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[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 【第二部 完結】
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2014/01/18 21:39

 時は春。満開の桜が視界一杯にあでやかに広がり、吹く風は確かな春の温かさを宿して、優しく頬を撫でていく。
 家族に連れられてやってきたのだろう。幼い男の子が、浮かれた様子で桜の園のあちらへ、こちらへと走り回っていた。
 陽が中天に輝く時刻、周囲には花見客が笑いさざめき、その楽しげな雰囲気が子供心を浮き立たせずにはおかないようで、遠くからかかる母親の声も、男の子の足を止めることは出来なかった。
 さらに先へと駆け出していく子供は、しかし不意に停止を余儀なくされる。
 桜の花を見上げていた青年にぶつかってしまったのだ。


 小さな悲鳴と共に子供は足を止めた。思いのほか強い衝撃で鼻を打ち、その目にみるみる滴が溜まる。
 それは鼻の痛みのせいもあったが、怒られる、と本能的に恐れたためでもあった。
 だが。
「おっと、ごめんごめん。大丈夫かい?」
 青年は子供に気付くと、膝をついて目線を合わせ、そっと髪の毛に触れてきた。
 怒気を感じさせるものは何もなく、子供は目に見えてほっとしながら、小さく頷いてみせる。
「そっか、良かった良かった。ぽかぽか陽気に綺麗な桜だもんな、はしゃぎたくなって当然だ」
 言いながら、立ち上がった青年は軽く子供の頭を撫でてから、踵を返す。
 その後姿を見た子供は、何故だか青年の背から目が離せなかった。思ったよりもずっと大きく感じる背に、惹きつけられるように子供が口を開こうとした、その時。


 ――不意に吹き寄せる一陣の風。花びらを乗せた春風は子供の視界を一瞬だけ桜色で染め上げ、そして。


「あ、あれ?」
 視界から消えた青年の姿を求めて、子供は顔を左右に振るが、どちらの方向にも先刻の優しげな青年の姿はない。
 どこに行ったのだろうと首を傾げた途端、遠くから母親の声が聞こえてきた。その声を聞くや、子供はぱっと顔を綻ばせ、元いた場所に向けて走り出す。



 後に残ったのは、去り行く子供の足音と、宙を舞う花びら、遠くから響く笑い声。
 そして、もう一つ。青年が消えたあたりから、澄んだ鈴の音が小さく、ほんのかすかに空気を震わせ――誰一人、聞く者とてなく、やがて宙へと溶けた。



 それはただそれだけの出来事。
 時を同じくして。
 世界を異にして。
 常夜の時代を終わらせる、激しくも華やかな戦いの再開を告げる、小さな小さな合図であった。



         聖将記 ~戦極姫~ 【第二部 護国の雷鳴】



「義姉様(あねさま)」
 澄んだ呼び声を耳にした戸次道雪(べっき どうせつ)は、腰まで届く艶やかな黒髪を揺らしつつ振り返る。
 そこには予想に違わない人物の姿があった。もとより大友家加判衆筆頭たる道雪を義姉と呼ぶ人物は一人しかおらず、間違えようもない。
 その人物――おなじく大友家加判衆に連なる吉弘家の跡継ぎである吉弘紹運(よしひろ しょううん)は凛とした双眸に、めずらしく困惑の色を宿しながら道雪の傍らに歩み寄ってきた。
「紹運、どうでしたか」
「は、やはり此度の仕儀、南蛮神教側により多くの非があるように思えます。角隈石宗(つのくま せきそう)殿亡き後、その所領にある寺社を半ば強引に南蛮寺院へ建てかえさせている様子」
 予想どおりの報告に、道雪は思わずため息を吐く。


「あの宣教師らしい所業ですね。石宗殿の所領を、彼の者に与えたのは宗麟様。それ自体は是非もないことですが……」
 道雪の嘆きに、紹運は同じ表情で相槌を打つ。
「角隈殿は寺社の代表として、終生、南蛮神教と対立してきましたからね。政敵にも等しかった相手の所領で、寺社を取り潰して南蛮寺院を建立すれば、勝ったのは南蛮神教であると周囲は考えるようになるでしょう」
「御仏を信じるにせよ、異教の神を信じるにせよ、皆、大友という家の大切な臣民であることに違いはないのです。対立は避けられないでしょうが、あえて火に油を注ぎ、大火にする必要などないというのに」
 ここで言ったところで詮無いことですが、と道雪は再度ため息を吐いた。
 このところ、憂いの去らない義姉の顔に気遣わしげな眼差しを向けつつ、それを払う術を持たない紹運は、悄然と俯くしかなかったのである。




 鉄砲をはじめとした西海の知識が日の本にもたらされるようになって数年。海を渡ってきた道具、知識、信仰はすでに各地で少なからざる影響を与え始めていた。
 異なる文化が、戦国という乱世でぶつかりあったのだ。当然ながら、そのすべてが良い方向へ行くわけではなかった。無論、すべてが悪しき方向へ行くわけでもない。
 それを象徴するのが、近年、九国探題に任命された大友家の隆盛と、内の軋轢であった。


 大友家当主である大友フランシス宗麟は、大名の中ではもっともはやく南蛮神教に改宗した人物である。そのため、領内には南蛮由来の建物も多く、膝元の府内に建てられた南蛮寺院の壮麗さは、南蛮人をして感嘆の声をあげるほどであるという。
 自然、府内には多くの異人が住まうようになり、港には西の海を越えてきた外国船が毎日のように訪れる。彼らがもたらす産物と情報は大友家の財政を潤し、府内の繁栄は北九州の博多津に優るとも劣らぬものとなっていく。


 宗麟が家督を継いで数年。府内の街並みに建ち並ぶ南蛮様式の建物も、すでに目新しいものではなくなっていた。大友家と南蛮文化はきわめて密接な関係を保ちながら、日の本でただ一つとも言うべき異色の発展を遂げていたのである。  




 その一方で、大友家の内部では大きな歪が生じつつあった。主君みずから南蛮神教に改宗し、さらに積極的に南蛮神教の布教を押し進めていく過程で、従来の寺社勢力と深刻な対立が発生していたのである。
 家臣、領民を問わず、御仏の教えを信じる者は多く、また信仰はせずとも寺社と何らかの関わりを持っている者は少なくない。
 彼らにとって、急激に過ぎる南蛮神教の台頭は脅威以外の何物でもなかった。くわえて、寺社の建物が次々に南蛮神教に接収され、南蛮寺院に建てかえさせられるに及んでは、反目が生じない理由がなかったであろう。


 南蛮文化がもたらした恩恵は否定できない。だが、南蛮神教の強引な布教は、古来より日の本にある寺社勢力と、それに寄り添って生きてきた人々との融和を端から放棄したものであった。
 本来であれば、それは豊後の地を統べる大友家によって掣肘されるべきものであったが、主君である宗麟が南蛮神教側の頂点に立って事を押し進めている現状では、南蛮神教側の非を糾弾できる者はごく少なかった。
 その数少ない人物の一人が、先日、病を患い、他界した。この人物には跡継ぎがなく、死後、その所領は大友家の直轄になるものと思われていた。
 南蛮神教側は、この仇敵の死を勿怪の幸いとして、主君である宗麟に新たな南蛮寺院の建立を薦める。元々、彼の地に南蛮寺院がないことを案じていた宗麟は、これを即座に了承し、一切の差配を信頼する一人の宣教師に委ねたのである。
 フランシスコ・カブラエル。
 大友宗麟に洗礼名を与え、豊後における南蛮勢力の飛躍をもたらしたこの宣教師によって、事態は悪化の一途を辿ることになる。



 ――だが、南蛮文化の到来が表裏二つの面を持っていたのだとすれば。
 政敵にとどめを刺すべく行ったカプラエルの蠢動にも表裏二つの面が存在した。この一連の騒動は、大友家にとって一つの転機をもたらすものともなったのである。


 空前の繁栄の陰に拭い難い不和を抱えながら、止まることなき大友家の歩み。
 その途上に、一人の青年が現われようとしていた。

 

◆◆



「なんとまあ。傍若無人とはこういうことか」
 俺は知らせを聞き、呆れかえって頭を掻いた。
 角隈殿の四十九日を数日後に控え、粛然と静まりかえる屋敷に、慌てた様子で寺から知らせが駆け込んできたのは、つい先刻のこと。なんでも南蛮神教の使いが、ただちに寺を明け渡すように命じてきたらしい。
 無論のこと、代わりの場所など用意されておらず、寺で予定されていた角隈殿の四十九日をはじめとした数多ある法要の都合も考慮しない。ただただ出て行け、というわけだ。
 横暴だ、と声をあげたいところだが、これに大友家当主の許可があるというから呆れざるを得ない。領民はもちろんのこと、一坊の主である住職といえど、当主の命に逆らうことが出来ないのは当然であった。


 住職がこの家に使いを走らせたのは、この屋敷の主であった角隈石宗殿の名に縋ろうとしたのであろう。角隈殿は、大友家当主である大友宗麟の軍学の師であり、同時に南蛮神教の台頭著しい豊後にあって、寺社勢力の要と目されている人物であった。
 南蛮神教に傾倒する当主も、師である角隈殿の言葉を無視することは出来ないらしく、角隈殿は事あるごとにこの手の厄介事の始末に頭を悩ませていた。
 このように記すと、あたかも寺社と南蛮神教が均衡を保っているかのごとく映るかもしれないが、実際のところ、当主を改宗させた南蛮神教の勢力を押しとどめることは、角隈殿であっても不可能であった。
「南蛮神教が十の事を企むとき、妨げることが出来るのは、精々一か二でしてな」とは、生前の角隈殿の嘆きにも似た述懐である。


 それでも、大友領内でそれが出来るのは角隈殿を除いては一人いるかいないかというところらしく、南蛮神教側にとっては厄介な目の上のコブであったのだろう。角隈殿には、それこそ様々な圧力が、各方面からかけられていたようだった。
 お家大事の戦国の世にあって、角隈殿が最後まで跡継ぎを定めなかったのは、あるいはそんな針のむしろとも言うべき自分の立場に、他者を充てることを避けたかったからなのかもしれない。今となっては確認しようもないことではあるが、俺にはそんな風に思えてならなかった。


 それは、角隈殿亡き後の屋敷の寂れようを見ているうちに、俺の中でほとんど確信になっていた。屋敷に残ったのは、俺を含めて両の手で数えられるほど。外から弔問に訪れる者もごくわずかしかおらず、それも決まって何者かの目を恐れるように、夜間ひっそりと訪れるのが常であった。
 一時の客に過ぎない俺から見ても寂寥の観を禁じ得ないこの状況が、角隈殿の立っていた場所の苛酷さをまざまざと示しているように思われた。




 俺がそんな感慨に耽っていると。
「雲居(くもい)様……」
 いまだ耳慣れない呼び名に、少し慌てながら、俺は目の前の人物に意識を戻す。
 白布で顔を覆ったその人物は、低く、くぐもった声の中に、小さな非難を込めているように思われた。
 といっても、それは出会った時からずっと続いているものなので、この頃は逆にそれがないと落ち着かない気分にさせられてしまうのだが。


 この白頭巾の小柄な少女、名を大谷吉継という。
 業病を患い、その治療のためにはるばる畿内から九国にまでやってきた――ということになっている。
 実のところそれは方便で、吉継の顔も身体も、病の影響のない綺麗な乙女そのもの。開花を待つ蕾にも似た、未成熟な美しさを漂わせていた。
 何故、そんなことを断言できるのかというと……いや、まあ一度だけ見てしまったからなのだが。水浴びしてるところを、こう、思いっきり、これでもかというくらいまじまじと。


 ……言い訳させてもらうと、故意ではない。いや、まじまじと見たあたりは弁解のしようもないのだが、そこに吉継がいるとわかって行ったわけではないのだ。
 山中をさまよいつつ、ようやく見つけた泉に駆けつけたら、たまたまそこが吉継が頭巾をとれるほとんど唯一の場所だったという、ただそれだけの事なのである。信じてお願い。
 運良く――もとい、折悪しく、その時、吉継はまさに泉に入ろうとしているところで、つまりは顔も身体も外気にさらしている状態であった。
 で、俺は当然のようにそのすべてを目撃してしまったのである。


 自慢だが、俺は綺麗な女性とは少なからず縁がある。二年ほど前までは、芍薬、牡丹、百合の花という感じの、いずれ劣らぬ佳人たちと毎日のように顔を合わせ、共に戦ってきた。
 そのため、そうそう女性に見蕩れるということはないのだが――しかし。
 吉継は、俺の知る人たちと遜色ないほどに綺麗だった。我ながら似合わないことだが、泉の妖精か、などと思ってしまったくらいである。
 ただ、もう一度言い訳させてもらうなら、優れた容姿だけであれば、俺はすぐに正気づいてその場を立ち去ったであろう。そのくらいの自制心はある。俺が呆然としながら、まじまじと吉継のあられもない姿を見続けてしまった理由は、他にあった。


 雪の精のような白銀の髪に、紅玉を透かしたような緋の瞳。
 吉継の容姿は、物語でしか逢うことのできない妖精が、現実になった姿としか、俺には思えなかったのである。


 これが、衝撃的としか形容できない、俺と吉継との初対面であった。  
 ……まあ、向こうにしてみれば、俺は単なるのぞき魔以外の何者でもないのだが。だから、今なお吉継の声には俺への嫌悪と非難が入り混じっているのは仕方ないことではあった。
 俺が故意にのぞいていたわけではない、とわかってもらえただけでも僥倖というべきであろう。弁明に口添えしてくれた、今は亡き角隈殿に感謝しなくてはなるまい。


 そんな理由もあり――いや、もちろんそれだけではなく、角隈殿の人柄や八宿十六飯の恩(庶民は一日二食)もあって、俺は角隈殿の四十九日が終わるまではと、この屋敷に留まり続けていたのである。
 その四十九日が、このままでは行うことが出来なくなってしまうとあっては、黙っているわけにはいかない。吉継もそう考えればこそ、嫌いな俺のところに足を運んだのだろう。


 吉継は、かつて大友家に仕えていた大谷家の跡継ぎなのだが、南蛮神教と一悶着あった際、角隈殿によって救われた縁で、その下で仕えるになったそうだ。
 角隈殿の薫陶を受けた吉継は、若いながらにかなりの人物で、角隈殿亡き後の屋敷の諸事を一手に司っていた。
 ただ、頭巾で顔を覆った格好は他者の警戒を誘い、交渉ごとには向かない。南蛮神教側と話し合うにしても、誰か名代を差し向けなければならなかったのである。
 俺以外に屋敷に人がいないわけではなかったが、角隈殿は不思議なほど俺を高く買ってくれていた。そのことを、吉継は知っていたのであろう。


 俺がこの屋敷に世話になってから、角隈殿が眠るように逝かれるまで十日も経っていなかった。その間、身の上話をしたわけでもない。
 この地が九国であると知った俺は、まさか自分の名がここまで伝わっているとは思わなかったが、それでもただ「筑前」と名乗るにとどめた。万が一にも素性がばれてしまえば、彼の地にいる人たちにどんな迷惑と、そして心配をかけるかわからなかったからである。
 その名乗りと、普段の挙措、言動。まさかそれだけで、とは思う。思うが、角隈殿ならばあるいは、とも思ってしまう。
「筑前だけでは、それが姓やら名やら、あるいは生国やらわかり申さぬからな」
 そう笑いながら「雲居」という姓を考えてくれた時の角隈殿の顔を思い起こし、俺はそっと頭を垂れた。




 この程度で恩の一端なりと返すことが出来るなら、と俺が腰をあげた時。
 しかし、事態はすでに終わっていた。


 駆け込んできた第二の使い。彼方から上がる黒い煙と、昼なお赤く揺らめく炎の影が告げていた。
 角隈殿の菩提寺が、今まさに炎に包まれようとしていることを。

 



[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第一章 雷鳴(二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/04/20 00:49


 朝靄けぶる中庭で、ただ無心に刀を振るう。
 刀といっても真剣ではない。角隈殿に頂いた木刀である。
 数をこなすのではなく、一太刀一太刀を大切に。一振りを等閑にせず、そこに自らの渾身を乗せていく。かつて教わったその振りを、ただひたすら繰り返す。
 二年間。
 たえずこれを続けたことこそが、離れ離れになった人たちに、俺が誇れるただ一つ。
 鋭く呼気を吐き出し振り下ろされた一刀が、小気味良い音を立てて空を斬った。



 朝稽古が終わった後、ふと、視線を感じた気がして邸内に目を向ける。
 だが、そこには誰の姿もなく、周囲を見回しても人の気配はない。東の方角から差す陽光の眩しさに目を細めながら、俺は小さくかぶりを振った。
 生前、角隈殿は何が面白いのか、よく俺の朝稽古を見物していた。その時の記憶が、あるはずのない視線を感じさせたのかもしれない。
「さて、どうしたものかな」
 俺は懐から取り出した手ぬぐいで汗を拭いながら、今後のことに思いを馳せる。
 一番の目的は決まりきっているが、ここは九国。別れた人たちと再会するためには、この日の本の地を横断しなければならない。先立つものを持たない身には長く厳しい旅程になるだろう。


 もっとも自分だけのことであれば、労を厭うつもりはない。農家の下働きでも何でもして、意地でも帰ってみせるつもりである。
「……そうしないと、ずんばらりんだしなあ」
 知らず、額に手をあてながら、俺は口元を笑みの形に開きかけ――慌てて、一文字に引き締め直した。角隈殿が亡くなり、菩提寺が焼け落ちた今、客の俺がにやけていたら何を言われるかわかったものではない。


 それに下働き云々はあくまで俺に限った話。同行者がいるとあっては話は別である。
「まあ問題は、その同行者が自分が同行するって知ってるかどうかなんだが」
 同行することを知らない同行者。我ながら、何をわけのわからないことを、と思わないでもないのだが、実際、それが問題なのだから仕方ない。
 そもそもの淵源は一月以上まえに遡る。
 角隈殿の生前のこと、夕餉の後、俺を部屋に呼んだ角隈殿は開口一番、とんでもないことを口にしたのである。



◆◆



 呆然の数瞬が過ぎた後、俺は慌てて口を開く。角隈殿の真意が、さっぱりきっぱりわからなかった。
「吉継殿を連れて行くとは、どのような意味で?」
「そのままの意味と取っていただいて結構。雲居殿、貴殿がこの地を離れる際、吉継も連れて行ってくれまいか」
 体調が悪いゆえ申し訳ない。そう言って横になりながら、角隈殿はなんでもないことのように繰り返した。


 俺は角隈殿に宿と食事を世話してもらっている身である。雲居という姓も考えてもらったし、吉継の水浴びを目撃してしまった件の弁解にも口を利いてもらった。大抵のことなら快く引き受けるつもりであったが、さすがにこれは、はいわかりましたと頷くわけにはいかなかった。
 本人の意思がわからないということもあるが、出会って十日も経っていない人間に、家族に等しい人間の身柄を託そうという角隈殿の真意がわからなかったからである。
 角隈殿と吉継は主従の関係だが、実際は祖父と孫にも等しいと俺は考えていた。角隈殿も吉継も多弁な人ではなく、邸内での言動も厳しく律されていたが、時折交わされる会話には互いへの思いやりをはっきりと感じとることが出来た。


 そんな俺の疑念に気付いて――というより予想していたのだろう。角隈殿はあっさりと本音を口にした。
「これでも、人を観る目はあるつもりでしてな。それに、あれは南蛮神教との間に浅からぬ因縁があるのでござる」
「因縁、ですか?」
 俺の反問に、角隈殿はなにやら楽しそうな表情を浮かべる。そんなに面白いことを言ったろうか、と俺が首を傾げていると、角隈殿は表情を変えぬまま、口を開いた。
「奇しくも雲居殿はもうご覧になったわけだが、吉継の容貌のことでござるよ」
「う……」
「ふふ、まあ吉継も、雲居殿が故意に泉に来たわけではないことは、もう納得しておる様子。安堵されよ」
「かたじけないでございます」


 平身低頭する俺に、角隈殿は声に出して笑ってから、一転、表情を厳しく引き締める。
「実は吉継の容姿のことは宣教師たちも知っております。吉継の父、大谷吉房殿は異国の智恵をもって吉継の容貌を治せぬものかと考えたのでござろう。吉房殿は実直で武芸に長けた御仁で、大友家に随身してよりほどなく頭角をあらわされ、やがて吉継を南蛮の宣教師たちに診て貰う機会に恵まれたのですが……」
 西の荒海を乗り越えてやってきた宣教師は智勇に優れた偉人であるというのが定評である。事実、彼らの多くは優れた人物で、医学に通じている者も少なくなかった。
 そこで言葉を切った角隈殿は、苦いものを吐き出すように続きを口にした。
「彼奴ら、吉継の容貌を一目見るなり『悪魔だ』と騒ぎたて、ただちに火刑に処すべしなどと申し、必死に弁明する吉房殿まで悪魔の眷属として捕らえおったのです。幸い、わしの耳に入るのが早く、かろうじて連中から父子を取り戻すことはできたのですが、連中、今度は宗麟様のもとにまで押し寄せ、処刑の許諾を得ようとしおりましてな。わしと戸次殿らが口を揃えて諫止し、かろうじて処刑だけはくい止めることが出来たのですが、吉房殿と御内儀、そして吉継は国外追放となり……」


 大谷家は豊後を追放され、他国に行かざるを得なくなってしまった。角隈殿はかなう限りの援助をしたらしいが、角隈殿個人の発言力はともかく、その家は決して豊かではなく、おのずから援助にも限界があった。くわえて、国外追放となった者との関わりを察知されれば、今度は角隈殿が排除されてしまいかねない。
 それでも、自分一人のことならば、角隈殿は決然と事を行っていたであろう。
 だが、この時期、角隈殿が放逐されてしまえば、南蛮側の暴走を掣肘することが出来なくなるのは火を見るよりも明らかであった。寺社潰しの暴挙はもとより、宗麟を盾に政治や軍事にも口出しするようになった彼らを放っておけば、大友家は滅亡への道を転げ落ちるだけであろう。そうなれば、苦しむのは大友家の家臣であり、領内の民である。
 角隈殿はそう考え、大谷家を案じつつも、手を引かざるを得なかったのである。


 だが、憂慮は間もなく現実となってしまった。この沙汰に飽き足らなかった南蛮側は、その有り余る影響力を駆使して国外に出た大谷家に様々な迫害を加え続けたのだという。
 それらがよほど重荷になったのだろう。あるいは、直接的な手段をとったのか。間もなく父吉房が亡くなり、ついで支えを失った母が相次いで他界してしまった。
 風の噂でそのことを聞いた角隈殿が血相を変え、矢も楯もたまらず吉継の下へ向かってみると、そこには倒れる寸前までやせ細った吉継が、誰の助けを借りることも出来ず、一人、山中で野草を採っていたのだという……




 声もなく話に聞き入る俺に、角隈殿は深い悔恨を宿した声で続けた。
「わしは吉継を自分の屋敷に連れ帰り、なんとか宗麟様に寛恕を請おうとしたのでござる。元来、宗麟様は聡明で慈悲深い方、吉房殿の功績を忘れられたわけではなく、大谷家の末路に悔いと哀れみを感じられることは疑いなかった。ただ、一度追放処分を科した者を、堂々と領内に受け入れれば法のなんたるかを問われようし、南蛮人どもが黙っているはずもないと、それを心配しておったのですが……」
 なんと、南蛮側は反対するどころか、むしろ角隈殿の主張の後押しをしたのだという。
 これには角隈殿も面食らい、警戒せざるを得なかった。連中が何事かを企んでいるのは明らかであったからだ。
 この時、角隈殿に同意し、宗麟を説得した宣教師の名を――
「フランシスコ・カブラエル。まだ若いながらに日の本の言葉と政情に通じ、大友家の発展に少なからぬ貢献を為した人物でござる。そして、宗麟様にフランシスなる洗礼名を与えたのも、こやつでござる」


 以来、数年。
 吉継を迎え入れてからも、角隈殿と南蛮神教の対立は解消されることはなかった。しかし、吉継への手出しはぴたりと止み、南蛮側は吉継へ関心の目を向けることをやめたのだ、と判断しても良いと思われたのだが……
 角隈殿はゆっくりとかぶりを振った。
「これまでの彼奴らの所業を考えるに、そうたやすく矛を収めるとは考えにくい。何かしら理由があると思われるが、確たる証はついに掴めなんだのでござる。わしも年をとり、先の知れぬ身。この上は彼奴らの機先を制し、吉継を九国の外に出すが良策と、昨今、そう考えておった矢先、雲居殿が現われた。これこそ天の配剤と申すべきではござらんか。無論、そのための銭はこちらが用立てますゆえ、なにとぞお引き受けいただきたい」
 最後の部分は、着の身着のままで現われた俺への気遣いか、他愛ないからかいか。
 いずれにせよ、ここまでの話を聞かされれば、頷かないという選択肢を選ぶことは出来なかった。
 何より――



 俺が頷くのを見た角隈殿は、心底嬉しげな、童子のように澄んだ笑みを浮かべ、俺に礼を言った。
 長話が過ぎたと苦笑し、大きく息を吐き出す角隈殿に一礼すると、俺はそっと部屋を出ようとする。その背に向け、角隈殿はもう一度だけ、口を開いた。そして囁くような小さな声でこう言った。



「どうか吉継のこと、よろしくお願いいたす――天城颯馬殿」


 
 ――翌朝、角隈殿は亡くなられた。
 予想もし、覚悟もしていた俺は、角隈殿の枕頭で、深く深く頭を下げる。
 思い出されるのは先夜の角隈殿の顔。その肌の白さは、かつて看取った主のそれと酷似しており、俺は角隈殿の命が旦夕に迫っていることを悟らざるを得なかったのである。そして、角隈殿自身が、そのことを承知していることも。
 角隈殿の顔は、これより九国に吹き荒れる動乱の嵐を見据えるかのように引き締まり、死の淵にあってなお、その智謀にいささかの翳りもなかったことを、無言のままに示しているかのようであった。



 あの日から今日に到るまで、吉継の口から今後のことが語られることはなかった。
 角隈殿が俺に話したことを知っているかどうかさえわからない。確認すれば済むことなのだが、主君であり、家族でもあった人がなくなったばかりの傷心の少女に、これから先のことを問うのはなかなかに勇気がいることだった。
 もっとも、あの角隈殿が、吉継に何も話していないとは思えない。死期を察していたのなら尚更である。それゆえ、俺はいずれ吉継が落ち着いたら何かしら言ってくるだろうと考えていた。
 その返答が「同行する」になるか、「あなたと同行するなんてとんでもない!」になるかはわからんかったが。


 角隈殿には幾重にも恩がある。だからといって、当人の意思を踏みにじるつもりは毛頭なかった。
 だが、たとえ後者だとしても、俺なりに後の様子を確かめてから立ち去るつもりではあったのだ。吉継が同行するにせよ、しないにせよ、できうべくんば、穏やかな旅立ちになることを望んでいたのだが。
 事態は早くも兵火の匂いを感じさせるものになりつつあった。



◆◆



 俺と吉継が駆けつけた時、すでに建物を包む炎は手のほどこしようがない状態であった。
 領主であった角隈殿の菩提寺とはいえ、寺自体の規模はさほど大きくはない。それでもあたりの民家に比べれば、建物の規模が大きいのは当然で、寺を包んで激しく燃え盛る炎が周囲に飛び火してしまえば、あたり一帯を巻き込んだ大火へと発展する可能性もあるだろう。
 だが、この時点で俺の心配は無用のものであった。この寺を預かる住職が、すでに延焼への備えをしていたからである。


 後で知ったことだが、この時、仏像こそ運び出されていたものの、経典などの品々や寺の維持費はほとんど寺内に残ったままだったそうだ。
 住職は徳望のある方で、突然の火災にも関わらず、駆けつけた人たちは少なくなかった。延焼への備えを後回しにすれば、そういった品々を取り戻す機会はあったであろう。
 だが。
「大切なのは御仏と、その教え。そしてそれを伝え、受け継ぐ人。三宝あれば何事も為しえます。経典や銭を惜しんで、人を危険に晒すのは仏の道にそぐわぬ行為でありましょう」
 火が鎮まった後、屋敷に逗留することになった住職は、そういって俺に向けて、穏やかに微笑んだのであった。


 幸いというべきだろう。住職の努力の甲斐あって、寺の人たちに死者は出なかった。軽度の火傷を負った者はいるが、皆、命に別状はない。住職をはじめとした彼らは、現在、角隈殿の屋敷で傷を癒している最中である。
 もっとも住職はすでに精力的に歩き回り、突然の寺の消失に落胆を隠せない人たちを力づけてまわっていた。そういった姿を目の当たりにすれば、人の価値は難局にあってこそ現われるという言葉に、俺は頷かざるを得ない。
 そんな住職さんたちを、ただ見ているだけなのは心苦しいので、俺は俺なりに動くことにしたのである。


 すでに夜の帳がおり、火事の後始末で疲れ果てた人たちが皆寝入った時刻。
 天頂に輝く月の光に身をさらしながら、俺は一人、角隈殿の屋敷の門柱に身体を預けていた。そよぐ薫風は濃厚な緑の香を宿し、野で山で、萌える植物の息吹を肌で感じる。
 月を見上げ、風を感じながら、俺はただ立ちつづける。


 ――予期した人影が屋敷から姿を現したのは、それからほどなくのことであった。



◆◆

 

 俺の姿に気付いたのだろう。白絹の布で顔を覆った吉継が、はたと足を止めた。
「……雲居殿」
 その口からこぼれる声は低くかすれていたが、いつもの嫌悪はなく、ただ純粋な驚きが感じられた。
 一方の俺は、この状況を予期しつつも、この場に相応しい台詞を用意していなかった。結果、小さく首を傾げただけで、無言のままに吉継の進路を遮る形をとることになる。


 しばし後、驚きが去った吉継の口から、淡々とした声が発される。
「何故、貴殿がここにおられるかはお聞きしません。そこをお通しください」
「お断りします」
 間髪いれず、そう答える俺に、吉継が戸惑ったように身体を揺らす。
 最初の出会い以来、俺は徹底して吉継に頭があがらず、ひたすら下手に出ていたので、今のように強い言葉を返すのは初めてであった。
「奇妙なことを言われる。貴殿に、私を止める理由などないはずだが」
「理由ならあります。このような夜分、女性の一人歩きは危険でしょう。あの火災で人心も動揺している。何が起こるかわかりません」
「女といえど、私は武士。不届き者の一人や二人、物の数ではありません。ご心配いただいたことには感謝しますが、貴殿のそれは――余計な世話と申すものです」


 吉継の口から放たれた言葉には侮蔑と、そしてかすかながら焦慮に似たものが感じられた。
 それが俺の気のせいではないことは、すぐに明らかとなった。
「そこを退いていただこう。邪魔をするというなら、力ずくで通らせてもらいます。峰打ちとはいえ、当たり所が悪ければ命を落とすこともありえますよ。それとも白刃の方をお望みか?」
 それは明らかな脅しであり、同時にただの脅しではなかった。刀を抜き放った吉継から発される鋭気は、決して偽りではない。そのことを、俺は総身で感じ取り――
「そうですね。吉継殿を止めるためにそうしなければならないのなら、そちらを所望しましょうか」
 委細構わず、その眼前に立ちはだかったのである。




 反応は迅速だった。
 地面を蹴りつける音が聞こえた、その途端。
 あたりに甲高い音が響き渡る。鉄と鉄がぶつかりあうその音は、吉継の刀と、俺が懐から取り出した鉄扇が激突して起きた音だった。
 さすがに白刃を向けてこそいなかったが、吉継の打ち込みは一切の手加減がない本気の打ち込みだった。吉継自身が言明したとおり、峰打ちといえど、喰らえばただではすまないだろう。それくらい、吉継の武技は油断ならない域に達していた。


 小さな舌打ちの音に続いて振るわれる二の太刀、三の太刀。
 吉継は小柄な身体ゆえ、一撃一撃の重さこそさほどでもないが、刀を振るう速さは瞠目に値した。それでも、さばけないほどではない。続く四の太刀、五の太刀を凌ぎながら、俺は冷静にそう判断する。
 そして、それは吉継も同様だったのだろう。六の太刀は振るわれず、吉継の身体が後方に退いた。


 吉継の口から、どこか忌々しげな声がもれる。
「丸腰でたわけたことを、と思いましたが、鉄扇とは妙な得物を使うのですね」
「素手であなたを止めることが出来ると考えるほど、うぬぼれてはいませんよ」
「……どうして」
 不意に吉継の声が低まった。
 その声に、悪寒を覚える。
「どうして、私を止めるのですか。私が何をしようと、貴殿には関わりのないことでしょう」
 俺は悪寒を振り払うかのように、かぶりを振って答える。
「これから旅を共にしようとする人を、関わりないとは言わないでしょう」
「……確かに石宗様から話はうかがっていますが、私はこの地を離れるつもりなどありません。また、貴殿を引き止めるつもりもありませぬゆえ、東国へ行きたければ、どうぞお一人で行かれませ。無論、石宗様のお言葉を反故にしたりはしません。旅費は十分にお出しいたしましょう」


「いえ、吉継殿が同行しないなら、別に旅費などいらんのですよ。俺一人であれば、何とでもなりますから」
「ならば、もはやここに用はないはず。そして、私を止める必要もないでしょう」
 再び、俺はかぶりを振った。視界の端で、右手に持った鉄扇が、月の光を浴びて煌いている。
「『どうか吉継のこと、よろしくお願いいたす』」
「……え?」
「最後に角隈殿と話をした折、そう頼まれたのです。そのあなたが、一人、死出の旅に赴こうとしている今、どうしてそれを止めずにいられましょうか」


 その言葉を聞いた瞬間、吉継の怒気が膨れ上がったのが、はっきりと感じ取れた。
「……ふざけたことを。会って間もないあなたなんかに、石宗様がそんなことを言うはずがないでしょうッ!」
 甲高い声は、常とは比べ物にならないほど高く。
「いいです、もうあなたの妄言は聞き飽きました。そこをどきなさいッ!」
 相手を射抜くような鋭利な響きを帯び。
「さもなくば、今度は本当に――斬ります」
 それら全てを圧するほどの、苛烈な殺気に満ち満ちていた。




 そんな吉継の姿を目の当たりにしながら、俺は思う。
 吉継の怒りは当然のことだ、と。
 生まれ持った自身の容貌が原因で、幼くして父と母を奪われ。
 危ういところを救ってくれた、主であり養い親でもある人までもが非命に倒れた。
 吉継の年齢を思えば、よくぞ今日まで耐えてきたというべきであろう。吉継をここまで支えてきたのは、今は亡きご両親の愛情か、角隈殿の薫陶か、あるいは吉継自身の心の強さか。あるいはその全てか。
 いずれにせよ、吉継が耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んで生きてきたことは想像に難くない。


 だが、今。
 恩ある人の魂の安息すら汚された今。
 これを堪えることなど出来はしなかったのだ。
 放火の証拠はない。しかし、状況を考えれば答えはおのずと明らかであろう。吉継がどこに行き、何をしようとしているのか、推測することは簡単だった。
 だからこそ、俺はここにいて。
 だからこそ、俺は吉継にかける言葉を持てずにいる。
 とおりいっぺんの慰めなど口に出来ようはずもなく。
 復讐の無意味さを説くことなど更に出来ぬ。


 だから、ただ手に持つ鉄扇を構えた。
 俺が出来ることは、それしかなかったから。
 




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第一章 雷鳴(三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/04/21 04:46


 時に力任せに、時に技巧を絡めて、大谷吉継の剣は唸りをあげて雲居に迫る。
 その体格と、わずか十五という齢を考えれば、吉継の剣勢の鋭さと激しさは驚嘆に値した。若年にしてそれを可能とせしめた日々の鍛練は、苛酷の一語で説明できるものではなかったであろう。
 しかし。
 そんな吉継の剣撃を、雲居筑前は、ただ一本の鉄扇で真っ向から防ぎ止める。
 爆ぜるようにぶつかりあう刀と扇。二人の得物が絡み合う都度、鉄の軋む音が耳朶を打ち、火花が闇に弾けた。
 夜空の星月が煌々とあたりを照らし出す中、二人の戦いはいつ果てるともなく続くかと思われた。



 だが。
「……くッ」
 小さく呻き、先に退いたのは吉継であった。その肩が大きく揺れ、荒い呼吸が周囲に響く。
 元々、吉継は体力に優れているわけではない。それどころか、幼い頃は他人に比して脆弱でさえあった。それでも武芸に打ち込むことで、人並みの持久力は得たものの、これだけ激しく刀を振るい続ければ、すぐに息が切れてしまうのは自明のことであった。
 だが、それでも。


 気合の声と共に、吉継は再び前に出る。
 突く、斬る、払う、突く、突く、払う、翻って強引に斬る。
 かなう限りの力を込め、知るかぎりの技をもって、眼前の相手を斬り倒そうと鋒鋩を叩き込む。
 頭を覆っていた白絹は剥がれ落ちていた。吉継自身がそうしたのだ。視界を狭め、呼吸を妨げる布などいらないから。


 吉継の髪は月光を映して白銀色に輝き、それが吉継の動きに応じて揺れ動く様は、人ならざる者が舞い躍るかのようで。眼光鋭くこなたを見据える緋色の視線が、一際その観を強くする。
 秀麗な容姿は、この際、鬼気を増す役割を果たすのみで、生きながら夜叉と相対しているかの如き心地を相手に据え付ける。


 ――そんな人間を、一体誰が近づけるというのだろう。


 物心ついた頃から感じてきた忌み者を見る周囲の視線。あたかも、それが正しいことなのだとでも言うように加えられた迫害。
 その理由は、望まずして得た容貌、ただそれだけ。
 それでも吉継はその理不尽に、ずっと耐え続けてきた。幼い頃。生まれなければ良かったのだと嘆いた時に見たあの顔を――娘の頬をうった父の顔と、声を詰まらせた母の顔を、二度と見たくなかったから。


 それでも、やはり限界はあった。
 燃え落ちる寺を目の当たりにした時、思ったのだ。これ以上は無理だ、と。
 自分の周囲に災いと不幸が溢れているのは、自分が疫病神に憑かれているからではない。自分自身が疫病神なのだと、そう思って長からぬ生を終わらせようと決意した。
 自分が生きていればいるほどに、自分の周りにいる人たちに迷惑をかけてしまうから。


 その意味で言えば、吉継の前にたちはだかる人だって巻き込みたくはなかったのだ。
 たたっ斬る、というかつてない第一印象を覚えた相手ではあったが、短くとも共に同じ屋敷で暮らしてみれば、その人柄は決して不快なものではなかった。
 吉継の容貌を知った上で、嫌悪や色情をあらわにすることなく、隔意なく接してくれたことを思えば、好ましくさえあったかもしれない。
 師の話を聞いた時も、その突飛さに呆れはしたが、その案に厭わしさは感じなかった。
 しかし。
 だからといって、今、自分を止めることは許さない。所詮は出会って間もない赤の他人だ。
 乱れきった息をこぼしながら、それでも打ち込むのをやめようとは思わなかった。 


「…………私は」
 踏み込む。振りぬく。防がれる。甲高い擦過音。間合いで言えば、刀の半分にも満たない鉄の扇による防ぎを、どうして抜くことが出来ないのか。
 相手とて、決して余裕をもって戦っているわけではない。吉継の刃は時に雲居の身体を捉え、いくつもの傷を与えていた。こちらを見据える瞳は真剣そのもの、向こうも全力で戦っていることは明らかで――しかし、それでもやはり届かない。与えた傷は、いずれも有効打には程遠かった。


「……私は」
 どれだけ踏み込んでも届かない。どれだけ斬りつけても倒せない。そうして、あくまでも前を塞ぎ続ける。
 いつか、吉継は目の前の相手が、これまでの自分を包み込んできた世界そのものに思えてきた。あらゆる方法で自分を傷つける、安らぐ時さえ奪いつくす、どれだけあがいても抜けられない。吉継にとって世界とは、ただひたすらそういうものであった。


「私はッ!」
 それはもうただの八つ当たりだとわかっていた。わかっていても止められなかった。
 これまでの長からぬ人生で蓄積されていたあらゆる感情が、堰を切ったように溢れ出て、吉継の全身を押し流す。ここまでの激情に駆られたことはかつてなく、それゆえに止める術をも知らぬのだ。
 もう嫌だと、こんなのは嫌だと泣き叫ぶ。
 何が嫌なのか。それは――


「私は、もうこれ以上、生きていたくなんか、ないッ!!」


 それはきっと、両親の死以来、吉継の心の奥底をたゆたって消えなかった厭世の思い。
 それをはじめて――否、再び口にする。
 その途端であった。
 張り詰めた空気を揺らしたのは、吉継の頬が鳴った音。
 その衝撃を、吉継は半ば呆然と受け入れる。頬を押さえた手に伝わる熱が、込められた力の強さを物語っていた。
「あ……」
 視線の先には、先刻まで命を奪わんとしていた相手の姿。吉継の頬をうった右の手に、すでに鉄扇は握られていなかった。


 それを確認したところまでが、吉継の限界であった。
 視界が揺れたと思った瞬間、身体が傾き、崩れ落ちる。そのことに気付いたが、急速に薄れ行く意識は、指の一本でさえも動かすことを拒絶する。
 そんな自分の身体を何かが包み込む感覚があり――それが誰のものなのかを考えながら、吉継の意識は闇の底に落ちていった。



◆◆◆



 意識を失い、力の抜け落ちた吉継の身体を背に負いながら、俺の口から、知らず、力ないため息がこぼれ出た。
 自分のやっていることが間違っているとは思わない。しかし、正しいと誇ることはなお出来なかった。生きていたくなんかない、と口にした時の吉継の表情が、瞼の裏に焼きついている。声が、耳朶に染み付いている。
 月の無い夜にも似たあの暗がりを、どうやれば照らし出すことが出来るのだろう。
「どうしたものかな……」
 俺が、ぽつりと呟いたその言葉に。
 思いもかけず返答があった。


「その信ずる道を行くことでしょう。迷いめさるな」
「和尚……見ておられたのですか?」
 屋敷から姿を見せた住職に、俺は驚きを隠せない。そんな俺を見て、住職はゆっくりと頷いてみせる。
「僧たる者、刃鳴りの音は聞こえずとも、人の慟哭を聞き漏らすことはありませぬ。娘御のことは、石宗殿も案じておられましたからな」
「……角隈殿は、やはり気付いておられたのですね」
「一度だけ、法要の際に仰っておいででした。自らの過ちで、幼き心に鬼面を植え付けてしまった、と」
「……そうですか」
 その言葉に、俺は小さく頷いた。
 吉継の懊悩に気付いていた角隈殿が、吉継を頼むと俺に言ったということは、やはり……


 しかし、どうすればその意思に応えられるかが俺にはさっぱりわからなかった。これから先も、ずっと力ずくで制するわけにもいかない。かといって、赤の他人の俺が何を言おうと吉継の心には届かないだろう。住職であればあるいは、とも思うが、もしそれが必要だと考えたならば、住職はもっと早くに出てきていたのではないか。
 今になって姿を見せたということは、やはり住職も、それは角隈殿から託された俺の役割だと考えているに違いない。
 そんなことを考え、答えの見えない問いに表情を暗くした俺の耳に、住職の声が届いた。
 ――そこに込められていたのは、確かな安堵。


「……今宵のことで、石宗殿もようやく安堵されたことであろう」
「……は、あの、それはどういう?」
 言ったのが住職でなければ、皮肉だと信じて疑わなかったであろう言葉だった。だが、住職はしごく真面目な顔で言葉を続けた。
「娘御がいかなる業をおって今生の容姿を得たのかは、人の身にては計れぬこと。されど、それに屈さず、歩き続けた行いが石宗殿との縁を結び、そして今また貴殿との縁を紡いだ。これは運にあらず、娘御の日頃の善徳が導いた必然と申せましょう」


 その言葉に、俺は困惑を浮かべた。角隈殿との縁はともかく、吉継がこれまで頑張ってきたその結果が、俺との出会いというのでは、いささかならず釣り合わない。俺がやったことと言えば、ただ力ずくで相手を引き止めただけでしかなく……
「先の剣撃を止めることさえ、並の者ではできますまい。まして、まことの殺意を向けられた後、なんらかわらず相手のことを思いやることの出来る者が、果たしてどれだけおりましょうや――石宗殿がついに取ることあたわなかった鬼面を、貴殿は今宵、砕いてしまわれたのですよ」
「は、そうであれば……良いのですが」


 住職の言うところが理解しきれず、俺は内心で首を傾げざるを得ない。そんな俺の困惑に、住職は気付いたようだったが、穏やかに微笑むだけで、それ以上言葉を重ねようとはしなかった。
「これは要らぬ口出しをしてしまいましたな。はよう娘御を休ませておげねばなりますまい」
「っと、確かにそのとおりですね。では和尚、失礼いたします」
「うむ、だれぞ女性を呼んで、汗を拭うことも忘れぬようになされませ」
「しょ、承知いたしました」
 背に負った吉継の身体を抱えなおし、俺は勝手知った屋敷の中に戻っていく。
 背後で住職が何事かを呟いていたようだったが、その声は、彼方を吹き行く薫風と、揺れる木立の音、そして吉継の口から漏れるかすかな息遣いによって遮られ、意味ある言葉として、俺の耳に伝わることはなかったのである。


◆◆


 去り行く雲居の背に向け、住職は微笑みながら口を開く。
「袖振り合うも多生の縁……願わくば、この縁が互いにとって良きものとならんことを」
 そう言って一礼すると、住職は自らもその後に続いた。    




◆◆◆




 目覚めは不快なものではなかった。
 雀の囀る声で目覚めた吉継は、いつものようにゆっくりと寝具から身を起こそうとして。
「……え?」
 ――ぱたりと。力なく寝具に横たわった。
 全くといっていいほど力が入らない身体に、半ば呆然とした吉継は、不意にうめくような声をもらした。
「あ……」
 脳裏に甦るのは、先夜の出来事。
 かりそめにも客である人に刀を向け、斬り殺そうとまでした自らの狂態。


 眠りから覚めてみれば、昨夜の激情は心中から霧消していた。胸奥に溜まっていた澱を、ことごとく吐き出してしまったためだろうか。その真偽はわからないが、しかし自分が発した言葉も、取った行動も、鮮明に覚えていた。
 それゆえに。
「……なんて、ことを」
 吉継の顔から、音を立てて血の気が引いていく。顧みるまでもなく、先夜の自分の行いは狂気の沙汰以外の何物でもなく。師の憩う寺が焼き払われ、平静ではいられなかったとはいえ、半ば以上八つ当たりで人を手にかけようとした罪は、決して償えるものではない。


 自由にならない四肢を叱咤し、身体をひきずるように立ち上がった吉継は、その格好のまま襖に手をかける。どうして自分がこの部屋にいるのかはわからないが、今は一刻も早く客人に謝罪しなければならない。
 もっとも、命を奪おうとした相手がいる屋敷にとどまっているはずもなく、とうに出立しているだろう。それでも、旅銭のない身では、まだこの地からそう遠くへは行っていまい。
 そこまで考えた吉継は、かすかに面差しを伏せた。先夜、銭はいくらでも差し上げると口にしたのは自分だった。あるいは師が用意していた旅銭は、もうとうに彼の人物の懐に入っているかもしれない。そうであれば、追いつくのは至難であるが――


 そう考えつつ、襖を開けて敷居をまたいだ吉継は。
 そこに求める人の姿を見つけて、束の間、呆然としてしまった。


 胡坐をかき、腕を組みながら、雲居筑前はすやすやと寝入っていた。いっそ清清しいまでに熟睡しているように見えた。というか、そうとしか見えなかった。
 むぅっと。吉継の口元がへの字に曲がる。太平楽なその寝顔を見ていると、先夜のこと、そしてつい先刻までの焦燥が一人相撲だったのではないかと、そんな気にさせられてしまう。
 相手の両の頬に手を伸ばしたのは、これも多分、八つ当たりなんだとわかってはいたのだが。
「……えい」
 だからどうした。
 そんな思いと共に、吉継は相手の頬をつねっていた。 


 そうして。
 何がなにやらわからぬ様子で眼を覚ました相手の目を覗き込み、吉継はにこりと笑って目覚めの挨拶をしたのである。




◆◆◆




「……昨夜のこと、まことに申し訳のしようもなく。このとおり、心より謝罪いたします」
 そう言って、深々と頭を下げる吉継に、俺は慌てて頭をあげるように言った。
 美少女に頬をつねって起こされるという斬新な体験を経て、朝食をとった後である。 
 頭巾で顔を覆っていない吉継の姿を見るのは、屋敷の中とはいえめずらしいと言えた。というより、この屋敷の中で吉継の素顔を見たのは初めてかもしれない。
 無論、昨夜はのぞいてのことだが、などと考えながら、俺は頭を上げた吉継に視線を向ける。
 鮮麗な銀の髪と、緋色の瞳は昨夜と同じ。だがそこには昨夜のような激情は一片もなく、沈着冷静な、いつもの吉継であるように思われた。


 率直に言って、意外であった。
 その思いは、思わぬ方法で起こされた時から、たえず俺の内心をたゆたっており、そんな俺の疑念を察したのだろう。吉継は静かに口を開いた。
「憑き物が落ちた、というのは少し違うかもしれませんが……」
 ゆっくりと、呟くように内心を口にする吉継。千千に乱れた思いを、パズルのように一つ一つ心にあてはめていく。今の吉継は、俺の目にはそんな風に映っていた。
「……とても、胸が軽くなりました。いつのまにか胸の内に鬱積していたたくさんのものを、雲居殿に吐き出してしまったからなのでしょう」
 伏し目がちに話していた吉継の視線が、再び俺に向けられる。
「無論、それは雲居殿にとって何の関わりもないこと。あのように刃を向け、斬りかかった罪を免れようとは思っておりません。どうか何でも仰ってください。貴殿が私の死を望まれるのであれば、この場にて腹かっきってお見せします」
 そう口にする吉継の眼差しは真剣そのもので、それがまぎれもない本気であることを俺は悟る。


 ――莫迦なことを言うな、とでもしかりつければ格好がついたかもしれないが。
「……よろしいのですか、何ても言うことをきくなどと口にしても?」
 あいにく、その好条件を見過ごすほど、俺は聖人君子ではなかった。
「はい」
「ならば、先夜の礼に一つ、いや二つ、私の願いを聞き届けていただきたい」
 俺がそう言うと、吉継の顔にかすかな緊張がはしった。俺が何を言おうとするのか、計りかねたのだろうか。


 いや、まあそんなに難しいことではないのだけれど。
「初めて逢った時のことと」
「は?」
 戸惑う声を無視して、俺は強引に二つ目を口にする。
「昨夜、あなたを打擲したこと。この二つを許していただきたい」
 これ以上ないくらいに真剣に、俺は深々と頭を下げる。
 そんな俺を、おそらくは呆然と見つめていた吉継の口から、もう一度、おんなじような戸惑いの言葉が漏れた。
「……はい?」




「いや、まあひらたく言えば、のぞいたこととぶったこと、許してください。お願いします」
 改めて謝罪する俺を、吉継はなにやら奇妙な生き物でも見るような眼差しで見つめてくる。
「……あの、もしかして私に気を遣っているのですか?」
「いえ、きわめて真面目にお願いしてます」
「はあ……その程度でしたら、お安い御用ですけれど」
 なんと言えば良いやらわからない様子の吉継であったが、それでも俺の謝罪は受け入れてくれた。
 俺は心底ほっとして息を吐き出す。故意にのぞいたわけではないとわかってもらってはいたが、まだ許してもらったわけではなかったのだ。先夜のことについても、傷心の少女を打擲したなどと知られたら、あの方にどう思われることか。
 こういう状況にかこつけて許しを請うのは褒められたことではないだろうが――まあ吉継も、俺が昨夜のことは気にするなと言ったところで気にするに決まっているから、代わりの条件としては良い落とし所ではあるまいか。いや、そうに違いない。


 俺が一人で納得してうんうんと頷いている姿を、吉継は先刻と同じ視線で見つめていた。
 俺の態度をどう判断するべきなのか悩んでいる様子なので、他意がない旨を告げようと口を開こうとした途端、襖の外から慌てた様子で声がかけられた。
「吉継様」
「……どうした?」
「は、門前に南蛮人が参っております。吉継様と、和尚様にお会いしたいと」
 それを聞いた瞬間、おそらくは反射的に吉継の眉間に皺がよった。
 だが、報告にはまだ続きがあった。
 すなわち、小者は叫ぶようにこう言ったのである。



「そ、それだけではありません。その南蛮人、宣教師のフランシスコ・カブラエルでございますッ!」





[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第一章 雷鳴(四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/04/22 00:12
 稲穂の海を見るような黄金色の髪、湖面を思わせる水色の双眸。
 年の頃は二十台の後半から三十にかけてといったところか。端整な容姿に柔和な表情を浮かべ、清貧の精神を示すかのように質素な衣服に身を包む。
 手には常に聖書が握られ、口を開けば明晰な言辞で人をうつ。
 日本布教長フランシスコ・カブラエルの、それがいつもの姿であった。


 屋敷の一室でカブラエルと対面した際、最初に驚いたのはその若さであった。角隈殿から若いと聞いてはいたが、まさか俺と十も離れていないとは正直思っていなかったのだ。
 湛える笑みも穏やかで、邪まなものを感じさせることはなく。大友家の当主がこの人物に深い信任を与えるのもむべなるかな、と思わせた。
「雲居、筑前殿といいましたか。大谷吉継殿はどうされたのでしょう? 今日、ここに来た理由の一つは、あの方と話したいことがあったからなのですが」
 カブラエルの口から丁寧な日本語が紡ぎだされる。しっかりとした言葉遣いと流暢な発音で、違和感を感じることはほとんどなかった。


 そんなカブラエルに対し、俺は軽く頭を下げて釈明する。
「昨日の失火で衝撃を受け、今は臥せっておられます。布教長殿に見苦しい姿をお眼にかけたくないと申しておりまして、それがしが名代として参った次第。申し訳ございませんが、ご了承いただきたい」
「……そうですか。主の寺が焼け落ちたとあっては衝撃を受けて当然。安静になさるよう伝えてください」
 承知いたした、と頭を下げる俺。
 俺の隣では住職が黙然と座している。どうやらカブラエルとの対話は俺に一任するつもりであるらしい。
 それを察したわけでもあるまいが、相手は早速本題を口にした。


「すでに知っているでしょうが、私は先日、大友フランシス様より、この地における南蛮神教布教の全権を委ねられました。フランシス様は、この地に府内のそれに優るとも劣らぬ荘厳な教会を建てられるおつもりです」
 そう言って、俺たちに視線を走らせるカブラエルであったが、俺と住職が黙って聞き入っているのを見て、さらに言葉を続けた。
「当然、私もその意向に沿うつもりです。そして、そのためにもっとも適した地を選定しておりましたところ、昨日のこと、その地が奇禍にあったと聞き、こうして参ったのですよ」


 それはつまり、寺の焼け跡に南蛮寺院を建てるということ。
 主君の許可と自身の権限を示しつつ、穏やかにそれを告げる姿を見て、俺はなるほどと心中で頷いた。角隈殿が目の前の宣教師に警戒を禁じえなかった理由が良くわかる。
 そんなことを考えていると、カブラエルの背後に控えていた南蛮神教の従者が、俺たちの前に進み出る。彼らは数人がかりで、黒い布のかかった台座のようなものを持ち出してきた。
 数は二つ。
 それを見て、俺は軽い既視感を覚えた。なにやら、どっかで見た記憶がある光景だ。もっとも、あの時はこちらが差し出す側であったのだが。
 カブラエルが仰々しい仕草で布を取り払う前に、俺はその中身を察した。そして、取り払われて現われたものは、俺の予想と寸分たがわぬものであった。
 正確に言えば、ただ一つだけ違いがあった。それが発する輝きが、金色ではなく、銀色だったことである。


 それは、山と積まれた銀であった。
 銀の価値は改めて語るまでもないだろう。庶民や浪人にとっては目の飛び出るような大金であり、そこらの領主であっても、これだけの銀を実際に眼にする機会はないに違いない。
 それだけの大金を前に、再び、カブラエルが口を開く。
「これは今回の災難に対する見舞いと、彼の地を譲り受ける補償と考えてください。どうぞご遠慮なく」
 そう言いながら、カブラエルの視線が俺と和尚の顔を等分に見比べる。
 受け入れるか、拒絶するか。こちらが南蛮神教に敵意を抱いていることは、無論カブラエルとて承知していよう。
 しかし、これだけの大金を前にすれば、たとえ拒絶するにしても、動揺をおぼえて当然であった。そのあたりの反応を確かめたかったのだろう。


 まあ、もっとも――
「それはありがたい。これだけあれば、寺を再建する資金になってくれるでしょうし、焼失してしまった経典を求めることも出来るでしょう。布教長殿の無私の精神は異国の教えにも及ぶと、皆、尊敬を新たにすることでございましょう」
 佐渡の黄金を見慣れた俺にとっては、別に驚くほどの額ではない。札束で頬をはたくようなやり方を非難する資格は俺にはないし、非難するつもりもないが――残念、俺を驚かせたかったら、この三倍は持ってこい。


 きわめて淡々と口にする俺。
 一方の住職はといえば、先刻からかわらず口を閉ざし続けている。その目は銀の山に向けられても、わずかの動揺も示さなかった。
 いっそこの銀をつかって仏舎利(ぶっしゃり)でも求めて来ていれば、わずかなりと住職も興味を示したかもしれない。そんな風に思いつつ、俺はありがたく銀をいただくことにした。
 これを受けとるということは、住職の寺があった土地を南蛮側に譲り渡すということだが、相手は主君の威光を背負っており、ここで拒絶したところで、いずれ相手に譲らねばならなくなるのは明白だった。
 あくまで拒絶を続けたとしても、南蛮側は力ずくでこちらを排除することが許される立場にある。事態がそこまで及んでしまえば、寺社側、南蛮神教側を問わず、血が流れることもありえよう。相手が代償を払うというのであれば幸い、そっくりありがたく頂いておくべし。


 そんな俺と住職の反応は、明らかに南蛮側の予想を裏切っていたようだった。さすがにカブラエルは平静を保ったまま、怪訝そうな顔は見せることはなかったが、背後の従者たちは意外の観を隠せないようであった。
 俺たちが声高に相手を非難し、拒絶すると考えたか。あるいは我欲をあらわに銀を受け取ると思っていたのか。いずれにせよ、俺と住職は相手の期待どおりの反応を示すことが出来なかったらしい。


 ただ、それは相手の期待に添わなかったというだけで、この屋敷を訪れた南蛮神教の思惑を覆すことにはつながらない。何故といって、向こうの主張を受け入れたことには違いないからである。
 その証拠に、カブラエルは穏やかな笑みを崩さないまま、口を開いた。
「フランシス様の命を一日でも早く果たすため、今日からでも人の手を入れようと思っていたのですが、少々混乱がありましてね。実は今日ここを訪れたのは、その相談もあったのです」
 おそらく南蛮側と周囲の住人たちの間にもめ事が起きたのだろう。それも当然のことで、角隈殿の菩提寺が焼け落ち、そこに即日、南蛮寺院を建てようとすれば、恩顧の人々が反発を覚えるのは自明であった。


 カブラエルはさらに言葉を続ける。
「私とこの屋敷の主殿は、ついにわかりあうことは出来ませんでした。互いに立場があり、信仰があるため、それは仕方の無いこと。主殿を慕う方々が、私の邪魔をしようとする気持ち、理解できないわけではありません。しかし、私も宣教師として、そしてフランシス様の信任をたまわった身として、為すべきことを為さねばならない立場にあります。このまま、あの者たちが妨害を続けるようであれば、しかるべき処置をとらねばならなくなるでしょう」
 けれど、それは角隈殿が望むことではないのではないか。カブラエルは憂いを帯びた顔で、そんな言葉を口にしたのである。



 突きつけられた要求を、俺はこれまたあっさりと受け入れた。
「確かに仰るとおりですね。和尚や吉継殿と相談して、早急に皆を説得するといたしましょう」
「速やかな応諾、礼を言いますよ。それでは、私たちはこのあたりで失礼させていただきましょう」
「さようですか。大したお構いもできず、申し訳ありませんでした」
 立ち上がるカブラエルらに、俺は恐縮したように頭を下げる。  
 俺を見下ろすカブラエルの視線は相変わらず柔和であったが、そのひだに隠れた優越感と侮りを、俺は確かに感じ取っていた。



◆◆◆



「案外、容易いものデシタナ」
 屋敷の外に出た途端、おもねるように従者の一人がカブラエルに向かってそう言った。
 カブラエルほど上手く日本語を操れぬために、その語尾はやや聞き取りにくい。従者としては母国の言葉を使いたいのだが、それは日本の信徒との間に距離をつくるといって、カブラエルに禁止されていた。
「そうですね。やはり石宗ほどの人間は、そうはいないということでしょう。まああの男のような厄介な輩が、そこらにいてもらっては困りますがね」
「所詮は真の教えを理解でキナイおろかな人間、布教長がおきに掛けるほどの者でしたでショウカ?」
「――その愚かな人間のために、この国での布教が五年は滞ったのです。あれとトールがおらねば、すでにこの国のいたるところに教会が建てられていたことでしょう」
 何気ない様子を装った一言であったが、従者はカブラエルの発する怒気を感じ取って身を縮ませた。


 だが、すぐにカブラエルは言葉を和らげ、従者をなだめるように口を開く。
「石宗の跡目を継ぐ者はおらず、トールは孤立しました。これから、我らが神の行く道を遮る者は存在しません。これまでの遅れを取り返すだけの働きを、あなたたちには期待していますよ」
「は、おまかせクダサイ」
 従者たちは一斉にカブラエルに頭を下げる。
 そんな従者の様子を満足そうに眺めていたカブラエルに、一人が問いを向けた。
「布教長、例のシルバードールの件は、良かったのデスか? ゴアの総督閣下が執心していると聞きましたが」
「そうですね。石宗への楔の役割は終わりましたから、そろそろアルブケルケ様の要望に応じねばなりません。もっとも石宗の庇護を失った以上、あの人形を守れる者などいないでしょうから、そう急くこともないでしょう」
 そのカブラエルの言葉に頷きながら、従者は追従するように笑った。
「しかし、ゴア総督として、インド副王として、あらゆる者を手に入れられたお方が、何故にあのような小娘に執着なさるのでしょう?」
 その言葉に、カブラエルはわずかに目を細めて、ゴアの宮殿の奥深くに座す男の声を思い起こした。




 傍らに幾人もの美姫を侍らせながら、本国で軍神と謳われる男は、日の本における布教の成果を報告に来たカブラエルの話を聞くうち、異形の少女の話を聞き、愉快そうに哄笑した。
『金の髪と青の目は、神に選ばれたる使徒の証。ならば、銀の髪と赤の目は、悪魔に魅入られた証であろう。それとも、あるいは悪魔自身のものかもしれぬな。ならばその悪魔、飼いならすも一興であろうな、カブラエル』
 ゴア総督アルブケルケの意を悟ったカブラエルは恭しく頭を垂れ、再びこの地に戻ってきたのである……




「……あらゆる物を手に入れたればこそ、常人には思い及ばぬことに手を伸ばしたくなるのかもしれませんね」
 その時のことを思い出しながら、カブラエルはそう口にするにとどめた。
 いずれにせよ、まだこの地でやらなければならないことは山積している。総督のご機嫌とりに意を用いるのは、もう少し先で良いだろう。


 そう考えるカブラエルの下に、息せき切ってあらわれたのは、残してきた宣教師の一人であった。無論、カブラエルの子飼である。
「ふ、布教長様、大変でございます」
「どうしました、そのように慌てて」
 息を切らせる配下をなだめるように、その肩に手を置いたカブラエルは、次の一言を聞いた瞬間、その動きを止めた。
「ト、トールが――」
「――なに?」
「トールが、姿を現しましたッ!」
「どこにです? まさか……」
「は、はい、例の土地にです」
 それを聞き、カブラエルの口から小さな舌打ちがもれた。
「今回のことを聞きつけ――いえ、それにしては姿を見せるのが早すぎますね。いずれにせよ、放っておくわけにもいきません」
 そう言って、歩を速めるカブラエルの脳裏に、この時、すでに雲居筑前の名と姿は一片も残っていなかったのである。




◆◆◆




 すでにいつもの白頭巾をかぶった姿の吉継が、じとっとした眼差しで睨んでくる。
 しかし、睨まれても困るので、しれっとそ知らぬ風を装っていたのだが、業を煮やしたのか、吉継は低く、くぐもった声で詰問してきた。
「……それで、相手の言うがままに頷いたというわけですか」
「はい。それが最善と考え、そうした次第」
「……確かに、宣教師の相手を雲居殿に頼んだのは私ですし、和尚様が同意されたのですから、文句を言うのは筋違いかもしれませんが……」
 それでも、もう少し何とかならなかったのか、と吉継は声ではなく視線で問いただしてくる。その眼差しに、先夜のような激情は感じられなかったが、それでも不満をおさえることは出来ないようであった。


 ここに住職がいれば助けを求めたいところだったが、あいにくと住職はここにはいない。先刻の説得の件で動いてもらっているからだ。
 なので、ここは俺が自分の口で説明するしかなかった。
 俺は仕方なく、あの態度をとった理由を順を追って話し始めた。とはいえ、それは結局のところ、権力におもねっただけですとしか言いようがなかったりするのだが。
「……相手がどれだけの無理難題を口にしようと、大友宗麟殿の威光を背景としている以上、こちらはそれに従わざるを得ないのです。あえて背けば、ついには弓矢のやりとりになってしまう。それは望むところではありませんでした」
 まあ、この程度のことは吉継とて承知しているだろう。だからこそ、今の吉継は不満げではあっても、怒ってはいないのである。


 俺はさらに言葉を続けた。
「それを踏まえれば、こちらに出来ることは限られています。率直に言って、相手が情けをかけてくることは予想していました。他者の手を用いて敵を追い詰め、しかる後、慈悲の笑顔であらわれ、手を差し伸べる。あの手の輩の常套手段ですからね」
 自分も似たようなことをしたことがある、とは言わないでおく。
「はたせるかな、相手はそのとおりに動きました。あそこで反論ないし拒絶をすれば、あっさりと手を翻し、こちらを威迫してきたことでしょう。今、連中とまともにやりあっても勝ち目はありません。弓矢はもちろん、たとえ府内に訴えでたところで、放火の証拠がない以上……いえ、たとえ証拠を見つけても、連中にもみ消されて終わりでしょうね」
 ならば、ここは無用に抗うことなく、あの連中の慈悲にすがってみせるが得策。取るに足らない相手だと思えば、こちらへの警戒もいくらかは失われるだろう。


 つまるところ。
 南蛮神教が大友家の保護を受けている以上、それに敵対することは、大友家を敵にするに等しい。豊後、豊前を統べ、筑前、筑後にまで勢力を拡げる九国探題を敵にすることの無謀さは、いまさら口にするまでもないだろう。
 それだけの覚悟を俺は持っていなかったし、亡き角隈殿とてそんなことを望んではいまい。俺の中では、今の状況が選びうるすべての選択肢の中で最善であった。
 付け加えれば。
 ここで下手にカブラエルらをやりこめ、恥をかかせたりすれば、奴らがどんな報復に出るかわかったものではない。吉継には申し訳ないが、俺はあんな奴らを相手に九国で時を費やすつもりは毫もなかったのである。


 無論、吉継をそのような事態に追い込む気もなかった。
 そんな俺の言葉を聞き、吉継の顔を覆う白布がかすかに揺れた。
 感情では反論したいが、理性では頷かざるを得ない、というところだろうか。あるいは、俺と語る言葉を、吉継はもう持ち合わせていないのかもしれない。
 それも仕方ないと、そう思う。
 かつて、俺は幾度も戦をし、敵国に使いに立ち、その多くを成功させてきた。しかし、そのすべては主君の威光と同輩の助力、そして配下の献身あってのこと。俺一人ですべてを為しえたわけではないのである。
 その証拠に、それらがなければこの体たらくだ。情けない話だと、俺が小さく嘆息した時だった。


 住職の使いと名乗る若者が、息をきらせながら、思いもよらぬ知らせを伝えてきたのである。
 その知らせは、俺を一つの出会いへと導くこととなる。
 出会い――大友家加判衆筆頭、戸次道雪。戦陣における名を鬼道雪。九国最強と名高き名将との邂逅が、すぐそこまで迫っていた。


 それは同時に、雲居筑前という人物が、九国における戦乱と深く関わることとなる前兆であったのだが。
 この時の俺に、そんなことがわかるはずはなかった。





[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第一章 雷鳴(五)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/04/25 22:48


 ――豊後を本拠として、九国最大の勢力を誇る大友家。戸次氏はその大友家の臣であり、同時に庶流のひとつでもあって、代々の当主は加判衆(家老格の重臣)の一角として大友の治世に重きをなしてきた。
 しかし、栄枯盛衰は世の常である。大友氏が他国に勢力を伸ばすにつれ、大友家内部でも新興の者たちが力を揮い始め、先代親家の頃には、戸次家の権勢は明らかな衰えを見せていた。


 名門戸次氏も、戦国の世の理にならい、凋落の一途をたどるのみか。
 大友家中で囁かれていたその声は、戸次氏の今代当主が家督を継いだ頃に一際大きくなり、半ば公然と語られるようになっていた。
 その理由は、戸次氏の家督を継いだ戸次親家の娘鑑連(あきつら)にあった。
 若くして戸次氏の当主におさまったこの少女、幼き頃、落雷に遭って両の足を雷神に奪われていたのである。


 家運の傾き甚だしく、勢力減退著しい今この時、人もあろうに、よりにもよって不具の娘に家督を継がせるとは。
 そんな声がそこかしこから聞こえる中、戸次家を継いだ鑑連は、しかし焦りも怒りも見せることなく、むしろ悠然とした面持ちで当主としての道を歩き始めたのである。



 そして、それから数年。
 戸次家は往時を上回る勢いでその勢力を増大させており、豊後大友家の躍進に不可欠な存在となりおおせていた。
 傾きかけた家運を建て直し、主家の隆盛をも導いた戸次鑑連の名は九国中に鳴り響き、その勇名を慕う者は数知れず、輿に乗って戦場で采配を揮う姿は凛々しさと猛々しさを兼ね備え、時として雅にさえ映る。そんな鑑連に大友家の将兵は尊敬と憧憬に満ちた視線を送るのであった。


 向かい合う者の内奥を見通してしまいそうな澄んだ眼差し。
 穏やかでありながら威を感じさせる佇まい。
 たおやかな容貌に微笑みを浮かべれば、士卒の末端に至るまで感奮せざるはなく、一度号令を発すれば、その軍勢は怒涛となって敵陣を覆い尽くす。
 それが戸次鑑連という人物であった。その鑑連は、先年、名を改め、戸次鑑連改め戸次道雪と名乗っている。その武威を恐れた周辺諸国は、昨今、道雪を指して『鬼道雪』とよびならわし、他国の将士はその雷名を恐れること甚だしかった。



◆◆



 火災によって焼け落ちた寺の境内に、南蛮神教の者たちが居丈高に現れた時、焼け跡の復興にあたっていた者たちが、彼らといさかいを起こしたのは、ある意味で当然のことであった。
 ただ、当初のそれは、住職の薫陶を受けた僧侶たちの自制によって、一度は確かに鎮まったのである。
 しかしその後も、集まった人々はその場を離れようとせず、焼け跡を無造作に片付けていく南蛮神教側の行動をじっと睨み続けていた。


 この地の住民にとって、ここにあった寺は日々の信仰の対象であり、生きる支えでもあったのだが、南蛮側にとっては唾棄すべき異教の建物に過ぎぬ。彼らの態度や言動の端々には、この場所への軽侮がはっきりと感じられ、そういった言動が示されるたびに、人々の口から抗議の声があがる。
 そういった一つ一つの小さな諍いの積み重ねが、いつか再び両者の対立に火をつけてしまったのかもしれない。
 あたりには騒ぎを聞きつけて馳せ集まった者たちがあふれ、境内は先刻にもまさる騒然とした雰囲気に包まれようとしていた。


 そんな一触即発の空気が長く続くはずがない。臨界はすぐに訪れた。
 にらみ合う両者が、静から動へ、怒号と共に移ろうとする、その寸前。
 涼やかな、それでいて思わず背筋を正してしまうような威厳がこもった声が、場の空気を一変させる。
 現れたのは、遠く漢の世につくられたとされる車椅子に乗った妙齢の女性であった。


 艶やかな髪は漆黒と呼ぶに相応しく、凛とした双眸、形良く整った容姿は明眸皓歯の例えそのままである。
 微笑すれば誰もがその姿を記憶に焼き付けるであろう佳人は、しかし、今、激しい憤りにその身を委ねているように思われた。その内心を映すかのごとく、瞳には雷光が閃き、口から発される言葉は、語調こそ緩やかであったが、身の竦むような厳格さが感じられた。


「――領内において不穏の振る舞いを為すは、大友の家に仇なすこと。あえてそれを為さんと欲するのであれば、己が命を賭す覚悟を持ってもらわねばなりません」


 車椅子が進む都度、境内にしきつめられた砂利が鳴る。
 両者の間に割り入る佳人の後ろには、甲冑姿の将兵が続いていたが、たとえこの佳人一人であったとしても、この場にいる人々を承伏せしめることは可能であったろう。
 それだけの威と力を感じさせる人物であった。


 一時、突然の闖入者に鎮まりかえっていた境内は、この新たな人物の登場によって三度騒然となった。だが、それは先刻の騒ぎとは一線を画する。寺社側と南蛮神教側とを問わず、この場にいたほとんどすべての人間が、突然に現れたこの人物が誰であるかを知っていたのだ。
 それほどまでに、その姿は大友領内において隠れなきものであった。
「……ありゃ戸次様ではないか?」
「ほ、本当だ、鬼道雪様だ。加判衆筆頭ともあろうお方がなしてこんなところに」
 囁かれる声は驚愕に満ち、誰一人として動くことが出来ぬ。それは南蛮神教側も同様であった。彼らは主君フランシスの絶大なる信用を得て、その威光を背景に行動してきたのだが、それが通じぬ相手も存在する。
 戸次道雪は、まさにその一人であったからである。



 戸次道雪は、うろたえ騒ぐ民に向かって口を開く。大友軍にあって、万を越える将兵を叱咤する道雪の声は、決して大きくはないが、不思議なほどに良く通り、人々の心に染み入るように広がっていった。
「突然の災禍に遭い、皆が平静でいられないことはわかります。しかし、だからといってこの上騒擾を起こし、この地に眠る祖先の安寧を乱して何とするつもりですか。どのような理由があろうとも、乱が正当化されることはありません。皆、妻もあれば子もいるのでしょう。一時の短慮で法を犯し、家族を悲しませること、この道雪が断じて許しません」
 その言葉に、場はしんと静まり返り、しわぶきの音一つ聞こえなかった。


 大友家にあって不敗の名将として名高い戸次道雪。その為人は義を嗜み、財を軽んじ、兵と民とを慈しむ心に篤い徳望の人である。
 その道雪が、どうして『鬼』と呼ばれ、恐れられるのか。その由来は、ただ戦場での果敢な戦いぶりだけに求められるのではない。今代の戸次家当主は、領内の治安を乱す者、戦場で軍律を犯す者に対しては別人のごとく峻厳な態度を示し、容赦ない罰を加えることでも知られているのである。
 道雪は他界した角隈石宗と並び、隆盛著しい南蛮神教の勢力に対抗できる大友家中で無二の人であると思われ、また実際にそのとおりであった。それゆえ、寺社側にとっては味方も同然と思われていたが、寺社側の行動が大友の家法に背くものであった場合、雷神の怒りは、科人(とがびと)の信じる教えを問うたりはしないであろう。




 道雪の威に撃たれ、静まり返る境内。
 その状況に、今、新たに二人の人物が姿をあらわした。
 一人は角隈邸から駆けつけた住職である。住職はにらみ合う者たちと、その間に立ちはだかっている道雪の姿を見て、たちまち状況を察した。
「御仏の教えに、暴によって為しえるものは一つとしてありはせぬ。皆、落ち着きなされ」
 住職は穏やかに、しかしはっきりと訓戒の意を込めて、寺社側の者たちを制そうとする。
「和尚様、し、しかし」
「罰当たりな物言いであるが、寺が焼けたならば、また建て直せば良い。その形と所が違おうとも、うちにやどる教えは何もかわりはせぬだろう。だが、それはここにいる皆があってこそ。今、皆が罪もて裁かれてしまえば、どれだけ立派な寺を再建しようと、何の意味があろうか。心の昂ぶりに流されず、大切なものを見据えてくだされよ」


 そういって誠心で人々を教え諭す住職。
 その後、住職は道雪の下に歩み寄り、恭しく頭を下げた。道雪もまた礼をもってそれに応え、周囲はそんな二人の姿を粛然と見守るばかり。さきほどまで激昂していた者の中には、赤面して俯く者も多かった。
 そのまま時が移れば、事態は落着したに違いない。
 だが――


「これはこれは、トール殿。奇妙な場所でお会いしますね」
 それを望まぬ者もまた、この場には存在した。
 カブラエルである。



◆◆



 カブラエルの姿を見て、露骨に顔をしかめたのは、道雪を守るように傍らに立つ偉丈夫であった。
 この人物、名を小野鎮幸(おの しげゆき)という。
 年齢は三十代半ばというところか。彫り深く、精気のあふれる容貌の持ち主で、顔といわず身体といわず無数の戦傷が刻まれており、大友家中でも屈指の猛将として知られている。
 その容貌や言動はときに粗暴に映る時もあるが、見かけだけのことである。兵書に親しみ、政にも長じ、部下を思う心も厚い。豪放磊落な気性は目上からも、また目下の者からも好かれ、近年では智勇兼備の将帥としての令名を確立しつつある人物であった。


 そんな鎮幸であるが、平素の性情は直線的であり、感情を包むということをしない。カブラエルの姿を見て、はっきりと不快を示したのがその証拠である。
 だが、鎮幸がその表情を浮かべた途端、傍らにいた人物がほとんど間髪いれずに鎮幸の足をおもいっきり踏みつけたため、鎮幸の表情から侮蔑の意思はたちまち霧散してしまった。
「……こ、惟信?」
 鎮幸が顔をひきつらせて小声で声をかけると、かけられた側の人物は澄ました声で応じた。
「どうかされましたか、鎮幸殿?」
「い、いや、その、足をどけてくれると助かるのだが」
「ならば、その無思慮な表情を引っ込めることからはじめてくださいな」


 そう言って、咎めるように鎮幸を見上げた女性の名を由比惟信(ゆふ これのぶ)という。鎮幸と同じく戸次家の将の一人であり、鎮幸が猛将であるならば惟信は知将と目される。
 年齢は惟信の方が、鎮幸より十以上も若いが、鎮幸曰く「とてもそうは思えん」というほどに思慮に富み、沈着な為人で、その冷静さは彼ら二人の主君からも高く評価されていた。


 だが、今のやりとりを見てもわかるように、惟信はただ冷静で穏やかなだけの人物ではなかった。
 体格的に自分の倍もあろうかという鎮幸に対しても、時に容赦せずに苦言を口にし、軍令に違反する者への呵責なさは、主である道雪を越えるとさえ言われていた。
 豊かな黒髪を無造作に背に流し、惟信が陣中を歩けば、荒くれ者の兵でさえ姿勢を正す。女性らしい優美な曲線を描く肢体は、鎧甲冑を身に着けていても衆目を惹きつけるに足るものだった。
 その惟信は、一度戦場に立つと、鎮幸も顔色ないほどの勇戦を示すことがしばしばあり、鎮幸などは、惟信のたおやかな容姿と、その奮戦ぶりの落差は幾度見ても慣れることがない、と嘆息することしきりであった。




 そんな『戸次の双璧』のやりとりに、しかしカブラエルは気付かない。より正確に言えば気にしない。カブラエルが相手とするのはあくまでも道雪であって、その配下の者たちにまで一々注意を向けてはいなかったのである。
「……お役目ご苦労ですね、司祭殿」
「いえいえ、私にとってフランシス様の命を果たすことは何よりの喜びです。苦労などと思ったことは一度としてありませんよ」
 言いながら、カブラエルは意味ありげな視線を住職の方に向け、しかる後、道雪へと視線を戻す。
「しかし、実に良いところに来てくれました。この地の民の反抗には困惑を隠せずにいたところなのです。彼らはフランシス様の命だと言っても納得してくれず、私もいましがた、そこな和尚に彼らへの説得を頼んできたばかりなのですよ。トール殿、大友家の法では主君の意向に背いた者たちはどのように罰されるべきなのでしょうか?」


 道雪は小さく首を傾げながら、問いを放つ。
「それは南蛮神教に被害が出た、ということでしょうか?」
「ええ、そのとおりです。怪我人が出たわけではありませんが、この地に一日でも早く新たな教会を。その着工が半日遅れたのは、偉大なる主の威光を傷つけ、フランシス様の御意思を損なう無道な振る舞い。戦で例えれば、砦を築く作業を妨害されたに等しいのです。たとえ人が傷つかずとも、物は失われずとも、これは大きな被害と申せましょう。トール殿はそのような振る舞いをした者を無罪放免になさろうというのですか?」
 カブラエルの言葉に、静まりかけていた周囲の空気が軋んだ。


 この時、カブラエルの言葉は多少の誇張こそあれ、偽りではない。放火の証拠がない以上、罪は不法に南蛮神教側を妨害した者たちにあると考えられる。
 そうすれば、道雪は望むと望まざるとに関わらず、カブラエルの言葉を諒として、寺社側に裁きを下さねばならなくなるのである。
 これは寺社側にとって大きな打撃であることは言うにおよばず、同時に戸次道雪という人物の徳望に瑕をつける効果もあると考えられた。
 カブラエルは主君の威光を盾に道雪を苦境に立たせつつ、長年の怨敵である寺社側の動きを掣肘しようとしたのだが、実のところ、本当の狙いはもっと別のところにあった。そして、それを達成するために、カブラエルはより直接的な手段を用いようとしていたのである。



◆◆



 懐に隠し持った短筒の感触を確かめながら、その女性は何気ない風を装って人波を潜り抜けていた。
『何も難しいことはありません』
 金の髪を持つ彼女の神父は笑いながら言ったのである。
『私がトールに声をかけた後、合図をしたら群衆の間からそれを撃てばいいのです。使い方は、狙いを標的に向け、ここの引き金を引くだけ。簡単でしょう?』


 女性は、とある商家の一人娘だった。発展著しい府内の街は、比例して商いの争いも激しく、あちらこちらで金銭と財産を賭した興亡が繰り返されている。
 女性の生家はその争いに敗れ、身代を丸ごと失った。父母は失意のうちに世を去り、残された娘は無一文で路頭に迷うところであった。そこに救いの手を差し伸べてくれたのがカブラエルだったのである。
 命を救われ、さらに南蛮神教の教えに感銘を受けた女性は、新たな人生を与えてくれたカブラエルに心酔し、その言うことであれば、無条件で従うつもりであった。


『神の敵を討たんとする者には、神のご加護が宿ります。くわえて渡した短筒はわが国の技術の粋を凝らした最高級品です。至近から狙えば、いかに雷神といえど討ち取ることは出来るでしょう』
 そういって、カブラエルは女性の髪に手を伸ばし、撫でるように動かす。
 女性の目元が赤らんだところを見計らって、その手が腰にまわされ、さらにその下へと伸びていく。
 かすかにこぼれた女性の歓喜の声に耳をくすぐらせながら、カブラエルは囁くように、いくつかのことを言い含めると、最後にそっと女性の胸に伸ばした手を蠢かせながら、頼まれてくれますね、と微笑んだ。
 女性は法悦にも似た表情を浮かべながら、しっかりと頷いたのである。



 カブラエルは考える。
 フランシスの意を背景に、この地の民を道雪に処罰させるよう持っていく。その時、群衆から道雪を狙う矢玉が向けられれば、それは処罰されることを恐れた民が道雪の命を狙ったということになるだろう。
 道雪を討ち取ることが出来ればそれでよし。南蛮神教にとって目障りな二人が、まとめていなくなり、カブラエルらの道を遮る者はなくなろう。
 だが、討ち取ることが出来なくても、それはそれで構わない。人望篤い道雪が狙われたとなれば、フランシスはもとより、他の家臣も黙ってはいない。この地の寺社を力ずくで潰しても、非難の声があがることはないだろう。角隈石宗がなした愚行への罰は、その配下の者たちが甘受することになるであろうし、件の銀人形を強引に連れ去ったところで咎めようとする者もいまい。



 誰に言われるまでもなく、これが場当たり的な計画であることをカブラエルは承知していた。ただ、この奇貨は、見過ごすにはあまりにも惜しかったのだ。
 もし道雪が少数で来たならば、もっと大勢を動かし、万全を期したであろう。だが、道雪が戸次家の精鋭を引き連れてきている以上、下手に大きく動いて、失敗したときが面倒である。くわえて、府内にいるはずの道雪が、騒ぎが起きてほとんど間もないにも関わらず、ここに現れた。これは何を意味するのか、それを確かめる意味もあったのである。
 問題は失敗した場合だが、その時は一信徒の暴走として処理すれば良い。道雪らが黙っていないだろうが、この地で起きた騒ぎを見逃すことと引き換えであれば、もみ消すことは可能であろう。
 なに、向こうが納得しなければフランシスに訴えれば良いのだから、楽なものだ。



 女性はそんなカブラエルの内心を知る由もない。
 つとめて何気なさを装いながら、緊張に高鳴る鼓動をなだめつつ、憑かれたように歩を進めて行く。
 道雪の両脇には護衛の将兵がいるため、短筒で狙うためにはどうしても正面に行かねばならない。敬愛する人物の期待に添うためにも、何としても成功させなければ。
 その一念で少しずつ進み続けた女性は、間もなく道雪を視界に入れる位置に達することが出来た。
 だが、まだ女性と道雪の間には幾らかの人がいる。ここで短筒を撃っても、道雪までは届かないかもしれない。
 もう少し、と考えた女性の耳に、道雪に向かって話しかけるカブラエルの声が聞こえてきた。同時に、周囲の人々から怒りとも怯えともつかない声が発されていく。


 これがカブラエルの言っていた機だと悟った女性は、急がなくてはと慌てて懐に手を伸ばす。そして、与えられた短筒を取り出し、狙いをつけようとした。


 だが、その途端。
「待たれよ」
 近くから呼びかける声が、女性の動きを制したのである。
 


◆◆



 吉弘紹運がその女性に気付いたのは、少し前のことだった。
 そもそも紹運が粗末な衣服をまとって群衆に紛れ込んでいたのは、警戒のために他ならぬ。
『まさか、とは思いますが……あの宣教師ばかりは、どのような行動をとるのかわからぬのです』
 そんな義姉の言葉に頷いた紹運はつとめて何気ない風を装いながら、周囲の者たちの様子を窺い続けた。精鋭に周囲を守られた義姉に害を加えようとするなら、正面に位置するこのあたりまで来なければならない。
 そう考えていた紹運が、憑かれたような眼差しで、ゆっくりと、しかし確実にこちらに向かって来る女性に目をとめるのは当然であったろう。


 その身ごなしを見た限り、武人とは思えない。外見だけを見れば、平凡な村娘であると思われたのだが。
 ――紹運は無言で動いた。
 ちらと垣間見た娘の、どこか恍惚とした眼差しに寒気を覚えたのだ。仮にあの娘が害意を持っていたとして、飛び道具もないままに義姉の前に飛び出たところで、義姉にかすり傷一つつけることは出来ないとわかってはいたが、何故かあの娘を見ていると、肌に蟻走感を覚えてしまう。
 戦場を往来すること幾十度。ただの一度として怯んだことのない吉弘紹運が、動かざるを得ない何かがあの娘には感じられた。


 だが。
 あと数歩でその肩を掴めるというところで、その娘と紹運の間に、一人の娘が割って入ってきた。年の頃は先の女性よりも若く、おそらく年端もいっていまい。
 その少女は、意図して紹運の前に立ちはだかったというわけではなく、ただ自然に前に進み出て、結果として紹運の手を妨げたという感じであった。その証拠に、少女の視線は紹運の方にはまったく向いていない。
 紹運はそう考え、やや早口でその少女に声をかけた。
「すまない、そこを通して――」
 通してくれ、と言いかけた紹運は気付く。
 振り向いた少女の眼差しが、先の女性とまったく同じものであることに。そこに宿る奇妙な恍惚に。


「どうしたの、お姉ちゃん?」
 そういって、紹運を見上げてくる少女。
 無邪気なはずのその視線に、粘つくような厭わしさを感じるのは、決して気のせいではなかった。
 咄嗟に少女を避けて進もうとした紹運だったが、少女はまるでその意図を悟ったように紹運に手を伸ばす。
 この場にいたのが紹運と少女の二人であれば、鍛えた身のこなしで苦もなく避けることが出来たであろう。だが、今、周囲には幾多の人々がおり、紹運が躊躇を示したその隙に、少女の手はしっかと紹運の服の裾を掴んでいた。
「す、すまない、離してくれないか」
「だめー」
 にこにこと笑う少女に邪気は感じられない。
 ただ、この状況で見も知らぬ相手にここまで付きまとう理由も感じられなかった。


 果敢であることを第一義として戦場を駆ける紹運は 名だたる武将と武芸を競った時も、多勢の敵兵に包囲された時も、恐怖やためらいを感じたことはない。
 しかし、今、眼前にいる虚ろな笑みを宿す少女の存在は、戦場で殺気だった敵兵と対峙するのとは次元の異なる怖気を紹運に呼び起こした。
 まさかとは思うが、この少女も――
「……しまったッ?!」
 目の前の少女に気を取られていた紹運は、はっと我に返ると先刻の女性の姿を捜し求める。
 その姿はすぐに見つかった。女性はなにやら懐から短い筒状のものを取り出している。それを見た瞬間、紹運はうめきにも似た声を出してしまう。
「短筒、か。くッ!」
 鉄砲が伝えられて数年。すでに各地では量産と、改良の動きが起こり始めている。
 女性が持っているのはその中の一つ、軽さと取り扱い易さを追求し、馬上でも扱えることから、別名を馬上筒とも言われる鉄砲の一種。


 いかな鬼道雪といえど人である。鉄砲に生身で対することは出来ない。
 何故あのような女性が、まだ量産もされていないはずの新式の鉄砲を持っているのか。そんな疑問を覚えつつ、紹運は懐から礫(つぶて)を取り出す。
 印地――石を投擲に用いる戦闘技術であり、紹運はこれに熟達していたのだ。紹運の技量をもってすれば、ただの礫といえど、四肢の骨を砕くほどの威力を発揮する。
 咄嗟にそれを投じようとした紹運は、しかし、ほんの一瞬ためらってしまう。
 手加減できる状況ではない。だが、手加減しなければ、あの女性はこの後の生を片手で過ごすことになるだろう。おそらくはこの絵図面を描いた相手に利用されているだけの女性に、そこまでの傷を負わせることに、紹運はわずかに迷い――
「だめッ!」
 その迷いが消えないうちに、今度は眼前の少女が抱きつくように紹運の動きを妨害しようとする。


 戦塵で鍛えた紹運ゆえに、少女を振り払うことは容易かった。だが、力ずくで押しのけることに、またも紹運はためらいを覚えてしまう。
 ここが戦場であれば、たとえ女の将兵を相手にしたとしても、ここまで不覚をさらす吉弘紹運ではない。だが、今の状況は紹運にとって何もかもが異質であった。
 少女の叫び声で周囲の者たちも異変に気付いたようで、戸惑いとざわめきが此方に向けられるが、逆にそれが短筒を構えようとしている女性への視線をそらすこととなってしまう。


 かくなる上は、と紹運は腹に力を込めた。
 大事になってしまうのを覚悟の上で義姉に呼びかけようとした、その時。



 紹運の視線の先で、短筒を構える女性の前に不意に一人の青年が立った。
「待たれよ」
 その言葉と共に、魔法のように伸びた若者の指先が、女性の構えた短筒の、その筒先に差し込まれ。
「……え?」
 戸惑ったような声をあげる女性の手から、青年はもう片方の手であっさりと短筒を奪いとってしまった。


 それを見た紹運は、思わず呆気にとられてしまう。
 そして、自分と同じように呆然としている女性の姿を見ると、つい先刻まで、自分を捉えていた蟻走感が霧消していくのを感じた。
 青年は手の中の短筒を見て小さく肩をすくめると、不意にまっすぐに紹運の方へ視線を向けた。
 まるでそこに紹運がいることがわかっていたかのように、戸惑う様子もなく近づいてくる。
 そして。


「戸次殿の配下の……」
 と、そこまで言いかけた青年は、紹運の顔を見てわずかに首を傾げた。
「……いえ、朋輩の方とお見受けいたす。この短筒、お預けしたいのですが構いませんか?」
 唐突な物言いであったが、紹運は青年の眼差しを見て、反射的に頷いていた。
「うむ、お預かりしよう」
「ありがとうございます。では――」
 そう言って紹運に短筒を渡すと、青年はひざまずいて、先刻まで紹運を悩ませていた女の子と目線をあわせた。といっても、別に何を語るでもなく、というより何を言えば良いやらわからない様子で、じっと互いに視線をあわせるだけであった。
 少女はそんな青年の様子に戸惑ったように、視線をきょろきょろと動かしていたが、やがて脱兎のごとくその場から駆け去ってしまう。


 その後ろ姿を見送りながら、青年は頭を掻いていたが、すぐに自らもこの場を離れようと動きかける。
 そんな青年に、紹運は思わず声をかけていた。
「――お待ちいただきたい」
 その声に怪訝そうに振り向いた青年の顔を、紹運はじっと見つめる。
「それがし、豊後大友が家臣吉弘鑑理(よしひろ あきまさ)が娘、吉弘紹運と申す者。よろしければ、尊名をうかがいたい」
 紹運の名乗りに、青年は記憶をたどるようにわずかに目を細め、ほどなくして、なにやら納得したかのように深々と頷いた。
「なるほど。道理で衆に優れた稟質を感じるはずですね。俺、いえ、それがし、あ――」
「あ?」
「あ、ああ、その、雲居筑前と申します」
 何故だか慌てた様子で、青年はそう名乗ったのである。


「雲居、筑前殿……」
 その名を耳に馴染ませるように、紹運は小さく呟く。
 そして、もっとも気にかけていた問いを放とうとした。
「雲居殿は、何故――」
 何故、あの女性の動きに気付いたのか。何故、短筒の前に躊躇なく身を晒せたのか。何故、紹運がここにいることに気付いていたのか。いくつもの何故が脳裏を横切り、咄嗟にどれを口にしようか紹運は迷ってしまう。
 だが、雲居は勝手にその先を判断したらしい。かすかに表情を曇らせながら、口を開いた。
「この地の事情に、余計な口をはさむつもりはなかったのですが……これ以上、故人の安息を乱すことは許せなかったのです。分に過ぎた真似をしたことは申し訳なく思っております」
「故人――もしや、雲居殿は角隈石宗殿と?」
「はい。短い間ながら屋敷で世話になっていたものです」


 そう言って、会釈して場を立ち去る雲居の背に、紹運は奇妙な既視感を覚えた。
 だがこの時、それが何に由来するものか、思い出すことはなかったのである。




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第一章 雷鳴(六)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/05/05 19:02
「――筑後での戦のため、参るのが遅くなってしまいました。石宗様には、なお多くの教えを授かりたく思っておりましたのに……此度のこと、まことに残念でなりません」
 そう言って、戸次道雪は哀悼の意を込めて、深々と頭を垂れた。
 漆黒の髪が流れるように零れ落ちる様は、思わず息をのむほどに鮮麗で、同性である吉継も感嘆の吐息がこぼれるのを抑えられなかった。
 幸い、その吐息は頭巾に遮られて道雪の耳に届くまでに宙に溶けてしまったが、吉継は慌てて礼を返した。
 大友家の重臣中の重臣である道雪と、角隈石宗の家臣――つまりは陪臣である吉継とでは、身分に天地の開きがある。ましてや、相手は雷神、鬼の異名を持つ九国最高の名将である。緊張するなという方が無理な話であったかもしれない。


 そんな吉継の強張りを見抜いたのか、道雪は吉継と視線をあわせ、穏やかに微笑んだ。
「そして――お久しぶりですね、吉継殿。石宗様のことは残念ですが、あなたが壮健であることは、とても嬉しく思います」
「は、はい。道雪様にもご健勝の様子、嬉しく存じます。石宗様も、道雪様の令名を耳にするたび、頬をほころばせておられました。出藍の誉れである、と」
 吉継の言葉を聞き、道雪の笑みは苦笑にかわる。
「石宗様の先を見通す洞察、深い思慮に支えられた明晰な判断、いずれも私は遠く及びません。その評はいささか買いかぶりであると思いますが――師の期待に応えることが出来るよう、努力を怠らないようにいたしましょう」
「決して、買いかぶりなどでは……」
 買いかぶりではない、と言おうとした吉継だったが、道雪がとおりいっぺんの謙遜をしているわけではないことは、その眼差しを見れば明らかで、少なくとも道雪自身がそう考えていることは確かであった。
 ここで道雪の言葉を否定し、師の言葉を肯定するだけの見識と経験を持たない吉継は、まわらぬ舌に内心で苛立ちながらも、口を噤むしかなかった。


 だから。
 次に吉継が口にした言葉は、吉継自身が考えた言葉ではなかった。
「これより戦に赴かんとなされる身で、ここまでお出でくださり、そして事態を収拾していただいた。そのことを考えれば、石宗様のお言葉は決して買いかぶりなどではないと存じます」
 その吉継の言葉を聞いた途端、道雪の目が、それとわからないくらい、かすかに細まった。
「ふふ、驚きました。此度の出陣は極秘に進められており、府内の城でも、私は石宗様の霊前に花を捧げるために参ったと考えている者がほとんどでしょう。それをわずかの刻で見抜くとは……さすが石宗様の薫陶をもっとも近くで受けた方ですね」
 そう言ってから、道雪は小さく首を傾げる。
「後学のために聞かせていただきたいのですが、どのあたりで見抜きましたか? 兵を率いてきたこと自体は、護衛として不自然ではないと思うのですけれど」
「……は。その、確かにその通りなのですが……」
 吉継は束の間、ためらった末に、先刻のある人物とのやりとりを思い起こす。


『ただの護衛にしては兵の数が多いですし、率いる将が精強すぎます。石宗様の霊前に花を捧げるにしても、現在の大友家の状況を考えれば、これだけの将兵が一時に府内を離れるとは考えにくい。あるいは南蛮神教の横暴に対抗するためかとも思いましたが、それにしては府内からここまで、来るのが早すぎる』
 そういって、かすかに首をひねりながら、その人物はさらに言葉を続けた。
『であれば、おそらく、あれだけの兵と将が必要となる戦があり、その途中で立ち寄られたというところでしょう。あるいはたまたま近くを進軍中、先夜の出来事を聞きつけ、駆けつけてくれたのか。いずれにせよ、運が良かったとしか言いようがないですね――あるいは、角隈殿のお導きかもしれません』
  しごく真面目な顔で、そんなことを言ったその人物、名を雲居筑前といった。 



◆◆◆



 うららかな陽射しの下、心地良い薫風に頬を撫でられながら、俺は縁側に腰を下ろしていた。
 緑が萌えるこの季節、元々、好きな季節の一つであったが、かつての体験を経て、今では一番好きな季節になっていた。


 激しくも華やかな二年間、その始まりと終わりは、この季節であったから。


 そして再び始まったのもこの季節。かつて居た場所は遠く、焦がれるほどに再会を望んだ人たちの姿はない。それでも、皆が踏む大地を踏み、皆が見上げている空を見上げることが出来る。その事実に比すれば、再会までの時を待つことなど難事と呼ぶにも値しない。
 懸念があるとすれば、いまだ激しい戦が続くこの地にあって、皆が無事でいてくれるかどうか。だが、それは俺が案じたところで致し方ないことである。ついでに言えば、俺程度に案じられるほど、やわな人たちではない、という気もしたりする。
 それに、気になるのなら、さっさと彼の地に戻れば良い。それで、すべて解決するのだから。


 オンベイシラマンダヤソワカ、と毘沙門天の真言を呟く――いや、まあ呟いても出てくるのは神様ではないのだが。こういったことを考える時の口癖になってしまっているが、けっこう罰当たりなことをしているのかもしれない。
「いま少しだけ、お待ちくださいませ……」
 その呟きは、春風に溶け、誰の耳にも入らずに終わる――そのはずだったのだが。


「オンベイシラマンダヤソワカ……毘沙門天の真言、ですね」
 不意にかけられた言葉に、俺は思わず驚きの声をあげてしまう。慌てて振り返れば、その人物は意外なほど近くにいた。
 車椅子に乗った妙齢の女性。
 息をのむほどに艶やかな黒髪と、穏やかでいながら確かな芯を感じさせる深い眼差し。一瞬、胸裏に思い描いていた人が、現実に現れたのかと錯覚しそうになる。
 だが、無論、そうではない。
 遠目とはいえ、その人物を見たのは先刻のこと。眼前の女性が誰であるかを、俺は知っていた。
 一瞬の自失から立ち直るや、俺はすぐに姿勢を正してその女性――戸次道雪殿と向かい合う。


「これは、大変失礼いたしました、戸次様」  
 車椅子であるからには、足音を忍ばせて近づくなど不可能である。であれば、俺が道雪殿が近づく音に気付かなかったのだろう。いささか過去に遡りすぎていたようであった。
 しかし、どうして道雪殿がここにいるのか。屋敷を訪れていたのは知っているが、俺がいるのは客間ではなく、家人が寝起きする奥の棟である。客人がふと立ち寄るような場所ではないはずだが。


 そんな俺の訝しげな眼差しに気付いているのか、いないのか。道雪殿は微笑んで会釈した。
「こちらこそ、驚かせてしまったようで申し訳ありません。お察しのとおり、私は戸次道雪。この屋敷の主であられた角隈石宗様には、軍略の師として、また大友家の先達として、大変お世話になった者です」
「雲居筑前と申します。角隈殿に危ういところを救っていただき、屋敷で世話になっている者です」
 そう言って頭を下げながら、俺は内心で呟く。
 言えない。
 いきなり九国の山中に放り出され、途方に暮れつつ空腹と乾きに耐えて歩き回り、挙句、少女の水浴びを覗いて斬られそうになったところを救われた、なんて目の前の人には絶対言えない。


「雲居、筑前殿……」
 舌で転がすように俺の名を呟く道雪殿は、先刻、境内で見た厳しい姿とはうってかわって、どこか可愛らしく映る。俺より年上の女性に抱くには失礼な感想かもしんないが。
 予期せぬ出会いに、実は内心で結構慌てている俺の目を覗き込むようにしながら、道雪殿はくすりと微笑んだ。
「紹運から容姿は聞いていたので、半ば確信してはいましたが――やはり、あなたが私の命の恩人殿だったのですね。遅ればせながら、心よりお礼を申し上げます」
「う……あ、い、いえ、命の恩人などと、そのような……」
 道雪殿が言っているのは、あの境内での出来事を指している、というのはすぐにわかった。だから、俺が言葉を詰まらせたのはそのせいではない。では、何故なのかといえば。


 薫風になびく髪を片手でそっと押さえながら、微笑する道雪殿。
 風に揺れる一輪挿し、間近で見るその姿があまりにもたおやかで――率直に言って、俺は道雪殿に見惚れていたのである。


 多分、今、俺の顔は真っ赤に染まっているだろう、などと他人事のように考えていると。
「おや、どうしました、恩人殿。なにやら顔が赤いようですが……」
「あ、いや、それは……ですね」
 あなたに見惚れていました、などと言えるはずもなく、俺はもごもごと口を動かすことしか出来ぬ。
 すると、そんな俺を、なにやら楽しげに見ていた道雪殿が不意に俺の顔に手を伸ばし――
「――え、あの、戸次様?!」 
 そっと頬に手をあててきたのである。恐慌の頂点に達した俺は、咄嗟に身体を引こうとしたのだが、その動きは道雪殿の一言であっさりと押しとどめられた。
「そのままで」
「あ、いや、でもですね……ッ?!」
 物心ついた時から今日まで、これだけ動揺したのは初めて――とは言わないが、片手で数えられるくらいしかない。
 どこの林檎かトマトか、という感じで真っ赤になっている俺は、鬼道雪の猛攻の前に陥落寸前であった。そして、さすがは音に聞こえた九国の名将、そんな俺の動揺を見逃すことなく、しっかりと、とどめをさしに参られました。
 頬にあてた手を、今度は髪にまわしてきたのである。



「――ッ?!」
 もう言葉も出ません。
 髪に手をあてた、といっても大人が子供の髪をよしよしと撫でるような体勢なら、ここまでは動揺しなかった。
 道雪殿は俺の頬にあてていた手をそのまま後頭部に伸ばしてきたのである。そして、おそらくは撫でにくかったのだろう。俺の頭を少し自分の胸元に引き寄せることまでしたのである。
 多分、傍から見れば、俺は道雪殿に抱き寄せられているようにしか見えないのではあるまいか。


 治、極まれば乱に入り、乱、極まれば治に至るという。
 それは時代ではなく、個人についても同じことが言えるらしい。混乱の極みに達した俺の頭の一部は、かえって冷静になった。
 この体勢で、下手に動けば、それこそもっとまずい状況になりかねない。そう判断し、道雪殿に抗うのをやめたのである。
 決して、髪を梳く道雪殿の手が気持ちよいから、とか、道雪殿から漂う甘い芳香をもう少し堪能していたかったから、とかいう邪まな理由では――いや、まったく無いと言ったら嘘になるのだけども。もちろん、俺も男だからして少しはそんな理由もあった。いや、半ばくらいはその理由であったかもしれない。否、たとえすべてその理由だったとしても、何を恥じることがあろうか!


 と、内心で玩具箱をひっくり返したような大混乱に陥っていた俺の耳に、優しげで、どこか楽しげな道雪殿の声が響いた。
「少々強情なところはありますが、硬く張りのある髪をしていますね……ふふ、男児たる者、こうでなくてはなりません」
 ただ、少々長すぎますね、と道雪殿は呟いた。
 言われてみれば、確かに、少し伸ばし過ぎたかもしれない。こちらに戻って一ヶ月あまり。髪を切る余裕なんてあるはずもなかったからなあ。頼めるような人もいないし、金もなかったから尚更だ。
 そんなことを考えていると、不意に、俺の耳元で、短刀が鞘から抜かれる音がした。
 道雪殿が自身の短刀を抜き放ったのだということはすぐにわかったが、俺の心にはほんのわずかの危惧も宿らなかった。
 それは、このわずかな時間の邂逅で、道雪殿の人柄を感じたゆえか、あるいはその色香に惑わされたゆえか。さて、どっちだろうか。


 ただ、たとえ警戒していたとしても、何一つ為せなかっただろう。
 刃の煌きはわずかに一度。道雪殿はただそれだけで短刀を鞘に戻し、無造作に伸ばしていた俺の髪の先端、指一本分ほどの部分は道雪殿の手の中に収められていた。
「さあ、これですっきりしました。男の身であっても、身だしなみには気をつけるべきと思いますよ、雲居殿」
 そう言って、道雪殿はようやく俺を解放してくれたのである。


 小さな安堵と、大きな未練を感じながら、俺は今さらのように道雪殿から距離を置くと、くすくすと笑う道雪殿にこくこくと頷いてみせる。
「は、はい、向後は気をつけることにいたします」
 いまだ熱の覚めやらない顔で、そういうだけが、この時の俺の精一杯であった。




◆◆◆




 幸いというべきか、当然というべきか。
 道雪殿が訪れてから、南蛮神教側が手を出してくることは一度もなかった。もっとも、南蛮寺院の建設は、寺の跡地ですでに始められてしまっている。これは大友宗麟の決定によるものであったので、道雪殿には如何ともし難かったのである。
 住民からは相変わらず不満の声があがり続けていたが、その都度、住職が穏やかに諭し、小競り合いもあの日以後起こることはなかった。


 ちなみに短筒を持った女性の件に関しては、道雪殿は何も口にしていないそうだ。
 カブラエルが失敗した時のことを考えていないはずもなく、藪をつついて蛇を出すよりは、あえて無言を貫くことで相手の猜疑を煽ろうとしているのかもしれない。
 戸次道雪、なかなかに食えない方である――などと考えていたら。
「あら、花も盛りの女性に向かって、その評はあんまりではありませんか」
「な、何も言ってませんでしょう?!」
 道雪殿にあっさりと見破られてしまった。釈明を試みるが、道雪殿はつんと澄まして顔をそむけるばかり。その姿が、また悶えるほどに可愛らしいものだから、もう本当にどうしてくれようこんちくしょう、という感じである。


「ふはは、道雪様が会って間もない者を、かほどに気に入られるのもめずらしい」
 小野鎮幸が酒盃を呷りながらそう言うと、その隣にいた由布惟信も、めずらしく素直に同意した。
「ええ、本当に。このごろは気の滅入ることばかりでしたから、道雪様もどこか沈みがちであったのですが」
「うむ、雲居殿をからかう義姉様は、実に楽しそうで、見ていて微笑ましいな」
 二人に続いたのは、隣でにこやかに俺と道雪殿を眺めていた吉弘紹運殿である。あの時、俺が短筒を渡した人物だ。


 角隈殿の四十九日の法要が終わったのは先日のこと。
 今はその労を互いにねぎらっているところである。
 道雪殿をはじめ、小野殿も由布殿も、もちろん紹運殿も、実に人間として出来た方々であった。九州探題たる大友家の武威の源泉とでも言うべき将たちと面識を得られたのは、稀有な幸運であったといえる。
 まあ、もっぱら道雪殿にからかわれる俺を、他の人たちが肴にして楽しむだけなんですけどね、ええ。
 道雪殿には、いきなり初対面の時に弱点を見抜かれてしまったようで、以後、事あるごとにからかわれてばっかりなのである。
 ただ、そんな光景を見ていたせいであろうか。道雪殿らと、屋敷にいる人たちとの関係も良好で、法要も滞りなく終えることが出来た――というのは、こじつけかな、やはり。


 ただ、全員が全員、良好な関係を築けたかというと、そういうわけでもないようで。
 ふと周りを見渡せば、いつのまにか吉継の姿が消えていた。
 こういう席に、あまり長居しない人であることは承知していたが、吉継は角隈殿亡き後の屋敷を切り盛りしてきた人である。すすんで口を開かずとも、場にいなければ差しさわりがあると思うのだが――
「どうぞ、行ってあげてください」
 俺の視線に気付いたのか。あるいは、そもそもはじめから、吉継が去ったことに気付いていたのだろうか。
「――はい、申し訳ありません」
「お気になさらずに」
 立ち上がる俺に向けて、道雪殿は微笑んでそう言ったのである。



◆◆



 吉継の姿を見つけたのは、意外なことに中庭であった。
 いつもの白い頭巾をかぶった姿のまま、吉継は空を見上げていた。今宵の空には雲ひとつなく、黄金色に輝く月と、銀砂のごとき星々が煌いている。
 吉継の視線を追いながら、満月に到るまでには、まだ二、三日かかるだろうか、などと俺が考えていると、不意に吉継が口を開いた。
「……もうじき、月が満ちます」
「はい、あと二日、三日、そのくらいでしょうか」
「でも、月は満ちたその時から、欠けていく。欠けていって、また満ちて。果てなくそれを繰り返す。その営みに、私たちは魅せられる。父上も――」


 そこで、吉継はわずかに言葉を切った。
 吉継はこちらを向いていない。俺が見ているのは、吉継の後姿だけである。その姿に、かすかなためらいを感じたのは気のせいではあるまい。
 だが、吉継は再び口を開いた。
「父上も、月をこよなく愛していました。歌の一つも詠めない自分の武骨さを笑いながら、月を見上げて酒盃を傾けていた姿を、今もはっきりと思い出せます」
 そう言った後、吉継はこちらを振り向いた。頭巾に覆われた口元からかすかに苦笑めいた呟きがもれる。


「だから、私は月が嫌いでした。月なんかより、私にかまってほしかった。そう口にすれば、父上は困った顔で相手をしてくれましたが、だからこそ、そう口にすることは子供心に憚られて……」
 今、思えば、と口にする吉継の声は低く、俺に向けて話しているというよりは、独り言を言っているようにも思われた。
「月を見上げていた時だけ、父上は心安らぐことが出来たのかもしれません。まわりに目を向ければ、異形の私と、病弱な母が、ただ父上を頼りに暮らしている。父上がそれを厭っていたなどとは思いません。それでも、私たちが父上の荷であったことは事実なんだと思うんです。私たちがいなければ、父上は――いえ、私がいなければ、父上と母上は、もっと別の……」
 その声は震えておらず、吉継が、いつかの夜のように激情にかられているわけではないことは明らかであった。明らかであったからこそ、俺は返す言葉がなかった。
 そんなことはない、と否定することは簡単である。だが、その言葉に説得力を持たせるだけの重みが、俺にはないと思えたから。


 正直なところ。
 吉継が何を思って、そんなことを言い出したのか、俺にはわからない。否定してほしいのか、肯定してほしいのか、それともただ聞いてほしいだけなのか。多分、吉継自身もわかっていないのではないだろうか。
 だが、その言葉は否定しなければならない。そんな確信だけは、確かに俺の中にあったのである。


 ――しかし、何を言えばいいのだろう。俺がどれだけ真摯に考え、答えを口にしようとも、口を離れた瞬間、その言葉は薄っぺらいものに変じてしまうような気がして仕方ないのだ。
 だから、次にこの場に響いた声は、俺のものではなく。
「――しかり。たしかに重き荷であったことでござろう」
 びくり、と吉継の身体が震えた。
 俺は驚いて声がしてきた方を見る。そこには――
「……和尚?」
「申し訳ござらん、お二人を探しておったところ、なにやら声が聞こえてきまして。聞くとはなしに聞いてしまいもうした――吉継殿」
 吉継の名を呼んだ時。俺ははじめて、厳しく張り詰める住職の声を聞いた。


 住職の呼びかけに、吉継は小さく応えた。
「……はい」
「拙僧は、貴殿のご両親を存じませぬ。ゆえに、その人柄も知りもうさん。しかし、今の話を聞いただけでも、おおよそのことはわかります。確かに仰るとおり、貴殿の父御、母御にとって、貴殿は重き荷であったことでございましょう」
 それが、俺の発した言葉であれば、おそらく吉継にはなんら堪えなかったであろう。だが、住職の言葉が与えた衝撃は、鉄の槌にも等しかったかもしれない。それを示すかのように、吉継の身体が小さく揺れた。
「……は、はい」
「重き荷を捨てていれば、なるほど、確かに異なる生があったはず。それは、貴殿と共に歩むよりも、はるかに身軽で、そしてはるかに気軽であったことでござろう」
「……う」
 容赦のない住職の言葉に、吉継の口からうめきにも似た声がもれる。
 だが、住職は構うことなくさらに口を開き。


「――そして、ただそれだけの生を終えられたでござろうよ」


 そう、言った。
 住職の言わんとするところがわからないのだろう。吉継が戸惑いもあらわに住職を、そして俺に視線を向ける。
 だが、俺とて住職の真意がわからない。だから、ただ耳を澄ませ、その言葉を聞くことしかできなかった。


「一生(いっせい)とは重き荷を背負いて、遠き道をゆくが如し」
 住職はゆっくりと、聞く者の心に染み入るようにゆっくりと、言葉を紡ぎはじめる。
「多くを背負い、苦しみ、嘆き、それでも荷を捨てずに歩けばこそ、その道は万金にも優る価値をもって、人の心に刻まれましょう。誰かがその道を継ごうと志すことでござろう。人の命は限りあるもの。されど限りある命で為したことは、そうして引き継がれ、磨かれ、後の者たちへと受け継がれていくのではありませんかな」
 そう言って、住職はいつもの柔和な、人を包み込むような笑みを浮かべた。
「親と子の絆は、その最たるものであると拙僧は思いますぞ。貴殿のご両親は、最後までその道を歩き通したのでござる。ならば、その道にいかなる価値を見出すかは、吉継殿次第。自らを嘲り、銀を銅とみなすも、自らを誇り、銀を黄金へと高めるも、すべて貴殿のお心一つでござろう。それは大変に困難な道でありましょうが、幸い、貴殿のすぐ傍らには先達がおりもうす」


 そう言って、住職が視線を向けた先は――俺に向けられた。
「……和尚」
「これでも、多くの人を見て参りましたでな。石宗殿も、気付いておられた。貴殿が焦がれるように、何かを追い求めていることに。だが、そこに危うげなものは感じられず、深き思慮と、剛毅な心がそれを支えておられる――その若さで、よくぞそこまで」
 住職は感嘆もあらわに、俺に告げる。
「良き出会いを、そして良き別れを経てこられたのであろう。それは、これから先の吉継殿になにより必要なことだとは思われませんか」
「……和尚、一体、何を?」
 住職の言葉に戸惑いを禁じえず、問いを向けた俺に対し、住職は懐から二通の書を取り出した。


「これは?」
「石宗殿より託された書状でござる。一通は貴殿に、もう一通は吉継殿に。四十九日の法要が終わり、なお二人が屋敷にとどまっていたのなら、その時に渡してほしいと石宗殿は申されておりました」
 その言葉に、俺と吉継は驚きを隠せず、互いの顔を見やってしまった。
 角隈殿には、直接に思いを託されている。では、書状に書かれていることは何なのだろう。しかも、あえて四十九日が終わるのを待って渡すようにしたのは、何の意図があってのことか。
 いずれの答えもわからなかったが、しかし確かなことが一つだけある。それは、住職が差し出した書状は、俺と吉継がここにいなければ火中に投じられることになったであろう、角隈殿の最後の言葉でもある、ということ。


 ゆえに、読まないという選択肢だけは有り得なかったのである。
 




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 幕間
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/05/04 21:50


 越後の首府とも言うべき春日山城。
 近年、その城下には多くの武家屋敷が建設され、越後各地の小豪族たちが競って移り住むようになっていた。
 これは武力の中央集権化を進める上杉家の政策に拠るところが大きいが、言うまでもなく、豪族はその土地に根ざした勢力である。上杉家から見れば、越後各地の豪族が春日山城下に住居を定めるということは、新しい戦時動員体制の確立ならびに整備という面で望ましいものであるが、本拠から切り離される豪族たちにとっては利点となるものは見出し難いものであった。
 

 これに関しては上杉家も各地の豪族に対し、命令という形をとってはいない。ただ、進んでそうする者に対しては屋敷の建築、土地割りで便宜を計らい、また再編した上杉軍内部での地位も考慮する、という通達を出しただけである。
 それゆえ、春日山城下に集まったのは、所領らしい所領を持たない小身の者や、あるいは他家との勢力争いに敗れて没落の道を辿る者、そして信濃、上野をはじめとして、他国から上杉の武名を慕って集まった者がほとんどであった。


 しかし、古くから越後に居住する豪族の中にも、春日山城下に移り住んだ者もいた。
 たとえばそれは赤田の斎藤朝信であり、栃尾の本庄実乃であり、琵琶島の宇佐美定満などである。
 また、彼ら以外にも、上杉家が次代の組織再編を進めていることを敏感に察した者たちは、この機に遅れてはならじと次々に決断を下し、その流れは根拠地に居座り続けている古参の豪族たちをして、焦りを覚えさせるほどの勢いであった。



 そうした城下に移り住む豪族、その家臣や家族、屋敷を建てるために集まった職人、彼らを目当てとした商人など、春日山の人口は増える一方であり、その賑わいは他国に噂が届くほどになっている。
 そんな春日山城下の一画、上杉家にとって大身とされる家の屋敷が立ち並ぶ一角に、その屋敷はあった。
 この区画に建てられた建物の中では、おそらくもっとも初期に建てられたその屋敷は、金銀珠玉の類はほとんど使われておらず、門構えも屋敷の構造も、質実を第一義として造られている。
 建物自体も、いざ春日山城に敵が押し寄せてきた際、その盾となるように縄張りされており、家屋敷というよりは、小規模な出城とでもいうべきものであった。


 ただ、そういった造りをしている屋敷は、春日山城下ではさほどめずらしくはない。にも関わらず、その屋敷が城下でもとみに有名であったのは、屋敷自体ではなく、その主に原因が求められた。
 越後のみならず、周辺諸国にも名高き軍神、越後上杉家当主、上杉輝虎。近年、号して謙信と称する彼の聖将の懐刀として、令名を馳せた人物。
 その位は従五位下筑前守に及び、同じく従五位下山城守を有する直江兼続と並び称えられる上杉家秘蔵の璧。


 ――その名を、天城颯馬といった。 
 


◆◆



 その天城屋敷の一室で、今、一人の乙女が混乱の極みに達していた。
「う……あ、あの、やっぱりこれ着て、城にいかなきゃいけないのか?」
「いかなきゃいけないのか、じゃなくて、いかなくてはいけないのですか、でしょ、岩鶴」
 め、という風に弥太郎に睨まれた岩鶴は、困惑したように自分の姿を見下ろす。
 今日の日のために、わざわざ京から取り寄せたという生地を用い、越後でも指折りの職人が丹精をこめて仕立て上げた優美な衣装。
 男子の成人の儀を元服といい、女子の成人の儀を髪上げという。岩鶴としては、女とはいえ、一個の人物として世に出る今日の儀式は元服に等しいと考えていたが、用意されたのはこれ以上ないほどに鮮麗な着物であった。
 それに身を包んでいる自分に、どうしても実感がわかない。
 謙信の傍仕えとして、礼儀作法や言葉遣いは心得ていたはずだが、つい昔の口調に戻ってしまうくらい、岩鶴は混乱していたのである。



 そんな岩鶴の混乱もおかまいなしに、その顔に丁寧に化粧をほどこしていた段蔵は、仕上がりに満足の頷きを示してから、眼前の少女の姿を視界におさめる。
 直ぐに伸ばした黒髪の下、優美に調った眉、やや鋭すぎる観もあるが、強い意志を示す眼差し、軟らかな唇、どこをとっても非の打ち所がない容貌。丹念にほどこされた化粧はその輝きをいや増し、下手をすれば家が一つ建つんじゃないかくらいに高価な衣装に少しも負けていない。
 そういった意味のことを段蔵が述べると、岩鶴は目を剥いた。
「い、家一つ建つってなんだよッ?!」
「文字通りの意味ですが、何か?」
「『何か?』じゃないだろッ?! なんでそんな高価なもん、俺なんかのために」
 そう言う岩鶴に、段蔵は小さくため息を吐いてみせた。
「わかっていませんね、岩鶴」
「う、な、なにがだよ?」
「これでも必要最小限の出費にとどめたのですよ。当初はあなたのために行列を仕立てる案まで出ていたのですから」
「だ、誰だよ、そんなこと言い出したのはッ?!」
「謙信様です」
 あっさりと言う段蔵に、岩鶴はぴしりと固まる。
 困ったような顔で弥太郎がそれに付け足した。
「ちなみにね、直江様と宇佐美様も賛成してたんだよ。越後に名高い天城家の慶事であるからには、それくらいしても罰はあたるまいってね」
「まあ、直江様は明らかに面白がっていましたけどね。これは余計なことですが、今日にあわせて、気の早い輩から縁談まで持ち込まれていたのです。そういった諸々を全て却下して、その衣装一つに落ち着かせるために、私や弥太郎がどれだけ苦労したことか」
 はあ、ともう一度ため息を吐く段蔵を見て、岩鶴はそれが決して偽りでないことを悟り、ひきつった顔で礼を述べるしかなかった。



 すべての用意は整えられ、あとは春日山に登城し、謙信から成人の祝いを受け、新たな名を授けられるのを待つばかりである。
 束の間の沈黙を破ったのは、今日の主役である岩鶴の声であった。
「越後に名高い天城家の慶事、かあ。やっぱり、天城って名乗った方がいいのかな、おれ、ではない、わたし」
「名乗りたければ名乗れば良いし、その逆もまた自由。岩鶴の好きにすれば良いと思いますよ」
 段蔵が言うと、弥太郎も同意だというようにこくこくと頷く。


 そんな二人の顔を、じっと見つめる岩鶴。
 この屋敷の主である天城颯馬が、越後から姿を消して、およそ二年。
 天城は地位と役職のみで領土を持たなかったため、当人が姿を消してしまえば、天城という家名には何の利点も残らなかった。妻子眷属はなく、財産らしい財産もなかったため、地位と役職が代わりとなる者に引き継がれた後、天城家の名は文献の中にのみ残され、人々の記憶の中からゆっくりと消えていく――はずであった。


 だが、現実にはそうはならなかった。
 天城が姿を消した後、小島弥太郎と加藤段蔵の両名は、主君である謙信の許可を得た上で、城下に天城屋敷を建設、澄ました顔でその家に入ると、平然と天城の家名を掲げたのである。
 言うまでもないが、姿を消した人間の下で働くことの利点など、ないに等しい。特に天城は名声、功績ともに抜きん出ており、また他家との深いつながりもあって、不穏な噂の一つ二つたてられる要素を十二分に持っていた。下手をすれば叛逆の汚名を着せられる恐れさえあったのである――もっとも主君である謙信の為人と、天城への信頼を知っていれば、そんなことはありえないとわかるのだが、外から見ている者たちはそこまで知る由もない。


 そうして、当たり前のように天城家を存続――というよりつくり上げてしまった二人は、上杉謙信の麾下にあって、その名を辱めない働きを披露しつづけた。繰り返すが天城は領土を持っておらず、地位職責が他者に委ねられた以上、天城家の下にいることの利点はないに等しい。だが、二人はかけらも気にした様子を見せなかった。
 そうして天城家の名を高からしめる一方で、弥太郎は家族と岩鶴、そしてその弟妹を。
 段蔵は軒猿の中から厳選した手錬を、それぞれ屋敷に呼び寄せ、世間では彼らを天城家の者とみなすようになったのである。
 この時、弥太郎にせよ、段蔵にせよ、天城の家名を名乗ろうと思えば名乗れたであろうが、二人は小島、加藤の姓をかえようとはしなかった。
「姓なんかかえなくても、私たちが颯馬様の臣であることにかわりはないもの」
 そう言って笑う弥太郎と、肩をすくめる段蔵の姿を、岩鶴はまぶしい思いで見つめたものだった。決して口にはしなかったが。



 そんな岩鶴の内心に気付いているのか、いないのか。
 段蔵はめずらしく、表情を綻ばせて岩鶴の晴れ姿を見つめる。
「ふふ、戻って来た颯馬様を悔しがらせる話題が、一つ増えました」
「うんうん、颯馬様、くやしがるよね。『俺も岩鶴の晴れ姿を見たかったー』って」
「そ、そうかな……?」
 それを聞き、かすかに照れたように俯く岩鶴を見て、段蔵と弥太郎はきっぱりと頷いてみせた。
「確実です」
「絶対だよッ」


 二人の確言に、岩鶴が何か言おうと口を開きかけた時、ふすまの外から家人の声が聞こえてきた。いつのまにか、登場の時刻になっていたようであった。




◆◆◆




 春日山城、城主の間。
 緊張に身体を強張らせ、平伏する岩鶴の前に、ほどなくこの城の城主が姿をあらわす。
 越後守護職、軍神上杉謙信。
 岩鶴にとっては、常日頃から仕えている主であるのだが、小姓姿で傍らに控えているのと、艶やかな衣装に身を包み、髪上げの主役として相対するのとでは心持が全く違う。
 おまけに、謙信の後ろには重臣筆頭の直江兼続と、越後随一の智者として名高い宇佐美定満が控えているのだから尚更だ――否、それどころか。


「ほほう、あの凛々しい小姓が、衣装一つで可憐な乙女に大変身か。立ち会えなかった誰かさんが悔しがる姿が目に浮かぶわ」
「ま、政景様ッ?!」
 それどころか、なぜか越後守護代長尾政景までいるのはどうしたことか。
「ど、どうして」
「どうしてって、もちろん、岩鶴の晴れの門出を祝うために決まってるでしょうが」
 何を当たり前のことを、と言わんばかりの政景の様子に、岩鶴は頭を下げるしかなかった。天城ならば、何か一言、口にしたかもしれないが、守護代たる方にそうそう気安く話しかけられるものではなかった。


「政景様、そのあたりで」
「とと、ごめんごめん」
 やんわりと兼続が政景を押さえ、政景は頬をかきながら席に戻る。
 岩鶴は謙信の傍仕えであり、将来を嘱目される逸材であるとはいえ、ただの小姓に過ぎない。それを考えれば、その髪上げの儀に上杉謙信、長尾政景、直江兼続、宇佐美定満と、上杉家の文武の精髄が揃っていることが、どれだけありえざることか、岩鶴にはわかりすぎるほどにわかっていた。
 常は外見に似ず、剛毅、剛腹と言われる岩鶴であっても、さすがに緊張を隠せない。というより、生まれてからこれまで、こんなに緊張したことはかつてなかったかもしれない。


 だが。
 汗をにじませ、平伏する岩鶴の肩に、不意に誰かの手が乗せられる。優しく、緊張を解きほぐすようにしっかりと。
「河田岩鶴」
 呼びかけから、それが主君である謙信の手だと知った岩鶴は、その穏やかな声音と、温かい手の感触に、不思議と心が落ち着くのを覚えた。
「は、はい」
「これまでのそなたの働き、若年ながらまことに見事。忠誠、智勇、何一つ欠けることなき奉公ぶりは、他の模範となるものであった」
「は、恐れ入りますッ」
 ますます深く頭を下げる岩鶴に、謙信はさらに言葉を続ける。
「今日、この日をもってそなたは、一個の人物として世に迎えられる。これまでとても、そなたは決して容易な生き方をしてきたわけではあるまい。そのことは承知している。だが、これより先は、これまでにもまして、強く、しっかと地を踏みしめて歩いていかねばならぬ。この謙信に仕えるかぎり、戦を避けることは出来ず、多くを失う辛く苦しい道になることは確実だ。それを承知してなお、そなたは上杉に力を尽くしてくれるだろうか」


 その問いに対し、岩鶴は答えを――否、覚悟を示す。この時ばかりは、身体の震えは消えていた。
「はい、もちろんでございます。上杉が天道を祓い清める楯鉾となることこそ、私の望み。数奇な導きによって、京よりこの地に参ったは、すべてそのためであると信じております。どうか、この身が麾下に加わること、お許し賜らんことを」
 そう言って、岩鶴は眼差しを上げ、謙信の顔を見つめる。
 岩鶴を見る謙信の顔は穏やかでいながら、確かな威厳が感じられた。その眼差しに、心のひだまでも見通されているような気さえしながら、岩鶴は視線をそらすことなく、主君を見つめ続けた。自分の覚悟を、すべて読み取ってほしかった。


 その岩鶴の思いが伝わったのか。不意に謙信は相好を崩し、にこりと微笑んだ。
「そなたの覚悟、確かに見た。これより先も、よろしく頼む。そなたの力、私に貸してくれ」
「は、はい! ありがたき幸せにございます」
「うむ。ならば今日より、そなたは長親と名乗るが良い。河田長親、それが今日より上杉が精鋭に加わりし者の名だ」
「ながちか、河田、長親――は、はい、河田長親、これより上杉が臣として、謙信様よりいただいた名に恥じぬ働きをお見せいたしますッ」
 そう言って、岩鶴は――長親は額を畳にこすりつけるように、深々と頭を下げるのであった。



◆◆◆



 無論、髪上げの儀はこれだけでは終わらない。形式にのっとり、この後もしばらく続いた。
(えーい、私の時にも思ったけど、面倒ね。必要なことを、必要なだけやってさっさと終わらせなさいよ、まったく)
 とは、とある守護代様の心の呟きである。
 それはさておき、岩鶴の髪上げの儀は無事に終わり、岩鶴改め長親は、弥太郎や段蔵と共に天城屋敷へと帰っていった。
 あちらはあちらで、祝いの続きがあるのだろう。
 出来ればそちらも参加したい、と思った者が春日山城にも若干名いたのだが、髪上げの儀に要した時間だけでも政務に与えた影響は少なくなく、皆、そちらにとりかからねばならなかった。
 ――結局、その日の政務に一通りの目処がついたのは、もう月が中天に輝く時刻であった。 


「謙信様」
「……兼続か、どうした?」
 自室から庭に出て、春日山から吹き降ろす涼風に身を委ねていた謙信は、背後からかけられた声に応じて、そちらを振り向いた。
「冬は去ったとはいえ、まだ夜風は冷えます。あまりここにおられると、お体にさわりますよ」
「そうだな、すまぬ。ただ、身のうちから湧き出る熱が冷めやらぬのだ。風に吹かれれば、少しは良いかと思ってな」
「どこか、お具合でも?!」
 謙信の言葉に、兼続は慌てたように問いかける。
 だが、謙信はゆっくりと首を横に振った。
「そうではない。ただ、この季節になると、な」
「……ああ、なるほど。おまけに今日は、岩鶴――ではない、長親の髪上げの儀までありましたしね」
「うむ。京で我らを案内したあの童が、あれだけ大きくなったのかと思うと、時の流れの不思議を感じて仕方ない。兼続も私も、あまりかわっていないと思うのにな」
 呟くような謙信の述懐。それに対して、兼続はかぶりをふって答えた。


「これは謙信様らしからぬ仰りようですね」
 そういう兼続に、めずらしく謙信は戸惑ったように首を傾げる。
「む?」
「確かに外見はあまりかわってはいないかもしれません。しかし、私も謙信様も、その心の内は大きくかわっていると思いますよ。あの頃よりも前へ、前へと進んでいると、そう思います。それは決して、長親の成長に劣るものではないでしょう」
「そう、だろうか。兼続はそう思うのか?」
「ええ、思いますとも。それに……」
 兼続は小さく肩をすくめてみせる。
「京からこちら……颯馬が去ってから二年。私と謙信様の成長が、長親に劣ると知ったら、颯馬になんと言われることか。あいつに『何も成長してませんね』などと笑われるつもりは、私には断じてありません」
 思いがけない兼続の諧謔に、謙信は小さく吹き出す。
「ふ、ふふ、颯馬が面と向かって兼続にそんなことを言うなど、考えにくいが」
「無論、言うことはおろか、考えることすらさせません。むしろ、帰ってきた颯馬を鼻で笑うくらいの差をつけてやらなければッ」
 断言する兼続に、謙信はゆっくりと頷いてみせた。
「……そうだな。少なくとも、颯馬を失望させない程度の己になっておかねば、な」
「颯馬が謙信様に失望するなど、そんな増上慢を示したら、即座にそっ首ひっこぬいてやりますよ。それは無用の心配と申し上げておきます」


 むきになったように言う兼続に、謙信は笑いながら、小さく礼を言った。
「兼続」
「は?」
「気を遣わせてしまって、すまないな」
「い、いえ、そんなことは……」
 何かを吹っ切るように踵を返す謙信。慌てて、その後ろに従いながら、兼続はいずことも知れぬ場所に消えた人物に対し、内心で呟いた。


(謙信様にここまで気遣われておいて……万一にもその信を裏切るような真似をしおったら許さんぞ、颯馬)




◆◆◆




 同時刻。
 九国、某所。


 ぞくり、と。
 尋常ならぬ寒気を覚えた俺は、慌てて寝台からはねおき、周囲を見渡した。
 だが、不意に敵襲が来たわけでもなく、曲者が侵入してきたわけでもない。
「な、なんだ、今のは……?」
 わけもわからず、俺はその場に立ち尽くすしかなかった……
 



[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第二章 乱麻(一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/05/09 16:50


 足利幕府によって九州探題に補任された大友家。
 だが、時は戦国。ただ権威のみで九国すべてを統治できるはずもなく、大友家に対して牙を剥く豪族、国人衆は少なくなかった。その理由の一つに、南蛮神教への傾斜を強め、廃仏毀釈を押し進める大友宗麟への根強い反感があったことは疑いない。
 その反感は対外勢力にとどまらず、大友家臣の中にも確実に存在しており、その信仰上の対立が、家臣同士の争いに発展する例さえ出始める。だが、宗麟はそういった事態に直面しても、ただ神への信仰だけを解決の糸口とし、従来の姿勢をかえることはなかった。
 憑かれたように南蛮神教への崇拝を強める大友フランシス宗麟。近年、その南蛮神教への傾倒は、もはや耽溺の域に至っているとの評まで出始めており、九国で最大の勢力を誇る大友家の権勢をもってしても――否、九州探題たる大友家であるからこそ、当主の彷徨は、国の内外に無視し得ない変化を呼び起こしていくことになる。


 道雪が筑後方面へ軍を向けたことも、これと無関係ではなかった。
 反大友の旗を掲げる筑後国人衆の叛乱を、道雪はこの方面の大友軍指揮官である蒲池鑑盛(かまち あきもり)と共同して制圧した。
 鑑盛は「義心、鉄のごとし」と称えられる人物で、その名声は筑後はもちろん、肥前にまで及ぶ勇将である。その人物と、鬼道雪の挟撃を受けた筑後国人衆の叛乱はあっけなく潰えたのだが、逆に言えば、この二名でなければ、ここまですみやかな掃討は望めなかったであろう。それだけの粘りを感じさせる筑後衆の戦いぶりであった。
 それは同時に、今回の叛乱が、決して偶発的に起こったものでないことを意味していたのである。


 それを証明するかのように、筑後の戸次、蒲池から反乱鎮圧の報を受けた直後、府内の宗麟のもとに予期せぬ凶報がもたらされる。
 それは豊前国、門司城が他国の急襲を受け、陥落したというものであった。
 門司城は、その名のごとく関門海峡(馬関、門司に挟まれた海路)を司る城。大陸との交易や南蛮との貿易によって国を富ませている大友家にとって、この海峡の制海権は文字通りの意味で生命線となるものであった。
 そして、これは他家にとっても同じことが言える。ことに近年、瀬戸内の制海権を握った毛利家は西の海への出入り口となる関門海峡を欲してやまず、大友家との間で度々干戈を交えていた。今回の襲撃も、毛利家によるものであるとの予測は、誰もが抱くものであった。
 当然のごとく、この凶報を受けた大友家はただちに奪還の軍を催す。戸次道雪は筑後方面からまだ戻っていなかったが、鬼道雪なくとも、大友家には歴戦の名将が幾人も存在する。
 その中から宗麟が指名したのは大友加判衆が一、吉弘鑑理であった。


 吉弘鑑理は、吉弘紹運の実父にあたり、智勇兼備の名将として名を知られている。
 先代義鑑の時代から大友家を支え続ける宿将として、大友本家からの信頼は極めて厚く、その妻は義鑑の妹で、つまり、現当主の宗麟にとって鑑理は叔父にあたる。
 元々、宗麟は同紋衆(大友家の家紋である杏葉紋を許された分家)を信頼すること甚だ厚く、他紋衆から不満と不審の声があがっているほどなのだが、その同紋衆、しかも叔父である鑑理への信頼は推して知ることができるだろう。
 その鑑理に対し、宗麟は一万五千の兵を授けて門司城奪還を命じ、これを拝受した鑑理は豊前へと兵を進めて行く。筑後方面へ道雪率いる大軍を動かしながら、なお他方面へこれだけの兵を動かすことができることが、大友家の勢力の大きさを言外に物語る。
 いかに毛利家とはいえ、この大軍に抗するのは容易ではあるまい、と思われたのだが。


 事態は大友軍統帥部が考えるより、はるかに深刻なものであった。


 当初、門司城は他国の強襲によって陥落したと思われていた。門司城を守る将の名は小原鑑元(おばら あきもと)。鑑理と同じく、先代義鑑の代から大友家に仕える宿将であり、戦上手としても知られていた。その得意とするところは夜襲であり、こと夜襲の巧みさで言うなら、小原は鑑理を凌ぐとさえ言われていたのである。
 その小原が守る門司城である。たとえ毛利家の手に落ちたとはいえ、毛利勢が被った損害は少なくないはずと宗麟は考え、その点では鑑理も同じ考えであった。だからこそ、敵の防備が整わないうちに、と兵を急がせたのだ。
 しかし、道を急ぎながらも怠り無く情報を集めていた鑑理は、門司城が近づくにつれ、首を傾げていった。門司城から敗走してくる味方と出会わないのである。付近の住民に問うても、そういった落ち武者を見かけてはいないということだった。
 いかに毛利勢が侮れない強敵とはいえ、小原ほどの戦巧者が全滅の憂き目に遭うとは考えにくい。では、何故、城を失ったはずの味方の姿が見えないのか。


 その鑑理の疑問の答えは、間もなく明らかとなる。
 ――大友家を裏切り、城を挙げて毛利家に降った小原鑑元による夜襲、という形で。
 




 大友家の宿将の一人として、こと戦においては吉弘鑑理と並び称され、宗麟の当主就任以来、忠誠を尽くしてきた小原が何故毛利家に降ったのか。
 吉弘鑑理と、小原鑑元の決定的な違い。
 それはただ一つ、吉弘家が同紋衆であるのに対し、小原家が他紋衆であること――それだけであった。
 南蛮神教に耽溺する宗麟に批判の目を向けつつ、それでも忠節を捧げてきた鑑元であったが、同紋衆を重用する宗麟の政策によって、先年、なんら咎なき身で加判衆から外され、さらに府内から追放されるように門司城へと追いやられたことが、鑑元の不満と不審を急激に高めてしまう。その様は地下を流れていた伏流水が、湧出口を見つけたごとくであったかもしれない。


 その鑑元の不満を敏感に察したのが、安芸守護職毛利元就と、その一族である小早川隆景である。
 とはいえ、毛利家からの使者を招き入れた鑑元は、すぐにその話に乗ったわけではない。
 南蛮神教の崇拝はともかくとして、領内の寺社を排斥する動きと、同紋衆と他紋衆の間に横たわる格差を撤廃することについての嘆願と要望は、門司城から府内の宗麟に向けて幾度も繰り返され――結局、鑑元は、ただの一度も望む返答を得られなかった。


 これによって大友家の将来の衰退と、その果ての滅亡に確信を抱いた鑑元はついに意を決する。
 鑑元の不満と不審は多くの他紋衆が共有するところであり、密かな鑑元の誘いに応じた者は意外なほどに多かった。
 かくて、小原鑑元は門司城において反大友の旗を掲げて決起する。
 その総数は実に一万を越え、門司城のみならず、各地の勢力と合わせれば二万に達する勢いであった。
 これに毛利の援軍を加えた反乱軍は、夜陰にまぎれて討伐の第一陣である吉弘鑑理の陣を急襲、予期せぬ敵襲にさすがの鑑理も不意を衝かれ、手痛い打撃を受けてしまう。


 後に言う『大友他紋衆の乱』、または『氏姓遺恨事変』は、こうして豊前の地で幕を開けるのである。




◆◆◆
  



 その日、俺の目覚めを促したのは、中庭に飛来した雀のさえずりであった。
 寝ようと思えば野山でも寝られる俺だが、やはり布団で眠れるなら、それに越したことはない。陽だまりの布地に包まれながら、眠りに落ちるのは人生の楽しみの一つといって差し支えあるまい。
 そんなことを考えつつ、身支度を整えた俺の視界に一通の手紙が映る。昨夜、和尚から託された角隈殿から俺に宛てた書状。眠る前に読んだ内容が、自然と頭によみがえった。


 ――角隈殿が自身で記したと思われるかすかに震えを帯びた文字は、分量自体はそう多くはなかった。死を間近にした身体では、長文を書く体力がなかったのか、あるいはそこまで詳細に書く必要がないと、角隈殿は考えたのかもしれない。
 内容はある程度予測していたものと同じであった。記されていたのは、最後に言葉をかわした時、角隈殿が口にしていた言葉――吉継のことをよろしく頼むという願いと、角隈殿がその願いを俺に託すに至った理由。
 あえて四十九日後にこれを託すという形をとったことについては、不快を感じられたなら申し訳ない、という詫びの言葉も記してあったが、これに関しては角隈殿の考えすぎである。別に詫びる必要なぞないだろう。



「さて、どうしたものか」
 法要は終わり、俺がこの地に留まる理由はなくなった。後は一刻も早く、東に向けて旅立ちたい。その旅に吉継が同行することについては、かりに角隈殿の頼みがなかったとしても、吉継が望めば拒絶するつもりはなかった。
 だが、文意から察するに、角隈殿としては俺の方から吉継を連れ出してほしいのではないか、と思われるのだ。確かに吉継が自分の意思で俺についていくと言い出すとは考えにくい。この地に留まることの危険さも良くわかる。
 ただ、俺の旅に同行したところで危険さはかわらず、むしろ、より戦乱の渦中に近づく可能性さえある――というより、確実にそうなるだろう。危険という意味で言えば、この地に留まった方がまだましであるかもしれん。


 そんな旅に連れ出すとなれば、俺にも相応の責任が発生する。責任を忌避するわけでは決してないが、しかし。
「ここで本当のことを言うわけにもいかないよなあ」
 何か具体的な害が発生するわけではないが、口から出た言葉は飛翔する。俺の一言が、かりに厄介ごとを誘発してしまった場合、それは俺のみならず俺と近しかった人たちへと及ぶだろう――我ながら考えすぎだと思わないでもないが、わずかでもその可能性がある以上、真実を口にする気にはなれなかった。まあ、たとえ口にしても信じてもらえないだろうという気もするのだが。
 かといって、何も言わずに同行を強いるというのは論外だ。俺が強いたところで吉継が肯うとも考えにくいが……などと俺がああでもない、こうでもない、と考え込んでいると、襖越しに家人の声がかけられた。
 道雪殿が呼んでいるとのことだった。




「あなたがたが察されたように、此度、わたくしは戦へ向かう途次、この地に立ち寄りました」
 客間で俺を待っていた道雪殿は、前置きもなくそう言った。
 この場には吉継と道雪殿の他、戸次の双璧たる小野鎮幸、由布惟信の二人、それに紹運殿までいる。
 十万の兵もたやすく指揮してのけるであろう大友軍の精鋭が居並ぶ様は、壮観と称して差し支えないであろう。
 俺がそんなことを考えている間にも、道雪殿の言葉は続く。
「石宗様の法要も無事に終わり、これからわたくしたちは主君の命に従って戦に赴くことになります。ついては一つ、お二人にご助言をたまわりたいと思い、朝も早くからお出で願ったのです」
「……助言、でございますか?」
 吉継が白頭巾の下から怪訝そうな声を発する。雷神とも謳われる大友家最高の名将に、何を言えるというのだろう。そんな疑問が言葉の隙間から透けて見えた。


「はい、そうです。此度の出陣、あなたがたであればどのように戦い、勝利を得ようとするか。ご意見を頂戴したいのです」
 吉継の言葉と、俺の問う眼差しに気付いていないわけではないだろうが、道雪殿は委細構わずにこりと笑って問いを向け、答えを促すように首を傾げて見せた。
 だが、それは――
「あの、戸次様、それだけでは……」
 吉継が困惑した声を出す。頭巾の中で、戸惑っている吉継の顔がはっきりと想像できた。
 情報が足りない、というより、ほとんどない。吉継は角隈殿の下で軍略を学び、兵書を読み、占術を習って、そのすべてに通じているそうだが、その吉継であっても今の情報量でいかに勝利すべきかと問われても答えようがないらしい。
 まあ当然といえば当然である。敵が誰であるか、どこを攻めるのか、野戦か、城攻めか――それさえわからず、勝利の方途を見出せる人物がいるとすれば、それは天才を通り越して変人というべきであろうから。


 無論、道雪殿がそれを知らないはずはない。それは俺にも吉継にもわかった。
 知った上で問いかけているのならば、道雪殿は今の問いで何かを測ろうとしているのだろう。だが、この奇問にどう答えれば良いのか。奇問に奇答で応じるのは簡単だが、下手なことを言って、目の前の佳人を失望させることは避けたいと吉継は考えているのかもしれない。俺がそう考えているように。
 見れば、道雪殿以外の人たちも、なにやら興味深そうに俺と吉継を見つめている。その最中、ふと紹運殿と視線があう。紹運殿は、自分の義姉の悪戯じみた問いに首をひねる俺や吉継を気の毒に思ったのか、力づけるように小さく頷いて見せた。


 ふむ、それでは――
「……そうですね。私であれば、まず墨を磨る(する)ことから始めます」
 口を開いた俺と、その内容に、吉継が驚いたように見つめてくる。
 道雪殿も、さすがに俺の意図を察しかねたのか、確認するように俺を見つめた。
「墨、ですか?」
「はい、墨です。それも大量に。そして同じく大量の紙を用意します」
「それは戦にさきがけて、諸方に使いを出す、ということですか? そのための書状をあらかじめ用意しておく、と」
「文を用意するというのは仰るとおりですが、戦にさきがけて、というわけではありません。これを用いるのは戦が始まってからか、あるいはその直前です」
 俺が言うと、道雪殿は興趣をおぼえたらしい。では、参考までにその文を書いてくださいと言われたので、硯と筆、そして紙を家人に持ってきてもらった。
 そして、皆が見つめる中、俺は筆をとって字を記していく。それほど長い文章ではない。というより、むしろ短い。
 すなわち、俺はこう記したのである。


「参らせ候(そうろう) 戸次伯耆守道雪」


 筆を置いた俺は、わけもわからず目を点にしている人たちに向け、意図を説明する。
「戸次様の勇名は九国に知らぬ者とてないほどのもの。戦に先立ち、これを矢にくくりつけて敵陣に射込めば、相手の将兵は必ずや動揺するでしょう。あらかじめ戸次様がいると知っていればともかく、突如戦場にその姿を見ることになるのですから尚更です」
 戸次道雪の勇名を知る者であればあるほどに、その効果は大きくなる。俺はそう言った。
 敵も味方も問わない――否、あるいは敵以上に、味方は道雪殿の雷名を骨身に刻んでいるだろう、と。




 ――俺を見つめる道雪殿の目が、一瞬、恒星さながらに煌いたように見えたのは、はたして気のせいであったのか。
「知っているのか、いないのか……なるほど、石宗様や和尚様があれほど高くその人物を買った理由、わかるというものです」
 その声は囁きに等しく、俺はほとんど聞き取ることが出来なかった。
 ただ、じっとこちらを見据えている道雪殿の顔を見て、もしやふざけていると勘違いされたか、と冷や汗を流しつつ、口を開く。
「戸次様?」
「……参らせ候、ですか。みずからの名をそのように用いること、考えたこともありませんでした」
 そう言う道雪殿の顔はどこまでも真剣で、一片の笑みも浮かんではいなかった。あるいは機嫌を損じたか、と俺の背を流れる冷や汗の量が倍増する。
「す、済みません、思いつきを申しあげたのですが、無礼がありましたらお詫びいたします」 
「まさか。こちらから問いを向けたのです。その答えを無礼と咎めるつもりはありません。しかし、なるほど、参らせ候、ですか……」
 と、なにやら硬い表情で考え込む道雪殿。
 俺としては気が気ではない。鎮幸や惟信、紹運殿は何ともいいがたい微妙な顔でこちらを見るばかりだし、吉継にいたっては自分は無関係とばかりに、露骨に顔をそむけている。


 一人、混乱の淵に立っている俺の耳に、不意にそれまで考えに沈んでいた道雪殿の声が響いた。
「一つ、問いたいのですが……」
「は、はい、なんでしょうか?」
「吉継殿より、此度のわたくしの訪問の時期、供の数、同道した者たちの素性から、戦に赴く最中ではないかと推測したのは、雲居殿なのだとうかがいました。相違ありませんか?」
「は、それは確かにその通りです」
 これは本当のことだから、俺としては慌てる必要もない。
 筑後から戻ったばかりの道雪殿が、亡くなった恩師の墓前で手をあわせたいと望むのは自然なこと。ただ諸々のことが引っかかり、吉継にその旨を話したのである。


 無論、俺の考えすぎだという可能性もあったのだが、その線ははじめの道雪殿の発言で消えた。であれば、道雪殿は行き先をくらました上で出陣した、ということになる。自然、その目的は奇襲に類するものであろうと推測できる。
 そのあたりを踏まえて、文をつくるという解答に至ったわけで、俺はそういったことを道雪殿に話した――恥をかきたくなかったので、俺の知る知識を流用したのは内緒である。


「吉継殿」
「は、はい、戸次様」
「あなたは今の雲居殿の策、どうみますか?」
 道雪殿はそれまで口を開かなかった吉継に話を向ける。
 吉継はわずかに押し黙った後、考えをまとめるようにゆっくりと口を開いた。
「……雲居殿の仰る前提が、此度の戸次様の戦にあてはまるものと仮定した上で申し上げれば――有効な手立てであると存じます。戸次様の雷名を知り、それに動じない心を持つ者は九国でもまれでございましょう。その軍勢が突如として眼前に立ちはだかれば、将の心中に迷いが生じますし、兵の中には怯える者さえ少なくないでしょう。雲居殿の策は、敵の士気を挫く良き策であると存じます。無論、ただ矢を射込んだだけで敵が崩れるはずもなく、最後は撃斬の力を加える必要がありましょうが」


 普段の吉継は、あまり感情を感じさせない平坦な声音なのだが、軍略を語る時はそこに自然と熱が篭る。吉継自身がそう口にしたわけではないが、角隈殿の最後を看取った臣として、弟子として、心に期するものがあるのかもしれない。
 やや口惜しげなものが感じられたのは、俺の推測に今一歩及ばなかったゆえだろうか。文の件はともかく、これから道雪殿が向かわれる戦が奇襲に類するものであることは、吉継とて知りえる立場にいたのである。もっとも吉継のことだから、俺が口にしないでもじきに気付いたであろうが。


 俺と吉継、二人の意見を聞いた道雪殿は、無言で目を閉ざす。
 そしてしばし後、再び見開かれた瞳はまっすぐに俺たちに向けられ――俺は息をのむ。そこには確かに九国最高ともいわれる名将の苛烈な意思がにじみ出ていたからだ。
 しかし、今の状況でそんな目で見られても、俺も吉継も困惑するしかない。というか、もしかして俺の案は鬼道雪さんが我慢ならないほど不真面目であったのだろうか。同意を示した吉継にも厳しい視線を向けざるをえないほどに。


 下手に俺の知る史実を持ち出したのがまずかったか、などと俺が考えていると、不意に道雪殿がほうっと息を吐いた。
 道雪殿がまとっていた戦将としての覇気が、それだけで霧散する。そうして俺と吉継の緊張を解してから、道雪殿はゆっくりと口を開いた。
 それは道雪殿が、今この時に到るまでの詳細であった。無論、それは大友軍の重要な軍事情報である。それをあえてこの場で語ることの意味、そして聞くことの意味、双方が何をもたらすのかを、俺はこの時、はっきりと認識していた。
 認識しながら、それでも黙って耳を傾けたのは、そうしたいという意思と、それ以上にそうしなければならないという強い予感――確信が俺自身を衝き動かしたからである。





 筑後国人衆の叛乱を鎮圧した道雪殿は、府内に帰還するや、休む間もなく豊前に出陣した吉弘鑑理の後詰を、主君である宗麟から命じられた。
 大友家に他に人がいないわけではない。にも関わらず、戦が終わって間もない道雪殿に命令を下した宗麟は、豊前の戦況が容易ならざるものであることをはや悟っていたのだろうか。
 残念ながら、そうではなかった。宗麟は国内の不穏な空気を肌で感じとり、万全を期して道雪殿に命令を下したわけではない。かといって、神のお告げとやらに従って人選をしたわけでもなかった。
 宗麟が道雪殿に豊前の後詰を命じたのは、その方面に進軍している吉弘軍の中に、宗麟と、そして道雪殿にとって無視できない人物がいるためである。道雪殿はそう言った。


 その人物の名を――
「戸次誾(べっき ぎん)。わたくしにとっては養い子、ここにいる紹運にとっては甥、吉弘鑑理殿にとっては孫――そして、宗麟様にとっては、亡き親友の子であり、一時は我が子として大友宗家の後継に迎え入れたいと切望された者でもあるのです」
 そう口にした道雪殿の顔には、深い愛情と、浅からぬ憂いが相半ばしていた。




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第二章 乱麻(二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/05/11 22:10

 門司城の失陥は、毛利軍によるものではなく、城主小原鑑元の離反によるものであった。
 道雪殿のもとにその報告が届いたのは、角隈殿の四十九日の法要が終わった、まさにその日のことであったという。
 つまり、俺と吉継に話をした段階では、まだ一日と経っていなかったことになる。
 豊前に進出していた吉弘鑑理の軍は、味方であったはずの小原軍の強襲を受けたことで動揺し、少なからぬ被害を出して後退を余儀なくされた。それでも軍の秩序を保った状態で後退することが出来たのは、さすがに歴戦の武将である鑑理の面目躍如というものであったろう。


「鑑理殿によれば、小原鑑元殿の下に集った兵はおおよそ一万。これに毛利勢三千が加わっているとのことです。おそらく毛利の水軍も大きく動いていることでしょう。それだけではありません。これほどの規模の乱、しかも敵方に謀将として名高い元就公が控えていることを考えれば、眼前の敵がすべてであるとは思えません。おそらく、まもなく各地の他紋衆から、鑑元殿に続く動きを見せる者があらわれるでしょうね。あるいは、筑後の国人衆の叛乱も、此度の乱に連なる動きであったやもしれません」
 道雪殿の言葉に、紹運殿たちも厳しい顔で頷く。
 下手をすれば、今回の叛乱は大友家にとって燎原の大火となる可能性があった。否、すでに事態は可能性の段階ではなくなっているといってよい。そのことを、皆、承知しているゆえの厳しい顔つきであったのだろう。


 この乱の影響を最小限にとどめる方法があるとすれば、それは――
「……可及的速やかに、門司城を奪還すること」
 俺と同じ考えに達した吉継が、小さく呟く。その言葉に、道雪殿は頷きで同意を示した。
「そうです。しかし、門司城の守りは堅く、毛利水軍の後詰がある以上、一朝一夕で城を陥とすことは望めないでしょう。古来、城攻めには多くの兵と物資、そして時間が必要とされるものです。しかし――」
 道雪殿が憂いを帯びた表情で言葉をきる。
 俺は小さく肩をすくめて、その先を口にした。
「時をかければ、大友領内の不穏分子が動き出す。なるほど、さすがは音にきこえた毛利元就殿、空恐ろしい智略ですね」
「ええ、まったくです」
 はあ、とため息を吐きながら、俺の言葉に頷く道雪殿。おとがいに手をあて、困ったように口を開いた。
「できれば、あの御仁には山陰の尼子の方に目を向けていてほしかったのですが、瀬戸内の制海権を握っている以上、交易の要である関門海峡を欲するは必然、というところですか」
「北九州、ことに博多津の支配のためにも、ということですね――ところで、戸次様」
「はい、なんでしょう、雲居殿?」
 首をかしげてこちらを見る道雪殿。なぜかそこに悪戯っぽい光が見え隠れするのは気のせいなのかしら。
「……吉継殿は知らず、大友家の臣でもないわたしに、このような重要きわまりない情報を与える以上、なにかしら思うところがおありと考えるのですが、いかがでしょう?」
「あら、雲居殿はわたくしが下心あって、あえて情報をもらしていると仰いますの? 力添えを拒否したら、それを理由に身柄をおさえるために? そのような策多き女子だと思われていたなんて、わたくし、とても悲しいですわ」
 よよよ、と面差しをふせる道雪殿。涙を隠すように手で目元を覆っている。
 しかし、その口元がわずかに笑んでいることに気付かない俺ではない。というか、多分、あえて見せているんだろうけども、実になんというか、対応に困る方である。最終的には、どうあっても頷かざるをえないのだろうと自然に納得してしまうという意味で。


 まあ、元々そのあたりを承知の上で話に耳を傾けていたのだから構わないのだけども。今回の戦が長期化して困るのは大友家だけではなく、俺も同様なのだ。そして、おそらく道雪殿はそのあたりのことも承知しているはず。どこかわざとらしく悲嘆を装う今の姿を見るに、そうとしか思えない。やっぱり困った方だ。

 
 ただ、道雪殿が俺に何を求めているのかが、今ひとつわからない。俺が今の話から察した程度のこと、道雪殿はもとより、この場にいる鎮幸や惟信、紹運殿とてわからないはずはないのだ。
 なので、それを問うてみることにする。
「――今回の戦に毛利家が出張ってきた以上、水軍はかなり大規模に展開しているはずです。この時期、あえて九国から東へ向かう者は容赦のない詮議を受けることになるでしょう。それゆえ、私としてもこの戦は早期に終わってほしいと考えております。そのためにお役に立てることがあるのであれば、喜んで協力させていただきますが、しかし一介の浪人に過ぎない私に何をお望みなのでしょうか?」
 俺がそういうと、道雪殿は待っていたかのように面を上げ、俺を見つめた。当然のように、その目には涙のあとなどありゃしねえのである。
「そう言って頂けると、とても助かります。大友家家中において、こと軍略では優る者のなかった角隈石宗様、その石宗様が認めた吉継殿と雲居殿の智の力、わたくしどもに貸していただきたいのです。わたくしにせよ、紹運にせよ、あるいはここにいる鎮幸と惟信にせよ、戦場においてはいささか高名を得ておりますが、戦場の外にあって勝敗を決する智謀の持ち主ではありません。元就公の策に抗するには力不足と言わざるをえないのです」
 そう言って道雪殿は、どうかお願いします、と静かに頭を下げたのであった。



 鬼道雪に頭を下げられ、否と断れるはずがない。そのつもりもまたない。
「門司を陥とし、他紋衆の叛乱がこれ以上拡がらぬうちに食い止める。目的はそれでよろしいか?」
「はい」
「動かせる兵力は?」
「鑑理殿の一万五千、わたくしがここに連れてきた二百、くわえて我が配下の十時(ととき)が二千を引きつれ、豊前に向けて先行しています。四方の情勢を考えれば、現在動かせる兵力はこれが限界でしょう」
 おおよそ一万七千というところか。しかし鑑理の軍は小原軍の攻撃を受けているため、実際はもうすこし少なくなるだろう。
 敵方は小原鑑元の一万に、豊前に上陸した毛利軍三千。数の上ではこちらが有利だが、敵は門司城を抱え、背後には精強の毛利水軍が控えている。くわえていえば、大友領内の各地で、この叛乱に呼応する勢力が立ち上がる可能性は高く、実質的に数の差などないに等しい。
 この戦況で勝利を得ようとするのであれば――


「……はからずも、先を見据えた良い案だったのかも」
「雲居殿?」
 つぶやく俺を不思議そうに見つめる道雪殿に対し、俺はこう言った。
「やっぱり墨を磨りましょう、戸次様」



◆◆◆



 豊前、松山城。
 周防灘に面した松山の山頂付近に築かれた山城である。門司半島の根元に位置する要衝で、豊前支配の要の一つとされている。
 今、この城には門司城奪還のために派遣された吉弘鑑理以下一万五千の軍勢が集結していた。もっとも、先の敗戦で兵力は千ほど減じてしまっているが、それでもまだ敵軍を圧倒するにたる大軍であることにかわりはなかった。


 小原鑑元による奇襲を受けた吉弘鑑理は、混乱に陥った自軍を懸命に立て直しつつ、この松山城まで退いた。鑑理としては、この城で敗戦の傷を癒しつつ、情報を集め、後詰の来援を待って、再度門司へと進軍する心積もりであったのだ。
 しかし今、鑑理は全軍に対し、撤退の命令を下している。それは当初の鑑理の考えとは正反対のものであった。向かう先は豊前、香春岳(かわらだけ)城。門司城や松山城と同じく、豊前支配のために欠かせない拠点だが、先の二城と違い、香春岳城は内陸部にある。
 すなわち、松山城を捨てて香春岳城に退くということは、豊前湾岸の支配権を放棄するに等しいことなのである。


「さて、戸次殿のこと、何の策もなしにかようなことを申されるはずもないが」
 一人、そう呟いて首を傾げるのは吉弘鑑理であった。豊後三老の一人として、その勇名は他国にも名高い。加判衆筆頭である戸次道雪と比すれば、家格こそやや劣るものの軍歴の長さでははるかに優る。まして相手は妙齢の女性である。並の人物なら、このような奇怪な指示に唯々諾々と従うことはなかったであろう。頷くにしても、一度は再考を求めて使者を出したに違いない。そして、貴重な時間を費やすことになったであろう。


 しかし、鑑理は道雪からの書状を受け取るや、ほとんど即断といえる速さで退却を決断、麾下の将兵に命令を下す。外見、年齢、性別、そういった副次的な物事に拘泥し、戸次道雪の軍将としての器を見抜けぬ鑑理ではなかったのだ。
 この鑑理の指示には配下も驚きを隠せなかったが、鑑理の断固とした命令に反駁を試みる者はいなかった。
「『香春岳城にこもりし後は、ひたすら防備を固め、相手方の攻勢をいなされるべし。近き日、相手方は退却を開始しようが、追い討ちはくれぐれも無用のこと。ただ付かず離れず、その後背を追いしたって北進されたし』――鬼道雪殿らしからぬ詭道めいた物言いよな。まあ、その真意は近く明らかになろう。今は――」
 と、鑑理が何事か口にしかけたとき、甲冑を鳴らしながら、一人の若者――否、少年が鑑理の前に姿をあらわした。



◆◆

 

 大友家の宿将の一人として「豊後三老」の一角を担った吉弘鑑理は、主君の妹である妻との間に幾人かの子供をもうけた。
 その中でもっとも早く生まれた娘の名を、菊という。
 この時代、女性が家督を継ぐ例は少なくない。その意味で菊は吉弘家の跡継ぎになるべき身であるともいえたが、生来身体が弱く、床に伏せがちであった菊に、同紋衆にして加判衆である吉弘家を継ぐのは、いかにも荷が重いと思われた。


 また、菊は争いごとを好まない穏やかな性質で、家臣や領民にも気配りを欠かさなかった。これは菊自身が病弱であり、他者の助けを必要とする身であったことも、少なからず関わりがあったのだろう。
 その優しさと慈しみは人としては優れた美点であったが、戦国武将としてはいささかならず頼りないと言わざるをえない。鑑理はそんな長女を見て、早々に跡継ぎとすることを諦めた。
 幸い、次女の鎮理(後の紹運)は幼年の頃から活発で武芸に長じ、孫子呉子の兵法書を愛読する子で、その凛とした気性は、女児としてはともかく、武将としては申し分のないものであったから、吉弘家としては跡継ぎに不安はなかったのである。
 菊はそのわけへだてない優しさと気遣いから、家中の人望はきわめて厚く、ことに年少の子供たちからは大変に懐かれていた。妹である紹運も、姉を深く慕っており、病弱な姉の代わりに吉弘家を守るという意識こそが幼い紹運を成長せしめた要因であったといえる。


 その菊は、大友家の後継者である義鎮(後の宗麟)とも親密な間柄であった。歳こそ宗麟の方がやや上であったが、穏やかながら芯の強い菊を宗麟は深く頼りにしており、傍から見れば、菊の方が姉に見えたことであろう。
 後に、菊は府内を訪れた南蛮神教に感銘を受け、ジュスタという洗礼名を与えられる。与えたのはカブラエルの前の布教長であるトーレスという人物であるが、実はこの時、宗麟も改宗を望んでいた。これは宗麟の父である義鑑の猛反対にあって、結局とりやめになってしまうのだが、それでも宗麟は事あるごとに菊と同様に洗礼を望んでやまなかったと言われ、この点を見てもわかるように、宗麟への影響力という点で言えば、疎遠であった父の義鑑よりも菊の方がはるかに大きかったと思われる。
 だがこの一件は、この後の大友家の歩みに大きな――大きすぎる影響をもたらすこととなるのであった。




 一万田鑑相(いちまだ あきすけ)。同紋衆の一、一万田家の当主であり、文武に秀で、その為人は角隈石宗をして「英傑の風あり」と感嘆せしめたほどの人物である。
 この鑑相と、吉弘菊が婚姻を結んだ時、これを祝う者はあっても憂う者は皆無であった。
 戦場では退くことを知らぬ勇将であった鑑相は、しかしひとたび戦場を離れれば心根の優しい青年で、降伏した者をみだりに殺めず、略奪暴行にも厳罰をもって対処し、家臣や領民の信望はきわめて厚かった。
 主君である義鑑も鑑相の勇猛さと聡明さを愛してやまず、その信頼は他の宿将に優るとも劣らなかったと言われている。
 この鑑相と菊の結びつきは、同紋衆同士の紐帯の強化という一面はあったにしても、多くの者たちが心から祝福する良縁であったことは疑いなかった。


 そして、両者が夫婦となった翌年。
 鑑相と菊との間に珠玉のような男の子が産まれる。驍将一万田鑑相の血を継ぎ、慈愛の姫たる吉弘菊の腹から産まれた子供。一万田家と吉弘家という二つの同紋衆の血を受け、その誕生を聞いた大友宗家では、折り合いの悪かった父義鑑、娘宗麟が、ともに破顔して、喜びを分け合ったと伝えられた。
 為人こそ成長を待つ必要があったが、与えられた才能と血筋の良さは疑うべくもない。この幼子は長ずればどれほどの人物になるかと、家臣と領民とを問わず期待しない者はいなかったのである。



 だが、しかし。
 この世に生を受けたその時から「西国に並ぶ者なき侍大将となるであろう」と多くの者が信じた子供の前には、余人の想像を絶する苛酷な道程が待ち構えていた。
 それは一人、その子のみならず、大友家そのもの、否、日の本の歴史さえも揺るがすほどの巨大な揺動であり、その男の子が、数多の戦雲を潜り抜け、その名を歴史に屹立させることが出来るか否か、この時点でそれを知る者は誰一人としていなかった。


 すなわち、この男の子こそ、後に数奇な運命を経て、戸次誾と名乗ることになる人物、その人であった。



◆◆



 白皙の頬に、黒曜石の瞳。整った容姿は異国からもたらされる繊細な銀細工を思わせ、見る者の目を惹きつけずにはおかない。
 背は鑑理に頭一つ及ばず、身体つきも歴戦の鑑理に比べれば細く、繊弱で、女児と大差ないといっても言いすぎではないかもしれない。
 だが、それはあくまで外見だけのこと。
 肩口まで伸びた髪は無造作に首の後ろで一つに束ね、武骨な鎧兜をまとう姿はいかにも虚飾と華美を忌む武将らしい。その様を見れば、本人がみずからの容姿にいささかの関心も持っていないことは明らかであった。また、重い鎧兜をさほど苦もなく着こなしているところを見れば、少年が外見に似つかわしくない膂力の持ち主であることもうかがえる。
 だが、にも関わらず、その姿を見て、戦場に出るにはあまりに繊細なものを感じてしまうのは何故なのだろうか。吉弘鑑理は、我が孫を見て、ふとそんなことを考えていた。


「左近大夫(さこんたゆう 鑑理の官職)様」
 今は亡き娘を思わせる優しげな声音と、そこに込められた意思の強さ。その乖離に、鑑理はいまだに慣れることが出来ないでいる。少なくとも、菊の口から、これほどに勁烈な響きを帯びた声を聞いたことはなかった……
 その鑑理の戸惑いを察したのか、怪訝そうに少年はもう一度口を開いた。
「……どうなさったのです、左近大夫様?」
「いや、すまぬ、ちと考え事をしていたのだ――誾」


 名を呼ばれた少年は、滅多にみない祖父の動揺する姿を不思議に思ったが、すぐに心づいたように頭を下げた。
「さようでしたか。お考えを妨げてしまい、申し訳ございません」
「かまわん、我ながら埒もないことを考えていただけだ。それより、準備がととのったことを知らせに来てくれたのだろう」
「御意。各隊、出陣の準備がととのったとのことです。周辺の農民たちへも、しばし山野に難を逃れるように通達を出しました」
 誾の言葉に、鑑理は頷いた。
「ご苦労。鑑元めの軍勢がどう動くかはわからぬが、この城を放っておくとは考えにくい。難を避ける時間は残されていよう」
「ですが、それならばやはり、この城に火を放つべきではありませんか。これだけの規模の山城、敵に篭られれば厄介なことになるのは明白でありましょう」
「そなたの言うこと、いちいちもっともではあるが、此度に関しては不要ぞ。戸次殿には何ぞ策がある様子。こちらが勝手に動けば、その策に支障が出るやもしれぬ」
 その鑑理の言葉を聞いた誾は、束の間、何事か考えこむように顔を俯かせる。


 そして、次に顔をあげた時、そこにはぬぐえぬ疑問がたゆたっていた。
「左近大夫様、一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「む? なんだ、申してみるがよい」
「義母様(ははさま)――いえ、伯耆守様のことです。これまでの伯耆守様であれば、たとえ策を用いるにせよ、大友家の先達であられる左近大夫様にその内実を伝え、そのうえで協力を願うはず。しかるに此度は一方的な通達と命令が参ったのみです。もちろん、伯耆守様は加判衆筆頭の身、此度の件が僭越というわけではありませんが――」
「常の戸次殿に似つかわしくない、というわけか」
「……御意。敵は彼の謀将。門司の裏切り者どものこともあります。ここは慎重を期して、伯耆守様に使者を出すべきではありますまいか」


 鑑理は、今度はその誾の言葉を無用と断じることは出来なかった。
 有情の謀将――そう仇名される中国地方の彼の大名であれば、味方を装っていつわりの命令を送る程度のこと、たやすくやってのけるだろう。
 だが。
「送られてきた書は、間違いなく戸次殿本人の手によるもの。安芸の狐は祐筆を何人も抱えているとの噂だが、あの墨痕淋漓とした筆跡をそう容易く真似られようものか。それに、敵が彼のものであればこそ、戸次殿は詳しい内容を語れなかったとも考えられる」
「は、確かにそれはそのとおりですが……」
「それに、これはわしの勘だが、今、逡巡して、この地で敵を迎えてしまえば、此度の戦に勝利しえる機を逸する。そう思えてならぬのだ」
 勘などといえばいかにも胡乱である。だが、長年にわたって戦塵を潜り抜けてきた名将の閃きを否定するだけの実を、今の誾はもっていない。鑑理の言葉に、ただ頷くことしかできなかった。
「敵を警戒するは当然だが、一度、事を決した後は迷ってはならん。どっちつかずはもっとも悪しき結果を招くでな。これはおぼえておくが良い、誾」
「御意にございます。御教誨、胸に刻んでわすれません」


 深々と頭を下げる誾の視界に映らぬところで、鑑理は小さくかぶりを振る。その顔に浮かぶ表情は、鑑理が決して人には見せない類のものであった。
 眼前の孫の生真面目な性格は、疑いなく娘と自分に共通するものだ。そう鑑理は思う。そして、主君への忠義ゆえに乱に至り、大友家の歴史に拭えぬ汚点を記してしまったあの婿殿のものでもある――そんなことを考えてしまっていた。




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第二章 乱麻(三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/05/16 18:55
 豊前、小倉城。
 この城は、関門海峡の北西に広がる響灘(ひびきなだ)を見下ろす丘陵上の拠点である。福智山系を源流とし、響灘へと注ぐ紫川の河口に築かれた小倉城は、関門海峡の西の出入りを司る要地に位置しており、いざ戦が起こった場合は、門司城の出城として攻守に重要な役割を果たすことになると考えられていた。


 大友家から離反し、門司半島一帯に勢力を拡げた小原鑑元も、無論、そのことを承知していた。鑑元は腹心の一人である中村長直をこの地に派遣し、小倉城一帯を征圧して関門海峡の西の出口を確保することに成功する。
 長直は小倉城を拠点として、周辺の豪族や筑前の国人衆らを語らって反大友の機運を高めるために尽力し、その行動は一定の成果を得た。各地から、長直の下に集まった兵数は千を越え、兵を送らなかった者たちの多くも中立を保ち、謀叛を起こした鑑元らを攻撃しようとはしなかったのである。


 とはいえ、他紋衆の中にも大友恩顧の豪族たちがいないわけではない。また筑前の秋月などの諸勢力にしてみれば、今回の戦は豊前に勢力を拡げる絶好の機会に映っていることだろう。
 吉弘鑑理率いる討伐軍が豊前に侵入してきた際、長直が小倉城を動かなかったのは、そういった者たちの野心を未然に掣肘するためであった。無論、鑑元も承知済みのことである。
 幸い、戦は小原勢の勝利に終わり、吉弘鑑理は松山城に退却した。知らせを受けた長直は安堵の息を吐いたのだが、さらに数日を経ずして新たな情勢がもたらされた。小原勢の追撃を受けた大友勢が松山城をも放棄し、香春岳(かわらだけ)城に立て篭もっているというのだ。これがまことであるとすれば、門司半島は事実上、小原鑑元の手に帰したといってよい。


「沿岸部にあっては、常に毛利水軍を気にかけなくてはならぬからな。より内陸へ引きずり込もうというところか。だが、持久戦などと悠長なことをしていられる余裕があると思っているのか、宗麟。時が経てば経つほどに、貴様は不利になっていくというのに」
 元々、長直は南蛮神教に耽溺する主君をこころよく思っていなかった。毛利家からの誘いが来たとき、まっさきにこれに賛同し、主である鑑元を説得したのも長直である。
 それゆえ、大友軍の弱腰ともいえる戦ぶりに対し、宗麟ならばさもあらんと嘲弄を隠せなかったのである。
 


 ――だが、明けて翌日。長直の嘲弄は凍りつくことになる。



 終日降り続いた雨によって、水量が増した紫川。
 この雨量があと数日続けば、川の堤防が決壊する恐れがある。小倉城の見張り台から濁流と化した川面を遠くに見やりながら、櫓の上で二人の兵士が会話をかわしていた。
 そのうちの一人がぼやきに似た声を出す。


「天の底が抜けたってのはこういうことか? このままじゃあ間違いなく堤が壊れるぞ」
「そうだな。この雨の中、泥まみれになって土石を運ぶなんて勘弁してもらいたいもんだが」
「俺は土いじりが嫌で故郷を飛び出たんだぜ。なんで兵士になってまで土いじりしなきゃならねんだよ」
「まあ、そうくさるな。今回の戦いで勝てば、見返りは大きいからな。それにいつ敵が来るとも知れない以上、城の兵士を外に出したりはしないんじゃないか」
「そうかあ? 敵っつったって戦は福智山の向こうだろ。あの山を越えて、こんな小城を攻めに来るやつなんていやしねえって」
「敵は南から来るとはかぎらない。西の筑前から来る可能性だってあるんだ。油断するべきじゃないだろう」
「へいへい、真面目なこって」


 そう言いながら、大あくびをする同僚を見て、もう一人の兵士は苦笑を浮かべる。
 彼自身、自分で言っておきながら、敵がこの城に来る可能性は少ないと考えていたからだ。仮に敵が来るとしても、主要な道筋には当然見張りが立っている。城の櫓にのぼっている自分たちの肉眼に映るより早く、早馬で知らせがもたらされるだろう。そう考えていた。


 だから、再び川面に目を向けた時、上流から下ってくる筏らしきものを見ても、兵士たちは疑問に思わなかった。
「こんな天候でも川に出てる人がいるんだな。漁師か何かか?」
「こんな雨と泥ん中で何をとるってんだよ。莫迦じゃないのか、そいつ」
「しかし、一人二人じゃないみたいだが」
「なら、全員、莫迦なんだろ。ほっとけほっとけ、そんな奴ら」
 同僚はもう一度あくびしながら、ひらひらと手を振って、そのまま床に座り込んでしまった。
「城主さまに見つかったら、大目玉だぞ」
「はん、どうせ今頃、女中たちと寝間にしけこんでる頃だろうよ」
「……まったく。お前もその口の悪ささえなければな」
「ほっとけ」


 とうとう壁によりかかって、目を瞑ってしまった同僚を見て、兵士は肩をすくめてから、視線を城外へと据え直した。
 とはいえ、周囲には動くものの気配さえなく、視線は今なお川を下り続けている筏に向けられる。激しい雨で視界が遮られ、はっきりと見えないのだが、はじめは一つ、二つかと思っていた筏の数はさらに多いように思われた。
 一体、どれだけの筏が川に出ているのか。そう思い、数を数え始めた兵士は、しかし、確認できた筏の数が五を越えたあたりで、かすかに身体を緊張させた。


 今や先頭をきって川を下ってきた筏は、濁流の勢いに乗って河口へ迫っている。
 ――それはつまり、河口近くの丘陵に位置するこの城に迫りつつある、と言い換えることも出来るのではないか。
 そのことに思い至ったからである。


「お、おい」
「あんだよ、少しくらい寝させろ」
「違う、そうじゃない。おかしいぞ、あの数、あれは漁師なんかじゃないッ!」
「ああ? 何を慌ててんだ」
 億劫そうに身体を起こした兵士は、相方の指す方向に視線を向けた。そして、同じように顔をこわばらせる。
 今や、川面を下る筏の数は優に二十を越え、そのうちの幾つかは西側――つまり、この城がある側の岸に乗り上げていた。そして、筏からは何人もの屈強な男たちがおりてきて、後続の者たちに手を貸し始めたではないか。


 たちまち、その数を増やしていく男たち。すると、その中の一部が、こちらの動きを警戒してか、陣形のようなものまでととのえはじめる。
 その彼らの手に握られているのが長槍だと気付いた時、呆然と見ていた見張りの兵士は、慌てて相方に呼びかけた。
「おい、鐘を鳴らせ! ありゃあ敵だぞッ!」
「し、しかし、どこから来たんだ? まだ知らせはどこからも来てないはずじゃあ……」
「んなこと知るか! 長槍もった兵士が、川くだって目の前に集まってるんだぞ。どうみたって味方じゃねえだろうがッ!」
「そ、そうだな、そのとおりだ」


 そう言って、兵士は慌てたように鐘を打ち鳴らす。小倉の城中に、敵襲を知らせる鐘の音が、雨音を裂いて鳴り響いていく。それに応じて、各処から不審と戸惑いをあらわにした将兵が姿を見せはじめた。
 櫓上の兵士たちは、そんな味方の姿を見て、川向こうの敵とおぼしき一団とのあまりの差異に、思わず言葉を失ってしまうのであった。
 

◆◆


 強行軍に次ぐ強行軍。福智山系を踏破し、その木々をもって筏を組み、休む間もなく紫川を濁流にのって流れ下る。
 言葉で言うだけであれば誰でも出来るが、実際にそれを短期間に成し遂げることがどれだけ難事であるかは言うまでもあるまい。ましてその難事を、麾下の二千を越える兵すべてをともなって遂行できる武将など、九国はおろか日の本すべてを見渡しても一握りしかいないだろう。


「九国最高、か。その名にし負う精強さだな」
 着慣れない鎧兜を身に付け、紫川の岸に立った俺は感嘆の念を禁じえなかった。
 道雪殿と、その麾下の精鋭を侮っていたわけでは決してないが、それでも俺は大友軍を軽んじていたのかもしれない。その行動の神速ぶりは、俺の知る軍勢と比べてもまったく遜色ないものであった。


 そんな俺のすぐ近くから、野太い笑い声があがる。俺とは異なり、甲冑を見事に着こなすその姿からは歴戦の将の風格が感じられた。
「その我らとあっさり歩調をあわせる貴殿こそ何者なのかと問いたくなるぞ、雲居殿。並の兵では、我らについてくることさえ容易ではないというのにな」
「正真正銘、ただの浪人でございますよ、小野様」
 今は、という言葉をあえて伏せた俺だが、相手はそんな俺の心中を読んだかのようににやりと笑いながら言葉を続ける。
「なるほどなるほど、『今は』ただの浪人なわけだな」
 そういうと、先鋒部隊を率いる小野鎮幸は髭を震わせて再び大笑した。が、不意にげほげほと苦しげに咳き込み始める。
 何者かが鎮幸の口の中に、兵糧の梅干を放り入れたのである。


「ぐ、がは、ごほッ?! な、何をするか、惟信?!」
「それは私の台詞です」
 そう言って、由布惟信は俺と鎮幸の前に立って、厳しい調子で口を開いた。
「周りを見なさい。大将たるものが、大口あけて笑い呆けている場合ですか。雲居殿も、鎮幸殿と無駄口を叩いている暇があるなら、後続の者らに手を貸していだききたい」
「む、すまぬ」
「申し訳ございません、由布様」
 反論の余地なき批判に、男二人、かしこまって頭を下げるしかなかった。
 その姿は、惟信の目には図体がでかいだけの悪戯小僧に見えたのかもしれない。腰に手をあてた惟信が深々とため息を吐いた。
「まったくもう……手のかかる御仁が一気に倍に増えた気がします」
 呆れたような惟信の言葉に、俺と鎮幸は更なる叱咤を予期して、同時に首をすくめる。
 だが、さすがに惟信は時と所を心得た方だった。かぶりを振りつつ、こう言ったのだ。
「――ともあれ、わかれば良しとしましょう。すぐに行動に移りますよ。雨中をついた奇襲とはいえ、敵がいつまでも呆けているとは思えません。すぐに城攻めに取り掛かります」


 すると、その惟信の言葉を合図にしたかのように、小倉城から甲高い物音がかすかに響いてくる。遅ればせながら、敵がこちらの様子に気付いたようであった。
 もっとも、大友軍は俺と鎮幸が軽口をかわせるくらいには準備を整えている。正直、敵はもっと早くに動くと考えていたから、拍子抜けですらあった。
 惟信が自分の部隊を率いるために踵を返すと、鎮幸も麾下の兵を差し招く。この戦では鎮幸の下に配されている俺も当然それに従った。


「しかし、良いのか? 軍師たる者、後方で戦況を把握すべきだと思うが」
「その役割は吉継殿一人で十分でしょう。それに、縁もゆかりも無い私の献策を採ってくれた皆様の信に応えるために、私が出来るのはこれくらいです。足手まといにならないことはおわかりいただけたでしょう?」
「うむ。軍師や策士などは、箸より重いものを持ったことがないような連中だとばかり思っていたが。その点、貴殿を見損なっていたことを詫びねばなるまい」
「さすがにそれは偏見です、と申し上げておきましょう」
 詫びは受け入れますが、と俺は苦笑して言った。
「とはいえ、また由布様に怒られないためにも、そろそろ動くべきかと」 
「む、む、そのとおりだな――よし、皆、聞けィ! 我が隊はこれより、小倉城に攻めかかる。かような小城に時を費やす必要を認めぬ。我らが九国最強の部隊であることを、裏切り者どもに知らしめるのだッ!」
 野太い声で命じる鎮幸に、今や百をはるかにこえる人数に膨れ上がった奇襲部隊が喊声をもって応じた。


◆◆


 小野鎮幸、由布惟信、両部隊の攻勢が始まって一刻あまり。
 奇襲によって大友軍有利で始まった戦の趨勢は、時をおうごとにより一層、その観を強くしていた。
 緒戦で立ち遅れた小倉城の中村長直の部隊は、城壁によってかろうじて戸次の双璧の猛攻を凌いではいた。しかし防戦で手一杯である中村勢に、紫川をくだって次々と姿をあらわす大友軍の増援を阻止する余力も余裕もあるはずはなく、今や攻城に参加している大友軍の数は、守備側の中村勢一千を越えようとしていた。
 それら増援に大友軍の士気は高まり、眼前で次々と数を増していく大友軍を見せつけられる中村勢の士気は下降の一途をたどる。


 そして、ついに。
 軋むような音を立てて、小倉城の正門が開かれた。惟信麾下の別働隊が城壁を越え、内から門を開けることに成功したのである。
 それを見た大友軍から、大きな喊声があがる。小野鎮幸の一際高い号令が響き渡り、城門へと突入していく大友軍。数で及ばず、勢いに劣る中村勢に、その攻勢を凌ぐ術はもはや残されていなかった。




 紫川のほとり。
 戦況を後方から見据える三対の視線があった。
 その中の一人が口を開く。
「我らの出る幕はありませんでしたね、義姉様」
 城内へと突入していく精兵の勇姿を見守りながら、吉弘紹運はそう言った。
 雨滴にうたれ、額に張り付いた黒髪をそっと拭いながら、戸次道雪は義妹の言葉に頷いてみせる。
「ええ、ほんとうに。鎮幸と惟信の武勇に加え、雲居殿と吉継殿の智略があわさったのです。案じていたわけではありませんが、それでもここまで見事に運ぶとは、正直なところ考えていませんでした」
 感嘆の念をありありと滲ませた道雪の言に、その場にいた最後の一人――大谷吉継は、どこか沈んだ声で応じた。
「私がやったのは石宗様の教えから、天候を予測しただけです。智略などと言えるものではありません」
 事実、作戦の大筋は雲居が考え、詳細は鎮幸、惟信らが詰めた。吉継がやったのは、雨がまとまって降るであろう日時を推測しただけに過ぎない。先の三者と並び称されるほどの働きをしているとは思えないとは、吉継ならずとも考えるところだろう。


 だが。
「此度の奇襲が成功したのは、この天候があってこそ。視界を遮り、川に近づく者を遠ざける雨あってこそ、小倉城は寸前まで我らの動きに気付き得なかったのです。天候の変化が戦況を左右するなどめずらしくもないこと、それを高い精度で予め知ることが出来る――戦なすものにとって、それがどれほどの価値を有するかを知らないあなたではないでしょう」
 自らを評価しない吉継の物言いに、道雪は穏やかに、しかしはっきりと否を突きつける。
「石宗様の教えを受けた者が、皆、その妙なる業を継げるわけでもないのです。教えを授けた石宗様と、それを受け取った自分自身を軽んじる物言いは褒められたものではありませんよ、吉継殿」
「……は」
 吉継はかすかに俯くと、小さく道雪に返答する。
 その姿に、道雪は吉継の内面を垣間見たように思えた。




 雲居と吉継。与えられた情報と時間は同じ。否、石宗配下として大友家の禄を食んでいた吉継の方が、家中の情報、周辺の地理といった情報ははるかに優る。
 だが、その条件の中で、雲居が正奇両面の策を織り交ぜ、他紋衆の乱鎮圧までの道筋を瞬く間に描いてみせたのに対し、吉継は正攻法をもって小原鑑元を打ち破る以外の方策を見出すことは出来なかった。
 正確に言えば、奇襲に類する策は考え付いたが、いずれも成功の可能性の薄い机上の空論に過ぎないことを自覚していた為、口に出すことはしなかったのである。


 誰に言うつもりもないが、小倉城侵攻という策も、その中に含まれてはいた。だが、かりにこの奇襲が成功したとしても、有効な次手を思いつくことが出来なかった為、吉継は内心でその案を棄却したのである。
 だが、雲居はその案を用い、吉継が唖然とするほどに大胆な策を披露してのけた。
 それは綱渡りにも似た危険な作戦であったが、それでも大友軍歴戦の諸将に作戦の成功を感じさせる説得力を持つものであった。
 本来であれば、それは大友家の軍師であった角隈石宗の教えをもっとも近くで受けた自分が考え付かなければならなかったものだ、と吉継は思う。
 自分こそが師の衣鉢を継げる、などと大それたことを考えているわけではないが、それでも門司城奪還への端緒さえ掴めなかった自分と、雲居筑前との軍師、智者としての力量の差を思えば心が萎える。
 今回の戦で吉継に出来たことといえば、自分で口にした通り、天候を予測してみせただけなのである。両者の差は誰の目にも明らかであろう。


 そのことが、吉継には口惜しい。
 自分と誰かを比較して悔しがるなど、ほとんど経験したことがないのだが、それでも雲居に劣る自分を思うと――なんというか、こう、胸の奥からめらめらと燃え上がるものを感じてしまう吉継であった。




 その吉継の表情は、頭巾に覆われて他者の目に触れることはなかった。
 だが、この場にいる慧眼の持ち主にとって、その内心を見抜くことは容易かったのかもしれない。吉継の悔しげな声に、暗い感情が含まれていないことも、彼女らの洞察を許す一因であったろうか。
「ふふ、精進あるのみ、だな、吉継殿」
「紹運の言うとおり。武人としても、智者としても、また女子としても、あなたはこれからが盛りなのです。己という珠を磨くに、これに優る時はありません。いずれ雲居殿を凌ぐことは可能でしょうし――」


 そこまで口にした道雪は、なにやらくすくすと笑いながら、言葉を続けた。
「望むなら、今すぐにでもあの御仁に一泡吹かせることも出来ると思いますよ」
「あ、義姉様?」
「それは、あの、どういう……?」
 突然、雰囲気をかえた道雪に、紹運と吉継は戸惑ったように顔を見合わせる。
 一方の道雪は微笑みをそのままに、吉継に向かって口を開く。
「聞けば、石宗様はあなたの身を雲居殿に託したとか。まことですか?」
「は、はあ。確かにそれはまことですが……」
 それが今の話と何の関わりが、と吉継は困惑を隠せない。そんな吉継にかまわず、道雪はさらに言葉を続けた。
「具体的には、石宗様は何と仰っていたのです?」
「……はい、その『雲居殿を兄と慕い、父と頼んでついていけ』と」


 その言葉はまぎれもない事実である。しかし、東国に行くという雲居についていくことは、すなわち吉継が九国を出るということである。石宗の危惧は理解しているが、吉継としてもすぐに決断を下すことは出来なかったのだ。
 などと吉継が考えていると、道雪は良いことを聞いた、みたいな感じでぱちんと手を叩いて見せた。
「ならば、話は簡単です」
「……戸次様?」
 吉継の戸惑いに対し、道雪は実に良い感じの笑みで、こう言った。


「吉継殿は、『義兄様(おにいさま)』と『義父様(おとうさま)』、どちらが良いと思いますか?」


 しんと静まり返る。
 唐突な道雪の物言いのせいで、吉継はもとより、傍らで聞いていた紹運さえぽかんと口を開けることしか出来なかった。
「………………べっきさま?」
「『義兄上(あにうえ』か『義父上(ちちうえ)』でも構わないのですが、やはり相手に与える衝撃を考えると、ここは前者の方が良いでしょう。戦の最中では趣がありません。やはり、此度の戦が終わってすぐ、というあたりが妥当でしょうか。いえ、どうせ戦後にするならば、いっそのこと、戸次の屋敷で正式に名乗りをかわしてもらえば、亡き石宗様のご恩に一端なりと報ずることが出来るというものです」
 ええ、そうしましょう、と再度手を叩いて口にする道雪の顔は、いたって真剣に見えた。


 何やら、自分のあずかり知らない間に事態がずんどこ進んでいる気配を察した吉継は、額に汗を滲ませてもう一度口を開く。
「あ、あの、戸次様?」
「ええ、わかっています。兄と慕うか、父と頼むか。いずれかすぐに決めろというのも酷でしょう。此度の戦が終わるまでに心を決めておいてくれれば結構ですよ」
「いえ、あの、戸次様ッ?」
 わかっていると言いつつ、吉継の言い分をかけらも理解してないと思われる道雪の物言いに、吉継は眩暈をおぼえた。
「……たしかに、すぐに決めるのは酷だという言葉は的確だと思いますが……」
 そもそも決めるべき事柄に対する認識が、吉継と道雪の間では決定的に乖離している。それを口にしようとした吉継であったが、鬼道雪は吉継の反撃を許すほど寛大ではなかった。
「ええ、ですから時間はまだあります。じっくりと考えておいてくださいな。ただ、あまり悠長に構えていると、戦自体が終わってしまいますから、そのあたりは気をつけてくださいね」


 にこり、と微笑む姿は、同性の吉継から見ても十分に魅力的な笑みであった。
 だが、言っていることは見当違いも甚だしい、と吉継は思う。そのため、反論しようと吉継が口を開きかけたところで――道雪はこうのたまったのである。やっぱりにこやかに微笑みながら。



「――加判衆筆頭としての命令ですよ」



 大友軍が小倉城を陥としたのだろう。城の方向から猛々しい勝ち鬨が聞こえてきた。
 しかし、吉継は呆然としたまま、喜ぶことさえできず、その場に立ち竦むしかなかったのである。




◆◆◆




 長門国、勝山城。
 関門海峡を望むこの城は、毛利家にとって門司城と並ぶ海峡支配のための要地のひとつであった。
 門司城を巡る攻防が始まった今、この地には多くの毛利の精鋭が集結しつつある。
 その最大の部隊である毛利隆元率いる無傷の毛利軍八千が、安芸郡山城から到着したのはつい先日のことであった。


 隆元到着の報告を受けた吉川元春は、率いる部隊を門司城の郊外にのこして関門海峡を渡る。
 同じく小早川隆景は水軍を麾下の将に委ね、一時的に長門への帰還を果たしていた。
 そうして勝山城、軍議の間に集まった毛利の三将は再会の挨拶もそこそこに、すぐさま現在の戦況に関して意見を交換した。
 その主な理由は、安芸から到着して間もない隆元に現状を説明するためであった。



「鑑元殿も情けない。千や二千の敵に後背を塞がれた程度で兵を退くなど」
 そう口にしたのは小早川隆景であった。
 毛利家を支える両川の一。調略、諜報に通じ、その戦略眼と頭脳の冴えは元就に迫るものがあると言われている。
 近年では毛利家の張良と呼ぶ者もいるほどで、事実、隆景は政略や戦略の段階ではその異名のとおり思慮分別に富み、一部からは慎重居士と揶揄されるほどに石橋を叩いて渡る人柄である。しかし、その実、いざ戦が始まると、姉二人をさしおいて敵陣に猛進する困った姫君でもあって、一度ならず元就たちの心胆を寒からしめたことがあったりする。
 端整な顔立ちの少女だが、隆景を見る者はその容姿より、生気に眩めく眼差しを印象に残すことだろう。




「さて、並の者ならさもあろうが、音に聞こえた鬼道雪が出張ってきたとあっては、小原殿が兵を退いたのも仕方ないことではないかな」
 隆景の言葉に、首を傾げた者の名は吉川元春。
 隆景と同じく、毛利を支える両川の一。隆景が智の面で毛利を支えるならば、元春は疑いなく武の面で毛利を支える驍将であった。
 若年ながら武勇、兵略に長じ、敗北を知らぬ毛利の韓信。武に秀でる一方で、軍中で太平記を書写するなど、文にも通じる一面を併せ持つ。毛利軍では、軍議の席で、元春が悠揚迫らぬ態度で口を開けば、それで物事が決するとまことしやかに囁かれており、その文武双全の在り様は他の武将が模範とするに足るものであった。
 当主である元就、あるいは姉の隆元や妹の隆景と異なり、容姿という点で言えば良く言って十人並みという元春だが、本人はそのことを気にかける様子はなく、またその事実によって、元春の声価がわずかなりとも損なわれることはなかった。



「うん。小原様や、その側近の人たちならともかく、兵のみなさんにとっては武神を敵にまわすようなものだもの。雷神様を後背に控えて、吉弘様の一万と対峙するのは大変だよ」
 最後に口を開いたのは、毛利隆元。毛利宗家の跡継ぎであり、万一、元就に何事かが起これば、次期の毛利家当主は隆元になる。
 毛利家の跡継ぎに相応しく、文武いずれにも通じる隆元であるが、実のところ、その評判は元就はもちろん、妹二人と比べても精彩を欠いていた。
 妹二人が、前漢建国の三功臣のうち二人の名を冠されているのならば、隆元は最後の一人、蕭何で例えられるべきであり、実際、主に毛利家の政務を司る隆元の立場は蕭何のそれと酷似していた。
 にも関わらず、隆元が毛利の蕭何と呼ばれることはほとんどない。内政面に関しては、隆元よりも当主である元就と、重臣である志道広良の名声の方が隆元よりもはるかに高いからである。


 また、幼い頃に大内家へ人質となっていた時期がある隆元は、その経験のためか万事に控えめで、積極的に自分の意見や功績を主張することがなく、覇気に欠けるともっぱらの評判であった。
 偉大な義母(元就のこと)や、優れた妹たちの影に隠れ――というより、むしろ進んで彼女らのために縁の下の力持ちに徹している隆元は、その人格や能力を称揚される機会そのものがなかったのである。


 前述したように、隆元が毛利の蕭何と呼ばれることは『ほとんど』ない。
 ほとんど、ということは、わずかながら隆元をそう呼ぶ者もいる、ということである。では、ごく少数とはいえ、何者が隆元のことを毛利家の蕭何と呼ぶのであろうか。
 その答えは簡単で、隆元に支えられている当の本人たちであった。つまり毛利元就であり、吉川元春であり、小早川隆景であり、志道広良らが、隆元のことをそう呼んでいるのである。
 表だって呼ぶと隆元が嫌がるため、本人の聞こえないところで、ではあるが、彼女らは決してその評価を変えようとはしなかった。
 それは、常に控えめで、時に気弱とすら映る隆元が、いざ心を決した時、どれだけの器量を見せるのかを、皆、知っているゆえである。




 毛利家の命運がかかった厳島の戦いの前夜。
 あまりに勝算の薄い戦いに決断をためらう家中(元就含む)を一喝して開戦に踏み切らせ、誰よりも先に舟に乗り込んだ。
 上陸してから示した元春や隆景さえ顔色ない勇戦ぶり(ほとんど猪突猛進といってよく、元就は卒倒しかけた)は、毛利家中においてもはや伝説となっているのである。
 





「姉上たちの言うこともわかるんだけど」
 姉二人の同意を得られなかった隆景は、小さく頬を膨らませながら口を開く。
「昨日今日のことじゃないんだから、覚悟を決める時間くらいあったでしょ」
 その言葉に、元春はゆっくりかぶりを振る。
「戸次道雪を敵にまわすなどと将兵に触れたら、必ず離脱する者を招くだろう。秘密裏に事を運ぶためには、致し方なかったのだろうさ」
「そうだね。そもそも、そんなに戸次様を恐れるなら、はじめから謀叛なんて起こすべきじゃないんだけど……」
 隆元の言葉に、隆景は不満げにそっぽを向く。
「はいはい、ぼくが余計なことをしたせいですね」
「何をすねとるんだ、お前は」
 呆れたように言う元春。
 一方の隆元は、慌てたようにぶんぶんと首を横に振る。
「あ、違うよ、隆景の調略がどうこういってるんじゃなくてね。その、なんというか、主家に刃向かうなら、もっと覚悟を決めてやるべきなんじゃないかなって」
「ぼくが鑑元殿を焚き付けたから、覚悟を決める暇がなかったってことですね」
「あううう、そうじゃなくてー……」
 依然、そっぽを向き続ける隆景の姿に、隆元はどうしたものかとおろおろする。


 そんな姉と妹を見て、ため息を吐いた元春は無言で隆景に近づくと――
「あいたッ?!」
 拳骨をその頭に落とした。
「な、何をするのさ、春姉?!」
「悪戯がすぎる。姉上に要らぬ心労をかけるな。ただでさえ、我らは日頃から迷惑をかけているのだぞ」
「う、そ、それは……」
「え、え? 元春、私、べつに迷惑かけられてるなんて思ってないよッ?!」
「わかっております、姉上がそう考えておられることは。これはあくまで我らの心持の問題なのです――そうだな、隆景?」
 じっと元春に見据えられた隆景は、久方ぶりの姉たちとの会話で、自分が浮かれていたことに気付く。
 気付いて、慌てて頭を下げる。
「あ、はい、隆姉、春姉、ごめんなさい。隆姉に会うの、久しぶりだったから、つい、その……」
「甘えてしまった、と」
 さらりとそんなことを口にする元春に、隆景は顔を真っ赤にして俯くしかなかった。


 そんな隆景の正面に座った隆元は、そっとその頭を胸元に引き寄せた。
「そっか。隆景が門司に向かってからだから、もう三月も会ってなかったんだよね」
「……あ、隆姉」
 驚いたような、それでいて嬉しさをこらえかねたような、そんな声が隆景の口からこぼれ出た。
「任務、ご苦労様でした、隆景。それに元春も。明日から、また三人別々になっちゃうし、せめて今日くらいはゆっくりお話しましょう」
「う、うん、そうしよう」
「賛成です、姉上」
 胸元から隆景の、隣から元春の嬉しげな声を聞いた隆元は、心底嬉しげににこりと微笑んだ。



 その日、勝山城の軍議の間では、遅くまで灯火が消えることはなかった。
 門司城を巡る熾烈な攻防が始まる、前夜のことである……
 





[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第二章 乱麻(四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/08/05 23:55


 門司城における小原鑑元の蜂起によって始まった、いわゆる『大友他紋衆の乱』。
 大友軍、叛乱軍、共に一万以上の兵力を動員したこの戦は、当初、両軍ががっぷり四つに組んだ長期戦になると考えられていた。
 地力では大友軍がはるかに優るが、叛乱を起こした小原勢の背後には毛利家の存在があるため、容易に決着はつくまいと思われたのである。
 

 しかし、小原勢の奇襲によって出鼻を挫かれた吉弘鑑理率いる大友軍が、松山城を放棄し、香春岳城に退いたことにより、戦局は一気に叛乱側に傾いたように思われた。
 小原鑑元は、その武功によって、他紋衆でありながら加判衆の一人に数えられていた人物である。この機を逃がすはずはなく、麾下の主力を率いて香春岳城に押し寄せた。この城を陥落させれば、豊前の半ばは鑑元の掌中に帰することになるであろう。
 筑後方面に大兵を動かした直後の大友家に、これ以上の援軍を送る余裕はない。
 一方の叛乱側は毛利勢の後詰もあって後顧の憂いなく戦うことが出来る。
 また、小原勢が勝利を重ねていけば、他方面で志を同じくする者たちが次々と蜂起することも大いに期待できるだろう。
 鑑元の目にはあらゆる状況が自身の勝利を約束しているように思われたし、事実、その判断は決して間違ってはいなかった。


 だが、しかし。
 戦場において、戦機は常に揺れ動く。たとえ自軍に機がおとずれようと、それを掴み損ねれば、瞬く間にそれは遠く離れてしまうもの。
 歴戦の将である鑑元はそれを弁えており、訪れた機を逃がさぬよう努めた。そして、この一連の戦いにおいて、その機とは香春岳城を陥落させられるか否かであったろう。
 もし。
 短期間で香春岳城が陥落していたら、他紋衆の叛乱は、大友軍の反撃を未然に打ち砕き、ついには大友家衰退の切っ掛けにさえなっていたかもしれない。豊前半国は失われ、毛利家の援助を受けた他紋衆らはより勢いを増して、大友家の勢力をそぎ取っていったであろう。


 そんなありえたであろう未来は、しかし。
「申し上げますッ!」
 香春岳城を攻囲していた小原勢の下に届けられた一つの報告により、現実として結実することなく微塵に砕け散る。
「小倉城が大友の別働隊によって陥落いたしました! 城を陥とした部隊は急進して我が軍の後方を扼しつつあり、このままでは退路を塞がれてしまいますッ!」




 城攻めにあって退路を断たれてしまえば、城の内と外、両方の部隊を相手取らねばならず、それがどれだけ不利な戦いを強いられるものであるかは言うまでもあるまい。
 ただ、この時、門司半島の根元を横切る形で部隊を動かしたのは、吉弘主膳兵衛紹運率いるわずか七百。錬度に関しては折り紙つきの精鋭部隊であり、城攻めを行う敵軍の後方を扼すことに成功はしたものの、香春岳城を攻める小原勢は一万を越える大軍であり、寡兵の不利は否めないかに思われた。


 だが、吉弘紹運はわずかな手勢を率い、躊躇なく敵軍を直撃した。
 この時、小原勢の後詰を務め、後方の毛利勢との連絡役を担っていたのは鑑元配下の本庄新左衛門の部隊である。
 この時、本庄の兵力はおよそ千五百。倍近い数の兵を従えていたにも関わらず、スギサキの異名を持つ吉弘紹運の部隊の急襲を受けた本庄勢は、ほとんど一撃で粉砕されてしまう。


 スギサキ、とは戦場における一番槍の功名を立てた者に与えられる尊称である。
 戦場において、敵陣を食い破るべく突進する部隊を天上から俯瞰すれば、あたかも横たわる杉の木のように見える。その先頭にある者こそ一番槍の武辺者、すなわち杉先――スギサキとなるのだ。
 スギサキの功を立てた者は朱塗りの槍の使用を許される。これは身分の上下を問わず、戦場に立つ者であれば誰もが焦がれてやまない栄誉であると言って良い。
 ゆえに、朱槍を持つことは敵味方に自らの存在を強く知らしめることになる。戦場においては常にその栄誉に恥じぬ働きを求められ、また敵からは手柄首として狙われる。
 一度、スギサキの栄誉を得たにも関わらず、続く戦で不覚をとってしまう者が少なくない理由はここにある。


 そんなスギサキの栄誉を、同紋衆の家格に連なる一軍の将が得ることがどれだけ稀有なことか。
 まして、その栄誉をわずかの瑕瑾もなく守り続けることが、いかに至難の業であるか。
 倍する兵力を抱えるとはいえ、その紹運の部隊に急襲を受けた時点で、本庄の命運はすでに定まっていたのかもしれない。




 小倉城の陥落、後詰の壊乱は小原鑑元にとって予想の外であった。その二つの部隊を率いていたのは、鑑元の腹心である中村、本庄の両名である。小倉城の確保と、後方の情勢確認、ことに毛利軍との連絡の重要性を認識していた鑑元が、腹心二人に委ねた備えを一朝で突き崩されたのだ、平静ではいられなかった。


 だが、戦況の変化は、鑑元が呆然としている時間さえ与えない。
 香春岳城に立て篭もっていた吉弘鑑理率いる大友軍が突出する気配を示したからである。
 香春岳城を包囲し、諸方との連絡を絶っている以上、城将の吉弘鑑理は援軍の到着を知る術はない。にも関わらず、小原勢がひそかに後方への備えを固めるため、諸将の陣備えを変更した途端、それまで貝のように閉じこもっていた鑑理が兵を動かす気配を示したのである。
 その動きを見た鑑元は、城内の吉弘勢ははや味方の到来を悟ったのか、と慄然とした。



 事実は若干異なる。
 鑑元は知らないことだが、城内の大友勢は戸次勢の動きを書状で知らされているだけで、鑑元が指示した陣替が、援軍の到来を意味するという確証はもっていなかった。篭城戦の最中、陣備えをかえることはめずらしくないのである。
 だが、自軍の動きに対し、小原勢が示した動揺を見た吉弘鑑理は、戸次勢の援軍が後背を扼したことを確信する。


 武将として、共に令名のある吉弘家の父娘の連携は巧妙だった。香春岳城を、一万を越える大軍を率いて出撃した鑑理は、小原勢を相手に決して攻めかかろうとはしなかったが、繰り返し鬨の声をあげて重圧をかけ続けた。
 後方を紹運率いる小勢にかき回されながら、前方から大軍の武威を突きつけられた形の小原勢はたちまち動揺してしまう。
 勝勢に乗ってここまで攻め寄せてきたため、小原勢の士気は決して低くない。
 しかし、だからといって、吉弘家の父娘に前後を塞がれ、微動だにせぬ、というわけにはいかなかった。


 さらに鑑元を悩ませたのは、小倉城が陥ちたという知らせであった。
 大友軍の別働隊の規模まではわからなかったが、あの城が陥ちたということは、押し寄せた敵勢は五百や千では済まないだろう。この地で手間取っていると、本拠地である門司城を攻められる危険があった。
 無論、門司城には十分な守備兵を置いてあるし、毛利勢の後詰もある。そう簡単に陥ちるような城ではない。
 だが、万一ということもある。くわえて、毛利勢がどこまで信用できるのか。これは挙兵を決断してから、ずっと鑑元の胸を去らない疑念であった。
 毛利家の戦力がなければ、この挙兵は成功しない。だから、信用する。そう割り切ったはずなのに、不意に何者かが胸中で囁くのだ。相手は智略縦横を謳われるあの毛利元就なのだぞ、と。



 ――小原鑑元が松山城への退却を決断したのは、そんな自身の疑念を完全に払拭することが出来なかったことも理由の一つであった。無論、現在の劣勢を単独で覆すのは難しいという将としての判断もある。
 ほぼ同数の敵軍を前に、退却をすれば不利は免れない。鑑元は慎重に機を測ったのだが、不思議なことに大友軍は追い討ちをかけようとはしなかった。ただ一定の距離を保ったまま、小原勢に追随してくるのみである。紹運の軍勢も、すでに鑑理に合流したのか、後背や横合からの攻撃もない。
 これには鑑元も首を傾げたが、追撃がないのであれば、それに越したことはない。
 かくて松山城まで退いた小原勢は、本陣を据えなおし、吉弘父娘率いる大友勢と相対することになったのである。



◆◆◆



 豊前国門司城。
 今、その城内には傷つき、疲れ果てた兵士たちが五人、十人と固まりつつ、地面に座り込み、配られている握り飯を無心にほお張っていた。
 彼らはいずれも小倉城から落ち延びてきた兵士たちである。その数はすでに二百人を越えていたが、いまだに三々五々、逃げ延びてくる兵士の姿は絶えない。
 それを見て、門司城を守備する将兵は、小倉城の陥落を信じざるを得なかった。


「では、中村殿は討死したというのか?!」
「……は、はい。大友勢は湧き出るように城の近くにあらわれ、たちまち城を取り囲んで猛然と攻め立てて参りました。我ら必死に戦いましたが、多勢に無勢、いかんともしがたく……」
 門司城の城主の詰問に、小倉城から逃げ延びた兵士は深々と頭を下げる。
「たわけ、人間が湧き出てきてたまるものか! 大方、見張りを怠っていたのだろう!」
「敵は八千を越える大軍でした。見逃そうとて見逃せるものではございませんッ。まったく奇怪なことですが、大友軍は不意にその場にあらわれたとしか考えられないのでございますッ!」
 

 城主は視線を転じ、その場に平伏していたもう一人の兵士に視線を向ける。敵に斬りつけられたとかで、顔の右半分を血染めの布で覆ったその兵士は、隣の兵士の言葉が嘘ではないと言うかのように、自身も深々と頭を下げた。
 城主は小さく舌打ちする。
 目の前の兵士たちの言葉は信用できないが、他の兵士たちも同様のことを口にしているのだ。大友軍が予想だに出来ない奇襲を仕掛けてきたことだけは間違いないようであった。
 しかも――
「八千、だと。一体どこからそれだけの兵を集めた……?」
 門司城に差し向けられた大友軍は、吉弘鑑理率いる一万五千。それにくわえて八千もの別働隊を動かしていたというのだろうか。
 せめて小倉城主であった中村長直らが生きていれば、もうすこし実のある情報を得られたであろうが、雑兵ではこの程度が限界かもしれない。


「まあ、良い。いそぎ毛利の陣に使者を出せ。敵が寄せてきた際の対応を相談しておかねば……」
 そう口にした城主に対し、先刻の兵士が不意に頭をあげて口を開いた。
「あの、城主様」
「なんだ、もうさがってよいぞ」
「あ、はい、承知いたしました。ですが、その一つだけお話ししたいことがございまして……」
「話、とはなんだ?」
「は、それは……」
 そういいながら、兵士は隣の同僚に視線を向ける。口にしてはみたものの、言うべきかどうか迷っている様子であった。
 それを見て、城主は苛立たしげに口を開く。
「何でも良い。知っていることがあるのなら申せ!」
「は、はい! 実は、この目で見たわけではないのですが、小倉城でこんなことを言う奴がいました。『毛利の軍船から、大友軍が出てきた』と」


 そのあまりの突拍子の無さに、束の間、城主は絶句する。
 だが、すぐにその口から怒号が迸った。
「貴様、いい加減なことを抜かすと、そのそっ首、引き抜いてくれるぞ?!」
「も、申し訳ありませんッ! ただそう言った者がいたのは事実でして、一応、城主様のお耳にも入れた方が良いかと……」
「そのような戯言、真に受けるとでも思っておるのか。もうよい、下がれ!」
「ははッ! 失礼いたしました!」



◆◆◆



 城主に一喝され、そそくさと下がった兵士たち。
 その片割れ、半面を布で覆った兵士の口から、さも愉快げな笑い声が漏れ出した。
 それを聞きとがめた隣の兵士が困惑したように周囲を見回し、自分たちを見ている兵士がいないことを確認してから口を開いた。 
「小野様――ではない、鎮幸殿。怪しまれますよ」
「いや、すまぬすまぬ。昨今の軍師は芝居にも通じているのかと感心しておったのだ」
「明らかに笑ってましたよね?」
 そう言いつつ、兵士――つまり俺はじとっとした眼差しで鎮幸を見据える。


 顔立ちから正体がばれないようにと、わざわざ半面を覆っている鎮幸だが、俺としては、そこまで気が回るなら、きちっと城外で待機しておいてほしかった。
 面白そうだから、などという理由で一角の武将が潜入任務とかありえん。が、道雪殿が許諾してしまった以上、反対の立場をとることも出来ず、俺たちは敗兵にまぎれて、こうやって門司城に潜り込んだのである。


 鎮幸は情勢の不利を悟ったのか、とぼけた口調で話題を転じる。
「しかしあの城主、毛利の件、信じるかのう?」
「さて、鵜呑みにすることはないと思いますが、さりとて偽りだと断定することも出来ない、というあたりかと」
 俺の言葉に、鎮幸がふむと腕組みをして、なにやら考え込む。
「今の大友家に、八千もの軍勢を増派する余裕はありません。先ごろまで大友家に仕えていたのですから、それは城主も承知しているでしょう。ただの偽報であれば気にもしないでしょうが、小倉城が陥ちたという事実が付記されれば、その分、八千という数字にも現実味が増します」


 俺の言葉に、鎮幸はふむふむと頷く。
「そして八千という数字を信じれば、あとはそれがどこから来たのかが問題となる。大友家が不可能であれば、あとは筑前からか、あるいは――」
「あるいは、毛利の軍勢か。そこに考えが及ぶということか」
「はい。他紋衆と毛利家が強い信頼関係で結ばれているのであれば通用しないでしょうが、相手は謀将と名高い元就公です。他紋衆の者とていくらかの警戒心は抱いているでしょう。そこを刺激できれば、こちらとしても都合が良いのです」
「刺激できずとも、こちらのやることはかわらんしな」
「はい。やっておいて損はない程度の小賢しい策ですよ」
 
 
 俺は肩をすくめてそう言うと、小倉城から脱出してきた兵士の一団のところへ歩み寄る――より正確に言うならば、小倉城を守備していた将兵の甲冑をまとって、この城までやってきた兵士の集団、であるが。
 彼らにも、明後日の刻限までに、なるべく自然に噂を撒いておくよう伝えてあった。城主たちが信じる必要はない。兵士の不安をあおることさえ出来れば、城門を開くのは難しくないだろう。


 当たり前だが、こちらには八千などという兵力はない。この城の守備兵の数にさえ届かないだろう。仮に上手く城門を破ることが出来たとしても、その後も薄氷の道程が続くことにかわりはなかった。
 それでも――
「……それでも、道雪殿がいると思うと負ける気がしないのだから、不思議なものだ」
 俺が呟くと、隣の鎮幸が不思議そうにこちらを見やる。何を言ったか聞き取れなかったのだろう。
 俺はなんでもない旨を伝えると、ゆっくりと歩を進めた。
 道雪殿の不敗の戦歴に傷をつけないためにも、もう一頑張りしなければ、などと考えながら。

 
  



[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第二章 乱麻(五)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/08/22 11:56
 
 
 豊前国門司城。
 刻は黎明。関門海峡を見下ろす古城山に築かれた山城を、東の空から昇る朝焼けの光が照らし出していく。
 山々を彩る緑が陽の光を映して美々しく輝き、見る者が等しく嘆声をこぼすであろう優麗な景観を織り成していく。
 山全体が刻一刻と明るさと輝きを増していく様子は、山野に萌える草木が、人々に一日の始まりを優しく告げているかのようであった。


 そんな自然の妙なる声は、しかし、今、人の手で空しく汚されようとしていた。
 夜闇をついて城に肉薄していた軍勢は、景観に見向きもせず、頃はよしとばかりに城内に向けて数百の矢を射掛けたのである。
 突然の敵襲に城兵は乱れたった。
 降り注ぐ矢と響く喊声。
 見張りは何をしていたのかと問う声は、この際、なんらの意味も持たないと考えた兵士の一人が城壁の上に駆け上り、城に迫る一軍を見て声を失った。


 そこに翻る軍旗を知らない者などいるはずがない。大友軍に属していたのならば尚更に。
 『抱き杏葉』。九州探題たる大友家の家紋としてあまりにも高名なそれが、攻め寄せる敵軍の各処に林立していた。
 小倉城の陥落から、まだ幾日も経っていない。大友軍がここまで攻め寄せて来ているということは、小倉城を陥としてから、ほとんど日をおかずに軍を動かしたことになる。
 しかも――と兵士は敵軍に林立する軍旗を改めて見やる。
 大友宗家から杏葉紋を下賜された家を同紋衆と呼ぶ。いずれも九国に知られた名家ばかりだが、攻め寄せてくる軍は、その同紋衆の中でも特に名高い『あの家』ではないのか。
 そう見て取った兵士は、その事実を城内に知らせるため、力の限り息を吸い込んだ。


 だが。
「敵は大友軍だッ! 大友軍の戸次……お、鬼道雪だァッ?!」
 兵士が叫ぶよりも早く、城内から絶叫にも似た声があがる。それも、一つ二つではない。
 兵士は再び、声を失う。直接、敵軍を目の当たりにした者しかわからないはずの敵指揮官の情報を、どうやって城内にいる味方が知りえたのか。


 その疑問の答えは、城内に射込まれた矢にあった。
 すべての矢には一片の紙が結ばれており、それに気付いた城内の兵士が中身を確認したところ、中から一つの文があらわれたのである。
 すべての矢文に共通するその文は――


◆◆


「『参らせ候 戸次伯耆守道雪』――なんだ、これは?!」
 差し出された紙片を見た城主の口から、荒々しい誰何の声が発される。
 その眼前で跪いた武将は、顔面を蒼白にしながら城中の様子を報告した。
「敵軍から射込まれてくる矢文です! その文で戸次勢の襲来を知った将兵は動揺著しく、一刻も早く立て直さねば大手門が破られる恐れも……ッ!」
「矢文ごときで城門が破られるはずなかろうがッ!」
 城主は叱声を放つが、配下の表情は変わらない。また、今も城内各処から響いてくる混乱と恐慌に塗れた叫びを聞けば、配下の報告を一蹴することも出来なかった。


 苛立たしげに床を蹴りつけながら、城主は更に問いを向ける。
「敵の数はッ?」
「は、混乱のためはっきりとはわかりかねますが、兵の報告ではおおよそ二千ほどかと!」
「二千、だと?!」
 その数は城内の守備兵と等しい。
 城攻めには守備側を凌駕する兵数が必要になるのは兵家の常識である。孫子などは、相手に十倍する兵士を有していたとしても、城攻めは最後の手段であると説く。
 門司城ほどの堅牢な山城に立て篭もる相手に対し、同数の兵数で攻め込むなど無謀以外の何物でもなかった。
 あの雷将、戸次道雪ともあろうものがこのような下策を採るとは信じがたい。あるいは――勝利を確信する別の要素が潜んでいるのであろうか。


 
 そもそも、戸次勢は叛旗を翻した小原勢の主力部隊を挟撃するため、小倉城から東へ向かったのではなかったか。
 小倉城の敗兵が口にしていたその情報が偽りであり、大友軍が小倉城を陥とした後、まっすぐに北上してきたのだとすれば――だが、それはあまりに無謀な用兵である。
 なにしろ、門司城には二千の守備兵の他、毛利の援軍三千がおり、その後ろには精強な毛利水軍が控えている。二千程度の兵数では小揺るぎもしないことは誰の目にも明らかであり、大友軍とてそれは承知していよう。それでもなお軍を進めてきたということは、大友軍にはそれをするだけの勝算があるということであった。


 城主は、小倉城から逃げ延びてきた兵士たちが口にしていた大友軍八千という数字が急に現実味を増したように思えた。
 しかし、大友軍にそこまでの動員が可能なのか。
 叛乱軍の多くはつい先ごろまで大友家に仕えていた者たちであり、現在の大友家の内情を知り尽くしている。この戦況で、千や二千ならともかく、八千もの大軍を動員できるはずがないのである。
 であれば、大友軍は多くても二千という寡兵で進軍してきたことになる。


 城主は脳裏に戸次道雪の姿を思い浮かべた。たおやかな外見に似合わぬ剛毅苛烈な戦ぶりを披露する方ではあるが、それは十分な勝算があった上でのこと。こんな一か八かの博打じみた戦をよしとする方ではないはずだ。
 そう考えると、大友軍の勝算とは兵力以外の何か、ということになるのだが……
 そこまで考えたとき、不意に城主は敗兵たちが口にしていたもう一つの情報を思い起こした。


『小倉城でこんなことを言う奴がいました。毛利の軍船から大友軍が出てきた、と』


 まさか、と思った。
 取るに足らない、戦場の混乱が招いた妄言であろう、と。
 だが、もし毛利軍がこちらを裏切り、大友家に与したのなら、寡兵で攻め寄せてきたことも頷ける。こちらが頼りとする毛利の後詰は、そのまま大友家の後詰となり、叛乱軍は孤立し、なす術なく敗北するしかなくなるだろう。
 あるいは、もう毛利軍が至近まで攻め寄せてきている可能性も……



 と、そこまで城主が考えた時であった。
 不意に、これまでに数倍する喊声が城中に響き渡り、城主は考えを中断させられてしまった。
「何事だッ!」
 かしこまっていた武将が慌てて確認のために駆け出していく。
 だが、それよりも早く、一つの報告が城主の下にもたらされた。報告というより半ば悲鳴に近いそれは――


「も、申し上げますッ! 内部からの手引きによって大手門が破られました! 戸次勢、突入してきますッ!!」
「なッ?!」
 あまりに呆気ない勝敗の帰結を告げるものであった。



◆◆◆ 


 
 道雪殿が城門をくぐった途端、周囲から幾度目かの勝ち鬨があがった。
 その声に応じて道雪殿が右手をあげると、歓声は更に高まっていく。戸次勢は主の姿に尊崇の念に満ちた視線を送り、降参した門司城の将兵は驚愕と畏怖がない交ぜになった顔で敵将である道雪殿を見つめていた。
 そんな中、進み出た配下の顔を見て、道雪殿は穏やかに微笑んでみせる。
「ご苦労でした、鎮幸、惟信。共に大友の名に恥じぬ見事な戦ぶりでしたよ」
『は、ありがたき幸せ』
 異口同音に応じ、跪く由布惟信と小野鎮幸の両名。
 その言葉に異論はない。あえて付け加えるなら、両名だけでなく道雪殿自身の指揮も剴切の一語に尽きた、ということくらいか。まあ今さら言うまでもないことではあるが。


 鎮幸が内から城門を開き、惟信が先頭に立って突入。道雪殿は輿に乗った姿を敵味方の目に晒しつつ、全軍の進退を司る。
 この三将に指揮された戸次勢の勇猛は瞠目に値した。
 大手門を突破した段階で大友軍の優勢は動かぬものになったのだが、俺としては城を陥とすまでには、もう一山二山あると考えていた。あにはからんや、日が中天に達するまでに勝敗が決するとは。


 無論、門司城の奪還は、この場の奇襲や武勇だけによるものではない。
 この戦に先立ち、小倉城を一日の間で陥としたことは門司の城兵に少なからぬ動揺を与えた。それがなければ、俺が策略を仕掛ける余地もなかっただろう。
 そして、敵軍が動揺から立ち直る暇を与えない強行軍。戸次勢が小倉城を陥としてから、まだ何日も経っていないのである。将兵の疲労は相当のもののはずだが、道雪殿に率いられた戸次勢は一人の脱落者も出さず、果敢な戦意をもって門司城を攻撃した。
 あるいは、その時点で勝敗はすでに明らかだったのかもしれない。


 惟信と鎮幸の後ろで同じように畏まりながら、俺がそんなことを考えていると、輿の上から道雪殿の声が降って来た。
「雲居殿」
「はッ」
 声に促されるように顔をあげると、道雪殿はじっと俺を見つめていた。屋敷で見かける姿とかわりない様子を見ると、本当にここが戦場であるのかと疑いたくなってしまう。
 しかし、よく見ると道雪殿はわずかに眉根を寄せている。
 その視線は俺の右腕――血止めの布に向けられていた。


 この傷は、俺たち潜入組が大手門を開ける際に負った傷だった。
 俺が正面の敵兵と切りあっていたところ、横で戦っていた味方が倒れ、その敵がそのままこちらに突きかかって来たのである。
 攻撃自体は袖(甲冑の肩部分にあるビラビラである。肩鎧ともいう)に阻まれ、穂先が上腕部を抉る程度で済んだのだが、体勢を崩したところで正面の敵が斬りかかってきた時には背に氷塊を感じたものだった。
 幸い、鎮幸がすぐさま駆けつけてくれたので、事なきを得たのだが、下手すれば今頃は首だけの姿になっていたかもしれない。


 実のところ、それ以外にも所々に手傷を負っていたりする。
 考えてみれば過去の戦の時には、本営で采配を揮うか、前線に出ても頼りになる配下に護衛してもらっていた。
 自分よりも格上の相手と斬りあった時もあるが、その時も状況としては一対一だった為、集団戦で一兵士として戦ったことはほとんどないと言ってよい。
 特に今回は小倉城攻めの時と違い、周囲は敵兵だらけという状況で城門を開けなければならなかったので、結構危ない場面が多かったのである。


 とはいえ、それは戦であれば当然のこと。俺以上にひどい手傷を負った者、戦死した者も少なくないのだから、俺などはむしろ幸運の部類に入る。
 それゆえだろう、道雪殿も負傷のことに触れようとはせず、ただ一言、ご苦労でした、とねぎらいの声を発しただけであった。
 俺は深く頭を下げる。その一言で、十分すぎるほどであった。
 
 



「道雪様、城内の抵抗はほぼ潰えましたが、いずこかに敵兵が潜んでいないとも限りません。いま少し兵をお連れくださいませ」
 惟信が道雪殿に進言する。
 見れば道雪殿は輿を担ぐ兵士の他、数名の兵士しか連れていない。彼らはいずれも戸次家でも有数の使い手なのだと思われたが、さすがに無用心の観は拭えない。
 惟信の言葉に、鎮幸も同感だというように頷いていた。


 輿の上に座す道雪殿は、その容姿や威厳もあいまって、敵味方の目を惹かずにおかない。物陰から弓や鉄砲で狙われたなら避けようがないのである。
 勝敗は決したとはいえ、城内が完全に落ち着いたわけではなく、戸次家の家臣は、そういった事態を避けるためにも、当主には出来れば本陣で指揮を執ることに専念してほしいと考えているようだった。


 実のところ、惟信や鎮幸は、過去、幾度もこの手の進言というか諫言を行っているらしい。
 しかし、将兵の士気を高めるためには自身が前線に姿を見せることが必要だ、というのが道雪殿の言い分であり、それは確かな事実でもあった。実際、道雪殿が陣頭に立てば、大友軍の戦意は三割増す、とまことしやかに語られているほどなのである。
 そして道雪殿が姿を見せることで、敵軍に与える影響も無視できない。鬼道雪の雷名は敵対する軍勢の士気を確実に削ぐことが出来る。その事実が端的に明らかになったのが、今回の城攻めであった。
 これらの事実を前にしては、戸次家の家臣も前線に出るのを控えるように、とは口にできない。だが、それならそれで、せめてもっと大勢の護衛を引き連れて下されと口を酸っぱくして進言するのだが、道雪殿は配下のそういった意見はにこやかに受け流してしまうのが常である――とは、昨日、ふとした拍子に聞いた鎮幸の愚痴だった。





 そして。
 今日も今日とて、道雪殿は惟信の進言に頷こうとはしなかった。
「それよりも戦況の報告が先でしょう、惟信?」
 ほらほら、と言わんばかりに報告を急かす主君の姿に、おそらくは内心でため息を吐きつつ、惟信が口を開いた。惟信の背に哀愁が漂っているように見えたのは、はたして俺の気のせいなのだろうか。
「本丸の一部でいまだ抵抗している者たちがいますが、そちらには十時殿があたっておりますゆえ、間もなく制圧できるでしょう」
 続いて鎮幸が口を開く。
「城中の兵も大半は降参いたしました。これは軍議で決められたとおり、武装を解いた後、解放いたしまする。ただ、大友家への帰参を望む者も少なからずおりましてな、その者たちはどういたしましょうか?」


 鎮幸の言葉に、道雪殿はゆっくりと口を開く。
「兵たちは自ら望んで叛旗を翻したわけではありません。大友家への帰参を望むのであれば受け入れてかまわないでしょう。しかし、それは後日のことです。今は各々の家に戻り、家族を安堵させるように伝えなさい」
 御意、と応じた後、鎮幸は再度口を開く。
「士分の者たちはいかがなさいますか? 十名ほどが返り忠を申し出ております。いずれも小原鑑元殿に迫られ、仕方なく叛旗を翻したとのことで……」
 言いつつも、鎮幸は不快そうに口元を歪めていた。


 門司城の速やかな制圧は、彼ら城側の士分の者たちの降参、裏切りが大きく関与している。降参すれば命まではとらぬと呼びかけたのは大友軍であるが、それにあっさり応じた者たち――裏切りを裏切りで糊塗しようとする者たちに好意的でいられるはずもない。
 それは俺も同様ではあるが、この段階で降伏した者には使いみちがある。
 俺はそのことを口にしようと顔をあげかけたが、それに先んじて道雪殿がこんなことを言ってきた。
「それに関しては軍師殿らにも相談しなければならないでしょう。一人はなにやら策がおありのようでもありますし」
 主君の言葉に、惟信と鎮幸の二人がくるりと振り返り、俺を見る。
 口を開きかけていた俺は、咄嗟に何か言うことも出来ず、ぱくぱくと口を開閉させるのみ。
 そんな俺の姿を見た二人は、主君と同じ見解に達したのか、元の姿勢に戻ると、再び声をそろえて、御意、と畏まる。


 ……時折、思う。軍師を手玉にとる人に、軍師なんて必要ないんじゃないかなあ、と。




◆◆◆




「そのことに関しては全面的に同意いたします……」
 門司城、軍議の間。
 遅れて入城したもう一人の軍師である大谷吉継も、俺の道雪殿軍師不要論に同意してくれた。
 だが、連日の強行軍が響いたのか、その言葉に力がない。しかし、疲れ果てているにしては動きは機敏である。その声から力を奪っているのは疲労というよりは、困惑、だろうか。顔を窺えないのではっきりしたことはわからないのだが。


 心配になってたずねてみたのだが、当人が「な、何でもありませんッ」とややむきになった様子で口にする以上、あまりつっこんで聞くのもためらわれた。
 そんな俺と吉継のやりとりを見ていた道雪殿が微笑みつつ、上座で口を開く。
「雲居殿」
「は、なんでしょうか?」
「吉継殿は悩んでいるのですよ。父と兄、どちらを選ぶべきかと……」
「べ、戸次様ッ!!」
 なにやら口にしかけた道雪殿の言葉を、吉継の甲高い声が遮った。
 突然のことに、俺は驚いて吉継に視線を向ける。あの吉継が、目上の人間の言葉を遮るという無礼を行ったこともそうだが、その声が――なんというか、吉継らしからぬ『女の子』の声だったのである。


 当の吉継も、すぐに自身の行いに気付いたのだろう。なにやら呆然とした様子で、口元を押さえている。
「吉継殿……?」
「は、い、いえ、なんでも。そう、なんでもありませんッ、戸次様、大変失礼いたしましたッ!」
 吉継が勢いよく頭を下げる。道雪殿はその姿を見て「お気になさらぬように」とにこにこと笑いながら、何故か楽しそうに俺に視線を向けてくる。
 何が何やらわからない俺は、道雪殿へ問いを向ける。
「あの戸次様、父と兄というのは……?」


 しかし、俺の問いに応じたのは道雪殿ではなく、吉継だった。
「雲居殿!」
「はッ?!」
 そうして、再び響く甲高い吉継の声。
「我が軍は門司城攻略という目的は達しましたが、戦はまだ終わっていません。否、むしろここからが本番であるといえるでしょう。違いますかッ?!」
「そ、そのとおりであると思いますが、あの、吉継殿、何をそんなに慌てて……」
「慌ててなどおりませんッ。これよりの相手はあの毛利軍。小原勢などとはくらべものにならない難敵であると心得ます。ゆえに一分一秒が勝敗を分けることになりましょう違いますか?!」
「そ、それもそのとおりですが……」
 なんか明らかに吉継の様子がおかしい。一体、何が吉継をこれほどまでに追い詰めているのだろうか――いや、まあ、多分、上座に座ってる人の仕業だろうというのはわかるのだが、一体、何を言えばあの吉継がこうまで動揺するんだろうか?


 吉継の勢いに半ば呆気にとられながら、俺がそんなことを考えていると、それを察したのか、吉継の舌鋒がさらに勢いを増した。
「ならばッ!」
「はいッ?!」
「向後の手立てを一刻も早く練って動くべきですというかどうせもう練ってあるのでしょうからささっと策を示してくださいよろしいですかよろしいですねッ?!」
「か、かしこまりましてございますッ。ではまず降伏した者の話によれば毛利の援軍が長門の勝山城に到着したとのことですのでこれを利用してですね?!」
 勢いに押されてかしこまる俺。
 なにやら周囲でにやにやしている(にこにこ、ではない)人たちの視線なんぞ気にしていられない。
 俺の脳裏では、先ほどから同じ言葉が右往左往(?)していた。


 ――おのおの方! 乱心でござる吉継殿が乱心でござる!





[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第二章 乱麻(六)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/08/23 22:29


 長門国勝山城。
 毛利軍を率いる毛利隆元、吉川元春、小早川隆景の三将は、戸次勢の参入によって大友側に傾いた戦の形勢を覆すべく、入念に作戦を組み立てていた。
 その中で隆元が気にしていたのは、門司城からの知らせの中にある一項である。
 小倉城から逃げてきた兵は、攻め寄せた大友軍は八千の大軍であったと報告したらしいのだが――


「それはないよ。筑後の戦いが終わったばかりの今の大友に、そんな余力はない。筑前の国人衆が動いたって報告も来てないしね」
 隆景は敗兵の妄言だと切って捨てる。事実、門司城からの書簡にも、その旨は併記してあった。小倉城を陥とした大友軍は多くても二千を越えることはないだろう、と。
 だが、と隆元はなおも首を傾げる。
「戸次様は千か二千の兵で小原様の軍の後背を塞いだって、隆景は言っていたよね?」
「うん。それで、鑑元殿は香春岳城の包囲を解いてしまったって」
「つまり、小倉城を陥とした戸次様は、ほとんど全軍を東に向けて、小原様の後方を塞いだってこと、だよね」
 その隆元の言葉に答えたのは元春であった。
「おそらくそのとおりかと。しかし、我らにそれを察知されれば、自らが後背を衝かれるか、あるいは手薄になった小倉城を苦もなく奪還されてしまう。それを防ぐために、自軍を実数より過大に喧伝した――いや、あるいは報告をした敗兵も道雪殿の息がかかっているのかもしれませんな」


 小倉城が空だと知られれば、門司の叛軍と毛利の軍勢に行動の自由を与えてしまう。そう考えた道雪が、両軍の動きを掣肘するために策を施したのだろう。
 無論、掣肘するといっても、精々数日程度である。斥候を放てば、敵軍の多寡を確認することは難しくない。
 だが、この切迫した戦況にあって、数日であれ、時を稼げれば大きな成果といえる。しかも、偽報を流すなど大した労力を必要とするわけでもないのだ。


 元春がそう口にすると、同意するように隆景はこくりと頷いた。
「自軍を実数より多く喧伝するのは戦の常套手段だしね。ただ、八千はちょっと大げさかな。ここまであからさまだと逆効果だよ。そんな小手先の策を弄しなければならないほど、今の大友家が切羽詰っているって白状したようなものだし」
 だから、と隆景は続ける。
「こっちは下手に策を弄する必要はないと思う。隆姉が率いてきた援軍と、春姉の軍を合流させて、正面から小倉城を奪還する。その後、軍を東に向けて、鑑元殿の軍勢と対峙してる大友軍を挟撃すれば、この戦は勝てるよ」
「姉上の率いてきた八千と、私の率いる三千、すべてを小倉城に向ける必要があるのか? たしかに豊前は敵地、兵力の分散は避けるべきだとは思うが、一時的にとはいえ、小原殿が孤立するぞ」


 元春の反問に、隆景は小さくかぶりを振った。
「一万以上の兵を率いて、しかも門司城と松山城を確保して、それでなお鑑元殿が敗れるようなら、所詮その程度の人たちだったってことじゃないかな、春姉。確かに鑑元殿をはじめとした他紋衆の人たちをそそのかしたのはぼくだけど、主家に謀叛するって決断したのはあの人たちなんだ。ぼく達は援軍、いわば添え物としてここに来たんであって、他紋衆の人たちを手取り足取り勝利に連れてってあげる義理はないと思うよ」
 小原鑑元を筆頭とする他紋衆がここで敗れるなら、それはそれで良い。毛利軍は小倉城を陥とした後、小原勢と戦って疲労しているであろう大友軍を急襲しても良いし、とってかえして門司城を確保しても良い。どちらにせよ、漁夫の利を得る毛利軍の勝利は約束されている。
 もっといえば、毛利家が豊前を得るためには、ここで他紋衆側が敗れてくれた方がありがたいくらいなのである。


 ――だから『一時的に』小原鑑元が孤立したところでかまわないのだ、と隆景は刃物のように薄く、鋭い笑みを浮かべるのだった。





 その笑みを目の当たりにした隆元と元春は顔を見合わせ、どちらからともなく口を開く。
「……あの、隆景。とってもいいにくんだけど」
 困ったように首を傾げる隆元に、隆景は表情をかえずに先を促す。
「なに、隆姉?」
 応えたのは、隆元ではなく元春だった。嘆息まじりに隆景の両手を指差す。
 ――隆景の両の手は、しわになるほどに強く服を握り締めていた。しかも、ちょっと震えてたりする。
「……顔だけ見れば冷酷な策士なのだがな。それでは『ぼく、今、無理してます』といっているようなものだ。小原殿らに責任を感じているのなら、素直に松山城に援軍に行きたいと言えばよかろうに」
「にあッ?!」
 姉二人に指摘され、慌てて両手を服からはなす隆景。
 冷徹を装っていた仮面を、一秒にも満たぬ間に姉たちにはがされてしまい、頬がかあっと赤らんでいる。


 そんな妹の姿を、姉二人は実に微笑ましそうに見つめる。
「まったく。見ているこちらがこそばゆくなってきますね、姉上」
「ふ、く、う……だ、駄目だよ、元春、そんなこと言ったら隆景がかわいそう」
「……どちらかといえば、私の言葉より、なんかとろけそうな笑みを浮かべつつ、必死にそれをこらえている姉上の姿の方が、隆景には堪えているようですが」
「だ、だって頑張って悪ぶってる隆景が、もう可愛くて可愛くて……ああ、是非、義母様と広爺にも見せてあげたいッ」
「だそうだ。良かったな、隆景」
「なにがどこがどうして良いの春姉いまはずかしくて倒れそうなんだけどぼく?!」
「皆に愛されて結構なことではないか。末姫殿は人気者だ」
 そう言ってからからと笑う元春に対し、毛利の末姫は顔どころか首筋まで真っ赤に染めて、うーと唸ることしか出来なかった。


 そんな妹の姿に、さすがにからかいすぎたか、と姉たちは表情を改める――若干一名、まだちょっと蕩けてたが。
「まあ、末姫殿の微笑ましい演技はともかく」
「……まだ言うの……?」
「ともかく、だ。別に策の根幹を無理に毛利家の利に据える必要はない。大内、尼子、陶らに脅かされていた頃の我らではないのだ。今の毛利は、利でなく情を策に組みこんだところで、小揺るぎもせん」
「そうだよ、隆景。義母様が当主の座に就いた時、毛利はとても小さな家だった。義母様が情を押し殺して策謀を駆使したのは、そんな毛利の家を――そして、私たちを守るため。その結果として、あの優しい義母様が『謀将』なんて似つかわしくない名で呼ばれるようになってしまった」


 隆元の言葉に、二人の妹は姿勢を正す。誰に命じられたわけでもなく、自然と。
「あなたがそんな義母様を尊敬しているのは、私も元春も知ってる。あなたが、義母様の負担を取り除きたいって、一生懸命頑張ってるのも知ってる。けど、今のあなたが、昔の義母様を真似る必要なんてないんだよ。誰よりも義母様がそんなことを望んでない」
 そう言って、隆元はそっと隆景の髪に手をのばし、幼い頃、そうしていたように優しく撫で付ける。
「無理に冷酷な謀将になる必要なんてないの。あなたは、あなたのままに成長していけば良い。小原様を助けたいと思ったら、それを策に組み込んでかまわない。その策が間違っていると思ったら、私も元春もきちんと言うし、それでも隆景が納得できなかったら、何度でも話し合おう。元春が言うとおり、それが許されるくらいには、毛利は大きくなったんだから」




 今の毛利は、かつてのように一手を誤れば滅亡してしまうような小豪族ではない。安芸国内の統一に奔走していた当時の元就は、専横をはたらく重臣を一族もろとも滅ぼすなどの苛烈な策を断行し、出雲の『謀聖』尼子経久に迫る策士であると恐れられたが、毛利の領域が広がるにつれ、策謀の数と質に明らかな変化が見られるようになった。
 それは近年、元就の二つ名として定着しつつある『有情の謀将』という評によく現れている。ようやく、元就の情けを知る為人が他国にも知られた結果であろうと隆元たちは喜んでいるのだが、それでもなお謀事多き人であると警戒されていることに変わりはない。
 実際、毛利家は謀略の多くをいまだ元就一人の才覚に頼っている状況なのである。


 隆景としては、そんな義母の負担を少しでも減らしたかった。
 そのために自分が出来ることは何なのか。
 長女の隆元は、自国と他国をとわず、多くの人々から、戦や策略において妹たちに及ばぬと侮られている(これとて隆景からすれば業腹ものなのだが、本人が全然気にしてないので怒るに怒れない)が、その誠実な為人だけは各処で評価されていた。毛利家が背負った謀事多き家、という評は隆元が家督を継げば跡形もなく消え去るに違いない。
 武の面でいえば、次女の元春がいれば何の問題もない。すでにその力量は他国にまで轟いている。


 であれば、隆景が受け持つべきは策略、計略といった謀事の面しかない。今の時点からそちらに特化しておけば、一に義母の負担を減らすことが出来るし、二に隆元に代替わりしてからも、汚い部分は自身が受け持つことができる。より正確に言えば、辛辣な策を弄したとしても、人々の不審の目は当主である隆元ではなく、隆景の方に向けられるだろう。
 家の信用という面から見ても、策謀多き人物が当主に立っているのは好ましくない。隆元はあくまで清廉潔白な為人でいてもらう必要があり、汚れ役は自分が引き受ければ良い、と隆景は考えていた。そこまで考えた上で、今回もあえて酷薄な策謀を用いるつもりだったのだが――
「……全部お見通しだったんだ」
 ごしごしと目に入ったゴミを拭う隆景。
 それに対し、元春は軽く肩をすくめるのみ。
 隆元もまた、あえて言葉を紡がず、隆景の髪を梳くのであった……






 あけて翌日。
 満を持して軍を動かそうとした三姉妹のもとに、急使が訪れる。それは対岸の豊前の地に布陣する味方からのものだった。
 報告はただ一事。しかしそれは雷鳴さながらの轟音をともなって毛利軍を震撼させる。
 ――門司城陥落。
 それは毛利軍の戦略を根底から覆す重大事であった。



◆◆



「門司城が陥ちたって……本当なの、春姉?!」
「降参した門司城の守備兵は、皆、武装を解かれた上で解放された。半ばは野にまぎれたようだが、毛利の陣地まで落ち延びてきた者たちが三百人あまり。その彼らからの情報だ。真偽のほどはわからないが、おそらく間違いないだろう。関門海峡に布陣する我が軍に、大友軍が三百もの人員を費やして偽報を送る余裕などなかろうしな」
「小倉城を陥としてまだ何日も経っていないのに……速いね。さすがは戸次様」
 突然の事態に、さすがの毛利の三姫も驚愕を隠しきれていなかった。
 落ち延びてきた城兵は、門司城が落城に到った経緯まで詳細に話してくれたらしい。第一報が届いてから、ほとんど間を空けずに訪れた使者は、事細かに戦況の推移を口にした。


「……なるほど、小倉城の敗兵に自軍の手勢を紛れ込ませたのか。元はといえば同じ大友軍、紛れるのはさして難しくはあるまい」
 元春が腕組みしつつ述懐すると、隆元も頬に手をあてながら口を開いた。
「小倉城を陥としたのも奇襲なら、門司城を陥としたのも奇襲。戸次様の軍は、十日に満たない時日で信じられないくらいの距離を踏破して、その上で二つの城を陥としている。正しく疾風迅雷――私たちも急がないといけないね」
 隆元の言葉に、二人の妹は同時に頷いた。
 元春が隆元に向かって口を開く。
「私はすぐに豊前に戻ります。門司の道雪殿がすぐに寄せてくることはないでしょうが、門司が敵の手に渡ったと知られれば将兵の動揺は避けられないでしょう」
 隆元が頷き、隆景も同意する。
「うん、春姉、お願い。隆姉の言うとおり、向こうはこの短期間で尋常じゃない距離を戦いつつ移動してる。門司を陥とした大友がそのままの勢いで毛利軍を強襲しなかったのは、それだけの余裕がないからだと思う」


「うむ。あえて捕虜をこちらに放逐して情報を流したのは、毛利が敗兵に疑いを持つよう仕向けるためか」
「多分ね。落城の様子を聞かされれば、また同じ手を使うんじゃないかって心配になるもの。その不安がある限り、毛利は敗兵に武器を持たせることが出来ない。かといって追い払うことも出来ない。そんなことをすれば、毛利が他紋衆を裏切ったってことになっちゃうからね。大友軍にしてみれば、捕虜を食わせる必要がなくなった上に、相手に重荷を押し付けることができるわけだから、一石二鳥だよ」


 言っている間に、状況の厄介さを改めて思い知ったのだろう。隆景は小さくため息を吐いた。
「合理的というか、なんというか……立て続けに少数での奇襲を行うことといい、なんか話に聞いている鬼道雪の戦いぶりと随分違うような気がするんだけど、ぼく」
「そうだね。戸次様、というより大友軍の戦いは、他国から抜きん出た国力で大軍を編成して、それを的確に運用して勝利を得る正攻法。それに九州探題という名分が加わった今、まさに鬼に金棒だから、他国の軍がまともにぶつかっても勝機は薄い」
 隆元の言葉を、元春が引き取って続ける。
「だからこそ義母上が手を打ち、そのおかげで我らは互角以上の兵力で戦うことが出来ていたのですが……そのために道雪殿も策を用いないわけにはいかなかった、ということなのでしょうか」
「そう、なのかな? たしかに戸次様ほどの方だもの。大軍を手足のように操るのと同じように、小規模の部隊を操る術を心得ていて当然だけれど……」
 なにかしっくりいかない、とでも言うように隆元は小首を傾げた。


 だが、長考するだけの時間の余裕がないのも事実。
 門司という拠点を失えば、毛利軍はもとより、松山城の小原鑑元の作戦にも重大な支障をきたす。くわえて彼ら他紋衆の配下の将兵も動揺を禁じ得ないだろう。
 最悪の場合、蜂起は失敗だと考えた兵士が大量に脱落し、一気に勝敗が決まってしまう恐れがあった。
 それを防ぐためには、なによりも勝利することが肝要なのだが、敵は難攻の門司城に立て篭もるはず。いかに疲労が蓄積しているとはいえ、一日二日で城が陥ちるとも思えない。
 問題はそれだけではない。勝山城に集結している八千の軍勢を対岸に渡すためには、かなりの数の舟が必要になる。毛利水軍の主力は松山城の援護に向けられており、速やかな渡峡のためには、彼らを一度、引き返させなければならないのである。
 無論、時間さえかければ、今、海峡に展開している舟だけでも軍勢を移動させることは可能だが、その場合、全軍を渡すのに一体幾日かかることか。


「いずれにせよ、相手に貴重な時間を献ずることにかわりなし、か」
 元春がうめくように言うと、隆景はこくりと頷いた。
 頷きつつ、しかし、その顔は元春ほどに切迫してはいなかった。
「うん、そう。ならいっそのこと、目先を変えてみよう」
「目先を変える?」
「そう。報告じゃあ戸次殿の軍は千以上。ほとんど全軍を率いている小倉城を出たことになる――今、小倉城はほとんど空だよ」
 それを聞いた元春は、思わず膝を打った。
「なるほど、目先を変えるとはそういうことか。我らが小倉城を押さえ、小原殿が今のまま松山城を保てば、退路を失うのは大友軍の方だ。無理に門司城を攻める必要もなくなるな」
 大友軍が奇策を縦横に用いるのは、常のような正攻法を用いるだけの余力がないからである。その分、今の大友軍には穴が多い。戦況を見渡せば、乗じるべき隙は幾つも見出せるのである。


 元春と隆景の二人は、決断を仰ぐように隆元に視線を注ぐ。
 隆元は基本的に戦に関しては余計な口を挟まない。二人が決めたことに対し、了承を与え、その責任をとるのが自らの役割だと考えているためである。
 が、今日はいつもと少しだけ違っていた。
 今、隆元は何事か考え込むように腕を組んでおり、妹たちの視線に気付いてから腕組みを解き、口を開く。
 その口から発せられた言葉は、二人の妹が予期していたものとは異なるものだったのである……





◆◆◆




 豊前門司城。軍議の間。
 俺は傍らにいる吉継に対して、地図上の一点、門司半島の付け根にある城を指し示してみせた。
「一番望ましいのが、毛利軍が小倉城に攻め込んでくれることです。我らが門司城を確保している以上、陸ぞいに進めば後背を突かれる恐れがありますから、攻めるとすれば、おそらく水軍を用いるでしょう。この誘いの手に乗ってくれれば、この戦はほぼ間違いなくこちらの勝ちです」
 戦術の大枠については城を陥とした日にすでに話しているため、これは確認のようなものである。
 あの日の吉継は明らかに平静を欠いていたので、念のため、こうして説明しているのだ。
 幸い、吉継はもう、寡黙で落ち着きのあるいつもの吉継に戻っていた。


 ただ、こうして席を並べていると、先日の吉継もあれはあれで良いなあ、などとつい思ってしまう俺だった。
「――なにか私に言いたいことがおありですか、雲居殿?」
「い、いえ、なにもありません、はい」
 なにやら不穏な気配を漂わせながら詰問してくる吉継。
 どうも、先日のあれは、吉継にとって痛恨事であったらしい。あの時は俺も混乱の極みに達してしまったのだが、あの吉継も十分可愛らしいんだけどな――
「……雲居殿」
「何も考えていませんし思いだしてもいませんからご安心を」
 だから今にも鯉口を切りそうなその動作はやめてくださいお願いします。


 吉継との間に、なにかとても微妙な空気が流れてしまったので、あわてて軌道修正をはかる。
 つまりは説明に逃げ込むことにした俺だった。
「えーと。そうそう、こちらとしては毛利軍が小倉城に目をつけてくれれば幸いだ、という話でした」
「わざわざ捕虜を解きはなったのは、敵にその選択肢を与えるためでもあった、ということですか」
「そうです。聡い将ならば間違いなく気付くはずです。毛利軍を率いているのはあの毛利の三姉妹だとか。気付くのは間違いないと思います。問題はそこからです」
「問題、ですか?」
「はい。あちらが、俺の予想以上に賢明な人たちだった場合ですね。私が一番恐れているのは、毛利軍がこう動くときなんです」
 そう言って、俺は地図を指し示しながら、俺が考える最悪の戦況を説明する。
 吉継は食い入るように地図を見つめながら、俺の言葉に耳を傾けるのだった……
  
 



[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第二章 乱麻(七)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:dee53437
Date: 2010/09/21 21:43

 豊前国松山城。
 門司半島の付け根に位置する松山城は、豊前支配に欠かせない要衝の一つである。
 小原鑑元率いる叛乱軍と、吉弘鑑理率いる大友軍は、現在、この松山城をめぐって攻防を繰り広げていた。


 叛乱軍、大友軍、共に幾度かの戦いを経て、兵数は漸減しているが、それでも双方、一万を越える大軍を抱えており、戦力に大きな差は見られない。
 だが、それはあくまで戦場をこの地に限定した上での話であった。
 後方に広大な領土を抱える大友軍は糧食、武具などの物資の補給に関して不安はない。一方の叛乱軍には、後方で自軍を支える領土は存在せず、元々蓄えていた物資を使い果たせば、立ち枯れるしかない状況であった。
 門司城は、対中国勢力との最前線として多くの物資が蓄えられており、小原鑑元自身も密かに武器や糧食を買い集めていたが、所詮は中央から追いやられた一城主に過ぎない。備蓄といっても限度があり、万の軍勢を縦横に動かすことは無理――とは言わぬまでも、かなりの困難を伴うはずであった。


 それが開戦から今日まで、数度の戦いを経てなお叛乱軍の物資が欠乏する様子が見られない。現在、叛乱軍は松山城を背に軍勢を展開しており、大友軍はこれを半包囲する形で、陸路に関しては糧道を断つことに成功している。
 にも関わらず、何故叛乱軍は健在なのか。
 その理由は至極明快であった。
 松山城は毛利水軍による補給を受けていたのである。


 松山城に物資を運びこんでいるのは、周防灘に展開した小早川隆景率いる毛利水軍六百隻。
 本来、これを防ぐべき大友水軍は、陸戦に先立って毛利水軍と激突。主将である若林越後守の旗艦が撃沈される大敗を被り、退却を余儀なくされていた。
 制海権を奪われた大友軍は、毛利水軍を阻む術を持たない。
 小原鑑元も海岸から松山城へと続く補給路は厳重に固めてあり、大友軍がそこを衝こうとした場合、敵の主力と正面から戦いつつ、かたや松山城から、かたや海の毛利水軍から、それぞれ行われる側面攻撃を耐え凌がねばならない。
 くわえて、制海権が毛利の手中にある以上、上陸場所は敵が自由に選べるという点も厄介であった。仮に現在の補給路を断つことに成功したとしても、毛利軍が上陸場所を変えてしまえば意味がなくなってしまう。
 新しい補給路を断ちきったとしても、また別のところから――そんなイタチゴッコが繰り広げられるのは目に見えていた。
 常時、陸と海からの奇襲に備えつつ、そんな戦いを繰り返せば、遠からず将兵の負担が限界に達するのは誰の目にも明らかである。
 それゆえ、大友軍は松山城へ補給が行われる光景を、黙ってみているしかなかったのであった。



◆◆◆



 大友軍本陣。
 松山城を望む小高い丘の上で、今、二人の人物が並んで立っていた。
 いずれも大友軍中にあっては、その人ありと知られる者たちである。
 その中の一人が口を開く。その口調は波立ち、内心の苛立ちを隠しきれていなかった。
「――しかし、叔母さ――いえ、主膳兵衛様。このままではいつまでも松山城が陥ちることはございますまい。毛利とて無限の物資を抱えているわけではなし、補給時を狙い、犠牲を恐れず強攻すれば勝機はあると考えます」
 そう口にして、その人物――戸次誾は半ば見上げるように傍らに立つ相手を見やる。


 女性の身ながら、誾よりも頭一つ高い上背、全身を包む武骨な甲冑姿、長い髪は頭の後ろで簡素に黒布で結っているだけである。
 ただ純粋に、戦に臨むことだけを考えた女武者の姿。しかし、ただの戦装束も、この人物がまとえば、見る者に大河を望むかのごとき清冽な心持を芽生えさせる。
 吉弘主膳兵衛紹運。
 その紹運は誾の母である吉弘菊の妹、つまり誾にとっては叔母にあたる。
 まだ若く、しかも女性の身でありながら、スギサキの誉れも高く、大友家にその人ありと謳われる勇将。
 義母である戸次道雪に優るとも劣らないその威風は、いつか両者に追いつきたいと念願する誾に、道程のはるか遠きことを無言のうちに教え諭すようであった。


 その紹運は甥の言葉に軽やかに頷いて見せる。
「確かにそれはそのとおりだろう。だが、代償として我が軍も少なからぬ痛手を被ることになる」
「はい。ですが、このままこの地で対峙を続ければ、大友軍恐るるに足らずと考えた裏切り者がさらに現れるのではございますまいか。鑑元に続く謀叛者を出さない意味でも、ここは巧遅より拙速を尊ぶべきと考えます」
 無論、と誾は続ける。
「門司城が陥落したとすれば、話は違って参りましょうが――いかに伯耆守様が率いるとはいえ、二千に満たない兵士で門司城を陥とすのは難しいのでは、と」


 小原勢の後方を撹乱し、父の部隊と合流した紹運は、その時点で今回の戦における作戦を父に説明している。その場にいた誾も当然そのことを知っていた。
 だが、それを聞いてからというもの、誾は内心の腹立ちを抑えきれずにいた。
 作戦の骨子は少数の部隊による奇襲と陽動――そういえば聞こえは良いが、要は少数の戸次勢を危険に晒し、勝算の薄い戦いを繰り返すだけではないか、と。
 しかも小倉城の奪還だけでも十分に危険が伴ったというのに、さらに門司城にまで奇襲をかけるという。紹運の手勢である七百名が抜けた今、戸次勢は千五百名しかいない。死傷者を数に入れれば、戦える兵力はもっと少ないだろう。そんな戦力を率い、敵の領内を長駆した上で難攻の城と名高い門司城に奇襲をかけるなど正気の沙汰ではない、と誾には思われてならなかった。


 諸国には鬼道雪などと恐れられていても、道雪も、配下の将兵も人の身である。矢の一本、あるいは石の一つでも当たり所が悪ければ死んでしまうのだ。
 道雪自身が考案した作戦であればともかく、他者が世評のみをもとにして組み上げた今回の作戦に、誾は虚心ではいられなかった。
「率直に申し上げれば、小倉城で得た勝利さえ僥倖ではありませんか。この上、門司城まで奪おうとするは、隴を得て蜀を望むもの。伯耆守様は雲居なる策士の言をそこまで信じておられるのでしょうか?」
 誾の声は低く抑えられていたが、端々ににじみ出る反感は隠しようもない。


 そんな誾の様子を目の当たりにして、紹運はやや意外の観を拭えなかった。
 この甥が、ここまで他者に対して好悪の念をあからさまにするところを見た記憶がなかったからである。
 めずらしいこともあるもの、と内心で呟きながら、紹運は誾の問いかけに対し、ゆっくりと頷いてみせる。
「信ずるに足る。それが義姉様の、雲居殿へのご判断だ。それに私から見ても、現在の大友家の窮状を打開する策として、雲居殿の考えがもっとも秀でていると思える」
 確かに誾が危惧するとおり、今回の戦において、綱渡りにも似た局面が幾つもある。しかし、現状で安全確実な策などありえない。雲居の策には、大友家の将兵が命を懸けるに足る成算がある、と紹運は考えたし、道雪もまたそう判断した。だからその策を採ったのだ、と紹運は言う。


 紹運ほどの人物にそう言われてしまえば、誾としてもそれ以上の不満を口にすることは慎まなければならない。
 実際、雲居の策に優る代案が、誾の胸中に眠っているわけではないのである。他人の策の欠点を言い立てるならば、それに代わる策をたてなければならない。それを自覚するゆえに誾は口を噤む。
 そして、自問する。そも、それを承知しているのであれば、自分は何に対して腹を立てているのだろうか、と。 
 自答は得られなかった。何かが咽喉元までせりあがってはきたものの、それは明確な答えとしての形を持っていない。見たこともない人間に内心をかき乱されたようで、誾は不快さをこらえるために奥歯をかみ締める。



 すると、そんな誾の内心の煩悶を断ち切るかのように、第三者の声が響いた。
「ここにおったか、二人とも」
 姿をあらわした甲冑姿の偉丈夫は、紹運にとっては父、誾にとっては祖父――すなわち、この方面の大友軍を統べる吉弘鑑理、その人であった。
「父上」
「左近太夫様」
 誾と紹運は同時に頭を下げる。
 が、鑑理は軽く手を振って、この場では儀礼は不要だと告げる。そして、さらりと重大な報告を口にした。
「今しがた、戸次殿から使者が参った――門司城が陥ちた、とのことだ」
 な、と低く呻いたのが誾。
 紹運は無言で小さく頷いたのみであった。



 それは紛れも無く吉報であったが、喜び勇んでばかりはいられない。大友軍にとって、ここからが正念場であった。
「問題はこの後だ。当初の予定では、門司を奪われたことを知った毛利軍が退いてから、小原殿の下へ使者を出す予定であったが――」
「は、仰るとおりですが、なにか差し障りがございましたか?」
「うむ。使者殿によれば、あるいは毛利水軍は松山城から引き上げぬかも知れぬ、とのことでな」
「それは……」
 鑑理の言を聞いた紹運の顔がわずかに強張った。



 関門海峡を押さえる門司城を失えば、小原鑑元の影響力は激減する。各地の他紋衆は蜂起をためらうであろうし、そうなれば毛利家も手を引く可能性が高い、と大友軍は予測していた。
 何故なら、毛利が欲するのはあくまでも海峡の支配権であると考えられるからである。それが望めないのであれば、毛利は速やかに兵を退くだろう。制海権を握っているとはいえ、松山城への継続的な援助が毛利家にとって少なからぬ負担になっていることは誰の目にも明らかであった。


 門司城を失い、毛利の後詰を失えば、いかに小原鑑元が歴戦の武将とはいえ、それ以上の抗戦は不可能になる。仮に鑑元やその側近がなお戦いを続けようとしても、兵士たちが戦意を保てるとは思えない。
 門司城が陥ち、毛利水軍が姿を消した段階で降伏勧告の使者を送ることは、当然の行動といえる。


 そして今、門司城は陥落した。
 しかるに、道雪は毛利水軍が松山城から退かないかも知れないという。
 それはつまり――と、紹運は今回の作戦が披露されたときのことを脳裏に思い浮かべた。



◆◆◆



 今回の戦に先立ち、雲居筑前は角隈邸で道雪や紹運に対してみずからの策を披露した。その際、門司城を陥とした後に起こるであろう状況について、雲居は次のように予測していた。
『大友軍が門司城を奪った後、毛利軍がそのまま安芸に戻ってくれれば問題はないのですが、毛利家とて今回の戦でかなりの大軍を動かしており、成果のないまま引き上げることをよしとはしないでしょう。であれば、最も可能性が高いのは門司城を強襲することです』
 毛利軍が門司城に攻撃してくること、それ自体は構わない。問題は毛利の水軍がどう動くかであった。
 作戦通りに戦況が推移した場合、この時点で毛利の水軍は周防灘で松山城を援護しているはず。
 その彼らが船首を返して門司城攻撃に加わればよし。しかし、あるいは大友本隊を松山城に釘付けにするために、あえてそのまま海上からの援護を続ける可能性もあった。


 叛乱軍にしてみれば、たとえ門司城を失ったとしても、毛利の援護があるかぎり戦を続けることは可能であり、素直に降伏を肯うとは考えにくい。
 それゆえ、毛利水軍を釣るための餌が必要であった。その餌となるのが小倉城であった。
 門司城ほどではないにしても、小倉城も重要な拠点である。否、博多津の支配という観点から見れば、必須とも言える位置に小倉城はある。その城がほぼ無傷で手に入れられるとあらば、間違いなく毛利は動くだろう。


 そのために、あえて小倉城が空であることを毛利軍に知らせる。
 その時、毛利軍は具体的にどのように軍を動かすか。
 大友軍が門司を押さえている以上、陸伝いで小倉城に向かえば、その後背を衝かれる危険がある。であれば、水軍を用いるしかない。すると、必然的に松山城から毛利水軍の姿は消え、叛乱側は孤立し、将兵の士気は阻喪する。小原鑑元は降伏勧告を受け入れざるを得なくなるだろう。



 ――叛乱軍をして、降伏もやむなしと判断せざるを得ない状況に追い込むこと。それが雲居筑前の策の全貌であった。



 雲居はさらに言葉を続けた。
『元は旗を同じくする両軍です。流れる血の量は少なければ少ないほど良いでしょう。大友軍が相討ったところで、喜ぶのは他家ばかりです』
 小倉城の奪取も、門司の強襲も、すべては他紋衆を追い込むための作戦行動の一つ。
 吉弘鑑理率いる大友本隊にあえて松山城を放棄させ、香春岳城まで敵を誘き寄せたのは、小倉城と門司城から敵の主力を引き剥がす意味もあるが、それ以上に両軍がぶつかるのを出来るかぎり避けるためでもあった。
 紹運が小原勢の後背を衝いて退却させた後、鑑理に追撃を控えさせたのも同様。
 すべては、最小限の被害で、敵を追い込む為の布石であった。


 それを聞き、紹運は思う。
 大友家が置かれた戦況を考えれば、小原鑑元率いる叛乱軍を撃ち破ることさえ困難であるはずだった。にも関わらず、雲居が考えていたのは彼らを敵として撃ち破る方策ではなく、これから先――この戦よりもさらに先のことを踏まえ、敵味方の損害を少なくした上で、いかに相手を降伏まで追い込むか、というものであった。
 そして、雲居は事も無げにその方策を編み出した。机上の空論ではなく、確固とした実現性を備えた方策を。


 ――あの時、自らの背筋に走ったものが何であったのか。今なお紹運は適切な言葉を見つけ出すことが出来ずにいる。





 ただ、その際、雲居は一つの危惧を漏らしていた。
 小原鑑元らの叛乱軍と、毛利軍の紐帯を崩すためには、互いの急所を衝く必要がある。雲居が今回の作戦において、随所で毛利元就の謀将という評判を計算に入れ、叛乱軍の疑心を煽ろうとするのはその一環であった。
 同時に、毛利軍の動きを予測するに際し、雲居はその指標に『利』を置いていた。


 ――叛乱軍に与しても利がないことを示せば、毛利軍の戦意は失せる。
 ――陥落させた小倉城をあえて空城にして放置すれば、利を求める毛利軍はそちらに誘導できる。


 毛利軍は利をもってすれば動かせる。そう考えて雲居は作戦を組み立てたのである。
 そんな毛利軍を目の当たりにすれば、叛乱軍もまた、毛利軍が信用するに足らない相手であると認識するだろう。毛利という後ろ盾がなくなれば――より正確に言えば、そう叛乱軍側に思い込ませることが出来れば、この戦は終結するのである。


『逆に言えば』
 雲居はかぶりを振りつつ、口を開いた。
『毛利家が目先の利を捨てて行動した場合、それに対応するだけの余地が、私の作戦にはありません。毛利家が叛乱軍へ本腰を入れて援助を続ければ、戦いは長引かざるを得ないのです』
 毛利軍が小倉城に目もくれず、あくまで門司の奪取と松山城の救援に主眼を置いて軍を動かした場合、大友軍は苦戦を余儀なくされる。
 そうなれば、他の他紋衆や、大友家に従うことをよしとしない筑前、筑後をはじめとした各国の国人衆たちが一斉に動き出してしまうだろう。
 それはこの戦の敗北を意味すると同時に、九国探題たる大友家の威信に深い傷跡を残すものとなってしまうことは確実であった。



◆◆◆



 紹運がそのことを口にすると、鑑理は腕組みしつつ、考えを纏めるように口を開いた。
「門司城を陥とした後も、毛利水軍が退かない。それはつまり毛利が小倉城に水軍を動かさないということ。毛利は利ではなく、信を以って此度の戦に臨むつもりと見て良いか」
「はい。義姉様がそう伝えてきた以上、おそらく門司の毛利軍が相応の動きをしているのでしょう。毛利軍が小倉城という餌に飛びつかず、さらに損得を度外視して鑑元殿らに助力するとなると、厄介なことになります」
 毛利軍にとって、今回の戦いは家運を懸けた一大決戦というわけではない。紹運もまた、雲居と同じように、毛利軍は小倉城に攻め寄せるか、あるいは戦況が不利になったことを鑑みて、傷が浅いうちに兵を収めると考えていた。
 あにはからんや、本拠地を失った小原鑑元らに対し、毛利家が本腰を入れて援助をしようとは。
 ことによっては、此度の戦は大友家の衰運を招くものとなりかねない。
 自然、紹運の顔が厳しく引き締まった。




 ここではじめて、誾が口を開いた。
「敵の水軍はこれまで補給に専念しておりましたが、こちらと矛を交えるつもりになったとすると……どこからでも上陸できる彼らへの対処は困難を極めます」
 それだけではない。
 松山城の小原鑑元。周防灘の小早川隆景。それにくわえて、門司方面からも毛利軍が来襲した場合、この地の大友軍だけでは凌ぎきれないだろう。かといって、鑑理らが退却してしまえば、門司城の戸次勢が完全に孤立してしまう。


 今回の奇策の種ともいえる叛乱軍と毛利軍、両軍が抱える疑心。
 その疑心を巧みに突くことで、大友軍は門司城を得て。
 ひとたび逸らされたことで、たちまち危地に陥った。
 だからこそ、奇策は用いるべきではない、と誾は思う。それを用いるべきは、本当にそこにしか活路を見出せない時であるべきではないか。


 今回の戦で言えば、大友軍は叛乱軍に優る兵力を有していたのだから、はじめから道雪と鑑理の軍を合流させ、正攻法で押していけばそれで良かったのである。たしかに長期戦は望ましくなかったし、毛利勢を併せれば数の優位は覆されるが、道雪、鑑理、紹運ら大友の誇る名将たちが揃い踏みなのだから、いかようにも手をうつことは出来たはずだった。少なくとも、正攻法を用いていれば、道雪らが敵地のど真ん中で孤立するような戦況に陥ることはなかったはずだった。 

 
 とはいえ、今それを口にしたところで、繰言にしかならないことは誾も承知していた。
 今、求められるのは現状の打開である。
 しかし、それが困難を極めることは瞭然としていた。
 時が経てば経つほどに大友軍は不利になっていく。逆に言えば、門司城を陥とし、そのことを叛乱軍が知らない今この時が、大友軍が主導権をとることができる唯一の機会であろう。
 それを活かす方策は――と、誾が考えを進めようとした時だった。 
    




「――ここにおられましたか」
 そんな声と共に、見覚えのない人物が姿を見せた。
 戦場のただ中にあって、微笑めいた表情を浮かべる青年。誾に見覚えがないということは、少なくとも大友軍の士分の者ではないはずだった。
 何者か、と誾は無意識に腰の刀に手を伸ばしながら警戒の視線を向ける。周囲に兵の姿がないとはいえ、ここは大友軍の本営である。曲者が容易に侵入できるはずはないが、万一ということもある。


 そう考えた誾が、詰問のために口を開きかけた途端、それに先んじて口を開いた者がいた。紹運が驚きの声をあげたのだ。
「雲居殿、何故ここに……義姉様と共に門司城にいたのではなかったのか?」
「戸次様からの使者としてまかりこしました。毛利軍が厄介な動きを見せていることの報告と、その対策のため、といったところです」
 その言葉で、誾は目の前にいる人物が誰であるかを知る。
 しかし、警戒の念は緩むことなく、むしろさらに増したといってよい。
 ――雲居筑前。
 誾が胸中で青年の名を呟いた途端、まるでその声が聞こえたかのように青年の眼差しが誾に向けられ――そして雲居は、誾の勁烈な眼光に気付き、戸惑ったように目を瞬かせるのだった。
  
  



[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第二章 乱麻(八)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:dee53437
Date: 2010/09/21 21:42

 時を少し遡る。


 ほぼ当初の計画どおりに門司城を陥とした大友軍は、勝利の喜びに浸る間もなく篭城の準備にとりかかった。
 怪我人の手当てをし、城門や城壁の損傷具合を確認し、城内に敵兵が潜んでいないかを確かめ、武具糧食を点検し――やるべきことはいくらでもあった。早ければ明日にも毛利軍が城へ押し寄せてくる以上、時間はあまり残されていない。すべてを迅速に進めなければならなかったのである。


 だが。
 案に相違して毛利軍が押し寄せてくることはなかった。
 当初、関門海峡を渡っていた毛利軍は三千。こちらの兵力がその半分に満たないことは解きはなった捕虜の口から知らされているはずである。くわえて、大友軍は豊後を発してよりこの方、小倉城、門司城と敵地を長駆して連戦したため、重い疲労を抱えており、この地で鋭気を養っていた毛利軍との戦いでは不利を免れない。


 にも関わらず、毛利軍の指揮官である吉川元春は動かなかった。調べてみると、毛利軍は新たに到着した毛利隆元率いる八千の援軍の渡峡を厳重に守備しているという。 
 関門海峡は対岸を目視で確認できる程度の幅しかない。だが潮流の速さと、日に幾度も流れが変わる複雑さが、渡峡の難度を跳ね上げていた。まして八千の大軍を、水軍の力を借りずに渡すとなれば、一日二日で為せるものではない。大友軍の奇襲を防ぐ意味でも元春は動けなかったのだろうと思われた。


 連戦の疲労を癒し、守備を固める時間を得られたという意味で、この毛利軍の判断は大友軍にとって僥倖であると考える者もいたし、実際、その通りではあった。
 だが、俺はそれを素直に喜ぶことが出来なかった。得られた時間よりも、毛利軍が示した慎重さこそが恐ろしかったからである。
 正直なところ、俺としては元春に攻めかかってきてほしかったくらいであった。彼我の戦力や状況を考えれば、元春麾下の三千のみでの城攻めという手段は決して無謀なものではない。むしろ、こちらが城を陥とした間際こそ、もっとも奪還が容易であると断じても良いだろう。
 そうして戦に引きずり込んでしまえば、敵の対応も予測しやすい。だが、あえて捕虜を解放して、こちらの内実をさらけ出して見せたにも関わらず、毛利軍は動かなかった。


 あるいは、少し手の内を晒しすぎたか、と俺は小さく嘆息する。
 度重なる奇襲、そして鬼道雪がみずから軍を進めてきたことを知った毛利軍が性急な攻撃をためらうのは、ある意味で当然のことかもしれない。
 だが、ただでさえ八千もの想定外の援軍が加わった毛利軍に、冷静に構えられてはこちらが付け入る隙がなくなってしまう。というか、口からでまかせで出した八千という数字が、本当に敵方に加わるとはさすがに予想だにしていなかった。
 なにより一番まずいのは――
「これは小倉城の方も見抜かれたかな?」 
 無論、今の段階で断定はできない。陸兵が門司城を攻めるのはほぼ確定だが、水軍の方がどう動いたかまではわからず、あるいは今頃、こちらの思惑通り小倉城を攻めるために周防灘から関門海峡に向かっているという可能性もないことはないのだが……海峡付近に布陣する毛利軍の、磐石さを絵に描いたような陣構えを聞くに、水軍のみがこちらの期待通りに動いていると考えるのは楽観のそしりを免れないと思われた。


 ――利に惑わず、策に頼らず、正攻法をもって大軍を動かす毛利軍。


 先日吉継に話した、俺が予測しえる戦況の中で最悪のもの。それが、どうやら現出してしまったようだった。
 策に頼らざるを得なかった大友軍と、策に頼る必要のなかった毛利軍。それは端的に現在の大友、毛利、両家の勢力の差を示すものでもあったろう。


 そこまで考えて、俺は苦笑をこぼす。
「まあ、俺が言って良いことじゃないな」
 道雪殿に請われ、大友軍の策を考えたのは俺なのだ。その策が毛利軍に阻まれたからといって、責任を大友家に転嫁するようなことを考えるのはさすがにみっともない。
 となれば、ここは軍師らしく策によって状況を打開するしかあるまい。


 最悪の状況。俺は現在の戦況を指してそう言ったわけだが、それはつまり毛利軍が今のように動くかもしれない、ということを一応予測していたことを意味する。
 当然、そうなった場合に採るべき手段も考えてはいた。
 地力で優る毛利軍に対しては手出しが出来ない。必然的に策を仕掛けるのは叛乱軍ということになる。
 こういう場合のセオリーは、やはり頭立った人物を押さえてしまうことか。叛乱の首魁である小原鑑元さえ除けば、代わりに叛乱軍を率いることが出来るような人物は見当たらず、叛乱は終息するだろうと考えられた。


 まずは松山城に降伏を勧告する使者を出す。
 問題は向こうがこちらの使者を城内に迎え入れるか、という点であるが、これに関しては、門司城陥落の際にこちらに降伏してきた連中が役に立つ。彼らは末端の兵ではなく、士分の者たちであり、鑑元もその顔を知っている。彼らを連れて行けば、門司城が陥ちたという事実の証明となり、鑑元もこちらの話を聞かざるを得なくなろう。
 その際、鑑元が降伏を肯えば良し、それがかなわなかった場合、捕らえるなり、あるいは殺すなりするしかない。
 とはいえ、それが容易なことではないのは当然である。城内に入れたとしても鑑元の周囲には部下がいるし、こちらの武器は入り口で取り上げられるに決まっている。身柄を押さえるためには、素手で鑑元やその側近を制圧しなければならないわけだが、負傷した今の俺にそんな真似は不可能である。無論、負傷していなくても不可能だが。


 では、どうするか。
 それを考えたとき、俺の脳裏に浮かび上がったのは、いつぞや南蛮神教の女性から取り上げた短筒であった。鉄砲が普及してきたといっても、あれはまだ量産にも至っていない最新鋭の技術の塊。怪我で身体のあちこちに布が巻かれている今の俺ならば、隠す場所には事欠かないし、向こうも俺のような無名の若造をそこまで警戒することはないだろう。
 鑑元を押さえてしまえば、その隙に強襲をかけて松山城を陥とすことは不可能ではないはずだった。



 だが、この考えは早い段階で捨てた。
 理由は言うまでも無く成功の確率が低いからであるが、この策の成否以前に降伏勧告にも影響が出そうだったから、ということもある。こういった謀略を秘めて相手に対すれば、降伏を勧める言葉に実が伴わない。向こうとて戦乱の世を生き抜いてきた武将である、こちらの狙いを見透かすことは出来ずとも、語る言葉に誠意や真情が含まれていないことは察してしまうだろうと思われたのだ。
 くわえて言えば、仮に成功したとしてもこの方法では間違いなく後に禍根を残す。無論、失敗すれば俺の身がどう処されるかなど考えるまでもなく――脳裏によぎった、柳眉をつりあげ、あるいは涙を滲ませて此方を見つめる人たちの顔が、この策を採ることを俺にためらわせたのである。



 ではそれ以外の策を考えたのか、と問われれば、実のところ首を横に振らざるを得なかった。何故といって、道雪殿が『その必要はありません』と静かに断言したからである。
 当然、俺はその言葉に対して疑問を投げかけた。
 最悪の状況に陥ってしまった時、それを打開するための策が必要ないとはどういうことか、と。
 漫然と状況に流されていては、毛利軍の圧力に磨り潰されるのを待つばかりだ。そんなことは道雪殿も承知の上だろうに。


 だが、道雪殿は穏やかに微笑むばかりで確たる返答はくれず、俺は追求しそこねてしまった。
 まあ、そもそも最悪の状況などと言っても、そこに到るまでには小倉城への奇襲、門司城への強襲など綱渡りの連続なのである。そんな先の先のことを考えている暇があったら、もっと至近の難問について考えるべきだ、と道雪殿は言いたかったのかもしれない。 
 俺はそう考え、一旦、疑問を封印したのである。


◆◆


 そして今に至り、俺は無策で最悪の状況に対面することになってしまったわけである。無論、道雪殿のせいだ、などというつもりは微塵もない。あの時点で何をどう考えたところで、今の戦況に即した名案が思い浮かんだはずもなし。というか、この戦況をあっさりと覆すことが出来るのなら、俺はそれだけで飯を食えるだろう。
 しかし、さて、本気でどうしたものか。座り込んで腕を組む。こうすると――
「ポクポク……チーン、と名案が思い浮かぶ――わけないか」
 我ながら妙なことを考えてしまった。やはり疲れているのかな、と首を傾げると、不意に背後から声がかけられた。



「これは軍師殿。このようなところにお一人で、何を考えていらっしゃったのです?」
「わッ?! と、これは戸次様」
 振り返れば、そこには車椅子に掛け、微笑を湛えた道雪殿の姿があった。俺は足を組みなおし、慌ててかしこまる。
 その慌てぶりがおかしかったのか、口元に手をあてて笑いをこらえる道雪殿。その姿は、俺の目には常といささかも変わらないように映ったが、無論、そんなはずはなかった。
 道雪殿には俺と違って一軍の指揮官としての責務がある。度重なる移動と戦闘に俺以上に身心に疲労を抱えているのは間違いない。にも関わらず、眼前の佳人の表情や態度にはそういったものが欠片も感じられないのだ。指揮官が焦燥や苛立ちを面に出せば、麾下の将兵が動揺する。それをわきまえた道雪殿の振る舞いは、実に見事なものと感心するしかなかった。



 しかし、それはそれとして、いつぞやもそうだったが車椅子で音も無く背後に忍び寄るのはやめてほしいのですけれど。
 俺が控えめにそう口にすると、道雪殿は小さく首を傾げた。
「これは異な事を。わたくしは普段と同じように雲居殿に近づいただけですよ。気がつかなかったのは、そちらが他のことに気をとられていたからではありませんか?」
 にこやかにそう言われてしまえば、返す言葉がない。というか、もしかして――
「あの、戸次様、いつからそこに……?」
「今しがたですが、それがなにか?」
「い、いえ、特に何かがあるというわけではないのですが……」
 もしや今のぽくぽく、ちーんという独り言、思い切り聞かれてしまっただろうか。それはさすがに恥ずかしすぎる。


 かといって、聞いていましたかと確認をとるのも躊躇してしまう。道雪殿の耳に入っていなかった場合、追求は避けられないだろうし、聞かれたらどう説明していいかわからん。
 よって、ここはささっと話題を変えて誤魔化してしまうべし。
「ところで戸次様、何かわたしに御用がおありだったのでは?」
「朝餉の用意が整ったとのことなので、皆で共に、と思いまして。今後のこともあります。食べられる時にしっかりと食べておきましょう」
 その言葉に、俺は目を瞬かせる。いや、言っていることはまったくその通りなのだけれど、それをわざわざ一軍の指揮官が伝えに来るのはいかがなものか。
「それはそのとおりかと思いますが、わざわざ戸次様ご自身でお越しにならずとも……」
 傍仕えの一人にでも頼めば良いのに、と俺が言うと、道雪殿はいきなり表情を曇らせ、悲しげに俯いてしまった。


 何事か、と俺が戸惑っていると、道雪殿は何かを堪えるように唇をかみ締めて――
「戦がはじまってこの方、雲居殿と言葉を交わす機会をなかなか得られず、顔をあわせたとしても血なまぐさい話ばかり。ならばと、ほんの短い間でもお話がしたいと思い、惟信の制止を振り切ってわたくし自ら参ったのですが……雲居殿にはとんだご迷惑だった様子。申し訳ありません……」
「うぇ?! あ、いや、迷惑などということは……」
「しかし、今わたくしの顔など見たくもないと」
「言ってませんがなッ?!」
 どれだけ曲解したら、そういう結論に達するのか。
 思わず声を高めて否定する俺の顔を、道雪殿は伏し目がちにちらと見やった。
「……では、わたくしが参ったとしても構わないのですか?」
「もちろんですッ! ただ、戸次様ほどのお方が小姓のような真似をなさる必要はないと申し上げただけで、むしろ戸次様と顔をあわせるのは私も望むところ……」
 自分でも良くわからないうちに、良くわからないことを言い募る俺。今しがたも思ったが、ここ数日、戦況や今後の展開などを考え詰めだったので、少なからず疲労が積もっていたのかもしれない。


 一方の道雪殿は、俺の言葉を聞いた途端、嬉しげに顔を上げ、ぱちんと両手を打ち合わせた。
「それを聞いて安堵いたしました。では、今後も何か事あった時にはわたくし自らが雲居殿に伝えに参りましょう。雲居殿のご希望とあらば、惟信も納得してくれるでしょう。よろしくお願いしますね」
「は! もちろんでござ……」
 言いかけて、俺は唐突に口ごもった。
 ……おや?
 それはつまり、事あって道雪殿が動く都度、俺が惟信に睨まれるということではありませんか?
「……あの、戸次様。由布様にはきちんとせつめ――」
「それはそれとして」
 追求への手蔓を、笑顔を浮かべつつ容赦なく断ち切る鬼道雪。マジパネェです。



「先の問いを繰り返しますが。このようなところで、怖いほどに真剣な顔で何を考えていらしたのです、軍師殿?」
 渋面を浮かべていた俺は、その道雪の言葉におもわずはっと表情を改める。道雪殿はことさら態度や口調をかえたわけではなかったが、その眼差しは明らかに先刻までとは異なる真摯な色が浮かんでいた。
 俺が答えを返さないうちに、道雪殿はみずからの言葉を否定するようにかぶりを振って続けた。
「いえ、愚問でしたね。先日、あなたが仰っていた最悪の事態。今の戦況は、それよりもさらに悪しくなったといっても過言ではありません。そのことを考えておられましたか」
「は、仰るとおりです」
 道雪殿の言葉に、俺は頷く。
 毛利隆元の参戦に代表される、俺の予想を大きく上回る毛利家の動き。今、勝敗の天秤がどちらに傾いているかと問われれば、間違いなく敵方だろう。このままでは間違いなく手詰まりになるが、かといって簡単に打開策が出るような状況でもないのは、繰り返し考えたとおり。
 だからこそ、俺はいまだ対策を講じかねているわけだが――


 と、俺が表情を曇らせると、それを見た道雪殿がほぅっと息を吐く。そして、どこか困ったような微笑を浮かべた。
「そこまで考える必要はないと申しましたのに。その様子では随分と心を悩ませていたようですね。申し訳ないことをしました」
 その道雪殿の言葉に、俺は怪訝な表情を浮かべる。
 あるいは道雪殿には何らかの腹案があるのかもしれない、とは考えていたが、道雪殿自身が口にしたように、戦況は俺が考えていたよりも悪い方向に傾いている。生半なことでは事態の打開は難しいはずなのだが、道雪殿の様子を見るに、どうもそのあたりのことを大して気にかけていないように見えたのだ。
 

 そんな俺の疑問を察したのだろう。道雪殿はゆっくりと口を開いた。
「『門司を陥とし、他紋衆の叛乱がこれ以上拡がらぬうちに食い止める』こと。石宗様のお屋敷で助力を請うたわたくしに、あなたはそう言ってくださいました。そして、今、あなたの言葉どおり、門司城は大友家の手に帰りました」
 一旦、言葉を切った道雪殿は、俺を――というより、俺の身体のあちこちに巻かれた布に暖かな眼差しを向けつつ、さらに先を続けた。
「大友家に仕えているわけでもないあなたを戦場に連れ出し、その智に頼った。今でさえ、わたくしはあなたに返しきれない恩があるのです。これ以上の成果を求めては、望蜀も甚だしいというもの。わたくしはそこまで浅ましくはありませんよ」
 そう言うと、道雪殿は繊手を伸ばし、俺の額を人差し指でつんと突付いた。



 突然のことに、目を瞬かせる俺を見て道雪殿は楽しげに微笑んだが、すぐに表情を改め、言葉を続けた。
「心配はいりません。門司が陥ちた今、毛利家はともかく、鑑元殿はこれ以上の戦を望まないでしょう」
 ひとたび本拠地を失ったことで、鑑元の権威は大きく衰えた。たとえ毛利の力をもって奪還することが出来たとしても、取り返された門司城は鑑元の物ではありえない。失墜した発言力は戻らず、これまでのように対等に近い立場で毛利家と駆け引きをすることは出来なくなり、鑑元は実質的に毛利家の与力に成り下がる。


 鑑元の目的が自身の権力、あるいは大友家への恨みだけであるのなら、毛利家の下につくことになっても問題はないかもしれない。だが――
「大友宗家、そしてわたくしども同紋衆への恨みや憎しみがないわけではないでしょう。しかし、あの御仁は大友家を滅ぼすことも、それに成り代わることも望んではおりません。毛利の誘いに乗ったのは、主家を案じるゆえにこそなのです」
 そして言う。だから、門司城が『小原鑑元』の手から失われた段階で、彼の将の抗戦の意味は失われたのだ、と。



 その道雪殿の言葉に、俺は首を傾げざるを得なかった。
 毛利が鑑元に手を差し伸べた理由は幾つもあろうが、もっとも大きなものは関門海峡の支配権を欲したからであろう。門司城を押さえる鑑元が、そこに目をつけて毛利軍を引き出し、その力を利用しようとしたというのはおおいに有り得る話である。
 そして、大友軍が門司城を奪回した今、鑑元の手からその切り札は失われたというのも理解できる。
 しかし、鑑元の目的が大友家を滅ぼすことではなく、糾すことであり、門司城を失っただけで抗戦を断念するというのは、いささかならずこちらに都合が良すぎる考えであろう。
 毛利軍が叛乱軍から手を引き、独自の動きをはじめたというならまだしも、その確認もとれないうちに、どうして道雪殿は断言できるのだろうか。


 俺はそんな疑問を覚えたのだが、道雪殿には深い確信があるようだった。その確信の理由は俺にはわからない。おそらく大友家に仕える者だけが知る何かがあるのだろう、とそう思う。
 それならそれで、もっと早くにひとこと欲しかったと思うが、よくよく考えてみると、俺は敵将である小原鑑元の為人をろくに確認しようとしなかった。
 武名の高い他紋衆が、加判衆を辞めさせられた末に毛利家と手を結んで謀叛を起こした――ただこれだけで、大方の鑑元の人柄は把握したつもりになっていたのである。


 その意味で、責は俺にもある。
 まあ実際、事前に鑑元の目的を知っていたとしても、門司城を陥とさなければならないという状況に変わりは無かったわけで、俺の策に影響が出ることはなかっただろう。無論、道雪殿はそのあたりも考えた上で口を緘していたのだろうし、そうせざるを得ない理由もあったのだろう。
 そんなことを考えていると、ふと道雪殿がじっとこちらを見つめていることに気付いた。
 優しげな眼差しと真正面から見詰め合う形になり、俺は気恥ずかしくなって慌てて視線を逸らす。こちらの心のヒダまですくいとってしまうこの眼差し、ほとんど凶器ではなかろうか。



「雲居殿」
 穏やかな声音が、俺の耳朶をくすぐるように間近から発せられる。
「本来、あなたと大友家とは何の関わりもない身。此度の戦も、参加しなければならない謂れはあなたにはありませんでした。にも関わらず、あなたはわたくしの請いを容れてくださった。そのことは心より感謝しています」
 ですが、と道雪殿は表情を曇らせつつ、言葉を続ける。
 だからこそ、伝えずにおいたことがある、と。




 それは大友家にとって秘事であり、禁句。
 大友家の先代当主義鑑(よしあき)、現当主の宗麟、そして道雪殿や紹運殿、さらには今現在の敵手である小原鑑元を含めた多くの大友家臣たちを混迷の淵に叩き込んだ大乱。
 家中で語ることさえ憚られている出来事を、容易く外様の人間に話せるわけがない。それは大友家の秘事を晒すことであり、それを話した者はもとより、聞いた者さえどのような災禍に巻き込まれるか知れたものではないからである。


「此度の乱の淵源はそこにあります。鑑元殿が何故に此度の乱を起こしたのか、その理由も。安易に口にするべき事柄ではありませんし、間もなくこの地を離れるあなたにとっては知る意味は少なかろうと、これまでは口を閉ざしてきたのですが……」
 そこまで言って、道雪殿は一転、悪戯っぽく微笑んだ。
「率直に言って、わたくし、少々欲が出てしまいました」


「欲、ですか?」
 どういう意味だろうと首を傾げる俺に向け、道雪殿は例の眼差しを向けつつ、ゆっくりと口を開いた。
「雲居殿が知る大友の臣は、わたくしと紹運、鎮幸や惟信といった者たちです。そして遠からず、吉弘鑑理殿や、わたくしの養子である誾の顔を知ることになるでしょう。しかし、それだけではなく他の臣たち――味方ばかりでなく、今は敵となっている鑑元殿ら他紋衆の者たちを含めて、大友家と、大友家に仕える者たちのことを、もう少し雲居殿に知って欲しくなった――そういう意味です。もちろん、知ったがゆえに厄介ごとに巻き込まれる危険もないわけではありませんから、無理にとは申しませんが」
 いかがでしょうか、と小首を傾げて問いかけてくる道雪殿。


 ――はい、その視線と仕草だけで断るという選択肢は一瞬で消滅しました。


 もちろん、道雪殿の薫るような色香に惑わされただけではなく(惑わされたこと自体を認めるのに吝かではない)、大友家にとっての秘事――おそらく他者に知られることは出来るかぎり避けたいであろう出来事を話してくれるほどに、道雪殿が俺を信用してくれたことが嬉しかったという理由もある。
 そこまで考えた時、ふと気付いた。
 もしかしたら、このために道雪殿はひとりで俺のところに来てくれたのかもしれない、と。





 かくて、俺は道雪殿の口から、一つの乱を聞くに至る。
 古く鎌倉の時代まで遡る長い長い大友家の歴史の中で、血文字をもって記されるであろう悲劇。
 あの戸次道雪をして、思い返すことさえためらわせるその大乱の名を『二階崩れの変』といった……


 



[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第二章 乱麻(九)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:dee53437
Date: 2010/09/22 00:11

 大友家の家督を巡って起きた大乱――『二階崩れの変』
 戦乱の世にあって、親兄弟で権力を求めて争う話は枚挙に暇がない。
 それは大友家のように実力、名分共に兼ね備えた大家であっても例外ではなく――むしろ大家であるからこそ、その巨大な権力を巡る争いはより熾烈に、酷薄になっていくのかもしれない。
 


 大友家の先代当主義鑑は、自身が家督を継ぐ際に後継争いを経験している。結果として、義鑑は一族の大友親実を退け、第二十代大友家当主として立つことが出来たのだが、しばらくは乱の影響で国全体が不穏な状況に置かれ、他国の侵入を招きかねない事態に至ったという苦い思いを味わった。
 この経験を鑑みて、義鑑は早い段階から後継者に意を用いた。
 幸いというべきか、義鑑には義鎮(宗麟)という正嫡の跡継ぎがおり、幼い頃から聡明さと情け深さを併せ持った傑物であると評判が高かった為、跡継ぎを誰にするかに関しては悩む必要はなかった。
 後は内外に義鎮が後継者であることを明らかにし、他者が付け入る余地のないようにしておけば、家督を譲る際の混乱は最小限で済むであろう。義鑑はそう考えたのである。


 この義鑑の行動は大家の当主として称揚されてしかるべきものであった。もし家督相続が穏便に進められていたのならば、大友家の勢力を伸張させた功績とあいまって、大友義鑑の名は類稀な英主として、大友家の歴史に刻まれたに違いない。
 だが、義鑑はある時を境に娘である義鎮に家督を継がせることを危惧するようになっていく。
 その切っ掛けは、義鎮が南蛮神教の洗礼を受けようとしたことにあった。義鑑は南蛮神教に対して寛大な態度をとりつづけてきたが、それはあくまで交易の利を得るためであり、南蛮神教の教えに関しては無関心――というより、むしろ嫌悪していた。義鑑の目には、神を唯一絶対のものとする異国の教えは、日の本という国、ことに武士や大名の在り方とあまりにかけ離れていると映ったのである。


 だからこそ、娘が南蛮神教の洗礼を受けることを義鑑は許さなかった。これが市井の民であればともかく、次代の大友家を継ぐべき人間が異国の教えを奉ずるなど見過ごせようはずがない。
 大友家に仕える者の多くは、仏教をはじめとした古来より日の本に根付いた教えを、ごく素朴に信仰している。そんな彼らの上に、南蛮の教えを奉じた人間が立つと知られれば、家臣や領民の動揺は避けられず、最悪の場合、謀叛に到る恐れさえあったのである。


 結果として、この時、義鎮は洗礼を許されず、大友宗麟の誕生は後年へと持ち越される。
 この出来事に直接関わったのは、義鑑、あるいは義鎮に近しい者たちであり、彼らはこの話が家中に広がらないように腐心しなければならなかった。次代の大友家を担う者が、洗礼を望むほどに南蛮神教に傾倒していると知られれば、その影響は計り知れない。
 だが、当の義鎮はこの時、洗礼をうけることを断念したわけではなかった。ただ父の強硬な反対にあったために一時的に希望を抑えていたに過ぎず、この後も度々洗礼のことを口にするようになったため、いつか家臣のほとんどが義鎮が洗礼を望んでいることを知るに到っていた。


 この義鎮の振る舞いが、また義鑑にとっては不快であった。異教への傾倒ぶり、みずからの言動が家臣たちへ与える影響を理解していないと思われる娘の振る舞いを目の当たりにした義鑑。その胸中に、今後の大友家を娘に託すことへのはっきりとした危惧が生じたのはこの時であったのかもしれない。
 それまで大友家の父娘の間には、諍いらしい諍いが起きたことはなかった。だが、この洗礼騒動は父と娘の間に大きな歪みを生じさせる。その歪みは時を経るごとに少しずつ、しかし確実に大きくなり、やがて誰の目にも父娘の不仲は明らかなものとなっていく。


 家督相続は、大名家のみならず、その家臣たちにとっても無視しえない一大事である。それまで権力を振るっていた重臣が、新たな主君に疎んじられ、遠ざけられるなど珍しい話ではない。
 逆に言えば、それまで冷遇されていた者たちにとって、家督相続は絶好の挽回の機会でもあった。新たな主君の寵愛を得られれば、重臣の地位さえ夢ではないのである。
 それゆえ、大名家の後継ぎの周囲には、次代の権力を欲する者たちが引きも切らずに訪れる。当然、現在の重臣たちも、次の代にも自身の権勢を維持するべく行動する。これらの争いが高じれば、家を割った争いへと発展しかねないのだが、前述したように大友家の当主である義鑑は、家督相続に関して混乱が起きないように磐石を期し、義鑑と義鎮の親子仲も良好であったため、目立った諍いは起きていなかったのである――これまでは。


 では、これからは?


◆◆  
 

 入田親誠(いりた ちかざね)という人物がいる。
 ある意味で、二階崩れの変が勃発する原因ともなった人物である。
 洗礼騒動によって大友父娘の間に生じた間隙は、その実、決して修復不可能なものではなかった。乱後、義鑑が自身の意思で義鎮へ家督を譲った一事からもそれは明らかである。
 父娘の間隙を自らの利のために拡げ、深め、ついには流血の事態にまで至らせた要因こそ、この入田親誠であった。


 もっとも、親誠が大友家の実権を狙い、事態のすべてを影で操っていた黒幕であった――というわけではない。
 入田氏は大友宗家から杏葉紋を許された同紋衆の一。その当主であった親誠は加判衆の一角に名を連ね、義鑑の信頼篤い重臣であった。
 その信頼がどれほどであったかということを端的に示す一事として、親誠が義鎮の傅役であったことが挙げられる。
 傅役とは幼少時の養育係であり、その人物が長じて成人した後の重臣候補でもある。大友家の世継ぎである義鎮の傅役に任ぜられるということは、すなわち将来における大友家の筆頭重臣の地位を確約されたに等しいのである。


 それゆえ、親誠があえて二階崩れの乱を起こす必要はなかった。そんな危ない橋を渡らずとも、ただ待っていれば大友家の実権を得ることが出来るのだから。
 義鎮は傅役である親誠を信頼し、何事につけてもその助言を仰ぎ、その言を尊重した。洗礼騒動においても、最終的に義鎮が断念したのは親友ともいえる吉弘菊の諌めと、守役である親誠の強い諫止を受けてのことであった。
 騒動の後、義鎮は父へは隔意を示したが、親誠にはこれまでとかわらない態度で接した。親誠の諫止が、あくまで大友家の安定を願ってのことであり、父に加担し、義鎮の願いを押しつぶしたわけではないと考えたからである。


 無心に親誠を慕う義鎮が大友家の家督を継げば、親誠の政策に首を横に振ることはないだろう。それはすなわち、親誠が実質的に大友家の頂点に立つことを意味する。
 ゆえに親誠がするべきことは、父娘に生じた間隙を消すことであるはずだった。この時点で義鑑は、義鎮を廃嫡し、晩年になって授かった塩市丸という男児を世継ぎにすることを考えてはいたが、義鑑と義鎮、二人の信頼を得ている親誠であれば、両者の仲を取り持つことは決して難しいことではなかっただろう。


 だが、入田親誠は義鎮の傅役たる立場を放棄し、塩市丸擁立の姿勢を明らかにする。無論、はっきりとそう宣言したわけではないが、その言動はいっそあからさまなほどに義鎮を貶め、塩市丸を称揚するものであった。
 その胸中にどんな思いがたゆたっていたのかを知る者は当人以外にいない。
 主君である義鑑の意を重んじたのか。義鎮の純真すぎる為人に危ういものを感じていたのか。大友宗家に動乱の臭いを嗅ぎ取り、みずから独立する野心を滾らせていたのか。それとも――
 

 ともあれ、大友家に時ならぬ嵐が訪れたことは疑いないことだった。
 多くの家臣にとってはまったく予想だにせぬ宗家の混乱である。戸惑うばかりの者、黙して動かぬ者、胸中の野心を隠すためにうつむく者――
 狼狽と動揺の陽炎が家中を包み込む中、真っ先に明確な動きを見せた者がいた。
 その人物の名を一万田鑑相という。
 親誠と同じく同紋衆にして加判衆の一角に名を連ね、主君の寵愛という点では親誠に優るとも劣らない鑑相は、先年、義鑑から一つの命令を受けていた――大友塩市丸の傅役たるべし、と。
 


 この鑑相が自身の立場を鮮明にしたことで、事態は次の段階へと進むのである。   



◆◆◆



 豊前国門司城。
 城内の一室で話を続けていた道雪殿が、小休止を告げるように小さく息を吐いた。それに促されるように、俺もゆっくりと息を吐き出す。知らず、息を詰めて話に聞き入ってしまっていたらしい。
 道雪殿が一旦話を止めたのが、ここまでの話に疲れたためなのか、それともこれから語る本筋を口にすることへの躊躇いのためなのかはわからない。
 俺にわかったのは、ここで話を急かしてはならないということだけだった。


 二階崩れの変についての俺の知識はといえば、精々が大友家の御家騒動程度のもの。義鑑や義鎮の名はともかく、入田親誠などは正直どこかで聞いたことがあるかな、と首を傾げるくらいにおぼろげな記憶しかなかった。
 最後に出てきた一万田鑑相の名は明確に覚えているが、それは元の世界の知識としてではない。俺はつい先日、別の件でその名を耳にしたばかりであった。あれはたしか――
「おぼえておいでですか。石宗様のお屋敷にてお話ししたわたくしの養い子、誾の父の名です」
「はい。たしか奥方の名は吉弘家の菊様と」
「ええ、そうです。紹運の姉君であり、誾にとっては実の母君。生来病弱な方でしたが、心根清く、誰に対しても柔和で優しく、それでいて決して自分を失わない強さを併せ持った……わたくしにとっても得難い友でした」
 胸裏に亡き友人の顔を思い浮かべているのだろう。寂しげに目を伏せる道雪殿の顔は、俺がはじめて見るものだった。


 そんな道雪殿を見て、俺はためらいを覚えた。
 はっきりと聞いたわけではないが、戸次誾という人物が道雪殿の養子となっているということは、実の両親はすでに他界したのだろう。そして、それが二階崩れの変と深く関わっていることは明らかであった。
 このまま道雪殿の話を聞くことは、俺が考えている以上に道雪殿にとって苦行なのではあるまいか。


「これまでのことで何かお聞きになりたいことはありませんか?」
 そんなことを考えていたため、道雪殿の問いに俺は咄嗟に応えることができなかった。
 見れば道雪殿はかすかに目を細めて俺を見つめている。その眼差しには、どこかこちらの心中をうかがうような色合いがあるように思われた。
 何故だろう、と考えてふと気付く。二階崩れの変について初めて聞いたはずの俺が、あまりに平静であることが道雪殿の疑念を呼んだのか。道雪殿の目に、俺の態度はすでに事変を知っていた者のそれに映ったのかもしれない。なお悪いことに、それは事実に即していながら、決して口に出せない類のことであったから、俺はやや慌てて口を開かねばならなかった。


「大友の中の事情はおおよそわかりました。しかし、大友ほどの大家が混乱していたのであれば、他国の介入がなかったとは思えないのですが、そのあたりはどうだったのでしょうか?」
 話題を逸らすわけにはいかず、かといって大友家内部のことについて問うのはためらわれた俺は、外の状況について訊ねてみた。
 すると、俺の問いに対し、道雪殿は困ったようにおとがいに手をあてて吐息する。
 俺は予期せぬ反応に戸惑いを覚えたが、道雪殿はその仕草については特に言及することなく、問いに応じた。
「証拠があったわけではありません。ゆえに、おそらく、としか申せませんが……」
 介入はあった、ということか。明確な証拠がなかった以上、たとえ周囲に人がいないとはいえ、この場ではっきりと口に出せないのは道雪殿の立場上当然のことだった。加判衆筆頭の言葉が、万一にも外に漏れたら大事になりかねない。
 そこまで考え、俺は先の道雪殿の仕草の意味を理解する。こんな答えかねる問いを向けられたら、それは道雪殿も困ってしまうだろう。慌てていたとはいえ、我ながら思慮が浅かった。猛省。




 しかし、聞けば聞くほどに厄介極まりない動乱だ。御家騒動などそういうものと言ってしまえばそれまでだが、これでまだ本筋に入っていないのだから、ただ聞いているだけの俺でさえため息をつきたくなる。
 かつて俺はある御家騒動の渦中に放り込まれたことがあるが、あの時、他国の介入がなかったことは稀有の幸運だったのだと今になって思い至る。


 そうして、俺が脳裏に二人の主の姿を思い浮かべている間に小休止は終わる。
 道雪殿は再び口を開き、大友家の命運を左右するに至った大乱の真相、その続きを語りだした。



◆◆◆



 洗礼騒動に始まる大友宗家の父娘の仲違いは、一万田鑑相にとって奇貨だったといえる。義鑑が義鎮を廃嫡し、塩市丸を世継ぎとすれば、その傅役である鑑相は大友家中において更なる高みに立てるのである。
 それゆえ、塩市丸擁立を目論む者たちは、鑑相が自分たちに与することを疑わなかった。誰よりも義鑑自身がそう考え、塩市丸擁立のために尽力してくれると期待した。鑑相は若くして高い声望を得ており、彼が義鎮廃嫡に賛同を示せば、家中の若者や兵士たちの支持も得られるはずであった。


 ところが。
 義鑑が娘を廃嫡する内意を漏らした時、鑑相は一瞬の自失の後、それが義鑑の本心であることを確かめた上で、毅然と反対の意思を表明した。
 これには義鑑はもとより同席していた入田親誠も内心で仰天する。まず鑑相の賛同を得た上で家中に根回しするはずであったものが、初手から躓いてしまったのである。


 鑑相は傅役として、幼いながら聡明な塩市丸の人柄を愛し、その将来に期待していた。まるで少年のように鑑相は夢見ていたのだ――この幼い主の下で槍を揮い、大友の武威を輝かせる日を。
 だが、塩市丸が座るべきは、実の姉の血涙が染み込んだ穢れた席であってはならない。まして、これまで後継者たることを内外に示し続けてきた義鎮を廃嫡するとなれば、混乱は計り知れないものとなる。そんな政治と欲得の濁流に、幼い主を引きずりこむ意思など、鑑相には毛頭なかった。


 鑑相は昂然と主君に対して、そのことを口にする。
「誰よりもそれを憂えておられたのは御館様でありましょう。それゆえ、義鎮様にご家督をお譲りすることを、早くから大友家の内外に知らしめたのではありませんか。今この時、その義鎮様を廃嫡なさると触れられれば家中の動揺は避けられず、他国の介入を招くことは火を見るより明らかです。なにとぞ御心を平らかに、一時の御短慮で事を決することなきよう、愚臣、伏してお願いいたしまする」
 その言葉は正論であり、それゆえに義鑑は言葉を返すことができない。呻くように口元を引き結ぶだけである。
 ここで親誠が口を挟んだ。だが、正面きって義鎮廃嫡を口にすれば、また正論で返されると思ったのだろう。その言葉は明快さを欠くこと甚だしかった。
「一万田殿、御館様にむかって短慮とは無礼ではないかな。御館様が熟慮の上でお話になったことだ。もう一度よく考えて……」


 鑑相にとって、親誠は大友家臣の先達であり、上位者でもある。常日頃、敬意を欠かすことはなかったが、この時、この場において鑑相の舌鋒に容赦はなかった。 
「古来より、廃嫡の儀を軽々に持ち出すは御家衰退の第一歩。ゆえに無礼を承知で申し上げました。入田殿――」
 諭すような親誠の態度を見据える鑑相の目に雷火が走る。
「そも、なぜ義鎮様の傅役たる貴殿がこの席におられるのか。そして何故、義鎮様廃嫡の儀を耳にして一言も反対なさらないのか。まさかとは思いますが、傅役たるべき責務を放棄して、廃嫡に賛同する心算であられるのですか?」
「それは……」


 言いよどむ親誠を前に、鑑相は更なる舌鋒を叩き込もうとする。それを制したのは義鑑であった。
「鑑相よ、先ごろの義鎮の騒動、妻女殿より聞いておろう。あれは妻女殿に倣って異教を奉じようとしたそうだからな」
「は、一応の顛末は聞いております」
「であればわかるはずだ。次代の大友家当主たるべき身でありながら、義鎮は友に倣う、ただそれだけを理由で異国の教えを奉じようとしおった。その心根の未熟さは目を覆うばかりである。そのような柔弱者が当主となれば、大友家は間違いなく衰退しよう。わしは、座してそれを見るに忍びぬのだ」
 その言葉と表情には焦慮の色が濃い。義鑑が一時の感情で廃嫡のことを言い出したわけではないことを、鑑相は察する。あるいは、もっとずっと以前より考えていたことなのかもしれない。


 だが、ここで頷くことは出来なかった。
「お言葉ながら。たしかに義鎮様は時に他者への依存が過ぎる場合がございます。しかし、それは相手の言葉を理解できる聡明さと、相手を信じることの出来る純真さがあってのこと。此度のこと、軽挙の謗りは免れますまいが、事をわけて説明し、忠義をもって諫止すれば、それを等閑にされる方ではございません。事実、此度も洗礼の儀は思いとどまってくださったではありませんか」
 まして民や家臣に横暴を働いたわけではないのだ。今回の洗礼騒動のみをもって廃嫡を強行すれば、それこそ大友に大乱を招き寄せるようなもの。鑑相はそう言って、廃嫡に対して改めて明確に否を唱えたのである。


 毅然と、また昂然と正論を唱える鑑相に対し、親誠はもとより義鑑も返す言葉をもてなかった。
 それが気に障ったのだろうか。義鑑に促され、退室するために席を立った鑑相の後ろから、親誠が皮肉げに声をかける。
「家臣たる者、主の願いに添い、その栄達を願うは当然のことと思っていたがな。そなたは違う考えを持っているようだ」
 それは塩市丸を主君にする謀を蹴飛ばした鑑相へのあてつけであり、当然のように鑑相もそのことを理解した。そして――
「塩市丸様を、姉君の血に濡れた席に就かせることが臣下のあるべき姿とでも? その言葉は入田殿ご自身にこそ向けられよ」
 その切りかえしに対し、顔を青ざめさせながら口を閉ざす親誠を見て、鑑相は義鎮の傅役がすでにその責務を放棄したことを悟らざるを得なかったのである。





[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第二章 乱麻(十)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:dee53437
Date: 2010/10/01 00:27

 豊前国松山城。
 小原鑑元は配下を遠ざけ、一人、城外の景色に視線を走らせていた。
 彼方に広がる周防灘の海面を滑るように移動しているのは毛利水軍の舟だろう。幾十艘もの軍船が海面を蹴立てて右に左に軽快に動き回る様を見れば、毛利軍の錬度もおのずと知れる。鑑元の目から見ても、大友水軍が敗れたのは至当な結果というべきだった。
 視線を海から陸へ転じれば、城を遠巻きに取り囲む大友軍の陣容が見て取れる。林立する杏葉紋をじっと見据えながら、鑑元は小さく独りごちた。
「……道雪殿のこと、いずれどこかで出てくるとは思っていたが、まさか門司を直撃してくるとはな。してやられた。一日を経ずしてあの城を陥とすなど正に鬼神の業よ。鬼道雪、とはよくいったものだ」


 この時、鑑元の顔に浮かんでいたのは近づく敗北から逃れんとする焦燥ではなかった。笑みと称するには苦すぎる、しかしそれは確かに笑みだった。
 二階崩れの変から今日までどれだけの月日が過ぎたのか。そのほぼすべてをもって大友義鎮――宗麟の動きを注視し続けた鑑元は、熟慮の上で今回の謀叛に踏み切った。準備も戦略も万全には程遠かったが、それでも勝算は確かにあったのだ。
 それが。
 鬼道雪が動いてわずか一月にも満たない間に潰されるとは想像だにしなかった。かつては同じ加判衆として席を並べていたはずなのだが、と乾いた呟きをもらす。ここまで武将としての力量差を明らかにされてしまっては、もう笑うしかないではないか。それが鑑元の本音であった。
 


「これほどの臣を抱えている国は、日の本広しといえど二つとあるまいに……」
 道雪への賛嘆は、同時に宗麟への歯軋りを禁じ得ないほどの憤りに転じる。
 現在の大友家は名臣、名将を抱え、九国探題に任命された大家である――そう思われている。だが、その内実はといえば、当主は異教に耽溺し、同紋衆と他紋衆の溝は広がるばかり、家中にたゆたう不審と不満は留まることを知らず、四方の敵勢力は虎視眈々と爪牙を研ぎ続けている。
 その状況をかろうじて支えているのが、戸次道雪であり、先日他界した角隈石宗であった。彼らの力量は卓越したものであり、実際、鑑元は道雪の前に敗れ去ろうとしている。
 この現実を否定するつもりはないが、道雪とて一人の人間である。石宗亡き今、道雪一人で支えきれるほどに大友家は軽くないとの思いは揺らがなかった。


 大友家が一ヶ月後に滅亡するなどというつもりはない。一年後も、今と変わらぬ大友家であるかもしれない。だが五年後、大友家は九国一の勢力を保っていられるだろうか。十年後、豊後以外の領土を保持することが出来ているだろうか。二十年後、府内が炎に包まれていないと誰が断言できるだろう。
  大友家の衰退はもはや不可避であり、漫然と時が過ぎるのを待つことは、すなわち滅亡を待つことに等しい。鑑元はそう考え、今回の挙に及んだのである。


 府内から門司へと飛ばされたのは、ある意味で幸運だった。宗麟は、鑑元に対して毛利家と交渉する切り札を与えたに等しい。自身の培った勢力に、毛利家のそれを併せれば、現在の大友家を覆すことは可能である。戦将として鑑元はそう判断し、事実、戦況はほぼ鑑元の構想どおりに進んでいた――そのはずだったのだ。あにはからんや、まさか一戦で本拠地を奪われてしまうとは。
「こうも容易くこちらの死命を制されてしまうとはな。思えば鑑理殿の消極的な動きは、わしを門司から引き離すためだったか」
 門司城には鑑元が今回の挙兵のためにかき集めていた武具や糧食が山のように積まれている。くわえて本拠地を失った将兵の動揺は計り知れないだろう。


 もっとも単純に勝利だけを見据えるなら、まだ挽回の余地は残されていた。失われたものは大きいが、方法次第では取り返しがつく。
 といっても独力で、というわけではない。頼みとすべきは毛利軍だった。
 幸いというべきだろう、毛利軍はいまだ松山城への助勢を続けてくれている。毛利軍が門司の陥落を知らないとは思えないため、毛利軍は門司城を失った鑑元を切り捨てるつもりはないと考えられる。
 物資はこれまで通り毛利軍に頼れば良い。門司に篭る戸次道雪を破るのは簡単ではないだろうが、毛利隆元、吉川元春率いる一万の軍勢をもってすれば不可能ではあるまい。


 かくて戦況は再び元通り――否、あの鬼道雪を破ることは、大友軍の士気の柱を挫くに等しい。門司城を奪回すれば、戦況は圧倒的にこちらに有利となっているはずだ。
 その上で、毛利軍と共同して吉弘鑑理率いる本隊を打ち破り、府内に軍を進めて宗麟を当主の席から引き摺り下ろし、そして――


 そこまで考え、鑑元は自らを嘲るようにはき捨てた。
「毛利軍によって城を保ち、毛利軍によって門司城を奪還し、毛利軍によって宗麟を追放し……毛利、毛利、毛利、か。たとえ宗麟を退けたとしても、これではすべては毛利家の勲だ。それではわしが蜂起した意味がない」
 もとより毛利の力をあてにした蜂起であったことは否めない事実である。
 自身はもとより、家族や将兵の命さえ懸けて、九国の半ばを統べる大家に叛旗を翻したのは、他家の力にすがって自分たちの栄耀栄華を求めたから。そのことは否定しない。だが、それと同じくらい――それ以上に求めたものがあったのだ。


 ――変えたかったのだ。異教に呑まれ、穢されていく大友の家を。
 

 異国の宣教師が政治、軍事に介入し、寺社仏閣を破壊し、大友家累代の家臣たちでさえ彼らの顔色を窺っている。亡き朋輩は、こんな大友家を守るために命を、そして名誉を捨てたわけでは決してない。
 肩で風をきって城中を闊歩する宣教師たちの姿を見るたびに、鑑元は腸が煮えくり返る思いだったのである。


「今の大友家を、貴殿はどのような想いで冥府から見ておられるのだろうな……一万田殿」
 今の腐敗した大友家を糾すためにこそ、鑑元は決起した。そのためであれば、豊前一国にくわえて交易の利を毛利に差し出すことも致し方ない。
 むしろ毛利家が異教に犯された大友家を阻んでくれるのならば、こちらから差し出すべきとすら考えた。
 領土など豊後一国で良い。宗麟を当主の座から追い放ち、かつての誉れを取り戻しさえすれば、領土など後からいくらでも取り戻せるのだから。


 だが、戦況がこのまま推移すれば、鑑元は本拠地を失った無能な将として、毛利家と交渉するだけの力すら失ってしまう。たとえ大友軍を撃ち破ることが出来たとしても、鑑元の尻拭いを押し付けられた毛利家が、豊前一国で満足するとは思えなかった。
 鑑元が望むのは、あくまでも大友家に在りし日の栄光を取り戻すことであり、毛利家の傀儡となって大友家を牛耳ることではない。
 そして大友家を統べるべき人物として、鑑元は一人の少年に白羽の矢をたてていた。


 その少年は大友宗家の血こそ引いていないが、同紋衆の一族であるから、血統には何の問題もない。
 少年の父は、二階崩れの変において主家のために汚名を被り、自身の命、名誉、家名、そして家族さえなげうった人物である。その血を継ぐ者として、少年は多くの人々から侮蔑の視線を、時には罵詈を浴びせられたが、そのすべてを弾き返し誇り高く成長している。
 南蛮神教に淫して大友家を腐らせている宗麟とは、人として、そして将としての大きさは比べるべくもない。
 


 だが。
 少年を大友家の当主に据え、大友家を建て直す。当初思い画いていた形での勝利を得ることは不可能となった。それはすなわち、鑑元が渇望した新たな大友家の形が夢に終わったことを意味する。
 事破れたり。
 鑑元は胸中でそう呟く。
 すでに城内の将兵にも門司城が陥落したことは知れ渡っている。というのも、大友軍はその旨を記した矢文を大量に城内に向けて射はなってきたからだ。
 ただ矢文だけであれば、敵の策略だと言いぬけることも出来たかもしれないが、大友軍はとどめとばかりに、門司城の守備を任せていた鑑元の配下を陣頭に立たせ、門司城陥落が嘘偽りでないことを大声で呼びかけたのである。
 小倉と門司の攻め方といい、このあたりのそつの無さといい、今回の大友軍の戦い方には、呆れ混じりに感心するしかない鑑元だった。同時にどこか違和感を覚えもしたのだが、それについては今さら考えても仕方ないこと、と内心で切り捨てる。


 問題はここからどうするかであった。
 抗戦の意義が失われた以上、降伏するのが至当である。鑑元が腹を切り、兵たちに寛大な処分を願えば、道雪や鑑理であれば等閑にはしないだろう。失敗したときの覚悟などとうに出来ているし、これ以上、大友家が惨めに衰退していく様は見たくない。


 だが、と鑑元は腕を組んで考え込む。
 それでは、あまりに毛利に対して礼を失しているだろう。それが心残りであった。
 もし、門司城の失陥と共に毛利が手を引いていれば、こんなことは考えなかったと鑑元は思う。
 叛乱軍と毛利軍の関わりは、あくまで互いの利によるもの。なにも毛利家は鑑元の目的に賛同してくれたわけではなく、自分たちの利益のために兵を出したに過ぎないはずだった。
 その意味でいえば、今の鑑元に利用価値は無いに等しい。無理をおして鑑元を救ったところで、毛利軍には何の利もないのである。関門海峡を欲するならば、とっとと周防灘から引き上げ、陸と海から門司城を攻めれば済む話だった。


 鑑元にはそれがわかる。逆の立場であれば、鑑元とてそうするだろう。それゆえ、門司失陥後も毛利家がかわらず助勢を続けてくれていることが、鑑元には意外だったのである。
 門司城に使者としておとずれた小早川隆景の姿を思い出す。噂に名高い毛利の両川の一角、こと謀略に関して言えば、あの毛利元就に迫る才を持つともっぱらの評判である少女は、内心で身構える鑑元に対し、思いのほか朗らかな笑みを向けたものだった。
 その言葉は明晰かつ思慮に満ち、大友家を変革したいという鑑元の願いと毛利の利益は両立するものとして、こちらを説得してきた。そこに確かな誠意を見たからこそ、鑑元は最終的に首を縦に振ったのだが、内心では毛利家の『謀』を恐れてもいたのである。


 その毛利家が、何の利にもならないはずなのに、まだこちらを助けようとしている。そのことが鑑元の判断に迷いを生じさせていた。
「……有情の謀将、か。なるほど、これは下手に策を仕掛けられるよりも、よほど厄介だ。ここで腹を切れば、主家に叛した挙句、他家の信を踏みにじったと看做されよう。今さら我が身の評を気にかけたとて始まらぬが……」
 後に残る者たちに、大友武士とはその程度のもの、と思われることは出来れば避けたかったのだ。このあたり、自分の言動に矛盾があることは鑑元も自覚していた。
  

 もちろん、単純にこちらを見捨てない毛利への感謝の念もある。
 さてどうしたものか、と胸中で呟いたとき、配下の一人が鑑元に報告を持ってきた。
 大友軍から使者がやってきたという。
 その使者の名を聞いた鑑元は、両の目を見開くと、ただちに招じ入れるようにと命じる。
「……ここで、この人選、か。かなわぬなあ、戸次殿には」
 こぼれ落ちた声は、諦念と安堵が絡み合う複雑なものだったが、鑑元の表情はどこか穏やかさを感じさせるものだった。



◆◆◆



 松山城、城主の間。
「こうして顔をあわせるのは何時以来になるか――久しいな、紹運殿」
 大友軍からの使者を城中に迎え入れ、開口一番、そう口にしたのは紹運殿の正面に座す男性だった。
 かすかに白髪が混ざった髪、疲労を色濃く残した落ち窪んだ瞳、顎を覆う強い髭は剃る暇さえなかったのだろう、手入れもされず伸び放題となっている。
 年の頃は四十過ぎかと思われたが、この人物の顔どころか身体全体を覆う疲労を差し引いて考えると、いま少し若いかもしれない。
 この眼前の人物こそ、今回の叛乱を引き起こした他紋衆の雄たる小原鑑元その人だった。


 紹運殿と鑑元は、共に大友家中にあっては武勇で知られた武将。幾度も戦場で轡を並べたことがあるのだろう。
 その言葉に紹運殿が反応する前に、鑑元はかぶりを振ってみずからの言葉を否定する。
「いや、つい先日まで干戈を交えていた相手を前にして、久しいと言うのも妙な話か。スギサキの武勇のほどは承知していたつもりであったが、敵として相対すると、かほどに厄介なものとは思わなかったですぞ」
 その顔に皮肉の色はなく、率直な懐旧の情が浮かんでいた。


 かつての僚将、現在の敵将からの賛辞を受け、紹運殿は丁寧に頭を下げる。だが、口を開こうとはしない。久闊を叙するために来たのではない、と鑑元に向けられた視線が告げていた。
 今回、大友軍が松山城に使者を発したのは、停戦や講和を求めるためではない。
 門司城が陥落したことは、すでに鑑元ら叛乱軍の将兵も知るところ。こちらが何を求めているかは鑑元も当然察しているのだろう。たちまち表情が引き締まり、その眼差しは刃の鋭さを宿して紹運殿へと向けられた。



 
 今回の正使である紹運がはじめて口を開く。その声音はいっそ穏やかでさえあった。鑑元や周囲を囲む敵将たちに対して怯む様子など微塵もない。
「多言は無用と考えますゆえ、率直に申し上げます。門司城は陥ち、勝機は去りて戻らずと心得ます。小原殿、どうか降伏を。麾下の将兵に関しては出来るかぎり罪科が及ばぬよう、我らが責任をもって取り計らいましょう」
 その言葉に、周囲に座す家臣たちからざわめきが立ち上る。虚飾を排し、簡潔に過ぎる紹運殿の勧告に呆気にとられた様子だった。


 だが、言葉は短くとも、そこに込められた真情に偽りはない。鑑元もまた、それを感じ取ったのだろう。紹運殿への返答は硬く強張っていたが、そこに不快さを示すものは感じられなかった。
「飾りを排し、渾身の一太刀を。将であろうと、使者であろうと、貴殿の在り様は変わらぬな、紹運殿。だが、わしがその勧告に頷けぬことはわかっておられよう。一時の不利で、すべてを諦めるような、そんなやすい覚悟で起ったわけではないのだ」


 そう言うと、鑑元は息を吐き、小さくかぶりを振って言葉を続けた。
「門司城が陥ちたことはどうやら間違いがないようだ。どのような術を用いたか知らぬが、あの堅牢な城をこの短期間でよくぞ、と申さねばなるまい。だが、我が軍の主力はこの松山城にいまだ健在。食料や武具も、変わらず海上から毛利軍が運び入れてくれている。今しがた『機は去った』と申されたが、時を経るほどに困難を増すのは、むしろそちらではないかな。今ここで当方が矛を収めるべき理由は見当たらん」


 その言葉に俺は内心で頷かざるをえない。
 当初の計画では、今の時点で海上の毛利軍は姿を消しているはずだった。そして、本拠地を失って孤立を強いられた鑑元たちは降伏を余儀なくされる、それが俺が画いた戦絵図。
 しかし、鑑元の言葉どおり、毛利水軍はいまだ厳然と海上に展開しており、城内の将兵は門司城を失ったことで動揺こそしているが、抗戦の意思が挫けたわけではないだろう。たしかに鑑元が言うとおり、ここで降伏しなければならない理由は見当たらなかった。


 この展開は十分に予測しえる範囲だった。
 だからこそ、俺はあれこれと頭をひねって打開策を考えていたわけだが――


 不意に、鑑元が表情を和らげた。そして無造作に頭をかきながら言葉を続ける。
「――と、本来なら言うべきところなのだがな。戸次殿の御使者に表面を取り繕ってもはじまらぬ。まして亡き朋輩の忘れ形見の前で、この期に及んで無様を晒すような真似はできぬでな」
 そう言う鑑元の視線は紹運殿のすぐ後ろに向けられていた。


 今回の降伏勧告、正使は紹運殿。副使は――無言で鑑元を見据えている戸次誾という名の少年だった。俺は従者の一人として、席の端に座っているだけである。
 紹運殿にならって叛乱軍への隔意を隠そうとはしているようだが、その鋭すぎる眼光は誾の内心を示してあまりある。狷介な人物であれば、それだけで席を立ってしまいかねない勁烈さであった。
 鑑元は、一時は加判衆に名を連ねていたほどの人物である。誾の視線と内心に気付いていないはずはない。


 にも関わらず、鑑元の表情に変化はない。それは、決めるべきことを決めた者の顔だ、と俺には思われた。
 今は門司城にいる道雪殿が命じたのは、降伏勧告の使者の人選のみである。それだけで十分、というのが道雪殿の言葉であり、実際本当にただそれだけで――降伏勧告の使者に紹運殿と誾が選ばれたこと、ただその一事だけで、鑑元は決断を下してしまったようだった。


 あれだけ悩みまくったのはなんだったんだ、と内心で頭を抱える俺。
 だが同時に、小原鑑元という人物が抱えてきたものの大きさ、複雑さがなんとはなしに理解できたような気もしたのである。
 道雪殿から聞いた二階崩れの変の詳細が脳裏に甦る。今日この時まで、この人はどんな思いで生き、そして戦ってきたのか。 
 そんなことを思っていると、鑑元は誾を見ながらどこか懐かしそうに目を細め、ゆっくりと口を開いた。
「……やはり御父上、一万田殿の面影があるな。あと十年もすれば、生き写しといっても良いくらいに似るだろうよ」


 その言葉に対する誾の反応は素早かった。
 だが、それは肯定的なものではない。父に似ているといわれた途端、誾の顔は明らかに強張り、その眼差しには紛れも無い怒りの色が浮かび上がったのである。
 実の父と似ているという言葉自体に悪意はない。
 ではどうして誾の態度が硬化したのか。
 道雪殿の話を聞いた今の俺には、その理由が推測できた。
 それは誾の父、一万田鑑相が大友家にとって唾棄すべき謀反人であるから。誾にとって、父に似ているということは、すなわち誾を謀反人の子と蔑むことと同じ意味を持つのではないか。
 本人と話をしたわけではないから、それは俺の勝手な想像に過ぎない。しかし、今の誾の反応を見るかぎり、それ以外に考えようがなかった。



 思い出されるのは、悲しいまでに澄んだ笑みを見せる道雪殿の顔。
 二階崩れの変が大友家に刻み込んだ爪痕の大きさを思い、俺はそっと面差しを伏せることしか出来なかった。 




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第二章 乱麻(十一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:dee53437
Date: 2010/10/01 00:27

 失策が失策を呼び、より悪しき結果へ。
 二階崩れの変を端的に表現すれば、そんな言葉が相応しいのかもしれない。
 塩市丸擁立を目論む者たちが、真っ先に取り込むべき人物――塩市丸の傅役である一万田鑑相の為人を見誤ったのならば、一万田鑑相は彼らの焦りを見誤り、対応は後手を踏んだ。
 無論、それは致し方ない面もあった。義鎮廃嫡を口にしたのが入田親誠だけであれば、鑑相は公然とその非を指摘することも出来ただろう。だが、現当主である義鑑が相手であってみれば、それも難しい。
 みずからの保身ゆえ、というわけではなく、このことが家中に知れ渡った際の影響に思いを致せばためらわざるを得なかったのである。


 もし鑑相がこのことを公言すれば、下手をすると――否、間違いなく、家中は義鎮派と塩市丸・義鑑派の二つに分裂してしまうだろう。
 もっと言えば、分裂が二つで済めばまだマシとさえ言える。基本的に同紋衆は宗家当主の意思に反することはないが、事が廃嫡となれば意思の統一は難しいと言わざるを得ず、義鎮を支持する同紋衆も少なくあるまい。現に鑑相も世継ぎは義鎮であるべきと考えているのだから。
 同紋衆さえそうなのだ。家中の席次において、同紋衆の後塵を拝する形になっている他紋衆はさらに複雑だろう。
 つまり、義鎮派と塩市丸・義鑑派に分かれた陣営が、さらに分裂する恐れがあるのだ。大友家がいくら巨大な勢力を誇るとはいえ、これでは周辺諸国の好餌になるしかない。


 そんな事態を避けるには、事が義鑑の内意に留まっている今のうちに片付けるしかない、というのが鑑相の判断だった。
 その判断は間違いではない。鑑相が見誤ったのはこの状況を引き起こした主体が誰であるか、という点だった。
 鑑相は、入田親誠の讒言がこの事態を引き起こしたと考えていた。本来、真っ先に義鎮の側に立つべき親誠の言葉ゆえに、義鑑もその言を重んじ、廃嫡という結論に至ってしまったのだろう、と。



 他の加判衆や大身の家臣たちに話が漏れれば、どんな事態を招くかわかったものではない。事は慎重の上にも慎重を期して行うべきであった。
 親誠は義鑑の信頼厚い寵臣だが、廃嫡という大事を他の重臣の賛同なく押し通せるほどの権力は持っていない。鑑相を自陣営に引き込もうとしたのが何よりの証拠である。
 それゆえ、まだ時は残されている――そう考えたことを、鑑相は間もなく悔いることになる。



 
 鑑相は気付けなかった。すでに義鎮廃嫡の主体が親誠ではなく、義鑑であることを。
 何故、という疑問の答えは、義鑑の死と共に失われた。
 義鑑と義鎮は決して折り合いが悪かったわけではない。少なくとも義鑑が家臣の前で廃嫡を匂わせる言葉を口にしたことは一度としてなかったのである。
 あれほど家督争いを忌んでいた義鑑が、どうしてそれまでの態度を一変させてしまったのか。長じるに従って明らかとなっていく義鎮の為人への危惧か。晩年に授かった男児である塩市丸への愛情か。あるいは何か一つの決定的な出来事があったのではなく、様々なものが積み重なり、それがこの時に結実してしまったのかもしれない。
 いずれにせよ、かつて家督争いを経験し、二度と繰り返すまいと考えてきた義鑑は、自らの手で悪しき歴史を繰り返してしまう。




 その行動は鑑相の予測を裏切って迅速であり――予想だにしないほど苛烈だった。
 一日、義鎮は家臣である戸次鑑連、そして吉弘菊と共に湯治に出向く。これはさほど珍しいことではなかった。豊後には病気療養のための湯治場が各処にある。義鎮は自分のためというよりも、身体が弱く、病気がちな吉弘菊の療養をかねて、よく湯治に出かけるのである。
 これに鑑相が自身の手勢と共に従ったのは、妻の安全もさることながら、万一にも義鎮に危難が降りかからないようにするためだった。『運悪く』賊に襲われた、などという事態が起こらないとは限らない。鑑相はそう考えたのである。





 動きは速やかだった。
 義鑑は幾人かの家臣を大友館に呼び出した。館、とはいっても府内の中心に位置し、四方を堀と外壁で囲んだ大友館は、小規模な平城とでも呼ぶべき広さと防備を有しており、豊後守護たる大友義鑑の本城ともいえる。
 無論、府内の守りは大友館だけではない。その外側には府内を守るための備えが幾重にもわたって張り巡らされており、敵軍が万の軍勢をもって攻め寄せようとも、府内を陥とすことは不可能といわれていた。


 その大友館に、義鑑が呼び出した家臣たちには二つの共通点があった。
 一つは府内からほど近い場所に領地を持つこと。
 そしてもう一つは、義鎮ときわめて近い関係にあること。  
 その彼らを前に、義鑑はいっそ堂々と義鎮廃嫡の意向を告げたのである。


 反発があったのは、当然すぎるほどに当然のことだった。
 だが、義鑑はそれら家臣の反対意見をことごとく退けた上で、義鎮の欠点を並べ立て、これは決定である旨を言い渡したのである。
 いかに主君の言葉とはいえ、義鎮と近しい家臣たちにとっては、はいかしこまりました、と言える内容ではない。反発が反発を呼び、たちまち穏やかならざる空気が室内にたちこめた。
 やがて、たまりかねた家臣たちは声を荒げて立ち上がる。廃嫡には断固反対する、との意思を示した上で退室しようとしたのである。
 主君の許可なく部屋を去ることが礼を失した行為であるのは言うまでもない。彼らもそれは理解していたが、横暴とも言える義鑑の言動に忍耐が限界に達したのだろう――彼らの敵が、そう仕向けたように。


 無礼者、と義鑑が一喝する。
 襖は内からではなく外から開かれた。そこに入田親誠率いる完全武装した兵士たちが待ち構えていたのは言うまでもない。
 ここに、二階崩れの変における最初の流血が生じる。
 かろうじて大友館から逃げ出すことが出来たのは、わずか二人だけであった。




 
 無謀と暴挙を重ね合わせたこの行いは、しかし冷徹な計算の下に引き起こされたものだった。逃亡者が出たことさえ、当初の予定通りだったのである。
 この策を考えた親誠の狙いの第一義は義鎮派の勢力を削ぐこと。
 だが、それだけではない。この騙まし討ちから逃げおおせた者は当然のように反撃に出るだろう。彼らは府内から自領に戻り、そこで兵を催して攻撃してくるはずだった。
 義鎮に近しい者たちが大友館を攻撃する。その事実が出来上がりさえすれば、義鎮廃嫡の大いなる名分となるのである。



 筋書きとしては、義鎮派の家臣たちが近年の父娘の不和を慮って諫言を行うが、義鑑に受け入れられずに強硬手段に出るも失敗、逃げ出した後、今度は武力で侵攻するも、これも失敗。義鎮はこれをあらかじめ知らされており、暗黙の了解を与えた上で、乱に巻き込まれないように、かつ身の潔白を示すために湯治場に避難していた、というものだった。
 無論、これは事実を糊塗したもので、幾つもの不自然な点が存在するのだが、当主であり、襲われた当事者である義鑑がそう断言すれば、家臣がそれに対して否を唱えることは難しい。
 一万田鑑相あたりが余計なことを口にする可能性もないではないが、義鎮派の家臣が公然と主君に刃を向けた事実がある以上、有利なのは塩市丸派である。
 くわえて事態がここまで進めば、下手に異論を唱えることはそれこそ大友家の混乱を深めることになることは鑑相も理解するはず、というのが義鑑の考えであった。 


 哀れなのは謀略の贄となった家臣たちである。彼らは主家にたちこめる暗雲の深さと暗さを見誤り、夜露に倒れ伏すこととなってしまった。
 だが。
 彼らが義鑑と親誠を見誤ったように、親誠らも彼らを見誤った。
 大友館から逃亡した彼らは自領に逃げ込むものと親誠は考えた。それに備えて府内の守りを固め、大友館にも千の守備兵を置いて万全の構えをとっている。
 あるいは彼らが勝ち目なしとみて逃げ出しても、それはそれで構わない。その時は義鎮派の家臣が、義鑑に対して刃を向けたと声高に宣言すれば名分は得られる。逃げ出した者たちに反論する術などないのだから。


 そう考えていた親誠は想像さえしていなかった。
 ――まさか、彼らがその日のうちに戻ってくるとは。しかも逃亡してから一刻と経たずに戻ってくるなどとは。
 大友館を守備する将兵も、事態の全貌を知っていたわけではない。おそらく数日後には戦になるだろうと聞いていた程度だった彼らは、総身を赫怒の炎で包み込んだわずか数十人の強襲に対して突破を許してしまう。
 義鑑にとっては慮外のことだった。
 事態は想定どおりに進み、自分たちがいる館は千を越える守備兵に守られている。



 ――ああ、そのはずなのに。
 ――何故、眼球を鮮血色で染めた家臣が、自分に斬りかかって来るのだ?



 惨劇の場は大友館の二階にあった義鑑の居室。二階崩れの名はこれに由来する。
 短くも激甚な衝突の末、襲撃者たちは守備兵によって皆殺しにされるも、振るわれた刃は義鑑と塩市丸、そしてその生母に及んだ。ただ一人、入田親誠は偶然にも義鑑の部屋から席を外していたために、何とか大友館から逃れ出ることが出来たが、その行方は知れず。
 塩市丸と生母は即死。義鑑はかろうじて息はあったが、傷は深く、その命が旦夕に迫っていることは医者の言を待つまでもなく明らかだった……



◆◆◆



 道雪殿がほっと息を吐く。
 それを見て、俺はこれが二階崩れの変の全貌かと考え――そして首を横に振る。まだ肝心な点が語られていなかった。
 その内心の声を聞き取ったかのように、道雪殿は言葉を続ける。
「なにがしかの予感があったのか、あるいはわたくしたちが気付かないうちに義鑑様からの使者が来ていたのかもしれません。この時、鑑相殿は手勢の半ばをわたくしたちの護衛に残し、ご自身は残りの半分と共に、府内に急ぎ戻っていたのです。ですが、駆けつけた時にはすべてが終わった後でした」
 おそらく鑑相は呆然としたことだろう。いつの間にか始まり、いつの間にか終わっていた何かが、眼前に横たわっている。しかもそれに関わった者たちのほとんどがすでに世を去り、悪しき結果だけが残されている。
 一体どうしろというのか、と頭を抱えても不思議ではない状況だった。


 その状況の中で、一万田鑑相は決断する。
 彼は、今回の出来事、これすべて大友義鎮の仕業であるとして、塩市丸の弔い合戦を高らかに謳いあげたのである。






「――は? あの、それはどういう?」
 俺は唖然とせざるを得ない。今、何かものすごい展開の飛躍がなかったか?
 道雪殿は察しの良い方だが、この時、俺が言わんとしていることは道雪殿ならずとも十分に察せただろう。一万田鑑相のとった行動は、明らかに不自然だった。少なくとも、俺にはそう思われてならなかった。


 しかし道雪殿は小さくかぶりを振る。
「鑑相殿が採った行動は、十分な思慮に裏打ちされているのです。問題は、あの当時の状況があまりにも不自然だったことに起因します。当事者のほとんどが死に、結果だけがぽつんと残された。まるで何者かが何事かを企んだとしか思えないほどに。雲居殿、そんな時、あなたであれば、どうやって事態を理解しようと試みますか?」
「……そうですね。結果として、一番利益を得た人をまず疑ってかかるでしょ……あ」
 道雪殿に答えたところで、俺はその言わんとすることを察した。
 俺の問う眼差しを受け、道雪殿はこくりと頷く。
「洗礼騒動を機に、義鑑様と宗麟様の仲がぎくしゃくしはじめたことは、ほとんどの家臣たちが気付いていました。義鑑様の口から、廃嫡、という言葉は出ていませんでしたが、察しの良い者はすでに宗麟様から離れる動きを見せ始めていたのです。そんな中で起きたこの異変で、義鑑様は致命傷を負い、塩市丸様は亡くなられてしまいました」
 おまけにその時、宗麟は府内を離れて湯治場へ。そして何故か傅役である入田親誠は大友館へ残り、事件後、行方不明、か。
 これは誰がどう見ても――
「もっとも利を得るのは宗麟様でした。そして、もっとも疑われるのも宗麟様でした。そう思われても仕方ない状況だったのです。そして、その疑いを解く術が宗麟様にも、わたくしにもありませんでした。何一つ企んでいないと主張することは出来ても、それを証し立てるものがなかったのです」


 絡み合う思惑、いくつもの偶然によって織りあげられた無形の罠。なるほど、それは厄介きわまりない。
「誰かが企んだ謀事ならば、打つ手はいくらでもあったことでしょう。けれど偶然によって編まれた状況に絡めとられてしまったわたくしたちは、蜘蛛の巣に引っかかった蝶のようなものでした。どれだけ足掻いても抜け出せず、さらに絡みとられるだけ。仮にあの状況で宗麟様が後を継いだとしても、誰しも心にわだかまりを抱えずにはいられなかったはずなのです」


 そこを他国に付け込まれれば、大友家は四分五裂の状態に置かれていただろう。
 実際、この時、豊後の隣国である肥後の菊池義武は動きを見せていたそうだ。
 ちなみにこの菊池義武、以前の名を大友重治といい、すなわち大友義鑑の実の弟である。
 大友家の戦略の一つとして菊池家に入り、肥後に大友家の勢力を広めるはずだった。結局、兄と折り合いが悪く袂を分かつことになったのだが、大友宗家の血を引いていることは間違いない。兄の後を継ぐ資格があると強弁することも不可能ではなかった。
 他にも、この当時、大友家と北九州をめぐって争っていた大内義隆からの介入の動きを見せていた。義隆の姉は宗麟の母であり、大内家にも相応の名分が存在したのである。


 内憂外患、ここに極まれり。この時、大友家は多くの者が想像していた以上に累卵の危うきにあったのである。
 一万田鑑相は優れた将であり相である。そのことは十二分に承知していたに違いない。このまま義鎮が当主の座を継いだとしても、この流れはかわらず、大友家が衰亡の一途を辿るであろうこともわかっていたのだろう。
 それを避けるためにはどうするべきか。
 その答えこそが鑑相の行動であったのだ。いみじくも、さきほど道雪殿は口にした――誰かが企んだ謀事ならば、打つ手はいくらでもあった、と。


 俺は知らず、小さくため息を吐いていた。
「……なるほど。つまり一万田殿は日の本の王莽たらんとしたわけですね」
 平家物語の中に「遠く異朝をとぶらへば」で始まる奸臣四人が登場する一節がある。王莽はその中の一人であり、つまりは異国に名を轟かせるほどに悪逆の人物だった。
 漢の高祖劉邦が築いた西漢を簒奪し、新国をつくった王莽だが、その方法は一風かわったものだった。
 王莽はまだ世に出ない頃から、聖人の如く清廉潔白な為人を強調し、その種の逸話は枚挙に暇がないほど。その世評を背景に地位を高めていった王莽は、最終的に漢王朝から禅譲という形で帝位を譲られる。
 これだけ聞けば無血の帝位継承として評価できそうなものだが、その際、作為的な預言を捏造し、皇太后から玉璽を強引に譲り受けるなど、前半生の聖人君子ぶりを自身で台無しにする所業を繰り返している。すなわち全てはみずからが権力を握るための演技だった、というのが通説だった。


 鑑相が目論んだのは、つまるところそういうことなのだろう。
 これまで見せていた自身の清廉な為人は、すべて大友家の実権を握るため。二階崩れの変はそのための過程の一つ。すなわち一万田鑑相こそがすべての元凶であり黒幕である。
 ――そう、人々に信じ込ませる。
 わかりやすい『敵』をつくりあげ、すべての憎しみと恨みをそこに集中させ、それさえ除けば問題は解決するのだと大友家の内外に知らしめるのだ。そうすれば、大友家はこれまでどおりにやっていける。全てを元通りには出来ないだろうけれども、少なくとも四分五裂した上に他国に踏みにじられるような、そんな結末は避けられるだろう。


 確かに、塩市丸の傅役である鑑相であれば、その行動も不自然ではないかもしれない。塩市丸擁立のために、義鎮を排除しようとすることも十分にありえる――そう考える家臣も少なくないだろう。鑑相が、義鎮廃嫡に異を唱えたことなど、他の家臣たちは知る由もないのだから。


「結果だけを見れば、一万田殿の思惑通りになりました。二階崩れの報を聞いた宗麟様とわたくしたちは他の臣と共に府内へ引き返し、大友館に立て篭もった一万田殿と刃を交え……その最中、一万田殿は宗麟様を廃嫡へと追い込もうとしたのは己であると言明し、最後には炎の中で果てられました」
 鑑相の行動の意味を知る宗麟の指揮と、その後の立ち回りは見事なものだったそうだ。たちまちのうちに府内の治安を回復させると、今際の際の父から家督を譲り受け、混乱する家中を静め、肥後と周防に付け入る隙を見せず、大友宗家を継ぐに十分な器量の持ち主であることを自ら示してみせた。
 二階崩れの変はほとんどの家臣にとって寝耳に水の出来事だった。その突然の出来事に右往左往し、とるべき道筋すら明らかでない状況だったゆえに、宗麟が示した明晰な決断と行動はより光輝に満ちて衆目に映ったのだろう――大友家第二十一代当主、大友義鎮が誕生した瞬間であった。




 無論というべきか、すべてが穏便に済まされたわけではなかった。
 ことに乱の元凶とされた一万田家には悲惨な末路が待ち構えていた。当主である鑑相を失い、領地のすべてを召し上げられ、一万田家は事実上断絶する。宗麟は家名の断絶だけは避けようと試みたのだが、動乱の黒幕に慈悲を見せては要らぬ憶測を呼ぶことになる。ここは断固とした処置を採らざるを得なかったのである。
 それでも一万田家の家臣たちの多くは戸次家や吉弘家をはじめとした他家に召抱えられ、路頭に迷うことはなかったが、悲劇はまだ続いた。
 一万田鑑相の妻吉弘菊が、夫の死とそれに続く騒動の衝撃で病に倒れ、ついに再び起き上がることなく世を去ったのである。
 後に残されたのは幼い嫡子と、謀反人の一族という拭い難い汚名。そしてみずからの手で親友の命運を断ち切った宗麟の絶叫だけであった……



◆◆



 不意に、道雪殿が小さくかぶりを振った。まるで何事かを脳裏から追い払おうとするかのように。
 だが、それを承知してなお俺は口を開かずにはいられなかった。
「本当に、一万田という方がそこまでやらねば、切り抜けられなかったのでしょうか? 入田親誠は無事だったのでしょう。なら――」
 俺の問いに、道雪殿は面差しを伏せながら、そっと首を横に振った。
「入田殿が無事だとわかったのは、後になって肥後の阿蘇家から知らせが届いた時です。一万田殿にしても、入田殿の首級がないことはすぐに気付いたでしょうが、探している暇はないと考えたのでしょう。出てくるつもりがあるなら、一万田殿が府内に入った時点で名乗りでているでしょうからね」
 人探しをしている間に事態はのっぴきならない方向に進んでしまう。鑑相はそう考えたのだろう。
 結果として、今日の大友家の繁栄が、鑑相の判断が至当だったことを無言のうちに証明している。


 我が身を犠牲にしても、主家の為に尽くす。
 そんな一万田鑑相という人物に、俺は自分と似通った何かを感じた気がしたが、それは多分気のせいだろう。
 我が身を顧みないあたりは昔の俺に似ていると言えないこともないが、鑑相の場合、我が身だけでなく、同紋衆たる一万田の家名、妻子眷属、そして長年、一万田家に仕えてきた家臣とその家族までも等しく贄としているのである。決断の重みは、俺などとは比べるべくもなかったに違いない。
  



 それでも他に方法はなかったのだろうか、と考えてしまうのは、所詮は余所者である俺の勝手な言い草なのだろうか。
 そんなことを考えている俺の耳に、道雪殿の声が滑り込んできた。
「――念のために申し添えておきますが」
 そう前置きした上で道雪殿は眼差しに鋭さを交えて口を開く。
「わたくしが一万田殿の行動を肯定している、などとは思わないでくださいね。今日の大友家の繁栄は一万田殿の決断の賜物、それは疑うべくもありません。あの当時のわたくしに、一万田殿以上のことが出来たとも思っていません。それでも――」


 ――わたくしは、一万田殿に感謝することは出来ないのです。


 筆舌に尽くし難い、とは今の道雪殿の声に込められた悲哀をあらわす時に使うべきであろう。
 鑑相の立場に共感し、行動に理解を示しながら、結果に感謝することは出来ない、と道雪殿は言う。その目に涙は浮かんでいなかったが、何も泣くときに涙を流さなければいけないという理由はないだろう。


 道雪殿はさらに言葉を紡ぐ。
「夫を友に討たれ、家を失い、将来あるはずだった幸福を奪われた。生来病弱だった菊が倒れたのは、どうしようもないことでした。それでもなお、あの子は息を引き取るその瞬間まで、一言半句も恨み言を口にしなかった。病の床でわたくしの手をとり、残される子と家臣たちの行く末を頼むと……ただ、それだけを口にして、逝ったのです」
 その場に、宗麟はいなかった。道雪殿がどれだけ声を嗄らしても、服の裾を掴んで強諫しても、宗麟はついに菊の病床をおとずれることはなかったという。
 この時、宗麟は家中をまとめるために寝食を削っている最中だったが、理由はそれだけではないだろう。
 きっと、この時の宗麟は怖かったのだ。友から己に向けられる声が、視線が、感情が、何もかもが。大友家中は混乱し、命の危険さえあった。だが、そんな状況などよりもはるかに、友から向けられる憎しみが宗麟は怖かったのだろう。
 

 もう何度目のことか、道雪殿の口から重いため息が漏れた。 
「……父親に廃嫡され、傅役に叛かれ、友の夫を我が手で討ち、その家名を断ち……それを詫びることもできず、糾弾されることを恐れ、ついには死に目に会うことからも逃げてしまった。謝罪も、贖罪も、救済も、すべては宗麟様の手をすりぬけ、二度と再びかえることはなくなってしまいました。宗麟様が聡明であり、純真であればこそ、その痛みは余人が理解できるものではなかったのでしょう」


 二階崩れの変の後、宗麟は狂ったように後始末に没頭し、大友家は突然の当主交代にも関わらず、ほとんど揺らぎを見せなかった。それは疑いなく大友宗麟の大なる功績の一つ。しかし、その一方で宗麟自身は変わってしまった――否、変わらざるを得なかったのだろう。
 当主として、双肩にかかる重圧。私人として、総身を苛む苦悶。想像を絶する痛みに耐えかねた宗麟が、亡き友の信じた教えに救いを求めたのは、もはや必然ですらあったのかもしれない。



 そう、つまりは――
「今の大友家の光も影も、すべては二階崩れの変に端を発します。わたくしたちは未だにあの乱の始末をつけられずにいる。その意味では、あの乱はまだ終わってさえいないのでしょう。誰もがそれを知りながら、しかし誰一人として動かない、動けない。それが大友家の現状――雲居殿に知っておいていただきたかったことなのです」
 そう言って、話はこれで終わり、というように道雪殿はそっと微笑んで見せる。


 ――これほどまでに哀しく澄んだ微笑みを、俺は今まで見たことがなかった。
 
 



[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 幕間
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:dee53437
Date: 2010/10/01 00:26


 小島弥太郎貞興。
 強兵で知られる越後上杉家にあって、なおその武勇は群を抜く。越後国内はおろか、遠く京にまでその名を鳴り響かせ、軍神と謳われる上杉家当主謙信もまた手放しでその剛勇を称えている。
 誰が知ろう。上杉家中にあって『鬼』の名を冠する豪傑の士が、その実、花も恥らう乙女であろうとは。

 
 春日山城下の貧しい農家の娘として生まれた小島弥太郎が世に出たのは、およそ四年前。時の越後守護代長尾晴景と、現上杉家当主、当時は栃尾城主であった長尾景虎の間で起きた内乱にまで遡る。
 内乱初期、越後七郡にかなう者なしといわれた猛将柿崎和泉守景家は、晴景の本拠地である春日山城を直撃するために軍を進めた。
 この柿崎軍を迎撃する晴景軍の中に、小島弥太郎貞興の名が見て取れる。敗色が色濃く漂うこの戦が、戦国乱世にその名を刻む『鬼小島』が誕生する契機となろうとは、敵味方を問わず誰一人として想像すらしていなかっただろう。


 諸人の注目は、この時、晴景軍の指揮官に任じられた天城筑前守颯馬にあてられることが多い。著者もまたその功績を否定するつもりはない。
 しかし、彼が稀有な幸運に恵まれたことを諸人は想起するべきだろう。もしこの時、天より贈られた比類なき女傑を初陣で指揮するという幸運が天城に与えられなかったのならば――晴景軍に小島弥太郎の名がなかったならば、後に東国を震撼させる天城筑前の神算はついに発揮されることなく、春日山の露に成り果てていたに違いないのだから……



◆◆



 本を開いてから閉じるまで、要した時間は一分か、二分か。
 そこまでが限界だった。弥太郎は何故だか震えが止まらない手を、半ば無理やり動かして書物を閉じる。
 近頃、越後で評判の高い一作ということで、同僚から渡されたものだったが――
「……だんぞー」
 弥太郎は思わずじと目で呟いていた。とても面白いですよ、と実に良い笑顔で薦めてきた加藤段蔵の顔を思い起こす。
「絶対、楽しんでたよね、あれ」
 弥太郎にとって、段蔵は字の読み書きの師にあたる。天城の第一の臣下であるのならと焚き付けられ、習い始めて早数年。今では兵書を紐解くことも出来る程度に文字に習熟している弥太郎だったが――これは無理だった。色々な意味で、というかあらゆる意味で。


 『鬼将記』――近年の越後における争乱を、小島弥太郎に焦点をあてて綴った話題作である。




「――とりあえず、これはしまっておこう」
 鬼将記を棚の奥の方へと仕舞い込む。鬼小島がいなければ、この後の天城筑前の飛躍もありえなかった、などと記された導入部分を思い起こしながら、多分、二度と取り出すことはないだろうなあと考える。
「書いた人は誰だろ、ほんとにもうッ」
 天城の上に自らを据えるという視点には、違和感まじりの憤りを禁じ得ない。むすっと唇を引き結びながら、しかし、弥太郎の表情には憤り以外の何かが感じられた。


「……四年前、か。颯馬様とお逢いしてから、もうそんなに経つんだね」
 事実としてそのことをわきまえてはいても、実際にそれと意識することはこれまでなかったように思う。
 あえて理由を挙げるなら、上杉の家臣としての仕事が忙しくて、そんなことを考えている暇がなかった、といったあたりだろうか。もっとも天城が去ってから二年が経ち、その間、ずっと働きづめだったわけではないから、理由としては弱いかもしれない。
 率直に言えば、そもそも過ぎた時間を振り返る必要などなかったのだ。あえて思い描くまでもない。その姿が消えて二年が経った今なお、主の面影は弥太郎の胸から去っていないのだから。


 それでも、あらためて時の経過を口にしてみると、懐かしさと寂しさは彼方から響く潮騒のように弥太郎の胸中に絶え間なく響いてくる。
 過去を綴った一冊の本は、弥太郎の懐旧の情を刺激してしまったようで、天城と初めて出会ったときの情景が自然と思い出された。あの時、集められた将兵の前で、つっかえつっかえ話をしたことを思い起こすと、赤面まじりの羞恥を禁じ得ない。女で、背ばかり高くて、ちゃんと言葉を話すことも出来なかった自分は、あの時の主の目にどう映っていたのだろう。


 同時に弥太郎は思う。あの時の自分と今の自分に、どれだけの違いがあるのだろうか、と。
 文武両面において己を磨き続けてきた。あの頃よりも成長したという自負はある。しかし、ただ成長しただけで満足してはいられない。問題は成長の有無ではなく、どれだけ伸びたか、ということなのだから。
 越後に名高い天城家、その第一の臣という立場に誇りを抱く弥太郎としては、やはり主に相応しい自分で在り続けたいのである。



◆◆



 弥太郎は懐から一枚の紙を取り出した。
 鬼小島と畏れられる弥太郎が、文字通り肌身離さず持ち続けているもの。今は遠い所にいるはずの主から弥太郎個人へとあてられた手紙だった。


 万一にも汚れることがないように丁寧に巻いておいた厚紙の中から手紙を取り出す。
 文量は紙一枚。文面にも奇を衒ったものはない。内容にいたっては、今さら字を追うまでもなく脳裏に刻み込まれている。弥太郎がこの手紙を読み返した回数は優に三桁を越えるのだから、当然といえば当然だった。
 それでも、今なお飽くことなく読めるのは、この手紙が主との絆が形になったものだからだと弥太郎は考えていた――恥ずかしくて、誰にも言ったことはなかったけれども。
 そして手紙を読めば、自然とあの時の混乱と悲哀も甦る。



 ――上杉家において、誰知らぬ者とてない天城の失踪は、文字通りの意味で越後を震撼させた。
 当主である上杉輝虎は天城の姿が消えた直後、群臣に対して「天より上杉家に与えられた人物が、一時、天に帰ったのだ」と告げたのだが、当然というべきか、この説明で納得した者はほとんどいなかった。
 天城颯馬といえば、下民から成り上がり、筑前守の栄誉まで授かった人物。おりしも甲斐武田家との盟約が成って間もなかっただけに、巷間には様々な憶測が流れ、逐電、暗殺の疑いが半ば公然と語られるほどだった。
 騒擾自体は輝虎をはじめとした上杉家重臣たちの尽力によってほどなく沈静化したものの、近年の上杉家の政戦両略の多くに携わってきた天城の突然の失踪は、天城を肯定する者はもちろん、否定する者に対しても、その存在の大きさを改めて知らしめる結果となったのである。


 主の姿が消え、いつ帰るとも知れない。それを知らされた時のことを思い起こすと、弥太郎はいまだに胸が締め付けられる。比喩ではなく、言葉通りの意味で。実際、傍らに段蔵がいなかったなら、弥太郎はその場で息苦しさのあまり倒れこんでいただろう。
 その苦しみは、段蔵の提言によって天城の部屋を検め、そこに隠された(というよりは、たんに仕舞ってあった)二人あての手紙を見つけるまで続いたのだ。


 主に対して尽きせぬ信頼と敬愛の念を抱く弥太郎ではあったが、この一件に関しては一言いわねばなるまいと心に決めている。
「あらかじめ一言でも仰ってくれていればッ」
 あんな思いをせずに済んだのに。いや、知ってはいても実際に天城に会えなくなれば、それはそれで苦しいし悲しくなったと思うが、それでも痛みは多少和らいだはずなのだ。そう思い、まったくもう、と自然と唇がとがってしまう弥太郎だった。




 それでも手紙に目を移せば、そこに見慣れた文字を見出して自然と頬が緩む。
 内容は簡単なものだ。
 やむを得ずに越後を離れることとその詫び、さらにはこれまでの働きへの感謝に続き、自分が去ったあとの上杉家を頼むという言葉で結ばれていた。
 天城としては必要最小限のことを短くまとめたつもりなのだろうが、弥太郎としては疑問で一杯である。『やむを得ず』というが、どんな理由で越後を離れなければならないのか。天から上杉家に与えられた人物――輝虎は天城を指してそう言っていたが、天とは一体どこのことなのか。会いに行こうと思えばいけるのだろうか、などなど。
 
 
 一度、輝虎に直接たずねたことがあったが、輝虎は困ったように微笑むだけ、その微笑を間近に見て、弥太郎は慌てて御前から退出した。自分がひどくいけないことをしてしまったように思えたのだ。
 それ以後、弥太郎はこの疑問を誰かに問いかけることをやめた。そもそも輝虎以外の誰に問いかけるべきかもわからなかったし、よくよく考えてみれば、あの主が自分が去った後のことを予測しなかったはずがない。それでもなお何も語らなかった――語れなかったのならば、そこにはそれだけの理由があったに違いない。
 ならば自分がすべきは、主が去ったあとの混乱を鎮め、なおかつ主が帰る場所を守っておくこと。弥太郎はそう思い定めたのである。
 




 ――実のところ。
 弥太郎自身は意識していなかったが、そう考える横顔は見る者がはっとするほどに凛々しく、戦国の荒波を生き抜いてきた確かな自信と落ち着きが感じられた。
 くわえて、かつてはどこか不釣合いに感じられた女性らしからぬ長身(出会った時点で天城より背が高かった)も、四年という歳月が加わった今では弥太郎のたおやめぶりを惹き立てこそすれ、損なうようなことはなくなっていた。


 涼やかな武者ぶりと、たおやかな乙女ぶりをあわせもったその姿を見れば、戻りきた天城が目を剥くのは必定だ、と一部の家臣たちは確信していたし、またその天城失踪後の混乱に毅然と対処し、実質的に天城家をつくりあげた忠誠と手腕は上杉家中で高く評価されていたのである――あるいは鬼と仇名される武勇以上に。
 上杉家の当主である謙信にならって長く伸ばした黒髪を靡かせ、弥太郎が春日山城を歩けば、性別身分を問わず多くの人々がその姿に目を向ける。それは小島弥太郎という人物が成し遂げてきた、あるいは積み重ねてきたものの結果である――のだが。



「本人にその自覚がないあたり、本当に似た者主従といわざるをえませんね」
 ため息まじりに、加藤段蔵はそう評する。
 そして同時に思うのだ――やはり天城家第一の臣は弥太郎しかいない、と。
「……人、各々領分あり、ですか」
 苦笑に混ざったかすかな羨望を、段蔵は意識して振り払う。弥太郎が弥太郎であるように、自分は自分なのだ。持たざるものを嘆く、という選択肢は忍にはなかった。
 ゆえに今、自分にできることを全力で。まずは――
「……貴重な収入源をしっかりと確保するべきですね」


 そう呟くと、鬼将記の作者は自室へと足を向けるのだった。
 



[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第三章 鬼謀(一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:9e91782e
Date: 2010/10/17 21:15


『殿、今年こそ関東征伐をッ!』


 それはかつて、安芸国を領有する毛利家において、年初めを飾った言葉である。
 改めて論ずるまでもなく、近畿も海道もすっ飛ばしている時点で実現性は皆無であるが、たとえ半ば戯れではあったにせよ、それを口にするだけの覇気と気概を持つように努めることを、毛利家当主は家臣たちに示し、また求めたかったのだろう。
 だが、その思いとは裏腹に毛利家は当主の早世が続き、今代当主である毛利元就がその座に就いた頃には、安芸一国すら保持しえないほどに衰えていた。


 女性の身で当主になる者は決して少なくなかったが、それは衆に優れた才知があってこその話である。学問だけを見れば、元就は幼少の頃から聡明といって差し支えない能力を持っていたが、その長所をかき消すほどの欠点が存在した。聡明であったことの弊害だろうか、元就は他者に対して過分なほどに気を遣い、遠慮してしまうのである。たとえそれが家臣や領民であったとしても。
 相手を気遣えるということは、人として文句のつけようのない美点である。
 だが、時は戦国の世。尼子、大内という大国に挟まれた毛利家にあって、家臣どころか領民に対しても腰の低い元就の在りようは惰弱と切って捨てられてしまうものであった。


 父か兄が当主の座に就いていれば何の問題もなかった。毛利の血を継ぎ、相手を立てることを当然とする元就を、ぜひ妻に、と望む者たちは数多かったほどなのだ――もっとも申し込まれた縁談の類は、父と兄の双方が懇切丁寧に叩き潰したために、実際に話が輿入れの段階まで進んだことはなかったのだが――しかし、その二人が早世し、後継者として元就の名があがった時、多くの者が首を横に振ったのは、疑いなく元就の為人では毛利家の存続が危ういと感じたからだった。


 だが、結果として元就は、志道広良、井上元兼らの重臣たちに擁立され、当主の座に就くことになる。
 元就を擁立した者たちの心中は様々であり、先々代以来の恩顧で行動した者もいれば、主家の実権を握るために御しやすい当主を望んで動いた者もいた。それぞれの理由で毛利家の存続のために行動した彼らは、しかしその一方で毛利家の前途が極めて苦しいものとなるであろうことを覚悟ないしは予測していた。
 ことに井上元兼などは期待すらしていたのである。鎌倉以来の『一文字三ツ星』の旗印などといっても、弱肉強食の世にあっては示威以外の意味を持たぬ。たとえ毛利の旗が地に倒れようと、自身と自家が存続できるのであれば何も問題はない。元就を擁立したのは、あくまでもそれが井上家の利益となるからだった。
 逆に言えば、元就の存在が害になるようであれば、これを除くことに躊躇はない。毛利という名は傘のようなもの、雨をしのげば捨て去るだけだ――そんな風に考えていた元兼は、この時、予測どころか想像だにしていなかった。
 気弱と嘆かれ、惰弱と蔑まれていた毛利元就が、その類まれな才略によって中国地方に覇を唱えることを。毛利の名が日の本の歴史に刻み込まれる、その基を築き上げることを。そして自らが、その偉業の影で汚名に塗れて果てることを……




◆◆




「ゆえにわしは先々代弘元様に申し上げたのじゃ。『殿、ここはそれがしが殿軍を!』と。しかし弘元様は――」
 ところは安芸国の毛利本領、吉田郡山城。
 そこでは重臣筆頭の志道広良が、過去、毛利家に襲い掛かった危難と、いかにしてそれを切り抜けてきたのかを唾を飛ばして力説していた。
 それらの話は多少装飾が過剰であったが、戦国の世を卓抜と生き抜いてきた宿将の言葉であるだけに、どれも含蓄深く、若年の者たちにとって話を聞くだけでも得るものが多い――のだが。


「――さすがに二桁を超える回数を聞かされると、いいかげん得るものもないわけで」
「隆景、いらんことを言わんでよい」
「でも春姉、ぼく、もう広爺のこの話なら暗誦できるんだけど」
「だからといって聞かんでよいわけではない。見ろ、姉上は一言一句聞き逃すまいと、かじりつくように聞き入っているではないか」
「ぼくに隆姉とおんなじ行動を期待されても困ります」
 しごく真面目な表情で言い切る妹の顔を、元春はあきれまじりに見つめた。
 とはいえ、その言葉を否定することはしなかった。率直にいって、元春自身も隆元ほどには話に集中していなかったからである。
「……姉上の邪魔をせぬよう口を閉ざしておけ。それ以上のことは求めん」
「はーい」
 
 
 などという毛利の次女と三女のやりとりなど耳にも入らぬ志道広良は、老いた相貌に若者なみの清冽な気概を漲らせながら、先代興元(いつのまにか代替わりしていた)が上洛して将軍家に謁見したときの状況を事細かに述べようとしていた。
 とはいえ手に汗握って話に聞き入るのは隆元一人。元春と隆景はこの先の展開を承知しているために心ここにあらずといった感じだった。
 ことに隆景はさきの呟きでもわかるように、それこそあくびがこぼれそうなほどに退屈していた。
 そもそも北九州遠征の報告と今後の対策を練るための軍議が、どうして毛利家の歴史をふりかえる場になっているのか。隆景としてはいろいろと腑に落ちないことが多い戦だったので、義母に聞きたいことがあるのである。
(まあこうなったら、とりあえず話が一段落つくまで待つしかないんだけどねー)
 せめて将軍家への謁見までで終わってほしいのだが、話がその先の船岡山合戦にまで及んでしまうと、あと四半刻は続いてしまうだろう。さらにその先に行くと、今度は先代の死去にまで至ってしまう。そうすると今度は日暮れまでに話が終わるかどうか……




 と、隆景と同じ危惧を覚えたのか、それまで黙って耳を傾けていた最後の一人が口を開いた。  
「あ、あのね、広爺。そろそろ隆元たちの報告を聞きたいなあって思うんだけど……ほ、ほら、三人とも九国からの帰りで疲れてるだろうし!」
「む、たしかにそれは元就様のおっしゃるとおりですな」
「うん、うん。じゃあ……」
「では、いま少し先を急いで話すことにいたしましょう。さて、どこまで話しましたかな?」
 首をかしげる広良に、隆元が応える。
「興元様が義植様より直々に御言葉をいただいたところまでですよ、広爺。ささ、続きを」
「おお、そうじゃった。その興元様のご様子に、このわしも年甲斐なく感涙を禁じえず……」


「……うう、広爺の話を止めるだけでも大変なのに、隆元まで加わっちゃった……」
 悄然とうつむく元就。
 その様は他国に謀将と恐れられる鬼才の持ち主とは到底思えず、こんな光景を見慣れているはずの元春と隆景もため息を禁じえない。
「――この様子を尼子や大友に見られたら、手を叩いて喜ばれそうだよね、春姉」
「うむ。毛利、恐るるに足らずと雀躍しような。困ったものだ」
「……そう言いつつ、なんか口元が緩んでるよね、春姉は?」
「む、そうか? まあこの和やかな空気を好んでいることを否定はせんよ」


 そう言いながら、世はなべて事もなしとばかりに茶をすする元春の姿に、隆景は再度、深々とため息を吐くのだった。
「ああもう、ほんとになんで今をときめく毛利家の屋台骨を支える人たちがこんななんだろ……?」
「案ずるな、そなたも疑いなくその一人だぞ、強がりで恥ずかしがりの末姫殿」
「別に案じてませんッ! ていうかもうぼくの人柄、その設定で決まりなの、春姉?!」
 




 
◆◆◆



 


 そんなこんなで夕刻である。
 ようやく(本当にようやくだよ、と隆景はぶつぶつ言っていた)本題を切り出した隆景に対し、元就は小さくうなずいて見せた。
「門司城を割譲した大友家の狙い――それが隆景の気になっていることなのね?」
「はい、義母上(ははうえ)。隆姉と春姉にも言ったんだけど、どうしても大友の狙いがわからなくて……」


 大友家に叛旗を翻した小原鑑元を助勢するという名分で兵を出した今回の戦は、松山城において小原鑑元が大友家に降伏するという形で決着を見た。
 正直なところ、毛利軍の智嚢たる隆景はこれを予測できなかった。あの時点で鑑元は本拠である門司城を、大友軍の戸次道雪に奪われていたが、鑑元自身が篭る松山城は健在であり、毛利軍の海上からの援助もあって一月やそこらは耐え切るだけの余力は残っているはずだった。
 大友家の内情が、外から見るよりもはるかに危ういものであることを小原鑑元は良く知っている。それこそ隆景ら毛利軍よりもはるかに心得ていたことだろう。
 鑑元が長期に渡って抗戦を続ければ、豊前以外の地でも反大友の軍が動き出すのはほぼ確実であり、それが当初の戦略でもあった以上、あの段階で鑑元が降伏する必要はなかった――少なくとも隆景はそう判断していたのである。


 一時は大友軍の偽報かと疑ったが、次々に入ってくる情報はいずれも叛乱軍の降伏を肯定するものだった。疑念は尽きなかったが、しかし毛利軍はいつまでもそれに拘泥してはいられなかった。鑑元が降伏した以上、毛利家が北九州の情勢に介入する名分が消滅してしまったからである。無論、名分なしの侵略は可能だが、その場合、情勢は尖鋭化し、一朝一夕での解決は望めなくなるだろう。


 そういった考えをまとめた隆景は、急ぎ水軍をまとめて松山城を離れ、豊前の地に陣を構える隆元、元春らと合流した。それは今後の対策を練るためであったのだが、そこにはかったように大友軍からの使者が訪れた――まるで三姉妹の合流を待っていたかのように。
 そして、あらわれた大友軍の使者は、毛利家に対して和睦を申し入れてきたのである。


 その申し入れ自体はさして意外なことではなかった。鑑元らが降伏したとはいえ、大友軍の損害と疲弊は毛利軍を大きく上回る。ここでほとんど無傷の毛利軍とぶつかることは、大友家としては避けたいところだろうからだ。当然、毛利家としては簡単に首を縦に振る必要はない。最終的に頷くにしても、できるかぎりの利を引き出そうと試みることは当然の選択だった。
 だが、そんな毛利軍に対し、大友軍はいっそ無造作に最大の利を提示してきたのである。


 ――門司城の割譲。


 それは今回の騒乱において、毛利軍の最大の目的。門司城を得て、関門海峡の実質的な支配権を得られるのならば、あえてこれ以上の血を流す必要はなくなる。和睦の条件として、これ以上のものは存在しなかった。
 だが、無論それは毛利家から見ての話である。大友家にとっても門司城の確保と海峡の支配権は是が非でも確保しなければならないもののはずだった。苦労して叛乱軍から奪還した門司城を、ここであっさりと毛利に譲り渡すなど、どう考えても毛利家にとって話がうま過ぎる。隆景はもちろん、元春さえ大友家の提案を疑ってかかったのは、ある意味で当然のことだったのである。


 だが、疑わしいからといってその条件を蹴飛ばすわけにもいかなかった。蹴飛ばして戦になった末に得られるものは、結局最初に蹴飛ばしたものである。それでは他の将兵が納得するはずがない。大友家の真意はどうあれ、その申し入れが毛利家にとって願ってもないものであることは事実なのだ。仮に大友家が詐謀を用いるつもりだとしても、あらかじめ備えていれば対処することは難しくないだろう。
 そう言って、大友家の申し出を受け入れるべき、という隆元の主張に二人の妹は頷いた。より正確に言えば頷かざるを得なかった、というべきだろうか。


 隆景などは十中八九これが策略であろうと考え、特に城受け取りの際には、これでもか、とばかりに厳重に警戒した。陸はもちろんのこと、関門海峡に水軍を展開し、大友軍が矛を逆さまにして襲い掛かってきても即座に反撃に転じることができるようにしたのだが……
 結論から言ってしまえば、大友軍はいかなる策略も弄さなかった。大友軍は門司城を譲り渡すと、小倉城と松山城に守備兵を残して豊後に退き、毛利軍は損害らしい損害もなく、門司城を手に入れることができたのである。


 これは後から毛利軍に伝えられた話だが、門司城を割譲することは、小原鑑元が降伏する時点で実質的に決められていたらしい。
『それも小原様が降伏を決断する理由の一つだったんじゃないかな?』
 その事実を伝え聞いた隆元はそう口にしていたが、隆景は素直に頷くことが出来なかった。
 欲望と謀略が渦巻く戦国の世にあって、それはあまりに綺麗事に過ぎるように思われたからだ。




 であれば、大友家はそれ以外のしかるべき理由をもって門司城を手放したことになるのだが……
「それが何なのかがわからないってことかな?」
 元就の言葉に隆景はこくりと頷く。
 一応、隆景としても幾つか理由らしきものを思い浮かべることはしたのである。
 中でも最も可能性が高いのは、毛利家に対する他国の心象の操作である。そのことを隆景は口にした。


「今回の戦で、大友軍はぼくたちと鑑元殿の間の疑心を刺激するように動いてました。その……毛利軍は策略を弄するっていう先入観を逆手にとる形で」
 それを口にすることは、義母の『謀将』という評を肯定することになるため、隆景としてはあまり口にしたくはなかったのだが、この場ではそうも言っていられない。
 元就もまた気にするそぶりを見せず、隆景に先を促す。ちなみにその母の傍らで、隆元はにこにこと相好を崩していた。義母と話すときに限り、ですます口調に変じる隆景がかわいくて仕方ないらしい。


 だが、普段ならば間違いなく気づいたであろうその視線に、この時の隆景は気づかなかった。それほど、自分の思考に集中していたのである。
「でも今回、ぼくたちは隆姉の指示に従って鑑元殿の援護を優先させました。結果として鑑元殿は降伏してしまったけど、毛利軍は友軍への信義を最後まで貫いたことになります。それは大友家以外の九国の人たちにもはっきりとわかったと思うんです」
 実際のところ、隆景は小倉城へ欲目を見せたわけだが、それを知るのは極小数しかいない。今回の戦に関して言えば、毛利軍は愚直なまでに誠実に動き、他勢力に『謀』ではなく『信』の面を知らしめたといえる。


 仮に何一つ得られずに撤退する羽目になったとしても、他国に対し、毛利家は信義を重んじる家だという印象を与えられたことには大きな意義があったはずである。それは今後の九国の経略において無形の財産となるはずだった。
 だが大友家が門司城を割譲したことで、その印象が翳りを帯びた。隆景はそう感じていた。
「――実際、門司城の割譲は大友家から申し出たことだけど、これは破格――というよりは本来ありえない譲歩です。だから他国から見れば、ぼくたち毛利が鑑元殿を見殺しにした挙句、その混乱と弱体に乗じて門司城を強引に奪い取った、そんな風に見えていてもおかしくないと思うんです」
 無論、毛利家は口を封じられているわけではない。事の次第を公にすることも可能なのだが――
 隆景が言いよどむと、元就は義娘の心情を思いやって自らが口を開いた。
「……うん、大友家の譲歩が信じられないくらいに過ぎたものだから、私たちがそれを正直に口にしても信じてはもらえないかもしれないね。ただでさえ毛利は策の多い家だって思われてるし」
 元就の言葉に、隆景は小さく頷いてみせた。


 つまるところ隆景はこう考えたのだ。
 門司城を割譲した大友家の狙いは毛利家に寄せられる衆望を損なうことにあるのではないか、と。利用しただけで捨てられる――そんな風評を流して毛利家の影響力を殺ぐこと、それが枢要な城をあっさりと手放した大友家の深慮遠謀なのではないか、と。




 だが、その考えを聞いた元春は首を傾げる。
「効果があるかどうかもわからない風評をたてるために、城ひとつと交易の利を差し出す、か。ありえんとは言わんが、九州探題に任じられたほどの大家がそこまで我らを警戒するものか?」
 小原鑑元が降伏した時点で、毛利軍は一万を超える戦力を門司城近辺に展開させていた。一方の大友軍は門司城に二千に満たない兵力がいたのみである。毛利軍の優位は動かなかったが、相手は百戦錬磨の鬼道雪、そうそう都合良く事が運ぶと思えなかったのも事実である。
 あの戦況で、大友家が隆景が口にしたような理由で門司城を手放すだろうか。もし相手が吹けば飛ぶような小勢力であれば元春も隆景の考えに頷いたかもしれない。しかし相手は大友家、わざわざ悪評を広めるような真似をせずとも、正面から毛利と戦うだけの力を有しているのである。


 そんな元春の反論に、普段なら一言二言は言い返す隆景だったが、この時は率直に姉の疑問がもっともであることを認めた。
 なぜといって、それは隆景自身の疑問でもあったからである。
「確かに春姉の言うとおり、大友らしからぬ――っていうか、ぜんぜん割りにあわない策略です。大友の当主は異教に狂っているっていう話ですが、その麾下にはあの鬼道雪みたいな人たちもいます。こんな愚策を採るとは、ちょっと思えなくて……」


 しかし、事実として大友家は門司城を毛利家に譲り渡した。そして大友家が毛利家の悪評を広めようと動いている様子も見られない。
 毛利家にとっては万々歳な展開であるはずなのだが、隆景は奇妙に落ち着けないものを感じていた。何か重要なことを見逃しているような、そんな焦燥が胸を苛むのである。
 元春もまた隆景ほどではないにしても似たような危惧を抱いていた。
 一人、隆元は妹たちの危惧を理解できていない様子だったが、この姉に策略の類を理解しろとは隆景も思っておらず、また理解してほしいとも考えていなかった。
 隆元は策を弄することなく正道を歩んでくれれば良い。それを補佐することこそ隆景の仕事であるからだ。しかし、今回に関して言えばどれだけ頭をひねっても大友家の真意が読み取れず、万策尽きて義母の知恵に頼ることにしたのである。




 隆景はそういった自身の考えをすべて口にしたわけではなかったが、元就は娘たちの性格や為人を照らし合わせ、ほぼ正確に娘たちの考えを悟り、気づかれないようにこっそりと口元を綻ばせた。
 だが、隆景の視線をうけて慌てて表情を引き締めなおすと、自身を落ち着けるようにゆっくりと口を開く。今回の大友家の採った行動の裏にあるものを、元就はすでにおおよそ掴み取っていた。
「結論から言っちゃうと、大友家の人たちは、毛利家に門司を譲ったとは考えていないんだよ。一時の間、貸し与えただけ、そんな風に考えているんじゃないかって思う」


 今回、陸と海で二万を越える兵力を動員した毛利軍だったが、無論、これが限界ではない。その気になれば、今回の倍近い大兵力を催すことも可能だろう。
 だが、その兵力の多くは農民であり、時が来れば村々に帰さねばならない。要するに恒久的に一箇所に留めておくことが出来ない兵力なのである。敵にしてみれば、わざわざ目の前の大軍とぶつかる必要はなく、毛利が兵力の大半を引き上げてから攻め寄せれば良いと考えるのは当然だった。
 その結果、また毛利が大軍を動員してきたとしても、再び同じことを繰り返せば良い。兵の疲労にしても、物資の損耗にしても、遠征してくる側がより不利であることは自明であり、繰り返していれば遠からず毛利家の方が息切れするに違いないのである。


 門司を割譲するということは、毛利家に常にその選択を強いることに繋がる。毛利側にしてみれば、門司を手放してしまえばそれで済むが、あの城を押さえることで生じる莫大な利益がその選択肢を許さない。
 持つことは、時に持たざること以上の不利益を招き寄せる――今回のことは、これ以上ないほどにその言葉を具現していた。



 

 その元就の言葉に、三人の娘たちはそれぞれ異なる表情を浮かべたが、その中に完全な納得を見出すことは難しかっただろう。隆元でさえ、小さく首をかしげている。
 無論、元就はその理由を察している。
「もちろん、これは一面的な見方だよ。兵力の動員――数にも期間にも限りがあるのは他の国だって同じだし、現在の大友家がこんな悠長な作戦を採る余力がないのも明らかだよね」
 その言葉に、真っ先に隆景が頷いた。
 机上の争いなら知らず、敵対する二つの国がまったくの互角の条件を揃えていることなど実際にはありえない。それぞれの家が、それぞれの長所と欠点を持ち、相対的に上回った方が勝利する。その意味で言えば、家中をまとめ切れていない現在の大友家は、明らかに毛利家に及ばないと隆景は確信していた。  


 その隆景の考えは間違ってはいない。確かに両家を見比べれば、今の毛利は大友を上回るだろう。
 だが、大友家が内憂を抱えているように、毛利家にもまた大きな問題が存在した。内ではなく、外に――すなわち出雲の尼子家の存在である。
 現在の毛利家の所領は安芸、周防、長門、そして石見と備後の一部に及ぶ。
 ひるがえって尼子家は出雲、伯耆、美作、さらには石見、備中、因幡の一部に及び、中国地方は西の毛利と東の尼子でほぼ二分されている状況だった。これまでも毛利の勢力が西へ伸びようとする都度、尼子はその後背を襲う動きを見せており、毛利家の勢力伸張を阻む大きな要因となっていた。
 それゆえ、今回の遠征においても元就と広良は尼子に備えるために安芸に残らざるを得なかったのである。


 当然、大友家もそのことは承知しているだろう。
 門司城を得たことで、毛利家は豊前にも兵力を割かねばならなくなった。大友家の侵攻に備えるためには相応の兵力をつぎ込まねばならず、そうすると必然的に尼子に向けられる兵力は減少する。
 大友家と尼子家が足並みを揃えて攻めかかれば、必ず守りきれない局面が出てくるに違いなく、そうなった時、毛利はどこかを切り捨てなければならない。
 そして真っ先に切り捨てられるのは新たに得た領土であろう。狭いとはいえ、海峡を挟んだ地に兵や物資を送り込むのは容易なことではないし、無理をして確保しても、本国や石見の銀山を失えば交易どころではなくなってしまうのだから。


 かくて毛利家が兵を退いた後、大友家は悠々と門司城を奪還できる、というわけである。
 問題は尼子家が都合よく動いてくれるかどうかだが――門司城を得た毛利家が九国に勢力を広げ、交易で国を富ませれば、それだけで尼子家にとっては脅威である。そこに言及すれば、尼子家を動かすことは十分に可能だろう。
 門司城を手放し、毛利の勢力を肥らせた大友家は、同時に尼子家を動かしえる状況を作り上げてしまったのである。



 そして、さらにもう一つ。
 大友家は外交における切り札を持っていた。
 それは――
「将軍家との繋がり、だね」
 元就の言葉に、その場にいた者たちは、はっと表情をかえた。
「大友家は九州探題に補任されるために相当の人と財を費やしたと思う。それは今も続いている……そう考えた方が自然だよね」
「そっか。将軍家を通じて門司城の返還を……ううん、違う、そんな大友家に顎で使われるような方法じゃ将軍家は動かないか。将軍家の権威を知らしめる形で門司城を取り返すためには――もう一度戦端を開いてから、それを収める……?」
「たぶん、隆景の考えている通りだよ。和睦は一時のこと。じきに尼子は動くし、尼子が動けば大友も再び動く。東と西に大敵を迎え撃つことになるから、どうやっても私たちは不利を免れない。そこで頃合を見計らって将軍家に調停を願い出れば――」
 その元就の言葉を引き取ったのは元春だった。どこかあきれたように嘆息しながら、口を開く。
「門司城は労せずして取り戻せる、というわけですか。そう考えれば、確かに義母上の仰るとおり、大友家の今回の行動は割譲ではなく貸与にあたりましょうな。そこまで考えた上での此度の譲歩であれば、いっそ天晴れとでもいうべきでありましょうが……しかし」
 そこで元春は小首をかしげた。
「元春、何か気になることがあるの?」
「率直に申し上げます。義母上、大友はそこまで考えて事を運んだとお考えでしょうか? 聞けば智恵者として知られた角隈石宗殿はすでに亡くなられたとのことですし、これまでの大友家のやりようを振り返ってみても、そこまで――なんといいますか、七面倒なことを考えて事を処すとは考えにくいと思えてなりませぬ」


 それに対し、今度は元就が首を傾げる番だった。
「うんとね、それはわたしが三人に聞きたいことでもある、かな? 今回の戦に出て、何か気づいたこととか、違和感を感じたりしたことはなかった?」
 無論、元就は大体のところはすでに書簡で報告を受けている。だが、実際に対峙した者たちの口から相手の情報を聞くことは決して無駄ではないと考えたのだろう。
 元就の言葉を受け、三人は顔を見合わせた。心あたりがなかったから――ではない。その逆だった。
 三人が同時に思い浮かべたのは、伝え聞いていた大友軍らしからぬ今回の敵の戦ぶりである。それを踏まえて、今の元就の説明に耳を傾ければ、必然的に一つの推測が導き出される。


 何かが――誰かが、大友軍に影響を与えている。
 その変化が大友家にとって、また毛利家にとって何をもたらすものかはわからない。急激な変化は多くの場合、混乱をもたらすものとして忌避されるからである。ことに大友家のような大家には累代の重臣たちが多く居り、彼らは往々にして変化を嫌う。それが人であれ物であれ、あるいはなにがしかの集団であれ、大友家に変化をもたらしている『何か』を彼らが簡単に受け入れることはないだろう。


 ただ――
 隆元が小さく呟く。
「今の大友家は、南蛮神教によって大きな変貌を遂げつつあるよね。わたしたちはそれが日の本にとって好ましくないものだと考えてきたけど……」
 もしかしたら、その変化の波は思いもよらないものを招きよせることになるのかもしれない。
 その隆元の呟きは、確たる情報に基づくものではなく、単なる思い付きに過ぎなかった。一笑に付されても仕方ない妄言であるとさえ言えた。
 だが、その場にいた者たちは、その言葉に奇妙なまでの確信の響きを感じとり、一様に口を閉ざす。かつて感じたことのないその感覚が何を意味するものなのか、毛利家の人々がその答えを知るのは、いま少し先のことだった……




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第三章 鬼謀(二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:9e91782e
Date: 2010/10/19 22:32


 戸次家の本領は豊後の鎧ヶ岳城である。
 だが、その当主である道雪殿は加判衆筆頭として戸次家のみならず大友家の政務にも携わる身であり、事あるごとに領地と府内を往復するわけにはいかない。そのため、道雪殿は宗麟から府内の一画に屋敷を与えられており、現在、俺はそこに逗留していた。


 他紋衆の乱と呼ばれる先の戦が終わってまだ幾許も経っていない。叛乱軍を短期間で降伏まで追い込んだとはいえ、実際に謀反が起きてしまった以上、その影響は計り知れない。ことに小原鑑元はつい先ごろまで加判衆に任じられていた人物であり、それだけの重臣が背いたことによる家中の動揺は容易に鎮まることはないだろう。
 実際、屋敷の中でも、主の道雪殿はともかく、その他の人々の表情はピリピリと尖ったものがにじみ出ており、声をかけることをためらってしまうほどだった。


 そんな中で、大友家の家臣でもない俺が客人扱いで逗留するというのは結構きついものがあった。
 無論、なんだこの若造めが、と邪魔者扱いされたわけではない。それどころか戦で受けた傷の治療も含めて、これ以上ないほどに良くしてもらっている。
 ただ、やはり俺は部外者であるという感覚が強いのも事実なのだ。何か仕事でもあれば気を紛らわすことも出来たろうが、俺と同様に戸次屋敷にいる吉継はともかく、俺は大友家の正式な家臣ではない。戦の最中の助言であればともかく、終わった後の始末にまで口は出せない。
 ならば屋敷の雑用でも手伝おうかと声をかけても、お客様にそんなことはさせられません、とにっこり笑って断られてしまう。まあ、客人兼怪我人に雑用などさせられないというのは、当然といえば当然だが。
 結果、俺は屋敷の人たちが忙しげに立ち働く中、手持ち無沙汰のまま、ずずっと茶をすするしかなかったのである。




 ゆえに。
「……暇だ」
 自然、そんなつぶやきも零れてしまう。
 そもそも何で俺が府内の、それも道雪殿の屋敷にいるのかといえば、そうするように道雪殿に強く請われたからである。
 最初、俺は道雪殿の頼みを謝絶した。大友家と毛利家が和睦した以上、一刻も早く東に向かいたかったのである。
 ――いや、なんかこのところ、そちらの方角からしばしば妙な重圧を感じるのだ。重圧の種類は様々だったが、あえて一つ挙げるなら、先日の夜、とある筆頭家老の怒りを正面から浴びせられたような、もう重圧ってレベルじゃねえぞ的な悪寒を覚えたこともあったほどなのだ。思わず跳ね起きてしまいましたよ、ええ。


 ……まあそれは冗談(?)としても、すでに海上から毛利水軍の姿は消えており、東行を阻むものはないと思われたのだが、道雪殿いわく「戦の後こそ海は荒れる」とのこと。
 簡単に言えば、戦のせいで滞っていた物流が一斉に動き出し、それを狙った海賊もまた大きく動き出すそうだ。それを討つべき各国の水軍は戦の後ゆえにすばやく動くことが難しく、被害が無視できないものになることも少なくないらしい。なるほど、言われてみればそれも道理。ことに今回の戦で大友水軍はかなりの打撃を受けたらしいから尚更だった。


 では陸伝いで行けば、とも考えたのだが、そうすると当然のように毛利領を通り抜ける必要が出てくる。正式に臣下になったわけではないとはいえ、今回の戦で俺は大友家に策を献じ、その兵士として戦場で毛利軍と戦っている。さすがに雲居筑前の名を毛利軍が把握しているとは思えないが、身体の各処の傷は戦に加わった事実を示して余りある。不測の事態が起こる可能性は十分にあるのだ。


 ではどうすべきか。
 考え込む俺に向けて、道雪殿はこう言った。
「わたくしの屋敷で海が落ち着くのを待っていただければ、京の将軍家へ向かう船に同乗できるよう取り計らうこともできましょうし、あるいは時が惜しいのなら、豊後から伊予へ渡って四国伝いに東を目指すという手もあります。毛利家の勢力はいまだ四国には及んでいませんから、中国地方を通り抜けるよりはよほど安全な道のりになるでしょう。いずれにせよ、一度府内へお越しいただかねばなりませんけれど……」
 どうなさいますか、と問いを向けつつ、上目遣いにこちらを見やる道雪殿の顔には、どこか悪戯っぽい微笑が浮かんでいた。


 もうなんか見慣れた観すらあるその道雪殿の笑みを見ながら、俺はふとあることに思い至る。
 九国を離れてしまえば道雪殿や紹運殿たちと会う機会は永く失われてしまう。二人だけでなく、鎮幸や惟信、そしておそらく九国にとどまることを選ぶだろう吉継も同様だった。
 ことによると『次』はもうないかもしれない。戦国の世であれば、それは予想してしかるべき未来なのである。それはつまり、目の前の佳人の微笑を見ることがもう出来なくなるかもしれないわけで……



◆◆



「そんなわけで、こうしてここにいるわけですが、これは決して東をないがしろにしたわけではないのです。いや、もちろん道雪殿たちとの別れを惜しんだのは事実ですが、それは誰に恥じる必要もない感情であり、そもそも府内に来たといっても、精々出立が数日延びる程度の差しかないわけで……」
「……誰に何を釈明しているのですか、あなたは?」
「ぬを?!」
 いぶかしげな――というか、明らかに不審人物を見る視線と声を間近から浴びせられ、俺は思わず妙な悲鳴をあげていた。
 見ればいつのまに来ていたのか、そこには頭に白布を巻いた吉継の姿があるではないか。


「こ、これは吉継殿、何か御用で?」
「はい、雲居殿にお聞きしたいことがあって参ったのですが――」
 そこで吉継はいったん言葉を切った。明らかにさきほどの俺の様子に引いている。それはまあ、いい年した男が前触れもなくぶつぶつ独り言をつぶやきだしたら怖いわな……
「……なにやらお忙しいようですし、日を改めたほうが良さそうですね」
「いやいや、別に忙しくは! 少し暇を持て余して、気が緩んでいただけですッ」
 早くも腰をあげかけた吉継を、俺はあわてて引き止めた。
 ――言ってから気づいたが、これだと俺は気が緩むと独り言をつぶやく怪しい人だと自白したことになるような?
 

 いかん、言い訳するにしてももうすこしましな台詞を言うべきだったと内心で慌てるが、幸い吉継はそれ以上追及しようとはせず、再びその場に座りなおした。
 一言二言は皮肉を言われると思っていた俺は少し意外に思い、吉継の様子を伺う。すると、その指先が忙しなく動いていることに気づいた。見れば頭を覆う白布も落ちつかない様子で揺れ動き、視線もあちらこちらに向けられて定まる様子がない。
 明らかに落ち着きを失っている吉継を見て、俺は目を瞬かせる。


 そもそも聞きたいことがあるということだったが、何を聞きたいのだろうか。 
 吉継もこの屋敷の客人として世話になっているのだが、豊前から戻って数日、俺とはほとんど顔をあわせていなかった。
 吉継はその容姿や生い立ち、石宗殿と南蛮神教との関係もあって府内を気軽に歩き回ることができない立場であり、つまりこの屋敷から滅多に外に出ていないはずである。ずっと俺と同じ屋敷で過ごしながら顔をあわせていないということは、つまり会う意思がなかったということだろう。聞きたいことがあるなら、もっと早くにたずねてきても良さそうなものだが。


 疑問に思った俺は、それをそのまま口に出してみた。
 すると、何故か吉継の動きが倍速になった。
「? 吉継殿?」
「それは、その……戸次様に御命令の撤回を懇願して無理だと言われてどうしようどうしようと途方に暮れてえいもうどうしてこうなったと半ば自棄になって心の準備をしていたら気づいたら今日になっていたのです……」
「は、はあ、さようですか」
 動作にまさるとも劣らない早口の説明が、頭巾をくぐりぬけて俺の耳に届けられる。なにやら切羽詰っていることはわかるのだが……うん、すみませんさっぱり意味がわからんですよ。


 明らかに混乱している様子の吉継だが、いつかの夜のように我を失っている様子ではない。ここはとりあえず、吉継の言う『聞きたいこと』というのを聞いてしまうべきか。
 もっとも眼前の吉継が何を聞きたいのかは想像もつかないのだが。答えられる範囲であれば良いのだけど。
「ともあれ、私に聞きたいこと、というのをうかがってよろしいか?」
「は、はい……ッ!」
 俺の言葉を聞いた吉継は、一転して身体の動きを硬直させた。
 正座をした格好で背をこれでもかとばかりに伸ばし、膝頭に置かれた両の拳はきつくきつく握り締められている。


 ――なんかもう、壮絶なまでの緊張ぶりだった。こちらまで緊張が伝染してしまいそう……というか崩していた足を慌てて正座に直さざるを得なかった。
 一体、何を聞こうとしているのだ、吉継殿?! などという驚愕を内心に押し隠しつつ、俺は表面上は冷静を装って吉継の言葉を待った。
 
 
 すると、吉継は何を思ったのか、口ではなく手を動かしはじめた。
 首筋に手を伸ばすと、頭部を覆う頭巾の結び目をするりと解いたのである。
 ふわり、と柔らかい音と共に白布は吉継の手の中に落ち、秘められていた銀の髪と紅の瞳があらわになる。
 頭巾の中の容貌をあらかじめ知っていた俺だが、それでも吉継の容姿を目の当たりにすると息を呑んでしまう。
 人の手が届かない、神域の森の住人を目の前にしたような――いや、自分でも言っていて気恥ずかしいのだが、本当にそんな抒情的(リリカル)な形容が自然に浮かんできてしまうのである。ついでに初めて逢ったときの情景が脳裏にフラッシュバックしてしまい……


 と、そこまで考えた時、吉継がじとっとした眼差しを向けていることに気づく。
「……雲居殿、ご存知でしょうか?」
「は、はい?! 何をですか?!」
「石宗様より伺ったのですが、人間は頭に強い衝撃を受けると、それまで過ごしてきた記憶を失ってしまうことがあるとか」
「た、たしかにそういったこともあると聞いたことはありますね」
「それを聞いて安心しました、二人の智者のお墨付きがあるのであれば、嘘偽りではないのでしょう」
「――と言いつつ、なぜ刀の鯉口を切っておられるのでしょう?」
「人の顔をみる度に不埒なことを思い出しては顔を赤らめる変質者の記憶を削除しようかと思いまして」
「……念のために確認しますが、峰打ちですよね?」
「もう不埒云々のあたりは否定もしないのですね……」
 はあ、とため息を吐く吉継に対し、俺はわざとらしくこほんと咳払いした。
 脳内の光景をとっぱらいつつ、この場を切り抜けるために頭をひねる――かなり本気で。具体的に言うと対毛利戦の作戦を考えた時と同じレベルで。ここで選択肢を誤ると、かなり高い確率でどこぞに『完』の字が刻まれてしまいそうで怖かったのである。




 だが。
 そんな俺を見つめる吉継の口から、不意に小さな笑い声が零れ落ちた。失笑――ではない。本当に、思わず、という感じの微笑だった。
「……吉継殿?」
「……何日も悩んだ挙句、ようやく真摯に向き合う決心ができて、こうしてやってきたというのに……なんでこんな緊張感の欠片もないやりとりになってしまうんでしょう?」
「……いや、緊張感はけっこうあったと思いますが」
 俺も思わずつぶやくと、吉継はにこりと微笑んでみせた。それを見て、自分の頬がさっきとは別の意味で赤くなるのがわかったが、それはたちまちのうちに凍りついた。吉継がこう続けたからである。
「なにか言いましたか、いい年して子供の裸身を思い出して赤面してる軍師殿? というか、今度同じことをしたら、問答無用で戸次様に御報告しますからね。多分、その方があなたには堪えるでしょうし」


 覗いたこと自体は許しても、それ以外のことまで許した覚えはありません。
 ぴしゃりとそう言い放つ吉継に対し、俺は一も二もなくひれ伏して許しを請うしかなかったのである。









「――家族のことを知りたい、ですか?」
 あちらこちらに脱線した後、ようやく本題に入ることが出来た俺たちだったが、吉継の言葉を聞いた俺は戸惑いを隠せなかった。
「それは私の氏素性を知りたいということでよろしいので?」
「いえ、そうではなく。純粋に雲居殿のご家族の為人をお聞きしたいのです。差し支えがあるようなら、名前や生まれた地などは除いていただいて結構です」
「それはまあ、お安い御用ですが……なんでまた、そんなことを聞きたいんですか?」
 俺の疑問に、吉継は何故か恨めしげな視線を向けてきた。え、なんで?
「なんでもありません……とは言えませんね。なんで同じ当事者なのに私ばかり悩まないといけないのか。不条理を感じてもしょうがないというものです」
 と、なにやら低声でぶつぶつとつぶやく吉継。
 しかし、俺には何のことやらさっぱりだった。というか、今日の吉継はいきなり会話の波長がずれる時があるのだが、本当にどうしたのだろう。もしや石宗殿が亡くなって以来の疲労が、ここにきて一気に表面化したのだろうか。


「……私のことはお気になさらず。理由は近いうちに――というか多分、明日か明後日くらいに明らかになります。まあ、その時は逆にうろたえるあなたをのんびりと眺めていられるでしょうから、おあいこということにしておきましょうか」
「ほんとにさっぱり意味がわからんのですが」
 などと言葉を返しつつ、俺は両親のことを思い浮かべる。


 しかし、よく考えてみると――
(誰かに両親のことを話すのは、あの時以来か)
 俺という人間にとって、疑いなく転機となった出来事が自然と思い浮かぶ。同時にあれやこれやも思い浮かんでしまいそうになったので、慌ててそれらの情景、感触その他もろもろをシャットアウト。ここでまたにやけようものなら、本当に吉継に斬って捨てられてしまう。
 こっそりとそんなことを考えつつ、俺はどこか緊張した面持ちで話を待ち受けている吉継に向かって口を開いた。
 どこか郷愁にも似た懐かしさを覚えながら……






◆◆◆ 






 府内は豊後の国の政治、軍事、経済の中心として長い歴史を持つ古都である。大友家が豊後のみならず、豊前、筑前、筑後、肥前、肥後といった北九州全域に影響力を持つようになってからは、その大友家の枢要の地として、人と物の流れの中心地となっていた。。
 くわえて、近年には海外との交易の要としての役割をも担うようになっており、博多や堺に比肩しえる空前の繁栄を遂げていたのである。


 ひとたび街中に出れば、そこには南蛮様式の建物がそこかしこに立ち並び、道行く人の中には当然のように異国人の姿が見受けられる。そんな光景を見ることが出来るのは、日の本広しといえど、ここ府内だけだろう。
 だが、そんな府内の喧騒も日が沈めば落ち着きを取り戻す。もちろん、日が沈んでからが本番だ、という区画もあるにはあるのだろうが、少なくともここ戸次屋敷の周囲は静穏な空気に包まれていた。
 近づく夏の暑気も、今の時刻では海からの風でなだめられている。夜半を過ぎれば、時に肌寒さを感じることさえあるほどだ。
 屋敷の縁側に腰掛けながら、吉継は夜空を見上げていた。あらわになった髪が夜風になびき、月明かりを受けて鮮麗な銀光を映している。
 この光景を見ている者がいれば、自分が見ているのは夢か現か物の怪かと戸惑いを禁じえなかったことだろう。


 無論というべきか、吉継自身はそんなことを考えてはいない。夜空に浮かぶ月を、ただ無心に眺めやっているだけだった。
 否、正確に言えば無心に眺めているわけではなかった。その胸中には、先刻、話を聞いた雲居の声と姿がたゆたっていたからである。


 吉継が雲居に家族の話を請うたのは、無論、先日の道雪の命令が原因だった。
 正直に言って、吉継は道雪がどうしてあんな命令を口にしたのかはわからない。師である石宗の言葉に従ってか、とも考えたが、石宗とてまさか本当に養子縁組をさせるつもりはなかっただろう。あの手紙にあった父や兄という言葉は、あくまで例えに過ぎず、それは道雪とて十二分に承知しているはずなのだ。
 とはいえ、それを道雪に問うても答えてくれず、命令を撤回してもくれない以上、吉継に残されたのは従うか、それとも拒むかの二つに一つ。しかし、かりにも加判衆筆頭たる戸次道雪の命令である。これを拒めば、大友家に吉継の席はなくなってしまうだろう。石宗亡き後、領土も後ろ盾もなく、孤立無援の吉継をかばってくれる人がいるはずもない。


 もっとも、吉継は大友家の臣という立場に執着を抱いているわけではないから、放逐されたところで別にかまわないという気持ちもあった。一人で生きる術も持っている以上、理不尽な命令に唯々諾々と従う必要もない。
 その吉継をためらわせているのは、やはり石宗が残した手紙だった。道雪の命令は多少――いや、かなり行き過ぎた面もあるとはいえ、石宗の遺言に沿ったものであり、だからこそ反感を抱くことも難しいのである。
 無論、道雪本人への尊敬の念も、反感を抱けない理由の一つに含まれていた。明らかに面白がっている様子だったが、そこにはたしかに吉継に向けられたいたわりの念が感じられたから。


「まあ、別に妻になれと言われたわけでもないですし」
 ぼそりとそんなことをつぶやく。
 義理の兄妹、あるいは父娘。吉継と雲居の年齢は十も離れておらず、父娘は明らかに無理があるから、名乗るとすれば兄妹の方が相応しいだろう。実のところ、それ自体は別に構わない、とすでに受け入れている自分に吉継は気づいていた。


 無論、吉継が自発的に喜んでそうしたい、というわけではない。それはもう断じて違う。
 ただ、そうすることで亡き師や道雪がわずかなりと安心できるならば、あえて拒むこともないと思えるのである。 
 では、なんで雲居の家族の話などを聞きに行ったのか。その疑問に対する答えは二つある。その一つは、もう雲居本人に向かって口に出していた。
「なんで私だけ悩まないといけないのか、まったく……」
 何故か道雪は雲居本人に対しては命令を下していない。一度、それは何故かと問いかけたら、口元を手で覆って含み笑いをしつつ、雲居が大友家の家臣ではなく、道雪は命令を下せる立場ではないからだと言っていた。
 それは確かにそのとおりであり、反論の余地がないのだが、あの顔は明らかにそれ以外の理由があると吉継は見て取った。具体的に何を企んでいるかまではわからなかったが……


「結局、私も雲居殿も、戸次様の掌の上で転がされているのかな」
 さしずめ釈迦と孫悟空の関係かと吉継は考え、自分の発想に小さく噴出してしまった。あまりに的確な例えだと自賛したくなる。
 しばし笑いの発作に身をゆだねた後、吉継は口を引き結んだ。
「まあ、それはさておきましょう。今、考えるべきはそこではなく――」
 形はどうあれ笑ったことで、吉継の思考は再び眼前の問題に立ち戻る。


 雲居が順風な生を送ってきたわけではないことは吉継も察していた。
 明らかな偽名を名乗り、戦略に長け、戦術に通じ、九国最高の名将たる戸次道雪とまがりなりにも対等の立場で言葉をかわす人物が、安穏とした生を送っているはずもない。
 今でも思い出すと顔から血の気が引いてしまうのだが、以前、吉継が狂乱の態で雲居に斬りかかった時、和尚もそれをにおわせることを口にしていた。
 和尚が気づいていたということは、おそらく石宗も同様に察していたのだろう。だからこそ、出会って間もない雲居に吉継のことを託そうとしたのだろうか。


 吉継はまだそこまで雲居に信を預けているわけではないが、あらためて顧みれば、すでに十分すぎるほどに雲居の存在を受け入れている自分に気づいて驚いてしまう。石宗自身を除けば、ここまで他者を近くに感じたことはかつてなかった。
 これが人徳というものなのかと思い、あらためてその特異な存在に興味を惹かれる。
 雲居を訪ねた理由のもう一つがこれだった。
 師である石宗。
 その菩提寺の和尚。
 さらには戸次道雪。
 そんな人傑たちに認められる雲居筑前という人物を少しでも知ることが出来れば。そう考えたのである。


 結果として、少なからぬ事実を知ることが出来た、と吉継は思う。
 雲居の父と母に向けられた尽きせぬ尊敬と自責の念。驚いたことに、雲居もまた吉継と半ば重なる意味において二親の死に責任があるという。
 その事実に、自分では気づかぬままに壊れそうになっていたのだと、雲居はこともなげに語った。そして、とある人物に、その寸前で引き止められたのだ、と。


 そのことを語ったときの雲居の顔に、吉継は名状しがたい感情を覚えた。それが何という名前の感情なのかは今になってもわからない。羨望といえば羨望だろうし、焦燥といえば焦燥かもしれない。だが、あえて名前をつける必要はないのかもしれないとも思う。
 同時に、いつかの月夜、和尚が雲居に向け、感嘆と共に言った言葉が脳裏をよぎる。


『良き出会いを、そして良き別れを経てこられたのであろう。それは、これから先の吉継殿になにより必要なことだとは思われませんか』


 その言葉の本当の意味を知ることは、多分、今の自分には無理だろう。吉継はそう思う。他者との接触を避ける者に、出会いも別れもおとずれるはずがないのだから。
 しかし、だからといって、今日これから今までの生き方を転換させることなど出来ようはずもない。吉継は自分がそんなに器用であるとは思っていないし、かりに吉継がそうしたところで、他者がそれを受け入れてくれるとも思えない。手を差し伸べたところで、振り払われてしまうのが関の山だろう。


 そんなことを考えながら、吉継は空を見上げる。彼方に浮かぶ月に目を向け、そして――
「……でも、そんなことばかりは言っていられない、か」
 ぽつりと。本当に囁くように、吉継はその言葉を紡ぎ出していた。
 本当のことを言えば、ずっと悩んでいたのだ。ずっと――父と母の生に、どのような意味を込めるのかは吉継次第だと、あの日、和尚に言われてから、ずっと。


 今回の件で何もかも変えることは出来ないが、少なくともきっかけにすることは出来るだろう。
 半ば強いられるような形になってしまったが、逆に言えばこんな妙な出来事がなければ、いつまでも意を決することが出来なかったかもしれない。
 いや、あるいはもしかしたら――
「戸次様は、見抜いてらしたのかな?」
 だとすれば、やはりとてもかなわない、と吉継は嘆息する。嘆息しつつ、それを打ち消すように両の手で自分の頬を叩いた。


 思いのほか力がこもっていたらしく、ばちん、とやたら良い音があたりに響く。じんじんと伝わってくる頬の痛みは、目を覚ますには十分すぎるほどの刺激だった。
 そうして吉継はゆっくりとその場に立ち上がる。
 脳裏に浮かぶのは、さきほどの雲居の話の最後の部分。
『あとまあ、一人、妹がいるにはいるんですが、義理の……といっていいのかな?』
 たしかそんな風に言っていた。であれば――



「……やっぱり二番煎じというのは面白くないですね」
 そんなことを口にしつつ、銀髪の少女は屋敷の主の部屋へと足を向けた。
 一つの結論を告げるために。 




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第三章 鬼謀(三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:9e91782e
Date: 2010/10/24 14:48


 南蛮神教は清貧と奉仕の精神を尊ぶ宗教であり、自然、その信者の生活も質素を旨とするものとなる。
 俺の眼前に座る人物は、名実ともに九国の頂点に立つ身であるはずなのだが、みずからが信じる教えに沿ってのことなのだろう、普段の生活態度は驚くほどに慎ましやかなものであるそうだ。
 今も着ている衣服は黒を基調とした修道服のみで、装身具らしきものは簪一つ見当たらない。あえて贅沢をあげるなら、近年、西方から伝わってきた眼鏡をかけていることぐらいだろうが、これとて政務を執る上で必要だから用いているだけなのだと思われた。


 大友家第二十一代当主、大友フランシス宗麟。
 俺の眼前にいるのは、まさにその当人である。
 様々な話を聞いた後での謁見であるだけに、俺はあらかじめ宗麟がどのような人物であるのか、いくつもの予断をもってこの場に臨んでいた。
 大友宗麟が南蛮神教に耽溺し、国内に波風を立てたのは覆しようのない事実であるが、それでも道雪殿をはじめとした大友家重臣たちを統御する大国の主である。また、府内の繁栄を見るだけでも、その施政に見るべきものが多くあるのは明らかだった。
 単純に暗君、名君の二つで分けられるような人物ではあるまい。そう考えていた俺の前にあらわれたのは―― 


 一見したところ、他者と違う『何か』を感じさせるような人物ではなかった。
 質素な修道服に身を包み、所作も礼儀正しく控えめである。重臣筆頭である道雪殿とのやりとりも穏やかかつ明晰であり、連戦を強いた道雪殿に対して労を強いたことへの詫びを口にするところを見れば、配下に対する気遣いも出来る為人であるようだ。少なくとも、初見で欠点を指摘できるような人物ではなかった。
 強いて気になる点を挙げると、質素な修道服――言い換えれば布地が薄い衣服は、宗麟の豊麗な肢体を過度に強調しているように見えてしまい、俺のような男性から見れば、やや目の毒であった。付け加えれば、目元の泣きぼくろのせいか、どこか濡れたように見える眼差しや、あるいはちょっとした所作の中に見え隠れする科(しな)が奇妙に扇情的に映る時がある。


 そういった点が少し気になったのだが……まあ冷静に考えると、かりにも一国を統べる大名に対して「大名にしてはちょっと色気がありすぎませんか」と言っているようなもので、そんな感想を抱く俺の方がよっぽど問題ありかもしれん。道雪殿に悟られたら、ぽかりとやられそうな気がするのでいらんことは考えないようにしよう。





 ここは府内の中央に位置する大友館である。
 かつて二階崩れの変において全焼した大友館を建て直したものだが、建物自体は以前のそれとは大きく異なっている。随所に西洋建築の影響が見られ、館というよりは宮殿のような印象を受けた。
 聞けば臼杵の石工をはじめとした最高峰の人材と物資をつぎ込み、文字通り大友家の総力をあげてつくりあげたらしい。
 今では隣接する南蛮神教の大聖堂と並び、府内の景観を代表する建物となっており、大友家の権力の象徴として、また南蛮神教の威光を示すものとして、異国から訪れた南蛮人たちでさえ感嘆を禁じえないともっぱらの評判であった。


 言うまでも無いが、大友館は九国探題たる大友家の政治、軍事、経済の中枢である。
 そんな場所にどうして俺がいるのか。他紋衆の乱における功績ゆえ――ではない。俺の献策がそれなりに役立ったことは事実だが、大友家の家臣ではない俺の策を道雪殿が採用した、などと知られれば厄介事の種になりかねない。南蛮神教あたりに付け込む隙を与えることにもなってしまうだろう。
 そんなわけで、俺の献策の功績は丸々道雪殿に預けることにしたので、この場に呼ばれる理由にはならないのである。


 今日の俺の立場は単に道雪殿のお供であった。断ろうと思えば断れたのだが、大友館の様子や、宗麟の為人を見るには絶好の機会でもある。それに、南蛮神教が大友家の政治にどれだけ食い込んでいるのかを確かめることが出来るかもしれない、という狙いもあった。
 遠からず府内を離れる身とはいえ、それまでに向こうが何か仕掛けてこないとも限らないのだ。そんなわけで、こうしてここまでやってきたわけだが――



「――道雪をはじめとした皆々の奮戦の甲斐あって、領内における混乱は最小限で済んだといえるでしょう。改めて此度の征戦における皆さんの働きに感謝いたします」
 その宗麟の言葉に、道雪殿と紹運殿、そして今回の戦に従軍した吉弘鑑理らが一斉に頭を下げる。
 勝利を賞す場とはいえ、その雰囲気は決して明るいものではなかった。それも無理はない。勝利を得たとはいえ、戦った相手はつい先日まで轡を並べていた同輩なのだ。
「鑑元のことは残念でしたが……」
 それは宗麟も同様であるらしく、その表情には深い憂いが満ちており、祈るように左右の手を重ねる様子は、とてものこと異教に耽溺した暗君には見えなかった。


 宗麟の言葉に、ひときわ沈痛な静寂が周囲に満ちる。
 だが、次の瞬間、それは無造作に破られた。
「フランシス、あなたが心を痛めることはないのですよ」
 その声は宗麟の傍らに控えた宣教師カブラエルのものだった。
「カブラエル様……」
「誠心をもって神に仕える貴方の行いは、非の付け所のないものでした。神はそれを嘉したまうことはあっても、罰を与えることは決してありません。それは神の使徒たるこの私が断言します」
 宣教師の言葉に、宗麟は戸惑いをあらわにする。
「けれど、鑑元に叛かれたのはわたくしの不徳ゆえではないでしょうか?」
「それは心得違いですよ、フランシス。そも前提が間違えているのです。此度のこと、神の忠実な信徒である貴方への罰ではありません。むしろ逆なのです」


 主君と宣教師との会話は声を潜めることなく行われている。
 つまり俺たちの耳にもはっきりと届いており、俺はカブラエルが言わんとしていることを察した。俺だけでなく、この場にいる多くの者たちが気づいたことだろう。
 そして俺の予想にたがわず、宣教師は言葉を続けた。
「将来、貴方に害をなす獅子身中の虫を、神はあぶりだしてくれたのですよ。げんに小原なる者、我らの神を信じず、あまつさえ貴方に信仰を捨てるように求めていたとか」
「それは……そのとおりです」
 力ない呟きが宗麟の口からこぼれる。小原鑑元が幾度も宗麟の南蛮神教の傾倒を諌めていたのは事実だった。


「我らが神は唯一絶対のもの。けれどその存在はあまりに尊く、人がその慈悲を知るには時が必要となります。私の国でも、すべての国民が教えを奉じるに至るまで長い時がかかりました。ゆえに教えを信じられないという者がいても、それは仕方の無いこと。そういった者たちに神の慈悲と栄光を知らしめることこそ私たち宣教師の務めであり、喜びでもあるのです。しかし――」
 そこでカブラエルは一旦言葉を切った。その眼差しに刃の鋭さが宿る。
「他者に教えを捨て去るよう強いることは、たとえ一国の王であっても許されることではありません。それは暴挙と呼ぶことすら生ぬるい悪魔の所業――フランシス」
 宗麟にとって、カブラエルは常に優しさと穏やかさを失わない人物だった。そのカブラエルが鞭打つような勁烈な響きを持って言葉を発したため、宗麟は竦んでしまった。
「は、はい、カブラエル様……」


 宗麟が怯えていることにおそまきながら気づいたのか、カブラエルはやや慌てた様子で語調を柔らげた。
「すみません、少々感情が昂ぶってしまったようです。私もまだまだ修行が足りません、この様では信徒を導くなど夢のまた夢ですね……」
「い、いえ、そのようなことはございませんッ。カブラエル様のお導きなくば、今のわたくしはありえなかったのですから」
 慌てたような宗麟の言葉に、カブラエルは心底うれしげに微笑んだ。宗麟の頬が目に見えて赤らむ。
「ふふ、その一言で私が海を渡った甲斐があったというものですね――改めて問います、フランシス」 
「は、はい……」
「貴方は、神の教えを捨てるつもりはありますか?」
「ありませんわ、カブラエル様。それだけは決して――この身が煉獄の炎に包まれようと、わたくしの心は主と共にあり続けるでしょう」
「良い目です。貴方の信仰を妨げることが出来るものは、この世界のどこにもおらぬでしょう」
 ゆえに、とカブラエルは続ける。
「そんな貴方の信仰を快く思わぬ小原はいずれ必ず反逆したでしょう。避けられぬことであれば、むしろこの時期にあの者が暴発したことこそ幸運というもの。敵国との戦の最中にでも反逆されていれば取り返しのつかない事態になりかねなかったのですからね」    
 




 そのやりとりに対する家臣団の反応は、俺の目には三つに分かれたように見えた。
 すなわち忌々しげに顔をしかめる者と、追従するように笑みを浮かべる者と。
 どちらかといえば前者は年長者に、後者は壮年以下の若年層に多かった。
 そして最後の一つは――そんな主君の様子を沈痛な表情で見つめる者たちであった。


(なるほど、な)
 いわく言いがたい沈黙に満ちた場に立ち会ったことで、俺ははじめて大友家の内憂を実感することが出来たように思った。
 俺がこれまで出会った大友家の人々――石宗殿に道雪殿、吉継やカブラエルなどは、皆それぞれに複雑な事情と立場を抱える人たちであり、彼らと言葉を交わしたことで大体の問題を理解しているつもりだったが、この場の空気に触れたことで、その理解がいかに浅いものであることかもわかった気がした。


 すると。
 そんなことを考えている間に、いつのまにか宗麟が立ち上がり、こちらに向けて歩いてきた。
 その向かう先は道雪殿でも鑑理でもない。無論、俺でもない。宗麟が向かう先にいたのは――
「イザヤ、無事でよかったです」
 宗麟の呼びかけに応えたのは、俺の隣に座していた人物だった。
「……恐れ入ります、宗麟様」
 その人物、戸次誾は低く抑えた――つまりは感情が表に出ない声で主君に応えた。
「おおよそのことは道雪と鑑理の書状で知っています。二人のことですから、面と向かって貴方を褒めてはいないでしょうが、見事な手柄であったと記していましたよ?」
 そういって楽しげに、また誇らしげに微笑む宗麟。
 表情からも、また口調からも親愛の情をありありと感じ取ることが出来た。


 警戒心を感じさせない、どこか童女のような宗麟の姿を目の当たりにして、俺はいささかならず意外の観に打たれていた。
 それは主君と部下というより、ほとんど友や家族に対する距離感であるように思われたからだ。大友家当主が、これほど親しみを見せる相手は多分数えるほどしかいないのではないだろうか。
 だが。


「いまだ未熟、若輩の身。宗麟様からそのようなお言葉をいただくには恐れ多く、また不相応であると心得ます」
「そんなことはないでしょう。年若いとはいえ、すでにあなたは大友武士の一人なのですから。それと、できればわたくしのことはフランシスと呼んでほしいのだけれど、イザヤ」
「お許しくださいませ。いただいた洗礼名さえ、今のそれがしには相応しくないものと思っておりますゆえ」
 誾の口から出るのは硬く、強張った声。その顔はいまだ伏せられたままで、どのような表情が浮かんでいるのかを知る術はない。
 それでも、誾が宗麟に対して隔意を抱いているのは明らかであるように思われた。他人の俺でさえそう感じたのだ、当然宗麟もそうと悟っただろう。顔を伏せたままの誾を見る宗麟の表情は曇り、その目がさびしげに伏せられた。




 すると、そんな宗麟を気遣うように道雪殿が口を開いた。
 ただ、その口から出た言葉は俺が予想もしていなかったもので――
「宗麟様、こちらが先日お話しした方です」
 そう言って目で指し示したのは誾の隣にいる俺だった――って、はい? 先日話した?
「そうでしたか、雲居、筑前殿、でしたね」
 宗麟の眼差しがまっすぐに俺に向けられる。そう言われてしまえば、こちらとしても応じざるを得ない。内心の戸惑いを表さないように注意しながら、俺はかしこまって頭を下げた。
「はい、雲居筑前と申します。お初にお目にかかります」


 その俺の様子が可笑しかったのか、それともさきほどまでの空気を払拭したかったのか、宗麟は短く声をあげて笑った。
「ふふ、そのようにかしこまらずとも結構ですよ。此度のこと、道雪よりおおよそのことは聞いています。神と大友のために尽力いただけたこと、感謝しています」
「は、おそれいります」
 宗麟に応えながらも、これでは話が違うのではないかと道雪殿に視線を向ける。
 しかし、当の道雪殿は俺の視線に気づくや、澄ました顔でにこりと微笑みを返すだけで悪びれた様子もない。


 一体、何を考えているのやら。
 道雪殿の様子を見て、内心で深く息を吐く。ため息ではないが、限りなくそれに近い成分の吐息だった。
 そんな俺に向けて、なおも宗麟は言葉を向けてきた。
「雲居殿」
「はい」
「大谷家のことは、わたくしども大友宗家にも責があります。カブラエル様も、信徒の一部が暴走してしまったことを長い間悔いておられました。本来ならばわたくしが大谷家の名誉を回復し、臣として吉継を迎え入れるのが筋なのですが……ご存知のように、わたくしは師である石宗にその責を委ねました。府内に迎えることが、吉継にとって望ましいことかどうかがわからなかったからです」
 そう言って、宗麟はじっと俺を見つめた。
「正直に言えば、今も迷っています。今からでも吉継を大友家に迎え入れるべきではないか、と。しかし、吉継と貴方が望み、それを道雪が諒としたのならば、おそらくそれが最も良い方策なのでしょう。ですから、わたくしは神の膝元であるこの地で新たなる絆がうまれることを喜び、その幸福が長からんことを神に祈りましょう……御身らの行く末に神の御加護がありますよう」
 そう言って十字をきる宗麟に対し――


(……は?)
 その言葉の意味がさっぱりわからない俺は、ぽかんと呆けたように口を開けることしか出来なかったのである。  
 
 


◆◆◆




 そして数刻後。


 俺は大友館でそうしたのと同じように、口をあけて呆ける羽目に陥った。否、むしろ衝撃の大きさで言えば今の方が大きいほどだ。意味不明の度合いでいっても、比較にならん。
 なにせ――
「……おとうさま?」
 呆然と問い返した俺に、眼前に座る銀髪の少女はしごく真面目な表情で頷きを返してきた。
「はい、お義父様。不束者ではありますが、これからよろしくお願いいたします」
 いや、その挨拶はおかしい――そう指摘する余裕など、俺にあるはずもなかった。
 脳裏には無数といって良い疑問符が飛び交い、胸中には疑問の言葉があふれんばかり。それらをまとめることもできず、言葉を発することも出来ないままに俺の口は無意味に開閉を繰り返す。
 率直に言って、ここまで驚愕したことはいまだかつてない、と断言してよかった。


 だが、大きすぎる驚きは、かえって静まるのも早いのかもしれない。
 それでも線香が一本燃え尽きるくらいの時間がかかったような気がするが、その間、吉継は辛抱強く(という割には、どこか愉しげだったが)待っていてくれた。



「……まずは何からたずねるべきなのでしょうか」
 ようやく搾り出した問いに対する答えは迅速だった。
「とりあえず首謀者は戸次様です」
「了解しました」
 それだけで通じ合えるのは、一時とはいえ戸次軍で軍師を務めた者同士の共感(シンパシー)のなせるわざか。
 とはいえ、実際その一言で色々と不可解だったことの解答が出たのは事実である。 
「なにかやたらと豪華な酒食が並んでいるのはやはり……」
「固めの杯のつもりではないかと」
「やっぱりか……」


 道雪殿の悪戯はいいかげん慣れてきたが、さすがにこれは悪ふざけで済む話ではない。
 どこがどうなって『お義父様(おとうさま)』に繋がったのかは不明だが、吉継が自発的にそんな真似をするはずがない。
 であれば、おそらく道雪殿からなんらかの圧力(?)がかかったのだろう。たとえば、そう……『加判衆筆頭としての命令ですよ』などと道雪殿が口にすれば、生真面目な吉継のことだ、ごまかすことも出来ずに不承不承従ってしまうのではなかろーか。


 道雪殿がこんなことを企んだ理由や、何を望んでいるのかは何となくわからないでもないが――うん、やはりやりすぎだろうな、これは。
 あるいはこの席に呼んでおきながら、本人が姿を見せないのはこちらの追求を避けるためか。そう考えた俺はその場を立ちかけたのだが――


「お義父様、どちらへ?」
 いち早く察した吉継の声に機先を制された形になり、立ちあがる機を逸してしまう。
(というか、なんでこんなにノリが良いんだ、吉継は?)
 吉継の境遇を考えれば、たとえふざけ半分であっても、他者を父と呼ぶことに抵抗を覚えると思うのだが……


 そう思いつつあらためて吉継を見やると、そこにはこれでもか、と言わんばかりに頬を赤らめた少女の姿があった。
 日の光を浴びる機会の少ない吉継の肌が白いのは当然である。だからこそ、頬に朱を散らばせれば、余計にそれが映えるのも当然だった。
 ついさっきまでは、これほどあからさまに恥ずかしがってはいなかったように思うが、あるいは時間の経過と共に自分の言動をはっきりと自覚してしまったのかもしれない。




 そんなに無理をする必要はないのに、と俺は口にしかけた。
 しかし、ふと疑問がよぎった。いくら道雪殿に強いられたからといって(確認してはいないが、まあほぼ確定だろう)ここまで唯々諾々と吉継が従うだろうか、と。
 石宗殿亡き今、吉継は大友家の臣籍にそれほど執着は持っていないだろう。豊前での戦の時、吉継が積極的であったのは、石宗殿の代わりを道雪殿に求められたからであろう。手柄を立てて大友家における席を確保しようとか、そういった感じはなかったように思う。
 であれば。
 いくら道雪殿の命令とはいえ、望みもしない養女縁組を肯うはずがない。まして相手は良く知った相手ではなく、四ヶ月前までは存在も知らなかった俺なのだから尚更である。


 逆説的に。
 吉継がうなずいたのであれば、俺の養女になることを望んでいるということになるのだが――
「って、いや、それはありえん」
 思わず口をついて出てしまった言葉に、吉継が頬を赤らめたまま首を傾げた。
「お義父様、ありえないとは何のことですか?」
「今の俺の前に広がる状況すべてが」
「それはさすがに失礼だと思います」
 むっとした様子でこちらを見据える吉継。そこにはどこか見慣れた観のある険のある眼差しがある。それでも出会った頃を振り返れば、くらべものになるくらい柔らかいものだったが。
 


 いまだ状況が掴めず、困惑しきりの俺。
 すると、目の前の人物が不意に表情を崩して笑い声をあげた。
 それはこちらを嘲る素振りは微塵もなく。本当に楽しくて楽しくて仕方ないという感じの、子供のような笑い声。
 今の今までずっと堪えていたのか、一度あふれてしまった笑い声は容易におさまらず、しまいにはあまりに笑いすぎて咳き込みはじめてしまった。
「大丈夫ですか?」
 俺は唖然を通り越して、かえって平静になった。はじめて見る吉継の姿があまりに意外で、驚きの感情も飽和してしまったようだ。立ち上がって吉継に近づくと、げほごほと咳き込んでいる吉継の背を撫でてやる。
 それでもしばらくは苦しげに身体を震わせていたことから、俺の困惑ぶりはよほど吉継の琴線に触れてしまったと思われる――なんかもう、本当にわけがわからん。



 知らず、俺の口から大きなため息がこぼれ出た。
 と、その途端だった。
 今、俺は右手で吉継の背を撫でており、左の手は膝の上に置かれている。その左手を吉継がぎゅっと握りしめてきたのである。
「――なッ?!」
 突然の行動に驚き、咄嗟に左手を引いたのだが、吉継は思いのほか強い力で俺の手を握り締めて話さない。
 何事?! と慌てて吉継を窺うが、相変わらず顔を伏せたままで、身体もまだ震えている――それは笑いの発作がおさまっていないのだ、と俺はそう思っていたのだが……


「……雲居殿」
 呼びかけの声は震えていたが、そこに笑いの成分は一滴も含まれていなかった。
 俺の呼び名が元に戻り、よく見れば室内の灯火に映し出された吉継のうなじは朱に染まっている。 吉継が何かを堪えているのは間違いないと思うのだが、戦術や政略とはまったく異なるこういった方面の人生経験には悲しいほどに乏しい身、何をどうすれば良いのかさっぱりわからない。


 率直に言って、後背から一千の大軍に急襲されても、ここまで狼狽しなかっただろう。
 もうこうなったら逃げ出すしか、ときわめて後ろ向きな決断を俺が下しかけた時、それを察したのか吉継の手にひときわ力が篭る。
 そして――その口から今にも宙にとけてしまいそうなか細い声が紡ぎだされた。



 もしこの時、俺がその言葉をわずかでも聞き落とそうものなら取り返しのつかないことになっただろう。おそらく、吉継は二度は口にしてくれなかっただろうから。
 だが幸いにも俺は、吉継の言葉を聞き漏らすことなく、短からぬ話を最後まで聞き取ることが出来た。


 それはここ数日来――否、道雪殿から俺を『父』か『兄』のいずれかにするようにという命令を下されてからずっと吉継が考え続けてきたことの答えだった。
 父と母が守り続けたものを守り継ぐために。
 そして、みずからの手でその価値を高からしめるために大谷吉継が導き出したその答えを。


 ――俺が否定できるはずもなかった。






◆◆◆






 喉元を通り過ぎる酒はとうの昔に冷たくなっていたが、主観的にはえらく熱く感じられた。
 決して吉継が飲んだ杯をそのまま受け取って口にしたから、という理由ではないのだが……いやまあ、それを含めて羞恥の感情がないといえば嘘になるか。俺の向かいでは吉継も顔を真っ赤にしたままである。先刻からずっとあの状態が続いているし、そのうち頭に血がのぼって倒れてしまうのではないかと、半ば本気で心配してしまう。
 そんなことを考えつつ、俺は一息で杯の中に残っていた酒を飲み干し、杯を戻す。
 そして、俺と吉継ははかったように同時に頭を下げた。互いに相手に礼を示したのだが、半分くらいは顔を隠したかったためだった。吉継の顔が赤いなどと言ったが、多分、俺も負けず劣らず、といった感じだろう。


 しかし、たった今、固めの杯を終え、正式に家族となったという現実に、照れやら戸惑いやらを覚えるのは仕方ないことではなかろうか。
 とはいえ、年長者がいつまでも黙っているのもいささか情けないので、顔をあげつつ無理やり口を開く。
「では、その、なんですか……あらためてよろしくお願いいたします、吉継殿」
「……こちらこそ、よろしくお願いいたします、お義父様」


 俺はどうしても照れを消せずにいたが、吉継の方は経緯はどうあれ一応の落着を見たことで、意外に早く落ち着きを取り戻したらしい。
 次に俺に向けられた言葉は、若干の険があったものの、思いのほか穏やかなものだった。
「ところで早速ですがお義父様」
「は、なんでしょう?」
 吉継のやや強張った声音に気づいた俺は、ほとんど反射的にぴんと背筋を伸ばして吉継に対する。

  
 そんな俺を、吉継は呆れと苛立ちをない交ぜにしたような顔で見据えた。
「率直に言いますが、『雲居殿』を『お義父様』と呼ぶのはとても恥ずかしいのです」
 二つの呼び名に力を込めつつ、吉継はそう告げる。
 それはまあ当然といえば当然のことで、俺としてはうなずくしかない。そんな俺に、なおも表情をかえずに吉継は続ける。
「しかし、何事もまずは形からといいます。それゆえ、傍から見れば滑稽きわまりないでしょうが、羞恥をおさえて私はお義父様と呼んでいるのです。しかるにお義父様の方はかりそめにも娘に対して『吉継殿』などと……これでは私一人、猿芝居を続けているようではありませんか」
「む……それは、確かに……」
 その言葉に込められた説得力に、俺は頷く以外の選択肢を持たなかった。


 しかし、である。
 では娘は何と呼べばよいのだろう?
 吉継さん――むう、個人的には悪くないが、殿と付けるのと大差ない気がする。保留。
 吉継ちゃん――ありえん。かりにも大友武士の一人である人物に対して失礼すぎる。却下。
 桂松――吉継の幼名である。親が子を呼ぶには良いかもしれないが、吉継が俺に望んでいるのはそういうことではない気がする。保留。
 刑部――将来の吉継の官位・刑部少輔の略。知識は有効に使わなければならない。しかし今の吉継にとっては戯言以外の何物でもないな、はい却下。
「むうう……ッ」
「いや、そこまで顔を険しくするほどのことではないと思うのですが……」
 俺が真剣に悩んでいると、吉継は困ったように頬に手をあてた。とはいえ、自分からこう呼んでくれとは言いにくいのだろう、開きかけた口はすぐに閉ざされる。


 く、ここで選択肢を誤ると、いろいろとまずい気がするッ。
 しかし、人間焦れば焦るほど泥沼にはまっていくもの。思い浮かんだ呼び名の多くは却下となり、保留したものの中にも決定的な確信を持てるものはなく。
 そんな俺の苦悶を呆れまじりに見ていた吉継だったが、ついには頭を抱えて呻き出した俺を見かねたのだろう、ため息まじりに助け舟を出してくれた。  
「『吉継』と」
「……は?」
「普通に名を呼び捨ててくれれば良いですよ。というか、何をそんなに悩んでいるのやら。お義父様の脳裏に浮かんでいた呼び名を教えてほしいくらいなのですが」
「あ、なるほど……それがあったかッ」
「……普通、第一候補にくる呼び名に心底感心してますね。本気でどんな呼び名を検討していたのか知りたくなりました」




 呆れきった吉継の言葉に反論することも出来ず、照れ隠しの意味もあって俺は視線をあさっての方角に向けた――正確には障子の方に。
 そして。
 月明かりで仄かに障子に浮かび上がる影に気づいたのである。



 室内の灯火に半ば打ち消されていたため、はっきりと視線を向けるまでは全く気づけなかった。
 ――遺憾ながら、その人影の正体はなんとなく察しがついた。今に至る経緯を考えれば、その人物がここにいることは問題ではない、いやそれも問題といえば問題なのだが、肝心なのはそれが誰なのかではなく、いつからそこにいたのか、である。
 その人物の性格から察するに、途中からこっそりと聞き耳をたてていた、というほどの慎みを期待できるとは思えなかった。それどころか、最初からあまさず室内の様子に耳を傾けていましたと笑顔で答えるに違いない。それはもう俺の中で確信を通り越して事実になりつつあった。


 すると、凍りついた俺に気づき、吉継もまた不思議そうに俺が凝視している障子に目を向ける。
 まるでそれを待っていたかのように、室外から声が響いた。
「あら……気づかれてしまったようですね」
「あ、義姉様、ですからこのようなことはやめるべき、とあれほど申したのですッ」
「そう言いながら、あなたもかじりつくように聞いていたではないですか、紹運。そうですよね、こっそり離れようとしているそこの二人?」
「ど、道雪様ッ」
「むう、ここは主君がわが身をもって臣下をかばうべき場面ではありませぬか、道雪様」
「ふふふ、主を見捨てて逃亡をはかるような者を臣下にした覚えはありませんよ、鎮幸」
「ふむ……ここは諦めて首を差し出すか、惟信」
「わざわざ名を出さないでくださいッ。それに、わたしは道雪様のお供をしただけで中の会話を盗み聞いたりは――」
「といいつつ、雲居殿の甲斐性の無さに幾度も舌打ちしてたではないか」
「舌打ちなどしていないッ! あ、あれは、その、あまりに吉継殿が不憫だったから、つい……甲斐性のない男ほど、この世に厄介で面倒なものはないのだッ」



 唐突にはじまった戸次家(+吉弘家)主従の言い争いに、俺と吉継は知らず互いの目を見交わす。
 俺たちは、相手の目の中に自分とまったく同じ感情を見つけるや、同時にその場から立ち上がった。
 そして迷うことなく室外に向けて歩を進める。すると、何故か畳がたわみ、室内の調度が揺れた。
「――ふむ、すこし建物が老朽化してるようだな。普通に歩いただけでこの有様とは」
「同意です。これは盗み聞きのことと併せて、戸次様ときちんと話し合うべきでしょう」
 そう言い交わしながら、俺はゆっくりと障子を開ける。
 特に力を込めてもいないのに、何故だか物凄い勢いで障子は開き、戸次屋敷全体に響くような大きな音を立てた。


 俺はぽつりと呟く。
「掃除が行き届いているから、障子の滑りも良いんですね。さすが良い臣下を抱えておられる――戸次、道雪様」
「お褒めにあずかり恐縮です、雲居筑前殿」
 俺の目の前で、道雪殿はにこりと微笑んだ。ついさきほど想像したとおりである。
 だが。
 その額の冷や汗に気づかない俺ではない。
 そして、その隣であたふたしている義妹様にも声をかけた。
「――今宵は月が綺麗ですね、吉弘紹運殿」
「そ、そうだな、実に良い月だなッ、雲居殿」
「ええ、本当に。月の光強きゆえに、室外の人影がはっきりと障子に映っておりましたよ。ふふふ、半刻以上も気づかなかったとは、油断であったと責められても仕方ありませんね。身をもってそれを教えてくれたのであれば、それがしは紹運殿に感謝すべきなのですが……」
「あ、それは、だな……うぅ……」
 スギサキの武辺者が、一言も言い返すことができず、その場で力なくうつむいてしまった。


 その隣では。
「これは戸次家の双璧たる方々がこのような場所でおそろいとは、めずらしゅうございますね」
「うむ、この見事な月夜に誘われてな。みなで一献くみかわそうと吉継殿らを招きに来たところよ」
「それはありがとうございます、小野様。ご来訪に気づかず、半刻以上もお待たせして申し訳ありませんでした」
「なに、気になさるな。おかげで貴重なものを見聞きでき――」
「鎮幸殿ッ」
「――ぬ、しもうたッ、さすがは軍師殿じゃな」
 してやられた、と驚いている鎮幸を見つめる二対の視線。
 やがてぽつりと吉継が呟いた。
「……由布様」
「な、何かな、大谷殿」
「……ご苦労なさっておいでのようですね。お察しいたします」
「……お気遣い、痛み入る」


 一部、なにやら友情めいたものが芽生えていたが、それでめでたしめでたしで終わるはずもなく。
 この後、俺と吉継は地位も年齢も職責も自分たちよりはるかに高い、九国を代表する大友武威の象徴ともいうべき方々に対し、小一時間説教することとなったのである……




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第三章 鬼謀(四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:9e91782e
Date: 2010/11/12 22:44
 豊後国府内、戸次屋敷。
 吉継にお義父様と呼ばれても赤面しないようになったある日のこと。
 俺は屋敷の主殿に呼ばれて、その部屋に訪れていた。
「ご足労いただきありがとうございます、雲居殿」
「戸次様の屋敷で世話になっている身です。この程度のこと、礼を言われるまでもありませんよ」
 俺の言葉ににこりと相好を崩す道雪殿は、あいかわらずお綺麗でありました。


「そう言っていただけると助かります。わたくしから出向こうかと思ったのですが、少々表では話しづらいことですので……」
 ほう、と思わず道雪殿の顔を一瞬だけ凝視してしまった。
 そしてにこやかに告げる。
「『吉継殿とは上手にやっていますか、お義父様?』……とか仰るつもりではございませんよね?」
「……あら、なんのことでしょう?」
「いえいえ、違っていたのなら結構です。お答えになるまでの間が何なのかはあえて問いますまい」
「ご配慮感謝します、と言うべきでしょうか」
「それはそれがしが答えるべきことではないと存じます」
 あははおほほと笑いあう俺と道雪殿。我ながら何やってんだか。


 しばし後。
 こほん、と咳払いした道雪殿が表情を改めて口を開く。
「冗談はこのくらいにしておきましょう」
「承知いたしました」
 その眼差しに真剣なものを感じ取った俺は、姿勢を正して道雪殿の言葉を待ち受ける。
「それでは――」
 思わずこちらが怯みそうになるほどの深い黒の瞳に、俺の顔が映っている。
 知らず息をのんだ俺に、道雪殿は真剣そのものの調子でこう言った。
「お義父様と呼ばれることには少しは慣れまして、お義父様?」


 ……この時、俺が懐の鉄扇で道雪殿の頭を叩きたくなったとしても、一体誰がそれを責められようか?





「帰っていいですか?」
「駄目です」
 いろんな意味で脱力した俺がじと目で言うと、道雪殿は輝くばかりの笑みを浮かべた上で、首を横に振る。なんかもう悪戯が成功した子供のようで「我が事成れり!」と顔に書いてあった。
 確かあなた、俺より年上ですよね、鬼道雪様?
「それではあらためまして――」
「一応申し上げておきますが、次に同じことをしたら無言で席を立たせていただきますからね」
「ご安心を。わたくしは引き際を心得ぬ猪武者ではございません」
「たしかに。そして奇襲が大の好物なんですね」
 わかります。


 ふん、と俺がそっぽを向いていると、道雪殿はさすがに少し困ったように首を傾げていた。
 少々からかいすぎたと反省したのか、それとももう十分からかって満足したのかは不明だが、今度はまっすぐに本題を切り出してきた。
「京へ向かう船の支度がととのいました。おそらく数日のうちに上方へ発てるでしょう」
 それは俺にとって吉報と称するに足る知らせだった。
 元々、大友家は将軍家と緊密な関係を保ってきたから、そのための準備も対して時間はかからないだろうとは考えていたが、やはり早い。
 これでようやく東に向けて旅立つことが出来る――そう浮かれて良いところだったが、俺は浮ついた気持ちにはならなかった。なれなかった、と言った方が正確か。


 眼前の道雪殿が湛える厳しい表情が、これが単なる報告ではないのだと言外に告げていたからだった。


 俺は小さく息を吐く。
「これでようやく東に帰れる……というわけにはいかないのでしょうね」
 その言葉に、道雪殿は頷いた。
「はい。寸前で、わたくしは宗麟様に此度の使いは取りやめるよう申し上げるつもりですから」
「たしか、それがしが先の戦に協力する条件に、此度の件もはいっていたはずですが」
「わたくしもそう記憶していますが、それで採る行動がかわることはないでしょう」
 いっそ無造作に言ってのけた道雪殿の顔は、常になく硬かった。
 破約を公言しているのだから、それも当然であろう。俺はここで大声をあげて道雪殿を罵っても許されるだろうし、道雪殿もそれは覚悟の上だと思われた。


 だが。
「……少々、勝ちすぎましたか」
 俺の呟きに、道雪殿の表情がかすかに緩む。それはほっとしているようで。あるいはどこかで俺がそう口にするであろうと予期していた表情とも見て取れた。
「それは違います。雲居殿が講じた策は、この上なくわたくしの意図に添ったものでした。その戦果に感謝こそすれ、不平を唱えるなどありえません。ただ……」
 そこまで口にして、めずらしく道雪殿はため息を吐いた。
「わたくしの見通しが甘かったと言うしかありませんね。宗麟様があのような沙汰を下すとは、正直なところ考えておりませんでした」


 道雪殿が口にした沙汰。
 それは先の『大友家他紋衆の乱』における首謀者である小原鑑元に対する処分である。
 鑑元は切腹して果てた。それ自体は問題ではない。主家に叛旗を翻した時点で、鑑元自身も覚悟していたはずである。
 だが、宗麟はそれに先立って慈悲を示してしまった。


 鑑元が南蛮神教に改宗し、神のもとで懺悔するならば、此度に限っては許しましょう、と。


 宗麟は堂々と宣告したのである。
 鑑元たち他紋衆が主家に叛乱した理由を、自分はまったく理解していない、と。
 それは慈悲という形をとった、死刑宣告だった。むしろ鑑元の散り際の誇りを奪い去るという意味において、謀反を責めて切腹を申し付けるよりもはるかに性質が悪い。
 これを耳にした時の鑑元の心中を思うと、敵であったとはいえ、俺は鑑元への同情を禁じえなかった。面識などろくになかったが、その死を汚した宗麟に義憤すらおぼえたほどだった。 




 俺ですらそうなのだ。他の大友家の家臣たちがどう思ったのかは想像に難くない。
 今回、戸次勢がすみやかに豊前の地を押さえたために、鑑元に同調して蜂起した者はいなかった。だが、あの戦がもっと長引いていたら、各地で蜂起したであろう者たちは確実にいただろう。そう考えたからこそ、道雪殿はすみやかに門司城を陥とすことを望んだのである。
 そんな彼らが。
 今回は戸次勢の武威に屈する形で矛をおさめた彼らが、この宗麟の措置を知った時、何を思うのか。
 一時は怒りに蓋をされた。それゆえにこそ、溜まった怒りはより以上の勢いで噴出するだろう。
 もはや、その怒りを遮ることは誰にもかなうまい。



「鑑元殿を制すれば、しばらく――そう、少なくとも一年は時が得られると、わたくしはそう考えていました。それだけの時があれば、あるいは元を断つことが出来るかもしれません。それがかなわずとも、最悪の事態に備えることは出来る。そう思っていたのですが」
 道雪殿の表情が翳る。その声はこれまで聞いたことがないほどに苦い。
「このままでは、一年どころか半年……いえ、それどころか――」
 下手をすれば、この冬が訪れないうちに再び叛乱が起こるかもしれない。それは俺が言葉によらず察した道雪殿の胸中であった。
   

「……遠からぬうちに起こるであろう叛乱に際して、今一度力を貸せと。それが言を翻し、それがしを府内に留めおく理由でございますか?」
「恥を知らぬやりようだということは重々に承知しています。承知した上で、伏してお願いいたします。どうぞ大友家にお力添えを。類まれなるその智力、一臂なりとお貸しくださいませんか。もしお望みであれば、戦終わりし後、この首を献じても――」
「豊前で……」
 道雪殿の言葉を断ち切るように、俺は口を開く。道雪殿は伏せかけた頭を止め、姿勢を戻して俺を見つめてくる。
「先の乱についてお話しいただきましたね。もっと大友家のことを知ってもらいたいと、そう仰せでした」
「はい」
「吉継との縁を取り持ってもいただいた……まあ、やり方に物申したいところはありましたが、それはさておき、そういった行動は、これすべてそれがしの意を大友に向けるためのものであった、とそう考えてよろしいのか?」
「はい、と言いましたら、どうされますか?」
 また、と道雪殿はひっそりと続ける。
「違います、と答えたら信じていただけましょうか?」



 その言葉を最後に、室内に静寂の幕が下りた。
 息がつまるような重苦しい沈黙。これまで道雪殿と話をしていて、こんな空気に包まれたことはない。そして硬く強張った道雪殿の端整な顔――能面のような無表情の道雪殿の顔も見たことはなかった。




 はあ、と。
 俺は深々とため息を吐いた。それはもう盛大に。
 そして右手を頭にのせ、乱暴に頭を掻く。
「まったく、 なんと意地の悪い……」
 そういって、俺はじっとこちらを見据える道雪殿に苦笑を返した。
「それがしごときをそこまで評価していただいたのは光栄の至りというものですが、それでもその仰りようは反則です。そんなお顔で、そんなお声で、そんなお優しい言葉をいただいたら、応えざるを得ないでしょうに」
「雲居殿……」
 俺の言葉に、能面のようだった道雪殿の表情がかすかに緩んだように見えた。


 俺はなおも言葉を続ける。
「大友は九州探題に補任されるほど将軍家と近しい関係。であれば、使者の往来はこれまで幾度もあったでしょうし、外交にそれを利用したこともあったはずですね」
 俺の問いに、道雪殿は小さく頷く。
「それはつまり、今回もそうするであろうことは容易に予測がつくということ。当然、毛利とて大友がそうすると予期しているはずです」
「……将軍家への使者を襲撃などすれば、周辺諸国すべてを敵にするようなものですよ?」
「瀬戸内の海賊の多くは毛利の息がかかっているのではないですか。その連中に伝えればよい。積荷はすべてくれてやるから、大友の船を襲え、と。いえ、直接伝えずとも、噂という形で流すだけで金目当ての賊は動くでしょう」


 そう。別に道雪殿は俺を引き止めるために将軍家への使節を阻もうとしているわけではない。
 とはいえ、戦が終わった後にその使節の船に俺を乗せる、という話は確かにあったわけで、破約という事実は残る。俺が腹を立てて席をたつ理由はあるわけだ。
 石宗殿の恩に背を向ける理由。
 大友家臣である吉継に対し、大友から離れることを主張するには十分な理由に違いない。


 つまり、道雪殿はわざわざ俺に背を向ける口実を与えた上で、どうか力を貸してほしいと頭を下げようとしたのである。
 これを意地悪といって何が悪いのか。
 俺がじとっとした眼差しを道雪殿に向けると、道雪殿はおとがいに手をあて、困ったように首を傾げて見せた。
「困りました。わたくし、精一杯誠意を尽くしてお願いしたつもりなのですが……」
「ええ、ええ、そうでしょうとも。しかし、これで俺が道雪様に腹を立てて席をたっていたら、赤っ恥もいいところですよ? しかも話し方から表情にいたるまで、俺が断りやすいようにしてましたよね? これを意地が悪いといわず何と言えばよいのですかッ」
 言葉を連ねているうちに段々腹が立ってきた俺は、いつの間にか口調が乱暴なものにかわってきていた。


 そんな俺の憤慨を見て、道雪殿がくすりと微笑む。
 花が香るような笑みだったが、俺はあえてしかめっ面をしてみせた。ふん、そう何度も色気と笑顔に誤魔化されるものか、と内心で身構える俺に、道雪殿は今度は困ったように微笑みながら、口を開いた。
「しかし、すでに雲居殿には一度越後に戻ることを思いとどまってもらっているのです。これ以上引き止めることは、さすがにわたくしといえどためらってしまいます。それでも雲居殿の御力は是非とも必要、けれどそれはわたくしどもだけの都合であり、雲居殿には関わりなきこと。ゆえに、あなたの言葉を借りれば『背を向ける口実を与えた上で』お願いいたしました。それがわたくしに出来る精一杯の誠意だったのです。気分を害されたのでしたら、幾重にもお詫びいたします。しかし、決して悪意をもってそうしたわけではないことだけはご理解くださいませ」


「無論、悪意があるなどとは言いません。おれ……ではない、それがしが申し上げたいのは、頼むのであれば率直にそういってほしい、とそれだけです。こちらの事情を慮っていただいたのは感謝しますが、越後の皆とて、俺がここで道雪様たちの苦境を見て見ぬふりをして帰ったところで……」
 喜ぶはずはない。それどころか、かえって叱責されるのが落ちだ。
 そう言おうとして。
 俺は口をつぐんだ。



 ――待て。今、道雪殿はなんといった?



「……越後、と仰いましたか?」
 驚愕に震える俺の問いに対し、道雪殿はいっそ軽やかと評したくなるほどあっさりと頷いてみせた。
「はい、言いました」
「……東に、とは申し上げたが、地名を出した記憶はないのですけれど」
「たしかに、あなた様から聞いた記憶はありませんね、雲居筑前殿」
 それとも、と道雪殿は俺の緊張を溶かすかのように微笑み、こう続けた。   



 天城筑前守颯馬殿。そうお呼びした方がよろしいですか、と。




◆◆




 平静を取り戻すためには、お茶二杯が必要だった。
 俺は三杯めの茶を口に含み、それを飲み込んでから呟くように声を出す。
「そうですか。石宗殿から……」
 俺の呟きに、道雪殿はゆっくり頷く。
「はい。己が死期を悟られていた石宗様は、わたくしにも書を遺してくださいました。その内容を詳細に語ることはできませんが、大友家という枠組みを越え、九国全土を見渡す視野の広さをもって、様々なことが書き記されていました」
 そう言って、道雪殿は語調をととのえるために小さく息を吐く。
「……石宗様は、大友加判衆筆頭たるこの身を案じてくださったのでしょう。そして、その書の最後に、ただ一行、あなたのことが記されていたのです。おそらく、書自体は以前から用意されていたのでしょう。その最後の部分だけが、新しい墨で色鮮やかに記されていましたよ」


 道雪殿はてずから筆を執り、さらさらと字を記していく。
『奇瑞、紅瞳に映れり』
 道雪殿が書き記した文字は、これだけだった。
 俺はそれを見て、目を瞬かせた。率直に言って、これなんぞ? という感じだった。


 なので、率直に問いかける。
「あの、これは……?」
 これのどのあたりが俺についてのことなのだろうか。
 いや、紅瞳、というのが吉継を指すことはわかる。奇瑞、という言葉も知ってはいるが、ここからどうやって越後の天城颯馬まで辿りついたというのだろうか。
 俺が疑問で目を白黒させていると、道雪殿が苦笑まじりに説明してくれた。
「奇瑞とは天がしらしめす瑞祥のこと。紅瞳とは吉継殿のことです。ここまではわかりますね?」
「はい。吉継が瑞祥を見た、と。しかし、これだけでは何のことやら……」
「確かに、これだけではわかりません。しかし、石宗様が今際の際にあえて書き足した言辞です、何の意味もないはずはありません。わたくしはこの言葉を心に留め、石宗様の墓前を訪れました。そして、そこには吉継殿の傍らにあなたがいた」
 俺を見る道雪殿の目は真剣で揺らぎなく、自分にも他人にも誠実な為人がはっきりとあらわれていた。
「言葉を交わし、行動をともにし――短くともわかりましたよ。東方、越後の国にあって軍神と謳われし聖将上杉謙信。その傍らにありて、その王業を補佐したる天の御遣いの名は、天城颯馬。すなわち、石宗様が見た奇瑞とはあなたに他ならないのだ、と」




 ちょっと待ったァッ!
 今、なんかすごいこと言われなかったか、俺?!
「……天の御遣い、天城颯馬?」
 俺が震える声で問いかけると、道雪殿はきょとんとした顔で逆に問い返してきた。
「あら、ご存知ないのですか? すでにこの噂は京にまで届いているのですけれど」
「ご存知ありませんッ! というか、言われたことすらないですよ、なんですかそのこっぱずかしい称号はッ?!」


 などとわめいても、道雪殿は首を傾げるばかりである。まあ、当然だが。
 で、改めて聞いたところによると。
 無論というべきか、豊後の大友家に、遠く越後に至る情報網などあるはずがない。代わりに、京に繋がる太いパイプならあった。
 室町幕府が衰退したとはいえ、やはり京は日の本の中心、各地から伝わる情報はきわめて多いそうな。無論、情報といってもすべてが有用なものではなく、玉石混交というべき代物だったが。
 で、そんな情報の中に、越後からの情報も含まれていたらしい。京から見れば越後や甲斐など田舎もいいところだが、かつてその二国が上洛した際の振る舞いは、いまだに京でも語り草となっており、基本的に京の人々は上杉や武田に好意的であるらしい。
 必然的に、その噂はよく人の口の端にのぼる。誇張された俺の功績、氏素性の知れない人間が筑前守に補任されたという事実、そして不審な失踪。そういったもろもろのことが重なったとき、誰からともなく大陸の伝説を口にした者がいたらしい。


 曰く。人の世が乱れた時、天より下る者あり。其は御遣いなり。


 実際、唐の歴史にはそういった人物が幾人かいるらしい。
 確かに、あの別れの時、謙信様もその言葉を口にしていた。だからその言い伝え自体は事実なのだろう。


 しかし、だ。
 なんでよりにもよって、俺がその御遣いになってるんだッ?! 
 謙信様……は、こんなことを言い出したりはしないだろう。内心でそう思っていたとしても、それを公言したり、あまつさえ噂として他国に流して俺の存在と自らの業績を喧伝しようなどと考える方ではない。
 そして、そんな謙信様に仕える人たちが、こんなけれんみたっぷりな策を嬉々として実行するはずが……はずが……


「……いかん。実行しそうな心当たりが、それも喜んでやってそうな人たちが結構いる」
 ほら、政景様とか段蔵とか、ちょっとひねって信玄とか。
 いや、落ち着け俺。よし、競馬風に書いてみよう。



 ◎政景様 ○段蔵 △信玄 ×兼継



 ちなみに大穴にエントリーした人物の動機は、面倒ごとを丸投げして姿を消した俺へのあてつけである。
「うわ、めちゃくちゃありそうで怖いわぁ……」
 思わず頭を抱える俺。いや、本気でありそうなんですけど。というか、まさか全員グルになってやってるわけではあるまいなッ?!




 などと嘆いていると。
 不意に軽やかな笑い声が俺の耳朶を揺らした。
 誰か、などと確かめるまでもない。俺の醜態を目の当たりにした道雪殿がさも楽しげに笑い転げているのである。
 それも結構本気でツボにはいったらしく、あの道雪殿が目に涙まで浮かべているではないか。
 無論、俺にとっては恥の上塗りである。
 言い訳することも出来ず、恥じ入って顔を伏せるしかない。


 すると、ようやく笑いをおさめた道雪殿がこんなことを口にした。
「取り澄ました御姿ばかりを見ていましたから、若いに似合わず奇特な方と思っておりましたが……ふふ、それが本来のあなたの姿なのですね」
「い、いえ、本来といいますか、これはあくまで予期せぬ出来事にあって取り乱していただけでですね――!」
「その割にはとても楽しげに見えましたが? そう、まるで――」
 道雪殿はそう言うと、少し考えてから、こう続けた。



 ――まるで、ようやく自分の家に帰ってきたとでも言うような様子でしたよ。


 



◆◆◆






 越後、春日山城の一室にて。


「はっくしゅッ!」
 派手なくしゃみをした政景は鼻をこすりながら、城の外に目を向ける。
「ああ、もう。誰よ、私の噂してるのは」
「おそらく守護代様の机に山と積まれた書類の決裁を待っている文吏たちでは?」
「あのね段蔵。その現実から目を背けるために話題を振ったのよ。そこは察してくれないと。というより察しなさい」
「察した上で、現実に目を向けていただくために申し上げたわけですが――くしゅ」


 めずらしく、はっきりそれとわかるくしゃみをした段蔵に、政景は目を瞬かせた。
「風邪でもひいたの? めずらしいわね」
「私も人間ですから、くしゃみくらいします」
「案外、あんたも誰かに噂されているのかもよ。私と一緒に。なにせあんたもずいぶんと綺麗に――」
「私と守護代様を同じ話題に乗せるような人は、ごくごく限られますね。たとえば守護代様の机の上に山と積まれた――」


 同じことを繰り返そうとする段蔵に、政景はこれは取り付く島がない、と降参して両手をあげる。
「はいはい、ちゃんと仕事するわよ。今日は妙につっけんどんね、あんた」
「どうしても手が足りないからと、半ば無理やり私を連れてきた人は誰ですか。言っておきますが、私はこの後も片付けねばならないことが山積みなんです。一分一秒でも早く、守護代様には己が責務を果たしていただきます」
「あれ、なんだったら守護代権限で他の人に振ろうか?」


 政景の言葉に、段蔵はいわく言いがたい顔で首を左右に振った。
「……早くひ孫の顔が見たい、という祖父の愚痴を聞きつつ酒を飲むという苦行です」
「……ごめん。そりゃ代われないわ。あれ、でもあんたの祖父って軒猿の長じゃなかった?」
「そのとおりですが、何か?」
「……大変ね、あんたも」
「はい、大変なんです。だから守護代様はささっとご自身の仕事を片付けてください」
「りょーかいです」


 そう言って、ようやっと筆を執る政景。
 まさか本当に二人のことを話題にしていた者が九国にいたとは知る由もない二人だった……




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第三章 鬼謀(五)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:9e91782e
Date: 2010/11/12 22:44

 その日、豊後の戸次屋敷に一人の来訪者があった。
 供を連れておらず、いかにも身軽な様子でふらりと立ち寄った態を装っていたが、その人物の顔を確認した家人は仰天のあまり声も出せずに立ち尽くす。


 年の頃は四十半ばといったところか。鋭い面差しは歴戦の風格を漂わせ、しかしその一方で表情、挙措は穏やかなものであった。
 ただ、その穏やかな表情の奥――頬に刻まれた深い皺と、年齢に似ず半ば以上が白に染まった頭髪が、この人物が重ねてきた煩悶の年月の長さを思わせた。
 転げるようにやってきた家人の報告を受けた戸次道雪は、ほんの一瞬だけ目を見開くと、すぐに客室に案内するよう告げ、ついでにもう一つだけ言付けてから、みずからの身体を車椅子に乗せる。
「……そこまで……」
 自室を出る時、道雪は何事かを小さく呟いたが、それを聞く者は道雪以外、誰もいなかった。


◆◆


「お久しゅうございます、鑑載殿。こうして顔をあわせるのはいつ以来になるでしょうか」
「貴殿が加判衆筆頭となられた時以来ゆえ、かれこれ二年ぶりかな。壮健そうでなによりだ、道雪殿」
 そういって筑前立花山城城主、立花鑑載(たちばな あきとし)は、にかっと骨太に笑って見せた。
 西の大友。
 立花家はそう呼ばれるほどの大家であり、その当主である鑑載はその名に恥じない実力と名声の持ち主である。筑前の城主であるため、大友家の政務を司る加判衆には加わっていないが、能力だけで言えば加判衆に連なる資格を十分に持っていた。否、おそらく道雪の代わりに筆頭を務めたところで問題なくつとめ上げてみせるだろう。



 そんな人物が、今この時期、供もつれずに戸次屋敷を訪れる。
 鑑載は北九州の大友軍の中心人物であり、今回の叛乱による影響を最小限にとどめるために府内まで出向いてきていることは、道雪も知っていた。だが、その機を利用して、ただ久闊を叙しに来ただけ、というのは考えにくかった。
「まずは此度の急な来訪を詫びねばなりませんな。先触れの者もつかわさず、失礼をいたした」
 鑑載はそう言って頭を下げる。
「頭をおあげくださいませ。鑑載殿がそうしたのなら、そうせざるを得ないだけの理由があったのでしょう。一々詫びるには及びません。まして大友家の家臣としてはあなた様の方が先達なのですから」
「そう言ってもらえるとありがたい。それに、あまり長居しては互いに面白くないことになるであろうし、早速本題に入らせてもらおう」


 そう言うと、鑑載は表情を変えぬまま、眼光だけを鋭いものにして道雪の顔をじっと見据えた。
「率直に聞こう。道雪殿、貴殿、此度の仕儀、どう考えておられる?」
「此度の仕儀、とは具体的に何を指しているのでしょうか?」
 道雪の反問に、鑑載はわずかに目を細める。その口から出たのは、直接的な答えではなかった。
「……他紋衆の不満、鑑元の謀反、それらがただ毛利の調略によるものではないことは明らかだ。したが、事敗れた者たちへの宗麟様の指図を見るに、あの方はそのことに気づいておられぬ様子。南蛮神教の宣教師どもの蠢動はあるにせよ、すべてが彼奴らの責であるとは、わしには思えぬ」
 その顔に浮かぶ苦々しい表情は、意識してつくったものではないだろう。道雪はそう思う。
 だからこそ、問題なのだ。


 北九州の大友勢力を支える重鎮は、過ぎし日を振り返るようにゆっくりと続けた。 
「宗麟様が先代の後を継がれて、もう幾年が経ったか。大友家は宗麟様の精励と、多くの家臣たちの努力により、空前の版図を得た。それは確かだ。だがそれは、巣食った白蟻を放置していた期間でもある。大友家の屋台骨を支えているのは貴殿を筆頭とした加判衆だが、実質的には貴殿が大友家を支えてきたこと、大友の内外に知らぬ者はない。いや、ただ一人、角隈殿は貴殿と共に重責を担えていたな。だが、その角隈殿が亡くなられた今、貴殿はこれまでのように大友家を支えることができるのか? いや、今なお支えるつもりがあるのだろうか? 主家を案じるあまり、謀反に踏み切らざるをえなかった家臣の誇りを踏みにじった、あの暗く――」
「そこまでにしてください、鑑載殿」
 ぴしゃり、と。眼前で扉を閉じるかのごとく、道雪は鑑載の言葉を遮った。
 鑑載ははっとして口を噤む。話している間に感情が昂ぶっていたことに気づいたのだろう。


「それ以上を口にすれば、いかに鑑載殿といえど看過できません」
「む……すまぬな。年を考えずに張り切りすぎてしまったようだ」
 苦笑しつつ、茶をすする鑑載の姿を道雪はじっと見つめる。
 立花鑑載が何をしにここに来たのかは、その来訪が知らされた時から察しはついていた。
 そして鑑載もまた、道雪が察していることを察していた。
 ゆえに、二人に多言は必要ない。今の短いやりとりでも言葉が過ぎたほどだった。


「……思えば、これはこれで悪くない。どちらが勝とうと、大友宗家を思う人材は残るのだから」
「……大友宗家の当主は、宗麟様ですよ」
「本当にそうかな? わしの目には、今の大友家の主は、あの十字の旗であるとしか映らぬ。それを憂えた者の思いが届かぬことは、先の乱で証明された。宗麟様がかの教えを捨てるつもりがない以上、真に大友宗家を救う術を、わしは一つしか知らぬ」
 無論、と鑑載は苦い笑みを浮かべて続けた。
「貴殿の在りようが間違っているとは言わぬ。否、それを言えば宗麟様とて正しいと信じた道を歩いておられるのだろう。あの異教の者たちとても、西海を切り開いてこの地までやってきたのだ。それをするに足る、あれらなりの正義があるのだろうな。わしには到底理解できぬが、それを否定するつもりはない。そして――」
 鑑載は、深いため息をはく。
「鑑相も、鑑元も、己が正しいと信じたことを為した。それらの結果として、今の大友があり、わしと貴殿の道が分かたれたというのなら――道雪殿。わしらは、どこで何を間違えたのだろうな?」



 そこまで言ってから、鑑載は何かを思い切るように首を左右に振った。
「いや、これ以上は繰言だな。すまぬ、埒も無いことを口にしてしまった」
「埒もない、ということはないでしょう。ただ、その答えを知ることが出来るのは、わたくしたちの孫や、その子供たちでしょうね」
「ふむ、どれだけ才能に恵まれ、権勢を握ろうと、人の身では出来ることと出来ぬことがある、というわけか」
「だからこそ、わたくしたちは懸命に今を生きるしかありません。誰もが納得する正しさなどないゆえに、自らが信じるものにすがりながら」


 戸次道雪と立花鑑載。
 大友家にあって、雄なる二人の視線が正面からぶつかりあう。
 たちまちのうちに室内の空気が張り詰める。

 
 だが。それが限界に達する寸前、二人は視線をそらせた。ほとんど同時に。
「では、さらばだ道雪殿。できればこうなる前に、今一度、貴殿と戦場を共にしたかったが」
「鑑載殿からその言葉をいただけたことは、わたくしにとって生涯の誇りとなりましょう……御武運をお祈りいたします」
 道雪の言葉に苦笑を返すと、鑑載は席を立つ。
 その足音が完全に消え去るまで、道雪は一言も口にせず、ただじっと室内に座したままであった。




◆◆◆




「……そろそろ事情の説明を求めてもよろしいですかね、道雪様?」
「それはかまいませんが、とりあえずこちらにいらしてくださいな」
 俺が襖越しに声をかけると、道雪殿が同じく襖越しに声を返してきた。
 俺は頭をかきつつ、立ち上がって隣室に向かう。襖を開ければ、そこには道雪殿がいつもとかわらない佇まいで座っていた。
 ついさきほどの話の影響か、その表情は多少強張っているように見えたが、俺に笑いかけてきた時には、その強張りも綺麗に消えていた。


 吉継と戦戯盤で勝負していると、顔見知りの侍女がやってきて道雪殿がお呼びだという。なにやら急ぎの様子だったので、勝負をきりあげて(劣勢だったのでちょうどよかった――吉継は不満そうだったが)指定された部屋に来てみれば、そこには誰もいない。
 で、これから来るのかと思って座って待っていたのだが。
 何故か隣室で洒落にならない密談が始まってしまった時には、どうしたものかと冷や汗を流してしまったよ。まあすぐに道雪殿の狙いは察したのだけれど。


 立花鑑載は後世に残るような派手な軍功こそないが、大友家中における影響力の大きさは五指に入るだろう。あるいは三指にしても入るかもしれない。
 今回の豊前での戦いにおいても、筑前方面からの敵襲がなかったのは、立花山城の立花鑑載や、宝満城の高橋鑑種らの存在によるところが大きい。
 そんな大物が単身で護衛も連れずに戸次屋敷を訪れる。そこに込められた意味を考えれば、平静を保つことは難しいのだろう。普段は主の為人を反映して落ち着いた雰囲気の戸次屋敷も、今は少しばかり騒がしかった。


 そんな家人の慌てぶりに苦笑しながら、道雪殿は俺に問いを向ける。
「それで筑前殿、いかがでしたか?」
「事情の説明を求めたそれがしの問いは、どこに置き去りにされたのでしょうか?」
「必要ないように見受けましたので」
 平然と切り返してくる鬼道雪。説明した方が良いですか、とちょっと首を傾げる仕草が、こっちのプライドを刺激してやまなかった。


 俺はほぅっと息を吐いてから、率直に感想を言った。
「声を聞いただけですから、あてにはならないと思いますが、一言でいえば一生懸命な方でしたね」
 俺の倍以上を生きている人に対して、失礼な物言いかもしれないが。
「一生懸命、ですか?」
 はい、と俺は頷く。
 俺は鑑載の顔すら見ていないが、その声だけでも十分に伝わってきた。
 自分の士道を貫くために。大友宗家を守るために。南蛮神教を排するために。道雪殿を味方にするために。そして――


「道雪様を、討ち取るために」


 俺のその言葉に、道雪殿はかすかに目を伏せる。それだけで、俺の言ったことを道雪殿がとうに察していたことがわかった。
「やはり、鑑載殿はその気なのだと思いますか?」
「はい。それがしが聞いた言葉が偽りであったとは言いません。しかし、いずれも今更なことであるのは確かです。おそらくは、今回の件で道雪様が心変わりをしているのではないか、とわずかな期待をこめてやってきたのではないでしょうか?」
 それがどれだけ可能性が低いとわかってはいても。
 鑑載が最後に口にした言葉は、心底からのものだろう。


 同時に。
 道雪殿が宗麟にこれまでとかわらず仕え続けるのならば、筑前に向かう大友軍を率いるのはまず間違いなく道雪殿になる。
 鑑載が本気で行動している以上、これに勝つための布石を考えないはずがない。
 真情を口にしてみせたところで、道雪殿が手心を加えるはずもないし、立花家の当主ともあろう者が相手の情けを期待して事を起こすとも考えにくい。
 くわえて言えば、道雪殿の忠誠を確かめるなら、他にもやりようはいくらでもあるわけで、当主みずからがああも思わせぶりなことを言う必要はない。あれでは、自分を疑ってくれというようなものだろう。


 道雪殿であれば軽挙はしないと信用していたにせよ、あえて立花家の動向を知らせたのは何故か。
 それはおそらく、まもなく起こるだろう蜂起に際しての牽制のため。
 道雪殿は常に立花家の向背に注意を払わねばならず、その分、行動が掣肘されることになる。噂の一つも流せば同じ効果は得られるだろうが、当主みずから訪れたということは、それだけはっきりと道雪殿に知らしめておきたかったのだろう――立花家にのみ道雪殿の注意をひきつけるために。



「実直に行動しているように見えて、なかなかに策の多い方です。もっともその程度の剛腹さがなければ、この戦乱の世で家を保つことは難しいのでしょうね」
 俺の言葉に、道雪殿はしごく真面目な顔で頷いた。
「立花山城は博多津を見下ろす筑前の要です。その当主ともなれば、並大抵のことで務まるものではありません。これまで大友家が筑前の雄たりえた功の多くは鑑載殿に帰するのです」
「――であれば、機先を制するというのも難しいですね。まあ、そもそもまとまった数の兵が府内を出れば、どれだけ急いだところで筑前に着く頃には万全の備えで待ち受けられているでしょうが」
「立花家の名声、鑑載殿の人脈を考えれば、ろくな証拠もなしに攻めかかれば、窮地に陥るのはこちらでしょう。それに――」
 そこで道雪殿は一度言葉をきり、しばしためらった末、力なく続けた。
「なにより宗麟様が許可なさらないでしょうね。あの方は実際に叛かれてもなお家臣を信じる御人柄ですから」


 宗麟のそれは、人を信じるというよりは、単に現実を見ていないだけだと俺には映る。
 だが、そんなことは道雪殿とて承知していることだろう。いまさら俺が口にするまでもない。
 そんな風に考えて黙っていると、道雪殿は意外そうに口を開く。
「……てっきり苦言を呈されるものと思っていたのですが」
 その言葉に、俺は頬をかきつつ応じる。
「はあ、まあ大友家の当主殿にはいろいろと思うところもありますが、そのようなことは道雪様も承知しておられるでしょうし、他の方々からも耳にたこができるほどに言われているのではありませんか? いまさら俺――ではない、それがしが何を言ったところで意味はないでしょう」


 俺がそう言うと、道雪殿は不思議そうに首を傾げる。俺の態度が気になったようだ。
「いかにも確信ありげなお言葉ですが、筑前殿には何故おわかりに?」
 周囲からの突き上げに関しては、直接道雪殿から聞いたことはないし、その場を見たこともない。それでも容易に想像できたのは――
「……昔、一時ではありましたが、道雪様と似たような立場に立ったことがありまして。その際、周囲からいろいろと言われたのですよ」


 はじめて仕えた主のことを思い起こす。評判が良くない方だったから、その人物に仕えていることで周りからいろいろと言われたのである。露骨にそそのかしてくる者もいれば、真摯に越後の将来を憂えている者もいたが、その言うところは基本的に同じだった。
 ――つまりは過ぎた忠誠は時に盲信となって、国に害を及ぼす、というのが彼らの主張の根拠だった。
 それはある意味で真実なのだろう。しかし、あの時の俺に、その言葉は何の意味も持たなかった。それが正しいか否かは別として、世評がどうあれ、人に仕える理由は十人十色、他者がしたり顔で正理を諭してくることほど鬱陶しいものはなかったのである。
    

 無論、俺と道雪殿では為人も違えば立場も違う。同列に並べられては怒られてしまいそうだが、ただひとつ、世評や内実がどうあれ、主に対する忠誠を枉げないという一点において、俺と道雪殿は等しいはず。
 であれば、ここで賢しらぶったことを言っても道雪殿を不快にさせるだけだろう。かつての俺がそうであったように、だ。



 俺がそういったことを説明すると、道雪殿は興味深そうに聞きいり、幾度も頷いていた。
 そして、くすりと俺に微笑みかけてくる。
「はじめてお会いした時から、妙に馬が合う御仁だとは思っていたのですが、ふふ、同じ立場にあった者同士、知らずに惹き合っていたのかもしれませんね?」
「…………さて、それはどうかと」
 歯切れの悪い俺の返答に、道雪殿がわずかに頬を膨らます。
「あら、冷たいですね。恥ずかしさを押し隠して、親しみを言葉にしたというのに」
「それがしの記憶が確かならば、これまでの道雪様との会話の半ば以上は一方的にからかわれただけのように思うのですが……?」
 馬が合う、という表現には違和感を覚えざるをえないのですよ。
「気心の知れぬ方に、からかいの言葉など向けません。それこそ親愛の表現の一つではありませんか」
「できればもっと違う表現に変えていただけると嬉しいのですが」
「善処しておきましょう」
「それは一応考えてはみるけど変えませんという意味ですよね?」
「おほほ」
「露骨にごまかされた?!」


 どうやら今後とも道雪殿にからかわれる未来は確定してしまっているらしい。
「道雪様」
「なにか?」
「府内で一番高い山ってどのあたりですか?」
 胸の奥から湧いて出る何かを振り切るためにも、ちょっと遠乗りしてこようと思うのです。






◆◆◆






 立花鑑載は、戸次屋敷から戻ったその足で大友館に赴き、宗麟に出立の挨拶をした。
 小原鑑元亡き後の北九州の統治について、おおよその話し合いはすでに終わっており、これ以上府内に滞在する必要はなかった。また、いつまでも居城を留守にしていては差し障りがある。
 鑑載が口にする理由に不審を覚える者はいなかった。


 大友館を辞して、しばし後。
 鑑載は側近の一人を招きよせた。
「では殿、それがしはただちに宝満城へ赴けばよろしいのですな?」
「そうだ。そして鑑種殿に伝えよ、宗麟様は南蛮神教を捨てるつもりはない、とな」
「御意」
 返答と共に、立花家の家臣はすぐさま馬をはしらせる。手形は持たせているから、途中で引き止められることもあるまい。
 部下の後姿を見送ると、鑑載は後方を振り返る。
 そこには南蛮様式の奇妙な形状の大友館がそびえたっている。かつての大友館とは似ても似つかないその姿に、鑑載は言い知れぬ不快感を覚える。
 今日だけの話ではない。府内に来て、あのいびつな建物を見る度に、ずっとそう感じていたのである。


「……まったく、よくもあのような悪趣味な館で起居できるものだ。その図太さだけは大したものでござるよ、宗麟様」
 鑑載が小さく吐き捨てると、傍らの家臣が声を低めて注意をうながす。
「殿、そのようなことを往来で口にしては……」
「かまわん。たとえ何者かが注進したところで、わしが否定すれば宗麟様は疑わぬよ。まあ注進したのが宣教師であれば別だが、あの南蛮人どもがこのような場所にいるはずもない」
 それよりも、と鑑載は続ける。
「賽は投げられたのだ、これから忙しくなるぞ」
「それは我らも望むところでございます。このままでは、いずれ大友家は他家の軍勢に踏みにじられてしまいます」
「そのとおりだ。道雪殿に同心してもらえなかったは厄介だが、所詮は厄介というだけのこと。ただ一人で、しずみゆく船を支えることはかなうまいよ」


 鑑載の言葉に、部下も表情を曇らせる。
「しかし、戸次様ともあろうお方が、どうして暗愚の君に仕え続けようとなさるのでしょうか」
「信じておるからだろう。いつか、宗麟様が克目してくださる、とな。わしらがかつてそう信じていたように。だが、もはや待てぬし、幾年待ったところで、あの方は変わるまい」
 重い口調でそう呟いた後。
 立花鑑載は何かを振り切るように口を噤むと、その場を後にしたのであった。





◆◆




 大友館の一室。
 去り行く立花家の一行を見下ろしながら、宣教師の一人が口を開いた。
「……よろしいのデスカ、布教長? 今ならバ、まだあの者ども、捕らえることもできマスが」
「かまいません。好きにさせておきなさい」
 部下の不安を一顧だにせず、カブラエルはあっさりと頷いた。
「神にまつろわぬ者同士、殺しあってくれるならば重畳というものです」
「しかし、トールが敗れれば、あやつらが我々に敵対してクルことは確実でスガ」
「そうですね、博多からの報告によれば、かなりの物資が動いている様子。都からの書状にあったとおり、ずいぶんと大規模に動くようです。あるいはトールとて敗れるかもしれません」
「なラバ」


 宣教師たちは、なにも道雪の心配をしているわけではない。道雪が倒れることで、大友家が揺らぐことを案じているのである。南蛮神教にとってもっとも厄介な相手は、その実、南蛮神教を布教するための強固な壁でもあった。
 皮肉なものだ、とカブラエルは薄く笑う。
 宣教師たちにとって、もっとも都合が良い結末は大友軍の辛勝である。負けてもらっては困る。だが、勝ちすぎてもらっても困るのだ。道雪らの力が強まれば、いずれ宗麟の命令にも従わなくなるかもしれないから。


 もっとも現在の状況を鑑みれば、次の戦いにおいて大友家が勝つ可能性は極めて低い。むしろ大敗を喫する恐れさえある。
 今から使者をたてたところで、本国からの増援が着くまでは何ヶ月とかかる。道雪を破った敵軍が府内になだれこんでくれば、宣教師たちを守る盾は存在しないのである。
 これが故郷の戦いであれば、神に仕える者を殺すような蛮行は行われないだろう。しかし、この地は神を知らず、あるいは知ってなお信じない蛮人たちが闊歩する土地である。それが宣教師たちの不安の源だった。


 だが。
「繰り返しますが、好きなようにさせておきなさい。神を信じず、互いに殺しあうような蛮人どもの相手をしている暇はないのです」
 カブラエルの言葉に、不安を訴えていた宣教師が何かに気づいたように口を噤んだ。
 カブラエルの言葉が意味することを察したのだ。
「……もしヤ布教長」
「はい――聖戦の準備が、まもなく終わります」
 おお、と室内にいる宣教師たちのうち、半分の口から驚きと興奮の声が広がった。
 残りの半分はカブラエルの口にした『聖戦』の準備をしていた者たちであり、その顔に驚きはない。だが、いよいよだ、という意味での興奮は感じられた。


「幸いにも石宗は死に、トールは北部に釘付けでした。おかげで準備を滞りなくすすめることが出来たのですよ」
「邪教を排し、真なる神の栄光をしらシメス第一歩ですネ」
「そのとおりです。兵団の中心は神の教えを奉じる信徒たちですから、大友軍を動員する必要もなく、トールらも気づかぬでしょう。そして日向の異教徒たちも、トールらが北に出向いたことを知って油断しているはず。今年の万聖節は、日本の信仰史に永劫に語り継がれる神の祭典となることでしょう」
 微笑を浮かべて語ったカブラエルは、室内のすべての者たちにおごそかに告げた。それこそ神の託宣のように


「聖なるムジカ建国まであとわずかです。その栄光を我々の手で導くために、より一層の働きを皆には期待していますよ」


 日本布教長カブラエルの言葉に、南蛮神教を奉じる者たちは一斉に頭を垂れ、神の栄光のために邁進することを誓約したのである。






◆◆





 宣教師たちを下がらせた後、カブラエルは自室の机から二通の手紙を取り出した。
 一つは墨で染めたかのような黒い筒に収められており、京の都から送られてきたものだ。そこには北九州における様々な情報が記されており、カブラエルら南蛮側でさえ知らないような情報も列挙されていた。
 この京からの情報と、みずから集めた情報を照らし合わせれば、今回の北九州――それもおそらくは筑前国で起こる動乱を予見することは、カブラエルにとって難しくなかった。


 そしてもう一通。これは西洋でごく普通に用いられる書状だった。
 先刻、カブラエルはこう考えた。今から本国に使者をたてても、援軍が来るまで数ヶ月はかかる、と。それはまぎれもない事実である。だが――
「……さすがは我らが軍神、素早いものです。あるいは薩摩のコエリョあたりから、とうに泣き言がいっていたのかもしれませんね。ともあれ、こうなればドールの確保も急いだ方が良さそうです」


 カブラエルはそう言うと、手紙を引き出しに戻し、三重に鍵をかけてからゆっくりと立ち上がる。
「そろそろ、フランシスのもとへ行く時間ですね。さて、今日はどのように神の栄光を教え込むとしましょうか」
 すべては順調に進んでいる。そして、これからも順調に進むだろう。
 なにしろ、すべては父なる神のおぼしめしなのだから。
 カブラエルは神妙な顔で十字をきると、これから始まる悦楽を思い、わずかに口元を緩めるのだった……  









◆◆◆








 雲居筑前は、じっと彼方を見据えていた。
 山、というよりは丘陵といった方が良いかもしれない。戸次道雪から教えられたこの場所で、無心に馬をはしらせて汗を流した後、おりよく景観の良いところを見つけることが出来たのだ。
 その場所で、何をするでもなく、雲居筑前はただじっと見据えていた。
 ――彼方に見える、大友館を。
 





[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 幕間
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:9e91782e
Date: 2010/11/19 22:52

 戸次屋敷において吉継と父娘の契りを交わしてより数日、俺と吉継は手探りをするように互いの距離を縮めていた。
 とはいえ、戸次屋敷に逗留している身で出来ることといえば、精々がこれまでのこと、これからのことを話し合う程度なのだが、実のところ、吉継は知らず、俺にとってこれはかなり厄介なことだった。
 自身が天城筑前守颯馬であること。その事実を口にすべきか否か、という選択を迫られることと同義だったからである。


 道雪殿に聞いた話では、天城颯馬の名を知る者は九国でもさほど多くはないとのことだった。
 東国のことが語られることがあったとしても、まず人の口の端にのぼるのは謙信様であり、信玄であって、その配下のことまで人々は知ろうとしない、との言葉は確かな説得力があった。
 だが、それならどうして少数であっても俺の名を知る者がいるのか、というと、それは件の天の御遣いやら、あるいは氏素性の知れない身で従五位下筑前守を朝廷から正式に許されたことやらが原因であるらしい。


 まったくの無名か、あるいはいっそ大々的に知られていれば、かえって楽だったのだが、と俺は苦笑を禁じえなかった。
 信じてもらえるか否かは別にして、無名であれば昔こういうことがあったんだと口に出来るし、知られていれば、たとえ家族とはいえ口を緘する決断も下せる。
 知る人ぞ知る、みたいな今の状況ではかえって迷ってしまうのである。


 率直に言ってしまえば、仮にも吉継は娘なのだからして隠し事などしたくない。俺は吉継の口から、吉継の過去を聞いたことがあるから尚更である。
 それに俺がどうして東国に戻ろうとしているのか、その理由を吉継が知りたいと願うのも当然のことだった。


「とはいえ、なあ……」
 謙信様が毘沙門天を熱心に信仰していることは隠れも無い。現在の大友家に、その謙信様に仕える家臣が名を秘めて入り込んでいるなどと知られた時の影響が、俺には予測できない。そのことが迷いを深いものにしていた。
 無論、吉継はその事実を知ったところで容易く洩らしたりはしないだろう。
 しかし、だ。
 俺の存在は、道雪殿をはじめとした大友家の家臣たちに、少しずつではあるが知られはじめている。俺の素性を探ろうとする者がいないとも限らない。それは南蛮神教の連中も同様であろう。


 そして、彼らが俺を探ろうとするとき、真っ先に思いつくのは俺の近くにいる者――つまりは吉継のことだろう。
 この時、吉継が俺のことを知らなければ突っぱねるだけで済むが、知っていれば、それを隠そうとすることは吉継にとっての弱みになってしまいかねない。
 道雪殿の麾下に無法な真似をする者はいないと思うが、逆に道雪殿の麾下だからこそ、強硬手段に訴えてでも弱みを握ろうと画策する者がいないとは限らない。


 
 そんなわけで、ああでもない、こうでもないと頭を抱えていたのだが、吉継はそんな俺に気を遣ってくれたのか、苦笑しつつ首を左右に振った。
「無理に話して下さらずとも――ではない、話してくれなくてもいいですよ。いずれ時が来たら聞かせてください。今しばらくは戸次様の麾下にとどまるのでしょう?」
「ああ、そのつもりだ。まあいつまでになるかはさっぱりわからないけどな」
 当面の問題を片付け、道雪殿の重荷を少しでも取り除いてさしあげたいとは思うが、あいにくと俺に出来るのは大友家の勝利にほんの少し手助けする程度。そして大友家が幾度戦に勝ったところで、道雪殿の重荷が減ることはないような気がするのである。


「むしろ勝てば勝つほど、問題は増えていくだろうな……」
 俺の呟きに、吉継はわずかに面差しを伏せる。肩まで伸びた銀色の髪が、室内の灯火を映して淡く輝いていた。
 それを見て気づいたが、最近、吉継が素顔でいることが増えている気がするなあ。
「――それはともかく、隠し事をしているのは申し訳ない。いずれ必ず話すから。そうだな、俺が九国を出るときなら、もう隠す必要もなくなっているだろうし」
「つい今しがた、それがいつになるかはわからないと聞いたような気がするのですが」
 吉継はそう言って小さく笑う。
「それにお義父様、別に詫びる必要はありません。家族だからといって、誰も彼もが腹蔵なく話し合っているわけでもないでしょう。まして、わたしたちは家族となってまだ日が浅いのです。慌てることはないと思いますよ」


 ほのかな微笑に、かつて俺に斬りかかって来た時の鬼気は微塵も感じられない。
 こちらの迷いを察してくれた心遣いと同様に、あるいはそれ以上に、そのことがとても嬉しく感じられた。
 うむ、ここはこちらも同様に誠意を見せるべきであろう。さて、今の俺に出来ることといえば――
「よし」
「はい?」
 俺が力強く頷くと、吉継が不思議そうに小首をかしげる。その吉継に向かって、俺は笑顔で口を開いた。
「吉継、今日は俺が髪を洗ってあげよう」
 甲斐の虎直伝の技で。



 他意のない俺の言葉に、何故か吉継は言葉も出ないほど驚いていた。
 と、思う間もなく、白磁の肌が瞬く間に朱に染まっていく。その様は、不覚にも見とれてしまうほどにあでやかだった。
「な、ななな、なにを突然ッ?!」
「む? なにか変なことを言ったか?」
「むしろ今の言葉に変じゃないところを見つけろという方が無理でしょうッ?! 乱心されましたかッ?!」
「俺としては感謝と誠意を示すつもりだったんだが」
「感謝と誠意を示すために娘に肌を晒せという父親がどこの世界にいますかッ!」
「大丈夫、こと髪を洗うに関して、俺はすでに欲望を解脱した身だ。邪な心など微塵もないぞ」
「なんですか、その妙に限定された悟りの境地は……」
「聞きたいなら話すけど、聞くも涙、語るも涙な話になるぞ?」
「正直まったく興味はありませんが、聞かずに父の歪みを放置しておくのも娘としては気がかりです……」



   

 



◆◆◆


 
 
 時を遡ること、およそ二年前。



◆◆◆
  


 甲斐国躑躅ヶ崎館。  
 その一室で、俺は深いため息を吐いていた。
 武田信虎の乱が終結して、すでに二ヶ月あまり。出発前、春日山はとうに雪に包まれていたが、甲信の山々も似たようなもので、当然のように山道は雪で覆われていた。
 徒歩だろうが騎行だろうが、雪道を踏みしめての往来の辛さは大してかわりはなく、躑躅ヶ崎館が見えた時には思わず駆け出しそうになったものだった。
 ――とはいえ、着いたら着いたでまた面倒事が山積していたりするのだが。
 

 
「……お疲れさまでした、天城様」
 先刻、その面倒事の一つを片付け、ようやく一息ついた俺を見て、困惑しながらもねぎらいの言葉をかけてくれたのは武田家の重臣春日虎綱だった。
「……ほんとうに心底疲れたよ。一体、何人と会ったんだ?」
「えーと、今日は十七人、ですね。あの言いにくいんですけど、明日はもっと多いですよ?」
「ぬう……なんか見世物にされている気分だ」
 俺の言葉に、虎綱はあははと乾いた笑いを浮かべながら、視線をそむけた。否定できないのだろう。


「け、けれど、その仕方ないかな、と思いますよ? 天城様のように民の出で、くわえてその御年で正式に朝廷から官位を授かるなんてすごいことですし、それになんといってもあの御館様が兄と慕う方なんですから、皆、一目天城様に会ってお言葉をもらおうと必死なんですッ」
 あれでも十分に人数を厳選している、と虎綱は言う。
「別に俺に声なんぞかけられても、良いことなんてないんだけどなあ……」
 ぼやいても仕方ないと思いつつも、そんな言葉を口にする。 


 すると、室外から凛とした声がかけられた。
「失礼する。天城殿はおられるか?」
「真田殿、はい、おりますよ」
 俺が答えると、一人の姫武将が襖を開けて姿を見せた。虎綱と同じく武田の重臣である真田幸村である。
 その姿は、かつてはじめて相まみえた頃とは大きく異なっていた。
 厳しく張り詰めていた表情はゆとりを湛えた穏やかなものに変じ、抜き身の刃のように触れれば切れてしまいそうだった雰囲気も、今では和らぎ、それでいて確かな芯を感じさせた。たとえるなら、鞘に収まった名刀のよう、とでも言うべきか。


 それを言えば、虎綱だとて似たようなもの。あの信玄も、彼女らの成長には目を細めて満足の意をあらわしているほどだ。
 一応、越後と甲斐は敵国なのだから、俺が素直に喜んではいけないのだろうが、そこはそれ、素直に喜べるような関係を築き上げるために、何度も越後と甲斐を往復しているのである。 


「まあ、そのためにも甲斐の人たちと友好的な関係を築かねばならず、見世物にされても文句を言ってはいけないのだが、それでもきついものはきついのですよ」
「人の顔を見るや、いきなり弱音を吐くな、ばか者」
 幸村が呆れたように言う。
 その言葉があまりに直截的だったからか、虎綱が慌てたように言葉を続けた。
「雪道を割って来たのは他の皆さんも同じです。そうするだけの意味を、天城様に会うことに見出しているということ。甲斐と越後の盟約、それに携わる天城様はそれだけ注目されているんですよ」
「まあ、この時期に皆が集まったのは御館様の御意向があってのことだがな」
「ゆ、幸村さん、それを言っては……」
 虎綱のフォローをそっけなく粉砕する幸村。さすがは真田家の棟梁、舌鋒さえおそろしい破壊力である。


「……まあそれはさておき、真田殿は何かそれがしに用事がおありだったのでは? 信玄様のお召しですか?」
 俺が問うと、幸村は何故か言葉に詰まって黙り込んでしまう。
 そして、何やら視線をあちこちへとさまよわせた末、こほんと咳払いしておもむろに頷いた。
「うむ。間もなくお呼びがかかるであろうと知らせるべく来てやったのだ」
「はあ……それはつまり、まだ呼ばれてないのですよね?」
 間もなく呼ばれることはわかりきっているのだから、なにもその程度の用件で真田の当主がじきじきに来る必要はないだろうに。




 そんなことを話していると、次に部屋に来たのは山県昌景殿だった。この前来たとき、戦戯盤の勝負が千日手になってしまったので再戦を挑みに来たらしい。
 で、次に来たのは内藤昌秀殿だった。鎧兜を身につけない俺の戦い方に好感を抱いていたとかで、躑躅ヶ崎館にいる時は結構頻繁に訪れてくれるのである。
 その次は馬場信春殿までやってきた。まあ馬場殿はおれではなく山県殿に用があったらしいのだが、俺と山県殿の勝負に感銘を受けたのか、次の対戦を挑まれた。
 これで打ち止めだとおもったら、なんと山本勘助殿まであらわれた。何やら俺の部屋が騒がしいのをいぶかしんで来たらしい。
 そんなわけで、気がつけば武田家の誇る風林火陰山雷が勢ぞろいしている俺の部屋だった。


「……よほど暇なのか?」
「天城殿、何をしておられる。ささ、次手をうたれよ」
 目の前の馬――もとい馬場信春殿がせかしてくる。どうでもいいのだけど、屋内では兜(馬の着ぐるみ風)を脱ぎませんか? 
「見苦しく思われたなら許されよ。しかし拙者、勝って兜の緒をゆるめられぬ小心者なれば、常に己が戦場にあることを身に刻み込まねばならず、ゆえにたとえ部屋の中であろうと兜をとれぬのです」
「さ、さようですか。これは不心得なことを申し上げてしまいました。こちらこそ許されよ」
 えらく懇切丁寧に謝罪されてしまったため、俺も慌てて答礼する。


 まあいずれは慣れるだろう。現に他の武将たちはぜんぜん気にしている様子がないしな。
 茶菓子を摘みつつ、なにやら談笑している虎綱と山本殿や、槍隊の運用について意見を交換している幸村と内藤殿、山県殿らを見やりつつ、俺はそんなことを考えていた。




◆◆




「道理で皆の姿が見えぬと思えば」
 俺の話を聞いた信玄が苦笑する。 
 一時的ではあるが、重臣たちの姿が消えたのを不思議に思っていたらしい。まあ、まさか俺の部屋でくつろいでいるとは誰も思うまいよ。
 信玄の髪を丁寧に洗いつつ、俺は内心で苦笑する。


「ところで兄上」
「なんでしょう?」
「越後でも精進されていたようですね、前回にくらべれば成長が顕著ですよ」
「お褒めにあずかり恐縮です」
 返答しながらも、信玄の髪を梳く手は止めない。一度、手を止めてしまえば、それを取り返すのに三倍の手間がかかってしまうのだ。何より女性にとって命の次ともいえる価値を持つ髪を任されている身である。一瞬たりと気を抜くことは許されない。そう、これもまた一つの戦なのである。
「さすがは兄上、見事な覚悟です。そう、それくらい丁寧に、かつ大切に扱うものなのですよ、女子の髪というのはね」
 御意にございます。






 ……しかし、いつの間にかごく自然に信玄と湯殿で語り合えるようになってしまったなあ。
 いや、言い訳すると、最初は俺だって謝絶しようとしていたのである。しかし、いつぞやの隠し湯での出来事を口にされれば従わざるを得ないわけで、ついでにいえば「兄上はわたくしと湯を共にされるのがそれほど厭わしいのですか……?」とか言われたら断れないだろう常識的に考えて。
 それでまあ、甲斐を訪れるたびに謙信様たちには決していえない体験を重ねてしまっている俺であった。決してこれが目当てで何度も甲斐に来ているわけではないのです、はい。 



 今日も今日とて妹様の髪を懇切丁寧に洗い上げ、深い充実感と共に湯船に身をひたす。うむ、何かを成し遂げた達成感が総身を包み込むこの感覚は癖になる。
「……己で仕向けておいて何ですが、兄上はときおり妙な才覚を見せられますね」
 向かい合う形で湯につかっている信玄がくすくすと笑う。
 当たり前だが、今の信玄は肩から何からむき出しである。湯につかっているとはいえ、その下の裸身を見ることも容易い。普段の俺(髪を洗う前の俺)ならひとたまりもなく陥落するところだが、今の俺は信玄を前にしても不動の心をもって対処できた。


 その俺の様子を見て、信玄は苦笑しつつ呟いた。
「そこはもう少し心を動かしてほしいところなのですけど……ふふ、それには異なる時と場所があるのでしょうね」
「なんでだろう、今背筋に冷たいものがはしったのだが」
「おや、甲斐の虎に睨まれてその程度で済むのならやすいものではありませんか」
 そう言うや、信玄は俺に一度視線を向けてから、ゆっくりと立ち上がる。
 俺は心得て目を閉ざすわけだが、この辺はもう阿吽の呼吸というか、そんな感じだった。



 気がつけば随分と長く湯につかっている。俺もそろそろあがるか、とぼんやりと考えていると。
「ところで兄上」
「んー?」
「先日、虎綱と幸村に兄上の腕前を話したのですよ、名は伏せて」
「ほう?」
「武に生きるとはいえ、やはりそこは女子の身。二人とも興味を持ったようでしたので、近い日に引き合わせると伝えておきました。兄上も承知しておいてくださいね」
「おう、承知仕った……」
 俺は心地よい達成感とほどよい湯加減に包まれながら、とくに深く考えることなくそう返答していたのである……







◆◆◆






 ところかわって、豊後国戸次屋敷である。 
「……あの、お義父様」
「む?」
「どのあたりが、聞くも涙、語るも涙な話なのですか?」
「いや、悲劇はここから始まるのだ」
「……聞くまでもない気がするので、もう結構です」
 おお、具体的な人物名は伏せて話したのだが、さすがは吉継、俺の話だけで察してくれたか。
「つまりお義父様は妹様の指導よろしきを得て、こと女性の髪を洗うことに関しては人並み以上の技量を得た、とそういうことですね」
「うむ、まったくそのとおり」
「…………はあ」
「娘よ、なんで地の底に達しそうな深いため息を吐くのだ?」
「色々と、思うところがありまして」
「そうか、悩みがあればいつでも聞くが」
「はい。でも今日はもう疲れましたので、下がらせてもらいますね……」


 そう言う吉継は本当に疲れていたのか、何やら肩を落として部屋を出て行ってしまった。
 やはり色々とごたごたが続いたので、心身に疲労がたまっていたのだろう。
 俺はそう考えつつ部屋を出る。そろそろ道雪殿に部屋に来るようにといわれていた刻限が迫っていたからだった。 
 




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第四章 野分(一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:9e91782e
Date: 2010/11/14 22:44

 筑前国古処山城。
 現在は大友家が治めているその城は、先年まで筑前の有力国人である秋月氏の居城であった。
 先代の秋月家当主である秋月文種は、当初は大内家に属し、大内家が滅びた後は大友家に属した。だが、毛利元就が大内家の旧領を呑み込み、さらに九国へ勢力を広げてくるに及んで、大友家から離れ、毛利家に従うことを密かに決断する。


 しかし、この決断はただちに大友家に察知され、戸次道雪率いる大友の大軍を引き出す結果となる。
 秋月家は筑前においては有力な勢力であったが、北九州全域に影響力を持つ大友家とは比べるべくもない。結果、秋月軍は道雪率いる大軍の前に衆寡敵せず壊滅、当主である文種、その嫡子である晴種は共に討ち死にし、ただ一人、次男の種実のみが大友家の追撃を逃れることに成功する。
 しかし種実は生き延びたものの、道雪の猛攻によって散々に討ち減らされた秋月軍は、その後に種実を逃すために、先の戦いでかろうじて生き残った家臣たちのほとんどを失い、事実上の滅亡に等しい打撃を被ったのである。


 父を失い、兄を失い、さらには生家をうしなった秋月種実は、悲憤の涙を流しつつ毛利家を頼って、遠く安芸国まで落ち延びねばならなかった。
 それからおよそ二年。苦労知らずと父や兄に呆れられたこともある秋月家の次男は、見事に臥薪嘗胆に耐えぬいた。
 こけた頬と鋭すぎる面差しには、かつて紅顔の美少年ともてはやされた面影は微塵もない。その右目には大友家と鬼道雪に対する復讐の念を、その左目には秋月家復興の思いを秘めながら、秋月種実は再び故郷の地を踏んだのである。





「まさかこうも早くに戻ってこられるとはね。元就様に感謝しなくてはならないな」
 彼方に懐かしい古処山城を望みながら、種実は静かに微笑む。
 内心には様々な激情が吹き荒れているが、それを面に出すことはしない。浮かべた微笑は、半ば以上、周囲の者たちを落ち着かせるためのものだった。


「さようですな。こうして若と共に戦に臨めるときがこようとは思いませなんだ」
 種実の隣に立つ白髪の老将が感慨深げに頷く。
 この武将、名を深江美濃守といい、秋月家の旧臣の一人である。秋月の多くの旧臣たちが、内心はどうあれ、大友家に服属していく中で、美濃守は決して大友家に従おうとせず、あくまで旧主に対して忠誠を持ち続けた。
 その忠義と武勇を惜しんだ道雪からの誘いも断り、野山に隠れひそみつつ、同志を束ねて秋月家復興の機会を探り続けたのである。


 種実は毛利家でかくまわれていた二年の間、無為に徒食していたわけではない。だが同時に命の危機をおぼえたり、飢えに苦しんだりすることもなかった。
 みずからの労苦など、美濃守の半分にも達すまい。頭髪の半ば以上が抜け落ち、残った髪も白く枯れはてた家臣の姿に、種実は感謝せずにはいられなかった。
 だが、種実がそれを口にしても美濃守は笑うばかりで、己の苦労を口にしようとさえしない。
 からからと笑いながら、いつも同じ言葉を返すだけだった。
「拙者が好きで背負い込んだ荷でござる。それを苦労とは申しますまい」


 それに、と美濃守は孫を見る祖父のような眼差しで種実を見つめる。
「たとえ苦労だとしたところで、今の若を見ればすべてが報われたと、そう思えまする。たとえこの戦で朽ち果てようと、拙者、亡き殿に胸を張ってお会いすることができもうす」
「ここで美濃に倒れられては困るよ。大友を倒し、あの鬼めを討ち果たし、秋月を復興する。すべて見届けてもらわなくては。いや、その後も父上や兄上に成り代わり、ぼくを叱咤してくれ」
「承知仕った。この老骨がどれだけ動けるかはわかりませぬが、若の望みにそえるよう努めましょうぞ」


 美濃守がそう口にした途端、背後から馬の嘶きと、慌しい甲冑の音が鳴り響いた。
「申し上げますッ、大橋豊後守様より伝令、布陣は完了、予定の刻限となり次第、攻撃を開始するとのことです!」
 その報告に、種実は大きく頷いてみせる。
「よし、ぼくたちも出るぞ。古処山は天険の城なれど、我ら秋月の軍勢にとっては庭も同様。異教に狂い、日の本を侵す大友軍を殲滅せよッ! 『三つ撫子』の家紋を、再び九国の天地にしらしめすのだ!」
 軍配を掲げ、高らかに宣言する種実の言葉に、深江美濃守を筆頭とした三百の軍勢が喚声で応じた。




 これより数日の後、府内の大友館に急使が駆け込み、古処山城の落城を伝える。
 古処山城を陥とした秋月軍はただちに兵を動かして、旧領を次々に取り戻しており、その勢いはとどまるところを知らず、このままでは遠からず、かつての秋月家の領土すべてが大友家の手から失われるであろうと思われた。





◆◆




 古処山城の陥落、秋月種実の帰還を知った大友家はただちに奪還のための兵を集めようとした。
 だが、これが思いのほか手間取った。
 この時期、すでに収穫は終わり、農閑期に入っているため、その意味で兵を集めるのに支障はなかったのだが、先の豊前の叛乱が終わってまだ二ヶ月と経っておらず、先の乱に従軍した兵たちを除外するとなると、召集できる兵力がかなり限られてくるためであった。
 それでも最終的に二万に達する兵力を集めることが出来たのは、大友家の底力というものであったろうか。
  

 とはいえ、初動の遅れは戦況に大きく影響を及ぼす。
 筑前では古処山城を取り戻した秋月種実の下へ、かつての秋月の旧臣を中心とした将兵が集い、その兵力は加速度的に膨れ上がっていた。また、他の筑前の国人衆の中にも秋月と手を結ぶ動きが出始めており、それは大友家に従属する者たちとて例外ではなかったのである。


「つまりは速やかに古処山城を陥として、周辺勢力の動揺を押さえなければならないというわけか」
 どこかで聞いた話だ、と俺は苦笑する。
 そんな俺の表情を不謹慎ととったのか、隣で馬を進めていた吉継が咎めるような響きの声を出した。
「……お義父様」
「なんだ、吉継?」
「お義父様は客将とはいえ、かりにも一軍の将なのです。戦を前に苦笑いなどするべきではありません」


 その言葉に、俺は言葉を詰まらせる。
 たしかに戦の直前となれば、歴戦の将兵さえ緊張を覚えるもの。そんな萎縮しがちな将兵の士気をあげるために縁起を担いだり、勇壮に演説をぶつことは当然のこと。
 まあそれは道雪殿や鎮幸、惟信らに任せるとしても、確かに苦笑などしては兵たちにどう思われるかわかったものではなかった。
「む、確かにそのとおりだな。いかに道雪様から事前に何の通達もなく、開戦間際になっていきなり押し付けられた将の座とはいえ、そんなことは一般の将兵には関わり無いことだしな」
「……そのあたりは戸次様と直接話し合ってください」
 何かがにじみ出る俺の声音に、吉継はそっけなく答える。巻き込まれたくない、という心情があらわだった。


「娘よ、やはりここは父子の絆をもって再び鬼道雪をやりこめるべきではなかろーか」
「父よ、益体もない言い争いに可愛い娘を巻き込まないでください」
「うむ、やっと自分が可愛いと認めたか、善哉善哉」
「……ッ、言葉の綾です。誰かさんがしつこいもので」
「事実を事実として主張することに何の不都合があろうぞ」
「ああもう、わかりましたから、真面目にやってください。戸次様の軍を一翼を担うなど、望んでもかなうことではないのですよ」


 そう言ってそっぽを向く吉継。顔はいつものごとく白布で覆われているが、おそらくその中では赤面していることだろう。
 もうちょっと親子の会話(かどうか知らんが)を続けたいところだったが、さすがに自重する。
 吉継の言うとおり、食客の身で五百の兵を統べる役割は大役である。それも徴兵された農民兵ではなく、道雪殿直属の精鋭部隊なのだから尚更だ。俺が預かったのは、おおげさではなく、戦を決することが出来る戦力なのである。
 

 俺の処遇は、新参者の扱いとしては破格もいいところである。当然、面白く思わない者もいる。
 といっても、鎮幸はからからと笑って背を叩いて励ましてくれたし、惟信は問題児が増えたとかなんとかで頭を抱えてたが、それでも武運を祈ってくれた。
 他の将兵にしても、多くが先の乱で戦った者たちばかりなので、表立って不満を口にすることはなく、むしろ俺がまだ食客なのかと驚く人間の方が多かったくらいである。なんか俺が戸次家に仕えていると思われていたらしい。まあ戸次屋敷に住んでいるわ、道雪殿とはしょっちゅう話しているわ、あらためて振り返ってみれば、そう思われても仕方ないかもしんない。


 では、面白く思わない者とは誰なのか、というと。
「……雲居筑前殿」
 礼儀正しく呼びかけてくる声に応じて、ゆっくりと振り返る。
 そこには今考えていた当の本人が馬上で軽く会釈をしていた。
「伯耆守様(道雪殿のこと)よりの伝言です。まもなく大友軍は府内を進発、第一陣は小野鎮幸様、第二陣に十時連貞様、雲居筑前様は予定どおり第三陣とのことです」
「承知仕った」
 そんな予定は聞いてないのだが、この黒髪の戸次家嫡男、戸次誾殿にそんなことを言おうものなら、何を言われるかわかったものではなかった。
 何故だか俺はこの子に異様に敵視されているのだ。吉継に聞いたところ、戸次屋敷で俺の素性を尋ねられたこともあるというから、誾から向けられる敵意が俺の気のせいである、という可能性はなかった。



 それでは、これにて。
 そう口にして戸次誾が駆け去ると、俺は何故だか詰めていた息を吐き出す。
「ううむ、相変わらず警戒されまくってるな……」
 おそらくは任務にかこつけて俺の様子を見にきたのだろう。そうでなければ、養子とはいえ一家の嫡男が伝令役などつとめるはずもない。
 その俺の呟きに、吉継が白布を揺らして答える。
「客観的に見れば、今のお義父様は氏素性の知れない浪人風情、というところですから。そんな怪しげな人物が道雪様の周囲に侍っているとなれば、家臣としても、子としても、無視できるものではないのでしょう」
 むしろ、あれが普通の態度ではないか、と吉継は言っているのである。


 そして、言われてみればそのとおりではあった。
 仮に、謙信様の傍にぽっと出の男があらわれ、謙信様と親しげに話したり、重用されたりした日には俺とて平静ではいられないだろう。
 そう考えれば、誾のあの態度も納得がいく。というか手をうって賛同したいくらいに共感できるというものだった。
「惜しいな、もう少し年が上なら、酒にでも誘うところなんだが」
「……一体、何をどう考えたら、今の話からその結論に達するのかはわかりませんが、とにかくそろそろ動かねば他隊に遅れをとりますよ。軍監の由布様があちらで怖い目をしておられますが」
「はっは、そうそう都合良く――って、ほんとにいるし。これは大変、急いで動くとしようか」
 俺が慌てて移動を指示すると、さすがは戸次家の精鋭部隊、すでに俺以外はとうに準備が出来ていたらしく、速やかに移動がはじまった。


 戸次道雪率いる二万の軍勢が、筑前国を目指して府内を出たのは、それからまもなくのことであった。
 



◆◆




 そして十日の後、大友軍は秋月種実が立てこもる古処山城を完全に包囲していた。
 瞬く間に勢力を広げていた種実であったが、さすがに鬼道雪率いる二万の大軍の前には手も足も出ないようだ――と言いたいところなのだが。


「手も足も出ない、というよりは、あえて出さなかったという感じだな。手ごたえがないことおびただしい」
 大友軍の本営、いかにも不満だと言いたげに鎮幸がぼやく。
 その言葉に、集まった大友の武将たちがそろって頷いた。敵軍がろくな抵抗もせずに次々と背を向けていく戦況では頷く以外にない。
「陥とした城には武器も兵糧もほとんどなし。明らかにはじめから予定どおりの行動ですね」
 惟信の言葉どおり、大友軍は休松城をはじめとして幾つかの城を取り返したのだが、本来蓄えられているべき物資はまるで残っていなかったのである。


 ここまで条件がそろえば、秋月軍の作戦が古処山城での篭城だというのは誰の目にも明らかだった。
 だが――
「秋月も一時は三千近い数まで膨れ上がったようだが、我らに押されて今城に篭るは精々が千程度、こちらは二万。古処山がいかに要害といえど、勝算はなかろう。それでもなお篭城を選んだということは、だ――」
 何かを期するように一旦言葉をきる鎮幸。だが、その続きは鎮幸ではなく、別の人物の口から発された。
「援軍のあてがある、ということですね。それも先の乱とは違う確固としたあてが」
「……惟信、それはわしの台詞ではないか?」
「べつにためて言うほどのことではないでしょ。みんな承知してることです」
 寂しげな鎮幸の言葉に、惟信がぴしゃりと言い返す。
 いじけたように背を丸める鎮幸だが、生憎とこの場に慰めの言葉をかける者はいなかった。


「問題なのは、それがどの勢力かということです。筑前の他の勢力が合力したところで、我が軍に対抗するのは難しい、その程度は秋月とて承知しているでしょう」
 その惟信に応じたのは、これまで黙って軍議に聞き入っていた人物、十時連貞(ととき つれさだ)だった。
「……我が軍に対抗しえる勢力、と考えれば、そう数は多くござるまい」


 連貞は戸次家の席次において鎮幸、惟信に次ぐ武将である。
 年の頃は三十くらいなのだが、若いに似合わず沈着で、ほとんど無駄口を叩かない。
 聞けば連貞の父は、かつてある戦で大友軍が劣勢の中を殿軍を勤め、いまだ戸次家を継いでいなかった若き(いや、今も十分にお若いのだが)道雪殿を守りきって討ち死にした股肱の臣だったそうだ。


 連貞は、その父の忠義と武勇を正しく受け継ぎ、寡黙な為人ながら戦場での剛勇は鎮幸に迫り、戸次家、ひいては大友軍の勝利に幾度も貢献してきた。道雪殿の信頼もきわめてあつい。
 滅多に口を開かないせいもあるだろう。めずらしく連貞が言葉を発したため、皆が自然とその発言をきこうと口を閉ざし、連貞に注目した。
 が、周囲の注目を悟るや、連貞はすぐに口を閉ざしてしまう。困惑したような、またどこか迷惑そうな顔だったが、見る者が見れば連貞の頬がかすかに赤らんでいることがわかるだろう。
 それを見て、俺は思った。
『ようは寡黙というより、照れ屋なのですよ、連貞は』
 そう言って笑っていた道雪殿の言葉は、まったくもって正しかったのだ、と。



 連貞が黙り込んでしまうと、しばしの間、なんとも微妙な空気が流れたが、苦笑した惟信が再び口を開くことで、その空気はたちまち霧散した。
「どの道、古処山城は陥とさねばなりません。敵が何を企んでいるにせよ、乗じられる隙をつくらねば良いだけのこと。各将は周辺の警戒を厳に。また徴用した兵が不埒なまねをせぬよう手綱をひきしめておくように。略奪暴行には厳罰をもって処すが我が軍の法ですから」
 軍監の言葉に、一同そろって頭を下げる。
 それを見回した後、惟信は主に向かって問いかけた。
「道雪様、他に何かございますか?」
「いえ、特にはありません。皆々、惟信が今申したことを胸に刻み、怠りなく務めてください。それと――」
 ここで苦笑を一つ。
「鎮幸、大友家屈指の武将がいつまでもしょげているのはどうかと思いますよ?」
「……く、誰からも相手にされずにいたわしを気遣ってくださるそのお優しさに、この鎮幸、涙を禁じえませぬッ。というわけで軍師ッ!」
 そう言うや、鎮幸は不意に俺に視線を据えた。


 ……って、待てまて。
「……軍師とはそれがしのことですか?」
「他に誰がいるというのかッ」
「……いや、まあそれはともかく、今の話の流れでどうしてそれがしの名が出てくるのですか?」
 まるで俺は関係ないと思うのだが。
 そう思いつつ、困惑して問い返す。すると、鎮幸は胸を張って、こんなことを言ってきた。
「おぬしの困惑など知ったことではないッ。ここは一つ、お優しい道雪様のために素敵な助言の一つもしてさしあげるのだ、わしの代わりにッ!」


 ――どうしよう。言いたいことがありすぎて何を言えばいいのかわからない。
「…………由布様、何か理不尽な言いがかりをつけられているような気がするのですが、それがしの気のせいでしょうか?」
 助けを求めて惟信を見たが、惟信は「私にふるな」と言わんばかりに目を背けている。
 ならば連貞は、と視線を転じたのだが、こちらも首を左右に振るばかり。
 道雪殿? 見るだけ無駄だろう。というか、見ないでも大体どんな表情をしているかわかるしなあ。
 俺は仕方ない、とため息を吐いてから口を開く。
「……そうですね、では――」
「おう、やはりなんぞあったか。まったく、もったいぶらずにはよう言えばよいものを」
 何故か得意げに言う鎮幸を極力意識しないようにつとめつつ、俺は口を開いた。


「まもなく、九国に野分が吹き荒れましょう。皆様方には、準備に怠りなきように、とご忠告いたします」


「ほう、それは吉継殿の見立てかな?」
 鎮幸が興味深げに口にする。吉継が天候予測に長じていることは、先の戦いで皆がすでに知っていた。
「それもございます」
「そうか、角隈様の愛弟子の言葉とあらば等閑にはできぬ。皆、聞いたな。いざ戦となった時に兵糧や武具が水浸しでは話にならぬ、今から備えておくのだ!」
 機嫌よさげに言う鎮幸だったが、不意に俺を見るとにやにやと笑った。
「しかし、軍師殿、このような時でも父の助けとなってくれるとは、吉継殿はまことに良き娘御だ。大事にせねば罰があたるというものだぞ」
 ふわっはっは、と大笑する鎮幸につられたように、周囲からもくすくすと笑い声が零れ落ちる。
 中でも一番楽しそうに笑っていたのが誰だったのかは――あえて言う必要もないだろう。


 俺はひきつった笑いを浮かべながら、席を蹴立てて立ち去りたい衝動を懸命に堪え続けるしかなかった……




◆◆◆




 安芸国、吉田郡山城。


 足利幕府第十三代将軍、足利義輝の使者は耳を疑った。
 これまで将軍の手足となって、幾度も他国に赴いたことのある練達の士であったが、ここまでにこやかに命令を拒絶されたことはかつてなかったからだ。
「……なんと申された?」
 信じられない思いで問い返す。
 すると、当主元就の傍らに座したその女性――毛利隆元は再びにこやかに答えを返してきた。


「公方様のお心を煩わせたこと、まことに申し訳なく存じております。しかし、当家は先の乱において、十分な思慮の上で大友家と矛を交えたのです。戦は利あらず、また小原鑑元殿の御心を重んじて一時は和睦もやむなしと考えました。しかし、当家が大友家と戦う理由はいささかも減じておらず、両家が再びぶつかるはもはや避けられぬこと。我が毛利は、この期に及んで大友家と盟約を結ぶ必要を認めません。公方様にはそのようにお伝えください」
 隆元の顔に敵意はなく、その言葉は丁寧であり、幕府を軽んじる様子は見受けられない。
 しかし、将軍から伝えられた同盟締結を真っ向から否定したのは、まぎれもない事実である。それが意味することは明らかだった。


「……つまり、毛利は上意を拒む、とそう判断してよろしいか?」
「余のことであれば知らず、大友家と結べというのが公方様の御心であるならば、毛利はそれに従うことはできかねます」
「……率直に言わせていただくが、正気でござるか? 武家の棟梁たる将軍の意向に背くことの意味、わからぬとは思えぬが」
 威圧するような使者の言葉に、元就の顔がわずかに曇る。
 だが、隆元の方は微塵も表情を動かしていなかった。
「京と豊後は遠く離れているとはいえ、使者のやりとりは頻々であるとうかがっております。おそらく此度の使者も、大友の願いを容れられてのことでございましょう?」


 隆元の問いに、使者は返答しなかった。
 だが「毛利が他国の内乱に介入して不当に得た領土を返還せよ」という使者が将軍家のみの意思で出されるはずもない。
 ゆえに隆元は返答を待つことなく言葉を続ける。
「かの地が今どのような状態に置かれているかは公方様もご存知でありましょう? 毛利は鎌倉以来の家柄、日の本の民としての誇りを持たぬ者たちと手を結ぶつもりはございません。無論、宗麟殿が心を入れ替えたというならばその限りではございませんが――くわえて申し上げれば、門司を得たことが不当であるとの仰せでしたが、そも和睦は大友から申し出たことであり、門司の割譲もその一つです。これをつきかえせば、それこそ大友家との仲がこじれるというものではありませんか。使者殿にはそのあたりの事情を今一度公方様にお話しいただければ、と」


 毛利隆元の言葉は、穏やかながら断固とした響きを持っていた。
 外交に長じているゆえに、使者にはそれが良くわかる。そして、それによって毛利がどれだけの不利益を被るか、それを隆元が理解していることも。
 元就が先刻から一言も口を差し挟まないということは、隆元の言葉は毛利の総意であるということ。種々の不利益を理解してなお上意を拒む毛利家の面々と、それを貫くだけの実力に、使者は戦慄を禁じえなかった……





 この日、毛利家は将軍家からの調停を真っ向から拒絶する。これによって北九州における毛利、大友両家の争いが不可避になったことが内外に明らかとなった。
 そしてほぼ時を同じくして、周防山口城に赴いていた吉川元春、小早川隆景の二将は、筑前の諸勢力の動きを睨んだ上で兵を動かす。
 その軍勢はおおよそ一万。先の戦いに比べて大幅に数が減じたのは、戦が終わって間もなかったこともあるが、それ以上に数よりも質を重んじたからに他ならない。
 吉川、小早川の『両川』が率いる毛利の精鋭部隊は、ほどなく六百隻を越える船に乗り込み、海上の軍となる。これを止めるべき大友水軍は、まだ先ごろの戦いの痛撃から回復しておらず、毛利水軍を遮る者は海上には存在しない。
 それは、毛利軍が好きな時、好きなところに上陸できることを意味した。


 その船上で、毛利の次女と三女は、彼女たち姉妹にとって弟のような存在だったある人物について語り合っていた。
「さて、種実君はうまくやってるかな、春姉?」
「やっているだろうさ。種実は一日千秋の思いで、この時を待っていたのだからな。むしろ我らが来るまでに決着をつけようと焦っているかもしれんぞ」
「ああ、隆姉もそれを心配してたよね。種実君が焦りすぎるんじゃないかって」
「姉者は種実を実の弟のように可愛がっていたからな。そしてお前はそれを見てふてくされていたわけだが」
「……若き日の苦い過ちってやつだね……」
「遠い目をしてごまかすな。まあ、いかに隆景でも、そんな幼い妬心で軍の進退を誤るようなことはあるまい?」
「さすがにそれを心配されるのは心外だよ。というかそんなことしたら、ぼくが隆姉に殺される」
 ああ見えて怒るとこわい姉の顔を思い出し、隆景は小さく身を震わせた。


 そんな妹をよそに、元春は眼差しを伏せて思案する。
 今回の種実の蜂起は毛利の後援を得てのものだが、本来ならもっと時間をかけて行われるはずだった。より正確に言えば、元就は種実を戦の真っ只中に送るつもりはなく、毛利軍が筑前を制した後、古処山城に戻そうとしていたのである。
 それに否やを唱えたのは種実本人であり、先の小原鑑元の敗北とその後の情勢を睨み、今回の古処山奪還のために勇んで故郷に戻っていった。
 あの時、元就も隆元も種実を引きとめたが、元春は黙って見送った。大友家への復讐と秋月家の復興を望んでやまない少年に、これ以上の忍耐は望むべくもないと考えたためだ。


 今回の毛利の戦略を知る元春には、勝利は確実であるように映る。
 だが、先の戦とて毛利軍と小原軍は優勢だと思われていたのである。だが、その結果は今更語るまでもない。
 ならば今回とて何が起こるかわからない。確かにここまでは順調だ。だが、ここからも順調であるとは限らない。だからこそ――
(油断だけはするなよ、種実)
 あの弟が同じ思いでいてくれることを、元春は願わずにはいられなかった。





[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第四章 野分(二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:9e91782e
Date: 2010/11/16 20:19

 北九州に吹き荒れる野分の先駆けが大友本軍を直撃したのは、戸次道雪率いる大友軍が古処山城を完全に包囲してまもなくのことだった。
 筑前国立花山城城主、立花鑑載叛す。
 「西の大友」とも呼ばれる大友家屈指の重臣が謀反したのだ。
 その報告を受けた大友フランシス宗麟が色を失ったのを見たとき、多くの家臣が宗麟の動揺を当然のものと受け取った。彼らとて平静を保てずにいたから尚更である。


 ――だが、実のところ、宗麟の示した狼狽は家臣たちが推し量ったものとは似て非なる理由によるものだった。


 先に謀反を起こした小原鑑元は、元は加判衆の一人だったとはいえ、その出自は他紋衆に連なる。宗麟にしてみれば、鑑元個人に対する信頼の念はあったにせよ、他紋衆とは「いずれ叛乱を起こすかもしれない存在」に他ならない。
 だからこそ、今代になってから任じた加判衆はことごとく同紋衆であり、鑑元のような先代からの他紋衆たちは時間をかけて豊後の外に配していったのである。
 その事実こそが他紋衆の不満を煽るものとの忠言は幾度も聞いていたが、それでも宗麟は他紋衆を信任することが出来なかった。それをすれば、かつての乱が再び繰り返されるように思われてならなかったから。
 だからこその同紋衆重用。
 鑑元謀反の報を受けた時、宗麟はそのことを悲しんだものの、一方でこうも考えたのである。
 ああ、やはり、と。
 


 だが、今回叛逆の挙に踏み切った立花鑑載はれっきとした同紋衆である。
 宗麟の受けた衝撃は、ほとんどがその事実に収斂されていた。
 報告を受けた宗麟が、確認をとることもせず、翻意を促すこともせず、即座に立花家追討を命じたのは、立花家の勢力、筑前における影響、そういった大局的な視点によるものではない。
 同紋衆の謀反、その一事が宗麟にあの出来事を思い起こさせたからだった。それまで信じていた世界のすべてが壊れてしまった、あの乱を。
 だからこそ、その恐怖におされるように、宗麟はただちに古処山城を包囲していた道雪に立花家追討の命令を下したのである。



 ――立花鑑載が予測していたように。またその後ろで戦絵図を描いている者たちが予測していたように。



 かくて、大友軍の圧倒的優勢によって終わると思われていた筑前の戦況は一変する。
 大友家重臣立花鑑載の叛乱を受け、古処山城を包囲していた大友軍は一旦包囲を解き、周辺勢力に睨みを利かせつつ、主君の命令を待つ。
 そして府内の宗麟から立花鑑載追討の命を受けるや、戸次道雪は腹心の小野鎮幸を主将に、由布惟信を副将に据えた一万八千の部隊を編成、ただちにこれを立花家の本拠地である立花山城へと向けると、自身は残る二千の兵を率いて筑前休松城に拠った。
 休松城は古処山城の出城の一つであり、古処山城に篭った秋月種実ならびに筑前、筑後の国人衆の動きを見るに絶好の立地だったのである。


 この大友軍の動きをいち早く察したのは、やはり当の敵手だった秋月種実だった。
 あるいはこのことを予期すらしていたのか、種実は大友軍が軍を分かったその日に即座に反撃に転じる。
 古処山城に篭る秋月軍はおよそ一千たらず、道雪率いる大友軍の半数にすぎなかったが、道雪はあえてこれと戦うことなく休松城に篭ってしまう。
 鬼道雪らしからぬ消極的な動きは、秋月軍内部からも不審の声があがったが、当主である種実は内心で舌打ちしつつも、この大友軍の動きが理にかなったものであると認めた。一度、秋月軍と矛を交えてしまえば、周囲から群がり起こる敵勢力に城外で包囲されてしまうことを、道雪は察していたのだろう。


「……もっとも、城に篭ったところで結果は変わらないけれども。休松は所詮出城、古処山の天険とは比較にもならない。おまけに兵糧も武具もあらかた持ち去ったから、余裕なんてほとんどないだろう? いかに鬼道雪といえど、あの城で自軍に数倍する敵軍を支えることなど出来ないよ」
 その種実の言葉どおり、立花家謀反の報が知れわたるや、それまで拱手傍観していた筑前の国人衆および一部の筑後国人衆が一斉に蜂起、休松城を囲む秋月家のもとに参集した。
 古処山城に篭っていた一千、そして大友軍の目をくらませるために城外に潜ませていた二千の軍勢を併せ、種実の手兵は三千に膨れ上がる。これに他の国人衆の増援五千をあわせた総兵力はおよそ八千。
 この大軍を率い、秋月種実は戸次道雪が立てこもる休松城に対し、攻撃を開始するのである。



◆◆◆



 筑前国休松城。
 簡素な櫓の上から敵軍を見下ろし、俺は素直な感想を口にした。
「これぞまさしく槍衾、すごい数だな」
 合計八千にも及ぶと見られる敵軍が整然と陣形を組み、今にも攻め上らんと意気軒昂に喚声をあげている様子には戦慄を禁じえないところだ。
 そんな俺の声に、傍らで同じように敵軍を見下ろしていた吉継が怪訝そうに口を開く。
「その割には平生とかわらぬように見受けますが、お義父様。もしやこういった戦場には慣れていらっしゃるのですか?」
「いや、篭城自体ほとんどはじめてだな。お世辞にも慣れているとは言えない」
 本当である。上杉軍は将も兵も神速を尊ぶゆえに、篭城という選択肢が採られることはほとんどなかった。実際、謙信様に仕えてから武将として城に篭ったことは、まったくといっていいほどない。


 とはいえ、吉継の言うとおり、眼下に集った八千の軍勢――自軍の四倍にも及ぶ大軍に包囲されていることで動揺しているかというと、特にそんなことはなかったりする。
 何故なのかと考えてみると、答えはあっさり出た。今よりはるかに絶望的な篭城戦を経験したことがあるから、今の戦況に脅威をおぼえないのである。
「現状でも滅多にないほどの不利な戦なのですが……これよりもはるかに絶望的な戦とは、一体どんなものだったのですか?」
「ほとんど徒手空拳の身で、毘沙門天率いる三百の軍勢を迎え撃った」
 戦力比、実に一対三百である。それに比べれば今の戦況など蚊に刺されたほどにも感じないというものだ。


 そう俺が口にすると、吉継は何やら納得したように頷くと、すぐに声を高めて部下を呼んだ。
「衛生兵! 至急、父上を後方へお連れしてくださ――」
「ちょっと待て! 別に錯乱したわけではないッ」
「……申し訳ありません。そこまでお義父様が追い詰められていたとは露知らず、娘として恥ずかしい限りです。けれど大丈夫、お義父様の代わりはこの吉継がしっかと務めてご覧に入れますので、どうぞ草葉の陰でわたしを見守っていてください」
「死ッ?! いや、戦を前にその言い方はどんなものかと思うのですが」
「戦を前に軍神を愚弄するような物言いをする人に言われたくはありません。兵の士気に差し障ることは控えてくださいと、先日も申し上げたはずです」


 むすっとした吉継の声に、俺は頬をかく。
 別に嘘を言ったつもりはないのだが、吉継からみれば俺が不謹慎な冗談を言ったと思われても仕方ない物言いだったかもしれん。反省。
「さ、さて、そろそろ下におりて敵に備えるとしようか」
「……露骨にごまかしてますね。まあ構いませんが。それはともかく備えるとはどういうことですか? 戦況を見るならここからでも構わないと思いますが」
「見るだけならな。実際に刃を交えるとなれば、ここじゃ遠すぎるだろう。弓なら届くけど、あいにく俺が射ると吉継にあたりかねん」
「隣に立つ者に矢をあてるというのは、ある意味で名人芸だと思いますが……いえ、そんなことより刃を交える? まさか敵の矢面に立つつもりですか?」


 めずらしく本気で驚いたような吉継の声に、俺はしごく当然とばかりに頷いてみせる。
「将が前線に立たないでどうする。まして俺は新参の身だ、その程度のことをしなければ、兵がついてこないだろうさ」
「将が討たれれば戦は終わりです。その程度のことはおわかりでしょうに」
「だからこそ、将が兵の先頭に立つことに意味がある、ともいえるだろう。死中に生を求めるべし、というやつだ」
 確かに危険なことは間違いないが、それでもここは前に出るべき場面だった。そもそも、俺の内心はどうあれ、この戦が自軍に不利なことは否定しようのない事実である。兵を鼓舞する意味でもそうだし、また後方に引っ込んでいたからといって無事に済むとは限らない。
 むしろ、こういった戦では命を惜しめば、逆に討たれてしまうものだ。それに鎧兜をつけて出られるだけで十分安全は確保されているといえるだろう。


 俺がそう言うと、また吉継の声のトーンが下がった。耳に届いた吉継の声は、ほとほと呆れたという内心がにじみ出たものだった。
「……戦に鎧兜をつけて出るなど当然のことではありませんか。なんでそれで安全が確保されたとかいう言葉が出てくるのです? まさかお義父様はこれまで鎧兜をつけずに戦っていたとでも?」
 はいそのとおりです。
 ――なんて言えるわけもなく、俺は冗談いってすみませんと平謝りする羽目になった。


 いかんなあ。道雪殿に素性が知られていると知って以来、どうも口が軽くなっている気がする。
 道雪殿と話している最中に気づいたのだが、これまで天城颯馬のことがばれないように気をつけていたため、越後のことを口にすることが出来ず、結構ストレスがたまっていたようなのだ。
 道雪殿のおかげで、そのストレスが一気に発散できたので、全体的に気分が上向きな俺であった。
 だが、吉継は当然そんなことを知るはずもなく、俺の浮かれた言動を不謹慎なものと非難するのもまた当然といえた。それも一度ならず二度までも軽口を叩いてしまったのなら尚更だった。  


 どう釈明したものか、と困惑する俺に、吉継はため息まじりに告げる。
「……敵陣の兵気が盛んになってきました。まもなく秋月が動くでしょう。この続きは戦が終わった後にいたしましょう」
 そう言うや、吉継は無造作に顔を覆う布を解いた。必然的にこれまで隠されていた紅い瞳と銀色の髪があらわになる。
 突然のことに俺が驚いていると、吉継はどこか諦めたような顔で俺に言った。
「兜をつければ髪は隠れます。それに、戦場で目を血走らせている兵士などめずらしくもないでしょう?」



◆◆◆



 休松城をめぐる戦いは、秋月軍から放たれた無数の矢が飛来するところから始まった。
 数を利して次々に矢を射込んでくる敵軍に対し、大友勢はあらかじめ用意していた木板を掲げることで対処するも、四倍を越える敵軍によって放たれた矢は、たちまち木板をハリネズミのごとくかえてしまう。
 大友軍も負けじと矢を射返すが、兵力の絶対数の差はいかんともしがたく、矢戦は明らかに大友軍が不利だった。
 それでも城に篭っている大友軍は圧倒されるには至らない。秋月軍とて無限の矢を保持しているわけではないし、逆に大友軍にしてみれば、どれだけ矢を射はなっても、そこかしこに敵軍の矢が突き立っているため補充に困らない状況である。


 無論、種実は城に立てこもる敵に矢を射掛けるだけで満足する気は微塵もなかった。
 矢戦で敵軍が居竦まったとみるや、ただちに軍配を揮う。
 これを受けて動き出したのは種実配下の深江美濃守、大橋豊後守の二将である。二人はそれぞれ一千の部隊を動かし、休松城に攻め上っていっく。
 これに対し、城からも応射がなされたが、なお続く秋月軍の射撃の前に十分な効果を出すことができない。
 その隙を縫うように、歴戦の二将は休松城の正門へとたどり着くことに成功したのである。


 その様子を遠謀した本陣では、種実の配下や他の国人たちが我も我もと攻撃を請うたが、種実は首を縦に振ろうとはしなかった。
 種実は援軍をあわせれば、なお六千近い兵力を動かせるが、これ以上の兵力を投入するには、休松城は手狭だった。勢いに任せて突撃を指示しても、味方同士で兵の流れを滞らせてしまうのが関の山だろう。
 なにより、種実は自家以外の兵力をあてになどしていなかったし、彼らに道雪の首を渡すつもりもなかったのである。


 それゆえ深江、大橋らの援護を指示するにとどめた種実に対し、周囲は不満そうな声をもらしたが、種実の若さを侮り、あえてその指示に背こうとする者はいなかった。それをすれば、戦の後、自分たちが毛利に咎められることは明らかだったからである。
 内心ではどう思っていたにせよ、彼らが種実の指揮に服している理由はここにある。そのことは種実にもわかっていた。そして――


(それも、この戦で変えてみせる)
 毛利家への恩義は終生忘れることはない。だが、それは毛利家に仕えることをよしとすることではない。種実はそう考えていた。
 旧領を復し、秋月家をれっきとした大名として周辺諸国に認めさせてこそ、種実の望む復興は成るのである。
 そのためにも必要なのだ。大友軍を討ち、鬼道雪の首級をあげるという、誰もが認める大功が。




◆◆



  
「押せ、押せィッ! 大友はもはや昔日の大国にあらず、異教に蝕まれた愚者の群れぞッ! 鬼道雪といえど恐るるに足らず、我ら秋月が武威を示すのだッ!!」
 秋月軍の先頭に立ち、深江美濃守が大音声で呼ばわれば、大友軍の陣頭に立った十時連貞がまけじと言い返す。
「怯むな、押し返せ! 敵軍いかに多勢といえど、所詮は毛利の策略に踊らされる人形どもが、利につられて集まっただけの烏合の衆、九国最強たる我が軍の敵ではない!」
 叫びながら、連貞の頬がちょっと赤くなっていたりするのだが、戦の最中にそんなことに気づくほど余裕のある者はいなかった。


 大友軍、秋月軍、ともに二千。同数同士の激突だったが、休松城に篭っている分、利は大友軍になった。とはいえ、城外から絶えず矢が射こまれてきている状況では、その利もわずかなものだ。
 局面によっては大友軍が押される場面が幾つもあり、一時は秋月勢が城壁を越え、正門を破られる寸前まで行きかけた。
 だが、大友軍はそれまで後方で総指揮をとっていた戸次道雪が前線に姿をあらわしたことで士気を高め、かろうじてその危機を回避することに成功する。



 城内からあがった歓声に、深江、大橋の二将は敵将戸次道雪が前線に姿をあらわしたことを悟り、わずかに攻撃の手を緩めた。これは道雪を恐れてのことではなく、すでに秋月軍が攻勢限界に達していたためだった。正門を破ることが出来なかった以上、一度軍を立て直すべきだと判断したのである。
 だが、二将の思惑はどうあれ、形としてそれまで攻勢一辺倒だった秋月軍がわずかに退いたのは事実だった。これにより秋月軍の将兵の心身がわずかに弛緩したことも。そして――



 それを見逃す鬼道雪ではなかった。



 城内に侵入した敵勢を排除した道雪は、その勢いのままに正門を開き、自身が陣頭に立って秋月軍へと切りいったのである。
 精神的に息をついたところに、怒涛のごとき攻勢を受けた秋月軍の前衛はたちまち混乱を来たした。
 ただの攻勢であればともかく、戸次道雪が直接指揮する猛攻である。みずからを輿に縛りつけ、平然と矢玉の中に身を晒す道雪の姿は、まさしく雷神の化身かと思われ、大友軍は奮い立ち、秋月軍は動揺した。


 大友軍はもとより、秋月軍にとっても輿に乗った道雪の姿は目新しいものではない。かつて、その指揮によって滅亡に追い込まれた者たちにとって、道雪の姿は憎むべき敵以外の何者でもないはずだった。
 だが、それと承知してなお驚嘆を覚えてしまう。感嘆を禁じえない。憎悪以外の何かが湧き出るのを、大橋豊後守は感じずにはいられなかった。
 無論、だからといって敗北をよしとするわけではない。
 しかし、開戦以来、ひたすら防御に徹してきた大友軍の攻勢は凄まじく、大橋豊後守の一隊は散々に討ちくずされ、二百に近い死傷者を出して後退を余儀なくされる。それは開戦から道雪の攻撃が始まるまでに受けた損害をはるかに超える被害だった。


 当然、戸次軍は勇み立った。
 大友軍、秋月軍が混戦状態になったことで、弓矢の援護も途絶えた今、ここで秋月軍の主力を撃破することが出来れば、今後の戦は容易になるだろう。
 そうして追撃の動きを見せた道雪の部隊を遮ったのは、秋月軍のもう一方の将、深江美濃守だった。
 深江の隊は味方を追おうとする道雪の隊に対し、槍先を揃えて、その横腹を襲う動きを示すことで大友軍を牽制し、僚将が退く時間を稼ごうとしたのである。


 その行動は上手くいった。あるいは、うまく行き過ぎた。深江の行動はあくまで牽制であり、大橋が退却した後はみずからも退くつもりだったのだが、この時、深江隊の動きに動揺したのか、道雪の部隊が混乱の態を見せた。
 深江隊を迎え撃とうとする者、一度退いて距離を保とうとする者、道雪の命令を待つためにその場にとどまる者……時間にすれば、ほんのわずかな、けれど見逃しがたい隙。
 そしてその隙を見た瞬間、歴戦の深江美濃守の目には、敵将たる戸次道雪の輿にいたるまでの道筋が見えてしまったのである。
 突撃を叫んだのは、武将の本能とでもいうべきものだった。





 
 ……後から思えば、それは道雪の誘いの隙だった。だが、あの混戦の中、そこまで巧妙に混乱を演出し、みずからの身を危険に晒すことで敵将をおびき寄せようとは、さすがの深江も思い及ばなかったのである。
 ましてや、その誘いに応じた深江隊の動きに即応し、側面を衝いてくる部隊があろうとは予想だにしていなかった。
 結局、道雪の横腹を襲おうとした深江美濃守は、逆にみずからの側面を衝かれて痛撃を被った挙句、急襲するはずだった道雪の部隊に手痛く叩かれて退却する。
 その被害は大橋豊後守の隊を上回るものとなり、主君である秋月種実は恐れ入る二将を前に、渋面を押し殺すのに苦労しなければならなかった。



◆◆



 一通りの報告を聞いた種実は、感情を押しころすことに成功すると、平伏する配下に問いを投げかけた。
「……しかし、道雪の動きを察した上で美濃の横腹に食いつくなんて、なまなかな将では無理だろう。小野と由布はおらず、十時は城門を守っていた。一体誰がその部隊を指揮していたんだろう?」
「……は。拙者もそれを不思議に思っておりました。混乱を鎮めていた際も注意はしておったのですが、見覚えのある顔はなく、それらしき旗印も見当たりませなんだ」
「正体不明、というわけか。まったく、鬼道雪一人でさえ面倒な相手だというのに、その配下まで傑物ぞろいだというから始末に終えないね」
 種実はそう言って苦笑する。


 その主君の様子を見て、深江はみずからのふがいなさを恥じるように深々と頭を垂れた。
「若、まことに申し訳――」
「美濃、さっきも言ったけど、将であれば失態は功績をもって償えば良い。というか、美濃のこれまでの功績を思えば、一度や二度の失態で責めるような真似ができるわけないだろ? どうせ頭を使うなら、ぼくに下げるよりも、あの鬼の首をどう落とすか、そっちを考えるのに使ってくれ」
「……御意、豊後殿と共に、今一度策を練ろうと思いまする」
「そうしてくれ。定石でいえば夜襲の一つもするところだけど、その程度は向こうも読んでいるだろう。嫌がらせにちょっかいを出すように他の人たちに頼んでおくけどね」


 そこまで言って、種実は空を見上げる。
 すでに刻限は夜。秋の夜空には半月がくっきりと浮かび上がっている。
 そして、時折その輝きを雲が遮っていた。雲の動きは一見してそれとわかるくらいに早い。秋月軍本陣の周囲の草木も、夜半からざわめきが大きくなりつつある。
 そのざわめきに耳を傾けながら、種実は小さく呟いた。
「……今日の勝利に酔っているか、戸次道雪? でも嵐が過ぎ去れば、他の大友軍は壊滅する。あなたの軍はこれ以上増えず、援軍も来ない。孤立したあなたを討ち取るために、あらゆる勢力がこの地にやってくるだろう。でも案じることはないよ、彼らが来るまでに、城は陥とす。首級はもらう」



 やせこけた頬に、凄絶なまでの微笑を浮かべながら、種実は静かに断言する。
「勝つのは、ぼくら秋月だ」
 

  



[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第四章 野分(三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:9e91782e
Date: 2010/11/17 22:43

 視界を灼きつくす稲光にわずかに遅れ、耳朶を打ち据えるような轟音が響き渡る。
 大友軍本陣からほど近い陣屋から悲鳴にも似た声があがった。
 夜半から大友軍を襲った嵐は、まるで雷神と風神が競って猛り狂っているかのようで、どれほど時が経っても一向に収まる気配を見せない。
 軍律の厳しさにおいては九国一とも言える大友軍の将兵である。敵軍の襲撃であればかくも混乱を見せることはなかったであろうが、自然の猛威の前では、さしもの精鋭も、嵐が過ぎ去るのをただ待つことしか出来ないと思われた。


 だが。
 戦況は漫然と嵐が過ぎ去るのを待っていられるほど安穏としたものではなかった。
 立花山城城主である立花鑑載の叛乱、これを討つべく進軍していた大友軍のもとに更なる凶報が舞い込んできたのは、つい先刻のこと。
「な、なんと、高橋殿までが離反したと申すのかッ?!」
 大友軍の陣中にあって、驚愕の声をあげる僚将を横目で見やりながら、小野鎮幸は腕組みをして、眉間に皺を寄せた。


 主将である鎮幸の代わりに口を開いたのは、副将である由布惟信だった。
「立花殿に続き、高橋殿までが――これも元就公の策ですか。『有情の謀将』の名は伊達ではありませんね」
 どこか感心したような惟信の物言いに、鎮幸が苦笑まじりに口を開く。
「あっさりといわんでくれい。高橋殿が離反したということは、岩屋城と宝満城が敵にまわったということだろう」
 いずれも堅城で知られる二城だが、今重要なのは休松城からここまで来るために、大友軍がその二城を通過したという事実である。それはつまり――
「見事なまでに退路を断たれたな。我が軍が立花山城に迫りつつあるこの時に、高橋殿が離反したことは偶然ではあるまい」
「よかった、そのくらいはわかりましたか。これが偶然だとか言ったらどうしようかと思っていました」
「……惟信、どうも最近、僚将に対する親愛とか敬意とか、そういったものに欠けておるように見えるのだが、わしの気のせいか?」
「ええ、気のせいです。ともあれ、これで休松城の道雪様との連絡は絶たれ、互いに孤立することになりました。高橋殿の動きが計算づくなのだとしたら、すでに休松城は秋月らの手勢に囲まれていると見るべきでしょう。そして、敵がこの嵐さえ計算に入れているのだとしたら――いえ、おそらくは計算の内なのでしょうね。高橋勢、立花勢、共に嵐をついて出撃しているものと考えるべきです」


 その惟信の言葉に周囲からざわめきが起き、諸将は動揺した視線をかわしあった。
 この嵐の中、敵勢に挟撃を受けようものなら壊滅は必至である。動揺するな、というのは酷な話であったろう。
「そ、それならば急ぎとって返すべきでは? 我らが主力を率いている今、休松城の兵は少ない。強襲されれば、道雪様とてただではすみませぬぞ」
「この嵐の中、進むことさえ難しいのに、退却などしては、それこそ敵の思う壺であろう。追撃をうければ、戦うことも出来ずに壊滅してしまうわい。そもそも退くといっても、どうやって休松城まで帰るのだ?」
「だからと申して、ここでじっとしているわけにもいくまい。いっそ、急ぎ立花山城を陥とすべきではないか」
「立花山城は筑前の要ともいうべき城。兵力では我が方が勝っているが、しかしあの堅城がそう易々と陥ちるとは思えぬ。城攻めにてこずっている間に、後背を高橋殿の兵に衝かれたらどうする。敗れるとは言わんが、被害は無視できぬものとなるぞ」
「では、どうしろというのだ。このまま手をつかねて漫然と時を過ごせとでも言う気かッ」
 戦の方途を巡り、軍議は喧々諤々の騒ぎに包まれていく。
 それらの意見に耳を傾けながら、主将である鎮幸、副将である惟信、共に意見を口にすることはない。
 彼ら二人をもってしても即断できないほどに、戦況は混沌としているのだと思われた。




 が。
 不意に鎮幸の口から低い笑い声がもれはじめた。
 正確に言えば、最初は「くくく」みたいな笑い声だったのだが、しばらくすると「ふふふ」になり、最終的には「がっはっは」と大笑しはじめたのである。
 この主将の奇行に、大友軍の諸将は唖然となった。下手をすれば将兵そろって筑前の地に屍をさらすことになりかねない戦況である。誰がどう見たところで爆笑する場面ではない。
 とはいえ、正面から理由を問うのもためらってしまう僚将たちだった。まさかあの小野鎮幸が気が触れたわけでもあるまいが、今の鎮幸に進んで話しかけたいとは誰も思わない。だって怖いもの、と彼らの顔にはでかでかと書いてあったりする。


 必然的に、彼らの視線はこの混沌を鎮められる唯一の人物――副将の由布惟信に向けられる。
 当の惟信は深々とため息を吐いた後、やおら声を高めて言い放つ。
「衛生兵ッ! 可及的すみやかに小野殿を隔離してくださ――」
「待て待て! 別に気がふれたわけではないぞッ」
「では弓兵隊!」
「誰を射る気だ、惟信ッ?!」
「ならば最後の手段です――鉄砲隊、前へッ!」
「すまぬ、わしが悪かったから落ち着け、いや落ち着いてくだされッ?!」


 何やら据わった眼差しの惟信に睨まれた鎮幸は大慌てで言い募る。そこに、つい先刻までの浮かれていた様子はかけらも見て取れない。
 すると、惟信は瞬く間に表情を常の冷静なそれに戻すと、鎮幸ではなく、他の僚将たちに軽く肩をすくめてみせた。これでいいですか、とでも言うように。
 大友軍本営に時ならぬ万雷の拍手がとどろいたのは言うまでもないことだった。




◆◆




「いやいや、すまんすまん。こう、策を秘めてもったいぶっておるのが、思ったよりも楽しくてな。うむ、軍師の気持ちが理解できたような気がするわ」
 鎮幸は頭をかきつつ、そう言って詫びる。
「軍師、というと雲居殿のことでござるか? いや、それより策を秘めているとは……?」
 武将の一人が怪訝そうに口を開く。
 今の一幕は、期せずして諸将の動揺を取り払う効果を持っていたようで、すでに彼らは高橋家謀反の衝撃からの立ち直りを果たしていた。そして動揺が失せれば、鎮幸の言葉の意味を理解することは難しくない。
「……まさか、わかっておられたのか? 鑑種(あきたね)殿が離反することが?
 


 高橋家当主、高橋鑑種。
 その名は大友家にとって小さからざる意味を持つ。
 元来、高橋家は立花家と同じく同紋衆に名を連ね、立花家に勝るとも劣らぬ威勢を示す大家である。その祖は、遠く大陸にあり、漢王朝を創建した劉氏の流れをくむという異色の名門であった。
 その当主である高橋鑑種は宗麟の信頼あつく、先の秋月家討伐においても抜群の功績をたてたほどの勇将であり、同時に善政をこころがけ、領民たちから慕われる名君でもあった。
 高橋家が、筑前において立花家に並ぶ権限を宗麟から与えられているのはゆえなきことではない。
 ただ一つ、宗麟が残念に思っていることは、高橋家の領内に南蛮神教の建物がないことである。これは立花家も似たようなものだが、それでも鑑載は度重なる宗麟の命令もあって、すでにいくつかの教会を領内に建設していた――きわめて粗末なものであったにせよ。


 だが、高橋家に関しては事情が大きく異なった。そもそも、宗麟は鑑種に教会建設の命令を下していないのだ。あくまでも要請にとどまり――それも鑑種が府内に赴いたおり、おずおずと願う程度のことであり、鑑種は常にこれを謝絶していた。
 これに関しては、宗麟も南蛮神教の宣教師たちからも苦言を呈されていたのだが、こと高橋家に関しては宗麟は決して南蛮神教を強制するような命令を下そうとはしなかったのである。


 何故、宗麟はそれほどに鑑種をはばかるのか。
 それが重臣に対するとおりいっぺんのものでないことは、立花鑑載との差異を見れば明らかである。
 そして、その理由を多くの家臣たちは知っていた。
 高橋鑑種は、高橋家の生まれではない。鑑種は大友家庶流たる一万田家の子であった。男児に恵まれなかった高橋家が一万田家に請うて養子にもらいうけたのが鑑種なのである。
 そして養子に出されたことからもわかるとおり、一万田家には鑑種の他にもう一人の子供がいた。一万田家の嫡子であり、鑑種にとっては兄にあたるその人物の名を、一万田鑑相という……






 一万田家が断絶した折、鑑種に累が及ばなかったのは、鑑種が幼少時から一万田家を離れていたという事実があるにせよ、そこに宗麟の強い意志があったからである。
 当人が意識しているか否かは知らず、宗麟の行動は贖罪の一つの形だった。そして、そのために大友家中における高橋鑑種の存在は非常に特異なものとなってしまっていたのだが――その事実を指摘することは大友家にとっては禁句に等しかった。
 くわえて言えば、鑑種自身は宗麟からの特別扱いを誇るでも嫌うでもなく、淡々と家臣としての務めを果たし続け、その成果は誰にも非の打ち所がないものだったから、これまで特に問題視されることもなかったのである。
 


 その高橋鑑種が毛利の誘いにのって謀反する。
 どうして、どうやってそんなことがわかったのか。
 その疑問に、鎮幸は短いあごひげを摘みつつ返答する。
「正確に言えば、起こるかもしれん可能性の一つとして注意を受けていた、というところか。まあ、何故だか軍師は確信していたようだがな。何故かまでは聞いておらんし、聞く必要もなかろう。我らには我らの務めがあるのだから」
「それはそうかもしれんが……実際、どう行動する? これが突発的な叛乱ではないというなら、立花殿にしても高橋殿にしても、もてるかぎりの戦力を投入してくるだろう。あのお二人が背いたと知られれば、追随する者は必ず出てこようし、下手をすれば筑前すべてが敵にまわるぞ。たかだか二万程度で打ち払えるものではあるまい?」


 僚将の問いに、鎮幸は不敵に笑ってみせる。
「ふっふっふ、ならば今こそ明かそう。我らの秘さ――」
「雨が降ると知っていたなら、それに備えるのは当然のこと。まして嵐が来るとわかっていて、それに備えないはずがないでしょう。わたしたちの部隊はこの地で叛乱軍を待ち受けます」
「待ち受ける、ということはあえて動かぬということですか?」
「はい。とはいえ平野の真っ只中で迎え撃つつもりはありませんよ」
「近くに丸山城がありますが、そこへ篭られるのか?」
「これが千や二千の兵であれば無理やりにでもそうしたでしょうが、私たちは二万に近い大軍です。小城に篭ればかえって動きがとれなくなってしまうでしょう。城の外に配された兵は穏やかではいられないでしょうしね」
「では――」
「はい。少し北に行ったところに、手ごろな山がありますので、そちらへ」


 惟信の言葉に、武将は小さく笑った。
「なるほど、妙に斥候を多く出しているなとは思ったのですが、このことあるに備えてでしたか。しかし、これでは我らは敵中に孤立することになりますが?」
 惟信は小さく頷く。
「はい。けれど、そう長いことではありません。堅固な陣に篭るは怯え居竦むにあらず、やがて来る攻勢に備えてのことです」
 惟信はそう言うと、一つ息をついてから、さらに続けた。
「立花、高橋の軍勢が来るまで、まだ多少の猶予はあるでしょうが、のんびりしてもいられません。ただちに陣替えの準備をはじめてください。嵐の中での移動です、各々十分に注意するように。無論、高橋離反の報は兵にもらしてはなりませんよ」
「承知仕った」


 その言葉を皮切りに、諸将は一斉に立ち上がり、それぞれの部隊を掌握するために散っていく。
 そんな僚将たちの後姿を見送りながら、惟信はこれからの手立てを頭の中で並べ立て、検討を加えていく。その最中、知らず惟信の口からため息が零れ落ちた。
「……それにしても、立花殿に続き、高橋殿までが背くとは。このままでは遠からず筑前が失われるは必定、なんとかしなければならないですね」
 とはいえ、それが簡単に出来れば誰も苦労はしないのだが、と内心で呟きつつ、惟信は何故か隅っこでたそがれている鎮幸の首根っこを引っつかむべく、ゆっくりとその背後に歩を進めるのだった。





◆◆◆




 時を数日さかのぼる。



 筑前休松城。
 先夜の敵襲を追い返し、日が昇る頃にようやく眠りについた俺は、何故だか吉継に頬をつねられて目が覚めた。
「……えーと、なんで俺は頬をつねられてるんだろう?」
「寝顔が可愛かったもので」
「意味がわからないのだが」
 あと、この年で寝顔が可愛いといわれても嬉しくないぞ、娘。
「それは残念です。それはともかく、目が覚めたのなら道雪様に会いにいかれたほうがよろしいかと。無論、しっかり身支度を整え、将たる威厳をまとった上で」
「すまない吉継、さっぱり意味がわからないのだけど?」
 寝起きのせいだろうか、本当に吉継が言ってることがよくわからんかった。
 しかし、寝ぼけ眼の俺に対し、吉継はなにやら恥ずかしげに頬を染めて(めずらしく頭巾をしていなかった)こんなことを言ってきた。


「お願い、お義父様」
「道雪様に会いにいけばいいのだなッ、よし、すぐに行こう、早速行こうッ! ちょうどお話ししておきたいこともあったからなッ」






「……というわけでまかりこした次第ですッ」
「……勢い込んでたずねてくるから、何事かと思えば」
 道雪殿は呆れたように首を振った。はからずも鬼道雪を呆れさせるという武勲を、俺はたててしまったらしい。
 道雪殿は口元に苦笑を湛えながら、口を開く。
「誾のことを気にかけてくれたのでしょうから、礼を言うべきところではあるのですけど。ふふ、親子仲がよろしいようで、縁を結んだ身としても嬉しく思いますよ、筑前殿」
「そのことに関しては、それがしも心より感謝しております」


 それは俺の本心だった。
 まあ今の俺と吉継の仲は、言葉の響きは悪いが、家族ごっこのようなものだろうが、それでも家族という響きに焦がれる者同士の連帯感はあるし、今までなかった暖かいものが心の奥の方に感じられるのも事実である。
 時を重ねていけば、いつか「ごっこ」が消えてなくなるのだろうか。そんな風に考えながら、俺は道雪殿の言葉に気になる部分を見つけて問いを発した。


 だが。
「誾殿がなにか……って、あ、いえ、大体わかりました」
 問おうとした途端、大体の事情が察せられたので、俺は苦笑して問いを引っ込める。
 そんな俺に、道雪殿は困ったように笑いかけてきた。
「あの子も頑固なところがありますから。そのあたりは生みの母にそっくりなのですけど、菊と違い、誾は表に出さず、内に溜めるばかりなのが親としては心がかりなのです」
「そうですね、まあ俺――ではない、それがしとしては誾殿の御心がわからないでもないので、というか良くわかるので、複雑なところではありますね」
 ぶっちゃけ、俺が道雪殿の前から消えれば、誾の憂いの大半は拭われるだろう。それは半ば確信だった。


 無論、そういった目先のものではない、もっと深い事情に関しては俺の考えが及ぶところではない。ただ、それはおそらく道雪殿の下で成長していけば、遅かれ早かれ解決するのではないかと思う。
 嫌われているため、ろくに話したこともないのだが――というか、話しかけてもすぐに会話が打ち切られてしまうのだが――戸次誾という少年の聡明さは傍目にも明らかである。
 周囲には道雪殿や紹運殿をはじめとした『人』はそろっている。だから、あの子にとって必要なのは、おそらく時間だけだろう。克目すれば、いずれは西国一の侍大将として名を轟かせるのではないだろうか。


 ――と、まあそんなことを言ったら、めずらしく道雪殿が笑み崩れていらっしゃった。やはり母親、息子が褒められるのが嬉しくて仕方ないらしい。
 うむ、思わぬところで道雪殿攻略の鍵を握った気がする。だが、内心でこっそりほくそ笑む俺に気づいたのか、道雪殿はこほんと咳払いして表情を整えると、にこやかにこう言ってきた。
「それでは、今度はわたくしから見た吉継殿の為人を申し上げることにいたしましょう」






 互いの子を誉めそやし続けた俺と道雪殿が我に返ったのは、それからしばらく後のこと。
 この危急に、俺は一体何をやっているんだろうか。俺が頭を抱えていると、道雪殿も似たような心境なのか、やたらと手で髪をもてあそんでいた――ちょっと洗ってみたいなあ、と思ったのは内緒である。


「そ、それはともかく、今後のことです」
 いろんな思い(雑念)を断ち切るように、俺はあえて強い調子で声を押し出す。このままだと、またあらぬ方向に話が持っていかれてしまいそうだったからだ。
「吉継には話しましたが、おそらく秋月はまもなく総攻めに出てきます。であれば、おそらく凶報が舞い込んでくるのはまもなくのことです」
「わかりました。思えば、あえて鑑載殿が単身、わたくしを訪れたのも、この布石だったのですね」
「おそらくは。道雪様の目を、自分ひとりに向けておくおつもりだったのでしょう。それがしの考えすぎであれば良かったのですが……」


 立花、秋月、毛利、そして高橋。
 幸か不幸か、ここまでの情勢は俺の予測と大差なく進んでいる。
 ここまでなら、今回の筑前遠征軍で対処できるだろう。問題は――
「肥前の竜造寺が動いた時ですね」
「筑後の蒲池鑑盛殿には一切を知らせてあります。あの御仁の清廉は曇りなきもの、信じてしかるべきでしょう」
「はい。ですが、聞けば竜造寺は当主である隆信自身が剛勇の将であり、配下には四天王なる屈強の武将たちが控えているとか。くわえて鍋島直茂なる鬼面の切れ者が軍配を任されているとも聞き及びます。蒲池様お一人だけでは、あるいは後手を踏む可能性もありましょう」
 その俺の言葉に、道雪殿はかすかに目を細めた。
「そこまで言われるからには、何か策があるのですね?」
「策、というほどのものではありませんが、小野様、由布様と連絡がとれましたら――」
 それはすなわち、宝満城と岩屋城を陥としたら、ということである。



「それがしを肥前につかわしていただけませんか?」





◆◆◆





 筑前国岩屋城。
 高橋鑑種によってつくられた険阻な山城は、夜半、筑前を襲った野分の真っ只中にあった。
 雨はあたかも滝のごとく降り注ぎ、風は周囲の山々の木々をへし折りつつ荒れ狂う。この時期の嵐はさしてめずらしいものではなかったが、それでもこれほどの規模のものは滅多にないといってよい。
 雷光が煌くや、ほとんど間をおかずに轟音が響き渡る。岩屋城は、今や嵐の中心に位置しているようであった。



 稲光によって、一瞬の間だけ垣間見える岩屋城。
 その姿を、山中から遠望する者たちがいた。一人二人ではない。十人、二十人でもない。百人、二百人ですらなかった。
 その数、実に七百人。
 彼らの軍装は岩屋城を支配する高橋家のものである。旗指物も同様だった。
 彼らと他の高橋勢の違いをあげるとするならば、主力部隊が大友軍の後背を衝くべく岩屋城を出て北へと向かったのに対し、彼らは南から城への道を進みつつあるということだった。



 そして木々の間から、岩屋城の城門を指呼の間に望んだとき、それまでひたすら無言で進み続けていた部隊が、はかったようにぴたりと進軍をやめた。
「尾山、萩尾」
 七百人の部隊を統べる人物が、配下の二人に呼びかける。
「はッ」
「手はずどおりに行く。私と尾山が正門、萩尾は搦め手だ」
「御意」
 その言葉を聞くや、萩尾と呼ばれた人物は即座に部隊を率いて姿を消した。
 この嵐の中、命令を伝えることさえ困難であろうに、部隊の動きは整然と乱れなく動き、ただその一事だけでこの部隊の錬度を知ることが出来るだろう。


「では、我らも参りましょうか。しかし……」
 尾山と呼ばれた将は顔中を雨と泥で汚しながら、呟くように何かを口にしようとしたが、思い返したように首を左右に振るにとどめた。
 無駄口を叩くまいとしたのか、それとも一度口を開きながら、何を言うべきかわからなくなってしまったのか。本人にすら、それはわからなかった。
 そんな尾山の迷いを察したように、指揮官が声をかける。その声は先の命令する声より、ほんのわずかだけ柔らかかったかもしれない。
「今は戦に集中しろ。我らの部隊に、大友の未来が懸かっているのだから」
「は、申し訳ありません」
 そう言って、尾山はみずからの主君に視線を向ける。
 この風雨の中にあって、なお毅然と立つその姿。凛とした双眸に映るのはただ岩屋城のみか。それとも、その先にある何かを見据えているのだろうか。



 そんなことをかんがえながら、尾山中務は、主である吉弘紹運の攻撃の下知を待つのだった。
  




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第四章 野分(四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:9e91782e
Date: 2010/11/19 22:54
 吉弘紹運が今回の筑前遠征における己の役割を伝えられたのは、道雪率いる大友本隊が府内を発する直前のことだった。
 実のところ、当初、紹運は府内の留守居を命じられていた。これは紹運のみならず、先の戦で主力となった吉弘勢すべてがあてはまる。当然、紹運の父である鑑理も同様であった。
 この時、紹運は立花、高橋両家の叛意を察してこそいなかったが、秋月の蜂起ではじまった一連の騒乱がたやすく鎮められるとは思えず、父や義姉に従軍を願い出たのだが、いずれも首を横に振られてしまったのである。


 その義姉から出陣前夜に突然呼び出された時は何事かと首をひねったのだが、その言うところを聞いてさらに驚いた。冷静沈着を謳われる紹運が、思わず声を高めてしまうほどに、道雪の言葉は意外なものだったのである。
「立花様と高橋様が叛く恐れがあると……そう申されるのですか、義姉様?」
「ええ、そういいました」
 当然、紹運としてはこう問わざるを得ない。
「何かそれを示すものが見つかったのですか?」
 その問いに対し、道雪は小さく首を左右に振る。
「鑑載殿に関しては、府内を発たれるおり、御自身でこの屋敷まで参られ、現在の大友家にはもはや従えぬとの主旨のことを言っておられました。ですが確たる証があるわけではありません。鑑種殿にいたってはなおのことです」


 紹運としては、いかに敬愛する義姉の言葉とはいえ、はいそうですかと素直に肯えることではない。だが同時に、道雪が出陣の間際までこのことを秘していた、その意味に気づかない紹運でもなかった。
 なにより、誹謗中傷を信じて味方を疑うような戸次道雪ではない。直接的な証拠こそないとしても、大友家内部の不穏な気配や、筑前の状況、毛利の策動を鑑みて、そう判断せざるを得なかったのだろうと思われた。
 そんな紹運の内心を察してか、道雪はゆっくりと口を開いた。
「紹運、問いたいことは多々あるでしょうが、まずはわたしの話を聞いてくれますか? その後、あなたの疑問に答えますので」
「承知いたしました、義姉様」
 そのために人を払ってこの場を設けたのだと悟った紹運は、余計な言葉を口にせず、ただそう答えるにとどめた。




 そして。
 すべての話を聞き終えた紹運は、小さく頷いてみせた。
 機先を制するために、証拠もなしに奇襲を仕掛ける、などという策であれば反対を唱えるつもりだったが、今回の作戦はあくまで相手の動きに応じてのもの。立花、高橋両家が動かなければ、波風たつことなく戦を終えられるものだったからである。
 その場合、紹運とその部隊は無駄働きに終わってしまうように思われるが、危急の際に備えるためと考えれば、一概に無駄とも言い切れぬ。
 

 とはいえ問うべきことがないわけではなかった。
「……我らが謀叛を察していることを伝えることで、翻意を促すことはできないものでしょうか? 立花様はもう遅いかもしれませんが、高橋様ならばあるいは」
「紹運の言うとおり、鑑載殿に関してはすでに遅いでしょう。いまさら翻意するようなら、みずから出向いたりはしないでしょうからね。そして、その鑑載殿と同心している以上、鑑種殿もまた並々ならぬ覚悟で臨んでいるはずです。こちらが叛意を察していると知れば、鑑載殿と歩調をあわせて正面から離反を宣言する可能性が高いのです」


 そうなれば、大友軍は立花山城、宝満城、岩屋城という筑前屈指の堅城群を力ずくで陥としていかねばならなくなる。それも、おそらくは古処山城に立てこもるであろう秋月種実を背後に控えながら、だ。
 いかに名高き鬼道雪といえど、その戦況で必勝を期すことは難しい。かりに勝てたとしても、どれだけの兵と、金と、時を散じることになるのか……
「想像するだけで胃が痛みます」
 真顔で言い切る道雪だった。


 道雪はなにも冗談を言っているわけではない。ただでさえ先の戦で多大な戦費を失ったばかりだというのに、ほとんど間をおかずに次の大戦である。
 大友家は海外との交易などで多大な利益を得てはいるが、収入以上の支出があれば、府庫の蓄えが失われていくのは必然だ。中でも南蛮神教布教のために費やされる財が、大友家の経済に大きな影響を与えていることは周知の事実だった。
 加判衆筆頭として、また戸次家当主としても、戦費の調達には頭を抱えざるを得ない道雪だったのである。


 いまだ当主ではない紹運に、道雪の心労は完全には理解できない。それでも父吉弘鑑理も同様の悩みをもらしていたこと、その世継ぎとして補佐をしていたことから、推測するくらいは出来る。
 真顔の道雪に、紹運は表情の選択に困りながらも頷くしかなかった。


 こほん、と咳払いして表情をあらためた道雪に対し、紹運は今度は軍将としての問いを向けることにした。
「しかし義姉様、仮に戦況が推測どおりに動いたとして、この布陣では我が隊の働きに戦そのものの成否が懸かってしまうと思うのですが」
「そうなりますね」
「これだけの大任を務められることは武人としてこの上なき栄誉。ですが、確実を期すならば、ここは父上のような戦巧者をあてるべきではありませんか?」
 紹運は決して怖じているわけではない。だが、スギサキなどと称えられていても、紹運は自分を過大評価はしていなかった。
 今回の戦は、ただ陣頭で采配を揮い、突撃するような単純なものではなく、いたるところで臨機応変な対応が求められることは確実だった。
 そういった時にものをいうのは、なによりも戦陣に臨んだ経験の数である。まだ青二才の自分よりは老練な戦巧者である父をあてるべき、という意見は的を射たものであるはずだった。


 だが、道雪は首を横に振る。
「わたしたちが筑前に諜者を放っているように、筑前もまた府内に諜者を放っているのは確実です。そして諜者の目が『豊後三老』からそらされるとは考えにくいのですよ。鑑理殿に兵を預ければ、その報はたちまち筑前にもたらされ、警戒されてしまうでしょう」
 その点、まだ吉弘紹運の名は、それほど警戒されてはいない、と道雪は言う。
「スギサキの武名は隠れなきものですが、それは一戦場における勇者としてのもの。まだ軍将としてのあなたの声価は確立されておらず、その分、御父上よりも動きやすい。仮に動きに気づかれたとしても、千にも満たないあなたの手勢で何ができるかを把握している諜者はいないでしょう」




 その道雪の言葉に、紹運は深々と頭を下げ、すべての命令を了承したことを示す。
 同時に思う。
 万端の準備をととのえ、大友軍を待ち受ける敵軍にとって、今回の戦は思いもよらぬものとなるだろう。突発的な叛乱ではなく、必勝を期して待ち構えているからこそ、衝撃はより深いものとなるだろう。
 そんなことを考えていた紹運の耳に、不意に道雪の愉快そうな笑い声が飛び込んできた。
 眼差しをあげた紹運は咄嗟に警戒する。義姉がこの顔と笑いをするときは、大抵こちらをからかおうとする時なのである。想い人はまだ出来ないのかとか、それほどの胸を持っているのにもったいないとか、花の命は短いですよとか、そんな感じの。
 そんな紹運の警戒心に満ち満ちた表情を気にもとめず、道雪は口を開いた。
「正直に言えば、今のあなたではまだ荷が重いのではないか、とわたしも危惧しないわけではなかったのですけど、この策をたてた御方があなたなら間違いはないと断言されまして。先の豊前での戦においても、あなたの働きにことのほか感心していたようですよ」


「……それは光栄、と申さねばなりますまいが、その御方というのは雲居殿のことですか?」
「ええ、そうです。正確にはこう言っておいででした。『さすがは音に聞こえた豪傑、見事なものです。紹運殿を妻に迎えられる御仁は幸せものですね。さぞ立派な子をもうけてくれるに違いありません』と」
 ぶふ、と紹運の口から妙な声がもれた。
「な、な、なにを言って?!」
「そうそう。わたしが、紹運はあれだけの武烈を備えながら、いまだ恋すら知らぬ乙女であると申し上げたら、なにやら獲物をねらう鷹のような目をしておられましたね」
「あ、義姉様ッ?! な、何を言っておられるのですか?!」
「つまり此度の戦において、紹運こそが肝なのでがんばってください、と」
「ころっと話を変えないでくださいッ?! よりにもよって雲居殿に、その、恋すら知らぬ、とかそのような――それでは私が戦しか知らない女のようではないですかッ」
「事実そうではありませんか。あなたの口から色恋沙汰に関する話を聞いた記憶はかけらもないのですけれど?」
「そ、それはあえて義姉様に言わなかっただけですッ! 私とて女子、恋の一つ二つ当然経験しておりますし、今だとて想いを寄せる殿方がいないわけではありません!」 


 思わず断言してから、紹運は内心で、しまった、と臍をかむ。
 が、時すでに遅く。
 義姉様はこれ以上ないくらいのにこやかな笑顔でこう仰った。
「それはそれは、めでたいことです。ならばわたしも姉として、あなたの想いが成就するように務めなくてはなりませんね」
「あ、い、いえ、それには及ばないかと。こ、この手のことは当人同士の気持ちが何よりも大切だと……」
「何を言うのですか、紹運。明日の生死すら定かならぬこの戦国乱離の世。しかもわたしたちは弓矢を握るもののふです。好いた相手の子を産める幸運が、いつでも転がっているなどとは間違っても考えてはいけません」
「そ、それは、あの、そうかもしれません、が……」
 紹運は何と返したものかと視線をさまよわせる。この手の話にはまったく免疫がなかった。


 そんな妹の困惑をよそに、道雪はさらに言葉を続けた。
「まずは、いかなる手を尽くしてでも相手を己が腕の中に抱え込むことです。なんでしたから一気に祝言まで持っていくのもよろしいでしょう。想いを育むのはそれからでも遅くはありませんよ」
「あの義姉様、それは順番が違うのではないでしょうか……?」
 おずおずと異見を掲げる紹運に対し、道雪は微塵も動じずに返答する。
「今が平穏な世であれば、じっくりと想いを育むのも良いでしょう。しかし、繰り返しますが今は戦乱の世、女子にとっては恋すら戦と知りなさい。まったく、このようなことは初歩の初歩だというのにこの子は……」
「うう……」
 なにやら哀れみをこめた眼差しを向けられ、紹運は肩を縮こまらせる。
 紹運としてはいろいろと反論したいことはあるのだが、いかにも常識のように恋は戦と語る姉を見ていると、おかしいのは自分なのかと思えてしまう。
 この場に第三者がいれば、冷静な突っ込みが入っただろうが、人払いはとうの昔に済まされており、結局紹運は恋の何たるかを長々と道雪に説かれることになってしまったのである。



 さらには今回の戦の後、想い人に引き合わせることを半ば無理やり約束させられ、挙句、その後屋敷で出てきた夕餉が赤飯だったことに、紹運は内心でさめざめと涙を流すのだった。






◆◆◆





 筑前国岩屋城。
「紹運様。どうなさったのですか?」
「はッ?!」
 配下の武将に声をかけられ、紹運は我に返る。
 周囲を見渡せば、いまだ鳴り止まぬ雷鳴の中を、紹運の手勢が忙しげにはしりまわっている。とはいえ、敵兵と刃を交えているわけではない。すでに紹運の部隊は岩屋城の制圧を成し遂げていたのである。


 堅城で知られた岩屋城は、しかし大友軍が拍子抜けするほどあっけなく落城した。常は沈着な尾山が「狸にばかされたようですな」と呟くほどに。
 だが、その言葉は言いえて妙であったかもしれない。高橋勢にしてみれば、味方を装って大友軍を通過させ、雨中を衝いてその後背を襲うという必勝の態勢だったのだ。しかも、立花山城の軍勢も時を同じくして出撃しているはずであり、嵐の中、挟撃を受けた大友軍の壊滅は必至だと思われていた。
 留守居に残された兵士たちを見れば、嵐の中の行軍を免れたと安堵する者よりも、約束された勝利を味わえぬと不平をもらす者の方がはるかに多かったほどなのである。
 

 城門に怪我をした兵士たちが姿をあらわした時も、彼らはまるで慌てなかった。鎧兜は同じであるし、行軍中に足を滑らせてしまったという理由も、さして奇異なものとは感じられない。夜間の出陣、しかも激しい風雨の中でのこと、そういうことも十分にありえるだろう。
 そして、歩くことも出来ない兵士を城に戻すことも至極当然の決断だった。怪我人を山中にほうっておくわけにもいかず、馬や輿に乗せて奇襲に連れて行くわけにもいかないのだから。


 何より、この場、この時に敵が姿を現す理由がない。彼らは今なお自分たちを味方と信じて、立花山城に向かっている最中なのである。
 かくて城門はあっさりと開かれ――岩屋城は陥落する。
 抵抗はほとんどなかった。留守居の将兵はたちまちのうちに紹運の部隊に制圧され、ようやく我に返ったときには、すでに城は大友軍の手に落ちていたのである。
 今の大友軍に捕虜をとる余裕はない。大友軍は武具をのこらずはぎとった上で留守居の兵のほとんどを解き放った。無論、岩屋城陥落の報を広めることが目的だったのだが、この頃にいたってなお高橋勢の将兵の顔はどこかうつろであり、まるで悪夢が現実になったとでも言うような薄ら寒い表情に覆われれていた。




 紹運は彼らが受けた衝撃の強さを思って、同情を禁じえなかったが、戦はまだ始まったばかりである。
 従者に運ばせていた自家の甲冑を着けると、次の行動に移るべく腹心に話しかけた。
「では尾山、城は任せる。警戒を怠らず、敵勢に備えてくれ」
 おそらく敵軍が寄せてくることはない。それは紹運にも尾山にもわかっていたが、それを口にしてしまえば油断が生じる。一つの狂いが戦局全体を左右することを知るゆえに、主従はかけらも油断するつもりはなかった。
「承知仕った。紹運様も、御武運を」
「うむ」
 配下の激励に、紹運はしっかりと頷いてみせる。



 これより紹運は五百の手勢を率いて高橋鑑種の後背を衝くべく城を出るのである。
 岩屋城には尾山が二百の兵で篭る。これもまた当初の予定どおりだった。
 紹運は義姉の言葉を脳裏に思い浮かべる。
『高橋家が総力をあげれば万に近い軍を集めることも出来るでしょう。秋月家が蜂起している以上、兵を集める理由は十分です。それでも、岩屋城には兵力を集中させることは出来ません。古処山により近い宝満城よりも、岩屋城に兵を多く集めていると知られれば、不審に思われるでしょうからね』


 ゆえに、と道雪は続ける。
『まずは岩屋城を出た高橋勢の動きを封じます。本隊の方は、鎮幸と惟信に言い含めてありますので、時が至れば、二人が急使という形で高橋離反の報を諸将に知らせます。それから兵をまとめて陣を構えますので、紹運、あなたは岩屋城を陥とした後、一隊を率いて出撃した高橋勢の後を追うのです。奇襲する必要はありません。そして姿を隠す必要もありません。ただ、後を追いなさい』
『……高橋勢の動揺を誘う、ということでしょうか』
『はい。策士は策におぼれるといいますが、必勝を期した策をたやすく見破られたとあっては鑑種殿も落ち着いてはいられないでしょう。その下の将兵に至ってはなおのことです。そのためには、岩屋城の留守居の兵は捕虜とせずに解き放った方が良いでしょうね。その上であなたが後ろを塞げば、岩屋城の落城は隠れも無いもの、動揺した兵士たちの離散を防ぐことさえ難しいでしょう。無論、鑑種殿直属の部隊は別でしょうけれどね』


『承知いたしました。ですが、高橋殿が岩屋城に兵力を集中できないとはいえ、千や二千ということはありますまい。岩屋城をおさえる以上、私が動かせるのは精々が五百というところです。高橋殿が将兵の動揺を取り除くために、後背を塞ぐ私の隊に攻めかかってくることも十分に考えられるのではないでしょうか?』
『その時は退却して構いません。追撃してくるようなら、岩屋城に篭っても結構ですよ。それでも、本隊が挟撃される恐れはなくなります。ただ……』
 おそらくそんなことにはならないでしょう。
 道雪はかすかに微笑んで、そう言った。


『一度、策を破られた者は疑心暗鬼になるものです。あなたが奇襲もせずに姿を見せれば、これもまた誘いの隙かと警戒するでしょう。しかも高橋勢の後ろには二万近い大軍が控えている。岩屋城が陥ちた以上、みずからの離反が見抜かれていたことを鑑種殿は悟るでしょうし、それは必然的に挟撃するはずだった部隊もまた、それを知っていたということにつながります。その結論に達すれば、鎮幸らの部隊をも警戒しなくてはならなくなり、結果として鑑種殿は動きを封じられることになるでしょう』
『そして、時が経てばたつほどに、高橋勢の動揺はいや増していく、というわけですか……』
 あるいは立花勢と合流しようとする可能性もあるが、それをしたところで高橋勢が帰るべき城を奪われた事実は拭えない。そして高橋勢の離反失敗は、立花勢にも小さからざる衝撃を与えるのは確実だった。
『ええ。鑑種殿の手勢は、悪夢にのまれるように失われていくことになるでしょう。そして、鑑載殿もまた……』






 もちろん、御両所が謀叛に踏み切ったと仮定しての話ですけどね。
 そう口にした道雪の顔を思い起こし、紹運はかぶりを振る。
 最終的には謀叛に踏み切ってしまったとはいえ、立花鑑載も、高橋鑑種も大友家の朋輩だったのは事実である。
 紹運は吉弘家の嫡子として、彼らと戦場を共にしたこともあるし、親しく語り合ったこともある。その人たちを討ち破ったところで、勝利の喜びなどあろうはずがない。それは紹運も道雪もかわることはなく――否、大友家に仕えた長さを思えば、道雪の悲哀は自分などが思い及ぶところではないだろう、と紹運は思うのだ。


「……不甲斐ないな、私は」
「……紹運様?」
 思わずこぼれた呟きに、傍らにいた尾山が不思議そうに聞き返してくる。
 雨風にさらされた顔に気遣いを湛えた部下に、紹運はもう一度かぶりを振ってみせた。
「なんでもない。では、そろそろ出るぞ。留守居の大任、よろしく頼む」
「は、お任せくださいませッ」


 一歩を踏み出したときには、すでに紹運の眼差しからは迷いが掻き消えていた。
 戦にのぞんで雑念は死を招く。今はただ果敢に、一心に勝利を得るべく努めるとき。それが多くの兵士の命をあずかる紹運に課せられた役割であり、またみずから望んだ在り方でもあった。






◆◆◆ 






 筑前国休松城。
 戸外を吹き荒れる風雨の音と雷鳴の響きは、さして広からぬ城全体を包み込み、大友軍の将兵に緊張を強いていた。
 俺は城の一室で吉継相手に今回の策をあらためて説明していたのだが、やはり雷雨が気になって仕方ない。
 だが、吉継は雷は平気な子であるらしく、とくに気にかける素振りもなく問いかけてきた。
「おおよそのところはわかりましたが、宝満城はどうされるつもりなのですか?」
「無視する」
「……こちらは無視しても、あちらがそうしてくれるとは限らないのでは? 岩屋城に優る数の兵が篭っているのはほぼ確実でしょう。それがこちらに加勢すれば由々しき事態になりはしませんか?」
「それは二つの理由で気にしなくていいことだな」


 俺の言葉に、吉継はかすかに眉間に皺を寄せる。
 言葉の意味を考えているらしい。出来れば少し考える時間を与えてあげたいところなのだが、どうも嵐のせいか、先刻から落ち着かない俺は、ささっと答えを口にしてしまう。
「岩屋城に兵力を集中できない理由はさっき言ったとおりだが、その分、鑑種は錬度に気を遣っただろう。簡単に言えば、精鋭のほとんどを岩屋城に集める。そうしなければ、いかに不意を衝くとはいえ、大友軍に撃退されてしまいかねないからな」
「……なるほど、宝満城が秋月勢に攻められることはありえないのですから、理にかなっていますね。もう一つというのは、やはり秋月種実ですか?」
「ああ。高橋勢の加勢が来るとわかっていれば、とうに攻め込んできてるだろう。まだ秋月が動いてないということは、宝満城の高橋勢は動いていないということだ――まあ、こっちは多分そうだろう、くらいの理由だけどな。仮に加わっていたところで、種実は高橋勢を前線に配そうとはしないだろうし、それに高橋方の武将が異を唱えれば、敵同士で勝手に争ってくれる可能性もある。そうなれば、こちらにとっては御の字だが……」
 まあ、そこまで期待するのは虫が良すぎるというものだけれど。


 ともあれ、そういったわけで宝満城には手をうっていなかった。無論、斥候は出しているが、おそらく本隊を討てば戦わずして城門を開けるだろう。仮に抗戦したとしても、先に言った理由で大した脅威にはなるまい。城兵が奮戦するようなら、おさえの兵を残して包囲すれば良い。
 もう少し信用できる戦力があれば、岩屋城の紹運殿のような手も打てたのだが……まあ、ないものねだりをしても仕方ないだろう。


 それを聞き、吉継は頷きつつまとめるように自分の考えを口にした。
「……すると、こちらのすべきことは、吉弘様と由布様が立花、高橋両家を制してお戻りになられるまで、なんとしても持ちこたえてみせること、ですね」
「できれば小野殿も入れてあげてくれ、一応別働隊の主将だし」
「善処しておきます」
「よろしく。で、まあ吉継の言うとおりだな」
 表向きは、と内心で小さく付け加えて、俺はさらに言葉を続ける。
「本隊が戻ってくれば、城を囲む秋月勢は再び古処山に篭らざるを得ない。立花、高橋を制し、秋月を古処山に封じてしまえば、毛利軍は孤立する」
 孤立した軍を討つのは、その逆よりもはるかに楽であるのは当然である。
 当然、毛利は秋月を救援すべく、大急ぎで兵を動かしているだろう。もし秋月が毛利勢との合流を優先していたら、正直ちょっと厄介なことになっていたのだが、幸いにというべきか予測どおりというべきか、秋月種実は毛利勢の来着に先んじて兵を動かし、この城を包囲した。



 あとは吉継の言うとおり、時間との勝負である。
 秋月が城を陥とすのが早いか、それとも鎮幸らの本隊の到着が早いか。
 無論、種実はまだ岩屋方面の戦況はほとんどつかんでいないだろうが、出来るかぎり急いで城を陥としたいと思っている点では、双方の認識に差異はない。
 それはつまり現在の戦況に対する認識は、敵味方を問わず、攻める秋月、守る大友という形で固定されていることを意味する。また、それ以外に映りようがないとも言える。
 攻める側として主導権を握っている秋月種実にしてみれば、この嵐などは格好の奇襲日和としか映っていないのではなかろうか。




 
 そして。
「往々にして、虚というのはこういう時に生じるものなわけだ」
「お義父様?」
 ついでに言えば、俺は将も兵も篭城を好まない上杉軍の一員であり、この城の守将である鬼道雪のもう一つの異名は雷神である。
 さらに言えば、目の前の愛する娘のおかげで嵐の到来はあらかじめ予想されていたわけで。
「むしろ閉じこもっている理由がないよな」
 小さく笑う俺の顔を、吉継が戸惑いもあらわに見つめていた。 


 



[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第四章 野分(五)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:9e91782e
Date: 2010/11/21 23:58
 
 筑前国休松城。
 九国で生まれ育った種実さえも記憶にないような強烈な風雨が吹き荒れる中、秋月軍は密かに休松城に接近していた。
 種実の傍らに控えるのは腹心の深江美濃守である。
 もう一人の腹心である大橋豊後守は、すでに別働隊を率いて城の裏手にまわっていた。
 大友軍は連日の筑前衆の度重なる攻勢を受け、疲労も限界に達しているはず。嵐を裂いて、そこを衝くのが種実ら秋月軍の目的だった。
 しかし。
 寄せ手の総大将秋月種実は、今、内心の苛立ちと困惑を隠すのに苦心していた。
「……どういうことだ?」
 知らず、口をついて出た疑問に、しかし老練な深江美濃守も答えを返すことが出来ない。
 目の前に広がるのは深い闇と吹き荒れる風雨。
 そして。
 おりしも稲光が視界を純白に染めた、その彼方に、開ききった休松城の城門が映し出されていた。



◆◆



 現在、大友軍が篭る休松城は、元々は種実の父である文種が、古処山城の出城として建てた秋月家の持ち城だった。当然のように、種実はその特徴を熟知している。
 休松城は、安見ヶ城山、大平山という二つの低山に拠る形でつくられた山城であり、本城である古処山城や他の出城と緊密な連携を保てば、出城として十分な機能を発揮する。
 逆に言えば、ただそれだけの城だ。古処山城のように孤立しながら大軍を迎え撃てるほどの堅牢さは備えていない。
 くわえて言えば、種実は大友軍を迎え撃つ際、各地の出城、支城の物資をことごとく古処山城に集めさせており、城内には大友軍が府内から持ち込んだ武具や兵糧しか残っていないはずだった。その物資にしたところで、大友軍の半ば以上が立花山城に向かった今、城内に豊富に残っているとは考えにくい。


 にも関わらず。
 大友軍は数え上げれば七度に及ぶ筑前衆の攻勢をことごとく撃退してのけたのである。
 もっとも、主力というべき秋月軍が動いたのは七度のうちわずか二度だけ。
 それ以外は他の国人衆に命じて行わせたものであり、夜討ち朝駆けを主としたその攻勢は、城を陥落させるためというよりは、大友軍の士気を挫くための作戦行動といえた。
 だが、それとて決して生易しい攻撃ではない。それも当然で、大友軍と、その指揮官である戸次道雪を討ち取るという武勲は誰もが欲してやまぬところ、攻撃を仕掛けた諸将はいずれも本気で攻めかかったのだから。


 それでもなお、城は陥ちない。
 鬼道雪の将帥としての威令は知らぬ者とてなく、戸次勢が精鋭であることも隠れない事実だが、それにしてもこの粘りは種実の予想を超えていた。
 まるで、この事あるを予期して、十分な備えをしていたかのようだ。
 城の堅牢さに、種実の胸中にそんな考えが浮かんでくる。だが――
「……ありえない」
 それはつまり、毛利元就の策略を見抜いていなければ不可能なことだからである。
 しかし、元就の策略を見抜き、立花、高橋らの謀叛を察していたのなら、種実らが挙兵する前にとうに両家に兵を遣わして制圧しているはず。
 大友軍の動きを見る限り、彼らは立花、高橋の叛意に気づいていなかったとしか思えない。必然的に、休松城で種実らに取り囲まれることを予期できるはずがない。
 ならば、何故いまだに城は健在なのか――


「つまりは、これが鬼道雪の底力ということかな」
 戦陣に臨んだ数で言えば、今の種実は道雪の足元にも及ばない。道雪から見れば、種実など卵の殻をつけたひよこに過ぎないだろう。
 机上の計算など、実際の戦ではなにほどの役にも立たない。あの城から、道雪はそんな風に種実を見下ろしているのかもしれない。
 そう考えると腸が煮えくり返る思いだが、戦場にあって感情に身を任せる愚かさは元就や三姉妹たちから繰り返し説かれたところだ。くわえて父と兄を殺され、古処山城から落ち延びてもう二年近く。感情をねじ伏せるのは慣れたものだった。


 一際強い風が吹く。
 軍旗が激しくはためき、急造の陣屋が音をたててきしむほどの勢いだ。その風にあおられるように、ここ数日降り続いていた雨もますます激しくなりつつある。
 種実は予測されていた嵐が間もなく到来であろうことを悟り、苦い笑みを浮かべた。本来なら、これが来る前に城を陥としておきたかったのだが、そこはやはりみずからの見通しの甘さを認めるしかないだろう。
「机上の計算にしがみついた小僧っこだと嘲笑されてもやむをえないね。けど――」
 それでもなお勝ちの目は動かない。
 種実は声をあげて部下を呼ぶと、秋月軍を含めた筑前衆全軍を麓の陣営に戻すように命令した。
 これ以上、風が強まれば仮ごしらえの本陣が吹き飛ばされかねず、それ以外にも本格的な嵐が到来するまえにやっておかねばならないことは幾らでもある。また筑前衆は寄せ集めの軍勢ゆえに、危急の事態に脆い。嵐に乗じて山中で攻撃を受ければ、下手をすると同士討ちになりかねないからでもあった。




 総攻めは風雨が去った後。
 諸将にそう伝えた種実は、そのすぐあとに腹心の二将を呼び寄せる。
 連日連夜の攻勢に晒されていた大友軍にとって、ようやくおとずれた休息である。警戒の念を解くほど愚かではあるまいが、間違いなく注意力は失われるだろう。
 そこを衝く。
 そのためには他の軍は邪魔であり、秋月軍は味方すら気づかないほどに速やかに軍を動かし、休松城を奇襲しなければならなかった。



◆◆



 そして――
 自ら軍を率いて夜闇を潜り抜けてきた種実の視界に映ったのは、開かれた城門だったのである。


 大友軍が出入りするために、わずかに開かれているというわけではない。文字通りの意味で、完全に開放されていた。あれでは仮に大友軍が隠れ潜んでいたとしても、敵勢が押し寄せるまでに城門を閉じることは不可能だろう。否、それどころか――
「美濃、門扉が見えるかい?」
「……見えませぬな。容易に信じられぬことですが」
 老練な深江の声からも、明らかな不審と驚愕が感じ取れた。


 そう。敵兵の侵入を拒むための分厚い門扉そのものが取り外されているのである。たしかに連日の攻勢で門扉も大分傷ついており、戦が終わった後には修復しなければならなかっただろう。
 だが、敵を前にして門扉をはずす理由があるはずもない。まさか嵐に備えての一時的な退却を、総撤退だと思い込んだわけでもないだろう。
 あるいは、この嵐の間に門扉をつけかえるつもりなのだろうか。だが、そんな急造の門で自軍に数倍する敵軍を防げるはずがない。それに作業をしている大友軍の将兵の姿も見えないではないか。


 考え込む種実に、いち早く驚愕から立ち直った深江が声を励まして告げる。
「しかし若、敵の思惑はどうあれ好機には違いございませぬ」
「だが、間違いなく大友の罠だよ」
「罠なれば食い破れば良いだけのこと。どんな罠をしかけていたところで、我が軍が城門を押さえるという一手を省けることは確かでござろう」
 深江の言葉には一理あった。城門をこじ開けるという最初の難関を、向こうがあえて開いてくれたのである。ここで躊躇してしまえば、いつまで経っても城を陥とすことはできないだろう。


「くわえて、ここで逡巡してしまえば豊後殿が孤立してしまいましょう」
「……確かにそうだな。これまで真っ向から反撃してきた大友が奇策に出たということは、それだけ追い詰められているということでもある。ここは正攻法で押し切るべきか」
「御意。拙者が隊を率いて門をおさえます。若は後詰をお願いいたしまする」
「わかった。美濃、頼む」
「はッ」





 かしこまった深江は、みずからの言葉どおり自隊を率いて休松城に接近、警戒しつつ城門を越える。
 だが、そこには予期していた罠はなく、城壁上から大友軍の矢石が降り注ぐこともなかった。
 城内に少し入ったところには、木と桟を幾重にも重ね合わせた分厚い門扉が重ね合わせに置かれていたが、その周囲にも大友軍の姿はなかった。


 その時、不意に深江の視界に慌しく駆け寄ってくる複数の兵士の姿が映った。
 すわ大友軍か、と深江と麾下の兵士たちは迎え撃とうとしたのだが――
「朝!」
 そんな声がかけられ、深江は思わず叫び返していた。
「夜!」
 それは秋月軍の合言葉だった。嵐の中での戦いになるということで、あらかじめ定めていたのである。そのやりとりを聞いた周囲の兵からも殺気が失われていく。


 それは相手も同様だったようで、近づいてきた部隊の長がどこか呆然としたように声をかけてきた。
「やはり、美濃殿か」
「これは豊後殿であったか。ご無事で何より」
「美濃殿もな。もっとも敵兵がおらぬ以上、無事も何もないのだが」
 その大橋の言葉で、深江も事情を察した。裏手から回り込んだ大橋の隊も、敵兵に遮られることなく、ここまで侵入してきたのだろう。
「ごらんのとおり、門扉そのものがはずされておる。落とし穴などもなく、城壁に兵が潜んでおる様子もなし、だ――狸にばかされておるようだわ」
「こちらも同様。決死の覚悟で乗り込んでみれば、歩哨の一人も立っておらぬ。城の中には明かりさえ灯っておらず、まるで無人の城だ。門をあけるために急いだゆえ、まだ詳しくは調べておらぬが」
「山中に逃げ込んだのでござろうか。いやしかし、十や二十ならともかく、千を越える人数が隠れ潜むことなど出来るはずもなかろうし……」
 深江はわずかに考え込んだが、すぐにかぶりを振って意識を切り替えた。
 今は城を制圧するのが第一義である。敵が城内に潜んでいる可能性もまだ十分に残っているし、敵が逃げたのだとしたら、無用の時を費やせば、その分敵が遠くまで逃げてしまう。まあ二千近い人数が、包囲を抜けられるとも思えないが……
 そんなことを考えつつ、深江と大橋は種実率いる本軍を城内に呼び入れたのである。



◆◆



 そして。
 種実率いる秋月勢本隊はほどなく休松城を制圧した。
 城壁上には秋月家の旗指物が立ち並び、嵐が去れば誰の目にも勝敗は明らかとなるだろう。
 本来ならば、ここで勝どきの一つもあがるはずだったが、しかし、煙のように姿を消した大友軍の行方が知れない以上、そんなことをする余裕が秋月軍の将兵にあるはずもなかった。


 休松城、城主の間。
 おそらくはつい先刻まで戸次道雪が使っていたはずの部屋で、種実は苛立たしげに軍配をもてあそんでいた。嵐はいまだ去らず、種実の耳には雷鳴と風雨の音が絶えず飛び込んでくる。その音が、ただでさえ落ち着かない胸中をさらに騒がせ、種実は知らず奥歯をかみ締めていた。
 それでも、なんとか声を震わせることなく、深江に確認をとる。
「……まだ知らせは来ないのか?」
「は、いまだ」
 さきほどと変わらない答えを受け、種実は舌打ちをこらえる。
 もっとも使者が戻ってくれば真っ先にここへ通すように命じている以上、答えがかわるはずもない。そのことは種実も承知していた。それと知って、なお確認してしまうということは、要するに自分が落ち着きを失っているからだ。
 種実は誰に言われるまでもなくそのことを理解しており、その自覚がまた苛立たをかきたてるのである。


 深江の隊が城門を確保した時点で、種実はすぐに麓に布陣する筑前衆に使者を出した。
 大友軍が城中にいないとなれば、当然、城を出たことになる。このあたりの山は標高が四百にも満たない低山であり、千を越える人数が山中に隠れ潜むことは不可能だ。
 であれば、大友軍はおそらく嵐を衝いて包囲を破りに出るはずだった。というより、それ以外に考えようがない。


 問題はどちらの方角に逃げるか、ということだった。
 もし道雪が高橋の裏切りに気づいていないのならば、立花山城に赴いた本隊と合流しようとはかるだろう。あるいは宝満城に逃れ、城の高橋勢の助力を得てから、改めて反撃してくるつもりかもしれない。
 そうなれば、高橋勢は切り株につまずいた兎を得るような容易さで鬼道雪を討ち取ることが出来る。種実にしてみれば、到底許容できるものではない。


 ゆえに本来ならば即座に追撃に出たいところなのだが、もしかすると大友軍が豊後に戻ることも考えられるのである。
 大友軍二万を討ち破ったとしても、戸次道雪を逃してしまえば画竜点睛を欠くというもの。完璧な死地に追い落としながら、道雪を取り逃がした秋月種実の無能ぶりは九国中に知れ渡る。
 それもまた種実にとって受け入れられない結末であった。


 そのいずれも避けるためには、まずは大友軍がどの方面に逃げるつもりなのか、それを確認しなければならない。
 種実は筑前衆に包囲の輪を広げるように命じ、大友軍を発見したら即座に知らせるように厳命した。
 無論、その知らせがあり次第、全軍をもって追撃し、道雪の首級をあげるためである。


 だが、その知らせが来ないのだ。
 確かに使者を出してから、さして時が経ったわけではない。あるいは今なお大友軍は嵐の山野を進んでいる最中なのかもしれない。
 だが、万一にも包囲の隙をついて密かに抜け出られていたら、と思うと種実は落ち着いていられなかった。
 これまで年齢に似合わぬ泰然自若とした振る舞いをしていた種実だったが、事ここに及ぶと、内心の激情を制御することは難しかった。


 そんな年若い主君の様子を見て、深江や大橋といった家臣たちは無理もない、と内心でつぶやく。二年近く、耐え続けた悲願がかなうか否かの瀬戸際である。長く生きてきた自分たちでさえ落ち着いてはいられないのだから。
「……若」
 いっそ、今のうちに麓に向かってはどうか。深江はそう進言しようとした。
 現時点で休松城を占拠しておく必要はない。まさか大友軍が引き返して襲ってくることもあるまい。であれば、知らせを受けてすぐに追撃に移れるようにしておくべきではないか。


 深江の進言を聞き、種実は一瞬だけ呆然とした。
 深江の言うことはもっともであり、そんなもっともなことに気づかなかった自分に愕然としたのである。
「美濃の言うとおりだ。どのみち、知らせが来れば麓までおりねばならないのだから、今のうちに……」
 種実がめずらしく慌てて言い募り、勢い良く立ち上がった、その時。


「も、申し上げますッ!」
 その場にいたほとんど――否、すべての人間が、その使者が味方の陣営からの知らせだと考えた。
 大友軍の行方がわかったのだろう、と。
 無論、種実もその一人。それゆえ、種実は余計な前置きはせずにまっすぐに問いかける。
「大友軍はどちらの方角に逃げたんだ?!」


 だが――
 それを聞いた使者は答えなかった。その顔には、驚愕と困惑がありありと浮かんでいた。報告すべき言葉さえ呑み込んで。
 その使者の表情をいぶかしく思った種実は、同時にもう一つの事実に気づいた。
 嵐の中を駆け抜け、濡れ鼠のようになったその使者は、先刻、種実自身が麓に送り出した者ではなかったか――?



 奇妙に重苦しい沈黙は、長くは続かなかった。困惑から脱した使者が、内心の疑問を脇に置き、なにはともあれ報告せねばと声を張り上げたからである。
「も、申し上げます、麓に布陣していた宗像、原田、筑紫らの諸勢の軍が、大友軍の奇襲を受け壊乱! 皆々、陣を保つこともかなわず、すでに潰走をはじめた部隊もいた模様ですッ!」
「……なんだと?」
「嵐の中のこととて、それ以上の詳しい情勢は知りようもありませんでしたが、すでに使者の役割を果たせる状況にないと判断し、取り急ぎ報告せねばと立ち返った次第でございますッ!」



 ――最初に口を開いたのは深江だった。搾り出すように確認をとる。
「待て、何を言っている? 大友軍の奇襲? 豊後から援軍が参ったのか?」
 だが、使者はその問いに困惑を見せる。
「確認できたのは杏葉紋のみゆえ、しかとはわかりかねますが、おそらくは戸次勢ではないかと……」
 城の大友軍がうって出た。戦況を単純にそう考えていた使者にとって、深江の問いは意味をなさないものだった。
 そして、この使者の考えは的をはずしていない。そう、状況を考えれば戸次勢が城を捨てて麓の軍勢に攻め込んだのだろう。深江もまたそれ以外に、現状を説明できる言葉をもてない。
 だが、それはすなわち――



 はじめて。
「……そんな」
 種実の声がひびわれる。
 種実が他の国人衆を退かせた段階で、道雪は兵をまとめ、密かに城を出る。
 種実がひそやかに自軍を引き連れて休松城に攻め上っていたとき、道雪は逆に麓の筑前衆を指呼の間に捉えていたのだろう。
 筑前衆にしてみれば、参戦以来、ずっと有利な戦況だった。おまけにこの嵐だ。警戒など形ばかりだったろう。かりに真剣に警戒している軍があったとしても、百や二百なら知らず、二千の大友軍が雨中をさいて奇襲してくれば持ちこたえられるはずがない。
 そして、一度崩れてしまえば、そこは烏合の軍の悲しさ、再び陣を立て直すのは至難の業だろう。


 何故、その知らせが種実のもとにもたらされなかったのか。知らせが来ていれば、即座に軍を転じて後背から大友軍を討ち破ることも出来たのに。
 ――答えは明瞭だ。彼らは知らせようにも種実の居場所を知らなかったのだ。種実は武功を独占するため、孤軍でこの奇襲に臨んでいたから。


 主力である秋月軍の不在、嵐の中の奇襲、率いる将は戸次道雪。これだけの要素が絡めば、むしろ持ちこたえられたら奇跡だろう。使者が麓に赴いた段階で、諸勢が壊乱の兆しを見せていたのも不思議ではなかった。おそらく、大友軍は掌を指すように筑前衆の動きを見切っていたに違いない。
 否、それどころか――





「殿! 急ぎ山を下り、大友軍を討つべきでござる!」
 驚愕の表情を張り付かせて押し黙る種実を見た大橋豊後守が声をはげまして告げる。
 大橋とて動揺していないわけではないが、長く戦乱の世を生き抜いてきた秋月家の宿将は勝ち戦と同じ程度に負け戦を経験している。策が破られ、窮地に陥ったことは一度や二度ではない。
 こんな時、もっとも避けるべきは躊躇して竦んでしまうことである。将のためらいは、即座に士卒に伝播し、動揺をうむ。ここは無理やりにでも声を励まして、大友軍へ討って出るべきだった。そうすれば、将兵の怖気心も戦の昂揚に打ち消されよう。
 それに、と大橋は幾ばくかの余裕をもって考える。
 まだ、秋月軍が大友軍に優る兵力を有していることは確かなのだから、と。


 だが。
 次の瞬間、種実の口からは弾けるような叱声が飛び出し、大橋のみならず深江も驚きを隠せなかった。
「何を言っているッ?! 豊後、急ぎ兵をまとめてくれ! かなう限り急いで城門を守れ! くそ、この嵐じゃあ鐘をうっても聞こえないし、合図をしようにも……ッ!!」
「わ、若、落ち着きめされ。いまだわが軍は大友軍に優っております。たしかにしてやられはしましたが、挽回の機はいくらでもございましょうぞ」
 深江は、種実が策を破られて一時的に混乱していると思ったのだ。
 だが、種実はそんな深江の言葉に、苛立ちもあらわに口を開く。
「美濃までも何を呆けたことを! わからないのか?!」
「わ、わからぬか、とは……?」
「あの道雪が、寸刻を争うときに、どうしてわざわざ門扉を外して出撃したと思っているッ?! ただ城を捨てるだけなら、そのような手間をかける必要はないだろうッ! 空城計で時を稼ぐつもりだったにしても、なにも門扉自体をはずすことはない。門を開いておけばそれで済んだんだ! くそ、城中の兵は、大友軍をさがすために分散させてしまったし……くそッ、ぼくは何を呆けていたんだッ! 兵をまとめるように指示を出しておくくらい、もっと早くに出来たのにッ!!」


 半ば叫ぶような種実の声。
 おそらく、種実は言葉にしながら、自分の内心の考えをまとめてもいるのだろう。その声は深江らに説明するというよりは、焦慮をそのまま形にしたものだった。
 それでも、深江、大橋の二将は、種実が言わんとするところを理解した。理解して、蒼ざめた。
 だが、彼らが何事かを口にするよりも早く。



「申し上げますッ!!」
 それはついさきほどとまったく同じ報告の言葉。
 だが、そこにこめられた驚愕と苦痛は、比較にもならない。
 すでに朱に染まった甲冑を身につけたその兵士は、悲鳴にも似た声で告げた。
「大友軍の奇襲ですッ! すでに城門は突破され……ぐ、お味方は懸命に防いでおりますが、敵の勢いは凄まじく……ぐ、く」
 びしゃり、と紅い液体が、その兵士の口からこぼれ出る。よく見れば、その背には三本の矢が深々と突き刺さっていた。
「……間もなく、こちらまで押し寄せて来るかと、思われます…………種実、様」
 搾り出すような兵士の声に、種実は奥歯をかみ締めつつ、無理やり声をつむぎ出す。
「……なんだい?」
「……どうか、御武運を……筑前を、我らの……手……」
「承知した。君は下がってやすんでいてくれ……なに、大友軍ごとき、すぐに討ち破ってみせようから」


 種実は、最後の言葉が兵士の耳に届いたどうかを知ることは出来なかった。
 深々と頭を下げた兵士は力なく横たわり、そっと傍らに歩み寄った深江が、兵士の両目を静かに閉ざす。
 わずかに室内に落ちた沈黙は、次の瞬間、嵐さえ裂いて響き渡る喊声によって討ち破られる。思いがけないほどに近い。


「……美濃、豊後」
 兵士の言葉が、種実の狼狽をかき消したのだろうか。その声は静かだった。
「御意。お任せを、若」
「……最後に無用の言を呈してしまいもうした。お許しくだされ」
「最後などではないよ、豊後。ぼくたちは勝つのだから……勝たなきゃいけないんだから」   
 軍配を握り締めた種実の声に、二将のみならず、その場にいた全員が頭をたれた。
 最後まで主君に付き従うことを無言のうちに誓約するために。 
 



[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第四章 野分(六)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:9e91782e
Date: 2010/11/22 22:21
 筑前国休松城。
 策略を用いて秋月勢を城に追い込んだ大友軍は、敵将秋月種実が立てこもる本丸に猛攻を加えた。
 この時、休松城の秋月勢はおおよそ二千五百ほど。度重なる城攻めで大きく数を減らしていたが、それでもなお大友軍の二千よりはるかにまさる。数の上では互角以上の戦いが可能であるはずだった。
 だが、秋月勢は城内を制圧するために各処に分散しており、また嵐の中のこととて戦況を把握することも容易ではなかった。
 くわえて現在の秋月軍は、種実直属の部隊を除けば新たに徴用された者がほとんどであり、当主種実の下で組織化されてから一月と経っていない。変転を続けていた戦況に翻弄されていたこととあいまって、戸次勢の攻撃を受けるや四分五裂の状態となり、背を向ける者が続出する。


 結果、本丸に立てこもった秋月勢は三百に満たず、彼らの半ばも動揺を禁じえずにいた。
 ゆえに勝敗は明らかである――と思われたのだが。
 秋月勢は、ここにいたってなお敢然と戸次勢の前に立ちはだかった。当主種実が直接指揮する秋月勢の抵抗は凄まじく、勇猛をもって鳴る戸次勢を二度までも押し返し、さらには逆撃の気配さえ示してみせたのである。


 この頑強な抵抗を前にして、戸次勢は攻めあぐねた。このまま力ずくで制圧することは可能だが、被害が無視しえないものとなることが明らかだったからだ。
 本丸をめぐる攻防で、戸次勢はすでに五十名近い死傷者を出している。今日に至るまでの篭城戦で受けた痛手も決して軽くない。実のところ、戸次勢の数はすでに二千を大きく下回り、今回の戦いで動けたのはおよど千七百名ほど――それも軽傷の者を含めた上での数だった。無論、残る三百名が全員戦死したわけではなく、戦についてこられないと判断された者たちは、山中の一画に隠れ潜んでいる。
 大友軍にしても、決して余裕をもって戦っているわけではなかったのである。



「満身創痍というほどではないけれど。そんな感じだな」
 東の空がやや明るんでいるところを見るに、間もなく夜明けなのだろう。すぐそれとわかるくらいに、陽光を遮る雲は薄くなっており、頬に吹き付けてくる風雨もずいぶんと勢いを弱めている。
 嵐が去りつつあるのを感じ取りながら、俺は傍らの吉継を見た。顔を覆う頭巾を取り去り、鎧兜に身をかためた吉継は、秀麗な容姿もあいまって実に凛々しい武者ぶりである。戸次家の誾殿にもひけをとらないだろう。
 ちなみに吉継は表向きは病をわずらっている身なので、顔を晒して出歩いているのは色々とまずかったりする。まあ普段は顔を晒していないから、俺の傍らにいるのが大谷吉継だ、と外見だけでわかる者はほとんどいないだろうが、俺と吉継の会話を聞けば察するのは容易であるに違いない。
 そのため、緒戦以来、そこをどう誤魔化すかを考えあぐねていたのだが、吉継は大して気にした様子を見せなかった。
 普段は頭巾をかぶり、応戦する際には素顔を晒して兜をつける。特に名を伏せたり、偽ったりはしていないため、察しの良い者たちはとうに気づいているだろうし、それは吉継も承知しているはずだが、それでも気にかける素振りを見せない。吉継なりに思うところがあるのだろうと思われた。


 その吉継は俺の傍らで厳しい表情で本丸を見据えている。そして、それとわからないくらいかすかに、その脚が震えていた。
「吉継」
「お断りします」
 間髪をいれずに拒絶の言葉を口にした吉継は、厳しい表情はそのままに俺の顔を見つめる。
 その顔を見れば、吉継が何を言わんとしているのかは明らかだったので、俺は頬をかきつつ逃げるように口を開いた。
「……せめて心配を口にするくらいは許してほしいのだが」
「無用のことです。今、お義父様が気にかけるべきは私などではなく、貝のごとく閉じこもった秋月をいかに屠るかでしょう?」
 そう言うや、吉継は再び視線を本丸に戻した。


 日ごろの修練の賜物だろう、吉継の身体は女性らしい丸みを帯びつつも、刀槍を揮うことに耐えられる引き締まったものだ。
 かつてその腕前を身をもって知った俺は、吉継が戦場に出ること自体を止めようとは思わなかった。
 しかし、体格だけを見れば吉継は決して武将として恵まれているとはいえない――あくまで武将としてであって、女性としては小柄で可愛らしいのだが、それはさておき。
 武芸で身体を鍛えたとはいえ、やはり限界はある。ことに今回の戦いは重い鎧兜を身につけ、嵐の中、山を駆け下りては戦い、駆け上っては戦い、と大の男でもきついものだった。体力的に恵まれていない吉継にとっては苦行でしかなかったことだろう。


 それでも吉継は決して足手まといになることはなかった。弥太郎のように、その上で戦でも大活躍、というわけにはさすがにいかなかったが、それは当然といえば当然のこと。ついてこれただけで激賞するべきだろう。というか、弥太郎と比べて遜色ない姫武将なんて、九国中さがしても三人といないだろうし、比べる対象がおかしいな、うん。
 とはいえ、さすがにそろそろ限界だろう。おそらく、今、膝をつけば、吉継はしばらく立ち上がれない。だから後方で休むように言おうと思ったのだが、その気遣いは、たった今木っ端微塵にされてしまった。
 これが噂に聞く反抗期か、などと言おうと思ったが、さすがにそれは不謹慎だと考え、俺は意識を眼前の敵勢に切り替える。





 本丸に立てこもる秋月軍への攻撃は中断している。今は大友軍、秋月軍、いずれも次の攻勢に備えているところである。
 大友軍は決して万全の状況ではないが、それでも近づく勝利を思って意気軒昂だった。
 一方の秋月軍は、というと。
 今、俺が立っている場所は大友軍の最前線であり、本丸に立てこもる秋月軍の将兵の姿をしっかりと見ることが出来る。彼らは悲壮な雰囲気を漂わせてはいたが、敵に屈するつもりは微塵もなさそうだった。
 すでに筑前の国人衆は敗走し、他の秋月勢は壊乱状態である。そのことは彼らとて承知しているだろう。
 にも関わらず、秋月軍から戦意が失われていないという事実が、敵将秋月種実の器のほどを示していた。



 そして。
 実のところ、この秋月軍の抵抗は単なる悪あがき以上の意味を持っていた。
 俺の予定では捕らえるか討ち取るか、いずれにせよすばやく種実の死命を制し、最低限、秋月軍に代表される筑前衆の動きを制してから毛利軍にあたるつもりだった。


 先夜の戦いを端的に言えば、大友軍が嵐に乗じて大騒ぎし、それによって筑前衆が勝手に混乱を来たしただけで、双方の被害は大したことがない。
 無論、これは作戦どおりの行動で、その目的は極力自軍に損害を出さないためである。たとえ奇襲とはいえ、敵に打撃を与えようとすれば、こちらにも相応の被害が生じる。篭城戦で消耗した戸次勢では、秋月軍を除いても五千近い大兵力を有する敵軍に致命的な打撃を与えることは望むべくもなかった。
 またそこで欲をかけば、今度は城の秋月軍を討つのに支障が生じる可能性が高かったということもある。


 嵐が去り、落ち着きを取り戻せば、筑前衆の中でもそのことに気づく者は少なくないだろう。この時、総大将とも言える種実が健在であれば、逃げ散った筑前衆が将兵をかき集めて再び挑んでこないとも限らないのだ。
 当然、それは逃亡を選んだ他の秋月勢にも同じことが言える。彼らがそのことに気づくのが一週間後であれば問題はない。一日後でも、十分に種実に対処することはできる。だが、一刻後であればのんびりはしていられないし、それこそ一分後に気づく人間がいないとは限らないのである。



 不意に吉継が口を開いた。何やら低い声で、まるでだれかの真似でもするように。
「ことここに及べば、策をほどこす余地もない。勝勢に乗じて、力ずくで種実を討ち取るしかないだろう。三度目の正直ともいうしな……」
「これぞまさに以心伝心。よくわかったな、娘よ」
 内心をぴたりと言い当てられ、俺が驚くと、吉継は疲労を上回る諦観を湛えた表情で、深々とため息を吐いた。
「ここまでの戦を見ていれば、お義父様が存外好戦的であることは誰でもわかります。何も将みずから刀をとって敵と戦う必要はないでしょうに……」
 それは吉継なりの心配の表現だったのだろう。まあ、ただ単にあきれ果てているだけかもしんないが。


 言うまでもないが、別に刀をとって戦っているからといって、謙信様や政景様のようにばったばったと敵兵を切り倒しているわけではない。
 それでも将が怖じることなく刀を揮えば、配下の兵士も奮い立つもの。ことに戸次勢は道雪様を間近で見てきた将兵である。後方で采配を揮うだけでは、なかなか信望を勝ち取れるものではなかった。
 もっとも、当然、その分危険も増えるわけで、先夜からの戦に限って言っても、吉継に幾度も助けられたりしたあたりが、ちょっと情けなかったりするのだが。
 
 
「……とはいえ、決して好戦的なわけではないと強く主張する」
「勢いのままに自ら兵を率いて本丸に乗り込んでいき、あえなく撃退されても即座に態勢を立て直してまた攻め込み、戸次様の命令を受けてようやく戻ってきた人がそれを言いますか」
 何度肝を冷やしたことか、とぶつぶつ呟く吉継。
「男児たるもの、向こう傷をこそ誉れとすべしと言ってだな」
「普通、そういう人を指して好戦的というのですよ、お義父様」
「はっはっは、これは一本とられた」
「何を爽やかに笑ってごまかしているんですかッ」


 まったくもう、とため息を吐く吉継。
 そんな俺と吉継の周囲から、なにやらにやにやした視線が向けられている気がしたが、あえて気づかぬふりをする。「なんでここに小野様と由布様がいるんだろうな」というくすくす笑う声も聞こえないのである。




  
 だが、そんな時ならぬ和やかな雰囲気も、次の瞬間、即座に霧散した。
 にわかに後方が騒がしくなり、刀槍が連なる音がかすかに響いてきたからである。
 何事か、と誰もが思ったが、そこは物慣れた戸次勢である。秋月軍を前にして後方を気にするような素振りを見せれば、敵を勢いづかせることにつながる。
 あくまで平静を保ち、眼前の敵から視線をそらさない。知らせるべき事柄であれば、道雪殿から何らかの通達が来るだろう。
 そう考えていると、ほどなく道雪殿からの知らせがやってきた。


 聞けば後方――つまりは休松城の城門に、およそ三百ほどの騎馬隊が姿を現したのだという。
 はや先刻の危惧が現実になったのか、と思ったのだが、少し違った。その軍勢が掲げる軍旗は秋月家のものではなく、筑前のどの国人衆のものでもなかったからだ。
 では、どこの軍勢が今この時、休松城に姿を見せたのか。
 使者が語る名を聞いた途端、俺は思わず天を仰ぎ、顔中に雨滴の洗礼を浴びてしまった。
 現れたのは『一文字三ツ星』を掲げた軍勢。その旗印を掲げる軍勢を、俺は一つしか知らない。



 すなわち、中国地方の覇者、毛利家である。




◆◆◆




「安芸国守護毛利元就が息女、吉川元春と申す。貴殿の名は遠く離れた安芸にまで鳴り響いております。お目にかかれて光栄に存ずる、戸次殿」
「同じく、毛利元就が息女、小早川隆景です。お初にお目にかかります」


 周囲を敵兵に取り囲まれながら、微塵も動揺した様子のない元春。
 隆景は言葉すくなに、その元春の影に隠れるように座しているが、その眼差しに秘められた鋭利さは隠しきれるものではなかった。
 なるほど、世評にのぼるだけの実力は備えているようだ。道雪は毛利の姫たちをそう見て取った。
 

「丁寧な挨拶、いたみいります。名高き毛利の『両川』とこのような場所でお会いできるとは思っていませんでした。大友加判衆筆頭、戸次道雪です。どうぞお見知りおきを」

 
 道雪の澄んだ声音を聞き、元春はわずかに目を見張った。普段は知らず、敵将を前にして表情をかえるなど、元春にしては稀有な出来事である。
 世に雷神と恐れられる人物である。さぞ重厚な人物であろうと考えていたのだが、眼前の道雪は、女性の元春から見ても賛嘆を禁じえない佳人であった。
 これがあの鬼道雪なのか、と正直元春は仰天していたのである。


 一方の隆景はわずかに目を細めて道雪を見つめているだけだった。姉が仰天していることは察したものの、隆景にはそこまでの驚きはない。というか、そこまで驚くほどのことだろうか。毛利家だって外では散々恐ろしげに語られているが、内に入ればそれほどでもない――と思うし。
 隆景が注意を払ったのは、今、この場に隆景たち毛利の軍勢があらわれたことを、道雪がどのように判断しているのか、その一点だけだった。
 見た限り、道雪の目に驚きや焦りはない。内心に押し隠しているようにも見えない。
 それはつまり、道雪が毛利の登場にまったくもって驚いていないことを意味する。隆景としては、相手の動揺ないし誤解に乗じて、こちらの要求を押し通せれば、とかすかに期待していたのだが、眼前の道雪を見れば、それはやはり無理であるようだ。
 これから費やす労力をおもって、隆景は小さく息を吐いた。
 
  




 そもそもどうしてこの今この時、元春と隆景の二人が休松城に姿を現したのか。
 それは秋月種実が毛利軍の到着を待たずに、戸次勢に攻めかかったことを知ったからだった。無論、種実はわざわざ使者を出して、そのことを伝えたりはしていない。元春たちが独自に斥候を放ち、情報を集めたのである。
 秋月軍が古処山城を出て攻めかかった事実と、それを伝えようとしない種実。
 この二つだけで、毛利の両川が秋月家の思惑を察するには十分すぎるほどであった。


 そして、元春はそれを聞くや、隆景に毛利軍の指揮を委ね、自身はただちに馬廻衆だけを率いて種実の下へ赴こうとする。功に逸った種実を諌めるためでもあったし、同時に自分たちだけで戸次道雪を討ち取れると考えている種実の油断を感じ取ったからでもあった。
 種実の才は元春も十分に認めているが、どれだけ優れた才を持っていようと、また敵軍に数倍する大軍を抱えていようと、二十にも満たない若者にあっさり討ち取られるようならば、戸次道雪の名がここまで称揚されることはなかっただろうと元春は思うのだ。


 種実が苦戦する程度ならばまだ良い。むしろ道雪相手の戦は勝敗を別にしても良い経験となることだろう。しかし、下手をすれば逆撃に転じた大友軍に討ち取られてしまう可能性もある。それも少なからず。
 具体的な大友軍の作戦を読んだわけではない。ただ戦将としての直感に促されるままに、元春は馬を走らせようとしたのである。


 隆景が元春と行動を共にしたのは、逆に元春を気遣ったからであった。
 先に和睦したとはいえ、実質的に大友と毛利は敵国同士。まして国内をひっかきまわす毛利家を、大友家の君臣が憎悪しているだろうことは想像に難くない。他の筑前衆だとて、元春が少人数で戦場に踏み込めば、どう変心するか知れたものではなかった。
「……と、種実のことは気にしていない、あくまでついでだと必死に自分に言い聞かせる末姫殿であった」
「春姉、うるさい」
 そんな会話をかわしつつ、二人は三百の騎馬隊のみで筑前の地を駆け抜けたのである。



 そしてようやく到着してみれば、筑前衆はすでに壊滅状態であり、秋月軍は影すら見えぬ。
 そこに毛利家の旗を見つけた秋月勢の逃亡者たちがあらわれ、先夜来の情勢を知った元春たちは、種実が城で追い詰められていることを悟り、まっすぐに休松城に向かった。もはや手遅れか、と半ば覚悟しながら。



◆◆



 無論、この時点で元春も隆景も城内で種実が決死の抗戦を試みていることを知らない。
 それでも幾多の経験と大友軍の様子から、大友軍がまだ目的を達していないだろうことを察することは出来た。
 安堵はあったが、それ以上に眼前の問題の困難さに頭を抱えたくなる。
 毛利軍の本隊は、まだはるか遠方。この場にいる三百だけで種実を救出することは出来ない。
 であれば、交渉して種実の身柄の安全を確保するしかないのだが、はっきり言えばこちらから奇襲を仕掛けた挙句、失敗したから逃がしてくださいというようなものである。
 仮に元春が敵にそう言われたら鼻で笑うだろうし、隆景であればにっこり笑ったあとに総攻撃を指示するだろう。


 おそらく、戸次勢の将兵も毛利の狙いは察している。
 道雪は穏やかだし、元春たちをここまで案内してきた十時という将(元春たちが腰の大小を預けようとしたら、それには及ばないと言って返されたので、素直に感心して名前を聞いた)は無表情だったが、それ以外の者たちは明らかに隔意を抱いている様子だった。むしろ、はっきりと敵意、殺意を示さないあたりに戸次勢の真価を見て取れるかもしれない。


 とはいえ、だからといってこちらの申し出に友好的な対応をしてくれるはずもない。
 さてどう切り出そうか、と隆景が口を開こうとした時だった。


 ――不意に天幕の外からこんな声が聞こえてきた。




「なッ?! 秋月を逃がすというのですか?!」
「うむ。大友は敵将は逃がすけど筑前は得られる。毛利は策略は失敗したけど種実は助けられる。秋月は蜂起には失敗したけど再起の芽は残る。まさに三方一両損ならぬ三方一得一失、見事な大岡裁きだろう」
「まったくもって意味がわかりませんが、それはともかく、先の豊前の乱といい、今回といい、他国をかき回すだけかき回した家にその対応は甘すぎます。それに種実を逃せば、またいつ筑前に乱を持ち込まれるかわかりません」
「それはそうだが、仮にここで秋月を殲滅して、毛利の両川を討ち取ったらどうなる?」
「どうなるといって……大友の筑前支配を固め、毛利に大きな打撃を与えることになるのではありませんか?」
「そして怒り狂った毛利の大軍が周防灘を埋め尽くす。謀将は情の上に理を置くから、怒りに我を忘れることはない。でも『有情の』毛利は違うだろう。たぶん石見を尼子に熨斗をつけてくれてやってから、全軍をあげて攻めかかってくる。最初に殴ったのがどちらかなんて、耳を貸さないだろうな」
「……それは、そうかもしれませんが……」
「大友の目的が毛利の滅亡というならともかく、今の時点でそこまでする理由はないし、する必要もない。まあ、来たのが別の人間だったら少し考えないでもないけどな。ところで案内の方、道雪様たちはどちらに……って、え、ここですかッ?!」
「……その、さきほどからお伝えしようとしていたのですが、あまりにお二人の息が合いすぎていて、口をはさむ暇が……申し訳ございません」






 天幕の内と外でなんともいえない沈黙がわだかまる。
 やがて、元春がぽつりと呟いた。
「……なかなかに個性的な配下を抱えていらっしゃるようですね、戸次殿」
「毛利家の方にそう言っていただけると照れてしまいますね」
「……春姉は褒めてないけどね」
 口元に手をあてて微笑む道雪に対し、隆景は姉と同じように呟いたが、道雪はまったく動じず、天幕の外で立ち尽くしているであろう者たちに声をかけるのだった。





[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第四章 野分(七)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:9e91782e
Date: 2010/11/24 00:20

 筑前国休松城。
 本丸に立て篭り、決死の抗戦を繰り広げていた秋月種実は声を失っていた。
 眼前に佇む人物が、どうしてここにいるのか皆目見当がつかないために。
「は、春姉さま、どうしてここに……?」
「なに、先走った不出来な弟を叱りに来ただけだ」
 そう言うと、有限実行の乙女、吉川元春は種実の頭に拳骨を叩きつける。


 声もなく、頭を抱えて座り込む主君の姿を、深江美濃守が呆然と見やっていた。深江は長年筑前で活動していたため、毛利三姉妹の顔を知らなかったのである。知っていたのはもう一人の重臣である大橋豊後守の方だった。
「元春様、それに隆景様まで……一体、どうしてここに?」
「そなたも無事だったか、豊後殿」
 種実に負けず劣らず、呆然とした様子の大橋に、元春は先の口上を繰り返す。
「今いったとおり、種実を叱りに来たのだよ。秋月家が我らの到着を待たずに古処山を出たと知って、急ぎ駆けつけてみれば、秋月軍は城で追い詰められているという。種実が功に逸る可能性には思い至っていたが、豊後殿、そなたのような老臣までが引きずられてどうするのだ?」
「……まったく面目次第もござりませぬ」
 大橋はそう言って深々と頭を下げた。
 種実を止められなかったことを指して言っているのではない。そもそも大橋は一度も種実を止めていないし、止めようとも思っていなかった。種実と同様に筑前衆だけで、大友軍に勝つことが出来ると考えたためだ。
 その見通しの甘さと、それによって世話になった毛利に多大な迷惑をかけることになってしまった、そのことへの謝罪だった。


 それまで黙っていた隆景が小さく肩をすくめて、口を開く。
「ま、普通なら勝てて当然の戦だからね。あんまり責めちゃかわいそうだよ、春姉」
「なんだ、めずらしく寛大だな。隆景のことだ、てっきりねちねちと種実を責めるものとばかり思っていたのだが」
「いやだなあ、そんなことしないってば。ぼくだって可愛い弟が無事でいてくれて嬉しいんだし、それに叱るのは春姉と隆姉に任せるって決めてたからね」
 可愛い、のあたりを強調する隆景に、ようやく立ち直った種実が実に複雑そうな表情を見せた。
 ちなみに種実は隆元を「隆姉さま」、元春を「春姉さま」と呼んで慕っているが、隆景は「姉さま」をつけず、普通に「隆景様」と呼んでいる。
 一番年が近いこと、性格がびみょーに合わないこと――色々あるが、要するに国を失った種実にとって、慕っている二人の姉の愛情を一身に受けて育った隆景が小憎らしかったのである。


 これが平時であれば、明らかに意趣を含む隆景の言葉に、種実も一つ二つ言い返したであろうが、現状では何も口に出来ない。それに正直にいえば、口げんかをするほどの余裕も残っていなかった。
 そんな種実に向け、元春が問いを向ける。
「種実、生き残っている将兵はいかほどだ?」
「は、はい、およそ百二十名です、怪我人も含めて」
「ならば全員に伝えよ。ただちに城を出るとな」
 その言葉に、種実のみならず秋月配下の将兵全員が驚愕の表情を浮かべた。
 種実が慌てて問いただす。
「し、城を出るといっても……大友が許さないでしょう? い、いえ、そもそもどうやって春姉さまたちはここまで来たのですか?」
「大友の許可を得てに決まっている――種実」
「は、はいッ!」
 元春の言葉に、言い様のない凄みを感じた種実は知らず背筋を伸ばしていた。




「秋月は此度の大友との戦に敗れた。そして、それは我ら毛利も同じこと。我らは筑前より手を引く。無論、古処山城も大友に引き渡す」
「なッ?!」
「不服か? だが、従ってもらうぞ。もし否というなら、我らの手勢でそなたらを破った上で、首に縄をつけてでも安芸に連れ帰る」
 あまりといえばあまりの言い草に、それまで状況がわからずに口を閉ざしていた深江が憤然と口を開きかけるが、それを大橋が制した。


 元春はといえば、そのやりとりに気がつかないはずもないだろうに、一向に気に留める様子もなく言葉を続けた。
「何故、我らが到着するまでに軍を動かしたのか。一家の主として、お前が考えたであろうことはわかるし、否定するつもりもない。だが、勝利に拠らねば、その主張には一文の価値さえないのだ」
 そう言って、眼差しに厳しさを加えて言葉を続ける。
「今回に限り、大友は我らを見逃す。その代償として、我らは筑前より手を引く。それが戸次殿との約定だ」
「……道雪とて、消耗しているはずです。春姉さまの毛利軍ならッ」
「今、手元にいるのは騎馬のみ三百。本隊はいまだ古処山にすら着いておらぬだろう。たしかに大友軍もずいぶんと疲労しているようだが、こちらも嵐の中、昼夜兼行で駆けつけた身だ。戸次殿が望めば我らを皆殺しにすることは容易いのだ、種実。戸次殿がそれをしない理由が、わからぬお前ではないだろう。そして、お前の請いを我らが受け入れる理由がないことも、だ」


 元春の言葉に、種実は声もなくうつむいた。
 そう、種実にはわかっていた。
 完全に種実を追い詰めていた大友が矛をおさめたのは、毛利の存在ゆえだ。この場にあらわれた元春や隆景は、現時点で脅威ではない。では大友は毛利の誰をはばかったのか。決まっている、安芸の毛利元就だ。
 秋月家が毛利家の援助を得ていることは周知の事実。ある意味で、この戦は毛利が大友になぐりかかったに等しい。だが、大友にとって腹に据えかねるであろうこの事実があってなお、大友は毛利元就をはばからねばならない。種実の命を助けることで、毛利に筑前から手を引かせることが出来るのならば安いものだ、と大友は――戸次道雪は考えたのだろう。
 つまりは、秋月家の当主としての種実に、道雪はその程度の価値しか認めていないということである。本当に種実や秋月を脅威に思っているのだとしたら、毛利が何を言おうとも断固として種実の命を奪おうとしたに違いない。


 一方の毛利が種実を救おうとするのは、個人的な情誼のためだ。だからこそ、元春たちはここまで来てくれた。逆に言えば、秋月家の当主が種実でなければ、あえて危険をおかして駆けつけてくれることはなかっただろう。
 大友と半ば重なる意味で、毛利もまた秋月家当主に価値を認めていないのである。そんな人間から戦を続けるように頼まれたところで頷く必要がどこにあろう。


 その上で元春はこう言ったのだ。
 両家にそう思わせたのは種実自身の選択と行動の結果である。それをわきまえろ、と。
 
 




 悄然とうつむく種実を見て、元春は再びその頭に手を伸ばす。さきほどとの違いは、その手が拳骨ではなかったこと。
 ぽん、と軽く撫でるように種実の頭に手を置いた元春は、かすかに微笑んだ。
「まあ私からの説教はこのあたりにしておこうか――よくもちこたえたな、種実。正直間に合わぬと思っていた」
「春姉さま……」
「ちなみに説教の続きは姉上がなさるだろう」
「……そ、それは、その、出来れば春姉さまにおとりなしいただきたいと切にお願いしたいんですけど……」
「諦めよ」
「うぅぅ……」
 あっさりと断言され、さらに深くうつむく種実。種々の経験から、怒ったときの隆元の怖さは骨身に染みて知っている種実だった。




 ここで怯むくらいなら、最初から毛利軍を待っていればよかったのに。 
 常であれば、ここらで隆景がそんな言葉を口にし、種実と剣呑な視線を交し合うことになっただろう。
 だが、今の隆景はそれどころではなかった。
 種実の無事を自分の目で確かめてからは、他のことに気をとられていたのである。
 隆景はつい先刻交わした会話を思い浮かべた。




◆◆◆




「ご協力感謝、というべきなのかな、そこの方」
 皮肉っぽく笑いながら隆景が話しかけると、その人物――天幕の外で実にわざとらしく会話していた父娘の父親の方――は、なんのことやら、という感じで首を傾げてみせた。
「さて、小早川殿に礼を言われるようなことをした覚えはありませんが」
「そっか、じゃあ礼は述べないでおくよ。それはそれとして、敵味方の集う天幕のすぐ外で、ああもあっけらかんと軍略を語るというのは、いささか無用心の謗りをまぬがれないと思うよ」
「まったく返す言葉がありませんね。思った以上に事態が好転していくので、少々動転していたようです」


 その言葉を聞くや、隆景の大きな目に鋭い光がよぎった。
「好転、ね。ぼくたちが手を引いたところで、筑前の騒乱がおさまるわけではないんだけど」
「なに、ご心配には及びませぬ。毛利家の方々をこの騒乱に引き込んだ不心得者たちは、間もなく制圧される頃でしょう。立花山城に篭城したところで、呼応する者がいなければ脅威にもなりませんよ」
 そう言うと、その男は嘲るように低い声で嗤った。
「先の豊前も、今回の筑前でも、毛利家は実にたくみに兵を退かれる。くわえて御身内を助けるためには無理をも通す。名だたる両川がそろっていらっしゃるとは思ってもみませんでした。それは実にお見事な心がけですが……」
 それは、別の見方をすれば、自家以外は失敗すれば切り捨てるということでもある。男はそう言った。


「先の小原、今回の立花、高橋、いずれも毛利に利用されて捨てられた哀れな家……内実はどうあれ、そう考える者はさぞ多いことでしょう。これだけ実例が続けば、毛利の助力を得ようとする者たちがどう考えるかは自明の理というものです。向後、毛利家が策動する余地はずいぶんと失われることになりましょうな」
 無論、と男は口元をゆがめた。
「これは一面から見てのこと、貴家にとってみれば、九国からいらぬ厄介事を持ち込まれることがなくなり、その都度兵を出す必要もなくなる――双方の御家にとってまさしく万々歳と申すべきです。秋月の若殿の命を助けることで、これだけの成果を得られるのですよ。あまりの都合の良い展開に動揺を禁じえなかったとしても、仕方ないとは思われませんか?」




 男との視線がぶつかった時、空中に火花が散らなかったのが隆景には不思議に思われた。
 知らず、隆景はわずかに腰を落としていた。すぐにも斬りかかれるように、あるいは斬りかかられても対応できるように。
 それは相手の男も同様のようで、隆景を見据える視線は、今や刃のそれに等しい。
 張り詰めた空気は、たちまちのうちに破裂寸前まで膨れ上がり――
「やめよ、隆景」
 隆景の肩に手を置きながら、元春が発した一言で、たちまち散じたのであった。


「でも、春姉ッ」
「落ち着け、ここで揉めて何もかも水泡に帰すつもりか」
 そう言われてしまえば、隆景としても口を閉ざすしかない。
 妹を抑えると、元春はおもむろに男に向かって問いかけた。
「それはそれとして、私も貴殿に伺いたいことがあったのだ。お答え願えようか?」
「吉川殿の求めであれば、応じぬわけにはいきますまい」
「先刻、貴殿は言っていたな。ここに来たのが我らでなければ、和睦以外の方法を考えたやもしれん、と」
「確かに申しましたな」
「あれはつまり、ここに来た者次第では、たとえ毛利がほどなく総攻撃をしかけてくるとわかっていても、始末する気だったということだろう――誰のことを指していたのだ?」


 そういえば、と隆景もその言葉を思い返す。 
 だが、毛利の両川以上の影響力を持つ人物など元就以外にいない。少なくとも、外から毛利を見るかぎりはそうとしか見えないはずだ。
 だが――
「毛利の要たる人が誰であるのか、あえてそれがしが口にせずともおわかりになられましょう? まあ答えるといった手前、お答えしますが……そうですね、それがしが仮に戦場で毛利の一族の誰かを討つ機会に恵まれたとしたら、迷うことなくその人物を討とうといたしますよ」


 その人物――毛利隆元を。
 男はそう言って小さく嗤った。






 その言葉を聞いた瞬間、隆景はそれまでの擬態をかなぐりすて、本気の敵意を男に向けてしまった。それまでの底の浅いものではなく、歴戦の武将がおもわず怖気をふるいかねないほどの濃密な敵意である。
 すぐに気づいて、それまでと変わらない態度を装ったのだが、男の苦笑じみた表情を見るに、それも無駄であるように思われた。



 やがて口を開いたのは男でも隆景でもなく、元春だった。誰よりも先に敬愛する姉を討つと言明した敵将を前に、元春の目にはどこか面白そうな光が浮かんでいる。
「なるほど、な。聞くべきことは聞けた。これで失礼するとしよう。名をうかがってもよいか?」
「雲居筑前。戸次家の客将にござる」
「その名、おぼえておこう。いくぞ、隆景」
「あ、うん、春姉」
 雲居の名を聞くや、すぐに元春は踵を返す。隆景は雲居に警戒の一瞥をくれてから、すぐにその後を追った。





 二人の背を見ながら、雲居もまた踵を返そうとした、その寸前。
 まるでそれを見計らったかのように、元春が雲居の方を見ずに声だけ投げかけた。
「雲居殿、軍略は知らず、芝居の才は貴殿には乏しかろう。あまり無理をせぬことだ。まあそれはこちらにも言えることだが」


 返答は返ってこなかった。






◆◆◆






 あの場の状況を思い返し、考え込む隆景に気づいたのか、種実との話を終えた元春が声をかけてくる。
 あるいはとうに隆景の内心を察していたのかもしれない。前置きもなしに言ってきた。
「どう見た?」
 主語を省いた問いかけだったが、隆景もあえて確認する必要を認めず、あっさりと返答した。
「たぶん、間違いないね」
「ふむ、種実や豊後殿が言うには、雲居なる名に聞き覚えはないそうだが、此度の戦で妙に手ごわい敵将がいたらしい」
「豊前で見せた大友の妙な動き、義母上と隆姉が気にかけていた『何か』、全部が全部そうだとは言わないけど、少なくとも無関係ってことはないよ。ぼくはそう思う」


 隆景の言葉に、元春も異論はなかった。
「毛利の要が、我らでも義母上でもなく、姉上だと見ぬいている時点ですでに只者ではない。それに、隆景の小芝居も見抜いていたようだしな」
「……否定はしないけどさ。猿芝居って言われないだけましなんだよね、きっと」
 ふん、とすねたようにそっぽを向く隆景。


 雲居という人物がこちらの敵意を煽ろうとしていると察した隆景は、あえてそれに乗ってみせることで、小早川隆景くみし易しの印象を与えようとしたのである。
 それで相手が隆景を、引いては毛利家を侮ってくれればしめたもの、と考えたのだが、あの一瞬、姉隆元を討つと口にされたときだけは素の感情をむき出しにしてしまったのだ。
 しまった、と内心で臍をかむ隆景だったが、元春は別に気にする必要はないという。挑発を仕掛けてきた段階で、隆景の芝居は半ば見抜かれていたのだろう、と。
 その姉の言葉に反論することは出来そうもなかった。


「しかし、ふむ、口先だけではなく、将としても秀でているとなれば厄介な相手だな」
「雲居って名前に聞き覚えある、春姉?」
「これといって心当たりはないな。とはいえ、あの若さだ、先の戦から新たに戸次殿に登用されたのであれば、名前が知られておらずとも不思議ではあるまい」
「若いっていっても、ぼくたちよりは年上だろうけどね。ま、正体が知れれば対応も出来るし、むしろ今の時点で存在が明らかになってよかったのかもしれない。戸次家の客将なら、手の長さも知れたものだし、付け入る隙はいくらでもあるからね。その意味では種実の独走も無駄じゃなかったってことかな」


 その隆景の言葉に、元春は短く苦笑する。
「それは種実には言うなよ、傷口に塩を塗るようなものだ」
「そこまで鬼じゃありません」





 
◆◆◆






 休松城、大友軍本営。
 毛利、秋月の両軍が城を出て行くのを眺めながら、俺は何度目のことか、深いため息を吐いた。
 すると、傍らにいた道雪殿が不思議そうに問いかけてくる。
「どうしました、筑前殿。さきほどから、なにやら打ち萎れているようですが?」
「あ、いえ、なんでもな――」
「毛利軍に油断ならぬ策士の印象を植え付けようとがんばってはみたものの、あっさりと見抜かれた挙句、芝居の才はないと断言されて傷心の真っ只中なのです、戸次様」
 なんでもない、と答えようとしたら、反対側にいた吉継があっさりと理由を暴露しやがってくださいました。


 応じて道雪殿がなるほど、と頷く。
「ああ、そうでしたか。たしかにあの天幕での、いささか不自然な会話はわたしもどんなものかと思いましたけれど」
「私も、顔を頭巾で覆っていることに心から感謝したのははじめてでした」
「しかし、努力はその結果ではなく、為したこと自体に意味を持つのです。筑前殿と吉継殿が大友のために努めてくれたこと、わたしはとても嬉しく思いますよ」
「ありがたきお言葉です。しかし、お義父様はどうもご自分の演技力に並々ならぬ自信があったらしく、戸次様のお言葉も届くかどうか」
「その自信の源は何なのでしょうね?」
「なんでも、小野様に芝居の才を褒められたことがあったとか」
「それは判定する者に問題があったとしか言いようがありませんね」
「同感でございます」
 …………泣いても良いですか?



「ところで。冗談はさておき、筑前殿」
「…………なんでしょうかべっきさま」
 枯渇寸前の生命力をかき集めて返答する俺に、吉継が苦言を呈した。
「お義父様、死んだ魚のような目をしていないで、きちんと戸次様のお話をうかがってください」
「…………だれのせいだとおもってるんだだれの」
 というか、俺に何かうらみでもあるのか、娘よ。
「何をばかなことを。敬愛するお義父様に恨みなどあろうはずがないではありませんか。猿芝居に付き合わされたことなど気にしておりませんし、まして意趣返しをするなどありえぬことです」
「打ち合わせもなしに、見事な息の合い方だったと思うんだが」
「あらかじめ言っておいてくれたら、その時点で断固反対してました――息が合っていたのは否定しませんが」
「むう」



 何やら怒りの冷めやらない様子の吉継に、俺は戸惑った。思いついたときには良いアイデアだと思ったんだが、などと考えていると、道雪殿が口元に手をあてて笑いを堪えながら、こちらを見ていることに気づく。
「っと、申し訳ありません、お話の途中に」
「ふふ、仲がよろしくて結構なことです。ともあれ、これで秋月と毛利は片付いたと見て良いでしょう。あの方々の為人を見るに、約定を反故にするとは考えにくいですから」
「はい」
 道雪殿の言葉に、俺は頷いた。
 吉川元春と小早川隆景の二将は、おおよそ俺の考えていたとおりの為人だった。男女の別を問わず、できれば戦場では会いたくない類の人たちだが、一度交わした約定を違えるような人物ではないだろう。


「ゆえに、鑑載殿、鑑種殿の始末に向かわねばなりません。本格的に動くのは、紹運たちからの知らせが届いてからのことになりますが、あらかじめ部隊は宝満城に向けて動かそうと思います」
「それがよろしいでしょう」
 その方が、いずれの方角に動くにせよ、素早く部隊を展開できる。
 そう考える俺に、道雪殿は新たな命令を下した。
「宝満城の城主北原殿は、鑑種殿が敗れれば、おとなしく城を明け渡すでしょう。かりに紹運らが敗れたとしても、こちらが高橋家の裏切りに気づいていないと思わせることで、隙をつくることもできます。筑前殿は岩屋、宝満落城の後にと言っていましたが、もう構わないでしょう。肥前へ発っていただけますか?」


 ここからまっすぐ肥前へ向かうには、どうあっても高橋家の領内を通らなければならないが、一度筑後へ抜ければ、大友領内を通りながら肥前へ入ることが出来る。
 確かにここまでくれば筑前での戦はほぼ終わったと見て良いだろうし、良い頃合かもしれない。
 そう考え、俺が承知した旨を伝えると、道雪殿の口から思わぬ言葉が出てきた。
「そうそう、それと筑前殿も吉継殿も筑後の地理には詳しくないでしょうから、案内役として誾をつけますので、よろしくお願いしますね」


 実にあっさりとそう告げる道雪殿を前に、思わず固まる俺。
「……いや、よろしくって、あの道雪様?」
 かりにも一家の嫡子を道案内って、役不足も甚だしいというものではないでしょうか?
「獅子はわが子の成長を願い、千尋の谷に叩き落すというではありませんか」
「いつから肥前は千尋の谷にたとえられるような魔境になったのでしょうか……?」
「なんでも隆信殿は生身で熊を倒した豪傑であり、常にその熊皮を身にまとっておられるとか」
「なんと?!」
 それは知らなかった。熊殺しとはおそろしや。
「その軍師である鍋島直茂殿は鬼面の人物と聞きますし」
「それは存じておりますが……」
「中でもおそるべきは、成松、百武、江里口、円城寺、木下の四天王です」
「それも存じております……って、あれ?」
 なんか数があわないような?
「気がつきましたか。そう、五人なのに四天王なのです……」
 道雪殿はどこか緊張した面持ちで、指折り肥前の不思議を数え上げる。
「熊殺し、鬼面、そして五人なのに四天王。肥前が、凡人には理解できぬ不可思議な理が支配する魔境だと判断することに、何の不思議があるというのですか?」
「……どうしよう、なんか否定できない……」
「というわけで、誾のこと、お願いしますね、筑前殿」
「かしこまりました……ん?」
 首をかしげながらも、俺は道雪殿の言葉に頷いていた。傍らの吉継の深いため息が、何故か耳に痛かった。








◆◆◆







 それからしばし後。
 安見ヶ城山から北東の方角へ、毛利、秋月の軍勢が引き上げていく。
 その様子を小高い丘から望む一人の少女の姿があった。
「元就公に取り入るには良い機会だと思ったのですが……なんだか妙な展開になっているようですね」


 嵐が去り、見事に晴れ渡った空の下。
 どうしましょうか、と少女は馬上で呟いた。
 すらりとした長身に浅葱色の着物がよく映えた少女だった。商人のような目利きでなくとも、その着物がきわめて高価な布地であることは誰の目にも明らかだったろう。
 だが、それよりも驚くべきは、目と鼻の先で人死が出ている戦場で、それほどの高価な装束をまとっている少女の神経の方だったかもしれない。
 金目の物目当てに戦場を徘徊する者などめずらしくもない。わずかでも高価だと思われる物を身につけていれば、いつ何時襲われるとも限らないのだから。


 まして少女のように、人目を惹くに足りる端整な目鼻立ちの女性であれば、別の意味でも危険は増す。
 だが、腰に差した大小の刀がもたらす自信ゆえか、少女はそういった危険をまったく意に介している様子を見せなかった。
 不意に吹き寄せる風に、少女の長い黒髪が宙にたなびく。左の手で髪を軽くおさえ、少女が何やら考え込む。


「元就公に近づくためには、あの人たちを追うべきなのでしょうが、どうみても負けてますよね、あれ。元就公自身が敗れたというわけではないですから、気にすることもないのかもしれませんが、やはり敗軍に学ぶというのは面白くありません」
 そうすると、答えは一つ、ということになる。
「どの道、殿から逼塞を言い渡された身、時間はいくらでもあります。大友が駄目なのであれば、あらためて毛利に向かえば良い。まずは思うがままに行動してみましょうか」


 この場に少女の従者や弟子がいれば、それ以前に逼塞の身で堂々と出歩くな、と口をすっぱくして説いたであろうが、幸いここには少女しかいない。
 物心ついてから、当たり前のように聞いていた口うるさい諫言がないというのは、存外楽しいものだ、と少女は花が咲くような笑みを浮かべながら思った。



 その少女の目に、再び兵馬の群れが映し出される。
 だが、今度は先刻のそれよりもはるかに小規模の部隊だった。
 おそらく百騎もいない。進む方向も、さきほどの毛利軍とはほぼ正反対の方角だ。あのまま進めば筑後、さらにすすめば少女の生国である肥後に達するだろう。


 ふむ、とその兵馬の一団を見ていた少女は、不意にこくりと頷くと、誰にともなく呟いた。
「うん、決めました」
 そういって、軽く馬腹を蹴る。ただそれだけで騎手の意を感じ取った馬が、軽やかに大地を蹴った。


「きっと、あっちの方が面白いです」
 
 




[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第五章 剣聖(一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:9e91782e
Date: 2010/11/26 23:10
 
 
 筑前国休松城。
 忙しげに、だが整然と宝満城へ向かう準備を整えている大友軍の陣中で、十時連貞はやや戸惑いながら主君に問いかけていた。
「……道雪様、よろしかったのですか?」
 その連貞の言葉が、秋月、毛利を見逃した判断のことを指しているわけではないことを、道雪はすぐさま看取する。
「かまいません。可愛い子には旅をさせよというでしょう、連貞?」
 道雪が微笑むと、連貞は困惑したように口を噤む。言いたいことは多々あれど、どれを口にするべきか、その選択に悩んでいる様子であった。



 無論、連貞が案じているのは、肥前に向かう雲居筑前の案内役として、道雪が戸次家の嫡子である誾をつけたことである。
 肥前の竜造寺は毛利の誘いに乗って大兵を動員したという。いわば今回の雲居の使いは敵国へのそれにあたり、それがどれだけ危険なものであるかは言うまでもないだろう。最悪の場合、即座にとらえられて首を刎ねられる恐れさえあるのだ。
 おそらく雲居のことだから、そのあたりは十分に配慮するだろうが、それでも危険であることに違いはない。


 くわえて言えば、誾という少年の特異な立場が、この件を厄介なものにする可能性がある。大友宗麟が亡き親友の子である誾のことを、特に気にかけているのは夙に有名な話である。一時は、わが子にと宗麟が望んだ人物を、危険な敵国への使者に出したなどと知られたら、道雪に隔意を抱く者たちがどう動くかわかったものではなかった。


 さらに連貞が気にかけているのは、このところ誾が示していた雲居筑前への明らかな警戒心である。誾は表に出さないように気をつけていたようだが、物慣れた者たちにしてみれば、誾の内心は掌を指すように明らかであった。当然、雲居も承知していることだろう。
 みずからに隔意を示す少年を、雲居はどう見ているのか。さらには、その少年を敵国への案内役につけた道雪の意図をどう考えているのか。
 連貞の心配の種はあっちこっちに散らばっており、そのどれもが座視して良いものではなかったのである。



「連貞」
「はッ」
「もう少し肩の力をお抜きなさい。まだ心配性になるような年でもないでしょう。今からその調子では、十も年を重ねた頃には頭髪が寂しくなってしまいますよ?」
「……は、はぁ」
 道雪の戯言に何と言葉を返してよいかわからず、連貞はあいまいに頷いて黙り込む。
 連貞は元々多弁な性質ではないし、主である道雪への遠慮もある。気の利いた切りかえしなど望むべくもなく、それは連貞自身が自覚するところであった。実のところ、いつも軽妙に道雪とわたりあっている雲居にこっそり尊敬の念さえ抱いてる連貞である。


 無論、道雪も連貞がそういう為人であることは十分に理解しているし、またそれでこそ連貞であるとも思っている。
 戯言を口にした詫びというわけでもないが、配下の心配を散じるために、道雪は言葉を続けた。
「諸事、目が行き届く連貞のことです、吉継殿の変化には気づいているでしょう?」
「は、それは確かに」
 諸事に目が行き届く、は過分な言い方ではあるが、確かに連貞は大谷吉継の変化には気がついていた。
 といっても、連貞はことさら吉継と親交があったわけではない。豊前での戦を共にしてから――つまりは一ヶ月にも満たない短い付き合いだ。
 だが、そのわずかな期間であっても、吉継の変化は明らかであるように連貞には思われる。
 はじめて会った時、吉継の固く張り詰めた雰囲気と寡黙な為人は、連貞に自分と似たものを感じさせたものだが、今では張り詰めた雰囲気などどこへやら、寡黙な為人に至っては夢か幻か、というほどの変貌ぶりである。いっそ姿形が同じ別人だと言われても、連貞は不思議には思わなかっただろう。


 連貞の内心を察したのか、道雪は愉快そうに微笑んだ。
 だが、すぐに表情を改め、その眼差しに切なげなものを宿す。
「大友は、多くの人々を巻き添えにして陥穽に陥ってしまいました。吉継殿はその一人。どれだけの器量を持とうとも、同じ陥穽に陥った身では救うには限界があります」
 だからこそ、あの石宗さえ、本当の意味で吉継を救い上げることはできなかった。それをするためには、なによりもまず大友家の外にいる人でなければならなかったからだ。
 無論、本人に這い上がるだけの器量が必要なことは言うまでもない。


「その意味で、誾もまた吉継殿と同様なのです。ただあの子の場合、大友家そのものが身体にまとわりついてしまっています。救い上げるのは容易なことではないでしょう。内から這い上がる者も、外から手を引く者も」
「……道雪様は、雲居殿に外から手を差し伸べる役割を期待しておいでですか?」
「出来ればそうなってほしいとは思っています。けれど、今の誾は陥穽の底ばかりを見つめてしまっている。かりに外から手を伸ばされたところで、それに気づくことさえ出来ないでしょう。まず、あの子が顔をあげねば話は進みません。そこに気づかせてあげるのは、本来、わたしの役割なのですけれど――」
 今の道雪は、穴の奥底へと沈み行く大友家を双肩に担う身である。それはつまり、道雪自身もまた誾にとって……



 道雪は浮かび上がるその思いを振り切るようにかぶりを振った。
 それは、どれだけ考えても詮無いことだったから。かりにそのとおりだとしたところで、道雪が誾に向ける情愛も、そのための行動も、何ひとつかわることはないのだから。
「――外からの風を感じれば、顔をあげる切っ掛けにもなりましょう。そのためには、わずかなりと大友から離れた方が良いのかもしれない。そう思ったのですよ」
「……御意」
 その言葉と、内に秘めた道雪の思いを察した連貞は、気の利いたことを口にすることもできず、またしようとも思わず、ただ静かに頭を下げるのだった。





◆◆◆





 なんというか、壮絶なまでの仏頂面だった。
 誰が、と問われれば、俺はこう答えるしかない――戸次家の嫡子、戸次誾殿が、である。 
 どのくらい壮絶かというと、配下の将兵がまったく声をかけられないくらいである。
 元々、他人と気安く接するような為人ではなかったが、それでもここまで露骨に他者を拒むのはめずらしい、と戸次家の家臣たちは目顔で語り合っていた。


 とはいえ、彼らにも、また俺にも誾が不機嫌になっている理由は推測できた。ただ、厄介な点はそれがわかっても問題解決には何の役にも立たないということなわけで……
 などと考えていたら、当の誾が声をかけてきた。
「……雲居殿」
「は、な、何でござろうか」
 思わず動揺してしまったが、誾は気にかける素振りを見せずに言葉を続ける。
「そろそろ日が暮れます。伯耆守様より肥前への案内を務めるよう申し渡されましたが、それがいかなる用向きかは伺っておりません。ゆえにおたずねしますが、火急の用向きなのでしょうか? もしそうであればこのまま夜行します。しかし、一刻を争う用向きでないのなら、兵を休ませるべきと考えますが」




 道雪殿から預かった戸次家の兵は休松城に立てこもった戸次家の精鋭であり、さらに言えばほとんどが俺が指揮した隊から選ばれた兵士である。馬に乗れて、かつ若い兵士が多いのは、強行軍に備えてのことだ。ちなみに馬に関しては、筑前の軍が置いてきぼりにした軍馬をありがたく頂戴したのである。
 それらの中から長い騎行に耐えられそうな馬を厳選して発ったわけだが、馬はともかく、それに乗る兵士たちは、若いとはいえ篭城戦の疲労を色濃く残している。そして、戦が終わるや即座に出発させられた彼らの内心は推して知るべしであった。不平不満を表立って口にする者はいなかったが、誾の言うとおり、休める時に休んでおくべきだろう。
 無理して走り続けた挙句、疲労困憊のところを強襲されでもしたら洒落にならん。


 実際、肥前への使いは急ぎではあっても、一刻を争わなければならないものでもなかったから、俺は誾の提言に頷いた。
 それを見た将兵の顔に、明らかにほっとしたものが漂う。口に出さずとも、誾が兵士たちの疲労具合をはかっていたことが良くわかった。
 どれだけ俺が気に食わなくても、課せられた責務はきっちりと果たし、さらに(限りなく表面だけとはいえ)相手への礼儀も失わない。それも慇懃無礼に振舞うわけではなく、ちゃんと礼儀を尽くすのである――より正確に言えば、礼儀を尽くそうと努力している様子がありありと見て取れる、というところだが。


 つまり何が言いたいかというと、この戸次誾という少年、実に好感の持てる人物なのである。
 これが俺への敵意をあからさまにするだけだったり、露骨に不満を示して、こちらの不快を煽ったりするような人物であれば、俺も相応の態度をとるだけなのだが。
 懸命に俺への不審と懐疑をあからさまにしないよう努め、かつ義母から受けた任務を誠実にこなそうと務める姿は、微笑みなしには見ていられない。


 年に似合わず、私的な感情と公的な役割を切り離すことができるのは道雪殿の薫陶なのだろう。
 俺への懐疑はかなり根深いものがあるらしく、戦場を共にした後でも態度に変化は見られない――というか、ますます硬化してしまった観があるのだが、それでも俺がこの少年を嫌いになれない理由はそういったところにあった。
 まあ、あからさまに俺が好意を示すと、誾は逆に馬鹿にされたと思い、さらに態度を硬化させてしまいかねないので、距離のとり方に苦労していたりするのだが。




◆◆◆




 そして夜になり。
 大友軍は数名の夜番を立てて、大半が眠りに就いていた。その中には吉継も含まれている。
 やはり先夜来の連戦で相当疲労が溜まっていたらしく、天幕で横になった瞬間、ほとんど一瞬で眠りに落ちていた。
「――というわけで、心遣い感謝いたします、戸次様。私が口にしたところで、あれは頷かなかったでしょうから」
「……別に、貴殿の息女を思いやって口にしたわけではありません。謝辞など不要です」
 そう言うと、誾は口をへの字に結んで、また黙り込んでしまった。



 そう。何故か俺と誾は同じ時刻の夜番にあたってしまったのである。決して礼を述べるために俺が調整した結果ではない。
 ではないのだが、やはりこういう機会は利用すべきだろう。色々な意味で。
(とはいえ、こうも相手が頑なだと、話しかける糸口すら掴めないな)
 周囲に警戒の視線をはしらせつつ、夜闇にも明らかな「話しかけるな」オーラを放出する誾の姿に、俺は苦笑を禁じえなかった。
 小柄な身体に重々しい甲冑を身につけた姿は、子供が無理して武士の真似をしているようにも見える。やや長めの髪を首の後ろで一つに束ねているので、見ようによっては「子供」の部分を「女性」に変えても可。ただし、どちらにしても、本人にばれたらただでは済むまいが。


 そんなことを考えていたら、まるで俺の内心を察したかのように、誾から鋭すぎる一瞥を投げかけられ、俺は慌てて前方の闇に視線を据えなおした。
 そうやってごまかしたのは事実だが、それだけではない。実際、いつ大友家に敵対する筑前の軍勢があらわれても不思議ではないので、夜番はしっかり務める必要があったのである。
 大方は先の戦いで逃げ散り、もう反抗する気力も残っていないだろうが、例外というのはどこにでもいるものだ。少人数で移動する大友軍であれば、捕捉も撃滅も難しくはないと考える者がいないとは限らなかった。 






 それから、どれだけの時間が過ぎたのか。
 もうすぐ交代の刻限か、と思った俺の耳に不意に奇妙な音が飛び込んできた。
 嵐の名残か、時折吹く強い風が木々をざわめかせる音――ではない。夜行性の動物がたてていると思われる草木の揺れる音でもない。
 それは――
「笛、か?」
 思わず呟いた俺に、誾が不審そうな眼差しを向けてくる。
「どうされたのです、雲居殿?」
「いや、今、笛の音のようなものが聞こえませんでしたか?」


 俺の言葉に、かがり火に照らされた誾の顔が顰められたのがわかった。
 何を馬鹿な、とでも言いたげに口を開こうとした誾だったが、次の瞬間、その表情が驚きにとってかわられた。誾の耳にも届いたのだろう。
 風の悪戯、あるいは動物の鳴き声と間違う可能性はなかった。何故なら、その音には奏者の明らかな意思が感じられたからだ。


 時に高く、時に低く。
 時雨のように侘しいかと思えば、野分のように猛々しく奏でられる音の連なり。
 芸術にはとんと疎い俺には、その曲が何なのかすらわからなかったが、それでも奏者は卓越した技量の持ち主だと確信する。それほどのものが、そこにはあった。



 思わず聞きほれてしまいそうになったが、冷静に考えると妙な話だ。
 これほどの腕前の持ち主が、戦場からほど遠からぬこの場所でのんきに笛を吹いているものだろうか。
 夜襲に先立ち、敵の注意を惹き付けるために音楽を用いることがないわけではない。
「とはいえ……まさかどこで吹いているかもわからない人間を探すために、皆をたたき起こすわけにもいかんしなあ」
 俺の呟きに、誾が眉をひそめながら声をかけてくる。
「それでよろしいのですか? 何かの合図である可能性もありますが」
「合図なら、こちらにそれとわからぬような工夫をするのではないですかね。かりに合図だとしても、警戒を解かなければ対処は出来るでしょう」
「……それが将の決断であれば従いましょう」
 不服そうではあったが、誾は頷いてそう言った。


 正直、誾の心配もわからないではない。
 だが――と、俺は上空を仰ぎ見る。そこには煌々と月が輝いている。一見、満月のように見えるが、ほんのわずか欠けている。おそらく、月が満ちるのは明日だろう。
 それでも月明かりがあるのは間違いない。音の源を辿っていけば、奏者を探すことも不可能ではないだろうが、夜の闇を裂いて草木も眠るこの時刻にそこまでする必要もないだろうと思うのだ。
 そんなことを考えていると、名も知らぬ奏者は一曲吹き終えて満足したのか、笛の音はぴたりと止み、その後、再び吹かれることはなかったのである。




 ――この日は。





◆◆◆






 明けて翌日。
 大友軍は筑前を抜け、筑後に入った。
 筑後は蒲池鑑盛を筆頭とした大友勢力が支配しているが、先ごろ国人衆の激しい反抗があったところを見てもわかるように、その支配は決して磐石なものではなかった。
 従って、案内役である誾は、筑後に入っても警戒を緩めることなく、肥前を目指して最も危険が少ないと思われる経路をとった。


 誾が筑後の地理に通じているのは、鑑盛をはじめとした筑後の大友家臣の下へ道雪の使者として幾度も赴いたことがあったからであるが、先の叛乱以降、誾が筑後をおとずれるのははじめてであり、諸勢力の動向には過敏にならざるを得なかった。
 出発にあたって、道雪から一応の情報は教えられているとはいえ、その道雪にしたところで筑後の叛乱を鎮めた後は鑑盛に後始末を委ねて帰国した身であり、教えられた情報を盲信するわけにもいかなかったのである。


 そんな誾の慎重さが活きたのか、あるいは思った以上に先の叛乱での痛手が大きかったのか、筑後の反大友勢力にぶつかることなく、大友軍は二日目の夜を迎えることが出来た。
 この時期、九国といえども夜は冷え込むことが多いのだが、野分が南の暖かい風を運んできたのか、時が二ヶ月ほど戻ったかのように暖かい。
 どのくらい暖かかったかというと、調子に乗った雲居筑前が、兵糧を腹に入れた後、兵たちに囃し立てられて近くの小川に飛び込んだほどだった。


 小なりとはいえ一軍を率いる将にあるまじき所業であり、誾は言語道断だと激昂する寸前だったのだが、何故だか兵士たちは大喝采で、誾は怒る機を逸してしまった。
 あるいは調子に乗ったわけではなく、他に何か理由があったのかもしれない。聞くとはなしに聞いていたところ、自分で飛び込んだわけではなく、彼の娘が突き落としていたとか、いないとか――まあ、誾にとっては心底どうでも良いことなのだが。

 
 当然というかなんというか、小川の水は晩秋の水温のままだったので、雲居は現在寒さに震えて暖をとっている真っ最中である。本当に心底あきれ果てる。
 しかし、今も誾と共に歩哨にたっている兵士たちは、笑いをこらえきれずに先刻の有様を話し合っていた。そこにあるのは好意的な感情であり、誾のように怒りを覚えている者は見当たらない。


 何故だろう、と誾は困惑を押し隠しつつ、胸中でそう呟く。
 それは一言でいって、雲居がすでに戸次家の兵士の信望を得ているから、ということになるのだろう。確かに休松城における雲居の奮戦は目覚しいものであったし、誾にしても雲居を見る目を改めなければ、とも思っている。
 であれば、さきほどの行いも所詮は悪ふざけ、一々目くじらを立てるほどではないと受け流せそうなものだが、誾はどうしても兵士たちのように考えることはできそうもなかった。




 それが何故なのか。
 誾がそのことに思いを及ばそうとした時、不意に先夜と同じ笛の音が響いた。それも、先夜とは比べ物にならないほどの近くから。
 それを聞いた瞬間、誾は背筋に悪寒を覚えた。
 近くの兵士は昨日の笛を聞いていないか、あるいはここでその音が聞こえる――その意味に気づいていないのだろう。ほう、という顔をしつつ、音の方に視線を向けるだけだった。


 無論、誾はそれどころではない。
 夜半に響いた笛の音が頭に引っかかっていた誾は、道を先行しつつ後方にも常に注意を向けていた。殿(しんがり)の部隊には追尾する者がいないか、常に気をつけるように頼んでいたのである。
 結果、大友軍を追っている者はいないとのことだった。騎馬のみの部隊が、休息をはさみつつもほとんど一日中移動し続けていたのだ。追おうとしても追えるものではない、と苦笑しつつ話す殿の言葉を否定する要素は何もなかった。


 にも関わらず。
 今、先夜と同じ笛の音を聞いている。その意味は――
 そんな誾の考えを遮るように、兵士たちが驚きの声をあげる。
「……ほう、このご時勢に白拍子というわけでもあるまいが」
 彼らの視線の先には、笛を口にあてて、ゆっくりとこちらに歩み寄る女性の姿があった。その背には、まるであらかじめ計算していたかのように満月が黄金色の光を注いでいる。
 近づくにつれて明らかになる女性の容姿は鮮麗にして、笛を吹くその姿は優美。誾でさえ、一瞬、見とれてしまうほどに美しかった。




 だが、さすがというべきか、戸次の将兵は女性の登場に呆けていたりはしなかった。
 普段よりは多少鈍い反応ながら、警戒の視線を女性に向ける。それでも、さすがにまだ刀槍を構えている者はいなかった。
 すると、笛の音がぴたりと止んだ。昨日と異なり、曲はまだ続いていたにも関わらず。それはすなわち、女性が笛を止めるに足る価値を戸次軍に見出したということであった。


 無論、そんな機微を戸次軍がわかるはずもない。
 誾が鋭く誰何の声を浴びせる。
「何者だッ?!」
「曲者です」
 いっそ軽やかに返答する女性。
 誾がどんな返答を予測していたにせよ、これは予測の外だった。


 思わず絶句する誾を前に、女性は持っていた笛を丁寧に袋に入れて懐にしまうと、ごく自然な動作で腰の刀を抜き放った。
 鎧兜をつけず、あでやかな着物姿のままに刀を構える女性。


 普段であれば、こんな相手を前にすれば、悪ふざけはやめろと叱声を浴びせ、きつい灸を据えるところだった。しかし、今、誾も兵士たちも等しく息を呑んで黙りこむしかない。
 鬼道雪に従い、数々の戦場を馳駆した戸次家の精鋭にはわかった。わかってしまった。
 たとえこの場にいる者たちが束になってかかったところで、眼前に立つ女性にはかなわないのだ、と。


「……くッ」
 誾もまた、それを理解した。せざるを得なかった。刀を構えた相手にここまで威圧されたのは、姉と慕う吉弘紹運以来だったから。
 ただ、それでも誾が怖じることなく刀を抜き放つことが出来たのは、その経験があったからこそだろう。
 そして、その鞘走りの音は、凍り付いていた他の兵士をも解き放つ効果を持っていたのである。





 自らの前に連なる刀槍の輝きに、しかし、女性はむしろ満足そうに頷いていた。
「うん、合格です。さすがは音にきこえた大友軍。進軍の速さといい、警戒ぶりといい、実に良い。ここで此方に怖じちゃうようだと減点かなと思いましたが、末端の兵もしっかりと戦意を保っていますね。錬度もよし、と。さて、あとは部隊を率いる将の為人ですけど……名乗った以上、ここはやっぱり曲者らしくいきましょうか」
 そう言うと、女性は刀を構えた。
 正眼でも上段でも下段でもない、誾が見たこともない構え。八相の構えにも似ていたが、それにしては型が崩れているように見える。
 我流か、と誾が考えていると、女性は少し首を傾げつつ、こんなことを言ってきた。


 
「そうそう、一つだけ忠告を。あなた方なら大丈夫だとは思いますけど、女だと思って甘く見たり、殺さずに捕らえようなんて考えないでくださいね? 死ぬ気でかかってこないと、死んじゃいますよ?」
 あっけらかんと言い切る女性に、誾をはじめとした大友軍の将兵は思わず唖然となる。
 だが、女性はそんな誾たちの様子を気にも留めず、むしろ言うべきことは言い終えたとばかりに、いっそ清清しささえ感じさせる顔で、大音声に呼ばわったのである。



「それでは丸目蔵人、大友軍を押し通らせていただきますッ!」

  
 



[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第五章 剣聖(二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:9e91782e
Date: 2010/11/28 21:45
 娘に「寝顔が可愛かった」といったら川に叩き込まれたでござる。


 くしゅ、とくしゃみをしながら、世の不条理について思いを及ぼしていると、隣で焚き火に枯れ枝をくべていた吉継が、不服そうに声をあげた。
「事態を四捨五入しすぎです、お義父様」
「大筋では間違っていないと思うんだが」
「それは、そうかもしれませんが。そもそも娘の寝顔がどうのと、兵たちの前で言うことですか。一応いっておきますが、私は病で顔を隠してることになってるんですからね」
 吉継はそう言うが、ぶっちゃけもうその設定は色々な意味で破綻していると思われます。


 吉継もそれを自覚しているのか、声に苦笑が混じった。
「……まあ休松城では素顔を晒して散々戦いましたから、戸次様の部隊には知れ渡ってしまっているとは思いますが。それにしたところで、兵たちが騒いだのはお義父様が無用に私に対する褒詞を積み重ねたからでしょう」
「ことごとく本心だったんだけどなあ」
「挙句、騒ぐ兵たちを前に『娘は誰にもやらんぞッ』と断言したのも本心だったのですか?」
「あれは一度言ってみたかった台詞だった」
「……やはりあの時、早急に頭を冷やしてもらわねば、と私が判断したのは間違いではありませんでした」


 とはいえ、と吉継は小さく身を縮めつつ、俺に頭を下げた。
「いかに今日は暖かかったとはいえ、川に叩き込んだのはやりすぎでした……ごめんなさい、お義父様」
「気にするな。かわりに豊後に帰ったら父娘仲良く風呂に入れると思えばやすいもの」
「……まったくもって初耳なのですが、いつのまにそのような話になっていたのですか?」
「いや、この際だからもう少し互いの距離を縮めようかと。そのためには裸の付き合いが一番だと思うのだよ」
「明らかに言葉の解釈を間違っています……というか、この前もなんかそんなこと言ってましたが、まさかとは思いますけど、あちこちで似たようなことを言ってたりしませんよね?」
「こんなことを言うのは吉継だけだ」
「……真顔で断言されるのも、それはそれで困ります」
「まさか道雪様に髪を洗わせてくださいとも言えないだろ?」
「……今度は氷風呂に叩き込んでさしあげましょうか?」





 川に叩き込まれたため、当然ながら今の俺は全身濡れねずみである。輜重隊でもいればともかく、騎馬隊のみで肥前に急行している今、替えの服などあるわけがない。
 よって服が乾くまでは褌一つで立ち尽くしていなければならない。
 とはいえ、だ。
 今日はこの季節にしてはかなり暖かかったのだが、日が落ちれば、やはりそれなりに冷え込んでくる。少なくとも服を着ずに平然と過ごせる気温ではない。
 ここで病で倒れたとか言ったら本気で洒落にならないので、天幕用の布地を適当に切ったやつを羽織り、吉継と戯れながら、服が乾くのを待っているのである。


 幸い天気が崩れる様子もない。吉継に聞いても、明日一杯は晴れるだろうとのこと。どのあたりで判断するのかと聞くと、月にかかる雲と、その流れる速さがどうとか、風が含む水の匂いがどうとか教えてくれたのだが、うむ、さっぱりわからん。まあ天気が崩れないのなら、明日の出立までには服も乾くだろう。
 唯一、心配なのは今ここで敵に襲われることなのだが、まあ今日は満月だし、夜襲にはもっとも向かない日である。心配はいらないだろう。



 そんなことを考えながら、俺は手に持っていた鉄扇に布地をあてる。
 もう水はとうに拭っているし、どこか壊れたわけでもないのだが、やはり持っていないと落ち着かないのである。
 ふと、これをもらった時のことを思い出す。あの時は鉄扇とは思わず、あまりの重さに取り落としそうになったものだが、今では苦もなく片手で扱えるようになっている。月日の流れるのは早いものだ、などと考えていると。


「あの、お義父様。それは?」
 吉継が鉄扇を指して尋ねてきた。
 具体的に何を聞きたいのか判然としない問いかけだったが、まあ鉄扇であることは見ればわかるだろうから、由来を聞きたいのだろう。
 そう判断して口を開く。
「昔、仕えていた方に頂いたものだ。なんとなく、持っていないと落ち着かなくてな」
 普段はともかく、今のような戦時は特に。護身の手段として、という面もあるが、それ以上にこれを持っていると、軍神の加護があらたかなのだ。
「大切な物なんですね」
「うむ、娘と命の次くらいには」
「それはそれは、うれしゅうございます」
 あっさり流されてしまった。


 その時、不意に吉継の顔が曇る。
「……あ」
 その視線は、鉄扇についた刀傷に向けられていた。
 何だろう、と首を傾げそうになったが、すぐに思い至った。そういえば、これで吉継の刀を受けたことがあったな。
「ああ、気にしないで良いぞ。元々、これ刀を受けた衝撃で歪んでたから」
「そうなんですか?」
「うむ、色々と語るに語れぬ戦の数々があってな」
「……かりにも鉄で出来ているのでしょう? 傷をつける程度ならともかく、歪むほどの衝撃とは……」
 そこまで言いかけて、吉継は何か思い出したように言葉を付け加えた。
「もしや、それが毘沙門天と戦った傷跡ですか?」
 声に笑いが滲んでいるのは、先日の俺の言葉が冗談だと思っているからだろう。
 俺は苦笑して言い返した。
「いや、これはその随分あとに受けた傷だな」
 そもそも、その毘沙門天にもらったものだし、と付け加えようとして、慌てて口を噤んだ。
 また冗談を言って、と睨まれそうだったからである。



 それを受け、吉継は何か言葉を返そうとしたのだと思う。
 しかし、俺はその言葉を聞くことが出来なかった。けたたましく、敵を知らせる打ち鐘の音が鳴り響いたからであった。
 まるではかったように敵が襲い掛かってきた。




◆◆◆
 



 敵襲の叫びがあがるのを聞いた時、吉継は父にこの場にいるよう言い残すと、即座に駆け出した。
 不測の事態が生じた時には、できる限り自分の目で確かめる必要がある。
 ただの野盗ならばこの規模の部隊を襲うことはないだろう。筑後の反大友国人衆に気づかれた可能性もあるが、案内役の戸次誾が、そういう輩に襲われる可能性があるところで夜営させるとは考えにくい。
 であれば、襲ってきた敵は、高速移動する大友軍を正確に捕捉して襲撃してきたことになる。それもあえて大友軍の勢力圏内で。
 誰であれただ者ではあるまい。吉継は敵襲の報告を耳にするや、たちまちそこまで考え、みずからその敵の正体を確認しようとしたのである。



 だが、吉継がどんな敵を予測していたにせよ、あらわれた敵兵の姿はその予測の外にあった。
 それも仕方ないことだろう。鎧兜すら着けていない女剣士が、ただ一人で戸次家の精鋭に襲撃を仕掛けてくるなど、予測できるはずがないのだから。



「ようやく将が出てきた――というわけではないみたいですね。腰が重い方なのかしら」
 決死の襲撃をかけてきたはずの剣士は、何やらぶつぶつと呟いている。
 緊張感のかけらもない様子で吉継を見やった剣士の目がかすかに見開かれたのは、吉継の頭巾ゆえか、それとも吉継が同性であることに気づいたゆえだろうか。
「奇妙な被り物をしていますね。戦場で顔を隠すなど無粋、と言いたいところですが、それはさておき。それなりの腕はお持ちのようですけど、そのようなものをかぶっていては動きがそがれますよ? 率直に言って、一太刀で済みます。死にたくなければ、無用な装いは取り去りなさい」


 吉継は、その剣士の言葉を大言壮語だと切って捨てることが出来なかった。
 剣士の後ろに累々と倒れ伏している兵士の数が吉継から楽観を奪い去る。なにより、剣士が構える刀に血糊らしきものが一切ついていない事実が、吉継を戦慄させた。
「……戸次家の軍勢相手に単身で切り込み、しかもすべて峰打ちで済ませる、ですか。さぞ名のある御仁とお見受けしますが、何ゆえこのような真似をなされるのか?」
「……と、相手に問いかけながら、兵が集まるのを待つというわけですね。うん、彼我の力量差を一瞬で見抜き、かなわぬと見るや即座に数に訴えようとする、その身の程をわきまえた振る舞いは実に良い。将としては、さっき斬りかかって来た少年よりもあなたの方が上ですね」
 もっとも、あの少年も嫌いではありませんが、と剣士はくすりと微笑んだ。

 

「大友は斜陽の時を迎えていると聞いていましたが、若い才は確実に育っている。やはり聞くと見るとでは大違い、旅はしてみるものです」
「……旅の一幕にするには、この振る舞いはいささか常軌を逸していると思いますよ。もっとも、今更引き返すといっても手遅れですが」
 剣士の気軽な物言いに、吉継は言い知れぬ不快を感じて声を低める。
 この剣士、言葉自体は丁寧なのだが、世のすべてを自分の下に置いている。そのことを感じ取ったからだった。


 意識して慇懃無礼に振舞っているわけではない。ごくごく自然に、それを行っている。圧倒的なまでの自信と自負が、剣士の振る舞いや言葉から尽きることなく湧き出ているようだ。
 この態度が鼻につくか、それとも頼もしいと思うかは人それぞれだろうが、自軍に斬り込んで来ている時点で、吉継にとって選択の余地などなかった。



 元々、夜営場所自体はさして広くもない。騒ぎを聞きつけて駆けつける兵士の数は増える一方であり、手ごわいと聞いて弓を持ってきている者もいた。
 誰が何を命じたわけでもなく、各々が判断して包囲を築き上げる。いかに剣士が手練であろうと、所詮は一人、百人近い戸次勢をことごとく打ち倒すことなど出来るはずがない。
 そのはずだった。



 しかし。
 敵意に満ちた戸次勢に四方を囲まれながら、剣士はなおも余裕を失わない。
 ただほんの少し、その顔に刻まれた笑みが深くなっただけ。
「やはり、あなた方は良いですね。ふふ、正直、峰打ちでは少々興が乗らないと思っていたところです。死合いこそが剣士の華、武士の本懐……」
 その言葉を口にした剣士に、吉継は――否、周囲を取り囲む戸次勢すべてが、息を呑む。



 浮かぶ表情は小春日和を思わせる麗らかなもの。
 改めて構えをとるその姿は流れる清水のごとく、静かで淀みなく。
 外観からは、猛々しさなど欠片も感じ取れないというのに。




 何故かわかってしまう。
 今、大友軍を包む静寂、それが嵐の前の静けさなのだ、と。
 山雨が至るとき、風が楼に満つる、その瞬間なのだ、と。



 この剣士はひとたび解き放たれれば、この場に集う戸次軍すべてを呑み込んで吹き荒れる野分と化す。そんなことはありえないと知りながら、それでも吉継はその恐れを総身に感じていた。
 だが、それでも。
 吉継は刀を握る手に力をこめる。
 相手の思うがままに振舞わせたところで、結果はかわらない。
 昨日あったものが。
 今日まであったものが。
 明日もあるとは限らない。
 そのことを、骨身に染みて知っている吉継だからこそ、目の前の剣士は排除すべき敵以外の何者にも映らなかったのである。 






「やめろ、吉継」






 だから、その言葉に従うつもりもなかった。
 この状況でじっとしている人ではないし、じっとしていて良い立場でもない。
 父がここに来ることはわかっていた。そう言うのではないか、とも思っていた。
 女性一人をよってたかって殺せ、などと命じられる人ではない。たとえ相手が得体の知れない危険な人物であろうとも。
 それでも、吉継は従うつもりはなかった。吉継に命令を下す権限はないが、この状況で声を張り上げれば、他の将兵も追随する。それは予想を越えた確信だった。


 しかし。
 そこまで考えた挙句、吉継は結局口を開かなかった。
 父に従うべきだ、と考え直したわけではない。
 では何故思いとどまったのか。それは――




 当の相手である剣士が、呆けたようにぽかんと口をあけ、刀を下ろしてしまったからである。
 先刻までの余裕と自信に溢れた剣士の姿はそこにはなく、まるで普通の街娘のように呆然と立ち尽くす女性。あと、なんでか頬が赤らんでいたりするのだが、どうしてだろう?




 ――なんとなく。
 本当になんとなく、嫌な予感を覚えながら、吉継は後ろを振り返る。振り返り、そして即座にそのことを後悔する。






 そこには褌一つの姿で駆けつけた雲居筑前の姿があったからであった。
 その手に鉄扇だけを携えて。





◆◆◆





 
 いつからかは覚えていない。
 何か一つのはっきりとした思い出があるわけではない。
 あるいはそれは、ただ生まれついての気性だったというだけのことかもしれない。
 丸目蔵人は、天という響きに焦がれながら生きてきた。
 天といっても、天命を与える不可視の存在のことではなく『上』すなわち頂点を意味する『天』である。


 もっと単純に言えば――すべてにおいて一番になりたがる、丸目蔵人はそんな為人だったのである。
 




 蔵人は本名を丸目長恵(まるめ ながよし)といい、九国は肥後の生まれである。
 丸目という姓は、初陣の折の武功によって主家である相良家から与えられたものなのだが、その事実からもわかるとおり、蔵人は若年ながら文武に長じた人物として主家の信頼を一身に集めていた。
 元々、幼少時から家中でも出色の人物と目されていた蔵人は、当時の主君であった相良晴広から特に請われて、嫡子である義陽の側役となったほど主家と近しい関係にあった。
 蔵人もまた、特に疑問もなく主家の信頼に応えて続けていたのだが、ある時から義陽との仲がうまくいかなくなってしまう。


 というのも、主家の嫡子であろうが何だろうが、学問、武芸、馬術、水練、あらゆることに関して蔵人は遠慮なく義陽を凌駕し続けたからだった。
 幼い頃は、すなおに蔵人の才を称え、羨望していた義陽だったが、長じるに従って蔵人の存在を疎むようになってきた。
 なにせ何をしても、何をやっても手も足も出ないのだ。義陽は決して暗愚というわけではなく、むしろ並の子供に比べれば優秀といっても良いほどだったが、相手が蔵人では分が悪い。悪すぎると言うしかない。


 蔵人は才能を鼻にかけたり、あるいは義陽を蔑むような言動を示したことはなかったが、それは逆に言えば、蔵人にとって義陽を凌ぐのは当然のことだということである。
 また、これだけの才能を示せば、家中の信望、とくに若者たちのそれが蔵人に集中するのは自然なことだった。まして蔵人は女性としても衆目を惹き付ける。いかに竹馬の友とはいえ、義陽が蔵人を疎むようになったのは、ある意味で避けられないことだったのかもしれない。





 かくて、些細な理由で側役を解かれた蔵人だったが、特に不満を口にすることもなく素直に従った。義陽の心情を察したから――というわけではない。そもそも蔵人は義陽が蔵人に向ける嫉視にさえ気づいていなかったし、また気づいたとしても特に言動を違えることはしなかっただろう。
 才能であれ、環境であれ、他者とまったく平等なんてことはありえない。ゆえに他者と己との間に差が生じるのは必然だった。そして、差を埋めたいと願うのであれば努力すれば良いのである。


 この頃、蔵人は頂点に固執する己の性向をはっきりとは自覚していなかったが、それでも他者に劣る自分を許すことは出来ずにいた。たとえばその相手が、十以上も年上の頑健な体躯をした剣術の師範であっても、祖父ほどに年のはなれた学問の師であっても、である。
 蔵人は心の命じるままに、学問でも剣術でも、他者に劣らぬように励みに励んだし、そのこと自体がとても楽しかった。
 元々持ち合わせた才能に、努力を積み重ねていけば、他人がそれを凌ぐのは容易なことではない。まして楽しんで励む蔵人には、およそ限界というものがなかったから尚更である。
 そんな蔵人であったから、差を自覚しつつ、それを埋めようとせず(あるいは埋めようとしても埋められず)相手をねたむという心境を理解することは不可能だったのである。





 ともあれ、側役を解かれた蔵人は、これは良い機会だと考えた。
 この頃、蔵人は相良家に物足りないものを感じていたのである。といっても、義陽や他の家臣に含むところがあるわけではなく、近くに切磋琢磨する相手がいないことが原因だった。
 剣ではとうに城お抱えの師範を上回り、学問でも兵術でもまともに論争できる相手がいない。同年代は相手にならず、年嵩の老臣たちは、孫のような年齢の蔵人と机上の争いをすることを避けたためである。一言でいって退屈だったのだ。
 側役を解かれた今こそ幸い、天下見物に赴くべし。そう言って父や主家を半ば無理やり説得した蔵人は、京へ向かった。荒廃したとはいえ、やはり都といえば京。日の本の中心に行けば、自分など及びもつかない人物がいるはず、と胸を高鳴らせての旅立ちだった。




 だが。
 長旅の末にようやくたどり着いた京の都で、蔵人は大いなる失望を味わうことになる。
 京の都には確かに思ったとおり、自称他称を含め、多くの剣客や軍配者が集まっていた。なかには彼の剣聖 塚原卜伝の高弟だの、諸葛孔明に匹敵するだのと仰々しい装いを自らに貼り付けている者もいたが、いずれも蔵人にとっては取るに足りない相手だった。
 十を越える仕合を挑み、そのことごとくに完勝した蔵人は、その腕前以上に若さと美貌で知られるようになり、ろくでもない輩に挑まれることが頻繁になった。
 京に着いてから三月が過ぎる頃には、すっかり都に嫌気が差した蔵人は、いっそ坂東の方まで行こうかと考えながら、旅支度を調えていた。
 しかし、坂東も京と大差なければどうしよう。まさか本当に天下に我より上はいないのだろうか。後から思えば笑止きわまりないのだが、この時、蔵人は半ば本気でそれをを案じていたのである。





 そんなとき、街で一つの噂を聞いた。
 東は越後の国より上泉秀綱なる人物が上洛してきた、というのである。
 聞けばこの人物、以前は関東管領に仕え、大胡秀綱と名乗っていたそうだが、関東管領が越後に逃れた後は、その護衛もかねて越後の上杉家に仕えるようになったらしい。それを機に大胡から上泉に改名したそうだが、蔵人にとってそれはどうでも良いことだった。
 蔵人が注目したのは、その秀綱なる人物が剣聖とまで称えられる凄腕の剣士だという、ただその一点だけであった。


 もっとも、この時点ではまだ蔵人の胸中には懐疑の念が燻っていた。
 塚原卜伝もそうだが『剣聖』とは衆に優れた剣士に冠せられる称号である。それゆえに、我こそ優れた剣士なり、と考える者が剣聖を称することはめずらしくなかった。実際、蔵人はすでに片手の指で数え切れない数の自称剣聖を討ち破っている。
 その経験もあって、件の越後の剣聖殿も、実際に会って確かめるまでは水物だと考えていたのである。




 そして、例によって上杉の一行の宿舎に押し通った蔵人は、そこで生涯の師と出会う。




 剣士として完膚なきまでに叩きのめされた――それは事実だが、それだけなら蔵人は秀綱に剣の教えを請うことはあっても、生涯の師と仰ぐことはなかっただろう。
 蔵人が真に打ちのめされたのは、むしろ剣で敗れた、その後だった。



 少しさかのぼれば、剣であれ、学問であれ、誰かに劣ったことは初めてではないし、技術や知識に優る人たちから、未熟や増長を厳しく指摘されたことはある。
 だが、乱入してきた蔵人を破った秀綱は、ことさら蔵人を咎め、あるいは諌めようとはしなかった。弟子にしてほしいという蔵人の願いを快く受け入れ、教えを授ける――それ以上のことをしようとはしなかったのである。


 そうして、秀綱の傍らで剣を学びはじめてから、蔵人はすぐに秀綱と自身の違いを悟る。
 一言でいえば、器が違う。剣士として、さらには人として。
 蔵人は秀綱に対し、過去に教えを受けた者たちの誰にも優る感銘を受けた。
 それは、日常のほんのささいなこと。秀綱の発するふとした言葉が、何気ない仕草が、立ち居振る舞いが――蔵人に己の小ささを訴えてきたのである。
 しかも、秀綱はそれを意識してやっているわけではないのだ。
 日常の挙措で他者を教化するような人物に、蔵人は初めて出会い――そして心酔した。


 新陰流を修めることは当然として、普段の物言いから他者との付き合い、果ては生き方そのものまで、蔵人はすべてを秀綱から学ぼうとした。
 それは端的に言えばこれまでの自分との決別を意味する。他者の下風に立つことを忌む蔵人の性情は、秀綱のそれとは似ても似つかないものであったからだ。
 実のところ、蔵人は師と仰ぐ秀綱に対してすら、負けを認めようとしない自分がいることに気づいており、この感情を敬意へと昇華させることこそ、師に近づく一歩であると考えていたのである。



 こうして、蔵人は己が生涯ではじめて自身の性情に反する努力をはじめ。
 はじめたその日に、秀綱からこっぴどく叱られた。



 無論、秀綱は声を荒げたわけではない。だが、その眼光の強さは、下手をするとはじめて無法に挑みかかったあの時よりも勁烈なものであったかもしれない。
 蔵人としては自分なりに考え、成長する術を探り当てたと思っていただけに、正直何で秀綱があんなに怒ったのか、最初はそれがわからなかった。
 だが――



『あなたがどれだけ努めたところで私にはなれません。私がどれだけ努めたところで、あなたになれないように。己を殺す必要はありません。あなたは、あなたのままに強くなりなさい。天を望む妙なる心を、こんなところで朽ちさせてどうするのですか』



 その言葉が、丸目蔵人佐長恵の在り方を決定付けた。
 秀綱を生涯の師と仰ごうと決意したのは、この時である。



 
◆◆



 
 秀綱が京に滞在したのは一ヶ月にも満たない短い期間であった。
 だが、その期間は蔵人にとって、今まで生きてきた十数年をはるかに上回る充実した時間であったといえる。
 同時に、それは剣豪としての丸目蔵人の名が知れ渡る契機ともなった。
 秀綱は会って間もない蔵人の剣の腕と為人をこれ以上ないほどに高く評価し、足利将軍の御前で開かれた上覧仕合の打太刀の相手に指名さえしてくれたのである。
 これが剣士にとってどれだけの栄誉であるのかは言うまでもあるまい。蔵人は師と共に足利義輝から感状を授けられ、その名は天下に喧伝されたのである。


 秀綱が越後に帰るとき、蔵人はそれに付き従うつもりだった。
 それは師である秀綱を慕ってのことだったが、秀綱の口から聞く越後の人々に興味を持ったからでもあった。
 中でも蔵人が深甚たる興味を抱いたのは、秀綱をして「剣の腕はほぼ互角、将としては遠く及ばぬ」と言わしめた上杉謙信なる人物だった。
 師から諭された蔵人は、すべてにおいて頂点を目指さんとする己の為人をはっきりと自覚し、それをむしろ誇りとして歩いていくと決めた。
 それはつまり、剣の腕では秀綱を上回り、将として師すらこえる軍神を凌駕する、ということである。その為人を間近に見るのは、決して無駄にはなるまいと考えたのだ。
 実のところ、秀綱が「遠く及ばぬ」と形容した人物はもう一人いる。蔵人はその人物にも興味を抱いたのだが、なんでも現在は行方知れずとのことだった。


 ともあれ、越後へ行くことは蔵人にとって既定のこととなった。
 秀綱もあえてそれを止める理由を持たなかったので、つつがなく出発できるかと思ったのだが、そんな時、生国である肥後からの急使がおとずれた。
 そして蔵人は、主君である相良晴広の死と、かつて側役として仕えた相良義陽の家督相続を知ったのである。







 相良家の当主である晴広はまだ初老と呼ぶほどの年齢でもなく、病弱というわけでもなかった。
 それゆえ、その死は蔵人にとって驚きだったが、蔵人以上に驚いたのは義陽であったろう。
 だが義陽には驚いている暇さえなかった。突然すぎる当主の死は、相良家に大いなる混乱をもたらしたからである。
 義陽は晴広の嫡子ではあったが、力量も実績も父に及ばぬと見られていた。若年であることも手伝って、家督を継いだ義陽を軽んじる者は決して少なくなかったのである。
 軽んじるどころか、親族の中には露骨な野心を見せる者さえおり、対する義陽には頼りとする相手さえいない有様であった。より正確に言えば、義陽に従う者もいることはいるのだが、いずれも若く、他の家臣たちを押さえられるほどの力量を持つ者はいなかった。


 家督を継いで十日と経たない内に、義陽はそのことを思い知らされた。
 家中の不穏な空気に、このままでは遠からず父の後を追うことになるかもしれないと怯える義陽の脳裏に浮かんだのは蔵人の姿だった。
 無論、義陽は蔵人が京にいることは知っていた。どうして蔵人が京に発ったのかも理解していた――つもりだった。義陽は、蔵人が自分を憚り、国を出たのだと考え、慙愧の念を覚えていたのである。実際は蔵人はそこまで殊勝なことを考えていなかったが、表面的な行動だけを見れば、義陽がそう考えたのも無理はなかった。


 蔵人の行動を聞き、自らの行いが狭量なものであったと自覚した義陽は、どうやって蔵人に詫びたものかと考えあぐねていたのである。
 そんな中での突然の父の死と、その後の混乱は、義陽に一つの行動を促す。
 すなわち、蔵人に過去の行いを詫び、自分の下に戻ってきてくれるように頼んだのである。

 

 蔵人にしてみれば、手紙に記された義陽の謝罪には面食らうばかりだった。
 率直にいって、ああ殿はこんなことを考えてたんですね、くらいにしか思わなかったのだが、肥後への帰国を願う一文には困惑せずにはいられなかった。
 蔵人は義陽や相良家に対し、絶対的な忠誠を誓っているわけではない。そうであれば、そもそも国を出ようなどとは考えなかっただろう。


 だが逆に、突き放して考えているわけでもなかったのである。
 幼い頃から仕えていた義陽には親愛の情を覚えていたし、蔵人なりにではあったが、主家への忠誠の念も持っていた。くわえて亡くなった晴広に対する敬意と、京への旅立ちを許可してくれたことへの感謝は疑うことなく存在する。


 何も知らなかったのであればともかく、知ってしまえば越後へ行くことができるはずもない、
 強くなるためとはいえ、さすがに主家の危機にそ知らぬふりをして越後へ行こうとすれば、秀綱とて良い顔はしないだろうし、なにより、この時は蔵人自身がそうしようとは思わなかった。
 短い困惑の後、蔵人はあっさりと越後行きを諦め、秀綱に対してひととおりの事情を述べて別れを告げ、再会を約した後、生まれ育った肥後の国へと戻ったのである。






 肥後に戻った蔵人は父と共に義陽を支え、相良家は家督相続後の混乱を脱した。
 新陰流を学び、将軍じきじきに「天下の重宝」とまで称えられた蔵人のもとには家中の若者をはじめ、農村や、あるいは他国からも立身を夢見る者たちが多く集い、剣豪丸目蔵人佐長恵の名は九国中に知れ渡った。
 その蔵人を麾下に従えていることで、相良義陽の名もまた重んじられるようになり、義陽を侮る者たちの姿はほどなく見えないようになる。義陽にしてみれば、蔵人の名声におんぶに抱っこという感じで釈然としないものを感じもしたのだが、かつての過ちを省みて、再び蔵人に妬心を向けるような愚を避けることが出来たのは、義陽もまた成長しているという確かな証左であったろう。



 そして数年。落ち着きを取り戻した相良家であったが、嵐は内からではなく外から――南から訪れた。
 隣国薩摩において、国内統一を志して兵を挙げた島津家が薩摩南部の制圧を終え、北上を始めたのである。
 この時、相良家は薩摩北部の国人衆――つまりは島津と敵対する国人衆に与しており、北進してきた島津軍と激しい戦いを繰り広げた。
 蔵人もまた相良勢を率いて勇戦したのだが、この時、島津軍は宗家の四姉妹全員が出撃するという、文字通り総力を挙げた大攻勢を仕掛けてきており、勝敗は容易に定まらなかった。



 蔵人他、肥後勢が拠点としたのは薩摩の大口城。ここは薩摩から肥後へはいるための玄関口に等しく、ここさえ押さえておけば、島津勢の北進を阻止することは容易いと考えられていた。
 相良家にとっては死守すべき、島津家にとっては奪取すべき、重要拠点だったのである。
 そして、ここで蔵人は痛恨の大失態を犯す。
 島津の末姫 島津家久の誘いにのった蔵人は肥後勢を率いて城を出た挙句、城外において島津勢に包囲され、大打撃を被ってしまったのだ。


 おそらくは肥後勢の要が丸目蔵人であることを家久は早くから察していたのであろう。
 その誘いは巧妙を極め、不覚にも蔵人は四方を島津勢に囲まれる、その寸前までまったく計略に気づくことが出来なかった。
 釣り野伏と呼ばれる薩摩島津家のお家芸。その存在を知ってなお、蔵人は家久にはめられてしまった。そうと悟ったとき、蔵人は思わず笑いたくなった。自分が見事なまでにしてやられたこと――まだ春を迎えてさえいないだろう少女が、蔵人が遠く及ばないほどの大器の持ち主であることを、一瞬で悟ったからであった。


 悟った次の瞬間、蔵人は大口城への退却を指示する。それが容易ではないことを承知しつつ、またそう命令することが敵の狙いであると知りつつ、そう指示せざるを得なかったのである。
 蔵人自身、剣を振るって幾人もの敵兵を切り捨てたが、個人の勇で戦局を打開できるほど、島津家の兵は弱兵ではなかった。
 また、おそらくあらかじめ家久に指示されていたのだろうが、島津兵は蔵人とまともに戦おうとはせず、蔵人の隊を遠巻きに包囲して矢を射かけ、時に鉄砲隊を用いるなど、その徹底振りはいっそ見事なほどだった。



 城に帰り着いた蔵人は、生き残りを数え上げ、知らず天を仰いでいた。
 肥後勢はただ一戦で、主力の半ばを失ってしまったのである。この有様では、間もなく押し寄せてくる島津勢に対抗することは出来ないだろう。
 包囲されれば、ほどなく殲滅されてしまうと考えた蔵人は、全軍に肥後への退却を指示する。
 九国中に名の知られた剣豪丸目蔵人の存在は、島津軍に対抗する者たちの士気の柱である。その柱が折れたのだ。勝敗の帰結は誰の目にも明らかであった。






 当然のごとく、丸目蔵人の敗北は義陽にとって衝撃だった。
 幸い、国内統一を優先する島津軍は大口城を占領した後は兵を動かさず、生き残った肥後勢は無事に相良家の本城である人吉城に帰り着くことが出来た。主だった武将も生存しており、それに関しては義陽もほっと胸をなでおろす。これは蔵人の勇戦と思い切りの良い判断の賜物であるといえた。
 とはいえ、敗北は敗北。そして、その責の多くが蔵人に帰せられることは明らかだった。義陽は蔵人に対し、何らかの罰を下さなければならなかったが、一部の重臣が声高に言い立てるような切腹は論外だった。敗北の罪は勝利で償えば良い。実際、これまで蔵人はいくつもの勝利をもたらしており、この義陽の発言は決して寵臣をかばうための詭弁ではない。


 しかし、さすがに何の罰も与えないというわけにはいかない。重臣たちへの手前というだけでなく、討ち死にした将兵とその家族に筋を通さねばならないからである。
 結果、義陽は蔵人に逼塞を言いつけた。門を閉ざし、人の出入りを許さない刑罰。
 これにより、丸目蔵人は長期にわたって相良家の軍事、政治から離れることとなったのである。




 ――が。




「人の出入りを許さないということは、わたしが家にいる確認もできないということ。つまり私が外に出たという確認もできないわけで、確認されない事象を証し立てることは誰にも出来ないのです。うん、一分の隙もない見事な論理です」
 そんなことを呟きつつ、丸目蔵人は逼塞を申し渡された翌日には人吉城を出ていたりする。
 別に逃げ出したわけではない。島津家久と対峙した蔵人は、即座に自分が家久に及ばないことを理解した。剣士としてはともかく、武将としては、おそらく十回戦って一回勝てるかどうかだろう。
 他の島津の姉妹の力量のほどは知らないが、あの家久の姉たちだ。同等の力量を持っていると考えて間違いあるまい。それはつまり、今のままではどうあっても蔵人では島津に勝てないということであった。


 特に家久に敗れたことは、蔵人にとって衝撃だった。
 蔵人は剣に重きを置くとはいえ、将としての学問も等閑にはしていない。孫子、呉子、六韜三略、おおよそ名の知られた兵書はことごとく学びつくしている。単純に知識だけでいうなら、蔵人に優る者は家中はおろか、九国中を見回してもさして多くはないだろう。
 家久がどれだけ軍略に傾注しているかは定かではないが、費やした時間は間違いなく蔵人の方が上であると断言できる。


 にも関わらず、完膚なきまでに叩きのめされた。
 もし、師である秀綱に会うまでに同じ目に遭わされていたら、もしかしたら蔵人は立ち直れないほどの衝撃を受けていたかもしれない。
 ここまで他者との差を――それも自分よりはるかに年少の相手に――思い知らされたことはかつてないことだったから。


 だが、今の蔵人は打ちのめされたりはしなかった。
 相手の力量を認め、己との差を認め、その上で差を縮め――いずれ追い越してみせる。
 敗北と、戦死した将兵への責任を背負った上で、蔵人は思うのだ。将として上を目指すに、これ以上の相手はいない、と。





 とはいえ、これからいくら兵書を読んだところで、家久を上回ることはできないだろう。
 すでに相手を上回る研鑽を積み、その上でなお遠く及ばないのだ。これまでと同じことをしていても、差は開く一方だろう。
 であれば、どうするか。
 物に学べないのなら、人に学べば良い。ことに自分に足りないのは軍略、策略、計略、謀略、そういった面である。そういったものをすべて兼ね備えた大器は存在しないものだろうか。家久を越えるためとはいえ、どうせ学ぶなら頂きの上にいるような人が望ましい。なにぜ、いずれその人をも越えねばならないのだから。
 そう考えた蔵人が、毛利元就の存在に行き着くまで、大した時間はかからなかった。
 そして、その毛利軍が九国に上陸していると聞き、じっとしている理由などあるはずもなかったのである。






◆◆◆






 そうして、筑前に赴いた蔵人は、そこで毛利軍の敗北を目の当たりにした。
 それにより、異国の人間に好き勝手されている家だと、それまで歯牙にもかけていなかった大友軍にはじめて興味を持った。
 大友軍を押し通ろうとしたのは、無論、その真価を知るためである。秀綱ほどの見事な対応は望むべくもないが、自分に対する態度で、大体のことは理解できる。蔵人はそう考えていたのである。





 だが、今。
 蔵人は慄いていた。
 かつてないほどの衝撃がその身を襲い、身体の震えがとまらなかったのだ。





 半ば呆然としながら、蔵人は口を開く。
「…………突然の敵襲に対して、鎧をつけず、それどころか服さえ着ない。不意打ちの相手に……不意打ちするしかない卑怯者相手に、わが身を守るものなど必要ない、とそう言うのですね。いえ、それ以上にその手に持つは扇ひとつ。刀さえ必要ないと……? ……なんと剛毅な……これがまことの武士が持つ、裸一貫の心意気……」


 先刻まで対峙していた頭巾をかぶった少女が「……は?」と呆けているが、蔵人はまったく気づいていなかった。というより、自分が何をくちばしっているかさえ、わかっていなかった。


「ああ、天へと屹立する志を持って歩く人に、小さな陰謀の刃が通るはずがない。これは、ことによると天下人の器かもしれません……いえ、きっとそう。あの元就公すら退けたのは、あなただったのですか……」
 








「……吉継、この人は何をいってるんだ?」
「……さあ……私にもさっぱり……?」
「むう。何やら騒ぎが静まらないから急いで来てみたんだが」
「……ッ! お義父様、さっさと服を着てください。というか刀の一つも持たずに何しに来たんですかッ?!」
「娘の危機に裸一貫で立ち向かう父親というのも素敵だと思いません?」
「……それで、その父親に死なれた日には、娘はどうすれば良いんですか?」
「……すみません」
「謝るのは後で良いので、とりあえず服を着てください。この人、もう戦うつもりはないようですが、他に仲間がいないとも限らないんですから。あと、きちんと刀も差してくるように!」
「御意」





[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第五章 剣聖(三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:9e91782e
Date: 2010/12/01 21:56
 今の状況を率直に述べると「何がなんだかさっぱりわからん」としか言いようがなかった。


 俺の前には丸目蔵人佐長恵と名乗った麗人が静かに端座して、じっと俺を見つめている。
 その名を聞いた俺は思わず目を丸くしたのだが、それ以上に驚いたのは周囲の将兵だった。
 それもそのはずで、若い女性の身でありながら、天下に名を知らしめた肥後の剣聖の名は、九国中に知れ渡っていたからである。
 長恵の襲撃で負傷した、誾をはじめとした兵士たちは、それまであらわにしていた警戒と敵意をたちまちのうちに引っ込めたほどであった。彼の剣聖が相手なら仕方ない、というところであるらしい。


 無論、俺も丸目長恵の名前は承知していた。あの剣豪が女性であるというのは驚いたが、まあそもそも秀綱殿からして女性だったし、これは今更だ。
 問題なのは、その長恵がどうして単身で大友軍に切り込んできたか、ということである。ついでにいえば、どうしてこの部隊なのか。まさか偶然というわけではあるまい。


 しかし、実のところ、それすらも俺にとっては大した問題ではなかった。
 では何が問題なのかといえば、長恵が俺に対し、どうか随身を許してほしいと頭を下げたことが、何よりも先に考えなければいけない大問題だったのである。
 聞けば、裸一貫、鉄扇一つで長恵の襲撃を迎え撃った俺の豪胆さに感じ入ったということだが、それは誤解も甚だしい。俺はそこまで肝が据わっていないし――というか、それは豪胆ではなく、ただの変態であろう――あの時はああするしかなかったわけで、決して普段から褌一つで敵襲に相対したりはしていないのである。




 とりあえず、俺はそこに至る事情を適当に端折って説明した。
 正直に言えば、長恵ほどの人物の協力を得られれば心強いので、随身を許したくなる。だが、さすがに相手の誤解につけこむのは気が引けるし、その上、長恵の信頼を損なわないためには、毎回褌姿で敵に挑まねばならなくなるのだ。あの丸目長恵の協力を得られる利点を差し引いても、これは重過ぎる代償だった。


 そんなわけで、俺は誤解を解くべく言葉を重ねた。
 誤解を解いたら解いたで、また襲ってこないとも限らないので、多分に賭けの要素もあったのだが、幸い長恵はこちらの話を聞いても特に感情を荒立てることはなく、静かにこう返してきた。
「――なるほど。つまり、普段の貴殿は敵と相対するに、鎧兜を身にまとい、刀を揮うということですね」
「そういうことです。先刻のあれは、なんというか、やむを得ない状況だったのです」
 冷静に考えれば、生乾きでもなんでも、服を着てから駆けつけるべきだったのだが、自軍の雰囲気がただ事ではなく、様子を見ようとこっそり表に出た際、遠目に見た長恵の姿が、明らかな脅威を孕んでいたのだ。
 それこそ、放っておけば俺を含めた大友軍をことごとく切り伏せてしまいそうなほどに。



 長恵はみずからに言い聞かせるように幾度も頷いている。
「――確かによくよく考えてみれば、おかしな話です。うん、思わぬ事態にあって、ちょっと気が動転していたみたいです」
「丸目殿ほどの御仁を動揺させることが出来たのならば、これは将として誉れとすべきでしょうな。まあ、手段が手段なので、声高に喧伝するわけにも参りませんが」
 俺の苦笑に、長恵の微笑が重なる。
「あら、あれはあれで男らしい御姿でしたけど?」
 次に重なった笑いは、互いに他意のないものだった。


 笑いをおさめると、俺はやや緊張を覚えつつ口を開く。
 問題はまだ山のように残っている。その一つを詳らかにするためであった。
「では、先の請いはなかったことにして、丸目殿がどうして我らに――」
「ちょっと待って下さい」
 俺の言葉を、長恵が片手をあげて遮った。その顔には不思議そうな表情が浮かんでおり、長恵はその表情をかえないままに首を傾げてみせた。
「どうして私の請いがなかったことにされているのでしょうか? 私は取り下げた覚えはありません」
「……は? し、しかし、それがしの格好が胆力によるものでないことはお話ししましたでしょう?」
「はい、それは伺いました」
 ごく自然に頷く長恵に、俺も首を傾げる。
 なんか話がかみ合ってないような?


「……えーと、最初の話によれば、丸目殿はそれがしの格好に剛毅さを感じ取り、それゆえに随身を願い出てこられたということでしたよね?」
「ええ、そのとおりです」
「それがしの行いは、剛毅とか豪胆とか、そういった類のものではないことは、今お話ししました」
「はい、それもそのとおり」
「……であれば、丸目殿がそれがしに随身を願う理由が失われたと判断してもよろしいのではないでしょうか?」
 俺の言葉に、長恵はなにやらおとがいに手をあて、視線を天幕の上へと向けて「んー」と考え込む。


(……ぬう、どうも呼吸が掴み難い人だな)
 俺が困惑しつつ、内心でそんなことを考えていると、答えが出たのか、長恵が再び視線を俺に戻す。
 その口から出たのは、半ば予期していたものであった。
「確かに、最初の理由はなくなりましたね」
「そうですよね。それなので、丸目殿の請いはなかったものになった、とそれがしは判断いたしました。間違っておりませんよね?」
「いえ、間違ってます」
「そうですよね。では話を戻して……って、はい?」
 間違ってると言ったか、今。


 俺は自分が何か勘違いをしているのかと思い、同席している吉継や誾たちの顔に視線を向けてみたが、皆困惑を隠せずにいる様子。
 ということは、やはり俺が勘違いしているわけではなく、長恵の言葉が奇妙なのだ。
「ふむ……よし」
 両の頬を叩き、考えを切り替える。
 相手の考えを推し測れないのならば、素直に聞くまでだ。


 
「最初の理由は失われても、随身を願う理由は失われていない。では、今、随身を願う理由は何なのでしょうか?」
「もちろん、天へと至るために必要だからです」
 ……く、いきなり挫けそうだ。しかし、ここは耐えねばならん。
「天に至るとは、具体的に何を指すのですか?」
「天とはすなわち、誰もが仰ぎ見れども届かぬ場所。けれど、私はそこに至ります」
 断言しますか。とはいえ、長恵の姿はごくごく自然で、言い切る姿に気負いは感じられない。
 他人の目にどう映るかは知らず、本人にとって、天に至らんと行動することは、もう呼吸するに等しいくらい当たり前のことなのだろう


「……それは剣士としてでしょうか?」
「いいえ。剣士として、将として、人として、女子として。すべてをひっくるめた上でのことです」
「それはまた……」
 長恵の言葉に、俺は知らず息をのむ。
 剣士として、将として最強、人として、女子として最高の人間になる、と。ここまで贅沢な、荒唐無稽ともいえる目標を、微塵も躊躇することなく他者に口にできる長恵に、俺は正直圧倒されていた。


(なんという気宇……)
 先刻の長恵ではないが、そんな思いが脳裏をよぎる。
 長恵以外の人間に問えば、十人中十人が無理だと断言するであろうし、それは俺も同様だ。
 そもそも最強だの最高だのは個人の主観でいくらでも変わるもの、万人に認められるなど不可能だろう。
 そんな俺の考えに、長恵は小さく肩をすくめた。
「誰かに認めてもらうつもりなんてありません。戦えば勝ち、攻めれば取る。認めてもらうのではなく、認めさせれば良いのです」


「剣士や将としてはそれでいいかもしれませんが、後半部分はどうなさるつもりです?」
 この時代にミス日本なんてねーですし。
「そちらは己を磨き続けるのみです。他の誰でもなく、私自身が認めることが出来れば、それで良いんですよ」
「なるほど。下手に他人に評価を委ねるより、貴殿の自己評価は厳しそうだ」
「はい、もちろん。なにせすでに師の上泉秀綱というおばけが、でんと立ちはだかっていますから。あの方を越えるために、甘い評価なんてつけてられません」


 俺は楚々とした秀綱殿の姿を思い起こし、なるほどと頷いた。あの姿で、その実、虎も裸足で逃げ出しかねない強さの持ち主なのだから、長恵のハードルが高くなるのも当然か。
「確かに、秀綱殿を越えるとなると、富士の山を越えるようなものですね」
 俺がそう言うと、長恵の目におや、と怪訝そうな光が浮かび上がる。
「まるで師をご存知のような物言いですね?」
「昔、一時ではありますが、教えを請うたことがあります。といっても、剣士としての見込みはなしということで、新陰流を学んだわけではありません。ただ稽古の相手を務めて頂いただけで……あ、いや、稽古の相手を務めさせて頂いただけ、というべきか?」
 俺は首をひねりつつ、そう言った。
 俺が東国へ戻ろうとしていることは吉継も誾も知っている。そちらに知己がいたところで不自然ではないだろう。


 一方の長恵は、何やら首を傾げつつ、じっと俺を見据えた。その視線は顔から首筋、胸元、腹、さらには脚といった具合に、なめるように俺の全身を見渡していく。
 といっても、無論、そこに色めいた感じはない。それはもう一切合財かけらもない。それどころか、その鋭い面差しは、戦いを前にした剣士さながらであった。
 そしてひとしきり眺めた後、なにやら納得いかなそうにぶつぶつと呟いている。
「……うーん、あのお師様が見込みもない人に稽古をつけるとは、ちょっと思えないんですけど。言うほど筋が悪いようには見えないんだけどな……?」
「丸目殿?」
「あ、はい、ごめんなさい。えーと……あれ?」
 長恵は何やら腕組みをして考え込む。
「どうされました?」
「いえ、結局何の話をしていたんでしたっけ?」
 俺がこけそうになったとしても、誰も文句を言えないのではなかろうか。



  
 要するに俺に仕えたいという理由を教えてくれ、という話をしていたことを伝える。
 すると長恵は、あ、そうか、みたいな顔で頷いていた。
 そして、頷いた後、また何やら考え始めてしまう。
 すると、それまで我関せずと黙っていた吉継がはじめて口を開く。
「……お義父様」
「……言いたいことはなんとなくわかるが、ここは我慢のしどころだと思う」
「……お義父様がいいなら結構ですが」
 そう言いつつ、はぁ、とため息を吐く吉継。色々な意味で、疲労が積もっている様子だった。
 

 もう一人、先刻から黙っている誾は、こちらも何やら疲れた様子だった。
 時折、顔をしかめているのは長恵に打ち据えられた傷が痛むからだろう。峰打ちだといっても、骨は折れるし、打ち所が悪ければ死んでしまうこともあるのだ。
 幸い、誾をはじめ、怪我をした兵士たちの中に重傷の人間はいなかった。逆に言えば、戸次家の精鋭を、長恵は重傷を負わせることなく無力化してしまったわけで――秀綱殿とどれだけの差があるのかはわからないが、剣聖と称するに足る力量を持っていることは、この一事をとってみても明らかだった。



 
「――そういえば」
 不意に、長恵が俺に問いを向けてきた。
「先夜、私が笛を奏していたのはご存知ですか?」
「笛、というと……ああ、あの夜半に聞こえてきた」
「はい。実のところ、押し通るのは、あの時でも良かったんですよ。というより、吹き終わったら押し通るつもりで奏していたのですけど――」
 そう言うと、長恵は天幕の上に視線を向けた。より正確に言えば、そのさらに上、夜空に浮かぶものに視線を向けたのであろう。


「とても月が綺麗でした」
 長恵は、そう言ってくすりと笑った。
「それを見て思ったのです。明日は満月。どうせ押し通るならば、満ちた月の下の方が華がある、と」
「……それは、なんというか、風流なことで……」
 いや、まあ単身、敵陣に突入する行いが風流かどうかは知らんけど。一騎駆けは戦の華というが、今回の長恵のはそれにあたるのだろうか。
 俺が困惑しつつ応じると、長恵は小首を傾げた。
「先の話を聞くかぎり、昨日押し通っていれば、今日のようにはならなかったですよね?」
「そう、なりますか。少なくとも、裸で丸目殿の前に飛び出すことはなかったでしょう」
「もし昨日、あなたと正面から対峙していたらどうなったのか。それは興味が尽きないところですけど、それは仮定に過ぎません。結果として、私は一日待ち、待ったがゆえにあなたは裸身で私の前に立ち、その姿に私は撃たれ、今、こうしてここにいる……」


 まるで詩を吟じるような、伸びやかな長恵の声。
 それを聞きながら、俺は目を瞬かせる。長恵が何を言わんとしているのかが、今ひとつわからなかった。
 そんな俺に向かって、長恵は花が開くような微笑みを浮かべ、告げた。


「あなたが示した裸一貫の心意気が偶然の産物であったとしても、私が随身を願う理由はなくなりません。何故ならその時は、その偶然を導いた、あなたの類稀なる強運をもって随身を願う理由とするからです。古来、運に優る才は無しと言いますもの。まして、あなたははるか東国のわが師を知っているとのこと、その一事をもっても合縁奇縁、果てしなし。ここで袂を分かつなんて、そんなもったいないことが出来るわけありません」
 




◆◆◆





 肥前国蓮池城。
 蓮池城は肥前と筑後を分ける筑後川を睨む竜造寺家の要衝の一つである。
 現在、竜造寺家はこの城に四天王のうち、二人を篭めて筑後からの大友軍の侵攻に備えており、その二人――円城寺信胤(えんじょうじ のぶたね)と木下昌直(きのした まさなお)は警戒と兵の訓練をかねて筑後川の畔までやってきたところであった。


 実のところ、現竜造寺家当主 竜造寺隆信は、元々大友家とは親密な関係にあった。より正確に言えば、大友家と、ではなく大友家に仕える筑後の国人 蒲池鑑盛と親密な関係にあったのである。
 というのも、竜造寺家は先代家兼ならびに今代隆信の二人ともが家臣団の叛乱にあって佐賀城を失っており、そして二人ともが蒲池鑑盛の助勢によって復権を果たした。
 竜造寺家にとって蒲池鑑盛は御家の大恩人であり、大友家に対して反感を禁じえない隆信も、鑑盛に対しては頭があがらなかったのだ。


 しかし、近年の大友家の乱脈ぶりと、竜造寺家を属国扱いする宗麟の態度に腹を据えかねた隆信は、大友家の将来に見切りをつけ、独自の勢力を築くべく肥前各地に侵攻を開始した。
 無論、これを知った大友家からは強い問責の使者がおとずれ、筑後の鑑盛からも自重を促す密使がやってきたりもしたのだが、ひとたび決断した後の隆信の行動は微塵も揺らがず、肥前における大勢力を築くことに成功するのである。


 この時、隆信は大友家に従っていた国人衆であっても容赦なく討伐したが、その一方で決して筑後川を越えようとはしなかった。それが隆信なりの、此方への謝意であることを鑑盛は悟ったが、だからといって竜造寺の造反を見てみぬ振りなど無論できぬ。
 それ以後、筑後川は竜造寺家と大友家がにらみ合う最前線となるのである。






「――というわけで、ここを守るのは竜造寺家にとって、とーっても大切なことなのです。わかりましたか、木下さん?」
 『とーっても』の部分で大きく両手を広げて、事の重要さを示した女性に対し、木下と呼ばれた武将は乱れた髪を、さらにかき乱しながら、つまらなそうに返答した。
「胤さんの言うことはわかったようなわからんような、そんな感じだけどさ。なんだかんだ言いつつ、筑後川で戦が起きたことなんてこれまでなかったじゃねえか。こんなとこより、今熱いのはなんてったって筑前だろ! ああ、ちきしょう、なんで軍師殿は俺をこっちに置いたんだッ! あっちに配置してくれりゃ、俺が鬼道雪だのスギサキだの、まとめて相手してやるってのに!」
「そんなおばかな木下さんが暴走すると困ったことになる。だから鍋島様は木下さんをこちらに配置したんだと思いますよー。私というお目付け役込みで」
「お、おばかって、胤さん、そりゃねえよ」
「あら、私としたことが、つい本音を口にしてしまいましたわ」
 ころころと笑う僚将を見て、竜造寺家四天王の一、木下昌直は情けなさそうに表情を歪めた。


 ふん、とそっぽを向きながら昌直が口を開く。
「ちぇ、そりゃまあ『円城寺の弓姫様』と比べりゃ、おれなんてぽっと出の下っ端のおばかですけどね」
「あらあら、いい年をした殿方が拗ねても可愛くないですわよ?」
 子供じみた抗弁をすっぱりと両断され、昌直は言葉に詰まる。
 そんな昌直を気に留める素振りも見せず、名門円城寺家の若き女当主 円城寺信胤は眼前に広がる筑後川の流れに目を向けた。


 実のところ、信胤にしたところで筑前侵攻を前に、筑後方面に差し向けられたことは残念なのである。
 のんびりとした口調、おっとりとした為人から誤解されがちだが、円城寺家の今代当主は血筋だけでその地位にいるのではない。城中を歩く信胤の姿を見た家中の将士はおのずから姿勢をただし、行き合った相手は敬意を込めて道を譲る。円城寺の弓姫と一度でも戦場を共にしたものであれば、誰もがその実力を骨身に刻み込んでいるためである。


 戦を好むわけではないが、どうせ戦わなければならないなら、より強い敵と戦いたい。そのあたりはもう一人の姫武将、江里口信常(えりぐち のぶつね)と同じ性情を持つ信胤であった。
 もっともその信常曰く「でも、他のみんなはそうは見ないんだよねえ……良い縁談はみーんな胤に持っていかれるからなあ。見た目と言葉遣いってのは重要さね。ま、行き遅れなんて陰口はもう聞きなれちまったから構わないけどさ、あっはっは…………はぁ」とのことだった。
 

 要するに外から見たかぎり、信胤は温雅で温和なお姫様なのである。
 まあ、その実態はといえば、見た目とは正反対――と、昌直が胸中で呟こうとした時。
「あら、木下さん。額に蝿がとまってますわ。わたくしが払って差し上げましょう」
「うをッ?! ちょ、胤さん、蝿を払うのになんで弓引いてんだよ?! というか、いつのまに弓を取り出したんだッ?!」
「女子に秘密はつきものですのよ。その蝿を払えば、木下さんもちゃんと命令に従ってくれますわよね?」
「す、すみませんしたッ! 木下昌直、余計なことは考えずに任務に精励させていただきやすッ!」
「はい、結構です――あら?」
 まさか実際に射ることはあるまいが、と思いつつ、信胤の日ごろの態度を思い返してちょっと不安になっていた昌直は、不意に信胤が首をかしげたので、思わず首をすくめた。


 だが、信胤の視線は昌直を通り越して、背面を眺める筑後川の水面、その先に向けられていた。
 信胤の様子から異変を察し、昌直も振り返る。そこには百騎ほどの騎馬隊が砂埃を舞い上げつつ疾駆している。どうやらこちらへ渡ってくるつもりであるらしい。
「大友軍、にしては数が少ないですわね。鍋島様が言っていた使いの方かしら?」
 その信胤の呟きに、昌直がきょとんとした顔をする。
「へ、おれは軍師殿から何も聞いてねえんですけど?」
「言っても無駄だと思われたのではありませんの? わたくしが何度いっても、ここの守りの重要さを理解してくれない木下さんだから、仕方ないかもしれませんわね」
 おほほ、と控えめに笑う信胤だったが。
 実は何度も何度も説明を繰り返して、ちょっとご立腹であったのかもしれない。


「あ、いや、その……そ、そうだ、はやく前の連中に命令しねえといけねえッ! んじゃ、俺がちょっくら先走って攻撃しないように言ってきますわッ!」
 そう言うや、馬腹を蹴って駆け出す昌直の後姿を見ながら、信胤は笑いをひっこめてほぅと息を吐いた。
「うーん、筋は良いんですけど、やっぱり問題はおつむの方ですわね。もうちょっと兵書でも読んでくれれば、わたくしも皆も、喜んで四天王の一角だと認められるんですけど……あの調子では、期待薄のようですわ。それでも勝ててしまうあたり、武力だけなら文句のつけようがないところが、また余計に始末に悪いんですのよねー」
 一度、誰ぞに手痛く叩かれれば、そこから学ぶことも出来るかもしれない。大友相手ならうってつけ、とも思うが、しかし大友相手の戦に敗北覚悟で昌直をぶつけられるほど、今の竜造寺に余裕はない。
 かといって、そこらの武将では昌直の相手にもならぬ。
「悩ましいところですわ」
 そう言って、円城寺の弓姫は頬に手をあてて、もう一度ため息を吐くのだった。





[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第五章 剣聖(四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:9e91782e
Date: 2010/12/01 21:55

「つまり、島津軍にしてやられたから、将としての経験を積むために修行の旅に出た、というわけですか」
「そのとおりです。より正確に言うなら『してやられた』わけではなく『こてんぱんに叩きのめされた』というべきでしょうか。これでもか、これでもか、えいえい、という感じでした、あれは」
「そ、そこまで言いますか……」
「他に形容のしようがなくて」
 自分のことだというのに、まるで他人事のように長恵はそう言った。


 特に表情を変えることもなく、淡々と先の島津との戦を語る長恵。それを聞き終えた俺は、嘆息しながらこう返した。
「なるほど。島津の総攻撃にくわえ、率いる将があの家久殿とくれば、それは厳しい戦況にならざるを得ませんね」
 おや、という感じで長恵が首を傾げる。
「雲居殿は島津の末姫をご存知なのですか?」
「直接の面識はありませんが、噂程度なら聞いたことはあります。長ずれば、歴史に名を残す名将となる人物かと」
「ふむ……? 姉の鬼島津ならともかく、末姫はまだそこまで知られていなかったと思いますけど。少ない情報で、よくそこまでの器量だと見抜くことができましたね」


 何気ない言葉だったが、俺はわずかばかり緊張した。
 今回の戦で剣聖を討ち破った島津家久の勇名は轟くことになろうが、俺自身は薩摩での戦の顛末を知らなかった。今回の戦以前に島津四姫の名を聞いたことはあったが、家久個人のことを称揚するようなものは聞いていない。
 この状況で、元の時代の知識をもとにした俺の言い方は、長恵にとってはおかしなものに聞こえるだろう。あるいは俺が下手な慰めを口にしていると思われてしまったかもしれない。


 だが。
「真の名将は些細な情報からでも真実を拾う。実際に相対した私などより、あなたの方がよほど家久を識っているのですね。やはり、御身は私が敬うに足りる方です」
 なんだか目をきらきらさせながら、尊敬もあらわに俺を見る長恵。
 なにやらまたしても剣聖の心の琴線に触れてしまったらしい。
「いや、それは、どんなものでしょう? そもそも私は兵略を誰かに学んだわけでもないですし、四書五経、六韜三略を諳んじているわけでもありません。誰かに教えを授けられるような人間では……」
 むしろそういった知識でいえば、俺は長恵の足元にも及ばないだろう。
 将として学びたいというのであれば、それこそ道雪殿という、これ以上ない方がいらっしゃることだし、なんなら紹介しても――


 しかし、俺の言葉を、長恵はゆっくりとかぶりを振って否定する。
「運用の妙は一心に存すとは往古の名将の言葉ですが、知識の多寡など実際の戦場では些細なこと、己が知る物をいかに活かすか、その能力こそが将の良否を分けるものと、私は先の戦で思い知りました。ですから、何も兵法を授けてほしいとは申しません。いえ、私のために、寸刻すら割いていただかずとも結構。ただ傍に侍ることをお許しいただきたい、と」
 願うのはそれだけです。
 そう言って長恵は眼差しに真摯さを込めて俺を見つめた後、深々と頭を下げた。


「学ぶべきことは、こちらで勝手に学びます。もちろん、随身する以上、いかような命令でも果たしてみせます。先駆けをせよと言われれば、我が剣をもって敵を切り裂きましょうし、使いをせよと言われたら千里の彼方でも赴いてみせましょう。もしも伽をお望みならば裸身を晒すことも厭いませ――」
「ぶッ?!」
 思わず吹き出してしまった。というか、いきなり真顔で何を言い出すかッ?!
「い、いえ、そこまでしてもらわずとも結構ですが――」
 慌てて長恵の言葉を遮る俺に、吉継と誾から冷たい眼差しが注がれる。
 いや、別に伽云々は俺が求めたわけではないのですけどね?


 げふんげふん、とわざとらしい咳払いをして、改めて長恵に向き直る。
「ま、まあ最後のはともかく、それではこちらは何一つせずに、剣聖殿を使い立てして良い、ということになってしまいますよ。それはあまりに不公平でしょう」
「無理やり押しかけ、無理やり随身を請うているのです。むしろ、これでもまだ足りないと思っているくらいですよ? ですから、お望みのことがあれば、なんなりとお申し付けくださいな。こう見えて、私、脱いでもすご―」
「ともかくッ!」
 ええい、今、何を口走ろうとした?! お前はもう何もしゃべるなッ、丸目長恵!


 俺はこれ以上の話し合いは無意味と判断し、さっさと結論を出すことにする。
「その条件であれば、こちらが断る理由も特にありませんねッ。とはいえ、俺は食客なので、仕官という形はとれませんよ。それに丸目殿の場合、立場が立場なので、あまり表立って動いてもらってはこまりますから、行動に制限がつくかもしれません。それに――」
 相良家で逼塞を命じられている剣聖が、大友家に仕えている、などと知られたら、どんな騒ぎになるか知れたものではない。
 そして長恵が相良家に仕えている以上、俺の傍でどんなに功績をたてたところで報われることはないだろう。それどころか正体が知られたら、その日のうちに追放処分になる可能性さえあった。


 だが、そういった自身に不利な諸々の条件を聞いても、長恵はあっさり頷くだけで、別に気に留めた様子はなかった。それどころか、うれしげに破顔して、どうぞよろしくお願いしますと丁寧に頭を下げてくる始末である。
 このあたり、実に礼儀正しい人で、しかも文武に長じており、報酬は不要とくれば、望んでも得られる人材ではない。ないのだが……


「……良かったですね、お義父様。とても頼もしい方がお供に加わってくださって」
 そういう吉継の背に、そこはかとなく怒りのオーラが漂っているような気がするのは、はたして気のせいなのかしら。


「……この隊の指揮は雲居殿に委ねられています。ゆえに反対を唱えることはいたしませんが、何事かあった場合、その責は雲居殿のものとなることを、ゆめゆめお忘れなきよう」
 ちなみにこれは誾の台詞である。その視線はこの季節の空気よりもなお乾き、冷たく俺を見据えていた……







 ――というのが昨日の出来事である。
「師兄、あれが筑後川です――って、なんで疲れ果てたようにため息をついてるんですか?」
 ああ、本当になんで俺は肝心の肥前に着くまでにこんな疲れ果てているのだろう? 戦に例えれば、まだ敵の先鋒部隊の影すら見えていない状況だというのに、すでに疲労困憊です。
 まあ、理由は明らかだが、言っても多分通じないので言わないでおこう。これ以上、疲れたくないし。しかし、それでも訊かねばならない点が一つだけあった。


「……いや、気にしないでください。それより、その『師兄』というのは?」
「師兄は私より先にお師様の教えを受けられたとのことですから、私にとっては兄弟子同然、敬意を込めてそう呼ばせていただくことにしました」
「いや、だからそれがしは新陰流を学んだわけではないと――」
 俺の抗弁を聞くと、長恵は小首を傾げた。
「それなら『お師様』は秀綱様と被ってしまいますから駄目ですし……ああ、そうですね、これなんてどうでしょう?」
「嫌な予感がしますが、拝聴しましょう」
「『ご主人様』とお呼び――」
「『師兄』で良いです」
 むしろ師兄にしてくださいお願いします。


「はい、では師兄、これからよろしくお願いしますね」
 にこり、と一点の曇りもなく微笑む長恵。
 その顔は、とりあえず細かいことはどうでもいいや、と思えるくらいに魅力的な表情ではあった。



 

 そんなことを考えていると、斥候に出していた兵士の一人が馳せかえってきて報告した。
 その報告は――
「対岸に竜造寺軍が?」
「はッ。旗印から見るに、四天王の円城寺、木下の両名かと」
「いきなり四天王、それも二人一緒にか」
 偶然と呼ぶには出来すぎた状況だった。
「数は? 騎馬はどれほどいる?」
「おおよそ四百。ほぼ徒歩の兵で、騎馬は、四天王の馬廻り衆とおぼしき二十騎ほどです。あちらもすでに此方に気づいている様子で、一部の部隊が河岸に展開をはじめました」
「上流に回りこんで渡河することも出来そうだが、下手に警戒されるのも面倒だな。戦をする意思はないと伝えてこよう。丸目殿、早速で申し訳ないが、付き合っていただけますか?」
「それはもちろん構いませんが、師兄、そのように堅苦しい話し方でなくとも結構ですよ。もっと気軽に、親愛と恋情を込めておよび下さいな」
「何故に恋情をこめねばならんッ?!」
「そうそう、そんな感じで」
「ああ、もう、とにかく行くぞッ」
「承知仕りました」
 
  


◆◆



 肥前蓮池城。
 竜造寺家にとっての対大友戦における最前線とでも言うべき城の中で、俺は途方にくれていた。
 別に捕らえられたわけではない。聞けば大友家からの使者の来訪は予想されていたらしく、木下の方はともかく円城寺の方は友好的にこちらの話を聞いてくれた。
 もっとも、木下が思ったことをそのまま言葉にする人物だとするなら、円城寺の方はその逆、言葉の端々から、見た目はあまりあてにならない類の人物であるとの印象を強く受けた。なので、友好的に見える雰囲気を、そのまま鵜呑みにはしなかった。


 とはいえ、使者として赴いた以上、あちらの言い分は基本的にのまねばならない。そんなわけで、すすめられるままに蓮池城までやってきたわけだが――  
「がおー」
 まさか、熊の着ぐるみを着た円城寺に襲われるとは。
 いや、正確に言えば、今にも襲い掛かろうとしているように両の手を高く掲げて「がおー」と吼えているだけなのだが。ひどくのんびりした声で。


 とりあえず、俺はこの状況で向こうが求めているであろう台詞を言ってみることにした。
「……きゃー、たすけてー」
 超棒読みだった。
「あらあら、随分冷静ですこと。皆さん、大抵もっと驚いてくれるのですけど」
「それは多分、別の意味で驚いていたんだと思いますよ……」
 主に、四天王の一人ともあろうものが、ぬいぐるみめいた熊の着ぐるみを着てることに対して。
 これが本物の熊の生皮を剥いだものでも着ていれば、本気で驚いたかもしれんが、今の俺の感受性は某剣聖のせいで摩滅寸前。ついでに言えば、東の方には馬の着ぐるみ(めいた兜)を着けている武将もいるし、いまさら着ぐるみ程度で驚いたりはしないのである。


「ちぇー、ですわ」
「いや、まあいいですけどね。もしかして、それがしたくてそれがしを呼ばれたのですか、円城寺様?」
 なら、帰らせてもらうけど。
「いえいえ、きちんと本命の用件はございますわ。これはかたいお話の前の、一服の清涼剤のようなものとお考えくださいまし」
 それと、と円城寺は言葉続ける。
「円城寺様、では呼びにくいでしょう? 信胤で結構ですわよ。親しい方は『胤』と呼んでくれますので、そちらでもよろしいのですけど」
「さすがに初対面の方を愛称で呼ぶほど肝は太くありませんので、信胤様と呼ばせていただきましょう。それで、信胤様、本命の用件というのは?」


 マイペースな相手につっこんでも、こちらのペースが乱されるだけだと学んでいた俺は、矢継ぎ早に言葉を重ねていく。これも長恵のお陰と思えば、自然と感謝の念が――湧かんけどね。
「はい、えっと大友軍の使者と会うために、当家の軍師がこちらに向かっております。一両日中には佐賀城からお着きになるでしょう、そのことをお伝えしようとお呼びしたのですわ」
「軍師、というと、鍋島様でございますか?」
「はい、そのとおりです」
 微笑んで頷く信胤に、俺は小さく首を傾げる。自ら使者に会いに来る理由は推測できる。筑後方面からの侵攻に関して、何の手も打っていないとは考えにくいから、それを大友方に知られたくないのだろう。


 問題は佐賀城から、という点である。あるいは信胤がわざわざ口にしたということは、こちらを誘導するつもりなのかもしれないが、さて――
「どうなさいました、不思議そうなお顔ですわね?」
 そう訊ねてくる信胤に他意は無さそうにも見える。
 確認の意味でも、俺は一歩踏み込んでみることにした。
「佐賀城から、というのが少し意外でして。てっきり竜造寺家の主力は筑前との国境に集中しているものとばかり考えておりました」
「ああ、そういうことですの」
 そうですわね、とおとがいに手をあてて天井を見上げる信胤。


 しばし後、視線を俺に戻すと、信胤は再び口を開く。
「早馬が着いたのは、つい昨日のことなのですけれど、それによれば、大友軍は筑前の立花、高橋の謀叛を、まるであらかじめわかっていたかのように見事に制圧しつつあるとのこと。残すところは立花山城の立花鑑載殿ただ一人。大友軍はこれを幾重にも包囲しているのですが、肥前の方面にはほとんど警戒している様子が見えないとか。両家の謀叛を察していた大友家が、肥前の動きに勘付いていないはずはなく、これは明らかに誘いの隙、というのが軍師様のご意見でした」
「……なるほど」
「もっとも、軍師様は毛利軍を待たずに秋月軍が動いた時点で、皆に自重を申し渡していたのですけどね。暴走しそうな木下さんをわざわざこの城に配置したのも、その一環でしょう。そして、おそらく自分の考えどおりなら、筑前での戦の決着がつく前後に大友家から使者が来るだろうとも仰っておいででした」


 淡々と語る信胤が、何を言わんとしているのかは容易に察することができた。ほんのわずか、信胤が秘める力量の端に触れた気がした――のだが。
(しかし、着ぐるみを着たまんまなので、迫力に欠けることおびただしいのが難点だ)
 ここはもうちょっと緊張感を持ってしかるべき場面なのだが。いや、あるいはそれさえ計算尽くなのだろうか? だとしたら円城寺信胤おそるべし。いろんな意味で。


「……というわけで、雲居筑前様」
「――なんでしょうか?」
「お話も済みましたので、一献付き合っていただけませんか?」
「……はい?」
「木下さんだとすぐに酔いつぶれてしまって、心行くまで飲むことがなかなかできませんの。その点、雲居様はなかなか強そうな方とお見受けしましたわ」
「いや、それがしも酒はそれほど強くは……というか、一応、敵国の使者なのですがッ?」
「かたいことはいいっこなし、ですわ。ささ、わたくしが酌をいたしますので、ぐぐっとどうぞ。円城寺家の家訓は『駆けつけ三杯? ええい、この三倍は持って来いッ!』でしてよ」
「あらゆる意味で嫌な家訓だな、おいッ?! くわえて、それがしは遅れてきたわけではッ」
「あら、わたくし、使者の到着を今か今かと待ちわびていたんですのよ。十分に遅刻ですわ」
「ああ、もう意味がわからんッ?!」





◆◆◆ 





「……なるほど、それでその有様、というわけですか」
「……鍋島様には、まことにみっともない様をお見せしてしまい、申し訳…………ぅぇ」
 こみあげてくる吐き気を堪えきれず、思わず口元を押さえる俺。
 その対面に座るのは、鬼面で顔を隠した竜造寺家の大軍師 鍋島直茂その人である。


 第一印象としては、思ったより小柄だな、というところだった。
 というか、その程度しか思い浮かばないほど、今の俺はぐてんぐてんだった。言うまでもなく、明け方まで信胤に付き合わされたせいである。途中からは木下昌直も引っ張り込まれた(騒がしいので様子を見に来たところを信胤に捕まった)のだが、その昌直も俺と似たような有様である。
 ちなみにこの場にはいないが、吉継は呆れを通り越して頭痛を覚えていたし、長恵はどうして私も誘ってくれなかったのだと残念そうだった。誾に関しては、まあ言うまでもあるまい。


 いかに自国の将が誘ったとはいえ、使者がこの有様では直茂が「無礼者!」と咎めだてしてもおかしくなかったが、鬼面に隠れた表情は知らず、雰囲気に怒りは感じなかった。
 むしろ、俺を見据える視線に鋭さが増したようにも思えたほどだ。
 そして、それは間違いではなかったのだろう。次に直茂の口から出た言葉は、声音こそ穏やかだったが、そこには確かに刃の煌きがあったからだ。


「率直に言って、勝ち誇った尊大な使者から、芸の無い脅しじみた文句を聞かせられるものとばかり思っていましたが……その様子では大友宗麟からの使者、というわけではなさそうですね。それどころか、あえて無様を晒してこちらの器をはかろうとするとは、なかなかに手が込んだことです」
「…………あ、いや、さすがに信胤様の行動はまったく予想してませんでしたが」
「けれど、竜造寺をはかるにはちょうど良いと思った――違いますか?」
「――さて、何のことやらわかりかね…………ぉぇ」
 顔を真っ青にしたまま唸る俺を見て、直茂はやや気の毒そうに声をかけてきた。
「大丈夫ですか? 苦しいようならば典医を呼びますが」
「いえ、そこまでしたいただくほどのことでは……ぅ、ぐ、ただ、水をいっぱい貰えると有難いのですけど……」
「お安い御用です。どうやら、この先の話は貴殿が落ち着かれてからの方が良さそうですね。さして急を要する話でもなさそうですし」
「はい……お聞きしたいことと、お話したいことが、一つずつあるだけですので」
「ほう……詳しいことは後刻伺うとして、それはどのようなお話なのでしょうか?」
 直茂の問いに、俺は出来るかぎり簡潔に、かつ要点を押さえてこう返した。



「……日の本の外に広がる世界と、南蛮神教の役割について」





[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第五章 剣聖(五)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:9e91782e
Date: 2010/12/03 19:37

 肥前国蓮池城。
 信胤と昌直の四天王二人と共に城を訪れた俺は、その翌日の夕刻に城を出た。
 竜造寺家の本城である佐賀城に赴くため――ではない。用件は済んだので、さっさと筑前に帰るためである。
 吉継は筑前に帰ることには驚かなかったが、ただ到着した翌日に城を出るとは思っていなかったらしく、頭巾の中から発される声には少なからぬ戸惑いが感じられた。


「用件は済んだとのことでしたが、この短時間で竜造寺を説き伏せることが出来たのですか?」
 その問いに、俺はあっさりと首を横に振る。
「別に説き伏せてはいないぞ。多分、これから筑前を攻めることはないと思うが、それはあくまで筑前の戦況を睨んだ上での竜造寺家の判断だ。俺は別にそのことに口出ししに来たわけじゃないからな」
「……では、わざわざ道雪様に請うてまで肥前にいらしたのは何のためなんですか?」
 その問いに、俺は肩をすくめて応じた。
「内緒」
「……お義父様」
 明らかにむすっとした声が返ってきたので、俺はからからと笑った。
「はっきりいえるのは、竜造寺との和議とか同盟とか、そういうことではないってことだけだな」
 そもそも、一介の客将が一国の外交に口を差し挟めるはずもない。道雪殿は加判衆筆頭ではあるが、大友家の外交を一存で決められる権限など持っていないのである。


 それに、だ。
 仮に宗麟の同意を得て和議なり同盟なりを求めても、おそらく竜造寺は応じないだろう。名目はどうあれ、大友家と竜造寺家では根本となる国力が違う。筑前を奪還した宗麟は、いずれ必ず肥前に圧力を加える――そのことを竜造寺家は承知しているだろうから。
 元々、竜造寺家が大友家と袂を分かったのは、その圧力に抗するためである。筑前の戦線で機を失ったくらいで、大友家の下風に立つことを肯うはずがなかった。


 もし大友家に余力があり、肥前侵攻が可能であれば、時間稼ぎの意味でも直茂は話くらいは聞いてくれたかもしれないが、二度の叛乱――筑後のそれもいれれば、三度の叛乱の後の大友家にそんな余力がないことは子供でもわかる。
 もっと言えば、現状でも竜造寺家が総力をあげて筑前に攻め込んでくれば、大友家は苦戦を免れないのである。
 直茂の話によれば、立花山城を囲む大友軍はかなり大胆に肥前方面を空けているようだが、これは精一杯の虚勢といっても良いだろう――無論、そんなことを口にはしなかったが。




 俺と吉継がそんな会話を交わしていると、それまで黙っていた長恵が参加してきた。
「ですが師兄。鍋島直茂といえば、竜造寺家にあって随一とも言われる切れ者。それが素直に大友の思惑に乗せられるとは、ちょっと思えないんですけど?」
「乗せられた、というわけではないな。多分、というかほぼ確実に見抜いているだろ。今の大友に余力がないなんてことは、ちょっと情報を集めれば誰にでもわかるしな」
 では、何故竜造寺が動かないと思うのか。長恵がそう問うてくると思った俺は、問われる前に答えを口にする。


「まずいのは、あくまで竜造寺家が『総力を挙げて』攻めこんできた場合だ。筑後に蒲池鑑盛殿がでんと構えている以上、総力を挙げて筑前に攻め込むのは至難の業だろう。それに平戸の松浦隆信や日野江の有馬義貞といった肥前国内の反竜造寺勢力も健在という話だしな。そういった四方の情勢に対処する兵を残した上での攻勢であれば、今の大友軍でも凌ぐことくらいは出来る」
 ちなみに松浦や有馬の情報は、酒に酔った木下昌直から聞きだした話である。信胤はころころ笑いつつ、肝心要の情報は何も口にしなかった。その一方で俺が昌直から情報を聞き出すのを特に邪魔立てする様子もなかったから、正直、何を考えているやらよくわからん人だった、というのが信胤への主な印象である。


 そんな俺の感慨をよそに、長恵が感心したように頷いている。
「――なるほど。恐るべきは大友家の底力ですか。国内が散々乱されているにも関わらず、なお竜造寺家が全軍をあげて攻め込まねば、筑前を取れないとは」
 長恵の言うとおりだった。
 北九州全域に影響力を持つ大友家と、肥前一国すら掌握しきれていない竜造寺家の、ゆるぎない優劣はここにきてなお生きているのである。


 もっとも。
 逆に言えば、筑前の戦況次第では、それだけの差があってなお勝利しえると直茂が考えるくらいに、両家の差は縮まっているとも言える。
 毛利家や謀反人の存在があったにせよ、両家の勢力を考えれば、これがどれだけまずい状況なのかは誰の目にも明らか――と言いたいのだが。


 俺の視線が、少し離れたところにいる誾に向けられる。
 俺の意を察した吉継が小さく嘆息し、長恵が小首を傾げる。宗麟を直接に知らない長恵に、大友家の現状を正しく把握するのは難しいだろうから、これは仕方ない。
 まあ長恵がこのまま俺の近くに居続けるなら、近いうちに嫌でも知ることになるだろう。



 それよりも、と俺は頭を切り替える。
 今のうちに二人に言っておかねばならないことがあった。
 南蛮神教――ことに吉継の身の安全について。





◆◆





 俺の話を聞き終えた吉継は、低く静かな声で確認をとる。
「――それはつまり、南蛮神教が私目当てで再び動く、ということですか、お義父様?」
「正確には、その可能性がある、というあたりか」
 俺が答えると、吉継は押し黙ってしまった。吉継にとっては、過去の悪夢を指摘されるようなものだから、落ち着いてはいられないだろう。
 俺としても確たる証拠もなしにこんなことを言いたくはないのだが、俺の予測が当たっていた場合、吉継が危難に遭う可能性がかなり高いと思えたのである。


「……何故、今この時に、そう思われたのですか? 石宗様の元に引き取られて数年、あれらが私目当てで動いたことはなかったというのに」
「だからこそ、というべきかな」
「だからこそ?」
 吉継は怪訝そうな表情を見せるが、これは一言では説明しづらいことだった。
 なので、俺は順を追って説明することにする。


「南蛮神教の役割――俺は宗教に関して門外漢だから、その教えが良いとか悪いとか言うつもりはない。何を信じるかはその人の自由だけれど、それはあくまで個人に限ってのこと。宗教がひとたび権力と結びつくと、ろくなことがないのは事実として知っている」
 その害悪は、時として一つの時代すら赤黒く塗りつぶす。
 無論、その罪は宗教になく、それを利用する人間にあるわけだが。
 そんなことを考えつつ、俺は話を続ける。


「南蛮神教は異国の教え。当然、それを奉じる国が大陸にはある。大海をものともせずに領土を拡げるその国にとって、布教は侵略に先立つ教化でもあるわけだ――もちろん、すべての宣教師がその意図を持っているわけではないだろうがな」
 真摯に神の教えを広めたいと願う人がいることは間違いない。むしろ、大半はそういう人たちなのだろうと思う。
 だが、彼らの思いがどうあれ、広められた教えが侵略と、その後の統治を容易にするという一面は否定しえない事実である。少なくとも、俺はそう考えていた。



 吉継が悪魔と罵られ、大友家を放逐されて、紆余曲折の末、再び石宗殿の元に引き取られた。
 あえて口にするつもりはないが、それは石宗殿にとって、南蛮神教側に弱みを握られたに等しいことだったのではないだろうか。
 なにせ相手は主君と直接つながっているのだ。宗麟は吉継に同情的だったというが、悪魔という言葉で煽り立てれば、再び吉継の身命に手を伸ばすことは十分に可能だったことだろう。
 石宗殿にしてみれば、南蛮神教のやることに手や口を出せば、いつ向こうがその行動に出るかわからないという恐れがあったはずだ。必然的に、南蛮神教を掣肘する行動に限界がうまれる。




 連中が吉継に手を出さなかった数年は、南蛮神教が石宗殿の掣肘を受けずに自由に(無論、まったく傍観していたわけではないにせよ)布教を進められた数年でもある。
 その結果、今の大友領内でどれだけ教徒が増えたかはしらないが、その数、一万や二万は下るまい。
 南蛮神教の勢力を支えるのは、当主である宗麟だけではないのだ。幾万とも幾十万とも知れぬ数多の信者を背景としているからこそ、大友家譜代の重臣たちすら南蛮神教を憚ってきたのである。




 大友家の内外に強い影響力を有するようになった南蛮神教。しかし、あのカブラエルという布教長は決して愚かではない。それは、一度、石宗殿の屋敷で向かい合った俺の確信であった。
 おそらく、カブラエルはあまりに過ぎた力は、反発を招くことを承知していたのだろう。他の家臣たちが南蛮神教を憚る程度ならば問題ないが、さらに進んで脅威を感じ、ついには危険だから排除しよう、などと考える者が出てくれば、大友家そのものが危うくなってしまう。
 大友家の当主と領民に強い影響力を持つ南蛮神教だからこそ、大友家そのものが揺らぐことは望まない。その隙に他国の侵攻を許せば、これまでの苦労がすべて水泡に帰してしまうからである。
 それを承知していたカブラエルは、巧妙に反対派との間で権力の綱引きを行っていたのではないか。だからこそ、ここ数年の大友家は、内実はどうあれ、表立った混乱は起きていなかったに違いない。





 しかし。
 筑後の国人衆の叛乱にはじまる一連の動乱は、宗麟の南蛮神教への傾倒を危惧する者たちの蜂起であり、それは大友家の屋台骨すら軋ませるほどのものだった。
 もし、カブラエルが大友家の倒壊を望んでいないのならば、重臣たちのうらみつらみを逸らすために、宗麟に何らかの働きかけをしたはずである。しかし、今回はカブラエルは動く様子を見せていない。石宗殿の法要ではちょっかいを出してきたが、あれは石宗殿の死に乗じて布教を更に押し進めるためのもので、実際、それ以降はまるで動きを見せなかった。


 それどころか、豊前の乱後の発言を聞けば、更なる騒乱を望んでいる節さえ見て取れる。
 カブラエルが現在の南蛮神教、および大友家を取り巻く状況を理解していないとは思えない。理解した上で、あえてその動きを止めるどころか、加速させているのだとしたら、その理由として考えられるのは――  




「南蛮神教は、もう大友家の庇護を必要としていない、と……?」
 それが意味することに気づいたのか、吉継の声がわずかな震えを帯びる。
 対して、俺は頷くことでそれに応えた。
「権力者の庇護は、つまるところ武力と、それを行使する正当性だ。その二つを得られる目処が立てば、カブラエルたちは別に大友家がどうなろうと知ったことではないだろう」
 無論、連中は大友家に恩義を感じて粛々と出て行ったりはしないだろう。可能なかぎりの財と権力を毟り取ってから去るに違いなく、当然、家中の反南蛮勢力は抵抗する。
 であれば、あらかじめそんな家中の力を殺いでおくに越したことはない。今回の一連の騒乱に連中が利を見ているのだとしたら、その一点しか考えられないのである。




 そして、俺の考えが正鵠を射ていた場合、問題は二つ。
 ひとつ、南蛮神教が手にした武力とは何か。
 ひとつ、大友家を必要としない正当性とは何か。



 前者は単純に信者の数かと思われる。着の身着のままの農民であっても、彼らが農具を手に取って立ち上がれば、それは立派な軍勢となる。中世、イスラム教世界を震撼させた十字軍とは比べるべくもないにせよ、国の一つや二つ征服することは不可能ではあるまい。
 あるいは、考えたくないが、今の宗麟であれば、宣教師たちが異国の軍勢を引き入れれば受け入れてしまうかもしれない。これが南蛮神教の武力である可能性もあった。
 ――まあ、さすがに宗麟でも異国の軍勢を、家臣に諮らずに受け入れたりすることはないだろうとは思うのだが。それに、仮に宗麟が肯ったとしても、普段は南蛮勢力を憚っている家臣たちも、こればかりは黙って承服することはないだろうから、現時点でそこまで考える必要はないように思われる。
 ただ、気になる点がないではない。そして、それは次の正当性にも絡んでくるのだが……




 南蛮神教が獲得する大友家に拠らない正当性とは何か。それを考えるとき、俺は一つの歴史的事実を想起せざるを得なかった。
 俺の知る歴史において、晩年の大友宗麟がキリスト教の理想郷を夢見て日向の地に建国したという宗教国家 『無鹿(ムジカ)』である。
 その正否や目的はさておいて、この世界の宗麟であれば、耳元で南蛮神教の、南蛮神教による、南蛮神教のための国家をつくりなさい、とカブラエルあたりに囁かれれば乗り気になるのではないか――そんな気がしてならないのだ。



 無論、そんな真似をすれば大友家は間違いなく分裂する。それどころか、その新たな宗教国家は九国中を敵にまわすことになるだろう。
 これまで南蛮神教が行ってきた布教と、それに伴う異教の排斥――寺社仏閣の破壊などは、あくまで大友家の領内に限定されていた。平戸の松浦隆信なども、領内に南蛮神教を広めるに際し、強硬手段を用いたとも聞く。両家が行った破壊の規模は大きく異なるが、いずれの破壊も自国内に限定されていたという一点で共通している。だからこそ、その影響は国内に留まっていたのである。


 しかし、南蛮神教の布教、異教排斥を名分とした『他領への』侵攻は、すなわち南蛮神教を奉じない大名、領主すべてに対しての宣戦布告に等しい。そして、九国はおろか日の本全土を見渡しても、南蛮神教のみを奉じている地域など存在しない。
 すなわち、無鹿建国は、日の本全土を敵にまわすことに等しいのである。



 この暴挙を黙って見過ごす者などいるはずはない。日向一国のみならず、九国全土の大名が南蛮神教――ひいてはそれを奉じる大友家を追討するための兵を挙げる。その包囲網には四国、中国の大名も間違いなく加わるだろうし、最悪、京の将軍家さえ動くかもしれない。
 そして、その先頭に立つのはおそらく島津家。現在でも南蛮神教を敵視している島津が、宿願の地(日向は古くは島津領)に異教の国家が建てられ、あまつさえ他の信仰を押し潰そうとする様を座視しているとは到底考えられない。


 島津は薩摩一国を制圧したばかり、周辺にはいまだ敵も多いだろうが、その敵対勢力とて、南蛮神教に国土を蹂躙されるよりは島津と手を結ぶ方を選ぶに決まっていた。
 形こそ違え、これはある意味「耳川の戦い」の再現。
 現状の島津家では余力を残して事にあたるほどの国力はないだろうから、おそらく全力出撃になると思われる。他国と異なり、薩摩は日の本の最南端。その後背を衝ける勢力は国内には存在しないから、動員自体は可能であろう。隣国の肥後はつい先日、手痛く叩いたばかりなので尚更だった。




 ここで、先に挙げた『気になる点』が絡んでくる。
 大友家と南蛮神教を討つために出撃する島津軍
 空になる薩摩。
 『国内』に、その背後を衝ける勢力は存在しない。



 ――では『国外』ならば?





◆◆






 ――筑後川の流れに目を向けながら、長々と語ってきた俺は、ここでようやく一息ついた。
 正直に言って、考えすぎなのではないか、と自分でも思う。そもそも仮定が多すぎるし、南蛮側が船団を派遣しているという確証などどこにもない。くわえて、元の時代の知識さえ流用しているので(さすがにこれは言わなかったが)俺以外の人にとっては推論と呼ぶにも値しない暴論、妄想の類に聞こえてもおかしくはない。というか、もし俺が知識なしに他人から聞かされたら、そう思うだろう。少なくとも全面的に信用しようとは思わなかったに違いない。
 ただ、一つの可能性として――最悪の未来の一つとして、そんな状況があり得るということは、幾度確認してもし過ぎるということはない。俺はそう考えていた。




 ここで、俺はようやく本題に立ち返る。
「南蛮神教が大友家そのものから離れようとしているなら、もう道雪様を憚る必要もない。連中が吉継を教会の敵としてみているのか、それともそれ以外の理由があるのかはわからないが、いずれにしても吉継の身柄を狙ってくる可能性はあるわけだ。だから、これからはなるべく一人では行動しないようにしてくれ。それで、出来れば丸目殿に吉継の護衛をお願いしたい……って、ん?」
 そこまで言って、俺はようやく吉継たちの反応が薄いことに気づいて、視線を二人に戻す。
 すると――



 そこにはいつもどおりの頭巾姿の吉継と、ぽかんと口を開けた長恵がいた。雰囲気から察するに、おそらく吉継も頭巾の中で長恵と同じ表情をしているものと思われる。
「どうした、二人とも?」
「…………どうした、と言われましても……」
「…………師兄の頭は、どうなっているんですか……?」
 いぶかしんで訊ねる俺に対し、二人からは何とも言いがたい言葉が返ってくる。
 吉継はわからないが、長恵の表情はどこか薄ら寒そうですらあった。




 しばしの沈黙の後、どこかおずおずとした感じで吉継が口を開く。
「……お義父様の言ったことが真実かどうかはわかりません。でも確かにそういう可能性もあるのだということは、理解できます。理解できないのは……」
 吉継は言いよどむように言葉を止めたが、訊ねたいという衝動に耐えられなくなったのだろうか、すぐに言葉を続けた。
「理解できないのは、今、この場所で、この時点で、そこに思い至ってしまうお義父様のこと……お義父様が筑前での戦絵図を描いたときにも思いましたが、一体どうやったら、ここまで精緻にこれから先に起こるであろうことを推し量れるのですか……?」
 吉継の疑問は、そのまま長恵の疑問でもあったらしい。長恵は吉継の言葉にこくこくと頷きつつ、返答を求めるようにじっと俺を見据えている。無論、吉継の視線も、頭巾の中からまっすぐに俺に向けられていた。



 それに対し、俺は小さく肩をすくめてみせる。
「どこも精緻なんかではないだろう。証拠もなく、こうなるかもしれない、ああなるかもしれないって言っているだけのことだぞ?」
「でも、お義父様はそうなると思っておいでなのでしょう? だって、そうでなければ、私の前で南蛮神教に関することを口にしたりはしないはずです、お義父様は」
「……む……いや、やはり愛する娘の安全には万全の注意を払いたいと思うわけで、どれだけ可能性が低いとはいえ、出来る限りの手を打つべきと思うわけだ」
「万が一に備えてのことで、別に確信なんて持っていない、ということですか?」
「うむ、さようでござる」


 そういって何度も頷く俺の表情に何を見たのか、吉継の口から小さなため息がこぼれた。
「……では、そういうことにしておきましょうか」
「……若干気になる言い方だけど、まあ納得してもらえたなら、よしとしよ――」
「まったくもって納得はしてませんが、訊いたところで、どうせはぐらかそうとするのでしょう? なら無駄な時を費やさず、いずれ話して下さる時を待つのが双方にとって最良だと考えただけです」


 吉継の言葉に、俺は一言もなく頭を下げるしかなかった。うーむ、この思慮深さでまだ十五、六か。我が娘は長ずればどれだけの大物になることか、楽しみなことである。
「……お義父様、何を笑ってるんですか?」
「いや、娘の将来に思いを馳せていたら、自然と笑みが」
「……今の話から、どうして私の将来に話が繋がるんです? 一応つけくわえておきますが、半分の半分くらいは秘密主義の誰かさんへのあてつけですよ?」
「そのひねくれ具合も含めて可愛いなと思うわけだ」
「……めずらしく真剣な表情を見られたと思ったら、もういつものお義父様に戻ってるし……」
「む、何か言ったか?」
「いいえ、なにも」
 何やらぶつぶつ呟いている吉継に問いかけたら、そっけない返答が戻ってきた。 
 どうも機嫌を損じてしまったようだが、しかしまさか今の話の大部分が別の歴史を元にしているなんて言えないしなあ……冗談を言うな、と怒られる程度なら良い方で、下手したら狂ったと思われかねん。




 俺がそんなことを考え、さてどうやって機嫌を直してもらおうか、と考えていると、すぐ近くから何やら楽しげな声が聞こえてきた。
「あは、師兄と姫様(ひいさま)は仲が良いのですね」
「ひ、姫さ――?!」
 長恵の思わぬ呼びかけに、吉継がめずらしく狼狽したような声をあげる。
「はい、師兄のご息女ということですから、そうお呼びしたんですけど、まずかったです?」
「い、いえ、まずくはない、ですが。その呼び方をされたのは、久しぶりだったもので……」
 わずかに吉継の声が低くなる。おそらく、そう呼ばれていたのは吉継の両親が健在だった頃なのだろう。
 長恵は吉継の生い立ちを知らないが、それでも吉継の声音に感じるところがあったのだろう。あえてそれ以上、言葉を続けようとはしなかった。



 しばしの間、あたりに沈黙が満ちる。
 吹きすさぶ風が、筑後川の河岸の草をそよがせる。その忙しない音に耳朶をくすぐらせながら、俺たちは期せずして、同時に馬の足を速めるのだった。


 


◆◆◆





 蓮池城内。
 城の一室から、去り行く大友家の一行を見下ろしながら、円城寺信胤が口を開く。
「軍師殿の目には、大友家の方々はどのように映りましたの? わたくしは、随分と愉快な方々とお見受けしましたが」
「たしかに、気さくな人たちではありましたね。しかし、いずれも尋常の人物ではない。後々のことを考えるなら、あるいはここで討っておいた方が、竜造寺にとっては良かったかもしれません」
 いつもどおり鬼面に顔を隠しながら、鍋島直茂は言う。その口調は間違っても冗談といえるものではなかった。


 だが、それを聞いた信胤は表情一つかえず、まるで今日の天気の話でもしているかのように気軽に応じる。
「あの方々が筑後川を渡るまででしたら、いかような手も打てますけれど、どうなさいますの?」
「やめておきましょう」
 鬼面に隠れていない直茂の口元が、苦笑を刻む。
「正式の使節ではないとはいえ、大友家の将士を謀殺などすれば、竜造寺の威信が地に落ちてしまいます。いずれ戦場でまみえる日を楽しみにしておくべきでしょうね」
 直茂の言葉に、信胤は小さく首を傾げた。
「あら、てっきり和議の打診かと思っていたのですけど、大友家の申し出を断られたんですの? それとも用件が違ったとか?」
「雲居という御仁の口からは、和議のわの字も出ませんでした。そもそも雲居殿が肥前に来たことも、大友宗麟殿はあずかり知らぬとか。加判衆筆頭の戸次殿の許可を得て来たと言っておいででしたよ」


 それを聞いた信胤は、おとがいに手をあて、むむ、と考えこむ。
「あの方はどれだけ飲んでも決して用件を口にはされませんでしたし、よほどに重要な用件のようですわね」
「胤殿、確か以前にも一度申しましたが、今一度、苦言を申します。仮にも他家の使いの方を酔い潰すのはやめていただけませんか?」
 直茂の厳しい言葉に、信胤はしゅんとうなだれた。
「す、すみません、家中の方はわたくしとちっとも飲んでくれないので、ついつい他家の方をお誘いしてしまって……」
「……まあ、それは」
 直茂は再び苦笑する。
 円城寺の弓姫が、その実、円城寺の蛇姫(うわばみ的な意味で)であることは、竜造寺の家中ではつとに有名だったりする。
 この場にはいない木下昌直(途中参加)が、いまだ寝所でうなされているあたりからも蛇姫のいかに恐るべきかは瞭然としていよう。



「――ともあれ、今回に関して言えば戦機は去ったと見るべきですね。筑前との国境に兵を出している兄者と四天王を呼び戻し、次の機を待つとしましょう」
「成松さんたちはともかく、殿がおとなしく言うことをきいてくださいますかしら? 『今回こそ大友に一泡吹かせてくれるッ!』」
 そう言って、信胤は高々と両手をあげる。いわゆる「がおー」の格好である。
「っていって、意気揚々と城を出られましたから、一矢も放たぬうちに退却して、なんて伝えたらぷんぷん怒っちゃうかもしれませんよ?」
「確かに兄者は一度振り上げた拳を、黙って下ろせる方ではありませんね。ならば、拳の落とし所を用意するのが軍師の務めというものです。幸いというべきか、そのあてはありますし、今回に関しては後背もあまり気にせずに済みます。胤殿をはじめとした四天王の皆々には、兄者にお話しした後に改めて伝えますので、今しばらくお待ちを」
 直茂の言葉に、信胤はにこりと笑う。
「事の軽重はわきまえておりますわ。ご心配なく。では、わたくしは木下さんに秘伝の酔い覚ましの薬でも持っていってさしあげましょう。一口飲むだけであら不思議、どんな二日酔いも一瞬で治る優れものですの。あいにくわたくしは一度もお世話になったことがないんですが、飲んだ方はみな泣いて喜ぶ一品ですわ」



 ……しばし後。蓮池城中に何やら騒々しい男性の絶叫が響き渡った。
 しかし、城中の将兵は誰一人として、その詳細を知ろうとはしなかったそうである。









 そしてもう一つ、城内の人々が知らなかったことがある。


 城内の一室で政務を執っていた直茂は、件の絶叫を耳にしてかすかに苦笑をもらした。
 だが、その時、直茂の耳は、ほんのかすかな別種の音を捉えていた。
 鬼面の下で訝しげな表情を浮かべた直茂は周囲を見渡し、怪訝そうに呟いた。
「鈴……?」
 だが、その言葉を証明するものは部屋のどこにも見当たらず。
 肥前の才人は、小さく首をかしげた後、何事もなかったかのように再び政務へと立ち戻っていったのである…… 






[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 幕間
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:9e91782e
Date: 2010/12/06 23:11

 武士の道とは、すなわち弓馬の道。
 戦国の世を生き抜く武士にとって、弓と馬の扱いは欠かせぬものといってよい。
 しかし、俺に関して言えば、馬の方は段蔵の猛特訓のお陰で不自由はなくなったものの、弓に関してはまったくといっていいほど手付かずだった。
 理由は幾つかあるが、一番の理由は、他にやることが多すぎて、弓にまで手がまわらなかったのである。それに馬と違って、早急に身につけねばならない理由もなかったのだ。


 これまでは俺自身、特にそのことを気にしていなかったし、周囲から問題とされることもなかったのだが、おれが筑前守に補任されてから、多少風向きが変わってきてしまった。
 某筆頭重臣曰く「殿上人の端に連なる者が、弓馬の道すら踏んでいないなどと知れたら、我が上杉の恥だろうッ」とのことで、これは確かに説得力がある言い分だと俺にも思えた。
 それゆえ暇を見つけて練習しようと思ったのだが、そもそもその暇というのが一向に見つからない。
 武田家との締盟に備え、それこそ東奔西走しているわけだし、それ以外にも通常の政務を処理しなければならないのだ。率直に言って、弓なんぞ引いている暇があったら、もうちょっと睡眠時間を増やしたいくらいであった。




 しかし、そんな俺でも例外的に時間ができる場合がある。
 それは俺が武田家に赴いた時だ。この時ばかりは外交上の務めを終えれば、あとは特にすることもなく、本を読んだり、温泉に入ったりとゆっくり出来るのである。まあそれだって、ほんのわずかな時間でしかないのだが。
 ともあれ、この時間を利用して、少しでも弓に習熟できないものか。とはいえ、武田と上杉の盟約はいまだ途上であり、上杉の重臣(一応いっておくと俺のことである)が弓も扱えないと知られたら、小さからざる影響が出てしまう。率直に言えば、上杉家を侮る者が確実に出てくるに違いない。


 武田家の家臣の目に触れることなく、気兼ねなく練習でき、かつ懇切丁寧に教えてくれる師匠がいる場所はないものだろうか――って、そんなところあるわけないか。
 と、我ながら間抜けなことを考えていたら、思いがけない声がかかった。



◆◆◆



 この時代、弓は戦のための術であって、道を云々するものではない。
 だがその一方で、古来から弓矢には霊妙な力があると信じられており、神事や祭事などで弓が用いられることも多い。
 それゆえ、弓道ならぬ弓術であっても、そのうちには確固とした道が存在した。
 つまり何が言いたいかというと、弓を引く虎綱の姿は、思わず見とれてしまうほど美しいということである。


「……あ、あの、天――ではない、颯馬さん。そのように凝視されると……」
 あまりに俺が強い視線を向けていたせいか、弓道着姿の虎綱が、困惑したように言った。
 弓を持っていない方の手で身体を隠すように身を縮める姿は、つい先刻まで堂々と射をおこなっていた人物とは思えない。
「……と、すみません、あんまり見事だったもので、ついじっと見入ってしまいました」
「そ、そうですか? そう言ってもらえると心強いです。射にはそれなりに自信がありましたから」
 そういって、ほっと息を吐く虎綱。以前の虎綱だったら、もっと自分を卑下するような物言いをしたかもしれないが、今の虎綱はそうではない。それはもちろん良いことだと思うのだが――


「『颯馬さん』?」
 俺は不思議に思って問いかける。これまでは普通に「天城殿」だったのだが、なんで急に呼び方を変えたのだろうか。
「あ、や、やっぱり不躾でしたでしょうか……すみません」
「いえ、別に不躾というわけではありませんし、構わないのですが、なんでまた急に、と思いまして」
「あの、それは、御館様が……」
 ……なんとなくその言葉だけでわかったような気もするが、ここはあえて黙っておこう。
「武田と上杉の締盟は間もなく成ります。ですが、まだ両家の臣は戸惑いを覚え、敵意を消せない者も少なくないでしょう。そういう中で、私とあ――颯馬さんのように、交流を持つ臣がいることは、両家の家臣にとって良い影響を及ぼすとのことで……」
「まずは呼び方を改め、周囲にはっきりと親交を知らせるように――というあたりですか?」
「は、はい。あの、もちろん天城殿がお嫌であれば、無理にとは……」
 恐縮しきりの様子の虎綱に、俺はあっさり首を左右に振る。


「いえ、今いったとおり、別に構わないですよ。で、その代わりというわけでもないんですが、ちょっとお訊ねします」
「は、はい、なんでしょうか?」
「いきなり春日殿のお屋敷にお招きいただき、あまつさえ弓の修練までしていただいているのも、やはり信玄様の?」
 それは問いかけというより、ほとんど確認だった。
 案の定、虎綱はこくりと頷いている。
 まあ明らかに都合が良すぎる流れだったからそうだろうとは思ったのだが、なんでまた信玄は知っていたんだろう。弓のことなんて口にしたことはなかったはずだが。


 その疑問には虎綱が解答をくれた。
「なんでも幸村さんから話があったとか」
「真田殿……?」
 なんで幸村が――って、まさか兼続経由か? 以前、俺と共に兼続が甲斐に来た折、二人が不思議なくらい意気投合していたのは知っていたが、そんなやり取りまでするようになってたのか。
「……まあ、別にいいか。お陰で武田屈指の弓の使い手に教えを請えるわけだし」
 俺の言葉に、虎綱は困ったように頬をかきつつ微笑む。そんな姿もまた新鮮だった。






 まあ要するに虎綱の屋敷にある弓練場で稽古させてもらっているのです。
 虎綱は武田家屈指の弓の腕、と言ったが、随一と言い換えても良いかもしれない。そのくらいに虎綱の射は流麗であり、放った矢はそのことごとくが的の中央を射抜いていた。
 で、一方の俺なのだが。
 矢を番え、弓を引き、放てばまっすぐに矢が的に向かって飛んでいく、などと思っていたわけではないのだが、実際、考えていた以上に難しかった。というか、普通に弓を引くだけで結構体力を消耗する。
 それも当然で、弓は戦において敵を射殺すためのものだからして、軽々とひけるようなやわな造りでは物の役に立たないのだ。
 俺でも引くのに苦労するような強弓を、ほっそい身体つきの虎綱がよくも軽々と、しかも連続で引けるものだと思う。
「童の頃から、何百、何千と繰り返してきた動作ですから、慣れもしますよ。それに、私のはこれでも軽い方ですよ。真に強弓と呼ばれるものの使い手であれば、甲冑ごと胴を射抜くことも出来るんです」
 俺の賛嘆の言葉にくすぐったそうな顔をしつつ、虎綱はそう教えてくれた。


 なるほどと頷いた後、的を見据え、虎綱から教わった基本を踏襲しつつ矢を射放つ。
 虎綱の矢が宙空を切り裂く征矢ならば、俺のは何と例えるべきか。
 的のはるか手前で力尽きて地面に落ちていく矢を見るに、俺が弓術を身につけたと胸を晴れるようになるまでの道程は、千里の彼方にあるようだった。




◆◆◆



   
 寒気が足元から忍び寄ってくる季節に食すほうとうは至高である。まして作ったのが美少女であるならなおのこと。
「び、美しょ――?! え、あ、お、おからかいにならないで、ください……」
 そう言って、顔を真っ赤にして俯くのは、かつて一国の守護職の座についていた人物――冨樫晴貞だった。
 現在では虎綱の屋敷に住んでいる、というか屋敷の内向きのことをほとんど取り仕切っているらしく、春日家の家臣たちとの関係も良好だとか。よかったよかった。まあ、上洛の最中であってさえ親衛隊(俺命名)が出来ていたくらいだし、なにより虎綱が傍にいるのだから、家中でのけ者にされているのでは、なんて心配はしていなかったけれども。


「からかっていると思われたなら残念です。ほうとうが美味いのも、晴貞さ――晴貞殿がお美しいと思っているのも事実だというのに」
「うぅぅ」
 何やら唸りつつ、やたら鍋をかきまわしている晴貞の姿が微笑ましい。ただ煮崩れが心配なので、あまりかきまわさないでほしかったりもするのだが。


 そんなことを考えていると、不意に腕が軋むように痛んで、思わず顔をしかめてしまう。
 普段使い慣れていない筋肉を酷使した影響だろうが、これは明日あたり、壮絶な筋肉痛になりそうな予感がひしひしとするなあ。
 しかも、あれだけ弓を引いたのに、ほとんど上達らしい上達がみられなかったのだが口惜しい。まあ、一日やそこらで目に見えるだけの成果を出せると思っていたわけではないにせよ、自分なりの手ごたえが欲しかったのも事実なのである。
 しかし、虎綱師曰く「千里の道も一歩から」とのこと。やはり修練を積み重ねる以外に上達への道はないのだろう。


 そんなことを考えながら、俺は黙々とほうとうを食べ続ける。
 虎綱と晴貞は自分から会話を広げる性格ではなく、俺はといえば食べるのに忙しく――というか、本気で美味いので、しゃべっている時間がもったいなかった――結果として、室内は物を食する音だけが響くことになってしまうのである。
 とはいえ、別に気詰まりな沈黙というわけではなかった。
 むしろ晴貞にしても虎綱にしても、俺の食べっぷりを見ながら時折笑みを零しているくらいである。
「やっぱり、男の方がいると鍋の減りが段違いですね」
「お見事です。私と晴貞さんだけでしたら、三日は保つ量が、一食で綺麗になくなりました」
 とは晴貞と虎綱の、俺の食いっぷりに対する感想である。
 実際、鍋の中身は七割方、俺の胃に入ったような気がする。一応言っておくが、二人にかまわず貪り食ったわけではない。きちんと良く噛んで、味わって食べ、椀が空になると晴貞がはかったようによそってくれて、またそれを食べ、と繰り返しただけである。


「俺としては、むしろ二人が小食すぎるんじゃないかと心配なくらいなんだが」
 特に虎綱は、俺に付き合って厳しい弓の修練をした後だというのに、よくあれだけの量で満足できるものだ。
 俺がそう言うと、虎綱は小さく首を傾げる。
「特に食を控えているつもりはないのですが……そこはやはり、殿方と女子の差なんでしょうね」
「そうかな? 弥太郎は俺に負けないくらい良く食べるけど」
 あと、段蔵も弥太郎ほどではないにせよ、あの小柄な身体のどこに入るのかと思うくらい、結構食べるのである。


 俺がそう言うと、虎綱は思わず、という感じに苦笑をもらした。
「育ち盛りのお二人と比べられると、少し困ってしまいます」
「む、そういうものですか。だが、とすると、二人と同年代の晴貞殿はもっと食べるべきですね」
「そうですね、晴貞さんはこれからが伸び盛りなのですから、確かにもうすこし食事の量を増やすべきだと私も思います」
「……え、え?」
 いきなり話の矛先を向けられ、晴貞は戸惑ったようにきょろきょろと俺と虎綱を向後に見やっている。
 給仕をしていたことを差し引いても(というか今きづいたが、加賀守護に給仕をさせてたのか俺は)晴貞は明らかに小食すぎた。それが気になっていたのだが、どうやら虎綱も気にしていたらしい。


 晴貞は困惑気味に口を開いた。
「あ、あの、わたしは、食事を用意している時に、味見を兼ねて少しお腹にいれてますし、それにわたしはあまり身体を動かすのが得意ではないので、食べすぎちゃうと、その……あ、でも、これでも昔よりは随分とたくさん食べるようになったんですよッ」
 拳を握り締めて力説する晴貞。どうも身体のラインが気になるお年頃であるらしい。
 それはともかく、晴貞が過去のことを口にしたので、嫌なことを思い出させてしまったか、と一瞬ひやっとしたのだが、表情を見るに特に厭わしいものを感じている様子はなかった。


 とはいえ、何も感じていないわけではあるまい。俺は内心で慌てつつ、話題を変えるべく口を開いた。
「そうでしたか、なら結構結構――というか、自分が鍋を空にしておいて、もっと食えとか、何を言ってるんでしょうね、俺は」
「いえ、天城さ――ではなかった、颯馬さんがたくさん食べてくれたのはとってもうれしいです。頑張ってたくさんつくった甲斐がありました」
「美味いものをたくさん食べて、礼を言うならともかく、礼を言われるというのはなんとも珍妙なものですが――それはさておき、まさか晴貞殿にも信玄……様からのお達しがまわっているんですか?」
「あ、あはは」
 困ったように頬をかいて笑う晴貞。本当にまわしてるのか妹よ。
 周到すぎる信玄の行動に戦慄せざるを得ない俺であった。



 まあ、それはともかく、頬をかく晴貞の仕草が虎綱のそれに似ていることに気づき、なんとなく微笑ましくなる。上洛の最中に出会った頃は、こんな風に楽しげに笑う晴貞の姿は想像できなかった。それを思えば、今、眼前にある晴貞の微笑みの価値もわかろうというものである。
 だが、それを意識してしまえば、話が過去に戻らざるを得ない。
 俺は短く微笑むと、意識を切り替えることにした。
 晴貞に気を遣って――というわけではない。折角の機会なので、もう少し弓に触れていたかったのである。


「無論、虎綱殿が良ければ、なのですが」
 俺の請いに、虎綱は微笑んで頷いた。
「もちろん喜んで。かがり火を焚けば日が落ちても修練は出来ますし、どうせなら今日は屋敷に泊まっていってください。御館様には使いの者を出しておきます。色々とお話ししたいことや、お聞きしたいことがありますから。さっきの話ではないですが、弥太郎さんたちがどうしているのか、とか」
 虎綱の言葉に、晴貞も両手を叩いて賛意を示す。
「ああ、それはわたしも是非お聞きしたいです。越後の冬は厳しいと聞いていますが、皆さま壮健でいらっしゃいますか?」
「それはもう、元気すぎるくらいに。この前など……あ、いや、これは後の楽しみにとっておきましょうか」
「ふふ、わかりました。では、お酒の用意をしておきましょう。修練の方、頑張ってくださいね」


 晴貞の励ましに背を押され、俺は再び春日屋敷の弓練場に足を運ぶ。
 この日、俺は日が落ちてからも虎綱の指導のもと、弓の練習に励み――多大な疲労と、かすかな成果を得ることが出来たのである。
 
 



[18194] 聖将記 ~戦極姫~ 第六章 聖都(一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:9e91782e
Date: 2010/12/06 23:13


「今さら宗麟様の下に跪いてなんとしよう。わしはこれ以上、異教の教えに犯されていく大友家を見たくはないのでな」
 立花家第七代当主 立花鑑載の、それが最後の言葉。
 城を取り囲んだ大友軍戸次道雪が送った降伏勧告の使者にそう応じた鑑載は、叛乱の責はすべて自らにありとして、他の者への寛恕を請うた後、城の一室で切腹して果てた。
 立花家の家臣の中で、当主の後を追おうとした者は少なくなかったが、彼らは「殉死は許さぬ」と厳命した鑑載の思いを汲み、涙をのんで大友軍の前に跪く。
 この瞬間、大友、毛利、竜造寺、さらには秋月、原田、筑紫ら筑前の国人衆すべてを巻き込んだ動乱は、大友家の勝利という形で終息したのである。


 大友軍を率いる戸次道雪は立花山城に入り、城兵を取り静めた後、豊後の大友フランシス宗麟に勝利を報告する使者を出す。
 この書の中で道雪は、毛利、秋月が筑前から手を引いたこと、竜造寺が筑前戦線に参入する動きを見せた後、ひるがえって国内の反竜造寺勢力である平戸城の松浦隆信討伐に動いたこと、さらには叛乱の首謀者の一人であった立花鑑載が自害したことを記した。
 ただ、今回の動乱にあってただ一人、高橋家の当主である鑑種だけは今もって行方が知れないことも併記した。鑑種は吉弘紹運、小野鎮幸、由布惟信らによって高橋軍の主力が撃破された後、戦場から落ち延びていったのだが、その行方は盟友であった立花家でさえ掴んでいなかったのである。


 とはいえ、高橋家の二大拠点の内、岩屋城は吉弘紹運によって陥落し、本拠地である宝満城は、鑑種の敗報を聞いた城代北原鎮久が戸次道雪の軍門に降ったことにより、大友家の手に落ちた。
 これによって、筑前における高橋家の勢力は著しく衰えており、たとえ鑑種が領内に舞い戻ろうと再起は困難である、というのが衆目の一致するところであった。


 筑前の国人衆による蜂起を打ち砕き、毛利、竜造寺ら他国の侵攻を防ぎとめ、立花、高橋ら重臣の叛乱を短期間で鎮圧した。
 長期に渡る攻防と、それによる領内の混乱を覚悟していた大友家の君臣は、道雪の報告を受けて、しばしの間、呆然となる。だが次の瞬間、大友館はたちまちのうちに感嘆と歓呼の声によって埋め尽くされた。
 宗麟は道雪、紹運らの武功を惜しみなく称え、同時に神の加護に感謝して深々と頭を垂れた。
 秋月らの蜂起だけならばともかく、毛利、竜造寺の参戦、さらには立花、高橋ら重臣による予期せぬ叛乱が重なった今回の筑前の騒乱は、鎮圧に数月どころか、数年がかかってもおかしくない規模だったのである。
 それを、まさかこうも早くに鎮圧してのけるとは。みずからの臣下の武烈と、敬虔な信徒にくだされた神の恩寵には、いくら感謝してもし足りない宗麟だった。



 だが、大友館のことごとくが勝利に浮かれていたわけではない。
 重臣たち――ことに吉弘鑑理ら『豊後三老』と呼ばれる者たちの顔色は優れなかった。
 なるほど、道雪の勝利は確かに喜ばしいが、その実、報告ははっきりとこの勝利が一時のものでしかないことを告げていた。


 筑前国人衆の主力であった秋月種実は毛利領に去り、禍根は残された。
 毛利、竜造寺にいたっては、矛を交えてすらいない。筑前から手を引いたとはいえ、それがあくまで今回に限ってのことであることは、子供でもわかるだろう。
 さらに、立花、高橋の両家は言うまでもなく大友家でも雄なる者たちであった。これまで筑前が大友家の支配下にあったのは、この二家の功績であると断言しても良い。その二家が失われたのである。今後の筑前の経営は困難を極めるものとなるだろう。


 無論、彼らは道雪のやり方を非難しているわけではない。むしろ、誰よりもこのことを理解しているのは道雪だろうと考えている。
 それでもなお、道雪はこうするしかなかった。現状の大友家にあって、困難を先送りすることが最良の手段であり、もっと言えばそれ以外に選択肢などなかったのである。
 そもそも、薄氷の勝利とはいえ、大友家中にこれほど早くにそれをもたらしえる者がいるとするならば、それは道雪以外にありえなかった。道雪以外の誰が出陣したとしても、今以上の成果を得ることは出来なかっただろう。それらを理解しながら、道雪を非難など出来るはずがなかった。



 そして。
 彼らとはまったく異なる立場にありながら、まったく同じように渋面を押し隠している人物が他にもいた。
 その人物――南蛮神教布教長カブラエルは、宗麟の傍らで笑顔で勝利を寿ぎながら、内心、この早すぎる決着にどう対処するべきかを考えあぐねていた。
 カブラエルは、少なくとも道雪らの今年中の帰還はないと考えていた。早くとも明年の夏までは、道雪は筑前の地に釘付けになるだろう、とも。
 四方の情勢を考えれば、それでも甘い見通しだといわねばならない。その程度には、カブラエルも道雪の将才を評価していたのである。


 だが、結果はといえば、大友家当主をも上回る情報を抱えているカブラエルでさえ、予想だにしない早さで戦は終わってしまった。
 このままではカブラエルたち南蛮神教が動く前後に道雪が豊後に帰ってきてしまう。無論、カブラエルが万端の準備を整えた聖戦は、道雪一人に妨げられるような脆い企てではない。しかし、だからといって、いまだ宗麟に強い影響力を持つ道雪の存在は軽視できるものではなかった。
 また、今回の大友軍の速戦と、それによる成果は、日向の諸勢力にも警戒心を植えつけてしまうだろう。
 聖戦を――聖都の建設を一日たりとも遅らせたくないカブラエルにとって、道雪の帰還は厄介以外の何物でもなかったのである。


 さて、どうするべきか。
 内心でそんな呟きを発したカブラエルに対し、傍らの宗麟が話しかけてくる。
 常の笑みを浮かべつつ、宗麟に応じたカブラエルだったが、はじめのうちは宗麟の言葉にほとんど関心を払ってはいなかった。だが、宗麟の言葉が進むにつれ、カブラエルは急速にその内容に興味を示しはじめる。
 それは厄介者を豊後から遠ざけるという一点において、これ以上ないほどの名案だったからである。




◆◆



 
 ひとつ。戸次道雪をして立花家を継がしめる。
 ひとつ。吉弘紹運をして高橋家を継がしめる。


 筑前の騒乱を鎮め、豊後の大友館に戻った道雪らに対して、宗麟が用意していた褒賞がこれであった。
 博多津を擁する筑前は、大友家にとって何としても確保しなければならない枢要の地であり、立花鑑載、高橋鑑種の両名が欠けた後の筑前の押さえは、相応の人物でなければならない。
 その意味で、道雪の立花家継承はともかく、紹運の高橋家継承は、大友宗麟の人物眼がいまだ衰えていないことの証明でもあっただろう。南蛮神教が絡まない場合に限る、というのが厄介な点であるにしても。


 紹運は吉弘家の嫡子であるから、容易に他家を継ぐことは許されない。だが、この時、宗麟はすでに吉弘鑑理に対して働きかけ、高橋家相続に関しては滞りなく進むように取り計らっていたのである。
 鑑理にしてみれば、自慢の世継ぎがいなくなるわけだから、少なからぬ打撃ではあった。家を重んじるこの時代、たとえ高橋家のような大家を継げるとはいえ、我が家の世継ぎを気軽に差し出せるものではない。


 だが、筑前の重要さと、高橋家の存在の大きさは鑑理も重々承知しており、また、主君である宗麟が、その大役を我が子に委ねようとしていることには誇りを感じずにはいられない。紹運であってみれば、立派に期待に応えてくれるであろうという信頼もある。
 さらに言えば、鑑理は現在の豊後の情勢に、これまでにない、どこかきなくさいものを感じはじめており、紹運が宝満城の城督として豊後を離れることは、吉弘家の血を残すという意味でも重要な一手になるとも考えていたのである。


 結果、鑑理は紹運の高橋家継承に関して諾を与えることとなり。
 大友家当主である宗麟と、父にして主でもある鑑理が肯った以上、紹運には承知する以外の選択肢はありえなかった。
 もとより、紹運もまた筑前の大友勢力がどれだけ危殆に瀕しているかを知る側の人間である。みずからの力で、その困難の一端なりと担えるならば、躊躇するようなスギサキの武人ではなかった。




 そして、承知する以外の選択肢を持たないという意味では、紹運の義姉である道雪も同様であった。
 とはいえ、道雪の場合、紹運とはまた異なる問題がある。
 紹運は吉弘家の世継ぎであるが、道雪は戸次家の当主であり、その道雪が他家を継ぐとなれば、それによって生じる煩雑さは紹運の比ではない。


 ところが。
 宗麟はこの件に関しても早々に手をうっており、にこやかにそのことを告げられた際、めずらしく道雪が戸惑いをあらわにした。
 宗麟がうった手とは、戸次家の新たな当主に関してのことである。
 当主である道雪が去れば、世継ぎである者が新たな当主となるのは当然といえる。
 すなわち、宗麟は戸次誾をして新たな戸次家当主と認め、飛騨守の称号をこれに与えることを、すでに決定していたのである。
 そして、もう一つ――




◆◆◆





 豊後国戸次屋敷。
 その一室に呼ばれた俺は、道雪殿の口から大友館における顛末を教えてもらっていた。
 立花家を道雪殿が継ぎ、戸次家の当主を誾にする、という宗麟の案を聞き終えた俺は、ため息まじりに口を開く。
「……なるほど、ついさきほどすれ違った際、なんか壮絶な仏頂面をしているな、とは思っていたのですが」
 話を聞けば、誾があんな顔をしていたことも納得が出来るというものである。


 道雪殿が立花家を継ぐことに関しては驚きはない。
 それは知識として知っていたからでもあったが、それ以上に現在の大友家を取り巻く情勢を鑑みれば、道雪殿以外に筑前を保てる者が見当たらないからでもあった。
 おそらく、誾もまたその推測くらいはしていたはずだ。当然、自身が戸次家を継ぐ可能性も考えていただろう。なんといっても、誾は戸次家の世継ぎなのだから。


 だが、立花家を継ぐとなれば、当然、道雪殿自身は筑前に赴かねばならず、おそらく加判衆の役目も辞すことになるだろう。
 その道雪殿の後を継ぐということは、戸次家当主として豊後に残り、宗麟を支えるということ。それは誾にとって、道雪殿と袂を分かつに等しいと映っているかもしれない。
 出来れば外れてほしかった予測が、見事に現実のものとなってしまったのならば、あの表情も仕方ないと思えるのである。


 道雪殿は俺と同じように小さく嘆息しつつ、再び口を開いた。
「あの子は、自身の年齢と経験の不足を理由に辞退したかったようですが……宗麟様の口から出た時点で、此度のことはすでに決定したも同然、よほどの理由がない限り、謝絶するというわけにはいかないのです」
 なにより、と道雪殿は言葉を続ける。困ったように、その手が頬に添えられた。
「飛騨守の名乗りを許したことを見てもわかるように、宗麟様ご自身が大変に乗り気ですから。よほど今回の奇手がお気に召したと見えます。宗麟様にしてみれば、誾への贖罪の一つでもあるのでしょうし……めずらしく家臣一同がそろって賛意を示したことも、その一因なのでしょう」


 俺は一拍の間を置き、確認のために問いを向ける。
「家臣一同、というと南蛮の者たちも?」
「ええ。反対するどころか、積極的に宗麟様の考えに賛成し、他の家臣に働きかけたそうです」
「なるほど……」
 道雪殿を府内から遠ざけられる。それはつまり、宗麟からも遠ざけられるということであり、今後、ますます宗麟を操るのが容易になることを意味する。それは諸手をあげて賛成したくもなるだろう。


「嫡男として、誾には当主としての心構えは叩き込んでありますが、それでも経験の不足は否めません。しかるべき者を側役に残して補佐させるつもりですが、筑前の情勢を考えれば、鎮幸と惟信の二人にはわたしに従ってもらわねばなりません。それゆえ十時に後事を委ねるつもりなのですが……」
 その言葉に、なるほど、と俺は頷く。
 十時連貞の為人については、今回の筑前遠征において身近で見聞きしている。あの人なら、気難しい面を持つ誾の補佐も的確にやってのけるだろう――まあ、俺が相手だと特に気難しくなるだけかもしれんけど。


 ともあれ、筑前の情勢を考えれば、小野と由布の双璧を豊後に残すことは出来ないという判断は納得できるものだ。というより、単純に戦力だけを見れば、十時連貞を残すことさえ道雪殿には痛手に違いない。
 それでも誾の傍に信頼できる人物をつけようとすれば、連貞以外に相応しい人物はいない、と道雪殿は考えたのだろう。そのことに問題はない。


 問題があるとすれば、この時点で道雪殿が筑前に赴くことで、南蛮側の動きを掣肘できる人物が豊後からいなくなること――と、俺が考えを進めようとした時だった。
 道雪殿は、何やら疲れたように右の手で眉間を揉み解しながら、口を開いた。
「話はまだ終わっていないのです」
「終わっていない、とは?」
「わたくしが立花家を継ぐとしても、鑑載殿の家臣をそのまま召抱えるわけにはいきません。いずれは旧臣たちの中からしかるべき者を選んで登用することになりますが、当面の間、特に軍事面では戸次家の者たちを主力とせざるを得ないのです」
「それは当然の判断だと思いますが……?」
 俺は首を傾げた。つい今しがた、道雪殿は自分の口でそれを説明してくれたばかりではないか。話が繰り返されたことを不思議に思った俺は、怪訝そうに道雪を見やる。


 その俺の視線の先で、道雪殿はめずらしく困惑をあらわにしていた。
 これから口にすることを、どう説明すべきか悩んでいるように見える。
「道雪殿?」
「……そのことは、宗麟様も承知しておられました。わたくしが戸次家の精鋭を率いて筑前に赴けば、当然、誾の元に残る戦力は限られます。そのことを案じた宗麟様は、一人の人物を登用して、誾の補佐をさせようとお考えになったのです」
「その人物、というのが問題なのですか?」
 俺の問いに、道雪殿は小さく頷いて見せた。
「ええ、まあ、問題といえば問題ですね。ただ、それは筑前殿が、今、考えているだろうこととは異なる意味なのですけど……」


 道雪殿らしからぬ、はきつかない答えに、俺は首を傾げっぱなしだった。
 てっきり南蛮神教絡みの人事が行われたのだとばかり思っていたが、そういった意味での問題ではない、と道雪殿は言う。
 では、どういった問題を抱える人物なのだろう?
「その人物は知略に優れ、将としても並々ならぬ統率力を持っています。人柄も信頼するに足り、でき得ればわたくしが召抱えたかったほどでした」
「召抱える、ということは在野の人物ですか」
 はて、と俺は首をひねる。道雪殿がここまで評価するような人物が無名であるとは思えないが、心当たりは特にない。道雪殿の口から、そういった人物の名が挙がったことも特に無かったように思う。


 俺が面識を得ていない智勇兼備の武将といえば、肥後の甲斐宗運あたりが思い浮かぶが、宗運は阿蘇家の重臣だから、この話には関係ないだろう。
 他にそれらしい人物は――
「……って、まさか吉継のことですか?!」
 俺は思わず声を高めた。考えてみれば、宗麟は吉継に同情的であったという話だし、豊前の乱といい今回といい、吉継の智勇は大友軍勝利におおいに貢献している。
 吉継は名目上は大友家の家臣だが、実際は石宗殿に近侍していただけで、正式な臣下とは言いがたい。石宗殿亡き