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[17077] ハルケギニア~俺と嫁と、時々息子(転生・国家改造・オリジナル歴史設定)
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:b679932f
Date: 2013/04/14 12:46
始めまして。ペーパーマウンテンと申します。皆様方のSSを読むうちに、書いてみたい!という無謀な欲求が抑えられなくなりました。

(このSSについて)

・ゼロの使い魔の2次創作です(3月14日にチラシの裏から移動)
・主人公はある国のある人物に転生します。そしてある目的のために国内改革にまい進します。
・このSSは原作のはるか前から始まります。姫騎士よりも前からです。書き始めた当初(2010年3月初め頃)は第1巻だけでしたが、これから原作の姫騎士が進むに連れて、齟齬が出てくるかも知れません。その場合、原作にあわせるかオリジナルストーリーで進めるかは、状況によります。ご容赦ください。
・オリキャラはたくさん出るかもしれませんが、チートはないです(無論主人公も)。ステーキ(ルイズとかサイト)を乗せる皿の下に敷いてあるテーブルクロスの下のテーブル的な、添え物キャラを目指します。
・オリジナル歴史設定(帝政ゲルマニア成立までとか色々)があります

それでもいいという心の広いお方、どうぞ感想・批判、よろしくお願いいたします。

***

5月16日「ラグドリアンの湖畔から」アップ

感想でいただいたアイデアを元に作成しました。Q猫様、ありがとうございます♪

8月6日 17話「老職人と最後の騎士」を16.5話に。読み返しますと本題から離れた話でしたので。以降バックナンバーが繰り下がりとなります。ご理解ください。

10月1日

読み返していますとスクウェアをスクエアにしていたことに気がつきました。これを機会に誤字を訂正したいとおもいます。それと評判の悪かった1話を加筆修正しました。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


ハルケギニア地図(ブリミル暦6213年)*14話の年号に間違いがありました。

*ウイキペディアのハルケギニアの地図に依拠して作成しました。より詳しく地理を確認したい方は、お手数ですがウィキペディアの地図をご覧ください。宜しくお願いします。

****************************************


                           ボンメルン大公国
                北
               部
              都
             市                      
            同
           盟                 ザクセン王国

               ハノーヴァー王国


    トリステイン王国                   ベーメン王国

                            
               ゲルマニア王国
   クルデン
    ホルフ      ヴュルテンベルク王国      バイエルン王国
      大公国         ダルリアダ大公国

                 トリエント公国



ガ リ ア


                                  サ ハ ラ   
                                 (エルフ領)



    グラ        ロマリア
    ナダ
    王国          連合
     
                 皇国


****************************************

・トリステイン・ガリア・ロマリア・クルデンホルフと、ここには書いてありませんが、空に浮かぶアルビオンを除き、あとはオリジナル国家です。帝政ゲルマニアではなく、ゲルマニア王国なのはオリジナルです。この後の展開で帝政ゲルマニアになるかどうかは・・・追々ということでご理解ください。

・グラナダ王国以外の9つの国家や都市同盟を構成する地域(ウィキの地図では帝政ゲルマニア領域)は、旧東フランク王国領と呼ばれています(SSオリジナル設定)。

・旧東フランク王国について(15話)

ガリアとゲルマニアは、かつて「フランク王国」という統一国家でした(以後オリジナル設定)

ブリミル暦450年に西フランク王国(現在のガリア王国)と東フランク王国(旧東フランク地域。ウィキでは帝政ゲルマニア)に分裂します(ネタバレになりますが、この辺に、ガリアの双子のアレが掛かって来ます)。東フランクは2998年に崩壊。1000年近くの戦乱と干渉戦争を経て、今の形に落ち着きました。

・ロマリア連合皇国

サヴォイア王国という王国をSSでは出しましたが、他の王国や都市は、まだ詰め切れていません。いずれ設定します。

・ベルゲン大公国

原作14巻で東薔薇騎士団反乱の際に出てきた代々衛兵をつかさどるベルゲン大公国出身の傭兵が数百名駐屯」という記述のある大公国です。上の地図では書きませんでしたが、ヴェルデンベルク王国と、ガリア王国の国境にあるという設定です。

・グラナダ王国

ウィキの地図で、ロマリアのあるアウソーニャ半島の西(左?)、ガリア王国の最南端に、ちょこんと突き出た、赤ちゃんの足の様な半島があります。ウィキの地図をよく見ると、おそらく国境線であると思われる赤い線で、ガリアとは確実に隔てられています。

SS内ではこの半島を「イベリア半島」と名づけました。史実のグラナダ王国はイスラム王朝ですが、その辺は脚色したということでひとつご理解ください。

~~~

(旧東フランク諸国の国の面積について)

・基本的には、ウィキペディアの地図をご覧いただけるとありがたいです。

*ゲルマニア・ザクセン・ボンメルン・ベーメン・・・トリステインの約2倍
*バイエルン・ハノーヴァー・北部都市同盟・・・トリステインと同じ規模
*ヴェルデンベルグ王国・・・トリステインの4分の1
*ダルリアダ大公国・トリエント公国・・・クルデンホルフ大公家領と同じ規模。

クルデンホルフ大公国の領域は、ウィキぺディアの地図で、トリステインの下にちょこんとある丸い奴だとおもわれます。

*******

平成25年(2013年)4月4日、ヤマグチノボル先生がご逝去されました。
謹んでご冥福をお祈りします



[17077] 第1話「勝ち組か負け組か」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:b679932f
Date: 2010/10/06 17:40
ある日起きると


「・・・子供?」


金髪のガキになっていた

*************************************

ハルケギニア~俺と嫁と、時々息子~(勝ち組か負け組か)

*************************************

欧州大陸によく似た地形を持つハルケギニア大陸。その上空で一定の軌道を維持しながら周回浮遊するのは何も二つの月だけではない。大地に含まれた風石の力によって地上三千メイルの高度を維持する浮遊大陸-それがアルビオンだ。大陸の下半分が常に白い雲で覆われているため「白の国」の通称を持つこの大陸を治めるのはアルビオン王国。始祖の長子アーサーを初代とする王政国家である。この世界の支配構造-メイジ(貴族)が平民を支配する構図はここでもかわらない。

浮遊大陸南東部の王都ロンディニウムは、文字通りアルビオンの政治・経済・文化の中心地である。この国の最高権力者の一族であるテューダー王家は、その美しさから「白の宮殿」との異名を持つハヴィランド宮殿に居住していた。当然、現国王エドワード12世の王子にして第2王位継承者であるヘンリー・テューダーの寝室もその中にあった。

「殿下、アルバートでございます」
「・・・・」
「殿下、アルバートでございます」
「・・・・」
「殿下?」

その日いつもの様に侍従のアルバートは、寝室につながるドアをノックしたが、王子からの返事が返ってこなかった。首をかしげながら、先ほどより強くドアをノックする。

コンコン!

「殿下、殿下?」
「殿下、へスティーでございます。殿下?」

第2王子付のメイド長であるヘスティーも一緒になって呼びかけるが、返事はない。不審げに顔を合わせた二人の耳に、寝室の中から声が漏れ聞こえていた。

「・・・は夢・・・・・夢・・・・・だ・・・」

どうやら殿下は何かつぶやいておられるようだ。意識はあられるようだが、返事がないのは不可解である。もしや熱を出してうなされていらっしゃるのか?アルバートは限られた条件の中から中の状況についての推察をつけた。最近夜は冷え込むと、注意し申し上げたところだったのだが。殿下の本日の予定はすべて取りやめなければならんか・・・いかん、それどころではなかったな。まずは殿下のご様子を確認しなくては。アルバートはへスティーから同意を得ると、王子の許可を得ないまま寝室につながるドアを開けた。

「アルバート、入ります」

部屋に入ったアルバートとへスティーが見たものは


「夢だよ、うんきっと夢なんだ。これは夢、うふふふ・・・あははは・・・」


ベットの上で(何故か手鏡を見つめながら)うつろな顔でブツブツつぶやく、ヘンリー王子のイッチャった姿であった。



「って、どっかの陰気中坊主人公みたいなこと言ってる場合じゃねって」

気分が悪いからしばらくひとりにしてくれと2人を追い出した少年(つまり俺)は、手鏡に映る自分の顔をいじくりまわしていた。キンパツに青い目-まるで西洋人形みたいだ。うーん、なかなか可愛い顔して・・・ゲフンガフンッ!いかんいかん。俺はノーマルなんだ。うん。てか、自分の顔が可愛いって、どんなナルシーだよ。痛すぎるだろ俺。

まあ現実逃避はこれくらいにしておこう。気を取り直してベットの脇に置かれたやたらとでかい姿見の前に立ってみると、やはりそこにいたのはどう見ても西洋人の子供だった。左手上げて~右手下げない!右で上げなくて~・・・うん、一人でやっても実にむなしいな。

「夢じゃないな・・・」

つねりあげて腫れ上がった頬の知らせる痛みが、西洋人の子供に若返ったというこのふざけた現象が現実であることを教えてくれる。念のためにもう一度つねって・・・いててて。

孤独な数字(まさに今の俺)素数を数えていくらか落ち着いた頭で考えてみる。この西洋人のがきのなかにいるのは誰だ?俺だ。俺に決まっているじゃないか。じゃあその俺は何なんだという話だが。

44歳と2ヶ月と2日・・・それが、この世に生を受けて、昨日布団でいびきをかいて眠りの世界に入るまで、俺が過ごして来た時間だ・・・いや『だった』か。某県にある中小商社に勤める俺は、大学時代は暇に明かせて体を鍛えまくったため、体は健康そのもの。腹筋が6つに割れているのが自慢。無論仕事も出来・・・たらいいんだが、まぁ・・・会社では可もなく不可もなく。総務第2課課長なんてものをやってはいるが、ぶっちゃけ窓際。不景気だからね、ボーナス削減や給与カットがあっても、雇用があるだけありがたいというものだ。組合万歳(組合費はらってないけど)最近薄くなってきた後頭部と、反抗期な一人息子に頭を悩ませる。そんな小市民だった・・・はずだ。

さっきのおっさんは俺のことを王子とよんだ。よく見たら点がついてて「たまご」とか呼ばれていたというオチじゃないのはいうまでもない。昨日までは小市民のおっさんが王子様?何の冗談だ?びっくりか?壮大などっきりなのか(小市民でしかない俺にこんな大それた仕掛けをしてだます必要も面白みもないということに思い至り、これは却下した)じゃあいったい今の「俺」は何なのか?自分の中の「自分」を探してみると、プリンス・オブ・ヘンリー(ヘンリー王子)-それが俺の今の名前であり、年齢は9歳と2ヶ月と2日-何故かこの2つだけは自覚できた。妙に細かいな。まあそれはともかく、現状でいえることはただひとつ。


『44歳のおっさんが9歳に若返った』


人類の夢、始皇帝ですら為しえなかった若返り(不老不死だったか?)を、俺はやってのけたのだ。すごいぞ俺。ありがとう神様(墓は仏教だけど)

・・・よし、ここは前向きに考えよう。人生をやり直せると。さらば古女房、さらばクソ生意気な息子。しかもおれは王子さまだ。王子ってことは、俺人生勝ち組?!青春をやり直す!しかも人生勝ち組で?!うっひょ~ひょ~♪

「・・・殿下?」

返事がないため再び入室すると、今度は姿見の前で一人でニヤニヤしていた第2王子の姿に、アルバートは背中に嫌な汗をかき、メイド長のへスティーは眼鏡越しに冷たい目線を向けていたが、幸いなことに「ヘンリー王子」が気がつくことはなかった。




1年経ちました(はやっ!)


ここは「ゼロの使い魔」の世界でした

そしてここはアルビオン王国でした





・・・まてまてまてまてぇ!!!!それって、あれじゃん!ほら、レンコン・キス・ドール・・・じゃなくて、レコン・キスタ・・・あれ、レコン・ラキスタだっけ?・・・どっちでもいい!とにかく、貴族の反乱で、王族全員えんがちょー、になった国じゃん!だめじゃん!勝ち組どころか、おもいっきり負け組じゃん!最後はアレか?ニューカッスル城で刺し殺されるの?

いーや~!!

「殿下?」
「おぉ、へスティー。いたのか」
「えぇ、ずっと」

お前はどっかの教師のストーカーかよ!

「すかーと?」
「いや、なんでもない」

彼女はメイド長のへスティー。メイドさんだ。これでもかっていうくらいメイドさんだ。黒髪のボブカットに、白いカチューシャが実に映える。しかもメガネっ子!いいね、ポイント高いね。でも猫耳付いてないのが惜しい。とっても残念。

「殿下」

仕事は文句の付け所がない完璧主義者。掃除が終わった部屋の溝を人差し指でこすって「やり直し」て言ってたのを見かけた時は「どこの小姑だよ」って大笑いしたものだ。イメージとしては優等生・・・いや、委員長だな。眼鏡掛けてるし。

「殿下・・・」

うお!その冷たい目、たまらんぞ!ぞくぞくしちゃうぅ!

「・・・」

ごめん、ちょうしこきました。

ふ、あんまりの非情な現実に、おもわず現実逃避しちまったぜ。妙に若者言葉なのは、体が若返ったからか?精神は体に引っ張られるものなのか。仮にも大学で「心理学研究会」に参加していた俺としては、実に興味深い。若いってすばらしい!

・・・現実逃避はこれくらいにして、現状はつまり・・・


俺、思いっきり死亡フラグたってる!頭のてっぺんに!ハ●坊かよ?!


どうするんだじょ~!(by丹下段平)


・・・そんなことやってる場合じゃねえ!!ととと、と、とにかく、現状把握だ。すでに1年もの貴重な時間を「メイドさん萌え~」で、つぶしてしまってるし(だって生メイドですよ?本物なんですよ?)というわけで俺はそれまで聞き流していた個人授業の家庭教師であるエセックス男爵に、食い下がるようにして質問した。特にハルケギニアと、アルビオンの現状に関して。それまで「もえ~」だの「カチューシャいい!」だのと突如わけのわからないことを言い出していた王子が人が変わったように熱心に質問する姿に、エセックス男爵は「1年もくどくど繰り返し説教してきたことが、ようやく殿下のお心に届いたか」と自分の努力が実ったことを喜んだ。

まぁ、勘違いではあるが、完全なる間違いではない。なんせ自分の生死がかかっているのだから。ということで現状把握パート2。

今はブリミル暦6198年。えーと、タバサの生まれた年が・・・たしか・・・えーと・・・思い出せ~思い出せ~・・・6・・・223?・・・いや、7だ!6227年!だから16足して、原作開始の年が魔法学院の2年で6243年か。6243-6198=45、つまりあと45年?なんだ半世紀近くあるじゃん。心配して損したぜ。

という具合にこの時までの俺は現状を気楽に考えていました。


ここで俺のニューファミリー、新しい家族を紹介しよう。

アルビオン王国は始祖ブリミル以来、5000有余年続いてきたが、初代国王の直系子孫がずっと続いてきたわけではない。分家の大公家が跡を継いだり、血筋が近いトリステインに婿養子に出された王子の息子を呼び戻したりと色々王朝交代という名の政変があったらしい。今の王家は約500年前にテューダー大公家のウィリアム・テューダーが、国王の娘と結婚して即位して成立したテューダー朝アルビオン王家。現国王のエドワード12世(俺の親父)は、その25代目にあたる。

エドワード12世(口ひげがダンディーなおじ様)には俺を含めて4人の子供がいる。

兄貴で皇太子のジェームズ・テューダー(20歳)
次男(俺)の、ヘンリー・テューダー(10歳)
長女のメアリー・テューダー(8歳)
3男が早世していて
4男のウィリアム・テューダー(7歳)

・・・なんか、微妙に嫌な予感がする。

「なぁ、エセックスよ。男爵から見て、兄様はどんな性格だ?」
「そうでございますな・・・まじめ一筋といった感じですな。とかく浮ついたところのない、しっかりしたお方でございます」

・・・うん

「そういえば、先ほど宮廷内で小耳にはさんだのですが、弟君のウィリアム様にモード大公家から養子入りのお話があったそうでございますぞ」
「兄貴の俺を差し置いてか?」
「・・・」

男爵、あさっての方向をむいて口笛ふいてるんじゃねえ。てか、わりとお茶目だなお前。まぁ俺も「メイドさん萌え~」とかいう子供を養子に・・・断固として拒否するな、うん。


・・・ちょっと待てよ・・・


たしか、レコン・キスタで殺される国王がジェームズ1世・・・時間的に考えたら、これはまちがいなく、兄貴のジェームズ皇太子だな。原作でも両脇を支えられながら最後の舞踏会に出てきたって言うくらいの老齢だったから、年齢的にも合致する。ティファニアの親父で、エルフの妾こしらえて、つぶされたモード大公は、ジェームズの弟だったはず・・・まだわからんが、弟のウィリアムが大公家に養子入りするなら、間違いなくこいつなんだろう。

そういや、ウェールズ皇太子と、アンリエッタって、従兄妹同士だったよな・・・たしか、マリアンヌ大后が、フィリップ3世の娘で、旦那はアルビオン王家からの婿養子だったから・・・


・・・ん?・・・って、ことは、だ


・・・あれ?





「俺、アンリエッタのお父ちゃん?!」
「・・・どなたですか、それは?」





ヘンリーの言葉に、エセックス男爵が首をかしげる。そんなある日の昼下がり。

時にブリミル歴6198年。原作開始まであと45年であった。



「へスティー、なに一人でブツブツ語ってるんだ?」
「独り言でございます、殿下」



[17077] 第2話「娘が欲しかったんです」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:b679932f
Date: 2010/10/01 19:46
おっす!おらぁ、ヘンリー!アルビオンの次男坊で、アンリエッタの将来のお父ちゃん!(の予定)

でも生家のアルビオン王家は将来貴族の反乱でフルボッコされて滅亡しちゃうし、婿入りするトリステイン王国は、ゲルマニアの成り上がりだの、ロマリアのイケメンでインケンな坊主だの、ガリアのチェス大好き王様だのに翻弄されちゃうんだ!

・・・泣いてもいいですか?

*************************************

ハルケギニア~俺と嫁と、時々息子~(娘がほしかったんです)

*************************************

原作どおりなら、俺(ヘンリー)は原作開始3年前に死ぬことになる。サイトのラブコメは見れないわけだ(というか、あんなもん実際に目の前でやられたら殺意を覚える)しかし前世とあわせれば、100歳近くまで生きれる計算だ。寿命に関して言えば、彼に不満はなかった。

突然だが、ヘンリーである俺は前世で娘がほしかった。彼が20の頃、兄夫妻に三つ子の女の子が生まれた。当時大学生で同居していた彼は、よく面倒を見たものだ。「おじちゃーん」と慕ってくれる姪っ子は可愛かった(20代でおじちゃんと呼ばれるのは微妙だったが)。ある日、いつものように姪っ子たちと遊んでいる時、彼は何気なく聞いてみた。

「ねー。おじちゃんとお父さん。どっちが好き?」
「「「おとうさーん!」」」

微塵の迷いもなく、純粋な笑顔で返されたその答えに、彼のガラスのハートは砕け散った。そのときの兄貴の勝ち誇った顔といったら!!しかしながら、前世で彼は娘に恵まれなかった。出来たのは、くそ生意気で馬鹿でスケベでオタクっぽい息子1人だけ。「息子さん、お父さんによく似てますね」そういわれるたびに、言い知れぬ敗北感を覚えたものだ。

たぶんこのままいけば、自分はマリアンヌと結婚してアンリエッタのお父ちゃんになるだろう。


娘-ドーター。念願の愛娘。


彼、ヘンリー・テューダーの中にひとつの「想い」が芽生えた



娘との思い出が作れる、作りたい、作って見せるとも!!



「アンリエッタぁ!!!お父ちゃん頑張るよ~!!!!」



かつてこれほどまで不純な動機の主人公がいただろうか?(いや、結構いる)




まだ見ぬわが愛娘のために、今何をすべきか?ヘンリーはしわの少ない脳みそを絞って考えた。

とりあえずの目標は「アルビオンでの中央集権化=王権強化」だな。たとえ貴族が反乱を起こそうが、返り討ちに出来るくらいにしなけりゃ。原作(小説)なら、俺の死んだ後の話だけど、ジェームズ兄貴やまだ見ぬ甥っ子のウェールズは非業の死を遂げるからな。考えたくもない未来予想図だ。ウェールズとアンリエッタが恋仲になるのは、全力で阻止したいが・・・でもアンリエッタに「お父様のわからずや!」とか言われたくない・・・いや、一度言われてみたい。そして「結婚は認めん!」とちゃぶ台叩いて反対したい。それで(中略)結婚式で「お父さん、今まで育ててくれてありがとう」って(以下省略)

婿入りしたら「トリステインでの中央集権化」。アンリエッタのため、何より、自分の平和な老後のため。ただでさえトリステインはガリアとゲルマニアに挟まれる小国。ヨーロッパで言えば、第1次世界大戦のときのベルギーや、2次大戦のときのポーランドみたいなものだ。歴史があってもどうにもならんですたい!緊急事態に即時対応が出来るようにしなけりゃ、もう即アボーンだろう。

原作どおりに行けば、俺に関しては「畳の上で死ねる」はずだ。だがよくよく考えると、それも怪しい。大体すでに『俺』という不確定要素が混じりこんでいるのだ。俺が死ぬまで、トリステインがゲルマニアに滅ぼされていないという確証なんてない。

まだ見ぬ可愛いアンリエッタ、お父ちゃんがんばるよ?

不純極まりない動機をエネルギーとしながらヘンリーは「勉学の一環」と称して、アルバートやエセックス男爵の協力の下、アルビオンの現状を調査することにした。「敵を知り、己を知れば、百戦して危うからず」。未来(原作展開)を知っていても、今の現状が分からなければ、動きようがないからな。てか、原作開始の半世紀前だし、正直アテになるかどうか分からん。


ところで話題はずれるが、なんで前世で40半のオッサンである俺が、ライトノベルである「ゼロの使い魔」を知っているかというと、息子の部屋にエロ本を探しに入って、偶然見つけたから。絵柄からそういう本かと思って部屋に持ち帰り、そうでないと思ってがっかりしながら読んでいくうちに・・・笑った、泣いた。本気と書いてマジと読む。本気で感動しちゃったのである。特にタバサのお母さんを助けに行く10巻のラスト、タバサのイーヴァルディのくだりは、涙なくして語れない!(電車の中で、文庫本を見ながら泣くオッサンに、周囲はドン引きしていたが、そんなことは些細なことである)

ちなみにさっきからアンリエッタ・アンリエッタとうっとうしくらいに繰り返しているが、それは彼女が(おそらく)自分の娘になるから。どちらかというと俺はマチルダの方がキャラ的に好きだ。ワルドとのあのなんともいえない関係が、たまらなく色っぽくて(以下略)



魔法の練習やこの世界の勉強をしている内に、5年が過ぎた。俺は15歳になった。前世では15歳のときに初めて恋人が出来たんだが・・・この世界では今んところそんな気配はまるでナッシング!言ってて悲しい・・・

「へスティー!ロンリーボーイの俺を慰めてく『何か?』・・・なんでもないです・・・」

ハルケギニアの世界では、「魔法の能力=評価」。ルイズやジョセフがいい例だな。貴族は魔法が出来て当然。魔法の出来ないものは、他の分野で抜きん出て優れていても、軽く見られてしまう。臣下(貴族)に軽んじられては、何かしようと思ってもうまくいくわけがない。

ちなみに俺の系統は「水」だった。「アルビオン王家は代々風系統の家系なのですが・・・」とエセックス男爵は首をかしげていたが。お袋のテレジア王妃が「水」だから俺は不思議には思わなかった。魔法とDNAが関係あるかどうかは知らないが、ABO式血液型っぽく言えば、水>風なんだろう。

あとは元軍人のエセックス男爵の厳しい指導の下、ただひたすらに一生懸命練習。結果、水の『トライアングル』になれた。すごいんだろうけど、ち~んとならす三角形の楽器みたいで、なんだかなーと思ってしまう。もっと締まりのいい名前はないもんかなと考えている俺の横で、白髪の増えた老男爵は「ご立派になられて・・・」と涙を流しながら喜んでくれた。くすぐったくて、なんともむず痒い。風の『ドット』モード大公ウィリアム(結局、大公家にはこいつが養子に行った)からは「お兄様すごい!きらきら!←尊敬の眼差し」という手紙をもらった。そうだ弟よ。もっとこの兄を敬うのだ。

「ジェームズ皇太子殿下が、風の『スクウェア』になられたそうですぞ!」

参りました兄上。調子乗ってスンません(心の中で平伏)ってか、原作でそんなこと書いてないじゃん!よぼよぼの爺ちゃんとしか書いてないじゃん!反則じゃん!とか考えていたら、ジェームズ兄貴は肩をすくめながら

「弟には負けたくないからな」

・・・兄貴、あんた男前だよ。さすがウェールズのお父ちゃんだ。あんたの息子なら、俺のアンリエッタを嫁にやってもいいよ。


閑話休題


まぁ、そんなこんなで兄弟の絆を確認しながらエセックス男爵やアルバート侍従にも協力してもらいながら、この5年間で調べ上げたアルビオンの現状だが・・・問題山積で涙が出ちゃう。だって王子様だもん?



(国王の権力)

王権は強くない。むしろ弱い。西洋史で言うなら、11世紀から13世紀ぐらいの封建制社会が一番しっくり来る。まず魔法が使える貴族諸侯がそれぞれの領地を支配しており、王家はその上に盟主として存在している。アルビオン王家の領土は、空中国土全体の4割程度でしかなく、親族である2つの大公家領を足しても5割に満たない・・・まさか落ち度もないのに貴族を取り潰すわけにも行かないし(へたすりゃ反乱起こされるからね)。でもね、軍だの警察だの、国家全体をカバーしなけりゃならないのに「40パーセント」の領土税収で、全土を守れる予算を出せって、どう弄繰り回しても組めるわけないしね。うん・・・いきなり挫けそう・・・

(農村と都市)

農奴制は「制度としては」存在しない。これは正直ありがたかった。さかのぼること約1500年前のブリミル暦4459年、当時のアルビオン国王エドワード3世(開放王)が、「始祖ブリミルの教えに反する」と農奴制廃止を宣言。貴族の大反対を押し切って廃止したのだ。引き換えに、エドワード3世は「謎の死」を遂げている。これ結構すごいことだよね。いつになるかわからないけど、ハルケギニアで「人権」という言葉が当たり前の時代になったら、必ず教科書で教えられることになるんだろうな。ありがとうご先祖様。貴方の犠牲は無駄にはしません。今度お墓参りに行くからね。

制度としての農奴はなくなったが、自作農が増えたというわけではない。領主である貴族に雇われている形になっただけで、内実は農奴と変わらない。だが一応は職業選択の道が開かれている。小さなようで、これは大きな差だ。人の流れをさえぎるものがないからだ。将来、農業改革を行ったときに生まれる農村の余剰人口を都市に呼び込んで、将来的に軍人や警官も含めた公務員や、工場労働者の担い手として期待したい。

もっとも都市の受け皿(雇用・住宅など)をオーバーすれば、都市にスラム街が生まれる結果にもなりかねない。治安悪化→政情不安→反乱・・・駄目駄目駄目。そう考えると、農村での余剰人口を生み出すことになる農業改革は、一気に進めるのではなく、状況を見ながら慎重に進めなければならない事になるが・・・あ~もどかしい~!!

(経済)

経済界はまさに中世。大量生産なんか夢のまた夢の、手工業レベル。鍛冶屋からパン屋まで、ありとあらゆるものづくりに関わる産業が、徒弟制度だ。同業者組合(ギルド)に属して店を構える親方が、その技術を弟子に伝える。弟子は試験に合格すれば、その仕事で独り立ちができる。技術は外部には秘密。ギルドに属さないものが、その商売を行うことは出来ない。

閉鎖的である。無論、競争はなく、大規模な技術革新は望めるはずもない。牛の歩みより鈍い成長速度だ。経済にとって弊害だらけのようにも見えるギルドだが、だからといって、すぐ廃止というわけには行かないところが、また難しい。昔の日本金融界の護送船団方式のようなものだ。なま温いが、それはそれなりに居心地はいい。なにより、ギルド廃止によって、それまでの加盟者は、明日のおまんまに関わる既得権を奪われることになるのだ。その抵抗は、下手な貴族なんか比べ物にならないだろう。それこそ下手なマフィアより怖そうだ・・・だけど、競争なくして発展はないわけで・・・

そんな中でも割かし自由気ままにやってるのが、商会と金融業者だ。物の流れに国境はなく、金は誰への忠誠心もない。各国を渡り歩き、飛び回らなければ商売にならないのだ。両者を取っ掛かりにして経済改革を進めたいが、どちらも油断してたら、身包みはがされて尻の毛まで抜かれてしまう。油断は出来ん・・・

(軍事)

大砲や銃は日本の戦国時代末期、ヨーロッパで言う「チンは国家なり」とかいった某14世の絶対王政の時代ぐらいか。改良の余地はあると思うのだが・・・専門家ではないので、よく分からない。分からないことに口出しは出来ないよなぁ・・・

アルビオンでは国家規模の有事の際に、国王が王軍司令官を指名。司令官が王の名において、貴族の率いる諸侯軍を召集する。状況に応じて、傭兵を雇う場合もある。軍事行動では諸侯軍を率いる大貴族、それも本家筋の当主の意向が反映されることが多い。これは諸侯軍がそれぞれ「○○公爵家とその一族一党」「××伯爵家の一族一党」と言ったように、血族単位で召集されるからである。本家の意向が、一族分家の諸侯軍全体に与える影響は大きい。

といってもこれは陸軍の話。王立空軍やアルビオン竜騎士隊といった航空戦力は、王家の影響力が強い。アルビオン王家はアルビオン最大の地主貴族である。船は金食い虫-金を一番出すものが一番でかい顔ができるというわけだ。空軍は事実上の「常備軍」といっても差し支えないだろう。船というものは、日頃から訓練しておかないと動かせるものではない。竜騎士隊も同じ理由である。アルビオンの竜騎士隊は、ハルケギニア諸国家の中でも精強で知られるが、少数では対した戦力にならない。某中将の「戦いは数」はその通りなのだ。数で戦うには、集団行動の訓練をしなければならない。当然、中央政府(王家)の影響力も及びやすい。

王家直轄の軍としては近衛魔法騎士隊がある。基本は貴族から選ばれる。推薦ではあるが、その内実は志願制といってもよく、王家への忠誠心は高い。ニューカッスルでジェームズ兄貴と一緒に死んだ多くが彼らだろう。

諸侯軍はへたすりゃ軍閥になりかねん。いざという時のために、最低でも王軍司令官に指揮権を一本化したい。しかしこれに手を付けるということは、貴族の権限に王家が直接介入するということ。暴力装置にかかわることには、特に慎重を喫してとり掛からなければならない。将来的には諸侯軍を全廃して、変わりに国王直轄の常備軍を創設したい。だけどお金がかかる・・・空軍や竜騎士隊に関わる支出を見たとき、ヘンリーは眩暈を覚えた。

「金食い虫ってレベルじゃねえぞ、こりゃ・・・」

レコン・キスタに、王立空軍の「ロイヤル・ソブリン号」を始めとした主だった主要戦力や竜騎士隊が付いたのは、王家がその膨大な軍事予算の負担に耐えかね、予算削減を行ったからではないか?それで不満を持った軍人がレコン・キスタに・・・確かめる術はないけどね。

(貴族と領地)

魔法が使える領地貴族だが、まだらに入り組んで細分化した領地という厄介な問題がある。もともと建国当時のアルビオンには、3つから4つの村落を領有する中規模な貴族が多かった。それが家督相続者以外の次男・3男にも土地を与える分割相続であったため、相続のたびに、代々の領地は砕けたビスケットのように小さくなっていった。4000年頃に分割相続の伝統は消えたが、それは単に分け与える土地がなくなったからだ。当然領地経営が苦しくなり、その多くが没落していった。その中でも比較的裕福であった貴族は、砕けたビスケット状の土地を片っ端から買い漁り、大きくなっていく。アルビオンの国土に、まだら状の奇妙な領土が出来あがったというわけ。

大貴族と貧乏貴族が固定化される現状は好ましくない。入り組んだ領土のため、街道1本通すだけでも、莫大の手間と時間とコストがかかるというわけで・・・はぁ・・・

(官僚・行政機構)

いろんな俺の構想を実現するには、手足となる官僚機構が必要なわけだが。これはまだなんとかなりそう(あくまでも他に比べればの話)。大臣クラスはともかく、官僚は基本的に下級貴族を採用する。そう、領地経営だけでは絶対に食っていけない貧乏貴族だ。下手な農民よりも貧乏な彼らは、現状への問題意識が高い。ある意味俺と最も通じるところがあるかもしれない。

だが、彼らは少ない。そして権限がない、なにより「忙しい」。

アルビオンは行政部門の専門化がまだ進んでいない。乱暴に言えば、内務卿が「宮内庁長官」「農林水産大臣」「国土交通大臣」「総務大臣」「国家公安委員会委員長」を、財務卿が「財務大臣」「経済産業大臣」「経済財政担当大臣」「金融担当大臣」「国税庁長官」を兼任している。あれも、これも、それも、あっちも、なんのまだまだそれもこれも、なんのこれしきまだまだ・・・多岐にわたる仕事を、圧倒的に足りない人手で処理している。中央集権化を進めるなら、官僚の頭数を増やし、行政機構を整備しなければならないが・・・先立つものが・・・ね?

とにかく、官僚はじっくり育てていくしかない。人材は一朝一夕に育たないのだから・・・

(司法制度)

「三権分立?なにそれ?おいしいの?」てなもんだときたもんだ

貴族の領土では、それこそ貴族が好き勝手している。領土内の司法・行政・警察・軍事を統括しているのが貴族なのだ。国法を徹底するとか、そういうレベルではない。大体、税率も各地で違うから、税逃れであっちこっちへ移る商人もいるらしい。それくらいならまだ許せるが、入り組んだ領地をまたがって暗躍する傭兵崩れの強盗団や、領地国境などお構いなしに人を襲うオーガ鬼などの亜人対策ですら、霞ヶ関も真っ青な縦割り行政が立ちふさがると聞いたときには、柄にもなく頭に血が上った。

貴族領はともかく、国王直轄内ではどうかというと、これがまた・・・。端的に言うと警察は、軍=警察。制度上では区別はあるらしいが、あってないようなもの。とっつかまえた軍人が、即決裁判を行うのも珍しくないらしい。現行犯ならそれでいいが、冤罪だと思うと身震いする。軍事権と警察権、おまけに司法権までごっちゃになってるとは・・・

(議会)

あると聞いて正直驚いた。アルビオン議会は貴族・教会・大商人の3者からなる。ハルケギニア大陸の諸国家にも議会はあるが、アルビオンの議会が国政に及ぼす影響は、他国と比べてみても強いものがある。その歴史は約3000年。歴史の長さは伊達ではなく、かつては王朝の交替や、国王の選出にもかかわったという。

味方につければこれほど頼もしい勢力はない。かつてノルマン朝のロバート5世は、弟のブルース大公と王位を争った際、議会勢力の支持を背景に国王に即位した。だが敵に回せば・・・。これまで4人の国王が「体調不良」により退位しているって、ちょっとシャレになってないって(ちなみにその中にロバート5世も含まれるっていうんだから笑える・・・いや、やっぱり笑えん)

貴族も、教会も、大商人も、少なからず既得権益を持っているのだ。派手な行動を起こせば、必ずぶつかるだろうなぁ・・・


現状を一言で言うなら


「あちらを立てればこちらが立たず。なによりお金がない」




「はああぁぁぁぁぁ・・・・・・」


ヘンリーは、深い、深いため息をついた。




時にブリミル歴6203年。原作開始まであと・・・40年



「へスティー?何やってるの?」
「バイトです」



[17077] 第3話「政治は金だよ兄貴!」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:b679932f
Date: 2010/10/01 19:55
アルビオン王国皇太子のジェームズ・テューダーは謹厳実直が人の姿をとって「真面目」という名前の鎧をかぶっているような人物である。

どれくらいのものかと言うと、いつ結婚してもおかしくない年齢でありながらこれまで浮ついた噂が1度も流れたことがないくらいだ。そのため社交界では「融通が利かない」とも陰口を叩かれるが、侍従長のデヴォンシャー伯爵などの武人肌の貴族からは「それくらいの方が頼もしい」と受けがいい。ともかく彼が、不正を憎み、正義を信じ、民を愛し、王族とは、国家とは何かということをいつも考えているという点に関しては誰も疑いようがない。それに、論理と筋を通せば、話が分からないというわけでもない。性格的に、自他共に厳しいだけなのだ。

そんな皇太子の前で「政治は金だよ兄貴!」とのたもうたヘンリーは、無言で兄の拳骨を食らってもだえていた。

*************************************

ハルケギニア~俺と嫁と、時々息子~(政治は金だよ兄貴!)

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何をするにも、金・金・金・・・金がかかるのだよアルバート君?

「は、はぁ」

アルバート侍従が困ったような顔をしていたので、まぁ気にするなと言っておく。彼の風貌はどこにでもいるおっさんにしか見えないが、こう見えて非常に優秀な文官だ。彼がいなければ、アルビオンの現状調査はもっと手こずったに違いない。その上、従来の慣例に囚われない柔軟な思考も出来るという、得がたい人材なのだ。人は見かけによらないものである。

さて金。「キン」ではなく、「かね」。ようは財源のことだ。常備軍を作るにしても、官僚養成学校を作るにしても、ネコ耳メイドさん制服を作るにしても、金が要るのだ。

「・・・」

へスティー、最後のは冗談だから。お茶目なジョークだから。とりあえず無言で足踏むのやめてくれない?地味に痛いの。


さて、秘めたる野望はさておいてだ。王家の直轄領は少ない。確かに王家はアルビオン全土のうち、約4割の土地を保有する国内最大の土地貴族ではある。だがそれだけでアルビオン全体の政治を行う財源を捻出するのは不可能だ。例えば、国の全土を守らなければならない王立空軍だが、国土の4割からしか税を徴収できないからといって、4割分の艦隊だけしか持たない・・・なんてことは出来るはずがない。そんな事をした日には、王家の権威などあったものではない・・・

あーもう、面倒くせぇ!

いっその事開き直って、明治維新政府みたいに「版籍奉還」と「廃藩置県」を宣言して、貴族から土地巻き上げちゃうか?!逆らうものは反逆者ってことにしてさ!

時計の針が40年ぐらい早送りになります。即「レコン・キスタ」です。ありがとうございます。

明治政府が「版籍奉還」と「廃藩置県」を出来たのは、戊辰戦争を勝ち抜いた藩閥政府の強力な軍隊があったからだよね~。今のアルビオンには、そんなもの存在しませんから。残念。

強硬策を早々にあきらめたヘンリーは、まずは地道に王家直轄領での税収を増やす方法について考えることにした。

税収の基本は、領民から取り立てる年貢である。これは物納で、小麦を作っている農民からは小麦を、羊毛なら羊毛を、ワインならワインを納めさせる。集めた年貢を市場や商会を通じて売り、初めて王家の収入になる。だが物納では税収入が不安定にならざるをえない。その時の市場価格によって、売却益に差が生じるからである。不安定な税収では、予算を安心して組めない。いずれ物納から金納にして、安定した税収を確保したいが、まだそういうことに口出しできる権限が俺にはない。

年貢以外にも税収入はある-関所や河川の交通税、ギルドから定期的に徴収する売上税、特産物を物納させる物成など-将来的にはギルドからではなく、個別の商人から売上税を徴収したい。わけのわからん中抜きや、ギルドぐるみのごまかしがないとはいえないからな。だが現状では実務担当の官僚が足りない。今切り替えれば、抜け穴だらけのザルになること間違いなく、税収減は確実だろう。

手っ取り早いのは増税だが、税を増やされて喜ぶものなどいない。それに王家直轄領だけ増税して、他の貴族領地と差がつくのは好ましくない。嫌われることを恐れてはいけないが、不公平感を与えるのは絶対に避けなければならない。

農業の技術革新で、土地あたりの収穫量を増やすのが手っ取り早いと思うが、土壌改造や農業用水の整備、作物の改良などにしても、俺は専門家じゃなかったから知識があいまいだ。どこかで一度実験するのが望ましい。それに「カクカクシカジカ-こうすれば収穫量が増えるよ」だなんて、土のメイジでもない王子が言い出した所で、誰も信用しないって。「何故ですか?」て聞かれたら、答えようがない。


っていきなり八方塞がりだし!


うぬぬぬぬ!!!考えろ、考えるんだヘンリー!お前はやれば出来る子なんだ!!犬耳メイドさんのため・・・もとい!将来のアルビオンの為、(たぶん俺の娘になる)アンリエッタのため!!


つながれシナプス!走れ電気信号!海馬よ、俺の記憶をアップロードしてくれぇ!


その時、始祖ブリミルがヘンリーに微笑む。海馬が、ホコリだらけの「高校時代の日本の授業」のハードディスクから取り出したしたある単語が、電気信号になり、脳内ニューロンを駆け巡った。


「専売制(せんばいせい)だ!!」

「専売制」とは、江戸時代に日本の藩で財政再建のために行われていた制度である。内容はいたってシンプル。一定の物産を指定(銀・藍・漆など)して、藩が直接買い上げ、上方や江戸で直接売る-それだけだ。これは、農家や商人に対して、品物を「藩以外」に売ること(直接販売)を禁止したことがポイントである。流通経路を藩に一本化することによって、藩の言い値(有形無形の圧力を加え、出来る限り値段を抑える)で商品を買い上げる→藩が江戸や上方で売る。その差額が藩の収入になる・・・というわけだ。

いい事尽くめのようだが、これは藩領内の商人や農家の犠牲の上に成り立つ。ひどい藩では「紙」「蝋燭」「墨」から「米」「醤油」「酒」「味噌」と、ありとあらゆるものを専売制にした。当然、領民はたまったものではない。江戸時代後期の百姓一揆の中には「専売制廃止」を訴えたものもあるくらいだ。簡単に言えば「強制的な国営企業」といったところか。やりすぎるのは民間の活力を削ぐが、きちんとした計画目標を立てることが出来れば、対象商品に関わる産業を育成できるだろう。もっとも、注意しないと、どこかの第三セクターみたいに、ただの金食い虫になるかもしれないが・・・


さて、専売制をするとして・・・何を扱う?まず、小麦(パンの原料)とかブドウ(ワイン)なんかの生活必需品は絶対駄目だろ?なんせ

「ギルドが取り扱っているものは駄目でしょうね」

アルバートの言うとおり。何れギルドとは規制緩和で対立するかもしれないが、わざわざこちらから喧嘩を売ることもない。しかしながらそうすると後には碌な物が残らん。採算の取れそうなものは、みんなギルドが手を付けている。さすが商人、目端が利くな。アルビオンは国土が限られている。しかも土地は肥えているとは言いがたい・・・貧乏が悲しいぜ!

・・・泣き言を言ってる場合じゃない。とにかく、何か見つけなきゃ。何かあるはずだ、何か。ギルドも気がついていない、法の盲点的な、脱法的に儲かる何かが!


おぉ!始祖ブリミルよ!我にアイデアを!我にアイデアを!!


ヘンリーは気がついてないが、すでに始祖は一度彼に微笑んでいる。


「『スマイル0ドエニ』じゃあるまいに、そんなホイホイ笑えるかいな」


というわけで、ヘンリーはアルバートに紹介してもらった官僚達をブレーンに加えることにした。一人より二人、二人より三人。三人寄れば文殊の知恵。馬鹿が三人集まっても馬鹿だが、彼らは専門家だ。ヘンリーがしわの少ない脳みそを絞るよりはよほどいい知恵が出るだろう。さっそくヘンリーは「専売制」構想を説明して、何か対象となる商品がないか考えさせる。さぁ考えろ。俺も考えるから。脳味噌のしわを絞りきるように考えるんだ!

「人」という字は、支えあって出来ているんです!偉い人には、それはわからんのです!


「あー、さよかー」byブリミル




結論から言うと「ギルドが目を付けていない」儲け話はなかった。そりゃそうだ。あらゆる儲け話の可能性について考えるのが商人という生き物。官僚がいくら束になってもかなうものでははない。だが「ギルドが手を出せない・出さない」儲け話はあった。それは「資本投資の割に、それに似合うリターンが望めない」「政治的リスクが高く、民間資本が2の足を踏む」と、まぁ、見事にめんどくさい物ぞろいだった。

「・・・背に腹は変えられん」

いくつかの候補をまとめた『アルバートレポート』(俺が名づけた)をたたき台に、官僚達と討論を重ね、ギルド商人とも会談を持ち、対象商品の検討を進めた。ギルド商人と話し合ったのは、あとでウダウダけちを付けさせないようにするためでもある。

結果、3つに絞れた。岩塩、木材、羊毛だ。



「岩塩」

海のない浮遊大陸アルビオンにとって、塩は輸入するしかない。だがアルビオンにも塩はある。それが岩塩だ。だが、岩塩は精製が難しく、採算が取れないとして、どの商会も2の足を踏んできた。また岩塩の産出場所が王国首都ロンディニウムを守る防衛拠点の一つ、スタンス城が置かれた山の麓にあり、とても民間資本がおいそれと手を出せる場所ではなかった。当然ながら王家が採掘するには問題がない。報告によれば技術的課題もクリアできないレベルではないそうだ。だが、トリステインやガリアから輸入する塩に比べると、値段が高くなるのは避けられないという。

話は飛ぶが・・・50年ほど前、美食大国ガリアで食通で知られたある子爵いわく

「アルビオンで1年暮らすことは、私にとって独房で10年暮らすことに等しい」

・・・全くもっておっしゃる通りである。アルビオンの飯は不味い。ヘンリーは転生してから、朝・昼・晩と出される食事が、何かの嫌がらせとしか思えなかった。石のように固いパン、馬の小便のように温いビールetc・・・どうやったらパンにハムをはさむだけの料理が、こんなに不味くなるのか?不味いのはまだ我慢できる。我慢ならんのは、味のない飯だ。味のない野菜シチューって何?野菜のゆで汁のほうが、まだ味があるぞ!!

ゲフン・・・

ともかく、そんなヘンリーの食卓を彩る、唯一の心の支えが塩であった。血圧も脳梗塞も心筋梗塞もクソ食らえ、とにかくかけまくって食べた。というか、かけなきゃ食えたもんじゃない。おかげでヘンリーはこっちの世界に来てから、塩にはちょっとうるさくなった。

アルビオンの岩塩は、トリステインやガリアから輸入する海水を乾燥させた塩と違い、味が豊かだ。ミネラルとかが多いんだろう(あくまでイメージだが)。前述の子爵が、アルビオンで「唯一」ほめているのが、この岩塩だ。昔から食通の間で、アルビオンの岩塩は有名だったという。ブランド化に成功すれば、多少高くても、各国の料理人や貴族がこぞって買い求めるだろう。


「木材」

伐採しやすい開けた地帯にある森林や、良材の取れる山林は、決まってどこかの貴族か、王家の直轄地になっている。金の卵を産むガチョウは、どこも簡単には手放さないものだ。狙うのは、入り組んだ領土境にあって、権利関係がややこしい山や森林。場所が場所だけに、材木を扱う商会や、ギルドも敬遠する。下手に手を出せば領土紛争になりかねないから、貴族も手を出さない。似たような森林が、アルビオン国内に20箇所近くあるという。

そこでヘンリーは、政府と商会・ギルドがそれぞれ出資して、そういった森林や山の木材を専門に取り扱う商会を設立することを考えた。木材販売の利益のうち、一定の割合を貴族に払い、後は出資比率ごとに政府と商会・ギルドが折半する。

貴族の上にあって、領土紛争に関して調停出来る唯一の存在の王家無しには成立し得ない構想だ。それゆえ何が何でも王家の出資比率は、イニシアチブが握れる5割、最低でも4割は確保したいところだ。ギルドや商会に出資を認めるのは、彼らへの配慮と、ついでにノウハウも学んでしまおうという思惑もある。だが実際問題、彼らの協力を得なければ、木材は市場で捌けないのだ。貴族からすれば、領土問題はすぐに解決するものではないし、森林や山は放置すればモンスターや野生動物が住み着きかねない。王家がでしゃばるのは気に食わないが、何もせずにお金が入り、森林を整備してくれるのだから、頭ごなしに断ることはないだろう。

「羊毛」

これは「アルビオン王は、国内最大の地主貴族」という点を生かしたものだ。

数十年前までは毛織物はぜいたく品であったが、保温性に優れるという実用的観点から、最近ではハルケギニア大陸北方やアルビオンなどの寒冷地域を中心に、平民の間でも定着しつつあり、需要は増える一方である。

まず王家の領土内を、羊の放牧を専門にする地域と、それ以外の農業地域に分ける。囲い込み(エンクロージャー)を行うのだ。王家の土地を使うのだから、どこの貴族にも気兼ねが要らない。アルビオンの気候は、雨が少なく寒冷地域。良質な羊毛の質を育てる気候条件がぴったり重なるので、質も保証できる。原料となる羊毛-羊の放牧は、広大な土地を必要とする。大体、羊1頭は1年で500メイル四方の草を食べるという。土地が広ければ広いほど、多くの羊が飼育でき、大量の羊毛が取れる。すると、価格交渉能力が高まるというわけで、毛織物を作るギルドに対して、強気で値段交渉に望めるというわけだ。

「大量に作ると製造コストが安くなる」

言われてもピンと来ないだろうが、実際に価格交渉の場面で嫌というほど思い知らされ、いや、知らしめてやるぜ。数は力だ、戦いは数だよ兄貴!毛織物を製造するギルド商人だって馬鹿ではない。彼らが「大量生産」の基本的概念を理解するのは、そう難しくはないだろう。

毛織物製造業で、大量生産の概念を植え付け、いずれはアルビオンの基幹産業に・・・


何年かかるだろう・・・




「ふぅ・・・これで全部か」

ヘンリーは最終報告書を読み終えると、疲れたようにため息をついた。いや、実際に疲れていたのだ。ギルドとの調整、関係各所への聞き取り調査と根回し、現地調査etc。だが目の前ではアルバート以下、専売制計画に奔走した官僚達が、自分以上に疲れた顔をしていた。皆、目の下に濃い隈を作っている。ただでさえ忙しい通常業務の合間に、調査・計画立案に当たったのだ。それも「タダ」で。

繰り返す。「タダ」で

彼らは、国内改革の必要性を訴え、なによりそこにかかる「金」の重要性について語るヘンリーの(かなり不純な動機から生み出される)情熱に触れ、巻き込まれていったのだ。彼らの間に不快な色はない。自分達の能力をフルに生かし、達成したというという満足感だけがあった。

「ご苦労だったな」

王子直接のねぎらいの最中ではあるが、彼らの中には立ちながら眠るものもいた。ヘンリーも、アルバートも、誰もとがめなかった。



(だけど「政治は金だよ」はないよなぁ)

目の前で(何故か)正座させられて、ジェームズ皇太子から説教を受けるヘンリー王子を見ながら、アルバートはあくびをかみ殺していた。



[17077] 第4話「24時間働けますか!」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:b679932f
Date: 2010/10/06 17:46
金だ金だ!金が出来た!いやっふう~!!

さぁ、うさ耳メイド服を作ろうか!へスティー、スリーサイズ教えて・・・痛い、ごめん、マジ許してください。お願いですから、お盆の角で殴らないでください。

「・・・何やってるんですか」

エセックス男爵よ。メイドは男のロマンだぞ?

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ハルケギニア~俺と嫁と、時々息子~(24時間働けますか!)

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「まったく、へスティーはメイド服の良さが分かってないから困ったものだ」
「まったくで・・・違います!」

エセックス男爵、最近ツッコミうまくなったね。しかも今のは伝説の「ノリツッコミ!」。まさかこの世界で見れるとは思わなかった。やっぱりあれかね、海千山千の商人と3年も付き合ってたらそうなるのかね。



3年前、正座でしびれる足を抱えながら、ジェームズ兄貴に専売所設置計画について説明したら「おもしろい」と理解を得られた。兄貴の口添えもあって、行政の最高責任者であるスラックトン宰相に企画書を提出。「予算と人員ちょーだい。おねがい♪」とおねだりするためである。

「ほう、『せんばーいしょ』ですか」
「専売所です、閣下」

スタンリー・スラックトン侯爵。アルビオンの名門貴族・スラックトン侯爵家の当主にして、現在のアルビオン王国宰相である。アゴひげがダンディーだ・・・父上もそうだが、アルビオン貴族は髭を生やすのが好きなのかね?「抜け目のない男でございます」とエセックス男爵が言うとおり、一見するとニコニコして人のよさそうな爺さんに見えるが、よく見ると顔の表情は能面のように変わらない。しわの1本に至るまで、計算し尽くされているかのように隙がなく、顔の大きさの割に細い目(いわゆる糸目)が、一層その表情を読みづらくしている。

(バケモンだな・・・)

前世では曲がりなりにも商社の人間として、いろんな人間と一通りの付き合いはしてきたつもりだったが、こういった手合いの人間とは会ったことがない。スラックトン侯爵は、魑魅魍魎(←何度練習しても書ける気がしない漢字第1位)だらけの宮廷の中で、政治家として育ってきたと聞く。そういった世界では、仮面を顔に貼り付けなければ、生き残れなかったんだろう。お近づきにはなりたくないタイプだが仕方がない。背中に嫌な汗を書きながら、宰相に「専売所構想」を説明する。こちらは王族とはいえ、まだ15の子供。「アルビオン王国宰相」という公職にある、それもかなり年上の侯爵には敬語を使う。

その宰相だが。先ほどから「ふんふん」と相槌を打ってはいるが、その反応はどうとでも取れるものだ。肯定的にも、否定的にも、理解しているようにも、していないようにも、話を聞き流しているようにも。ウナギを素手で捕まえようとしている感じで、イライラする。

「なるほど・・・ヘンリー殿下、よく練られた計画だと理解いたします」

理解、ね・・・便利な言葉だ。



宰相の返事は

「やるならどうぞ。人員は出向させます。予算もスズメの涙ほどだけど恵んであげるよ。ですが失敗したときの責任はヘンリー王子、貴方が取ってね?その時は俺シラネーから。あ、成功したら私の手柄だということも忘れないでね。この忙しいのに人員を出向させるんだからさ」

・・・すらすらとよくもまあ口が動くものだと感心する。責任の所在をはぐらかしながら、成功したときの見返りもばっちり要求するというド厚かましさ。それなのに嫌らしさを感じかったのは、ひとえに侯爵の上手さか。どこにもいい顔をして、そしてどこからも恨まれないというのは矛盾しているのだが・・・あそこまで面の皮が厚いと、それも出来てしまうのかもしれんな。まったく、世界は広いものだと感心する。

ともあれ人員と一定の予算は確保することが出来たから、あとは専売所の責任者を決めなければならん。総合責任者は発案者の俺。ギルドや商会との交渉も俺が担当する。岩塩専売所はエセックス男爵、材木専売所はアルバート。そして羊毛は俺の兼任。エセックス男爵は元陸軍軍人だから、岩塩採掘地域の要塞司令や陸軍へも顔が利く。アルバートは文官として交渉能力に長けているから、ややこしい土地権利関係のからむ貴族との交渉を丸投げする。


さて羊だ。

「王家の領土内を、羊の放牧を専門にする地域と、それ以外の農業地域に分ける」

言うは易く、行なうは難しという言葉があるが、まさにその通りでした。

まずは現地を歩き回り、放牧に向かない土地を削除する作業。これだけでも一苦労だった。人任せにして、岩だらけの土地を選ばれてはたまったものではないので、現地に赴き、自分の足で見て回る。ここでの地道な作業が、専売所の成否を分けるとあって、俺も必死に働いた。おかげで足腰が鍛えられたぜ。農業地域と放牧地域に分け終わると、また大仕事が。囲い込み(エンクロージャー)を行うといっても、農民をたたき出すわけには行かない。他の地域に集団移住させる・・・考えるだけでめまいがしそうだ・・・

おまけに、全く油断もすきもない商人との交渉も同時進行でせにゃならんし・・・

というか何だよお前ら。「鴨が来た来た」っていう目してんじゃねえよ。そりゃ、百戦錬磨の商会からすれば、15のガキのお遊びに見えるんだろうけどな、こっちは真剣なんだぞ。商社マンなめんなこら。窓際課長とはいえ、伊達に一日に何十枚もの書類を決済してたわけじゃないんだ。なめた文言いれたら、王立魔法研究所の実験台送りにするぞ貴様ら。


妙に数字にうるさい(細かい)王子に驚く商人相手に、俺は専売所の標語を掲げた。


『24時間働けますか~!』




懐かしい成長痛や吹き出物との再会を果しながら、商人との腹の探りあいをしているとあっというまに3年が経過していた。というわけでハヴィランド宮殿の国王執務室にいる俺の前で、部屋の主が手放しで喜んでいる。

「でかしたぞヘンリー!それでこそわが息子じゃ!」
「ありがとうございます父上。これもジェームズ皇太子殿下と、スラックトン宰相閣下のご協力あってのものです」

この言葉に嘘はない。ジェームズ兄貴もスラックトンも、実際事業が動き出した後は特に何かしてくれたというわけではない。だが事業は走り出すまでが、一番労力を要する。その時期にこの2人が協力してくれなかったら、専売所事業そのものが、計画倒れになりかねなかったのだ。


結論から言うと、専売所は結構な富を国庫にもたらした。

一番最初に利益を稼ぎ出したのは岩塩専売所だった。技術的課題が早期にクリア出来たため、もともと食通の間で有名だったこともあり、「アルビオンの岩塩は高級でおいしい」というブランド戦略は、あっけないほど簡単に成功した。担当したエセックス男爵は「最近はわしの事を『塩爺』などど抜かす輩がおりましてな」と怒っていたが。

・・・ごめん。それ最初に言い出したのは俺なんだ。だってそっくりなんだもん・・・

材木は、領土権を主張する貴族との交渉こそ多少てこずったが、事業を始めてみると思った以上に儲かった。ほったらかされた森林というので荒れ放題かと思いきや、人の手が入らなかったためか、屋久島の縄文杉レベルのごっつい木がボコボコ見つかったのだ。「どんだけほったらかしだったんだよ」と思う俺を尻目に、商会やギルドは目の色を変えて木材を購入して高値で転売。王家の介入に渋い顔をしていた貴族達も、さしたる苦労もせずに、もたらされた利益に、笑みを浮かべた。

で、羊毛だが・・・これが1番、手間どった。

長年住み慣れた土地を離れたくないという住民連中との交渉は大変だった。むやみやたらに強権を振りかざせば、感情がこじれてしまう。そうなれば後はどれだけ金を積んでも、意地でも立ち退かないだろう。何度●93に頼んで叩き出してやろうと思ったことか・・・まぁ、商会が「うちの下のものに『処理』させましょうか?」と言い出したときは、血相変えてやめさせたけどね。いい子ぶるわけじゃないけど、寝覚めが悪いのは嫌なんだ。睡眠ぐらいゆっくりとりたいから。

何とか土地を確保したら、あとは金に任せて羊飼いを集め、どかーんと羊をぶっ放すだけ!羊は数匹単位で飼っていても利益が出にくい。そのため羊を持て余している国内の中小貴族の足元を見て、2足3文で買い集めた。その数なんと1500頭!

題して「ちりも積もれば山となる」作戦!

これには協力してくれた商会やギルド商人も目を回していた。散々俺を振り回した金の亡者どもが慌てふためく様は、実に愉快だった。これまで国内で1番羊をもっていた東部の大貴族であるエディンバラ侯爵家が200頭だから、その桁違いの規模が分かるだろう。

けっけっけ!これくらいでびびんなよ?!価格交渉の時に、泣きを見せてやるぜ・・・へっへっへ、貴様らが血の小便流して稼いだ金を巻き上げてやるぜ!!


「・・・」

へスティー!?いたの?

「えぇ、ずっと」

え、えーと、えーと、ね?これはね、そのね、言葉のあやというか・・・

「楽しいですか?」

・・・




いろんな事があって、少しだけ痩せた俺は、国王である父親直々に褒められることになったというわけだ。

「ほら、こっちこい!ほおずりしてやる、チューしてやる!」
「結構です!」

親父のエドワード12世は、やたらにボデーランゲージを好むという困った癖がある。親子じゃなきゃセクハラだって。いやパワハラか?昔はお父さま大好きっ子だった妹のメアリーですら、最近では「父上嫌い!」と言うくらいだ。難しいね思春期って。おれもアンリエッタにそんなこと言われたら、立ち直れないかもしんないな・・・

って、親父。チューはやめて、お願い、マジで。

こら、ジェームズ兄貴!目そらしてんじゃねぇ!スラックトン、てめぇ今笑ってるだろ!顔色変えなくても、肩震えてんだよ!

ね、親父。マジで、マジで?や、やめてー!!

「この恥ずかしがり屋め」
「そういう問題じゃありません!」

全くこの髭親父が・・・

あれだけ大騒ぎしたのに、何事もなかったかのようにスラックトンが話を進める。

「それにしても「せんばしょ」ですか。わずか3年で、しかもこれほどまでに利益が出るとは思いもしませんでしたな。ヘンリー殿下の手腕、不肖スタンリー、感服いたしました」

おまえ去年の今頃、「あのような赤字施設を作るとは、ヘンリー殿下の物好きにも困ったものだ」という意味の愚痴をさりげなく宮殿で喋ってたろうがこの野郎。失敗したときはアリバイ工作の為に「私はあの時すでに失敗を予想していました」とかぬかすつもりだったんだろうが。

・・・まぁ、俺も正直不安だったんだけどね。3つのうち1つでも成功すれば御の字だったんだけど、まさか3つとも成功するとは思わなかった。1年目と2年目の赤字を帳消しにするだけの利益を叩き出した結果を見れば、宮廷スズメどもも大人しくなるだろう。ジェームズ兄貴も嬉しそうだ。

「正直なところ、財源がないというのはわしも悩んでいたのだ。いや、本当にでかした!何か褒美をやろう。ほら、チューし『お願いがあります!』




先手必勝。大切なものを守るため、国王の機先を制するヘンリー王子。

時にプリミル歴6206年。原作開始まであと・・・37年




「そこなメイド、何をしておる・・・って、どこから入った貴様?!」
「あ、宰相閣下。うちのメイドですからご安心を」



[17077] 第5話「あせっちゃいかん」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:b679932f
Date: 2010/10/01 20:07
(ブブブブブブブブブ)

ヘンリーです。水のトライアングルである私が『サモン・サーヴァント』で召還した使い魔は「カワセミ」でした。この世界にもいるんですね。羽音がうるさいです。

名前は「ヒスイ」。昔はそう呼ばれていたらしいね。

「どなたに説明しておられるのですか?」(ブブブブブブブブブ)
「・・・妖精さん?」(ブブブブブブブブブ)
「いや、聞かれましてもな」(ブブブブブブブブブ)
「もっともだな、男爵」(ブブブブブブブブブ)

(ブブブブブブブブ「「うるさい!!」」ブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブ・・・)

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ハルケギニア~俺と嫁と、時々息子~(あせっちゃいかん)

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結婚ラッシュです。

一昨年、へスティーが結婚退職しました。お相手は故郷で酒場を営む幼馴染だそうです。結婚式には出席できませんでしたが、花束を贈ってあげました。仕事の最終日、彼女の目に光るものには、気がつかないフリをしてあげます。

「酒場でメイド服着たら、お客さんがいっぱい来るよ?」と言ったら殴られました。

彼女に殴られるのもこれで最後だと思うと、なんだか悲しいです・・・


去年、弟のウィリアムが結婚しました。お相手はモード大公家の一人娘のエリザちゃん。ウィリアムと同じ年のエリザちゃんは恥ずかしがりやさん。結婚式でモジモジしている姿は、チョー可愛かった!

「・・・」

おおぅ。とうとう弟からも冷たい目線を浴びてしまった。「かっこよくて頼れる兄ちゃん」イメージが崩れちゃったぜ

「大丈夫です。最初っからそんな事考えてませんから」

あぁ。あの愛らしくて素直な弟、ウィリアムはいずこ・・・


先月ジェームズ兄貴が結婚しました。30歳。晩婚です。お相手は俺と同い年のダルリアダ大公国コンスタンティ3世公王が息女、カザリン・コンスタンティ・ダルリアダさん(20歳)。ダルリアダはハルケギニア北東に位置する大公国。外国から嫁さんを迎えることによって、国内貴族の無用な対立を避ける狙いがあるそうです。ちなみに俺の母ちゃんのテレジア王妃も、ベーメン王国出身。去年亡くなった祖母ちゃんはガリアの大公家出身。

祖母ちゃんと言えば、一度だけ怒られたことがあったな・・・たしかメイド服に尻尾付けようとしてたところを現行犯で見つかって、杖を突きつけられながら

「『モエ』とは何ですか?この私に説明してみなさい」

・・・怖かった。まじで小便ちびった。だって祖母ちゃん、風の『スクエア』だから、自分の偏在つくって、俺を取り囲むんだもん・・・


閑話休題


カザリンさんに聞いたところによると、ダルリアダ大公家はヴィンドボナを治めるホーエンツォレルン総督家の外戚にあたるそうだ。

たぶんこの家が後のゲルマニア皇帝アルブレヒト3世の実家だろう。「国王」ではなく「総督」なのは、ヴィンドボナが元々都市国家だったから。ホーエンツォレルン家は元々は貴族であったが、ブリミル歴3000年代に没落して、ヴィンドボナにやって来た。金融業で成功して町の有力者にのし上がり、いつしか市長も世襲するようになったという。いずれはロマリアに献金して「王」の称号をもらうつもりかもしれないが、今はまだその時期ではないとみているんだろう。熟した柿が自然と落ちるように、周囲から推されて戴冠するという体裁を取りたいのだ。強引にでも国王になってくれれば、反総督家勢力をけし掛けることもできるんだろうけど・・・憎たらしいぐらいに慎重で腰が重い。そのくせ、いざという時の行動の手早さと来たら。

あ~!憎たらしい!!金貸しが嫌われるわけだ!ヴィンドボナ周辺での総督家支配は揺らぎそうにない。となると、将来でっかくなる前に、周りの勢力をけしかけて、統一を妨害するっていうのもありかね?要はトリステイン北東の勢力が1つにまとまらなきゃいいわけだし。

ちなみに一体誰がホーエンツォレルン家に「総督」を任じているかというと、なんとトリステイン王国なのである。話せば長くなるのではしょっていうと、元々ヴィンドボナ周辺はトリステインの領地だった。それがブリミル歴4000年頃に実質的支配権を失ったという経緯がある。トリステインからすれば(たとえ今は1サントも持っていなくとも)、今でも自国の領土と思っているし、対外的にはそう公言している。わざわざ「うちは領有権を放棄しました」だなんて簡単に宣言したら、「トリステイン与し易し」と、あっちこっちから攻められることは火を見るより明らか。だからトリステインからすれば、口が裂けても「あそこは俺の領土じゃない」とは言えないのだ。

そんなトリステイン側の事情など百も承知のホーエンツォレルン家。3代前のトリステイン国王アンリ6世(現国王フィリップ3世の父)に対して「ヴィンドボナ及び周辺6都市の総督」に任じるように嘆願書を提出したのだ。莫大な貢物を添えて。喜ぶ臣下に、アンリ6世は手に持っていた杖を投げつけたという。

なんちゅうか、もう、悪辣すぎる。さすが金貸しだ。

ホーエンツォレルン家は、トリステインが軍事力でヴィンドボナを取り返す意思も、その実力がないこともわかっている。外見上はトリステインの統治を認めるような格好でありながら、内実はホーエンツォレルン家が王になるための踏み場でしかない。「嘆願」という形でありながら、内実、その足元を見ているのだ。

アンリ6世のお怒りもごもっとも。だからといってトリステインにはこの提案断ることは百害あって一利なしなのだ。もしこれをトリステインが断れば、ホーエンツォレルン家はガリアやロマリアに話を持っていけばいい。ガリアやロマリアからすれば領有権を主張できる好機だから、もろ手を挙げて歓迎するだろう。トリステインからすれば領土紛争の火種を自分からまき散らすようなもの。もとから「拒否」という選択肢は存在しないのだ。

そんなトリステインにとって屈辱的な話なのに、宮廷では表面上の「ヴィンドボナ領有権の回復」に歓迎ムードに包まれたという。アンリ6世にはただただ、同情するしかない・・・

そんな昔話は置いといて。いま大事なのは、ダルリアダ大公家を通じて、アルビオン王家とホーエンツォレルン総督家が縁戚関係になったことだ。アルビオンからすれば、ホーエンツォレルン総督家など大したことないと思っているんだろうが、いずれ「帝政ゲルマニア」という一大勢力に成長するとわかっているヘンリーからすれば、この結婚が吉と出るか凶と出るか、判断がつきかねていた。

・・・ま、あとで考えよう(ヘンリーはこの世界に来てから「問題の棚上げ」を覚えた)


ところでカザリン義姉さん

「大公家っていうと、やっぱり時計塔に指輪をはめると、秘密の財宝があらわれるという伝説があるんですか?」
「・・・何を言っとるのだ貴様は」

昼食会の席で俺が突拍子もないことを言い出したので、ジェームズ兄貴はあきれている。「大公家は地下で偽札作りしてませんよね?」と尋ねなくて、本当によかった・・・

「おもしろい弟さんですね」

兄貴の横で、はにかんだように笑っているのが俺の義姉になるカザリンさん。茶色掛った金色の長髪。泣き黒子がキュートな人だ。こう、出るところは出てて、しまるところがしまって・・・てててて!!兄貴、痛いって!やめて!わき腹は殴っちゃ駄目だって!

「お前は、人の、この、一度、貴様」

怒りすぎて片言になっている。カザリン姉さんは、そんな俺らを見ながらカラカラと笑っていた。いい人を奥さんにもらったね兄貴。

「カザリン義姉さんは」
「カザリンでいいですよ?同じ年齢ですから」
「じゃあカザリンちゃんで・・・・って、兄貴?!室内で魔法、駄目、絶対!」


ぎゃー・・・




「だ、大丈夫ですか?」
「ミリー、いつものことだから大丈夫」
「アルバート。お前結構いい性格になって来たよな・・・って、いてて・・・」

包帯を顔に巻いた俺を心配してくれたのは、後任のメイド長であるミリー。ブロンドのショートカット・・・うん。君に似合うのは犬耳カチューシャだね

「は、はぁ」
「ミリー、無視しなさい」
「アルバート、お前な。一応俺はお前の上司・・・まぁいいか」

ミリーは真面目だから、何でもマジで受け取っちゃうから困る。犬耳カチューシャを付けなさいって言ったら、本当に付けかねない。いや、付けては欲しいけどね。絶対似合うと思うし。でもね、命令で付けて欲しくはないんだ。こう、自分から「付けたい!」って思わせたいんだよ。

「わかるかねアルバート君?」
「わかりませんし、わかりたくもありません」
「貴様!仕事増やしてやろうか!」
「私の仕事が増えると、殿下の仕事も増ます」
「うぬぬッ!」
「え、え?ええ?」

ミリーがかわいそうなくらい慌てているので、心配しなくてもいいと言い聞かせる。

「くだらない事言ってないで、書類決済してください」
「へいへい」

ミリーも何年かたてば、アルバートみたいに生意気になるんだろうかね・・・

ま、それはともかく。ミリーの入れてくれた紅茶で気を落ち着かせてから、手元の書類に視線を落とす。ハルケギニアで紙が使われているとは思わなかった。てっきり羊皮紙を使っているものだとばっかり思っていたんだが。川原や湿地帯に生える繊維の多い草を、洗って、裂いて、脱色。同じ草を水でふやかしてすり潰しペースト状にしたものと一緒に、木の枠型に入れて形を作って水で晒し、乾燥させたのが、ハルケギニアでいう「紙」だ。

アルビオンでは原材料の草が生える湿地帯が少ないために貴重品だが、湿地帯の多いトリステインやガリアではもっと安価に供給されているそうで、庶民も背伸びすれば手が届くぐらいの貴重品だそうだ。まぁそれも都市部に限った話であり、用途は政府関係の公文書、教会関係の本、高価な魔術書や一部の本などに限定されている。農村の平民には羊皮紙=紙だと思って一生を終わるものも多いという。「支払伝票に良質な紙をどれくらい使っている」かが、商人のステータスになるそうだから、その程度のものなのだろう。

どちらにしろアルビオンでは貴重な紙にインクで書かれた報告書は、ロンディニウム官僚養成学校が提出した「教育カリキュラム変更について」と王立魔法研究所農業局の「土壌改良実験結果について」。ロンディニウム官僚養成学校と王立魔法研究所農業局、共にヘンリーが専売所の利益を元手に、国王に願い出て設置されたものだ。

『ロンディニウム官僚養成学校』-そもそも官僚の採用は、現職の官僚による推薦と面接試験の二部制だ。推薦さえ受ければ事実上合格したのも同じであるため、少なからぬ縁故主義が蔓延り、単純な計算も出来ないものが財務局に所属されるといった、笑えない笑い話もある。じゃあ新人教育はどうしていたのかとアルバートに聞くと、曰く「仕事は盗んで覚えろ」

どこの職人だよ!てか何?その体育会系のノリ?!

だからといって推薦制を即座に廃止し、試験制度を導入するのは、あまりに性急に過ぎる。第一、採用試験をしようにも、そういった問題を誰も作ったことがないのだ。新人教育を行うよう命令してみても、ただでさえ仕事の割に官僚の数は少ない。仕事に支障が出かねない。そこでヘンリーの侍従であったアルバートが考えたのが「官僚養成学校」。これは、新人教育と官僚採用を一気に片付けようという、一石二鳥の計画であった。

教育方針は「どんな馬鹿でも卒業時には即戦力」基本的な読み書き計算に始まり、事務処理手続き、報告書・企画書の作成といった日常業務のイロハまでを3年の集中カリキュラムで詰め込む。教員は退職した官僚を中心に集めた。せっかくの経験と知識があるんだ。田舎で楽隠居させるのはもったいないからね。時には現職官僚が教壇に立つこともある。今、自分が取り組んでいる仕事などを話させ、将来の仕事へのイメージを持たせるのだ。採用規定に「養成学校を出たものを優先する」という条文をこっそり挟み込んで、縁故主義をじわじわと減らし、養成学校出身者を増やす。最終的には、養成学校の試験のノウハウを反映させた採用試験に一本化して縁故主義を完全に排除・・・なんとも気の遠くなるような、壮大な計画だ。

その責任者としてヘンリーが推薦したのが、自身の侍従であり発案者でもあるアルバートである。

アルビオンには「外人貴族」と呼ばれる貴族がいる。昔からアルビオンは、空中国家という特殊要因もあり、ハルケギニア大陸で政争に敗れた貴族が多く亡命してきた。「アルビオン貴族の系図をたどれば、ハルケギニア全土の貴族の初代にたどり着く」という軽口もあるくらいだ。嘘か真かは知らないが、ガリアやトリステインの現国王より、王位継承権の高い子孫がいるとかいないとか・・・

サー・アルバート・フォン・ヘッセンブルク伯爵-彼の先祖もハルケギニア大陸北東部の貴族だったが、トリステイン王国に終われて、アルビオンに亡命してきた。アルバートは何かと色眼鏡で見られる外人貴族の中でも目立つ存在である。風貌はその辺のパン屋のオッサンとでもいうべき平凡なものであったが、かつてアルビオン国内で暗躍したドクロベェ盗賊団を、幻のマジックアイテム「ドクロリング」が見つかったというニセ情報を流しておびき寄せ、一網打尽にした功績で「サー」の称号を与えられた。同時に優秀な文官でもあり、交渉能力や事務処理能力はその辺の官僚をかき集めても敵わない。官僚養成学校の初代学長に、彼以上にふさわしい貴族はいないだろう。


「・・・授業の中で、実際に仕事をさせるのか?」
「はい。簡単な事務作業-例えば備品伝票のチェックや、書類に誤字がないかどうかといったものを考えています。こういった仕事は、慢性的人員不足の現役官僚にやらせるのは」
「確かに、考え物だな。だがアルバート。どこに鉱脈があるかはわからんものだぞ」
「・・・おっしゃる意味がわかりかねますが?」

魂は細部に宿る。かつて源義家は、草むらから雁の群れが飛び立つのを見て、そこに敵の奇襲部隊が隠れているのを認識したという。こちらが取るに足らないと思う情報でも、敵国からすれば、涎をたらして欲しがる情報かもしれないのだ。

「なるほど・・・」
「案としては悪くはない。だが官僚養成学校が情報漏えいの発信元になるのは笑えん話だ。その点を勘案して、もう一度練ってみてくれ」
「はっ」

きびすを返してアルバートが出て行く。慌てて見送るミリーを尻目に、ヘンリーは王立魔法研究所農業局の報告書に目を落とした。


王立魔法研究所は、文字通り魔法を研究する研究所だ。ヘンリーは自分のあやふやな農業知識を実証するための実験施設として、この研究所に目を付けた。何故魔法研究所かというと。

「農業改革のためには、まず肥料だよな。肥料・・・土壌改良か。土壌改良なら土系統のメイジだな。でも土魔法を使う貴族に「肥料を研究して!」っていっても、絶対やらないよね・・・そうだ!魔法研究所!」
「研究所なら、土系統の魔法も研究しているはず!その派生で土壌改良を研究しても変じゃないよね!むしろ自然。うんうん」

いきなり「係・課・部」の3つを飛び越して「局」扱いなのに、変じゃないと思うヘンリーの感覚は、かなりズレていると思うが、まぁそんなことは今はいい。農業局は、こっそりヘンリーが企画書の中に混ぜた「土壌改良と農作物の関係」を研究課題に掲げている。ヘンリーの理論武装(になっているようでなっていない屁理屈)の後押しもあり、肥料開発や、土壌改造、農業用水の整備、作物の改良と範囲を広げていく。実際、肥料の開発に成果を上げていることもあり(ヘンリーの屁理屈は屁のツッパリにもならなかったが)、特に表立った反論はなかった。

「それにしても、ジェームズ兄貴もウィリアムも結婚しちゃったんだよなぁ。」

兄貴はともかく、ウィリアムに先を越されたのはあせった。ヘンリーも今年で20。いつ結婚しても可笑しくない年齢なのだが、「メイド萌え~!」と叫んでいた昔の悪評が、未だに後を引いているのか、一向にそういった話しがこない。

「まぁ、あと何年かすれば、トリステインから養子縁組の話が来るだろうから、気長に待つかね・・・あせってもしょうがないしな」


人材育成も、農業改革も、結婚も。あせってはいけない。一歩一歩、自分の足で進むしかないのだ。




前者はともかく、果たして結婚はあてはまるのでしょうか?私にはわかりません。

時にブリミル歴6208年。原作開始まであと35年の、ある日のことでした



「・・・なにしてんだミリー」
「え、いや、その。へ、へスティーさんから、『伝統』って、受け継いだんですが・・・」



[17077] 第4・5話「外伝-宰相 スタンリー・スラックトン」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:b679932f
Date: 2010/10/01 20:11
ハヴィランド宮殿-ブリミル暦4504年、時の国王エドワード4世(開放王・エドワード3世の子)により23年の月日と、莫大な国家予算をかけて建築された、通称-白の宮殿。東西1リーグ、南北1・5リーグという広大な土地に、整然と石造りの白亜の建造物が立ち並ぶ。大噴水を中心に、四方に広がる庭園の美しさは、かつてここに入った泥棒が、その美しさに目を取られているうちに逮捕されたという逸話を生んだ。

現ガリア国王ロペスピエール3世が、ヴェルサルテイル宮殿(建築中)着工を命じた際、「ハヴィランドに美しさで負けることは許さん」と号令したことはよく知られている。アルビオンの王弟がここを評して曰く「日本なら耐震基準で即立ち入り禁止になるだろう」

この宮殿の初代の主であるエドワード4世は、様々な逸話を残した。

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ハルケギニア~俺と嫁と、時々息子~(外伝-宰相 スタンリー・スラックトン)

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先代国王である父エドワード3世が、農奴解放令に伴う政情不安の中、「不慮の死」を受けて即位した彼は、一切の政務に口を挟まなかった。自ら「箱庭」と称したハヴィランド宮殿の中で、エドワードは一人であった。友はなく、信頼できる家臣もなく。家族でさえ敵に見えた。貴族が政争に明け暮れようと、民が疲弊しようと、国家財政が悲鳴を上げようと、意図的に耳目をふさいだ。王は、自らの持てる全てを芸術へと注ぎこんだ。絵画・彫刻・骨董といった美術品収集に始まり、文芸作家・音楽家のパトロンとして、稀代の演劇評論家として・・・

しかしそのどれもが彼の心を満たすものではなかった。

箱庭の中で、孤独な権力者は誰にも理解されない情動を日記に綴った。

「なぜこの世に貴族が存在するのか。民を守るため?寄生しているだけではないか。自分があって家がなく、家あって国がない。彼らは自分の欲望にだけ杖の忠誠を誓う」
「なぜこの世に平民が存在するのか。彼らは魔法が使えない。だからどうした?ずるく、卑怯で、陰険で、誰一人として国のことなど考えない。自分の利益ばかりだ!」
「始祖ブリミルがわからない。この世に平民と貴族という、ろくでもないやつらを生み出したからだ」

「哲学王」-彼はそう呼ばれた。ブリミル教の神学には、始祖の予言という絶対の答えが用意されていたが、彼の答えのない問いには、死というゴールしかなかった。彼は箱庭の一角にある庭園で倒れているところを発見された。その顔は安らかなものだったという。

エドワード4世が倒れていた庭園は今はもう存在しない。そこに立てば、誰もが彼の狂気にも似た問いについて考えざるを得ないからだ。


宮殿は王家の住宅であると同時に、行政府庁としての役割も持つ。時代が下るにつれ、行政府庁としての役割を増していったハヴィランド宮殿は、次第に手狭となる。多くの庭園がつぶされ、代わりに石造りの無機質な建物が立ち並んだ。だからといって、よりにもよってそのいわく付きの場所に新しく増築、そのうえ「宰相執務室」を移したのだから、誰もが顔をしかめた。

「宰相閣下も、物好きなお方よ」

スタンリー・スラックトン侯爵。宮廷官僚(日本で言えば宮内庁職員)という王家の内向きの仕事から出発した彼は、4代の王に仕えた。王家と貴族。それ自体は何も生み出すことのない「名誉」という名の「プライド」を何よりも重んずる滑稽な特権集団の中を巧みに泳いで、彼は生き残ってきた。

彼ならエドワード4世の問いにこう答えるだろう。

「理由は存在しない。それが理由ですな。」

わかったようでわからない、答えになっているようでなっていない、深いようで、ただの意味のない言葉の羅列にも聞こえる。エドワード4世もさぞやあの世でキョトンとしているだろう。

スラックトンはこうして宮廷を生き残ってきた。彼は誰の考えも否定しない。誰の考えも肯定しない。スラックトンには主義主張が存在しないのだ。引き換えに彼は、あらゆる事象への冷静な対応を、悪く言えば冷めた見方を獲得した。宮廷内の力関係を見抜き、高く自分を売り、気づかれることなく人を蹴落とし、凋落傾向にある勢力からは自然と距離をとる・・・

そして彼は上り詰めた。

自分の生き方が恥ずかしいとは思わない。スタンリーが侯爵家を継いだとき、家には1メイルの土地も存在しなかった。いわゆる没落貴族である。しかしながら彼は曲がりなりにも侯爵家の当主。公の場では格式を維持しなければならなかった。パーティでの華やかな顔の裏で、商会に頭を下げた。這いつくばって哀れみをこうた。格式を維持するためには何でもやった。スタンリーは自分の感情が、人としてあって当然の思いが、次第に消えていくのを感じていた。だが、それをとめようとは思わなかったし、とめられるはずもなかった。

「名誉」「貴族としての誇り」これほど滑稽な言葉は、彼には他になかった。

宰相になってもスラックトンは、その冷静なまなざしを失うことはなかった。彼にはこの国の問題点がわかっていた。王軍指揮系統の不確実性、貴族領土の細分化による領地の荒廃・・・国内の各勢力がそれぞれ自分の属する団体の利益だけを主張し、国のことは2の次、3の次・・・「安定」といえば聞こえがいいが、それは緩やかな衰退と変わらない。彼は宮廷内で権能を振るった勢力が、最後は必ず崩壊する様を何度も見てきた。アルビオンという国が、同じようにならないという理由はどこにあるのか?制度疲労を放置してきた矛盾は、彼の目には明らかだった

(・・・もって50年といったところか)

だがスラックトンが動くことはなかった。「主義主張を持たない」という生き方を、人生の黄昏を前にして、いまさら変えられるわけもなかった。緩やかに滅び行くわが祖国を見ながら、淡々と書類にサインする。その繰り返し。

そのはずだった。



「『せんばーいしょ』ですか」
「専売所です、閣下」

スラックトンはあごひげを撫でながら、珍しく困惑していた。少なくとも今までの宮廷生活の中で、王族が自ら発案して政治行動を起こしたことは、未だかつて無かったからだ。そして(表情には出さないが)王子の説明を聞いてさらにその度合いを深めた。

「・・・なのです。この岩塩にアルビオンという国家の保証を付ければ、間違いなく各国で飛ぶように売れるでしょう」
「ほうほう」

ヘンリーの言う「専売所」は驚くべきことばかりであった。

国家主導で商品を売る-そんな事は今まで考えたことも無かった。プライドばかり高い貴族からは、脳味噌を最後の1滴まで絞っても出てこない発想だ。貴族やギルド商人といった既得権益を持つ勢力とは、決して正面からぶつからず、「利益」を持って説得する。岩塩、領土係争地の木材、そして大規模放牧・・・一見するとリスクが高いように見えて、これが国家主導ならそのリスクが極めて小さくなるという緻密な計算がされている。

中でも今の王子の発言には驚かされた。「アルビオンという国家の保証」、そこには何のためらいもなかった。言葉と事象の持つ意味を客観的に分析し、それがもたらす効果を最大限に利用しようとしている。これは王子が国家を自分の「私物」とみなしていては、絶対に出来ない発言だ。

まるで商人のような考え方だが、両者には絶対的な違いがある。

王子の根底にあるもの-それはアルビオンという国家全体の利益、すなわち「国益」ともいうべきものだ。


スラックトンは驚愕した。目の前の15の子供に対して畏怖の念すら覚えていた。宮廷の中で、何十年も人間という奇妙な生き物を見てきた自分だから、絶対の自信を持っていえる。

(バケモノだな・・・)

そう、バケモノだ。こんな考え方をする人間が、宮廷社会の中にどっぷり使った貴族の、その盟主であるはずの王家にいるとは。それもまだ15歳の、ろくすっぽ分別もあるかどうかわからない年齢の子供が。まさに異物としか言いようが無い。

(・・・面白い)

スラックトンは宰相になってから、いや、宮廷に入ってから、初めて自分の意思で行動することにした。

「なるほど・・・ヘンリー殿下、よく練られた計画だと理解いたします」

王子の顔が歪むのがわかる。やはりまだ若い。言葉のニュアンスに込められた真意を、読み取ることが出来ないのだ。さきほどから私が返していた相槌にも、目に見えてイライラしていたのが伝わってきた。

(腹芸の一つも出来ないで、政治は出来ませんぞ・・・殿下?)


人員を出すといったときの、殿下の喜びといったら。まるで想いが通じて喜ぶ女子のようで。

自身では気がつかなかったが、老宰相の頬は僅かに緩んでいた。



スラックトンは専売所に出来る限りの協力を行った。慢性的な人員不足は深刻であり、本来なら人員は1人でも割ける状況ではなかった。しかし彼は専売所に50人の人員を派遣。予算も財務当局に指示して、小額だが付けさせた。「王子の道楽」だと批判する官僚や貴族には、自ら面談してやんわりと説得し、影から援護した。普段の侯爵らしからぬ行動に、同僚や部下は首をかしげて理由を尋ねたが、彼はいつものように煙に巻くだけであった。


「理由は存在しない。それが理由ですな。」


愉快そうに顎鬚を撫でるスラックトンに、誰もがそれ以上の追求を諦めた。




スタンリー・スラックトン侯爵は、それから10年の間、アルビオン王国の宰相を務めた。残された資料や、王室編纂の公式歴史書からは、彼の表立った仕事を見つけ出すのは難しい。「何もしなかったから宰相でいられた」との歴史家の批判もある。ただ、彼の元で、ヘンリー・テューダーを中心とする「新官僚」と呼ばれる人々が、数々の改革を行ったのは確かである。


スラックトンは現職のまま無くなった。享年72。


国王ジェームズ1世は臣下としては1000年ぶりとなる異例の「国葬」をもって、この老宰相に答えた。葬列には多くの部下や市民が列をなして途切れることが無く、ロンディニウムでは誰もが自然と故人を忍んだ。

王弟ヘンリーは雨の中、彼の入った棺に寄り添うようにして墓地まで歩いたという。



[17077] 第6話「子の心、親知らず」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:b679932f
Date: 2010/10/01 20:15
やぁやぁ、皆さんこんにちは。アルビオン王国第2王子のヘンリーだよ。


実は皆さんにご報告があるんだ。


それはね




結婚することになったんだ。





相手はアルビオン王国の名門ヨーク大公家の公女キャサリン・ハロルド・ヨークっていうんだ。可愛い名前でしょ?僕と同い年の20歳なんだよ。






あれ?






・・・・どぅええええええええええ????????!?!?!?!?!?

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ハルケギニア~俺と嫁と、時々息子~(子の心、親知らず)

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「いや、お。おま、ちょ、ちょちちょ・・・・」
「で、殿下、すこし落ち着いて下され」

アルバートに代わってヘンリーの侍従になったエセックス男爵(塩爺)が、混乱する自らの主人を必死に落ち着かせようとする。

「ヘンリーよ、嬉しいのはわかるが、少し落ち着かんか」
「でででで、でもの、その、あの、そのそそそそそ、ちちうえうえうえ?!」

エドワード12世は自らの息子の乱心ともいえる言動に困惑していた。

元々、好奇心旺盛な性格で、何にでも興味を持つ息子であった。それが長じるにつれて、新しい政策を考え出すきっかけとなったようで、最近では政治に積極的に関わり、そのいくつかは目覚しい結果を出している。エドワードは息子の成長を喜んだ。真面目だが頭の固いところのある皇太子のジェームズを補佐するには、柔軟な思考を持つヘンリーの様なタイプが望ましいと考えていた。将来は兄を補佐して、国を支える柱石になって欲しい。

そのためには何が必要か?

(まず身を固めさせんとな)

エドワードは、性格というものがそう簡単に変えられるものではないということを経験的に知っていた。ヘンリーも今年で20歳、いつ結婚してもおかしくない年齢だ。こやつの落ち着きのなさは生来のものであろう。結婚すると人は自然と受身に、守りの姿勢になる。ヘンリーが人間として成長する上でも、政治家として一皮向けるためにも、一刻も早い結婚を・・・王はそう考えた。


国王には第2王子を「トリステインに婿養子に出す」という考えは「全く」存在しなかった。


原作展開を知るはずもないエドワード12世。当然、目の前の王子の錯乱状態の理由は知るはずもない。ましてや、それが自分に原因があるとは

「あわんわわあわわわわ・・・・あれ、あのそうのう、そ、す、そ、」

やれやれ・・・エドワードは苦笑した。政治では年齢に似合わない慎重な行動をとる息子も、人並みの「恥ずかしい」という気持ちがあるのか・・・いや、こやつは元々感受性の強い性格であったな。最近、子供達に『スキンシップ』を嫌がられ、寂しい気持ちを覚えることの多かったエドワード。息子の見せる過剰ともいえる反応に、困惑と同時に、ちょっとした懐かしさと嬉しさも覚えていた。




親の心子知らず


逆もまた真なり


子の心親知らず




「どわなお・・・おあにな、け、けけけけけけけえええええ・・・・!」
「結婚でございます、殿下」

エセックス男爵が、もはや落ち着かせることを諦めてつぶやく。

「け、け、結婚?!」
「そうでございます」
「誰が!?」
「殿下でございます」
「だ、だ、誰と?!」
「ですから、ヨーク大公のご息女であられる、キャサリン・ハロルド・ヨーク・・・」
「だ、だっだだだだ!誰だよそれ?!」
「ですから!ハロルド2世陛下3男がエドガー・ハロルド公を祖とし、アルビオン西部の要所、プリマスを代々受け継ぎ・・・」
「だ、だれ?!だれなの?!」
「でー、すー、かー、ら!!」

(人の話聞いてるのか、この馬鹿は!)

心中では不遜な言葉でヘンリーを罵りながら、塩爺は顔を真っ赤にしている。額に浮き出た血管は、いまにもはちきれんばかりだ。


二人の言葉はどこまでもすれ違い、互いの真意が伝わることはない。


なぜならエセックス男爵は、ヘンリーが結婚したくないという一心で駄々をこねているか、または余りのショックに現実を受け入れるのを拒否しているか、そのどちらかだと考えていたからだ。

(ならば何度でも言って聞かせるだけじゃ!)

老男爵は「瞬間湯沸かし器」とあだ名される普段の気の短さが嘘のように、何度も何度も、何度も何度も、何度も、王子に同じ言葉を繰り返す。



一方のヘンリー





(キャサリンって誰?!)





そんな言葉が頭の中で何度もぐるぐると壊れたレコードのように繰り返され、思考が停止した彼に、エセックス男爵が同じ事を何度も繰り返す。

曰く

「ブリミル暦3546年、当時のアルビオン国王のハロルド2世の3男であるエドガー・ハロルド公を祖とするヨーク大公家」
「アルビオン西部ペンウィズ半島の中心都市であるプリマスを代々受け継ぎ、歴代の国王に忠誠を誓ってきた名門大公家で、半島の南半分全土を領有する大地主」
「王家への忠誠心が高く、かの『四十年戦争』では、国土の半分が敵国に制圧されてもなお敢然と戦い続けた忠君の家柄」

etc・・・

しかしながら、ヘンリーが知りたいのはそういったことではない。大体、それくらいのことならその辺の幼児でも知っている。それくらヨーク大公家というのは名門なのだ。

ヘンリーが知りたいこと、それは







「なんで歴史が変わっちゃったの?!」
























「「「「「「「「「「「お・ま・え・の・せ・い・だ!!!」」」」」」」」」」



























「という数知れぬつっこみが飛んだような気がする・・・」
「何を言っておられるのですか、さっきから・・・」

目の前では両肩で息をつくエセックス男爵と、愉快そうに口髭を撫でるエドワード12世。ヘンリーはエセックス男爵の突っ込みでようやく冷静さを取り戻した。しかし、その脳内ではスパコンも真っ青の「打算」という名の計算を繰り返している。

(うおおおお!やべえ!やべえよこれは!どれくらいやばいかというと、目玉焼きに醤油じゃなくてバルサミコソースかけたくらいやべえよ!!食えないよ目玉焼き・・・って、ちっがあああう!!そういうことじゃねえってぇぇぇ!!原作崩壊どころの騒ぎじゃねえよ!!!アンリエッタ産まれねえよ!お父さんになれないよ!娘が、娘が!むすめが・・・俺がずっとコツコツ考えてきた『娘との思い出を作る45年計画』が!うおおおお~~~!!!!)

・・・こいつは

(は!アンリエッタ生まれないって事はどうなるの?!ルイズはただの胸無しツンデレまな板になるの?!!「アルビオンに恋文取りに言ってね、おねがい♪」任務は?!ないの!?!?!ワルドの裏切りは?サイトとのまな板をめぐる恋の大戦争は?!・・・・てか、そもそも『ウェールズ=アンリエッタ同君連合、いけいけ恋の同盟大作戦』はどうなるの!?)

そもそもそんな大作戦は存在しない


ヘンリーは叫んだ。心の赴くままに。叫ばずに入られなかった


「うがああああ!!!認めん、俺は認めんぞおおおおおお!!!!俺の『娘との思い出アルバム311の道のり計画』が、こんな、こんなところでえええええ!!!途中で、こんなところで!認めん!俺は認め(バキッ)へっぷ?(バタッ)




へんりーハ、タオレタ!

しおじいハ、経験値ガ「3」アガッタ!


「ヘンリー王子は喜んでお話を御受けになるそうです」
「そ、そうか」


えどわーどハ、「見て見ぬふり」ヲ覚エタ!
えどわーどハ、子離レガススンダ!



[17077] 第7話「人生の墓場、再び」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:b679932f
Date: 2010/10/01 20:18
そういえば俺の2つ名なんだけど「冥土」のヘンリーでいい?ってエセックスの爺さんに聞いたら、小1時間ほど説教されたよ。丸々日本語での当て字なのによく分かったよね。ジョークが通じない人って嫌だね。

結局「水鳥」ってことになったよ。俺は水系統のメイジで、使い魔が「カワセミ」だからだって。普通すぎてつまんないね。

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ハルケギニア~俺と嫁と、時々息子~(人生の墓場、再び)

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(前回までのあらすじ)

原作の展開が修正できない感じに捻じ曲がっちゃいました。


・・・どうしよう




「北京の蝶、か」
「・・・蝶がどうかしましたか?」

北京で蝶が羽ばたく→ニューヨークで嵐が起きる。何でそうなるのかさっぱりわからんが、とにかくそうなるらしい。カオス理論だったか?ジュラシッ○・パークでモジャモジャ頭の数学者が言ってたな。確か、少しの行動が、結果的に全体へと及ぼす大きな波紋・・・だったはず。

(原作展開が根本から捻じ曲がってしまったのも、無理はないか・・・)

本来いるべきではない「俺」が「ヘンリー」。蝶の羽ばたきで嵐が起こるくらいだ。「俺」という存在が、この「ゼロの使い魔」に、ハルケギニア世界に及ぼす影響は、一体どれくらいになるのか・・・考えるだに恐ろしい。次に起きるのは一体なんだ?風石が暴走して、アルビオンがハルケギニアに転落するとかか?「杞憂」と笑う事なかれ。大体、空に国土が浮いている事態が非常識なのだ。落ちないほうがおかしい。自然災害レベルになると、最早どうしようもないぞ・・・

ヘンリーは自らの存在によって、行動によって引き起こしてしまった嵐の大きさに、言葉もなく沈み込んだ。








そして



















「・・・ま、いいか♪」






























「「「「「「「「「「ええわけあるかい!」」」」」」」」」」



























「・・・て、声が聞こえた気がする」
「・・・殿下?」
「い、いや、エセックスよ、だ、大丈夫だって、も、もう取り乱さないからさ?」

もう一度手刀を食らわされては敵わない。打ち込む準備をしている侍従を、慌てて制し、自らの正気をアピール。疑いの眼差しを向ける老男爵に、不自然なくらい明るい声で話しかけた。

「し、しかし、ヨーク公のご息女とは、すごいね」
「殿下にはもったいのうございますな」
「・・・」
「ジョークでございます」

エセックス、お前もか。

「真面目な話に戻しますと(今までは真面目じゃなかったのか)殿下はアルビオン王国の(無視かよ爺さん)第2王位継承者なのです。最低でも侯爵家の息女クラスでないと、王家の格が保てません」
「格、ね」

ヘンリーが僅かに顔をゆがめたのを、元家庭教師は見逃さなかった。

「殿下がそういったつまらない格式を好まないことは、この爺がよくわかっております。ですが殿下は王族なのです。王族はすなわち国家そのもの。殿下の言葉で国は動き、殿下の行動で国は揺らぐのです。」

「あぁ・・・」

ヘンリーは昔を思い出した。堅苦しいことが嫌いな俺がパーティに出席したくないと駄々をこねた時、ほかの者はただ困惑するだけだったが、この爺だけは有無を言わさず頭を殴りつけたものだ。そして王族としての心構えを切々と説いた・・・今のように。

「一生の伴侶を選ぶ結婚ですら、殿下に自由はないのです。」

不思議なものだ。他の侍従に同じ事を言われれば俺は反発したが、この爺の言葉だけは、自然と心の中に入ってきた。

「ですがそれは、お父上も、お爺様も・・・始祖ブリミル以来、何千年、何百年とこの国を率いてきたアルビオン王家のすべての方々が味わってきたことなのです。そして・・・」
「『すべては国と平民を守るために。それこそが王族が王族であり、王族たりえる唯一の理由であり、誇りである』だろ?」

老男爵は、一瞬ポカンした顔でとこちらを見た後、顔をしわくちゃにして何度もうなずいた。

まったく、この爺は・・・

「わかったよ」

そんな顔されたら、駄々こねるわけには行かないじゃないか。



大公は王(国王)の下にあり、公(公爵)の上、王家の分家の長が名乗る称号である。大公が元首を兼任するのが「大公国」(ジェームズ皇太子妃カザリンの祖国であるダルリアダ大公国など)。

アルビオンには、王家が絶えた場合、跡を継ぐ家(すなわち王家の分家)が4つ存在する。すなわちウェセックス伯爵、コーンウォール公爵、モード大公、そしてヨーク大公。王位継承権の順位はこの逆で、ヨーク大公→モード大公→・・・という順になるが、現在のモード大公家は、現国王ジェームズ12世の4男・ウィリアムが相続しているので、王位継承権はジェームズ皇太子、ヘンリー王子につぐ3番目を確保している。ウェセックス伯爵、コーンウォール公爵両家は、すでに没落して領有する土地もなく、宮廷の家禄を食む存在に過ぎない。王位継承権を有しているとはいえ、爵位も劣ることから、大公家よりは一段下に見られている。

話が脱線したが-要するにヨーク大公家は、モード大公家と並んで広大な領地を持つという有力な王族であり、なおかつ本来ならばモード大公家を押さえて、王位継承の権利を持つ、とてつもないビックな家なのだ。

その歴史はブリミル暦3546年、当時のアルビオン国王ハロルド2世の3男であるエドガー・ハロルドが、アルビオン西部ペンウィズ半島の中心都市であるプリマスと「大公」位を与えられたことに始まる。「歴代の国王に忠誠を誓ってきた」というエセックス男爵の言葉は、決して過大なものではない。実際に大公家は何度もアルビオンの危機を救って来たのだ。中でもブリミル暦4544年にトリステンが領有権を主張してアルビオンに侵攻したことに始まるアルビオン継承戦争(通称・四十年戦争)では、国土の半分がトリステインに制圧されてもなお、ペンウィズ半島に立て籠もり抗戦を続け、アルビオンの勝利に貢献した。国王ヘンリー5世はその功績を称え「国家永久の守護者」の称号と、「アルビオンが続く限り、大公家の存続を認める」という言葉を与えた。

そういう経緯から、ヨーク大公家領はきわめて高い独自性を保持している。また本拠地であるプリマスは大陸出兵の際には派遣軍集積拠点となる軍事・交通の要所であり、ペンウィズ半島がアルビオン屈指の穀倉地帯であることから、歴史上幾度となく大公家の独立が囁かれ、ロンディニウムの肝を冷やさせたものだ。

しかし、ヘンリーが今気にかかっていることは、そういった大公家の独自性の問題などではない。


「大公家に婿養子に入ったら、国政に口出しできなくなる・・・」


現在のヨーク大公家当主であるチャールズ・ハロルド・ヨーク公は59歳。学者肌の温和な人物。生物研究-特に鳥類の分野では学会でも知られた存在で「鳥の大公様」として親しまれている。彼には1男1女がいるが、息子のリチャードは体が弱く、29歳の今になっても独身。(ちなみに彼も父親と同じく鳥類研究で知られる。ジェームズ皇太子とは昔から馬が合い、今でも親友である)

となると残った娘-キャサリンの婿となるものが、ヨーク大公家の跡継ぎになるだろうというのが、宮廷内でのもっぱらの観測であった。そしてその結婚相手に決まったのが、誰あろうこの俺、ヘンリーなのだ。俺は次男だし、大公家なら養子先として不足はない-国王である父はそう考えたのであろう。

しかしそれは俺にとって好ましい事態ではない。アルビオンには「国王とその王子以外は、国政の意思決定に関わらない」という不文律が存在する。四十年戦争の際、トリステイン側に王族の一部が加担し、戦後も国内対立を長引かせたという苦い経験から、誰が言うとは無しに、そういった慣習が生まれたのだ。

つまり「ヘンリー王子」なら口出しは出来るが、「ヨーク大公ヘンリー」では出来ない

「拙い・・・」

俺は焦った。

改革はまだ道半ば・・・というより、入り口から2・3歩入った段階。これから、これからが大事な時期なのだ!官僚組織の専門化、農業用水道の整備、街道港湾整備・・・やることは山ほどある。そのどれもがまだ未着手なのに・・・そんなヘンリーの思考は、エセックス男爵の発言に遮られた。

「しかし、大公家は思い切った決断をなさいましたな」
「・・・ん?何のことだ」
「?殿下はお聞きでないので・・・あ、そういえば私が気絶させたのでしたな」

そうだよ爺さん。痛かったんだぞ


「大公家はこの婚姻と同時に、大公家領を王家に返還するそうです」


・・・爺さん、今何て言った?

「ですから、領地を王家に返還すると。ペンウィズ半島南部が王家の直轄地になるのです」

・・・マジ?

「マジもマジ、大真面目だそうです。無論、大公家は存続しますが、それはロンディニウムの1大公家として。ウェセックス伯爵、コーンウォール公爵両家と同じ扱いですな。いやはや、跡継ぎのリチャード殿下が病弱とはいえ、実に思い切ったことを・・・」


俺は男爵の言う言葉の意味をしばらく理解できないでいた。


「え、えっと。それじゃあ、俺は」

「ヘンリー殿下は何も変わりませんぞ・・・いや、変わりますかな。大公家の跡継ぎはリチャード様のままです。大公家領は「名目上」はキャサリン公女と結婚なされる殿下に譲られます。実際は王家の直轄領になるということなのですか、それを表立って言うと、なにかと不都合が多いもので・・・」


えーと、その、つまり


俺は結婚する

王家直轄領が増える

国政に口出しできる待遇は変わらない


なんという幸運。なんというご都合主義。


「これも始祖ブリミルの思し召しか「違いますぞ」・・・違うのか」
「はい。違います」

俺が珍しく始祖に感謝したというのに・・・

「このたびの大公家領の取り扱いは、キャサリン公女の強い意向で行われたそうです」
「公女が?」
「はい」

エセックス曰く、大公は最初、俺を婿養子にするつもりだったらしい。その父の考えを、キャサリン公女は真っ向から否定した。

「大公領は国王陛下から下賜された、いわば借り物です。それを大公家が統治するのが困難になったのであれば、王家に返還するのが道理ではないですか?」

リチャード公子も(俺に家督をとられるのが気に食わないという感情もあったのか)この妹の意見に賛成したため、ついには大公も了承したらしい。大公親子(チャールズ・リチャード)は学者肌の人間。共に温和な性格で、領民から慕われる領主ではあったが、それだけだといえばそれだけ。むしろ煩わしい領地経営から開放され、学問に没頭できる環境なら、未練はないのだろう。

(生まれつきの貴族だからな)

貴族や王族は、自らの恵まれた境遇ゆえ、かえってその権限や財産にこだわらない場合がある。かつてブラジル皇帝ドン・ペドロ2世は、革命の際、帝政存続を行おうと思えば出来た状況でありながら「ブラジルに栄光と繁栄あれ」の一言を残して国を去った。自ら退くことによって祖国に血の雨が降ることを避けたのだ。日本では明治維新期の殿様達が、かつての家臣たちが行う「版籍奉還」や「廃藩置県」といった、自らの存在意義そのものを否定する改革にも抵抗することなく、甘んじてそれを受け入れた。

逆に、試験で他人を蹴落として上がってきた官僚は、自分で勝ち取った権限や権利を死んでも離さない。どこぞの天下り組織だの、官僚上がりの政治家だのを見てればよくわかる。王族や貴族が自らの権利や財産への執着を持たないがゆえに、結果的には国家に忠誠を尽くすことになり、仕えるべきはずの官僚が国家に仇を為す・・・なんとも皮肉な話だ。

もっとも、そんな高潔な王族や貴族ばかりなら、ヘンリーがこんなに苦労していないのも事実だが。



今から考えると、俺はこれからの事を考えることに没頭することで、いろんなことから目をそむけていたのだ。


胸に覚える小さな痛みを、忘れるために・・・





そして、キャサリン・ハロルド・ヨークとの顔合わせの日。

(か、可愛い!)



小さな痛み?アンリエッタやマリアンヌへの未練は、2つの月の間を抜けて飛び出し、ハルケギニアのお星様になった・・・


なんていうかもう、半端なく可愛い。流れるような金色の髪に、白い肌とのコントラスト。その知的な目はまるでラグドリアンの水の精の流す涙のごとく。白いシンプルなドレスが、彼女の美しさをいっそう際立たせている。ドレスの裾からのぞかせる磁器の様な白い腕、先端の細くて細いその指が動くと、周りの空気が音を奏で・・・

いつもの俺なら絶対言わない、恥ずかしい言葉も、今この瞬間の彼女になら捧げられる・・・


ヘンリーは体をかがめてキャサリン公女の手をとり、古の騎士の様なくどき文句を口にした




「あぁ、わが女神よ。貴方の名前をお聞かせください」






















「・・・なにやってるの高志」










・・・はい?










「しばらく会わないうちに・・・頭に虫でもわいたの?それとも正常運転なの?ま、どっちでもいいけどね」





・・・・えーと









「まさか・・・」

「そうよ。あんたの『元』女房の美香」
























「詐欺だあああぁぁぁ!!!」

「もういっぺん死んで生まれ変われええええ!!!!」


ヘンリー(高志)のアゴに、キャサリン(美香)のアッパーカットが綺麗にはまった。





妻・登場



[17077] 第8話「ブリミルの馬鹿野郎」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:b679932f
Date: 2010/10/06 18:17
始祖ブリミルよ。私は貴方を恨みます

「そんなもんわしにいわれても知るか!大体殆ど、おのれが引き起こしたことやないか!自分のケツぐらい自分でふきさらさんかい、このドアホ!」

・・・じゃあ神を恨みます

「あ?なんやと?お前がこの世界に転生させたって?それこそ筋違いじゃ!!わしは知らんぞ、管轄外や。文句垂れるなら、お前んとこの世界の神さんに言え!」

いまさらだけど、何故関西弁・・・

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ハルケギニア~俺と嫁と、時々息子~(ブリミルのバカ野郎)

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「う、うう・・・」
「あーもう!いつまでも泣いてるんじゃないの!            嬉しいのはわかるけど・・・」

「俺の純粋な気持ちが、俺の初恋が

ぎゅ~~~~

「そんな事いうのはこの口か?え?この口か!」
「ふぁ、ふぁなふぇェ!」(は、はなせぇ!)
「大体、初恋も何もも、貴方、前世で何人の女の子泣かせたのよ?!え?名前一人づつ上げていきましょうか?!」
「ふゃれはふぁれ、ふぉあえふぉろ」(それはそれ、これはこれ)


ぎゅううううう~~~~


「ふぁああああごだああええええええ~!!」(俺の純粋な告白を返せえええ!!!)

「このスケコマシの甲斐性無しがまだ言うかあぁぁ!!!」



・・・アルビオンは今日も平和だった(まる)





突如登場したこの女性については説明が要るだろう。大体大まかな関係は二人のやり取りでご理解いただけたと思うが、彼女-美香はヘンリー(高志)の前世での嫁である。二人の家は隣同士であり、幼稚園から小中高と同じ学校、同じクラスという腐れ縁・・・いわゆる「幼なじみ」っていうやつだ。

黙っていればなかなか可愛い顔をしてるのだが、これがまた喧嘩っ早い上に、口の悪いこと悪いこと・・・へたなヤ○ザ映画よりも汚い言葉で、食虫植物に近寄る虫のように、見かけに騙されて詰め寄る男子をばっさばっさと斬り捨て御免。ついたあだ名が「辻斬りの美香」

おまけに柔道の黒帯ときている。確か中学生の頃、美香にふられて逆恨みした馬鹿どもがバット片手に取り囲んだことがあった。女相手に情けない限りだが、取り囲まれた当人はというと。口元を「ニヤリ」とゆがめて

「正当防衛~♪」

明らかに過剰防衛です。ありがとうございます

人って、浮くんですね。勉強になりました


俺は俺で、こんな「オトコ女」にホの字になるわけもなく。互いに馬鹿やって笑いあう友達関係だったが、大学、社会人になると、お互いの生活もあって疎遠になった。


そんなある日。失恋してヤケ酒飲んで実家に帰った次の日、目が覚めるとそこには




「・・・責任とってよ」


・・・頭が真っ白になりました


「・・・来ないの」


・・・フリーズしました



人生の墓場直行・・・で、転生して、今に至ると


説明終わり!




顔を別人のように腫らしたヘンリーが、見事な正座をしている。その前に腰に手を当てて仁王立ちの『元嫁』。先ほどまでの胸の高まりはどこへやら。神は神でも、破壊神シヴァに見え・・・あ、あれは男か。まぁ、こいつは男女だからいいか・・・

「・・・何か不穏当なこと考えたでしょ?」
「そ、そんなことないって、うん!」

ジト~とした目を向けるキャサリン。ヘンリーは改めて彼女に隠し事は出来ないことを、身をもって思い知った。まあそれはともかく、今は彼女に対して確かめなければならないことが、尋ねたい事が山ほどある。転生というふざけた超常現象を経験したもの同士、ここは情報収集といこうじゃないか。

「美香、お前は」
「キャサリンって呼んで」
「・・・どこぞのキャバクラ嬢かお前は」

瞬間、顔を真っ赤にして(仮称)キャサリンは反論した。

「な、なによ!だってこっちに産まれたときから『キャサリン』って呼ばれてるんだもん!いまさら『美香』に戻れないわよ!高志だって、いまさら『高志』って呼ばれても困るでしょうが!」

それもそうですね。ところで恥ずかしがるのはいいんですが、空いてる手で私を殴らないでください。痛いんですけど

「私は心が痛いの!」

私は、リアルに、痛いん、ですけ、げぶ・・・



(仮称)キャサリン曰く。俺は前世でやっぱり「死んだ」ようだ。いわゆる「突然死」として処理されたらしい。

「それは何というか・・・世話かけたな」
「そうよ!起きたら死んでるんだもん、最初は悪いジョークかとおもったわよ。頭蹴っ飛ばしたり、鳩尾にパンチしたり、股間踏んづけたり・・・」

・・・

「それでも起きないから、『あぁ、死んじゃったんだ』って」
「それだけ?!なんかもっと外にないの?!」
「何言ってるのよ!それから大変だったのよ!救急車呼んで、警察に事情聞かれて、お葬式の手続きして・・・一週間は寝れなかったわ!その後も会社の人だの、学生時代の同級生だのがひっきりなしにやってくるし・・・そうそう!相続、相続よ!税務署の野郎が喪も明けないうちに「相続税のお話が」とか言いながらやってきてね?!少しは間空けて遠慮すりゃいいのに」

「そ、それで?」

「1回目はお茶かけてやったわ」

・・・め、眩暈が

「2回目はホースで水ぶっ掛けてやって、3回目は・・・」


・・・


「冗談よ」
「まったく冗談に聞こえないんですけど!?」
「私だって喧嘩売っていい場合と、少しあとで売ったほうがいい場合はわかるわよ」
「結局は売ったの?ねぇ、税務署と喧嘩したの?」
「ほら、税理士のおばさんいるでしょ、前橋のおばさん。あの人に助けてもらって。家は・・・」

あー、あー。何も聞こえなーい、何も聞こえなーい・・・



「じゃあ君は前世で天寿を全うしたのか?」
「そうなるのかしら?90歳でぼけちゃったから、後はよくわからないんだけど」

男は相手に死なれると落ち込んで早死にするという。女性は逆に清々するのか、元気で長生きすると・・・それにしても、長生きしたんだね・・・・・・何だ、この複雑な気分は。

「俺は死んでこっちの世界に、この「体」に転生したのは9歳のときなんだが、美『キャサリン』・・・キャサリンはいつからだ?」
「産まれてすぐね。赤ちゃんのときはつまらなかったわ・・・少なくとも15ぐらいまでは目立たないように、適当に合わせた対応をしてあげたの」
「十年以上もずっと演技してたのか?」
「ふっふっふ、演劇同好会元会長は伊達じゃないのよ?」

女は生まれ付いての女優ってか。そういえばこいつ高校でそんな事やってたな・・・ん?

「・・・そういや実際の年齢は90歳だったんだよな。今は110歳ぐらいか?ははッ!ほどんど妖怪(バキッ)・・・痛い・・・」

えーい、話が進まん・・・



(痴話喧嘩をすっとばしました)



「・・・なんか俺、生傷増えてない?」
「自業自得よ」

顔をオーク鬼のように張らしたヘンリー(?)が気になっていたことを尋ねる。

「なんか釈然としないが・・・そういえば「俺」に気づいたのはいつだ?」
「はっきりとした確信を持ったのは、面と向かいあった今だけどね。なんとなくそうじゃないかと思っていたわ」
「へぇ、どうして?」

「大声で『メイド萌えー』とか叫ぶ馬鹿は、あんたしか心当たり無いもの」

・・・くやしいが、全く反論できない

「それから舞踏会とかで貴方のこと観察してたんだけど、確信がもてなくて・・・」
「聞けばいいじゃないか?」
「違ってたらどうするのよ」

モ○ダー、貴方疲れてるのよ-間違いなく電波系扱いです

「でしょ?それで確認するためにいろいろ貴方のこと調べてたら、お父様・・・ヨーク大公ね。勘違いされちゃって」
「あぁ、それで今回の話になったのか」
「そう。国王も貴方に身を固めて欲しかったみたいだし、大公家ならちょうどいいとおもったんじゃない?お父様も、メイドメイドっていう変人だけど、手腕は手堅い貴方の事買ってたみたいだし」

・・・やっぱり変人扱いなんだ

「今度の大公家領の話だけど、美『キャサリン』・・・キャサリンが根回ししてくれたんだって?」
「そうよ」
「何でだ?俺が『高志』だっていう確信は無かったんだろう?」

その言葉に彼女は、思いもがけない返事を返してきた。

「たとえ貴方が何者でも、どっちにしろ何もしないとこの国は滅んでたわよ。『レコン・キスタ』でね。何もしないで死ぬなら、何か残して死んだほうがいいわ」

「?!」

「あらら、思ったことがすぐ顔に出るところは相変わらずなのね。覚えてないの?・・・まぁ無理も無いか。貴方、死んだ日に『ゼロの使い魔』を枕の下に敷いたまま寝てたのよ?」
「うっわ・・・めっちゃ恥ずかしい死に方じゃん・・・」

頭を抱えるヘンリー。

「恥ずかしいのはこっちよ!葬儀屋さんとか、鑑識の人とか、すっごい変な顔してたんだから」
「わ、悪い・・・そ、それでお前も読んだのか?」
「そうよ。馬鹿亭主が人生の最後に読んだ本はどんなものなのかってね。流し読みだから良く覚えてないけど、大体の時系列は覚えているわよ」

そ、そうか

「まぁまぁね」

・・・?

「好きな女を守るため、7万の敵に一人切り込む・・・かっこいいじゃない!」


嬉々として語る女房を前に、ヘンリーはこっそり安堵のため息をついた。この分なら俺がアンリエッタのお父ちゃんになるかもしれない可能性には、気がついていないのだろう。

もし、美・・・キャサリンがその事実を知ったらと思うと・・・


「怖い・・・」
「何が?」

何でもない、ないよ?!



「なにはともあれ助かったよ、これで少しは楽になる」

ヨーク大公家領は、交通の要所であり、軍事上の要所である大都市プリマスを抱えている。大陸にも近く、各国の情報を集めやすい。またペンウィズ半島は、アルビオン屈指の穀倉地帯でもあるのだ。

「もうけ、もうけ♪」

うっしっしと嫌な笑い方をするヘンリーに、キャサリンはジトっとした視線を向ける。

「・・・お父さまとお兄様、ちゃんと面倒見てくれるんでしょうね」
「心配するな。俺もそこまで白状じゃない。最低でも領主時代の生活費と研究費は保証するさ」
「そう、ならいいんだけど・・・」
「ともかく助かった!ありがとうな」
「礼なんかいらないわよ。これも私が生き残るため。逆賊には刺し殺されたくないからね・・・最後まで戦い散っていく騎士を見送る悲劇の婦人っていうのもいいけど」

そのあまりに彼女に似つかわしくない言葉にヘンリーは笑って答えた。

「はははッ!君なら後ろで待ってないで、先陣切って敵軍に殴りかかるだろ『殿下!そろそろ』・・・おう!もうそんな時間か。悪いなキャサリン、これから農業局との打ち合わせがあるんだ」

王立魔法研究所農業局は、名目上の責任者はいるが、実際にはヘンリーが責任者である。定期的な研究報告や査察は欠かすことが出来ないのだ。キャサリンは腰を浮かせたヘンリーにむかって手をしっしっと振った。

「あー、私に気を使わなくていいから。いまさら気を使われるとかえって気持ち悪いし。早く行って、稼いで、私を楽させなさい」

あぁ、懐かしいなぁこの感じ。打てば響く軽口のやり取りが心地いい。

「なんだぁ?!それじゃあ前世と代わらないじゃないか?」
「そうよ!私と貴方はここでも「夫婦」になるんだからね?」
「はいはい・・・『殿下!』・・・今行く!まったく、融通の聞かん奴だ」


10年ぶりにあった美香は、何にも変わっていなかった。曲がったことが大嫌いで、泣き虫で、単純で、そのくせ妙なところで勘がいい、意地っ張りで、そして


「上司にきちんと意見できるのは、優秀ってことよ」


誰よりも優しい-俺の女房


「違いない」





じゃ、あとでな

うん、またね





部屋を出てしばらくしてから、エセックス男爵はヘンリーに尋ねた。

「殿下、ずいぶんと、その・・・盛り上がっておられましたな」
「爺さん、やっぱり聞こえてた?」
「ええ。何をおっしゃているのかまでは聞こえませんでしたが、ずいぶんお二方の声が弾んでおられたので・・・もしや殿下はキャサリン公女とお知り合いでしたか?」

んー、そうだな・・・

「そうとも言えなくないな」
「と、いいますと?」

ヘンリーはさも愉快だという表情を隠さずに言う。

「腐れ縁だ、腐れ縁!」

エセックス男爵はヘンリーの言葉の真意がわかりかねたが、主人の機嫌がいいのでそれでよしとする。元々ヘンリーが今回の話に乗り気ではなかったことを知る男爵は、今回の初顔合わせが事実上この話成否を決めるとあって気が気でなかったのだが、どうやらお二人は波長が合われたようだ。

(まぁ、仲がよろしい事にこした事はないしの・・・)



出された紅茶はすでに冷めていた。祭りの後の静けさ-先ほどまでの男女による馬鹿騒ぎとは打って変わり、部屋には物寂しいとも思える、静かな時間が流れている。

キャサリンは一人、ヘンリーの帰りを待つ。



「・・・これでいいのよ。これで・・・」



その呟きを聞いたものは、誰もいない





[17077] 第9話「馬鹿と天才は紙一重」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:b679932f
Date: 2010/10/06 18:22
あ、こ、こんにちは!私、ヘンリー殿下のメイド長をやらせてもらっているミリーと申します。

私が仕えるヘンリー殿下は、少し変わった所のあるお方ですが(『モエ』っていったい何なんでしょう?)とっても優しい人なんです。その殿下が昨年結婚なされました。お相手はヨーク大公家のキャサリン様。とっても綺麗な方なんです。お二人は出合った時から、それこそ何年も付き合った夫婦のように息が合っているんですよ?

私も結婚したら、あんな夫婦になりたいな~

「・・・ミリー、紅茶はまだか」

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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(馬鹿と天才は紙一重)

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「いやー、王子はお強いですな」
「ははは、たまたまですよ」

ハヴィランド宮殿の一室で、2人の男性がチェス盤を挟んで向かい合っている。

一人はヘンリー・テューダー。アルビオン王国の第2王子だ。昨年末、ヨーク大公家のキャサリン公女と結婚したばかりの新婚ホヤホヤでありながら、頬が緩む様子も、うきうき弾んだ感じもまるでなく、熟年夫婦のような空気を漂わせている-宮廷ではもっぱら話のネタになっているが、噂というのは本人の周りだけを器用によけて広がるものだ。

もう一人は、きれいに禿げ上がった頭を手のひらで撫でながらがっはっはと豪快に笑っている。口を開けて笑うことは卑しいこととされているが、彼に言わせると「笑いに下品も上品もあるか」。

ウィリアム・ぺティ・シェルバーン伯爵。アルビオン王国財務省に勤務する財務官である。まだ40代前半でありながら、頭はツルピカだ。もっともそれはどこかの魔法学院の校長から後継者とみなされる教師とは違い、自分でそり上げたのだが。その理由が「朝髪を弄繰り回す時間があったら、何枚の書類が決済できるか」というワーカーホリック的な理由なのが笑える。

ヘンリーとシェルバーンは、互いにチェス盤から目を離すことはない。その様子は、昼真っから仕事をサボってカフェでふけ込む不良中年にしか見えない。だが、2人が使うチェス盤や駒が、職人が一つ一つ、石から削り出した特注品であることに気づけば、彼らがただの不良中年と暇な学生でないことがわかるだろう。

黒のナイトを持ち上げながら、シェルバーンは口を開く。

「この度、財務卿に昇格する事になりましてな」

内容の重大さに比べ、その声はまるで「紅茶のお変わりを」と頼むような気安さがあった。


現在の財務卿であるウィルミントン伯爵スペンサー・コンプトン卿が、持病の喘息悪化のため、近日中にも辞職するであろうという事は、衆目が一致するところである。いつの時代も(たとえそれが異世界であっても)人事というのは人の耳目を集める。それが自らの出世や仕事に関わるとなればなおさらだ。ましてや1国の財務卿ともなれば-下は下町の酒場から、上は大公家の当主まで、気にならないわけがない。

後任人事が噂される中で、財務官のシェルバーンも有力候補の一人であった。彼の傍若無人ともいえる言動-特に「10メイル離れていても居場所がわかる」というその特徴的な笑い方に眉をひそめるものは多い。だがその実務能力の高さは、誰もが認めざるを得ない。その彼が実際に財務卿に昇格する人事が内定した事を知るものは、宮廷内でも限られている。

「それはおめでとうございます」

そしてヘンリーは、その数少ない後任人事を知る者の一人であった。当然、その顔には驚きの色などない。妻の様な芝居は、自分には出来ないと開き直っているからでもある。

シェルバーン伯爵は暇ではない。むしろ今が1番忙しい時期だ。任命式の打ち合わせや、前任者であるウィルミントン伯爵から、現在の仕事の進捗状況の説明を受け、財務官の引継ぎ作業etc。だが今ここで第2王子とチェスをする-より正確に言えば、彼の意向を確かめる事は、他の何を差し置いても重要であるとシェルバーンは考えていた。

ウィルミントン伯爵は「この人事はスラックトン宰相の推薦」と言っていたが、宮廷の情勢に疎い老伯爵の話を、そのまま信じるわけには行かない。第一、自分は宰相と直接話した事もないのだ。勘のいい者であれば、スラックトン宰相が(よほど注意していないと気が付かない、些細なものではあったが)これまでの事なかれ主義的な対応とは違った行動をしている事に気がつくはずである。シェルバーンは、その理由がこの第2王子にあると考えている。彼は、宰相の変化は、彼が発案したとされる専売所の設置を前後に起ったと見ていた。

宮廷内の、ヘンリー王子への大方の評価は「ちょっと変わったところのあるお方」。そもそも次の国王になることが確実なジェームズ皇太子と違い、第2王子の言動に注目するものは少ない。第2王子についてあれこれ観察する暇があったら、皇太子の覚えを少しでもよくするほうに努力したほうがいいと考えているのだ。(あの堅物皇太子に、ゴマすりが聞くと未だに考えている時点で、彼らの目のなさがわかる)

財務省の中では第2王子の評価は高い。何せ恒常的に財源不足に悩まされ、目を血走らせながら収支計算に取り組む彼らに、専売制という魔法の様な方法で税収増をもたらしたのだ。最初こそ「王子の道楽」「迷惑極まりない」と酷評に近いものがあっただけに、その反動もあってか、この王子に対して、敬意を通り越し、殆どあこがれの様な気持ちを持つものもいるくらいだ。

シェルバーン自身は王子に対して、一歩引いた姿勢であった。専売所にしても、巷間で言われるように王子自身が考え出したとはどうしても思えなかったのだ(ある意味でそれは当たっている)。誰か頭の回る側近がいて、自分の利益になるように王子に吹き込んでいるのではないかと、彼はそう考えていた。

だが最近ではその考えも揺らぎつつある。同じく第2王子が主導したとされる官僚養成学校や王立魔法研究所での農業研究・・・そのいずれもが斬新な発想でありながら、実に手堅い手法で進められている。

(天才っていうのは、いるもんだね・・・)

馬鹿と天才は紙一重という。ならば王子の変な行動(突然「モエ」なる奇怪な言葉を叫んだり、メイド服に異様な執着を見せるらしい。あくまで噂だが)にも説明が付く・・・


シェルバーンはけっこう失礼な男だった。




「何故私なのですか?」

回りくどい言い回しは苦手だ。そもそも、何百桁もの暗算や、膨大な書類の中から意図的な数字のごまかしを見つける作業ならともかく、自分は駆け引きや交渉ごとには向いていない。シェルバーンは自分をそう分析していた。その自分が財務監査官ではなく、なぜ財務卿なのか?

いきなり本題をたずねたシェルバーンに、ヘンリー王子が始めて顔を上げた。

(・・・どうみてもケツの青い、くちばしの黄色いガキにしか見えん)

シェルバーンはかなり失礼な男だった。

実際、きちんとした服を着ていなければ、王子の顔は、少し小奇麗なだけの、どこにでもいる青年にしかみえない。目の前の人物が、専売所という、増税をしない魔法の様な方法で、何百年ぶりかの大幅な税収増を王国にもたらした人物だといわれて、どうして信じられよう?こちらのぶしつけな質問に、王子はどうしたものかとあごを撫でて苦笑している。うるさい者がいれば、シェルバーンの対応は「不敬だ!」とがなり立てるに違いない。肝心の王子がこちらの対応を面白そうにして受け入れているのだから「不敬罪」が成立するはずもないのに。

(大体自分が不敬罪なら、国中の殆どの貴族が縛り首だな)

らちもないことを考えるシェルバーンに、苦笑したまま王子が口を開く。

「直球だね。ま、隠してもしょうがないから言うけど・・・伯爵が言うように、財務卿への昇格を提案したのは、この僕だ」

(やはり・・・)

そこまではシェルバーンの予想通りであった。宰相と第2王子との間に何があったかは知らないが、両者は思った以上の強い連携関係にあるようである。もっとも彼自身にとってはさしたる驚きではなかった。何があってもおかしくないのが「宮廷」という場所である。

だからというわけではないが、次の王子の言葉に、シェルバーンが感じたのは「驚き」ではなく「疑問」であった。

「君は『貴族戸籍』をあつかってたね?」

貴族戸籍とは通称で、正確にはもっと長くて舌を噛みそうな名前である。管理責任者のシェルバーンですら、その正式な名前は知らない。そもそも貴族の領地は、国王が貴族に土地を与え、貴族が国王に仕えるという「御恩と奉公」の関係である。領地が事実上、貴族の私有地であっても、アルビオン国内のすべての土地は、建前上「アルビオン国王」のものということになっている。

国家には正当性が必要である。特に王政の場合、何故その王家が国を治める資格があるのかということは非常に重要だ。絶対王政化を進める欧州各国で、王権神授説(神から国の支配を許された)という、一見すると電波系とも思える思想がもてはやされたのは、それが正当性を主張するうえで都合がよかったからだ。(なにせ欧州の王家は、何度も断絶したり没落したりということを繰り返していたから)国家支配の正当性に疑問がつけば、それがクーデターや反国王勢力に利用されかねない。

アルビオン王国初代国王のアーサーは、父である始祖ブリミルからこの地を治めるようにと指示され、ハルケギニア大陸からこの地に渡った。「始祖から国の支配を許された」からこそ、アーサーの子孫(アルビオン王家)は王家でいられるのだ。ガリアの傀儡であったオリヴァー・クロムウェルが組織した「レコン・キスタ」。彼らは反乱の正当性を主張するために「現王家は堕落して始祖ブリミルの寵愛を失った」とした。自分は「新たに始祖から啓示を受けた」、だからこそ「虚無を使える(実際にはアンドバリの指輪の効果)」のだと。

そしてアルビオン王家はニューカッスルに滅んだ。

レコン・キスタ壊滅後、トリステインとゲルマニアの共同統治下に置かれたアルビオンだが、「将来的に始祖の血を引くもの」を王に復活させるという文言は、こうした経緯がある。なによりアルビオンは始祖が初めてハルケギニアに降り立った地とされるサウスゴータを抱えている。始祖の血を引かないものが王に即位しても、正当性に疑問がつく。それでは「レコン・キスタ」の残党に付け入る隙を与えかねない―各国はそう考えたのだろうとヘンリーは見ていた。


話がずれたが-貴族は家督相続のたびにロンディニウムに赴く。国王は領土を相続する許可を与え、貴族は国王に杖の忠誠を誓う。その時に必要となるのが『貴族戸籍』である。その内容は、代々その家が王家につかえてからの歴史に始まり、どこそこの領地を、いつ、どこで、誰から与えられ、今どれだけ保有しているかといったことが書かれている。国王はそれに従い、新しい家督相続者の「忠誠の誓い」と引き換えに、領土を相続することを、始祖ブリミルに代わって許すのだ。

もっとも今では「忠誠の誓い」も形骸化して久しい。自分の領土が「アルビオン国王」から、何より「始祖ブリミル」から与えられたものだと自覚している貴族が、いったい何人存在するのか?財務官として他に多くの仕事を抱えていたシェルバーンにとって、形骸化した領地相続に関わる『貴族戸籍』の管理は、対した重要性を持っていなかった。

「確かに、自分はそれを担当していました。ですが」
「あー、そうだね。説明しないとわからないよね」

そういうと王子はチェス盤から駒を退かせる。

(俺のほうが有利だったのに・・・)

シェルバーンは白黒はっきりさせないと気がすまない性格であった。

一度すべて退かせたチェス盤に、今度はランダムに白と黒の駒を置いて行く。王子の意図がわからず、駒の場所や色をじっと見ていたが、そこには何の規則性もなかった。困惑の色を深めるシェルバーンに、ヘンリーは視線を合わせる。そこには先ほどまでのおちゃらけた空気はなかった。


「これが今のアルビオンの現状だ」

「・・・そうですな」

今更言われるまでもない事だ。

建国当時のアルビオン王国は、空中国土という極めて特殊な土地柄ゆえ、人口が極端に少なかった。初代国王アーサー(始祖ブリミルの子供の一人)は、ハルケギニア大陸からの移民を推進すると同時に、部下に一定区画の土地を与え、積極的開墾を促した。そのためブリミル暦1000年代には、アルビオンには平均で3つから4つの村落を領有する貴族と、国土の4割を支配する飛び抜けた大地主の国王という、一定の秩序が出来上がった。

けちの付き始めが、コーンウォール大公家での家督相続問題に端を発する「アルフレッド・コーンウォールの乱」である。次男が家督を相続したことに怒った長男のアルフレッドが、父ヘンリーと弟ジェームズを殺害。王家に反旗を翻したのだ。当時コーンウォール大公家は王家に継ぐ広い領地を保有していた。折悪しく、アルビオンは10年続いた飢饉の最中にあり、反乱は不平平民や王家に反感を持つ貴族を糾合して、空中国土を2分する内乱にまで発展する。

ブリミル暦1234年に始まったこの内乱は、西フランク王国(現在のガリア王国)の干渉もあって10年間の永きにわたって続き、ただでさえ貧しい空中国土を疲弊させた。また西フランクの干渉は、それに反発したトリステイン・東フランク王国と、西フランク王国の間で第2次大陸戦争(1236-1301)のきっかけともなった。

1大公家の家督相続が、ハルケギニア全土に広がる騒乱を引き起こしたのだ。内乱終結後、その事実と、他国の干渉を重く見たアルビオン政府は、一つの布告を出す。

『家督相続の際には、その家財に関して分割相続を基本とする』

家督を相続するものがすべてを独占する現状を緩和すれば、家督相続時の争いがなくなるだろうという考えであったが、それが違う問題を引き起こすことになると想像したものは誰もいなかった。当時の担当者を責めるのは酷である。(ムカつくのはどうしようもないが・・・)

分割相続といっても、現物財産を持っている貴族は少ない。そのため領地を分割して与える、土地の分割相続という事態が発生した。当然相続のたびに、代々の領地は砕けたビスケットのように小さくなっていく。「これ以上分けると領地経営が成り立たない」と誰もが気づいたのがブリミル暦4000年頃。分割相続の伝統はアルビオンから消え-残されたものは、粉々に砕けた領地。それでも多くの貴族は歯を食いしばって、狭い領地でぎりぎりの経営を続けていた。

そこに止めといわんばかりの大飢饉が-ブリミル暦4500年に発生した「小麦飢饉」だ。これは「開放王」エドワード3世がアルビオンの小麦と比べて粒の大きいトリステインの小麦を輸入し、全土に広めたことが原因である。最初こそ、輸入小麦は収穫量の増大をもたらしたが、この小麦がアルビオンにだけ生息する害虫によって、壊滅的な被害を受けたのだ。免疫のあるアルビオン小麦が全土に復活するまで、優に20年の時間がかかった。農民一揆-魔法が使える貴族に平民が反乱を起こすという、ハルケギニアの常識では考えられない社会現象が幾度となく繰り返され、10万人の餓死者と、40万の犠牲者が発生した。

領地経営どころの騒ぎではなく、多くの貴族が没落していった。

一方で、比較的裕福な大貴族-中の大、大の小クラスの貴族は、放棄された土地を二足三文で買いあさり、アルビオンに王家と並ぶ「大貴族」が発生した。彼らは、ちょうど豆まきした後の豆が散らばったような、あちこちに出来た耕作放棄地を片っ端から買い集めた。

そのため、今のアルビオンの貴族領地の境目は、それこそ無秩序ともいえるほどのひどい状況である。一つの村の中に境界があるのはまだ可愛いほう。教会の中に4つの境界が通るという、わけのわからない状況もあるくらいだ。


そう。ちょうど王子がランダムに駒を置いた、このチェス盤のように・・・


「これをね・・・こうして欲しいんだ」


そう言いながら、王子が駒を動かし始める。その意図を探るようにチェス盤を見ていたシェルバーンだが、駒の置き直しが意味するところを察すると、次第に顔から血の気が引いた。


(な、何を・・・いや、これが何を意味するのかわかっているのか?)


シェルバーンに構うことなく、王子は次々と駒を置き直していく。最後の駒がチェス盤の上に再び置かれた時、伯爵は息を呑んだ。

「・・・・ッ!」
「ほう、さすがだな伯爵。この謎かけがわかるとは」


・・・前言を撤回しよう。このガキは間違いなくイカレている。そうでなきゃ、こんなとんでもない、現実を無視した荒唐無稽な事を思いつくわけがない。


「君にはこの仕事をやってもらいたい」



チェス盤の上には白と黒、2つ駒の塊を取り囲むように、ばらけた駒が数個おかれていた





[17077] 第10話「育ての親の顔が見てみたい」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:b679932f
Date: 2010/10/06 18:25
悲劇の○○というフレーズ。悲劇の政治家、悲劇の武将、悲劇のスポーツ選手、悲劇の画家・・・およそ職業と名のつくものを空欄に入れれば、みんな大好きお涙ちょうだいの物語が出来上がる。

もっとも、その内容は職業によって大きく変わる。

画家や彫刻家などの芸術関係なら、それは死後に評価されたということ。

スポーツ選手であれば、体の故障や不慮の事故などで現役続行ができなくなっている。「あの時出てれば」「あの時○○がいれば」と言われて終るか、新しく第2の人生を始めるか。

武将の場合。十中八九、戦死。悪ければ一家全滅でお家断絶。桜は散るから美しいのだ。自分は散りたくないけど、人のを見るのは気が楽だ。

政治家の場合。志半ばで暗殺されたり、失脚した政治家を「もし彼があの時」と持ち上げ、その構想力をたたえる。そして「時代に翻弄された」とか「一度首相をやらせたかった」とかいうフレーズをつければ、もう言うことなし。

政治は結果責任。負け犬のありもしない未来をああだこうだといっても始まらない。だが「なぜ失敗したのか」を考える上で、彼らの人生は参考になる。ぼやく名誉監督いわく「負けに不思議の負けなし」なのだ。

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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(育ての親の顔が見て見たい)

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江戸時代がもうすぐ幕を閉じようとしていた天保十年(1839)、江戸幕府の老中首座(事実上の首相)に一人の男が就任した。男の名は水野忠邦-のちに江戸幕府最後の抜本的改革と言われた「天保の改革」を推し進めた人物である。彼はこれまでの改革(享保・寛政の改革)と同じように緊縮財政による財政再建を目指した。だが水野がこれまでの江戸幕府の将軍や老中たちと大きく異なったのは、「国防」を主眼に置いたことである。

この時期、日本各地に外国船が来航し、日本に対して通商を求める動きが続いた。15世紀中頃の大航海時代から続いた、西欧列強の進出が、ついに極東の地・日本にも及んだのだ。そしてなによりアヘン戦争(1840)で清国がイギリスに敗れたという事実。この時代の人間が受けた衝撃は、今からはとても想像できない。なにせ清=中国は、古くは倭の五王の時代から、遣唐使に律令体制の導入、元寇、朝鮮出兵と、長く日本のお手本であると同時に、最大の仮想敵国でもあったのだ。

その東アジア世界の中心だった清が敗れた-水野は震撼した。

相次ぐ外国船の来航。「次は日本」、誰もがその可能性を考えたが、どうしたらいいかわからなかった。水野は国を挙げての海防体制が急務と考えた。彼は老中として幕府の中央集権化を進め、幕府のイニシアチブの下、強力な挙国一致体制を作り上げて、海外と対抗しようとした。

しかし、水野は失敗した。

彼には経済問題のブレーンが存在しなかった。朱子学的な経済政策(緊縮財政・倹約第1・金儲けは悪)から抜け出せなかった。物価下落を狙って株仲間(同業者組合=ギルド)を廃止したが、財政不足を補うために行った貨幣の改鋳が悪性インフレとなり、逆に物価の高騰を引き起こした。不況への不満は時の政権に向かう。緊縮財政による不況-「倹約・倹約」と馬鹿の一つ覚えのように繰り返される標語は、江戸庶民の反感を買った。

経済失政に加え、彼を追い詰めたのは「上知令(あげちれい)」である。

将来、日本にも外国が攻めてきた場合、政治の中心である江戸と、商売の中心である大阪は、何としても守らなければならない。ところが両都市の周辺十里四方(1里は約4キロ、10里は40キロ)は、幕府領(天領)、大名領、旗本領が複雑に入り組んでおり、緊急事態が発生した際、だれが指揮をとるのかはっきりしていなかった。

そこで水野は、大名・旗本に十里四方に該当する領地を幕府に返上させ、かわりに、大名・旗本の本領の付近で替え地を与えるという命令を出す。これが「上知令」だ。そして江戸・大坂周辺を幕府が一元的に管理する方針を固めようとした。

だが、江戸・大阪周辺に領土を持つ大名や旗本は、実入りのいい領地を手放すことを嫌ってこれに反対運動を起こした。同じく領地の移転を余儀なくされる次席老中土井利位を担いで、御三家の紀伊も味方にして反対運動を展開。また領地移動を命じた三藩(庄内藩・長岡藩・川越藩)が移封を拒否したことが、止めとなった。結果「上知令」は全面撤回に追い込まれ、水野は失脚。一度出した人事移動命令を撤回したことにより、中央政府としての幕府の権威は失墜した。


以後、幕府で抜本改革は行われることはなく、明治維新を迎える・・・


***

シェルバーン伯は、目の前に座る第2王子を睨み付けていた。殺気を含む物騒な視線を向けられながら、ヘンリーにひるむ様子はない。鈍感なのか、肝が据わっているのか。それともただの馬鹿か。

「殿下・・・」

恐ろしいほどに冷たい声-豪快な性格は表面上のものか。見た目や言動通りの大雑把であっては財務省の官僚は勤まるものではない。繊細にして緻密な完璧主義者-それがシェルバーンの持ち味である。見た目とのギャップがありすぎて、よくわからない。

「貴方は、これが意味することをわかっているのですか?」

シェルバーン伯は、王子が置きなおしたチェス盤を指差す。白と黒の駒が無秩序におかれていたのを、王子は白と黒の2つにわけ、キングを中心に周りを円形に隙間なく取り囲ませた。少し離れて、いつくかナイト(騎士)とポーン(兵士)がパラパラと置かれている。

「無論だ。だから伯爵にやってもらいたいと言っている」

ギリッっとシェルバーンは奥歯をかみ締めた。予想はしていたが、目の前のクソガキは、これ(チェス盤)が意味することが解っている。解った上で、どう反応するか、この俺を試しているのだ。

シェルバーンは自分の仕事に誇りを持っている。面接試験で「算術が得意だから」と見栄を張ったのが災いして財務省に配属されてから以後20数年間、数字とにらめっこの毎日だ。おかげで大嫌いだった算術も得意になった。それほど人に自慢できる人生ではないが、少なくとも自分の半分しか生きていないガキに馬鹿にされるほど、安い人生は送っていないと言い切れるだけの仕事をしてきたという自負がある。

試されている状況は、反吐が出るほど腹が立つが、何も答えないのは「私は知ったかぶりの無能です」と主張するようなもの。それに、このガキが俺に提示した謎かけは、それなりに-いや、かなり凝った物だ。それがまた彼の神経を逆なでる。自分の半分しか生きていないガキと、自分が同じレベルで話している事実が、シェルバーンを苛立たせた。おまけに(今に限って言えば)会話の主導権はその子供にあるのだ。

(この年になって面接を受ける日が来るとはな・・・)

シェルバーンは「面接官」に向かって、口を開いた

「・・・王都といくつかの重要都市周辺を王家の直轄領に、一方で全土に散らばる大貴族の領土は一箇所に集めて領地経営を効率化させる」

にっ!

「まぁ、合格だな」

歯を見せて笑う王子に、シェルバーンは怒りを通り越してあきれた。



チェス盤を使った謎掛けは、「上知令」という政策を視覚化するために、ヘンリーが四苦八苦して考え出した方法である。

何故「上知令」なのか

ヘンリーは、アルビオンの細分化した領土が入り組む状況が、江戸時代の日本にかぶって見えた。行政の最小単位である貴族の領土が細分化したことで、小さな貴族はその行政コストに耐えかね破産寸前である。大貴族といえども、全国各地に領地が散らばっている現状は、経営コストが高くつき、家計を圧迫していた。今は大丈夫でも、中長期的に見れば行き詰ることは明らかである。本来、王家を中心とした中央集権化を目指すなら廃藩置県-アルビオンの場合なら、貴族の領土を取り上げ、全土を王家の直轄地にする。その後は州や県を設置し、中央から官僚を送り込む-が出来れば一番望ましい。

しかしながら、今軽々にそんなことを口に出せば、アルビオン国内の混乱は「レコン・キスタ」どころの騒ぎでは済まない。日本の廃藩置県の場合は、大藩から小藩まで殆どの藩が財政危機であり、単独では経営が成り立たないという事情があった。一方のアルビオンは、小規模経営の貴族こそ青息吐息だが、大貴族に関しては(コストは多少かかるが)まだ領地経営に深刻な危機を覚えるレベルではない。

空軍や竜騎士隊の軍事力を背景に無理やり廃藩置県を強行-出来ないことはないかもしれないが、一体どれほどの血が空中国土に流されるか・・・それを考えれば、とても取りうる手段ではない。

(なら間を取ればいい)

それが「上知令」-封建体制の幕藩体制よりあと、明治政府の中央集権政権よりは前の政策である。貴族の領土は残される上知令では、完全な中央集権化は望めない。だが、過渡期の政策としては十分である。第一、今無理やり領地を取り上げたとしても、それを経営する官僚が、まだ十分に育っていないのだ。

最終的には貴族から土地を取り上げるのが目標だとしても、わざわざそれを教えてやることもない。まずは一歩踏み出すことだ。官僚の育つのを待ってじっくり中央集権化を進めればいい。それこそ真綿で首を絞めるように・・・


無論、失敗した政策をそのまま行う馬鹿は居ない。ここでいう「上知令」はヘンリーが独自にアレンジしたものである。


例えば


「り、領地を取り上げるですとお!!」

シェルバーンは思わず素っ頓狂な声を上げた。ヘンリーは「まぁまぁ」と手で押さえながら

「取り上げるんじゃないよ。ヨーク大公家のように、王家に領地を寄進させるんだ」
「そ、それはただの言い換えです!」
「じゃあシェルバーン伯、聞くがね。このまま、数百メイル四方程度の土地しか持っていない貴族の領地経営が、これからずっと成立していくと思うのかね?」
「そ、それは・・・」

目端の利くものであれば、やたらめったな開墾の出来ないアルビオンで小規模の領地しか持たない貴族が、早晩行き詰ることは明白であった。『貴族戸籍』を管理していたシェルバーンは、現実を痛いほど痛感している。

「何も無理に国庫に返還させるわけではない。それに領地を寄進した貴族には、爵位に応じて年金も支給するしね」

ヘンリーはまず、アルビオン国内の貴族の過半数を占める、数百メイル四方以下の貴族に目をつけた。経営の苦しい彼らに、「年金」というエサをぶらさげ、もはや経営の成り立たない領地を寄進させるのだ。貧乏貴族からすれば、どう考えても明るい展望のもてない領地経営より、首都ロンディニウムでの年金暮らしのほうがいいに決まっている。第一、あのヨーク大公家ですら、領地を国土に寄進したのだ。自分達が領地を王家に差し出しても後ろ指を差されることはない・・・

(まさか大公家の領地返還が、こんなところで役に立つとはね・・・)

ヘンリーはキャサリンに感謝した。

羊を二足三文で全土からかき集めたのと、同じ手段だ。羊は少数では利益が出にくく、領地も小規模経営だと、コストばかりが掛かる。


題して「ちりも積もれば山となる作戦」パート2


片っ端からそういった貴族に声を掛ければ、その領土はヨーク大公家領3つ分ぐらいにはなる。領地を一箇所に集めれば、行政コストを抑えることが出来るし、貴族年金を払っても十分お釣りが出る。


そのお釣りを使って


「大貴族は反対しますぞ。それほど領地経営に困っているわけではありませんし」
「なら領地を増やしてやればいい」
「はぁ?」

大貴族が領地の集積化に反対するのは、「自分の領地に口出しするな」というつまらないプライドか、「先祖代々開拓した土地を人にやれるか」という意地である。なら札束で横っ面をひっぱたいてやればいい。水野忠邦のように高度な政治的目標を理解させるのは難しいが、お金で理解させることはたやすい。(上品なやり方ではないが)

「貴族年金を払える分を最低限国庫に残すとしてだ、のこりは一人で領地経営を続けるという選択をした貴族どもにくれてやればいい」
「し、しかし・・・」
「領地も増えるし経営コストも下がるとやつらは喜ぶだろう」


シェルバーンには最早、目の前の青年を「ケツの青い、くちばしの黄色いガキ」と侮ることは出来なかった。


「大貴族とはいえ、その領地の広さはたかが知れている。100年もすれば行き詰るだろうしな。泣きついてくればそれでよし。その時になってもまだ領地経営にこだわるなら、無理やり召し上げるだけだ。その時になれば、もはや大貴族といえども恐るるに足らん・・・」


この駒のようにね


そうつぶやいたヘンリー王子は、ばらけて置いた駒の一つを指で弾き、にやりと笑った。


その笑顔にシェルバーンは寒気を覚えた。彼はただただ、圧倒されていた。これは決して机上の空論などではない。一体誰に、どんな教育を受ければ、これだけ決め細やかで、根性ババ色な政策を考えられるのか・・・



ふ ぇ っ く し ゃ い ! 


「エセックス男爵、風邪ですか?」
「(ズズズッ)最近冷えるからの・・・」



(こりゃ、スラックトンの爺さんと話が合うわけだ・・・)

シェルバーンは掴みどころのない宰相の顔を思い浮かべ、ため息をついた。もはや声を上げる気力ですら、残っているかどうか疑わしかった。

「だから私なのですね・・・」
「そうだ。『貴族戸籍』を管理していた伯爵なら、貴族の領地について詳しいだろうしね。どこの土地が狙い目だとか、どこの子爵家は貧乏だからすぐに飛びつくだろうとか・・・もう何人かは具体的な顔も浮かんでいるんじゃないか?」
「あはは・・・」

シェルバーンは乾いた笑みを浮かべた。


「しかし殿下。その、『あげーちれー』ですか。実際にやるとなると、相当な反発が」
「さっきの僕の話を聞いていなかったのかい?」
「・・・?」


「すぐに全部やる必要はないんだ。長期的目標を立てたら、あとはじっくり、ゆっくり、コツコツと。題して・・・」







『国土改造100年計画』







今度こそ、シェルバーンは開いた口がふさがらなかった・・・



[17077] 第11話「蛙の子は蛙」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:71b89978
Date: 2010/10/06 18:31
地図で見ると、ハルケギニア大陸はスカンジナビア半島がないとか、イベリア半島に当たる部分がやたらに細いとか、イタリア半島に当たるアウソーニャ半島が太いとかいう細かな違いはあるが、欧州大陸と共通点が多い。

地球で言うとイギリスに当たるアルビオンの国土は、グレートブリテン島を15度ぐらい左に傾けたような形で、ハルケギニアの空に浮かんでいる。アルビオンのペンウィズ半島は実際のグレートブリテン島にあるペンウィズ半島と同じ場所にあり、南西部に飛び出している。アルビオンのペンウィズ半島には3本の大河(俗に三公爵と言われる)が流れており、川のもたらす豊富な水が、この半島を国内有数の穀倉地帯にしている。

プリマスから10リーグ(約10キロ)に位置するある村は、「三公爵」の一つ、ダブリン川の支流の川べりに位置している人口80人程度の小さな寒村である。

その寒村の村はずれに、一人の老人が住んでいた。

老人は手先が器用で、村では修理屋として重宝されていた。老人は老人で、こういったタイプに多い頑固で偏屈なタイプではなく、むしろいつまでも子供っぽいところのある性格で、子供におもちゃを作ってあげたりして、楽しく暮らしていた。

老人は「水車番」であった。村で取れた小麦を、水車を動力とする石臼で脱穀して袋に詰める。彼の仕事はそれだけではない。常に水につかっていることから傷みやすい水車は、日ごろからきめ細やかなメンテナンスが必要であり、老人の手先の器用さはそういった仕事で鍛えられたものであった。


ある日老人は考えた。


「水車の動力は、他にも使えるのではないか?」


おりしも、ヨーク大公家領が王家直轄領となった時期。村から数リーグはなれた草原が、王家直轄の牧場となった。村にも大量の羊毛が運び込まれた。新しい領主(ちじ、という名前らしい)が、羊毛から紡績糸に紡ぎだす作業を手伝うよう、領民に指示したのだ。無論、手当を弾んで。村は久しぶりの現金収入に沸いた。だが、来る日も来る日も糸車や糸巻き棒を使って、羊毛を紡ぐ作業に、さすがに飽きが来た。ましてや羊毛は次々に運び込まれ、まるで終わりが見えない。

「爺さん、なんとかならんか」

賃金はいいが、あまりにも大量な羊毛にうんざりした一人の男性が、老人に泣きついた。

二つ返事で了解した老人はある機械をつくった。水車を動力として、歯車をいくつも複雑に噛み合わせたそれは、これまで10人がかりで一頭の羊毛から紡ぎだしていた作業を、羊毛をセットするだけで出来るようにした。

村人はこぞってこの機械を利用した。すべての羊毛を紡績糸に仕上げると、老人に礼をつげて帰っていく。仕事が終われば機械には用はない。村人たちはワインを飲み、肉を食らい、久しぶりの豪華な食事に舌鼓をうった。

老人にとって、機械は手慰みに過ぎなかった。子供達が複雑に動く歯車に目を輝かせている様子を見ているだけで満足であった。


数週間後、老人は亡くなった。村は深い悲しみに包まれた。


そして新たに水車番となった若者が、この「ガラクタ」を持て余していた時、「彼ら」はやって来た・・・


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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(蛙の子は蛙)

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『シュバルト商会』-トリステイン王国の東に国境を接するハノーヴァー王国。その王都ブレーメンに本店を持ち、ハルケギニア全土に支店を持つ大商会である。その影響力は「ハノーヴァーの影の王」と呼ばれるほどであり、国王ですらお忍びで金を借りに来るという。シュバルト商会の本店は、ブレーメンの中心街に位置する。外装こそ赤レンガの地味なものであったが、その実際の価値と、「国すら買える」という資産の全貌を知る者は、この世に一人しか存在しない。

アルベルト・シュバルト-シュバルト商会代表は、不機嫌であった。深夜寝ているところをたたき起こされれば、誰でも腹が立つ。だがアルベルトは、商売のチャンスというものが、出物腫れ物と同じように、時間と場所を選ばない事を知っていた。アルベルトをたたき起こしたのは、デヴィト・アルベルダ-ロンディニウム支店長にして、アルビオン国内でのシュバルト商会の全権を任せている男だ。風貌は「押しつぶされたヒキガエル」のようなものではあったが、小売店の店員でない限り、商売に顔は関係ない。だが

(寝起きにこの顔はつらいな)

デヴィトは顔を真っ赤にして興奮していた。鼻の穴を膨らませて呼吸する様は、オーガ鬼のようにも見える。眠気の為か、さしものアルベルトの明晰な頭脳もぼやけていた。だが、デヴィトが机の上に広げた図面を見ると、眠気は一気に吹き飛んだ。

「これは・・・」


***

アルベルトが睡眠を邪魔されるより1週間前。

「いや、間一髪でした」

ヘンリーの前でそういって肩をすくめるのは、トマス・スタンリー男爵。内務省で産業政策を担当していた彼は、専売所設置の際、ヘッセンブルグ伯(現ロンディニウム官僚養成学校学長)と共に、ブレーンとして参加。商会やギルドとの交渉でヘンリーを補佐し、特に木材専売所では王家出資比率5割を勝ち取った。交渉ごとでの駆け引きのうまさは、前世で商社に勤めていたヘンリーも一目置いている。

その彼を、旧ヨーク大公家領の財務調査官として派遣してのだが、まさかこんな拾い物をしてくるとは。ヘンリーはスタンリー男爵のほうを見もせずに、机に広げられた図面を食い入るように見ていた。そう、あの老人が作り上げた水力紡績機の図面である。

刈り取った羊毛を、綿織物に使えるようにする為には紡績糸にしなければならない。この作業がとにかく大変である。羊毛の様々な汚れを一つ一つ除去。綺麗になった羊毛を、手作業で加工するのだが、これが手間と時間がかかる。糸車や糸巻き棒で、切れないようにすこしづつ、すこしづつ紡ぎ出していく。大体、羊1頭の羊毛に、10人がかりで二日かかったその作業を、この機械はなんとたった3時間で終わらせてしまったのだ。報告書によると、動力は水車。心棒を中心に非常に細かな工夫が(歯車に秘密があるらしい)されており、途中で糸が切れることは殆どないという。

羊毛の納入が早いことを疑問に思った商人が、この紡績機を発見。木材専売所の関係でこの商人と付き合いがあったトマスは、いち早くその存在を知ることが出来たというわけだ。トマスは独断で、調査費用から流用する形で、商人や村人に「因果を含めさせ」た。旧ヨーク大公領の責任者であるロッキンガム公爵や、財務省は、この「独断専行」に激怒した。ヘンリーは報告書を読んで、鼻血を出さんばかりに興奮した。もちろん、その興奮は「怒り」ではなく「喜び」である。

「トマス!何が欲しい?金か、爵位か、それともチューしてやろうか?!」

蛙の子は蛙、キス魔の息子もキス魔であった。トマスは王子のハイテンションぶりに顔を引きつらせながら「遠慮します」とだけ言った。


ヘンリーの興奮もむべなるかな。これが普及すれば、革命的に綿織物の生産性が向上する。大量生産と大量消費-資本主義社会への扉がまさに今、この瞬間に開かれたのだ。

しかもハルケギニアの中でそれを知っていて、行動を起こせるのはこの俺だけ!

ヘンリーは、どれだけ厳罰化してもインサイダー取引がなくならない理由がわかった。お金が目的ではない。この麻薬の様な興奮は、何物にも変えがたい。この興奮を一度味わってしまうと、後戻りは出来ないだろう。

「その爺さんの名前は?」
「えーと、名前は忘れましたが、村ではジェニー爺さんと呼ばれていたそうで」
「ならこれの名前は「ジェニー」だ。ジェニー紡績機だ!」

ジェニー紡績機-のちにアルビオン産業革命の象徴となる機械は、こうして名づけられた。


***

「くそっ、遅かったか!」

アルベルト・シュバルトはロンディニウムのシュバルト商会支店の貴賓室で怒りを含んだ声を張り上げていた。デヴィトから報告を受けたアルベルトは、直ちに船をチャーターしてアルビオンに乗り込んだ。アルベルトには自ら陣頭指揮をとるだけの価値が、この図面にあることがわかっていた。

しかし時すでに遅かった。すでに村にはアルビオン政府の官僚が陣取っていて、他国人の、ましてや規模が大きいとはいえ、所詮は商人でしかないアルベルトが入り込む隙はなかった。他の商会に出し抜かれたのならともかく、まさか現地政府に先を越されるとは・・・アルベルトには予想外の事態であった。決して自らの行動が遅かったとは思わない。デヴィト支店長も、この図面と情報を得てから行動に移すまでの判断は、褒められこそすれ、決して責められるようなものではない。

アルビオン政府の行動が、早すぎたのだ。

自分の祖国であるハノーヴァー王国も、アルビオンのように迅速に動くことが出来れば、ヴィンドボナ総督ごときにでかい面をさせなかったものを・・・商会の利益が第1とはいえ、アルベルトにも人並みの愛国心はある。彼には祖国の鈍感さがもどかしかった。

千載一遇の商機を逃したことで、アルベルトが沈んだ気持ちで居ると、秘書のサニーが慌てた様子で飛び込んできた。

「か、会長!お、王宮から呼び出しが!」
「ほうっておけ」

ハノーバー王国のリューベック港は「安全性のため」夜間の出航を禁止している。安全性とは笑止千万、夜中に働きたくないだけだ。だがどんなにふざけた理由であろうと、規則は規則。普段のアルベルトなら、明日の朝まで待っただろう。だが今回は1分1秒でもおしかった-港の役人を脅して無理やり出航させた。もっとも、すべては無駄であったのだが。反則金払いを覚悟してまで行動しながら、なにも成果を上げられなかったという事実が、彼の思考を重く、沈んだものにしていた。

それがブレーメンの耳に入ったのだろう。王宮の馬鹿どもは、めずらしく商会が犯した違反を居丈高に取り上げて金をむしりとるつもりなのだ。まったく、そんな足の引っ張り合いばかりしておるから、ヴィンドボナの金貸しごときに遅れをとっているのが、まだわからんのか?自分が金融業を営んでいることを棚に上げたアルベルトの思考は、サニーによって再び遮られた。

「ブレーメンではありません!」
「何だと?」
「ろ、ろ、ロンディニウムの王宮からです!!」

(・・・つめの垢でももらって帰るか)

秘薬だとか何とか言って、ブレーメンの王宮に献上してやろう。少しは馬鹿がましになるだろうから・・・



「・・・というわけです。殿下、足でも結構ですからいただけませんかな?」
「は、ははは・・・」

ヘンリーは引きつった笑みを浮かべた。突拍子もないことを言って相手の調子を乱し、交渉を有利にするのがシュバルト商会のやり方なのか?始祖でもない彼に、アルベルトがわりと本気で言っていたことがわかるはずもない。

「ま、まぁ、その、つめの垢はさすがに・・・な。腹でも壊されたら困る」
「ならばこの図面の紡績機をいただきたい」

懐から取り出した図面に、ヘンリーの顔がこわばる。

「・・・それは出来ん相談だ。あれはわが国の平民が開発したもの。その権利はすべてわが国にある」
「そのような法律を、いつ制定されたのですか?」

ヘンリーは言葉に詰まる。本や絵画ならともかく、機械に関しては著作権の「ち」すら存在しないハルケギニアでは、アルベルトの言うことが正論である。

アルベルトはここぞとばかりに攻め立てた。法を犯してまでアルビオンに赴いたのだ。ただでは帰れない。彼は得意の交渉術で、この苦境の打開を図ろうと考えていた。デヴィトは「あの王子には注意なさってください」と言っていたが、所詮は王族。王宮でぬくぬく育った王族の相手など楽なものだ。

だがアルベルトはその考えは甘かったことをすぐに思い知らされることになる。

「王子はご存じないかもしれませんが・・・図面があれば、すくなくとも再現は出来ます」
「・・・その図面はどこから?」
「言うと思いますか?」

ミリーが紅茶を持ってきた。カップを持つ手が震えている。部屋に漂う張りつめた空気におびえているのだ。このメイドには悪いが、今はそんなことを気にしている余裕はアルベルトにはなかった。

「パンはパン屋、刀は鍛冶屋、戦争は軍人と相場は決まっております。失礼ながら、殿下がこの機械を手に入れたとして、それを十分に活用できるとは思えません。わが商会に任せていただければ、利益の一部をアルビオン政府にお渡しすることをお約束します」

「・・・」


王子は押し黙り、目を瞑って腕組みをした。

よし、後一押し。王子の反応に手ごたえを感じたアルベルトは身を乗り出す。


「わが商会として
「・・・シュバルト商会はいろいろ手広くやっていると聞いている」
「は?」

突話題を変えた王子の意図が分からずに、素っ頓狂な声を出すアルベルト。


「うちの羊毛も扱っているそうだな」



・・・なんだと?



「ワインに、硝石、建材・・・いろいろと助かっている」


「・・・っ!」




しまった!


アルベルトは自らがマンティコアの尻尾を踏んだことを悟った。

アルビオン王家経営の大規模な羊の放牧は、どの商会にとっても魅力的である。質のいいアルビオンの羊毛を大量に仕入れるためにしのぎを削り、血反を吐く思いでシュバルト商会も受注に成功した。羊毛の取引停止だけでも、商会にとっては大打撃だ。だが、それだけで済むはずがない。シュバルト商会は各国政府とも幅広く取引を行っている。羊毛紙・紙・ペンなどの消耗品に始まり、食料品に建材、はては武具に至るまで-王子はその発注を「他の商会にまわしてもいいんだぞ」と、脅迫しているのだ。

アルベルトの顔から血の気が引いた。

アルビオン政府からの発注停止-アルビオンだけなら、対した損害ではない。問題はそれによって発生するであろう風評被害だ。仮にアルビオンが「注文した商品に重大な欠陥が存在した」と発表したらどうなるか?右に倣えで、各国政府もシュバルト商会との取引を敬遠するだろう。

一番怖いのは、アルビオンが「何も言わない」事だ。

シュバルト商会とアルビオンに何があったのか?取引上のトラブルか?それとも・・・噂は噂を呼び、それが次第に「事実」となる。信用こそ命綱の紹介にとって、アルビオンの沈黙は今までシュバルト商会が築き上げた信用のすべてを容易に失わせることを意味していた。

自分の間抜けさに腹が立つ。せっせと自分の首を絞める縄を、目の前の王子に編んでやっていたのだ。


愕然として力なく椅子に座り込んだアルベルト。最早何をしても手遅れ-死刑執行を待つ囚人の気分だ。ヘンリーは、「縄」に手をかけた状態で、アルベルトに歩み寄って肩を叩いた。


「時に相談があるんだがね」


力なく顔を上げたアルベルト。


そこには、いっそ清々しいぐらいのあくどい笑みを浮かべたヘンリーがいた・・・



[17077] 第12話「女の涙は反則だ」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:71b89978
Date: 2010/10/06 18:36
(某財務卿のつぶやき)

まったく、とんでもないガキだ。末恐ろしい限りだな。わしが凄んでも、まるで気にする様子もなかったし・・・

(某王子のつぶやき)

いやー、シェルバーンのはげ・・・もとい、シェルバーンのおっさん、顔怖すぎるって。小便ちびるかと思った。

(某妃殿下のつっこみ)

ミリー。あの馬鹿のパンツの代え持ってきて・・・

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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(女の涙は反則だ)

*************************************

「あくど過ぎます」
「ひどいです」
「根性腐ってるわね」
「やりすぎです」

上から、スタンリー男爵、メイド長のミリー、嫁のキャサリン、シェルバーン財務卿

集中砲火を浴びているのは、無論ヘンリーである。シェルバーンやキャサリンはともかく・・・ミリーに涙目で抗議されるのは、マジでつらい。あれだ、小さい頃、女の子にちょっかいを出したら、泣き出してあせったときの感じだ。

***

アルベルトは泣きたくなった。ヘンリーのあくどい笑みが怖かったからではない。一体これから何を要求されるか、全く想像かつかなかったからだ。

ヘンリーの第一声は

「あの紡績機だが、現物を贈呈しよう。むろん設計図もつける」

「・・・は?」

アルベルトはまたもや商人にあるまじき間抜けな声を出した。無理もない。これまでの交渉は一体なんだったのか?商会の命運を懸けて交渉し、結果的に存続の危機に立たされたのに・・・おもわず泣き出しそうになった。

くれるんなら最初からくれよ!(言えないが)

しかし、いつまでもアホみたいに口をあけている場合ではない。アルベルトの商人としての本能が、いち早く紡績機を導入することで得られる利益を計算し始める。だが相手の目的がわからないのに、タボハゼのごとくホイホイ飛びついて喜ぶなと、これまた商人としての理性と経験が警告を発する。

案の定

「ただ、条件がいくつかあるがね」
「・・・条件が何百もあるんじゃないでしょうね」
「はっはっは。そんなことはないさ。ただ、ちょっと面倒だとは思うがね」

ヘンリーが大きく口を開けて笑う。

喉ちんこが見えた。指を突っ込んでやりたい

「情報というのは漏れるものだ。特に今回の様な、一見すると意味のないような仕事なら特にね」

人の口に戸は立てられぬ。ましてや、問題の重要性に気がつくものが限られている今回のような場合、一見意味のないように思える仕事に借り出される-とくに下の方の人間は、「絶対に情報を漏らすな」と命令されても(命令するほうも命令するほうで「なんでこんなガラクタに」と思っている)、指示が徹底される状況ではない。シュバルト商会の現地支店も、口外することを禁止されたはずのアルビオンの官僚からこの紡績機の情報を得たのだ。この紡績機械の重要性に気がついたデヴィトは、いくら褒めても褒めたりない。

しかし

(いったい情報の本質に俺が気づくまで、どれくらいの時間がかかったと・・・)

アルベルトは筋違いとはわかっているが、この王子にねたましい思いがわきあがってくることを抑えられなかった。

それはともかく-シュバルト商会ほどの情報網があったからこそ、先んじれたものの、いずれ他の商会が気づくのは、時間の問題だ。時間との競争である。機械が作れても、それだけでは意味がない。いち早くこの「ジェニー紡績機」を使って紡績糸を量産し、市場競争に勝利したものこそ、真の勝者なのだ。

王子は条件を話し始めた。これによって、シュバルト商会の今後数十年の命運が決まるとあって、アルベルトも緊張した表情を浮かべている。

「まず第1に、工場を作る場合にはアルビオン国内を優先してもらいたい」

紡績機の現物と引き換えの条件としては妥当なものだ。工場を作れば、人員を集めなければならない。当然、アルビオン国内で人員を集めることになる。大量の雇用が出来れば、それだけ町は活性化する。引いては税収増につながり、アルビオンの国益にもつながる。ギルドに遠慮することはない。もともと、羊毛から紡績糸を紡ぎだす作業は、農家や都市商人のアルバイトなので、ギルド自体が存在しないからだ。

ただ「優先してもらいたい」というのは、お願いの形に見えるが、実際には「別に構わんよ。よそに工場作ってもらっても。そういえば羊毛の取引先を・・・」ということである。アルビオンに工場を作らなければ、シュバルト商会はアルビオン産羊毛を手に入れることは困難になるだろう。機械があっても、原料がなければ商売にならない。


アルベルトの答えは決まっていた。

「いいでしょう。マンチェスターか、リヴァプール・・・どことはまだいえませんが、工場は出来るだけアルビオンに作る事をお約束いたします」

マンチェスターやリヴァプールは、共に市内を大きな河川が流れており、紡績機械の動力である水車の設置場所には困らない。それに両市は人口5万クラスの中規模都市であるから、人出も集めやすい。アルベルトはすでに両市に工場を建てることを決めていた。


第1関門は突破したが、アルベルトの顔から緊張の色が消えることはない。王子自身、「第1に」と言っている。第2、第3の条件は一体何なのか、そして第何個まであるのか・・・

「第2に・・・シュバルト商会には、街道と港湾整備への出資をお願いしたい」

あからさまにアルベルトの顔が歪んだ。

国家にとって道は「血管」である。物流という血液を国家という体の隅々まで通すために、または軍隊を迅速に派遣するために-古くから国は街道整備に力を尽くしてきた。「すべての道はローマに通ず」のローマ帝国は、首都ローマを中心に網の目のように街道を整備。長き繁栄を手に入れた。

ただ、お金がかかる。目的に応じて道を通す場所を決める-これは地図の上に線を引くだけでいい。そこからだ。道を通すには莫大な金がかかる。原野なら草木を刈り取り、石をどけ、地面をならしてから、重いものを乗せても地面が沈まないように地面を少し掘って、水はけのために砂利・石の順番に生め、最後に舗装用の石をのせて、初めて道は完成する。造って終わりではなく、維持費もかかる。幾ら丈夫に造っても、長年人が通れば、石は削れて沈み込む。道ががたがたになれば、馬車は時間通りに荷物を運べず、経済活動に支障が出る。

たかが道、されど道なのだ。

港湾の重要性は、海洋国家ならぬ空中国家のアルビオンにとって、ハルケギニア大陸の陸上国家には想像も出来ないぐらい高い。人は空を飛べない。メイジならコモン・マジックの「フライ」で飛ぶことが出来るが、アルビオンからハルケギニアまで飛ぶのは、どんな偉大な魔法使いであっても途中で精神力が切れて、イカロスのように地上に落ちていく。ましてや平民では、まっさかさまに落ちていくだけ。


飛べない豚はただの豚だ


言ってみたかっただけだ。

ともかく人は翼の変わりに、風石を利用することにした。風力を持つ石を原動力にすることによって、船は空を飛べるようになった。浮遊大陸アルビオンは資源に乏しい。掘れば鉱物は多少あるが、やたらめったら地面を掘るわけには行かない。自分の足場を削るようなものだからだ。貿易をしなければ、アルビオン経済は成り立たない。船を停泊させるためには、港が必要である。風石のパワーは永遠ではない。陸に水揚げして、補給や整備を行うドック、積んできた荷物を一時預ける倉庫、年中朝から晩まで光り続ける灯台・・・

白の国アルビオンの由来は、周囲に雲が厚く覆っていることにある。大陸から流れ落ちる莫大な水が、一瞬で霧となり、莫大な雲を大陸の周りに形成する。空中での事故は、即・死を意味する。灯台がなければ、危なくて大陸に近づくことも出来ない。

これもやっぱり莫大な金がかかる。

「・・・そ、それは・・・いくらなんでも」

いくらシュバルト商会がハルケギニア最大の商会とはいえ、一国の街道と港湾を整備する資金の全額を負担出来るものではない。無い袖は触れないのだ。顔が引きつるアルベルトに、ヘンリーがまたもあの嫌な笑みを返す

「何、君のところで全部負担することは無い。」
「・・・?」
「他の商会に協力してもらえばいい」

ヘンリーは言う。アルビオンで紡績工場を作るにしても、急に工場用地を取得したりすれば、他の商会は「なにかあるな」と感づくだろう。それはシュバルト商会にとって望ましいことではないだろ?

「はい」

意識を別のところに向けさせるのさ。シュバルト商会がアルビオンの港湾や街道を整備して、その使用権を一手に任されることを狙っているとね。他の商会からすれば、物流を1商会に抑えられるのは面白くないだろう・・・そこで俺の出番だ。シュバルト商会に音頭を取らせて、各商会が出資して街道や港湾の建設費をまかなうという調停案を作った・・・という形をとらせる。どうだ?

アルベルトの顔がまた歪む。自分の顔は歪んだまま、元に戻らないのではないか?

「金を搾り取られて、憎まれ役になって・・・何の徳があるのです?」
「工場が稼動するまでのカモフラージュになる。それに紡績で儲けるつもりなんだろう?金は天下の回り物-まわりまわって、めぐりめぐってみんな幸せ。結構なことじゃないかね」


もう何も言うまい。アルベルトはそう心に決めた。


「で、第3の条件だが・・・」


アルベルトは何十年ぶりに、人前で泣いた。


***

よりにもよってその泣いている部分だけを、紅茶のお代わりを持ってきたミリーに見られたのだ。「大人の男の人を泣かせるなんて」と批難のこもった視線を向けられるのはたまったもんじゃない。ヘンリーだってまさか泣くとは思わなかったから、ぐうの音も出ない。男(アルベルト)がなこうが叫ぼうが知った事ではないが、女の涙を平然と受け流せる男がいたら、そいつはきっと人間じゃない。

「しかし、陛下は根性悪いですね」
「どうしようもないですな」
「クズよクズ。まっくろくろすけね」

ミリーをどうにかなだめすかして追い出したら、これだ。上からスタンリー男、シェルバーン伯、キャサリン。もっともこの3人はヘンリーをからかっているのが、口調に現れているだけましではあったが。

ヘンリーはふてくされたような顔でソファーに腰掛けている。

「ちょっかい出してきたのは向こうなんだ。彼らも商人、これくらいのリスクは織り込み済みだろ?」
「まぁ、それはそうですが・・・しかし、スパイまがいの事をさせるのはさすがに・・・」

スタンリー男は歯切れの悪い言葉でヘンリーを非難する。


そう、アルベルトに出した第3の条件とは、各国の情報を提供することだ。諜報組織を1から作るのは大変。なら最初からある組織を利用すればいい-ヘンリーはそう考えた。当然、アルベルトは強い拒絶反応を示した。商売人にとって、取引先の個人情報を守ることこそが、信頼の基本。信頼の無い商人は、足の無い人間-幽霊と同じ。それを提供しろというのだ。アルベルトの反応たるや、怒る・泣く・叫ぶ・・・

商会の人間に見られたら、彼の「威厳」は、音を立てて崩れ落ちるだろう。

結論から言うと、アルベルトはヘンリーの条件をすべて飲んだ。商人の良心やモラルより、紡績機の情報を独占することで得られる利益を選んだのだ。

アルベルトは目を赤くしながら帰っていった・・・

「汚いです」
「根性ばば色ですな」
「根っこから腐ってるのよ」

スタンリー男、シェルバーン伯、キャサリン・・・お前ら楽しんでるだろう。

「汚くて結構、どどめ色のババ色で結構。清廉潔白で国が滅ぶよりましだ」

「開き直りですな」
「見苦しいですぞ殿下」
「少なくとも少しは楽しんでたでしょう」

・・・キャサリンの言葉にだけは反論できない

「殿下をからかうのはこれくらいにしまして」
「お前ら不敬罪で縛り首にするぞ!それともロンドン塔に幽閉してやろうか!」

ロンドン塔とは、ハヴィランド宮殿東にある石造りの塔である。謀反した貴族や、廃嫡された王子、または強制的に退位させられた国王などが幽閉される貴人専用の牢獄で、一度入ると、まず2度と太陽を見ることは出来ない。獄死した貴族の霊が出るとかいう話もある、いわくつきの場所だ。

「はいはい」
「わかったわかった」
「やれるもんならやってみなさい」

ヘンリーの脅迫は綺麗に無視された。もはや敬語すら使ってもらえない・・・

「最近の殿下は目立ちすぎます」

居住まいを正して告げられた財務卿シェルバーン伯の言葉に、それまで塩をかけられたナメクジのようになっていたヘンリーの目に、生気が戻る。

「特に先日の面会に関しては、王族が商人と、それも王宮で会うとは-そういった声が」
「あー、出るだろうとは思ってたけどね」

ヘンリーはため息をついた。


ブリミル教では、日常生活を送るうえで最低限の商売については認めているが、金貸し-金融業者は認めていない。金を貸して利息で生活する-これは「労働なき富」であり、けしからん-ロマリア宗教庁の見解をまとめればこうなる。

金融とは経済にとっての血液である。体中に必要な栄養分を送り、老廃物を運び出す-必要なところに必要なだけ金を貸すものがいなければ、手元に資金のないものは商売が出来ない。「必要悪」という言い方もあるが、とんでもない話だ。彼らは命の次に大事な虎の子のお金を使い、経済の根幹を支えているのに「悪」よばわりとは(無論、法外な利息をぶっ掛け、元から身包みをはぐことが目的の金融ヤ○ザは論外だが)

ヘンリーがそう主張しても、始祖以来、数千年にもわたって継承されてきたイメージというのは、そう簡単に変わるものではない。

「宮廷貴族に非難の声が強いようでして。特にデヴォンシャー伯爵は『王族の面汚しだ!』と公言されています」
「あー、デボンちゃんなら、それくらいは言うだろうね」


デヴォンシャー伯爵ジョン・キャヴェンディッシュ卿。アルビオン陸軍少将にして、現在のアルビオン王国侍従長である。シェルバーン伯がたたき上げの官僚なら、彼はたたき上げの軍人だ。若いころは国内の強盗団取締りに辣腕を振るい、「鬼のデヴォン」と恐れられた。また「軟弱軟派貴族の集まり」と揶揄された近衛魔法騎士隊を、アルビオン屈指の精鋭に育て上げるなど、根っからの武闘派。その剛直な性格を国王エドワード12世に気に入られ、現在では侍従長という宮廷内の王族を取り仕切る立場にいる。


デヴォンシャー伯が侍従長に就任したときの第1声が

「ヘンリー殿下をたたきなおす」

メイド服に執着し、モエモエとわけのわからない単語を叫ぶ第2王子は、彼にとって見過ごせるものではなかった。

はいそうですか、もうしません・・・などと素直に言うことを聞くヘンリーではない。デヴォンシャー伯に向かって、メイド服の魅力について力説した。男のロマンを熱く語る王子に、デヴォンシャー伯も(付き合わなくていいのに)いちいち正論で反論。当のヘンリーはデヴォンシャー伯のことが嫌いではなかった。彼はほかの宮廷貴族のように外面だけこちらにあわせて、腹の中でせせら笑うことはない。面と向かって本人に「あなたは嫌いです」という人間だ。することもしないで陰口をたたくだけの宮廷貴族よりは、よっぽど好感が持てた。(向こうはどう思っているか知らないが)

実直で、隠し事が無く、誰にでも自分の信念を曲げない-融通の利かないところまで含めても、兄貴のジェームズ皇太子とそっくりだ。兄貴も伯のことを信用しているらしい。類は友を呼ぶ。欠点といえば、頭の固いところか。似たもの同士は長所を伸ばせる半面、自分たちの欠点に気がつかない場合がある。


閑話休題


「デボンちゃんは裏表がないからいいよね。さっき俺のところにも説教に来たしね・・・居留守使ったたけど」
「殿下、これはまじめな話なのです」

スタンリー男がとがめる。わかってるさ。お前らが俺を心配してくれていることは。


「出るくいは打たれるっていうのは、どこでもいっしょだからね」


ヘンリーはこの世界に来てから、出来るだけ目立たないようにしてきたつもり(・・・メイドとモエはともかく)だ。官僚養成学校や、王立魔法研究所農業局はアルバートの、貴族年金の拡大と領地の移転はシェルバーン財務卿の、塩の専売所ではエセックス男と、それぞれ自分の意を汲むものを責任者にして、自分に注目が集まらないようにしてきた。宰相のスラックトン侯爵も、宮廷への根回しで、俺に協力してくれている。

だが、国王である父の裁可を得る場合には、俺が同席しないわけには行かない。臣下である貴族が奏上するのと、王族である俺がいるとでは、奏上の重みがまったく異なる。

口さがない宮廷すずめどものなかには「バカ王子がスラックトン侯爵の操り人形になって、宰相一派が国政を壟断している」という噂をしているらしい。バカなのは認めるが。噂は根拠がないから噂なのだ。そしてそれは、荒唐無稽と思えるほど、大げさで誰もがありえないとおもう内容ほど面白い。実に厄介な問題だ。俺が否定すれば、むしろ真実味があると思われて逆効果になる。おとなしく噂が立ち消えるのを待つしかないが、だからといって俺が何もせずにおとなしくしているわけにはいかない。

幸いなのは、兄貴のジェームズ皇太子が、俺のことを買ってくれていること。兄貴は昔から「メイド」だの「萌え」だのと繰り返している俺のことを、怒りながらも、よくかばってくれたものだ。兄貴にとって10歳年下の俺は、いつまで立っても手のかかる弟なんだろう。

兄貴が前述のうわさを話していた女官を怒鳴りつけたと聞いたときは、柄にもなく涙が出た。


兄貴の信頼にこたえるためにも、(口ではボロクソだが)心配してくれるこいつらの為にも、くれぐれも行動は慎重にしなければ・・・ヘンリーは自分に言い聞かせた。







時にブリミル暦6210年。原作開始まであと33年の、ある日のことでした。



(へ)「久しぶりだなそれ」
(ミ)「そうですね、7、いや8話ぶりですから」
(キ)「というより、まだ2年しかたってないの?!」



[17077] 第13話「男か女か、それが問題だ」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:b679932f
Date: 2010/10/06 18:42
やぁやぁ皆さん、こんにちは。ご機嫌いかがですか?

毎度おなじみ、アルビオン王国第2王子のヘンリーだよ。

実はご報告があるんだ。



それはね






子供が出来たんだ♪







仕事の合間にやることはやってたんだよ。てへ?




現在妊娠10ヶ月目の臨月。母子ともにきわめて健康。けっこうけっこう!


女の子だと、なおけっこう!


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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(男か女か、それが問題だ)

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ヘンリーは生まれたばかりの赤ん坊を抱いている。この世界では初めてとなる自分の子供だ。山上憶良の歌を引用するまでもなく、自分の子供を抱くのは、他の何物にも代えがたい喜びであることを、彼はしみじみと実感していた。

だが、その顔色はどこか優れない。

彼の目線は、赤ん坊の一箇所に釘付けとなっている






赤ん坊の股間





そこには紛れもない











「しんぼる」(by松本人志)












「男・・・・」
「そうよ?やっぱり子供っていいわね」

息も荒く、顔に玉のような汗を浮かべたキャサリンが、誇らしげに胸を張る。


「なんで?」

「え?何が」

「どうして?」

「・・・何の話?」


ここでようやくキャサリンは夫の異変に気がつく

しかし、時すでに遅し


「なんで女の子じゃないの?!あれだけいろんな食べ物とか、ちょっと名前の出せないマジでやばめの薬とか飲んだのに?!あの行商人、だましやがったな!!あ~!!毎晩毎晩あれだけ女の子が生まれるって言う『た・・・

バキッ ドカッ ゲシッ ミシッ ・・・

まだ起き上がれる体力がないはずのキャサリンが、突然真っ赤な顔をして立ち上がったため、産婆のジェシー婆さんや女官達は驚いて腰を抜かした。いつもの彼女なら女官達を気遣うところだが、あいにく今は、この大馬鹿亭主の口をふさぐことに忙しい


「痛い やめて ごめん まじで」

バキッ ドカッ ゲシッ ミシッ

「黙れ、しゃべるな、くちを、閉じろ!」

バキッ ドカッ ゲシッ ミシッ

「ごめん まじで だから ゆるして」

バキッ ドカッ ゲシッ ミシッ

「エロ、バカ、ヘンタイ、スケベ!」


言葉の合間合間に、鈍い音と、男のうめき声が混じる。


「本当に、悪かったって(ボキ)何かいやな音したんだけど?!」

「ヘンリー、ヘンリー、ヘンリー、ヘンリー!」

「それ悪口?!」




「見ちゃいけませんよ殿下」
「あ~?」

いつの間にかヘンリーから赤ちゃんを受け取っていたジェシーは、赤ん坊の顔を手で覆った。


***


父親は転生者です


母親も転生者です









じゃあ息子は?







だぁ?


ばぶ~ぶ~



びええええ~ん!





「・・・ちがうな」
「・・・ちがうわね」

一度子育てを経験したことのある2人の目には、目の前の赤ん坊が、前世での自分たちの一人息子-すなわち転生者でないことは明らかであった。キャサリンは言うまでもなく(おなかを痛めたわが子なのだ。わからないはずがない)、ヘンリーも(一応は)元親。息子かどうかぐらい、気配や行動を見ればわかるという自信があった。

念のために妻の意見を聞く。

「芝居してる感じはしないか?」

キャサリンがこっちの世界に転生してきたのは、生まれたばかりの赤ん坊のとき。元演劇同好会会長の彼女は、それから十数年間、ヘンリーに出会うまで、芝居を続けてきた。

その君から見て、この赤ちゃんはどうだ?

「それはないわ」
「なぜ断言できる?」
「あの子は貴方に似て『馬鹿』がつくほど不器用だし、思ったことがすぐ顔に出る『バカ』正直な性格だから」

・・・まだ根に持ってます?

「何のことかしら?」


怒ってる、絶対まだ怒ってる・・・


世間ではこれを「自業自得」という


***

「この世界での赤ん坊は、自分たちの前世での子供の転生者ではない」

この事実は、ヘンリーの心に少しだけ平穏をもたらした。だが、彼の顔色は未だに優れない。ヘンリー自身が娘が欲しかったどうこうという、個人的願望の話ではなく(そういう感情がなかったかといえば嘘になるが)事はアルビオンの王位継承にかかわる問題なのだ。


ヘンリーは今現在(ブリミル暦6211年)の王家の人間-自分の大切な家族の顔を思い浮かべた。


父親で現国王のエドワード12世(66)。若いころは「金の貴公子」とも呼ばれた髪は、今はそのトレードマークである口髭を含めて見事な銀髪に。性格は豪快にして剛直。「王たるもの」という自覚と自信、そして威厳を常に纏っている。強固なる精神は強い体に宿るというが、とても還暦を過ぎた爺さんには見えない。だが今年に入ってすぐに体調を崩した。さすがの親父も寄る年波には勝てないようだ。

テレジア王妃(60)ハルケギニア北西のベーメン王国出身。アルビオンに嫁いできてから、俺と早世した3男を含めて5人の子供を生んだ肝っ玉母さん。性格は一見温和だが、昔親父が一度だけ女官に手を出したときは、杖片手に精神力が切れるまで追い回したという。

長男のジェームズ皇太子(33)。親父譲りのでかい体に、くそまじめな性格。一年中、朝から晩まで政治のことを考えている堅物だ。わが兄ながら、よくあれで息が詰まらないなと感心する。嫁さんのカザリン皇太子妃(23)との間に子供はまだいない。

次男は俺(23)。ヨーク大公家から迎えた嫁のキャサリン(23)との間に子供が生まれた。

3男のマイケルは早逝。はやり病だったという。母さんが命日の度に祈りをささげていることは、宮廷に務めるものなら誰でも知っている。

長女のメアリー(21)。サヴォイア王国のウンベルト皇太子(25)との結婚が来年予定されている。サヴォイア家はロマリア連合皇国の一角を構成する王国で、ガリア南部と国境を接している。ウンベルトとは一度会ったことがあるが、なんというか・・・よく言えば王者の風格、悪く言えば「そうせい」様。戦上手で名高い現国王アメデーオ3世亡き後、彼が大国ガリアとの国境を守りきれるかどうか、正直不安だ。

4男のモード大公ウィリアム(20)。先代大公の一人娘のエリザちゃん(20)と、大公家領でよろしくやっている。こちらもまだ子供はおらず、大公家領とロンディニウムを行ったり来たりしている。


3年前から国政の実権はジェームズ皇太子に移りつつある。エドワード12世は、いきなり代替わりをしては混乱が起きる事を見越して、少しずつ慎重に、しかし確実に実権の委譲を進めて来た。兄貴にとっては、幼少から学んで来た「帝王学」の最終試験。最近では国王はほとんど政庁に顔を出さない。後継者である皇太子を、一種突き放すことによって、自分から自立させることが狙いのようだ。引き際の鮮やかさは、わが親父ながら、さすがというべきだ。ガリア国王のロペスピエール3世が、70の今になってもなお、政治の実権を握り続けている現状とは、好対象である。


次代の王がジェームズであることには、誰も異存はない。問題はその次だ。


皇太子夫妻にはまだ子供がいない。

次男である俺には男の子が生まれた。

弟の大公夫妻にも子供はいない。


兄貴が国王に即位したとしよう。王位継承の順番は、①俺、②俺の息子、③モード大公、という順である。ジェームズ兄貴は33歳。カザリン姉さんがまだ23歳だから、まだ子供が生まれるかもしれない。原作展開なら、ウェールズが生まれるはずである・・・


いや、ちょっとまて。


じゃあ、俺の息子はいったい何なのだ?


あきらかに異質。あきらかに異物。原作に俺の息子は存在しない。存在しないものが生まれて、存在したはずのものが生まれない・・・その可能性が0と言い切れるのか?



ヘンリーは頭を抱えた。



もし仮に、兄貴が子供が出来ないとあきらめて、俺を皇太子に据えたとしよう。


ウェールズが生まれなければ何の問題もない。

生まれたらどうなる?


皇太子である叔父と、現国王の息子


「おもいっきり、お家騒動フラグじゃん・・・」


俺に子供がいなければ問題なかった。仮に子供が出来たとしても、女ならまだ何とかなった。アルビオン王家の家督は、男子優先である。仮に俺が皇太子になった後、ウェールズが産まれたこの場合、従姉弟になる俺の娘とウェールズでは、ウェールズの王位継承が優先される(①俺、②ウェールズ、③モード大公か俺の娘)から何の問題もない。なんなら、娘とウェールズを結婚させて、俺の跡に王位を継がせればいい。

原作でのアンリエッタとウェールズとの関係でもわかるように、ハルケギニアではイトコ同士の結婚はタブーではない。


しかし、俺の子供は『男』なのだ。



じゃあ俺が皇太子にならなきゃいい


・・・というわけにも行かない。


もしウェールズが生まれれば、何の問題もないが、ウェールズが生まれなければ、それは大問題だ。

国政の最高権力者である国王、次期国王である皇太子。「はい、貴方は明日から王様です。がんばってちょ!」というわけにはいかない。心構えとかそういった、精神面での準備もそうだが、一朝一夕に「帝王学」は身に付かない。同じ王族とはいえ、始めから「皇太子」として育てられてきた兄貴と、「一王子」という、いわばスペアとして育てられた俺とでは、受けてきた教育内容がまるで違う。兄貴の側には、次の王になることを見越して、次代の国を担う将来有望な貴族や官僚が付けられる。そういった中から、自分の手足となって働く側近を見出し、国政全体を次第に把握していく。

俺も自分の意を汲む官僚を育てたりしているが、本来ならそういうことはしないし、してはいけない。それこそ、お家騒動の原因になりかねない・・・もっとも「ジェームズ皇太子ではなくヘンリー殿下を我らが王に!」なんて考えるやつは誰も居ないが(それはそれで寂しい)


話を戻すと-皇太子になるということは、1から教育を受けなおすということ。準備は早ければ早いほうがいい。だが、ウェールズがいつ生まれるか-そもそも生まれるかどうかわからない状況で、軽々に動くわけには行かない。


あー、頭痛い。えーと、だから・・・


①ウェールズが生まれたら、皇太子になった俺と、その息子とのお家騒動
②ウェールズが生まれて、俺が皇太子になってなければ-何も問題はないが、絶対にウェールズが生まれるとは言い切れない
③ウェールズが結果的に生まれなくて、俺が甥っ子の生まれる可能性におびえて皇太子になるのが遅れて、継承に手間取ってゴタゴタ
④ウェールズが生まれなくて、俺がその可能性に掛けてさっさと皇太子になる・・・でも彼が生まれないとは言い切れないわけで・・・・


「うぐぐぐ・・・」


内乱フラグを一生懸命叩き潰して、ようやくかすかな希望が見えてきたと思ったら、今度はお家騒動フラグ・・・取り越し苦労ならいいのだが・・・






「始祖よ、貴方は私が嫌いなのですか?」




嫌いです(byブリミル)








「はあああああ・・・・」



ヘンリーはわが子の寝顔を見ながら、深いため息をついた。










そんな父の心労を知るはずもないこの赤ちゃん。名前を『アンドリュー』と名づけられた。




アンドリュー・テューダー




後に「トリステイン中興の祖」と呼ばれることになるアンリ8世は、こうしてハルケギニアの歴史に登場した。





時にブリミル暦6211年。原作開始まで、あと32年。



「私、いつになったら結婚できるんだろう・・・」

ミリーの婚期は、誰も知らない・・・



[17077] 第14話「戦争と平和」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:b679932f
Date: 2010/10/06 19:07
親父が死んだ。

前の日まではピンピンしていた。

次の日は、起きてこなかった。


確かに体は弱っていたが、俺はあの親父が死んだと聞かされても、冷たくなった手をこの手で握り締めるまで、信じることが出来なかった。

「・・・今にも柱の陰から出てくる様な気がしてな」

葬儀の際、兄貴のジェームズ皇太子-国王ジェームズ1世が、ポツリとつぶやいた言葉に、俺は首だけ振って、肯定の意を表した。

『死んだのは冗談だ。驚いたかヘンリー!わっはっは!!』

あの笑い声は、もう聞けない。

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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(戦争と平和)

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ブリミル暦6212年は、政争と政変、そして戦争で幕を開けた。年明け早々、アルビオン国王エドワード12世が崩御。始祖ブリミルの子孫であるアルビオン王の葬儀には、ハルケギニア諸国から弔問客が訪れた。ガリア王国だけが王族ではなく、王弟であるノルマンディー大公が名代で来たが、特にそれを疑問に持つものはいなかった。

2週間後-アルビオン国王にジェームズ1世が即位したその日、ガリアがトリステインに宣戦を布告。国境の景勝地・水の精霊が住まうラグドリアン湖は、軍靴によって踏みにじられた。王都トリスタニアまで迫らんとするガリア軍2万と、トリステイン国王フィリップ3世が率いる8千は、セダンで激突(セダン会戦)。この戦いで王太子フランソワが戦死するなど、トリステイン側は大きな犠牲を出したが、ガリア軍にも甚大な被害を与え、何とか退けることに成功する。

以後はセダン要塞を中心に、一進一退の攻防が3ヶ月続く。

その最中、ガリア国王のロペスピエール3世は、王都リュティスで崩御。71歳だった。ガリアのシャルル王太子は、トリステイン側に休戦協定の締結を申し入れた。国土を蹂躙され、多くの犠牲を出したトリステインは反発したが、アルビオンやロマリアの仲介もあって、停戦に合意。4ヶ月に及んだ「ラグドリアン戦争」は終結する。

ガリアの新国王-シャルル12世は、前国王の側近集団をヴェルサルテイル宮殿や政庁から追放して、権力基盤を築こうとしている。そのためガリア国内では今、不穏な空気が流れているという。

そして、確実に勢力を拡大していく不気味な存在-ヴィンドボナを治めるホーエンツォレルン総督家。ラクドリアン戦争の最中に、自国出身の枢機卿を通じて、巨額の献金をロマリア宗教庁に始めた。セダン要塞で軍を指揮するフィリップ3世は、その端正な顔を歪め、仲介に奔走していたアルビオンの第2王子はうんざりとした表情でため息をついた。


ハルケギニアを覆う戦乱の兆し-各国は息を潜めて、次に何が起こるかを、息を潜めて見守っている。まさに一触即発の状態である。


ロペスピエール3世の国葬に出席したヘンリーは、ロンディニウムへと帰還すると、国王やスラックトン宰相に報告した後、ただちにハヴィランド宮殿内の息子アンドリューの部屋を訪れた。エセックス男爵から、アンドリューが昨晩から熱を出して寝込んでいると聞いたからだ。気もそぞろに、自分で扉を開け、駆け込むように部屋に入った。

乳母のアリーや女官たちが慌てて立ち上がって迎えようとするのを手で制する。息子が眠る豪華なベットの脇で、キャサリンが椅子に腰掛けて、居眠りをしていた。

アンドリューは体が弱いようで、しょちゅう熱を出す。赤ちゃんのころには熱を出すというが、それにしてもよく体調を崩した。前世での息子は健康だけが自慢、風邪一つひいたことがないという奴だっただけに、キャサリンは気が気でないようだ。本来、子育ては乳母や教育係に任せるものだが、彼女は暇があると(なければ無理やり作ってでも)しょっちゅう息子の部屋に顔を出している。

妻を起こさないよう、小声でアリーに尋ねる。

「どうだ?」
「熱は下がられました。妃殿下は今朝からずっと側に付いておられたので、お疲れが出たのでしょう」

そう言うと、アリーが伺うようにこちらを見る。キャサリンを起こしたほうがいいかどうか迷っているのだ。ヘンリーは手を振ってその必要はないと伝える。

「いい、しばらく寝かせておいてやれ」


ベットに近づいて、アンドリューの寝顔をのぞく。


ただただ、眠るためだけに寝ている、その顔を



いつからだろう-何も考えずに眠れなくなったのは。以前はベットに入れば、次の瞬間には眠れたものだ。それが今では、あれやこれやと思い悩んで、なかなか寝付けない。


キャサリンと結婚したときか

親父が死んだと知らされたときか

ガリアがトリステインに侵攻したと報告を受けたときか



ちがう



息子が、生まれてからだ



キャサリンが目の前でこっくりこっくり頭を揺らしている。その手元には、編み掛けの『何か』。体の弱いアンドリューのために、何か作っているんだろう。


なんだこれは・・・へびか?それともなまこか?


声を出さずに笑った。








頭を揺らすキャサリンやアンドリューの寝顔を見て、何故か、親父の冷たくなった手の感触を思い出した。感触を振り払う様に、両手を強く握り締める。


小説の世界、しかも王子様という状況を、どこか遠い世界の出来事のように感じていた事に、今頃になって気がついた。

ヘンリーは自分を笑った。

自分はこの世界を生きているつもりだったが、心の中のどこかで「現実じゃない」と思っていたのだ。そう考える事で、自分を守っていた。失敗しても、どうせ現実じゃない・・・だからあれだけ大胆なことが出来た。



子供が生まれて、親父が死んで-ようやくわかった。





この「ハルケギニア」という、ふざけた世界に生きている俺は「現実」なのだと








生きたいと思った。




生きて、生きて、死ぬまで生きて。その間にやれるだけの馬鹿をやって。怒られて、呆れられて。だんだん大きくなる息子の成長を見守って、いつの間にか追い越されて、足腰の立たないよぼよぼの爺さんになって・・・


「・・・死んでたまるか」


死んだら、ミリーの困った顔を見れなくなる
死んだら、アルバートやトマスに馬鹿を言えなくなる
死んだら、ジェームズ兄貴やデボンシャー伯に怒られなくなる
死んだら、シェルバーンやエセックスの爺さんの説教が聞けなくなる


死んだら・・・キャサリンやアンドリューに会えなくなる



「死んでたまるか」



ふぇ・・・あむ・・・

一瞬、アンドリューが笑ったような気がした。





「・・・頭が痛いな」

ハヴィランド宮殿の国王執務室。新しく部屋の主となったジェームズ1世は、報告書に目を落としながらため息をついた。皇太子として国政にかかわる状況と、国王として国政の全責任を担うのはわけが違う。国王に即位してからわずか半年の間に、これだけの国際情勢の急変にさらされたのだ。心なしか、頭の白髪が増えたように見える。

若き国王は、こけた頬を億劫そうに動かす。

「ヘンリー、お前の見解を聞かせて欲しい」

最高権力者は臣下に弱みを見せてはいけない。それは即、王の権威低下に繋がる。たとえどんなに苦しくても、どれだけ重大な判断であっても、最後の判断は自分で下さなければならない。ジェームズ1世は、初めて経験する-そして死の瞬間まで担い続けなければならない、最高権力者としての重責と重圧に、必死に耐えていた。

真面目な兄貴のことだ、適当に息抜きだなんてことは、考えたことすらないだろう。ならばせめて弟として、出来る限り兄を支える。自分が生き残るためにも-ヘンリーは図らずも、生前のエドワード12世が考えていた、兄を弟が補佐する体制を、自分の意思で決めたのだった。


ジェームズは何よりもまず、この緊張状態を生み出した大国について問うた。

「ガリアはどうでる?」

ヘンリーはシュバルト商会から手に入れた独自情報もあわせて、自分の見解を述べ始めた。

昨日急死したガリアの「太陽王」こと、ロペスピエール3世は、とにかく自尊心と大国意識が強かったことで知られる。彼の父であるシャルル11世は、諸侯軍を削減して国王直轄の軍を創設しようとしたため、貴族の反乱が相次ぎ、幼いロペスピエール自身も、何度か暗殺の危機に見舞われた。しかし、彼は幸運なことに、かすり傷ひとつ負わなかった。

幼い彼はこれを「自分は始祖ブリミルに愛されているからだ」と考えた。

普通、成長すれば、このような考えは忘れてしまうか、自分の中で馬鹿馬鹿しいと消化してしまうが、彼はそのどちらでもなかった。「始祖ブリミルに愛された自分」を信じつづけたのだ。彼の父であるシャルル11世は、諸侯軍の削減を推し進め、保護主義と産業育成に重点を置く重商主義的政策で、絶対王政への基礎を築いた。シャルル11世の没後も、その遺臣達は意を受け継いで、ガリアの王権強化に邁進した。

ロペスピエール3世が親政を開始したのは、まさにこの時期であった。以後彼は50数年の長きにわたり国政を担い続けた。対外出兵は大きなものだけで13回。結果、ガリアは長年にわたりガリアを苦しめたイベリア半島のグラナダ王国を屈服させるなど、歴史上最大級の領土を獲得することに成功した。だがそれと引き換えに、ガリアの財政は危機的なレベルまで悪化した。繰り返される外征の軍事費にくわえ、獲得した領土の支配コスト、ヴェルサイテイル宮殿の建設に象徴される散財・・・そしてトリステインとの5度目の戦争の最中、ロペスピエール3世は、ヴェルサイテイル宮殿で崩御した。その死は「太陽王」の終焉としては、あまりにもあっけないものであった。

「新しく即位したシャルル12世陛下は、どちらかというと祖父のシャルル11世と同じく現実主義的性格が強いようです」

ヘンリーはロペスピエール3世の葬儀に出席するという名目で、ラクドリアン戦争の仲介役としてリュテイスに赴き、シャルルと会談している。細面の顔は父譲りだが、その目には神の寵愛を信じていた前国王とは異なり、理知的な光があった。


・・・そういえば、ヴェルサイテイル宮殿の礼拝堂に安置されていた棺の横に立っていた、あの髪の青い青年。あれがジョセフだったのかな?逆算したら14歳のはずだけど、そう考えると体がでかかったな。じゃあ、その後ろに隠れて泣いてたのがオルレアン公か・・・あー、よく覚えてない。大体、仲介交渉のことで頭が一杯だったし、忙しかったし。わかってりゃ、もっとガン見したんだけどな。まぁ、遊びに行ったわけじゃないから仕方がないか。

そんなことをつらつらと思い浮かべながら、ヘンリーは続ける。

「財政の問題もあります。なによりグラナダ王国が再び離反の動きを見せていますし、トリステインとも停戦が成立したとはいえ、以前緊張関係にあることに変わりはありません。しばらく身動きは取れないでしょう」

ジェームズ1世は、何か思い出したように視線を泳がせた。

「そうだ・・・シャルルとは昔、チェスで何度か戦ったことがある」
「ほう、いかがでしたか」
「実に堅実で、つまらん打ち方だった」

ヘンリーは声を出して笑った。真面目で面白みがないといわれる兄貴が、まさか他人を「つまらん」と評するとは思わなかったからだ。ジェームズも苦笑しながら続ける。

「だがそれだけになかなか手ごわかったぞ。こちらの動きに合わせて動く-だから隙が出来ない。守りは堅いし、攻めは堅実。チェスの教本の様な、基本に忠実な打ち方だった」

なるほど・・・なんとなく、シャルル12世の性格がわかったような気がする。

「基本的に受身なんでしょうな、シャルル陛下は。先代の負の遺産がこれから襲い掛かってくることも、その対応を誤れば、国そのものの屋台骨を揺るがしかねないことも、十分に承知しておるのでしょう。少なくとも国内で御自身の支持基盤を固められるまでは、動かないですし、動けません」

むしろ・・・ヘンリーは続ける

「気になるのは、ヴィンドボナのホーエンツォレルン総督家です」
「何?あの金貸し上がりの、トリステインの地方総督がか?」

ジェームズ1世の認識は、それほど的外れな物ではない。元は東フランク王国の没落貴族であったホーエンツォレルン家は、金融業で再興を果たし、ヴィンドボナ総督にまで上り詰めた。一度没落を経験したこの家は、貴族的な見栄やプライドに縛られることがなかった。ヴィンドボナの実権を握ってからも、この地のかつての支配者トリステインを名目上の君主と仰ぐことで、自らの存在を覆い隠し、ホーエンツォレルン家の支配を確実なものにした。

いつの日か、完全に独立するために。

だからこそ、この総督家に注目するものは、ほとんど存在しなかった。ヘンリーとて、帝政ゲルマニアが成立するという原作展開を知らなければ、注目することはなかったであろう。それぐらいこの家は、巧みに自らの存在を「トリステイン」という衣で隠していたのだ。

今の情勢は、総督家が長年待ちわびた絶好の機会である。名目上の宗主国トリステインは戦争で疲弊し、国境を接する大国ガリアも、自国の事で手一杯。両国が軍事干渉を行う可能性は限りなく低い。あとはロマリア宗教庁からのお墨付きさえあれば、王政を宣言出来る。

ロマリア宗教庁のトップである教皇は『始祖ブリミルの地上での唯一の代理人』とされる。つまり教皇から王を名乗ることを許されれば、それはすなわち、始祖ブリミルに認められたということと同じ意味を持つ。無論「ロマリア教皇が始祖ブリミルの代理人」というのは建前である。だが、始祖ブリミルの子孫であるトリステイン王家から独立するためには、その建前こそが重要なのだ。自国出身の枢機卿を通じた巨額献金の意味するところは、総督家が王国として独立する最終段階であり、トリステインと決別する意思を固めたということである。

「もはや、古い服(トリステイン)を脱ぎ捨てる時が来た!」

そんな声が、ヴィンドボナの総督府から聞こえてきそうだ。

「・・・献金の事実に間違いはないのか?」
「ラッセル枢機卿からの情報です。間違いはないかと」

ジェームズ1世も、献金の意味するところを察して、頭痛を覚えたのか、頭を軽く振ってから眉間を揉んだ。

「トリステインも、ガリアも動かんのなら、総督家はどう出る?」
「動きませんな」

仮にロマリアへの工作が成功して、王の称号が与えられて独立を果たした場合。宗主国のトリステインは絶対に認めないだろう。だが、軍事干渉は、ガリアと緊張関係にあっては出来ない。ガリアにしても、トリステイン・グラナダに加えて、3つ目の戦線を作ることはしないだろう。旧東フランク王国領内の諸国家-ハノーヴァー王国、ベーメン王国、ザクセン王国、役者はそろっているが、それぞれ自国の事情に縛られて動くことすらままならない。

「要するに、だれもホーエンツォレルン家の独立を止めることは出来ないということです。総督家も今のところは独立さえ果たせば、満足でしょうから」

黙ってヘンリーの発言を聞いていたジェームズだが、次第に顔から緊張の色が抜け、そのかわりに困惑の表情を浮かべた。

「どこも動かないのか?」
「動けないのです」

3国(ガリア・トリステイン・ホーエンツォレルン家)による冷戦構造だ。先に動いたほうが、残りの2国から袋叩きになる。互いに互いを牽制しあって、動くことが出来ない。

「ただ、この状況がいつまでも続くとは思えません。ホーエンツォレルン家が独立した後、周辺の中小国家に攻め込まないという保証はありません」

実際に原作では「帝政ゲルマニア」という、領土だけならガリアに並ぶ大帝国を建国したのだ。ジェームズ1世は再び目をつむり、腕を組んだ。考えるときの彼の癖だ。ヘンリーは黙って王の決断を待つ。

ヘンリーは、自分の役割はあくまで参謀的なもの-情報の収集と分析、それに基づく意見を述べる-だと弁えていた。「最終的な決断は、すべて自分の判断で下せ。そして責任は自分で取れ」兄は父から教えられた通りに、国王たらんとしている。それを弟がしゃしゃり出て、したり顔でああだこうだ言うことは許されない-そう考えていた。

ジェームズはしばらく沈思黙考した後、決断を下した。


「情報だ。もっと詳しい情報が居る。特に総督家に関して。独立だけで満足なのか、それとも東フランクの再興を狙っているのか・・・それでハルケギニアの行方が決まる」




これよりちょうど一ヵ月後。ロマリア教皇ヨハネス19世は、トリステイン王国ヴィンドボナ総督のゲオルク・ヴィルヘルム・フォン・ホーエンツォレルンに「ゲルマニア王」の称号を与えた。



ゲオルグは直ちに「ゲルマニア王国」建国と、トリステインからの独立を宣言。



動き出した歯車は、誰にも止めることが出来ない




時にブリミル暦6212年。原作開始まで、あと31年。



「・・・ヘンリーよ。なんでわしがこんな事を」
「いや、ミリーに任せるにしては、今回は真面目な内容でしたので」

「出番とられた・・・」



[17077] 第15話「正々堂々と、表玄関から入ります」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:b679932f
Date: 2010/10/06 19:29
名言や格言は、短い言葉で、対象となる物事の心理を突く。

たとえば仕事について。アメリカのデパート王いわく

「自分の仕事を愛し、その日の仕事を完全に成し遂げて満足した―こんな軽い気持ちで晩餐の卓に帰れる人が、世の中で最も幸福な人である」

確かにその通りだ。楽しく勉強するものは、いやいや勉強するものより、遙かに効率よく習得できるという。仕事も同じといいたいのであろう。だが実際には、こんな風に考えることのできる人は少ない。特に宮仕えで、それも上司がとびっきりの変わり者だった場合は・・・

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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(正々堂々と、表玄関から入ります)

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パリー・ロッキンガム子爵は困惑していた。上司であるデヴォンシャー伯爵から呼び出されて、宮殿内の侍従長室に出頭すると、そこに居たのは彼だけではなかったからだ。

「よく来てくれたね、子爵」
「へ、ヘンリー殿下?」

本来の部屋の主であるはずの伯爵の椅子に、深く腰掛けて、机の上で手を組むヘンリー王子の姿に、さしものパリーも驚いた。その左右には、まるで始祖を護る従者のように、デヴォンシャー伯爵と外務次官のセヴァーン子爵が立っている。

「とりあえずこれを」

そういってヘンリーから渡された命令書にパラパラと目を通したが、パリーはますます困惑の色を強めた。書類には、いたってシンプルな-「大陸での諜報活動を命じる」の文字。問題はその対象が、何も記されていないのだ。これでは一体、何を調査すればいいのかわからない。

アルビオン東部の名門貴族、ロッキンガム公爵家の3男に生まれたパリーは、15の時に王立空軍に入隊。各地で盗賊団討伐や、亜人対策で功績を立て、子爵を叙爵されたという、根っからの軍人である。軍人であるがゆえに、命令には絶対服従の覚悟はある。たとえ「オーガ鬼とキスしろ」と命令されても、命令ならする・・・

「・・・パリー、お前・・・」

ヘンリー殿下、モノの例えでございます・・・な、なんですかその目は?!ですから、本当にそんなことはしません。

「・・・」

デ、デヴォンシャー伯?何で私から離れるのです?

「と、とにかく、諜報活動をするというのはわかりました。ですが、これだけでは、まるで雲をつかむような話です。単独調査か、それとも複数か、そもそも論ですが、一体どこの、何について調べるのですか?」


パリーの質問に、ヘンリーは一見、何の関係もないように思えることを言い出した。

「・・・君にはデヴォンシャー伯と一緒に、サヴォイア王国への使者として赴いてもらう」
「な、何の使者でございますか?」


殿下は何故かわしに視線を合わそうとしない。ヘンリーに代わり、セヴァーン子爵がその目的を告げる。

「メアリー王女とウンベルト皇太子殿下との、本年末に予定されている結婚-これを延期するよう、交渉に赴いていただきたいのです」
「なっ!」

パリーが驚くのも無理はない。貴族や王族間での「結婚延期」とは、社交界特有の隠語であり、事実上の婚約破棄を意味するからだ。ヘンリーは思ったとおりの反応を返すパリーに、苦笑しながら続ける。

「誤解するなよ?これは文字通りの『延期』だ・・・考えても見ろ。ガリアとトリステインがドンパチしたすぐ後に、ガリア南部国境と接するサヴォイア王国とうちが宴席関係を結んでみろ。人の喧嘩にわざわざ首を突っ込むことになる」
「・・・確かに」

現サヴォイア国王のアメデーオ3世は、ロペスピエール3世(先代ガリア国王)の派遣軍を何度も撃退した、いわば『天敵』である。例え以前から決まっていた事とはいえ、この時期にサヴォイア家とアルビオンが婚姻関係を結ぶことは、否が応でもガリアを刺激することになる。サヴォイア家としても、大国ガリアと事を構えるのは好ましくない。だが、向こう側から「結婚を延期してほしい」とは絶対に言い出せない。通常は「結婚延期=婚約破棄」を意味するからだ。アルビオン側からの申し入れは、渡りに船だろう。

「今年の初めに親父(エドワード12世)が死んだからな。言い訳としては申し分ない。ならこっちから言い出せばいい・・・親父は最後まで娘思いだったよ」

父王の死を揶揄しているようにも聞こえるが、ヘンリーの口調はいたって淡々としたもので-それがかえって、彼の悲しみの深さを表していた。いつも口うるさいデヴォンシャー侍従長も、何も言わない。

「ジェノヴァまではフネで行ってもらう。だが帰りは歩きだ」
「はええ!?」

パリーがこれまた素っ頓狂な声を上げた。デヴォンシャー伯も「聞いてないぞ」という表情を浮かべる。快速船ならサヴォイア王国の首都ジェノヴァまで、約5日だが、トリステインのラ・ロシェール(アルビオンに一番近い大陸の港)から、陸上を歩くなら、馬を使ったとしてもゆうに2ヶ月はかかる。

「ガリアもトリステインも、領空上の船舶航行にピリピリしていてな。行きは通行を許可してくれたが、帰りは駄目だった・・・まぁ、こちらとしてはやましい事はないから、無理にねじ込めば、出来ない事もなかっただろうがな」

パリーはヘンリーの言葉の真意を探る。

「・・・どちらが本題ですか?サヴォイア家への使者か、諜報活動か」

「両方だ」

迷うことなく返された答えに、パリーはたじろぐ。


・・・つまりこういうことか?ラクドリアン戦争の影響で船が使えないことを理由に、堂々と他国の中を歩ける。ついでに諜報活動をして来いと?

「何故、そのような手間の掛かる事を?ガリアにしろ、トリステインにしろ、そのために高い維持費を払って、大使館や領事館を置いているのではないですか」

ヘンリーに問いながら、視線はセヴァーン子爵に向けられている。そもそも、そういう諜報活動を行うのも、在外公館であり外務省の仕事である。一体貴様らは何をしているのだと、自然と口調や視線も厳しいものとなるが、この外交官はピクリとも表情を変えない。

「今回の調査対象は両国ではありません。そもそも、ガリアやトリステインは放っておいても情報が入るようにしております」

何ら気負うことのない子爵の言葉からは、絶対の自信が感じられるが、パリーにしてみれば、根拠のない虚勢にしか見えない。(だったら、ガリアのトリステイン侵攻ぐらい予想しておけ)と皮肉の一つも言いたくなる。無論、自分を含めた軍も、誰一人として予想した者はいなかったので、偉そうなことはいえないが・・・

・・・いや、そういえば、近衛隊の若手将校の一人が「ガリアの動きが怪しい」と言っておったな。わしも周りも聞き流しておったが・・・なんといったかな、あやつの名前は・・・

パリーの思考は、ヘンリーが目的地を告げたことにより、いったん中断せざるを得なかった。


「今回の調査対象はヴィンドボナ-ゲルマニア王国だ」




ゲルマニア王国建国は、名目上の宗主国であったトリステインを激怒させた。すでに何十年も前から、ヴィンドボナ周辺のホーエンツォレルン家支配は確立しており、フィリップ3世や軍高官などは、いずれこの総督家が独立するであろうこと、そしてトリステインにそれを止める力がない事を理解していた。だが、理性と感情はまったくの別物。多くの犠牲を出してガリアを退けたら、後ろから切りつけられたのだ。怒らないほうがおかしい。トリステインで湧き上がった反ゲルマニア感情もむべなるかなである。

それはともかく-『ゲルマニア王国』という国号を聞いた者の反応は2つに分かれた。首をかしげる者と、顔をしかめた人間にだ。

新国王は、ガリア王国のように都市や地域の名前を取って「ヴィンドボナ王国」「ザルツブルク王国」、またはトリステインやサヴォイア王国のように、家名を名乗って「ホーエンツォレルン王国」と名乗ると予想していた。それが何故「ゲルマニア」-ゲルマン人の国なのか?


「まったく・・・根性の悪い爺さんだ」


顔をしかめた後者であるヘンリーは、忌々しげに新国王の顔を思い浮かべる。

最後のトリステイン王国ヴィンドボナ総督にして、ゲルマニア王国初代国王のゲオルク・ヴィルヘルム・フォン・ホーエンツォレルン(ゲオルク1世)。直接会った事はないが、何度か肖像画を見たことがある。特徴的な鷲鼻と四角い顔。その鋭い目つきは、政治家というより、むしろ前世で何度も石を投げてやろうと思ったことのある人種-やり手の銀行家という印象を与える。

「こんな顔の男が、教条的なゲルマン民族主義者なわけがない」


ハルケギニアには過去3度の大きな民族大移動があった。ブリミル暦100年代のガリア人、400年代のゴート人、2000年代のゲルマン人である。彼らは東方から砂漠を渡ってやってきたというが、その詳細は明らかではない。わかっていることは、東から多くの人間が流れてきたという事実である。

始祖ブリミルの子供や弟子たちは、ハルケギニアに4つの国家を建国した。

空中国土のアルビオン王国(ブリミルの長男アーサー)
ハルケギニア大陸の西方海岸から北東海岸一体を領有したトリステイン王国(ブリミルの次男ルイ)
ハルケギニア大陸の大半を領有したフランク王国(ブリミルの3男カール)
アウソーニャ半島のロマリア王国(ブリミルの弟子フォルサテ)

アルビオンとトリステインは王国として現在まで続いている。ロマリアはブリミル暦1000年ごろまでにロマリア王国(現在のロマリア宗教庁)を中心とする都市国家連合に、そしてフランク王国は、ブリミル暦450年に西フランク(現在のガリア王国)と東フランクに分裂。東フランクと西フランクは2500年の長きにわたり、互いを滅ぼし、併合せんと戦いを続けた。しかし、決着は付かなかった。

対立は、ゲルマン民族の大移動にともなう、東フランクの滅亡(2998年)で幕を閉じた。

最初、東フランク王国はゲルマン人の精強さを見込んで、彼らを積極的に受け入れた。ゲルマン人は領内で積極的な開墾を行い、その一部は貴族化した。武力に優れた彼らは、次第に王国の中枢に食い込んでいった。それが国内に亀裂を生んだ。各地でゲルマン人貴族と元から東フランクに使えていた貴族との間で対立が深刻化し、王家の威信は低下した。最後の東フランク国王バシレイオス14世が、反ゲルマン貴族に暗殺されると、もはや国家としての統一を維持することは不可能となった。

東フランク王国を構成する貴族は、没落する者と、それぞれ王国や大公国として独立する者に分かれた。ホーエンツォレルン家は前者である。一方で王国崩壊の原因となったゲルマン人貴族は、入植して数百年しか経っておらず、領地支配は脆弱で、王国や公国として独立出来た家はなかった。

ゲルマン人は旧東フランク領内に、平民や一貴族として広く居住した。その勇猛さを恐れられ、軍人への道を断たれた彼らは、多くが都市部に居住して商人として活躍した。真面目な彼らは自然と大商人に成長したため、既存の商会や、反ゲルマニア貴族の系図を引く国王・貴族の下で、迫害を受けた。身包みをはがされ、追放されたことも1度ではない。こうした環境の下で、ゲルマン人の中に「自分達の国を持ちたい」という思いが生まれたのは、自然なことであった。それは最初の「出来たらいいな」という願望から、次第に知識人やゲルマン貴族の中で『ゲルマン民族主義』-ゲルマン人の国を作ろうという、具体的な政治目的へと成長した。


ゲルマン民族主義と、ゲルマン人の現状への不満は、後者が爆発したとき、より強固に結びついた。


第9回聖地回復運動(4507~10)の際、各国は軍の遠征費用をまかなうため、領内で増税を行った。東フランク領内のベーメン王国でも、軍事費をまかなうために、都市商人を対象に臨時増税が行われた。ベーメン王国は国内にゲルマン人が多く、商人、中でも金融部門に占める割合が多かった。増税に反発してデモを行う彼らに、軍は解散させるために威嚇発砲を行った。

その流れ弾が、1人の少女-マリアの心臓を打ち抜いた

少女の死は、何百、何千年と積もらせてきたゲルマン人の不満を爆発させるのには、十分過ぎた。この知らせがもたらされると、旧東フランク王国領内で連鎖的に騒乱が発生した-「マリア・シュトラウスの乱」である。

このゲルマン人の反乱は、3ヶ月余りで鎮圧されたが、ゲルマン人に与えた影響は大きかった。『ゲルマン民族主義』は、自分達の不遇な境遇を解決してくれる「最後の希望」「救世主」として、ゲルマン人の中で信じられるようになった。


それに目をつけたのが、ホーエンツォレルン家のゲオルグ1世なのだろう。もともとこの家は東フランクの没落貴族である。ヴィンドボナに流れ着いて居住し、金融業で成功して再興を果たした。金融業はブリミル教が「労働なき冨」と批判していることもあり、なり手が少ない。結果的に排他されたゲルマン人が、その多くを占めている-自然と彼らとの付き合いは深い。

東フランクの貴族は、誰もが一度は考える。自分達のルーツである祖国-東フランクの再興を。ホーエンツォレルン家も例外ではなかった。かつて東フランクの再興は、何度も試みられたが、そのすべてが失敗に終わった。誰もが、割れた皿をくっつけようとしても無理なように、一度分裂した国家を、もう一度元通りの国に統合させるのは不可能なのだと考えた。

ゲオルグ1世は、恐らくこう考えたのだ。

「上から駄目なら、下からだ」

上から(国家主導)の再統一が駄目なら、下から-平民や商人に「国を作りたい」と思わせればいい。実際これまでの統一が失敗してきたのも「ブレーメンに商売の主導権を握られたくない」「東フランクの再興といいながら○○王国の主導ではないか」といった批判によって、頓挫したからだ。


割れた皿を、割れる前と同じように復元することは出来ない。

だが、接着剤でくっつけて、同じような物を再現することは出来る。


その接着剤がゲルマン人だ


ゲルマン人は東フランク領内の諸国に広く居住している。商会や金融業で強い影響力を持つ彼らは、誰よりも「自分の国」への願望が強い。ホーエンツォレルン家の祖はゲルマン人ではない。だがこの没落貴族は「仕えるものは何でも使う」という点では徹底したものがある。「ゲルマニア王国」-ゲルマン人の国と名乗るだけで、各国のゲルマン人から無条件にも近い支持を得られるのだ。こんなに安い買い物はない。


現代人のヘンリーには、いろんな国家を無理やり統一しても、ましてや民族を掲げて統一すれば、あとが大変だろうとしか思えなかった。大セルビア主義を掲げて統一したユーゴスラビアの末期を知っているからだが-教条的な民族主義者ならともかく、あの慎重でケチ(リスクに敏感)なゲオルグ1世が、ゲルマン人を使って統一した後の問題点が、わからないはずはない。

だが、往々にして感情は、理性を容易に押し流す-ゲルマン人は「自分の国」を、ゲオルグ1世は祖国「東フランクの再興」を-この両者が結びついた結果生まれる、土石流のような勢いを押しとどめるのは難しいだろう。


だからといってヘンリーは、「はいはいどうぞ」と受け入れるわけにはいかないのだ。ガリアだけでも手一杯なのに、大陸にもうひとつ強大な統一国家が出来るよりは、ある程度の中小国家が互いにいがみ合っていてくれるほうが安全保障上、いいに決まっている。そのほうがラクだし。

「大体、民族主義を利用したつもりなんだろうが-利用しているつもりで、逆に利用されているというのはよくある話だしな」

願望に基づいて行動する現実主義者ほど、厄介な者はない-まして、自分は冷静だと思っている分だけ、余計にたちが悪い・・・


とにもかくにも情報がいるのだが、肝心のアルビオン王国ヴィンドボナ領事館は閉鎖されているのだ。これは準同盟国であるトリステインに配慮したためである。

トリステインとしては、武力でゲルマニアと事を構える気がなくても、独立を事実上黙認せざるを得ない状況であっても「はいそうですか、どうぞご勝手に」とは、国内的にも対外的にも絶対に言えない。国内では弱腰と批判され、対外的には組し易しと見なされるからだ。

これ以上外交失点を重ねるわけにはいかないが、だからといって軍事的冒険は出来ない-そこでトリステインが考えたのが「ゲルマニアの不承認政策」である。

不承認-国家としてゲルマニアを認めない。だからどうしたと思うが、国が国を認めないというのは、それなりの意味を持つ。自国の領土を不法に武力占領している武装集団-そう見なしているのだ。ゲルマニアの軍人や役人が、トリステインの実効支配する領内に一歩でも入れば、強盗団と同じく即時逮捕、処刑しても、法的には違法ではない。実際に行動に移すかどうかとは別問題である。「権利を放棄しない」とだけ言っておけば、それは十分外交カードになりうる。手札は多ければ多いほうがいいに決まっているからだ。

準同盟国たるトリステインが不承認政策をとっているのに、アルビオンが領事館とはいえ、そのまま在外公館を置いておくことは、両国関係にとっても好ましいものではない。「ヴィンドボナとて貴国の領土。なら領事館はこのままでも問題はないはず」と主張できないことはないが、とても同盟国に対する言葉ではない。それにトリステインはアルビオンから出港する船の主要中継拠点港をいくつも抱えているのだ。機嫌を損ねていい相手ではない。トリステイン側からの申し入れ通りに、ヴィンドボナ領事館の閉鎖が決まった。

ゲルマニアの情報収集拠点となる領事館を閉鎖せざるを得なくなった状況に、国王ジェームズ1世も、外務卿のパーマストン子爵も頭を抱えた。王妃カザリンの実家たるダルリアダ大公国はゲルマニア王家と縁戚関係にあるが、大公国は親ゲルマニア-どこまで正確な情報が入ってくるかは疑わしい。

何とかして自前の諜報を-頭を悩ませる2人の前で、ヘンリーがぽつりと言う。


「メアリーの結婚式、どうする?」


何も諜報活動は秘密でなくてもいい。表玄関から入る理由があれば、堂々と国情を観察できる。表に出ている情報だけがすべてではないが、すべての情報が裏に隠されているわけでもないのだ。


こうして「越後のちりめん問屋の隠居」作戦は決行されることになった。




[17077] 第15.5話「外伝-悪い奴ら」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:b679932f
Date: 2010/08/06 19:07
トリステイン王国の王宮は、水の国という通称にふさわしく、中央の大噴水を中心に、四方に水路が巡り渡されている。流れてとどまる事のない水が、王宮という、息の詰まるような重苦しい空間に、開放感を与えている。

ただ一箇所、宰相執務室を除いては

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ハルケギニア~俺と嫁と、時々息子~(外伝 悪い奴ら)

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エスターシュ大公ジャン・ルネ6世-若い頃は、社交界の貴夫人達の羨望と嫉妬を集めた美しい長い黒髪は、白いものが増えて灰色になっている。黒い僧服と相まって、聖職者にしか見えない。唯一、腰に差しているメイジの象徴たる杖が、彼が貴族であることを表しているが、その杖ですら、細身の体にはつらそうだ。彼がまだ30代前半だと聞いたとして、誰が信じようか?

切れ長の目の目じりに刻まれた皺を、ますます深く刻み込むように、エスターシュ大公は、膨大な書類の詰まれた机を睨んでいた。その視線の先は、書類にではなく、どこか遠くに思いをはせているように見える。考えに没頭するため、人払いを行ったため、部屋には大公以外、誰も居ない。この重苦しい静寂の空気をさえぎる事が出来るのは、この国にはただ一人-トリステイン国王しか存在しない。

しかし、当の国王フィリップ3世が、この若い宰相の部屋を訪問することはないため、それはありえない。端的にいえば、彼を嫌ってるとまではいかなくても、敬遠していることは、トリステインに住む者であれば、3歳の童ですら知っている。国家の緊急事態-先のガリア侵攻などでも起らない限り、国王が彼を呼び出すことはない。


国王の個人的信認-より正確に言えば、トリステインに住む者のほとんど全てからの信頼を失ったのは、彼自身の招いた事態である。情けない自分への怒りはあっても、自分自身の現在の境遇や、向けられる視線に対して、不平不満を言うほど、彼は安いプライドの持ち主ではなかった。


「トリスタニアの変」

一昨年、権勢をほしいままにしていたエスターシュ宰相が突如解任。彼のユニコーン親衛隊が解散を命じられ、主だった者が閉門や国外追放の処分を受けた事件である。これという失政のない宰相の解任に、宮中は混乱状態に陥り、一大公家の親衛隊に、国王自らが処分を下すと言う異例の事態に、誰もが首をかしげた。

その後、しばらくして一つの噂が、市中で囁かれるようになった。曰く「大公が国王を追い落として、自ら王になろうとした」

噂の出所はどこかわからない。若干21歳の若さで宰相と言う、国政の重責を担う立場に就任した彼をねたむ貴族は多かった。男の嫉妬-それは出世が絡むだけに恐ろしく陰険である。大公の政策は、どんな無理難題の横車を押してみても、倒すことの出来ない完璧な理由が立てられていた。また、誰がどこらかどう見ても実績を重ねている状況が、ますます貴族達の気分を悪くさせた。正しいことは、正しいがゆえに憎まれる。手柄を立てれば、誰もが喜んでくれるわけではないのだ。

エスターシュ大公は、落ち度はなくとも、自身への反感に火をそそぐ言動を繰り返した。小さい頃から彼には周囲の全てが、頭の回転が遅く、気働きも出来ない愚か者に見えた。だからこそ、嫉妬を買わないようにと、できるだけ丁寧な言葉と態度を心がけていた-それが、慇懃無礼な態度だとは思いもせず。

(20そこらの若造に、馬鹿丁寧な言葉で話されたら、馬鹿にされたと思うよな・・・)

振り返ればエスターシュ自身、とてつもなく鼻持ちのならない人間であったと思う。それが如才のない態度だと思っていた自分は、愚か者としかいいようがない。確かに自分は一流の政策立案者ではあった。問題点を正確に把握し、解決策を示す-だがそれだけだ。官僚であっても、政治家ではない。政治とは、人が行うものだということを知らなかったのだ。政治家云々以前の問題だったのだ。

エスターシュは、その「人」に足元を掬われた。それも、自分自身が絶対のコントロールが出来ていると信じていたユニコーン親衛隊によって。裏仕事をまかせていた女僧侶-本当に僧侶だったかどうかはわからないが-が、自分の知らぬ間に、親衛隊を私兵にして、屍兵を使い、あまつさえ国王陛下の命を狙って、阻止せんとする魔法衛士隊と戦ったのだ。エスターシュ自身は全く関与していなかった。女僧侶に裏工作を任せていたが、「木偶」は、禁制の水の秘薬を使って、精神を支配しているのだろうとばかり思っていた。それがまさか、殺してからよみがえらせると言う、世にもおぞましい事だったとは、想像だにしなかった。いっぱしの政治家気取りだった当時の自分が恥ずかしい。

確かに彼は自身の親衛隊を、正式な近衛隊に昇格させようとしていた。それは魔法衛士隊の能力に疑問を持ったこともあるが、自身の権力基盤を固めようとしたためである。

貴族や宮中で自分が好かれていないという事はわかっていた。大公家といっても、エスターシュ大公家は3代前のルネ3世が領土経営に失敗して、王家に領地を返上。貴族年金をもらって、トリスタニアで暮らす一貴族でしかなかった。ジャン・ルネ6世は、その境遇から抜け出そうと、必死に努力を重ねた。結果、その能力を見込んだ財務卿ロタリンギア公爵の後押しを受けて、ついに宰相に上り詰めた。ところが宰相就任直後にロタリンギア公爵が病没。人望の篤い大政治家の死は、彼の権力基盤を危うくした。幸いにして、ロタリンギア公爵の「エスターシュは、お国のために必要です」という遺志を、国王フィリップ3世が了としたため、なんとか宰相の地位には居られたが、周囲のほとんどが敵と言う状況に変わりは無かった。エスターシュはその中で、必死に自身の立場を維持しながら、改革を続けてきた。

何とか自身の権力基盤を-彼が目をつけたのが、王の側近集団である魔法衛士隊であった。魔法衛士隊は、貴族の子弟達の志願制である。国王や王族と接することの多い彼らの中から、将来の王の側近が見出されることもある。宮廷政治家への近道として、ここに志願する者も多い。

(ここを押さえれば・・・)

評判の悪い自分が宰相で居られるのも、国王の支持があってのこと。宮中を押さえることが出来れば、将来の国王たる者の側近に、自分の息のかかった者をつけることが出来る。幸いと言うべきか、国政の責任を負う宰相としては腹立たしい限りだが-魔法衛士隊は、素行が悪いことで知られている。なら、自分の親衛隊を鍛え上げれば、衛士隊に取って代わることも不可能ではない。エスターシュは親衛隊の名前に、将来的には王の近衛隊にする意思も含めて、ユニコーン(一角獣)の名前を付けた。


ところが、その親衛隊がよりにもよって国王の暗殺を図った-反逆罪とみなされても不思議ではなかった。



自分を救ったのは、以外にも魔法衛士隊の面々だった。事件発覚後、衛兵によって謹慎させられていたため、詳細はわからないが-魔法衛士隊隊長のサンドリオンこと、ラ・ヴァリエール公爵家の三男ピエールと、マンティコア隊隊長の「烈風カリン」ことカリーヌ・デジレ・ド・マイヤール(まさか女だったとは、ユニコーン隊の反乱を知らされた時より驚いた。あの胸で・・・不憫な・・・)が、国王陛下に取り成しをしたそうだ。

その理由がわからない。自分は彼らを排斥しようとしていた本人だ。何故その自分を助ける?謹慎中の身では、本人達に聞けるわけもない。食事を持ってきた家令のイワンに、何気なくその疑問をぶつけてみた。

元々、答えが聞きたくて尋ねたわけではない。この老家令は実直だけがとりえの様な、気の回らない男である。自分より歳は食っているが、それ以上でも以下でもない-その彼が、言い辛そうに話し出す。

「・・・私が、陛下にお仕えするのと、同じ理由だと思います」
「どういうことだ?」

首をかしげる自らの主人に、イワンは意を決して切り出した。

「・・・殿下は、数字や歴史についてはお詳しくても、人というものを知らなさ過ぎます。人とは、殿下のように合理的に、または感情的に・・・ましてや、自分の利益だけのために動くものではないのです」


後頭部を殴られたような衝撃をうけた。


老家令はおっかなびっくりに見返してくる。返事をしなかったことで、機嫌を損ねたと思ったのであろう。返事をしなかったのは意図的ではない。言葉を、返すことが出来なかったのだ。


「ふふふっ」

いきなり噴出した後、口を手のひらで押さえて笑い出した俺に、イワンが思わず後ずさる。若くして宮中の頂点に立ち、影の国王とまで言われた栄光から一転、謹慎を命じられたという衝撃で、おかしくなったと思ったんだろう。エスターシュはその誤解を解こうとしなかった。


「あははははは!」


こらえきれず、腹を抱えて、腰を折るように笑った。外にいた衛兵が何事かと駆け込んできて、笑い続ける俺を見て唖然としている。そんなこと、知ったことか!


こんなに笑ったのは、何年ぶりだろう?


愚か者と、それも一番使えないだろうと自分が思っていた連中に、当たり前のことを教わり、自分の命を救われたのだ。腹が立って、悲しく、情けない。だが、何と痛快なことか!あの馬鹿どもがこのわしの助命のために走り回った理由はもはやどうでもよかった。


なんと人間は奇妙な生きものか!木偶が勝てなかったはずだ!


エスターシュは監視役の騎士たちが奇異の視線を向ける中、一人笑い続けた。


***


事件は内密に処理された。宰相である大公の親衛隊の反乱を公表するなど、ガリアの「太陽王」が攻めてくる理由を与えるようなもの。事件解決の功労者であるサンドリオン達の訴えをいい事に、エスターシュが宰相を辞任することによって「トリスタニアの変」は解決した。

エスターシュ自身は、これまでの功績もあって、王都トリスタニアの屋敷に居住することを許された。体のいい軟禁だったが、彼に不満は無かった。自分に反感を持つ貴族達が流す、根も葉もない噂によって「英雄王を追い落とそうとした奸臣」という悪評が、市中で高まっていく状況にも、何もせずにいた。いまさら政界に復帰しようとは思わない。この事件を前後にして、フィリップ陛下も、政治を熱心に勉強されるようになったと聞く。元々聡明な方なのだ。やる気になれば後は早い。文武両道の名君になる日もそう遠くは無いだろう・・・


エスターシュは心置きなく、残る人生を読書三昧ですごそうと考えていた。


それが、だ


「ガリア軍、トリステインに侵攻!」


急報を聞いたエスターシュは、目の前が真っ暗になっていくのを感じた。





戦争には勝った。セダン会戦でガリア軍を寡兵にて打ち破り、リール要塞に篭って、持久戦に持ち込んだことが幸いした。秘密裏に各国に仲介交渉を打診していた最中にもたらされたガリア国王ロペスピエール3世の死は、トリステイン国内を沸かせた。

「ガリアに死を!」「卑怯者を打ち破れ!」

この間、ずっと屋敷の自室にこもっていたエスターシュにも、興奮した市民の叫び声が聞こえてきた。


仮にもこの宰相だったエスターシュには、トリステインの現状は手に取るようにわかる。この勝利が「薄氷の勝利」に過ぎないことも。もしロペスピエール3世が死んでいなければどうなったか-考えるだに恐ろしい。

国内での持久戦-あの状況では、長引けば長引くほど、ガリアの優位は明らかであった。ガリアはその気になれば、あと5万の軍を動員出来るのに対して、トリステインはセダン会戦で動員した8千が、首都とその他の国境警備を考えると、動かす事が出来る事実上の総兵力であった。会戦で2千人余りの戦死者を出した上で、さらに兵力を動員しようとしても、人がいない。傭兵を雇おうにも、劣勢の軍に好んで付くような者は存在しない。おまけに、ここ数年の不作で、財政状況が思わしくなかった。リール要塞を維持できるか、補給物資が送れなくなるのが先かという状況だったのだ。もしロペスピエール3世の死が、一ヶ月でも遅れていたら、今、市民がデモを行っているブルドンネ街を闊歩していたのは、ガリア兵だったのかもしれないのだ。

憂鬱な気分に浸る彼の元に、王宮からの召集状が届いたのは、その直後であった。




セダン会戦がトリステインにもたらした影響は大きい。ガリア国境線の村々が踏み荒らされて荒廃したことは勿論、2千もの兵が永遠にトリステインから消えたのだ。

実際のところ、兵が2千いなくなろうと、平民や下級貴族が何人死のうと、トリステインの国体は微動だにしない。エスターシュは戦死者のリスト-中でも、仕官や将官クラスの戦死者を見て、思わず倒れそうになった。王太子フランソワをはじめ、軍司令官のヴァリエール公爵とその長子ジャンと次男マクシミリアン、自身の後任である宰相のブラバント侯爵・・・トリステインの中枢たる人物が、ことごとくヴァルハラ(天上)に召されたのだ。

中でも王太子フランソワの死が、トリステインに与えるであろう影響は計り知れない。彼の死は次の国王たる者が死んだという事だけにとどまらない。


フランソワは、フィリップ3世の子供ではない。その父はアンリ7世-フィリップの兄にして、先々代の国王である。フィリップはアンリ6世(豪胆王)の三男に生まれた。二人の兄、長兄のアンリと次兄のルイがいたため、まさか彼が王になると思う者は誰もいなかった。元々魔法の才があり、軍事教育を中心に受けて伸び伸びと育った彼は、よく言えば父王譲りの豪胆な、悪く言えば単純な性格に育った。政治的なことを考えず、職務に忠実で命令には絶対服従-王族出の軍人としてはこれ以上ふさわしい性格にはない。

父の死後、長兄のアンリが王位を継いだ(アンリ7世)が、その10年後、はやり病で崩御。残された子供が幼かったため、王弟のルイが急遽即位した(ルイ18世)。ところがその5年後、ルイ18世もまた突然に病死したのである。混乱する宮中に、ヴァリエール公爵家から、ヴィンドボナ総督領に属するツェルプストー侯爵家と交戦状態に陥ったという知らせがもたらされ、混乱は混沌になりかけた、その時

「何を迷うことがある!貴様らそれでも貴族か!俺は行くぞ!」

そう一喝して飛び出したのが、陸軍少将の地位にあったフィリップであった。下手をすればヴィンドボナ総督家が乗り出しかねないとして、必死にやめさせようとする外務次官の腕を振り払い、単陣出撃した王族のあとを、誰もが必死に追いかけた。

紛争の理由は、ツェルプストー侯爵家の分家である一子爵家の暴走がきっかけであり、軍勢の数も少なかった。それでも、分家を見捨てることが出来ないツェルプストー侯爵家は、しぶしぶながら出陣したというのが実情である。それでも、数少ないゲルマン人の血を直接引く「ゲルマン貴族」のツェルプストー侯爵家は精強で知られ、ヴァリエール公爵家側は苦戦していた。

そこに駆けつけたフィリップ率いる数百の兵が、奇襲を掛けて、散々に打ち破った。

王都に帰還したフィリップを待ち構えていたのは、市民からの熱狂的な歓迎と、王座であった。閣僚や高等法院も、戦功を立てたフィリップより、未だ8歳である先々代の一粒種フランソワを王位につけるのは、さすがにためらわれたのだ。

フランソワを次期国王とすることに、兄を敬愛していたフィリップ3世に異論はなく、フランソワは王太子となった。魔法の才こそ叔父ほどではなかったが、それでもトライアングルクラスと、人並み以上。また政治的手腕に恵まれた彼は、エスターシュ大公の急進的とも言える改革にも理解を示しており、大公が失脚した後も、大公派と貴族の間の仲介者として、国政安定の要であった。


その王太子フランソワの死がもたらすもの-大公でなくとも、少しは見識のあるものなら、暗澹たる気持ちになろうというものだ。また自身の後任宰相であるブラバント侯爵は、大公派と貴族の間で、巧みに自身の勢力を保ってきた中間派。その「バランス感覚」は、この難しい国際情勢では何物にも変え難い。


失われた人材を一人一人挙げていればきりが無い。それほど、多くの高官が失われたのだ。


そう、失脚した自分を、再度呼び戻さなければならないほどに・・・




久しぶりに会ったフィリップ陛下は、上奏にわかったふりをして厳かに首を振ったり、ダンスやカードで子供のように自分と張り合った彼とは、明らかに違った。丁寧にチック油で手入れされた顎鬚や、自分とは比べ物にならないがっちりした体格は変わっていなかったが、長かった髪は短く整えられ、その目の周りに、黒々とした隈をつくっていた。相変わらず豪華な服を身に纏っているが、憔悴した気配は隠しようも無い。

「貴様を呼んだのは他でもない。もう一度宰相をやれ」

回りくどい言い回しが嫌いなのは変わっていない。笑う気にはならなかったが、意図せずに、口元を皮肉気にゆがめていた。

「私は、一度失敗した身です。もう一度はこの世界にはありえません」
「それは貴様自身の事だろう。政策には何の関係も無い」

切り返しがうまくなられた。昔は自分の言うことに全く反論できなかった閣下が。思わず笑ったエスターシュを、にこりともせずにフィリップは見ている。その様子に、思った以上に成長されたと喜びながら、エスターシュは断ろうとした。

「お気持ちだけ「講和する」

その言葉に、エスターシュは初めて反応した。国政への復帰、ひいては宰相への再登板も、予想しなかったわけではない。この状況で王宮に呼ばれて、チェスの相手をして帰るだけだと思うのは、よほどの大器か、大馬鹿者のどちらかだ。

現在、トリスタニアでガリアとの講和を正面きって主張することは、自殺行為に等しい。王太子フランソワをはじめ、多くの犠牲を出した上、国境線が踏みにじられ、多くの難民が発生した。上は貴族から、下は平民まで、怒り狂っている。その怒り狂っている一員とばかり思っていたフィリップ陛下が・・・

こちらの思惑など知ったことではないといわんばかりに、フィリップ3世は告げる。

「貴様が悪役になれ。いまさら気にする名声もあるまい」


・・・どうやら、思っていた以上の悪人になられたようだ

エスターシュは、今度こそ口元を大きくゆがめた。それが喜びなのか、寂しさなのかはわからなかったが・・・





今現在、トリスタニアのみならず、トリステイン国内で「エスターシュ大公」の名は「売国奴」と同じ意味を持っているといってもいい。その名を聞くだけで、老人から赤ん坊までが、嫌悪感をあらわにする。その嫌悪感の対象たる大公自身は、最近、皮肉げな笑みがトレードマークになりつつある。

(陛下の思惑通りだな)

フィリップ3世の考えどおりに、ガリアとの講和は、国内の猛反発を引き起こした。そしてその不満は、フィリップではなく、宰相に再登板したエスターシュに向かっている。戦場で自ら杖を振るったフィリップの名声は、ボロカスに叩かれる宰相に反比例するように、うなぎ上りである。おそらく陛下はこの名声を武器に、国内改革にまい進するつもりなのであろう。表向きは自分を嫌っているような態度をとっておられるが、裏では使い魔を通じて、自分の意見を頻繁に聞いてこられる。もはや思いつきで増税や政策を行う、昔のフィリップ3世ではない。

(これも、あの2人の影響か)

モノクル(片眼鏡)の下から、昔の厭世的な眼差しではなく、強い意思と決意のこもった視線を放つ男と、顔の半分だけを仮面で覆った、胸の薄い-しかしその下に、誰にも負けない正義感と、本当の勇気を秘めている、姫騎士の顔を思い浮かべる。


洗濯板に耳を引っ張られるモノクル男の顔が浮かんで、また笑いそうになったが、それどころではないと気を取り直す。


ゲルマニア王国独立の知らせは、エスターシュに憤懣をぶつけることによって鎮静化しつつあった、トリステイン国民の感情に再び火をつけた。「これもエスターシュが宰相になったからだ!」「宰相はゲルマニアから金をもらっている!」「もう一度反乱をたくらんでいる」無人の屋敷にはデモ隊がなだれ込んだ。

ここに、エスターシュの評価は定まった。

確かに、いまさら気にするような名声も無いのだが、ここまで露骨にあしざまに言われると、さすがに気分が悪い。身の危険を感じたことも一度や二度ではない。なのに

(本当に成長なされた)

エスターシュ自身は気が付いていなかったが、それは昔の彼を知るものからすれば、本当に考えられない変化であった。




ゲルマニアへの警戒が必要であるという点で、フィリップとエスターシュの意見は一致する。軍部やリシュリュー外務卿は、ガリアとの国境警備を重視するという立場であったが、エスターシュは、新国王シャルル12世が、ガリア国内を掌握するまでには、まだ時間があると考えていた。

不気味なのは、ゲルマニアとゲオルグ1世-傭兵を見せ付けるように解雇したかと思えば、周辺各国に関税同盟を呼びかけたりと、意図がまるでわからない。平和共存?馬鹿は休み休み言え。トリステインを舐めているのか?いや、あの金貸しに限って、油断の2文字だけはありえない・・・


考えがループに陥りかけたので、気を紛らわせようと、報告書を手に取る。蛇蝎の如く嫌われていようと、宰相の仕事がなくなるわけではない。決済の必要な書類は山ほどあるのだ。

いくつかの書類に目を通してサインした後、外務省報告に目が留まった。

「・・・アルビオン使節団の領空通行を拒否か」

アルビオン王国がサヴォイア王国へ派遣する使節団の、帰りの領空交通を拒否したとの報告。行きは許可して、帰りは駄目・・・ちぐはぐな対応なのは、軍の横槍が入ったからだろう。ラグドリアン戦争で援軍を要請したのに、巡洋艦の一隻すら送ってこなかったと。

アルビオンの判断は責められるようなものではない。空軍力こそアルビオン有数のものであるが、貿易国家アルビオンによって、ハルケギニア1の大国であるガリアとの全面対決は、関連する貿易の断絶を意味する-そんな状況にありながら、むしろ、軍事物資の補給を支援するなど、中立条約違反の危険を冒しながら、最大限の後方支援活動をしてくれた。感謝こそすれ、恨む筋合いはない。だが、最前線に立っていた兵からすれば、戦場に出ずに、物資だけ売りつけに来た卑怯者と考えるのも無理はないのも事実。たとえ物資を破格の安値で提供していたとはいえ、流した血は、理屈で納得できるものではないのだ。


やれやれとため息をつきならが読み進めていくと、ある一文が目に留まった。


「・・・帰路はゲルマニアを通行する?」


条約違反を覚悟の上で補給活動を行ったのに、という意趣返しか?いや、そんな子供の様な真似を・・・



「そうか」



エスターシュは、口をゆがめて笑った。


まったく、どいつもこいつも、性格が悪いやつらばかりだ





半年後、アルビオンはヴィンドボナ領事館を再開した。エスターシュの黙認方針に、抗議を訴える軍や外務省からは猛反発が起ったが、彼は気にも留めなかった。

さらに半年後、エスターシュ大公は病気を理由に宰相を辞職、全ての公職から退いた。余生はヴァリエール公爵家領にある別荘で、晴耕雨読の日々を送り、悠々自適に過ごしたという。



[17077] 第16話「往く者を見送り、来たる者を迎える」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:b679932f
Date: 2010/06/30 20:57
アルビオンの玄関港にして、ペンヴィズ半島の中心都市であるプリマス。

荷物を満載した商船や、取引を行う商人が行き交う港湾は、ここ半年前から例年以上に活気で満ちている。老朽化や取扱量の増加などで、限界に近づいていた港湾施設を拡張する工事が行われているからだ。工事資材を積み込んだ船や、陸揚げされた石材、忙しく走り回る作業員や、それを指揮する現場監督の怒声・・・それらを避けるように、一隻の船が出港した。

軍艦「キング・ジョージ7世」。ブリミル暦2000年代のアルビオン国王・ジョージ7世(騎士王)の名にふさわしく、白で統一されたその船体は、軍艦には見えない優美な姿で知られる。船に乗るのは、デヴォンシャー伯爵率いるサヴォイア王国への使節団59名。本来、軍艦が単独行動することはありえないが、戦時状態が続くトリステイン領空を通過するとあって、単独航海を余儀なくされたのだ。

「トリステインの恩知らずどもめ・・・」

苦々しい顔をした伯爵を乗せた「キング・ジョージ7世」が出港したのと時を同じくして、ハノーヴァー国籍の船が、プリマスに入港した。


「セント・クリスチャン」-ハノーヴァー国王クリスチャン12世の名前を冠した、同国に本店を持つ大商会・シュバルト商会所属の商船である。全長80メイル、航続距離や積載量など、軍船を除くと、ハルケギニアでもこれほどの船を有している国や商会は数えるほどしか存在しない。商船にも関わらず、国王の名前がついているのは、商会が「この船はハルケギニア中に陛下の御威光を知らしめることになります」と、言葉巧みに王の虚栄心をくすぐったため。船名と引き換えに、莫大な建造費の大部分を国庫から引き出すことに成功した。

その離れ業を成し遂げた舌の持ち主である、シュバルト商会代表-アルベルト・シュバルトは、ここ数年、アルビオンへの視察出張が増えた。他の商会や、アルビオン政府の下級官僚などは、彼の商会が主導して始めた港湾整備事業を視察するためだと見ていた。シュバルト商会で一定以上の地位にある者は、商会が密かにアルビオン国内で建設中の、水力紡績工場を視察するためであると考えていた。

確かにそれらも重要ではある。だが、アルベルトには、本人とごく一部の側近しか知らない、ある人物との会談を行うという目的があった。


今頃、ロンディニウムの王宮で昼寝でもしているのだろう-世間の広さと、上には上が居るという事を、自分にまざまざと知らしめたその王族が、商会にもたらす莫大な利益と、法外な無理難題の両方を思い浮かべたのか、アルベルトは深いため息をついた。


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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(往く者を見送り、来たる者を迎える)

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「やぁやぁ、よく来てくれたねアルベルト」

両手を広げて出迎えるのは、現アルビオン国王・ジェームズ1世の王弟であるヘンリー王子。王族でありながら、大商会の主とはいえ、商人に過ぎない自分に、まるで十数年来の友人であるかのように、なれなれしく・・・もとい、親しげに声をかけてくれる。これで自分がこの国の平民なら、感激のあまりに永遠の忠誠を誓うところであるが、残念ながら自分は商会の主。金ならともかく、国家や王族に、ましてや他国の王族に対して、忠誠どうこうという気持ちなど、さらさら存在しない。


ここはロンディニウムにあるシュバルト商会総支店の貴賓室。ハルケギニア全土に名をとどろかす大商会の貴賓室でありながら、まるで教会の待合室であるかのように飾り気がない。シュバルト商会クラスになると、貴賓室に装飾品や調度品などをこれ見よがしに並べてハッタリをかます必要がないからだ。だが、貴賓室に置かれている机にしても椅子にしても、その辺の商人が10年かかっても、買えるような代物ではない。

そんな椅子にどっかり腰を下ろして、親しげな笑みを浮かべるヘンリー。無性に腹が立つのは、自分だけだろうか?紅茶と一緒に塩を出すように命令しておくか・・・


アルベルトが、小学生の様な嫌がらせを思い浮かべていることなど知る由もないヘンリーは、必要最小限だけ付いてこさせた侍従を控えの間に下げ、自ら部屋全体に「サイレンス」を掛けた。アルベルトも秘書のサニーに命じて、人払いを命じているので、これでこの部屋の会話が洩れる心配はない。


机の上にアルビオンとハルケギニア北東地域の地図を広げながら、一見、親しみやすそうに見える笑みを浮かべた王弟は口を開く。

「ロサイス軍港の工事がおわったそうだね。僕も視察に行ったけど、まるで別の町かと思ったよ。さすがシュバルト商会だね」
「ありがとうございます。これもひとえに陛下の御威光あってのものです」

嫌味で答えるが、まったく気にする様子もない。むしろ楽しんでいる気配すらある。塩じゃなくて、明礬にするか・・・


さかのぼる事2年前、水力紡績機の情報独占と引き換えに、シュバルト商会とアルビオン政府-ヘンリーとアルベルトは、いくつかの契約(密約)を結んだ。そのうちの一つに、国家インフラの整備-港湾街道整備事業への出資が含まれていた。

街道整備に関しては、現在アルビオン財務省が主導して行っている領地再編がひと段落してからの話なので、現状の街道補修と整備にとどまっている。そこで、港湾整備を先攻して行うことになった。


空中国家アルビオンにとって、港の重要性は大陸諸国と比べ物にならないぐらい高い。港とはいっても、海の帆船のように、沿岸部にだけ存在するのではない。風石を使用した船が大型化するに従い、内陸部まで、一度に大量の物資を運搬出来るようになった。そのため、人口の多い内陸部の大都市にも、元々の湖や河川を利用するなどして、港湾が整備されるようになった。


翼をつけた空飛ぶ船という、魔法が存在するSF世界の中でも、飛び切りふざけた存在であるこの船(ニュートンが知ったら「引力なめんな」と激怒するだろう)は、「風石」という鉱物を原動力とする。

風の力の結晶とされる風石は、振動を与えられると、浮力を生じる。この空飛ぶ無限のエネルギーを秘めた鉱物のコントロール技術を、始祖はハルケギニアに伝えた。振れば飛ぶのだから、魔法の使えない平民であっても使用可能だ。もっとも、風石の鉱脈探しや、採掘・加工に関しては、風や土系統の魔法が必要であるため、完全に平民が自由に扱える代物ではない。そのため、この「魔法が仕えなくても空を飛べる」という風石は、軍事的観点や平民に必要以上に力を持たせることを警戒した貴族や各国政府によって、平民の利用に厳しく規制が設けられた。

状況が変わったのはブリミル暦4531年。四十年戦争と小麦飢饉によって疲弊したアルビオンを立て直すため、国王リチャード12世は、規制緩和を中心とした改革を断行したが、その経済再建策の一環として、平民への風石供給量を拡大させた。民間資本は競って船舶に風石を利用。爆発的な技術革新により、船舶の高速化と大型化が進んだ。いち早く民間資本への解禁を行ったことにより、アルビオンの船舶建造技術は、ハルケギニア一と呼ばれるまでに成長した。かつて船舶は、50メイル程度の規模が限界だとされていたのが、現在ロサイス工廠で建造中の「キング・ジョージ8世」は、全長150メイルにも達する。

船の高速化と大型化に成功した民間商船は、ハルケギニアに物流の革命をもたらした。以前とは比べ物にならない速さで情報や物が駆け巡り、それによって経済成長のスピードと規模も拡大した。経済成長は人口の増加につながる。ブリミル暦4000年初頭のハルケギニアの人口はおよそ3000万人だったが、5000年の初めには5000万人に、アルビオンも300万人から500万人に達したとされる。

しかし、人口の増加にともない、港湾施設の狭さと老朽化が問題となった。湖や河川を利用して建設された港湾だが、当初の取り扱い予想量を、経済発展と人口増が追い越してしまったのだ。夜間照明も満足にない状態では、港の使用時間は限られている。港湾職員が、朝から晩までフル稼働しても、都市で物資が足りなくなるという、信じられない事態も発生した。

いずれ陸上ドックの拡張など、港湾施設の設備を行わなければならないというのは、誰もが認めるところであったが、必要とされる莫大な資金に、港湾を保有する都市の大貴族は無論、アルビオン政府ですら、理由をつけて後伸ばしにしていた。出資を求められたアルベルトがしり込みしたのもむべなるかなである。


2年前発足した「アルビオン公共交通事業公団」は、そのアルビオン国内の街道・港湾整備事業への出資を目的としていた。ヘンリーのアドバイス(それが気に食わないのだが)によって、シュバルト商会が主導し、14の商会と、アルビオン国内の富裕貴族が出資した、この半官半民の会社は、出資額に基づいて利益を配分される共同出資の形をとっていた。うまみは減るが、リスクも分散できるというわけだ。

港湾整備の計画に関しては、スラックトン宰相を議長に、王立空軍司令官(空軍大将)、内務次官、内務省港湾局長、港湾設備を保有する大貴族に商会側責任者が参加した「港湾設備調整会議」が論議。結果、軍港であるロサイス・プリマスに始まり、人口5万人を抱える大都市のバーミンガム・マンチェスター・リヴァプールの、都市整備も含めた港湾拡張、そして東部のエディンバラ、ニューカッスルへの新港設置などが順次決定された。


都市整備に関しては、シュバルト商会が強く求めた。アルビオン総支店長のデヴィトは、港湾整備事業と同時に、秘密裏に水力紡績工場建設に奔走したが、河川沿いの工場用地の確保、工場作業員宿舎の確保と、事あるごとに用地問題に苦労させられた為である。中途半端な投資をするくらいなら、思い切って俺らの思う様にやらせてもらいたい商会側と、中長期的観点から見れば、願ったりかなったりのアルビオン側の思惑は一致した。

だが、総論賛成各論反対-経済的合理性で物を考える商会側と、行政官として現状から物を考える内務省官僚の隔たりは大きかった。両者は、喧々諤々、時につかみ合い、取っ組み合いの論争(?)を経て、後に「近代都市計画の原型」とされる、都市整備計画案をまとめた。

これまで「都市整備」という考え方は存在せず、教会を中心に、必要に応じて貴族屋敷地区・各職人街・宿屋街・下町などが次々にぶら下がる、いわゆる葡萄型であった。よく言えば猥雑で活気があり、悪く言えば無秩序。入り組んだ道路は、火災などの非常事態への対応を遅らせると同時に、平時では流通を妨げ、経済発展の障害となっていた。

作成された都市整備計画案では、まず中央街(教会や官庁街)を基点に、幅20メイルにも及ぶ中央通を通して、道路を張り巡らせる。道路の下には上下水道を整備して、衛生環境の改善を図り、公共交通機関として、誰もが利用できる駅馬車を通した。将来的な都市の拡張を見込んで、これまでのような無秩序な拡張ではなく、放射線状や碁盤目状に行われるように、先んじて道路で土地区画を区切ることになった。パリ大改造とまではいかないものの、ここまで出来ればたいしたものだと、計画書を見たヘンリーは唸ったものだ。


「バーミンガムでは、お宅のデヴィトと、うちのスタンリー男が、そうとう激しくやりあったそうだな」

人のよさそうな(蛙にそっくりの)デヴィトと、一見飄々としたスタンリー男爵。ああ見えて両方とも、そうとう強情者だからな・・・可哀相に、間で苦労したバーミンガム市長は、白髪としわが増えたそうだ。

アルベルトは、そんなことは知ったことではないと言わんばかりに、言い放つ。

「議論のないところに、発展はありえません」

どことなく棘のある対応に、ヘンリーは肩をすくめる。まったく、僕がいつ嫌われるようなことをしたかね?むしろ感謝して欲しいくらいだ。王立空軍の説得は大変だったんだぞ?

シュバルト商会の要請で、港湾の管理は、内務省港湾局に一元化することになった。港湾施設の管理権を持つ大貴族達は、港湾の維持管理費を政府に丸投げできると、同意したが、軍港に関しては、司令官のチャールズ・カニンガム空軍大将をはじめ、王立空軍が渋った。スラックトン宰相が粘り強く(しつこく)説得、最終的には、非常時の管轄権は軍を優先するという条件で、折り合いをつけた。


・・・あれ?俺何もしてない?



「んんッ・・・ところで・・・」

次にヘンリーが切り出す内容が予想できたアルベルトは、商売上の笑みを浮かべていた顔を不自然にゆがめた。自分にだって最低限の良心くらいはある。ましてや、自分がやっていることは、商人として失格といわざるを得ない。


顧客の情報を、特定の人物に洩らしているのだから・・・


・・・という具合に、自分で自分を罵倒することで、最低限の良心に言い訳をするアルベルト。とはいえ、いつもいつも、この糞が・・・王弟に先んじられるのは面白くない。


顧客の欲しいものを予想するのも、商人として必要な能力だ。


「ゲルマニアの何を、お聞きしたいのですか?」

一瞬、驚いた顔をしたヘンリーだが、すぐに笑みを浮かべる。

「勘が良くて助かるよ」


先の水力紡績機を巡る密約の一つ-シュバルト商会が、アルビオンの耳として(ヘンリー個人に)情報提供を行う。もしこれが第三者の耳に入れば、シュバルト商会は、ハルケギニアで、2度と商売が出来なくなる。築き上げた信用を全て失うかもしれないというリスクを犯してでも、水力紡績機の情報を独占することを、アルベルトは選択した。シュバルト商会は、旧東フランク諸国を中心に、ハルケギニア全土に支店を持つ。「エルフ以外となら、誰とでも商売をする」と陰口を叩かれる情報網は伊達ではない。ガリア国王ロペスピエール3世崩御の情報も、ヘンリーはシュバルト商会経由で得ることが出来た。

そのシュバルト商会をしても、先のガリアのトリステイン侵攻は予測できなかった。元々、ガリアを中心とした旧西フランク諸国は、ロマリアに本店を持つロンバルディア商会の勢力圏で、シュバルト商会は遅れをとっていた。折悪しく、その時アルベルトはロンディニウムに滞在していたため、否が応でもヘンリーと顔合わせをせざるを得なかった。

その時の、目の前の男の笑みときたら!

密約がなくとも、これだけの軍事作戦を、察知することが出来なかったのだ。情報こそ生命線である商会にとって、これは深刻な事態だ。もし戦争が長引けば、国境を越えて行う商取引や、金融業に与えた影響は計り知れなかったのだ。アルベルトは各支店に、情報収集機能の強化を命じていた。

同じ失敗は2度としない。簡単なようで難しいことだが、アルベルトはいつでもそれを成し遂げてきた。

さあ、どんな質問でも、ばっちこーい!

「・・・どういう意味だ?」
「・・・わかりません」

「まぁいい・・・ゲルマニアについてだが。近日中、もしくは半年以内に、軍事作戦を起こす兆候はあるかね?」

ヘンリーの言葉に、大商会の代表は首をかしげた。


ラグドリアン戦争終結の戦塵覚めやらぬ緊張状態の合間を縫って、トリステイン王国ヴィンドボナ総督のホーエンツオレルン家が独立を宣言したのが2ヶ月前のこと。

トリステインは、上は国王から、下はトリスタニアの平民にいたるまで、反ゲルマニア一色に染まった。アルベルトが付き合いのあるトリステイン貴族から集めた情報によると、王宮は、リシュリュー外務卿を初めとする外務省や文治官僚は強硬派、逆に軍部が慎重論を唱えて二分されている。「軍事介入も辞さず」という一部強硬派の意見を、宰相に返り咲いたエスターシュ大公が矢面に立って、不満を一身に引き受けながら、押させている状態だという。国王フィリップ3世も、軍の派兵には反対なのだろう。「ゲルマニア討つべし」一色の世論では、表立って反対意見を述べられないために、わざわざエスターシュ大公を再登板させるという、遠まわしなことを行ったのだ。

「・・・」

アルベルトの解説を聞くヘンリーの反応は思わしくない。腕組みをしながら、机に広げた地図に視線を落としたままだ。服の下にいやな汗をかきながら、話を続ける。

「国境を接するガリアは、国内の引き締めで手一杯です。イベリア半島のグラナダ王国、トリステインに続いて、3つ目の戦線を戦線を自分で築くとは思えません。王の称号を与えたロマリアにしても、わざわざ喧嘩を吹っかける理由が見当たりません。旧東フランク諸国にしても・・・」

ヘンリーが口を開いた。

「そんなことは、君に言われなくともわかっている」


アルベルトは心の中で舌打ちをした。

まただ。小麦の相場だの、次のロマリア教皇の予想に関しては自信がある。だが、この王弟の考えだけは、さっぱり解からない。暗闇の中で、鼻と耳をふさがれて歩かされているようだ。会話の主導権を握られっぱなしなのは、商人として情けないかぎりだが、事実だけに受け入れざるを得ない。

ワインでもがぶ飲みしたい気分だと思いながら、アルベルトは尋ねる。


「・・・殿下は、ゲルマニアが軍事行動を、軍事作戦を他国に起こすとお考えで?」

肯定だと頷くヘンリーに、アルベルトは肩をすくめた。

「ありえませんな。あのケチな金貸し-ゲオルグ1世ですぞ?現実主義者を絵に描いたような男が。独立できただけでも御の字なのですから・・・」
「国際情勢の講義を受けるつもりで、貴様に会いに来たわけではないぞ」

アルベルトはそれまでの商売上の笑みをやめて、まるで悪戯が見つかった子供のように頭を掻いた。ついつい先走るのは、自分の悪い癖だ。いつもならこんな失敗をしでかすことはないのだが、この王子相手では、どうも調子が狂う。貴賓室をごてごてと飾り付けないように、いまさらヘンリー相手に、見栄やハッタリをかましても仕方がない。


「失礼・・・私の考えはともかく、現状でゲルマニアには軍事作戦の兆候は見られません。食料や武器弾薬など、平時か、それ以下の注文しか受けておりません。他の商会も同様です」

ガリアやロマリアならともかく、旧東フランク諸国の中で、シュバルト商会を出し抜けるものなど存在しない。これは自信でもハッタリでもなく、事実である。

「市場はラグドリアン戦争から以降、下がりっぱなしで、買占めの兆候は見られません・・・それと、ゲルマニアは傭兵団に対して、雇用の延長契約を結ばないと通告しました。つい三日前の話です」

ガリアが常備軍を採用して以降、その有効性(1年中、軍を自由に動かすことができる)は、ハルケギニア諸国で広く理解されていた。だが、実際には財政的な面から、常備軍の導入を始めた国は少なかった。金のかかる常備軍より、問題行動があろうとも、短期の雇用ですむ傭兵のほうがいいと考えていたからだ。

「これから戦争しようという国が、そんなことをするでしょうか?」
「・・・わざと油断させるために、これ見よがしに解雇を行うという可能性は?」

アルベルトは胸の前で手を振った。

「ありえませんな。腹が減っては、戦はできんのです。武器も何もなしの、パンツ一丁のゴーレム軍団だけで作戦を行うというのなら話は別ですが」

何故かブリーフをはいたゴーレムが頭に浮かんで、ヘンリーは噴いた。アルベルトも、ようやく難関を乗り越えたかと、ほっとした表情で続ける。


「これは関係ないと思いますが、ゲルマニアが近隣諸国に関税同盟を呼びかけたそうです。これから戦争しようという国が、商売しようと呼びか「なんだと?」


ヘンリーの口調が厳しくなる。和らぎかけた空気は、一瞬で吹き飛んだ。


「間違いないか?ゲルマニアが、関税同盟を?」
「え、ええ。旧東フランク諸国に対して。私ども商会としては、願ったり叶ったりなのですが・・・」


すでにヘンリーの関心はこちらにはない。眉間に皺を寄せ、腕組みをしながら、考えに没頭している。いつものことだが、彼の考えていることが、さっぱりわからん。ゲルマニアが関税同盟を呼びかけたのが、そんなに重要な事態なのか?

机の上に広げた、旧東フランク地域の地図を見ながら、ヘンリーは呟いた。


「まったく、金貸しが嫌われるわけだよ」


(貴方にだけは、絶対言われたくない)と、金融業も営むアルベルトは思った。



[17077] 第16.5話「外伝-老職人と最後の騎士」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:b679932f
Date: 2010/08/06 18:54
「自由のためなら、名誉のためと同じように、生命を賭けることもできるし、また賭けねばならない」

そう言った「騎士」がいた。

男は生まれながらの騎士ではなかった。貴族でも、軍人でも、ましてや役人でもなかった。田舎の故郷で、少しばかり裕福な家に生まれただけである。すでに時代遅れとなっていた、理想の騎士について書かれた物語を読んでいくうちに、自分を「騎士」だと思い込んだ-善良で、哀れで、愚かな男だった。

架空の姫を恋い慕い、ロバのようにやせて小さい馬を愛馬とし、哀れみか、真性の馬鹿かはわからないが-ただひたすらに、滑稽なまでに忠誠を誓う、気のいい農夫を従者として。自称「騎士」は世直しの旅に出た。

男は、自分が英雄でも、ましてや騎士でもないことを、そして本の中の、自分があこがれた、古き良き伝統に基づく騎士道を守る騎士が、世界からいなくなっている事を、認めようとはしなかった。それゆえ、自分が排斥され、馬鹿にされ、精神病扱いされ、再起不能の大怪我を負っても

粗末なあばら家のベットで、従者に見取られながら、「騎士」は、一人満足して、神の元に召された。

最後まで戦い続けた男の死により、世界から「騎士」を名乗るものはいなくなった。そして、この世から、この自称「騎士」の記憶を持つものがいなくなると同時に、騎士と言う存在すら忘れられる・・・かと思われた。

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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(外伝-老職人と最後の騎士)

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ガリア王国の首都リュテイスは、ハルケギニアでも有数の大河・シレ河と共に成長してきた。ロマリア大王ジェリオ・チェザーレの遠征により、火竜山脈から南を支配されると、当時の国王ロペスピエール1世が、防衛に適したシレ河の中洲に首都を移したのが始まりである。ロマリアを叩き出した後も、王家はこの地にあり続けた。東フランク崩壊後、名実共にハルケギニア1の大国となったガリアの首都に、人や商会が集まり、今では河に沿って5リーグ以上の都市が広がる、ハルケギニア一の大都市へと成長した。

旧市街地から川を挟んで東側、商会の本店や、銀行が連なるトルビヤック街。その一角に、しっかりと石を組み合わせ、漆喰とコンクリートで固めた、4階建てのひときわ高い建物が存在する。

「リュテイス商工会館」-リュテイスに本店を置く、すなわち、ガリア国内で商会や銀行を営む、ガリア商工界の主要メンバーが寄付して建設された会館である。「平民商人の社交場」と言われるように、ガリアで商売をする者にとって、ここで開かれる会議やパーティーに招かれることが、一種のステータスとされていた。



「あのブレーメンの、ロリコンの、ケツの穴がミジンコよりも小さい、イカサマのイン○ン糞野郎が!!」


・・・ここはリュテイス商工会館。ガリア商人のステータスとされる場所・・・のはずである。

会館3階の大会議場には、円形の大机と、それを取り巻くように20脚の椅子が置かれている。机が円形なのは、商人に上下は無いという建前と、いつでも他者を蹴落として、自分がトップに躍り出るという本心を現しているからだとされる。もっとも、そんな話はただの噂でしかない。実際には、上座だの下座だのといったくだらないことで、貴重な時間をつぶしくないという、味も素っ気も無い理由からだ。ここに集う者は、皆が「時は金なり」を身をもって知るものばかり・・・のはず


机の一角に陣取り、先ほどの、余り上品とは言えない内容を叫んでいた男が続ける。

「あの金貸しの吸血鬼野郎が!あ!?貴様らが着飾った服を切れるのは誰のおかげだと思ってる?!あ?私ら『毛織物ギルド』が、一からコツコツと、え?何十年もかけて、ド素人を職人に育ててきたからだろうが?!一体、一人の職人を育てるのに、どれだけの、どれだけの・・・何百、何千年という、先人の、職人たちの汗と血と、魂がこもっていると!!」

興奮の余り、椅子から立ち上がって、机の上に身を乗り出さんばかり。日ごろめったなことで感情をあらわにしない彼には珍しく、ワインも飲んでいないのに顔は真っ赤。太った白髪混じりの髭面と、威圧感を振りまくその言動は、一見傭兵崩れの強盗のように見えなくも無いが、その職業は腕利きの毛織物職人だ。

男-ドミニコは、ただの職人ではない。いくら腕利きとはいえ、それだけで、このリュテイス商工会館はくぐれない。ドミニコは『ガリア毛織物ギルド』の組合長という肩書きで、この会館への入館が許された。

ガリアは元々、その広大な領土から放牧が盛んで、自然と毛織物産業が発達した。自然と、ガリア毛織物産業の元締めである毛織物ギルドは、他国のギルドより優位に立つ。数年前まで-いや、半年前までは、「ガリア毛織物ギルド」は、トリステインやロマリア諸国のギルドをも傘下に治め、毛織物製品の価格決定に関しては、ハルケギニアの5大商会すら口出しさせないという影響力を持っていた。その影響力を背景に、原料の羊毛の購入価格決定に関しても、意のままに進めていたのだが、今回それが、初めて覆される危機に直面した。誰あろう、ドミニコの言う「ブレーメンのロリコン」によって。


「ブレーメンのロリコン」とは、ハノーバー王国の首都ブレーメンに本店を持つシュバルト商会の代表-アルベルト・シュバルトその人である(何故ロリコンかというと、彼は5年前に、17歳年下の、それもかなりべっぴんな女性を後妻に迎えたから-ようは嫉妬だ)。

***

アルビオンで稼働し始めた水力紡績工場の噂を聞いた毛織物職人の誰もが、その荒唐無稽な施設と機械、その目的を聞いた瞬間、鼻で笑った。シュバルト商会がなにやら大規模な用地を取得して、工場を建設しているということは知っていた。それが、まさか、そんな荒唐無稽なことをするためだとは!

羊毛を糸に加工するという、複雑で手間の掛かる作業。羊毛と一口に言っても、一頭一頭、毛質はまるで違う。汚れを取って、質を見極め、少しづつ糸に繰っていく-魔法でも不可能な、神の創りたもうた精密機械-人にしか出来ない。それを、平民の老人が作ったという機械が、代弁する?馬鹿も休み休み言え。お前ら、一度でいいから糸を紡ぎだしてみろ。そんな世迷い語とはいえなくなるだろう。糸は現場で繰ってんだ、帳簿でしか数えたことのないお前らに何がわかる?

「現場の人間なめんな、商人ども」

職人達は、長年の実績と経験から、それが不可能だと判断した。


それゆえ「羊1頭の羊毛なら1日以内で糸に加工する、出来なければ違約金を払う」という、シュバルト商会の条件を、法外ともいえる手数料契約を後払いで結んで、笑いながら受け入れた。「やれるもんならやってみろ」とでも、言わんばかりに


結果は、言うまでもないだろう


「人間なめんな、石頭」とでも言うべきか?それとも神か。


シュバルト商会は、この契約をギルドを通さずに行った。国内外の「ガリア毛織物ギルド」に所属する職人や商会に、個人の伝を頼って人を派遣。一軒一軒、「どうか、お願いします」と頭を下げさせたのだ。本来、紡績作業はアルバイトとして農家などに外注していた作業。職人達は、わざわざギルドに相談することもない(実際これまでもそうであった)と、たかをくくり、気前よく発注した。ギルドから割り当てられた手持ちの羊毛の全てを任せた職人もいる。

冷静に考えれば、大陸一の大商会が、自分たちのような小さな職人と、わざわざ不利益な契約を結びに来るという、不自然な話。警戒して当然、疑問に思わないないほうがおかしいというものだ。

だが、彼らは目先の小遣い稼ぎの誘惑に酔いしれて、契約の不自然さに気付くことはなかった。ギルドに割り当てられた仕事だけをしていれば、食いっぱぐれることはないが、それ以上儲けることはできない。ギルドを出し抜くことは、最低限の生活保障さえ失うことを意味する。

今回の場合、やたら権限にうるさいギルドの機嫌を損ねる心配がない上に、適度な臨時収入が手に入る。それも自分だけが「つて」があったお陰で、他の職人を出し抜いて-信じる者達は、都合のいい事実だけを信じ、始祖と神に感謝しながら、前祝の酒に酔った。


題して「ちりも積もれば山となる作戦、パート3」


パート1と2の発案者である、アルビオンの王弟ですら「お前・・・刺されても知らんぞ」と、呆れたぐらいだ。



糸を持って真っ青になった職人達がギルドに駆け込んでも、時すでに遅し。シュバルト商会は、後払い契約金の支払いを、職人達の後見役であるギルドに求めた。積もり積もった契約金総額は、小国の国家予算にも匹敵する莫大なもので、たとえ「ガリア毛織物ギルド」といえども、そう簡単に払えたものではない。


なんのことはない。シュバルト商会は、最初から嵌めるつもりだったのだ。


そんな商会に狙われた、ハルケギニアでも有数の大ギルド「ガリア毛織物ギルド」の組合長に、何故ドミニコのような、腹芸の出来ない、昔かたぎの職人が就いているのかというと・・・話し出すと長いので、端折って言う。


かつて「神輿は軽くてパーがいい」と言った権力者がいたそうだが、組合員の利益を守る同業者組合の代表がパーでは困る。とはいえ、あまり切れ者なのも、その・・・なんだ、あれだ。ギルド全体の利益主張と見せかけて、当人だけが肥え太ろうとしたことは数知れず。切れすぎる刀は、扱いが面倒くさいのだ。交渉ごとでは、圧倒的な組合員を背景に、いけいけドンドン。そんなものに交渉術といったものは求められておらず、むしろ名誉会長的な存在が望ましい。そして・・・

言い出すとキリがないので、求められる人物像をまとめると・・・


「裏表のない性格で、度量がでかくて面倒見がよく、組合のめんどくさい仕事も嫌がらずにやってくれるが、金の使い込みや、せこせこした策謀を起こす心配はまるでない。人格的に気難しい職人たちからも尊敬を受ける、一流の毛織物職人」


いたのだ、そんな都合のいい人間が。ドミニコは(太い指からは想像も出来ないが)職人として一流であり、また見た目とたがわない面倒見のよさと、裏表のなさを見込まれて、組合長に推された。


そんな、決して軽くとも、パーでもないドミニコを責めるのは、酷と言うものだ。


一体誰が想像しよう?


10人掛りで一週間以上かけて行っていた、糸を紡ぎだす作業を、わずか1日足らずで完成させてしまう機械が存在するとは?


ドミニコ自身は、シュバルト商会から同様の提案を受けていたが、丁重に断った。昔から外注していた農家にすでに発注済みだったこともあるが、人の弱みに付け込んだような契約は、彼の好むところではなかったからだ。それに、人の弱みを知ったからとて、その情報を人に伝えるほど、ドミニコの口は軽くなかった。


彼は良くも悪くも、職人だった。


ドミニコに付いて来たギルド所属の職人達は、組合長のように純粋に怒ってはいない。小遣い稼ぎをしようとしたのは、下っ端の職人達だけではなかった。自分達が欲を掻いた為に招いたという負い目もある。これ以上、恥をさらしたくなかった。

ましてや、金の無心に来ている今は


「お話は理解しました。要は、失敗の尻拭いをして欲しいと、こういうわけですな」

リュテイス商工会館役員にして、ガリア銀行協会会長のリチャード・アークライトの、突き放した言葉に、組合役員は下を向き、ドミニコは顔色を変えた。

「会長!それは、余りにも・・・」
「事実でしょう?自分達の間抜けさの後始末を、尻拭いを手伝えとおっしゃる-童にならともかく、大の大人相手に、これ以上に丁寧な言い方は、私の辞書にはありませんな」

ドミニコは机の上に置いた両手を握り締めた。自分に全く落ち度のない(気が付かなかったという瑕疵はあるが)、組合員達の独断専行の末の失敗であるのに、ギルドの長として、そこから逃げずに、打開のために奔走する彼は、ある意味理想の上司ではある。だが、理想の上司が、必ずしも有能とはいえないのが難しいところだ。

「確かに、その紡績機とやらは、これまでの常識を覆す物だったのでしょう。そして、シュバルト商会が、あなた方の無知と欲に付け込んだ-それも間違いではない」

アークライトは鼻眼鏡を指で上げながら続ける。

「だが、あなた方は『出来るはずが無い』と勝手に即断した。現物の機械も見もせずに-職人でありながら、書類上の金に踊らされた、まさに『労働なき冨』を追い求めた結果ではありませんか?」

痛烈な皮肉に、組合役員達は言葉も返せない。

「労働なき冨」は、ロマリア宗教庁や、熱心なブリミル教信者が、金融やそれに携わる者を批判する言葉。働きもせずに、利息で生活する者はけしからんと、そう言いたいのだ。信者から献金を搾り取り、何の富も生み出さない馬鹿でかい教会を立てている貴様らはどうなのだと、聖堂騎士に聞かれれば、間違いなく胴と首が泣き別れになるようなことを考えているのが、アークライトの今日この頃である。


閑話休題


ブリミル教の教えはともかくとして、職人というのは、腕一本で生計を立てているという自負心から、押しなべて自尊心が強い。それゆえ、金融業者を、どこか一段下に見ているところがある。日頃、自分達を見下しておきながら、この様か-これ以上無い嫌味だ。

そんな嫌味や皮肉の視線にも、ドミニコは目を逸らさらず、逆に睨み返している。組合員達や職人、その家族-自分が逃げることは。彼らを路頭に迷わせることになる。それに、3千年以上続く、毛織物職人の伝統を背負っているのだという自覚があるからだ。

覚悟は買うが、それだけで金を貸すことは出来ない。


「で、シュバルト商会はなんと言って来てるのです?」

ドミニコは目を見開いた。これ以上わかりやすい驚いた表情があるだろうか?何故シュバルト商会が、債権取立ての猶予と引き換えに、条件を突きつけてきた事を知っているのかと、どうしてばれたのかと-それを見たアークライトは、初めて苦笑いを浮かべた。ドミニコの正直さが、滑稽でもあり、うらやましくもあった。

「あ、あぁ、はい。それが、ギルド主導で、業界再編を、業者の数を減らすようにと」
「ほう、それはそれは」

アークライトはドミニコにあわせて、驚いたような顔をしたが、シュバルト商会の提案は、予想通りの回答だ。

現状、毛織物価格が高止まりしているのは、価格交渉に絶大な影響力を持つ「ガリア毛織物ギルド」の存在もあるが-何より、独立した職人の数が多すぎるのだ。少数経営のため、製造コストが高くつき、それが販売価格に影響する。商会などはその事実に気がついていたが、その弊害を是正するのは容易ではない。ギルドに手を突っ込むことは、一人一人の職人達が持つ、既得権益を奪うということなのだ。


今回のシュバルト商会の「だまし討ち」も、一気に業界再編を行うことによって、有無を言わさず、職人達の権益を巻き上げることが目的なのだろう。牙を抜き去った狼など、豚にも劣る。飢えを待って、丸焼きにするなり、家畜にするなり、好きに出来るというわけだ。一番勢力の強いギルドを狙い撃ちにすることによって、あとは各個撃破すればいい。



こうして、シュバルト商会は、ハルゲギニア毛織物産業の新たな王となるのだ。



前述のアルビオンの王弟は、そう言って高笑いするブレーメンのロリコンを見ながら、しばらくお付き合いを控えようかなと考えていた。一緒に恨まれたら、たまったものではない。


アークライトがシュバルト商会の立場なら、同じことを主張していただろう。そして「ガリア銀行協会会長」のアークライトも、同じ事を要求する。


「協会として融資の条件は唯一つ、シュバルト商会と同じですな」
「・・・っ、な、何を!何ですと?!」

憤然とするドミニコとは違い、組合の役員達は、ある意味予想していたのか、さして驚きもせず、そして愕然としながら、その言葉を受け止めた。

高コスト体質を改善しない限り、毛織物ギルドに-なにより毛織物産業全体に、明るい展望は開けない。そして、血を流す改革は、組合員同士の権益を守りながら、品質を維持するという、同業者組合の理念と矛盾する。


「ガリア毛織物ギルド」は、その成り立ちや名前からして、ガリアの職人業者の指導力が強かった。それが、次第に他国の職人達の技術が上がるにつれて、組合のガリア指導に反発が出始めていた。先のラグドリアン戦争の際、トリステイン国内の毛織物ギルドが脱会。それを切っ掛けに、ロマリア諸国のギルドも、ロンバルディア商会が主導する業界再編に、櫛の歯が抜けるように脱会届が届けられ、体制は動揺を始めていた。

この状況で、シュバルト商会からの一撃-シュバルト商会の提案を受け入れるにしろ、ガリア銀行協会から融資を受けるにしろ、「ガリア毛織物ギルド」には、解体という選択肢しか存在しないのだ。


第五回聖地回復運動に参加し「最後の騎士」と呼ばれた、イベリア王国のアマディス・デ・ガウラ子爵は、エルフの攻勢に、聖戦軍が総崩れとなる中、一人で敵陣に突入することを表明。無謀だと止める周囲に、彼はただ一言だけ告げて、馬を返した。


「俺は、騎士なんだ」と


必死に、毛織物職人としてのプライドを守ろうとしている、目の前の老職人を見ていると、何故か、この無謀な騎士の姿が思い浮かぶ。アークライトは、目の前の、おそらく「最後の組合長」と呼ばれるであろうドミニコに、慰めの言葉をかける事はしなかった。


「・・・いかがしますか」

ドミニコは、その両手で、顔を覆った。彼の職人としての人生を刻み込んだ、太くて短い、タコと節だらけの、ごつごつした手で。

震える唇で、何とか言葉を紡ぎ出す。

「・・・何故だ?何故、こうなった?」
「時代、ですかな」

柄にも無いことを言っているのはわかっているが、それ以外に言葉が見当たらなかった。

「ガリア毛織物ギルド」と言えば、ハルケギニアの毛織物職人達の憧れであり、目標であった。それが、今では存亡の淵に-いや、解体へのカウントダウンを始めている。騎士の時代が終わりをつげたように、職人達が腕一本で、国をまたいで渡り歩く時代が終わろうとしていたのだ。水力紡績機は、その切っ掛けでしかない。


アークライトは、もう一度尋ねた。


「いかがいたしますか?」


返事はない。それが返事であった。


***

「帰られました」
「あぁ、そうか」

秘書の報告に、気のない返事を返すアークライト。ドミニコたちが出て行った後も、大会議場から出て行かず、わざわざ持って来させたワインを、浮かない顔でデキャンタからグラスに注ぐ。

誇り高き老職人の幻想を打ち砕く役回りが、面白いわけがない。ドミニコはここで断られても、それこそ「ガリア毛織物ギルド」の看板を背負う、最後のひとりとなっても、金策に走り回るのだろう。間抜けな組合員の尻拭いのためではなく、自らの、毛織物職人としての誇りを守る為に。

ワインのコルク片を手で弄っていると、報告を終えた秘書官が部屋を出て行かないことに気がついた。若い秘書は、躊躇いがちに、こちらを伺っている。

「なんだ?」
「え、ええ、その」
「早く言いたまえ」

いつもハキハキとした彼にしては珍しく、歯切れの悪いその態度。秘書は、やはり言葉を選びながら尋ねた。

「・・・ドミニコ氏は、どうなるのでしょう」

気になることは誰でも同じらしい。アークライトは、唇の端を吊り上げながら、若い秘書官に答えた。


「心配いらん。腕のいい職人は、どこでだって必要とされるものさ」


ギルドがなくなることにより、一番泣きを見るのは、中から下の腕しか持たない職人達である。ギルドという後ろ盾をなくした彼らが、ましてシュバルト商会から莫大な借財を背負った身で、ひとり立ちをしていくことは不可能である。いずれ、職人としての誇りもプライドも捨て、単なる一熟練労働者として、機械の下で働くのであろう。

人の手でなければ、不可能だと考えられてきた紡績ですら、機械化できたのだ。それ以上の事、糸から布地に織り出す作業が、そこから先の工程が不可能だと、神ならぬ-なにより、神に嫌われているとされる金貸しの我らが、どうして判断できよう?


そうなった時、生き残れるのは-ドミニコのような、名実兼ね備えた職人だけ


安心した顔で出て行く秘書を見送りながら、アークライトは、誰もいなくなった大会議場に向かって呟く。


「騎士は死して名を残し、職人は作品を残す、か」


手元のグラスを一気に傾ける。


タルブの5990年-悪くないはずだが-何故か、渋い苦味を感じた。



***

3年後、ドミニコは「ガリア毛織物ギルド」の解散を宣言。残った資本金を、最後まで残った組合員達に分けると、故郷のカルカソンヌで、自分と家族だけの小さな工場を立ち上げた。

太い指に似合わない、きめ細やかな仕事振りは、高い評価を受け、後に、彼とその子孫の毛織物は、高級ブランド『ドミニコ』として確立。長く王家や貴族達に愛されることになるのだが-アークライトはそれを知らない。


まして、異世界の愚かな男が死んだ後に、どうなったか等・・・所詮は一銀行家でしかない彼が、知るはずもない。




男は、「騎士」として、物語の主人公となった。

様々な言葉に翻訳され、多くの人々に、時代と年齢を超えて、長く読み継がれることになった自身の生涯が、故郷の村で、彼が憧れたような内容であったのかどうかは-「騎士」として、その一生を駆け抜ける事が出来た彼にとっては、どうでもいいことであろう。



[17077] 第17話「御前会議は踊る」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:b679932f
Date: 2010/08/06 18:47
「水と安全はタダ」

水と安全のある星には、双子宇宙人が襲ってくる。そして子供達のヒーローである、紅白模様の宇宙人がやっつけてくれる・・・残念ながら、ハルケギニアにはインスタントラーメンの完成を待てない、せっかちな宇宙人は存在しない。よって、この法則は成り立たない。

安全とは何か?

対外的には軍事的脅威にさらされない、国内的には治安が保たれるということに集約されるだろう。後者は前者の担保があってのこと。逆はありえない。国境線の向こうから、いつ鉄砲玉が飛んでくるかわからない場所で、治安がどうこうという話にはならない。それこそ、38度線のように、極度の軍事的緊張によって「安定」はもたらされるかも知れないが、軍人と外交官以外は立ち入り出来ない場所で、安心して商売は出来ない。

要はその場所が、どこの国に属しているか。国防や治安の責任を負う組織と、責任の所在が明らかであり、共にその実力を兼ね備えているか-この最低限のリスクさえ把握できれば、商人はどこへだって出かける。なにせ、あのエルフの住むサハラにも、密かにキャラバン(商隊)を派遣して、交易を行う商人もいるくらいだ。確かに、あの砂漠のど真ん中で、エルフ以上に、信頼できる秩序は存在しない。それなら・・・異端審問の恐怖より、金への執着のほうが勝った、いい例である。

そんな商人がいるおかけで、某エルフの女学者の部屋は、彼らのいう「蛮人」の装飾で満ちているのだ。


閑話休題


ガリアが大国なのは何故か-それは広い国境線と領土を護る強大な常備軍、そして治安を守る責任の所在が明らかだからだ。この裏づけがあってこそ、ガリアの広大な領土と、そこに住む1500万人は、一つの「市場」たりえる。ガリアの貴族領土で、トラブルに巻き込まれても、最終的にはリュテイスに訴えれば、最終的に責任を持って対応してくれるのがわかってるから、商人たちは安心して商いに集中できる。

現在(ブリミル暦6213年)ハルケギニア大陸で、ガリアに匹敵する領土を持つ国は存在しない。統一国家としてはトリステインが続くが、その広さはガリアの10分の1程度。アルビオンにいたっては、トリステインの2分の1程度でしかない。

唯一、ガリアに匹敵する領土と人口を持ちえるのが、東フランク地域-ガリア王家の忌まわしき伝統原因ともなった、双子の兄を祖とする王国の治めていた地域である。統一出来れば、その領土はガリアに匹敵する、人口2000万人の一大国家-市場が誕生する。

東フランク地域の統一-それは幾度も試みられ、国や都市のエゴによって、ことごとく失敗してきた。4210年のロマリア条約によって、名目上存在しつつけていた東フランク王国が、完全に解体されると(擦り切れて紙屑のようになっていたが)数少ない統一の大義名分さえなくなった。

「人のいく 裏に道あり 銭の花」

コロンブスのアメリカ大陸発見しかり、パナマ運河しかり。誰もが夢物語だと決め付け、無理だと諦め、考えることすら放棄した事にこそ、思いもがけない儲け話が転がっているかもしれない。そして、ヴィンドボナの旧総督府-現在のゲルマニア王国王宮の主である老人も、「東フランクの再統一」という夢物語に、莫大な金の臭いをかぎつけていると、ヘンリーは考えていた。

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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(御前会議は踊る)

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「そもそも、このような議題を検討すること自体に、意味はあるのですかな?」

ゲルマニアに対する外交政策を検討する御前会議の冒頭。いきなり全ての前提を否定する言葉をぶちかましてくれたアルビオン王立空軍参謀長ジョージ・ブリッジス・ロドニー空軍中将の発言に、参加者達はそれぞれの反応を示した。


アルビオン国王ジェームズ1世は、手元の書類から目だけを上げて、鋭い視線を参謀長に向けた。

ジェームズの実弟にして、長らく空位となっていたカンバーランド公爵の称号を相続したヘンリーは、会議の波乱に満ちた幕開けに頭痛を覚えたのか、こめかみを押さえていた。

外務卿のパーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプルは、細い顔に不似合いな、その大きな眼をさらに見開いていた。驚いているのではなく、この若い空軍中将の意図するところを探るためである。その形相はまるで出目金だ。

王立空軍司令官のチャールズ・カニンガム空軍大将は、参謀長の暴言はいつもの事だと、平然と鼻毛を抜いていた。船の上では鼻毛の伸びが早いのだ。王族を前にしていい根性である。

そんな空軍大将に眉をひそめているのが、侍従長代理のエセックス男爵と、外務次官のセヴァーン子爵。内務卿のモーニントン伯爵に至っては、参謀長の発言に「ぽかん」と口を開けるばかり。

王国宰相のスタンリー・スラックトン侯爵は、各々の反応を、少しこけた頬まで覆う、見事な顎鬚をしごきながら、面白そうに眺めていた。


そして、そんな部屋の空気を、いっそすがすがしいほど無視するロドニー参謀長。

名門出身でも、閥族の後ろ盾もなく、若干45歳にして、王立空軍の軍事作戦の全てに責任を負う参謀長となった彼には、朝から晩まで、膨大な嫉妬や羨望の感情が向けられている。この程度の反応では、蚊に刺されたほども感じない。人を人とも思わぬ言動で、兵は勿論、下士官や、カニンガム以外の空軍将校の殆ど全てから嫌われているロドニーは、悪感情を差し引いても認めざるを得ない、その明晰で冷徹な頭脳から、会議の議題についての疑問点を列挙していく。


「そもそも、何故ゲルマニアなのです?確かに、ゲルマニア王国が、わが国の準同盟国たるトリステイン王国の仮想敵国なのは間違いありません。ですが、それはあくまでトリステインの話。わが国とゲルマニアの間には、何の外交問題も存在しません」

立て板に水、流れるように、そして無駄なく要点だけを的確に述べるロドニー参謀長。セヴァーン外務次官がかすかに頷きならが、同意見だと表明する。

外交とは(特に問題のない限りにおいては)現状の維持が目的となる。問題が起きなければいい-悪く言えば「ことなかれ」なのが、大方の外交官の心情だ。特に、通商こそが国家の生命線であるアルビオンにとって、大陸諸国-例え相手国どんな小国であっても外交問題を抱えたくないという全方位外交-八方美人外交こそが正しいという見解に至るのは、ごく自然な流れであった。ラグドリアン戦争でも、外務省は、準同盟国トリステインへの軍事行動への支援を渋り、セヴァーン次官が、国王ジェームズ1世直々に叱責されるという事態を引き起こした。

確かに、超大国であるガリア王国に睨まれることは、避けるべき事態ではある。通商的にも、最大の貿易相手国でもあるのだから。だからといって、同盟国の危機に知らんふりをする国は、最終的にはどこからも信頼を受けることは出来ないという、ある意味当然な主張を、パーマストン外務卿や、今はサヴォイア王国からの帰途にあるデヴォンシャー侍従長が声高に主張したため、トリステインへの後方支援活動は決定された。

とはいえ、何もトリステインへ同情したことや、同盟国を見殺しにしたという外聞をはばかったことばかりが理由ではない。アルビオンからの貿易船は、その多くがトリステイン領のラ・ロシェールで補給を行ってから、大陸各国の目的地へと赴く。目的地まで補給無しに航海出来るほど、風石や食料を積載できる船は限られている。港湾使用権をちらつかせながらの補給要請に、アルビオン政府はしぶしぶ認めたというのが実情であった。そんなアルビオンで、わざわざ特定の国を対象にした外交戦略を検討するというのだから、外務省だけではなく、軍とて面白かろうはずがない。確かに、様々な可能性を考え、事前の戦略を検討しておくことは大事だが、むやみやたらに検討する必要はない。


そして、最大の懸念にして、ロドニー参謀長やセヴァーン子爵が抱く、最大の疑問-「何故ゲルマニアなのか」確かにゲルマニアは、準同盟国たるトリステインの仮想的だ。まともな空軍も存在しない中規模国家のゲルマニアなら、敵に回してもたいしたことはない。武力衝突が起きれば、アルビオンは間違いなくトリステインに付くだろう。わざわざ検討するような国ではない


ヘンリーは文字通り「まいったな~」と言わんばかりに、あごを撫でていた。「帝政ゲルマニア」の成立を知らないのであれば、彼らの懸念や疑問はもっともである。帝政ゲルマニアが出来ることを知っているのは、原作展開を知っている自分と、妻のキャサリンしかいない。これが百歩譲って「未来を知っている」のなら・・・それでも電波扱いなのは間違いないが、それなりに説得力のある事を言えるのだが、これはあくまで小説の話。しかも彼は結論しか知らない。どうやって帝政ゲルマニアが成立したのか、まるでわからないのだ。

結論は知っているけど、過程は知らない。カレーの味は知っているが、どうやって香辛料を作るのか知らないのと、同じ理屈だ。「スパイシーで、辛くて、茶色い」これだけでカレーを作れといわれても、魔法でも無理というものである。その無理を承知で、ヘンリーは会議の開催を訴えた。スラックトン宰相は「まぁよろしいでしょう」と後押ししてくれたが、この爺さんの「いいでしょう」は「手伝うけど、責任者はあんただからね」という、究極の丸投げだということを、最近ようやく知った。

完全に任せるということは、最終的には共通して責任を負うのだという、絶対の信頼の裏返しということも。


カレーの味だけでカレーを作れというような話だが、それでもやらなければならなかった。少なくとも原作ではカレーの注文(帝政ゲルマニアの成立)があったのだ。同じ共通認識を持つことは無理でも、いきなり注文されるより、「注文あるよ」と知らせておくことは意味がある。会議を開催したことだけでも、ヘンリーの目論見は、ある程度達成されていた。


さて、どうやって説得するかなと、ヘンリーが考えていると、先にパーマストン外務卿が口を開いた。

「検討すること自体は必要だ。ガリアとの冷戦状態がしばらく続くだろうと仮定した場合、武力衝突が起きる可能性が最も高いのは、かの国だ。その国について検討することは、意味はあると思うが?」

先代国王の時代から19年の長きにわたり、アルビオン外交を主導してきた子爵の発言に、納得はしていないが、ロドニーやセヴァーンも耳を傾ける。亀の甲と年の功の両方を、そして実績を積み重ねてきた老外交官だからこその芸当だ。

その老人にしても、ヘンリーの考えに全面的に納得しているわけではない。特にゲルマニアだけを主眼におく事には反対であった。パーマストンにとって、ゲルマニアは旧東フランク地域に出来た、新興の一国家でしかない。この国だけを重視することは、かえって外交戦略全体にゆがみをもたらすという、国家間の勢力バランスを重視しながら、アルビオンの国益を追求するという、きわめて彼らしい考え方からである。

あぁ、せめて、スパイスの種類ぐらいわかってればなぁ・・・と、ないものねだりをしても仕方がない。とりあえず、現状でわかっている事から、検討できることを列挙し、可能性のあることを述べていくしかない。


ヘンリーは会議の前に、あらかじめシェルバーン財務卿に、その可能性の一つを話しておいた。やらせというわけではないが、自分だけが目立つことは好ましくない。もしこの会議の内容が漏れて、王族である「自分だけ」がゲルマニアを警戒しているということがわかれば、両国関係に無用な緊張をもたらしかねない。その点、閣僚とはいえ、シェルバーンはアルビオンの一貴族に過ぎない。替えだってきく。



ずるい?作戦といって欲しいですな。作戦と



どうせまたろくでもないことを考えているんだろうと思いながら、シェルバーンは綺麗にそった頭を光らせて、発言の許可を求める(余談だが、彼のあだ名は「逆さホタル」である。無論、名づけ親はヘンリーだ)

「まず、ゲルマニア王国に関する動きですが-つい先月『ヴィンドボナ通商関税同盟』が締結。参加国は、主導したゲルマニアを始め、ダルリアダ大公国、トリエント公国、バイエルン王国、そしてヴュルテンベルク王国の5カ国が参加しました」

「・・・旧東フランク地域南西諸国か」

机に広げられた、縦横7メイルにもなるハルゲギニアの大地図を見下ろしながら、カニンガム大将がつぶやいた。

****************************************

(ブリミル暦6213年の旧東フランク地域)



                          ボンメルン大公国
               北
              部
             都
            市            ザクセン王国
           同
          盟
              ハノーヴァー王国

    トリステイン王国                 ベーメン王国

                            
              ゲルマニア王国

            ヴュルテンベルク王国          バイエルン王国
                     ダルリアダ大公国
                 トリエント公国
ガ リ ア

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クルデンホルフ大公国は未だ国として確立していないが、トリステインに属する大公として、大公国時代と同じ領土を、ガリアとの国境に有しており、先のラクドリアン戦争でも最前線で奮戦した。ヴェルサイテイル宮殿を護衛する傭兵で有名なベルゲン大公国は、ガリアとヴェルデンベルク王国の国境に存在するが、外交権はガリアに属するため、ここには書かれていない。同じように、外交権を保有していない公国や侯国も未記載だ。

領土の規模で言えば、ゲルマニア・ザクセン・ボンメルン・ベーメンの4カ国が、トリステイン領の約2倍、バイエルン・ハノーヴァー・北部都市同盟が、トリステインと同じ規模の、ヴェルデンブルグ王国がトリステインの4分の1で続き、ダルリアダ大公国・トリエント公国がクルデンホルフ大公家領と同じ規模の領土を領有している。

ヘンリーは何十年前に見た、ウ○キペディアのハルケギニアの地図を思い出して比べてみる。ガリアがいかに桁違いか、帝政ゲルマニアの領土が、どれほど広大だったかがわかる。


ってか、よくこれでトリステイン滅ぼされなかったよなぁ・・・ジョセフがその気になれば「プチ」でやられちゃうよ、「プチ」で。帝政ゲルマニアとなら、塵のように吹き飛ばされるって。よくゲルマニアを「成り上がり」って馬鹿に出来たよな。俺なら怖くて出来ねえよ。無謀と勇気を履き違えてるよな・・・いつまで大国気分なんだか、まったく・・・


ヘンリーの思考がいつものように脱線する中でも、会議は続く。

「私は経済には疎いのだが・・・その、関税同盟とは何だね?」

エセックス男爵の疑問は、大方の参加者の共通した疑問であったようで、カニンガム大将などは「よく聞いてくれた」という感謝の視線を送っている。聞きたいことやわからないことを素直に聞けるのが、スラックトンの長所である。塩爺曰く、「戦場では、知ったかぶりは死を招く」という、現場の人間らしい台詞だ。こういう人間がいる限り、アルビオンは大丈夫だ。

シェルバーンは、さてどう説明したものかと頭を撫でながら、言葉を選びながら言う。

「そうですなぁ・・・まず、関税は、その国が、物の輸入にかける税金です。この関税同盟が締結された国と国の間では、その関税を一定の割合で下げる、もしくは完全に0にするということです」

財務卿は出来るだけ、噛み砕いて説明したつもりだったが、参加者の頭上には「?」が飛び交っていた。

シェルバーンがそれを見て笑うことはない。自分も経済概念を理解するために、何年も実地で学び、本を読み漁ったのだ。今それを聞いて、すぐに理解できるほうがおかしい。もっとも、ヘンリー王子は、言われるでもなく理解しておられたようだが。いつもの事だが、この王弟には、感心するやら、悲しくなるやら、呆れるやら・・・

こちらもいろいろと思いを巡らせながら、シェルバーンは説明を続ける。



関税は、文字通り「関」でかかる税金。国境の港や関所で、国内へ持ち込まれる物資に応じて徴収される。元々は、間接税の一つでしかなかったが、ディドロ商会代表にして、ハノーヴァー王国財政顧問だったジャン・ディドロ(6070-6120)が「保護貿易関税」を訴えたことで、一躍その税としての価値が高まった。

ディドロは関税に「国内産業の保護育成のために、海外製品に税をかけて、国内での競争を有利にする」という、新しい政策的意味合いを見出した。それは、まず将来性が見込める未成熟な産業の育成と保護に重点をおき、関税機能を強化。貿易を統制することによって、金銀貨幣の流出を防ぐことで、物価の安定をはかり、経済成長と産業育成を両立させようというものであった。

ディドロ自身は、これが自由貿易を求める他の商会や、ハノーヴァー王国に影響力を持っていた北部都市同盟の反感をかって、追放される憂き目を見た。その後、彼の考えに共感したガリア国王シャルル11世に招かれ、王国経済財政顧問に就任。経済構造改革の理論的支柱として、ガリアの中央集権化政策に尽くした。後世、彼のガリア行きは、歴史家に「ハノヴァーの最大の失策」と言わしめることになるが、この時点では、ディドロに高い評価を与えている者は、数えるほどしか存在しない。ヘンリーやシェルバーンは、その数少ない評価する側に入る。


話を戻すと-彼の登場によって、間接税の一つであった関税は、国内産業政策の一環として確立した。各国は競って関税を上げたが、それはガリアのような計画的な産業育成というものではなく、莫大な上納金と引き換えに、商会やギルドの言うがままに上げただけであった。即位当初のトリステイン国王フィリップ3世も、戦費をまかなうために、同じように関税を上げて、かえって国内産業の衰退と、物価の高騰を招いた。


「長々と解説はいらん。要はどういうことだ」

苛立たしげに、カニンガムが頭を掻き毟る。根っからの空の男は、遠まわしな言い方が苦手なのだ。ロドニー参謀長が宥める様に、紅茶のカップを勧めるのを、ひったくるようにとって飲み干す。さすがにこの若い空軍中将は、シェルバーンの言いたい事を、何となく察しているようだ。明確に「何か」とまではわかっていないようだが

「関税同盟は、これを一歩進めたものです」

旧東フランク各国は、共に国内市場(領土と国民)が限られており、その中での産業育成には限界があった。ガリアの様な広大な領土と、ずば抜けた人口がなければ、産業育成など出来るものではない。

そこでゲルマニア王国財務大臣のフリードリッヒ・フォン・リスト伯爵が提唱したのか関税同盟だ。

リスト伯曰く「市場がなければ作ればいい」-確かに、国境という障壁さえ取り払えば、ガリアを越える市場が誕生する。だが、経済の主導権をゲルマニアに握られることを嫌った北部諸国や、北部都市同盟は不参加を決め込んだ。それでも、国境を接する4カ国が呼びかけに賛同し、関税を引き下げること、一部の完全撤廃で合意した(合意形成までに、参加5カ国の代表団は、ヴィンドボナの旧総督府宮で、3ヶ月にわたって言葉の戦争を繰り返した)。

限定的とはいえ、関税が引き下げられたことは大きい。どんな小さな変化でも見逃さないのが商人。どのような商機を見出すのかは様々だが、ヴィンドボナを中心にして生まれた新たな市場に、少なからぬ資金が流れ込むのだろう。


「なんです?それでは、ゲルマニアは金儲けに忙しくて、トリステインなどかまっている暇はないということですか?」

内務卿のモーニントン伯爵が、拍子抜けしたように、間の抜けた高い声を出す。わざわざ御前会議まで開くからには、もっと差し迫った危機があるのかと思ったら、この結果だ。エセックス男爵にいたっては、不機嫌そうな表情を隠そうとしていない。


「短期的に言えばそうなるのでしょうかね」

肩をすくめながらシェルバーンが言うと、視線が自然と一人に集まる。スラックトン宰相が発議したことになってはいるが、この場にいる誰もが、彼が音頭を取って、会議の開催を求めていたことを知っており、どのような意見を持っているのか、興味があった。

その人物は、視線にも気づかず、腕組みをして地図を見下ろしている。

「カンバーランド公」

セヴァーン子爵が、せっつくように声をかけるが、ヘンリーは返事を返さない。

「?」
「・・・ヘンリー、お前のことだ」

機嫌を損ねたかと、戸惑う外務次官に、国王が考えにふける弟のわき腹を小突くことで、助け舟を出した。

「あ、そうでした。私がカンバーランド公でした」
「しっかりせんか」


カンバーランド公爵家は、2000年ほど前のアルビオン国王チャールズ2世の庶子を祖とする公爵家。領地経営に失敗して早くに没落、長く宮廷貴族として活躍してきたが、300年ほど前に当主が亡くなった後は、領地もない爵位を継ぐ者は無かった。

ジェームズとしては、弟にヨーク大公家を継がせたかったが、リチャードという成人した跡継ぎがいるのに、無理強いは出来ない。ヘンリー自身が無頓着とはいえ、自分を補佐する弟が、いつまでも「王弟」という肩書きだけでは、少し頼りないのも確かだ。国内ならともかく、対外的に、アルビオンの王弟が、ただの「ヘンリー王子」というのは、いくらなんでも見栄えが悪い。ジェームズから諮問を受けたスラックトン宰相は、頭を抱えるデヴォンシャー侍従長を差し置いて、カンバーランド公爵の称号を提案した。こうした「実」はないが、決して馬鹿に出来ない、名目上の政治問題の場合、軍人のデヴォンシャーは、「1000年に一人の宮廷政治家」と呼ばれるスラックトンの敵ではない。

ヘンリー自身は、名を飾り付けることに興味は無いが、肩書きの重要性は理解している。だからと言って、急に「今日からお前は公爵」と言われても・・・この辺が、前世で一市民だったところの人間の悲しいところで。「カンバーランド公爵」と呼ばれても、いまいちピンと来ないのだ。この点、最初から、この世界の王族として育てられ、いきなり4つもの称号を与えられて、すぐに順応してみせた、現モード大公の実弟ウィリアムとの意識の差を思い知らされる。


閑話休題


いつもの事だが、王弟の間の抜けた対応に、会議の場にぬるんだ空気が流れる。わざとらしく咳き込むが、しらじらしいという視線が返されるだけ。


「うん、その、何だったかな・・・そうそう。ゲルマニアだけどね」

ヘンリーは樫の木で作った指棒を手に取り、ヴィンドボナ通商関税同盟の結ばれていた地域をぐるりと囲む。

「この関税同盟によって、旧東フランク地域南部に、トリステインを凌駕する巨大市場が生まれました。いずれこの地域は、経済的利害関係が生まれ、強固に結びつくでしょう。単に商売上にとどまれば、結構なことです。わが国にも経済的なチャンスが生まれるからね」

参加者達がそれぞれの反応で静かに肯定の意を表す。それを見てヘンリーは続ける。

「しかし問題は、それだけにとどまらない場合だ。この通所関税同盟締結において、各国の調停機関がヴィンドボナに設置された事からもわかるように、これはゲルマニアの主導色が強い」

樫の棒で北部地域を指す。

「それを嫌がった北部都市同盟や、その影響化にあるハノーヴァー王国、独立独歩の傾向が強いザクセン王国は拒否しました。彼らの懸念は、ある意味正しい」

参謀長や外務卿が、何かに気づいたように顔を上げるが、両者の反応は対照的であった。ロドニーは困惑の表情を、パーマストンは感心したように頷いていた。

「旧東フランク地域に何かあれば、これら関税同盟の参加国は、ゲルマニアに付かざるを得なくなる。そして、それは時間が経過するにつれ、経済的利害関係が深まるにつれ、ますますその傾向を深める」

日頃冷静な彼には珍しく、取り乱したようにロドニー参謀長が口を開く。

「考えすぎではないですか?いくらなんでも、そのような事が・・・」
「ないとは言い切れるか?確かに前例のないことだ。だが、可能性は検討しておくべきだと思う。少なくとも、この南部地域で、ゲルマニアの主導権が強まることは確実なのだから」

遠まわしな言葉の応酬にたまりかねたカニンガム大将が叫んだ。

「いったい、何の話です?殿下は、ゲルマニアが、何を考えているというのです?!」


再び注目が集まり、ヘンリーは唾を飲んだ。喉がからからだが、紅茶を飲む気がしない。






「・・・旧東フランク地域の、再統一。これを長期的にもくろんでいると考えている」






参加者達が、冒頭のように、それぞれの反応をし、スラックトン宰相は楽しそうに眺めていた。









時に、ブリミル暦6213年。原作開始まで、あと30年












「結婚したーい!!」


「って、こらミリー!珍しく俺がカッコよかったのに、余韻壊すな!」

「だってしたいんですもん!それに最近私の出番ないし!ここで主張せずに、いつ主張できるっていうんですか!このままじゃ私、読者にも婚期にも忘れられちゃいます!だって私、今年で・・・きゃー!乙女の年齢聞かないでくださいよ!」

「いや、聞いてないし・・・ってか、お前、キャラ変わってない?」



[17077] 第18話「老人と王弟」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:b679932f
Date: 2010/08/06 18:48
「悲観主義者はすべての好機の中に困難を、楽観主義者はすべての困難の中に好機を発見する」

葉巻の似合う、島国の首相の言葉である。

そして、同じ「島国」とも呼べなくない・・・いや「空国」というべき、アルビオン宰相の老侯爵も、どちらかというと楽観主義者であった。最も、それが老人の先天的な性格だったというわけではない。王宮という舞台で、権力を握った舞台俳優が何度も入れ替わるのを、脇役として見続け、そして自分がその立場になったがゆえに、たどり着いた境地であった。

文化と芸術の国の哲学者と同じように、老侯爵は経験的に、悲観主義はその時の気分により生まれ、楽観主義は自己の意志によるものだということを知っていた。そして、ままにならぬ事だらけのこの世の中で、唯一自分が自由にできるもの-意志を、その場の空気に流すほど、彼は「楽観主義者」ではなかった。


楽観主義を貫くには、お気楽な極楽鳥では務まらない。

強靭で、しなやかな、本当の意味での「強い」精神が必要なのだ。


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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(老人と王弟)

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「カンバー・・・いや、ヘンリー殿下。少しよろしいですかな」

会議終了後、最後まで椅子に腰掛けていたスタンリー・スラックトン宰相は、エセックス侍従長代理と打ち合わせをしていた王弟ヘンリーに声をかけた。杖を突いて立ち上がろうとするが、思わずよろけて机に手を突く。今年で72歳になる老侯爵は、昨年末に宮中で転倒して以降、足が不自由になった。そのため国王ジェームズ1世から、鳩杖を下賜され、宮中での使用を許可されている。手を突いたスラックトンに、ヘンリーが慌てて駆け寄る。

「大丈夫ですか?」
「ははは・・・お恥ずかしいところを。よる年波には勝てませんな」

笑うと不思議な愛嬌のある侯爵に、ヘンリーも笑みを返す。

「で、お時間はございますかな」
「あー、いや。これから、ヴォルフ所長と会う約束があってね」

アルビオン王立魔法研究所所長-チャールズ・ヴォルフ。4系統全ての魔法技術に通じた才人であり彼の実家のヴォルフ子爵家は、アルバート(現ロンディニウム官僚養成学校学長)と同じく、大陸からの亡命貴族を祖とする「外人貴族」である。同時に、彼は東フランク王国史-特に王国崩壊後の諸国の歴史についての専門家としても知られていた。

大げさなそぶりで肩をすくめるスラックトン

「やれやれ、殿下はここ最近、寝ても覚めてもゲルマニアですなぁ。ゲオルグ1世(ゲルマニア王)も罪なお人です」

苦笑いしながら、老宰相に拾った杖を渡すヘンリー。肩を借りながら、ゆっくりと立ち上がるスラックトンは、いたずら小僧の様な目をしていた。

「別に好きで調べてるわけじゃないさ。必要だからだよ」
「いやいや、キャサリン妃殿下も、大変なライバルが・・・」
「人の話聞いてる?」

ほっほっほっ、と笑うスラックトン。こりゃ、死ぬまでぼけないタイプだな。

「同席してもよろしいですかな?」
「別に構わんが・・・いいか、エセックス」
「はっ」

侍従長代理とはいえ、王国宰相の決定に、エセックスが口をはさむ権限はない。不満げな表情を見せながら頷くエセックス男爵に、スラックトンが「すまんの」と声をかけるが「ぷいっ」と横を向いて歩き出す。とても同じ年齢の老人のとる態度ではない。

スラックトンとヘンリーは顔を合わせて、今度はそろって肩をすくめた。

この2人は専売所設置以来、よく言えば二人三脚、悪く言えば「共犯者」として行動してきた。ヘンリーの急進的とも言える改革案にスラックトンが手を加え、根回しによって摩擦を抑える環境を作り上げ、ヘンリーの意を汲んだ者や組織が、実績を積み重ねる-いつしかそういう役割分担が出来ていた。最初こそ、宰相のやり方を「まどろっこしい」とヘンリーは反発したが、敵を作らず、時には味方にもしてしまう、その政治手腕には学ぶところも多く、なにより宰相の「根回し」により、自身の構想した様々な規制緩和や制度改正が結果的にはスムーズに進んでいる事もあって、次第に初対面の時の悪い印象を打ち消していった。

そんな共犯関係も今年で早10年。実際、キャサリンから「最近、宰相さんと仲がいいわね~」という、見当違いの嫌味を言われたことも1度ではない。スラックトンの爺さんには、からかうネタを与えるようなものであるので、秘密にしていたのだが、やっぱりいつの間にか耳に入っていて、大いにからかわれた。


歳の離れた「悪友」は、一人がもう一人に合わせて、歩き出した。




「そもそも『ゲルマン民族』という言葉自体が、架空と妄想の産物なのです」

チャールズ・ヴォルフの言葉に、さすがのスラックトンも面食らったようだ。ヘンリーとキャサリンは、唖然として声も出ず、エセックス男爵は、紅茶が器官に入って咳き込んでいた。

「げっふ、げっは、っがが!、、ん・・・んん!な、何をおっしゃるのですかな、一体!」
「・・・唾が飛んでるんですがな」

しぶきが飛んだため、ハンカチで頭を拭くヴォルフ所長。顔ではなく頭なのは、彼が極めて・・・その、小柄な体格であるから。「小さい」「低い」という言葉は、彼の前では禁句である。所長室には、いつでもカラフルな試験管が並んでいるとだけ言っておこう。蛙が人語を喋ったとかいう噂もあるが、きっと気のせいである。うん・・・

「素人が差し出がましいようですが、過去、確かに『ゲルマン民族の大移動』と呼ばれる民族移動はあったのでしょう?」

キャサリンが首をかしげながら尋ねる。

ここは王弟夫妻の住むチャールストン離宮の一室。「たまたま」部屋で編み物をしていたキャサリンは、知的好奇心から立ち会うことにした。決して、スラックトン宰相への対抗心からではない・・・うん・・・

「確かにそう呼ばれる民族移動はありました。だからこそ、勘違いしやすいのですが」

風石が民間商船に使われるようになり、はや1千年。だが、アルビオンの人間にとって、ハルケギニア大陸が遠い存在であったことに変わりは無い。平民・貴族を問わず、一度も大陸に下りずに、空中国土で生を全うするものが殆どである。歴史的に関係の深いトリステインや、ガリア、ロマリア諸国であれば、ヘンリーも何度か訪れたことはあるが、旧東フランク諸国を訪問したことは無い。そのため一般的な知識はあるが、実際に旧東フランク地域で、ゲルマン人とはどういう存在であるのかがよくわかっていなかった。

どうやら、自分の考えを修正しなければならないと考えながら、ヴォルフの説明を聞くヘンリー。心の中で、以前からあった「嫌な予感」が、急速に形をとりつつあったが、それをあえて無視した。

ヴォルフは続ける。

「大陸から離れた我らアルビオン人には想像しにくいのですが、あの地域では『私はゲルマン人』と名乗れば、その人間はゲルマン人なのです」
「・・・そんなに、いい加減なものなのか?」

興味を引かれたのか、エセックス男爵が質問する。

聞かれたら、聞かれた事だけを過不足なく答えるのが学者。10倍にして、自分の言いたい事を言うのがオタク。そしてヴォルフは後者に近い前者であった。目をらんらんと光らせて、獲物を逃がさないといわんばかりに話し出す彼を見て、エセックスは初めて、目の前の小柄な老人の正体に気が付いた。

「そもそも、ゲルマン民族と呼ばれる集団が、砂漠のかなたから、ハルケギニアにやってきたのが、ブリミル暦2000年から2100年頃。名前の由来は、自らをゲルマンから-元々の彼らの言葉で、東を意味するのだそうですが-来たと名乗ったので「ゲルマン人」と呼ばれるようになりました」

助けを求める男爵と視線を合わせないようにする王弟。その夫人は、あさっての方向を向きながら口笛を吹き、最年長の宰相は面白そうにそれを眺めるだけ。エセックスは、自分の味方がいないことを知った。

「西フランクに比べ、人口が少ないことで悩んでいた東フランクは、ゲルマン人の移住推進政策を進めました。彼らが次第に東フランクで頭角を現し、滅亡をもたらしたのは、ご承知の通りで「アー、そうだな!それはわかっとる!わかっとる!!それがどうした!」

強行突破を図ろうとしたエセックスは「その答えを待ってました」といわんばかりに目を光らせる所長を見て、精神力が切れたことを悟った。

さすがに哀れに思ったのか、スラックトンが援護に回る。

「所長。出来れば手短に。『ゲルマン民族は架空の存在』とは、どういう意味なのだ?」

エセックス男爵は、現役の陸軍軍人時代、予算折衝係として何度もスラックトンに直訴した経験から、この老人を敬遠していた。言語明瞭・意味不明瞭な「宮中弁」で、のらりくらりと、つかみどころがなく、最終的にはいつの間にか「はい」と答えざるを得なくなる。それが「嫌悪」という感情にまで至らないのは、最終的にはこちらの利益と顔を立ててくれる折衷案を出すため。妥協と調整に掛けては、これまた老宰相の右に出る者はいない。「政治とは、利害調整と妥協」というのが、スラックトンの唯一とも言えるモットーだ。


そんな彼が苦手なのは、ヴォルフも同じようで。気まずそうに視線をそらして言う。


「・・・要はですな、コーヒーに砂糖を混ぜたものを、もう一度完全に分けることは不可能ということでして。「ゲルマン民族主義」とは、砂糖だけを取り出すような話なのです」


膨大なデーターを持ち出し、嬉々として語る彼にしては珍しく、結論を比喩で答えた。それほどスラックトンの「宮中弁」は評判が悪い。



4000年以上前に移住してきた「ゲルマン人」。東フランク崩壊(2998)から数百年の間は、元からいた住民や、王侯貴族から、ゲルマン人は徹底的に排斥された。ステレオタイプ的なゲルマン人のイメージ(好色・ケチ・つつしみが無い)が形成されたのも、排斥された彼らが、金融業で勢力を伸ばしたのもこの時代である。

だが、砂漠を越えてやって来た「よそ者」では会っても、オーガ鬼やエルフではない。赤毛や色の濃い肌、火系統の魔法が得意という特徴はあるが、それだけといえばそれだけ。話せば通じるし、通じれば交流が生まれる。そして、男と女はどこにでもいる。国境も人種もないわけで。年頃の男と女がいれば、いろいろあるわけで・・・


コーヒーと砂糖は、文字通り「混じ」った。


それが4千年。4千年だ。日本の歴史の2倍だ。


現在、旧東フランク地域に住むもので、ゲルマン人の血を引いていない者を探すほうが難しい。それを知識ではなく生活で知っている平民の間では、次第にゲルマン人に対する蔑視も薄れつつあった。いまだに蔑視が残る貴族の中でも、たまに髪の赤い赤ん坊が生まれる。そうした赤ん坊は、持参金に応じて、修道院や孤児院へと流れていくという。

「つまり、ゲルマン民族主義者のいう、ゲルマン人の国を作るという目的は、現実を無視した幻なのです。ゲルマン民族主義の一大契機とされる『マリア・シュトラウスの乱』にしても、実際には新教徒たちが主体であったことは、近年の研究で明らかにされております。都合がよければ「ゲルマン人」だといい、排斥の風潮が強い時代には「ゲルマン人」でないと主張する、その程度のものなのです」

トリステイン王国が、現在のゲルマニア王国の地域(ヴィンドボナ総督領)の人々を、「ゲルマニア人」と呼んでいたが、それはこの地域の住民に赤毛が多かったので、トリステイン人がそれを揶揄したものだという。それこそ、ツェルプストー侯爵家のように、自らゲルマン人の血を引くを誇りとする者と、さかのぼれば家系の中にいるかもしれないという者の間では、意識に格段の差はあるだろうが、克服できないものではない。

コーヒーの中から、溶けた砂糖だけを取り出そうとするほど、多くの人間は暇ではないのだ。




「・・・ということです。お分かりいただけましたか?」
「うん、わかった。ご苦労だったね、さがっていいよ」

何故か疲れたような顔をして言うヘンリー王子。何故だろう?せっかく要点だけを端的に、たった2時間で申し上げたのに・・・


むしろ越えられない壁が、今ここにあるような気がするが・・・いまはそれはいい。


***

ヴォルフが出て行き、全員でため息を付いた後、さすがに疲れた顔をしたスラックトンは、目だけをヘンリーに向けて言う。

「殿下の取り越し苦労でしたか?」

言葉だけだと、からかうように聞こえるが、口調は至って真剣。実際、スラックトンも、この王弟の考えを「取り越し苦労」だとからかうつもりは毛頭なく、むしろその懸念を深めていた。それゆえ、彼の考えを確認しておきたかったのだ。

そのヘンリーは、苦りきった顔で、親指のつめを噛んでいた。今までに見たことがない、自らの仕える主人の厳しい表情に、エセックスは「東フランクの再興」という夢物語を心配しているだけだと考えていたが、どうやら思ていった以上に重要な問題だと、認識を改めた。

塩爺など目に入らないのか、ヘンリーが自分の考えを述べ始める。


「どうやら俺は、あの金貸しを-ゲオルグ1世を、勘違いしていたらしい」


ゲルマニア王国初代国王-ゲオルク・ヴィルヘルム・フォン・ホーエンツォレルン(ゲオルク1世)。ゲルマン民族主義を利用して、東フランクの再興をたくらむ、現実主義者だと自分を勘違いした、ロマン主義者-ヘンリーは、この老人をそう考えていた。

今の、ヴォルフの説明を聞いて、「嫌な予感」を、妄想だと笑い飛ばせなくなった


「あの爺は、東フランクの再興など、毛頭考えてない」


その言葉に、いつも飄々とした顔を崩さないスラックトンが、表情を消す。キャサリンが声を掛けようとしたが、ヘンリーの思いつめた気配に、それを諦めた。こうやって自分の考えに没頭しているヘンリーには、何を言っても無駄だということを、前世からの長い付き合いで知っていたからだ。


「新たな国を、新たなホーエンツオレルン家の『帝国』を打ち立てようとしているのか・・・」


「昔はよかったと」いう表現は、新しくて古い言葉だ。まして、その時代が遠ざかれば遠ざかるほどに。解体された以降も「東フランク」という名前は、旧東フランクの貴族や知識人にとって、ロマン的な懐古主義の象徴であった。古きよき時代-騎士が騎士らしく、貴族が貴族らしくあり、エルフから聖地を奪還するために、結束して戦った-単なる昔話が、彼らの中では、それが「東フランク」という単語と結びつくことによって、特別な意味を持つのだ。

それを「ゲルマニア」という国号で、否定する。ゲルマニア-ゲルマン人の国と名乗ることで、古きよき時代の象徴である「東フランク」という名前を、根底から否定するつもりなのだ。


割れた皿を、ゲルマン人という接着剤でくっつけるのではない。


全く新しい皿を、自分の手で作り出そうとしているのだ。



「一瞬でも、ゲオルグ1世を、金儲けだけが目的の男と考えた俺が馬鹿だった」

キャサリンもエセックス男爵も、口を閉じて、何も言わない。

「あの老人は、あの地のブリミル以外の全ての秩序と、全ての歴史を否定したいのではないか?そして、そこに、全く新しい、自分だけの秩序を・・・正気の沙汰とは思えん」

言わないのではない。言えないのだ。


「全てを壊し、否定する-それゆえの『ゲルマニア』なのか」


別に『ゲルマニア』でなくとも良かったのだろう。それまでの全てを否定できれば。


ゲオルグとて、東フランク貴族の血を引く者のはず-それが何故、自分のルーツを否定するようなことをする?ホーエンツオレルン家という、自己の家の否定にもつながりかねない危険性をはらんでいるのに・・・


ヘンリーは、自分の考えが妄想だと願いたかった。そうであって欲しかった。もし自分の考えが事実であるとするならば、今このハルケギニアに、ガリアの無能王と同じ「狂気」を持つ人物がいるということになる。

だが、ヘンリーが、ゲオルグ1世やゲルマニアについて、調べれば調べるほど、考えれば考えるほど、自分の考えが-老人の思考形態の予想が、当たっているという確信を深めるばかりだった。

全てを否定し、全てを壊し、新たな自分の考えを押し付ける-その原動力は何だ?どうしてそこまで、自分のルーツを、歴史を、文化を、慣習を。今まで築いて来た財産を、信用を、知人・友人を、家族を・・・おそらく、老人の中では、自分の存在そのものですら、必要とあらば否定できるのだろう。



ヘンリーは、身震いした。この世界に来て初めて、恐怖を感じた。


恐ろしかった


すべての破滅を望む「無能王」とは違う、しかし本質的には変わらない妄執



老人の、冷たい『狂気』が






いっそ全てが「妄想」だと笑い飛ばせれば、どれだけ楽になれるか





・・・どうする?




一体、自分に何が出来る?












「ま、どうでもいいことですな」



・・・・は?



「どうでもいいことです」

「・・・・は?」


あまりのことに、あほの様な顔をして、あほの様な返事しか返せないヘンリー



キャサリンはたった一言で、ヘンリーの作り出した重苦しい空気を転換させた老宰相の言動に、素直に感心していたが、その掌にはべっとりと汗をかいていた。

エセックス男は、ヘンリーの説明に圧倒され、続けざまに、スラックトンの「どうでもいい」という発言を聞かされ、何が何だか、もういっぱいいっぱいだった。早く退官して、領地に引っ込みたいと、これほど切に願ったことはない。



「・・・」

ヘンリーは未だ、間抜け面のまま、反応出来ないでいた。彼にとって、今のスラックトンの言葉は、倶利伽羅峠と鵯越と屋島の奇襲をいっぺんに受けたようなものである。ゲルマニア関連の、それこそありとあらゆる情報を集めて、徹夜で報告書とにらみ合い、何度も仮説を立てては否定し、立てては始めから検討しなおすという作業を、ゲルマニア王国建国以来、1年以上に渡って、延々と続けてきた-その仮説を、血と汗と涙と友情と努力と勝利と・・・途中から変なものも混じったが、ともかく、一生懸命考えた仮説を、目の前の、この妖怪ジジイは何と言った?


「どうでもいい」


ええわけあるかい!



怒りの感情にまかせて、細頸を締め上げブリミルの元に送ってやろうと手を伸ばしてくるヘンリーを、スラックトンは「どうどう」と制す。

おれは馬か!「馬並みなのね~♪貴方とおっても~♪」ってか!

確かに、声は似てるって言われたことはあるけどさ!!


これがヘンリーでなければ、スラックトンはすでにブリミルと対面していたところだが、この王弟がそんな事をするはずがないのは、キャサリンもエセックス男爵も-何よりも、当事者である宰相自身がよくわかっていた。

ヘンリー自身も、自分がそう見られていることはわかっていた。それが一層、彼の感情を逆なでする。「70を超えた爺さんをどうこうするのは、人としていかがなものか」という思いと「こんな妖怪爺に情けは無用、思い切ってやっちゃえ!」という欲望が、心の中で、取っ組み合いの大喧嘩を繰り広げている真っ最中だ。


そんな自分の主人を無視して、キャサリンは、この老宰相の振る舞いを、じっくりと-それこそ髪の毛一本に至るまで見落とさないように観察していた。爵位と家柄以外は何もない没落貴族に生まれ、宮廷という場所で育ち、実質上の最高権力者に上り詰めたこの老人は-自身の行動が、他者からどう見えて、どう評価され、それがいかなる反応を引き起こすか、わからないはずはない。

キャサリンも社交界という虚実入り混じった世界の出身。そして前世での経験もある。相手の表情を読むことや、望む所を察することに関しては、多少なりとも自信はあった。だがこの老宰相に関しては、まるで感情が、表情が、考えていることが読み取れない。深い皺を刻んだ顔で、いつも笑っているような表情をしているが、額面通り受け取れるほど、キャサリンは素直でもなかった。もしかすると、相手にそう考えさせることが、宰相の目的であるのかもしれない。そうだとするなら、この爺さんの思惑通りに考え、踊っている自分は、いい面の顔-いっそ馬鹿馬鹿しくなってくる。


そしてなによりも、自分よりも、よほどヘンリーをうまくあしらっている事が、彼女にとって、どうしようもなく悔しかった。嫉妬とは違う。女である自分が、決して入り込むことの出来ない(本人達は否定するだろうが)男同士の「友情」が、うらやましかった。

自分だって、ヘンリーの-『高志』の事を、全て理解しているとは思ってはいない。だが、何十年も連れ添ってきた自分と夫よりも、精々10年しか付き合っていない二人の間にある「絆」のほうが、強いものに見えた。


・・・うん、やっぱり認めよう。自分はこの爺に嫉妬している。

スラックトンは、そんな視線に気が付かないのか、気が付かないふりをしているのか、気付いていて楽しんでいるのかは解らないが、顔の皺をより深く刻み、顎髭をしごきながら、未だに憤りを隠せないヘンリーに向き合っている。


老宰相は厳かに、神官が祈りの言葉をささげる前のように間を空けてから、口を開く。


「殿下、今検討すべきことは、ゲルマニアがいかなる目的の元で行動するか。それを受けて、わが国がどう行動するかということです」
「わかっている。それくらいわかっている、だが、それがどうした」

ヘンリーも子供ではない。反論しながらも、スラックトンに目線を合わせ、話を聞く姿勢に入っている。キャサリンには、スラックトンの目が、少し笑ったように見えた。

「最悪の事態を想定し、最善の計画を立てろ-古代の賢人の言うとおりです。まずゲルマニア王国旧東フランク地域を、いかなる手段によるのかはわかりかねますが、統一しようとしている可能性について検討をすることには、賛成致します」

可能性だけなら、アルビオンに宣戦布告をしてくる可能性はあるが-「Can」の選択肢でなければ、検討する意味はない。その点で考えれば、ゲルマニアによる東フランク地域統一という選択肢は、可能性も意味もあった。

「ですが、その行動の理由を「何故か」と考えることは、余り意味のないことなのです」

反論しようとするヘンリーを、宰相は、再びその手で制して続ける

「確かに、理由を知ることが出来れば、何故その行動を起こすかという理由を知っていれば、より効果的な対応を打つことが出来るでしょう。しかし・・・」
「・・・っ」

スラックトンはいったん言葉を切る。もどかしそうに続きを促すヘンリー。完全に宰相のペースである。

そして老侯爵は、決定打を放つ。


「他人の考え方を、一部の違いも狂いもなく理解できる人間はいないのです」


そう言って、片目を瞑るスラックトン。普通、爺のウインクは気色悪いだけだが、この老人がやると、何故か可愛げがある。


完全に毒気を抜かれたのか、椅子に座り込むヘンリー。


キャサリンは、舌を巻くと同時に、顔を赤くした。相手を煽って、会話の主導権を握る。押して引いて、相手の矛先をかわし、興味を持たせるための会話の間-詐欺師でも、こうはいかないだろう。そして顔を赤らめた理由-スラックトンのウインクは、この自分にも向けられていたのだ。「安心しなさい、貴方の主人を奪いはしませんよ」とでも言うかのように。


な、なんで私が、あんたみたいな爺と、この馬鹿を取り合いしなきゃいけないのよ!!



くるくると顔色を変えるキャサリンを、視線だけで楽しそうに眺めながら、スラックトンは、座り込んだ若き王弟を、文字通り懇々と諭すように、話し続ける。その光景は、まるで実の祖父と孫のようで-いや、年齢の離れた教師と、出来の悪い生徒か?心なしか、宰相の口調が、弾んでいる様に聞こえた。


「殿下のご心配はわかります。ですが、考えても仕方がないことなのですよ。人の心など、神でもなければ、確かめようのないことですからな」

「だがな、宰相」

一旦そのように考えると、全てがそう見えてしまう。ヘンリーの口調も、どことなく教師に甘える生徒のように聞こえてくるから、不思議なものだ。エセックスなど、久しぶりにヘンリーの、素の表情を見ることが出来て、嬉しそうだ。


「殿下はお優しいですな・・・しかし、人の力には限りがあるのです。それは、王とて、王族とて同じことだということを、忘れないでください。その目と手の届く範囲でしか、出来ないことが、いかに多いことか・・・」


何かを思い出すように、言葉を選びながら言う老宰相。綺麗も汚いも、酸いも甘みも知り尽くしたこの老人は、その皺を一本刻む間に、どれくらい多くの出来事を諦め、どれほど多くの人の手を振り払ってきたのか?


「何もかも、ご自身で抱え込むことはありません。その為に、我ら「貴族」がいるのですから」

その言葉にエセックスが頷く。立場は違えど、同じ年数をアルビオンに仕えてきた者同士、通じるものがあるようだ。


「まずはご自身のことをお考えください。殿下は、もっとご自身を大切になさるべきです。自分の大切なものを守れないものに、国を語る資格はありません。ましてや、自分を粗末に扱うものには」


ヘンリーは、居住まいを正し、老宰相の諫言に耳を澄ます。何故か、そうしなければならないと思ったから。



10年以上この王弟を見続けてきたスラックトンには、彼の「優しさ」が心配だった。

あふれる創意と斬新な視点で(多少理解に苦しむものも混ざってはいるが)、様々な改革の原動力となったこの王子は、自分の存在を軽んずる傾向がある。知識としては、王族だということ、重要な立場にいることを理解してはいるようだが、それが自分のことだとわかっていないように思える。

どこか「他人事」なのだ。客観的に自分を観察できるといえば聞こえがいいが、それは小説の主人公を眺めているような、劇を観覧する観客の様な-無責任とまでは言わないが、必要とあれば自分の死でさえ、平然と受け入れるような・・・

それでは駄目なのだ。

現実は物語のように奇麗事ばかりでも、救いようの無い悲劇ばかりでもない。地面を這い蹲り、泥まみれになり、傷だらけになりながら、死ぬまで歩み続ける。歩み続けなければならない。それが生きる人間の権利であり義務だと、スラックトンは信じていた。

この王子は、それを見ているだけだ。確かに、彼は必要とあれば、汗を掻くことも、手を汚すことも厭わない。それは認める。だが、自分自身が、泥だらけの傷だらけな惨めな姿になっても生きるという、生への執着が、本質的に感じられないのだ。

キャサリン妃殿下と夫婦となられ、アンドリュー殿下がお生まれになって、すこしは生きることに執着を持たれたようだが・・・スラックトンからすれば、まだ弱いといわざるを得ない。

何に重きを置くか-大切なものに順序を付け、そのためには、他の物を、他者を切り捨てても守り抜くという腹が決まっていないからだ。


優しさともいえる。

だが、それが命取りにもなりうる



全ての人間を幸せにすることは出来ない


自分のように、大切なものを失ってから気付いても遅いのだ



「2羽のウサギを追う者は、結局1羽も捕まえることが出来ないのです・・・いけませんな。どうも年寄りは説教臭くなりまして」

照れ隠しなのか、顎鬚を撫でながら口元を隠すスラックトン。


ヘンリーは笑った。キャサリンも、エセックスも笑っていた。



















それが、アルビオン王国宰相スタンリー・スラックトン侯爵が、ヘンリーに残した「遺言」となった。

「1000年に一人の宮廷政治家」は、執務室の椅子に腰掛けたまま、息を引き取っていた。

浮かべていた笑みの意味について知る者は、誰もいなかった



[17077] 第19話「漫遊記顛末録」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:b679932f
Date: 2010/08/06 18:50
「棺桶のふたが閉まる時、始めてその人物の評価が定まる」スタンリー・スラックトン侯爵はその典型であろう。老宰相の葬列には、貴族・平民、老若男女問わず、多くの人が並んで途切れることがなかった。国葬だったからではない。この老人だったからだ。

30にして妻が亡くなった後は、妾を置くこともなく独身を貫いた。宮廷貴族でありながら、職を利用した蓄財をすることもなく、宰相になっても側近集団や派閥を作ることも権勢を振るうこともなく、それまで通り変わることなく働いた。遺言書には「家は継がせないように」とだけあり、4千年以上続く侯爵家の歴史に、自ら幕を下ろした。これも一つの、貴族の終わり方に違いない。

「去り際まで、出来すぎだよな」

教えてもらうことはまだまだあった。早過ぎる、そして見事な散り様だった。

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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(漫遊記顛末録)

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「・・・惜しい人でしたな」
「あぁ」

デヴォンシャー侍従長の使節団が帰国したのは、ちょうど宰相が亡くなった日。帰国報告をしたその足で国葬の準備に走り回った。そのため、ヘンリーが、デヴォンシャーやパリーから直接帰国報告を受けるのは、これが初めてとなる。話題は自然と故人に関するものとなった。葬儀で慌しい時は思い出さなかったが、一週間もすると、亡くなった人の存在が大きければ大きいほど、その喪失を思い知らされ、次々と思い出がよみがえって来る。

「妙に愛嬌のある人でしたね」
「いやいや、殿下はご存じないでしょうが、あの爺は若いときはそれはもう嫌な嫌なやつでしたぞ!あの「宮中弁」も、そりゃあ、話は長いし、粘着質で・・・」

故人について話す事が、最大の供養というのは、異世界でも変わらないようだ。


話題が尽きると訪れる、静かな沈黙も




「さて、早速だが『越後の縮緬問屋の隠居一行、お忍びゲルマニア漫遊記』について、聞かせてもらえるかね」

ヘンリーは前世で、小・中・高・大・社会人と、「あいつにだけは、命名を任せるな」と言われ続けた実績(?)の持ち主だ。何故だろう。こんなにナウくてイカすタイトルなのに・・・

「それがダサいと思うのですが」

うるさいぞエセックス。

「大体、その『マンユーキー』というのは何なのですか?」

デヴォンシャーよ、聞けば必ず答えが返ってくると思うのは、大間違いだ。

「いや、そういうことではなく・・・」
「伯爵、聞いても無駄だと思います」

パリー、お前ね・・・まぁいい。


侍従長デヴォンシャー伯爵率いるサヴォイア王国への使節団は、アルビオンのメアリー王女と、サヴォイア王国のウンベルト皇太子との結婚延期を交渉するために、サヴォイア王国の首都ジェノヴァに赴いた。ラグドリアン戦争からまだ半年。ガリアとトリステインとの緊張状態が続く中で、ガリア南部と国境を接するサヴォイア王国と、トリステインの同盟国たるアルビオンとの婚姻締結は、その気が無くとも、波紋を呼ぶことは明らか。昨年初頭に先代国王エドワード12世がなくなったこともあり、メアリーには悪いが、どちらにしろ、延期せざるを得なかったのだ。

メアリーから、無言の重圧を受けながら、軍艦「キング・ジョージ7世」に乗って出国した使節団には、もう一つの目的があった。

船舶の航行をガリア・トリステインが規制していることを口実に、ジェノヴァからラ・ロシェールまでの帰途として、堂々とゲルマニア領内を通り、国情を視察させる-使節団には、スラックトンやデヴォンシャーの推薦した、軍人や若手官僚を多数同行させた。アルビオンの次代を担う彼らに、旧東フランクの一王国ではなく、将来の仮想敵国(になるかもしれない)ゲルマニアを、体感として実体験させるためである。

報告する際、パリーには、その中でも特に見込みのありそうな軍人を連れて来るように言っておいたのだが、彼は近衛魔法騎士隊の、体格が良く、やたらに眼光の鋭い若手士官を一人だけ連れてきた。特段、一人だけだといったわけではないが、それでもパリーやデヴォンシャーの眼鏡に適った人物が、ただの木偶の坊なわけがない。


そして、その予想は当たった。

「アルビオン近衛魔法騎士隊第1師団第2連隊長のホーキンス子爵です。例の、ガリアによるトリステイン侵攻作戦を事前に予想していたのが彼です」
「ルイス・アレクサンダー・ホーキンスであります!」

緊張した面持ちで、見事な敬礼を返すホーキンス・・・ん?ほーきんす?どっかで聞いたことあるような・・・当たり障りのない質問で、場を繋ぎ、その間に、思い出そうとするヘンリー。はて、どこで聞いたのだったかな・・・

「ホーキンス子爵、君の階級は?」
「陸軍中尉であります!」
「6205年に士官学校をトップクラスの成績で卒業。参謀本部作戦課を経て、外務省に出向。駐在武官としてロマリア諸国を転任。3年前に近衛隊の士官候補として引き抜きました」

ヘンリーは、カチコチのホーキンスも、パリーの説明も全く聞いていなかった。


ホーキンス?ホーキンス、ホーキンス、ホーキンス・・・



・・・・って・・・ホーキンスって、あのホーキンスか?!



「あのホーキンスといわれましても、ホーキンスは一人しかおりませんが・・・」

困惑するパリーやデヴォンシャーの反応は、普通の対応だが、当のヘンリーは原作キャラと出合った興奮で、まったく気付いていなかった。


ホーキンスって言えば、アルビオンのレコン・キスタ側の将軍で、サイトが一人で突っ込んだ7万の軍を率いてた奴じゃん!あ~なるほど。トリステインやゲルマニアの将軍よりも、よっぽど将軍らしかった、あいつね。どおりで眼力が半端じゃないわけだ。そうか、あと30年あるから、今はまだ20代の後半ぐらいなのか。こんな男が敵に回ったら、そりゃ王党派駄目になるよね。なんであんなクソ坊主に味方したんだろう・・・やっぱり、アルビオンの内乱って、単に王党派対貴族派じゃ、説明付かないよな。

それにしても、こんなところで原作キャラに会えるとは。類は友を呼ぶ・・・とは少し違うが、原作キャラ(パリー)は、原作キャラを引っ張ってくるものなのかね。しかし、こいつがあの・・・う~ん、何だか感慨深いなぁ・・・


ヘンリーがそんな事で感慨に耽っているとは、知るはずがないホーキンスは(私ごときの名前を、ヘンリー殿下がご存知とは!)と、感動に身を震わせていた。知らず知らずのうちに、レコン・キスタの将軍を、心情的に王党派寄りに引き込んでいたのだが・・・ヘンリーもそれを知るはずがない。

美しきかな「勘違い」。そして、指摘するものがいない限り、勘違いは「真実」となる。


「じゃ、報告をお願いするよ」
「はっ!」

大いなる勘違いを続けながら、ホーキンスは張り切って報告を開始する。

「ゲルマニアの軍事力と、それを支える工業力は大した物です。その気になれば、数年で、2・3個艦隊程度は配備することが可能になるでしょう」

ある程度は予想していたが、実際に視察してきた者の口から語られると、やはり衝撃が大きい。ヘンリーは静かに、その報告を聞いた。


~~~

現在のゲルマニア王国の中心地域であるザルツブルグ地域は、古くから製鉄業が盛んなことで知られる。領内にはこれといった目立つ鉱山は存在しなかったが、南の火竜山脈からは、少数の火石のほかに、鉄鉱石に銅や石炭など、多くの鉱物資源が産出した。ザルツブルグは森林地帯が多く、製鉄に欠かせない燃料としての薪材や木炭が豊富に取れることから、これらの鉱物は、ハルケギニアを南北に貫くライン河によって、川沿いの村々に運ばれ、鉄に精製された。

そうした村々の中から、ダルムシュタットやマインツといった、製鉄を生業とする人々の都市が誕生した。この地域に集まった職人達は、初期の-莫大な鉄鉱石や砂鉄、木炭に、燃料として使う薪材の割には、僅かしか精製できないタタラ製鉄から、長年の試行錯誤と数え切れない失敗-そして、声高にはいえないが、聖地回復軍の引き上げ兵が持ち帰ったエルフの技術を研究しながら、何百年もかけて技術革新を行い、地球で言えば産業革命前の製鉄レベルまで引き上げた。

当然、この地域を支配する東フランク王国は、製鉄法を門外不出としたが、王国崩壊(2998年)と同時に、その技術は、職人と共に、ハルケギニア各国に流出した。そのため、それまではハルケギニアで貴重品だった鉄が、農具に使われるまでに、一般に普及することになった。ところが、そこでハルケギニアの製鉄の技術革新は停滞した。技術者の流出により、ザルツブルグ地域の独占体制は崩れ、各国に流れた技術者達は、それぞれ「ギルド」を作って、作り上げた既得権の維持という守りの体制に入った。聖地回復運動が行われなくなると、エルフの技術も流れてこなくなり、技術の革新は、それまでとは比べ物にならない緩やかなものとなった。


ザルツブルグ地域が、他国に比べて優位性を保てたのは、この地域に流れてきた旧東フランク貴族-ホーエンツオレルン家と、それに従ったゲルマン人貴族達のお陰である。

ホーエンツオレルン家は、銀行家時代から、ザルツブルグ地域の植林に取り組んだ。薪材や木炭のため、伐採されて禿山や荒野となりつつあったザルツブルグは、1000年をかけて、元の豊かな森林地帯に戻った。この、呆れるほどの長期的視野に立った森林再生は、結果的に「持続的開発」を可能にした。一時期、イベリア半島のグラナダ王国は、ザルツブルグを越える製鉄量を誇ったが、全土が禿山と化したのと同時に、その繁栄が幻のように消え去ったことからも、ホーエンツオレルン家の正しさが証明され、発言力を増すきっかけとなった。

そして魔法にそれほどの神聖性を感じていないゲルマン人貴族達は、得意の火系統の魔法技術を惜しげもなく使い、製鉄の技術革新に貢献した。ザルツブルグの製鉄業者が、いち早く木炭から石炭に転換したのも、大規模な反射炉を導入したのも、銅の精錬に手を出したのも、全て彼らのアドバイスがあってのことだ。こうして、製鉄業での優位性を保ち続けたザルツブルグ地域は、総督を経て国王となったホーエンツオレルン家の庇護のもと、肝心要な技術は、厚い「企業秘密」というベールに覆い隠し、ますます精力的に活動を続けている。

おまけに、ライン川上流のヴュルテンベルク王国、ダルリアダ大公国、トリエント公国の3ヶ国とは関税同盟を締結済みと来ている。ダルリアダとトリエントは、それぞれ国内に豊富な鉱物資源を抱えており、ゲルマニアと利害が共通する。間のヴュルテンベルク王国を巻き込むことによって、鉱山と製鉄所を一直線に結び、完全に後顧の憂いを断った。

(本当に嫌なやっちゃなー)

ゲルマニア王国の、長期的視野に立つ、堅実で隙の無い-それゆえにムカつく行動は、伝統に基づく嫌らしさだったのか。あー、腹が立つ。完璧な人間は嫌われるって、わかってんのか。味方なら、これほど頼もしい者はいないが、敵に回せば、こんなに嫌なやつはない。


内心ため息をついていると、亡くなったスラックトンの言葉が頭をよぎる。


『2羽のウサギを追う者は、結局1羽も捕まえることが出来ないのです』


・・・俺にとっての「1羽」って何だろうな。


東フランクなんか知ったこっちゃないって、開き直りが出来ればいいんだが、俺はそこまで薄情でも無責任でもない。第一、あの地域がまとまれたら、安全保障上、すっげーめんどくさいからなぁ・・・だからって、ゲルマニアの邪魔をすることは、火遊びではすまない。それこそ命がけで、国運を賭けての「邪魔」をしなければ、止められるものではない。中途半端に邪魔をして、仮に失敗した場合、帝政ゲルマニアの報復を考えると・・・考えたくも無い。

やるならやる、やらんならやらん。どっちにしろ、俺が腹をくくらないとな。俺がふらふらしてたら、アルビオンの国論ですら統一出来ない。


(それにしても、兄貴はすげえよな)


兄-国王ジェームズ1世は、王弟という、ある意味無責任な立場のヘンリーとは違い、その行動の全てが、アルビオンという国の命運に繋がる。あの必要以上の厳粛な態度は、国の反映も没落も、全ては自分の決断にかかっているという覚悟があってこそ。「自分こそがアルビオン」-傲慢ではない。それが事実なのだ。もし自分がその立場になったとして、ジェームズと同じように行動出来るとは思えない。皇太子時代から、その重責と向き合い続けてきた兄-権力の孤独に耐える気分とは、一体どんなものなのか?

(まさか兄貴に聞くわけにもいかんしな)と脱線した思考でヘンリーが唇をゆがめると、ホーキンスが困ったような顔をしていた。


「悪い、続けてくれ」
「はっ・・・先ほど述べましたように、ゲルマニアは豊富な森林地帯を抱えております」

アルビオンが大陸1とも呼ばれる空軍を保有できるのは、船に頼らざるを得ない国土で古くから船の建造技術と航海技術が発達した事と、風石技術の民間利用をいち早く認めたこともあるが、大火を教訓とした都市部での建造物への木材使用禁止により、豊富な森林資源を抱えているため。

ザルツブルグでは石炭の利用により、薪材や木炭のために森林を伐採する必要性が減っており、その分を船の建材にまわせば、1個艦隊ぐらいはすぐに出来る。劣る操船技術は、鉄砲や大砲で補えばいい。長所で弱点を補うことは十二分に可能だ。使節団に同行した空軍士官はその事実に一様に顔が青ざめたという。艦隊決戦では万に一つも負けることは無いだろうが、それでも無視の出来ない規模の艦隊が、いつでもハルケギニアの空に浮かぶとあっては、安心は出来ない。

仮にゲルマニアがアルビオンと戦争状態に入った場合、地上を拠点に、片っ端から商船を襲えばいい。艦隊決戦だけが空の戦いではない。ゲリラ戦も立派な戦争だ。歴史上、アルビオンは、それを嫌というほど味わっている。それゆえ、通商航路の防衛に関しては、過敏といっていいほどの警戒を強いている。空賊が出たと聞けば、それが駆逐艦1隻程度であっても、一艦隊を派遣するほどの念の入れよう。「アルビオンを怯えさせるには、空賊が出たと騒げばいい」という戯言があるくらいだ。


ホーキンスの話を聞く限り、若手将校たちはゲルマニアへの印象を改めている。ゲルマニアの現状を実体験させるという思惑は成功しているようだと、ヘンリーはほくそえんだ。


そんな些細な喜びを、真っ向から否定する報告が、目の前のホーキンスから行われようとは、神ならぬヘンリーが知るはずもなかった。

「他に気になることはあったかね」
「はっ・・・」

この発問は予想していなかったのか、考え込むホーキンス。突発事態には弱いのかと思ったが、それは間違いのようで、数秒の沈黙は、考えをまとめるためのものであったようだ。

「・・・新教徒が多いような印象を受けました」
「ほう、新教徒が」

新教徒-ロマリア教皇をトップとするロマリア宗教庁と、ブリミル教団のあり方に疑問を持ち、始祖ブリミル本来の教えに戻るべきだと主張する一派。彼らにとって「旧東フランク」という地域は、国境警備が甘く、歴史的に新教徒に甘いということもあって、いざという時に逃げ込める場所がいくらでもあるという、数少ない安住の地である。

「別にそれはゲルマニアに限った話ではあるまい」
「はい、確かに・・・個人的な話になって申し訳ないのですが、ヴィンドボナ郊外のヴォルムスで、新教徒シンパと噂されるクロムウェル大司教にお会いしたもので。噂どおり、実践教義にも理解のあるお方でした」

「ほう、大司教がねぇ・・・」


まぁ、心あるものなら、誰だって、今の教会のあり方には疑問を持つだろうからなぁ・・・




・・・


・・・あれ?



何か、聞き捨てならん単語が聞こえたような・・・







『クロムウェル大司教』







おーけー、落ち着こう





リピート・アフター・ミー







『クロムウェル大司教』





(ポーン♪)


内乱フラグが立ちました













「き、きたぁぁあああああああああああ!!!!」



「へ、ヘンリー殿下?!」

「ほっとけホーキンス、いつもの事だ」



[17077] 第20話「ホーキンスは大変なものを残していきました」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:b679932f
Date: 2010/08/06 18:50
ホーキンスは大変なものを残していきました


それは「内乱フラグ」です



・・・


・・・・・・・


・・・・・・・・・・・


馬鹿野郎


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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(ホーキンスは大変なものを残していきました)

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クロムウェル姓は珍しいものじゃないよね。うん、きっとそうだよ。佐藤や田中ほどじゃなくても、加藤ほど・・・はいなくても、森さんぐらいは・・・森田さんなら・・・うん。無駄な足掻きはやめよう。クロムウェル姓は、はっきり言って珍しい。その珍しい名前で、教会関係者。

「どう考えても、オリヴァーの親父かじいさんだよなぁ・・・」

なんで会ったときに始末しておかなかったんだ・・・だなんて、ホーキンスには言えない。言いたいけど。今すぐ命令したいけど。すぐに行って、やっちゃって欲しいけど。無論、本当に命令するわけではない。あくまで冗談だ。冗談だとわかっているからこそ、好き勝手なことを思える。クロムウェル一族の男を『強制的』に去勢してこいだなんて、言うわけがないじゃないか・・・ふふふ・・・

というか、聖職者って、一応結婚しちゃだめだったはず。何ガキこさえてるんだよ、このエロ坊主


いかんいかん。現実逃避してる場合じゃない。


ここ最近、ゲルマニアにかかりっぱなしで、すっかり忘れかけてた「内乱フラグ」。原作では、国王ジェームズ1世の王党派と、オリヴァー・クロムウェルを盟主とする貴族派「レコン・キスタ」は、1年にも及ぶ内乱を戦い、敗れた王党派はニューカッスル城に滅んだ。

アルビオンは「神聖アルビオン共和国」という名前の、ジョセフ1世の駒となり、トリステインに卑劣極まりない奇襲をして、ゼロ戦&ルイズによって返り討ち。ウェールズの死体までいいように扱われ、遠征軍によって国土を蹂躙され、一度は撃退するが、最終的にはゲルマニアとトリステインの共同統治になるという、散々な経緯をたどった。

この間、アルビオン国民のおかれた環境は、ハルケギニアの中でも最も苦しい環境だったことは、容易に想像が付く。彼らに王党派も貴族派もない。内乱に巻き込まれた平民達が、幸せなわけがないのだ。悪化する治安、増える一方の税。突然故郷が戦場となり、財産どころか、命までが危機にさらされる。ようやく内乱が終わったかと思ったら、「自作自演の三文芝居」でトリステインに喧嘩を売って返り討ち。祖国はハルケギニア中の信用を失った。そして、報復としての遠征軍により、再度国土は踏みにじられ・・・フーケでなくとも、これで祖国に忠誠を誓えといわれても、無理な話だ。

原作に登場したアルビオン王国の人物達-ウェールズやホーキンス、ボーウッド・・・それぞれ、いぶし銀の良さはあるが、それはサイトやルイズの物語に、花を添える役回りとして。決して自ら物語を動かすプレイヤーには、自分の相手にはなり得ない-少なくとも、ジョセフはそう思っていたのだろう。


「ふざけやがって・・・」


今の段階では筋違いなことだとは分かっていたが、ジョセフ王太子に対する怒りを抑えることはできない。

確かに、この世の中を、自分の思うとおりに生きていけるものは、ほんの僅かだ。多くの人間は、しがらみに囚われ、壁にぶつかり、挫折を味わいながら、それでもままにならぬ事ばかりの世の中を生きている。その人の意思を、運命をもてあそぶ権利は、たとえ神であってもないはずだ。ましてや、権力者の気まぐれな「人形遊び」に付き合わせていいはずがない。個人的に、ジョセフの境遇には同情するが、だからといって、あいつのお遊びを認めるわけにはいかない。

何故なら、俺はアルビオンの王族だから。キャサリンの夫であり、アンドリューの父親だから。


「『人形』にさせて、たまるか・・・」


今の段階ではどうなるかわからないが『無能王』が悲劇の主人公ゴッコをするつもりなら-せいぜい、「人形」のあがきを見せてやるさ。


~~~

これまでヘンリーは、アルビオンという国家に溜まった6000年分の垢とヘドロを洗い出し、その原因となった制度疲労を何とかしようと取り組んできた。

改革に必要なのは、共通した問題意識を持ち、中核となり実行する人々。幸い、先日亡くなったスラックトン宰相を初めとして、アルバートやシェルバーン財務卿といった、少なからぬ人々と、「アルビオンは中央集権化が必要である」という目的意識を共有する事が出来た。兄である国王ジェームズ1世も、同様の認識で一致している。

中央集権化=王権の強化は、仮に反乱が起った場合にも即座に対応できるようにするため。そしてそもそも反乱自体を起こさせないようにするため。勝ち目の無い戦を、好き好んでするものは少ない。


歩のない将棋はへぼ将棋。まずは、反乱の中核となりえる困窮貴族対策。


アルビオンでは歴史的経緯から、100メイル四方の領地しか持たない貴族が、全体の3分の2を占めていた。こうした貴族達は、狭い領土で、殆どが赤字経営を強いられている。今はそれでもなんとか領地を経営していられるが、あと20年もすれば、そのうちの何家が残っているかわからない。こうした貴族が、現状に満足しているわけがない。反乱が起れば、いの一番に参加するであろう奴らだ。そうした細分化した領地をまたがって、王家の直轄領も点在しており、経営コストがやたらに高くつく。街道一本通すだけで、膨大な書類と手間がかかっていた。

こうした問題を一挙に解決するために、ヘンリーが考えたのが「上知令でアゲアゲ大作戦」

細分化した領地を再編し、領地経営に行き詰っている困窮貴族に、貴族年金と引き換えに領地を差し出させ、ついでに官僚に組み込んでしまおうという、一石三鳥のお得な作戦は、開始から5年で、思った以上の成果を上げていた。アルビオン全体の4割程度であった王家の直轄領は、領地再編計画(シェルバーンはこちらの名前でしか呼ばない。何故だ?)開始以降、5割半(55%)にまで拡大した。100メイル四方しかない困窮貴族の領地も、集まれば馬鹿に出来ないのだ。貴族年金を払ってもお釣りが来る。

こうして王家の直轄領を再編するのと同時に、大貴族の領地を、その本拠地近くに集積させた。大貴族達は、飛び地の運営コストにそれほど困っていたわけではない。切羽詰った必要性を感じていない彼らを納得させるため、領地再編の責任者であるシェルバーン財務卿に、貴族年金を払ってもあまる領地をくれてやるように命令した。これがなければ、王家直轄領は6割半-アルビオン全土の3分の2にまで拡大しただろう。

それを差し引いても、ヘンリーは大貴族の領地を確定させることを望んだ。

たびたび話が飛んで恐縮だが-反乱は兵士(貧乏貴族)だけではできない。指揮官が、主導する大貴族が必要だ。仮に反乱が起こった際、この大貴族の飛び地があちこちにあっては、軍をどこに派遣していいかわからない。治安を乱すこと事態が目的になりうる反乱軍とは違い、政府は治安を維持しなければならない。治安維持を考えると、そう簡単に全軍を動かすわけにはいかなくなり、自然と作戦の幅が狭まる。

その点、大貴族の領土を集積させておけば、反乱が起った際、戦闘地域が限定される。反乱軍の進路を予想出来るため、迅速に鎮圧軍を派遣することも可能だ。必ずしも戦闘を有利に運べるとはいいきれないが、それでも、後方に不安を抱えて戦うよりはよっぽどましだ。


こうして、涙ぐましいまでに、摩擦を避けながら、少しずつ少しずつ、中央集権化を進めてきた。


・・・正直に言うと、ここまでしたんだから、よほどの事がない限りは、反乱は起きないだろうという慢心があったことも事実だ。それが、クロムウェルという名前が、自分が「ゼロの使い魔」という世界において「異物」だということを、改めて思い出させてくれた。

(ホーキンスに感謝しないといけないな)

素直に喜べないのは仕方がない。むしろ、この皮肉ともいえる状況に笑いすらこみ上げてくる。



オリヴァー・クロムウェル


「レコン・キスタ」の盟主であり、神聖アルビオン共和国議長。そして、死者に偽りの生命を与える魔法-「虚無」を使うもの。

レコン・キスタの言い分をまとめればこうなるのだろう

「現王家は堕落し、始祖から与えられた聖地奪還という使命も忘れ、惰眠をむさぼっている。我らレコン・キスタは、始祖の寵愛をなくした王家を打倒し、聖地の奪還を目指す。それゆえ、我らが盟主のオリヴァー・クロムウェルは、始祖から『虚無』の力を与えられた」

虚無自体は、ラグドリアン湖の水の精から盗んだマジックアイテム「アンドバリの指輪」の効果であり、平民の司祭でしかないクロムウェルは、虚無どころか魔法すら使えない。

反乱軍にとって、彼の虚無魔法が真実か否かはたいした問題ではない。始祖ブリミルの子孫であるアルビオン王家に対抗するための正当性(大義名分)として「虚無」を名乗るのが都合が良かったのだろう。なにせ、誰も伝説と化した虚無魔法について、正確な知識が無い。だからこそ、マジックアイテムの効果であっても、無理やり取り繕うことが出来た。

聖地奪還云々は、神と始祖の地上における代理人であるロマリア教皇に、余計な口出しを出させないという狙いがあったと考えたほうが自然だ。ロマリアなら、クロムウェルの「虚無」魔法が、偽りのものだと気が付くだろうが、幾度もの大敗で、気運が地に落ちていた「聖地奪還」を声高に叫ぶ勢力-どれくらい本気かはわからないが、わざわざ潰す事もない-そういう結論に至るであろう事は、誰だって想像が付く。

ついでに言えば「貴族による共和制」というのも曲者だ。始祖ブリミルの子孫であるアルビオン王家を倒して、大公家や王家の分家の公爵家などを担ぎ上げて新しい国王を立てたとしても、著しく正当性に欠けることは否めない。それならいっそのこと反王制を掲げればいい-発想の転換というべきか、詭弁というべきか。

初代議長(事実上の王)が、「レコン・キスタ」盟主であるクロムウェルなのは当然として、その次はクロムウェルの子孫でなくてもいい。後継議長は、貴族の互選になる可能性が高い。国政運営にしても、歴史的にアルビオンでは議会の権限が比較的強いため、議会が行政府と一体化するだけだという、青写真も描ける。「共和制」という建前上、意思決定は貴族の合議制になるだろうから、クロムウェルの独裁は阻止できるし、何より彼には直属の兵が無い。上手くいけば、自分達の傀儡に・・・


これだけお膳立てすれば、額に刺青を浮かべた女秘書は、妙な薬を使わなくとも、貴族達の耳元でこう囁けばいい。

「アルビオンは変わりません。抱く元首を王家から議長に代わるだけ。そして貴方も、新生アルビオンへの忠節によっては、議長になれるかもしれませんよ?」

貴族達にとっては、余りにも魅力的な響きだったろう。


(・・・悔しいが、ジョセフの能力は認めないとな)

こんなに緻密で悪辣非道な計画を立てた男が「無能王」なら、この世に有能な人間はいなくなる。

そして、そのシナリオにそって動いたクロムウェルも、アルビオンの貴族やジョセフに言われるがままの人形であったとは考えにくい。すくなくとも、自分が「虚無」を主張することによってもたらされる、反乱の正当性を理解し、貴族達がどのような思惑で自分を擁立しているのかはわかっていたはずだ。

その上で、ジョセフや貴族に望まれた役回りを見事に演じて見せた。

台本を覚えたとおりに読むだけの役者より、自分の役割を理解して振舞うほうが、芝居が上手いと相場は決まっている。ましてや彼は、結果的に、その舌だけで国を滅ぼしたのだ。言われたことしかしない役者が、仮にもジョセフの駒の中で、反乱軍の盟主という重要な役回りを任されるとは思えない。


閑話休題


平民や兵士達にとっては、反乱の正当性に興味は無い。戦争が起きれば真っ先に苦しめられる彼らのほうが「勝てば官軍」という冷めた見方を獲得していた。一方で、王家から領地を与えられている貴族達にとっては、その王家に反乱を起こすという特殊状況において、数少ない大義名分を求めたのは、これまた自然なことであった。立場変われば、考え方も変わるのだ。


さて、このロジックを崩すためには、どうすればいいか?


クロムウェルの使う虚無を「嘘だ」と主張しても、意味が無い。何故ならレコン・キスタは確信犯であるから。虚無が真実か否かはどうでもいい。

アルビオン王家に、虚無を使える人間が生まれれば、全ては丸く収まる。偽者は所詮ニセモノ。本物には敵わない。デモンストレーションに、エクスプロージョン1発唱えてやれば解決する・・・のだが、残念ながら、国王ジェームズ1世にしても、俺を含めた王族達も、すべて4系統に分類される魔法が使える。


姪のハーフエルフの誕生を待つか?


でも、地味だよなぁ・・・「記憶を消す」って。第一、忘れられたら意味ないし。


そもそも、この姪の存在を明らかにした時点で、王制どころか、アルビオンという国家の枠組みそのものの存続が危うくなりかねない。始祖ブリミル以来の、人間の仇敵たるエルフと、王弟である大公が情を通じ、子供までこさえて、しかもその子供は「虚無」使い。

原作ではルイズは「虚無」だと公式に認知されると、その他の序列を全てすっ飛ばして、アンリエッタに次ぐトリステインの王位継承権を獲得した。直系の王族よりは下だとしても、少なくとも大公家や、王家の分家よりは継承権が上という事。


その虚無を使うものが、ハーフエルフ。


ブリミル教に喧嘩売ってます?


というわけで、「胸革命で、貴族革命をパッフンしちゃおう作戦」却下


(寝物語でキャサリンに作戦名を自慢したら、無言で一本背負いされたのは秘密だ)


どっちにしろ、その気になれば、大義名分はいくらでもでっち上げが出来る。

クロムウェル姓の男を片っ端からヤッちゃっても、根本的な解決にはならない。クロムウェルがたいした役者だったのは間違いないが、所詮は役者。彼を殺したとしても、第2・第3のクロムウェルが現れるだけだ。それがクロムウェルより使える役者だったら、目も当てられない。

諸悪の根源たるガリアの王太子を・・・駄目だな。成功するにしても失敗したとしても、ちょっかいを出したことがばれたら、よくて外交問題、悪けりゃ戦争だ。ハルケギニア一の大国と正面切って戦う国力は、正直言ってない。そんな博打は打てない。


となると

「要は、付け入る隙を与えなければいいんだよな」

繰り返しになるが、まずは貴族に反乱を起こしても、絶対勝てないと思わせること。そもそも、反乱を起こさせないように、彼らの不平不満をひとつずつ解消していくこと-2番目の月の司令官曰く「戦法は正攻法、正面から行くぞ!」である。

ヘンリーが進めている中央集権化=王権強化策は、貴族の不平不満を解消することによって、反乱軍の参加者を減らし、反乱が起ったとしても迅速に対応できるようにという目的がある。順調に成果を上げているので、このまま慎重に進める。

あと出来ることは


「陸軍と、治安機関の強化だな」

アルビオンの軍事ドクトリンは「空で勝て」-狭い領土、少ない人口のアルビオンは、早くに大陸進出を諦め、国土防衛を基礎においた。空中国土を攻める際、外国勢力は必ず船で侵攻してくる。水際で叩くのは、防衛作戦の基本。空軍を使い、哨戒網を張り巡らせた。そのためアルビオンの空軍は、その規模に加えて、操舵技術も含めた技術的な面も含めて、ハルケギニア1と呼称される。

それに比べると、陸軍はお粗末としかいいようが無い。元々、国家の緊急事態(反乱・国土防衛)に応じて召集される王軍(陸軍)は、諸侯軍が主体であり、常備軍は存在しない。アルビオン程度の国力では、大陸に派兵するほどの常備軍を持つことは不可能に近い。空軍予算を削って、陸軍を整備することも、やろうと思えば出来るが、それでは本末転倒だ。だが、反乱軍を牽制できるだけの常備軍は欲しい。空軍で牽制することは可能だが、最終的には地上部隊で制圧しなければならないのだ。

同じ理由で、治安機関の強化は必須である。

軍=警察といっていいハルケギニアでは、軍を動かせば、それだけ治安機関の能力が落ちる。治安専門機関も存在するが、その実情はごろつきと変わらない。それはともかく、まず軍隊と警察機構をわけなければならないが、なかなかそれが難しい。予算の確保もだが、人手が足りないのだ。アルビオンのメイジ人口は、単純計算でガリアの10分の1。貴族出身者だけで警察機構を整備するのは不可能に近い。だからといって、メイジ崩れの犯罪者の場合、平民では手出しが出来ない。両者を混合した組織が作れればいいのだが・・・

「・・・考えるだけで面倒くさいなぁ」

予想される軋轢と予算に、ヘンリーは頭を抱えた。


***

「殿下、紅茶を持ってまいりました」
「おう!飲もう飲もう!」

山と詰まれた資料の奥から、ヘンリーの声だけがする。初めてヘンリーの部屋を訪れた者は、この異様な光景に戸惑うが、小さい頃からこの王族に仕えてきたエセックス男爵からすれば、見慣れた景色。ミリーにしても、いい加減慣れてきた。

何故なら

「・・・いい加減、片付けられたらどうですか」

ヘンリーは片付けが下手だった。本人は散らかった部屋で仕事をするのが好きだと言い張っている。メイドが片付けようとすれば「それは違う!」「勝手に触るな!」と怒る始末。めんどくさい事この上ないと、誰もが手をつけるのを嫌がった結果-書類の摩天楼が出来たというわけ。

アルバートがいれば、仕事が大分楽になるんだが、彼ほど優秀な官僚はどこでも引っ張りだこ。第一、彼はロンディニウム官僚養成学校の学長として、自分以上に忙しい日々を送っている。一向に片付く気配が感じられない資料の山の一つに、お盆を置いて、ミリーが手馴れた手つきで紅茶を注ぐ。


紅茶カップに口をつけながら、ヘンリーは、改めて自分の「存在」について、思いをめぐらせていた。


(異物だよなぁ)


これだけ好き勝手に「ゼロの使い魔」の世界で振舞ってきたのだ。人の体で言えば「病原体」として、白血球だの、キラーT細胞だのにフルボッコされてるに違いない。それが排除されなかったのは、自分が原作主要キャラクターの父親だからだと考えていた。

それも、キャサリンとの結婚で、それ相応の変化か、報いがあることは覚悟していたつもりだった。

それが、まさかこの段階で「クロムウェル」の名を聞くとは思わなかった。その情報自体が、自分にとって、有利か不利に働くかは、まだわからないが、少なくともそのおかげで内乱の可能性について、再度じっくりと検討することが出来たのは確かだ。

(敵の名前で気づかされるとは・・・皮肉としかいいようが無いな)


なかなか、ライトノベルの世界も洒落た真似をしてくれたものだ。


「ミリー、お代わりだ」
「かしこまりました」












ヘンリーは知らない





迷い込んだ「異物」に対して、この世界が、どのように「対処」しようとしているのかを





そして、それが自分のすぐ側まで迫っていたことを











「・・・っつ!」

「殿下?」





「何でもない。紙で切っただけだ」







切った指を、逆の手で抑えて止血するヘンリーは、気が付かなかった




血が紙に落ちて

赤い花を咲かせていた事に




[17077] 第21話「ある風見鶏の生き方」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:b679932f
Date: 2010/08/06 18:50
「老いた政治家の中には、ついにひとつの意見に固まるものがいる。人生の冬が風見鶏を錆びつかせ、動けなくしたのだ」

ポール=ジャン・トゥーレ

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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(ある風見鶏の生き方)

*************************************

アルビオンは、やたらに貴族が多い。人数という意味ではなく「家」という意味でだ。分割相続で一代限りの子爵・男爵家を立てたものは数知れず。また、歴史的に大陸で政争に敗れた王族や貴族を多く受け入れてきた結果である。そうした亡命貴族を祖とする家を指してアルビオンでは「外人貴族」と呼ぶ。アルビオンは、彼らの能力や独自の人脈、そして家柄を利用するために積極的に受け入れた。ガリアに公爵家が10家しか存在しないのに、メイジ人口が10分の1のアルビオンに15家も公爵家が存在し、その内、6家が「外人貴族」の子孫という事実からも、その歪な構造がわかるというものだ。

公爵家は、アルビオン王族が臣籍降下した家か、亡命王族を祖とする家がほとんどである。そのため、両者を家祖としないロッキンガム公爵家は、アルビオンの生え抜き貴族といっていい。東部と中部のヨークシャー地方に広大な領地を持つ、数少ない大土地貴族でもあるこの家は、ブリミル暦2000年代から今に至るまで、代々王家に杖の忠誠を誓い続けてきたが、それ以上に、政治的な無節操さで政界に知れ渡っていた。「ロッキンガムを見れば、王宮の実力者がわかる」というのが、社交界の共通認識になるほど、政策も信条もあったものではなく、それまで敵対していた人物であろうと、文字通り親の敵であろうとも、臆面も無く諂うとされた。そして実際にそうしながら、この家は4000年近く家を存続させてきた。

第230代ロッキンガム公爵チャールズ・ワトソン=ウェントワースは、そのいかにも人のよさそうな、茫洋とした物腰とは裏腹に、彼も歴代当主と同様、政界風見鶏として知られていた。父の死により襲爵。貴族院議員を務めながら、内務省道路局長・ロマリア特命全権大使・ハノーヴァー大使等を歴任。着実に政界や官界での足場を築いてきた。

風見鶏というのは、風見鶏なりの流儀があると、彼は考えている。政界情勢に敏感なだけでは駄目だ。それでは宮廷スズメと変わらない。ただでさえロッキンガム家は領地を保有する大土地貴族。馬鹿ではいいカモに、切れ者では粛清の対象になりかねない。「敵に回すと厄介だが、警戒するほどではない」という具合に思わせなければならない。

同時に、これから力を持つであろう勢力や人物の見極めも大事である。スラックトン宰相を通じて、カンバーランド公爵ヘンリー王子に、早くからよしみを通じたのも、その一環だ。色物ではないかと心配もしたが、この先物買いは成功だったようで、旧ヨーク大公家領を統括する責任者に抜擢され、プリマス県知事兼プリマス市長として、ペンウィズ半島南部を任されることになった。港湾整備事業や、都市整備事業の陣頭指揮を取りながら、このまま順調に行けば、次の内務次官にはなれるかとソロバンをはじいていたのだが・・・


どうやら、先物買いに『成功し過ぎた』ようだ


「・・・あの、今なんとおっしゃいましたか」

ヘンリー王子に呼び出されて、チャールストン離宮を訪れたロッキンガムは、紅茶カップを持ったまま固まっていた。

何故か、スラックトン宰相のニヤニヤした笑みが頭に浮かんだ。あの妖怪爺は、この場にいたら、唖然とする自分を見て、そんな顔をしていただろうなぁ・・・


その宰相の「お気に入り」だった王弟は、貴重な角砂糖を2個も3個も・・・あ、4個入れやがった・・・も、小さなカップに投入して、スプーンでかき混ぜていた。あんなに入れたら、甘くて飲めたものでは・・・あ、飲んだ。

「聞こえなかったか?君をだね、後任の宰相に推薦したいと、そう言ったんだ。兄上-国王陛下の内諾も得ている。正式な発表はもう少し先になるだろうがね」

そう言ってヘンリー殿下は「あの」紅茶を飲み干した。メイド長(たしか、ミリーとかいったな)も、引いてるぞ。しかし殿下が、極度の甘党だったとは、知らなかった・・・

「・・・聞いてる?」
「・・・飲んでもよろしいですかな」
「そりゃ、その為に出したんだからね。飲んでもらわないと」

そりゃどうも・・・・うん、やはり紅茶は、何もいれずに香りを楽しむに限る・・・

「で、引き受けてくれるよね。『はい』か『謹んでお受けいたします』かで答えてね?」


・・・香りも味も感じなかった。


***

「いやー快く引き受けてくれて嬉しいねぇ」
「拒否権は無いとおっしゃったような気がしますが・・・」
「え?そんな事いったかな?」

平然とのたまうヘンリー王子。これは、あの妖怪爺と仲が良かったというのも頷ける話だ。

宰相という行政の最高責任者になるという内示を聞かされたのにもかかわらず、ロッキンガム公爵はこれ以上ないくらいに渋い顔をしていた。ロッキンガムは「宰相」というポストを聞かされて、嬉しくなかったわけでは無い。男子として生まれ、貴族として最高の地位に上り詰める自分を夢見たこともあった。風見鶏」にも人並みの出世欲はある。

だが彼はそれ以上に、王宮や政界に渦巻く「嫉妬」の恐ろしさを身をもって知っていた。実際に政界に身をおいて、それが自分と「家」の破滅をもたらしかねないという事実をいやというほど見せつけられてきた。ポストが一つ埋まれば、それから弾かれた者は、ポストについたものを恨む。それが実際に検討された候補者だったらともかく、「自称」候補者も混じっている。馬鹿馬鹿しい限りだが、人が皆、他者の出世を手放しに喜ぶ聖人君子でないのは間違いない。

その上、ロッキンガム公爵家はいろいろと筋違いの恨みを買う条件がそろっていた。経営コストばかりかかる広い領地をもっていれば「金持ち」と見られ、名門貴族であるだけに、出世すれば「あそこは公爵だから」と貶され、金のかかるばかりで実のない社交界の付き合いを、少しでも断れば「ケチ」だの「実は家計が火の車」だの。実際のロッキンガム家は、貧乏でも裕福でもない、公爵の格式は維持できるだけの財は持っているが、それ以上でも以下でもなかった。だが、それを言ったところで誰も信用しない。「大貴族」を維持し続けるのも、大変なのだ


一国の経綸の才に、自身が欠けているとは思わない。アルビオンに数ある貧乏貴族とはちがい、学費には困らなかったので、家庭教師ではなくイートン・カレッジにオックスフォード大学という私学校で教育を受けることが出来た。「外交官としても、地方官としても、そこそこ-いや、人並み以上の実績は上げてきたつもりだ。少なくとも、家柄だけの貴族様よりは、上手くやれるという自信も自負もある。「自分ならこうする」という、夢とも政策とも付かぬ想いもあった。だからといって、おいそれと人事を受け入れるわけにも、ましてや喜ぶわけには行かない。


「辞退する」という選択肢はなさそうだが、少なくとも、これだけは知っておきたい。


「私は、何をすればよろしいので?」

それを聞いたヘンリー王子は、じつにムカつく笑みを浮かべられた。

「そうだね・・・一言で言えば『省庁再編』・・・どこ行くの?」
「い、いや、改めて自分の能力を鑑みますと、とても宰相という重責を担えるような能力は無いという考えに至りまして、今回のお話は辞退させていただきたいと・・・殿下、肩の手をどけていただけますか」

向い側に座っていたはずのヘンリーは、いつの間にかロッキンガムの後ろ側に回って、その両肩に手を置いて、逃がさないといわんばかりに押さえつけていた。


「どっちも駄目」


紅茶のお代わりを注いでいるメイドと、眼があった。

同情の目線が、一瞬だけ嬉しかった


***

アルビオンの警察組織をなんとかしようと考えたヘンリーは、その実情に頭を抱えた。

農村部では領主が平民を徴集した兵(諸侯軍)が、時には領主自らが杖を振るい、治安維持の役割を担っている。だが、人口の多い都市では、到底軍だけでは人手が足りない。それに、万引きごときの軽犯罪にまで一々、軍が出動すれば、無用な混乱を招きかねない。そのため役所は、自前の治安組織の他に、町の「顔役」に金を出したりしながら、地域の治安を任せていた。いたのだが、その内情は

「まるで、や○ざだな」

十手持ちの如く、「安い給金では生活できない」と嘯きながら、自分の権限を嵩に来て、威張る・たかる、おまけにサボるの三拍子。とにかく評判が悪い。リヴァプール市などは、マフィア化した治安組織の解体に乗り出すために諸侯軍に出動を要請するなど、本末転倒のことを繰り返していた。


近代警察でも何でもそうだが、組織を作り上げるためには、金とノウハウと人が必要である。

財源のめどはある。確かに万年金欠なのは確かだが、上知令で直轄地が増えたこともあり、無理にでもひねり出そうと思えば、出せない額ではない。シェルバーン財務卿は、一回こっきりでは無く、恒常的に人件費がかかるとあって、渋い顔をしていたが、必要な経費をケチってはいけない。無理にでも押し切るつもりだ。

ノウハウも、当てが無いわけではない。近衛魔法騎士隊だ。「弱兵」の代名詞であったこの騎士隊は、デヴォンシャー伯爵(現侍従長)が王国有数の精鋭に鍛え上げた。国王の意思一つで自由に動かせるとあって、スラックトン前宰相はこの部隊を、領土の境界が定まっていない地域や、領土紛争を抱えている地域の治安活動に当たらせた。国王直轄の兵であるため、領主も文句が出しにくいという、実にあの人らしい「上手い」やり方である。そうした経緯から、治安出動の経験に関しては、アルビオンのいかなる組織よりも蓄積されている。トップ人事にも腹案がある。デヴォンシャーの秘蔵っ子、パリー・ロッキンガム子爵だ。父のロッキンガム公爵と対立して軍に志願した彼は、「風見鶏」の父とは対照的に、実直で無骨。腹芸とは無縁の軍人肌な人物で、治安出動の経験も十分にある。

とはいっても、器だけつくっても、そこに入れる中身がお粗末では意味が無い。寄せ集めの兵に鉄砲を持たせても、張子の虎にもならない。まずは集団行動と治安活動のノウハウを叩き込む警察学校を設立するつもりだ。学校で新人を鍛えさせながら、パリーたちも組織のトップとしての自覚と経験をつませる-教えることは、学ぶことでもある。


問題は「人」だ。

上知令で領地を返還した貴族に仕えていた家令や役人達を、そのまま採用-というわけにはいかない。彼らの殆どは、そのまま地方役人として中央政府に雇用されている。中央にくすぶっている年金貴族-領地と引き換えに、中央での生活と年金を保証された貴族達から、希望者を募って・・・そんな荒事に好き好んでつくものはいない。それに、元々腕っ節に自信のあるものは、パリーのように最初から軍に志願している。

なら平民はどうか?確かに、平民は山ほどいる。身分も給料も保証される公務員になれるとあっては、多少の危険があろうとも、人は集まるだろう。だが、彼らに、没落貴族が加わった強盗団や、傭兵団崩れの犯罪者、そしてオーガ鬼などの亜人と十分に戦えるかというと-よほど厳しく鍛え上げないと、厳しいといわざるを得ない。ぶくぶく太って、戦場の「せ」の字も知らないドットクラスの貴族であっても、杖を持たせれば、訓練をしていない平民よりは(多少は)役に立つ。

なにより、貴族と平民が一緒に治安組織を構成する-現場の人間であるパリーは、そんな事を気にするような性格ではないのは百も承知だが、貴族にとって面白かろうはずが無い。「平民びいき」だという評価は、そのまま貴族層の不満に繋がる。「レコン・キスタ」フラグがあるアルビオン王族としては、それは出来るだけ避けたいところだ。


そして、スラックトン前宰相の秘蔵っ子であるヘンリーが考えたのが「木の葉を隠すには森の中」作戦。大規模な省庁再編というでっかい花火を打ち上げて、平民を治安組織に組み込むという事実を小さく見せようという、一言で言うと


「・・・せこいですな」

せこいって言うな。


「遅かれ早かれ、機構改革は必要なんだ。改革にはパワーがいる。小分けにやっていくより、一度にドカーンと全部片付けた方がいいだろう」
「おっしゃる事はわかりますが・・・」

ロッキンガム公爵は、いかにも人のよさそうな顔に困惑の色を-はっきりいえば(迷惑だ)という表情をしていた。無理難題を押し付けられて困っている、善良な村役人に見えないことも無いが、実際は政界風見鶏として知られる目端の利く男だ。ヘンリー王子の言いたい事も、自分に求めている事も、その意図もすぐに察した。


行政改革にはとてつもないパワーがいる。ブリミル暦4540年、アルビオン王リチャード12世が王家の財政と国家財政を分離させるために財務省の設置を検討したが、その実現のためには6年の月日と、王宮の勢力図が2回塗りかわるという政変を必要とした。リチャード12世を支えた功臣にして、初代財務卿のダービー伯は「改革は戦争よりも難しい。何故なら味方と敵がはっきりしないからだ」と言ったとされる。同時に「周囲の全てが敵になろうとも、自分の信念を貫き通す覚悟がいる」とも。

家の存続を第1において行動してきた「風見鶏」のロッキンガム公爵家とは正反対の概念だ。そもそも敵や味方をはっきりさせては、政界遊泳など出来ない。信念など邪魔なだけ。便所紙ほども役に立たない。


ヘンリー王子が自分の性格を知らないわけがない。むしろこの王弟は、自分(ロッキンガム公爵)の性格を調べつくした上で、自分を推薦したに違いない。

大土地領主の公爵家というだけで、いわれの無い嫉妬を受ける身。しかもそれが宰相となれば、絶対に失敗は許されない。政治的失脚などもってのほか、即お家の没落になりかねない。少なくとも、大きな失政を犯さず、円満に退職する環境を整えなければならない。失政を犯さないためには、何もしないのが一番だが、だからといって、この王弟の-すなわち国王の意思を無視できるわけがない。すざましい抵抗と反発が予想される行政改革を、出来るだけ穏便な形で、反発を買わないように実行するという-相反したことを行わなければならない。何もせずにいれば、それこそ「更迭」の2文字が待っているだけ。

とにかく、これまでのように片手間で仕事をしていては駄目だ。自分の持てる能力と、今まで培ってきた政界遊泳術をフルに活用して、死ぬ気で働かなければ、活路は開けない。

(・・・それが狙いか)

ヘンリー王子は、否が応でもやらざるを得ない立場に追い込んだ上で、馬車馬の如く働かせようというのだ。顔は見えないが、自分の両肩に手を置いて、肩を揉んでいる王弟の顔は想像が付く。どうせむかつく笑みを浮かべているんだろう。肩揉みはねぎらいのつもりか?

(本当に、あの妖怪爺は、とんでもない後継者を育てたものだ)


これからのことを考えると、ロッキンガム公爵は、ため息しか出てこなかった。




アルビオンの風見鶏は、人生の冬ではなく、与えられた「地位」によって、動けなくさせられた。




「う~ん、こってるねー」
「色々ありましてね・・・いてて、あ、そこ、そこですぅ・・・」


ロッキンガム公爵チャールズ・ワトソン=ウェントワース。アルビオン王国の初代首相となる老人は、肩甲骨のつぼを押されて、あえぎ声を上げていた



[17077] 第22話「神の国の外交官」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:b679932f
Date: 2010/08/06 18:50
「黒い猫でも白い猫でも ネズミを捕るのが良い猫だ」

鄧小平(1904-1997)

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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(神の国の外交官)

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アルビオン王国外務卿のパーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプル卿は、いろんな意味で目立つ男だ。身長180サントと、アルビオン人にしては比較的身長が高く、その細身の体に、面長の顔、そして離れたどんぐり眼と、一目見たら忘れようがない風貌をしている。当然ながら、当人からすれば、それが少なからぬコンプレックスとなっていた。女性受けする顔ではない事は百も承知だが、それ以前に、自分の風貌が、仕事にまで影響を与えているとあっては、笑ってもいられない。

外交とは本来、地味なもの-裏方だと彼は考えている。外交問題や戦争を未然に防ぐためには、ボヤの段階で消すことが一番だ。早期に問題に気が付くことが出来れば、いくらでも対応が出来る。火が大きくなってから、腕まくりをして「自分の出番だ」などと乗り出す外交官は、無能を知らしめている以外の何者でもない。

パーマストンは19年間、ハルケギニア中の「ぼや」を、各国と協力しながら、消し続けてきた。彼はアルビオン外務省内の日和見的な八方美人策を良しとしたわけではない。省内の大反対を押し切って、トリステインと同盟関係を締結したのも、その一環である。パーマストンはそれがアルビオンのためになると確信したのであれば、摩擦を恐れずに断固として主張した。

そんな外交姿勢や、自身の「風貌」もあって、パーマストンは否が応でも、国際政治の中心だと目されるようになった。ロンディニウム・ダウンニング街の各国大使館が、彼の一挙手一投足に注目する中で、秘密裡の会談など出来るはずがない。


その点、目の前の特徴のないのが特徴の様な男は、人ごみに紛れ込むことも、たとえ街中で堂々と密会していても、気付かれる事がないだろう。

一言で言えば「無味無臭」、空気の様な男だ。背格好は中肉中背。目や鼻が付いているのに、特徴がまるでなく、髪の色は、ハルケギニアで最も多い、薄い金髪ときている。覚えようにも、とらえどころのない顔-まるで「のっぺらぼう」だ。

(・・・外交官というより、諜報屋か?)

これは「勘」だが、この大使は根っからの外交官ではない。聖堂騎士隊(バラディン)で、異端者を焙り出す活動でもしていたのではないか?必要とあれば、眉一つ動かさず、いかなる残忍な拷問でもやってのける-そんな臭いがする。つい昨日、ロマリア連合皇国から派遣された教皇大使のヌーシャテル伯爵フェデリコ・ディ・モンベリア卿の、特徴のない顔を見ながら、パーマストンはそんな事を考えていた。「のっぺらぼう」は、薄い唇を動かしながら、淡々と説明を続ける。眠気を催すのは、おそらくそれが、神官の説教の調子と似ているからだ。


「・・・だということです。アルビオンとしてはいかがお考えでしょうか?」
「ふむ・・・」

神官との違いは、神の教えではなく、現実の「世界」について語っているということ。

「反対する理由はないが・・・これで、トリステインが納得するのか?」
「納得するのではなく、させるのだとか。水の国の宰相はそう仰られました」
「エスターシュ大公がか」

パーマストンは小さく息を吐いた。

(大した自信だ)

国内の反発は、自分の首と引き換えに収めてみせる-条約と刺し違えるつもりか。しかし、あの若造、昔はそんな人間ではなかったはずだが・・・何があの男を変えたのか。それとも一度失脚して、政治の世界に嫌気がさしているだけなのか?案外、これを口実に、さっさと引退したいだけなのかもしれんが・・・

(どちらにしろ、わが国にとって悪い話ではない)

パーマストンは、この案件は終わったといわんばかりに、ヌシャーテル大使が差し出した書類を閉じた。この件に関しては、所詮ロマリアやアルビオンは第三者に過ぎない。隣近所が盛り上がっても、夫婦喧嘩は止められない(もっとも、夫婦ではないが)。

それにもまして、パーマストンは、このロマリア大使との会談を、出来るだけ早く終わらせたかった。この「のっぺらぼう」な男と、生理的に話していたくない-様々な修羅場をくぐってきた歴戦の外交官であるパーマストンに、そう思わせる何かが、ヌーシャテル大使にはあった。

「さて・・・本題を聞かせていただけますかな」
「ご賢察、感謝いたします」

馬鹿に丁寧な言葉遣い。それがかえって、この男の気味悪さを際立たせている。そもそも、あの若造の、最後の芝居の筋書きを説明させるために、わざわざ教皇大使を派遣するのは、風石の無駄遣い以外の何者でもない。何か別の-本当の目的があるはずだ。

ヌーシャテル大使は、先ほどと同じように。何の抑揚もない声で切り出した。

「神と始祖の教えに背く、不心得者について、ご相談したく」

パーマストンは心の中で(どの面下げて)と悪態を尽いた。


ヌーシャーテル大使の言う「不心得者」とは、新教徒のことである。


ロマリア連合皇国は「光の国」と呼ばれるが、同時にその歴史から「不死鳥の国」という陰口を叩かれている。聖フォルサテの子孫である歴代の「大王」は、「始祖の墓守」という権威を背景に、アウソーニャ半島の都市を纏め上げ、「聖なる国」の拡大を目指した。ブリミル暦2000年代のロマリア大王-ジェリオ・チェザーレ(この頃の大王は聖エイジスを名乗らず、自身の名を名乗った)の時代には、ガリアの火竜山脈から南西部一帯を含む領土を獲得するなど、絶頂期を迎えた。

しかし、ジェリオ・チェザーレの死を切欠に、国は衰退へと向かう。領土の拡大に伴い、都市間の結束が乱れ、そこをガリアにつかれて、南西部からたたき出された。半島外の領土を失うと、都市間の紛争はますます拡大。「大王」の権威は失墜し、フォルサテの子孫も、かろうじて半島が統一国家であると主張するための象徴として、祭り上げられるだけの存在となった。

本来なら、ここで消えていくところだが、そうはいかないのが、この国のどしぶといところである(消えてくれれば良かったのにと、パーマストンは思う)

庶流の大公家から即位した大王・聖エイジス20世(2890-3050)は、即位と同時に、なんと「大王」の称号を放棄。混乱の中、彼は自身を『ロマリア教皇』と名乗ると宣言した。世俗の王ではなく、「始祖の墓守」という宗教的権威に価値観を見出したのだ。

現在にまで続く、ブリミル教をつくりあげたのは、この聖エイジス20世である。ブリミル教の教義は、彼が一人でつくり上げたといってもいい。

聖エイジス20世には「文才」があった。「始祖と愉快な仲間達」だの「始祖のお言葉集」だのをかき集めて作った『始祖の祈祷書』を教典に、始祖の名を冠した、体系的な一神教である『ブリミル教』を確立させた。元々、ハルケギニアの民に始祖ブリミルへの英雄信仰があったこと、王侯貴族にとって、その教えが都合が良かったこと(始祖を称えることは、王権と支配の正統性の強化に繋がる)もあり、身分を問わず、広く受け入れられた。

こうして、聖エイジス20世は、新しく名乗った『ロマリア教皇』という地位に「始祖の墓守」に併せて、「神の代理人としてのブリミル教の協議の唯一の正統な解釈者」という権威を付け加えた。

彼のもくろみは成功した。ロマリア連合皇国は、ブリミル教という新たな衣をまとう事によって、再び国際政治の主要プレイヤーに躍り出た。ブリミル暦3000年代に再び行われた一連の『聖戦』-聖地回復運動を主導して-「聖戦」による諸国の荒廃や、「異教徒狩り」などの消えない傷を、ハルケギニアの民と大地に刻みながら、ハルケギニアでの影響力を回復した。


『停滞の3000年代』をもたらした報いは、当然の如く撥ね返ってきた。


聖エイジス20世は、教えの中に「妻帯の禁止」を盛り込んだ。民間信仰の神官は、その多くが妻帯を禁止しており、対抗するために盛り込まざるを得なかった条文だが、これが自分の首を絞めた。フォルサテの子孫として延々と継いてきた世襲の王家が、その前提となる妻帯を禁止したのだ。聖エイジス20世は、得意の弁論で、何だかんだと理由をつけて「祖王・聖フォルサテの血統を絶やさないため」には「妻帯は駄目だけど妾ならOK」という、女性の全てを敵に回すような、とんでもない抜け穴を作り出した。

堤防は蟻の穴からも崩れる。聖エイジス20世がこの抜け穴を設けた時点で、ブリミル教が堕落していくのは当然の運命とも言えた。自制の美しさはどこへやら、酒は飲む、女は抱く、「宗派」という名の派閥をつくり上げての権力争い。修道院の領地では、貴族領主も真っ青な暴政-無論、すべての神官が堕落していたわけではないが、100人の普通の神官より、1人の堕落した神官の方が目立つのだ。


ブリミル暦4000年。堕落した教会の現状に、ハノーヴァー王国の平民出身の一司祭が声を上げた。

司祭ウィリアム・ロードは「教皇聖下への30の質問」と題した弾劾状をばら撒いて、教会の腐敗を弾劾。『始祖の祈祷書』に記された、始祖ブリミルの教えに立ち戻れと訴えた。

当時のロマリア教皇・聖エイジス27世の答えは「破門」であった。確かにウィリアム司祭の言う、教会の腐敗批判にしても、始祖の教えに立ち戻れも、もっともなことであったが、それを判断するのは、ハルケギニアでただ1人-ロマリア教皇だけ。そのようなことを主張すること事態、「ブリミル教の協議の唯一の正統な解釈者」であるロマリア教皇をトップとする、ロマリア宗教庁の秩序に、喧嘩を売るものであった。

ブリミル教では、「破門」された人間の魂は、天上にも地獄にもいけずに、永遠にさ迷い続けるとされる、最も重い罪であった。教皇権が絶大なブリミル暦3000年代には、破門と脅すだけで、ガリアの王が自らロマリアに謝罪に来るなど(カルカソンヌの屈辱)その効果は絶大であった。聖エイジス27世は、生意気な司祭もこれで黙るだろうと考えた。


「例え舌を切られ、この身が火で焼かれようとも、私の動きは止まらない」


黙らなかった。ウィリアム司祭は、むしろ声高に教会を批判し始めた。そして独自の教典解釈-「実践教義」を唱え始めたのだ。

実践教義とは、大まかに言うと「人間の本姓である欲は自制しようとしてもできるものではなく、むしろそれをあるがままに受け入れるこそが重要」「働いて稼ぐことは悪ではない。商人が商いをすることは、騎士が戦場で杖働きをすることと同じこと。社会に還元さえすれば、商人といえども、天上に迎えられる」いうものであった。

その是非はともかく、一司祭でしかないウィリアムが、独自の教義を唱え始めたとあっては、その教会批判を苦々しく思いながらも聞き流していた宗教庁としても、見過ごせるものではなかった。ブリミル暦4010年、ハノーヴァー王国に聖堂騎士隊を送り込んで彼を捕らえさせ、ロマリア大聖堂前の大広場で、望みどおりに火炙りにした。


炎で皮膚がただれ落ち、異臭と煙が立ち込める中、ウィリアム司祭は聴衆に向かって叫んだ


「自由!自由!自由!」


自由が何を意味していたかはわからない。だがウィリアムの処刑後、「実践教義」を実行するブリミル教徒が増加した。実践教義を唱えるブリミル教徒は、自らを「新教徒」と名乗り、中にはロマリア教皇の権威ですら否定するものも現れた。商人の間では「稼いでもいい」という解釈が歓迎されたのだ。一時期のアルビオンでは「石を投げれば新教徒」という状況になり、聖堂騎士が諸国を回っても、沈静化どころか、火に油を注ぐ結果となった。


その傾向は今に至るまで続いている。さすがにお膝元のアウソーニャ半島には、新教徒は「いない」。歴代の王が熱心なブリミル教徒であるガリアやトリステインなどでも、新教徒は数えるほどしか存在しない。だが、長く騒乱が続き、教会権力が弱く、国境警備の甘い旧東フランク地域諸国の領内では、「新教徒」の活動はむしろ活発化している。司祭や、中には修道院長や大司教の中にも新教徒がいると噂される始末だ。

不倶戴天-新教徒とは共存できないと、歴代のロマリア教皇は(本心はどうであれ)唱えており、それは現在の教皇ヨハネス19世も一貫して宣言していた。


パーマストン外務卿は、この人には珍しく、顔をしかめて嫌悪感をあらわにしていた。

(気に食わん・・・)

ロマリアも、新教徒も、パーマストンにとっては、同じ穴の狢にしか見えない。パーマストンは、自分にも人並みの信仰心はあると思っているが、それ以上でも以下でもない。本当かうそかわからない始祖の言葉の解釈をめぐり、延々と論争をつづける神学者などは、彼の理解の範疇を超えていた。そんな理解不能な人種の話に付き合わされて、面白いはずがない。

険しい顔をするパーマストンに、ヌーシャテル大使が言う。

「人は罪深き存在。気付かぬうちに、人を傷つけているものです」

罪の塊のような貴様らには言われたくはないと言わんばかりに、パーマストンは鼻を鳴らす。それにしても、説教くさいことを言う。まるで坊主・・・坊主の国から来たのだから、当然か。

不機嫌な雰囲気を隠そうともしないパーマストンに、ヌーシャテル大使は神学生に教義を説く神官のように話す。

「貴国も、新教徒にはお悩みでしょう」
「何、教皇聖下ほどではありません」

嫌味を眉の一つも動かさずに受け流したヌーシャテル大使は、逆に逆ねじを食らわせてきた。

「いえいえ。教皇聖下も、アルビオンの歴史には、非常に関心を寄せておられまして」

ピクリと、膝の上で組まれていたパーマストンの手が動く。


アルビオンは、旧東フランク地域と並んで、新教徒の活動が盛んであった。「解放王」エドワード3世の「善意」が引き起こした、小麦飢饉(4500-4521)で苦しむ平民達は、この実践教義に飛びついた。飢饉の対応で手一杯な王政府は、ロマリア宗教庁からの度重なる抗議を受けたが、政変が相次ぐ状況では、打つ手がなかった。

ブリミル暦4544年、トリステイン王アンリ4世が、アルビオンの王位継承権を主張したことに始まる四十年戦争(アルビオン継承戦争。4544-4580)では、反王家勢力の中核として、新教徒が活躍した。四十年戦争終結後、アルビオンでは徹底的に新教徒が弾圧された。「再建王」リチャード12世も、その治世を通じて、新教徒の「改宗」に力を注いだが、それでも「実践教義」は、植物の根のように、深くアルビオンの大地に根付き続けた。5900年には東部のアバディーンで、アルビオンの王族を担いだ新教徒による大規模な蜂起(アバディーン騒乱、またはジャコバイトの乱)が発生し、一時は反乱軍の支配地域が東部全体に及ぶという反乱へと発展した。


前述のヌーシャテル大使の発言は、このようなアルビオンと新教徒の歴史的な経緯があるからである。

パーマストン自身、曽祖父が「ジャコバイトの乱」で戦死しており、新教徒にいい感情は持ってはいない。だからといって、私情を外交政策に挟むほど、彼は子供ではなかった。少なくとも、目の前の男が-その後ろにいるロマリア教皇が、何を目的としているかわからない限りは、うかつなことを話して、言質を与えるわけにはいかない。

ヌーシャテル大使の言葉には答えず、どんぐり眼でじろりと相手の顔を見据える。沈黙は、時には雄弁に勝るのだ。

(それにしても・・・)

見れば見るほど、特徴のない顔だ。つかみどころのない風貌も、意識的に作っているのだろう。こんな人間がゴロゴロいるだろうロマリアの機嫌を損ねることは望ましいことではないが、アルビオンの外交をつかさどる立場として、出来ないことは出来ないと言わざるを得ない-ともかく、全ては目の前の男の発言次第だ。

相変わらず表情に乏しい顔のヌーシャテル大使が、来訪の目的を告げる。

「新教徒に対して、アルビオンとロマリアが連携を強めるために、ロマリアの大使である私が訪れた-というのが『表向き』の理由です」
「前置きはいい。本題は?」

やたらに言葉を飾るのが、ロマリア人の悪い癖だ。下手に相槌を打てば、何時間でも話し続けかねない。

言葉を遮られた事への不満も見せず、大使は「では」と本題を切り出す。


「私は『ロマリア』の大使としてではなく、『教皇聖下』の使いとして参りました」

(聖下の使いと出たか・・・)

パーマストンは舌打ちした。国と自分が必要だと判断すれば、どんな馬鹿馬鹿しい建前でも、始祖像のごとく崇めて来たが・・・虚構の上に立ち、虚構の権威を唱えながら、それを虚構だと知る者たちの派閥争いの片棒を担ぐとあれば、面白いはずがない。

「なるほど・・・教皇聖下はお優しい御心の持ち主のようだ」

ブリミル教の総本山であるロマリアと、アルビオンとの連携は、大陸諸国-特に新教徒の多い旧東フランク諸国を刺激する。いくら新教徒対策が必要だとはいえ、妥協はありえないロマリアと手を組むとなれば、関係悪化は必至。アルビオンにとっては、得るもの少なくして、失うものが多いばかりの「同盟」である。

「教皇聖下は、信仰篤きお方ですが、それを強要する事はありません」
「なるほど・・・友人としては望ましいかぎりですが、ブリミル教のトップとしてはどうなのですかな」


そして、ヌーシャテル大使が、初めて表情を作って見せた。


口の端だけを半月状に吊り上げて造った笑みに、パーマストンはゾッとすると同時に、生理的な嫌悪感を覚えた。


「最終的にネズミを狩ればよいのです。そして、狩るのは猫でもネズミ捕りでも構いません」


・・・国の土台を揺るがすという点では、同意する。同時にパーマストンは、どこか引っかかるものを感じることの出来る自分の感性に安心もした。


現ロマリア教皇ヨハネス19世-バルテルミー・ド・ベルウィックは、ガリアのベルウィック公爵家出身。教皇選出会議(コンクラーベ)では、保守派のイオニア会系勢力と、ガリア出身の枢機卿らの支持を得て、第294代教皇に選出された。

話はさかのぼるが、聖エイジス27世は、新教徒対策に失敗したため、任期途中の弾劾まで検討されるほど、権威が失墜した。新教徒の爆発的な増加と、揺らぐ教会の権威に危機感を持った宗教庁では、いくつかの改革が行われた。

教皇選出会議(コンクラーベ)の不文律打破も、そのひとつである。聖エイジス20世は、建前上「教皇」を、世襲ではなく、枢機卿の投票によって選出されると既定した。しかし実際には、聖フォルサテの血を受け継ぐ7つの侯爵家(選帝侯)出身の枢機卿から選出され、外国貴族出身の枢機卿は勿論、ロマリアの貴族出身であっても、いかに選帝侯出身の枢機卿より優秀であっても、選ばれたことはなかった。

聖エイジス27世崩御後、選帝侯出身の枢機卿には、平時ならともかく、この非常時を乗り切るだけの器量を持った人物はいなかった。そして「教会の因習打破」を訴えたトリステイン出身のパウロ枢機卿がコンクラーベで選出された。こうしてロマリア史上初の、聖フォルサテの血統以外からの教皇-グレゴリウス1世が誕生。聖エイジスは、聖フォルサテの血を継ぐ選帝侯家出身のみが名乗ることとなったのだが・・・

待っていたのは、教会改革ではなく-血こそ流れないが、反吐が出るほど薄汚い権力闘争劇であった。

いくら権威が失墜したとはいえ、始祖ブリミルの弟子・聖フォルサテの子孫というのは、それだけで敬意を持たれる存在。教皇の権威(使徒座)とは、「神の代理人」でも「ブリミル教の最高権威」でもなく、「始祖の墓守」の子孫という事実だけだったのだ。ところが、ただの(ただのと言うと変だが)貴族出身の教皇には、そんなものは存在しない。選帝侯出身ならまだ納得できるが、貴族出身となれば「なんであいつが」「俺のほうが」という我執が出てくるのは、むしろ自然なことだった。

こうして、それまでは選帝侯家の綱引きに過ぎなかったコンクラーベが、以前にもまして重要な地位を持つことになった。「即位すれば死ぬまで教皇」とあって、有力候補は支持を得ようと、本来の仕事を放り出して走り回り、支持者は、教皇就任後の見返り(ポスト)を期待して、金をばら撒きの、女を抱かせのと支持獲得に奔走した。「聖人になりたきゃ、大聖堂の連中と反対のことをやればいい」という戯言が、ロマリア市内で流行したのも、無理からぬ話だ。


宗派間の対立が激化したのも、この時期だ。「保守派」だの「改革派」だのは、それまでは一応「祈りの言葉の順番は」「始祖の祈祷書第4節第3節の解釈の違いにより」と頭に関していたのだが、これを境に、教皇選挙を優位に進めるための「派閥」と化した。

当初の目的とは反対に、コンクラーベの不文律打破は、教会の分裂をもたらしただけであった。


選挙は投票ではなく、事前の活動が本番だ。教皇が死ぬ寸前でなくとも、むしろピンピンしている間から、選挙準備は始まっている。現教皇とその派閥は、自身の後継候補を、非教皇派の派閥は、対立候補を据えようと、虎視眈々と活動している。現教皇が後継者を認めさせるためには、まずは実績を残すことである。「何もしない」という安全策もあるが、他派閥から「無策だ」という批判を受けかねない。

教皇の出来る仕事は多くはない。宗教庁改革は、自分の支持者を失うことになりかねず、歴代教皇は手を出すことはなかった。となると、一番望ましいのは、全教会が結束して対応できる「新教徒」対策となる。とはいえ、新教徒対策は「心の問題」というだけでなく、国家主権も絡んでいるだけに、効果的な対策が難しい。アウソーニャ半島内の新教徒は、早くに「改宗」させたため、国外に住む新教徒が対象となるが、実際のところ、国内に新教徒を抱える国に対して「対策」を求めるぐらいしか、とる手はなかった。トリステイン王国やグラナダ王国のように、王家が熱心なブリミル教だといいが、旧東フランク諸国のように、新教徒対策に熱心でなく、むしろ黙認しているとなると、効果的な「改宗」は難しい。昔のように、聖堂騎士団を送り込むわけにも行かない。

聖ヨハネス19世は、「対応を求めた」という事実が欲しいのだ。効果を上げれなくとも「行動した」という点数稼ぎにはなる。アルビオンが新教徒に良い感情を持っていないことは、大陸諸国は知っている。連携は出来なくとも、拒否することはないだろう・・・

「現実主義者」と噂される教皇らしい、姑息なやり方だ。


点数稼ぎに付き合わされるパーマストンは、苦々しげに掃き棄てる。

「やはり教皇聖下のご心痛、一方ならぬものがあるようですな」
「さすがパーマストン卿。ご賢察、恐れ入るばかりです」

歯の浮くような台詞でありながら、頭の一つも下げようとはしない。これが自分の部下なら、杖の一つでも振っているところだ。手土産の一つも持ってこないで、何を言うか


そんなこちらの気持ちはお見通しといわんばかりに、ヌーシャテル大使は「手土産」を広げ始めた。


「何、ただとは申しません。わがロマリアが手に入れた、お望みの情報を提供いたします」

大体想像は付くが、確認のために尋ねる

「ジャコバイトか?」

パーマストンの言葉に、わが意を得たりと膝を打つ大使。これで気味の悪い笑みさえ浮かべていなければ、どこぞの劇場で役者として食えるだろう。


「ジャコバイト」は、四十年戦争の際、トリステイン側に属したスチュアート大公家と、その子孫こそが、正統なアルビオン王と主張する者を指す。四十年戦争で、スチュアート大公家のヘンリー・ストラスフォード3世は戦死し、その子ジェームズ(老僭王)の擁立を訴えたことから「ジャコバイト」と呼称されるようになった。ジャコバイトは長く、反王家勢力の中核として活動し、国内の新教徒と結びついて、長くアルビオンを苦しめた。アルビオンの反新教徒感情は、1500年以上の長きにわたるジャコバイトとの戦いによって形成されたといってもいい。5900年のアバディーン騒乱で、スチュアート大公家のジェームズ8世が戦死したことにより大公家は絶えたが、ジャコバイトは、いまだにアルビオンの大地の下で蠢動し続けている。


そしてアルビオンは現在に至るまでジャコバイトの大陸における活動拠点を掴めないでいた。


「さすがアルビオンにこの人ありというパーマストン卿、とても私ごとき非力非才の及ぶ所では・・・」
「世辞はいらん」

世事を聞いて嬉しくない者はいないが、この大使に言われていると思うだけで、全ての言葉が不快に感じる。それにしても、非力非才とは・・・どの口が言うか

「ネズミは誰がとってもいい」とはよく言ったもの。ロマリアは自分の手を汚さず、新教徒を始末させるつもりだのだ。確かに、ロマリアが「新教徒対策」といえば内政干渉という批判も飛び出すだろうが、アルビオンが「反アルビオン勢力の取り締まり」と申し入れれば、表立った反論は難しい。

ロマリアの手のひらで踊らされているようで気分が悪いが―それも、1000年以上に及ぶジャコバイトの因縁を断ち切れるのなら、どんなくだらない芝居にでも付き合ってやるさ



「それで、やつらはどこにいる?」


ヌーシャテル大使は、相変わらず気味の悪い笑みを浮かべながら、一つの地名を告げた




「トリステイン王国西沿岸部、神から見捨てられし地-アングル地方」


「ダングルテールか」


何故か、妙な胸騒ぎを覚えながら、パーマストンはその地名を何度も繰り返した。



[17077] 第23話「太陽王の後始末」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:b679932f
Date: 2010/08/06 18:51
―――ロペスピエール3世陛下の下、わが王国は歴史上最大の国土を獲得し、イベリア半島のグラナダ王国をも屈服させるという偉業を達成した。『太陽王』の名は、ハルケギニアに鳴り響いたが、万事の例に漏れず、陛下の御武威に屈しない、唯一の例外が存在した。

北に国境を接するトリステイン王国-『英雄王』フィリップ3世である。ロペスピエール3世陛下は、4度にわたり英雄王と杖を交えられたが、陛下の御采配をもってしても、決定的な勝利を得た事はなかった。

ブリミル暦6212年初頭-陛下は英雄王と雌雄を決すべく、ラグドリアン湖畔へ電撃的に軍を進めた

「ラグドリアン戦争」である


(シャルル・モーラス著『太陽王ロペスピエール3世』より)

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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(太陽王の後始末)

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トリステイン王国王都トリスタニアは、その中心を流れるアムステル川によって、東西に分断されている。「東には貴族が 西には平民が」と言われるように、東側は王城やサン・レミ寺院を中心に、官庁街や貴族屋敷が、西側には商会や職人街、共同住宅や市場が立ち並んでいる。「住み分け」の理由は土地の高低差にある。高い東側に貴族が集住しているのは、表向きは「国家の中枢を、水害の危険性にさらせない」という危機管理上の理由だとされたが「水捌けの悪い土地を、平民に押し付けたのだ」というのが、チクトンネ街でのもっぱらの噂であった。

アムステル川東側の川沿いに、赤レンガを漆喰で固めた外観の、ひときわ目立つ建造物が、トリステイン王国外務省庁舎である。その建物の主である外務卿アルチュール・ド・リッシュモン伯爵は、最上階の執務室の窓から、西側の平民街と、アムステル川に掛かるタニア橋を見下ろしていた。

リッシュモンは、ここから見える景色を気に入っていた。王国一の劇場と名高いタニアリージュ・ロワイヤル座で上映されるどのような歌劇よりも、面白いものが見れるからだ。

かつて、川は平民と貴族の越えられない壁そのものであった。平民が東側に居住する事はありえず、貴族が西側に赴くことはない-それがいつしか、両者の境があいまいになった。ここ最近では、裕福な商人が東に住居を構え、没落した貴族が西側に住居を移すことも珍しくなくなったと聞く。

その原因はただひとつ-金だ

金がないゆえに、何代も続く名門貴族はその身を落とし、金を稼いだ結果、ぽっとわいて出たような平民の商人が、大邸宅を東側に構える。あのいまいましいゲルマニアでは、平民でも貴族の戸籍を買うことができるように、戸籍法の改正を検討しているという。メイジ=貴族という、ハルケギニアの秩序を否定しかねない行為に、トリスタニアの貴族たちは「やはり伝統も知らぬ田舎者よ」と失笑したものだが、リッシュモンは「悪くはない買い物だ」と関心さえしていた。爵位は、王がその気になればいくらでも与えることができる、元手がかからない「商品」。こんなにぼろい商売はないだろう。そして、財力と才覚のある平民を国家体制に組み込み、国力を充実させるために働かせる-

失笑した貴族どもとて、本当は解っているのだ。自分たちがやせ衰えていく一方、平民たちが力をつけていることに。自分たちを「古き伝統と知性の守護者」と称し、平民を「下賎な成り上がり」と見下して溜飲は下げたところで、所詮はやせ我慢。いくら否定してみたところで、平民が発言力を増して行く傾向は止められるものではない。

それは、タニア橋を往来する人の流れを見ていればわかる。

街の東側と西側を繋ぐタニア橋は、一日中、人の流れが途切れることがない。そして、人の流れは、金と同じく、高きから低きに流れる。東から西へ、貴族から平民へ。土地の高低と同じなのは、皮肉としか言いようがない。

こんなに面白い「劇」が、他にあるか?


「外務卿、お時間です」

とりとめもないリッシュモンの思考は、面会予定を知らせる秘書官の声によって遮られた。

(やれやれ・・・ゆっくり考えることもできんのかね)


***

「ジェリオ・チェザーレと、ロペスピエール3世には、共通点があるんですが・・・おわかりになりますかな?」

年長者であるリッシュモンの投げかけた質問に、内務省行政管理局長のアンドレ・ヴジェーヌ・ド・マルシャル公爵は、はてと首をひねる。

「-強欲ですか?」
「この世に強欲でない人間がいますか」
「そう言われると・・・」

マルシャル公爵は、30の半ばと「青年」と呼ぶには年を食い過ぎているが、どう控えめに見えても20代にしか見えないその童顔と、卵のようなつるんとした肌が合わさって「青年貴族」と呼んでもおかしくない雰囲気を漂わせている。その丸みを帯びた顎に手をやりながら、考え込むマルシャル。

ロマリア大王も『太陽王』も、毀誉褒貶はあるが、外征で領土を拡大して、それぞれの祖国とハルケギニアに一時代を築いたことに間違いはない。両者の共通点か・・・ふむ・・・

「戦上手・・・というのはどうです?」
「うむ、半分は当たっています」
「では、もう半分とは?」

リッシュモンは、マルシャルの横で不機嫌そうな顔をして立っている秘書官に(貴様は分かるか?)とからかう視線を向ける。

「『戦(いくさ)』は得意でも、『戦争』下手だということです。何事も始めるのは簡単ですが、終わらせるのは難しいものです」

「大王」ジェリオ・チェザーレのもと、ロマリアはガリア南西部まで領土を広げたが、急速に拡大した領土を十分に統治することが出来ず、大王の死後は、アウソーニャ半島へと押し戻された。「戦い」に勝っても、後始末が悪いために、結局は国の衰退を招いたいい例である。なるほど、現在のガリアも「太陽王」の死後、空白となった権力の座をめぐり、新国王派と前国王派が派閥争いを続け、屈服させたはずのグラナダ王国も離反の動きを見せるなど、当てはまる点は多い。

「子供が玩具の片づけが出来ないのと同じ事ですな。食い散らかして、あとは知らんふり。大人はいつも、子供に振り回されるものです」

感心したように頷くマルシャル公爵とは対照的に、秘書官―アルマン・ド・リッシュモンは「父」の言葉に噛み付いた。

「お言葉ですが、子供でなかった大人がいるんですか」
「そう、今の貴様のようにな」
「なッ!!こっ・・・」

「えっふん・・・んん!」

わざとらしく咳き込むマルシャル。ここで新しい「戦線」を開かれては叶わない。

「それで、条約案に関して、エギヨン卿は何と?」
「クルデンホルフ条項を除いて、外務卿の案に同意されるそうです」
「うん、まぁ・・・そうでしょうな」

行政を管轄する内務省の反対は、ある程度予想はしていたが、こうもピンポイントで反対されると、さすがにやりにくい。ここはまた宰相閣下に泥をかぶってもらうか・・・



「ラグドリアン戦争の勝者は誰か」-後年、戦史研究家達の間で長く論争となったこの問いに答えることは難しい。

先手を打ったのはガリアだ。ロペスピエール3世は、アルビオン王エドワード12世の崩御を聞くと同時に、密かにオルレアン大公領への軍の集結を命じた。トリステインの同盟国たるアルビオンが、軽々に軍を動かせない状況を見越して、即位式の当日、駐トリステイン大使パレオログは、宣戦布告を通知した。

ガリアはトリステイン国内の侵攻拠点として、ハルケギニア有数の景勝地-ラグドリアン湖畔を選んだ。モンモランシ伯爵を初めとするこの地方の領主は、戦わずにラグドリアン湖畔を明け渡したが、トリスタニアで、その判断を批判するものは誰もいなかった。水の精が何よりも嫌う「戦の流血」-水の精の怒りを買う事は、たとえ国境を明け渡してでも、避けるべきだという共通認識があったからだ。神話としてしか残されていない、水の精の怒り-すべての生命を飲み込み、無へといざなうとされるそれは、トリステインにとっては伝説ではなく、疑いようも無い脅威その物であった。何より、王家自身が、水の精についての恐ろしさを知っていたからである。

戦いは仕掛けるほうが有利である。時と場所を選べるからだ。一見奇抜に思えるが、ロペスピエール3世は、戦の常道を踏み外してはいなかった。さすがに長年に渡って自ら軍を率いてきた「太陽王」といったところである。

トリステインも、ただやられるに任せていたわけではない。ラグドリアンを経由して、グリフォン街道に兵を進めたガリア軍に対して、国王フィリップ3世は、王都トリスタニアから20リーグにまで防衛線を下げ、戦力をリール要塞に集中させた。リール要塞は、数百年前に立てられた古い石造りの城で、すでに放棄されて数十年が経過していたが、フィリップ3世は土メイジを総動員して、要塞の強化にかかった。

斥候に出した竜騎士隊からの情報により、ガリア軍司令官のベル=イル公爵は、トリステイン側はリール要塞での籠城を選んだと考え、進軍を停止。機動力の劣る砲亀兵を前線に集め、要塞攻略のための部隊再編を開始した。

フィリップ3世はその時を待っていた。

坂道を転げ落ちる巨石のように、勢いのついた大軍を止めることは難しい。しかし、大軍というものは、いったん止まってしまうと、再度動きだすまでには、最初以上に労力を要することを、英雄王は知っていた。おまけに、ガリア軍は「篭城するだろう」という思い込みから、敵の眼前で野営の準備まで始めている。


トリステイン軍は、弛緩したガリア軍に襲い掛かった-「セダン会戦」である。


ガリア軍2万は不意を突かれ、8千のトリステイン軍に散々に破られて敗走。勝利したトリステインだが、それは王太子フランソワを含めた2000余りの将兵の犠牲の上に成り立っていた。フィリップ3世は、満身創痍の軍を率いて、再びリール要塞に入場。すぐに軍勢を立て直して、リール要塞を包囲したベル=イル公爵は顔を曇らせた。手負いの虎を無視して、トリスタニアへ進軍することも可能だが、背後を突かれては、いかに数が多いガリア軍といえども苦戦は必至である。

元々、大義名分のない戦争の上に、敗戦も重なって士気が下がる一方のガリア軍は、やる気のない言葉合戦をずるずると続けた。篭城戦は3ヵ月続き―「太陽王」の崩御と、ガリアの新国王シャルル12世が、軍の引き上げを命じたことによって、アルビオンやロマリアの仲介のもと、停戦条約が成立した。


―――以上が「ラグドリアン戦争」の顛末である。



先手を取って戦略的に優位な立場のガリアを、セダン会戦の戦術的勝利で痛みわけに持ち込んだ-トリステイン贔屓の歴史学者の主張を、多くの学者は否定した。ガリアのロペスピエール3世が、何故トリステイン侵攻を考えたのかは、当人以外の誰もわからない。それまでの彼は「太陽王」らしく、一応「大義名分」を掲げて、正々堂々とした戦を好んでいた。すでにトリステイン侵攻時に「太陽王」の体を病魔が蝕んでいたことは周知の事実。あるトリステイン貴族が「あの子供は、英雄王と、最後の決着をつけたかっただけだ」と吐き捨てたのが、事の真相なのかもしれない。

そんな理由で、血を流させられた将兵はたまったものではないが。


理由がどうであれ、国と国の喧嘩は、国力の差がものをいう。確かにトリステインは豊かな国だが、自国の10倍の領土を持つ国と、単独で戦うだけの国力は存在しなかった。ガリアがこの戦争で動員したのは、予備兵力や輜重隊も含めて4万に上る。一方で、トリステインが動員できたのは僅かに8千。セダン会戦をもう一度行う兵力は存在しなかった。

そして国内での防衛線-このままジリジリとにらみ合いを続けていれば、根を上げるのはどちらかは、火を見るより明らかだった。おまけに、ここ数年、トリステインを含めたハルケギニア北西部は天候不順により、収穫が思わしくなく、お世辞にも財政状況が良いとはいえなかった。リール要塞が攻略されるか、兵糧切れで降伏するのが先かという状況だったのだ。「ロペスピエール3世があと一月生きていれば、トリステインという国は、地図から消えていただろう」といわれる所以だ。

「本当に、よく死んでくれたよ」

『太陽王』崩御の知らせに、ハノーヴァー王国へと援軍要請に赴いていたリッシュモン外務卿が漏らしたとされるその言葉は、多かれ少なかれ、トリステインに属するものが共通して持った感情だった。


その停戦から、1年が経過しようとしていた。ブリミル暦6213年の今になっても、ガリアとトリステインの「戦争状態」は終わっていない。互いの国境警備隊は増強され、民間人の通行も厳しく制限されるという、準戦時体制が続いていたのだ。

だが、次第に準戦時体制に対する不満の声が、主にトリステイン側から上がり始めた。平民-中でも商人たちが、戦争を忘れるのは早かった。いくら嘆いて怨んだところで、死んだ人間は戻ってこないということを、民草は知っていた。死者とは違い、自分達は生きていかなければならない。そのためには、好き嫌いを言ってはいられないのだ。

平民や商人たちに言われるまでも無く、トリスタニアの王宮も、平時への復帰-ガリアとの和平条約調印と国交回復をしなければならないことは理解していた。戦時体制の維持のための軍事費や、交易途絶による税収減は、両国の財政を-特にトリステイン側を確実に圧迫していた。そのため、戦場となった国内の復興事業は思うように進んでおらず、この状況が続けば、国内の治安の悪化は避けられない。

必要性は理解していたが、軍部や貴族を中心とした反ガリア派の存在が、それを妨げた。殴った方はすぐにその事実を忘れるが、殴られたほうは忘れるはずがない。大国の余裕か、傲慢か、ハッタリか、そのいずれかは分からないが「講和してもいいぞ」という姿勢を崩さないガリアと、王太子まで骸をさらして「何が何でも、最低限でも謝罪が無ければ」というトリステインではかみ合うはずがなかった。

誰もが必要を認めながら、ある者はプライドや感情が邪魔をし、ある者は批判を恐れ、またあるものは復讐のための強攻策を唱え-1年間はそうして無為に費やされた。別の言い方をすれば、それだけの冷却期間が必要だったということでもある。


そんな中、トリステイン王国宰相-エスターシュ大公ジャン・ルネ6世だけは違った。

「1に講和、2に講和。3・4が講和で、5に講和」

どこぞの国営放送の探偵アニメに出てきた変態忍者のような事を呟きながら、エスターシュ大公は、王宮内を講和で意思統一するため、着々と根回しを続けていた。かつて20代の若さで、一国の内政・外交・経済を一手に担った弁論さわやかな青年宰相は、失脚を経て、政治的老練さを増していた。名誉や冨、そのうえ宰相という地位にも頓着しないと来ている大公に、「講和反対」と唱えて、弁論で勝つことの出来るものは、トリスタニアの王宮には存在しなかった。

やり場のない感情が、宰相への不満となり充満しつつあった空気の中、エスターシュ大公は御前閣議で「ガリアとの和平条約の締結」を提案。閣僚の多くは、消極的ながら賛成意見であり、少数の強硬な反対派閣僚も、国王の前とあっては、露骨な反対意見を述べることが出来なかった。内心は講和に大賛成のフィリップ3世は(表向きは渋い顔をしながら)裁可を与えた。エスターシュ大公は、反対派の牙城である高等法院の法務貴族を説得するため、和平条約会議の開催地と、条約案のたたき台作成は、自ら推薦した全権首席に丸投げしたのだが、『全権団首席-アルチュール・ド・リッシュモン外務卿』という人事を、誰もが驚きを持って受け止めた。

外交使節団の全権に、外交の責任者である外務卿を充てること自体は自然であったが、リッシュモン外務卿は、元々講和条約どころか、停戦条約にも反対の「対ガリア強硬派」とみなされていたし、一貫して主張していた。彼の息子であるアルマンも、講和賛成派のエギヨン財務卿らと、どうやって父を説得するかで頭を悩ませていたのだ。


そのリッシュモンが、何の反論も無く講和条約に賛成した挙句、まとめあげた条約のたたき台に、トリスタニアの王宮は、まずその目を疑った。

その内容を要約すると

①国交の回復と同時に、国境線を開戦前の実効支配地によって決定する。
②開戦前に結んでいた通商条約を再度締結(通商の再開)
③謝罪を要求するが賠償も要求しない。
④両国共に軍備制限は設けない。
⑤両国の緩衝地帯として、クルデンホルフ大公家を「大公国」として独立させる。

①や②はトリステインにとって願ったり叶ったりである。国境線の画定は、両国にとっての長年の懸案。確かに厳しい交渉となるだろうが、初めに殴ったガリアからすれば、トリステイン側の要求は断りにくい。真摯な「話し合い」で、両者が合意できる線引きが出来れば、交易の拡大にも繋がる。④は、互いの国家主権を制限しないという意味では当然である(軍縮という概念は、ハルケギニアには存在しない)として、問題は③と⑤である。

ガリアが謝罪などするはずがない。③の条文が、完全にはったり-真剣に要求するつもりでないことは、誰でもわかる。本気で「謝罪」を要求するつもりなら、賠償とセットで要求しているはずだ。セダン会戦で戦死者を出した貴族を中心に「最低限でも謝罪と賠償」という空気は根強いものがあっただけに、対ガリア強硬派は激昂した。特にリッシュモンは、開戦から一貫して、対ガリアへの強硬意見を唱えていただけに、外務卿の「変節」に対して、困惑をもって受け止めた。

そして⑤-「クルデンホルフ条項」に関しては

「何言ってんのあんた?」

息子であるアルマンですら、父の正気を疑ったほどだ。わざわざ、領土を分割して、独立させてやるなど・・・外務卿は何を考えているのか?正気を疑う声は出ても、まともに検討するものはいなかった。トリスタニアの反応は、エギヨン財務卿の「わけがわからない」という一言に尽きた。


無論、アルマンもそれは変わらない。立ち上がって、応接室の窓から外を眺める父の背中を、息子は、じれったそうに見ていた。飄々としているようで、リッシュモンは肝心な点に関しては口が堅い。

「アルマン-貴様、わしが本気で、あの大国意識の塊の様なガリアに、賠償金や謝罪を求めていたと思っていたのか?」

リッシュモンの口調は、出来の悪い生徒の質問に答える教師のような調子で-アルマンは悔しさで顔を赤くしながら、反論する。完全に蚊帳の外に置かれたマルシャルは、苦笑しながら、この親子のやり取りを見物することにした。

「し、しかし、父・・・外務卿は、宣戦布告以来、一貫して『非はガリアにある』と・・・」

その言葉に、初めてリッシュモンが息子のほうを見やる。ほとほと呆れたような父の視線に、アルモンは、今度は顔が青ざめた。血の気が引くとはこの事だ。怒るのは相手に期待するから。自分には怒る価値も無いというのか―――

肩をすくませながら、顔面蒼白の秘書官を気の毒に思ったマルシャル公爵は、口を開こうとして、振り返ったリッシュモンと目が合った。目の奥に、微かな怒りの感情が-ふがいない息子への怒りが見え、マルシャルは言葉を発する変わりに、小さく息を吐いた。それに気がついたのか、リッシュモンはいたずらっぽく目だけでマルシャルに笑いかけながら、あくまで言葉は厳粛に続ける。

「アルマン。わしは外務卿だ。トリステインの外交の全責任を負う閣僚だ。そのわしがだ、少しでも弱気な事を言ってみろ-それが出発点となってしまうではないか」
「・・・はったりだったと、そうおっしゃるので」

リッシュモンは再び窓に視線を向けた。顔を上げた息子に、自分の表情を見られたくなかったのだろう。

ちょうどタニア橋を、樽を積んだ馬車が何台も通過しようとしているところであった。橋の上で、布を敷いただけの粗末な店を広げていた商人たちが、慌てて商品を片付けている。「規制とは破るためにある」とは誰が言ったのか知らないが、完璧な規制などありえない。現にタニア橋の上では、薬だの両替商だの、一番規制が厳しいはずの商売が行われている。ブリミル教で言う「自制の美」が、いかに現実離れした馬鹿げたものか-目の前の光景が証明しているではないか。

「父上、それでは国内を、陛下を謀っていたと、そうおっしゃるのですか?」
「必要とあらば、陛下だろうと始祖だろうと嘘をつくのが、この仕事だからな」
「なっ・・・」

言葉にならないアルマンに、リッシュモンは、今度は笑いながら答えた。息子の、経験不足ゆえの裏表のない考え方を笑ったのだ。

「言葉のたとえだ。手札は多ければ多いほうがよく、それを知っているものが少なければ少ないほうがいい。そして、札を切るのは私の仕事ではない。私の仕事はプレーヤーの望む環境を準備することだ」

興奮しやすい性質ではあるが、馬鹿ではないアルマンは、父の言葉の真意をすぐに悟った。

「・・・陛下も講和をお考えでしたか」

フィリップ3世は、この件に関しては意向を示さず、沈黙を守っていた。それをいいことに、講和派も反対派も、王を味方につけようと、引っ切り無しに上奏に訪れ、フィリップ3世の片言節句をとらえて、王の真意はこちら側にあると主張していた。

「まぁ、そういう事だ。陛下の意図的に意見を表明しないという態度が賢い選択だろう。下手に言うと、無用な政争に巻き込まれかねないからな」
「・・・『御進講』の面々を見ることで、王宮内の空気も分かるというわけですか」

リッシュモンは、息子の答えに満足そうに頷きながら、一応は自分の主君を褒めたたえた。

「そうだ。そしてやってくる連中のおかげで、否が応でも王座の権威が上がる・・・たいしたものだ」

再び二人の正面の椅子に腰掛けたリッシュモンに、アルマンはまだ何か言いたそうだったが、それまで黙って聞いていたマルシャル公爵が、先に口を開いた。

「うち(内務省)には話を通して欲しかったというのが、正直なところですがね」
「エギヨン卿がどうこうという問題ではないんですが、陛下のお考えですからね。悪く思わんでください・・・それとおわかりでしょうが、陛下の意向は、どうぞ御内密に」

最初から伝える気などなかったくせに・・・大体、それが陛下の御意向だという確証はどこにあるというのか。腹の中で悪態をつきながら、水掛け論をするつもりも、時間も無いマルシャルは、本題を切り出した。

「・・・内務省としましては、このクルデンホルフ条項は、受け入れることが出来ません」
「それは、エギヨン卿のご意見ですか?それとも『行政管理局長』としての、貴方の個人的ご意見ですかな?」

マルシャルはその質問には答えない。

「クルデンホルフ条項に関しましては、閣下が主張された内容とお聞きしました」
「ははは。耳が早いですな、公爵」

リッシュモンは足を組み替えながら、内心で舌打ちをしていた。

「クルデンホルフ条項」の内容に関しては、講和派・反対派を問わず、大規模な反対が予想された。エスターシュ大公には、発案者を秘密にするよう頼んでおいたのだが、目の前の童顔公爵はどこから聞きつけてきたのか、自分がこの条項の発案者だということを知っていた。これについても大公に泥をかぶってもらうつもりだったのだが、いったいどこから聞きつけたのか。さすがに、この年齢で局長に就任しただけの事はある。油断したわけではないが、どうにも、この・・・公爵の、卵顔を見ているとな。これが素だから、余計にたちが悪い。

そのマルシャルは、先ほどからハンカチを取り出して、しきりに汗をぬぐっていた。視線だけはしっかりとこちらを見据えており、説明するまでは、梃子でも動きそうにない。


「裏も表もありません。実際に、先の戦争でのクルデンホルフ大公の働きに報いるというのが、唯一の理由です」
「ラグドリアン戦争で、それほどクルデンホルフ家が働いたとは思えませんが」
「そうです。それに軍の間では、大して働きもしなかった大公家だけを特別扱いするなという声、が・・・」

口を挟んだアルマンを、リッシュモンはじろりと睨んで黙らせる。

「杖働きも満足に出来ない貴族の言うことを真に受けてどうする」

再び言葉に詰まるアルマンに、内心ウンザリしながら、マルシャルは話を円滑に進めるために、親子の間をとりなして、話を本筋に引き戻した。

「評価は人それぞれですが、クルデンホルフ大公家というのが話をややこしくしているのは事実です」


クルデンホルフ大公家―――トリステイン王国の大公家の一つで、ガリアとトリステイン国境の最南部に領地を保有している。この大公家は、現在のトリステイン王家とは何の血縁関係もない。現在の当主はハインリヒ・ゲルリッツ・フォン・クルデンホルフ大公-名前にフォンが入っていることからも分かるが、元は旧東フランク王国の貴族。しかもただの貴族ではなく、さかのぼれば東フランク国王カール12世の王弟であるマクシミリアン宰相を先祖とし、東フランクの宰相を何人も輩出したクルデンホルフ大公家という、ハルケギニアの貴族の中でも指折りの名門である

東フランク滅亡後、ザクセン王国の首都ドレスデンに逃れたこの家は、ブリミル暦3500年代に断絶。ザクセン王家のヴエッテイン家が名跡を継ぎ、ザクセンの1大公家となった。それがブリミル暦3910年、政争によってザクセンを追われて、トリステインに亡命してきた。当時トリステインは、ハノーヴァー王国と連合を組んで、ザクセンと対立しており、国王フィリップ2世は、クルデンホルフ大公家に、対ザクセン戦の切り札と、その貴種-旧王家に繋がる大公家を東フランク地域進出の際の旗頭として利用する-という価値を見出し、大公一家を喜んで受け入れた。

そうした家柄や歴史もあって、クルデンホルフ家は「大公」として、それなりに敬意を払われてきた。トリステインが完全に旧東フランクの進出を諦めた後も、ガリアとの南部の最前線である領地を堅守してきた戦上手の家でもある。

その大公家を、何故「大公国」として独立させなければならないのか?

「それは、そうでしょうなぁ。あの程度の戦いぶりだけなら、私だってそう思いますよ」
「それならば!」

父の言葉に食い下がろうとするアルマンの膝頭に手を置いて押さえながら、マルシャルは、リッシュモンのもったいぶった言い回しの裏に、どのような思惑が隠されているのかを、何となく察した。


リッシュモンの言うとおり、クルデンホルフ大公家は、ラグドリアン戦争で、際立った功績や、目立った戦果を上げたというわけではない。確かに、ハインリヒ大公は大公軍を率いてガリア領内への逆侵攻や、補給路を分断するなどして、ガリア軍の背後からプレッシャーを掛け、撤退に一役買った。だからといって、それが「大公国」として独立させてやるほどの、飛びぬけた功績だとは、誰も納得しない。

つまり「ラグドリアン戦争での働き」云々は、あくまで表向きの理由で、クルデンホルフ大公を「大公国」として独立させる、表ざたに出来ない理由があるはずなのだ。

「違いますか?」
「はははッ、公爵は想像力が豊かなお方の様だ」

特に気分を害した様子もなく、マルシャルは「それはどうも」と答える。リッシュモンは、断りを入れてから、巻き煙草に火を付けた。100年ほど前、東方から伝わってきたという煙草は、新しい物好きだったロペスピエール3世や、変わり者で知られるアルビオン王弟(何故か涙を流して喜んだとされる)が愛好していることで、一躍有名となった。ただ、煙を吸うという行為に、眉をひそめる向きも多い。何より、その常習性を酒と同じようなものだとして(間違っているようで、間違ってもいない)ロマリア宗教庁は何度も禁煙令を出しているが、何度も出している時点で、殆ど効果が無いということを証明していた。

煙を燻らせながら、リッシュモンは、ハインリヒ大公の「働き」について、何故か口をゆがめながら話し出す。

「クルデンホルフ大公家は、金融業者に顔が利きますからね。停戦に合意するよう、ガリアにプレッシャーを掛けさせたというわけですよ」

その言葉を聞いた瞬間、マルシャルの顔が、リッシュモンと同じように曇った。リッシュモンが口をゆがめた原因にすぐに思い至ったからだ。アルマンに至っては、露骨に顔を顰めている。


元々、金融業者は「労働なき冨」と教会に批判されることから、領主や国王から厳しい規制と、不定期に莫大な税を課せられるのが常だった。クルデンホルフ大公家は、その金融業を積極的に保護した。税制度を簡素化して、一定レベルの税率を維持することで、業者を誘致。同時に、金融業に関する法律を決め細やかに整備。領土が狭いという欠点を「監督しやすい」という長所にして、悪質な業者を速やかに排除し、真面目な銀行家を育成した。そうした地道な努力が実を結び、クルデンホルフ大公領に本拠地を持つ金融業者は、その機密性の高さと、冒険はしない堅実な融資姿勢が評価されるようになり、いつしか「クルデンホルフ銀行」と呼ばれるようになった。大公家の庇護と保障もあって「クルデンホルフ銀行」は、ハルケギニア全土に展開。大公領の中心都市リュクサンブールには、各国の銀行が軒を連ねるようになった。

リッシュモンの言う「顔が利く」とは、決して大げさな表現ではない。クルデンホルフ大公家が制定した「銀行法」は、ハルケギニアの金融業に関する法律の基本となっており、各国の金融行政に与える影響力は、ロマリア教皇など足元にも及ばない。当然、各国の銀行協会や、金融業を商う大商会は、リュクサンブール大公宮の一挙手一投足に注目している。

ハインリヒ大公は、そうしたつてを使って、ガリアに撤退するよう働きかけた。大国ガリアの貴族といえども、左団扇の家は数えるほどしか存在しない。多くの貴族は、金融業者から借財をしている。ロペスピエール3世死後、リュテイスで急速に撤退論が高まったのは、そうした背景があった。

多くのトリステイン貴族は、そんな大公家を苦々しい思いで見ていた。「労働なき冨」云々はともかく、自分達は領地経営に四苦八苦しているのに、手品の様な手段で金を稼ぐ銀行家と宜しくしながら、一人だけ儲けているように見える大公家。そんな大公家の働きによって、停戦が成立したからといって、諸手をあげて喜べるはずがない。


アルマンは、怒りで顔を赤く染めながら、憤りを口にする。

「それは、確かに表ざたに出来ませんね・・・セダンで死んだ彼らに、一体どんな顔で報告すればいいのか。彼らの犠牲は、無駄だったと、そういうことですか」
「さあな。軍人ではないから、よくわからんよ。だが、ハインリヒ大公の功績は評価されてしかるべきだということだな」

父の言葉に、息子は嫌悪と侮蔑を含んだ声で、掃き捨てた。

「結局は『金』ですか」

リッシュモンは煙草の火を灰皿でもみ消しながら、何も答えず立ち上がった。

「古きよき伝統」が、金という新しい秩序に蹂躙されている現状が、我慢ならないのだろう。現実を直視した上で、自分の力ではどうすることも出来ないとわかっている。わかっているがゆえに、何も出来ない自分の力のなさが歯がゆいのだ。


リッシュモンはそんな息子の態度を見ながら古い友人を思い出していた。

誰よりも貴族足らんとした彼は、領民から過度の取立てを行わず、飢饉のときは年貢を免除し、結果、積み重なった借金で首が回らなくなった。彼こそが、将来のトリステインには必要な男だと、貴族が商人に負けてはいけないという思いから、彼を救おうと、貴族の論理で、正々堂々と戦った。

だが「貴族の論理」は、一枚の契約書によって、あっけなく敗れ去る。貴族としての誇り以外の全てを失った彼は、何も言わずに、何処へとなく去っていった。

今、彼がどこでどうしているのか――生きているのか、死んでいるのかさえ分からない。今や習慣ともなった、執務室の窓からタニア橋を眺めるのは、雑踏の中に、彼の姿が見えないかを探しているからだと、最近ようやく気がついた。


「納得しなくてもいい。ただ現実は現実として受け入れなければならん。目を背けても、何も変わらん・・・そうでなければ、この国は生きていくことが出来ないのだ」
「トリステインといえども、ですか」

マルシャル公爵の呟きにうなずきながら、再びリッシュモンは窓からタニア橋を見下ろした。


雑踏の中に、友人の姿を見たような気がした。




[17077] 第24話「水の精霊の顔も三度まで」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:b679932f
Date: 2010/08/06 18:51
ラグドリアン湖-トリステインとガリアの国境に位置する、ハルケギニア有数の景勝地。広さは六百平方キロメイル。水の精が住まう湖は、いつも満々と水をたたえており、訪れる者に何らかの感慨を抱かせずにはいられない。

ド・モンモランシ伯爵家は、ブリミル暦3000年代からこの地を治め、代々トリステイン王家と、湖の主である水の精霊との盟約の交渉役を務めてきた。

交渉役とはいうものの、その実情は、「呼び出し係」に過ぎない。水の精を呼び出した後は、王族が水の精と一対一で交渉・契約するのを見守る。そして万が一の時には、自らの身を投げ出して王族を守る-とされていたが、実際には水の精が、古き盟約の盟主たるトリステイン王家の者に危害を与えることはありえない。

それなら交渉役など必要ないように思えるが、そうではない。

いくら「彼女」の時間の概念が、人間からすれば、気の遠くなるようなゆっくりとしたものとはいえ、用のある時だけ訪れて「後は知らん」といわんばかりの態度をとれば、誇り高き精霊でなくとも、気分を害する。

つまり交渉役とは、水の精霊の「ご機嫌伺い」なのだ。

モンモランシ伯爵家の前の交渉役は、この「ご機嫌伺い」を何年かサボった。そのため、就任したばかりのトリステイン国王ルイ8世が、水の精霊と契約を行うためにラグドリアン湖畔を訪れた際、交渉役は、自身の使い魔を、精霊の元に送った。

だが

「そなたの血に覚えはあるが、そなたは誰だ?」

モンモランシ伯爵家の家祖であるユーグリッド・ド・モンモランシは、ルイ8世の侍従として、契約の場に立ち会っており、呆然としてなすすべを知らない交渉役に痺れを切らした国王から「ユーグ!貴様が何とかしろ!」というムチャぶりを受けて、三日間かけて、水の精霊の機嫌を取り戻し、契約にこぎつけた。

そのとき、家祖ユーグリッドが、水の精霊の関心を引こうと、使い魔であるカエルと漫才をしたり(一瞬たりともウケなかったが)、腹踊り(同前)した事は、モンモランシ伯爵家の触れてはいけない歴史である。


そんなわけで、モンモランシ伯爵家の若き当主であるロラン・ラ・フェール・ド・モンモランシも、腹踊りこそしないものの、三日に一度は湖を訪れて、トリスタニアを離れられない国王フィリップ3世やマリアンヌ王女に代わり、精霊のご機嫌を伺う日々を送っていた(そのため、代々モンモランシ伯爵家は、トリスタニア務めや、軍役の一部を免除されている)。

そして、現在、水の精霊はというと―――若き当主がご機嫌伺いをするまでもなく、不機嫌の極みにあった。

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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(水の精霊の顔も三度まで)

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明鏡止水-波風の立たない水面のように、心を平穏に保てば、あるがままの物事を感じ取れる・・・という、異世界の言葉を、モンモランシ伯爵は知らない。もっとも、知っていたところで、目の前の、波一つ立たない湖面に、心穏やかでいられるわけがないが。風が無いわけではない。先ほどから春の香りを伴う涼風が、周囲の木々の枝葉を揺らし、自分の頬を撫でている。

では何故、湖面が揺らいでいないのか?

(怒ってる・・・)

そう、ラグドリアン湖の主である「彼女」が怒っているのだ。

水の精霊が感情を表す手段は、そう多くない。水害をわざと引き起こすことは、多くの生命(人間ではない)を危機にさらすので、彼女の好む手段ではない。もっとも、あくまで「好まない」だけで「やらない」わけではない。容易に行動へ移れないとあれば、言葉で表現するしかないが、人間ごときにむかってわざわざ「あれこれが気に食わない」と伝えることは、そのプライドが許さない。数えるほども馬鹿らしい年月を存在し続けた精霊のプライドは、下手な貴族よりも高いのだ。

不機嫌な彼女が、まず行う「表現」は、自らの分身である湖を満たす「水」総てに、意識を集中させること。これでも気が付かなければ、今度は自分の存在をじわじわと増加させて、水位を上昇させる。それでも気が付かなければ、最終手段の「水害」で主張する。構って欲しいけど、素直に伝えることはプライドが許さない―残念ながら「ツンデレ」という言葉を、モンモランシ伯爵は知らない。自分を振り回す、プライドの高い精霊にため息をつくだけだ。

そんな彼の心痛の種を増やすように「どうだ?『お姫様』のご機嫌は」という言葉が投げかけられ、湖面を厳しい顔で見つめていたモンモランシ伯爵は慌てた。水の精に聞かれたら、体の膨張という「第2段階」に進みかねない。

慌てて「素人は引っ込んでいろ」と怒鳴りつけてやろうと振り返ったのだが、モンモランシは自分の考えを実行に移さなかったことに、安堵すると同時に、面倒な奴がやってきたと、軽い頭痛を覚えた。

「ら、ラ・ヴァリエール公・・・」

ピエール・ジャン・ル・ブラン・ド・ラ・ブロワ・ド・ラ・ヴァリエール公爵。トリステイン南西部ブロワ地方を治める、国内有数の大貴族にして、王家の庶子を祖とする名門ラ・ヴァリエール公爵家の現当主。モンモランシと同じ26歳の若さでありながら、魔法衛士隊隊長として数々の戦功を上げており、その名は各国に知れ渡っている。その上、人格高潔にして、読書家であるという、まるで物語に登場する「騎士」を絵に描いたような貴族だ。

国王フィリップ3世の信任篤い側近中の側近に向かって「素人が!」と怒鳴ろうとしていたことに、今更ながら顔が青ざめるモンモランシ伯。そんな彼の肩を、人懐っこい笑みを浮かべながら叩くヴァリエール公爵。

「ロラン。堅苦しいのは勘弁してくれ。王宮ではないんだから」
「そ、そうは言うがな、ピエー・・・あ」

思わず学生時代のように呼んでしまい、再び顔を強張らせるモンモランシに、若き公爵は、モノクル(片眼鏡)のチェーンを揺らしながら笑った。

二人は、トリステイン魔法学院で机を並べた同級生である。勉強家だが、意外といたずら好きなピエールに、ナルシス・ド・グラモンやバッカスらの悪友(まとめて3馬鹿と呼ばれていた)らと共に、チクトンネ街の酒場や悪所を連れ回されたものだ。水の精霊に、お気に入りの酒場の女の子と同じ格好をさせようとして、危うく廃嫡させられかけたのも、今となっては、いい思い出である(ピエールやナルシスはとっくに逃げ出していたが。最後まで残ったバッカスも「水の精霊に可愛い格好をさせたい」という、かなり不純な動機だったが)

元々真面目にお勉強する気のない3馬鹿は、放校処分となったのを幸いとして、彼ら曰く「馬鹿を生産する監獄」の様な学院を飛び出したが、良くも悪くも真面目な(この頃になると3バカの影響でエロ博士の異名を持つまでになっていたが)ロランは、無事学院を卒業して、家督を相続する。

魔法衛士隊に入隊した3馬鹿の軌跡はここに触れるまでもない。ラグドリアン湖畔で、水の精のご機嫌を伺う毎日を送っていたモンモランシにも、彼らの活躍は耳に入ってきた。旧友の出世を喜びながらも、雲上人となった彼らと、モンモランシは自然と距離をとるようになった。自分が王宮に赴くと、彼らは昔のように話しかけてくれたが、それがかえって辛く感じるようになったのだ。

いつまでも、学生気分ではいられない。日のあたる場所を歩く彼らとは違い、水の精霊のご機嫌を取る為だけに一生を送る自分。やっかみだとはわかっている。彼らが、日のあたる場所を歩くまでに、どれほどの地獄を見てきたのかは、ここで湖面を見続けただけの自分には想像も出来ないものだった事は想像が付く。そして今も、華やかなライトを浴びながら、茨の道を歩いていることも。

ピエールの人懐っこい笑みは、バッカスの馬鹿話は、ナルシスの妄想話は、ロランのつまらない葛藤を、いつも綺麗に吹き飛ばしてくれた。学生時代に彼らが見せてくれた世界は、ラグドリアンの湖畔にいては、気付く事が出来なかったものばかりだ。彼らは自分に「可能性」を示してくれた。決められた道以外にも、自分さえ踏み出せば、いくらでも世界が広がっていることを、ラグドリアンの湖畔しか知らなかった自分に教えてくれた。

そしてロランは、水の精霊との交渉役となることを選んだ。

踏み出せなかった自分に、心のどこかで安堵しながらも、ロランは、彼らがうらやましかった。まばゆいばかりの広い世界を、自由に歩ける彼らが。

(あの時・・・)

3馬鹿が、オスマン学院長の寝顔に落書きをして放校された日。彼らに付いて行けば、今の自分は、どこで何をしていただろう?


「何だロラン?あまり悩んでいると禿げるぞ」
「余計なお世話だ!」

過去を振り返っていても仕方が無い。今、こうしてピエールと笑い会える事こそが、大切なのだ。


「・・・良く生きて帰ってきたな」
「あぁ・・・」

ピエールの顔に影が差す。責任感の強い彼のことだ。実際に救えたはずの命も、どう足掻いでも救えなかった命も-背負わなくてもいいものまで背負い込んで、全てを自分の責任のように感じているのだろう。そして、そんな彼に、慰めの言葉を掛けるほど、ロランは空気の読めない人間ではなかった。黙って自分の横に立った、若き魔法衛士隊長の顔を見ることなく、視線は、波一つ立たない湖面に向いていた。

同じく湖面に目をやったラ・ヴァリエール公爵が、水の交渉役であるモンモランシ伯爵に尋ねた。すでに、学生時代を懐かしむ雰囲気は、そこには存在しなかった。

「やはり怒ってるか?」
「そりゃ、な。精霊にトリステインもガリアも関係ないさ」

ラグドリアン湖畔に軍を進めたガリアに対して、モンモランシ伯爵家を初めとするこの地の領主は、戦わずしてこの地を明け渡した。流血は、水の精霊がもっとも嫌うことであるからだ。いち早く常備軍を導入したとはいえ、ガリアの輜重部隊はお粗末なもので、食料以外の飲料水や薪などは、現地調達が基本であった。よそ者が断りもなく、自分のシマで好き勝手に水を組んだり、薪を伐採したのだから、不機嫌にならないほうがおかしい。

停戦条約が成立し、ガリア軍が撤退した後、モンモランシは毎日のようにラグドリアンの湖畔で、彼女のご機嫌を伺おうとしたが、1年ぐらいは返事すら返してもらえなかった。

「ようやく言葉を交わしてくれるようになったんだぞ?それが今回のことで全てパーだ。パーチクリンだ」
「ぱ、ぱーちくりん?」
「リッシュモンのくそ爺が・・・一度、彼女と交渉してみればいいんだ。褒めたら『追従は嫌いだ』、何も言わなければ『お前の気持ちはその程度なのか』。してもしなくてもふて腐れるし・・・」

喋っているうちに、段々モンモランシは腹が立ってきた。

「『私なんかどうでもいいのね』って、いいわけないから、来てるんだっての!どれだけ彼女のご機嫌をとるのがどれだけ大変か、分かるか、ピエール!」
「・・・水の精霊の話だよな」

何故だろう。惚気られているような気がする。

「?当たり前だろう」

何を言っているんだという友人の顔に、軽い自己嫌悪に陥るピエール。モンモランシはそんな魔法衛士隊長の態度を訝しがりながら、今度はリッシュモン外務卿への不満を口にした。

「大体、なんで会議の場所がここなんだ?」
「・・・『大人の事情』ってやつだな」

苦し紛れのピエールの言葉に、聞き飽きたといわんばかりにうんざりした表情をするモンモランシ伯爵。その後ろでは急ピッチで会場の設営が進んでいた。


ガリアとトリステインの講和会議の会場として選ばれたのは、ガリアが土足で踏みにじった場所であるここ-ラグドリアン湖畔であった。この講和は、あくまで「対等の講和」であるため、リュテイスやトリスタニアといった当事者の王都は最初から検討されなかった。仲介交渉をしたアルビオン王国の王都ロンディニウムや、ロマリア連合皇国の首都ロマリアなども候補に挙がったが、前者はトリステインの同盟国でもあることから、ガリアが難色を示し、後者は、いまさら教会に大きな面をしてほしくないないという思惑でガリア・トリステイン両国が一致したため却下された。それでも、この仲介交渉で影響力を見せ付けたいというロマリアは、アウソーニャ半島のアクレイア市や、ジェノヴァなどを提示して「交渉の足を引っ張るな」と批判された。

ラグドリアン湖畔は、北がトリステインのモンモランシ伯爵領、南がガリアのオルレアン大公領となっている。湖という天然の国境によって、漁業権を巡る争いこそ絶えなかったが、「水の精霊」の存在もあり、この地は平和を謳歌してきた。「ラグドリアン戦争」は、例外中の例外であり、今後、この地を軍靴が踏み荒らすことはないと思われていた。


「両国の国境境でもあるラグドリアンの地で、水の精を立会人に両国の永遠の平和を誓う」


―――ありきたりのつまらない脚本だが、演じる役者によっては、カーテンコールの鳴り止まない歌劇にもなりえる。


貧乏くじを引かされたのが「交渉役」のモンモランシだ。

「何故あやつらが再びやって来るのだ」と、珍しく怒りをあらわにした水の精霊相手を、どうにかこうにか宥めすかして、黙認してもらうことで折り合いをつけたのが、つい昨日のこと。

それが、会場の設営が始まって以降、『あること』に気がついた彼女が怒ったため、再び返事を返してくれなくなったのだ。モンモランシは、両手のひらを上に向けて「お手上げ」のポーズをした。

「精霊様に、そんなこと言えるわけないよ」
「そう言ってくれるな。生きている人間の相手もなかなか大変なんだから」
「大体、ガリアも何を考えているんだ?水の精を怒らせたら、困るのはお互い様だろう」

モンモランシは、視線を対岸のガリア領-オルレアン大公領に向けた。湖畔で、なにやら設営工事をしているのか、船が行き来しているのが、微かに見える。

「オルレアン大公は反対だったと聞いたが。『太陽王』を止められなかったんだろう」
「止められなきゃ意味がない。国王が暴走したときに、親族が止めなくて、誰が止められるというんだ」
「ははは、手厳しいな、君は」

ピエールはモノクルのチェーンを、指で遊びながら続ける。

「ガリアは先々代のシャルル11世陛下の時代から、王権の強化を進めてきたからな。一大公家が反対しようと、国政の意思決定には影響しないのさ。実際に、オルレアン大公軍は、先陣を切って攻め込んできたからね」
「要するに、王をいさめるだけの根性もない腰抜けぞろいというわけか。王権が強いのも考えものだな。失敗を人の所為には出来ないからな」

おいおいと、ピエールはロランの肩を叩きながら「不敬だぞ」と冗談めかした口調でとがめる。ガリアの人間が聞けば、条約会議に水を差しかねない。それでも、ピエールの顔が笑っているのは、多かれ少なかれ、その意見にうなずく所があるからだ。

「その辺にしておけよ。どこにガリアの者がいるか、わからないからな」
「到着は三日後だろ?今ここにいるとすれば、そいつらのほうが咎めがあってしかるべきだ。なんせ、一応はまだ『戦争中』だしな」

不穏当なことを言いたてる友人に、ピエールは苦笑するしかなかった。


一通り、ガリアをけなし続けた後、「それにしても」とモンモランシは、疑問を口にする。

「仲介交渉役のアルビオンやロマリアが使節団を派遣するのは分かるが、なんでハノーヴァーやザクセンが使節団を派遣して来るんだ?」
「あーそれはな、大人の事情・・・聞きたいか?」
「けっこうだ」
「まぁ、そういうな。実はな・・・」
「聞きたくないと言ってるだろうが」

今回の会議には、当事者である2国以外に、仲介交渉に当たったロマリアやアルビオンが出席することが決まっていた。それが、トリステインが、ハノーヴァー王国の使節団を受け入れることを表明した途端、関を切ったように、ザクセン・バイエルン・ベーメンなどの、主要な旧東フランク諸国が、我も我もと使節団派遣を打診してきた。ハノーヴァーだけ受け入れて、他を断るのは都合が悪く、断る理由もないトリステインはそれを受け入れた。新興のゲルマニアは、一応、使節団の派遣を打診したのだが、トリステインが黙殺した。

「要するに顔を繋ぎたいんだろう。ガリアやロマリア、おまけにアルビオンまで首脳クラスの人員を含んだ使節団を派遣して来るんだ。諸国会議でもないのに、これだけのメンバーが集まるのは、ここ数年でも珍しいんじゃないか?」

ピエールがあげた国の中に、自らが属する祖国の名前が入っていなかったことに、モンモランシは顔を顰める。

「トリステインは入っていないわけか。水の国もなめられたものだ・・・というか、聞きたくないといってるんだがな」
「何、それもガリアとトリステインの講和会議だからだよ。そうでなければ、ロマリアやアルビオンも顔を出さないと考えれば・・・」
「おまけ扱いに納得しろと?ステーキの付け合せみたいな扱いだな・・・ところでさっきから、聞きたくないといっているだろう。聞けよ人の話を」

ピエールは肩をすくめた。

「酷く気が立ってるね」

(そりゃ、君の解説に長々と付き合わされたからだ)と呟くモンモランシ。

モンモランシ伯爵が不機嫌なのは、何も水の精霊との交渉がうまくいっていないというだけではない。会場設営の役目を担わされるのは、誰あろうこの地の領主であるモンモランシだ。何百人もの人員を宿泊させるだけの施設が、「のどか」という言葉が、これ以上似合う田舎に存在するわけもない。領民は臨時収入に喜んでいるが、金を出させられる方はたまったものではない。

「何も全て自腹というわけではあるまい。外務省から幾らかは出るだろう?」
「人員を出すのはうちだぞ?それに、水の精になんと言い訳したらいいんだ・・・」

結局はそこに行き着く。洗面で使う水、料理で使う水、飲料水・・・これらに関しては、まだ水の精霊に対して、説得のし様がある。

問題は下水の処理だ。水メイジを使って、浄化することは可能だが、その役目は地元領主-モンモランシ家に回される。それだけでもうんざりなのに、浄化した後の水をどうするか-ラグドリアン湖に戻すにしても、また水の精霊に許可を得なければならない。黙ってそんな水を流し込んだら、どんな事になるか・・・考えるだに恐ろしい。

彼女はそれに気がついて、口を利いてくれなくなった。


「どうすりゃいいんだ・・・」

頭を抱える友人に同情したピエールに、部下の衛士隊員が駆け寄った。

「隊長。アルビオン王国の使節団が到着されました」
「何?到着予定時刻まで、あと2時間近くはあるぞ」
「それが、予定より早く到着されたようで・・・カンバーランド公爵ヘンリー殿下夫妻が、あちらに」


部下の指した方向に、視線を向けるピエールとロラン。そこには


「さすがラグドリアン。綺麗なものだ。こういうところで余生を過ごしたいね」
「何を年寄りくさいこといってるのよ・・・でもその意見には同意するわ。着ているものを脱いで、泳ぎたくなるわね」
「ははは、君の美しさを晒したくないから、遠慮して欲しいね」
「やだ、もう!恥ずかしいこと言わないで」


あれ、おかしいな。空気が、ピンク色に見えるよ?


「ははは!本当のことじゃないか」
「もうッ貴方ったら、知らない!」
「待ってくれよ、マイハニ~なんちゃって♪」


恥ずかしげもなくいちゃつくアルビオンの王弟夫妻。そのそばを通る人足たちは、あさっての方向を向き、わざとらしく咳払いをしたり、口笛を吹いたりしている。自分に報告に来た騎士など、恥ずかしさの余り、顔を真っ赤にしてうつむいてしまっている。

(・・・俺とカリンも、ああいう感じに見えるのかな)

見えるも何も、毎回それ以上のことをしでかしてくれているのだが・・・人のことはともかく、自分の事は案外見えないものだ。2人の世界にいたたまれなくなったピエールは、視線をそらした。






そして「悪魔」を見た











ド・モンモランシ伯爵家-水の精霊との交渉役という役目上、この地を離れることが出来ない。社交界からも自然と遠ざかるため、出会いの機会が少なく、歴代当主は嫁探しに苦労したとされる。


そして、現当主ロラン・ラ・フェール・ド・モンモランシも、同じ悩みを抱えていた。









「・・・湖の底に沈んじまえ」






全身から嫉妬と怒りのオーラを撒き散らす友人に、ピエールは(結婚の報告はしばらくしないでおこう)と、心に誓った。



[17077] 第25話「酔って狂乱 醒めて後悔」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:b679932f
Date: 2010/08/06 18:52
やあ、みなさん。こんにちは・・・ごぶさたしています。アルビオン王弟のカンバーランド公爵、ヘンリーです。

突然ですが、妻が口をきいてくれません。

いいわけするんじゃないんですがね。だってさ。アルビオンのワインってさ、葡萄の種と皮だけ絞ったみたいに、渋くて苦いんですよ。それをね、この世界に生まれてこの方、ずっと飲まされてきたんですよ。ガリアやロマリアへ出かける用事が出来たときは、お小遣いをはたいて、ワインを買い集めるのが楽しみなんだ。高いんじゃなくていいの。安いワインで。それでもアルビオンのぶどうジュースの出来損ないみたいなやつよりは、ましだから・・・どうよ、この慎ましやかな贅沢?

そんな環境で育ってきてさ。常日頃から、美味い酒には飢えてるんですよ。

トリステインワインの中でも、高すぎず安すぎず、庶民が贅沢して手の届くぐらいの値段で知られるタルブ産のワインを出されて、ちょっと羽目を外して、かぱかぱ空けちゃったのは、そんなに責められる事じゃないと思うんですよ。

それで、キャサリンが悪酔いしやすいっていうことを、きれいさっぱり忘れちゃってたのも、無理ないと思うんですよ。その悪酔いに、乗っかっちゃったのも、そんなに悪くないと思うんですよ。だってさ、いつもツンケンした態度の目立つ彼女がさ「あ~な~た♪」とかいって、甘えてくるんですよ?据え膳食わぬは、アルビオン男児の名が泣きますよ。


そして、ラグドリアン湖畔で繰り広げた「きゃははは」「うふふ」(目撃者多数)


「・・・もう一度、生まれ変わりたい」
「いや、生まれ変わらなくていいから。ずっと墓の下にいていいから」

・・・泣いてもいいですか

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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(酔って狂乱 醒めて後悔)

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後に「ラグドリアン会議」と呼ばれることになる、ガリアとトリステインの講和会議は、予定の5日をはるかにオーバーして、2週間にわたって続いた(そのため、トリステイン王国領の地元の領主は、水の精霊に平身低頭謝り続けたとされる)通常こうした国際会議では、事前に入念な調整が行われる。大筋で合意してあるので、会議自体は、どれだけ波乱があろうとも「出来レース」である場合が多い。しかしラグドリアン会議は、この「出来レース」はすぐに崩れ、ガリアとトリステインの「チキンレース」と化した。その理由は、両国ともに、国内世論の一本化に失敗したためである。


トリステインは国内の反講和派を睨みながら、最後までガリアとの条件闘争を続けた。

国王フィリップ3世、宰相エスターシュ大公を初め、主だった閣僚は、講和で一致していたが、細部の条件となると、閣僚間でも意見噴出でまとまらず、一応は首席全権のリッシュモン外務卿に一任された。だが、下手な条件で妥協すると、反対派の牙城である高等法院が、条約の受け入れを拒否しかねないという危険性があった。その場合、責任はエスターシュだけに止まらず、フィリップ3世の権威失墜に繋がりかねない。そうした微妙な国内の政治バランスに配慮しながら、ガリアと交渉するという綱渡りを、リッシュモンは強いられていた。


ガリアはガリアで、内憂外患の悩みを抱えていた。

「太陽王」の死後、ヴェルサイテル宮殿では、宰相のバンネヴィル侯爵を筆頭とした前国王派(宰相派)の閣僚と、現国王シャルル12世の側近集団が主導権争いを繰り広げていた。互いが互いを蹴落とそうと、講和条約に関しても「無条件賛成派」「条件付賛成派」「断固反対」と、トリステイン以上に方針が定まらず、仲介交渉にあたったロマリアのエルコール・コンサルヴィ枢機卿は「リュテイスは、頭が複数ある竜のように、意見が定まらない」と、一時交渉を諦めたほどだ。そんな不穏な空気の漂うガリアを見透かしたかのように、イベリア半島のグラナダ王国が蠢動しているという噂が流れた。先王の三度による遠征によって、服従を強いられたこの国は、虎視眈々と独立の機会を狙っていたのだ。そして、先の戦争を巧みに利用して独立を果たし、着々と基盤を固めつつある不気味な存在-ゲルマニア王国のこともある。

この状況を重く見たガリア国王シャルル12世は「講和条約の締結」でリュテイスの意見を統一し、会議の開催にこぎつけたという経緯がある。もしこの会議が失敗に終わると、就任してまだ2年目と権力基盤の弱いシャルル12世には、致命傷になりかねない。ガリア側の首席全権であるサン=マール侯爵は、宰相派とも、シャルル12世の側近集団とも距離があるという理由で選ばれた。中立派といえば聞こえはいいが、どこにも足場が無いということ。講和会議が失敗に終われば、自分に訪れるであろう「失脚」の2文字に、自然と厳しくなる顔で、サン=マール侯爵は会議に臨んだ。


どちらも折れる事は許されず、机の下で互いの足を蹴っ飛ばし、踏みつけながら、美辞麗句で着飾った「早よ譲らんか」「己が先に折れんかい」という言葉の応酬が続いた。もっとも、サン=マール侯爵も、リッシュモン伯爵も、悲観はしていなかった。共に最高意思決定者の「何が何でも講和条約を結んで来い」という意向を知っていたので、いざとなればトップ同士で何とかするだろうという安心感があったからだ。

奇妙な「チキンレース」が続く中、使節団を派遣した各国は、交渉の行方に気を揉みながら、それぞれが情報を交換し合い、会談や密談、時には商談を繰り広げていた。


言葉の応酬だけでは、余りにも殺伐としている。恋愛と交渉は同じ。雰囲気が大切なのだ。ぎすぎすした空気を緩和させるために、食事があり、ユーモアがあり、そして



「おや、ヘンリー殿下。トリステインのワインはお口に会いませんか?」
「い、いや・・・そういうわけでは・・・」

赤ら顔でグラスを持ち上げているのは、トリステイン王国内務卿のエギヨン侯爵。「ルネッサ~ンス」という言葉が実に似合いそうな髭と体格の持ち主だ。エギヨン卿はいかにも人のよさそうな顔を、酔いで赤く染めながら、ワインに手をつけないヘンリーを、いぶかしげな目で見ている。酔わせて口を滑らそうというのではなく、純粋に「これ旨いから飲んでみなさい」という、親戚のおじさんのノリだ。

下手に断れば角が立つと、苦笑いで誤魔化そうとしたヘンリーに代わって、彼の弟が答えた。

「兄上は一度痛い目にあってますからね」
「う、ウィリアム・・・」

アルビオン王ジェームズ1世の末弟、モード大公ウィリアム。彼は「王子様」っぽい、王子様だ。絵本の中にしか出てこないようなケバケバしい衣装でも、軍服でも、たとえ平民のボロ服であっても、彼が着れば、それらはウィリアムが着る為に作られたのかと思わせる気品が、彼にはある。何をしてもさまになるという、キザったらしいこの弟は、先ほどから何本瓶を空けたか解らないぐらい飲んでいるはずなのだが、一向に顔色も、飲むペースも変わらない。ハンサムなくせに酒にも強いという、本当に嫌な男だ。

エギヨン卿は、興味を引かれたのか、ウィリアムの話に食いついた。

「ほう、どのような話か、ぜひお聞かせいただきたい」
「それがですね・・・」

だから、やめいっちゅうに・・・こら!ウィリアム、たまにはこの兄の言うことを聞け!

「貸しにしておきます。いつか返してくださいね?」

そういって、ウインクするこの馬鹿の顔に、グーでパンチを入れたくなる気持ちを必死に抑えた俺はえらいと思います。公共の場所で王族同士が殴り合いの喧嘩をしたら、外聞が悪すぎる。何より「貸し」がどれほど膨らむかわかったものじゃない。

昔は「ヘンリーお兄様!」とか言いながら、三歳年上の俺にじゃれ付いていたこの弟は、いつの間にか、クソ憎たらしいガキに成長していた。ハンサムなだけなら許せるが、こいつは仕事も出来やがるんですよコンチクショウ・・・

聡明で知られた弟は、モード大公家の一人娘であるエリザちゃんと婚約して、大公家を相続することが早くから決まっていた。そのままいけば、順風満帆で御気楽な生活を送れたはずなのに、例の、アルバートが学長を務める官僚養成学校2期生の名簿に、こいつの名前を見つけたときは、椅子からひっくり返らんばかりに驚いた。なんでも「エリザにふさわしい男になるため」に入学を決意したとか。なんです、そのカッコいいお答え。性格までハンサムですかこの野郎。

海兵隊並みのド汚い言葉でのスパルタ教育がモットーのところで、王族がやっていけるのかという、兄らしい思いやりは「ウィリアム殿下が、校内の不良グループを纏め上げた」だの「知力体力ともに優秀で人望が厚い」だのという報告によって、一瞬でもそんな事を考えた俺を、猛烈に後悔させた。父親のエドワード12世や、兄のジェームズ皇太子(当時)から、猛烈なプレッシャーを与えられる俺の心痛など知るはずも無いウィリアムは、実にのびのびと学生生活を楽しみ、案の定というか、実力によって、養成学校を首席で卒業。そしてウィリアムは、先代大公の隠居に伴い、モード大公家の家督を相続。今では大公領の行政の傍ら、財務省官僚としても働いているというスーパーマンぶりだ。

一体いつ寝てるのか・・・とおもってたら、去年、エリザちゃんとの間に、男の子(チャールズ)が誕生した。


わーおめでとう(ぱちぱち)



・・・何故だろう。猛烈な嫉妬を覚えるよ?

ジョセフ、君の同士になりたいな



真面目な話で言うと、この弟と、どう向き合ったものか困っているのが現状だ。個人的には掛け値なしに気のいい男だから、酒を飲んだりして一緒に騒ぐ友達としては、これ以上魅力的な奴はいない。しかし彼が「胸革命」のパパだと知っている身からすれば、そうも言ってはいられないのだ。エリザちゃんっていう可愛い嫁さんがいるくせに、妾までこさえるとは。しかも胸革命のお母ちゃんってことは、相当の・・・げふん、がふん。

今なら「世界扉」開いて、異世界から死ね死ね団を呼べそうだぜ・・・


閑話休題


『レコン・キスタ』の3年前、原作開始の4年前にモード大公は、テファニアとその母の存在がばれて、ロンディニウムで自害。テファ母子を確保するために、アルビオン王政府は軍を派遣し、大公家やテファの匿いに加担したサウスゴータ家はお取りつぶしとなった。これを恨んだサウスゴータ太守の娘であるマチルダが、貴族専門の泥棒となって「忘却」で難を逃れたテファを、養うことになる。「土くれのフーケ」誕生というわけだが・・・そんなことはささいなことだ(あの胸は些細ではないが・・・)

問題は「モード大公お取りつぶし」の理由が、決して表ざたには出来ない理由だということにある。封建領主としての国王が、王たるものとして認められるには、何が必要か。この世界ではまず「魔法」を使えることだが、それは王以前に、貴族としての常識であるので、ここでは問題ではない。

それは「公正な裁判」を行うことだ。

鎌倉幕府初代将軍の源頼朝は、自身は一人の直轄兵が存在しないにもかかわらず、将軍として独裁的な権力を振るえた。それは、頼朝の下す判決が、筋の通ったものであり、例え親族といえども、法に背いたものには、厳しい処分を下したからだ。武士にとって、命よりも大事な私有地である領地に関わる紛争では、常に公正な判決を心がけた。誰もが納得する判決はありえないが、道理に通った判決を下すがゆえに、直属の兵が無いにもかかわらず、頼朝は将軍として振舞うことが出来、彼の裁定に誰もが従った。

彼の死後、将軍となった息子の源頼家は、この反対をやった。身びいきの判決に、妻の実家である比企氏の優遇。感情に任せての情実判決・・・結果的に頼家は強制的に隠居させられ、最後は暗殺されるという結末をたどった。

ジェームズ1世の下した「モード大公家お取りつぶし」を、真の理由を知らない貴族達が、どのように捉えたか、誰だって想像が付く。なりふり構わず、王権強化に邁進し始めた(様に見える)老王に「次は自分」との思いを深めた貴族の前に、刺青を入れた女秘書があらわれれば・・・水の秘薬を使う必要も無い。

逆に言えば、この「モード大公事件(仮称)」さえ防ぐことが出来たら、後はどうとにでもなるということだ。今、アルビオンでヘンリーが主導して進めている、地道な中央集権化を続ければ、表立って反抗しようという勢力は国内にはいなくなる。原作開始まであと30年、十分間に合う計算だ。

だが、テファの母ちゃんと、どこで出会ったんだろう・・・それがわからないと、手の打ち様が無い。今のウィリアムとエリザちゃんとの夫婦仲を見ていると-それにあいつの性格上、妾を作れるほど、器用でもないし、とてもじゃないが、想像できない。かといって「浮気するなよ」と、正面から言うわけにもいかない。(どんな嫌味で返されるか、わかったもんじゃないしな)弟の周りを監視させるか・・・ばれたら、言い訳の仕様が無いな。政治的に俺の立場が不味くなるわけだし。それこそ、下手に感情がこじれて「モード大公が謀反!」ともなりかねない。

個人的な関係だけで、どうこうなるほど、王族は気楽な家業ではないのだ。

さて、どうしたものかね・・・


突然黙り込んだ兄が、そんな事を考えていると走るはずも無いウィリアムは(どうせ、新しいメイド服のデザインでも考えているんだろうな)と思いながら、エギヨン卿と埒もない話を交わしていた。

日頃の言動は、やはり大切である。

「いやーっはっはは!ウィリアム殿下、それは面白いですな」
「いえいえ、エギヨン卿のお話も実に興味深いものがあります」

デキャンタを手づかみにして、手酌でワインを注ぐエギヨン卿。相当酔っている様に見受けられる。役目を取られたメイドが、所在なさげに佇んでいるのを、気の毒に思ったウィリアムは、手で下がってよいと命じた。


そして、部屋の空気が一変した。

「・・・そろそろ本題に入りましょうか」

それまで自分の斜め前の席で、馬鹿笑いをしていたはずのエギヨン卿の顔は、酔いが一気に抜けたかのように、一瞬で素面に戻った。とっさに、今まで飲んでいたものが、ただの水だったのではないかと、疑ったほどだ。侯爵の変わりように息を呑むウィリアムの前で、エギヨン卿は腰に指した杖を振るおうとしたが、ヘンリーがそれを止めさせた。

「『サイレント』を掛ければ、密談していますといわんばかりじゃないですか?」
「・・・それもそうですが」
「ご安心を、人払いはしてあります」

エギヨン卿の息は酒の臭いがしており、先ほどまで浴びるように飲んでいたのが水ではないということの、これ以上ない証明になっていた。ということは、先ほどまでの振る舞いは・・・

今まで経験したことのない感覚に、いい知れぬ感情を覚えるウィリアム。そして、横に座る兄が、平然とそれに対応しながら、かつ対等に会話をしていることに、畏敬の念と、かすかな嫉妬を覚えた。ウィリアム昔からこの三歳しか年の離れていない兄に勝てる気がしなかった。国王であるジェームズ兄さんのように、尊敬できる人格ならまだ許せるが、いつもの態度が態度なだけに尊敬できるはずがない。なのに、専売所や領地再編といった行政改革の影にはいつもこの兄の影があった。

自分と大して年齢の代わらない兄が、政治の中心にいることが悔しくて、なんとか追いつこうと、努力を重ねてきた。だが、その「努力」が、いかに子供じみたものであったのか、たった今、身をもって思い知らされた。


何も言うことが出来ず、黙り込むしかないウィリアムを横目に、ヘンリーが本題を切り出した。

「西沿岸部のアングル地方ですが、いまは誰が管理しておられるのですかな?」
「・・・なるほど、ジャコバイトですか」
「お分かりなら話が早い」

現在では同盟関係にあるトリステインとアルビオンも、かつて杖を交えたことがあった。ブリミル暦4544年、トリステイン国王アンリ4世が、アルビオンの王位継承権を主張したことに始まる四十年戦争(アルビオン継承戦争。4544-4580)である。

この時、アルビオンのスチュアート大公家は、大公ヘンリー・ストラスフォード3世の妻がアンリ4世の姪という関係から、アルビオン王家に反家を翻した。十数年にも及ぶ内乱の末、ヘンリー・ストラスフォーフォ3世は戦死。その子ジェームズは、トリステインに逃れた。ジェームズ・スチュアートは「アルビオン王ジェームズ3世」を名乗り(老僭王)と称された。トリステインもジェームズ3世を「正等なアルビオン国王」とみなしたが、敗戦国の主張はむなしく響くばかりであった。

このジェームズ三世とその子孫こそ、アルビオンの正当なる支配者だと訴えた人々を総称して「ジャコバイト」と呼ぶ。トリステインに亡命した大公派の貴族や家臣とその子孫が中心となり、長く反王家勢力の中核として、アルビオンを苦しめた。5900年のアバディーン騒乱で、スチュアート大公ジェームズ8世が戦死したことにより、大公家は絶えた。これをきっかけに、ジャコバイトを構成していた貴族や家臣の子孫達は、各地へ四散し、あるものはトリステインに仕え、あるものはアルビオンへと密かに帰還していった。

かわって「ジャコバイト」を自称するようになったのが、アルビオンの「新教徒」である。実践教義が唱えられるようになった頃のアルビオン王は、熱心なブリミル教徒が多く、新教徒を迫害していた。そんなアルビオン国内でも、スチュアート大公領では、迫害されることもなく、逆に庇護を受けた。

ヘンリー・ストラスフォード3世としては、反王家勢力として使えるものは何でも使う考えから行った行為だったとされるが、新教徒にとってはまさに唯一の希望で。こうした経緯から、四十年戦争の際、スチュアート大公を中心とする反王家勢力の中核として、新教徒が行動したのは、むしろ自然なことであった。ヘンリー・ストラスフォード3世死後、その子ジェームズと共に、多くの新教徒が、トリステインに逃れた。彼らは、大公家が絶えた後も「ジャコバイト」を名乗り続け、アルビオンの反政府勢力として活動を続けている。

アルビオンにとって、ジャコバイトは「うっとうしい」存在であった。すでに王家を打倒するほどの勢力は無いが、時折思い出したかのように引き起こす爆弾テロや、破壊活動は、アルビオンの威信を傷つけるには十分だった。このジャコバイトの大陸での拠点が、おそらくトリステイン国内にあるであろうことは、アルビオン側も把握していたが、それがどこにあるかまでは特定できていなかった。それが、新教徒駆除をアルビオンにしてもらおうという思惑から、ロマリア教皇大使ヌシャーテル伯爵がもたらした情報によって、アングル地方(ダングルテール)にある事を掴んだ。

ロマリアの手のひらで踊ることは気に食わないが、ジャコバイトを何とかしたいのは、アルビオンも同じ。こうして、奇妙な同盟関係が、2国間の間で成立した。


この情報をパーマストン外務卿から聞かされたヘンリーは、何もかも放り出して、修道院にでも籠もりたくなった。ヘンリーからすれば、この情報は「モード大公事件(仮称)」についで、一人で背負うには、あまりにも重過ぎる-ダングルテール虐殺事件へのフラグに他ならない。

かといって、何もしないというわけにもいかない。この地方にジャコバイトの拠点があることは、ヌシャーテル大使からの情報提供の後、アルビオンも独自に調査を行って、事実であることを確認している。手を打たずに、ずるずると破壊活動を継続されてはたまらない。なんとか、穏便な形でお引取り願いたいのだが・・・そう上手く行くかどうか。

パーマストン外務卿や、ロッキンガム宰相とも相談したヘンリーは、ともかく、当事者であり、全ての種をまいたともいえるトリステインに「われ、てめえの尻はてめえで拭きさらさんかい」とかましを入れることにした。同盟国相手に、余り強いことはいえないが、それでもこの件に関しては、完全にトリステインに原因があるため、強気に出ることが出来た。


「・・・ジャコバイトの存在は、我が国としても確認いたしております」
「地元の領主は何をしておられるのです?まさか、新教徒だとでも・・・」

その言葉に、苦々しげな表情になるエギヨン卿。トリステインとしても、ジャコバイトの扱いに頭を悩ませているのだろうということを窺わせた。

「あの地方は、実は王政府の直轄地でして・・・誤解しないでいただきたい。トリステインとして、あのもの達を支援しているわけではないのです」
「・・・にわかには信用しかねますな」

トリステインが四十年戦争後、長きにわかってジャコバイトを支援してきたことは、公然の事実である。エギヨン卿は、ヘンリーの言葉に慌てて否定するでもなく、疲れた顔で見返した。先ほどまでの馬鹿騒ぎは、むしろ疲れを誤魔化すための空騒ぎだったのかもしれないと、ウィリアムには思えた。

「我が国の貴重な同盟国であるアルビオンにとって、不利益なことは致しません。先の戦争でも、貴国の補給活動がなければ、どうなっていたか・・・」
「ハノーヴァーは日和見しましたからね」
「・・・否定は致しません」

ため息をつきながら、エギヨンは続ける。

「信じる、信じないはお任せしますが・・・アバディーン騒乱以降、我が国はジャコバイトを支援しておりません」

エギヨンの言葉に嘘は無い。トリステインとアルビオンの関係改善が進み、現在の様な同盟関係となるなかで、ジャコバイトはむしろ足手まといな存在となりつつあった。特に今回の戦争で、アルビオンとの同盟関係が、トリステインの生命線だということが明らかになった今、火遊びをしている余裕は無い。

ヘンリーはワイングラスに視線を落とした。

「アングル地方にジャコバイトを与えたのは・・・」
「与えたのではありません。勝手に住み着いたのです」

強い調子で、ヘンリーの言葉を否定するエギヨン。よほどジャコバイトが腹に据えかねているんだろう。こりゃ、よほど強く申し入れを行わないと、強制改宗とかいいかねないな・・・

ヘンリーが懸念を深める中、エギヨンが説明とも愚痴とも付かぬことをいい続ける。

「アバディーン騒乱で敗れた新教徒たちが『入植』と称して、あの地域に住み着いたのです。当時のアングル地方は水に乏しい荒地で、人より獣が多い土地でした。我が国といたしましても、荒地を開拓してくれるならという程度の気持ちで、追認したのですが・・・

それが間違いだったとエギヨンは言う。

独立独歩の姿勢を崩さない彼らは、実践教義を実践し、慎ましやかな生活を送っていた。まともな産業も無いため、税収を取り立てることは難しく、そのうえ、トリステインへの帰属意識が極めて薄いとあって、歴代の領主とはことごとく対立。そのため、名目上は王政府の直轄地ということにして、一種の「自治区」を形成することにした・・・


「・・・というわけです。歴史的経緯もありますし、無碍に扱うわけにもいきません」

ヘンリーは「虐殺フラグ」を避けるために、釘をさすことにした。

「あらかじめ言っておきますが、強制改宗はできれば避けていただきたい。無論、火あぶりだの、拷問での改宗を迫るのは論外です」

ジャコバイトに苦しめられているアルビオン王族とは思えない発言に、訝しがるエギヨン卿。アングル地方を管轄する内務省のトップであるエギヨンとしては、当事者の穏便な解決を望む発言はありがたいかぎりだが、ヘンリーの真意がわからない。

ヘンリーはワイングラスを手に取り、口をつけようとして・・・止めた。透き通った赤いワインの色が、一瞬、血の色に見たのだ。頭を振りかぶって、嫌な考えを追い出してから、ヘンリーは答える。

「強攻策ばかりでは芸がありません。押して駄目なら引いてみろ。それに・・・」
「それに?」

「・・・寝覚めが悪いのは嫌ですからね」


ヘンリーは最後まで、ワインに口をつけなかった。




[17077] 第26話「初恋は実らぬものというけれど」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:b679932f
Date: 2010/08/06 18:52
会談を終えたエギヨン内務卿の顔には、再び赤みがさした。この初老に差し掛かった貴族は、それまでいくら飲んでいようとも、仕事となると、態度も言葉も一転して素面に戻れるという、変わった特技の持ち主である。だが彼は、ここ最近、酒に酔えたことが無かった。むしろ飲めば飲むほど頭が冴えわたる。この国の行く先、馬鹿息子達の将来、そして後継問題・・・そして決まって、2年前に天上(ヴァルハラ)へと旅立たれた、一人の王太子のことを思い出す

フランソワ・ド・トリステイン-フィリップ3世の甥にして、水の国の将来を担うはずであった王太子は、ラグドリアン戦争で滅亡の危機に瀕した国を救うために、率先して戦い、セダン会戦で敵軍の中に消えた。誰よりも国を憂い、誰よりも民を愛した、真の王たる素質のあったお方。王宮の澱んだ空気を見るにつけ「殿下さえご存命なら」と思ったのは、自分だけではないはずだ。

フランソワ殿下亡き後、王位継承権第1位はフィリップ3世陛下の一粒種であるマリアンヌ妃殿下にある。亡きクロード王妃に似て聡明な方だが、女王となるための帝王学を受けてこられたわけではなく、考え方に甘さが目立つ。何より、妃殿下の結婚相手-王配は誰を選ぶべきかという大問題がある。海外王室から王配や国王を迎えたことはあるが、いずれも「出身国の操り人形」という批判が付きまとい、国内は混乱した。「ならば国内の貴族から」とはすんなり行かない。外戚が国を誤らせた例も数え切れないほどある。何より年頃の男子は、先に婚約を結んでいた。これが、最初からマリアンヌ様に王配を迎えることが前提であれば、またいろいろと手を打つことも出来たのだが・・・

ワインをグラスに注ぎながら、エギヨンは、先ほど見送ったアルビオンの、2人の王弟を思い出していた。


モード大公家のウィリアム殿下は、年相応の若さが印象的だった・・・まぁ「あれ」が横にいたからかもしれんがな。殆ど口を出すことが出来ずに、悔しさを隠そうともしなかった。不甲斐ない自分への怒りを、自己研鑽の動機付けにしようとしていた姿勢には、好感が持てる。おそらくヘンリー殿下は、ハッパをかけることが目的で、ウィリアム殿下を随行されたのだろう。

そのカンバーランド公爵ヘンリー殿下は、年に似合わぬ手ごわい交渉相手という印象を受けた。私が気おされるなど、エスターシュの若造以来だ。「大胆な発想をする変わり者」という評価は、いいえて妙というべきか。長年苦しめられてきた仇敵であるジャコバイトに、穏便な対応を望むなど・・・真意がよくわからない。何か隠された意図があるのか・・・少なくとも、これだけは断言出来る。あれはエスターシュより「面倒くさい」奴だ。

アルビオン国王ジェームズ1世陛下は、まだ35歳。フィリップ陛下より11歳年下だ。若い力に満ちたアルビオン王家に比べ、自身が杖の忠誠を誓う王家と国の行く先に、不安を覚えないといえば嘘になる。仮にも王家の禄を食むものとしては、あってはならない不安だが・・・

それでも、たとえ国と共に滅ぼうとも、自分は水の国の貴族であり続けるだろう。「英雄王」への忠誠心からではない。それが、貴族としての、自分の「意地」だからだ。


「フランソワ殿下・・・」


エギヨンの呟きは、虚空に消えていった。

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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(初恋は実らぬものというけれど・・・)

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講和会議が始まって5日目。日が高く天頂に差し掛かった頃-グリフォン街道を南下して、ラグドリアン湖畔に向う一行があった。総勢500名にも及ぶ一行を守るために、マンティコアに跨った魔法騎士が、油断なく周囲を警戒し、騎士や銃を担いだ歩兵が整然と行進している。トリステイン王家を象徴する百合の紋章を付けた馬車を引くのは、ユニコーン。

厳重に護衛された馬車の中で、マリアンヌ・ド・トリステインは、腰まで伸びた栗毛色の髪の毛先を指に巻きつけて、くるくるといじりながら、浮かない表情を浮かべていた。時折、手元の書類に目を通してはいるが、心ここにあらずというのが丸解りである。一見すると、恋に悩む乙女のようだが、今のマリアンヌには、想いを寄せる騎士も、色恋沙汰にかまける精神的余裕も、その両方が存在しなかった。

年頃の女の子として、それはどうよ?と(マリアンヌ自身も)思わないこともなかったが、片付けても片付けても、油虫のごとく湧き出る書類を前にすれば、そんなことを言ってはいられない。

そんな第一王位継承者の様子を、じっと見詰める視線が馬車に乗り合わせていた。より正確に言えば、視線の本当の主は、はるかトリスタニアにいながら、娘の様子をうかがっているのだ。主の『目』となっていた使い魔である鸚鵡は、今度は『口』の役目を果たした。

『マリアンヌ、なにか心配事かい?』
「いえ、お父さま」

トリステインで彼女のことを「マリアンヌ」と呼ぶのは、トリステインにはただ一人-この鸚鵡の主にして「英雄王」フィリップ3世だ。娘を溺愛する父は、マリアンヌの公務には、いつも自分の使い魔を同行させ、怪我をしないか、危ないことはないか、おなかは痛くないか、忘れ物はないかetc・・・と、ハラハラしながら見守っていた。


マリアンヌからすれば「うっとうしい」の一言に尽きたが


「使節団の労をねぎらう」という名目の親善訪問団は、膠着状態に陥った講和会議の打開を図るために、トリステインが打った、窮余の一策であった。「対等な講和」だの何だのといいながらも、ガリアよりはるかに国力の劣るトリステインには、これ以上の戦争状態の継続は不可能であり、何が何でも講和条約を結ばなければならなかったのだ。

まず考えられたのは、国王フィリップ3世。だが、国王直々に乗り出して失敗に終わった場合、いくら英雄王といえども、批判は免れない。なにより、ガリアはジョセフ王太子ですら派遣していない段階で、トリステインは国王を出したとあれば、自身が格下と認めるようなもの。昔ほど頓着しなくなったとはいえ、そのような屈辱は、仮にも英雄王と呼ばれた男にとって、受け入れられる物ではなかった。

エスターシュ宰相が出向くことも検討されたが、仮にも「親善訪問団」であるのに、蛇蝎の如く嫌われている彼が訪れても、誰も喜ぶものはいない。何より、トリステイン国内の反講和派の牙城である高等法院に籠もる、頑迷で弁の立つ法務貴族を説得できるのは、彼しかおらず、トリスタニアを離れることが出来なかった。

そこで白羽の矢が立ったのはマリアンヌ王女である。国民からの人気も高い彼女は、親善訪問団のトップとしては相応しく、また第1王位継承者でもあるという事で、トリステインのプライドと、ガリアの面目が、何とかつりあうことの出来る人事であり、宰相の上奏を受けて、フィリップ3世はすぐに裁可を与えた。

フィリップ3世は「父親」としては、心配で心配で心配で、しんぱーーーーーーいで!たまらない。おかげで、夜も8時間しか眠れないくらいだ。だが、国政に私情を挟むわけには行かない。感情で判断を誤り、国を傾ければ、結果的にマリアンヌが不幸になる。英雄王は自分にそう言い聞かせて、周囲が思わず諌めるほど、厳しくマリアンヌに帝王学を叩き込んだ。自身の使い魔を公務に同行させるのも、何も彼女が心配なだけではなく、その言動をチェックし、時には使い魔を通じて指導するためである。

もっとも、鸚鵡の口からは「足元注意してね」「おなか痛くない?」「生水飲んじゃ駄目だぞ」と、どこまで本気かわからない注意が、壊れたオルゴールのように繰り返されるだけであり、マリアンヌは、その存在をあえて無視していた。


『マリアンヌ、どうかし・・・あ、こら!マリアンヌ!何をする!アルバトロスを放せ、放さん(モガモガ)・・・』

いつものように、うるさい鸚鵡(アルバトロスは名前)を紐で縛りあげて、座席に転がすマリアンヌ。おとなしそうな顔をして、やっている事はかなりえげつない。(フィリップ3世は「娘が冷たいんだ」と、エスターシュに愚痴る回数が増えた)


ようやく静かになった馬車の中で、マリアンヌの大きな目が、物憂げに揺れていた。

マリアンヌは、今回の自分の役回りをよく理解していた。もとより交渉のテーブルに自分が座っても何も出来ないことは百も承知。豪華な食事を前におべっかを使いながら、裏で何を考えているかわからない貴族達とダンスを踊り、会話を交わす・・・今回は、それを王宮や大貴族の邸宅ではなく、ラグドリアン湖畔のテントの下で行うだけの話だ。これも必要な事だとわかってはいるが、虚飾と虚構に満ちた社交界よりも、マリアンヌには、お忍びで出歩いたチクトンネ街の酒場での、平民達との会話のほうが、よほど実があり、楽しいものに思えた。

記憶は美化されるもの。見るもの全てが珍しく、そして今となっては出歩くことも叶わなくなったがゆえに、あの時の体験が、よりきらめいて感じられるだけかもしれない。

だけど、楽しい思い出を振り返ることぐらいは許されるでしょう?


そこまで考えが及んだ王女は、突如、顔を強張らせる-マリアンヌ・ド・トリステイン、一生の不覚である、ある事を思い出したからだ。

そして、その自分の恥部を思い出させる人物が、馬車の外からマリアンヌを気遣って、声を掛けた。


「マリアンヌ様、ご気分はいかがですか」
「・・・えぇ、変わりありませんわ、カリン『殿』」

どこか棘のある物言いに、トリステイン魔法衛士隊マンティコア隊隊長のカリン・デジレ・ド・マイヤールは、顔の下半分だけを覆う鉄の仮面の下の素顔を引きつらせた。馬車にマンティコアを寄せ、周囲に気付かれない程度の「サイレンス」を掛けた「彼」は、口調だけを「カリーヌ」に戻して、じろりと馬車の中にいる友人を睨みつける。

「何よ急に・・・私、何かした?」
「いえ、何も。正々堂々と『男装』しながら、わたくしをお守りしていただいているだけです」

これにはさすがの「鋼鉄の規律」をモットーとするカリーヌもカチンときた。不敬を承知で、馬車の窓を開き、直接マリアンヌのご尊顔めがけて、大人でも小便をちびるとされる、鋭い眼光を投げつける。当のマリアンヌはというと、カリーヌの事など目に入らないかのように、澄ました顔をしていた。

遠くから見ると、マンティコア隊隊長と、王女が密談しているように見えなくも無い。だが、多くのマンティコア隊士官は、我らが「烈風のカリン」と、王女との「関係」を知っているため、冷や汗を流しながら、訝しがる隊員達を下がらせた。

「姫様、またいつもの『ご病気』ですか?何、殿下が心中を悩まされることはありません。「初恋」とは麻疹のようなもの。誰もが一度は罹る病なのです」

マリアンヌの眉が動く。

「そうですわね。どこかの誰かさんが、見事な『男装』をしていただいたおかげで、私の初恋は台無しにされたのですけどね?」

なるほど、魔法衛士隊の制服を着て、マンティコアの刺繍入りの黒いマントを羽織り、隊長の証である羽飾りの付いた帽子をかぶった「彼」は、どこからどう見ても「男」である。
カリーヌは、とぼけた受け答えで、その矛先をかわそうとした。

「そんなこともありましたか」
「えぇ、見事な『男装』でしたわ、特に、胸とか胸とか胸とか」

カリーヌの乗るマンティコアが、おびえたような声を上げる。彼は、仲間のマンティコアに助けを求める視線を送ったが、一様に視線を逸らした。

「・・・私も成長しましたわ。昔の私ではありません」
「あら?そうでしたか。初めて王宮で出会ったとき、13歳の私に、すでに負けていたではありませんこと?」

マンティコア隊所属の、ド・セザール中尉は、そのとき確かに、空気が凍る音を聞いたと、後に語っている。

「今もさらしを巻いているということですけど、本当かしら?「貴方」なら、巻かなくても大丈夫じゃないですこと?」

ほほほと、口に手を当てながら笑うマリアンヌ。無論、目は笑っていない。



プチ



カリーヌの、何かが切れた。





『あなたってほんとうに、その詩集から抜け出してきたみたいに綺麗ね。驚いちゃう』

マリアンヌの顔が凍った。

明らかにカリーヌのものでもカリンのものでもない声色で、魔法衛士隊マンティコア隊隊長は『誰かさん』のモノマネを続ける。

『いいですこと?私の部屋に来ることは、誰にも内緒よ?な・い・しょ!』

何の感情も無い顔色で、やたらと可愛い声で話し続けるカリンは、はっきり言って不気味だ。

『すてき!カリン殿とおっしゃるのね!なんて美しい護衛士かしら!わたし、気に入ったわ!』
『ねーカリン!あれはなんという食べ物なの?とってもおいしそう!』
『カリン、この服私に似合うかしら?』

怒涛の如く繰り返される精神攻撃に、マリアンヌは手に持った杖をへし折らんばかりにまげながらも、なんとか笑顔を維持していた。


『わたくし、本当は あなたと二人きりで来たかったの』


プチ



王女も、何かが切れた。




「オカマ」

「ファザコン」

「まな板」

「脳内ピンク姫」

「男装の仮面変態」

「売れ残り」





(精神衛生上、かなりよろしくない言葉が含まれていたので、省略いたします)






***

「・・・お疲れのようですね?」
「えぇ、ちょっと・・・」

マリアンヌの憔悴した顔に、出迎えたモンモランシ伯爵やエギヨン内務卿らは、一様に驚いた。ただリッシュモン外務卿だけは、同じように疲れた雰囲気をまとうマンティコア隊隊長の様子に、何があったかを察した。リッシュモンの呆れた視線には気が付かないふりをして、応接間に通されたマリアンヌは、挨拶もそこそこに、条約交渉について尋ねた。

「交渉の進展具合はいかがです?」
「あまりよろしくないですな。全くの平行線です」

言葉とは裏腹に、焦った様子も見せない外務卿に、マリアンヌはどういうことかと説明を求める。

「昔から『慌てる何とやらはもらいが少ない』と申しましてな。足元を見られて買い叩かれるのがオチです。たとえどれだけこちらが困窮していようとも、表面上は霞ほどもそれを見せてはいけないのです」

老練な外交官の言葉に、マリアンヌは不安げな視線で返す。

「・・・私は、来ないほうが良かったですか?」
「ははは姫様はそのような心配をなさらなくてもいいのです」

笑いながら胸の前で手を振ったリッシュモンだが、王女の言葉を否定はしなかった。


リッシュモンから言わせれば、エスターシュもフィリップ3世も、まだまだ青いといわざるを得ない。彼は今回の親善訪問団派遣は、あきらかにトリステインの「焦り」を表すもの以外の、何物でもなかった。ガリアはそれを見透かしており、訪問団派遣が発表されてから、態度が一段と硬化した。(余計なことを)と舌打ちをしたくなるが、目の前の王女にそれを言っても仕方がない。それよりもリッシュモンには、すぐに自分の立場を理解したマリアンヌの方が驚きだった。

「何、マリアンヌ様が来られようと来られまいと、わが国に余裕も猶予もないこてとは、周知の事実ですからな。交渉には大した影響はありません」
「・・・そうですか」

仮にも王女に対して(いてもいなくてもいい)とは、リッシュモンもよく言ったものだ。だが、彼は彼なりに、この王女を気遣っていた。下手な慰めは、かえって、この聡明な王女を傷つけると考えたからだ。それに、どうやら事実を事実として受け入れるだけの理解力はあるようだ。心配はいるまい。

そしてリッシュモンが考えたように、マリアンヌはいつまでもぐずぐず落ち込んでいるような「お姫様」ではなかった。

「わかりましたリッシュモン卿。もとより交渉に口出しするつもりはありません。思う通りにやってください。私も、踊れと言うなら、誰とでも踊りましょう。笑えというなら、笑いましょう・・・それが、トリステインのためならば」

毅然とした態度で決意を表明された次期王位継承者に、リッシュモンは何も言わず、頭を下げた。

***

た、確かに、何でもやるって言ったけどね

「だ、だらしないわよ、カリーヌ・・・」
「椅子に座り込んでいる貴女に、言われたくないわ・・・」

ガリア全権使節団の表敬を皮切りに、ロマリア・ハノーヴァー・ザクセンetc・・・と、数知れない訪問客の相手をした王女と、その横に突っ立っていたカリーヌは、屋敷に到着するまで、延々と「暴言のキャッチボール」を繰り返していた精神的疲れもあって、完全にグロッキーだった。マリアンヌは椅子に、もたれかかるように座り込んでいる。カリーヌに至っては、部屋の床に寝転がって、うめき声を上げていた。

そのカリーヌだが、今は魔法衛士隊の制服ではなく、女官の服を着ていた。さらしを取った胸はなかなかのもの・・・げふんがふん。誰もが振り返る、彫像のような顔立ちに、ピンクブロンドの髪が実によく映える。仕えるべき主人の前で、あおむけに寝転がっているという無作法極まりない態度であるのに、それが一向に、彼女の気品も美しさも損ねないのは、不思議としか言いようがない。


カリーヌには2つの顔がある。魔法衛士隊の一つ、マンティコア隊隊長としての顔と、マリアンヌ王女付女官長カリーヌ・デジレ・ド・マイヤールの顔だ。

騎士になるという夢を実現するため、性別を偽って魔法衛士隊に入隊した彼女は、語りつくせない冒険を経て、マンティコア隊長にまで上り詰めた。だが、成長期の彼女が性別を隠し続けることは困難であった。


最初に、彼女の性別に気がついたのはマリアンヌだった。


彼女とカリン(カリーヌ)の関係は、最初は「王女」と「護衛士」の関係から始まった。あえて男っぽく振舞おうとするカリンに、すっかり参ってしまったマリアンヌは、知らぬこととはいえ、女に恋してしまったのである。

トリステイン王家の紋章が百合だという事とは、当たり前だが、何の関係も無い。


しかし、いつまでも隠しとおせるわけもなく。

『か、カリン・・・女だったの!?』
『ひ、姫様、これは、その・・・』

初恋が、これ以上無いほど綺麗に、そして無残に砕け散ったマリアンヌは、その衝撃で、とんでもないことを口にした。

『う、うそよ!こんな胸の薄い女の子なんかいないわ!』

「第1次ウェリントンの肉弾戦」は、こうして幕を切った。

二人の本当の関係は、この時始まったといっていい。殴り合いの喧嘩を経て、いまさら隠すこともなくなった二人は、気のおけない友となり、親友となるには、時間は掛からなかった。その後もなんだかんだで、いろんな人物に性別がばれていったのだが、表向きのこともあり、性別は秘密とされた。だが、同時に問題も出てきた。カリンは、いまさら王宮で隠すこともないと「カリーヌ」としてマリアンヌと付き合うようになったのだが、貧乏貴族のマイヤール子爵家の令嬢が王宮をうろつくことはあまりに不自然だった。

そのため、マリアンヌ王女の個人秘書官である女官長に据えることで「カリーヌ・デジレ・ド・マイヤール」は、初めて王宮内での公式な立場を得ることができた。ピンクブロンドの髪の持ち主はそう多くはない。勘のいいものは、薄々「烈風カリン」の正体に気が付いていたが、命が惜しいため、自然と口を閉じた。


「それにしても・・・」

床に寝転がるカリーヌを見ながら、マリアンヌが口を開いた。

「ハノーヴァーは、よく顔を出せたものね」


ハノーヴァー王国。トリステインの東に国境を接し、旧東フランク領の諸国家の中でも、バイエルンと並んで長い歴史を持つこの国は、トリステインと長きに渡り、同盟関係を結んできた。旧東フランク地域への進出を図るトリステインと、ザクセンとの対抗上、トリステインの軍事力を借りたいハノーヴァーの思惑が一致したのだ。

それが、ラグドリアン戦争では、トリステインの度重なる援軍要請に関して、ハノーヴァーは一兵も出さなかった。それどころか、クリスチャン12世以下の王政府は、ガリアの恐喝に屈して、トリステインとの国境を閉鎖して物資を断った。ハノーヴァーからすれば、大国ガリアとの戦に勝ち目がないと踏んだうえでの判断であったが、ロペスピエール3世の死により、完全に目算が狂った。ハノーヴァーとトリステインとの関係は完全に冷え込んだ。一応、軍事同盟は継続していたが、完全に形骸化しており、ブレーメン(ハノーヴァー王国王都)は、ザクセンの脅威に、再び怯えることになったのだ。

あわててハノーヴァーはトリステインとの関係修復に躍起となったが、「何をいまさら」とトリスタニアの反応は冷たく、リッシュモンですら「どうしようもない」と匙を投げている。

「ハノーヴァー」の名前が出た瞬間、カリーヌの表情が険しくなったのは、そうした経緯がある。この日和見国家への嫌悪感は、カリーヌだけではなく、セダン会戦に参加したトリステイン将兵に共通した思いであった。

「貴族の風上にも置けない腰ぬけどもに頼ったのが間違いだったのよ。自分を守れるのは自分だけ。いい機会じゃない。あの国の本性がわかったんだから」
「カリーヌの言う事はわかるんだけどね・・・」

マリアンヌはため息をつく。ガリアと敵対し、ゲルマニアが離反した今、国境を接するハノーヴァーとの関係悪化は、トリステインとしては(感情としてはともかく)避けるべき事態だった。現在のところ、トリステインの味方になりそうなのは、空中国家のアルビオンしかない。確かに、空軍力は大したものだが、陸軍はお粗末極まりない。下手すると、トリステイン一国で、ガリア・ゲルマニア・ハノーヴァーを相手にする事態に陥りかねない。ガリアとは講和条約会議にまで持ち込んだとはいえ、いまだ情勢は不透明。

せっかく向こう(ハノーヴァー)から頭を下げてきているのだ。断る手はない。

だが、先のハノーヴァーの日和見への反発が、トリステイン国内では思った以上に激しいのだ。ガリアは正々堂々と戦ったからまだいい。ゲルマニアにしても、あの総督家がいつかは独立するだろうと思っていたから、まだ心の準備はできた。だがハノーヴァーは違う。2000年以上同盟国としてあり、トリステインの軍事的援助を受けておきながら、突如裏切った「恩知らず」。怒りを通り越して、軽蔑の感情も湧かないというトリステインの冷めた態度に、ハノーヴァーの使節団は一様に青ざめているという。

マリアンヌは、先ほどあいさつに訪れた、ハノーヴァー王国外務大臣のハッランド侯爵の、なんとも形容しがたい気まずそうな顔を思い浮かべながら、半ば同情も含めて言う。

「どんな味方でも、敵よりはましよ。邪魔しないでくれるならね」
「そうかしら?足を引っ張られるのがおちだと思うけど・・・」

その時、戸をノックして、モンモランシ伯爵が入室した。

「失礼いたします。晩餐会の支度がととのいました」

「ありがとう。すぐ行きます・・・まったく、落ち着く暇もないわね」
「『働かざるもの食うべからず』よ」

皮肉で返すカリーヌ。まだ根に持っているようだ。だが、今回はマリアンヌのほうが上手だった。


「今回は食事も仕事のうちよ」
「・・・口の減らない王女さまね」
「それよりカリーヌ。同席するのは?」

手帳をめくるカリーヌ。最初は「柄ではない」と嫌がった事務仕事も、板についてきた。

「アルビオン王国使節団です。カンバーランド公爵のヘンリー殿下とキャサリン公女が同席される予定で・・・」
「・・・どうかしましたか、モンモランシ卿?」

突然、異様なオーラを発し始めたモンモランシ伯爵に、驚きを隠せないマリアンヌ。カリーヌに至っては、杖に手を伸ばして警戒した。


だか、水の精霊の交渉役である彼の答えは、二人の予想のはるか斜め上を行くものであった。


「・・・人生の不条理を実感しておりまして」


何かを押し殺すように、低い声で呟くモンモランシ伯爵に、王女と女官長の頭上に、果てしなく「?」が浮かんだ。



[17077] 第27話「交差する夕食会」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:b679932f
Date: 2010/08/06 18:53
人は見た目が大事だというが、9割だと見も蓋もない。

「15からは自分の顔に責任を持て」という言葉がある。14とも、20からとも言うらしいが、ともかくある一定の年齢に達すれば、そこから先は自分の生き方が顔に出るという。真面目な人間は真面目な顔に、卑怯者は卑怯者の顔に、胆力のあるものは腹の据わった顔に。

初対面の人物に、第一印象で抱くイメージというのは、よほどの観察力の持ち主でない限り、容易に覆る。だが、「生理的に合うか合わないか」という点に関しては、外れない場合が多い。

一説によると、人は初対面の人間に二分で飽きるらしい。逆説的に言えば、最初の二分は、集中して相手を観察しているということ。好きか嫌いか、得か損か-突き詰めれば「敵か味方か」なのだが、それを見分けるために、五感を総動員して、相手を観察する。

カリーヌ・デジレ・ド・マイヤールが、アルビオン王弟ヘンリーに抱いた第一印象は、少なくとも、悪いものではなかった。

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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(交差する夕食会)

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夕食会は、マリアンヌ王女が、ヘンリー夫妻を招待するという形式で行われた。主賓はもちろんヘンリーと、その妻キャサリン。ヘンリーと向かい合うようにマリアンヌが位置し、その横に同席を許されたカリーヌ。そして当然のごとくリッシュモンが腰掛けている。リッシュモンとは会議冒頭から何度も顔をあわせているので、すでに顔なじみといっていい。ヘンリーはマリアンヌに手を伸ばして握手を求めた。

「お久しぶりですね。マリアンヌ妃殿下。ヨハネス19世の即位式以来ですか」
「えぇ、6年ぶりです。ヘンリー殿下もお元気そうで」

ヘンリーとマリアンヌは、以前一度だけ対面したことがある。ロマリア教皇の即位式は、ハルケギニアの各王族がそろって参加する。教皇に敬意を表する・・・というのは建前で、王族の顔合わせや、首脳間外交の場として利用されていた(当のロマリアも、新教徒の勃興で衰えつつある教会の権威や影響力を誇示するために、むしろそれを推進している面もある)。当然、ヘンリーとマリアンヌも参加していたのだが、顔合わせをする人物が多く、時間も限られていたため、挨拶をした程度にとどまっていた。そのため、今回の夕食会が、初めての会談といっていい。

「ははは、元気だけが取り柄です・・・それではさっそくですが」
「えぇ、交渉の進展についてはリッシュモンから「何を食べさせていただけるのですかな?」・・・は?」

何かの冗談かと思って見返したが、ヘンリー殿下は、いたって真面目な顔をしていた(目だけは期待に輝いていたが)。ふと、目線を横にやると、キャサリン公女も同じような目をしている。

マリアンヌはその目の輝きに覚えがあった。自分の使い魔の犬が、おやつをおねだりする時の目と同じなのだ。見えないはずの尻尾が、パタパタと触れているのが見える気がする

まぁ、すぐその理由に思い至ったわけだが。

(((・・・あぁ、そうか。この人たちはアルビオン人だったんだ)))

マリアンヌは、あいまいな笑みを浮かべながら、鈴を鳴らして、料理を持ってくるように命じた。




食事というのは、一種の「物差し」である。毎日必ず、最低でも一回は行う動作には、知らず知らずのうちに癖がついているものだ。それを利用して、まず初対面の人物に食事を供応して、相手の器量を測るということは、昔から行われてきた。貴族が魔法を使う以上にあたりまえのことだから、食事を綺麗に食べることが出来ない人物は、軽くあつかわれる。

悲しいかな、典型的な貧乏貴族に育ったカリーヌは、食べれる時に食べるという習慣が、未だに抜けないでいる。「ご飯は美味しく、楽しく食べるもの」という家に育った彼女にとって、いちいち口をぬぐってワインを飲むだの、フォークの上げ下げの角度などは「どうでもいいじゃん!」。そんな彼女も、ピエールに「人に不快な思いをさせないのがマナー」といわれると、反論できなかった。(マナーの由来を延々と語られるのにつき合わされるのが嫌だったということもあるが)

だが、解ったこともある。マリアンヌにお相伴して、多くの貴族と食事を共にしたが、名門といわれる貴族であっても、食べ方が汚い人物は多かった。マナーとやらは完璧だが、何故か嫌な感じを人に与える人物は、いけ好かない根性の持ち主であることが多い。

その点、ピエールは(以下ノロケのため省略)


ヘンリー殿下の食事風景は、こういう表現が妥当かどうかはわからないが「気持ちがいい食べっぷり」である。マナーは完璧だが、それ以上に「おいしそう」なのだ。マリアンヌ王女と会話を交わしながらも、その手が止まることはない。そして口に入れた途端、この世の全ての喜びの感情を凝縮されたような笑顔を浮かべられる。見ているこちらもなんだか嬉しくなる。

「うん・・・おいしい。おいしい・・・おいしい」

アルビオンへ訪問経験のあるリッシュモンは、ヘンリーの「おいしい」に、涙を誘われた。


色々と思うところもあるマリアンヌだが、すぐに自分の立場を思い出して、同盟国への、感謝の言葉を口にした。

「アルビオンには、先の停戦合意の仲介交渉でも、また今回の会議開催にもご尽力頂きました。トリステインを代表してお礼申し上げます」
「同盟国として当然のことをしたまでです」

そのつもりがあるのかどうかは解らないが、リッシュモンには、ヘンリーの言葉が、ガリアの軍事力に怯えて、日和見を決め込んだハノーヴァー王国への皮肉に聞こえた。

「ですがまだお礼を言われる段階ではありません。何より、会議の先行き自体が不透明ですからね」

口をぬぐい、リッシュモンに視線を向ける。

「所詮我らは仲介者にすぎません。入ってくる情報も限られます・・・聞くところによると、交渉は平行線との事。エルコール・コンサルヴィ枢機卿は決裂もありうると憂いておられました」
「坊主は悩むのが仕事ですからな。神から与えられた試練を乗り越えてこそ、真の信仰が得られるといいます」

人を食ったような外務卿の言葉に、ヘンリーは苦笑するしかない。

カリーヌはそんなリッシュモンを苦々しく思っていた。生理的に、こういうもったいぶった言い回しが苦手なのだ。頭をかきむしりたくなる思いをこらえながら、平気な顔をして聞いているヘンリーや、次第にそうしたやり取りに慣れていくマリアンヌを見ていると、やはり王族というのは、自分達とは違う世界の生き物だという思いを禁じ得ない。

「神ではなく、人の起こした不始末の尻拭いだと思うのですが?」
「見解の相違はよくあることです。我らにとって『太陽王』は天災以外の何物でもありません」

ヘンリーは、今度は笑わなかった。


これで、口の横にソースがついていなければ完璧だったのだが・・・


「正直なところ、どうなのですか?交渉の当事者として、率直な感触をお聞きし・・・な、なんだキャサリン?」
「・・・ついてるわよ」

キャサリンにソースを拭いてもらうヘンリー。威厳も何もあったものではない。言葉に表現できない、むず痒い空気が漂う中、そうしたことにトンと縁のないマリアンヌは、内心(いいなぁ)と羨望の眼差しを送っていたが、リッシュモンの咳払いに、慌てて居住まいを正す。

「このまま行けば、決裂は間違いありませんな」

かすかに残っていた妙な空気は、その一言で吹き飛んだ。


***

講和会議は、トリステインとガリア双方の提示した条約案の突合せから始まった。仲介交渉にあたったロマリアやアルビオンは「国内の意思統一にさえ手間取った両国が、果たしてまともな条約案が出せるのか?」と、心配していたが、トリステインの条約案を見て安心し、ガリアの条約案を見て、頭を抱えた。


トリステイン案(リッシュモン案)は、5つのポイントから成り立っていた。

①国交の回復と同時に、国境線を開戦前の実効支配地によって決定する。
②開戦前に結んでいた通商条約を再度締結(通商の再開)
③謝罪を要求するが、賠償は要求しない。
④両国共に軍備制限は設けない。
⑤両国の緩衝地帯として、クルデンホルフ大公家を「大公国」として独立させる。

③の謝罪は、賠償を要求しない点で、真剣に求めていないことは明らかである。本気で謝罪を求めるつもりなら、賠償を盛り込んで、条件闘争を行うはずだ。国境線の決定の仕方にしても、通商の再開にしても「完全な被害国」と言っていいトリステインが出した条約案とは思えないほど、現実に即した解決策であり、このまま成案としてもおかしくないほどの完成度であった。

当然、トリステイン国内では、セダン会戦で戦死者を出した貴族や兵士の遺族、家や財産を失った平民を中心に「ガリアに対して譲歩し過ぎだ」という反発も出たが、大方はこれを「仕方なし」と、半ば諦めながら受け入れていた。無論、心から得心して受け入れたわけではない。だが、大国意識の塊であるガリアに対して、謝罪と賠償を求め続ける無意味さは、長年隣国として付き合わざるを得なかったトリステインは、よくわかっていた。むしろ、さっさと講和を結んで通商を再開したいという、実利的な考えが、1年という冷却期間を経てこの国を諦めという感情に落ち着かせたのだ。

それに引き換え、ガリアの条約案は「講和を結ぶ考えがないのではないか」と、温厚な性格で知られるロマリアのエルコール・コンサルヴィ枢機卿が、色を成して、ガリアのポンポンヌ外務卿に食いかかったというぐらいであるから、相当なものであった。


①開戦前に結んでいた通商条約の再度締結(通商の再開)
②トリステインの謝罪と賠償
③ラグドリアン湖畔を初めとした領土の割譲
④トリステインの軍備制限(国境より10リーグの城と要塞の破却など)

さすがのリッシュモンも、しばらく何もいえなかったという。②は、殴っておいて「手が痛いじゃないか」と言いがかりをつけているに等しい。最初に最大限の要求を提示して、条件闘争を行うのが外交交渉の定石とはいえ、いくらなんでもこれは・・・と、会議に参加した各国は眉を顰め、トリステインは激怒した。これではどちらが最初に殴ったのかわからない。


これはひとえに、ガリア側の事情に原因があった。先々代の国王シャルル11世から始まった中央集権化は、先代のロペスピエール3世の治世下の下で、国王個人への権限集中化という形をとって現れた。それに反対する、又は異議を唱えた大公家や大貴族は、理由をつけて改易、または領地を削減されて、牙を抜かれた。だが、そのロペスピエール3世が突如崩御すると、中枢部に権力の空白が生まれた。独裁者の死後、主導権を握るために、暗闘が始まるのは、歴史が証明している。むしろロペスピエール3世という強烈な個性(キャラクター)に依存していた面の大きいガリアの中央集権化が、その死を境にして揺らぎだしたのは、当然ともいえた。

現国王のシャルル12世は45歳と働き盛りだが、その基盤は余りにも貧弱である。太陽王は死の当日まで権力を手放さず、30年にも及んだ王太子時代、国政には殆ど干渉を許されず、グラン・トロワでくすぶっていたためだ。突然国王となったシャルルは、リュテイスで孤立していた。だが、官僚機構も、軍部も、封臣議会も、ましてやパンネヴィル宰相を筆頭とする行政府も、手をこまねいているという点では同じである。新国王の統治の方針や考え方が解らない段階で、また次にヴェルサイテルの主導権を握る人物や勢力がはっきりしない中で、政治的アクションを起こす事は、リスクが高すぎる。誰だってモルモットにはなりたくないのだ。

各勢力が、互いに牽制しあいながらの暗闘が続く中、政治的緊張の原因となったのは、新国王の「側近集団」を自称する勢力であった。官僚集団や行政府との接触が許されなかった王太子時代のシャルルの下には、ロペスピエール3世に不満を持つもの、または排斥された外戚や大公家などが集まり、自然と側近集団を成した。(こうした行為が、父王の怒りを誘い、国政から遠ざけられる一因となったのだが、シャルルからすれば「じゃあ、他に誰と話せというのだ」と反発。それがまた父王の怒りをかうという、悪循環に陥った)

即位後のシャルルは、王太子時代の側近を遠ざけた。国王の中央集権体制を望まない彼らを側におく危険性に、今更ながら気がついたのだ。だが、他に頼れるものも知るものもいないシャルルは、一部の侍従や側近を、彼らに頼らざるを得なかった。彼らの登用は、必然的にパンネヴィル宰相を初めとする行政府や官僚機構を刺激した。

そうした中で、当面の政治課題となったトリステインの講和は、当然のごとく各勢力の意見主張が入り乱れた。

ガリアは、巨大な戦艦が、急に方向転換が出来ないように、突発的事態に関しての反応が遅れがちであった。ハルケギニア一の人口と領土が、かえって自分の首を絞めていたのだ。先々代のシャルル11世の時代から始まった中央集権化は、そうした意思決定の遅れを、国王への権限集中で解決しようとしたものである。だが、今の国王シャルル12世の権力基盤が定まっていない状況では、中途半端な中央集権化が、誰も責任を取らないという政治的無責任を許すことになり、以前にもまして、意思決定が混乱した。百家争鳴、それぞれが、それぞれの立場で言いたい事を言い合う状況では、まとまるはずがなかった。


駐ガリア大使からの情報を元に、ガリア側の事情を(ヘンリーというより、マリアンヌに解説するような調子であったが)説明し終えたリッシュモンは、関心するように言う。

「そうした状況下で、国内を、一応は『講和』で一本化したのですからな。シャルル陛下は、なかなかの手腕の持ち主のようです」

自分の父ではなく、相手を褒めるような外務卿に、内心、面白くないマリアンヌが異議を挟んだ。

「ですが、あの内容では、本当に講和を望んでおられるのかどうか。まるでわが国をわざと怒らせて、会議がつぶれるのを望んでおられるような条文ではありませんか?」
「おそれながらマリアンヌ様、それは違います」

外務卿の言葉の意味がわからず、首をかしげるマリアンヌ。

「・・・どういうことです?」
「表に出ていることは単純のようで、単純ではないのです。ガリアの条案だけをみれば、一見強硬論に見えます。しかし、物事とは『何を言ったか』ではなく『何をしようとしているのか』が大事なのです。言葉や言動ではなく、相手の意図-真意を汲み取ることが」

急に説教臭い調子になった老臣に、何も今、ヘンリー殿下の目の前で言わなくてもという感情的反発を覚えたマリアンヌだが、この老人の言いたいことぐらいは解かる。だが彼女がそれを言う前に、鴨のステーキを口に運んでいるヘンリーが答えた。

「考えうるだけの強硬論を、シャルル陛下自らが唱えることにより、国内の講和反対派の声を掻き消してしまおうというわけですか」
「いかにも。そしてこれはシャルル陛下の真意が『講和』にあるという事の、何よりもの証明になります」
「最初から講和を結ぶつもりでなければ、そのような政治的行動を起こす必要もありませんからね。このままずるずると、現状を追認すればいいわけですから。もっとも、それは貴国にとって、望ましいことではないでしょうが」

ヘンリーの言葉に頷くリッシュモン。そんな老臣の態度がますますマリアンヌの感情を逆なでする。自分を子ども扱いする老臣も、先を越された形のヘンリーも見る事が出来ないでいると、ふと、自分に向けられている視線に気が付いた。


(キャサリン公女?)

他ならぬ主賓のヘンリー王子夫人であるキャサリン公女が、自分に露骨な視線を向けていることに、マリアンヌは戸惑った。観察するとか、そういったレベルのものではない。それこそ、全身をなめるように、こちらをじっとりと見据えている。一度意識すると、気が付かないことができるほど、柔な視線ではなかった。

蛇が獲物を見据えるように、狼が、群れからはぐれる羊を見定めるように、一種の殺気すら感じさせるような眼差しを向けられる覚えのないマリアンヌは、ただただ困惑するしかない。

だからといって、自分から視線をそらすのは、なにかこう、女として負けた気がする(何の勝ち負けかはわからないが)。マリアンヌは失礼にならない程度に、微笑みながら視線を返す。

すると、キャサリン公女は、スッと視線をそらした。

(勝った)



「・・ンヌ様?マリアンヌ様?」
「は、はい?!」

勝利の余韻に浸りながら心の中でガッツポーズをしていたため、急に話を振られたマリアンヌは素っ頓狂な声を出してしまった。

「大丈夫ですか?」
「い、いえ、なんでもないです。大丈夫です、ヘンリー殿下」
「ならいいのですが・・・」

怪訝な顔をするヘンリーに、慌てながら言い訳をする王女。これが「あなたの嫁さんのせいよ!」と言えたらとも考えるが、妙な対抗意識を燃やした自分にも責任があるため、マリアンヌは、その愉快なアイデアを没にするしかなかった。

特に気に留めることでもなかったのか、ヘンリーはすぐに話題を戻す。

「完全決裂ということはないだろうと私も見ています。クルデンホルフ条項-大公家の独立は、ガリアにとっても望ましいでしょうから」
「・・・耳がお早いですな」
「蛇の道は蛇ですよ」

シュバルト商会の事は伏せながら、独自の諜報組織があるかのように臭わせるヘンリー。同盟国といえども、すべてを明らかにする必要はない。


ロペスピエール3世崩御後、ガリアが停戦に応じた背景に、トリステインに属するクルデンホルフ大公家が、領内の金融業者を通じて、停戦に応じるようプレッシャーをかけていた事は、市場では周知の事実であった。クルデンホルフ大公領に本店を持つ金融業者は、その匿名性と堅実な融資姿勢から「クルデンホルフ銀行」と信頼性が高く、商会だけではなく、王侯貴族も密かにリュクサンブールに足を運んでいた。その中には当然、ガリアの貴族も含まれている。領地経営に行き詰った貴族達は領地や年貢を担保に、当座の運転資金を借りて、なんとか破産を免れていた。金融機関からの融資が、生命線となっていた彼らにとって、大公家からの圧力は、封建貴族の頂点であるはずの「太陽王」よりも恐ろしかったのだ。

ガリアにとって、クルデンホルフ大公家が、このままトリステインに属するより、名目上でも独立させたほうがいいに決まっている。問題はトリステインだ。なぜ貴重な外交カードである「クルデンホルフ大公」を、何故切り離すような条項を入れたのか?

「本当ならば、手放したくはないのですが・・・」

そう言うマリアンヌの眉間に皴が寄っている。自分たちの力ではなく、金融業者の圧力によって停戦が成立したということは、この古い王国の王族たる彼女の自尊心をいたく傷つけたことは、想像に難くない。

「ハインリヒ大公を見ていると、さすがに旧東フランク領で生き残ってきた家系の御当主だという思いに駆られます。古のザクセン「豪胆王」オットー1世や、ハノーヴァーのグスタフ2世も、あのような人物だったのでしょうね」

昨日、夕食会で顔を合わせたハインリヒ・ゲルリッツ・フォン・クルデンホルフ大公の、物静かな顔を思い浮かべるヘンリー。鼻眼鏡をかけて書類に目を通す姿は、哲学者か聖職者を思わせる白髪の紳士が、「金を信仰している」と陰口をたたかれる人物と、同一人物だとは、どうしても思えない。だが、実際に、この初老の大公が、ガリアとトリステインが疲弊したラグドリアン戦争の中、ただ一人だけ利益を-長年の悲願である独立を果たそうとしているのは、紛れもない事実であった。

ワインを忙しなく口に運ぶヘンリーの言葉には答えず、リッシュモンが口を開く。

「いつ戦場になるかわからないところでは、安心して商売ができませんからな。特に政治リスクの高い王侯貴族への貸し出しを行っている『クルデンホルフ銀行』としては、リュクサンブールがいつ戦場になるかわからないという地政学的リスクまで抱え込んでは、金貸し共も、おちおち寝てもいられないでしょう」

いつも感情を交えることのない老外務卿の言葉尻に、やりきれない思いが混じっていた。

「あの大公家は最初からそれを考えていたのでしょうかな?リュクサンブールに金貸し共を呼び込んで、誰も手出しができないような状況を作り上げる-まったく、とんでもない大公様です」

カリーヌは、初めてリッシュモンの意見に同意した。あのセダン会戦を経験したものにとって、クルデンホルフ大公家だけが利益を得る現状は、とてもではないが納得の出来るものではなかった。(祖国の地と犠牲の上に、自分たちだけが・・・)言葉には出さなくとも、それが、多くのトリステイン貴族の共通した考えであった。

「国境に『大公家』という緩衝地帯が出来る事は、わが国にとって、悪い話では・・・むしろ、いい話なのは間違いありません。ですが・・・」

言葉を濁すリッシュモン。

ヘンリーはデザートのチーズケーキを頬張りながら唸った。

「『太陽王』様々ですか・・・やり切れませんな」


ブルーベリーソースを下あごにつけたその姿に、威厳などあるはずもなかった事は、言うまでもない。



[17077] 第28話「宴の後に」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:b679932f
Date: 2010/08/06 18:53
「ねぇ、カリーヌ」
「何?私、こう見えて忙しいんだけど」

女官長の不満はいつもの如く無視して、マリアンヌは尋ねる。

「あの人、私を見ていたわよね」
「えぇ、見ていたわね」

「見ていた」「あの人」とは、先ほどまで夕食を共にしていた、アルビオン王弟ヘンリー王子夫人のキャサリン公女のこと。職業柄(?)マリアンヌは、見られることには慣れている。キャサリン公女のものは・・・そう、貴族達が、自分に向ける視線に似ていた。

しかし、何かが決定的に違う。

それが何かがわからない。貴族達が自分を観察するのは、結局は彼らの利益や出世に結びつけるため。当たり前だが、キャサリン公女は、そんな事をする必要はない。ならば、彼女の個人的興味ということになる。公女とは、初対面のはず。近い縁戚関係というわけでもなく、ましてや国も違う公女が、何故自分に興味を持つのか?あの視線に「敵意」が含まれていたかどうか、魔法衛士隊で一隊を率いる友人の意見を聞いてみたくなったのだ。マリアンヌですら気が付いた視線に「烈風のカリン」が、何も感じなかったわけがない。

紐で縛っていたピンクブロンドの髪を解きながら、カリーヌがひやかすように答える。髪を解く仕草が妙に色っぽい。

「何か恨まれる様なことをしたんじゃないの?王女様ともなれば、色んな所で妬み嫉みの種を撒き散らしてるでしょうから・・・特に貴女だと」
「何よそれ」

こちらは真剣に相談しているのにと、頬を膨らませるマリアンヌ。とても21の女性の態度とは思えないが・・・これはこれでいいものだ。冗談よとひらひらと手を振りながら、カリーヌは言う。

「ともかく、気にしてもしょうがないんじゃない?『なんでこっちを見てたんですか』なんて、本人に聞くわけにもいかないし。気に悩むだけ無駄よ、無駄」
「そうかしら・・・」
「そうよ。ただでさえ貴女は、色々と一人で抱え込んじゃうタイプなんだから。余り抱え込みすぎると潰れちゃうからね。いらない荷物は横に置いておこうよ」

荷物を横に置くジェスチャーをするカリーヌ。口調こそおどけたものだが、目は真剣そのもの。女官長でもマンティコア隊隊長でもなく、一人の友人として心配してくれる彼女に、マリアンヌは「ありがとう」と、一言だけ返した。


(だけど、気になるのよね)

「あの人」の、---な目が


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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(宴の後に)

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こちらも用意された部屋に帰ったヘンリーは、入るや否や、勢いよくベットに飛び乗った。

「あ~終わった、終わった!」
「今日の予定が、でしょ」
「水を差すような事をいってくれるなキャサリンよ。人間は今日一日を精一杯生きれればいいんだよ」

「いい事いうなぁ」と、自分の言葉にうんうんとうなずくヘンリー。仰向けに寝転がりながら「うい~」と呟き、腹をさするその姿は、オッサンそのものである。ステテコと腹巻が似合いそうだ。(何で私、これを選んだんだろう)と、割と真剣に悩み始めたキャサリンに向かって、オヤジと化したヘンリーが、ようやく今日の予定を消化し終えたという解放感から、のん気な事を口にする。


「それにしても、マリアンヌ王女は」

キャサリンの眉がかすかに動く

「可愛かっ(ブオンッ!!)・・・って、うおわぁ!!」

忍者のような身のこなしで飛びのいたヘンリー。それまで彼がが寝そべっていた場所には、石製の灰皿が転がっていた。有に5キロはあるそれを、片手で投げつけたキャサリンの腕力に震えながら、ヘンリーは食い掛かった。

「な、何をするんだ、お前は!」
「あら御免なさい。手が滑って」

ほほほと笑うキャサリンだが、目が当然の如く笑っていない。さすがのニブチン大魔王のヘンリーも、これはヤバイと気が付いた。以前・・・というか、前世の学生時代、こいつがこの目をしたときは、4人のチンピラが宙を舞った。

「い、いやね!無論、君のほうが可愛いよ?!」

泡を食って、水の精霊の交渉役である某伯爵もびっくりな、ご機嫌取りを始めるヘンリー。彼の辞書の「威厳」という文字は、黒の油性マーカーでぐりぐりと、ご丁寧にページの裏面まで塗りつぶされていた。

「でも、ほら!・・・何ていうの?可愛さの種類が違う?・・・そう、そう!違うんだ!君は彫刻の様な美しさで、マリアンヌ王女は野に咲く・・・」

自分の亭主を、冷たい目で見下ろしていたキャサリンだが、しばらくすると、諦めたように息を吐いた。

(何で私が怒っているかなんて、わかっていないんでしょうね)

そうでなければ、自分のご機嫌取りの最中に、王女の名前を出すわけがない。おまけに自分と彼女を同列にして褒め称えるなんてことを・・・いつもの事とはいえ、彼の鈍感さには、怒りを通り越して呆れるしかない。


・・・まぁ、敏感すぎても困るんだけどね。そうなると私が逆に恥ずかしいし・・・


そして、彼女の目の前に正座しているニブチン大魔神は、案の定というべきか、ため息に続く沈黙を、自分に都合のいいように解釈した。


「わ、わかってくれたか!」


とりあえず殴ってやった。


***

「煙草はいいねぇ。リリンの生み出した・・・なんだっけ」
「煙草じゃなくて音楽」

キャサリンのツッコミにも堪えた様子も見せず、ヘンリーは、まぶたを青く腫らしながら、煙草をふかしていた。

前世では1日に3箱吸うヘビースモーカーだった彼は、この世界で煙草を見つけたときに、思わずほお擦りしたものだ。だが、自販機もタ○ポもないこの世界では、煙草は貴重品である。ブリミル教が禁煙を推奨していることもあり、表立って栽培する農家も少ない。そのため、王族といえども、何十本もバカスカと吸える代物ではない。(次は煙草の専売所をつくらせるか)と胸算用をはじいていると、耳の痛い言葉が投げかけられる。ヘンリーの趣味丸出しの行動を止める事が出来るのは、アルビオン広しといえども、今やこの人しかいない。

「血税を趣味に流用しちゃ駄目よ」
「そ、そん、なことするわけナイジャナイデスカー」

語尾がおかしいが、気にしてはいけない。気にしたら負けなのだ。あははと乾いた笑いを続ける夫とは対照的に、じっと何かを考えるように頬杖を付いていたキャサリンが、口を開いた。

「・・・マリアンヌ王女の横に座っていた女官長って」
「あぁ、間違いなく『烈風のカリン』だな。あんなド派手な髪色は、そうはない」

ヘンリーは、自信を持って言い切った。

日本のアニメは、髪の色がカラフルになる傾向があるらしい。「ゼロの使い魔」の世界に放り込まれたヘンリーが、密かに興味を持っていたのが、原作キャラクターのど派手な髪の色である。ガリア王族の蒼髪、キュルケを初めとしたゲルマニア人の赤髪、フーケの緑髪、そしてルイズのピンクブロンド。アニメだと違和感がないが、実際にはどんな色なのか?多少色が薄まっているのか、それとも、目にも鮮やかな原色なのか・・・

「・・・ピンクだったな」
「・・・えぇ。ピンク以外の何物でもないわね」

一言で言うと「ザ・ピンク」。どこかのきゃばくらの名前のようだ。大体、ブロンドって「金髪」ていう意味だろ?ピンクブロンドって、そんな生易しいものじゃねえぞ「アレ」は。気になっていたことがひとつ解決して、すっきりとした表情で、ヘンリー達は満足げにうなずいている。

やはり似たもの夫婦である。

「そういえば、貴方はガリア王と会った事があるんでしょう?」
「あぁ、シャルル陛下か。ラグドリアン戦争の仲介交渉でリュテイスを訪れたことがあるからな」
「・・・どうなの?」

その必要はないと思うのだが、声を潜めて聞く妻に、ヘンリーは首をかしげながら、顎に手をやった。

「・・・蒼だったな。蒼。ブルーといったほうがいいかもしれないが・・・」
「それじゃ解らないわよ。ほら、青空みたいな青とか、海の様な青とか」
「そういわれてもな。とにかく蒼だ。そうとしかいいようがない」

ヘンリーはシャルル12世の顔を思い出そうとして・・・諦めた。靄が掛かったように、顔がぼやける。それくらい、蒼髪の印象が強烈だったのだ。

「交渉の内容は覚えているんだがな」
「また自慢?」

「違う違う」と手を振るヘンリー。

「とにかく口が重いんだ。2、3喋ったと思うと、すぐに黙り込む。全部ひっくるめると5時間ぐらい会談したはずだけどな。シャルル陛下は、そうだな・・・30分も喋っていないと思うぞ」
「何よそれ。殆ど貴方が喋っていたって事?」
「喋らないからしょうがないだろうが」

今のリュテイスでのシャルル12世の立場は、非常に脆弱なものである。30年にも及ぶ王太子時代、国政への関与を許されなかったシャルルは、国内の各勢力に、自分の勢力を築く事が出来なかった。国内での基盤が弱いとはいえ、最高権力者の意向は、国政に与える影響は大きい。最終的には「陛下のご意向である」として押し切ることが可能だからだ。だからといって、毎日毎日「ご意向」とやらを振り回していては、伝家の宝刀が竹光になってしまう。

「おそらくシャルル陛下は、意図的に口数を減らしているんだろう。日頃から口数を少なくしておけば、いざと言うときの重みも増すからな」
「・・・貴方とは正反対ね」
「ほっとけ!」

人それぞれにやり方と言うものがある。どの方法を選ぶかは、結局はその人の性格だろう。ヘンリーが急に無口になったところで「変なものでも食べたか」といわれるのがオチだ。つき合わされるこっちはたまったもんじゃないんだぞと愚痴るヘンリー。よほどシャルルの口をこじ開けるのに苦労させられたようだ。ほうって置くと、延々と不満を言い続けそうな夫に、キャサリンは、気になっていたことをたずねた。

「ねぇ、今って、原作が始まる30年前なのよね」

「・・・逆算すればそうなるな。今がブリミル暦6213年。タバサが産まれたのが6227年で、魔法学校は15歳で入学だろ?2年の時に召喚試験があるから、6227+16で『ともかく30年前なんでしょ!』・・・です」

せっかくいいところ見せようとしたのにといじけるヘンリー。机に「の」の字を書く彼を無視して、キャサリンが続ける。

「ジョセフとオルレアン大公シャルルの兄弟って・・・」
「その2人かどうかはわからないが、シャルル陛下には2人の王子がいる。王太子のジョセフと、シャルル王子だ」

その言葉に顔をこわばらせるキャサリンに、ヘンリーも、渋い顔をしながら頷いた。何せ、原作では、影で暗躍しまくった「無能王」の兄と、にこやかな顔をして、裏では手段を選ばずに王位を狙った弟という、とんでもない兄弟なのだ。

「ジョセフ王太子は15歳。シャルル王子は10歳だそうだ・・・まぁ、普通に考えれば、この二人がそうなんだろうな」

肩をすくめるヘンリー。

「何か打つ手は・・・ないか」
「あぁ。仮にも次のガリア国王だかなら」

キャサリンの黒い提案を即座に否定するヘンリー。相手はハルケギニア一の大国の王族。それも次期王位継承者と、その弟なのだ。確かにジョセフさえいなくなれば、確かにレコン・キスタフラグも、ガリア内乱フラグも潰せるかもしれない。だが、失敗したら目も当てられない。成功したにしても、それが発覚すれば、アルビオンとガリアとの戦争になりかねない。「王弟(俺)の独断」といっても、ガリアは信じないだろう。それに、ジョセフを潰したからといって、レコン・キスタフラグが完全に潰れるわけではない。そんなあやふやな博打に、命を張ることはできない。

ならば、ジョセフが暗黒面にとらわれる切っ掛けとなったシャルルを狙うのはどうか?確かに彼のほうが警備は薄いかもしれない。だがジョセフのときと同じく、発覚時の危険性は変わらない。第一、すでに「ジョセフ王太子は魔法が使えない」という噂は流れてきている。そんな状況で、魔法が使える弟が死ねば、ジョセフから永遠に「弟に勝つ」という選択肢を奪うことになる。下手すりゃ、その時点で暗黒面に堕りかねない。


そこまで言うと、ちょいちょいっと、手で呼ぶ仕草をするヘンリー。何かいい考えが浮かんだのか、それとも重大な相談でもあるのかと、キャサリンが顔を寄せると、ヘンリーはいたって真面目な顔で、一言。









「・・・やっぱり、下のけ「黙れこの大馬鹿野郎」





***

「だってさ、興味あるじゃない・・・ゴメンなさい」

汚いものを見るような、蔑んだ視線に、何も言えずに黙り込む。「るーるるー♪」とという哀愁を誘う音楽が、どこからか聞こえてきたが、不思議と全く同情する気持ちにならない。

「ねぇ、貴方・・・」

腫れた頬を撫でていたため、ヘンリーは、キャサリンの表情に気付くことはなかった。

「貴方は、この世界で何がしたいの?」
「ははッ、何言ってるんだキャサリン」

突拍子もない、しかし、自分の存在意義そのものを問いかける質問に、ヘンリーはいつもの口調で、迷わず答える。父の冷たい手を握り、自分の家族の寝顔を見て決意した想いに、微塵の揺らぎや迷いが、ある筈がなかった。

「ファンタジーだろうと魔界だろうと、俺は俺だ。君とアンドリューと、家族で楽しく生きていけたらいいよ。あと、この世界の俺の知り合いは皆幸せになって欲しいな。あと・・・」

指を折りながら、次々と「幸せになってほしいリスト」の名前を挙げていくヘンリーは


「・・・それは、贅沢というものじゃない?皆がハッピーだなんて、ありえないんだから」


妻の言葉に、断固とした口調で反論した。



「どうやら君は忘れているみたいだけどね。ここはリアルな『おとぎ話』の世界だぞ?」



昔からおとぎ話の結果は相場が決まってるもんだよ「めでたし、めでたし」ってな



いい事いうなぁと、またも自画自賛するヘンリーに、キャサリンは苦笑しながら思い出した。


自分が、何故この人を好きになったのかを





「あ、あと娘がいれば完璧だな!じゃ、さっそくこずく(バキ)



ムードもへったくれもない馬鹿の顔にパンチを食らわしながら、キャサリンは笑った。



































夢を見た












そこは、前世の自分の家。



狭いリビングに、自分の「家族」が集まっていた。




美香や、成長した息子、その孫達にかこまれて、皺だらけの顔を、さらにクシャクシャにしながら笑う、自分がいた。











楽しい夢だった




[17077] 第29話「正直者の枢機卿」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:b679932f
Date: 2010/08/06 18:53
アウソーニャ(半島)は、何であんな形をしてるのか、知っているか?

ありゃな、大聖堂のクソ坊主どもに、自分の罪深さを認識させるためさ

理由?地図を見てみりゃわかるだろうよ・・・ほら。親指を下に向けているように見えるだろう?


*************************************

ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(正直者の枢機卿)

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少年は得意げにこの小話を語る叔父に、温厚な性質の彼にしては珍しく、血相を変えて食いかかった。ハルケギニアに生を受けたものは、誰しもが一度は「光の国」の首都ロマリアへの憧れを抱く。「始祖の眠る地で、教皇聖下と神官たちの指導の下、敬虔なるブリミル教徒たちが、自らを慎み、幸せに暮らしている」-そんな「理想郷」が、この世界に存在していると。彼もそれを信じていたからこそ、それを茶化すような叔父の言動が許せなかったのだ。

叔父は「お前は正直者だな」と言って笑った。

「正直者」の少年は、成長するにつれて(自分の周りの狭い世界ではあるが)現実を経験し、そんな理想郷は存在しないであろうことを、誰に教えられたというわけでもなく悟った。「光の国」ロマリア連合皇国も、この世界に幾つもある国の一つにしか過ぎないと。

宗教庁は、各国に跨る組織という性格上、連合皇国を構成する王国や都市の出身でなくとも、優秀であれば出世の道が開かれている。「自分こそは未来の教皇」という野心を燃やす者、純粋に信仰心から聖職者を志す者、教会の現状に不満を持ち、自分が変えるという改革の志を持つ者、果ては「でもしか」司祭に至るまで-多くの若者が、こぞってロマリアを目指した。その中に、理想郷への想いを捨てきれない「正直者」もいた。


それから40年近い年月が経ち、「正直者」の青年-エルコール・コンサルヴィ枢機卿は、ラグドリアン戦争講和会議に、ロマリア連合皇国の使節団を率いて参加していた。

***

予定の五日間を越えてもなお、終わりの見えない講和会議。ラグドリアン湖畔には「丁寧な罵り合い」の場所として、いくつもの仮設テントが設営されていた。テントが一つ設営されるたびに、モンモランシ伯爵は、波ひとつたたない湖面に向かって、ひたすら頭を下げている。(役目とはいえ、気の毒なことだ)と、真面目で気の弱そうな伯爵に同情しながら、枢機卿のみが着用を許される真紅の衣とマントを身に纏ったエルコールは、ロマリア使節団に割り当てられたテントの一つに、客人を迎え入れていた。


「アルビオン王国財務卿のシェルバーンです。お噂はかねがね」
「エルコール・コンサルヴィです」

差し出した手を握り返したエルコールは、シェルバーン伯爵の、野太い声と体格に似合った、太い指と肉厚な手のひらの感触を確かめながら、彼の隣に所在なさげに立つ初老の貴族に視線をやった。

「枢機卿、こちらは」
「存じております。ようこそいらっしゃいました、ハッランド侯爵」

トリステインの国境を跨いで以来、初めて自分に向けられた歓迎の言葉に、ハノーヴァー王国外務大臣のベルティル・ハッランド侯爵は、一瞬顔をほころばせたが、すぐに顔を引き締めた。

「ベルティ・ハッランドです。お忙しい中、時間を割いて頂きましたことを・・・」
「まずはお掛けください」

「立ち話もなんですから」と椅子を勧めるエルコール。緊張を顔に貼り付けたハッランドは、ぎこちなく一礼して、勧められた椅子に座った。エルコール・コンサルヴィ枢機卿といえば、現教皇ヨハネス19世の右腕として知られ、ガリア国内の8つの教区を統括する司教枢機卿。教会の権威が衰えたとはいえ、ハノーヴァー王国の閣僚の首の一つや二つ、簡単に吹き飛ばせるだけの影響力があった。むしろそんな大物を前にして、微塵も緊張した態度を見せないシェルバーンのほうが変なのだが、彼の場合、年がら年中その言動に頭を抱えざるをえない王弟の言動によって鍛えられていた。「アレ」と仕事をすれば、大抵のことには驚かなくなるものだ。

(その点に関しては、あの王子様に感謝するべきなのかね)と、シェルバーンが埒も無い事を考えていると、緊張で顔を強張らせたハッランド侯爵が意を決したように、本題を切り出した。


「単刀直入に申し上げます。トリステインと我が国の新政権との、橋渡しをお願いいたしたく・・・」

仲介したシェルバーンは当然だが、エルコールの顔にも、予想出来た内容に驚きはなかった。ハッランド自身も、思うところは多いのだろう。机の上で組んだ手を、忙しなく組み替えている。

「お恥ずかしい話ですが、我が国には単独でザクセンに立ち向かうだけの力はありません。トリステインに頼るしかないのです」
「人の窮状は見て見ぬふりをしながら、自分の時は助けて欲しいというわけですか」

言葉に詰まるハッランド。淡々とした口調で、事実を告げられるのは「恥知らず」と罵られるよりも、この貴族の胸を突き刺した。唯一の救いは、エルコールの視線に非難するような気配が感じられないことだが、それはこの枢機卿に仲介交渉を行う気がないからではないかという不安を、ハッランドに感じさせた。

こつこつと机を指で叩きながら、エルコールは尋ねる。

「・・・この話を私のところに持ってきた理由をお聞かせいただけますかな?」

「まさか告解にこられたわけでもありますまい」と言いながら、こちらを見据える枢機卿の眼差しは、聖職者というより、報告書と証拠資料を丹念に読みこんだ上で、判決文を考える裁判官を思わせた。納得するまではどのような決断も仲介もしないという姿勢に、ハッランドはハンカチで汗をぬぐいながら、直球でぶつかるしかないということを再度認識した。手持ちのカードは無いに等しい。まな板の上の魚である自分が出来ることは、おとなしく裁かれることだけだ。

「枢機卿の、ロマリアのお力をお借りしたいのです。トリステインの貴族は熱心なブリミル教徒が多いと聞きます・・・教皇聖下の右腕と言われる枢機卿の言葉が欲しいのです。枢機卿の口利きとあらば、トリステインとて耳を傾けざるを得ないでしょう」
「・・・かえって『英雄王』の自尊心を逆なでする事になるのではありませんか?」
「枢機卿ならば、そのあたりを上手くやっていただけるものと確信いたしております」

あまりに露骨な要望に、エルコールは苦笑した。正直は美徳だが、欲に正直では困る。だが、嫌いではない。言葉を飾りたがるロマリア人に辟易していたガリア人のエルコールには、この初老の侯爵の率直さが好ましく思えた。それだけハノーヴァーがなりふり構ってはいられない状況にあるのだろうが、それも合わせて考えると、ハッランドの立場には、同情を覚えないわけではない。



ハルケギニアでは「国旗」と王家の紋章はイコールである。王権は、始祖から王家に与えられ、その王家が国を治める。実際がどうあれ、名目上、国家は王家の私有財産という格好。そのため、国家の象徴たる国旗は、王家の紋章と同じとみなされるというわけだ。

ハノーヴァー王家は、金の盾に3頭の王冠をかぶった青いライオンを紋章とする。それぞれ「自由・不屈・真実」を意味するライオンの威信は、ラグドリアン戦争で、大きく傷ついた。


ブリミル暦2998年、東フランク最後の国王-バシレイオス14世が暗殺されたのをきっかけに、東フランク王国は崩壊。ゲルマン人を巡る対立や、元々の王権が脆弱だったこともあり、バシレイオス14世の伯父アルブレヒト大公が、王都ドレスデンで王位継承を宣言したものの、杖の忠誠を誓うものは、殆どいなかった。何百もの諸侯が独立を宣言した旧東フランクは、およそ1000年にも及ぶ戦乱と干渉戦争を経て、いくつかの王国と都市連合に再編される。その中でもザクセン王国(アルブレヒト大公の子孫)と並んで、勢力を振るったのが、ハノーヴァー王国のオルデンブルグ家だ。

オルデンブルグ家は、元々東フランクに幾つもある侯爵家の一つでしかなかった。だが、この家は代々子宝に恵まれる回数が、よその家よりも多いという特徴があった。歴代の当主は、婚姻関係や養子縁組を活用して、国内での勢力を拡大。ブリミル暦2998年の王国崩壊の際には、王国領は何百もの諸侯に分裂したが、オルデンブルグ家はその殆どに相続権利を持っていた。極め付きはハノーヴァー初代国王グスタフ・アドルフ1世(2950-3030)が、つシレイオス14世の岳父であったという事。東フランクの後継を名乗る権利は、十分にあった。婚姻政策を活用して周辺諸侯領を次々に併呑。グスタフ2世(3201-3290)の時代には、ザクセン「豪胆王」オットー1世(3250-3303)と旧東フランク地域を二分するまでに成長した。

だがその内実は、王家の婚姻関係で結びついただけの、緩やかな同君連合王国とでも言うべきものであった。一度下り坂になると、諸侯は次々と離反・独立。元々、戦が得意な家でもないオルデンブルグ家に、軍事力で国家をまとめるという考え方も、武力も存在しなかった。


この事態に、ハノーヴァーは西と北の2つの勢力と結ぶことで、勢力の維持を図った

ハノーヴァーから見て西に国境を接するトリステイン王国は、東フランク王国崩壊以降、旧東フランク領への進出を狙い、ハノーヴァーとも何度も衝突した経緯がある。ハノーヴァーは、このトリステインと軍事同盟を結ぶ事によって、ザクセン王国の軍事力と対抗した。トリステインとしても、「旧東フランクの盟主であるハノーヴァーを助ける」という大義名分と、オルデンブルグ家の縁戚関係を利用するために、積極的に同盟関係を喧伝した。ブリミル暦4500年代にトリステインが東方進出を諦めた後も、この同盟関係は、現在に至るまで続いている。ハノーヴァーが、国土防衛のためにトリステインの軍事力が欠かせないという環境は変わらず、トリステインも、東の守りとしてハノーヴァーを位置付けた。


ラグドリアン戦争では、ハノーヴァーは、その長年の同盟国を見捨てる決断を下した。ガリアの大軍の前に、国家存亡の危機に瀕したトリステインからの、度重なる援軍要請にも耳を貸さず、それどころか、ブレーメン(ハノーヴァー王都)の王政府は、トリステインとの国境を閉鎖して物資を断った。

ロペスピエール3世の死により、からくも生き延びたトリステインと、ハノーヴァーとの関係は、当然の如く冷え込んだ。ハノーヴァーは「トリステインが滅びるだろう」という目論見が外れたことに頭を抱え、ザクセンの脅威に怯えることになる。

特に後者、ザクセンの脅威は、ハノーヴァーにとっては、抜き差しならぬ問題であった。ザクセン初代国王アルブレヒト1世(2950-3002)が、東フランク王を宣言した際、ハノーヴァーの初代国王、グスタフ・アドルフ1世が真っ先に異論を唱えて以来、両国は文字通り「不倶戴天の敵」であった。同じ旧東フランクに領地を持つ王国でありながら、ザクセンは武人肌、ハノーヴァーは文人肌と、とかく気が合わないのだ。無論、すぐに攻めかかってくるということはないだろうが、それでもザクセンからすれば、今は千載一遇のチャンスである。いつエルベ川を、ヴェティン王家の紋章をつけた軍勢が越えてくるかもしれないという状況に変わりは無い。

この事態に、ハノーヴァーは青くなってトリステインとの関係修復に乗り出した。東にザクセン、西にトリステインを抱えることが出来るほど、ハノーヴァーには余裕はない。だが、ここ一番の肝心なときに見捨てられたと感じたトリステインが、ハノーヴァーに向ける視線は、嫌悪感を通り越して、軽蔑の感情に満ちていた。この講和会議を利用して、少しでも関係を修復したいと考えていたハノーヴァーだったが、取り付く島もないトリステインの反応に、困り果てた。万策尽きたハノーヴァー使節団は、ハッランド外相の発案で、ロマリアを頼ることを考えたというわけである。


「・・・枢機卿のお口添えがいただけないかという次第でして」

台所事情を、文字通り苦しい顔で語り終えたハッランド侯爵は、目の前の枢機卿の様子を伺った。エルコールは、最初と同じように口元に笑みを浮かべていたが、僅かに細めている目の奥には、何の感情も読み取れなかった。一体、自分はどう見られているのか。愚かなピエロか、それとも・・・

エルコールは視線をハッランドからそらし、この仲介交渉を自分のところに持ち込んできた当人に向ける。交渉が成立したわけでもないのに、ドッと肩の力が抜けるのを、ハッランドは感じた。

「シェルバーン卿。アルビオンも同じ考えと見てよろしいのですか」

シェルバーンは、つるりとそり上げた頭を撫でながら「そう考えていただいて結構です」と、口を開く。

「ご存知の通り、我が国は空中国家であります。大陸の拠点たるトリステインが不安定になることは、国家の存立に関わります」
「トリステインではなく、ラ・ロシェールが気になるのではありませんか?」

「中継港が欲しいのだろう」という、生の本音をぶつけてくるエルコールに、シェルバーンは苦笑を漏らなしがら、肩をすくめる。

「港だけあっても仕方がないのです。風石を初めとする航海に必要な物資を補給するためには、ある程度の規模の国家や都市の後ろ盾が必要なのです」

アルビオンにとって、ハノーヴァーとトリステインとの関係悪化は、他人事ではない。アルビオンから大陸に向けて出港する船や、逆にアルビオンに向かう船は、トリステイン南部の港湾都市ラ・ロシェールに立ち寄る。得にアルビオンに向かう商船は、この山岳の港町で補給を受けなければ、航海すらままならないのだ。


地上3000メイルという高度に浮かんでいるアルビオンは、過去何度もガリアやトリステインの大軍の侵攻を受けたが、そのたびに退けてきた。その大きな要因が、侵攻軍の兵士を襲った「空中病」である。船乗りの間では古くから知られていたこの病は、船の高度を急激に上げた場合に発生する。頭痛や眩暈、吐き気に始まり、手足のむくみ・睡眠障害や運動機能の低下と症状が悪化。少なからぬ兵士が命を落とした。

アルビオンの平民は、これを「風の精霊がアルビオンを守っているのだ」として喜んだが、風のメイジたちは「空中病」が、上空と地上の空気が違うことによって発生することに気が付いていた。風のメイジがいれば、船全体に空気の幕を張り、上昇の速度に合わせて外の空気との差を調整させて、フルスピードで自由に船を動かすことが出来る。だが、風メイジ全体の数が限られており、船団全体をカバーすることが出来ない。結果、侵攻軍は、船の速度を落として高度を少しづつ上げていくしかなく、それが作戦の幅を狭めた。

アルビオン王立空軍は、これらすべてが追い風となった。元々高高度の空気には慣れている上、メイジ人口は少ないが、風のメイジの割合は多い。数こそ少ないが、自由自在に船を動かすアルビオン空軍は、数は多いが動きは鈍い侵攻軍と互角か、それ以上の戦いを見せた。

閑話休題。

軍船なら風メイジを乗せることが出来るが、商船となるとそうはいかない。高度を少しずつ上げると、使用する風石も増加する。航海に必要な食料品や医薬品の積み込みなど、補給が必要となる。アルビオンに一番近いラ・ロシェール港が「玄関港」と呼ばれる所以だ。

アルビオンとトリステインの同盟関係は、アルビオンから申し込んだものである。幾ら精強な空軍を持つとはいえ、資源も少なく、大陸に拠点を持たない国は根無し草でしかないことを、白の国はよく知っていた。ラ・ロシェールを持つトリステインと、過去の遺恨はあろうとも、関係を結ぶ道を、アルビオンは選択した。ラグドリアン戦争では、そのトリステインの存続が危ぶまれ、ハノーヴァーとは違った意味で、ロンディニウムは頭を抱えた。ガリアがトリステインを抑えれば、ラ・ロシェールの使用権がどうなるかは解らない。だからといって、アルビオンが加勢したところで、大陸1の陸軍を有するガリアに、トリステインが勝つとも思えない。

ジレンマの中、アルビオンは陰ながらの軍事物資支援活動を行うことでお茶を濁した。後でガリアに抗議を受けても「知らぬ存ぜぬ」をきめ込むつもりで。それでも、日和見を決め込んだハノーヴァーよりも、旗幟を鮮明にしただけ、トリステイン首脳部は、飛び上がらんばかりに喜んだ。苦しいときの情けは、何よりも身にしみるのだ。

エルコールは、目の前の二人の人物が背負う国家の対照的な現状に、運命の皮肉を感じざるをえなかった。もしロペスピエール3世の死が、1ヶ月でも遅れていれば、両者の-両国の運命は正反対となっていただろう。それを考えると、ハノーヴァーの選択を愚かだと笑うことは「正直者」の彼には出来なかった。

「なるほど、白の国の意図は承りました」

ほっとしたような表情を浮かべるハッランドだが、次の瞬間、再び顔を強張らせる。


「それで、何故わがロマリアが、その尻拭いを手伝わなければならないのですか?」


確かに、ロマリアがラグドリアンに出張ってきたのは、ガリアとトリステインの講和を仲介するため。トリステインやハノーヴァーの仲介をするためではない。仲介とは、下手をすると、両国からの批判を浴びる危険性がある。安易に譲歩を求めれば「相手国に肩入れしている」と、痛くない腹を探られかねないからだ。今回の講和会議でも、ロマリアやアルビオンは、条約の交渉に関しては、当事者同志に任せて、口を出すことを控えている。

わざわざ火中の栗を拾う義理が、どうしてロマリアにあるのか?動揺するハッランドに対して、シェルバーンは慌てる様子がない。事前に、こうなるであろうという事を、ある王弟から聞かされていたためである。そして、その際にどう返せばいいかと言うことも、事前に打ち合わせ済みであった。

「ジャコバイトに関して、我が国はトリステインへの申し入れを行いました」

その言葉に、エルコールが机を叩く指を一瞬止める。


ジャコバイト-反アルビオン王家を掲げる新教徒の集団が、トリステインの南西部アングル地方(ダングルテール)に拠点を築いているという情報を、ロマリア教皇大使ヌシャーテル伯爵から得たアルビオンは、トリステインに善処を求めた。その内容が「強制改宗や追放といった強硬手段を伴わない」という条件付のものであることは、エルコールはすでに聞き及んでいる。

「新教徒対策を求めるという、貴国の義理にお付き合いをしたのです。祈祷書には「借りは返すべし」という言葉があったと思いますが・・・」

身を乗り出して、シェルバーンは続ける。エルコールの目には、シェルバーン財務卿と、その後ろにいるアルビオン王弟の顔がかぶさって見えた。


「「今度はロマリアの『誠意』を見せていただきたいのです」」


エルコールは目頭をつまみながら、ため息をつく。もう一度顔を上げたとき、彼の顔には、歪んだ笑みが張り付いていた。

「・・・まんざら、馬鹿というわけでもないようですな」

馬鹿という言葉に、驚くハッランド。そして言われた当人であるはずのシェルバーンは、怒りもせずに、むしろ笑っているのが、彼の疑問を深める。何故、シェルバーンが、枢機卿が笑っているのか、ハッランドに解るはずがなかった。

さも愉快だといわんばかりに、シェルバーンは、その評価を口にした。


「私も未だに分かりません、アレが馬鹿なのか、そうでないのか」


***

結論から言うと、エルコール・コンサルヴィ枢機卿は、仲介交渉役を引き受けた。会議終了後、枢機卿はその足でトリスタニアを訪問。両国の関係維持によってもたらされるトリステイン側の利益を-おもにトリステイン側に説いて、ハノーヴァーとの軍事同盟の維持をとりつけることに成功する。水の国がハノーヴァーに抱いた不信感が消えたわけではない。だが「唇亡びて歯寒し」、トリステインとしても、東の守りであるハノーヴァーとの関係改善は必要であり、ブレーメンからの、そしてエルコールからの申し入れは渡りに船だった。


「トリステインは伝統的に西南の-ガリアに対する防衛を重視してきた。ハノーヴァーのために、東に新たに要塞や城を築く事は、あの国の財政では耐えられまい。ましてやそのためにガリアの正面の軍勢を割くことはあり得ない。本末転倒というものだ」

部屋に戻ったエルコールは、服を緩めながら、ソファーに腰掛けた。急ごしらえで建てたのにもかかわらず、造りに粗いところは感じられない。トリステインがこの会議にかける意気込みが感じられる。深紅のマントを脱いで、秘書に渡しながら、エルコールは「独り言」を続ける。

「トリステインは焦らしているのだ。ハノーヴァーが頭を下げただけでは、国内感情も納得しないが、それだけが目的ではない。トリステインが求めているのが何か-わかるか?」

質問と同時に、観察するような視線を傍らに立つ秘書官に投げかけるエルコール。先ほどまでの「独り言」は、すべからく、この秘書官を教育するためのものであった。

本当のところを言えば、この秘書のような仕事をしている彼は、正規の秘書官ではない。しかも司祭でも助祭でもなく、ロマリアのナザレン神学校の一学生でしかない。

彼は美しかった。見るものが誰しも息をのみ、振り返らずにはいられない容貌の持ち主である彼は、多くのお誘いを受けたが「神と民に仕える神官になる」という決意は、微塵も揺らぐことはなかった。もっとも、彼の容貌が、エルコールが彼をわざわざ身の回りを世話をするために選んだこととは、何の関係もない。古くからの知り合いであるナザレン神学校のヴィンセンシオ・ア・パウロ学長から「ヨハネス枢機卿以来の秀才」とされる彼を「鍛えてやってくれ」と託されたのだ。

目つきの鋭さが、その容貌を損なっていたが、そんなことを気にする性格でもない彼は、しばらくの沈黙の後、すぐに答えを出した。

「同盟関係を、トリステイン主導という形に位置付けるということですか」

確かに、この神学生は優秀だった。1を教えれば2を知り、2を知れば3を答え、10を聞けば、0の概念について尋ねてくる。そんな教えがいのある生徒を、生の教材を基に鍛えることが出来るとあれば、エルコールの頬も緩むというものだ。

「そうだ。ハノーヴァーは『対等の関係』を盾にして出兵を拒否したからな。負い目もあるこの機会を利用して、上下関係をはっきりさせておきたいのだ。ハノーヴァーの弱兵といえども、トリステインと合わせればそれなりの兵力になる。ゲルマニアやガリアへの防衛作戦も立てやすくなる」
「・・・ブレーメンがそれで納得しますか?軍の指揮権をトリスタニアに握られることに」
「何、文民政府とやらは、その日が平穏に過ごせればいいのだ。主権がどうのこうのは、ザクセンからの脅威が和らぐとあれば、議会の大半は納得する。納得しなければ、今までの通りにザクセンに怯える日々に戻るとあれば、反対派も受け入れざるをえまい」

ハルケギニアではガリアやアルビオンにも議会は存在するが、ハノーヴァー王国議会は、他国とは比べ物にならないほど、政治に及ぼす影響は大きい。確かにアルビオンでは、サウスゴータ太守領などの一部の地方自治体レベルなら、議会に政治の実権があるが、国政レベルで議会に実権があるのは、ハノーヴァーぐらいのものである。

ブリミル歴5000年頃、ザクセンとの戦いで、エルベ川東の領地割譲に追い込まれたグスタフ20世(4970-5010)の権威が失墜したことを契機に、貴族層が政治の実権を王家から奪い取り、議会に移譲させたのが、そもそもの始まりである。綺羅星のごとき家系図を誇りながらも、結局は「始祖ブリミルの子孫」ではなく、諸侯の代表として国を治めていたにすぎないオルデンブルグ家は、王家でいるためには、それを受け入れるしかなかった。王権は制限されたが、完全に制限されたわけでもないため、首相の決定や閣僚の選任で、ある程度の意思を表すことは認められており、その時の政治状況により国王、議会、内閣と三者の間でパワーバランスのシーソーゲームが繰り広げられていた。

ラグドリアン戦争では、国王クリスチャン12世は、トリステインへの援軍を出すことを主張したが、閣僚や。議会の大多数から反対されると、受け入れざるを得なかった。これで、ロペスピエール3世の死があと1月遅れていれば、ハノーヴァーは、今のアルビオンのような立場にいたはずだが、実際にはそうはならなかった。

「だからといって、クリスチャン12世陛下の判断が正しかったとはいえない。あの時の客観的な状況から判断すれば、行政府や議会の判断は、それなりに筋の通ったものだ。今それを批判したところで、それは所詮、結果論にすぎない」
「・・・王権の制限は、望ましくないということですか」
「そうとも言えない。ロペスピエール3世の死後、ハノーヴァーはすぐにウィルヘルム首相以下の閣僚を辞任させた。一種の人身御供だな。これが国王に権限が集中するようなガリアなら、閣僚の辞任カードなど、まるで効果を成さない」
「首のすげ替えがきくというわけですか」

露骨な物言いに、エルコールは苦笑した。

「まぁ、そういうことだな。失政のたびに国王のすげ替えをやっていては、王家の-ひいては国家の威信を損なう危険性がある。閣僚なら、その点が緩和される・・・もっとも、あまり頻繁に挿げ替えると、こちらも威信を傷つけかねないが。ともかく嫌われているなら対処のし様があるが、軽蔑されるとどうにもならん」
「『神は侮るべき者にあらず。人のまく所は、その刈る所とならん』ですか?」
「祈祷書第6章の7節だな。どうやら君にはユーモアのセンスもあるようだ」

笑いかけたエルコールに、ニコりともせずに、その言葉を受け流す秘書官。どうやら、そのように受け取られるのは心外だったらしい。だが、仏頂面をしているのは、それだけが理由ではないようだ。

「納得できんか?」
「はい。ハノーヴァーのトリステイン感情はそれほど悪いものではなく、むしろ良好だったと聞きます。確かにあの時の情勢として、トリステインを切り捨てる選択が、あながち間違っていたとは思えません・・・ですが」
「何かね?遠慮せずにいたまえ」
「・・・ハノーヴァー議会では、ほとんど反対論が出なかったそうです。ガリアに怯えたといえばそれまでですが、ハノーヴァーの貴族が全員腰抜けだというだけでは、どうにも納得がいかないのです」

(ほう・・・)

エルコールは、この神学生の政治的センスに感嘆した。今の疑問は単なる秀才では出てこない。人というものを僅かながらも知っているからこそ、出てくる疑問だ。

「・・・君は北に行ったことがあるかね」
「いえ。自分はアウソーニャ半島から出たことは」

答えに興味はなかったのか、エルコールは最後まで聞かずに切りだした。

「北部都市同盟-聞いたことぐらいはあるだろう?」


北部都市同盟。文字通り、ハルケギニア北東部の都市による経済同盟である。旧東フランク王国時代は、王家の直轄都市であったが、王国崩壊後、それぞれが自由都市を宣言して、経済同盟を組んだのは始まりである。各都市の間に上下関係は存在しない緩やかな同盟だったが、ハノーヴァーやザクセンの侵攻にさらされ、次第に政治・軍事連合としての役割を増している。キール、リューベック、ハンブルク、スモレンスクなどが知られており、ハノーヴァーの王都ブレーメンも、かつてはこの都市同盟の一翼を担っていた。

秘書官は首をかしげた。それくらいは神学生である自分でも知っている。だが、それがどうしたというのだ?

「・・・現実というのは、必ずしも書物に書かれている事だけとは限らんのだ。特に、自分にとって外聞を憚ることは、正直には書かない」

エルコールは一つしわぶきをしてから続けた。

「ハノーヴァーの王権は議会に握られているが、経済は北部都市同盟に握られているのだよ」

その言葉に、秘書である神学生は、初めて「驚き」という感情を見せた。

「し、しかし、ブレーメンに本店を持つシュバルト商会などは、独自に販路を広げていると聞きますが・・・」
「大陸有数の大商会といえども、所詮は一商会にすぎない。都市をまたがった経済同盟にかなうわけがない。特にブレーメンは、元々が同盟の一員だけあって、同盟の影響力は強いのだ。そして、貴族が貴族らしく生活をするには金がいる。年々苦しくなる領地経営には商人の力がいる」

再びしわぶきをしてから、エルコールは目の前の神学生を見据えた。

「ハノーヴァーは議会が治め、議会は北部都市同盟の顔色をうかがっておるのだ。今回のハノーヴァーの『失策』は、彼らのミスではない。北部都市同盟の失点なのだ」


金の力で国を動かす商人どもの目論見が外れたと知った時、エルコールは「正直者」らしく、素直に喜んだ。

やはり神はいるのだと。

エルコールが、そう考えることができるようになるまで、十数年かかった。目の前の神学生が、自分とは反対に、社会や世の中のありように対して、若い正義感を燃やすことを、否定するつもりはない。ただ年長者として、またかつて自分も同じ思いに駆られた身として、まんじりともせず、その美しい顔の眉間に、深いしわを刻みながら考え込む彼に、助言することぐらいはするつもりだ。


「わかっただろう。書物だけがすべてではない。自分の足で歩き、目で見て、手で触れなければわからない事が、この世にはあるのだ。多くの神学生は、それを任地で、手痛い経験で知るが、君は同級生より早く知っただけの話だ」
「はい・・・」
「書物の知識は確かに大切だ。だが、それだけにとらわれるな・・・無論、自分の経験にもとらわれてはいけない。要は、自由であることだな」
「・・・神に仕える身として、それでいいのですか?」


エルコールは、神学生の頭を小突いた。


「それは自分で考えることだよ-マザリーニ君」



ジュール・マンシーニ=マザリーニは、不承不承という顔で頷くしかなかった。



[17077] 第30話「嫌われるわけだ」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:71b89978
Date: 2010/08/06 18:53
ラグドリアン講和会議の主役が、ガリアとトリステインであることは間違いないが、会議の期間中、最も注目を集めたのは、慰問に訪れたマリアンヌ王女でも、酔った勢いで桃色遊戯を繰り広げたヘンリー夫妻でも、ましてやサン=マール侯爵でもなかった。

クルデンホルフ大公家-旧東フランク王家に連なる名門は、トリステイン王国の大公家として、南西部のガリアとの国境を長く守ってきた。そして、先のラグドリアン戦争における「戦功」と、この大公家を取り巻く様々な政治状況により、「大公国」として独立が認められることが、確実視されていた。

そのクルデンホルフ大公家のハインリヒ大公は、参加各国の使節団からの注目と疑惑、そして嫉妬を一身に集めながら、ある目的の為に、アルビオン使節団のカンバーランド公爵ヘンリー王子との接触を繰り返していた。

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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(嫌われるわけだ)

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講和会議が始まり10日目。果てしなく続くと思われていたチキンレースに、唐突に決着が付いた。ガリア使節団が、トリステインの条約案(リッシュモン案)を前提に交渉を進めることに合意したのだ。

~~~

(リッシュモン案)

① 国交の回復と同時に、国境線を開戦前の実効支配地によって決定する。
② 開戦前に結んでいた通商条約を再度締結(通商の再開)
③ 謝罪を要求するが、賠償は要求しない。
④ 両国共に軍備制限は設けない。
⑤ 両国の緩衝地帯として、クルデンホルフ大公家を「大公国」として独立させる。

~~~

ガリア首席全権のサン=マール侯爵は、③の謝罪は受け入れを拒否したものの、それ以外の条項(通商の再開、戦前の実行支配地域に基づく国境線の設定、クルデンホルフ大公領の独立)は、リッシュモン案を事実上、丸呑みにした。条約案を取りまとめたトリステイン外務卿のリッシュモン伯爵は「当然だろう」と、笑みを浮かべていたが、前日までの強硬姿勢とは正反対のガリアの対応に、各国使節団は首をかしげた。

何はともあれ、交渉に進展が見えたことで、会場全体を覆っていた重苦しい空気は、華やいだ気配へと一変した。元々、会場のラグドリアン湖畔は、ハルケギニア有数の景勝地。観光や会食を楽しむ使節団随行員らの笑い声が、彼方此方から聞こえてくる。そんな湖畔の空気とは無縁なのが、クルデンホルフ大公家にあてがわれた一角である。独立が認められるのは確実な情勢にもかかわらず、隣接するトリステイン使節団に遠慮するかのように、静かな空気と時間が流れていた。


「シャルル陛下の決断を待っていたということでしょうね」

そして、その静かな時間の中心にいる老人-大公家当主のハインリヒ・ゲルリッツ・フォン・クルデンホルフ大公は、アルビオン王弟のカンバーランド公爵ヘンリーの言葉に、静かに頷いた。

「リュテイスは事大主義者の集団ではありません。そうした傾向が強いのは事実ですが・・・初めから落し所が(リッシュモン案)なのは、ガリアもわかっていたのでしょう」

「釈迦に説法ですがね」と、自嘲を交えながらワインに口をつけるヘンリー。

「シャカ、ですか?」
「あ・・・え、えーと・・・そ、そうです東方(ロバ・アル・カリイエ)の、神です」
「ほう、ヘンリー殿下は博識ですな」

乾いた笑いに、あまり触れてほしくない話題と見て取ったハインリヒは、話題を戻した。

「殿下のおっしゃるとおり、ガリア使節団は、トリステインの譲歩を待っていたわけではなく、リュテイスの意見が落ち着くのを待っていたのでしょう。最初から交渉するつもりであれば、サン=マール侯爵のような中立派ではなく、自分の意を汲む側近を無理にでも押し込んだはずです」
「その側近がいるのかどうかが、問題ですが・・・」

鼻眼鏡の奥の目を細めるハインリヒ大公。フルフェイスの髭も含めた総白髪という好々爺の、値踏みするような冷たい眼差しは、ヘンリーも、薄ら寒いものを感じざるをえない。

「シャルル陛下が『皇太子病』に陥っていると?」
「立太子以来、30年近く国政へ携わることを禁止されていたそうですからね。魔法はスクエアクラス。学問も体力も人より優れていると聞きます。なまじっか優秀であるだけに、その状況はつらかったのではないのかと」
「ふむ・・・」

ハインリヒは、よく手入れされた顎鬚をしごきながら頷く。

先々代のシャルル11世(シャルル12世の祖父)以来、国王個人へ権限を集中させるという中央集権化政策を進めるガリアにとって、次期国王たる王太子といえども、国政への干渉を許すことは出来なかった。そのため、現ガリア国王シャルル12世は、15歳で立太子されてから、父のロペスピエール3世が崩御するまで、28年の長きにわたり王太子であったが、国政に携わるどころか、接触すら制限されていた。無能でも無知でもなく、ましてや無策でいることは彼のプライドが許さなかった。シャルルは側近集団を形成したり、若手官僚や貴族と接触しようとしたが、それが父王の怒りを誘い、また国政から遠ざけられるという悪循環に陥った。

今からは想像も出来ないが、昔のシャルルは明朗闊達な性格であったという。グラン・トロワの自室で燻り続けた28年の歳月が、彼を寡黙で慎重な性格に変えたのだ。

「『太陽王』は罪なお人ですな」
「まぁ、あの老人がいなければ、良くも悪くも、現在のガリアはないわけですから」

こめかみを掻きながら、何ともいえない表情で言うヘンリー。とかく政治家の評価というのは難しいものだが、功罪の両方が、計り知れないほど多いロペスピエール3世の様な場合、ますます困難である。ただ「太陽王」が、名実共にカリスマであったことは間違いない。

「本当の大人物というのは、常人の物差しで測ることが出来ないのかもしれませんな」
「評価すること事態がおこがましいのかもしれません・・・殿下も、太陽王と同じタイプの人物なのではないですか?」

「まさか」と手を振るヘンリー。

「私は『英雄王』や『太陽王』の足元どころか、同じ場所に立つ事すら憚られる、ただの小心者ですよ」
「そうかもしれません」

深く頷くハインリヒに、顔を盛大に引きつらせるヘンリー。自分を卑下した謙遜を、そのまま「そうですね」と受け入れられると、立つ瀬がない。顔を顰めるべきか、聞かなかった事にするべきかで悩む王弟の顔を見据えながら、ハインリヒは声に出さずに呟いた。

(しかし、そうでもないかもしれない)

ハインリヒは、傍らに置いた鞄から書類を取り出しつつ、本題を切り出した。

「それで、先の話は検討していただけましたかな?」
「あぁ、あれですか・・・」

すぐに大公の言うことに当たりをつけたヘンリーは、眉間に皺を寄せながら、あいまいな表情で答えた。

「空軍創設のための、指導員の派遣、でしたか?」


ハインリヒ大公がヘンリーに要請していたのは、空軍設立のため、アルビオン王立空軍からの指導員の派遣であった。クルデンホルフ大公家は、ガリアとの南部国境を守る為、地上兵力を持つことは許されていたが、航空兵力-軍船や竜騎士隊を所持していなかった。トリステインが、王家と直接の血縁関係にない、いわば「客人」である大公に「翼」を与えることを警戒したのだ。「ただでさえクルデンホルフ家は、一大公家としては過ぎたる影響力を持っている。そのうえ、航空兵力を与えては・・・」というわけだ。

ラ・ヴァリエール公爵家など、王家と血縁関係にある家や、トリステイン生え抜きの有力諸侯が保有しながら、クルデンホルフ家だけが一騎の竜騎士すら持つことを許されないという状況は、この名門のプライドを酷く傷つけた。そして大公国として独立するにあたり、悲願ともいえる空軍の整備が可能となった。そして、航空兵力運用のノウハウがないクルデンホルフ家が、指導員として選んだのが、宗主国のトリステインではなく、アルビオンだったのだ。

ヘンリーは先ほどとは打って変わり、慎重に言葉を選びながら答える。

「・・・本国に問い合わせました。検討はいたします。ですが、実際に派遣するかどうかは、トリステインの反応を見てからということになります」

アルビオンにとって、この指導員派遣は、非常に政治的な問題である。同盟国たるトリステインが、クルデンホルフ大公家の独立を快く思っていないことは明らかであり、その上、独自の航空兵力を持つとなれば、心中穏やかでいられるはずかない。おまけにそれに同盟国のアルビオンが協力するとあれば・・・下手をすると、同盟関係にひびが入りかねない。

そしてなにより、ガリアがどう受け取るかである。中立地帯を作るために、大公家の独立を承認したのにもかかわらず、トリステインが同盟国のアルビオンを使って、軍事力の強化に乗り出したと捉えられては、アルビオンが講和会議をぶち壊すという、最悪の結果をもたらすかもしれない。同盟関係の亀裂と、講和をぶち壊す-空軍士官の派遣により、大公家から支払われるであろう、莫大な謝礼を差し引いても、とても割に合わない。それがわからないハインリヒではあるまい。それがヘンリーには気になっていた。


ハインリヒは、鼻眼鏡の汚れを、ハンカチで拭きながら「武装中立ですよ」と答える。

「先の戦争で、銀行家諸君も動揺しましてね。このままトリステインに属していては、ガリアに侵略される恐れがあると。「侵略のどさくさにまぎれて、証文を隠滅するために火をつけるかもしれない」と、真顔で訴えるものもいたくらいです」

(それは貴方が煽り立てたんだろうが)とヘンリーは悪態をつこうとして、止めた。ガリアとトリステインとの対立を利用し、両国の金融界に圧力を掛けて、大公家の独立を認めさせたことは、ハルケギニアの貴族であれば、誰でも知っている。その仕掛け人であるハインリヒ大公の話を、そのまま信じることが出来るほど、ヘンリーはお人よしではなった。

「彼らに安心して、金融業を営んでもらうためにも、独自の航空兵力が必要なのです」
「・・・トリステインが認めますか?」
「認めるかどうかは問題ではありません」

それまではっきりとした物言いをすることがなかったハインリヒが、初めで断定するように言い切った。

「認めさせるのです」

これほど根拠のない滑稽な言葉もないが、ほかならぬハインリヒ大公の口から出ると、確実な裏づけがあるように聞こえる(そして実際にそうだったのだが)。不適に笑う大公に呆れながら、ヘンリーは本国と相談した結果を伝えた。

「とにかく、トリステインが認めるなら派遣しましょう。謝礼が欲しくないといえば嘘になりますが・・・信用は金では買うことが出来ないのです」

その答えに、ハインリヒは再び目を細めた。


***

ガリア使節団がリッシュモン案を大筋で受け入れることを表明してからは早かった。翌日には条約の草案が出来上がり、二日後には両国使節団が合意に至ったことが発表される。ここに「ラグドリアン戦争」は、名実共に終結する事となった。

トリステインで水の精霊との交渉役を務める某伯爵は、久しぶりに「彼女」に、良い知らせを持っていけることに、素直に喜んだ。


「シャルル12世陛下と、フィリップ3世陛下が、直々にラグドリアン湖畔で、条約に調印することになった。随行員はおよそ1000人・・・まぁ、その、なんだ。頑張れ」


旧知の魔法衛士隊長の前で、某伯爵は白く燃え尽きていた。




そんなやり取りがあったことは全く知らない「英雄王」が、魔法衛士隊のグリフォン・ヒポグリフ・マンティコアの幻獣に厳重に・・・洒落ではない。厳重に護衛されながら、ラグドリアンの地を踏みしめたのが、会議が始まってから13日目のことである。

(なんというか、いかにも『王様』だよなぁ)

ヘンリーは、フィリップ3世と握手を交わしながら、そのオーラに圧倒されていた。

アルビオン人は何事もあけっぴろでフランクな性格である。王家もその例外ではなく、先代国王(ヘンリーの父)のエドワード12世も、平民に気さくに話しかけることで知られていたし、厳格な性格のジェームズ1世も、威厳のための威厳を取り繕うことは好きではない。元々は小市民である上に、そんな環境で育ったヘンリーには、人一倍伝統を重んじるというトリステインを体現したかのような「英雄王」と会談することは、荷が重すぎた。遠慮できるものなら遠慮したいところだが、それが仕事なのだから、嫌だの何だのとは言ってられない。

フィリップ3世が、プライベートでは、エドワード12世以上にフランクな話し方をし、子供っぽいところもあり、そして娘を溺愛する父親であることは、これまでの付き合いで知ってはいる。だが、自分が今から会談するのは「トリステイン国王」としてのフィリップ3世であり、その内容が「英雄王」の機嫌を確実に損ねるであろうことを考えると、ヘンリーは、憂鬱な気分にならざるをえなかった。

「おう、大きくなられましたな、ヘンリー王子。アンドリュー王子は元気かね?」
「えぇ、ここ最近は体調もいいようで」
「それはよかった!」

握手を交わしながら、忙しなく話しかけるフィリップ3世。明瞭で力強い言葉や、自信にあふれた立ち振るまいは、まさに「英雄王」という呼び名に相応しいものであった。(逆立ちしても自分には出来ないな)と思いながら、フィリップの質問に答えるヘンリー

「キャサリン公女はいかがされた?」
「一足先に帰りました。会議は5日間ということでしたので、公務が立て込んでおりまして。ご挨拶も致さず、申し訳ありません」
「いやいや。我が水の国とガリアが意地を張り合っていただけですからな。そんな事に付き合って頂いただけでも、ありがたいことです。そのような言葉は不要ですぞ」

そういって豪快に笑うフィリップ3世。なんというか、見た目どおりの人だ。椅子に腰掛けながら、ヘンリーは、すぐにクルデンホルフの話題を切り出すことは止め、とりあえずは別の話題を振ることにした。題して「ホップ・ステップ・ジャンプ」作戦。

「それにしても、陛下自らが調印式にお越しになられるとは・・・」
「意外だったか?点数稼ぎだよ」

平然と言ってのけるフィリップ3世に、ヘンリーは今度も顔を引きつらせた。どう反応していいかわからず、とりあえず愛想笑いを浮かべようとして、見事に失敗している同盟国の王子の顔を面白そうな顔で眺めながら、英雄王は続ける。

「平民とは怖いものだ。持ち上げるだけ持ち上げておきながら、落とすときは一瞬だ。熱中すればするほど、飽きられた時の反動は恐ろしい」

場当たりな増税で、一時は反乱を招きかけた経験を持つ国王の言葉は、使い古された格言や書物よりも、説得力があった。そして、戦場で後れを取ったことがないとされる英雄王が「恐ろしい」という言葉を口にしたことに、ヘンリーは驚き、黙って二人の会話を聞いていたエスターシュ大公は、にやりと笑った。

「恐ろしい、ですか」
「あぁ、恐ろしい。一見、高等法院が厳重に取り締まっても、それは表面上のこと。一度平民達が不満を持てば、それは燎原の火の如く燃え広がり、止められるものではない」

そういってフィリップ3世は、隣のエスターシュに視線だけを向ける。

「貴様は『政治家は嫌われるぐらいがちょうどいい』と言うが、それはお前が宰相だからだ。王となるとそうはいかん。誰のせいにも出来ないからな・・・それが解らんから、貴様は、この椅子を手にすることが出来なかったのだ」

ポンポンと、自分の座る椅子のひじを叩くフィリップ3世。

「へ、陛下・・・」

思わぬ奇襲にうろたえたエスターシュだが、フィリップとヘンリーが顔を見合わせて笑い出したのを見て、自分がからかわれた事を悟った。

「さて、うちの宰相をおちょくるのも楽しいが・・・」

戦場を駆け巡った者だけが持つ凄みを含んだ、鋭い一瞥をヘンリーに向け、フィリップ3世は「用件を聞こうか」と、どこぞのスナイパーの様な台詞を口にする。(この場合はクルデンホルフ銀行に口座があるんだろうな)と、ずれたことを考えながら、ヘンリーはハインリヒ大公から依頼を受けた、空軍士官の派遣について話し始めた。


~~~


「ホップ・ステップ・ジャンプ」作戦は「ホップ・肉離れ・痙攣」となりました。


ヘンリーから、大公家への空軍士官派遣について聞かされたフィリップ3世を一言で言うと「ザ・不機嫌」。ヘンリーは(言うんじゃなかった)と、猛烈な後悔の念と戦いながら(何で俺がこんな役回りを)と、心の中でハインリヒを罵ったが、そんなことを言っても、何の解決にもならないことぐらいわかっていた。

「・・・というわけでして、はい」

むっつりと口を真一文字に結んで、髭先をねじるフィリップ3世に代わり、先ほどおちょくられていたエスターシュ大公が口を開く。

「それで、アルビオンとしては、どう対処なされるおつもりで?」
「・・・貴国次第です」

クルデンホルフ大公の思惑や意図がどうであれ「武装中立」は、選択肢としては悪くない。現状の大公軍の兵力(しかも地上軍限定)では、ガリアがその気になれば、鎧袖一触で蹴散らせる。これでは、わざわざクルデンホルフ大公を独立させた意味がない。かといって、トリステインが兵を駐留させれば「中立構想」という前提自体が崩れる。となれば、独自に兵力を整えさせればいいという構想自体は悪くない。金は腐るほど持っている大公家。航空兵力の指導をアルビオンが行うなら、同盟国経由で、大公領の情報も手に入れることが出来る。

フィリップ3世も、それは理解している。

だからこそ、ハインリヒ大公の手のひらで踊らされているように感じるからこそ「英雄王」は不機嫌なのだ。何もかもが完璧にお膳立てされていて、自分がすることと言えば、ただ承認を与えるだけ。例えそれが気に入らないとして、それ以外に有効な選択肢がないということが、ますますフィリップ3世の眉間の皺を深くしていた。

「本当に、金貸しは嫌なやつらばかりだ。クルデンホルフも、ヴィンドボナの死にぞこないも・・・」

ゲルマニア王国国王のゲオルグ1世は69歳。かなりの高齢だが、未だに矍鑠としている。ラグドリアン戦争の戦塵が色濃く残る時期に、名目上はトリステインに属していたヴィンドボナ総督のホーエンツオレルン家は「ゲルマニア王国」の建国を宣言。それ以来、フィリップ3世を初めとして、水の国は「ゲルマニア」と聞くだけで、激昂するとされていた。

(こりゃ、やぶへびだったかな)と、ヘンリーが考えていると、フィリップ3世はゲルマニアに対する不満を並べ始めた。

「ダルリアダ大公国・・・ジェームズ陛下の奥方の出身国でしたな」
「は、はぁ」

ヘンリーの実の兄であるアルビオン国王ジェームズ1世王妃のカザリンは、ダルリアダ大公国の出身。現大公ヨーハン9世は、カザリン王妃の弟にあたる。

「この会議にも使節団を送ってきたが・・・その中にゲルマニア人が混じっておるのだ」
「なんですって?」

驚きを隠せないヘンリー。ゲルマニアとトリステインは、ゲルマニア建国の経緯から、正式な国交がない。それどころか、トリステインはゲルマニアの不承認政策を掲げ、一歩でもゲルマニア王国の官吏や軍人が入り込めば、処刑にする・・・かもしれないというブラフ込みの、穏やかではないことを公言している。そのトリステインに、堂々とゲルマニアの官僚が乗り込んできているとは・・・大胆というか、無謀というか・・・

「ダルリアダの使節団にですか」
「元々その傾向がありましたが、ゲルマニアと関税同盟を結んで以来、ダルリアダは親ゲルマニア一色ですからね。国庫から平民のサイフまでスッカラカンだったのが、いまでは好景気に沸いているといいます。使節団に紛れ込ますことぐらいの便宜は図っておかしくはありません」

主の言葉に補足を加えながら、エスターシュはヘンリーの様子を伺っていた。それに気がついたヘンリーは、手を振って「気にしないでください」と答える。

「縁戚関係があるとはいえ、それはそれ、これはこれです。第一、そんなことを気にしていたら、ハルケギニアで戦争は起こりませんよ」

ハルケギニアの王家や大公家は、過去をさかのぼれば、その殆どが婚姻関係を結んでいる。ヘンリーの言葉に、フィリップ3世は大きな笑い声を上げた。


「はっはっは!なるほど、閨閥だけが自慢のブレーメンが、臆病になるわけだ!」


英雄王の機嫌が直ったことに安心しながら、笑いが収まるのを待って、ヘンリーは答えを聞いた。

「ハインリヒの思惑に乗る様で面白くないが・・・いいだろう。ジェームズ陛下に伝えてくれ。『適当に強く育ててくれ』とな」

ヘンリーは、硬い造り笑いを浮かべながら頷いた。エスターシュが、自分の顔を見ながら笑っていたので、帰り際に足を踏んでやった。





翌日。ラグドリアン湖畔で、トリステイン国王フィリップ3世と、ガリア国王シャルル12世が、硬い表情で、握手を交わした。両国王は相互に署名を交わして条約を承認。この「ラグドリアン条約」の締結により、2年にも及んだガリアとトリステインの戦争状態に、終止符が打たれた。



両国を初め、各国使節団は惜しみない拍手を送り、訪れた平和を喜んだ。



























そして、その夜。晩餐会の会場で、クルデンホルフ大公と談笑していたシャルル12世の下に、王都リュテイスから急報がもたらされる。

























グラナダ王国、宣戦布告










ノルマンディー大公-ルイ・フィリップ7世、御謀反




[17077] 第30・5話「外伝-ラグドリアンの湖畔から」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:b679932f
Date: 2010/08/06 18:54
人間同士の男女でも、互いを理解しあうことは難しい。ましてや人ならざるものと、人では。生きる時間も、場所も、考え方も、すべてが違いすぎる。それらの矛盾を「愛」という一言で乗り越えようとすることは、果たして可能なのだろうか?



ハンス・クリスチャン・アンデルセンの童話『人魚姫』では、嵐の夜に助けた王子に一目ぼれをした人魚は、その美声と引き換えに人間となる。だが、彼女の思いは通じず、何も知らない王子は、隣国の王女(村娘とも)と結婚。人魚は王子の幸せを願い、海の波の泡となった。


一方で、ジャン・ジロドゥの戯曲『オンディーヌ』に登場する水の精は、まるで趣が違う。

美しい水の精オンディーヌと青年ハンスは恋に落ち、水の精は人間界へとやってきた。ところが、彼女の自由奔放な性格に嫌気をさした青年は、人間の娘ベルタに心変わり。水の精霊は「裏切れば相手に死を」という神と約束に従い、青年に魔法をかけて破滅に追い込む。再び水の精霊に戻った彼女の記憶から-ハンスとの思い出は消えていた。

記憶を消したのは、神の情けだったのか。愛したものを手にかけるという行為を背負い続けることの苦しみは、精霊といえども人間と同じなのかもしれない。だが、それは同時に、楽しかった思い出も含めて、その時、確かに感じたものまでをも、消し去ってしまった。



果たしてそれは、水の精霊が望んだことなのだろうか?




確かなことは、今日も水はそこにあるということだけである。


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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(外伝-ラグドリアンの湖畔から)

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いつから「彼女」がそこにいるのか-水の国の記録には、トリステイン初代国王のルイ1世と、彼女が契約を結んだとある。その時点では「彼女」は存在していたということになるが、6000年以上も前の記録が本当かどうかなど、確かめるすべはない-「彼女」以外には


もっとも、そんなことは「彼女」にとっては、何の興味もないことである。覚えていないわけではないが、聞かれても答える気はない。



月が交差した回数を数えるのが、面倒くさいのだ。



とにかく数えるほども馬鹿らしい月日の間、ここに存在していたという事は「彼女」自身もわかっている。そして、自らの存在と、ほぼ等しい時間の間、『アンドバリの指輪』を守り続けたことも。


なぜこれを守り続けなければならないのか、誰からそれを命じられたのか・・・「彼女」は覚えていない。


最初の1千年ほどは、それが「彼女」の心を波立たせた。

(私に命令したのは誰だ?)

この湖のすべての生命と、それによって生かされている周囲の生き物を統べる存在である、この自分に命令できるもの-それがわからないとは


しかし、それも次第に気にならなくなった。あらゆることが移り変わっていくのを見続けた「彼女」にとって、変わらない指輪は、数少ない自分と同じ存在とも言えた。それを守ることに、理由など必要ない。





「彼女」は、変わらない指輪と共に、変わり続ける周囲の世界を、ただ一人で見続けてきた。過去も、今も、これからも。「彼女」が存在し続ける限り、それは変わらないのだろう。














ポチャン





(・・・来たか)


「単なるもの」は、我を「ラグドリアン湖」と呼ぶ。「契約の精霊」や「水の精霊」とも呼ぶが、「単なるもの」になんと呼ばれようと、我は気にしない。


「単なるもの」は、多少岸辺で悪戯をしようと、我は気がつかないと思っているようだが、それは違う。水の一滴にいたるまで、「私」の感覚は通じている。「単なる者」のいう感覚とは、多少趣が違うらしいが-それでも「感じる」ことは出来る。

例えば・・・そう、今なら、あのまがまがしい色をした使い魔が、湖底に鎮座する「私」に向かって、我の体を泳いでいるのがわかる程度に。



(水の精霊様。水の精霊様。ケロロであります。ケロロであります)
(・・・聞こえている)
(はッ!申し訳ありません!!)

湖底の「私」の前で、蛙の使い魔が、直立不動・・・の蛙座りをしている。矛盾しているが、確かにそうなのだから仕方がない。

「あやつ」の使い魔のケロロは、アマガエル・・・らしい。私は不明瞭な答えは好まないが、こればかりは断定が出来ない。確かに、その形はアマガエルだ。どこからどうみても。

だが・・・紫色に、ゴールドの水玉模様の「アマガエル」とはな・・・最初は、「あやつ」が私を笑わせるために色を塗ったのかとも思ったが、違った。代々「あやつ」の家のものは、カエルを使い魔としておるが、どれひとつとして色が同じだったことはない。

・・・何かが決定的に間違っていると思うが、そう思うのは、わが身の見識が足らぬゆえか。


(・・・世界は広いな)
(なんでありますか?)
(なんでもない)
(はッ!)

再び直立不動の・・・蛙座りをするケロロ。しかし、見れば見るほど、毒々しい色だ。正直なところ、こやつに我の体の中を泳がれていると思うと、こう・・・体中をかきむしりたくなる。「あやつ」は、よくこれと接吻出来たものだ。



「あやつ」の家-モンモランシ伯爵家は、我と、水の国の主との「交渉役」を家業としておる。何代か前の「あやつ」の先祖が、言っていたが、つまりは我を湖底から呼ぶためだけに、「あやつ」の家は、この地に縛り付けられているそうだ。「単なるもの」は、我の中に棲む魚とは違って、その足でどこへなりとも歩いていくことが出来るのに、なぜそれをしないのか・・・まったく、度し難きは「人間」か。



(あの、精霊様)
(わかっている。『あやつ』が呼んでいるのだろう)
(はっ!ありがとうございます!)



まったく、精霊使いの荒い奴だ



***



「水の精霊よ。旧き盟約の一員、ロラン・ラ・フェール・ド・モンモラ(何用か)・・・ンシです。私の血に覚えが(あるもなにも、ここ最近は毎日顔を合わせておるだろう)・・・私に分かるやり方と言葉で返事をして・・・ますね。ありがたき幸せ」


まったく、水臭い男だ・・・我が言うのも変な話だが

今の当主-ロラン・ラ・フェール・ド・モンモランシは、ユーグによく似ておる。子孫だから似ていて当然なのだが、それにしてもそっくりじゃ。



ユーグとは、「単なる者」の数え方で言うと、およそ3000年前、水の国の主から、交渉役に指名された、ユーグリッド・ド・モンモランシのこと。

前任者・・・もはや名前も思えだせぬが-は、我よりも、主の機嫌取りに忙しかった。最初の頃こそ、単なる者と自分は違うものだからと考えることも出来たが・・・それがいけなかった。段々と我の所に訪れる回数と間隔が反比例するようになり、最後のやつにいたっては、子供が生まれた時の報告にすらこなかった。

そやつの時代に、水の国の主が代わり、新しき主を連れてやって来たのだが-その頃、このあたりの人間どもが、湖の魚を、自然の理に反し、必要以上に採ることで機嫌が悪かった我は、呼び出しを無視した。あのときの青い顔は見ものだったが・・・あれ以来、そやつの家につらなる者の顔は見ていない。


我ながら、大人気なかったと反省しておる。許せ



いくら呼んでも我が出て行かないことに、水の国の主は痺れを切らし、新しい交渉役を指名した。それがユーグじゃ。


まずユーグは、前の交渉役と同じように、使い魔を我のところに送って来おった。泳ぎ方や水の流れから、おそらくカエルだろうと目星をつけてはいたんじゃが・・・








れいんぼーのカエルを見た時の衝撃、そなたらにわかるか?







一瞬でも動揺したことが、「単なるもの」にしてやられたようで、しばらく返事をしないでやった。意趣返しじゃな。我ながら子供じみたことをしたと思うが・・・若気の至りじゃ、許せ。




そしたら、ユーグの奴、何をしおったと思う?





いきなり、そ・・・その・・・服を脱いでだな。は、は・・・は、腹に、顔を描いて・・・そ、そ・・・ぷッ・・・くくく・・・は、は、腹踊り、を・・・くくくッ!



その前に行ったカエルとの「漫才」はチクリとも面白くなかったから、その落差が激しくてのう・・・それ単体では面白くなかったじゃろうが、その、あれじゃ。ツボにはまるというやつじゃな。

ユーグからすれば、我は顔色一つ変えていないように見えただろうが・・・内心、大爆笑じゃった。笑いをかみ殺すのに、苦労したぞ?




ともかく、それ以来、ユーグの家のものが、我と水の国の主との仲介を務めているというわけじゃが・・・腹踊りをしたものは、後にも先にもあいつだけじゃな・・・



だから、ユーグに似た「こやつ」に、いたずらをしたくなる気持ち、わかるじゃろ?





「水の精霊よ、会場の撤去が完了いたしました」
(そのようじゃな・・・)


全く、嵐の様な日々じゃった。今から月が27回交差する前のこと、あの恥知らずな青髭の軍団が、我の治める地を、土足で踏みにじりよった。「単なるもの」の間では、「がりあ」という集団は、それなりに敬意を払われているようだが、我は、世の理を知らないものは、子供とみなすし、そのように扱う。

・・・時間にさほど頓着しない我が、あれほど人間が時間にこだわる意味が、初めて解ったような気がする。あやつらがいた時間は、月が3回交差した間だけ-それが我には数千年にも感じたぞ。


それでも、我が「怒ら」なかったのは、ロランの顔を立てたからじゃ。


あやつにしてみれば、あの恥知らずの連中は、彼が仕える主の敵。我が「怒った」ほうが、水の国は、もっと楽に戦うことが出来たであろう。


それをロランは「やめてください」と言ったのだ。


それが、水の精霊の力を借りたくないという、つまらない意地や見得の為ならば、または、後始末が大変だという下らない理由ならば、我は気にも留めなかったのだが・・・



あやつ、ぬけぬけと、こう言いおった。






『貴方に、人殺しはさせたくない』







我は呆れた。一体貴様は何様だと。


同属相食むのは、何も人間だけではない。我の体の中でも、体の小さなものは微生物から、大きなものは魚まで、ありとあらゆる生命が、生きるための戦いを繰り返している。人間は多少、その理由が他の生物より多いだけじゃ。



我にとっては、人間も魚も「単なるもの」にすぎない。











その「単なるもの」が、我を貴様らと同等に扱うか















・・・だが、悪くない。この我を「単なるもの」と同じ目線で扱う-その無知で、傲慢で、身の程知らずが心地いい。


だから、ロランの願いを聞き入れた。傍若無人な青髭どもを殺さないでやり、もう一度あの礼儀知らずどもがやってきたときも、受け入れてやった。



思えば、ユーグもそうであった。馬鹿で、おっちょこちょいで、すぐに付け上がる、間抜けな男










(血は争えぬということか)

「は?」

(気にするな、独り言じゃ)









ラグドリアン湖の湖面は、日の光を浴びて輝いている。水面は、風に揺れて、美しい波紋を作り上げていた。






「彼女」はそこにいる。過去も、今も、これからも







変わるものの中に、変わらぬものを持ちたいという-「彼女」自身も気が付いていない願いが叶うのかどうか・・・それは誰にもわからない





[17077] 第31話「兄と弟」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:b679932f
Date: 2010/08/06 18:54
魔法を使うと、皆が褒めてくれる。

でも、誰も僕を見ていない。

皆が見ているのは、僕の兄さん。僕を褒めることで、皆は魔法が出来ない兄さんを馬鹿にする。


だけど、僕は知っている。


兄さんは僕より喧嘩が強いことを

兄さんは僕より勉強が出来ることを

兄さんは僕よりチェスがうまいことを



僕は知っている



兄さんが、誰よりも優しいことを


*************************************

ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(兄と弟)

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「ノルマンディー大公の反乱」と「グラナダ王国の宣戦布告」の知らせは、華の都リュテイスに、暗い影を落としていた。市街地や市場は、いつもどおりの喧騒に満ちていたが、行きかう人々の顔色は優れず、そこかしこで額を寄せ合っている。

「まさか叔父上のルイ・フィリップ様が反乱を起こされるとは」
「先王陛下の弟君がなぁ・・・」
「シャルル陛下を擁立した張本人だぞ?」

「噂」に根拠はない。だが、未だに行政府からの公式発表が行われない状況下では、噂は貴重な情報源として重宝され、市民達は「ここだけの話」を交換しあった。その中には当然、荒唐無稽なものもある。

「グラナダが、国境を越えて攻め込んできたらしいぞ」
「僅か3000の兵に、2万のガリア軍は大敗したそうじゃ」
「シャルル陛下がラグドリアンで、トリステインに暗殺されたって本当か!」
「いや、すでにトリステインはゲルマニアと一緒に攻め込んでいる・・・」

ここまでいい加減なものは嘘だとわかるので問題はない。問題は、根拠のない噂には変わりないのだが、真贋がわかりにくい「ありえそう」な噂である。

「今度の事態は、トリステインが絵を描いたらしい。グラナダと、先代アルビオン王の葬儀で恥を掻かされたノルマンディー公を巻き込んで・・・」
「ノルマンディー領の港に、アルビオンの軍船が入港したというぞ」
「グラナダとも相談の上か?」
「ちがいない。あまりに上手く行き過ぎている・・・」

本来なら流言蜚語を取り締まるはずの官憲も、意図的に聞こえないふりをして、見逃していた。自分が信じていないことを、さも事実であるかのように振舞うことは難しい。中には、市中で聞いた噂話を同僚連中に「講義」するものもいるくらいだ。

そんな状況をみすみす許しているのが、ヴェルサルテイル宮殿の実情であった。官僚や政治家たちが忙しそうに走り回ってはいるのだが、それは自らの役目を果たしているからではなく、「誰の命令に従えばいいか」「何をすればいいか」わからないだけである。国王シャルル12世不在の宮殿を預かるのはパンネヴィル侯爵。前国王ロペスピエール3世の時代より、宰相の印綬を帯びてきた人物だ。だが、多くの軍高官や閣僚がシャルル12世に随行していたため、文官上がりのパンネヴィルには、討伐軍の編成といった重大な決断を下せなかった。それでもリュティスで、表立った混乱が見られないのは、彼の、ヴェルサルテイル宮殿を生き延びることで培った老練な政治手腕によるものであり、市民もそれを信頼していたからである。

貴族たちが、上を下へ、下を上へ、右を左へ、左を右へと、指示を求めて走り回るヴェルサルテイル宮殿。


その混乱に乗じて、ガリア王国第2王子のシャルル・ド・ヴァロワは、お付の侍従の目をかいくぐり、窓から抜け出していた。この状況下で、グラン・トロワの自室で大人しくしていることが出来るほど、10歳のシャルルの好奇心は、大人しくはないのだ。

不安感が先にたつのは、貴族達と同じだが、シャルルは責任のない子供の特権として、この状況を「楽しい」と感じてしまった。すぐにいけないことだと思い直したが、それでも、日頃澄ました顔をしている大人たちが、泡を食っている様子や、兄さんを馬鹿にする宮廷貴族が、青い顔をしているのを見るのは、気持ちが良かった。いつもの場所なのに、いつもと違う空気。日常なのに、非日常。そのギャップが、新鮮で面白かったのだ。

抜け出したシャルルが向かうのは、決まって兄の部屋。まるで百科事典が頭の中に入っているかのような兄は、どんな家庭教師よりも、いろんなことをわかりやすく教えてくれる。いつもはチェスをしながら、兄の「独り言」(と言い張っている)を聞くだけなのだが、しかし、今日に限って言えば、聞きたいことは決まっていた


不安な気持ちに駆られながら、シャルルは5歳の時に使えるようになった風魔法「フライ」を唱えて、兄の部屋へと飛んでいった。



***

コン・コン・コン


(・・・あいつ、また来たのか)

ガリア王国王太子のジョセフ・ド・ヴァロワは、窓の「外から」のノックに、軽くため息をついた。いつものように、シャルルが部屋を抜け出してやって来たのだろう。まったく、あの弟は、家庭教師や侍従にいくら叱られても、まったく堪えた様子がない。(一度父上に叱ってもらうか)とジョセフが考えていると、ノックが強くなった。見なくても想像が付くから見ないが、シャルルは「早く開けてよ」と腕か杖かを振り回しているに違いない。

もう一度、今度は先ほどより深いため息をつくと、傍らに立つ人物が、ちらちらと伺うような視線を向けてくる。視線を将棋盤(チェス・ボード)からそらさず、ジョセフは言った。

「このまま締め出すのも、面白いと思うんだが」
「ええ?!え、えー・・・そ、それは・・・」

目の前の軍人が、真面目・・・というよりは、融通の利かない性格であることを思い出したジョセフは、仕方なく窓を開けるために立ち上がりながら「冗談だよ」と言う。これくらいのジョークには付き合ってほしいものだが、彼には無理だろう。足取り軽く・・・というよりも、駆け込むように窓枠を踏んで飛び込んできたシャルルにも、ジョセフの言葉は聞こえていたらしい。

「兄さんが言うと冗談に聞こえないよ。だって兄さん性格悪いから・・・」
「ソワッソン男爵を呼ぶぞ」
「お兄様ゴメンなさい。生意気言ってゴメンなさい」

ジョセフ王太子に呼ばれて、部屋を訪れていたオギュースト・ド・ベル=イル公爵は、二人の王子のやり取りに、目を細めた。始めてこの小芝居を見せ付けられた時こそ、あっけにとられたが、今はもう見慣れた景色である。何より、ご兄弟の関係が良好だということが、親族間で王位争いを繰り返して来たガリア王家にとっては、それ自体が貴重な財産であるといっていい。

(特に、今のような状況では、な)

公爵が考えにふけっていると、シャルルは、いつものようにジョセフに駆け寄った。

「兄さん、兄さん!」
「何だシャルル。チェスならまた後でな」
「違う!」

年相応の幼さの残るシャルル王子の言動は微笑ましいものがある。顔をしかめながら、王太子はどこか嬉しそうだった。

「大叔父様が、反乱を起こしたって本当なの?!」

その言葉に、ジョセフは顔を強張らせる。険しい表情の兄に「本当なの?」と、言葉を重ねるシャルル。いつもの大人ぶる為の、背伸びをした質問ではなく、信じたくないけど確かめなければならないという弟の態度に、ジョセフは(誤魔化しは効かないな)と、先ほどとは違うため息をついた。


「・・・そうだ。大叔父様は、ガリアに-父上に対して、反乱を起こした」


***

ノルマンディー大公家-文字通り、ガリア北東部のノルマンディー地方を治める大公家である。ブリミル暦4460年、当時のガリア国王シャルル8世が、庶子ロベール1世にこの地方を与えたのが始まりである。1800年の歴史を持つ大公家といえども、西フランク時代を含めると、6000年以上の歴史を持つガリアにとっては、さほどの名門というわけでもなく、王位継承権も下から数えたほうが早いとさえ言われた。

だがこの大公家は、その広大な領域や歴史の長さとは関係なく、王国の中で特殊な地位を占めている。ノルマンディー地方は、中央から離れているためか、多くの海賊や傭兵を輩出するという血気盛んな土地柄ゆえか-おそらくその両方であろうが、独立独歩の精神が根強く、たびたびリュティスに反乱を起こした。無論、中央政府は反乱の度に、それこそロマリアの神官が、異教徒狩りと間違えるほどに徹底的に弾圧を加えながら、一方で大公領として半独立させることで、「ノルマン人」のプライドを満足させるなどして、やっとの思いでこの地域をガリア王国の中に組み入れた。

そんな領地を治める大公家が、この地域の気質に無縁でいられるわけがない。2、300年に一度、思い出したように反乱を起こしたり、当主が「突然死」したりと、これがまた言うことを聞かなかった。何かと反抗的な大公家をコントロールしようと、中央政府は、たびたび時の国王の弟や王子を無理やり跡継ぎに送り込んだものの「はやり病で」「事故で」「ドラゴンに連れ去られて」・・・最後のに至っては、リュテイスをおちょくっているとしか思えないが、大公家側は「事実」と言い張り、反乱を起こされては面倒な中央政府は、それを受け入れるしかなかった。

こうしてガリアの枠組みの中で「半独立国」として歩んできたノルマンディー大公家だったが、さしもの「太陽王」の前には、その高い頭を下げ、膝を折った。大公家はこれまで何度も反乱を起こしたし、精強な大公領の兵は、討伐軍を苦しめた。だが、最終的にはすべて鎮圧された。歴代の国王は、国家の威信と、鎮圧にかかる手間と兵の犠牲を天秤に掛け、多少のわがままには目を瞑ることを選択。ノルマンディー家も、すべて承知の上で、中央の逆鱗に触れない程度のわがままを通してきた。

ところが「始祖ブリミルの申し子」と本気で信じている太陽王-ロペスピエール3世には、その暗黙のルールが通用しなかった。神と始祖以外に、自分の権威に従わないものが国内に存在する状況を、絶対に許すことが出来なかったし、そのためには、兵がいくら犠牲になろうがかまわなかった。リュティスの官僚たちは、この王の性格を利用して、目の上のたんこぶだった大公家を、中央に従わせようとした。「言うことを聞かないと、あの王は本気でやりますよ」と。


結果、大公家に養子として送り込まれたのが、ロペスピエール3世の弟であるルイ-現在のノルマンディー大公ルイ・フィリップ7世である。ルイ・フィリップは、それまでの王子や王弟とは違い、むやみやたらに王家の威光を振りかざそうとはしなかった。「ガリア王弟」ではなく「ノルマンディ大公ルイ・フィリップ」として、大公家の歴史と伝統を尊重する姿勢で、大公領の家臣や領民の信頼を得ながら、中央の意向に沿う政策を進めた。

兄であるロペスピエール3世は、着実な政治手腕をもつ弟を-その温和で従順な性格(自分に逆らわない)も含めて信頼した。晩年に、ますます猜疑心が強まった「太陽王」に対して、唯一諫言できる存在だとみなされており、実際にそうであったがために、先のトリステインへの電撃侵攻(ラグドリアン戦争)では、アルビオン王エドワード12世の葬儀に大公が出席している間に、ロペスピエール3世は既成事実を固めてしまった。

そして「太陽王」が崩御した後、自身を推す声があったにもかかわらず、甥のシャルル王太子(シャルル12世)を新国王に擁立する勢力の中心として活動したのも彼であった。


そのノルマンディー大公が反乱を起こすなど、いったい誰が想像しようか?


否、存在していなかった。ルイ・フィリップが大公に即位して以降、リュテイスは伝統的な大公家への備えを解き、その兵力を他の地域に転換。ノルマンディー大公領の中心都市ルーアンと、王都リュテイスの間には、要塞どころか、満足な関所すら存在しないのだ。



「どうして、大叔父様が・・・」

シャルルのつぶやきは、リュテイスが受けた衝撃を物語っていた。

シャルルにとって、大公はいつも優しい大叔父であり、気難しい父よりも、どちらかというと好きであった。いつも丁寧で、ニコニコしていて、自分のような子供にもきちんと挨拶してくれた。だけど、それを事実だと僕に教えてくれた兄さんは、別に驚かなかったみたいだ。そして、いつものように、眠たそうな目で、僕をチェスに誘う。

「シャルル、指さないか?」
「兄さん!」

シャルルにはわからなかった。どうして兄さんは、そんなに落ち着いていられるの?あのおじさんが、今この瞬間も、僕たちを殺そうとしているのに

「兄さんは、何も感じないの?殺されてもいいの?!」
「落ち着けシャルル」

いつものように、後手の黒の駒を選択した兄さんは「公爵も座ってくれ」とベル=イル公爵に言う。たしかに、大人の中でも体格のいい公爵に立たれていると、なんだが息苦しい。座っていいものかどうか悩んでいると、兄さんが質問をしてきた。

「シャルル。なぜお前が、チェスで俺に勝てないかわかるか?」

そんな場合じゃないと思うが、教えてもらう立場のシャルルはどうすることも出来ず、ふてくされたように答える。誤魔化されたという思いもあるが、自分で、自分が負けた理由を答える状況が、10歳の子供に面白いはずがない。

「・・・弱いから」
「どうして弱い?」

この質問は2度目だ。以前は「兄さんが強いから」と答えて「じゃあ、お前は一生俺に勝てないのか?」と返され、掴み合いの大喧嘩になった(その上、負けた)。力で勝てないなら、知恵を働かせるしかないと、シャルルは必死に考えた。

「駒の数は一緒。ルールはお互いが十分に知っている。つまり条件は同じだ」

ジョセフの「独り言」が始まった。あくまで独り言で、決して答えを聞いているわけじゃない。

「駒の色以外、何が違う?」

シャルルは、何かに思い当たったのか、喜色を浮かべて顔を上げた。

「いつも、兄さんは後手だ!」
「何故だ?」
「え、それは・・・あ、そうだ。僕がいつも先手を選ぶから」
「それは何故だ?」
「え・・・えーと・・・」

ジョセフは軽く鼻をこする

「その方が勝てると考えているからじゃないのか?先に仕掛けたほうが、相手より有利だと、そう思っているからだろ?」
「・・・そういわれてみれば、そうかも」

正直に言うと、そんなこと考えたことなかったと思う。白のほうがカッコいいからという理由だったし。だけど、兄さんに言われると、そんな気もしてきた。もしかしたら、心の奥底では、そういう風に考えていたからかもしれない。

「俺は先手の動きに合わせて駒を動かす。ポーンを動かせば、それに合わせ、クイーンを動かせば、それに合わせる」
「じゃあ・・・」

「僕が後手になれば」そう言おうとして、兄さんに遮られた。

「それがお前の負ける理由だ。なんでも物事を単純化したがる。表か裏か、白か黒か、○か×か」

兄の「答え」に黙り込むシャルル。

「2つのカードしかないお前に勝つには、3つの方法を用意すればいい。それだけの話だ」
「お話中のところ申し訳ありませんが・・・」

そこでベル=イル公爵が口を挟んだため、シャルルは反論するために開こうとしていた口を閉じる。同時に、これ以上は恥をかかなくてすむ事に、胸をなでおろしていた。


「私はチェスのお相手として呼ばれたということでしょうか」

(それならば勘弁して欲しい)と、硬い表情で答えるオギュースト。ラグドリアン戦争で、トリステイン侵攻軍の総司令官であった彼は、停戦後、責任を負わされて「陸軍省参事官」の閑職に追いやられ、「無能」と評判の王太子の遊び相手に甘んじている(彼自身は、多少ジョセフの評価に異論があったが)。

ところが、多くの軍高官がシャルル12世に随行したため、無役の陸軍大将である彼が、リュテイスにいる軍人の中で、最も高位の将校となった。パンネヴィル宰相は、この陸軍大将に諮問した上で、予備役の召集や、王都に通じる街道の警備強化などの対策を指示していた。そしてベル=イル公爵自身も、この反乱鎮圧で功績を立てれば、先の戦争で負わされた失点を回復できるという考えもあって、ここ数年にないほどの高揚感に満ち溢れていた。現に今も宰相から呼び出しを受けている途中でジョセフに呼び出されたのだ。チェスの相手などしている暇はない。

「申し訳ありませんが、色々とすることがありまして・・・」
「まぁ、話だけでも聞いていかないか」

王太子の言葉を最後まで聞かず、再び「申し訳ありませんが」と断りを入れて、きびすを返して退出しようとするオギュースト。その背中に、ジョセフは「独り言」を投げかけた。


「わざわざ、その身を捧げにいくのか」


その言葉に立ち止まって振り返るベル=イル公爵。シャルルの目にもそれとわかるほどの怒気が走った後、顔を引きつらせた。

「パンネヴィル宰相は内務官僚上がりだ。文官として、軍参事官である卿の意見に従った・・・上手くいけば自分の手柄、そうでなければ」

オギューストは、背中に杖を突きつけられたような悪寒を覚えた。ジョセフ王太子がわざと言葉を切った続きは、宮廷政治に疎い彼にでもわかる。

『パンネヴィル宰相が自分の意見を取り入れるのは、軍事の見解を求めているわけではなく、スケープゴートとして都合がいいから』

今この瞬間まで、王太子に指摘されるまで、「もう一度表舞台に戻れるかもしれない」という期待と、なにより、軍人としての意見を求められるという環境に舞い上がって、そこにある落とし穴に全く気がついていなかった。いくら緊急事態とはいえ、全軍の最高司令官であるシャルル12世を差し置いて、中央の宰相が軍の招集をかけることは、あらぬ疑いをかけられる恐れがある。その点、自分は、閑職とはいえ「軍参事官」という現役の陸軍大将であり、後に政治問題化しても、責任をかぶせられる・・・

(ふざけた真似をしてくれる)

「嵌められた」と怒ったところで、それに気がつけなかったわが身の不覚を責めたところで、もう遅い。すでに自分の名前で、軍を召集する命令書へのサインは終わっている。

オギューストは、顔を引きつらせたまま、力なくジョセフの向かい側に座った。

「・・・どうしろとおっしゃるので」
「やってほしいことがあってね」

「自分の言う通りに動けば、父上へのとりなしをする」という意味を含んだ王太子の言葉に、苦々しげな表情でうなずくベル=イル公爵。宮廷政治とは距離を置いてきた自分が、その中心である王太子の私兵となれと言われているのは、どういった皮肉か。だが、ベル=イル公爵家を潰さないためには他に選択肢はなかった。戦場で倒れるならまだ諦めがつくが、宮廷で政治的に殺されるのは、我慢がならない。

「チェスの相手が弟だけというのは淋しいからね」と呟きながら、目線をチェス盤に下ろすジョセフ。オギューストは2年近く、この王太子と接してきたが、世評で言われるほど「無能」だとは思えない。確かに魔法の才能はからきしだが、それを補って余りあるものが、この青い髪の子供にはある。ただの勘だが、オギューストはその勘によって戦場で幾度も命拾いをしてきた。

「集まった軍勢の一部を率いて、出来れば、ここの防衛に最低限必要な兵力を除いた全軍を率いて、カーンに行ってほしい」
「カーン、ですか?」

その命令の意味するところがわからず、首を傾げるベル=イル公爵。


「東方には『腹が減っては戦が出来ぬ』という格言があるそうだ」


言葉を失うという体験を、オギューストは初めて体感した。セダンの平原で、息子が死んだと聞いた時にも止まることのなかった、軍人としての思考が、完全に停止した瞬間だった。

カーンは、ノルマンディー地方の南西に位置する人口5000人程度の小さな都市である。だが、この王政府直轄の街は、ノルマンディー地方を含む王国北西部の物流の中心都市という顔を併せ持つ。町には王政府直轄領や諸侯の領地で収穫された作物を収める倉庫が立ち並び、収穫期にもなると、買い付けや差し押さえに来る商人たちで町は賑わう。ここに集められた物資は、所有者を幾度も変えた上で、商人の手によって、再び東北部一帯に流れていく。こうした仕組みが出来上がったのは「個別に商会と取引をするより、一括して行ったほうが有利である」という、先々代の国王シャルル11世の考えによるもので、ガリア国内には、こうした商品の集積拠点がいくつか存在していた。

カーンを抑えること-それは、ガリア北西部の物流を抑えることであり、ジョセフの命令の意味は「物資の流れを断って、大公を締め上げろ」ということに他ならない。

まるで、ガリア全体を将棋盤(チェス・ボード)に見立てたかのような、壮大な戦略に、ベル=イル公爵はしばらく返答することが出来なかった。しかし、そこは仮にも長年軍歴を重ねた軍人。この王太子の戦略には、重大な欠点があるとも感じていた。

「ノルマンディー大公軍は精強だ。まともにぶつかっては、わが軍の損害も大きいが、腹が減った兵士など、恐ろしくともなんともない」
「恐れながら、王太子殿下のお考えには、重大な欠点があります」

ジョセフが視線を上げて、静かにこちらを見返したことを確認してから、オギューストはそれを指摘する。

「まず殿下の策には、グラナダ王国への備えがありません。もしノルマンディー大公軍とグラナダが共同してこのリュテイスを襲えばどうなるか。軍勢の出払ったこの都市を落とすことは、難しくありません。落城させなくとも、ヴェルサルテイルに火をつけるだけでよいのです。それだけでガリアの威信は地に落ちます」

ジョセフの横で、シャルルもうなずいていたが、こちらはどこまで理解しているか解らない。

「そして決定的に抜けているのが、お父上-シャルル国王陛下の身の安全です」

ガリアは先々代のシャルル11世以来、国政の基本路線として中央集権化=国王個人への権限集中化を進めている。良くも悪くも、ガリアとは国王がいなければ機能しない組織なのだ。現国王にして、ジョセフとシャルルの父であるシャルル12世は、現在リュテイスにではなく、隣国のトリステイン領内にいる。パンネヴィル宰相が軍を動かすのをためらったのは、なにも自己保身のためだけではなく、宰相といえども、独断で軍を召集する権限がなかったからだ。

一時が万事、そのような状況であるのに、仮にシャルル12世が今狙われたらどうなるか-


ところが、その指摘に対するジョセフ王太子の答えは、ベル=イル公爵の予想のはるか斜め上をいくものだった


「父上の安否は心配いらない。そして叔父上はヴェルサルテイルの主にはなれないし、アルフォンソ10世は、ピレネーのはげ山から出てくることはない」


オギューストは一瞬あっけにとられた後、あわててジョセフの言った内容について考え始めた。明瞭に、この戦争の終わりを見てきたかのように言い切るのは、預言者でも、未来人でもなく、たかが15の子供なのだ。そしてその理由が、自分の勘のようなあいまいなものではなく、一つ一つの情報を精緻に積み上げた結果、導き出されたものであることを、すぐに知るところとなる。


「『英雄王』は暗殺という卑怯な手段はしない・・・なんていうつもりはない。あのエスターシュとかいう大公なら、それ位のことはやってみせるだろう」

講和会議の会場であるラグドリアン湖畔は、トリステイン領内。ガリアが内乱に突入したという情報を聞けば、講和のテーブルをひっくり返してでも・・・という思いに駆られても不思議ではない。各国使節団の目があろうとも「突然死」として処理できないことはない。

「だが、その後が問題だ。今父上が死ねば、誰だってトリステインが怪しいと考えるだろう。そうすると『英雄王』の威信は地に落ちる。セダンで屋台骨が揺らいだあの国を支えているのは、英雄王の名声だけだ。それを自分で壊すようなことはしないだろう」
「・・・第三国が、陛下のお命を狙う危険性は」
「それこそ、トリステインは命がけで父上を守るさ。少なくとも国境まではね」

領内でシャルル12世が襲われれば、本人がいくら否定しようとも、関与の疑いは残る。そんなことを自分の領内でみすみす許すほど、トリステインも馬鹿ではない。ベル=イル公爵が言い辛らそうに切り出す前に、ジョセフがその言葉を先取りして言う。

「オルレアン大公が、父上を暗殺するのではといいたいのだろう?」
「・・・っ、はい」

これがほかの貴族なら「ご賢察恐れ入ります」と世辞を言うか「そんなことはありません」と否定するかのどちらかなのだが、公爵は言葉に詰まりながら、素直にその通りだと答えた。いかにも無骨な軍人らしい回答は、ジョセフの好みに適っていた。

オルレアン大公領は、ラグドリアン湖を挟んで、トリステイン王国のモンモランシ伯爵領と接している。現大公のガストン・ジャン・バティストは、ノルマンディー大公ルイ・フリップ7世の娘婿であり、先のラグドリアン戦争では、最後まで開戦に反対した。材料は十分そろっている。

「それはない」

ジョセフは言下にその可能性を否定した。

「オルレアン家の行動基準は、まず第1に国境を守ること。今、父上を殺したら「主君殺し」と、トリステインに干渉する材料をみすみす与えるようなものだ。そんなことをするほど、ガストン卿は迂闊かい?」

シャルルは、兄の話についてこようと、必死に食らいついていた。そんな王子の様子に頼もしいものを感じながら、ベル=イル公爵は話を進める。

「・・・グラナダ王国は何故動かないとおっしゃるのです?あの山賊どもにとって、今のわが国は格好の獲物なのでは」
「山賊か。言いえて妙だな」

ジョセフは笑うと奇妙な愛嬌がある。だが、その笑顔を知るものは少ない。自らを「無能」とあざける貴族たちの前で屈託なく笑うことができるほど、彼は大人になりきれていなかった。


ガリア王国南東部に突き出た「赤ん坊の足」ことイベリア半島。この半島は南北にピレネー山脈が貫き、平地がほとんど存在しない。この半島を治めるグラナダ王国は、山を切り開き、数少ない盆地や扇状地を開拓して地道に国を豊かにする・・・なんてことは、上は国王から、下は平民にいたるまで、誰も考えていなかった。

先代のグラナダ国王フェルデイナンド7世曰く

「平地がないなら、ガリアから奪い取ればいいじゃない」

どこかで聞いたような台詞だが、それはともかく、この言葉が「グラナダ人」の気質を、よく表していた。反抗するために反抗するノルマンディー人とは違い、グラナダ人は「確信犯」なのだ。必要なものだけ奪い取って、あとはピレネーのはげ山に立てこもる。富を使い果たすと、またガリア南部に攻め込むということを、この国は繰り返して来た。当然ガリアも警戒はしているのだが、サルのようにすばしっこいグラナダ軍に、ガリア軍は対応しきれず、いつも苦渋をなめさせられた。本拠地を叩こうと半島に攻め込んでも、山間の急峻な地では、ガリアの大軍の利点はまったく生かせないどころか、むしろ足手まといとなる。ガリア軍は地団太を踏んで帰るしかなかった。

こんなふざけた国が隣にあることを「太陽王」が認めるはずがなく「はげ山をグラナダ人の血で染めろ」という号令の下、3度のイベリア遠征が行われる。足掛け10年の年月と、6万の大軍、そして両軍の将兵に膨大な犠牲を強いて、この国を屈服させたという経緯がある。


「山賊には山賊の流儀がある」とジョセフは言う。ふとベル=イル公爵の目に、王太子の机に積み上げられた書籍のタイトルが飛び込んできた。『イベリア半島史』『グラナダ王国の支配構造』・・・優に20冊は積み上げたグラナダ関連の書籍。そのすべてに付箋が挟んであった。

「山賊は通行人から銭を巻き上げる。だけど通行人すべてから銭を巻き上げては、その道は誰も通らなくなる・・・『仕事』として成り立たなくなっては、意味が無い。適当に金のありそうなものだけを狙わなければね」

「馬鹿は山賊を『職業』としては続けることが出来ない」と言うジョセフの顔を、ベル=イルはじっと見据えた。

「短い期間ならそれでいいが、グラナダはそれを数千年以上も続けてきたんだからな。その見極めが出来なければ、とうの昔にあのはげ山の中で餓死しているさ」
「・・・今回は、独立を宣言することで、満足というわけですか」

軽くうなずいて、ジョセフは続ける。

「もちろん警戒は必要だ。隙を見せれば、いつでも攻め込んでくるに違いない。しかし、彼らもお爺様に痛めつけられて、ガリアの『本気』を思い知ったはず。それに『勝ち目の無い』勢力に雇われる傭兵がいないように、義侠心のある山賊はいないよ」

淡々とした表情で話す兄の口から語られる内容に、顔を青くするシャルル。対照的に、ベル=イル公爵は、あごに手をやりながら、かすかな唸り声を上げた。すでに彼の中で、王太子の「無能」という評価はなく、代わりに「畏怖」の感情が、その心中を支配していた。

ジョセフは再び将棋盤から視線を上げる。その顔には、叔父への憐憫の感情さえ浮かんでいた。

「どう考えても、叔父上に勝ち目は無い。オルレアン大公が父上を殺してトリステインを引き入れたというなら話は別だが・・・これで、公爵の疑問に答えたことになるかい?」
「・・・もうひとつお聞かせください」

その回答は予想外だったのか、ジョセフが面白そうな顔でオギューストを見つめ返す。

「何故ご自分で動かれないのです?そこまでわかっていながら、何故ご自分で宰相閣下や軍に働きかけないのです?」

王太子という立場にありながら、何故このような、自分を通じた回りくどいことをするのか?一瞬、ジョセフの顔から、浮かべていた微笑が消える。だが、すぐに笑みを浮かべて、その質問に答えた。


「僕の言うことを、誰が聞くというんだい?コモン・マジックすら使えない『無能』の言うことを」


その言葉に先ほどとは違う種類の衝撃を受けたベル=イル公爵は、今度こそ何も言うことが出来なかった。立ち上がると、王太子に深々と一礼しながら「失礼します」と言い、部屋から出て行く。

公爵の背中を、自嘲の笑みを浮かべながら見つめる兄にかける言葉を、シャルルは持っていない。


「シャルル、一局付き合え」

「うん、兄さん」


苦いものを感じながら、シャルルは将棋盤(チェス・ボード)を挟んで、兄と向かい合った。



[17077] 第32話「加齢なる侯爵と伯爵」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:b679932f
Date: 2010/08/06 18:55
ラグドリアン湖畔を出発して、グリフォン街道を馬車で北上することおよそ2日。王都トリスタニアから20リーグに、荒涼とした平原が広がっている。街道に沿って3リーグばかり続くその平原には、街道沿いにあってしかるべきの宿場町どころか、羊小屋すら存在しない。

かつてそこに人の営みがあったことを、かろうじて証明しているのは、ぽつぽつと草の中から顔を出している、朽ち果てた柱のみ。夜になると、狼の遠吠えが響くという荒地で野宿するのを避けるため、旅人や隊商は足早に次の宿場町へと急ぐという。

(・・・ひどいものだな)

馬車の中からその荒れ果てた光景を見ていたヘンリーは「まるで墓場だな」と呟いた。同乗する駐トリステイン大使のチャールズ・タウンゼントも、重々しく頷く。

セダン-それがこの荒涼とした平原と、この地にあった町の名前だった。

西フランク王国とトリステインの最前線であったこの地に築かれたセダン要塞は、ブリミル暦1000年代の様式を残す、数少ない古式城郭である。王都から近いという地理的要件もあって、観光客を相手とした宿場町で賑っていた―――2年前までは。

「セダン会戦」

「ラグドリアン戦争」の行く末を決めたとされる、ブリミル暦6000年代に入ってからは最大級の会戦。セダン要塞の攻城戦の準備を始めたガリア2万の大軍に、「英雄王」フィリップ3世率いる8千の軍勢が奇襲を掛け、ガリアを一時退却に追い込んだ。双方合わせて、6000近い戦傷者を出したこの戦いにより、セダンは廃墟と化した。

そして町には-「死」が残った。会戦後、セダン要塞に籠もったトリステイン軍を、態勢を立て直したガリア軍が包囲。ロペスピエール3世の死まで3ヶ月間の篭城戦が続いたが、その間も休むことなく、遺体の処理が行われていた。従軍司祭だけでなく、近隣の教会や修道院から集められた聖職者が、祈りの言葉も早々に、遺体の腐敗を防ぐため「固定化」の呪文を掛けて廻った。それでも手が足らず、両軍の水メイジまで借り出したほどに。故郷のあるものは、無言の帰還を果たし、帰る場所のないものは、そのまま埋葬された。

戦後、廃墟と化したこの町に、復興の鎚の音が響くことはなかった。セダンの平原にしみ込んだ血の穢れを忌み嫌い、多くの住人がこの地を捨てたのだ。

「停めてくれないか」
「は、しかし・・・」
「頼む、公爵」

警護責任者の魔法衛士隊長は、未だ20の半ばだと聞くが、年齢に似合わぬ落ち着きを感じさせた。さすがにトリステインの精鋭が集まるという魔法衛士隊の隊長を任されるだけのことはある。ヘンリーの唐突な申し入れにも、戸惑いを見せず、モノクルのチェーンをいじりながらしばらく考えたあと、右手を挙げ「止まれ」という命令を出す。

急な命令にもかかわらず、混乱もなく行軍を停止したその動きに、タウンゼント大使が感嘆の声を上げるが、魔法衛士隊の錬度の高さを知るヘンリーはこれといった関心を見せない。町娘に扮した王女様の警護に比べれば、楽なものだろう。

そのトリステインの精鋭部隊の視線や関心が、警護対象の乗った馬車に集まる。予定にない行軍停止が、誰の意思によるものかは明らかだ。(では何のために?)まさか、セダン要塞を観光したいというわけでもないだろう。

警護対象者-アルビオン王弟カンバーランド公爵ヘンリー王子は、馬車から降りながら「すまない」と礼を言う。警護対象者からの感謝の言葉に、少し驚きを見せた公爵だが、すぐに「仕事ですから」と答えた。

しかし、その時すでにヘンリーの関心は彼には無く、セダンの荒野にあった。

荒れ果てたセダンの平原とセダン要塞-2年前、自国が存亡の危機に陥ったことを、トリステイン人は貴族も平民も、意図的に忘れようとしていた。だが、この地に立つと、その事実に向き合わざるを得ない。かつてはここに人の営みがあった。そして今、廃墟と化したこの地の下には、帰る場所のない、名も無き兵士達が眠っている。焼け焦げた黒い柱が、まるで墓標のようだ。

その柱の一本に手をやりながら、ヘンリーは思った。

彼らがどんな気持で死んでいったか、死の瞬間に何を考えたか-自分にはわからない。想像することは出来る。国のため、家の名誉のため、故郷のため、友人家族恋人のため・・・しかし、それらはすべてヘンリーの独りよがりな考えに過ぎない。一度死んだ身とはいえ、それは寝ている間の話。「死んだ」という実感が無いのだ。今でも、この世界にいる「自分」は、覚めない夢の中にいるのではないかという気持ちにさせられることがある。


そんなあやふやな自分が、他者の「死」について考えることなど-死者への冒涜でしかない。

知らず知らずのうちに、『前世』の癖が出た。

トリステインの将兵は、警護対象の見慣れないその仕草-両の手を、胸の前で合わせるというそれに、首をかしげたが、それが「祈り」の仕草だと気付くのに、時間はかからなかった。


トリステイン魔法衛士隊隊長のラ・ヴァリエール公爵は、その後姿を、微動だにせず見据えていた。


*************************************

ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(加齢なる侯爵と伯爵)

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「政治パフォーマンスとしては満点ですな」

エスターシュ大公ジャン・ルネ6世の露骨な言葉に、ヘンリーは不快感をあらわにした。

同盟国の王子が、トリステインの存亡を掛けた戦場で、戦死者の鎮魂を祈った-それがトリステインでどう受け止められるか。それがわからないほど、ヘンリーは馬鹿ではない。実際、王政府-エスターシュからのリークで、新聞が「追悼」を報じたことにより、これを知ったトリスタニアの平民達は、ヘンリーをこぞって賞賛した。曰く「白の国の王子は、民の痛みがわかる」「貴族だけではなく、平民の兵士も含めて祈られたそうだ」「かの王子こそが、真の王子だ」「神官どもの見せ掛けだけの祈りの言葉なんぞクソ食らえ」etc・・・

国と国との同盟とは、王家の婚姻や、国の都合だけで成立するものではなく、互いの国民の支持があってこそ、初めて効果的に機能する。ヘンリーの追悼を、新聞を通じて宣伝することは、トリステイン国民全体を「親アルビオン」へと向けさせるためには、格好の材料だった。同盟関係の基盤強化は、確かに必要なことだ。しかしヘンリーは、自分が誉めそやかされることに後ろめたいものを感じ、エスターシュの行為を「政治家」として理解した自分自身に、生理的な嫌悪感を覚えていた。

セダンの荒野に降り立ったヘンリーに、政治パフォーマンスの考えがなかったかといえば嘘になる。だがそれでも、あの時衝動的に行った「祈り」は、ヘンリー個人として、あくまでも鎮魂のために行った行為。

(・・・くそったれ)

それは、エスターシュへの怒りではない。いつの間にか「人の死」に疑問を感じなくなっている、そしてそれを平然と利用しようとしていた自分自身への怒りであった。

キャサリンとアンドリューの為と言いながら、俺は一体何をやっているんだ?

「偽善でもいいではありませんか。追悼の行為事態は、何も責められるようなものではありません」
「・・・ここは『リークして申し訳ありません』という言葉が先にあってしかるべきだと思うのだが」
「謝ってほしいのですか?」

薄く笑みを浮かべながら言うエスターシュに、ヘンリーは首を横に振る。

「いや・・・つくづく自分が子供だと思ってね」

まったく、王族になんぞ生まれるものではない。一応はトリステインの王位継承権を有するエスターシュ大公は、肩をすくめる。

「子供は自らの未熟さに気がついた瞬間、大人になるといいます」

「それに気がつかないまま、図体だけは大きくなる者もいますが」と続けるエスターシュは、黒い僧服も相まって、神学校の教師に見えなくもない。

「慰めているのか?」
「褒めているのですよ」

そう言って、トリステイン王国の『現』宰相は笑った。


***


「嫌なやつでしょう」

トリステイン王国外務卿アルチュール・ド・リッシュモン伯爵の言葉に、危うくうなずきかけたが、慌てて首と手を振って否定するヘンリー。その様子をニヤニヤしながら見るリッシュモン。まったく、油断もすきもあったものではない。

講和条約に調印が行われたまさにその日、ガリアで内乱が勃発したという知らせを受けて、ラグドリアン湖畔にいた各国使節団は、蜘蛛の子を散らすように本国へと帰国していった。ロンディニウムに帰るべきはずのヘンリーが、わざわざトリスタニアを訪れたのは、セダンの戦没者追悼でも、水の国の観光でも、ましてやトリステインのワインを買いあさりに来たわけでもない(最後の点に関してはすでに手配済みだ。抜かりはない)。

トリステインが国境を接しているのは、南のガリアだけではない。北東の北部都市同盟とハノーヴァー王国、東のゲルマニア王国、南東のヴェルデンベルグ王国と、5つの国家と都市同盟と国境を接している。

****************************

(ハルケギニア大陸北西の地図-6214年)

         北
        部
       都
      市
     同               ザクセン
    盟
          ハノーヴァー   
 
 トリステイン
           ゲルマニア

 クルデンホルフ  ヴェルデンベルグ
      
       
ガリア

****************************

2年前のラグドリアン戦争を境に、トリステインを取り巻く環境は一変した。大陸一の陸軍国家が、本気で水の国に侵攻したと考えた周辺諸国は、手のひらを返してトリステインから距離を置き始めた。ヴェルデンベルグ王国は、元々トリステインと国境線を巡る対立関係があったこともあり、厳正中立を宣言。圧倒的なトリステイン不利の状況下での中立は、ガリアに味方するということに等しい。

ヴェルデンブルグの対応は予想されたことであったが、トリスタニアに衝撃を与えたのが、2000年にも及ぶ同盟関係にあったハノーヴァー王国の「裏切り」である。ウィルヘルム首相以下の王政府は、トリステインの悲鳴の様な援軍要請を黙殺。それどころか、国境の閉鎖して、物資の流れを断った。この判断には国政の実権を握るハノーヴァー王国議会に絶大な影響力を持つ北部都市同盟の意向が影響したという噂も流れた。それが事実とあれば、北部都市同盟も水の国を見限ったということである。まさに「四方八方敵ばかり」。そんな状況下でも、トリステインは国内での持久戦に持ち込み、ロペスピエール3世の死により、なんとか停戦にこぎつけた。

ほっとしたのもつかの間、その1ヵ月後には「ゲルマニア王国」の建国宣言である。踏んだりけったりとはこの事だ。

ハノーヴァーの裏切りに憤慨し、ゲルマニアの足元を見るような言動に激昂しながらも、フィリップ3世は、エスターシュ大公をスケープゴートに仕立てて、ガリアとの講和にとりくんだ。いくら「英雄王」といえども、周囲を全て敵に回して勝てるはずがない。

「ラグドリアン講和会議」でようやく講和に持ち込んだガリアが内乱に突入した今、トリステインはどうするのか-ヘンリーはそれを確認に来たのだ。



「断じて、ワインのためではないのだよ」
「・・・は?」

首をかしげるトリステイン内務卿のエギヨン侯爵シャルル・モーリスに「独り言だ」と真顔で答えるヘンリー。嘘はついていないが、全てを語っていないのも確かだ。マリアンヌ王女主催の夕食会で、再びトリステイン料理に舌鼓を打った後、本来ならばワインの飲み比べでもしたいところを我慢して、リッシュモン外務卿の招きに応じた。そして今、へンリーは王宮内の宰相執務室の豪華なソファーに腰掛けている。仕事がなければ、断固として断ったはずだ。そうでなければ、なんでこんな加齢臭薫るオヤジどもと・・・

「で、どうするんです?」

いきなり本題に切り込んでくるアルビオンの王弟に「相変わらず、ぶしつけですな」と苦笑するリッシュモン。「回りくどいことは嫌いでね」という王子に、シガーケースを勧める。前世からの愛煙家であるヘンリーは、ありがたく受け取った。

「殿下、火を」
「ありがとう」

軽く杖を振り、ヘンリーの加えた煙草の先端に火をつけるリシュモン。神聖な魔法で、教会が口すっぱく禁煙令を出している煙草に火をつけるなど、口うるさい神官に見つかったら、数時間は説教を受けることが確実な光景だが、そんなことを気にする2人ではない。

「神官で思い出したが、エルコール・コンサルヴィ枢機卿の訪問が取りやめになったとか」
「ええ、ノルマンディー地方は枢機卿の管轄区ですから。今はリュテイスで釈明の為にてんてこ舞いだそうで」

ラグドリアン講和会議で、ハノーヴァー王国外務大臣のハッランド侯爵が、エルコール・コンサルヴィ枢機卿を通じて、トリステインへの接触を試みているという情報は、ヘンリーも得ていた。というより、それをけしかけた当事者である。空中国家のアルビオンにとって、大陸の同盟国であるトリステインが不安定では困る。ヘンリーは、兄のジェームズ1世とも相談の上で、シェルバーン財務卿を通じて、ハッランド侯爵に枢機卿を紹介した。エルコール・コンサルヴィ枢機卿は、現教皇ヨハネス19世の右腕とされる人物で、その交渉能力の高さは、外交上手とされるロマリア宗教庁の中でも、群を抜くものがある。彼ならば、ハノーヴァーとトリステインの仲介をうまくやってくれるだろうと。

ところが、当のエルコール・コンサルヴィ枢機卿自身が、ガリアの内乱の影響をもろに受けてしまった。司教枢機卿のエルコールは、ガリアで8つの教区を管轄しているが、反乱軍が本拠地とするノルマンディー地方は、そのうち3つの教区が含まれており、特にルーアンは、かつて大司教座がおかれていた、ガリア北西部の教会機構の中心地である。そのうえ反乱の首謀者とされるノルマンディー大公ルイ・フィリップ7世と、エルコール自身が、公私にわたる親交があったことはリュテイスではよく知られていた。戦後「反乱を幇助した」として、修道院や教会領が没収される危険性は十分にあった。

自分の家に火がついているのに、人の家の喧嘩の仲裁をしている場合ではない。エルコールは、あわててリュテイスに入り、自身と教会の潔白を主張しながら、何とか大公を説得しようと奔走しているという。自身の基盤が危ういとあっては、力の入りようも違うだろう。

枢機卿がしばらく動けないとあっては、仕方が無い。ここは自分の腕の見せ所・・・と勇むところであるが、ヘンリーのモチベーションは上がらない。

「いつまで焦らすのですか?」

表向き、トリステインは『ハノーヴァーとの関係を修復するつもりは無い』という態度を示していた。だが、それを声高に叫んでいるのが、エスターシュだの、リッシュモンだのという、言っている言葉と、腹の中が全く違う人種とあれば、額面どおり受け取るわけにはいかない。リッシュモンは、その見事な白髪に手をやりながら「さて何のことでしょうか」とトボけてみせる。ヘンリーはこめかみに青筋を浮かべたが、それではいかんと、自身を落ち着かせるために、深く煙を吸い



げほげほがはははっげは!





むせた


***


ハノーヴァー王国が、長年トリステインとの同盟関係を結んできたのは、東の強国ザクセンに対抗するためである。オルデンブルグ家を盟主とする同君連合の色合いが濃いハノーヴァーは、王権が弱い。したがって軍は、文字通り諸侯軍の寄せ集めであり「ハノーヴァーは弱兵」と呼ばれる原因となっていた。勇猛果敢なザクセン兵と対抗し、諸侯の離反を防ぐために、ハノーヴァーはトリステインの軍事力を頼るという選択肢を選んだ。

そのトリステインが滅亡の危機に至ると、ハノーヴァーはガリアに乗り換えた。「余りにも無節操だ」との批判を受けたが、水の国と心中するつもりは無いブレーメンは、トリステイン滅亡後の「ガリアと連携し、ザクセンに対抗する」という青写真まで書いていた。それは文字通り「取らぬ狸の皮算用」となったわけだが、苦しい状況の中、国の生き残りのために「恩知らず」と罵られようとも、長年の同盟国トリステインの切捨てという決断を下したウィルヘルム首相以下の判断は、責められるべきものではない。

トリステインに、独力でガリアの干渉を撥ね退けるだけの「力」がないことが悪いのだ。

外務卿として、始祖の血を受け継ぐ祖国が-いまやハルケギニアに幾つもある国家のひとつでしかないということをリッシュモンは認識していたつもりであった。だが、ラグドリアン戦争は、そんな自分の認識がまだ甘いものであったということを、明確に突きつけた。


(ガリアがその気になれば、トリステインなど吹けば飛ぶような存在でしかない)


「力なきは罪」なのだ。その点、自身に「力」が無いことを認識していたという一点に限れば、ハノーヴァーはトリステインより優れていたのかもしれない。


ならば自分は、それに学ぼう。『生き残るためには何でもやる』という姿勢を。何物にも変えがたい「自由と独立」を守るために。



「二度と逆らえないようにすること、これが我が国の望みです」

『ハノーヴァーを属国化する』というに等しい同盟国の外交責任者の言葉に、ヘンリーは息を呑んだ。同席するエギヨン侯爵―次期王国宰相の表情にも、驚いた様子は見られないので、これがトリステイン首脳部の「総意」であると受け取っていい。

「また、思い切った決断をしましたね」
「そう突飛な発想ではありますまい。ハノーヴァーも、何の見返りもなしに同盟関係が継続するとは考えてはいないでしょう」

淡々と返すリッシュモンに、ヘンリーは煙草をふかしながら尋ねる。

「それで、担保は何ですか?私には領土の割譲か、人質ぐらいしか思い当たりませんが」

同盟とは、互いが互いを助け合い、補完しあってこそ成り立つ。リッシュモンが言うように、一度「裏切った」ハノーヴァーとしては「誠意」を見せないことには、トリステイン国内も収まらない。それを説き伏せるためには、ラグドリアン戦争の時のようにハノーヴァーが日和見を決め込まないと納得させるにたる「担保」が必要である。「信用」はすでに使えない。ではその代わりになるものは何か?


リッシュモンは一言だけ答えた。


「何も」

「何も?」ヘンリーは思わず尋ね返した。

「人質も、領土も求めないということです」
「・・・何を考えている?」

真意のわからない言葉ほど、気持ちの悪いものはない。今更ハノーヴァーの『善意』を根拠にしているわけではないだろう。では一体何を「担保」にするというのだ?どうやってトリステインの国内を同盟意地でまとめるというのだ?言い様のない、薄気味悪い予感が、じわじわとヘンリーを襲う。


そしてリッシュモンの返答は、ヘンリーの予感の正しさを証明していた。


「ザクセンと手を組めば、ブレーメンは5日と持ちません」

「・・・・・・・なッ」


ヘンリーは行きあったりばったりのちゃらんぽらんな性格に見えるが、実は事前にしっかりと準備しておくタイプである。それは性格が緻密で繊細・・・というわけでもない。準備がないと不安で仕方が無い小心者だからだ。そんな性格であるため、ヘンリーは毎日ありとあらゆる事態を想定し、一人で熟考する。小心者であるだけに、どんな些細な可能性でも見逃さない。困難な事案であろうとも、事前に準備しておけばどうにでもなる。パターンに応じて、事前に何十何百と想定しておいた台本通りに進めればいいだけの話。それに相手より心理的に優位に立てる。

当然ながら、このやり方では、事前の自分の想定を超えた事態-突発的な事件や、事前の想定を超えた問答には弱い。

そして今、ヘンリーはまさに「事前の想定を超えた」回答を理解することが出来なかった。そしてその言葉の真意を察した途端、煙草を持った右手を襲った震えを、しばらく止めることも出来なかった。


ザクセン王国―エルベ川を挟んで、ハノーヴァーと国境を接する。旧東フランクの盟主を持って自認する、誰もが認めざるを得ない強国。その軍の強さは「ザクセンの平民銃兵で、ガリアのドットメイジに匹敵する」という、ハルケギニアの常識では考えられないほどの評価を得ていた。ハノーヴァーの「仇敵」であるこの国は、その同盟国であるトリステインの東方進出にも立ちふさがり、水の国とは何度も杖を交えてきた。お世辞にも関係が良好とはいえない。

そのザクセンとトリステインが組む-ハノーヴァーにとっては、まさに悪夢の様な事態だろう。西のトリステイン、東のザクセンに攻められれば、「ブレーメン(ハノーヴァーの王都)は5日と持たない」というリッシュモンの言葉は、けして大げさなものではない。むしろ3日もつかどうかだ。

ようやくの思いで震えを止めたヘンリーは、強張った顔に、何とか苦笑を浮かべて、皮肉を口にする。

「・・・ずいぶんと、えげつない事をしますね」

ヘンリーは、ハノーヴァーの駐アルビオン大使に同情した。ようやくのことで接触できたトリステインの外務卿の口からこれを聞かされたとき、彼は自分のようにハッタリすらかますことが出来るかどうか。ショックの余り気絶するのではないか?そしてブレーメンは、自らが払った代償の大きさに、恐れおののくだろう。

「確かに、二度と逆らおうという気にはならないでしょうね」

ヘンリーの皮肉に、リッシュモンはにこりともせず答える。

「褒め言葉として受け取っておきましょう」

これでトリステインに逆らおうという事になるのであれば、ハノーヴァーもたいしたものだが、そんな気概があるはずがない。ウィルヘルム前首相以下の決断は、確かに見事であったが、それは所詮「ガリア」頼みであるとも言える。

自分の国の運命を、一部でも他者にゆだねた時点で、ハノーヴァーは「外交の独自性」を失っていたのだ。

「独立を維持する為には何でもする」というリッシュモンと、彼の背後にあるトリステインの執念に気圧されて、しばらく沈黙していたヘンリーだが、何かに気付いたのか、ふと顔を上げた。

「では何故存続させるのです?」
「・・・殿下、貴方は」

リッシュモンは正真正銘呆れた。先ほどまでは自分達の判断を「人ではない」とでも言うかのように非難しておきながら「それならハノーヴァーをさっさとザクセンと山分けしてしまえ」と言うヘンリーがわからない。一体、どういう神経をしているのだ?

「大義名分は何とでもなるでしょう。『盟邦を見捨てた裏切り者を討つ』と言えば、誰も文句はつけにくい」

(・・・こいつは)

馬鹿なのか、それとも大馬鹿なのか、もしくはアホなのか?

(アホが一番しっくり来るな)と、とんでもないことを考えているリッシュモンに代わり、エギヨン侯爵が答える。この老侯爵は、ガリアとの講和を望む英雄王の意を受けて行動し、国内の不満を一身に背負ったエスターシュ大公の後任として、宰相に就任することが、内々ではあるが決まっていた。


「二つ理由があります。まず王家であるオルデンブルグ家」

ハノーヴァー王国を治めるオルデンブルグ家は、旧東フランクの侯爵家時代から、婚姻政策や養子縁組で勢力を拡大してきた。王国崩壊時(2998)には、旧東フランクは数百もの諸侯に分裂したが、その殆どに相続権を有していた。ブリミル暦3200年代にはザクセンと旧東フランクを二分するまでに成長したのも、それが理由である。そしてその縁戚関係の広さは、今に至るまで続いている。「オルデンブルグ家と縁戚関係にない貴族はもぐりだ」というジョークが流行るほどだ。

元々外交とは、王と王、王家と王家、貴族と貴族という、個人的な友人関係や縁戚関係を頼ったものであった。今でこそリッシュモンの様な「職業外交官」が認知されるようになったが、程度の差こそあれ、王制国家が主流のハルケギニアに、その傾向があることは否めない。綺羅星のごとき系図をほこるオルデンブルグ家を取り込んでおくことは、それだけで価値があるのだ。

「それに、力で押しつぶすことが出来ても、どこから領有権が主張されるか解ったものではありませんからね」

オルデンブルグ家が領有権を持つということは、逆も成り立つ。一種のパンドラの箱を開けた状態となり、旧ハノーヴァーを巡る争いが勃発する可能性もありえる。


「そして第二に、我が国は占領コストに耐えられません」

戦争に勝った!領土を広げた!めでたし、めでたし・・・とはならない。占領地の治安維持を行い、新しい領主が決まるまでの行政機構を代理し、税率や法律はハノーヴァー時代のものを維持するのか、トリステイン式に切り替えるのか、領土の配分はどうするのか、ザクセンとの国境はどうやって策定するのか・・・そしてそのどれか一つでも失敗すると、全てがパーだ。

「領土を広げて、国がつぶれたでは本末転倒です」

エギヨン侯爵の言葉に、ため息を付くヘンリー

「上手くいかないものですね」
「最初から成功が約束された物事などありません。我々が意思を持って行動すれば、結果は我々が望むようになるのです」

そう言いきったリッシュモンに、ヘンリーは視線を合わせた。元気な爺さんだよ、本当。もう一度ため息をつきたい気持ちをこらえ、もう一つの案件-ゲルマニアについての話題を切り出す。


「アルビオンはヴィンドボナの領事館を再開いたします」


爺×2とヘンリーの夜は、まだ続く・・・



[17077] 第33話「旧い貴族の知恵」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:71b89978
Date: 2010/08/06 18:55
トリステイン王国は「建国王」ルイ1世以来、大規模な内乱や政変を経験したことがない。先のエスターシュ大公の失脚や、貴族の反乱等はあったが、国を真っ二つにするようなお家騒動などは未だかつてない。「水の国」と呼ばれるように、水資源に困らぬ豊かな国土が、無用な争いを避ける気質を育てたのか、南にガリアという大国と国境を接し、内乱や政争に熱中することを許さなかったのか。おそらくその両方であろう。

ところが、その王家に仕える貴族-特に閣僚クラスとなると「100年(3代)王宮に出仕することが出来れば名門」とみなされるほど、移り変わりが激しい(モンモランシ伯爵家は例外)。「500年では成り上がり」という一昔前のガリアとは正反対だ。封建領主として続く貴族は掃いて捨てたいほどいるが、王政府の閣僚や宰相を何人も輩出したという政治的名門は数えるほどしかいない。まさに「ゆく河の流れは絶えずして」である。

こうした一定の政治的流動性が確保されたからこそ、水の国は、ガリアやアルビオンの様な「王朝交代」という大掃除を経験することなく、『トリステイン朝トリステイン王家』が6千年の長きにもわたって続くことができた。

エギヨン侯爵家は、そんなトリステインで数えるほどしかない政治的名門貴族である。現当主にして、内務卿のエギヨン侯爵シャルル・モーリスは58歳。ずんぐりむっくりとした体の上に載った丸い顔に、白いものが混じった顎鬚は、短く整えられており・・・簡単に言うと年を取った「ルネッサ~ンス」の男爵である。ワイングラスを持たせれば、そっくりだ。

いわゆる「旧い貴族」の代表格であるこの老侯爵は、その柔和な風貌とは異なり、内務省一筋のたたき上げの官僚でもある。第1次エスターシュ大公の政権下では、内務次官として地方制度改革でその手腕を振るった。同時に「旧い貴族」の知恵として、急進的なエスターシュとは微妙に距離を置くことを忘れず、失脚後もその地位を宮廷内で保持した。

そうした「バランス感覚」と、大公派と「旧い貴族」の両方に顔が利くという点を評価され、エスターシュの後任として宰相に就任することが決まっていたエギヨン侯爵は、目の前の「猿芝居」の観客としてつき合わされていた。

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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(旧い貴族の知恵)

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「アルビオンはヴィンドボナの領事館を再開致します」
「トリステイン外務卿として、再開には断固抗議します。ヴィンドボナ総督家が、我がトリステインの領土を不法占拠している現状で、領事館の再開は、ゲルマニア王国の支配を認めるようなもの」
「総督家が実効支配している地域がトリステイン領とおっしゃるなら、何の問題もないはず。貴国の領内の領事館を再開することに、何の問題があるというのです?」

口角泡飛ばす激しいやり取りを繰り広げているのは、親子ほども年の差がある二人の男性。アルビオン王弟カンバーランド公爵のヘンリー王子と、我がトリステインの外務卿アルチュール・ド・リッシュモン伯爵である。

リッシュモン伯爵家は、もともと司法官僚を輩出する法服貴族の家である。当代のアルチュールは「人の恋文を覗き見したくない」という、なんともキザったらしい理由から、外交官を志したという。皮肉屋で、ジョークや小話を好む彼の性格は「法律解釈」という名の、議論のための議論を生業とする司法官には向いてはいない。しかし、閣僚会議での隙のない国際法解釈を聞くと、やはり法務貴族の血は争えないという思いに駆られる。

大柄なリッシュモンが、その身を乗り出しながら、論理立てて語るその様は、最近城下で問題になっているという「押し売り」を思わせるものがある。だが「変わり者」で「数字と交渉ごとにはめっぽう強い」と評判のアルビオンの王弟の言葉の節々からは、断固として跳ね除けるという決意がにじみていていた。

「アルビオンは『覚書』をお忘れになったのか?それとも我が国よりもゲルマニアとの関係を重視するとでもおっしゃるのか」
「貴国がそう受け取られるなら、それで結構。それ以上抗議するとあれば、外務卿の申し入れは、アルビオンへの内政干渉に当たると見なさざるを得ません」

その言葉に、やたらに大げさな身振りで首を振るリッシュモン。

「これは異なことをおっしゃる!内政干渉とはどちらのことか?『ゲルマニア王国』を名乗る反乱分子を『覚書』に反して黙認しようというアルビオンのほうこそ、内政干渉として責められるべきではありませんか?」

しばしの沈黙の後、ヘンリーが先に視線をそらした。それはリッシュモンに根負けしたというわけではなく、この猿芝居の幕引きを知らせるものであった。


「なかなかの役者っぷりでしたよ」

そう言いながらかかかと笑うリッシュモンを恨めしげに睨みつける。「観客がいないのが残念ですな」と言うヘンリーに「エギヨン卿がいらっしゃいます」と答え返す外務卿。名指しされたエギヨン侯爵はと言うと、面白くもないといわんばかりに鼻をならした。


***

現在ゲルマニア王国(トリステインは承認せず)の領地であるザルツブルグ地域一帯は、かつてその名のとおりザルツブルグ公国が治めていた。東フランク崩壊(2998年)後、ザルツブルグ公国は200年余りこの地域の主であったが、ブリミル暦3200年頃に台頭していたハノーヴァー王国と同君連合を組む。しかしながらハノーヴァーも確固たる支配権を確立することが出来ず、国勢が衰えると、この地域はすぐにロマリアのように各都市や諸侯が乱立することになる。

ブリミル暦3500年代、ここに進出してきたのが、東方進出を悲願としていたトリステインだ。ハノーヴァーと軍事同盟を組んだトリステインは、ザルツブルグ一帯を統治下に置き、東方進出の拠点とした。その際、建設されたのがヴィンドボナ-現在のゲルマニア王国王都である。ところがトリステインの東方進出政策も、長きに渡った内乱を収拾して再統一を果たしたガリアによって頓挫を余儀なくされた。本国が脅かされると、この地域に駐屯していた軍を引き上げざるを得なくなったのだ。

[東フランク王国⇒ザルツブルグ公国⇒ハノーヴァー王国⇒トリステイン王国⇒]と、まさに猫の目のように入れ替わる支配者のもとで、着実に力を蓄えたのが、ヴィンドボナ建設の際に力を尽くしたホーエンツオレルン家、現在のゲルマニア王家だ。トリステインは、ザルツブルグ支配維持のためには、このヴィンドボナ市の有力者の力に頼らざるを得ず、ホーエンツオレルン家もそれを見越して、水の国の機嫌を伺いながら、その権勢をバックに、この地域での支配権を確立していった。

両者の関係はブリミル暦4200年代、トリステインが完全にこの地域の実行支配権を喪失した後も続いた。ホーエンツオレルン家にすれば「トリステイン」の看板は、まだまだ利用価値があるものであった。トリステインはこの頃、アルビオンへの干渉戦争(四十年戦争、またはアルビオン継承戦争。4544-4580)や、ガリアとの関係に掛かりっきりであり、ホーエンツオレルン家の行動を苦々しく思いながらも、追認せざるを得なかった。ホーエンツオレルン家は、その行動の正当性を「トリステインのため」と公言していたため、その正当性に異議を唱えることは、トリステインのザルツブルグ支配の正当性に、自ら疑問符をつけるようなものであったからだ。

ブリミル暦6170年には、当時のトリステイン国王アンリ6世(『英雄王』フィリップ3世の父)から「ヴィンドボナおよび周辺6都市の総督」の称号を与えられるなど、ホーエンツオレルン家は「トリステイン」ブランドを最大限活用して、勢力を拡大。独立への歩みを進めていた。

これでトリステインが「ゲルマニア王国」の独立を笑って祝福することが出来るほど『英雄王』は安いプライドの持ち主ではなかったし、たとえそれを承認せざるを得ないとわかっていても、国民がそれを許すはずがなかった。


まぁ、簡単に言うと


「あのボケなめ腐ったまねしやがってからに!ひさし貸して母屋取られるとはこのことや!!百合の代紋につば吐きかけた落とし前はきっちりと(中略)んでもって、ケツの穴から(以下自粛)」


とはいえ、いくらトリステインが憤慨しようとも、ホーエンツオレルン家が1000年以上かけて築いて来たザルツブルグでの支配が揺るぐはずがなく、そして水の国が武力介入を口にはしても、南にガリアを抱えた現状ではそれが不可能なことを、誰もが見透かしていた。その上、ゲルマニア王国の建国は、ロマリア宗教庁と、教皇聖ヨハネス19世のお墨付きを得ている。たとえそれが金で買ったものだとわかっていても、宗教界の最高権威の承認はやはり重い。各国は、トリステイン大使の抗議に、判で押したように「ロマリアが承認しましたから」と繰り返して、ゲルマニア王国を承認。元々、いつかは独立するだろうと思われていたため、ヴィンドボナには領事館が集中しており、各国はそれを「大使館」に昇格させた。


ただひとつの例外-アルビオンを除いては。


アルビオンとトリステインの協調関係は、200年ほど前に締結した「アルビオン王国とトリステイン王国の両国の相互理解に関する覚書」というくそ長ったらしい覚書に始まる。俗に「アルビオン・トリステイン協商」と呼ばれる(これでも長い)覚書で、アルビオンとトリステインは相互の領土を承認し、白の国は大陸への、水の国は空中国土への領有権主張を放棄した。この時点では、文字通り単なる「覚書」でしかなかった。それが、ラグドリアン戦争で、アルビオンがトリステインの後方支援を行ったことを契機に、両者の関係は急接近。これにより「覚書」の占める位置が上がり、両国の同盟関係の基本とみなされるようになった。しかしながら、正式に相互攻守の軍事同盟を結ぶことは、ガリアを刺激しかねず、水面下での「暗黙の」同盟関係というものにとどまっている。

アルビオンが、ゲルマニアを承認できないのは、この覚書が原因である。より正確に言えば、互いに、空と大陸への領有権を放棄することを確認した「相互の領土を確認する」という条文の解釈にある。

トリステインは「これには東方領(ザルツブルグ地域のトリステインの名称)も含まれる」と見なしており、アルビオンは「これはトリステイン本土を指すのであって、東方領は含まれない」と考えている。アルビオンの解釈で言えば、ゲルマニア王国を承認しても何の問題もないが、トリステインの解釈で考えれば、それは明確な内政問題となる。

アルビオンのゲルマニア承認は、下手をすれば「協商」そのものを揺るがしかねない危険性をはらんでいるのだ。

「だからといって、ゲルマニアのために、アルビオンとの関係を悪化させたくはない」というのが、トリステインの本音。いくら駄々をこねても、もはやゲルマニアの承認は時間の問題。しかしながら、これをアルビオンに、何の根回しもなくごり押しされると、国内でアルビオンへの感情が悪化しかねない。

リッシュモンとヘンリーが先ほど交わした口論は、トリステイン国内への「アリバイ作り」である。「これだけいったのに、アルビオンが強行した」「トリステインはしぶしぶ承認した」という筋書きに沿った、一種の「出来レース」だった。あとは「観客」のエギヨン侯爵が、この「事実」を吹聴して、反ゲルマニアの強硬派と、現実主義派のバランスに立って、宰相に就任することですべての芝居は完結する・・・



「どこまでも手間のかかることを・・・!」


どこの手品師ですかあなたは



***

リッシュモンから再び煙草を受け取ると、ヘンリーは恥ずかしさを誤魔化すように、やたらと大きく息を吐いた。顔を赤らめ「わざわざ芝居をする必要があったのか?」とぶつくさ文句を言うことも忘れない。リッシュモンは宥めるように、ヘンリーのくわえた煙草に杖で火をつけながら「一種の通過儀礼ですよ」と答える。

「誰も見ていなくとも『やった』という事実が必要なのです。これで国内的にも、対外的にも嘘はつかなくてすみます」
「下手な嘘よりたちが悪いがな」

再びため息をついたヘンリーは、エギヨン侯爵に視線を向ける。

「とにかくこれで、『覚書』の解釈については追認するということでよろしいですね」
「えぇ。既成事実さえ出来れば、頑迷な高等法院も反対論は唱えにくいでしょう」

アルビオンのヴィンドボナ領事館再開⇒ゲルマニア承認というプロセスを踏むことにより、「国際社会で孤立する」という論法でトリステインの反ゲルマニア強硬派を説得するという筋書きが、こうして両者の間で確認された。見返りに「覚書」でアルビオンの解釈をトリステインに飲ませることが出来るとはいえ、お家事情に付き合わされるほうのヘンリーからすれば、たまったものではない。だが、これも同盟関係を維持するためと自分に言い聞かせた。

トリステイン高等法院は、司法権と立法権を有し「国家の中の国家」と呼ばれるほどの権限を持つ。「駄目なものは駄目」という立場から、歴代国王の歯止め役として働いてきたことも確かだが、万事の例に漏れず、組織のための組織となっている傾向があることも否めない。特に、法務貴族の中でもきわめて優秀なものが就任することになっている「法院参事官」は、弁も立つ上に、誰も反論できない「正論」を滔々と述べるため、エスターシュ大公や『英雄王』も手を焼いているという

「法務貴族」出身のリッシュモンが、苦々しげに言う。

「確かに参事官の言う内容は正論です。ですがそれを通すためには「力」が必要だということが、あの馬鹿共にはわかっていないのです。劇曲の台詞にケチをつけるばかりで、視野狭窄になっているのですな」

ヘンリーは「仕方がありませんよ」と苦笑する。どこの国でも一つや二つ、足を引っ張ることが目的の勢力が存在するものだ。むしろ反対勢力がなく、国論が一本化しているほうが危うい。「親亀こけたら皆こけた」で、国内に補完勢力がないため、国そのものが危うくなりかねないからだ。


「ショーケンだったかな?」
「・・・は?」
「いや、なんでもありません」

ヘンリーは「それでエスターシュ大公についてですが」と話題の転換を図ってごまかした。

「アルビオンが正式にゲルマニアを承認した直後に辞任を表明する運びになります」

自国の宰相の辞任という一大事にもかかわらず、リッシュモンが何でもないことのように答える。


***

ラグドリアン戦争は、トリステインに大きな傷跡と影響を与えたが、その中でも「トリスタニアの変」で失脚したエスターシュ大公の再登板による第2次エスターシュ政権の発足ほど、トリスタニアと周辺諸国に驚きをもって受け止められた事はない。「謀反人にもう一度政権を託せざるを得ないほど、トリステインは人材が欠乏しているのか」という観測は、半分は当たっており、もう半分は外れていた。


そもそも第1次エスターシュ政権の成立は、経済危機による政治的混乱により、高等法院から国王の退位論まで噴出する中で、フィリップ3世が打った窮余の一策であった。時期宰相確実といわれた財務卿のロタリンギア公爵が推薦したエスターシュ大公ジャン・ルネ6世の宰相就任。大公家の、しかも若干21歳という若い宰相の登場に、周辺国だけではなく、トリステイン国内からも不安の声が出たが、結果は見事に経済危機を乗り切ってみせた。

しかしながら、やはり「慣習」にはそれなりの理由があった。「外戚や大公家を閣僚には就任させない」という慣例を、フィリップ3世は「非常時である」として押し切ったのだが、皮肉にもエスターシュの手腕が評価されるに従い、「慣例」の正しさが証明されることになった。

すなわち「エスターシュ大公を時期国王に」という運動が起こったのだ。そもそも経済危機を引き起こしたのは、フィリップ3世の親政によるものであることは、衆目が一致するところであり、その経済危機をわずか数年で立て直した大公の待望論が出てくるのは当然ともいえた。

これがただの貴族であれば問題はなかったのであろうが、王位継承権を有する大公であることが、事態をより深刻化させた。エスターシュ自身にも、王座への意欲がなかったかといえば嘘になる。というより、むしろあった。それは貴族や高等法院-ひいては広い国民の支持を得て、戴冠するという形を想定していた。エスターシュとフィリップ3世には10歳以上の年齢差があり、実績を積み重ねていけば、王からの「禅譲」を期待出来たし、フィリップ3世も無碍に否定することは出来なかっただろう。そのためには、最低でも10年以上は宰相を続け、自身の権力基盤を王宮内に築くというのが、エスターシュの考えであった。

ところがエスターシュも予期しない運動が起こった。若手貴族-中でも「改革派」と称する中下級貴族から「フィリップ3世の即時退位と、エスターシュ大公の即位」を求める動きが、公然と現れたのだ。この運動は、エスターシュの人事改革で、徴税官などに取り立てられた貴族を中心に起こったものであり、それ自体には何の背景もなかった。彼らは「エスターシュ大公が国王に即位してこそ、真の改革が行われる」と信じていたし、それでこそ自分たちの未来が開けると確信していた。


エスターシュと、フィリップ3世、そして大貴族達は、それぞれが苦々しげにその運動を見ていた。


禅譲を狙うエスターシュからすれば「改革派」なる中下級貴族の運動は迷惑千万であり、むしろ禅譲の動きに水を差すもの以外の何者でもなかった。国王フィリップ3世が、そんな運動が面白いはずがないのは当然である。そしてそれに付け込んだのが、エスターシュの改革に反発する貴族たちであった。確かに、エスターシュの進める徴税機構の改革にしても、軍事指揮権の統一にしても、この中小国であるトリステインにとって、王権の強化が必要なことは、彼らも理解はしていたし、多少の自分たちの権限縮小は受け入れるつもりであった。国あってこその貴族であり、その逆がありえ無いことが理解できないほど、水の国の貴族は馬鹿ではなかった。そうでなければ、トリステインははるか昔にガリアに飲み込まれていた。

しかしながら、それらが全てエスターシュ自身が国王になるための布石とあれば、話は異なる。経済危機を引き起こした張本人とはいえ、フィリップ3世は「国王」であり、エスターシュは大公とはいえ、所詮自分たちと同じ「家臣」でしかない。それが「王」として自分たちの上で振舞うことを、はいそうですかと受け入れるはずがなかった。

そして起こった「トリスタニアの変」

貴族たちはエスターシュの致命的な失点を逃さず、こぞって足を引っ張った。結果、エスターシュは失脚。両者から等距離であるとみなされ、実際にそのように行動していた国事尚書のブラバント侯爵が宰相に就任した。

エスターシュ失脚後、水の国の内には深刻な対立が残った。すなわちエスターシュの失脚に尽力した「貴族派」と、その改革に理解を示し、支持をした「大公派」である。中立派のブラバンド侯爵は、両者の対立の上に立ち、政権運営を行なった。しかし両者から「中途半端な改革だ」「大公時代と何も変わっていない」という批判を受けることは免れなかった。


ここで話はセダン会戦に戻るが、この戦いではブラバンド侯爵を初め、フランソワ王太子、ヴァリエール公爵などの軍事・政治の中心人物が戦死。トリステインの屋台骨は大きく揺らいだ。しかしながら「大公派」「貴族派」の中心人物や強硬派も戦死したことにより、フィリップ3世の親政の下、両者の対立は収まるであろうと考えられた。ところが、中心人物がいなくなったことにより、対立はより細分化した。戦後の外交政策をめぐる「ガリア強硬派」「講和派」「対ゲルマニア武力制裁派」「ガリア・ゲルマニア両面での強硬派」「現状の追認」と入り混じり、余計に収拾がつかなくなった。

頭を痛めたフィリップ3世が再び呼び戻したのが、トリスタニアで謹慎させられていたエスターシュ大公である。この混乱を鎮め、国論を「ガリアとの講和」で一本化させるのには、このいけ好かない大公の政治手腕に頼るしかないと考え、同時に、国内の反ガリア感情のスケープゴートとしての役割も期待したものであった。


そしてエスターシュは、与えられた役割を見事に果たし、ガリアとの講和を成し遂げた。


そして今や、トリスタニアでは「売国奴」と同じ意味を持つエスターシュが、フィリップ3世に申し出た最後の仕事が「更迭される」という人事カードであった。アルビオンのゲルマニア承認-当然国内で巻き起こるであろう責任論を、自分を切ることで乗り切ることを進言したのだ。

これまでの経緯があるとはいえ、講和に尽力した宰相を切り捨てることに気が引ける『英雄王』に対して、エスターシュは、あのいやらしい笑みを浮かべてこう言ったとされる。



「杖は杖として、貴族は貴族として使いきられてこそ、その役割を果たすのです。ご遠慮なさらずに」





「・・・ただの嫌な奴ではないようですね」


ヘンリーのつぶやきに、エギヨン侯爵が素っ気無く答える。


「そうでなければ、私が寝首を掻いていましたよ」







この半年後、アルビオンはゲルマニアを承認。


同時に辞任したトリステインの宰相のことは、すぐに人々の記憶から忘れ去られた。


「旧い貴族」が、また一人、表舞台から下りた。



[17077] 第34話「烈風が去るとき」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:b679932f
Date: 2010/08/06 18:55
あの「魔法」を使わなくなって、どのくらいになるだろう。

私は臆病だ。だから、あんな「魔法」に頼らなければ、杖の一つを振るうことも出来なかった。

「勇気と無謀は違う」と彼は言った。

私は「自分の大切なものを守るため」に戦うことにした。自慢するわけではないけど、私には力があった。相変わらず臆病だったし、自分でもびっくりするぐらい素直でないのは変わらなかったけど、思慮深いくせに、どこか間抜けな彼の隣に立ち続けるために、私は自分を高めるための努力は怠るつもりはなかった。


(「そんなところが可愛い」とかぬかした片眼鏡は、とりあえずふっ飛ばしてやったけど)


私は「自分の死だけは特別」だと思っていた。自分の周りの大切な人の死も「特別」だと考えていた。

だけど、違った。

「名誉の死」-そんな言葉が入り込む余地すらない。英雄も、貴族も、平民も関係ない。魔法が使えるかどうか、ましてやドットやスクエアといったクラスは、まったく意味を成さなかった。


あの鉛玉が支配した戦場に、私の居場所はなかった


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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(烈風が去るとき)

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空中国土のアルビオンで生まれ育った者は、ハルケギニア大陸の地を踏む度に、違和感を感じるという。それが何かと聞かれても、言葉にすることは難しい。それは逆に言えば、大陸で育った人間がアルビオンに来ても感じることである。

(例えば空気だ)と、ヘンリーは思う。

アルビオンには『本来は有り得ないはず』の植物や生物が数多く生息しているという。例えば陸亀-砲亀兵が使う巨大な亀は、地上3千メイルの高さでは、本来生息できない。

これには二つの説がある。一つは、元々が浮遊大陸がハルケギニア大陸の一部であったため、同じ生態系が維持されているという説。これは学会でも笑い種のトンデモ説なので、置いておくとして、有力視されているのが、国土の地下に眠る風石が、大陸全体に何らかの影響を与えているという説である。実証したものはいないそうだが、地下に眠る大量の風石が、空中国土全体の空気を、地上1千5百から1千メイル程度の空気の圧力に調整していると考えれば、全てが説明出来るそうだ。


だが、学者がどういおうと、ヘンリーにとっては関係のない話だ。こうして、今、五感で感じている違和感は現実のものであり、それが全てである。


昔、サウスゴータで「地面が落ちる」といって不安に駆られ、強迫神経症になった平民がいたという。アルビオンで生まれ育ったものは、少なからずその不安を共有している。アルビオン人が気さくでフランクな性格なのは、その不安感を誤魔化すためなのかもしれない。


そういうわけでヘンリーも、地上に降りてくると、アルビオンでは感じることの出来ない安心を覚える。同じ森や川でも、空中国土と大陸とではまるで違うからだ。アルビオンの植物や動物は、どこか小ぶりで均一化されている(実際に比較すると、羊や木々なども、大陸のものと比べると小さいそうだ)。ところが大陸のものとなると、何から何まで千差万別。大きいものも小さいものも、全てが入り混じってそこにある。

風石などに制御されない、ありのままの森林、ありのままの川、ありのままの動物・・・それが嬉しい。


だが、今ヘンリーの心が弾んでいるのは、それだけが原因ではない。



トリステインの「花」、マリアンヌ王女にお茶会に招かれたのだ。



昨日の夜が、加齢臭ただよう爺×2との会談であっただけに、その嬉しさもひとしおだ。美しいものを見れるとなると、心が晴れやかになるのは、老いも若きも代わらない。

うきうきしながらトリスタニアの王宮内を歩くヘンリー。後頭部に石を投げてやりたい。

トリステインの王宮は、ガリアのベルサルテイルや、アルビオンのハヴィランドに比べると、その規模の小ささは否めないが、張り巡らされた水路や、よく手入れされた庭園などが品よくまとまっており、それでいて「どうよ」という作為がなく、好感が持てる。

景色を楽しみながら歩いていると、トリステイン王族の居所である、ユニコーン宮-通称:森の宮殿が見えてきた。森の中にあるというのではなく、森の中にあるように見えることから、そのように呼ばれるようになったという宮殿の前には、マリアンヌ王女が立っているのが見える。


王女自らお出迎えとは。これは気合を入れなければ・・・べ、別に下心があるわけじゃないぞ!紳士としての、心構えとしての話だからね!


ヘンリーは務めて「さわやかさ」を意識して、にこやかに右手を差し出した。



「やぁマリアンヌ王(むにゅ)・・・むにゅ?」



キラリンと白い歯を光らせながら、手をさし伸ばした瞬間、何故か足の下に奇妙な感触と効果音。目の前では、マリアンヌ王女を初めとしたトリステイン側が、微妙に目線を下に向けながら、凍りついている。嫌な予感がしたヘンリーは(むにゅ)を確かめるために、目線を下げた。



そこには、土を掻き分けて顔を出した、つぶらな瞳の可愛い


(きゅ~・・・)



「も、も、もぐらぁ?!!」



ヘンリーはあわてて足をどけたが、あいにく足元はモグラが掘り起こした土であふれかえっており、「ズル」っという効果音とともに、足を滑らせた。結果、顔面からつんのめるように地面に激突



「きゅう~・・・」

「ヘンリー王子~~~!!」


モグラのようなうめき声を上げるヘンリーを抱え、マリアンヌは悲痛な叫び声を上げた。





***

「いや、本当に、なんとお詫び申し上げたらよいか」

知らせを聞いて、森の宮殿に飛んできたエスターシュ大公が平謝りをする前で、ヘンリーは治療を受けた顔をさすっていた。マリアンヌ王女があわてふためく女官達を一喝。自ら治療に当たられたそうだが、治癒魔法のかけすぎで、顔が少し水ぶくれしている(時間が経てば腫れは引くので問題はないが)。

う~ん、さすが英雄王の娘。肝っ玉座ってるね。玉がないけど座っているとはこれいかに?


悪気はあった。後悔はしている。



それはともかく、日頃の人を食ったような態度ではなく、やたらに腰の低い大公に、こちらまで恐縮してしまう。

「いや、怪我といっても鼻血ぐらいですから。それよりも、あのモグラは大丈夫ですか?」

モグラ-ジャイアントモールは、ちょうど土から飛び出してきたところで、ヘンリーの足は、その鼻先を思いっきり踏みつけていた。モグラが豚鼻になるという、貴重なものを見せてもらった・・・それはともかく、自分に落ち度はないとはいえ、踏みつけたことに変わりはない。怪我でもされていたら、寝覚めが悪い。


・・・モグラに鼻の骨ってあったかな?


「あのモグラは、わがトリステインの軍人の使い魔でした。我が国は対象のジャイアントモールを『処理』するよう「ちょ、ちょっと待ってください!」

『処理』という穏やかではない単語に、あわてて言葉を挟むヘンリーを、いぶかしげな顔で見返すエスターシュ。

「いや、さすがにそれはやりすぎです。やめてください」
「そういうわけには参りません。将来の貴国との関係を考えましても、遺恨を残すことは好ましくなく・・・」
「宰相閣下は、私を血も涙もない、冷血漢にしたいのですか?」

半ば睨みつけるようにいうと「わかりました」とあっさり応じるエスターシュ。それまでの強硬に処分するという態度からの変わりように、拍子抜けしたヘンリーだが、直ぐに苦笑を浮かべた。

「・・・図りましたね」
「減俸ということでよろしいですな」

恨みがましいヘンリーの視線を風と受け流すエスターシュ。


それにしても、モグラか・・・



・・・まさかな



「ところで、その使い魔の主というのは」

「・・・独立銃歩兵旅団第1連隊長のナルシス・ド・グラモン中佐です。優秀ですが、その、使い魔の扱いに難がありまして・・・」



・・・ギーシュの親父?



***

「本当に、なんと申し上げたらいいか」
「いえ、たいしたことはありませんから、本当に」

本当に申し訳なさそうに謝るマリアンヌ王女に、慌てて頭を上げるように言うヘンリー。美人に謝られると、なんだかこちらが悪いことをしているような気になる。「いけない魔法使い」・・・とは意味合いが少し違うが、美人はやはり得だ。

マリアンヌ王女は、美人という表現は似合わない。彼女の美しさは、少女が大人になる半歩前といった美しさである。9分咲き・・・いや、8.5分咲きのダリアといったところか。熟れるにはまだ早い、蕾というには魅力がありすぎる。特にその胸とか・・・げふん、がふん。


急に嫌な視線を感じてキョロキョロしたのは、キャサリンの「教育」の賜物である。


「・・・どうかなさいましたか?」
「い、いえいえいえ!」

後ろめたさで、やたらに甲高い素っ頓狂な声で「いい庭ですな~」と叫ぶヘンリーに「はぁ」と首を傾げるマリアンヌ


・・・うん。正直に言おう。ぐっと来た。


「上玉を見て、何も感じない男は男ではない。それは男のなりをした抜け殻だ」というのが、ヘンリーの持論である。


軽い自己嫌悪を覚えながら(彼にも羞恥心ぐらいある)ヘンリーは白磁器のカップを手に取った。指で弾くと、いい音がしそうだが、さすがにそれは自重する。透明感あるカップの白が、赤みがかった瑠璃色の紅茶をよく引き立てている。

目で楽しんでいても仕方が無いので、口をつけた。


「・・・美味い」

思わず漏らした一言に、マリアンヌ王女が硬かった表情を崩す。花が咲くように微笑んだ王女に、柄にもなく頬が赤くなるのを感じる。感じたままをいっただけで、他意はない。無いったら無い!ほ、本当だぞ!!

キャサリンは俺を味オンチだという。「煙草を吸う人に、お茶の香りや、料理の繊細な味付けがわかるわけ無いでしょ」と。確かに、ハーブティーと紅茶の違いを判別できるかといわれると困る(だってどっちも似たようなものじゃない)。その味オンチの俺にもわかるぐらいだから、このお茶は美味いに違いない。

「お口に合えば幸いです。実は最近、紅茶に凝っていまして・・・」

好きなものを語る美女は、美しさが3割増しになると思う。なんでもお茶を入れるという行為は、意外に奥が深いらしい。凝りだせばキリがないそうで、その日の天候や気温・湿度にあわせて、葉を選び、お湯の温度を調整。カップの温度はと、話題が尽きることが無い。

もっとも、美しさが1割り増しというところを見ると、本心からこの話題が好きだという訳ではないようだ。暇つぶしというわけでもないのだろうが、他にする事もないため、手近なところの手慰みで時間をつぶしているというところか。案外、趣味というものは、そうした手慰みから始まるものなのかもしれないが。



考えれば、目の前のマリアンヌ王女も妙な立場だ。セダン会戦でフランソワ王太子が戦死しなければ、どこぞの外国の王族に嫁ぐのを待つばかりだったんだろうが。籠の中の鳥でいるには、彼女は聡明すぎる。フィリップ3世が、マリアンヌ王女を溺愛しているのは有名な話だが、そればかりが原因ではないだろう。


今のトリスタニアの王宮は、四部五部に分裂している派閥を『英雄王』の名声一つでまとめているといっていい。第1次エスターシュ政権と、それに続くブラバンド侯爵の政権下までは、対立関係が明確であった。エスターシュを中心とする改革派と、それを快く思わない非改革派―貴族派に(乱暴だとは百も承知だが)分けることが出来たからだ。

エスターシュ大公の進めた一連の人事改革で登用された中下級貴族は(大公本人の意思に反して)「エスターシュ大公の国王即位」を声高に唱え、権限を削られる大貴族は、大公の進める政策は、彼が国王に就任することを前提に進めているものと勘繰って(あながち間違いではないのだが)、サボタージュを決め込んだ。

トリステインの大部分の貴族は、どのような組織にもよく見られる「中立派」という名前の日和見でありつづけ、貴族間の階級抗争にまでには発展しなかった。その背景にフランソワ王太子と、宰相のブラバンド侯爵がいたというのは、論を待たない。大公の急進的とも言える改革に理解を示し、大公失脚後も大公派の後ろ盾となった王太子と、国事尚書という立場から中立を貫き、両者の対立構造の上に立って政権を運営した宰相がいなければ、「トリスタニアの変」後、王都では政争の嵐が巻き起こっただろう。


ところが「セダン会戦」が、その構造を一変させた。フランソワ王太子は、ガリアの平民兵の波間に消え、ブラバンド侯爵も、息子3人と共に、セダンの地に倒れた。幸か不幸か、同時に大公派や、貴族派の主要な人物と見られた貴族も戦死したことで、対立は収まると見られたが、あにはからんや・・・中心人物がいなくなったことで、対立は細分化した。その上、戦後の外交政策を巡って「ガリア強硬派、ゲルマニア武力制裁派、現状追認派etc」と、収拾が付かなくなり、いわく付きのエスターシュを再登板させなければ、収拾が付かなかったほどだ。

そんな国内から、マリアンヌの王配を迎えるなど、ようやく落ち着いた対立に火をつける以外の何物でもない。ましてや、マリアンヌ王女は、元々外国に嫁ぐものと考えられていたため、似合いの年頃の貴族の殆どは、相手が決まっていた。海外から王配を迎えるとなると、相手国との関係はもとより、血統的な問題(近すぎても遠すぎても問題である)や、相手国がトリステインに政治的影響を与えないかどうかなど、様々なハードルを越えなければならない。


そんな都合のいい王族が、早々いるはずもなく、マリアンヌのお相手探しは、宙ぶらりんとなっていると聞く。将来的には女王として即位すると決まっていながら、今は何も出来ない、許されない現状に、無聊を囲っているのだろう。



ちなみに、某魔法衛士隊隊長も、お相手候補の筆頭であったのだが「何故か」立ち消えとなったそうだ。

(『彼女』がいるからな)

と、給仕をする女官に視線を向けたヘンリーは、すぐにその行為を後悔することになる。

(・・・え、何?)

背中に、嫌な汗が流れた。ピンクブロンドという、ふざけた色の髪をアップでまとめた女官からは、殺気とまでは行かないが、何か内心にあふれる感情を感じる。本人としては務めて平静に振舞っているつもりだろうが、目が怖すぎる。内心の押さえ切れない感情が、両の目から滲み出ていた。

6000年以上続く王家に籍を置くものとして、身に覚えのない恨みを買うのは、いわば宿命の様なものだ。ジャコバイトなどがいい例だろう。とはいえ、いきなり身に覚えのない、生の感情をぶつけられては、さすがに対応に困る。それに、目の前の女官の視線は、無視するには余りにも強すぎた。目の前の女官に恨みを買うような覚えはしたことはないはずだが・・・


マリアンヌ王女も、女官の不穏当な視線に気が付いたようで、慌てて注意をする。

「マイヤール女官長!」
「あ、は、はい?!」
「『はい?』じゃありません!何ですかその態度は!」
「唐突で申し訳ないが」

突然口を挟んできたことに戸惑う女官長と、慌てるマリアンヌを尻目に、ヘンリーは続ける。こういう時は「先制攻撃」に限る。

「君は以前、私と王女との夕食会に同席していたんじゃないか?」
「は、はい!同席いたしましたでございまする」

途端に語尾がおかしくなる女官長に、頭を抱えるマリアンヌ。友人は、最近こそ、こうした公式な場に、ようやく慣れてきたとはいえ、突発的な事態には『地』が出てしまう。それはむしろ、マリアンヌにとって嫌いな事ではないが、今は時と場所が悪すぎた。


ヘンリーは深くうなずく。

「そうか。そうだろうね。君のその、髪の色には覚えがある」

ピンクブロンド-「ザ・ピンク」の衝撃は、そう簡単に忘れられるものではない。


「マイヤール女官長。君の噂はかねがね聞いているよ」
「は?それはどういう・・・」
「まさか噂の『烈風』のカリン殿が、このような見目麗しい麗人だとは思いもしなかったけどね」

「なッ・・・」

マリアンヌは思わず腰を浮き上がらせた。マイヤール女官長と、『旋風カリン』が同一人物であるということは、トリステインでも限られたものしか知らない、知らされていない機密事項である。それを、同盟国の王族とはいえ、どうして目の前の人物は知っているのか。

マリアンヌの驚いた顔に、カリーヌの警戒するような視線に、ヘンリーは苦笑を浮かべながら言う。

「ピンクブロンドの髪の持ち主はそうはいませんからね。それにマイヤール子爵家が、宮中に出仕することも出来ない貧乏貴族だということぐらい、我が国の大使にも調べることは可能です。カマをかけてみたんですが・・・あたっていたようですね」

『貧乏貴族』という言葉に、マイヤール女官長こと、カリーヌ・デジレ・ド・マイヤールが、顔色を変えて食いかかった。

「な!カマかけたって、あ、ああアンタねぇ!!それに、うちは「貧乏」したくて貧乏してるんじゃ・・・」
「カリン!おやめなさい!!」

鋭い声で叱責するマリアンヌに、顔をうつむかせて引き下がるカリーヌ。しかし、ティーポットを持つ手は震えており、取っ手を握りつぶさんばかりだ。

ヘンリーは頬を掻きながら「いや、試すようなことをして悪かったね」と、取り成すように言う。


本当のところを言えば、ヘンリーは原作の11巻を読んでいたことで、二人が同一人物であるということを知っていたのであるが、それは言わない。


「まぁ、その、なんだね。とりあえずは結婚おめでとう」
「にゃ、な、なななんあ!!!」

顔色七変化とは、面白いなぁと感心するヘンリーの前で、マリアンヌが長いため息をついていた。




***


「・・・っていうことがあったのよ!信じられる?!」
「・・・俺は君の言っている言葉が信じられないよ」

ピエール・ジャン・ル・ブラン・ド・ラ・ブロワ・ド・ラ・ヴァリエール公爵は、トリスタニアの屋敷の自室で、文字通り頭を抱えながら、マリアンヌに負けず劣らずの、深い長いため息をついた。


ラ・ヴァリエール公爵家は王位継承権を有する名門貴族であると同時に、王国南部に広陵な領地を有する、国内有数の大貴族である。好むと好まざるとに関わらず「政敵」がいるため、王都での宮廷外交や、情報収集が欠かせないのだ。

そのため、常時はトリスタニアの屋敷に、分家の当主や、信頼の置ける近臣を「公爵家の外交官」として駐屯させるのだが、現在の当主であるピエールは、魔法衛士隊隊長という要職にあるため、文字通り屋敷を居住地としていた。最も、広い屋敷は彼一人で使いきれるものではなく、若い魔法衛士隊員の溜まり場などになっている感もある。

『鉄の規律』で知られるマンティコア隊隊長などは「公私の区別が」とお冠だが、当の本人が、そこで寝起きしているのだから、全くといっていいほど、説得力がない。


「あのな、君が暴言を吐いたお相手はだな」

「知ってるわよ!アルビオンの王弟で・・・・・・」

それまでの威勢はどこへやら、急に顔の表情が強張るカリーヌ。ギギギッと、油の切れたロボットのように、動きが鈍くなった。


「・・・わたし、もしかして、トンでもない事やった?」
「もしかも、カモシカもない!」

頭痛を覚えたピエールは、机の上に手を伸ばして、リキュールの入ったボトルを掴み、直接ラッパ飲みをした。「飲まなきゃやってられるか」というのが、正直な気持ちであった。

「・・・っぷは・・・あのな、カリーヌ。あの変わり者のヘンリー王子だから、笑って許してもらえたんだ。これが礼儀に煩いガリアや、ザクセンなら、外交問題だ!!」

「ご、ゴメンなさい」

カリーヌは珍しく従順だった。ピエールは酒には強いが、ラッパ飲みをしている時の彼は、大体悪酔いをしている場合が多い。「絡み酒」のピエールに逆らおうものなら、一体何時間、説教に付き合わされるか解ったものではない。

しかし、そんな酔い方をするのは、親しい人間の前だけだという事を考えると、自然と頬が緩んでしま・・・はッ!私は何を考えたの

「まったく・・・大体君は『あいつは政治的にセダンを利用した』などと・・・あの場所にいた僕が一番よく知っている。殿下はそういうことをする人ではないと、何度も何度もそう言っているのに、君は殿下を睨みつけたそうじゃないか!」

「・・・はい」

ぐうの音も出ないカリーヌ。

ヘンリーの「両の手を胸の前で合わせる」という追悼行為は、兵士達の間では、評価が二分されていた。城下の平民と同様、その行為を褒め称えるもの。もう一つは「政治の道具にした」という反発であった。カリーヌはどちらかといえば後者であり、真意を見極めるために、不敬を承知でヘンリーを試したのだ。


結果は


(・・・あれは、そんなこと出来るタマじゃないわね)


モグラを気遣ってずっこける男が、そんなことが出来るとは思えない・・・


「・・・・というわけで・・・聞いているのか!」
「はい勿論!」
「大体君は日頃から注意が散漫で・・・

そう言いながら、またボトルに手を伸ばすピエール。日頃カリーヌの尻に敷かれている鬱憤を晴らすかのように、延々と言葉が尽きることが無い。「酒に強い」と言えば聞こえはいいが、こいつ実はただのアル中じゃないのかとも思えてくる。一度、ジェロームさん(公爵家家令)とも相談しなきゃね・・・

「それにだな・・・」



(中略)



「・・・というわけだ。わかったか!」
「はい・・・・」

半時間ほどしか経っていないのに、すでに机の上には、ボトルがダース単位で積みあがっている。顔色は全くといっていいほど変わっていないが、吐く息は酒臭いことこの上ない。やっぱりこいつ、アル中の気あるわよね・・・

「まぁ、この話はこれぐらいにして」

とかいいながら、何で14本目のボトルに手を伸ばしているんだ、この銀髪男は。杖を振って、ボトルを取り上げるカリーヌ。

「今日はもう終わりです」
「・・・もういっぽ「駄目です」・・・あと一杯だ『だ・め』はい・・・」

結婚前からすでに、尻に敷かれている。情けなくボトルを取り上げられる姿には、トリステインの精鋭を率いる魔法衛士隊隊長の権威や威厳は、どこにも存在しなかった。モノクルの下から「お願い」の視線を向けられたカリーヌはというと、プイッと顔を背けたが、その頬が赤く染まっている。

(そ、そんな、潤んだ目で見たって、駄目なんだからね!)



・・・けッ!




ボトルを棚に仕舞うカリーヌの背中を、恨めしげに眺めていたピエールだが、しわぶきを一つして、話題を切り替える。


「・・・やはり、考え直してはくれないか?」


その言葉に、顔を強張らせるカリーヌ。


「何度も言いましたように、私の決意は変わりません。結婚と同時に『烈風のカリン』は退役します」
「・・・君の力は、まだ王国には必要なんだ。せめて教導官としては残ってくれないか」

言葉とは裏腹に(これはもうだめだと)改めて確信したピエールに、重い疲労感が圧し掛かる。僅かな希望にすがり、彼女の気が変わることを期待して何度も繰り返したやり取りの度に味わってきた感覚ではあったが、とても慣れるものではない。


「ド・セザール中尉は、若いですが優秀です。彼ならば、私の後任は十分に務まります」

カリーヌが若いと言ったニコラ・ド・セザール中尉だが、カリーヌとは3歳しか違わない20歳。若いというには、余りにも年齢が近すぎるのは否めない。しかしながら、ピエールが心配しているのは、そのような事ではない。

「確かに彼なら、立派にマンティコア隊を率いることが出来るだろうが」
「ならばいいではありませんか」

モノクルを外して、眉間を揉むピエール。銀髪に白いものが混じっているように見えるのは、決して目の錯覚だけではあるまい。

「・・・わかっているくせに、困らせないでくれ」
「わかっているなら、同じ事を何度も聞かないでください」

このやり取りも、何度繰り返したことか。射るような視線から逃れるように、ピエールは椅子から立ち上がって、背後の窓に振り返った。日の落ちたトリスタニアは、家々の窓から漏れる明かりを除いて、闇に包まれている。



『烈風カリン』の退役-ガリアとの講和成立と同時に、内々に辞意を申し出たカリーヌに、国王フィリップ3世は勿論、軍の首脳がこぞって慰留した。「今やめられては困る」と。小国のトリステイン、特にセダン会戦の打撃から立ち直れていない軍において、「彼女」の存在は、その実力以上に利用価値があった。

逆に言えば、個人の名声に頼らざるを得ないほど、トリステインの受けたダメージの大きさを物語っていた。一般兵から下士官、将校に至るまで、戦死者の比率が変わらないということが、それを証明している。ラ・ヴァリエール公爵家も例外ではなく、前当主のアンリを初め、ピエールの二人の兄、ジャンとマクシミリアンが戦死した。そのため、家を出ていたが(当時すでに魔法衛士隊隊長であった)ピエールが、家督を相続することになった。

「たなぼた」などという陰口を叩くものは、口さがない宮廷スズメにも存在しなかった。彼らに人間らしい思いやりがあったというわけではなく、王太子フランソワの戦死に伴い、王位継承権が繰り上がったマリアンヌ王女を批判していると勘繰られることを、恐れたからだ。



閑話休題



カリーヌの辞意は、魔法衛士一人の退役問題に終わらせることは、その名声が許さなかった。大げさではなく、トリステインで「彼女」に並ぶ名声の持ち主は『英雄王』しかいない。この状況下で『烈風』に去られることは、著しく軍の求心力を衰えさせることになりかねない。

軍の建て直しに四苦八苦している陸軍卿のルーヴォア侯爵などは、軍の再編計画への影響を整然と説きながら、「陛下に全てを担わせるのか」と、情に訴えかける両面作戦を取ったが、カリーヌを翻意させることは出来なかった。同様にピエールも、何とか彼女を翻意させようと粘り強く説得したが、意固地になっているカリーヌに、内心説得を諦めていた。


ピエールがこの話題を切り出すたびに、カリーヌはこう切り返す。

「私がいては、邪魔になるから」と



「カリーヌ」

振り返ったヘンリーは、「妻」となる女性と目を合わせて、その言葉を否定した。

「君がどう考えようと勝手だが、それは慢心というものだ。君一人がどう足掻こうと、国家の意思決定には何の阻害にもならない」
「・・・それは違うわ」

あえて厳しい言葉であったとしても、この意地っ張りな女性は『本音』をぶつけなければ、真意を聞きだすことは出来ないだろう。意図せずに、皮相な笑みを浮かべたピエールは、自分自身にも降りかかってくる言葉だということを自覚しながら、生の言葉をぶつけた。



「何が違う。セダンで、部下を守ることの出来なかった君が。自分は傷一つ負わずに帰ってきた君が・・・」



その言葉は、最後まで発せられる事はなかった。カリーヌが、杖を喉の下に突きつけたからだ。とっさに、杖に手を伸ばしたが、抜くことすら叶わなかった。戦場で鉄の仮面を付けた時と同じく、何の感情もなく杖を振ることが出来る様子で、感情を押し殺した声で、彼女は問う。

「・・・事務作業ばかりで、腕が落ちた?」
「話を逸らすな。答えろカリーヌ」

杖を直接喉仏に押し付けるカリーヌ。回復呪文を唱えようと、喉を壊されてはどうにもなるまい。そんな状況でありながら、ピエールの視線はそらされることはなく、遠慮なく、カリーヌと、自身の傷口をつねり上げる。


「・・・・・」

「・・・・・」


重苦しいまでの沈黙。少しでも均衡が崩れれば、ピエールか、カリーヌか。そのどちらかの生命が、永遠に失われるだろう。


「・・・」

先に折れたのは、カリーヌだった。杖を下ろし、腰に戻す。ピエールは、内心安堵のため息を漏らしながら、表情だけは変えずに、見据え続けた。

「・・・ゴメンなさい」


ピエールの酒量は、明らかにセダン会戦を境にして増えた。そしてそれは、父や兄達が戦死した事ばかりが理由ではない。


フランソワ・ド・トリステイン


魔法衛士隊隊長であるピエールは、戦場で王太子を守る立場にいた。しかし、体勢を立て直したガリアの大軍の前に、自身が鍛え上げたと自負していた精鋭部隊は散り散りとなり、王太子はガリアの平民兵の波間に消えた。「フランソワ殿下を最後に見たのは、おそらく僕だろう」と、ポツリと呟いた彼の表情を、カリーヌは忘れることは出来ない。

彼女の謝罪は、一瞬でも自分だけの事に囚われて、ピエールを責めたことへの謝罪であった。

「・・・いや、僕も悪かった」

本音を引き出すためとはいえ、過去の傷口をつねったのは自分である。その点に関しては、謝るべきだろうと、ピエールも謝った。視線を合わせることなく、再び椅子に腰掛ける。ボトルに手を伸ばす気には、ならなかった。



「・・・32人と21頭」

それが何の数字かと聞くほど、ピエールは無粋ではない。セダンで死んだ衛士と、マンティコアの数を数え上げることに、どういう意味があるのかはわからなかったが、それが彼女が答えを語りだすために必要だということは、容易に理解できた。

だからこそ、あえて厳しい言葉で、その先を促す。

「戦場で人の死はつきものだ。それは多くの兵士の命を奪ってきた君自身が、よく知っていることだろう」

その言葉に激することなく、カリーヌはただ、首を横に振った。


「・・・私は、やっぱり臆病者なのよ」


ピエールは、まんじりともせずに見据え続ける。

「自分の死だけは、自分の部下達の死だけは、特別だと思っていたの」

カリーヌは顔を上げた。

「貴方だってそうでしょ?・・・違うとは言わせないわ。自分の、貴族の、戦場における『死』が、特別だと思っていたでしょう?戦場で死んだ貴族は、神官に祝福されて、一族の誉れとして、家が、国が続く限り、語り続けられると・・・そう思っていたでしょ?」

ピエールは無言だった。否定しないのならばそれでいいと、彼女は続ける。


「だけど、あの戦場は違った・・・そうでしょ?」



カリーヌは今でも、セダンで見た光景がありありと思い浮かべることが出来る。逃げる敵将を追い、薄い霧の中、ガリア軍を追撃した。しかし、霧の晴れた先にいたのは、逃げまどうガリア兵でも、『烈風カリン』に恐れおののく敵将でもなかった。

立ち膝で鉄砲を構えたガリア兵-それが見渡す限り、延々と続いていた。100や200では聞かない。1千を優に超える銃口が、こちらを向いていたのだ。


「エアシールド」を張ったところで、すでに遅かった。寝食を共にした、一騎当千の魔法騎士たちが、バタバタと倒れていった。怒りに任せて、敵陣を食い破り、兵を押しつぶした。しかしガリアはすぐに軍勢を建て直し、あの「光景」を目の前に展開した。

メイジではなく、名もなき平民の兵相手に倒れていく部下。倒しても、切っても、次々と湧き出てくるガリア兵に、ドラゴンの群れを相手にしてもひるまなかったカリンは、初めて恐怖を覚えた。


気付けば、部下は半分にまで減っていた。ド・セザール中尉の進言がなければ、自分もあの地で骸を晒していただろう。



カリーヌは、傷一つ追わなかった。陛下も、平民も、兵士達も、「流石は『烈風のカリン殿』」と、自分を褒め称えた。



その賞賛の中で、カリーヌは、自分の時代が-騎士の時代が終わったことを、戦場で初めて感じた『恐怖』と共に、その脳裏に刻み込んでいた。

自分ひとりが、何人敵をなぎ倒したところで、戦争の勝敗には、何の影響も及ぼさないということを。



「・・・時代が変わったのよ。戦場に、浪漫や英雄伝が入り込む隙のない、兵士達の命が、ついにただの『駒』として、『数』としての価値しかなくなった・・・ピエール、貴方もわかっているのでしょう」

視線を上げたカリーヌに、ピエールは押し黙った。

死に価値を見出すだけの理由が、ことごとく戦場から、急速に失われているという事実を、彼自身も否定したかった。だが、かつてトリステイン全盛の時代が終わりを告げたように、トリステイン-いや、ハルケギニアの貴族に色濃く残る『騎士』の時代が終わろうとしていることを、感情的に否定することは、彼の知性が邪魔をした。


「英雄譚にも、劇曲にも語られない死-あの戦場に、貴族と平民の死に、違いはあった?」
「・・・だから君は逃げるというのか。部下達を『駒』として戦場に置き去りにしたまま」

杖に手を伸ばしながら、あえて挑発するように言うピエール。しかし予想に反して、カリーヌは今度も怒りを見せなかった。ただ、「諦め」とも「淋しさ」ともつかぬ表情を浮かべていた。


「・・・そう。私は逃げるの」


予想外の回答に戸惑うピエール。カリーヌは、いつもの激情的な態度が嘘のように、淡々と続けた。


「あの体験をしても、トリスタニアには銃兵隊の導入に反対する人がいるのは知っているでしょう?」



・・・あぁ、そういう事か



「人の意識というのは、そう簡単に変わらないものよ。それは私が一番よく知っている」


・・・止めろ


「特に『あの』場所にいなかった人には、幾ら言葉を尽くしても、理解することが出来ないでしょうね。そして、その人達が・・・」


バンッ!


「もういい、解った!」



握り締めた左手で、机を叩き付けた。自分の不甲斐なさが、慰留するたびに、彼女を傷つけていたことに気が付かなかった、間抜けな自分が情けない。


ラグドリアン戦争後、銃兵を中心とする部隊の創設を唱えたのは、所属していた部隊が壊滅しながら、唯一生き残った士官のナルシス・ド・グラモンであった。トリステインの銃兵連隊が、砲亀兵から飯炊き部隊、果ては輜重兵まで含まれているのに、ガリアの連隊は、純粋に銃兵を中心とした部隊であった。火力の集中展開には、明らかに欠陥のあるトリステインの兵制を改革しなければ、ガリアどころか、ゲルマニアにも対抗出来ないというのが、ナルシスの主張であった。

当の陸軍省では、若手仕官の主動による兵制改革を快く思わない将校が、銃兵部隊の創設に反対を唱えた。これに何にでも口を挟んでくる高等法院が結んで、サボタージュを繰り広げており、ナルシスらは苦労を強いられているという。


そして、反対勢力の「論拠」となっているのが、誰あろう『烈風』のカリンであった。

「君らはそういうが、あの『烈風』殿は、傷一つ負わず帰ってきたではないか」


これが『烈風』でなければ、ナルシスも一笑に付しただろう。しかし、『烈風』の名声は、一人でも戦況を覆すことが出来るのではないかと、淡い期待を抱かせるのには十分すぎた-たとえ、本人が否定しようとも。



ピエールは苦々しげに掃き捨てる。

「・・・ナルシスめ」

「やっぱり聞いていなかったのね」とカリーヌは笑う。


「あの馬鹿らしい気遣いじゃない・・・これでわかったでしょ。私がいることが、貴方とナルシスの-この国の足を引っ張っているの」

そう言って、カリーヌは片目を瞑った。


「銃後の守りも大切よ。心配しないで。私がいる限り、ゲルマニアの猿共にはブロワの地は一歩も踏ませないから。貴方は安心して、トリスタニアで戦って」


ピエールは左手で頭をかきむしった。彼女は、自分が退くことで、戦場を知らないトリスタニアの貴族に「騎士」の時代が終わったということを、知らしめようというのだ。彼女の気持ちも考えず、ましてやその真意に思い至らなかった自分の間抜けさが、返す返すも腹が立つ。



「まったく、君というやつは・・・」



どうして、そう・・・・・・不器用なのか







トリステインの歴史に、数々の伝説と逸話を残した生きる伝説-『烈風のカリン』こと、カリーヌ・デジレ・ド・マイヤールは、成長したとはいえ、あまり大きくない胸を張って言った。






「貴方に似たのよ」





[17077] 第35話「風見鶏の面の皮」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:b679932f
Date: 2010/08/06 18:56
今年で35歳になる『白の国』の主は、執務中、基本的に顔を上げることはない。

「陛下。トリスタニアのタウンゼント大使から報告がありました。ヘンリー殿下は、予定通り三日後に帰国されるそうです」

侍従の報告に、報告書に目を通しながら、軽くうなずくジェームズ1世。聞き流しているわけでないことは、メモを取りながら聞いていることで解る。ジェームズのメモ癖は有名で、会議でもあろうものなら、手帳の2~3ページは黒く埋まる。基本的に無口なのは、ガリア国王のシャルル12世と似ているが、意図的に口数を少なくしているガリア王とは違い、単に世間話が嫌いなためである。「人の噂話をする人物に、ろくな奴はいない」というのが、国王のモットーであり、王の身の回りの世話をする侍従や女官は、異様なほどに口が堅い。

だからと言って、彼は自分に課した厳しいモラルを周囲に押し付け様なことはない。あけっぴろな性格で知られるアルビオン人から見ても『変わり者』として評判の次弟にも、よほど羽目を外さない限りは、その行為を黙認している。まぁ、その行動に、余りにも下らなすぎて、怒る気にもなれないということもあるが。なぜあれほど使用人の服のデザインにこだわるのか。それも女性用だけ・・・

そこまで考えて(何故あやつの事を考えなければならんのだ)と首を振るジェームズ。王は弟達に対して甘いと言われる。馬鹿な子ほどかわいいものだ(弟だが)。ただ、それもあくまで、公私の区別をつけた範囲内のものであり、弟であろうと近臣であろうと、それを乱すものは、ジェームズは極端に嫌う。


「要するに、国王陛下は神経質な性格なのね。ウィリアム(モード大公。末弟)は、陛下の性格に近いかしら・・・真ん中のヘンリーの、そうね・・・あれは、あの人(先王エドワード12世)譲りでしょうね」というのが、3兄弟の母-テレジア大后の評価である。


閑話休題


ジェームズ1世は「王は貴族の模範であり、貴族は平民の模範足るべきである」という父の教えを忠実に守り、堅苦しいまでにそれを続けてきた。それが苦にならないというのは、王の長所である。自分がそんな評価をされていることを、噂話を嫌うジェームズ1世が知るはずもなく、今日もいつものように仕事に取り組んでいた。

「陛下。枢密院議長と宰相閣下との会談時刻です」
「わかった。すぐにいく」


翌日、国王決裁の報告書を受け取ったパーマストン外務卿は「昨日はロッキンガム公爵と枢密院議長との会談か」と、王の昨日の行動の一部を知った。

無くて七癖である。

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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(風見鶏の面の皮)

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ランカスター朝アルビオン王家初代国王であるリチャード12世(4521~4580)は「政治とは、民のやることにあれやこれやと邪魔をしないこと」という言葉を残した。「再建王」と呼ばれた彼は、規制緩和と民間資本の積極的活用によって、四十年戦争で荒廃したアルビオンを立て直すことに成功する。「解放王」エドワード3世(3970-4005)が主導した一連の農政改革(農奴解放と小麦の品種転換)がもたらした政治的混乱と小麦飢饉という先例もあり、リチャード12世以降のアルビオン国王は、基本的に自ら政治行動を起こすことを極力避けるようになった。

すなわち、国内では「自由放任政策」を堅持。平民の商売に介入することなく、悪質な高利貸しや、不正業者だけを取り締まる一方、治安対策に専念した。対外的には、それまでの大陸への干渉を完全に放棄し、大陸情勢には中立を貫く。歴代の王は貴族間の公平な調停と、自らの教養を高めることに専念。何人かは学問で名を残して、国民からの尊敬を高めた。そうした環境で帝王学を授けられたジェームズ1世が、歴代国王と同じく、慎重な政治姿勢になるのは当然であった。性格的にも、政治的な冒険を嫌う。そんなアルビオンで、ゆっくりとではあるが、着実に中央集権化政策が進んでいるのは、変人と名高い、ある王弟の影響に外ならならない。


「風見鶏」と呼ばれるアルビオン王国宰相、ロッキンガム公爵チャールズ・ワトソン=ウェントワースは、自らの政界遊泳術から、政治的冒険を避けるという手堅い政治姿勢の利点と欠点がよく見えた。


制度が上手く機能している時は何の問題もない。しかし、リチャード12世の時代からすでに1700年以上。「再建王」の時代に作られた制度に、疲労が目立ち始めているのは否めない。そんな状況では、政治的冒険をしないという姿勢は、現状の追認-先送りにしかならず、むしろ害悪といっていい。

だからといって、声高に改革を叫んだところで、そう簡単に政治風土が変わるわけではない。内乱が起こったわけでもなし、農民層乱が起こっているわけでもない。そんな状況では、現場の人間でなければ、問題意識を持つ事は難しい。彼らに改革の必要性を説いても、こう返すだけだろう。「むしろそのような政治的冒険こそ、無用な混乱をもたらすのではないか?」と。「解放王」のトラウマは、未だ癒えてはいない。それは「風見鶏」のロッキンガム自身が、誰よりもよく知っている。同時に、内務省港湾局長や南プリマス県知事を歴任した現場の人間でもある。現状維持を望むものと、改革を求めるもの-どちらの気持ちもわかるのだ。


(まったく、やっかいなものだ)

最近薄くなって来た白髪頭を掻きながら、新宰相・ロッキンガム公爵は、閣議の開催を宣言した。


閣議は文字通り「閣僚による会議」である。かつては枢密院の一委員会であったが、行政府の役割が増すにつれて、政策意思決定の中心とみなされるようになった。些細な法案修正や、省令改正などは、関係閣僚だけがあつまる小数の閣議で決定されることが多いが、今回は「省庁再編」という、全省庁にまたがる懸案とあって、全ての閣僚が出席していた。

内務卿のモーニントン伯爵、財務卿のシェルバーン伯爵、外務卿のパーマストン子爵、枢密院議長のハリファックス侯爵 、大法官のダービー伯爵を初め、各省庁の次官・局長級がずらりと顔をそろえている。目立つのは、王立魔法研究所所長のチャールズ・ヴォルフと、王政庁の責任者でもある侍従長のデヴォンシャー伯爵。両者が通常閣議に出席することは無いが、今回は王立魔法研究所や王政庁も対象になるとあって、責任者が直々に乗り出してきた格好だ。


異様な熱気と興奮に満ちた議場を見渡して、ロッキンガムは(やはり辞退しておけばよかった)と泣き言をいいたくなったが、いまさら言っても遅いと、自分を叱咤する。


「えー、このたび宰相となりまし「宰相、早く本題に入ろうではないか?!」

まずは間を取ろうとしたロッキンガムの思惑は、苛立たしげに声を挟んだ内務卿によって、ものの見事に失敗した。内務卿のモーニントン伯爵は、温和な人物として知られていたが、かつての部下であるロッキンガムが、自分を飛び越えて宰相になったという状況が面白いはずがない。ロッキンガムは、「譲れるものなら譲ってる」と愚痴りたい気持ちを抑えて言う。


「・・・まずは、お手元の書類をご覧ください」

言われるまでも無く、殆どの出席者は、すでに資料を開いている。ロッキンガムとモーニングトンのやり取りを聞いていたものは、当人達以外いなかったようだ。

改めて前任者の偉大さに思いをはせながら、ロッキンガムも書類を手に取る。


出席者が目を血走らせながら見入っているのは、枢密院が発案した・・・ということになっている省庁再編のたたき台である。実際には誰の発案なのかは、出席者の誰もが、「あの王弟だろう」と、うすうす感づいてはいるが、それは言わない。

事実、省庁再編がヘンリー王子の発案だとしても、公式に「ヘンリー案」とすれば、この案を否定・批判することは、王族批判になりかねない。ヘンリーとしても、自分の案が最善だとは思ってはいない。現場の意見を、当事者である官僚達の意見を聞かなければ、いいアイデアが生まれるわけがないのだ。しかし、これが「ヘンリー案」なら、王族批判を恐れて、たとえ問題があろうとも、「お説ごもっとも」と言い出す可能性があった。

それを避けるためには、茶番であろうとも「これは枢密院の案である」といい続けなければならないのだ。


それにあながち嘘でもない。発案したのがヘンリーとはいえ、実際にまとめたのは枢密院だからだ。枢密院はアルビオン国王の諮問機関。王の諮問に答えるという形で、国政に影響を及ぼし、かつては国王に次ぐ権威を誇っていた。しかし行政府や議会が権限を増すにつれ、かつての最高諮問機関は、数ある国王の顧問機関の一つとなっている。枢密院顧問官は「国家の有識者や老巧者」-具体的に言えば、武功を立てた退役軍人や、引退した大臣や次官級の官僚が指名されるが、平均年齢が70代ということもあり「茶飲み場」という陰口を叩かれてもいる。


自分達の先輩に、面と向かって反論はしにくい。いい面の皮なのは、ヘンリーや枢密院の代わりに矢面に立たされるロッキンガムだ。モーニングトン伯などは、内容に少しでも問題があれば噛み付いてやろうと、他の出席者は省益と権益、引いては自身の将来に直結するとあって、じっくりと読み込んでいる。事前に内容が知らされなかったため、参加者で内容を知っていたのは、宰相のロッキンガムと、枢密院議長のハリファックス侯爵しかいなかった。

会議の事前に「たたき台」を通知しなかったのは、事前に内容が漏れれば、省庁を挙げての反対運動が予想されたためだ。リチャード12世の時代、財務省の設立に関して、事前に発表したために、反対運動が長引いたという先例もある。それに。公式な記録の残る閣議の場であれば、露骨な省益は主張しにくい。反対するにしても、奇麗事を言わなければならず、ヘンリーの聞きたいことは、そうした奇麗事であった。聞くに堪えない屁理屈も混じってはいるだろうが、屁理屈でも理屈は理屈。筋の通った話も必要である。泥の中の真実は、裏方の調整役(つまりロッキンガム)に任せればいい。


一度、紅茶に塩を入れてやろうかと、どこかの商会代表の様なことを思いながら、ロッキンガムも、書類に目を落とした。


***

沈黙が下りて十数分。閣議の場には、紙をめくる音と、何かを書き込む音だけがしていた。

ロッキンガムは(無駄飯ぐらいではないのだな)と見直していた。

ヘンリーのことではない。枢密院のことである。「国家の有識者や老巧者」が集まるというだけのことはあり、顧問官がまとめた省庁再編案は、年寄りの知恵(悪知恵とも)とでも言うべき配慮が、随所に見られる。


今回の省庁再編は、前宰相スタンリー・スラックトン侯爵の死去を契機としている。そもそもアルビオン王国宰相は、正式な職務権限が既定されていない。リチャード12世の時代まで、アルビオンの首席閣僚は「大蔵卿」であった。それが王政庁大蔵省から「財務省」を分離独立させるに伴い、大蔵省は王政庁の一部局となったため、それまで王政庁のトップの名称であった大蔵卿は廃止され、ハルケギニア大陸諸国で広く使われていた「宰相」という名称が使われるようになった。

国王大権を統治の正当性に位置づけるハルケギニアでは、国政と王家はイコールである。例えばアルビオンならジェームズ1世は『テューダー朝アルビオン王家の家長』であると同時に『アルビオン王国の国王』という二つの顔がある。前者は私的な、後者は公的な人格であり、時と場合によって、求められる人格が違う。

馬鹿馬鹿しいようだが、必要な区別である。国家の歳入を、王が私的に流用しては、国家財政など成り立つものではない。実際、「哲学王」エドワード4世の時代には、ハヴィランド宮殿の建設や、芸術活動に湯水の如く金が注ぎ込まれ、その負担が長く国家財政と民にのしかかった。リチャード12世が財務省を設置させたのも、王室財政(私的なサイフ)と国家財政を分離するためであった。

話はここで繋がる。リチャード12世は、財政面では「王家」と「国家」を分けたが、政治面では一体化を進めた。政治改革を進める上で、両者を分断するよりは、むしろ一体化して「国王大権」を主張するほうが都合が良かったからだ。「大蔵卿」に代わり「宰相」という名称を採用したことからも、それがわかる(宰相は「宮廷で国政(君主)を補佐する大臣」という意味)。「国家」と「王家」をあいまいにすることにより『再建王』は、フリーハンドを得て、様々な改革に取り組めた。

スタンリー・スラックトンのような、腹芸を得意とする調整型の政治家には、この体制は都合が良かった。権限があやふやなことで、宰相の手腕如何では、国政全般に影響力を及ぼすことも出来たからだ。在任期間が15年に及んだスタンリー・スラックトンは掛け値なしに「優秀」であった。それだけに、この宮廷政治家の死後、制度の矛盾がより明らかとなった。「国政」と「王家」の境があやふやなことで起こる、各省庁の権限争いを、スラックトンは殆ど一人で調停していた。重石がなくなった省庁間で、再び諍いが目立つようになってきたのだ。

「これでは駄目だ」

ジェームズ1世は、何らかの対応に迫られた。


そして、クシャミもしていないし、呼んでもいないのに飛び出したのが、ヘンリーである。ヘンリーは国内の治安機関の改革(平民も登用した警察機構の創設)を考えており、平民の登用への貴族層の反発を、省庁再編と言う大事業に紛れ込ませることで、誤魔化してしまおうという、実にセコイことを考えていた。

そういうわけで、枢密院顧問官が、お茶をすすりながら考えた再編案は、宰相職の廃止と、肥大化した財務省の権限分離の2本柱となっていた。


***

(こりゃ助かる)

侍従長のデヴォンシャー伯爵は、その厳しい顔を崩さずに、内心喝采していた。

侍従長は宮中を取り仕切る、いわば「国王の家令」とでも言うべきものである。元陸軍軍人のデヴォンシャーは、宮中の実務に疎く、そうした内向きの事を、宮廷政治家のスラックトンに任せていた。ところがスラックトンの死後は「王璽尚書(おうじしょうしょ)」と「国事尚書」を兼任させられ、悲鳴を上げていた。

ジェームズ1世は、求められる人格に応じて、印鑑を使い分ける。『テューダー朝アルビオン王家の家長』としての印鑑と、『アルビオン王国の国王』としての印鑑を同じにすることはできないからだ。前者を管理するのが王璽尚書、後者を管理するのが国事尚書である。デヴォンシャーには、たまったものではない。これは国事、あれは王璽という区別だけでも、大変であるのに、デヴォンシャーのもとには、便宜を図ってもらおうと、様々な人物が訪れる。追い払おうにも、中には喫緊な対策を必要とするものも含まれており、全てを無碍には出来ない。

スラックトンは、宰相とこの2つの官職を兼任することにより、情報を収集。宰相の不確かな権限を活用して、政権を運営した。これは大変な事務処理能力と絶妙な調整能力の持ち主であるこの老人だからこそ出来たやり方であり、デヴォンシャーは、山のような案件に目を通すだけで精一杯であった。

今回の提案では侍従長と兼任されることの多かった王璽尚書や国事尚書を「兼任禁止」とするとある。デヴォンシャーにはそれだけで願ったり叶ったりだ。侍従武官長の創設も、国王と軍のパイプ役が増えるということで、ありがたい話である。

(侍従武官長に転任出来れば、一番いいのだが)

デヴォンシャーは、シェルバーン財務卿と、ロッキンガム宰相との口論を、聞いてすらいなかった。

***

内務卿のモーニントン伯爵は、ロッキンガムに食いかかろうとしていた自分の役回りを、財務卿が奪ったため、手持ち無沙汰に、手を組んでいた。

(それに、文句をつける理由もない)

今回内務省は、大きな再編はない。港湾局が監督していた街道を「道路局」として昇格させることや、財務省からの「上知令」事業の移管など、権限の強化拡大が目立った。緩やかな中央集権政策が進む中、それまで領主貴族が担っていた公的インフラの整備や、治安維持を担うのは、ほかならぬ内務省であり、ある意味当然である。「治安機構の内務省からの独立」と、「警察学校の創設」というのが気になったが、それよりも増やされる人員と、他省庁から移管される権限の方が関心がある。ヘンリーのセコイ作戦は、この時点では成功していた。委譲する権限より、移管する権限のほうが多いとあれば、内務省が反対する理由はない。

懸案の港湾管轄権に関しては、空軍との厳しい交渉が予想されるが、それでもモーニントンは、自分の務めて来た内務省が「省庁の中の省庁」と呼ばれる日も近いと考え、頬が緩んだ。

(悪いな、財務卿)

***

シェルバーンは、そのそり上げた頭まで赤く染めて、茹蛸のようになっていた。無論、照れているのではなく、怒り狂っているからである。杖を抜かんばかりの剣幕に、ロッキンガムはとにかく下手に出て、シェルバーンをなだめようと必死だった。

「い、いや、決して、財務省をつぶそうとか、そういうわけではないのです」
「ほう、このようなふざけた内容を叩きつけておいて、よくそんな口が聞けますな」

ボルテージが上がれば上がるほど、口調がゆっくり、丁寧になっていく財務卿に、ロッキンガムは冷たい汗をかく。他の閣僚は、巻き込まれまいと目線をそらし「我関せず」を決め込んでいた。

財務省は、産業部門を統括する商工局を「商工省」に、銀行を初めとした金融機関を監督する銀行局を「金融庁」として独立。通貨発行とその流通を監督する通貨局、予算編成権を王政庁に移管・・・財務省に残されるのは、税収を集める事だけとあれば、シェルバーンが怒るのも無理はない。

「これでは『財務省』ではなく『徴税省』ではありませんか?それとも『徴税庁』ですか?」
「い、いや、それは、それぞれ理由がありまして・・・」

小麦飢饉と四十年戦争で、国土の殆どが荒廃した状況から立ち直る過程では、財務省に権限を集中させる事は有効であり、実際、財務官僚は様々な政策を経験することが出来たため、優秀な人材が多く育った。リチャード12世以降、多くの財務官僚が要職に抜擢されたことからも、それがわかる。

しかしその体制がいつまでも有効に機能するわけではない。経済規模が、緩やかながら人口増加に合わせて拡大し、風石船によってハルケギニア全体が一つの市場として認識されつつある中、財務省にだけ権限が偏ることは望ましくなかった。財務官僚の能力が劣っているというわけではなく、徴税、予算編成、執行権、金融監督に通貨発行、果ては産業政策に至るまでを、一つの省庁でやることには無理があった。それが解らないシェルバーンではない。しかし、生きながらにして体を切り刻まれるような内容を「解りました」とうなずくことなど、出来るはずがなかった。

「宰相閣下は身内にお優しいですな」

率直な物言いで知られるシェルバーンが皮肉を口にしたことに、パーマストン外務卿がそのどんぐり眼を見開いた。ロッキンガムの前職は南プリマス県知事兼任プリマス市長であり、内務省にいたことは、この場の誰もが知っている。穿った見方だと知りつつ、皮肉の一つでも言わなければ、気がすまない。


これにはさすがのロッキンガムもカチンと来た。「それは」と反論しようとするのを、パーマストン外務卿が口を挟む。

「宰相閣下は外務省にも居られた事がある。シェルバーン卿の怒りはわかるが、これは枢密院顧問官の方々の案だ。とりあえずはこれを前提に進めなければ、どうにもならないのではないかね?」

そういいながら、ハリファックス枢密院議長を見やるパーマストン。ロッキンガム公爵がハノーヴァー大使を経験したことを踏まえて「外務省にも喧嘩売るの?」とジャブを入れながら、口うるさい暇人どもの枢密院を押し立て「余りごねると、おじいさんが方がうるさいぞ」と、胸元に杖を突きつける。

阿吽の呼吸で、ハリファックス枢密院議長がじろりとシェルバーンを睨みつけた。御年80になる老元帥を前にしては、さしものシェルバーンも意見を引っ込めざるを得ない。


地獄にブリミルとはこの事と、パーマストン子爵に目線で感謝するロッキンガム。今回外務省はほとんど手付かずといってよく、中立の立場から意見を表明することが出来た。それを踏んだ上で、パーマストンは意見を述べたのだろう。しかしながらシェルバーンの怒りが消えたわけではなく、これから粘り強く抵抗するであろう事は疑う余地がない。枢密院の爺どもはそれを踏んだ上で、ある程度「吹っ掛けた」のだろうが、肩にのしかかる疲労感と、込み上がる胃痛を抑えることは難しい。


(・・・先が思いやられる)


胃液を飲み込み、ロッキンガムは口を開く。


「宰相職は廃止、行政府の長として、国王大権を補佐する首席大臣の『首相』を設置、閣僚を『大臣』と呼称することに、ご異論はありませんか?」


歓喜・憎悪・傍観・諦観・無関心・・・これほど様々な感情のこもった目で見られたことは、ロッキンガムは経験したことは・・・意外とある。「風見鶏」などと呼ばれ、家を守るためにその生き方を選んだ彼にとってみれば、そんな視線を受け流すことなど、慣れたことである。

パーマストン外務卿-初代外務大臣は呆れていた。新設の首相職に誰が就任するか-普通に考えれば横滑りであろう。それを、記録が残される閣議の場で「自分でいいですか?」と同意を求めるとは、一体どんな神経をしているのか?



心棒がしっかりしていなければ、風見鶏は風と共に飛んでいってしまう。



ロッキンガム公爵は、意外と図太く、あつかましく、ちゃっかりしていた。




***

(その頃のヘンリー)

ラ・ロシェールでは、アルビオン空軍の軍艦『キング・ジョージ7世』が、粛々と出航の準備を続けている。


「ヘンリー殿下」
「なんだねタウンゼント君」
「この樽は何ですか。私の目の錯覚でなければ、ワイン樽に見えるのですが」
「ははは。何を言うんだねタウンゼント君。これがワイン樽以外の何に見えるというのだね」
「・・・はぁ」
「心配は無用だ。風と水のメイジに、樽ごとに酸化防止と防腐処理を行わせたからな。気圧が多少変わろうとも、味は落ちない」
「いや、そういうことではなく、このワインは殿下の私物なのですか?」
「無論私物だ。お土産だ」


「・・・」



「な、なんだよ!ちゃんと宮廷費を節約して買っているんだからいいだろう?・・・・・・やめて!そんな目で見ないで!」




[17077] 第36話「お帰りくださいご主人様」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:b679932f
Date: 2010/08/06 18:56
プリマス-人口4万人を抱えるアルビオン南西部ペンウィズ半島の中心都市にして、古くから大陸との中継港として栄えた交通の要所である。ヨーク大公家領から王家直轄領となったあとも、この地を行きかう人・モノ・金の流れは滞ることはなく、むしろ増していた。とはいっても、人の賑わいは通りや時間によっても異なる。メインストリートから少し外れたノッテ通りは、飲食店街-酒場や料理屋が立ち並んでおり、食事時を除けば人はそれほど多くはない。

そんな中でも、一日中客が絶えない-特に男性客が多い店があった。先代夫人の名前をとって「ジェーンの酒場」と呼ばれるその店は、酒場といいながら、食事に飲み物、はてはちょっとしたパイまで-注文すれば大抵の物は作ってくれる。そしてそれなりに旨い。


だが、この店が男性客に人気があるのはそれだけが理由ではない。


「いらっしゃいませー」


店員の若い女性が「メイド服」を着て対応してくれるのだ。

最初、周囲の店は「馬鹿なことを始めたな」と笑ったが、ごっそり男性客を奪われると、笑ってもいられなくなった。「これはいかん」とある店の亭主が、変装して偵察に行った-彼はすぐにその店の大ファンになった。平民でしかない自分たちに、やさしくしてくれるメイドさん-商売でしのぎを削り、家では嫁に厳しくされ、娘には臭いと嫌われるプリマスの男共は、上はよぼよぼの爺さんから、下は毛の生えていない子供まで、それはもうメロメロになった。

当然ながらほかの店でも真似をするところが出たが、そのことごとくが失敗した。二番煎じということもあるが、その理由を「ジェーンの酒場」の常連に聞くと「なにか違う」から。同じメイド服を着ていても、立ち居振る舞いが全く違うらしい。傍目から見れば同じに見えるのだが、ほかの店は、わざとらしくて白けるが、この店のメイドさんは「本物」なんだそうだ。

当然である。メイドさん(店員)を教育する、この店の主人の妻は、もとは王宮で第2王子付きのメイド長を務めていたという、本物の「メイドさん」なのだ。俄仕込みの服を着ただけのメイドとはわけが違う。

もっとも、当の本人は、もう一度この服を着るのが、嫌で嫌で仕方がなかったという。幼馴染の経営するこの酒場は、嫁いだ当時、閑古鳥が鳴いていた。夫であるハリーの料理の腕は中々のものだが、それだけではお客は呼べない。女の子を雇うにしても、そう美人の子ばかりゴロゴロいるわけじゃない。どうにかして、周囲の店と差別化を図らなければと思い悩み


『酒場でメイド服着たら、お客さんがいっぱい来るよ?』


・・・いやいやいや。何を考えたの私。これは駄目よ。絶対に駄目。これは悪魔のささやきよ。この道に入れば、引き返せなくなるわ・・・


しかし、背に腹はかえられない。実際、これ以上閑古鳥に鳴かれては、次に泣くのは借金で首が回らなくなる自分達-


へスティーは、悪魔と契約を交わした


~~~

「・・・いらっしゃいませ」
「おぉ、へスティーちゃーん!今日も無愛想だね!」
「それはどうも」
「おお!その冷たい目線がたまらんのじゃあ!」

今日は週末ということもあり、特に客が多い。忙しいときには彼女も(嫌々ではあるが)メイド服に着替えて、接客に当たる。不機嫌さを隠そうともしない彼女は、商売人としてはどうかと思うが-それが逆に一部の男性客に受けているというのだから、世の中わからない。

へスティーはため息をついた。

「馬鹿ばっかり」

その馬鹿のおかげで儲けさせてもらっているのだから、なんとも複雑な気分ではある。ともかく彼女は、新しく入ったお客に、注文をとりに行った。角の5番テーブルに、壁を背にして座った二人の男性は、共にマントを羽織り、フードを目元まで深くかぶっているという、見るからに怪しい格好をしている。

しかし、へスティーにひるむ様子はない。

たまにこういった客が来るのだ。外聞をはばかる教会関係者とか、貴族とか-


「ご注文はお決まりですか?」
「おしい!そこは『お帰りなさいご主人様』だろ?」


王子様とか


*************************************

ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(お帰りください、ご主人様)

*************************************

「いやー、ひさしぶりだねぇ、へスティー。似合ってるよメイド服」
「・・・何しに来たんですか」

へスティーの握り締めた拳は震え、顔は強張っている。そんな元メイド長の様子に一向に構う様子はなく、元の主であるアルビオン王弟ヘンリーは、屈託なく笑いかける。

「いや、用事があったからついでにね。あ、そうそう。後でタルブのワイン持ってこさせるから。樽なんだけど、どこに置いておけばいいかな?あと今日のお勧め2つね」
「ありがとうございます。裏にまわして置いてください」

きびすを返して、厨房へと歩いていくへスティー。事情を知らない女性店員(無論メイド)は、可哀相に、女将の怒気に怯えている。

「震えるメイドもいいな」
「・・・兄上もお好きですね」

カンバーランド公爵の称号を持つ兄の「平常運転」に、呆れているのは、モード大公ウィリアム。世に言う「アルビオン三兄弟」の二人が、場末の酒場に陣取っているという奇妙な事態。しかし、周囲の男性客はメイドに夢中で、全く気が付いていない。

ヘンリーはともかく、何故ウィリアムまで、こんなところにいるかと言うと、それぞれモーニントン内務卿とシェルバーン財務卿から、プリマス市の「視察」と「監察」を要請されたためである。


現在、宮廷では省庁再編を巡り、内務省と財務省の鞘当てが激しさを増している。枢密院がまとめた省庁再編案では、緩やかな中央集権化政策に伴い、増大する地方自治行政を担当する内務省の権限が強化される一方、財務省はその殆どの権限を委譲・移管、もしくは独立省庁とするように勧告された。

内務省の一人勝ちとも言える再編案に、財務省は、この再編案は内務省が裏で糸を引いているのではないかと疑いの目を向けた。内務省は、内務省で、従来から地方行政や港湾事業で財務省と衝突する場合が多く、強大な権限をバックに押し切る財務省を好ましく思っていなかった。「ざまあみさらせ」と肩で風を切る内務官僚に、「このままじゃすまさん」と、財務官僚は不満を募らせているという。


旧ヨーク大公領ペンヴィズ半島は、内務省にとって、その能力が試される試金石である。ここでしくじれば、中央集権化の主導権を「やはり内務省にはまかせては置けない」と、財務省に奪われる恐れがあったからだ。財務省は財務省で「お手並み拝見」を決め込んでいる。


モーニントン内務卿は、内務省の権限強化案を通し、主導権を確立するために、トリステインから帰国するヘンリーに、プリマスへの訪問を要請した。ヘンリーとプリマスの縁は深い。そもそも、プリマスを含む大陸南西部のペンヴィズ半島南部は、6年前まではヨーク大公家が治めていた。当主であるチャールズ・ハロルド・ヨーク公には一男一女がいたが、公子のリチャードは体が弱く、そのため先代国王エドワード12世と、ヨーク大公は、公女のキャサリンと、第2王子のヘンリーを結婚させ、大公家と領土を相続させようと考えていた。それを当のキャサリンが「大公領は国王陛下から下賜された、いわば借り物です。それを大公家が統治するのが困難になったのであれば、王家に返還するのが道理ではないですか?」と説いて、大公領を王家に返還させた。しかし名目上は、キャサリンと婚姻関係を結び、大公領の相続権を持つことになったヘンリーが相続した形式をとっており、この地に少なからぬ影響力を持っている。

(現在のところ、プリマスの市政は問題なく機能しており、キャサリン公女を妻にもち、名目上とはいえ、この地を領有するヘンリーの信認を得られれば、いかに財務省といえども横槍は入れられまい)というのが、モーニントンを含めた内務省の思惑であった。


売られた喧嘩は買う、王族には王族だと言わんばかりに、シェルバーン財務卿は、財務官僚でもあるモード大公ウィリアムを「プリマス市政の税制度調査」を名目に派遣した。中心都市であるプリマスでの失政は、即内務省の失点に繋がる。たとえ見つからなかったとしても、牽制にはなる。


で、当の本人達はというと。プリマス港に入港した『キング・ジョージ7世』を出迎えたウィリアムは、挨拶も早々に「いいところへ連れて行ってやる」というヘンリーに、首根っこをつかまれ、お忍びでこの店を訪れたというわけである。

~~~

「兄さんを信用した僕が、馬鹿でした」
「そうだ、お前が馬鹿なんだ(ドカッ)ああおお・・・・い、す、スネはだめ・・・」

机の下で、思いっきり左の脛を蹴り上げられて、悶えるヘンリー。

「しかし、この店の料理は悪くないですね」

火加減の難しいパイを、中だけをふっくらと焼き上げているのには驚いた。王宮の料理人でも、こうは上手くいかない。一方、トリステインで王宮料理に舌鼓を打ち、舌が肥えていたヘンリーは、今一物足りないというのを正直に口にする。

「・・・まぁ、トリステインに比べれば、味は落ち(カンッ)ぬおおお・・・・」

厨房から飛んできたお盆が、ヘンリーの側頭部に直撃した。周囲のお客が、やんややんやと喝采を上げる。

「出たな!へスティーちゃんのお仕置き!」
「たいしたもんだ!おでれぇた!」
「僕もお仕置きされた(ドカッ)ありがとうございます!」

ふんっと、鼻を鳴らすへスティー。酒場で店の女の子にそれなりの格好をさせているとあれば、不埒なことをたくらむお客様もいる。そういった「お痛」する駄目な子へのお仕置きをするのも、女将の仕事である。

苦しむ兄を、自業自得といわんばかりに冷たく見下ろすウィリアム

「・・・兄上には、そういう趣味もあるんですね」
「ない!断じてないぞウィリアム!俺は叩かれて喜ぶ変態ではない!」
「そうですねメイド服でにやける変態ですね」
「そう、メイド服でにやける変態・・・って、違う!」

突如漫才を始めた、貴族らしき二人に、料理を持ってきた女性店員(メイド)は苦笑いを浮かべた。


「あ、あはは・・・お、おじさんたち、おもしろ「「おじさんじゃない!お兄さんだ!!」」


大声に驚いた店員が泣き出したことを確認してから、へスティーは、2枚のお盆を同時に投げつけた。

***

「・・・技のキレがましましたね」
「あぁ、2割増しだな」

元々へスティーは、テレジア王妃(現大后)付きのメイドであった。その彼女の、平民ながら媚びない毅然とした立ち振る舞いに感じ入ったテレジアが、やんちゃざかりの二人の息子の教育係として送り込んだのだ。「怪我しなければ、何をしてもいいから」というテレジアの言葉そのままに、ヘスティーはビシバシとお仕置きをした。

小さい頃のヘンリーとウィリアムは、年齢が3歳しか違わないこともあり、よく一緒に遊んだ。メイドのスカートめくりをしたり、使用人に片っ端から膝カックンを仕掛けたり、どのメイドが一番可愛いかを熱く語り合ったりしたものだ。その度に、ちょうど今のように、へスティーに遠慮なくシバかれたものだが、それもいい思い出である。

ウィリアムが側頭部を撫でながら言う。

「まぁ、確かにいいところですね。へスティーもいますし、料理はおいしいですし」

その言葉に、ヘンリーが反応した。

「おい、ちょっとこっちこい」

特に疑問も持たずに、体を寄せたウィリアムの頭を、スパーンと叩いた。

「あ、あて?!な、何するんですか!」
「声を潜めろ、馬鹿」

フードの下から、メイド服に目じりを下げていた馬鹿面ではなく、重々しい顔つきで自分を見てくる兄に、への字に曲げていた唇を引き結ぶウィリアム。

「何をのん気に料理を楽しんでいるんだ。ここに何をしに来たのか忘れたのか?」

(メイド服を見に来たのではないか?)とは、さすがに言えない。

「・・・プリマス市政の監察ですが」
「早い話が、いちゃもんつけに来たのだろう」

ぐっと詰まるウィリアム。負けじと「そういう兄上こそ、内務に色目を使って」と言い返す。しかしヘンリーは、それに気分を害することもなく、小さくため息をついた。

「そんな表向きの話はいい。お前も真面目に仕事をする気がないから、俺の誘いに乗ったんだろう」

「違うか?」と顔を近づける兄に、ぽりぽりと頬を掻く。まったく、身も蓋もない言い方は、昔と全く変わっていない。

今頃、プリマス市のお偉方は、血眼になって自分達を探している事だろう。プリマス市の内務省出向組みと、ウィリアムについてきた財務官僚は、それぞれ自分達の主張に沿った資料を集め、視察コースを回らせようとしていたのに、当の王子が二人ともいなくなったとあれば、計画は根底から狂う。政争に王族が関わって、ろくな結末になったためしがない。ウィリアムは、省の意向に反した行為をしているという後ろめたさもあって、わざとぶっきらぼうに答える。

「つまらない権限争いに付き合いたくはないからですね」

肩をすくめる弟の成長に、目を細めるヘンリー。

「お前も言うようになったね。まぁそれはともかく、実際のところ、財務省はどこまでなら受け入れるつもりだ?」
「・・・それを僕に言わせますか」
「当たり前だ。誰がここの代金を払うと思っているのだ」

懐に手を伸ばし、財布を置いてきたことを思い出した。昔のフランク貴族でもないのに、鳥の羽を使って食べたものを吐き出すわけには行かない。そんなことをすれば、ヘスティーに半殺しの目にあうことは、目に見えている。

周囲から見れば、自分達はどう見えるのか。若い男が二人、酒場の片隅で顔を寄せ合って密談しているのだから、痛くない腹を探られかねない。男色の疑いを持たれた日には、エリザに会わせる顔がない。というか、目の前の馬鹿を殺して、俺も死ぬ。

「宮殿で俺とお前がさしで会えば、何かと憶測を呼ぶからな」
「ですが、ここは・・・」
「不特定多数の人間が来る酒場は、絶好の密談場所だよ。それにここの客は大抵メイドを見に来ているからな。常連と、そうでない者の区別はしやすい」

そう言いながら、机の前を通るメイドを目で追う兄。この馬鹿は、真面目にやる気があるのか、ないのか。

「何とかは死んでも直らないといいますからね」
「何か言ったか?」
「いや、何でも」

***


「・・・面倒だな」

ウィリアムから財務省の内情を聞いたヘンリーは、低い声で呟いた。

良くも悪くも、今まで国家を支えてきたという自負を持つ財務省は、今度の再編案に激怒しているという。商工局と銀行局の独立、通貨局を王政庁の下で独立機関とし、予算編成権も王政庁に移管されれば、財務省には税の徴収権限ぐらいしか残らない。おまけに、これだけの大規模な再編案であるのに、ロッキンガム宰相から財務省には根回しどころか挨拶も無かったことが、ますます感情をこじらせている一因となっていると、ウィリアムは言う。

ヘンリーはうんざりしたように答える。

「あれは枢密院がまとめたんだぞ。大体、枢府にはウィルミントン伯爵(前財務卿)がいるし、今の書記長官はモートン伯爵(元財務次官)、情報が入らなかったわけが無いだろうが」

「それが入らなかったんですよ」と言って、困ったような顔をするウィリアム。訝しげな表情を見せていたヘンリーは「モートン書記長官は『商工族』ですから」という弟の言葉に、「あぁ、なるほど」と頷いた。

商工局は結束の強さから「商工族」と呼ばれる。通貨・財政・産業政策まで幅広く管轄する財務省は、それぞれ部局の縄張り意識が強い。財政を担当する予算局と、産業政策を担当する商工局の対立が知られているが、財政第一主義の風潮が強い財務省の中で、積極的な政府介入による経済政策を主張する商工局は少数派であった。モートン伯爵が財務次官に就任したときは、久しぶりの商工族出身の次官ということで、注目を集めた。しかし、省内の大勢には逆らえず、念願の商工局独立の端緒すら手をつけることが出来ずに、引退に追い込まれたという経緯がある。

「シェルバーン財務卿も、財務省の分割自体にではなく、モートン伯爵のだまし討ちの様なやり方が腹に据えかねておられるようで」
「その辺の根回しをうまくやってくれると思って、枢密院に頼んだのだがな・・・」

ヘンリーは舌打ちをした。先輩後輩の関係は、例え所属する組織が変わろうとも変わらない。大先輩ぞろいの枢密院から言われれば、いかに大規模な再編であろうと、財務省も受け入れざるを得ないだろうという自分の考えが甘かったことを思い知らされた。

「次官経験者のモートン伯爵の『裏切り』への反感は相当なものです。商工局の独立だけは認めないという意見も・・・」
「ウィルミルトンの爺さんは、何をしているんだ」

八つ当たりだとは知りつつ、前財務卿で枢密院顧問官のウィルミルトン伯爵への苛立ちを口にする。調整型の老伯爵が、何も動かないで手をこまねいているわけがない。彼をもってしても、財務省内の反発を収めることは難しいのだろう。

「財務卿は閣議で反対を示されましたが、良く反対してくれましたというのが、正直なところです。一部でも検討するという現地を与えていては、省内は収まりませんでした」

淡々と語るウィリアムとは対照的に、眉間の皺を深くするヘンリー。シェルバーン自身は、商工局への独立に理解があるとヘンリーは見ていたが、省内の大勢に逆らってまで、賛成することは難しいだろう。

なにより厄介なのは、財務省が横に寝てしまえば、政権運営が行き詰るということ。内務省が威勢良く吼えてみたところで、その権限や能力は未だに財務省に取って代われるようなものではない。そのためには再編案を通し、権限と人員を増やすことが必要だが、そのためには財務省を説得しなければいけないが、だからといって賛成するとも・・・

堂々巡りの思考を続けるヘンリーに、ウィリアムが続けて言う。


「省内では、ロッキンガム宰相は内務省の回し者だという噂まで飛び交う始末で」

相変わらず表情を表に出さずに喋るウィリアム。ハシバミ草を口の中に詰め込まれたような顔をしているヘンリーは、目線を忙しなく動かし、考えをめぐらせている・・・女性店員の動きと、視線の動きがリンクしているような気がするが、そんなわけはないはずだ。そうに違いないんだ。

「何か考えがおありで?」
「うん、やっぱりメイドさんは、ツインテールよりポニーテールの方が・・・あああ・・・」

今度は右の脛を蹴り上げられ、悶えるヘンリー。

「か、軽いジョークじゃないか・・・」
「時と場合を心がけてください」

氷の様な冷たい目で見下ろす弟に、慌てて言い訳を始めるヘンリー。威厳もへったくれもあったものではない。

「いや、あるって、ある。あ・・・いや、ないか?」
「どっちですか?」
「・・・ないとはいえない」

呆れたように息をつくウィリアム。「ないことはない」ということは、何か考えがあるけど、今はいえないということか。それとも財務官僚である自分には言えない内容なのか。ないと言い切ればいいものを、弟である自分に、妙な気遣いをして・・・

自分でもよくわからない苛立ちを覚えながら、ウィリアムは思い出したように最初の話題に戻した。

「視察はどうします?私も仕事で来ていますから、手を抜くわけには行きませんが」
「真面目にやればいい。内務省とて、ここでしくじれば全てがパーだとはわかっているからな。税制度の引継ぎや徴税でへまをするような真似はしないだろう・・・それに」

ヘンリーの顔が自嘲げに歪む。

「そうでないと困る。見られていないとサボるのは、大人でも同じだからな」
「・・・内務省とうち(財務省)を張り合わせると?」

顔を顰めるウィリアム。相互監視をさせられることが、楽しいと感じることができるものは少ないだろう。ヘンリーは、弟の嫌悪感を含んだ視線を受け流して答える。

「チェックのない権力は腐敗するもの・・・だそうだ」

ピクリと片眉を上げるウィリアム。根拠のない話でも、妄想でも、自信満々に断定調で語るこの男が、伝聞で語った。

・・・そういうことか

「兄上も人が悪い」


ここでウイリアムが言う「兄上」は、ヘンリーではない。

アルビオン三兄弟の長にして、国王-ジェームズ1世。


「まぁ、気を悪くしないでくれ・・・というのは、無理だな。そんなものだと割り切っておけ」

「お話は終わりましたか?」

ちょうどその時、隣の席のテーブルの片付けを、店員にまかせたへスティーが、二人のテーブルにやって来た。話が一段楽するのを待っていたのだろう。一口か二口手をつけただけの料理を見て、顔を顰める。

「一つのことに熱中されると、ほかの事が見えなくなるのは相変わらずですね。冷めると不味いから、早く食べてください」
「ヘスティー、あのね、一応、僕は今は大公だし、あんまりその・・・」

じろりと睨みつけられ、黙り込むウィリアム。教育とは、偉大である。


「あ、そうそう、へスティー。ワイン以外にもう一つお土産が」

そう言って、突然椅子の下に置いた鞄をあさりだすヘンリー。何を出すのかと、ウィリアムとヘスティーは、興味を持った。


「え~と、あ、あった、あった・・・じゃっじゃじゃ~ん」



「・・・とりあえず聞きますが、それは一体なんですか」







ヘンリーが机の上にのせたもの。それは、まごう事なき









猫耳カチューシャー









「いやー、ようやくこれが作れるぐらいの余裕が出来てね今度来るときは肉球手袋と、尻尾を・・・あれ?そんなに嬉しかった?いや~、そこまで喜んでくれると・・・・・・・あれ?あの、へスティーさん?・・・あの、ちょっと。どこいくの~?おーい・・・・あ、君、これつけてみない?絶対似合うから・・・」







ウィリアムは、両足で、馬鹿の両脛を蹴り上げた。



[17077] 第37話「赤と紫」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:b679932f
Date: 2010/08/06 18:56
連合皇国の首都ロマリアで、4年に一度の風物詩となっているもの-それは、教皇選出会議(コンクラーベ)である。教皇に選出される平均年齢は70歳、大体在任の4年目で始祖の下に召される計算だそうだ。

これは教皇選出会議の制度が関係している。会議で投票できるのは、枢機卿以上の高位聖職者に限られている。司教であり、10人以上の枢機卿の推薦を受ければ、立候補できるため、論理的に言えば、平民司教も教皇になれるが、何の後ろ盾もない司祭が立候補したところで、投票で勝ち目はない。そのため、実際に候補者となるのは、選挙戦を十分に戦うことが出来る有力枢機卿に落ち着く場合が多い。支持を集めるためには、それなりの準備と経験が必要であり、ある程度の時間が必要となる。自然と候補者の年齢も上がるというわけだ。「坊主は長生き」と言うが、それでも70歳から、10年も20年も続けられるわけがない。

4年に一度の「狂宴」は、ロマリアの市民にとっては、格好の娯楽である。人事を予想するのは面白い。当たればなお面白い。賭けていた金が増えれば、もっと楽しい-現在の教皇が、ロマリア市民に人気がない本当の理由は、就任から6年目になるのに、未だに死にそうにないからだという小話があるくらいだ。


この小話を聞いたナザレン神学校のある神学生は、次に発した一言で、同級生から「ユーモアがある」と褒められることになる。

「老人は、労わるものだ」

自らを褒め称える同級生を前に、彼-ジュール・マンシーニ=マザリーニが、その端正な顔を不機嫌そうにゆがめたのは、言うまでもない。

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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(赤と紫)

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御年74歳になる現ロマリア教皇ヨハネス19世-バルテルミー・ド・ベルウィックの朝は早い。日が上る前に起き上がり、完全に太陽が顔を出したときには、すでに身だしなみを整え終えている。その反対に夜は早く、日が沈みだした頃に着替え始め、完全に沈んだときには、すでにベットに入っているというのだから、徹底している。

それに付き合わされる神官や聖堂騎士はたまったものではない。しかし、この老教皇は、断固としてその生活スタイルを変えようとしなかった。60年以上もこの慣習を続け、実際に風邪の一つもひいたことがないのだから、たいしたものである。これを「融通が利かない」と見るか「周囲に流されない」と見るかで、評価が分かれるところだ。



いつものように、日の昇る前に目覚め、朝の祈りを済ませたヨハネス19世は、いつものように機嫌が悪かった。ここ数年、この老教皇の機嫌が良かったことはない。ザクセン王が領内の修道院に課税すると聞けば怒り、聖堂騎士隊の服装が乱れていれば、風紀が乱れていると延々と説教をし、雨が降りそうになると、足の古傷が痛み出すために気分を害する。

往々にして、人は年齢を重ねると、堪え性がなくなるという。だが、この老人の気の短さは、よくある老人のそれを超えていた。元々の性格もあるのだろうが、政治家にして政治屋、経営者にして行政官、そして何より、全ブリミル教徒を統べる存在である老人の頭を悩ませることは、悪魔の誘惑のように多く、『破門』を宣告したい人間は、掃いて捨て、砕いて煮て、流民に配るスープに混ぜてしまいたいほどいるからだ。



『破門』の誘惑に駆られながら、それを表情にはおくびにも出さずに、目の前の人物の要望を聞くヨハネス19世。迷える者の話を聞き、道を示すのが「商売」とはいえ、好き好んでサハラに迷い込んだ者に、帰る道を指し示すことは、果たして自分の仕事なのかどうか。神や始祖ならともかく、自分はそこまで暇ではない。


「昨年の旧東フランク地域の天候不順による不作の影響もあり、流民は増えるばかりです。城門での流民対策も限界があります。このままでは週3回の炊き出しも中止せざるを得ません」

迷える大馬鹿者-ロマリア市のガエターノ・ラパニエッダ食料局長は、自分の言動が、気難しい老教皇の機嫌を損ねている事は重々承知した上で、自分の主張を得々と述べる。

「教皇聖下、何とぞ迷える流民達に御慈悲を」
「・・・週2回の炊き出しを、3回にしたのは、君の判断だそうだな」
「はい。恐れながら、飢える流民に手を差し伸べる事が、聖下と始祖の御心に添う行為であると考えた次第です」


口調こそ丁寧ではあるが、ラパニエッダの表情からは、まったく自分への敬意が感じられない。目鼻立ちが整ったその顔は、もうすぐ40になるというのに、肌の張りや髪のつやにはいささかの衰えも見えない。一言で言えば、女子供に好かれる容貌だ。実際、市民にも人気があるという。


ロマリア市政は、市議会がその実権を有する。権威や権力という物に、生理的に拒否反応の強いアウソーニャ半島の中でも、ロマリア市民のそれは、群を抜いている。名目上は、教皇が市長や市議会議長を指名することになっているが、実際には議会の多数派を追認しているだけの話。ある意味、政教分離が最も進んだ都市が、教皇のお膝元であるというのが、何とも皮肉な話だ。これは、ロマリア市に限ったことではなく、アルクレイヤなどの連合皇国を構成する自治都市にも共通したことであり、ブリミル教を完成させた聖エイジス20世以来、宗教と政治の関係に、長年苦しんできたロマリアならではの『智恵』である。

ヨハネス19世は、その『智恵』とは、詰まる所「バランス」だと考えている。

各王国や都市の政治や外交に、全く宗教庁の影響力が無い訳ではない。トリステインやガリアに置ける教会の影響と比べれば、その違いは明らかである。しかし、最低限の超えてはいけない範囲を、構成国と宗教庁は『暗黙の了解』として把握していた。それを越えれば、市長や国王、たとえ教皇といえども、必ず失脚する。


目の前の男は、そのバランスを意図的に壊し、自分の為だけに利用しようとしている。それが老教皇には気に食わない。


連合皇国の首都にして、始祖の眠る地であるロマリアには、さながら、砂糖に群がる蟻の様に、ハルケギニア中から流民が集まる。職にあぶれた者、故郷を捨てた農民、破産した商人、家族に捨てられた孤児、そして障害者や、戦場で傷を負った兵士・・・ハルケギニアの最下層の中で、ロマリア市にいないのは、新教徒ぐらいのものだ。

しかし、何事にも限りがあるように、手持ちの砂糖(配給)には限度がある。それを、目の前の男は、それも砂糖を配る責任者であるはずの男は、それをわかっていながらやっているのだから、性質が悪い。


ロマリア市で定期的に行われている貧民への炊き出しは、社会保障の一環である。家も職も、食事もない彼らをほうっておけば、何をしでかすかわからない。それに飢える貧民を放っておくことは、普通の領主ならいざ知らず、教皇聖下のお膝元では外聞が悪すぎる。

『ハルケギニア一の資産家』という陰口を叩かれるロマリア教皇だが、その資産は無限ではない。教会の資産には、すぐに現金化できないもの、そもそも現金化が不可能なものも多く含まれている。献金は相手の善意に頼るもので、景気状況に左右されるため不確実。恒常的に支出しなければならない莫大な人件費や、必要最低限の活動資金を差し引くと、実際に宗教庁が自由に使える予算など知れたものだ。それを使って、毎日やってくる貧民に炊き出しを行っていれば、すぐに蓄えなど尽きてしまう。

そのため、流民への食料配給の資金は、ロマリア市と宗教庁が出資し、ロマリア市食料局が配給することになっている。個人の篤志家や、各宗派の教会ごとが行う炊き出しを含めて、それぞれが互いの「バランス」を守り、配給を行っていた。


それを、目の前の男が、自らの職権で、週2回の炊き出しを、3回としたことでバランスが狂った。貧民への同情から行った行為であれば、まだ救いはあったのだが、この男の場合は、ただの人気取りだ。「困っている貧民に手を差し伸べることは、神の国の首都に住む我らの義務である」選挙民である家持の有産者階級にとっては、自尊心をくすぐる、耳に心地の良い話だろう。実際、このラパニエッダも、来年に任期満了を迎える現市長の後釜を狙っていると聞く。

当然、財源の裏づけなどないから、行き詰るのは目に見えていた。その尻を、教皇である自分のところに持ってくるなど、お門違いもいいところだ。


野太いが、よく響く声で、ラパニエッダの要請を断るヨハネス19世。

「残念だが、余裕がなくてな。期待には添えん」
「なんと!」

ラパニエッダの芝居がかった振る舞いが、いちいち癇に障る。故郷のガリアを出て、早50数年。未だにロマリア人の、過剰ともいえる言葉の装飾や、芝居がかった立ち振る舞いは、好きにはなれない。


「これは、教皇聖下のお言葉とは思えないお言葉!困る民が目の前にいるのです、何故その手を差し伸べられないのです?あぁ、聖下のお考えがわかりません。私ごときには、聖下のお考えが理解できないのは当然で・・・・・・」


大仰に落ち込んだ仕草をラパニエッダがした瞬間、ヨハネス19世はその額に、水の入ったコップを投げつけた。護衛する聖堂騎士や、秘書官が驚いているが、構うものか。目の前の男が、髪から水を滴らせながら、怒りに顔を震えさせているのが見れただけで十分である。


「・・・これが、飢える民達へのお答えですか」
「帰りたまえ。こう見えても忙しいのでな」

それに、十分選挙対策になっただろうと、声に出さずに呟く。ラパニエッダは、断られることを承知でこの話を持ってきたに違いない。そして、人気のない自分を「悪役」にして、反権威が大好きなロマリア市民に「自分は教皇であっても、もの申す市長になる」とでも言うつもりなのだろう。選挙対策に付き合った上に、水をぶっ掛けられるという、格好の材料を提供してやったのだ。むしろ感謝して欲しいぐらいだ。


「何を言おうと構わんが、ものを申すなら、それなりの覚悟をしてからにしたまえ。わしは、始祖のように心が広くないのでな」


何も答えず、怒りの籠もった一瞥を送り、大股で部屋を出て行くラパニエッダ。



老教皇の機嫌は、水を掛けたことによって多少好転したが、またすぐに顔をしかめた。

ヨハネス19世の風貌は、たった今出て行ったラパニエッダとは違い、少なくとも女子供に好かれる顔立ちではない。頬はそげ、目は落ち窪んで眼光鋭く、ヘの字に大きく結んだ大きな口に鷲鼻。聖職者というよりも、物語に出てくる、頑迷なドワーフの鍛冶職人のようだ。その老人が、思いっきり顔を顰めているのだから、赤ん坊が見ればトラウマになりそうな、それはもう大変な形相である。


教皇である自分を選挙に利用しようなど、いい度胸であると感心もしたが、ヨハネス19世は、怒りが先に来た。自分がロマリア市民に人気がないことは自覚していたし、それゆえに自身の宗教庁内での求心力が低下しているのも薄々気が付いていたが、こうも露骨に見せつけられると・・・それも、あのような自分の半分しか生きていない若造になめられるのは、我慢がならない。


(全く、どいつもこいつも)

ヨハネス19世は、苛立たしげに、机を人指し指で叩く。

老教皇は何もかもが面白くなかった。幾多の先人の例にもれず、ヨハネス19世も。最近の風潮に不満を持っている。

老人の見るところ、最近の平民はもちろん、聖職者や貴族、果ては国王に至るまで、誰も彼も彼もが本音をむき出しにし過ぎている。確かに、本音は大切だ。しかし「建前」の重要性をわかっていないのが、老教皇の目には危うく映る。騎士道、道徳、正義、そして教会やブリミル教も、結局のところ、突き詰めれば「建前」だ。

しかし建前あってこその本音であり、逆ではこの世は無秩序になる。

それをわかっていない者が多すぎる。古臭いだの、手垢の付いただの、回りくどいだの・・・建前には、それなりの理由があるのだ。全く意味もない建前などありえない。本当に意味がないものは、とうの昔に廃れてしまっているのだから。



新教徒どもなど、その最たる例だ。あの不心得どもは、教皇や教会組織は「無駄」だという。神や始祖と、信徒の間を、教会が遮っていると。教皇の紫の神官服を一着作る費用があれば、何人の食料を配れるかと。

(あの偽善者どもめ)

教皇は苛立たしげに首筋を叩いた。

大体、貧民どもに「餌付け」するその姿勢が気に食わない。確かに、自らの衣食を削って、目の前の飢える民に食料を配る行為は、称賛に値する。しかし、それはあまりにも安易だ。今日をしのげる食べ物をやって、その後はどうするのだ?職も住居も、無尽蔵にあるわけではない。一日や二日、命をつなぐだけの、その場しのぎではないか。自らも貧民と共に餓死する覚悟があるなら、それは一つの見識だろうが、あいにく新教徒の牧師が餓死したという話は、トンと聞いた試しがない。

偽善を偽善と弁えているならそれでいい。だが、建前ばかりを振り回し、彼らが信仰の本質だという貧民の救済に、根本的な解決策を示さず、さも自分達だけが、真の始祖の教えを継ぐものだという。そして、宗教庁の「建前」を批判するなど・・・それこそ笑止千万ではないか。


そこまで考えて、老教皇は眉間のしわを深くする。


(・・・それでも、あの男よりましか)

自らの身を削る分だけ、むしろ肥え太ろうとする食料局長よりはましだ。

ロマリアの市議会は、市民性なのか、とにかく政争が激しい。政敵に勝つためには何でもする。たとえ、流民が票を持っていなくとも、それが人気取りになると理解しているから、あの男は、自分から配給のスープを配るパフォーマンスを行う。もし流民達が犯罪を起こし、市民の流民への感情が悪化すれば「犯罪者をたたき出せ」と叫び出すだろう。

建前なき政治家は、こうも醜くなれるものなのか?世論に敏感だと言えば聞こえがいいが、貴様らには信念がないのかと、小一時間ほど説教したい気分に駆られる。たとえしたところで、蛙の面に小便だろうが。


ぶつぶつと呟き続ける、明らかに機嫌の悪い老教皇に、おずおずと秘書官が告げた。

「聖下、ヌーシャテル伯爵が」
「通せ」

間髪いれずに答えるヨハネス19世。いつもなら一秒たりとも見たくない、人形の様なあの男の顔を、今は無性に見たくなった。



***

「ずいぶんとお早い拝謁、感謝いたします聖下」


相変わらず特徴に乏しい顔をした、ロマリア連合皇国外務省のヌーシャテル伯爵フェデリコ・ディ・モンベリア卿は、淡々と感謝の意を表す。皮肉を言っているように聞こえるが、これがこの男の常日頃の言い回しであるのは、外務長官時代からの付き合いで知っている。

その人形の様な顔を見て、ヨハネス19世は安堵した。いつもなら気分を害するであろう、どんな時でも変わらないその表情が、実に小気味よく感じる。

(何を考えているかわからない男の方が安心するとは)

かなり疲れているのだなと、苦笑を漏らした。肉体的な意味でもだが、本音を丸出しにする枢機卿や政治屋に振り回されるのは、老人の頭の芯に、とてつもない疲労をもたらす。同時に、自分の笑いの意味を問い返さないヌーシャテルに満足した。


この男の経歴はよくわからない。出身地も家も、年齢ですら本当かどうか。だが、政争に敗れた貴族が、献金と引き換えに名前を変えて聖職者になったり、某王家の私生児だという枢機卿がいるロマリア宗教庁ではよくあることであり、ヨハネス19世も気にしてはいない。

前教皇ボニファティウス10世に認められ「ヌーシャテル伯爵」の称号を与えられたというが、どういう功績を立てたかはわからない。ヨハネス19世自身も、外務長官時代に前教皇に、この部下の詳細について聞いたのだが、誤魔化された。おそらく「裏仕事」だとは察しがつくが、余計な詮索はしない。与えられた任務にのみ忠実で、余計なことを言わない存在である彼を手放したくなかったからだ。


「結論から申し上げます。ノルマンディー大公の反乱と、エルコール・コンサルヴィ枢機卿は無関係です」
「そうか」

ヨハネス19世は、その左右対称にへの字に曲がった大きな口の端から、小さく息を吐いた。



ガリア北東部を治めるノルマンディー大公ルイ・フィリップ7世の反乱は、ロマリアにも深刻な影響をもたらした。直接的な影響もそうだが、何よりも現教皇派にとっては、手痛い失点だということで、関係筋では大きな関心を集めた。


教皇選出会議(コンクラーベ)では、二つの要素、宗派と人脈がものを言う。宗派は、保守派のフランチェスコ会や改革派のカルメル修道会などの考え方の違いによるグループ、人脈は出身国別のグループであるが、要は「派閥」である。前者が思想的派閥、後者が出身国別の派閥といっていい。思想的派閥といっても、一部の聖地奪回論を主張するものを除き、基本的にノンポリ。新教徒とは違い、ロマリア教皇の定める教義内での解釈論争に、大きな差異が生まれるはずがなく、派閥ありきの解釈論争でしかない。そのため、選挙の時には保守派のフランチェスコ会と、改革派の東フランク騎士団の連携などという、奇想天外な選挙協力もできるわけだ。


ここ200年余り、教皇選挙は、宗派ではイオニア会とフランチェスコ会の2大保守派勢力と、東フランク騎士団の改革派勢力が入り混じり、そこにガリア出身の派閥勢力(ガリア派)が加わった四つ巴の戦いが繰り広げられている。三つの宗派は、それぞれ単独で過半数を占めることが出来ず、キャスティングボードを占めるのは、結束力の強いガリア派であった。これはガリアの人口が飛びぬけて多く、自然と同国出身の枢機卿の割合が多かったのと、リュテイスが政策的にガリア出身の枢機卿団を資金面で後押ししていたためだ。

実際、前回の教皇選出会議(コンクラーベ)では、前教皇ボニファティウス10世を支えた保守派のイオニア会系勢力と、ガリア出身の枢機卿が手を組み、外務長官であったバルテルミー・ド・ベルウィックを擁立。実家のベルウィック公爵家やガリアの支援も受け、第294代教皇-ヨハネス19世に選出された。



選挙に負けると悲惨である。それは聖職者でも変りはない。むしろ、日頃何かと自制を強いられる彼らのほうが、他の欲望を、ゆがんだ形で無理やり抑え込み、人事や選挙に傾けるため、それはもう大変なものだ。選挙後はロマリア市議会も真っ青な報復人事が行われ、非主流派は、主流派の顔色を伺いながら、自腹を切って次の選挙に向けての活動を続ける。主流派は、負けたときのつらさを身にしみているため、死に物狂いで次の選挙に勝とうとする。


ヨハネス19世は、その風貌や、角張った言動で、とにかく人気がなかった。教皇は、基本的にはよほどのことがない限りは、死ぬまで教皇である。生きている間から、次の教皇選挙の準備が始まるが、現教皇を擁立した勢力にとって、ヨハネス19世の人気のなさは致命的であった。「このままでは次の選挙に負ける」と、ガリア派とイオニア会が焦る中、発生したのが今回の反乱である。イオニア会が頭を抱えたのは、言うまでもない。


ノルマンディー地方を管轄する司教枢機卿のエルコール・コンサルヴィは、ガリア出身の、いわゆる「ガリア派」である。その交渉能力の高さから、ヨハネス19世の外交ブレーンとして知られているが、同時にルイ・フィリップ7世との公私にわたる親交も有名であった。

「ノルマンディー大公の反乱を、エルコール・コンサルヴィ枢機卿は、事前に知っていたのではないか?」という声が出るのも、無理からぬ事であった。無論エルコール本人は否定したし、彼がそのような策謀を巡らせる人物ではないことは、宗教庁の誰もが認識していた。しかしこの失点を政敵が逃すはずがなく、東フランク騎士団系列の枢機卿は声高にこの説を唱え、フランチェスコ会系の枢機卿も、あくまで第三者的立場を装いつつ、事実関係の厳重な調査を訴えた。


この問題がややこしいのは、ガリア王政府が、フランチェスコ会系勢力を後押ししているという点である。ガリアにしてみれば、今回の反乱をエルコール・コンサルヴィ枢機卿と結び付けることができれば、北東部の教会勢力の領地を没収出来るチャンス。たとえ自国出身の教皇が困ろうと、天秤にかけるまでもなく、どちらを選択するかは明らかであった。



ヨハネス19世は、母国の裏切りに憤慨しながら、事実関係の非公式な調査を、ヌーシャテル伯爵に命令した。たとえ声高に叫ぼうとも、事実は何よりも雄弁に物語る。司教会議の場で正々堂々と主張できるだけの確証が、裏付けが欲しかったのだ。


「まぁ、どちらでもよかったのだがな」と、呟くヨハネス19世。自らの仕事の価値を否定するかのような言葉にも、表情を変えないヌーシャテル伯爵に、久しぶりに機嫌がいい老教皇は、滑らかにいつもの口癖を交えつつ話しだす。


「何事もバランスじゃ。流れる水は腐らないが、流れのない水はすぐに腐る。コップの移し替えでも、それはそれなりに意味はある・・・グレゴリウス13世、ボニファテイウス10世と、イオニア会とガリア派が手を組んだ教皇が続いたからな。わしも入れると3人目、足掛け15年。そろそろ、交代の時期じゃ」
「・・・ガリア派が分裂しても、かまわないと?」

慎重に言葉を選びながら言う伯爵に、頷いて答える老教皇。

「わしの死んだ後など知ったことか・・・と言いたいが、そうはいかん。何より、ガリア派は強くなりすぎた」

出る杭は打たれる。その人数と豊富な資金力を背景とする団結力で、ガリア派はここ最近、教皇選出会議では必ず勝ち馬に乗ってきた。3大宗派は当然のこと、トリステイン、イベリアと、他国出身の枢機卿が、ガリア派を好ましく思っているわけはない。おまけに大公の反乱と、ガリア出身の現教皇の不人気-次の教皇選挙で「ガリア派外し」が行われる可能性は極めて高い。

それは、ガリアにとっても、宗教庁にとっても不味い事態だ。ガリアを外して選挙に勝っても、宗教庁内でガリア出身の聖職者が多いのは変わらない。反ガリアで一本化したとしても、所詮は烏合の衆。政権運営が息詰まるのは目に見えている。そしてなによりも、要職から外され、宗教庁の情報を得られなくなったガリア本国が、今までの通り献金をつづけてくれる保証は、どこにもない。

その事態を避けるにはどうすればいいか、ヨハネス19世は老人なりに解決策を考えていた。

「ガリアは数が多いから嫌われる。しかしそれが2つか3つに分裂すれば、その他大勢の一つにすぎなくなる。キャスティングボードどころの話ではない」

そしてこれは保険でもある。たとえ一方が選挙で負けても、もう一方が勝ち馬に乗れば、リュテイスと宗教庁のパイプは保たれる。数の多いガリアだからこそできる保険のかけ方だ。


軽く眉間をもむヨハネス19世。まったく、神はこの年寄りを、どこまで働かせたら気が済むのか。


「あくまで内部対立ゆえの分派でなければならん。ノルマンディー大公には悪いが、ここはガリア派を分裂させるための道化役となってもらおう。伯爵にもいろいろ働いてもらうと思うが・・・出来るな?」


「はい」と答えるヌーシャテル伯爵に、胸をなでおろす老教皇。この男が「はい」と言って、成功しなかったことはない。満足げにうなずいていると、ヌシャーテル伯爵はそれを見計らったかのように「もう一つご報告が」と調査報告を淡々と続けた。















ふ ざ け る な ぁ !!!!











執務室に、ヨハネス19世の怒声が響いた。






***


ロマリア連合皇国外務長官のカミーロ・ボルケーゼ枢機卿は、自らの仕える老教皇の様子を、部屋に入る前から予想出来た。そしてそれは、案の定、寸分の狂いもなく当たっている。こめかみに青筋を立てるヨハネス19世の話を、心中でため息を吐きながら聞いていた。

「だから選帝侯家など、さっさとつぶしてしまうべきだったのだ。聖フォルサテの名を汚すごくつぶしどもめ、金と暇のあるバカは、碌な事をせん・・・」

よほど腹に据えかねるのか、苛立たしげに貧乏ゆすりをする老教皇。とてもブリミル教のトップである教皇とは思えない態度だ。しかしカミーロも、内心ではヨハネス19世と、全くの同意見であった。



選帝侯-聖エイジス20世の時代に定められた聖フォルサテの血を受け継ぐ7つの侯爵家を指してこう呼ぶ。かつて教皇選出会議の不文律が打破されるまでは、教皇を持ち回りで輩出していた。そのうち2つの家は絶え、現在は5つの侯爵家が存続している。すなわち、セレヴァレ侯爵家、トスカーナ侯爵家、ゴンサーガ侯爵家、ゴンサーガ・ネヴェル侯爵家、そしてリーグレ侯爵家の5侯爵だ。当主はそれぞれ、自動的に助祭枢機卿になることが出来、教皇会議の選挙権と被選挙権を有していたが、トスカーナ侯爵家のエイジス30世(在任6098-6120)以来、教皇を輩出していない。


ヌシャーテルのもたらした情報、それはゴンサーガ・ネヴェル侯爵家当主のフェデリーコ=ゴンサーガ・ネヴェル枢機卿が、独自にノルマンディー大公の公子、ジャン・フィリップを煽り、反乱を起こさせたであろう事。そして反乱軍に独自に援助をしているという明確な物的証拠であった。



ヨハネス19世は、ここ数年にないほど怒っていた。一人の大馬鹿者、ゴンサーガ・ネヴェル枢機卿の行為は、宗教庁のみならず、連合皇国という枠組みそのものを揺るがす行為であったからだ。

連合皇国という、ロマリア教皇を頂点とする国家連合。宗教権力が国家や都市などの世俗国家をまとめるという、ゆがみや矛盾は、数えきれないほどある。しかしながら、曲がりなりにもアウソーニャ半島が一つにまとまっていたからこそ、これまで北のガリアからの圧力を跳ね返すことができたのも事実だ。

反抗心旺盛で、権威が嫌いなアウソーニャ半島の各都市をまとめ上げる労力は、並み大抵のものではない。それこそ、ヌーシャテル伯爵や、聖堂騎士隊の「出番」もあった。

光の国を維持するために、裏仕事を命じる-この点に関して、ヨハネス19世にはその命令を下すのに、何の躊躇いもなかった。ロマリアなき半島、教皇なきブリミル教がもたらす破滅的な無秩序と、その結果ひき起こるであろう流血の事態を考えれば、いくら矛盾があろうと、今の「光の国」を維持することのほうが、リスクは少ないと信じていたからだ。


そして、その「建前」をいたずら半分で弄ぶ者は、自らの地位と責任が欠如した行為を繰り返す者は、断固として許す事ができなかった。それがたとえ、聖フォルサテの子孫であっても・・・いや、子孫だからこそ、許してはいけない、あってはいけないことなのだ。


フェデリーコ=ゴンサーガ・ネヴェル枢機卿の、薄い笑みを浮かべた顔を思い出すだけで、ヨハネス19世の中で、抑えきれない激情がわきあがってくる。いつも眠そうで退屈気な眼をしたこの枢機卿は、教義や宗教庁の出世にはまるで関心がない。その代わりに、芝居や歌劇については、並々ならぬ興味と才能を示していた。新作が上映されると、必ずこの若き枢機卿の論評が新聞に載り、彼に認められればヒットは間違いなしというほどである。

その演劇バカが、何をとち狂ったのか。内政干渉どころではない。何せ一方の当事者なのだ。もしこれが他国の知るところとなれば、それは連合皇国の枠組み自体を揺るがしかねない。聖フォルサテの子孫の引き起こしたスキャンダルは、間違いなく教会権力の失墜につながる。教会という求心力を失ったアウソーニャ半島が、再び戦乱の時代に突入する可能性も否定できない。


「見ているだけでは我慢できずに、自分でもやりたくなったのだろうよ、あのバカは。現実と虚構の区別が付いておらん・・・大した考えもなく、贔屓の役者のパトロンになるような気持で支援しているのだろうて」

ボルケーゼ枢機卿は恐る恐る尋ねた。

「いかがなさいます?ガリア政府へは・・・」
「アホか貴様は!」

ヨハネス19世の剣幕に、押し黙るボルケーゼ。机を限界まで握りしめた拳で殴りつけながら、憤懣やるかたないといった様子で、教皇は怒鳴る。

「いかがも、くそも・・・ガリア国内の教会領を没収してくださいとでも言うのか?!修道院や教会を取り壊してくださいとでも?!貴様は、宗教庁を潰す気かぁ!!!」

黙って罵倒に耐えるボルケーゼ。元々、癇癪の癖があられたお方だが、ここ数年は特に激しくなった。こういう場合は、静かにやり過ごすに限る。


怒鳴り散らして少し落ち着いたのか、息を吐くヨハネス19世。かつて聖フォルサテや、大王ジュリオ・チェーザレも、自分と同じ苦労を味わったのだろうなと考えると、悪い気はしないが、それでも、二度とこのような判断をしたくはない。



「・・・しらを切る」

この言葉には、さすがにボルケーゼは反応した。「いや、しかし」と反論しようとする外務長官を、老教皇はじろりと睨んで黙らせる。ピンと伸びた背筋と同じように、眼光の鋭さは、未だにこの老人の頭脳が、いささかも衰えていないことの、何よりもの証明になっていた。

「知らぬ存ぜぬを決め込む。証拠を消せ。あの馬鹿が発注した注文書から一切合財、ノルマンディー大公と関係する物的証拠の全てをだ」

言えないのであれば、隠すしかないというのは、確かにその通りだが。ボルケーゼは尚も食い下がる。

「ですが、人の口に戸は立てられぬと申します。しらを切りとおすのは・・・」
「人の点に関しては、手を打つ」
「金ですか?しかし」

老教皇は、への字に結んだ口から、聖職者にあるまじき言葉を発した。



「消す」



ボルケーゼは、ぎょっとして、ヨハネス19世を見返した。落ち窪んだ目の放つ視線は、とても冗談を言っているようには見えない。への字に曲がった大きな口は、一度決めたことを断固としてやり通す意志の強さを現しているというが、まさにその通りだ。

これほど仕えにくい主は、ハルけギニア広しといえども、二人といないだろう。元々の性格が狷介で癇癪持ちの上に、最近では老人特有の頑固さまで兼ね備えてきた。しかし、その判断に従い行動するには、一度たりとも不安になったことはない。この頑固爺は、やると言ったら必ずやる。ボルケーゼにとっては、それだけで十分であった。同時に、この問題解決にかける老人の気迫に、さすがに教皇に選出される人物は、自分とは違うのだという思いを深めた。


「・・・すべて、ですか?」
「一人でいい。過ぎた火遊びの責任は、取ってもらう」
「見せしめというわけですか」

ボルケーゼは、老教皇の顔を再び見返した。微塵も決意の揺らぎが感じられない表情に、頼もしさを覚えながら、話題を切り替えた。


「アルビオンへの来訪についですが・・・」




そして、この話題は、二度と触れられることはなかった。


















数日後。ベル=イル公爵率いるガリア軍が、ガリア北東部の物流拠点カーンを制圧。ロマリア教皇ヨハネス19世が、アルビオン行幸に出発したのと同じ日に、フェデリーコ=ゴンサーガ・ネヴェル枢機卿の病死が発表された。




[17077] 第38話「義父と婿と嫌われ者」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:193733e7
Date: 2010/08/06 18:57
アルビオン東部カンタベリー。南西部のプリマス、北部のダーダネルスと並んで、アルビオンの物流を支える港湾都市である。中でもこの都市は、中央を流れるテムズ川が、王都ロンディニウムに繋がることから、主要な港湾施設を抱えていない王都の玄関港的役割を果たしている。

同時にこの都市のカンタベリー大聖堂は、アルビオン国内の司教区を統括するカンタベリー大司教座でもあった。そのカンタベリー大司教は、代々ロマリア教皇自らが叙任することになっている。

カンタベリー大司教は、ロマリア宗教庁が主導して叙任することの出来る数少ない大司教である。ガリアやトリステインの叙任では、両国政府の意に沿った人物を内示してからでないと、任命出来ない事になっているのは周知の事実であり、連合皇国内でも、独自性の高いサヴォイア王国などでは、同じ傾向が顔をのぞかせつつある中、カンタベリー大司教叙任に関する、宗教庁の独自性は際立っていた。

これはアルビオンが、四十年戦争(アルビオン継承戦争。4544-4580)以降、反王家勢力のジャコバイトと結びついた新教徒対策で、宗教庁からの情報を必要としたためである。宗教庁としても、数少ない独自性を発揮できる場所として、カンタベリー大司教の叙任式を最大限に利用していた。


極めて政治的ショーの色濃い叙任式ではあるが、「光の国」を治めるロマリア教皇を一目見るいい機会であるとして、アルビオン各地から人が集まっていた。警備当局によると、その数およそ3万人。とはいっても、2年前のジェームズ1世の戴冠式(8万人)に比べると、少ないといわざるを得ない。「ジャコバイトのこともあるからなぁ。歓迎一辺倒とは行かないさ」とは、アルビオン王弟の言葉ではあるが、それでもこれだけ多くの人が集まっているのは確かである。気難しい老教皇の機嫌は良かった。


老教皇とは対照的なのが、地元のカンタベリー市長を初めとした現地の警備担当者である。王族を警護する近衛魔法騎士隊との折衝に始まり、ジャコバイトによるテロの警戒、スリなどの軽犯罪取り締まり、突発事故を避けるための人の流れの規制、果ては迷子の親探しまで、幅広く対応を強いられた挙句、教皇を出迎えるアルビオン王弟の警護にも人手を借り出され、その神経をすり減らしていた。


そんな警護対象の一人であるアルビオン王弟カンバーランド公爵のヘンリー王子は、王立空軍の巡洋艦「サウスゴータ」に乗船し、テムズ川に着水しようとしている教皇御召艦「聖パウロ号」を見上げていた。

「それにしても大きい。大きさだけなら、うちの『キング・ジョージ7世』よりも大きいんじゃないか?」
「190メイル近くはあると聞いたことがあります。まぁ、軍船ではありませんからね」

傍らに立つ侍従のエセックス男爵に、暢気に呟くヘンリー。エセックスも、同じように御召艦を見上げながら、相槌を打っていた。集まった野次馬も、テムズ川の川べりで、ヘンリーと同じように教皇御召艦の威容に歓声を上げているので、特段ヘンリー達がどうこうというものではないのだが、ほとんど寝ずに警護計画を練っていたカンタベリー市長が見れば、2、3本、頭の線が切れそうな光景だ。

教皇御召艦は、その名の通り教皇が乗船するという前提から、必要最低限の武装以外は配備していない。しかし、この船は、周囲の全てをひれ伏させるような、圧倒的な存在感を放っている。巨大な船体に似合わず、静かに着水した「聖パウロ号」に、「サウスゴータ」を接舷させて、タラップをかけて乗り込んだヘンリー達は、その存在感の中心にいる老人に、出迎えの挨拶を行った。


「ご無沙汰いたしております、教皇聖下。カンバーランド公爵のヘンリーでございます。若輩ながら、大聖堂までお供させていただきます」
「ご苦労」

ニコリともせずに答えた老教皇に、ヘンリーは内心苦笑しながら手を差し出した。


見た目どおりの、聖職者らしからぬ、ごつごつとした手であった。


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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(義父と婿と)

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新たにカンタベリー大司教に就任したのは、トマス・アランデル司教。ぽっちゃりとした体格で、押せば転がっていきそうだ。それはともかく、アルビオンのアランデル伯爵家に生まれた彼は、ナザレン神学校卒業後、ソールズベリー司教を長く務め、司教区内の修道院を数多く立て直したことで知られる。前任のマシュー・ハットン大司教が、司教枢機卿に選任されたのを期に、昇格した形だ。


ロマリア宗教庁の枢機卿は、教皇選出会議の投票権を持つ高位聖職者であり、教皇を補佐し、行政・外交をつかさどる行政官兼外交官でもある。また同時に、出身国と教会を繋ぐ「政治的パイプ」の役割を担っている。そのため枢機卿の選任には、選挙での論功行賞や宗派別の割り当てだけではなく、出身国が偏らないといった配慮がなされている。枢機卿の出身国比率を見れば、国際情勢のパワーバランスが解るといわれる所以にもなっている。

宗教庁も、ただ世俗国家へ配慮して選任していたわけではない。元々、連合皇国を構成する国家や都市間での諍いの仲介で培った交渉術から「ロマリアは外交上手」として知られていたが、各国とのパイプを仲介交渉に生かすことにより、一層その評価を高めた。しかしながら、交渉の場で何かと「教皇の権威」だの「教皇の威光により」と、教皇の権威に結び付けるやり方は、どの国家も辟易としており、先のラグドリアン講和会議でも、ロマリアの仲介が疎まれる一因ともなった。



「外交で点数稼ぎするのは勝手ですが、自分の手柄を振りかざされてはたまらないってことですかね」
「ほうほう、なるほど」

叙任式に出席した後、ヘンリーは大聖堂の一室で、ヨーク大公チャールズ・ハロルドと向かい合って座っていた。カンタベリー大聖堂は、王族が泊まるための居住スペースがあり、二人は大公に与えられた一室にいる。ヘンリーがヨーク大公に挨拶に来たのだが、会話が自然と世間話の流れになったのだ。世間話の内容としては、如何にも生臭いが、他に話すこともない。


「どこも大変ですなぁ」と、ヘンリーに輪をかけたような、のん気な声で呟くヨーク大公チャールズ・ハロルドは66歳。ヘンリーの夫人であるキャサリンの父、つまりヘンリーにとっては義父に当たる。鳥類の研究-特にアルビオンと大陸を往来する渡り鳥の分野の第一人者として、学会でも一目置かれる研究者であり「鳥の大公様」として、貴賎問わずに親しまれている。

この鳥の大公様は、体の弱い公子リチャードに代わり、娘婿であるヘンリーに、大公家と大公領を継承させるつもりであったが、当のキャサリンが「大公家が統治が出来なくなったのであれば、王から頂いた領地は返納すべき」と進言した事により、心変わりをした。ペンヴィズ半島南部のプリマスを含むヨーク大公領の内、屋敷や別荘などをのぞく領地と施政権を、名目上はヘンリーに相続させながら、王家に返還したのだ。

約3千年の長きにわたり、ペンヴィズ半島南部を治めた大公の大胆な決断は、アルビオン中の貴族の耳目を集めたが、大公は何も娘の意見に従っただけではない。元々、ヨーク大公家はその政治的独自性の高さから、何れ独立するとの噂が絶えず、大陸との物流の拠点であるプリマスを領有する大公家の動向には、中央も目を光らせており、絶えず政治的緊張関係にあった。

ヘンリーとキャサリンの婚姻は、中央との緊張関係を和らげる事に寄与した。しかし同時に、愚鈍でも無能でもない大公は、王家との結びつきが強くなることは、外戚として他の貴族からの無用な敵愾心を集め、否が応でも、その政争に巻き込まれる事を意味してることを理解していた。それは、宮廷での権力闘争や、政争にはトンと関心がなく、むしろ嫌悪していた大公にとっては、耐えられないことであった。

(ならば、政治的リスクを減らせばいい)

そう考えた大公は、娘の提案に従った。大公は持ち前の真摯さで、よき領主になろうと務めたし、実際にそうであったが、研究に打ち込みたい彼としては、領主の仕事はわずらわしいと思っていた事も事実であった。


政治的保身と、自らの欲求を満たすために行動するあたり、意外とこの岳父と娘婿は似ているのかもしれない。



閑話休題



義理の父親を前にして、馬鹿話を出来るわけもなく、ヘンリーはロマリアの話を続ける。大公は相変わらず宮廷の情勢には疎く、その手の話題を振れば食いついてくるので、話題には困らない。関心がないとはいえ、大公家を無用な政争から遠ざけるためには、そうした話題に敏感にならざるを得なかったヨーク大公は、ヘンリーの話に相槌を打ちながら、話を聞いている

「この度、わが国出身のランケ枢機卿が引退されます。代わってマシュー・ハットン大司教が、司教枢機卿に選任されましたが、今度から彼がロンディニウムと宗教庁のパイプ役となるわけです」
「ほうほう、なるほど。それで引退されるランケ枢機卿は、どのような御仁なのですかな?」
「パーマストン外務卿からの受け売りですが、ランケ枢機卿は、聖職者よりも外交官になりたかったそうですよ。外務卿も、かの人がアルビオンにいれば、今頃自分は外務卿ではなかったと公言しておられますから」
「なるほど、宗教庁とのパイプ役としてはぴったりだっだわけですな」
「そうです」

机の上のカップに手を伸ばすヘンリー。大公が聞き上手であるため、ついつい自分ばかり話してしまった。この、人に警戒心を与えない義父は、こうして宮廷内の情報を集めて生き残ってきたのだろう。もっとも、鳥の大公に専門的な話しをされても、困るのだが・・・

冷めた紅茶に口をつけながら、ヘンリーがそんなことを考えていると、今度はヨーク大公が、尋ねてきた。


「どうだね、うちのわがまま娘は」
「え、えぇ・・・それは・・・」

言葉を濁すヘンリーに、大公が追い討ちをかける。

「中々、面白いコミュニケーションをとっているそうだね」
「え、えぇ・・・」
「『拳で語る』だったかな?」

わかってて聞いてやがるなこの爺と、ヘンリーが恨めしげに見つめ返す。殴られる理由は、十中八九、ヘンリーが悪いのだが、そんなことはどうでもいい。大公は愉快気に、娘の思い出話を語る。

「あの娘は昔から腕っ節が強くてね。兄のリチャードとよく喧嘩したものだが、口喧嘩ではあの子の方が弁が立つから、すぐに取っ組み合いの喧嘩になるんだが・・・いつも泣かされていたのはリチャードだったよ」
「そ、それは、なんとも」
「これは身内の欲目として笑ってくれるとありがたいが、あの子は妙に早熟でね。言葉を覚えるのも、魔法を使うのも、人より早かったよ」
「・・・そ、それは」

危なっかしいことこの上ない。ヘンリーは暑くもないのに汗をかいていた。

「まぁ、意地っ張りなのは変わらないが・・・そうだろう?」
「えぇ、それはもう。前世でも・・・」
「ぜんせ?」
「いえいえいえ??!・・・えーと、そ、そうです!『ぜん・せー・で・もー』、です!東方の賢人のことわざだそうですよ?!」


手足と首をばたつかせる婿に、大公は首をかしげた。


***


ふ ぇ っ く し ょ ん ! ! !


「キャサリン公女、お風邪を召されましたか?」
「(ズズッ)・・・多分違うわミリー。これは、あの馬鹿が噂してるのね」
「は、はぁ・・・」

ううううんん・・・

「あ、アンドリュー。御免ね、起こしちゃった?」


***

「アンドリュー王子は」
「相変わらずですね。すぐに熱を出しますし」

息子の話になると、ヘンリーは顔を曇らせた。

ヘンリーとキャサリンの一粒種であるアンドリュー王子は、今年で2歳。虚弱体質なのか、頻繁に熱を出して、二人をやきもきさせている。特にキャサリンは、前世での息子が、やたらに体「だけ」は丈夫だったこともあり、ほとんど始めての経験で戸惑うばかりだ。医者も「5歳ぐらいまではよく熱を出すといいますが、王子は多いですね」と言ったものだから、キャサリンは気が気でない。

無論、ヘンリーも心配なのは変わらずに、毎日のように息子の部屋に顔を出している。しかし、こればかりは、体質的なものなので、どうにもならない。

「医者が言うには、なんでもアンドリューは偏頭痛持ちだそうで」
「偏頭痛ですと?喋れないのに、解るのですか?」
「えぇ。時折、頭を抑えるような仕草をしますし。水メイジが、体の血の巡りを調べたところ、頭部の血管が拡張しているようで、それが原因ではないかと」
「それは、また、難儀なことですな・・・」

黙り込んだヘンリー。悩んでどうにかなるのなら、幾らでも悩めばいいが、どうにもならないことを悩んでも仕方がない。大公は話題を切り替えた。


「そういえば、メアリー王女の婚姻は」
「うちのメアリーですか?」
「えぇ、殿下の妹君のメアリー王女です。婚約延期とはいえ、破棄ではないのでしょう?ガリアとトリステインの講和が成立した今は」
「あぁ、それがですね・・・」

ヘンリーは、うんざりした表情で、トリステインから帰国した直後に、キャサリンと交わした会話を思い出していた。



***


これより数日前。ヘンリーが『キング・ジョージ7世』にワインを積み込み、チャールズ・タウンゼント大使から冷たい目線を向けられていた頃、空の上の国のハヴィランド宮殿では、カンバーランド公ヘンリー王子夫妻の住むチャールストン離宮の一室で、お茶会が開かれていた。


その出席者の一人である王女が、惚気とも愚痴とも付かぬことをブツブツ呟いている。

「会うたび会うたび、歯の浮くよく台詞だけは、掃いて捨てるほど言うくせに、別れ際には『また後で』『また今度』『またいずれ』、またまたまたって、こればっかり!その結果がこの様ですよ!そんなに「また」が好きなら、母親の(ピー)に戻ればいいのよ!!」

・・・喋っているうちに、ボルテージが上がってきたのは、メアリー・テューダー王女-現アルビオン王ジェームズ1世の王妹にして、社交界で「水の精霊の様な神秘さがある」と称賛される王女は、亡き父王譲りの美しいブロンドの長髪を振り乱し、下町の酒場の町娘でも使わないような言葉を使い、アルビオン大陸から流れ落ちて、空中国土の周囲に虹と雲を作り上げる川の様な勢いで喋り続けている。


「大体、デリカシーがないのよ!どうでもいい事は、もう、ペラペラペラ-そのくせ、いざという時には「また・また・また」!肝心要の言葉は言わないくせに・・・彼も私の気持ちがわからないって言うわけじゃないのよ?気持ちがわかっていて、それで言わないんで、・・・げふ、ごふっ!!」

唾が器官に入ったのか、唾がなくなって喋れなくなったのか、メアリーは咳き込んだ。

「の、飲み物を」

王女の愚痴とも惚気とも付かぬ独演会を、相槌を入れながら、一生懸命に聞いていたモード大公夫人のエリザが、紅茶の入ったカップを差し出す。喉が渇いていたメアリー王女はそれを一気に飲み干し、一瞬慌てた後、驚く。

「あっ!・・・つくない」

首を傾げるメアリーに、独演会につき合わされて痛もう一人が、冷たい声色で告げる

「それは、貴方が惚気ていた間に、冷めたからよ」

うんざりとした表情で答えたのが、この離宮の主でもあるキャサリン。ヨーク大公家出身の王弟ヘンリー夫人にして、ヘンリーとは前世からの腐れ縁である。最初こそ、エリザに丸投げして、我関せずを決め込もうとしていた彼女だったが、いつまでたっても終わらない義妹のノロケに、頭痛を覚えだしていた。自然と、メアリーへの対応も冷たいものとなる。


当のメアリーはというと。キャサリンの発した「惚気」という単語を聞くと、一瞬ぽかんとした後、我に返って、再び顔を真っ赤にした。

「ななぁあ!何言ってるのキャサリン!私は、ののの、ノロケて何かいないわよ!」
「お義姉様とお呼びなさい、お義姉様と」

ヨーク大公家の公女であったキャサリンは、先王エドワード12世のただ一人の娘だったメアリーと年齢が近かった事もあり、王女の遊び相手に選ばれた。キャサリンは幼い頃から王宮に出入りしていたため、二人の関係は幼馴染と言うより、仲のいい姉妹といった感じである。

メアリーは、自分が2歳年下にもかかわらず「自分がキャサリンのお姉さん」という意識が強く、キャサリンがヘンリーと結婚して、本当の姉妹になった後も、彼女のことを「お義姉様」とは呼ばない。口では何だかんだ言いながら、キャサリンもこの関係を楽しんでいる。

それに

(この子、からかうと面白いのよね)

大人気ないという点では、どっちもどっちである。


「わ、私が、いいい、いつ惚気たって言うのよ!」
「今までずっとよ。言っておくけど、今だけじゃないわよ。ラグドリアン戦役から2年間、ずっとよ、ずっと!恋に恋した、乙女の甘ったるい話を延々と聞かされるこっちの身にもなりなさい。大体24にもなって・・・」

一瞬、ウンウンとうなずきかけたエリザ。2人の視線に気が付いて、慌てて首を振り、あいまいな笑みを浮かべる。どうやらメアリーの話に相槌を打ちながら、キャサリンと同じようなことを考えていたらしい。

額に青筋を浮かべながら、頬を引くつかせるメアリーを見れば、彼女が延々と、愚痴と惚気を続けていた「彼」こと、サヴォイア王国皇太子のウンベルト・サヴォイアでなくとも、それこそ百年の恋も冷めようというものだ。



メアリーとウンベルトが始めて出会ったのは、先代アルビオン国王戴冠20年の園遊会。一目惚れしたウンベルトが、猛烈なアタックを繰り返したことがなれ初めの始まりである。メアリーも年頃の女の子、言い寄られて悪い気がするわけもなく、婚約が成立したのが8年前の事。

ところが、そこから先が全く進展しない。

男兄弟が、どんどん自分を追い越して結婚していく現状に、焦ったメアリーが、ウンベルトと会う機会ごとに、それとなく話題を切り出すと、ウンベルトは話をそらし、誤魔化して、一向に本題に入ろうとしない。最後の1手まで追い詰めておきながら、キングが逃げ回っているのだ(追い詰めたのは向こうなのに)。「まさか他に女が」とも考えたが、そんな様子はまるでない。恋多きロマリア人には珍しく、ウンベルトはくどき文句こそ豊富だが、意外と純粋で、一度、恋愛関係でからかったら、舌を何度も噛みながら、真っ赤な顔で否定したくらいだ。

いろんな可能性を一つずつ検証していった結果、メアリーは、キングが逃げ回っている理由に思い至り、愕然とした。


「男の癖に、マリッジブルー?!」


怒り狂ったメアリーは、それこそ半ば関係者を脅すようにして、一昨年末にようやく結婚式の予定を立てるところまで追い詰めた。ここまでくれば、ウンベルトもいい加減腹をくくるだろう・・・と思っていたら、ラグドリアン戦争の開戦で、まさかまさかの婚約延期。

最初、結婚式の延期を侍従長のデヴォンシャー伯爵から知らされた時、メアリーは、呆然として言葉もなかった。メアリーが「婚約破棄」と勘違いして、取り乱すと考えていたデヴォンシャー伯は、うつろな顔で呆然とする王女の姿に、慌てて事情を説明した。曰く「停戦条約が成立したばかりの現状で、ガリアと国境を接するサヴォイア王国と、トリステインと同盟関係にあるアルビオンが結ぶ事は、ガリアを刺激するため望ましくない」と。

メアリーとて、初心な女子ではない。王族である自分の結婚が、すべからく政治的意味とメッセージを持つということは理解している。だからこそ、延期を聞かされて、激しく怒った。


さっさと私を迎えていれば、こんな間抜けな事態にはならなかったのに!!


同情する余地がないわけではないため、キャサリンはいつもその愚痴に付き合い続けた。しかし、飽きずに2年も不満をいい続けるという事は、本質的には惚気と変わりない。

メアリーを宥めるように、キャサリンが言う。

「それが男って言う生き物よ。山に登る前は、より高く、より大胆な計画を立てるくせに、いざ実行となると、途端にしり込みする」

「・・・それで?」

「それを誠実だと言うの」



エリザは、口をつけたばかりの紅茶を噴出した。



一通り笑った後、目元の涙を拭きながら、メアリーはキャサリンに向かって言う。

「貴女、昔からたまに、妙に大人びたこと言うのよね・・・」
「アハハハ・・・」

硬い、乾いた笑みで返すキャサリン。ヘンリーがここにいたら、生きた心地がしなかっただろう。全く、夫婦そろって、危なっかしいことこの上ない。

そして、言わずもがなの事を言うモード大公夫人。

「・・・おばさんくさ(ギュー)」
「な・に・か?」
「いふゃい(痛い)」
「何やってるのよ・・・」


メアリーやキャサリンは勿論、今ここにはいない皇太子妃カザリンも含め、今、頬を引っ張られて間抜けな顔をしているエリザも、ガリア王家出身の祖母譲りの青い髪と、スレンダーな体型、そして儚い雰囲気で、アルビオンの社交界で人気がある。


今のこの惨状を見れば、そんな評判も儚く消えてしまいそうだが・・・


~~~


「・・・ということがあったのよ」
「・・・あのさ。俺は仕事を終えて帰ってきたんだよ」
「それがどうしたのよ」

なんだか泣きそうになるヘンリー。せっかく、お土産も買って来たのに・・・

「あのね、貴方。誰の代わりに、メアリーの惚気に付き合っていると思っているの?あ・な・たの妹でしょうが!」

さすがに2年間も惚気を聞かされ続けて、キャサリンには色々思うところがあるようだ。精神衛生的にもよろしくないだろう事は、ヘンリーにでもわかる。

だからって、帰ってきて早々、愚痴らなくても

「あのねぇ!!貴方はあの場所にいないからそういう事が言えるのよ!大体、貴方は・・・」



***


「・・・という具合に、薮蛇でしてね。その後延々、説教されましたよ」
「はははッ、それはそれは」
「笑い事じゃないですよ。まったく、どうして女の話は、ああ周りくどいのでしょうかね」

娘婿の愚痴に、延々と付き合うヨーク大公。この人も妙な役回りである。その様子を、部屋の端で見ていたエセックス男爵は、やってきた神官と2,3言話すと、ヘンリーに告げた。

「殿下。教皇聖下が出立されるそうです」
「あぁ、わかった。すぐに行く」
「この後はロンディニウムでしたな」
「えぇ、兄上・・・ではなくて、国王陛下主催の晩餐会に出席されるために」

アルビオン国王は、カンタベリー大司教の叙任式には出席しないことになっている。国内において、ロマリアに人事権を認めざるを得ないアルビオンが出来る、唯一の嫌がらせであった。その代わりに、第1王位継承権を有する王族(今回の場合はヘンリー)を国王代理として出席させることで、教皇とのバランスをとっている。

「まったく、兄上も案外子供っぽいところがあるから」
「・・・それを君が言うかね」

ヨーク大公は、肩をすくめた。



***


(・・・き、気まずい)

テムズ川を上る教皇御召艦『聖パウロ号』の船中央に設けられた、教皇の船室で、ヘンリーは、何の因果か、癇癪持ちの気難しい老教皇と二人きりという、拷問の様な環境に耐えていた。


船の中とは思えない、およそ40畳ほどの広い部屋の床には、ロマリアの職人が腕によりをかけて編みこんだであろう絨毯が引かれてあり、その上に飾り彫りが美しい机と椅子、そして部屋の隅には本棚が置かれている。部屋の広さの割には、調度品が少ないように見えるが、それはこの部屋の主の性格であろう。

そして部屋の主である教皇聖ヨハネス19世は、立ち尽くすこちらを見もせず、椅子も勧めずに、自分だけ椅子に座り、祈祷書らしき分厚い本に、羽ペンで注を入れている。


「癖でな」


何もしていないのに、悪いことをしているかのような気まずい雰囲気に陥りかけていたヘンリーにとって、老教皇の一言は、その小さな金玉を縮み上がらせるのには十分すぎた。大体、王都へのお供を命じられたのは仕方がないとしても、教皇に呼び出しを受ける筋合いは微塵もない。それなら呼び出しを断ればいいだけの話なのだが、断れなかったのは、それがヘンリーだからである。

胸を押さえて顔を強張らせる、いかにも小心者がびびりまくっている態度のアルビオンの王弟を一顧だにすることなく、ヨハネス19世は続ける。

「こう見えてもわしは理屈っぽい性格でな。それが幸いしたのか、災いしたのか、旧東フランクの教区を回された後は、教理省にまわされた」

教理省という言葉に、反応するヘンリー。教理省はブリミル教の唯一の正統解釈者である教皇に代わり、教義の専門解釈を行う部署であり、宗教庁で最も忌み嫌われている部署である。かつて異教徒とそうでない者を解釈するのは、教理省の神官の匙一つとされ、中には袖の下を送って、火あぶりから逃れたものもいたという。当然、新教徒達もこの組織を忌み嫌い「教皇とは対話できても、教理省とは話す言葉が違う」とまで言い切る。

ヨハネス19世が、宗教庁内でもいわば日陰者の部署であるこの省の長官を務めていたことは、ロマリア市民なら誰でも知っており、それがこの老教皇がロマリア市民に人気がない一因となっていた。

老教皇は、祈祷書から視線を上げずに言う。

「何十年もこの仕事をしていたからな。今でも暇があると、こうして祈祷書を開いてしまう」

何かの話の前ふりだということは想像がつく。だが、それが何かがわからない。

「・・・好きでこんな仕事をしていたわけではない。嫌われ者を好き好んで演じるほど、わしは奇特な人間ではない」


「だがな」と言葉を切って、老教皇は顔を上げた。刻み込まれた皺は深く、落ち窪んだ目にそげた頬は、長年風雨に晒された始祖像を思わせる。神学校を卒業し、司祭に叙階されてすぐに、ザクセン王国の従軍司祭として、魔法と砲弾飛び交う前線で、自ら治癒魔法をかけて廻ったという若者は、光の国を治める立場に上り詰めた。その間に見聞きし、経験した事の全てが、顔の皺に刻み込まれているように、ヘンリーには思えた。

「誰かがやらねばならんのだ。疎まれようと、恨まれようと、罵倒されようと、石を投げられようと・・・誰かが汚れ役をしなければ」
「おっしゃることは、わかります」

老教皇の視線が一層鋭くなる。目をそらさなかった自分を褒めてやりたい。

「何がわかるというのだ?」

「・・・奇麗事だけで、国が運営できないことが、です」

不快げな表情をして、下あごを撫でるヨハネス19世。ごつごつとした手は、聖職者というより、鍛冶職人のようだ。


「君はジャコバイトと理解し会えると、本気で思っているのか?」


全く予想していなかったかといえば、嘘になるが、ヘンリーは老教皇の言葉に思わず黙り込んだ。この老人に通じないとはわかってはいるが、ヘンリーは皮肉を言って場を繋ぐ。突きつけられた問いに、すぐに答えることが出来なかったからだ。

「・・・さすがに、耳がお早いですね」
「誰がジャコバイトの本拠地を教えてやったと思っておる」

ジャコバイト-アルビオンの新教徒の異称となりつつある、反王家勢力。その拠点がトリステイン西沿岸部、アングル地方(ダングルテール)にあることを掴んだのは、誰あろうロマリアであった。トリステインも持て余しているこの新教徒に対して、ヘンリーはトリステイン内務教のエギヨン侯爵に「穏便」な対応を要請した。

ラグドリアン講和会議で要請してから、未だ半月もたっていないのに、すでにロマリアがそれを把握していることに、ヘンリーは、純粋な恐怖に近い畏怖の念を覚えた。


「傷口は切り開いて消毒するのが一番だ。切り開くのは痛いが、膿んで手足を切るよりはましだ。長引けば、アルビオン・トリステイン両国に碌な事にならんぞ」
「・・・そんな事は、貴方に言われなくてもわかっています」

答えになっていないことはわかっていたが、ヘンリーは、いつもの彼らしくなく、感情の赴くままに言い返した。


「ジャコバイトはわが国の内政問題です。アルビオン人の不始末は、アルビオン人がつけます。一方の当事者であるトリステインならともかく、聖下と言えども、口出しする筋合いはないはずです」


ヘンリーは教皇を睨んだまま、目線をそらさなかった。それがこの小心者に出来る、精一杯の抗議であった。


「・・・いいだろう。確かに王子の言う通りだ。これはあくまで、トリステインと貴国との問題。わしの目の黒いうちは、ジャコバイトに関して、宗教庁に口は出させん」

老人の「ジャコバイト問題については、しばらく静観する」という意味の言葉は、ある意味始祖の予言よりも信憑性があった。この老人が「させない」と言えば、それは必ず実現されるであろうということぐらい、ヘンリーにでもわかる。


「だが・・・アルビオンの王子よ。今、自分の言った言葉を忘れるなよ」


ヨハネス19世は目線を祈祷書に下ろした。にもかかわらず、ヘンリーは目の前の老教皇に気おされていた。視線を外されたことで、むしろ、この世のすべてを見透かしたような老人の態度が、急に恐ろしくなったのだ。



「聖職者の端くれとして忠告しておく。貴様が何を考えているかは知らんが、問題はいずれ誰かが決着をつけなければならんのだ。小僧、それを覚えておけ」




ヘンリーは、何も言わずにヨハネス19世を見つめ返した。その拳は、爪が白くなるまで握り締められていた。



[17077] 第39話「不味い もう一杯」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:b679932f
Date: 2010/08/06 18:57
ロバート・エセックス男爵。齢64になるこの老男爵は、アルビオン王弟カンバーランド公爵ヘンリー王子付きの侍従である。ヘンリーとは、病気により陸軍を退役し、彼の家庭教師に指名されて以来、十数年の付き合いだ。不本意な形で軍を退役せざるを得なかった彼の第2の人生が、思った以上に悪くはなく、むしろ波乱に富んだものになったのは、この王子に感謝するべきなのか、どうなのか。少なくとも「退屈」という2字からは、最も程遠い日々であったことは間違いない。

今やエセックス男爵の代名詞となった「塩爺」というあだ名だが、これは岩塩専売所設立の際、責任者としてエセックスを指名したヘンリーが、そう呼んでいたのが、いつの間にか定着したものである(「だってそっくりなんだもん」と、わけのわからない事をのたまうヘンリーに、老男爵がこめかみに青筋を立てたのは言うまでもない)。よく言えば柔軟性があり、悪く言えば落ち着きがない。何事も楽観的に受け止める、そのプラス思考は、一つの才能といえるのかもしれない。個人的には嫌いではないが、元家庭教師としての頭痛と心配の種であることに変わりはない。


そのエセックスは今、自らが使える主人の部屋の前で腕を組み、文字通り手をこまねいていた。


教皇御召艦の聖下の部屋から出てきた王子は顔面蒼白、長年近侍してきたエセックスですら見たことがないような厳しい顔をしていた。部屋の前で待っていたエセックスに目もくれず、与えられた自室に飛び込むように入っていった。聖下と王子の間に、どのような会話が交わされたのかは解らないが、相当厳しいやり取りがあったであろう事は想像がつく。

若いときの挫折は、受け止め方次第では血肉となり、貴重な経験となる。馬鹿な言動には事欠かないが、馬鹿ではない王子なら、それがわかるはずだ。それは、十数年以上近侍してきたこの自分が一番よくわかっている。しばらくそっとしておいてやりたいのは山々だが、そうもいかない。ヘンリーがどうであろうと、相手は待ってくれないのだ。


エセックスは心を鬼にして、艦のロンディニウム到着を知らせるために、ヘンリーのいる部屋の戸をノックした。


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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(不味い もう一杯)

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老人の言葉に、ハヴィランド宮殿の晩餐会会場は凍りついた。

「うん、不味い」

ハルケギニア各地から集められた高級食材を使い、宮廷料理人が腕によりを掛け、時間と手間隙を惜しまずに作り上げた料理を口にした、ロマリア教皇聖エイジス19世の感想である。

確かに、昔からアルビオンの料理は不味いと有名である。「始祖がアルビオンからハルケギニア大陸に降りたのは、その料理に耐え切れなくなったからだ」とか「ガリアやトリステインがアルビオン占領を諦めたのは、その(以下同文)」とか、アルビオン料理に関する小話は尽きないが、あながちジョークとして笑えないあたりにアルビオン料理の真髄が現れている。お世辞にも豊かとはいえない国土では、食材など限られているのは当然だが・・・その、なんと言っていいのか。味オンチというわけではない。アルビオン人も、自分達の食べているものが不味いということは解っている。解ってはいるが、どうしようもないのだ。残念ながら、神はアルビオン人を、他ならぬアルビオン人としてつくりたもうた。何たる悲劇!

ブリミル暦4500年頃、風石を使用した船が民間でも使用されるようになり、大陸との往来が増加すると、多少はその状況は改善された。 自分達でも不味いことは解ってはいたが、観光客に「不味い」「人間の食うもんじゃねえぞ・・・」「おでれえた!」と面白半分に公言されると、アルビオン人のプライドは大きく傷ついた。多くの料理人が、ガリアやトリステインに料理留学に出かけ、空中国土の食環境は劇的に改善された。


それでも、美食大国ガリアに生まれ、料理と恋愛に命を燃やすというアウソーニャ半島で長年過ごした老教皇にとっては、アルビオンの宮廷料理は、到底その舌を満足させるものではなかった。不味い、不味いといいながら、料理を食べ進めるヨハネス19世。この場にヘンリーがいれば「大滝○冶か!青汁か!」と突っ込みを入れるところだが、残念ながらこの場に彼はいない(いても、いつものことだと無視されただろうが)。

カザリン王妃はフォークとナイフを持ったまま固まっており、デヴォンシャー侍従長は頬をひくつかせている。ロマリア連合皇国駐アルビオン大使のグアスタッラ伯爵など、可哀相に、産まれて間もない子牛のように震えて、今にも卒倒しそうだ。

そんな中、ただ一人だけ教皇と同じように食べ進めているのは、アルビオン国王ジェームズ1世。相変わらず感情を顔に表さず、もくもくとナイフとフォークを動かしている様は、悠然として王者の風格が現れている。しかしさすがに、料理人を侮辱されて黙っているわけにも行かず、王はワインで口を潤してから、口を開いた。


「人の家に上がりこんで、金も払わずに飯を食べて『不味い』という人間を、なんと言えばいいのでしょう」
「不味いものは不味い。しかし、不味いなりに食える。だから食べておる」

噛み合っているようで、噛み合っていない会話にも、ジェームズ1世は顔色を変えない。この程度でうろたえていては、ヘンリーのあしらいなど出来るものではない。

「正直は美徳だそうですが、それは諸刃の刃だと愚考いたします。鋭い言葉は人を切りますが、同じく持ち主である自分も傷つける」

ふんッと鼻を鳴らすヨハネス19世。

「若いのに、ずいぶん回りくどい事を言う。あと人生で何回、料理が食べれるかわからないこのわしが、奇特にもアルビオン料理を食べているのだ。それだけでも感謝して欲しいものじゃ・・・もっとも、わしに早く死んで欲しい人間はその例にあらずだが・・・のう、グアスタッラ伯爵?」

強烈な皮肉に、おもわず机に肘を付くグアスッタラ伯爵。顔を引きつらせるこの大使が、非主流派のフランチェスコ会系勢力に擦り寄っていることなど、老教皇には百も承知だ。一体誰のおかげで大使になれたのだと詰め寄ることはしない。それはあまりにも無粋というものである。


「・・・なんとかなりませんか?」

ジェームズがやんわりと取り成すように言う。ある意味、アルビオン人よりあけっぴろなロマリア人は、ヨハネス19世の様な性格を最も嫌う。この、誰彼構わずにぶつける皮肉さえなければ、老教皇も「ネズミ並み」に、ロマリア市民に嫌われることはなかっただろう。

余計なお世話だといわんばかりに、老教皇はそっけなく答える。

「こうみえましても、わしは陛下の倍は生きておりましてな。これまで言いたい事を我慢していたので、今のうちに言っておかないと、すぐにお迎えが来てしまいます。墓の下から叫ばれては、こやつらもたまりますまい」
「長生きしたものが、必ずしも賢明とはいえないと思いますが?」


ハラハラしながら見守るカザリン王妃とは対照的に、ジェームズは、この気難しい老教皇との言葉の掛け合いを楽しんでいた。身内であるヘンリーやカザリンとですら、お付の侍従やメイドの目があり、気軽に話すことがはばかられる王にとって、言いたい事をいい、振る舞いたい様に振舞うヨハネス19世が羨ましかった。いつかは自分も自由気ままな立場になりたいものだと思いながら、置かれた立場と自分の性格が、それが叶わぬ、許さぬことだと自覚している最高権力者のジェームズ1世にとって、それは久しぶりの経験であった。

そんな若き王の心中を見透かしたかのように、ヨハネス19世は手を止めてから口を開く。


「何、王も何れは自由に振舞えるようになるわ。性格など、時間がたてば変わる。変わらずにはいられないというのが人間じゃ。それに」

自嘲気味に呟きながら照れ隠しなのか、軽く鼻の下をこするヨハネス19世

「それに権力は移り気なもの。自分ではしっかりと握っているつもりでも、いつしか離れていくものだ。かつてのロマリアの大王然り、ロペスピエール3世然り・・・そしてわし然り」

「ちょうど女心のようだ」と老教皇が言い、ガザリン王妃が笑ったことで、ようやく会場の空気が緩んだ。この老人の口から「女心」という単語が出ること自体が、あまりにも不似合いであり、それだけで笑いを誘った。


ただ、グアスッタラ伯爵だけが、笑おうとして笑いきれずに、先ほどより盛大に顔を引きつらせていたが。


***


「辛気臭い顔してるわね」


チャールストン離宮でヘンリーを出迎えたキャサリンの第一声である。気が立っていたため、とっさに(いきなり何を言うか)と反感を覚えたが、すぐにキャサリンの言うとおりだと思い直した。実際、今の自分の顔は、とても見れたものではないだろう。

ソファーに身を投げ出すようにすわり、服のボタンを緩めようとして、それすら面倒になり止めた。メイド長のミリーを初めとした使用人たちには「今日はもういい」と下がらせている。他人の顔を見たくはないし、自分の惨めな顔を見られたくなかった。本音を言えば、キャサリンにも今すぐ出て行って欲しいのだが、対面のソファーに座って、出て行く様子はまるでない。


「・・・そんなに、酷い顔をしているか?」
「えぇ、それはもう。カメラがあれば記録しておきたいぐらい。ねぇ、デッサンしていい?」
「・・・君は」

反論しようとしたが、喋るのすら億劫になり止めた。いつもは多弁にして空疎な事を聞いてもいないのに喋りまくる夫の、余りにも異なる態度に、眉をひそめるキャサリン。

「何があったの?」
「・・・」

何も答えずに机の上のシガーケースに手を伸ばし、煙草を取り出す。杖を振ろうとしたところで、再びキャサリンが尋ねてきた。


「・・・ダングルテールかしら?」

「なッ!」


ヘンリーの口から、くわえた巻きタバコが床に落ちた。慌ててもみ消そうとするが、火をつけていないことを確認するとほっと胸を下ろす。自分でもよくわからない焦燥感と苛立ちをくすぶらせながら、ヘンリーはキャサリンを睨む。キャサリンは「なんでもないことよ」と呟いてから続ける。

「教皇のお出迎えをした後の、貴方のその落ち込みよう・・・釘でも刺された?『手遅れになる前に、何とかしろ』って」
「・・・そんなに俺って、わかりやすいか?」

ヘンリーがうな垂れながら言うと、キャサリンは呆れたような視線を向けてきた。

「あのね、貴方と何年付き合ってると思ってるのよ。オムツの取れた頃からの付き合いの私に、隠し事が出来ると思って?」

そういいながらも、こちらを心配しているのが丸解りで、思わずヘンリーの頬が緩む。それを見咎めたキャサリンが、再び眉をひそめながら言う。


「何笑ってるのよ」

「いえ、何も。わが姫様」


おどけた様に膝を突き、女王に杖の忠誠を誓う騎士のように振舞うヘンリー。女王のキャサリンも、当然のように手を差し出す。手の甲にキスをするヘンリーからは、重苦しいものは吹き飛んでいて、いつもの馬鹿なヘンリーに戻っていた。


***


晩餐会の後、ジェームズ1世は執務室にヨハネス19世を招いていた。


「私はこういう時に、始祖の恩寵に感謝いたします」
「たしかに。『固定化』がなければ、2000年以上も前のワインなど、飲めたものではないですからな」

ヴェネト産4330年物のワインボトル片手に不敵な笑みを浮かべる始祖の子孫と、グラス片手にいい笑みを浮かべるブリミル教の最高権力者である老人。コルク片が入らないように慎重に栓を抜き、デキャンタに移すジェームズ。音と香りを楽しんでいたヨハネス19世だが、ふと思い出したように口を開く。

「中々、面白い弟御をお持ちですな」
「えぇ、変わっているという点では、間違いなく面白いですよ」
「仕込めば、そこそこ使える神官になるでしょうな。王族でなければ、スカウトしたいところです」
「・・・あれが、使い物になりますか?」

それまで苦笑していたジェームズが、真顔で尋ね返す。ジェームズは、ヘンリーの楽観的で柔軟な思考をかっていたが、同時に、何事も自分に都合のいいように解し、悪い情報を無意識に過小評価する傾向があり、それは為政者としては重大な欠陥になると理解していた。慎重にして小心であるのに、脇の甘いところがある弟が、教皇の目にはどう見えたのか、それを聞いてみたくなったのだ。

デキャンタの中で揺らぐワインに目をやりながら、ヨハネス19世は答える。

「腐っても聖職者です。多少甘ちゃんでも、理想論者でないと。金儲けが目的の奴や、貴族のボンボン聖職者などが多いのも事実ですが、そんな輩は、途中でふてくされるか何かで、使い物になりません」
「そんなものですか?」
「理想論でコチコチに固まったのも困りますがね。要するに、陛下の弟君ぐらいのが丁度いいぐらいですな。どんな困難でも、笑って吹き飛ばす図太い神経の持ち主であり、なおかつ青臭い理想論者であることが」

怪訝そうに見返すジェームズ1世に、老教皇はいつもの不機嫌そうな表情を浮かべた。

「意外ですかな?この爺にも若い頃はあったのですよ」
「いえ、そういうわけでは」

そういいながら、含み笑いをする白の国の主に、光の国の主はますます顔を顰めた。いつもなら席を立つところだが、目の前のワインを飲まずに帰るのは如何にも惜しいという一念だけが、この老人をとどまらせている。年齢を重ね、老人は堪え性が無くなったが、同時に欲求にも忠実になった。


「・・・ヘンリー殿下は随分と大見得を切ったものですな。陛下も同じお考えと受け取ってよろしいのですな?」

その言葉に、静かに首を横に振るジェームズ1世。

「ジャコバイトに関しては、あれの判断です。許可したのは私ですがね。ヌーシャテル大使からの情報を得た後、『自分に任せろ』と珍しく言ってきたもので」
「そうですか」

おそらく事前に調査済みだったのにもかかわらず、初めて聞いたかのように惚けるヨハネス19世。エセックス男爵からの報告で、ヘンリーと目の前の老人が会談している事実を把握しているジェームズ1世にとっては、白々しいことこの上ない。そうでなければ、ヘンリーを呼び出して詰問するはずがない。


ロマリアからの情報で、ジャコバイト(アルビオン反王家勢力。元来スチュアート大公家こそ正等なアルビオン王と主張する勢力だったが、大公家断絶後、アルビオン新教徒の俗称となった)の拠点が、トリステインのアングル地方(ダングルテール)にある事を掴んだアルビオンだが、その対応策に頭を抱えた。

元々、ジャコバイトを支援していた経緯があるトリステインだが、ジャコバイトがアルビオンを実効支配する事が不可能になると、彼らは次第に煙たい存在となり「アルビオン・トリステイン協商」が成立すると、名実共にお荷物となった。とはいえ、経緯が経緯だけに切り捨てるわけにも行かず、アングル地方に住まわせている。ジャコバイトは自分達を「アルビオン人」だと主張するため、何かと地元領主との諍いが絶えず、手に余ったトリスタニアは、アングル地方一帯を「自治区」とすることで、お茶を濁した。

トリステインにとっては「お荷物」のジャコバイトだが、アルビオンにとってはお荷物どころではない。反アルビオン王家を掲げる彼らの過激派の中には、時折爆弾テロなどの破壊工作を行うものもあり、頭痛の種であった。国家を転覆させるほどの力が無いとは言え、テロを定期的に行われては、国家の威信などあったものではない。

「アルビオン・トリステイン協商」が、ラグドリアン戦争を契機に同盟関係として深化しつつある中、このジャコバイト問題だけが両国間に残された。


「たしかに殿下の言葉にも一理あります。下手に強攻策にでれば、反発は必死ですからな」


ヨハネス19世の言うとおり、この問題は「アルビオンの内政問題」であり「トリステインの内政問題」であり「両国の外交問題」でもあるところに、解決の難しさがある。

ロマリアからの情報で、アングル地方にジャコバイトの拠点が掴んだことを確認したアルビオンだが、だからと言ってどうすることも出来ない。同盟国とはいえ、他国の領土に軍を送って、掃討作戦など行えるはずが無いし、そんなことをすれば、同盟関係など一夜にして崩れ去る。かといって、なにも行動しないということはありえない・・・

トリステインとしても実に悩ましい。が強攻策に出れば「アルビオンからの外圧に屈した」という批判がトリステイン国内に出ることは避けられないし、新教徒の多い旧東フランク地域諸国との関係悪化は必須だ。とはいえ同盟国の申し出をむげには出来るはずもない・・・


アルビオンは「ダングルテール虐殺だけは勘弁」というヘンリーにより、トリステインに「テロの取り締まりを申し入れる」(正式な外交ルート)と「穏便な対応を求める」(私的な外交ルート)の2本立てでいくことに決定した。ラグドリアン講和会議で、ヘンリーがトリステイン内務卿のエギヨン侯爵に申し入れたのは、そういう経緯がある。


~~~


兄と教皇が自分達と同じ話をしていると知るはずもないヘンリーは、キャサリンに今までの経緯を話し終えていた。

「何重にもほぐれて縺れた糸みたいだよ。結び目がいくつもこんがらがって、互いに互いを引っ張り合っている」
「だけど、貴方はハサミでちょん切ったり、火を付けたりはしたくないのでしょう?」
「当たり前だ!」

拳で殴るように机を叩くヘンリー。

「俺の関係するところで、感知するところで、そんなことをさせてたまるか!」
「貴方!」

珍しく興奮し、感情をあらわにしたヘンリーだが、気まずそうに頭をかきながら「悪い」と謝る。

「それで、何か考えているの?」

目をそむけるヘンリー。答えたくないのか、答えが無いのか。キャサリンは身を乗り出して、もう一度尋ねた。

「貴方?」
「・・・正直、現状維持が一番いいと思う」

ヘンリーの言葉に、キャサリンは苛立ち混じりの声で詰問する。

「何よそれ。何も考えてないって事?貴方は、代打策も示さずに一人前のことを言っていたの?言うだけなら、子供にだって出来るわよ」

あえて挑発するように言ったキャサリンだが、ヘンリーは静かに首を横に振った。その仕草は、まさに兄であるジェームズ1世と瓜二つであった。


「・・・まぁ聞いてくれ。アルビオンとしては、トリステイン政府に期待するしかない。トリステインも、安易な強攻策は取れない中で、出切る事は限られている」

キャサリンが頷くのを確認してから、ヘンリーは続ける。

「この問題の根っこは、ジャコバイトの反アルビオン姿勢が軟化する可能性が、すぐには望めないことだ。アルビオン王家は代々、新教徒を弾圧してきたからな。加害者であるこちらが許してくれといっても、被害者の子孫が許すわけ無いさ。特に、未だに『アルビオン人』の意識が強い彼らは」
「・・・相容れない存在ってわけね」

目を伏せるキャサリン。先祖の功績も罪悪も背負い続けるのが、王族の宿命だ。たとえそれが、自分があずかり知らないことであっても、逃げることは許されない。

ヘンリーも硬い表情を崩さずに続ける。

「それに強制追放したとしても、根本的な解決にはならない。むしろ、各国にテロの温床を散らばらせるようなものだ」

そこまで言うと、キャサリンはようやくうなずいた。


~~~

「トリステインに監視させるわけです」

ジェームズ1世は、弟の言葉をそのままヨハネス19世に語っていた。

「一箇所に集まってくれているのです。逆に言えば、監視がしやすいということ。武器弾薬などの流入だけを厳に取り締まってもらえば、わが国としても結構です」
「元々はトリステインがまいた種じゃからな。収穫までは面倒を見てもらおうということか?」
「いかにも」

うなずいてから、デキャンタを持ち上げるジェームズ1世。軽くグラスに注ぎ、口に含む。うむ、程よい頃合だ。

「わしの派閥の選挙には、役に立ちそうには無いが、まぁいいだろう」

元々、ロマリアがジャコバイトの情報をアルビオンに伝えたのは、新教徒対策で点数稼ぎをして、次の教皇選挙を有利に進めたいという思惑があった。ヨハネス19世としてはどちらでも良かったのだが、支持勢力のイオニア会やガリア派に突き上げをくらい、何らかのアクションを起こさざるを得なかったのだ。ヘンリーの対応は、ヨハネス19世にとって望ましいものであった。

「大人の解決」を示した、見た目とは裏腹に慎重なヘンリーの対応に満足するヨハネス19世。しかしこの老人は、どんな事にも何か小言を言う性格。やはり今回の対応にも、一言注文をつけた。


「問題の先送りにならなければいいがな。たとえ一時は批判されようと、やらなければいけない時にやらなければ、後の人間が苦労するからの」
「それは、後のことはどうでもいいとお思いだからではないですか?」
「・・・何じゃと?」
「もうすぐ召される聖下だから、そう思えるのではないですかといっているのです」


グラスにワインを注ぎながら平然とした顔で毒を吐く、自分の半分しか生きていない国王に、ヨハネス19世は一瞬あっけにとられた後、大きく笑い声を上げた。


「かーっはっはっはっはっっはっはっは!!・・・き、貴様、中々言うではないか!」


笑いが収まらないのか、肩を震わせるヨハネス19世に、ジェームズ1世はグラスを持ち上げながら答える。


「問題の先送りになるかどうかは解りませんが、私も、今はこれが次善の策だと考えます。最善でなくてもよいかと」

ようやく笑いが収まった老教皇は、いつもの不機嫌そうな顔で言う。

「貴様の弟は耐えられるのか?アレは優しい小心者だ」
「存じております」


何せアレの兄ですからというジェームズは、珍しく口元を緩めながら答えた。



~~~


「根本的な解決にはならんことはわかっているさ」

苦しげな顔で、ヘンリーは言う。

「何でもかんでも、一気に片付けようというほうが間違っている。数百年掛けて積もった恨みは、最低でも同じ数百年掛けなければ収まるはずが無いんだ。テロだけは断固として取り締まりながら、ジャコバイトが「トリステイン国民」になるのを待つ。これしかないだろう」

ヘンリーはキャサリンと向き合うように座り直した。両手を組んで机の上に置き、誰に問うとでもないのだろうが、呟いた。


「キャサリン・・・俺のは問題の先送りか?現状の問題に目を瞑り、見えない、聞こえない振りをして、ダングルテール虐殺を子孫に・・・アンドリューたちの世代に先送りしているだけなのか?」


キャサリンは何も言わず、ヘンリーの両手の上から、自分の手を重ねあわせた。



~~~



「あれには、共に立つ者がいますから」


その言葉に、面白くもなさそうに鼻を鳴らすヨハネス19世。愛だの恋だのといったこととは全く無縁だった自分へのあてつけにしか聞こえない。


「・・・まぁいい。この話は終わりだ。で、何に乾杯する?」


同じくグラスを掲げた老教皇に、ジェームズ1世は答えた。



「そうですね・・・『未来に』というのはどうです?」



「・・・貴様、言っていて恥ずかしくないのか」

「・・・多少」


頬をうっすらと染めた若き王を、楽しげに眺めながら、ヨハネス19世はグラスを掲げた。





「「未来に」」








[17077] 第40話「二人の議長」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:b679932f
Date: 2010/08/06 18:57
ロンディニウムの中央を流れるテムズ川。アルビオン王国議会の議事堂であるウエストミンスター宮殿はその西岸に位置している。6000年代初頭のアルビオン国王エドワード10世(5980-6020)と議会が対立した際、王がハヴィランド宮殿内にあった議事堂をこの宮殿に追いやる様に移転させて以来、議会はウエストミンスター宮殿を議事堂として使用していた。一種の意趣返しであったのだが、エドワード10世はすぐに「自発的」退位に追い込まれた。

トリステイン高等法院が「国家の中の国家」なら、アルビオン議会は国家そのもの。形式的には国王の大権を補佐する機関とされていたが「王が寝ていても国家は動くが、議会が寝ていてはアルビオンは動かない」といわれるほど、国政への影響は大きいとされる。

その権威の源は、司法権と予算監督権にある。

アルビオン議会は庶民院と貴族院の二院制であるが、庶民院が成立して二院が確立したのがおよそ3000年前。それ以前は議会といえば、貴族と聖職者による「王会」(現在の貴族院)を指していた。王会は「建国王」アーサー(始祖ブリミルの長子)が第三子チャールズ(ウェセックス伯爵家祖)と功臣ノーフォーク侯爵の領地問題を、貴族を招集して審議させた事に始まる。親族と有力家臣の争いに、たとえいかなる判決を下したとしても両者共に収まらず、そのために自身の権威が傷つき建国間もないアルビオンの屋台骨が揺らぐ事態をアーサー王は恐れたのだ。そのため、今でも貴族院議長は代々大法官を兼ね、最高裁判所長官の役割を果たしている。

一方で庶民院は、3000年代最後の『聖戦』となった第4回聖地回復運動(3799-3810)を契機として設置された。国王ロバート10世(3753-3809)が遠征軍の費用を、貴族や聖職者からの増税で賄おうとした事に反発した貴族が、かねてから王の失政を批判していたノース伯爵を指導者として反乱を起こし、王に増税を撤回させたのだ。その際、ノース伯爵が「王の予算執行が適正かどうか監督する」という名目で、ロバート10世に各州や大都市の代表者(平民の有力者も含まれる)を選出して召集させたのが庶民院である。以来、王会は庶民院に対して貴族院と呼称されるようになり、現在に至っている。


国王を議会が監視し、議会を国王が牽制する。両者は互いに補完しあいながらアルビオンを運営してきた。


「相互監視による汚職と圧政の抑制がこの国の伝統というなら、内務省の権限を強化し、財務省と張り合わせようという陛下のお考えは伝統に沿ったものということになるがな」


アルビオン貴族院議長兼大法官のダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリーは、年下である庶民院議長フレデリック・ジョン・ロビンソンにぼやいていた。


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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(二人の議長)

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ウエストミンスター宮殿は、テムズ川の上から見て左側が貴族院、右側が庶民院である。中央の時計塔の鐘は、毎日3回必ず同じ時間に鐘を鳴らすことから、ロンディニウム市民に重宝されていた。貴族院議長室と庶民院議長室はその時計塔の中にあった。

貴族院議長室でヘンリーとシェルバーンを出迎えた部屋の主であるダービー伯爵は、アポもとらずに押しかけた二人に椅子を勧めながら、この場をどう切り抜けたらいいものかと頭を働かせていた。


ダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリーは58歳。「再建王」リチャード12世の下で初代財務大臣として辣腕を振るったダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリー(同名)はこの人の先祖である。しかしながら当代のダービー伯爵は可もなく不可もないと評判であった。彼の祖父が始め、伯爵家の家業とまで言われた競馬のオーナー業から手を引き領地経営に専念することで、先祖代々の財産を少しだけ増やした。それで満足できるのが当代のダービー伯爵という人物であった。貴族院の伯爵議員として籍を置いた彼は、これといった政治的行動を起こすこともなく真面目に議員を務め、貴族院副議長を経て議長兼大法官に就任。今年で4年目になるが、就任以来これといった懸案を抱えることもなく、議会を円滑に運営することだけに心を砕いてきた。

(その自分が何故こんなことに巻き込まれるのだ)

先日、大法官として出席した閣議で(貴族院議長は行政府の閣議に出席できない)枢密院が提出した省庁再編案をみたダービー伯はひっくり返りそうになった。まさか偉大なる先祖と同じ省庁再編に、自分が巻き込まれることになろうとは。それもよりにもよって「ダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリー」が心血を注いで作り上げた財務省を対象としたものに。

枢密院案が発表された後、権限を縮小される財務省は猛反発。大幅に権限を強化される予定の内務省と火花を散らしている。財務省を大蔵省から分離独立させた先祖の苦労を知る伯爵は、意図的に行政府と距離を置こうとしたが、現在の彼の立場(貴族院議長兼任大法官)と、今の財務省を作り上げた偉大なるダービー伯爵の直系子孫で、しかも同じ名前である彼を周囲は放っては置かなかった。毎日のように議長室には財務省の局長クラスがやって来て「偉大なるダービー伯爵の遺功を破壊しようとするものですぞ」と馬鹿の一つ覚えのように繰り返す始末だ。

確かに財務省の権限縮小は、偉大なる先祖を否定されるようで面白くはない。しかしそうした不快感よりも、毎日のように「偉大なる伯爵の御先祖が」と繰り返されては、いくら温厚な老人であったとしても「自分には何の価値もないのか」という不快感の方が優ったのだ。何よりも偉大なる先祖と自分と同じ名前であるということが、この初老の伯爵に、どうしようもない鬱屈したものを積もらせていた。「エドワード・スミス=スタンリー」は、自分とは比べようもない偉大なる人物であったことは、他ならぬその子孫であり、同名であるがゆえに、産まれてから今までずっと比べられ続けてきた自分が一番よく知っている。分かり切ったことを他人に指摘される事ほど、腹が立つことはない。



閑話休題



ともかくそんな政治的に微妙な時期に、省庁再編の発案者であるとされる王弟と、当事者の一人である財務卿がそろってやってくるとあれば、ろくでもないことを押し付けられるに決まっている。シェルバーン財務卿だけなら「議会の中立性」とか何とか理由をつけて追い返すことも出来るが、王族が一緒とあればそうも行かない。アポもない突然の訪問であっただけに居留守も使えなかった。ダービー伯爵に出来たことは、この厄介ごとに巻き込む人間を増やすことだけであった。


ダービー伯爵が道連れに選んだのは、庶民院議長のフレデリック・ジョン・ロビンソン。「人相のいいブルドック」というあだ名の通り、たてと横に恰幅がよく、肉付きのいい顔の頬は軽く垂れ下がっている。二重まぶたの下の細い目は敵と味方を峻別するためか、常に油断なく周囲を見渡しており、低いが大きな鼻は、利権の臭いを嗅ぎ付けるのに役立ちそうであり、まさに「庶民院のドン」に相応しい風貌の持ち主である。


庶民院は一応は選挙の形式をとってはいるが、事前に候補者調整が行われるため、ここ数百年選挙戦が行われたことはない。大商人や大地主などの有力平民だけが選出されているわけではなく、貴族の子弟や次期爵位継承者、退役軍人なども選出されている。現在の議長であるフレデリックは、ゴドリッチ子爵家トーマス・ロビンソンの次男。30代という異例の若さで議長に就任し、現在に至るまでおよそ10年近く議長職を務めている。

ダービー伯爵はフレデリックを内心忌避していた。丁寧な態度で、年長者である自分を立ててはくれるが、50にようやく手が届いた「庶民院のドン」が内心何を考えているのかさっぱりわからないのだ。庶民院議長は8年も続ければ、貴族の子弟であれば一代男爵か分家を許され、平民であれば勅撰議員として貴族院に移籍するのが通例である。それをフレデリックは、どのように根回しをしているのかは知らないが、それらを巧妙に避けて12年にもわたり議長職を続けている。貴族でありながら爵位を望まないというその態度が「自分はそのような器ではありませんから」という謙虚なフレデリックの言葉とは裏腹に、ダービー伯には薄気味悪いものに映っていた。

しかしながら、厄介ごとを持ち込んでくるに違いない訪問者と対峙するには、これ以上なく頼もしい同席者だ。(味方かどうかはわからないがな)と内心自嘲しながら、ダービー伯爵は切り出した。



「それで、ご用件は」

いつもと変わらないのんきな顔をした王弟のカンバーランド公爵ヘンリー王子とは対照的に、財務卿のシェルバーン伯爵は、ハシバミ草を無理やり食べさせられたような顔をしており、部屋の空気を一層重苦しいものにしていた。

「議会の力を借りたい」

いきなり本題を切り出したヘンリー王子に、シェルバーン財務卿の苦々しげな顔の理由を察した。仕えるのは大変だろうにと伯爵に同情しながら、顔が自然と強張るのを感じる。

「・・・いや、それは何といいますか。突然のお話なものですので・・・」
「要するに、我々に枢密院の尻拭いをしろとおっしゃるわけですな」

あいまいな言葉で時間を稼ごうとしたダービー伯爵は、フレデリックの不敬とも取れる言葉に目をむいた。お世辞にも恰幅がいいとは言えない自分とは対照的に、やたらと貫禄のある体型の庶民院議長は、いつも通りのやんわりとした口調ではあったが、何一つ飾ることのない抜き身の刀で、これまでの対応を批判する。

「枢密院の方々も口ほどにもない。無駄に馬齢だけ重ねてこの様とは。話をややこしくしただけではありませんか。行政府の、特にロッキンガム宰相のやり方もいただけません。自身が根回しに動かれた形跡がまるでないとは。そもそも宰相が頭を下げてくるのならともかく、失礼ながら何故殿下が動かれるのです?」
「いや、それはだな・・・」

表向き、省庁再編計画とヘンリーとは無関係であるとされていたため、言葉に詰まる。いい繕おうとする王弟の言葉を遮るようにフレデリックは言葉を重ねる。

「失礼ながら、それは筋違いというものです。本来ならロッキンガム公が頭を下げてしかるべき。それに例えロッキンガム公爵に頭を下げられたところで、行き詰ってから議会に泣きついてくるとは、余りにも虫が良すぎるというものではありませんか?」

『正論』であるためにヘンリーもすぐには反論出来ず、シェルバーンにいたってはその仏頂面をさらに厳しいものとしていた。あっという間に交渉の指導権を握ったフレデリックの交渉術にダービー伯爵は舌を巻き、同時にこの男を同席させたことは正解だったと安堵した。


財務省の再編を中心とした省庁再編案の閣議決定が遅れているのは、ロッキンガム宰相と枢密院書記長官のモートン伯爵に原因があるというのが、ロンディニウムの一致した見方であった。ロッキンガム公爵への批判は「『財務省解体』とも受け取られかねない過激な枢密院案を閣議に出して混乱させておきながら、新設の首相職への自分の就任支持だけを取り付けるとは何事か」というやっかみ混じりではあったが、内容自体には頷けるところが多い。何より、関係省庁に根回しがなかったことが、事態を混乱させていることは明らかであった。前任者のスラックトン侯爵の手並みが余りにも見事であっただけに、ロッキンガムの不手際が目立ったのだ。

「ロッキンガム公爵を擁護するわけではないが」とヘンリーが反論する。

「爺さん-スラックトンのやり方では、大胆な改革案を提示することが出来なかったのも確かだ。あらかじめ根回しをしようとすれば、ある程度の要求を引っ込めざるを得ないからね。ロッキンガムの対応に問題がなかったわけではないが、枢密院案は条件交渉に持ち込むことを前提としたものだったから」

最初に最大限の要求をふっかけてから、次第に条件を引き下げて有利に交渉を進める-どうせそんなことだろうと当たりは付けていたシェルバーンだが、目の前で断言されては、さすがに苦笑いするしかない(顔面を痙攣させていたが)。「やり手の弁護士のようですな」と呆れたるダービー伯爵に、ヘンリーがさらに続けて言う。

「調整型の政治家としてはスラックトン侯爵は間違いなく一流だったが、何事にも向き不向きがある。ロッキンガムのやり方は不味かったが、だからといって公爵以外の人間で彼以上にうまくやった人間がいるとは思えない」

「仮に失敗しても『風見鶏』だから切り捨てても良心が痛まないと?」

フレデリックの皮肉に一瞬ムッとしたヘンリーだが、気を取り直して続ける。


「その点も含めて、根回しを枢密院に期待したんだが、モートン伯爵がな・・・確かに見通しは甘かったと認めよう」


枢密院書記長官として再編案を取りまとめたモートン伯爵は元財務次官。彼は財政規律重視の傾向が強い財務省の中で、商工局一筋の「商工族」であった。それゆえ財務次官時代には、省内のサボタージュで在任僅か2年で辞任に追い込まれた。枢密院書記長官として不遇の時代を過ごしていた元財務次官は、降って湧いた省庁再編計画に飛びついた。モートン伯爵という人物を知っていれば容易に想像できた事態ではあったのだが、ヘンリーは肩書だけを見て「元財務次官であれば、財務省に根回ししてくれるだろう」と安易に考えた。その点に関しては反省しなければならない。

モートン伯爵がとりまとめた再編案は、古巣への憎悪すら感じる厳しいものであり「これでは徴税庁だ」と財務省が反発したのはもっともであった。商工族の悲願である商工局(産業政策)の独立は勿論のこと、金融機関を監督する銀行局を金融庁として独立。通貨発行とその流通を監督する通貨局、予算編成権を王政庁に移管と、まるで財政規律派への嫌がらせの様な再編案に、商工局の独立はやむをえないという意見が大勢であった財務省内の財政規律派の意見は一変した。一部の強硬派は「紙一枚、釘一本たりともやるものか」とシェルバーンを突き上げ、財務卿も不承不承ながら閣議の場で「反対」と主張した。省内の体勢に逆らえば、今度はシェルバーンがモートン伯爵のように失脚しかねなかったからだ。

自分の仕事に誇りを持ち、それ相応にプライドの高いシェルバーンが「部下の顔色を見ながら大臣など続けたくない」と言い出しかねないため、ヘンリーは必死に慰留工作を行っていた。上知令を着実に実行するためには、この坊主頭の能力がまだ必要だったのだ。不機嫌そうな表情を隠そうともしない財務卿に、内心ため息をつきながら、ヘンリーは尚も言う。


「まぁ、今更なんだという気持ちもわかるがね。やらねばならんのだ。このシェルバーンも立場があるから声高にはいえないが・・・『ここに私といる』『私がいる』意味を汲み取ってはくれないか?」

「それは・・・」


ダービー伯爵は語尾をぼやかしながら、ますます面倒になったと頭を抱えた。省庁再編の提案者であるとされる王弟と、最も反対している財務省のトップが共に来たということは、財務省-すくなくとも財務省のトップは、再編自体は受け入れるつもりがあるのだろう。落としどころは「商工省」の独立あたりか。そしてこの王弟が自ら調整に乗り出したという事は「ヘンリーの兄」が、落としどころも含めて暗黙の了解を与えているという事。

(仮病でも使っておけばよかった)と後悔しながら、にんまりと笑みを浮かべる王弟の顔を見ていると、杖でも投げつけてやりたくなる。半ばやけっぱちになりながら、ダービー伯爵はヘンリーを見据える。


「やはりここは議会の力が必要なのだ。かつて5人の王の首を切った議会を見込んで、恥を忍んで言うんだ・・・頼むよ」
「おっしゃる内容は理解しますが、ですが・・・」

戸惑い気味に答えながら、言下に「迷惑だ」というニュアンスを含めるダービー伯爵。「王の首を切った」とは、アルビオンの議会の力を評してよく言われることだが、5人とも失政やスキャンダルで政権が行き詰まり、どうしようもなくなった時点で退場を突きつけただけの話。予算の使い方にケチをつけるならともかく、各省間の対立の調停などが出来るとは思えない。大体、議会議会というが、矢面に立って行動するのは議長である自分ではないか。

困惑が表情に出ていたのか、ヘンリーが付け加える。

「確かに君にも動いてもらわねばならん場面もあるのだろうが、具体的な仲介までは期待していないさ。議会で圧力をかけてほしいのだ」
「圧力、ですか?」
「そう。議会の意思を見せてほしいのだ。議員各位にもそれぞれしがらみがあるだろうから、決議してくれとまでは頼まない。大まかな省庁再編を指示する方向で議会をまとめてくれればいい。そうすれば財務省も露骨な反対運動は起こしにくいだろうから。ねぇ、財務卿」

「・・・そうですな」


シェルバーン財務卿・・・何でこっちを睨むんだ。俺が悪いわけじゃないだろう。頼むから睨まないでくれ。お願いだから。心臓に悪いから。


「で、どうなんだ。やってくれるのか、くれないのか」


さっきまでの低姿勢はどこへいったのか。最初から選択権など与えるつもりはないくせにと、皮肉の一つもいいたくなったが、フレデリックほど心臓に毛の生えていない自分に言えるはずもない。ダービー伯爵はそこまで考えてから、フレデリックはどう考えているのかということに、ようやく思いが至った。

自らの右側に座る男に目をやると、ふっくらとした顔の二重まぶたを閉じ、何かを考えていた。庶民院と貴族院の両院の同意があってこそ、財務省への圧力になる。庶民院のドンが反対するとあれば「両院の協調に反する」とか何とか理由をつけることも可能になるのだが・・・


そんなダービー伯爵の期待は果かなく潰える。フレデリックは反対の理由を考えていたのではなく、交渉受け入れを前提として、自らの利益を要求し始めた。


「よろしいでしょう。庶民院としてはその方向性でまとめてみましょう・・・ですが条件があります。まずポストをいくつかまわしていただきたい。内務省でも財務省でも、新設の商工省でも構いません」

目を白黒させるダービー伯爵と、露骨な要求に不快げな色合いを目に浮かべるシェルバーン財務卿。「商工省の独立が前提かね」と、この人らしからぬ皮肉が口を付いて出ていた。文字通りの厚い面の皮でそれを受け流したフレデリックは「私は出来ないことは引き受けません」と答える。

「だからこそこの地位に10年も入れたのですよ。それがどういうことか、財務卿にはお分かりでしょう」

暗に省内での基盤が弱いシェルバーンを揶揄するフレデリック。額に青筋を浮かばせるが、本当のことであるだけに反論が出来ず、本当のことだけに腹が立つ。ヘンリーはというと、特に反応も見せず「あとは?」と続きを促した。


「それと、もう一つ、これは必ずしていただきたいのですが、モートン伯爵はどのポストにも起用しないで頂きたい」
「ポストというと、行政職という意味かね」
「内閣もそうですが、宮中職も、大使として国外に追放されるのも困ります」

フレデリックの言葉に首をかしげるダービー伯。目で続きを促すヘンリーに頷きながら、何事もなかったかのように、フレデリックは理由を述べる。

「庶民院とはいえ、財務省につながりのある人間がいないわけではありません。枢密院の不手際は、ウィルミルトン伯(前財務卿)が病気がちで調整が十分ではなかった事もありますが、ひとえにモートン伯の私怨によるところが大きいのは周知の事実。かの人が取り立てられては、まとまる物もまとまりません」
「しかしな議長」

今度はヘンリーが困惑の表情を浮かべながら言う。

「毀誉褒貶はあるにしろ、モートン伯が再編案を取りまとめたのは確かだ。それをどのポストにも就けないというのは、いささか片手落ちではないかね?」
「これは言葉足らずでした」

そう言って自らの後頭部を叩くフレデリック。

「片手落ちでなければ困るのですよ殿下。むしろ現在の職務からも更迭してもらいたいのです」
「ロビンソン議長、それは・・・」

言葉が続かず、顎に手をやるヘンリー。さすがに貴族院に比べて議論が白熱しやすい庶民院の議長として10年近く君臨しているだけのことはある。洞察力や駆け引き、何より男の嫉妬に関する理解に関しては、自分など足元にも及ばないと感心していた。

「財務省の反対論は、モートン伯への個人的反感でしょう。自分たちを切り刻んだ挙句、自分だけが出世するのかという。聞けば商工族の間でも伯爵のやり方はまずいと憂慮する声が大半だとか。モートン伯爵の取り扱いさえ間違えなければ、財務省内も商工局の独立で意見がまとまるでしょう・・・違いますか、シェルバーン財務卿」

「・・・ふん」

面白くもなさそうに首を傾げて鳴らすシェルバーン伯爵。解っていることと納得していることはイコールではない。再編案に反対している財務官僚もそうであろう。初代財務卿の偉大なるダービー伯爵が産業政策部門を財務省に統合したのは、小麦飢饉と四十年戦争で荒廃したアルビオンを立て直すためには、財政と産業政策が統合していたほうが効率が良かったためである。復興すれば分離するはずだったのを、権限を手放したくない財務省が理由をつけてずるずると引き伸ばしたのだ。

財政規律重視の財務省主流派と、積極的な産業政策を唱える商工局が同じ省にあること事態が、水と油を同じビンに入れるような話であり、何より風石を利用した帆船が民間で使用されるようになり、経済成長のスピードと規模が爆発的に拡大していくと、経済と財政を一つの省で統括する体制に無理が出てきていることは、財務省主流派も解っていた。これまでの経緯から素直には喜べないのに、商工族の元次官が、省全体を危機に陥れる(と主流派は受け取った)ような再編案を出した事で、両者の対立が感情的な対立へと変化したのだ。

とはいえ子供ではない彼らの多くも、実質的な落としどころがどこにあるかは解っている。議会には財務省に繋がる人脈もある。モートン伯爵に落とし前をつけさせ、それでもあくまで商工局独立に意固地に反対すれば、財務省の不明を天下に晒すようなものである。そしてここまでお膳立てをしてもらいながら省内意見をまとめ切れなければ、シェルバーンもそれまでという事になる。

フレデリックの言葉の背景を理解したシェルバーンは「この野郎」と怒鳴ってやろうとも考えたが、無様になるだけだと思い直した。


フレデリックは尚も意見を述べ続ける。

「何なら議会で引き受けましょう。ちょうど貴族院の伯爵議員枠に空きがあったはずです。ですね、ダービー伯爵」

「・・・貴様」


唐突に、先ほどからフレデリックに抱いていた違和感の正体に気が付いたダービー伯爵は「謀ったな」という言葉を何とか飲み込んだ。この男、どこからか情報を得て今日の会談がある事を知っていたのだろう。そして自分がフレデリックを呼ぶことを前提とした上で、どのように答えれば高く売りつけることができるかをあらかじめ想定していたのだ。見た目どおりに腰が重く言動に慎重なこの男が、ペラペラと話している時点で気が付くべきであった。


これでは、自分はとんだ『道化』ではないか。


睨みつけるダービー伯爵の視線に気が付いたのか、恨みを買うのはなれたものだといわんばかりに苦笑するフレデリック。そのふざけた顔を見た途端、怒りは疲労に変わった。議長室の中で一人だけ元気なフレデリックは、会談の終わりを宣言するかのように言った。


「お任せください。このフレデリック・ジョン・ロビンソン、駄々をこねる子供を寝かしつけるのは得意です」



そう言って拳で胸を叩いた『庶民院のドン』は、どこからどう見ても『道化役』(ピエロ)そのものであった。



***


フレデリック・ジョン・ロビンソンは、ダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリー卿と自分を比べ、多くの面でこの老伯爵より自分が勝っていると考えている。同時に、それ以上よりも多くの面で、この老人が自分より優れた人物だと理解していた。


フレデリックの行動原理は単純である。自分より優れた人物に対しては敬意をもって接し、多少自分より劣った人物にはそれに応じた対応をとり、馬鹿には馬鹿に合わせて馬鹿をする。庶民院での数少ないフレデリックの政敵であるスペンサー・パーシヴァル議員が彼を評して「奴は金がほしい奴には金を与え、ポストがほしい奴にはポストを与えただけだ」と言ったように、彼はそうやって庶民院内での勢力を築いた。

そうしたフレデリックの行動原理からすれば、この伯爵に敬意をもって接するのは当然であった。老伯爵には自分にはない美点を数多く持っていた。多くの貴族は競馬のオーナー業から手を引いた彼を「器の小さい小心者」と評したが、フレデリックには「自分の器」を知る懸命な人物と映った。人を評するのは簡単だが、自分を知るのは難しい。この一点だけでも、フレデリックにとって当代のダービー伯爵は尊敬するに値した。

無論、それだけではない。政治的野心が薄く政争から距離を置いてきたこの伯爵は、それがゆえに貴族の間で人望があった。「組みしやすい」と侮られた面も無きにしも非ずだが、そうしたものも含めて神輿に担ぎあげられるのも人望の一つ。伯爵で貴族院議長になったのは、フレデリックの記憶が正しければ数百年ぶりのはずである。そうした人物と親しくしておくことは、自身の庶民院での立場の強化につながるし、なによりも自分の隠れ蓑にもなってくれる。フレデリックはダービー伯爵に対して、同じ議長職として議会運営の助言を行った。伯爵が自分を疎んでいることは百も承知だが、その利用価値は認めているだけで、フレデリックには十分であった。



そのダービー伯爵は、ヘンリー王子とシェルバーン財務卿が退出した後、半ば殺気の混じった視線を自分に向けている。


「きさ・・・ロビンソン議長」

呼び捨てようとしてから言い直したのは、何事にも正確さを求める性格ゆえか、間をおいて感情を和らげるためか。傍に座っていたくないとでもいうかのように立ち上がったダービー伯爵は議長室の窓側に歩み寄り、視線だけを椅子に座ったままのフレデリックに向けて言う。

「どういうつもりだ」
「どういうつもりだとおっしゃられましても、何のことでしょうか。思い当たる話が多すぎまして」
「貴様という男は・・・」

視線を窓の外の景色に向けて、諦めたように息をつく。議長になって4年、この男に助けられたことは両の手を入れても数えきれないが、同じように利用されたことは両足の指を入れても数えきれない。それを受け入れざるを得ない自身の不見識と間抜けさが、つくづく嫌になる。

背を向けたダービー伯爵に、フレデリックが声をかける。

「どうせ受け入れざるを得なかったのです。ならば正当なる労働への報酬は頂くべきです」
「報酬とは、君自身の利益を意味しているのかね?」

フレデリックもこうしたやり取りは嫌いではない。その弛んだ頬を軽く上げながら言う。

「そうともいえますね。議会が円滑に運営できるように、予算が円滑に審議できる環境を作るために行動した結果として私の財が増えていったのは否定しません。今回も殿下の求めに応じて行動しようとすれば、議員へのポストが必要であったというだけの話です」
「君は議員にポストを配り、ますます肥え太るわけかね」

ダービー伯爵の皮肉はいつにもまして痛烈だ。無理もないことだがと内心苦笑するフレデリック。彼としてはダービー伯爵にヘンリーの訪問を黙っていたのは、その方が交渉に有利であったから。隠し事の苦手な伯爵に事前に知らせれば、そこから付け込まれる可能性があった、それだけである。別に伯爵を謀ったわけでもなんでもなく、むしろ伯爵のことを思えばこそだ。

今回の仲介交渉や議会での意見取りまとめに関しても、フレデリックは伯爵を前面に出すつもりはなく、すべて自分で行動するつもりである。「報酬」とは労働の対価として受け取るもの。別に熱心なブリミル教徒ではないフレデリックだが、何もせずに報酬だけを得ることは彼のポリシーに反する。タダより高いものはなく、それはジワジワからだに効く遅延性の毒かもしれないからだ。

仮に失敗しても政治的に傷つくのは自分だけであり、ダービー伯爵は無傷でいられる。リスクを自分で背負ってきたからこそ、フレデリックは庶民院での立場を築くことができた。トカゲのしっぽ切りをしていては、たとえいくら金やポストを配ったところで配下など集まらない。


フレデリックは、懐からシガーケースを取り出しながら、いまだに機嫌が治らないダービー伯爵に向かって言う。

「それに議長閣下としても、此度は動きにくいでしょう。何より今回の対象である財務省は・・・」

「やはり貴様は貴族には向いておらんな」

テムズ川を見下ろしたままの貴族院議長の思いもがけない反応に、煙草をもった手を口に運ぶのを止める。

「さて、どういう意味でしょうか」
「言葉の通りだ。貴族として一家を構えることから逃げている君にはわからないだろうが」

別に逃げているわけではなく、彼なりの考えがあってのことなのだが、あえて否定はしなかった。煙草をシガーケースに戻すフレデリック。

「たとえ先祖の功績であれ偉業であれ、正さねば成らない物を正すのに、何のためらいがあろうか。それで家の名誉がつぶれ没落するなら、我が家はそれだけの家だったということ。根っこに実がなる植物のように、先祖自慢だけが取り柄の家は、さっさと潰れた方が国のためだ。それに」

しわぶきを一つして言葉を続けるダービー伯爵。


「私はダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリー。『再建王』リチャード12世に仕えた偉大なるダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリーの43代目子孫にして、同じ名を継ぐ者。能力は偉大なる先祖に及ばず、才は貴様にも劣る。だがな・・・」


そう言って振り返った「ダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリー」の顔つきは、偉大なるダービー伯爵と見まごうばかりの威厳と態度に満ちていた。



「貴族としての覚悟は、貴様に今更説かれるまでもない。フレデリック、あまり貴族をなめるでないわ!」



一喝してから、ダービー伯爵は再び背を向けた。最後はほとんど吐き捨てるような物言いであった。偉大なる先祖と自分が比べられるのが、よほど腹立っていたのか。窓の外を見下ろしながら「余計なことを言ってしまった」と顔を歪めておられるのは、容易に想像できる。その背中を見つめながら、フレデリックは(やはりこの人は敬意を持って接するに値する人だ)という思いを深めながら、立ち上がった。


「それでは、議会との折衝に関しては、また日時を改めて相談するということで」


相変わらず背を向けたまま、首だけを動かして肯定の意を表すダービー伯爵。フレデリックは議長室を出る際、通常より深く頭を下げた。





[17077] 第41話「整理整頓の出来ない男」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:b679932f
Date: 2010/08/06 18:57
「お前、頭悪そうだな」

第一声がこれである。当然少年達は大喧嘩となった。この喧嘩が縁となったのか、何の因果か二人はパブリックスクールの寄宿舎から大学の法学部のゼミに至るまで同じ釜の飯を食べ続け、顔を合わせるたびに拳で語り合った。彼らの友人達は、教室の片隅で睨みあう二人に半ば呆れながら「仲がいいな」と声をかけたが、二人は声を揃えて否定した。

「「断じて違う」」

嫌いな奴ほど印象に残るものだ。頭が悪そうと言われた方の少年は、自分にそう告げた少年に一度だけ尋ねたことがある。自分の観察する限り、彼は誰に対しても愛想がよく、言動は年不相応に慎重で、初対面の人物に喧嘩を売るような人間ではなかったからだ。

「それは、君がいかにも頭が悪いという顔をしていたから」

第2ラウンドである。少年は彼がますます嫌いになった。


頭が悪そうといわれた少年は、大学を卒業して財務省に入省。計算は得意ではなかったが、習うより慣れろと持ち前の負けん気の強さ、そして見た目とは裏腹の丁寧な仕事振りで財務官に上りつめ、変わり者の王弟に目を付けられたことが幸い(災い)して、44歳の若さで同省トップの財務卿に就任した。もう一人の少年は、専門知識が要求されるためになり手の少なかった商法関係専門の弁護士として一財産を築く。28歳のときにその人脈を元にリヴァプール選挙区から立候補して庶民院議員となり、すぐに頭角を表わしてとんとん拍子で出世。35歳で庶民院議長に上り詰めた。


「財務卿、庶民院のロビンソン議長と旧いなじみなんだって?それならそうと早く言ってくれれば・・・」
「殿下、神と始祖と国王陛下に誓って言います。断じてあれとは友人ではありません。私の天敵です」

アルビオン王国財務卿ウィリアム・ぺティ・シェルバーン伯爵は、間髪要れずにヘンリー王子の言葉を否定した。


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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(整理整頓の出来ない男)

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毎度おなじみ・・・というほどおなじみでもないヘンリーの執務室。貴族院議長(兼大法官)のダービー伯爵と庶民院のロビンソン議長から省庁再編問題に関しての協力を取り付けることに成功したヘンリーとシェルバーン財務卿は、その足でヘンリーの執務室に向かった。大体、二人が密談するときは人の目を気にしなくていいこの部屋を使うことがお決まりのパターンとなりつつある。

執務室の机の上は相変わらず山のように書類や本が積みあがり、本棚には付箋だらけの本が乱暴に突っ込まれていて、すざましい光景を作り上げている。王弟であるヘンリーはいくつかの名誉職を兼任しているが、宮廷や行政府の実務職に就いているわけではない。どう考えても目の前の書類の山とは結びつかないが、それはやはり部屋の主に原因がある。

省庁の報告書から新聞の尋ね人の欄に至るまで、ありとあらゆることに目を通せるだけ通すのがヘンリーの日課だ。暇を見つけては関連の書物に眼を通し、暇そうに見える(暇ではないのだが)官僚をとっ捕まえて話を聞く。勉強が得意ではなくむしろ苦手なヘンリーだったが、自分の利害に直結することに関しては手間隙を惜しまないだけの勤勉さは持ち合わせていた。もとより専門知識ではテクノクラートや職業軍人には敵わないが、それでも「何が問題となっているか」という世の中の流れを掴む事ぐらいは出来る。何でも知らないと気がすまないその性格は、トップの素質としては好ましいものではないとシェルバーンは考えていたが、周囲が辟易するほど謹厳である国王の補佐役としてなら特に問題はないとして気にしてはいなかった。

しかし皆が皆、シェルバーンのように考えてくれるわけではない。国王ジェームズ1世への正規の上奏ルート(王政庁)では門前払いを食らうよう突飛な内容でも、ヘンリーの元に持っていけばなんとかなるという風潮がロンディニウムにはある。両者の性格もあるのだろうが、ともかく笑いはしても怒りはしないヘンリーには話しやすいとあって、その部屋はさながら各省庁の陳情所のような様相を呈していた。結局のところ彼の下に陳情が集まるのは、彼が王弟だからであり、ヘンリーを通じてジェームズ1世と間接的につながりを持つことを期待しているため。実際ヘンリーもそうして集めた情報や稟議書の中から「これは」と思うものはジェームズに直接奏上している。

王政庁を初めとしてデヴォンシャー侍従長がヘンリーの言動に神経を尖らせているのは、なにも自身の面子や権限を侵されているからばかりではなく、それが「忖度政治」につながる危険性があったからだ。ヘンリーがその気になれば「兄の意向は」という錦の御旗を振りかざして国政へ干渉出来る。ヘンリーの下を訪れる輩の中にも、そうした政治的な下心を持つ者がいないではない。財務卿に就任して直のシェルバーンがその点に関して諫言すると、ヘンリーはどこか寂しそうに笑って、こう答えた。

「君も仕えてみれば解る・・・兄上はそんなに甘い人ではないよ」

ヘンリーの言葉通り、実際に財務卿として仕えてみたジェームズ1世は『謹厳実直』という言葉だけでは片付けられない人物であった。モード大公の扱いに関して、王が「好きにさせろ。だが意思決定には関わらせるな」と述べたことで「弟に甘い兄」という評価が偽りだったことをシェルバーンは知った。良き王たらんとする意識と覚悟を自分の行動基準としているジェームズ1世に限って、肉親の情に惑わされて国政を誤る心配はなかった。両者の行動を認めているのは、あくまでそれが国政運営にプラスに働くと考えた範囲のみ。ヘンリーやモード大公ウィリアムの行動が一線を越えるとあれば、迷うことなく「排除」するだろう。

そしてちゃらんぽらんな言動を繰り返しているヘンリーが、自分のおかれた危険な立場が、その一線を容易に踏み越しかねない事を理解しており、そしてその一線を踏み外さないように慎重に心がけていることを、シェルバーンはここ3年ばかりの付き合いで知った。兄弟であるがゆえに、一線を越えることは許されない。ヘンリーの葛藤と苦心を間近で見てきた自分くらいは、多少部屋が汚い事を見逃すぐらいの気遣いは・・・


「・・・うん、無理だ」
「何なんだ、藪から棒に」

そり上げた頭にでかい図体という豪快な見た目とは裏腹に、繊細で潔癖症なシェルバーンは、生理的に汚い部屋を受け入れることを拒否した。新聞のスクラップ記事らしきものを脇によけ、付箋だらけの積み上げた本を床に置いたヘンリーに向かって、いつもの小言を口にする。

「勉強熱心なのは結構ですが、少しは整理なされてはどうですか。これでは調べる前に部屋の整理をしなければなりますまい。服装の乱れは心の乱れ、部屋もまた然りですぞ」
「いや、これでも片付けたほうなんだぞ。むしろ前よりは格段に調べやすく・・・」
「では試しにお聞きしますが、それはなんですか」

シェルバーンの指指した書類の山の一角に目を向けたヘンリーは、はてと首をかしげる。

「あぁ、それ?その山は確か・・・先月分の財務省商工局関連の稟議書の写しと、バーミンガム市の区画整理計画の内務省改正案の写しだろ、ハノーヴァー王国に関する外務省の報告書の写しに、農業局の土壌改良研究の・・・」
「わかりました、わかりましたから」

指折り数え上げるヘンリーを手で制するシェルバーン。まさか本当に答えるとは思わなかった。それが本当かどうかは調べてみないとわからないが、あの一角を崩せば周囲の山も崩れ落ちそうで怖い。調べようとすると部屋の大掃除が必要となりそうだ。多少潔癖症の気がある財務卿が小言を続ける前に、ヘンリーは本題に戻した。


「そんなことよりもロビンソン議長は・・・そんな顔をするな」

ロビンソンという名前がヘンリーの口から出た途端に顔を歪ませるシェルバーン伯爵。誰しもそりが合わない人間というのは一人はいるものだが、ここまで露骨に表情に出す人間は見たことがない。「喧嘩するほど仲がいいというらしいが」と揶揄するように口にしたヘンリーに、財務卿は「断じて違います」と力強く否定した。

「昔からへらへらと他人の顔色を伺って生きてきただけの男です。人を自分にとって利用価値があるかどうかだけで判断する性格は昔から変わっておりません。殿下もお分かりでしょう。あの男は人のいいダービー伯爵を利用していただけです」
「まぁ、そう見えなくもなかったが・・・本当に嫌いなんだね」
「欲太りしたあの体を見るだけで、吐き気がします」

憮然とした表情で吐き捨てる財務卿。嫌いだと言いながら良くその性格を見ているなと思ったが、茶化せるような雰囲気ではなかったので自嘲する。

「・・・議会の根回しはアレに任せておけば大丈夫でしょう。昔から出来ないことは口にしない男ですから」
「長年の付き合いの君が言うなら、間違いないんだろうね」

ジロリと睨まれたので、しわぶきをしながら視線をそらす。やはりヘンリーはヘンリーである。誤魔化すために出来るだけ厳粛な表情を作ろうとしていると、再びシェルバーンが口を開いた。

「アレのことはともかくですな。殿下、一つお聞きしてもよろしいですか?」
「あぁ、いいよ。でも僕のスリーサイズはトップシークレットだから教えて上げられないけどね」

いつもの様に王子のたわ言は無視して、シェルバーンが尋ねる。

「あのモートン伯の財務省解体案、殿下はどのように考えておられたのですか」
「そうだね・・・当事者である君はどう思った?」

また質問返しかとうんざりした表情になるシェルバーン。こうして時間稼ぎをしている間に自分の考えをまとめ、同時に相手の真意を引き出すやり方はあの前宰相譲りか。これをやられると「王族でありしかもジェームズ王の信頼篤い王弟に意見を述べる機会はそうそうあるものではない」と、大概の官僚はころりと参ってしまうという。しかしヘンリーと顔を合わせる機会の多いシェルバーンにとっては今更といった観が否めない。だからといってこれでも王族の端くれのヘンリー。そうそう邪険にも出来ないのが腹立たしいところだ。顔をこれでもかというぐらい顰めながら、シェルバーンはふてくされたように答える。

「構想自体の是非はこの際置いておきましょう」

「ほう」と意外そうに顎を撫でるヘンリー。財務官僚のトップである彼が「財務省解体」ともいえる過激なモートン伯爵の再編案を評価しているようにも聞こえたからだ。

「まさか親玉の君がそう言うとはね」
「誤解しないで頂きたい。モートン案に賛成しているわけではありません。あくまで一つの見識として、着目点に関しては悪くないという話です」
「どっちにしろ、評価はしているんだろう。同じことではないか」
「殿下・・・解っていておっしゃっているのなら、今すぐやめていただきたい」

「悪い悪い」と言いながら、まったく悪びれた様子のないヘンリーに、シェルバーンのこめかみに青筋が浮かび上がる。シェルバーン伯爵の財務省内での基盤はそう強固なものではない。財務省本流とされる会計局出身の彼は、何れは財務卿に就任すると見られていたが、一財務官から次官や局長を跳び越して財務卿に昇格したため、バンハーン次官を初めとして幹部クラスには自身の先輩が健在。個人としては商工局の独立は認めてもいいと考えていたが、省内の大勢が「再編案反対」で固まると、シェルバーンとしてはそれを受け入れざるを得なかった。とにかく今は仮初にもモートン案に賛成と撮られてはならない立場の自分に向かって、この王子様は・・・顔面殴ってやろうか。割と本気で考えながら、シェルバーンは続ける。

「・・・モートン案は頂けません。あれでは生きている人間の体を切り刻むようなものです」
「出血多量で死んでしまうかね。財務省が」
「財務省ではありません。アルビオンが死んでしまいます」

自分たちこそアルビオンである-堂々とそう言ってのけたシェルバーン伯爵に、さしものヘンリーも閉口した。シェルバーン個人の見解というわけではなく、大方の財務官僚に共通した思いであるのだからたまらない。これは嫌われるわけだと内心納得するヘンリーだが、その自信が意外と本質を突いている。小麦飢饉と四十年戦争で荒廃したアルビオンを立て直すために、『再建王』リチャード12世(4521~4580)の元でダービー伯爵が設立した財務省は産業政策と経済政策、そして財政部門を統合することにより強力に政策を遂行することが出来た。また広い視野で物事を処理することが必要な環境から多くの優秀な官僚や政治家を輩出した。強大な権限や高いプライドに似合うだけの仕事をしてきたという自負はハッタリではない。

その財務省だが、大きくわけで財政規律重視派と積極財政派にわけられる。省内では会計局を中心とする前者が、商工局を中心とする後者を圧倒的に凌駕していた。これはリチャード12世が四十戦争や内乱鎮圧の際に膨れ上がった膨大な財政赤字を受けて、財政再建を最優先としたためで、この傾向は今でも省内に根強い。商工局の積極財政派はいわば日陰者として無聊を囲い「商工族」などと呼ばれていた。

その「商工族」出身である元財務次官モートン伯爵(枢密院書記長官)がまとめた省庁再編案で、財政規律派は目の敵にされたのはある意味当然であった。商工局(産業政策)と銀行局(金融機関の監督検査)を金融庁として独立、通貨局(通貨発行)と会計局(予算編成)を王政庁に移管と、主要業務の殆どが取り上げられるような内容に、財務省内は激昂した。元同属に裏切られたという意識もあるが、実際に今財務省から無理やりこれらの機能を分捕ってしまえばどうなるかは、火を見るより明らかだった。


「問題は財務省無き後に、誰が司令塔になるのかです」
「え、そりゃ俺の兄貴・・・」
「陛下が20人いるならそれでもいいでしょう」

ズンバラリンとヘンリーの意見を切って捨てるシェルバーン。ズンバラリン、いい響きだ。切られたヘンリーも嬉しそうだ・・・もとい。

「しかし陛下はお一人なのです。よろしいですか?内務省や空軍は好き勝手に財務省の悪口をいいますがね。われわれが絞らねば当の昔にアルビオンは借金まみれになっております。予算編成時の圧力といったら、それはもう。宮廷内で軍杖を向けられたことは一度や二度では済みません」
「そ、それはまたヘビーな・・・って、あれ?宮廷に軍杖の持込って禁止されてなかったか?」
「まぁ、口には出せないことは他にも色々ありましたが、それはともかく」
「いや、待てよ。何だよ色々って。気になるじゃん」
「世の中には知らないほうがいい事は多いのです・・・ともかく嫌われようが何だろうが、問答無用で『財政規律』を旗印に予算を組んできたのが我ら財務省です。仮にモートン案を全部受け入れたとしましょう。王政庁の宮廷貴族どもにそんな予算交渉が出来ますか?」

『この世で最も信頼ならぬのは宮廷貴族ですぞ』と、他ならぬ宮廷貴族出身のスラックトン侯爵の言葉を、ヘンリーは思い出した。あんな奴らに予算編成の権限を持たせたら、自分の財産を増やすぐらいは可愛いもので、何に使うか解ったものではない。

「・・・無理だな」

そうでしょうと頷くシェルバーン。

「何の準備も無く移管したところで、いいように予算をむしりとられるのが関の山です。通貨の発行にしましても、もっと鋳造しろという議会からの圧力に耐えるのがどれくらい大変か。何よりも書類に出来ないノウハウの散逸が問題です。省庁間の根回しや、裏が・・・潤滑油の配り方などのノウハウが散逸すれば、取り返しが付きません」

「なるほ・・・うらが?え、今裏金って言った?」

「新設される首相職の権限も不明確ですし、権限が強化されるという内務省ですがこれも未知数。はっきりいいますと、今の内務省では我らの変わりは務まりますまい」

「おいこら、何無かったことにしようとしてるんだこら、裏金って言いかけただろうが」
「いやー、今日はいい天気ですなー」
「今日は曇りだぞ。明らかに棒読みで何を言っているんだお前は」
「殿下、男は小さなことにこだわってはなりません。殿下はハルケギニア全体に視野を向けたビックな男にならなければなりません」
「何をわけのわからない事をいって誤魔化そうとしているんだお前は。だから今裏金って・・・」


コンコン!

「はい、どうぞ」
「伯爵、それは俺の台詞だ!いつからここは君の部屋になったのだ!」

ノックを幸い、逃げ切ろうとしたシェルバーン伯爵だが、その判断を直に後悔することになる。



「モーニントンで・・・げぇ!シェルバーン!」

「どふぇ?!な、内務卿?」

モーニントン伯爵ジェラルド・ウェルズリー内務卿が、同じようにポカンとした間抜け面をしたシェルバーン伯爵と見詰め合っていた。


***

そわそわと落ち着きのない内務卿と、絶対零度の冷たい視線で睨む財務卿を前に、ヘンリーはニヤニヤとした表情を浮かべている。いたずらが成功したときの悪ガキのようにしか見えず、シェルバーンは胸糞が悪くなった。

「で、殿下。その、私は・・・」
「あぁ、いいんだ内務卿。君を呼んだのはこの時間で会っているから」

モーニントン伯爵ジェラルド・ウェルズリーは53歳。モーニントン伯爵はウェリントン公爵家の法定推定相続人が名乗る儀礼称号であり、彼の父アーサー・ウェルズリーは現ウェリントン公爵である。四十年戦争で功績を立てて以降、多くの軍人を輩出してきた名門公爵家の次期当主らしく、整った顔立に如何にも血筋のよさを匂わせていた。

初めてヘンリーの執務室を訪れたモーニントン伯爵は、その部屋の汚さは無論のこと、潜在的な政敵である財務卿の隣に座っているという現状に、そわそわと落ち着きの無い視線をあちらこちらに送っている。それでもシェルバーンの座る方向を見ようとしないのは、拒絶しているのではなく、まさかこの場所にいるとは思わなかった年下の伯爵にどう対応していいか解らず、途方にくれているという感じだ。実際にその通りであり、モーニントン伯爵は省庁再編の立案者であると噂の王弟に呼び出されるということは、少なくとも悪い話ではあるまいと考えていた自分の判断の甘さを、猛烈に後悔していた。

さすがのヘンリーも悪いことをしたかなと・・・


「しかし奇遇だねぇ。どうだね、積もる話もあるだろう。さぁ、どんどん話したまえ、どんどんと」


確信犯のこいつがそんな事を思うわけがなかった。ヘンリーはわざとシェルバーンを引き伸ばし、モーニントン伯爵と鉢合わせになるように仕組んだのだ。人のいい-口さがのない者に言わせれば「お坊ちゃん」のモーニントン伯爵は「はぁ、それは」とあいまいに答えているのとは対照的に、シェルバーンは目の前の男に唾を吐きかけてやりたい気持ちを必死に堪えていた。

話せといわれて話せるなら苦労はしない。解体案に近いものを突きつけられている財務省とは対照的に、財務省に鼻先を押さえつけられてきた内務省はその権限が強化され「我らが財務省に代わり国を担うのだ」と鼻息が荒い。当然面白くないのは財務省だ。瞬く間に犬猿の仲と化した二つの省の間では、公衆の面前での掴み合いの討論はまだいい方で、それはもう陰険で陰惨で陰鬱な嫌がらせややり取りが繰り返されている。トップの2人の間に個人的な遺恨はなかったが、今この状況で話せといわれても話すことなどない。下手に相手に言質を与えてしまえば、自分が失脚しかねない。

中々話し出さない二人を見かねて、ヘンリーが口火を切る。

「僕は小心者でね。閣僚たる君達を呼び出すことなど、一人ではとても決断できないよ」
「そ、それは・・・」

モーニントンは続く言葉を唾と共に飲み込む。暗にジェームズ1世の存在を伺わせる王弟の言葉が持つ重みを、始めてその身に感じていた。この王弟が兄の存在を匂わせる時は、間違いなくその同意を得ていることを知っているシェルバーンは、忌々しげな表情は崩さなかったが、ヘンリーに視線を向けて聞く姿勢をとった。

「商工局の独立で財務省は手を打つそうだ」
「ほう、それは・・・」

思わずシェルバーンのほうに視線を向けたモーニントンだが、慌てて正面に戻す。やりたい放題なヘンリーのペースに巻き込まれている内務卿を、かつては同じ経験をしたシェルバーンは笑うことは出来なかった。そんな財務卿の心中を知ってか知らずか、ヘンリーは口元を少し吊り上げながら言う。

「落としどころはそんなものだろうが、それは別として再編案に関する財務省内の反発は知っているかね?」
「え、ええ。噂ぐらいは」

本当は知っているどころではない。日頃何かと威張っている財務省が泡を食っていると面白がった部下が命じてもいないのに情報を集めてくるため、モーニントン伯爵は財務省の内情について、下手をすればシェルバーン以上に精通している。

「それでだね。財務省を納得させるために、議会の協力を得ることにしたのだ。まぁ、その、こう言っては何だが、見返りとしてポストを要求されたよ」
「なるほど。ロビンソン議長ならそれくらいは要求するでしょうな」

自分には関係ないと、気のない返事を返すモーニントン。実際にそこまでは他人事であった。そこまでは。


「それで、君のところからもポストを出して欲しい」


・・・は?


「局部長級じゃすこし役不足だ。色々と権限が増えて組織を管理する伯爵も大変だろうし、これから領地の再編が進むにつれて貴族諸侯との調整役も必要だ。そこで地方担当大臣を設けてもらいたい。今考えているのは東西南北、つまり『北部担当大臣』『西部担当大臣』『南部担当大臣』『東部担当大臣』の4つを・・・」
「ちょ、ちょちょっと、ちょっとお待ちください!ちょっと!!」

思いもがけない言葉にあっけに取られていたモーニントン伯爵は、慌ててヘンリーの言葉を遮った。

「ん?何だい?」

取り澄ました顔をしたヘンリーに、モーニントン伯爵は始めてこの王弟の性格を知ったような気がした。だからといってはいそうですかと首を縦に振るモーニントンではない。「お坊ちゃま」陰口を叩かれるようにわきの甘さはあったが、ヘンリーを抱きこんでペンヴィズ半島南部での内務省の主導権を確立しようとした男である。すぐさまヘンリーに食い掛った。

「新設される局長ポストならともかく、いきなり大臣というのは。ただでさえ権限と組織が拡大して統制が難しい中で大臣ポストだけ増やされては指揮系統が混乱します。大臣ということは内務卿・・・いや、内務大臣になるのですか?その私と同列になるということ。内務官僚上がりの議員にポストを回すのなら話は別ですが、お話を聞く限りはそうではないのでしょう?」
「そうだ。最終的にはロッキンガム宰相の判断になるが、基本は議会(ロビンソン議長)から推薦される人物をそのまま受け入れるつもりだ」
「ならば到底受け入れられません!素人というと失礼ですが、そうといわれても仕方がない人間を持ってきて、机を並べて一緒に仕事をしろといわれましても」

議員の不勉強は、平民達の間でも有名で「自分の利権と次の選挙に関係ない物には興味を持たない」と批判されていた。議員の全てがそうではないが、猟官運動に積極的な人間に限って言えばそうした人間が多いのも事実。怒鳴り声の混じった激しい口調で抗議するモーニントン伯爵の剣幕は、日頃この内務卿を「お坊ちゃん」と侮っていた一人であるシェルバーンにもその認識を改めさせるものであった。

ヘンリーはいい募ろうとする内務卿を手で制した。

「まぁ落ち着け伯爵。指揮系統に関しては閣僚の序列ではっきりさせる。彼らは君の下に付かせる」
「しかしそれだけでは・・・」
「だから聞け。この大臣には仕事をさせなくていい」

「は?」と首をかしげるモーニントン。シェルバーンも意図を掴みかねているようで、そのそり上げた頭を撫でていた。そこだけを見ればどこぞの山賊の親玉に見えなくもないなと内心思いながら、ヘンリーは答えた。

「君ら、別に議員さん出身の大臣は初めてというわけではないだろう」
「えぇ、それは。貴族院出身の大臣なら。ですがOBか、行政経験のあるものでないと使い者になりません。あとは・・・」

そこまで言ったモーニントンは、ヘンリーの言うところを察したのか「あぁ、はいはい」と頷いた。やはりただの「お坊ちゃん」ではない。

「『お客さん』ですな?」
「わかってるじゃないか」

愉快そうに笑うヘンリー。いきなり大臣として入ってきても、元官僚でもない限りは右も左もわからない素人。秘書官や部下は官僚に頼らざるを得ない。側を固めてしまえば、後はどうとにでもなる。

「その代わりといっては何だが、局長級などは基本的には内務省の意向を重視しよう。新設される部局や移管されるものは抑えておきたいだろう。ただ港湾局だけは確約出来ないが」
「そういうことであるならば結構です」

頷くモーニントン伯爵。内務省は、財務省とは対照的に権限の移管や部局の新設など権限強化が目立った。上知令で召し上げた領地で領主に変わり、公的インフラの整備や治安維持を担うのは内務省であり、それなりの権限が与えられてしかるべきという内務省の主張はもっともなことであった。ただ、急激な組織拡大でほころびが出てしまっては元も子もない。組織統合のためにはやはり人事だが、内務省カラーが出すぎるのも反感を買う。その点『お客さん』とはいえ大臣を4つも新設すれば、たとえ局長クラスで多少強引な人事をしても目立たない。お客さんはどうとでもなる・・・こちら(内務省)に損はないと判断したモーニントン伯爵は「よろしいでしょう」と答えた。

「いきなり統合してもうまくいきますまい。殿下のご提案受け入れましょう。その代わりといっては何ですが、港湾管轄権の交渉に関してはよろしくお願いいたしますよ」

懸案の港湾施設権の内務省移管に関しては空軍が思った以上に粘っている。その点に関して協力を求めたモーニントン伯爵に、ヘンリーは笑いながら手を振った。

「ははは、これはロッキンガム宰相の提案だよ。僕はメッセンジャーでしかないからね。協力を求めるなら宰相閣下に直接な・・・それより『お客さん』の扱いだが、やる気があるなら教えてやれ。大臣になることが目的なら、おだてて適当にあしらっていいよ」
「了解いたしました」

頷きながらモーニントンは(逃げられたな)と施設権に関するヘンリーの斡旋を諦めた。まったく口では調子のいいことを言っておきながら、いざという時は腰が重い。王族としての節度を守っているといえば聞こえがいいが、ただの面倒臭がりにしか見えないな・・・

「まぁ、おだてて適当にあしらわれているのは、私も同じかもしれないが」

がふ!げふごっふ・・・

モーニントンは咳き込んだ。「な、何をおっしゃっているのか」と返していたが、思い当たる節があるのか、膝が震えている。隠し事が出来ないといえば聞こえがいいが、この辺がわきが甘いといわれる所以か。助け舟を出すわけではないが、シェルバーンは「よろしいのですか?」とヘンリーに聞き返した。

「なんだ財務卿。君、ロビンソン議長に気を使っているのかね」
「そ、そんなわけではありません!」

こちらも珍しく言葉を詰まらせてうろたえるシェルバーン。男のツンデレは気色悪いなとあたらずとも遠からずのことを感じたヘンリーは、余り深く突っ込まないのが思いやりというものだと考えて話題を戻す。

「ロビンソン議長は『ポスト』をよこせとは言われたが『仕事をさせろ』とは言わなかった」
「それは・・・」

屁理屈というものではないかといおうとしたが、屁理屈を言わせれば右に出る者はないという、極めて特異な特技をもつ王弟と言い争う愚を避けるため、それ以上は口にしなかった。

「まぁ、どんな議員を押し付けてくるかであの御仁の性格は知れるというものだ。箸にも棒にも掛らんものはロッキンガムに弾き出させよう・・・何せ宰相閣下はあの場に居られなかったからな」
「・・・それは、あまり頂けませんな」

ヘンリーの屁理屈の恐ろしさとしつこさと鬱陶しさを知らないモーニントン伯爵は、よせばいいのに口を出した。待ってましたとでも言わんばかりに、ぐっと身を乗り出した王弟に、二人の閣僚は思わず身を引いた。


「所詮は口約束だ。本来なら守ってやる義理もないのだぞ?ましてやロッキンガム宰相はあの場に居られなかった。さぁ、どうやって説得するか、困ったものだなあ!あぁ、困った、困った!」

椅子から立ち上がり、両腕を大きく広げ、どこか芝居掛った声で「困った困った」と繰り返すヘンリー。モーニントン伯爵はそっとシェルバーンに体を寄せて小声で尋ねた。


「・・・なぁ財務卿、殿下は・・・楽しんでおられないか?」
「ああいう人なのです」

一言で答えた年下の財務卿に「そういうものかね」と呟き返す。世の中には自分の理解できない人間や出来事が数多く存在するという事実を経験的に知っている伯爵は、割り切るのも早かった。


二人の視線の先では、一人悦に入って三文芝居を続けていたヘンリーが、伸ばした腕があたって崩れた本の下敷きとなり呻いていた。


「・・・いいのか?」
「いいんです」

「い、いくない!助け(バサバサ)あああ~~」



[17077] 第42話「空の防人」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:193733e7
Date: 2010/08/06 18:58
アルビオン王国外務省に入省した外交官は、まずは語学研修を受ける。これはハルケギニア諸国で話される言語と、浮遊大陸で話される言語(アルビオン語)に文法表現や単語で大きな違いがある為である。浮遊大陸の人間とハルケギニア大陸の人間は、日常会話程度なら問題はないが、正確な解釈が要求される商取引や外交交渉の場では交渉どころの話ではない。余りにも言語体系が違い、共通認識が成り立たないからだ。

ハルケギニア大陸諸国で話される主な言語は、共通語とされるガリア語、ガリア語の源流となったとされるタニア語(トリステイン)、旧東フランク諸国で話される東フランク語、アウソーニャ半島のロマリア連合皇国を構成する王国や都市で話されるロマリア語などがある。元は同じ国家だったガリア語(旧西フランク)と東フランク語は殆ど同じ言語といってよく、トリステインは「始祖以来の話していた言語と同じものであるとされる由緒正しいタニア語は云々かんぬん~」と主張しているが、ガリア語と大きな差異はない。ロマリア語はガリア語が訛った程度のものだ。

より正確に言えば、これらの「○○語」はその王都や都市部で話されている言語である。例えば一昔前のガリアの地方では、まるで同じ言語とは思えないガリア語も話されていた。『太陽王』はそれを許さず、リュテイスのガリア語に強制的に統一。曲がりなりにも言語が統一されたことにより、1500万人の話す共通言語である「ガリア語」が、ハルケギニアの共通語と呼ばれることになった。数は力である。もっとも、それ以前から諸国会議の場においてガリア語は広く使用されていた。2国間同士の言語によって条約案を作成し、紛争が起こった場合、両国の条文解釈が問題となりやすい。そこで外交の基本言語としてガリア語を使用することにより、無用な解釈争いを避ける狙いがあった。ハルケギニアで(曲がりなりにも)最も多くの人間に話されている言語であり、尚且つ超大国ガリアの言語を使うことは、むしろ自然な事として受け入れられた。

そうした経緯もあり、ガリア語を学ぶことが出世の早道であると新人外交官の間ではガリア語に最も人気が集まる。アルビオン外務省では語学研修組ごとで形成される「語学閥」があるが、ガリア語を選択した「ガリア派」が、もっとも大きな派閥を形成するのは当然であった。ガリア通とも親ガリア派とも呼ばれる彼らは外務省主流派という意識が強く、結束力の強さと強固な派閥意識で、良くも悪くもアルビオン外交を支えてきた。(この点は財務省の財政規律派と通じるものがある)


外務次官のセヴァーン子爵ロバート・パーシヴァルは、若い頃からガリア派のホープとして呼び声の高かった人物である。「超大国ガリアとの協調こそ浮遊大陸アルビオンにとって重要」と考えるガリア派の中でも、カルカソンヌ総領事やガリア大使など外交キャリアの殆どをガリアで積み重ねてきた外務次官のガリア贔屓は有名であり、彼を快く思わない者の間からは「ガリアの代理人」と陰口を叩かれている。アルビオン人でありながら、母国を「田舎」と睥睨するその態度や、ガリア製の両眼鏡を掛けた澄ました顔(ここまで来ると言いがかりに近い)も批判の対象となった。


アルビオン王立空軍参謀長のジョージ・ブリッジス・ロドニー中将は、さすがにその風貌まで批判することはなかったが、妙に甲高い声で話しかけてくる外務次官の嫌悪感にかけては人後に落ちない。表情を押し殺して淡々と答えることに務めていた参謀長を見ていたチャールズ・カニンガム空軍大将は、不機嫌そうに鼻毛を抜いていた。

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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(空の防人)

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アルビオン王立空軍(アルビオン・ロイヤル・エアフォース)-いわずと知れたハルケギニアの空の覇者。保有艦艇数や竜騎士隊の規模は大国ガリアと並び、操舵技量や航空技術ではその足元にも及ばせない。幾多の大陸からの侵略軍を退け国家の危機を救ってきた、アルビオン人なら貴賎を問わず誰もが誇りを持って仰ぎ見る空の防人である。その青を基調とした軍服は若い貴族達の羨望の的だ。

「まったく、忌々しい男だ!」

ロンディニウムのアルビオン空軍司令部(通称:赤レンガ)の中を、軍帽を脇に抱え、肩を怒らせながら闊歩する王立空軍司令官チャールズ・カニンガム空軍大将も、防人の軍服にあこがれて赤レンガの戸を叩いた少年の一人だ。軍服の上からでもわかる筋骨隆々とした体と、俗に「甲板焼け」と呼ばれる浅黒く焼けた肌は、如何にも空軍軍人というに相応しい。カニンガムとは対照的に、その三歩ばかり後ろを歩くジョージ・ブリッジス・ロドニー王立空軍参謀長はいかにも軍人らしくない。細身の体に色白の肌。隙なく軍服を着こなしてはいるが、軍杖よりも万年筆が似合いそうな男だ。この背の高い空軍中将を好ましく思わない者は、その細面の顔を「自分の才知をひけらかしている」と罵るが、なるほどそう見えないこともない。

現場たたき上げの見本の様なカニンガム大将と、インテリ気質丸出しのロドニー中将。水と油に見える二人だが、これが意外と気が合うというのだから人間はわからない。その見た目とは裏腹に、カニンガムはダーダネルス空軍兵学校の指導カリキュラムを作成したほどの空軍屈指の理論派であり、その兵学校を首席で卒業したロドニーは「風メイジでなければ人にあらず、土メイジなどお呼びではない」という空軍にあって、その土系統。没落貴族出身で自分の腕と頭だけで成り上がったという、頭でっかちな理論倒れのインテリとはかけ離れた育ち方をしてきた。なるほど、それを聞けば二人の相性が悪くないというのも頷ける話だ。


怒りに任せて不満をぶちまける司令官を参謀長が宥めながら付き従う様は、赤レンガでは見慣れた光景である。王立空軍司令官と参謀長の姿を確認した兵士達は、慌てて道を譲り敬礼を送るが、それにも気が付かないのか、カニンガム大将は日に焼けた浅黒い顔を、怒りで赤く染めながら、セヴァーン次官への不満をぶちまける。

「あのリュテイスかぶれのホモ野郎、一体何のつもりだ。ねちねちねちねち、女の腐ったような因縁をつけおってからに・・・」
「残念ながらセヴァーン次官が同性愛者だという確たる証拠はありません。それに女は腐りません」

上司の暴言をやんわりと訂正するロドニー中将。カニンガムの乱暴な物言いは今に始まったことではないため、今更この程度の暴言では驚かない。だが、そんな思いやりが通じるような人間ではないこともロドニーは良く知っていた。先ほどまでセヴァーン子爵の詰問を受けていたカニンガム大将の機嫌は限りなく悪かった。


事の発端は数日前、アルビオン外務省に駐ガリア大使のシャヴィニー伯爵が訪れたことに始まる。軍人上がりのこの大使はすざましい剣幕でセヴァーン次官に抗議した。

「ノルマン大公の反乱に貴国の王立空軍が関与しているという話があるが、これは事実か否か。事実であればわが国はそれなりの対応を検討する用意がある」

ノルマン大公の乱-ガリア国王シャルル12世の叔父であり、ガリア北東部ノルマン地方を治めるノルマンディー大公ルイ・フィリップ7世の反乱である。ニューイの月(6月)ティワズの週(第4週)に勃発した反乱は、ノルマン地方の物流の拠点カーンを攻略したガリア軍と大公軍がにらみ合ったまま、すでに4ヶ月が経過。当初大公側が期待したトリステインやグラナダ王国の参戦は無く、国内で反乱に呼応する貴族諸侯も続かず、すでに内乱の行方は明らかとなりつつある。そんな中、突如として降ってわいた「アルビオン関与の疑い」に、セヴァーンは驚愕した。

勝ち目の無い戦につく馬鹿は無い。第一、ガリアに対してアルビオンがちょっかいを出して何の利益があるのか。全くの濡れ衣であると、こちらも必死の形相で関与を否定するセヴァーン子爵に、シャヴィニー大使はそれまでの剣幕が嘘のように落ち着いた表情となり、冷静に告げた。

「貴国は飼い犬の手綱も引けないのですか」

・・・空軍か!

稲妻に打たれたような衝撃がセヴァーン子爵を襲い、すぐに空軍に対する猛烈な怒りがこみ上げた。


ノルマン大公家とアルビオンの関係は深い。事実、幾度と無く反乱を起こした大公家の裏側には白の国の影があった。アルビオンにとってガリアは、その時の気まぐれで軍事行動を起こす厄介な国であると同時に、浮遊大陸の生命線である通商網を容易に破壊する空軍を持つ、唯一の存在である。空軍自体の能力ではアルビオンに劣るが、総力戦となればアルビオンに勝ち目は無い。

アルビオンが目を付けたのがノルマン大公家である。影ながらこの家を支援することによって情報を得、時には反乱を先導することによってガリアの軍事行動を妨げたのだ。大公家と白の国との隠然たる繋がりは、大公家の居城であるルーアン城がアルビオン様式の重厚な城壁であることからもわかる。(ガリアもアルビオン国内に似たような勢力を抱えているので、どっちもどっちではあるが)そのノルマン大公の反乱の際、援兵となったのが他ならぬ王立空軍だ。王立空軍が「陛下の軍である」という大義名分の下、行政府や外務省の関与しないところで独自の諜報活動や破壊活動に従事しているのは良く知られており、今回もまた外務省に計らずに独自に動いたのかとセヴァーン次官は勘繰ったのだ。


彼の上司であるパーマストン外務卿はこの考えに賛同しなかった。そもそもノルマン大公家とアルビオンの特殊な関係も、ルイ・フィリップ7世が大公家当主となってからは希薄なものとなりつつあるのはロンディニウムでは周知の事実。ブリミル暦3000年じゃあるまいし、演習航海の費用一つとっても財務省にやり込められることの多い空軍が、独自にノルマン大公家を支援しているとは考えられない。ぎょろ眼で背の高い外務卿は、むしろこれはガリアが、トリステインの同盟国であるアルビオンに仕掛けた外交戦であると考えていた。先のラグドリアン戦争にしても、アルビオンがトリステインよりの対応をとったのは隠然たる事実。ガリアにとっては王立空軍の反乱関与の疑惑解明は二の次三の次で、この際アルビオンに対して、トリステインへの接近に釘を刺すことが目的だったたのではないか?ポンポンヌ(ガリア王国外務卿)なら、その程度のことは平然とやってのけるだろう。

シャヴィニー大使に「事実関係の確認」を確約したこともあり、セヴァーン次官は断固たる調査を空軍に申し入れることをパーマストン外務卿に提案した。これが事実であればガリアとの重大な外交問題になりかねず、そうなれば通商ルートの安全が脅かされることを彼は恐れた。仮に空軍がそのような行為を行っていたとすれば、それは陛下の名を楯にとった暴走以外の何物でもない。元々空軍の独立性を快く思っていなかったセヴァーン子爵には、疑惑解明によって空軍の独自性をくじき、外務省主導でアルビオンの安全保障政策を統一しようという考えもあった。

空軍との関係悪化を憂いたパーマストン外務卿は「閣議の場で事実解明を迫るべきである」というセヴァーンの強攻策を退け、真相解明の申し入れを行うことでセヴァーン子爵を納得させたという経緯がある。


そんなやり取りや経緯が外務省であったことを知るよしもないカニンガム大将にとっては、生意気な外務次官が居丈高に因縁をつけてきたとしか受け取れなかった。いつものように怒りに任せて、根拠のない暴論を吐き続ける。

「知らんのかロドニー!インテリキザ野郎はみんなホモだ!」
「閣下、一体何の根拠があって・・・」
「わしの40年に及ぶ軍歴によるものだ。インテリ野郎はホモになりやすい。反論は許さん」

論理もクソも合ったものではないが、セヴァーン子爵に不快な思いを抱いていたのはロドニーも同じであるので、特に反論する気にもならない。これでカニンガムは空軍屈指の理論派というのだから、世の中わからない。知性と品性は正比例しない好例である。

「その理屈で言えば私も同性愛者ということになりますが」
「貴様は違う。すでに枯れて赤玉も出ないだろう」

思わずずっこけそうになったロドニー中将。まだまだ現役でいけますぞと反論しようとしたが、あまりにも下らない水掛け論になることが容易に想像できたので、諦めと共に口を閉じた。


「それで、なんだった。ロッキンガムのクソッたれと一緒に会う予定の、その、何とかいう伯爵は」

唐突に話題を切り替えた上司に苦笑しながら、ロドニーも次の会談に向けて話題を切り替える。軍事訓練だけしていればよかった下士官時代が懐かしい。

「サー・アルバート・フォン・ヘッセンブルグ伯爵です」
「ヘッセンブルグ伯?聞かない名だな」

聞き慣れない名前に首をかしげるカニンガム大将に、補足するように続けるロドニー中将。この間も二人は歩き続け、赤レンガの前に止まった馬車に乗り込んでいた。せっかちな空軍司令は、移動時間ですら無為に過ごすのを嫌う。

「『外人貴族』ですよ。先祖はハノーヴァーからの亡命貴族です。ヘンリー殿下の侍従として名前が挙がったとき、王政庁から旧東フランク風の家名変更を打診されたそうですが、それを蹴り飛ばしたという頑固者で、それが逆に前王陛下のお気に召したらしく」
「・・・あぁ、思い出したぞ。あの小僧の声掛で始まった官僚育成学校とかいう、出来損ないの兵学校の真似事の責任者をしていた男だな」

王弟を「小僧」と呼び捨てするあたりに、この王立空軍司令官の性格が現れている。「育成ではなく養成学校です」と事実の誤認だけを指摘してから、ロドニーは続ける。

「推薦だの面接試験だので採用した者よりは使えると、省庁では評価がいいようです」
「それは前評判が悪かったからだろう。それに比べる対象がコネ入省組みでは、そもそも比較の対象にならん。それよりもだ、何故モーニントン内務卿ではなく、その伯爵が出張ってくるのだ?」

帽子を回す手とは反対側の手で鼻の穴に人差し指と親指を突っ込むカニンガム。一瞬顔を歪めた後、感心した様に声を上げた。

「見ろロドニー!鼻毛にも白髪があるぞ」
「ほう、それは興味深いですね」


どこまで本気かわからない、空軍制服組のトップとナンバーツーの会話であった。


***

「サー・アルバート・フォン・ヘッセンブルグ伯爵です。どうぞお見知り置きを」

そう自己紹介した前ロンディニウム官僚養成学校学長は、カニンガムが拍子抜けするほど「普通」の男であった。旧東フランク貴族の血を引く者の特徴である彫りの深さは、ふくよかな体格に似合った顔の肉で平らになっている。かといって肥満というには多少物足りなく「ぽっちゃり」という表現がしっくりくる。茫洋としてつかみ所がないその表情は、何も考えていないようにも見えるし、複雑な思考をめぐらせているかのようにも見える。

唯一つ言えることは、目の前の男は年不相応に老けていることだ。どう控えめに見ても50代前半の顔をした40歳のヘッセンブルグ伯爵を年下だと知ってあっけにとられるロドニー中将(45歳)に、アルバートは「老けているだけです」と返した。

「何せ学長といっても、貴族の馬鹿ぼんどもの相手をするのが仕事でしたから。ここ6年の間、気苦労と金策に苦労しなかった日はありません」

「まぁ、やりがいのある仕事でしたが」と大笑するヘッセンブルグ伯爵。7年前に開校したロンディニウム官僚養成学校は、縁故採用主流の官僚採用試験から、将来的な官僚採用試験制度導入にむけての流れを作るために、ヘンリーの侍従をしていたヘッセンブルグ伯爵が発案したものである。アルビオンの官僚採用試験は、私学校である大学の卒業生は基本的にそれだけで採用(基礎学力が保証されているため)されたが、彼らだけでは数が足りず、推薦と面接試験という名の縁故採用に頼らざるを得なかった。かといって全面的に試験制度に切り替えるには早急に過ぎるし、そもそもそうした試験のノウハウがない。そこでヘッセンブルグが提案した①官僚の養成、②試験制度のノウハウ蓄積を一緒に片付け、最終的には採用試験での縁故主義を完全に排除しようという構想に、ヘンリーは1にも2にもなく飛びついた。そして丸投げした。

初代学長となったヘッセンブルグの「どんな馬鹿も3年で即戦力に」という方針の下、海兵隊並みのスパルタ教育を施した。当初こそ「また王子のお遊び」だのという陰口を叩かれたが、王族であるモード大公ウィリアムが2期生として入校したことで良くも悪くも国中の注目を集めることになる。偽名で入校したこの弟に、元侍従に丸投げして太平楽を決め込んできたヘンリーは、父親である国王エドワード12世、皇太子ジェームズ、母テレジア王妃から「どういうことだ!」と吊し上げをくらい、スラックトン宰相からはねちねちと嫌味を言われ、デヴォンャー侍従長からは延々と怒られ、暇な爺の巣窟である枢密院からは徹底的に油を絞られた。満身創痍の兄に向かって「妻であるエリザに相応しい男になるために」とカッコいい理由を恥ずかしげもなく平然と口にする弟に、ヘンリーは閉口したが、開校の経緯を知る者の間では「因果応報」として誰もこの王弟に同情しなかった。


閑話休題


ヘッセンブルグ伯爵が手を叩いて喜んだのは、ヘンリーが吊るし上げを食らっていたのが痛快だった事だけが理由ではない。不満たらたらのヘンリー自身、ウィリアムがいることによってもたらされる「王族」の権威付けの効果は理解していた。かつて王立空軍に王族が率先して志願したように、新設の組織である官僚養成学校にとって王族の入校は願ってもない好機。(多少成績を底上げしてでも)とも考えたヘッセンブルグだが、それは余計な心配であった事が直にわかる。ウィリアムは兄のジェームズ皇太子(現国王)によく似て自分に厳しい性格で、厳しい教育カリキュラムにも良く耐えて2期生の中心的存在となり、なんと首席で卒業。これがどれほど学生達のモチベーションを高めたかはわからない。(弟の評価が上がるのと反比例して、ヘンリーの機嫌が悪くなったが、誰もそれは気にはしなかった)


ヘッセンブルグ伯爵に関する話を、さも面白そうに語るロッキンガム公爵だが、こちらは面白くもなさそうに鼻毛を抜くカニンガム大将。そんな話を聞くために態々ハヴィランドの王政庁まで出張ってきたわけではない。「政界風見鶏」の呼び声高いロッキンガム宰相が、ただ世間話をするためだけにこの伯爵を同席させたとは思えないし、意味もない行動をとっていては風見鶏など出来るものではないだろう。

「それでヘッセンブルグ伯爵は一体何故ここに居られるので?小官の記憶が確かなら、宰相閣下は港湾施設権について我らを呼ばれたはずですが」

目の前の人物をあえて存在しない者として扱うことで、無役の伯爵と我らは違うのだという態度をとるロドニー中将。こうした態度が他の将官から嫌われる原因となっているのだが、小才子然とした顔つきの男は改める気などさらさらない。むやみに人の顔色を伺うような人間に、作戦部門と軍政部門を統括する参謀長の重責を担う資格はないと固く信じているからである。当のヘッセンブルグ伯爵はというと、自分の存在が無視されたことに怒りもせず、さも当然であるかのように受け流す。ロッキンガム公爵は苦笑しながらとりなすように口を開いた。

「いや、これは私の手落ちだった。実は伯爵も関係者になるので同席してもらったのだ」
「『なる』といいますと、まだ関係者ではないということですね」
「中将、そう頭ごなしに否定しないでくれ」

後頭部を掻きながら口を挟むロッキンガム公爵。カニンガム大将もロドニー中将も、ロッキンガムは苦手とするタイプの人間であり、出来れば直にでも帰って欲しいのだが、役目柄そうも行かない。自分が何事もなく余生を過ごすためには、穏便な形で宰相職を退く必要があり、そのためには今ここで踏ん張らなければならないのだ-消極的な理由ではあったがロッキンガムは自分を叱咤激励して、口と頭を動かす。

「実はな、次の省庁再編で王政庁に内閣専任の書記長官を置くことにしたのだ」
「書記長官、ですか?」
「左様、行政府だけを選任として取り扱うな」

重々しく頷くと、それなりに威厳がある。地位が人を作るというが、ロッキンガム公爵が白の国の宰相に就任してから約10ヶ月。ハヴィランド宮殿に巣食う宮廷貴族の間でも「風見鶏の顔が引き締まってきた」ともっぱらの評判である。

「これまでは宰相自身が行政府の調整役を兼ねてきたが、昔のように治安や軍事だけを扱っていればいいという時代ではない。行政府の役割がますます重要となる中で、それでは身動きが取れない」
「前宰相閣下は上手にやっておられたと思いますが」

「貴方は無能なのですか?」というに等しい若い空軍中将の言葉に、顔を引きつらせるロッキンガム宰相。ロドニー中将はヘッセンブルグ伯爵に眼をやったが、こちらはのほほんと何を考えているかわからない、先ほどと同じ表情をしていた。

「・・・まぁ、どう考えるかは自由だが。省庁間の折衝役ばかりしているわけにはいかんのだ。それに、ここ数ヶ月で思い知らされたよ」
「何がです?」
「私がスラックトンの爺さんほど図太くなれない事がな」
「自分のポストをぬけぬけと確保しているあたりは、前宰相閣下に勝るとも劣らぬ手腕だとお見受けいたします」
「は、ははは・・・」

怒りに顔を染めたが、直に気を落ちつかせる。いかんいかん、平穏な老後のためにはここで怒ってはいかんのだ。

「・・・本題に入ろうか」
「世間話をしておられたのは宰相閣下ではありませんでしたか?」

(こ、この、若造・・・)

慇懃無礼が人の形を取ったら、おそらくこの空軍中将の形をとるのだろう。眉間に青筋を浮かべ、頬をひく付かせるロッキンガム公爵に代わり、書記長官に内定したというヘッセンブルグが口を開いた。


「空軍が保有する港湾施設権に関してです。再考いただけませんか?」
「・・・内務省港湾局への完全移管ですか」
「いかにも」

下手に丁寧に話してはいるが、とてもではないが油断は出来ない。気を引き締めて掛からねばとロドニー中将も居住まいを正して腕を組む。「アルビオン公共交通事業公団」の行った港湾整備事業の一環として、アルビオン各地では港湾施設の整備拡張工事が行われた。この際、設備投資の見返りとして、王立空軍が保有していた港湾施設権が初めて俎上に上る。


海軍と同じく、空軍は金食い虫である。フネを三つ持てば大商会であるとされる中、艦隊は三隻どころの騒ぎではない。艦隊の整備と維持はまさに国家の一大事業といってよく、莫大なエキュー金貨に羽が生えて飛んでいった。海軍はフネだけあればいいというものではない。「3年で半人前、10年で一人前」はあくまで民間商船の話。軍艦の乗組員にはそれ以上の高度な専門技術が必要であり、その訓練には長い時間と費用が掛かった。そしてなにより、アルビオンの空軍は大陸諸国の空軍にもまして高い錬度を必要としていた。「白の国」と呼ばれるように、浮遊大陸から流れ落ちる莫大な川の水が一瞬で水蒸気となり、浮遊大陸の周りに雲をつくる。座礁は日常茶飯事。大陸諸国ならフネが沈んでも、海や川、もしくは陸に落ちても(犠牲が出るのは当然だが)まだ助かる可能性はある。だが、地上三千メイルでの座礁は、そのまま「死」を意味していた。「フライ」でどうこうなるものではない。こうした特殊な地理的要因をクリアするだけの乗組員と士官を育てるためには、大陸諸国以上に金と時間を掛ける必要があった。

そのための財源は、とてもではないが国庫から支出される軍事費だけではまかないきれるものではない。それゆえ王立空軍は王家から浮遊大陸各地の港湾施設権を付与された(税関職員を除く)。表向きは「国土防衛上の理由」とされたが、その実は港湾倉庫の賃料や入港税などを徴収することにより、自由な財源を確保することに主眼が置かれた。空軍の既得権益であると同時に、貴重な財源であるこの港湾施設権を委譲しろという意見に、空軍は猛反発した。


要するに「取り上げるんなら金をくれ!」である。


「この間、財務省から新たな空軍予算を示されましたが、あれではとても国土防衛に自信が持てません」
「国土防衛の任を放棄なさるので?」
「そういうわけではありませんが、出来ないことは出来ないのです」

ロドニーの口調からは「金を出さないなら仕事をしない」というサボタージュの気配は感じられず、むしろ王立空軍という枠組みそのものが崩壊しかねないことへの危機感がありありと感じられた。

「フネ一隻を動かせるようにするだけでも大変な金が掛かるのです。ましてやそれを艦隊ごとに動かせるようにするには。金勘定ばかりしている財務省は『訓練費用を削れ』などといいますが、それでいざと言う時に艦隊が座礁しては元も子もありません」
「いざと言う時までに国が潰れてはどうするのです?骸骨はフネを動かせませんぞ」
「いざというときが起り得ないと断言できますか?」
「可能性は低いと思います」
「低くても、その可能性のために我等がいるのです」

ヘッセンブルグ伯爵はその言葉にかすかに口元を緩める。聞くものによっては不快感すら感じる「アルビオン王立空軍は自分の双肩に掛かっている」と言わんばかりの、自意識過剰とも言えるロドニー責任感を、鼻毛を抜いて聞き流していたカニンガムだけは信じ、参謀長という制服組ナンバーツーの要職に抜擢した。

「要するに今の空軍の体制に無理があるということ」

さきほどからあいまいな笑みを浮かべて二人のやり取りを見ていたロッキンガム公爵が口を挟む。ヘッセンブルグ伯爵やロドニー中将は無論のこと、それまで鼻毛を抜いていたカニンガム大将もじろりと宰相を睨みつけた。その視線を、最近冨に厚くなった面の皮ではね返しながら宰相は言う。

「座してやせ衰えていくのを待つほど馬鹿ではあるまい。何か考えあるのだろう?」

その言葉に、一瞬虚を突かれた様な表情になったロドニーは、すぐにニヤリと笑みを浮かべた。

「その言葉を宰相閣下からいただけるとは思いもしませんでしたね」
「・・・まぁ、そうなるのが自然だからな」

どこまでも偉そうな年下の参謀長に顔を顰めるロッキンガム公爵。現在、王立空軍は三つの艦隊を抱えている。アルビオン本国艦隊・北東海艦隊・大洋艦隊だ。本国艦隊はその名の通り本土防衛を目的とした艦隊であるが、後者の二つは多少事情が異なる。そもそもこの3つの艦隊制度からして、空軍内の妥協の産物である。

アルビオン王立空軍は元々、国土防衛を目的として設立された。大陸諸国とは人的にも物的資源でも圧倒的な差をつけられていたアルビオンにとって、国外出兵は夢物語。貴重なフネや人的資源を維持するために考えられた戦略が「艦隊保存主義」である。これは大陸に侵攻してくる大陸諸国の艦隊との決戦を避け、補給艦隊や後方基地への襲撃を行うことによって浮遊大陸からの撤退を促すもので、当初こそ「敗北主義」と批判されたが、トリステインやガリアの侵攻を実際に退けると、王立空軍の基本戦略となった。

「端的に言えば『勝てる見込みのない戦はするな』ということです。艦隊はそこにあるだけで敵兵力をひきつけます。軍港にこもった艦隊を潰すことは容易ではありません」

ロッキンガムが頷いているのを確認してから、ロドニー中将は続ける。

「ですが、ご存知の通り6000年代初頭にロンディニウム大火が発生しました。以降、王都では木造の建築物が禁止されたことにより、余った木材を軍船に使えるようになります。この頃になりますと人口の自然増にともない、兵の確保にも見通しが付いたこともあり、歴代政府は失業対策の面もあって、空軍の拡張に積極的になりました」
「失業対策とは・・・」

空軍の作戦部門と軍政部門を統括する参謀長自身の露骨な物言いに、驚いた表情を見せるロッキンガム公爵。

「無論それだけではありません。当然ですがガリアに対する備えが必要だったということもあります。ですがそうした側面があったのも事実であり、小官はそれを否定しないだけです・・・話を本題に戻しますと、この頃の艦隊拡張はお世辞にも褒められたものではありませんでした。一時は6つの艦隊に大小あわせて400隻以上のフネと、計画性も無くただ増やしただけです。ですが、この紙で作ったドラゴンを過大評価した者が現れました」

それが「艦隊決戦主義」。要するに一撃必殺、見つけたら潰せ。そのためには艦隊は多ければ多いほうがいいという、ロドニーからすれば戦略とも呼べないものであった。しかし、勇ましい考えほど好まれるのは王立空軍でも例外ではなく、艦隊決戦主義と大艦隊主義は確実に空軍内に浸透した。

「皮肉なことに、この頃アルビオン空軍の名声が確立します。それがまた大艦隊主義者を勘違いさせる一因となりました。歴代の王立空軍が苦労して今の規模にまで縮小させたのです。今の3艦隊制度はいわば妥協案。多すぎず少なすぎず、大艦隊主義者のアホどもも満足できる」
「しかし、君の上司は満足していない」

ロッキンガムの切り替えしに微笑を浮かべて頷くロドニー中将。一体貴様は何様だと腹が立ったが、ぐっと押さえ込む。ヘッセンブルグ伯爵はすでに自分の仕事は終わったとでも言わんばかりににこやかな笑みを浮かべており、それがますますこの公爵の神経を逆なでした。


「浮いているのが不思議な老朽艦が山ほどあるからな」

ぶっきらぼうに口を開いた空軍大将に視線が集まる。

「新造艦の金と、演習航海の資金。それに人材育成に関する費用の確保を確約していただけるのであれば、軍港を除く港湾の平時施設権移管に関しては同意しましょう」

それまでとは打って変り、静かな口調で施設権移管に同意するカニンガム大将。とても先ほどまで鼻毛を抜き、悪態を付いていた人物と同一人物とは思えない。


「人もフネも老朽艦の大整理だ。ロドニー、忙しくなるな」
「腕が鳴りますね」

鏡に映したかのようにそっくりな笑みを浮かべる二人の空軍将校に、ロッキンガム公爵はこの性格が正反対に見える二人が馬が合う理由を、何となくだが理解した。



これより2ヵ月後。ブリミル暦6213年ウィンの月(12月)に設置が決まった空軍省設立に伴い、アルビオン王立空軍は創設以来の人事の大幅刷新を断行する。参謀長ジョージ・ブリッジス・ロドニー中将が大鉈を振るった結果、将官12名を含む将校101人が退役。伝統的な艦隊保全主義の考えを持つ将校がその後任として採用され、再び王立空軍の主流となった。同時に旧式化した老朽艦34隻を退役。新造艦の建造を減らす代わりに、バラバラだったフネの規模を統一した。また本国艦隊・大洋艦隊・北東海艦隊の三艦隊制は維持されたものの、その規模は縮減される。

後に「ジョージの大鉈」と呼ばれる一連の改革により、王立空軍は再び空の防人に相応しいものへと生まれ変わったと評価されることになるのだが-この時のロッキンガム公爵はそれを知るよしもない。



「そうそう、宰相閣下。艦隊整理計画は『閣下』に頼まれて『仕方がなく』実行するのです。その点をお忘れなきよう」

「あぁ、そうか・・・・・・って、まて。それはつまりわしが恨まれ役となるということか?私はそんな役回りを引き受けるとは一言も・・・こら、ちょっと聞け!黙って聞いていれば、大体君には敬老精神というものが・・・だから聞かんか!」



[17077] 第42.5話「外伝-ノルマンの王」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:193733e7
Date: 2010/08/06 18:58
『お前は俺の敵か?』

旧王城シャンゼリゼ宮殿の一室で、少年が自分に問うている。自分と同じ髪の色-ガリア王族特有の青い髪を持つ少年は、触れれば崩れてしまうような脆さを感じさせる。護衛の騎士達の屈強な体格と比べるのは酷というものだが、色白の肌と相まって少年のひ弱な体が一層際立って見える。ろくに王宮から出たことがないと容易に想像がつくし、実際にそうであった。

当時ガリアは貴族の反乱が相次いでおり、王太子である少年は父親である国王と並んで暗殺リストの最上にあった。腹違いとはいえ実の弟である自分と彼との初めての会談の時にも、警護の騎士や侍従たちが同席させるほどに厳重な警護を少年は受けていた。警戒の視線を周囲に送る騎士達や、自分を値踏みするかのような視線を送っていた侍従達、そして異常なまでに傲慢な態度とは裏腹に怯えた視線を自分に送っていた兄-後の『太陽王』ロペスピエール3世も、今はこの世にいない。あの場に立ち会った人間の中で生きているのは、おそらく自分だけであろう。

60年以上も前の事だが、現実として自分が体験した事だ。その後の自分の人生を決めたあの会談を、一日たりとも忘れたことはない。忘れられるはずが無い。なのに思い出せない。『お前は俺の敵か?』と怯えた目で問うた少年に、自分が何と答えたのかが。兄の服装や髪型、一緒に食べた菓子の味は克明に思い出すことが出来るのに、そこだけが頭の中に靄が掛かったかのようで-

『お前は俺の敵か?』

もう一度そう問うた兄は、老いさらばえた晩年の姿へと姿を変える。杖無しには立ち上がることすら出来なくなっていたはずだが、夢の中の兄は力強く自分の足で立ち上がっていた。頭骸骨に皮膚だけが張り付いたかのような病に冒されたやつれた顔の中で、落ち窪んだ眼窩の奥の眼だけが異様に輝き、ぎょろりと自分を睨んでいる。その眼の奥に潜む感情は、怒りか、悲しみか。それとも

『お前は俺の敵か?』

あぁ何と答えたのか?その後、何十年にも亘ってこの男に仕え、この男の為に働き、この男を助け、この男に振り回され、この男に怯え続けることになる事を知らない幼い自分は。


『答えろ、ルイ・フィリップ・ド・ヴァロア。お前は俺の敵か?』


そこで老人の意識は覚醒した。

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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(外伝-ノルマンの王)

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「・・・夢か」

そうひとりごちた老人は、かすかに首を上げて目線を周囲にやった。窓の外はいまだ深い闇に包まれており、日の出までにはかなり時間があることがわかる。夢という名の記憶の再生が終わったことをようやく認識した老人は、枕の下から杖を取り出した。

ランプに火が灯り、淡い光が辺りを照らして老人の姿を浮かび上がらせる。眼を凝らせばかろうじてそこに人がいることを識別できる程度の明るさでも、その髪と下顎を覆う髭の色だけはすぐに認識できた。ガリア王族の象徴である青い髪は、国王に血が近ければ近いほどその鮮やかさを増し、年齢を重ねると次第に薄くなるという。現国王シャルル12世の叔父であるこの老人もその例外ではなく、かつては見る者に息をのませた鮮やかな青髪は、すすけた水色がかっている。老人はふと杖を握る自分の手を見た。手は如実にその人を現す。杖の忠誠を50年以上も兄に誓い続けた自分の手は、髪と同様に受け入れがたい老いの現実を自分に突きつける。

ノルマンディー大公ルイ・フィリップ7世。先代のガリア国王『太陽王』ロペスピエール3世の存命するただ一人の弟にして、現国王であり甥のシャルル12世に対して反乱を起こした首謀者とされている人物である。億劫そうに上半身を起した老人は、寝違えたのか、それとも年のためか、肩に張りを感じて首の後ろを撫でると、唐突に苦笑を漏らした。

(この皺首一つに、1万エキューとはな)

自分にかけられた懸賞金を思い出して、老人は笑った。何でも自分の首に懸賞金をかけるように動いたのはパンネヴィル宰相だとか。内務卿時代に兄の怒りをかって失脚しかけた際にとりなしてやった事は、どうやら侯爵の記憶からは消えているようだ。高額の懸賞金をかけられるだけ大物になったのだと考えると悪い気はしないが。

自らの死を意識せざるを得ない状況にあって、そう自嘲するだけの精神的なゆとりが、この老人にはあった。子供じみた自分の考えに自嘲の笑みを浮かべ、もう一度眼を閉じる。たが、どうにも寝つきが悪い。再び杖を振るって枕元の鈴を鳴らした。部屋の主である老人同様、古くて厳しいつくりのドアを押し開いて入室した侍従のユーグ・ド・リオンヌに「水を」と一言命じる。


水差しを待つ間、老人の思考はやはりあの夢の内容になる。


ルイ・フィリップはブリミル暦6142年、ガリア国王シャルル11世(現国王シャルル12世の祖父)の4男に産まれた。当時、ガリアは不穏な空気に包まれていた。シャルル11世はガリアの王権強化(中央集権化)を目指しており、既得権益を奪われる貴族層の反乱が相次いでいたためだ。王都リュテイスでさえその例外ではなく、毎週のように暗殺事件が発生。経済顧問だったジャン・ディドロやジョセフ王太子がその犠牲となった。シャルル11世は次男のロペスピエールをすぐさま王太子に据えると、それ以外の子息をリュテイスから遠ざけた。王家(自身)の血筋を守り、むようルイ・フィリップも産まれて直に母方の実家であるアルトーワ伯爵家に預けられる。

アルトーワ伯爵家で養育されたルイ・フィリップが、兄である王太子ロペスピエールと始めて対面したのは7歳の時。ここ最近、何度も見るあの夢の会談がそれだ。初めて訪れたリュテイスの華やかさに心躍らせながら、シャンゼリゼ宮殿に足を踏み入れたルイ・フィリップは、その生涯で初めての『恐怖』を覚える事になる。


『お前は俺の敵か?』


後年、ロペスピエール3世はリュテイス郊外にヴェルサルテイル宮殿を建造し始めると、移転を進める家臣の進言を無視し、忌まわしき記憶の象徴であったこの宮殿を徹底的に破壊させた。ジョセフ王太子が暗殺されたのはシャンゼリゼ宮の鏡の間。当時3歳だったロペスピエールは、兄が毒物の入った紅茶を飲んで吐血し、痙攣しながら死んでいく様を見せ付けられた。王太子となったロペスピエールは、弟達とは違い王都-シャンゼリゼ宮殿に留まる事を命じられる。跡継ぎを手元で守りたいというシャルル11世なりの配慮だったのかもしれないが、当然のように次の王太子の暗殺も企てられた。人一番感受性の強い少年は人知れず傷ついた。

いつしか人を疑うことが自然となり、峻厳なまでに敵と味方に区別することで自分を守ることを覚えたロペスピエールには、初めて出会った弟もその例外ではなかった。母方の実家で伸び伸びと育てられたルイ・フィリップには、自分と大して年齢の変わらない少年がそう考えていることが純粋に恐ろしかった。その瞬間から「ルイ・フィリップ・ド・ヴァロワ」の中で、ロペスピエールは「兄」ではなく「仕えるべき主人」として認識されることになった。

恐怖による忠誠心は、実際の行為によって、より深く彼の心に刻み付けられた。ロペスピエールには、ルイ・フィリップ以外に二人の弟がいた。自分にとっては兄と弟に当たる彼らが、即位してロペスピエール3世と名乗った兄に謀反の疑いをかけられて粛清されたのだ。

その知らせを聞いた瞬間、ルイ・フィリップは「次は自分だ」と覚悟した。ところが彼の元にはいつまでたってもその命令は下されず、その代わりに、このノルマンディー大公家を継ぐようにと命令された。ルイ・フィリップが王家や中央政府への反抗心が強い「ノルマン人」に受け入れられたのは、その態度が誠実で大公領の統治に熱心であったからだとされる。しかし当の本人は、いつ兄に粛清されるかわからないという恐怖だけがあった。不必要な人間だとして切り捨てられないためには「使える人間」と思わせなければならないが、猜疑心の強い『太陽王』に仮初にも警戒されてはならない-そんな状況の中で、彼は必死に働いた。ただそれだけの話だ。


兄弟二人と自分の生死を分けたものが何だったのか-太陽王が死んだ今となっては確かめるすべもない。ルイ・フィリップは、兄が死んでもその呪縛から逃れる事は出来なかった。この問いの答えを見つけなければ、自分はおそらく死ぬまで、そして死んでからもあの男の呪縛から逃れることはできない。

単なる偶然や兄の気まぐれでは理解出来ない。50年以上もあの男に仕えてきた自分だからこそ断言できる。粛清するなら3人まとめてした方が楽に決まっているし、物であれ人であれ欲しいものは必ず手に入れ、自分のプライドを満足させることを何よりも優先した兄なら、そう命じたほうが自然だ。ましてや自分を生かすことに政治的価値を見出したとは思えない。自分の母方の実家であるアルトーワ伯爵家は王家の分家とはいえ、ふけば飛ぶような存在。取り込む価値すらない。

となれば考えられるのはただ一つ。


『お前は俺の敵か?』


この質問に、7歳の自分が返した答え。それがあの男が自分を生かした全ての理由であり、自分が彼に仕え続けた答えのはず。奇しくも『太陽王』がこの世を去った年齢と同じ71歳を迎え、人生の終焉が現実のものとして迫っている今だからこそ、その答えが知りたい。


「・・・何と答えた?なぁ、兄さん」


答えを知る兄はこの世にはいない。上半身を再びベットに横たえたルイ・フィリップには「ガリアの柱石」とまで言われた昔年の冴えは見つけ出すことは難しい。ここにいるのはガリアの王族でも、太陽王の弟でもなく、人生の黄昏を迎えた今もなお、自らを縛る鎖と兄の呪縛から懸命に逃れようともがく、ただの老人だった。

部屋の片隅では、水差しを持った老侍従が主の思考を邪魔しないように静かにたたずんでいた。


***

ガリア北東部ノルマン地方の中心都市ルーアン。人口約9千人、規模で言えば決して大きくはないこの都市の北側『旧市街地』と呼ばれる地区の中心に、町全体を見下ろすかのようにルーアン大聖堂が聳え立っている。ノルマンディー大公家領の政庁にして住居であるルーアン城よりも、大聖堂のほうがよほど城らしい造りだ。それもそのはずで、この大聖堂はブリミル暦3201年にガリアがブリミル教を国教に定めた時に司教座が置かれたという重要拠点。規模こそロマリア市の聖フォルサテ大聖堂に劣るが、その重厚な佇まいは見る者に神と始祖の偉大さを思い起こさせるのには十分であり、独自の土着信仰が根強かったノルマン人の意識を変革させるのに役立ったとされる。現在でもルーアン司教管区を含む8つの司教区を統括する、ガリア北東部の信仰と教会権力の要である。

その大聖堂の主の姿は、保護を求める商家や難民達であふれる聖堂内にはなく、ルーアン城にあった。ルーアン城は長年リュテイスと争い続けてきた大公家の本拠地らしく、ガリアの様式美にこだわる建築ではなく、純粋に要塞としての機能が重視されている。重厚な城壁などに見られるアルビオン様式は、大公家と白の国との隠然たる繋がりを示していた。しかし、それも最早過去の話。これまで常にノルマン大公家の反乱の後ろ盾として暗躍しながら「厳正中立」を謳っていたアルビオンだが、今回はルーアンからの援軍要請を黙殺し、親ガリアの外務次官主導でガリア中央政府への「強い支持」を表明。期待していたトリステインやグラナダ王国の参戦も無く、ノルマン大公家は孤立無援の戦いを強いられている。

ノルマン大公家を取り巻く周辺状況と比例するかのように、戦況も急速に悪化した。ルイ・フィリップ7世の長男であるジャン・フィリップ公子が決起宣言書『ルーアン宣言』を高らかに宣言してから僅か1週間ばかりで、ガリア中央政府はノルマン地方の物流の拠点カーンを攻略(第1次カーン攻防戦)。焦ったジャン・フィリップが大公軍を率いてカーン奪還を目指したが(第2次カーン攻防戦)敗退。ジャン自身も戦死するという大敗北を喫した。これで流れは決定的に中央政府に傾き、大公領の領主や貴族が雪崩を打って離反。カーンをおさえたガリア軍はノルマン地方全体を兵糧攻めにし、都市や町を一つずつ確実に切り崩す作戦を取った。

第2次カーン攻防戦から4ヶ月、ウィンの月(12月)フレイヤの週(第1週)ユルの曜日。ベル=イル公爵率いるガリア軍4万6千は、満を持してルーアンへの進軍を開始。今はガリア軍の先鋒はルーアンまで三日の距離にまで進んできている。私財のある市民達は家財道具を積み込んだ馬車や家族を連れて城門へと向かい列を成していた。逃げ出すことも叶わない避難民や貧しい市民達は、当然のように弱者の権利を主張して教会に庇護を求めた。そのため、大聖堂は今や壮大な炊き出し場の態をなしている。


「おかげで臭くてたまらない。冬とはいえ、何日も風呂に入っていない人間が雑魚寝しているのだ。衛生的にも精神的にも良くないに決まっている・・・だからと言って、今更追い出すわけにも行かないが」

赤い法衣とマントに身を包んだ枢機卿は、この城の主であるルイ・フィリップに背を向けたまま不機嫌そうに呟いた。ルーアン城の最上階の窓から町を見下ろす彼の視線の先には、ルーアンから逃げ出す市民の列がある。

エルコール・コンサルヴィ枢機卿。ガリア出身の枢機卿で59歳。法衣を着ていなければ、どこかの大学の教授にも見える知的な雰囲気を漂わせたこの聖職者は、現教皇ヨハネス19世の右腕であるとされる人物である。ノルマンディー大公ルイ・フィリップ7世の友人であるエルコールは、反乱発生直後からリュテイスと大公の和解のための努力を続けていた。だが事ここに至っては、彼の調整力と影響力もってしても調停は不可能であるということを、他ならぬ彼自身がよく理解していた。

逃げ出す市民の列を見おろしたまま「沈む船から逃げ出す鼠のようだな」と吐き捨てるエルコール。宗教家としては決して褒め言葉ではない『現実主義者』と綽名される現教皇の側近らしく、エルコールは手堅く慎重な言動で知られている。だがそれは自分を必要以上に理性で縛りつけていたため。そうでもしないとこの男は、内心の燃えたぎるような激しい激情を抑えつけることが出来なかった。『人が万物の霊長と名乗るのであれば、それにふさわしい気高き理想を持ち生きるべきだ』とする美意識の持ち主である枢機卿からすれば、ルーアンから逃げ出す兵士や市民達の行動は、到底納得できるものではない。

「かき集めても精々2千というところか」

2千対4万6千-子供でもわかる計算だ。逃げ出す鼠が増えても無理はないとため息をつきながら、エルコールは振り返って大公を厳しい表情で見た。謀反人とはいえガリアの王族たるノルマンディー大公に対して不敬とも取れる態度で接し、それを大公が平然と受け入れているのは、一枢機卿と大公という表向きの関係以上に、二人の関係の近さをあらわしていた。

「ルーアンに留まる市民や義勇兵を入れても4千に届くかどうか。傭兵など寄り付きもしない。勝ち目など到底ないぞ。ここまで兵力差が開くと敵に一矢報いる『名誉の戦死』も不可能だ」
「そうだな」

どこか心ここにあらずという友人の態度に苛立ちを募らせながら、エルコールは教会の権威と権益を守るために、この地方の教会を統括する枢機卿としてブリミル教徒が無用な戦渦に巻き込まれることを防ぐために、そして何より一人の友人としての責任を果たすために、大公の説得を続ける。

「最早組織的抵抗は不可能だ。無条件で降伏するなら、国王陛下も貴方を無碍には扱わないだろう。幽閉か監禁はされても、命まではとらないだろう。何せ貴方は・・・」

シャルル12世を国王に擁立した立役者なのだからと続く言葉を、エルコールは意図的にぼやかす。甥の温情にすがって命乞いをしろと友人に告げるのは、さすがに憚られた。現国王シャルル12世は30年近く王太子の座にあったが、国政からは意図的に遠ざけられてきた。ラグドリアン戦争中の『太陽王』の突然の崩御に、戦時下ということもあり、政治的に未知数な王太子よりは人望も実績もあるルイ・フィリップをショート・リリーフとして国王に推す声は強かった。だが彼はそれを固辞し、シャルルの国王即位への流れを作った。いわば現政権の「産みの親」といっていい。恭順の意思さえ示せば、過去の功績から命まで奪われることは無いだろうと言下に仄めかす友人に、自身の命運に関する事柄にも拘らず、やはり関心が薄いのかルイ・フィリップは気のない声で答える。

「大逆罪には例外は無い。むしろ王族だからこそ厳しく適応されてきた」

死を平然と受け入れるどころかむしろ望むところだとでもいわんばかりの友人の態度は、彼の美意識に適ってはいたが、それは冷静に事実を受け入れたというものではなく、圧倒的な何かを前に全てを諦めた者のそれに似ているように思える。生を諦めることは、望んでも適わなかった多くの魂への冒涜に他ならず、それはブリミル教の大罪の一つ『自殺』となんら変わりはない。

だが、エルコールの口から発せられた言葉は、彼の思考とは全く正反対のものであった。

「・・・ならば、私はもう貴方に言うべきことは何も無い。戦場で骸を晒してジャン公子の後を追われるなり、毒を飲んで領主として最後の役目を果たすなり何なり、好きにすればいい。最早貴方の命にはそれぐらいの価値しかないのだから」
「これは手厳しい。聖職者の言葉とは思えないな」

初めて愉快気に笑みを浮かべたルイ・フィリップに「ふざけている場合か」と鋭い視線を投げつける。美意識を人に強制するほど頑迷ではなかったが、無意識にそれを他人に求める傾向があることは自身も自覚している彼の悪癖である。しかし今はそれ以上に、目の前に差し迫った破局に向けて進もうとする友人の行動が苛立たしく、今やそれを止めるすべの無い自分の非力が呪わしかった。

そんなエルコールの心情を知ってか知らずか、ルイ・フィリップはあえて明るく笑いながら話しかけた。

「苦しいときに真の友がわかるという。他のものは皆、蜘蛛の子を散らすように逃げ去り寄り付きもしないが、君だけが以前と変わらず私と接してくれる。君には感謝している。自身の立場が危ういのに、私のために奔走してもらって」
「降り掛かった火の粉を払ったまでの事。礼を言われる筋合いは無い」

感謝の言葉を遮るように言いながから(それに、謝らねばならんのはむしろ此方だ)と心の中で続けるエルコール。選帝侯家出身のフェデリーコ=ゴンサーガ・ネヴェル枢機卿が、シャルル12世に反感を持っていたジャン・フィリップ公子を煽り立てて反乱を起こさせた事は、彼の耳にも入っていた。

『太陽王』崩御後、リュテイスで語られたルイ・フィリップの緊急登板は、本人が頷きさえすれば「ルイ・フィリップ7世」として即位する段取りまで付いていた。実績が無く無口で無愛想、何を考えているのかわからないと評判の悪いシャルル王太子よりも、「難治の地」ノルマン人の住む大公領を良く治め、国政の調停役としての実績もあり、閣僚や議会からの人望も篤い王弟を擁す声が、戦時下という状況下で多数派を占めたのは、ごく自然な流れであった。ルイ・フィリップがシャルルを推さなければ、実際彼は王になれなかったであろう。

ジャンにはそれが気に入らない。本来であれば、今国王の座にあるのは自分の父親であったはず。シャルル12世はその座を預けられているに過ぎない。ましてや「無能」と評判の高いシャルル12世の長男ジョセフが王太子であるのが、彼にはどうしても耐えられなかった。反乱の正当性を列挙した『ルーアンの宣言書』でも、暗にジョセフの件について触れているぐらいであるから、その鬱屈と不満は相当のものだったのであろう。

ジャンに目を付けたという点では悪くないが、聖フォルサテの血を受け継ぐ若き枢機卿の過ぎたる火遊びに、エルコールは自らが仕える気難しい老教皇と同様に激怒すると同時に、ガリア国内の教会権力どころか、ロマリア連合皇国という枠組みすら揺るがしかねない事態に顔を青ざめさせた。「大公とリュテイスとの仲介交渉のため」というお題目の元、エルコールは証拠隠滅に奔走した。幸いにして公子とその側近は第2次カーン攻防戦で戦死し、当の枢機卿も「病死」したため、当事者の口から語られる事は無い。あとは尻拭いに走り回った自分達が黙ってさえいれば、深層は永遠に闇の中に葬られるだろう。

目の前の、この世の全てを-自分の生ですら諦めたかのように見える友人がこの事実を知れば、一体どのような反応をするだろうかという、一種のいたずら心にも似た好奇心と、彼とその一族を破滅へと追いやる片棒を担いでいるという罪悪感がエルコールを押しつぶそうとする。神の身元で裁きを受けるまでは『原罪』として背負い続けなければならない業だとは覚悟していたつもりだったが、本人を前にすればさすがにそれも揺らぐ。聞き届けられる事の無い説得工作は、自身の罪悪感を紛らわせるためだったのか。冷たく、どす黒いものが心の奥底に渦巻くのをエルコールは感じていた。


「それにしても親より先に死ぬとは、ジャンも親不孝な男だ。せっかちなのはわし譲りだったのか・・・それはともかくだ。ここまで早く追い詰められるとは思わなかったというのが正直なところだな。1年から2年は暴れてやるつもりだったのだが」


友人の沈黙をどう捕らえたのか、ルイ・フィリップは話題を変えた。『太陽王』の死後、目の前の大公は眼に見えて気力が衰えた。ノルマン領の実権はすでに老人の手にはなく、息子であるジャン・フィリップと周囲の側近達の手に移っていた。そして今回のリュテイスに対する反乱-後世、歴史家達に『最後のノルマン大公の乱』と呼ばれることになるそれも、彼らが中心となって計画したものであった。計画が後戻りが出来なくなった段階で聞かされた大公は、ただ一言だけ「そうか」と答え、それ以上は何も言わなかったという。

たとえ今の状況が、現実と虚構の見境の付かない若者が火を付けた『過ぎたる火遊び』だったと知っても、彼は眉一つ動かしそうに無いように思える。諦めたというよりは、生きる意志そのものが消えてしまっているかのようだ。


息子である公子ジャン・フィリップとその側近が絵を描き主導した反乱。勝てるとは思わなかったが、それでも1年から2年は持ちこたえることが出来るだろうとルイ・フィリップは考えていた。リュテイス陸軍士官学校を次席で卒業したというジャンの立てた戦略はそれなりに見るべきものが多かったし、過去ノルマンディー大公家が起こした反乱ではいずれもその程度の時間を稼いでから降伏していたからだ。

ジャンの立案した計画は、ある意味教本通りの面白みの無い基本に忠実なものであった。

ラグドリアン講和会議に国王シャルル12世が赴くと同時に挙兵、国王不在のリュテイスを制圧。ルイ・フィリップがノルマンディー大公に養子入りしてから中央政府は伝統的な大公家の備えを解いている為、リュテイスを落とすことはそう難しくない。シャルル12世がオルレアン大公(現オルレアン大公ガストンはルイ・フィリップ7世の娘婿)を警戒して帰国できない間に、リュテイスで他の大公家や貴族に呼びかけを行う。王への忠誠心が強い西南方諸侯や南部の常備軍に関してはグラナダ王国で牽制させ、後は日和見を決め込むであろうから、少なくとも5分に持ち込むことは可能である-王家への反乱という大それた事を考えておきながら、計画は実に堅実で面白みがないのは、他ならぬ自分の息子だからか。ルイ・フィリップは妙にそれが可笑しかった。

だが、教本通りの反乱戦略は瞬く間に覆された。リュテイス攻略に必勝の大勢で臨むために攻略軍の編成に掛かりきりだったジャン・フィリップとは対照的に、国王不在のリュテイス留守を預かるパンネヴィル宰相は、即座に動員可能な4千の軍を大公領のカーンに進軍させた。指揮するベル=イル公爵の巧みな差配もあってカーンは殆ど無血で討伐軍に降った(第1次カーン攻防戦)。そしてその狙いは直に明らかとなる。カーンはノルマンディーを含むガリア北東部の物流の拠点であり、陥落と同時にルーアンでは食料品を中心とした生活必需品の値上がりが始まったのだ。大公側の動員は大幅に制約され、リュテイス攻略どころではなくなった。

二枚貝の様に重く口を閉じた友人に向かって言うとでもなく、ただ出来事を淡々と列挙しながら、ルイ・フィリップは『血は水よりも濃い』という言葉の意味を真の意味で理解し、その面白さに口の両端を吊り上げた。

「果断な決断と行動。万事に慎重で口の重いシャルルの事だから、逡巡してラグドリアンで地団太を踏むとジャンは考えていたし、私もそうだと考えていた」
「ですが実際には違った」

静かに頷くルイ・フィリップ。義弟のガストンの性格からして、反乱に組することはないと見たジャンは、逆に大公を利用することを考えた。オルレアン公ガストン・ジャン・バティストはルイ・フィリップ7世の娘婿であり、また先のラグドリアン戦争には水の精霊の怒りを買うとして最後まで反対したことから、反乱に組する可能性は十分に考えられる-慎重な性格のシャルル12世に疑心暗鬼を起させ、リュテイスへの期間を遅らせることがジャン・フィリップの作戦であった。

ところが当のシャルル12世は、反乱の知らせを聞くと講和会議に従事した閣僚や軍高官達はトリステイン側のラグドリアン湖畔に残したまま、オルレアン大公領に殆ど護衛らしい護衛もつけずに入ったのだ。ガストンはその知らせを聞くと「負けた」と呟いたという。ここでシャルル12世を殺すことは簡単だが、閣僚や軍高官が健在であればガリアの官僚機構や政府は揺るがない。そして王殺しはトリステインに侵略口実を与えるようなもの。そこまで計算した上で、自らの命を張った大博打を打って見せたシャルル12世に、オルレアン大公ガストンは杖の忠誠を改めて誓う。大公の軍勢を引き連れた国王は、リュテイスに堂々と凱旋した。


この間、6日間。ニューイの月(6月)ティワズの週(第4週)ダエグの曜日に、ジャン・フィリップが『ルーアンの宣言書』を高らかに宣言して挙兵してから、僅か6日である。シャルル12世が王都リュテイスに帰還するまでには最低でも2週間は掛かり、それまでに王都を攻略しようと考えていた大公側の戦略は完全に破綻した。焦ったジャン・フィリップは軍勢をかき集めてカーン奪還に動いたが(第2次カーン攻防戦)待ち構えていたベル=イル公爵率いるガリア軍に大敗。完全に大勢は決まった。


「誰も想像しなかっただろうな。あのシャルル陛下があのような大胆な行動に出られるなど。ガストン(オルレアン大公)の驚く顔が眼に浮かぶわ。果断なる決断と行動。何者をも恐れず、そして怯まずに自分の信じたものを押し通す強い意志と、それを実行に移すだけの常人とはかけ離れた行動力。まるで・・・」

(兄上の生き写しだ)そう続けようとしたルイ・フィリップは、何故かその言葉が口を突いて出てこなかった。偉大なる『太陽王』、ガリアの全てを支配した兄ロペスピエール3世。「神に愛された王」といささかのためらいも無く公言し、欲しいものは全て手にいれ、神と始祖以外の全てを自分の上の権威として認めなかった男。その男と、あの万事に慎重で口が重く感情を表に表さないシャルル12世が似ている。それを認めるのに妙な引っ掛かりを覚えた。

違和感をとりあえず棚に上げ、ルイ・フィリップは続けて言った。

「ジャンにしてもそうだ。あやつはもっと血気にはやった男だと思っていたのだが」

「ジャン・フィリップが決起と同時にリュテイスを突いていれば、間違いなくノルマン朝ガリア王家が始まっていただろう」と評価する歴史家は少なくない。国王個人への権限集中という中央集権化策をとっていたガリアは、裏返せば国王不在となれば何も出来ないことを意味していた。しかし彼はそうしなかった。機密保持のために事前の行動をある程度制約されていたこともあるが、王都攻略には万に一つの失敗も許されないと考えていたジャンは、必勝の大勢で臨むために攻略軍の編成や傭兵の雇用契約などに走り回った。彼の考えでは国王不在のリュテイスは身動きがとれず、オルレアン公の去就が不明なために身動きのとれないシャルル12世は帰還が遅れる。その間にトリステイン王国やグラナダ王国などが国境を脅かし、時がたてば立つほど大公側に有利になると。

結果論を全ての判断基準に置く事は、必ずしも公平ではない。しかし、大きな判断材料の一つである事に間違いはない。そして結果が全ての世界に生きていた彼にとって、敗死という結果だけをもってして、強大なガリア王家に愚かにも挑んだ道化役として扱われる。そして彼の父親も、血気にはやる我が子をとめることが出来なかった「無能」というレッテルを貼られる事になる。

「正直に言えば私はシャルル陛下を侮っていた。私だけではない。パンネヴィルもポルポンヌも、議会も官僚も、皆がだ。しかしあの男だけが、自分の息子の事を理解していた」

今になってみればわかる。何故あの男が執拗なまでに自分の息子を国政から遠ざけたか。中央集権化を王個人に集中させるためなどでは断じてない。月とは違い、太陽は二つ並び立たない。あの男は知っていたのだ。自分の息子が自分と同じ存在であることを。自分の命を張った大ばくちを顔色一つ変えずにやって見せるその度胸と決断力。さすがは『太陽王』の息子という他は無い。それを解っていたからこそ、ロペスピエール3世は息子を政治に関わらせなかったのだ。

「それに引き換え・・・ジャンはやはり私の子供だ。兄上はジャンを可愛がってはくれたが、それは私と同じように都合が良かったからなのだろう」

ロペスピエール3世が息子である王太子を差し置いて、甥であるノルマン大公家のジャン・フィリップ公子を後継者に据えようとしていたという噂は、リュテイスでは真実味を持って語られていた。一人で沈思黙考し人に腹のうちを見せないシャルルとは対照的に、活発で社交的であり、尚且つ聡明な性格のジャンのほうが、いかにも『太陽王』の好みに合っていた。ジャンが太陽王の後継者には自分こそふさわしいと考えたのも無理はない。

しかし、それらは全て思い違いだ。親の欲目ではないが、ジャンはそれなりに優秀な男だ。陸軍士官学校を優秀な成績で卒業し、政治的センスもそれなりにある。だがそんな男はガリアには幾らでもいる。普段は強気な事を言っておきながら、その本質は自分と変わらない「守り」の人間だ。あの男は、甥を使い勝手のいい駒としてのみ愛した。息子のように恐れる必要が無かっただけ、気安く接する事が出来ただけなのだろう。

「失敗を恐れるばかりでいざという時の踏ん切りがつかない。私の様な補佐役で満足できる人間ならそれでいいが、ジャンはそれでは満足できなかった。それがあれの命取りとなった」
「・・・何を他人事のように」

眉をひそめて不快感を表すエルコール。息子の死にも、自身に迫り来る終焉でさえにも、彼があれだけ心を砕いてきたノルマン領民の将来ですらも、今となっては目の前の男の心を動かすものではないようだ。例えようのないもどかしさと同時に、まるで死人と話しているような不快な気分になる。そんな友人の態度に構うことなく、ルイ・フィリップは僅かの時間を惜しむかのように話を続けた。

「ジャンの側近どもは、最後は私に頼れば何とかなると考えていたようだが・・・それは所詮、権力というものを知らない者の発想だ。『権力』を持つものがそれを許すはずがない。ましてや、そんな輩が権力という魔物の心を支配出来るはずが無いのだ」
「魔物、か」
「そう、魔物だ。多くのものは権力を握ると、今度はそれに支配される。人の運命を支配するという魅力に囚われるからな。兄はその魔物を支配できた。だからこそ『太陽王』と呼ばれたし、そう呼ばれる資格があった」

ロペスピエール3世は間違いなく一大の傑物だった。諸侯軍を削減し、常備軍を強化し、逆らう貴族を根こそぎ滅ぼし、言葉を統一した。身内であろうと外戚であろうと逆らうものは決して許さず、自身の見栄とプライドを満足させるためだけの戦争を繰り返し、国家財政を危機的な状況にまで悪化させた。ガリアを名実共にハルケギニアの大国に押し上げたカリスマの持ち主-それを可能としたのは、兄が権力という魔物を完全に自分の支配下に置く事が出来たからだ。多くのものは、権力の持つ魅力と腐臭に取り込まれ、道を誤る。あの男は、それを根拠の無い自信と圧倒的な自己愛によってねじ伏せた。だからこそ『太陽王』と彼が自称しても、誰も疑問に思うものはいなかった。

その兄をしても、絶対的な権力の腐臭によって心身を蝕まれることは避けれなかった。死の間近のあの男は、完全に権力の奴隷と貸していたといっていい。ルイ・フィリップが王座を固辞したのは、甥に遠慮したからではない。あの男ですらそうだったのだ。ましてや逆立ちしてもあの男にはなれそうにない自分が。手を伸ばせば届くまでの位置に王座が近づいたとしても、とても手を伸ばす気にはなれなかった。


「・・・やはり貴方は生きるべきだ」

それまで黙って話を聞いていたのが、呻く様に言葉を搾り出したエルコールに、ルイ・フィリップは始めて視線を合わせた。この正直者は、相変わらずこの世に対する希望を失わない。世を渡る上での手練手管を覚えても、人を愛し神と始祖を信じるという彼の信念には微塵の揺らぎも無い。今でもこうして、最後まで自分を翻意させようとしている。例えそれが、ジャンと枢機卿の事への後ろめたさから出た動機による行動であったとしても、反逆者である自分の友人であることも止めようとしないのは、彼自身の意思によるものだ。

「犬死と名誉の戦死は違う。殿下の死ぬ場所はここではないはず。今、貴方のお話を聞いて、改めて確信した。権力と自分を知る人間は少ない。まだこの国には貴方の力と支えが必要だ」

最早自分の言葉がこの男に通じない事はわかっている。しかしエルコールは言葉を尽くす事は止めようとはしなかった。

「謀反人の支えが必要なのか?」

自嘲の笑みを浮かべながらそう言った大公に、エルコールは半ば怒鳴りながら反駁した。

「そう、貴方は謀反人だ。始祖の血を引く王家に弓引き、多くの領民を泣かせたハルケギニアのどこにも身の置き所の無い大逆人だ。その罪は例え貴方が始祖の血を引いていたとしても免れるものではない。だがその謀反人の貴方によって、この国の土台は緩んでしまった。ならばそれを立て直すのは、土台を揺るがせた者の責任。それを甥とはいえ他人に押し付け、自分は安易な死を選ぶのは余りにも卑怯ではないか」

「卑怯、か」

それまで顔色を変えずに聞いていた大公の顔に、一瞬だが感情の揺れが走った。


***

ルーアンは町の北側のルーアン大聖堂を中心とした旧市街地と南のルーアン城を基点にして放射線状に広がる新市街地に分かれる。旧市街地の高級住宅街を抜けると、そこから新市街地までの間には共同住宅や下級官吏達の宿舎が立ち並ぶ。いつもなら人通りと子供の声の絶えないそこも、今では行きかう人もまばらだ。多くの家は窓やドアに板を打ち付け、さながら嵐に対する備えのようにガリア軍に備えている。

ルーアン大聖堂に戻る馬車の窓から人通りの少なくなった町並みに視線を向けていたエルコール・コンサルヴィ枢機卿に、ジュール・マンシーニ=マザリーニは、この青年には珍しく相手の様子を伺うような視線を向けていた。ラグドリアン講和会議に随行した彼はノルマン大公の反乱発生を受けて、そのまま枢機卿に随ってガリアに足を踏み入れた。他の者には任せる事の出来ない証拠隠滅作業の他にも、反乱を契機に修道院領の没収を検討するリュテイスとの交渉、教会に駆け込んできた避難民への対応、正規軍と大公軍双方への教会領の中立化交渉等々・・・仕事に追われるエルコールを、マザリーニは良く補佐。エルコール自身、この神学生の仕事の飲み込みの良さと処理の早さに、実際の秘書官よりも重宝してどこに行くのにも付き随わせていた。

「何が良くて、何が悪いか。それは神が裁かれることだ。我らはただ与えられた責務をこなすだけでいい」

大公との会談を終え、いつもの口癖を呟いたエルコールは口を真一文字に結び、険しい表情を崩そうとしない。その表情からはマザリーニの目にもそれとわかる迷いと悲しみを見る事が出来た。枢機卿が『何か』に悩み、それが自身の政治的失脚の危険性をはらみながらも、自ら大公を説得するために直接交渉を行わせる動機となっている事は、この聡い神学生はなんとなくではあるが理解していた。ガリア軍の侵攻速度などを勘案して時間的に考えると、今回がおそらく説得の最後の機会。その結果がどうなったかは、枢機卿の表情が全てを物語っている。

居た堪れなくなったマザリーニは視線を同じく外に向けた。馬車の窓から覗くルーアンの町並みは、日に日に人数が減っていくのが眼に見えて確認できる。今この瞬間も荷物を背負い、子供の手を握り締めた家族と何組かすれ違った。馬車に目を向ける者は少なく、目を留めたところで教会の馬車であることに気が付くと、軽く一礼して通り過ぎていく。

唐突にそれまで黙り込んでいたエルコールが口を開いた。

「マザリーニ、良く見ておけ。あれが死を意識した人間の顔だ」

その言葉にマザリーニはすれ違う人の顔を一層注意深く観察した。だが彼の目には荷物を背負い、家族の手を引く避難民と、武器を磨く大公軍の兵士達との間にこれという差を見つける事は出来なかった。自分の至らなさを恥じながらそれを正直にエルコールに伝えると、枢機卿は微かに笑いながら答えた。

「君は一つ勘違いをしている」
「とおっしゃいますと?」

球帽を外して頭を撫でながら、エルコールは独り言を言うような調子で、むしろ自身の考えを整理するかのようにゆっくりと喋った。

「生と死の間に大きな違いは無い。それはちょうどコインの裏表の様なものだ。人は生まれた限りは必ず死ぬ。多くの人間はそれをあえて意識しないように生きているが、死はいつでも、どこでも、そして誰にでも起こりえるのだ。病気・事故・災害、そして戦争と原因は様々だが。唯一ついえるのは、人は必ず死ぬのだ。必ずな」

エルコールは馬車の窓を開けた。ウィンの月(12月)に入ったというのに、生ぬるい風が流れ込んでくる。特段今年が暖冬というわけでもなく、ましてや雨の前の湿った空気でもない。ただただ、生ぬるい。呼吸をするのさえはばかるような風。これが戦場の空気というものなのか。マザリーニはその首筋にじんわりと汗が流れるのを感じた。

「この町に満ちているもの、それは『死』だ。避難民は強盗や傭兵崩れ、軍紀の乱れたガリア軍の略奪に自身と家族の命の危機を感じている。逃げる事さえ出来ない平民は、攻め込んでくるガリア軍が自分達も殺すのではないかと恐れている。そして大公と共に死ぬ事を選んだ兵士や市民達はどのように死ぬかを考えている」

聖職者になるより役者にでもなったほうが似つかわしいであろう端正な顔をした神学生が眉を寄せたのを、エルコールは見逃さなかった。

「貴様のいいたいことは分かる。いかに死ぬかと、いかにして生き延びるべきかを考えているのでは、天と地ほどの差があるといいたいのであろう。だが死の危機に直面し、それから逃れようとする人間は。目の前の死と正面から向き合わなければならない。それは、いかに死ぬかについて考えているのと本質的には変わらないのだ」

納得するのは難しいだろう。いかに頭が切れるとはいえ、未だ15歳の神学生。若いがゆえに『死』と言うものを無意識に軽視する傾向があるのは、何もマザリーニに限った事ではない。かつての自分もそうであった。

「よく解りかねますが・・・この町の住民がどのように考えているのかについては理解しました」

本当は自分も含めた聖職者の誰も、死と言うものについては理解していないのだ。一回きりの片道馬車。帰ってきたものは誰もいない。それなのに堂々と天上(ヴァルハラ)を語る教会とは、いかに滑稽な存在か。だがそれも必要悪だと考えれば、そうは腹は立たない。人が闇を恐れるように、何の手がかりも無く、目隠し耳栓をして歩いていくよりは、でたらめでも予備知識があったほうが安心できるというものだ。

(これでは、マザリーニ君を笑えんな)

自嘲しながら呟いていると、再度マザリーニが尋ねてきた。

「恐れながら、大公殿下の態度は為政者としては正しき姿勢なのでしょうか?」
「正しいかだと?」

ためらいがちではあるが、それでも自分の疑問を正面から尋ねる。青年らしい真っ直ぐで迷いの無い目は、思わずそらしたくなるほど澄んでいた。

「今この時期に至り、反乱の正当性を論議してもせん無き事です。しかし、今の大公殿下の行動は為政者としてはいかがなのでしょう。敗色が決定的となっても降伏することなく、かといって勝利のためにあがくわけでもなく、無為に時を過ごしておられます。あれでは戦場で散っていった兵士達は浮かばれません・・・例えご本人にその気が無くとも、大公殿下の行動は無為に民を戦の戦火に巻き込むものでしかありません」

思いつめたように言葉を連ねる青年は、かつての自分を見ているようだ。光の国の闇を見て、この世のすべてを厭世的に見るようになったかつての自分と。この男はどうだろう。堕落に染まり、そうした疑問を持っていたことすら忘れてしまうのか。目と耳を塞ぎ、世捨て人のように信仰に生きるのか。泥の中を歩み、その手を汚しながらも教会の中を歩むのか。

「正しい、それは正義という事か?」
「そう表現してもよろしいかと。貴族として、領主として、枢機卿猊下は殿下の行動をどのように考えられますか?」
「さて、どう考えるか。判断の基準にもよるが・・・」

銃を担いだ大公軍の若い兵がこちらに向けて見事な敬礼を送っているのが目に入った。若いというより幼いといったほうがいいだろう。あの兵士達や、その横を駆けていく避難民も、間もなくたった一人の男の決断如何によって戦渦に巻き込まれることになる。

「裁かれるのは神の仕事。我らはただ目の前に与えられた責務をこなすだけだ」

友人との最後の会話に思いをはせながら、エルコールは再びルーアンの町並みに視線を向けた。


**

「シガーケースか?」
「それ以外の何に見えるというのだ」

からかう様に言うルイ・フィリップに、エルコールはため息を漏らした。見せたいものがあるというので「形見分けならいらないぞ」と言ったことへの仕返しらしい。彼の兄はヘビースモーカーで有名だったが、目の前の男はタバコ嫌いで知られている。その彼が煙草入れを持っているとは思わないのが普通だろう。

わざわざハンカチをテーブルの上に広げてから置かれたシガーケースは木製の手彫り。相当腕のいい職人が彫ったのだろうことは素人目にもわかる。タバコをすわないこの男がなぜこんなものを持っているのかと首をかしげたエルコールは、その表面に彫られた紋章に気がついた。

「これは・・・」
「そう。私の生家-ガリア王家の紋章だ。あの男が私にこの家を継ぐよう命じた時、ただ一つ持たせてくれたものでな。臣下がいい顔をしないだろうから、いつもこうして持ち歩いている」

楡の木をくりぬいて作ったと思われるそれは、常に持ち歩いているという言葉を証明するかのように、角が取れて丸みを帯びていた。それを除けば、一度も本来の用途として使われたことがないため木の香りがしそうなほどに新しく見える。

「確かにこれは、この城ではおおっぴらに見せれないな」

自らを「ノルマン人」と名乗るほど郷土愛の強いノルマン地方の住民は「王家何するものぞ」という意識が強い。海賊や傭兵を多数輩出したという血気盛んな土地柄でもあり、何度もリュテイスに対して反乱を起こしてきた。『太陽王』の長きに渡る治世を経ても、王家の旗を掲げる代わりにノルマン大公家の紋章である青薔薇の旗を掲げて反骨心を示すほどだ。その大公家の主であるルイ・フィリップが王家の紋章つきの小物を持っていると知られては、確かに都合が悪いだろう。

「王家の誇りを忘れるなと言って、これを投げてよこした。後にも先にも、あの男からもらったものはこれだけだよ」

ルイ・フィリップは、どこか昔を思い出すような目つきで話す。「あの男」と「兄」という表現を無意識に使い分けているのは、兄であり、国王であり、恐るべき絶対権力者であったロペスピエール3世に対する複雑な思いを表しているのだろう。そう受け取ったエルコールの前で、太陽王の弟はシガーケースの紋章を人差し指でなぞる様に撫でた。よく見れば、紋章の部分だけが磨り減っている。王家の出身者として色眼鏡で見られ、臣下に味方もなく、一人考えにふける時にはこうしてシガーケースを触り、精神を落ち着けたのだろうか。

ガリア現王家ヴァロア朝の紋章である交叉する2本の杖。これは『大分裂』の時の双子の王子を弔うためだとされている。最後のフランク国王コンスタンティヌス1世(370-440)には双子の王子がいた。兄のコンスタンティヌス2世と、弟のテオドシウス2世である。二人の父親である王は、この王子を平等に愛し、ともに国を治めるように命じた。すなわち兄コンスタンティヌス2世には東フランク総督に、弟テオドシウス2世には西フランク総督となし、共同統治を行わせた。

コンスタンティヌス1世の死後、フランク王国の貴族たちはどちらか一人を後継者にすることを目指して争い、王国は分裂(450)。二人の王子はそれぞれ東フランク王国(現在の旧東フランク領域)と西フランク王国(在のガリア王国)の建国を宣言。第一次大陸戦争の最中、二人の王子は同じ戦場で合間見え、そして刺し違えた。以降、ガリア王族では双子は忌子となった。その原因となったこの悲劇は、多くの劇局や小説で語られ、ハルケギニアでは知らないものはいないほど有名な物語だ。実際にはそれが旧東フランク領を統一する意欲を現したものであったとしても、交わる二本の杖は、何らかの感慨をハルケギニアの民に与えるものであった。

「しかし実際には二本の杖は交わる事は無いのだ。中々、意味深な事だとは思わないかね」
「自分の意地の為に祖国を危機と混乱の坩堝に陥れ、領民を戦乱に巻き込むことを理解しながら、自分の息子の暴走を止めなかった貴方が言うと真実味があるな」

相変わらず「正直」な男だ。ルイ・フィリップは苦笑いを浮かべながら一度シガーケースに視線を落とした。再び顔を上げると、その顔に浮かべていた微笑は消えていた。

「そうだ。私は卑怯で、臆病で、自分の息子すら抑える事の出来ない無能だ。領民が焼け出され、財産と家族と友人と、そして生命を失うであろう戦を止めなかった」

悔いるでもなく、恥じ入るでもなく、ルイ・フィリップはただ事実を淡々と述べた。その態度は、エルコールの美意識に到底かなうものではなかった。

「初めから勝敗の見えた戦だ。私がこれまでこの地方を治めてきた実績を、私の人生の全てを否定するのと同じ事でありながら、何故ジャンを止めなかったのか・・・私もその理由が解らなかった。止めさせようと思えば、幾らでも出来たはずだ。私が一言「やめさせろ」と言えば、あれを命を賭けて止める人間もいただろう。しかし私は動かなかった」

枢機卿は湧き上がる怒りの感情を何とか理性で押さえつけた。目の前の男の襟首を掴み上げ、怒鳴りつけても事態は好転しないと必死に自分に言い聞かせる。ノルマン地方4万人の命運を握る立場にありながら何もしなかったと、他人事のように自分を論評して見せた事に怒りを覚えながら、その一方で自分の責任に過剰なまでに勤勉だったこの男らしくないとも思いながら、無言で続きを促した。

「危機に直面してその人物の本質が白日の下に晒されるように、こういう立場になったからこそわかることは多くてな。あの男がなぜシャルルを国政から遠ざけたかも、こういう事態になって始めて知った」
「それが今の貴方と何の関係があるというのだ」

老大公はシガーケースの紋章を、人差し指の腹で撫でた。

「私は今の今まで、あの男の弟として生きてきた。その生き方にはある程度は満足していたし、人に恥じる行為はしてこなかった。例えそれが、恐怖から来るものだったとしてもな」

悲劇の双子は、巷間言われているように貴族にそそのかされてなどいない。互いを思いやり、戦を避けていたなど、笑止千万。あれはただの「兄弟喧嘩」だ。ルイ・フィリップは先ほど感じた引っかかりの理由を-シャルル12世と太陽王が似ている事を容易に認めがたかった理由を今唐突に理解した。あの甥を太陽王の再来と認める事は、怯えながら兄の影として生き続けた人生を、また繰り返す事に他ならない。そのような事は、最早到底容認出来ない。

「人生の最後ぐらい、私は行きたいように生きる。太陽王の弟でも、ガリアの王族でも、ノルマン大公でもない。ただの『ルイ・フィリップ』として生きたいのだ」
「・・・それが領民や家臣を戦火の炎で焼き尽くす事になるとわかっていてもか。これまで貴様が人生の全てをかけて治めてきたノルマン地方を戦渦に巻き込もうとも、貴方は自分のわがままを貫き通すというのか」

怒りと失望で顔を震わせながら、今にも杖を抜かんばかりの枢機卿に対して、ルイ・フィリップは何がおかしいのか、口に手を当てて笑いながら言った。

「兄上はガリアを使って、ハルケギニア全土で生きたい様に生きた。その兄に比べれば、私の『わがまま』など対した事ではあるまい?」

エルコール・コンサルヴィは絶句した。目の前にいるのは十数年来の付き合いで、互いにそれぞれの趣味趣向を知り尽くし、好きなワインの銘柄や曲を語り合う友のはずだ。だが、今は彼の言う言葉が何一つ理解できない。目の前に鎮座しているのは『ノルマンディー大公ルイ・フィリップ7世』の皮をかぶった、別の何かだ。それとも、これがこの男の本質なのか。今まで自分は、この男の何を見てきたのだ?

凝視する事が出来ずに、自身の膝に視線を落とす。怒りを静めるために握り締めた両の拳が震えていた。怒りではない。恐怖からだ。なんとか言葉を発しようとするが、喉が渇いたようにかすれて声が出ない。椅子に座り込んでいると、急にルイ・フィリップが立ち上がった。


「エルコール。君の誠意は嬉しく思う。この事態になっても、聖職者ではなく一人の友人として行動してくれた君と出会えた事が、私の人生の中でもっとも幸せな事だったと思う」

その乾いた声の調子は、何かを決意した者だけが発する事の出来るのもので、エルコールは慌てて顔を上げ、そして自分が友人に感じた失望を少しだけ修正した。ルイ・フィリップはいつもの彼と同じどこか疲れた、それでいて充実した顔をしていた。それは、ここ2年余りは見る事のなかった表情だ。『太陽王』の暴走とわがままに呆れながらも、それの尻拭いに走り回る時の顔だ。

(・・・何が一人の「ルイ・フィリップ」として生きてみたいだ)

甥を兄と重ね合わせ、一世一代の兄弟喧嘩をしたいだけではないのか。市中の匹夫の雄ではあるまいし、領民や兵士には申し訳ないとは思わないのか。貴様はそれでも始祖の血を引く、誇り高き青髪をもつガリアの王族か。恥じるところが無いのか。頭の中で玉のように罵倒の言葉が連なったが、その一つとしてエルコールの口を付いて出る事は無かった。

不快な表情を隠そうともせずに見せ付けるエルコールに、ルイ・フィリップは宮廷貴族達に向ける口だけで作った笑みではなく、友人への感謝を表す純粋な笑みを浮かべながら、別れの言葉を言った。


「君の友情は決して忘れないよ。ありがとう」


伸ばされた手を、エルコールはとっさに握り返す。そして直に気が付いた。

(震えてやがる)

ルイ・フィリップの手の振るえに気が付いたエルコールはそれまでの厳しい表情が嘘のように笑った。領民や兵士の損害など、兄に比べれば少ないものだと嘯きながらも、この男はその僅かな犠牲と戦禍に怯えている。口とは正反対のその小心さ。エルコールはほんの少しだけだが救われたような気分になった。やはりこの男は、自分の知るルイ・フィリップだ。小心で臆病で繊細で、兄に怯えながらも嫌いになりきれないお人よしの、ルイ・フィリップだ。

エルコールの笑いに、恥ずかしそうに頬を染めた後、ルイ・フィリップは馬鹿な叔父のわがままに付き合わせることになる甥への伝言を、この友人に頼んだ。


「ご苦労だったエルコール・コンサルヴィ枢機卿。陛下に伝えてくれ。『咎はこの身にあり。領民には格別のご配慮があらん事を』と」


***

友の最後の言葉を思い出しながら、エルコール・コンサルヴィ枢機卿は、マザリーニに向き合った。おそらくこの男は、教会の中で自分と同じように泥にまみれながらも、その中で一粒の真実を-『正義』を探し出そうとするだろう。見つからなくてもいい。見つけ出そうとするその姿勢こそ、聖職者にとって必要なのだ。

「これは、あの男なりの甥への就任祝いだ」

不謹慎とも受け取れる言葉に顔を顰めるマザリーニ。その若さをうらやましく思いながら、エルコールは言う。

「ルイ・フィリップが後を継いで、多少はノルマン地方の王家への姿勢は和らいだが、それでも『ノルマン人』の中央への反発と独立の幻想は根強い。今はいいが、あと2代か3代もすれば、また元に戻ってしまうだろう。反乱しては降伏し、反乱しては降伏しの繰り返しだ」
「・・・それは!いや、しかしそのような!」

マザリーニはエルコールの言わんとするところを察したのか声を張り上げた。すぐさま自分の非礼に気がつき詫びたマザリーニに「いいかね」と確認してから続ける。

「幻想など起せないほど、徹底的に叩き潰す機会が必要なのだ。徹底的に負けた経験が無いから『勝てるのではないか?』という幻想で何度も反乱を起こす」
「・・・大公殿下はそこまで考えた上で?」

エルコールは手を振った。

「最初から自分の命を張って国のために尽くすほど、あの男は国家への忠誠心はないさ。ただ、どうせ捨てる命なら、有効活用しようということだろう」

ケチな男だからなと笑おうとしたエルコールだが、すぐに険しい表情に戻る。あの男にそうさせたのは、結局はロマリアの一枢機卿がしでかした火遊びのため。最終的に決起に賛成したとはいえ、息子によってガリアと自身の治めるノルマン地方の領民を戦渦に巻き込んだ事への責任は人一倍感じているに違いない。

(あの男に、人身御供として自分を差し出す決意をさせたのはこの私にも関係のあることだ)

悪人になり切ろうとしてなり切れない、あの気のおけない友人を。それを思えば、どうして笑う事が出来よう。ろくな死に方はしないだろうと覚悟はしているが、今は自分に与えられた役目を果たすだけだ。あの男も、自分の役割を果たそうとしているのだ。それが、自分があの男の友人として出来る最後の事である。

「神よ」

気付かぬうちに呟いた枢機卿の言葉に、ただの神学生でしかないマザリーニは静かに頷くほか無かった。


***

枢機卿が退出した後も、ルイ・フィリップは応接室にひとり腰掛けていた。その手には、あの古ぼけたシガーケースが握られている。

(せめて、煙草ぐらい入れてくれればいいものを)

存外にケチであった兄を思い出して一人笑っていると、ユーグ・ド・リオンヌ侍従がハーブ茶の入ったカップを差し出した。皺と節だらけのその手と、白い磁器のカップが対照的である。

「ユーグ、貴様私に使えて何年になる?」
「さて・・・かれこれ50年にはなるでしょうか」

ノルマン大公家に代々仕えるユーグの家は、今回の反乱でも一族郎党の誰一人欠けずにルーアンに留まっている。自分がこの家を継いでから、この無口な侍従はただ静かに仕え続けてくれた。ただ黙って側に使えてくれる彼の存在が、0から信用を築かねばならなかった自分をどれほど助けてくれた事か。

独特の癖と匂いの強いハーブ茶は、好き嫌いがわかれる飲み物だ。ルイ・フィリップはこの飲み物が好きではなかったが、ノルマン人が好んで飲むお茶を自分が飲まないわけには行かないため、常習的に飲むよう心がけた。その成果もあってか、この匂いにも慣れ、いつしか本当に好物となった。

(気付かぬうちに、私もこの土地に染まっていたのだな)

反乱を抑えるために送り込まれた自分が、その首謀者になるなど。笑い話としては悪くない。とりとめもない事を考えながらもう一度カップを口に運んでいると、ルイ・フィリップはふと自分と同じようにこれが好きだという王太子のことを思い出した。

『太陽王』ロペスピエール3世が、目の前で毒殺された自分の兄の名前を付けた王子。ジョセフ・ド・ヴァロワ王太子。兄上は産まれたばかりのジョセフ王子の顔を見て、すぐさまシャルル陛下にこの名前を付けるように命令した。あの男には、あの甥が自分の兄の生まれ変わりに見えたのだろうか。弟のシャルル王子と仲良く遊ぶ姿を、兄が眼を細めて見ていたのが印象的だった。二人の弟を殺し、自分だけを生かしたあの男は、一体その後継に何を感じたのか
「あの二人には・・・」

シガーケースの表面に彫られた紋章を撫でる。叶う事なら、あの二人には交わるのではなく、支えあう存在になって欲しい。自分のように絶対君主として恐れるのではなく、真に心から支えあう存在に。自分がそれを願うのは、傲慢というものだろうか。

「お代わりはいかがなさいます?」
「いただこう」

慣れた手つきでカップに注ぐユーグ。ふと、この老侍従に疑問をぶつけてみたい欲求に駆られた。

「逃げたければ逃げていいのだぞ」

その言葉に、一瞬だが手を止めるユーグ。多くの予想に反し、第2次カーン攻防戦で大公側の敗北が確実となっても、大公が降伏する事は無かった。目端の利く者はこのルーアンから逃げ出す準備を始めているが、ルイ・フィリップはそれを止めるつもりはない。生き抜くことこそが人に課せられた使命と信じるならば、それを全うすることは何も悪くない。ましてやこの老体のわがままにつきあう義理などはない。

(偽善だな)

一度は自身のわがままを押し通す決意をしながら、いざとなれば巻き込む事に怖気づくとは。身の回りの親しいものだけを逃がしたところで、すでにこの戦で失われた生命や財産は戻ってこない。偽善どころか、ただの自己満足ですらない。薄汚い自己弁護だ。

ユーグはそのささくれた手でハーブ茶をカップに注ぎ終えると、それを主人の前の机に置いた。付しがちな視線を主の手の中にあるシガーケースに向けながら、この老侍従は静かに口を開いた。

「私は殿下に50数年以上の長きにわたりお仕えしてきました」

自らの生涯を振り返るように、ユーグはゆっくりと語る。思えばこの老侍従と雑談を交わした事は殆ど無い。主ではあったが、それ以上でも以下でもなかった。

「おそらくこの戦いで、我らがノルマン人の独自性は完全に否定され、ガリアの一地方として扱われる事になるのでしょう。ならば、我らは『ノルマン人』として生き『ノルマン人』として死にたいのです」
「『ノルマン人』として生き『ノルマン人』として死ぬ、か」

誇り高きノルマン人。反骨心は火龍山脈より高く、郷土愛は浮遊大陸より高い。何物にも屈せず、何者も恐れず、何者にも怯まず。怖いものは母ちゃんのフライパンだけという、どこか憎めないこのノルマン人気質。ルイ・フィリップはそれが嫌いではなかった。

「ですから殿下。お気になさらないでください」

不意を突かれた。全く予想だにしない侍従の言葉に、ルイ・フィリップは顔を勢い良く上げた。面食らったような表情のまま、自分を見つめる主人に向かって、いつもと変わらぬ感情を表さない表情でユーグが言う。

「私は殿下をお側で見続けてきました。殿下がいかに前国王陛下を恐れながら、兄としての親愛の情の間で迷われた事、シャルル陛下への複雑なお気持ち、一人の個人として振舞いたい感情など、側にいればお見通しですよ」
「な、なな・・・」

目を白黒させて絶句するルイ・フィリップ。何だこいつ、こんなに茶目っ気のある言い方が出来る男だったのか。いや、そもそも必死に感情を隠していたつもりの私の苦労は何だったのだ等々、様々な感情が勢い良く頭を駆け巡り、思考が全くまとまらない。

そんな主の姿をどこか楽しそうに見つめながら、ユーグは続けた。

「まぁ、よろしいのではないですか?殿下はこれまで我らが『ノルマン人』にいじましいまでに気を使われてきました。前国王陛下に遠慮し、領民に配慮して50年。最後ぐらいは好きに振舞われても罰は当たりますまい。我らも好きに振舞いますゆえ」
「・・・貴様らは」

がっくりと肩を落とすルイ・フィリップ。この老侍従がこういう性格だったのかという驚きよりも、自分の全てが傍目から見ればお見通しだったというほうの衝撃が大きかった。まるで幼少期の日記を読まれたような恥ずかしさだ。頭を抱えてベットに逃げ込みたい。

「それに殿下は、われわれ『ノルマン人』を対等に向き合ってくれました」

先ほどまでとは違い重々しく言う老侍従に、ルイ・フィリップは気恥ずかしさをとりあえず捨て、視線を合わせた。

「これまでの「出向者」は王家の威光を嵩に来て我らを見下すのが常でした。ですが殿下は『ノルマン人』になろうと務められました。我らから見れば多少物足りないものはありましたが、それでも我らと同じ目線で、我らと同じ言葉で、我らと同じ会話を交わしてくださいました」

ルイ・フィリップ以前も、ガリア王家は独自性の強いノルマンディー大公への支配を強めようと度々養子を送り込んだ。しかしノルマン人は彼らを「出向者」と呼んで反発し、対立構造は解消されなかった。ルイ・フィリップはリュテイス流を押し付けず、地元の文化や風習を尊重しながら、制度面を中央に合わせるという穏やかな統一化政策を行った。『太陽王』の強硬な言語統一政策など、一昔前では間違いなくノルマン人は反乱を起していただろうが、大公の治世下では一件の反乱も暴動も起らなかった。

「当たり前のことをしただけだ。大体貴様らは新教徒でもないのに、貧乏の癖にやたらにプライドが高いときている。扱いにくい事にかけては、リュテイスの宮廷貴族といい勝負だな」

ノルマン人が最も怒るはずの悪口を軽く聞き流すユーグ。その顔には笑みすら浮かんでいる。この男、こんな笑顔も見せるのか。もっと早く話しておけば・・・いや、それは言うまい。

「殿下でなければ、我らは当の昔に貴方の首をリュテイスに差し出して降伏していましたよ」
「そうか、首を・・・って、おい」

いい終えてから、何がおかしいのかルイ・フィリップは高い声で笑った。思えばこんなに笑ったのは前国王陛下の崩御以来あっただろうか。ユーグもつられた様に笑い出した。


ひとしきり笑いが収まると、ユーグは侍従の顔に戻り報告する。

「殿下、将軍達が二の塔広間に集まっておられます」
「そうか・・・何人残った?」

誇るでもなく、ごく当たり前のことを言う調子で老侍従は答えた。


「全員です」


その言葉に彼はあきれたような表情を浮かべた。全く、どいつもこいつも馬鹿ばかりだ。それだけでは何の価値も生み出すことのない「ノルマン人の誇り」のためだけに戦おうとする彼らは、間違いなく馬鹿だ。自分が失脚するかもしれないのに説得に来た枢機卿も馬鹿だし、この期に及んで自分と心中しようとしているルーアン市民も馬鹿だ。


そして何より、老侍従の報告に笑みを浮かべた自分が、一番の大馬鹿だ。


ひとつ大きなため息をつくと、ノルマンディー大公ルイ・フィリップ7世は力強く歩き出した。




「さぁ、答えを聞きに行こうか」




答えがわからなければ聞きに行けばいい。



待っていろ、兄貴







***

ブリミル暦6213年ウィンの月(12月)ヘイムダルの週(第2週)虚無の曜日。ルーアンから1リーグばかり離れた平原で、ノルマン大公ルイ・フィリップ7世率いる反乱軍3千と、ベル=イル公爵率いるガリア軍4万が激突した(ルーアン会戦)。10倍以上のガリア軍に対し、大公軍は一歩も引かず、ガリア軍に戦死者1500名、負傷者3000名という大損害を与えて『全滅』した。この戦いでの死を恐れない勇猛果敢なノルマン人の戦いぶりは、伝説としてガリア陸軍史に残される事になる。

会戦後、ルーアンはエルコール・コンサルヴィ枢機卿の尽力により無血開城。これにより多くの避難民と市民の命が救われた。内乱終結後、中央政府はノルマン地方を直轄領に組み込み郡県制を敷く。敗れたノルマン人は異議を唱えることなくこれに従う。また「最後のノルマン大公の乱」の後、この地方で反乱が発生する事は無かった。


数十年後、ジュール・マンシーニ=マザリーニ枢機卿は再びルーアンに足を踏み入れ、最後のノルマンディー大公ルイ・フィリップ7世に対して、ノルマン人が畏敬と尊敬の念をこめた呼び名を知る事になる。



すなわちそれは




『ノルマンの王』






[17077] 第43話「ヴィンドボナ交響曲 前編」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:71b89978
Date: 2010/08/06 18:58
戦時こそ平時だという言葉がある。争いこそ人間の本質であり、平和とは戦争と戦争の間に訪れるつかの間の休息に過ぎないという考え方だ。そのような抽象論はともかくとして、ブリミル暦6214年はつかの間の平和を楽しむことが約束された年であった。要因を挙げるとすれば、やはり昨年のラグドリアン講和会議である。ラグドリアン講和条約の調印によりトリステイン王国とガリア王国の戦争状態は正式に終わりを告げ、ハルケギニアの国際情勢はほぼ戦争以前のものへと回帰した。

太陽王崩御以来、政局の不安定化がささやかれていた大国ガリアの混乱は、シャルル12世がノルマン大公の反乱を早期に鎮圧したことにより収まりを見せる。「北東海戦争」とも揶揄された大陸北方のボンメルン大公国とザクセン王国の領土紛争も、ベーメン王国とアルビオン王国の仲裁により暫定的ではあるが3年間の停戦で両国が合意。ウルの月(5月)にはベーメンの老女王エリザベート8世即位25周年を祝う盛大な園遊会が予定されており、年明け早々、ラグドリアン戦争の余波で婚約が延期されていたサヴォイア王国皇太子ウンベルトとアルビオンのメアリー王女の結婚が正式に発表されるなど、めでたい話題が続いた。国際情勢の落ち着きに伴い、経済活動も活発化。ゲルマニア王国が主導して成立した『ヴィンドボナ通商関税同盟』に参加した旧東フランク諸国の経済成長は目覚しく、始祖の降臨祭にあわせたアルビオンのサウスゴータやロマリア市への観光客も前年度を上回る人出が予想された。

表向きの平和を楽しみながら、各国は確実に次の戦乱に備えた準備を進めていた。賢者は平時に戦争に備える。左手では握手を交わしながら、右の手では杖の手入れを欠かさない。飛び交う虚実入り混じった情報の中から何が真実なのか、各国の政府当局者は無論のこと、影響を受けざるをえない大商会や金融資本もその見極めに血道を上げていた。


そして彼らの耳目を最も集めたのが、双頭の鷲と赤いマンティコアの動きであった。


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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(ヴィンドボナ交響曲 前編)

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百戦錬磨の商人の様な老成さと、暇を持て余した学生の様な活力にあふれた都市-それが新興ゲルマニア王国の王都ヴィンドボナだ。ブリミル暦3500年代初頭、東方進出を狙うトリステイン王国が、旧ザルツブルグ公国領支配の拠点として建設した要塞都市をその起源とする。町全体を囲んでいた城壁は現在は取り壊され、通商関税同盟による経済の好調と歩調を合わせながら、町は今も尚広がり続けている。

降臨祭の商業化が批判されて久しいが、皮肉なことに新教徒の中でも特に厳格な事で知られるパプテスト教会の影響力が強いヴィンドボナでは、降臨祭の期間中は仕事を休み、教会でのミサ以外は家で家族と慎ましやかに過ごす習慣が生きていた。降臨祭を終えたヴィンドボナは、仕事始めで張り切る職人や商人が忙しく走り回り、再開された市場には旅を再開する行商人や市民達が新鮮な生鮮食料品を求めて集まるなど大変な賑わいを見せている。


そんな賑わいの中、市民の注目を集めながらヘッセン大通りを旧総督府に向けて進む一行があった。独特の気配と雰囲気をかもし出すこの一団は、その全てがゲルマン人独特の燃えるような赤髪であり、騎乗したまま通りの中央を悠然と進む騎士や付き従う兵達は皆が見上げるような体格をしている。如何にも戦慣れした雰囲気を素人目にも臭わせるその一行は、それでいながら妙にだらしがない。兵士達の歩く速度はばらばらで、杖や銃などの持ち方も実に乱雑だ。どこかの傭兵かと首をかしげる市民達は、一行が掲げた紋章を見て驚き、歓声と疑問の声を上げた。

フォン・ツェルプストー侯爵家。赤きマンティコアを紋章に掲げる、勇猛果敢なゲルマン貴族。東フランク王国崩壊の原因となったゲルマン人の血を引くことをはばかる風習がいまだに残る旧東フランク領において、それをむしろ誇りとする尚武の家はザルツブルグのみならず、トリステインやガリアにもその名が轟く。行進のなりがどうであれ、その赤いマンティコアを見て彼らを侮るものは、少なくともハルケギニアには存在しない。


「まるで見世物だな。わしらは珍獣か何かか」

ヴィンドボナ市民達の遠慮のない歓声や視線に晒される一行の中央で、ツェルプストー侯爵家当主のオットー・フランツ・フォン・アンハルツ・ツェルプストーは、息子のフレデリックに馬を寄せながら語りかけた。引き締まった肉体に鮮やかな赤髪は56というその年齢を感じさせず、26歳のフレデリックと並んでもいささかの見劣りもしない。そのフレデリックは父の言葉に言わんこっちゃ無いという表情を浮かべた。

「ですから車にしようとあれだけ申し上げたではありませんか。総督家からの迎えを断るからこういうことになるのです。せっかくあちらから申し出て頂いたものを・・・大体このご時世、戦時下でもないのに市中を馬で練り歩くなど、騎兵将校でもしませんよ」
「何を言うか!貴族たるものいつでも常在戦場の気持ちでなくてどうする。馬車などに乗って無様な死に様を晒せば、ヴァリエールの木偶の坊共に末代まで笑われるわ!」

ツェルプストー侯爵の声量は、離れたところで商談をしていた商人が思わず振り返るほどの大声であった。戦場で攻撃魔法や鉄砲に負けないだけの声を張り上げているため、自然と地声も大きくなるのだ。髪と同じ赤色の見事なカイゼル髭をねじりながら貴族の気概を説く父に、息子は冷たい視線を向ける。

「ならば恥ずかしいなどと言わないでください」
「男が細かい事を気にするな。そんな性格だからお前は未だに嫁が来ないのだ」

誰の為だと思っているのだと、馬の手綱を握り締めるフレデリック。「ロマリア人に生まれたかった」というのが口癖のツェルプストー侯爵の女好きは有名で、隙あらば女中の尻を触り、暇があればミスだろうがミセスだろうが関係なく貴婦人を口説く。それの息子とあっては、近隣諸侯どころか一門ですら敬遠するのは無理もない話だ。昨年、あるパーティーに出席した際、フレデリックは女性陣に妙に視線を外された。おかしいと思い友人の子爵に尋ねると、彼はいたって気の毒そうな顔をしながら「ツェルプストーの目を見たら妊娠する」という噂を教えてくれた。この時ばかりは家を出る事を真剣に考えたものだ。色恋沙汰が(ロマリア人ほどではないとはいえ)三度の飯よりも好きな旧東フランク貴族に、そうまで言わしめる自分の父とは一体何なのか。

視線を戻せば、父は自分の言ったことなど忘れたかのように歓声を上げる市民にむかって手を挙げて答えている。50を越せば老人と呼ばれてもおかしくないハルケギニアで、この親父は隠居の「い」の字も見せる気配がない。おかげでこちらはもうすぐ30だというのに、嫁は来ないわ、小遣い制だわ・・・隣接する宿敵ヴァリエール公爵家の現当主が自分とそう変わらない年齢にもかかわらず『英雄王』の側近として活躍しているのを聞くにつけ「いい加減に隠居しやがれ、このクソ爺!」という思いが募る。

「フレデリックよ、ほら手を振らんか。貴様にはサービス精神というものがないのか」
「父上はありすぎるような気がしますが」
「この馬鹿たれ!」

公衆の面前でいい歳をした大人が大人を怒っているのだから、嫌でも耳目を集める。頼むから声量だけでも落としてくれないかとフレデリックが額に手を当てて頭を抱えていると、ツェルプストー侯爵は本当に隣にいるフレデリックに聞こえるだけの声量に落として話しかけてきた。もっとも、その内容は先ほどまでと同じ自分への小言だったのだが。

「わざわざヴィンドボナの片田舎まで出張ってきたのだ。買い叩かれては元が取れん。自分を高く売り込む努力を怠るではないわ」

だからさっきまでは恥ずかしいだの、見せものではないのだのと文句を垂れていたのは貴方だろうと苦々しげに父親をにらみ返したが、この脊髄反射で生きているような父の変わり身の早さは今に始まったことではないと早々にあきらめる。それにこうした状況判断では不思議と父の判断には狂いはない。粗暴で鼻っ柱が強く、どうしようもない好色な性格ではあるが、その点に関してはフレデリックは父をほとんど無条件に信頼していた。

(・・・これでは独り立ちなどできるわけがないか)

因縁浅からぬヴァリエール公爵家の現当主は、若い頃に家を飛び出し、自分の力だけでトリステインの精鋭が集まる魔法衛士隊隊長にまで上り詰めた。それに引き換え、自分はいまだに何一つこれという判断を自分の責任において下したことがない。向こうは3男、こちらは嫡子という育ちや環境の違いがあるとはいえ、それだけが原因ではないだろう。結局、この出しゃばりの父親が健在なのをいいことに、責任のない立場に甘んずることを選んでいるのは、他ならぬ自分である。

「だから辛気臭い顔をするなというておろうが!そんな事だからお前は女にもてないのだと・・・」

旧総督府-ゲルマニア王宮ホーエンツォレルン城につくまでの間、ツェルプストー侯爵の「女の口説き方101のテクニック講釈」が、自身の体験談を交えつつ続いた。


***

東フランク崩壊(2998年)後、諸侯や自治都市が乱立した旧東フランク領の中でも、ツェルプストー領やこのヴィンドボナ市を含むザルツブルグ地域(トリステインでは東方領と呼称)はその傾向が顕著である。

ザルツブルグはその名の通り、東フランク崩壊後はザルツブルグ公国が治めていた。ザルツブルグ地方は西にガリア、北西にトリステイン、北にハノーヴァー、南にはヴュルテンベルク王国という強国に挟まれていたこともあり、公国の力が衰えると各国の草刈り場と化した。この状況に対応するため、ザルツブルグ公国はブリミル暦3212年、北のハノーヴァー王国と同君連合を組む。事実上ハノーヴァーがひさしを借りて母屋を乗っ取ったのであるが、ところがそのハノーヴァーの国勢も直に衰える。代わってブリミル暦3500年代、ザルツブルグに進出を果たしたのが北西のトリステイン王国。ヴィンドボナが建設されたのもこの時代だ。ところが水の国の支配も700年ほどで終わりを告げ、再びこの地方は諸侯と都市の乱立する戦国時代を迎えた。

このようにザルツブルグ地方は猫の目のように支配者が入れ替わった。ヴィンドボナだけを見ても[東フランク王国⇒ザルツブルグ公国⇒ハノーヴァー王国⇒トリステイン王国⇒独立市⇒総督政府⇒ゲルマニア王国]という具合だ。勝利の女神の気ままさと、権力の移り変わりの早さを知るヴィンドボナ市民は、いつ倒れるかわからない政府に依存するなどという考えは毛頭なく、最終的には頼れるのは自分だけという、良い意味での個人主義を確立させた。


閑話休題


水の国の支配を終え、東ザルツブルグで台頭したのはホーエンツオレルン総督家-現在のゲルマニア王家である。旧東フランクの没落貴族で金融業を営んでいたこの家は、ヴィンドボナ建設でトリステインに協力する事により市政の実力者としての地位を固める。トリステインもザルツブルグ支配維持のためには、このヴィンドボナ市の有力者の力に頼らざるを得ず、ホーエンツオレルン家もそれ見越して水の国の機嫌を伺いながらその権勢をバックに着実に足場を固めた。フィリップ3世の父アンリ6世(6140-6180)の時代には「ヴィンドボナおよび周辺6都市の総督」に任じられ、そして2年前のラグドリアン戦争直後、ロマリア宗教庁への献金と引き換えに「ゲルマニア国王」の称号を得て正式に独立を果たした。

その一方、西ザルツブルグはトリステインに隣接する事からその影響力が残り、トリステインを後ろ盾に侯国や辺境伯として独自勢力がいくつか点在していた。その中でも最大勢力がツェルプストー侯国である。元はザルツブルグ公国の辺境伯だったこの家は、いち早くトリステインと結ぶ事によって公国没落後の西ザルツブルグで頭一つ抜けた存在となる事に成功する。

ところがトリステインが「征服王」フィリップ1世(3480-3521)の元で本格的にザルツブルグに進出すると、両者の関係は急速に悪化した。話は単純で、領土を自国の貴族に分け与えたい水の国と、領土を拡張したいツェルプストー辺境伯との利害が対立したのだ。トリステインはツェルプストー家に侯爵の称号を与えるなどして懐柔しようとしたが、当然ながら根本的な解決には至らなかった。中でもラ・ヴァリエール公爵家とツェルプストー侯爵との対立が水の国と赤いマンティコアとの関係を決定的なものとした。征服王の庶子を祖とし、トリステイン南西部ブロワ地方を与えられた事に始まる公爵家は、元々ツェルプストー侯爵家と領地境を接していた事もあり関係が悪かった。それがザルツブルグ領全体の取り扱いや、両家の領土紛争におけるトリスタニアのヴァリエール公爵家有利の裁定に、ツェルプストー侯爵家の心は急速に水の国から離れた。結果、案内役を失ったトリステインは急速にザルツブルグの支配権を失うことになる。

これ以降、ツェルプストー侯爵家は隣接するヴァリエール公爵家との領土紛争を続けながら、水の国全体を敵に回さないように心がけ、時にはガリアやヴェルデンベルグ王国に緩衝地帯としての自らの価値を売り込み、独自に勢力を維持する事に成功した。

そのツェルプストー侯爵家とゲルマニア王国-ホーエンツオレルン総督家との関係は、控えめに見ても良好とはいいがたい。ツェルプストー侯爵家は東ザルツブルグで勢力を伸ばす総督家とむやみに事を構える事は好まなかったが、総督家の勢力が西ザルツブルグにも及ぶとそうも言ってはいられなくなる。両家は幾度か杖を交わしていたが、かといって決定的に対立することもなく、それぞれがわが道を行くという姿勢を崩さなかった。


そのフォン・ツェルプストー侯爵家の当主と跡継ぎがゲルマニア王国王都に現れたとあって、着任したばかりのアルビオン王国在ゲルマニア特命全権大使のロンドンデリー侯爵ロバート・ステュワートは情報収集に駆け回っていた。

「それで、何がどうなっているのだ。まさか本当にリスト伯の誕生会に出席するためだけにアンハルツの片田舎から出張ってきたわけではないのだろう」
「とりあえずは山のような『土産の品』は持ってきたことは間違いないようです。ただ、その土産の内容までは」
「それでは答えになっておらんではないか!」

いらだたしげに机を拳でたたくロンドンデリー侯爵。もともとあまり気の長いほうではない大使は、要領を得ない大使館職員の答えに苛立ちを隠せない。ホーエンツオレルン総督家の時代、各国はヴィンドボナに「トリステイン王国ヴィンドボナ領事館」の名目で事実上の大使館を置いていた。一昨年のゲルマニア王国独立に伴い、各国は領事館を大使館に昇格させたが、不承認政策を掲げるトリステインとの関係に配慮したアルビオンだけが領事館を閉鎖。昨年末、アルビオンはようやくゲルマニアを承認して相互に大使を交換したが、2年のブランクはやはり大きく、対ゲルマニアの情報収集に関しては各国の後塵を拝している。

「だからトリステインなどに構わずさっさと国交を結んでおくべきだったのだ。セヴァーン(外務次官)め。リュテイスの顔色ばかりうががっているから、大局的な判断が出来んのだ」
「閣下、それは上層部批判と受け取られる恐れが・・・」
「批判しているのだ!」

ロンドンデリー侯爵は怒りを爆発させた。自身の出世レースが掛かっているだけに、その剣幕はすざましい。在任20年のパーマストン外務卿は今年69歳を迎える。次期外相ポスト、そして外務次官レースに絡んで、ロンドンデリー侯爵はトリステイン大使のチャールズ・タウンゼント伯爵と激しいデッドヒートを繰り広げていた。同盟国の大使として着実に実績を上げているタウンゼント伯爵に比べ自分はどうであるかと言う事を考えると、侯爵は暗澹足る思いと焦燥感に掻きたれられる。

「誰でもいい、何かないのか、何か!」

大使館職員や秘書官達は、タウンゼント伯爵に対する侯爵のむき出しの対抗心に辟易しながら、ひたすら雷が飛んでこないように頭を下げるばかりだ。無理もない。ここにいるのは情報分析を専門とするものばかりで、その情報がないのにロンドンデリー大使の望むような答えを返すことが出来るはずがない。

そんな中、末席で一人だけ自分の視線をそらすことなく逆に見つめ返してくる存在があることにロンドンデリー侯爵はすでに気がついていた。如何にこの事態を理解するための情報がほしいとはいえ、自分と祖国の無為無策ぶりをわざわざ自分で確かめるために、平民の、しかも商人にものを尋ねるなど、面白いはずがない。しかしここで自分の見栄や外聞にこだわり、出世レースを棒に振るようなことだけは断じて受け入れがたい。

「そこの貴様、何か言いたいことがあるなら言え」

その言葉に、つぶれたヒキガエルのような顔をしたシュバルト商会のアルビオン支配人は、その横に大きい体を器用にすくめながら「私如きの言葉で閣下のお耳を汚すことになっては」と一応は謙遜して見せた。しかし控えめな言葉とは裏腹に、その風貌はまったくもってふてぶてしい。これでもう少し小奇麗であればロンドンデリー侯爵の自尊心もいくらかは救われたのだが、その男は控えめに見えても「ハンサムなオーク鬼」でしかない。

デヴィト・アルベルダ。シュバルト商会代表アルベルト・シュバルトの右腕にして、アルビオン国内のシュバルト商会関連の銀行や商会を一手に引き受ける総支配人である。シュバルト商会のみならず、ハルケギニアで浮遊大陸に支店を持つものはある程度の独立採算制を許していた。いちいち本国の本店に照会していては、商機を逃すおそれがあるからだ。大使館職員たちの不審や疑惑の視線にも、デヴィトはその、お世辞にも優れているとはいえない顔で滑稽な愛想笑いを返していた。自分の風貌までも計算に入れてやっているのであれば、相当のタマであるし、実際にそうなのだろう。そうでなければ、アルビオンの総支配人など務まるものではない。

ロンドンデリー大使はその笑みにますます苛立ちを募らせながらデヴィトにたずねた。その口調はたずねるというよりは詰問調であったが。

「貴族のわしが平民である貴様に尋ねているのだ。さっさと答えないというのであればここからたたき出すぞ」
「それは弱りましたね。閣下に嫌われましては私どもも商いが難くなります」

ニコニコと相変わらず笑みを浮かべるデヴィト。商人が頭を下げるのは、その足元に銭が落ちていないか確かめるため。お客を選ぶ商売人は三流以下であるという主の教えに忠実な彼が、大使とその後ろに控える白の国という上玉の機嫌を損なうような行為をするはずがなかった。もったいぶらずにさっさと言えと無言で手を振るロンドンデリー侯爵に、デヴィトがようやく情報という品物を並べ始めた。

「私どもはハノーヴァー王国のブレーメンに本店を置いていることもありまして、旧東フランク諸国の商いに関する情報に関しましては、貴族様よりは多少持ち合わせております。フォン・ツェルプストー侯爵はザルツブルグ公国崩壊から製鉄業を保護していました。ダルムシュタットやマインツを押さえるゲルマニア王国に比べますとその規模は劣りますが、鉄の加工業-鎧や馬具、そして刀剣といった製品の質に関しては見るべきものがあります」

実際の武具としての質はツェルプストー侯爵の物は他国とそう変わるものではない。しかし侯爵家は自家の武名を領内で生産される武具に結び付けることに成功していた。あの赤いマンティコアが使う武具ならばと、旧東フランク領内でのツェルプストー侯国製の武具は評価が高い。

「とこが昨年、ゲルマニアが主導して締結されました『ヴィンドボナ通商関税同盟』の締結によってツェルプストー侯爵は市場シェアを失いつつあります。関税同盟によって加盟国内では関税の引き下げおよび撤廃が行われましたが、逆に同盟外の国家とは一部の関税が引き上げられました。元の質が極端に違わないのであれば、人はより安い方に流れるもの。それは貴族も平民も代わりません」
「平民の貴様が貴族の意見を代弁するか」
「これは失礼いたしました」

なるほど、ヘンリー殿下がご執心なさるわけだ。ロンドンデリー侯爵は目の前のヒキガエル男の評価を引き上げた。変わり者の王弟と、大陸一の大商会であるシュバルト商会の関係は、憶測交じりではあるが、ロンディニウムでは広く語られている。ガリアの毛織物ギルドを解体に追い込みつつある例の水力紡績機に関して、王弟の周辺とシュバルト商会で何らかの取引があったというのは、噂の範疇を出ないが、ヘンリー王子が何度かシュバルト商会のロンディニウム総支店を訪れていることは事実であり、それがますます憶測を呼んだ。

ロンドンデリー侯爵はヴィンドボナ赴任直前にヘンリーと面会し「困ったことがあればシュバルト商会を頼れ。ただしくれぐれも内密にな」という忠告を受けていた。侯爵はここで始めてシュバルト商会と王弟の間になんらかの関係があることを確認した。たとえそれが王子の政治的はったりであれ、王子の一方的な思い込みであれ、両者の間に何らかのつながりがあるのは事実のよう。ゲルマニアへの毛織物市場開拓に訪れたデヴィトは「ご挨拶」の名目で大使館を訪れたのを幸い引き止めていたのはほかならぬ侯爵である。

(まさかな)

デヴィトがここに訪れたことも、ヘンリーが手をまわしていたのではないかと考えた侯爵はその考えを否定した。水力紡績機工場が集中しているアルビオン王国の大使に、出張したアルビオン総支配人が挨拶におとずれる事はなんら不思議ではない。出来すぎているからこそ、それはあり得ないだろうとロンドンデリー侯爵は結論付けた。どちらにしろ、他国に対してアルビオンが対ゲルマニアの情報収集に遅れを取っているのは事実。利用できるならば利用するべきである。

「おい、リストの爺さんの誕生パーティーの招待状は来ているのだろう」
「は、はい。ですが閣下は出席を見合わせるはずだったのでは・・・」
「貴様らが給料分の仕事をしていれば、私も楽が出来たのだがな!」

再び声を荒げた侯爵は、滑稽な笑みを浮かべ続けるデヴィトに視線を向けた。

「貴様も知っているだろうが、ここはまだ再開したばかりでな。事務用品や食料品の買い付け先はまだ決まっていない。貴様のところで扱えるか」

その言葉に一瞬だが笑みを消すデヴィト。その顔は紛れもなく、自身の才覚と金の力だけで成り上がってきた者だけが見せる凄みのある表情であった。すぐに愚者の仮面を付け直したアルビオン総支店長は、にこにこと笑みを浮かべて言った。

「貴族様の杖から、牛の餌まで扱うのが、われらがシュバルト商会でございます」
「ふん。牛の餌と貴族の杖を同列に扱うか」
「滅相もございません」

頭を下げたデヴィトには目もくれず、ロンドンデリー侯爵は慌しく部屋から出て行った。

******

フリードリッヒ・フォン・リスト伯爵。この小柄な財務大臣は、その能力と実績から新興国ゲルマニアの事実上の宰相と見なされている。通商関税同盟の提唱者にして、参加五カ国の間で交渉が紛糾したヴィンドボナ会議ではゲルマニア首席全権のビューロー侯爵(外務大臣)を差し置いて交渉を主導し締結に持ち込んだ。現在のゲルマニアの経済興隆をもたらした立役者であることは間違いないのであるが、この伯爵は悲しいかなその恩恵を受けているはずのゲルマニア国民にまったく人気がない。金融や経済財政のエキスパートなのは間違いないが、同時に自分の能力を鼻にかけた嫌味ったらしい性格なのも誰も否定できない。その上、国王の信任をいいことに議会では不勉強な議員をあからさまに小馬鹿にした答弁をするとあっては、この伯爵が「人望」という文字と疎遠になるのに何の不思議もない。

そのリスト伯爵が自身の56歳の誕生パーティーを開くという知らせに、ヴィンドボナ市民は首をかしげた。派手な催し物を嫌うあの財務大臣が、わざわざ自腹で、しかも自分のパーティーを開くことが想像出来なかったからだ。それはともかくとして、口さがないことではタニアッ子に劣るものではないヴィンドボナ市民は「あの」伯爵の誕生会に何人来るかという賭けをしていた。


結果は胴元の一人勝ちであった。権力の場所に敏感なのはゲルマニアの貴族も変わらない。国王の信頼篤い伯爵の誕生パーティーには、実力者のご機嫌を取り結ぼうとする貴族達が、本人が無理であればそれ相応の代理を立ててまで先を争って詰め掛けた。国内外の貴族のみならず、各国の大使や西ザルツブルグの有力諸侯も多数出席したため、表の庭にまで人があふれている。

ところが、当のリスト伯爵はというといつものすました顔ではなくむっつりとした表情のまま一人グラスを傾けていた。ご機嫌取りに来た貴族達のへつらいの言葉に、存在を後悔させるような嫌味で返すこと20人ばかり。その光景を見た上でなお、いつもよりグラスを開けるペースの速い伯爵にわざわざ話しかける猛者はいない。リスト伯爵の酒癖の悪さは有名で、暴れるわけでも、語尾が乱れるわけでもないのだが、ただその毒舌だけが何倍にもパワーアップする。

自身が主催したパーティーでありながら、とてもではないが主催者にふさわしい態度ではない。普通なら出席者の何人かは席を蹴り帰ってしかるべきなのだが、誰もそうしないのは伯爵が政権の実力者だからというわけではない。出席者の誰もが、このパーティーの背後に何らかの思惑が働いていることを察していたためだ。


「こんな雰囲気の悪い、思惑が露骨なパーティーは初めてです」

ザクセン王国在ゲルマニア大使のハインリッヒ・フォン・シーボルト子爵は、複雑な表情を浮かべながらロンドンデリー侯爵と談笑していた。確かに、主催者があそこまで好き勝手に振舞うパーティーなど聞いたことがないし、半ばコケにされている出席者がむしろ追従の笑みを浮かべて必死に雰囲気を盛り上げようとしているのが滑稽ですらあった。それを冷笑している自分もその滑稽な一員ではあるのだが。

「つき合わされるわれらはいい面の皮というわけですな。もっとも一番不快な思いをなされているのは、あそこでくだを巻いている伯爵閣下でしょうが」
「えぇ、どう見ても艇のいい撒き餌ですからね。あのプライドの高い御仁には耐えられないでしょう・・・お、噂をすれば」
「魚が撒き餌に食いつきましたな」
「さて、どちらが釣り人か」

二人の視線の先には、上等なワインですっかり顔を赤くしたツェルプストー侯爵が、危なげな足取りでリスト伯爵に近づいていくのが見えた。途中、よろけた侯爵は「見目麗しい貴婦人」にばかり寄りかかっているのが気になったが。

「・・・なんといいますか」
「あそこまでいくと逆に感心しますな」


近寄りがたい空気を放つリスト伯爵に、ツェルプストー侯爵は酒臭い息を吐きながらずかずかと歩み寄る。後ろからは嫡子のフレデリックが半ば小走りで、父のもたれかかった女性陣に頭を下げながらついていくのが見えた。

「これはこれは、ゲルマンの『赤猿侯爵』がこの私に何の御用ですかな?」

リスト伯爵の言葉に、必死に雰囲気を維持しようとしていた貴族達の涙ぐましい努力は完全に破綻した。『赤猿侯爵』はツェルプストー侯爵の宿敵ラ・ヴァリエール公爵家が、侯爵家の赤髪を指して罵った言葉。表立ってはツェルプストー侯の武勇を恐れて誰も言わないその陰口を、面と向かって投げつけたリスト伯爵の根性が座っているのか、それともアルコールの力は偉大だということか。怒りのあまり血が引いて顔を青くしたフレデリックとは対照的に、ツェルプストー侯は相変わらす機嫌のいい表情を浮かべている。

「つれないことをおっしゃいますな!私とあなたの仲ではないか」
「中も何も、私とあなたは初対面で・・・」
「いやー、伯爵閣下とは始めてあった気がしませんでな!」

さすがのリスト伯爵の絡み酒も、素の絡みには勝てないようだ。相手の様子など知ったことではないと伯爵の方に手を回し、どこから引っ張ってきたのか椅子に座って手酌を始めるツェルプストー侯爵。その様子を見ていた貴族達の多くは、リスト伯爵が困惑している様を見ていくらかの溜飲を下げた。

その時、伯爵家の家令が慌しく会場を抜け、主であるリスト伯爵に駆け寄ったのをロンドンデリー大使は確認した。


「来たようですな。このくだらない『狂言』の主役が」


ロンドンデリー侯爵の言葉に、シーボルト子爵が「それはどういう意味です?」と尋ねる前に、慌しく到着した訪問客の名をつげる衛兵の声が会場に響いた。




『ゲルマニア王国国王、ゲオルグ1世陛下ぁ!!』





[17077] 第44話「ヴィンドボナ交響曲 後編」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:b679932f
Date: 2010/08/06 18:58
その老人の顔は、多くのものを従わせるだけの威厳と風格に満ちていた。軽く下向きの鷲鼻と真一文字に結ばれた大きな口。広い額と四角い顔には深い皺が刻まれている。何よりその鋭い眼光を前にして、虚勢を打てるだけの人間は多くはない。旧宗主国のトリステイン人は、この異相の老人こそが諸悪の根源だとして蛇蝎のごとく嫌った。

老人の名はゲオルク・ヴィルヘルム・フォン・ホーエンツォレルン。「ゲルマニアの鷹」と称される最後のトリステイン王国ヴィンドボナ総督にして、ゲルマニア王国初代国王のゲオルク1世という。

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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(ヴィンドボナ交響曲 後編)

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ゲルマニア王都ヴィンドボナに観光名所と呼べるようなものは多くない。元々都市の成り立ちからして要塞都市であったためか、歴史的建造物を保護するというよりは機能や実質の使いやすさを重視するという合理主義精神が徹底していたこともある。また経済が好調なために職を求める人の流入が耐えることなく、ひっきりなしに区画整理に伴う立替や移転が行われていた。このように都市の景観ひとつとってみても、古き良き穏健な保守的国民性のトリステインと、新進気鋭の合理主義精神を信奉するゲルマニアの肌合いはあまりにも違いすぎた。

旧総督府-ホーエンツオレルン城も概観こそ建造当時の面影を残しているが、その中はほとんど別物だ。もっともこの城の場合はまったく別の理由からである。今のこの城に、旧宗主国風の面影を見つけることは難しい。フォン・ツェルプストー侯爵はむしろその徹底的なまでに改修を重ねて血の臭いを拭い取ろうとしたあたりに、かえってこの城の主らしからぬ非合理的なものを感じていた。

「随分と手を加えたものだ。昔はもう少し垢抜けていたが」

ますます田舎くさくなったものだと、辺りはばからず大声で言い散らすフォン・ツェルプストー侯爵に、ゲルマニア王国外務大臣のベルンハルト・フォン・ビューロー侯爵は何時も何かに悩んでいるような表情をしているその顔に、ますます困ったという表情を浮かべた。爵位こそ同じ侯爵とはいえ、横を歩くこの男は夜郎自大の自称ではなく、本物の一国一城の主。傍若無人な態度であっても、仮にも礼を失することがあってはならない。ぐっとこらえて返事を返す。

「侯爵閣下は依然この城を訪れられたことがあるのですか?」
「ああ。総督家時代にな。もう20年も前のことだが、ミュンヒハウゼン男爵領の相続をめぐって総督家とうちが国境線でもめたことがあったのを覚えておられるか」
「あのほら吹き男爵ですか?私は当時ハノーヴァーに赴任していたため細かい事情は知らないのですが」

嘘である。目の前の声の大きい侯爵との交渉に備えて、ビューロー侯爵は総督家と侯爵家の関係を徹底に調べ上げていた。両家の外交紛争の歴史を知らないとあっては外交責任者として失格だ。しかしこの場はあえて知らないと返せば、得意げに侯爵がそれを語ってくれるだろうと考えたからだ。実際、ツェルプストー侯爵は赤いカイゼル髭をねじりながら饒舌に喋り始めた。

「左様。大胆不敵にもうちと総督家を二股にかけて、自分の死後は双方に領土を譲るという空手形で両方から金を借りておったあれだよ。男爵家の家令が白状したので手打ちとなったのだがな。父上に連れられてこの城に来たのだが、何せ数日前までは杖を交えていた相手の本拠地に乗り込むというので緊張したから良く覚えている。その時は先代のアレクサンダー総督も私の父も健在で・・・そうそう、その後だったな。今の総督閣下-失礼、今は国王陛下か。ゲオルグ陛下が跡を継がれたのは」
「それは、はい。確かにそうですが」
「いや、あれには驚いたものだ。まさかカール殿があのような凶行に及ばれるとは。あの直後は総督家の混乱に付け込もうとするトリステインが西ザルツブルグ諸侯に手を突っ込んできて、それはもう苦労したものだ。へっぴり腰でちょっかいを出してきたヴァリエールの腰抜けどもは直に叩き出してやったが」

ホーエンツオレルン家にとってタブーとなっている話題にもズケズケと踏み込んでくるツェルプストー侯爵に、顔を強張らせるビューロー侯爵。その後ろをついて歩いていたフレデリックはいつもの事だと諦めていた。平気で人の傷口をえぐるようなことをしながら、これで最後の帳尻あわせはきちんとして見せるのだから不思議としか言いようがない。

「噂の真相など興味はないが、陛下にとってはよほど思い出したくない出来事なのだな」

歩きながらぐるりと壁と床を見渡してツェルプストー侯爵は言った。血の跡を拭い取るだけなら、城の構造にまで手を加える必要はない。惨劇の痕跡ですら感じることがないように改修させた結果、いびつさすら感じさせる構造になったのだろう。それともヴィンドボナの中心たるこの城が一番非合理的な理由から造られているのが、ツェルプストー侯爵に妙な可笑みを呼び起こす。その笑いを嘲笑と取ったのか、ビューロー侯爵はどこか乾いた口調で問うた。

「わが主君は侯爵閣下が仕えるには足らぬお人ですかな?」
「噂は所詮噂に過ぎない。私はそれを確かめるために来たのだ」

そう、噂などで家の将来を決めるわけには行かない。だからこそこの目で確かめにきたのだ。あの『ヴィンドボナの変』という権力闘争を勝ち抜いた老人がいかなる人物であるのかを。

「ヴィンドボナの変」-内容自体はよくあるお家騒動である。トリステイン王国ヴィンドボナ総督のアレクサンダーの次男カールが突如乱心して父と兄を殺害。自らも命を絶った。名目上の宗主国トリステインの支持を受けた3男のマクシミリアンが総督家の相続を宣言したが、これに反発する貴族や議会の支持を受けたヴォルムス市長のゲオルグがマクシミリアンを追放して跡目を継いだ-確かにここまでなら対外勢力の支持を受けた勢力と国内の民族派との争いという、旧東フランク諸国によくあるお家騒動だ。そしてこの政変もこうした事件にありがちな「陰謀論」とも無縁ではない。すなわち「これはゲオルグ1世がすべて仕組んだことである」と。確かにこの事件で一番利益を得たのはゲオルグである。本来なら総督家を継げる筈のなかった4男でありながら家督を相続する。また結果的にではあるが、マクシミリアンについた総督家内部の親トリステイン派の排除に成功。水の国の干渉によって国論は統一され、それが2年前の独立につながる伏線となった。

事件が意図的に引き起こされたものであるという可能性は早くから指摘されてきた。マクシミリアンの即位とトリステインの干渉から、議会に擁立されたゲオルグの決起までには不自然な点は多い。可能性だけなら幾らでも言い立てることは可能だ。確たる証拠は存在しない。しかし、それらの疑問や疑惑はツェルプストー侯爵にとって事件の本質ではなかった。

(要するに『巧くやった』ということだ)

自分が引き起こした事であれ、受動的に対処したのであれ、ゲオルグ1世は目の前に巡ってきた機会を自分の力で掴み寄せた。意思の無いものが権力の座は掴む事は出来ない。そして無能なものがいつまでもその座に留まる事は許されない。ツェルプストー侯爵はその意思と能力の両方を兼ね備えているゲオルグ1世を評価していたが、自らの杖の忠誠を誓うのとはまた別の問題である。

「ゲルマニアの鷹。はたして鷹か鳩か。それともとんだ古狸か」

臆面も無くそう嘯いたツェルプストー侯爵だが、その声には微かな緊張の色が混じっている事をフレデリックは感じた。

***

突然の国王の来訪に慌てふためく貴族たちに、いつものように気さくに応えながら会場を進むゲオルグ1世。今年で72歳を迎えるはずだが、背筋をピンと伸ばして力強く歩くその姿からは、新興国ゲルマニアの支配者にふさわしい威厳と溢れ出さんばかりのエネルギーが感じられた。その視線の先に誰がいるのか、ザクセン大使のシーボルト子爵とアルビオン大使のロンドンデリー侯爵には容易に想像がついた。

「予想していなかったわけではないですが、こうしてお披露目して見せたという事は」
「話はついているのでしょう。トリステインの大使がいれば、顔を青くしたでしょうな。西ザルツブルグがゲルマニアの手に落ちるのも時間の問題かと」

グラスを傾けるロンドンデリー侯爵。ゲルマニア王国建国に伴い、何よりもその去就が注目されたのがフォン・ツェルプストー侯爵家である。東ザルツブルグの支配権を確立していたホーエンツォレルン総督家だが、トリステインに近い西ザルツブルグは事情が異なった。諸侯は総督家と水の国を天秤にかけ、その時の情勢によって杖の先を変えた。日和見といえばそれまでだが、弱小諸侯にとっては必死の生き残り策である。その中でもツェルプストー侯爵家は西ザルツブルグにおいて独自路線を歩む数少ない諸侯の一つであった。トリステインと国境を接していながら、巧みな外交とその軍事力を持って独立を確保していた。ツェルプストー家の同行如何で、西ザルツブルグの趨勢が決まる事は誰が見ても明らかであり、そしてゲルマン貴族であることを誇りとする赤いマンティコアはすぐさまヴィンドボナにはせ参じるであろうと周辺諸侯は考え、その準備に追われた。国境を接するトリステイン王国のラ・ヴァリエール公爵家領では動員に備えた動きも行われたほどだ。

しかし侯爵家は動かなかった。普段の豪快な言動とは裏腹に、ツェルプストー侯爵は目の前の利やゲルマンの誇りなどという情緒的なものには彼は興味がなかった。ましてや旧東フランク王国の象徴たる「双頭の鷲」を紋章に掲げながら「ゲルマン人の国」を名乗る旧東フランク貴族など、胡散臭さ以外の何物も感じない。

同時に侯爵家は動けなかった。いくらツェルプストー侯爵の兵が精強とはいえ、本気で一国を相手に戦うだけの軍事力はない。ラグドリアン戦争の戦塵冷め遣らぬ中、トリステインを刺激するような行動は命取りになりかねない。親ガリアで中立を守ったヴェルデンベルグ王国のこともあり、下手に動くことができなかったのだ。

「しかしなぜ今、このタイミングなのでしょうか?」

シーボルト子爵は丁寧に手入れされた口髭をなでた。確かまだ30代のはずだが、そのために実年齢より老けて見える。

「時期としては悪くないでしょう。トリステインとガリアの講和が成立し、ガリアの内乱も収まりました。ヴェルデンベルグやハノーヴァーもそれぞれ後ろ盾がなければなんともなりません。ですがわざわざ表立ってゲルマニアへと旗幟を鮮明にしなくともいいものを。あの家らしからぬ行動です」
「条件を吊り上げてから高く売りつけるのが常套手段でしたからな」

ロンドンデリー侯爵はシュバルト商会アルビオン総支配人のデヴィトから聴取したツェルプストー侯爵家のお家事情を語った。杖の忠誠先こそちがえど、異国の地で同じ職務に当たるもの同士、情報交換は欠かせない。それに情報をすべて丸抱えするよりは、多少は融通したほうがこちらも思いがけぬ情報を得られることがある。持ちつ持たれつである。

「なるほど。それで最近、侯爵家産の武具をヴィンドボナで見かけないわけですな」
「高いものより安いものを求めるのは人の常ですよ」

デヴィトの言葉をさも自分の言葉であるかのように語るロンドンデリー大使。シーボルト子爵は納得したようにうなずいてから、軽く自嘲するように言った。

「それにしても面倒な時代になりました。杖よりも金という風潮には、かの赤いマンティコアといえども逆らえないということですね」

『いやな時代』ではなく『面倒な時代』か。ロンドンデリー侯爵は口に出さずに呟いた。目の前のザクセンの子爵のように、自分はまだ割り切ることができない。年だと言ってしまえばそれまでだが、それだけで片付けたくはない。鉱物を鋳型に流し込んで固めたそれに価値と意味を与えたのは、始祖ではなく人間なのだ。したり顔で聖職者が説いたところで、これがなければもはや社会は成り立たない。物言わぬ始祖よりは、間違いなくそれを信じる人間のほうが多いだろう。人間が作った秩序に人間が踊らされるとは、なんと馬鹿馬鹿しい事か。それを「面倒」だとは思っても、当然の事として受け入れることができる年若い子爵が、ロンドンデリー侯には羨ましく、そして寂しくもあった。

「いかがなさいました?ご気分でも」

心配そうにこちらを覗き込む子爵に、自分の具にもつかぬ考えを言ったところで理解してはもらえまい。この男と自分は同じ言葉で話してはいるが、違う世界に生きているのだ。

「いや、改めて関税同盟というものはたいしたものだと思いましてな。交易のための条約が外交的にも利用できるとは」

交易の不均衡が外交紛争となった例は数多くあるが、血を流さずに市場の力で他国を屈服させた例はおそらくこれが初めてではないか。そしてそれを理解し、赤いマンティコアを屈服させたのは、あの嫌味な財務大臣でも病気がちの宰相閣下でも、ましてや気弱な常識家の外務大臣でもない。

「ゲオルグ陛下は、何を考えておられるのか」
「何かおっしゃいましたか?」
「いや、独り言です・・・おや、あれは」
「これまた珍しい。皇太子殿下が」

会場が再びざわつき、その方向に視線をやると、ゲルマニア王国皇太子のヴィルヘルム・フォン・ホーエンツォレルンの恰幅のいい姿が見えた。父王譲りの厳しい顔に、こちらはゲオルグ1世にはない見事なカイゼル髯を生やしている。それでいて威圧感よりも親しみを与えるのは、今は亡きヴィクトリア王妃譲りの涼しげな眼差しゆえか。ゲオルグ1世と挨拶を交わすために順番待ちをしていた貴族があわてて皇太子に駆け寄っていくのが、何とも現金で笑える。

「ツェルプストー侯への配慮ですかね。お披露目の舞台は事実上の宰相であるリスト伯の誕生パーティー。国王と次期国王が臨席するとあれば赤いマンティコアのプライドも満足するでしょう」
「果たしてそれだけですかな」

赴任していまだ一月足らずだが、私にはあの王の考えていることがわからない。何を考えているかわからない相手と交渉することなどよくあることだが、ゲオルグ1世は別格だ。

「と言いますと?」
「まだ何かあるような気がしまして・・・いや、これはただの感なのですがね」


「おお、これはこれは!シーボルト子爵とロンドンデリー侯爵。わざわざご足労痛み入ります」


大体人間は声を張り上げると、その人物の普段の声色や口調をかき消してしまうものだが、この老人の場合はそうではなかった。いまやその言動にハルケギニア中の注目が集まるゲルマニア国王ゲオルグ1世の重いしわがれた声に、再び考えに耽ろうとしていたロンドンデリー侯爵と首を傾げたシーボルト子爵はあわてて居住まいを正した。

「国王陛下。すぐにご挨拶を申し上げるべきところを、申し訳ございません」
「何、突然来たこちらが悪いのだ。この度は珍しくリスト伯爵がパーティーをするというのでどのようなもてなしをするかに興味があってな。やはりこの男、金感情はともかく人をもてなす経験が足りぬゆえか、粗が目立つ」

そりゃ、主催者が酒飲んで管巻いてれば世話ないわなと、内心呟くロンドンデリー侯爵。ゲオルグ1世の後ろには顔を赤くしたリスト伯爵が酒臭い息を吐いていた。侯爵家との結びつきをお披露目する場としては悪くはない餌だが、餌にされるほうからすればたまったものではないだろう。多少の同情の念を覚えながら視線を横に外すと、こちらはご機嫌なツェルプストー侯が純粋に酔いで顔を赤らめている。

「そうそう、ご紹介しておこう。こちらがかの有名な『赤いマンティコア』こと、オットー・フランツ・フォン・アンハルツ・ツェルプストー侯爵。左はご子息のフレデリック君だ」

腰は低いがゲオルグ1世の言動には卑屈さは感じられない。むしろ何もせずにこちらを従わせるだけの威厳が、かえってその丁寧な言葉遣いによって強調されているようにロンドンデリー侯爵は感じた。

そしてゲオルグ1世は何気なく、思い出したかのように言葉を付け加えた。


「フレデリック君は今度、私の義理の孫になる」


***

不愉快な宴はそのまま自然散会となった。国王と皇太子が退出すると、出席者たちはツェルプストー侯爵に歩み寄るものと、あわてて退出するものにわかれた。前者は王族に名を連ねることになる侯爵家に顔を売ろうと、後者は一刻も早く本国に打電するために馬車を走らせた。

本来なら大使館に駆け戻るべきであるロンドンデリー侯爵は、一等書記官を大使館に戻すとそのまま会場に残った。その時は聞き流しかけたが、時間が経てば経つにつれ、ゲオルグ1世の言葉に含まれた意味の重大さに慄きそうになる。むしろ会場にいる貴族や大使達のほうが、ただならぬ内容を話そうとしている事を悟り、視線や関心を自分たちに向けていたのとは対照的だ。会場の片隅で世間話をしていた自分達に老国王が歩み寄って話しかけてきた事を考えると、利用されたと思うよりも言い知れぬ驚喜が湧き上がって来る。そのような感情を覚えること自体、ロンドンデリー侯爵にとっては驚きだった。

まさにあの瞬間、自分はゲルマニアが西ザルツブルグを支配下に置くことを宣言した決定的瞬間に居合わせていたのだ。歴史の生き証人として一瞬でもスポットライトを浴びた余韻に浸りながら、一方で侯爵はその頭を忙しく働かさせていた。


わざわざ自分の孫娘を嫁がせてまで、ゲオルグ1世はツェルプストー侯爵家を取り込んだ。この不愉快な宴の真の目的は、その事実を国内外に喧伝することにあったと考えたほうが自然だ。ヴィルヘルム皇太子のルイーゼ王女とツェルプストー侯爵家のフレデリックとの婚姻は、そのまま西ザルツブルグがゲルマニアの支配下に入ることと同じ意味を持つ。あの西ザルツブルグでいつまでも旗幟を鮮明にしないわけにはいかず、そしてそれは宿敵ヴァリエール公爵のトリステインや、軍事力で劣るヴェルデンベルグやハノーヴァーはあり得ない。消去法で残るのはゲルマニアしかないのだ。そして王族として迎えられるのであれば、ツェルプストー侯爵家としても対面は十二分に保てる。経済的苦境の要因だった関税の問題も、ゲルマニア王国の一部となれば意味を成さなくなる。侯爵家が自分をこれ以上高く売る機会は二度とめぐってはこないだろう。

何より正真正銘のゲルマン人貴族を王族に迎えることは、旧東フランク諸国のゲルマニア人にとっては大変な衝撃に違いない。東フランク崩壊(2998)以来、3千年の長きにわたり排斥されてきたゲルマン人。最近では混血も進みそれほどはっきりとした区別がなくなったとはいえ、未だに越えがたい壁があるのも事実。それをゲオルグ1世は楽々と越えて見せた。

「孫娘の一人や二人、安いものか」

ロンドンデリー侯爵は、かつて変わり者の王弟が御前会議の場で述べた懸念を思い出した。

『旧東フランクの統一、これを中長期的に狙っていると思う』

そのときは誰もが一笑に付したが、今ならあの王弟の懸念が理解できる。市場と金を自在に操って何者にも屈することのなかった赤いマンティコアを屈服させ、ゲルマン人の因習の壁を易々と越えてみせたゲオルグ1世ならば、その夢物語を現実のものとすることが出来るかもしれない。

繰り返しになるが、私にはあの王の考えていることがわからない。どんな思想に基づき、何を考え、何を目的として動いているのか。ザルツブルグを手に入れただけでは収まりそうにない「何か」。この不気味さは、ヘンリー王子の言葉がなければ気がつくことはなかっただろう。しかし『ザルツブルグの支配』や『旧東フランクの統一』といった即物的な、現世的なものとゲオルグ1世はどうも結びつきにくい。

幼少期に苦労したためか、ゲオルグ1世は貴賎の区別を問わず、いかなる境遇の人間に対しても極めて丁寧な態度で接する。ゲルマニア国民はこの老人の気さくさを愛した。総督家の4男に生まれ、青年時代を宗主国への留学という事実上の人質として過ごし、『望まぬながら』も周囲に推されて家督を継いだ彼を、下々の機敏と人の情に通じた理想的な王として見た。たとえそれが真実の姿であろうとなかろうと、民は王にはそうあってほしいと願うものであるし、ゲオルグ1世はあえてそれに逆らおうとはしない。この点は奇しくもかの「英雄王」とよく似ているといっていい。

慣例や慣習にとらわれない柔軟な思考のできる、人心掌握に長けた老獪な王。主としてはこれほどふさわしい器はない。問題は彼が何を考えているか。ゲオルグ1世の意思、思想が何なのかだ。これが他の領主や諸侯のように領土の拡張だけが目的であるとするならばわかりやすい。『旧東フランクの統一』という夢物語も、究極的に言えばそれに集約できる。しかし、そうした現世的な欲がゲオルグ1世からは感じることができない。

ロンドンデリー侯爵は頭を掻いた。視線の先では相変わらずツェルプストー侯爵が赤ら顔で容器に酒を飲んでいた。フレデリックは貴族たちに囲まれて困惑している。リスト伯爵はというと王と皇太子を見送るとさっさと奥に引っ込んでしまった。

ゲオルグ1世の気さくな言動は国民に好かれているが、それが素であるはずがない。何重にも蝋や粘土で塗り重ねられ、羊皮紙や油紙で包んで紐で縛り上げたもの。それらをすべて一つずつ丁寧に剥ぎ取っていって残るのは、おそらく生の感情をむき出しにした「何か」。それがあの老人には一番ふさわしいような気がする。だがそれを言葉にして言い表すのは、エルフの大軍に勝つよりも困難なことのように思える。


「・・・我ながらつまらぬ事を考えるものだ」


何故こんな愚にもつかないことを考えたのか。本来の自分の職務には関係がなく、むしろ自分の判断を鈍らせ、誤らせるようなそれを。いつもの自分であればさっさと忘れてしまうような疑問に引っ掛かりを覚えた理由は、ロンドンデリー侯爵自身にもわからなかった。



***


「今日はもういい。後は自分でする。ご苦労だった」
「は、それでは失礼いたします」


旧総督府-ホーエンツオレルン城の自室でゲオルグ1世は侍従達に労いの言葉をかけた。プライベートな場であっても、老人はその態度や姿勢を崩そうとはしない。総督家の家督を継いだ時、周囲からは「権威が」「格式が」と批判されたが、彼は頑なにそれを守り続けてきた。ゲオルグ1世はベットではなく、寝室の片隅に置かれた机に向かった。

趣味らしい趣味を持たないゲオルグ1世の唯一といっていい趣味がチェスだ。しかしそれは相手と打つためのものではない。彼は一人二役をこなしながら、一人で譜面に向かう。老人曰く、それはチェスを楽しむためのものではなく、自分の考えを整理するためのものであったからだ。今日も自室で一人チェス盤に向かう老人の傍らには、いつものようにハルケギニアの地図が広げられていた。


将棋版とハルケギニアの地図が広げられたそれが、老人にとってのもうひとつの『世界』である。


「まずは一つ」


黒の騎士(ナイト)を持ち上げながら呟いた老人の声には、何の感情も含まれていなかった。




双頭の鷲を紋章に掲げるこの国が、統一戦争を始めるまでにはこれよりまだ十数年の時間が必要であった。そしてゲルマニアが旧東フランク統一戦争を始める頃、老人はこの世にいない。ゲオルグ1世は没するまでの間、自らに残された時間を惜しむように、誰もが「夢物語」と馬鹿にした東フランク統一実現のために多くの手を打った。後にそれらは、ヘンリーと水の国を大いに苦しめ、老人の死後も両者の前に立ちはだかることになる。




「花は枯れてこそ・・・花たりえるのだ」


そう漏らした老人の言葉には、かすかな狂気が混じっていた。





時に、ブリミル暦6214年。原作開始まであと29年。





[17077] 第45話「ウェストミンスター宮殿 6214」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:d56d1fa2
Date: 2010/10/09 18:07
怒りにはどこか貴族的なところがある。善い意味においても、悪い意味においても

三木清(1897~1945)

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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(ウェストミンスター宮殿 6214)

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ロンディニウムのほぼ中央を流れるテムズ川。豊かな水の恵みを王都にもたらすこの川は、その穏やかな見た目と反して激しいものを秘めている。川底の高低差のためか水の流れは処により不規則で、たびたび船が座礁。下流のカンタベリではなく王都に港湾施設を設けようとした歴代の王が何人も挫折し、その権威を貶めた。「世にままならぬものは坊主と天気、そしてテムズの水の流れ」とはリチャード12世の言葉である。その西岸、川べりに隣接するように聳え立つ教会のような建造物がアルビオン王国議会議事堂である。正式名称は「ウェストミンスター宮殿」。テムズ川から見て左側が貴族院、右側が庶民院。中央の尖塔は時計塔だ。かつては王家所有の宮殿だったのだ、がお世辞にも立地条件はいいとは言えない。場所が場所なだけに水捌けは悪く、宮殿はいつでも湿気に悩まされている。

幾多の政争と政変の舞台となったこの宮殿では、何よりも雄弁であることが求められる。この場で沈黙が美徳となるのは、自身の無能と不見識を隠すときのみ。不特定多数の聴衆と同僚議員、そしてその支持層に対して、現状の課題と問題点を事実と資料に基づいて指摘し、それに対する自分の考えと解決策を述べる。議題に関しては誰よりも詳しくなくてはならず、いかなる反論や反駁にも対応出来なくてはならない。

これらすべての条件を一人の人間の能力で満たすのはあまりにも困難なことではあるが「この世で最も質の高い議論の聞ける場所」とされるアルビオン議会の議員とはそうあるべきだと、サマセット州マイン・ヘッド選挙区選出の庶民院議員スペンサー・パーシヴァルは固く信じていた。元々吃音の気があった彼は政治家を志して以降、文字通り血の滲むような努力を重ねて議会随一とも称される雄弁家の地位を得た。しかし彼の庶民院での立場はけして強固なものではない。議会人としての彼を慕うものは多かったが、それ以上に彼の名声を妬む者も多かった。そして何よりある男の存在が、パーシヴァルの前に大きく立ちはだかっていたからだ。

その男は庶民院議員となってから一度も議場で質問をしたことがない。そうした庶民院議員自体は珍しくはない。自身の無知をさらすことを恐れる臆病者は黙って議席に座り、拍手をしていればいい。すべての議員が議論や討論に積極的なら、議事堂はうるさくてかなわないだろう。だがその男は、一議員などではなく庶民院を代表して恐れ多くも国王陛下に議会の意見を上奏する庶民院議長なのだ。王権を補佐し、時の宰相や政府の過ちを正すべ立場でありながら、根回しと選挙区への利益誘導や陳情だけで現在の地位にのし上がった。

フレデリック・ジョン・ロビンソンがどのように出世しようと私財を蓄えようと、パーシヴァルの知った事ではない。しかしロビンソンがそのために、議会を自身の道具として利用している事は看過する事が出来ない。昨年末、あの男は自分の息のかかった議員を使って、省庁再編に関する賛成答弁を行わせた。ロッキンガム公爵と枢密院の不手際によって、省庁再編に財務省が反対に回っていた事をかんがみると、ロッキンガム首相とロビンソン議長との間で何らかの密約があったと考えるべきだろう。あの男は自分の利益にならないことには指一本動かさない男だ。実際、先日議会に内示のあった省庁再編に伴う人事案ではロビンソン派と思われる議員が庶民院・貴族院問わずに候補に挙げられていた。その全てがそのまま受け入れられることはないだろうが、あの男の派閥と醜い図体がますます肥え太るのは確実である。議論を封じ、金と人事によってかき集めた数の力によって政府への圧力と追従を繰り返すロビンソンのやり方は、議会の存在価値を否定していた。

政治的な姿勢や政策の考え方の違いもあるが、何よりパーシヴァルにとって重要なのは、ロビンソンのやり方が、彼のこれまでの努力と存在そのものを否定していたからだ。血反吐を吐くような思いで雄弁家の地位を得た自分の人生が、金とコネの前には何の意味も成さないなどと、けして認めるわけにはいかないのだ。


そのフレデリックは、国王陛下が貴族院議長兼任大法官のダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリー卿と共に入場されるのを神妙な顔で待っている。アルビオン王国議会は基本的に常時開会されているが、10日間の降臨祭を終えた次のユルの曜日に、国王陛下臨席の下、貴族院議場で開会式を行う。議会初めのこの日ばかりは、普段はいるのかいないのかわからない議員たちも含めて各自が爵位や立場に見合った正装を身にまとい、普段はほとんど気にされない席順ごとに整然と並んでいる。エグモント伯爵家の法定相続人であるパーシヴァルだが、今日は一庶民議員として開会式に臨んでいた。庶民院議員であるためその席順は後方から数えたほうが早い。彼は自身の努力によって掴み取ったその席順を誇りに思うことはあっても恥じることはなかった。しかしここ最近は、開会式のたびにあのブルドックが国王陛下の傍に控えているのを見るたびに憂鬱な気分になる。いくら吼えてみたところで、こうした場で自分が出来ることは、せいぜい議場の後方からあの男の顔を睨み付けることだけ。自分の無力さを思い知らされる度に、パーシヴァルは自問自答する。自分の生き方は間違っていたのか?所詮、自分の努力など金と人事の前にはかなわないのか?

-そんなことがあってたまるものか

一瞬でも気弱な考えにいたったことをパーシヴァルは恥じた。自分で自分の人生を否定してどうするというのだ。これではマイン・ヘッドの選挙民に顔向けが出来ないではないか。考えを振り払うかのように、パーシヴァルはファンファーレと共に入場したジェームズ1世陛下を神妙な態度で出迎えるフレデリックの顔を睨み付けた。あの男は陛下が演説を終えられた後、再び庶民院議長に指名される。再びという言い方は正確ではないかもしれない。何せこれで13回目の指名なのだ。下院の代表-つまりあの男が恭しく一礼し、自身を再び議長に指名することの是非を陛下と貴族院に問う。なんともふざけた光景ではないか。そんな茶番をいつまでも続けさせるわけには行かない。

-いつか必ず・・・

自分の弁論によって、この議場であの男を追い詰めてやる。

何故ならここはウェストミンスター。杖でも血筋でも、ましてや金の力などではなく、言葉の力で成り上がることが出来る場所なのだから。



「さすがに緊張するね」
「殿下でも緊張されることがあるのですか?」

ファンファーレと共に立ち上がった議員達が拍手と共に国王ジェームズ1世を出迎える中、傍聴席では同じように拍手をしながら顔を寄せて密談する影があった。アルビオン王弟カンバーランド公爵ヘンリー王子と、王政庁行政書記長官のサー・アルバート・フォン・ヘッセンブルグ伯爵である。いまやロッキンガム首相(省庁再編に伴い廃止された宰相職から横滑り)の懐刀と呼ばれるまでに出世したかつての自分の侍従に、ヘンリーは「これも僕の教育の賜物だね!」などとほざいていた。

「確かに殿下のお傍では色々と学ばせていただきました。反面教師としての材料には事欠きませんでしたゆえ」
「そうだろう、そうだろう・・・あれ、なんだかニュアンスが違うような気がするんだけど」
「気のせいでございましょう」

流石に元侍従。旧主のあしらいは手馴れたものである。二人の掛け合いを尻目に、開会式は粛々と進んでいた。王座にジェームズ1世が腰掛けるのと同時に、議員たちはそれぞれの指定席に座った。普段の議会では伯爵席や子爵席の中でなら早いもの順であるが、こうした公式の場では議員の席順は厳格に決められている。爵位に始まり当選回数・年齢・本人の功績等々。議場中央の玉座には当然国王が座る。玉座から向かって右側が聖職者議員席。ロマリア教皇によって指名される彼らは、無用な内政干渉批判を避けるためにほとんど会議には出席しない。カンタベリ大司教とサウスゴータ大司教を筆頭に、暖炉を隔てて後方のベンチにその他の司教が座る。玉座から見て、左側が貴族議員席。速記録を付ける書記のテーブルを挟んで、王国の司法を統括する大法官(貴族院議長の兼任)公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵席と続く。そしてその後方に庶民院議員が当選回数ごとに並ぶ。最後尾、当選回数が少なくなるにつれて席のない議員が発生し、彼らは立ったまま国王演説を聴くことになる。

「立ったまま演説を聞くのはつらいだろうに」
「あれが新人議員の登竜門です。彼らにとっては議会の有力者に顔を売る数少ない機会ですからね。眠たい演説でも瞬きせずに聞き入るというわけです」

『議員各位諸君。本年もこのウェストミンスターにおいて諸君たちと合間見えることを余は光栄に思う』

どこの世界も新人は大変だなと、ヘンリーが妙な感慨にふけっていると、ジェームズ1世による「国王演説」が始まった。時節の挨拶もそこそこにいきなり本題に入るあたりがこの王らしい。国王演説はアルビオン王としての今年一年の国政に対する基本方針を述べるもので、内容は内政と外交の諸課題への王自身の認識から昨年の財政状況、経済の見通しから風俗流行に関するものまで多岐に渡る。国王の意思というものもある程度は考慮されるが、草案自体は時の宰相(現在は首相)を筆頭とする行政府がまとめたものであり、どうしても話のつながりに無理が出てくる。先王エドワード12世は抑揚をつけながら時折アドリブを入れた演説で人気があったが、生真面目なジェームズ1世はどうしても単調なものとなりがちである。こみ上げてくる眠気を我慢しながら、ヘンリーはヘッセンブルグ伯爵に顔を寄せて本題を切り出す。

「どうだい。あのブルドックが推薦した人間は」
「・・・正直に申し上げますと、予想外でした」
「どっちの意味だ?使えるのか、まったく使えないのか」
「その両方です」

省庁再編に伴い大臣制に移行して発足したロッキンガム内閣は、パーマストン外務大臣(前外務卿)、モーニントン内務大臣(前内務卿)、シェルバーン財務大臣(前財務卿)など主要閣僚の多くが留任した。一方で新設された大臣や省庁には旧省庁からの移行・出向組みばかりではなく、多くの議員や貴族が登用された。単に官僚の絶対数が足らなかった事もあるが、商工局の独立に反対する財務省に議会から圧力を掛ける代わりに、ロッキンガム公爵の意を受けたヘッセンブルグ伯爵とロビンソン議長がその代償として議長の推薦した人材を登用した結果である。

「ダービー伯爵-内実はロビンソン議長の推薦ですが、貴族院議員から推薦のあった大臣は可もなく不可もなくというところです。空軍大臣のサンドウィッチ伯爵エドワード・モンタギュー卿、北部担当大臣のサマセット伯爵などははっきり申し上げて『伴食大臣』。決定的な失政や失策を起す心配はありませんが、それ以上は見込めません。ですがこれは大臣クラスの話。主に庶民院から推薦のあった部局長クラスとなると話は違います」

ヘッセンブルグ伯爵は商工省貿易局長、内務省港湾局課長、バーミンガム市長などの名前を挙げた。いずれもロビンソンの推薦した人物であるが、皆必ずしも彼と懇意の人物ばかりではない。ロビンソンと距離を置くか、むしろ批判的な人物も少なからず含まれていたという。

「私としては議長がその息の掛かったものばかりを送り込んでくるのではないかと」
「党派を行政府に持ち込むなというわけか?出世レースと派閥抗争なら君達が年がら年中やっている事と対して変わりないと思うがな」

冗談めかしたような口調で言ってから意味無く笑ったヘンリーの顔を、ヘッセンブルグ伯爵はしばらく眺めていた。昔からヘンリー王子はこうした事に関する理解が驚くほど早い。元小市民のヘンリーからすれば、小さな会社から親方日の丸のお役所まで、人のつくる組織は派閥とは無縁ではいられない事を体験的に知っていただけの話なのだが、ヘッセンブルグ伯爵がそれを知るはずもない。王族といういわば超越した環境と立場で育ちながら、不思議な人だと首を捻るばかりだ。

「必ずしも専門家揃いというわけではありませんが、皆一角の人物ばかりです。下手をすれば本職のテクノクラートよりも優秀なものもいます」
「それは官僚OBが多いからではないのか?それに君はどうも古巣の内務省びいきだから」
「・・・注意いたしましょう」

この王子は何処まで自分の話している言葉の意味を理解しているのか。笑おうとして笑いきれず、ヘッセンブルグ伯爵は頬を引きつらせた。王族だから「変わり者」として済まされるが、これがただの貴族なら完全にアウトだろう。

「さて、あのブルドックは何を考えているのか。名を捨てて実を取ったということか。それにしては自身の子分が少ないのが気になるが」
「あえて自身と関係の遠い人間を推薦する事によって、関係を深める事が狙いなのでは」
「・・・自分の子分にポストを割り当てるよりも、人脈を広げる事を重視したわけか」
「ポストは政府ばかりではありません。各国の大使人事は来月、議長への再任は確実ですから議会人事もどうとにでもなります。従来の支持者にはそちらで配慮するのではないかと」
「たいした自信だ!」

軽く鼻を鳴らしながらヘンリーは愉快そうに笑った。その顔には、他者をあざ笑う者が見せる傲慢さは感じられない。どちらかというと見事な見得を切って見せた役者に対して惜しみのない喝采と歓声を送る観客のそれに似ている。ヘッセンブルグ伯爵はそれが危うく見えた。この王子は男の嫉妬の恐ろしさを知らない。ハルケギニアからの亡命貴族を祖とする「外人貴族」として色眼鏡で見られてきた自分とは違い、王族として隔絶されて育ってきたヘンリー。エセックス男爵は厳しく養育されたようだが、それは軍人としての、王族としての覚悟を解いたもの。臣下の感情に聡いとは言え、真に理解しているとはいいがたい。

(もう少しご自重なされたほうがよろしいのではないか)

諫言してもこればかりは聞き入れられる事は無いだろう。それはヘンリーにヘンリーであることをやめろというに等しい。ましてや本人にその自覚がないのだから性質が悪い。

理屈や理性では、世の中は動かないのだ。



国王演説は昨年のラグドリアン講和会議に関する内容を終え、次のテーマに移った。神妙な顔をして多くの議員は聞き入っていたが、ゆらゆらと体を前後に揺する議員がちらほらと見受けられる。さすがに最初から寝る気で聞いているわけではないのだが、抑揚の「よ」の字もない単調さと、事前にある程度予想のできた演説内容では致し方ないのかもしれない。

『・・・により、クルデンホルフ大公家の独立が列国の承認を得た。アルビオンとしては盟邦トリステン王国との協調関係を維持しながら、ガリアを初めとする大陸諸国との協調に基づく関係を維持していく事に何の代わりもない。議員各位には理解と支持をお願いしたい。さて、昨年末の再編に伴い新たに商工省、空軍省、陸軍省を設置した。また王政庁の・・・』

-つまらない

何より、演説をしているジェームス1世自身がそう思っているのだから。演説とは名ばかり、人の作った作文を読まされているようなもの。自分の意向が入っていないわけではないが、全てがそうではない。中には国王である自分自身、全く聞いたこともない法案や条約、そして人事も含まれている。これではやり切れない。

『商工省人事案に関しては先日王政庁より発表のあった通りである。経済産業政策を統括する専門官庁としての活躍を大いに期待するところである』

演説を続けながら、ジェームズ1世は父のエドワード12世の偉大さに思いをはせた。皇太子時代は父の大臣や宰相に政務の要綱だけを示して任せるという姿勢に「丸投げで無責任だ」と反発したものだが、今父と同じ立場に立つと、それが極めて現実に即したものだったということが分かる。全ての事を国王が抱え込んでは意思決定に遅れが出るし、そもそも時間的にも量的にも不可能だ。一見丸投げしているようでいて、エドワード12世は肝心要のところはきちんと押さえていた。自分はといえば、ただ流れ作業のように政務をこなしているだけだ。とはいえ、最近ようやく「それ」が何であるかがわかってきたような気がする。演説草案はただ各省庁からの政策や要望を突き合わせただけに見えていたが、その表現の裏側にあるものが見えてくると何ともいえないおかしみを感じる。

例えば先ほど読み上げた外交演説では『盟邦トリステン王国との協調関係を維持しながら、ガリアを初めとする大陸諸国との協調に基づく関係を維持していく事に何の代わりもない』となっている。草案ではこれが逆で『ガリアをはじめとする大陸諸国との協調』が『トリステインとの関係』より先に来ていた。申し訳程度に大陸諸国とあるが、実際にはこれはハルケギニア1の大国ガリアとの関係を重視するか、ラグドリアン戦争以来、急速に同盟協商関係が深まりつつあるトリステインをとるかの外交路線の問題だ。前者を重視するべきという外務省と、後者を押す空軍との争いでもある。そして外務省内でも外務次官セヴァーン子爵を筆頭とするガリア派と、非ガリア派、そして最近急速に高まりつつある親トリステイン派との争いもある。たかが演説草案一つとっても、これ程までに多くの人間と組織の争いが含まれているのだ。

政治とは神聖なものであるべきだと信じていた自分が、まさかそれに「おかしみ」を感じるようになるとは、それ自体が驚きだ。父の死から2年、白の国を背負う重責の重みは一日たりとも忘れたことはないが、その重みに「慣れてきた」のかもしれない。皇太子時代の自分なら、そこにおもしろみではなく怒りを感じていただろう。しかし、浮遊大陸の全ての民とその将来にくらべれば、たかが省庁内の人事抗争など可愛いものではないか-そうした精神的余裕を持てるようになってきたのも事実だ。権力者だけが持つことのできる傲慢さなのかもしれない。ある程度の鈍さを身につけなければ、こんな「仕事」やっていられない。

融通が利かないという意味でなら、私もそれなりに自信がある。もしもこんなことをこの私が思っているなどと知れば、あの弟はどんな顔をするだろう・・・まてまてまて。

『さ、昨年はラドの月より貿易収支が黒字化した影響もあり、ロンディニウム株式市場は堅調な値動きで推移した。一方で先物市場は数年前から続く大陸北東部の不作により』

一瞬言葉に詰まった王の態度を怪訝に思った議員の何人かかが顔をあげたが、すぐに演説を続けたジェームズ1世に「そういうこともあるか」と顔を下した。

『秋頃から比較的高い水準で推移した。国内の小麦・ワインなどの一部食料品では思惑買いから一時歴代最高値を記録したが、ギルドや財務省が結束して市場への介入を行った結果、例年の水準へと戻ったのである。新設なった商工省にもギルドと連携しつつ物価の安定を・・・』

-あ奴、あんなところで何をしている?

演説を続けながら、ジェームズ1世は一瞬だけ目に飛び込んできた傍聴席の光景を確実に認識していた。両眼鏡をかけていたが、あの緩くて温い空気をまとった金髪の男。間違いない、ヘンリーだ。横に座っていたのはヘッセンブルグ伯爵か?

-そういえば伯爵はヘンリーの侍従だったな

個人的に関係があってもおかしくない。議会の視察ついでに密談というわけか。それにしても眼鏡の似合わない男だ。伊達だということが丸わかりではないか。変装の下手さに呆れながら、ジェームズ1世はあの愛すべき馬鹿な弟に思考をめぐらせる。

我が弟ながらよくわからない男だ。

馬鹿では・・・ないと思う(自信はないが)

アホ・・・ではないとはいい切れない(兄として悲しいが)

スケベ・・・なのは間違いない(否定する材料が見つからない)

だが、使い勝手がいい。

昔から落ち着きのない性格であったが、嫁を迎えてもなおその性格は変わらず、いつでも何かしらの行動を起こしている。その中にくだらないことが(何故使用人の服にあそこまでこだわるのだ。それも女性用のみに)含まれているのは否定できない。それでも文字通り「裸の王様」になる危険性のある自分としては、既成概念に凝り固まった貴族や、過去の事例にこだわる官僚からは決して出てくることのない融通無碍な考え方やモノの見方は、非常に貴重だ。

あの弟を使う危険性は自分も認識している。国王以外の王族が政治の意思決定に干渉して碌な結末になった試しはない。しかしそれを差し引いてもなお、あの男は使える。ヘンリーは手柄を担当部署や責任者に譲り、表に出ることを好まない。国王の弟-その危うい立場を自覚しているからこそ、いじましいまでに自らの存在を隠す。「王」である自分に気を使い、賢明に自分の足跡を消そうとする。しかし、頭隠してなんとやらで(本人は隠したつもりであろうが)ジェームズには弟の行動がよく見えた。「裸の王様」であっても、国政の頂点から見下ろしていれば下のことはいろいろと見えてくる。毎日のように閣僚と会談し、書類や報告書に目を通していれば些細な変化にはすぐ気が付くものだ。それだけあの男が「異質」な考え方の持ち主であるということである。

そこまで考えてから、ジェームズ1世は「国王」としてヘンリーを見ている自分に気がついた。

(・・・昔とは、違うか)

「臣下」としての行動をとる弟。そしてそれを当然のことであると受け入れる自分。そこに一抹の寂しさを感じながら、ジェームズ1世は演説を続けた。



ロンディニウムのダウンニング街。各国大使館が軒を連ねるそこに、アルビオン王国外務省もあった。

浮遊大陸の外交を取り仕切る外務官僚はどこか他省庁を見下しているとされる。言語コンプレックスの強いアルビオン人にとって、何カ国語も話せる外務官僚は、たとえ本人たちにその気がなくともそういう風に見えるのだ。とくにガリア語を話す試験採用の職業外交官、いわゆる「ガリア派」は最大勢力であっただけに特に嫌われた。また省内でも「自分たちこそ外務省の本流」という意識を振りかざしているとして、他の言語閥からの評判も良くない。

それらを意図的に無視する者が多い中、「君たちもガリア語を勉強したらどうか」と正面から臆することなく反論することが出来るのが、外務次官のセヴァーン子爵ロバート・パーシヴァルという人物であった。セヴァーン子爵はその理知的な顔立ちとは裏腹に、人の好き嫌いが激しい。彼が嫌うのは「努力をしない者」そして「アホ」である。外務省最大派閥のガリア派のホープとして日の光の当たるところを歩いてきたように見られる子爵だが、ガリア語だけではなく東フランク語、タニア語、ロマリア語とハルケギニアの主要言語に堪能している。言語が似ている大陸諸国とは違い、言語体系が異なるアルビオン人がそれらの言語を習得し、日常会話以上のもの-外交交渉が出来るまでになるには、大変な努力を有する。それを会得した自信と自負がセヴァーン次官の根底にあった。その彼からすれば、アポイントメントもなしに突然訪問してきた貴族院議員は、敬意を払うに足る人物には見えなかった。

-何だこの男は

モートン伯爵ジェームズ・ダグラス。元財務次官にして前枢密院書記長官であり、昨年末の省庁再編に伴う大規模な人事異動とともに貴族院議員に転出した。消息筋ではもっぱらこれは、枢密院の再編案に対して財務省を中心に巻き起こった反対運動と混乱に対する責任を取らされた更迭人事と受け止められた。セヴァーン次官がアポイントメントもなしに外務省訪れた伯爵を自室に通したのは、古巣の財務省に喧嘩を売った人物がいかなる人間だったのかというのを一目見たかったという純粋な好奇心もある。何より、貴族院の伯爵議員に互選されたばかりのモートン伯爵が、初めての議会開会式を『病欠』してまで自分を訪問した理由とは何なのか。とりあえず会おうという気にさせるのには十分な理由であった。

(これが財務省に喧嘩を売った男なのか?)

期待は直に失望へと変わった。その経歴から自分と同じような人種かと思いきや、モートン伯爵はどこかの職人ギルドにでも属していそうな風貌だったからだ。目の前の伯爵が、あの過激な省庁再編案を纏めた人物には見えない。日に焼けた肌にささくれだった手という貴族らしからぬそれは、商工局長時代「現場主義」を自任してロンディニウムのみならずアルビオン各地を視察して回った時に作り上げられたもの。ギルドや平民の間に平然と入り、現場で額をつき合わせながら経済政策を導き出した結果、官僚の職業病ともいえる愛想笑いとも無縁であった。「これが自分と同じ次官にまで上り詰めた男なのか」と落胆しながら、セヴァーン次官は初対面の人物に対して、自身に対する批判への反証を口にした。一方的に話し続けるセヴァーンの態度が、モートン伯爵への認識と評価をありありと表していた。

「ラグドリアン戦争での私の判断がよく批判されますが、後から批判することは容易な事です。あの当時、ガリアがトリステインに侵攻する事は誰も予想しませんでしたし、ロペスピエール3世陛下が突然崩御される事は神と言えども知らなかったでしょう」

セヴァーン子爵本人が言うように。彼に対する批判の中で最も大きなものは、一昨年のラグドリアン戦争に関する対応を巡るものだ。協商を結び、浮遊大陸とハルケギニアを結ぶ最大の中継港であるラ・ロシェールを領有するトリステインへの軍事物資支援を訴える空軍に対して、セヴァーン子爵は「厳正中立」を掲げて真っ向から反対した。結果は国王ジェームズ1世の裁定により軍事物資の支援が行われたのだが、決定後もなお物資の支援に反対してサボタージュを決め込もうとしたセヴァーン子爵を、ジェームズ1世は直々に叱責。「これでセヴァーン次官の外務卿昇格はなくなった」と、省内反主流派は快哉を叫んだが、予想に反して今もなお、セヴァーン次官は次期外相レースの先頭にある。ラグドリアン講和会議では自身のガリア人脈を活用して、ガリアを講和会議の場に出席するよう促した。また大陸の主要言語に通じていることを最大限に活用し、両国の本交渉の傍で各国に対して根回しを行い、講和締結の機運を高めた。彼に対する批判派は、その功績に対して「そもそもガリアのトリステイン奇襲を見抜けなかったではないか」と罵った。

「ガリア人が所詮他国の人間である私に何もかも話してくれる訳がないでしょう。確かにガリアに対する情報収集に問題が無かったわけではありません。第一、予想できなかったのは私と同じでしょうに、どうしてあそこまで居丈高になれるのか・・・」

日頃の憤懣と鬱屈したものを晴らすかのように、ぼやき続けるセヴァーン子爵。相槌を打ちながらも、これという反応を返してくる事のないモートン伯爵と向き合う事に痺れを切らしたのか、唐突に椅子から立ち上がった。

「トリステインとの関係は確かに大事です。しかしトリステインとの関係にこだわる事が果たしてわが国の国益と一致するのかどうか。風石船の発達に伴い、トリステインの中継港としての重要性は低下しつつあります。それはラ・ロシェールの衰退を見ても明らか。最早無くてはならない中継港では無いのです。先の軍事物資支援にしても、水の国からは感謝の言葉どころか『何故援軍を出さなかった』という批判の声が出る始末」
「それは一部でしょう。水の国全体の意見ではありますまい」

モートン伯爵が初めてまともに反応を返してきた事に安堵しながら、セヴァーン子爵は相変わらず忙しなく歩きながら続ける。考え事をする時の彼の癖である。

「こちらは中立条約違反を覚悟しているのですぞ。そのような声が出る事自体、自分のおかれた立場を理解していないのです。リッシュモン外務卿や前宰相のエスターシュ大公などは違いますがね。何故そのような国を助けるために、わが国がガリアと紛争を抱えるリスクを抱えなければならないのか」
「そんなにガリアは恐ろしいですか」

多くの「ガリア派」と称される外務官僚が投げかけられる侮蔑の言葉。しかしモートン伯爵の表情には侮蔑の色は浮かんでいない。その事を確認してから、最早何度目かわからないガリアに対する考えを述べる。馬鹿には何度言っても解らない。所詮馬鹿なのだから。この男はどうなのか?

「人口およそ1500万人。国王の号令の下、いつでも動かす事の出来る常備軍がおよそ15万、予備兵を入れると20万を雄に超えます。これに諸侯軍を足すと、一体どれ程になるのか想像すら出来ません。軍事力もそうですが、何より恐ろしいのは人口そのもの。1500万人ですよ?この市場を失う事は、交易が生命線のアルビオンにとってどういう事態を引き起こすか。そんな事を想像できない空軍軍人は頭が悪いとしかいいようがありませんね」

甲高い口調にまくし立てる様な早口。聞き取りずらいとされるセヴァーンの言葉にも、モートン伯爵は相槌を入れてうなずいていた。セヴァーン子爵は次第にこの元次官に薄気味悪いものを感じ始めた。適当に厳しい事を2、3個ぶつけてやればこの訪問客も帰るであろうと考えていたのだが、そんな兆しは見られない。世間話をしにきたのではないのだろうが、一体何を目的に自分の愚痴に付き合っているのか。

「ガリアとの関係こそ、アルビオンにとっての生命線というわけですか」
「それは多少異なります・・・わが国の商人が安心して交易に取り組む環境を作り上げる事、これがまず第1です。その為にはガリアは無論、大陸での争いにアルビオンは関わるべきではないのです」
「なるほど、だからこそ次官は国王陛下の意向に反しても介入に反対したわけですね」

気付けば、いつの間にかかなりデリケートな部分まで晒しているような気がする。自分より愚鈍だと、劣ると判断したものに人は警戒しない。そうして本心を聞き出すのがこの男のやり口なのか?

「自分を『ガリア派』と呼ぶなら、そう呼べばいいのです。レッテル張りをしたところで、現実は何も変わらないのですから」
「そう、その現実は変わりません。ですが変えることは可能です」

その言葉に、セヴァーンは立ち止まってモートン伯爵の顔を見つめた。自分はどうしてこの男を侮ったのか。「謀など出来ません」という顔にだまされたが、よく考えればこの男は財務省非主流派の商工族から財務次官に上り詰めた。主流派の王道を歩んできた自分とは全く違うタイプの人間なのだということを全く失念していた。何を切り出すのかと身構えるセヴァーン次官に、モートン伯爵は淡々とした口調で切り出す。

「次官のお話を聞く限り、現在高まりつつある『ゲルマニア脅威論』と次官は一線を画されるということですね?」

『ゲルマニア脅威論』-昨年から軍部と外務省で急速に高まりつつある考え方だ。昨年初頭の御前会議の場で、ある王族が「ゲルマニアは中長期的に旧東フランクの統一をもくろんでいる」と言い出したことがその端緒となった。初めはセヴァーンを筆頭に多くのものは何を馬鹿なと一笑に付した。独立間もない新興国に対して、何をそんなに警戒する事があるのかと。ところがデヴォンシャー侍従長の使節団(サヴォイア王国の帰途を利用してゲルマニア領内を視察)に参加し、実際にかの国を視察した空軍将校や外務官僚の中から「ゲルマニア侮りがたし」という意見が出されるようになり、先日のツェルプストー侯爵家をゲルマニアが取り込んだ事により「対ゲルマニア脅威論」はロンディニウムで一気に広まった。

「馬鹿な話です」

それまで冷静な口調で話し続けてきたセヴァーン子爵は初めて吐き捨てるように言った。サヴォイア王国使節団の使節団を拒否しておけば今日の様な事態には至らなかったものをと、忸怩たる思いである。自分の不手際もそうだが、何よりも実務も知らぬ、まともに国際条約の文章も読んだ事も無いような若いだけの馬鹿が何をほざくかと、相当腹をすえかねていた。

「一体誰にとっての『脅威』なのかです。トリステインにとっては確かに脅威でしょう。ゲルマニアの潜在的な軍事力が高い事は認めます。ですがそれが我が国と何の関係があるのです?トリステインが脅かされようとも、アルビオンには関係のない事」

こちらを観察する様な視線を向けていたモートン伯爵から視線を外し、再び部屋の中を歩き始めるセヴァーン次官。その表情はモートン伯爵からはうかがうことが出来ない。

「東フランクが崩壊してから早3200年。幾多の国が統一をもくろみ、そして失敗してきました。『旧東フランク』とはアウソーニャ半島と同じようにただの地域をさした呼び名。一つの国でまとめようとする事自体がナンセンスな話なのです。赤いマンティコア(ツェルプストー公爵家の紋章)を取り込んだからといって、上を下へと大騒ぎする話ではないのは間違いありません。百歩、一万歩譲って、仮にゲルマニアが統一したとしましょう・・・それが何だというのです?浮遊大陸にまで攻めてくるとでも?その前にガリアと衝突する事は目に見えています」

その時、静かに聞き入っていたモートン伯爵が被っていた愚鈍の皮を少しだけ脱いだ。

「・・・次官のご心配と苛立ちの原因は別のところにあるのではないですか?」
「何だ、と」

声が上ずるのを自覚しながら、咄嗟にセヴァーン子爵は声を荒げた。

「このロバートを侮るな。大臣になるためにこの仕事を選んだわけではない」
「そうでしょうとも。次官ともあろうお方がそのような人物だとは考えていません」

口に出して否定することは、その事実を自分認めているようなものである。セヴァーンはそんな簡単な事にも気が付かないほど慌てふためいた。モートン伯爵はその篤実そうな顔の口だけを動かしながら、肺腑を抉る様な言葉を淡々と投げつける。

「外務大臣になれないこと。その地位を逃す事よりも、何も解らぬ馬鹿にこの国の外交を任せる事は出来ない-違いますか」
「・・・何がいいたい」

一瞬でも無様な姿を見せた時点で、主導権は自分から離れた。そのことを経験的に知るセヴァーン次官は、『国王演説』が続いているであろうウェストミンスター宮の方角を見ながら呻くように言葉を搾り出した。普段の子爵からは想像も出来ない、低く暗い声で。

「次官のご心配はごもっともです。ですが『犬を追うより肉を退けろ』と申します。根本的なこの国の『元凶』を除かない限り、時間のご心配の種は尽きる事が無いでしょう」
「貴様・・・」

思わず振り返ったセヴァーン次官は、モートン伯爵の顔を睨みつけたまま絶句した。自分が考えないように、意識しないようにしていた、この国のタブーになりつつある存在に関して、この男は不敬罪を恐れずに平然と批判めいた言葉を口にした。自分とてわかっている。あのお方の-あの男の存在が自分の外務大臣の就任を妨げ、この国の外交と国を危うくしている事に。自信の苛立ちが、それに原因があることもだ。


アルビオン王弟のカンバーランド公爵ヘンリ・テューダー王子。軽薄さを身に纏ったような、セヴァーン子爵がもっとも嫌うタイプの人間だ。「国王と皇太子(次期国王)を除く王族は国政の意思決定に干渉しない」という不文律を、かの王弟が破っていることはロンディニウムでは誰もがうすうす気が付いていた。それでありながら、デヴォンシャー侍従長を始めとした宮中、ロッキンガム首相を筆頭とする行政府ですらそれに対する異議を唱えようとはしない。王子は狡猾にして巧妙で、決して自分には表に出ない。しかし最終的には王子の意向らしきものが王の裁可を得て、彼の意をくんだ大臣や官僚によって進められる。シェルバーン財務大臣やバーミンガム市長トマス・スタンリー男爵-何よりあの王子の元侍従だったという王政庁行政書記長官のヘッセンブルグ伯爵などは、露骨にすぎる。ジェームズ1世が厳格な王であるという世評は(これほどまでに露骨な人事をしておきながら)と、セヴァーンにとっては噴飯ものだ。

そうした王弟の政治干渉も許し難いが、なによりもセヴァーン次官の苛立ちと焦燥を深めるのは、やはり自身が「第2代外務大臣になれないのではないか」という点に尽きた。王子がゲルマニアに対する警戒心を持っているのは、昨年初頭の御前会議の場での王子の発言によりアルビオンの外交と軍の首脳部の間では共通認識となっている。そしてある程度その懸念は正しい事であったのは現状が証明していた。

(だからどうしたというのだ)

所詮、ゲルマニアは大陸国家。アルビオンの交易と安全保障には影響を与えるような存在ではない。それをあえて敵対視して、こちらから関係を悪化させるような事をしてどうするというのだ。木を見て森を見ず、一冊の青少年閲覧禁止本が入っているからと図書館を閉鎖するような話ではないか。だからと言ってモートン伯爵の言葉に容易に頷く事は出来ない。良くて不敬罪、下手をすれば反逆罪だ。しかし、目の前のこの男が考えも無しに軽率な事を口にする性格にも見えない。不用意な答えを返す事は許されず、かといってこの伯爵の真意がわからないのに沈黙という答えを返すわけにも行かない。

逡巡するセヴァーン次官の心中を見透かしたかのように、モートン伯爵は結論を急がなかった。

「今答えを返していただく必要はありません・・・ですが、現政権とあの男とのつながりの関係の深さは、事情に詳しいもの察しがついております。狡猾なあの男がボロを出さなくても、現政権に何かが発生する時こそ、何かが起こらざるを得ません」

あの男の存在を好ましく思っていないものは意外と多いのですよと、軽く口を吊り上げながら言った。そのひどく無機質な笑みに、セヴァーン子爵は思わず目線をそらした。

「言いたいことは言ったか?ならば帰りたまえ」

さっさと出て行けといわんばかりにドアを指差したセヴァーン子爵に、モートン伯爵はもう一度、今度は自分自身に言い聞かせるかのように言った。

「あの男の存在を好ましく思っていないものは多いのです。それをお忘れなき様に」

部屋を出て行くモートン伯爵の背中めがけて、セヴァーン子爵は腹の底で「そんなに商工大臣になれなかったことが悔しいのか」と罵りながら、激しい後悔の念に襲われていた。好奇心が猫を殺すとはよく言ったものだ。何故自分はあの男と会おうとしたのか。何故不用意にも会ってしまったのか。何故自分は・・・あの男の話に魅力を感じてしまったのか。

-そう、私は何も知らない。あの男が勝手に喋っていただけだ

両眼鏡の下で、セヴァーン次官の眼は胡乱気に泳いでいた。半ば強引に酒でも飲まされた気分だ。理性が水を飲んで意識を鮮明にしなければならないと警鐘を鳴らし、このまま場の空気と酒に身を任せていたいような甘美で魅力的な言葉に酔っていたいとも思う。そうした感情とは全く無関係に、セヴァーン子爵にはこれ以上あの伯爵と関わる事への本質的な恐れもあった。

「・・・私は何も関係ないのだ」

言葉とは裏腹に、セヴァーン子爵ロバート・パーシヴァルの胸中の不安は色濃くなるばかりだった。



外務省最上階の廊下は、外部の人間の立ち入りを拒むかのような重厚なただ住まいをしている。多くのものが気後れする次官室と大臣室に繋がる白絨毯の上を、元財務次官はあえてその感触を確かめるようにゆっくりと歩いた。途中、次官決済書類を持った職員とすれ違った。職員達はモートン伯爵の存在を訝しがったが、直に自分達の仕事に意識を戻してあわただしく通り過ぎていく。それは呆れるほどいつもと変わらない日常。そして何一つ同じことはない日常。外務省庁舎の中でその事実に思いをはせる事が出来るのは、今はこの男だけである。

「種」は植え付けた。何が芽吹くかは水と肥料次第。その手間を惜しむつもりはないが、手応えはあった。何れ訪れるであろう「その時」までに、まだまだやらねばらないことは多い。自分に恥をかかせて使い捨てにしたあの王族に、国政を歪めるあの男を追い落とすために。

「出る杭は打たれるもの、か」

それはかつて財務次官時代に強行に商工局独立をはかり、枢密院書記長官時代に省庁再編案の批判の矢面に立った彼自身に向けられた言葉である。何れも惨めに敗北したモートン伯爵は、その言葉を身をもって知らされた。罵倒と嘲りの中、この伯爵はその日に焼けた顔を崩さず、ただそれに耐え続けた。

「3度目は・・・ない」

モートン伯爵の言葉は、誰もいない外務省の廊下に静かに反響し、そして消えていった。



[17077] 第46話「奇貨おくべし」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:b679932f
Date: 2010/10/06 19:55
かつて大陸に趙(ちょう)という国があった。今の河北省南部を治めていた国である。都の邯鄲(かんたん)は中元のほぼ中心に位置した地理的要所であり、商工業や他国との交易が盛んで、また中原文化の中心都市として大陸各地から文士や学者達が集まった。西の大国の台頭はこの国の力では抑えきれるものではなくなっており、人々は国の爛熟期によくみられる最後の繁栄を謳歌していた。

その都に一人の王子がいた。奇妙なことにこの王子は西の大国を治める太子(次の国王)の王子でありながら、庶子であったために趙への人質として邯鄲で暮らしていた。祖国からの仕送りは申し訳程度のものであり、その日の食事にも事欠く有様であったという。こうした扱いからして、この王子がさほど国の中で重要視される存在でなかったことがわかる。そして趙の政府も、この人質であるはずの王子をさほど重要視していなかった。それゆえ、韓の商人がこの王子に接触したことも把握していたかどうか疑わしい。

韓の商人は王子に対して身の回りの世話を申し入れた。自身が見捨てられた存在であることを誰よりも知る王子は、商人の申し入れを内心ありがたく思いながらも、警戒してその目的を問いただした。

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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(奇貨おくべし)

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ガリア王国の西部、延々と続く砂の海の彼方に、始祖ブリミルが降臨した地である「聖地」が存在する。しかしその場所に人間が足を踏み入れることは出来ない。強大でいまわしきエルフがそれを拒んでいるためだ。彼らは聖地を「シャイターン(悪魔)の門」と呼び、人間の侵入を固く拒んできた。幾度も聖地回復を目指した軍が派遣されたが、そのたびに人間側はエルフの強大な武力を前に敗北。アーハンブラ城攻防戦で知られる「第10回聖地回復運動」(5990-94)を最後に、聖地回復運動は下火となり、もはやそれを真剣に唱えるのはロマリア宗教庁でも少数派になっていた。お題目としてならともかく、まともな政治課題としてそれを掲げる勢力は皆無といっていい。

しかし、人間とエルフの関係は完全に途切れた事はない。両者はそれぞれの思惑を抱えて水面下での関係を維持し続けたためだ。

人間にとって、エルフは聖地への立ち入りを拒む忌まわしき存在ではあったが、自分達をはるかに超える水準の武器や科学には興味があった。早い話、金になるのだ。ブリミル暦3000年代に全盛を迎えたロマリア教皇の権威の下、聖地回復運動(第3回~8回)が繰り返されたが、失うもの多くして名誉以外に得るものなしという戦に従軍する諸侯や国王に対して、多くの商人は競って出資を行った。商人達は軍事費と引き換えに、エルフの技術を持ち帰ることを望んだ。たとえ一部であったとしてもそれを活用することが出来れば、莫大な利益が見込めたからだ。元より勝てる戦ではない事は承知の上。敗戦を前提としたリスクの高い出資に多くの商人が破産し、名の知れた大商会が没落したが、彼らの献身によって少なからぬエルフの技術がハルケギニアにもたらされたのも事実である。鉄砲や大砲といった武器から、製鉄技術、農業技法に医療などがそれだ。ブリミル暦3000年代の聖地回復運動がなければ、ハルケギニアは貧しいままであろうとする研究者も少なくない。

一方でエルフにとって「蛮人」(人間)は、勝てるはずもない戦争を挑んでくる目障りな存在であった。しかし約6千年前に「大いなる災厄」をもたらした悪魔ブリミルも蛮人。「シャイターン(悪魔)の門」の守護者としては彼らの動向を無視することは出来ない。それに個々の力は弱いが、結集した蛮人の力は決して侮るべきではないことをエルフは蛮人との戦いを通じて知っていた。それゆえ、自分たちの技術を求めて砂漠を越えてくる蛮人の隊商(キャラバン)に、交易そのものに興味はなかったが、蛮人世界の情報を集めるために受け入れもした。たとえそれが「ひも付き」であろうともだ。


「人間とエルフは喧嘩しているようでしていないのじゃよ。もっとも、あちらさんからすれば喧嘩相手にもみなされていないのだろうが」

アーハンブラ城からおよそ130リーグ、いくつかのオアシスを経由しながら、砂漠の真ん中をラクダに揺られて進むクーン・ローブ商会のジョヴァンニ・ジョリッティは、自分の孫ほど年の離れたジェイコブ・シフに、聖堂騎士隊に聞かれたら駄々ではすまないような内容を、さも気安い口調で話していた。ラクダ-この馬に似た多少毛深い動物は、砂漠の厳しい酷暑や乾燥に強く耐久性や持続性にも優れているため砂漠を往来する行商人にとっては欠かせない動物ではあるが、いかんせん乗り心地が悪い。その独特のペースに慣れないまま気を抜くと、すぐに落馬してしまう。背中のコブに腰を縛り付けるかのようにして必死にバランスを取っているシフとは対照的に、ジョヴァンニ翁は汗ひとつかかずに悠然と乗りこなしている。ブレーメンに本店を持つシュバルト商会と勢力を二分するロンバルディア商会で、エルフ・東方との交易を専門に扱うクーン・ローブ商会の代表として40数年の長きにわたり二つの世界を見てきた老人の言葉は、決して商人としてのキャリアは短くないシフにとっても驚きの連続だった。

「で、では、私たちは、交易に赴くのではないのですか」
「そうでもあり、そうでもない。あちらさんには『蛮人』の作るものに興味はない」

シフの後ろでは腕一本で人を殺せそうな筋骨隆々の男達が、何十頭も綱でつながったラクダの綱を引いていた。砂漠の民である彼らの肌は、同じ人間とは思えないほど日に焼けている。彼らの中には生まれつき肌の黒い者もいるというが、あながち誇張とは思えない。彼らが牽引するラクダの背中には、山のような交易品が積まれている。ロマリアの絨毯やガリアの高級毛織物、ザクセンの白磁器など、平民では一生お目にかかれない代物ばかりだ。シフとて、ロンバルディア商会でこれらの品々を王侯貴族専門に取り扱う部門に配属されていなければ、触れるどころか見ることすらかなわなかっただろう。そんな桁外れの品々に興味がないというエルフとは、いったいどんな生活を送っているのか。

「暑い砂漠の真ん中に住むエルフが毛織物だの、毛皮だのを欲しがると思うのか?」
「・・・私なら怒りますね」
「『モノ』が欲しいわけではない。情報が欲しいのじゃよ」

「情報が欲しいのはこちらもだが」と言いながら、ジョヴァンニは頭のターバンを手で直す。飄々として体のどこにも力が入っていないが、同じくどこにも隙はない。砂漠という命が水よりも安いこの土地を駆けて、表向きは教会の目をかいくぐりながらエルフ相手に商売にいそしむキャラバン商人の思考は、同じ商人であるはずのシフとはまるで異質なものだ。「いらないというのなら、もって帰るだけじゃな」というジョヴァンニの言葉にキョトンとした顔をした若い商人に、老人はその顔の皺を深くする。

「そう難しく考えることはない。そのままの意味じゃて。お前さんも品定めをしておけよ。中々こんな高級品はお目にかかれないからの・・・いや、お前さんは元々これが専門だったな。わしとした事が、まさに『坊主に祈祷書』じゃな」
「・・・ッ!い、いや、しかしそれは!」
「そうそう、ひとつだけアドバイスするなら、最初のうちは欲張らないのがコツじゃ。小遣い稼ぎ程度でな。急に羽振りがよくなると色々悪い噂も立つ。そうなるとさすがにロマリアの本店も黙ってはいられないからの」

「まさに役得じゃ」と嘯く老人を、シフは信じられないという思いで唖然と見つめ返した。この老人は公然と横領を進めているのだ。その顔には戸惑いの色と、目の前の財を素早くエキュー金貨に換金する強欲な商人のそれが入り混じっていた。欲のない人間は信用ないし、自分の欲にだけ忠実な人間と砂漠を旅する事は出来ない。ジョヴァンニ翁はシフの表情に満足そうに頷き返す。

「これの『出資者』は表向きはロンバルディア商会系列の商人ということになっておる」
「表向き、ですか」
「左様、表向きじゃ。意味は解るな?」

老人の顔から無駄な感情の一切が消えたことを見て取ったシフはその表情を強張らせた。ハルケギニアでエルフの情報を求めるものといえば、国境を接するガリアか、『聖地』奪還を掲げる教会のどちらしかない。おそらくその両方から代金は出ているのだろう-もしくは両方からふんだくっているのか。全ブリミル教徒の敵であるエルフの本拠地に、彼らにとってもっとも忌まわしいガリアとロマリアの代理人として赴く。その事実に、シフは恐れおののくように首を横に振った。どうやらラクダの乗り心地に慣れてきたようだ。

「エルフの長い耳でも人間界の情報は聞こえないらしい。桁外れの強さと美しさゆえに、彼らは人ごみに紛れ込む事が出来ない。協力者がいるのなら話は別じゃが」
「過去には、そういう人間もいたという事ですか」
「聖戦華やかなりし頃は、むしろそういう輩が多かったというぞ。実際にエルフと戦ったからこそ、噂やデマに惑わされる事なく付き合うことが出来たのだろうが、それも昔の話。エルフにとって人間から情報を直接機会は限られているからな。それがわしらの最大の強みだ」

シフは自分達に課せられた使命の重さに気が遠くなる思いだった。エルフと教会相手に二重スパイを働くというのか。下手をすれば情け容赦のない聖堂騎士に火あぶりか、エルフに八つ裂きにされて食われるか。少なくともろくな結末には至るまい。強張る彼をなだめるように、ジョヴァンニは報酬の話を始めた。

「その分利益は大きいぞ?聖堂騎士隊でもない商人のわしらにはそこまでの元は求められては居らん。雲を掴むようなほら話でないかぎりは、それらしき事を言っておけばよいのだ。何せ彼らには確かめるすべがないのじゃからな・・・それにばれたとしても、こんな面倒くさい仕事を引き受けてくれる商人は早々いない。よほどぼったりしない限りは、奴らはわしらを使わないわけにはいかないというわけじゃな」
「・・・口止め料というには高すぎますし、リスクの割には安すぎますね」

その言葉に再び満足げに頷くジョヴァンニ。20年ほど前の自分なら商売敵となる前に排除しただろうが、この年になるとそうした気力は萎える。若さへの嫉妬は当の昔に止め、今では滅びの美学とでもいうのか、自分の野心と体力が衰えていくのを楽しむ事が出来るようになった。

「坊主はしわいと相場は決まっておる」

かっかっかっと大笑する老人に、シフは自分の得ることの出来る利益に目がくらむ思いだった。老人の話を聞く限りにおいては、よほどのヘマをしない限りはこの仕事を続ける事が出来る。それにエルフとの交易では思いがけない商機が得られることもあるだろう。こんな美味しい仕事にめぐり合えたことに神と始祖に感謝しながら、同時に責任の重さに身が引き締まる。「信用の次に金、金の次に命」というジェノヴァ商人の端くれとして血が騒ぐのを抑えられない。

「おうおう、見えてきおったぞ。あれがエルフの都じゃ」

「・・・・・・・・・・・は?」

砂漠の彼方に「ありえないもの」が見えた。

それが蜃気楼でないことを確認したジェイコブ・シフは、自らのジェノヴァ商人としての血の滾りが急速に冷えていくことを感じながら、口をポカンとあけたままラクダから落ちた。



エルフに国はない。あるがない。ないがある。あるけどない。

要するに「蛮人のいう国家などわれらにはない」ということらしい。エルフは部族ごとに『我らの土地』である砂漠(サハラ)に部族ごとに別れて住む。元々エルフは部族同士が反目し合い、相互の連携や交渉も限られていたという。しかし「蛮人」の存在がエルフを団結させた。聖地回復を掲げて攻め込んでくる蛮人の大軍は、最初のうちこそ圧倒的な魔法科学技術の差で一部族でもつき返す事は可能であったが、蛮人が技術と戦術を進化させると各部族が連携して戦う必要性に迫られた。何より、蛮人と戦争を終わらせるためには

「これこれこういうわけで戦を終わらせたい。捕虜の扱いについては~国境線については~」

というエルフ全体の意思を統一して示す必要があった。悪魔を信奉する蛮人と交渉することに多くの部族は拒否反応を示したが、それが無益な戦争が長引く事になる事を知ると、しぶしぶそれを受け入れた。統一した意思を示すための各部族の話し合いの場が、現在の評議会の源流である。蛮人こそ評議会の生みの親といっていい。現在の統領制と評議会制度が確立したのは、聖地回復運動が華やかなりしブリミル暦3000年代。各部族の代表である評議員で構成される評議会と、終身独裁者である頭領。各部族内での平時の自治と軍事警察権は大幅に認められているが、戦時やエルフ全体の脅威とみなされる事態が発生した場合、頭領には絶対的な権限が評議員の支持の下で委任される。蛮人との長きに渡る戦いの中で、王政の欠点も共和制の弱点も嫌というほど経験したエルフならではの体制だ。「彼らの政治はもはやそれ自体が一種の芸術だ」と評した枢機卿の発言が政治問題化したのも記憶に新しい。

エルフ全体の意思を表す組織-つまり国であるネフテス。その首都アディールはダルマティア海沿岸部の人工島である。この地域がエルフの、人間で言う首都に選ばれたのはやはり地理的要因が大きい。忌まわしき狂信者共の総本山が位置するアウソーニャ半島と、波の激しいダルマティア海が隔てるとはいえ海岸線沿いの人工島を建設したのは、いかにエルフといえども都市人口をまかなうだけの水資源を砂漠から供出することは不可能であったからだ。代わりにエルフは海水を淡水に浄化して、生活飲料水を初めとして、農業用水・工業用水などに利用している。

地上数百メイルにもなる巨大な評議会本部-通称カスバに驚いて落馬・・・いや、落駱駝(らくらくだ?)したジェイコブ・シフは、砂漠の先に現れた鮮やかなエメラルドブルーのダルマティア海には目もくれず、直径数リーグもの同心円状の人工島が連なるネフテスの規模に圧倒され、中心に聳え立つ評議会本部(カスバ)に腰を抜かした。エルフの先住魔法が人間よりはるかに超えたものだとは聞いていたが、さすがにこれは想像以上だ。海があるとはいえ、砂漠のど真ん中にこれだけの規模の都市を作るエルフと、戦争をして勝てるはずがない。その代わりといっては何だが、初めてエルフというものに対面した時にどうするかという恐怖や不安はどこかに吹き飛んでしまったが。この圧倒的な光景を前にすれば、エルフの耳が多少とんがっていようが、その眼差しが自分たちを蔑んでいようが、そんなことはどうでも良くなってしまう。

「ふぉっふぉっふぉ、驚いたようだな」
「まさか、これほどとは・・・」

自分の感情をむやみにさらすなど商売人としては失格だが、ここでの交渉相手は人間ではない。ここで驚きや恐怖といった足かせとなる感情を吐き出してもらわないと、交渉の場で支障が出る。これまでシフのように落駱駝した人間を数多く見てきたジョヴァンニは、その醜態を老人特有の意地の悪い笑みを浮かべて見ている。

到着して直ぐの興奮冷めやらぬシフは、さきほどまで一人で部屋の温度と湿度を上げていた。

『これだけの人口、おそらく1000や2000では利かないでしょう。それをまかなうだけの膨大な水を海水から作り出すとは・・・そう、塩だ!海水を何からの方法で淡水を取り出すのであれば塩が残るはず。そう、余るはずです!会長、ぜひエルフに塩の取引を-』
『すでにやっておる』
『え』

文字通り「え」と絶句したシフには悪いが、それはすでに十数年前からジョヴァンニが始めていた。当然「密輸」だ。ここ10年余りの塩相場の下落により、ガリアやトリステインが塩の国営化を廃止したのは民間での密造塩流通が原因であるが、間違いなくクーン・ローブ商会の密輸塩がその多くを占めているだろう。何せ必要なのは運送コストのみ。ノロマで間抜けな官吏の目を誤魔化して国営所と同じ袋に塩をつめて売りさばくことなど容易いことであった。


国防委員会所属の評議会議員との折衝を終えたクーン・ローブ商会の一行が通されたのはネフテスの東岸。俗に「迎賓館」と商人たちは呼んでいたが、言葉の華麗な雰囲気はまるでない。人間が好む装飾品を「下品」と言い切るエルフらしいといえばそうなのだが、それを差し引いてもこの建物は倉庫と変わらないように見える。この扱い一つとってみても、エルフの人間に対する感情が伺えた。ただ埃くさい外見とは裏腹に、中は涼やかな風がどこからともなく流れ込み、快適な室温が保たれている。これもおそらく先住魔法か、魔法技術の応用なのだろうが、それが風魔法なのか水魔法なのかすら人間には解らない。

心地よい温度に身を任せながら絨毯に胡坐をかいて座り、水タバコを吹かすジョヴァンニは、先ほどのエルフとの交渉におけるシフの態度に大いに満足していた。さすがに王侯貴族を相手に高級品をもっぱら専門として取り扱っていただけあって、シフのエルフ扱いはたいしたものである。徹頭徹尾上から目線のエルフに対して、百戦錬磨の商人であっても激昂して席を立つものも多い中、シフは下手に出ながら、しかしけして卑屈にならずに堂々とエルフと向き合っていた。

「しかし、驚きました。エルフがあそこまでハルケギニアの政情に詳しいとは」

同じように絨毯に胡坐をかいて座るシフの表情には、カスバの巨大建造物を始めてみた時とは異なる種類の驚きが浮かんでいた。とがった耳と長く透き通るような金髪という昔話に聞いていた通りのエルフの容貌に、シフは素直に喜んだが、それは人間に極めて似た容姿の彼らが、自分たちとは違う種族の生き物であるということをいやおうなく突きつけてもいた。後から知ったことだが、エルフは実年齢よりも容貌が若く見えるという。どう見ても30代前半だと思っていた評議会議員達が、あとから両人とも50代だと知ったシフは心の底からその容姿に嫉妬したものだ。

そうした感傷は評議会議員が口を開いた瞬間に消えた。涼やかでありながら高圧的な調子でエルフが発した第一声は


「穀物相場の乱高下と資金の流動性の関係について聞きたい。蛮人の王は市場における資金の流れについてどの程度把握しているのか」


不覚にも頭が真っ白になってしまった。何とかそれらしき答えを返すことが出来たが、納得してくれたかどうか。困ったのはエルフの表情がほとんど変わらないことだ。シフは途中から自分はよく出来たガーゴイルに向かって話しているのではないかと疑ったほどだ。相手の感情がさっぱり読み取れないため、言葉に詰まったのは一度や二度ではない。何が『適当に誤魔化しておけばいい』だ。下手な商人よりもよほど目の前のエルフの方が諸国の情報に通じていたではないかと、口には出さずにジョヴァンニへの恨み言を並べるシフ。

「『シャルル12世とパンネヴィル宰相との関係』だの『次期ロマリア教皇の予想される有力候補とその思想』だの・・・そんなことがわかるなら、私はわざわざ砂漠の真ん中でエルフ相手の商売に来ませんよ」

忌憚のない言葉に口をあけて大笑するジョヴァンニ翁。その姿を見ていると、もしかしてこの爺は自分を砂漠の長旅の暇つぶしとしてつれてきたのではないかというあらぬ疑いすら覚える。

「まぁ、あの鉄面皮どものハッタリも入っているだろうが、穀物相場の高騰は戦争の準備ではないかと疑ったのだろう・・・それにしても、今日の態度は妙だったの。いつもなら初対面の人間にはもっと態度が柔らかいのだが」
「ハッタリ?エルフがわれわれ相手にですか」
「さよう。海で隔てられているとはいえ、海岸沿いに巨大な人工島を築いたのは、対岸の悪魔の総本山に自分達の技術を見せ付けるため。あの高圧的な態度も、蛮人に技術をひけらかすのも、全ては人間を恐れているからじゃ」

その言葉に首をかしげるシフ。自分はその端緒に触れただけだろうが、それでもこれだけ圧倒的な技術を持つエルフが、どうして人間を恐れるというのか。ジェイコブは顎鬚を伸ばす様に扱きながら言う。

「感情表現に乏しいのは確かだが、エルフとて家族や一族、部族といったコミュニティの中で生活しているのだ。基本は人間と変わらんわ。あのプライドの高さと見下した態度は、自分達の恐怖を隠すため。何せ我らは『悪魔の僕』だからな」
「悪魔とはまた・・・嫌われたものですね」
「何故かは知らんが、エルフは始祖を『悪魔』と呼ぶのじゃ。始祖によほど痛い目に合わされたということかの。これも始祖様々というわけか」

おどけた様に胸の前で聖具の形をきるジョヴァンニ翁に、シフは呆れたように肩をすくめた。

「そんな6000年も前のことで、私達は『聖地』から締め出されているのですか?」
「わしらとて何があるかわからん『聖地』にこだわっておるという点では似たようなもの。しかし、聖地への旅行を企画したら儲かるだろうのお・・・勿体無い、勿体無い」

そう言って美味そうに水タバコをふかすジョヴァンニ翁。砂漠を往来する行商人の間では旅の安全を祈るために信心深いものが多いというが、この老人も例外ではない。ジョヴァンニ翁の場合はその優先価値が他のものと同じか、それよりも多少低いだけだ。文字通り「死」と隣り合わせの砂漠を旅する行商人の多くは、奇妙に欲が削げ落ちるという。厳しい環境で生活しているという点では、彼らは修行僧と変わらないのかもしれない。

自分はどうだろうとシフは考えた。ブリミル教徒の端くれとしては『聖地』に一度お目にかかりたいという気持ちがある。しかし何が何でもという熱意の様なものは自分にはない。その代りに東方(ロバ・アル・カリイエ)からの珍しい物産への興味はある。エルフ領を経由して東方から流れて来たと言う品々の中には用途のわからない物が多かったが、中には純粋なインテリアとして好事家の中で重宝されるものもある。最高級品ばかり取り扱ってきたシフにはガラクタにしか見えないそれらが、宝石並みの高い値段で取引されている場面は仕事柄よく見聞きしたものだ。一部の特殊な人間をひきつけて已まない東方-そこには何があるのか。『聖地』よりもそちらのほうが気になる。

「一体これは何なのでしょうね」

シフが視線の先には、絨毯の上に広げられた「東方からの品々」と証したものが並べられている。ただの鍋の蓋にしか見えないものに、これまた何に使うかわからない鉄で出来た歯車。妙なやわらかさでしなる両端に重しの付いた棒。こうした品々をクーン・ローブ商会はエルフから二束三文で買い取っていた。たまに好事家の目に留まれば儲け物だというが、これらはどう見てもガラクタにしかみえない。

「さあ。それがわかればもっと高値で売れるのだが・・・お?この棒・・・」

奇妙な柔らかい棒を手に取ったジョヴァンニ翁は、何故かそれを両手で握り、体の前に垂直に持ってくると

「おおお!おお・・・おおお・・・おおおおお!」

激しく揺らし始めた。

「ここここ、これれれははは!いいいいぞぞぞぞおおおお・・・・おおおお・・・」
「そ、そうですか」
「ここコ・・・・これれれれは・・・・き・・・きくうううううう」

完全にアレな目をしている。正直言って近づきたくない。


・・・


「・・・? 何か聞こえませんでしたか」
「さああああ・・・ききっき・・・ののの・・・せいでは・・・ないの(キャー)・・・ないな」

わけのわからない棒で恍惚とした表情をしていた人物とは思えない切り替えの早さだ。何事かと腰を浮かせたシフを目で制するジョヴァンニ翁は不気味なほど落ち着き払っている。これまで幾度の修羅場を潜り抜けた老人に頼もしさを感じながら、シフは身の回りのものをかき集め始めていた。彼にもこれが喧嘩程度の騒ぎ出ないことはすぐに理解できた。

突如響き始めた悲鳴は、最初は遠くから響いていた。それは収まる様子を見せず、次第にその規模を増しているようだ。こういう場合はむやみに騒いでは命取り。冷静に状況を確認するに限る。周囲には自分達と同じ行商人やキャラバンが宿泊しているはずなのだが、物音一つしない。外の様子をうかがおうにも、首を出したところで襲撃されては敵わない。自然と音に耳を済ませることになるが、次第に銃声や女性の切り裂くような悲鳴が混じり始めると、ジョヴァンニ翁はその眉間の皺を深くして「まさか」と小さく呟いた。

「これはカスバの方角では」

その直後、雷の落ちたような衝撃が二人を襲った。天上から砂埃が舞い落ちる中、とっさに身をかがめた二人に怪我はなかった。しかし周囲の宿泊所の一部が直撃を受けたようだ。一瞬のまもなく、馬の嘶きと人の怒声が飛び交い始める。

「せ、戦争ですか?!」
「いや、これはそんなものではない・・・」

ジョヴァンニがそれを言う前に、転がるようにして男が飛び込んできた。

「ジョヴァンニ会長、無事か!」
「バトリオか!」

エルフ領に交易を求めて赴く隊商の中には、各国の諜報員も紛れている。エルフもそれは承知しているが、たとえひも付きであっても限度を越えない限りは受け入れた。遭難した商人は何も砂サソリに襲われたばかりではない。このバドリオもその実はサヴォイア王国の伯爵なのだが、今は一商人としてジェイコブの指揮下にあった。緊急事態にバドリオの口調も軍人のそれに戻っている。

「隊商は全員無事だが、人足の何人かと馬がやられた!磁器は大方駄目だ!」
「荷物などどうでも良いわ!動けるものをつれて負傷者の救援に取り掛かれ。それよりこれは・・・」

その間にも明らかに攻撃魔法と思われる激しい音が聞こえてきた。

「国防委員会の警護隊がカスバに駆けて行くのが見えた。それと何人かが、陶片だと騒いでいた」
「何だと!」

膝を叩くようにジョヴァンニ翁は叫んだ。現統領ソロンの強圧的な政治姿勢に評議会内部でも反感が高まっているとは聞いていたが、まさかその手で来るとは。評議会本部での騒動からして、陶片追放を決定するネフテス非常時委員会がクーデター式に開会されたに違いない。

「と、陶片追放ですか?」

聞いたこともない単語をそのまま繰り返すシフ。

「昔は割れた陶器の欠片で入れ札をしていたからそう呼ばれておる。共和制への脅威になる人物や一族-要するに王制を宣言しそうな一族を入れ札で決めて皆殺しするのだ。女子供に老人に至るまでな!」
「そ、そんなむちゃくちゃな!」
「暴君ピッピアスの元でのネフテスの政治的混乱を付いて始まったのが第3次聖地回復運動だからの。そうした背景があるにしても、エルフの王制への拒否感は病的としかいいようがないわ!」

その間にもバドリオは軍人らしくきびきびとした動きで窓に箪笥を寄せ、施錠を確認して廻った。魔法の直撃を受ければどうしようもないが、その時はその時だ。バドリオの言葉にシフは腹を括ったが、膝の震えはどうしようもなかった。

「警護のエルフがいうにはここから出ないで頂きたいという事。出れば命の保証はないということです」
「いわれるまでもないわ!鉄砲玉飛び交うところに出てたまるか!」

ジョヴァンニが話している最中も周囲に直撃が響いた。その言葉を聞かずに、バトリオは飛び出していった。負傷者の救護に行ったのだろう。ロマリア人は組織では駄目だが、個人プレーではザクセン人にも劣らないという世評を体現していた。

「え、エルフは、こんな野蛮な事を繰り返しているのですか?」
「そんなわけがあるか!」

ジョヴァンニ翁は吐き捨てるように言った。長くエルフと商売をしてきた自分でも、一度か二度話に聞いていた程度のもの。前例をさかのぼれば楽に1000年以上遡るだろう。かつて『陶片追放』はその名のとおり、王制を宣言しそうな一族や僭主を追放するためのものであった。しかし現在行われているこれは、反体制派に弾劾を受ける前にソロン統領とその支持者が先手を打ったクーデター以外の何物でもない。

「共和制への敵であるとして、自分の反対勢力を粛清するつもりなのだよ。たいした統領さまだな」

ジョヴァンニの言葉尻に純粋な怒りを感じたシフは首をすくめた。こうした激しい一面もあるのかと感じていると、次第に歓声と怒号が遠ざかっていく。

「どうやら掃討作戦に移ったようじゃ」
「・・・女子供の例外はないのですか」
「そういうことになっておる。『陶片追放』の入れ札は『大いなる意思』というエルフの神に誓うものだからな。宗教庁に『異端』扱いされた国家反逆者と同じ事だ。例外はありえない」

シフは唐突にエルフは共和制を信仰しているのだと思った。入れ札での投票、異論を受け入れない苛烈なまでの弾圧、体制を守るための手段を問わないやり口。相反する存在であるはずの宗教庁と瓜二つだ。思えば聖地回復運動がなければ、ネフテスという国が出来ることもなかった。いわば両者はコインの裏表の様な存在。似ていて当然なのかもしれない。


その時だった。




海に浮かぶ人工都市アディールは死の臭いが立ち込めていた。時折見つかる反逆者の一族の悲鳴が響き、人々は耳を塞ぐ様に窓を堅く閉め切っている。リノリウムに似た人口の路面を、一人の若いエルフが歩いていた。視線は軽く伏せられている。路面の上には、間隔をあけながら血痕が点々と続いている。彼はそれを追跡していた。

国防委員会第三局-共和制に仇する反乱分子を鎮圧する統領の剣。国家の楯として同胞を守り、剣として蛮人と反逆者と戦う-戦士小隊長の彼は自身の職務に誇りを持っていた。それが今はどうだ。守るべき同胞に剣を向け、ある男の地位を守るための命令である事を知りながら『大いなる意思』が命じた事であるとして自分を偽っている。

先ほどその剣を向けた男性-自分もよく知るその人は、いつもと変わらぬ悠然とした態度で自分に言った。

『大いなる意思に恥じる事がないならやりたまえ。私は君を恨まない』


「ビターシャル、ビターシャル隊長!」

国防委員会第三局所属戦士小隊長のビターシャルは、声をかけてきた部下に振り返らずに報告を受けた。返り血を浴びた自分の顔を見られたくなかったからだ。

「・・・仕留めたか?」
「はい。例の母娘を除いて32名の『追放』を確認しました」
「よし。第三通りの封鎖を続けろ。増援部隊が到着次第、各地区の捜索に移る。テニス!」
「はッ!」
「ここの指揮を任せる。あの母娘は私がやる」
「「「はっ」」」

そのまま振り返らずに追跡を開始した隊長を、部下達は畏怖と嫌悪の入り混じった表情で見送った。エルフの中でも精霊魔法に長けたビターシャルは戦士達の尊敬と敬意の的であったが、今や唾棄すべき権力の犬でしかなかった。

「あの男、よくやるぜ。クライシュ族のキュロン議員には散々可愛がられたくせに」
「点数稼ぎだろう。隊長の部族はただでさえカスバでの発言力が小さいからな」

あえて聞こえるように言われた陰口に、ビターシャルはじっと耐えた。できる事なら今すぐ任務を放り出し、故郷の村に帰りたい。しかしそれは部族の破滅を意味する。我がノガイ族は余りにも弱小。統領と正面から敵対してネフテスで生き延びる事は不可能だ。

(・・・言い訳だな)

同僚であるアロンは堂々と任務を拒否。結果、ファーリス(騎士)の称号を剥奪され出世の道は立たれた。アロンは魔法では自分にはるかに劣っていたが、その心は間違いなく騎士に相応しい。権力に屈して恩人を裏切り、自分の部族を守るため『大いなる意思』には背けないなどと言い訳を探し続ける自分とは違う。

キュロン評議員は他部族の自分を可愛がり家族ぐるみの付き合いをしてくれた。事実上自分の政治的な後ろ盾であり、公私に渡って可愛がってくれたことをソロン統領が知らないはずがない。これは統領が自分に出した踏み絵だ。自分をとるか、キュロンをとるか。アロンはキナーナ族というネフテス有数の大部族出身。騎士の称号を剥奪されても、命までとられることは・・・

ガィンッ!

ビターシャルは側にあった街灯を殴りつけた。

「私は」

ビターシャルは自分の思考に絶望した。キュロン評議員を手にかけたこの期に及んで、まだ理由を他者に、自分以外の何かに探そうとしている。自分が任務を拒否出来ず、アロンに出来たのはその背景が違うからなどと・・・任務を受け入れたのは我らがノガイ族ではない。自分なのだ。

今更後戻りは出来ない。そう自分に言い聞かせてビターシャルは母娘の追跡を開始した。


「・・・ここは」




シフは目の前の光景を受け入れる事を否定したかった。夢だといいなと顔をひねり、腹をひねり、耳たぶをひねりあげたが、痣を体中に刻むだけに終わりそうだ。要するに「腹から血を流した瀕死のエルフの女性と、その娘らしき少女が飛び込んできた」という目の前の光景は事実だという事である。

「・・・テテュス評議員!」

なすすべの知らないシフを尻目に、ジョヴァンニ翁は女性に駆け寄った。テテュス評議員-その名はジョヴァンニから聞かされていた。エルフでも数少ない女性の評議員にしてソロン統領に対する反対勢力の中核であるクライシュ族選出の評議員。そしておそらく、現在『追放者』としてネフテスから終われる立場にある身-シフの顔が青ざめた。対岸の火事が一気に川を跳び越して目の前で燃え移ろうとしているのだ。

「ジョヴァンニ・・・貴方でしたか」
「気をしっかりもちなされ。傷は浅いですぞ」

シフは思わず目をそらした。白い肌が特徴的なエルフでも、テテュス評議員のそれは明らかに死相である。ジョヴァンニ翁の妙に明るい声が虚しく響く。何より娘らしき少女が、必死に母の手を握り締めているのを見るのは忍びなかった。

「ふふふ、貴方にはよく煮え湯を飲まされたものですね」
「そうですな。そしてこれからも飲んでいただかねばなりません。我が商会の利益の為にも」

テテュス評議員が微笑む。その口の端からは赤黒い血が一筋流れた。

「・・・残念ながら、貴方に借りを返してもらう事は出来ないようです。その代わりといっては何ですが・・・」
「お母さん」

娘の頭を撫でるテテュス評議員。一体自分を含めた人間は、エルフの何を以って怯えているのか。議員の顔は、一人の母親としての慈愛と悲しみに満ちたもの。これを見ても尚、エルフを化け物と批判する事はシフには出来なかった。

「イリーナ、よく聞きなさい。これは『大いなる意思』が貴方に与えた可能性です」
「可能性、ですか?」
「そう、可能性です。貴方はまだ若い。エルフの考えに囚われる事はありません。今の貴方なら、様々な物の見方や考え方を自分のものとすることが出来るでしょう。貴方さえ歩こうと思えば、どこまでも歩けます・・・世界は貴方の前に広がっているのですよ」

テテュス議員はジョヴァンニと視線を合わせた。先ほどよりも顔色が悪くなっている。

「この子を・・・頼めますか」
「会長!それは」

シフの咎めるような言葉はジョヴァンニの有無を言わさぬ視線の前に黙らざるをえなかった。一人の母親の命を懸けた頼みだ。情としてはシフも頷いてやりたい。しかし議員の頼みを受け入れる事はネフテス全体を、引いてはエルフ全体を敵に回すことを意味している。例えそれが政治的なものであろうと、イリーナは『大いなる意思』から存在を否定された身。ネフテスで見の置きどこのない彼女を匿うには、人間の世界に連れて行くしかない。非常事態宣言下にあるアディールから連れ出す事だけでも至難の業だ。なにより上手く連れ出したとして、もし発覚すれば、例え宗教庁と太いパイプを持つジョヴァンニといえどもただではすまないだろう。

ジョヴァンニ翁はこの場の空気に抗するかのように、あえて茶目っ気を含ませながら言った。

「私どもは商人でございます。我らが信仰するのは金ではありません。自身の才覚でございます。『大いなる意思』や教会を恐れることなどありません・・・お嬢様の事、確かに承りました」
「・・・貴方らしい言い方ですね」

テテュス評議員は笑わずに軽く頭を下げた。クライシュ族が『追放者』となり、自分の命の炎も尽きようとしている今、頼る事が出来るのは目の前の老いた蛮人の善意しかない。たとえ彼の協力を得られたとしても、娘であるイリーナはこれから蛮人世界で一人、身を潜めて生きていかなければならないのだ。そのことに誰よりも心を痛めているはずの彼女は、しかしその顔に不思議と不安の色はなかった

「イリーナ、こちらに来なさい」
「はい、お母様」

気丈な子だ。この期に及んでも、涙一つ流さない。母は娘の体を抱き寄せた。その口が小さく「ごめんなさい」と動いたのを、シフは確かに見た。

「目を瞑りなさい」
「・・・はい」

テテュス議員は呪文を短く唱えて手を振る。同時にイリーナが崩れ落ちるように地面に伏せこんだ。慌ててシフが駆け寄り、その小さな体を抱きかかえる。この小さな体で母親をここまで連れてきたというのか。

「・・・眠りの、呪文です。検問を越える、助けになるでしょう・・・」
「感謝いたします」

テテュスは眠るように目を閉じた。これで役目は終わりだといわんばかりに、ジョヴァンニ翁の握る手が急速に冷たくなっていく。気付けば絨毯は血の色で染まっていた。

「・・・酷い母親ね。娘をたった一人、別の世界に投げ出す事になるというのに・・・何もしてあげる事が出来ない。それでも・・・それでも願わずに、言わずにはいられない。これが、母親の業なのね・・・イリーナ」



生きなさい



***

評議会本部(カスバ)は一夜明けてもなお、混乱と混沌の中にあった。1900年ぶりに行われた『陶辺追放』により、五大部族のひとつクライシュ族が追放対象となったのだ。クライシュ族はソロン統領への反対姿勢を強めるキナーナ族とは違い、中立派として評議会内に勢力を築いていた。今回の『追放』は、例え中立派であろうとも自身に味方しないものは容赦しないというソロン統領の意思表示であると受け止められた。そして何よりもソロン統領は実際に実行に移したのだ。

『追放』が決定しても、それは文字通り「追放」に収まるであろうと考えていた中間派の評議員は、実行部隊である国防委員会第三局を使って追放決定からわずか数時間で主要な議員や有力者を『追放』、老若男女問わず遺体を晒した行為に、自分たちの考えの甘さを知った。『大いなる意思』を個人のために使ったことは明らかであったが、多くの評議員が沈黙を保ったことがそれを証明している。首筋に銃剣を突きつけられて、そこまで開き直れるものはエルフといえども多くない。「次はお前達だ」と受け取った反対派議員は、ある者は自宅に引きこもり、ある者はカスバ内に与えられた自室で辞表願いを書いていた。そしてまたある者はさっさとソロン統領派への宗旨替えを行い、空席となった評議員枠を自分たちの部族で確保しようと動き始めている。

疑惑と不安が漂うカスバだが、一人の男の姿を見るとあるひとつの感情-「恐怖」で一致する。今回の『追放』実行部隊の中でも最大の功績を挙げたその男が、評議員の家族を眉ひとつ動かさずに『追放』したということはすでにカスバで知らないものはいなかった。

昇降装置のボタンを押し、箱型のそれがあがってくるのを待つ。その彼の斜め後ろにアレウト族選出の若い評議員が物言わずに立った。

「ビターシャル」
「・・・テューリクか」

振り返えらずとも声だけで誰かわかる。彼らはそういう関係であった。今自分に話しかければどういう風に受け止められるかわからない男ではないし、それをわかった上で話しかけてきたのだろう。そのまま二人で昇降装置に乗り込む。たまたま誰も乗っておらず、密談の個室が完成した。

「何が砂サソリだ」

テューリクが唐突に発した言葉に、初めてビターシャルの表情が崩れた。

「テテュス評議員とその娘はどうした。逃がしたのか」
「・・・評議員は死んだ」

この男に誤魔化しは通用しない。仮にこの男がソロン統領の意を受けて自分を探りに来たのであれば、間違いなく自分は破滅するだろう。テューリクがそんな性格ではないことは彼自身がよく知っていたが、いまのカスバでは何が起きても不思議ではない。しかしビターシャルはそれでもいいという気さえしていた。ここで自分が失脚するのであれば、それこそが『大いなる意思』というものではないのか。

「イリーナはどうした」
「・・・小娘の一人や二人、逃がしたところでどうだというのだ。男子ならともかくネフテスを揺るがす存在になりえるはずがない」
「・・・貴様ッ、まさか!」

珍しく驚きの声を上げるテューリクに、ビターシャルは昇降装置のドアを見たまま背を向けていた。

「蛮人が我らを嫌悪していることは知っているだろう。その中であの子が生きられると思うのか」
「・・・それでもここにいるよりはましだ」

あの蛮人の世界で彼女が-イリーナがどんな人生を歩むのか。そんなことは自分にはわからない。しかしここにいれば間違いなく彼女は死ぬ。ビターシャルはテテュス評議員を狙った自分の手元が狂ったのは、躊躇からではなく『大いなる意思』によるものではないかと思い始めていた。傷を負った評議員が蛮人の老商人を頼ったのも、蛮人がそれを受け入れたのも・・・そして自分がそれを見逃したことも。


昇降装置が目的階に到着する。戸が開き、勢いよく風が吹き込んできた。髪を押さえながら自分の風竜の元へ向かおうとするビターシャルの背中に、テューリクが言葉を投げかける。

「俺は力がほしい」

その言葉にビターシャルは振り返った。感情表現に乏しいエルフの中でも、特に感情が読みにくいとされる鉄仮面の彼が、感情をあらわにしていた。

「力とは何だ。力を得て何をする」

ソロン統領とて評議員時代はああではなかった。統領となり、権力の座が彼を変えてしまった。今回の事で彼の地位は強固なものとなった。しかし恐怖による支配はその恐怖によって崩壊することはエルフの長い歴史が証明している。同胞の血でその手を汚した男の憤りと怒りのこもった鋭い視線。テューリクはそれから目をそらさなかった。

「わからない」
「わからない、だと」

そう、わからない。テューリク自身も驚いていた。自分の口からそのような言葉が出るとは。いったい今、言葉を発している自分は本当の自分なのか。目の前の男の殺気に酔っているだけではないのか。それともこれが本来の自分なのか。

「今回の事でつくづく思い知らされた。正しいことをするには、力が要るのだ」
「・・・それではソロンとかわらんではないか」

ビターシャルの問いかけに、テューリクは迷うことなく答える。

「そうだ。あの男を否定するためには、あの男にならなければならない。力がなくては所詮負け犬の遠吠え。敗者のいいわけで終わってしまう」
「・・・貴様がソロンにならない保障があるというのか」
「ない」

一層厳しくなる視線に、テューリクは邪気のない笑顔を浮かべた。

「そのときは俺を殺してくれ」

ビターシャルは何も答えずにきびすを返す。風竜に騎乗するまで彼がテューリクを振り返ることはなかった。






これより12年後、ネフテスで再び政変が起こる。絶対的権力者であったソロン統領失脚の立役者となったのは、評議会の実力者テューリクと国防委員会委員長のビターシャルであった。これ以降、統領は一期3年、再選は3回までという任期制へ移行することになる。




少女-イリーナの、その後の数奇な運命をビターシャルが知ったのは、それよりも後のことであった。





[17077] 第47話「ヘンリーも鳴かずば撃たれまい 前編」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:b679932f
Date: 2010/08/06 18:59
やあやあ皆さん、こんにちは。初めての人は始めまして。夜の人はこんばんは。朝の人はおはようござ(以下略)アルビオンのプリンスことヘンリーです。長年の課題だった治安機関の創設と陸軍の強化策が、省庁再編と一緒に片付ける事が出来たので一安心です。反乱が起きてもフルボッコにしてやります。いやー、今なら何でも出来そうな気がします。空も飛べるはずです。

内閣制度に移行してから早4ヶ月。細かい事を上げればきりはないけど、ロッキンガム首相以下の閣僚と官僚の皆さんが頑張っているお陰で、とりあえずは上手くいってるようです。陸軍庁から省に格上げされた陸軍軍人の皆さんの張り切りようは大変なものだそうで。実際のところ予算はほとんど増やしてないんだけど、名前だけでこれぐらい喜んでくれるなら安いものです。いざというときはよろしくお願いしますよ?警察学校長のパリーは貴族からの突き上げで苦労しているみたいだけど。うん、まぁ、頑張れ。

これでカザリン義姉さんが早く子供を生んでくれれば万々歳。何も言う事は無いんだけど、今のところその気配はない。原作どおりならウェールズが生まれるはずだから、あんまり周囲がプレッシャーかけるのは逆効果になりかねない。それにこういうことは最後は神様次第だからね。精のつくもの食べて、ハッスルハッスル!そうそう、アンドリュー製造時に飲んだ韻龍のヒゲっていう粉末薬がまだあるんだけど、兄貴いる?・・・あれ、あのー、なんでそんな怖い顔・・・あのー、なんで杖を出すの?

「・・・昨日、カザリンがやたらにアレだったのは、貴様が原因か」

い、いや、義姉さんに渡したのはただのビタミン剤みたいなもので、そんな効果はないはずなんだけど・・・え、あのそれ軍杖なんだけど。洒落にならないんだけどぉ・・・

「・・・言いたい事があるなら言ってみろ」
「昨日はお楽しみだったってことでOK?」


ぎゃー


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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(ヘンリーも鳴かずば撃たれまい 前編)

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ランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ=フィッツモーリスは、アルビオン王国財務大臣ウィリアム・ぺティ・シェルバーン伯爵の叔父である。スタンリー・スラックトン前政権下で陸軍長官や内務卿を歴任した彼は、現在貴族院議員として外交委員長の席にあった。当初は商工委員長が想定されていたが、甥が財務大臣の職にあるということを理由に当人が固辞したのだ。このあたりの政界遊泳術の巧みさは、さすがにスラックトン侯爵の下で閣僚を歴任しただけの事はある。その彼をしても、部屋に入ってきた王弟の容姿に思わず腰を引いた。

「へ、ヘンリー殿下、いかがなさいましたか?」
「いやぁ、色々あってね・・・鏡を見ても自分の顔は治しづらいものだね。勉強になったよ、うん。勉強になった」

水ぶくれした顔で自分に言い聞かせるように何度も頷くヘンリー。これは深入りしないほうがいいと察したランズダウン侯爵は何食わぬ顔で椅子を勧めた。貴族院外交委員会はユル、マン、イング、ダエグの曜日と一日置に開催される。いくつかの委員会を掛け持ちする議員もいるためにとられた措置だが、虚無の曜日である今日はどの委員会も休みだ。閑散としたウエストミンスター宮殿の外交委員長室を訪れるものなどいない。その日を狙ってお忍びで合いたいと申し入れを受けた時は驚いたが、意外と人目を気にする常識家だという甥の評価はあながち間違いではないのかと納得もした。

「外交委員長として忙しいだろうに、時間を作ってもらって悪かったな」
「恐れ多いお言葉。しかしここ最近は委員会も閑古鳥が鳴いておりますゆえ、そうしたお気遣いは無用です」

「そういってもらうと助かるよ」と口にしたヘンリーは「去年は忙しかっただろうね」と続けた。

「ええ。昨年前半はトリステインとガリアの仲介交渉が本格化した時期でしたから。毎日のように各国の大使や職員が外務省とここ(外交委員長室)を行き来していたものです。ヘンリー殿下にも全権大使として御尽力いただきました。遅ればせながら感謝申し上げます」
「お飾りの私に礼を言ってもらっても困るよ。それはパーマストン子爵以下の外交当局者にこそ向けられるべき言葉だ」

そういって顔の前で手を振るヘンリー。謙遜ではなく実際にそう思っているから言うのだという顔つきである。甥はこれにやられたのだろうとあたりをつけながら、ランズダウン侯爵は親指の腹で口髭を撫でた。

「なにせ両国とも頑固でプライドが高いから。パーマストン卿(外務大臣)も大変だっただろうね」
「あのお方のよいところは、愚痴や不平不満を人に漏らさない所。『密なるを以って成る』はなかなかできるものではありません」

こちらはヘンリーと違い、素直に人に対する評価を口にする性格ではないランズダウン侯爵だが、その言葉に世辞は含まれていなかった。ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー卿、スタンリー・スラックトン侯爵、そしてロッキンガム公爵と三つの政権で20年もの長きにわたり外務大臣を歴任したこの子爵の手腕を疑うものは外交当局者の中には存在しない。スラックトン前政権下で閣僚として肩を並べたランズダウン侯爵もその評価に異論はなかった。

「通常、閣僚というものは宰相が入れ替わると交代するものですが、彼だけは20年以上あの地位にとどまり続けました。外交の継続性といえば聞こえはいいですが、なかなか食えない男ですよ。まぁ、それだけうまくやっているということでしょうが」
「たしか子爵は政治任用の」
「ええ『貴族外交官』ですよ。子爵家とはいえ彼の家は裕福ですから」

大陸諸国の貴族がそれぞれ国境を跨いで縁戚関係を結ぶのが珍しくないのに比べ、地理的制約のあるアルビオンではよほどの名門貴族でもない限り国外の貴族との婚姻は難しい。同様の理由で大陸の大学や魔法学院に留学することが出来るのは財産的に余裕のある貴族に限られていた。机を並べて学問に励んだ間柄はそうそう切れるものではない。留学先で他国の貴族と交流し、個人的関係を深めることは個人のみならずアルビオンにとっては何よりもの財産である。そして何より語学の問題がない。こうした留学経験の持ち主や名門貴族の多くが政治任用として外交官に指名されていたが、職業外交官は彼らを揶揄して『貴族外交官』と呼んでいた。

「職業外交官には貧乏貴族出身が多いですからね。必死の思いで語学試験や外交官試験をクリアして見れば、そこには家の財力で悠々と暮らしてきたボンボンが、自分たちが死に物狂いで覚えた語学を苦労なく使いこなし、個人的な縁戚関係や繋がりをもって勝手な外交をしている-貧乏人の逆恨みといえばそれまでですがね」
「同じ貴族でもか・・・いや、同じ貴族ゆえの問題だなそれは」

そうつぶやいた王子の顔には、自分がそうした職業外交官の怨嗟の的になっているという自覚は感じられず、ランズダウン侯爵は微かに眉を顰めた。ラグドリアン講和会議のアルビオン全権団代表にパーマストン外務卿(当時)ではなく、王弟のカンバーランド公爵ヘンリーが擁された事に、職業外交官の多くはそのプライドをいたく傷つけられた。彼らは王弟という肩書きの重要性と利用価値について外交官としては理解していたが、外務省本流のガリア派や反主流派のみならず多くの外交官は「それならば(たとえ貴族外交官であろうとも)パーマストン子爵のほうがよかった」と噂した。そうした声はランズダウン侯爵も聞き及んでいる。しかしわざわざ本人の耳に入れるような事案でもなく、それを話して不興を蒙ってはたまらないと侯爵は自分の中で片づけてしまった。

「確かに貴族外交官とやらには、訓練を受けていないが故に任地惚れを起すなどして適格を欠くものがいるだろう。しかし任地惚れは職業外交官も同じ事。それにあるものは使わないともったいないじゃないか。せっかく外国語に堪能で個人的な関係を諸国に持つ貴族がいるんだ。一から外交官を育てるよりは安くつくだろ?」
「理屈では確かにそうですが・・・その」

言いよどんだランズダウン侯爵に、ヘンリーは察しをつけた。

「語学コンプレックスか」

王族のたしなみとしてヘンリーはガリア語とタニア語を含めて一応三ヶ国語を使える(ガリア語≒タニア語であり、アルビオン語でも大陸の人間と日常会話は可能なので、そう威張れたものではない)。しかし英語の授業で七転八倒の苦しみを味わった元日本人のヘンリーにはそれが痛いほどよくわかる。「英語は話せて当たり前」が自論の海外事業部の松原部長がフランス語と中国語を使えることを何かにつけていちいち自慢していたのがどれだけ癇に障ったことか。

「難儀なことだね、本当に。考えれば考えるほどパーマストン子爵はたいしたものだよ・・・できるなら後数年、せめて後継者を立ててから引退してくれると助かるんだが」
「69歳の老人をこれ以上慰留することはさすがに難しいでしょう。実際に体調が優れないとお聞きしております」

そう言ってからランズダウン侯爵はこちらを探るような視線をヘンリーに送った。ヘンリーはそれに気がつくと不機嫌そうに眉間にしわを寄せる。

「言っておくが、私は知らないぞ。兄上からは何も聞かされてもいない」
「まだ何も言ってはおりませんが」
「君の甥っ子-というには年を食いすぎているが、シェルバーン伯爵の時はあらかじめ内定したのを伝えるように兄上から頼まれたのだ。兄上から人事の相談を受けたということは断じてない。根も葉もない噂だ」

憮然とした表情で、私とて迷惑しているのだというヘンリー。この様子では同じ質問を相当繰り返されたのだろう。たとえ本人にその気がなくとも、そのように思われても仕方がない行動をとっているのは事実である。

「しかしロッキンガム公爵などは殿下の推薦により宰相の印綬を得たともっぱらの評判ですが?」

さすがにこのような露骨な質問はぶつけられた事はなかったのか、ヘンリーは意外そうな顔をして見せた後、一呼吸の間を空けた。よく舌の動く腰の軽い御仁であるとは甥の評価だが、頭の思考と舌が直結しているというわけでもないようだ。迂闊だが軽率ではない。

「あれも君の甥の時と同じだ。内示を聞かせたのは確かだが、だからと言って誰それがいいと直接兄上に推薦した事はない」

実際、ヘンリーはスラックトン侯爵の後任については唐突にジェームズ1世から知らされた。次期政権の重要課題が行政の整理(省庁再編)である事にヘンリーとジェームズ1世の間で共通認識はあった。それを踏まえてヘンリーは次期宰相に内務卿(現内務大臣)のモーニントン伯爵か、目の前にいるランズダウン侯爵を予想していた。モーニントン伯爵は父親が元宰相(スラックトンの前任者)のウェリントン公爵であることを含め、当人の内務官僚としての実績や政官への人脈という点で、現在貴族院議員で議会内に一定の影響力を持つランズダウン侯爵は内務卿や陸軍長官を歴任した実務経験などから、ベストではなくともベターではないかと考えたからだ。

それを閣僚経験のないロッキンガム公爵を突然宰相(現首相)に抜擢する事にヘンリーは無論、誰もが一抹の不安を覚えた。旧ヨーク大公領の責任者として実績を上げてはいたが閣僚経験のないロッキンガム公爵。何よりも風見鶏で上手くいくのか?そうした不安は、激しい抵抗が予想された省庁再編を多少危うげではあるが乗り切ったのをみると、若き王への信頼に変わった。人事が難しいのはファンタジーの世界でも同じ事。逆にそれが出来れば権力者としては十分であり、それが出来なければ-言葉は厳しいが失格である。父親であるエドワード12世が兄だけに伝えた「帝王学」がいかなるものかヘンリーには知るすべもないが、その中では勿論人事についても触れられているのだろう。

「人事は権力の肝だ。兄上はそれを人に分け与えるような事はしない」
「そうですか、なるほど」

ランズダウン侯爵はヘンリーの話に相槌を打ちながら聞き流していた。王子が表向き何を話すかは想像できる。公爵が興味があったのはそれを語る王子の表情や態度だ。こうして接してみれば妙な野心を持つような人物ではないことはわかるが、王族である彼と直接会話できる人間は限られている。下に行けばいくほど、実像からかけ離れた虚像が一人歩きするものだ。案外、職業外交官達もそうした虚像でこの王子を嫌っているのかもしれない。

「まあ、今日ここに来たのはそれに全く関係がないわけではないんだが」
「ほう、それはそれは」

目を細めるランズダウン侯爵。次の外相人事絡みで、これという差し迫った外交懸案もない中で問題になる事といえば大体想像はつく。

「ゲルマニア脅威論ですな」
「そう、それなんだよ」

そう言って身を乗り出すヘンリー。独立間もない新興国ゲルマニアを対象にした軍事外交戦略を立てるべきであるという考え方は、従来の大陸問題へは不干渉であるべきだというアルビオン外交からみれば異質なものであった。中心となって唱えているのはデヴォンシャー侍従長(現陸軍大臣)のサヴォイア王国使節団に参加してゲルマニアを視察した空軍将校や外務官僚である。当初はゲルマニア王国の動きを注視するべきであるという程度のものであったが、先日のツェルプストー侯爵家とホーエンツオレルン家との婚姻により、ロンディニウムではより緊迫感と緊張感を持って語られるようになった。

すなわち「同盟国トリステインとゲルマニア王国が戦争になった場合、アルビオンはどうするべきか」と言うことだ。ゲルマニアがトリステイン領に先制攻撃を仕掛けた場合は迷うことはない。白の国は全力を挙げて水の国を全面的に支援する。問題はむしろ水の国が双頭の鷲(ホーエンツオレルン家の紋章)に戦争を仕掛けた場合であり、その可能性が極めて高いことだ。東方領(旧ザルツブルグ公国領のトリステイン側の呼称)の奪還という、錆付いたとはいえ大義名分はトリステインにある。それに2000年以上前に実効支配権を失った東ザルツブルグ(ヴィンドボナ近郊)ならともかく、西ザルツブルグにおけるトリステインの影響は侮れない。しかしそれもツェルプストー侯爵家がゲルマニアに味方するというのなら話は変わる。西ザルツブルグの白百合への未練は、双頭の鷲への忠誠心へと塗り替えられるだろう。ならば完全に影響力を失う前に-こうトリスタニアが考えても何の不思議もなかった。いまだガリアとの死闘の傷が癒えない中、トリステインが軽々に軍事行動を起こすとも思えないが、ラ・ヴァリエール公爵家とツェルプストー侯爵家の小競り合いが両国の全面衝突にならないとも限らない。王立空軍参謀本部では、真剣にゲルマニア領空封鎖のシミュレーションを始めているという。それだけ差し迫った緊急性の事案として空軍は考えているということだ。

その『ゲルマニア脅威論』の生みの親が王弟ヘンリーであることに間違いはない。なぜなら昨年初頭の段階から御前会議の場で公然とゲルマニアを警戒すべしと意見を吐いていたぐらいだ。そのためこの王弟は一般的にアルビオン国内では対ゲルマニア強硬派と受け止められている。そのヘンリーがランズダウン侯爵の前で額をおさえ、困惑したような表情で口を開いた。

「確かに警戒するべきであるとは言ったさ。実際、あの双頭の鷲の行動は警戒するべきだとは思う。これからの旧東フランク地域のキープレイヤーとなるのは間違いないのだ」

ゲオルグ1世がツェルプストー侯爵家と婚姻関係を結ぶという離れ業をして見せたからこそ、多少の説得力を持って語られるようになったものの、それ以前からこの王弟はゲルマニアを警戒すべしと唱えていた。その根拠なき自信は一体どこからくるのか-ランズダウン侯爵が知るはずがなかった。

「しかしな、セヴァーン子爵の追い落としのために使われては・・・」

苦しげにつぶやくヘンリー。大陸への不干渉政策を掲げる外務省本流(ガリア派)の盟主であるセヴァーン外務次官を好ましく思わないものは、陸軍・空軍のみならず外務省内にも存在した。大陸不干渉政策への反対論者(親トリステイン派)のみならず、ガリア派を失脚させてその後釜に座ろうという外務省反主流派に、勢いのあるものに味方するという日和見主義者まで加わったからこそ『ゲルマニア脅威論者』はロンディニウムで一気に広まったのだ。

意地の悪い質問だと自覚しながら、ランズダウン侯爵はあえて咎める様な口調でヘンリーに言う。

「殿下にとってセヴァーン次官の失脚は望むところではないのですか?あの御仁がいる限り、殿下がご執心なさるゲルマニア対策は進みません。それに元々ゲルマニア脅威論は殿下が言い出されたことではありませんか」

何を困る事があるのですという外交委員長の言葉に「侯爵のそういうところは甥っ子そっくりだね」と精一杯の皮肉で答えたヘンリー。全く、世の中ままにならないものだ。だからこそ生きている実感があるというものだが。

「セヴァーン子爵はいけ好かないが、だからと言って失脚を喜ぶほど私は器は小さくない」

「・・・と思う」と小さく後に付けた王弟に呆れたような視線を送るランズダウン侯爵。その目つきや仕草に至るまで、財務大臣そっくりである。

「あの男の能力は失うのは惜しい。それに戦争と売春は素人ほど恐ろしいという言葉もあるからね」
「ほお、面白いですね。売春と戦争を同列に並べるとは。誰の言葉です?古のザクセン『豪胆王』オットー1世ですかな」
「東方で平民から皇帝に成り上がった軍人政治家の言葉だそうだ。私はいわゆる素人だ。素人は時にプロの思いつかないような大胆な行動をとることがある。それは既成概念に囚われないという事だが、同時に過去と経験に無知だからこそ出来ることだ。失敗したときは取り返しがつかない」
「まるでご自分が国王陛下の様な事をおっしゃいますな」

その言葉にヘンリーは再び顔を顰めた。冗談でも口にしていい事ではない。王弟の態度にランズダウン侯爵は「そうした野心はないのか」と内心で呟く。結婚6年目になる国王ジェームズ1世と皇太子妃カザリンの間に子はない。年齢的(ジェームズ1世は36歳、カザリン皇太子妃は26歳)には不可能ではないが、消して夫婦仲の悪くない二人であるため、むしろそうした可能性に思いをめぐらせる者は多い。そうなると自然と注目されるのは王弟であるカンバーランド公爵なわけなのだが、むしろこの態度は王位を現実のものとして考えているが故の態度なのか、それとも甥が言うように、政争に巻き込まれる事を本気で嫌がっているのか。それはそれで矛盾した話だが。

「・・・私はそこまで自分を過信してはいない。素人ゆえにプロとしての意見がないとどうなるかわからん。素人の私と貴族外交官の大臣がセットでは体制的に危うい」
「あえて批判的な者を推すというのですか」
「どいつもこいつも、私に聞く事はそれしかないのか・・・人事の事は兄上の専決事項だ。聞かれれば『あの者はこういうものです』と宮廷内での評価や評判を答えはするがな」

ヘンリーの言葉を侯爵は「大臣の一人や二人はどうとにでもなる」という風に受け取った。苛立たしげにひざを貧乏ゆすりする王子を余り挑発するのも得策ではないため、さすがに口に出す事はしなかったが。その態度を額面どおり受け取るのであれば、王子にはそうした政治的野心はないようだ。とりあえず自分の想像を打ち切り、黙って頷く事でヘンリーに続きを促した。

「ゲルマニアは確かに怖いが、今の浮ついた脅威論はそれ以上に困るのだ」

自業自得といってしまえばそれまでだがなと、首筋を叩くヘンリー。ヘンリーが当初想定していたのは外向当局者と軍部の間で「ゲルマニアがトリステインと事を構えようとするなら、アルビオンはトリステインに加担する」という意識の統一である。例え本気でなくとも「やるぞ」という意思を示す事によって多少はゲルマニアの行動を制約する事が出来るだろうという考えからであった。しかし「ゲルマニア警戒論」は、その意図を離れて政争の具と化していた。

「まさか外務省内の権力闘争に利用されるとは・・・自分の言葉の重さをもっとわきまえるべきだったよ」

今となっては遅きに失したが、考えれば考えるほど「ゲルマニア脅威論」はガリア派に対する格好の攻撃材料になりうる。交易国家であるアルビオンは大陸諸国の問題にかかわるべきではないという「栄光ある孤独」を掲げ、トリステインとの同盟関係の深化に慎重なガリア派。それに対するには、同盟関係の必要性と強化を掲げるのが一番都合がよく、その為にはゲルマニアが脅威であればあるほど都合がいい。そして現実以上に誇張された情報は、実際のゲルマニアに対する冷静な目を失わせる。

「今更言ってもせん無き事でございましょう。それに幾ら慎重に発言したところで、片言節句を捕らえて利用するものはいるものです・・・ところで」
「そうそう、前置きが長くなったが君に頼みたい事は」

ヘンリーがそれを口にする前に、ランズダウン侯爵が先に切り出した。


「私は殿下の部下ではありません。たとえ殿下に頭を下げられようとも議会に干渉するような頼みごとは聞き入れかねます」



***


「・・・で、おめおめ尻尾を巻いて逃げ帰ってきたというの。このヌケ作は」
「ぬ、ぬけ作・・・」
「田吾作でも孫作でもいいけど、尻尾を巻いて帰ってきたことに間違いはないんでしょうが」

ハヴィランド宮殿内のチャールストン離宮。その一室で布を縫っているのか、自分の手を縫っているのかわからない危うい手つきで刺繍をしながらヘンリーの話を聞いていたキャサリンは、夫の愚痴を一刀両断に切り捨てた。大体、挨拶もなしにいきなり部屋にやってきて愚痴りだす神経がわからない。私はあんたのカウンセラーじゃないのよ。

「まったく、いつからそんなに神経が細くなったのかしらね。昔は殺しても死なないような男だった貴方が。実際、死んでも死ななかったのだけど」
「・・・面目ない」

悲壮感を漂わせる夫の姿にため息をつく。いつまでも苛めていても仕方がない。明日からまたしっかり働いてもらわないと困るのだ。働かなくとも衣食住に困ることはないだろうけど、さすがにそれでは気が引ける。

「それで、ランズダウン侯は何て言ったの?」
「・・・そんな程度の低い議論をするつもりはないそうだ。体よくあしらわれたと言うか」
「相手にされなかったかのどちらかね」

うぐっと胸を押さえる仕草をするヘンリー。妻は妻でそんな夫のふざけた態度に「まったくこの馬鹿は」と頭を抱えたくなる思いだ。

「貴方ねぇ・・・」
「悪い、ジョークだ。だから杖を出すな、しまってください」
「洒落にならない洒落はお洒落じゃないのよ」
「お、上手い!ミリー、座布団もってこい」
「は、はい」

(ザブトンって何?)


頭の上に盛大にハテナマークを浮かべながらミリーが退出したのを横目で確認してから、キャサリンがその刺繍もどきを脇の小机に置いた。

「貴方に一度聞いてみたかったのだけど」

妻の雰囲気と態度の変化を敏感に感じ取ったヘンリーは、その間抜け面を引き締める。黙っていれば腐っても王族。それなりの風格というもの感じられる。その内面とのあまりのギャップに苦笑しながら、キャサリンは夫の複雑怪奇な性格や思考回路に再び頭を悩ませる。

脇が甘いのは確かだ。亡きスラックトン侯爵に言われるでもなく、キャサリン自身が感じていることでもある。もともと底抜けの楽天家で極楽トンボな性格だったが、王族という環境で二度目の教育を受けたことがそれを悪化させた。裏表がないといえば聞こえはいいが、相手の感情に無頓着で無用な敵意を集めやすい。中央と緊張関係にあったヨーク大公家の公女として色眼鏡で見られ続けてきたキャサリンには、この馬鹿が王宮内でどう見られているのかを本人以上に感じていた。この夫の難しいところは、まったく組織の中で働く人間の感情に無頓着でもないところだ。何せ自分自身がその中でひとつの歯車として働いていたのだから。それがどうしたことか、自分の今の立場とて嫉妬や組織の論理とは無縁ではないということが欠念している。国内の政争に超然とした立場にあるべき王族としてはそれでいいのだが、今のヘンリーはたとえ本人がそうしたいと思ったところで、そうさせてもらえる環境ではない。なまじっか歯車の感情に通じているだけに性質が悪い。キャサリンが口すっぱくその点について言って聞かせなければ、当の昔に危うい立場に陥っていた『かも』しれない。

(かもしれないのよね)

失脚していた「だろう」といえないのがヘンリーのヘンリーたる所以であり、キャサリンが最も頭を悩ませている点だ。「角を矯めて牛を殺す」欠点を何とかしようとして長所まで失っては意味がない。まあ、そうした欠点も含めて好きなんだけ・・・違う違う。それにどれだけ無茶をやっても最後は帳尻を合わせるのがこの夫の不思議なところだ。脇が甘いくせに根が小心者だから、無茶といってもそれほど桁外れのことはしないからだといえばそれまでだが、その底抜けのポジティブ思考がいい結果を引き寄せているのかもしれない。

よく言うじゃない。「笑う門には福来る」って。

(・・・なんか違うような気もするけど、まあいいか)

考えながら歩くというか、走った後に考える所もあるのがヘンリーという人間。ならば彼に落ち着いて考えさせる時間と機会を作ることが、自分の役目であるとキャサリンは考えている。そして今、ヘンリーに必要なのは「ゲルマニア脅威論」について整理することであろう。今から言う自分の言葉に彼がどう反応するかは手に取るように予想出来るが、それでも言わなければならない。まったく、手のかかる夫だ。


「どうしてゲルマニアが旧東フランクを統一してはいけないの?」




[17077] 第48話「ヘンリーも鳴かずば撃たれまい 後編」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:b679932f
Date: 2010/08/06 18:59
最近、ロンディニウムではある噂がまことしやかにささやかれている。名前が挙がるのはロッキンガム首相、王政庁行政書記長官のヘッセンブルグ伯爵にシェルバーン財務大臣。バーミンガム市長のトマス・スタンリー男爵にトリステイン大使のチャールズ・タウンゼント伯爵等々。爵位も家柄も職種にも年齢にも、ましてや政治思想にも一貫性はなく、一見すると何の共通性もないように思える。

その点を繋ぐのがある王族の存在だ。彼らは何れもスラックトン前政権下で頭角を現し、その後ろ盾を持って出世したとされる。その筆頭がロッキンガム首相である。次期宰相の有力候補であったモーニントン伯爵を差し置き閣僚経験もない公爵が抜擢された事で、噂されていた疑惑は確信へと変わった。では実際にそうであるのかと調べてみると、それを裏付ける確たる証拠はどこにも存在しない。話題に上る人物の多くが特別目立った出世をしたというわけではなく、通常の人事異動や昇格であったのだが、ポスト争いに敗れた者にとって真実かどうかは関係ない。自身にその能力と適格性が欠けていたと認める事が出来ない者ほど、その原因を別のものに求めた。理由はともかくとしてその王族と繋がりがあるだけで彼らはこう呼ばれた。

『革新官僚』と

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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(ヘンリーも鳴かずば撃たれまい 後編)

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「ふざけた話ですよまったく」

ロンディニウムの財務大臣公邸で、財務大臣のウィリアム・ぺティシェルバーン伯爵は、叔父のランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス貴族院外交委員長にその憤懣をぶつけていた。首相公邸を初めとした行政庁の多くがハヴィランド宮殿内の敷地にある中、財務大臣公邸はダウンニング街の外務省からも離れた大貴族の邸宅が立ち並ぶ高級住宅街の一角にあった。王政庁大蔵省から財政部門が分離して成立した財務省は、成立の経緯からして、行政府からも議会からも(無論国王からも)距離を置いて、アルビオンの財政や金融を「監視」する責務があった。タガを締めないと際限なく予算を膨らます行政府、景気の為に市場への貨幣流通を増やせと要求する議会、そしてその両方を要求しかねない国王を相手に出来るのは自分達しかいないという使命感と責任感こそが、財務官僚のプライドを支えている。その使命を果たすためにはハヴィランド宮殿やウエストミンスター宮殿の近くに財務大臣公邸を設けるわけにはいかなかったのだ。しかしそうした地理的距離や高級住宅街という人目をはばかる環境的制約も「おらが国(選挙区)に橋さかけてけろ」という熱意の前には意味を成さなかったが。

「出世レースに負けた者のウサ晴らしでしかありません。たまたまそこにヘンリー殿下と繋がる糸があったから、強引にそれと結びつけたのです。大体、タウンゼント伯爵などは殿下との面会は一度のみ。それも大使に着任して以降のことですよ。それがどうして殿下の威光で出世した事になるのか」

忌々しげに首を振る甥を、ランズダウン侯爵は苦笑しながら見つめた。親を早くに亡くしたこの甥の後見役として大学の資金までを出してやったが、向上心と闘争心はこちらが辟易するほど強い。これが自己の内面を高めるためではなく純粋に自己の栄達のためだけに費やしていたとすれば、今頃は彼の嫌うロビンソン庶民院議長とも互角に渡り合うだけの政治屋になっていたことだろう。

「しかしだね、伯爵と殿下が頻繁に会談しているのは事実だ」

それゆえこの甥は、ヘンリー殿下の元侍従であるヘッセンブルグ伯爵とならんで『革新官僚』の筆頭と見なされている。それがこの甥には不満である。個人的なヘンリー殿下への好感情とは全く別に、自身がその能力とは関係なしに政治的要因で引き立てられたと見なされる事が、我慢ならないのだ。

「そんな事、それがどうしたというのです。私が誰と会おうと勝手ではありませんか。そんなくだらない噂話に現を抜かしているから、出世を逃がすのだといってやってください」

興奮する甥にやんわりと諭すように言うランズダウン侯爵。

「伯爵の言うことは正論だ。しかし正論はそれが正しい故に通用しない。今確かな事は、閣僚である君が王弟と会う事自体が憶測を呼んでいるという事だ」

いったん言葉を切って甥の様子を伺う。苦りきった表情のシェルバーン伯爵がうなずくのを確認してからランズダウン侯爵は続ける。

「一官僚ならそれでいいだろう。数字と伯爵の正論を前にすれば、陳情者は黙らざるを得まい。しかし今の君は大臣-政治家なのだ。いつまでも官僚時代の考え方ややり方でやっていてはうまくいくまい」
「おっしゃることは理解します。ですが私もヘンリー殿下もそのような・・・」
「同じことを二度も言わせるな。君の本意やヘンリー殿下の本意や本心がどうであるかはこの際関係ない。『大臣』である伯爵が『王弟』と『個人的』に会うことがあらぬ憶測を呼んでいるのだ」

言い訳がましく反論しようとした甥の発言をぴしゃりと封じ込めるランズダウン侯爵。それで甥が失脚するのは勝手だが、今の反応と先ほど会談したヘンリー王子の言動では侯爵家にまで波及しかねない。わざわざ大臣公邸にまで出張って正解であった。

「くどい様だが君は大臣なのだ。君自身には何の価値もない。君の『財務大臣』という肩書きに意味があるのだ。君の一言で貨幣相場は乱高下し、君のサインひとつで多くの銀行が悲鳴を上げる。政策的なものはともかくとして、それ以外の言動は不用意だったといわざるを得ない」

ぐっと黙り込んだシェルバーン伯爵。いつまで官僚気分なのだと頬を張り飛ばされた気分だ。その表情は「ゲルマニア脅威論を沈静化してくれ」という頼みを「筋違いだ」と一蹴した時の王弟の表情によく似ている。考えればこの甥が(本人は否定しているが)変わり者の王弟と気が合うというのは根っからの楽観思考という性格的に合う面が大きいのだろう。自己の言動に無頓着であるという点を含めてもだ。


「官僚には官僚のやり方があるように、議会には議会のやり方が、政治家には政治家のやり方というものがある。それを横から口出しされては、例え正論であっても通るものも通らない。結論を急ぐ事が必ずしも良い結果を招くわけではなく、一見すると冗長で意味のないやり取りを繰り返しているように見えても、結果的には落ち着くところに落ち着く-それが政治の面白いところだ」

一端言葉をきったランズダウン侯爵は顎を引き、静かに甥を見つめた。いずれ子のない自分の養子として侯爵家を相続させるつもりだが、今のままでは家を継がせるわけには行かない。ちょうど今のままのヘンリー王子に甥を預ける事が出来ない様に。


「伯爵、君はしばらく殿下と距離を置きたまえ」


***


「・・・えーと、よく聞こえなかったんだが」

「だから、何でゲルマニアが旧東フランクを統一しては駄目なのかって聞いているの」


もう一度尋ね返し、間違いではなかった事を確認したヘンリーは、くたびれきった顔をますますしょぼつかせた。己は、この尼は、人が仕事(?)して帰ってきたらその前提にケチつけるような真似をしくさってからにと猛烈な憤怒の感情が湧き上がったが、その感情をひとまず棚上げする。昂ぶった気を落ち着かせるために小机の引き出しからシガーケースを取り出そうとして、その手をすぐに引っ込めた。最近ますますタバコの臭いを嫌うようになった妻の前で吸う事をためらったのだ。何よりこれ以上小言を重ねられてはたまらない。


「政治に素人-素人なのは貴方もだけど-言わせてもらえばね」

彼女の遠慮のない物言いに喧嘩になった事は何度もあったが、女の直感というか、迷いの本質を突く問いに助けられた事も同じくらい多い。そのことを理解しているヘンリーは「一々嫌味を入れなければ気が済まないのかこの女は」と思いながらも聞く姿勢をとる。

「小説なら今の旧東フランク諸国は『帝政ゲルマニア』として統一していたわけでしょう」
「どんな政治体制かはあまり触れられていなかったはずだが、確か国家のトップが皇帝だった気がする。諸国家が分裂している旧東フランク地域の現状からすると、おそらく連合王国というかドイツ帝国のようにプロイセン王国を中心とした一強と、そのほかの弱小王国という連邦国家のようなものではないかな」
「プロイセンの役割をゲルマニア王国が果たすと考えているわけね」
「そうだ。そしてビスマルクがドイツ統一のためにいくつかの戦争をしたように、ゲルマニアが旧東フランクを統一しようとすれば、間違いなく戦争がおきるのだろう」

今が原作開始の29年前。という事は少なくともそれまでにはゲルマニアと旧東フランク諸国の間で戦争が起きるはず。ザクセン王国やベーメン王国は無論のこと、バイエルンやヴェルデンベルグといった国々も経済的にはともかく、政治的盟主としては今のところ新興国ゲルマニアを認めるつもりはさらさらないだろう。

「ゲオルグ1世がいかなる人物であるかというのはこの際置いておこう。原作で帝政ゲルマニアが成立していたということから、あの老王は旧東フランクの統一を目指している事を前提に考えよう。ここまでで何かあるか?」
「いいんじゃない」

何でお前は上から目線なんだという複雑な思いを感じながら、すっと頭の芯が冷えて冷静になっていく。積み重なってこんがらがった知識が整理され、繋がっていく感覚。情報という洪水の後片付けをするのは、ヘンリーだけでは不可能だ。


「国家の統合とは何かだ。政治的なものと精神的なものの二つだ」
「どちらのほうが大事?」
「それは後者だ」

明快に答えるヘンリー。第一次大戦後にドイツを再分割しろという論議に対して、時のフランス首相クレマンソーが「統一とは心の問題だ」と答えたように、一度「ドイツ人」という意識に芽生えてしまえばそれが消える事は。そして実際、ドイツ帝国に組み込まれた弱小王国の中では敗戦後の苦しい環境の中でも独立論が盛り上がる事は無かった。結果的にはそれが冷戦終結後の東西ドイツ再統一に繋がることにもなる。

「精神的な統一としては『旧東フランク王国』と『ゲルマン人』の二つだろう。ホーエンツオレルン家(ゲルマニア王家)の紋章は双頭の鷲。ゲオルグ1世の真意がどうであれ、かつての統一国家である旧東フランク王国意識は各国諸侯や貴族をまとめるには都合がいいだろうからね。そのカードをみすみす捨てるつもりは無いだろう」

双頭の鷲は旧東フランク王国の紋章であり、デザインや色こそ異なれど多くの旧東フランク貴族が使用している。ゲオルグ1世の真意は旧東フランク貴族的なものの否定であるとヘンリーは考えているが、それをそのままストレートに出す事は無いだろう。

「ゲルマニア-『ゲルマン人の国』と名乗っているのは平民対策だろう」

ゲルマン人は旧東フランク王国崩壊のきっかけとなった民族。赤髪に褐色の肌の彼らはその武勇によって王国内で出世し、一部は貴族となったが、それが国内に亀裂を生み王国崩壊(2998)の原因となった。王国崩壊以降ゲルマン人は長きに渡り白い目で見られ、排斥されることになる。そうした環境が「ゲルマン民族主義」というゲルマン人としての国を持ちたいという政治主張に繋がった。しかし「ゲルマン人」と「それ以外の民族」で分けるような程度の低い民族主義をゲオルグ1世が考えているはずが無い。王国崩壊から早4000年。旧東フランク諸国の平民ではむしろゲルマン人の血を引いていない者の方が珍しい。ではゲルマン民族主義に頼らないとして「ゲルマン人の国」を名乗る理由は何か。

「これまで幾多の王が東フランク最高を目指して失敗してきた。結局それはハノーヴァー王国やザクセン王国などの自己の拡大に過ぎなかったからだともいえるが、やはり平民と貴族の意識の差だろう」
「平民が?」

てっきり経済的利害の対立や政治統合のプロセスの失敗を上げると想像していたキャサリンは、予想外の答えに首を傾げた。その態度に溜飲を下げたヘンリーは「あくまで私の考えだ」と断った上で述べる。その口調はまるで歴史学者のようだ。

「民草というものはおそろしいほど冷静で客観的なものだ。旧東フランク王国の再興というものに貴族や諸侯のロマン的な懐古主義や憧れがあることを見透かしている。そしてそんなものは何一つ自分たちの生活の役に立たないこともね。いくら貴族が強いからといって、その下で働き納税する平民が冷めていてはたとえ統一国家や連合王国をつくったところでうまく機能するはずがない。表向き「ザクセンの覇権に反対する」という諸侯のほうがやりやすかったかもね」

貴族と平民の乗り越えがたい意識の差。同じく旧東フランクの統一を目指すゲルマニアにとっても決して平坦な道のりではないのだろう。しかしかつてのザクセンやハノーヴァーのように深刻な意識の格差に悩む事は避けられるかもしれない。貴族達の旧フランク王国へのロマン的な憧れとは無縁でむしろ冷めている平民達も、自分達にもその血が流れる「ゲルマン人の国」であれば、自分たちの事として考える可能性は在る。

「貴族諸侯対策としての『双頭の鷲』に、平民達への『ゲルマニア』。上と下からの統一だな。旧いものと新しいものを融合させることは想像以上に困難だろうが、ゲオルグ1世ならやってのけるかもしれない」

いわば新たなナショナリズムをつくりだそうという、とてつもない壮大な話だ。誰それの臣下、誰それの領民ではなく「ゲルマニア王国(帝政ゲルマニア)の国民」という意識を、貴族・平民問わずに植えつけようというのだから。ここまではあくまでヘンリーの過程の話だが、あながち外れてもいまい。ヘンリーのゲオルグ1世観には賛成しないキャサリンも、これには納得したようだ。しかしすぐさま別の問題点を突いてくる。


「人は浪漫やナショナリズムで生きるわけではないのよ。パンを食べてワインを飲んでこそ、人間らしい生活が出来るの」

その言葉にあからさまにげんなりとした表情を見せるヘンリー。

「これだから女は」
「その女がいなければ何も出来ない男が偉そうな事言うものじゃないわ」

「悔しかったら子供産んでみなさい」というキャサリンに言葉を詰まらせるヘンリー。前世で妻の出産に立会い、その壮絶さに気を失って散々馬鹿にされて以来、ますます頭が上がらなくなった事を思い出したからだ。分が悪いと話題を元に戻すためにわざとらしく咳き込む。


「ウィンドボナ通商関税同盟が出来ただろう。おそらくまずは周辺国を経済的に囲い込むつもりだ。カザリン義姉さん(王妃)の母国であるダルリアダ大公国なんか国をあげて親ゲルマニアだよ。フォン・ツェルプストー侯爵家がゲルマニア王国に忠誠を誓ったのも、関税同盟によって特産の武具が周辺国で売れなくなったからだ」

歴史的に排斥されたゲルマン人の多くはブリミル教で敬遠される金融業に積極的に進出している。ゲルマン人に限ったことではないが、金融業者や経済界は関税同盟へ加わるようにと諸侯や王家に圧力をかけるだろう。今はゲルマニアと周辺4カ国(ダルリアダ大公国・トリエント公国・バイエルン王国・ヴュルテンベルク王国)だけだが、いずれは拡大すると見ていい。実際すでに近隣諸国の経済発展を目の当たりにしたベーメン王国の南西諸侯が老女王エリザベート8世に関税同盟に加わるべきであると突き上げているという。しかしそうした動きよりもヘンリーには北部都市同盟の沈黙が薄気味悪いものに見えていたが。

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(ブリミル暦6214年の旧東フランク王国領と周辺諸国)



                          ボンメルン大公国
               北
              部
             都
            市            ザクセン王国
           同
          盟
              ハノーヴァー王国

    トリステイン王国                 ベーメン王国

                            
              ゲルマニア王国

            ヴュルテンベルク王国          バイエルン王国
                     ダルリアダ大公国
                 トリエント公国
ガ リ ア

              (サヴォイア王国)
                  ロマリア

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「ラグドリアン戦争でガリアの勝利と見てハノーヴァー議会に手を回して、無理やり厳正中立にさせたから。謹慎中ってことじゃないの?」
「あの経済同盟がそんな生易しいタマかね」
「大博打に負けたってことでしょ。もう一度博打を打つにはまず負けた分の借金を返さなきゃ。それとも真面目に稼ぐのが一番だと気が付いたんじゃないの。それに今は北部都市同盟の話じゃないでしょ」

夫の尻を叩いて話をゲルマニアに戻させる。話が脱線しやすいところがヘンリーの悪いところだ。


「ゲルマニア王国が旧東フランク諸国を統一するという前提で話すわね。それで、貴方が問題だと思っているのは、ゲルマニアが統一戦争をしかけて、大陸情勢が混乱するのではないかということかしら?」

しばらく視線を宙に泳がせながら考えをめぐらせたヘンリーは「そうだ」と頷く。手が物欲しげに動いている。具体的には煙草とかタバコとかたばことか。それを無視してキャサリンは言った。

「それじゃあ問題ないんじゃないの」
「・・・それはどういう意味だい?」

ヘンリーが酷く無機質な視線で返したが、それを鼻で笑って受け流し肩をすくめるキャサリン。人には「身振りが大げさだ」と言いながら自分だって大概じゃないかという子供じみた考えにヘンリーが囚われるのは、相手か彼女だからだ。

「言葉の通りよ。放っておいても問題は無いってこと」
「みすみす戦争を見過ごせというわけだな」

思いつきで質問をぶつけてきたわけではないようだ。あらかじめヘンリーが直に反論する程度のものへの答えは用意してあったのか、すらすらと答えるキャサリン。

「帝政ゲルマニアが特に混乱してはいなかったはず。何より今は仇敵のはずのトリステインと同盟を組んでレコン・キスタと戦争をするぐらいよ?国外に兵を派遣するだけの余裕があり、なおかつ国内が安定していることの何よりもの証明じゃない」
「それは確かにそうだが、王族を謹慎させていたともあったぞ」
「その程度で済んでいたってことでもあるんじゃないの。それに今のように小国分立のまま続いたとして、ジョセフ王が原作と同じ性格になるとするならかえって無能王は喜ぶんじゃなくて?」
「・・・駒が増えるか」

その考えはなかったとヘンリーは腕を組んで唸った。

「仮に貴方のゲルマニアによる旧東フランク統一を阻止したとしましょう。その場合、小説内でのアルビオン、トリステイン、ロマリアに帝政ゲルマニアという4強からゲルマニアが抜けるわけでしょ。3強とその他大勢ってことね」

「いや、一強とその大勢だ」

帝政ゲルマニアとガリア、その間のトリステインと浮遊大陸アルビオン。アルビオンとトリステインは王子を婿入りさせるくらいだから半ば同盟関係にある。しかしガリアが、無能王がその気になればトリステインはどうにでもなる。それを防いでいたのが帝政ゲルマニアというわけか。多少強権的ではあれ国内をまとめた帝政ゲルマニアがあるからこそ、無能王もそう簡単には水の国に手を出すことができなかった・・・

それが今のような分裂状態のままならどうなる?ハノーヴァーやヴェルデンベルグなどを巻き込めばあっという間にトリステインは袋の中の鼠。「ラグドリアン戦争再び」だ。トリステインだけではない。無能王の気まぐれ如何によれば旧東フランク諸国は麻のように入り乱れ、王国崩壊直後のような戦国時代に逆戻りする可能性だってある。一強(ガリア)とその他大勢だからこそそれが出来る。

「無能王の選択肢が増えるわけだから、それこそ貴方、小説以上の混乱と戦乱が起きる可能性だってあるわよ。権力と金のある暇人ほど手に負えないものはないわ」
「・・・君を女にしておくのは勿体ないな」
「褒めても何も出ないわよ・・・それで『アルビオンの王族』である貴方はどう考えるわけ?」

挑発するように言うキャサリンに、ヘンリーの中でむくむくと負けず嫌いの根っこが顔を出し始める。われながら単純だなと思わないでもないが、こうして彼女に煽られているような感覚は嫌いではない。


「キャサリン。君の意見は確かに正しい。そしてその懸念はもっともだ。しかし君の話の前提はすべて結果論だ」

「ええ、そうよ」とうなずくキャサリン。

「あくまで小説での帝政ゲルマニアを前提にしている。しかし僕はそう簡単に帝政ゲルマニアが出来るとは思えないんだ」
「でも貴方はさっき言ってたじゃない。ゲルマニア王国は」
「ゲルマニア王国がこれまでとは違ってその可能性が高いことは認める。しかしそれとはまた別の話だよ。現状の旧東フランク地域を見るにつけ、今のままではどう考えても相当の血が流れなければ統一など出来るものではない。それに小説通りに国内が落ち着くという保証はどこにも存在しない」

ヘンリーは別に平和主義者というわけではない。一発や二発のどでかい花火で旧東フランクがまとまるというのなら、それはそれでいいかとも考えている。しかし旧東フランクの現状はとてもそうした雰囲気ではない。仮に戦争に勝ったところで戦後処理がまずければ旧ユーゴのように泥沼の内戦。当事者同士が交渉能力を失うという最悪の事態だってありえる。ヘンリーはそれを恐れていた。

プロイセン王国の前には二つの敵役があった。同じドイツ人が多数を占めるオーストリア帝国と、ナポレオン3世のフランス帝国だ。ビスマルクは普墺戦争でオーストリアと反プロイセン諸国というプロイセン主導のドイツ統一反対派を叩き潰し、ナポレオン3世を挑発して向こうから手を出させるように仕向けて悪役に仕立て上げ、国内の統一ドイツのナショナリズムをあおり普仏戦争の勝利でドイツを完全にひとつに纏め上げた。

「オーストリアの役回りを果たすのはザクセンか、ベーメンだろう。この2国は間違いなくゲルマニアの覇権を許さない。ナポレオン3世の狂言役を務めるのはガリアか、トリステインか。旧東フランクの新教徒を快く思わない宗教庁だっていざとなれば何をするかわからない」
「でも帝政ゲルマニアをロマリアは認めていたんでしょ。結局はそれで落ち着いたんじゃ」
「それは小説の話だ。そのとおりになるという保障はどこにもない。そして大陸の混乱はアルビオンにとっても人事ではない」


ヘンリーはそう言いながら心の中で自分の気の小ささを笑っていた。普段は言わずもがなのことをいいあれだけ大口をたたくのに、その内実は些細なことにこだわるばかりの嫌な男。小舅根性がしみついている。木を見て森を見ず、移り気で小心な大間抜け。キャサリンは違う。活発で聡明な見た目のまま、竹を割ったような気持ちのいい性格で誰にも好かれた。前世で一時期彼女と距離を置いたのは、彼女のまぶしさに耐え切れなくなったからだ。ヘンリーは妻の顔を見ながらつらつらと考えたことを意識の隅に追いやった。


「帝政ゲルマニアの建国を阻むにしろ、阻まないにしろ手は打っておく必要がある。ゲルマニアが強引な軍事行動を起こすのであれば、それを使って双頭の鷲を牽制することが出来る。何もしなければ口先に終わってしまうからね。カードは多ければ多いほどいい」

そう語るヘンリーの顔を見ながら、キャサリンは今は亡きスラックトン侯爵の言葉を思い出していた。選択肢を増やすことはいいが、それがどちらつかずの中途半端に終わる危険性を秘めている。

この人はそれをわかっているのだろうか。

切り捨てられる覚悟はあるのだろうか。そして切り捨てる覚悟も。


「まぁ、なるようにしかならんさ。でもやるだけのことはやってやる。最初からすべてが決まっているなんて運命論を嘯くつもりはない。何か行動を起こすからこそ、反応が返ってくるんだ。そうでなければ生きている実感というものがないじゃないか」


気負いも衒いもなくそういってのけたヘンリーの口振りは、どこか前の宰相閣下と似ているようにキャサリンは思った。


***

「距離を置けとおっしゃいましたか?」

叔父の言葉をシェルバーン伯爵はそのまま繰り返した。話の内容からそのような忠告を受けるのではないかと薄々感づいていたが、いつももったいぶった言い回しをする叔父がこうくるとは思わなかった。ランズダウン侯爵は「言葉の通りだ」と軽く目を伏せる。

「君は王子に近すぎる。ロッキンガム首相やヘッセンブルグ伯爵を見てみろ。あれは君と同じ『革新官僚』と言われながらも王子とはほどほどの付き合いをしている。個人的な感情はともかく、過剰に接触する事が仕事に差し支えることをわかっているからだ」

黙り込んだシェルバーン伯爵。その様子は「お門違いだ」と申し入れを拒否したときの王子の表情によく似ている。


ヘンリーの申し入れをランズダウン侯爵は言下に否定した。元々議会と王家は静かな緊張関係にあるのが本来の姿。互いに監視してこそ、両者の暴走を防ぐ事が出来る。確かに根回しは必要だ。何も下準備せずに議会に望めば、一日たりとて円滑に運営できるものではない。しかし今回のヘンリーのそれは余りにも安易に過ぎた。彼が今まで自由気ままに振舞う事が出来たのも、周囲がそれを許容していたのも、ひとえに「王族」という権威あってのもの。シェルバーン伯爵と同じく本人のそれではない。当人としてはいつもの延長線上で自分に頼みごとに来たのだろう。甘えとまでは言わないが、それに似た驕りが言葉の端々に感じられた。それを王子の言動に感じ取ったがゆえランズダウン侯爵はあえて顔を平手打ちするような対応で返した。今のままの王子では、いずれ甥を巻き込んで騒動になりかねないと見たからだ。

『・・・悪かったね。これは確かに無理なお願いだった』

王子は安易に頼もうとした自分が悪かったと視線を伏せた。素直に反省して見せる辺りはまだ見込みがあるということか。しかし性格とはそう簡単に変わるものではない。この甥とて長年の官僚生活で養った無意識に権威に媚びるという癖はなかなか取れないだろう。自覚がない上に個人的にもヘンリー王子とは馬が合うようであるしな。そのことに自分でもよくわからない滑稽さを感じ、湧き上がる笑みを堪えながら侯爵は硬い表情を崩さずに言った。

「伯爵は財務大臣として何をしたい」

「税制改革です。物納から金納への切り替えと、ギルドや商会ごとに徴収している売上税や所得税を個別の業者・商会ごとに徴収したいと考えています」

どちらも長年の財務省の懸案だ。農村部で農作業に従事する平民からは収穫作物を物納でおさめさせているが、これでは毎年の出来高で税収に差が出る。豊作の年はいいが、不作の年の税収減に頭を悩ませたのは一度や二度ではない。売上税は間にギルドや商会が入ることからその不確実性と中抜きが問題となっている。

「共に税収を安定させることが目的です。税収の見込みを立てることが出来ればそれに応じて予算案をつくる事が出来ます。軍事費も含めた全面的な予算制度への移行による財政の透明化と健全化。これが私がやりたいことです」

シェルバーン伯爵の答えに満足げにうなずくランズダウン侯爵。目的意識がはっきり定まっているのなら話は早い。

「ならばなおの事だ。君は政治的立場に注意しなければならない。今財務省が進めている領地の再編にしても、そのためには内務省の協力が必要不可欠。内務省だけではない。産業政策を担当する商工省、軍事費なら空軍省に陸軍省。宮中予算なら王政庁。すべての協力を得なければならない」

一瞬眉をひそめた甥に、侯爵はすばやく釘を刺す。

「妥協しろといっているわけではない。前向きに、少なくとも話を聞いてもらえるだけの環境づくりをする必要があるといっているのだ。そしてそれは財務大臣である君の仕事。しかしここでヘンリー王子とその一派であるとされる『革新官僚』に君が含まれるとどうなる?」

話を聞く以前からそれを拒否する輩が出ることはシェルバーン伯爵にも想像出来た。同時にこれが「政治家」という人種のものの考え方なのかとシェルバーン伯爵はこの叔父に身内の情や尊敬とは違う畏怖の念を覚えた。

「直接話すばかりが付き合いではあるまい。手紙なり使いなり、それこそ使い魔なりで話せばいいではないか」
「確かに、その通りです」

しかしシェルバーン伯爵は、叔父のこの言葉にだけは素直にうなずけなかった。アルビオンどころかハルケギニア全体を俯瞰し、気の遠くなるような未来を語る王子に驚かされたことは数え切れない。古くは専売所、王子に始めて会った時に語られた領地再編にしても、ゲルマニアにしてもそうだ。自分に人を見る目があるとは言わないが、あのヘンリー王子の器だけはうかがい知ることすら適わない。それでも王子と話している間だけは、彼と同じ高みに立つことが出来た。その歓喜にも似た心の震える感覚は何物にも変えがたい。直接あって話したいことはまだまだあるのだ。


言葉とは裏腹に納得していない表情をする甥に、ランズダウン侯爵は三度釘を刺した。

「ヘンリー殿下のためを思うからこそだぞ。何も付き合いをやめろといっているわけではない。合う回数を減らせといっているだけだ。くだらない嫉妬ややっかみで王子を政治的に追い詰めたいならそれでいいが」
「それは困ります」

先ほどとは違い即座に答えた甥に、いい加減抑えるものも馬鹿馬鹿しくなりランズダウン侯爵は口元を緩めた。

「焦る事はないのだ。ゆっくりとじっくりと、しかし確実に目の前の事を片付けていればいい。背後と足元に気をつけてな」
「背後と足元ですか」
「上に上れば上るほど、階段の下のことには疎くなるものだ・・・程々にしておけよ。国王陛下ならともかく王弟への義理はないのだからな」


身内としての忠告に、シェルバーン財務大臣は剃り上げた頭を右手でなでながら重々しくうなずいた。











「ザブトンって、何・・・」



ミリーは見た事も聞いた事もない「ザブトン」とやらを捜し求め、ハヴィランド宮殿の中をさ迷っていた。



[17077] 第49話「結婚したまえ-君は後悔するだろう」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:d56d1fa2
Date: 2010/08/06 18:59
トリステイン王国新宰相エギヨン侯爵シャルル・モーリスは多くの懸案を前任者であるエスターシュ大公ジャン・ルネ6世から引き継いだ。外には講和条約締結後のガリアとの外交関係、ラグドリアン戦争以降関係の冷え込んだハノーヴァー王国との関係の修復に東方領(ゲルマニア王国)問題。内にはラグドリアン戦争で荒廃した王国南部の復興事業計画の策定を始め、税制整理に高等法院改革、貨幣切り下げに関する財務庁と元老院との論争問題など、問題は山積している。

しかしエギヨン侯爵にはそれらの内外の諸問題とは別に、前任者である大公から内密に引き継いだ国家の重大懸案がある。解決不可能にも見えるそれは、取り扱いを誤れば白百合の威信を傷つけるのみならず、トリステインの存亡にもかかわる重大な問題。エギヨン侯爵は閣僚や秘書官達にも相談できず、ひとりトリスタニアの王宮の宰相執務室で頭を抱えていた。すなわちそれは何かというと


トリステイン王女マリアンヌ・ド・トリステインの婿探しである。


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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(結婚したまえ-君は後悔するだろう)

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「ブラバント侯爵の遺児はどうだ」
「長男は公爵と一緒にヴァルハラへ。次男は聖職者志望だ」
「本家のブラバンド大公家」
「売約(婚約)済みだ。公式にお披露目しているだけに無理だろう」
「侍従のラ・ポルト子爵は?」
「名門とはいえ国内ならともかく対外的には見劣りが否めない。それに爵位が子爵では」
「ヴァリエール公爵・・・いや、忘れてくれ」
「賢明な判断だ。私もまだ死にたくない」
「ポアチエ伯爵は。先祖はラ・ヴァリエール公爵家と同じく王家の庶子だったはず」
「あの家は借金で首が廻らん。外聞が悪すぎる」
「ボーフォール伯爵」
「女嫌いだ。何でも若い頃に色町でトラウマになるような体験をしたとかしないとか」
「・・・何だそれは?まあ年齢的にも無理があるか。ならばサックス元帥の孫で陸軍少佐の-」

アルチュール・ド・リッシュモン外務卿がその名前を言う前に、エギヨン侯爵は黙って右手の親指を立てた。

「・・・男色では話にならんな」
「今はグラモン伯爵に懸想しておるとか。王都一の美男子とやらもさすがに持て余しておるようで、おちおち夜も眠れんそうだ」

口に手を当てて忍び笑いを漏らすエギヨン侯爵。あまり品のいい笑いではないが、リッシュモンがそれを咎めることはない。何せ侯爵は宰相就任以来、愉快ではないだろうこの作業をほぼ一人でやり続けてきたのだ。多少人の不幸を笑うぐらいの楽しみはあってもいいだろう。若いイケメンの醜態ほど笑えるものはないという意地の悪い思いがあったことは否定できないが。


エギヨン侯爵は経歴や年齢、ましてその人の人柄や周囲の評価などという曖昧なものの話をしているわけではない。それにこれらはその気になればいくらでも箔付けは可能だ。エギヨン侯爵が求めているのは「種馬」として役に立つのかどうか、そして種馬の資格があるかどうかである。名門が名門と呼ばれるのは、華麗なる先祖の功績や領地の規模、そして財産もあるが、なにより格式や家風を維持しながら何百年、何千年と家を続けてきたことだ。「売家と唐様で書く三代目」ではないが、軍人であり行政官であり政治家であり裁判官であり警察官である「貴族」という家業を何代も続けてきたというのはそれだけで評価すべき対象になる。また歴史のある貴族は-こういっては何だが製造元のお墨付き。畑と種と肥料が誰の目にも明らかだからだ。本人の人格や能力も考慮の対象になるが、王配という立場ではかえってそれらが邪魔になる場合がある。もとより閨で励む以上のことは求めてはいない。

とはいえ「家柄の産地証明書を持つ結婚適齢期の男」ならば始祖以来の歴史を持つトリステインには山ほどいる。問題はそのほとんどが売約(婚約)済みであることだ。2年前のラグドリアン戦争で戦死したフランソワ王太子が「英雄王」の後継者として扱われていたため、国外に嫁ぐであろうと考えられていたマリアンヌ王女に王配を迎えることなど想像すらされていなかった。もしマリアンヌ王女に王配を迎えることをトリステイン貴族の婚約率はもっと低かったであろう。


「・・・フランソワ様さえご存命であればな」

視線を伏せながらつぶやいたエギヨン侯爵。フランソワ王太子の政治的な師であり知恵袋的な存在だったのが他ならぬエギヨン侯爵だ。エスターシュ大公派と貴族派の間で王太子が両者の斡旋役として動くことができたのは、その両方につながりのあったエギヨン侯爵あってのこと。個人的にも王太子の人格や人柄に心服していた侯爵には、フランソワ王太子の死は受け入れがたいことなのだろう。まして王太子の遺体は未だに見つかっていない。ほんのわずかな望みが、彼の失望と絶望をより長引かせているようにリッシュモンには思えた。しかし死んだ子の歳を数えてもどうにもなるまい。生きている人間のことを考えることができるのは、生きている人間だけだ。

「しかし挙げてみれば意外といないものだな。皆何かしら引っかかる」
「・・・だからといって、やらないわけにはいかないだろう。白百合をわしらの代で枯らすわけにはいかない」

目頭を押さえながら、エギヨン侯爵は深々と息を吐く。トリステイン朝トリステイン王家は今まさに存続の岐路にある。直系王族が少ないという現状が、いずれ中長期的には後継者問題として水の国に重くのしかかるであろうことは、宮廷内の事情に通じたものの目には明らかであった。

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(数字は戴冠した順番)
           ②
①          -アンリ7世-フランソワ王太子
 アンリ6世    |
(豪胆王)     |③
  |    ―――|-ルイ18世
クロード王妃    |
(ベーメン王国出身)|
           |④
           -フィリップ3世-マリアンヌ

アンリ7世・ルイ18世・フィリップ3世はアンリ6世の子。
フランソワ王太子はフィリップ3世の甥でマリアンヌとは従兄弟。

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トリステイン王家は蒲柳の質というわけではないが、アンリ7世は息子であるフランソワがようやく歩き始めたころに突然崩御。ショートリリーフとして登板した王弟ルイ18世も、わずか在任5年で兄の後を追った。未だフランソワは幼く、丁度ルイ18世崩御の直後に発生したツェルプストー侯爵家とラ・ヴァリエール公爵家との紛争で戦果を挙げてトリスタニア市民から熱狂を持って迎え入れられた末弟フィリップが国王として即位することになった。それが現トリステイン国王フィリップ3世である。フィリップ3世も自らの中継ぎとしての役割を理解し、甥フランソワが成人するまでの間王座を預かっているという認識で国内は一致していた。しかしセダンの地にフランソワ王太子が消え、『英雄王』の一粒種であるマリアンヌ王女が第一王位継承者にくりあがったことで、その前提は崩れ去った。


ラグドリアン戦争で大きな傷を負った水の国を今まとめているのは『英雄王』の名声ひとつ。超大国ガリア相手に国家存亡の祖国防衛戦争を戦い抜いたフィリップ3世の名声は、かつて経済失政の対象として批判されていた王と同一人物とは思えないほど高まっている。それゆえフィリップ3世だけでなく閣僚達は「英雄王」という名声を傷つけないように細心の注意を払っていた。同盟国アルビオンのゲルマニアとの国交締結という失点を、エスターシュ大公が被って辞任したのも、ひとえに王の威信を傷つけないため。王個人の名声に頼らざるを得ないほど、水の国が負った傷は深いということでもある。それはともかくトリステインは『英雄王』の名声によって国家の求心力を維持しているのが現状。フランソワ王太子亡き今となっては、その英雄王の娘が跡を継ぐことに国内の貴族も納得せざるをえない。

問題は次が「マリアンヌ女王」であるとして、問題はその次。次の次、つまりマリアンヌのあとを誰が継ぐかだ。ラグドリアン戦争でフランソワ王太子の側近だった若年貴族の多くも戦死している現状では、先ほど言った「家柄の産地証明書を持つ結婚適齢期の男」は驚くほど少ない。「産地証明書」の時点で遺伝的な病気や精神疾患のある家を弾くと、その数はますます少なくなってしまう。「結婚適齢期」を外せばいないこともないが、独身には独身の理由があった。下半身にだらしない、博打好き、男色etc。まさか英雄王の娘にそんな種馬をあてがうわけには行かない。それに「政治的背景」をまったく無視するわけにもいかない。王配の親族-具体的には親や兄弟に政治に干渉するような人物がいれば、たとえ当人がどうであれ相応しくない。大公家や王位継承権を有する公爵家・侯爵家-もっと範囲を広げて伯爵家まで広げてみても上記に挙げたどれかに引っかかる。

「エスターシュ大公も本来ならば候補なのだが」
「あれでは『王配』ではなく『国王』になってしまうだろう」

それにマリアンヌ様が首を縦には振らないだろうと言うリッシュモン。マリアンヌがエスターシュ大公のことを嫌っているのは知らないものはいない周知の事実。何より家柄や能力的にはともかく「トリスタニアの変」で失脚した彼を種馬にすることなどありえない。そんなことをすれば国内がどんな状況になるかわかったものではない。

そのことに思いをめぐらせたのか再び盛大なため息をつくエギヨン侯爵。彼自身、第一次エスターシュ政権下で内務次官として地方制度改革に携わったが、エスターシュ派と、宰相である大公が王座の野心ありと疑う貴族派との間で苦労を強いられた。そうした過去の苦労話をするつもりはないが、ため息が出てしまうのは仕方がない。それにエギヨン侯爵はもうひとつ、他ならぬマリアンヌ王女自身の最近の傾向に頭を悩ませていた。


「ラ・ポルト子爵が-」
「子爵家では格として落ちると君が言ったではないか」
「そうではない、そうではないのだ。子爵が言うには、最近マリアンヌ様はベーメンの叔母上様の事を聞きたがるそうなのだ」

その言葉に眉をひそめるリッシュモン伯爵。そういえば思い当たる節はある。リッシュモン自身、御進行で幾度かベーメンについて御下問された事があった。ドレスのすそを手繰り上げて「仕事が恋人!」と何処か鬼気迫る表情で政務や勉学に励まれるマリアンヌ王女が、そのようなことを考えておられたとは。エギヨン侯爵は「困った事だ」と腕を組んだ。


マリアンヌの亡き母クロード王妃は旧東フランクの一角であるベーメン王国の出身。そして現在ベーメン王国を治めるエリザベート8世はクロードの妹であり、マリアンヌの叔母である。ベーメン王国は平民貴族問わず新教徒と宗教庁勢力が入り混じる難治の地。王権も決して強いものではないその王国を、エリザベート8世は25年もの長きに渡り卓越した調整能力と政治手腕で治めてきた。確かにその政治姿勢は、いずれ水の国を女王として治めることになるマリアンヌにとっては参考になるだろう。

しかしエリザベート8世が「独身」であることまで真似てもらっては困る。クロードやエリザベートの弟であるフランツ・ヨーゼフ10世死後、時期王座をめぐり王族間での争いが激化したため、中継ぎとして即位したのがエリザベート8世。独身であったために国内の王族や貴族の争いに超然とした立場で臨むことができた。それはいい。しかし王族が多いために後継者に困ることのないベーメンとは違い、トリステインでマリアンヌがそれをしてしまっては王家が絶えてしまう。トリステインは直系王族を積極的に臣籍降下させることで「王と臣下」の立場を明確にして、国王の主導権を確保してきた。ベーメンであればポストエリザベートは王族から確保することになるが、トリステインでポストマリアンヌとなると臣下の間から選ぶことになる。

「ブラバンド大公家やそれこそエギヨン侯爵当主である君だってその資格はあるわけだ。マリアンヌ様が存命の間はいいが、仮にマリアンヌ様が誰もが納得する後継者の選出に失敗した場合、国は大混乱だぞ」
「まだ十数年も先の話だ。今から心配することでもないだろう」
「しかしな、マリアンヌ様が独身を貫かれるとするのであればその問題を避けることはできないだろう」
「それはそうだがな」

エギヨン侯爵は眉間の皴を深くする。大柄な体でどっかりと目の前の椅子に腰掛けているリッシュモンのほうが彼よりもよほど宰相然としている。エギヨン侯爵が心なしか宰相就任以前より老けて見えるのは気のせいではないだろう。

「・・・無理やり国内から出せないことはないが、その場合予想される国内の軋轢と、十数年先の政治問題とどちらが大事か」
「そんなことをおっしゃられたのか」

エギヨン侯爵が黙ってうなずいたのを見たリッシュモンは思わず唸った。先を見通せる者はいるものだが、覚悟を持ってそれに望むことができる者は少ない。僅か20を少し越えたばかりの年齢で、生涯独身を通すことを考え始めるとは・・・さすがは英雄王の娘だ。その覚悟やよし。しかし覚悟があるからといって、十数年先に必ず直面する後継者問題で国内の合意を取り付けられる保障にはならない。そしてその頃に自分はあの気丈なお姫様を支えることは適わないだろう。


「恋愛は結婚の果実という」

唐突に話題を変えたリッシュモンをエギヨン侯爵は訝しげに見返した。

「しないで後悔するなら、してから後悔したほうがいいだろう」
「・・・君らしくもないことを言う」

エギヨン侯爵自身、主君の娘である以上に、よき君主たらんと弁核に励むマリアンヌ王女を好ましく思っている。一人の女性として幸せな結婚をしてほしいとは思う。しかしそれは個人としての感情。国家の重大問題とはまったく別のものだ。それに女王の結婚が失敗したとなれば、白百合の威信は大きく傷つく。失敗は絶対に許されない。

そこまで考えをめぐらせてから視線を上げたエギヨン侯爵は、リッシュモンがまっすぐこちらを見据えていることに気がついた。何か重大な事を切り出す際に人が醸し出す独特の雰囲気、それを纏いながら。


「ひとつ考えがあるのだが」




マリアンヌ・ド・トリステインはその元老院議員の話に相槌を打ちながらも、ほどんど聞いてはいなかった。話の内容自体はそれほど新鮮味のある内容ではない。ただその話し方が上手いだけについつい頷いてしまう。些細な事を誇張して面白おかしく話す様は、言葉は悪いが「太鼓持ち」という言葉がしっくり来る。

ラ・ポルト子爵はそんな彼の話で笑うマリアンヌの態度が面白くないのか仏頂面をして突っ立っていたが、マリアンヌとて話の内容が面白いから笑っているわけではない。むしろ滑稽なまでに自分の機嫌をとろうとする元老院議員の態度がなんとも言えずに可笑しみを誘う。そうした斜めに構えた笑いですら、今のマリアンヌにとっては貴重であった。王女の笑顔に、元老院議員は額をペシペシと叩きながら笑い返した。

「いや、はっはっは!参りましたなぁ、いや、参りました」

「参った参った」これがミラボー伯爵オノーレ・ガブリエル・ミケティの口癖だ。相手が話し終える前にこの言葉を意味もなく繰り返し、わかったわかったと首を振る。その気さくな態度と庶民性で平民にも人気があるが、それが他の貴族から妬まれないのがミラボー伯爵という人物である。リッシュモン伯爵(外務卿)と同じ法服貴族出身で弁が立つため、元老院議員に選出されると瞬く間に院の中心人物とみなされる。当初はエスターシュ大公派とみなされていたが「トリスタニアの変」直前にその元を離れることで政治的地位を保った。事件後は大公批判一色となった元老院で殆ど唯一沈黙を保つことで、エスターシュ大公再登板に伴う政治環境の変化の中でも生き残り、今では元老院副議長だ。

その見た目や開放的な雰囲気にだまされやすいが、如才のなさにかけてはトリスタニア有数のものがある。当然それはマリアンヌも承知しており、そんな彼を好ましく思ってはいない。しかし元老院の実力者であるミラボー伯爵を追い返す事は出来ない。政治的に未熟な自分のふがいなさに臍をかむだけだ。心にもない事で笑う事が出来るようになったのは政治家として成長したのか、それとも単なる負け惜しみか。エスターシュ大公を使わざるを得なかった父も同じ感情を味わったのであろうかとマリアンヌは思った。


「そうそう、お聞きしましたか。エスターシュ大公が今どうしているかを」
「いえ?存じませんが」

フランソワ王太子が亡くなった直後は、何かと背伸びをしようとしたマリアンヌだが「何も知らないお姫様」である場合が都合がいい場合があることを最近知った。納得したわけではないが、そうしたほうがいい場合もあるのだと自分に言い聞かせる。

「彼は今、フォンティーヌにおるのですよ」
「まぁ、それではヴァリエール公爵家の?」
「如何にも。ヴァリエール家の保養地です。ヴァリエールの当代であるピエール卿といえば『トリスタニアの変』以前は大公を目の敵にしておりました。一体、どのような心境の変化なのか」

そう言ったミラボー伯爵は舐めるような視線をマリアンヌに送る。政界引退を表明したとはいえ、エスターシュ大公の政界への影響力は侮れない。その大公がラ・ヴァリエール公爵領にいるとあれば、様々な憶測を呼ぶだろう。ミラボー伯爵は大公がヴァリエールの後ろ盾を持って国政復帰するつもりではないかと疑っているのか。今のヴァリエール公爵家当主のピエールはフィリップ3世の側近中の側近。木の葉が沈み石が浮くのが政界の常。犬猿の仲であるはずの両者が組むと考え、両者に繋がりを持つ自分に鎌をかけに来た-そんなところか。

「ヴァリエール公爵は騎士道の生きた見本の様なお方。窮鳥が頼って来れば猟師もこれを撃たないといいます。そういうことではないのですか?」
「なるほど、なるほど。公爵ならばさもありなん。公爵は真に立派なお方ですゆえ」

手を叩き大げさに頷くミラボー伯爵だが、眠たそうなその目だけはマリアンヌの様子を伺い続けている。マリアンヌは不快な感情を押し殺して、にっこりと笑った。

「えぇ。本当に立派なお方。カリーヌが羨ましいですわ」
「ははは、それはそれは」
「ヴァリエール公を初めとしてわが国には人材が揃っています。私としても心強い限りです」

手ぶらではこの男は満足しない。これがマリアンヌなりに考えた上での回答であった。それに彼女としては今の立場ではこうとしかいいようがない。言うのは簡単だが、それを担保するものを持っていないからだ。そしてミラボー伯爵はその垂れ気味の目もとを満足げに緩める。「エスターシュの3度目の登板はない」という意味を察したようだ。

「父上-国王陛下も副議長閣下のお働きには常々気を留められておりますよ」
「いやいやいや、このミラボー。未だ陛下やマリアンヌ様のお役に立つようなものではありません」

大きな体を器用に屈め、心底申し訳なさそうに頭をかくミラボー伯爵。「わが身の非力非才を痛感いたします」と言う言葉と同じく、その表情は自分から無理難題を押し付けられて困り果てた時のラ・ポルト子爵のそれによく似ている。しかし両者は全くの別のものであるということぐらいマリアンヌにも理解できる。用件が済んだといわんばかりに、ミラボー伯爵はこちらが不快にならない程度のお世辞を口にしながら退出していった。


「お疲れ様です、姫様」
「お疲れと思うなら貴方も少しは付き合いなさい」
「・・・申し訳ございません。ああいう手合いはどうにも苦手でして」

縮こまった手足を思いっきり伸ばし、天井を仰ぐマリアンヌ。まったく、これならリッシュモン伯爵に御進講を受けていたほうがよほど気が楽だ。マリアンヌの言葉に身を竦めるラ・ポルト子爵。もっともマリアンヌも彼にそんな事を期待してはいない。忠実な秘書官であり事務官である彼にそれ以上を求めるのは酷と言うものだ。肩をならして首を揉むマリアンヌは、さながら一仕事終えた絨毯職人のよう。社交界で多数の貴族と接する時とはまったく別の気働きをした後はさすがに疲れる。これも仕事だと思えば、納得できなくもないが。

「・・・今頃『彼』はどうしているかしらね」
「はッ」

ラ・ポルト子爵が反応しかけたが、彼は続く言葉を自分で飲み込んだ。求められてもいない答えを返すような無粋な真似はしない。

マイヤール女官長こと烈風カリンがマリアンヌの下を去ったのは半年前の事。マイヤール子爵家はお世辞にも名門とはいえない。仮面の下を知らないものは、文字通り名門中の名門であるラ・ヴァリエールの夫人としての彼女に誹謗中傷を浴びせていることはマリアンヌも聞き及んでいた。しかしマリアンヌにはどうする事も出来ない。代われるものなら代わってやりたいが、それは出来ない。

華麗なる戦場音楽の舞手であった彼女は、戦場を移して今もなお戦い続けている。

「この程度で泣き言を言ってる場合じゃないわね」

それは自分を『親友』と言ってくれたカリーヌを裏切る事になる。あの日、立場は違えど共に戦おうと誓った彼女を。

「やってやるわよ」

そう、やってやる。この程度で負けてたまるもんですか。私を誰だと思っているの?あの高慢ちきで馬鹿みたいにプライドの高い『英雄王』の娘よ。貴族や法院参事官の好きにやられてたまるもんですか。

そのためなら女の幸せなんか捨ててやる。蜘蛛の巣がはろうが構うもんですか。


肩に力を入れ、思いつめた表情で虚空を睨むマリアンヌの様子を、ラ・ポルト子爵はどこか不安げに、それでいて頼もしく感じながら見つめていた。




この時、マリアンヌ・ド・トリステインは自身の運命が自分と全くあずかり知らぬところで動き始めている事に気が付くことはなかった。トリスタニアでそれを知るのはリッシュモン外務卿を含めて数えるほど。そして彼らの行動が、トリステイン王国全体、そしてアルビオンやロマリアといった諸外国を巻き込んだ大問題に発展する事になると想像したものは誰もいなかった。


-正確に言えば、ただ一人だけその結末を予想していた人物がいたのだが。




[17077] 第50話「結婚しないでいたまえ-君は後悔するだろう」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:b679932f
Date: 2010/08/06 19:03
聖イシュトヴァーンの王冠-初代国王のイシュトヴァーン1世(2950-3002)より受け継がれたベーメン王国の王権の証。旧東フランク諸侯の一人に過ぎなかったイシュトヴァーン1世だが、智勇兼備の名将にして人格者、なおかつ類まれなる魔法の才能の持ち主というおよそ完璧な君主というに相応しい人物であったため、王国崩壊後の動乱の中で周辺諸侯の支持を受けてベーメン王国の建国を宣言した。歴代のベーメン王はイシュトヴァーンの名を冠したこの王冠にふさわしい王たらんと振る舞い、貴族や民もそれを王に求めた。「ベーメンに暗君なし」といわれる所以である。とはいえ歴代国王の個人的な素質だけをその理由とするには難がある。建国の経緯からして(王家が始祖の直系子孫ではない旧東フランクの諸王国全体に言える事だが)王権は強いものではない。またベーメン国内は新教徒と宗教庁勢力が平民・貴族問わず入り乱れて勢力が拮抗しており、その調停役である国王には王個人としての教養や素質、何より政治手腕が求められた。「王の器足らず」とみなされれば、有形無形の圧力で王冠は取り上げられた。在任期間の短い王が多いのはそうした背景がある。

現在、その聖イシュトヴァーンの王冠を被るのは女王エリザベート8世。歴代の女王が男子王族が成人するまでの中継ぎであったのとは異なり、彼女は25歳で即位してから25年もの間、王冠の主であり続けている。その治世下は決して平坦なものではなく、老女王は幾多の政治危機に直面したが、その全てを乗り越え、ベーメン王国はマクシミリアン4世(5030-5100)以来とも称される政治的な安定と繁栄を謳歌している。それは王都プラークがエリザベート在位25年を祝う祝賀ムード一色であることからもわかる。行政府が積極的に音頭をとっていたこともあるが、それだけではこの盛り上がりを説明できない。プラーク市民がこの安定をもたらしている存在が誰であるかを知っていたからであろう。


明日は祝賀行事の本番(メインイベント)。各国の王族や大使を招いた晩餐会がヴィシェフラト城で開かれることになっており、忙しくその準備が進められている。市民たちは華やかなる宴の空気に酔い、明日の祝日-丁度即位25周年目にあたる-を前にしてすでにお祭りムードとなっていた。カレル大通りには市民が詰め掛け、ヴィシェフラト城へ向かう貴族や王族の隊列を見物している。中でもひときわ注目と歓声を集めたのは、やはりこの国であった。

「おお!ユニコーンだぞ」
「ということはあの馬車は、そうか!トリステインのマリアンヌ様か!」
「白百合の姫様だ!」
「おい貴様ら、下がれ、下がらんか!」

警備の兵が必死に下がらせようとするが、お祭り気分で浮かれたプラーク市民には厳しい警備兵達もその辺のでかい兄ちゃんぐらいのものにしか感じられない。それに市民達は祝いの場で揉め事を起こしたくないという兵士達の足元を見透かしていた。何よりあの白百合の華が見られるという機会を逃してなるものか。

マリアンヌ・ド・トリステインが馬車の窓から顔をのぞかせるたびに大変な歓声が沸きあがり、手を振ろうものなら「トリステイン万歳!」が飛び交う。ユニコーンが牽引する馬車の前方には、愛馬に騎乗した『英雄王』フィリップ3世が意気揚々と市民に応えていたが、その歓声は愛娘と比べると明らかに小さい。


どこの世界にもミーハーはいるものである。


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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(結婚しないでいたまえ-君は後悔するだろう)

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「結婚はするべきです。えぇ、するべきです。何が何でも結婚しなさい」


開口一番、いきなりこう宣言したベーメン女王エリザベート8世に、マリアンヌは時勢の挨拶や祝いの言葉も忘れて思わず問い返した。

「・・・あの叔母様。私はまだ何も」
「ちょうど私があの王冠をかぶせられたのは今の貴女と同じ年頃でしたからね。考えていることぐらいわかりますよ。国内から王配を迎えては不満が出る、かといって国外の王家から迎えては『操り人形』という批判が出かねない。それなら自分を犠牲にしてでも国内の安定を優先する-こんなところでしょう」

「違うかしら?」と首を傾げるエリザベート8世だが、その口調には有無を言わさない響きが混じっている。幼い頃に母クロードと死別したマリアンヌにとって叔母であるエリザベート8世は母代わりのような存在であると同時に、頭のあがらない存在でもある。第一次エスターシュ政権当時、大公への不満を口にしたマリアンヌに「貴女が王女でいられるのは誰のおかげですか」と叱責されたことがあった。身内である気安さからか、とんでもない失言をしたものだと今思い出しても冷や汗が出る。表に出ていれば、ただでさえ難しい関係を強いられていた父とエスターシュ大公との関係はより緊迫したものとなったであろう。

細身の、いかにも神経質そうな顔立ちのエリザベート8世がその切れ長の目を細める。マリアンヌは心底を見透かされるような気分になり、その身を強張らせた。

「貴女はフィリップ陛下の娘であると同時に、トリステイン王家で最も若い王族なのですよ。貴女亡き後、いったい誰が白百合を継ぐというのです?」
「・・・ブラバント大公やヴァリエール公爵、ロタリンギア公爵など王家の血を引く貴族から後継者を立てることを考えています」

叔母様がなされたようにとマリアンヌは続けた。新教徒や宗教庁勢力、貴族に王族といった国内のどの諸勢力とも結びつかないことによって、エリザベート8世は超然とした立場で国内問題の調停者でいることが出来た。自身の権威を背景にエリザベートは王族の中から後継者を選ぶことに成功している。暗にそれを仄めかすマリアンヌに、エリザベートは首を横に振ることで答えた。

「血が繋がっていればいいというものではありません。確かに貴女が今名前を挙げた貴族にも王位継承権はありますが、所詮妾の子供とその子孫。彼らに白百合を背負う権威があるとお思いですか?」
「貴族は貴族に生まれるのではなく貴族になるといいます。確かに難しいでしょうが、彼らが王位継承権を有するのは間違いないこと。それに誰もが納得するだけの能力と素質があるのであれば-」

再び首を振るエリザベート。

「貴女は重大なことを忘れています。マリアンヌ、貴女は英雄王の娘だから権威があるのではありません。始祖の子にして建国王ルイ1世以来、6000年以上続いてきたトリステイン王家。その歴史が貴女の体に流れる血の一滴一滴に宿っているからそこ、貴女は『マリアンヌ・ド・トリステイン』たりえているのですよ」

血の論理と尊貴を説くエリザベートの言葉にマリアンヌはかすかな反抗心を覚えたが、その言葉を飲み込んだ。奇しくもフランソワ王太子の死によってエリザベートと同じ立場に立たされたマリアンヌには、この叔母の言わんとする事がおぼろげではあるが理解できたからだ。若年ということで不安を与え、知識がないことで馬鹿にされ、経験がないことで侮られ、そして「女」である事が理由のない優越感を相手に与える。今でこそエリザベート8世は聖イシュトヴァーンの王冠の主に相応しいと貴族や平民に認められているが、始祖の血を引かないベーメン女王である叔母がその名声を手に入れるまでには、それに倍する屈辱を味わい侮辱にまみれてきたであろうことは想像に難くない。エリザベート8世はそれを口にしないが、英雄王の娘であり始祖の直系子孫であるという恵まれた立場にいる自分が、それに疑問をつけるとはなんと贅沢な悩みか。エリザベートが許しても、マリアンヌ自身のプライドがそれを許さない。

エリザベートは噛んで含めるように、ゆっくりと言った。

「あなたの体に流れるその血。始祖ブリミル、トリステイン建国王ルイ1世、そして英雄王と同じ血があなたの体に流れています。血筋の権威とは誰もがそれを認めるからこそ成り立つのです。しかし血筋の権威はその秩序が崩れ、一度疑問符が付くと取り返しが付きません。貴族は王家に対する疑問を口にするようになり、言葉は杖となります」

東フランク王国がそうであった。最後の国王バシレイオス14世の死後、叔父であるザクセン大公のアルブレヒトが国王即位を宣言したが、庶子であったために正当性に疑問符がついた。異議をとなえる貴族の言葉は杖となり、言葉の数だけ杖が交わされた。旧東フランクを受け継いだ諸侯は、その支配の正統性の裏づけに苦心し、逆説的ではあるがそれが旧東フランク諸国全体に合理主義的精神を根付かせる事になる。空理空論を弄ぶよりも、杖を一振りしたほうが容易に物事が片付く事に気が付いたからだ。しかし杖で権力を獲得したものは、同じく杖の論理で倒される。そのため旧東フランク地域に戦禍が耐えることはない。

「私は王族から選びました」とエリザベートは本題に切り込んだ。独身で子がいないエリザベートは、次の聖イシュトヴァーンの王冠の主になる皇太子に従兄弟のスラヴォニア大公フランツ・ヨーゼフを選んだ。何のことはない、エリザベートとその父レオポルト3世から最も近い王族であり王位継承順で言えばもっとも妥当な人選といえた。しかしその妥当な人選をするためにエリザベートは25年の歳月を費やす必要があった。

貴女にそれが出来るのか、その覚悟はあるのか-マリアンヌは自分が詰問されている気分になった。安易に覚悟と呼んだ自分の中にあるそれが、恥ずかしいものの様に思えてくる。


「いいですか?王族は王家に籍を置くもの。王族と貴族、そこには初めから一線が引かれています。ですが貴女の場合は貴族から選ぶことになるのですよ?貴族から王を選ぶ-エスターシュ大公がなぜあれほど嫌われたのか、わからないとは言わせませんよ」

エスターシュ大公が挫折したのはその政治目的が、自身が王になるためのものではないかと疑われたからだ。初めから一線が隠されている王族とは違い、分家した大公家の当主といえども貴族の間では同格だという意識が強い。昨日までは同じ杖の忠誠を誓う立場であったのが、今日からはその忠誠を誓う存在になることを「はいそうですか」と受け入れることは簡単ではない。

「エスターシュ大公家は政治的に無理でしょう。今貴女の上げた三つの家-ブラバント大公、ヴァリエール公爵、ロタリンギア公爵なら大公家が最も家柄で言えば自然ですが、大公家には確かヴァリエール公爵家から養子が入っていますね」

マリアンヌは小さく首を傾げた。

「よくご存知ですね。確かに3代前にヴァリエール家からブラバント大公家は養子を迎えています」
「昔あの家から私の王配を迎えようという話がありましたからね。それはともかく、ただでさえ庶子の子孫であるという点で難しい上に、それでは継承順に明確な差はありません。そんな状況で-例え貴女が個人の能力で選んだと言ったところで、選ばれなかったものはそうは受け取らないでしょう」

エリザベートはいったん言葉を切った。マリアンヌは緊張した面持ちでこちらを見ている。フランソワ王太子亡き後、白百合の後継者として扱われるようになったことで何らかの心境の変化をもたらしたのか。少なくとも昔は自分の意見や主義主張を持つような性格ではなかったはずである。意見を持つ事自体は悪いことではないが、ひとつの考えに凝り固まっては見えるものも見えなくなる。


「初めから選択肢を絞ってはいけません。貴女はまだ若いのですから、どこにご縁があるのかわからないものですからね。外から迎えてもいいわけですし・・・貴女だってまるで興味がないわけではないのでしょう?」
「お、叔母様!」

いつの間にかお節介な身内の表情となって、いたずらっぽく笑いかけたエリザベートにマリアンヌは顔を赤らめた。名と実が一致しない旧東フランクの大国の主である女王からすれば、白百合の王女様をからかう事などなど赤子の手をひねるようなもの。トリステインが旧東フランクへの進出に失敗したのもむべなるかなである。

ひとしきり姪をからかうと、エリザベート8世は再び目を細めた。刺す様な眼光の鋭さに晒されながらも、マリアンヌはどこか安堵していた。厳しさの中にある感情に、亡き母クロードを重ね合わせていたのかもしれない。


「早急に答えを出す必要はありません。それに貴女の気持ちがどうであれ、そうした事が決まる時には、いつのまにか環境が整えられているものです・・・人に決められた道を歩くのは嫌いですか?」

マリアンヌは少し考えてから言った。

「・・・同じ歩くのであれば、自分で道を切り開きたいと思います。結果がどうであれ、それが自分で選択した事であれば納得できるでしょうから」

エリザベート8世は、この人には珍しく声を上げて笑った。


***

男もそうであるが、貴族の女子は社交界に出る前にまずドレスコードを叩き込まれる。端的に言えばTPO(Time-時間、Place-場所、Occasion-場合)をわきまえた服装をするということだ。宴の趣旨や主催者の性格、会の規模や会場に時間帯といった様々な状況を勘案し、それに相応しい服装に身を包む。これが出来ないと如何に名門貴族の子女であっても「この程度のことも出来ないのか」と嘲りを持って見られる。いったん生まれた悪評は社交界でついて周り、結果的には本人の将来すら決めてしまうことすらある。

TPOにだけ注意していればいいというものではない。その家柄に相応しい格好というものもある。要するにここでも「血筋の論理」が顔を出す。たとえは同じ伯爵家でも誰それの家の先祖は王家の出であるからとか、何代前にどこそこの公爵から婿を取っているとか。そうしたことで上下の差がつく。誰しも自らが人に劣るとは思いたくない。ましてやそれは自分たちにはどうしようもないことだ。過去にあった些細なことで競い合い、優越感と敗北感を味わう-それもまた貴族である。


血胤の尊さ-結局自分はそれに振り回されてきたのだとエリザベートは思う。イシュトヴァーン1世は確かに偉大な人物ではあったが、その子孫というだけでは貴族を従わせるには十分たりえなかった。自分だけではない。東フランクの王家に連なるものであれば、誰もが一度はそれを感じたことだろう。「なぜ自分は始祖ブリミルの子孫ではないのか」「何故自分はただの貴族に生まれなかったのか」と。貴族達が血胤を誇る事の何とほほえましいことか。醜さはあってもそこに罪はない。


エリザベートの視線の先には、義兄にあたるトリステイン国王フィリップ3世がワイングラス片手に貴族たちに囲まれて談笑していた。人をひきつけるのが英雄の素質というのであれば、今のフィリップ3世は「英雄王」という呼び名に相応しい。華美も過ぎれば下品となるが、どれほど派手な服であってもフィリップ3世が身に着ければ、それが彼のために作られたのではないかと思わせてしまう。見た目や引き締まった体もそうであるが、何より彼には華がある。マリアンヌとは違う、そして彼女にはない華が。古今東西、英雄の嫌いな人間はいない。幾多の戦場を駆け抜け、杖をとれば一騎当千、軍勢を率いれば常勝無敗。そしてあのラグドリアン戦争とセダン会戦-国の存亡をかけた戦いに自ら杖を取り戦ったことはハルケギニアで知らないものはいない。その光に人は集まる。「太陽王」ロペスピエール3世も、その光に魅せられた一人だったのかもしれない。

いつの頃からか英雄は自分が英雄である事を知った。フィリップ3世は彼らの望む「英雄」として振舞う。それが戦争で傷ついた白百合の威信を高めることにつながり、いずれ自分のあとを継ぐことになる娘の後ろ盾となることがわかっているからだ。英雄である事の責任-無責任な民の期待にこたえる義務はないのに、彼はそれを自分に課している。単に自己のプライドを満足させるためだけでは続かないだろう。

エリザベートの視線に気がついたのか、フィリップ3世はバイエルン王国のルードヴィヒ王太子に断りを入れてから歩み寄ってきた。自信にあふれた力強い足取り。彼が歩けば道が出来る。彼の行くところに道がある。それが英雄ということなのだろうか。だとすればあの姪は間違いなく英雄王の娘だ。そうでなければ20かそこらの小娘があんな言葉を吐けないだろう。


「さすがは英雄王というところですか。おもてになりますわね」
「男にもてても嬉しくはありませんぞ」

そう言って笑うフィリップ3世。仕草のひとつひとつが実に様になっている。本人に自覚はないのだろうが、彼は生まれ持っての役者なのだ。自分に自信のなかったコンプレックスの塊のような「太陽王」とは違い、この男は英雄となるべくして、そういう星の下に生まれたのだ。


フィリップ3世はトリステイン王アンリ6世の3男として生まれた。後世の歴史家は時の巡り会わせで彼が王となり、一時水の国は深刻な経済危機に陥った原因は、彼が帝王学という王としての教育ではなく、軍人としての教育しか受けなかったことに原因があると批判した。しかし仮に彼が王太子として厳しく帝王学を躾けられたところで「英雄」の持つ天性の気質とぶつかり、いい結果はもたらさなかっただろう。とにかくフィリップ3世は比較的自由な環境でのびのびと育ち、英雄としての気質を身につけた。お忍びでチクトンネの悪所にも通い、兵士や町のゴロツキと酒を飲んで喧嘩をした。そうした若いころの夜遊びが、王としての人格の幅をもたらしたともいえる。本来なら眉をひそめられるエピソードですら、英雄の経歴を飾るものとなった。

ところでその傾向は娘であるマリアンヌにも受け継がれた。ある時、お忍びで出歩く王女に困り果てた宮廷貴族がフィリップ3世に諫言したが「あれは余の娘だから」というフィリップ3世の言葉に苦笑いを浮かべるしかなかったという。


閑話休題


当然というべきか、そんな王弟に嫁ぐ女性というのも相当なもので-それがエリザベート8世の姉で、今は亡きマリアンヌの母クロード王妃である。その名を聞けば今でも多くのベーメン貴族が「あぁ、あの・・・」と誰しもがどこか遠い目をする彼女は、その美貌と同時に「自由奔放」が人の形を取ったような性格で知られていた。気が強く男勝りで負けず嫌い。「男であれば」と父のレオポルト3世も嘆いたが、残念ながらクロードは正真正銘の女であった。修道院にでも入るか、それとも学者にでもなるかと思われていたが、たまたまプラークを訪れたフィリップと出会ったことでその運命は大きく変化した。

その時の姉の様子を、エリザベートは今でも克明に思い出せる。彼女は頭が良すぎた。魔法の才でもその他の教養でも圧倒的に抜きん出ており、そのうえ王族だ。男としてはどうしても気後れしてしまう。期待と失望を繰り返し、いつしか「つまらない」が口癖になっていた姉が頬を紅潮させ恋する乙女になったのだ。それもたった一度の邂逅で。昔の感情豊かな姉に戻って欲しいと願っていたエリザベートも最初は喜んだものだが、そのうち口から砂糖を吐きそうになった。毎日毎日「殿下が殿下が殿下が…」。関○電力か!仲○工事か!という謎の言葉が浮かんできたが、あれは一体なんだったのか。それはともかく、姉がその時まだ王弟であったフィリップ3世に嫁いだ時にはようやくこれで開放されると清々したものだ。その姉がいなくなったおかげで、貧乏くじを引かされる羽目になったのだが。

エリザベートの懐古は、そのフィリップ3世によって妨げられた。

「女王陛下、感謝いたします」
「さて、何のことでしょうか。急にお礼を言われてはなんだか怖くなりますよ」
「マリアンヌですよ」

フィリップ3世はちらりと愛娘の方向に視線をやった。サヴォイア王国のカヴール外相一行とにこやかに談笑している。ここ最近仮面のように張り付いていた緊張感や、ガチガチに固まっていた肩の力が抜けている。

「最近はあれを厳しく仕込んでいましてな。ようやくものになってきたのですが、若さゆえの気負いが目立ち始めまして、どうしたものかと悩んでいたのですが。どうやら女王陛下のお陰で良い感じに肩の力が抜けたようです」
「あらあら、英雄王ともあろうお方が娘の教育にお困りとは」

皮肉っぽく笑ったエリザベート8世に、フィリップは頭をかいた。娘のマリアンヌもそうだが、義兄であるはずのフィリップ3世も彼女には頭が上がらない。義兄と義妹という関係ではあるが、エリザベートのほうが3歳年長なのだ。

「いや、お恥ずかしい。娘がこんなに難しいものだとは思いもしませんでした。男ならまだ自信がありますが、どうにも女という生き物はわかりません」

普段の厳しい顔つきからは想像も出来ないが、フィリップ3世は笑うとなんとも愛嬌がある。色々と面倒な性格だったが、根は単純だった姉はきっとこれにやられたのだろう。でれでれになってフィリップ3世のことを自分のように自慢するクロードを思い出す。今となっては聞く事は叶わない、口から砂糖を吐きそうになるあの惚気けを。


「・・・私など真似なくとも、彼女はいい女王になるでしょう」
「世辞だとしても嬉しいものですな」

破顔したフィリップ3世にエリザベートが表情を崩さずに言う。

「世辞ではありません。彼女と話して私が感じた評価をそのまま言っただけです」
「それは、それは」

照れくさそうに鼻の下をこする英雄王。自分の英雄談は飽きもせずにいくらでも並べることが出来るのに、娘の事となるとただの父親の顔となるのが不思議だ。その感情は、自分には一生味わうことの出来ない感情であろう。


政治環境が許さなかった-それは嘘だ。エリザベート自身にも女王即位以降、そうした話は何度もあった。そのほうが政治的には望ましいであろう縁組もあった。しかし自分は「政治的中立」を理由にそのすべてを断った。

怖かったからだ。

自分の運命を一部でも人に任せる-いつ退位させられるかという恐怖におびえながら結婚という人生の伴侶を選ぶ博打を打つ。その決断が自分には出来なかった。女王であるという立場に甘え、それを押し通した。

その結果がこれだ。一人で寝るベッドの広さにはもう慣れた。しかしそれが人生の終焉まで続くであろう事を考えたときには、全く異なった感情が胸を支配する。人生の折り返し地点はもう当の昔に過ぎた。後悔はしない。しかし自分と同じ寂しさを、あの姪には味あわせたくはない。仕事に疲れ、倒れるようにベッドに身を投げ出した時に感じるあの気持ちを知るのは自分だけでいい。それにあの娘に、マリアンヌにそれは似合わない。野に咲く一輪の白百合も見事なものだが、それだけではいかにも寂しい。


そうでしょう・・・姉様?




「それでは私はこれで」
「ええ、どうぞよいひと時をお過ごしください」

プラーク駐在のトリステイン大使エノー伯爵の紹介を受けながら、マリアンヌは自分のもとに来る貴族や大使と次々に挨拶を交わしていた。不思議なもので、昔は嫌で嫌で仕方がなかった表面だけの挨拶や世辞が最近苦にならなくなってきた。自分はやはりあの父の子ということなのだろう。

「・・・お披露も楽じゃないわね」
「楽な仕事などこの世にはありません」

至極最もなラ・ポルト侍従の答えにマリアンヌは苦笑を浮かべる。父が最近何かと自分を表に出すのは後継者として自分をお披露目するためであろうと彼女は認識していた。それゆえ、どこか視線を伏せがちにこちらにやって来る一行にもすぐに気がついたし、侍従のラ・ポルト子爵が嫌なものを見たとでも言わんばかりに視線をそらしたことに、視線で注意することも出来た。エノー伯爵は官僚らしく感情を表さずに淡々と説明を始めた。

「ハノーヴァー王国使節団です。向かって右側がハッランド外務大臣。次期首相の有力候補の一人です。斜め後方がオルラタ伯爵レンナート・トルステンソン元帥。先の戦役ではトリステインに味方すべしと主張され-」
「白百合贔屓の面々ということね」

エノー伯爵はマリアンヌの言葉に静かにうなずいた。ラ・ポルト子爵などは忌々しげに顔を背けている。一般的にいえば子爵の反応がトリステインにおける対ハノーヴァー感情を表しているといっていい。淡々とした態度のエノー伯爵にしても、親族がラグドリアン戦争で戦死している。含むところは多々あるだろう。


ハノーヴァー人は世評で言われるほどの悪人ではない-そうマリアンヌが口にしたら彼らはどんな反応を示すだろう。当事者であるはずのマリアンヌだが、彼女はむしろこの長年の同盟国の事を客観的に見ていた。もし彼らが本当の悪人だとすれば、今頃トリステイン王国はハノーヴァーとガリアの一地方となっており、自分は今ここにいない。無論、憤りはある。しかしマリアンヌは思考と情念が昔ほど直結してはいなかった。

ラグドリアン戦役でハノーヴァーは水の国を見捨てた-これは事実だ。国境線を閉鎖し、物流の流れを断った。それゆえトリステインはガリアの大軍相手に孤軍奮闘の戦いを強いられ、国土の南部と軍に甚大な被害をこうむる。しかしハノーヴァーは超大国ガリアと北部都市同盟の圧力を前にしても、同盟破棄には踏み切らなかったとも言える。どう見ても勝ち目のない同盟国と心中はしたくない。かといって長年の同盟関係を完全に切り捨てることは出来なかった。2つの外圧の後押しがあったとしてもだ。トリステインと正面から戦うことを恐れ、周辺諸国の評価を気にしたため、その決断が出来なかった。だから完全にガリアと歩調を合わせることはせず、厳正中立で戦後に太陽王に責められることがないようにお茶を濁した。ハノーヴァーからすれば、最低限の義理は尽くしたという思いなのだろう。彼らなりに苦心と苦悩を重ねて出した決断にもかかわらず、ハノーヴァーは「日寄った」と受け止められ、その名声を大きく落とすことになる。英雄王の評価が上がった事とは対照的だ。世間はわかりやすいものを好きになる。ハノーヴァーの行動はいかにも判り辛いもので、世間の納得を得ることは難しかった。善良で気の小さい常識人は自分たちに向けられる白い視線に耐えていた。

白百合の後継者としての責任の重さをその肩に感じ始めていたマリアンヌは、むしろ彼らに同情した。納得はしない。フランソワ王太子を始めとした多くの見知った顔が、マリアンヌと近しい人々がセダンの地に消えたことを思い出す度に、彼らの日和見的な行動を許しがたく感じる。納得しろといわれても無理な話だ。しかしその善良な隣人を前にして、マリアンヌは罵ることはなかった。その種の感情を表す言葉が彼女の中に存在しなかったからかもしれない。それ故、マリアンヌは伸ばされた手をためらいなく握り返すことも出来た。


「ハノーヴァー王国王太子のフレデリック・クリスチャン・オルデンブルグ=ハノーヴァーです」
「トリステイン王フィリップ3世が娘のマリアンヌ・ド・トリステインです」


その光景は、宴に出席していた各国大使の耳目を集めることには十分なインパクトを秘めていた。



[17077] 第51話「主役のいない物語」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:d56d1fa2
Date: 2010/10/09 17:54
「人間はすべて善であり悪でもある。極端はほとんどない。すべてが中途半端だ」

アレキサンダー・ホープ(1688-1744)

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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(主役のいない物語)

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(トリステイン王国南東部 アントウェルペン トリステイン宗教庁)

トリステイン王国南東部。延々と広がる長閑な田園風景の中に、突如としてそれは現れる。王都トリスタニアが水の国の政治・文化の中心であるとするなら、アントウェルペン-人口4千人程度のこの都市はトリステイン国内のブリミル教信仰の中心だ。トリステイン宗教庁の白亜の荘厳な建造物が、アントウェルペン市外のみならず、この地域全体に侵し難い厳粛な気配をもたらしている。

トリステイン宗教庁長官であるマーカントニオ・コロンナ司教枢機卿と、宗教庁官房長のデムリ伯爵エドゥアール・ル・テリエについて述べる前に、トリステイン宗教庁について触れないわけにはいかないだろう。トリステイン国内の聖職者叙任権を持つこの機関は『始祖の墓守』ロマリア教皇を筆頭とする宗教庁と、始祖の直系子孫であるトリステイン王家-王政府との対立の歴史の中で生まれた「忌子」である。

大王という実の伴わない称号を捨てた『始祖の盾』聖フォルサテの子孫であるロマリア教皇が、ハルケギニア諸国に強い影響力を及ぼす事が出来たのは『始祖の墓守』という宗教権威をブリミル教という新たな衣で覆う事に成功したため。当然、世俗権力からすれば面白くない。聖戦華やかなりしブリミル暦3000年代が終わり教皇権の衰えが見え始めると、ハルケギニア諸国は国内からの宗教庁の影響力排除に動き始めた。中でも熱心だったのはアルビオン・トリステイン・ガリアだ。旧東フランク諸国が『始祖の盾』の子孫という世俗権力としての権威と『始祖の墓守』という新たな宗教権威を前に国家支配の正統性を打ち出すことに苦労したが、先にあげた3国の場合はその心配がなかった。要するに「盾だか墓守だか知らんが、こちとら始祖ブリミルの子孫だぞ」という実にわかりやすいシンプルな論理があったからだ。しかしこの3国が辿った経緯はそれぞれ全く異なる。反王家勢力ジャコバイトと結びついた新教徒の反乱に悩んだアルビオン王国は宗教庁と結びつく事でそれに対抗する道を選んだ。ハルケギニア1の大国ガリアは、国内の修道院領や管区内での教会の自治は認め、叙任権(司教や修道院長の人事権)にも干渉しなかった。一方で国政レベルでは徹底的に宗教庁の影響力を排除し、聖職者の公職兼任も禁止した。

この2国と比較した場合、トリステイン王国とロマリア教皇のそれはなんともわかりにくいものであった。トリステインは国内における宗教対立に、国内の一部を除き無縁であった。実践主義という考え方が、穏健な保守的国民性に合わなかったからであろうし、広大なガリアに比べて国家としてのまとまりが取れやすい領土だったこともある。しかし水の国には水の国の悩みがあった。国内における教会領が国家としての統一性を危うくしかねないまでに拡大したためだ。歴代のトリステイン王が熱心なブリミル教徒であったことに着目した貴族達は、開墾した領地を次々に教会に寄進。教会領とすることで軍役や賦役を逃れようとした。貴族の負担逃れに危機感を募らせたトリステイン王フィリップ2世(4010-4078)は叙任権を主張する事で教会領への影響力を確保し、貴族を牽制しようとした。時のロマリア教皇は聖エイジス27世(在位3980-4041)。新教徒の先駆けである実践主義を唱えたウィリアム・ロード司祭を破門、火焙りにした教皇である。これ以上の政治的失点を防ぎたい聖エイジス27世はフィリップ2世を破門にしようとしたが、すでに教皇にそれを実行に移す力はなく、また枢機卿達や聖堂議会も始祖の血を引くフィリップ2世が破門を無視すれば宗教庁の権威が完全に失墜すると見てこれに反対した。

両国の関係は冷え込んだまま膠着状態に陥る。事態が再び動き始めるのは聖エイジス27世崩御(4041)を待たねばならなかった。エイジス27世崩御後、失墜した教会権力を立て直すため、聖フォルサテの子孫である七選定侯家以外から次期教皇が選出された。それがトリステイン出身のパウロ枢機卿-グレゴリウス1世(在位4041-62)である。もともと水の国と光の国の関係は悪くない。トリステインはガリアのように公職と聖職者の兼任を禁止しておらず、国内の新教徒の数が少ないため教徒対策でも宗教庁と歩調を合わせることが容易であった。何より始祖の血をひく数少ない宗教庁側の勢力である水の国を敵に回すのは好ましくないという、聖職者ではなく政治家としての判断をすることができたグレゴリウス1世(出身国ということも影響したのだろうが)はトリステイン王政府との間で折衝を重ねた。結果、アントウェルペンに設置されたのが「トリステイン宗教庁」だ。トップである宗教庁長官はロマリアから派遣されるが、修道院長の選任を初めとしたトリステイン国内の叙任に関しては水の国から派遣される事務次官や参事官を通してトリスタニアの意向が反映された。王政府は人事権を梃子に国内の再編や貴族の引き締めを図ることに成功。ロマリアも始祖の子孫を決定的に敵に回す事態を避け、水の国に対する一定の政治的影響力を確保したことである程度妥協する道を選んだ。


つまりトリステイン宗教庁長官はロマリアの聖職者にとって態のいい名誉職-上がりのポストなのだ。歴代の長官の何人かはトリステイン王政府に出仕して世俗での権威を極めたが、それは宗教庁での出世を諦めたことを意味している。実際このポストに就任した者の中でロマリア本国に戻れたものは数えるほど。教皇に即位したものはいない。マーカントニオ・コロンナ枢機卿は宗教庁での出世をあきらめておらず、官房長という事実上の秘書官であるデムリ伯爵はこの才気と野心に溢れる枢機卿の機嫌を取り結びながら、監視するという役目をトリスタニアの父-財務卿であるルーヴォア侯爵ミシェル・ル・テリエから命じられていた。


デムリ伯爵は自分を凡人であるという。このあたりにこの人の狡さがある。ルーヴォア侯爵家というエギヨン侯爵家に並ぶトリステインの政治名門家系出身でもある彼がただの人-凡人であるはずがない。しかし彼は自分をことさら凡人だという。凡人という衣が「名門」という出自を覆い隠せることを知っていたからだ。愚鈍は嫌われるが、愚直な人間は嫌われない。デムリ伯爵は愚直を装った。装ったといえば語弊があるかもしれない。彼がどちらかといえば不器用な人間なのは確かだ。仕事は確実だが早くはなく、政策に独自性があるわけでもない。だが、それが自分の武器になることを彼は理解していた。例えばエスターシュ大公の様な、見るからに才気に溢れた人間は本人にその自覚は無くても人のコンプレックスを刺激する。生意気だと嫌われる。敵視され、足を引っ張られ、そして大公は失脚した。

-賢すぎる人間は嫌われるのだ。

エスターシュはいわば荒波の中に隆起した岩のようだ。いかなる時代や環境であっても、その才は抜きん出ている。あの政治危機の中で、21歳の若さで国政の全権を任されたのももっともな事だ。だが、岩は荒波に削られ、風雨に晒されることと何れは海中に没する。彼がその才と天運を使い果たした後に残ったものは、彼への嫌悪感だけであった。デムリ伯爵は第2次エスターシュ大公政権末期、王宮内で見たエスターシュ大公の後姿を今でもよく覚えている。栄光と栄誉という羽をもぎ取られながら、孤独な才子は周囲に媚びる事も諂う事もなく胸を張って歩いていた。

この人はどうだろうか。自身の能力への絶対の自信と自負にありふれた傲岸な笑みを浮かべるコロンナ枢機卿の前に立つたびに、デムリ伯爵はどうしても大公と枢機卿を比べてしまう。大公はラグドリアン戦争という国家の危機を前に再び返り咲く事が出来た。ならばコロンナ枢機卿がもう一度聖フォルサテ大聖堂の大理石の床を歩けるかと聞かれれば、デムリ伯爵は首を傾げざるを得ない。

-要するにこの人には運がないのだ。

運も実力のうちだ。ついているやつは何をしてもついているが、ついてないやつは何をしてもついていない。エスターシュ大公とて平時であれば宰相になれるはずが無かった。非常時だからこそ彼は宰相として国家の命運を任される事になり、その傑出した才能が国政の中心でまばゆいばかりの光を放った。「トリスタニアの変」というよくわからない政変で失脚、一度政治的に死んだ彼がラグドリアン戦争という非常時に再び国政の経綸を任された。ついている・・・といえば語弊があるかもしれないが、二度も宰相の印綬を帯びるのは何らかの天命があの人にあったからだろう。

一方でコロンナ枢機卿だ。彼は宗教庁内の保守派フランチェスコ会に属するが、フランチェスコ会はここ最近の教皇選出会議(コンクラーベ)で敗戦続き。当然フランチェスコ会の教皇候補に挙げられるコロンナ枢機卿は人事の主流から弾かれるのだが、それでも49歳という異例の若さで「陸の孤島」と揶揄されるトリステイン宗教庁長官に押しやられたのはよほどのことではない。現教皇ヨハネス19世-バルテルミー・ド・ベルウィックが外務長官時代、宗教庁聖職者省長官(教会財産を管理)だったコロンナ枢機卿はとにかくそりが合わないことで有名で、明らかな報復人事と言う声が出たほどだ。当然その声は当人の耳に入っている。グレゴリアン大学を歴史に残る好成績で卒業し、宗教庁でエリート街道を歩いてきた自分がなぜこんな陸の孤島の主に甘んじているのか-その不満はわからないでもないが。


デムリ伯爵は軽く咳きをしてから、コロンナ枢機卿の執務室の戸をノックした。




トリステイン宗教庁最上階の長官執務室からはアントウェルペン市街地がよく見渡せる。しかしマーカントニオ・コロンナ司教枢機卿の視線はその向こうにあった。アントウェルペン周辺には都市らしい都市は存在しない。在地領主の館と農村、そして長閑な田園風景が延々と広がるのみ。「陸の孤島」とはよく言ったものである。その風景を見るたびに彼の中で老人への怒りが湧き上がる。他者に指摘されるまでもなく、コロンナ枢機卿はこの人事は自分へのあてつけであることは理解していた。

「あのくそ爺が」

コロンナ枢機卿は口に出して呟いていた。

ヨハネス19世の顔を思いだす度に心底で憤懣や激情が激しく渦を巻き、苦いものが口の中一杯に広がるのを感じる。情のまま、感じるがままに動くのでは獣と変わらない。万物の霊長たる人間は理性でそれを整理し、世の中の理と自ら積み重ねてきた知識に基づいて行動に移すべきであると彼は固く信じていた。それに引き換えあの老人は、気の赴くままに人を怒鳴り散らして憚るところが少しもない。この間など、ロマリア市の食料局長と口論した挙句に激情して水をぶっ掛けたというではないか。まったく持ってふざけた話だ。あんな爺が始祖の墓守では偉大なるブリミルも安心して眠ることができないだろう。

「そうは思わないかね伯爵」
「私にはわかりかねます」

デムリ伯爵が首をかしげるのを見て、コロンナ枢機卿は鼻を鳴らした。27歳という年齢に似合わず落ち着いていると-口さがないものに言わせれば年寄りくさいと評される。ルーヴォア侯爵家というエギヨン侯爵家に並ぶトリステインの名門家系出身でもある彼は何かと色眼鏡で見られやすいといえばその通りだが、確かに年齢に似合わない分別臭さの持ち主ではある。しかしそれだけの男でもない。

「ノルマン大公の反乱でようやく私にも運が巡ってきた」

笑いながらコロンナ枢機卿は言った。運がないという自覚はあるらしい。ノルマン大公の反乱は、ヨハネス19世を支えるイオニア会とガリア派の下で、冷や飯を食わされていた非主流派・反主流派を歓喜させた。ノルマンディー地方を管轄する司教枢機卿のエルコール・コンサルヴィ枢機卿はガリア出身で勿論ガリア派。ヨハネス19世の右腕として先のラグドリアン講和会議でも活躍したが、同時に反乱を起こしたルイ・フィリップ7世との公私にわたる親交も有名であった。非主流派・反主流派は「枢機卿に反乱関与の疑いあり」として聖堂議会で攻撃を始めた。ただでさえヨハネス19世はその角張った言動で人気がない中での反乱に、ガリア派と共に主流派の一角を占めるイオニア会は頭を抱えた。

そして何より結束を誇ったガリア派に分裂の兆しが見え始めていたことが、コロンナ枢機卿の感情を暗い喜びで満たした。「太陽王」の下では積極的な外征のお墨付きを得るためにリュテイスから豊富な資金源が送られていたガリア派だが、現在のシャルル12世は父の残した負の遺産の処理のために内政に専念する姿勢をとった。当然、政治献金の額は減らされ、金がないとなると同じ派閥でいる必要性はない。ガリア派の分裂はもはや確定事項としてロマリアの外交筋は語っている。そうなれば次の教皇選出会議(コンクラーベ)はどうなるかわからない。ガラガラポンの政界再編だ。

「上手くいけば私も主流派に戻れるというわけだ」
「それはおめでとうございます」
「めでたいものか」

突如はき捨てるような口調になった枢機卿にも、デムリ伯爵は変わらずに接した。この程度で動揺していてはコロンナ枢機卿の官房長は務まらない。

「あの爺が死ぬまではここにいることに変わりはないのだ。それでは中央に戻っても軽く扱われる。敗者であることを受け入れた者に未来はない」

敗者であることを受け入れた者か-デムリ伯爵は一人ごちた。負け惜しみに聞こえなくもない。そう自分に言い聞かせたところで陸の孤島の主であることに代わりはないのだ。しかしその精神は確かに重要だ。何度叩き潰されて敗北しようとも、再び頂点を目指して這い上がろうとするだけの貪欲なまでの意思-ただのエリートにそれはない。

「手柄がいるのだ。手柄がな・・・伯爵のことだ。想像はついているのだろう」
「猊下のお考えは凡夫たる私には想像できません」
「相変わらず狡い人だ、貴方は!」

何がおかしいのかコロンナ枢機卿は愉快そうに手を叩いた。人に対する好悪の感情が激しいという世評通りの人物だが、デムリ伯爵はなぜかその当人に気に入られている。そう言えば自分に向かって「狡い」といったのはこの人が始めてだ。そう言われて怒らない自分の感性も不思議だが、初対面の人間に向かって「狡い生き方をしているな」と堂々とのたまった枢機卿も相当なものだとは思う。人の情というものに疎いのかもしれない。

「・・・事は極めて重大です。下手をすれば猊下は陸の孤島の主ですらいられなくなりますが」
「何だ、やはり気付いておったのではないか」

コロンナ枢機卿は目で笑いながらからかった。デムリ伯爵はあいまいな笑みを浮かべながら、妙な人物に好かれたものだと内心ため息をつく。デムリ伯爵自身は噂が事実であることをつかんでいたが、その細かな内容までは察知していなかった。国王陛下ですらご存知かどうか。リッシュモン外務卿の独断専行である可能性も捨てきれない。

「終戦からまだ2年です。仮に噂が事実として、それで交渉が纏まったとしても国内は納得しません。リッシュモン伯爵(外務卿)にしても国内の感情が沈静化するまでは表に出すつもりはないようです。噂に過ぎない段階で軽々に動かれますのは危険かと」
「それは確かにそのとおりだ。しかしエルコール枢機卿が身動きの取れない今、この機会を逃しては二度とチャンスは巡ってこないのも事実だ」

小さくうなずきながら言うコロンナ枢機卿。49歳-若くはないが後戻りができる年齢でもない。ましてや引退生活を送るのには早すぎる。その焦燥感は凡人であるところのデムリ伯爵の目にも明らかであった。ふと、デムリ伯爵の脳裏に、人を食ったような顔をした外務卿の大柄な顔が思い浮かんだ。

-リッシュモン伯爵も焦っておられるのかもしれない

ラグドリアン戦争当時もリッシュモンは外務卿であった。長年の同盟国からは見捨てられ、周辺諸国はすべてトリステイン滅亡後を視野に置いて行動し始めていた-その中で彼は奔走した。自国の置かれた立場や国力というものを誰よりも痛感したはずだ。祖国の未来に対する不安と焦燥感、それがあの話の背景にあるとすれば納得できる。

「失敗を恐れて縮こまっていては何も解決しない。現状維持は敗北と同じなのだ」
「そういうものですか」
「それに、これではあの爺に私が敗北したことを認めることになる」

それは耐えられないと口にしてから、コロンナ枢機卿は何かを言おうとするデムリ伯爵を手で制した。

「リッシュモン外務卿の邪魔をするつもりはないし、伯爵を巻き込むつもりもない。ただ君にはここに来てから世話になった。これだけは言っておきたいと思ってね」

コロンナ枢機卿はひとつ息をついてから、強い視線でこちらを見据えてくる。彼は理性こそ人間のあるべき姿であるというが、デムリ伯爵の見るところ、それは彼自身が理想とかけ離れた人間である事の裏返しに過ぎない。人間そのものが粘っこいのだ。陰湿でないのが救いだが、そんな人間からの好意は重苦しい。


「あのくそ爺に敗けをみとめるぐらいなら、私は死んだほうがましだ」


短く吐き捨てたコロンナ枢機卿に、デムリ伯爵は思うところを飲み込んで静かに頷いた。


***

(トリステイン王国 王都トリスタニア ガルニエ宮-元老院議会)

トリステイン元老院-内政・外交における国王の顧問機関という厳しいそのお題目とは裏腹に、その権限は脆弱である。元々トリステイン王国は王権が強く、国内の主だった人事に予算や外交に至るまで、司法権を除く殆どをその独断で専決できる。強すぎる王権は先のラグドリアン戦争のような国家の緊急事態には有効だが、時に暴走した。高等法院が王権の監視役として時に王権の暴走を食い止めてきた一方で、元老院が何をしてきたかというと-何も出来なかったというのが実情だ。訪印のように権限があるわけでもなく、いざ戦時となれば貴族が王の意向に逆らうことは難しい。だが元老院は平時にはそれなりの影響力を国政に持つ。貴族や聖職者から選出される元老院議員は名誉職的な扱いをされることも多いが、法服貴族以外の貴族の意見を代弁する場所なのは間違いない。当然そこで交わされる議論は行政府のみならず市場もある程度注視せざるをえないというわけだ。それゆえトリスタニア市民から元老院の評判は芳しいものではない。元老院の置かれたガルニエ宮殿を指して「杖の倉庫」と呼ばれることからもそれがわかる。

しかし元老院の存在が貴族と行政府を結ぶ線となっているのも事実だ。高等法院参事官になれる貴族はごく一部。幼少時から試験勉強に専念できるだけの環境と法院へのコネが必要である現状では、元老院議員は大学進学の資金を賄う事の出来ない、または学力に乏しい大多数の貴族達にとって重要なキャリアアップの手段であった。また出世レースに敗れた官僚が議員として席を暖め、再び政界に返り咲くのも珍しくない。現在壇上で通貨問題についての演説をしているエヴェール伯爵も元は財務庁通貨局長という肩書きを持つ。しかしここではそれは何の意味も持たない。

「-通貨こそ国の力を示す重要な物差なのです。それが今ではどうでしょう?先月のリュクサンブールの貨幣レートを例に挙げましょう。トリステインのエキュー金貨1枚に対して、ガリアのスゥ銀貨は75枚から70枚で取引が行われています」

通常金貨1枚に銀貨100枚が交換レートの目安であることを踏まえ、ガリアの通貨がここ数年貨幣の含有率に手をつけていないことを考えると、明らかにトリステインの金貨が通常より安く扱われている通貨安であることを示していた。

「確かにガリアとわが国では国力に確固たる差があります。しかし4年前まではレートは85枚から90枚でした。10パーセント以上の為替安、これは異常としか言いようがありません。ラグドリアン戦争から早2年、いまだに為替相場が復帰しない原因は明らかであります。すなわちわが国内の一部に見られる通貨の切り下げを唱える声が、市場に無用の不安と混乱を・・・」

もたらしていると続けたかったであろうエヴェール伯爵の言葉は、怒号と野次で掻き消された。「経済オンチはすっこんどれ!」「財務庁の回しもの!」はまだいい方で、中には口にするのもはばかるような人格攻撃も混じっている。財務庁出身の硬骨漢で鳴らすエヴェール伯爵は声を張り上げながら演説を続けるが、野次への野次、それに対する再反論も飛び交ってもはや何を言っているのか聞き取るのも困難だ。真面目だけがとりえのようなデュカス公爵が最上段の議長席で顔を青くしながら「静粛に、静粛に」と鈴を鳴らすが、喧騒は一向に収まる気配を見せない。元老院議長の肩書きが鼻紙ほども役に立ってはいない。


しかしそれでいいのだ。この喧騒こそが自分の価値を高め、エヴァール伯爵に自分のおかれた立場を思い知らせることになる。その巨体を狭い席に無理に押し込めながら、ミラボー伯爵オノーレ・ガブリエル・ミケティは自らが引き起こした喧騒を冷ややかに見つめていた。

彼は正真正銘のトリステイン貴族である。しかし全く持ってトリステイン貴族らしからぬ風貌だ。がたいが良すぎるのか、それとも単に太っているのかわからない体。たれ気味の大きな目にしても、小さく引き締まった口や綺麗な放物線を描いている眉にしてもそれぞれパーツだけでみれば整っているのに、顔の上に載るとどうにもバランスが悪い。気さくな雰囲気を漂わせながら屈託なく笑うその様は、貴族というよりも大商会の主といった感じだ。弁護士の肩書きも持つ元老院副議長こそが、この喧騒の支配者である。マリアンヌの前で見せたどこか滑稽な表情はそこにはない。

-これでいい

ミラボー伯爵は再び繰り返した。トリステインの通貨切り下げは第1次エスターシュ政権(6200-6210)が経済危機克服の為に断行した切り札だった。「財源が足らなければ金銀含有率を下げても貨幣を発行すればいい」というエスターシュ大公の主張に、安易に含有率に手をつけては市場の信用が失墜すると慎重論を唱える財務官僚に、国の信用を貶めると反対した高等法院、賛成派の内務省や元老院とトリステインは真っ二つに分かれた。結果、エスターシュ大公は反対する財務卿を更迭して自らが兼任する事により、通貨切り下げを断行した。その成否は大公への政治的評価も相まって未だに定まっていない。通貨を切り上げて旧通貨に戻せと主張する財務官僚や、逆にもっと切り下げろと主張する元老院議員などが今に至るまで延々と論争を繰り広げている。

通貨の切り下げが正しいのか、それとも切り上げをすべきなのか、または現状の維持でいいのか。そんなことは自分にはわからない。しかし神学論争を続けていても意味がないことはわかる。第1次エスターシュ政権が断行した通貨の切り下げ以来、財務庁や法院参事官、国内外の金融業者に商会も巻き込んで延々と続くこの論争が、この議会で決着を見るぐらいなら苦労はしない。それにラグドリアン戦争の戦禍から完全に立ち直ったとはいえないトリステインが実際問題として通貨をいじることなど出来ようはずがない。そんなことをすれば市場で格好の投機の的として扱われるのがオチだ。そんな出来もしない過程の話をわざわざ今する必要はどこにもないのだ。その点に関して、市場の不安定化を恐れる宰相のエギヨン侯爵とミラボー伯爵の意見は一致を見た。

「いずれ直面する問題に関しまして、今、ここで逃げてはなりません!」
「できもしないことを言うな!この無責任男!」

どちらが無責任か。ミラボー伯爵は野次を飛ばした若い男爵のほうを見ながらひとりごちた。確かにいずれ通貨問題については決着をつけなければならない。そのためにはエスターシュ大公個人への好悪の感情を超えて現状の問題点を調べ上げ、切り下げと切り上げた場合の両方の利点と問題点を忌憚なく議論する必要がある。しかしそれは元老院の仕事ではない。財務庁のテクノクラートがやればいい仕事だ。ミラボー伯爵はエヴェール伯爵の発議を事前に妨害せず、むしろ時間を割り当てた。議論が成立しなければ発議しても意味はない。市場も見向きもしないだろう。回りくどいとエギヨン侯爵は不満げだったが、言ってもわからない者には一度顔をひっぱたく必要がある。エヴェール伯爵はいまだに財務庁通貨局長の気分が抜けていないのだ。議論すること自体は正しいが、時と場所をわきまえなければ惨めに敗北する-ミラボー伯爵は演壇で誰も聞いていない演説を続けている伯爵に身をもってそれを学ばせているのだ。


-そう、まだ早い。早すぎる


ミラボー伯爵は顎をなでた。すでに目の前の喧騒のための喧騒に興味はない。茫洋とした表情のままその頭は忙しく回転していた。伯爵は独自のルートでエギヨン宰相とリシュモン外務卿が内密に進めている計画を掴んでいた。もしそれを自分が元老院で問題にすれば、現政権は間違いなく吹っ飛ぶだろう。しかし自分もただではすまない。知識という武器も使いどころとタイミングだ。切るタイミングを失敗すれば今のエヴェール伯爵どころではない。

ネームプレートに彫られた自分の名前をなぞりながら考えにふけるミラボー伯爵。振りかざすばかりが武器の使い方ではない。「知っている」-それだけでいいのだ。それこそが自分の最大の武器になる。目的さえはっきりしていれば、何も恐れるものはない。リッシュモンめ、それがわからない男ではなかったはずだが。

「・・・策士策に溺れるか、それとも救国の士となるか。政治家とは因果な商売だな」
「副議長閣下、今何と?」
「独り言だ、気にするな」

笑ってばかりもいられない。人も家も商会も国家も-拡大するのは簡単だが維持し続ける事は難しい。リッシュモンよりも自分が優れているとすれば、その一点を知っている事だろう。どちらが愛国者かと聞かれれば無論彼だろうが、愛国者が必ずしも成功するとは限らない。自分の様な「政治屋」の出番はない方がいいに決まっているが、そうもいかないだろう。ミラボー伯爵はその独特の政治的嗅覚から、何れ自分の出番が望むと望まざるとに関わらず周り巡ってくるであろう事を予想していた。


「参ったねこれは、いや参った参った」


さて、どうしたものかね?



[17077] 第52話「ヴィスポリ伯爵の日記」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:b679932f
Date: 2010/08/19 16:44
都市国家と大陸国家のどちらが強いかと聞かれれば後者である。国の広さと人口は必ずしもイコールではないが、一都市と国家の戦力は比べ物にならない。北部都市同盟とハノーヴァーとの戦争が始まった時、誰しもが青い獅子の勝利を予想した。

しかし国力は経済力とイコールではなかった。北部都市同盟はその前身である東フランク国王直轄の自治都市の頃からその経済力は一目置かれており、国王から都市参事会や市議会による自治を認められたほどである。王国崩壊後、自治都市は連合を組んでその経済力を政治的影響力として独立と経済的自立を保とうとした。長きに渡るハノーヴァーとの戦争(ブレーメン戦争。3291-3321)において、北部都市同盟はその重要拠点であるブレーメンこそ明け渡したものの、ザクセンやトリステイン-果てはガリアや宗教庁にまで手を伸ばした外交戦を展開。停戦に持ち込んだうえで旧王国時代の様々な経済的特権をハノーヴァーに認めさせるという外交的勝利を収めた。ハノーヴァーとしてもエルベ川を挟んだザクセンとのにらみ合いが続く中、北部都市同盟が完全にザクセンに味方されるよりも、取り込んだほうが得策だとソロバンを弾いたためだ。そのためには経済的特権を認めるぐらいは安いものだ-

そのツケは高くついた。オルデンブルグ家による同君連合という色合いの強かったハノーヴァー王国の国力が衰えるに従い、経済の主導権は完全に北部都市同盟に握られることになった。領地経営に苦しんだ貴族たちは都市同盟参事会を通じて商会や銀行の出資を受け、今ではその助けを借りなければ経営が成り立たないまでになっている。当然そうした貴族達は出資先の意向を伺うようになり、都市同盟の意向が議会に反映されるようになった。保護貿易関税を唱えたハノーヴァー王国財政顧問のジャン・ディドロ(6070-6120)が追放されたのも、彼の構想が北部都市同盟の既得権益を侵すとみなされたからだ。ディドロはその後、ガリアのシャルル11世に請われて経済財政顧問に就任。経済構造改革の理論的支柱として、ガリアの中央集権化政策に尽くした。それゆえ彼のガリア行きは後世の歴史家に「ハノーヴァーの最大の失策」と言わしめることになる。


この「ハノーヴァーの最大の失策」という表現は、ブリミル暦6210-12年にハノーヴァー王国の首相を務めたヴィスポリ伯爵ヨハン・ウィルヘルムの言葉である。首相退任後も外務大臣や副首相を歴任した王国の重鎮は、28歳で家督を相続してから没するまでの40年間、日記をつけ続けた。それゆえ彼の日記はハノーヴァー王国史を調べる上で欠かす事の出来ない史料であるとされる。その内容は「退屈」の一言に極まる。無味乾燥にして面白みはまったくない。家族との私的な会話からその日読んだ本の内容、同僚と交わした雑談は言うに及ばず、市井や宮中での噂話に至るまで、うんざりするほど執拗に詳細に記録している。日記を記録として見るならこの病的なまでに記録に徹したヴィスポリ伯爵の日記こそ日記の名に相応しい。ヴィスポリ伯爵は公私共に非常に口が重かった事で知られる。詳細な記録に残す事で、彼は国政の重責を担う自身の精神的安定を保っていたのかもしれない。

以下はブリミル暦6214年アンスールの月(7月)の フレイヤの週(第1週)とヘイムダルの週(第2週)の初頭までの10日間の日記(記録)である。

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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(ヴィスポリ伯爵の日記)

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〔アンスールの月(7月)フレイヤの週(第1週)虚無の曜日 薄曇所により雨〕

流感(風邪)未だ直らず。熱は下がるも喉の痛みとれず。ホルンシュタイン男(男爵。医者)往診。休養の必要性を説かれたり。明後日に迫りたるメッソナ党役員会議への出席が出来るかが気掛り。午後まで静養。この日来客の予定はなきも、突如ベルティル・ハッランド侯(侯爵。外務大臣)来訪。彼は自分の内閣において外務次官を務めたり。ラグドリアン戦役ではトリステインに味方すべしと強固に主張した彼の意見を自分は退けたる。返す返すも惜しまれる。そのことを口にすると彼は苦笑したり。

「あの時太陽王(ロペスピエール3世)が崩御しなければ、我らが戦勝国だったでしょう。首相としての伯爵の苦渋の決断が間違いだったとは思いません。ただ我らには運がありませんでした。つまりはそういうことなのでしょう」

慰めとしても嬉しきものなり。しかし直に虚しい気分になる。これまで私は判断を悔いた事はあるも恥じた事はなし。しかし太陽王崩御の知らせの時ほど、自らの運命を切り開いた「英雄王」をまぶしく感じた事がないのも事実なり。そのとき初めて、自分が祖国の命運を他者の手に委ねていた事に気が付いたり。辞職を決意したのもそれが原因である事等々を語ると、ハッランド侯は静かに聞き入る。何か話があったようであるが、彼は黙して語らず。自分も尋ねず、そのまま別れたり。


〔アンスールの月(7月)フレイヤの週(第1週)ユルの曜日 晴れ〕

静養に専念。来客あるも断りたり。

窓より外を見れば、遠くに王国議事堂が見えたる。北部都市同盟に属すブレーメンが我が国の軍門に下ったのはブリミル暦3330年。対ハノーヴァーの最前線としてたびたび都市を包囲されたブレーメンの市参事会が、これ以上都市同盟にとどまり続けることをあきらめたゆえなり。直後にクリスチャン1世(在3290-3326)はブレーメンへの遷都を宣言。内陸国家である我が国にとって海への玄関口を手に入れることは長年の悲願であり、リューベック港を確保することに成功したる。この頃がハノーヴァーの絶頂期とするのも自然なことなり。

ハノーヴァー王国議会議事堂はブレーメン市参事会が置かれていた建物なり。降伏前日、徹底抗戦を唱えたる者と降伏恭順派の間で喧々諤々の激論が交わされた議場は、今や都市同盟の代弁者の巣窟なり。メッソナ党やハッタナ党という党派あるも、両者の根は地下で繋がる。ヒモ付きの日和見主義者ばかりなり。メッソナ党を率いる自分も、他ならぬガリアや北部都市同盟といった「ヒモ付き」なるが。


〔アンスールの月(7月)フレイヤの週(第1週)エオーの曜日 晴れ〕

歳はとりたくないものなり。病気は治りにくく、肩と腰の痛みはとれず、目が霞む。メッソナ党役員会議の延期を伝えたり。

昼食時にクロイツ伯(伯爵。前外務大臣)来訪。グスタフ家令に命じて至急もう一人分の用意をさせたり。トリステイン大使とハッランド外相が頻繁に面談したるという話を聞く。現大使はリッシュモン卿(伯爵。トリステイン外務卿)の側近なり。先日のハッランド侯の様子といい、妙なきな臭さを感じる。クロイツ伯はガリア大使と面会するべきであると執拗に主張。ラグドリアン戦役で対トリステインへの宣戦布告を主張したのも伯なり。臆病ではないが、声の大きな者に靡く癖あり。自ら状況を作り主導権を握るという考えは毛頭なし。性格か。


〔アンスールの月(7月)フレイヤの週(第1週)マンの曜日 晴れのち曇〕

首相官邸より呼び出しを受けたり。気が進まず病を理由に固辞することを考えたるも、ハッランド侯自らが来たとあってはそうも行かず。促されるまましぶしぶ馬車に乗る。案の定「ろくでもなき」内容なり。


クリスチャン王太子殿下とマリアンヌ王女(トリステイン王女)との婚約が内密に進められていることをアルヴィド・ホルン首相(伯爵)より直接聞かされたり。このとき自分は始めてあの噂が事実であることを知りたる。噂とは2ヶ月前のベーメン女王即位式の一件なり。ハノーヴァーの王太子とトリステイン王女が握手と会話を交わしたることは、各国大使の耳目を集めたる。自分のところにもガリアやザクセン大使からの問い合わせあれども、そのとき自分は何も知らず答えに窮したり。クリスチャン王太子殿下もおそらく知らず。随行したハッランド侯を初めとした親トリステイン派が既成事実を積み上げようとしたためか。思わず舌打ちしたり。


ホルン首相に訊ねたる「国王陛下(クリスチャン12世)にはクリスチャン王太子殿下以外に、グスタフ・アドルフ殿下(ヴェステルボッテン公爵)カール・フィリップ殿下(セーデルマーランド公爵)の二子あり。されどトリステインにはマリアンヌ王女以外直系王族なし。トリステインの跡継ぎ問題に巻き込まれる危険性は無きにしもあらず。それを何故王太子殿下なのか」同席するハッランド侯曰く「誠意を見せるため」とのこと。「次期国王たる王太子殿下を人身御供とする気か」という問いに「貴様の後始末だ」とホルン首相は答えたり。不穏な空気になるも、ハッランド侯がとりなす。


ホルン首相率いるハッタナ党は伝統的に親トリステインを標榜せり。我が率いるメッソナ党はクロイツ伯に代表するようにガリアに近きもの多し。しかし両者はその根っ子で繋がる同じ穴の狢なり。ハノーヴァー政府はメッソナ党とハッタナ党の「談合」により運営せる。メッソナ党の代表たる自分が首相府に招かれる事がその例なり。談合の世話役は北部都市同盟。北部都市同盟は貴族の領地経営に出仕する事で領地貴族の首筋を押さえたる。そうした貴族は両党に普遍的に存在せる。わが国の外交方針は伝統的にハッタナ党主導なるも、先のラグドリアン戦役では長年の同盟国を見捨てる決断にもハッタナ党の多数は反対する事なし。北部都市同盟の意向なり。ラグドリアン戦役において首相であった自分は、人の情としては忍びなきも、それも祖国が生き延びるためであると自分を納得させたる。そのために汚名をかぶる覚悟はあり。トリステイン滅亡後はガリアを後ろ盾にザクセンと対抗する筋書きを立てたのはクロイツ伯。自分もそれを承知せり。冷徹なる北部都市同盟がガリアの勝利と予測した上で、トリステインに肩入れする選択は自分には出来ず。閣内のハッタナ党系の閣僚もそのほとんどが明確には反対せず。

しかし戦役の結果は「太陽王」の死で決着せり。それゆえ自分は首相職を辞職したる。その後を受けたのがハッタナ党のホルン伯爵なり。実に嘆かわしき事なるも、わが国の兵ではザクセン兵に対抗できず。ガリアとトリステインの停戦が成立した今、トリステインとの関係修復が急務なり。自分が辞職した政治的要因もそれにあり。されど王太子を人質としてトリステインに差し出すという考えは自分の中にはなし。そもそもトリステイン貴族が納得するか否かは甚だ疑問なり。ハノーヴァー内とてそう簡単には収まらずということを言う自分に、ホルン首相「これはトリステインよりの申し入れなり」と答え、さらに驚く。

ホルン首相に協力を求められたり。ひとまず回答を保留し、官邸を辞する。これ国家の一大事なり。空を見上げれば厚い雲で覆われており、気が重くなりたり。わが祖国の未来を暗示するか。


〔アンスールの月(7月)フレイヤの週(第1週)ラーグの曜日 雨〕

朝より体調優れず。ホルンシュタイン男(男爵。医者)往診。自宅静養を続けることを進めらる。

昨日の話を確かめるためにビョルネボルグ伯(伯爵。内務大臣)との面談を取り付けたり。伯はメッソナ党の一員にして現内閣の内務大臣を務めたり。閣僚の一員となれば交渉の経緯を知りたると考えた故なる。クロイツ伯の同席を考えるもやめたる。伯に言うことはすなわちリュテイスに通じることなり。


〔アンスールの月(7月)フレイヤの週(第1週)イングの曜日 雨〕

昨日からの雨はいまだ止まず。天候に比例するかのように自分の頭痛もやまず。まったく、歳はとりたくなきものなり。

午後にビョルネボルグ伯(伯爵。内務大臣)来訪。話を聞き、ますます頭痛を覚えたり。伯爵曰くこれは交渉とは言えず。目を瞑りながら握手をするような話なる。クリスチャン王太子殿下が王配なのか、それともトリステインの共同統治者なのかも両国の間で合意出来ておらず。トリステイン内におけるハノーヴァー感情を考えれば内密に進めざるを得ない話ゆえ仕方なしと答える。されど共同統治による同君連合をリッシュモン卿が打診したることを聞き、自分はおもわず頭を抱えたり。


同君連合は一人の君主が複数の国の王を兼任するということなり。組織を統合せず、一人の王の下にぶら下がる形なり。ハノーヴァー王家のオルデンブルグ家がまさにそれなり。歴代のハノーヴァー王は縁戚関係を生かして周辺諸侯を取り込み、領土を拡大したり。短期間で領土を拡大するには有効な手段なる。されど「対等な国家の結婚」を謳ったところで、その実は一方による吸収合併なり。ハノーヴァーは領土拡張のためにブレーメンへの同化を遅らせた結果、今のような貴族諸侯の力が強き国になる。国内をひとつにまとめることに苦労している我が国が、トリステインという始祖以来の伝統ある国と同君連合を組めば、その混乱は想像を絶したるものになる事は明らかなり。

トリステインとハノーヴァーが同君連合を組む場合において、主導権を握るは間違いなくトリスタニアなり。オルデンブルグ家の華麗な閥歴も、始祖の子孫というブランドに勝てるはずなし。臣従を強いられるハノーヴァーの貴族が納得するとは思えず。不平不満を抑えつけるだけの武力があれば問題なきも、それを実行に移すだけの決意がトリスタニアにあるかは甚だ疑問なり。また同君連合の将来像も不明確なり。トリステインがハノーヴァーを吸収するのか、それとも組織統合は行わず、同盟強化策の一環として一代限りで解消するのか。両国の王位継承権を有する王子王女はどちらで育てるのか等々、詰めるべき点は多々あるにもかかわらず、あまりにも曖昧模糊たる抽象的な話に聞こえたり。将来像なき結婚は、海図なき航海の如し。

何よりトリステインの国内意見が到底それを認めるとは思えず。ビョルネボルグ伯曰く、同君連合の申し入れは明らかにリッシュモン卿の独断である可能性高し。慎重なリッシュモン伯爵らしからぬことと疑問に思うも、事実なると言う。トリステイン国内が一枚岩でこの話を進めるというのであれば考えなくはなきも、前提となるクリスチャン王太子殿下とマリアンヌ王女の婚姻ですら国内合意が簡単に出来るとは到底思えず。同君連合などは、よほど慎重に進めぬ限りは幻想なり。ハッランド侯はクリスチャン王太子殿下の王配入りは賛成なるも、同君連合には慎重なり。閣内ではホルン首相が同君連合の旗振り役なるを聞く。まずは閣内の意見を統一すべしという自分の意見に、ビョルネボルグ伯は頷きたり。


〔アンスールの月(7月)フレイヤの週(第1週)オセルの曜日 雨〕

雨やまず。体調回復せず。静養を続けたる。

ハーシェル卿の『ハノーヴァー王国史』7巻、8巻を読む。かつて祖国は旧東フランクの北の王者として君臨せり。王国崩壊後(2998)、婚姻政策と養子縁組を活用して周辺諸侯を次々に併呑、グスタフ2世(3201-3290)の時代には、ザクセン「豪胆王」オットー1世(3250-3303)と二分するまでに成長せり。オルデンブルグ家の紋章である金の楯に青き獅子は燦然たる輝きを放ち、誰もが仰ぎ見たり。

華やかなる栄光は過ぎ去り、今やこの本のように活字となり歴史となる。初代国王のグスタフ・アドルフ1世が「自由・不屈・真実の象徴である」と喝破した青き獅子は色あせて久しい。政治的凋落と国際的地位の低下は隠せず。経済は北部都市同盟の内にあり、外交は周辺国の顔色を伺うばかりなり。王は名ばかりの存在にして、議会は既得権を維持することに汲々として恥じることなし。建国以外のしがらみが絡み合い、誰しもが身動きできず。されどその精神までが衰えたわけではあらず。数多の学者や作家を輩出せるのも「真実」を求める土壌あってのことなり。かの実践主義の祖であるウィリアム・ロード司祭もわが国出身なり。自分は新教徒ならずも、あの不屈の精神は見習うべきところ多し。考えたることをそのまま日記に記す。


〔アンスールの月(7月)フレイヤの週(第1週)ダエグの曜日 曇り後晴れ〕

アルベルト・シュバルト夫妻(シュバルト商会代表)来訪。シュバルト商会は大陸で1・2を争う大商会なり。首相在任中に「影の王」たる彼に頭を下げたのは一度にあらず。シュバルト商会はブレーメンがハノーヴァーの王都となってから勃興した商会にして、北部都市同盟の息はかかっておらず。この商会なければ、我が国は完全に北部都市同盟の奴隷となっていたことは間違いなし。

アルベルト氏の夫人の噂はかねがね聞きたるも、対面してみると改めて複雑な気持ちになりけり。年齢を聞くと27とのこと。44歳のアルベルト氏にはいかにも不釣合いなり。周囲の嫉妬を買うのも最もな事なる。17も年齢の離れたアルベルト氏の夫人に対してやっかみを言うものの気持ちが多少ながら理解出来たり。

夫人退室後、アルベルト氏に近況を聞く。ここ数年のシュバルト商会の躍進は目覚しきものあり。「水力紡績機」なる代物で紡績のスピードを格段に速め、かつて大陸の毛織物製品の値段を一手に決めていたガリア毛織物ギルドを解体寸前にまで追い詰めたるのはその一例に過ぎず。シュバルト商会はギルドを離れた職人を雇用し、同じ製品を大量にこしらえさせ、それにより製品価格の引き下げに成功せり。価格を武器に、アルビオンで昨年末に発足した治安機関の制服受注に成功、ガリア陸軍の制服も受注する可能性ありと語るアルベルト氏の鼻息荒し。うらやましき限りなり。シュバルト商会はアルビオンの「公共事業財団」なるものにも出資せりと聞く。浮遊大陸への資本投資にはいかなる意図があるかと聞くと、アルベルト氏はなんとも表現の難しい妙な顔をしたる後、苦笑いを浮かべたり。自分は首を傾げるばかりなり。

アルベルト氏は婚約の噂について尋ねたり。油断ならず。こちらも笑って誤魔化したり。


〔アンスールの月(7月)ヘイルダムの週(第2週)虚無の曜日 晴れ〕

自宅で静養を続けたる。この日は来客なし。


〔アンスールの月(7月)ヘイルダムの週(第2週)ユルの曜日 曇り 深夜より雷雨〕

ドロットニングホルム宮殿より呼び出しを受けたる。体調いまだ完全ならずも、馬車を呼ぶ。ドロットニングホルム宮殿はブレーメンの郊外にあり。元は離宮のひとつなるも、2代前の国王グスタフ18世陛下が王宮を移したり。王族が王都にいないほうが都合がよいとして政府は反対せず。杖の忠誠を誓って間もない自分が衝撃を受けたことをよく覚えたる。


国王陛下(クリスチャン12世)はグスタフ18世の孫なる。オルデンブルグの王は政治の実権を失ってより「文」以外の存在を許されず。植物学者である陛下は国政に関心を示さず。研究一筋という姿勢を崩さぬが故に、典型的な「左様せい様」という文弱の徒であると考えられたり。されと陛下は武の人なるという。これは自分の言葉にあらず。オルラタ伯爵レンナート・トルステンソン元帥の評価なり。歴戦の軍人たる老人の言葉を否定するだけのものを当初自分は持ち合わせておらず。書類にサインをする際の陛下のお顔も、なにやら激情を押さえるような表情にも見えたり。

陛下に見舞いの言葉を頂き、感謝の意を表す。恐懼にたえず。貴族は妙な生き物なり。普段は王を軽んじながらも、その存在を本質的に軽んじることは出来ない存在なり。自分の性格ゆえか、それともこれが杖の忠誠という儀式の効果なのかはわからず。曰く言葉にしがたいものが「忠誠心」の正体ならん。


陛下は先月ヴェルデンベルグ王国を公式訪問されたり。その際、ヴェルデンベルグ王カール5世陛下より「例の話」について訊ねられたとの事。カール5世は多少軽率なところがあると評される方なり。気になられた事を思ったままに訊ねられただけであり、その背後に政治的意図は感じられずと。自分も同意見であることを申し上げる。「何か知らぬか」とのご下問に、王太子殿下とマリアンヌ王女との婚姻の申し入れがトリステイン側よりあったことだけを申し上げる。ホルン首相が乗り気の共同統治者による同君連合構想は秘したり。陛下は黙って頷かれたる。そのご様子からはホルン首相からは聞いておられない様であるが、その事に対する不満は述べられず。


御前より退出後、宮内大臣のヨーハン・ユーレンシェナ伯爵と会談。ユーレンシェナ伯爵は同君連合に否定的なり。何ゆえ国王陛下や当事者たる王太子殿下に図らずにはなしを進めたのかと詰られたり。自分はこの話を聞かされたのは一週間ばかり前のことであり、それまで自分は預かり知らなかったこと、陛下に秘したのはホルン首相かハッランド外相の判断であることを得々と説いたり。ユーレンシェナ伯爵「後で話が違うとなっても遅いのだ」と吐き捨てらるる。確かに当事者に話をしないのは妙な行き違いを起こす危険性あり。本日よりハッランド侯はガリアとアルビオンへの外遊に出発。リューベック港への見送りに赴くつもりなれば、その際に忠告しようと考えり。


帰宅後、眩暈を覚え昏倒。ホルンシュタイン男の往診を依頼。歳は取りたくないものなり。気力はあれども体が言うことをきかず。三日ほどの静養が必要と告げられる。完治前に無理をしたためか。ハッランド侯の見送りは諦めたる。

この日深夜より激しく雨降る。妙な胸騒ぎを覚える。



(ここより殴り書き。おそらく後日に書き足されたものであろうと推測される)



これ我が人生-ハノーヴァー最大の失策なり





[17077] 第53話「外務長官の頭痛の種」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:b679932f
Date: 2010/08/19 16:39
アウソーニャ半島は水に乏しい。ガリアのシレ河、旧東フランクのエルベ川のような大河がないうえ、半島中心部にはロマリア平原とあだ名される平野が延々と広がる。水さえあれば豊かな穀倉地帯となってもおかしくない環境が、逆に治水工事をより困難なものとした。それゆえ内陸部の大都市というのはこの半島では自発的には成立しえなかった(ロマリア市は始祖の眠る聖フォルサテ大聖堂という宗教的要因による)。始祖よりこの地を与えられた聖フォルサテも治水問題には悩まされた。逆に言えばそれをうまく裁くことができたがゆえに、始祖の弟子でしかない彼はこの半島を治めることができた。水に関する紛争は都市や村々にとっては文字通り死活問題であり、安易な妥協は許されなかった。交渉の席で斬り合いになったことも珍しくないという。それゆえこの半島の人間-俗にロマリア人は、自らの生まれ育った都市やコロニー(共同体)への帰属意識が強い反面、半島を統治するロマリア王国の一員であるという国家意識に乏しいという国民性が生まれる原因ともなった。聖フォルサテとその子孫である王家は「始祖の墓守」という宗教権威を背景に「大王」を名乗るものの、肝心の宗教的権威も聖エイジス20世(2890-3050)がブリミル教を体系化するまではたいした効力を発揮せず、ブリミル暦1000年代にはすでに現在のような都市連合国家という形態が事実上成立することになる。

都市間で生存と興亡をかけた熾烈な勢力争いが恒常化したアウソーニャ半島において「外交官」という職業が発祥したのはごく自然なことであった。1233年、ロンバルト公国がジェノヴァ市に公使館を設置して、現地における代表者を派遣したのがその始まりとされる。国家や都市を代表する者が常時駐在することにより、瑣末な事柄まで逐一本国に伺いを立てる必要がなくなり、紛争発生時における対応が迅速化、もしくは早期解決が可能になった。これ以降、アウソーニャ半島の国家や都市の間では、外交交渉に専門的に従事する外交官が相互に派遣されるようになる。またブリミル教の長として新たな宗教権威を確立したロマリア教皇も、諸国に教皇派遣使節を派遣して独自外交を展開。ブリミル暦3000年代の聖地回復運動における主導権を確保することに成功した。ハルケギニア諸国がアウソーニャ半島式の外交官を本格的に採用するようになったのが4300年代。ロマリア条約(4390)によって旧東フランク王国の解体が正式に決定されたこの時代、旧東フランク諸侯がそれぞれ独立国家として承認されたのを境に、大陸各国の間でも一部の国にとどまっていた外交官の派遣が行われるようになり、現在に至る外交官特権などの外交慣行の基礎が形成された。

「外交といえばロマリア人、ロマリア人といえば外交」という言葉の裏づけがこの歴史にある。水をめぐる生存をかけた争いに加えて、宗教国家として新たに衣替えをしたアウソーニャ半島では奇麗事の建前と欲望剥き出しの本音を使い分けるのは当たり前。ロマリア教皇自身、宗教的な長であると同時に教皇領の世俗君主であり、連合皇国の元首であるという3つの立場を常時使い分けているぐらいだ。大国であることに胡坐をかくガリアや、国が豊かであることで満足するトリステイン、そして教皇を味方につけて自身の勢力拡大につなげたい旧東フランク諸国は、ロマリアの「政治的宙返り」に何度も鼻っ面を引き回され、苦汁を舐めさせられてきた。

そしてその「つけ」を払わされているのが、現在のロマリア宗教庁である。やられっぱなしで済ませるほどお人よしでもないハルケギニア諸国は、ロマリア流の外交力を身につけると、今度は逆に教皇の鼻っ面を引き回し始めた。始祖の子孫である三王家は無論のこと、切った張ったのタマの取り合いではアウソーニャ半島に負けず劣らず激しいものがある旧東フランク諸国も、国内における教会領や施政権を剥奪しようと手ぐすねを引いていた。

そしてその矢面に立たされているのが、連合皇国外務長官のカミーロ・ボルケーゼ枢機卿というわけである。

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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(外務長官の頭痛の種)

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ロマリア教皇はブリミル教徒のトップであり、半島内や大陸に散らばる教会領の主という世俗的領主であり、ロマリア連合皇国の元首という3つの顔を持つ。ところが最後の連合皇国の元首という立場は教皇個人の自由が利くものではない。「ロマリア連合皇国」という国名どおり、ロマリアは「連合」国家だ。半島南部の交易都市アマルフィや水都アルクレイヤといった自治都市から、ウルビーノ公国にサヴォイア王国、ロンバルド=ヴェネト王国といった王政国家まで加盟国は多種多様。サヴォイア王国などは一時期連合皇国を離れて独自国家として歩もうとした歴史もあるなど(旧東フランク最南地域のトスカーナ公国は離脱したまま現在に至る)都市や国家の独立性は高い。しかしあまりバラバラとなっては火竜山脈の虎街道より来る大国ガリアの圧力を跳ね返すことが出来ないことはどの構成国も理解しており、ロマリア教皇-宗教庁をトップとする連合国家の枠組みから極端にはみ出すことはなかった。このあたりのバランス感覚のよさは「外交の祖」を自任するロマリア人の面目躍如たるところである。

とはいえ外交権の全てを教皇に白紙委任したわけではない。つまりブリミル教徒のトップである教皇として、半島内や大陸に散らばる教会領の主という世俗的領主として他国との外交交渉を行うのなら問題はないが、半島全体の「元首」として戦争や外交を行うためには、連合皇国を構成する加盟国による聖堂議会に諮らなければならなかった。そのためロマリア連合皇国外務省内には、連合皇国加盟国に対する交渉や根回しを行う国務局と、ハルケギニア諸国を対象とする国際局が並立して存在している。卑近な例で恐縮だが、家の中の口うるさい小姑や行かず後家に気を使いながら、面倒くさい近所づきあいをするようなものだ。

カミーロ・ボルケーゼ枢機卿はそのトップである外務長官として神経をすり減らす日々を送っていた。同時にボルケーゼ枢機卿には、気難しい老教皇の機嫌と意向を伺うという仕事もある。ボルケーゼ枢機卿の心労は増えることはあれど減ることはない。今も彼は外務長官室において、頭の奥から湧き上がるような頭痛をこらえながら、聖職者省(教区司祭の人事権と教会財産を管轄)から上げられた報告書に目を通していた。


-バウツェン修道院とフライベルク修道院は負債返済のめど立たず。新教徒増加に伴う信者数の減少とどまらず。現地領主やドレスデン王政府に対策を申し入れすれども有効なる対策なし。ここ数年の不作による税収減も深刻なる。修道院領の返上と組織解体もやむを得ざる事態にして-


ボルケーゼ枢機卿は報告書を机の上に投げ出した。景気のいい話題は一向に聞こえてこず、自分の元にやってくるのは「金がないから何とかしてくれ」と鳴きつく声ばかり。これでは教皇聖下がお怒りになられるのも最もな話である。嘆いていても懸案が自然消滅するわけではない。それはわかっているのだが、朝から晩までこれでは参るというものだ。

「景気のいい話を聞きたいものだが、君からは無理だろうな」
「残念ながら」

外務省国際局東フランク局のウンベルト・デ・モルプルゴ男爵は苦い表情のまま頷いた。ロマリア連合皇国外務省は教理省や聖職者省のように宗教庁の下部組織ではなく、連合皇国の元首たる教皇直属の組織である。それゆえ外交官も宗教庁の僧服を着た官僚ばかりではなく、加盟国からの出向者も多い。モルプルゴ男爵は半島北部のロンバルド=ヴェネト王国出身である。国務局でアルクレイア市の領有権問題を解決した手腕を見込んで、ボルケーゼ枢機卿が直々に国際局に引き抜いたのだが、その男爵をしてもザクセンの現状は如何ともしがたいようだ。

ブリミル暦4000年、ハノーヴァーの一司祭から始まった実践教義を信奉する、所謂「新教徒」を広義の意味でまとめるとするならば「祈祷書を解釈する権限は教皇にあらず」である。宗教庁の腐敗の原因は、祈祷書の解釈を宗教庁が自己に都合のいいように解釈した結果であり、それは始祖の御心に沿っていないという論理だ。新教徒は教派によりそれぞれ独自の解釈を行うため「祈祷書と信者以外要らぬ」と公言するアナーキズム的な過激派から、逆に「始祖の墓守」である教皇の宗教的権威を認め、宗教庁保守派と見まごうばかりの厳格な倫理規範を説く教派も存在する。そうした教義の多様性や、根底に流れる実践主義の精神が、諸侯が乱立する風土に会ったのか、旧東フランク諸国で新教徒は爆発的に増加。現在に至るまでその傾向は続いている。

勃興する新教徒に対して、旧東フランク諸国はかつてロマリア教皇が国家としての承認(始祖の墓守であり、ブリミル教のトップである教皇に承認されることは統治の正当性を裏付ける事に繋がる)をちらつかせながら、聖地回復運動への動員や宗教庁への献金を競わせたことへの意趣返しだといわんばかりに、宗教庁を振り回した。ロマリア条約(4390)によって旧東フランクが正式に解体されると同時に、諸侯はそれぞれ独立を認められた。ロマリアを初めとした諸国に外交権を認められたのは9つの国家と都市同盟-すなわちボンメルン大公国・北部都市同盟・ザクセン王国・ハノーヴァー王国・ベーメン王国・ヴェルデンベルグ王国・バイエルン王国・ダルリアダ大公国・トリエント公国である。これに2年前に独立したゲルマニア王国をふくめて10の国が旧東フランク地域にひしめいている。

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                          ボンメルン大公国
               北
              部
             都
            市                       
           同
          盟                 ザクセン王国

              ハノーヴァー王国


    トリステイン王国                 ベーメン王国

                            
              ゲルマニア王国
   クルデン
    ホルフ      ヴュルテンベルク王国     バイエルン王国
      大公国         ダルリアダ大公国

                 トリエント公国

ガ リ ア
                                 サ ハ ラ   
                                (エルフ領)


    グラ       ロマリア
    ナダ
    王国         連合
     
                皇国

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繰り返しになるが、旧東フランク諸国の統治の正当性は、ロマリア条約以来によって「始祖の墓守」ロマリア教皇よりその支配を認められたことにある。そのため各国ともに正面から新教徒を支援する事はなかったが、取り締まりは事実上あきらめていた。ベーメン王国などでは貴族諸侯の間にも新教徒がいることは公然の事実であり、女王エリザベート8世は宗教庁と新教徒という両者のバランスの上に国政を運営している。ベーメンに限らず、無用な宗は対立を起こしたくないのが諸侯の本音である。現在のザクセン国王ベルンハルト4世はそれから一歩踏み出し、新教徒を黙認する事で国内の宗教庁勢力を削ごうとしている。ドレスデン(ザクセン王国王都)は経営の苦しい修道院に王政府に近い商会や銀行に出資させる事で、教会領土を没収しようと圧力を掛けていた。モルプルゴ男爵はザクセン王政府と交渉するために、ドレスデンに出張していたのだが、良い結果は得られなかったようだ。

「直接の交渉相手は内務次官のボイスト伯爵でしたが、現政権の中ではとにかくこの二つの修道院を潰すことで意見が一致しているようです。ベルンハルト陛下とも面談いたしましたが、あのご様子ではザクセン政府の翻意を促すのは困難かと」
「・・・修道院の経営再建は可能か?」
「難しいでしょう。旧東フランク北部の天候不順は今年も続くと見られます。修道院の担当者によると例年の7割程度の収穫がみこめれば良いほう。旧東フランク地域全体ではさほど影響はないようですが、もとより莫大な借財を抱えていたバウツェン・フライベルク両修道院にとっては致命的です。これ以上出資先に無理を強いると、教会全体の信用問題に関わります」

モルプルゴ男爵の言葉にため息をつくボルケーゼ枢機卿。もとより旧東フランク地域の教会領や修道院領は、王国崩壊以降の混乱に付け込んで貴族諸侯に寄進させたものである。在地領主も寄進したくてしたものはいない。他の諸侯に横領されるよりは、火事場泥棒であっても教会のほうがましだという判断からであった。当初発足したばかりの宗教庁は半島外における教会領の増加はその権威を高めることとして歓迎したが、今となってはお荷物以外の何者でもない。独自に経営できている教会や修道院は数えるほどしかなく、多くの教会はロマリア本国からの持ち出しに頼っているのが現状だ。当然それは「ハルケギニア一の資産家」である宗教庁の財政を確実に圧迫し、年々深刻化しつつある。本来ならすぐにでも切り捨てたいのは山々なのだが、そう簡単な話でもない。

現在宗教庁内には大きく4つの派閥がある。宗派では保守派のイオニア会とフランチェスコ会、改革派の東フランク騎士団、そしてガリア派だ。これらの派閥は教皇選出会議(コンクラーベ)にむけて日々暗闘を繰り広げている。頭に保守派だ改革派だとついているが、教義の解釈や政策等々にそれほど大きな差異があるわけではない。むしろここ最近はガリア派に右に倣えで、他の宗派派閥も地域別、出身国別の派閥という色合いが濃くなりつつある。多国籍の人間が集まる宗教庁において政治信条よりも出身国別に集まるのはある意味自然であった。ガリア派はその名の通りであり1500万人という人口=信者数と、リュテイスの力を背景にしている。フランチェスコ会は連合皇国加盟国-アウソ-ニャ半島出身者、東フランク騎士団は旧東フランク諸国、そしてイオニア会はそれ以外のトリステインやアルビオン、グラナダ王国などの出身者による連合派閥だ。現在の聖ヨハネス19世はイオニア会とガリア派の支持のもとにコンクラーベで勝利した。そして先にあげた両修道院は、現在の宗教庁内の悲主流派である東フランク騎士団系列。どのような反応が出てくるかは火を見るより明らかだ。フランチェスコ会に近いとみなされている(実際にそうである)カミーロ・ボルケーゼ枢機卿自身にとっては、迷惑極まりない話であると同時に、頭を抱えたくなる話である。

「ない袖は触れない。東フランク騎士団も年貢の納めどころということだろうが、そうもいかないだろうよ」

その点だけを考えればいい気味だと思わないでもない。「改革派」の東フランク騎士団はその他の派閥から評判が悪い。新教徒増加の原因を「宗教庁の頑迷なる保守勢力によるもの」と声高に「保守派」を批判する騎士団は教徒からの人気は高い。批判される「保守派」からすればとんでもない言いがかりだ。大体、新教徒が増加しているのは旧東フランク諸国であり、それに対する責任は一義的に騎士団系の教会にある。その上経営が苦しいから金をよこせだ?どの面下げて-というわけだ。それはさて置き、ボルケーゼ枢機卿の頭痛の原因は、バウツェン・フライベルク両修道院の切り捨てが次のコンクラーベまでにどのような影響をもたらすか想像できないという点にある。

ガリア派を資金面で全面的に後押ししていたガリア王政府だが、現在のシャルル12世は、「太陽王」が外征の裏づけのためにガリア派を通じて宗教庁への影響力を維持する政策を転換した。もとより外征などするつもりはなく、内乱を鎮圧したばかりであることから内政に専念するつもりであるとされる。リュテイスの考えはともかく、金がなければひとつにまとまっている必要もない。ノルマン大公の反乱によって、派内の実力者であり後継者とみなされていたエルコール・コンサルヴィ枢機卿が失脚したことで、派内の統制が取れなくなったのだ。少なくなった金の分配や派内の主導権を巡り内部対立が深刻化。分裂がささやかれている。2つの修道院切捨てにより、東フランク騎士団がイオニア会とガリア派による現政権に対する対決姿勢を強めるのは確実だ。その上ガリア派が分裂するとあれば、ボニファティウス10世、ヨハネス19世と2代続いたイオニア会=ガリア派の構図が維持される可能性は低い。フランチェスコ会系の自分も身の振り方を考えなければならないだろう。悩める枢機卿にモルプルゴ男爵は他人事のように(文字通り他人事なのだが)言う。

「借りたものを返すのは当然でしょう。それに相手はザクセン政府。猊下が恨まれる筋合いはありません。黙殺するだけでよろしいのではないですか」
「今の政権の枠組みが永遠に続くのであればそれでもいいだろうがね」

ボルケーゼ枢機卿は目頭を揉んだ。確かに修道院問題において正論で押し通す事は可能だが、仮に次のコンクラーベで東フランク騎士団が主流派に転じた場合、その論理がわが身に跳ね返ってくる。経営の苦しい教会や修道院は東フランク騎士団だけではない。バウツェン・フライベルク両修道院を見捨てれば、次は自分達だとして反対に回るものも出てくるだろう。ヨハネス19世の性格からして、そのような意見が出れば(青筋を立てて机を叩きながら)意見を押し切るだろうが、そうなると外務長官である自分もとばっちりを食うことになる。

「・・・それ金を愛するは」
「諸々悪しきことの根なり。祈祷書6章10節ですな。猊下、お言葉を返すようですが、金は鋳造された自由ともいいます」
「自由ときたかね」

ボルケーゼ枢機卿は、これは気がつかなかったとでもいうように手のひらでその広いでこをぴしゃりと叩いた。

「なるほど、金があれば大抵の事は自由になる。反対に金がなければどうにもならないことも山のようにあるな。金貸しどもに新教徒が多いのは自由になりたいからというわけかね?」

返事を求めてくるボルケーゼ枢機卿に、モルプルゴ男爵は笑うわけにもいかず困ったような表情を浮かべていた。





「・・・で、貴様はのこのこと間抜け面をぶらさげてきたわけだな?」

案の定、青筋を立てて歯を剥く教皇ヨハネス19世聖下に、ボルケーゼ枢機卿は内心でため息をついた。きつく結んだへの字の口元は震え、落ち窪んだ眼窩の奥の眼は怒りの色に彩られている。もともと厳しく険しい顔つきの老人であるため、それはもう大変な形相だ。想像していたとはいえ、ここまで思ったとおりだと返って可笑しくなってくる。ヨハネス19世は中指で机を小刻みに叩き始めた。

「妾の子孫の分際で・・・今貴様らがでかい顔をしていられるのは誰のおかげだと思っておるのだ」

このヨハネス19世の言葉には説明が要るだろう。ザクセン王国の初代国王アルブレヒトは、最後のフランク国王バシレイオス14世の叔父である。バシレイオス暗殺後、叔父である彼はドレスデンで戴冠式を強行したが、庶子であったがゆえに内外から認められることはなかった。ロマリア条約がなければ「王」ではなくせいぜい大公が限度だっただろう。ヨハネス19世はそのことを言っているのだ。ボルケーゼ枢機卿はむしろ血気盛んなザクセンが、このような迂遠な手を使ってくること自体、少なからぬ薄気味悪さと同時に、なんとしても修道院を潰すという強い意思のようなものを感じていた。それゆえこれを阻止することは難しいだろうとも考えていた。

ボルケーゼ枢機卿が口をつぐんでいる間も、最近益々気が短くなった老教皇は愚痴り続ける。

「まったく、東フランクと関わるとろくなことがない。ゲルマニアのときもそうだ。金で王位を売っただの、教皇の権威を傷つけただのと好き勝手なことばかり言いおって。経営改善の努力もせずに金だけよこせという輩ほど声が大きい。まったく恥知らずどもが・・・本国からの金を受け取らないというならともかく、もっと出せと言う。恥知らずにもほどがある。違うか?」
「おっしゃるとおりかと」

その点に関してはボルケーゼ枢機卿も同意する。トリステイン王国ヴィンドボナ総督であったゲオルク・ヴィルヘルム・フォン・ホーエンツォレルンから「ゲルマニア国王」という称号を買いたいという打診があったのは2年前のブリミル暦6212年-ラグドリアン戦役の一ヶ月前のこと。おそらくその時点でゲルマニアはガリアのトリステイン侵攻を予測していたのだろう。大方の予想に反して太陽王の死によって停戦が早期に成立したが、その後も宗教庁と総督家の間では断続的に調整が進められた。ゲルマニアは始祖の子孫であるトリステイン王家から独立する大義名分として「始祖の墓守」であり「ブリミル卿の最高権威者」であるロマリア教皇の裏づけを求めた。買いたいという表現こそ使わなかったものの、実際はそれ以外の何者でもない。その際、宗教庁側の責任者だったのが、ボルケーゼ枢機卿の前任の外務長官であるルドルフ枢機卿(東フランク騎士団)である。

ホーエンツォレルン総督家がヴィンドボナを中心にザルツブルグを実効支配しているのは周知の事実。すでに各国はヴィンドボナに領事館の名目で、事実上の在外公館を設けており総督家の独立は時間の問題とみなされていた。ラグドリアン戦役の戦塵覚めやらぬトリステインは当然激怒し、在トリスタニア教皇大使やトリステイン宗教庁長官を呼び出して詰問したが、実効支配権のない宗主国の意見は無視された。問題は宗教庁内部にあった。ヨハネス19世-ルドルフ枢機卿ラインで内密に進められたこの話に、反主流派は「金で王位を売りさばき、教皇の権威を傷つけるもの」と噛み付いたのだ。主流派の一角を担いヨハネス19世を支えるはずのイオニア会からもトリステイン出身の枢機卿を中心に教皇を突き上げた。結果、ルドルフ枢機卿は辞任に追い込まれ、連合皇国外務省国際局長であったボルケーゼ枢機卿が後任に就任した。この辞任劇を切っ掛けにヨハネス19世の政治的求心力は低下を始め、イオニア会とガリア派の関係悪化、そしてガリア派の分裂危機という現在に至る大聖堂の政治的緊張をもたらしている。

ボルケーゼ自身はこの間の交渉にはノータッチであったが、前任者と同じ批判を受けることになった。それゆえこの件に関して批判するものに対して、ボルケーゼ枢機卿自身も、たとえ外務長官という立場になくとも個人的にもよい感情は持っていなかった。ましてや声高に批判するものほどゲルマニアからの献金をほしがり「もっと遣さないと騒ぐぞ」とほざく輩もいた。そんな輩に対していい感情を持てるはずがない。ボルケーゼが自分の考えにふけっていると、ヨハネス19世はコンコンと机を叩いていた中指をぐっと握り締め、拳で机を一回、強く叩いた。

「・・・仕方あるまい、潰すぞ」
「よろしいのですか?」
「よろしいもなにも、ドレスデンのヤンチャ坊主(ベルンハルト4世)がやると言ってるのだ。翻意が出来ないなら、ここで逡巡していてもしかたあるまい。それに」

ヨハネス19世はその落ち窪んだ眼窩の奥の眼をぎょろりと剥いた。見るものを畏怖させ、有無を言わさず従わせる強烈な眼光は未だ健在である。とても70を超えた老人のそれではない。生と権力への執着によって晩節を汚した教皇はこれまでもいたが、この老人の場合は生気と活力に溢れていて、そのような悲壮なものは微塵も感じられない。むしろ年齢を重ねる事に生き生きとしているように見える。この様子ではお迎えがくるのは大分先の事だろう。そうなればイオニア会とガリア派にとって苦しい状況が予想される次のコンクラーベがどうなるかわからない。

「わしの死んだあとの事など知ったことか」
「聖下、そんな子供の様な事をおっしゃられては」

ボルケーゼ枢機卿は呆れたような表情を浮かべたが、顰め面をしたヨハネス19世は意外と真剣にそう考えていた。最近の若い奴らは苦労を知らない。ロマリア宗教庁と聖フォルサテ大聖堂だけしか知らないような人間が、自分達の狭い知識と経験だけで不平不満を言う。ノルマン大公の反乱を援助したゴンサーガ枢機卿などはその典型だ。聖フォルサテの子孫である選定侯家出身で金と暇がある演劇馬鹿は、自分の立場もわきまえず大国ガリアの内乱を幇助するという火遊びをしでかした。馬鹿ならまだいいが、小賢しい知恵はあるので手に負えない。口先ばかり達者なくせに、いざというときはまるで使い物にならないのが目に見えている。必要とあらば手を汚す事を厭わない人間がいない。汚れ仕事を直接しろというわけではない。必要とあらばそれを責任を持って命じることが出来る、腹の据わった者がいないのだ。奇麗事ばかりいいたがり、自分だけは「いい子」でいようとする。その風潮を老人は嫌悪していた。

フランチェスコ会の教皇候補と名高いマーカントニオ・コロンナ枢機卿をトリステイン宗教庁長官に「左遷」したのは、宗教庁の次代を担う彼を大聖堂の軽薄な空気に染めさせてはいけないという、ヨハネス19世なりの配慮である。今のままではコロンナ枢機卿は弁がたつ有力枢機卿で終わってしまう。当人は「不当人事」と不服を唱えているが、陸の孤島で自分を見つめなおすことは何れいい経験となるだろう。もっともあのインテリ面を見たくないという感情がなかったかといえば嘘になるが、それだけで左遷人事をするほど教皇は気楽な仕事ではない。実際、奴ほどの人材は貴重なのだ。

「コロンナ枢機卿もエルコール枢機卿もまだまだ苦労が足りない。まだしばらく死ぬつもりはないが、口舌の徒にこの座を明け渡すわけにはいかんのだ」
「エルコール枢機卿はともかく、コロンナ枢機卿に聖下のお気持ちが通じますか?」
「一度や二度の左遷で腐るのなら、あの生意気な男もそれまでという事よ」

ボルケーゼ枢機卿は自身の名前が出ないことに苦笑しながら、エルコール枢機卿の名前が出たことに表情には出さないものの、驚きを隠せなかった。エルコール・コンサルヴィ枢機卿といえばヨハネス19世と同じガリア派出身で右腕と称される人物。ノルマン大公の反乱幇助の疑いをかけられるまでは次期教皇の有力候補の一人であった。その彼を教皇自身が突き放すような評価をしたことが以外だったからだ。そして意地と性格と根性の悪い老人はボルケーゼ枢機卿の考えなどお見通しであったようで、フンと鼻を鳴らした。

「まあ奴には期待していたがな。その後の対応が悪すぎる。ラグドリアンからリュテイスに向かわずルーアン(ノルマン大公の本拠地)に直行するとは。どうぞ疑ってくださいといわんばかりではないか。大公個人との関係に、情に流された結果があれだ。自業自得じゃ」

本人は満足しているだろうがなと老教皇は続けた。「ガリア派のプリンス」という宗教庁内での政治的地位を失ったエルコール枢機卿だが、ガリア国内ではその株を大いに上げた。自身の立場が危うくなる危険を承知の上で友人の為に尽くしたという、いかにも庶民が好みそうな話題をやってのけたのだ。人気が出ないわけではない。そしてヨハネス19世はエルコールのルーアン行きの一件をもってしてこの男を「切り捨て」だ。奇麗事に準じた覚悟は見上げたものだが、少なくとも自分で這い上がろうとしない限りは、手を差し伸べるつもりはない。もし這い上がってくる事が出来るのであれば、自分の助けなどなくとも奴は自身の力でこの座を手に入れるだろう。それだけの能力はある男だ。その意思があるのかどうかは知らんが。

「それよりもコロンナだ。エルコールがリュテイスから動けない事をいいことに、また下らん事を考えているようだな」
「お気づきでしたか。確かに枢機卿はハノーヴァーとトリステインのマリアンヌ王女の婚姻交渉に独自に動いているようです。ハノーヴァー外相ハッランド侯爵やハノーヴァー在トリステイン大使との会談を繰り返しておられます」

ヨハネス19世は「あの馬鹿が!」と吐き捨てた。自分を見つめなおすどころか、下らん政治ゲームに手を出しおって・・・その軽薄さが気に食わんのだ。「流れ」に乗るばかりで物事の本質がまるでわかっておらん。再び不機嫌そうに顔を顰めた老教皇に、ボルケーゼ枢機卿は恐る恐る尋ねた。

「聖下はトリステインとハノーヴァーとの例の話、いかがお考えになりますか」

宗教庁が様々な問題を抱えながらも今も尚その勢力を維持できているのは、その巧みな外交力もあるが、それを支えているのはハルケギニア全土に広がる教会や信者のもたらす情報と、その分析能力にある。情報を集める事はたやすいが、その分析能力に関して言えば宗教庁という組織はハルケギニアのどの組織が逆立ちしても敵うものではない。ハノーヴァーとトリステイン両国の一部によって内密に勧められているクリスチャン王太子とマリアンヌ王女との婚姻の話についてもヨハネス19世とボルケーゼ外務長官は当然把握していた。老教皇はボルケーゼの予想に反して「難しいな」と腕を組んだ。

「同君連合か王配かも決められん話だ。潰れると見るのが自然だが、意外と上手くいくかもしれん。ハノーヴァーの現政権を支える親トリステイン派には後がない。ガリア派か北部都市同盟の走狗にとってかわられることを理解しているだろう。恥の上塗りはこれ以上出来ない-それゆえに他にも王子がいるのに王太子を引っ張り出してきたか」

さすがに元外務長官であっただけのことはあり、ヨハネス19世の見方と言葉は鋭い。老いという誰しも避けることの出来ない現象はこの人には関係ないのかと内心舌を巻きながら、ボルケーゼ枢機卿は重ねて訊ねた。

「ハノーヴァー国内はまとまるとして、トリステイン国内はまとまりますか?ラグドリアン戦役での遺恨は未だ消えておりませんが」
「王太子を引っ張り出してきたのはそれだ。どちらにしろこの話は水の国に主導権がある。次期国王をいわば人質にすることで誠意を占めそうということなのだろう。トリステイン国内でこの話を進めているのは確か」
「アルチュール・ド・リッシュモン外務卿です」
「そう、リッシュモンだ。あの男は軽率なことをする男ではない。他のものならともかく、リッシュモン伯爵が動くなら可能性はないわけではない。北部都市同盟を上手く取り込むことが出来るのであれば、意外と上手くいくかもしれん」

同君連合か現状の同盟強化と親密化で終わるのかはわからないが、もしトリステインとハノーヴァーが連合を組めばハルケギニア大陸東部に侮りがたい勢力が成立する事になる。トリステインを機軸にその属国たるハノーヴァー、同盟国として空の覇者たるアルビオンがあり、旧東フランクの経済を握る北部都市同盟。悪くはない。

「上手くいくかどうかは別問題だ。都市同盟の業突張りどもを納得させるだけのものを出せるかどうかだな。しかしこれだけの絵を描ける人間は早々いるものではない」

この人には珍しくヨハネス19世は素直に人を褒めた。

「フィリップ3世陛下はご存知なのでしょうか?」
「・・・あの男は狡くなった。エスターシュ大公を使い捨てたように、上手くいかなければ伯爵を切り捨てるだろう。自身の名声を損なうわけには行かないからな」

ルドルフ枢機卿を切り捨てた聖下が仰られると説得力がありますねという言葉が喉まで出掛かったボルケーゼ枢機卿だが、その言葉を飲み込むまえに教皇執務室の戸があわただしくノックされた。

「なんだ!今は会談中であるぞ!」
「も、もうしわけありません。ですが、ヌーシャテル伯爵が火急の知らせがあるという事で・・・」
「ヌーシャテル伯爵が?」

戸の向こうで老人の怒声に身を竦める秘書官の様子がありありと想像出来たが、ボルケーゼ枢機卿とヨハネス19世は顔を見合わせた。ヌーシャテル伯爵フェデリコ・ディ・モンベリア卿の経歴は直属の上司であるはずのボルケーゼ枢機卿も知らない。外務省国務局に属しているが、それはあくまで便宜上のもの。ヨハネス19世もおそらく知らないのだろう。ただ前教皇ボニファテイウス10世の時代より、光の国の汚れ仕事をこなしてきたであろう事は薄々ではあるがボルケーゼ枢機卿も感づいていや。その伯爵が火急の用件とはただ事ではない。老教皇は「かまわん入れろ」と怒鳴り返す。それにしても地声が大きい人だ。ボルケーゼ枢機卿は思わず顔を顰めた。


「失礼致します」

重厚な戸が開くと、ヌーシャテル伯爵の特徴のない、のっぺらぼうの様な顔が見えた。中肉中背のいかにも冴えないこの男こそが、歴代教皇の下で汚れ仕事をこなしてきたことを知る者は少ない。歩き方は見るからにのっそりとしているが、その気になれば足音を立てずに背後にまわられるかもしれない。それを考えるとボルケーゼ枢機卿の背中に冷たい嫌な汗が流れる。自分ならこんな薄気味悪い男を側に近づかせる事はしないだろう。とてもではないが神経が持たない。

「貴様にはガリア派の内偵を命じていたはずだが、その関係か?」
「その件に関しましては後日報告申し上げます」
「ならばなんだ。もったいぶらずにさっさと報告しろ」

ヌーシャテル伯爵は何時もの様にのっぺりとした表情のまま、その薄い唇だけを動かした。


「ハノーヴァーのクリスチャン王太子がお消えになられました」



[17077] 第54話「ブレーメン某重大事件-1」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:d56d1fa2
Date: 2010/08/28 07:12
-ハノーヴァー王国宮内省発表-

「昨日『流感』により御公務を欠席されたクリスチャン王太子殿下におかれては、ご容態は快方に向かわれつつある。王宮医師団の診察によると症状は軽いものの、疲労の蓄積が見られるために、今しばらくのご休養が必要である。よって王太子殿下は本日より3週間のご静養に入られる。尚、来月より予定されていたアルビオン王国南部サウスゴータにおけるご静養は取りやめられ、ドロットニングホルム宮殿における静養に専念される」

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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(ブレーメン某重大事件-1)

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人間が忽然と消える-好事家ですら聞き飽きた三流ミステリーの様な出来事が、ハノーヴァー王国のドロットニングホルム宮殿を舞台にして実際に起こった。厳重な警備が敷かれているはずの王宮から、次期国王が文字通り「消えた」のだ。いかなる荒唐無稽な内容であっても、現実に起きてしまえば笑うことなど出来ようはずがない。ましてやその件に関して責任を問われかねない関係者にとってはなおさらだろう。

その日、ドロットニングホルム宮殿東離宮に位置する王太子の寝室に入った王太子付メイド長は、返事のないことに首をかしげながらドアを押し開いた。まず彼女の目に飛び込んできたのは主のいない空のベット。寝室は昨晩自分たちがベットメイクした時のまま、しわひとつない状態のまま。小机の上を見れば、これも昨晩自分が用意した夜食用の肉とチーズを挟んだパンとワインが、それぞれ申し訳程度に口がつけられたまま放置されている。横に置かれたランプは弱く淡い光を放っており、消された様子はない。

ある程度部屋の様子を把握した彼女は、その光景が意味することを理解して顔を青ざめさせた。しかし彼女は取り乱すことなく自分がなすべき事を理解し、そして即実行に移した。結果的にはその行動が、短期的には国政へ混乱をもたらす事を防ぎ、この事件を「ブレーメン某重大事件」として、半ば強引ではあるが表向きは「何もなかった」という翌年のハノーヴァー宮内省公式発表による決着へ繋がる伏線となる。しかしこの時点でのメイド長の行動は、この件に関して責任問題を問われかねない自身の身を守るという保身のためのものであり、彼女自身もそう認識していた。メイド長はまず「王太子殿下は微熱により起床が遅れられる」という嘘の情報を流し、メイド達に解雇をちらつかせながら緘口令を敷いた後、宮内大臣であるヨーハン・ユーレンシェナ伯爵に事態を報告する。王宮内の最高責任者である宮内大臣に直接報告したのは、宮内省官房長や侍従長であっては、警護の失態という責任を自分ひとり押し付けられる事を警戒したためであり、ユーレンシェナ伯爵であれば自分にそれなりの便宜を図ってくれるであろうという打算から導き出されたものであった。宮廷政治のプレイヤーは貴族ばかりではない。



〔アンスールの月(7月)ヘイルダムの週(第2週)オセルの曜日(7日目)〕 -トリステイン王国 王都トリスタニア ルーヴォア侯爵邸-

トリステインのみならず、貴族にとって王都に邸宅を構えるのは一種のステータスシンボルでもある。以下に華麗な家系図や戦場での軍功を誇ろうとも、王都のどの地区にどれほどの規模の屋敷を構えることが出来ることが出来るかで、その家の財力と権勢というものが伺い知ることが可能だ。如何に貴族の世襲財産に税制上の優遇措置が図られていたとしても、領地経営の失敗や散在によって屋敷を手放す貴族は多い。先頃で言えばシャン・ド・マルス錬兵場近くの4階建ての贅を凝らした『新宮殿』ことエスターシュ大公の屋敷は、大公が政界引退を表明したのと時を同じくして売りに出された。居住者の変遷は、そのまま水の国における政界の縮図そのものである。

ルーヴォア侯爵家はアムステル川東側、サン・レミ寺院に隣接するシャトー・ルージュ地区に、並みの貴族の居館なら3つか4つは楽に立てることが可能な広大な敷地を抱えている。王都トリスタニアで、しかも高級住宅街であるシャトー・ルージュ地区にこれだけの邸宅を構えることの出来る貴族は数少ない。ルーヴォア侯爵家はトリステイン王国東部における有力諸侯。領地を持つ貴族諸侯が王都に屋敷を構えるのは、当然ながら王家に対する人質という意味合いを持つ。この屋敷は侯爵家が強大であるが故に、好むと好まざるとに関わらず降り掛かる火の粉を払い、自身の国政における影響力を保ち続けるための「領事館」であった。

その「領事館」の居間で、親子はおよそ1年ぶりの対面を果たしていた。しかし、そこに暖かなものはない。ちょうど夏場で用を為さないために使われなくて久しい暖炉のように、埃っぽく冷たいものだけがそこにある。冷たい暖炉を背にロッキングチェアに腰掛ける父に、トリステイン宗教庁官房長のデムリ伯爵エドゥアール・ル・テリエは立ったまま向かい合っていた。三男であったエドゥアールは侯爵家の分家筋にあたるデムリ伯爵家を相続したため、早くに家を出ていた。それゆえデムリ伯爵が父親である侯爵と過ごした時間は短く、そのためか上司に接する時のような対応にならざるをえない。


「ご無沙汰いたしております父上」
「挨拶はいい」

息子の言葉に、侯爵家当主にしてトリステイン王国財務卿であるルーヴォア侯爵ミシェル・ル・テリエは重々しく頷いた。腰掛けたままであるが、全盛期のエスターシュ大公に敢然たる態度で苦言を呈し続け、大公派に対抗する貴族派の盟主として祭り上げられた老人は、それに相応しいだけの威厳と風格を漂わせている。

「手紙は読んだ。クリスチャン王太子の失踪-間違いはないのだな」
「コロンナ枢機卿猊下から直接お聞きしました。猊下は休暇のため2週間前からブレーメンを訪問されておりまして」
「休暇だと?今年何回目の休養だ」

息子の言葉を父は鼻で笑い飛ばした。小人閑居して何とやらというが、エスターシュがそうであったように、小賢しい知恵のある人間というものは一人でも問題を引き起こすものらしい。現教皇ヨハネス19世と折り合いが悪く「陸の孤島」であるトリステイン宗教庁長官に左遷されたマーカントニオ・コロンナ枢機卿が、復権を目指してエギヨン侯爵(宰相)-リッシュモン伯爵(外務卿)ラインで進められているハノーヴァー王太子とマリアンヌ王女との婚約交渉で独自に動いている事は、枢機卿がブレーメンとトリスタニアを往来していることを見れば明らかである。ルーヴォア侯爵は顔色を変えずにいたが、内心では勝手なことをと腸が煮えくり返っていた。

「まったく無駄な足掻きを。こちらの仕事を増やすようなことばかりしおって」

「次の長官はもっと馬鹿にしてもらわねばな」と吐き捨てるルーヴォア侯爵。長年、トリステイン政界の中心で余人の注目を集め続け、他人に見られることに慣れきった倣岸な老貴族がそこにいる。そんな父であり上司である老貴族に対して、デムリ伯爵は淡々と報告を続ける。


「クリスチャン王太子殿下と最後に会談されたのは猊下であったようです」
「それは何時の事だ」
「今週のユルの曜日(2日目)ですから、今より五日前です。夕食後に王太子殿下はドロットニングホルム宮殿の自室で猊下と会談されました。猊下が退出される際、侍従やメイドらが王太子殿下の姿を確認しています。しかしその後はまったくの不明です。メイド長が深夜に夜食を差し入れたようですが、声だけで姿は確認していないそうです」
「当然、ブレーメン政府はそれを認識しているわけだな」
「はい。本来であれば猊下は翌日にはアントウェルペンへご帰還される予定でしたが、ブレーメンの政府関係者に足止めを請け、帰還されたのは一昨日の事でした」

その言葉に首を捻るルーヴォア侯爵。手紙にあった「失踪」という曖昧な表現をせざるを得なかった理由がおぼろげながら見えてきた。

「暗殺か、それともかどわかされたのか?」
「不明です。猊下もその点を繰り返し訪ねられたそうですが、聞き出せなかったそうです。ただクリスチャン王太子が行方不明は間違いありません。宮中で何らかの政変が起こった可能性も」

デムリ伯爵の言葉を聞きながら、ルーヴォア侯爵は「その可能性はないだろう」と考えていた。ハノーヴァー国内における親ガリア派はラグドリアン戦役の終結とともにその面目を失墜している。何より目の前にあるザクセンの脅威が、国内を親トリステイン色で一致させる原因となっていた。アルヴィド・ホルン伯爵率いるハノーヴァーの現内閣は議会で多数派を占めており、もとより水の国贔屓である国王クリスチャン12世との関係も悪くない。軍部の実力者であるオルラタ伯爵レンナート・トルステンソン元帥はラグドリアン戦役以前からの親トリステイン派であり、戦役後に陸軍省内部の親ガリア派を追放してその体制はゆるぎがない。このようにハノーヴァーは宮中-行政府=議会-軍部のラインを親トリステイン派ががっちりと抑えている。

クリスチャン王太子の政治姿勢は、これまでの言動からどちらかと言うとトリステインに近いと見なされていた。ブレーメンの現状は親ガリア派や中間派が復権を果たせるような状況ではない。宮中で何らかの動きがあり、王太子が身の危険を感じて身を隠したということは考えられなくもないが、可能性としては低いといわざるをえないだろう。

「ハノーヴァー政府も対抗に困惑気味で『ご静養』ということでお茶を濁しているのが現状のようですが」
「なるほど、リッシュモンが閣議を欠席した理由がわかったわ」

息子の言葉には答えず、ルーヴォア侯爵は一人得心したのか、首を振った。トリステイン国王は伝統的に王権が強く、国内の主だった人事に始まり予算や外交に至るまで(司法権を除く)その殆どを独断によって専決が可能である。宰相職は常設ではなく、王が大臣を直接的に指示することで、事実上宰相を兼任して親政を行う場合もあった。さりながら、国土の隅々まで王個人の監視が行き届くわけではない。ガリア王政府が現在のようなリュテイスの中央集権体制を築くために、それを支える常備軍の育成と官僚制度を作り上げるためにどれだけの苦労をしたかは今更ここで述べるまでもない。約7万平方キロメイル(km²)というガリアの10分の1程度の国土とはいえ、トリステインも王個人がその全てに目を通すには広すぎた。トリステイン王政府は極めて縦割り行政的な組織であるともいえる。王個人の権限の強大さが、縦割りの弊害をカバーしていたが(繰り返しになるが)如何せん王個人がその全てに目を通すことは難しい。

それゆえ、次期王位継承者であるマリアンヌ王女とハノーヴァー王太子との婚姻という、白百合の将来に関わる重大な問題にもかかわらず、外務卿であるリッシュモン伯爵がほとんど独断で進めており、財務卿であるルーヴォア侯爵を初めとした閣僚は蚊帳の外であった。仮に「国政の一大事により意見する」という論理によって侯爵がリッシュモン伯爵の行動を咎めるのであれば、同じように通貨問題に関して内務省や王政庁からの干渉を許すことになりかねないというロジックがルーヴォア侯爵の行動に制約をかけている。ようやく落ち着きを見せた通貨問題だが、きっかけさえあれば燎原の火のごとく燃え上がることは明らかであった。何よりフィリップ三世の真意がわからないことが、この誇り高き老侯爵をして行動をためらわせる大きな要因となっている。下手に反対論でも唱えて英雄王の不興をかう事は望ましくない。昔ほど人物への好悪の感情を表に出さなくなったとはいえ、その剛毅果断な内面は何一つ変わられていないことを侯爵はよく認識していた。ルーヴォア侯爵はリッシュモン外務卿の独断専行を苦々しく思いながらも、これまでは黙って見ているしかなかった。そして「これからも」だ。ロッキングチェアの肘を2、3度叩いてから、ルーヴォア侯爵は顔をしかめながら言った。


「リッシュモン(外務卿)が情報を上げんのだ。外交機密だの交渉に差し支えるだのと理由をつけてな。交渉の過程どころか、マリアンヌ王女と件の王太子との婚姻と言うこと意外は、閣僚である私にも知らされておらん。だが事はトリステインの将来にかかわる自体だ。たかが伯爵如きが一人で進めてよいものではない」

デムリ伯爵にではなく、現状を確かめるために言葉を発するルーヴォア侯爵。同じ閣僚とはいえ、いまや押しも押されもせぬトリステイン外交界の重鎮となったリッシュモン伯爵を「たかが伯爵」と呼び捨てることができる人間はこの老人ぐらいのものであろう。とにかく王太子失踪について正確なことかわからない今、軽率に動くべきではないだろう。膝にかけたタオルケットを見下ろしたまま、ルーヴォア侯爵は先んじて手に入れたこの情報をいかに活用するべきか忙しく頭を働かせていた。

「外務省に報告いたしますか」
「・・・いや、知らせるな。知らせなくていい。リッシュモン伯爵はすでにブレーメンから知らされているだろう。陛下の真意が解らない中で下手に動けば、我がルーヴォア侯爵家まで巻き込まれる可能性もある。ブレーメンで何が起こっているのか、ますそれを確かめる必要がある。貴様はコロンナ枢機卿の監視を続けろ。二度と詰まらん行動を起こさせるな」


冷え切った暖炉を背にして財務卿としての命令を一挙に下した父に、デムリ伯爵は頭を下げることで答えた。




〔アンスールの月(7月)ヘイルダムの週(第2週)ダエグの曜日(8日目)〕 -クルデンホルフ大公国 公都リュクサンブール ベッツドルフ大公宮-

トリステイン王国とガリア王国の南東部国境に位置するクルデンホルフ大公国。昨年トリステインから独立を果たしたばかりの大公国である。軍事や外交では旧宗主国たるトリステインの影響下にある小国だが、この国の真価は軍事力や領土の広さといった目に見えるものではない。リュクサンブールのベッツドルフ大公宮前に軒を連ねるのは、貴族の邸宅や各国の大使館ではなく大銀行の本店や各国の銀行協会の会館である。金融業者の保護と育成に力を注いできた大公家の城下町には各国から金融業者が集まり、その機密性と堅実な融資姿勢から「クルデンホルフ銀行」と称されるようになった。これによりこの小国は、金融政策を通じてその国土に似合わない政治的影響力をハルケギニアに及ぼすことが可能となったのだ。

しかしこれは同時に、市場の安定に関して大公家が責任を負う必要を生じさせる事にもなる。その責任を果たすために、大公家は事象や為替相場に関して影響を与えるであろうありとあらゆる事象-ガリア王国財務卿の健康状態から、トリステイン財務当局者の発言等について情報を集めることに心血を注いでいた。これには当然大陸の国際情勢も含まれる。先のラグドリアン戦役(6212)の最中、ロペスピエール3世の死の情報をトリステイン側で最も早く入手したのも、クルデンホルフ大公家であった。また大公家は金融業者を通じてガリアの領邦貴族に圧力をかけ、太陽王崩御後のリュテイスの意見を「停戦」に導く。そうした功績もあって、昨年のラグドリアン条約においてクルデンホルフ大公家は軍事外交権に関してはトリステインの影響下におくという前提の下で独立を認められた。

このように必要な情報を集めることに関しては手間隙と金を惜しまないというのが、現大公ハインリヒ1世の方針であった。先祖は旧ザクセンからの亡命貴族であり、実利主義的精神の申し子のような大公は、必要とあらば平民であろうと金貸しであろうと接することに何のためらいもなかった。


「クリスチャン王太子の行方ですか。そんなものがわかるのであれば我らも苦労しないのですが」

ガリア銀行協会会長のリチャード・アークライトの不遜とも言える物言いにも、ハインリヒ大公は気分を害した様子もなく対応していた。金貸しとはいえ、この男はガリア国内の数百にものぼる金融業者をまとめる銀行協会会長というガリア経済界の重鎮であると同時に、アルビオンやトリステインにも支店を持つガリア国内最大の金融グループであるモントリオール銀行頭取。下手な大公家では会うことすら適わないだろう。その事はハインリヒ大公自身がよく認識していたため、いまさらその程度のことで目くじらを立てることはない。ガリア製の鼻眼鏡を右手で上げながら、アークライトはどこか困ったように言う。

「消えたとしか言いようがありませんな。火のスクエアメイジである王太子を暗殺するのは並大抵のことではなく、しかも音も立てずに暗殺して死体を持ち去るなどありえません。同じ理由で音も立てず誘拐することも考えにくい。とすると、残るは王太子が個人の意志で身を隠したということになりますが」
「その必然性はないわけだな」
「そうなのです。考えうるどの理由にも無理が出て来ます。まさに『消えた』のですよ」

上向きに握り締めた右手をパッと開いたアークライト会長。飄々とした受け答えをしているが、その鼻眼鏡の下は真剣そのものである。王太子失踪から既に6日目。ドロットニングホルム宮殿はひた隠しにしていたが、大使館を通じて各国の外交関係筋がクリスチャン王太子の失踪を知るのは時間の問題であろう。

「トリスタニアは何と言っているのですか」
「リッシュモン伯爵(外務卿)が王太子の生死を何が何でも調べ上げろということでな。私達にも出来ることが出来ないことがあるのだが」

苦笑するハインリヒ大公。彼の下には毎日のようにトリステイン大使が訪問して王太子の行方を尋ねてくる。金融を牛耳るクルデンホルフ大公家というイメージばかりが先行し、何でもこちらが知っているだろうという前提で詰問してくるものだから困ったものだ。宗主国たるトリステインの以降に逆らうわけにもいかないため、大公はブレーメンの情勢を調べて大使に報告している。その事を言うとアークライトは気の毒そうな顔をして言った。

「それは大変ですな」
「必死だよ。文字通り『生死』がかかっている。特にリッシュモン伯爵は例の婚姻話の成否が掛っているから必死になるのも当然だ」

ハノーヴァー王国の親トリステイン政権とトリステイン外務卿のリッシュモン伯爵の間で進められていた、クリスチャン王太子とマリアンヌ王女との婚姻交渉はこれによって間違いなく暗礁に乗り上げた。トリステイン国内における対ハノーヴァー感情に配慮して内密に進められていたが、トリステイン王政府の中でも共通した意見が統一されているとは考えにくい。中でも独断で物事を進めているリッシュモン伯爵への反感は相当のものだとハインリヒ大公は聞いている。その点を踏まえながら、大公はよもや話のようなことを言い始めた。


「今のエギヨン政権(侯爵。宰相)には核がない」
「かく、ですか?」
「核‐コアだな。第1次エスターシュ政権以降、トリステインは大公派とそれに対する貴族派の対立があった。確かに無用な政権争いに繋がったが、それが刺激にもなった。しかしラグドリアン戦役で主だった両派の人物が居なくなった。中間派といえば聞こえはいいが、日和見主義者ばかりがトリスタニアにいる。英雄王がわざわざエスターシュという曰くつきの人物を引っ張り出してきたのも、スケープゴート役を押し付けたかったこともあるだろうが、国政に刺激を与えるためだろう」
「要するに大公殿下は、今のエギヨン政権は小物ばかりだと?」
「・・・君も厳しいことを言うね。小物とは言わないが、エスターシュ大公のような一派一派閥を率いる人間がいないのは確かだ」

エギヨン侯爵は第1次エスターシュ政権で内務次官だったこともあり大公派とみなされていたが、貴族派とも悪くなかった。今は亡きフランソワ王太子の側近としてエスターシュ大公派と反エスターシュの貴族派の間で、両派閥の折衝役として動いた中間派といっていい。リッシュモン伯爵は外務卿という立場で同じく中立を貫いた。この両者が今、ハノーヴァーとの婚姻交渉でタッグを組んでいる。

「中心となって政権を動かす勢力がいないために、政権の求心力が働かない。組織はあるがバラバラなのだ。個々人の能力は悪くないのだが・・・」
「なるほど、その求心力でありコアとなっているのが『英雄王』の名声なのですな」

アークライト会長はなるほどと頷きながら、本題を切り出した。

「大公殿下は、この件でトリスタニアで政変が起こるとお考えですか?」

ハインリヒ大公はその言葉に腕を組んだ。軍事外交面においてトリステインの意向を気にせざるを得ないクルデンホルフ大公家当主としては軽々と答えていい内容ではない。大公はしばらく押し黙った後、再び口を開いた。

「わからんな・・・いや、答えを誤魔化そうというわけではない。ルーヴォア侯爵あたりが失踪事件を機に、リッシュモン伯爵を突き上げることは考えられる。しかし婚姻交渉にしても秘密裏に進められている話だ。その事を倒閣に利用するほどあの老人のプライドは安くはない」
「エギヨン政権が崩壊した場合の後継は、やはりルーヴォア財務卿でしょうか」

気の早い質問に、ハインリヒ大公は再び苦笑せざるを得なかった。

「あの御仁はもとより徒党を組むことを嫌う性格。貴族派の盟主に祭り上げられたといったほうが性格だろう。仮にエギヨン政権がつぶれるようなことになれば後継宰相にはあの老人しかいないだろうが、今のようなコアのない不安定な政権が続く現状に変化はない」

そこまで一気に話してから、ハインリヒ大公はアークライトの顔を覗き込むようにして告げた。

「つまり通貨政策については今しばらく変更は望めないということだ。儲けそこなったな、会長」

今度はアークライトが苦笑する番であった。



〔アンスールの月(7月)エオローの週(第3週)エオーの曜日(3日目)〕 -ハノーヴァー王国 王都ブレーメン ザクセン王国大使館-

ドロットニングホルム宮殿における『異変』を知る者は王太子失踪より9日目であるこの時点においてもごく少数に属した。静養中という宮内省発表になんら違和感や疑問点を抱く要素がなかったこともあるが、ブレーメンの政情は安定しており、時期国王とはいえ王太子個人の動向に注意をはるものは少なかったことも大きい。しかしハノーヴァーの仮想敵国であるこの国だけは違った。

「それは間違いないのか!」

食事中であったザクセン王国ハノーヴァー特命全権大使のアントン・フォン・カウニッツ伯爵は、カーレルギー参事官の報告を思わず問い返していた。それだけ内容が突拍子もなく、信じがたいものであったからだ。

「日頃から鼻薬を嗅がせている使用人からの報告です。それとドロットニングホルム宮殿の出入り業者4社に確認しました。先週のある時点より、クリスチャン王太子は宮殿内に居ないことは間違いありません」
「何ということだ!」

カウニッツ大使は机を拳で叩きつけた。これだけの重大情報を一週間以上にもわたって見逃していたわが身を恥じるばかりであるが、すんだことを公開しても始まらない。伯爵は直ちにドレスデンの本省に報告するため、伝令官に用意を命じた。

使い魔を使った情報伝達方法が確立されたのは今からおよそ200年前と意外と最近である。使い魔が主の耳目であることは言うまでもないが、その受信範囲は使い魔の種類によって異なる。また移動しながらの場合、受信能力は激減する。速報性もだが、正確な情報伝達が優先される外交においてこれは致命的であった。そうした弱点を補うために、公使館(A)と本国(B))の間にいくつかの中継点を設け、A→使い魔→主→主→使い魔→主→Bという伝達システムを作り上げたのは、ほかならぬザクセン王国である。原理としては単純な伝言ゲームだが、思いつくのは意外と難しい。北東部のボンメルン大公国、西のハノーヴァー王国(+トリステイン)という二大勢力に挟まれた地政学的環境が影響していたことは言うまでもない。

「生もの」であるため、伝令官は電話のように直ぐに情報を伝えることは出来ない。使い魔が寝て居ればそれをたたき起こす必要があるし、より正確に情報を送るためには伝令官は精神の集中力を高める必要があった。そのため最低でも30分は用意の時間が必要である。そうした欠点を差し置いても竜籠や馬を使った伝令システムよりは遥かに時間的な利点が多いため、各国はこのシステムを競って導入した。

「今月は何だ。馬か、蛙か、それともヘビか」
「・・・ネズミであります」
「そうか、ねずみ・・・ネズミい?!」

再びカウニッツ大使は素っ頓狂な声をあげた。伯爵のネズミ嫌いはつとに有名で、ドレスデンの外務省勤務当時、ネズミが出たからとわざわざ引越しをしたという逸話の持ち主である。当人は至極真面目にネズミにおける食害や疫病について主張するため、表立って笑うものは居なかったが、影ではこの大使を「青タヌキ」と呼んでいた。青タヌキの語源は誰も知らない。誰とはなしに、ネズミに恐怖する大使の姿をそう呼ぶようになったのだという。

明らかに顔が青ざめたカウニッツ伯爵は、唇を震わせながらカーレルギー参事官を詰る。

「な、何故ネズミなのだ!わわ、わしがネネネ、ネズミが苦手なことは知っているだろう!」
「申し上げにくいのですが、今月の伝令官は例の・・・」
「・・・あの女か」

カウニッツ大使は諦めたように、椅子に深く座り込んだ。伝令官は月番製であるが、ザクセン王国ハノーヴァー大使館ではネズミ嫌いの大使のために、使い魔がネズミである伝令官はその任を外されていた。しかし今月の伝令官が突如辞任したため、急遽代わりに派遣されたのがネズミを使い魔とする伝令官だったのだ。

「女の社会進出だか何だか知らんが、仕事を投げ出すような人間を採用すること事態間違っているだろう!本省の人事課はそろいもそろって節穴ぞろいか!」

私怨が混じっていることは否めないが、指摘していることはその通りであるためカーレルギー参事官も反論しない。しかしその内心は複雑な感情に満ちていた。ドレスデン本省から派遣されたカウニッツ伯爵とは違い、大使館たたき上げのカーレルギー参事官は前大使のホテク伯爵の令嬢であった彼女のことをよく知っていた。聡明で勉強熱心であり、なにより外交官としての職務に情熱を持っていた。そんな彼女が突如置手紙一枚を遺して辞職を表明したことに、彼女を知るものは誰しもが驚いたものだ。その現実は受け入れざるを得ないが、そこにどうしても納得しがたいものをカーレルギー参事官は感じていた。


「おい、さっさとね、ネズミ連れて来い!」


カウニッツ伯爵の怒声に、カーレルギー参事官は「今は目の前の仕事に集中しなければ」と頭を切り替えた。カーレルギー参事官もそうだが、彼女-ゾフィー・ホテクの事を知る者も、直に日常の忙しさに一人の伝令官の突然の辞職のことなど忘れてしまった。



[17077] 第55話「ブレーメン某重大事件-2」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:b679932f
Date: 2010/09/10 22:21
-ブレーメン某重大事件はいまだ十分な研究が進められているとは言いがたい。この事件が始めて世間の注目を浴びたのは表舞台に現れるのはブリミル暦6215年ラヤの月(1月)エオローの週(第3週)虚無の曜日、ハノーヴァー王国宮内省の公式発表による。トリステイン、ハノーヴァー両国はこれにて幕引きを図ろうとしたものの、その後の経緯は諸氏の知るところである。それまでの間に発生したクリスチャン王太子事件などの重大な出来事も、あくまで水面下でのものでしかなかった。ラグドリアン戦争(ラグドリアン戦役。6212年)によって関係が冷え込んだ両国が関係修復のために計画したいわば「奇策」は、その性格ゆえ高度な政治的機密性が求められた。ハノーヴァー王クリスチャン12世やトリステイン王フィリップ3世もその計画の全貌を把握していたかどうか疑わしいということがそれを証明している。特にトリステイン国内のハノーヴァー感情を考えれば、交渉の当事者にとってはやむを得ざる処置だったであろう。しかしその機密性ゆえ交渉は長期化を強いられることになったともいえる。

交渉長期化の原因は交渉の当事者、すなわちトリステイン外務卿のアルチュール・ド・リッシュモン外務卿と、ハノーヴァー王国首相のアルヴィド・ホルン両伯爵に求めることは自然であろう。両者の調整不足と独走が、両国で混乱を引き起こしたという意見は正しいと思われる。しかしこれらは全て憶測の域を出ず、両者がいわゆる同君連合構想についてどのような考えを持っていたのかを証明するには至らない。史料不足に加えてこの点が今後の大きな研究課題となると思われ・・・寝ている者には単位をやらんぞ!「遍在」で代弁させとる大馬鹿どももだ!!貴様ら神聖なる魔法を一体なんだと・・・

-ブレーメン大学 ハノーヴァー近現代史講義録より-

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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(ブレーメン某重大事件-2)

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-ヴィスポリ伯爵ヨハン・ウィルヘルム(ハノーヴァー王国前首相)の日記-

〔アンスールの月(7月)エオローの週(第3週)ラーグの曜日(5日目) 晴れ〕

宮内省訪問。昨日申し入れを受けたるユーレンシェナ伯(ヨーハン・ユーレンシェナ伯爵。宮内大臣)との会談のためなり。自分と伯爵との関係は良好とは言いがたし。侍従武官出身のユーレンシェナ伯は、その辞書に「融通」という言葉がなきような人物なり。それゆえ会談の申し入れ自体に奇異な印象を受けたものなり。ドロットニングホルム宮の警備が強化された件と関係があるものと思われるも想像が付かず。不可解の一言なり。

会談にはハッランド外相(ベルティル・ハッランド侯爵。外務大臣)、トルステンソン元帥オルラタ伯爵レンナート・トルステンソン。ハノーヴァー陸軍元帥)が同席せる。事前には聞かざる同席者なるも、ユーレンシェナ伯には何らかの思惑があると見え異議を唱えず。

王太子殿下の『御不在』について知らされたり。自分の耳を疑い、2度聞き返したるも伯爵はこれを事実という。ハッランド侯、トルステンソン元帥も然りと言う。彼らが自分を担ぐ理由などなし。受け入れがたき事なるも、事実と認めざるをえず。クリスチャン王太子殿下の失踪は先週のユルの曜日。11日前の事なり。そのことに対する不満を述べるも、ユーレンシェナ伯はホルン伯(首相)より依頼を受けたるためと言う。自身の政権の基盤が揺らぐことを恐れたゆえか。ならばこれも首相の意向を受けてのものかと尋ねると「さにあらず。ここに居る三者の判断なり」と言う。事態収拾の出来ぬホルン伯爵へ見切りを付けたるものか。

ユーレンシェナ伯より聞き出したる王太子殿下失踪の経緯は以下の如し。先週のユルの曜日の夕食後にトリステイン宗教庁長官マーカントニオ・コロンナ枢機卿との会談を終えた殿下は寝室に戻られたり。メイドが夜食を差し入れたるも、声だけで殿下の姿は見ずと。その日は深夜より強い風と雨が降り、雷が鳴り出したため宮殿外の警備兵は屋内へ引上げたる。翌日メイド長が寝室に入るもその時点で王太子殿下の姿はなし。部屋に争った様子はなく、水差しや花瓶の中の水まで調べたるも、毒物や薬物の反応なし。火のスクエアたる殿下が何の抵抗も無く連れ去られたとは考えずらく、誘拐や暗殺の可能性は低いものの、完全に否定は出来ず。

「自ら御身を隠された可能性はなきや」という自分の言に三者は共に首を振りたり。クリスチャン王太子殿下の性格からしてそれは考えられずと。自分とて王太子殿下が左様な「弱き」性格でないことは承知の上なり。されども真面目なる人間が折れた時は何をしでかすかわからずと言うと、ハッランド外相だけが頷きたる。ホルン首相はトリステイン大使と会談を繰り返すも、ユーレンシェナ伯は「アリバイ作り」のためと厳しき評価。殿下の捜索が密を要するに関しては異議なきも、政権を失うことを恐れて必要以上に消極的なりと。これでは見つかるものも見つからずと言う。ハッランド外相も「事態の解決に繋がらず」という意見。この問題が解決するまで、自分を含めた四者の定期的会合を持つことで合意。メッソナ党の有力なる「パトロン」たるシュバルト商会から情報を集めることを約束したる。


帰宅後、ホルンシュタイン男(男爵。医者)の往診を受ける。体調は回復しつつあるも、今回の件で再び悪化することは確実ならん。グスタフ家令より留守の間にロバート・スティーブンソン(北部都市同盟ハノーヴァー公使)来訪を聞く。都市同盟は商人だけあって自分の「商品」を高く売りつけることに関しては上手い輩なり。後日再び来訪するとのこと。早速殿下のことを聞きつけたるか。どこより聞きつけたるか、呆れるより先に感心するばかりなり。




〔アンスールの月(7月)エオローの週(第3週)イングの曜日(6日目)〕 -トリステイン王国南東部 アントウェルペン トリステイン宗教庁-

「だから私は何も知らないと言っているだろうが!」

トリステイン宗教庁長官であるマーカントニオ・コロンナ司教枢機卿は、一体何度繰り返したか解らない台詞をもう一度繰り返していた。自分の立場と地位、そして状況証拠からして、そうした疑惑の対象に自分がなるのはやむを得ざる事態だとは理解していたが、こうも同じ内容ばかり何度も尋ねられるといい加減腹が立ってくる。だが今の彼にそのような感情を覚える余裕はなかった。

「確かに王太子と会談したのは認めるが、私が何かクリスチャン殿下を唆したりするわけがないだろう。大体、そんな事をする動機も理由も私にはない」

ましてやそれをして得られる利益がないと顔を赤くして主張する枢機卿に、ヌーシャテル伯爵はその特徴の薄い顔に何の表情も浮かべずに相対していた。連合皇国という枠組みの中では圧倒的に地位が上であるはずのコロンナ枢機卿だが、その表情はひどく切羽詰った-有体に言えば精神的に追い詰められているのが見て取れる。肩書きこそ外務省国務局のヒラ外交官でしかないが、この薄気味悪い男が何の仕事をしてきたか、コロンナ枢機卿はそれを嫌というほど知っていた。知っていたからこそ必死になって弁明を繰り返している。そして自分の言い訳に対して伯爵がこれと言う反応どころか言葉さえ返さないことが、ますますコロンナの不安を煽り立てていた。

「だから私は潔白だと」
「教皇聖下は猊下のご説明に納得されておりません」

「教皇」と言う単語に顔を、それこそハシバミ草を口の中に詰め込まれたかのような苦々しげな表情を浮かべたコロンナ枢機卿だが、それまでがなりたてていたのが嘘のように顔を青ざめさせる。既に自分の処遇が、此処より遠く離れた大聖堂の主によって決められている可能性に気が付いたのだ。そうだとすればいまさら此処で、この伯爵相手にまくし立てていても何の意味もない。コロンナ枢機卿は顔を右手で覆った。これが受身での失点ならともかく、今回は自分から首を突っ込んだ事態。王太子失踪の一報を本国に伝えるだけで乗り切れると考えた自分が甘かった。頭を抱える枢機卿にも、ヌーシャテル伯爵は相変わらず淡々と言葉を発した。

「以上です。それでは・・・」
「ま、待てっ!」

会談の終わりを告げて立ち上がった伯爵を、コロンナ枢機卿は右手を上げながら呼び止めた。既に自分の処遇が決められているのなら無駄な足掻きだが、それでも何もせずにこのまま更迭を待つのは耐えられない-理性と感情の両方が後押しして彼にようやくその腹を括らせた。完全に失脚した後ではいくら叫ぼうとも負け犬の遠吠えでしかない。たとえそれが、あの忌まわしい糞爺の哀れみを請うことであろうともだ。

「・・・何が聞きたい」

ヌーシャテル伯爵の目を見据えながらコロンナ枢機卿は渋々といった様子で口を開いた。その感情の読めない眼に、一瞬だがやれやれといった呆れとも慰めともつかぬ色が見えたのは気のせいか。再び椅子に腰掛けたヌーシャテル伯爵は、一つ口元を隠すように掌で拭った後に「本題」を切り出した。

「猊下がマリアンヌ王女とクリスチャン王太子との婚約交渉に関わりだした経緯とその経過についてお聞かせ願えますか?」
「聞かせろといえばいいだろうが・・・話は単純だ。リッシュモン外務卿の近い筋からその話を聞いてな。それで政治的得点を稼ごうと思ったのだ。まぁ、結果は見てのとおりだよ」
「依頼されたわけではないのですね」

言葉こそ丁寧だがこれでは尋問ではないかとコロンナ枢機卿は不快に思ったが、俎板の上の魚である自分に選択肢などないことを考えてぐっと堪えた。

「・・・トリステイン側からはな。あまりトリステイン国内で動くとリッシュモン伯爵の足を引っ張るだろうから、まずハノーヴァーの反応を伺おうとしていたらブレーメンから接触があった」
「どなたです?」
「グスタフ・アドルフ王子だ。使者がアントウェルペンに来て仲介交渉の以来を受けた」
「ヴェステルボッテン公-第二王子ですか」
「クリスチャン王太子が王配として嫁ぐのであれば、自分が王太子になれると踏んだのだろう。その後は共犯関係だな。公爵殿下から交渉経緯を逐一聞きだして情報を交換し合ったよ。ハッランド侯爵(外相)からも同じような以来を受けて、トリステイン側の反応を伺っていた」
「そのために何度もブレーメンとトリスタニアを直接往復されたというわけですね?」
「事が事だ。宗教庁の部下に任せるわけにも行かないだろう。そこから情報が洩れてトリステイン国内で反対世論が広まっては元も子もないからな・・・誰と接触したかについては手帳に記録をとってある。持っていくだろう?」

ヌーシャテル伯爵は視線だけで頷いてから矢継ぎ早に質問を重ねた。

「クリスチャン王太子と接触されたのはいつのことです?」
「・・・王太子殿下と会談したのはあの日が初めてだ。以前から申し込んではいたのだが、ハノーヴァーの宮内大臣が頑固でな。なかなか用意に接触させてくれんのだ。ヴェステルボッテン公が手はずを付けてくれてようやく会談に持ち込め-」

急に言葉を切ったコロンナ枢機卿に、ヌーシャテル伯爵が僅かにいぶかしげな視線を送る。

「何か思い出されましたか」
「いや、これはいいだろう。気にするようなことではない」
「それを判断されるのは猊下ではありません」

その言葉に、ハシバミジュースを鼻の穴から飲まされたような表情を浮かべるコロンナ枢機卿。しかしその感情をそのまま口にすることはない。それではあの感情むき出しの忌々しい糞爺となんら変わらない。コロンナ枢機卿はそう自分に言い聞かせることで激情を再び押さえつける。「あくまで私の印象だが、王太子殿下の表情が硬かったような気がする」と言った枢機卿に、ヌーシャテル伯爵は黙って続きを促した。それをどう受け取ったかは解らないが、コロンナ枢機卿は球帽をぬいで頭をガシガシと掻き毟る。ヌーシャテル伯爵の不遜な態度に苛立っているのではなく、頭にあるイメージが言葉に出来ない事をもどかしがっているように見えた。

「私もこのような曖昧な印象で話したくはないのだが、そうだな・・・」

コロンナ枢機卿は今度は顎を撫でながらさして気にすることもないだろうと-実際にそう思っているのだろう口調で「それ」を口にした。何故ならそれは実際にはありえない事態だったからだ。そしてそれを聞いたヌーシャテル伯爵も枢機卿の言葉に同じ印象を受けた。すなわちそれは「あり得ない」だろうと。


「まるで婚約の話を始めて聞いたとでもいうような顔だった」




-ヴィスポリ伯爵ヨハン・ウィルヘルム(ハノーヴァー王国前首相)の日記-

〔アンスールの月(7月)エオローの週(第3週)オセルの曜日(7日目) 晴れ〕

ロバート・スティーブンソン公使(北部都市同盟ハノーヴァー公使)来訪。相変わらず不愉快な男ならん。ハノーヴァー貴族をあからさまに見下したる態度を取る男なり。さながら借金の督促を迫る取立人の如し。当人はそのつもりなくとも態度ににじみ出て余りある。慇懃無礼と言う言葉がこれほどに合う人間を自分は他に知らず。外交官としては優秀なると聞くも、都市同盟を代表する「顔」としては些か疑問を覚えるものなり。

王太子失踪の件かと身構えるもさにあらず。トリステインとの婚約交渉に関してなり。この件も本来なら機密なるも、いまさら都市同盟がそれを知ることに自分はなんら驚きはなし。都市同盟とはそのような組織なり。スティーブンソン公使はトリステインとの婚約に関して慎重意見を延べたり。迂遠なる表現ならんも反対意見と自分は受け取る。

「同君連合構想には断固反対なり」
「同君連合構想はホルン伯(ハノーヴァー首相)とリッシュモン外務卿ら両国でも一部の意見なり。ただでさせ我が国に含むところの多きトリステイン国内がまとまるはずなし。閣内ではハッランド侯(外相)やビョルネボルグ伯(内相)は慎重意見なり。宮中と軍部は五分なる」
「されどそうした構想があること辞退が重要な問題なり。都市同盟としても関心を払わざるを得ず。(内政干渉であると不快に思うも反論せず)。婚約自体は貴国の判断であるし、都市同盟としてもハノーヴァーとトリステインが結びつきを強めることは喜ばしき事態なり」

ラグドリアン戦役の経緯を棚に上げてと内心呆れるも、口には出さず。金勘定で物事を考える癖があるのがこの男の悪い癖なり。確かに多くのことは兼ねの論理で解決が可能なるも、それで解決できぬものこそ命取りになる場合も多し。スティーブンソン公使は条件付の賛成と断った上で以下の如く言う。

「婚約交渉自体を混乱させる恐れあり。将来像なき婚姻は海図なき航海の如し」(以前自分も全く同じ事を考えたり。心中で驚く)
「同意する。ハノーヴァー国内はトリステインとの同盟関係を強めるべきと言う考えで一致したる。自分も同意見なり。されど同君連合構想とその先にある統一国家構想には賛成できず」
「全面的に賛成する」

都市同盟の場合はハノーヴァーにおける都市同盟の経済特権を失うことを恐れたるゆえならん。自分とは理由は異なれども、商人と貴族の理由が同じである必要はなし。彼らは商いに付いて考えればよく、自分達は国のことについて考えればよし。自明の理なり。スティーブンソン公使より同君連合反対の理由を聞かれたるゆえ答える。同君連合は短期間での領土拡大には得策なるも同化政策のために莫大なる労力と時間を要する事、同化政策失敗の場合はむしろ国家が分裂する恐れがある事、その時はハノーヴァーとトリステインという二国家に戻ることは難しく、ガリアやザクセンという周辺諸国の草刈場とならん。それを恐れると答える。

「王太子殿下はお元気なりや」
「療養中なり」
「貴国は貴族の治める国なり。王家に傷を付けずとはいいながら、その内情は貴族が国政を壟断するものなりと言う世上もあらん。その事を以下に考えるや?」
「余計なお世話なり。世上の噂にまどわされるようなものは国政を担う資格なし。少なくともブレーメンの貴族の中にオルデンブルグ王家を軽んじるものなし」
「婚約問題に関しては殿下の御意志を確認せぬことには話は進まず。さにあらずや?」
「当然なり」

何故か公使は呆れたような顔をしたる。不可解なり。



〔アンスールの月(7月)ティワズの週(第4週)ユルの曜日(2日目)〕-アルビオン王国南西部ペンヴィズ半島 プリマス市 『ジェーンの酒場』-

「や、やぁ、へスティー。席開いてるかい?」
「開いていますがお帰りください。今すぐ回れ右をして」

元アルビオン第二王子付メイド長にして、後の世に「ハルケギニアのメイド喫茶の生みの親」と(当人はかなり不本意であろうが)称されることになる「ジェーンの酒場」の女将ヘスティーは、真昼間からやってきたお客に冷たく言い放った。客の好き好みをするなど本来商売人としてはあってはならない事ではあるが、真昼間からこんな-自分で言うのもなんだがいかがわしい店にやってくる人間の神経がわからない。大体仕事はどうしたんだ、この『王子様』は。

「い、いや、今日は休暇なんだよ。昨日の虚無の曜日は働いたんだって!」

両手を顔の前でばたばた振って言い訳をするのは、文字通りこの国の「王子様」である。自称・他称の○○王子が氾濫する中で、この王子様は本物だ。何せ現国王ジェームズ1世の弟であるモード大公ウィリアム・テューダーなのだから。

へスティーが直接お仕えしたカンバーランド公爵ヘンリーとは違い、極めて常識家で真面目であり勤勉であるというまさに王族らしい王族であったはずのウィリアムだが、悲しきかな兄の悪い影響を受けてちょくちょくこの店をお忍びで訪れるようになっていた。若き王族がメイドの魅力に目覚めたかはひとまず置いておくとして、彼はこうして月に一度、平日の人気の少ない時間帯を見計ってやって来る。そしてワインをチビリチビリとやりながら、つまみをかじるのが彼の数少ない楽しみである。

へスティーも欲望丸出しのカンバーランド公爵とは違い、いかにも申し訳なさそうにやってきて礼儀正しく酒を飲むウィリアムの頭を有無を言わさずどつきまわして叩き返すことは出来なかった。実際問題、全くの市中の店では緊急事態の際にウィリアムも店側も対応が出来ない。その点この店は、メイド目当ての常連が多いので変な輩が入り込んだ場合にはすぐに判別か可能であり、女将がウィリアムの正体を知っているという利点がある。そして基本的には長兄(ジェームズ1世)に似て真面目で生まれつきの王族であるウィリアムは、全くの市中の店に飛び込むだけの無謀さは持ち合わせておらず、何より顔なじみ(ヘンリー付きのメイドであったヘスティーはウィリアムを知っている)のいる店のほうが気が楽であるという点が大きかった。そのため「ジェーンの酒場」はモード大公行きつけの店として大公家関係者の間では密かに有名となっている(当然、エリザ大公夫人には内密だ)。当人曰く「静かに酒を飲めるから」と言うことらしいが、それならそれでもっと別の店があるような気がするし、それなら自室にワインを持ち込めば言いだけの話ではないかと思わないでもないが-それは言わぬが花というものであろう。

「川魚の燻製と、豚の腸詰がございますが」
「腸詰を茹でてくれ。何かパンがあれば焼いて欲しいな。ワインはこの間のがあればそれを」
「かしこまりました」

昼食時を過ぎたこの時間帯はお客が少ないため、へスティーはメイド服を着ていない。ウィリアムが些か残念そうな表情をしているような気がするのはきっと気のせいであろう。お客も少ないため、注文を持ってきたへスティーはそのままウィリアムの正面に座り、彼の相手をし始めた。

「最近は如何です?」
「いやぁ、忙しいよ。貧乏暇なしとはよく言ったものだ。去年までは省庁再編でてんやわんやだったけど、相変わらず財務省の仕事が多いのに変わりはないからね。それに僕の場合は大公領も監督しなければならないし」

財務省職員であるウィリアムは同時にアルビオン南部を治めるモード大公家当主でもある。領地の経営をしながら行政に携わる貴族は珍しくないが、アルビオンでも有数の領邦貴族であるモード大公家の当主が財務省勤めとは多生奇異な印象を受けるのも確かだ。しかしそれが彼自身が望んだことであることを知るヘスティーは酌をしながら「よろしいではありませんか」とそっけなく返した。

「人間忙しい忙しいといって仕事に駆け回っている時が華です」
「そんなものかい?」
「ええ、それはそうです。そのうち体が思うように動かなくなり、若い人間に取って代わられるようになりますから。ビックリするぐらいあっという間ですよ」
「なんだかおばさん臭いことを・・・悪い」

お盆が飛んでくる前に先に謝ったが、ウィリアムの予想に反して彼女が怒ることはなかった。どこか遠くを見るような眼差しでへスティーは懐かしむような口調で語り始める。

「それはそうでしょう。私がハヴィランド宮にお勤めし始めた頃、ヘンリー殿下はようやく歩き始めた頃で、殿下に至ってはまだテレジア大后様の御腹の中でございました・・・それがいまやこのような美丈夫になられたのです。年をとるのも当然です」

語りながらヘスティーは知らず机にヒジを付いていた。彼の記憶にある彼女はいつ如何なる時でも背筋を伸ばして凛としており、護衛の騎士達よりもよほど頼もしく思えたものだ。昔はヘスティーのことを「あれは人間じゃなくてゴーレムではないか?」と疑ったものだが、どうやら自分はその頃から精神的に成長していないようである。彼女だけは年齢を重ねることはないであろうと、何の根拠も無く思い込んでいたことに気が付いたウィリアムは思わず口に手を当てて笑いをかみ殺した。

そんなウィリアムの様子に「何がおかしいのです」と憮然とした表情をするヘスティーがまた妙な懐かしさを呼び起こして、ウィリアムはますます機嫌がよくなった。一人で笑う王子に不満の一言でも言ってやろうとしたヘスティーだが、新たな来店客の姿に「失礼致します」と断ってから席を立った。

その後もウィリアムは一人ワインを楽しんだ。元々彼は酒に強い。飲めば飲むほど調子が出る。しかし今は純粋に飲むことを楽しんでいた。社交の場で人に合わせて飲む酒ではなく、純粋に楽しむために飲む酒。その何と上手いことか!いつもよりペースは遅いが、彼はこの上なく愉快だった。この気分を味わうためなら、たとえあの兄と同じメイド萌えなどという疑いをかけられようともかまわない。それだけの価値はある。

ウィリアムが4本目の豚の腸詰に噛付いた時、背後の席に座る男女の声が聞こえてきた。どうやら先ほど来店した客らしい。食器やコップのぶつかる音、会話に喧騒が入り混じる酒場での会話にはコツがあるのだが、女性はともかく男性はその塩梅が良くつかめていないようだ。それゆえ背を向けているウィリアムにも会話の内容が聞こえてくる。

「・・・・・・ですか?」
「いいん・・・・・・後悔は・・・」

別に耳を済ませていたわけではないが、いくつかの単語がウィリアムの耳に止まった。単語と雰囲気から察するに、男女は文字通り「男女」の仲らしい。船でプリマスに渡ったはいいが、これからどうするといった内容のようだ。察するに結婚を両親に反対されたカップルか何かか。ここアルビオンでは珍しい話ではない。元々亡命貴族や王族の受け皿であったこの国には、同じように大陸にいることが出来なくなった人間がやって来る。そういえば税関職員の給与問題はどうなったのか確認する必要があるな・・・ふと頭に仕事の内容が過ぎったが、ウィリアムはそんな自分の思考に苦笑せざるを得ない。シェルバーン財務大臣のワーカーホリックが移ったか?

「・・・・でなくともいい」

苦笑いしながらグラスを口に運ぼうとしたウィリアムの手が止まった。その間も男女の会話は続いている。

「・・・がいいのかわからない。だが僕は後悔し・・・い。例えそれが・・・」

妙に耳に残る、低く重いその声の主にウィリアムは覚えがあった。

-そんなことあるはずがないか

ウィリアムは一瞬だが頭をよぎった考えを馬鹿馬鹿しいと一蹴した。彼がこんな市中の酒場にいるはずがない。他人の空似だ。声が似ている人間など、このハルケギニアいくらでもいる-しかしその言葉を選ぶ慎重な物言いや、ぶっきらぼうな物言いといい、彼によく似ている。世間には自分と似た人間が3人いるというが、これもその範疇に入るのか。「彼」は今、体調を崩して静養中と聞く。自分とそっくりな声と口調で話す男がいたと聞けば、どんな顔をするだろうか。興味を引かれたウィリアムは何気なしに後ろを振り返った。

癖のあるブルネットの髪を持つ女性、その後姿の向こうに女性と向かい合うようにして座る声の主と目が合う。瞬間、ウィリアムの酔いが吹き飛んだ。


「ふ、フレデリック?!何故君がこんなところに・・・」


驚愕するウィリアムに対して、ハノーヴァー王国王太子フレデリック・クリスチャン・オルデンブルグ=ハノーヴァーはまったく同じ種類の驚きをその表情に宿らせていた。



[17077] 第56話「ブレーメン某重大事件-3」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:e9dae18d
Date: 2010/09/10 22:24
やぁやぁ皆さんこんにちは。アルビオンキングダムのプリンス、カンバーランド公爵ヘンリー・テューダーだよ。キングダムって言うと何だ格好良いよね。サンスキングダムもサンス王国じゃなんか締まらないものね。単に言い換えただけなんだけど。例えば赤壁を「レッドクリフ」と言うようなものだね。「セキヘキ」じゃヒットしなかったんじゃないかな。ああいう感じだよ。

「殿下、一体何の話ですか?」
「塩爺、僕だってたまには現実逃避したくなるのさ」
「誰が塩爺ですか、誰が。殿下はいつも現実逃避したような事しか言っておられないような気がしますが」
「ん?なんか言った?」
「いえ、何でもありません」

侍従のエセックス男爵が何やら暴言を吐いたような気がするが、心が広い(気の小さい)俺は聞かなかったフリをする。大体それどころじゃないのだ。ハノーヴァーのクリスチャン王太子とザクセンの伯爵令嬢の身柄をアルビオン南部のプリマスで確保したという知らせを聞いた時は椅子からひっくり返った。何でよりにもよってアルビオンに逃げてくるんだよ。一報を聞いたセヴァーン外務次官が「ハノーヴァー大使は何をしていたのだ」と詰ったと言うが、その気持ちは痛いほどわかる。ハノーヴァーが国を挙げて隠していた王太子の失踪を察しろと言うほうが無理な話だというのはわかってるけどさ。愚痴の一つも言いたくなるのが人情ってものだ。

しかも何だって?クリスチャン王太子のお相手はザクセン王国の伯爵令嬢?ハノーヴァーとザクセンは東フランク崩壊(2998)以来の宿敵とも言える間柄-何ですか、そのリアルなロミオとジュリエット。今頃ダウンニング街(アルビオン王国外務省)は大騒ぎだろう。パーマストン子爵(外相)の面長の顔の上で、離れて位置する出目がますます離れていくのが目に浮かぶ。痛くない腹を探られるほど嫌なことはないが、状況証拠で言えばアルビオンは「真っ黒」。対応を誤ればザクセン、ハノーヴァー両国との関係悪化は必至だ。それにクリスチャン王太子にはトリステインとの「例の話」もある。噂の域を出ないが、それが事実だとすれば同盟国の顔をつぶすことになる。それだけは何としても避けたいが・・・

どちらにしろ、多分この件に関して俺の出番はないだろう。しゃしゃり出てみたところで「お呼びでない?これまた失礼しました」ってことになることは目に見えている。王太子の取り扱いは今この時点でもかなり微妙な問題。パンはパン屋、説教は坊主、そして許すは神の業ってね。色々な諺がごちゃ混ぜになってるような気がするけど、たぶん気のせいだよ。細かいことを気にすると禿げるよ。根拠は無いけどね。

じゃあ俺は今からキャサリンといちゃついて来るから後宜しく・・・

「国王陛下がお呼びです」

だよねー♪


・・・はぁ


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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(ブレーメン某重大事件-3)

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ハヴィランド宮殿の内装は実に質素なものだ。宮殿内の調度品や絵画は一般貴族の屋敷にあるものとはケタが一つか二つ違うが、それを差し引いてもはっきり言って地味である。およそこの世にある贅沢という言葉を抽出して具現化したようなガリアのベルサルテイル宮殿の「装飾のための装飾」のような内装とは似ても似つかない。両国の国民性もあるのだろうが、やはり宮殿の主の性格が大きいだろう。アルビオン先王エドワード12世は華美な装飾や調度品を嫌い、実用的なものを好んだ。そしてその傾向は息子であり現王のジェームズ1世にも受け継がれている。ここ国王執務室など、さながら修行僧の住居かそれでなくば学者の研究室のようだ。ヘンリーはこの部屋に来る度に、ギシギシと音の鳴りそうな椅子に眉をひそめる。質実剛健も結構だが、王としての威厳を損なうようでは本末転倒ではないかという思いに駆られるからだ。

「恋愛-それは男女が二人で馬鹿になることだ」
「そんなことは聞いていない」
「兄さんは相変わらずお堅いですね。堅くするのはカザリン義姉さん(王妃)と何するときのナニだけで・・・申し訳ありません。全身全霊で全力で謝りますから、軍杖だけは勘弁してください」

目の前の机に這い蹲って謝る弟を、軍杖片手に人の殺せそうな視線で睨みつけていたジェームズ1世は、眉間に青筋を立てたままであるがその手を引いた。その様子に「あ、今日は冗談の通じる雰囲気ではない」と言うごく当たり前な事実をヘンリーはようやく悟った。

「そ、それでクリスチャン王太子殿下は今どちらに」
「貴様は相変わらず耳が早いな。王太子にはサウスゴータ太守の屋敷に移ってもらった。今はウィリアム(モード大公)に大公の手勢を付けて見張らせている」
「・・・大丈夫ですか?」
「また逃げだすのではないかというのか?お前の心配もわからないでもないが、例のザクセンの伯爵令嬢も一緒だ。そうそう軽率なことは出来まい。念の為にロンディニウムから近衛の腕利きを何名か派遣するつもりだが、事が事だけに表立って兵を動かすことは難しい。本来なら杖を取り上げて縛り上げておきたいところだが・・・」

謹厳実直を絵に描いたようなこの兄が、たとえ如何なる理由があろうと国を捨てて逃げてきたに等しいクリスチャン王太子の言動に好ましい印象を抱いているはずがない。パーマストン子爵がいなければ、ある意味自分以上に激情家の一面を持つジェームズ1世は実際にそう命じていたかもしれない。

「色に狂って道を外した話は多々あれども、王太子が国を捨てるなど古今東西聞いたことがない。クリスチャン(王太子)は何を考えているのか」

「それとも何も考えていないのか」と不機嫌な表情のまま呟いたジェームズ1世は小さく舌打ちをした。肩を持つわけではないが、執務室の重苦しい空気に尻がむず痒くなったヘンリーは肩をすくめながら、聞きかじりの恋愛知識を披露する。

「それは男と女のことですから。障害があればあるほど、高ければ高いほど燃え上がったということではないでしょうか」
「・・・貴様が言うとなぜか無性に腹が立つな」

冷たい兄の視線から目をそらすヘンリー。いつまでも現実逃避のじゃれあいを続けていても仕方がないのでさも真面目そうな表情を取り繕う。真剣な雰囲気の場面でついつい茶化したくなるのがヘンリーの悪い癖だ。

「王太子殿下をどうなさるおつもりです?いつまでも隠し続けるのは困難でしょうし。まさか亡命をお認めになると?」

「まさか」とジェームズ1世は手を振った。「だが現状ではそう思われても仕方がない」と語る顔には苦悩の色が見て取れる。今更知らぬ存ぜぬを押し通すことも出来ない。何れ王太子の存在は他国に伝わるだろう。その時になって「アルビオンは何も知りませんでした、無関係です」という子供の言い訳が通用するわけがない。ましてや相手は仮にもハノーヴァーの王太子だ。着の身着のままで放り出すわけにも行かない。ジェームズ1世は苦々しげに顔をしかめながら「我らは『善意の第三者』ではいられなくなったというわけだ」と吐き捨てた。望むと望まざるとに関わらず、我がアルビオンは招かれざる客によって舞台の上に引き上げられたのだ。内心腹が煮え繰りかえっているのだろう。憮然とした表情の兄に対して、ヘンリーは至極当然の懸念を口にした。

「しかし如何なさるおつもりで?今下手に動けばアルビオンが王太子を唆したという疑いをかけられませんか」
「今ウィリアム(モード大公)に王太子に政治的亡命の意向があるのかどうかを確かめさせている。だが現状のまま王太子を匿い続ければ、貴様の言う通り痛くない腹を探られるだろう。王太子の存在が他国や、当事者であるハノーヴァーやザクセンに洩れればそれまでだ。そして時間が経てば経つほど王太子の秘匿は困難になる」

ジェームズ1世の言う通り、王太子の秘匿は時間が経てば経つほど難しくなるだろう。逆に言えばアルビオンが行動を起こすとすればその時間は限られているということだ。老練なるパーマストン子爵がそれに気が付かないはずがない。

「パーマストン子爵(外相)がハノーヴァーとザクセン両国の駐在大使を呼び出して事情を説明させている」
「ザクセンも、ですか?」

意外そうに首を傾げるヘンリー。王太子と伯爵令嬢なら前者に優先順位があるのは誰にでもわかる。だが何れザクセン側にも事情を説明する必要があるとはいえ、同時に呼び出す必要はないはずだ。それにハノーヴァーからすればザクセンに身内の、しかも王太子の恥を晒すことに他ならない。わざわざアルビオンがハノーヴァーから恨みを買うリスクを背負う必要があるのか?ヘンリーの懸念に「お前の言うことも一理ある」という前置きをしてからジェームズ1世はその理由を話し始めた。

「仮にハノーヴァー大使だけに事情を説明した場合、ザクセンはそれをどう受け取るかということだ。自分達が気が付いた時、すでにハノーヴァーが事態の収拾に乗り出しているとすれば、あのザクセン人がそれをどう思うか」
「面白くないでしょうね。しかしそれとこれとは」
「同じ事だ。これはハノーヴァー国内だけの問題ではない・・・件の伯爵令嬢を何とかすれば『伯爵令嬢失踪』で片付かないこともないだろうが、それは当事者のクリスチャン王太子が認めないだろう。ザクセン人なら迷わずそうするだろうが、我らはあの野蛮人とは違うのだ」

件の伯爵令嬢がザクセン王国外務省の伝令官であった事は既に調べがついている。辞表を出したという当人の話だが、それが受理されたかどうかは不明だ(まさかザクセン外務省に照会するわけにもいかない)。そんなことをすればザクセンとアルビオンの間の新たな国際問題に発展する恐れもある。

「これはザクセンとハノーヴァー、そしてアルビオンの国際問題なのだ。事態解決のために重要なのは三者の関係と意思の統一。意思の統一に関してはそう難しい話ではない。ハノーヴァーは無論のこと、ザクセンとて名誉な話ではない。事態を表ざたにせず解決したいと思うだろう。障害となるのはザクセンとハノーヴァーの関係だ」
「東フランク崩壊以来の宿敵ですからね」

ヘンリーの言葉に頷くジェームズ1世。ウィリアムがプリマスでクリスチャン王太子を確保したという一報を受けて以降、パーマストン子爵と額をつき合わせ稔密に打ち合わせを重ねたはずだ。流石のヘンリーもここで軽口を挟むような命知らずの真似はしない。

「両国の間には信頼関係など存在しない。あるのは長年積み重なった不信と疑惑だけだ・・・そこにあの王太子だ。どうなるかは火を見るより明らかだろう」
「また戦争というわけですか」
「私は平和主義者ではないが、戦争が好きなわけでもない。大陸で戦争するのは勝手だが、それではアルビオンが戦争の原因だと批判される恐れがある。それだけは避けなければならない」

ヘンリーは突然「そうか」と短く叫んで膝を打った。

「そういうことだ。どちらにしろ両国に伝える段階でそれぞれの『お相手』に触れざるを得ない。だが両者の大使をそれぞれ別個に呼び出せば、互いに相手がアルビオンと組んでいるのではないかという疑念を生じさせるだろう」
「あえてこちらの手の内を両者に、それも同時に晒すことで事態収拾と解決の責任を押し付けるわけですね」
「そうなれば両国とも無用な腹の探りあいに時間を費やす暇などない。アルビオンと言う立会人の前でザクセンとハノーヴァーは互いの恥を共有するわけだ。恥の上塗りは避けたいと思うだろう。そして事態解決のためには手を組まざるを得ないという事実を受け入れざるを得なくなる」

アルビオンは怨まれるかもしれないが、それでもザクセン・ハノーヴァーの戦争の責任者と名指しされるよりもいいというわけか。ヘンリーは思わずうなった。自分はハノーヴァーやザクセンから恨まれるのを避けたいという事しか頭になかったが、パーマストン子爵はあえて恨まれようとも事態解決の責任を両国に背負わせ、その言質を取ろうというのか。子爵や兄の深謀遠慮に比べると、自分の考えの何と浅いことか。それを実行に移すだけ老練なる外交官の子爵がいて、目的のためには嫌われることを恐れないジェームズ1世が国王として鎮座しているからこそ出来ることだ。ヘンリーは自分を恥じ入りながら、感心したように言った。

「なるほど、三方一両損というわけですね」
「さん・ぽー・いっちりょーぞーん?何だそれは」
「え?えーと、えー・・・あ、あれです。3人で揉めた場合に上手い解決手段を見出したということです」
「・・・貴様は妙な知識があるな」

感心しながら呆れた視線を弟に送ってから、ジェームズ1世はじろりとヘンリーを見据えた。こちらに迫りくるような鋭い眼光に、根が小心者のヘンリーは慌てて居住まいを正す。風貌といい口調といい、最近この兄は亡くなった親父の先王エドワード12世にますます似てきた。外見的なものもそうだが、内面的なものもだ。親父の場合はある程度「話の分かる」ところもあったが、ジェームズ1世の場合は真面目一直線。父親譲りの自負心(プライド)が強い性格が、頑固で融通の利かないという長所であり欠点にも繋がっている。そんな腰の据わった兄がいるからこそ、自分も好き勝手出来るというものだが。ヘンリーがそんなことを考えていると、アルビオン王である兄はようやく本題を切り出した。

「貴様を呼び出したのは他でもない。実は-」



「と言うわけで明日からトリステインに行くことになった」
「・・・どういうわけなのよ」

ハヴィランド宮殿内のカンバーランド公爵夫妻の居住地であるチャールストン離宮。その寝室でヘンリーは自身のトリステイン行きをキャサリンに告げていた。当然これでは何がなんだかわからない。頭痛のする頭をおさえながらキャサリンは事情の説明を求めた。

「件のロミオとジュリエットだよ。ロミオにはお相手がいたそうだ」
「・・・あの噂って本当だったの?」
「そういうことらしい。外務省が調べたところでは、クリスチャン王太子とマリアンヌ王女の婚約は、まだ交渉の段階だったが事実としてあったようだ」

ベーメン女王エリザベート8世の即位25周年園遊会におけるトリステイン王女マリアンヌとハノーヴァーのクリスチャン王太子との会談は、参加各国の王族や大使の注目を集めた。ラグドリアン戦役においてハノーヴァー王国がトリステインの援軍要請を拒否し、ガリア寄りの中立をとって以来、両国の関係は冷え込んでいたからだ。公の場での二人の会談は、両国の関係改善に向けた対外的なメッセージとザクセン王国への牽制と受け止められたが、一部の気の早い、特に噂話が好きな宮廷雀の間では早速二人の関係が噂されることになった。しかし次期トリステイン女王とハノーヴァー王太子では現実問題としてハードルが高すぎるために無理であろうというのが大方の見方であり、むしろグスタフ・アドルフ殿下(ヴェステルボッテン公爵)やカール・フィリップ(セーデルマーランド公爵)といったクリスチャン王太子の弟を王配として迎えるつもりではないかというのが関係筋の一致した見方であった。

それはアルビオンも同じであった。だがクリスチャン王太子の身柄を預かるような格好になったアルビオンの外務省にはこの噂の真偽を確かめる必要が出来た。噂であれば何の問題もないが、事実であるならばトリステインの面目を同盟関係にあるアルビオンがつぶす格好になる。そして駐在トリステイン大使のチャールズ・タウンゼントが調べた結果、例の噂が事実であることを突き止めたというわけだ。そうした事情をヘンリーから聞かされたキャサリンは軽く首をかしげた。

「変な話ね。ヴェステルボッテン公爵やセーデルマーランド公爵がいるのに、わざわざハードルの高い王太子を選ぶなんて。トリステインは何を考えているのかしら」
「トリステインにはトリステインの考えがあったんだろう」
「でも何故貴方なの?タウンゼント大使から伝えさせればいい話じゃない」
「それは『外交的配慮』ってやつだよ。クリスチャン王太子の件を伝えるだけなら大使でも事足りるけど、それ以上の噂の域を出ない話をするとなると大使では荷が重い」

トリステイン国内においてアルビオンの国家主権を代表する大使が、噂でしかない内容を前提に話すのは難しい。その点王弟の自分ならアルビオンの公式な役職にはついていないためそうした問題は発生しない。また現状では王位継承権第1位である王弟を派遣することでアルビオンのこの問題に対する認識をトリステイン側に伝えることにもなる-ヘンリーが自身を選んだ兄の意向を話すのを聞きながら、キャサリンはその背後にあの出目金外相ことパーマストン子爵の意向を感じていた。何せ自分の夫であるこの男は根っからの小心者。脇が甘いくせに自己保身に関しては天下一品だ。ジェームズ1世=パーマストン子爵はヘンリーならばトリステイン側に言質を与えるようなヘマはしないだろうと考えたのだろう。喜ぶべきなのか悲しむべきなのか-キャサリンは悩みながら尋ねた。

「船はどうするの?空軍に船を出してもらうつもり」
「いや、あくまでラグドリアン湖畔への避暑という私的な旅行だからそれは出来ない。今シュバルト商会の交易船がカンタベリー港に来ている。アルベルタ(シュバルト商会アルビオン総支配人)に頼んで乗船させてもらうつもり・・・な、なんだよ」

突如それまでの雰囲気をがらりと変えた妻に、ヘンリーは思わず舌を噛みかけた。

「へー・・・ラグドリアン湖畔にねー」
「あッ」

ニブチンのヘンリーもさすがに気が付いた。昨年のラグドリアン講和会議。観光に来たわけではないがそこは旅先。目の前にはアルビオンではめったにお目にかかれないタルブワイン。そして絶好のロケーションという3拍子。飲んで酔って、衆人環視のもとでやってしまった「きゃっはうふふ」。思い出すだけでも顔から火が出そうになる。熱くなった顔を一瞬左手で押させたヘンリーは、すぐさま両手を胸の前で降り始めた。

「あ、あれは謝ったじゃないか。ほ、ほら、過ぎたことを気にしてもしょうがないって!」
「そうね。過ぎたことよね」
「そ、そうだ!人間は前を向いて生きていくべきだよ!うん、そうなんだ!」
「過ぎ去った過去よね貴方にとっては。残念ながら私は克明に覚えているんだけどね」

藪蛇だ。顔から血の気が引く音を聞きながら、妻の顔を見つめる。ニコニコしながら首をちょこんと傾げる様はまるでお人形さんのようだが、ヘンリーには人形は人形でもチャ○キーにしか見えない。

「私は貴方と違って酔っている間でもその記憶は鮮明なの。どうしてかしらね?」

「しらんがな!」といいたいが、その度胸は今の彼にはない。「君だって楽しんでたじゃないか」といった瞬間、目に見えない剃刀で頭をモヒカンにされそうな気配を感じる。丸坊主ではなくモヒカンにしそうなのがキャサリンの恐ろしいところだ。内心のおびえをまるで隠しきれないヘンリーは、話題をそらそうと必死の抵抗を試みた。


「そ、そそういえば、君は前にこの婚約の噂を聞いた時に「上手くいくはずがない」と言ってなかったか?!」

声は完全に裏返っていたが、話題をそらすという目的は成功をみたようだ。絶対零度の微笑を浮かべていたキャサリンは「そうね」と表情を崩す。それを見逃すヘンリーではない。伊達に30年以上(前世を含む)夫婦生活を送っていたわけではない。「逃げの高志」の異名は伊達じゃない!と、かなり後ろ向きな考えながらも精神を再構築することに成功していた。

「確かにそう言ったわよ。まさか王太子がロミジュリするとは思わなかったけど」
「変な略語を作るなよ・・・でもまあそうだよな。冷静に考えれば上手くいくはずないよな。まだラグドリアン戦争から2年しか経っていないんだ。トリステイン国内の世論がハノーヴァーから王配を迎えることでまとまるはずがないんだよな」
「そう、貴方の言うとおりね」

妙に素直になったキャサリンの態度を訝しがりながらも、矛先をかわしてほっとしたヘンリーはそれ以上突っ込むことはなかった。小机の上に置かれたシガーケースを手にとり「煙草を吸ってくる」と断ってから立ち上がる。再びチャ○キーキャサリンに相対するだけの精神力は彼には残っていなかった。そのため自分の後姿を見つめる彼女の表情に気が付くことはなかったし、その言葉がヘンリーの耳に届くこともなかった。


「そう、上手くいくはずがないのよ」




(アルビオン王国南部 シティオブサウスゴータ サウスゴータ太守邸宅)

浮遊大陸アルビオンは始祖ブリミルが始めてハルケギニアに降臨した土地であるとされる。場所には諸説あれども、ブリミル歴3100年に時の教皇ウルバヌス1世がアルビオン中南部のサウスゴータ地方を「始祖降臨の地」と定めて以降、サウスゴータはブリミル教徒にとってロマリア市の聖フォルサテ大聖堂に次ぐ聖地となった。サウスゴータ地方の中心都市であるサウスゴータ市(シティオブサウスゴータ)には始祖ブリミルの降臨祭や休耕期間に合わせて、アルビオン国内のみならずハルケギニア大陸から人が詰め掛ける。熱心な教徒だけではなく観光客も合わせると、その数は年間で優に100万を数えるという。住人の多くは農業や漁業といった第一次産業ではなく観光業やそれに関連する仕事で生計を立てている。政治意識が高い自営業者たちは市議会を通じてサウスゴータ地方を治める大守-サウスゴータ侯爵家に対して意見を述べ始めた。今では市行政の司法や軍事警察権を除くほとんどを市議会-有力な平民が実権を握っている。歴代の太守(侯爵家当主)も観光行政に関しては民間に任せていたほうが上手くいくことを知っていたため、それを追認した(サウスゴータ「太守」である侯爵家は市以外のサウスゴータ地方の町や農村に関しては実質的な領主として振舞っている)。

サウスゴータ市街地は五芒星形の大通りで区切られており、その中心にあるのがサウスゴータ太守の邸宅だ。王弟であるモード大公ウィリアム殿下が静養のために太守の屋敷に滞在されていることは既に発表で知っていたが、サウスゴータ市民はそれに違和感を抱いた。モード大公家の当主が毎年サウスゴータで静養される時と比べると、今回の警護体制は比べ物にならないほど強化されていたからだ。太守の屋敷に勤めるものに尋ねても、一部の者は貝のように口を閉ざし、それ以外の者は「上からの命令だから」と困惑気に答えるだけであった。


モード大公ウィリアム・テューダーは、屋敷の最上階に用意された貴賓室の窓からシティオブサウスゴータの市街地を見下ろしながら、疲れたように息を吐いた。その様子はハヴィランド宮殿の執務室で政務の杖を振るう彼の長兄と瓜二つであったのだが、それを指摘するものはここにはいない。

「お疲れのご様子で」
「これで気疲れしない猛者がいればお目にかかりたいよ」

「そして顔を杖で殴り飛ばしてやる」というウィリアムに、サウスゴータ太守のチャールズ・エドワード・オブ・サウスゴータ侯爵はその硬い表情を崩さないままであった。モード大公領の家政相談役でもあるこの侯爵はおべんちゃらやお世辞はもとより、相手に話を合わせてご機嫌を伺うような真似は天地がひっくり返ってもしない性格だ。ウィリアムはそうした実直で諫言を厭わない侯爵の性格を好んでいたが、今はそれがわずらわしく感じる。沈黙を不安と取ったのか、サウスゴータ侯爵は警備の体制について触れた。

「ご安心を。我が愚息のトマス・エドワードを責任者に、王太子殿下のお世話をさせる者には口の堅いものをそろえています。我が侯爵家内部から情報が洩れることはありません」
「あのご令嬢とフレデリックを同じ部屋にすればいいんじゃないか?」
「殿下」

サウスゴータ侯爵は困った事を仰るといわんばかりに眉をひそめた。代々モード大公家の家政相談役を務めてきた侯爵家の当主として、若い大公家当主に換言することこそが自分の役割と心得ているサウスゴータ侯爵には今の発言は看過出来るものではない。ハノーヴァーの王太子との情におぼれ、アルビオン全体の置かれた政治に危険な環境を軽視したものに聞こえたからだ。

「我らとて好き好んで好きあう男女を引き離しているわけではございません。ですがあのお二人がただの男女ではないことは、他ならぬ殿下がよくご存知のはずです。お二方の私的な『ご関係』についてはこの老人の理解が及ぶところではありませんが、フレデリック・クリスチャン・オルデンブルグ=ハノーヴァーがハノーヴァー王国の王太子であるということはわかります」

ウィリアムは渋い表情のまま侯爵の話を聞いていた。既に外務省の職員から何度も聞かされた内容だ。聞きたくないと耳をふさぐことは容易だが、それはアルビオン王家に繋がる大公家当主としてのあるべき姿ではないという思いがそれを止まらせていた。

「ゾフィー・ホテク嬢に至ってはザクセン外務省の職員だという話ではないですか。移ろいやすい男女の関係よりも、誰の目にも明らかな両国の歴史と現在の両国関係を配慮するのは当然のことです」
「それは解る。解るんだ。しかしな侯爵」
「お二人には毎日の面会時間を設けております。これ以上の配慮を求めるというのであれば、我が侯爵家は警護と警備に対する責任をもてません」

ウィリアムは侯爵に背を向けた。既に日は沈みかけ、町全体が赤く染まり始めているのが見える。太守の屋敷から真っ直ぐに伸びる大通りに行きかう人々は皆家路を急いでいた。それを見ながらウィリアムは「そんなことはわかっているさ」と呟いた。

「わかっているんだそれは。侯爵の言う通りだ」
「ならば」
「だが好きな女に刺されて死ぬというのなら、あいつも本望だと思わないか?」

思いもがけない内容に、サウスゴータ侯爵は思わず反論するのを忘れて目を丸くした。ウィリアムはそのまま独り言とも愚痴ともつかぬ言葉を続ける。

「王冠をかけた恋、か」

件の伯爵令嬢ともウィリアムは対面している。ゾフィー・ホテク嬢の容貌はよく言っても十人並、悪く言えば大して優れたところのない普通の貴族のお嬢様の顔立ちだ。あのフレデリックが国を捨て、次期国王の座を投げ打ってまで選んだ女性だ。絶世の美女とまではいわなくてももう少し垢抜けた女性をウィリアムは想像していたし、拍子抜けしなかったと聞かれれば嘘になる。ただわずかの時間話しただけだが、芯の強さを感じた。言葉の端々に感じられた知性はそこからくるものであろう。知性は知識の多寡とは関係のないものだ。フレデリックはそこに惚れたのか。

-自分には出来ないな

一人の女性の為に王族としての地位や責任、そして義務といった自分に関係する全てをなげうつことが出来るか?単純に自分に当てはめて考える事が何の意味もないことは十分承知していたが、そのことについて考えが及ぶのはある意味自然なことであろう。おそらく自分は、口では王族としての義務や大公領民に対する責任といいながら、結局はその座を失いたくがないために妻であるエリザより「モード大公ウィリアム・テューダー」であることを選ぶだろう。ウィリアムはそのことに思い至り、そしてそれを大した葛藤もなく受け入れることの出来た自分自身に驚いた。エリザを愛していないわけではない。それは断言できる。だが自分のものはあくまで理性での、頭で考えたものだ。フレデリックのように、全てを投げ打ってまで求める狂おしいまでの何かが自分の中にあるとは到底思えない。

フレデリック・クリスチャン・オルデンブルグ=ハノーヴァーと、ウィリアム・テューダーの違いだといえばそれまでだ。しかし共に王族として、民と貴族の上に君臨する存在として育てられてきたウィリアムにはどうしてもフレデリックの行動が理解できなかった。フレデリックはハノーヴァーの次期国王。責任や重圧感というものは三男という気楽な自分とは比べ物にならなかったはずだ。だがそれは同時に、望むのであれば自由以外のありとあらゆるものを与えられる環境でもある。そんな制限された温室で育てられた彼が何故、このような馬鹿な行動をとることが出来たのか。いったい何が君をそこまで突き動かしたのか。

ロンディニウムからは亡命の意向を確かめるようにという命令が来ていたが、どちらにしろあの兄がこんな理由での亡命を認めるはずがない。何れフレデリックは母国に強制送還されるだろう。これだけの事をしでかしたのだ。王族であろうとも罰は免れまい。いや王族だからこそ免れないだろう。それを考えてみると今こうして彼と同じ屋敷にいることが奇跡のようにも思える。

「-一度訊いてみるか」
「は?今何と」

ウィリアムの心の中に僅かな悪戯心にも似た感情が芽生えた。



[17077] 第57話「ブレーメン某重大事件-4」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:e9dae18d
Date: 2010/10/09 17:58
6214年アンスールの月(7月)より以前-すなわち例の事件以前におけるフレデリック・クリスチャン・オルデンブルグ=ハノーヴァーの評価は非常に高いものがある。幼少より聡明で知られ、長じては自ら望んでブレーメン大学に進学して魔法科学史を修めたクリスチャン王太子はガリア語を始めとした4ヶ国語を巧みに操り、公式会談や外交交渉の場においても通訳を必要としなかった。また同時代人からも信仰心に篤く、謙虚であり信義を重んじ民を愛すること限りなしという聖人君子の様な評価を受けている。次期国王に対して否定的な評価をするはずがないという点を差し引いたとしても、少なくとも彼がハノーヴァーの次期国王として相応しき人格と能力の持ち主であると見られていたことは間違いない。

だがそれらの同時代人の肯定的評価は、某重大事件における彼の(無責任とも言える)行動を知る我々を混乱させるのである。一連の行動に関して「クリスチャン王太子(当時)は王族としての責任を放棄した」という批判を免れないのは確かである。とはいえ「王太子としての責任感が欠如していた」という意見にも素直には頷きがたいのだ。事件前と事件後のクリスチャンの政治行動や発言からは、彼が実利的な思考の持ち主であり、感情的に安定した冷静沈着な人物であることを証明している。それゆえ6214年における彼の洞察力の欠如が際立つのである。そのため外的要因に王太子の言動の理由があったのではないかという意見もある。当時より「ハノーヴァー・トリステインの同君連合を嫌った北部都市同盟が暗躍した」「ガリア王シャルル12世(当時)が次男(後のオルレアン公シャルル)をトリステインに送り込もうと考えていたため王太子に圧力をかけた」などという噂はあったが、それら陰謀論者の論拠は弱く説得力に欠けたものでしかない。

この事件を知ったアルビオン王弟カンバーランド公爵のヘンリー・テューダー(当時)は「恋愛は男女がそろって馬鹿になることだ」と嘆息したという。この言葉こそがブレーメン某重大事件の本質を突いている。フレデリック・クリスチャン・オルデンブルグ=ハノーヴァーの二つ名は「業火」。火のスクエアの使い手として知られた彼に相応しい呼び名は、事件を挟んでなんとも皮肉なものへと趣を変えた。二つ名の呼び名通り、クリスチャンは自身の「業」に呑み込まれたのである。

(-ハノーヴァー王国史第21巻より-)

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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(ブレーメン某重大事件-4)

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(トリステイン王国王都トリスタニア タニアリージュ・ロワイヤル座)

タニアリージュ・ロワイヤル座はトリステイン王国が誇る王立歌劇場である。『魅了王』アンリ3世(在5810-5850)の「我が王都に余と同じ美しさの歌劇場を!」というよくわからない命令により、金と時間を湯水のごとく費やして建築されたのがこの王立歌劇場だ。平民と貴族が(座席こそ隔てられていても)同じ場所で舞台を観覧できる歌劇場がつくられたことにより、王侯貴族や特権階級のものであった歌劇やオペラは庶民にも開放された。現在ではトリスタニア市民の娯楽として定着し、親しまれている。莫大な借金と2ダースの子供という御家騒動の種を撒き散らした魅了王は「ロマリア人かガリア人に産まれたかった」というのが口癖で、それまでは農業国家でしかなかったトリステインに文化風俗の大改革を巻き起こした。もしもアンリ3世がいなければ、トリスタニアはリュテイスやロマリア市には遠く及ばない、文化の香りとは無縁な田舎くさい都市のままであっただろう。こと政治家の評価というものは難しい。

これもアンリ3世の遺功の賜物といえるのかどうかはわからないが、トリスタニア市民-タニアっ子は演劇や舞台に関しては一家言の持ち主が多い。やれ度の役者は拙いだの、やれどの劇作家は質が落ちただのという演劇批評をさせれば、プロの批評家も裸足で逃げ出すという厳しさだ。そして当然ながらタニアっ子が最もやり玉に挙げるのが、ほかならぬこの王立歌劇場の演目である。ここでは芝居に「検閲」などという無粋極まりないものを持ち込む法服貴族はゴキブリ以上に嫌われている。高等法院参事官の検閲に掛かれば、いかなる名優や評判の舞台も素人役者の演技に早変わりしてしまうという具合ではそれも当然だろう。片言節句をとらえて「この台詞は王国に対する侮辱である」「これはブリミル教の教えに反する」とネチネチやられれば、名優と呼ばれる役者ほど「ふざけるな!」とへそを曲げる。結果、出し殻のような空疎な台詞が二流・三流の役者によって演じられることになり、その前(検閲前)の舞台を知るタニアっ子にボロカスに叩かれるわけだ。

-それにしても酷いものだ

劇場2階の貴族専用のボックス席でよくもまぁこんな拙い芝居で金をとれるものだと、トリステイン元老院副議長のミラボー伯爵オノーレ・ガブリエル・ミケティはあきれていた。演目は正歌劇『湖上の美人』。東フランク王国時代の北部部族の反乱を題材に、反乱軍の盟主の娘と、お忍びで身分を隠して湖にやってきた東フランク国王との許されぬ恋愛を描いたものだ。ロマリア市で上演されて評判となり、先月からこのタニアリージュ・ロワイヤル座でも公演が開始された。前評判が高かったこともあり、連日連夜観客が詰めかけたものだが、法院参事官の検閲後は客足が遠のき、空席が目立っている。それも無理はない。検閲官の態度にキレた主演俳優が降板し、後に座ったのが顔のいいだけのル・キャボタン(大根役者)。噂では主演女優も相手役のあまりの下手さ加減に腹を立てて降板を申し出ているとか。ここから見ていても女優の機嫌の悪さとやる気のなさが伝わってきそうだ。ミラボー伯爵がこの不愉快さを誰かと共有したいと思い始めたのを見計らったかのように、ボックス席に待ち合わせをしていた人物が現れた。

「お待たせした」

トリステイン財務卿のルーヴォア侯爵ミシェル・ル・テリエ卿は舞台から視線を外さずに言う。若いながらも元老院の実力者として知られるミラボー伯爵をこの場に呼び出したのはこの老人である。ボックス席を借り切って密談の会場にするなど、財産と地位を兼ね備えた大貴族でなければ出来ない荒業だ。

「いや、ちょうどよい頃合です。このままではあまりの退屈さに寝てしまいかねないところでした」

体の大きいミラボー伯爵が肩をすくめる。何をしてもどこか滑稽さを滲ませる人物であるが、同じように何をしていても隙が無い。何時如何なる時でも感情を宿らせることのない垂れ気味の目を財務卿にちらりと向けて伯爵は口火を切った。

「本日はお誘いいただきありがとうございます。それでこの私にいかなるご用件でしょうか?」
「王太子が見つかった」
「王太子といいますと、どちらの王太子でしょうか」
「・・・伯爵、そういうことはやめてもらおうか」

じろりと睨みつけるルーヴォア侯爵に、ミラボー伯爵がこれまた大仰に肩をすくめた。

「失礼いたしました。それでクリスチャン王太子はどちらに」
「アルビオンだ」
「ほう、ならばカンバーランド公爵はそれを伝えるために?」

ミラボー伯爵が垂れ気味の目をスッと細めた。どこか抜けた印象を人に与える伯爵の顔が、冷たく無機質なものへと変わる。ハノーヴァーの王太子の存在を伝えるために王弟を派遣してくるとは、空の人間も随分と義理堅いことだ。王宮から消えた王太子の行き先が浮遊大陸ということは予想できた事態であり、それほど驚きはない。昔から政争に負けた王侯貴族の落ち着く先は浮遊大陸のアルビオンか、地方の修道院と相場は決まっている。アルビオン王政府がクリスチャン王太子の身柄を確保しているならば、例のマリアンヌ王女との婚約について何らかの情報を得ていると見るべきか。そうなると多少厄介なことだ-ミラボー伯爵の意識は既に舞台にはなく、頭の中で目まぐるしく打算と計算を繰り返していた。だがそれらは侯爵の次の言葉で激しい動揺へと一変する。

「ザクセンの伯爵令嬢が一緒だそうだ」
「・・・まさかッ」

驚きを隠せずにミラボー伯爵はルーヴォア侯爵を見つめ返した。滑稽なる仮面を脱ぎ捨てた元老院の副議長に対して、王国の財務卿はその眉をかすかに上げるだけで答えた。

「詮索は無用だ、副議長」
「・・・これはとんだ失礼を」

侯爵の言葉にミラボー伯爵はいつもの滑稽な仮面を再びその顔に貼り付ける。ルーヴォア侯爵の視線は相変わらず舞台に向けられていた。下の席から見上げれば、舞台を見に来た老貴族が出来の悪さに臨席の人物に対して不平を言っているようにしか見えないであろう。

「ヘンリー殿下によると、現在ハノーヴァーとザクセンの間で交渉が始められたという。パーマストン外相(アルビオン外務相)が乗り出すのであれば、落とし所を含めて上手くやるだろう」
「アルビオンもいい迷惑ですな・・・ところでマリアンヌ王女殿下と-」
「一体何の話だね」
「ええ、ですからクリスチャン王太子とマリアンヌ王女の・・・」

そこまで口にしてからミラボー伯爵はハッとしたような表情になり、その先の言葉を呑み込んだ。

-なるほど、そういうことか

ミラボー伯爵は「いや私の勘違いです」とその額を手でピシャリとたたく。白百合の次期継承者が駆け落ちされた婚約者とあっては話にならない。そんな単純な事実に気が付かないとは、自分もまだまだ詰めが甘い。だがこの頑固な侯爵が自分に何を期待しているかがわからないほど鈍くはないつもりだ。

「世上の噂で侯爵閣下のお耳を汚してしまいました。元老院副議長として、そのような根も葉もない『噂』が蔓延らぬ様にしっかりとしなければなりませんな」

そう言って頭を掌で撫でたミラボー伯爵に、ルーヴォア侯爵はにこりとせずに頷いた。

舞台では若い俳優が控えめに見ても上手とは言い難い演技を続けている。相手役の女優は既に投げやりで、どこか俳優を馬鹿にした雰囲気すらある。当然のことながらそんな舞台には客席から少なからぬ野次が飛んでいた。

「あの役者、ウベルトでしたか。実力も伴わないのに顔だけで選ばれたとあっては、多少気の毒だと思わないわけではありませんが」
「そう思うかね」

批評家としても知られるルーヴォア侯爵の言葉に、ミラボー伯爵は意外そうな表情を浮かべた。

二人の視線の先では若い俳優が声を張り上げて必死に演技を続けている。自らの芸だけが頼みの役者の世界は社交界以上に生存競争の激しい世界だという。かつての名ソプラノがチクトンネ街の場末の酒場で喉を枯らし、昨日までの無名役者が一回の舞台で誰もが知る名優に成り上がる。あの役者もこの機会を何としてものにして這い上がろうと必死なのだろう。たとえ顔だけが理由で選ばれたのだとしても、結果を出せばよいのだ。逆に結果がでなければ、その全てが否定される。

「この王立歌劇場で野次の洗礼を受けずに一人前になった役者などいない。罵られ、物を投げられ、嘲られ、それでも自らの芸を磨きつづけたものだけが、真の名優になれるのだ」
「なるほど、それは道理ですな。叱られずに一人前になったものなどいません」

私などは今でも叱られっぱなしですよと自分を笑ってから、ミラボー伯爵は水を向けた。

「ところで結果の出せない役者はどうなるのです?」
「・・・さてな」

それが何を、誰を指すのかをルーヴォア侯爵は理解していたが、あえて言葉を濁した。



-ヴィスポリ伯爵ヨハン・ウィルヘルム(ハノーヴァー王国前首相)の日記-

〔ニイドの月(8月)フレイヤの週(第1週)虚無の曜日(1日目)曇〕

休日にも関わらず、首相官邸より呼び出しを受ける。体調優れず辞退を考えるも王太子殿下のことかと考え無理を推して赴く。前首相たる自分を呼ぶとは余程のことならん。嫌な予感ほど当たるものなり。出席者は以下の如し。ホルン首相(アルヴィト・ホルン伯爵。首相)、ビョルネボルグ伯(伯爵。内務大臣)、ハッランド外相(ベルティル・ハッランド侯爵。外務大臣)、ハンス・ヴァクトマイスター陸軍大臣、トルステンソン元帥(オルラタ伯爵レンナート・トルステンソン。ハノーヴァー陸軍元帥)

冒頭、ハッランド侯(外相)より説明あり。予想通り行方不明の王太子に関する議題なり。「駐在アルビオン大使のフェルセン伯(アクセル・フォン・フェルセン伯爵)よりアルビオンがクリスチャン王太子の身柄を確保したるという知らせを受けたり」という外相の言葉に自分も含めた出席者は一様に不可解な表情を浮かべたり。その意味するところを解せざる所以なり。ヴァクトマイスター陸相「アルビオンが誘拐したるか」と訊ねたのも的外れにあらず。それほど理解しがたき事態なり。ハッランド外相は首を横に振り事情を説明したる。

クリスチャン王太子殿下がザクセン外務省伝令官のゾフィー・ホテク嬢と駆け落ちをしたという。我が耳を疑い、手に持ったカップを落としたり。駆け落ちしたるという事実を聞かされて信じろという方が無理な話なり。誰しも言葉を発するのを躊躇う中、トルステンソン元帥「よりにもよってザクセン人!」と激昂したる。ゾフィー・ホテク嬢という名に聞き覚えはなきも、ホテク伯爵の名には聞き覚えあり。ザクセンとハノーヴァーとの関係は今更言うに及ばず。自分が首相在任中、エルベ川南方地域の国境線交渉において何度も激しいやり取りを繰り返したザクセンの大使がホテク伯なり。ホテク伯は現在ザクセン外務省条約局長にして次期外相の呼び声高し。よりにもよってそのホテク伯の令嬢と・・・

ホルン首相は狼狽してなすすべを知らず、王太子を罵る言葉を連ねるのみ。以降の議論はハッランド侯(外相)が主導する。

ビョルネボルグ内相「トリステインはこの事態を把握せざるや?」
ハッランド外相「アルビオンとトリステインとの関係を考えると既に伝わっているものと考えて行動すべき。先月末のカンバーランド公(ヘンリー)のトリステイン来訪も恐らくそれが目的なり」
トルステンソン元帥「問題はザクセンなり。ドレスデン(ザクセン王都)は如何に?」
ハッランド外相「アルビオン外務省からの情報により事態を把握している。すでにカウニッツ大使(駐ハノーヴァー大使)より会談の申し入れと事態収拾に向けた協力要請を受ける」
ビョルネボルグ内相「外相としてこの事態を如何に考えるか」
ハッランド外相「王太子殿下については宮内省の問題ゆえ発言は控える・・・現状は極めて危険な状況なり。トリステインとの同盟関係の更なる冷却化は避けられず。マリアンヌ王女との婚約交渉は当然ながら、同君連合構想は完全に破綻したものと考えるべき」
ヴァクトマイスター陸相「されどこれは内密の話しにして公の話にあらず。クリスチャン王太子殿下でなくともよいのではないか(第2、第3王子を王配候補として交渉を続けるべきという考えか)」
トルステンソン元帥「それは内輪の理屈なり。トリステインには通用せぬ。大体どの面を下げてそのようなことを言えるというのか」
ハッランド外相「同意する」
ホルン首相「されどリッシュモン卿が賛成すれば・・・」
トルステンソン元帥「如何にリッシュモン伯(トリステイン外務卿)といえども、顔に泥を塗られてもなお、ハノーヴァーから王配を送り込むことは難しからん」

結果、トリステイン、ザクセン両国との交渉は外相のハッランド侯爵に一任すること、クリスチャン王太子の取り扱いについては後日日を改めて相談すべきこと、王太子殿下の即時引渡しをアルビオンに要求することで合意。

首相官邸より退出時、雷鳴が轟く。ホルン首相「これからどうなるのだ」と呻く。これからの政権運営についてか、自身の名声と地位の心配か、それともこの斜陽の祖国のことか。あのクリスチャン王太子がこのような事態を引き起こすとは誰しもが想像せず。自身と祖国の将来に対する不安を誰しもが感じているのか、誰もが黙して語らず。


〔ニイドの月(8月)フレイヤの週(第1週)ユルの曜日(2日目)曇〕

ハッランド侯(外相)来訪。ドロットニングホルム宮より呼び出しを受ける。馬車の中で外相から昨晩のカウニッツ大使(ザクセン大使)との会談内容について聞く。日頃から「文弱の輩」と我らハノーヴァー人を馬鹿にするザクセン人も、さすがに罰が悪いのか協力的という。野蛮なるザクセン人と協力せねばならぬ事態は面白からざる事態なるも、ハルケギニアに恥を晒すよりはましならんと自分に言い聞かせたり。

ドロットニングホルム宮殿内の宮内大臣執務室に通され、ユーレンシェナ宮内相(ヨーハン・ユーレンシェナ伯爵。宮内大臣)と対面。国王陛下(クリスチャン12世)よりこの件に関する全権を委任されたると言うユーレンシェナ伯は、口角を引き、口をへの字に曲げて憤懣やるかたないという態度。伯はクリスチャン王太子に期待をかけており、それだけ「裏切られた」という思いが強からん。それゆえユーレンシェナ伯が「王太子を廃位すべし」という意見を述べたのも驚くにあたらず。




(アルビオン王国 南部ロサイス 王立空軍ロサイス軍港)

アルビオン王立空軍はアルビオン本国艦隊、大洋艦隊、北東海艦隊の3艦隊からなる。本国艦隊は王都ロンディニウムの玄関港であるカンタベリー港を母港とし、浮遊大陸の沿岸警備隊のような役割を果たしている。北東海艦隊は北部のエディンバラ、大洋艦隊は南部のダーダネルスを本拠地に、通商空路や空賊に対する警戒を行っている。ここロサイスは本来なら大洋艦隊の担当空域であるが、プリマスやサウスゴータといった大陸南部の大都市に通じる交通の要所であることから本国艦隊=ロンディニウムの空軍司令部の直轄港である。

ロサイス軍港司令部からは、ドックと停泊する艦船が一望できる。そんな絶好のロケーションにあって、この馬鹿が黙っているわけがなかった。

「ロサイスよ!私は帰ってきた!」
「・・・はぁ」

第一王位継承者の突然の奇行に、アルビオン外相のパーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプルはあっけにとられていた。噂には聞いていたが、これは想定の範囲外、いや想像以上だ。トリステインから帰還したという意味ならたしかにそうだが、何故それを叫ぶ必要がある?そして何故誇らしげなのだ?

「男子として生まれたからには一度は言っておきたい台詞だよな。ロしか合ってないけど、文字数は同じだし、いいだろう」
「・・・はぁ」

一体何を言っているのか、この老練なる外交官の経験と知識を持ってしても一文字たりとも理解出来ない。果てしなくわきあがる疑問に頭を抑えるパーマストン外相とは対照的に、ヘンリーは実に満足感に溢れた顔をしている。この男、恥という概念が希薄なのか、それとも瞬間的な自分の欲求に忠実なのか-恐らくその両方なのだろう。やりたい放題だ。そして問題解決能力に優れると評される老外相はヘンリーに椅子を勧めながら、その言葉の意味するところを考えるのを放棄した。長年の経験から、おそらくこの王弟が言ったのは「考えるな!感じるんだ!」という意味合いのものなのだろう。ならばそれを理屈で考えようとするのは、無粋というものだ。粋な老人である。

「お疲れのところ申し訳ないのですが」
「かまわないさ。これが仕事だからね。それで何から聞きたい」
「そう言っていただけるとこちらとしても助かります」

この老人は誰に対しても丁寧な態度を崩さない。たかが言葉遣い、されど言葉遣い。相手国はもとより、国内で何かと外務省と対立する王立空軍と無用な諍いを避けるという外交官としての習慣が身についている。

「さっそくですが、トリステイン側は」
「これだよ」

外相の質問に言葉にヘンリーは両手の人差し指を立ててこめかみの辺りにつけた。怒っているといいたいのだろうが、どうにも緊張感に欠ける。

「どうもこうも、顔に泥を塗られたんだ。いくら温厚な人物であっても怒らないはずがないだろう。ましてやトリステイン貴族ではな」
「リッシュモン卿(トリステイン外務卿)は」
「完全にこの件から外された。少なくともタウンゼント大使(駐在トリステイン大使)はそう見ている」
「タウンゼント大使なら確かでしょう、彼は自分の憶測や願望を報告に混ぜない男です」

マリアンヌ王女とクリスチャン王太子の「例の件」に関して、トリステイン側における旗振り役がリッシュモン卿でしたと、パーマストンは言う。ヘンリーはその口ぶりに、もしやこの老人とリッシュモン卿の間で何らかの相談が交わされていたのではないかと疑ったが、その信義を問いただしたところで自分では体よくあしらわれるだけだろうと考えて自重する。これを自分の器をわきまえていると見るか、問題の先送りと見るかで評価の分かれるところだろうが、どちらにしろ事前にパーマストン外相がリッシュモン卿からマリアンヌ王女の件を聞いていたとしても、それ自体はたいした問題ではない。

「向こうで会えたのはエギヨン宰相、エスターシュ大公(前宰相)、それに財務卿のルーヴォア侯爵だ」

非公式会談とはいえ、それだけのメンバーをそろえたことにトリステイン国内におけるアルビオンの外交的優先順位の高さと、次期王位継承者の問題にトリステインがどれほど神経を使っているかが伺える。

「エスターシュ大公はたしか」
「ヴァリエール領の田舎から態々出てきたといっていたが、おそらくフィリップ陛下に呼び出しをうけたのだろう。本人もそのようなことを匂わせていた。3人の中では無役ということもあって大公が最もざっくばらんに話してくれた」
「先のリッシュモン卿がこの件から外されたというのは」
「おそらく大公の入れ知恵だろう。マリアンヌ王女の件は大公曰くリッシュモン-エギヨン宰相のラインの話だそうだ。驚いたのは-」

ヘンリーは一旦話を切って、水差しからコップに水を注いだ。

「リッシュモン伯爵はハノーヴァーとの同君連合構想を考えていたそうだ」
「ほう、それは・・・剛毅ですな」

かすかに眉を寄せるだけでたいした驚きを見せないパーマストン外相に、ヘンリーは子爵が事前にリッシュモンと彼が連絡を取っていたと確信した。

「ハノーヴァーからの王配でも揉めることは間違いないのに、同君連合とはちょっとにわかには信じられないな。大体始祖以来の名門トリステインが、ハノーヴァーのような種馬と一緒になろうなど、国内が納得するはずがない」
「まったくですな。リッシュモン卿の考えだとはにわかには信じられません」

全く王子のおっしゃるとおりと頷く出目金外相の顔を見ながら、ヘンリーは「嘘つけこの野郎」と腹の底で悪態をつく。煮ても焼いても湯がいても食えない出目金爺め。ヘンリーはコップに注いだ水を飲むのも忘れて、右手に持ったままだ。

「それよりもウィリアムのほうはどうなった」
「・・・どうとおっしゃられますと?」

この糞爺、まだとぼけるか。

「王太子の説得だ。トリスタニア駐在のハノーヴァー大使とも会談したが、ブレーメン(ハノーヴァー王都)もクリスチャン王太子には怒り心頭だ。トリステインとの関係を考えると、何らかの処分は避けられないようだ」

ウィリアムの曇る顔が目に浮かぶようだ。予想していないわけではないだろうが、処分という言葉を聞くとさすがに感じるものがあるだろう。ましてやその対象が長年の知友とあっては尚更だ。パーマストンは間を空けることなく、両の人差し指を胸の前でクロスさせた。

「芳しくありませんな。殿下の身柄がサウスゴータ太守の屋敷に移送されてから、断続的にモード大公殿下とクリスチャン殿下は会談を重ねられたようですが、件のザクセンの伯爵令嬢と関係を断つことは断固として拒否されるそうです」
「まぁ、あの王子様はそのために遥々アルビオンまでやってきたのだからな」

さすがに渋い顔を隠せないヘンリーに、相変わらず表情を変えないパーマストン外相が言う。

「殿下のご不在中に駐在ザクセン大使らとも会談を重ねたのですが、一つ案が出てきました」
「何だ?まさかザクセン人がゾフィー嬢をどうにかするといってきたのではないだろうな。そんなことをすればあの王子様は伯爵令嬢を道連れに屋敷に火を着けかねないぞ」
「いえ、そういうわけでは」

老外相はヘンリーの言葉を苦笑いして否定する。

「まさか、ここはアルビオンですぞ」
「わからんぞ、あのザクセン人ならやりかねない」
「仮にザクセンがそのようなことを企んだとしても、私が許しません」

そう言い切ったパーマストン子爵。決意表明や虚勢ではなく、単に事実を述べたとでもいわんばかりだ。本当にいい性格しているよとヘンリーは呆れた。まぁそうでもなければ20年も外相の椅子に座っていられないのだろうが。そのパーマストンは-おそらくこの老人が発案したであろう解決策の説明を始めた。

「クリスチャン王太子の身柄はそのままアルビオンが預かります。サウスゴータなら長期療養という名目が立ちますゆえ」
「・・・そのまま病気により廃嫡というわけか」

ヘンリーの反応の早さに、老外相は満足げに頷く。

「最低でも半年から一年の『療養』の後、ハノーヴァー宮内省は王太子殿下が『病によりその責務を負えず』と退位を発表されるというシナリオです」
「自発的な退位の申し入れか。だが、そうするとあの伯爵令嬢はどうするのだ?」
「ブレーメン大使館からサウスゴータ領事館付きということにします。王太子には退位さえすれば伯爵令嬢との関係はどうとにでもなると説得するつもりです。無論、それまでの身柄の安全に関してはアルビオンが全力を持って責任を持つと」

アルビオンから出た後の身の安全は保障出来ないというわけか。確かに出国後のことまでは責任をもてない。だが逆に言えばアルビオン国内に留まるのであれば、二人の身柄、特に伯爵令嬢に関しては護衛に対して責任を持つとも受け取れる。

「そんなところだろうな」

事実上の亡命に、事実婚か。下手なことをすればあの王子様は伯爵令嬢と心中しかねないとあっては、下手な強攻策は取りにくい。ましてやクリスチャン王太子は火のスクエア-抵抗されれば火傷どころではすまない。ヘンリーは解決策について以前「三方一両損」しかないと言ったが、これでは四方一両損である。本音と建前の使い分けと言うか、ここまで露骨なのも珍しい。だが戦争をするよりも、事が公になって恥をかくよりもましというわけか。

「しかし大臣。病気による自発的退位など、そんな嘘が通用するのか?」
「殿下。少しだけの嘘なら直にばれますが、大きな嘘は逆にばれにくいものです。それに嘘を包む布は華やかなほうがいいのです」
「何故だ?どちらにしろ嘘には変わりないのだろう」

首を傾げるヘンリーに、パーマストン子爵はその理由を口にする。

「より大きく、より美しく、より華やかに・・・嘘が大きければ大きいほど、それを聞くものは些細な違和感には気がつかなくなるものです。そして嘘をつく人間は、その嘘を自分自身が信じなければいけません。口先だけの嘘では直に見抜かれます。ですがこれがなかなか大変でしてな。嘘は所詮虚構の産物。それを口にする人間には心理的な負担になるのです。虚構であるとするならば、その虚構の世界だけでも美しいほうがいいとは思いませんか?」

老外相は自嘲するかのように、口角を吊り上げただけの、どこか疲れた笑みを浮かべた。

「芝居と同じですな。役者は自身の人気のために、外交官は国益を守るために虚構と嘘をつくのです・・・平和は戦争と戦争の間の儚い夢といいます。ならばそれに巻き込まれた我らにできることは、その虚構を盛大に飾り付けてやることだけですよ」



-ハノーヴァー王国宮内省発表-

「クリスチャン王太子殿下におかれては、過度の蓄積の疲労による発熱が続き、御体調に未だ改善の兆し見られず。そのため王太子殿下はアルビオン王国南部サウスゴータにおけるご静養に入られる。期間は未定」

ニイドの月(8月)エオローの週(第3週)初頭に発表されたこの宮内省声明に首をかしげたブレーメン市民は多かった。それまでは王太子殿下の病状や容態に関して、その理由や医師団の個人名まで挙げていたのにもかかわらず、今回は僅か数行ですまされていたからだ。だがその直後にハノーヴァー空軍の戦列艦『グスタフ・アドルフ1世』が厳重な護衛の下にリューベック港を出航したことから、王太子の静養自体を疑うものはいなかった。ブレーメン駐在の外交官も多少の疑問を持ってこれを見たが、当事者以外にその真偽が判明するはずがなかった。


なかったはずなのだ。




[17077] 第58話「発覚」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:151a2b73
Date: 2010/10/16 07:29
〔ケンの月(10月)フレイヤの週(第1週)ユルの曜日(2日目)〕-トリステイン王国 王都トリスタニア ミラボー伯爵邸-

トリステイン王国元老院副議長という大層な肩書きの持ち主であるミラボー伯爵は、それに似つかわしい体型の持ち主である。外見を取り繕う人間は多いが、この壮年貴族は自身のそれを利用した一種のイメージ戦略とでも言うべきものを行っていた。太鼓腹とまではいわないまでも適度に肥えたその体は、彼の風貌や気取らない言動と合わさって親しみやすい印象をトリスタニア市民に与えていた。無論市民が元老院の選挙権を持っているわけではないが「貴族の府」として不人気の元老院内にあって、ミラボー伯爵は市民の人気を背景に家柄以上の発言力と政治力を有している。

ミラボー伯爵の一日はベットの上から始まる。何を当たり前のことをと言う声が聞こえそうだが、寝覚めの悪い-おそらく低血圧の伯爵は起きてからが長い。面倒な時はそのままベットの上で朝食をとることもあるぐらいだ。とはいえさすがにこれではいけないと、最近はメイドに持ってこさせた濡れタオルで顔を拭いて、強制的に目を覚まさせることにしている。

「今日は一紙だけか」
「左様でございます」

ミラボー伯爵は家令に使い終わったタオルを渡すのと引き換えに新聞を受け取ると、ベットから上半身だけを起こした姿勢のまま読み始めた。われながら無精だと思わないでもないが、幼少からの癖というものはそう簡単に直るものではない。いつもならもう少し頭が覚醒してから目を通すのだが、大衆紙ならその必要もないだろうとミラボーは半ば寝ぼけた頭のまま記事に目を通す。今ミラボー伯爵が読んでいる新聞は貴族のスキャンダルやアングラ記事が主になりつつあると言う典型的なタブロイド紙だ。内容が内容であるだけに検閲から逃れるために記事の多くが伏字になっているが、記事の内容と爵位だけで大体誰のことが推察できるという寸法である。はっきり言って読みにくいが、かえってそれが読者にうけているというのだから何が幸いするかわからない。

ふと、ミラボー伯爵の常日頃眠たそうな目がある記事で留まった。その記事は最終欄4面の中段、いわゆるベタ記事の欄に記載されていた。

「・・・なんだこれは」

突如呻く様に言葉を発したミラボーに、白湯を用意していた家令はぎょっとしてベットの上の主人を見た。いつも飄々とした表情を崩さない主人が、僅かではあるが動揺をあらわにしている。このような主人を見るのは長年伯爵家に仕えてきた家令も経験したことがなかった。ミラボーは白湯の入ったコップを引っ手繰るようにとって飲み干すと、新聞をひざの上に広げて眉間を揉んだ。

「やれやれ、参ったねこれは」

そう口癖を呟くミラボーは、早くもいつもの飄々とした表情に戻っていた。ミラボーはもう一度記事に視線を落とす。4面の中段、右から4つ目。そこには短くこう記されていた。

-○○○○○王女殿下におかれてはハノーヴァー王国クリスチャン王太子殿下とのご婚約が内々に決定したり-

ミラボー伯爵は新聞を畳みながらもう一度呟いた。

「参ったねこれは」

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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(発覚)

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〔ケンの月(10月)フレイヤの週(第1週)マンの曜日(4日目)〕-トリステイン王国 王都トリスタニア トリスタニア城-

「ジョセフ・アルチュール・ド・ゴビノー、陛下のお召しにより参上致しました」

トリステイン高等法院長のド・ゴビノー伯爵が、その痩身を杖で支えながら謁見の間に現れた瞬間、フィリップ3世は確かに自身の血が沸騰する音を聞いた。よくもぬけぬけと私の前に顔を出せたものだ。そのとりすました顔を右手に持った王錫で殴りつけたい気持ちを抑えながら、英雄王は出来るだけ平静を心がけながら労いの言葉をかけた。

「足労をかけたな」
「もったいないお言葉、恐れ入ります」

ゴビノー伯爵はその痩身を折り曲げながら深々と頭を下げた。既に10年以上も高等法院長の座にある老人は、宮廷貴族の陰湿さと弁護士のいやらしさ、そして官僚の悪癖である組織の権益に敏感という-要するに「英雄王」が大嫌いなタイプを全て兼ね備えている。こみ上げてくる不快の念と怒りを押し殺しながら、フィリップ3世は口を開いた。

「さっそくだがゴビノー法院長。今日は卿に尋ねたいことがあって来てもらったのだ」
「恐れながら英明なる陛下が私のような非才の人間に何をお尋ねになるというのでしょうか。それに私のような年寄りに尋ねなくとも、陛下の御側には若く、優秀な人材がそろっておられるではありませんか」

高等法院長は王座の斜め前に立つ魔法衛士隊隊長のラ・ヴァリエール公爵にちらりと視線を送った。ピエールはピエールでゴビノー伯爵と視線を合わせようとしない。思う処は多々あるが、今ここで挑発に乗って反応を示せば陛下に恥をかかせることになると心の中で自分自身に言い聞かせていた。

ラグドリアン戦役において多くの貴族が戦死した後、フィリップ3世は空席となった軍の中堅幹部や省庁の幹部に、若手貴族を中心に抜擢人事を行った。彼らの多くは旧エスターシュ派や魔法衛士隊出身の王の側近であり、明らかに王個人の影響力の拡大を目的としたものであった。一方でフィリップ3世はエスターシュ大公の進言を受け入れ、大臣や次官には従来の帯杖貴族を据えてバランスを取った。それでも一部の貴族からは不満が噴出するのは避けられなかった。ゴビノー伯爵もその一人であるが、この老人は直接的に人事を批判するような真似はしない。

「若者には力があり、老人には知恵がある。卿よ、私は今知恵を必要としているのだ」
「この非才の老人がわかることでしたらお答えいたしましょう」
「うむ・・・」

王錫を持つ手に力をこめるフィリップ3世。

「卿に尋ねる。高等法院の仕事とは何かね?」
「我ら法院に連なるものは法をもって杖となし、王国と陛下にお仕えします。大きな事を言わせていただくなら、我がトリステイン王国の公正と公平、ひいてはそれに基づいて治安を守ることでございましょうか」
「卿と法院の忠節と忠勤はよく承知しておる。しかし今はそのようなことを聞いているわけではない。私の質問が拙かったな。具体的な職務を尋ねておるのだよ」

静かに言葉を重ねる王の態度は逆にその怒りの深さを表しているようにピエールには見えた。何時爆発しても可笑しくないフィリップ3世の様子にも関わらず、老伯爵は顔色を変えず、柔らかく微笑んだままである。

「なるほど、そういうことでございましたか。一言で申し上げるのは難しいですが・・・乱暴を承知で申し上げますなら、王国のあらゆる司法行政、陛下の立法作業の輔弼、そして流言飛語を取り締まる検閲。この三つでございましょうか」

このうち2番目の立法の輔弼が曲者であり、法律解釈権を持つ司法権とならんで法院の権力の源となっている。輔弼と言いながら事実上は法院の大審議会が認可しなければどのような些細な法律も施行出来ない仕組みになっている。戒厳令や勅令は国王が独自に発令できるが、それでも高等法院長の認可を受けなければそれは無効となる。それゆえ元老院と違い、王といえども法院を無視することは出来なかった。法院が「国家の中の国家」と呼ばれる所以だ。フィリップ3世は法院の最高責任者である老人の言葉に頷いた。もとよりそのような事を聞きたかったわけではない。ここからが本題だ。

「・・・『トリスタニア・テレグラフ』という新聞を知っているな」
「トリスタニア・テレグラフ、ですか?」

鸚鵡返しに聞き返すゴビノー伯爵。顎に手を当て首をひねってから「ああ、思い出しました」と答え返した。

「よくある低俗なタブロイド紙でございます。かつては『トリスタニア・エコノミカル』に並ぶ週刊の有力経済紙でしたが、数年前に経営者が変わってからは見る影もありません。内容はいわゆる平民の好きそうなものばかりでございます。貴族のスキャンダルに悪口、そして風刺絵と。恐れながら陛下の風刺画を書いたこともある不届きな新聞です。法院検閲局が何度も停刊処分を下しているのですが、蛙の面になんとやらでして」

フィリップはゴビノー伯爵がなおも続けようとするのを手で制した。ハルケギニア大陸では紙の原料となる草が豊富で、公文書を中心として羊皮紙からの切り替えが進んでいる。新聞はそうした中から、いわゆる出来損ないの質の悪い紙を使って今から50年ほど前に生まれた比較的新しいメディアだ。新聞と言っても我々の想像する日刊のものはなく、どんなに早くても週刊が限界である。地域コミュニティの壁新聞から、大衆紙、経済新聞や業界紙とピンからキリまである。今話題に上がっている『トリスタニア・テレグラフ』は週刊発行の大衆紙(タブロイド紙)のひとつだ。ゴビノー伯爵が既に述べたようにこの新聞は貴族のゴシップやアングラ記事で人気があり、そのために何度も高等法院検閲局から発行停止処分を受けている札付きの新聞である。お世辞にも貴族が目を通すようなものではない。ゴビノー伯爵もその点を匂わせながら聞き返した。

「陛下がタブロイド紙をご存知であることにも驚きましたが、その大衆紙がいかがなさいました?」
「卿は流言飛語を取り締まるのも法院の仕事だといったな。検閲官の目は節穴かね」

白髪だらけの眉が跳ねたが、ゴビノー高等法院長の示した反応はそれだけであった。

「何かお気に触る記事でもございましたか」
「法院長、余は」
「陛下、恐れながら申し上げます」

ゴビノー伯爵はフィリップ3世の発言を遮った。高等法院長の不敬罪とも取れる対応に、ピエールがその顔に怒気を浮かべる。しかしフィリップはそれを目で制した。するとゴビノー伯爵はその場にゆっくりと片膝をつき、正面で両の手を組んだ。そうするとまるで始祖像に祈りをささげている聖職者のように見えなくもない。この老人はそうした仕草が一々様になっていた。

「発言を許す。何か言いたいことがあるのか?・・・それとも何か思い出したか?」

精一杯意地悪く尋ねた王に、法院長は頭を下げて答えた。膝をつき、頭を下げて王に対する敬意を示しているはずの高等法院長からは、残念ながら肝心の敬意の念だけは全く感じられない。

「恐れながら申し上げます。法院検閲局は先月より一部職務を、『具体的』に申し上げますと新聞検閲を停止しております」
「・・・初耳だな。余は何も報告を受けておらんぞ」
「今始めて報告しましたゆえ」

人を食ったような答えに、再び全身の血が煮えくり返りそうになるフィリップ3世。視線を下げたまま、ゴビノー伯爵は続けた。

「従来陛下は芝居や新聞への検閲を和らげるようにと仰せでした」

歯噛みをしているのかフィリップ3世の唇は歪んだ。確かにフィリップは即位以来、法院に対して口酸っぱく検閲の緩和を要請していた。王座につくはずのない気楽な立場の王族として市中に出て市民と交わることを好んだ彼は、法院参事官の検閲が市民から批判されていることをよく知っていた。また個人的にも歌劇好きのフィリップ3世は、検閲などという無粋なものが芝居の質を落としている事が許せなかった。人気取り政策と個人的な実益が合わさり、フィリップ3世は法院に対して検閲の緩和を打診したが、高等法院はなんだかんだと理由をつけてそれを拒否した。それが急に検閲を緩和したという。高等法院長は顔を挙げ、いかにも困ったような表情で言った。

「本年度予算で法院は予算削減と言う結果になりました。法院と致しましても経費削減には取り組んでおりますが、犯罪や裁判と言うものはどうすることも出来ません。更に本年はチェルノボーグ監獄の改修もあり、予算が底をつきかけております。そこで試験的措置としまして、従来陛下が主張されていました検閲の緩和を行ったというわけです」
「・・・」

フィリップ3世は何も言わない。今何か言えば、そのまま目の前の老人を殴り殺してしまいそうだったからだ。

「何かお気に触る記事でもございましたか?」
「・・・いや、そんなものはない」
「申し訳ございません。人員も予算も限りがある中でやっておりますので。監獄の改修工事にいたしましても、裁判にしましても手を抜くわけには行かないのです。公平・公正なる裁判の維持こそ、治安維持の要でございます」

再び頭を下げた法院長から視線を外すと、フィリップ3世はたまったものを少しずつ吐き出すかのように長く息を吐いた。

「・・・ご苦労だったゴビノー高等法院長。卿の変わらぬ忠誠に期待する」

ゴビノー伯爵は入室したときと同じように深々と頭を下げると、杖で体を支えながら退出した。そして砂漠で行き倒れたミイラを思わせるその痩躯が完全に見えなくなるのを確認してから、フィリップ3世は王錫を床に叩き付けた。


「あんのクソ爺ィ!!」




「やられたな」
「ああ、やられたよ」

トリステイン王国財務卿のルーヴォア侯爵の言葉を否定するものを、もしくは反論するものを、宰相のエギヨン侯爵シャルル・モーリスは持ち合わせていなかった。ここ数日で急に濃くなった隈。下顎全体を覆う髭が乱れているのは、身だしなみを気にするほどの余裕すらなかったということだろう。宰相執務室の椅子に力なく体を預ける侯爵を、ルーヴォア侯爵はどこか醒めた視線で見ていた。

「君は知っていたのか?」
「・・・宰相閣下が何を指して尋ねているのかはわからないが、王女と王太子の一件についても、王太子の所在も私自身は把握している」
「そうか、知っていたのか」

エギヨン宰相は力なく呟いた。亡きフランソワ王太子の側近として第1次エスターシュ政権崩壊後に辣腕を振るった貴族政治家の面影はそこにはなく、ただの疲れた初老の貴族がそこにいた。それがルーヴォア侯爵を苛立たせた。

「しかし嫌われたものだなリッシュモン(外務卿)も。同じ法服貴族だろうに、ゴビノー高等法院長も惨いことをする」
「あの男は国を売ったのだ!大逆罪で縛り首にしてやる、私の首をかけてもいい!」

ゴビノーの名が出た瞬間、エギヨン侯爵は目を見開いて怒鳴った。怒髪天をつく、大変な剣幕である。どうやら完全には腑抜けたわけではないようだと心の中で笑みを浮かべたルーヴォア侯爵だが、しかし彼は同時にクリスチャン王太子との一件が破談となった時点ですでにエギヨン政権は死に体であるとみなしており、すでに辞任カードは政治的にもましてや政局的にも価値をなさないものと考えていた。さすがにそれを口に出すことはしなかったが。

「証拠はないのだ。軽々しく決め付けて言わないほうがいい」
「ならば君はあのたわ言を、金がないから新聞検閲だけを止めたと言うあのふざけた物言いを信じると言うのか?」
「そうは言わないが・・・」
「法服貴族出身のリッシュモン伯爵が法院に批判的であったことは誰でも知っている。わざと検閲をパスさせたに違いないのだ!」

机を拳で殴りながら言うエギヨン侯爵。ここ数日の心労と不安が一挙に爆発したようだ。そしてその推察は恐らく正しいのだろうとルーヴォア侯爵も考えている。法服貴族-法院参事官や司法官を始めとする高等法院の高級職を事実上世襲する貴族である。外務卿のリッシュモンは法服貴族出身だったが、検閲を始めとした法院のあり方に批判的であったため外務省に入省し、外務卿にまで上り詰めた。そんな彼を法服貴族が嫌っていることは知らないものがいないほど有名な話だ。

「この椅子が欲しいならいつでもくれてやる。しかし、マリアンヌ王女と、陛下と、ひいてはトリステインの名誉が甚だしく損なわれる危険性がありながら、あの爺は私怨でそれを見逃したのだぞ?!そんなことが許されていい道理はない!」
「・・・君の言うことはすべては状況証拠でしかない。確たる証拠はないし、ゴビノー高等法院長の言い分は筋が通ったものだ」

元々フィリップ3世が検閲に批判的だったのは事実だ。それを出されればエギヨンやルーヴォア侯爵も批判出来ない。今のトリスタニアにあってゴビノー高等法院長ほど強かな、面の皮の厚い人間はいないだろう。ゴビノー伯爵は法院の最高意思決定機関である大審議会議長時代、経済失政により財政危機を招いたフィリップ3世の弾劾決議案をほのめかせ、第1次エスターシュ大公政権の成立に貢献した。ところが高等法院長に就任するや否や、エスターシュの法院改革(権限削減)にはサボタージュを決め込んだ。そして今度は大公派と貴族派(反大公派)の対立を巧みに利用しながら、ある時は大公と協力し、またある時には反対するという虚々実々の駆け引きを繰り返しながら法院予算を吊り上げた。無論その間には法院内での反対派を絞り上げ、院内での自身の勢力を確固たるものにした。まったくもって手に負えない老人である。

-それにしても

ルーヴォア侯爵は薄ら寒い思いがした。国家の中の国家、王の暴政を防ぎ、相手が王であろうと王政府であろうと「駄目なものは駄目」と突きつける高等法院という強固な組織が監視していたからこそ、トリステインは今まで決定的な腐敗や暴政、そして失政がさけられてきた。しかし何時までもその構図が成立するわけではない。法院の権限縮小は国家の危機につながると考えるのは、法服貴族としてはもっともなことだが、それが組織と権益を守るだけのものだとすればとてつもない腐臭を放つのだろう。

もし仮にゴビノー高等法院長が意図的にあの記事をパスさせたとするなら、これは一種の自爆テロだ。エギヨン政権は法院改革の一環として、法院の立法輔弼権を元老院へと移管しようとしており、それに反対する法院を予算で締め上げていた。財務卿であるルーヴォア侯爵はそうした強攻策を心配していたのだが、予感は悪いほうに的中してしまった。今回の件で法院は、古巣が同じでありながら法院に批判的なリッシュモン外務卿を潰し、エギヨン政権とフィリップ陛下に強烈な意趣返しを行ったことになる。それによってトリステイン王国の権威が傷つくことをわかっていながらだ。そこからは腐臭しか漂ってこない。

「まあゴビノー伯爵も歳が歳だ(69歳)。あと10年や20年も生きるわけではないだろう。それよりも今はこちらのほうが問題だ」

ルーヴォア侯爵は鞄から件の新聞記事-『トリスタニア・テレグラフ』ケンの月(10月)フレイヤの週(第1週)号を取り出して広げた。エギヨン侯爵の目に赤いインクで囲まれた記事が飛び込んでくる。ここ数日何度も睨み返し、内容はもとより一字一句覚えてしまった。


-○○○○○王女殿下におかれてはハノーヴァー王国クリスチャン王太子殿下とのご婚約が内々に決定したり-


何度見ても変わらない。○が5つあるだけだ。しかしその○に何が入るかなどいまさら言うまでもない。

「記事の中でわざわざここだけ敬語だからな。伏字の意味がない。市中では既に噂になっていると聞くが、どちらにしろ情報というのは遅かれ早かれ漏れるものだ」
「しかし今は時期的に不味い」
「あぁ、王太子の一件が片付いていない現状では特にな・・・問題はこの情報がどこから漏れたかだ。ハノーヴァーにザクセン、我がトリステインとアルビオン。どこから漏れても可笑しくないが、どこからも漏れそうにない」

机の上に置かれた新聞記事を忌々しげに見つめているエギヨン宰相に、ルーヴォア侯爵は元老院副議長から得た情報について話し始めた。情報は確かに武器になるが、何でもかんでも抱えこんでいればいいというものではない。

「この新聞社、トリスタニア・テレグラフ社だが5年前に身売りされている」
「確か元々は経済紙ではなかったか?」
「前の経営者はトリステイン第三国立銀行を中心とした金融グループだったからな。それが経営陣が代わってから大衆紙として紙面を刷新したらしい。いまでは経済紙の見る影もないが。それで今の経営陣だが-」
「どこの誰だ?」
「筆頭株主はハンブルグのストックマン商会だ」
「・・・北部都市同盟か」

エギヨン侯爵は腕を組んで唸った。ハンブルクと言えば旧東フランク地域の経済圏を支配する北部都市同盟の同盟参事会が置かれている都市。そして貴族への出資を通じて、ハノーヴァー王国を牛耳っていることは、知る人ぞ知る事実だ。トリステインとの接近を嫌ったハノーヴァーの親ガリア派が仕掛けたということか?いや、あの都市同盟のことだ。独自のルートで情報を得たのかもしれない。ハノーヴァー国内における経済的特権が失われることを恐れて・・・様々な可能性と選択肢を頭の中に並べて考え始めたエギヨン宰相だが、ルーヴォア侯爵の次の言葉で更に選択肢が増えることになる。

「都市同盟とて一枚岩ではないかもしれん」
「・・・まさか、あの都市同盟が」
「ハンブルクと他の都市の経済利益が常に一致するとは限らないだろう。まあ、あくまで可能性だがな」

エギヨン侯爵は再び腕組みをしながらうなった。



〔ケンの月(10月)ヘイルダムの週(第2週)ユルの曜日(2日目)〕-トリステイン王国 王都トリスタニア チクトンネ街 『魅惑の妖精亭』-

王都トリスタニア最大の繁華街であるチクトンネ街は日が昇る頃に眠りにつき、日が沈み始める頃に目覚める。昼夜が逆転した生活サイクルは、酒場や賭博場、そして色町が集中する夜の町ならではのものである。そのため昼間は多くの店は「準備中」の札がかけられている。

『魅惑の妖精亭』もそうした夜に生きる酒場の一つである。この店は一見するとただの居酒屋だが、チクトンネ街の中でも有名な店であった。この店は女性店員にそろいの可愛い制服を着せて接客させている。しかし女性店員に接客させる店はここチクトンネ街では珍しくともなんともない。ならば何故有名なのかと言うと、女性店員の身持ちの堅さが有名なのだ。往々にして酒場が売春宿を兼ねる例は珍しくないが、妖精亭は安宿も経営しているがそうした副業に一切手をつけていない。

自称王都一の美男子という貴族がこの店を評して曰く「この店のいけない娘ちゃん達は、させそうでさせない破れ傘さ」だという。男性客に気のあるような態度を見せながら、最後の一線は決して越えさせない。しかし多少のセクハラはさせてくれるため、男性客は「もしかしたら」という淡いスケベ心を消すことが出来ない。そうした男性客からいかさず殺さず搾り取るのが、この店のモットーである(ある意味もっとも性質が悪い)。そのために妖精亭は他の店に比べて店員の教育に力を入れていた。開店一時間前ともなると、妖精亭からは恒例となった発声練習の声が聞こえてくる。

店中には体格のいい若者がいた。年の頃は17,8.マッスルと言う言葉がピッタリくる。ボディービルダーのような逆三角形の体に、服の上からもわかる見事な胸筋。力を入れれば服が破れてしまいそうなほどのボリュームだ。男性ホルモンの塊のような若者は、女性店員に接客を教えていた。

「いらっしゃいませお客様、はい!」
「「「「いらっしゃいませお客様!」」」」
「お客様は神様です!」
「「「「お客様は神様です!」」」」
「飲ませて食わせてふんだくれ、ばふぇ!」
「スカロン!オマエは何をくだらねぇこと言わせてるんだ!」

スカロン-そう呼ばれた若者は、突如厨房から飛んできたお玉で出来たコブをおさえながら反論した。

「な、何するんだ親父!」
「馬鹿野郎!」

今度は鍋のふたが飛んできた。慌ててよけるスカロン。シュールな光景である。中央広場でやれば金が取れそうだ。

「そういうことは思ってても言うもんじゃねぇ!腹の底に収めておくもんだ!」
「な、なるほど!やっぱりすげえよ親父!」
「あたりまえだ!もっと俺を褒めろ!敬え!」
「親父い!!」

親父!息子よ!という、暑苦しいことこのうえない親子の愛の劇場が繰り広げられるが、女の子達も慣れたもので眉一つ動かさない。女の子達は換気をするため窓や戸を空けた。

正面入り口にまわった女性店員が扉を空けると、店の前には一人の男性が立っていた。店員がこの気の速い客に準備中であることを知らせようとしたが目線が合うと男性は軽く頭を下げた。店員も慌てて頭を下げ返す。

「お客様、大変申し訳ありませんが」
「いや、客ではない」

客ではないと名乗った男性を女性店員は見返した。初老に差し掛かったと思われるその男性の灰色掛かった髪は、どうやら元々は黒髪であったのが白髪が混じって灰色に見えたらしい。トリスタニアでは珍しい黒髪に驚きながらも、女性店員は男性の精悍な顔と鋭い眼差しに「ちょっと年上だけどタイプかも♪」と思った。

「娘さん。スカロン君はいるかね」
「はい、あちらに」

祖父ほどの年齢の人が孫ほどの自分に丁寧に尋ねたことに驚きながら、女性店員は厨房を指差し-そして後悔した。相変わらず視線の先では「親父!」「息子よ!」というよくわからないやり取りが続いている。それを見ると男性は軽く眉間を揉んだ。

「スカロン君」
「親父!」「息子よ!」
「スカロン君」
「親父!」「息子よ!」

「スカロン!!」

突如男性は店全体が揺れるような声で一喝した。開店準備に追われていた同僚の女性店員は何事かと振り返り、あれだけ自分達の世界に熱中していた店長達も驚いてこちらを見ている。スカロンは男性が誰であるかを確認すると、まるで上官に呼び出された下士官のように慌てて駆け寄った。

「--さん、トリスタニアにいらっしゃっていたんですか」
「近くまで寄ったものでな」

さきほどまで男性の相手をしていた店員は、モップで床を磨いていた同僚に尋ねた。

「ねえ、あのダンディーなおじ様は誰なの」
「何、あんたおじ様趣味なの?」
「そういうわけじゃないけど、ちょっとかっこよくない?」
「あーわかるわそれは」

布巾で机を拭いていた同僚が口を挟む。

「渋いもんねあの人。着てる物は田舎の服だけどセンスはいいし。どこか影があるのも魅力的よね」
「それで誰なのあの人」
「あ、そうか。あんたはしらなかったわね。今度スカロンさんがタルブ村からお嫁さんを迎えるでしょう」
「ああ、ワインの仕入れに行って一目ぼれしたっていう」
「そう、エドワーズさん。その人のお爺さんだって」
「え?お爺さん?」

店員達はスカロンと話す男性を見た。スカロンの後ろでは息子以上に暑苦しい体格をした店長が直立不動で立ち尽くしている。身長は160サントぐらいだろうか?しかしただ立っているだけなのにもかかわらず、男性は実際の身長以上に大きく見える。貴族でもあそこまで堂々とした立ち振る舞いのできる人間はそうはいない。人格の高潔さとでもいうべきものが内面からにじみ出ていた。

「若いわね」
「あれならありね」
「むしろありね」
「ちょ、ちょっと!私が先に目をつけたのよ!」
「ほらほら皆!」

騒いでいるとスカロンがパンパンと手を叩いた。

「開店時間が迫っているぞ!さぁ働こう!」

スカロンの言うとおり、直に開店時間となりお客で店は一杯となった。女の子に渋いと騒がれた男性は、カウンター席で一人ちびちびとエールを飲んでいる。肴は未だ熟していない大豆を房ごと収穫して塩水で湯がいた「エダマメ」。男性が発案したと言うこのつまみはシンプルながら美味いということで妖精亭の看板メニューになっている。

「おい、あれ見たか?」
「ああ、先週のトリスタニア・テレグラフだろ。名前は伏せてあったが、ありゃマリアンヌ様のことだよな。法院命令で発行停止処分になったし、間違いないだろうな」

同じカウンター席に座った兵士らしき二人組みの会話が聞こえてきたが、会話を盗み聞きする趣味のない男性はそれを聞き流していた。

「馬鹿野郎、そりゃ先週の話だろ」
「あ?なんだって?まだ何かあるのか」
「今週のトリステイン・タイムズだよ」
「お前、あんな高い経済紙を購読してるのかよ」
「そんなわけないだろ。隊長のをかっぱらってきたんだよ。あの馬鹿最近株にはまっているから・・・いや、それはいいんだ。それでだな、これによると王政府はクリスチャン王太子とマリアンヌ様を結びつけることで、ハノーヴァーとトリステインを一緒にしようと考えてるらしい」
「は?お前何言ってんだ?」
「お前は酒飲むと頭の回転が遅くなるな!まぁ飲んでなくとも遅いけど。簡単に言うとだな、トリステインとハノーヴァーが結婚して同じ国になろうってことだ!」
「はあ?!何だそりゃ?」

酔いも合わさって兵士の声は大きいが、それでも兵士の声は酒場の雑音の中ではさして目立つものではない。男性も兵士達を咎めるようなことはしなかった。酒場は楽しむところであり、周囲の客の迷惑にならない程度なら騒いでもいい場所である。

「あの日和見野郎の腰抜けといっしょになろうってことか?」
「そういうことらしい。ほらここだ。ベタ記事の最終欄のところだ。いいか、読むぞ?『青きマンティコアと白百合が同じ籠に入ろうとしている。馬鹿なことなり』、どうだ?」
「・・・なんだそりゃ」
「お前何にも知らないのな。青いマンティコアっていえばオルデンブルグ家(ハノーヴァ王家)の紋章で、百合は-」
「そんな事は俺でも知ってるさ。俺が言ってるのはそれだよ、その記事だよ。謎賭けじゃあるまいし、なんだってそんな回りくどい言い回ししてるんだよ」
「そりゃ検閲にひっかからないためだろう」
「でもそれじゃ何書いてるか殆どわからねぇぞ」
「違いねぇ!!」

兵士達は顔を合わせて笑った。彼らが帰ると、厨房で兵士の話を聞いていたスカロンがエダマメのお代わりを差し出しながら言った。

「聞きました、さっきの話?」
「・・・」
「ここ最近城下はあの話で持ちきりなんです。以前からマリアンヌ様のお相手探しは色々と噂されてたんですけど、ここ一月の間に色んな話が一気に出てきまして。といっても殆ど根も葉もない噂なんですけどね。やっぱり有力なのはハノーヴァーの王太子みたいです」

黙ってエダマメを房から出しながら口に運ぶ男性にたいして、スカロンは濡れた皿を拭きながら職場で仕入れた噂話を得意になって披露する。

「さっきの兵隊さんもですけど、最近はどこでも新聞が飛ぶように売れてるんですよ。法院の検閲にひっかからないように隠語で情報が隠されているとかいう噂が広がったんで。中には新聞屋が新聞を売るためにでっち上げたデマだなんていう人もいますが。それで・・・」

3杯目のエールを飲み干してカウンターにコップを置くと、それまで黙っていた男性が始めて口を開いた。

「スカロン」
「なんでしょ・・・あいてッ!」

突如立ち上がった男性に拳骨で殴られ、頭を抑えるスカロン。ワイン作りで鍛えた腕力は厨房で鍋を振るう親父とは比べ物にならないぐらい硬くて重い。涙目になりながら見返すと、男性は不機嫌そうな表情を崩さずに言った。

「噂話をしたい気持ちはわかる。酒場と言うのは噂話の坩堝だからな。聞き流すのも限度がある。しかし真偽の定かでない噂話を真実のように語るな・・・下らん噂話をしている暇があるなら働け。噂話に現を抜かすような人間にエドワーズはやれん」

男性の言葉にスカロンは顔を赤くして俯く。エドワーズの祖父に対して見栄をはろうとした先ほどまでの自分を恥じ入るばかりだ。すると再び後ろから親父に頭をはたかれた。

「すいませんタケオさん。本当なら親である私が言わなければならなかったのに」

タケオと呼ばれた男性は黙って席に座ると再びエールを口に運び始めた。タルブ村一番の働き者は、同じく村一番の酒豪でもある。もとより口数の多い人物ではない。だがこの日は珍しく、本当に珍しく6杯目となるエールを空けると、ポツリと呟いた。


「・・・陛下」


この国で陛下と呼ばれる人間はただ一人。英雄王フィリップ3世陛下だけだ。しかし黙って食器を拭いていたスカロンには、男性の漏らした「陛下」という言葉が何故か国王陛下のことではないような気がした。



[17077] 第58.5話「外伝-ペンは杖よりも強し、されど持ち手による」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:e9dae18d
Date: 2010/10/19 12:54
「断言しよう。新聞の中で、唯一信頼に足る部分を含む場所がある。それは-広告だ」

トマス・ジェファーソン(1743-1826)

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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(外伝-ペンは杖よりも強し、されど持ち手による)

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「ペンは杖よりも強し」-新聞・出版業界を始めとして、文章を生業とするものなら一度はこの言葉を聞いたことがあるだろう。これは元々、実践主義を唱える新教徒の聖職者達の言葉である。ブリミル教の聖典である『始祖の祈祷書』を忠実に解釈すべしという新教徒は、その正しい教え(解釈)をめぐり議論を繰り返した。しかし相手は異端のレッテルを貼りつけて議論を拒否する宗教庁。議論を挑んだところで火炙りになるのがオチである。

ミサすらままならない現状に、新教徒派の聖職者達は、自分達の議論や解釈を記した小冊子を配り歩くことで信徒との繋がりを維持することを考えた。結果的にこれが当たり、実践主義は少しずつではあるが新たな信者を獲得していった。50年ほど前に誕生した新聞と言う新たなメディアツールも新教徒に味方する。詩の一節、広告のフレーズ、もしくは新聞小説に名を借りた実践教義の教えに、紋切り型の宗教庁の教えに飽き足らない知識階級は飛びついた。宗教庁は当初それに対して従来どおり杖の力と『始祖の盾』という宗教的権威をもって封じ込めようとしたが失敗。『ロマリア通信』『教皇の友』といった新聞を通じて信徒達をつなぎとめようとしたが、何百年も理論武装し続けた新教徒と、権威にあぐらをかいていた宗教庁では勝負にならなかった。結果、旧東フランク諸国では中産階級を中心に新教徒は拡大し続けており、ベーメン王国では貴族の間でも新教徒がいるというのは歴然たる事実である。新教徒はまさにペンの-言論の力によって、杖で封じ込めようとした宗教庁に対抗出来るだけの勢力を築き上げたのだ。

こうした前例を背景に語られるのが先の言葉だ。宗教庁の手前、おおっぴらに口に出して言うことはしなかったが、それでもこの言葉はペンを持って生業にしようとする若者にとっての指針であり、目標でもあった。だが、この言葉には続きがある。

「ペンは杖よりも強し。されど持ち手による」



ケンの月(10月)も残すところあと僅かとなったリュテイスに、午後6時を知らせる教会の鐘が鳴響く。ひとつ、ふたつと間隔をあけて規則正しく鳴らされる鐘が少しずれているように感じるのは、鳴らされる鐘がシレ河の中洲にある大聖堂のものだけではないからだ。地区ごとの教会は時計に従い鐘を撞く。30万人もの住人が住む大都市リュテイスでは、聞く場所によって音が遅れて聞こえてくるというわけだ。だがその音の遅れやずれは決して不快なものではなく、さながら聖歌隊が奏でる讃美歌のようである。神がつくり、始祖が開拓したこの世界に生きることの素晴らしさを、どんな祈祷書の名文よりもその鐘が雄弁に物語っている。

鐘が終わると、教会の戸が開き、ミサに出席した市民が続々と出てきた。リュテイス公設市場では店じまいが行われ、町のあちらこちら明かりが灯り始めている。日が暮れるのと同時に就寝する熱心な信徒がいる一方で、盛り場はこれからが仕事の本番だ。宿屋に酒場、カジノに花街と、深夜に至るまでその喧騒が途絶えることはない。

『転がる林檎亭』もそんな大衆酒場の一つである。日々の食事を少し節制すれば肉と酒が味わえる程度の価格設定の店には、マントを羽織った兵士らしき人物から、腕っ節の強そうな職人まで多士済々の客が同じようなアルコール臭い息を吐き、愚にも付かない話で笑いあいながら、つかの間の休息を楽しんでいた。店の主人はカウンター席もテーブル席もほぼ満席という客の入りに満足していたが、ただひとつだけ気に入らない点を上げるとすればカウンター席右端の客の存在である。

-なんでぇ、大の男が酒も飲まねぇで

職業柄、主人は様々な客層との付き合いがある。一人は間違いなく物書きだ。なまっちろい体つきにチェーンの付いた両眼鏡は明らかにこの人物が頭脳労働者であることを示しており、手や袖についたインクの汚れがそれを裏付けている。もう片方の客は聖職者らしい。目元が隠れるほどすっぽり被ったフード付の外套を脱いだ時に、胸元にきらりと輝く聖具が見えた。だが、この当たりでは見ない顔である。遍歴の修道士か何かか。とにかく先ほどから酒だの料理だのを勧めているのだが、二人とも最初に注文した料理とビールですらまともに口をつけていない。辛気臭さは酒場の敵だ。食べる気がないのならさっさと出て行って欲しいものだが、腰の重いこと重いこと。わざとらしく咳払いしてもこちらを見もしない。

-こういう手合いを相手しても無駄だな。

『林檎亭』の主人は辛気臭い客の相手をすることを諦め、給料日で景気のよさそうな常連客にサービスの鶏の塩焼きをすすめた。


「最近は酒場の質も落ちたものですな。客を選り好みするとは、偉くなったものです」

遍歴の修道士と主人が評した人物が、日に焼けた肌を軽く弛めながら皮肉たっぷりに発した言葉に、ガリア三大紙の一つ『ダッソー』の外交記者であるテオフィル・デルカッセは「そうですな」と心にもない返事を返した。主人が自分達を倦んでいることはわかっていたが、悪いが今は酒が飲めそうな気分ではない。

「まずは御礼を申し上げるべきでしょうか」

そう呟きながらデルカッセは鞄から書類を取り出し、カウンター席の狭いテーブルの上に置いた。

「私が記者生活の中で培ってきた人脈と情報網を全て使い調べさせました。その結果です」
「それは、大儀ですな。酔うた生臭坊主の戯言とお思いにならなかったのですか?」
「・・・貴方の話には単なる御伽噺以上のものがありましたからな」

旧知の新聞記者や政府当局者に依頼し、昨日届いた調査結果は、今、右横に腰掛けるこの胡散臭い修道士が、2週間ほど前に酒の席で自分に語った「御伽噺」が全て真実であることを示していた。

「ここ最近のトリスタニア・テレグラフやトリステイン・タイムズの記事も貴方の、いや、貴方達の差し金ですかな」
「祈祷書の解釈ならともかく、俗世のことには疎いものでして」
「・・・貴方は」

カウンターに左肘をかけ、眼鏡から垂れ下がったチェーンを揺らしながらデルカッセは修道士を見た。汚れの目立つ外套の下に見える修道服は擦り切れており、胸元に光る聖具がなければ浮浪者と見まごうばかりだ。俗世との関係を絶つ修道士は、清貧と貧乏を履き違えている人間が多い。

「私ですか?見ての通り、ただの修道士ですよ」

修道士は木のコップを口元に運びながら言った。既にエールビールは温くなり気が抜けているはずだが、彼はそれをさも美味しそうに喉を鳴らして飲む。当然デルカッセはそれで納得しない。彼の話した「御伽噺」はただの遍歴の修道士の耳に入るような情報ではなかったからだ。

「貴方は迷っておられる。これを記事にするか、それとも・・・握りつぶすか」

視線を書類に落としていたデルカッセはその言葉に顔を上げた。腹の探りあいと見せかけて、いきなり切り込んできた。歴戦の商人でもこうはいくまい。まったく、たいした修道士様だ。

「ダッソーほどの新聞社ならこの程度のことを調べることなど、造作もないことでしょう。しかし貴方はそれをせずにご自身のルートで調べることにした。賢明な判断です。ヴェルサルテイルの顔色を伺うしか能のない経営者がこの話を握りつぶすことは容易に想像できますからな」
「・・・私がこれを握りつぶすことは考えなかったと言うわけですか?」

ここまで言われてさすがにデルカッセも腹に据えかねるものがある。真面目な聖職者ならともかく、同じ穴の狢でありながら、どの面を下げて自分に説教するか。デルカッセにはこの修道士が実に醜悪なもののように見えた。しかし修道士は気分を害した様子もなく、神の教えを説くような調子で言葉を続けた。

「しかし貴方は再び私の元へとやってきた。ご丁寧に話の裏を取った上で」
「・・・」
「やはり貴方は私どもが考えていたとおりのお人だ」

初めて笑みを見せた修道士に、デルカッセは心底嫌そうな表情を浮かべて、こちらも冷め切った川魚の生姜蒸しにフォークを突き刺した。

「・・・貴方がたが誰であろうと、私には関係のないことだ」

「これが記事になることで得られる利益にも関係ない」とデルカッセは付け加えた。もしこれが表ざたになれば、ここ最近表面化しつつあるトリステインとハノーヴァーの関係強化を目指した動きは頓挫するだろう。では誰が利益を得るか?ハノーヴァー国内に経済的特権をもつ北部都市同盟か、ハノーヴァーの親ガリア派か、英雄王の名の下に危うい結束を保つ水の国。どれもが怪しく思えてくる。だが、それは一介の新聞記者に過ぎない自分には関係のないことだ。

「デルカッセさん。私は新聞記者と言う仕事には詳しくありませんが、何を迷うことがあるのです?御伽噺や生臭坊主の戯言でない事が証明できたのであれば、記事にすればよいだけの話ではありませんか。それが貴方の仕事でしょう?」
「聖職者はいざ知らず、顔も見たことのない人間の思惑に乗るのは面白くないと感じるのが人情と言うものでしょう。違いますか?貴方は-いや、貴方の後ろにいる人物はそれを私に望んでいるのでしょうが、私は道化になることなど真っ平ごめんです」
「しかし貴方は再び私の前に現れた。こうして記事に出来るだけの証拠を持って」

繰り返された修道士の言葉に、デルカッセの表情が歪んだ。

「異端の者の言葉を使うのは、修道士として心苦しいのですが・・・ペンは杖よりも強しという言葉があるそうですね。たとえ相手が国王であれ教皇であれ、自らの健筆だけを頼りに生き抜く記者としての職業論理だそうで」
「・・・確かにあります。ですが修道士たる貴方が俗世間のことに口を出すこと自体、大きなお世話ではありませんか」
「お節介なのは生まれつきでしてな」

飄々とした表情のままそう言ってのける修道士に、デルカッセは険しい顔を崩さない。

「新人の頃なら私は迷うことなくこれを記事にしたでしょう。ですが今は違います。妻も子も、そして会社のことも考えなければならない立場になりました」
「筆で杖と戦うべき記者である貴方がそれを言ってはおしまいではありませんか」
「貴方に言われるまでもない!」

カウンター席を激しく叩きつけたデルカッセに、一瞬周囲の客や店主の迷惑そうな視線が集まるが、直に自らの仕事や会話に戻っていく。デルカッセは一旦眼鏡を外すと、口の中の苦いものを飲み込むようにビールを流し込んだ。

新聞が一つの産業として成立していく過程の中で、自然と筆の勢いは衰えた。文章で生計を立てることが出来るのはごく一部の劇作家か小説家に限られており、それ以外の、特に印刷業界や新聞社は商会や企業からの広告収入や、政府・教会関係といった公的な機関からの仕事を収益の柱としていたためだ。中道穏健な-言い方を変えれば当たり障りのない論調が中心となり、過激な政府批判や教会批判は自粛するか、もしくは殆ど影響力のない壁新聞でしか書かれなくなった。無論、検閲模型供していることは間違いないが、なにもそればかりが原因ではない。そしてここガリアでは、自主規制の傾向がより顕著であった。

『太陽王』ロペスピエール3世は、おそらくハルケギニアで最初に新聞に目をつけた権力者だったと思われる。広大なガリア王国では、ジェリオ・チェザーレ時代の名残かロマリア語の影響の強い南西部、イベリア半島に近いアテキーヌ地方、浮遊大陸と繋がりのあったノルマンディー地方など、実に地域の特殊性あふれたガリア語が話されており、それが中央政府の統治の妨げとなっていた。そこでロペスピエール3世は誕生したばかりの新聞に目をつけた。税制での優遇を行うのと同時に、王家の御用商会や銀行に命じて大々的に出資を行わせ、公用語であるガリア語を使用することを唯一つの条件として、検閲も殆どフリーパスとしたのだ。頑強な抵抗が予想された地方の農村部は娯楽に植えており、人々は競って新聞を求めた。結果、ロペスピエール3世の治世末期には1500万国民の殆どが公用語を話すようになった。太陽王の新聞優遇はそれだけに留まらない。彼は大衆が自分に何を望んでいるか本能的に理解していた。大衆が自分以上に戦争が好きであることを知っていたロペスピエール3世は、戦場には必ず新聞記者を従軍させ、戦場の記事を書かせた。最大の娯楽-戦争を書いた新聞は飛ぶように売れ、度重なる外征によって史上最大の領土を築いた太陽王は国民から抜群の人気を誇った。太陽王の持つ杖は、新聞記者の持つペンを容易にねじ伏せたのだ。

ハルケギニアでも有数の新聞大国となったガリアだが、新聞はその繁栄と引き換えに多くのものを失った。さすがに治世末期にもなると国民も何時までも王座と生にしがみ付く老人に飽きた。事実上ザルとなっていた検閲が内務省に復活したのもその頃である。しかしノウハウが失われていたガリアの検閲は、トリステインやロマリアほどの厳しいものではなかった。そもそも事前検閲などしなくとも、新聞が勝手に王政府の気持ちを忖度するようになっていたからだ。多かれ少なかれどの新聞も、心の中の筆を折るのみならず「自主規制」という形で王政府に媚を売っているのが現状だ。

多くの記者がその現状を憂いており、そして憂えるだけだった。ここにいるデルカッセもその一人である。そして彼も多くの記者と同様、現状との妥協を重ねるようになった。それが恥だとは思わない。記者とて人間である。ほとんど世論に影響のない壁新聞よりも、多少自分の主義主張を曲げようとも、多くの読者を相手に筆を振るいたいと思うのが人情と言うものだ。何より、今の自分には養うべき、守るべき家族がいる。身一つであちこち飛び回れた若い頃とは違うのだと、そう言い聞かせていた。

「・・・デルカッセさん。貴方の中ではすでに答えが出ているのではありませんか?」

修道士の言葉に、デルカッセは答えなかった。答えられなかったのだ。

「私は修道士です。妥協をせず、世俗のしがらみから自由な立場で信仰にのみ生きることが出来ます。同時に、世間というものが私のように好き勝手なことをして通ることが出来ない場所だということも十分に承知しております」

修道士は言葉を選びながら、年端も行かない子供に教えを説くような調子で語る。しかしこの説教は迷える信者に進むべき道を指し示すためのものなどではない。むしろそれとは正反対のものだ。全ては自分達の目的を達成するため、自分達の利益を得るためのものである。無論デルカッセはそのことを十分に理解している。

そう、理解している-ならば何故、自分は今ここにいるのだ?

「・・・確かに情報を頂いたことに関しては感謝しています。ですがこれを記事に出来るだけのものにしたのは私です。これは誇張でもハッタリでもありません。事実です。つまりですな、これを・・・つまり、これを記事にするのもしないも・・・」

「そう、貴方次第です。決断するのは私ではありません」

間髪入れずに挟まれた言葉に、デルカッセは思わず怯んだ。修道士はとっくの昔に空になっていたコップを置くと鋭い視線を投げかける。

「テオフィル・デルカッセ-貴方です。私共は-いえ、私は貴方に食事代のお礼に話を聞かせただけ。それを記事にしたのは記者である貴方の尽力の賜物。私は何もしていません」
「・・・何がおっしゃりたいので?」
「わかっていることを尋ねるのは、よろしくありませんぞ」

修道士は再び人懐っこそうな笑みを見せた。話は終わったといわんばかりに、懐から自分の分の料金だけを取り出すと席を立った。離れていく修道士の背中を見ながら、デルカッセはふと思い出した。

-そういえば名前を聞いていなかったな。

デルカッセは眼鏡のチェーンを弄るのを止め、ポケットに突っ込む。そして取り出した自分の右手をじっと見つめた。ペンタコが硬くなって小さな瘤のようになっており、手に複雑な起伏を形作っている。インクが染み付いたその手を、妻は綺麗な手と褒めてくれた。思えばあれが馴れ初めだった気がする。

「そうか、まだあったのだな」

デルカッセは唐突に気がついた。新聞記者になることを目指し、ダッソーの門を潜り抜けたときに確かに燃え盛っていたそれは、妥協と言う名の言い訳を覚えることで消えたものだとばかり考えていた。しかしそうではなかったのだ。勢いは衰え、圧倒的な現実を前に今にも消えそうになりながらも、確かにそれは自分の中にあり続け、長く燻り続けていたのだ。勇気と言ってもいい。それはまだ自分の中に確かにあったのだ。消えてしまえばそれっきりのその炎は。あの修道士はきっかけでしかない。なぜなら火種は元々自分の中にあったのだから。もはやそれに気がつかないふりをしていた頃には戻れない。

ゲフンッとわざとらしく店主が咳き込む。柱にかかった時計を見ると既に3時間近くが経過していた。

「店主、勘定を。それとカンテラを借りられるかね」
「えぇ、構いませんが・・・失礼ですが」
「ダッソーの受付でデルカッセと言ってもらえばわかる」
「あ、ダッソーの、それはそれは!」

ダッソーの名前を聞いた瞬間、店主の態度は露骨に変わった。揉み手をせんばかりの主人の見送りを受けて、デルカッセは店を出た。手に持ったカンテラから漏れる灯りが石畳を照らす。揺らぐ蝋燭の光をぼんやりと眺めながら、デルカッセは考え続けていた。

記事を載せれば、自分は間違いなく今の職を失うだろう。だがそれでもいいではないか。人生とは燃やし尽くすためにあるのではないのか?不完全燃焼でぶすぶす燻り続けるより、一気に燃え上がり、そして灰になる。あの修道士や、その後ろにいる人物は自分を馬鹿だと笑うだろう。だが道化でも構わない。笑いたい人間には笑わせておけばいい。誰に言われたから、修道士にたきつけられたからそうするのではない。自分の意志でそうするのだ。

デルカッセはポケットに入れたままであった眼鏡を取り出して掛けた。視界が明瞭になり、腹が決まったような気がする。デルカッセはもう一度自分の手を見た。この手で、この手が持つ筆で、会社を、社会を、国家を、そして文字通り世界を震撼させることが出来るのだ。今自分は、その機会とチャンスを得た。材料もある。間抜けな上司を誤魔化すことさえできれば、事後検閲の内務省など恐れるに足らない。印刷さえしてしまえばもうこちらのものだ。

知らず、顔に笑みが浮かんでいた。なんともいい気分である。こんな愉快な気分になったのは何年ぶりか。

「・・・やるか」

一瞬、デルカッセの脳裏に妻と子の顔が頭に浮かんだ。だがそれは直ぐに消え去っていた。



[17077] 第59話「政変、政変、それは政変」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:e9dae18d
Date: 2010/10/23 08:41
-『ダッソー』ギューフの月(11月)フレイヤの週(第1週)号 国際欄-

-ハノーヴァー国王クリスチャン12世が長子にしてクリスチャン・フレデリック・オルデンブルグ=ハノーヴァー王太子は現在、アルビオン南西部サウスゴータにおいて療養中であるとされる。しかしその実は違う。記者が独自に取材したところ、王太子はアルビオンへの政治亡命を図ったものである。この行動には王太子に寄り添うザクセン王国外務省の女性職員との個人的関係が影響しているものと推察される-

「・・・なんじゃあこりゃあああ!!!!」

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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(政変、政変、それは政変)

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ハルケギニア大陸の北東部、ザクセン地方の中心都市がドレスデンである。ザクセン王国の王都であるこの都市の人口は約12万人。東フランク王国時代末期に王政府が置かれ、5000年以上の歴史を持つ古都は今も尚、東フランク王国時代の面影を色濃く残しているとされる。しかしこれは5000年も前の建造物がそのまま維持されていることを意味しているわけではない。幾多の戦災と戦火によって王国時代の建造物はほぼ焼失している。ツウィンガー宮殿は跡形すらなく、王国統治院はドレスデン中央広場として市民の憩いの場となっている。それでも尚、この都市が「古都」と呼ばれるのは、東フランク王国の後継者を自認するザクセン王国が旧東フランク王国を意識しながら都市改造を行ってきた結果である。

かつて東フランク王族が居住したツウィンガー宮殿の跡地は、現在ザクセン王国の官庁街となっている。当人達は知る由もないが、ザクセン内務省庁舎のあった場所はちょうどツウィンガー宮殿の大ホールがあった場所にあたる。その最上階の大臣室で、ザクセン王国新内務大臣のフォン・ボイスト伯爵は、昨日ドレスデンに帰朝した駐在ハノーヴァー大使アントン・フォン・カウニッツ伯爵からの祝福を受けていた。

「内務大臣就任、おめでとうございます閣下」
「・・・額面どおりの言葉と受け取っていいのか、それとも単なる皮肉か、もしくは純粋な意味での嫌がらせなのか、まずはそれを聞かせてもらおうか」
「その全部だよ。それにしても君が大臣とはね。ザクセン大の同窓生として鼻が高いよ。同期の出世頭じゃないか、もっと素直に喜んだらどうなのだ?」

ボイスト伯爵は友人と言うあたりを強調したカウニッツ大使に、ただ忌々しげに鼻を鳴らすことで答えた。

「何がめでたいものか。要するに体よく後始末を押し付けられたのだ。失敗すれば数ヶ月の任期で、はいさようならのお役御免・・・出世はありがたいが、今この状況で大臣就任を喜べるものはよほどの大器か、それとも大馬鹿者に違いない」
「それでも数ヶ月は間違いなく大臣でいられるのだ。更迭される私には羨ましい限りだよ」

すでにカウニッツ大使は事態の把握と報告が遅れた責任を問われ、時機を見て更迭されることが決定している。しかしボイスト伯爵はそれがどうしたと憮然とした表情のまま切り返した。

「何を言うか。すでに聞いているぞ。外務省参事官でドレスデン勤務だそうだな。見方によっては栄転ではないか。私の場合は任期終了と同時に政治生命が終わるかもしれないのだ。閑職でもまだ先の見える貴様と同列に語ってもらいたくない」
「ふふふ、それだけ大口をたたける余裕があるのなら心配は要らないな」
「なんとでも言え。それよりブレーメン(ハノーヴァー王都)の空気はどうだった」

ガリア三大紙の一つ『ダッソー』に掲載された先の記事は、文字通りハルケギニア全土で大変な反響を引き起こした。東フランク崩壊(2998)以来の宿敵であるハノーヴァーの王太子とザクセンの伯爵令嬢が駆け落ちしたというのだから、それだけでも話題性は十分である。ガリア内務省検閲局は直ちに『ダッソー』に無期限発刊停止処分を下したが、時既に遅し。そしてそれが一ヶ月前の『トリスタニア・テレグラフ』の記事と結びつくのに、さほどの時間はかからなかった。マリアンヌ王女とクリスチャン王太子との婚約交渉に始まるハノーヴァーと水の国との同君構想や、ハノーヴァー王太子とザクセン外務省女性職員の亡命に至るまでの一連の流れや経過が公然の事実となったのだ(無論、関係各国は全面的に事実関係を否定したが)。

そしてやはりと言うべきか、まず最初に関係各国の中で事件を利用した倒閣の動きが顕在化したのが、事件の主役の一人であるクリスチャン王太子の祖国であり、貴族が国政の実験を握り、北部都市同盟の影響下にあるハノーヴァー王国であった。

「親ガリア派は大喜びしてるよ。前首相のヴィスポリ伯爵はこれを倒閣運動に使うのは乗り気ではないようだが、メッソナ党がそれで収まるはずがない。定例議会は先週からだから、今頃ホルン首相は議会で袋叩きだろう。何せもう隠す必要がないからな」
「・・・アントン、貴様の見解でいいから聞かせて欲しいのだが、現政権は持ち堪えられそうか?」

カウニッツ大使は「可能性はないわけではないか、馬が針の穴を通るぐらいの困難さが伴うだろうな」と、その独特の言い回しで悲観的な見通しを伝えた。

「君も知ってのとおり、ハノーヴァー王国はお飾りのクリスチャン12世(ハノーヴァー王)の下、議会内で貴族が権力争いを繰り返している。議会内の勢力は大きく分けて三つ。ヴィスポリ伯爵率いる親ガリア派のメッソナ党と、現首相のホルン伯爵が属するハッタナ党(親トリステイン)、そして中間派だ」
「北部都市同盟の意向は?」
「よくわからない。トリステインとの同君連合構想は、ハノーヴァーにおける経済的特権が失われるので反対するといっているそうだが。都市同盟はラグドリアン戦役で一度しくじっているからな、これ以上のみそはつけたくないのだろう」

ラグドリアン戦役においてヴィスポリ伯爵率いるメッソナ党政権は、北部都市同盟の意向もありトリステインとの軍事同盟関係があるのにもかかわらずガリア寄りの中立を貫いた。戦後、当然のように悪化したトリステインとの関係修復のためにヴィスポリ内閣は総辞職。発足したのが、ホルン伯爵を首相とした大連立内閣である。

「成立の経緯からしてホルン政権はハッタナ党が政権の中枢を占めている。ポストで見るとよくわかる。閣僚で言えば2対6対2と圧倒的だ。つまり議会内では潜在的にハッタナ党への不信感が強い」
「内閣改造で乗り切ろうという動きは?北部都市同盟が仲介してポストをメッソナ党に配分すれば、出来ないわけではあるまい」
「無理だろう。それではハッタナ党内が収まらない。それに今回の件でホルン伯爵の指導力には決定的な疑問符がついた。北部都市同盟も首相を見捨てたともっぱらの噂だ。単独で内閣改造をやるだけの力は残されていまい。遅かれ早かれ、政変は避けられないだろう」

ボイスト伯爵は額に手を当て、深く長いため息をついた。招待状を送った覚えもないのに問題ばかりが足音高らかに次から次へとやってくる。官僚の頃は目の前の仕事だけに没頭していられたが、大臣になると責任を取らされるのだ。まったく、件の新聞記者にもし会う機会があるとすれば、どれほどの言葉と杖をもって御もてなしをしてくれようか。

「現政権が倒れても、政権の枠組み自体は変わらないだろう。そしてトリステインとの関係改善が引き続き政権の重要課題になるのは間違いない・・・もっとも、あの王子様のおかげでそのハードルはぐんと上がっただろうが」
「仲良くしてくれるに越したことはないのだがね。まぁ、崖から背中を押された挙句に、顔に泥を塗られては、いくら温厚な人間でも怒らないはずがないか」
「ましてや相手は『英雄王』だ」

既に処遇が決まっているものの気楽さからか、カウニッツ大使は皮肉っぽく笑ったが、ボイスト伯爵は笑う気分にはなれなかった。

「何れわかることだから言っておこう。昨日付けでホテク伯爵の辞表が受理されたそうだ」
「・・・そうか」

カウニッツ大使の表情が曇った。前ハノーヴァー大使にしてザクセン外務省条約局長のホテク伯爵は「外交革命」とも評されるハノーヴァーとの緊張緩和政策に貢献したザクセン外交界の第一人者。その人柄を慕うものは多く、他ならぬカウニッツ大使もその一人である。そして件の伝令官-ゾフィー・ホテク嬢はその苗字が指し示す通り、ホテク伯爵の娘であった。アルビオン大使からこの一件が伝えられて以来、ホテク伯爵は辞表を提出し(次官預かり)自宅謹慎を続けている。

「ホテク伯爵が情実人事をするようなお人ではないことは誰もが知るところだが、実の娘となるとな。それに伯爵のことだ。たとえ陛下が慰留されたとしても、辞意は撤回しないだろう・・・令嬢の、件の伝令官の大使館での評判はどうだったのだ?」
「職務熱心で、周囲の評判はいい。能力的にも申し分なしの逸材だったと皆が口をそろえているぐらいだから、それだけ優秀だったのだろう。さすがに女性官僚の実験台として選ばれるだけのことはあるよ」
「だが、その優秀な人材が、ある意味究極の『任地惚れ』を起こしたわけだ」
「・・・まあ、そういうことになるな」

否定する材料もないため、カウニッツ大使は頷いた。任地惚れはその自覚がないだけに厄介だ。国家を代表し、国益を追求するべき外交官が、赴任先の人間関係の繋がりや情に流され、本人も気がつかないままに相手国の利益・利害に添った判断をする。外交官育成において職業訓練が重視される所以であるが、これはプロの外交官であっても起こりうることだ。結局は属人的なものであり、その性格によるところが大きいのだろう。今回に限って言えば、まさに「任地惚れ」の究極といっていい。ボイスト内務大臣は頭を抱えた。

「・・・国王陛下の面目丸つぶれだよ。一体どうしたらいいものか」

完全な男性社会である官僚組織に、女性貴族の登用を主張し始めたのは王太子時代のザクセン国王ベルンハルト4世である。実は女性だったのではないかと噂される水の国の魔法騎士の冒険活劇に憧れた彼は、「優秀な女性の登用こそ、ザクセン王国の国力増強に繋がる」と繰り返し主張、頑強な抵抗を排して官庁に女性への門戸を開かせた。当然、今回の事態にあってザクセン国内で誰よりも激怒したのがベルンハルト4世である。毎日のように新聞に目を通し、国民に好かれる王であらんことを自任する王は、自身の数少ない政治的功績に泥を塗られたことや、それが自身が取り立てた女性官僚であったこと、相手がよりにもよってハノーヴァーの王太子であったこと、クリスチャン王太子がその甘いマスクで人気があったことも、とにかく全てが許せないらしい。

ボイスト伯爵は右手でこめかみを押さえた。頭の芯からくる頭痛と臓腑を突き刺すような胃痛が仲良く腕を組んで体の中を行進している。不謹慎ではあると思うが、正直な所、自宅謹慎できるホテク伯爵が羨ましい。

「陛下に呼び出しを受けていてな」
「・・・それは・・・」

今朝済ませたばかりの帰朝報告で王の様子を知るカウニッツ大使は、今日始めてこの友人に対して、心の底から気の毒そうな、同情するといった表情を浮かべた。



「フリードリッヒ(フォン・ボイスト伯)君、君は今日の新聞を読んだかね」
「まだでございます」
「そうか!まだかね!ならば余が直々に読み上げてやろう」

ザクセン国王ベルンハルト4世は王座に座ったまま新聞を広げた。未だ30代半ばながら見事な体格の持ち主のベルンハルト4世は、黒を基調とした軍服を着こなし、頭蓋骨そのものが大きいとしか見えない顔にそれは立派なカイゼル髭を生やしている。その姿はまさにザクセンの為政者としての風格を十二分に兼ね備えているといってよい。しかしボイスト伯爵には、メガネを掛けてわざとらしく目を凝らすベルンハルト4世の姿は、王と言うよりも相場の動向に神経を尖らす強欲な投資家のように写った。確かにこの王は国民からの評価や人気に飢えており、その点に限って言えば誰よりも強欲であろう。

「何々・・・哀れ白百合に引き裂かれようとしたる男女、にげも逃げたり白の国。マンティコアはなすすべなくその蒼毛を舐め、鷲は翼を広げたまま飛ぶ度胸もない-どういうことかわかるかね?」
「はっ、それは、その・・・」
「言い難いか?ならば余が言ってやろう。男女はクリスチャンの馬鹿とホテク伯爵令嬢を、白百合はトリステインのマリアンヌ王女を、毛を舐めるマンティコアはハノーヴァーを指しておる。そしてこの、最後の一文にある臆病な鷲とは一体誰のことだろうな?」
「・・・おそらく我がザクセンの事を指しているのではないかと(翼を広げた鷲はザクセン・ヴェッテイン王家の紋章)」
「そうだ。そしてザクセン王国とは何だ?」
「ザクセン王国は陛下であり、陛下がザクセンであらせられます」

これは来るなとボイスト伯爵が思った瞬間、ベルンハルト4世は眼鏡を床に投げつけながら怒鳴った。

「あの売女が!」

謁見の間が揺れるような怒声に、近侍する衛兵達は身を竦めた。軽い癇癪持ちであるベルンハルト4世がそれを-相手が人であれ物であれ爆発させるのはいつものことだが、あたり憚らず声を張り上げるのは珍しい。手に持った元帥杖で苛立たしげに床を鳴らしながら、軍人王はその憤懣の原因を吐き捨てる。

「飼い犬に手を噛まれるとはこの事だ!全く、女の身の上でありながら伝令官になれたのは一体誰のおかげだと・・・ホテク伯爵はいったい娘にどんな教育をしていたのだ?まさかハニー・トラップの実地訓練でもさせていたわけではあるまい?」
「私にはわかりかねます」
「知らないだと?そんな・・・いや、確かに貴様に言っても仕方がないな」

憤懣をぶつける対象が違うと考えたのか、それとも一度爆発させてスッキリしたのか、ベルンハルト4世は新聞を丁寧に畳んで脇の小机に置いた。几帳面と言うよりは神経質なのか、とても眼鏡を床にたたきつけた人物と同一人物には見えない。

「王侯貴族の色恋沙汰、不退転具の国同士の許されぬ恋とそれにまつわる揉め事。二人の間に立ちふさがるは名門王家の姫君・・・これだけ平民の好きそうな話題がそろうのも珍しい。たとえドレスデンの新聞全てを止めたところで、無駄な労力に終わるのは目に見えている・・・しかしだ。恩知らずと批判されないためには、一応の義理は果たさねばならん」
「承知いたしております」

ザクセン王国にとってハノーヴァーがどうなろうと知ったことではない。しかしアルビオンやトリステインにはそのような対応は出来ない。特にアルビオンは、結果的には失敗したとはいえ内々に事件を処理するために協力を得た経緯がある。今回の事件でザクセンも少なからぬ政治的ダメージを負った。これ以上余計な敵意を集めることは避けるべき事態であった。

「フリードリッヒ・フォン・ボイスト伯爵、内務大臣である卿に命じる。この件に関する情報を取り締まるように。卿が必要と判断した場合、停刊処分も含む多少の手荒な手段も許可する。よいか大臣。あくまでアリバイ作りだ。やりすぎてはいかんぞ。やりすぎてはな」

あまり新聞を取り締まれば人気が落ちますからなと思いながら、ボイスト伯爵は「承知致しました」と答えた。この王は大衆心理と言うものに関して独特の持論を持っている。常日頃軍服を着用し、王錫ではなく元帥杖を携帯するのもその持論に沿ったものである。尤も、その持論の中には実に馬鹿馬鹿しいものが含まれているのも事実だが。

「安心したまえ。よほど間抜けなことをしでかさない限りは、卿の立場は保障しよう・・・しかし王とは面倒なものよな。無駄だとわかっていることでも時には命じなければならんのだから」

やや笑いながら発せられたベルンハル王の言葉に、ボイスト伯爵は眉を潜めた。王が王であることに飽きられては、貴族は何をよりどころに杖の忠誠を誓えばいいというのか。個人的にそういう考えを持つのは結構だが、王である「見栄」は張り続けてもらわねば困る。そうしたボイスト伯爵の憂慮には全く気がついたそぶりも見せず、ベルンハルト4世は自慢の口ひげを捻りながら、なおもこう嘯いて見せた。

「まぁそれでも、ハノーヴァーやトリステインの王よりもましか」



(トリステイン王国 王都トリスタニア ガルエニ宮-元老院議会)

トリステイン元老院議長のエリー・デュカス公爵は、その光景をただ議長席から見ているしかなかった。尤も、事前に知っていたとしてもとめることなど出来なかったであろうが。元老院の定例本会議、宰相のエギヨン侯爵を筆頭とする閣僚が出席して改定国防方針とそれに合わせた諸侯軍の再編を説明するはずだったガリエニ宮は、質問のために登壇した子爵議員の演説によって、一瞬の静寂の後-騒音と喧騒の府と化した。

『-哀れ白百合に引き裂かれようとしたる男女、にげも逃げたり白の国。マンティコアはなすすべなくその蒼毛を舐め、鷲は翼を広げたまま飛ぶ度胸もない-これが記事の全文であります。そしてこれが一体何を指しているのか!それが問題なのであります!』

その原因となった若い子爵は、ベルンハルト王が激怒したのと同じドレスデン中央新聞の一文を読み上げると、壇上右後方-議長席からは右下に位置する国務大臣席を一瞥し、質問と言う名の弾劾演説を開始した。

『ここ最近、世上を騒がせている噂や流言飛語に関しては議員各位ご承知の通りであります。この新聞はその一例に過ぎません。よってここでそれを、聞くに堪えない戯言を個別に取り上げることは致しません。致しませんが、しかし!』

子爵は振り上げた拳で壇上の机を叩いた。水差しが倒れ、速記をしていた元老院書記官が頭のうえに振ってきたそれを間一髪受け止める。しかし演説は続いているため、書記官は安堵するまもなく慌てて速記に戻った。哀れな書記官の様子を議長席から見ながら、デュカス公爵は議場に副議長の姿を探した。

その特徴的な体はすぐに見つけることが出来た。そしてやはりというべきか、ミラボー伯爵オノーレ・ガブリエル・ミケティは、その肥満した体を議場の椅子に押し込めるようにして多少前のめりに座りながら、議場の空気を見極めるかのように、あの無機質な眼差しで議員達を睥睨していた。

-ミラボーめ、またやりおったな

普段は居眠りするものが続出するほど退屈で、良くも悪くも何も起きない議事が混乱する場合、この男が裏で絡んでいるとみてまず間違いない。元老院副議長は彼を含めて3人いるが、普段の議事のように役に立たない二人と比べるとミラボーは異質に過ぎた。

その風貌と同じで、ミラボー伯爵はとにかく貴族らしからぬ、成り上がりの商人のような思考をする男であるというのがデュカス公爵の評価だ。政界遊泳術に関しては宮廷貴族顔負けのものがあるが、それを「庶民性」という解放的な雰囲気と自身の要望も合わさった滑稽な仮面の下に見事に隠している。デュカス公爵とて、この席に座ってそれが始めてわかるようになった。人を見、議場の空気を読むことに神経を尖らせているあの男は、よもや自分が見られているとは想像もしていないだろう。それを考えると多少愉快な気がしないではない。

最上段に位置する議長席からは、議場の全てが見渡せる。物理的な意味でも心理的な意味でも、人間、高所に登ると足元が見えなくなると言うが、それと引き換えにより多くのものが見えるようになるのも事実だ。無為に重ねてきただけと自嘲していた年齢も、それに似たところがある。その年齢にならないとわからない事というのは確かに存在するのだ。同じようにその地位に立たないとわからないことも。ミラボー伯爵は元老院の実権を握っていると(実際にそうである)自負しているのだろう。しかしその彼をもってしても、自分の子供ほど年齢の離れた人間の傀儡として振舞う自分の気持ちはわからないだろう。

-最もそんなことを気にするような男とは思えないが

デュカス公爵が顎髭をしごきながら自分の思考にふけっている間にも、壇上では演説が続いている。それにしてもあまりにも臭い芝居である。恥と言う概念はないのだろうか?

『思い出していただきたい!我ら貴族が貴族である所以を!百合の紋章に杖の忠誠を誓ったあの日、国王陛下の杖として祖国と領民を守ると誓ったあの杖の忠誠の儀式を!そしてその貴族たる義務を果たし、セダンの地で散った幾多の勇者達!!幾多の英霊は語る言葉を持ちません・・・しかし!私には、今の祖国、王家を誹謗中傷する流言飛語が諸外国で流れる現状を、英霊達が看過するとは思えないのであります!!』

議長席からは演説者の後頭部と後姿だけが見える。しかしそれだけで十分だ。むしろ正面からは見れたものではないだろう。軽々しく「セダン」の名を使う人間の言葉など聞けたものではない。顔を背ける、または伏せる議員が目に付く。しかし同時に、若い子爵の芝居がかった仕草が、今は議場に満ちた王政府批判の空気を煽り立てる役割を果たしていることが見て取れた。子爵の演説を遮るように、議場からは幾多の野次は飛んでいたが、その多くは子爵の演説に同調するもの。王国の知性と品位、そして礼節を代表する貴族であるという自覚はそこからはうかがうことは出来ない。

『新聞が書き、庶民が口にする堪えない戯言に下世話な噂!それが王家の威信を損ねているのは間違いありません。先日王政府はすべてのうわさを否定しました。しかし世上の噂は一向に耐えることなく、むしろ一層熱を帯び始めております!その原因はどこにあるのか!!』

子爵は右後方の大臣席を再び睨み付けた。睨み付けられた対象である宰相エギヨン侯爵の上半身が僅かに揺れる。横に座るルーヴォア侯爵(財務卿)の手が宰相の膝に見えることから、立ち上がろうとした宰相を押さえつけたようだ。エギヨン侯爵は首を軽く振った後、何かを噛み締めるように俯く。この間僅か数秒。しかし追求する側にはその数秒の異変で十分であった。

『宰相閣下!貴方の言葉が国民から信頼を受けていないのだ!』

瞬間、怒号と歓声が沸きあがり、デュカス公爵は目と耳を塞ぐ代わりに木槌を打ち鳴らすことで応じた。しかしその努力は議員の声にかき消されて意味を成さない。同じくかき消されることを予想しながらも、議長としての職務を果たすために「静粛に、静粛に」と叫ぶ。

-まったく、お飾りも楽ではないの

傀儡であることを理解しながら、その立場を楽しむことが出来る-それがこの老人の強みである。



-チェック・メイトというわけか。やられたな

トリステイン財務卿ルーヴォア侯爵ミシェル・ル・テリエは、国務大臣席で自身の敗北を認めざるを得なかった。視線の先には、元老院議長と同じくミラボー伯爵の恰幅のいい体が見える。自身の影響力を誇示しながら、その態度には微塵の奢りも感じられない。その思考はこれからどう立ち回り、自身の影響力を維持するかという次の一手に移っているように見えた。そしておそらくそれは当たっているのだろう。既に彼の目に現政権-エギヨン侯爵の姿は写ってはいない。

右横に座るエギヨン侯爵の様子を伺う。俯いた顔は青白くなっており、突然の弾劾演説に屈辱で震えていた。きつく握られた両手は今にも血が滲み出んばかりだ。内務省出身の官僚政治家であるエギヨン宰相は調整型の政治家としては疑う余地もなく優秀である。しかし今の彼は官僚的な弱さが露呈してしまっている。先ほど激昂して立ち上がろうとした時も、自分に止められると、理性的に振舞おうとして怒りをおさめてしまった。官僚ならいい。しかし今の彼は行政官である前に政治家なのだ。王太子の補佐役でも官僚でもない。理性ではなく「意思」が必要なのにもかかわらず、それがこの男には決定的に欠けている。

「財務卿・・・元老院工作は」
「大丈夫と、思っていたんだが。あの男を信頼した私が甘かったようだ」
「そう、か」

エギヨン侯爵はそれだけ尋ねると再び沈黙し、事実上の弾劾演説に耳を傾け始めた。先ほどエギヨン侯爵を制止したのは他ならぬ自分だが、彼がそれに従った時点でルーヴォア侯爵はこの政権に完全に見切りをつけた。これではこの政治危機を、次期女王をめぐる一連の政治スキャンダルを乗り切ることなど到底出来まい。

-それにしても荒っぽいやり方をする

ミラボー伯爵が密約を破ったことへの憤りはない。むしろ現政権に対する元老院=領邦貴族の不満が、予断を許さない状況まで高まっていたことのほうが驚きである。断じてあの子爵に煽り立てられたからというものではない。この様子では遅かれ早かれ爆発したのだろう。自分に連絡を入れる時間的猶予がなかったということなのか?それとも・・・

「・・・私も結果の出せない役者だったということか」

ルーヴォア侯爵は自分でも驚くほど、不思議と落ち着いてそれを受け入れていた。かつての自分なら-それこそエスターシュの若造とやりあっていた頃の自分なら激怒したであろう。あれからまだ10年も経過していないのに、これは一体どうした心境の変化か。まさか聖人君子になったと言うわけでもあるまい。

認めたくはないが-これが年をとったと言う事なのだろう。体ではなく精神がだ。

『・・・であります!いくら国内で否定したところで、今!この時間も諸外国ではこのような戯言をもとに、百合の名誉が傷つけられているのです!外務卿、貴方はここで何をしているのですか?!それとも戯言のように王女殿下を外交ゲームの道具にしているの・・・』

本人も直に口を滑らせたことに気がついた。次期女王であるマリアンヌの名前は出さないと言う暗黙の了解を破ったのだ。政権批判演説にセダン会戦を利用したことを苦々しげに見ていた議員がこれを見過ごすはずがなかった。

「取り消せ!!取り消せ!!」
「そのような事実はない!取り消せ!速記を止めろ!」

壇上で立ち往生した子爵に、議場から容赦なく野次が飛ぶ。ルーヴォア侯爵は肩を揉む振りをしながら、名前の出た外務卿の様子を伺った。

外務卿アルチュール・ド・リッシュモン伯爵は、陸軍大臣のノルド男爵を挟んでルーヴォア侯爵の左側に座っている。腕組みをし、口を真一文字に結んで目を瞑り微動だにしない。予算不足で新聞検閲を取りやめたなどという高等法院の言い分を、すくなくともトリスタニアで信じているものはいない。法服貴族出身でありながら法院のあり方に否定的なリッシュモン伯爵を、法院が「刺した」のだろう。

それでも今回のリッシュモン伯爵の稚拙は目に余るものがあった。ハノーヴァーとの同君連合構想などは、誰が見ても拙速に過ぎた。外務卿には外務卿なりの考えが合ったのだろうが、何を焦っていたのか。ことの重大性からして少なくとも閣僚間での意見調整を行うべきものであり、最低でも外務省内の意志統一をするべきであった。もはや秘密外交や宮廷外交が通用する時代ではないことは、他ならぬ彼が口癖のように語っていたことであるはずである。一体何を考えていたのか。そして何を考えているのか。

『・・・であります!外務卿、諸外国に赴任している我がトリステインの大使、領事は何をしているのです?挙手傍観し、なすすべがないではありませんか!』

自らの失言により壇上で立ち往生を余儀なくされた子爵は何とか追及を開始したが、先ほどと比べると明らかに追及の矛先は鈍っている。議場の収拾も次第に収まり始めている。ノルド陸相が手持ち無沙汰に書類を弄るその横で、リッシュモン伯爵は相変わらず沈黙を保っている。ルーヴォア侯爵には外務卿の態度は、覚悟を決めたようにも、ただ居眠りをしているようにも見えた。



(アルビオン王国王都ロンディニウム ウエストミンスター宮殿 貴族院外交委員長室)

「何でこうなったんだろう・・・」
「殿下。それがわかれば誰も苦労はしません」

同じヘンリーの名を持つ王弟に対して、貴族院外交委員長のランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ・フィツモーリス卿は肩をすくめながら答えた。ヘンリーはというと、応接用の机の上に広げた『ロンディニウム・タイムズ』の記事を食い入るように追っている。

浮遊大陸アルビオンは、地政学だの地理的制約だのという小難しい言葉を並べるまでもなく、大陸の情報収集に苦労してきた。フネを飛ばすだけでも一苦労だというのに、空を飛んで動いているのだ。新聞もその例外ではなく、およそ1週間から2週間遅れの大陸情報が掲載されるのが常である。そこでアルビオンの新聞各紙は速報性を諦める代わりに独自の調査分析に活路を見出し、それぞれ高級紙としての地位を確固たるものにした。今ランズダウン侯爵が広げている『ロンディニウム・タイムズ』は外交評論で定評のある週間経済新聞である。


・ハノーヴァー王国首相アルヴィト・ホルン伯爵はドロットニングホルム宮にて国王クリスチャン12世に辞表を提出。ホルン伯爵は後任に陸軍大臣のハンス・ヴァクトマイスター伯をするも、陸相は固辞。王国議会は後任として外務大臣ベルティル・ハッランド侯を奏薦。数日中にハッランド内閣が発足することが予想される。ハッランド侯はヴィスポリ内閣で外務次官、ホルン内閣で外相を歴任した中間派の有力者。ハッタナ・メッソナ両党の連立内閣は維持されるものと予測される。

今回の辞職に関して当局は『ダッソー』の記事との関連性を否定している。

・トリステイン王国宰相のエギヨン侯爵シャルル・モーリス卿は健康上の理由から辞意を表明した。国王フィリップ3世はこれを慰留するも辞職は避けられずと言う見方がトリスタニアでは大勢を占めている。後任には財務卿のルーヴォア侯爵が有力視されるも、情勢は不透明。エギヨン侯爵の辞意表明を織り込んでいたためか、トリスタニアの市場や為替相場に大きな値動きは見られない。

今回の辞意表明に関して当局は『ダッソー』の記事との関連性を否定している。

・トリステイン王国外務卿リッシュモン伯爵解任の噂が流れている。伯は『ダッソー』の記事によると同君連合構想の首謀者であり、事実であればフィリップ3世の不興をかったものと推察される。

今回の辞職に関して当局は『ダッソー』の記事との関連性を否定している。


「これは嫌がらせか?どの記事の文末にもダッソーの名前があるぞ」
「商売敵とはいえ、同じ記者として粋に感じたと言うことではないでしょうか。いまどき政府に正面切って啖呵を切る新聞などそうそうありません。勇猛果敢な騎士の名が、敵味方問わず尊敬されるのと同じことなのでしょう。それにしても発刊停止処分になった新聞の名前を、他の新聞で見ることになるとは、妙な感じがしますな」

今度はヘンリーが肩をすくめた。最もその顔は笑っていなかったが。『ダッソー』は先の記事を掲載したことにより無期限発刊停止処分となった。リュテイスに睨まれたとしても、これだけ名前を売れたのなら安いものだろう。

「『ダッソー』の名前が出てくる記事は全て王太子関連の記事です。さすがはタイムズといったところでしょうか。目新しい記事や情報はありませんが、既存の情報をベースによく整理されています。外務省の報告書よりもわかりやすいかもしれません・・・ところで本日はいかなるご用件で」
「用件がなければ来てはいけないかい?」

ランズダウン侯は黙って笑みを浮かべた。一見すると好々爺に見えなくもないが、あのスラックトンの爺の下で閣僚を歴任した老人の笑みをそのままの意味でとらえるほどヘンリーもお人よしではない。何より一度頬を張り倒してくれた相手である。

「・・・まぁ、用らしい用があったわけじゃない。近くまで来たので、卿の顔を見たいと思ってね」
「それは光栄です」

ウエストミンスター宮は王都の中心街からは外れており、ハヴィランド宮とはほぼ反対側に位置する。シュバルト商会の支店に顔を出したついでということか。ハノーヴァーのシュバルト商会とこの王弟とは兼ねてから関係が噂されている。件の港湾街道整備事業にシュバルト商会が出資したのも王子の口ぞえがあったからだという専らの噂だ。

「結局のところ、王太子殿下と件の令嬢はどうなるのです?」
「・・・パーマストンの爺さんが面白いことを言っていた。嘘をつくなら徹底的に、最後まで突き通せだとさ。兄貴(ジェームズ1世)はともかく、ハノーヴァーやザクセンにも対面と言うものがある。ましてやふられた格好のトリステインはね」
「パーマストン子爵案のままと押し通すというわけですか。ですが-」

事件発覚以前、パーマストン外相はクリスチャン王太子にサウスゴータでの静養を続けさせ、ハノーヴァー宮内省に病気による廃嫡を発表させるという案を考え、三国(ハノーヴァー・ザクセン・トリステイン)から了解を得ていた。しかし事件が明らかになり、各国で政治責任を問う動きが顕在化している現状では「病気による廃嫡」など誰も信用しないであろう。その点を指摘すると、ヘンリーは顔を顰めて言う。

「かといって、いまさら本当の事を言うわけにはいかないだろう。他に案があるわけでもなし、押し通ししかないさ。パーマストンの爺さんも、引退前にとんだ事件に巻き込まれたものだよ・・・ところで侯爵」

キャサリンには「考えすぎ」と言われ、パーマストン外相には「面白いお話ですな」と一蹴された不安を、ヘンリーはランズダウン侯爵にぶつけた。

「君は一連の報道をどう考える?」
「どう、とおっしゃられますと」
「この事件に関する一連の情報は何処から、もしくは誰が、どのような目的で漏らしたと思うかということだ」
「・・・殿下は、一連の記事の情報源は同一人物であるとお考えなのでしょうか」
「あくまで可能性の一つだ。断定しているわけじゃ・・あぁ、先に言っておくけど俺じゃないぞ。セヴァーン次官(外務次官)なんかは疑っているらしいが、俺もそこまで馬鹿じゃない」

変わり者の王弟の笑えない冗談に、ランズダウン侯は「あながち冗談にも聞こえないのが困ったことだ」と考えた。それを口に出すようなことはしなかったが。

「トリステイン国内で最初に報道されたのはケンの月(10月)の頭。マリアンヌ王女とクリスチャン王太子の婚約をトリスタニア・テレグラフが書いたのが始めだ。後追い記事が出て、トリステイン国内に婚約の話が広まった頃に出たのが、ダッソーの例の記事」
「お待ちください」

とんとんとん、と仮説と言葉を重ねようとするヘンリーをランズダウン侯爵は手で制した。

「なるほど。たしかにおもしろいお話です。情報を小出しにすることで、トリステインや諸外国の反応をうかがっていたと、そう仰りたいわけですな」
「そうだ。それでたいした反応がなかったか、もしくは出しても大丈夫だと考えたところで、最大級の爆弾を投下した。ガリアは事後検閲のザルというのは有名な話だからな。それにあの大国に面と向かって抗議の出来る国は早々ない」
「・・・殿下の仰ることが正しいと仮定した上で話を進めましょう。情報漏えい者がこの話が表に出ることで何らかの利益を得るものだとして、それなら初めからダッソーなり、その他の新聞社に持ち込めばよかったのではありませんか?」
「侯爵。君は焚き火をしたことがあるかね」
「いえ、ありませんが・・・焚き火、ですか?」

突如関係の無いことを言い出したヘンリーに、侯爵はきょとんとして聞き返した。

「焚き火はね、ただ薪に火をつければいいというものではない。そもそも切り出したばかりの薪はそのままでは水分が多く燃えないから乾燥させなければならない。拾ってきた枝やら木の葉でやろうと言うのならなおさらね。薪を組むのにもコツがある。中に空気が通りやすいように櫓上に組むんだが、これが中々難しい」
「ほう、それは知りませんでした」
「ただ薪に火をつけるだけなら簡単だが、小さな火種を大きくするのは難しい。より効率よく、火力を維持させようとするなら尚更な」
「・・・回りくどい言い方をなさいますね。女子に嫌われますぞ」
「僕は妻一筋だから」

また面白くもない冗談かと思ったが、本人は至って真面目くさった顔をしている。ランズダウン侯爵は虫歯の穴に塩でもねじ込まれたような気分になった。こういう時はどういう顔をすればいいのか。本人が惚気ている自覚がないだけに余計たちが悪い。年甲斐もなくサブイボが出そうである。

それはともかくとして、ランズダウン侯爵はヘンリーの話自体は、可能性のひとつとしてはありえなくもないという印象を持った。火種自体が大きいために考えなかったが、わざと問題を長引かせることが目的だとすれば、より燃え上がるように環境を整えるのは当然だ。ましてや国家の重要機密に関わる情報を得られる立場の人間、もしくは組織だ。その程度の手間は惜しまないだろう。しかし

「なるほど、面白い仮説です。しかし理屈は後からついてくると申します」
「また君も・・・嫌味な言い方をするじゃないか。さすがはシェルバーン(財務相)の叔父なだけはあるね」
「お褒めに預かり恐縮です・・・結論から申し上げますなら、殿下のお話はあくまで仮定のひとつ、可能性でしかありません。仮定の証明にこだわるよりも、現状の、目の前の出来事をどう解決するかと言うことに尽力するべきではないかと考えます」

ヘンリーはランズダウン侯爵の話を聞いていて妙な近視感に捕らわれたが、その理由は直にわかった。物事に対する捉え方や割り切った考え方が、亡きスラックトン宰相にそっくりなのだ。

「それともう一つ。私にはこの馬鹿騒ぎで利益を得たものがいるとは思えないのです。強いてあげるとするならば、ハノーヴァー国内に経済的特権を持つ北部都市同盟でしょうか。トリスタニア・テレグラフの親会社が都市同盟系の商会だと聞いていますが」
「何も目に見える財産や経済的特権だけが理由とは限らないぞ。ハノーヴァーとトリステインとの関係改善を妨げたいというのも立派な理由となるだろう。だがそうなると容疑者の特定は殆ど困難になるが・・・」
「殿下、繰り返しになりますが」

ランズダウン侯爵は少し口調を早めながらまくし立てるように言った。

「何故こうなったかと理由を探すことよりも、目の前の事象をしかと見極めるべきです。目の前の出来事を実物大に把握することが出来ずして、その解決はありえません。必要以上に過小評価することも、過大評価することもあってはならないのですぞ」
「手厳しいねぇ、何か僕に恨みでもあるのかい?」
「殿下」
「冗談だ、冗談。ま、確かに卿の言う通りだ。侯の忠告、肝に銘じておくよ」

ランズダウン侯爵の諫言を何処まで深刻に自分の事として受け取ったかはわからないが、ヘンリーは屈託なく笑いながら手を振った。

「ま、考えすぎならいいんだけどね・・・」

ランズダウン侯爵には話さなかったが、ヘンリーの脳裏にはある老人の後姿が見えている。無論、関与した証は何もない。しかし何もないことがヘンリーの疑心を疑惑へと進めることになった。今はまだぼんやりとしたものでしかないそれが、何れ自分の目の前に現れるであろうことを、ヘンリーは不思議と疑わなかった。



[17077] 第60話「百合の王冠を被るもの」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:55991eb3
Date: 2010/10/23 08:45
読書家であり錠前造りが趣味だった小太りのフランス王は人見知りの癖があり、王太子時代から人前に出ることを嫌った。それが理由の一つになったであろう事は想像に難くないが、彼はある宮廷儀礼を「時代にそぐわない」として中止させた。

『王の秘蹟』と呼ばれるそれは、王の「聖なる手」が触れることによって病や傷が癒えるという民間信仰に王が答えるものであった。医学的に病が癒えたのか、傷が治ったのかはこの場合関係ない。身分貴い人間を尊ぶという純朴な庶民の感情、王権は神から与えられたものという王権神授思想、そして神の恵みを信徒に仲介するというカトリックの秘蹟(サクラメント)等々、この宮廷儀式には中世以来の様々な伝統的宗教要素が含まれていた。確かにこの時代、啓蒙思想による合理主義的精神が広く受け入れ始められていた時代において(動機が個人的なものであれ)この宮中儀礼を「非合理的である」という判断を下した王は、その後に現れた反動的とされる王よりもよほど開明的であった。だが結果的にこの判断は、王と民衆が直接触れ合う数少ない機会を奪うことになる。政治的実績がなく、容貌も優れているとはいえない王から「神秘性」というヴェールを奪うことになったのだ。

空飛ぶ大陸、ドラゴンを始めとした幻獣、エルフにオークといった亜人、杖を振れば火・土・風・水を操ることが出来る魔法使いと言う、ファンタジーの要素をこれでもかと詰め込んだハルケギニア世界。この世界のある王国にも「王の秘蹟」を宮廷儀礼として行っている国が存在する。医療行為を司る水魔法という、治療行為を裏付けるものがある事以外は、異世界の王が行っていた秘蹟と目的とするものは殆ど変わらない。むしろ病や傷が目に見えて癒えることにより、民衆の王に対する信頼をより確実なものとしていた。

その王国はハルケギニア大陸西方、豊かな自然と美しい河に恵まれた国土を持つ通称「水の国」-始祖の子ルイ1世より代々水系統の王家が支配するトリステイン王国である。

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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(百合の王冠を被るもの)

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傭兵でもまだ少しは身奇麗だろう-というのがド・セザール子爵に対する宮廷貴族の評価である。背丈はそれほど高いというわけはないが、遠目から見てもそこにいることがわかる見事な体躯。一切の無駄のない鋼のようなしなやか筋肉により、その動きには同じく一部の隙もない。三日と日を空けずに行われる訓練によって肌はよく日に焼けている上に、ここ最近何を思ったのか髭を生やし始めた。ただでさえそのごつい顔は、はっきり言ってかなり厳しい。というか怖い。風貌や身なり「だけ」は容姿端麗で優雅な貴族は山ほどいる王宮の警備警戒を担当する近衛隊にあって、この風貌。おまけに現在の魔法衛士隊隊長や自らの率いる部隊の前任者が「あれ」であるだけに、否が応でも彼は比較の対象となった。

尤も、当人はそんなことを全く気にしていなかった。訓練をすれば日に焼けるものであるし、鍛えれば体に肉はつく。それを嗤うほうこそ間違っているのである。そんな彼だからこそ、まだ20代の若さであるのにもかかわらずトリステイン魔法衛士隊の一つ、マンティコア隊を任されているのだ。

だが、今のド・セザール子爵からは、豪快さと繊細さを兼ね備えたいつもの余裕は全く感じられない。ただでさえ厳しい顔の表情はガーゴイルのように固まっており、その視線は正面を見据えて微動だにしない。マンティコアを乱暴に扱った新人隊士を怒鳴り散らしたかと思えば、突如頭を抱えて道の真ん中でうずくまるといった具合だ。王国南西部ラ・ヴァリエール領へのマリアンヌ王女の行幸が発表されて以来-より正確に言えば、その警備をマンティコア隊が担当することが決定されてから-もっと最近で言えばトリスタニアの王城を出発してからこちら、ずっとこの調子なのである。

いつもの峻厳な態度とはあまりにも違いすぎるド・セザールの様子に、新人隊士は目を丸くしながら古株の隊士達にその理由を訊ねた。先代のマンティコア隊隊長、伝説の騎士「烈風」の右腕として幾多の戦場を駆け抜けた隊長をあれほどまでに動揺させるものとは一体何なのか。まさか姫殿下に対して危害を加えるという情報でも?隊長の様子からそれぞれが想像をめぐらせたが、先輩隊士達はにやにや笑いながら、新米たちの質問に異口同音にこう答えるだけであった。

『何、簡単なことだよ。我らが隊長殿は、ラ・ヴァリエール公爵婦人の美しさに緊張しているのさ』

不真面目な、からかわれたとしか思えない回答を思い浮かべながらマンティコアにまたがる新人隊士の視線の先では、領民からの歓声を受けながら、ユニコーンに牽引されたマリアンヌ王女の馬車が、ラ・ヴァリエールの城へと吸い込まれていった。



王都トリスタニアの王宮は中央の大噴水を中心に宮殿全体に水路が張り巡らされている。そのため夏は大変に過ごしやすい。仕事もないのに貴族がたむろし、歴代の王の中にはラグドリアン湖畔への避暑ではなく、宮殿内でひと夏をすごす者もいたほどだ。萌え出る草木の芽吹きを感じることが出来る春や、色とりどりに紅葉した落ち葉が水流に沿って流れる秋もいい。だが、晩秋も深くなったギューフの月(11月)にもなると、これほど過ごしにくい宮殿もない。天然の冷房をかけ続けているようなものだ。寒くないわけがないのである。

そんな寒々しい王宮の中にあって、寒がりな水の国の主は普段着の下に何枚も下着を着込むことによって防寒対策を行っている。仮にも英雄王、寒さが苦手などと知られては沽券にかかわると、トリステイン国王フィリップ3世はそのプライドを微妙に間違った方向に使っていた。昔のように戦争でプライドを満足させるよりはよっぽどましなのは間違いないのだが。フィリップ3世は幾分か着膨れした体を動かし、執務室の柱にかかった時計を見上げながら呟いた。

「ピエール君。マリアンヌはもう到着したかな?」
「予定では夕刻ということでしたので既に到着なさっている頃ですが・・・ところで陛下。手が止まっておられます」
「・・・どうだねピエール君。君、国王の気分を味わいたくはないかね?なーに、サインするだけの簡単な仕事だ。君のご先祖は王家の庶子だから資格はあるはずだぞ。だからこの書類に私の代わりにサインを・・・冗談だ、冗談。だからそんな怖い顔をするな」

その割には目が本気でしたよと、ピエール・ジャン・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール公爵はモノクルの奥から冷たい視線を送る。フィリップ3世は態とらしく咳き込みながら、最後の書類にサインをし終えた。

フランスの皇帝は人間3時間の睡眠で大丈夫だと嘯いたと言うが、グルジア出身の赤い独裁者は実際に毎日3時間睡眠で働いたと言う(片っ端から粛清しまくったのが大きな原因なのだが)。官僚機構の整備されたガリアやアルビオンとは違い、トリステインでは国王が直接決裁する書類が比較にならないほど多い。権限が強いと言うことは、それだけ日常の業務も多いということだ。エスターシュ大公政権時代に地方制度改革と同時に内務省や財務庁を中心に官僚機構の整備が進められたとはいえ、諸侯領の関係もあり未だ十分とはいえない。そして領地の紛争や諸侯軍の再編など、国王大権に関わる問題に関しては官僚や大臣任せというわけにもいかず、事務作業は大の苦手であるフィリップ3世も眼鏡(老眼鏡であることは断固として認めない)片手に書類に向き合わざるをえないというわけだ。

インク壺に蓋をしてペン先を拭うと、フィリップ3世は書類を持ち上げてインクの渇きを確認する。ずれた眼鏡を直しながら書類をチェックする様は、商会の小うるさい番頭に見えなくもない。だが眼鏡を外すとその雰囲気はがらりと変わる。端整ではあるが、犯しがたい威厳を感じさせるその顔立ちは、さながら神の姿を想像して彫られた彫像を思い起こさせる。若い頃の気性の激しさは鳴りを潜めたとはいえ、未だ健在だ。ハルケギニア中の王を探してみても、これ程までに王座が似合う人間は他にはいないのではないか。見事な金髪を短く刈りそろえたフィリップは、書類に嫌々ながらチェックを入れていた時とは違う、力のこもった視線をピエールに向けて、口を開いた。

「・・・慣れてはいけないが、慣れなければならない。あの娘はそれに慣れようとしている」
「マリアンヌ様で御座いますか?」
「戦場には敵と味方という二つの人間しかいない。その区別は容易には覆らないものだ。明確に敵味方が分かれているからこそ、余は思う存分杖を振るうことが出来た」

「だが宮中は違う」という王の言葉に、ピエールは頷く。

「王宮には様々な人間が権力に惹かれて集まってくる。胸元に刃物を隠しながら近寄ってくる暗殺者もいれば、言葉に杖をふくませる者も、勝ち馬に乗ろうと右往左往する日和見主義者もいる。そしてそうした人間のほうが、残念ながら多いのが現実だ」
「その通りかと」

ピエールの脳裏に、骸骨に皮が張り付いたような高等法院長の顔が浮かんだ。あの不愉快な老人の名前を挙げるまでもなく、良くも悪くも直情な性格の持ち主である王は自身の失政や政治危機によって何度も王座から追われそうになった。普通の王なら当の昔に王冠を奪われていてもおかしくないのだが、そこは「英雄王」。神が味方したとしか思えない幸運と、その英雄たる性格を愛した幾多の民衆、そして少なくない貴族の杖の忠誠によって今も尚、英雄王の名をハルケギニアに輝かせている。

「敵が味方になり、味方が敵になる。余はその当り前のことをエスターシュから教わった」

笑えない昔話を語る時、不思議と人間の顔は笑っているように見える。その殆どは苦笑いか、もしくは顔の筋肉が自然と引きつったためなのだが。そしてフィリップ3世は笑いながら、自分から王冠を奪い取ろうとしたエスターシュの名前を口にした。

「ピエール君、君もその一人だろう。だからあの男を領内に匿っている。違うか?」
「・・・ご想像にお任せします」

エスターシュ公との因縁を思い出し、ピエールはうつむきがちに視線を下げた。エスターシュ大公は現在公爵家領内のラ・フォンティーヌで隠遁生活を送っている。エスターシュの名前を聞いて平静でいられるほど、ピエールは過去から自由ではない。バッカスやカリンの取り成しがなければ、当の昔にあの男の首は自分が刎ねていた。その経緯を話すわけにも行かず、苦し紛れに返したピエールの返答に「それだよピエール君!私が言いたいのは」と、フィリップ3世はわが意を得たりと膝を打った。

「和して同ぜず、同じて和せず-東方の諺だそうだ。自分が何者であるかを忘れてはいけないが、一匹狼では組織は動かせない。組織を動かすために組織人であろうとするなら、自分をいくらか曲げなければならない-そして組織人になると、多くの人間は自分が何者であったのかを忘れてしまう」
「それが慣れてはいけないが、慣れなければならないと言う言葉の意味でございますか」
「そうだ・・・だが今のは君達貴族の論理だ。杖の忠誠を誓う側のな。杖を握り、それを振るうべき王の場合、慣れるという言葉は違った意味を持つ」

英雄王と呼ばれる王は言葉を切って咳払いをした。暖炉にこそ火はともされていないが、息が白くなるほどの寒さではない。英雄は戦場で散った幾多の兵のためにも英雄であり続けなければならない。文字通りその双肩に国の命運を背負う英雄王の目は、驚くほど優しく、どこか物憂げな雰囲気すら宿している。

「王族に生まれたから王になるのではない。王は王であり、王であり続けなければならない宿命の星の下に生まれた人間だ。そして自分と祖国の運命に立ち向かい、その全てを受け入れることが出来たものだけが王になることが出来る。結果は問題ではない。たとえ失敗したところで、名が残れば上出来だ。彼は-」

フィリップ3世は顔を手で撫で、表情を消した。笑えない昔話を、笑いながら話せるようになるまでには、ある程度の冷却時間が必要である。さすがに現在進行形で娘の名を陥めている人物の名を口にする際には心中穏やかで入られない。何せ彼の行動によって、マリアンヌ王女は「許されぬ恋を妨げる名門の姫」という汚名を被されることになったのだ。善人ばかりで物語は作れず、意地の悪い敵役がいなければストーリーは盛り上がらない。

「-クリスチャンはそこから逃げた。自分の運命と責任から」
「・・・・・・」
「それも一つの選択だろう。何かを成し遂げるには人生はあまりにも短いが、後悔しながら過ごすのには人生はあまりにも長い。そしてマリアンヌは・・・あれは今、自分の運命が何かを探すことに必死で、自分が何者かを見失いかけている」

報道によってリッシュモン外務卿らが進めていた同君連合構想を始めて知らされたマリアンヌ王女は激怒した。白い肌を真っ赤にしながら、これから外務省に赴いてリッシュモンを殴り飛ばしてやるとでも言い出しかねない王女の剣幕に、ピエールやラ・ポルト侍従は思わずそこに英雄王がいるのではないかと疑ったほどである。とにかくそれ以来、マリアンヌはそれまでにもまして熱心に公務や政務に取り組むようになった。それ自体は好ましい傾向なのだが、全てをご自身一人で抱え込まれるように見受けられる。どうやらリッシュモン外務卿の一件で、エスターシュ大公以来の貴族に対する不信感が一挙に爆発したようなのだ。

今回のラ・ヴァリエール行幸と地方における秘蹟の挙行はマリアンヌ自身の発案によるものだ。王女はトリスタニアでのみ行っていた秘蹟を地方でも行い、民衆と積極的に接することによって風評や噂を打ち消そうと考えたらしい。宮中貴族は奇しくも今回の一件で次期王位継承者であることが確定したマリアンヌのイメージ回復もかねてそれに賛成したが、フィリップ3世はまずラ・ヴァリエール領で実施することを条件に秘蹟の許可を与えた。

「余の娘だからな。黒か白か、敵か見方かをはっきりさせたがるのは若い-」

フィリップ3世は急に自嘲するような笑みを浮かべた。鏡なくして自分の姿は見えない。自分の心が歳を重ねたことに気がつくのは、いつでも他人を自分の過去と比較する時、ましてやそれが娘とあってはなおさらである。

「若い頃の私によく似ている。しかし宮中とはそんなにはっきりと色分けできるものではない。あれもわかっていないわけではないのだろうが、焦りでそれが見えなくなっているのだ・・・あれに今必要なのは、一人落ち着いて考える時間と、腹を割って話すことの出来る相手だ」
「しかし、カリ・・・私の妻では、その・・・」
「ピエール君。これは荒療治だよ。いかなる名馬でも気が荒ぶっていては駄馬にも劣る。空回りしているあれを、横からけり倒して目を覚まさせてほしいのだ。あの『娘』ならそれが出来るだろう?」

荒療治と言う言葉に、ピエールはモノクルのチェーンを揺らしながら「副作用が出なければいいが」と不安に駆られた。

「ところでピエール君。前置きが長くなったが、君を呼んだのは他でもない。実は-」



(トリステイン王国南西部ラ・ヴァリエール公爵領 ラ・ヴァリエール城内 公爵夫人の寝室)

「あらカリーヌ。遅かったわね」
「・・・とりあえずお聞きしたいことは山ほどございますが、ここは私目の寝室で間違いなかったでしょうか?」
「ここは貴方と魔法衛士隊長の愛の巣なのでしょう?貴女が間違うはずがないではありませんか」
「あ、愛の巣って・・・」

思わず地金が出そうになったラ・ヴァリエール公爵婦人-前マンティコア隊隊長にして伝説の姫騎士カリーヌ・デジレは、咳払いをして呼吸を整えると、あられもない格好でベットにうつぶせる王女に眉をひそめた。この家と言うには余りにも大きな城に来た当時は、何もかもに圧倒された(大体どうして夫婦の寝室が別なのか)。何時でも何処にでも金魚の糞のようについてくるメイドは鬱陶しいことこの上なかったし、天蓋付の豪華なベットは落ち着けず、今でも中々寝付けない。チクトンネ街のあの汚くて狭い寝床が懐かしい(何より寝室が同じだったし)。

ところがこの王女様ときたら、そこにいるのが当然のように身を投げ出している。いくら気に入らない寝床とはいえ、そこに他人が堂々と寝ていると言うのは腹が立つものだ。キャミソールの上に薄いシルクの寝巻きを羽織っただけというその格好は、男心を擽ってあまりある。なんというか昔から感じていたことだが、この王女様は気を許した相手にはとことん気を許す癖がある。自分はそちらの気はないはずなのだが-うつ伏せになりながら交差させた手の上に顔をちょこんと乗せている様は、なんだかこう・・・こねくり回したくなるぐらい可愛い。

「とにかく殿下、まずはその格好をおやめください。目のやり場に困ります」
「あぁ!貴女までそんな他人行儀な事を言うのカリーヌ?!おお、神よ!私にはくつろいで話す友人を持つことすら許されないのかしら!ああ、美しいって罪なのね・・・」
「・・・前言撤回。そこからどかんか、この胸に栄養取られた王女様」
「あら、カリン?羨ましいの・・・ほら、ほら」

ベットから身を起こしたマリアンヌは「何か」を寄せて上げる。すると彼女の手の中で小さなメロンが二つ、ポヨン・ポヨンと形を変えた。カリーヌの眉間に青筋が浮かび上がるが、その程度の牽制で引き下がる「烈風」ではない。

「そ、そんなもの、た、ただの脂肪の塊ですわ。おほほほ・・・」
「ほほほ。貴女もピエール殿に揉んでもらば大きくなるんじゃなくて?」

体の小さなカリーヌが戦場で名をはせることが出来たのは、戦場で一瞬の隙を突き、相手をねじ伏せてきたからだ。顔を引きつった笑い声を上げながらも、それを見逃すほど勘は鈍っていない。そしてわずかな優位に驕った王女の隙を突くことに、カリーヌは何のためらいもなかった。

「あ、な~るほど!お相手のいない姫殿下はお一人で大きくしておられるのですね!」

マリアンヌの手が止まり、笑顔が石像のように固まった。

「そんな性格だからクリスチャン王太子殿下にフラれるのですわ・・・お可哀相に」

空気が冷たく感じるのは、何も季節だけが原因ではない。冷たいというよりもむしろ完全に冷え切っていたが。

「おっほっほっほっほ」
「はっはっはっはっは」

・・・

「「やるかこの(アバズレ)(俎板)!!」」

見えないゴングが、ラ・ヴァリエールの城に鳴り響いた。



「・・・マルシャル公爵、で御座いますか?ルーヴォア財務卿ではなく」
「そう、マルシャル公だ。エギヨン宰相の後任にはあの童顔男を当てようと考えておる」

とっさにその名前を繰り返したピエールは、ことの重大性に顔の表情が固まっていくのを感じた。宰相のエギヨン侯爵が元老院での問責を背景にした辞任圧力に抗しきれず辞表を提出したことは仕事柄耳にしていたが、その後継候補に関して王から諮問を受けているのだ。これほど栄誉なこともないが、考えればこれほど危険なこともない。今回、領地への王女行幸という誉にもかかわらず、当主であるピエールがトリスタニアに留まったのもそれが理由である。

国内屈指の大貴族であり、王位継承権をもつ名門公爵家当主。おまけに王の傍に近侍するのが仕事である近衛兵の隊長。肩書きだけ見れば、どれほど嫌味な男なのかと、当事者であるピエール自身が思うのだ。ましてや他人はどう受け取るか。おまけに相手は火のないところに煙をたて、燃えるものがなければ放火してでも噂を立てるという、厄介極まりない『宮廷雀』という珍獣。あらぬ噂が立つことを心配する友人の忠告をピエールは受け入れた。宮廷の噂に意図的に無関心を貫いている彼も、宮廷内で自分を快く思わない人間が多いことは理解していた。自分一人が失脚するのは勝手だが、それは自分を信頼してこの地位に就けてくれた王の期待を裏切ることになる。信頼を失望で返すのは彼の流儀に反していた。

「宰相の後任人事に関して、宮廷内の空気や予想はどんなものかね」
「デュカス公(元老院議長)やボーフォール伯(国務尚書)の名前を挙げるものもいますが、大方は財務卿のルーヴォア侯で落ち着くだろうと言う意見です。少なくともマルシャル公の名は耳にしたことがありません」
「ピエール君。権力とはつまるところなんだと思う?」

首をひねるピエールに、フィリップ3世は「人事だよ」と短く答えた。

「君も小なりとはいえ組織の長であろうとするなら覚えておきたまえ。権力とは人事だ。権力とは人事であり、人事こそ権力の源である。エスターシュに勝てた余が、ゴビノーには何度も煮え湯を飲まされているのも、それが理由だ。高等法院長は王であろうとも大逆罪でもなければ首には出来んからな・・・だがこの人事と言うのは意外と難しい。入省年次や爵位、そして年齢という要因だけに配慮していては、人事権など無いに等しい。そこに意志がないのであれば、王はサインをするだけのガーゴイルと同じだ。権威も威光もあったものではない」

「戦と同じだよピエール君」とフィリップ3世は笑った。この王が天性の戦上手であることを否定するものはいない。戦を語る王は常に生き生きとしており、戦塵の中でこそ英雄王の知略は輝く。そして政治の本質を権力闘争とするなら、これほど政治向きの性格はない。何よりあのエスターシュですら、最後には「英雄」に敗北を認めたのだ。

「例えば君が一軍を率いる将軍だとしよう。戦場において士官学校で教えるような定石通りの行動だけで勝てると思うかね?」
「無理です。教本のまま軍を動かしていては、勝てる戦も勝てません」
「そういうことだよ。定石とはすなわち、相手も容易に予想出来るという事だ。定石を外れすぎても駄目だが、どこかで外さなければ相手の裏をかくことは出来ない。人事も同じだな」
「しかし陛下。それではマルシャル公とはあまりにも定石から外れすぎているのでは」

ピエールの不安も当然である。アンドレ・ヴジェーヌ・ド・マルシャル公爵の名は少なくとも宮廷内の下馬評には挙がってすらない。意外性という一点に限ってみれば、確かに見事な奇襲だろう。しかし奇襲にはそれだけ危険性も伴う。38歳の内務省行政管理局長はエギヨン侯爵の懐刀として内務省内でこそ知られていたが、政界全体で言えば無名に近い。何より

「マルシャル公はまだ38歳です。自分より年上の公をこう評するのは具合が悪いですが、失礼ながら若輩と言わざるを得ません」
「年齢を言うのであればエスターシュは21で宰相になったぞ?」
「あの時は経済危機から政変が噂されていました。いわば緊急登板です。大公や王族が宰相には就任しないと言う前例を破ったことが全く問題にされなかった当時と今では政治状況が異なります」
「そうだ。確かに状況は違う・・・今回は6200年よりも事態は深刻だ」

思いもがけない王の言葉にピエールは思わず息を呑んだ。6200年当時、フィリップ3世の親政下にあったトリステインは、長引く不況と王の経済失政により経済危機が深刻化。増税により外征の戦費を調達する王に対する国民の不満を背景に、高等法院による弾劾すらささやかれていた。このとき切り札として宰相に登板したのがエスターシュ大公であり「非常時」を旗頭に独裁的な権限を使って国家の建て直しに当たった。それに比べて現在はどうか。

「6200年は余自らが悪役だった。今はどうだ?目に見える悪役がいない。経済は順調だから庶民は政治への興味がなく、貴族が自分の勢力争いにうつつを抜かしていても、むしろそれを楽しんですらいる。真の危機とはそうした表面上の平穏の下に、順調に育まれていくものだ」

次世代の次世代-ポストマリアンヌ問題といわれても庶民はピンと来ないだろう。次はマリアンヌ様に決まっているではないか。その次?それはその時の話だ。何より貴族や高等法院ですら目の前の権力闘争に熱中しているのだ。民に危機感を持てといっても無理な話である。十数年後にその問題に直面した時、トリステイン全土を巻き込んだ御家騒動が勃発して、それに巻き込まれた時に始めて人々は気がつくのだ。

「マリアンヌの次もそうだが、今トリステインの抱えている問題は、どれもこれも一見すると地味なものだ。通貨論争、法院改革、軍と諸侯軍の再編・・・しかしどの問題も根が深く、対応を誤れば国を傾けるものばかり。地味だからこそ誰もそれらに興味がなく、国民も貴族も危機感が薄い。このままでは我が国はゆっくりと」

その先は言わずともわかる。巨木が朽ち果てて倒れるように、寿命を迎えた竜が竜族の墓場に身を横たえるように-例えは様々だが、意味する事はただ一つ。知れず掌に汗をかいている事に気がついた。柔らかい綿でゆっくりと首を絞めると、絞殺痕が残りにくいと聞く。ピエールは自分の首に綿の縄が掛けられたような錯覚を覚えた。

「人気取りの要素も無論ある。童顔の公爵では効果は薄いだろうが、それでも38と言う年齢だ。ある程度の淡い期待を持たせることが出来るだろう」
「理由はそれだけで御座いますか?」
「38-君にはまだ解らないだろうが、この年齢は意外と若くないのだ。そして意外と年寄りでもない。変化を嫌う年齢でもなく、無闇に変革を追い求める年齢でもない。そして完全に蛮勇がなくなる年齢でもない」
「・・・年齢が全てではないのではありませんか?若者が必ずしも馬鹿であり、老人が賢者ではないと愚考します」

「それはその通りだ」とフィリップ3世は言う。同じ月日を重ねてきても、無為に馬齢を重ねるか、自らを高めるために費やしてきたかで明暗は分かれる。おそらくマルシャル公は後者なのだろう。

「無論、マルシャル公だけでは頼りない。彼はエギヨン侯のような経験も、エスターシュのような野心にも欠けているからな・・・誰がいい?」
「・・・ルーヴォア侯は如何でしょう」

意図する所を察してすぐさま答えを導き出したピエールに、フィリップ3世は愛弟子の成長を喜ぶ師のようにその目を細めた。なるほど、ルーヴォア侯爵なら経歴といい家柄といい、また年齢的にもマルシャル公の後ろ盾として遜色はない。何より次期宰相候補が閣僚として支えるのであれば、これ異常ない政権の重石となるだろう。問題は本人が受け入れるかどうかだが、その点に関してはフィリップ3世もピエールも心配していなかった。

「確かに、あの頑固な老人ならよもや嫌とは言うまい。貴族であることに絶対の自負を持つ御仁だからな。財務協に留任させるもよし、外務卿に横滑りさせるという手もある。財務卿は次官の昇格させ-」
「陛下。リッシュモン伯爵の辞任はお認めになられるのですか?」
「・・・君は相変わらず嫌なところをつく男だ」
「出すぎた真似を、お許しください」

頭を下げる公爵に、フィリップ3世は苦笑しながら手を振った。全く、ここが杖の強弱だけが通用する戦場でないのが実に惜しまれる。同じ杖の論理であっても、宮廷のそれは戦場の強者が容易に敗者となる摩訶不思議な戦場。だがこれほどの騎士を側におけることが心強いことに変わりはない。

「いや、褒めているのだよ。魔法衛士隊隊長たるものが単なる匹夫の雄では格好がつかん。さて、君の質問に答えなければいかんな。エギヨン侯はともかく、リッシュモン伯は交渉の責任者だ。伯には悪いが、彼だけは先に辞めてもらうことになるだろう-つまり更迭ということだ。エスターシュ相手ならともかく、ラグドリアン講和会議の功労者にこのような仕打ちをするのは本位ではないが、誰かが責任を取らねば貴族どももおさまらないだろう・・・しかしピエール君。君も中々、政治と言うものがわかってきたじゃないか」

「これもエスターシュの薫陶の賜物かね?」とからかう様に尋ねる王に、軍人として国家の杖であることを誇りに思い、政界への転身は断固として拒否し続ける名門公爵家の当主は、元の政敵の名前にモノクルのチェーンを揺らして不快感をあらわにする。そんな堅物な魔法衛士隊長の性根をほぐすように、フィリップ3世は笑いかけながら話しかけた。

「拗ねるな、拗ねるな。まったく、カリン君が君を可愛いと言ったわけがわかったような気がするよ」
「・・・か、可愛い?!わ、私がですか?!」
「そう、カリン君が言っていたよ。なんでもピエール君、君は酔うとベットの上で・・・」
「へ、へ、陛下!!」
「冗談だ、冗談。はっはっは!」

英雄王は三度、肩を揺らして高らかに笑った。



「32勝33敗2引き分け」か「33勝33敗1引き分け」で争った後、マリアンヌとカリーヌはぐったりとしてベットに仰向けになった。とてもではないが20を過ぎた一国の王女と公爵夫人の喧嘩には見えない。宮廷内の喧嘩とは大抵、陰湿・陰気・陰鬱の三拍子揃うのが定番だが、この二人のそれは、むしろ子犬がじゃれているような雰囲気があった。どちらにしろ、いい歳して大人気ないことを全力でやっていたのは間違いないのだが。

栗毛色とピンクブロンドの髪が互いの額や首筋に汗で張り付いている様は、酷く扇情的である。共に寝間着であるだけに、何か妙な行為を行った後に見えなくもない。

「・・・随分と、力が入っていたわね。前線の水メイジでもあそこまではしないものよ」
「訓練と実際の治療行為は違うから。やっぱり一人ひとり患者を診るのは、疲れるものね」

治癒魔法(ヒーリング)はただ唱えるだけでは駄目だ。軽い外的損傷に見えて化膿している時もあれば、単なる腹痛かと思えば臓器の腫瘍である場合もある。そのため問診は必ず必要である。水を霧吹きでまくか、コップをそのままひっくり返すかの違いだと言えばいいのだろうか。どちらが目の前のクランケに効果的なのかわからなければ、精神力を無駄に使うことになる。そもそも秘蹟を希望する患者は事前に問診を受け、治癒する見込みのない志望者は事前に弾かれるのが通例である。王が治癒魔法を唱えて治癒しなかったとなれば、これ異常ないほどその威信を傷つけることになるからだ。

問診によりある程度の診断がなされているとはいえ、ヒーリングに精神力が必要なのは同じこと。ましてや二日に分けて治療する予定だった患者23人を一挙に治療したとあればなおさらだ。誠意や熱意は伝わるものであり、始めてみる美しい王女殿下が、平民である自分達の病や傷を癒すために必死になってスペルを唱える姿に、ラ・ヴァリエールの領民の間で、マリアンヌの人気は天井知らずとなった。だが王女と少なからぬ付き合いのある元女官長は、その熱意の裏側にあるものを見抜いていた。

「憂さばらしのように魔法を唱えるのは感心しないわね」
「・・・貴女のそういう勘の鋭いところが嫌いよ」

マリアンヌは拗ねたように視線をそらしたが、それ以上の言い訳はしなかった。実際に疲れているのだろう。カリーヌが女官長兼魔法衛士隊長であった頃も、王宮内の空気はマリアンヌに対して好意的なものばかりではなかった。「フランソワ王太子殿下(マリアンヌの従兄。セダン会戦で戦死)が存命であれば」という言葉が飛び交い、一挙手一投足が比較の対象になった。あれから2年になるが、宮廷内の空気とは簡単に変化するものではない。そんな場所で四六時中神経を張り詰めているのだ。通常の神経の持ち主であればとっくに倒れていてもおかしくない。よい意味での鈍感さの持ち主であるマリアンヌだから耐えることが出来るのだ。公爵夫人という肩書きですら荷が重い自分には想像も出来ない重圧とプレッシャーである。

組んだ腕に顔を伏せると、マリアンヌは詩の一説のようなものに節をつけて歌い始める。カリーヌは知らなかったが、それはチクトンネ街で流行している小唄であった。

「おぉ白百合は何処へゆく。英雄王は永遠ならず、お姫様は何も知らず。知らないままに振られてしまい、お姫様は一人ぼっち。哀れ白百合。われらの白百合。ああ白百合よ、お前はどこへゆく-」
「マリアンヌ、貴女、まさかまた昔の悪い癖が・・・」
「ふふふ、もう街歩きはしていないわ。だって私の仕立てた服を着てくれる騎士様はもういないから。それに時間もないしね」

あの頃は楽しかったと振り返ることは、目の前の出来事から目を背ける最も楽な手段だ。たとえ当時はどんなに辛い経験だったとしても、過ぎてしまえば楽しい記憶になることも多い。それが若さと心の赴くままに任せた行動であればなおさらだ。

トリステイン王家の紋章である白百合は古くから繁栄の象徴であるのと同時に純潔の象徴である。百合の球根は病気に弱く、湿気や寒暖の変化にも敏感であり、とにかく育てにくい。しかしその花は気高く美しい。薔薇のような華やかさはないが、それを補って余りあるものがある。それゆえ百合の花は古くから人々を魅了してきた。

マリアンヌ・ド・トリステインという人間を側で見続けてきた人間の一人として、彼女はまさに白百合を象徴したような人物であるとカリーヌは思う。英雄王から威厳とカリスマを、亡きクロード王妃からはその聡明さを受け継いだ彼女は、難しい球根の時期を経て、気高き花を咲かせようと今も成長を続けている。しかし王宮と言う土壌で陰湿な言葉をぶつけられ続けては、マリアンヌでなくとも嫌になってしまうだろう。「わかっているつもり、わかっていたつもりなのよ」とマリアンヌは顔を伏せたまま、くぐもった声で呟いた。栗毛色の髪に隠されて、その表情や感情は伺うことは出来ない。

「2年前、セダンの地でフランソワ兄さん(マリアンヌの従兄)が死んだと聞かされた時、私はまず何を考えたと思う?『私の番が廻ってきたんだ』-それだけよ。多くの兵士が死んだことよりも、多くの顔見知りの人間と永遠に再開できなくなったというのに・・・白状だと思わない?」

カリーヌは口の中一杯に苦いものがこみ上げてくるのを感じた。実際に杖を持って戦った一人として、彼女を責めることは簡単だ。しかしその資格は自分にはない。2年前のその日、セダンの地で今の彼女以上に醜悪な感情に支配されていた自分には。

2年前のその日。カリーヌはセダンの地にいた。精鋭マンティコア隊を率い、祖国の大地を踏みにじったガリア兵を駆逐しようとした。しかし、そこで自分が出来たことは、敵を倒すことでも、見方を援護することでもなく、ただ自分の身を守ることだけ。そして自分は知った。一騎の活躍によって戦況を覆すことの出来た自体は終わり、純粋な兵力とそれを支える国力=経済力が戦争を決める時代が来たのだ。

いずれ自分の時代が、騎士の時代が終わりが来るであろうことは考えていた。しかし現実のものとしてそれを突きつけられた衝撃は、想像以上だった。烈風と呼ばれた自分が、多数の鉄砲を抱えた数え切れない平民兵の前に、自分の身を守ることで精一杯という現実。そして、同じ釜の飯を食べてきた同僚や多くの兵士が戦死したことよりも、自分の力が戦場で役に立たないことを突きつけられた衝撃が大きかったことに気がついた時、カリーヌは自分自身に対する嫌悪感を隠せなかった。気高く、真の勇気と知恵の象徴であろうとしていたはずの自分は、自分は-

生き残ったことに、再びピエールと生きて会うことが出来ることに、安堵していたのだ。

「・・・責めないのね。てっきり罵られるものだとばかり考えていたわ」
「糾弾してもらうことで自分の汚さが少しでも拭われると思ったら大間違いよ。自分の汚さを認めることが出来るのも、それを拭うことができるのも、自分だけ。私は貴女と共に歩くことは出来るけど、貴女の代わりに歩くことは出来ない」
「・・・やっぱり貴女は強いわね、カリーヌ」

「だから貴女は嫌いなのよ」と伏せていた顔をこちらに向けながら語るマリアンヌは、小唄に歌われるような何も知らないお姫様ではない。確かに知らないことは山ほどあるだろう。しかしマリアンヌは自分が無知であることを知っている。そして何より、自分自身の頭で考え、自分の足で歩こうとする意思がある。今の彼女は慣れない環境と、初めて下世話で無責任な流言飛語の対象になったことに驚き、立ちすくんでいるだけだ。自分の足で歩くことを諦めたわけではない。

-嫌いとは随分な言い草ね

カリーヌは苦笑を隠せなかった。この王女様は自分の強さが嫌いといったが、カリーヌはマリアンヌの気高き意思が嫌いだ。共に自分にはないものを持つ相手への尊敬の裏返しとしての感情であるが。そして何処まで言っても自分は貴族であり、彼女は王族である。両者は共に杖を持つが、その杖の使い方は違う。だが、こうして自分は彼女と取っ組み合いの喧嘩ができる。喧嘩は互いに通じる言葉で、同じ視線でなければ起こらない。

自分達は結局、似たもの同士と言うことなのだろう。だからこうして話すことが出来るし、喧嘩をすることが出来る。それはとても幸せなことなのだと最近ようやく気がついた。

「それで未来の女王様はどうするの?」
「・・・とりあえず寝るわ。今日は疲れたから」

マリアンヌの答えが遅れていたのは考えていたからではなく、疲労で頭がまわらなかったかららしい。23人もぶっ続けでヒーリングを使えば、専門の医者であっても倒れてしまう。その上、取っ組み合いの喧嘩までしたのだ。疲れていないわけがない。

「・・・愚痴っぽくなって、ごめんなさい」
「貴女は頭が良すぎるのよ。一人で悩んで考えて、結局こんがらがって身動きが取れなくなる。トリスタニアには吐いて捨てるほど貴族がいるんだから、それを使えばいいのよ。仕えるものは何でも使う。戦と政治の基本よ」
「それ、まさか・・・」
「そう、王女様の大好きなエスターシュ大公の言葉よ?」

美人は怒っても美しいという東方の諺があるそうだが、それは真実だ。何故ならエスターシュの名前に露骨に嫌そうな顔をするマリアンヌは、全く美しさを損なっていなかったのだから。

「あの男の名前は出さないで。頭・・・痛くなるから」
「私だってあの男は大嫌いだけど、真理は誰の口から出ても真理であることには変わらないわ。口先だけは達者だからね、あの若隠居は。それなら徹底的に利用してあげるべきよ。本人がそう言っているんだからね・・・それにあの娘達の世話もあるし・・・」
「あの娘達?」
「ん?何の事?」

目線が明らかに中を泳ぐカリーヌは、明からかに空とぼけていたが、襲い来る疲労と睡魔と戦うマリアンヌの頭はそれを気に留めることはなかった。

「・・・ありがとうね」
「礼なんかいらないわ。愚痴だけならいくらでも聞いてあげるわよ」

「でも明日は私の番だからね」と、カリーヌは悪戯っぽく片目を瞑る。しかしそのとき既にマリアンヌは規則正しい寝息を立て始めていた。その寝顔は、幼さを残しながらも、野に咲く一輪の花のような気高さが滲み出ている。この寝顔を今だけは独占できることを素直に喜びながら、今からこの王女様を寝室に運ぶ手間を考えると、カリーヌは苦笑を禁じえなかった。

「まったく・・・手の掛かる王女様なんだから」


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