってしまった。それを見て統景は拍子抜けして呟いた。
「竜造寺の兵ではないね。血の気の多い連中が群れて落ち武者狩りをしていたのかな」


 こうして追われていた者たちを助けた統景は、ほどなくして、自分が救ったのが宝満城から逃れでた高橋家の重臣尾山種速であることを知るのである。




◆◆◆





 ……ざっと今日までの事情を語り終えた統景は、一連の説明を次の言葉で締めくくった。
「それから今日まで、尾山さまや配下の方々と共になんとか城に近づけないかと試みてきたのですが、竜造寺の堅陣に穴を開けることができませんでした。かえって敵方に目をつけられ、狩り立てられようとしていたところ、今日、お二人に助けていただいた次第です」


 その言葉にうなずいたのは、つい先刻、その竜造寺兵を蹴散らした丸目長恵である。
「なるほど、事情はよくわかりました。それにしても妙な縁ですね。問註所さまが尾山さまをお助けし、その問註所さまの窮地にわたしたちが駆けつけるとは。この調子でいくと、次に窮地に陥るのは私たちということになりますか」
 二度あることは三度あると言いますし、と物騒なことを口にする長恵に、吉継は渋面で応じた。
「不吉なことをいうのはやめてください。大前提として、竜造寺に見つからないように岩屋城の様子を探るのであれば、動ける範囲は限られます。その意味では、このあたりで大友方の人間が助け、助けられるのはおかしな話ではないでしょう」


 たがいに竜造寺なり毛利なりの罠ではないか、との疑いがなかったわけではないが、その疑いは吉継と尾山種速が互いの顔を確認した瞬間に霧散した。
 吉継は尾山種速、萩尾麟可といった高橋家の重臣たちと親しくつきあっていたわけではないが、紹運の傍らにいる彼らを見たことは何度もあった。これは種速にしても同様で、吉継の特徴的な外見は一度見ればそうそう忘れられるものではない。
 かくて、双方が疑心暗鬼にとらわれる事態は避けることができたのである。



 こうして予期せず行動を共にすることになった一行は、安全な場所で互いの事情を説明しあった。もっとも、種速と統景はともかく、吉継と長恵はすべての事情を説明することはできなかった。すべてを語るには時間が足らず、また語ったところで信じてもらえるはずがないからである。
 しかし、何の説明もなしではこれから先の協力に支障をきたす。
 尾山は吉継が雲居筑前の義理の娘となった一件を紹運から聞いており、その雲居が戸次家に加わり、高千穂遠征に従軍したことも知っていた。そのため、吉継は高千穂遠征以降に起きた出来事をなるべく簡略に話すことにした。
 ただそこまで配慮しても、吉継の口から出るのは南蛮軍の侵攻やらなんやらと現実味を欠く出来事ばかり。聞きおえた種速が絶句し、統景が大きな目を丸くしているのもむべなるかなというべきだろう。
 吉継はほぅっと息を吐き出した。



 ややあって、種速は気を取り直したように口を開いたが、やはりというべきか、その声には隠しきれない困惑が含まれていた。
「――ふむ。大谷どのや、噂に名高き肥後の刀匠どのの言葉を疑うわけではないのだが……」
 吉継は種速のはきつかない言葉に苛立ちを感じることはなかった。吉継とて、いま自分が口にしていることを他人の口から聞かされたら、まず信じることはないと思う。
 そんな内心を素直に言葉にあらわした。
「にわかには信じられぬ、とのお気持ちはよくわかります。率直に申し上げて、私も他者から聞かされれば容易には信じられぬと判断したことでしょう。しかしながら、長恵どのの剣の冴えはお二方はご自身の目でご覧になったはず。かの剣聖丸目長恵どのが、私のごとき小娘と行動を共にしている――この一事は、私の話を裏付ける証左のひとつです。極秘であるはずの立花さまのムジカ行きを知っていることもご考慮くださいませ」


 尾山の下には宝満城から逃れでた三十人あまりの兵がいる。統景は種速と合流してから長岩城に使いを出しており、問註所家の兵百人もほどなく到着する見込みであるという。
 両方をあわせても百三十。竜造寺の二万の大軍とは比べるべくもない寡兵であり、この寡兵が義父の岩屋城救援の策にどれほど益するのか、吉継は明確に見定めることができていない。
 だが、どんな寡兵であれ、無いよりも有る方が良いに決まっている。種速らに明確な救援策があるのであればともかく、そうでないのならば天城と協調して兵を動かす方が得策である。それが吉継の主張だった。


 吉継の言葉を聞き、種速は無精ひげの伸びたアゴをさする。
 その顔には困惑を上回る疲労が色濃く浮きあがっていた。落城から今日にいたるまでの肉体的な疲れはもちろん、紹運からあずかった宝満城を奪われ、主君の戦略を台無しにしてしまったという心痛が絶えず種速を苛んでいるのだろう。
「……岩屋城が敵に囲まれて、すでに十日以上経つ。今日までもちこたえているのは紹運さまなればこそだが、それでも限界はある。一刻も早く助勢しなければならないが――」
 元々、種速は自身の手勢を率いて岩屋城に戻り、紹運と生死を共にするつもりだった。これに統景を付き合わせるつもりは毛頭なく、問註所家の兵を招いたのは統景の判断である。
 統景の方は山野に伏して竜造寺と戦い、少しでも岩屋城にかかる重圧を減らそうと考えたわけだが、種速はもちろん統景の考えも岩屋城の窮地を切り開くものではない。落城の時をわずかなりとも伸ばすことはできるかもしれない。しかし、落城そのものを回避することはできないだろう。


 そのことは二人ともわかっていた。
 だから、ここは動かずに天城を待つというのも一案ではあった。種速は先の筑前戦における大友軍の作戦行動を主導したのが誰であるかを知っており、天城の能力に疑いを抱いてはいない。
 しかし、いつ来るかわからない天城を待って時を過ごせば、その間に岩屋城が落ちてしまう恐れがある。仮に天城が岩屋城を救う策を持っているとしても、天城が来る以前に城が落ちてしまえば何の意味もない。
「――拙者が岩屋城に入って内から紹運さまをお助けし、問註所どのは残って雲居、いや、天城どのと共に外から城を救ってもらう。これであれば……」
 種速は言いかけて、力なく口を閉ざした。岩屋城に入り込める道がないからこそ、今日まで城外をさまよっていたのである。


 考えあぐねた種速は吉継に問いを向けた。
「天城どのが筑前に入るまでどれほど時がかかるのか。大谷どのはそこをどうみている?」
「すべては島津次第です。早ければ明後日、遅ければ――」
 吉継はそういって首を左右に振った。いつになるかわからない、という意味だった。
 吉継の頭の中では、どれだけ交渉が速やかに進もうとも二日はかかるだろう、との予断がある。それだとて相当に短く見積もってのことで、実際に一週間や十日かかってもなんらおかしくはない。
 天城は口癖のように時間がないといっていたから、島津との交渉に時間をかけるつもりはないだろう。だが、交渉ごとは相手あってのもの、島津が大友の都合にあわせる理由もまたないのである。
(島津の姫たちは、大なり小なりお義父さまに恩義を感じている様子でしたが……)
 それでも個人の感情で家運を左右する決断をゆるがせにする人たちではない、と吉継は思う。安易な期待を言葉にすることはできなかった。




 と、そのとき、それまで黙して聞き入っていた問註所統景が口を開いた。
「大谷どの、ひとつ聞きたいのだけど」
「なんでしょうか、問註所さま?」
「その天城という御仁とはどのように連絡をとるつもりなの? いつ来るかわからないのであれば、居場所ひとつ伝えるのも難儀するように思える」
 統景の疑問に対し、吉継はかつて篭城した城の名前を出した。
「ご存知かとは思いますが、私たちはしばらく前に休松城で秋月ら筑前勢と矛を交えました。その休松城の西方にある川を越えた先に古い神社があるのですが、その社を利用しています。具体的にいえば、今後の私たちの予定を記したものを書き置いてあるのです」
 吉継たちが筑後を経由せずに筑前に入った理由のひとつは、この神社に立ち寄る必要があったためである。


 もちろん、これでは現在の正確な居場所を伝えることはできないのだが、手がかりがあるとなしとでは合流に要する手間がだいぶかわってくる。居場所をかえた時は、その都度、新しい書状を書き置いておけばよい。秋月の勢力圏内にある場所だが、軍事的な拠点ではないので敵の警戒は薄い。そこも天城がこの神社を選んだ理由のひとつだった。
 さらにもうひとつ、縁起を担いだという側面もある。


 長恵が楽しげに付け足した。
「往古、羽白熊鷲(はじろくまわし)なる者が古処山を中心として強勢を極めたとき、時の皇后陛下はみずから兵を率いてこれを討伐したといいます。この討伐に際して、皇后陛下はこの神社に刀を奉納して軍勢を集めたとか。こたび討つべき熊は古処山ではなく肥前の産ですが、この故事はささやかな験担ぎになるでしょう。薩摩のときもそうでしたが、師兄は日の吉凶はほとんど気になさらないのに、地の吉凶に関しては気を遣われるんですよね」
 それを聞き、吉継は疑わしげに首をひねった。
「鳥居の根元に書を隠しただけですので、刀を奉納したという故事とはだいぶ異なりますが」
「姫さま、それは言わない約束です」


 長恵は一同をぐるりと見渡した。
「ここで顔をつきあわせていたところで良案が浮かぶわけでもありません。ひとまず明後日の……そうですね、早朝まで待ちませんか?」
 長恵があえて早朝といったのは、丸々二日間待てといったところで、岩屋城を案じる種速が承知しないだろうと考えたからである。
「明後日の早朝まで待って師兄が来ないようであれば、師兄は間に合わぬと考え、別の手を考えましょう。先に尾山さまが仰ったように、尾山さまたちを城内に送り込むのも一案です。私と姫さま、そして問註所さまの三人で陽動を行えば、いかに竜造寺の陣が堅いとはいえ、穴のひとつやふたつ、こじ開けることはできましょう」


 要するに長恵は時を区切った上で、種速たちが吉継の提案に従って天城を待ってくれるのなら、それ以後は種速たちに協力しよう、と申し出たのである。
 種速はしばらく悩んだが、最終的にこの提言を容れた。どのみち、雑兵とはいえ竜造寺の兵を斬った以上、岩屋城周辺の警戒が今まで以上に厳しくなるのは明らかであり、策の有無に関わらず、一時的にここを離れる必要がある。両手にあまる数の竜造寺兵を屠った長恵の剣技を見たことも種速の決断を後押しした。
 統景も異議は唱えなかった。種速の手勢と問註所の寡兵だけでは岩屋城を救えないのは厳然たる事実である。であれば、わずかであれ、可能性のある選択肢に懸けるべきだろう、と統景は考えた。つけくわえれば、天城という人物がどういう策を示すかに興味を抱いたという理由もあった。





 岩屋城から休松城までの移動はさして急がずとも三刻かからない。が、それはあくまで平時の話である。竜造寺と秋月以外にも大友家に敵対する国人はいるし、種速らが襲われたように褒賞目当てに落ち武者を狙う者たちも少なくない。
 吉継と長恵は警戒を欠かさず、今日まで戦いづくであった種速と配下の兵を気遣って休息を多くとったため、結局、件の神社にたどり着いた頃には、出発時に頭上に輝いていた太陽は完全に稜線の彼方に姿を隠していた。


 書を鳥居の根元に隠し置くというのは、天城と相談した際に吉継が出した案である。
 神社で働く人々を無用な危険に巻き込まないため――ではなく、単純に彼らに大友家への協力を求めても無駄だろうと考えたからだった。これまでの南蛮神教偏重の大友家の行いをかえりみれば、どこの国の神社であろうと敵視されていると考えた方が自然である。協力を拒まれるだけならともかく、最悪の場合、ご注進ですと秋月家に駆け込まれるかもしれない。それを避けるためだった。



 種速らを近くの山裾に残し、吉継は長恵と統景の三人で神社に向かった。
 ほどなくして、吉継の視界に小さな篝火に照らされた鳥居が映し出される。
 と、その途端、長恵の口から鋭い声が飛んだ。
「――姫さま、さがってください」
 言うや、長恵は刀の柄に手をかけ、すべるように吉継の前に立つ。
 吉継は頭巾の中で眉をひそめつつ、言われたとおりに三歩ばかり後ろに下がった。よく見れば、鳥居を照らす篝火の明かりは複数の人影を映し出している。
 相手はそれほど大人数には見えなかったが、見咎められると面倒なことになる。
 統景が緊張した声でささやいた。
「どうやら向こうは武装しているみたいですね。大谷どの、ここは急いで離れた方がいいと思います」
 こんなところに味方の兵がいるはずがない。その統景の言葉にうなずき、吉継たちは来た道を引き返そうとした。
 だが、かえってその動きが目に付いてしまったらしい。吉継たちの視界の中で、篝火を掲げた一団に慌しい動きが見られた。と、次の瞬間にはこちらに向かって数名が駆け寄ってくる。


「……どうみても話し合いをしようという態度ではないですね」
 吉継の言葉に、統景がうんうんとうなずいた。
「ですね。見られてはまずいところを見られたという感じかな」
 二人に続いて、長恵が声を発する。めずらしいことに、その声には強い緊張が感じられた。
「姫さまも問註所さまもお気をつけて。かなりの手練です。へたをするとお師様に迫るかもしれません」


 その言葉を聞き、吉継と統景は驚きを禁じえなかった。
 時といい、場所といい、向かってくる相手が善良な村人などでないことは明らかだったが、長恵に緊張を強いるほどの手練がいるとは予想外にもほどがある。
 できれば逃げたいところだが、剣聖級の追っ手から逃げ切る自信はないし、両手を挙げて話し合いを求めるのは危険が大きすぎた。問答無用で殺される恐れもあるのだ。


 となれば、戦って切り抜けるしかない。三人が一斉に刀を抜き放つと、その響きが消えないうちに、相手からも抜刀の気配が伝わってくる。
 吉継はまだ相手が刀を抜いていなかったことを意外に思った。一瞬、早まったかもしれないという思いが脳裏をよぎったが、今さら刀をおさめて話し合いを求めても無駄だろう。こうなってはもう仕方ない、と覚悟を決める。


 ――しかし、幸いにも両者の激突は未遂におわった。吉継と統景を守るために前に出た長恵と、同じように相手方の先頭に立っていた人間が同時に声を発したからである。


「――長恵、ですか?」
「――お師様、です?」




◆◆◆




 無事に吉継たちと合流を果たした俺は、開口一番、頭を下げて謝罪した。
「申し訳ない! まさかこんな時間にやってくる人なんていないだろうとタカをくくってたら、あにはからんや、なにやら怪しげな人たちがやってくるじゃないか。どこの誰かは知らないが、こんな時間にそこらの村人が人気のない神社にやってくるはずもないし、騒がれたらまずいとおもって秀綱どのに捕らえるように頼んだんだ。まさか吉継たちだったとは」
「怪しげで悪かったですね――と言いたいところなのですが、先に刀を抜いたのはこちらの責です。申し訳ありませんでした」
 吉継はそういって頭を下げてから、訝しげに俺の顔を見上げた。
「しかし、それはそれとして、どうしてお義父さまがここにいらっしゃるのですか? どう考えても到着が早すぎます」


「ああ、それはだな――」
 その疑問はもっともだったが、二言三言で説明できることではない。どうしたものかと考えていると、傍らでなごやかに語り合う二人の剣聖の声が聞こえてきた。
「お師様ならばあの剣気も納得です。いや、冷や汗をかきました」
「すみませんでした。私も、まさか長恵とは思わなかったもので――それにしても、あなたが成長したことはわかっているつもりでしたが、一時とはいえ対峙してみると、よりはっきりと上達具合がはかれますね。この戦が終わった後、正式に立ち合ってみましょうか」
「は、望むところです! そうと決まれば一刻も早く、師兄の携えた起死回生、捲土重来、一発逆転な奇策を拝聴しなくてはなりませんッ」


 なにやら俺の知らぬところでむやみにハードルを高く設定されている気がするが、それはさておき。
「吉継、そちらの方はどなたなんだ?」
 さきほどから吉継と長恵の後ろでじーっと俺を見つめている人物に視線を向ける。
 体格が小柄なせいもあって性別はいまひとつ判然としない。くるりとした目や、頭の後ろで団子状に結わえられた髪、さらには全体的なやわらかい雰囲気から推して、たぶん女の子だろう。
 見覚えがない人物だが、吉継たちが戦とは何の関わりもない人間を連れ歩いているはずがない。おそらくは大友軍の将であろうと思われた。


 吉継にうながされて前に出た少女はぺこりと頭を下げた。その名乗りを聞き、俺は自分の考えが正鵠を射ていたことを知る。
「はじめまして、天城颯馬どの。それがし、筑後長岩城主 問註所鎮連が嫡子 統景と申します。父鎮連の命により、筑前の情勢を探っていた途中、ご息女と丸目どのに窮地を救われ、以後、行動を共にしている次第です」
「これはご丁寧に。天城颯馬と申します」
 俺の自己紹介がものすごい簡素になってしまったのは、吉継たちがどの程度俺のことを話しているかがわからなかったからである。向こうが天城颯馬の名を出したといっても、雲居筑前云々のことまで知っているとは限らないわけで、細かいことはすっ飛ばすことにした。どのみち、後で詳しいことを語らざるを得なくなるだろうし。


 俺はあたりを見回してから言った。
「ここで話し込んでいると神社の人たちに見咎められるかもしれない。今はここを離れよう。俺に同行しているのはこの場にいる人たちだけなんだが――」
 内訳は剣聖ひとりと、道雪どのにつけてもらった戸次家の精鋭十名。ムジカを出たときはこの五倍くらいの人数がいたのだが、他の人たちは道中で別れた。宗麟さまと道雪どのの書状を豊後各地の家臣たちに届けるためである。
 俺が吉継を見やると、吉継はこちらの意図をさとって口を開いた。
「こちらは私と長恵どの、問註所さま、後はすこしはなれた山裾の森に高橋家の尾山さまと、配下の方が三十名ほどいらっしゃいます」
「……ちょっとまってくれ。尾山さまというのは、宝満城の尾山種速どののことか?」
「はい。城が落ちてから岩屋城の高橋さまの下へ行こうとして果たせなかったとのことです。今しがた問註所さまもおっしゃいましたが、尾山さまと問註所さまが竜造寺の兵と争っていた場に私と長恵どのが居合わせ――」
「以後、行動を共にするようになった、ということか」


 思わず俺はうなった。
 聞けば統景も似たような状況で種速に出会ったのだという。
 竜造寺に見つからないように岩屋城を探ろうとすれば、必然的に味方の行動範囲は限定されるとはいえ、吉継たちが出会えたのが僥倖であるのは間違いない。
 吉継らが掴み取ったこの僥倖は、俺にとって大きな意味を持っていた。
 今回の戦いでは、竜造寺軍には最低限こちらが毛利との決着をつけるまで肥前でおとなしくしていてもらわねばならない。そのために必要な手札はできるかぎり揃えてきたつもりだが、残念というか当たり前というか、穴は幾つも存在した。
 尾山種速がいれば、この穴を防ぐ一手を打つことができるのである。


 なにしろ種速はつい先日まで宝満城の城主だった。彼ほど宝満城を攻めるに相応しい人物はいない。この際、兵力はわずかでもかまわないので、そこは問題ではない。問題があるとすれば、それは天候だった。
「吉継、明日以降の天候はわかるか?」
「……雨の気配はまったくありません。少なくとも、明日から三日は昼夜とも晴れると思います」
「風はどうだ?」
「少しは吹くでしょうが、軍勢の動きを隠しおおせるような強風は望めないかと」
 吉継の声はどこか力ないものだった。おそらく、俺が風雨に乗じた奇襲なり夜襲なりをたくらんでいると考えたのだろう。
 その吉継の推測はある意味で正しく、ある意味で間違っている。雨もなく風もないとなれば奇襲には不向きの天候というしかないが、こと今回にかぎっていえば、絶好の奇襲日和といってよい。むしろ雨が降ると言われた方が俺は困っただろう。


 情勢は確実に大友軍に好風を吹かしはじめている。自然、口元に笑みが浮かんだ。
「――転機というのはあるもんだな。こういう時は少しばかりカッコつけて、風が変わった、とでもつぶやきたいところだ」
 風雨がないと聞いて笑みを浮かべる俺を不思議に思ったのか、吉継はじっとこちらを見つめる。すると、俺の表情に何か感得するものがあったのか、吉継は訝しげな表情を引っ込めると、淡々とした調子で言葉を紡いだ。
「何を仰りたいのかよくわかりませんが、お義父さまが風変わりな方であるのは承知しています」
「こんなときに頓知(とんち)を働かせないでよろしい。とにかく詳しい話は尾山どのの所にいってからだ」


 俺がそう言うと、吉継はこくりと頷いた。そして、何気ない様子で俺の腰にある刀に視線を向ける。
「腰に立花さまの佩刀を差している理由も、その時に教えていただけるのですよね?」
「――ああ、もちろん。しかし、よく気づいたな?」
「お義父さまの刀の拵えが変われば、気がつかない理由がありません」
「そういうものか」
「そういうものです。尾山さまがいらっしゃるのはこちらです。案内しますので、ついてきてください」
 そういうと、吉継はどこか軽やかな足取りで歩き出した。




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第十章 天昇(九)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:7a1194b1
Date: 2013/09/05 20:51

 筑前国 大宰府跡 竜造寺軍本陣


 岩屋城をめぐる大友、竜造寺の戦いが始まって半月。竜造寺軍は高橋紹運率いる大友軍に苦戦を強いられながらも大兵力の利を活かして着実に攻略を推し進め、大手門、二条の砦、虚空蔵台砦、百貫島砦を制圧するにいたっていた。
 大友軍に残された拠点は、岩屋山の中腹に位置する本丸と、山頂に位置する水の手上砦のみであり、開戦以前は千五百を数えた城兵もすでに四百を下回るものと推測されている。
 生き残っている将兵にしても、傷つき、疲れていない者は皆無だろう。高橋紹運がどれだけの名将であろうとも、次の総攻撃をしのぐことは不可能――それが竜造寺軍を率いる諸将の共通した見解であった。


 ただ、ほぼ勝利を決定づけた竜造寺の軍中に喜びの色はない。無邪気に勝ち誇るには被った損害が大きすぎたのである。
 岩屋城の守りは堅牢を極め、城兵の抵抗は頑強であり、城将である高橋紹運は再三再四、逆撃をおこなっては攻め上ろうとする竜造寺軍を押し返してきた。
 特に宝満城が落ちた夜の襲撃では、あわや本陣に切り込まれる寸前まで押し込まれ、木下昌直をはじめとした四天王の奮戦でかろうじて事なきを得たほどである。
 結果、今日にいたるまでの竜造寺軍の戦死者は大友軍の倍を数え、負傷者も含めれば、被害総数は大友軍の四倍を越えていた。
 二万の軍勢の一割が戦死し、さらに一割以上が負傷したのである。常の戦ならばこれだけで撤退せざるを得ない大損害であったが、この戦にかぎっていえば、損害は実数以上の重みを持っていた。
 今回の戦で動員された竜造寺軍二万のうち、精鋭と呼べるのは八千程度であり、それ以外の兵はいわば数あわせの寄せ集めだった。竜造寺軍は後者を後陣にとどめ、前者をもって岩屋城を攻撃していたため、精鋭のみを見た場合、損害の割合はさらにはねあがることになるのである。



 竜造寺の軍師 鍋島直茂は、緒戦における抗戦の激しさから今回の城攻めの苦戦を予測していたが、高橋紹運に予測の最悪を極められてしまった。
 このまま城攻めを続ければ岩屋城を落とすことはできる。だが、今日までの被害に、最後の総攻めで受けるであろう被害を足し合わせた場合、たとえ岩屋城を落とせたとしても、その後に続く立花山城攻め、あるいは筑後、豊後の大友領への侵攻はきわめて難しいものになってしまう。
 それはつまり、満を持して肥前を発した二万の竜造寺軍が、たった半月、たった一城の戦果をもって侵攻を止められてしまう、ということであった。


「見事、というほかありませんね」
 大宰府跡に据えられた本陣の天幕の中、鬼面を外した直茂の表情には拭いきれない疲労と、隠しきれない感嘆が見て取れる。
 敵将である高橋紹運を甘く見ていたつもりはなかったが、たとえば立花道雪などと比べれば一軍の将として戦陣にのぞんだ経験は少なく、その分くみしやすいという思いがなかったとは言いきれない。
 しかし、今日の戦況を見れば、紹運の将器が道雪のそれに匹敵しうるものであることは明白だった。硬軟とりまぜた防戦の巧みさは、大友家はもちろん九国全土を見渡しても屈指の域に達しているだろう。いっそ、日ノ本全土を見渡しても、と言いかえても良いかもしれぬ。


 床几に腰掛けた直茂は、卓の上に置いた書状を眺めながら呟いた。
「ぜひとも我が軍の一翼を担ってほしい武将なのですが、それは無理というものでしょうね。弓矢をとる武士の決着は生死をもってつけるしかないとはいえ、惜しいことです」
 今の大友家には過ぎた武将だ、と直茂は紹運のことを評価していた。これは直茂だけでなく、成松や百武、江里口といった諸将、さらに当主である隆信も同じ考えを抱いていた。一度ならず使者を遣わして降伏を促してはみたものの、やはりというべきか返答は『否』だった。
 次の総攻撃に先立って、今一度、城方に使者を送ることになっているが、紹運の答えがかわることはないだろう。
 直茂や四天王が大友軍に降ることがありえないように、紹運が竜造寺軍に降ることもまたありえない。紹運の心情を理解し、いたしかたないことだと思いつつも、敵将を惜しまずにはいられない直茂だった。


 しかしながら、そのことと城攻めの手を緩めることはまったく別のことである。
 昼過ぎに百貫島砦を落として本丸を丸裸にした竜造寺軍は、すでに負傷者の後送を済ませ、兵の再編成も完了させている。陣立ては整い、後は時を待って諸将に総攻撃を命じるだけ、という状況だった。
 とはいえ、まだ春の遠い季節、日が沈むのは早い。
 山間の戦場となれば尚のことで、あと一刻たらずで日は稜線の彼方に姿を隠してしまうだろう。いかに城兵が損耗しているとはいえ、紹運が直接指揮する本丸を一刻足らずで攻め落とすことはできない。総攻めが夜間にずれこんでしまえば、好んで同士討ちを行うようなものである。
 よって、総攻撃の開始は明日の早朝、日の出と共に。それが竜造寺軍の決定だった




 ――直茂の下に座視することのできない知らせが舞い込んできたのは、その決定が下ってまもなくのこと。
 それは佐賀城にいる直茂の継母 慶誾尼からの書状で「筑後柳河城に動きあり」の書き出しではじまるものだった。


 筑後柳河城を本拠地とする蒲池鑑盛が、主力の出払った肥前を攻撃する姿勢を見せている。その一文を読んだ直茂の背に氷塊が滑り落ちた。ただの噂や推測ではない。慶誾尼の書状には鑑盛の具体的な動きも併せて記されていた。
「……兵を募り、武器をそろえ、筑後川に舟をならべているのならば、鑑盛どのの狙いは明白です。しかし、何故鑑盛どのは今になって急に兵を動かしたのか」
 今回の筑前出兵において直茂が最も警戒したのは、手薄になった肥前を敵軍に突かれることだった。
 想定される敵軍は幾つか存在したが、中でも最も強大で、かつ侵攻してくる可能性が高かったのが大友家に忠誠を誓う蒲池鑑盛である。
 鑑盛は単独でも三千、蒲池の分家もあわせれば五千の兵を集めることができる。常の肥前ならば知らず、主だった将と大半の兵が出払った今の肥前では鑑盛の軍に対抗することは難しい。


 だからこそ、そんな事態にならないように直茂は幾重にも手を打ってきた。
 筑後川の守りを固めるのは当然として、鑑盛に書状を送って蒲池家に敵対する意思はないことを繰り返し伝え、同時に現在の大友家が日ノ本にとっていかに有害な存在に成り果てているかを説いて鑑盛に静観を望んだ。
 竜造寺家に好意を持つ蒲池家の家臣には、家中で竜造寺討つべしの声があがった場合、それを封じ込めるよう頼み、一方で大友家に従うことをよしとしない者たちにもぬかりなく接触した。蒲池鑑盛の忠義に偽りがなくとも、鑑盛の家臣までが残らず大友家に忠誠を誓っているわけではない。鑑盛に従ってはいるものの、大友家のために働くことに不満を抱いている者は少なくないのである。鑑盛とてそういった家中の空気には気がついているだろう。


 それでも蒲池鑑盛ならば、主家のために強引にでも動くかもしれぬ。
 ゆえに、直茂はかねてから誼を通じていた筑後の国人衆に使者を送り、鑑盛が肥前に踏み出した場合、空になった柳河城を後背から突くように、と要請することも怠らなかった。
 それらの国人衆に対して密使ではなく正規の使者を送り込んだのは、竜造寺家が筑後の国人衆に使者を送ったという事実をもって鑑盛に重圧をかける目的があったからである。
 鑑盛ほどの人物であれば、直茂の目論見は容易に察することができるだろう。
 その上で、軽々しく動くことはできぬ、と鑑盛が自重してくれればそれでよし。仮に鑑盛が竜造寺家と親しむ国人衆を目障りに思い、兵を発したところで問題はない。筑後が争乱の巷と化してくれれば肥前の安全は保たれる。竜造寺家は一兵も損ずることなく目的を達することができるのである。


 そうして幾つもの手を打ち、鑑盛の動きを封じたと確信したからこそ、直茂は全力で筑前に出撃することができた。
 事実、今日まで鑑盛は柳河城から動かなかった。
 内外の空気から、自身が柳河城を空にすればタダではすまないことを察して動けないのだ、と直茂は見ていたのだが……


 それがどうして今になって動き出したのか。直茂ならずとも不審をおぼえずにはいられないところだが、書状が知らせる異変はそれだけにとどまらなかった。
 肥前の南、日野江をおさめる有馬義貞にも不穏の気配がある、というのである。
 脅威の度合いからすれば有馬義貞は蒲池鑑盛よりいくぶんか下回る相手だが、無視できる相手ではない。さらにいえば、この時期に直茂が想定する敵勢力のうち二つが同時に動き出したことがただの偶然であるとは思えなかった。


 もっとも、書状によれば有馬家の兵は竜造寺領へ侵攻する気配はなく、もっぱら日野江港の防備を固めるばかりだというから、蒲池家と有馬家が結託したとみなすのは早計であろう。有馬家の敵は竜造寺家以外にもおり、何者かが偶然この時期に攻撃を仕掛けただけと考えることもできる。
 できるのだが、しかし直茂はこの有馬家の動きに容易ならざるものを感じとっていた。正確には、有馬家にこの動きを強いた何者かに警戒を禁じえなかった。


 日野江の港は南蛮との貿易の拠点であり、有馬家にとっては富の源泉ともいえる要地である。その防備はきわめて堅く、竜造寺家も手を出しかねていたほどだ。千や二千の兵に攻められたところで小揺るぎもしないだろう。
 にも関わらず、有馬義貞は慌しく兵を集め、港の守りを固めているという。その行動が竜造寺家を刺激することは承知しているだろうに、それでも義貞は日野江港の防備を厚くせざるを得なかった。それはつまり、それだけ攻め寄せてくる相手を警戒している、ということだろう。


「――筑前の大友勢が潰えようとするまさにその時、後背で立て続けに異変が起こる。偶然の一語でくくるには、あまりにも時期が符合しすぎていますね」
 直茂の頭の中では、様々な情報が火花を散らしてせめぎあっている。
 実のところ、筑後の動きはともかく、有馬家の動向に直茂が注意を払う必要はそれほどない。日野江港の主が変わろうと、有馬家が滅びようと、竜造寺家にとっては痛くもかゆくもないことだからだ。
 しかし、直茂はそこから一歩思考を進めて考えていた。つまり、有馬家を滅ぼした何者かが、その勢いのままに竜造寺領に侵攻してくる可能性である。


 そこまで考えている直茂だったが、一方で根本的な部分で疑問がわだかまってもいた。
 それは単純といえば単純なことで、有馬家がそこまで警戒する相手とは誰なのか、ということである。
 そもそも正面から有馬家に攻撃を仕掛けられる勢力があるのなら、直茂はその勢力と早くから接触していただろう。鑑盛をおさえるために筑後の他の国人衆と接触したように。
 しかし、竜造寺家に比べれば弱小であるとはいえ、有馬家もまた立派な城持ち大名である。その有馬家に正面から戦を仕掛けられる勢力は、少なくとも肥前国内には見当たらない。


 とすれば、考えられるのは隣接する肥後の大名だが、肥後国内は各地に有力な国人衆が割拠した状態であり、統一された政権は存在しない。さらに、肥後に強い影響力を有する大友家が北で毛利、竜造寺と、南で島津と激しくぶつかっている今、肥後国内は一見穏やかに見えて、水面下では生き残りをかけた諸家の使者が縦横無尽に走り回っていることだろう。そんな状況で、わざわざ海を渡って他国を攻撃する者がいるとは思えなかった。


 他の可能性としては薩摩の島津あたりが考えられる。海路を用いれば、薩摩から日野江に兵を派遣することは可能だろう。
 だが、それは可能か不可能かを問えばの話で、実際に島津がその行動をとる可能性は皆無に等しい。現在進行形で大友家と激突している島津家に、肥後を飛び越えて肥前を攻める余裕があるはずもないのだから。



 ――では、いったい有馬家が警戒を余儀なくされている相手はどこの誰なのだろう?



 考えあぐねた直茂の視線が、書状の最後の部分に向けられる。
 慶誾尼が警鐘を鳴らす異変の最後のひとつ。ただし、それは前二つと異なり、明確な形をもった脅威ではない。そこに記されていたのは平戸から伝わってきたというひとつの噂であった。
 数十隻を数える異国の大艦隊が薩摩沖に姿を見せたという、それこそ子供のたわごとと切って捨てられるような噂話が、今、平戸のみならず肥前各地の港で盛んに語られているらしい。慶誾尼は、あるいはこの噂が日野江にも伝わり、それが港を守るという有馬家の行動に繋がったのかもしれない、と述べていた。


 これが慶誾尼以外からの知らせであれば、直茂はここまで真剣に受け止めることはなかっただろう。しかし、慶誾尼は実子である竜造寺隆信が元服するまで、女の身で竜造寺家を支えてきた女傑である。その為人は明朗にして分別に富み、女子供の噂話にまどわされる人物では決してない。
 その慶誾尼が、前線に送る書状にこの噂を記したということは、そこになにか見過ごせないものを感じ取ったということ。単なる噂で片付けることができないくらいの勢いで話が広まっているのかもしれない。


 その事実に直茂はうそ寒いものを覚える。なぜなら、直茂はこのことを示唆する警告を、ずっと早くに受けていたからである。
「――南蛮神教は侵略の尖兵という側面を持つ、でしたか」
 宗教によって異国の民を馴致し、しかる後に兵を送り込んで領土とする南蛮のやり方を直茂に教えたのは、雲居筑前と名乗る大友家の青年だった。
 あの話が事実だとすれば、大友宗麟の無定見につけこんで南蛮が兵を送り込んでくることは十分に考えられる。
 むろん、直茂は大友家に属する者の言葉を鵜呑みにするつもりはなかった。あの言葉は今回の噂に真実味を持たせるための仕込みであったと考えることもできるからだ。
 だが、雲居の言葉を知らない慶誾尼が、この噂を無視できないものと捉えた事実は見過ごすことができなかった。



 直茂は黙して考え込む。
 書状の内容はまだ誰にも伝えていない。後方を案じるあまり、城攻めの気が緩むことを恐れてのことだった。
 艦隊の噂はともかく、蒲池と有馬の両家、特に蒲池鑑盛の動きは筑前攻めに直接的な影響を及ぼす。蒲池家が総力をあげて肥前に攻め込めば、残してきた守備兵だけでこれを防ぐことはきわめて難しい。佐賀城を直撃するも、岩屋城を攻めている竜造寺本隊の退路を塞ぐも鑑盛の思いのままである。あるいは佐賀城を無視し、手薄になった肥前国内を荒らしまわるという選択肢もあるだろう。
 そうなれば鑑盛不在の柳河城は他の筑後国人衆によって落とされることになるだろうが、それでも竜造寺家が多大な被害をうけることは間違いない。その状況で日野江から新たな敵軍があらわれでもしたら、筑豊の地に勢力を広げるどころか肥前さえ失ってしまいかねない。


 さらに、直茂には後方の動静とは別に、もうひとつ気がかりなことがあった。
 他でもない、一時的に友軍となっている毛利軍の存在である。
 極端な話、毛利軍――毛利元就がすべての策謀を裏で操っている可能性もあるのだ。竜造寺家と毛利家の協力関係が一時的なものでしかないことは双方ともに承知している。自家の血を流さずに宝満城を陥落せしめた彼の謀将であれば、大友宗家の存続を条件に蒲池鑑盛を傘下に加え、竜造寺の勢力を削ぐ程度のことは涼しい顔でやってのけるだろう。さすがに日野江の動きにまで関わっているとは思えないが。





 そこまで考えた直茂は、ふと何かに気づいたように書状から視線をはがした。強張ったこめかみを揉み解しながら、苦く笑う。
「疑心、暗鬼を生ずとはよくいったものですね。ひとたび迷うと、何もかもが不確かで疑わしいものに見えてしまいます。誰が何を企んでいるにせよ、こちらが付けこまれる隙を見せなければそれでよい。今は岩屋城を落とすことこそ肝要でしょう」
 それこそが竜造寺家が天下に躍り出るための第一歩。そう口にしたのは他ならぬ直茂である。
 鑑盛がいつ動くかわからない以上、事態は一刻を争う。こうなると明朝の総攻撃も再考するべきかもしれない。夜襲、という選択肢が直茂の脳裏で点滅する。


 ただ、夜襲を仕掛けるとなると味方の被害も大きくなる。それを承知の上であえて予定をかえるのであれば、隆信や四天王に理由を説明しなければならない。
 彼らが安易に秘密をもらすはずはないが、一度口に出した言葉は飛翔することを直茂はよく知っていた。他言無用を厳命し、念入りに人払いをしようとも、秘密というのはどこからか漏れ伝わっていくものなのだ。
 蒲池鑑盛に後背を塞がれるかもしれないと知れば将兵は動揺する。そうなれば、確実に城攻めに影響が出てしまう。


 さて、どうしたものか、と頭をひねる直茂。
 宝満城からの使者が竜造寺本陣を訪れたのは、そんな時であった。



◆◆


 
 急遽、呼び集められた四天王の中で、もっとも遅く本陣に到着したのは円城寺信胤だった。 天幕に入った信胤が中を見渡すと、他の四天王はすでに揃っていたが、当主である竜造寺隆信と軍師の鍋島直茂の姿は見えない。
 信胤は自身のために用意された床几に腰をおろすと、先に来ていた僚将のひとりに声をかけた。
「ずいぶんと急な呼び出しでしたけれど、何があったのでしょうね、エリちゃん」
「さあて、四天王全員を集めたってことは、明日の総攻撃の陣立てを変更するのかね。いまさらそんなことをする必要があるとは思えないけど」
 エリちゃんこと江里口信常はそういって首をひねる。
 信常は昼の戦で百貫島砦を攻め落とし、高橋家の重臣 三原紹心と刃をあわせてこれを討ち取っている。その功績もあって明日の総攻撃では先陣を任されることになっているので、陣立ての変更という可能性はあまり考えたくないのだ。


「総攻撃の直前に変更するってことは、先陣が変わるのはほぼ確定だからなぁ……ふああぁぁ」
 言葉の途中で全開の大あくびを披露する信常を見て、信胤は眉をひそめる。
「まあ、大きなあくびですこと。戦場にあっても女子としての嗜みを忘れるのはどうかと思いますわよ?」
「隊の再編でほとんど休めてないんだ、勘弁しておくれ」
 慌てて口元を手で覆いながら、信常は苦笑いする。
 それを見た信胤がさらに何事か口にしようとしたが、その信胤に先んじて二人の会話に口を挟んだ者がいた。四天王のひとり、木下昌直である。


「いやいや、そういう胤さんだって人のことはあんまり言えねえと思うぜ。戦、戦の毎日のせいで目の下に隈がくっきりと浮かんでるからよ。これがホントの肥前のクマってやつだな! ハハハ」


 ……シンと静まり返った天幕に昌直の笑い声だけが木霊する。
 そんな周囲の空気に気がついたのか、笑いをおさめた昌直は不思議そうに首を傾げた。
「ん? なんでみんなして石ころでも見るみたいな目で俺を見てるんだ?」
 信胤は頬に手をあて、深々と溜息を吐いた。
「不条理ですわ。どうして聞かされたわたくしたちが居たたまれない思いをさせられているというのに、口にした当人が平気の平左なんですの?」
 信胤の慨嘆に信常が追随した。
「だねえ。なんだか天幕の中が一気に冷え込んできた気がするよ。これはあれだな、真夏の軍議の時に応用すれば、案外役に立つんじゃないか?」
 その意見に、信胤は断固として否を唱える。
「エリちゃん、わたくしはこの居たたまれない気持ちを再び味わうくらいなら、うんざりするような夏の暑さも我慢できますわ」
「ああ、うん、言ってはみたもののあたしもごめんだよ。とりあえず木下、あんたは金輪際冗談を口にするの禁止」


「ちょ!? 上方(京都)なら爆笑必至の快心の出来だったぜッ!?」
 驚愕する上方出身者。
 意外なことに、その昌直を擁護する発言が百武賢兼の口から飛び出した。
「ふむ、わしは見直したぞ、木下。内容はくだらないにもほどがあるが、女同士の会話に口を差し挟み、のみならず胤どのの容貌を笑い話のタネにしようとは並大抵の度胸でできることではない。しかもあの胤どのをして、うんざりしすぎてお仕置きする気も起こさせないとは見事の一語に尽きる。少なくとも俺には真似できん」
 それを聞いた成松信勝も、同意だ、というように深くうなずいた。
「うむ、俺にも真似はできないな。笑う気は微塵も起こらなかったが、それを口にした無謀さは称えられてしかるべきだろう。思えば、戦の進退にも木下の無謀さはよくあらわれている。虚空蔵台を落としたときも、将みずから崖のごとき斜面を駆け上って砦内に突入し、ついに砦を落としてしまったのだからな。無謀も極めれば武器になる、ということか」


「百武さんも成松さんも甘いですわよ。わたくしは四天王のひとりとして、木下さんに対し、軍議における発言の無期限禁止を提案しますわ」
「いや、胤、それはさすがに厳しいだろ。戦勝の宴の費用を全額負担、そのていどで勘弁してやらないか。もちろん、胤の酒の相手を務めるのも木下だ」
「あら、それは素敵な案ですわね」
「げ、それはちょっと勘弁し――」
「楽しみにしてますわよ、木下さん。樽の貯蔵に不足なきよう、十全の準備をお願いしますわ」
「酒樽をいくつ空にする気だよッ!?」
 思わずわめく昌直だったが、二人の姫武将は気にかけるそぶりも見せない。ついでにいうと、彼女らの目はまったく笑っていなかった。


 円城寺の蛇姫(うわばみ的な意味で)の恐怖を思い起こし、顔を青ざめさせる昌直を見て、さすがに気の毒に思ったのだろう、再び賢兼と信勝が口を開いた。
「胤どの、それに信常もそのへんで勘弁してやってくれ。木下の無粋と無謀は今に始まったことではないのだし」
「ちょ!? 百武の旦那、それはそれでひど――」
「うむ、百武のいうとおり。それでも勘弁ならぬというのなら、そう、先に敵将の高橋どのが仕掛けてきた夜襲でも木下は見事な戦いぶりを披露した。その手柄と虚空蔵台を抜いた功績をあわせ、今回の罪にかえるというのはどうだろうか」
「うぇ!? 成松の旦那、それだとせっかくの武勲がなかったことになっちま――」
「お二方にそこまで言われてしまっては矛を収めざるを得ませんわね、エリちゃん」
「だね。木下、今後は気をつけなよ」
「は、はあ、それはもちろん気をつけるけどよ……なーんか納得いかねーぞ……」


 ぶつぶつと不平を呟く昌直に信胤がもう一度微笑みかけた。
「――なにか仰りたいことがおありですの、木下さん?」
「いえなんにもないっす!」
「それと、わたくしの顔に隈がどうとか仰っていましたけれど、どのあたりにあるか教えていただけますか?」
「いえどこにもないっす!!」
 背筋を正して即答する昌直。その必死の形相を見て、疲労に凝り固まった諸将の顔がわずかにほころんだように見えた。




 と、その時。
「なにやら賑やかですね」
 そんな言葉と共に天幕に入ってきた者たちがいる。数は三人。
 他者を威圧する巨躯の主は元祖(?)肥前の熊こと竜造寺隆信。
 鬼面をかぶって涼やかに足を運ぶのは軍師の鍋島直茂。
 二人の姿を見て一斉に頭を下げようとした諸将は、三人目の人物を認めて戸惑ったように動きを止めた。


 戦場の只中に甲冑もつけずにあらわれた男は、年の頃は四十そこそこといったあたりだろう。
 厳しく引き締まった身体つきは戦場を往来する武人のそれであり、目つき顔立ちにも鋭さがあらわれている。半月にわたる戦でざんばら髪と無精ひげが目立つ成松や百武、木下らと違い、あごや頬は綺麗に剃りあげられ、髪も整えられていた。
 外見的には文句のつけようのない人物だったが、しかし、この場に集った諸将は男に対してあまり良い感情を抱けなかった。男の眼差しに上から見下ろすような傲慢さが垣間見えたからである。
 その感情は北原鎮久という男の名を聞いた後でも変わる事はなく、むしろ不快から嫌悪へと悪感情を深める者さえいた。




◆◆◆




 筑前国 岩屋城本丸


 尾山種速らと共に宝満城に立てこもっていた重臣 北原鎮久が本丸前に姿を見せたとき、城兵の多くは鎮久が竜造寺軍に捕らえられているのだ、と考えた。岩屋城の将兵は宝満城の陥落こそ知っていたが、城がどのようにして落ちたのか、その詳細は知る由もない。城兵にしてみれば、そう考えるのが当然だったのである。
 だが、捕虜の身であるにしては鎮久の装いは整いすぎており、縄を打たれているわけでもない。
 自然、城兵は鎮久の前身を思い出し、ひとつの疑惑に行き着いた。
 その疑惑が確信にかわったのは、周囲を竜造寺兵に取り囲まれた――否、守られた鎮久が大音声で呼ばわった時である。




 本丸の中で決戦に備えていた高橋紹運は、血相をかえた萩尾大学の口から鎮久の訪れを聞き、わずかに眉をひそめた。
「鎮久どのが、敵陣に?」
 紹運が配下である鎮久の名を呼び捨てにしないのは、鎮久を尊重している姿勢を示すためである。それは高橋鑑種に仕えていた者たちの動揺をしずめるためであったが、それが理由のすべてというわけではなかった。先の戦の進退を除けば、北原鎮久の高橋家での実績は敬意を払うに足りる、と紹運は考えていたのである。


 その紹運を前に、大学は口早に鎮久の行動を告げた。
「は、殿に直接申し上げたきことあり、と盛んに呼ばわっております。竜造寺の木下昌直と配下の兵が周囲を固めておりますが、虜囚の身にしては縛められている様子もなく……」
 また裏切りを働いたのではないか、という言葉を大学は飲み込んだ。
 事態は明白であるように思えるが、それを口に出すことで城内の士気が落ちるのをははばかった――というより、自分が裏切りという言葉を口にした途端、それが事実として確定してしまうような気がして、ためらってしまったのである。


 自分は弱気になっているのだろうか、と大学は自問する。
 今、大学は実質的な副将として紹運の傍にいた。つい先日までは父の麟可が務めていた役割である。
 麟可は緒戦で受けた矢傷をおして守城の指揮を執っていたのだが、篭城の最中とてろくな手当てをうけることも出来ず、今から数えて五日前、ついに倒れてしまった。
 このため、急遽大学が父の代わりを務めることになったのだ。麟可が回復し次第、大学は御役御免になるはずだが、傷口を洗う水さえ満足に使えない戦況では症状がよくなるはずもなく、麟可が回復する気配は一向にない。
 高橋家には麟可以外にも有力な武将は幾人もいるのだが、虚空蔵台砦を守っていた福田民部は木下昌直の猛攻を三日の間耐え抜いた末に討死し、百貫島砦を守っていた三原紹心は江里口信常との壮絶な一騎打ちのはてに討ち取られた。
 彼ら以外にも主だった将の多くが泉下に赴いており、大学はおのが未熟を承知しつつ、副将の務めを続けざるを得なかったのである。


「――行こう」
「……は?」
 物思いにふけっていた大学は、一瞬、紹運の言葉の意味を解しそこねた。
 思わず怪訝そうな声を発してしまった大学を見て、紹運がおかしそうに口元をゆるめた。
「鎮久どのは私に話があるといっているのだろう? その中身がなんであれ、聞かなければ答えを出すこともできない」
「し、しかし、殿がお姿を晒せば狙いうたれる危険がございます。話をお聞きになるのであれば、北原どのをここに招けばよろしゅうございましょう」
「それでは鎮久どのは応じまい。今日までの戦いぶりを見れば、竜造寺がここで小細工を弄してくるとも思えない。むしろ、こちらの兵が妙なまねをしないように注意してくれ、大学」
「――は、かしこまりました」
 紹運の意を悟った大学は頭を垂れる。
 裏切ったと思われる鎮久がいつまでもその姿を晒していると、城内の兵が憤激して暴走する危険がある。あるいは、そうしてこちらを挑発することも鎮久の目論みのひとつなのかもしれない。紹運はそれを案じたものと思われた。






 櫓の上に紹運の姿を認めた鎮久は、待ちかねたように滔々と語りはじめる。
「――大友家当主、宗麟どのには二つの大罪ありッ! ひとつ、異教に溺れて数多の寺社仏閣を打ち壊したこと! ふたつ、聖都を築くと称して日ノ本の国土を南蛮に売り渡したこと! かかる愚行を為した者は九国、否、日ノ本の歴史をかえりみてもかつてない。それだけでも許しがたくあるに、宗麟どのは家臣の諌めを聞き入れず、今なお九国に惨禍を撒き散らしているのだッ!」
 遠からん者は音に聞け。そういわんばかりに鎮久はまくしたてていく。
 両軍の将兵と岩屋山の草木を聴衆とした糾弾は、なおも続いた。
「この鎮久が鑑種さまと共に兵を挙げたのは、どれだけ言葉を尽くしても宗麟どのを諌めることはできぬと悟ったからであった。一身の繁栄を願ってのことでは断じてない! 近年、立て続けに起こった争乱は、これすべて大友家を糾さんとする忠臣たちの悲鳴にも似た訴えであったのだッ! その忠臣たちの訴えを! 真に大友家を憂い、九国を憂えた者たちの切なる声を、武力でもって押しつぶしたのが立花道雪どのであり、そして高橋紹運どの、今現在の貴殿なのだ!!」


 鎮久の糾弾に対し、紹運は言い返そうとはしなかった。竜造寺兵に守られた鎮久を櫓の上からじっと見下ろし、ただ静かに耳を傾けている。
 その傍らにいる萩尾大学の方は、何度かこらえかねたように口を開きかけたが、紹運が黙って聞いている以上、自分が先に口を開くのは僭越であると思い、なんとか憤懣を押し殺していた。
 そんな大学をよそに、鎮久の舌は滑らかに回転し続ける。
「わしは貴殿らの前にひとたびは膝を屈した身。ゆえに、貴殿らの武勇を称えずにはおれぬ。そして、同時に言わずにはおれぬのだ。それだけの武勇を持ちながら、何故にいつまでも無道の君主を支え続けるのか、と。貴殿らが戦えば戦うほどに宗麟どのの罪は深くなり、大友家の名は穢れ、九国の民の苦しみは募るばかりではないか。家臣が主君に従うことを忠という。されど、その忠が主君を傷つけ、主家を貶めていると知ったとき、これを糾す行いもまた忠ではないのか?」


 一兵卒ならば己の心を満たすためだけに、ただひたすら宗麟に従い続けるもよいだろう、と鎮久はいう。
 だが、立花、高橋の家を継いだ者には、自身の心情だけでなく、多くの家臣と民のこともあわせて考える責務がある。しかるに道雪は、そして紹運もまた、今日なお城に立てこもって無用の抗戦を繰り広げ、敵味方の命を無意味に潰えさせている。
 兵の屍で山を築き、女子供の涙で河をつくって、その果てにどうするつもりか、と鎮久は言い立てた。
「武門の意地は今日までの戦いで十分に示すことができたであろう。これ以上の抗戦には何の意味もない。兵のため、兵の帰りを待つ家族のため、そしてなによりも平和を望む九国の民のため、紹運どの、どうか矛をおさめてはくれまいか。先の戦いの後、臥薪嘗胆の思いで膝を屈したわしを受け容れてくれた恩は忘れておらぬ。降伏してくれれば、今日まで戦い抜いた将兵の無事は保証しようし、領地についてもできるかぎり取り計らうと約束する。わしは心より貴殿を惜しむがゆえに、今一度言う。高橋紹運どの、どうか矛をおさめ、門を開き、正道に立ち返られんことを! 貴殿の英断を心から願うものである!」




 語り終えた鎮久は、上気した顔で紹運の返答を待った。
 自然、竜造寺と大友とを問わず、すべての将兵の視線が櫓上の紹運に集中する。彼らは鎮久と同様に口を閉ざし、紹運がなんと応じるのかと緊張して身構えた。紹運の返答次第では、今から最後の戦いの火蓋がおとされるかもしれない。
 将兵の視線を一身に集めた紹運の口がゆっくりと開かれた。
「大友家を憂い、九国の民を憂う貴殿の思い、確かに承った。私と兵の命を惜しんでいただいたことには感謝の念を禁じえない。しかしながら、我らはこの期に及んで仰ぐ旗をかえる心算はなく、たとえ死すとも大友家の臣であり続ける所存である。それを望まない者たちには、すでに城を去ってもらった。ゆえに遠慮も斟酌も無用である」


 静かな、それでいて確かな芯を感じさせる紹運の声。それは百万言を費やすよりもはっきりと、聞く者に紹運の意思を伝えていた。
 当然、鎮久にもそれは伝わった。だが、鎮久としても紹運がすぐさま降伏すると考えていたわけではなく、即座に攻め口をかえてきた。
「あくまで宗麟どのに忠誠を尽くすというか。紹運どの、それは異教におぼれ、南蛮に国土を売り渡した宗麟どのの過ちを見過ごすことと同じでござるぞ。今日まで貴殿が築きあげてきた武勲と名声、そのすべてをドブに投げ捨てるおつもりか」
「主君の過ちは、それを糾すことができなかった臣下の過ちでもある。過ちを知ってこれを改めず、それこそ過ちであるとは古人の説くところ。そして、改めるとはみずからの過ちを棚に上げ、主君の過ちを責めたてることではない」


 言いながら、紹運はわずかに目を伏せた。
 宗麟の行い、そのすべてを肯定することは紹運にもできない。現在の大友家が九国の平安を乱す元凶になっていることは誰にも否定できない事実なのである。
 仕方なかったのだ、とは思う。だが、それは大友家に仕え、宗麟や道雪、父吉弘鑑理や角隈石宗、さらにカブラエルらと間近で接していた紹運だからこそいえることであって、他者に同意を求められるものではない。
 特に大友家の外にいて、大友家によって大切なモノを失った者たちには絶対に口にしてはならない言葉だった。加害者が被害者に理解を求めることほどおぞましいものはない。
 ゆえに、紹運はただ己の覚悟を口にする。
 大友家に踏みにじられた者たちにとって、その覚悟が独善であり、傲慢ですらあることを承知の上で、自分の立ち位置を明確にする。


「――我らは宗麟さまに従い、大友家のために戦う。それこそが過ちを改める道であると信じる。ゆえに、大友家の滅亡を願う貴殿らとは決して相容れぬのだ。互いの立ち位置は明確であり、たとえ神仏であっても我らの間に横たわる溝を埋めることはかなわないだろう。もはや弓矢をとる以外に決着をつける道はない」
 その紹運の言葉に、鎮久はやや慌てた。
 鎮久としては、主君である宗麟を悪し様に罵れば紹運が感情的になると考えていた。紹運が宗麟を擁護すれば、その矛盾をつくことは容易である。あるいは鎮久の変節を非難してくるかもしれないが、そうなれば宗麟の悪行とからめて自身の正当性を声高に述べ立てるだけのこと。宗麟の行いが無道なものであるのは確かなのだから、鎮久の言葉には説得力が宿り、逆に紹運の言葉は説得力をもちえない。


 実のところ、鎮久は是が非でも紹運を降伏させようとは考えていなかった。というより、紹運が降伏することはまずあるまいと判断していた。
 にも関わらず、どうして降伏勧告の使者になったのかといえば、大勢の将兵の前で宗麟を非難し、大友家を詰ることで、その大友家に叛旗を翻した鎮久自身の正当性を際立たせるためであった。鎮久にとって紹運との問答は、汚名を返上するためのパフォーマンスに過ぎない。
 これは毛利隆元や高橋鑑種の指示によるものではなく、鎮久の独断だった。鑑種は宝満城を落とした後、鎮久に城を託して立花山城に赴いており、鎮久はその隙を縫うようにして竜造寺の陣に赴き、いかにも毛利家からの使者のように振舞ってこの場に立っている。もちろん、毛利家からの使者といえば竜造寺家が断れないことを計算の上で、であった。


「紹運どの、それは短慮というものだ。良禽は木を択んで棲む、というではないか。項羽を捨てて劉邦を選んだ韓信の例もある。無道の主君の下を去り、新たな主君に忠誠を誓うことは決して恥となるものではない」
 口早に告げたその言葉を聞いても、紹運の顔色はかわらない。
「この紹運は今日まで大友家の臣として禄を食み、宗麟さまは数ならぬこの身に多大な信頼をお寄せくださった。その信頼に応えることが大友家臣としての私の忠であり、一個の武士としての私の義なのだ。義は士たるものの根幹、これを持たぬ武士は鳥獣に等しい。竜造寺どのが鳥獣を欲するならいざ知らず、そうでないのならばこれ以上の勧告は無用のものと心得られよ」
「……戦いを続ければ、それだけ多くの者たちが傷つけ倒れていくは必定。城内の者たちは覚悟していたとしても、彼らの家族はどうか。皆が父の、夫の、子の、兄の、弟の無事を願い続けているのではあるまいか。貴殿の決断ひとつで数千の家族の願いをかなえることができるのですぞ! 武門の務めはただ敵を討つだけにあらず。救える味方を救うてこそ武門の誉れと心得るが如何!?」
「もとより武士とは命を奪い、奪われる罪深きものだ。敵と味方とを問わず、将兵の家族に恨まれ、憎まれるのは避けられぬこと。刀をとると決めた日から覚悟はできている」


 理屈をこねても、情に訴えても、小揺るぎもしない紹運を見て、鎮久の顔に焦りが浮かび始めた。鎮久にとって交渉の首尾は重要なことではない。ただ、紹運にあしらわれてすごすごと引き下がることはできなかった。
 周囲から向けられる視線に軽侮の色が混ざりはじめたことも、鎮久の焦慮に拍車をかけていたかもしれない。それは大友兵だけではなく、竜造寺の兵でさえそうだった。
 その視線を振り払うように鎮久は声を高めた。
「あくまで勝ち目のない戦いを続け、多くの兵の命を失わせしめるというのかッ!? たとえ義を捨てようと、それで救われる命があるのなら、どうしてその決断をためらう必要があろう。それを卑怯とそしる者はどこにもおらぬ、むしろ諸人は紹運どのの勇気をほめ称え――」
 それを聞いたとき、はじめて紹運の目に鋭利な輝きが宿った。
 鎮久の言葉が終わるより早く、その口から清冽な叱咤が迸る。



「一身を賭して貫く義を持たずして、何がための武門か!!」



 それはスギサキの名称そのままに鋭く、何者にも犯しえぬ硬質の意志で形作られる言の葉であった。
 紹運は決して声を張り上げたわけではない。にも関わらず、鎮久は吐き出していた言葉を飲み込み、竜造寺軍の将兵は慄然として立ち尽くす。山野の隅々まで響きわたる紹運の静かな威に圧されてのことだった。
 ただひとり、木下昌直だけが鎮久のすぐ後ろでつまらなそうに眉をしかめる中、語調をととのえた紹運は淡々と続けた。
「鎮久どの。もはやこれ以上言葉を重ねたところで詮無きこと。我らは我らの義をもって城を守る。貴殿らは貴殿らの義をもって城を攻められるがよい」


 穏やかな声だった。もとより歩み寄る可能性など皆無の交渉である。決裂するはずだった交渉が決裂した、紹運にとってはただそれだけのことだったのだ。
 しかし、鎮久はそこに失望と軽侮の響きを感じ取った。年少の紹運にあしらわれた、との思いが自尊心に爪をたてたのかもしれぬ。あるいは、我が事ならず、と悟ったのかもしれぬ。
 いずれにせよ、鎮久はここで従容として踵を返すことはできなかった。
「これは驚いた。高橋家の名跡を継いだ者が、これほどの愚か者であったとは! 民など知らぬ、兵など知らぬとうそぶき、暴虐の君主を守り支えて九国をかき乱すことこそ我が義であると放言するとは! まさしく鳥獣以下の畜生の所業である。畜生に道理を説いたところで無益であったわ」
 鎮久の顔が毒々しい嘲笑に染まり、その口からは憎々しげな声が溢れ出る。


 その鎮久に対し、本丸にたてこもる大友兵が憤激の声をあげた。そして、それは大友兵だけにとどまらない。鎮久の周囲にいる竜造寺兵も、鎮久に対して厳しい視線を向けていた。
 竜造寺軍にとって紹運は憎い敵将であるが、それでも避けられぬ死を前にして、あくまで主君に忠誠を誓い、節義を全うしようとする姿に何も感じないわけはない。少なくとも、紹運を口汚く罵る鎮久の姿に共感を覚える兵は一人としていなかった。
 また、大友兵は知らないことだが、もともと竜造寺の将兵は毛利家からの使者である鎮久に反感を抱いている。今日まで紹運率いる大友軍と戦い、追い詰めたのは竜造寺軍であったのに、その成果を横からかっさらうような真似をする者にどうして好意を抱けようか。その思いが紹運への敬意とあいまって、鎮久に対する敵意として噴出したのである。


 味方であるはずの竜造寺兵からも非難され、鎮久はますます逆上した。
「騒ぐな、無知な雑兵どもめ! 畜生相手に礼儀を守る必要なぞない。紹運ごとき女郎に――」
 鎮久がさらに痛烈な罵詈を口にしかけた、その時だった。
 それまで背後にたたずんでいた木下昌直がはじめて動いた。握り締めた拳が、死角から鎮久の後頭部を打ち据える。
「――ッ!?」
 避けようのない一撃をまともにくらい、鎮久は悲鳴をあげることもできずに倒れ伏す。
 昌直は相変わらずつまらなそうな表情のまま、そんな鎮久を見下ろしてうんざりしたように吐き捨てた。
「聞いてらんねえよ。たく、使者に立つなら、もうちょいヒンイってやつを身につけてほしいもんだぜ」


 そう言うと、昌直は乱暴に鎮久の身体を引き起こすと、苦しげなうめき声を無視して右肩に担ぎ上げた。
 つまらない冗談を口にした罰、という口実で鎮久の護衛という任を他の四天王から押し付けられた昌直は、余った左手でがりがりと頭をかいた。鎮久の口上が聞くにたえないものであったとはいえ、衆人環視の中、毛利家の使者を殴り倒してしまった事実は消しようがない。
(ああ、くそ、これでせっかくたてた手柄もパアじゃねえか。まさか牢に入れられたりしねえよな?)
 そんなことを考えつつ、昌直はいまだ櫓からこちらを見下ろしている紹運に向けて呼びかけた。
「城兵の覚悟、確かに聞いたぜ! 望みどおり、俺たちの義ってやつのために全力で攻め込ませてもらうッ! てめえらの命はあしたの日の出までだ、それまで精々仲間と別れでも惜しんでやがれッ」
 言うや、昌直は踵を返して紹運に背を向けた。
 大友軍は昌直の突然の行動に戸惑うばかりで罵声を発することもできない。先の戦いで昌直と直接刃を交えた大学も、味方を殴り飛ばした昌直の奇行に目を白黒させることしかできず、ただひとり、紹運だけがどこか感心した様子で去りいく昌直の後ろ姿を見つめていた。

 




 一連の出来事を遠くから眺めていた円城寺信胤は、くすくすと微笑んだ。
「――あらあら木下さんてば、使者を殴り飛ばすだけではあきたらず、総攻撃の刻限まで教えてしまいましたわよ。これは由々しきことですわ。無事に任を果たせば勘弁してあげようと思っていましたけれど、やはりわたくしの酒席の相手をつとめてもらわないといけませんわね」
「それは許してやれって。どうせ木下がああすることは予測してたんだろ、胤?」
 呆れたように肩をすくめる江里口信常に、信胤は似たような仕草を返す。
「あら、わかりまして? わたくしたちでは、後々のことを考えて手を出しかねてしまいますけど、おバカな木下さんならそのあたりはおかまいなしですものね。それにこうしておけば、もし毛利家から詰問の使者が来ても、木下さんを差し出しさえすれば綺麗に解決しますわ」
「この鬼」
 信常は半眼で信胤を見たが、その頬には笑いに似た何かがある。
 それを証し立てるように、信常はこう続けた。
「ま、今の木下を見れば、陰であいつを余所者だ、新参者だ、ついでに無礼者だって嫌っている連中も、少しは見る目をかえるだろう。木下にとって悪いことばかりってわけでもないさね。弓姫さまは色々と考えてらっしゃるようだ」
「あらあら、なんのことでしょう?」
 澄ました顔で首をかしげる信胤を見て、信常はもう一度肩をすくめた。



「直茂」
「は」
「篭城続きの城では酒はおろか水もたいして残っておるまい。それでは末期の酒も酌めぬ。城の者どもに酒樽を二十ばかりくれてやれ」
 竜造寺隆信の言葉を聞いた直茂は、確認するようにゆっくりと問いかけた。
「……よろしいのですか、殿?」
 直茂は後方の異変について、すでに隆信には説明している。今の隆信の言葉は夜襲という選択肢を捨てることを意味した。わずか一夜、時間にして数刻程度、だが後方の動き次第では、その数刻が竜造寺家にとって致命傷になる可能性もないわけではない。
 隆信はそれを承知した上で、はっきりとうなずいた。
「かまわん。罪人でさえ末期の酒は許されるのだ。今日までわしに抗いぬいた小癪な連中とはいえ、この程度の情けはかけてやってもかまわぬだろう」
「かしこまりました。ただちに」


 直茂が特に反論もせずにうなずいたのは、直茂もまた隆信と同様のことを考えていたからであり、もうひとつ、ある懸念が解消されたからでもあった。
 鎮久の来訪を知ったとき、直茂はそのあまりのタイミングの良さから、後方の異変に毛利家が関与している可能性を真剣に考慮した。
 そのため、鎮久の一挙手一投足に気を配っていたのだが、鎮久の言動を見るかぎり、どうやらこれは直茂の考えすぎであったらしい。もちろん、鎮久の到来それ自体が囮であるという可能性もあるのだが、現在までのところ、宝満城の高橋勢、古処山城の秋月勢、さらに立花山城を攻囲している毛利本軍にも目立った動きはなく、あえて損害の大きい夜襲を行う必要性は薄い、と直茂は判断した。
 くわえて、昌直があんなことを紹運に伝えてしまった手前、ここで急遽夜襲など行ってはそれこそ竜造寺家は鎮久の同類になってしまう。
(敵の忠勇を称えることは将としての美徳です。竜造寺隆信は士を知る者との評判を得ることは、これからの私たちにとっておおいなる益となるでしょう)
 

 そう結論づけた直茂は、隆信の指示どおりに大友軍に酒樽を送り、大友軍は疑うことなくこれを受け取った。
 篭城相手に酒を贈る隆信の行いは大友軍を驚かせると同時に感心させ、一方、毒見をするという申し出にあっさりとかぶりを振り、感謝と共に贈り物を受け取った紹運の行動は竜造寺軍を喜ばせた。
 今日まで無数の死屍を積み重ねて戦い続けてきた者同士、そして明日になればまた命をかけて殺し合わねばならない者同士だということを考えれば、この束の間の休戦にどれだけの意味があったのかはわからない。
 それでも、そこに意味はあると多くの将兵が考えた。
 だからだろう、決戦を明日に控えた両軍の空気は、この一夜にかぎり、驚くほどに穏やかであった。


 ――夜半、ひとりの青年が竜造寺本陣を訪れる、その時まで。




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第十章 天昇(十)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:14cce1dd
Date: 2013/11/23 00:42
 筑前国 大宰府跡 竜造寺軍本陣


 雲居筑前。
 そう名乗る青年が竜造寺軍の本陣を訪れたのは、日が暮れてしばらく経ってからのことであった。
 このとき、当主である竜造寺隆信、軍師である鍋島直茂、さらに四天王をはじめとした主だった武将たちはみな本陣に詰めていた。
 明朝の総攻撃の準備はすでに整っている。高橋紹運がこの期に及んで夜襲をかけてくるとも思われず、彼らは戦の最中とは思われない静けさを愛でるように、僚将たちと言葉すくなに杯を重ねていたのである。


 そこに後陣の兵士が恐縮した態で姿を現し、雲居の到来を知らせた。
 本陣にいる諸将の中には雲居と面識がある者もいる。その内のひとりである円城寺信胤は、兵士が告げた雲居の容姿、背格好が自身の記憶にあるそれとほぼ重なっていることを確認すると、不思議そうに首をかしげた。
「あらまあ、予期せぬときに予期せぬ人がやってきましたわね。大友家中の権力争いをのりこえて無事であったとは重畳」


 どことなく楽しげな表情を浮かべる信胤の傍らでは、おっかなびっくり弓姫の相手を仰せつかっていた木下昌直が、眉間にしわを寄せ「んんー?」となにやら考えこんでいる。
 ややあって、昌直は何かを思い出したようにぽんと膝を打った。
「おお、思い出したぜッ! どっかで聞いた名前だと思ったら、この前、俺と一緒に胤さんに酔いつぶされた兄ちゃんじゃねえかッ」
 そう言った直後、昌直は酢でも飲んだような表情で自分の口元をおさえつけた。酔い潰された翌日に飲んだ(飲まされた)円城寺家秘伝の酔い覚ましの味が口内によみがえったのかもしれない。


 そんな二人の様子に興味をかきたてられたのか、江里口信常が口を開いた。
「どういうことだい? 大友の家臣が、木下と一緒に胤に酔い潰される状況ってのが想像できないんだが」
「先の筑前攻めの折、使者として筑後川を越えていらっしゃった方ですわ。あの時、エリちゃんは殿や成松さんと一緒に筑前に攻め入っていましたから、面識がないのは当然ですわね」
「ああ、あの時か。なるほどね――って、いやいや、ちょっと待ってくれ、胤。あんた、また敵の使者を酔い潰したのか!? いつだったかも叱られてたじゃないか。こりないねえ」
「軍師どのが佐賀城からお越しになるまで、お酌をしてさしあげただけですわよ。実際、翌日も寝転がっていた木下さんとは違って、あの方はお酒の影響など微塵も感じさせず、軍師どのと対等に渡り合っていらっしゃいましたわ」
「――と、円城寺の当主は申しているんですが、実際のところはどうだったんです、軍師どの?」
 唐突に話を振られた直茂は小さく肩をすくめた。
「話を始める前に酔い覚ましの水を所望された、とだけ言っておきましょう」
「……胤?」
 信常から半眼で睨まれた信胤は、どこからか取り出した扇で上品に口元を覆うと、おほほと笑ってごまかした。



「ふむ、雲居筑前、か」
 百武賢兼は首をひねり、信胤に問う眼差しを向ける。
「聞き覚えのない名だが、この戦況で使者に任じられるからには当主の信頼は厚いと見るべきだろう。胤どのの目から見て、どういう人物なんですかな?」
 賢兼の隣では、成松信勝も興味をひかれたように小さくうなずいていた。
「同紋衆と南蛮人しか重用しないことで知られる大友どのの信任を得たのだとすれば、無名とはいえ侮れぬ相手ということになる。顔を合わせた者の評価は気になるところだ」


 二人に訊ねられた信胤は、考え込むように頬に手をあてた。
「わたくしの見立てでは、あの方の本領は戦場で武器を振るうことにあらず、帷幕で策を練ることにありと見えました。そういった意味では武人というより策士というべきでしょうか」
「ふむ。世には策士、策におぼれるという言葉もあるが」
 信勝の言葉に、信胤は「うーん」と首をかしげた。
「みずからの知恵におぼれるような軽薄さは見て取れませんでしたわね。もっとも、わたくしのお酒にはおぼれそうになっていましたけれど」
 くすくすと微笑む信胤。傍らでは信常が「さっきと言っていることが違うだろう」と半眼になっていたが、信胤はまあまあと僚将をなだめた。
 そして笑みを収めると、目に真剣な光を浮かべて付け加えた。
「――真に賢明な方であれば、わたくしのお酒に付き合ったりはなさらないでしょう。そこを迂闊と見るか、深慮と見るかは、ご本人と顔を合わせてから皆さんが判断してくださいませ」


 雲居と面識のない面々は信胤の言葉を聞き、それぞれにこれからあらわれる人物の姿を思い浮かべる。
 そんな彼らをよそに、木下昌直は納得いかないとばかりに首をひねっていた。
「そうかー? ありゃ胤さんにいいように酔わされていただけだろ。そんなたいしたやつじゃねえと思うけどな」
「まあ、木下さん。今のは面白かったですわ。自虐、というものですわね」
「へ?」
 信胤の返答の意味がつかめず、昌直は目を白黒させた。




「それはさておき」
 信胤は昌直の当惑をさらりと受け流し、涼しい顔で話題を本筋に引き戻す。
「使者が何人(なんぴと)であれ、その目的は岩屋城の救援に他ならないでしょう。しかし、ただ今の戦況でわたくしたちが兵を退くなどありえぬこと。そのことは大友とて承知しているはずですわ。となれば、大友家は無理を承知で使者を出したということになりますけれど――」
 現在の大友家に無駄な交渉をする余裕なぞあるまい、と信胤は思う。特に雲居筑前は立花道雪の下にいる人物であり、あの鬼道雪が無益な交渉で「人」と「時」を費やすとは考えにくい。


 となれば、考えられることはひとつ。
 大友家は交渉になんらかの成算を見出したのではないか。そして、その成算が信胤たちの目に見えないのは、必要な情報が伏せられているからではないか。
 信胤の視線の先には鍋島直茂がいる。
 四天王に対して情報を伏せる権限を持つのは、当主である隆信を除けば直茂以外にいなかった。


 別段、信胤は直茂を責めるつもりはない。直茂が情報を秘していたのなら、そこには相応の理由があったのだろうと考えている。
 だから、直茂が語らないのであれば、あえて訊ねるつもりはなかったのだが、交渉の席でそのことが裏目に出る可能性には言及しておかねばならなかった。
 特に木下昌直などは、知らないことを突きつけられれば、すぐにそれと表情に出てしまうことだろう。
 そして、その信胤の考えを直茂は諒とした。どのみち、直茂は使者の到来を告げられた時点で、筑後の動きをはじめとした幾つかの情報を詳らかにするつもりだったのである。


 それからしばしの間、本陣の天幕には直茂の声だけが響き、諸将は驚きを飲み込んで軍師の言葉にただ聞き入っていた。





◆◆◆





 待たされることしばし。
 俺は兵に案内され、警戒心と殺気が充満する剣呑な陣中に足を踏み入れていた。四方八方から突き刺さる視線はお世辞にも好意的とはいえず、許されるなら今すぐ踵を返して立ち去りたいところである。
 もちろん実際にそんなことはできないし、そういった内心を面に出せば侮られるだけなので、つとめて平静を装って歩を進めるだけに留めたが。


 ややあって、篝火に照らされた視界にひときわ大きな天幕が映し出された。
 周囲を囲む兵士に促され、俺は腰の刀を彼らに預ける。
 そうして天幕に入った俺の視界に最初に飛び込んできたのは、熊皮を身にまとい、二つならべた床几に悠然と腰かける巨躯の男性だった。
 片肌脱ぎの格好で右の上半身をあらわにしており、筋骨たくましい体つきが一目で見て取れる。二の腕などは丸太と見まがう太さであり、握り締められた拳は頑強な槌(つち=ハンマー)そのもの。冷たく醒めた目でこちらを見据えるこの人物こそ、竜造寺家の当主 竜造寺隆信であることは確認するまでもなく明らかであった。


 なるほど、この屈強な体躯をもってすれば生身で熊を倒すことも不可能ではあるまい。俺はいつぞやの道雪どのの言葉を思い起こし、内心でひそかに感嘆の息を吐く。
 その隆信の傍らには見覚えのある鬼面の軍師 鍋島直茂が控えている。左右に居並ぶ家臣の中には、こちらも見覚えのある姿――円城寺信胤と木下昌直の二人が確認できた。
 そして、その二人の周りには一目でタダ者ではないとわかる歴戦の将たちが腰を下ろしている。
 諸将の首座に座っているのは痩身でありながら重厚な存在感を放つ人物で、おそらく四天王筆頭 成松信勝だろう。その傍らに座している、当主の隆信に負けず劣らずの巨躯を持つ人物は百武賢兼か、と俺は判断した。江里口信常は円城寺信胤と同じ姫武将と聞いていたから、単純な消去法である。
 その信常は竜造寺家でも一、二を争う勇武の将との評判であったが、なるほど、おっとりした信胤とは対照的に、精悍さと機敏さを共に印象づけられる凛々しい出で立ちであった。




 むろんというべきか、隆信と同様、彼ら四天王の顔に俺を歓迎する色合いはない。竜造寺家の君臣は招かれざる敵国の使者を眼光鋭く睨みすえ、無言の圧迫を加えてきている。針のむしろに座らされる、というのはこういう状況を指していうのだろう。
 彼らの態度から前途の多難さが思いやられたが、現在の大友と竜造寺の関係を考えれば門前払いされなかっただけでよしとしなければなるまい。まあ、そんなことにならないように筑後で道雪どのに派手に動いてもらっているわけだが。


 俺はゆっくりと隆信に対して頭を垂れた。
「竜造寺隆信さまにはお初にお目にかかります。大友家臣 雲居筑前と申します」
「わしが隆信だ」
 いかにも億劫そうな声音で応じる隆信。俺が頭をあげて隆信の顔に視線を向けると、胡乱げにこちらを見据える向こうの視線と正面からぶつかった。
 内心の感情を映してのことだろう、肥前の熊の眼差しは路傍の石ころを見下ろすにも似ており、続けて発された言葉は敵意と威圧感に満ち満ちていた。


「言っておくが、わしは降伏以外の用件で大友家と話をするつもりはない。この期に及んで講和など持ち出そうものなら、その首、即座に引き抜かれると心得い」
 隆信が言わんとしていることは明瞭だった。筑後における大友家の蠢動など意に介していない、ゆえに「肥前を襲われたくなければ岩屋城から兵を退け」といった類の交渉に応じるつもりは一切ない、ということである。口調といい、内容といい、まったく取り付く島がなかった。


 この竜造寺家の態度は一見するとただの虚勢に見えるが、あながちそうとばかりも言い切れない。
 竜造寺家にしてみれば、動きを封じたはずの筑後が今になって動き出したというだけで相当に戸惑っているはずだが、一方で筑後の大友軍が動員できる兵力に限りがあることも把握しているに違いない。
 実際、道雪どのが筑後で動かせる兵力は蒲池家の兵を中核とした五千あまりしかおらず、しかもここでいう五千という数は最大動員数であり、柳河城の守備などを考慮すれば肥前に投入できる兵力はもっと少なくなる計算になる。


 これから戦況が動き出せば、蒲池家以外にも大友家に参じてくれる国人衆があらわれるかもしれないので、兵の数は今よりも増えるだろう。だが、そういった希望的観測を考慮にいれてなお、彼我の兵力差は大きい。
 竜造寺軍が二万の大軍を最大限に活用すれば、後背の動きを気にかけずに全力で岩屋城を攻め落とし、返す刀で肥前に攻め入った部隊を叩き潰すという力業も可能となる。あるいはもっと単純に、兵を二つに分けて前後の大友軍を同時に相手取ることも不可能ではないだろう。


 こう考えると、筑後での大友軍の動きはたいした牽制になっていないように映る。
 しかし、これもそうとばかりは言い切れない。確かに動かせる兵力には限りがあるが、竜造寺軍とて大友軍の正確な数までは掴んでいないはずなので、ハッタリをかます余地は残っている。
 また、竜造寺軍がどれほどの大軍であっても、否、大軍であればこそ、後背を突かれるという兵士の動揺を払拭するのは並大抵のことではない。向こうも今日までの城攻めで相当の被害を出しているはずであり、この状況で肥前を突かれれば少数の兵相手でも苦戦は免れまい。まして、攻め込んできた相手が鬼道雪であればなおのこと。
 その未来図を突きつけることは、十分に交渉の役に立つのである。





 虚々実々の駆け引きはすでに始まっている。
 刀槍の響きはなく、血が流れることもないが、それでもこれは確かに戦だった。ここまでが前哨戦であったとすれば、互いに顔を合わせたここからは本格的な会戦か。
 俺はひそかに腹を据えなおすと、竜造寺の牙城を切り崩すべく口を開いた。
「大友家が降伏を求めるならば、その向かう先は毛利家であって竜造寺家ではございません。その理由はそれがしが申し述べるまでもありますまい」


 俺の言葉を聞いた途端、隆信の顔が、めきり、と音がしそうなほどに歪んだ。四天王らも程度の差はあれ、表情を険しくする。
 今回の大友攻めの主力は名実ともに毛利家であり、大名としての勢力の大きさも毛利家が竜造寺家を上回る。それは竜造寺家であっても認めざるを得ない事実だろうが、しかし、だからといって他家の人間に正面からそれを指摘されれば面白くはあるまい。
 ましてや窮地に陥っている大友家から遣わされてきた使者が「どうしてわざわざ毛利家に劣る竜造寺家に降伏を求めなければならないのか。お前たちのところに来るくらいならはじめから毛利家の方に行っている。その程度のことはそっちもわかっているだろう(意訳)」などと言い放てば、どれだけ温厚な人間であっても眉間にしわの一つもできようというものであった。


 挑発といえば挑発である。
 だが同時に、威圧的に接してきた相手に事実を指摘しただけでもある。
 現状、大友家と竜造寺家を比べれば窮しているのは間違いなく大友家の方であり、ゆえにこうして講和を求めてやってきたわけだが、だからといってへつらうつもりも、おもねるつもりもない。
 そのことを言外に宣言した俺は、さらに言葉を重ねた。


「現在、当家の重臣 立花道雪は筑後柳河城にあり、城主 蒲池鑑盛と共に肥前攻撃の準備を整えております。軍勢の進発は明日、早朝。我が軍はすでに筑後川を渡河する準備に着手しておりますれば、おそらくこの知らせは皆様のお耳に達しておりましょう」
 言い終えた俺は竜造寺の君臣の顔に視線を走らせた。特に四天王のひとりである木下昌直の顔に。
 俺が速やかに引見を許されたことからみても、竜造寺軍が筑後の動きを掴んでいるのはほぼ間違いない。問題は大友軍を率いるのが道雪どのであることまで向こうが把握しているかどうかである。これを確認するためには相手の目の前に事実を突き出し、その反応を探るのがもっとも手っ取り早いだろう。


 四天王の中で一番ポーカーフェイスが不得手なのは昌直だろう、という俺の判断は奏功した。隆信と直茂は無言であり、昌直以外の四天王はそれぞれに静黙を保ったが、昌直だけは一瞬はっきりと驚きをあらわにしたのである。
 その反応を見た俺は、予測を確信にかえた。
 竜造寺軍は道雪どのの筑後入国を把握していなかった。となると、道雪どのがムジカに赴いた以降のこともまだ掴んでいないということになる。当然、勅使の件も、島津家や南蛮軍の動向も把握してはいまい。
 視界の端で円城寺信胤が呆れたように溜息をはき、事態を察した昌直の顔が青くなっていくのをとらえつつ、俺は頭をフル回転させた。





 当初――というのは、勅使として島津の陣に赴く前の話だが、俺は天城颯馬の名で竜造寺軍を訪れるつもりだった。
 ありもしない後背の危険を竜造寺軍に認識させ、それをもって岩屋城の包囲を解く。
 この策略を成就させるためには、どれだけ怪しげであっても勅使という肩書きが有用であると考えたからである。
 しかし、島津との交渉を経て、道雪どのが筑後に入ったことで、詐術であったはずの「後背の危険」は現実のものとなった。こうなれば、あえて怪しげな勅使を名乗る必要はない。まあ雲居筑前という名前だって大概怪しいものではあるのだが、直茂や信胤と面識がある名を名乗っておけば、万一、竜造寺家が筑後の動きを把握していなかったとしても門前払いされる可能性は低くなる。
 また、ヘタに天城颯馬として将軍家とのつながりを強調してしまうと、竜造寺家が態度を硬化させてしまう恐れもあった。なにしろ大友家は将軍家から九国探題に任じられた身。どれだけ中立をうたおうと、将軍家が遣わしてきた使者が大友側に肩入れしているであろうことは誰でも予測できる。


 そういったあれこれを考えた末、俺は天城颯馬ではなく雲居筑前の名でこの交渉に臨んだわけだが、前述したように当初の交渉目的であった後背の危険を認識させる件については、もはやその必要はなくなった。となれば、必然的に最終的な話の落としどころもかわってくる。
 これまでの俺の行動指針は「なにはともあれ岩屋城救援」だった。ともかく焦眉の急は岩屋城にたてこもる紹運どのたちを救い出すこと。その後のこと? そんなものは救い出してから考える! という状況である。
 だが、今は「その後」について考えをめぐらせることができる態勢が整っている。そして、岩屋城救援の後のことを考えた場合、ここで竜造寺軍との間で本格的に戦端を開いてしまうと非常にまずいのである。何故といって、大友と竜造寺、最終的にどちらが勝つにせよ、最後に毛利に漁夫の利をさらわれることが火を見るより明らかだからだ。




 おそらく、というか間違いなく、この危険は竜造寺家も認識している。
 毛利軍の手に落ちた宝満城に対し、竜造寺軍が浅からぬ警戒ぶりを示していたことは吉継から聞いている。くわえて、高橋や秋月といった毛利の与党を合わせて四万近いと考えていた岩屋城の攻囲軍が、その実、竜造寺勢二万のみであった事実からも毛利と竜造寺の関係を読み取ることは難しくない。
 推測するに、竜造寺家としては毛利家と結びつつ速やかに大友領に侵攻し、毛利家に介入の余地を与えずに勢力を拡大させるつもりだったのだろう。
 だが、宝満城は毛利軍に奪取され、岩屋城は落ちず、このうえ本国である肥前を荒らされてしまえば勢力の拡大など絵に描いた餅に過ぎない。それどころか、毛利家は大友、竜造寺の死闘を横目で眺めつつ、悠々と兵を展開して大友領を侵食できるわけで、竜造寺家は徹頭徹尾、毛利家に利用されっぱなしということになる。泣きっ面に蜂どころの騒ぎではあるまい。


 竜造寺家が心底から毛利家に従属するつもりであればいざ知らず、そうではないのなら、共倒れの危険を指摘して兵を退かせることは不可能ではない。
 そのために必要なことは、大友家にはまだまだ戦い続ける余力が残っているのだ、と証明することであった。
 一朝一夕に大友家を倒すことは不可能であり、それを為そうとすれば泥沼の消耗戦になる。そうなれば、背後で虎視眈々と爪を研ぐ毛利家にすべてを奪われてしまう――その認識を竜造寺家に植えつけるために、俺はこの交渉に臨んでいた。




「改めて申し上げるまでもございませんが、貴家があくまで岩屋城を落とさんと望まれるのであれば、我が軍は肥前に攻め入ります。岩屋城を得ても、引き換えに本国を失う結果もありえますが、それでもなお戦いを続けるおつもりですか?」
 俺の言葉を聞いた隆信は忌々しげに鼻息を荒くした。
「ふん、いかにも大仰な言い様だが、貴様らが筑後で動かせる兵など万に届くまい。攻めたければ攻めるがよい。こちらは明日にも岩屋城を攻め落とし、返す刀で肥前に攻め込んだ者どもを皆殺しにしてくれよう。そもそも、足の動かぬ道雪めが十重二十重に取り囲まれた立花山城からどうやって抜け出したというのだ? 戯言も大概にせい」
「殿の仰るとおりだぜッ! こんなことで俺たち竜造寺をだませると思うなよ!」
 寸前の失態を糊塗しようとしたのか、木下昌直が威勢よく主君に唱和する。


 俺は一呼吸置いてから隆信の疑問に応じた。
「確かに足の不自由な道雪が立花山城から脱出するのは困難を極めます。しかし、今現在、道雪が筑後にいることはまぎれもない事実でござる」
「だから、それは無理だって殿が仰ったばかりだろうが!?」
「無理ではございませんよ。道雪が城を出たのは毛利軍が城を囲む前だった。ただそれだけのことでございますゆえ」
「……お、う? そ、そうか、それなら確かに問題ないな!」
 力強くうなずく昌直。
 それを見た四天王たちは、駄目だこいつ、と言わんばかりに一斉にげんなりした顔になった。


 ほとほと呆れた、といった様子で円城寺信胤が口を開く。
「はぁ……そこで納得してどうするんですの、木下さん?」
「い、いや、でもよ胤さん。毛利が来る前に城を出たなら、筑後に入るのは簡単だろ?」
「それは確かに簡単ですけれども」
 もうひとつ溜息をついてから、信胤は噛んで含めるように話しだした。
「それ以前に、遠からず毛利軍が押し寄せてくることがわかりきっているこの時期に、立花どのが筑前の要たる立花山城を留守にして筑後にやってくるなんて不自然きわまりないですわ。まして岩屋城がわたくしたちに囲まれて半月近く、立花山城にいたってはそれ以上の間、毛利軍に攻囲され続けているんですのよ。それだけの間、あの鬼道雪が一兵も動かさずに筑後で沈黙を保っていたなんて、どう考えてもおかしいと思いませんこと?」
 それを聞いた昌直が勢いよく膝を打つ。
「おお、なるほどなッ! やいやい、これに――」
「これに関してはどのようなお答えをいただけるのでしょうか、雲居どの?」


 信胤の視線が俺に向けられる。昌直に任せていると話が進まない、と判断してのことだろう。
 言葉を奪われた昌直が空しく口を開閉させるのを横目で見ながら、俺はあっさりと視線を信胤に移した。
 これは昌直を軽んじてのことではない――いや、これは本当に言葉どおりの意味である。
 昌直のような人間は次の瞬間に話がどこに飛ぶかわからず、かえってこちらが混乱してしまいかねない。その点、信胤が相手ならば理詰めで話を進めることができるので、信胤相手の方がこちらにとっても都合がいいのである。
 もっとも、信胤は信胤でおっとりしているのは見かけだけ、迂闊なことをいえば即座に喉笛を食いちぎられてしまう厄介な相手なのだが。



「疑念はごもっともですが、これも答えは簡単です。道雪は城を出た後、筑後ではなく日向に赴いたのですよ。ムジカに攻め寄せていた島津軍を撃退するために」
 俺は警戒心をあらわにしないよう、極力語調をかえずに信胤の問いに応じた。
 同時に、俺の言葉に対する相手の反応にも注意を払う。
 竜造寺家にしてみれば、この内容はとても聞き捨てにできるものではないはずだった。
 大友家が島津家とも矛を交えていることは周知のことであり、そこは問題ではない。島津軍は規模において毛利軍に及ばないが、なにしろ主君である宗麟さまが直接に相対している敵である。ムジカを抜かれてしまえば大友家の本国である豊後が危険に晒されることもあり、道雪どのが筑前を失う危険を冒してまで救援に赴くことは不自然ではない。ゆえに、これも問題にはならない。


 問題なのは、宗麟さまの救援に赴いた道雪どのが、今現在筑後にいる、という事実そのものだった。
 それは、一月に満たない時間で島津家という脅威を完全に排し、宗麟さまと豊後の安全を確保してからでなければ採ることができない選択肢だからである。


 もちろん、それらは俺が語る言葉すべてが事実であればの話。
 そして、戦時における敵国の使者の言葉を鵜呑みにするほど間抜けなことはない。そのことはこの場にいる誰もが承知していた。
 だから、俺は自分の言葉が虚偽ではない証を示す。その証は油紙に包まれて俺の懐に入っていた。




◆◆




 いかにもつまらなそうに書状の中身をあらためた瞬間、隆信の目がくわっと見開かれた。
「将軍の調停、だと!?」
「は。大友、島津の両家は将軍家の調停を受け入れ、講和を結びました。それゆえに道雪は後顧の憂いなく筑後に入ることができたのです。同時に、豊後でも筑前救援に向けた大軍の編成が始まっておりますれば、遠からずそちらの援軍もこの地にやってまいりましょう」
 俺が語る間にも書状は順々に諸将に手渡されていく。さすがの四天王たちもこれには驚きを隠せない様子であった。
 そんな彼らに対し、おしかぶせるように俺は更なる言葉を投げかける。
「貴家が筑前に攻め入るに際して、もっとも気にかけておられたのは筑後の動きであったと拝察いたします。かの地の動きを封じる手立ては幾重にも打たれておいでのはず。事実、つい先ごろまで筑後の我が軍はまったく身動きがとれませんでした。その状況がどうして短時日で一変したのか。それを考えれば、道雪の筑後入国の真偽はおのずと明らかではございませんか」




 あらためて言うまでもなく、俺の台詞には多少(?)の誇張が含まれている。しかし、まったくの虚構というわけでもない。
 現在の竜造寺家に、俺が使い分ける事実と誇張の見分けができる人間は存在しないはずだった。何故なら、それをするためには九国南部における情報を知悉している必要があるからだ。竜造寺家が南部の情勢を把握していないことは、道雪どのの所在を掴んでいなかったことからも明らかである。
 たとえ鍋島直茂であっても正確な情報なしに正答を導き出すことは不可能であろう。


 ――もっとも。
 だからといって、俺の話に疑問を差し挟む余地がないわけではないのだが。


「雲居どの、あなたの仰ることには訝しい点が幾つかあります。そのひとつは島津家の動きです」
 案の定というべきか、ここにきてはじめて鍋島直茂が動く。
 鬼の面をかぶった竜造寺の軍師は、射抜くような視線で俺を見据えた。
「島津家が現時点で大友家との講和に応じるとは思えません。現在の筑後の動きは、あなたが口にした立花どのの動きを肯定していると推測できますが、それでもなお信じがたい」
 道雪どのが筑後に入国したことを知れば、大友家に敵意を抱いている者たちは容易に動くことができなくなる。つい先日までまったく身動きがとれなかった蒲池鑑盛が、急に兵を動かせるようになった理由はそれで説明がつく。
 そして、道雪どのが筑後に出てきた以上、大友家が抱える後背の不安――島津の脅威は取り除かれたと推測できる。つまり筑後の現況は、島津と大友の講和を間接的に証明することにつながるわけだが、そこまで考えてなお講和が結ばれたことが信じがたい、と直茂は言う。


「――昨今、南蛮神教を掲げる大友家の動向は他家にとって害悪しかもたらしておりません。南蛮神教を否定する島津家にとっては尚のことそのように映っているでしょう。島津家にとって、今日という日は大友家を討ち果たし、悲願である三州統一を成し遂げる千載一遇の好機に他ならないはずです。その好機を、たとえ勅使が至ったにせよ、島津家が見過ごすとはとうてい考えられないのです」
 静かに断定した直茂は、そこでいったん言葉を切ると、低い声音でこの場に新たな事実を投げ入れてきた。
「もし、島津家が講和を受け容れたのだとすれば、それは受け容れざるを得なかったからだと考えるべきでしょう。原因として考えられるのは、薩摩沖に現れたという異国の艦隊です」


 それを聞いた途端、俺は無意識のうちに眉を動かしていた。
「……はやご存知でしたか」
「先ごろ、薩摩沖に五十隻とも百隻ともいわれる南蛮船が大挙して襲来した、そういう噂が肥前各地の港で盛んに語られていると佐賀城からの知らせにありました。にわかに信じがたい話でしたが、大友家と南蛮の蜜月は知らない者がおりません。大友家と対峙する島津家の背後を南蛮軍が突く、そんな作戦が実行されることもないとはいえないでしょう」
 南蛮軍と大友軍が手を組んだとすれば、島津軍は大友軍と南蛮軍に挟撃される形となる。主力が出払っている薩摩の防備は薄く、そこを南蛮軍に突かれれば島津軍は対応に苦慮せざるをえない。島津家もまさか異国の軍勢が攻め込んで来るとは予測していなかったはずであり、将兵はもとより民衆の動揺も計り知れないだろう。
 そんな戦況で勅使が到来し、講和を切り出したとすれば、島津家が大友家と講和を結んだとしても不思議ではない――それが直茂の主張だった。



 この直茂の考えにはいくつかの誤解が混ざっている。特に薩摩に攻め込んだ南蛮艦隊については、大友家はまったくその存在を把握していなかった。むろん、勅使の件もそうである。把握していない事柄を戦略に組み込めるはずがない。
 だが、その一方で大友家と南蛮が密接な関係にあったこと、日向侵攻において南蛮の(正確には南蛮神教の)有形無形の援助があったことは事実である。
 そのあたりをいかに説明するべきか、俺にとっては非常に頭の痛い状況だったが、しかし、ある意味でこの直茂の誤解は好機でもあった。
 あえてこのまま直茂の誤解をうけいれ、あたかも大友家が南蛮の戦力を味方につけたように見せかけることができれば、竜造寺家の判断の秤は一方に大きく傾くだろう。
 事の真相は遠からず明らかになってしまうが、今この場にかぎっていえば、こちらが主導権を握ることができる。別にこちらが誤った解答に誘導したわけではなく、相手が勝手に誤解しただけであるからして、文句をいわれる筋合いもない――


(と、いうわけにはいかないか)
 俺は内心で肩をすくめた。
 ここで直茂の誤解に乗じるということは、大友家が異国の軍勢を日ノ本に招き入れたことを認めることと同義である。
 ただでさえムジカの建設で面倒きわまりないことになっているのに、この上、俺が公の使者として直茂に言質を与えてしまえば、たとえ今回の危機を回避できたとしても、後々どう利用されるかわかったものではない。
 一時的な利に惑わされ、将来の衰退の因を作るわけにはいかなかった。


 そこまで考えた俺は、ふと疑問を覚える。
 今しがたの直茂の台詞は、本当に「誤解」に基づいたものであったのか、と。
 知らず、視線が直茂の方を向く。
 鬼面の両眼からのぞく眼差しに底知れぬ奥深さを感じるのは、はたして俺の気のせいなのだろうか。
 もしかしたら、俺は危ういところで陥穽を避け得たのかもしれない。



 ――ただ、直茂の意図がどこにあったにせよ、南蛮軍の存在を竜造寺側から口にしてくれたことは俺にとってありがたかった。自然に話をそちらに向けることができる、という意味で。
「どうも誤解があるようですので、訂正させていただきます」
 俺の口から南蛮関係の話を切り出せば、どうしたって向こうに警戒されてしまう。それが大友家にとって都合の良い情報であれば尚のこと、竜造寺側は語られる内容に不審を抱くだろう。
 だが、直茂が口した情報を補足する分には過度に警戒されることはあるまい。少なくとも不自然さは薄れるはずである。好機といえば、これこそ好機であった。
「これまでの行いから推して、南蛮軍を招き寄せたのが当家ではないかと疑われるのは致し方ないことと存じます。しかしながら、こたび南蛮軍を招き寄せたのは当家ではございません」
 直茂だけでなく、他の竜造寺家の君臣の脳裏に刻み付けるように、俺はゆっくりと『元凶』の名を口にした。



「日ノ本の地に南蛮軍を招き寄せた者の名は、ガスパール・コエリョ。この者、南蛮神教の有力者であり、薩摩における布教の責任者でもありました。先ほど鍋島さまが仰っていたように、島津は南蛮神教を公に否定しておりますれば、かの地における布教は遅々として進まず、そのことにたえかねたコエリョが教会を通じて南蛮本国に島津討伐を要請したのです」



「……ガスパール・コエリョ。聞かぬ名だが、その者が南蛮軍を招き寄せたというのは確かなことなのか?」
 腹の底に響く重い声の主は成松信勝だった。
 淡々とした問いかけの中にも無視できない威が感じられる。直茂が鋭利な打刀だとすれば、こちらは肉厚の野太刀といったところだろうか。
 直茂のそれとはまた違った重厚な圧迫感を覚えつつ、俺は信勝の問いに応じた。


「はい。講和の席で家久さま――島津の末の姫のお名前ですが、この方からうかがったことでございます。どうやら島津家の方々は、ある程度コエリョの動向を把握しておられたようですね。大友家と矛を交えつつも後背の備えは怠っておらず、薩摩において激しい攻防が行われた由。数が数なのでかなりきわどい戦いであったようですが、最終的には島津軍が勝利し、多くの船と兵を失った南蛮軍は撤退。元凶たるコエリョは一旦は捕縛されたそうです。ただ――」
 いったん間を置き、聞き手が十分に情報を咀嚼するのを待ってから続ける。
「これも家久さまからうかがったことですが、コエリョは南蛮宗徒の手助けによって薩摩を脱出したとか。本国への逃走を目論んでいるのか、あるいは再び艦隊を招き寄せる準備に入ったのかはわからないが、いずれにせよこれを捨て置くことはできぬ、と家久さまは仰っておいででした。すでに追討の用意も整いつつあるとのことでしたので、大友家との講和が成った今、近いうちに島津軍は再び動くやもしれません。その向かう先として、家久さまが挙げておられた地名は――」


「肥前日野江城の主、有馬義貞どのの領地」
 そう口にしたのは信勝ではなく、直茂である。
 俺はわずかに目を瞠った後、こくりとうなずいた。
「仰るとおり、コエリョが逃げ込む先として家久さまがもっとも注意を向けておられたのが日野江でした。有馬どのは南蛮神教に寛容な方であり、南蛮との関係も良好で、異国との交易も盛んに行っておられると聞き及びます」
「コエリョとやらが逃げ込む先として日野江を選んでも不思議はない。いえ、むしろ格好の逃げ場所である。そういうことですね」
 直茂の言葉は穏やかであったが、その視線は俺の面上にひたと据えられたまま動かない。
 まるで喉下に刃を突きつけられているような息苦しさを覚える俺の耳に、直茂の静かな声が滑り込んできた。


「日野江における募兵の知らせはこちらも把握しています。今の日野江に攻め込む勢力がいずれにありやといぶかしく思っていましたが、なるほど、そういうことでしたか。南蛮艦隊の噂といい、突如動き出した筑後の大友軍といい、乱れ飛ぶ知らせの真相を掴むことは容易ではないと考えていましたが、めぐりめぐってすべてが繋がっていきますね。いささか出来すぎであるように思えてなりません。まるで何者かが、一つの意図をもって事を企てたかのようです」
 どこか探るような直茂の物言いに、俺は首をかしげた。
「南蛮までが出張ってきたこたびの戦を、すべて司ることができる者などどこにもおりますまい」
「確かに並の者には為しえぬことでしょう。しかし、実際にそれを疑うに足りる状況があるのであれば、考慮するのは当然のこと。古の張良、陳平の輩が戦国の世にあらわれることもないとはいえますまい」
「さて、それほどの慧眼の主がはたして今の世におりますかどうか。毛利元就公の噂がまことであればあるいは、とも思いますが」


 漢の高祖に天下をとらせた智者の名前を持ち出した直茂に対し、俺は世情でもっとも名高い智者の名前を出して応じてみせた。
 直茂が張良らの名前を出したのは、俺の策動を察してあてこする意図があったと思われる。それに対して、俺はそ知らぬ顔で毛利の存在を匂わせてみたわけだが――うん、これはちょっとばかりわざとらしかったかもしれない。
 鬼面に覆われていない直茂の口角がかすかに持ちあがるのが見える。それは苦笑と呼ばれる類の表情の一部だった。





(――ふむ)
 俺は内心で腕組みして考え込んだ。
 ここで苦笑が出るということは、直茂は俺の話の行き着く先――毛利家に漁夫の利を得られたくなければ大友家と講和を結ぶべき――をとうに読んでいるということだろう。
 となると、これ以上話を続けても意味がない。さっさと結論を口にするとしよう。どのみち口先だけで終わる話ではないのだ。次の幕に進むためには、今の演目を終わらせなければならない。


「話を戻させていただきます。それがしがこの場より去るということは、我が軍の肥前侵攻が始まるということ。さきほど、隆信さまは岩屋城を落とし、返す刀で肥前に攻め込んだ部隊を皆殺しにすると仰いましたが、今日までの戦で傷つき、疲弊しているのは我が軍のみにあらずと拝察いたします。城攻めで消耗した軍をもって、立花道雪と蒲池鑑盛、両名が率いる大友軍を一戦で叩きのめせるとはお考えにならない方がよろしいでしょう」
 別段、威圧するでもなく、平静な口調で俺はそう述べた。事実を口にするのに強がる必要はない。


 むろん、だからといって大友軍が必ず勝つ、などというつもりはない。
 肥前での戦いが、地の利と兵力にまさる竜造寺軍に有利であるのは万人の目に明らかである。
 だが――
「肥前に攻め込んだ我が軍を討ち果たし、勝利を得たとしても、それは肥前一国を平らかにしたというだけのこと。その頃には、毛利家は立花山城、宝満城、古処山城を中心として筑前を確固たる勢力圏に加え、さらに筑後、豊後にも侵攻の手を伸ばしているでしょう。竜造寺家が肥前の全土を制したとしても、中国地方の大領に加えて九国北部を得た毛利家の勢威にあらがうことは不可能と申し上げざるをえません」


 竜造寺軍が肥前で死闘を繰り広げている間、毛利軍がそれを援護してくれる可能性もないわけではない。
 だが、その可能性が低いことは俺が口にするまでもあるまい。
 逆の立場で想像すれば簡単にわかる。もしも毛利軍と大友軍が激戦を繰り広げることになった場合、竜造寺軍は毛利軍に援軍を派遣するだろうか。いずれ必ずぶつかることになる相手を援助するよりは、手薄になった大友領に侵攻する方を選ぶのではないか。
 

「――すなわち、これ以上の大友攻めは、ただ毛利家を肥らすだけの結果に終わること、火を見るより明らかと申せましょう。貴家の志が今後とも永く毛利家の驥尾に付すことにあるならば知らず、九国の覇者たらんと欲するのであれば――やがては天下へ挑まんという気概をお持ちなのであれば、これ以上の岩屋城攻めはその志をみずから断ち切ることに等しいと、そう思し召されませ」




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第十章 天昇(十一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:14cce1dd
Date: 2013/11/23 00:41
 筑前国 大宰府跡 竜造寺軍本陣


 雲居が言葉を切ると、天幕に沈黙の帳がおりた。
 毛利家に漁夫の利をさらわれたくなければ、とっとと兵を退きなさい――雲居が口にしたことを簡潔にまとめればこのようになる。
 毛利家に臣従するつもりなら話は別ですが、という最後の言葉は、よもや竜造寺ほどの大名が他家の下風に立つことをよしとしたりはしますまい、という挑発の言辞であった。


 対して、竜造寺家の君臣が沈黙を強いられたのは、盟友である毛利家が敵になる可能性を雲居の口から指摘され、それに戸惑いを覚えたから――ではなかった。
 雲居は知る由もないことだが、先だって鍋島直茂は四天王に対して毛利家を相手取っての九国経略を説いたばかり。そのため、竜造寺家にとって毛利家を敵とする認識は目新しいものではなくなっている。
 それでなくても、先の宝満城陥落の顛末を見れば、毛利家の側に竜造寺家と末永く友好を保とうという意志は見て取れない。ゆえに、このまま竜造寺軍と大友軍が互いに戦力をぶつけあって消耗していけば、どちらが勝とうとも最終的に毛利家に飲み込まれてしまうだろう、という雲居の予測は十分に首肯しうるものであった。



 だが、そのことと兵を退くことはまったく別の話である。
 それが竜造寺側の認識だった。
 第一、もたらされた一連の情報が大友家の策略である可能性が否定されたわけではない。現時点で竜造寺家が独自に掴んだ大友軍の情報といえば、筑後で動きを見せていること、ただそれだけである。それ以外の情報のほとんどは雲居の口から出たことであり、そこになにがしかの作為が含まれているのではないか、との疑いが生じるのは当然のことであった。件の勅書にしても、疑おうと思えばいくらでも疑うことができる。


 また、仮に雲居の言葉すべてが事実であったとしても、ここで何の功も無く兵を退くことは竜造寺家には許されないことだった。
 二万の大軍を動員して筑前に攻め込んでおきながら、出城に過ぎない岩屋城ひとつ落としえぬ。毛利軍が自家の血を流さずに宝満城を陥落せしめたのに比べれば、その無様さは筆舌に尽くしがたい。
 ここで何も得るところなく兵を退けば、竜造寺軍の声価は一朝にして泥にまみれてしまうだろう。


 過日、鍋島直茂が言明したように、岩屋城を落とし、高橋紹運を討つことは、今後の九国経略において欠かせぬ一手である。その一手を、不確かな情報をもとに断念するわけにはいかない。少なくとも、それに代わる何かを得るまでは、兵を退くという決断を下すことはできなかった。
 であれば、竜造寺家が採れる選択肢は多くない。
 退けないのであれば、残された選択肢は、進むか、留まるかの二つしかなく、この状況で兵を留めたところで何の意味もない以上、選べるのは進むこと以外にない。すなわち、かなうかぎり速やかに兵を進め、大友家には抵抗の余地を、毛利家には介入の余地を与えないこと、それ以外にないのである。


 結局のところ、それは雲居がやって来る以前の方針と何一つ変わらない。天幕に満ちた沈黙は、竜造寺の君臣がその結論に至るまでに必要とした時間であった。
 そして、ひとたびその結論に至ってしまえば、次に採る手段もまた限られる。雲居が口にした島津との講和や道雪の筑後入国、さらには豊後で編成されているという援軍の存在を岩屋城の者たちが知れば、彼らは再び抗戦の気力を取り戻してしまう。それでなくても、竜造寺の軍中にいらぬ噂を撒き散らされては明朝の城攻めに支障をきたす。
 竜造寺家にとって、雲居筑前を陣中から出すことは、求めて苦境に足を踏み入れるに等しかった。




「――つまり、お前さんは飛んで火に入る夏の虫ってことだな」
 木下昌直が沈黙を破り、これみよがしに天幕の出入り口に立ちふさがった。
 刀こそ抜いていないが、その意図は言葉と行動の双方によって明らかであり、当然雲居も即座に察しただろう。
 だが、雲居は慌てる素振りを見せず、見せた反応といえば、唇の端に苦笑を浮かべただけであった。


「冬の最中にそのたとえはいかがなものかと」
「は、今さら強がったって格好はつかねえぜ?」
「さて、ことさら強がっているつもりも、格好をつけているつもりもないのですが」
 そういって雲居は他の四天王を見回した。彼らは昌直に追随こそしていなかったが、一方で昌直をとがめだてしようともしていない。それは隆信と直茂も同様だった。
 雲居は小さく肩をすくめ、みずからの状況を分析してみせる。
「万一にも岩屋城に入られるわけにはいかない。同様に、城を取り囲む兵たちに妙なことを吹き込まれても困る。であれば、戦が終わるまで捕らえておくか、あるいはあとくされがないようにこの場で斬り捨てるか。いずれにせよ、それがしの行動を封じてから城攻めに取り掛かる。それがしが貴家の立場でも同じことを考えたでしょう」
「なめんなよ、俺たち竜造寺は武器を持たない人間を斬り捨てるほど腐っちゃいねえぜッ」
「そこで胸を張られても。使者を捕虜にすること自体、誉められた行いではありますまい」
「ぐッ!? そ、そりゃあれだ、臨機応変ってやつだなッ」


 苦し紛れの昌直の強弁を聞き、雲居は感心したようにうなずいた。
「ふむ、なるほど。一軍の将たる者、求めて苦難を招くは愚かなこと。道義に拘って使者を解き放つよりは、一時の悪名を甘受しても捕縛してしまった方が賢明でございましょう。いざとなれば、それがしをひそかに葬り、大友家に対しては使者など来なかったと強弁することもできます。あるいは、使者が運悪く流れ矢にあたって果ててしまった、と報告する手もありますか。戦場であれば十分にありえることでしょうし」
「お、おお、そのとおりだ! よくわかってんじゃねえか――てか、よくそんなあくどい手をぽんぽんと考え付くな、おまえさん」
 うんうんと頷きつつも、雲居を見る昌直の顔はどことなく薄気味悪そうだった。




 その昌直にかわって口を開いたのは百武賢兼である。
 賢兼の顔には雲居の落ち着きに対する感心と、その落ち着きをもたらすものが何であるのかを探ろうとする色合いが見て取れた。
「その口ぶりからすると、ここまでは予測どおりといったところか。しかし、こちらの出方が予測できていたとしても、それを覆す思案がなければ意味をなすまい。ここから俺たちを出し抜く算段はついているのか?」
「あいにく、鍋島さまを出し抜く知恵も、四天王全員を同時に相手取る武勇も持ち合わせてはおりませぬ。それがしが皆様を出し抜くのは無理というものです」
「ふむ……『それがしには』無理、か」
 賢兼は床几に腰を下ろしたまま、人差し指でとんとんと膝のあたりを叩いた。大きな目がぎろりと雲居を睨む。


「おぬしにはできぬ。しかし、策がないわけではない……察するに、定められた刻限までにおぬしが戻らねば、外で待機しているおぬしの手勢が何らかの動きを見せる、といったところか。しかし、多数の手勢を伏せておく余力は今のおぬしらにはあるまい。兵が多ければ、それだけ敵に見咎められる危険も大きくなる。となれば、伏せておける兵は多く見積もっても百かそこらだろう。城への道は厳重に固めてある。そう簡単に抜けさせはせぬぞ」
「それは困りました。それでは遠方から矢でも打ち込んでみましょうか。矢文で敵兵の動揺を煽るのも戦術のひとつでしょう」
「そういえば、豊前の戦で立花道雪がそんな手を用いたと聞いたな。しかし、他家の雑兵ならばいざ知らず、竜造寺の軍は精兵揃いだ。その程度で動揺したりはせぬ」


 表面上は穏やかに言葉を交わす雲居と百武。
 そんな二人のやりとりに、それまで黙って話に耳を傾けていた江里口信常が呆れ混じりの声を投げかけた。
「おいおい百武、何をのんびりと話し込んでるんだよ」
「そうはいうがな、信常。この者の落ち着きぶりを見るに、何事か企んでいるのは明白だろう。早いうちにそれを明らかにしておかねばまずかろうが」


 賢兼の言葉に、信常は胡乱げな眼差しを雲居に向けた。
「落ち着いている風を装っているだけじゃないのかい? それに、仮に大友が何か仕掛けてきたとしても、あんたのいったとおり、あたしらの陣はそう簡単に破れも乱れもしない。だから何の問題もないさね」
 信常が言うと、円城寺信胤が思慮深い眼差しで雲居を眺めつつ頷いた。
「エリちゃんのいうことはもっともですわね。四路五動という言葉もあります。落ち着いた態度を崩さないことで、常に対応の手を用意していると相手に思わせることは、戦においても交渉においても有効な手段ですわ」


 そう言った後、信胤は一転してまったく逆のことを口にした。
「もっとも、そう思わせておいて実は本当に、という可能性もなきにしもあらずですけれど。そのあたりはいかがなのでしょうか、雲居どの?」
 信胤の問いを聞き、信常は呆れたようにかぶりを振った。
「いやいや、答えが『はい』だろうが『いいえ』だろうが、使者どのがあたしらに素直に言うわけないじゃないか。なあ?」
 おざなりに信常に同意を求められた雲居は、しかし、あっさりとかぶりを振った。
「いえ、お望みであれば申し上げますが?」
「言うのかい!?」
 驚く信常に、雲居はぽりぽりと頬をかきながらうなずいた。
「はい。もう大半は百武どのに指摘されてしまったような気もしますが、細かい点で違いはありますから。とはいえ――」



 そう言ってから雲居は頬をかく手を止めた。
 そして、何気ない様子で一同を見渡すと――
「どのみち、もうじき皆様のお耳にも達するでしょうから、あえてそれがしが語るまでもないとは存じますがね」
 口元に剃刀のように薄く、鋭い笑みを浮かべながら、そう口にしたのである。






 信常が雲居の言葉の意味を問いただそうとした、その寸前だった。
 不意に天幕の外から時ならぬざわめきが伝わってきた。
 はじめ、竜造寺軍の諸将はその騒ぎを兵同士の諍いだと考えた。
 昼間の激戦の昂ぶりが静まっていない者もいようし、岩屋城攻めを明朝に控えて浮き立つ者も多いことだろう。そんな兵たちが何百、何千と同じ場所で陣を構えているのだ。些細なことで騒ぎが起きても不思議ではない。


 木下昌直があきれたようにかぶりを振った。
「たく、やかましい奴らっすね。竜造寺の家臣ならもっと落ち着けってんだ」
「お前が言うな――兵の皆さん、きっと口をそろえてそう言いますわよ、木下さん」
「……今、明らかにあんた自身がそう思ってたろ、胤?」
「あらあら、さすがエリちゃん、鋭いですわ」
「形だけでいいから否定してくださいよ、胤さん!?」


 四天王たちはそんな言葉を交わしあう。雲居を前にして動揺を見せるわけにはいかなかったし、それほど大したことは起きていないだろう、という予断もあった。
 今しがた百武賢兼が言明したように、竜造寺軍は内外の夜襲への備えはしっかりと整えてある。城内の敵が打って出た、あるいは包囲陣の外から敵が奇襲してきたのであれば、ただちに敵襲の鐘が鳴らされ、報告の使者が本陣に飛び込んでくるはず。それがないということは、つまりこの騒ぎは敵襲によるものではないということだ、と彼らは考えたのである。


 事実、この時、竜造寺軍に襲い掛かった軍勢は存在しなかった。
 しかし、騒擾はいつまで経っても止まず、天幕の中にいる者たちも事態が尋常ならざるものであることに気づき始める。
「……妙だな。誰ぞ、様子を見てまいれ」
 成松信勝が本陣付きの兵士たちに命じると、百武賢兼が腰の大刀に手をかけながらそれを制した。
「いや、俺が直接行こう。成松は本陣の備えを固めてくれ。襲撃とは思えんし、仮に襲撃だったとしても敵がここまで入り込んでくるとは思えんが、一応な」
 賢兼がそう口にすると、信勝は雲居を一瞥してから首を縦に振った。


 信勝が頷くと、天幕の入り口を塞いでいた昌直が威勢よく声をあげる。
「おし、じゃあ俺も百武の旦那と一緒に行くぜ。兵どもをびしっとシメてきてやる」
 普段であれば、そんな昌直に一言釘を刺す円城寺信胤であるが、この時は真剣な顔でうなずくだけにとどめた。
「それでは外はお二人に、本陣は軍師どのと成松さんにお任せするとして、わたくしたちは自分の隊を掌握しておきましょうか、エリちゃん」
「だな。どうもただごとじゃなさそうだ。よろしいですか、殿?」
「おう、かまわんぞ。どこの道化が紛れ込んできたのかしらぬが、見つけ次第返り討ちにしてやれい」
「は、承知仕りました」
「かしこまりましたわ」
 江里口、円城寺の両将がそろって頭を下げ、踵を返そうとする。





 陣幕を突き破るようにして、ひとりの兵士が本陣に駆け込んできたのはその時だった。
「も、申し上げます! 一大事でございますッ!」
「落ち着け。まずは何事が起きたのか、報告せよ」
 青ざめた顔で声を張り上げる兵士を諭したのは成松信勝である。信勝の低い声音に込められた威厳で平静を取り戻したのか、その兵士は慌てて膝をつくと、驚きさめやらぬ声で報告を行った。


「報告いたします! 城から火の手があがりましたッ!」


 ざわり、と天幕内に無音の衝撃が走った。
「……む」
 信勝の眉間にしわが寄る。
 城に異変が起きた、という報告は予測していなかったわけではない。何か予期せぬことが起こったのだとすれば、その場所は陣中でなければ城内だろうと考えていた。
 ただ、火の手があがったとはどういうことか。
 竜造寺軍の誰かが抜け駆けして城に攻め込んだのか。あるいは城将である高橋紹運が、死中に活を見出すために城を捨てる決断を下したのか。


 咄嗟に考えつくことはその二つくらいだが、しかし、いずれも現実になる可能性は極めて低い。
 竜造寺軍は軍令によらない出撃を厳に戒めており、たとえ抜け駆けで功を立てたとしても、行き着く先は軍令違反による斬首のみである。
 城方の兵にせよ、この戦況で打って出たところで、押し包んで討ち取られるだけだということは理解しているだろう。あの高橋紹運がこの期に及んで自暴自棄に陥ったとも思えない。そもそも逃亡するにせよ、奇襲をするにせよ、城に火を放てばこちらを警戒させるだけであり、大友軍にとって何の益もないのである。


 考え付く可能性は、いずれも実現性を欠くものばかり。しかし、実際に火の手があがった以上、何かが起きたことは間違いない。
 あるいは、と信勝は雲居に視線を向ける。
 さきほど雲居が口にしていた言葉が思い出された。もしや、これまでの交渉はすべて雲居の時間稼ぎであり、裏ではひそかに大友兵が城に潜入しようとしていたのか。城からあがったという火の手は雲居の策略の一環なのかもしれない。


 その信勝の思案は他の諸将とそれとほぼ重なっていた。
 だからこそ、彼らは兵士の次の言葉に驚きを隠すことができなかった。
「ち、違うのです、岩屋城ではありません。燃えているのは、宝満城ですッ!」
「なにッ!?」
 驚きの声をあげる諸将に対し、その兵士は必死の面持ちで説明した。
 宝満城は宝満山の頂に位置する。
 竜造寺軍は宝満城に対する警戒も怠っておらず、そちらに布陣していた将兵はすぐに山頂の異変に気がついたという。
 はじめは毛利軍の失火かと思われたのだが、火の手はいつまで経ってもおさまらず、それどころか、頂きから麓へとふきつけてくる風に乗って鬨の声らしきものも聞こえてきた。
 どう考えても失火の類ではない。何者かが攻め込んだのか、あるいは謀反が起きたのか、いずれにせよ城内で刀槍の騒ぎが起きていることは間違いない、と兵士はいう。



 兵士の声にはまだ少しばかり動揺が残っていたが、言葉に詰まることはなく、起きたことを起きたままに報告しているといった様子だった。
 そのことを四天王たちは悟ったが、しかし兵士の報告が事実だとすれば、いったいどこの誰が宝満城に襲い掛かったというのか。
 当然、竜造寺軍ではない。高橋鑑種が毛利家に叛旗を翻したのだとしても、自分の城に火を放つ意味はないから、ありえるとすれば毛利家が鑑種の忠誠を疑い、彼の排除を目論んで攻め込んだ、というあたりだろう。今後、毛利家が筑前を統治するにあたり、大友時代から宝満城を領有する高橋鑑種の存在は邪魔になりえるものだった。


 とはいえ、立花山城さえ陥落していない今この時期に、あの毛利家があえて内輪もめを起こすかと問われれば、答えは否というしかない。ここで高橋鑑種を切れば、今後の九国経略にも影響が及ぶ。利用されただけで捨てられるとわかって、なお毛利に従う国人などいるはずもないのだから。
 であれば、事はもっと単純だと考えるべきである。
 内実はどうあれ、宝満城は毛利家の有。そして、今現在、九国の地で毛利家と矛を交えている勢力はただ一つである。


 天幕内の諸将の視線が、その人物――雲居筑前に集中した。


「……今しがた、おぬしが口にしていたのはこのことか」
 信勝がゆっくりと、静かに問いを向けた。四天王筆頭はいまだ座ったままであるが、必要とあらば一足飛びに飛びかかり、雲居を一刀に下に斬り伏せることもできるだろう。
 それに気づいているであろう雲居は、しかし、口元に先ほどとかわらない薄い笑みを浮かべたまま、からかうような口調で応じた。
「違います――そう申し上げれば信じていただけますか?」



 使者として本陣を訪れてからこれまで、雲居は竜造寺の君臣に対して最低限の礼儀は払っていた。挑発じみた言動をした際もそれは同様である。
 だが、今の雲居は半ば公然と戦意をあらわにしている。
 そんな雲居の態度を見て、これまでやりとりを配下に任せてきた隆信が再び口を開いた。
「……ふん。それが本音か。色々とことごとしく申し立てておったが、すべては策のうち、というわけか」
 それを聞いた雲居は心外だとばかりにかぶりを振った。
「これはしたり。それがしは事実のみを――いえ、まあ多少は誇張を織り交ぜはしましたが、基本的には事実のみを口にして参りました。大友家が窮地を乗り越えるための最善の手は、竜造寺家と和し、もって毛利家を退けること。この考えに偽りはございません。それは貴家にとっても決して損にはならないことと存じます」
「ぬかしおる。では、この騒ぎをどう説明するのだ。大方、わしの兵を装って宝満城に攻め込み、わしらと毛利の盟約を裂こうという魂胆であろうが」
「確かに、そうしようかと考えたことは否定いたしません」


 疑念に満ちた隆信に向けて、雲居はその疑念を肯定するように、臆面もなく言い放つ。
 だが、よくよく聞けば、その言は謀略の存在を否定していることに気づくだろう。
 実際、隆信は気がつき、いぶかしげな顔を雲居に向けた。
「考えたことは否定せぬ、か。考えはしたがその手はとらなかった、とそう聞こえるの」
「御意。正確には『とらなかった』ではなく『とれなかった』なので、あまりえらそうなことは申し上げられないのですが。先ほど百武どのが仰っていたように、今、それがしが筑前で動かせる兵は百をわずかに越す程度。その程度の兵では、たとえ貴家の兵に扮して宝満城に攻めかかったとしても、毛利家を欺くことはできないでしょう」


 竜造寺軍の本隊二万が岩屋城を包囲して動かない状況で、百やそこらの手勢で宝満城に攻めかかり、我らは竜造寺軍なりと声高に主張したところで説得力はない。その襲撃が両家の仲を裂く大友家の謀略であることは、童子でも見抜くことができるだろう。
 だから竜造寺軍に扮して宝満城を襲うことは諦めた、と雲居は言う。
 しかし、現実に雲居は宝満城に兵を差し向けている。その言葉を信じるならば、百をわずかに越す程度の兵で。
 その目的は何なのか。


「――まさか本気で宝満城を奪うことができると考えているわけではなかろうな?」
 眉をひそめた百武賢兼の問いかけに、雲居はいっそ軽やかと形容できそうな口調で応じた。
「それも不可能ではないでしょう。なにしろこちらは剣聖二人に愛娘まで投入しているのです。城をよく知る者も、山野に慣れた者もいる。城内の兵に、敵が来るはずがないとの油断がわずかでもあれば、宝満城の奪還は絵空事ではなくなります」
 雲居はそこで言葉を切ると、おどけるように肩をすくめた。
「もっとも、敵の油断を前提に城を攻めるなど愚の骨頂。ゆえに、兵たちにはそこまで求めてはおりません」


 そこまでの無茶を強いたら何を言われることやら、とひとり戦々恐々とする雲居。
 そんな雲居の姿に、賢兼は困惑を隠せない。
「……剣聖とは大きく出たな。それに、おぬしは娘がいる齢にはとうてい見えぬが――」
 眉間にしわを刻みつつ、賢兼は更に問いを重ねた。
「愛娘というからには、攻め手の中にはおぬしに近しい者もおるのだろう。身内を危険にさらしてまで、この無謀な攻撃に踏み切った理由は何なのだ?」




 百武賢兼は雲居に問いを向けたものの、相手から返事が返ってくるとは思っていなかった。
 だが、予想に反して雲居はあっさりと答えを口にした。
 簡潔にただ一言。
 狼煙(のろし)、と。




「……なに?」
 二重の意味で予期せぬ言葉に戸惑う賢兼に向けて、雲居は淡々と告げた。
「狼煙、と申し上げました。今宵、空に雲はなく、星は明らかにして風はさやかに木々を揺らすのみ。宝満城よりのぼる火の手は、冬の夜空に隠れなく浮かびあがる、とそれがしは考えたのです。実際、今こうして貴家の兵は城より立ち上る火の手を見て騒ぎ立てております」
 そう言ってから、雲居は次のように付け加えた。
「当然、岩屋城に立てこもっている将兵の目にも、宝満城の異変は映っていることでしょう」


 ――実のところ、岩屋城の本丸は山の南面中腹に位置しており、立地的に宝満城を見ることができない。山頂か、あるいは裏手にある砦のいずれかが健在であればともかく、もしも竜造寺軍がそれらの砦を攻略していた場合、今の雲居の言葉は一笑に付されていただろう。
 だが、雲居にとっては幸いなことに、岩屋城の守備兵は本丸とともに山頂付近の砦をひとつ確保していた。、
 竜造寺家の諸将が一斉に床几から腰を浮かしたことで、雲居はそのことを察し、内心でひそかに胸をなでおろしたのである。


 竜造寺側はそんなこととは知らない。仮に知ったとしても、今となってはどうでもいいことだと割り切っただろう。
 彼らは雲居の目論見に思い至ったのである。
 賢兼がうなり声をあげた。
「狼煙……岩屋城に変事を知らせるための狼煙か! ただ遠方から狼煙を上げるだけでは城内に援兵の到着は伝えられぬ。城にたてこもる兵の目に触れるかどうかも定かではない。だが、宝満城に異変が生じれば――」
「さよう」
 賢兼の言葉に、雲居はえたりとばかりにうなずいた。
「現在の戦況にあって宝満城に手を出せる第三勢力は存在しません。ゆえに、宝満城より火の手があがったとすれば、それは大友軍が奪還の兵を差し向けたからに他ならないのです。紹運であれば必ずやそのことに思い至り、援軍の到来を知った城兵は気力を取り戻すでしょう。それがしが城内に入る必要なぞないのです。ただ一条の烽火をもって、岩屋城は再生する」


 雲居は床几に腰を下ろしたまま、さらに続けた。
「もうおわかりかと存じますが、それがしは兵たちにこう命じました。『城を落とす必要はない。岩屋城にそれとわかるくらい派手に火を放て』と。正直なところ、これだとて相当に無茶な命令だったのですが……成し遂げてくれてよかった。これで火付けに失敗していたら、それがしはとんだ道化になるところでした」
 そういって雲居はくすくすと声をたてて笑った。
 対照的に、竜造寺家の君臣は口を引き結んで一言も発しない。雲居を見る彼らの目には、とある疑念があらわになっていた。



 してやられた、という思いがないわけではない。
 だが、諸将の胸中にきざした疑念は、そういった感情に根ざしたものではなかった。
 そもそも、竜造寺にとっては宝満城が焼けようが落ちようが痛くもかゆくもない。それどころか、いっそ大友家が落としてくれた方が都合が良いとさえいえた。
 何故といって、大友家が奪った城を竜造寺家が奪い返したのであれば、城は竜造寺家の有となるからだ。無策に城を奪われた毛利家に城を返還してやる義務はない。
 彼我の力関係から後々返還を強いられることもありえるが、たとえそうなったとしても相応の代償を求めることができるだろう。


 また、宝満城の異変を見た岩屋城の将兵が抗戦の気力を回復させてしまえば、それはたしかに竜造寺軍にとって厄介なことだが、たとえそうなったとしても今日までの戦いが無に帰すわけではない。戦死した城兵がよみがえったわけではないし、攻め落とした拠点が奪い返されたわけでもない。城兵の半ば以上は戦死し、残された拠点は本丸と山頂の砦ひとつのみ。その現実はかわっていないのである。
 疲労や空腹はある程度気力で補えるとしても、高橋紹運もその配下も人の子である以上、限界は厳然として存在する。宝満城の異変を知った城兵がどれだけ奮起しようとも、稼げる時間は精々が一日か、あるいは二日か、その程度に過ぎない。
 その間、筑後の道雪に肥前を荒らされるのはまずいが、はじめに隆信が指摘していたように、筑後の大友軍は多くても一万を越えることはないと推測できる。こちらも挽回不可能な痛手にまではいたるまい。


 つまるところ、雲居の策――岩屋城を取り囲む竜造寺軍ではなく、宝満城を突くことで戦況を優位に運ぶ――が奏功したのは事実だが、それは竜造寺家にとってまだまだ許容できる範囲内の失策である、ということだった。少なくとも、これで大友家と講和せざるを得なくなった、などということは絶対にない。
 ゆえに、問題はそこにはなく。
 諸将の疑念の源は、雲居の言行不一致に求められた。




 雲居は言った。
 竜造寺家と大友家が争えば毛利に漁夫の利をさらわれる。それを避けるためには両家が矛をおさめる必要がある、と。
 そう主張していた雲居が、あたかも竜造寺家との戦いに備えるように宝満城に兵を差し向けた事実は、竜造寺家が彼に不審を抱くのに十分すぎる理由であろう。


 あるいは、雲居はみずからの身命をおとりに使ったのだろうか。単身、竜造寺軍に乗り込んで偽の情報を与えて混乱させ、その間に宝満城に兵を動かすことで少しでも作戦全体の成功率をあげようと謀ったのか。そう考えれば、雲居の言動にある程度の一貫性は見出せる。
 ただ、そうして得られた結果が戦況を動かすには程遠いものであることは前述したとおりである。
 それがわかっていないのであれば、雲居筑前という人物はとるにたりない愚将に過ぎない。
 だが、わかっていてやったのであれば――



「あなたは何の為にここにお越しになったのですか、雲居筑前どの」
 これ以上ないほど率直に、鍋島直茂は問いかける。
 それに対する雲居の答えはすこしばかり奇妙なものであった。
「先刻、それがしは佩刀を入り口の兵士にあずけて天幕に入ってまいりました」
「? それが、何か?」
 思わず、という感じで首をかしげる直茂に、雲居は短く答えた。
「刀の銘を千鳥と申します。雷切、と申し上げた方がわかりやすいかもしれません」


 雲居がそれを口にした瞬間、天幕内の空気が音をたてて張り詰める。
 千鳥。雷切。
 九国最強ともうたわれる立花道雪が常に佩いているという刀の名である。その名を知らない者はこの場にいない。
 そして、立花道雪の佩刀を雲居筑前が持っていることの意味に気づかない者もまたいなかった。


「……では、あなたは」
「はい。この身は大友家より遣わされた使者であると同時に、此度の合戦において大友軍の軍配を預けられた者でもあります。それがしが心底より竜造寺家との講和を求めているのは事実でございますが、それが貴家にとって受け容れがたいものであることもまた承知しております。一軍の采配を預けられた者として、事ならなかった時のことを考えて動くのは当然のことと存ずる」
 そういうと、雲居はじっと直茂を見据えた。先ほどまで口元に浮かべていた笑みは、すでにどこにもない。


 竜造寺家と講和を結ぶことができれば最善。だが、その最善が成らなかったとき――竜造寺家に講和をはねのけられたとき、何の対策もできていないなどという醜態を晒すわけにはいかない。
 であれば、講和が成ろうが成るまいが立ち行くように差配するのは指揮官として当然のこと。
 そして、講和が拒絶された時に備えるということは、竜造寺との全面対決に備えることと同義である。


 講和を求めて交渉しつつ、その一方で講和が破綻したときに備えて兵を動かす。
 常であれば、この二つの動きは両立しない。敵対の動きを見せる相手と講和を結ぼうとする者がいるはずがないからである。それも、密かに準備する程度ならばともかく、思いっきり兵を動かしているのだから、この状態で講和を結びたいと口にしたところで一笑に付されるだけであろう。
 だが、こと今回にかぎっていえば、この動きは両立する。
 ここで兵を動かした――動かせるという事実が、大友家がいまだ小さからざる戦力を有していることの何よりの証明となるからであった。



「もとより、口先だけで貴家を説き伏せることができるとは考えていませんでした。本気で戦おうとしないかぎり、和することもまたできぬ――それが、それがしの出した結論です。我ながらひねくれた結論ではありますが」
 そういって苦笑した雲居であったが、その苦笑はすぐに拭われた。
 雲居は真剣な表情で続ける。
「我らは決断を下しました。次はあなた方の番でございます。当家と戦うも和するも貴家の随意なれど、一つだけご忠告いたします。戦うならばお覚悟を、和するならばお早めに。宝満城に火の手があがったと同時に早馬が筑後の道雪の下に向かっておりますれば、明朝の肥前侵攻は必ず行われます」


 それは熟慮する時間はないという宣告だった。
 講和の使者というより、宣戦布告の使者の物言いである。気の弱い者であれば、この時、この場では大友家と竜造寺家の立場が逆転したかのような錯覚に襲われたかもしれない。
 むろん、それは錯覚以外の何物でもない。雲居筑前が大友軍の指揮を執っているという事実はなんら戦況を動かすものではなく、竜造寺家が決断を翻すに足る要素はどこにもない。
 ――いや、正確にいえば、大友家が本気で戦いを想定しているとわかったことは、竜造寺家にとって考慮すべき事柄の一つとなりえた。
 雲居が口にしたことがすべて事実であり、大友家が後背の憂いなく竜造寺家と互角――とは言わないまでも、長期にわたって渡り合える状態にあるのであれば、両家が相打ち、毛利家が漁夫の利をさらうという推測が現実味を帯びてくるからである。


 だが、ここで雲居の提言に従って兵を退いても、竜造寺家には得るものが何もない。兵を失い、糧を失い、声価を損なっての帰国など肯えるはずがない――竜造寺の諸将がそんな考えを抱いたときだった。
「――と、これだけですと、講和というより宣戦の使者となってしまいますね。当家の利ばかりをおしつけるのもあつかましい話なれば、一つ、貴家にとっての利も提示したく思います。無手で兵を退けとは申しません」
 雲居はそう言って、竜造寺家の諸将を前に一つの提案を持ち出した。


 それは、竜造寺家が兵を退いてくれれば岩屋城を破却する、というものであった。


「そちらは今日まで占領した城内の拠点すべてに火をつけていただいて結構。こちらも城兵を救出した後、残った拠点をすべて焼き払います。貴家は毛利家との盟約を守って大友家と矛を交え、高橋紹運が立てこもる岩屋城を陥落せしめたのです。その武勲は誰にも否定できませぬ」
「その武勲が当家の利、ということですか。助けたいのは人であって城ではない。そう仰るのですね」
 直茂の言葉に、雲居は小さく頷いた。
 だが、雲居のいう「利」にはまだ続きがあった。


「貴家は盟約を守り、城を落とした。否、落とす寸前まで追い詰めながら、紹運と配下の兵の勇戦を嘉し、彼らの命を惜しんで城から兵を退いたのです。世人はこれを見て隆信さまをなんと評するでしょう。毛利家との盟約を守って大友家の城を攻め破り、一方で敵将の命を惜しんでとどめはささずに兵を退く。世に敵を打ち破る将は数あれど、敵を惜しみ、敵を助ける将がどれだけいることか。それでいて、決して毛利との盟約には背かぬその進退。隆信さまこそ正に名将、士を知る者、廉潔の士であると称えぬ者はおりますまい。それは、ただ城を踏み潰すよりもはるかに優る名声として、今後の貴家の発展に大きく寄与することになると心得ます」




 雲居が言い終えると、直茂は雲居の提案を吟味するように面差しを伏せた。
 ややあって顔をあげた直茂は、その場の誰もが予測していなかった行動に出た。
 絶えずかぶっていた鬼面を取り外したのである。
 あらわになった直茂の素顔を見て雲居は目を丸くする。そんな雲居に向け、直茂は一つの問いを向けた。


「岩屋城の兵は、今日まで文字通り身命をなげうって城を守り続けてきました。その勇戦は敵ながら見事であったと称えざるをえません。その彼らが、自分たちの城に火を放つことを承諾すると考えているのですか?」
 それを聞くや、雲居はすぐに表情を改めた。
 その顔に浮かんだ真摯さは、もしかすると竜造寺家を説いていた時よりも優るかもしれない。


「承諾するか否かでいえば、否でしょう。譜代の重臣たる道雪自身が命令するのならば知らず、それがしのような新参外様、しかも戦が終わってからやってきたような者の命令に従って城を焼くなど、兵たちにとって耐えられるものではありますまい」
「であれば、先にあなたが口にした提案とやらは机上の論ということになりませんか?」
「なりませぬ」


 雲居は直茂の言葉を言下に否定した。
 直前の自身の言葉と明らかに矛盾する否定である。雲居は静かにその理由を説明した。
「兵たちが承諾するか否かでいえば否でしょう。ですが、それがしは兵の承諾を必要とはしません。先にも申し上げました。それがしは、当主宗麟より全権を委ねられた立花道雪から、此度の戦の軍配を預かったのです。貴家が撤兵を承知してくださるのであれば、兵が承諾しようとしまいと城は焼きます」
 雲居はそう断言した後、わずかに表情を緩めて続けた。


「ただ、それはあくまで最後の手段です。納得しない将兵は少なくないでしょうが、彼らを説き伏せることはできると思いますよ」
 竜造寺軍の猛攻にさらされた岩屋城は、すでに城としての態をなしていないだろう。修復するための時間も資材も人手もなく、宝満城が毛利家の手にある以上、保持しておく戦略上の利点もない。
 仮にここで城を保持したとしても、毛利軍とぶつかれば瞬く間に奪われてしまうに違いない。
 どのみち失われるのであれば、ヘタに敵兵の拠点にならないように完全に焼き払ってしまった方が良い。まして、それが結果として竜造寺を説得する切り札になるというのなら、あくまで反対を唱える者はいないだろう。
 そして、すべてが終わった後、この地に新しい城ないし寺院を築き、この戦で散っていったたくさんの将兵のために碑を建立すれば、戦死者たちに報いることができるのではないか。そのあたりは紹運と相談する必要があるだろう。


 雲居はそういった考えのすべてを口にしたわけではなかったが、発した言葉に揺らぎはなく、それは直茂にも確かに伝わっていた。
 直茂は鬼面を手に持ったまま、かすかに口元をほころばせる。直茂の心の秤が、一方へ傾いた瞬間であった。




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第十章 天昇(十二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:75369c5a
Date: 2013/11/23 00:41

 筑前国 岩屋城


 俺と紹運どのが最後に顔を合わせたのは、紹運どのが高橋家の当主に任じられて筑前に赴いた時だったから、もう半年近く前のことになる。
 立花家と高橋家が叛旗を翻した先の筑前争乱以後、高橋家を継いだ紹運どのが双肩に担ってきた責任の重さを俺は想像することしかできない。だが、それが生半可なものでなかったことだけは間違いないだろう。
 それら種々の困難を克服していく過程で武将としての在り方も磨かれていったのか、久方ぶりにあった紹運どのは、これまでにもまして将としての風格が感じられた。以前は、たとえば道雪どのと比べると、あちらの方に一日の長を感じたものだが、今の紹運どのならば義理の姉上と並んでもおさおさ見劣りしないだろうと思われる。


 さすがに疲労の色は隠しおおせていなかったが、逆にいえば、それ以外に目だって気になるところはない。大きな傷を負った様子はなく、心気が衰えた気配もない。
 戦況からして最悪の事態もありえると考えていただけに、紹運どのの健在ぶりを目の当たりにして、俺はひそかに胸をなでおろした。
 それは向こうも同様だったようで、篭城戦の最中にいきなり姿を現した俺の顔をまじまじと見つめた後、紹運どのは安堵したように表情をほころばせた。


「ふふ、どうやら狐狸の類が化けているわけではないようだ。久しいな、雲居どの。元気そうで何より――と、言いたいところなんだが……」
 途中で言葉を切ると、紹運どのはいぶかしげに問いを向けてきた。
「先刻、敵の手に落ちた宝満城から火の手があがったという報告を受けた。さらに城を取り囲む竜造寺軍が慌しく動き始めたという。急ぎ、櫓にのぼって確かめてみれば、確かに竜造寺軍がただならぬ動きを見せている。あるいは夜襲を仕掛けてくるかと思い、兵を持ち場につかせたところ、なんと敵軍が兵を退いていくではないか。いったい何が起きたのかと驚いていると、敵の代わりに雲居どのが姿を見せ、のんびりと『開門願う』と呼びかけてくる。十重二十重、敵に囲まれているはずのこの城で、だ」
 語るほどに紹運どのの眉間のしわが深くなっていく。それでも凛々しさが褪せないところがすごいなあ、などと思いつつ、俺は素直な感想を口にした。


「率直にいって、わけがわかりませんね」
 別にすっとぼけたわけではないのだが、そう聞こえたとしても仕方ないかもしれん。実際、裏面を知らない人間が聞けば、狐か狸に化かされたとしか思えない展開であろう。
 紹運どのは苦笑まじりにうなずいた。
「うん、まったくそのとおりた。そんなわけで、ぜひ説明を願いたい。私たちがこの城に立てこもっている間にいったい何が起きたのか。義姉様からの報せでは、貴殿は誾――こほん、飛騨守どのを立花山城に送りこんだ後、島津を説くために薩摩に赴いたということだったが、その貴殿が何故ここにいるのか。なにより――」
 紹運どのの視線が、俺の腰の刀に向けられる。
「何故に義姉様の刀が貴殿の腰にあるのか。ただならぬことが起きたと推察するが」
 俺は紹運どのの推察を肯定するために首を縦に振った。
「その推察は正しゅうございます。これより説明させていただきますが、ただ、すべてを語るには時が足りませぬゆえ、少しばかり駆け足になることをお許しください」



 そういって、俺は紹運どのが篭城している間に日向以南で起きた出来事を必要最小限の言葉数で伝えていった。
 櫓の上でこれまでの経緯を語りつつ、同時に紹運どのたちがどのように竜造寺軍と渡り合ってきたのかも聞き取っていく。紹運どのと北原鎮久とのやりとりを俺が知ったのはこの時である。ついでに、その後に木下昌直がとった行動も教えてもらった。
 なるほど、俺が竜造寺に申し出た条件、ずいぶんあっさりと承諾してもらえたと思っていたのだが、こんな伏線があったのか。俺としては、今日まで岩屋城を守り続けてきた紹運どのに対して竜造寺軍も相応の評価をしているはず、という予断で話を進めたのだが、俺が考えていた以上に紹運どのは竜造寺側に高く評価されていたのだろう。


 岩屋城を破却する件についても了承を得ることができた。
 むろんというべきか、紹運どのの顔には苦渋が浮かんでいたが、俺が改めて説くまでもなく、今の戦況でこの城を保持し続けることがどれだけ困難であるのかを紹運どのはよくわかっているのだろう。
 俺はこっそりと安堵の息を吐いた。竜造寺の軍中ではああいったものの、実はこの点が一番心配だったのである。紹運どのの口から兵たちに説いてもらえば、事態はスムーズに進むだろう。
 一番の懸案を片付けた俺は、さらにこの後の展開についても口にした。これは紹運どのの意見を聞くためでもある。




 この後の展開とは要するに対毛利戦である。
 立花山城を包囲する毛利軍をいかにして撃退するかについて、俺には一応の腹案があった。
 最初の狙いは秋月種実が盤踞する古処山城。
 このまま道雪どのと合流し、一気に立花山城の付近まで戦線を押し上げる、という手段がとれれば最善なのだが、今の段階でこれをしてしまうと、秋月勢その他の筑前の国人衆に後背を塞がれてしまう。
 宝満城、古処山城を敵に奪われ、岩屋城を放棄するわけだから、豊後との補給線を確立することは容易ではない。俺が種実であれば、まず間違いなくここを狙う。それを避けるために筑後を経由するにしても、あの地の国人衆がどう動くかは不分明であるし、秋月らが筑後川を越えないという保証もない。
 毛利の本隊だけでも手に余るというのに、後方を秋月らに撹乱されてしまえば勝機は皆無に等しかった。


 とつおいつ考えるに、やはり毛利と戦う前に古処山城の秋月種実を排除する必要がある。
 そのためにはどうするべきか――を考える前に、もう一つ気にかけておかねばならないことがあった。肥前に退いた竜造寺の存在である。
 竜造寺は岩屋城から兵を退くことは承知したが、島津のように正式に大友と講和を結んだわけではなく、また毛利と断交したわけでもない。
 おそらく肥前で兵をととのえつつ、日野江の情勢や、俺が口にした南蛮の情報の真偽を確かめてから今後の動きを決するつもりだろう。当然、再び矛先を大友に向けてくる可能性もある。


 筑前がほぼ毛利に牛耳られてしまった今、竜造寺が兵を向ける先は筑後になるだろう。
 このため、立花道雪、蒲池鑑盛の両将を同時に対毛利戦に投入することは不可能となる。少なくとも、いずれか一名だけは筑後を守ってもらわねばならず、それには長年筑後を守り続けてきた鑑盛が適任だろう。
 しかし、である。
 鑑盛ひとりだけで竜造寺に対抗することができるのか。もちろん武将としての鑑盛の能力に問題はないのだが、謀略という点で考えると一抹の不安が残る。道雪どのが筑後を去れば、今のところ大人しくしている反大友の国人衆たちがまたぞろ動き出す恐れがある。直茂あたりは間違いなく彼らを使嗾するだろう。
 そういった動きに対応するには鑑盛ひとりでは手が足りないのではないか。かといって、毛利との戦いに道雪どの抜きとかありえない。
 となると、必然的に打てる手は限られてくるのである。



「――ふむ、我らを筑後へ、か」
 俺の話を聞き終えた紹運どのはわずかに眉根を寄せ、考え込むように腕を組んだ。
「義姉様の代わりに筑後の押さえとなる、ということだな」
「はい」
 死闘を繰り広げて間もない高橋勢に対し、休む暇も与えず前線に行ってほしいと頼む――というか命じる。
 鬼畜、外道と罵られても仕方ない所業である。
 が、俺の中にはある確信が存在した。


 当面の間、竜造寺軍は動かない。否、動けない。
 竜造寺軍がこの城で受けた傷は決して浅くない。日野江や南蛮の情報は一朝一夕に掴めるものではない。島津軍の動きから推測するにしても、全体の構図を把握するにはかなりの時を要するはずだ。
 また、この戦いを経て、彼らの心理にも変化は起きているだろう。
 表向き、竜造寺軍は勝者として兵を退くわけだが、それが最初から企図していたものでないことは確かである。そのことを誰より承知しているのは、隆信ら竜造寺の中枢であろう。ヘタに筑後に踏み込んだ挙句、岩屋城の二の舞を演じることになれば、それは武門たる彼らにとって最悪といってよい。
 ゆえに、竜造寺が動くとしたら、今度こそ間違いなく勝てる――文字通り必勝の態勢を整えてから、ということになる。


「それだけの用意が整うまでには相当の時間がかかるでしょう」
「その間、我らは筑後で疲れた身体を休めることができる、というわけだな」
 俺の言葉にうなずいた後、紹運どのはひとつの懸念を口にした。
「しかし、それは謀略の実行を妨げる理由にはならないだろう。竜造寺の軍師が筑後を荒らす危険は残ったままではないだろうか」
「仰るとおり――と申し上げたいところなのですが、さて、筑後の国人衆の中に、竜造寺軍二万を退けた勇将とまともに渡り合おうという豪の者が幾人おりますか」
「なに?」
 しれっと言い放つ俺に、紹運どのは困惑交じりの声をあげた。


 竜造寺が兵を退いたのは、これ以上大友と戦い続ければ、たとえ勝利したとしても行き詰る可能性が高いと判断したからである。
 とはいえ、それはあくまで可能性の話であり、決断を下す理由としては少し弱い。だから俺は城の破却のほかにもうひとつ、名声について言及した。「ここで敵将(紹運どの)に情けをかけて兵を退いたという形にしておけば、士を知る者として声価を高めることができますよ」と。
 その言葉に嘘はない。ないのだが、別にその評判を広げる手伝いまで申し出たわけではないのである。


 つまり。
 竜造寺は情けをかけて兵を退いたわけではなく、そうせざるを得ないところに追い詰められたこと。
 岩屋城の戦いは、二万の敵軍に抗い続け、味方の勝機を手繰り寄せた紹運どのの戦略的勝利であったこと。
 このふたつに関して、口を閉ざさなければならない理由は俺にはない。
 さすがに大声でこれを触れまわれば二枚舌だと非難されても仕方ないが、味方に対して事実を誠実に報告する分には何の問題もないだろう。


「筑後は大友の領国。当然、その地の国人衆はお味方です。竜造寺が兵を退いた真の理由を伝えたとしても、なんの問題がありましょうや」
「……雲居どのの顔を見ていると、なぜだか前言を撤回したくなってくるな」
「む? 前言とは?」
「『狐狸が化けているわけではないようだ』という、さっきのあれだ。私の目の前には大きな狸がいるように思えてならない」
「この戦が終わったら、宴の席で腹鼓でも打ちましょうか」
 俺はそう言って笑った。戦乱の時代とはいえ教養を重視される場面はいくらでもある。歌って(詩歌)踊れる(舞踊)軍師はそうめずらしくないが、腹鼓をうてる軍師はなかなかいないだろう――そんなのに軍配を預けるとか嫌すぎるな、うん。どのみち、吉継が目をつりあげる様が目に見えるので、実現は難しいだろうけれども。
 


◆◆



「さて、腹鼓の件は後の楽しみにとっておくとして――」
 腹鼓を打つ俺の姿を想像していたのか、くすくすと笑っていた紹運どのは、そう言って表情を切り替えた。
「雲居どのの考え、おおよそのところは承知した。しかし、竜造寺に備える以上、筑後の兵の大半はあちらに残しておかねばなるまい。そうなると、義姉様が率いることができる兵は千か、多くても二千を出ることはないということになる。必然的に、古処山攻めの主力は豊後からの援軍ということになるのだが……」


 わずかにためらった末、紹運どのはおそらく最も気にかかっていたであろう事を訊ねてきた。
「先ほどの雲居どのの話を聞けば、援軍は宗麟さま御自ら率いられるとのことだった。そこのところは、その、どうなっているのだろう?」
 めずらしくはきつかない物言いをする紹運どのだったが、言わんとするところは十分に伝わった。
 先ほどの話の中でも、俺はそのあたりは意図的に飛ばした。ことさらもったいぶったわけではなく、口で説明しても宗麟さまの変化の半分も伝わらんだろう、と思ったからである。
 なにしろ、あの道雪どのが目と口で三つの○を形作った事態である。どう説明したらよいものやら。


 考えた末に、なるべく客観的に事実だけを伝えることにした。
「一言でいえば、お召し物が和服に変わりました」
「………………なんといった?」
 ぽかんとする紹運どの。その様子に、あの時の道雪どのの表情を重ねつつ、俺はもう一度繰り返した。
「宗麟さまのお召し物が和服に変わりました」
 南蛮神教の修道服から、道雪どのたちが普段着ているような和装になったのである。
 道雪どのに聞いたところによると、宗麟さまは南蛮神教を奉じてからこちら、ずっとあの修道服の装いを続けていたらしいので、家臣たちが宗麟さまの和服姿を見たのは実に十年ぶりくらいになるそうな。


 この主君のあまりにも唐突な変化に、ムジカの大友家中は一時的に大混乱に陥った。本来はそれをしずめるべき道雪どのも微妙にあたふたしていたので、もしあの時にどこかから敵軍が攻めて来ていたら大変なことになっていたかもしれない。
「……それは、その、親次どののことが原因で、ということなのか?」
 迷いつつも問いを重ねる紹運どのにうなずいてみせる。
「それも理由のひとつ、と仰っていました。他にもルイス――これは俺の知己である南蛮の少年なのですけど、そのルイスとも話をして、思うところがあったとのことで」


 親次の件で思い悩んでいたところ、たまさかルイスと出会った宗麟さまは、ルイスがかつて尊敬していた宣教師の弟子であることを知った。
 二人は色々と語り合ったとのことで、その時にルイスはこんなことを言ったらしい。
 相手に信じてもらいたいのなら、信じてもらえるように努力しなければならない。それは決してたやすいことではないが、理解を望む側が望まれる側より多く努めるのは当然のことである、と。


「正確にはルイスではなく、トーレスという師の教えらしいですが」
 それを聞いた紹運どのは、何かを思い起こすように目を細める。
「……トーレス。そうか、たしか菊姉さまが慕っておられた方がそんなお名前だったな。私も何度か姉さまと共にお話を聞かせていただいた」
 姉さまほどには感銘を受けなかったが、と紹運どのは小さく肩をすくめた。病弱な姉の代わりを務めんと文武に励んでいた幼い紹運どのにとって、南蛮神教の教えはさして興味を引くものではなかったのだろう。
 紹運どのは嘆息した。
「そうか……南蛮人の中にもそのように考える御仁がおられたのだな。いつからか、南蛮人、とくに宣教師というのは、皆があの布教長のような者ばかりと思うようになっていた」
「実際、ルイスやルイスの師のような人物はあちらでもめずらしい方々なのだと思います。薩摩のコエリョとやらも布教長の似姿であったようですし」
 コエリョとカブラエルは敵対的な関係にあったそうだが、話を聞いたかぎり、実態は大同小異というところだろう。


 ともあれ、今回の戦いで南蛮やカブラエルの本心を知った宗麟さまは、ルイスとの邂逅を経て他者に信じてもらえる努力をし始めたのだ、と俺は解釈していた。
 もちろん、実際にはもっと複雑な心理的事情があったのだろう。ルイスとの会話はきっかけに過ぎず、それに先立つ多くの出来事があってこその変化だと思う。
 しかし、二階崩れの変以後のことを人づてに聞いただけの俺ではそこまで洞察できない。俺にわかったのは、宗麟さまが変わろうとしていることだけであり――それがわかっただけで十分であった。
「ルイスが当然のようにわきまえていることをわきまえていなかった。それが結果として今日の事態を招いてしまった、と痛感なさったのだと思います」
「南蛮神教と袂を分かったというわけではないのだな?」
「服装を改めたといっても、それは当主として働いている間だけのことで、礼拝の時間などはこれまでどおり修道服を身につけて過ごしておられると聞きました」


 それを聞いた紹運どのは、ほぅっと息を吐いた。
「――ご自身の信仰はそのままに。されど教えを広めるやり方は改めた、ということか」
「おそらく」
 俺が望んでいたように、自身の信仰と当主の責務を明確に区別した、というわけではない。 皮肉な見方をすれば、カブラエルに向けられていた依存がルイスとその師であるトーレスに移っただけともいえる。
 しかしながら、当主として他者への強制を改めた、という一事だけでも特筆に値する変化だった。今の宗麟さまは国としての南蛮に警戒心も抱いているわけだから、ムジカ建設の愚行を繰り返すこともないだろう。
 大きな一歩、と形容するのはややためらわれる。だが、どれだけわずかな歩みであろうとも、これが大友家にとって前進であることだけは間違いない、と俺は思うのだ。



「まあ、すべてはこの戦いを切り抜けてからの話なんですけどね」
 ここで大友家が滅びたらこれからも何もあったものではない。
 俺の言葉に紹運どのは大きくうなずき、表情を武将としてのそれに切り替えた。
「そのとおりだな。聞くべきことは聞いた。早急に城を離れる準備にとりかかろう」
「お願いいたします。そろそろ竜造寺が占領した拠点に火を放つ頃合でしょう。宝満城に差し向けた者たちも、それを見てこちらにやってくるはずです」


 今、宝満城を攻めている将の名を挙げると、大谷吉継、丸目長恵、上泉秀綱、問註所統景、尾山鑑速ということになる。
 名前だけを見れば数千の軍勢でも指揮できそうな面子だが、実際に率いている兵は百数十。この寡兵で城に火を放てたのは流石だが、宝満城を守るのは高橋鑑種――長らく筑前を守ってきた歴戦の武将であり、いつまでも殴られっぱなしということはないだろう。
 戦う時間が長引けば長引くほどに、こちらの兵力が少ないことに気づかれる可能性は高くなる。だから、吉継たちには頃合を見て引き上げるようにと命じていた。竜造寺軍が兵を退いたことを知ればこちらにやってくるだろう。


 吉継たちと合流した後は、なるべく速やかに南に移動して筑後川を渡り、そこで道雪どのと合流する。その旨は竜造寺との交渉を終えた後で道雪どのに出した早馬で伝えておいた。
 合流場所を筑前にしなかったのは、高橋鑑種や秋月種実に捕捉される危険を慮ってのことである。襲撃を受けたばかりの鑑種や、古処山にいる種実がそこまで素早く動けるとは思えなかったが、油断は禁物。拠るべき城もなく、戦いつかれた少数の兵で新たな敵と戦えば全滅の恐れもあった。
 その後、紹運どのをはじめとした岩屋城で戦った将兵は柳河城に入ってもらい、俺たちは道雪どのと共に古処山城を攻める。
 古処山の攻略方法は豊後の募兵状況によってかわってくるので、今のところは据え置いておこう――この時、俺はそんな風に考えていた。もちろん、募兵がうまくいった時といかなかった時、それぞれについて概略を固めた上でのことである。



 だが、しかし。
 それらの計画はその日のうちに大幅な修正を余儀なくされる。
 なんと、宝満城を攻めていた吉継たちが、城を陥落させてしまったのである。




◆◆



「ご自分で命じておいて『陥落させてしまった』というのはおかしな話ではありませんか、お義父さま?」
「いや、まったくそのとおりなんだが、うん、偽らざる真情というやつでな」
 宝満城から報告にやって来た吉継を前に、俺は困じ果てていた。
 何の自慢にもならないが、突然の凶報というやつに関して俺はある程度耐性ができている。とつぜん竜造寺軍が矛をさかしまにして襲い掛かってきた、あるいは立花山城を攻めている毛利軍がいきなり姿を見せた、といわれてもここまで驚きはしなかっただろう。
 対処できたか、と問われると口を噤まざるをえないが、むやみに慌てふためいたりはしなかったと断言できる。


 一方で、予期せぬ吉報にどう対処するべきか、なんてまったくわからんかった。
 というか、どうやって百をわずかに越す兵力で城を落としたんだ、君たちは。高橋家の方々が普通に絶句しているんですけど。
 吉継が姿を見せたのは、俺と紹運どのが場所を軍議の間に移し、主だった武将たちを集め、これからの方針を説明しようとした、まさにその時だった。
 一同を前にした吉継は、淡々とした調子で城を陥落させた経緯を口にしていく。


「はじめは、お義父さまのご命令どおり、城に火を放って退却しようとしたのですが――」
 城攻めの兵力の内訳は、百が問註所の兵で、残りは宝満城から落ち延びた尾山鑑速の手勢である。
 当然、地形や城のつくりに関しての情報は豊富にある。宝満城は堅城ではあるが、毛利軍に攻め落とされて間もないこともあり、間隙を縫って火を放つことは十分に可能である、と俺たちは判断した。
 その判断に間違いはなく、寄せ手は城に火を放つことに成功した。だが、さあ兵を退こうという段階になって、吉継たちは一様に首を傾げたのだという。


「あまりに敵が脆すぎたのです。ほとんど抗戦らしい抗戦もせずに逃げ惑うばかりで、同士討ちさえ起こっていました」
 戦乱から遠ざかっていた辺境の城に奇襲を仕掛けたわけではない。宝満城のすぐ近くでは連日連夜、大友と竜造寺が合戦を繰り広げており、それを目の当たりにしていた毛利軍が気を抜いていたはずはない。
 いかに奇襲を食らったとはいえ、あまりに手ごたえがなさすぎる。
 罠ではないか、という疑いが芽生えるのは当然のことであった。


 ヘタに欲を出して踏み込めば殲滅される恐れがある。ここは予定どおり退却するべきである、と吉継は主張し、種速や統景も同意してくれたらしい。
 ところが、である。
「……長恵どのが仰るのです。罠の匂いはない。これは千載一遇の好機です、と」
 溜息まじりの吉継の言葉に、俺は何故だかその先の展開が予測できてしまった。
「……『罠があるかどうか、自分が踏み込んで確かめてみますので、姫さまたちは少しばかりここで待っていてください』とか、そんな感じか」
「一言一句そのとおりでした。見事なご推察です」
「……お目付け役はどうしてたんだ?」
「ご一緒に踏み込んでいかれました」
「おおう……」
 なんという似た者師弟。ぜんぜん目付け役になってねーです。いや、口に出してそう頼んだわけではないのだけども。
 まあ冷静に考えてみると、昔、関東で数にして五倍の敵部隊をほとんど一人で食い止めた御方なわけだし、機に臨んで変に応じるのは当然のことなのかもしれん。


 吉継はもう一つ溜息を吐いてから、説明を続けた。
「その後のことは、特に語るまでもないかと思います。お二人によって城内の混乱は極まり、過日の戦いで降伏を余儀なくされていた方々も状況を察して蜂起されました。どうやら宝満城を攻めた部隊のほとんどは高橋鑑種どのの手勢であったようで、毛利の精鋭の姿はなく、大半の兵は逃げ去り、残った者も降伏いたしました」
「こちらの被害は?」
「戦死、もしくは戦えないほどの傷を負った者は十二名。それ以外に負傷した者は三十ほどです。返り忠した方々を含めれば、もっと増えますが」
「…………それを考慮にいれても、戦史に残りそうな圧勝だな」
 城攻めした結果としては上出来すぎる。剣聖二人を投入したとはいえ、まさかここまでの戦果を挙げるとは。


 そう思いつつ、しかし、俺は疑問を拭うことができなかった。
 毛利の本隊がいなかったとはいえ、高橋鑑種の手勢とて雑兵ばかりだったわけではないだろう。曲がりなりにも一度は宝満城を落とした敵が、こうもあっさりとやられるというのは解せない。
 その疑問を察したのか、あるいは話の流れにそってのことか、吉継はここで大友軍がこれまで知りえなかった情報を口にした。
「敵将の高橋鑑種どのは城にはおりませんでした。虜囚にした兵によれば、しばらく前に城を離れ、立花山城に向かった由。その後を任されたのが、先の戦で裏切りを働いた北原鎮久なる者でした」


 吉継の口から北原鎮久の名前が出た途端、それまで黙って聞き入っていた高橋家の家臣たちの口から怒りの声があふれ出た。
 敵に寝返り、さらには紹運どのを面と向かって痛罵した人物に対する率直な感情の現れだろう。
 吉継が呆れ混じりに言葉を続ける。もちろん、その感情が向けられた相手は高橋家の家臣たちではない。
「この敵将が、戦の最中になんと酔いつぶれておりまして。城兵の動きが鈍かったのはそのせいでもあったのです。敵将は蜂起した者たちの手で捕らえられ、今は宝満城の一室に監禁しております」
「…………こちらとしては、もっけの幸いというべきか」
 先刻、紹運どのから聞いた話が思い出される。
 意気揚々と降伏勧告にやってきたというのに、紹運どのには言い負かされ、木下昌直には殴り倒され、なんら得るところなく宝満城に送り返された。これまでの進退が進退だけに、ただでさえ他の将兵から向けられる感情は穏やかならざるものがあっただろうに、そこにきて言い訳の余地もない失態である。
 酒に手が伸びるのは自然のこと、というべきなのかもしれないが……


「なんか釈然としないな」
「同意いたします。敵将が切れ者であれば、こうまで事がうまく運ぶことはなかったでしょう。こちらの被害も増えていたはずです。その意味では敵が惰弱であったのは幸運だと考えるべきなのですが、どうせ戦うのならば尊敬できる相手が望ましいとも思ってしまいます」
 吉継の言葉は過不足なく俺の気持ちを言い表していた。島津や竜造寺の面々とやりあった後だけに、なおさら敵の情けなさが際立ってしまう。もちろん、吉継がいったように今の戦況を考えれば願ってもない幸運ではあるのだが。


 まあいい、と俺は軽く頬を叩いて考えを切り替えた。
 済んでしまったことより、これから先のことを考えなければならない。
 以前、道雪どのから聞いたところによれば、高橋鑑種は誾の父である一万田鑑相の実の弟であるとのことだった。
 つまり、誾から見れば鑑種は実の叔父である。鑑種がこの段階で宝満城を空けて立花山城に向かったということは、誾に対して何がしかの働きかけをするつもりであると考えて間違いあるまい。
 毛利に降った鑑種の働きかけが何かと考えれば、それはやはり毛利に降るように、ということ以外にないだろう。降伏勧告か、最後通牒か、いずれにせよ毛利軍が勝利に近づきつつあることは疑いない。
 動かなければならなかった。迅速に、かつ効果的に。


 現時点で宝満城という確固たる拠点を得られたことは、大友軍にとって非常に大きい。これで俺たちはこれまで以上に自由に兵を展開することができ、一方で毛利軍は兵の行動に大きな制限が課せられる。背後の竜造寺に関しても、その行動をある程度は掣肘することができるだろう。古処山城を攻めるに際しても、より効果的に動けるようになった。
 問題があるとすれば、短期間で二度も落ちた宝満城が常の堅牢さを維持できるのかという点だが、そこは実際にこの目で確かめよう。
 俺は頭の中でいくつかの作戦を組み立てながら、その場で立ち上がった。




◆◆◆




 筑前国 立花表 毛利軍本陣


 立花山城に攻め寄せた毛利軍は、その数三万とも四万ともいわれる大軍であった。
 この大軍を率いるのは毛利宗家の跡継ぎである毛利隆元である。が、隆元は元来、陣頭の猛将ではなく、実戦部隊を指揮するのは隆元の妹 吉川元春の役目になっていた。
 その元春が本陣に戻ってきたのは、日が西の彼方に沈んでしばらく経ってからのことである。
 そこで元春はなにやら書き物に集中している隆元を見て、不思議そうに首を傾げることになる。


「姉上」
「…………」
「姉上、元春、ただいま戻りました」
「……………………」
 いくら呼びかけても顔をあげず、熱心に手を動かし続ける姉を見て、元春は小さく嘆息した。
 別段、城の大友軍に不審な動きがあったわけではない。何を書いているのかはしらないが、あえて姉の集中を乱す必要もないか、と思わないでもないのだが、いくら味方の本陣とはいえ、ここも戦場であるのは確かなのだ。完璧な安全などありえない以上、最低限の警戒心は持っていてもらわねばならない。


 元春は軽く咳払いすると、さきほどよりも強めに呼びかけた。
「あ・ね・う・え!」
「ふひゃいッ!? ななな、何事ですか!? って、あれ、元春? いつのまにそこにいたの?」
「今しがた戻ってきたところです。何度かお声をかけたのですが」
「え、ほ、ほんとに? ごめんなさい、全然気づいてなかったよ」
「そうだと思いました。お気になさらず――と申し上げたいところなのですが」
 元春はそこで言葉を切ると、表情を意識的に厳しいものにした。
「大友家も手段を選んでいられる戦況ではないことは承知しているでしょう。本陣の警備には特に気をつけておりますが、姉上ご自身も常に警戒は怠らないようになさってください」
 元春が言うと、隆元は肩を縮めてこくりとうなずいた。
「うん、気をつけます」
「結構です。ところで、ずいぶんと集中なさっていたようですが、何を書いておられたのですか?」


 元春は気になっていたことを問いかける。
 郡山城の義母や傅役には先日手紙を出したばかりだし(元春は筆まめとは到底いえない性質なのだが、隆元にならって自分も書いた。書かされた、ともいう)、別方面に展開している隆景か、あるいは古処山城の種実に戦況報告をかねて文を送るつもりか、と元春は考えたのだが、隆元の答えは元春の予測とは異なっていた。
「ほら、以前、元春が陣中で太平記を書写して、広爺が感心してたことがあったでしょう? だから私もがんばって軍記物語を書写してみようかと思って」
「ほう。して、何を写しておられるのですか?」
 隆元はいざという時は元春さえ顔色ないほどの勇猛さを発揮するが、基本的には文治の人である。太平記をはじめ軍記物語にさしたる関心を抱いてはいなかったはずだ。
 その隆元が何を書写の対象に選んだのか、元春は興味をかきたてられた。


 隆元は待っていましたとばかりに手元の書物に手を伸ばす。
「この前、博多津の島井宗室どのが持ってきてくれた本でね。元春みたいに強い女の人が主役なの。それで、その人が仕えている人がすっごく頭が良くて、でもちょっと格好悪かったりして面白いんだよ!」
「ほう?」
 思い当たる書物がなく、元春は首をひねる。そんな妹を見て、隆元は言葉を付け加えた。
「ああ、元春が知らなくても仕方ないかも。実際に東国であったお話らしくて、まだあんまり出回ってないらしいから。宗室どのも京に行ったときに偶然手に入ったって言ってたよ」
「東国。坂東武者の話ですか」
「位置的に坂東からはちょっと外れているのかな? ええと、題名がね――」


 隆元が件の書物を手にとり、書名を口にしようとする。
 その寸前であった。
「申し上げます! 隆元さま、高橋鑑種さまがお見えですが、いかがいたしましょうか?」
 陣幕の外からかけられた声に反応して、隆元の目に真剣な光がともる。
「高橋どのが? すぐにお通ししてください」
「は、かしこまりましたッ」
 兵の足音が遠ざかっていくのを聞きながら、元春は呟くように言った。
「城中へ入る許可を得るためにお越しになったのでしょうな。よほど戸次飛騨を討たせたくないとみえます」


 当初、毛利軍は敵将を立花道雪だと考えていたのだが、度重なる合戦にただの一度も道雪が姿を見せないことに不審を抱き、情報をかき集めた。結果、捕虜とした敵兵から道雪の不在と、戸次誾の存在を探り出すに至る。
 大友家内部の情報については、かねてより毛利家と気脈を通じる者たちから聞き出しており、高橋鑑種と戸次誾の関係についても承知していた。
「ご令兄の忘れ形見なんだから、高橋どのが気にかけるのは当然だよ」
 隆元の穏やかな言葉に、元春はうなずきで応じる。だが、次に発した声には刃の煌きが存在した。
「はい。ですが、戸次飛騨が意を決するまで、こちらが待たねばならない理由はありますまい。長期の攻囲は兵の士気にも関わってまいります。城の水の手を断って半月あまり、幸いにも雨は一度短く降っただけです。城中の渇きはそろそろ限界に達しているはず」
 兵糧がどれだけ余っていようとも、人は水がなければ生きていけない。
 毛利は領内に幾つもの鉱山を抱えている。元春はそちらから大量の金掘り人夫を動員し、山を削って水の手を断ったのである。
 その後も城攻めの手は緩めず、昼夜を問わずに城へ押し寄せ、火矢を放ち、時にはみずから陣頭に立って猛攻を加えた。


 大友軍はそれらの攻撃をことごとく防いでのけたが、火を消すにも、傷口を洗うにも、米を炊くにも水は必要である。激戦の後はそれだけ水が多く消費され、城兵は日を経るごとに渇きに苦しむことになった。
 総攻撃の機は間もなくであろう、というのが元春の判断であり、それは隆元も了承するところであった。
「――これが最後の機会になるって、高橋どのに伝えないとね」
「御意」
 元春は姉の言葉にうなずいた。
 戸次飛騨が毛利に降るならばそれでよし。抗うならば、それもまたよし。いずれにせよ、大友家を滅ぼすという毛利の征路がかわることはないのだから。
 元春はそんなことを考えながら、姉の傍らで高橋鑑種を待つのだった。




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第十章 天昇(十三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:b07a3ee5
Date: 2013/12/16 23:07

 筑前国 立花山城


 立花山城。
 およそ筑前に野心を抱く大名であれば誰もが欲して止まないこの要衝は、その名が示すとおり筑前は立花山に築かれていた。
 立花山は大小七つの峰から成り、防衛の要となるのはその中の三峰――井楼山、松尾山、白岳である。城の堅牢さは、筑前はおろか九国全土を見渡しても屈指の域に達しており、先年、立花鑑載が大友家に叛旗を翻した際、彼がこの城に拠って最後まで抵抗を続けていれば、乱の鎮圧にはさらに一月以上の時間を要したであろう。


 だが、鑑載は事やぶれたりと判断するや潔く腹を切り、立花山城はほぼ無傷で大友軍の手に渡った。
 鑑載の死後に立花家を継いだ道雪は、前の城主と同様にこの城を根拠地として筑前の支配を推し進めたが、城の防備にはほとんど手を加えなかった。あえて手を加える必要なし、と判断したのである。
 立花道雪の配下にあって双璧と謳われる小野鎮幸と由布惟信の両名も主の判断を諒とした。
 当時、鎮幸は考えていた。この城であれば、毛利なり竜造寺なりが一万――否、二万の大軍を率いて攻めて来たとしてもビクともしまい、と。



 だが、現実を見れば、立花山城はわずか一月足らずで陥落の危機に瀕している。
 城の堅牢さに対する鎮幸の見立てに間違いはなかった。間違っていたのは寄せてくる敵軍の規模の見積もり。
 まさか毛利軍が五万近い大軍を動員してくるとは、さすがに鎮幸も予想できなかったのである。


 毛利隆元、吉川元春、小早川隆景らに率いられた四万五千の大軍は関門海峡を渡ると門司城に入城。隆景率いる水軍一万を豊前南部の攻略および豊後の牽制にあてると、それ以外の軍勢のすべてを筑前に向けて叩きつけてきた。
 毛利軍が国境を突破するや、大友家に敵対的な豊前、筑前の国人衆は喜んで『一文字三つ星』の旗の下に馳せ参じ、毛利軍の軍容はたちまち四万を越え、五万に迫る。この大軍を食い止めんとした大友方の諸城は衆寡敵せずに蹴散らされ、筑前北部はほとんど一瞬で毛利に飲み込まれてしまった。
 この敵の猛威に対して、立花山城の鎮幸たちは有効な手立てを何一つとして講じることができなかった。大友軍はもともと篭城策を選ぶつもりではあったが、仮に出戦する意思があったとしても為す術がなかっただろう。そう確信できてしまうほどに、毛利軍の侵攻には付け入る隙がなかったのである。




 城を取り囲む敵軍をはじめて目の当たりにしたとき、鎮幸は胃の腑がずしんと重たくなるのを感じた。立錐の余地もないほどに周辺の山野を埋め尽くす敵の布陣は、ただそれだけで城兵の心身を圧迫してくる。
 まさかこれほどの相手だったとは――鎮幸はそう思い、ひそかに臍をかんだ。
 決して相手を甘くみていたつもりはないのだが、結果だけを見ればそうとられても仕方ない。
 毛利の大動員に関しては、同僚である由布惟信も、主である立花道雪さえ予測を外されたことになるが、それは鎮幸にとって何の慰めにもならなかった。


 世には烏合の衆という言葉がある。敵がただ農民をかき集めただけの軍であれば戦いようはあったかもしれない。
 だが、間もなく始まった毛利軍の猛攻はそんな安易な期待を粉微塵に粉砕するものであった。
 敵将の毛利隆元は自軍と国人衆の部隊を巧みに連動させ、誾が守る井楼山、鎮幸が守る松尾山、惟信が守る白岳を、時には同時に、時には交互に攻め立てて守備側が連携する隙を与えない。
 この猛攻に対し、鎮幸らは分断されながらも懸命に防戦に努め、かろうじて敵を追い返すことに成功するが、この攻勢さえ毛利軍が次手を打つための布石に過ぎなかった。
 毛利軍は鎮幸たちが防戦に追いまくられている隙をつき、前線付近に人足を多数動員して水の手を断ち切ってしまったのである。


 篭城戦においては水の確保はそのまま城の命運に直結する。
 ゆえに、通常、水源は厳重に秘されているもので、これを見つけ出すことは困難を極めるのだが、毛利軍はあっさりとこれを看破してのけた。おそらくは先の叛乱以後、道雪に仕えることをよしとしなかった立花鑑載の旧臣たちが毛利軍に参じているのだろう。彼らにとって立花山城はかつての我が城であり、機密に類する情報を知っている者がいてもおかしくはなかった。


 鎮幸たちもこの事態を予測していなかったわけではない。
 道雪は城郭に関しては「ほとんど」手を加えなかった。では、わずかに手を加えたのがどこであったかといえば、水源に関する防備である。
 だが、柵や櫓なら一度壊して別の場所に作り直すこともできるが、水源を移動させることはできない。見つかりにくいように隠蔽したとしても、おおよその位置を掴まれていれば、その情報をもとに見つけ出すのは困難ではない。結果として、鎮幸たちがほどこした備えは毛利軍の思惑を防ぐには至らなかったのである。




 水の手を断ち切られたことで、城内の大友軍には深刻な動揺がうまれた。
 鎮幸はそのことを敵に悟られないよう、敵兵の目につきやすいところで米を炊いて見せたり、あるいは米を高所から滝のように流して、いかにも城内に水が豊富であるように装ってみたりしたものの、それらがただの悪あがきに過ぎないことは承知していた。
 まとまった雨が降ってくれれば何とかなったかもしれないが、季節柄、雨は少なく、一度だけ降った時も城内の渇きを癒す量には到底足りなかった。


 渇きによる苦しみは、敵と戦っている時よりも、むしろ敵が退いた後の方がきつくなる。
 大友軍の士気は日を追うごとに衰えていき、反比例して毛利軍の攻勢は勢いを増していく。
 一日、小野鎮幸は松尾山の曲輪で天を仰いだ。
「押したと思えば退き、退いたと思えば押す。一糸乱れぬ見事な攻勢と、付け入る隙のない巧みな退き方。水の手を断っておきながら、焦らず逸らずの磐石な戦運びは凡将のよくするところではない。おそらく前線で指揮を執っているのは吉川元春どのであろう」
 彫りの深い顔立ちに苛立ちと疲労と感嘆を複雑にとけあわせて鎮幸は慨嘆した。


 主導権は常に毛利軍の手中にあり、大友軍はそれを取り戻す糸口さえ掴めない。戦に慣れた鎮幸であっても、今の戦況で泰然としてはいられなかった。
 渇いた喉に痛みをおぼえ、けふんけふんと咳き込みながら、鎮幸は再度敵陣に目を向ける。
「けほ……まったくな。こうしつこく張り付かれては味方の援護も敵への逆撃もままならん。おまけに大兵を利して昼夜の別なく攻め立ててきおるから、まともに兵を休ませることもできぬ。鬼吉川の評に偽りなし、であるな」
 苦い賛辞を口にしながら、鎮幸はこれからどうするかについて考えをめぐらせた。
 道雪の援軍が来着するまで耐え凌ぐ、というのが今のところ大友軍が採れる唯一の策であるが、水の手を断ち切られたことでそれも難しくなった。
 すでに渇きの苦しみは限界に達しつつある。このままでは耐えかねて敵陣に駆け込む者も出てくるだろう。
 そうなる前に一か八か打って出るか、それともあくまで城に篭り続けるか。
 それは言葉をかえれば、自軍の十倍を越える敵に捨て身の突撃を仕掛けるか、あるいは渇きに苦しみながら、いつ来るともしれない援軍を待ち続けるか、そのどちらかを選ぶということである。


 考えあぐねた鎮幸は再び天を仰ぐ。この鎮幸の焦燥は、多少の差異こそあれ、井楼山の戸次誾、白岳の由布惟信と共通していた。
 と、その時だった。
 松尾山を包囲していた毛利軍に大きな動きが起きる。潮が引くように、一斉に攻め手が城から離れ始めたのである。
 鎮幸ら将兵は何事かと目を瞠った。
 この毛利軍の突然の後退の理由を鎮幸が知ったのは、それからしばらく後のこと。毛利軍が退いた隙を縫うように井楼山からやってきた戸次誾の使者が、慌しく次のように告げたのである。

 
 ――大友家のかつての重臣 高橋鑑種が、毛利家の使者として戸次誾との対面を望んでいる、と。




◆◆◆




 井楼山、本城。
 誾からの知らせを受けて急ぎ駆けつけてきた鎮幸は、そこで一足先に来ていた僚将の姿を見かけて声をかけた。
「惟信」
「これは鎮幸どの」
 鎮幸は松尾山、惟信は白岳と、今日まで別々の場所で激戦を展開していた二人であったが、互いの無事を喜びあっている暇はなかった。挨拶もそこそこに、鎮幸は先着していた惟信に事の真偽を問うた。


「まことに高橋さまなのか?」
「間違いなく。さきほど私自身が確かめました」
 それを聞いて鎮幸は深く嘆息した。
「そうか……生きておられたのだな」
 先に筑前で叛乱を起こした二つの大家、立花家と高橋家。
 立花家の当主である鑑載は腹を切ったが、鑑種に関しては杳として行方が知れなかった。
 鑑種ほどの武将が山野で窮死したとは思えない。おそらく他国へ逃亡したのだろうと鎮幸は考えていた。
 先の乱を見れば鑑種と毛利の間につながりがあったことは明白である。したがって、鑑種が毛利家の使者として姿を見せたことに対し、鎮幸は驚きはしても狼狽はしなかった。


 ただ、それはあくまで自分自身に関してのことであり、他の将兵の動揺は避けられまい、と鎮幸は判断していた。
 高橋鑑種という人物の影響力もさることながら、鑑種と血のつながりを持つ人間がこの城にはいるのである。その人物の心境を慮れば、鎮幸とて虚心ではいられなかった。
「若はいずこに? 高橋さまとの話し合いの最中か?」
「誾さまは城主の間にいらっしゃいます。鑑種どのから話を聞くのは、鎮幸どのと私が揃ってからにすると仰って」
「そうか。鑑種どのは若にとって実の叔父上であらせられる。この戦況で向かい合えば、平静を保つのはなかなかに難しかろう。わしと惟信でお助けしてさしあげねばなるまいて」
「はい、それは当然のことです。ところで、それはそれとして、鎮幸どの」


 惟信は形よく整った眉をしかめると、年上の同輩に手厳しい声を向けた。
「誾さまはすでに戸次家の当主となられた身。そして飛騨守に任じられた御家の重臣でもあります。若、などと気安く呼んではなりません。兵に聞かれれば、鎮幸どのが誾さまを軽んじているととられかねません」
「む、そうであったな、すまぬ」
 惟信の注意を受け、鎮幸は慌ててうなずいた。
 むろん、鎮幸が誾を軽んじていないことは惟信も承知している。「若」というかつての呼びかけは誾への親しみゆえのものだろう。惟信自身、いまだについ若さまと呼びかけそうになることもあった。


 だが、親しいからこそ、よりいっそう注意しなければならない。
 現在の立花勢の主力は、鎮幸や惟信がそうであるようにかつての戸次勢であり、誾のこともよくしっていた。しかし、中には立花家の旧臣や、道雪が当主となってから加わった者たちもいる。彼らにしてみれば戸次誾という大将は若すぎるのである。道雪との関係は承知していても、実際に若輩の誾が戦の指揮を執るとなれば、不安に思うなという方が無理であろう。
 ただでさえ苦しい戦況なのだ。ここで誾に対する不安、あるいは不満が顕在化してしまえば、勝てる戦も勝てなくなってしまう。


 惟信がそんなことを考えていると、鎮幸が気ぜわしげに問いかけてきた。
「それで、その誾さまだが、大丈夫であろうか?」
「大丈夫、とは? 問いは明確にするべきです」
「うむ、それは、なんだ。どういったらよいのかわからんが……」
 困じ果てた様子の鎮幸に対し、惟信はあっさりと核心をついてみせた。
「鑑種どのに説伏されて降伏を選ばれるのではないか。鎮幸どのはそれを案じていらっしゃるのですか?」
「う、む。まあ、そうだ。日向より戻られてからというもの、絶えず何かをお悩みになっておられたようであるしな。わしも幾度かそれとなく訊ねてみたのだが、はかばかしい答えは得られなんだ」
「……それとなく、ですか? 『何かお悩みのことがあれば、遠慮なくこの鎮幸に仰られよ!』と衆人の前で言い放つことは、その表現に似つかわしくありません」
「仕方なかろうが。世間話にことよせて少年の悩みを聞く、などという器用な芸当はわしにはできんッ」
「自信満々で断言することではないように思うのですけれど」


 惟信は呆れたように溜息を吐いたが、誾が何かを思い悩んでいた、という鎮幸の考えには同意であった。
 ただ、惟信は鎮幸のように、その悩みに関して問いただそうとはしなかった。誾が何に悩んでいるかはおおよそ察しがついていたし、その答えは余人に問うて出せるものではないとわかっていたからである。
 さらにいえば、自身の性格を熟知する惟信は、自分が年少の男の子の相談相手に向いているとはまったく考えていなかった。
 その反面、誾を気にかける鎮幸を止めなかったのは、誾が鎮幸に話す気になるのであれば、それはそれで良いことだと考えたためである。


「道雪さまがムジカに赴かれるおりに仰っていたでしょう。誾さまが自分で出した答えならば、それがどのようなものであれ支えてあげてほしい、と」
「それはむろん覚えているが」
「であれば、ここでわたしたちが思い悩む必要はないでしょう。誾さまが答えをお出しになるのを静かに待つべきです」


 惟信の言葉を正論と聞いたのだろう、鎮幸は力なく肩を落とした。
「うむ、それはわかっているつもりなのだがな」
「ならば、もっと泰然と構えていてください。この苦しい戦況にあって、一番に誾さまを支える私たちが不安げな顔をしていては話になりません。誾さまは情が強いところがおありですが、頑迷にはあらざるお方。私たちの助けが必要だと思えばそうなさるでしょう。それまで私たちは、しっかと誾さまをお守りすることに注力するべきです」
「む、確かにそのとおりだな。承知した。そうと決まればこうしてはおれん。はよう誾さまのところへ参ろうぞ」


 そういうや、鎮幸はどしどしと足音を立てて城主の間に向かって歩き出す。
 そのすぐ後に従いながら、惟信は小さく肩をすくめるのだった。




◆◆





「お久しぶりです、叔父上」
 誾はそういって眼前に座す人物に視線を向けた。
 高橋鑑種。ほんの数ヶ月前まで、高橋家の当主として大友家の筑前支配に力を尽くしてきた重臣であり、誾にとっては実の叔父にあたる人物である。
 甲冑はおろか脇差ひとつ身につけておらず、持っている物といえば腰に差した扇子のみ。武士とは思えないその格好にくわえて、諸事に落ち着きを感じさせる挙措は、どこか僧籍にいる人間を思わせた。


 鑑種の口がゆっくりと開かれ、明晰な声が紡ぎ出される。
「久しいな、誾。こうして面と向かって顔を合わせるのは、先年の正月以来になるか」
「はい、そうなります。あの時は、次に叔父上とお会いするのがこのような時、このような場所になろうとは想像もしておりませんでした」
 それは受け取り方によっては棘を含んで聞こえる言葉だったが、鑑種は気にする風もなくうなずいた。
「さもありなん。わたしとて明確に今日のことを思い定めていたわけではなかった。そなたが予測しうるはずもない」
 そう答える鑑種を、誾は睨むように見据えた。そうすれば叔父の言葉の虚実を見抜けるのだと信じるように。



 鎮幸と惟信の二人は、誾の左右にあって黙ってこのやりとりに耳を傾けていた。
 誾と鑑種の声にはある種の距離が存在する。叔父甥の間柄とはいえ、この二人はこれまで格別に親しかったわけではない。道雪と共に豊後にいた誾と、筑前を領地とする鑑種とでは顔をあわせることも稀だったのである。
 鑑種が所用で府内に戻ったおり、気を利かせたつもりの宗麟が二人を会わせることも何度かあったが、その際もとおりいっぺんのやりとりで終始するのが常であった。
 とはいえ、それは二人が互いを疎んじていたからではない。むしろその逆であった。


 誾にしてみれば、自分が物心ついた頃から高橋家の当主に立っていた鑑種は、実の叔父であるよりも前に目上の大身であるという意識が先に立つ。
 また、鑑種は領内における南蛮神教の布教にはっきりと否を唱えるなど、宗麟に忠誠を尽くしながらも諌めるべきところはしっかりと諌めており、誾はそんな鑑種に敬意を覚えてもいた。その鑑種に対し、肉親だからとて狎れるような振る舞いをすることはできず、結果として一線を引いた対応になってしまったのである。


 一方の鑑種もまた亡き兄の忘れ形見である誾を常に気にかけていた。
 積極的に誼を通じようとしなかったのは、二階崩れの変の首謀者とされる一万田鑑相の実弟と実子が親しくしていれば、周囲にいらぬ誤解を与えかねないと判断したためである。宗麟はともかく、カブラエルあたりが悪意をもって暗躍すれば、誾はもちろん義母である道雪にも危難が及ぶ。
 そう考えた鑑種は意識的に誾との接触を控えた。自身の行動次第で再び大乱が起こるかもしれぬと思えば、そうする以外になかったのだ。



 鑑種が誾に向けて口にした言葉は事実である。
 何年も綿密に謀反の計画をたてていたわけではない。鑑種が明確な叛意を抱いたのは本当に先の正月以降のことであった。正確にいえば、小原鑑元による豊前の叛乱が終結した時となる。
 それまでも主君に対して思うところがなかったわけではない。だが、鑑種は道雪や石宗ほどではないにせよ宗麟に期待をかけていたし、主家への忠誠心は幼い頃から兄や父に叩き込まれていた。なにより義鑑(宗麟の父)も塩市丸も亡くなってしまった以上、大友宗家の血を継ぐのは宗麟のみ。大友家存続のためにわが身をなげうった兄の思いを理解していた鑑種は、臣下としての節を曲げることなく大友家に仕えてきた。


 だが、そんな鑑種の思いとは裏腹に大友家は混迷の波に翻弄され続ける。
 二階崩れの変の後、大友家は表向き宗麟の下で繁栄と発展を続けていたが、その陰では拭えない不和と不信が育まれ、その統治は常に不気味な軋みをあげていた。
 施政の中心である大友館で、異国人が肩で風を切って歩く姿を見るなぞどうかんがえても尋常ではない。
 鑑種は一度ならず自問しなければならなかった。これまで大友家に捧げてきた忠誠を、これからも捧げていくべきか否か。
 その頻度は宗麟が南蛮神教に傾倒していくにつれて増していき、朋友ともいえる立花鑑載と夜を徹して語り合ったことも一再ではない。


 鑑種が大友宗麟との決別をはっきりと思い定めた豊前の乱。
 宗麟が乱の首魁であった小原鑑元に死を授けたことに不満はない。謀反に失敗した以上、それは当然のことであるし、鑑元も覚悟していただろう。鑑種が許せなかったのは、宗麟が鑑元に対し、助命の条件として南蛮神教への改宗を突きつけたことであった。
 宗麟は鑑元が謀反に踏み切った理由を何一つとして理解していない。そのことを思い知ったとき、鑑種の心の秤は急激に一方に傾いていったのである。




 鑑種は沈痛な面持ちで口を開いた。
「宗麟どのが当主であるかぎり、大友家が衰亡の一途を辿ることは明白であった。しかも、その行き着く先はただの滅亡ではない。領民は宣教師によって南蛮神教を強制され、政(まつりごと)は南蛮人に牛耳られ、我ら家臣は彼奴らの走狗として他国を侵す尖兵に仕立てあげられる。それはすなわち、大友家が南蛮の奴婢に成り下がるということ。ひいては日ノ本に異国の勢力を引き込むことである。そのような結末は滅亡よりなお悪い。大友の名は、唾棄すべき売国奴として歴史に刻みこまれることとなろう」
 激することなく、あくまで淡々と言葉を紡ぐ鑑種。
 誾はそんな叔父に反論することができなかった。鑑種の危惧が考えすぎでもなんでもなく、正確に将来を予見したものであることは、その後の宗麟の行動が証明している。


 もっとも、今の台詞は日向侵攻に始まる宗麟の行動を聞き知った鑑種が、それを自己正当化のために用いたと考えられなくもない。
 だが――
(叔父上はそんな方ではない)
 誾は内心でそう断じた。
 それに鑑種の危惧は誾も常々感じていたことだった。
 いや、誾や鑑種だけではない。その危惧は、宗麟の南蛮神教への耽溺と宣教師の抬頭を知る者すべてが等しく抱いていたものといえるだろう。


 鑑種の言葉はなおも続く。
「兄上は――そなたの父上は、すべてを懸けて大友の家を守ろうとした。わたしもまた臣下として大友家のために尽くしてきた。その御家を売国の汚辱にまみれさせんとする者を、どうして主君と仰ぐことができようか。そう考えて、わたしは鑑載どのと共に兵を挙げた。そして、見事に敗れた」
 もはや諫言が通じぬことは明白。ならば実力をもって意を通すのみ。
 鑑種たちはひそかに語らい、兵を集め、かつての敵と手を結び、寸前まで味方を装った末に裏切って後背を襲うという策略を用いてまで勝利を欲し――そして、敗れた。


 鑑種にしてみれば、叛意を悟られるような下手を打った覚えはなく、今なおどうして敗れたのか判然としない奇妙な敗北だった。
 とはいえ、敗北は敗北である。ひとたび兵を挙げて敗れた上は、何を言ったところで負け犬の遠吠えにしかならない。恥を承知で吠えたところで、宗麟に思いが通じないことは小原鑑元に対する始末を見れば明らかである。
 立花鑑載は敗戦の責を一身に負って腹を切った。
 鑑載らしい潔さだと鑑種は思ったが、自身は朋友に倣わず、毛利家に匿われて次の機会を待つことにした。別段、毛利家に無理強いされたわけではない。卑怯未練と罵られようとも、あくまでも生きて大友宗麟を止めることを鑑種は選んだ。ただそれだけのことであった。




 ――そのことを口にした時、一瞬、誾の目には鑑種の眼差しがわずかに翳ったように見えた。
 だが、それはどうやら気のせいであったらしい。
 鑑種の顔は依然、伏せられることなくまっすぐ誾に向けられており、広間に響く朗々とした声には自責も羞恥もない。鑑種が自身の決断に対して何ら悔いを抱いていないことを誾は察した。
 ひとたび決断を下した上は、その決断に対するすべての責任を負う。そう思い定めているのだろう。


 そんな鑑種に対して、タチの悪い開き直りだ、と罵ることはできただろう。
 責任を負うといえば聞こえはいいが、ただ恥を知らぬというだけではないかと責めることもできた。
 だが、誾はそうしなかった。
 しようとさえ思わなかった。何故といって、誾には鑑種に対する反感も嫌悪もまったくなかったからである。鑑種だけではない。誾は立花鑑載や小原鑑元らを裏切り者と責める気にはどうしてもなれなかった。


 彼らは二階崩れの変以降、誠実に宗麟に仕え、大友家を支え続けた重臣である。南蛮神教に関しても保身のために阿諛追従を口にしたりせず、宗麟に幾度も諫言を行っている。鑑種などは領内への布教すら拒んで自身の立場を明確にし、それでもなお主家への忠誠を失うことはなかった。
 鑑種たちは臣下としての節義を守り、主の非を正そうと何年も努めた末、それがかなわないと悟ってはじめて兵を用いたのである。
 むろん、だからといって謀反の罪が消えるわけではないが、それでも誾は彼らの行いを否定できない。誾が彼らの立場であれば、やはり同じような決断を下したのではないかと、そう思われてならなかった。


 そんなことを考える誾の姿は、鑑種の目にどう映ったのか。
 ほどなくして、鑑種は穏やかな口調はそのままに、誾に決断を求める言葉を口にした。
「――隆元どのの話では、そなたは高千穂を攻めていたそうな。どのようなゆえあってこの城に来たのかはわからないが、ムジカもすでにその目で見たのではないかな? そうであれば、そなたはわたしよりもずっと物事が見えているはず。今、大友家のために戦うということは、宗麟どのの売国を是とすることに等しい。これ以上の抵抗は無益であるばかりでなく、大友家にとって、そして日ノ本の国にとって有害であろう。よく考えてほしい。この戦いに、そなたをはじめとした大友の将兵が命をかけるに足る意義があるかどうかを」




◆◆




「誾さま」
 それまで黙して二人の会話に聞き入っていた惟信が静かに呼びかける。
 どのように返答するにしても、少し時間を置くべきだと考えたからだったが、誾は軽く右手をあげて惟信を制すると、誤解の余地のない明快さで告げた。
「結論から申し上げます、叔父上。立花山城は筑前の要。大友の将として、これを敵に明け渡すことはできません。あくまでもこの城を欲するのであれば、弓矢もて決着をつけましょう。毛利隆元どのにはそうお伝えいただきたい」
「――あくまで宗麟どのに尽くす。そう決めたのだな」
「はい」
 誾は深くうなずいた。
 ためらいなど微塵もないその姿に、鎮幸はもちろん惟信さえ目を瞠る。今日までの苦悩がまるで幻であったかのように、誾の態度には揺らぎがなかった。


(いや、それは順序が逆かもしれない)
 ふと、惟信はそう思った。今日まで迷いに迷いを重ね、ついには迷う余地がなくなるほどに迷い続けた末の決断だからこそ、ここまで毅然たる態度をとっていられるのかもしれない。なにしろ、もう迷う余地は残っておらず、余計なものに足をとられる恐れはないのである。
 惟信がそんなことを考えていると、鑑種の声が耳にすべりこんできた。
 

「今の言葉、必ず隆元さまにお伝えしよう。ただ、出来得ればそなたがそう決断するに至った理由を知りたく思う。どうだろうか」
 それを聞き、鎮幸と惟信も知らず誾の顔に視線を向けていた。
 三者の視線を浴びた誾は困ったように首をかしげたが、やがて何事か思い定めたようにうなずくと、静かに語り始めた。


「はじめに申し上げておきますと、私は叔父上の行動を非難するつもりはありません。今の叔父上のお言葉、いずれも然りと聞こえました。もし、私が叔父上の立場であれば、同じ行動をとっていたかもしれぬとさえ思っています」
 そういった後、すぐに誾は付け加えた。
「同時に、私のような若輩がそう考えることがどれほどおこがましいことか、そのこともわかっているつもりです」
 大友の家臣として長らく主家のために働いてきた鑑種と、戸次家を継いで間もない誾とでは、主家への貢献は比べるべくもない。鑑種の叛意と誾の叛意では、その重みがまったく違うのである。
 また、みずから望んだことではないとはいえ、他者から見れば若くして戸次家を継ぎ、飛騨守に任じられた誾は主君から格別の寵愛を授かった権臣であった。恩を仇で返すなど人としても武士としても陋劣の極みといってよい。


 主君に忠ならんと欲すれば売国奴、これに叛けば卑劣漢。


 すべてを満たす答えはどこにもない。そうとわかっていて、それでもなお諦めることができなかったから迷っていた。今日まで毛利軍と矛を交えながらも、どこかで「これでいいのか」という思いに苛まれていた。
 その迷いを払う契機となったのが今回の鑑種の訪れである。
 ただしそれは、状況に強いられ、否応なしに答えを出さざるをえなかった、という意味ではない。

 
「それはどういう意味か?」
 静かでありながら力感に満ちた視線で鑑種は誾を見据えた。さきほど話をしていた時よりもよほどに迫力と威を感じさせる。ここにきてはじめて、誾は長年に渡って一国を統べてきた叔父の渾身を目の当たりにした思いであった。
 だが、だからといって怯んだりはしない。誾は堂々と鑑種に応じてみせた。
「簡単なことです。叔父上がお越しくださったことで、私は売国奴にも卑劣漢にもならない道を見出すことができたのです」
「ふむ……?」
 訝しげな鑑種に対し、誾はつい先ほどの叔父の言葉を引き合いに出した。


「叔父上が今しがた仰ったように、私は一軍を率いて高千穂を攻めました。この戦いがどういうきっかけで起きたのか、叔父上はご存知でしょうか」
「日向との国境で殺された南蛮宗徒の報復戦と聞いている」
「はい、そのとおりです。あの折、豊後でそのことを知らずにいたのは赤子だけでした。その一方で、殺された南蛮宗徒の名前、人数、住まい、具体的にいつ、どのように殺されたのか、そういったことを知る者は皆無でした。ただ南蛮宗徒が日向の者たちに虐殺された、その情報だけが野火のように国内に広がっていったのです」


 誾自身、何とかして調べようとはしてみたが、手がかりひとつ掴めなかった。そうこうしている間にも報復を求める声は豊後の国を覆いつくし、派兵は半ば既定のものとなっていた。
 この戦いの行き着く先を予測した誾は、すべては南蛮神教の企みではないかと考え、報復の軍を起こすことに反対するつもりでいた。
 しかし。
「結局、私は反対どころか別働隊を率いる立場となったのです」
 それを聞いた鑑種は小さく首をかしげる。
「それは、宗麟どのからそう命じられたからではないのか?」
「いいえ。私はみずから宗麟さまに望んだのです。これ以上、他国の暴虐を許さぬためにも報復は避け得ざるところ、願わくば新しき戸次家の当主に一軍を率いることをお許しあれ、と」


 当時のこと――といっても、ほんの数ヶ月前のことなのだが――を思い出した誾の胸に、ほろ苦いものが湧き上がる。
「復讐の狂騒に包まれた軍勢が敵地で何を為すかは想像するまでもないことでした。大友家の名を損なわぬために、私はそれを止めたかった。ですが、事態はすでに一人や二人の反対でどうこうできる段階ではありませんでした。私のように何の功績もない若輩では尚更のことです」
 誾はそこで言葉を切る。その口元には、苦笑と称するには苦すぎる笑みが浮かんでいた。
「それでも足掻こうとした私に、ある者がこう言い放ったのです。此度の一件を止めたいのならば、反対を唱えるのではなく、進んで報復に加わるべし、と」
「なに?」
 鑑種が眉をひそめる。
 その顔を見て誾は思った。おそらく、あの時の自分もこんな表情をしていたのだろう、と。


「進んで報復に賛同し、宗麟さまの歓心を得て軍を率いる立場となれ。そうしてはじめて暴兵を掣肘する権限を得ることができる――はじめて聞いたときは激怒してしまいましたが、冷静になって考えれば、私があの状況に一石を投じるためには他に手がないことは明白でした」
「……虎穴にいらずんば、ということか」
 鑑種は宗麟が誾に格別に目をかけていることを知っている。戸次家を継いで間もない誾が、南蛮神教の企みをわずかなりとも阻もうとするのであれば、たしかにそれ以外に手はないといえるだろう。
 だが、それが今回の誾の決断とどう関わってくるのか。



「時に、目的のために手段を選んでいられないことがあります。私は高千穂の戦いでそれを学びました。ひるがえって、此度の私の目的は何か。宗麟さまを討つことではありません。かといって、盲目的に宗麟さまに従うことでもありません。私は宗麟さまを糾したいと、そう思って………………え?」
 不意に誾の声が途切れ、戸惑ったような声が口から零れ落ちた。
 突然のことに、鑑種はもちろんのこと、鎮幸と惟信も不思議そうに誾を見つめる。
 彼らの視線の先では、誾が戸惑いもあらわに右手で口元を押さえ、なにやらぶつぶつと呟いていた。


「僕は、毛利を討ち払った大功をもって、宗麟さまを糾そうと……もし、それでも宗麟さまが聞き入れてくださらないのであれば、その時こそ正面からって…………」
 ここで毛利の大軍を追い返すことができれば、その大功は誾の未熟をおぎなって余りある。誾が主君に諫言を呈そうとも、それが分不相応だとそしられることはない。それでもなお宗麟が南蛮に尽くそうとするのであれば、その時は忘恩と謗られようとも面と向かって刃向かおう。
 力及ばず毛利軍に敗れれば、誾はここで死ぬ。けれど、鑑種が毛利軍にいるかぎり、宗麟の行いを食い止めてくれるだろう。
 勝とうと負けようと、いずれにせよ大友家が売国奴として歴史に汚名を残す事態だけは避けられる。
 そう確信できたから誾は戦うことを決断した。売国奴にも卑劣漢にもならない道はこれしかないと、そう思えた。



 だが、それを言明しようとする寸前、誾の心から不意に一つの思いがわきあがってきた。
 売国奴とか、卑劣漢とか。糾すとか、糾さないとか。
 そういった堅苦しい言葉ではなく、恥ずかしいくらいにむき出しの素の心。
 今この時まで、自分自身気づいていなかった戸次誾の本当の目的。
 それは――



 突然、誾がこらえかねたように笑い出したのを見て、この場にいた者たちは一様にぎょっとした顔になった。
 決断の理由を口にしていた最中、いきなり口ごもったと思ったらこの大笑である。彼らが少年の正気を疑ったとしても、それはいたし方ないことであったろう。
 特に鎮幸と惟信の二人は、今日まで誾が懊悩し続けていたことを知っているから尚更であった。
「わ、若! しっかりなさいませ!」
「若さま、どうかお気を確かに」
 鎮幸の慌てふためいた声に比べれば惟信の方はまだ落ち着いているように思われたが、つい先刻、鎮幸に注意したばかりの呼びかたを用いているところからもわかるように、鎮幸に負けず劣らず取り乱していた。


 だが、幸いというか、当然というか、誾は別段気が触れたわけではなく、慌てる二人をなだめるように右手をあげる。
「ふふ……ふ、だ、大丈夫、大丈夫なんだけど、くく」
「いや、どう見ても大丈夫なようには見えませぬぞ!? 若、いったいどうなされたッ!?」
「うん、その、あんまりにもおかしくて……ちょっと、耐え切れなかった――けほ、けほッ!」
 水断ちで渇いた喉に笑いすぎが響いたのだろう、誾が苦しげにせきこんだ。
 素早く駆け寄った惟信が誾の背を優しく撫ぜる。そうしながら、惟信は誾の言動に確かな意思を感じ取ってほっと胸をなでおろしていた。




 しばし後、居住まいを改めた誾は鑑種に頭を下げた。
「……叔父上、失礼いたしました」
「いや、かまわないが……いったいどうしたのだ?」
「本当の目的がわかったのです。いえ、目的というか、本心といった方がいいのでしょうか。私はつい先ほどまで宗麟さまを糾したいと考えていました。誰にも文句のつけようのない大功をたてて、その上で南蛮を盲信する宗麟さまを正道に引き戻したい、と。必要とあれば力ずくで、それこそ叔父上のように。それが私にとっておこがましい考えであるとは承知していますが、毛利軍を追い返した大功があれば、誰に引け目を覚えることもなく事にあたることができる。そう考えていたのです」
 そう言った後、誾は楽しげに微笑んだ。
 鑑種はもちろんのこと、鎮幸や惟信でさえかつて見たことのない心底から楽しげな微笑だった。清々しいとさえいえるその表情に、一瞬、鑑種は幼き日の兄の姿を重ね見る。
 ひそかに目を瞠る大人たちに気づかず、誾は先を続けた。
「けれど、それを叔父上に申し上げようとしたとき、不意に思ったのです。そうじゃない。僕が本当にしたかったのは、糾すとか、正道に引き戻すとか、そんな小難しいことじゃなくて、もっと単純に――」



 ――宗麟さまを叱ってやりたかったんです
 ――必要とあらば、頬でも尻でも引っぱたいて



 あっさりと言い放たれた一言に、場の空気が音をたてて凍りつく。
 ある意味、さきほどの大笑よりもよほど正気を疑いたくなる言葉だった。
「……宗麟どのを、主君を、叱る、だと? しかも、主の、女性の頬や尻をひっぱたく?」
 うめくような鑑種の言葉に、誾はもう一度うなずいた。
「はい。父上が命懸けで守った大友家にお前は何をしているんだ、と。お前が南蛮神教にうつつをぬかしている間、義母上たちがどれだけ身をけずってきたのかわかっているのか、と。もっと当主としての自覚をもって民や家臣に迷惑をかけるな、と。僕は、ずっと、ずっと、そういってあの人を叱ってやりたかった」


 叛意はない。殺意などさらにない。
 ただ、大友家の当主としてもっとしっかりしてくれと、面と向かってそう言いたかっただけ。
 それがどれほど礼を失した行いであるかはわかっている。実行せずとも、そう考えていると知られただけで道雪や紹運から鬼のような説教を受けるだろう、きっと。
 それでなくとも、誾自身、それがどれだけ臣下としての道を踏み外した望みであるかは理解できる。だからこそ、これまで意識の端にのぼらせることさえなかったのだろう、と誾は自分の心を分析した。


 その望みを今日この日に自覚した。してしまった。
 そして、一度自覚してしまうと、その望みは驚くほどにしっくりとくるのである。是が非でも実行してやる。あっさりとそんな決心を抱いてしまえるほどに。  
 あるいはそれは、今日までの屈託した自分自身への苛立ちがうみだした「逃げ」の気持ちなのかもしれない。その危惧がないわけではなかったが、誾は考え直そうとは思わなかった。
 どのみち、売国奴にも卑劣漢にもならない選択肢など他にはない。あったとしても、誾には思いつかない。結果として主君に呈するのが諫言になるか、叱責になるかの違いだけだと思えば、あえて決心を翻す理由はなかったのである。




◆◆




「どうやら、再考を求めても無駄のようだ」
 そういう鑑種の声には、呆れを通り越して、どこか愉しげな響きがあった。
 誾はそれを意外に思いつつも、悪びれずに頭を下げる。
「申し訳ありません、叔父上」
「なに、かまわない。元々、若いそなたに、わたしと同じものを見よなどと言うつもりはなかった。いっておくが、そなたの若さを侮って言っているわけではないぞ? 若いからこそ見えるものは多くある。年を経て失ってしまうものも多くある。たとえ同じものを見たとしても、わたしとそなたが見る景色が異なっているのは当然のこと。ゆえに、結論が異なるのもまた当然というものだろう」


 さすがに主君をひっぱたくというのは予想できなかったが、と鑑種は苦笑する。
 誾はそんな叔父の態度を見て、少なからず意外の感に打たれた。
「叔父上は私に降伏を求めに来たわけではないのですか?」
「降伏してくれれば良い、と考えてはいた。だが、道雪どのの薫陶を受けて育ったそなただ、そう簡単に心変わりはしないだろうとも思っていた。一度主家を裏切ったわたしの言葉が、今なお大友家を支え続ける者たちの耳に届くと考えるのも虫の良い話だろう」
「では、叔父上は何のためにここにいらっしゃったのですか?」


 その問いを受け、鑑種は一度目を閉ざす。
 再び開かれたとき、その目には誾でさえはっきりとわかるほどに強い意志が感じられた。
「そなたに頼みがあった。勝手な願い、と言いかえても良い――誾、そなたはこの戦いで死んではならない」
「……それは」
「此度の戦い、わたしの目には十のうち十までが毛利の勝利と映る。毛利軍を率いる隆元どのの目的は宗麟どのの売国を阻むことであって、大友家を完全に滅ぼすことではない。宗麟どのを当主の座から降ろすことがかなえば、大友家存続の芽は残るのだ。むろん、領土の大半は失われるであろうし、大友が毛利の付庸となることは避けられまい。だが、少なくとも大友の名跡を残すことはできる。宗家の血が絶えたとしても、同紋衆の中からしかるべき者を選んで家名を復興させることは不可能ではない」
 鑑種はそういうと、じっと誾の顔を見つめた。
「過去の大乱に囚われることなく、現在の苦境を弾き返し、新しい大友家をつくりあげる。その中心となれるのは、そなたをはじめとした次の代を担う若者たちしかいない。だからこそ、そなたは此度の戦で死んではならない。そなたを失えば、大友家の復興は永く成し遂げられないだろう」


 そう口にする鑑種を、誾は半ば呆然として見つめていた。
 話が飛躍しすぎている、と思う。
 しかし、鑑種が本気で言っていることは疑いの余地がなかった。それに冷静になって考えてみれば、今回の戦いで大友側の勝算が薄いのは事実であり、毛利に敗れた場合、大友家が敵の付庸となることは避けられない。
 鑑種が口にしたのは十分にありうべき未来の一片であった。


 その時に備えて、たとえ戦に敗れたとしても生き残れ、と鑑種はいう。
 鑑種自身が「勝手な願い」と言明したように、誾に従う義務はない。
 だが、鑑種が自身の言葉を現実とするべく行動していくのは確信できた。というより、そう行動できるだけの権限を得るために、鑑種は腹を切ることなく生き延びたのではないか。
 それこそ、かつて誾が南蛮神教を止めるために南蛮神教に従ったように。



「……叔父上」
 誾の呼びかけに対する返答は、鑑種の静かな一瞥であった。
「今のはあくまでわたしの勝手な願いでしかない。そなたがどう身を処するかは、そなたの考えによる。そなたが宗麟どのを叱りつけるために戦うというのであれば、それもまたよし。元服した甥にあれこれ指図する叔父というのも鬱陶しかろう」
 そういうと鑑種は楽しげに笑った。
 鎮幸と惟信は、その表情が誾のそれと酷似していることに気づき、そっと視線を交わす。


 これで用件は済んだとばかりに立ち上がった鑑種は、しかし、広間から立ち去る前にひとつだけ誾に問いを向けた。
「余計なことかもしれないが。誾、そなたの父上が、そなたが元服した時のために残した名があること、道雪どのから聞いているか?」
「……はい、聞いてはおります」
「そうか。では、道雪どのも知らない事実をひとつ教えておこう」
 そういうと、鑑種はいきなり人名を羅列しはじめた。


「統虎、鎮虎、宗虎。それに正成、親成、尚政、政高、俊正、経正、信正……と、こんなところだったか。もう二つ三つあったような気もするが、さすがにすべて覚えておくことはできなかった」
「…………あの、叔父上、今のは?」
「そなたの名を考えあぐねた兄上がたどった変遷だよ。あれも良い、これも良い、いやこちらも捨てがたい、と迷いに迷っておられてな。一度決めたと思っても、時が経てばやはりもっと良い名があるのではないかと考え直す始末。いきなり呼びつけられて何事かと駆けつけたら、お前に良い案はないかとせっつかれたこともあった。あの時はそなたの母上に迷惑をかけて申し訳ないと平謝りされたものだ」
 当時のことを思い出したのか、鑑種は優しい表情を浮かべる。その顔に拭えない寂寥の陰があるのは、その後の出来事のせいであろう。


 鑑種はその表情をかえぬまま、誾の面差しに視線を落とした。かつての赤子の成長を寿ぐように。その成長を見られなかった誰かの心情を思いやるように。
「そなたにも思うところはあるだろう。ただ、そういったこともあった、と心の隅にとどめておいてほしい」
 そういうと鑑種は、それ以上の多言を忌むように口を閉ざし、踵を返した。
「敵に武運を祈るわけにはいかない。誾、壮健であれ。できるだけ長く」
「叔父上も」
 呼びとめたいという思いがなかったわけではない。だが、呼びとめてどうなるものでもないとわかってもいた。
 結局、誾は気の利いた言葉を返すこともできず、ただ去りゆく叔父の背を見送ることしかできなかったのである。




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第十章 天昇(十四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:8174c57e
Date: 2013/12/19 21:01

 筑前国 古処山城


 秋月家の居城である古処山城は難攻不落の堅城として知られている。
 その評価を証し立てるのに多言は必要ない。
 標高八百メートルを越える古処山、その山頂に築かれた城である――この一事だけで古処山攻めがどれほどの難業であるかを万人が知るだろう。


 しかしながら、近年、大友、秋月両軍の間で繰り返された争奪戦を見れば「難攻」はともかく「不落」の評には疑問符が付けられるかもしれない。
 現在の城主である秋月種実も、先の戦いで一度はこの城を大友軍に奪われている。
 もっとも、あの時は功に逸った種実が別の城で大友軍に追い詰められ、その窮地を脱するために古処山城を明け渡さざるを得なかったのであって、古処山の天険が打ち破られたわけではない。
 先の失態はひとえに自分の未熟が招いたものである。種実はそう考えており、自城の堅牢さに対する信頼を失ってはいなかった。


 毛利隆元から「急いて事を仕損じることのないように」と繰り返し注意されたこともあり、種実は今回の合戦ではこの堅城に腰を据え、きわめて慎重な動きに終始してきた。
 功を焦れば敵に付けこまれる。そう考え、逸る自分を戒めてこまめに情報を集め、たえず四方の情勢に気を配る。種実が岩屋城の異変をいち早く察知できたのは、この慎重さが功を奏したからといってよいだろう。
 竜造寺軍の撤退と、岩屋、宝満両城の炎上を知った種実は、ただちに家臣を集める。
 種実が物見の報告を伝えると、軍議の間に集った家臣の間にどよめきが走った。




 はじめに口を開いたのは深江美濃守である。長年、九国で秋月家のために奔走し続けてきた白髪の老将は眉間に深いしわを刻みつつ言った。
「岩屋城だけが落ちたのであれば、竜造寺の撤退は筑後侵攻のためのものと考えて間違いなかろうと存ずる。一度肥前に退き、兵を再編してから筑後を侵略する。何もおかしいことはござらん。したが、宝満城までが落ちたとなると話はだいぶかわってまいりますな」


 深江の言葉を引き取ったのは、こちらも秋月家の宿将である大橋豊後守である。
「さよう。岩屋城を落とした竜造寺が宝満城をも欲して我らを裏切った。それは十分にありえることだが……」 
 筑前に留まり続けた深江と異なり、大橋は種実を守って安芸まで落ち延び、それ以後も種実を守り続けてきた。決して才気煥発な人物ではないが、質と実を伴った忠義と武勇の持ち主であり、種実の信頼も厚い。
 その大橋は、指で膝先をトントンと叩きつつ、竜造寺の真意を推測していく。
「肥前の熊どのが油断ならぬ人物であることは周知の事実。しかし、だとするとここで兵を退くのはおかしな話だ。あの強欲者がせっかく落とした城を放棄して肥前に戻るなぞ考えられぬし……ふむ、善兵衛、そちはどう見る?」


 大橋が発言を促した家臣の名は内田善兵衛という。
 先だっては宝満城で不遇をかこっていた北原鎮久を説き伏せ、宝満城奪取の一助となった人物である。
 内田は物腰が柔らかく、顔立ちはどこかリスに似て愛嬌があり、相手の警戒を誘わない。武勇の人ではないが、頭の回転は速く、弁も立ち、主に外交で力を発揮する型の家臣である。無骨な深江や大橋とはそりが合わないように思われるが、善兵衛は戦働きを厭う惰弱さとは無縁であり、老臣たちからも好意的な目で見られていた。


 大橋に水を向けられた善兵衛は、はきとした口調で自身の見解を口にした。
「お二方の言葉、いずれも然りと聞こえました。どうやら事態はかなりこんがらがっている様子です。このような時はいたずらに推測を先走らせるべきではございません。より信用のおける情報を集めることに注力すべきかと存じます」
 二城が炎上したとはいえ、陥落したと決まったわけではない。
 竜造寺が撤退したとはいえ、それが本格的なものなのか、兵を休ませるための一時的なものなのかも定かではない。
 ここは焦らずに、より確度の高い続報を待つべき、と善兵衛は言った。


 言っていることに間違いはない。
 だが、老臣たちを立てる一方で自身の考えを明言せず、当然のことを口にして責任を回避した玉虫色な返答であるとも受け取れる。善兵衛がここで言葉を切るような人物なら、種実が彼を重用することはなかっただろう。
 善兵衛の真価は次の言葉で見て取れた。
「殿。どうかそれがしを宝満城へ遣わしていただきたい。百聞は一見にしかずと申します。事実を明らかにするためには、外から推測を重ねるより、内に入って確かめる方が早道でございましょう」


 それを聞いた種実は家臣への気遣いを声に込めた。
「それは道理だね。でも、危険だよ」
「承知の上でございます。しかしながら、どこの誰かは明らかでなくとも、毛利家の有する城に攻撃を仕掛けた者がいた――この事実は否定のしようがございません。毛利の敵は我ら秋月の敵。この敵に行動の自由を許せば厄介なことになりかねません」
 名前は出さない。
 だが、現状、筑前において毛利家に攻撃を仕掛ける敵など片手の指で数えられる。否、片手どころか指一本で事足りるだろう。
 早めにこの敵の思惑を探り出さねば手痛い目に遭わされる。これまでの経験が、秋月家の君臣にそう囁きかけてくるのである。


 種実は考え込んだが、結論を出すまでに長くはかからなかった。
 もともと、信頼できる者を宝満城に差し向けるという考えは種実も持っていた。先にも宝満城にもぐりこみ、見事北原鎮久を説き伏せて戻ってきた善兵衛である。宝満城を襲った者が誰であれ、やすやすと討たれはしないだろうという信頼もあった。
 そう考えた種実は、善兵衛の求めに応じて宝満城への使者の役割を命じたのだが――


 結論からいえば、結局、種実はその日のうちに自らの命令を撤回することになった。
 理由は簡単である。古処山城から宝満城へ使者を派遣する前に、宝満城からの使者が古処山城に到着したためである。
 その使者の名を北原鎮久といった。
 



◆◆◆




「秋月の狼心は明々白々であるッ! 豺狼の如しとは、まさに貴殿らのためにある言葉であろうッ!!」
 供を従えて種実の前に姿を見せるや、北原鎮久は満面を朱に染めて怒号した。
 いきなりのことに秋月家の家臣たちはあっけにとられるが、呆然はすぐに憤激にとってかわられる。ただひとり、主君である種実だけはどこか興じるような顔つきで気色ばむ家臣たちをなだめ、鎮久に問いを向けた。


「これは異な事を聞く。この種実にいかなる狼心ありといわれるのか?」
「白々しいわ。先夜、我が城を襲ったのは貴様らの手勢であろうがッ!? 殿(高橋鑑種)が城を留守にしているのを知っておるはごく限られた者たちのみ。さらにその中で兵を出せるのは貴殿らのみだ。大友の兵を装って城を襲う小癪な策略が通じると思うたか!」
「宝満城の異変は承知している。鑑種どのが城を留守にしていることも知っている。しかし、だからといってその異変がぼくらの仕業とされることは承服できない。そもそも鑑種どのが毛利の本陣に赴くことを知らせてきたのはそちらではないか。なにより、どうしてぼくらがそのようなことをしなければならないんだ?」


 あくまで冷静に応じる種実を見て、鎮久はきこえよがしに舌打ちする。
 しかる後、その場にどっかりと腰を下ろすと、憎々しげに口を開いた。
「あくまでとぼけるか。よかろう、ならば言ってやろうではないか。秋月と高橋は筑前をめぐって争った積年の敵同士。此度は共に毛利に従うことになったが、過去の遺恨を忘れられない貴殿らはひそかに高橋家の排除を画策した。それが先夜の襲撃よ。殿の留守をつき、少数の精鋭で城を攻める。はじめから城を落とすつもりなどなく、ただ我らの失態をあげつらうためだけの猿芝居だ。おおかた此度の襲撃を理由として、高橋家には宝満城を守る力なしと毛利家に訴えるつもりであろう。そうして我らを筑前の外に追いやり、残った高橋家の所領を秋月がかっさらう心算とみた。貴殿は毛利のご一族とことのほか懇意である。その貴殿の言葉とあれば、元就さまや隆元さまも等閑にはされまいしな」
 滔々と述べ立てると、鎮久は再び舌打ちを放った。
「大友の鎧兜はこの城の府庫にいくらでもあったろう。仮に襲撃が未然に暴かれたとしても、ここは貴殿らの故郷なれば兵たちが隠れ潜む場所には事かくまい。毛利に背くことなく高橋家を追い詰める見事な詐術。もしやと思うが、この鎮久に謀反を唆したのも、今日に至る布石であったのか。だとすれば、ははは、さてもよく考えたものかな!」


 わざとらしい笑い声をあげた後、鎮久はみずからそれを断ち切った。
 勢いよく拳を床にたたきつけたのである。鈍い音があたりに響き渡った。
「だが、そうそう思い通りに事が運ぶと思われるな。我らはすでにこの一件、本陣の殿と隆元さまに注進した。武略によらず、味方を謀る詐略によって利を得んとした秋月の醜行、遠からず白日の下に晒されると心得よ!」
 そういうと、鎮久はじっと種実の顔を見据えた。
「もし貴殿らが此度の件に一切関わりないというのであれば、それがしと共にただちに本陣に参ろうではないか。隆元さまの御前ではっきり白黒をつけるとしよう。それをせぬ――否、できぬというのであれば、やはり秋月家に狼心ありとみなされても仕方ない。そうは思われぬか、種実どの?」




 ――種実どの。
 そう口にした瞬間、鎮久は何かを伝えるように素早く片目をつむった。
 相手の目に秘事を訴えかける色合いを見てとり、種実はわずかに目を細める。
 種実ははじめから無闇に攻撃的な鎮久の言動に違和感を抱いていたので、素早く相手の意図を汲み取ることができた。鎮久と面識のある内田善兵衛にちらと視線を向けると、善兵衛もまた何かを悟ったように小さくうなずいている。


 この場で鎮久が真意を口にすることを憚る理由があるとすれば、それは秋月の君臣にはなく鎮久の後方に控える彼の従者――あるいは従者を装っている者にあるのではないか。
 そこに思い至ったとき、種実は事のカラクリを理解したように思った。

 


◆◆




「どうだった、善兵衛?」
「は、殿のご推察どおりでありました」


 しばし後。
 別室に下がらせた北原鎮久のところから戻ってきた内田善兵衛は、主君の問いにそう言って応じた。
「やはり、あれは強いられてのことか。とすると、供の者はやはり見張り役だね」
「御意。鎮久どのがおかしな動きをすれば、即座に切り捨てるつもりでいたと思われます」
 この城に入ってからというもの、鎮久の従者は常に鎮久の傍から離れようとしなかった。主を守るためには当然のことだと思われたが、裏をかえせば鎮久が余計なことをしないように常に目を光らせていたともいえる。


「殿を説得するためにも、是非鎮久どのと一対一で話をしたい。そう申しいれたところ、しぶしぶながら席を外してくれました」
 むろんというべきか、万一のためにといってしっかり部屋の外に立っていたが。
 この時、善兵衛と鎮久は同時に二つの方法でやりとりをした。一つは声。一つは文字。
 善兵衛は口では鎮久の提案に賛同すると言って室外の従者を欺きつつ、一方で文字を使って鎮久に事情を問いただしたのである。


 善兵衛に与えられたのは限られた時間だけであったが、事の全容を明らかにするにはそれで十分であった。
「まずご報告いたします。宝満城はすでに大友軍によって落とされた由にござる」
 善兵衛がいうや、深江と大橋の両将がうめき声をあげる。
 だが、明らかになった事実はそれだけではなかった。
「しかも、大友はどうやら竜造寺と不戦の約を交わしたと思われます。竜造寺が兵を退いたのはそのためであり、岩屋城の破却はその条件のひとつであると」


 それを聞いた種実は考え込むように口元に手をおしあてた。
「……どうやってそんな奇術めいたマネをしてのけたのかな。それについてはどう言っていた?」
「申し訳ありません。それ以上のことは鎮久どのも知らぬと」
 善兵衛の返答を聞いた種実は軽く肩をすくめた。
「なるほどね。大友にしてみれば北原は二重の意味で裏切り者だ。使いの役目を果たせばそれで良いわけで、事こまかに事情を説明してやる義理はないということだろう。わかった、それはひとまず措こう。今の問題は、宝満城を落とした大友が、どうして北原をこの城に差し向けたのか、だ。まあ、城を落としたのが大友だとはっきりしたのなら、答えはもう出たも同然だけど」
「はい。鎮久どのを使って『秋月家がお味方を陥れた』と非難する。その釈明のために殿が毛利の本陣に赴こうとしたところを襲撃する。こうすれば、大友軍は労せずしてこの城を得ることができます」
「そして、豊後に繋がる道を取り返すこともできる。成功すれば儲けもの、失敗したところで失うのは裏切り者ひとりと従者だけと思えばやってみても損はない、と考えたんだろうね。向こうには曲者がいるようだ」


 種実はそう言うと面差しを伏せ、何事か考え込んだ。
 しばし後、顔をあげた種実は善兵衛に問いかける。
「善兵衛、北原は城を落とした大友軍の数、どれほどだったと言っていた? これは大友の意思に関係なく、北原自身で掴んでいる事柄のはずだ」
 高橋鑑種が留守の間、宝満城をあずかっていたのは北原鎮久である。当然、鎮久は城を襲った大友軍と矛を交えている。ならば、敵の軍容のすべてとは言わないまでも、おおよそのところは掴んでいるはずだ。種実はそう考えたのである。


「鎮久どのもまったく予期せぬ襲撃だったので正確な数はわからぬ、と。ただ、どうやら小勢であったことは確からしゅうございます。おそらくは五百に満たずとのこと」
「…………五百以下、か。それだけの手勢で宝満城を落とし、竜造寺を説き伏せただけでも比肩し得る者のない大功だ。だというのに、それだけではあきたらず、策をもって古処山城をも飲み込もうとする。そんな人間はそうそういるものじゃない」
 種実の言葉に、それまで話に耳を傾けていた深江が苦い表情で賛意をあらわした。
「そんな相手がごろごろ転がっていてはたまりませぬぞ、若」
「まったくですな」
 大橋もうんうんと首を縦に振っている。


 秋月家の君臣は、脳裏にひとりの敵将の名前を思い浮かべていた。
 しばらく前、種実は立花山城を攻囲している隆元から一通の文を受け取っている。内容は戦況の報告や種実の健康を案じるものであったが、その中にひとつ、無視できない情報が含まれていた。
 立花道雪が立花山城にいないようだ、というのである。
 種実は一応この情報を家臣たちに知らせて注意するよう命じたものの、実のところ、情報の信憑性についてはやや懐疑的であった。隆元を疑うわけではないが、立花山城の守将である道雪がこの時期に城を離れるとは考えにくい。何かの策を秘めて、城内に身を潜めているのではないかと考え、返書にその旨を書いて隆元に注意するよう促しもした。
 しかし、今となってみれば、やはり隆元の報せは正確だったのかもしれないと思えてくる。
 宝満城の陥落と竜造寺軍の撤退、そして北原鎮久を使った謀略。種実の胸中には予感を通り越して確信に近い思いが育まれつつある。


「――出てきたか、鬼道雪」


 種実がその名を口にした瞬間、室内の空気が音をたてて張り詰めた。
 種実にとっては父の仇、兄の仇。幾度も苦杯を舐めさせられた不倶戴天の敵将である。
 道雪を討たずして秋月の勝利はない。その思いは種実のみならず家臣たちにも共通している。深江や大橋にとっても、道雪は亡き主君の仇である。これを討つ機会を逃すつもりはない。




 ここで深江がひとつの策を口にした。
「若、いかがでござろう。ここは敵の策を逆手にとってみては?」
 その一言で深江の考えを察したのか、大橋が賛同するようにうなずいた。
「ふむ。敵がこちらを誘い出そうとしているのなら、それに乗るフリをして虚を突くことは容易いな」
 少数の兵で本陣に行くと見せかけて敵の襲撃を誘い、そこを敵以上の大兵を押し出して鏖殺する。山中の地形を熟知した秋月勢にとっては、困難であっても不可能ではない作戦である。


 だが、勢いづく老臣たちの熱気に種実は感応しなかった。
 内田善兵衛も、眉根を寄せてなにやら危惧している様子である。
「美濃、豊後。ひとつ聞きたいんだけど」
 抑制の効いた声で種実が問いかける。
「二人はあの北原という将、信用できるかい?」
 主君の問いかけに戸惑いながら、深江と大橋は正直に答えた。
「む……信用できるか否かでいえば、否ですな」
「美濃どのに同意です」
 長らく秋月家に仕えてきた者たちの目から見れば、北原鎮久という将は腰が軽すぎる。武将としての能力は否定しないが、背中を預けられる相手ではない。
 だからこそ利用したところで胸が痛まない相手でもあるのだが。


 種実の意をはかりかねた深江が首を傾げた。
「若は、彼奴が我らを謀ろうとしているとお考えか?」
「うん、そうだ。秋月と高橋の確執を理由にぼくを非難する――その役割を考えれば、人選としては北原が最適だ。けれど、だからといって北原を全面的に信じて事を運ぶほど道雪は単純じゃないだろう。どれだけ外面が綺麗でも、あれの内実は狐や狸の類だしね」
 深江と大橋がいまひとつ理解できていない様子だったので、善兵衛は主の言葉を引き取って説明を続けた。
「おそらく、鎮久どのご自身は、自分が正しい情報を伝えていると、そう思っておいでのはずです。ただ、鎮久どのが考える『正しい情報』そのものが、はじめから罠であったのではないかと思われます。殿が鎮久どのの言葉どおりに動くならばそれでよし。鎮久どのが見張りの目を盗んで我らに情報を流しても、それはそれでよし。そうなれば、我らが策を逆手にとろうとするのは容易に予測できます。どちらに転ぼうとも、殿を城の外におびき出すことはできるわけです」


 種実はうなずいた。
「善兵衛のいうとおり。これは孫子でいうところの死間だよ。向こうは鎮久が情報を漏らすことさえ計算に入れて動いていると考えるべきだ」
 深江がうなるように声を押し出した。
「ぬう……なんとややこしい」
「まったくだ。しかし、善兵衛よ」
 大橋が善兵衛を見て口を開いた。
「向こうの兵は多くとも五百程度であるとのこと。こちらが一千の兵を押し出せば、たとえこちらの動きを読んでいたとしても、相手は手も足も出ないのではないか?」
「相手はかの鬼道雪。五百対一千の戦いにも勝算を見出して参りましょう」
 善兵衛が言うと、大橋はむきになったように言い返した。
「ぬぬ、ならばこちらは二千を出そうではないか。これならば道雪とて打ち破れようぞ!」
 これに応じたのは善兵衛ではなく種実である。
「そうして僕と二千の兵が城を出てしまえば古処山城は空同然だよ、豊後。道雪がその隙を見逃すと思うかい?」



 古処山城は堅城である。そして、この城のつくりや山中の地形をもっともよく把握しているのは秋月軍。それは間違いない。
 だが、大友軍も短からぬ期間、この山城を手中におさめていたのである。彼らがその間、のんべんだらりと過ごしていたとは考えられない。抜け道や間道の類は一通り押さえられていると見るべきであった。
 おそらく大友軍は城攻めにそこを使ってくるだろう。秋月側に十分な兵力があれば対処できるが、二千もの兵が城を出てしまえばそれもかなわなくなる。


 ようやく得心した大橋が、呆れたようにあごヒゲをひねって慨嘆した。
「……なんと。では、道雪はすべて計算づくで北原めをこの城に寄越したのでござるか」
「そう考えるべきだろうね。先の戦の後で春姉さま(吉川元春)にうかがったところでは、今、道雪の下には雲居某という策士がいるらしい。あるいはこの男が裏で糸を引いているのかもしれない」
 もっとも、策をたてた相手が道雪であれ雲居であれ、それは大したことではないと種実は判断していた。
 その理由を種実は口にする。


「奇襲で宝満城を落としたとはいえ、岩屋城が落ち、立花山城が毛利に攻められている今、筑前に連中の味方はいない。それはつまり補給も援兵も望めないということだ。そこで道雪――あるいは雲居は、古処山城を落として、豊後につながる道を確保しようと考えたのだろう。古処山城にぼくらがいる限り、敵地で孤立した宝満城は立ち枯れるしかないからね」
 だが、正面から古処山城を落とすだけの戦力はない。だからこそ、裏切り者を用いるという小細工を弄してきた。
 そこに思い至れば、相手の限界も見えてくる。


 深江もそれに気がついた。
「となると……向こうにとって、もっとも望ましくないのは、我らがあくまでこの城に篭り続けることですな」
「そのとおりだよ、美濃。大友は小細工を仕掛けてきた。これは正攻法で挑めるほどの兵力はないと自白したも同然だ。ぼくらがこの地にいるかぎり、連中は手も足も出ずに古処山を見上げているしかない。そうしている間にも、立花山城は刻一刻と陥落に近づいていく。隆姉さま(毛利隆元)の文を読むかぎり、あちらももうじき終わりだろう。そして、立花山城が落ち、毛利軍の本隊がこの地にやってくれば、いかに鬼道雪といえどももう為す術はない。ぼくらはただ待っているだけでいいんだ。それが道雪を苦境に追い込む一番の方策になる」


 奇策で宝満城を得た道雪は、かえってそのことで居場所を明らかにした挙句、身動きがとれなくなった。
 種実は道雪を愚かだとは思わない。道雪としては他に手がなかったのだろう。実際、寡兵で宝満城を落とし、どうやってか知らぬが竜造寺に兵を退かせたのは見事というしかない。
(だけど、その抵抗もここまでだ。道雪か、あるいは雲居とやらか、いずれにせよお前らに古処山城は渡さない。隆姉さまと春姉さまが立花山城を落としてこの地に来た時こそ、お前たちの最後だ)
 種実は胸中でそう呟くと、ゆっくりと口を開いた。
 北原鎮久を丁重に城外に送り出すよう命じるために。





◆◆◆





 筑前国 宝満城


 北原鎮久につけた供の者から古処山城における一部始終を聞いた俺は、すべてを聞き終えた後、嘆息まじりに総括した。
「見事だ。完璧に読まれたな、これは」
 すると、眼前の人物――萩尾大学は鋭い眼差しで俺に問いを投げつけてきた。
「やはり、秋月種実を斬るべきだったのではありませんか?」
「それをすれば、あたら勇士を失うことになっていたでしょう。そんな危険を冒すことはできません。ただでさえ、こちらは将、兵ともに不足しているのですから」
 それを聞くや大学はわずかに眉をひそめたが、反論はせずに引き下がった。言いたいことはあるが、今さらくどくどいっても仕方ない、と考えたのだろう。あるいは俺の隣にいる紹運どのや尾山鑑速の目を憚ったのかもしれない。


 今、宝満城の軍議の間には高橋紹運、萩尾大学、尾山鑑速、大谷吉継、丸目長恵、上泉秀綱といった諸将が並んでいた。
 問註所統景については、俺からの要請を伝えるために筑後の居城に戻ってもらっている。
 また、当初の予定では、紹運どのをはじめとした高橋勢は筑後に向かってもらう予定だったのだが、吉継たちが宝満城を落としてくれたので、ひとまず高橋勢もこちらに入城することとした。大学の父である萩尾麟可をはじめ重傷を負っていた者たちも多く、へたに筑後に向かわせるよりはこちらの方が安全だと判断したのである。
 むろん、戦況によっては明日にも襲撃を受けかねないのだが、その時はその時と覚悟を決めるしかなかった。


 いうまでもないが、漫然と戦況の推移を待つなどという悠長なマネをするつもりはない。
 宝満城を得たことで戦況は大きな変化をとげている。俺はその変化を活かすべく、早速謀略にとりかかった。この謀略の肝はいうまでもなく古処山城に北原鎮久を派遣することである。


 鎮久に関しては、裏切り者として処刑されたくなければ協力しろ、と命じるだけで済んだ。このとき、俺が城内にいる鎮久の妻子に言及しなかったのは、鎮久以外の人たちをどうこうするつもりはなかったからだが、鎮久が勝手に誤解するのを止めることもしなかった。
 この使いの任において、鎮久よりもはるかに重要だったのが供を務める者の選定である。なにしろ鎮久には本気で「へたな行動をすれば殺される」と思ってもらわなくてはならない。そうでなければ鎮久の行動に迫真性がうまれない。
 もちろん危険と背中あわせの任であることは言うまでもない。そのため、はじめは長恵に頭を下げて頼むつもりだったのだが、意外にも萩尾大学が名乗りをあげてくれた。


 篭城の最中はあまり役に立てなかったので、とのことだったが、おそらくは俺の品定めという面もあったのだろう。道雪さまから軍配を託された人物のお手並み拝見、という感じだった。
 まあ、理由はどうあれ、大学の剣の腕は紹運どのが太鼓判を押すほどであったし、北原鎮久に重圧をかけるという意味では長恵よりも適任であったから、俺はさして迷うことなく決断を下すことができた。


 かくて北原鎮久は萩尾大学らを供として古処山城に赴き、こちらの思惑どおりに動いてくれた――らしい。
 大学によれば、秋月家の重臣が是非にと望んで供を遠ざけた時があったそうだから、おそらくその時にこちらの秘策(と鎮久が思っていること)を何らかの手段で伝えたと思われる。文字を使えば、室外にいる人間に悟らせずに秘事をやりとりすることはできる。


 しかし、結局のところ、秋月は動かなかった。
 鎮久の難癖に関しては「どうぞご自由に」という態度を貫き、ひそかに山中に潜ませてきた見張りの兵からも、彼らが兵を動かしたという報告は届いていない。ついでにいえば、無礼な疑いをかけてきた鎮久を処断することもしなかった。


 どう見ても、こちらの思惑を読んだ上で静観を選んだとしか思えない。
 先の乱で俺が対峙した時、秋月種実は家名の復興と自身の武功を望んでやまない若武者という印象だった。
 思慮はあれど、自身を制することは難しい。そんな人物が、今回は鼻面に人参をぶらさげてもピクリとも動かない。
 なんというか、明らかに将としての重みが違っている。かつて休松城でちらりと見かけた種実の姿を思い浮かべる。もしかしたらあの秋月の若当主、先の戦いで是が非でも討ち取っておくべき人物だったのかもしれない。



 俺はそう考え、小さく息を吐いた。
「まあ、今さら言っても仕方ない。こうなったからには次善の策にとりかかろう」
「……あっさりと次善の策が出てくるあたり、どうやらはじめから素直に秋月が城を出るとは考えていらっしゃらなかったようですね、お義父さま?」
 吉継はそういって紅い目で俺をじっと見つめてくる。
 その隣では長恵がああやっぱりと言わんばかりにうなずいていた。
「だと思いました。さきほどからまったく落胆した様子がありませんでしたし。それで師兄、貝のごとく城に閉じこもった人たちをどうやって誘い出すのですか?」
 目を輝かせる長恵を見て、大学が目を白黒させている。どうやら想像していた剣聖と、眼前の剣聖の差異にまだ戸惑いが抜け切れていないらしい。まあ、そのうち嫌でも慣れるのは俺自身が経験した道である。しばらくは放っておくしかないだろう。


「期待にそえなくて申し訳ないが、誘い出したりはしないぞ。むしろこのまま閉じこもっていてもらう」
 古処山城は八百メートルを越える標高の山頂に築かれた堅城であり、これを落とすのは至難の業だ。また、この城は地理的に見ても豊後と筑前を結ぶ要衝に位置しており、ここを秋月種実に押さえられていると大友軍の作戦行動が大きく阻害されてしまう。
 だからこそ、俺はこれを奪うべくちょっかいを出したわけだが、その目的は二つあった。
 一つは言うまでもなく種実を城に外におびき出して城を奪うためである。
 これが成功すれば労せずに城をとることができる。
 一方で、これを見破られる可能性も当然のように存在した。


 もし、種実が俺の目的を見破ったとすれば、その時は俺の狙いが奈辺にあるかも見抜かれるだろう。
 宝満城を奪った俺たちにとって古処山城は目の上のタンコブであり、どうしてもこれを除く必要がある。ただし、力ずくでそれをするだけの兵力はない。だからこそ、策をもって何とかしなければならない――そんな裏面を悟ったとき、種実はどう動くか。


 秋月軍は兵力で優る分、山をくだって俺たちと戦うという選択肢もとれるが、それでは誘い出されるのと大差ない。下手に動けばこちらの策略に絡め取られる恐れもある。
 ではどうするか。
 そもそも秋月には、単独で大友家と矛を交えなければならない理由はない。毛利軍が現れるまでじっとしていれば、それだけで確実に勝利できるのである。
 そして、その時がそう遠くないことを種実は知っているはず。
 であれば、種実が『毛利軍がやってくるまで古処山城を守り抜く』ことを選ぶのに何の不思議があるだろう。



 そして。
 それを選んだ時点で、種実の心理には明確な枷が嵌められるのである。『毛利軍が現れるまでいたずらに動くべからず』という枷が。
 俺のもう一つの狙いはそこにあった。



 通常であれば、城を囲む敵軍の数が少なければ、守備兵は城を出てこれを蹴散らそうとするだろう。しかし、古処山城があるのは、はるか八百メートルの山の彼方。城を出て攻め下るだけでも一仕事である。くわえて、そう遠くないうちに現れる毛利軍を待つと決めた秋月勢はいかにも動きがとりずらい。
 そうして秋月軍が山頂に閉じこもっている間、俺たちは安全に古処山周辺を通過できるという次第である。
 豊後との連絡も比較的楽になるし、援軍を招き入れることもできるだろう。ついでに「秋月勢は宝満城を落とした大友軍の猛威にふるえあがり、怯えて山頂に閉じこもっている」とでも流せば、他の勢力に対する示威にもなる。





 ――俺が説明を終えると、長恵が感服したと言いたげに深くうなずいた。
「此方の企みを見破ったがゆえに、秋月は陥穽に落ちざるを得ないというわけですね。うん、なんというえげつなさ。まさに師兄の真骨頂というべきですね!」
「……まさかと思うが、それは誉めているつもりなのか?」
 えげつなさに真骨頂を見出されてもまったく喜べないのだが。
 しかし、長恵は迷う素振りも見せずにもう一度うなずいた。
「むろんです。この長恵、師兄の戦に立ち会うたびに感嘆の念をあらたにしておりますよ」
「ええと、それはどうもありがとう……?」


 いまひとつ納得できないが、向こうが誉めているつもりなのは確かなようなので、首を傾げつつも礼を言う。
 すると、次に口を開いたのは紹運どのだった。
「雲居どのの狙いはわかった。しかし、秋月種実はひとたびこちらの狙いを見破った。ふたたび見破ってくる可能性、決して低くないだろう。秋月軍を古処山の頂に釘づけにすることこそこちらの狙いだとわかれば、すぐにも兵を動かしてくるぞ。雲居どのはこの策略がいつまで効果を発揮すると考えている?」
 いつまでも山頂に閉じこもっているほど種実は愚かではない。
 その紹運どのの言葉は俺にもうなずけるものだった。


「いつ種実どのが気づくかは正直わかりませんが、道雪さまがやってくるまで気づかずにいてくれれば、それがしとしては十分です」
「……たったそれだけでいいのか?」
 紹運どのが目を瞬かせる。
 道雪どのには宝満城が落ちた夜にすでに使者を差し向けているので、おそらくこうしている今も筑前に向かって進軍中であろう。早ければ今日明日にも先陣が到着するかもしれない。
 それまで種実が気づかなければ良い、と俺が言ったことに紹運どのは困惑を隠せない様子だった。


「はい。それがしが一番避けたかったのは、宝満城の異変を聞いた秋月軍が即座に兵を動かすことでした。それが避けられただけでも使いを送った甲斐はあったといえるでしょう。道雪さまがお越しになれば、兵力の上からも秋月軍に劣りません。また、道雪さまの存在は古処山の封鎖をより簡単にするでしょう。その間にできるだけ援軍をかき集め、毛利との決戦に備えます」
 要するに、道雪どのさえ来てくれれば、種実は俺の思惑に気づこうと気づくまいと古処山城から動けなくなる。なので、俺としても別段そこまで種実の思惑を案じる必要はないのである。


 ちなみに問註所統景を居城に返したのは、筑後方面の援軍を工面してもらうためだった。
 竜造寺の撤退や宝満城の陥落、さらには島津との講和等で大友家を取り巻く状況はかなり変化してきている。筑後の国人衆の中にもそれを感じている者は少なくないだろう。彼らを説いてもらって、千でも二千でもいいから援軍を出してもらえれば、と考えたわけだ。
 もちろん豊後にも戦況を知らせる使者は差し向けている。
 これらの援兵にくわえ、宝満城に詰めている高橋勢(今回、返り忠した将兵)をあわせた人数が、現在の大友家の全戦力ということになる。
 いや、正確にいえば、もうひとつ援軍――といっていいかどうかはわからないが、兵を増やすあてはある。そして、古処山城を封じ込める一手はこれにも関わってくるのである。



「お義父さま」
 吉継が気遣わしげに問いかけてきた。
「筑後の立花さま、お義父さまが書状を送られた問註所さま、そして豊後で募兵をしている宗麟さま。これらの援軍を束ねて毛利との決戦に臨む策は理解しました。ただ、その時はどうしたところで古処山城への備えを薄くせざるをえなくなるでしょう。道雪さまが毛利と対峙すれば、秋月が動き出すのは必至です。それをおさえようと思えば、かなりの兵を古処山にまわさねばなりません。ですが、毛利との決戦を前にそれだけの兵力を他所に割くのは、今の大友軍にとって致命傷になりかねないのではありませんか。かといって、古処山の備えを薄くすれば、これを秋月に破られ、毛利との決戦の最中に後背を撹乱される恐れがあります」
 その吉継の言葉に、紹運どのや秀綱どのがうなずくのが見えた。
 実際、吉継が言っていることは正しい。
 どれだけ楽観に楽観を重ねても、援軍をかき集めた大友軍の総数が二万を越えることはありえない。毛利軍の半分以下、下手をすると三分の一、四分の一くらいになる恐れもある。そんな状況で古処山に兵を割けば、それは確かに致命傷になりえるだろう。


 それを避けるためには、どうあれ古処山城を奪わなくてはならない。
 一番簡単なのは、ある程度の兵数が集まったところで古処山城を力ずくで落としてしまうことである。
 もちろん犠牲は避けられないが、毛利との決戦の最中に後背を気にするよりはマシであるといえよう。


 ただ、もう一つ手段がないわけではない。


 吉継が怪訝そうに眉をひそめた。
「もう一つ、とは?」
「なに、決戦の最中に後背に危険を抱えたくないのは相手も同じということだ。こちらは古処山。相手は立花山。こちらがそう考えているように、向こうも決戦の前にこれを何とかしてしまいたいと考えているんじゃないかな?」
 それで俺の言わんとしていることを悟ったのだろう、吉継は目を見開いた。
「…………もしかして、お義父さまは毛利に城を交換しようと持ちかけるおつもりですか!?」
「うむ。まさにそのとおり」


 俺がうなずくと、あたりは一瞬にして静まり返る。
 そのおかげだろうか。急ぎ足でこちらに向かってくる足音を、俺ははっきりと聞き取ることができた。




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第十章 天昇(十五)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:b69c86d5
Date: 2013/12/21 21:46

 筑前国 宝満城


 宝満城には徐々に兵が集まりつつあった。
 といっても、これは俺が画策した援軍ではない。先に毛利軍の計略によって城を落とされた際、力及ばず城外に逃げ延びた兵たちが、大友軍が宝満城を奪還したことを知って帰参しつつあるのだ。
 これに先の戦いで返り忠した兵を含めると、なんとか一千を越える軍ができあがる。
 岩屋城で最後まで戦い抜いた四百を加えれば更に増えるが、さすがに彼らを今すぐ用いることはできないので数には含めていない。
 中には紹運どのや萩尾大学のように進んで戦力になろうとしてくれる奇特な人たちもいたが、それはあくまで例外であった。


 この戦いが始まった当初、宝満城と岩屋城にはあわせて五千を越える兵が立てこもっていた。
 それが今や一千たらず。むろん、ここにいない将兵がすべて戦死したわけではないが、岩屋城だけを見ても戦死者の数は千を越えている。この短い期間にどれだけ激しい戦いが繰り広げられたのか、この一事だけでわかろうというものであった。
 しかも、今なお戦いは終わっていない。今後、どれだけの数の将兵が倒れることになるのか、今の時点では推測のしようもなかった。




「――ところで師兄、ひとつうかがいたいのですけど」
「む、なんだ?」
 先刻、道雪どのから届けられた書状に改めて目を通していると、長恵がなにやら思案顔で問いかけてきた。
 場所は城内の一室で、俺の隣には吉継と長恵の二人が控えている。
 ここにはいない人たちの動向をいっておくと、紹運どのと、紹運どのの家臣である尾山種速、萩尾大学の両名は兵の再編成に取り掛かっている。
 もうひとり、秀綱どのには城外に出てもらっていた。これは毛利その他の諸勢力の動きを警戒してのものであるが、危険を分散する意味もある。
 宝満城は古処山城と同じく山の頂きに位置する城である。標高も古処山と似たようなもので、つまり長所も欠点も古処山城と酷似していた。立てこもって守る分には良いが、いったん山頂に閉じ込められてしまうと身動きがとれなくなってしまうのである。


 今、たとえば毛利あたりが一軍を派して宝満城を急襲してくる可能性は否定できない。その時、俺たちは否応なしにこの城で防戦しなければならないわけだが、そうなると各地から集まってくる援軍を統括する者がいなくなってしまう。それでは各個撃破の良い標的である。
 そんなわけで、もしも敵軍が襲ってくるようなことがあれば、秀綱どのは城に戻らず道雪どのの軍に行ってもらい、預かっていた軍配をお返しする旨を伝えてもらうことにしていた。
 まあ道雪どのであれば、たとえ俺からの使者が来なくてもなんとかしてのけるだろうが、俺が打った幾つかの手を伝えておく必要もあるのだ。書状だけでは伝えきれないこともあり、そのあたりを秀綱どのから道雪どのに伝えてもらえば、俺が宝満城に閉じ込められたとしても、その後の動きはスムーズに進むだろう。



 それはともかく 長恵が訊きたいこととは何だろうか。
 だいたい想像はつくけれども。
「立花山城と古処山城の交換、どれほどの成算がおありなのですか?」
「やっぱりそれか」
「訊かないわけには参りません。戸次さまと師兄を仲良しにするという我が野望、まだ果たし終えていないのですから」
「……なんとも遠大な野望ですね」
 ぼそりと呟いたのは俺ではなく吉継である。
 俺はといえば、高千穂遠征からこちら、長恵が俺と誾のことを何かと気にかけてくれているのを知っていたので何とも言いようがなかった。
 気にかけてくれるのはありがたいが、その方法はといえば、いきなり試合を挑んできて、それを隠れている誾に見せるとかいうよくわからないやり方だったりするので、素直に感謝もしづらいのである。


 まあ長恵の理由はどうあれ、城交換自体については吉継も気にしているっぽいので、簡単に説明しておこう。
「そうだな、成算はある。五分五分よりも少しは良いだろうな。六分四分といったところか」
「して、その心は?」
「理由は幾つかあるが、まず城の価値はいうまでもなく立花山城が優る。立花山城を支配することは博多津を支配することと同義だ。これを交渉で手に入れられるわけだから、向こうにとっても悪い話ではない」
 俺の言葉に長恵と吉継が同時にうなずいた。


 続いて、吉継が問題点を挙げる。
「気になるのは毛利軍がどれだけ城攻めを進展させているか、ですね。すでに立花山城を落とす目算が立っている場合、毛利が交渉に応じる必要はありません。自力で立花山城を落としてしまえば良いのですから」
 それを聞いた長恵はおとがいに手をあて、自分の考えを述べる。
「姫さまの仰るとおりかとは思いますが、以前にうかがったところでは、先の戦いで毛利の両川は危険をおかして秋月の当主どのを救いにいらっしゃったのですよね。敵中に孤立した秋月どのを放っておくことができますか?」
 大友軍はしばらく前まで古処山城を支配していた。当然、城内の防備や周辺の地形を把握しているわけで、いくら城の守りが堅くても相応の兵力を投入すれば落とすことは不可能ではない。そして、毛利との決戦を控えた大友軍が古処山城の奪取に注力することは十分に予測できるはず。種実を失いたくない毛利軍が交渉に応じることは十分にありえる、と長恵は言った。


 それを聞いた吉継が軽く目を瞠る。
「……長恵どのらしからぬご意見ですね」
 丸目長恵という人物、以前はもっと事態を簡明に割り切って捉えてはいなかったか。
 そんな吉継の疑問に対し、長恵はしれっと応じた。
「姫さまほどではありませんが、私もそれなりに師兄の影響を受けているのです」
「なるほど、納得しました」
 え、納得するの? と驚く俺に吉継が一言。
「何か仰りたいことがおありですか?」
「……いえ、何にも」
 言いたいことはあったが、どう言えばいいのかわからなかった俺は、話を先に進めてごまかすことにした。


「二人がいま言ったことはいずれもしかり、だ。付け加えるなら、毛利は他にも気にしなければいけないことがある。将軍家の動向だ」
 その言葉に吉継は眉をひそめ、長恵は目を瞬かせた。
「お義父さま、今この時、毛利が将軍家の動向を気にする理由は何でしょうか。先に毛利は『大友と和睦せよ』との将軍家の意向に逆らいました。その意味では確かに将軍家の動きを気にかけてはいると思います。しかし、此度、毛利はそれを承知の上で大軍を催して攻めてきたのです。これは将軍家が動かない、ないしは動けないと見切った上でのことでしょう。その毛利が今さら京の動きを――――いえ、まさか」
 途中で不意に言葉を途切れさせた吉継は、唇に繊手をおしあてるようにして何やら考え込んだ。
 そしておもむろに上目遣いで俺を睨むや、棘を含んだ声で詰問してくる。
「もしや、先に私と長恵どのに豊後で勅使の件を触れて回らせたのは、このためもあったのですか?」
「はじめから意図していたわけではないが、結果としてそうなったのは事実だな」
「……そういうことをなさるから、お傍にいる私たちが影響を受けざるを得ないのだと自覚していただきたいものです」
 そういうと吉継は、はぅと小さく溜息を吐いた。
 

 どういうことかというと。
 以前、俺は吉継たちにこう命じた。筑前に赴く際、豊後を通って勅使の到来を触れて回るように、と。
 これは将軍家と大友家の繋がりを強調するためだった。将軍さまはムジカを建設した宗麟さまを許し、今なお深く信頼している――そう広めれば、動揺する大友家臣団を静める一助となるだろうと考えてのことである。
 この話は大友と島津の講和という事実(正確には、話を広めた段階ではまだ講和は結ばれていなかったが結果的に事実となった)を元にしているだけに、上下を問わず豊後の人々の口に膾炙したことだろう。


 必然的に、豊後の情勢を探っていた毛利家の耳にも入ることになる。


 長恵がパチンと両手を叩いた。
「なるほど! 将軍殿下が勅使を遣わされたのは越後の方々の御芳志あってのこと。けれど、毛利家はそんなこととは知らないわけですから――」
 長恵の言葉を、疲れた顔の吉継が引き取った。
「当然、別の解釈をしますね。将軍家が大友を助けるために本腰をいれてきたのではないか、大友と島津を講和させた勅使はその魁なのではないか、と。そこにきて竜造寺軍の撤退です。大友を嫌ってやまない竜造寺が、窮地にあるはずの敵にとどめをさすことなく、かえって兵を退いた。内実を知らない毛利が、そこに将軍家の意思を感じとっても不思議ではありません」


 将軍家は大友家を助け、かつ意に従わない毛利家を討伐するために包囲網を築きつつあるのではないか。
 毛利家は強大であるがゆえに敵も多い。出雲の尼子家や備前の浦上家、瀬戸内の海を介して伊予の河野や近畿の三好らとも利害関係を持っている。
 彼らにしてみれば、毛利が北九州を制してこれまで以上に強大になられては困るのだ。そこに将軍家が毛利討伐のお墨付きを与えれば、事態はたちまちのうちに血の色を帯びてくる。
 毛利軍の主力が遠征中とあれば尚のこと、野心をかきたてられる者もあらわれるだろう。


 ――まあ、実際には毛利も遠征にあたって背後に注意しているはずなので、そこまでひどい事態にはなるまい。主力部隊の大半が不在とはいえ、当主である毛利元就は安芸本国で周囲に睨みを利かせているわけだし。
 しかし、である。
 俺は一連の話をまとめにかかった。
「ただ、将軍家が動き出せばそうなる可能性がある。これは無視できることじゃない。毛利としては筑前制圧に時間をかけたくはないだろう。城の交換がこれに寄与すると思えば、強いて拒むことはしないんじゃないかな」
 なにしろ、毛利軍が兵力でこちらを圧倒しているのは動かない事実である。城を交換すれば、こちらには立花山城の守備兵が加わるわけだが、向こうにも秋月勢が加わるから戦力比はほとんどかわらない。
 その上で一箇所にまとまった大友軍を野戦で叩き潰してしまえば、古処山城はもちろん宝満城もあっさり取り返すことができるわけで、毛利としてはむしろ願ったりであろう。
 



「そういった判断にくわえて、立花山城の有用性や秋月種実の存在を思い合わせると、毛利隆元が城の交換に応じてくれる可能性はあると俺は踏んでいる。それが成算ありと答えた理由だ」
 俺が話を終えると、長恵はぺこりと頭を下げた。
「話していただき、ありがとうございます。そうそう、あと師兄が毛利軍に赴く際には是非ともお連れくださいますよう、ここでお願いしておきますね」
「……あれ、それについてはまだ一言もいってないはずなんだが?」


 俺が首をかしげると、吉継が溜息まじりに教えてくれた。
「これまでのお義父さまの行いをかえりみれば誰でも予測できます。道雪さまがお着きになったら、そこで腰の刀をお返しして、その足で毛利軍に赴くおつもりだったのでしょう?」
「をを、そのとおり。城交換の時といい、最近の吉継の洞察力は目を瞠るものがあるな」
「以前よりもお義父さまの性向が理解できるようになっただけです」
「俺の性向とな?」
「飛んで火に入るなんとやらではありませんが、お義父さまは一番厄介なところにこそ飛び込んでいかれます。しかも自覚してやっているあたり、余計に始末に負えません」
 吉継はそういうと、俺を見て困ったように笑った。
「そんなお義父さまに救われた身としては、そこをつつくのは天に唾するようなものなのですけれどね。長恵どのもしっかりと見抜いてらっしゃいましたし、私と同意見なのではありませんか?」
 吉継に水を向けられた長恵は、うーんと首をひねった。
「私の場合、姫さまと違って『こうしてくれれば面白いな』と思うことが、師兄の行動とよく重なるんですよね」
「……なんという似た者主従。本当にこの人たちときたら、もう」
 吉継はなにやらぶつぶつと呟いた後、地の底に達しそうなくらい深い溜息を吐く。
 それを見た俺と長恵は視線をあわせ、わけもわからず首を傾げるしかなかった。




◆◆◆




 筑前国 立花表 毛利軍本陣


 高橋鑑種による交渉が失敗に終わったことで、毛利軍は立花山城総攻撃の準備に取り掛かった。といっても、攻囲が始まってすでに一月近く。準備といっても、具体的には総攻撃の日時を取り決めることくらいしかすることはなかったのだが。
 そんな時、別働隊を率いていた小早川隆景が本陣に姿を見せる。
 先触れもなしに姿を見せた隆景を見て隆元と元春はおおいに驚いたが、同時に凶報の兆しを感じ取って眉を曇らせた。
 はたして二人の予感はあたり、大友家と島津家が将軍の勅使によって講和を結んだことを知るに至る。
 三姉妹は本陣の奥で額をつきあわせ、改めて互いの情報を交換して今後の対策をたてなければならなかった。


 はじめに口を開いたのは元春である。 
「ここにきて公方が動く、か。隆景、大友と島津が勅使によって講和を結んだという話、どれほど信頼できると見る?」
「ただの噂ってわけじゃないね。はじめは国内を落ち着かせるための策かと思ってたんだけど、しばらく前から豊後の様子がおかしいんだ。これまで進んで情報をくれていた人たちが、急に及び腰になったりとか、色々と」
「ふむ。風見鶏は自身が軽いゆえによく風向きを読む。彼らの中で風が変わったと感じる出来事があり、それが勅使であったということか。となると、もしや竜造寺のことも、これに絡んでくるのか」


 元春の言葉を聞いた隆景が首を傾げた。
「春姉、竜造寺のことってなに?」
「竜造寺が筑前から兵を退いた」
「それは筑後に攻め込む準備をするためじゃないの? 岩屋城を落としたんなら、もう筑前に攻め取れる大友領は残ってないし」
「それとほぼ同時に、宝満城が大友軍に奪い返されたのだ」
「はいッ!? それすごい重要なことじゃないか。なんでぼくに知らせてくれなかったの!?」
 気色ばむ隆景を見て、隆元が慌ててなだめにかかる。
「あ、あの隆景、落ち着いて。もちろん知らせようとしたよ。ていうか、知らせたよ。ただ、その使者が隆景のところに着く前に、隆景がこっちに来ちゃっただけなの」
「……あ、ああ、そっか、すれ違っちゃったのか。つまり、隆姉たちが知って、まだ間もないってこと?」
「うん、そういうことだよ」
「そ、そうなんだ。ええと、早とちりしてごめんなさい」
 ぺこりと頭を下げる隆景を見て、元春はそれとわからないくらいかすかに肩をすくめた。


 今回の戦、元春は隆元と行動を共にしているが、隆景は別行動になっている。作戦上、仕方ないこととはいえ、隆景にとっては面白くなかったのだろう。その不満が小さな誤解に繋がったことを元春は悟ったが、それを真っ向から指摘すれば隆景がふくれっ面になってしまう。
 平時なら、あえて妹をからかうことも辞さない元春だが、今はそんな楽しみに興じている暇はない。
 そう思い、戦況説明を続けた。
「落ち延びてきた兵によれば、敵はきわめて少数だったとのことだ。はじめは竜造寺が大友兵を装って宝満城を強奪したのかと考えたが――」
「それなら竜造寺が兵を退くはずないもんね。ん? でも大友が城を奪ったなら、かえって竜造寺にとっても好機じゃないかな。大友から奪い返せば、ぼくたちに城を返す必要はなくなるわけだし。ぼくならすぐに宝満城に攻め込むんだけど?」
「今のところ、その気配はない。次の報告でどうなるかはわからないがな」


 それを聞いた隆景は与えられた情報を咀嚼するため、しばしの間、考えに沈む。
 やがて顔をあげた隆景の目には怜悧な光が宿っていた。
「確認なんだけど、竜造寺は岩屋城を落としたの?」
「落城寸前まで追い詰めていたことは間違いない。ただ、宝満城が襲われた時点では、まだ陥落してはいなかった。城が奪われた後、一部の兵は竜造寺に助けを求めようとしたそうだが、その時には竜造寺軍の陣地はすでにもぬけのからであったそうな。そして、岩屋城からは派手に火の手があがっていた」
「竜造寺軍が総攻撃に出たってわけでもないんだよね?」
「うむ、岩屋城には喊声ひとつあがっておらず、ただ静かに燃え落ちていくだけだった、と報告した兵は言っていた」
「…………話を聞くかぎり、大友と竜造寺の間に何かの約定ができてたとしか思えないんだけど、ぼく?」
「まったく同感だ。その約定が我らに不利益をもたらすものであることも間違いあるまい」
 元春はそう言うと、だが、と続けた。
「これまで一貫して大友に敵対していた竜造寺が、ここでいきなり態度を翻す理由がわからなかった。毛利の強勢を警戒して、というのであれば、そもそも我らと組んで大友を潰そうとはするまい」


 ここにきて、隆景はようやくはじめに元春が口にした「もしや竜造寺のことも、これに絡んでくるのか」という言葉の意味を理解することができた。
 そして、その理解は言い知れぬ戦慄を伴っていた。
「……つまり春姉はこう考えたんだ。将軍家は大友と島津を講和させただけじゃなくて――」
「大友と竜造寺をも講和させたのではないか。そう考えた。ただ、だとしても解せない点がある」


 元春が隆元に視線を向けると、隆元はこくりとうなずいた。
「公方様が本気で毛利の力を削ごうとしているなら、島津や竜造寺はもちろん、今、わたしたちに協力してくれている国人の人たちのところにも使いをお出しになっていると思うんだよね」
 豊前や筑前の国人衆が敵にまわれば、兵力はもちろん、補給その他の面でも毛利軍は苦境に陥ることになる。もちろん将軍家の使者が来たからといって、国人衆全員がいきなり毛利に敵対するはずもないが、それでも使者を差し向けるだけなら大した労力ではない。将軍が試さない理由はないだろう。
 だが、将軍がそうした行動をとった形跡はない。宝満城の陥落と竜造寺の撤退を知った国人衆の中には動揺している者も見受けられたが、ほとんどの国人衆はこれまでとかわりなく毛利に協力してくれている。動揺していた者たちにしても、夜陰にまぎれてひそかに陣を離れたりはしていなかった。


 腕組みをした元春が、陣幕の天井を睨みつつ口を開く。
「詮ずるところ、公方の使者は国人衆のところには来ていないと推測できる。かといって、竜造寺の不可解な動きが彼ら自身の思惑であるとも考えにくい。島津にしたところで、今の死に体の大友と講和を結ぶ利益がどこにあったのやら。立花どのが居城におられぬことも気にかかる。どうも、なにか得体の知れない思惑が動いているように思えてならん。毛利に大友、島津に竜造寺、はては公方すらも飲み込んでな」
「……例の雲居って人かな?」
「そうかもしれんが、しかし、それにしては動きが大きすぎはしまいか。あの御仁がどれほどの智略の主であろうと、ただひとりの力でここまでの動きができるとは思えん」
「だよねえ。前に会った時から多少出世したみたいだけど、別に加判衆に取り立てられたわけでもないんだし」
 むむ、と考え込む元春と隆景。


 そんな妹二人を前に、隆元は決意を込めて口を開く。
「問題なのは、この動きが明らかに大友家に利していることなんだよね。実際に動いたのが二人がいう雲居って人なのか、それともそれ以外の誰かなのかはわからないけど、その人の目的が大友家を助けることにあるのは確かだと思う。そして、それは南蛮を助けることにも繋がっている。この動きを画策している人がそれをわかっていないなら大変だし、わかっていてやっているならもっと大変」


 ――なんとしても、止めないと


 そう口にする隆元の顔に紛うことなき戦意が宿り、二人の妹は同時にうなずいた。
 大友の強勢は南蛮神教の拡大を意味し、南蛮神教の拡大は南蛮国の侵略を呼びこむ。ゆえに、大友家と和睦するという選択肢は絶対にとれない。
 もとより戦力では優っているのだ。策を力で押しつぶす、そういった戦い方は可能であった。


 地図を広げた隆景は、まず肥前を指差した。
「まずは竜造寺に使者を出して真意を訊かないとね。共同作戦の最中に勝手に兵を退いたのは、ある意味ぼくらに対する裏切りでもあるわけだし。単に様子見をしているだけならともかく、大友側につくつもりなら、こっちも相応の態度を示さないといけない」
「使者はすでに差し向けている。あくまで事情を問うためであって、過激な末姫どののように脅迫まがいの言辞を弄しろとは命じていないが」
 隆景は不満げに頬を膨らませた。
「ここは強気で行くべき場面だと思うけどね。まあそれはいいや。問題は次。古処山の種実くんだよ」


 そういって隆景は次に古処山城を指差す。
「宝満城が奪われたってことは、種実くん、孤立しちゃったことになるよね。大友としたらここを落として豊後との連絡を確保したいだろうし、ちょっと危ないかも」
「確かにな。古処山はそう簡単に落ちる城ではないが、大友に支配されていた城でもある。兵力を集中されたら危険だろう。立花山城の攻略を急ぐ必要がある」
 元春がそう応じると、隆景が一つの策を提示した。
「いっそ、ここで兵を二手に分けたらどうかな。兵の分散は避けるべきだけど、今のぼくたちなら問題はないよ。宝満城を落とした大友軍は少なかったんでしょ? 一万も出せば楽に包囲できるし、そうすれば種実くんと連携することもできる」
「ふむ、それは一案かもしれんが、ただ、下手に兵を割くと立花山城の者たちが勢いづいてしまうぞ。千や二千ならともかく、一万もの兵が動けば間違いなく気づかれようし、気づけば士気もあがろう。援軍が来た、とな」
「どれだけ士気があがっても、渇いた喉は潤せないよ」
「一刻の延命が一度の雨を招くこともありえる。二兎を追うのは避けるべきではないか。全軍で立花山城を落とし、その上で宝満城に押し出せば大友軍は為す術があるまい。種実には一時的に孤立を強いることになるが、それも長いことではない。あれもれっきとした武将だ、その程度のことで弱音を吐いたりはせぬだろう」
「まあ弱音は吐かないだろうけどさ――ああ、でも大友軍が少ないってことは、種実くんだけで対処することもできないわけじゃないってことか。案外、ぼくたちがどうこうする前に種実くんがなんとかしちゃうかもねー。可愛い子は千尋の谷に突き落とせっていうし」
「そのような格言は初耳だ。まあ、これが並の敵将相手ならば種実の器量に期待するのもよかろうが、やはり気になるのは立花どのの所在が知れぬことだ。我らとて兵数に開きがなければぶつかれぬ相手。種実の手勢のみであたるのは厳しかろう」


 妹たちが話し合っている間、隆元は自分から発言することなく、じっと話に耳を傾けていた。
 元春と隆景が論を戦わせ、それをじっくりと聞いた隆元が熟慮の末に決断を下す。
 毛利の軍議ではめずらしくもない光景であり、このやり方で毛利は多くの勝利を重ねてきた。
 今回もその例に倣えますように。
 隆元がそんなことを考えていると、妹たちのものとは異なる声が耳に飛び込んできた。
「申し上げます、隆元さま」
「何事ですか?」
 兵の声に緊張がないので敵襲というわけではないだろう――その隆元の考えはある意味で正しく、ある意味で間違っていた。


「後陣の桂さまより報せがあり、大友の使者を名乗る者が参ったとのこと。その者、雲居筑前を名乗り、供の者は二名のみ。どのように処するかお指図を願うとのことです」




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第十章 天昇(十六)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:390a4c8a
Date: 2013/12/24 23:11

 筑前国 立花表 毛利軍本陣


 大友軍の使者 雲居筑前が訪れた際、毛利軍の中ではこれを受けて多少の悶着が起きた。
 戦場で機会があれば、真っ先に毛利隆元を狙う――先の戦いで雲居がそう口にしたことを『毛利の両川』吉川元春と小早川隆景は克明に記憶しており、その雲居と隆元を対面させることを警戒したのである。
 両川に警戒を強いたのは雲居の言動だけではない。
 雲居が連れて来た二名の供を見た一部の兵士が、顔色を蒼白にして騒ぎ立てたのだ。あの二名こそ宝満城襲撃の先頭に立ち、お味方を斬って斬って斬りまくった猛者たちである、と。


『城を焼く炎に照らされ、舞うがごとくお味方を斬り散らす姿は夜叉に似て、しかもそれが二人。自分はただただ逃げまどうことしかできなかった』


 宝満城から落ち延びてきた兵士のひとりは声を震わせて元春に注意を促した。
 この兵士の話を聞いた元春は、当初、大げさに過ぎると内心で眉をしかめていた。戦で不覚をとった者が敵を称揚することで失態を取り繕おうとするのはめずらしいことではない。
 しかし、元春の目から見ても兵の怯えは本物に見えた。多少形容が過剰であったとしても、件の供の者たちが宝満城攻めで奮戦したことは事実なのかもしれぬ。
 考えをあらため、念のためにとみずからの目で確かめにいった元春は、兵の言葉が偽りではないことを知るに至る。



「夜叉かどうかはさておき、少なくとも私が一対一で勝てる相手ではないな。あの二人によって斬り倒された者は両手両足の指をつかっても数え切れぬ、と兵たちは言っていたが、なるほど、それくらいはやってのけるだろう。人品骨柄も卑しからぬ。今の大友にあのような人傑がいるとは思わなかった」
 本陣に戻ってきた元春が姉妹に報告すると、妹の方が噛み付いてきた。
「何をのんびり感心しているのさ!? 春姉が勝てないってことは、家中に勝てる人がいないってことだよ。機会があれば隆姉を狙うって言ってた奴がそれだけの手練を二人も連れて来た。どう考えたって危険でしょッ!」
「むろん危険だ。会う会わないは姉上のご判断次第だが、会うにしても供の者は遠ざけ、雲居のみを招くべきだな。むろん腰の大小はとりあげて、だ」


 かつて元春と隆景が大友軍を訪れた際、敵将である道雪は二人の大小を取り上げずに本陣に招き入れた。そのことを思えば、これはいささかならず情けない物言いである。元春はそのことを重々承知していたが、たとえ毛利の威厳に傷がつこうとも、ここは慎重に事を処す必要があると考えた。
 相手は仮にも九国探題の使い、交渉の席で無謀な行いをするとは思えないが、もしもここで隆元を失えば、この合戦はもちろんのこと、毛利家そのものが暗雲に包まれてしまう。念には念を入れるべきであった。


 隆景もまた元春と同じ憂いを共有していたが、隆景の出した結論は元春よりもさらに徹底していた。
 そもそも大友家の使者と会う必要などない、と隆景は主張したのである。
「どうせ戦うしかない相手なんだし、変に耳を貸したりしないで一気に叩き潰すべきだと思う。使者をとらえたり、討ち取ったりすれば、それは毛利の恥になるけど、追い返す分には何の問題もないでしょ。『当方は南蛮の言葉など解さぬゆえ、お引取り願おう』とか言えば、皮肉もきいてて良い感じじゃない?」
 隆景の本音をいえば、隆元を狙うと宣言した相手なぞここでまとめてひっとらえるか、いっそ数に任せて(鉄砲でも可)鏖殺してしまいたいところである。
 だが、さすがにそれは外聞が悪すぎる。現在、毛利に従っている国人衆の間に動揺がうまれるだろうし、これから先の統治にも悪しき影響を及ぼしてしまう。
 ゆえにそこまではしないが、だからといってここで隆元を危険に晒す必要もない。
 さっさと追い返すにしかず、と隆景が主張する所以であった。


 

 元春と隆景の主張はそれぞれに理があった。普段の隆元ならばどちらかの意見を採ったであろうし、たとえ二人と異なる決断を下すにしても、二人の意見を等閑にすることはなかっただろう。
 むろん、この時も隆元は二人をないがしろにしたわけではない。真剣に二人の話を聞いたし、内容もうなずけるものばかりと感じていた。
 だが、結論だけを見れば、隆元は妹たちの意見を真正面から蹴飛ばした格好になる。
 すなわち、雲居と供の者たちを本陣に招き入れるように。武装もそのままでよし。それが隆元の出した結論だったのである。


 さすがにこれは予測できなかったのか、元春も隆景も唖然とした。
 隆景は大慌てで反対を唱え、元春は慌てこそしなかったが姉に再考を促した。が、隆元は頑としてうなずかない。二人に理由を訊ねられた隆元は、次のように応じた。
「私が知りたいのは、今、大友の軍略を司っている人が南蛮のことをどう考えているのか、そこなんだ。雲居どのがその人なのかはわからないけど、今ここで姿を見せたってことは、たとえ彼自身がそうではないとしても、大友軍の中心にとても近いところにいる人なんだと思う。だから、どうしても話を聞きたい。もっといえば、腹を割ってお話がしたい。武士から刀を取り上げるなんて手足を縛りつけるようなもので、手足を縛り付けておいて『腹を割って話しましょう』なんていっても笑われるだけでしょう?」


 たしかに危険はあるけど、でも大丈夫。こう見えてもあなたたちのお姉ちゃんなんだから。
 隆元はそういって、妹たちの不安を払うように笑いかけたのである。
 



◆◆




 隆元さまがお会いになる。
 毛利兵からそう伝えられた俺はおもわず首をひねってしまった。
「ひと悶着あるものと覚悟してたんだけどな」
 九国に侵攻してきた毛利軍の総大将は毛利隆元。そして、俺はその隆元を毛利家中でもっとも危険視している旨を両川に言明してしまっている。
 その俺が使者として訪れたのである。最悪、門前払いされる可能性さえあった。というか、俺が毛利軍にいたら間違いなくそうするよう主張していただろう。


 しかし、現実は予測とは正反対。多少待たされたのは確かだが、それも四半刻程度のことで、現在の大友と毛利の関係を考えればほぼ即決といってよい早さで俺は本陣に招きいれられた。秀綱どのと長恵も一緒で、しかも腰の刀はそのままいいという破格の扱いである。
 毛利軍には宝満城から落ち延びた兵もいるはずで、二人のことは伝わっているはずだ。それでなくても、多少なりと腕に覚えがある者であれば、この二人の腕前は容易に推し量ることができるだろう。
 にも関わらず、この扱い。
「豪胆なのですね、毛利の方々は」
 秀綱どのの囁きに俺は深くうなずく。まったくもって同感であった。



 九国に来てからの秀綱どのは俺のやることに口を差し挟まず、頼んだことはほぼ無条件ですぐに受け容れてくれた。
 その秀綱どのがはじめて希望を口にしたのが今回の同行である。
 実を言うと、俺ははじめから秀綱どのに同行を頼むつもりだった。毛利との交渉では京とのやりとりを証し立てる必要が出てくるかもしれず、その証人として秀綱どの以上の人はいないからである。
 ただ、前述したように俺は間違いなく毛利軍――なかんずく両川に敵視されているはずなので、今回の使いが危険であることは言をまたない。そのため、俺は秀綱どのにどう切り出したものかと頭を悩ませていた。断られるかもしれないと案じたのではない。その逆だからこそ、かえって頼みづらかったのだ。
 あにはからんや、向こうから同行を望んでくれるとは。


 ――秀綱どののことだから、もしかしたら俺が考えていることを察した上でそうしてくれたのかもしれない。
 以前、稽古をつけてもらったこともあり、謙信さまや政景さまとは違った意味で秀綱どのに頭があがらない俺だが、今後、ますますその傾向に拍車がかかりそうな気がする今日このごろである。


 と、俺がそんなことを考えているすぐ後ろでは、長恵が楽しげに師の言葉にうなずいていた。
「噂にたがわず、というところですか。楽しみなことです」
 世評に名高い毛利一族の顔を見られるとあって長恵は嬉しそうである。周囲ことごとくこれ敵兵なり、という状況でニコニコしている長恵は、きっと毛利一族とおなじくらい豪胆であろう。
 そういえば、と俺は以前長恵から聞いた話を思い出す。
 島津家久に敗れた長恵は、当初は毛利家に参じるつもりであったという。先の筑前での戦の趨勢を見て考えを改めたそうだが、これから行く先に長恵が待ち構えているという未来もありえたわけで、それを思うと不思議な気分になる。
 まあ長恵がいなければ、今日この場に俺が立っていられたかどうかも怪しいので、その意味では無意味な仮定であるわけだが。




 そうこうしている間に俺たちは目的の陣幕にたどり着いた。
 俺たちの到着を告げる声に応じて「お通ししてください」という声が返ってくる。
 力みのない、穏やかな声。それでいて、しっかりとした芯が感じ取れる。俺は両川の声を知っているのだが、ふたりのいずれでもない。となると、これが毛利隆元の声か。
 そんなことを考えながら、俺は陣幕の中に足を踏み入れた。



◆◆



 陣幕の中は驚くほど静かだった。
 というのも、毛利側には三姉妹と警護の兵以外、ほとんど人がいなかったからである。毛利の諸将や国人衆がずらりと居並んでいるところを想像していた俺にとっては、やや予想外の光景だった。待たされた時間は諸将の召集に要したものかとも思ったが、どうやらそういうわけではなかったらしい。
 ざっと周囲に観察の視線をはしらせた俺は、視線を陣幕の中央に向ける。
 そこに座すのは吉川元春と小早川隆景の両名。
 豊後方面に展開しているはずの隆景がどうしてここにいるのか、と俺は疑問に思ったが、すぐにその疑問を振り払って最後のひとりに注目した。


 ――失礼を承知で忌憚のないところを言わせてもらうと、隆元に対する俺の第一印象は、なんか地味な人だな、というものだった。


 これは隆元への軽侮が招いた感想ではない。
 俺は元の時代の知識や、これまで見聞きした毛利家の動静から、隆元に関しては元就と同じか、それ以上に注意を要する人物だと考えている。
 だが、そんな俺の目から見ても、この三姉妹が並べば妹たちに目を向けざるを得ない。
 元春からは衆を圧する威厳が感じられる。
 隆景からは腹の底まで見透かされそうな怜悧な視線が注がれている。
 この二人と並べば、隆元は明らかに影が薄かった。牡丹と百合とタンポポが並んで咲いていれば、大抵の人は牡丹か百合に目を引かれるのではあるまいか。


 ただ、上記の感想はあくまでもぱっと見の第一印象である。
 あらためてよく見れば、隆元もまた一個の人物であることは明らかだった。
 長く艶やかな髪、形良く整った目鼻立ちに桜色の唇。優しげな顔立ちとあいまって、綺麗、美しいという表現よりも可愛いという方がしっくりくる。
 長女ということを考えると隆元としては微妙な評価かもしれないが、とにかく器量良しであることは間違いない。
 そして、此方を見据える眼差し。
 元春や隆景のような鋭さは感じられない。かわりにあるのは落ち着きと、それを支える意志の強さだった。


 温和な人ではあるだろう。だが、決して温和なだけの人ではないと、そう感じられる。たぶん、この人は必要とあらば陣頭に立つことも、策略で敵を陥れることもためらうまい。落ち着いた物腰の奥に、誰にも譲り得ぬ堅い意志を垣間見ることができた。


 その隆元の口がゆっくりと開かれ、さきほど耳にした声音が再び耳朶を震わせる。
「お初にお目にかかります。私は毛利隆元と申します」
 簡潔な挨拶はこちらに対する警戒心のあらわれか、それとも単にそういう性格の人なのか。
 ぺこりと頭を下げる隆元を見るに疑いなく後者であるような気がするが、ともあれ俺も隆元にならって頭を垂れた。
「お目にかかれて嬉しく思います、隆元さま。大友家臣、雲居筑前と申します」
 言い終えて顔をあげると、こちらをじぃっと見つめる隆元の視線とぶつかった。
 敵意は感じない。かといって、好意的なものではもちろんない。何かを見極めようとしている眼差しだと思えた。


 しばし見詰め合う形となった俺と隆元。
 すると、隆景がなにやら唸るような咳払いの音を響かせた。
「うー、げふんげふん! ぼくと春姉の紹介は必要ないよねって言いたいところだけど、はじめて見る顔もあることだし、一応はしておくよ。ぼくは毛利家三女、小早川家当主 隆景。以後よろしく」
「同じく、毛利家次女、吉川家当主の元春だ。よしなに」
 毛利家の次女と三女はそういうと、黙ってこちらを見やる。
 秀綱どのと長恵の紹介を求められているのは明らかであり、こちらがそれを拒む理由はなかった。ここまで礼をもって接してくる相手に非礼で返すのは心苦しい。どの道、交渉の進み具合によってはこちらから口にする予定だったことだし。


 俺がうなずくと、はじめに口を開いたのは秀綱どのの方だった。
「上泉秀綱と申します。わけあって大友家に助力しています」
「丸目長恵。お師様と同じく大友家に助力している身です」
 秀綱どのに続いて長恵も簡潔に自分の名を口にする。
 この剣聖ふたりの言葉に対し、返って来た反応は『無』であった。


 たぶん出てきた名前があまりにも予想外すぎて、驚きを通り越して呆然としてしまったのだろうと思われる。
 もし今の段階で毛利家から塚原卜伝や伊藤一刀斎が出てきたら、俺も似たような反応をしてしまうだろう。それを思うと、三姉妹の反応を笑う気にはなれなかった。


 やがて、隆景の口から奇妙に平静な声が押し出された。
「……ぼくの記憶が確かなら、二人とも大層な異名を持つ剣士だったと思うけど。丸目どのは大友に近しい相良の家臣だからわからないでもないけど、上泉どのはどうして九国にいて、しかも大友にくみしているの?」
「必要とあらば申し上げますが、今はまだその時ではないと心得ます」
 すべては使いの口上を聞いてからのことにしていただきたい。秀綱どのが言わんとするところを悟ったのだろう、隆景は不承不承うなずいた。話している間に常の調子が戻ってきたようで、隆景の声や表情に張りが戻りつつある。
 その傍らでは、こちらも調子を取り戻したらしい元春が、やけにしみじみとした様子で嘆息していた。
「タダ者ではないと思っていたが、まさか剣聖であったとは。宝満城が落ちたのもやむなしか。問題はすべてを承知した上での助力なのか否か、というところだが――」
 そういって元春は姉に視線を向ける。
 その視線の先では、隆元が凝然と、あたかも彫像か塑像であるかのように固まっていた。


 それほど秀綱どのたちの名乗りに驚いたのだろう――と思うのだが、奇妙なことに隆元の視線は秀綱どのでも長恵でもなく、俺の顔に据えられている。
 それこそ顔に穴があいてしまいそうなほど見つめられ、俺は戸惑わざるをえなかった。
「隆元さま?」
 怪訝に思った俺の呼びかけを受け、隆元はハッと我に返ったようだった。
「――あ!? す、すみません。不躾なことをしてしまいましたッ」
「いえ、別にかまわないのですが……」
 隆元の態度が気にならないといえば嘘になる。だが、俺は追求できる立場ではないし、そもそもそんなことをしている時間もなかった。



 俺が毛利軍にやってきたことからもわかるように、道雪どのの軍勢はすでに宝満城に到着している。
 俺は道雪どのに預かっていた雷切を返し、自分の策を説明して後のことを委ねた。このとき、吉継を道雪どのの傍に残したのは俺の代理としてである。今の吉継であれば、俺がいなくても俺の考えを理解して適切な進言ができると考えてのことであった。
 吉継自身は俺との同道を望んだのだが、今回の使いはこれまで以上の危険が予想された。毛利軍に捕らえられ、陣中を斬り破るようなことも起こりえる。その際、吉継の腕では足手まといになってしまう。
 こちらには剣聖がついているが、ただでさえ俺という足手まといがいるのだ。このうえ吉継もかばわねばならないとなると、いかにも苦しい。そんなわけで吉継は城に残ってもらうことにしたのである。


 これとほぼ時を同じくして、宝満城に豊後からの使者が到着した。
 この書状の主は朽網鑑康(くたみ あきやす)という人物で、もともと古処山城を預かっていた老練な武将である。
 先に高橋鑑種の手で宝満城が陥落した際、鑑康は古処山城に篭城しては敵の攻勢を支えきれないと判断し、城を放棄して豊後に退却した。それ以後、鑑康は国境で秋月家をはじめとする筑前国人衆の豊後侵攻に備えてきたのだが、今回、宗麟さまの命を受け、援軍の第一陣として三千の兵を率いて筑前に再入国したのである。
 この三千という数は、もともとの鑑康の手勢一千に、毛利の別働隊と対峙している『豊後三老』吉岡長増、吉弘鑑理らが苦心して割いた二千の兵力を加えたものだった。


 率直にいうと、三千という数は援軍として少なすぎる。最低でもあと五千はほしいところだが贅沢はいっていられなかった。
 豊後は毛利軍の直接的な圧力をうけており、さらに奈多家と田原家を中心とした反抗勢力の説得に手間取っているようで、今のところはこれが精一杯であるとのこと。よって、俺たちは今いる兵力だけで戦況を覆さねばならない。その意味でも今回の交渉は非常に重要だった。
 立花山城にたてこもっている立花勢は五千あまり。これが加われば、大友軍の兵力は一気に倍増する計算になる。もちろん激しい篭城戦を経ている以上、即座にすべての兵を戦いに投入できるはずもないが、たとえ半分であっても貴重な戦力だ。特に鎮幸や惟信をはじめとした道雪どのの股肱が加わるのは数以上の力になる。もちろん誾もそのひとりである。



「隆元さまに申し上げます」
 俺は居住まいを改めると、隆元に向かって立花山城と古処山城の交換を持ちかけた。
 これに伴い、すでに相応の数の大友軍が古処山に集結していること、先の古処山城主であった朽網鑑康がその軍勢に加わっていることも付け加えておく。
 まあ相応といったって実態は道雪どのと朽網鑑康のそれをあわせて五千程度、しかも鑑康と彼の手勢はまだ国境付近にいるわけだが、それは正直にいう必要もないことだった。


 俺の威迫まじりの提案を聞き、吉川、小早川の両当主は一様に厳しい表情になる。
 毛利家にとって――というより、毛利の三姉妹にとって、秋月種実の身命が秋月家の当主以上の価値を持っていることは、先の戦いの顛末を見れば明らかである。そこを突かれたのだから、彼女らが顔色を変えたのは当然のことであろう。
 とはいえ、極端な話、毛利軍が兵を二分して、その一方をこちらに叩きつけてきたら古処山城の包囲は簡単に解かれてしまう。向こうも大友軍の全貌をつかめていないはずだから、そこまで思い切った手は打たないと思うが、種実を救うために博打に出る可能性はゼロではない。



 情報に優る俺たちと、戦力に優る毛利家。
 ここから両者の長い長い駆け引きが始まるものと俺は考えていた。
 だが、しかし。



「わかりました。その提案、お受けします」
 眼前で毛利隆元が実にあっさりと首を縦に振る。
 俺は思わず目を瞠った。この承諾を得るためにここまでやってきたとはいえ、まさか隆元が一考にも及ばず即断してくるとはさすがに予想していなかった。
 そして、そんな俺と同じか、あるいはそれ以上に驚いたのが隆元の妹たちである。
「ちょ、隆姉!? そんなあっさり決めちゃっていいの!?」
「姉上のご判断であれば従いますが……事を決するのは、今すこし話を聞いてからでもよろしいのではありますまいか。これ以上の流血なしに立花山城を得ることができ、さらに種実の身命を救い得る。こちらにとっては願ったりといえますが、大友には大友の思惑がありましょう。まことに大友軍が古処山城を包囲しているかどうかも定かではありませぬ」


 そういいながら、元春がじろりと俺を一瞥する。
 さすがはかつて俺の演技を見破っただけのことはある。こちらのハッタリは早くも見抜かれてしまったらしい。
 まあ道雪どのが古処山城に赴いているのは事実だからして、一から十まですべて虚偽というわけではない。その分、俺の動揺も以前よりは少なくて済んだ。



 隆元は妹たちの言葉にうなずいたが、自分の意見を翻そうとはしなかった。。
「元春と隆景のいうこともわかるんだけど、ここはわたしに任せてもらえないかな?」
 姉の言葉に妹たちは顔を見合わせる。
 たぶん二人は、隆元が種実を案じるあまり決断を急いだのではないか、と案じたのだろう。しかし、隆元を見るかぎり、そんな気配はつゆ感じられない。
 隆元がしっかりとした思慮にもとづいて判断したことなら、あえて反対を唱えるつもりはない。姉の言葉にこくりとうなずく元春と隆景からは、そんな信頼が確かに感じられた。
「今も申し上げましたように、姉上のご判断であれば従います」
「もちろんぼくも」
「ありがとう、二人とも」


 隆元は妹たちに笑いかけた後、あらためて俺に向けて口を開いた。
「改めまして、雲居筑前どの。この隆元、ただいま貴殿が仰った大友家からの申し出をお受けしたいと思います。ただ、その前に一つ――いえ、二つ、貴殿にお訊ねしたいことがあるのです」
 唐突な隆元の言葉を怪訝に思ったが、この場でうなずく以外の選択肢が俺にあるはずもない。
「それがしが答えられることでしたら、なんなりと」
「ありがとうございます。それではお訊ねしますが――」


 隆元の背筋がすっと伸びる。その目に浮かぶ硬質の光を見て、俺は無意識のうちに姿勢を正していた。何故だかわからないが、今の隆元を前に気を抜いているのはまずい、と直感したのである。
 隆元は明晰な口調で話し始めた。
「この場に妹の隆景がいることから、すでに予測はしていらっしゃるかもしれませんが、私たちは大友家と島津家が勅使によって講和した旨、すでに聞き知っています。ですが、知っているのは講和したという事実のみ。その詳細はまだ掴むには至っていません。そこで雲居どのにお訊ねしたいのです。勅使はどなたがいらっしゃったのですか?」


 その隆元の問いは、俺のみならず元春と隆景の予測も外していたらしい。
 俺たちは期せずして同時に怪訝そうな表情を浮かべたが、隆元の表情はかわらなかった。
「大友宗麟どの、島津義久どの、いずれも他国にまで名の轟く方々です。いかに講和が公方さまのご意向であったとはいえ、書状のひとつやふたつ届いた程度で矛をおさめたりはなさらなかったでしょう。公方さまの意を受けた御使者が両家の言い分を聞き、その上で調停なさったからこそ講和は成ったのだと私は考えています」


 隆元はそう言うと、視線を俺から秀綱どのに移した。
「ここからは伝聞をもとにした私の想像になりますが――剣聖として名高い上泉どのは遠く坂東の将であったはず。その方が何故か九国の地にいて『わけあって』大友家に助力しているといいます。丸目どのはさきほど上泉どのを指して『お師様』と呼んでいましたから、主家の命令で大友に助力する丸目どのを助けるため、上泉どのもこの戦いに参じた。そう考えれば、一応の辻褄は合うでしょう」
 ですが、と隆元はさらに続けた。
「これでは坂東で主を持っている上泉どのが九国にいることの説明ができません。今が戦乱の世でなければ物見遊山の旅もできましょうが、残念ながら今の日ノ本はそうではありません。わけても九国は激戦の地。上泉どのがたまさかそこを訪れ、たまさか苦難に直面していた丸目どのを助けようとした、というのはいささか奇異に映ります。丸目どのにしたところで、島津家の勢力伸張にともない、今、主家の相良家は大変な状況にあるはずです。私が相良家の当主であれば、この戦況で天下に聞こえた名刀を他家に貸したりはいたしません」


 隆元の言葉を聞くにつれ、俺の中では警戒心がぐんぐんと高まっていく。
 どうしてこの状況で勅使の名を訊こうとするのか。秀綱どのと長恵がこの場にいる理由を解き明かそうとしているのはどうしてなのか。
 俺には隆元が何を言わんとしているかがまったくわからなかった。


 そんな俺にかまわず、隆元はさらに推測を連ねていく。
「上泉さまがいつごろ九国の地を踏まれたのかはわかりませんが、これまで名を聞かなかったことを考えると、まださして日は経っていないと推測できます。先の筑前での戦よりも後、此度の戦が始まるよりも前……いえ、それならばもっと早くに噂のひとつも聞こえてきたはずです。となると戦の最中、おそらく豊後に勅使の噂が広がり始めた頃だと考えられます。勅使と剣聖、東方からのまれびとが時期を同じくして九国の地を踏みしめる。この二つの出来事を結びつけるのは私の早計なのでしょうか?」
 隆元の言葉は問いかけの形をとっていたが、それは他者に答えを求めてのことではなく、自分の考えを整理するためのものであったらしい。
 隆元は自分の問いに自分で応じた。
「そうなのかもしれません。しかし、上泉どのと丸目どのは共に公方さまの御前で剣技を披露したことがあると聞いています。そして剣聖としての令名は安芸の山城にまで届くほど天下に響き渡っている。勅使といえど身の安全は保証されない世の中ですが、剣聖と称えられた方であれば、戦乱のただ中にある九国の地に赴いても無事に戻ってこられることでしょう。以上のことから、公方さまが『大友家を救う』という大任を上泉どのに授けることは十分にありえることだと考えられます。公方さまの命令とあらば、上泉どののご主君も否とは言えないでしょうし――」


 ここで、不意に隆元が苦笑した。
「公方さまのご意向に従わなかった私が言っても、あまり説得力はないと思いますけど――それはともかく、今も言ったように私は勅使とは上泉どのご自身ではないのか、と考えました。けれど、上泉どのが勅使であるのなら、供としてこの場に現れる理由がありません。勅使は公方さまに復命する義務があります。その義務を持っている方が、危険であることは言をまたず、交渉事に口を出す権限も持たない役割を自らに課すはずがありませんから。そうすると、考えられるのはひとつだけです。上泉どのは勅使ととても近しい関係にあり、その方を守る役割を担っている。そう考えれば、不審に思える様々なことに説明をつけることができるのです」
 そういうと、隆元は静かに俺と視線をあわせてきた。
 今、秀綱どのが守っている俺を。


「雲居筑前どの。教えていただけますか、勅使の御名を」



◆◆



 その時、俺の背筋に走った感覚を何と呼べばいいのだろう。
 おそらく、もっとも正確な表現は悪寒――ではなく、違和感、だろうか。
 なんというか、俺には隆元の洞察力がちょっと異常に思えたのだ。先刻からの話の運び方を見るに、最初に結論があり、そこにいたるために言葉を積み重ねているように思えてならない。
 おそらく、隆元はとうに勅使の名を知っている、もしくは推測している。その上で俺と勅使の関係を疑っているのではないかと感じられた。


 隆元に俺の正体を暴かれること自体は、正直たいした問題ではない。
 そもそも勅使が天城颯馬であることは別段隠し事でもなんでもなく、隠すべきは天城颯馬=雲居筑前という関係性のみ。そして、今となってはこれとて絶対の秘事ではなくなっている。
 なにしろ大友家と島津家の上層部はほぼ全員がこのことを知っているのだ。今さら毛利軍がこれを突き止めて騒ぎ立てたところで、俺が大友家を追放されることも、大友と島津の講和が台無しになることもないだろう。


 俺が気になったのは、俺や秀綱どの、それに長恵と今日はじめて顔をあわせた隆元が、どうしてここまで鋭い洞察ができるのかという点だった。
 たしかに四方の情勢を把握していれば気づける点も多いが、しかしそれにしたって推測を組み立てるのが早すぎる。実は眼前の人物、毛利隆元ではなく毛利元就だったりしないだろうな?
 半ば本気でそんな疑念を抱きつつ、俺は口を開いた。
 前述したように、勅使の名前自体は別に隠しているわけではない。
「勅使の名前は天城颯馬さまです」
 自分の名前に様を付ける羞恥に内心でもだえそうになる。
 だが、隆元の呟きがそんな羞恥を一瞬で押し流した。


「今正成 天城筑前。越後の瑞雲、天の御遣い……やはり、そうでしたか」
「やはり? いや、それより今のは……」
 なにそのこっぱずかしい称号の数々。まあ、今正成も瑞雲も天の御遣いも知ってはいたけど、並べると破壊力がとんでもないことになるのは今はじめて知った。


 いや、それ以前にどうして隆元がそんなことまで知っているんだ?
 秀綱どののことを話していた時も少し思ったが、東国の事情に詳しすぎないか、この人?
 

 そんな疑問が頭をよぎったが、今のところ俺=天城颯馬と判明したわけではないので、へたに問いただすとやぶへびになる恐れがある。
 それに、はじめに隆元はこう言った。
 二つ、訊ねたいことがある、と。
 勅使の名がそのひとつだとすると、もうひとつは何なのか。
 そんな俺の心を読んだわけでもないだろうが、続けて隆元はこう言った。
 穏やかに、それでいて強い意志を感じさせる声で。


「おしえてください、貴殿が大友家の行く末に何を見ているのかを。雲居――いえ、たぶん、天城颯馬どの」




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第十章 天昇(十七)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:629b54c8
Date: 2013/12/27 20:20

 筑前国 立花表 毛利軍本陣


「おしえてください。貴殿が大友家の行く末に何を見ているのかを。雲居――いえ、たぶん、天城颯馬どの」


 隆元が口にした言葉を理解するまで少しだけ時間がかかった。
 理解した後は、どう答えるかを決めるまでさらに時間がかかった。


 いましがたの隆元の台詞(今正成、越後の瑞雲)からして、向こうは天城颯馬が上杉家に仕えていたことは知っていると考えられる。
 くわえて、天の御遣いという言葉も知っているなら天城颯馬が越後から姿を消したことも知っているはずだ。あれは俺がいなくなった後に広がったものだから。
 ということは、ここで俺が天城颯馬であると認めてしまうと、俺が自分の意思で越後を出て、てくてく歩いて九国に渡り、名をかえて何年も大友家に仕えていた、という解釈が成立してしまう。というか、傍から見ればそれ以外に考えようがない。


 実際は越後から離れたのも、九国に放り込まれた(?)のも俺の意思とは関係ないわけだが、それは口にしても信じてもらえないだろうし、俺としても言うつもりはない。
 しかし、俺が口を緘しても向こうは問いただしてくるに違いない。俺が九国で隠棲していたならともかく、大友家に助力して何度も毛利家の前にたちはだかった。くわえて、今回の戦いでは謙信さまが動いてくださり、俺に勅使としての立場を与えてくれた。
 どうして越後の人間がそこまで大友家のために尽くすのか。上杉家の目的は何なのか。これらを追求されるのは不可避といえる。


 この二つを問われたとき、俺はなんと答えればいいのか。
 俺が九国に来たのはただの偶然であり、そこで縁を結んだ人たちのために大友家に力を貸し、その過程で南蛮の野心に気づいてこれを退けるために働き、そんな俺の行動を詳しく知らなかった謙信さまは、それでも俺を信じて遠くから手を差し伸べてくれました――――なんだろう、一つも嘘はついていないはずなのに、どうしようもなく漂ってくるこの胡散臭さは。
 越後上杉家にあって従五位下筑前守に任じられた天城颯馬である、と認めてしまった後でこれを口にしても毛利家は絶対に信じないだろう。何か口にはできない秘めた目的がある、と疑われるに決まっている。そんな怪しげな人物が持ち込んだ交渉を承諾する気も失せてしまうに違いない。


 それは避けなければならない。
 では、天城颯馬であることを否定するか。
 これは難しいことではない。雲居筑前と天城颯馬が同一人物であると証明できる人は秀綱どのしかおらず、俺が隆元に否定すれば秀綱どのも追随してくれるだろう。
 ただ、気になるのは隆元がなにやら確信を持っているらしいことだ。天城颯馬についての知識もある様子だし、ここで俺が否定してもはいそうですかと納得してはくれないかもしれない。
 証明のしようはないから、隆元の追求をすっとぼけることはできる。だが、隆元がそんな俺に欺瞞を見るようであれば、やはり交渉は打ち切りとなってしまうだろう。
 先刻、城交換を承諾する際に隆元は言った。『その前に一つ――いえ、二つ、貴殿にお訊ねしたいことがあるのです』と。お訊ねしたい、という言葉の中に「正直に答えてくれれば」という条件が含まれると考えるのは当然のことであった。




 とつおいつ考えるに俺が天城颯馬であることは肯定も否定もできかねる。いっそ南蛮の動きを警戒した謙信さまの命令で大友家にやってきました、とか言った方が理解が得られるかもしれない。こうしておけば島津家での行動もある程度は説得力をもたせることができる。
 しかし、急ごしらえの嘘をついて、それがバレたら大変だ。その後であわてて言い繕おうとしても相手にされないだろう。つい先刻、吉川元春にハッタリを見抜かれたばかりの身としては、そんな危険を冒す気にはなれなかった。


(さて、どうしたものか)
 冷静に考えてみれば、隆元の質問の主題は俺が大友家の将来に何を見ているかであって、俺が天城颯馬か否かというのは、いわば三つ目の疑問である。訊きたいことが二つあるといったのは向こうだからして、ここで天城颯馬という呼びかけに確たる反応を返さなかったからといって文句を言われる筋合いはない。
 ないのだが――うん、面倒事を後まわしにしてもろくなことにはならんだろう。


 俺は覚悟を決めた。
「――承知しました。それがしの考えについて申し上げます。ただその前にひとつ、隆元さまにお伺いしたい」
 俺の問いかけに隆元はわずかに首をかしげた。
「なんでしょうか?」
「仰るとおり、それがしの本当の名前は天城颯馬です。しかし、それを知る者は大友家の中でもごくひとにぎりしかおりません。いかに貴家が諜報に長けていようと探り出せるものではないはずです。にも関わらず、隆元さまはあらかじめそれがしの正体の見当をつけていたように見受けられます。何故おわかりになりました?」


 訊ねつつ、俺が視線を向けたのは隆元ではなく、元春と隆景の方だった。
 二人は俺が天城颯馬であると認めるや、警戒をあらわにする――ことはなかった。どちらかといえば戸惑っている様子である。天城颯馬が何者であるかを知っていれば、こんな反応はしないだろう。
 うむ、これが普通の反応だよな、と俺は内心でうなずいた。
 安芸は九国よりも京、越後に近いとはいえ、所詮は遠国の臣の話である。俺の名も、事績も、そうそう知っているはずがない。


 こうなると、ますます隆元の知識の出所が気になってくる。
 そう思って隆元を見ると、毛利家の後継者は小さくかぶりを振って応じた。
「妹たちから、先の戦で雲居どのが果たしたであろう役割については聞いていました。その才知に警戒もしました。けれど、あらかじめわかっていた、なんてことはありません。私が確信したのは、今日この場であなたと顔をあわせてからです。もっといえば、上泉秀綱どののお名前を知った時です」
「秀綱どのの?」
「時を同じくして九国の地にやってきた剣聖と勅使。その剣聖を従えてあらわれたあなた。私は越後上杉家と将軍家に深いつながりがあることを知っています。上泉どのが上杉家に属していることも、天城颯馬どのと交誼を持っていることも知っています。そのことに、妹たちから聞いたあなたの智略が重なったとき、もしかして、と思いました」

 
 そういったあと、隆元はくすりと微笑んだ。
「そう思ってあらためて見れば、雲居筑前どの――その名前はあまりにも天城颯馬どのを想起させます。なぜ越後の臣であるあなたが九国にいて、大友家に仕えているのかはわかりません。上杉家と大友家の繋がりについては、なおのことさっぱりわかりません。ですが、たとえば今回の勅使の件はこう考えることができます。上杉家には大友家を救う義理はなくとも天城どのを助ける理由はあった。将軍家には天城どのを助ける義理はなくとも大友家を救いたい理由はあった。そんな両家の思惑が重なった結果、上泉どのが九国に遣わされることになったのでは、と」
 あくまで想像ですけどね、と隆元は恥ずかしげにいう。


 その仕草は普通に可愛らしかったが、俺にそれを愛でている余裕があるはずもなかった。
 ただの想像でここまで真実に肉薄されてはたまったものではない。笑うとほんわかした雰囲気が漂う人だが、もしやあれか、松永久秀の同類か、この人? 
 すべて承知した上で、たおやかに笑いながらこちらの弱いところをゲシゲシ蹴ってくる、みたいな。




 俺は動揺が顔に出ないよう注意しつつ、慎重に口を開いた。
「隆元さまは、どうしてそれほど東国の事情に通じておいでなのですか? 上杉家と将軍家の繋がりはともかく、それがしと秀綱どのに交誼があったことなど、そうそう知る者はいないはずです」
 秀綱どのが正式に越後上杉家に加わったのは俺がいなくなった後のことである。だから、そこから俺と秀綱どのの交誼を探り当てたとは思えない。
 それ以前、謙信さまが山内上杉家を救援するために上野に兵を出した際、当時は長野業正に仕えていた秀綱どのと俺は共に北条家と戦った。だが、あれは関東での局地戦、遠く中国地方の毛利家が詳しく知っているわけがない。
 実際、吉川元春も小早川隆景も、この戦いはもちろん俺の名前さえ知らなかった。なのに隆元は知っている。


 考えれば考えるほど顔が強張ってくるのが自覚できた。隆元の舌が蛇みたいにしゅるしゅると伸びてきても、今の俺はさして不思議に思わなかっただろう。
 そんな俺の様子を不思議に思ったのか、隆元が戸惑ったような視線を向けてくる。ますます強張る俺の顔。気分はもう蛇に睨まれた蛙である。


 と、隆元はハッと何かに気づいた様子で慌てて口を開いた。
「あ、ごめんなさい! 私がどう考えたかじゃなくて、そう考えるに至った根拠は何かってことですよね!?」
 どうやら隆元は、自分の見当違いの答えに俺が苛立っていると判断したらしい。
 慌てて立ち上がると、陣幕の隅においてある大きめの手文庫から一冊の書物を取り出し、俺のところへと持ってきた。




「ちょ、隆姉!?」
 それまでわけがわからず首をかしげているばかりだった隆景が、この時ばかりは慌てて立ち上がった。
 念のためにいっておくと、俺も後ろの剣聖ふたりも武器をたずさえたままである。毛利家の後継者にして遠征軍の総大将たる隆元は、そんな俺たちの近くに無防備に近寄ってきたのだ。俺たちがその気になれば、この瞬間に隆元を斬り殺すこともできる。隆景もそう考えたからこそ制止の声をあげたのだろう。
 元春や警護の兵も腰を浮かせており、俺の後ろからは秀綱どのと長恵が応じる気配がたちのぼる。


 陣幕の中に走る緊張は、しかし、次の瞬間に霧散した。
 俺が軽く手をあげて後ろの二人を制したからである。
 この時、俺の意識は隆元の命にはなく、隆元が手にしている書物にあった。
 手に持った書物を俺に差し出しながら、隆元は自分がそれを手に入れた経緯を口にする。
「先日、博多津の島井宗室どのから譲り受けたものです」
「島井どのから?」
 大友家の御用商人が毛利軍を訪れたと知り、俺は一瞬眉をひそめた。
 だが、毛利軍が攻め寄せてきた以上、博多津を焼き払わないようにご機嫌伺いに行くのは当たり前のことである。
 御用商人は大友家の家臣ではない。大友家から特権を与えられ、そのかわりに大友家のために金銭や兵糧、時には兵を集めたりする。大友家が筑前を失おうとしている今、宗室に一方的な忠義や奉仕を求めるのは筋違いというものだろう。


 そんなことを考えながら、俺は隆元が差し出してきた書物を受け取る。
 そして、その表題を見た瞬間、何故だかわからないが猛烈に嫌な予感を覚えた。


 『鬼将記』――本の題名は、まあいい。たぶんどこかの鬼武将さんの物語なのだろう。東国にはたくさんいるしな、鬼柴田とか、鬼美濃(馬場美濃守信春)とか、鬼義重とか、鬼真壁とか。
 隅に小さく著者の名前が記されている。『猿鳶(さるとび)』――ふむ、どこぞの十勇士にいそうな名前だな。まあこれもいいだろう。所詮はペンネーム。紫式部や清少納言みたいなもので、ここから本名にたどりつくことはできまい。ちょっと考えると色々とわかりそうな気もするが、きっと気のせいに違いない。


 問題なのは――俺に嫌な予感をおぼえさせたのは題名でも著者名でもない。いや、その二つにも微妙に嫌な予感をおぼえはしたが、それよりももっとはっきりと俺に訴えかけてきたのは、この書物を記した人間の筆跡だった。
 この時代、印刷術はあるにはあるが本格的な普及にはほどとおい。なので、巷の本の大部分は写本、つまり誰かの手で書き写したものだった。
 当然、そこには否応なしに書き手の特徴が出る。
 そして、俺はこの本を書いたであろう人物の筆跡に見覚えがあった。繊細でありながら美しい、精妙ともいうべき字。それこそお手本にしたいほど綺麗な字で、忘れようと思ってもそうそう忘れられるものではない。
 が、俺がこの筆跡を覚えている理由はそういうこととはちょっと違っていた。この字で記された報告書やらなんやらを、山のように処理した記憶が脳裏にこびりついて離れないのである。 これもまた気のせい、とそう思いたいところなのだが…………うん、そろそろ現実逃避はやめようか、俺。
 


 これ、段蔵の字だろう、間違いなく。
 東国の鬼武将? ずっと俺の傍にいてくれた子もそうだった。
 猿鳶? 軒『猿』の『飛び』加藤ですねわかります。



 なんで段蔵が書いた本が九国にあるのか、いや、それ以前になんで段蔵がこんなものを書いたのか。色々と疑問は尽きないが、なにはともあれ中身を確認しなくては始まらない。
 嫌な予感を押し殺し、おそるおそる頁をめくった俺の目に、物語の序文が飛び込んできた。


 
『小島弥太郎貞興。
 強兵で知られる越後上杉家にあって、なおその武勇は群を抜く。越後国内はおろか、遠く京にまでその名を鳴り響かせ、軍神と謳われる上杉家当主謙信もまた手放しでその剛勇を称えている。
 誰が知ろう。上杉家中にあって『鬼』の名を冠する豪傑の士が、その実、花も恥らう乙女であろうとは。

 
 春日山城下の貧しい農家の娘として生まれた小島弥太郎が世に出たのは、およそ四年前。時の越後守護代長尾晴景と、現上杉家当主、当時は栃尾城主であった長尾景虎の間で起きた内乱にまで遡る。
 内乱初期、越後七郡にかなう者なしといわれた猛将柿崎和泉守景家は、晴景の本拠地である春日山城を直撃するために軍を進めた。
 この柿崎軍を迎撃する晴景軍の中に、小島弥太郎貞興の名が見て取れる。敗色が色濃く漂うこの戦が、戦国乱世にその名を刻む『鬼小島』が誕生する契機となろうとは、敵味方を問わず誰一人として想像すらしていなかっただろう。


 諸人の注目は、この時、晴景軍の指揮官に任じられた天城筑前守颯馬にあてられることが多い。著者もまたその功績を否定するつもりはない。
 しかし、彼が稀有な幸運に恵まれたことを諸人は想起するべきだろう。もしこの時、天より贈られた比類なき女傑を初陣で指揮するという幸運が天城に与えられなかったのならば――晴景軍に小島弥太郎の名がなかったならば、後に東国を震撼させる天城筑前の神算はついに発揮されることなく、春日山の露に成り果てていたに違いないのだから……』



「…………ぐ、ぬ」
 思わず、うめき声をあげていた。
 まだ序文だというのになんたる破壊力。この時点で本を閉じたくてたまらない。
 いや、弥太郎に関する部分には何の異存もない。むしろもっと書けと言いたいが、しかし「後に東国を震撼させる天城筑前の神算」ってなんぞ? 他の人がどう見るかは知らないが、段蔵が書いたとわかる俺にとっては、これは間違いなく誉め殺しの類である。
 しかも、隆元が今正成とか、越後の瑞雲とか、天の御遣いとかいう単語を知っていたということは、当然この後にそういう話が出てくるわけで……ああ、読み進めるのが怖い。
 しかし、ここで読むのをやめるわけにもいかない。というか、読まなければ読まないで気になってたまらない。
 俺は我慢して、我慢して先を読み進めていった――




 物語は基本的に弥太郎視点で進むので、上杉家の機密に関することにはほとんど触れていない。越後の外から見ればわかることばかりで、これならば兼続あたりの検閲がはいったとしても「まあいいだろう」という結論に落ち着くはずだ。このあたりは上手いといわざるを得ない。
 精緻な文章、テンポの良い展開、そして主人公(弥太郎)と主(俺)の会話から無駄にあふれでるリアリティ。
 その場にいなきゃわからないよね、というところをことごとくさらっているこの作者は、間違いなく俺たちのすぐ近くにいた人物に違いなかった。




「……だんぞー」
 読み終わったとき、俺がじと目で著者を非難したことを誰が責められようか。いや、誰もできないに違いない。
 しかも、である。内容も大概だが、この本、まだ全然終わっていないのである。隆元たちがいるからかなり読み飛ばした部分もあったが、それでもこれだけはわかる。
 これは鬼将記の第一巻だ。


「……あの、隆元さま」
「は、はい?」
「この話、全部で何巻あるかご存知ですか?」
「はい。ええと、第一部が越後内乱、第二部が竜虎上洛、第三部が関東出陣、第四部が東国擾乱、第五部が最後で越甲同盟ですね。一部三冊で構成されてますから、全十五巻です」
「…………また微妙にうまくまとめてるなあ」
 それくらいならば職務の片手間に書くこともできないわけではない。 
 一連の争乱のすべてを記すわけにもいかないし、弥太郎視点ということを考えれば、それくらいが妥当なのだろう。
 島井宗室の手を経たとはいえ、九国まで広がっているということは、この鬼将記、もうかなり出回ってしまっているとみていい。
 弥太郎の武名や上杉家の評判を広める意味ではこういう手もありだとは思うし、俺に文句を言う権利がないことはわかっているが、それにしてもこれは勘弁していただきたい……



 俺が力尽きたようにうつむき、それを見た隆元がおろおろしている。
 周囲の人たちは、何がなにやら、という顔で互いに顔を見合わせるばかり。
 この沈黙を破ったのは小早川隆景だった。
「ええと、隆姉。事情がさっぱりわからないんだけども、どういうことか聞いてもいい?」
 隆景が戸惑いがちに声をかけると、隣で元春が同意するようにうなずいた。
 秀綱どのと長恵はおおよそのところはわかっているので、さして動じてはいないようだが、長恵は俺が持っている鬼将記に興味津々の様子である。


 立花山城と古処山城の交換を申しいれにきた場で、どうしてこんなことになってしまったのやら。
 俺は遠く越後からはるばるやってきた書物の表紙を軽く撫ぜ、小さく溜息を吐いた。




◆◆




 この後、俺たちは全会一致で休憩を挟むことになった。
 俺は平静を取り戻すために、毛利側(おもに元春と隆景)は天城颯馬とは何者かを確認するために、それぞれ時間を必要としたのである。
 俺たちは別の天幕に案内され、周囲を毛利兵に囲まれながらお茶なぞすすっていた。おそらくこの間、毛利の次女と三女は鬼将記を読み、隆元と情報を共有しようとしていたのだろう。長恵は肝心の本が読めずに残念そうだったが、まあこれは余談である。


 そうして少しの休憩を挟んだ後、交渉は再開した。
 俺は隆元たちに九国に来てから今日までのことを語る――と、一昼夜かけても話が終わらないので、今回の戦いでの南蛮の動きに焦点を絞って説明をした。
 二階崩れの変をはじめとした大友家の内部事情をぺらぺら吹聴するわけにはいかないし、そも俺が語るまでもなく毛利家はそのあたりの事情は把握しているだろう。小原鑑元や立花鑑載、高橋鑑種といった重臣たちの言葉に、俺が付け足すことなどありはしない。
 となると、毛利家にとって貴重な情報となるのは、降臣や豊後の協力者がつかめていない事実――南蛮国や南蛮艦隊といったものになる。


 南蛮の動きを説明することは、俺が大友家をどう見ているかについても密接に関わってくる。さらにいえば、海の外からの脅威については、妙な思惑抜きで毛利家にも承知しておいてもらいたいという考えもあった。
 もっとも、これについては余計な心配だとすぐに教えられたが。
 隆元は早くから南蛮の危険性について承知しており、今回の大軍勢はムジカの件を聞いた隆元がなんとしても大友家の蛮行を食い止めんとして組織したものだという。それを聞いた俺は思わず隆元をまじまじと見つめてしまい、隆景からきつい一瞥を浴びせられてしまった。



 ともあれ、そういったことを語り続けること、およそ二刻(四時間)あまり。
 かくかくしかじかとすべて語り終えた時、日はすでに大きく西に傾いていた。
 語る俺も疲れたが、聞いている毛利家の姉妹たちはもっと疲れただろう――と思っていたが、眼前の三姉妹は別段疲労した様子を見せていない。まるでこの程度の長話は日常茶飯事です、と言わんばかりであった。
 隆元にいたっては、なんだか目を輝かせているような気さえする。


 誰か身内に話好きな人でもいるのかしらと内心で首を傾げながら、俺は話を終わらせにかかった。
「――今、それがしが口にしたことに偽りはございません。南蛮艦隊が侵攻してきたことも、島津軍がこれを討ち払ったことも、そして宗麟さまが南蛮との関係を見直そうとしていることも、すべて事実です」
 これに応じたのは三姉妹の中でもっとも俺を警戒していると思われる小早川隆景だった。
「はいそうですか、とぼくたちがうなずけないことはわかってるよね?」
 隆景の眼差しがとっても胡散臭そうに見えるのは、たぶん気のせいではないだろう。


 俺は苦笑しつつうなずいた。
 別に隆景を煽るつもりはない。これが普通の反応だよなと思い、隆元との違いがおかしかったのである。ある意味、俺は隆元よりも隆景の方が話しやすかった。向こうにとっては迷惑な話だろうが。
「はい。それがしとて他者から同じ話を聞かされたらまず信じません。それを口にしたのが大友家に付いている者とあらば尚のことです。ですので、それがし以外の者、そうですね、先ほど隆元さまが仰っていた島井宗室どのあたりに確認をとるのがよろしいかと。島井どのは大友家の御用商人ですが、それ以前に博多津の富を司る豪商です。こと交易に関しては南蛮とは競合関係にある。ムジカの動静は細大漏らさず集めているでしょうし、南蛮艦隊の侵攻についても無知ではありますまい」


 竜造寺の陣に赴いた際、鍋島直茂は南蛮艦隊の噂は肥前にも届いているといっていた。そこまで広がっている噂ならば、博多の豪商が耳にしていないということはありえまい。 南蛮軍の侵攻は博多津の商人たちにとっても他人事ではない。おそらく、今ごろは必死になって情報をかき集めているだろう。
 俺の言葉に、隆景はふんと鼻息を荒くした。
「なるほど、道理だね」
「恐れ入ります」
「ただ、それがわかっているなら、もうひとつのこともわかっているよね。君の言ったことに嘘があれば――ううん、仮にすべてが事実だったとしても、ぼくたちが兵を退く理由にはならないよ」
「もちろん承知しております」


 俺と隆景は短いやりとりの間に、互いの考えを読み合った。
 今回、毛利軍は隆元の主導で大友家を食い止めるために兵を発した。
 南蛮軍が追い払われ、宗麟さまが南蛮との関係を改めようとしている今、毛利軍が戦う理由はなくなったのだろうか?
 むろん、そんなわけはなかった。


 第一に、俺が大友家のために虚偽を言っている可能性がある。この場合、俺の口車に乗せられて退却を決めてしまえば、それは毛利軍にとって致命的な失態になってしまう。


 第二に、俺の言葉が事実だったとしても、宗麟さまが再び妄動しないという保証はどこにもない。それに対処する意味でも、毛利家としては豊前、筑前を完全に確保し、いざという時に豊後本国に再侵攻できるようにしておきたいところだ。この二国をおさえることができれば、大友家から交易の利を奪うこともできるわけで、経済的に大友家を掣肘することもできる。


 第三に、他家、つまり毛利にしたがっている国人衆に配慮する必要がある。今ここで毛利が兵を退けば、残った反大友の国人衆が大友軍に狩り立てられるのは明白である。これは味方してくれた者たちに対して甚だしく信義にもとる。


 つまるところ、今回、毛利軍が大友家を止めるために兵を発したのは事実だが、そのためだけに兵を動かしたわけでは決してない、ということだった。
 上記以外にも、毛利家として勢力を拡大するという目的も当然のように存在する。南蛮軍が追い払われ、宗麟さまが南蛮への傾倒を改めたといっても、即座に撤兵することはできないし、その意思もない。隆景が言いたいのはそういうことであろう。





 この毛利の態度は十分に予測できたことであった。
 隆元の考えを知ったのはついさっきのことだが、それを聞いた俺が毛利と講和できると考えたかといえば、答えは否である。
 ただ、一つの安心を得たのは確かだった。
 というのも、隆元たちが大友家と南蛮との関係が改められたと知れば、今回の両家の戦いは常の戦――領土、権益を求めるそれに移行することになる。
 隆元たちにしてみれば、大友家の売国をとめるこの戦いは絶対に負けられないものであり、よほどの大敗を被らない限り兵を退くつもりはなかっただろう。
 だが、この戦いが単純な領土争いに立ち戻ったのならば、撤兵する条件は大幅に緩和される。それは大友家からみれば、和睦、講和の条件が探りやすくなったことを意味する。
 毛利軍に相応の打撃を与えることができれば――あるいは、兵を退くに足る利益を与えることができれば、この戦いを乗り切ることができるのである。


 ……ただ、そのためにはおおよそ五万対一万くらいの戦いに勝つか、最低でも互角の形勢を維持する必要があるのだが。しかも相手は毛利隆元、吉川元春、小早川隆景が揃った毛利軍主力の皆さんである。思わず天を仰ぎたくなる素敵な戦況というべきであろう。
 まあ、こちらはこちらで道雪どのと紹運どのという大友家の二大名将がそろい踏みなので、勝算がないわけではないというのが救いである。




 ともあれ、互いがそう認識している以上、さらに言葉を重ねる意味はない。
 城交換に関しては当初の隆元の言葉どおり承諾をもらえたので、これに関わる実務的な話し合いを終えた俺たちは、間もなく毛利軍を辞すことになった。
 ただ、この時点で俺はあることが気になっていた。
 毛利側が「越後の天城颯馬が大友家のために尽力する理由」について問いただしてこなかったのである。俺が口にしたのは、あくまで俺が九国でとった行動の一部であって、越後上杉家の意思に関してはまったく話をしなかった。
 実際にそんなものはないので、話をしたくてもできなかったというのが正確なのだが、そんなことを知る由もない毛利家が俺の沈黙を看過する理由はない。まさか色々ありすぎて忘れてしまったわけでもないだろう。


 最後に俺は隆元にその点を確かめてみることにした。やぶへびになるかも、という危惧はあったが、相手の考えがわからないままに戦うのも落ち着かない。
 これに対する隆元の返答は実にさっぱりとしたものだった。
「あなたがとった行動を見れば、目的は聞くまでもなく明らかだと思います。そのあなたを助けた上杉家の意思も同じです」
 遠からず戦うことになる相手からほわっとした笑みを向けられ、俺は理由もなく焦ってしまう。


 もう隆元と久秀が同類だ、とは思っていない。
 俺が冷や汗をかかされた隆元の知識は段蔵が書いた書物によるものだった――ちなみに隆元は、書物の内容がかなり正確に東国の情勢を記したものであることを島井宗室から聞いていたそうな。
 つまり、隆元は書物の知識をもとに俺と話していただけであって、別段俺をもてあそぶ意図はなかった。そのことはもうわかっているのだが、一度身体に植えつけられた恐怖、もしくは苦手意識はなかなか抜けてくれなかった。


 と、向かいあう俺と隆元の間に隆景が割り込んできた。
「君の言ったことが嘘ならその嘘ごと叩き潰すだけだし、事実だとしてもどのみち戦って屈服させる相手だからね。交渉の内容はぼくたちにも利があることだし、強いて突き返す必要はないでしょ。わかった? わかったら、ほら、もう話すことなんてないんだから、さっさと立花山城に行きなよ。ちゃんと陣中は安全に通れるようにいってあるから」
「こ、こら隆景、失礼でしょう!?」
「間違ったことはいってないよ、ぼく!」
「確かに間違ったことは言っていないが、礼にかなっているともいえまい、末姫どの。姉上と天城どのが親しげに話しているのが面白くない、と顔に書いてあるぞ」
「なにあッ!? な、なんのことかな、春姉!?」
「も、元春? そ、そんな親しげに見えた?」
「楽しげ、と言い換えるべきかもしれませぬが。件の書、大変に面白いと仰っておられましたし、実際に登場人物にあえて浮き立っておられるのでしょう? 天城どのが本人だとわかった途端、呼びかけが『貴殿』から『あなた』にかわっておりましたよ」
「そ、それは……うん、そうかもしれない。もちろん、戦わないといけない人だっていうのはわかっているんだけど」
「むろん心配はしておりませぬ。しかし、甘えん坊の末姫どのには、姉上と天城どのが楽しげに話す姿が面白くなかったのでしょう。まったくこまったものです」
「こまってるのは間違いなくぼくの方だよッ! よりにもよって当人の前で言うことないでしょッ!?」





 俺をそっちのけで、なにやら盛り上がっている毛利家の姉妹たち。
 別れの挨拶を切り出すタイミングを見失い、どうしたものかと首をひねる俺に長恵が小声で話しかけてきた。
「ずいぶんと面白い方々ですね、師兄」
「だな」
 隆元たちも長恵に言われたくはないと思うが、おおむね同意であった。
 正直、戦いたくない人たちである。戦力の上からも、能力の上からも、そして為人の上からも。
 しかし、事ここに至れば戦を避ける術はない。たくさんの物事に決着をつけるためにも、ここは戦わざるをえないのだ。たとえ相手がどれだけ戦いたくない人たちであっても。
 意を決した俺は、毛利姉妹に辞去を告げるべく口を開いた。





◆◆◆





 大友軍と毛利軍が激突したのはこの日からおよそ半月後のこと。
 立花山城と古処山城の交換ならびに城兵の送還をつつがなく終えた両軍は、あたかも示し合わせたように決戦の地として一つの戦場を選び出す。
 多々良浜(たたらはま)。
 立花山城の南を流れる多々良川流域に広がるこの地は、遠く建武の世において、足利将軍家の祖である尊氏が再起を懸けて死闘を演じた地でもある。


 毛利家が九国に確固たる足場を築くのか、あるいは大友家が勢力挽回を成し遂げるのか。
 両家がそれぞれの家運をかけて激突した戦い。
 雲居筑前あらため天城颯馬にとって九国最後となった戦い。
 そして、当事者たる両家も含め、これを注視していた竜造寺や島津といった諸大名が誰ひとりとして予期しえなかった理由で終結したこの戦いは、後に『多々良浜の合戦』と呼ばれることになる。




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第十章 天昇(十八)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:fbb99726
Date: 2014/01/02 23:19
 大友家と毛利家の決戦となった『多々良浜の合戦』において、両軍が多々良浜を決戦の場と定めた理由のひとつにこの地が大軍の展開に適していたことが挙げられる。
 多々良浜の「浜」は「濱」、つまり干潟の意であり、字面から見れば軍勢の展開に難儀しそうに思える。だが、実際には大部分の地面は騎兵が揃って突撃できるほどしっかりしたものであった。
 足利尊氏はこの地でわずか三百の手勢をもって五万の敵を打ち破った、と太平記は記す。数字の信憑性はさておき、多々良川流域に大軍が激突できる素地があったことはここからもうかがえるであろう。


 多々良浜に陣を進めた両軍は川を挟んで対峙した。
 北岸に陣取った毛利軍の兵数はおよそ四万八千。立花山城の守備に五千の兵を割いてなお、その軍容は圧倒的であった。
 一方、南岸に進出してきた大友軍は一万五千たらず。大友軍は城交換に要した時間を利し、筑後、豊後から更なる援軍を得ていたが、それでもなお彼我の兵力差は大きい。


 この戦況で正面から、しかも大軍の展開に適した地でぶつかれば、大友軍の勝算はきわめて少ないといわざるをえない。
 大友軍としては、毛利軍を山間の狭隘な地形に引きずり込み、敵の最大の利点である数を活かせない戦いに持ち込むことこそ理想であっただろう。
 毛利軍の目的に「筑前の制圧」がある以上、遅かれ早かれ毛利軍は宝満城や古処山城といった難攻の城に進軍してこざるを得ず、それを待って戦いをはじめれば労せずして有利な戦況に持ち込むことができる。


 大友軍を率いる諸将はこのことを承知していたが、しかし、彼らは待つという選択肢をとることができなかった。
 理由はただひとつ。じっくりと腰をすえて戦えるだけの余裕が、今の大友家にはなかったからである。
 豊後本国の情勢は未だ落ち着くにはほど遠く、国境では毛利軍の別働隊が虎視眈々と府内侵攻の機をうかがっている。
 一度は肥前に退いた竜造寺軍がどう動くかも予断を許さなかった。大友軍と毛利軍の戦いが膠着すれば、竜造寺軍は漁夫の利を得るべく再び兵を発するだろう。筑後を突くか、あるいは筑前に侵入してから一気に北上し、博多津を占領するという手もある。本来はそれを阻むはずだった岩屋城はすでに破却され、宝満城にも出戦するだけの兵力はない。竜造寺軍の博多強襲が成功する確率はかなり高いのである。


 さらにもうひとつ、大友家が決着を急ぐ理由があった。それは島津家と結んだ講和は二ヶ月間の限定的なものである、ということ。
 すでに講和が結ばれてから一月近くが経過している。毛利軍との戦が膠着してしまえば、もう一月もあっという間に過ぎ去ってしまうだろう。毛利と対峙している最中、島津の精鋭に豊後を強襲されてしまえばもう打つ手はない。
 そういった事態を避けるため、大友軍は危険を承知で戦線を押し上げざるをえなかったのである。



 この速戦即決を望む大友軍の動きは毛利軍に歓迎された。
 自軍の兵力を十全に活かすことができるのはもちろん、毛利軍もまた早期の決着を目論んでいたからである。
 実のところ、竜造寺、島津に対する警戒は、大友軍よりも毛利軍の方がはるかに強い。戦が長引けば、いつ何時、彼らが参戦してくるか知れたものではないという懸念があった。
 特に肥前の竜造寺は、国境をひとつ跨げばすぐに筑前という地の利があるため、一時も油断できない。竜造寺にしてみれば一番望ましいのは大友と毛利の共倒れであろうが、どちらか一方が勝利するとしたら、その勝者は毛利よりも大友の方が望ましいに違いないのだ。


 それはなぜか。
 今回の戦で大友が勝利を得たとしても、しばらく領内の混乱が続くことが予想される。しかし、毛利が勝った場合は速やかに九国北部の支配権を確立してしまうと考えられる。
 端的にいえば、毛利が勝つよりも、大友が勝った方が後々竜造寺が付け込みやすいのである。
 これまでは大友軍に勝算を見出せなかったがゆえに不利を承知で毛利と歩調をあわせていた竜造寺だが、彼らの考えに変化が生じたことは岩屋城を落とした後の行動によくあらわれている。
 いまや竜造寺は毛利にとって潜在的な敵であり、彼らが横槍を入れる隙を与えたくはない。


 島津に関しては竜造寺に対するほど切迫した危機感は持っていないが、隆元たちは大友と島津を講和させた勅使の正体をすでに知っている。その勅使が大友軍に加わっていることも知っている。
 あの人物に時間を与えてしまうと、勅使の立場を利用してどんな手を打ってくるかわかったものではない、という思いは拭いきれなかった。


 また、そういった他家との関係以外にも毛利軍が長期戦を好まない理由は存在する。
 遠征軍を組織するすべての家に共通することだが、補給の負担と国元の安全が気にかかるのである。
 今のところ、隆元の尽力によって毛利軍の補給はしっかりと保たれているが、これだけの数の大軍を維持するのは毛利家といえど決して楽ではなかった。というより、商人たちと深いつながりがある隆元の精力的な活動がなければ、この大軍を今日まで維持することは出来なかったに違いない。
 元春が立花山城攻めに注力していた間、隆元はひとりのんびりと書写で時間を潰していたわけではない。あれはあくまで激務の間の息抜きであった。


 隆元たちが九国で働いている間、安芸本国は毛利元就と重臣筆頭の志道広良が留守を守っている。この二人がいれば滅多なことは起こらないと三姉妹は確信しているが、五万近い遠征軍が九国に渡っているという事実が国元の安定に寄与するはずもなく、さっさと目的が果たせればそれに越したことはない。
 その意味でも大友家が企図した早期の決着は毛利家にとって望むところだったのである。


 以上が多々良浜の合戦に先立つ両軍の事情であった。



◆◆◆



 筑前国 多々良川南岸 大友軍


「『三つ撫子』に『一文字三ツ星』か。対岸の敵は秋月・毛利の混成部隊のようですね」
 対岸を見た戸次誾の言葉に、俺は小さくうなずいた。
「おそらく大将は秋月種実でしょう。ただ、秋月軍だけでは数が足りないので、毛利軍から援兵を割いた、というところかと」
「筑前衆の中で秋月家のみ前面に押し出し、宗像や筑紫といった他の国人衆を後陣に置いた意図はどう見ますか?」
「不安、というほどではないにせよ、秋月以外の国人衆の戦意を案じてのことではないかと考えます」


 内憂外患に苛まれて弱体化した大友軍は、竜造寺や島津といった有力大名と渡り合い、ついにはこうして毛利軍と対峙するまで立ち直った。このことは多くの国人衆の予測を外したことだろう。
 土地に根付く国人衆は基本的に勝者の側に付く。そうしなければ家の存続が危うくなるからだ。
 その意味で、万にひとつ、この戦いで大友軍が勝ってしまえば、毛利に従った者たちは勝者の立場から一転、滅亡の危機に晒されることになってしまう。
 むろん、兵数を見ればわかるように毛利軍の優位は今なおまったく揺らいでいない。普通に考えればその危惧は杞憂であるのだが――


「このところ、毛利軍は数に劣る大友軍に立て続けに敗北していますからね。もしかしてまた、と考える者もいないわけではないでしょう。あるいは、今は思っていなくても、戦が不利になればそんな考えが頭をよぎるかもしれません。そうなれば踏ん張りがきかなくなり、劣勢を覆せなくなってしまいます。くわえて、こちらには道雪さまがいらっしゃいますから、それも豊筑の国人衆を下げた理由のひとつでしょうね」
 俺の言葉に誾は深くうなずいた。
「九国の兵はほとんどが義母上を鬼と恐れている。実際に義母上に蹴散らされた者も多い。義母上の姿を見ただけで背を向けかけない国人衆たちを前線に立たせたくなかった、ということですね」
「はい。ヘタをすればその敗勢に毛利兵が巻き込まれるかもしれません。そんな危険を冒すよりは、確かな戦意を持つ秋月と毛利のみで戦った方が良い、と考えたのでしょう。そうしたところで数の優位は揺らぎませんから」


 誾の問いに答えながら、俺は相手のこれまでにない素直な態度がくすぐったくて仕方なかった。
 今さらな確認だが、大友家における雲居筑前の正式な地位は戸次家の家臣、つまり誾の配下である。高千穂での戦い以降は別行動をとっていたが、主従の関係が解消されたわけではない。
 ゆえに、この合戦において右翼軍を任された誾の部隊に俺が配属されたことは何の不思議もない。同じく戸次家の配下である十時連貞どのが豊後で療養中の今、誾が俺に合戦の意見を求めてくることも別におかしなことではないだろう。


 おかしいのは――もとい、変化があったのは誾の態度である。
 以前は言葉こそ丁寧でも随所に俺に対する隔意を見て取ることができた。俺が誾の下につく前もそうだったし、ついてからもそうである。後者に関しては、俺が高千穂戦で誾に内緒で策動したせいでもあるのだが、ともあれ目の前にいる少年が俺との間に一線を引いていたのは間違いない。


 だが、城交換によって再会を果たしてからというもの、その線引きがなくなったように思えるのだ。
 過日、毛利との交渉を終えた俺は、立花山城に立てこもっていた誾たちのもとに赴いた。
 その際、俺はこれまでの経緯をすべて伝えていた。自分が他家に仕えていた人間であることも含めて。
 なので、正直なところ、誾にはこれまで以上に距離を置かれるだろうな、と考えていたのだが、不思議なことに現実は逆になっている。


 はじめ、俺はその変化に驚きを隠せなかったのだが、鎮幸から篭城中の話を聞いてからは色々と納得できたように思う。誾は今回の篭城戦を契機として色々と吹っ切ることができたのだろう。
 ……まあ「宗麟さまのお尻をひっぱたく」発言を聞くかぎり、ちょっと吹っ切れすぎなんじゃないかなーと思わないでもないが、誾の年齢や境遇を考えれば、むしろこっちの方が自然なのかもしれない。少なくとも、へんに陰にこもるよりも健全であるのは間違いないだろう。
 そういった誾の内面の変化が俺に向けた感情をも和らげた――今の誾の態度はそういうことだと俺は解釈していた。




 と、そんなことを考えていると、難しい顔をした誾が慨嘆するように言った。
「毛利軍は中軍が毛利隆元、吉川元春の一万五千。左翼が小早川隆景の一万。私たちと対峙する右翼が秋月種実の一万三千。これだけでも我が軍の倍近いというのに、さらに後詰には豊筑の国人衆がおおよそ一万。立花山城にも五千近い守備兵を割いているという報告です。対してこちらは、私たち左翼が五千、義母上(道雪)の右翼が三千、そして宗麟さまと伯母上(紹運)が率いる中軍が七千。後詰はなし。なんとかこの形勢を挽回できる妙案はないかと考えていますが、今日にいたるまで策らしい策は考えつけていません」
 そういった後、誾は少し俯きがちになり、どこか気恥ずかしそうに付け足した。
「救いがあるとすれば、こちらは毛利軍と違い、当主さまが御自ら戦場に姿を見せている、ということですね。おかげで、これだけ不利な戦況だというのに兵の士気は互角か、それ以上です」
「それは確かにそのとおりですね」
 俺は同意を示すためにはっきりとうなずいてみせた。そう口にする誾自身、宗麟さまが豊後から戦場に駆けつけたことに戦意を沸き立たせていることがうかがえる。ただ、少年の複雑な胸中をおもいやって、声にして指摘することはやめておいた。





 毛利軍との決戦は城交換の後、間もなくのこと。
 そう考えた俺と道雪どのは豊後に早馬を送り、更なる増援を求めた。ただ、正直なところ、あまり期待はしていなかった。朽網鑑康率いる三千の援軍だけで精一杯の状況だということはあらかじめ伝えられていたからである(ちなみに鑑康自身は古処山城の守備についているのでここにはいない)。
 ただ、城交換が一日二日で終わるはずはなく、その意味で多少なりとも時が稼げたことは確かであった。その間、豊後の情勢が変わる可能性はゼロではない。
 実際、この期間のおかげで、先に筑後に行ってもらっていた問註所統景が千の筑後兵を率いて合流してくれた。これは問註所氏と五条氏という、筑後では数少ない親大友の両家が工面してくれた援兵である。
 これと同じことが豊後でも起きるかもしれない。俺はそう考えていた。


 ただ、繰り返すが、そこまで切実に期待していたわけではない。統景が連れて来た筑後兵、誾が率いている立花勢を含めれば大友軍の総数は一万に達する。今日までの戦況を考えれば、これだけでも十分に御の字といえる。
 なので、宗麟さま自らが五千の兵を率いてやってきた時、俺は喜ぶよりも先に驚き、思わず目をこすってしまった。たぶん、眼前の軍勢が煙のようにドロンと消えても俺は驚かなかった。むしろ「ああ、やっぱり夢か」と安堵したかもしんない。


 たぶんこの時の俺の気持ちは誾を含む多くの大友軍将兵と共通していたことだろう。
 否、むしろ俺は大友軍の中でも比較的平静を保っていた方だったかもしれん。
 というのも、この五千の援兵の先頭には、日の光を浴びて燦然と輝く白檀塗りの鎧兜をまとった宗麟さまがいらっしゃったからである。


 短期間とはいえ、自分の目で宗麟さまの変化を見た俺や道雪どのと違い、話の中でしか知らなかった誾や紹運どのは、そんな宗麟さまを見て、張り裂けんばかりに目を見開いていた。
 いや、二人だけではない。道雪どのさえ目じりに涙をため、深い感慨をこめて宗麟さまを見つめていた。二階崩れの変以来、一度も見ることができなかったその姿を。


『イザヤ……いいえ、誾。よく無事でいてくれました』


 宗麟さまに深い安堵をこめて囁かれ、抵抗する間もなく抱き寄せられた誾の混乱は、さて、いかほどであったことか。
 正直、ちょっと訊いてみたい気もするが、さすがに茶化すようなことではないので、俺は今にいたるまでつつましく沈黙を保っている。
 誾なりに自分の心に素直になろうとしていた矢先の宗麟さまの変化だ、衝撃はかなり大きかっただろう。ただ、その衝撃が誾に悪しき影響をもたらすものでなかったことは、今こうして戦況について話している姿を見れば明らかだった。


  

 ちなみに、宗麟さまが五千もの援軍を編成してのけた方法だが、これは非常に簡単だった。
 兵がある場所から引き抜いてきたのである。
 それは府内を守る守備兵であったり、ムジカから引き上げて間もない佐伯惟教らの手勢であったり、さらには北で毛利の別働隊と対峙している吉岡長増らの後詰部隊であったりしたが、とにかくそういったところからかき集めた兵によって援軍は成り立っていた。
 当然のように、その影響は小さくない。ムジカで敗れた兵たちの疲労は見過ごせず、府内や周辺の治安悪化も予想される。後詰部隊をかっさらわれて後がなくなった北の防衛線が破られたら一大事。件の奈多家や田原家に府内を強襲される恐れもある。今の豊後は問題が山積みであった。


 これに対して宗麟さまはどんな手を打ってきたのか。
 答え 特に打ってません。


 これを聞いたとき、大友家の諸将は驚きのあまり二の句が告げなかった。あ、道雪どのは除く。
 宗麟さまとしては、ここで毛利家に敗れればどのみち大友家は終わりである、という認識がある。であれば、考えるべきは毛利に勝つこと、ただそれのみ。
 たしかに強引に援軍をかき集めたことで府内――というか豊後は混乱するだろうが、毛利軍に勝てばそのほとんどは霧消する。仮に奈多家や田原家が府内を制したとしても、毛利という後ろ盾を失えば慌てて逃げ散るしかなくなるだろう。
 さらにいえば、今にいたっても明確に叛旗を翻せない彼らに、空になった府内を見て即座に動く臨機応変さがあるとも思えない。おそらく、策を疑ってしばらく逡巡するだろう。その間に勝利を決してしまえば何も問題ない、というのが宗麟さまの主張であった。



 正直にいって、それを聞いた俺は困惑を禁じえなかった。というか、はっきりと混乱した。
 ――誰この人? 本当にあの宗麟さま? 見方によっては自棄ともいえる捨て身の行動は、俺の中にある宗麟さまの像とあまりにも異なっていた。
 たしかに手段を選んでいられる戦況ではないし、元々俺たちも速戦を企図していたし、なによりここで五千もの援軍はものすごいありがたいのだけど、それにしてもちょっと思い切りがよすぎませんか?
 誾といい、宗麟さまといい、今の大友家には目に見えないへんな力が働いているような気がして仕方ない今日このごろである。
 そうこぼしたら吉継に溜息を吐かれた。なにゆえ。


 俺の混乱を鎮めてくれたのは道雪どのである。
 道雪どのは悪戯っぽく笑いながら俺に教えてくれた。もともと武将としての宗麟さまはこういう方だったのですよ、と。
 好んで危険を冒すわけでは決してない。ただ、他に打つ手がないと思えば、あるいはそれが必要だと判断すれば、自ら退路を断つような方策をとることは何度もあったそうな。
 宗麟さまが理詰めでしか動けない将であれば、二階崩れの変後の混乱をしずめることはできなかったでしょう、という道雪どのの言葉を聞いた俺は唸ることしかできなかった。
 人はみかけによらない、という一言で済ませてもいいのかしら?




 まあそれはともかく、誾のいうとおり、こと士気に関して大友軍は毛利軍に優るとも劣らない。
 大軍を集める目的のひとつに戦わずして敵を威圧することが挙げられるが、今の大友軍であれば数の圧力に怯むことはないだろう。
 この一事だけをとっても宗麟さまが参戦した意義は大きい。
 俺がそんなことを考えていると、対岸の秋月種実の軍勢から喊声があがり、将兵の動きが慌しくなってきた。


 どうやら毛利軍の先陣をきるのは右翼の秋月勢であるらしい。
 先鋒は武人の栄誉。秋月勢にその役が与えられたのは、戦わずして古処山城を明け渡すことになった種実の無念に配慮したためであろうか。
 俺は毛利軍の内情を推測しつつ、誾を守って本陣に引き返した。





◆◆◆





 多々良川を挟んで対峙した大友、毛利の両軍。
 先手をとったのは数に優る毛利軍であった。右翼を任された秋月種実が多々良川を渡渉し、対面に位置する戸次誾の軍勢に襲い掛かったのである。
 大友軍の布陣は右翼が立花道雪、中軍が大友宗麟と高橋紹運、左翼が戸次誾となっている。
 大友軍において最強と目される立花道雪が率いる右翼が精強であることは明らかであり、当主である宗麟とスギサキの誉れ高い紹運が率いる中軍の勢いも侮れぬ。
 だが、左翼の戸次誾はいまだ戸次家を継いで間もなく、当人もまだ少年といってよい年齢であった。当然、戦の経験も少ない。先の篭城戦を耐え抜いた指揮の冴えは軽視できないが、それでも中軍と右翼に比べれば、これを打ち破れる可能性は高いだろう。
 まず崩すべきは左翼の戸次誾。それが毛利軍の意図であることは誰の目にも明らかであった。


 秋月の先鋒となったのは大橋豊後守、率いる兵は二千である。
 この時期、筑前では雨が少なく、川の水量は少ない。目だって低くなった川面を蹴立てて突っ込んでくる秋月勢を睨みすえ、戸次誾の口から鋭い命令が迸った。
「放てェッ!!」
 命令に応じて戸次勢から雨のような矢が降り注ぐ。
 戸次勢の猛射を浴びて秋月兵はバタバタと倒れていくが、突撃の勢いそのものはほとんど緩まなかった。両手持ちの長槍を主武装とする足軽兵は盾の類を持つことができない。矢で射殺されたくないのならば、飛来する矢は防具にあたるに任せ、一秒でも早く敵陣に突っ込むしかないのである。


 降り注ぐ矢の雨をかいくぐり、三百ほどの秋月兵が対岸にたどり着く。彼らは勢いにのって大友軍の陣列に躍りかかったが、そこに待っていたのは筒先を揃えて待ち構える鉄砲隊の陣列だった。
「撃てィッ!」
 鉄砲頭の命令はただちに実行に移された。
 至近にまで敵兵をひきつけてからの一斉射撃である。避けようのない距離から放たれた二百の銃弾は五秒に満たない時間で秋月兵を半壊せしめ、それを見た誾の号令がいまだ轟音の音さめやらぬ戦場に響き渡った。


「槍隊、押し出せッ!」
 半ばが血泥に倒れ伏した秋月兵を、さらに完膚なきまでに叩きのめすべく、戸次軍の足軽勢がつきかかっていく。
 短くも激しい戦闘の後、はじめに渡河を果たした三百の秋月兵のほとんどが討ち取られた。
 対する戸次勢に被害らしい被害はない。ほぼ完璧といえる戦果であったが、大友軍に喜んでいる暇はなかった。今の一連の戦闘の間にも秋月兵は次々に対岸にたどり着いており、その数は刻々と増え続けていたからである。
 指揮官である大橋豊後守自身も川を渡り終え、混戦の中でも巧みに陣形を整え、戸次勢に肉薄しようとしていた。




 これを見て動いたのが秋月種実である。
 種実は深江美濃守に三千の兵を与えて大橋の後に続かせた。数だけ見れば、これで大友軍と互角となる。この深江隊の投入で戸次勢に動揺が見えれば、種実自身が川を渡って一気に大勢を決するつもりだった。
「もっとも、そう簡単にはいかないだろうけどね」
 そう口にする種実の胸奥には震えるほどの無念がある。
 種実はすでに自分が大友軍に「はめられた」ことに気がついている。先に北原鎮久が古処山城にやってきたとき、種実は毛利軍が到着するまで古処山城に立てこもることこそ最良の手段であると考えた。だが、その思考こそが大友軍に誘導された罠であったのだ。
 おそらく、あの時点で出戦を選んでいれば、大友軍を各個撃破することも不可能ではなかった。少なくとも宝満城を襲った部隊を封じることはできただろう。
 それを避けるために謀略を仕掛けてきた大友軍に種実はまんまと乗せられてしまった。


 大友軍は古処山城に閉じこもった種実を餌として毛利軍と交渉した。そのことを聞いたときの屈辱を種実は忘れられない。
 隆元や元春は、種実の判断は間違っていないと言ってくれたが、それでもしてやられたという気持ちは拭えない。
 この戦いは大友に借りを返す絶好の機会だった。かつて休松城で味わった屈辱もあわせ、二倍にも三倍にもして叩き返してやる――と言いたいところなのだが。


「……こうやってこちらが平静を欠くことも想定済みなんだろう。雲居筑前か、それとも天城颯馬かは知らないが、なんて性根の捻じ曲がった奴なんだ。きっと狐のような目と狸のような顔をあわせもっているに違いない」
 ゆるぎない確信を込めて言い放ちながら、種実の目はあくまで冷静に戦況を見据えていた。
 前述したように種実の胸中には無念と屈辱が溢れかえっていたが、その一方で奇妙な落ち着きを感じてもいたのである。怒りも苛立ちも、嵩じるとかえって冷静になってしまうものらしい。あるいは、あまりにしてやられてばかりなので、いっそ吹っ切るしかないと心のどこかで思っているのかもしれなかった。


 いずれにせよ、数の利をもって大友軍を押し続けるという種実の指揮は敵に付け入る隙を与えなかった。損害を出しながらも、秋月勢はじりじりと敵軍を圧迫していく。
 だが、大友軍もやられてばかりはいなかった。戸次誾みずからが前線に姿を現して激しい抵抗を繰り広げ、秋月勢に一定以上の進撃を許さない。
 若すぎる敵将の奮戦ぶりを遠望した種実は、わずかの時間、考えにしずむ。自身もここで出るべきか、あるいはここで一度兵を戻すべきか。


「……戦は始まったばかりだ。隆姉さまの言葉もある。ここで無理押しをすれば、タチの悪い罠に引っかからないとも限らないし、敵将の手並みを確認できたことでよしとしよう。伝令、恵利(えり)隊に使いせよ。川岸に鉄砲を並べ、退却する兵の援護をせよ、とな」
 



◆◆




 多々良川を挟んだ両軍の戦闘回数は、緒戦の秋月勢と戸次勢のそれを含めて実に十八回に及んだ。
 戦闘の規模は小競り合いから主力部隊の激突まで様々であったが、十八の戦闘、そのほとんどにおいて仕掛ける側は毛利軍であり、大友軍はもっぱら受身で戦うことを強いられた。
 両軍の兵力差を考えれば、毛利が攻めあぐねている、あるいは大友軍が健闘しているというべきだろう。
 しかし、見方をかえれば、大友軍は毛利軍の絶え間ない攻勢に追いまくられ、守勢に回らざるを得なかった、ともいえる。


 実際、毛利軍は毎日どころか日に何度も戦いを仕掛けるものの、決して無理押し、深追いはせず、ある程度戦いが膠着すると、結果に執着することなく兵を退いた。
 これを追撃すれば、より多勢の毛利軍に取り囲まれてしまう。そのため、大友軍は敵の退却に付け込むことができず、結果、毛利軍の被害はおさえられ、次の攻勢を容易なものにしてしまう。大友軍としては先の見えない消耗戦に延々と付き合わされているようなものであった。
 数に優る毛利軍に対して特筆に値する奮闘をしていることは確かだが、もともと大友軍が不利を承知で多々良浜に出てきたのは早期の決着を望んでのことである。ここで毛利軍相手に局地的な奮戦を演じても得るところは何もない。
 この戦況が続けば、兵力の上からも、戦術の上からも、さらにいえば戦略の上からも、先に破綻するのは間違いなく大友軍の方であった。



 むろん、毛利軍はそのことを計算に入れて戦っていた。
 日々の攻勢は偽りのものではない。大友軍に隙があれば、一挙に勝敗を決するつもりで攻めかかっている。
 ただ、大友軍の手強さを知る毛利軍は自軍の数を過信しなかった。
 隙あらば制圧する。だが、隙がないようであれば腰をすえて戦い続ける。数の利を活かし、敵に策動の余地を与えず、大友軍の余力を確実にそぎ落としていく戦い方は、相対する者にとって最悪の一語に尽きた。


 今の大友軍はたとえていえば海岸の砂城であった。
 どれだけ堅固につくろうと、押し寄せる波に絶えず晒された城は、いつか砂に溶けてしまう。
 何か戦況を一変させる策が必要であった。
 しかし、今の毛利軍を突き崩すような策がそこらに転がっているはずがない。
 大友軍の雲居筑前と小野鎮幸は、合戦に先立つ軍議に臨む前に二人で次のような会話を交わしていた。





『ふむ、つまり軍師の目から見ても、これといって打つ手がないというわけだな』
『はい。川を使おうにも、ろくに雨がなかったせいで水量が少ないですからね。これでは堤防を築いたところであまり意味はないでしょう』
 まあ、そもそも謀神に鍛えられた毛利軍に奔流の計なんぞ通用しないだろうが、と思いながら雲居が言うと、鎮幸は渋い顔でうなずいた。
『おかげで立花山城では苦労させられたわ。それはともかく、そうなると数に優る毛利軍を正面から打ち破るしかない、ということになる。むろん、そう簡単に負けるつもりはないのだが、いかんせん、此度の戦は時の縛りがあるゆえな……ちと難しかろう』
 そういって腕を組んだ鎮幸は、何かを思いついたようにぽんと手を叩いた。
『どうだろう、軍師。いつぞやのように我らで立花山城に入り込み、城門を開くという策は。あるいは少数の精鋭を率いて急襲する、でも良い。幸い城への抜け道は幾つか心当たりがあるでな。首尾よく城を落とすことができれば、毛利軍は袋のねずみよ』


 すでに鎮幸は雲居の正体を知らされていたが、態度も呼びかけも以前のそれとまったく同じであった。名がどうあれ、大友家のために尽力してきた相手に対する、それが鎮幸なりの誠意だったのだ。
 雲居はそのことを感じ取っており、だからこそ自身も相手に対してことさら構えることをせず、以前と同じように振舞っていた。 
『ああ、そんなこともありましたね。しかし、今回はやめておきましょう。小野さまはもちろん、それがしもすでに毛利に顔を知られてしまっています。それに、毛利軍もこちらが地理に通じていることは承知していますから、城の警戒は厳重をきわめているはずです。百の兵を用いれば百が、千の兵を用いれば千が、敵の顎に噛み砕かれるは必定かと』
『むう、そうか。ならばここは先手必勝、全軍をもって毛利軍に襲い掛かり――』
『ヘタに策を弄するよりは、いっそその方が良いかもしれませんが……』
 数にして三倍を越える敵と真っ向から戦ってどれだけの勝ち目があるのか、と問われれば口を噤まざるを得ない。


『それでは打つ手がないではないかッ』
『はじめからそう申し上げていましたよね?』
 憤慨する鎮幸を見て雲居はジト目でツッコミをいれる。
 が、すぐに気を取り直して考え込んだ。
 大友軍は毛利軍に比して兵力で劣り、時間の制限もあり、唯一ともいえる利点であった情報の優位もすでにない。
 この戦況を覆すのは容易なことではない。実のところ、鎮幸が口にした乾坤一擲の決戦はそれを可能にする案のひとつであった。宗麟の参戦で士気は互角かそれ以上、これに立花道雪、高橋紹運といった名将たちの統率力を考慮すれば、大友軍の勝算はある。あるのだが――
『それでも勝算がきわめて低いことにかわりはありません。やはりまずは守勢、持久の構えをとる必要があるでしょう』


 陣を堅固に保ち、数に優る相手の攻勢をひたすら耐えしのぐ。
 雲居がその意見を出すと、鎮幸からは怪訝な視線が返って来た。それも当然といえば当然のこと。大友軍は早期の決着を求めて多々良浜に陣を進めてきたのだから。
 鎮幸の眉間にしわができた。
『うむ、まさしく矛盾――いや、軍師よ、言わずともわかっておる! あえて意表をついた言葉で諸将の注目を集め、しかる後に真の意図を開陳して皆をあっといわせるつもりであろう? ふふ、まったく、もったいぶりおってからに。やはりもったいぶることにかけて、わしはおぬしに遠く及ばぬな。軍師、策士とはかくあるべし!』
 雲居は再びジト目になった。
『……いや、順をおって話そうとしているだけで、別にもったいぶっているつもりはないですし、もったいぶるのがうまいと誉められても嬉しくないですし、あと諸国の軍師、策士の皆さんに謝ってください』
 まあ、ある意味で真理のような気もするが、と雲居はちらと考えたが、それを認めるのは色々な意味で嫌だったので、こほんと咳払いしてごまかした。


『それはともかく、真の意図といっても、結局最後は道雪さまや小野さま、由布さまの武勇をあてにした力押しですから、策といえるほどの策ではありませんよ』
 雲居がそういうと、鎮幸は呵呵と大笑した。
『細かいことを気にするでない! 謙遜も不要ぞ! で、動かぬ様を見せ付けてどうするつもりなのだ。敵兵の油断を誘い、強襲の機をうかがうか?』
『まあそんなところです。毛利軍は多くの情報を得ました。それがしのことも、秀綱どのや長恵のことも。けれど、時に情報を持っていること、それ自体が枷となることもあります。そのあたりを利用できれば、勝算を多少は高めることができましょう』
 雲居はそう前置きしてから、具体的な方策に言及した。




◆◆◆




 その日、数えれば十九回目となる戦闘の火蓋を切ったのは大友軍左翼 戸次誾の部隊であった。
 早朝、まだ日も昇りきらないうちから川岸に進み出た戸次勢は、所有するすべての鉄砲を並べ立て、敵陣に向けて一斉に撃ち放した。
 癇癪を起こしたかのような銃声の乱打は、昨日までの大友軍の攻勢とは明らかに一線を画していた。
  

 多々良川を挟んだ攻撃はさしたる効果をあげなかったが、それでも飛来する銃弾の雨によって何人もの兵士が倒れ伏していく。
 そして、川面から銃声の響きが去らないうちに、戸次勢は喊声と共に突撃を開始した。喊声の大きさからして、百や二百の様子見ではない。明らかに数千の兵による吶喊であった。


 ついにしびれをきらしたか。
 秋月勢を率いる深江美濃守と大橋豊後守はそれぞれの部隊を率いながら、同時にそう考えた。
 このまま戦況が推移していけば大友軍は遅かれ早かれ力尽きる。それを避けるためには、余力のある今のうちに勝敗を決する必要があった。
 この攻撃はそのためのものと考えられるのだが、大友軍がそう素直な反応を見せるものか、という疑念もあった。


 この宿将たちの疑念は半ば当たり、半ば外れる。
 大友軍の攻勢、それ自体は両将の読みどおりのものであったが、大友軍は何の策もなしに闇雲に仕掛けてきたわけではなかった。
 戸次勢の中には秋月勢が昨日まで見かけなかった武将がひとり加わっていた。秋月勢の迂回を警戒して戸次誾の背後を守っていた雲居筑前が、はじめて前線に出てきたのである。
 雲居の麾下に配された兵はおよそ八百。その数自体は秋月勢の脅威になるものではない。
 脅威となるのは兵を率いる将の智謀であり、その下で剣を振るう聖たちの存在であった。




 上泉秀綱と丸目長恵。
 過日、宝満城の守備兵が味わった恐怖は、日と場所をかえて秋月勢の頭上にふりかかる。
 雲居の部隊とはじめにぶつかった大橋豊後守は、敵兵の先頭に立って縦横無尽に立ち回る二人の剣士にまったく歯が立たず、たちまちのうちに後退を強いられてしまう。大橋がどれほど踏みとどまるように声をからしても、兵たちが怖じてしまえば如何ともしがたい。
 自軍の不甲斐ない戦いぶりに大橋は歯噛みをしたが、しかし、その顔に狼狽はなかった。
 大橋は側近のひとりを呼びよせ、本陣の種実のもとに走らせる。
 その使者は種実のもとに案内されるや、叫ぶようにこう言った。
 出てきましたぞ、と。



 それを聞いた種実の口元がはっきりとした笑みを形作った。
「ようやく出てきたか、天城とやら」
 種実はすぐさま本陣の隆元と元春に使者を差し向け、これを受けた隆元たちは左翼の隆景に同じことを伝えた。
 この時点で毛利軍の指揮官たちは、ここが今回の合戦の勝負所だという認識を共有する。
 もともと、毛利軍を率いる三姉妹はそれぞれに程度は違えど天城颯馬を警戒していた。彼女らは連日の攻勢で敵の策動を押さえつけながらも、姿の見えない天城どその麾下の剣聖に常に注意を払っていたのである。
 あるいは、ひそかに多々良浜を迂回して立花山城に襲いかかってくるかもしれぬ。そう考えていた三姉妹にとって、天城と剣聖の姿をこの戦場で確認できたことは小さからざる意味があった。


 これで他所に注意を向けずに済む、というのがひとつ。
 もうひとつ、今日まで姿を伏せていた天城らが出てきたということは、大友軍の余力が尽きかけていることを意味する。これ以上の待機は勝機を逸すると考えたから、天城らは出てこざるを得なかった。
 ――それはつまり、この攻勢をしのげば勝てる、ということであった。



 中軍を率いる吉川元春は、正面の敵本隊に注意しつつ、右翼の種実を援護する形を整えた。
 戸次勢は前がかりになって秋月勢を押し込んでいるが、秋月勢は戸次勢に倍する兵を擁している。いかに剣聖がいようとも、そう簡単に突破できるものではない。
 見方をかえれば、今の戸次勢は正面の秋月勢に集中せざるをえない状況に陥っている。今ならば側面をついて相手に痛撃を与えるも、退路を断って撃滅するも思いのままだ。
 元春は機動力のある騎馬兵を右翼側に集結させた。むろん、この兵力移動で正面の敵中軍に付け入る隙を与えるような無様は晒さない。
 実際、宗麟と紹運の率いる中軍はこの機に動くことができず、毛利軍が戸次勢を鏖殺する準備を完了させるのを指をくわえて見ていることしかできなかった――あるいは、できなかったように見えた。



 元春の号令ひとつで毛利の騎馬隊は戸次勢に襲い掛かる。いかに剣聖とはいえ、挟撃する秋月勢と元春の部隊を同時に相手どることはできず、衆に飲み込まれるしかない。
 ただ、種実に援軍を差し向ければ、そのぶん中軍の兵は少なくなる道理である。大友軍がそのことに気づかないはずはなく、この点には注意を要するだろう。とはいえ、仮に三千の兵を割いたとしても、中軍にはまだ一万を越える兵が残っている。これは大友の中軍を大幅に上回る数であり、その点、過度の警戒は必要ない。
 兵力差が縮まる分、苦戦する確率はあがるわけだが、それならそれで隆景が中軍を援護すれば済む話である。あるいは後陣の豊筑の国人を投入してもよいだろう。ここまで戦況が進めば、たとえ鬼道雪が相手であっても彼らは怯むまい。
 元春と隆景はこの時点で勝利を確信した。隆元が確信しなかったのは、別に嫌な予感を覚えたからではなく、単に妹たちほど鋭敏に戦場の流れを感じることができなかっただけである。




 そう、この時、膠着していた合戦場には一つの流れが形作られていた。
 ここが勝敗の分水嶺であるという感覚。今ならば勝利を掴みうるという確信。一語でいえば勝機。それがうまれつつあった。
 源となったのは戸次勢の攻勢と天城颯馬の参戦である。
 秋月種実は正面の戸次勢を見据え。
 吉川元春は戸次勢を撃滅するべく右翼に視線を投じ。
 小早川隆景は元春を援護するために中軍を注視した。


 いずれも勝機を感じ取り、それを掴むための行動であった。
 その結果として、本当にわずかな、一時的なものではあったが、毛利軍は注意をそらしてしまった。


 ――戦場において、決して目を離してはいけない人物から



◆◆




「申し上げます、立花勢、川面を蹴立てて突撃を開始いたしましたッ! 中央に輿に乗った敵将を確認、鬼道雪ですッ!!」
 その報告が耳朶を打った瞬間、毛利軍左翼を率いる小早川隆景は自分でも気づかないうちに舌打ちをしていた。
 虚を突かれた、と感じたのだ。
 大友軍が決戦を企図していたのなら、立花勢が戸次勢と歩調をあわせて動くのは当然のこと。予測してこれに備えることは何も難しいことではない。
 にも関わらず、隆景はそれをしなかった。下流での戦闘と、それに付随して起こる戦場の変化に気をとられ、眼前の敵に対する注意を怠ってしまったのである。


 だが、隆景はすぐに気を取り直した。
「応戦準備。敵はこちらの半分以下だ。これまでと同じように迎え撃て」
「ははッ!」
 隆景の命令に応じて周囲の将兵が動き出す。音に聞こえた鬼道雪とぶつかるためか、彼らの顔からは緊張が色濃く漂っていたが、それでも恐れ怯えている者はいなかった。すでに隆景と道雪は今日までに幾度か矛を交えており、その経験が平静さを保つ一助となっているのだろう。


 道雪の右翼部隊は大友軍でも最もすくない三千弱であり、一方の隆景の兵は一万に達する。
 数にして実に三倍の兵力差であったが、隆景は決して道雪と正面から戦おうとはしなかった。
 隆景の作戦は単純といえば単純なもので、防備をかためて敵の初撃を受け止めている間、左右に兵を回して立花勢を取り囲むように動く。こうすれば包囲されることを嫌う立花勢は退かざるを得ない。これの繰り返しであった。


 道雪が攻め込んでくるのであれば、また同じように迎え撃つまでのこと。隆景はそう指示し、部下たちは了解した。
 だから、というべきだろうか。
 多々良川を渡った立花勢が小早川勢の眼前で唐突に転進したとき、彼らは咄嗟に反応することができなかった。
 初撃は受け止める。
 この隆景の命令が徹底されていたからこそ、立花勢が無防備な横腹を晒して通り過ぎていくのを口を開けて見送ってしまったのである。


 むろん、それは長い時間ではない。
 だが、無視できるほど短い時間でもなかった。隆景自身、道雪の思惑がわからず、困惑をおぼえた。真剣をもって敵と向かい合っていたら、いきなり相手があさっての方向に駆け出したようなものである。
 正確にはあさっての方角ではなく、下流方向、つまり元春たちの中軍が布陣している方向なのだが……


 と、そこまで考え、隆景はおそまきながら気がついた。
 立花道雪が――あるいは、天城颯馬が何を考えているのか。
「しまッ!? 全軍、ただちに立花勢を追撃せよ! 道雪はこのまま中軍に突っ込む腹と見えるぞッ!」
 中軍の元春は種実を援護するために兵を移動させたばかりである。そこに反対方向から横撃をくらえば、元春とて苦戦を余儀なくされるだろう。予測していない方向からの攻撃であれば尚更だ。
 しかも、敵の中軍がそれを漫然と眺めているはずがない。大友軍の狙いがはじめから中軍――否、毛利軍の総大将たる隆元の身命にあるのなら。



『それがしが仮に戦場で毛利の一族の誰かを討つ機会に恵まれたとしたら――』



 いつか天城が口にした言葉が隆景の脳裏をよぎる。
 知らず奥歯をかみ締めた隆景は、再度追撃の指示を出して道雪の後を追った。
 正面の道雪がいなくなった今、隆景もまた敵中軍に攻撃を仕掛ける好機を得ているのだが、仮に大友宗麟を討ち取ったとしても、代わりに道雪に隆元を討たれてしまえば何の意味もない。
 元春がいれば隆元の身に滅多なことは起こるまいと思いはしても、ここで矛先を転じる気にはなれなかった。


 隆景の視線の先では、立花勢がその錬度を示すように素早い行軍を続けている。対する小早川勢の動きは、立花勢に比べれば鈍重というしかなかった。少なくとも隆景の目にはそう映った。
 錬度でひけをとるわけではない。だが、この時ばかりは立花勢に三倍する兵数が仇になっていた。くわえて、はじめから行軍路を定めていた立花勢と異なり、小早川勢は転進の準備などできていなかった。むしろ、そんな状態にありながら、それでも陣列を整えて行軍できている兵たちを褒め称えるべきかもしれない。


 このままでは隆景が道雪に追いつくよりも先に、道雪が元春の横腹に食いついてしまう。その後に隆景が兵を率いて乱入すれば、かえって中軍の混乱を助長することになりかねない。
 隆景は真剣に考え込む。
 このまま陣形を保って進むべきか。
 陣形を崩してでも、足の速い部隊で追撃を仕掛けるべきか。


 答えはすぐに出た。
 確実なのは陣形を保って進むこと。しかし、自分の失態で姉たちを危険に晒しておきながら、自分だけ安全確実を旨として行動するなど隆景の耐えられるところではなかった。
 そう考えた隆景は意を決して命令を下し――――ほどなくして、その命令を下した自分自身を罵ることになる。
 
 



[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第十章 天昇(十九)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:fbb99726
Date: 2014/01/02 23:31

 筑前国 多々良浜


 多々良浜の合戦における十九度目の激突。
 この戦闘において白眉となりうる武将を挙げるとすれば、それは大友軍の右翼を率いた立花道雪であろう。
 道雪は左翼の戸次誾が川を渡ると時間差をつけてこれに呼応し、猛然と軍を進めた。その勢いのまま正面の小早川隆景を急襲すると思われた道雪は、しかし、待ち構える隆景の部隊の鼻先をかすめるようにして左方向――下流側に位置していた毛利の中軍に矛先を向けた。


 この道雪の急激な転進は隆景、元春ら毛利軍の意表をついた。隆景は慌てて追撃を開始するも、足軽隊と騎馬隊の足並みを揃えたまま道雪に追いつくのは至難と判断し、強引に騎馬隊を突出させる。
 多少の混乱を覚悟の上で追撃を優先させたわけだが、この即断をもってしても道雪の部隊に追いつくことはできなかった。この時、道雪はすでに毛利隆元、吉川元春の率いる中軍を指呼の間に捉えていたのである。



 この合戦の毛利軍の実質的な指揮官は吉川元春である。
 毛利隆元は総大将として本陣に座っていたが、基本的に指揮はすべて妹に委ねていた。隆元が自身に定めた責務は、妹から作戦なり移動なりの許可を求められた際にうなずくこと、ただそれだけ。
 元春は毛利元就をして「戦においては及ばない」と感嘆せしめる戦の申し子である。鬼と仇名される勇猛さと、義母仕込みの冷静な戦術眼を併せ持つ毛利随一の驍将。隆元も武将として一通りのことは学んでいるし、経験を積んでもいるが、元春には遠く及ばない。 ゆえに、こと戦闘に関しては元春にすべてを委ね、自分は責任をとるために座っていればよい、というのが隆元の考えだった。


「私がしゃしゃり出たら元春の邪魔になっちゃうもんね」
「さて、それはどうでしょう。姉上はもう少しご自分の力量を評価すべきと思いますが」
 戦が始まる前、毛利家の長女と次女はそんな会話を交わしている。


 ともあれ、隆元から絶大な信頼を寄せられた元春は、姉の期待にこたえるべく合戦に臨んでいた。
 だが、さすがにここで立花勢が出現することは予測できなかった。左翼側より杏葉紋を掲げた部隊が接近しつつあるとの報告を受けた元春は、一瞬の沈思の後、小さく呟いた。
「末姫どのが読み違えるとはな。さすが鬼道雪、というべきか」
 動揺があったとしても、それは表情に表れる前に押さえ込まれている。
 瞬く間に戦況を読み取った元春は、短く、しかし的確に指示を出し、迫る立花勢を迎撃する態勢を整えた。


 このとき、毛利の中軍は右翼側で戸次勢を攻撃する準備をととのえながら、左翼側で立花勢を防ぐ構えをとるという、正反対の行動を二つながらに実行していた。
 これを遅滞、混乱なしに成し遂げた吉川元春の統率力はやはり尋常ではない。しかもこの時、元春はこの予期せぬ襲撃を奇貨とみなし、次にとるべき行動を定めていた。
(立花勢のすぐ後ろに隆景が続いていることは疑いない。最初の攻勢さえしのげば、かえって鬼道雪を挟撃することができよう)
 ただ敵の奇襲を防ぐだけではない。眼前にせまった危機を、かえって敵将を圧殺する好機とみなす柔軟な思考と、これを実行に移せる指揮能力。一身にこの二つを兼ね備えることこそ鬼吉川の真骨頂。
 もしも立花勢がこのまま中軍に襲いかかっていれば、合戦の勝敗はこの時点で決していたことだろう。



 だが。
 待ち構えるのが鬼吉川であるならば、これにかかるは鬼道雪。
 共に鬼とあだ名される者同士、しかし戦歴においては道雪に一日の長がある。
 立花道雪の狙いは、毛利姉妹が考えるそれよりもさらに一段深いところにあった。



 再度の転進。
 立花勢は毛利本隊の左側面をかすめるように駆けて行く。先に同じ行動を見た小早川勢であれば、あるいは即座に反応できたかもしれないが、中軍の将兵は立花勢の意図がわからず、咄嗟に動くことができなかった。
 そんな毛利兵の眼前で、立花勢はいかにも悠々とした様子で――その実、懸命になって足を動かしている。
 文字通りの意味で懸命に。なにしろ前にも後にも敵部隊。しかもいずれも自分たちに数倍する大兵力である。休んでいる暇などどこにもない。わずかでも足を止めれば、たちまちのうちに追いつかれて皆殺しにされてしまうだろう。


「ほれ、みな走れ走れィ! 死にたくなくば足を止めるなよ。敵の将兵、これすべて証文を持った借金取りと心得よ!」
 小野鎮幸の叱咤を受け、兵たちから悲鳴交じりの喊声があがる。
 それを聞いた由布惟信は、これも兵たちを急かせながら言わずにはおれなかった。
 もう少しマシなたとえはないのか、と叱りたいわけではない。
 将たる鎮幸が足軽と一緒に駆けていることについて、一言いわずにはいられなかったのである。


 今回の戦で肝要なのは武勇ではなく行軍速度――いかに素早く、休みなく戦場を駆け抜けることができるか、という点であった。
 惟信は馬に乗っている分、徒歩の足軽よりも楽をしていることになるが、これに引け目を覚えたりはしない。将が馬に乗るのはそれに足る責務があるからだ。
 しかるに、鎮幸は馬をおりて走っている。
 別段、惟信は鎮幸のしていることを自己満足だと責める気はない。いや、これが鎮幸以外の人間がやっているのならそんな気分も芽生えたろうが、実際、鎮幸が足軽同様に駆け回っていることは立花勢の士気高揚におおいに役立っているのである。これは惟信には決してできないことであった。


 とはいえ、足軽同様に駆け回っているということは、足軽と同じ危険を背負っているということでもある。
 道雪の下、双璧と称えられて幾多の戦場を共にしてきたふたりは、(主に惟信が)相手を邪険に扱うこともあったが、互いに信頼も敬意も持っている。惟信としては僚将の身が案じられてならなかった。
 もっとも、それが士気高揚に役立っている以上、面と向かって注意することもできかねる。そんな惟信の複雑な胸中を見抜いたのだろう、鎮幸は闊達に笑ってみせた。ほとんど息をきらしていないあたり、実に底なしの体力である。
「はっはっは、まあ大目に見てくれい、惟信」
「……まあ、今に始まったことではない、といえばそれまでですね」
 鎮幸に対する返答というより、自分自身に言い聞かせるような惟信の言葉であった。



◆◆



 一連の立花勢の動きを上空から俯瞰すれば次のようになる。
 はじめに小早川勢の鼻先をかすめて左方向に走り、次に中軍の側面をかすめるようにして上方向に駆け、そのまま時計回りに弧を描く。行き着く先は、立花勢を追って後方から追尾してきた小早川軍の右側面であった。


 この立花勢の動きはまたしても毛利軍の意表をついた。もっとも混乱したのが横撃を喰らう形になった小早川勢であることはいうまでもない。
 整然と陣形を保って追尾していれば対処することもできただろうが、隆景が追撃速度を優先した結果、小早川勢の陣列は乱れたままであった。
 そこに痛撃をくらったのだからたまらない。やわらかい獣肉を牛刀で断ち切るような容易さで、小早川勢は両断された。
 しかも、小早川勢を切り裂いた立花勢はそれで満足することなく、左右に断ち割った小早川勢の片方――隆景の本陣めがけて更に肉薄していく。
 すでにこの時点で彼我の兵力比は劇的に縮まっており、しかも陣営を蹂躙された小早川勢は混乱の真っ最中。この状態で鬼道雪の一撃をくらえば、いかに『毛利の両川』といえど防ぎようがない。
 後年、小早川隆景をして「本気で死んだと思ったよ」と嘆息せしめた鬼道雪の猛攻であった。


 その述懐からもわかるとおり、隆景はこのまま道雪が襲いかかってくると考えていた。隆景さえ討ち取ってしまえば、毛利軍左翼一万の軍勢は烏合の衆に成り果てる。
 毛利隆元を狙うと見せて、実は道雪の狙いは隆景にこそあったのだ――そんな隆景の予測は、しかし、またしても外れてしまう。
 実際、ここで隆景を討ち取ることができれば毛利軍の左翼をほぼ無力化できる。それは戦場全体の帰趨を左右する大戦果であり、大友軍が勝利する可能性も大幅に増えたであろう。
 だが、道雪が襲いかかったのは隆景の本隊ではなかった。
 決死の覚悟で隆景を守ろうとする兵士たちの決意を感じ取り、一筋縄ではいかないと判断したのか。あるいは、それすらも予定どおりであったのか。
 立花勢は再び小早川勢の只中に躍り込むと、混乱を煽り立てるように盛んに喊声をあげ、そして激突に備える小早川隆景を尻目に敵陣を縦断してしまったのである。


 先に自分たちで切り裂いた敵陣の隙間を逆方向になぞるような進軍。いかにも傍若無人に見えて、その実、徹底して成算を追及した合理的な用兵。
 かくて二度にわたって小早川勢を切り裂き、相手を混乱の淵に叩き落した立花勢は、そのまま足を止めることなく次なる標的へと向かう。
 この合戦において、いまだ一度も戦闘に加わっていない部隊。
 毛利軍の後陣、豊筑の国人衆たちへと。




 国人衆たちにとっては慮外の出来事であった。
 喊声や銃声から戦闘が始まったことはわかっていた。その規模が今日までの比ではないことも。
 しかし、国人衆の部隊と大友軍の間には三万を越える毛利軍が展開している。自分たちが戦に加わることはないだろう。あったとしても、それは毛利軍の要請を受けて大友軍にとどめの一撃を加えるとき。彼らはそう考えていたし、軍議においても三姉妹からそのように伝えられていた。


 そんなところに、勢いに乗った立花勢が襲いかかってきたのである。
 まさしく鎧袖一触。
 立花勢が国人衆を蹴散らしたというより、国人衆の側が望んで立花勢に蹴散らされたかのような一方的な戦いが展開された。
 ――といっても、実のところ、双方に戦死者はあまり出ていなかった。これは先の小早川勢との戦いも同様である。立花勢は陣形を維持したまま素早く戦場を駆け回ることに注力しており、戦闘の激しさでいえば下流で激突している戸次、秋月のそれの方がはるかに上であったろう。
 ただ、敵軍に脅威を与えるという一点において、立花勢は他の追随を許さなかった。


 その立花勢が明確な意思を見せて長尾の陣に襲いかかったと知ったとき、中軍の吉川元春と左翼の小早川隆景は同時に舌打ちした。
 彼女らはようやく敵軍の意図に気づいたのである。
 長尾は多々良川のやや北に位置する地名で、国人衆のひとりである宗像氏貞が布陣している。このあたりは丘状の地形になっており、多々良川北岸を一望することができる。この丘がもう少し多々良川に近ければ、毛利軍はここに本陣を据えていたであろう。


 長尾を立花勢に奪われてしまうと、毛利軍の作戦行動がことごとく敵の目に晒されてしまう。その上、立花山城との連絡にも支障を来たしてしまう。さらにいえば、これまで後詰が布陣していた地点に立花道雪にどっかりと居座られてしまっては、どうあっても将兵の動揺は避けられない。
 毛利軍としてはなんとしても守らねばならない拠点であった。
 長尾を守っていた宗像氏貞はそのことがわかっており、立花勢の急襲に対して奮闘し、簡単に陣を明け渡すようなことはしなかった。
 が、宗像以外の国人衆で宗像に呼応したのは筑紫、原田といった少数の筑前衆だけで、大半の者たちは立花勢の矛先を避けて兵を退いた。道雪の強さを警戒したためであり、また兵力の温存をはかる意味もあったのだろう。


 結果、宗像勢は奮闘空しく敗退し、長尾は立花勢によって占拠される。
 立花勢はここではじめて足を止め、敵の逆襲に備える姿勢を見せた。ここまで戦場を右に左に駆け通しだったので、兵を休ませなければならなかったのである。体力的な消耗はもちろん、敵軍のど真ん中を走り回ったことによる精神的疲弊も無視できない。
 もし、この時点で毛利軍が長尾の奪還に乗り出していれば、比較的容易にこの拠点を奪還することができたかもしれない。


 だが、吉川元春は大友軍の中軍に備えるため、そして右翼側で起きている戦闘に対処するために動くことができず、小早川隆景は左翼の混乱を立て直すのに精一杯。戸次勢と激戦を繰り広げている秋月種実にその余力がなかったことは言うまでもない。
 宗像らを除いた豊筑の国人衆の中に、即座に反撃に出られるだけの余裕と気概を持つ者はおらず、立花道雪はその戦歴に新たな武勲を積み重ねることに成功したのである。



◆◆



 本陣の吉川元春の眉間に深いしわが刻まれた。
 隆景や宗像らの報告を受け、毛利軍が道雪ひとりにしてやられたことを改めて確認したからである。
 だが、狼狽することはなかった。
 道雪に長尾をおさえられたことは毛利軍にとって厄介きわまりないが、視点をかえれば、道雪は望んで死地に踏みとどまったともいえる。
 なにしろ道雪の手勢は三千たらず。今でこそ毛利軍は混乱しているが、道雪が兵を休めている間に毛利軍もまた態勢を立て直すことができる。
 いちど態勢を立て直してしまえば、後に残るのは敵陣深くに取り残された立花勢と、それを取り囲む毛利の大軍という形である。


 ゆえに、慌てる必要はない。
 元春の考えは、長尾の敵陣から狼煙がたちのぼり、それに呼応して大友軍の中軍が出撃してからも変わることはなかった。
 大友軍としては、立花道雪が敵陣を蹂躙し、さらに後背を塞ぐことに成功した今こそ決戦の時、という心積もりなのだろう。
 実際、毛利軍としても面倒な状況ではあった。
 だが、元春率いる中軍は、左右両翼の戦況に対応して兵を動かしてはいたものの、いまだ敵と矛を交えるには至っていない。一万五千の大軍は健在である。
 一方、大友軍の中軍は七千弱。
 立花道雪がどれだけ奮闘したところで、二倍以上の戦力差がある事実は動かない。


 しかも、この数字はごく一時的なものだ。すでに余力がない大友軍と違い、毛利軍にはまだまだ余力がある。特に左翼の隆景は道雪という当面の敵がいなくあり、かなり自由に行動することができる。隆景のことだから、多少の時間があれば混乱を鎮めることはできるだろう。そうすれば、長尾の道雪を包囲することも、あるいは道雪にならって大友軍の後背を塞ぐことも思いのままである。


 寡は衆に敵せず。
 そのことを知るがゆえに元春は落ち着きを保っており。
 そのことを知るがゆえに元春は落ち着かなかった。


 矛盾した物言いであるが、この時の元春の心境はそうとしか言いようがないものだった。
 元春は腕を組んで考え込む。
 そも、道雪が長尾に陣を据えたのはどうしてか。
 たしかに長尾は重要な拠点であり、ここを確保できれば大きい。だが、それは確保できればの話。立花勢は速度をもって毛利軍の左翼と後詰部隊を蹂躙したが、一度足を止めてしまえば、次に待つのが圧倒的多数の毛利兵による包囲殲滅であることは火を見るより明らかである。かたく守ろうとしたところで、味方と切り離された道雪には陣を築く資材さえない。これでは堅陣を築きようもないだろう。まさか陣を築く資材を抱えたまま、あの行軍をしてのけたわけではあるまい。


 相手はかりそめにも九国最高を謳われる名将である。
 長尾の保持が難しいことは重々承知しているだろう。にもかかわらず、道雪は今なお長尾に留まっている。
 兵を休ませる必要があった。それは確かだろう。
 毛利兵の動揺をさらに深めるために、あえて敵中にとどまって立花道雪ここにあり、と知らしめている。これもそのとおりだろう。立花道雪が後背を塞いでいる、その事実は決戦における大友軍の勝機となるには十分な要素である。


 ――だが。
(本当にそれだけなのか?)
 寡は衆に敵せず。そんな基本的なことを道雪が知らないはずがない。それでも戦場に出てきたならば、相応の勝算を持っていなくてはおかしい。
 元春が考えたのは、もしかしたら道雪は単純に『機』を待っているだけではないのか、ということであった。疲労に示威、一見もっともに思える理由はすべて真の狙いを秘匿する隠れ蓑ではないのか。
 実際、大友軍は今日まで守勢に徹して逆撃に転じる機をおしはかり、毛利軍はその鋭鋒を避けそこねて長尾という要地を失ってしまった。
 それとまったく同じことを、今、道雪は行っているのではないか。
 だとしたら、今回の機とは――この決戦において、数に劣る大友軍が勝利をもぎとるために是が非でも必要なものとは何なのか。
 そこに思い至ったとき、元春は至近で雷鳴が轟く音を聞いたように思った。


「いかんッ!」
 めずらしく――本当にめずらしく、元春の口から焦慮の声がこぼれおちる。


 中軍同士が激突すれば、元春といえど前面に集中せざるをえない。そのとき、後方の立花道雪が長尾から急進して元春の背後を突いてくればどうなるか。
 それだけではない。右翼側で戦っている戸次勢が矛先を転じ、剣聖を先頭に押し立てて側面に突きかかってくればどうなるか。


 毛利の中軍は前方、後背、側面、三方向からの猛撃を受けることになる。


 むろん、それはごく一時的なものに過ぎない。戸次勢が矛先を転じれば秋月勢がその後ろに喰らいつくし、それは立花勢も同様。いかに鬼道雪の部隊とはいえ、豊筑の国人衆も背を向けた相手を恐れはしないだろう。左翼側には隆景の一万が丸々残っているので、大友宗麟の本隊を横から叩き伏せることもできる。
 元春たちは少しの間だけ耐えれば良い。それだけで大友軍はたちまち危地に陥る。


 ――しかし。
 毛利の中軍は一万五千。そして大友軍の総数も一万五千。今日までの戦いで両軍には相応の被害が出ているが、それを考慮してもほぼ同数。
 そう。ごく一時的なものとはいえ、毛利軍は開戦当初から保ってきた数の優位を失ってしまうのである。五分の立場で――否、三方から囲まれるということを考えれば、不利なのは間違いなく毛利軍の方。
 そして、この機に大友軍が狙うのは隆元の命以外ありえない。


 失敗した時のことなど考慮の外。どのみちここで負ければ後はない。
 昨日までの守勢も、今日の攻勢も、長尾の占拠さえも、数の不利を排して敵将を討ち取るための布石に過ぎぬ。
 強引に、無理やりに、ただひたすらに、毛利隆元の命だけを狙うことで勝利をもぎとろうとする、これは大友軍の背水の陣であった。




 元春の脳裏にいつか聞いた言葉がよみがえる。
 次の瞬間、元春の口元を彩ったのはどこか冷ややかな微笑であった。
「『戦場で機会に恵まれれば』か。笑わせてくれる。必要とあらばその手で機をつくりだしてのける男がいう言葉ではないぞ、天城筑前。芝居の才とは段違いのその智謀、見事というほかない。あの書物の内容もあながち偽りではないのかもしれぬ。だが――」


 これ以上、貴殿の思いどおりにはさせぬ。
 元春は誰の耳にも届かない声で静かに断言すると、隆元にとある行動の許可を求めた。
 それを聞いた隆元は、思わず、という感じでひどく驚いた顔をしたが、元春の顔を見て妹が本気であるとわかったのだろう。説明を求めることもせず、その場ですぐにうなずいて許可を与えた。
 これを受けた元春はただちに右翼の秋月勢と左翼の小早川勢に使者を出した。両将の驚愕と反発を予想して、隆元直筆の命令書も添える念の入れようで。




 それからほどなくして毛利軍は動きだした。
 勝敗を決するための総攻撃に出たのではない。
 その逆――すなわち、総退却を始めたのである。




◆◆◆




「……お義父さま、これは、いったい?」
 傍らで吉継が目を丸くして驚いている。
 手に持った刀も、身につけている鎧も血に塗れており、それは俺も同様であった。
 大友軍の左翼部隊はつい今しがたまで秋月勢を相手とした激闘の只中にあり、俺も吉継も勇をふるって何人もの敵兵を斬り捨てていた。
 まあ、俺たちは誾の直属部隊にいるので、基本的に味方は多く、敵は少ない。先頭付近にいる秀綱どのや長恵ほどの激しさはないが、それでも敵は多勢であり、危機は何度もあった。また、誾直属だからこそ大将首を狙った部隊がわんさか寄ってくるという弊害もあるので、決して楽をしていたわけではない。


 そんな俺たちの眼前から、まるで掃き清めたかのように敵兵の姿が消えつつある。おそらく、いや、間違いなく退却の命令が出たのだろう。
 俺たちの視線の先では秋月家の家紋である『三つ撫子』が遠ざかりつつある。荒々しく風にたなびく旗印は、まるで当主の無念をあらわしているかのようであった。
 不利を察して一時的に兵を退いた、というわけではない。この戦場での勝利を諦める、という意味での退却である。
 吉継が驚くのも無理はない。正直、俺も一瞬唖然としてしまった。
 


 ある予感にとらわれ、視線を川の上流、中軍同士が激突しているはずの方角に向ける。
 すると、こちらでも毛利軍がじわじわと後退しているのが見て取れた。宗麟さまと紹運どのがこれを追尾しようとしているが、数に劣る大友軍はいかにも仕掛け辛そうである。
 退却する敵への追い討ちは戦の常道であるが、毛利軍の後退が明らかに余力を残したものであるだけに、罠の可能性を慮って動けないのであろう。
 視界で捉えることはできないが、この分では小早川隆景の部隊も撤退にかかっているとみていい。
 中軍、右翼、左翼がそろって後退するということは毛利軍が敗北を認めた証。つまりは大友軍がこの決戦に勝利した、ということである。


 そう思い至った一部の兵士たちが歓呼の声をあげ、それはたちまち全軍に波及していった。
 だが、俺はその歓声に同調することができない。それどころか――
「…………やられた。ここで退くのか、毛利隆元」
 知らず、うめきにも似た声がこぼれていた。
 もしかしたら吉川元春か、あるいは小早川隆景の提言なのかもしれないが、誰の案かはこのさい重要ではない。重要なのは、毛利軍がこの時点で兵を退いてしまった、ということであった。




 そんな俺を見て、吉継が怪訝そうな顔をする。
 吉継は俺の作戦を知っている。最終的に敵将である毛利隆元を討って勝利を得る、という目的も知っている。この戦いでそれが為せなかったことは事実だが、それでも数に劣る大友軍が毛利軍を押し返したのは間違いない。この成果は、豊筑の国人衆の動向にすくなからず影響するだろう。その意味では大きな意味があったといえる。
「先の狼煙を見れば、道雪さまは長尾の占拠に成功したのでしょう。となれば、大勢として大友軍が毛利軍を上回ったことは事実です。確かに敵将を討つにはいたりませんでしたが、次の戦いはもう少し容易になるのではありませんか?」
 もちろん、今日のそれに比べれば、という程度ではありましょうが。
 吉継はそう言って俺を見たが、俺は吉継に同意することができなかった。


 確かに今日の戦いは相対的に大友軍の勝ちと見ていいだろう。それなりに打撃を与えることもできたはずだ。
 しかし、こちらにも被害は出たし、本陣を三方から突き崩すことで隆元を、あるいは元春を討とうとした俺の策は未然に防がれた。大友家にとって貴重きわまりない時間を費やした乾坤一擲の作戦が防がれたのだ。


 結果として大友軍は多々良川を渡り、立花山城に向かって距離を詰めることができたわけだが、逆にいえば、今の大友家の全力をもってしてもその程度の成果しか得られなかったということ。
 最悪なのは、毛利軍がその気になれば、この成果さえすぐに奪い返されることである。


「それはどういうことでしょうか?」
「毛利軍がどこまで退くかはわからないが、このまま立花山城に立てこもるつもりはないだろう。数ではまだ圧倒的にこちらを上回っているんだ。俺だったら、長尾の少し先あたりにまた陣を構える。それに対峙するとなると、こちらは多々良川を渡って、長尾のあたりに本陣を置くことになるわけだが……」
 そう言って、俺は足元の地面を軽く蹴った。
 それを見た吉継は俺の言わんとするところを悟ったのだろう、目を見開いて多々良川を振り返った。
「これまでは川を挟んで敵の大軍と対峙していた。今回は川を背にして向き合うことになる。多少距離はあるが、実質的な背水の陣だ」


 今回の戦いもある意味で背水の陣だったわけだが、精神的なそれと実際のそれはまったく別物である。
 徒歩で渡れる水量とはいっても川幅はけっこうあるし、水量なんて上流で雨のひとつも降れば一夜で変わる。川を背にして自軍に数倍する敵を相手どるのは無謀に過ぎるだろう。
 特に、今の毛利軍はこちらの狙いをはっきりと見抜いているはずだ。もう今回のような奇策は通用しない。


「となると、ヘタに川を渡るよりは、もどとおり南岸に陣を構えていた方が安全、ということになる。当然、こちらが南岸に戻れば、向こうは兵を進めて北岸に陣を敷くだろう」
「毛利軍にしてみれば、一滴の血を流すこともなく失地を回復できる、ということですね。一方のこちらにしてみれば、知恵をしぼり、時間を費やし、道雪さまという切り札を投じて得たすべてが奪われてしまう。これではどちらが勝ったのかわかったものではありません。国人衆たちの動揺も期待できませんね」
「そういうことだ。それを避けるために無理をして北岸に留まったところで、毛利軍を討つ手なんてそうそう考えつかんし――」


 俺は天を仰いで嘆息した。
 まさか数に勝る毛利軍が、中軍同士の激突に先立って退却を決意するとは思わなかった。
 おそらく、まだ長尾の道雪どのも動く前だったはずだ。
 当然、俺たちも転進の素振りなど見せていない。
 その状況でこちらの意図を察し、間を外すことで策を無効化してのけるとは、誰だか知らないが見事というしかない。敵が反撃に出てくる、あるいは隆元を本陣から逃がす、くらいまでであれば対応策を考えてもいたのだが、退却するとか予想外にもほどがある。


 そんなことを考えていると、向こうから誾がやってきた。訝しげな顔を見るかぎり、誾も敵の意図を把握しきれていないのだろう。どうやらもう一度説明をすることになりそうだ。
 俺は近づいてくる誾の姿を見つめながら、この先どうするかについて考える。
 正直なところ、速戦のための策は尽きてしまった。もう戦場で隆元を狙うのは不可能だろう。道雪どのの脅威を思い知った毛利軍が、今日のような失態を見せることもまずあるまい。
 どう決着をつけるにせよ時間がかかる。そして、時間がかかれば背後の竜造寺や島津が動き出す。考えれば考えるほど頭が痛かった。



「お義父さま、お顔の色が……無理もないとは思いますが」
「うむ、半分が優しさで出来ている頭痛薬とかないものかな」
「そのような偽薬は存じませんが、少し横になるだけでもずいぶんと違うものです。ご希望でしたら膝枕くらいはいたしましょう」
「誾さま、早急に相談いたしたいことがございます! しばしお時間をいただきたいッ」
「は、はい、わかりましたッ!?」
「……優しさも時に薬となるのですね。偽薬などというべきではなかったかもしれません」



 俺は後ろから聞こえてきた吉継の呟きを耳にして小さく笑った。
 戦況が非常に厳しくなったのは事実だが、だからといってしかめっ面をしていても仕方ない。多少無理やりにでもテンションをあげて事にあたった方がいいだろう。笑う門には福きたる、というやつである。
 ――けっして娘から膝枕の申し出をされて有頂天になったわけではないのであしからずご了承いただきたい。
 わけがわからず目を白黒させている誾に一通りのことを説明しながら、俺は真剣にこれからの方途について考えをめぐらせた。







◆◆◆







 数えて十九度目となる多々良浜での戦闘。
 この戦闘は大友家と毛利家が覇を競った『多々良浜の合戦』における最大の激突であり、同時に最後の激突ともなった。
 この数日後、両家は和議を結んで互いに兵を退くことになるのである。


 戦そのものの趨勢はいまだ決していなかった。
 大友軍にせよ、毛利軍にせよ、退けない理由はいくらもあった。
 にも関わらず、両軍が兵を退くことになった――退かざるを得なくなった理由は、戦場の外、九国の外からもたされた。
 安芸の国主 毛利元就が『一大事』の一語のみを添えて遣わした使者がもたらした報せ。
 それは遠く京の都で起きたひとつの変事を伝えるものであった。



 ――足利幕府第十三代将軍 足利義輝公、京 二条御所にて御討死





[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第十章 天昇(二十)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:fbb99726
Date: 2014/01/18 21:38

 筑前国 多々良浜南岸 大友軍本陣


 ――足利幕府第十三代将軍 足利義輝公、京 二条御所にて御討死


 その報せを聞いた俺の脳裏によぎったのは、かつて上杉軍の一員として上洛した時の記憶だった。
『此度はもう無理じゃが、次に上洛してきた時には色々と話を聞かせてくれい。そなた、なかなかの策士だと聞いておる。楽しみにしておるぞ』
 京を去る俺に義輝は直接声をかけてくれた。
 あの時の闊達な笑みと溌剌とした声を、俺は今なおはっきりと思い出すことができる。
 もう、あの再会の約定を果たすことはできなくなってしまった。それを知ったとき、俺は自分でも意外なほど動揺した。


『正式に殿上人に名を連ねる其方であれば、将軍家の使者として不足はあるまい。まあ正確には色々と問題はあるのじゃが、今は危急のときゆえ細かいことは放っておくが吉なのじゃ。兵は拙速を尊ぶというが、ときに交渉事もこれにならうもの。吉報を待っておるぞ』
 今回の戦いにおいて起死回生の一手となった京からの救いの手。これは謙信さまや政景さまの尽力あってのことだったが、お二人がどれだけ力を尽くしてくれたとしても、義輝が首を横に振れば実現のしようはなかっただろう。
 いずれどうあっても報恩しなければと考えていた相手は、しかし、こちらが礼の一言を伝えることもできないうちにこの世からいなくなってしまった。それを知ったとき、俺は自分でも意外なほど強く怒りをかきたてられた。



 そして、そういった動揺や怒りをかき消すほどの強い不安に襲われた。
 何故、今この時なのか、と。



 俺は、俺が知る将軍襲撃事件――いわゆる永禄の変について誰にも口にしたことはない。
 俺が口を緘した理由はふたつある。
 この世界は、もう俺が知る戦国時代とは似て非なるものであると考えたことがひとつ。情勢を分析した上での献言ならともかく、歴史知識をあてにした推測に価値はない。
 もうひとつは、俺が口にするまでもなく義輝自身が自分の危うさを自覚していたからである。その自覚があったからこそ、義輝は上杉と武田に上洛を命じた。その上杉に属する俺が「三好や松永が将軍を暗殺云々」などと口にすれば、かえって状況を悪化させることになりかねない。そう考えたから、俺は襲撃事件に関しては口を噤んでいたのである。


 その結果、今日この時に事が起こってしまった。
 俺が勅使に任じられ、九国の動乱が最終幕に突入したこの時期に襲撃が起きたのは、はたしてただの偶然なのだろうか。
 おそらくは偶然だろう。九国の戦況が将軍暗殺を惹起したとは考えにくい。強いて考えれば、勅使の件を知った何者か――たとえば毛利元就あたりがひそかに手を回して将軍を暗殺し、勅使の意義を失わせしめようした、ということも考えられないわけではないが……いや、うん、やっぱりないな。
 将軍の決定は幕府の決定であり、今回に関していえば朝廷の決定でもある。ここで将軍が死んだところで、幕府(朝廷)が調停を命じた事実が消え去るわけではない。だいたい、自ら手を下すにせよ、他者を使嗾するにせよ、将軍暗殺に関わったことが世に知られれば、その悪影響は計り知れない。元就にせよ、他の誰にせよ、効果があるかどうかもわからない策のためにそんな危険を冒そうとはしないだろう。



 やはり暗殺がこの時期に起きたのは偶然である、と考えるべきなのだろう。俺がいなかった二、三年の間に畿内の情勢が緊迫化しており、その結果として御所襲撃が起きた、と考える方が説得力に富む。
 だが、しかし。
 そう考える一方で、その考えに素直にうなずけない自分がいることも確かだった。
 畿内の情勢がわからないので確たることはいえないが、先年来、南蛮軍の襲来をはじめとして九国の地にかつてない異変が起きていたことは事実である。
 義輝がその異変を収めるべく行動した矢先に襲撃が起きた。この関連性を偶然の一語で片付けていいものなのか。




 ひとつ、仮説を立ててみる。
 もし一連の出来事が偶然ではないとしたら。すなわち、九国の情勢と御所襲撃に何らかの関連があったのだとすれば。
 この場合、襲撃の呼び水となったのは勅使の派遣ということになるだろう。
 そして、勅使が派遣されるに至ったのは、謙信さまと政景さまのお二人が京で俺の消息を耳にいれたからである。
 名をかえ、消息を伝えていなかった俺のことを、誰がどうやってお二人の耳にいれたのか?


 松永久秀。
 秀綱どのから聞いたその名前が否応なしに俺の警戒心を刺激する。
 俺の不安の源はここにあった。
 久秀は何を考えてお二人に俺のことを――雲居筑前のことを話したのか。
 もっといえば、謙信さまと政景さまがこの時期に京にいたこと自体、本当に偶然の産物であったのか。
 何故こんな疑問が浮かぶのかといえば、今回、上杉家に下されたという上洛令が気味が悪いほど時宜にかなったものであったからだ。秀綱どのから聞いた東国の情勢を鑑みれば「上洛しない」という選択肢はどうあっても選べなかっただろう。
 もし、今回の上洛令の裏に謙信さまを京に誘き寄せる意図があったのだとすれば――



 すべては一本の線で結ばれている、という推測さえ成り立ってしまうのではないか?



 ぞくり、と背に悪寒がはしる。
 考えすぎだ、とは思う。今の俺の考えは結果から逆算したこじつけに過ぎない。東国の情勢、西国の戦況、そういったすべてをあらかじめ想定して行動できる人間なんているはずがない。たとえ久秀にだって無理だろう。
 だが、いくら否定しても悪寒は消えない。胸騒ぎが静まらない。
 なにか……なにか得体の知れない悪意が感じられてならなかった。まるで、そうと知らない間に背後から真綿で首をしめられていたかのように。


 この感覚を、俺は知っていた。以前にも一度、確かに感じたことがあった。
 あれは、そう、謙信さまに仕える以前、春日山城で……
 
 

◆◆



「――お義父さま、どうなさいました?」
 その声でハッと我に返った。
 見れば、吉継が怪訝そうな、それでいて心配そうな顔で俺を見つめている。
 将軍討死の報を聞き、これからの対応を話し合おうという時に、黙り込んで一言もしゃべらない俺を案じてくれたのだろう。


 俺は自身のうちに芽生えた危惧を一時的に意識の外に追いやることにした。
 今、どれだけ考え込んだところで答えが出る問題ではない。ヘタに思い悩んで思考の迷路に迷い込む愚を冒したくはなかった。
「すまない、ちょっと気になることがあって考え込んでた」
「気になること、ですか?」
「ああ。まあ、いま考えても仕方ないことなんで後回しだな」
 俺はそう言って周囲を見渡す。
 これからの対応を話し合うといったが、それは大友家についてではない。実際、この場には俺と吉継のほかには長恵と秀綱どのしかいなかった。


 毛利軍からの和睦の申し入れについて、大友家には承諾以外の選択肢はありえない。交渉の焦点となるのは和睦の可否ではなく条件となるだろう。つまり、国境の画定である。
 今回の合戦において終始優勢であったのは毛利軍であった。兵を退くといっても、それは大友軍に敗れたためではない。当然ながら、毛利家は博多津や立花山城を含めた筑前北部を領地に含めようとするだろう。
 一方の大友軍としては、先に戦術的な勝利を得たとはいえ、戦況そのものを覆すにはいたらなかった。島津家との講和の期限は迫っており、そこにきて将軍家という後ろ盾が倒れて、まさしく弱り目に祟り目というところ。ここで毛利家から和睦を申し出てくれたのは勿怪の幸いというべきだが、だからといって無条件で相手の言い分をのむことはできない。
 両家の駆け引きは間違いなく熾烈なものになるだろう。


 雲居筑前として戦闘に参加し、さらに作戦も考案した以上、本来なら俺もこの駆け引きに加わるべきなのだが、俺は宗麟さまに断って交渉から外してもらった。
 将軍討死の報を聞いた今、秀綱どのに早急に確認しなければならないことがあったからである。
 秀綱どのを京から送り出した後、謙信さまと政景さまはどうなさったのか。
 最悪の場合、御所襲撃に巻き込まれている可能性もある。
 これについて問いを向けると、秀綱どのはかすかに表情を曇らせた。
「お二方とも京での用は済んだと仰っておいででした。私が発った後、長居はなさらなかったはずです。ゆえに二条襲撃の難は避けられたと思うのですが――」


 そう言いながらも、秀綱どのの瞳には隠しきれない憂いが浮かんでいた。
「殿下を害し奉った者が何者であれ、謙信さまの評と為人を知らぬということはないでしょう。謙信さまが越後へお戻りになれば、逆徒討伐の兵を挙げるは必定。それを知る逆徒が謙信さまを黙って見逃すとは思えません。後日の災いを除くべく、必ず追っ手をかけるはずです」
 その考えには俺も同感だった。敵(首謀者は不明だが、もう敵と断定してもかまわないだろう)が謙信さまを見逃す理由はない。
 押し殺した声で確認をとる。
「先の上洛と違い、今回は少人数で、ということでしたね」
「はい。供の数は五十に届きません。その分、皆様、腕に覚えがある方々ではありますが、数をもって狩り立てられれば難儀することになるでしょう。それに帰路を阻むのは敵兵ばかりではありません」



 秀綱どのの言わんとすることを察した俺は、暗澹たる思いで呟いた。
「この季節、北国街道は雪で閉ざされていますからね……」
 京から越後への帰路で、もっとも安全確実なのは近江路を抜けて北陸を通るルートであろう。上杉家は上洛路を確保する必要もあって、基本的に北陸の諸大名との関係は良好だからである。
 もちろん加賀の本願寺や越中の神保のように、表向きはどうあれ内心で上杉家を敵視している勢力もあるが、逆に越前の朝倉宗滴どののように上杉に好意的な人たちも少なくない。謙信さまたちが襲撃の時点で近江路を抜けていれば、たとえ供の数が少なくても越後に戻ることはできるだろう。


 ただ、それはあくまで街道が雪に閉ざされていなければの話である。
 いかに謙信さまでも雪に閉ざされた北国街道を駆け抜けて越後に戻ることはできない。
 今回の場合、前回の上洛のように一軍を率いているわけではないので、その意味で行動の自由は利くだろうが、それでも雪道を越えて越後に帰り着くのは難しい。
 敵兵ではなく、降り積もった雪によって帰路を阻まれてしまうのではないか。秀綱どのの言葉はそれを案じたものであった。



 この秀綱どのの心配には俺も全面的に同意する。人為による妨害はともかく、自然による妨害は、いかに謙信さまでもいかんともしがたいだろう。
 ただ、正直なところをいえば、雪に帰路が阻まれる程度であればまだマシな状況だ、と俺には思えた。
 それは少なくとも謙信さまたちが近江路を抜けたということであり、将軍襲撃に深い関わりがあると思われる三好・松永の勢力範囲を脱したことを意味しているからである。


 問題は謙信さまたちが近江路を出る前に事が起きていた場合だった。
 さきほど、秀綱どのはいみじくもこう言っていた。逆徒が謙信さまを黙って見逃すとは思えません、と。
 秀綱どのはこの言葉を「将軍を弑逆した者が、越後へ戻ろうとする謙信さまたちを見逃すとは思えない」という意味で用いていたが、違う解釈を成り立たせることもできる。
 将軍を弑逆すれば、忠臣である謙信さまは必ず越後で兵を挙げる。そう考えた敵は、後日の災いを未然に除くため、事に先立って謙信さまを京へ招き寄せたのではないか。


 今回の謀略が東国をも視野にいれたものであり、相手の狙いが将軍のみならず謙信さまにもあったのだとすれば、御所襲撃の時点で謙信さまの身の上にも危難が降りかかっていると考えられる。
 敵はあの剣聖将軍を死にいたらしめた相手。いかに謙信さまといえど、その手を逃れることは容易ではないだろう。
 最悪の場合――




 知らず、俺は奥歯をかみ締めていた。
 実は将軍討死から何からすべて誤報でした、というオチを期待したいところだが、不思議なことに世の中というやつは、吉報はしばしば誤報になるくせに、凶報が誤報になることは滅多にない。
 不幸中の幸いというべきは、毛利軍がこの報告を受けて攻勢を強めるのではなく、兵を退くという決断を下してくれたことであった。


 今回の件、大友家にとっては凶報だが、毛利家にとっては必ずしもそうではない。大友家の後ろ盾が倒れた、という見方をすれば吉報であるとすらいえるだろう。
 だが、毛利家は兵を退くと決断した。
 事実上、幕府が倒壊したことで、畿内はもちろん中国や四国でもかなりの混乱が起きることが予想される。毛利家としては、この状況で主力を九国にはりつけておくわけにはいかない、という判断なのだろう。あるいはもっと単純に、ここが遠征の潮時だと考えたのかもしれない。


 もし大友家と南蛮との関係が継続していれば、毛利家――というより隆元はまた違った決断を下していただろうが、そろそろ俺の話の裏も取れた頃だろうし、宗麟さまが戦場に出てきたことで得心するところもあったと思われる。
 毛利姉妹の性格からして、和睦を結んでから不意をついて強襲してくる、ということはまずない。
 結論として、これで当面の間、大友家は危機を脱したといえる。むろん島津や竜造寺の動きもあるので全てが落着したわけではないが、俺が想定していた「最後の坂」は越えられたと見ていい。


 そう思った途端、知らず大きく息を吐いていた。
 俺が、俺自身に課した目標は達成された。心置きなく、というには状況が厄介だが、それでも九国を離れるタイミングは今をおいて他にない。
 俺はその思いを率直に口にした。


「京へ行く。行って、謙信さまたちの安否を確かめてから越後へ戻る」


 気負いのない言葉は、同時に唐突な物言いでもあったはずだった。
 しかし、周囲から疑問や反対の声はあがらない。俺が毛利家との交渉に加わらなかった時点で、三人ともある程度察してくれていたのだろう。
 室内に沈黙の帳がおりる。遠くから、鳥の鳴き声が聞こえてきた。




◆◆




 しばし後、俺は気を取り直して話を先に進めることにした。
 九国を離れると決めたならば、次に問題となるのは各人の身の振り方である。
 もともと越後からやってきた秀綱どのはともかく、吉継と長恵を俺の都合だけで東国に連れて行くわけにもいか――


「京へ行くとなると、問題は帰路ですね。まつりごとが乱れれば人心もまた乱れるものです。公方さまがお亡くなりになった今、陸路はもちろん海路も危険が増しているとみるべきでしょう。この状況で船を出してくれる物好きな人はそうそういないと思います。ここは道雪さまに口ぞえを願い、大友家の船を用立ててもらうべきではないでしょうか。京の情勢を調べることは大友家にとっても必要なことですから、おそらく反対されることはないでしょう」
「姫さまの仰るとおりです。ただ、九国から京へ行くためにはどうあっても瀬戸内を通らざるを得ません。瀬戸内を支配する毛利家はすでに師兄のことを知っているわけですから、そこがちょっと厄介ですね」


 長恵がおとがいに手をあてて考え込む。
 吉継もそれを案じていたらしく、長恵の言葉を聞いて表情を曇らせた。
「確かに。お義父さまは今日まで『これでもかッ』と言わんばかりに毛利家の邪魔をし続けてきました。今回の和睦がうまくまとまったとしても、心配なしとはいきませんね」
「どうしたものでしょうかね。並の兵の襲撃ならばお師様と私でなんとでもなりますけど、鉄砲でも持ち出されたらその限りではありませんし。それに私たちが無事でも、船を壊されたら大変です。さすがにこの季節、泳いで京に向かうわけにもいきませんよね」
「いえ、それはこの季節に限った話ではないのですけど……まあ、それはともかく、予想される危難を避けるためには、かえってこちらの行動をおおやけにした方がいいかもしれません。公方さまがお亡くなりになったとはいえ、お義父さまの勅使の任が解かれたわけではありません。京に戻る勅使を帰路で討ったとなれば、毛利の無道は満天下に知れ渡ります。毛利家としてもそれは避けたいはずですから」


 吉継の提案を聞き、長恵は感心したようにうなずいた。
「さすが姫さま、それは良い案だと思います。毛利家から瀬戸内の船主たちに対して『勅使を乗せた大友家の船には手を出すな』と命令してもらえれば、道中の安全は確かなものになります。問題はどうやってその命令を毛利家に出してもらうか、なのですが――」
 長恵は小首を傾げ、どこか悪戯っぽい顔で俺を見た。
「案外、師兄が頼めばすんなり応じてくれる気がしますね。二人の妹御はともかく、隆元どのはずいぶんと師兄に好意的でしたから」
 聞いている俺としては、そう簡単にはいかないだろうと思ったのだが、秀綱どのもこの意見には賛成のようで、隣でこくりとうなずいていらっしゃる。


 それを見た吉継は小さく肩をすくめた。
「そういうことでしたら、あまり案じる必要はありませんね。それに、考えてみればお義父さまが越後へ帰るということは、大友家から邪魔者がいなくなるということです。武略によらず、犠牲もなしに難敵を排することができると知れば、毛利の方々はこちらの帰路を阻むどころか、諸手をあげて送り出してくれるかもしれません。どうぞいってらっしゃいませ、と」
「そして二度と帰ってくるな、というわけですね! そのあたりを強調すれば、ふたりの妹御を説得することもできそうです」




 このように京経由越後行きの帰還計画は(俺をわきに置いて)ずんどこ進んでいった。
 なんというか、二人とも俺と同行するか否かについては考慮の外といった感じである。はじめから「ついていく」以外の選択肢は存在していないらしい。
 いや、もちろん俺もふたりと別れたいわけではないので、この流れは大歓迎である。今さら帰路やその後――越後に帰り着いてからの危険を説かねばならない二人ではない。そういったことを承知した上で、俺と行動を共にしてくれるつもりなのだろう。
 なので同行に感謝こそすれ、拒絶するつもりは欠片もないのだが、ひとつ無視できない問題があった。


 吉継はともかく、長恵は肥後相良家の家臣である。以前、長恵は薩摩に赴く際、俺と行動を共にする件については主君から了承をもらっていたが、あれはあくまで「大友家の雲居筑前」と行動する許可であって「上杉家の天城颯馬」と一緒に京、越後へ旅立つ許可ではない。
 このまま長恵が九国を離れてしまうと色々とまずいのではないか。ただでさえ逼塞を命じられていながら国を抜け出した過去があるわけだし。


 だが、そんな俺の心配に対し、長恵は心配無用とばかりに胸を張って答えた。
「ご心配には及びません。殿には事情を説明する文を書きますから。今しがた姫さまが仰ったように、公方どのがお亡くなりになったとはいえ、師兄が勅使であることにかわりはありません。勅使をお守りするという大義名分があれば、殿や爺とてうるさいことはいえないはずです」
「『大義名分』とか『うるさいこと』とか口にしてる時点で、長恵の本心が奈辺にあるかは明らかなんだが」
「かたいことは言いっこなしです。嘘をついているわけではないですし、それに京の情勢を調べることは相良家にとっても意義があること。決して私個人の欲求を臣としての節義に優先させているわけではありません」
「……まあ、そういうことにしておこうか。長恵が来てくれることは、俺にとってもありがたいことだしな。書状を送るなら、俺も一筆添えよう」
 俺がそういうと、長恵は嬉しげに応じた。
「あ、それは助かります。私の文ですと、いまひとつ信用されなくって」
 どうしてでしょうか、と笑って頬をかく長恵を見て、俺はついつい溜息を吐いてしまう。すると、何故だか溜息が三重奏になった。


「身から出た錆とはこのことだな」
「自業自得ともいいますね」
「因果応報です、長恵」


「ちょ、師兄だけでなく姫さまにお師様まで!?」
 期せずして三連続となった口撃に慌てふためく丸目長恵。
 俺はそんな長恵を見て、軽く笑ってから立ち上がった。
 方針を定めたなら、次は行動だ。
 さきほどの俺の考えが杞憂であれば良い。だが、そうでなかった場合、事は一刻どころか一分一秒を争う。急がば回れ、などと言っている余裕はどこにもなかった。




◆◆




 その後、俺が向かったのは道雪どのの陣幕だった。
 直接、宗麟さまのもとに行かなかったのは、あらかじめ道雪どのに話を通しておくことで俺の帰還話をスムーズに進めるためである。
 なにしろ、まだ毛利との決着が完全についたわけではない。ここで宗麟さまに引き止められてしまうと、話がめんどくさいことになりかねないのだ。


 おりよく戻っていた道雪どのに招き入れられた俺は、率直に東国へ戻る旨を口にした。道雪どのにしてみれば突然の話であったはずだが、九国を代表する名将の顔に驚きの色はなく、むしろすべてを承知していたかのような落ち着きが感じられた。
 これは別に驚くことではない。吉継たちも察していたのだ、道雪どのに俺の考えが見透かされていたとしても不思議はない。
 ただ、そんな風に考えていた俺は、次に道雪どのが口にした言葉に心の底から驚かされる羽目になる。
 府内の港にはすでに京へ戻るための船が用意されている――道雪どのはあっさりとそう言ったのである。



「颯馬どのがムジカを発ってから宗麟さまと相談したのですよ」
 目を丸くする俺に向かい、道雪どのはやわらかく微笑んで見せた。
「此度の毛利との合戦、勝てば大友家は救われます。さすれば颯馬どのは心置きなく東国に戻ることができるでしょう。逆に、敗れるようなことがあれば――」
 道雪どのはそこで言葉を切ると、じっと俺の顔を見つめた。吸い込まれてしまいそうな黒の瞳に、どことなくまぬけな表情をした俺の顔が映し出されている。


「今日まであなたの尽力と厚情にどれだけ救われてきたのか、それを表現する術をわたくしは持っていません。この上、覆しがたい衰運に巻き込むようなマネをすれば、大友家は毛利家ではなく神仏によって罰を与えられることになっていたでしょう。戦に勝とうと敗れようと、いずれにせよわたくしたちは颯馬どのを九国から送り出すことになるのです。であれば、あらかじめ帰路の手段を用意しておくのは当然のこと」
 予想外の配慮に戸惑う俺に向かって、道雪どのは更に言葉を重ねる。
「その時には、このような事態が起こるとは想像もしていませんでしたが……それでも備えあれば憂いなしですね。水軍を率いる若林どのには、いつなりと船を出せるように、と伝えてあります。先の毛利軍との戦いで一度は遅れをとりましたが、若林どのとその配下の水軍は豊富な経験を持つ船乗りたちです。これまで大友家が京へ使者を遣わした際も滞りなく役目を果たしてくれました。彼らであれば、颯馬どのを無事に畿内まで送り届けることができるでしょう。それと、吉継どのが口にしていた件もこちらで取り計らっておきましょう」


 吉継が口にしていた件というのは、勅使の帰還をおおやけにすることで毛利の策動を未然に封じるというアレである。
 いたれりつくせりの対応に、自然と頭が下がった。
「何から何まで申し訳ありません」
「ふふ、なんのこれしき、ですよ」
 そう言うと、道雪どのは感心した面持ちで言葉を付け足す。
「たしかに吉継どのの言うとおり、颯馬どのが九国から去るのは毛利家にとって吉報に他なりません。以前、言葉を交わした両川のおふたりは将としての威こそお持ちでしたが、合戦の遺恨を闇討ちで晴らすような方々には見えませんでした。颯馬どののお話を聞いたかぎり、大将の隆元どのも妹御にならうお人柄の様子。そのような方々が勅使を討つという暴挙を為すとは思えません。あの三人の姉妹があえて颯馬どのの帰途を遮ることはないとみていいでしょう」


 道雪どのはそう結論付けたが、楽観は厳禁とばかりに表情を厳しいものにする。
「ですが、毛利家の当主は隆元どのではなく元就どのです。隆元どのたちにその気がなくとも、元就どのはまた異なる考えを抱くかもしれません。仮に元就どのが隆元どのらに賛同したとしても、毛利家とて瀬戸内のすべてを掌握しているわけではありませんから、不慮の事態が起こる可能性は常に存在します。瀬戸内を抜けるまで警戒を怠らないようにしてくださいね」
「は、承知いたしました」


 俺がうなずくと、道雪どのはすっと眼差しを細めた。
 百戦練磨の戦将の顔。
 その顔のまま、道雪どのは更なる危惧を口にする。
「そして、瀬戸内を抜けてからも、決して警戒を解くことのないよう努めてください。公方さまを討ち取ったのが何者であれ、京洛の混乱が一朝一夕に静まるとは考えられません。颯馬どのたちの身に危難が降りかかるとすれば、それはおそらく畿内に着いてから後のこと。このあたりは颯馬どのもよくよく考えておいででしょうから、これ以上余計なことは申しませんが、くれぐれも気をつけてくださいね。ご主君の安否を案じるあまり、ご自身の安全を軽んじることのなきように」


 おそらく、道雪どのがもっとも言いたかったのは最後の部分なのだろう。
 それが衷心からの忠告であることは明らかであったから、俺は深い感謝の念と共にふたたび頭を垂れた。
「はい、ご厚志かたじけなく存じます。それとご安心ください。この天城筑前、そう簡単に倒れるほどやわではございません」



 精々頼もしげに振舞ったつもりだったが、道雪どのの顔から懸念が去ることはなかった。むしろ、かえって心配を深めてしまった感さえある。なにゆえ。
 俺の不本意そうな表情を読み取ったのだろう。道雪どのは少し困った様子で口を開いた。
「いえ、颯馬どののお言葉を信用していないわけではないのです」
「ふむ?」
「完全に信用したかと問われると、ちょっと迷ってしまいますが」
「ッ!?」
「それはともかく、これまで颯馬どのに散々お世話になってきた身としては、危難が避けられない地に向かおうとする恩人を無手で送り出すことに気が咎めてならないのです」
「無手などととんでもありません。帰路の船を用意していただけただけで、十分すぎるほどにありがたいです。それに、世話になったと仰いますが、それがしはかりそめにも大友家の禄を食んだ身なのです。大友家のために働くのは当然のこと。道雪さまがそこまでお気になさる必要はございませんよ」
「それを颯馬どのに望んだのは――いえ、強いたのはわたくしなのですよ。そして颯馬どのはわたくしの願いどおり、大友家が今日を迎えるための大きな助けとなってくれました。この立花道雪、ご恩には全身全霊をもって報いる所存です」


 道雪どのはそういうと、真剣な眼差しで俺を見つめてきた。なんか、また戦将の顔になっていらっしゃる。
 その顔つきのまま、道雪どのはとんでもないことを言い出した。
「この身が立花の当主でさえなくば、わたくしが越後までお供したのですが。そうして、颯馬どのがそうしてくれたように、わたくしも上杉家のために尽力する――それくらいしなければ、積もりに積もった颯馬どのへの恩義に報いることはとうていできません」
「いやいやいや!? 道雪さまを越後に連れて帰ったりしたら、俺が大友家の人たちに袋叩きにされてしまいますよッ」
 俺は大慌てで道雪どのの申し出を棄却した。
 謙信さまと道雪どのが同じ戦場に立つ場面というのは見てみたい気もするが――うん、軽く想像しただけでもすごい絵だな。越後の軍神と豊後の雷神がそろい踏みとか、負ける気がしない。もとい、勝てる気しかしない。これに甲斐の妹神(?)が加わった日には三好・松永でも裸足で逃げ出すだろう。俺も一緒に逃げ出したいくらいである。




 と、俺は意識がそれかけていることに気づき、慌ててIFの空想を心の奥にしまいこんだ。
 今はそんな夢物語を楽しんでいる場合ではない。俺としては剣の匠がふたりいることもあって護衛は必要ないと考えていたが、道雪どのとしてはやはり気になるらしい。さすがに自分が行くと繰り返したりはしなかったが、配下の小野鎮幸を護衛として同行させてほしいと申し出てきた。
 いうまでもないが、立花家の双璧のひとりであるあの鎮幸のことである。
 この申し出に対し、俺はこれまた慌ててかぶりを振った。
「繰り返しますが、船だけでも十分すぎるほどありがたいことです。この上、鎮幸どのまでお借りするわけには参りません」


 当面の危機は去ったとはいえ、大友家を取り巻く情勢は多事多端の一語に尽きる。そんな状況で片腕ともいえる重臣がいなくなれば、道雪どのに尋常ではない負担がかかってしまう。
 今、こうして相対している道雪どのからは、これまでの度重なる戦や行軍の疲労は感じられない。だが、疲れていないはずはないのだ。今回の戦いに限っても道雪どのは筑前と豊後、日向、筑後といった国々を往来し、島津や毛利といった大敵と幾度も刃を交えている。しかも、そのうちの半分以上は俺の指示によるものだ。この上、戦後処理でも余計な負担が増せば、冗談ではなく倒れてしまいかねない。それがわかっていて、大切な懐刀をお借りしますなどと言えるはずがなかった。



 俺からすれば当然の謝絶。
 しかし、道雪どのはゆるやかにかぶりを振り、俺の気遣いが無用であることを告げた。
「わたくしも鬼と呼ばれた身。さきほどの颯馬どののお言葉ではありませんが、そう簡単に倒れるほどやわではありませんよ? それに京の情勢を探ることは当家にとっても必要なことなのです。公方さまはまことに討たれたのか。討たれたとすれば誰の仕業なのか。公方さま亡き後、畿内の情勢はどう変化していくのか。それらはひとつとして等閑にはできない問題です。双璧のひとりを遣わすのもやむなしです」
「…………わかりました」


 俺は熟慮の末、しかたなしにうなずいた。
 別に道雪どのの言葉に納得したわけではないのだが、俺がどれだけ謝絶しても道雪どのが折れることはないだろうことは理解できたし、そうなるとこうして謝絶している時間さえ無駄になる。
 それに、俺は道雪どのが船を用意させたという大友水軍とは何の面識もない。彼らが癖のある人たちだった場合、府内でひと悶着起きてしまう可能性がある。その点、鎮幸がいてくれれば、大友家内部で顔と名前が通っている人物だけに事態は穏やかに進むだろう。
 ……当人の諒解が得られていない、というのが気になるが、まあたぶん道雪どのから命令されれば二つ返事で引き受けるだろうなあ、と予測できたのであんまり気にしないことにする。



 ともあれ、これで話すべきことは話し終えた。
 あとは道雪どのと一緒に宗麟さまのもとに行き、帰国の許しをもらうだけである。紹運どのや誾、惟信らにも別れの挨拶を済ませねばならないので、かなり慌しい出立になるだろう。
 そんなことを考えながら腰をあげようとした時だった。
「颯馬どの」
 道雪どのの声が、俺の動きを中途で遮る。
 見れば、道雪どのがじっと俺を見つめていた。さきほど、俺と同道して越後まで行きたい、と告げた時と同じ眼差しである。
 また何か難題か、と内心で身構える俺。
 そんな俺に対し、道雪どのはおもむろに腰の刀――雷切を鞘ごと引き抜くと、静かに俺の前に置いた。


「――かつてこの身を雷霆から救ってくれた守護の一振りです。どうかお持ちください」


 共に行くことができない自分の代わりに――そんな道雪どのの思いは言葉にせずとも十分に感じ取ることができた。
 俺は思わず息をのむ。
 先にも道雪どのから雷切を託されはしたが、あの時と今とでは受け取る意味合いがまったく異なっている。
 これは大友家の家臣としてではなく、一個の人間である立花道雪からの感謝と報恩の気持ち。道雪どのほどの武士がここまでしてくれた、その意味がわからないほど俺は鈍くはない。


 正直、全身が震えるくらい嬉しかった。
 俺が九国でやったことが今後どういう結果になって返ってくるかはわからないが、それでもこの地に留まったことは間違いではなかったと、そう思えた。




 だが。
 道雪どのの思いは心からありがたく思ったが、ここで雷切を受け取ることに俺はためらいを覚えていた。
 道雪どのの腰にあれば鬼に金棒だが、俺の腰にあっても猫に小判。これでは刀も不本意だろう。雷切は雷神の腰にあってこそ威を発揮するもの。俺の腰には少々重過ぎる。
 それに……これは我ながら考えすぎだとは思うのだが、ここで道雪どのの守護刀を譲り受けてしまうと、俺の加護が増える分、道雪どのの加護が減ってしまう気がして仕方ないのである。


「――道雪さまにははじめて申し上げますが、それがしは以前、京にて将軍殿下から再会を楽しみにしているとのお言葉を賜ったことがございます。しかしながら、此度の仕儀でそれは二度とかなわぬことと相成りました。不吉なことを申し上げるようですが、今、道雪さまの守護刀を譲り受けると、この悔恨が繰り返されるような気がしてならないのです」
 俺はそう言ってから、視線を道雪どのの柳腰に向けた。
「なので、代わりに鉄扇をください」


 さすがの道雪どのもこの要求は予測できなかったようで、目をぱちくりとさせた。
「鉄扇、ですか? それはもちろん、欲しいと仰るなら差し上げますが……こんなものでよろしいのですか?」
 手挟んでいた鉄扇を引き抜きながら、道雪どのが首をかしげる。
 対して、俺は心の底から正直に答えた。
「むしろ、そちらの方が欲しいです」


 もし、どこぞの漫画や小説のように雷切に意思があったとしたら、間違いなくブチ切れていたであろう。わしは扇に劣るのか、と。ごめんなさいすみません。
 まあ冗談はともかく、別に俺は鉄扇マニアというわけではない。マニアどころか、謙信さまからいただいたもの以外に欲しいと思ったことは一度もないが、道雪どのからいただけるとなれば話はかわってくる。
 さきほどの妄想ではないが、軍神から授かった鉄扇と、雷神から譲り受けた鉄扇が一つところに揃えば、きっと霊験あらたかだろう。そんじゃそこらの不運や悪運は尻尾を巻いて逃げ散るに違いない。
 他方、道雪どのはこれまでどおり雷切に守られて安心安全という次第である。



 ――といったことを説明すると、道雪どのは口元をほころばせながら、手に持った鉄扇を差し出してきた。
「正直なところ、颯馬どのの不安は考えすぎだと思うのですが、それが颯馬どののお望みだというのであればわたくしに否やはありません。どうぞお持ちくださいな」
 差し出された鉄扇をかしこまって受け取る。
 ずしりとした重みが両手を通して全身に伝わってきた。


「その扇が、あなたに降りかかる危難を払う一助となることを願っています。どうかご健勝で、颯馬どの。再び会う日を楽しみにしております」
「ありがたく頂戴いたします。それがしも再びお目にかかる日を心待ちにしております。道雪さまこそ、どうかご壮健であらせられますよう」







◆◆◆







 河内国 飯盛山城


 二条御所の陥落。将軍義輝の戦死。そして、京都の炎上。
 まったく予期していなかった事態を前に、三好家の姉弟――三好長慶と十河一存は驚愕し、しかる後に戦慄した。
 将軍弑逆などまったく身に覚えはない。だが、現在の畿内の情勢を考えれば、この暴挙に三好家が関わっていないと考える者は皆無であろう。直接手を下したか、陰から使嗾したか、いずれにせよ将軍弑逆の裏には三好家の思惑がある。そう決め付けられるのは火を見るより明らかであった。


 長慶はすぐに京都を治める三好長逸(みよし ながやす)、三好政康(みよし まさやす)、岩成友通(いわなり ともみち)の三人――いわゆる三好三人衆に急使を出し、事態の詳細を問いただした。本来、京の政務を司っていたのは松永久秀なのだが、現在、久秀は三好義賢と共に堺で西国関係の情報収集と分析にあたっており、京を離れている。
 京に使者を出した長慶が次に打った手立ては、大和興福寺にいる覚慶――足利義秋の下に手勢を差し向けることであった。
 これは長慶の弟の十河一存の進言による。義輝の討死が事実だとすると、次の将軍となるべき者を確保しておく必要がある。義輝には子がないので、同腹の妹である義秋が後継者の第一候補となるのだ。


 そうこうしている間にも将軍討死の報は畿内全域に広がり、飯盛山城の内外は騒然とした雰囲気に包まれていった。
 長慶と一存、さらに敬愛する姉の一大事とあって堺から風のように駆けつけた三好義賢は、うろたえ騒ぐ将兵をなだめ、不穏な動きを見せる近隣諸国に睨みをきかせ、家中の動揺を最小限に食い止めながら京からの返事を待った。
 三好家の姉弟が京都の事情を把握したのは、将軍討死の報が届いてから二日後のこと。
 三人衆の筆頭格である三好長逸からの書状により、将軍襲撃前後の情勢が明らかとなった。そして、姉弟は判明した事実を前に頭を抱え込むことになる。



◆◆



「何をしでかしてくれたのだッ! あのバカ者どもはッ」
 飯盛山城の一画に、三好家の誇る猛将 十河一存の大喝が轟き渡る。
 その顔は憤怒によって真っ赤に染まっており、鬼十河の異名どおり鬼と化してしまったようにさえ見えた。


 気の弱い者ならば気死しかねない一存の怒号に応じたのは、兄の義賢である。
「一存、そう大きな声を出さんでくれい。耳が痛うてかなわんわ」
 言葉どおり痛そうに耳を押さえる兄に向かい、一存は厳しい表情で言葉を重ねた。
「兄上、そのようにのんきなことを仰っている場合ではありますまい! 事もあろうに当主に無断で御所を襲い、あまつさえ公方を討ち取るなど慮外の極み! 確かに当家と公方は必ずしもうまくいっていたわけではござらん。しかし、だからといって武力をもってこれを討つなど、求めて百難を招きよせるようなものでござるッ」
「わしに怒るな。それに、書状によれば公方の狙いはまず三人衆にあり、この魔手を免れるためにやむをえず、とあるぞ。あの剣聖将軍に命を狙われたとなれば、恐怖にかられて暴走したとしてもやむをえぬ――」


 と、ここで義賢は大きく溜息を吐いた。
「――とは、言えぬよなあ」
「あたりませですッ! 仮に公方に害意があったとしても、兵を動かすならば姉上の許可をとってからでなくてはなりますまい。これは一刻も早く三人衆を処断せねば、御家の大事に繋がってしまいますぞ」
「一存、一存。大事というならば、とうに大事になっておる。今、姉上が三人衆を処分したところで、世間はこれをトカゲの尻尾切りとみなすであろう。三人衆の家来どもも黙ってはいまい。三好家は間違いなく分裂するぞ」
「しかしですなッ」
「一存、まずは落ち着け。ほれ、大きく息を吸いこんでから、ゆっくりと吐き出すがよい」


 早急に事態をしずめねばと焦る一存とは対照的に、義賢はどこか泰然とした面持ちだった。長慶もまた義賢にならうように落ち着きを保っている。
 兄たちの態度を見た一存は拍子抜けしたように目を瞬かせた。落ち着いたというよりも気組みを外されてしまった感じである。
 そんな一存を見て、義賢はにやりと笑った。
「ふむ、落ち着いたか?」
「はあ、おそらく落ち着いたのではないかと」
「よし、ならば聞け。此度の件、事の次第はどうあれ、諸国の大名は将軍を討ち取ったのは姉上、三好長慶と認識する。それはわかるな?」


 この義賢の言葉を補足するように、長慶が口を開いた。
「一存。当家は将軍家を庇護し、京を支配下に置いている。その京で将軍が討ち取られたからには、たとえ直接に手を下していないとしても責任は免れないんだ。まして、今回のことは一族が行ったもの。わたしが何を主張しようと、誰も聞く耳をもってはくれないだろう」
「……は、それはそのとおりでありましょうが」
 一存の答えは唸り声に近かった。
 義賢は先を続けた。
「しかるに、ここで内輪もめなど起こしてみよ。諸国の大名にとっては三好の領土、権益を得る絶好の機会だ。将軍を弑逆した謀反人を討てば、三好になりかわって畿内の権勢を握ることも夢ではない。彼奴らは競って姉上の首をとりに来るぞ」
 だから、誰が何を企んだにせよ、それを調べるのは後回しだ、というのが義賢の結論だった。今は家中の動揺をしずめ、畿内の防備を固めることに注力しなければならない。それが三好家を、姉を助ける唯一の手段であろう。




 そういう義賢の顔には、弟の一存でも見たことがない表情が浮かんでいた。
 義賢にしても、声音ほど落ち着いているわけではないのだろう。それを悟った一存は今度こそ本当に落ち着きを取り戻す。兄が懸命に三好家を救う方策を探っているのに、自分がそれを邪魔するわけにはいかないではないか。


 一存はあらためて今回の事態を振り返った。
 京で事が起きた以上、実質的に京を支配している三好家が責任を免れることはできない。ましてや三人衆は皆れっきとした三好の一族、重臣である。長慶に罪なしとする言葉に説得力があろうはずはない。
 それはそのとおりだ、と一存も認める。


 とはいえ、積極的に将軍の命を奪った罪と、その謀略を察しえずに暴挙を許してしまった罪。
 比べてみれば、当然前者の方が重いだろう。長慶に罪ありとしても、それはあくまで後者――将軍弑逆を防げなかった罪であるはずだった。そこは主張しておくべきだ、と一存は思うのである。


 しかし、義賢はそれは駄目だという。
 何故なら、それを主張するためには事件の精査が必要になる。実際に手をくだした三人衆の処罰も必須。
 それをすればまず間違いなく三好家は内乱となり、諸大名に付け入る隙を与えることになる。三好家に敵対する者たちにしてみれば、三好家討伐の絶好の機会である。真相を探るから時間をくれと言ったところで承知するはずもない。
 つまり、真相がどうであれ、いま三人衆の罪を鳴らすわけにはいかない。
 そして――



 義賢は肉付きの良いあごをさすりながら口を開いた。
「家中の動揺をしずめる、か。自分で言っておいてなんだが、難題よな。『間違えて将軍さまを襲っちゃいました、てへ☆』と皆に伝えるのはどうだろう?」
「論外ですッ!」
「怒るな、別に冗談をいったわけではない。弟よ、公方が儚くなった以上、家中を納得させるためには、今回のことが意図せぬ誤りであったと強弁するか、さもなくば正当な行いであったと主張するしかないのだぞ」


 義賢の言わんとすることを悟り、一存は顔をひきつらせた。
「それは……」
「うむ、そうだ。要するに長逸どのが書状に記してよこした主張を全面的に受け入れる、ということだ」
 はじめに事を企んだのは将軍である。将軍は長慶の暗殺を目論み、ひそかに兵備をととのえていた。三好家はその謀略を察知し、先手を打って将軍を討ったに過ぎない。悪いのは将軍であり、三好家の行いはこれすべて自衛のためなり――


「三人衆を処罰することはできぬ。間違えましたでごまかすこともならぬ。となれば、あとはもう公方こそが悪であった、と主張する以外に家中の動揺をしずめる術はない。それはつまり、公方を討った首謀者は姉上である、と認めるのと同じことだ」
 自衛のためという理由はある。だが、三好の家臣はともかく、諸国の大名が弑逆という大罪を前にして首謀者の動機に目をくれるはずがない。
 彼らは動機や名目はわきに蹴飛ばし、将軍を殺したのは三好長慶である、という悪名のみに目をむけ、それを広めるだろう。そして、ひとたび定着した悪名を打ち消すのは困難を極める。


 義賢にはそれがわかる。
 だが、その悪名を避けようと思えば、実行者たる三人衆を処断せざるをえず、それをすれば三好家は分裂する。ただでさえ家中が動揺しているところに謀反が重なれば、長慶や義賢たちがどれだけ尽力しようと御家の衰運を覆すことは不可能。三好家は四方の群雄に叩きのめされ、最終的には将軍家を滅ぼした悪逆の家として滅亡を余儀なくされる。
 その滅亡を避けるためには、やはり公方こそ悪であったと主張する以外になくて――ああ、なんという袋小路。




 義賢は視線を宙空にさまよわせ、腕組みをして考え込んだ。
 一見ぼんやりとしているようだが、これが義賢が本気で集中している時の姿であることを姉弟は知っている。
 ややあって、義賢は再び口を開いた。ただ、発された言葉は姉弟に聞かせるためのものというより、義賢が考えをまとめるためのものであるようだった。
「姉上と三好家を守るため、我らは弑逆の悪名を引き受けねばならん。そして、我らがそれを選んだ時点で黒幕の存在はかき消される。我ら自身が、三好こそ黒幕である、と日ノ本に宣言するわけだからな。認めねばなるまいよ、三好家が袋小路に追い込まれたことを。三人衆の気負いから生じた偶然などではありえん。この襲撃の裏には確実に誰かがおる。三好家を陥れんとする何者かが」


 義賢の言葉であらためて状況を把握した一存は、姿の見えない黒幕に対して憎々しげに吐き捨てた。
「狡猾なッ」
 一存の激語を聞き、義賢は我に返ったようであった。
 パチパチと目を瞬かせた後、嘆息まじりにうなずく。
「そうだな、狡猾な相手だ。恐ろしいほどに知恵が回る。よほど我らを良く知る者の仕業であろうが、さて何者なのか……」
 義賢が呟くと、一存は目に苛烈な光を浮かべて身を乗り出した。
「姉上、兄上。このような重大事を推測で口にするのは誉められた行いではござらんが、この場かぎりのこととしてお聞きいただきたい。此度の件、久秀の仕業とは考えられませぬか?」



 一存の推測を聞き、長慶はわずかに眉をひそめ、義賢は唸った。
「――ううむ。たしかに久秀は三好家の内情を知悉している。三人衆を唆す手管も持っていよう。一存が疑わしく思うのもわからんではない。したがな、一存。久秀をかばい立てするわけではないのだが、此度の弑逆にあれは関わっておらん。少なくとも、主体的に動いたということはありえん」
 断言する義賢を見て、一存は戸惑いを覚えた。
「何故にありえぬと断言できるのです、兄上? たしかに久秀は兄上と共に堺におりましたが、配下を動かして事に及ぶことはできましょう」
「それはない。なにせ、久秀とその周囲にはわしの手の者が張り付いておったからな」


 義賢はしれっとそう言った。
「ついでにいえば、あれの居城である信貴山(しぎさん)城にも動きはなかった。襲撃の前後だけではない。久秀がわしと共に堺に行ってからずっと、だ。さすがにこれでは久秀を疑うわけにはいかんだろ」
「さようでしたか……ん?」



 不意に一存が言葉を切り、傍らに置いた刀に手を伸ばす。
 廊下から慌しい足音が近づいてきたのだ。ほどなくして、室外から動転した声がかけられた。
「申し上げます! 松永久秀さま、堺よりお越しでございますッ」
 その名を聞いた一存は反射的に眉をしかめた。追い返せ、と怒鳴りつけたいところだが、まさか疑わしいというだけでそんな無体なマネをするわけにはいかない。しかも、義賢の証言によって疑惑が解かれたばかりとあっては尚更である。


 一存は部屋の主である長慶に視線を向け、長慶がうなずくのを確認してから、すぐに通すように、と命じた。
 小姓の足音が遠ざかっていくのを聞きながら、一存はふんと鼻息を荒くする。
「噂をすれば影が差す、とはこのこと。兄上と同じところにいたというのに、えらくのんびりとした到着ですな」
「ああっと、すまん、一存。それはわしのせいでもある。堺のことをあれに押し付けて駆けつけてきたのでな。淡路にいる冬康との連絡も任せたから、来るのが遅れたのはそのせいでもあろう」
「む……それならばいたし方ないですな」
 義賢の言葉を聞き、一存は不承不承といった態ながら矛を下ろした。



 義賢が口にした冬康というのは三好家の三弟である安宅冬康のことを指す。
 義賢は将軍討死の第一報を聞いた時点で、今後、畿内の情勢が容易ならざるものとなることを予見し、冬康を淡路島に留めおくことにした。四国方面の全権を委ねられている義賢には、弟にそれを命じる権限がある。冬康の姿がこの場にないのはそういう理由であった。
 三好家の本国である阿波と、策源地である畿内を結ぶ淡路島の確保は三好家の生命線である。ここに冬康を置いておけば、輸送、連絡に支障をきたすことはない、というのが義賢の読みであった。
 さらに、この時点では長慶にさえ言っていなかったが、義賢は今後の戦局次第では長慶と一存を四国に逃し、代わりに自身が三好軍の総指揮を執って畿内の敵と戦う心積もりだった。そのためにも淡路島を敵に奪われるわけにはいかなかったのである。





 室内に通された松永久秀は、常とかわらぬ優雅な仕草で長慶に頭を下げる。長く伸びた髪が畳に達すると、髪に香でも焚いていたのだろう、室内にえもいわれぬ芳香が漂った。
 長慶は穏やかに微笑むと、久秀の労をねぎらい、堺の様子を問う。
「よく来てくれた、久秀。堺の様子はどうだ?」
「一言でいえば、大騒ぎ、というところでしょうか。武具に甲冑、木材に兵糧、およそ戦に関わるものはすべて値が急騰しております。一応は手を打っておきましたが、さて、どれほど効き目があったことか」
 久秀の報告を聞き、長慶はかすかに眼差しを伏せた。
「戦は避けられぬ。それが堺商人の結論か」
「はい。それもかなりの大戦、というのが会合衆の見立てです。すでに内々に合戦の準備をはじめた者もいるようですわ」


 久秀が口にした会合衆とは、堺の代表的な商人たちで構成される自治組合のようなものである。
 彼らが戦準備を始めたということは、今回の動乱が簡単には終わらないと判断したということ。もっといえば、三好家の力だけでは押さえ切れないと考えたからこそ、彼らは自衛のために金銭を費やす決断を下したのだろう。
 さらに幾つかの報告を終えると、久秀は不機嫌に黙り込む一存に流し目を送った。


「正直なところ、こうして長慶さまに報告をお聞きいただけて、少々安堵しております。ここに来るまでは問答無用で捕縛されるのではないか、と不安を覚えておりましたので」
 一存から疑いをかけられていたことを確信しているのだろう、久秀はそういってくすりと微笑んだ。
 あてこすられた一存は不機嫌そうに横を向く。代わりに久秀に答えたのは義賢であった。
「はっは、妙なことを申すな、弾正。三好家の大切な重臣であるそなたを、なんの証拠もなく捕縛するはずがないではないか」


「かわらぬ信頼、ありがたく存じます」
 久秀は慎ましく礼を述べたが、ただ礼を言うだけでは済まさなかった。
 そっと上目遣いで義賢の目をのぞきこみ、蠱惑的な声音で囁きかける。
「義賢さまから大切な重臣と評していただけたのは、この身の栄誉というものでしょう。そういえば、このところ久秀の周囲に見覚えのない方々がちらほらと見受けられます。もしやあの方々は、大切な久秀の身を案じて義賢さまが遣わしてくださった方々なのでしょうか?」
「さて、なんのことやらようわからぬが、弾正ほど美しい女子であれば懸想する者もひとりやふたりではあるまいて。そなたの目にとまる日を夢見て、遠くから見守っている健気な男どもではないのかな?」
 すっとぼける義賢に対し、久秀は嫣然と微笑んだ。
「ふふ、なるほど、そうかもしれませんわね。ああもぴったりと張り付かれていると色々とわずらわしいのですけれど、そのおかげで無用の疑いを免れることができたと思えば、わずらわしいと切って捨てるのも申し訳なく思えてきます。感謝のひとつもしなければなりませんわね」
「ふむ、どこの誰だか知らぬが、弾正から感謝されたと知ればその者たちも喜ぼう。弾正は感謝し、男たちは喜ぶ。めでたしめでたし、だな」



 義賢と久秀の視線が音をたててぶつかりあう。
 それが発火にいたる寸前、義賢と久秀はほぼ同時に視線をそらせた。それを見た長慶と一存が内心で安堵したかどうかは定かではない。



「ところで、話はかわりますが」
 久秀は小首を傾げる。寸前までのやりとりなどもう忘れた、とでもいうようにその声にはまったく揺らぎがない。
「長慶さま。興福寺へはもう手勢を遣わされましたか? 次の将軍の座にどなたを据えるにせよ、義輝さまと同腹の御妹君の身柄を押さえておかねば、後々厄介なことになるでしょう」
 この久秀の問いに応じたのは一存だった。
「むろんだ。一報を聞くや、すぐに差し向けておる。興福寺側にも事情を記した書状を送ったから、今頃はもうこちらに向かっている頃であろう」
「そうですか、それをうかがって安堵いたしましたが……手勢はいかほど?」
 めずらしくクドい久秀に、一存は眉をひそめる。
「急のことであったからな、それでも二百ほど送った」


 それに対する久秀の反応は素早く、そして苛烈だった。
「少ない。最低でも五百、かなうならば千は送るべきです」
 久秀に面と向かって非難され、一存は気色ばんだ。
「何を申すか。いつ、どこから我らに敵対する者があらわれるかわからんのだぞ。このようなときに、公方の妹ひとりのために五百だの千だの割けるはずがなかろう。二百でも多すぎるほどだッ」
 鬼十河の反論に対し、怯む色も見せずに久秀は言い返す。
「義輝さま討死の報を聞けば、一部の幕臣は逆上して報復に走りましょう。彼らが旗印として仰ぐのは覚慶どの以外におりません。くわえて、今さら申し上げるまでもありませんが、興福寺はただの寺社にあらず、武力をも備えた一個の勢力なのです。その興福寺が覚慶どのの引渡しを拒めば、二百程度の手勢ではいかんともしがたいのではありませんか?」


 興福寺には書状を送った、と一存は言った。
 だが、今回の将軍弑逆に三好家が深く関与していることは誰の目にも明らか。その三好家に覚慶を託すことに不安を覚える者がいないとどうして言えるだろうか。
 もしも興福寺が覚慶の引渡しを拒み、その間に覚慶が他国に逃れでてしまえば――


「三好家にとって後日の大患となるのは必定でしょう」
 それを聞いた一存は思わず言葉に詰まる。久秀の推測はそれだけ蓋然性が高かった。少なくとも一存にはそう感じられた。
 確かに覚慶が六角家なり朝倉家なりに逃げ出し、反三好の旗頭となれば、これを討伐するのは困難となる。
 一存はそう思ったのだが、これを聞いた久秀ははっきりとかぶりを振る。
 久秀が口にした「大患」はさらに一歩踏み込んだものであった。


「久秀はこう考えます。覚慶どのが六角家や朝倉家程度を頼ってくださるのであれば、それはむしろ当家にとって幸いというべきだろう、と。先に義輝さまが上杉家に上洛を命じた際、わたくしは長慶さまに頼んで皆様を集めていただきました。あの折、義賢さまが仰っていたことを、一存さまは覚えておいででしょうか?」
「兄上が?」
「はい、義賢さまはあの時、こう仰っておいででした」



『決め手となるは官位でも軍勢の多寡でもなく、本国と京との距離よ。これに優っている以上、越後は我らに及ばぬわ』
『越後なぞより、もっと気をつけねばならぬ者がおろう。まずはそちらの対策が先だということさ』
『尾張の織田信長だよ』
『間違っても織田に上洛を促すような真似はさせぬこと。当面はそれでよろしかろうと存じます』



 久秀がその時の言葉を口にすると、当の本人が溜息まじりにうなずいた。
「言うたな。ああ、たしかに言うたわ。つまり弾正、そなた、覚慶どのが織田を頼ると、そうみているのか?」
「あら、義賢さまはとうに気づいていらっしゃったのではございませんの?」
「はっは、正直、いかにして姉上をお助けするかで頭がいっぱいでな。尾張の暴れん坊どののことまで考えている余裕はなかったわ。だが、うむ、これはまずいなあ。弑逆者を討ち、将軍の仇をとって、同腹の妹君を新たな将軍とする。上洛の名分として、これ以上のものはあるまいて」
「はい。あるいは覚慶どのからではなく、上洛の名分を欲する織田の方から手を差し伸べることも考えられます。織田の領国である美濃、あるいは尾張から、興福寺がある大和まで大軍を派遣することは困難ですが、少数の使い手を選び、ひそかに国境を越えさせることはさほど難しいことではありません」


 義賢は自分の頭を叩き、苦笑した。
「たしかに、たしかに。これはわしが甘かった――ふむ、一存。そなた、側近を率いて興福寺に行ってくれ。将軍討死の報を聞いて二日。相手が織田にせよ、他の誰にせよ、まだ遅きに失したというのは早計であろう。姉上、よろしいですか?」
「ああ。一存、すべてお前に任せるゆえ、頼む。覚慶どのを連れてきてくれ」
「御意。ただちに発ちまするッ!」



 慌しく一存が立ち去ると、義賢は低声でぼやいた。
「うーむ、後日の大患、か。たしかに三好家の立場を明確にした以上、後の災いは早めに摘んでおくべきかもしれんなあ」
「義賢、どうした?」
 長慶が訊ねると、義賢はあごをなでながら答えた。
「今の話にちらと出てきた上杉のことでござる。当主の謙信はつい先日まで京におりました。軍勢を率いているならばともかく、少人数の上洛ゆえ、正直今の状況ではかまっておられんと無視していたのです。この季節、北国街道は雪に阻まれておりますゆえ、帰国もままならないでしょうしな。しかし――」


 謙信たちが越後に戻れば、三好家にとっては厄介なことになる。まさか雪道を走破して上洛してくることはないだろうが、逆にいえば、雪解けの後はほぼ間違いなく兵を出してくるだろう。
 以前であれば、将軍という盾を用いて鋭鋒を避けることができた。覚慶を新たな将軍とすることで、再び同じことができるだろうか?
 難しい、と義賢は判断した。三好家が将軍弑逆に関わった事実を、謙信が忘れるとは思えない。
 それに、以前の三好軍であれば、たとえ上杉軍が上洛してきても持久戦で持ちこたえることができた。冬が近づけば、謙信はどうあっても越後に戻らざるを得ないので勝算もあった。だが、これは三好家が畿内の覇権を握っていればこそ可能な戦略である。これから先の三好家に同じことができるとは限らない。


 謙信が越後に帰りつくまでに討ち取ってしまえば、越後は大混乱に陥るはずだ。幸いというべきか、守護代までも同道していると聞いた。これも討ってしまえば、謙信亡き後の群臣をまとめる者もいなくなる。
 三好家にしてみれば、わずかな労力で有力な敵大名を除けるわけだ。
 義賢としても謙信ほど名の知られた武将を合戦以外の場で、しかも闇討ち同然に葬るのは不本意だが、今後のことを考えれば、ここで手をこまねいているわけには……義賢がそんなことを考えたときだった。




 不意に長慶が義賢の名を呼んだ。
「義賢」
「姉上? なんでござろうか?」
「わたしは三好家の当主として、義輝さまの死に責任を負わなければならない。この身は弑逆の大罪人だ」
「は……?」
 姉の唐突な物言いに義賢は目を瞬かせる。戸惑う弟にかまわず、長慶はさらに言葉を続けた。
「しかし、だからといって求めて非道に手を染める必要はないと思う。そのつもりもない。罪人が武士たるの誇りを抱いていけない理由はないだろう? わたしは、弟たちの前で胸を張れない生き方をするつもりはないんだ。だから、義賢――」
 お前がそんな顔をすることはない。
 長慶はそういって静かに微笑んだ。




 誰よりも敬愛している姉の言葉である。義賢がその意味を理解できないはずはなかった。
 義賢はつるりと顔をなでると、膝を打った。
「――これはしたり。姉上を守らんとして、かえって姉上を傷つけるところでござった。申し訳ございませぬ。弟めの愚昧、どうかお許しくだされ」
「何をいう。義賢にはいつも感謝している。それにたぶん、三好家を守るためには義賢の考えの方が良いんだろう。けれど――」
「あいや、皆まで仰られるな! 家とはすなわち人のためにあるもの。人が家のために己を殺すのは本末転倒というものでござろうて。だいたい、そんな家が長続きしたところで誰も幸福になりませんしな」


 義賢はそういうと、何やら考え付いたようで、もう一度膝を打った。
「おお、そうです、姉上。ここはいっそ、我らで上杉の主従を保護する、というのはどうですかな?」
「ふむ? たしかに謙信どのならば、こちらの話くらいは聞いてくれるかもしれないが」
「さよう、今の三好家の事情を話せば、信じるかどうかはともかく、耳くらいはかしてくれましょう。まあ、反対に叩き斬られる恐れもござるが、それはともかくですな。別に話をきいてもらえなくともかまわんのです」


 今度は長慶が目を瞬かせる番だった。
「どういうことだ?」
「越後の聖将どのが将軍に深く忠誠を誓っておることは誰知らぬ者とてない事実でござる。その聖将どのを我らが保護し、無事に越後まで送り届ける。これを知った者たちはどう思うでござろう? 将軍を弑逆したはずの三好家が、将軍に忠誠を誓う謙信どのを守って領国まで送り届けた。どうして弑逆者が、この先まちがいなく敵となるはずの聖将どのにそこまでしたのか、と疑問に思うはず」
「……ふむ、なるほどな。それで当家への敵意が消えることはあるまいが、それでも一抹の疑問を差し挟む余地はできる、というわけか」
「御意。まことに姉上が将軍を弑したのであれば、ここで謙信に手を差し伸べる理由はありませぬ。この論理は今後、なかなか役に立つと心得ます」
 そういってから、義賢はおどけたように肩をすくめた。


「思惑が外れると、最強の敵手を野に放った挙句、その敵手に討たれて滅亡した間抜けな家として、三好の名が歴史に刻まれることになってしまいますが」
「それは笑えないな。だが、謙信どのを保護するのは賛成だ。あちらが三好の話など聞く耳もたぬというのであれば、かげながら国境まで送るだけでもよい。いずれ敵となり、戦うことが避けられぬ相手だとしても、それは合戦の場であるべきだ。こんな下らない騒動の場であの御仁と戦いたくはない」
「御意。ただちに長逸どのに――いや、へたに連中に任せるよりは、わしが京に行った方が早いですかな。その方が此度の件を調べるのも楽ですし」


 長慶と義賢は次々に今後の方針を定めていく。
 その様を松永久秀は黙って見つめていた。自分の出る幕ではないと考えたのか、もう言うべきことは言ったと判断したのか。
 松永久秀はただ静かに三好家の姉弟を見つめていた。
   

 
◆◆◆



 日ノ本全土を駆け抜けた将軍 足利義輝討死の報。
 盛時と比するべくもないとはいえ、それでもなお幕府の威光は全国の大名にとって無視できないものであった。その幕府を統べる将軍が、こともあろうに御所を襲撃されて討死したという報せは、今が戦乱の世であることを強く認識している戦国大名たちにさえ衝撃を与えずにはおかなかった。
 彼ら、彼女らは将軍討死の報を聞いた際、一様に考えた。
 ついにここまできたのか、と。



 斜陽の時を迎えながら、それでも落日の余光で日ノ本を照らしていた足利幕府。
 義輝の死は余光の消失を意味し、幕府の権威は地平線の彼方に没してしまった。
 これ以後、日ノ本を包む戦雲はよりいっそう厚みを増していくこととなる。
 そして、それは同時に、この戦国の世を象徴する者たちが本当の意味で歴史の表舞台に躍り出てくる、その予兆ともなったのである。




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