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[17050] ブリジットという名の少女 【GUNSLINGERGIRL】オリ主転生物 完結
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2016/04/21 18:41
【連絡】2016 4/21(木)
学生時代のパスワードを総当たりしていると、うち一つで作者メニューに入れました。お騒がせして申し訳ないです。基本的にハーメルン版はこちらと全く別の展開になるので、こちらはそのまま残します。ハーメルン版はタイトルを「ブリジットという名の少女【Re】」として連載させて頂きます。こちらのifはReの方に吸収合併という形になります。要するにプロットの流用です。
これからもどうか、本家とハーメルン版ともどもよろしくお願いします。

ガンスリ二次創作転生オリ主 TSものです。
ただし注意。

・この作品の都合上、グロテスクな暴力シーンや性的単語を扱うシーンがあります。
・劣化凄まじいです。

9月3日

感想欄で指摘して頂いた誤字を直しました。
これからもご指摘よろしくお願いします。

2011年2月27日

いろいろと忙しいイベントが終わったので復帰します。
まあ、この時期に復帰ということはそういうことなのですが……。
一週間ほど休養してから溜まっている誤字脱字、劇場を投稿。
そののちに本編を投稿させて頂きます。


2011年3月17日
とりあえず無事を報告します。
けれど色々とあれなので、人の死が多いSSであること、私自身が相当参っているので二週間から三週間完全に凍結します。
何時になったら日常は戻るのでしょうか。

2011年6月26日
いろいろと折り合いを付けて帰ってきました。またぼちぼちと更新していきます。
大変長らくお待たせしたことを謝罪します。

2011年6月30日
Countdown編はあと一つです。本編に関わる重要なセクションですので、短いですがどうかご容赦ください。次は本編です。

2011/09/05
十月中に完結させると宣言します。これくらいしとかないとブリジットが書けない。


2012/03/11
気がつけば二年が経っていました。また東北の大震災の日でもあります。
本日から本編の更新と共に、少しずつ改訂していく予定。話の大筋は変わらないので、誤字脱字訂正や、文章のシェイプアップ程度です。

2012/03/19
感想欄にて最新話の致命的なミスをご指摘頂きました。寝ぼけていましたごめんなさい。修正しました。

PS

親記事を誤って削除してしまいこうして再投稿することになりました。
SS-FAQ板で質問に答えて頂いた方、本当にありがとうございました。
この場をお借りしてお礼を申し上げます。

なお、皆さまから頂いておりました感想は私の愚かな不注意によって消えてしまうことには耐えられず、ログを取りこのスレッド内でアップさせて頂くことになりました。
もし削除依頼などがありましたら、感想掲示板にてお知らせください。


皆さまには多大なご迷惑をお掛けしますが、何とぞこれからもよろしくお願いします。


さらにPS。

感想ログが規則違反ということを教えて頂いたので削除しました。
ただし、それ自体は保存してあるのでこれからの執筆の糧にさせて頂きます。



[17050] 第0話 俺が義体になった日 【ついでにアルバニア人探し】
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2012/03/11 14:08
 コートを着た彼女の背中は大きそうに見えて、意外と小さい。
 流れるような金のツインテールがひょこひょこ動いていて、思わず手を伸ばして触りたくなる。
 これが平時の時ならその健康そうな褐色の肌とあわせてご堪能していた所なんだけど、如何せん今はタイミングが最悪だった。
 何故なら……、
「くそっ! 公社の悪魔共だ! あいつらもう嗅ぎつけやがった!」
 銃声と怒声がが前から聞こえた。俺も手にしていたMP5を構え戦闘準備を整える。けれど、出番はなかなかやってこない。
 旧式のショットガンを振り回すツインテールの少女を見て、自分があまり役に立っていないことに気がついた。
「あーあ、早くクリスマス(ナターレ)にならないかなあ」
 俺のやる気のない嘆きは、銃声にかき消されて誰の耳にも届かなかった。


「トリエラ、その壁の向こう……そうその壁。それをウィンチェスターで撃ち抜いて見て。面白いことになるよ」
 俺はMP5を片手で持ちながら先行していたトリエラにこう言った。彼女はこちら側を一瞬だけ見ると、意図を察したのか何のためらいもなく引き金を引く。
 モルタル材が弾けとび、複数の鉛球が壁を貫いていった。
「ああああああああ!」
 聞こえたのは断末魔。散弾の雨を壁越しに浴びた哀れな男が扉を突き破って出てきた。全身血塗れで所々が欠損しているがまだ息はあるらしく、鬼のような形相で俺達を睨みつけてきた。
 俺はトリエラを後ろに下がらせると、MP5を構えてその男の眉間に照準を合わせる。
「そこのおじさん? 何か言い残したいことはある?」
 男が拳銃を構える気力もない事を知って、俺は飄々とした口調で言いのけた。我ながら中々外道だと思う。だけれども少しの慈悲は含んでいるので、男の遺言を素直に聞いてやろうとしているのも事実だ。
 ただ、男の一言は遺言などという生易しいものじゃなくて、俺達に対する呪詛の言葉だった。
「この、悪魔どもがっ!」
「そう……」 
 血と共に吐き出された言葉に、俺は引き金を引くことで答えた。男の眉間が吹き飛び、脳漿を撒き散らしながら倒れこむ。盛大に返り血を浴びた俺は、トリエラに小突かれて移動を促されるまで銃を構えたまま固まっていた。
「ちょっと大丈夫? 顔色悪いよ」
「いつもの事だよ。ああいうのを聞くとどうしても体が言うことをきかなくなる」
 俺は心配そうに顔を覗き込んでくるトリエラを制して、襟元に取り付けたピンマイクを手に取った。簡易無線機に繋がったそれは外界と連絡をとる唯一の手段だ。
「もしもし? アルフォドさん? 二階の掃討が終わりました。アルバニア人はいません。どうやら外れのようです」
 返答は耳に取り付けられたイヤホンから聞こえる。向こうから聞こえる声は条件付けされた俺の心を安心させ、ある一定の充足感を与えた。
「あー、あー、こちらアルフォドだ。良くやったな、ブリジット。お手柄だ」
「いえ、頑張ったのはトリエラです。私は止めを刺しただけです」
「はは、ならトリエラも褒めないといけないな。……ほらヒルシャー、労いの言葉でも送ってやれ」
 見ればトリエラも俺と同じように耳元のイヤホンから音声を聞いていた。あの様子ならヒルシャーから何か言われて、どう反発しようか考えているのだろう。
 この時点では後のベタ惚れが嘘のようにドライだから当然といえば当然か。
「で、ブリジット。息のある奴はいるか? 出来れば正しいアジトの答えを聞きたいんだが」
 トリエラ観察に水をさしたのはアルフォドだ。この担当官は中々に優秀だと思うのだが、少しばかり配慮というものが掛けている。褒められて直ぐに仕事の話をされるとどうしても白けてしまうのだ。
 だが、担当官の質問を義体の俺が無視できるはずもなく、強制的に応対させられてしまう。まあ別に構いやしないが。
「一人手足を切りつけて縛り上げた奴がいます。そいつに聞いてみましょう」
「ああ頼むよ。俺達も直ぐ上がる。少し待ってなさい」
 無線が切られたのを確認して、俺はMP5を背負った。皮手袋を着けた拳をぱきぽきと鳴らし、縛り上げた男のいる部屋に向かう。
「さて、精精あの二人が引くぐらいにボコりあげますか」
 声にならない悲鳴、もちろん噛まされた猿轡の所為だが、男が何とか逃れようともがき倒す。俺はその男を床に引き倒し馬乗りになった。
 そして拳を振り下ろす。
 いつの間にか暴力を行使することに何ら違和感を覚えることがなくなっていた。しかしこの世界、この時間軸、この立場ではそれは当たり前のことだと、ここのところ割り切り始めている。
 だってそれもその筈、

「GUNSLINGERGIRLの世界じゃ仕方ないよなあ」

 再度の呟き兼嘆きを聞いたのは、何度も顔面に鉄拳を打ち付けられている哀れな男だけだった。




 数ヶ月前。


「拉致監禁の上での自殺未遂ですか?」
「はい、どうやら犯人グループによる性的暴行と虐待を日常的に受けていたようで……
 隙を見て四階から飛び降りたそうです」 
「いいとこのお嬢さんなのに残念だ」
「全くです。で、この娘はお宅の――公社が引き取るんですか?」
「ええ。此方の社会復帰プログラムで回復させます。勿論国のお墨付きですよ」
「それは心強い! 彼女の将来に関して我々は最早無力です。どうか彼女を助けてやってください」

 アルフォドは任せてください、と言い掛けてその口を噤んだ。
 どれだけ唇を動かそうとしてもその一言が出てくることはない。

 クリスマスの翌日、良く冷えた雪の日のことだった。



 自分の死因なんて覚えていない。
 オタで引きこもりだった自分のことだから不摂生が祟って病死でもしたか、火事に巻き込まれたか、それとも家に押し入ってきた強盗に殺されたか――
 どちらにしろ碌な最後じゃなかったと思う。だから神様が用意してくれた次の人生だとその時は思った。
 ふと意識すれば、長い間感じることのなかった四肢の感触が蘇り、血の巡りが体を支配する。
 目を開けるまでは一瞬だった。気だるい感触と肌寒い気がしてついでに吐き気のトリプルパンチ。頭のどこかでは蘇るのってとても辛いことなんだなとか、間抜けなことを考えていた。
 医者なのだろうか? 白衣を着た眼鏡の男が俺の顔を覗き込み、今度は白衣すら着ていない優男風の外国人が俺の前に立った。
「ブリジット、どんな気分だい?」
 医者じゃないほうの男が問う。当たり前だが現代日本で引きこもっていた男の俺が、そんな滑稽な外人さんの名前なわけがなく、暫く誰のことかわからなかった。
 だが何となく俺に聞いているんだな、と判断した俺はごく自然に今の気分を答えた。
「さいあく」


 
 ベッドで眠り続ける裸の少女は、前に見たときとは別人そのものだった。身長はそのままだが夕焼けの様な赤毛は、夜空のような美しい黒に変わり顔立ち事態が幾分か大人びた雰囲気になった。
 ここまで変わってしまってはいくら近親者でも、もう彼女を彼女だと識別できることはないだろう。
 彼女は自殺未遂の少女から公社の犬としてテロリストどもを狩りとっていく義体と呼ばれる少女となった。
 正直俺はこの少女の担当官になることは乗り気じゃなかった。
 理由は単純明快だ。
 彼女に対して、どう足掻いても同情の念しか沸いてこないからだ。裕福な家庭に生まれて教養を持って育ち、幸せなこれからを約束されていたのに、身代金欲しさに外道に走った誘拐犯に拉致され強姦されて、自殺しようとしてもそれすら適わなくて、汚された、汚れたといって家族からも見捨てられて、
 挙句の果てには死ぬまで誰かを殺し続けなくてはいけない義体に知らないうちに改造されて、
 涙腺の脆い俺は彼女の生い立ちとこれからを考えるとどうしても涙ぐんでしまう。医師の話によれば義体になる前の記憶は洗脳によって消去されているらしいが、全てを知っている俺としては彼女にかける言葉が見つからない。
 ふと、視界の端で彼女の睫が震えた。
 近くに待機していた医師が慌てて立ち上がり、彼女の脈を取る。どうやら覚醒が近いようで彼女の顔を覗き込んで何か声をかけた。
 俺は彼女のベッドの前に立ち、彼女が目覚めるのを待つ。
 そっと、長い睫が開かれた。
 虚空を映す黒い双眸はまるで故郷のシュバルツバルトの森のようだった。
 俺は彼女の名を添えて、一つだけ質問をした。
「ブリジット、どんな気分だい?」
 ブリジットはまだ意識がはっきりしないのか、ぼおっと俺の顔を見つめていた。やがて口を開く元気が出たのか、形の良いピンクの唇がわずかに開かれた。
「さいあく」
 突然のことに面食らう。そして、自然と笑いがこみ上げて来た。なんということだ。これまで義体の覚醒の瞬間に立ち会ってきた担当官は何人もいるが、最悪と罵られたのは俺が初めてだろう。
「さむい」
 裸の体を隠すようにして身を捩るブリジットを見たとき、俺は何か可愛らしい服を買ってやらないといけないなと思った。



 俺がGUNSLINGERGIRLの世界に転生したと気がつくのにそれ程の時間はかからなかった。義体という単語と、ここがイタリアであることだけでも十分な証拠になるのに、公社の宿泊施設でのルームメイトがトリエラで、初めての模擬戦闘の相手がリコだったことからそれは言い逃れようのない事実だった。

 原作にはいない(知らないところにいたかもしれないが)ブリジットという少女の体。
 そして頭の中にいつの間にか叩き込まれている戦闘に関する知識云々。何より蹴り上げたリコの体が吹っ飛んでいくこの怪力――、
 改めて、悲劇の物語の登場人物になったことを痛感し苦悩する。
 これから沢山の人を殺していかなくてはならない。
 これから沢山の人が死んでいくのを見ていかなければならない。
 これからの行動方針を考えるほど、頭に余裕がない。
 それでも折角始まった第二の人生だから、少しだけ頑張って見ようと思う。
 
 今日もアルフォドという俺の担当官から貰った薬と菓子を口に詰め込んで一日を過ごす。
 冬も開けて春が見え始めたミラノは大変過ごしやすかった。



[17050] 第1話 自分のことを考えた日 【ついでにトリエラのこと】
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2012/04/13 16:22
「ブリジット、フルオートで五体の的を順に撃て。外すなよ」
 アルフォドの指示を聞いて俺は支給されたMP5を構えた。安全装置も兼用している切り替えツマミをセミオート(単発)からフルオート(連射)に切り替える。弾丸のイラストで説明されたそれは高等教育を受けていない人間でも扱えるように。
 武器とはそういうものだった。
 サブマシンガンから目線を切り、20メートルほど離れたところを見やると人型の的が5体ある。それぞれ顔面の位置にマーキングがしてあり、そこを狙えば人体に致命的なダメージが与えられるということだった。
 玩具みたいにキレの良い引き金を断続的に引き絞りながら、的を撃ち抜いていく。この体は中々ハイスペックで、かつ俺自身に才能でもあったのか射撃だけは得意中の得意だった。
 発射音はサプレッサー(減音器)を取り付けてあるお陰か、それ程大きくない。
「アルフォドさん。弾痕確認をお願いします」
 俺は銃口を下げて安全装置をかける。これは公社で何度も教えられたことであり、銃器を扱う上でおろそかにしてはいけないことだ。
 他にも装弾の仕方、メンテナンスの仕方など、覚えたくなくても覚えざるをえなかった事象が頭の中に書き込まれている。
 アルフォドは軍用のオペラグラスを使って頭部から上を吹き飛ばされた的を確認していた。
「あー、うん。全部当たっているな。しかも早い。よし、今日はどこかでジェラートでも食べさせてやるか」
 社会福祉公社によって弄くられていた頭を悩んでいても、アルフォドに褒められて自然と頬が緩んでしまう。ここで言い訳染みたことを言わせて貰うなら、断じて俺が男色なのではなく、義体は洗脳によって担当官に愛情を持つように仕向けられているため、彼から言われる一言一言に喜びを感じる精神構造になってしまっているのだ。これは中身が確固たる意思を持っていても覆せるものではないらしい。
 だから俺は早々に条件付け(洗脳のこと)に逆らうのを諦め、アルフォドの言葉に従うようになった。
 後悔はしていない。
 けれど、一抹のむなしさは感じていた。


 転生した俺がまず考えたのは転生前のこの肉体の持ち主――つまりブリジットという少女についてだった。
 原作では義体になる場合、殆ど過去の記憶は洗脳で消されていたから大して期待はしていなかったのだが、それでもここまで何も覚えていないとは思わなかった。
 ただこの条件付けも寿命が迫ると徐々に解除されていくらしいので、何も覚えていないということは裏返しで言えば、このブリジットという少女の体がまだまだ義体としての使用に耐えうるということなのでそれ程悲観する事もなかった。
 ここで俺はブリジットについて考えるのを止め、原作キャラ達がしっかりこの世界で生きていることを確かめることにした。
 トリエラがいなければピーノと戦うのが自分になるかもしれないし、ビーチェがいなければ自分がミサイルを抱えて爆死することになる可能性があるから、これはかなり厳密に調査を進めた。もちろん公社に義体と担当官のことを嗅ぎ回っているとバレれば面倒くさいことになるので慎重に慎重を重ねたが。
 結論から言ってしまえば、原作との相違点は自分がブリジットとしてこの世界に存在するということだけだった。まあそれによって生じるズレ――トリエラのルームメイトが自分になって、本来のルームメイトが別のところに行っていたり、そのトリエラと結構仲が良くなったという相違点があるがこれについては仕方がないと割り切るしかない。
 大体、担当官の命令にそうそう背くことが出来ず、自らの意思で行動することが非常に難しい俺がこれからの未来を知っているのは大したアドバンテージにはならないのだ。
 なら出来るだけ戦闘技術を磨いて生き残ることを考えるしかない。
 幸い現代日本人としての思考は一部を除いて殆ど条件付に縛られているらしく、戦闘訓練も難なくこなせるし銃器の扱いもプロの軍人並みだ。初陣で人を撃った時もそれほど悩むことはなかったし、何より人を殺したという一種の興奮と、アルフォドに褒められた嬉しさが俺を支配していた。
 これだけなら義体という少々不安な生活も順調そのものだった。



「聞いたよ。射撃訓練でまた満点を貰ったんだってね」
 部屋でジェラートをペロペロ舐めていたらトリエラから話しかけられた。
「うん。あれ、とても簡単だから」
 俺はトリエラのほうを見ずにジェラートを舐め続ける。トリエラはそんな俺に思うところがあったのか、ズカズカと大股でこちらにやって来るとそのまま正面に腰掛け、俺の持っているジェラートを反対から舐めた。
「……間接キス」
 せっかくのアルフォドからのご褒美を取られた俺はジト目でトリエラを睨み付けながらこう言った。だけど俺は知っている。この少女はそこらへんのケツの青いガキとは違ってそんなこと微塵も気にしないことを。
「だからどうしたの? 女の子同士だから別にいいでしょう」
 最初は俺のことを警戒して近寄りもしなかったくせに、今ではこうして人のジェラートを遠慮なしに舐めてくる仲になっている。まあ俺の中身は男だからこういった同性愛的な展開はバッチコーイなわけだけど。
 話題は自然と訓練の話になる。
 俺はジェラートを舐めるのを止め、改めてトリエラに向かい合った。
「トリエラは銃の取り回しがへたくそ。でも格闘は私よりも強い」
 まあ、別に下手糞というほどでもないが、確かに互いの得手不得手ははっきりとしていた。射撃なら俺、格闘はトリエラという風に。
「でもやっぱりブリジットは凄いよ。格闘での差なんてホント微々たるものじゃない。この前もGISを圧倒していたし」
「まぐれだよ。あの人たちが弱かっただけ。本番なら多分トリエラのほうが上手くやる」
 この話はもう終わりだ、という風に俺はジェラーとをそのまま口に詰め込んだ。トリエラが抗議の声を挙げるが俺は無視する。
「私、もう行くね。アルフォドさんに呼ばれているから。クリスマスのプレゼントを選びに行くんだって」
 原作を知っている俺からしてみれば、トリエラの藪を突っつく少々危険な発言なのだが、それは自然と口から出ていた。
「ふーん。ブリジットはナターレのプレゼントを自分で選べるんだぁ」
 不機嫌さを隠そうともしないトリエラの台詞に俺は苦笑するしかなかった。まさかこれ程までに予想通りとは。
「トリエラは自分で選べないの?」
「全然。ヒルシャーが勝手に熊のぬいぐるみを送ってくるだけ。あの人は適当に贈り物をして私の機嫌を取りたいだけなの」
 本当、後のベタ惚れぶりが嘘のようなドライな反応だ。これでトリエラが将来惚気たりでもしたら散々からかってやろうと思う。因みにヒルシャーというのはドイツ人でトリエラの担当官だ。
「でも、貰えるのはそれだけで幸せだと思う。だって、生きていないとそれは貰えないものだから」
 トリエラからの返事は無かった。俺は背後からの無言の意味を噛みしめて部屋を後にした。



 私とブリジットは五共和国派のアジトと思われるアパートの裏で突入の準備に備えていた。
 MP5にサプレッサーを取り付け、サイドアームズのシグを腰のホルスターに収める彼女を私は眺める。
 彼女は不思議な子だ。今まで見てきた義体の子とは全然違う。こう義体ぽくないというか、人間ぽいというか上手く言葉には出来ないけれども、私を含めてそのほかの義体とは何処か違うのだ。何よりも大人びているし、その実力も折り紙つきだ。
「ねえトリエラ」
 そんなことを考えていたから、彼女から話しかけられた時、思わず心臓が跳ねた。
「な、なに? ブリジット」
 準備を終え、MP5の安全装置を外した彼女は一拍置くとこう言った。
「トリエラは自分のこと、何か覚えている?」
 彼女の問いは、私の跳ねあがった心臓を凍りつかせ、自分の頭の中がかき回されているような感触を得た。
「どうしてそんなこと聞くの?」
 だから私の返答が少し威圧するような感じだったのは仕方が無いことだと思う。
「私はね、何も覚えていないから。どうして自分が義体になったのかも、自分がどこで何をしていたのかも全然思いだせない」
 それは義体の少女が共通して抱える悩みだ。かく言う私も曖昧な雰囲気でしか自分の記憶を思い浮かべるしかない。
 突入前にそういった士気の下がる話をするのは如何なものだろうか、と私は苦言を呈しようとした。だがそれも彼女の次の台詞によって打ち消されてしまう。
「でもね、きっと何も覚えていないから私は戦えるの。もし義体になる前が今より幸せだったとか考えると私は戦えない。今はアルフォドさんがいて、トリエラがいて皆がいて幸せだから戦っていられるの」
 突入の合図が鳴った。私はブリジットの声に耳を傾けながら、扉の蝶番をショットガンで吹き飛ばす。
「私は記憶が戻らなくていいと思う。このまま人を殺し続けて生きていても良いと思う。だって私たちが大人から貰ったのは大きな銃と小さな幸せだけだから」
 ブリジットが中に飛び込んだ。断続的な銃声と叫び声が上がる。全義体中でもトップクラスの射撃技術を持つ彼女のことだ。決して外しはしないだろう。
「トリエラも多分同じ」
 ウィンチェスター(ショットガン)で二階から降りてきた男どもを吹き飛ばす。絶えずブリジットとの位置取りを変えることで的になることを避けていた。
 私はブリジットの小さいけど何処か大きく見える背中を見て言った。
「だから私は大人が大嫌いなのさ」
 
 そうだ、クリスマスの日はヒルシャーとアルフォドさん、それにブリジットを読んでパーティをしよう。
 彼女の大好きな甘いメープルのケーキを焼いて、喉の焼けるようなシャンパンを飲み干して――。
 今の小さな幸せを噛みしめている彼女ならとても喜ぶに違いない。
 銃弾飛び交う戦場の中で、私はそんなことを考えていた。

 少しだけ、ブリジットという同室の少女のことが理解できた日だったと思う。



[17050] 第2話 天体観測の日 【ついでにヘンリエッタのこと】
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2010/08/06 22:15
「酷い有様だな。ブリジット」
 二階に上がってきたアルフォドが開口一番こんなことを言った。どうしたものかと自分の姿を見て見れば上半身は返り血で、両手と腹周りは男を尋問した時についた鼻血やら前歯やら肉片やらで真っ赤に染まっていた。
「ほら、これで拭きなさい」
 アルフォドが差し出してきたのは白いハンカチーフだった。俺は頬が赤くなるのを感じながらそのハンカチーフを受け取ろうとして手を伸ばす。だが視界に映った赤黒い左手を見て動きが止まった。
「ん? どうした」
 俺はそのハンカチーフに伸ばした手をそっと引っ込める。アルフォドは気分でも悪いのか? とか、怪我でもしたのか? と心配そうに近寄ってきた。俺は首を小さく振ると一歩だけアルフォドから離れた。
「アルフォド、かわいい君の娘は綺麗なハンカチを汚したくないんだよ」
 本部に連絡を終えたヒルシャーが軽口を叩く。生真面目そうなドイツ人のこの男はトリエラの考えている事は何もわかっていない癖に、俺の考えている事は的確に指摘してきた。
「何だ、そんなこと気にするな。それよりほら、綺麗な顔が台無しだ」
 基本的にリーチはアルフォドのほうが長い。あっという間にアルフォドに肩を掴まれると、そのまま抱き寄せられて顔をハンカチーフで乱暴に拭かれた。
 男の時ならそれこそ吐き気を催すような光景なのに、義体となって条件付けをされた今では嬉しさと愛情しか浮かんでこない。
「アルフォドさんて女誑しなんですね。ほら、ブリジットたら顔が赤くなってる」
 トリエラが指をさして笑った。俺はいつか仕返ししてやると心に誓いながら顔を背ける。肩にかけたMP5がゆさゆさと揺れる。
「今のうちに甘えときなよ。また直ぐに仕事が始まって忙しくなるんだから」
 トリエラの台詞に俺はこれからのことを考えた。もう五分も経たないうちにもう一つのアジトでヘンリエッタやリコ達の突入が始まるのだろう。原作通りに事が運び、皆が無事に帰ってくることを考える。

 クリスマスも近い冬のある日、俺は改めて自分のいる世界というものを実感した。


「ヘンリエッタ!」
 トリエラと並んで歩いていたらとぼとぼと一人歩くヘンリエッタを見つけた。ボブカットのこの小さな女の子はジョゼという担当官の義体だ。
 面倒見の良いトリエラはヘンリエッタの様子がおかしいことを悟って駆け足で近付いていく。
「リコから聞いたぞ。また大暴れしたんだって?」
「うー……うん。ちょっとかっとなっちゃって」
 どうやらヘンリエッタは、担当官のジョゼが五共和国派の人間に手荒に扱われたことに腹を立てて銃撃戦を始めてしまったらしい。トリエラは少しだけ驚いたような顔を見せたが、俺はその話を聞いても原作通りに事が進んだのかと安心するだけで、姉妹のように肩を並べて歩くトリエラとヘンリエッタを後ろから眺めていた。ジェラートを咥えて。
「トリエラ、どうしよう。ジョゼさんに嫌われちゃった」
 ヘンリエッタが不安げに呟く。トリエラはそんなヘンリエッタの肩に手を置き、そんなことはないと励ます。
「よし、なら私の部屋で一杯やろうか」
 トリエラの突然の提案にヘンリエッタが驚く。
「一杯?」
「そう。紅茶とケーキには幸せの魔法が掛っているの。それにブリジットがたんまり貯め込んだクッキーやらチョコレートがあるからちょっとしたお茶会になるよ」
「え? でもブリジットが良いと言わないと……」
 トリエラとヘンリエッタ、二人して俺に振り向く。レモン味のジェラートをぺろぺろ舐めていた俺は二人の視線を真っ向から受け止めた。
「ごめんね。駄目なら別にいいから……」
 ヘンリエッタが困ったような顔で笑った。俺は外見こそ表情を変えていないように見えるが、内心は元男でオタクだったころの性癖が災いして、今にも飛びかかりたいやら抱きしめてやりたいやらで大変なことになっていた。
「ブリジットー、たまには良いんじゃない?」
 トリエラがウィンクをし片手を挙げて俺に頼み込んでくる。ああもう、この溢れんばかりの少女愛も条件付きで封印されれば良かったのに。
 まあ、貯め込んでいる菓子も俺が買ってきたものではないし、アルフォドが差し入れてくれた物なので彼女らに分け与えること自体にはそれ程抵抗はない。
 だから俺は数秒間を空けてこう言った。
「わかった。チョコでもクッキーでもビスケットでも好きなの食べていいよ」
 ため息をつきながらの一言だったが、二人は大層喜んで、そのまま俺とトリエラの部屋まで先に向かって行った。義体といえどもやはり彼女らは少女であることを酷く感じさせる光景に俺は頬が緩むのを感じる。出来ればこのまま穏やかなる日常が永遠に続けばいいのにと空に願った。



 茶会の時間はあっという間に過ぎて行った。
 ただ、ヘンリエッタは味覚が鈍り始めているのか矢鱈と紅茶に砂糖を足しているのが気になった。
 自分もいつかはああなるのかと思うと、少しだけ将来を考えるのが億劫になった。



 そろそろ眠りに就こうかとベッドに腰掛けた時、俺たちの部屋をアルフォドが訪ねてきた。ちなみにトリエラはシャワーを浴びに行っているのか部屋にはいない。
「どうしたんですか? アルフォドさん」
 俺が毛布を抱えながら問うと、アルフォドは外着に着替えて宿泊棟の裏庭に来なさいと答えた。どうやら星を見るようで彼は星座の位置や惑星の軌道が書かれた空地図を持っていた。
 俺は了解の意を告げると、彼に初めて買ってもらった黒いフェルトのコートを羽織って裏庭に出て行った。



 




ジョゼが天体望遠鏡を屋上に運んでいるのを見たのが、全ての始まりだ。
 彼に理由を問うと、ヘンリエッタが責任を感じて落ち込んでいるので天体観測でもして気を紛らわせようとしているらしい。俺はその話を聞いて、自分が担当する義体――ブリジットのことをすぐに思い出した。
 生憎ジョゼのような立派な天体望遠鏡は用意できないが、せめてハイスクール時代に学んだ星座の知識で彼女を喜ばせようと考えた。
 俺が彼女とトリエラの部屋を訪れるとトリエラはおらず、ブリジットも毛布を抱えて寝る準備をしていた。今から外に連れ出すのを一瞬躊躇いかけたが、どうしても彼女に星を見せたいという願望を拭い去ることは出来ず、結局裏庭に出てくるよう彼女に告げた。

「寒いから早くこちらに来なさい」
 俺はブリジットが裏庭に現れたのを見つけ、こちらにくるように手招きした。簡易テーブルを広げたそこには彼女の大好きな温かいミルクコーヒーとシナモンの利いたクッキーが並べてある。
「ほら、オリオンだ」
 暗闇の中、彼女にマグカップを手渡した俺は夜空を指差した。指先に広がる大きな黒はまるでブリジットの長い髪のようだった。
「こうして星を見るのは初めてだな」
 俺の台詞に彼女は首を縦に振るだけで答えた。マグカップを決して大きくない手で覆いながらブリジットは俺に身を寄せてくる。
「なあブリジット、トリエラとは仲良くしているか?」
 彼女は何も話さない。ただ俺が一人で彼女に語りかけているだけだ。
 
 ブリジットがそっと、俺のそばを離れる。

 カップを足元に置いて、彼女は両手を夜空に伸ばした。


「アルフォドさん」
 初めて彼女の口から聞いた言葉は俺の名前だ。
 彼女は夜空に手を伸ばしたまま続ける。
「今日はありがとうございます」
 俺は彼女の後姿を見て笑った。長い髪が少しだけ風に靡き、夜の世界に溶け込んでいる。

 
 二人で見上げた星空をブリジットは何時まで覚えていられるのかはわからない。
 でも今はそれでいいような気がしていた。




[17050] 第3話 これからのことを考えた日 【ついでにリコのこと】 
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2010/03/08 06:32
 CFS症候群を患い、四肢が麻痺していた少女は両親が17枚の書類にサインしたことによって救われた。
 彼女が11歳の誕生日に手に入れたのは自由に動く手足。
 リコは今日も己の四肢が動く喜びを感じている。
 端から見たらそれはきっと些細なことなんだろうけど、本人にとっては生きることよりも大切なこと。
 俺は射撃場の隅で担当官に罵倒されている彼女を見る。
 自分の四肢を見てみればそれは確かに動き、この手でもう何人も殺してきたことを実感する。
 日本では考えられなかった日常に埋没していく自分を、何処か諦めた風に俺は眺めていた。



「よくやったな。ブリジット。今日も満点だ」
 今日の射撃訓練ではいつも使用しているMP5を使わずに、M4A1というアサルトライフルを使った。最初は9ミリ弾より大きい5.56ミリ弾の反動に戸惑ったものの、すぐにコツを掴み今では静止した的なら百発百中だ。
「次にバーストで10秒間だ。見ているからやってみなさい」
 言われてセミオートからフルオートに切り替える。後は的に銃口を向けて引き金を引くだけ。連続した銃声は聴覚保護のヘッドセットを付けていないと非常にやかましい。
「どうやらそっちの義体は射撃については完璧らしいな」
 いつの間にそこにいたのか、アルフォドの背後にジャンが立っていた。ジョゼの兄である彼はリコの担当官であり、義体を使った実働部隊のリーダー的存在でもある。俺は原作の彼も好きじゃなかったし、この世界で実際に見た彼も余り好きじゃない。
「彼女の努力のおかげさ。ここに来た頃はハンドガンひとつ扱うのに苦労していたからな」
 そしてアルフォドも彼のことを快く思ってないらしく、返事の仕方も他に比べてぞんざいだ。後から聞いた話だが、二人はもともと軍人時代の同僚らしく、その時から中々険悪な関係だったらしい。
「そうか。ならその才能を少しでもリコに分けて貰いたいものだな」
 俺の前に立ったジャンは少し眉根を寄せて俺を見下ろしてきた。俺は睨み返すわけにいかず、いかにも戸惑っているという感じに表情を形作った。
「まあいい。それよりアルフォド、次の作戦の日取りが決まった。訓練は中止だ。直ぐにブリーフィングルームに来い」
 ジャンの台詞に俺は思わず声を上げそうになった。正確な日にちが書かれていなかったから特定出来なかった原作イベントに、リコが政治家を暗殺するイベントがある。俺はアルフォドと星を見た翌日からそのことばかり考えていた。そう。転生モノでよくある原作イベントに介入するべきかしないべきかの選択だ。
 俺は基本的に原作がスタートするまでは成り行きに身を任せ毎日を過ごしてきた。だが原作が始まりこれからの未来を知っている俺はそのままで良いのだろうかと思案していたわけだ。
「ブリジット、先に帰って休んでいなさい。M4の分解清掃は今度教えるから、それは管理部に返却しておいてくれ」
 わかりました、と俺はアルフォドに手を振る。ヒルシャーと別れてこちらに歩いてくるトリエラが視界に映った。介入すべきかしないべきか、そのことは今日一日を使ってじっくり考えることにした。



「ねえ、ブリジット。君の好きなシフォンケーキなのに、全然減ってないね」
 俺は部屋に置かれた丸机にトリエラと腰掛け、午後の茶会を催していた。確かに目の前に並べられた紅茶とシフォンケーキは俺の好物だが、今は黙々と食べていられる心境じゃなかった。
「ブリジットは偏食だから、今食べておかないと後々お腹が空いたら大変だよ」
 トリエラはほら、と私にケーキの欠片を突き刺したフォークを突き出してきた。俺は無視しようかとも考えたが、それではトリエラが可哀想なので黙ってケーキを頂くことにした。
「体調でも悪いの? それとも何か悩みでもあるの? 何なら相談に乗ろうか?」
 もぐもぐと口を動かしながら目の前に座るトリエラを見る。俺は彼女にどの辺りまで話してよいものだろうかと10秒ほど考えた。確かに彼女は信頼に足るから、かなり踏み込んだところまで相談することが出来るだろう。だが、公社の人間が条件付を悪用して個人の記憶を覗くという芸当が可能だとしたらそれは非常に危ない橋となる。
「ねえ、トリエラ。もし自分が知っている未来があってその未来をもしかしたら自分の力で変えられるのだとしたらあなたは変える?」
 結局俺は何でもない話題に見せかけて彼女に相談することにした。当たり前だが、自分が転生者ですと彼女にカミングアウトしても再び薬漬けにされて記憶を書き換えるだけなのでそのことには絶対に触れない。
「未来を変える? うーん、変えた先の未来がより良い未来なら変えてもいいのかなぁ」
「でも変えた先の未来が今より良いとは限らないわ」
 そう、もし仮に俺がこれからの未来を変えたとしてもそれが皆にとって幸せな未来であるとは限らないのだ。もしかしたら原作よりハッピーな展開になるかもしれないし、逆に救いようのない、どうしようもない展開になる可能性もある。
「そうだなあ、結局自分が知っている未来に自分が納得しているかどうかだと思うね。納得しているのなら放って置けばいいし、納得してないのなら変えようと努力してもいいんじゃないかな」
 トリエラがそう言うのを聞いてやはりそんなものか、と俺はため息をついた。自分がこれからの未来に納得しているのかしていないのか、今度はそれを一日中考える必要がありそうだった。



 彼女は私には無いものを皆持っている。それは黒の長い綺麗な髪だったり、身長だったり、或いは人を殺す技術だったりする。
「ブリジット」
 食堂に向かう廊下で前を歩いていた彼女に声をかけた。足を止めたブリジットはゆっくりとこちらを振り返り、私を髪と同じ色の瞳で見た。
「何、リコ」
 今思えばブリジットと二人きりで話したのは初めてのことだった。


 食堂で食事を取っている二人は普段見ない組み合わせだ。一期生の義体の中でも一番大人びているブリジットと一番幼い雰囲気を残すリコ、身長差もあってか二人はまるで姉妹のようだ。
「ブリジットはサラダやパスタは食べないの?」
 リコはブリジットの前に置かれているトレーを一瞥してこう言った。確かにブリジットのトレーにはシチリア風の簡易ピザが乗っているだけで、リコからしてみればそれで足りるのか少し心配になってきた。
「私は偏食だから。食べられるのはお菓子とシチリア風ピザ、あとはピラフだけ。私たち義体は食事なんて補助的なものだから別にそれでもいいの」
 ブリジットが余りにもぶっきらぼうに言うのでリコはそんなものなのかな、と一人納得していた。こうして改めて二人で食事するとお互いの新しい面が見えてきてとても面白い。
「ねえリコ」
 次に口を開いたのはブリジットだった。彼女は口元についたケチャップを布巾で拭うと、そのまま自身が使った布巾でリコの口周りを拭いた。
「リコは今、楽しい?」
「え、楽しいけど」
 リコにとって公社は11歳まで閉じ込められていた病室と違って、何でも与えられ何でも手に入る素晴らしい施設だ。言われたとおりにさえしていれば皆は優しく、何より自分の体があると実感できる。楽しくないわけがない。だが不思議なことに目の前でコーヒーを啜る年上の義体はどこか不満げな顔でこちらを見ている。
「じゃあさ、もしリコを好いてくれる人がいたらそれは楽しい?」
 ブリジットの質問の意味がリコには理解出来なかった。でも、ジャンに好かれることはリコにとっても大変喜ばしいことなので彼女はこう答えていた。
「そういうのってよくわからないけれど……もし私なんかを好いてくれる人がいたら幸せだな」
 リコの返答にブリジットは何も言わなかった。ただ彼女は懐から小さなチョコレートの包みを取り出すと、それをリコの前に置いた。
「ご馳走様。楽しかったよ。またね」
 トレーを抱え、席から去っていくブリジットをリコはずっと目で追っていた。
 手元には甘いミルクチョコレート。
「これ、どういう意味なんだろ?」
 食後のジュースの変わりにチョコレートを口に含んだ彼女は暫く席を立つことはなかった。


 
 ベッドの上で、トリエラがブリジットの髪をすいている。
 最近トリエラはブリジットの黒い長髪がお気に入りだった。
「ねえトリエラ」
「ん、なに?」
 ブリジットは背後にいるトリエラにそっともたれ掛った。トリエラはそれをしっかりと抱きとめると、そのままブリジットの頭を撫で始めた。
「私、たぶん納得していないと思う」
「そう」
 トリエラの胸に顔を埋め、ブリジットは言葉を続ける。
「私頑張る。これからも幸せなように」
 トリエラはブリジットの頭を抱きしめることによって答えを返した。
 夜が更けていく。


 深夜を3時ほど回った頃だろうか。俺はトリエラと同じベッドに寝ていることに気がついた。
 これがいつもなら手を出すべきか、触るだけに留めるべきかとひたすら悶々としながら時間を潰すわけなのだが今日は違っていた。
「決めたからな」
 決意は固まった。介入するにしろしないにしろ、俺は俺の出来ることをやって未来を作っていこうと思う。変えるのではない。1から作り出していくのだ。それはアルフォドもトリエラも、ヘンリエッタやリコも毎日のように行っていることで、この世界に生きる人々全てに平等に与えられた権利と義務だ。
「生きていくと決めたから」
 俺はトリエラに毛布をかけ直し、自分は空いているもう一つのベッドに潜り込んだ。ひんやりとしたシーツと毛布からはどこかしらトリエラの匂いがする。
 明日のことを頭のどこかで考えながら、俺は眠りについていった。


 
 
 ブリジットが再び寝付いたのを見て、私は彼女が潜り込んだベッドに近づいた。
 月明かりの下、彼女の寝顔を覗きこむ。
「何の夢を見ているんだろうね」
 彼女は未だに過去の自分の夢を見たことが無いという。私はそんな彼女が羨ましくもあり、またそれはそれで悲しいことだと思った。
「良い夢見られるといいね」
 彼女の髪が寝癖にならないよう毛布の外に出してやる。
 
 トリエラはその日、夜が明けるまでブリジットが眠るベッドに腰掛けていた。



[17050] 第4話 俺が撃たれた日 【ついでに少年のこと】 
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2010/08/06 22:16
 とある政治家の暗殺が今回公社に課せられた任務だ。主な戦力はリコ。バックアップにヘンリエッタと俺という構成になった。その辺りはトリエラが俺に変わったことを除いてほぼ原作通りで、作戦遂行地点のホテルの下見に向かったのもリコとジャンだけだった。

 



 ジャンさんに裏口を見て来いと言われた。私は銃の入ったアマーティーの楽器ケースを抱え、裏路地に向かった。


 表通りから外れた裏路地にはホテルのゴミ捨て場があった。
生ゴミが捨ててあるのか、どこか鼻が付く匂いがする。日も一日中差さないためか表通りより寒く感じられた。
 人影は無い。
 私はいざという時の脱出経路に使われる裏口の位置を確認すると、出来るだけ早くジャンさんのもとに帰ろうとした。けれど、不運なことにその裏口から出てきたホテルのボーイの男の子に私は見つかってしまった。
「あ……」
 咄嗟に逃げれば良かったのに、私はそのまま立ち尽くして男の子と向かい合う形になってしまった。
「ん? 何か用? ここは従業員用だから来ちゃだめだよ」
 男の子はゴミの袋を持っている。きっと捨ててくるように命じられたのだろう。背丈は私と同じくらいで、年ももしかしたら同じかもしれなかった。
 男の子が私に一歩近づく。すると彼は楽器ケースに眼をやった。
「ひょっとして楽器を弾けるところを探していたの? ならここで弾いて構わないよ。どんな曲か聞かせてよ」
 男の子が私の楽器ケースに興味を持っていることに気がついて、私はいよいよなんと言ったらいいのかわからなくなった。この中には銃が入っていて楽器なんか最初から入っていない。弾いてもいいと言われても私にはどうすることも出来ないのだ。だから私はこう誤魔化した。
「私、まだ上手く弾けないからこれは駄目なの」
 私はおそるおそる男の子の顔を見る。怒らせてしまったのだろうか、それとも失望させたのだろうか、私は男の子の反応が怖くて身を強張らせた。でも、男の子から帰ってきた反応は思っていたものとは違っていた。
「そっか、まだ見習いなんだ。僕と同じだ」
 男の子がにこにこと笑っている。私はちょっと呆気にとられて、どういった顔をすれば良いのかわからなかった。


「僕の名前はエミリオ。君は?」
「リコ」
 日の当たらない、ホテルの裏口の前で少年と少女が肩を並べて座っている。少年は赤毛でホテルボーイの制服を、少女はプラチナブロンドの髪にベージュのコートを羽織っていた。
「変な名前だね」
 少年は良く話した。少女にとって同世代の異性と話すのは初めてのことで、どうしても会話は後手に回っていた。でも少女は不思議と嫌にはならず、少年の話す事にきちんと受け答えしていた。




「親父が失業して飲んだ暮れだからさ、早く一人前になって働くんだ」
 少年が父親のことを話すのを聞いて、リコは自分の両親のことを思い出す。
 彼らはいつも動けない自分のことで喧嘩をしており、リコはそれが悲しくて両親ことを余り好きにはなれなかった。
「それでさ、リコのお父さんは何をやっているの?」
 きっと父は自分が生まれるまでは幸せな日々を送っていたのだろう。母も同じだ。自分が今のように自由に動く手足を持っていなかったからこそ、彼らは自分を手放した。
 リコは顔を伏せて、握った楽器ケースを見つめた。
「多分……多分市の水道局というところにいる」
「多分? リコは家族と一緒に暮らしていないの?」
 少年はいぶかしんだ様に問う。
「何年も離れて会っていないから」
「リコは寂しくないの?」
 リコは再び少年を見つめ、その後自身の体を抱いて目を細めた。
 彼女は今の公社での生活を思う。
 そして少し考えた後、彼女はこう言った。

「今が、楽しいから」


 それから暫らく二人は取り留めのないことを話した。好きな食べ物のこと、嫌な上司のこと、そして友人のこと。
 二人の談笑に終わりを告げたのは少年の方だった。どうやら彼は休憩も兼ねてゴミ捨てに来たようで、余り長い時間ここでサボっていると親方に怒鳴られてしまうらしい。
「またここで会おうよ。リコ。僕、待っているからさ」
 少年はボーイの帽子を被り直しリコに言った。リコは少年に何かを答えるということはしなかったが、少年の顔を見つめている。
 少年はじゃあと裏口から戻ろうとしたが、何かを思い出したようで一瞬足を止めた。そしてリコの方に向き直り、懐から黄色のセロファンで包まれたキャンデーを取り出した。
「これはあげるよ。今日はとても楽しかった。次は演奏聞かせてくれよ」
 ばいばい、と手を振る少年にリコは同じように手を振り替えした。
「じゃあね」
 少年が消えていった裏口をリコは黙って見つめる。手の中にあるキャンデーの感触が冬だというのにとても暖かい。そう言えば、前もこうやってお菓子をくれた義体がいたことをリコは思い出していた。
 リコは踵を返すと、ジャンが待つ表路地の方へ歩いていく。彼女は、公社で今もケーキを食べているであろう義体に今日のことを話したくて仕方が無かった。
 その足取りは心なしか行きよりも軽やかに見える。日が当たらないと思っていた裏路地に日が差した。

 それは作戦決行2日前の話。





 最近ブリジットと二人で食事するのが増えた。今までヘンリエッタやトリエラとばかり仲良くしていたから、これはいい傾向なのかもしれない。



「どうしてブリジットは好き嫌いが多いの?」
 相変わらずトレーにシチリア風ピザを積み上げるブリジットを見て、リコは素朴な疑問を口にした。ブリジットは咥えていたピザを一端トレーに置く。
「昔はもっと良いもの食べていたからね。イタリア料理はどうも口に合わないの」
「昔? それは義体になる前のこと?」
「さあね」
 口元を拭ってブリジットはコーヒーを啜る。リコはブリジットの真似をして同じようにホットミルクコーヒーを啜った。
「ま、公社のご飯は余り美味しくないということ」
 昔のリコならどうしてそんなことを言うのかと気を悪くしていただろうが、今のリコはブリジットの言うことにそれ程疑問を感じなかった。
「じゃあブリジットは何が好きなの?」
 ブリジットはリコに向かってチョコレートを突き出した。剥き身のそれをリコに食べさせてやると彼女は笑う。
「甘いものが大好かな。だって何か幸せな感じがしない?」
 初めて見たブリジットの自分に向けられた笑顔はどこか母親のようで、それでいて年上の兄弟のようだった。リコはチョコレートを咀嚼しながらブリジットがピザを食べるのを観察し続ける。
「こら、リコ。人の食事はあんまり見つめるものじゃないよ」
 やっぱりお母さんだ。リコはそう思った。


 二人は食堂を出て、それぞれの部屋に向かう渡り廊下を歩いていた。
「それで、その男の子とずっと話をしていたの?」
「うん。今度楽器を弾いてくれって言われて。直ぐに弾けるようになる?」
「たぶん無理じゃないかな。今度ヘンリエッタにでも聞いてごらん」
 月明かりが二人を照らす。
「私ね、」
「うん」
「男の子ってよくわからない。でも、あの男の子と話すのはとても楽しかった」
 ブリジットはそう、と呟く。リコは続けた。
「この前ブリジットが私に言ったよね。私のことを好いてくれる人がいたら楽しいかって」
 ブリジットが足を止めた。リコもブリジットの前を数歩歩いて止まる
「なら私が誰かを好きになったら、その人は楽しいのかな」
 ブリジットにはリコの小さな背中が見えた。
「ジャンさんは喜んでくれるのかな」
 ブリジットは何も言わない。ただ顔を伏せて、リコから視線を外した。
「ブリジットは喜んでくれる?」
 ブリジットは動かない。でも顔を伏せたままこう言った。
「私は、リコが好いてくれるなら多分嬉しいよ」
 その時のリコの笑顔は、顔を伏せたブリジットには見えなかった。





 遂に運命の日が来た。
 結局のところ俺が考えた作戦は一つ。暗殺を終えたリコと鉢合わせしてしまうボーイの少年を、どうにかしてリコのいるフロアに向かわせないだけだ。
 方法はまだ考えていないが、最悪意識を刈り取るか何かで足を止めるしかないと考えている。

「緊張しているのか、ブリジット」
 アルフォドは不器用な俺の代わりに、メイド服のリボンを結んでくれていた。俺はヘッドドレスを、鏡を見ながら被り、テーブルの上に置かれていたサプレッサー付きのワルサーのスライドを引く。
「任務を遂行するにあたって緊張しないことはありません」
 俺が言ったのは実のところ本音だ。ただそれは任務が失敗したり、自分が負傷することに対する恐れから来るものではなく、見知った仲間がこの舞台から引きずり降ろされることを恐れて緊張しているのだ。
「そうか。どうりで君が強いわけだ」
 俺はアルフォドの言っていることの意味がわからなかった。俺はその台詞の真意を訪ねようとしてアルフォドに向き直るが、ジャンの一言でそれを諦めざるをえなくなる。
「作戦開始だ」




「大勢で目立ちたくない。ヘンリエッタとブリジットは後詰めをしろ」
 耳元のイヤホンからジャンの命令が聞こえる。俺は政治家――議員が宿泊している部屋を確認することが出来る廊下の死角に、アルフォドと一緒に隠れていた。ヘンリエッタはジョゼと共に階下で見張りだ。
「ターゲットがシャワーを浴びるそうだ。そのタイミングで仕掛けろ」
 リコが部屋の前に立つ。おそらくルームサービスを持ってきたと告げて部屋に入るのだろう。
 俺は自分の手元を見た。
 ワルサ―を握った両手は微かに震えている。





 部屋には簡単に入ることが出来た。私はまず、こちらに背を向けて新聞を読んでいる秘書に銃口を向けた。サプレッサー独特の銃声の後、秘書がソファーから崩れ落ち、決して小さくは無い物音が立つ。物音を不審に感じたのか視界の端でシャワールームが開いたかと思うと、ターゲットの議員が出てきた。
 議員が声を上げようとする。私はそれを許さない。
 引き金は思っていたより軽やかだ。
 私は議員が血塗れになって倒れ込むのを見て、任された仕事の成功を確信した。
「ジャンさん、終わりました」
「直ぐ戻ってこい。処理班を向かわせる」
 私は二人の息が無いことを確認すると、開いたままになっている部屋のドアに向かった。





「ジョゼさん。階下からこちらに上がってくる従業員はいますか?」
「いや、僕とヘンリエッタで階段を見張っているけどそれらしき人影はないよ」
 リコが部屋に踏み込んだのと同時、俺は無線を使って少年が下の階からこちらに上がって来ていないか確認を取っていた。幸い誰に聞いても異常はないということなので、この辺りは原作と違ったのだろう。
「ブリジット、リコが仕事を終えたそうだ。出てきた彼女を拾って撤収するぞ」
 アルフォドの声に俺は全身の力が抜けていくのを感じた。
 ワルサーの撃鉄を下し、俺は壁にもたれかかった。微かな振動を背中に感じながら瞳を閉じる。
 
 自分の心配が杞憂に終わったことがここまで嬉しいことはない。
 リコは少年を殺さずに済んだ。少年も殺されずに済んだ。
 目撃者が出ることは許されないという極限状態はもう終わったのだ。

 背中の振動がどんどん大きくなる。
 俺はぼうっとした意識の中で振動の意味を考えた。

 違和感に気が付くのにそれ程時間はかからない。
 
 全身から血の気が引き、俺は眼を見開く。
 振動はますます大きくなる。俺は慌てて壁から身を話し、無線に叫んでいた。

「エレベーター!」





 リコが出て来る。俺はリコに出てくるなと叫ぶ。
 背中から感じる振動、それは壁の向こう側にあるエレベーターが駆動する音だったのだ。



 エレベーターの到着を告げるベルが鳴る。食事を乗せたカートを押し、ホテルボーイの少年が廊下に現れる。
「あれ、リコ?」
 リコと少年の眼があった。
 
 


 行動は一瞬だった。少年が声をあげた時、俺はアルフォドの制止を振り切って走り出していた。ワルサーの撃鉄を再び上げ、戸惑いの表情を見せる二人の間に飛び込む。
「止めろブリジット!」
 アルフォドの命令が俺の脳髄を抉ってくる。担当官に逆らっている事実が全身を蝕み続け、脂汗と吐き気が絶え間なく俺を襲う。
「止めろ! 止めるんだ!」
 アルフォドはきっと俺がしようとしていることに気づいている。でも俺は止めるつもりなんか毛頭ない。俺は自分自身の見通しが不十分で愚かであったことを痛感する。
「ブリジット!」
 確かに少年の命は助けたかった。原作でリコに鉢合わせしたために殺されてしまった哀れな少年を。
 でも、俺はここ数日間、初めて異性とまともに会話したことを喜んでいたリコを知っている。彼女は笑っていた。
 いちいち何を話したのか、どんな男の子だったのか、男の子に演奏を聴かせるにはどうすればいいのか、そんなことを俺なんかに聞いてくるリコを知っている。
 だから俺は少年より、リコを、少年を殺さなくてはならないリコを救うことにした。
「ごめん」
 これ程までに拳銃が重いと感じたのは未だかつてない。初めて人を殺したときでさえ、ここまで重くは無かった。
 少年は今もなお自分の身に起こっている事を理解していない。
 きっと俺が引き金を引けるのは今だけだ。これ以上躊躇えば、俺はもう――
「怨むなら、俺を怨め」
 
 少年の、まだ大人になりきっていない細い体が廊下に倒れ伏す。薬莢が床に落ち、甲高い音を立てる。アルフォドの叫びはもう聞こえない。

「はは、」
 
 乾いた笑いが、口から洩れた。



 男の子と、私の間に飛び込んできたブリジットはとても綺麗だった。
 彼女は私に持っていないものを沢山持っている。
 長くて黒い髪に、同じ色の宝石のような瞳、そして私が好きになったお母さんみたいな笑顔。

 或いは人殺しの技術。



 男の子がブリジットに撃たれたのを見て、私は何か大切なものを失くしてしまったような気がした。
 私は今自分が抱いている感情がわからない。
 私はどうしてブリジットに銃口を向けているのかわからない。
 ブリジットは友達。ブリジットは私のお母さん。
 私は、私の気持ちがわからない。

 それでも、もしこれを言葉にするのならきっと許せないんだと思う。
 彼女は男の子を殺してしまった。



 笑うことが出来たのは一瞬だ。
 俺は自分の下腹部に空いた穴を見て、自分がリコに撃たれたのだと他人事のように認識していた。
 膝下から力が抜けて廊下に手をつく。久しぶりに見た自分の血は義体と言えども赤い血で少しだけ安心した。
 リコの銃口が俺の額に突き付けられる。
 俺はリコの顔を見て、自分の行動に意味があったことを理解した。
「何だ、そんな顔が出来るんだ」
 
 そう、彼女が俺に向けていたのは銃口だけではない。
 彼女が俺に向けていたのは、見紛うことなき憎悪だったのだ。



[17050] 第5話 それぞれの日 【ついでに3・4話のエピローグみたいなもの】 
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2010/03/06 01:19
「痛むか、ブリジット」
 担架に乗せられて、俺は公社の用意したバンに放り込まれていた。アルフォドは俺の付き添いだ。
「いいえ。義体は痛みを感じないように作られていますから」
 腹の傷口を塞いでいるのは救急セットの医療用ホッチキスだ。弾を素手で引き抜かれたときは内臓をまさぐられる何ともいえない感触を感じたが、その分焼けるような違和感はなくなった。
「あちらに帰ったら緊急手術らしい。いくら義体といっても背骨を傷つけられると不味いな」
 そう、リコの撃った弾は俺の背骨を見事に砕いていた。脊髄ごと破壊されてしまったので今の俺は下半身不随だ。
 俺は自分の両手にこびり付いた血液をマットレスで拭いながらアルフォドに一つ気になることを聞いた。
「アルフォドさん、リコはどうなったんですか」
 俺に銃口を突きつけていたリコはアルフォドのタックルによって拘束された。あの時のアルフォドの激高具合といったらそれは恐ろしいもので、俺は内心リコを殺してしまうんじゃないか、と心配した。
「全ての武装を没収されて護送されている。今頃公社で尋問中だろう」
 俺はのんびりと担架に乗せられてバンで移送されているが、よくよく考えればこれは大問題だ。確かに義体によるフレンドリーファイアは過去に何度かあったが、故意に義体が義体を銃撃したのは前代未聞で、本来ならばあってはならない事なのだ。
「リコは、どうなるんですか」
 俺は自分の迂闊さを呪った。確かにリコが少年を殺すという事実は捻じ曲げることが出来たかもしれない。だがそれによって生じたズレは決して小さいものではなく、自分が取り返しのつかないことをやってしまったと認識させるのに十分過ぎた。
「彼女は担当官ともに優秀な義体だから処分されることはないだろうが、より強力な条件付けがされるだろうな。恐らく今日起こったことは全て忘れさせられる」
 もう自分に呆れることも出来なかった。
 自分のやったことがただの偽善で、より彼女を傷つけることとなった結果を目の前にしているのに腹すら立たない。
「私は良かれと思いました」
 天井を見上げて俺は言い訳染みたことを言った。いや、言い訳そのものだ。
「私は、彼女に彼を殺してほしくなかった」
 不意にアルフォドの大きな手のひらが俺の頭に置かれた。彼は何も言わずそのまま俺を撫で続ける。
「でもリコが彼を殺したほうが良かったのでしょうか。私が殺したことにリコが怒ったのだとしたら、それはどうしてなのでしょうか」
 バンに同乗していた医師が俺に近づいてきた。医師は注射器を何本か手にしており、俺の静脈に次々とそれを打ち込んでいく。
「ねえ、アルフォドさん」
 注射器の中身はどうやら鎮痛剤と睡眠剤だったらしい。急に瞼が重くなってきて、口が上手く回らなくなる。
「義体って何なのでしょうね」
 乾いた口で告げた言葉が、彼に届いたのかは終ぞわからない。
 俺はまどろみに身を任せて、暗闇の中に落ちていった。
 


 四本目の注射器が打たれたとき、ブリジットはついに昏々とした眠りに落ちた。だらりと垂れ下がった腕を小さく上下する胸の上に置いてやり、俺はブリジットの寝顔を見た。
 下腹部辺りに掛けられた毛布が赤黒く変色していることを除けば、彼女は年相応の少女に見える。
 だが、それは外見だけで中身は最早人間とは呼べない。
 人工筋肉と炭素フレームの骨、痛みを感じないように出来た神経と薬漬けにされた脳。
 戦い続けることを義務付けられた少女たち。
 俺はブリジットに掛かっている毛布を新しいものに替えると、彼女の傍を離れ窓から外の景色を見た。
 夕焼けが痛い位の赤を演出している世界で、公社の医療施設が見えた。


side 夢のこと


 どこか、遠い遠いところに来た気がする。
 だけどそこはやけに懐かしく、やけに馴染みのある空間だ。
 壁一面に張られたのは美少女のポスター。モニターに移るのは大手掲示板のまとめサイト。
 俺は部屋の隅の方に腰掛けると、足元に積まれていた漫画本の山を見る。
 上からそれを崩していくとエロ漫画から硬派な戦争漫画までジャンルは様々だ。
 不意に漫画本を掴む手が止まる。
 俺の視界に飛び込んできたのは一冊の漫画。
 GUNSLINGERGIRLと銘打たれたそれはその辺りに転がる漫画本と少し違っていた。
 ページをめくる。
 残酷な過去を持ち、戦うことでしか生きていけない少女たちの物語がそこにある。
 それは昔読んだ内容とそう違わない。ただ一つだけ、一つだけ前に呼んだときと決定的に違う場面があった。
 ブリジット――。
 俺が見たことのない少女が戦っている。
 彼女は普段は甘い物好きで大変な偏食家だ。本は読まず、主にトリエラとリコ、そして担当官のアルフォドという男と仲がいい。
 少女は他の義体と違い、自分が戦う意味に悩み自分が存在する意味に悩む。
 過去は一切覚えておらず、下手をすればもっともアイデンティティーがあやふやな少女だ。
 俺はさらにページをめくる。
 そこで俺は息を呑んだ。
 何とブリジットは任務中の仲違いでリコに撃たれていたのだ。
 俺は義体が義体を撃つという行為がにわかに信じられなくて何度も何度もそのシーンを読み返した。
 それでもブリジットがリコに撃たれたことには変わりがなく、不思議に思った俺はリコがどうしてブリジットを撃ったのかを考え始めていた。
 リコとブリジット、二人の関係が良好と言えたシーンを先ほどと同じように何度も読む。
 すると一つだけわかった事があった。
 それはリコがブリジットに抱いていた感情だ。
 リコはブリジットを母親みたいだ、と感じていた。彼女は幼いころに両親に見捨てられた経験を持つ。そんな彼女は自分に優しくするブリジットを無条件に信じきっていた。
 だからこそ、仕方が無かったとはいえ、友人になれたかもしれない少年を殺されたことが許せなかったのだ。
 
 俺は酷い喉の渇きを感じて、冷蔵庫に向かおうと床から立ち上がった。
 足元に広がるゴミを書き分けながら部屋の対岸に向かう。
 ふと、視界の端に鏡が映った。
 俺は何気ない動作で鏡を見る。そこに映っている自分を見て俺は変に納得した。
 眠たげな目でこちらを見つめるのは漫画で追ったブリジットという少女。
 これが現実なのか夢なのかはわからない。
 ただそこにいる義体の少女は恐らく現実だ。

 世界が暗転していく。見慣れた部屋が遠くなり、時間切れが近いことを知らせる。
 もう鏡は見えない。ただ見えるのは真綿のように首を絞めてくる暗闇のみ。
 景色が変わる。




 誰かが悲鳴を上げた。
 ただでさえボロボロだった身体が、石畳に打ち付けられて生命活動を続けることが困難になっている。
 私は久方ぶりに見た太陽に手を伸ばした。
 爪の無い赤黒い手が虚空を掴む。
 その手についていた手錠は外れている。
 やけに身体の回りが暖かいと思ったら、それは私から流れ出る赤い血だった。
 これから死ぬというのに何故だか気分が良い。
 私はやっと手に入れた自由を噛み締めて、涙を流した。



 
「目は覚めたか、ブリジット」
 覚醒した意識に飛び込んできたのは聞きなれた声。
「ずっと泣いていたぞ。悲しい夢でも見たのか」
 カーテンから差し込む光を受けて病室は明るかった。
 私は手元の毛布を抱き寄せると、アルフォドに向かってこう言った。
 その声は嗚咽交じりで酷いものだった。
「何も覚えていません」


side 担当官のこと


「アルフォド、ブリジットの修理の過程で条件付けを強化するぞ」
 ジャンが告げたことの意味を理解したとき、俺は奴に掴みかかっていた。
 どうしようもない怒りが俺を支配する。
「ふざけるな! 暴走したのはお前のリコだ! ブリジットは関係ない!」
 だが奴は俺とは対照的にとても冷め切った口調で言いのける。
「ふざけてなどいない。事実、ブリジットはお前の命令に背いて行動した。これを暴走と言わずして何と言う」
 俺はジャンから突きつけられた事実に何も返すことが出来ない。確かに彼女は俺の命令を聞かなかった。だが、あの場合は――、
「仕方がなかったとでも言うのか? 今回の件で課長は大変ご立腹だ。義体に疑問を持つ作戦一課を黙らせるためにもリコとブリジット、二人の記憶を消して強力な条件付けを施すことは必要不可欠だ」
 掴みかかった手が離れる。俺はジャンから一歩身を引くしかなかった。
「もし条件付けを強化したら彼女はどうなる」
「さあな、もともと二人とも全義体中でももっともレベルの高い条件付けを受けている。いわばこれが始めての臨床試験だ」
 ジャンは続ける。
「お前は甘すぎる。あれは道具だ。お前はブリジットを踏み台と考えろ。あれの変わりは後からいくらでも来る。今のうちに義体の扱い方を学んでおくんだな」


side そして俺とリコのこと


 俺は目覚めたその日に退院した。退院祝いは俺のお気に入りのチョコレートケーキだ。

「え? 私は任務中に五共和国派に撃たれたのですか」
 アルフォドから聞いた話だと、俺は情けないことにテロリストどもに不覚を負い、腹を撃たれて気を失ったらしい。任務自体は成功したから良かったものの、次からこういうことがあれば俺を作戦遂行の本筋から外す事もあるとのこと。それは俺としてもいろいろと不都合なので、暫くは最初のころのように訓練漬けの日々を送ることになりそうだ。俺はクラエスのように臨床試験の材料にはされたくない。
「そのケーキは部屋でトリエラと一緒に食べなさい。あと今日は皮膚が定着し切っていないから入浴は控えるように」
「ケーキは食べていいんですか?」
「幸い内臓はほとんど無事だったからな。体力を取り戻すためにも沢山食わなくてはいけないのだが君は偏食だろう? だからそのケーキを食べて養生しなさい」
 アルフォドはそれだけを告げて仕事があるからと何処かへ行ってしまった。
 俺は一人残されてケーキの入った箱を眺める。ケーキの重みが心地よい。
 早いとこ部屋に帰って、トリエラと一緒に食べたくなった。




 廊下でブリジットとすれ違う。彼女は何か紙の箱を大事そうに抱えて私の横を通り過ぎていく。
 私は足を止めてブリジットに振り返った。
 すると不思議なことにブリジットも私と同じようにこちらを見ている。
 私は何かを言わなくてはいけない気がして、口を開いた。
「退院おめでとう」
「うん、ありがとう。リコ」
 会話はそれだけ。ブリジットは直ぐに歩き始めて私から離れていく。
「あれ?」
 彼女が見えなくなったとき何故か視界が曇る。雨でも降っているのかと思ったが、ここは室内なのでそんなことはありえなかった。
「変なの」
 目元をごしごし拭って再び歩き始める。
 これからジャンさんと一緒に射撃訓練だからこんな有様ではとても外に出ることは出来ない。
 私はポケットからチョコレートを取り出して口に放り込んだ。これで少しは気が紛れるかもしれないから。
 
 そう言えば、

 このチョコレートは誰から貰ったものなのだろう。


 私はそんなことを考えて、一人廊下を歩いていた。




「へえ、アルフォドさんがくれたの」
 二人の少女が丸机を挟んで座っている。一人は褐色の肌に金色のツインテール。もう一人は夜空のように黒い瞳と同じ色の長い髪の毛。
「うん、退院祝いだって」
 机に並べられた紅茶とチョコレートのケーキは部屋中に甘い香りを満たしていく。
「それじゃあ先にブリジットから食べなよ。それがアルフォドさんに対するマナーだよ」
 褐色の肌の少女に進められて黒髪の少女はケーキを口に含んだ。少しの間それを咀嚼し、彼女はこう言う。

「あれ? このケーキってこんな味だったけ?」

 その疑問にトリエラは何も答えることが出来なかった。



[17050] 第6話 祝福の日 【ついでにプレゼントのこと】 
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2010/03/07 07:17
 二人の少女が木製の丸机を挟んで向かい合っている。一人は腰まで伸ばした黒い髪に同じ色の瞳を持つブリジット。
 もう一人は金髪のツインテールに褐色の肌をしたトリエラだ。
 ルームメイトの二人がこうして椅子に腰掛けているのはそれ程珍しいことではない。今までも茶会やお互いの担当官の話をするときはこのような形を通してきた。
 だが今日はいつもと違ってる。
 二人の前に広がっているのはケーキと紅茶ではなく開封された生理用品。それぞれの顔には苦悶が浮かび、テーブルの木目を凝視している。
 トリエラは脂汗を掻きながらも比較的落ち着いており、まだ余裕がある。
 問題はブリジットで、思い出したように自らの爪を噛んでは内臓からくる痛みに耐え続けていた。


「ブリジット……」
「黙ってトリエラ。私に話しかけないで」
 本当に痛くて痛くて堪らないから。
「そんなに酷いの?」
 トリエラが自らの痛みを押して俺に話しかけてくる。俺としてはもう何度も経験して、痛みに慣れていた筈なのだが今回のは過去とは比べ物にならなかった。
「あれかぁ、きっと薬が増えたせいだ」
 そう、原因として考えられるのは義体専門の医師――ビアンキから渡された薬の種類が3種類ほど増えたからだ。
 五共和国派に撃たれてからというもの、俺の状態は余り宜しいとは言えず、毎日の食事プラス常備薬増という何とも笑えない生活が続いている。
「先生に相談したら? もしかしたら生理痛の薬をくれるかもしれないよ」
 トリエラの提案に俺は首を振る。俺はアルフォドを伝って前にも生理痛の薬を貰うよう頼んでみたのだが、今飲んでいる薬との兼ね合わせが出来ないとかで却下されていたのだ。
「薬のせいで味覚も鈍ってるからケーキも美味しくないし、踏んだり蹴ったりだ」
 俺のいらいらは収まらない。
 トリエラとケーキを食べて肉体の不調を感じた時、俺は悲しみを覚えるよりも怒りを覚えた。
 普通に過ごしていても何時か終りが来る体だというのはわかっている。でも、自らの失態で寿命を縮めるということは最も避けなければならない事だったのだ。
 俺は自分の間抜けさを盛大に呪い、俺に銃弾をくれた五共和国派を恨む。
 トリエラは俺の苛立ちを察したのか何も言わなくなり、部屋の中は険悪といった方が意味合い的には正しい空気で満ちていく。
 そんな義体年長組の巣に突然訪問者が現れた。
 アルフォドかヒルシャーが見舞いに来たのかと、扉のほうを見やるが当てが外れた。
 そこに立っていたのは小さなボブカットの少女。
「二人とも、大丈夫?」
 義体年少組の一人、ヘンリエッタだ。

 
「ドービー、グランビー、スニージー、スリービー」
 ヘンリエッタが部屋に飾ってある熊の縫いぐるみを指差していく。
「それにハッピーとバーシェフル、もうすぐ小人が7人になるね」
「こいつらも、もうそんなに揃ったか……」
 ヘンリエッタの相手をしているのは比較的余裕のあるトリエラだ。俺は遂に根を上げ、ベッドに潜り込んで二人の会話を聞いている。
「いいなあ、私も欲しい」
 今さら思いだしたことだが、この展開は原作の一巻の中盤辺りの話だ。
 確かこの後トリエラは盛大にヒルシャーの愚痴をぶちまけて、マリオ ボッシ(カッモラ)の護衛に向かうのだ。
 トリエラはそこで自分の出生の手掛かりを少しだけ掴むことになる。
「貰っても嬉しいことばかりじゃないよ。あの人は私の好みも考えないで同じものばかり贈ってくるから」
 熊の縫いぐるみを小突きながら、トリエラがこちらを見た。
「その辺りブリジットは羨ましいよ。アルフォドさんはブリジットの好みをしっかりと把握しているじゃないか」
 俺は声には出さず、首を振るだけで肯定の意を伝える。トリエラの言うとおりアルフォドが差し入れるのは、服を除いて俺の好きなものばかりだ。
「そうだ、私ブリジットに伝言を頼まれていたんだ」
 そう言うとヘンリエッタは俺のベッドに近寄りポケットから折りたたまれたメモを取り出した。それは見覚えのあり過ぎる、アルフォドが良く使うメモ用紙だ。
「アルフォドさんから? 愛されてるね、お姫様は」
 トリエラの軽口を無視して、俺はメモ帳を広げた。アルフォドがこうやってメモ用紙を介し要件を伝えてくるときは大抵彼にとって後ろめたいことが書いてあるので、俺は余り気が進まない。
「…………」
 メモ帳を一読し、ベッドの脇に放り投げる。ほんと、碌でもない事が書いてあった。
「どうしたのブリジット?」
 ヘンリエッタの小さな手がメモを拾い上げる。別に読まれても困るものではないので俺は「見ていいよ」と呟く。
「ん? これは困ったなぁ。ナターレのパーティーが出来ないじゃないか」
 いつの間にかトリエラもメモを覗き込んでおり、好き勝手にコメントを残してくれた。

「結局さ、ヒルシャーさんもアルフォドさんも変わらないよ。あの人たちはこちらの都合なんかお構いなしなんだ」

 メモに書かれていたその内容――

 ごめんブリジット。 ナターレは二人で仕事だ。







「で、ブリジットの調子はどうなんだ」
 俺はコーヒーをビアンキに手渡しながら、彼女のことを問うた。彼はブリジットの条件付けを任された医師だから誰よりも彼女の状態に詳しい。。
「正直思っていた以上に症状が進んだな。記憶の欠落はホテルでの件にとどまっているが、体のほうは味覚が異常をきたした」
「……本当かそれは」
 俺は彼女の退院当日にしたことを思い出して血の気が引いた。俺は何て馬鹿な事をしたのかと後悔する。俺はあの日彼女にホールのチョコレートケーキをプレゼントしてしまった。
「ああ。彼女の話によれば目覚めた日に違和感を感じてそれからはなし崩し的だったそうだ。幸いまだ甘味や辛みは感じられるが微妙な味の変化、口の中の乾き具合は判断しにくいそうだ」
「他には何かあるのか?」
「今の所は何も聞いていない。まあ彼女のことだから我慢しているものがあるのかもしれないが」
 ホテルで暴走したブリジットに用意されたのはさらなる洗脳だった。
 彼女はホテルでの件を完全に忘れさせられ、命令に背くことが出来ないよう服従の面からのアプローチを大幅に強化された。当然のことだが肉体への負担は大きい。
「彼女は一期生の中でもとりわけ強固な条件付けを受けているから、命令に背くことなど出来ない筈なんだがな。やはり何処か不具合が生じているのか」
「なあ、ビアンキ。それは彼女が整形までさせられたことと何か関係があるのか?」
 俺は前から疑問に感じていたことを口にした。今いる一期生の後に生産される義体は整形を施される予定だと聞いているが、一期生では普通、素体時の容姿がそのまま反映される筈なのだ。
「多分関連性はあると思う。唯でさえ薬漬けで負担の大きい義体化だ。それに加えてあそこまで大幅な整形を施せば後は想像に難くない」
 ビアンキは嫌になるよ、と頭を振った。


「今日はもう良いのか」
 しばらく無言でコーヒーを啜っていたらビアンキが口を開いた。
「あと一つだけ聞かせてくれば」
 俺はコーヒーの暗い水面を見つめたまま続ける。
「ブリジットは偏食家で物を食べさせるのに苦労するんだよ」

 俺が彼女に唯一手を焼かされたところだ。
 ビアンキは黙って俺を見つめている。

「最初のころは命令で無理やり食べさせてやろうかと思ったが、あの子がケーキを美味しそうに食べるのを見て考えが変わった」

「あの子は俺たちとは比べ物にならないくらい苦しんでいる。だから好き嫌いぐらい目を瞑って好きなものを沢山食べさせてやりたいんだ」
 
 俺はいつも自分の隣にいる少女のことを思う。

「ブリジットはいつまでケーキを食べていられるんだ?」



 ビアンキが答えを口にした。俺は裁判官から刑を聞かされる囚人の気分でそれを聞いた。彼が言うには若干の誤差があっても、時期的にはそう変わらないという。



「義体の技術は日々進んでいる。上手くいけば彼女を幸せに出来るかもしれない」
 
 

 ビアンキの励ましは所詮励ましでしかなかった。



 
 
 それはクリスマス(ナターレ)の日のこと。
 俺はアルフォドと一緒に、カンピドリオ広場に来ていた。
「今日の仕事はとあるカモッラの暗殺だ。名はロレンツォ。どうやら五共和国派の幹部と接触するため、潜伏先のドイツから入国したらしい」
 仕事の内容は久しぶりの暗殺だった。最近公社内でも俺の実力に疑問符が付けられていると感じているので、これは全てを挽回する絶好のチャンスだ。
 アルフォドは懐から写真を取り出し、俺に手渡す。
「この左端の男だ。昔から五共和国派との関わりが噂されていたが最近やっと尻尾が掴めた」
 俺は写真をコートの裏ポケットに仕舞う。
 今日のアルフォドと俺は少し年の離れた兄妹という設定で行動しているため、服装はベージュのワンピースに黒のフェルトコートと少し幼めに見えるように選んであった。
「作戦決行は本日午後七時。あと一時間ほどだ。本部の連絡では先ほど潜伏先のホテルを出発したそうだから市場の手前で待ち伏せする」
 アルフォドが歩きだしたのを見て、俺は彼の後ろについていく。
 カンピドリオ広場はクリスマスのためか人通りが多く、アルフォドから少し離れてしまうと逸れてしまいそうだった。
「待って、兄さん!」
 如何してかわからないが、今日のアルフォドは足取りが速い。義体の俺でも歩幅の差か、意識して歩かないと置いていかれてしまう。
 俺はそれが堪らなく寂しくて、思わずアルフォドの腕に飛びついていた。
 アルフォドはそれを見て、少し驚いたような顔をした後こう言った。

「妹よ。楽しいナターレはのんびりしていると終わってしまう。だから今を楽しみなさい」

 俺はアルフォドの言っていることの意味がよくわからなかった。



[17050] 第7話 祝福さる日 【ついでにクリスマスのこと】 
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2010/03/08 22:14
 
 
 それはクリスマスの前日の話。


 任務から帰ってきたトリエラは機嫌が少しだけ良くなっていた。序に生理も終わったらしい。
 俺は彼女が淹れてくれたミルクティーを傾けながら他愛もない雑談に興じる。
「で、マリオはクリスマスのプレゼントを届けに行ったの?」
「うん、まあこっちは散々な目にあったけどね」
「それはお疲れさま」
 俺はトリエラから聞いたマリオ護送の任務の顛末を聞いて、この世界がそれ程原作とズレていない事を確認した。
 今回の任務に関しても、原作との相違点はトリエラが負傷しなかっただけだ。
 久しぶりに耳にした吉報のお陰で、心なしか生理痛もマシになってくる。
 気のせいかもしれないが、ミルクティーの甘味も鈍っている様子がなかった。
「ねえブリジット」
 二人して、甘ったるい沈黙を続けていたらトリエラが突然口を開いた。彼女は視線を天井に向けると、何か考えるような口調でこう言う。
「マリオを見てて思ったんだけどさ、世間の父親ってあんな感じなのかな」
 トリエラの台詞に俺はカップを置いた。
 彼女の蒼い瞳が今度は俺に向けられる。
「どういうこと?」
 俺の問いに、トリエラは「何といえば良いのかなー」と首を傾げる。
 彼女にしては珍しく、何処か曖昧な態度だ。
「例えば私達の父親代わりってヒルシャーさんやアルフォドさんでしょ? でもそれって世間一般の父親と何処か違うよね」
 何がどう違うのかトリエラは言わなかった。でも俺は何となく彼女の言いたいことが理解できる。
「私もブリジットも家族のことなんか覚えていないからよくわからないけれど、多分良いものじゃないのかな。父親っていうのは」



 手の中にあるカップの温もりを感じながら、俺たちはしばらく理想の家族について話した。
 妹がいたら、姉がいたら。
 優しい母がいたら。
 そして大好きな父親がいれば。



 きっと俺たち義体に必要なのは、銃でもなく発作を抑える薬でもなく家族や誰かの愛情だ。
 トリエラがとても楽しそうに話しているのを見て、俺はそう思った。











 ロレンツォはもともと政治活動には何の興味も無かった。彼にとって大切だったのはカモッラとしての誇りと二人の家族――妻と娘だけだった。
 それがいつの間にか、左翼思想に染まったボスの使い走りとしての運び屋が始まり、
 いつの間にか公安にまでマークされるような身分になっていて、
 
 いつの間にか、大切にしていた家族のもとに帰れなくなっていた。


「ロレンツォ、これが今回のブツだ」
 そう言って手渡されるのは二枚の記憶媒体。
「気をつけろよ。最近は捕り物が急に増えているからな。ジョルジョの奴もみんな殺された」
 二人の男はカンピドリオ広場の噴水に腰掛けている。往来を見渡せばクリスマスの為かいつもより人気が多い。
「ブツは二日後の正午までにクリスティアーノに届けてくれ。それまでは何をしていても構わん」
 そこまで言われて、ロレンツォは初めて口を開く。
「はは、それは助かったよ。今日は折角ローマに帰ってきたからな。娘にドイツからのプレゼントを持ってきたんだ」
 ロレンツォは足元にある紙袋を指差した。中には包装紙で包まれているのか何か黒い、手の平大の小箱が入っていた。
「はん、子煩悩な奴だ。俺はとっくの昔に女房にも娘にも逃げられたよ」
「俺も似たようなものさ。このプレゼントもまだ有効かどうか」
 ロレンツォは痩せて窪んだ頬を掻きながら苦笑する。
「そうだ、ロレンツォ。娘で思い出したんだがお前はこんな噂を知っているか」
 媒体を紙袋の中に仕舞ったロレンツォに男がこう切り出した。
「何でも政府の秘密機関に女の子を使って暗殺を行っているところがあるらしい」
「それはハニートラップか?」
「そんな生易しいものじゃねえよ。この前の捕り物でも出張ってきたって話だ。まあ噂は噂だから本当かどうかは知らんがな」
 話すだけ話して男は懐から煙草を取り出した。ロレンツォにも勧めるが、それは断られる。
「目印は異常に白い手だ。シミ一つない赤ん坊のような手をしているんだとよ」
「白い手、ね」
 ロレンツォの呟きは白い息となって霧散していく。空を見上げれば日は傾きかけていて、雲が多い。
「今日は雪かもしれんな」
 男の一言にロレンツォは「同意だ」と答えていた。


 

 いつだったか、アルフォドがクリスマスプレゼントの要望を聞いてきた。俺はもちろんケーキと答えていたのだが、あの時の彼の落ち込み具合を考えればきっと服や縫いぐるみと言って欲しかったのだろう。
 

 最近アルフォドのことをよく考えている。
 これが単に脳みそが暇しているからか、それとも条件付けと副作用が進行して依存度が高くなっている為なのかはわからない。
 でもこうして抱きつくことによって温かみを感じるのは本当のことだった。。
「ブリジット」
 アルフォドの声が上から聞こえる。
「今日はすまなかったな」
「? 何がですか?」
「君はトリエラとクリスマスを過ごすべきだった」
 アルフォドが瞳を伏せるのを見て、俺はどう答えたら良いのかわからなくなる。
「君は少し休むべきなんだ」
 アルフォドが足を止めた。彼の双眸が俺を射抜く。
「でも私は義体です。テロリストを殺す事が私たちの役目です」
 視線に気圧されて、自然と早口になる。彼の腕に絡みつく自分の腕に力を込める。
 俺はまるで叱られた子供が言い訳するように続けた。
「確かに不覚を取って負傷はしました。けどあれからもう7人も殺しています。ヘンリエッタよりもトリエラよりも多いです」
 そうだ。復帰してからというもの、俺は常に前線で戦い続けた。公社から受けた疑問を、自らのわだかまりを、何より目の前にいるアルフォドに認めてもらうために。
「今回も必ず成功させます。必ず殺して見せます」
 自信はある。たった一人の運び屋を殺すのに、ものの数秒も掛らない身体を俺は持っている。強化された人工筋肉にナイフを通さない炭素フレームの骨、ありとあらゆる身体の全てが殺人の為に作られて――、
「……もう止めなさい」
 アルフォドが俺を抱きしめた。



 

 必死に自らの有用性を唱えるブリジットを見て、俺は条件付けの罪を知った。
 彼女は変わってしまった。
 今ではもうただの人形と変わらない。俺の言う事ばかり気にかけ、人を殺すことで自身の存在を証明しようとする。
 俺はそれが堪らなく悲しくなって彼女を抱きしめた。
 彼女に強く握られたせいか左手に力が入らない。もしかしたらヒビが入ったかもしれない。
「ブリジット、落ち着くんだ。俺達はフラテッロだ」
 幼子に言い聞かせるように俺は言った。
「フラテッロは絆だ。俺は君を見捨てたりしない」
 俺の台詞に彼女が身を強張らせる。俺は彼女を右手だけで抱いた。
「君は俺を信じろ」
 ブリジットがこちらを見上げる。彼女の黒い瞳は俺に怯えていた。
 
 俺は条件付けの罪を知る。
 彼女の捲られたページはもう戻らない。
 そして彼女に残されたページももう多いとは言えない。

「これが終わったらクリスマスのプレゼントを買いに行こう。ここはローマだ。きっと君が気に入るものが見つかるさ」

 だからせめて、彼女の残されたページは幸せなことで埋めてやりたい。
 彼女が毎日を素晴らしく生きていけるよう、楽しいことで埋めてやりたい。

 

 俺は数日前に交わしたビアンキとの会話を思い出す。


「後一年だ。それでも負傷を挟めば縮まるだろうし、脳に負荷が掛けられなければ少しは伸びる」


「もしかしたら今年のクリスマスが最後のクリスマスになるかもしれない。彼女には何でも良い。優しくしてやれ」


 後一年、もうページは残されていない。
 もう余計な条件付けで彼女を殺したくない。
 
 

 ブリジットの長い黒髪が風に揺れる。
 腕の中で震えている彼女が愛おしい。
 腕時計が七時五分前を指している。
 少しだけ、あと少しだけ、
 俺はそのまま彼女を抱きしめていたかった。






 ロレンツォは酒場で酒を浴びることも、賭博仲間とゲームをしようともしなかった。
 彼はただ、一ヶ月もの国外潜伏で迷惑を掛けた妻と子にクリスマスプレゼントを届けたい一心で歩いている。
 思えば幼いころに死んだカモッラの父はクリスマスのときだけは家に帰っていた。彼はきっと母と自分のことを愛していたのだろう。
 彼は軍警察に殺される直前のクリスマスにもサッカーボールを携えて、俺の元に帰って来てくれた。
 
 ロレンツォは政治活動に興味が無い。彼に必要なのはカモッラとしての誇りと家族だけ。


 ブリジットがそっと歩き出した。彼女の向かった先を見れば、ロレンツォが紙袋を片手に持ちこちらに歩いてきている。俺は彼女の直ぐ後ろにつくと、コートの下に隠したナイフを確認する。
 幸い辺りに人影はまばらだ。皆市場の方に集まっていて、裏通りには目もくれない。
 ロレンツォがこちらを見た。
 いや、正確にはブリジットを見ているのだろう。彼の視線は自らに向かってくる一人の少女に固定されている。
  
 
 こちらに歩いてくる少女の手が、異常に白いことに気がついたとき、ロレンツォは不思議と恐怖が湧いて来なかった。
 もちろん腕に自身がある訳でもないし、護身用に持っている拳銃を抜く暇があるわけでもない。
 ただ襲われるという実感がまったく湧いてこないのだ。長年の運び屋としての勘が早く逃げろと警鐘を鳴らしているにも関わらず、その少女から目線をはずすことが出来ない。
「何だ。娘と変わらないじゃないか」 
 彼の呟きは最後まではっきりと声に出せなかった。いつの間にか喉元に突き立っていたナイフがそれを邪魔するのだ。
 すれ違いざまに紙袋を奪われる。
 ロレンツォはさしたる抵抗も出来ず、石畳に倒れこんだ。止め処なくあふれる血が辺りを汚す。

 あっけない。
  
 少女に血まみれの手を伸ばし、ロレンツォはそんなことを考えていた。


 



 ブリジットとアルフォドが帰りの車で戦利品を確認したとき、彼らが見つけたのは二枚の記憶媒体とプレゼント用に包装された手の平大の小箱だった。
 爆弾かと思い、ブリジットが匂いを嗅いだが、火薬の匂いがしないので二人はそれを空けてみることにした。
「オルゴール、だな」
 車内に奏でられるメロディを聞いてアルフォドが口を開く。
「曲名は何ですか」
 アルフォドはオルゴールを胸元に抱えるブリジットを見て答えた。
「有名なクリスマスソングだよ」
 ブリジットは何も言わず、同封されていた手紙を広げた。そこには走り書きでこう書かれている。

 良い父親じゃないけど、私は君を愛している。    フロレンスへ。


 
 




 仕事から帰って来たブリジットは私と違って、仕事前よりも体調も機嫌も悪そうだった。シャワーを浴びた彼女は、ご飯もクリスマスケーキも食べずにテーブルの上に置かれたオルゴールを聴いている。
「それアルフォドさんからのプレゼント?」
 私の問いにブリジットは答えなかった。ただその様子からオルゴールはアルフォドさんからのプレゼントではないらしい。
 彼女の後ろに立ち、ブラシで髪をすいてやる。彼女はオルゴールを見つめたまま動かない。私はそのオルゴールを何処で手に入れたかと聞く勇気が無かった。
「明後日さ、クラエスが帰ってくるよ」
 私はブリジットの夜空のような髪に指を通す。
「また三人で暮らせるね」
 ブリジットが静かに頷いた。オルゴールの演奏が終わり、部屋の中を沈黙が支配する。私は机の上のオルゴールを巻きなおすと、再び彼女の髪をすき始めた。



 次の日俺とトリエラの部屋にいくつかクリスマスプレゼントが贈られてきた。
 ビアンキや公社の職員からは食べられないだけのケーキを。ヘンリエッタやリコからは小さな縫いぐるみを。
 トリエラにはヒルシャーとマリオからそれぞれ熊の縫いぐるみが届いている。彼女は7人の小人が8人になってしまったと嘆いていたが、どこか嬉しそうで安心した。
 そしてアルフォドからのプレゼントは一冊の日記帳が届いた。
「一体彼は私に何を覚えて何を忘れてもらいたいのかしら」
 俺は日記帳に今日の日付だけを書き込んでベッドの脇に仕舞いこむ。
 8体目の縫いぐるみに何と命名しようかと悩んでいるトリエラを尻目に俺はもう一度毛布を被りなおした。
 

 今日は何故だか一日こうしていたかった。



[17050] 第8話 エルザ・デ・シーカ 【ついでに第一部の終わり】 序章 
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2010/03/08 22:12
 私にはあの人しかいないのに、あの人は私を必要としていない。
 私はこんなにも愛しているのに、あの人は私を愛していない。

 
 そのことに気が付いたのはこの前の“仕事”の時だった。
 いつものように、私はラウーロさんと五共和国派のアジトに向かった。今回は同半としてもう一組のフラッテロもいる。そのフラテッロの義体の女の子は夜空のような漆黒の髪をしていて、とても綺麗だった。
 


 銃撃戦になった時、その女の子は強かった。
 私は銃の扱いに自信がある。周りにも上手いと言われて十分そのことを自覚していた。でも、その女の子を見たとき私は自分がまだまだ甘かったと気付かされた。

「アルフォドさん! 二階のバスルームでエルザが目標を確保しました!」
 私が男の人を拘束している間に、その女の子は一人で廊下からやってくる敵と戦っている。片手でアサルトライフル――M4A1を振り回し、絶え間く銃弾の雨を降らせている。
「ブリジット、今トリエラ達が西側から上っている。あと十秒そこを確保しなさい」
 女の子が弾切れになったアサルトライフルを捨てた。サイドアームのシグを取り出してスナイピングにスタイルを変える。彼女の撃つ銃弾は一切の無駄が無く、全て哀れな男の人たちに吸い込まれていった。
 私は彼女が戦う姿に見惚れた。黒い髪が翻り、血と硝煙の匂いに混ざって甘いケーキの香りがする。
 余りにも幻想的で、美しかったから私は足元の拘束した男のことをすっかり忘れていた。
 だから、拘束用のワイヤーが緩んでいたことにも気付かない。
「エルザ!」
 突然彼女が振りかえって叫び声をあげた。見れば足元の男が落ちていたガラス片をナイフ代わりに私を押し倒そうとしている。咄嗟に銃を抜くが、男が余りにも近すぎて狙いが定まらない。
「っ!」
 私は刺されることを覚悟して、身を強張らせた。だがその私の行為は見事無駄に終わる。振り返った女の子が廊下に何かを投げてこちらに飛んできた。
「エルザから離れろっ!」
 女の子が投げたのはスタングレネードだと気が付いた時、女の子と拘束していた男は窓ガラスを突き破っていた。
 女の子は私に掴みかかっていた男に体当たりして、勢い余って外に飛び出してしまったのだ。
「あっ!」
 女の子に手を伸ばそうとするが、飛び出していく速度が速すぎて間に合わない。手のひらは虚空を掴み、女の子が視界から消えていく。
 私はどうしようも無くなって、彼女の名前を叫んだ。
「ブリジット!」






「それにしても驚いたよ。壁をよじ登っていたら男とブリジットが落ちてくるんだもん。ほんとびっくりした」
 トリエラはそう言って、俺の背中に氷が入った袋を押しあてた。鈍痛が和らいでくのを感じて、俺は息を吐いた。
「でも助かった。下にホロが無ければ打撲じゃ済まなかったから」
 そう、俺と男は運よく下の店に掲げられていた屋根のホロに落ちたのだ。これがアスファルトの上なら男ともども血の花を咲かせていただろう。
「折角クラエスがミラノから帰って来たのに、早速入院したらあの子がうるさいよ」
「まったく、クラエスせんせは小言が多いから」
 トリエラが声をあげて笑い、俺もそれにつられて笑った。こうして胸を上下させても嫌な感じはしないから、骨に異常は無いようだ。
「さて、一応レントゲン取った方が良いけど、ここじゃ冷やすぐらいしか出来ないから冷湿布でも貼っていく?」
「いや、気持ち悪いから良い」
 脱いでいた服を手早く着こみ、机に置いておいたコートを羽織った。懐のホルスターに収まったシグのせいか、少し重い。
「ヒルシャーさんは?」
「現場検証と尋問。ジャンさんが来るまではあの人が一番偉いから」
 俺たちは設置された医療用テントか出る。
 テープで囲まれた五共和国派のアジトは警察関係者でごった返していた。
 俺は人ごみを掻きわけてアルフォドを探す。
「ねえブリジット。あれ」
 アルフォドがいたのかと思い、俺はトリエラの指差した方向を見た。するとそこにいたのはエルザとラウ―ロのフラッテロだった。
「怒られてるのかな」
 遠目から見ても、彼女が今日の失態を叱られているのが良く分かる。だがその叱り方が問題だ。
「エルザかわいそう」
 トリエラの台詞に、俺は素直に同意した。執拗な罵倒と怒鳴り声がここまで聞こえてくる。
 普段エルザがどれだけラウーロに懐いても決して反応することは無いのに、彼女が何かを仕損じるとああやって出来そこない扱いをするのだ。
「私、アルフォドさんを探してくるから」
 俺はトリエラにそう告げて、その場を去ることにした。




 今日もあの人に怒られてしまった。今日もあの人に愛して貰えなかった。そしてこれからもきっと愛して下さらないのだろう。
 私はその事実にとても悲しくなって、警察が囲った現場の中を当てもなく歩いていた。
 そして、私は見つけた。
「痛むか? ブリジット」
 公社の車のボンネットの上にさっきの女の子――ブリジットが腰掛けていた。
 彼女は担当官と思われる男の人に背中を向けている。
「軽い打撲ですから帰って冷やせば問題ありません」
 私は近くに停めてあったパトカーの陰に隠れて二人の様子を盗み見た。
「そうか。それならいい。そこはこの前手術したところだからな。異常が出たら同室のトリエラに伝えなさい」
 ブリジットが担当官に向きなおる。彼女はさっきの私みたいに、担当官を見上げていた。
「申し訳ございません。本当はタックルして床に突き倒そうとしたのですが、思ったより勢いが出て……」
 ブリジットの台詞に、担当官は彼女の頭を撫でることで答えた。彼女の黒い髪に担当官の手が埋まる。ブリジットは眼を細めてされるがままだ。
「いや、お前は良くやったよ。お陰で誰も負傷しなかった。良い子だ」
 私はブリジットの担当官が言ったことを聞いて、思わず息を呑んだ。
「なら今日もケーキを買って下さいますか?」
「はは、そうだな。この前のナポリ出張で買ったお菓子があるからそれをあげよう」
 頭を撫でられているブリジットが笑顔になる。ほんのちょっと前まで戦姫のように銃を振り回していた彼女が笑っている。
 その笑顔を見たとき、私は自分の中にまるで茨の棘が生えた気がした。
「帰ったら皆と食べなさい」
 そして、何よりも私を動揺させたのは、彼女に向けられた担当官の笑顔。
 

 私はあの二人に自分とラウーロさんを重ねてしまった。
 私は逃げるようにしてそこを離れる。
 ブリジットが一瞬こちらを見たけれど、そんなことは気にしていられない。
 何故か涙が全然止まらなくて、
 如何しても叫び声を挙げたくて、
 
 とにかく一人になりたかった。



[17050] 第9話 エルザ・デ・シーカ 【ついでに第一部の終わり】 1
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2010/03/26 14:08



 薄暗い廃工場の中をブリジットは走る。
 獲物が落としていった血の跡を、強化された嗅覚を使って辿っていく。
 彼女の頭は獲物を殺すことしか考えられない。手にしたSIGは心強い見方で、背中に差したアーミーナイフこそ正義だ。
 獲物は直ぐに見つかった。奴は傷を庇いながらコンテナの陰で怯え震えている。ブリジットはその様子を確認すると息を潜め静かに笑った。
 酷く吐き気がする夏の夜。

 彼女は初めて人を殺す。









 エルザ・デ・シーカは昔エルザという名前ではなかった。
 トラックに轢かれて五体を引き千切られたことは覚えている。でも、死ぬ前の自分のことは何も思い出せない。
 何処に住んでいたのか、何が好きだったのか、そもそも自分の名前はなんだったのか。
 けど、エルザはそれでいいと思っていた。

 今ラウーロに愛してもらえるのなら、
 今ラウーロを愛することが出来るなら、

 エルザはそれだけを糧にして生きている。






 GNSLINGER GIRL エルザ・デ・シーカ





 耐えられないほどの吐き気がして目が覚めた。
 また嫌な夢を見た。最近はずっとだ。昔はてんで見なかったのに、薬の副作用なのか初めて人を殺したときの夢を良く見る。
 ベッドから起き上がると寝汗がシャツを濡らしていて、シャワーを浴びることの必然性を説いていた。俺は緩慢な動作で身体を起こすと、別のベッドで寝ているトリエラを起こすべく立ち上がった。だがそれは無駄足に終わったようで、トリエラのベッドには誰もおらず、ついでにクラエスの姿も見えないことから二人とも朝食を先に取りに行っていることが伺えた。
「詰まんないの」
 俺の呟きを聞くのは八匹の熊の縫いぐるみだけだ。トリエラのクリスマスプレゼント共が無言で早くシャワーに行けと急かしてくる。
 俺は枕元からヘアバンドを一つ取ると、髪を後ろでくくってポニーテールにした。毛布を綺麗に畳み、ベッドの上に積んでおく。
 伸びを一つすると昨日打ち付けた背中が悲鳴を上げた。どうやら骨に異常はなくても、直感的に身体が強張ってしまう。
 苦笑を一つ零すとトリエラとクラエスに書置きを残して俺はシャワールームに向かった。

 それはいつも通りの朝のこと。
 窓から弱い日差しが流れ込み、薄暗い室内を照らしている。
 

 シャワールームは幸い誰も使用しておらず、服を脱げば直ぐに使える状態だった。
 俺は一人、脱衣所で裸になると肌寒い冷気を感じながらシャワールームに飛びこんだ。
 シャワーの蛇口を捻り、程よい温水を頭から被る。
 そして前髪から垂れていく雫の合間から室内に取り付けられた鏡を見た。いつかの時のように裸の女の子がこちらを見ている。
 暫くの間、温水を浴びながら自分の身体を眺める。肌の感触も口から漏れる吐息も本物のようなのに、中身は炭素フレームと人口筋肉ということが未だに信じられない。
「ターミネーター」
 あながち間違っていないと俺は笑った。
 公社に作られた政敵抹殺用の強化サイボーグ。それが俺がこの世界に生きている存在証明だ。担当官の命令を聞いて人を殺すことでしか生きていけない。
 いつの間にかシャワーが冷水に変わっている。
 俺は頭を冷やすつもりでそのまま冷水を全身で受け止め続けた。


「ブリジット、今日は遅かったな」
 シャワーを浴びて自分の部屋に戻ろうとするとアルフォドが廊下に立っていた。どうやら部屋まで俺を訪ねて不在だったから廊下で待っていることにしたらしい。
「ごめんなさい。起床時間が遅かったので」
 頭を一つ下げて、彼を部屋に招きいれた。「B」と書かれたマグカップに淹れ置きされてあったコーヒーを手早く注ぐと、それをアルフォドに手渡す。
「これは俺があげたやつか。使ってもらえて嬉しいよ」
 アルフォドはコーヒーを啜り、いつもトリエラとクラエス、三人で使っているテーブルに腰掛けた。そして脇に抱えていたのか、何処からともなく取り出した小さなステンレスのガンケースを俺に差し出す。
「これは?」
「開けてみなさい」
 手早くロックを外し、言われたとおりケースを開封した。するとウレタンの緩衝材に挟まって一丁の中型拳銃が収められていた。
「SIGSAUER P-226だ」
 アルフォドがスライドの横に刻まれた刻印を指差す。確かに其の通り銘が掘ってある。
「君の前使っていたSIGなんだがな、昨日の任務で落としてきただろ。あの後軍警察に回収されて暫く戻ってこないかも知れないんだ」
 エルザを庇ったとき拳銃を床に投げ捨てていたことを思い出す。なるほど、あれは警察関係者が拾ったのか。
「それで公社から新しい銃を支給してもらった。弾は今まで通り9ミリだから心配しなくてもいい。ただマガジンが複列式になったからそこだけ注意してくれ」
 スライドを引いて、薬室を開ききった状態にしてみる。重さは以前より重く、銃口も少し長い。これはシューティングレンジで使ってみる必要がありそうだった。
 俺は受け取った拳銃をテーブルの上に置くと、アルフォドの反対側に座った。
「それとな、次の任務から俺たちはラウーロ、エルザ組とコンビを組むことになった」
 自分の分のコーヒーを淹れないで良かったと心底思う。きっとコーヒーなんか飲んでこの話を聞いたらアルフォドに熱湯のシャワーを浴びせていた。俺の唾液入りの。
「どうしてですか」
 出来るだけ平静を装って俺は問うた。アルフォドは俺の動揺に気がついていないのか、暢気に茶菓子を摘みながら答える。
「昨日の任務でラウーロがエルザにお前の戦闘技術を学ばせたいと言ってきたんだ。俺は断ったんだが課長命令もついてきてな、すまんが暫く我慢してくれ」
 アルフォドの台詞に眩暈がした。昨日自分たちを見て逃げていくエルザを見て嫌な予感はしていた。まさかそれが現実のものになるとは。
 エルザは近い将来、自分に振り向いてくれないラウーロに悲観して彼を殺し自殺するだろう。俺はもともとそのイベントを止めるつもりは無かった。それがこの後の展開にどのような影響を及ぼすのか分からなかったし、止めようとして自分が巻き込まれればそれこそ本末転倒だからだ。
 だがここに来てエルザとの関わりが急増してきた。
 俺は自分が陥った状況にため息を付きたくなった。原作キャラ、特に義体には甘い俺のことだ。おそらくこれ以上エルザとの繋がりが強化されると彼女を見捨てることが出来なくなるだろう。
 
 傍観か、介入か。

 目の前に置かれたSIGを見つめて俺は固まった。
 アルフォドが飲むコーヒーの匂いが鼻をくすぐる。
 茶菓子のクッキーを乱暴に引っ掴むとアルフォドが驚くのも無視して、それを丸齧りした。





 ラウーロさんからブリジットたちと組むことを伝えられた。
 私はそれを聞いて、自分の部屋に閉じこもった。ルームメイトなんか最初から存在しない自分だけの部屋。
 私は私の宝物のラウーロさんの写真を抱きしめてベッドに横たわる。
 ブリジットのことを考えるとどうしようもない絶望感に襲われて、自然と視界が曇る。
 彼女はあの担当官のことが好きだ。あんなに強いのに担当官の目の前になると、とても女の子らしくなっている。
 そして担当官の人もブリジットのことを愛しているのだろう。
 あの担当官はブリジットを褒めていた。そして負傷を心配していた。昔私が刺された時ラウーロさんは何も言ってくれなかったけど、あの担当官ならブリジットが少しでも怪我をすると凄く心配してくれるのだろう。
 
 私はわからない。

 どうしてラウーロさんは私を愛してくれないのか。
 どうしてブリジットはあんなに愛されているのか。

 私とブリジットは何が違うのか。



「惨めなだけじゃない」
 


 エルザはベッドで一人泣いた。自分の中に渦巻く嫉妬の念が怖くて一人で泣いた。
 ブリジットのことを思い出すたび、涙が止まらなくなる。ラウーロのことを考えるたびに泣き叫びたくなる。
 彼女の嗚咽を聞くのは、写真の中の愛しい担当官だけだ。



[17050] 第10話 エルザ・デ・シーカ 【ついでに第一部の終わり】 2
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2010/03/28 14:38
 初めて殺した男は俺に怯えていた。
 必死にこちらに来るなと叫び続け、撃ち抜かれた足を引き摺っては俺から逃げ続けた。
 俺はそんな男をつけ回すのが楽しくて仕方なくて、男を逃がし嬲り続けた。
 終わりが訪れたのは男を袋路地に落ちつめた時だったように思う。血を流しすぎて、最早立つことも出来ず、放って置いても死んでしまいそうな男は何かに向かって泣き叫び続けた。
「※※※※※※※!!」
 男が何を叫んでいたのかはわからない。だがその叫びは酷く不快で、俺の中に渦巻いていた殺意を昂ぶらせるのは容易なことだった。
「※※※※!」
 今度はこちらを向いて何かを叫ぶ。俺はもう我慢がならず、男に銃を向けた。するとどうだろう、男も何時の間にか拳銃を構えていて俺を狙っていた。
 発砲音が重なる。
 僅かな静寂の後、薬莢がコンクリートで弾ける音を聞いて、俺は男と自分の様子に気がついた。
 男は胸を撃たれて既に事切れている。彼から流れ出る赤い血が生臭い香りとなって鼻腔に到達する。
「っ!」
 俺は腹に手を当てて膝から崩れた。腹を押さえた手を顔の前まで持ってくれば、男と同じように熱い血が溢れ出ている。痛みというより違和感が内臓を侵し、吐しゃ物を地面にぶちまけた。
 


 最近、この頃の夢を見る。
 そして、夢はまだ続く。



 腹を撃たれた。
 俺はホテルの廊下で四つん這いになり、爛れ落ちる自分の血を眺めていた。
 そして眉間に銃を突きつけられる。
「なんだ、そんな顔もできるのか」
 俺を撃ったのはリコだった。彼女は有りっ丈の憎悪を、銃口と共にこちらに向けている。
「どうして彼を撃ったの?」
 原作では決して他人には向けない怒りという感情を表すリコを見て、俺はこの世界の改変に成功したことを知った。それは何とも痛快で、何時ぞやのときみたいな吐き気を押しのけて俺を笑わせた。
「答えてよ、ブリジット! どうして彼を撃ったの!?」
 激高したリコが引き金に掛けた指に力を込めた。俺は内心のどこかでもう助からないかもしれないと悟る。だから、せめて頭部を撃たれる前にこう告げようとした。

「君を救いたかったから」

 結局のところ、俺の返答を聞く前にリコはアルフォドに吹っ飛ばされた。
 リコはジャンにぶん殴られて、鎮静剤を打たれるまで終始暴れ続けた。
 その様子を見て、初めて自分がやったことが間違いであったことに気がつく。

 俺はアルフォドに抱きかかえられて、下へ連れて行かれるまで、血に塗れた自分の両手を見ていた。






「ブリジット! ブリジット! 起きなさい、ブリジット!」
 誰かが俺を揺さぶる。どうやら同室のトリエラかクラエスが俺を起こそうとしているのだろう。口調からして恐らくクラエスだ。
「ブリジット!」
 俺はクラエスの細い腕を掴んで、目覚めの意を示す。彼女は俺を揺さぶるのを止めて、お湯で濡らしたタオルを俺の顔に被せた。
 これで顔を拭けという意味らしい。
「……おはよう、クラエス」
「おはよう、ブリジット……と言いたい所だけどもう昼前よ。それにあなた、相当酷い顔をしてる」
「?」
 クラエスに言われて俺は枕もとの手鏡で自分の顔を見た。すると目は真っ赤に腫れ、目尻と頬は涙で筋が出来ていた。
「また泣いていたの?」
 クラエスが俺のベッドに腰掛ける。彼女に頭を撫でられて俺は首を縦に振った。
「最近、夢を良く見る。初めて人を殺したときの夢と、もう一つは――、思い出せない」
 クラエスは何も言わなかった。ただ彼女は俺の頭を撫で続ける。俺はそれがとても心地よくて、暫く彼女に身を任せていた。



 食堂でトリエラが口を開く。
「今日もエルザとデートなのかい? 私のブリジットくん」
「あらあら嫉妬される殿方は私の好みじゃありませんわよ。トリエラさん」
「痴話喧嘩は他所でして頂戴。トリエラにブリジット」
 三人で昼食を取るのは久しぶりだった。主に俺が仕事やら寝坊やらで彼女たちの生活時間から離れていたので、三人そろう事が中々無かったのだ。
 トリエラはトマトスープのパスタ。クラエスはクリームソースのパスタ。俺は大量のシチリア風ピザを食べている。
「でも本当に好きだね、ブリジットは。シチリア風のピザ」
「もちもちして美味しいからね。ローマ風のピザは硬くて嫌い」
 出会ったばかりのころは、トリエラとクラエスの二人は俺の偏食を治そうと躍起になっていた。如何にトマトスープが素晴らしいか、カジキマグロのステーキが尊いかを二人して延々と語られたのだが、元日本人の俺としてはイタリア料理がどうしても口に合わず、結局シチリア風のピザと大多数の菓子類が主食になってしまった。
「ま、いまさらブリジットの好き嫌いを語るのは不毛なことなので、最近のエルザとブリジットの蜜月関係について聞いてみようか」
 トリエラが顔のにやけを隠そうともせずに俺に迫る。
 絶対ヒルシャーと出来た頃には痛い目にあわせてやる、と内心毒づきながらも俺は出来るだけ平静に答えた。
「蜜月も何も今はチームを組んでるだけ。格闘訓練やら射撃訓練も一緒だけど、それほど仲は良くないよ。私は目の敵にされているから」
 そう、エルザと組んで早一週間。
 彼女が俺に向けてくる感情が、決して親愛でないことなどとうの昔に気がついていた。
 それは嫉妬なのか単純に嫌われているのかは分からない。ただ彼女が俺に敵意を見せていることだけは漠然と理解している。
 そして嫌われる理由も。
「なに? あの子の前でアルフォドさんといちゃついたりしてるの? そりゃあ嫌われるかもね」
 トリエラのからかいに俺は反論できなかった。何故ならそれは半分以上は事実で、俺自身が後ろめたく感じている部分だからだ。
 合同訓練の後アルフォドが声を掛けてくる。それだけでエルザの視線は俺を射抜くような色をもち、俺が褒められでもしたら、こちらが寒気を覚えるような殺気を放つ。
 正直そろそろ気力の限界だった。いつ彼女がラウーロに――、もしかしたら俺に暴走した憤りをぶつけて来るのか分からず、ストレスだけが蓄積する。
 最近夢見が悪いのも、眠りが長いのも恐らく無関係では無い筈だ。
「でもあの子も可哀想よ。あれだけ担当官のことを好いているのに何の反応も返して貰えない。奇跡的に何か反応を貰ってもそれは罵倒と暴力だけ。あなた達なら耐えられる?」
 クラエスの一言に俺とトリエラは食事の手を止めた。俺もトリエラもウンザリするくらい担当官に世話をして貰っている。もしそれに慣れきってしまって、エルザに同情しているだけならそれは大罪だ。
「ねえ、クラエス。どうしてエルザはラウーロさんに優しくしてもらえないと思う?」
 トリエラがそう聞くのを俺は黙って聞いていた。トリエラの疑問は俺が以前から感じていたことでもあり、今でも解決に至っていないモノだ。
 クラエスはコーヒーを口に含み、暫く思巡した後こう答えた。
「それは私たちが義体だからよ。確かにヒルシャーさんやアルフォドさんは私たちに優しくしてくれる。それは何故? おそらくあの二人はあなた達のことを一人の女の子―-人間として扱っているからよ。人はね、人にはとても優しくなれる生き物なの。でもそれが唯の人形ならそうはいかないわ。人形には人形の接し方があるから。人と人形は違うの」
「つまりエルザは人間らしくないからラウーロさんに優しくしてもらえないということ?」
「それは分からないけれど、もし彼女があなたやブリジットのように振舞うようになったら少しは好転するかもね」
 クラエスがそう言うのを聞いて、俺は少しだけ今後の活路が見えた気がした。
 エルザが人間らしくなる。
 口で言うのは簡単だが、それは非常に困難なことだろう。
 彼女に掛けられた条件付けは硬い。だが条件付けを上手いことかわす、若しくは利用することによって彼女を人間らしくすることが出来るのではないか。
 考え出せば止まらなかった。急いで残りのピザを放り込むと俺は席を立つ。
 トリエラとクラエスが何か口を開くが、俺は構わずに食堂から飛び出した。
 今日は午後から格闘訓練がある。もちろんエルザとマンツーマンの訓練だ。
 これから自分が何をしようとしているのか、まだよく認識していない。でも何もせずにこのまま指を咥えて見ているよりも遥かにマシな筈で、
 
 エルザが救えるような気がしたから、俺は走り続けた。






 今日はケーキの匂いじゃなくて、トマトケチャップの匂いがした。
 それでも彼女の匂いは基本的に甘く、油断をすれば直ぐに気を許してしまいそうになる良い匂いだった。
 だから彼女が繰り出した徒手空拳は的確に私の額を捉えてくる。
「つっ!」
 寸でのところで自分の腕を割り込ませてブリジットの腕の軌道を逸らす。それでも彼女は焦りの色一つ見せず、今度は回し蹴りを放ってきた。
 しなやかな質量を持った一撃が私を吹き飛ばす。
 ここ最近の訓練で思い知ったことだが、私はブリジットに全ての面で負けている。速度は彼女の蹴りや突きをかわすのが精一杯で、反撃をすることなど出来ない――つまり圧倒的に押し負けている。
 筋力も、体格の違いが相まって到底適うものではない。
 その証拠に回し蹴りの後に繰り出された膝蹴りを私はモロに喰らってしまった。
 世界が暗転して、背中に衝撃を感じる。口の中に土と血の味が広がって、私は敗北を噛み締めた。
 ブリジットが私を見下ろす。
 私はそんな彼女を見て、自分の中に渦巻く嫉妬と憎悪の念が急速に膨れ上がっていくのを感じた。
 どうしようもなく胸が焦がれて、どうしようもなく情けなくなって、私はブリジットに掴みかかろうとする。
 けれどその気勢を見事にそいで見せたのはブリジット本人だった。
「ごめんね」
 その一言に握り締めた拳が弛緩する。掴みかかろうとした彼女がとても怖くなって、私は動くことが出来なかった。
 倒れこんだ私の隣に彼女が腰掛ける。ブリジットの白い手が私の頭を撫でた。
 反射的に瞳を閉じたが、彼女は黙って頭を撫で続ける。
 そして私はそのまま、訓練再会の合図が鳴らされるまで彼女に撫でられ続けた。



 次の日は射撃訓練だった。二人並んでアサルトライフルのバーストの練習をしている。
 ここでもブリジットは完璧で、全ての的を手際よく倒し続けていた。一方の私はミスショットばかりでいつまで経っても規定の枚数を打ち抜くことが出来ない。
 そのうち当てなければならないという焦りと、ブリジットに負けたくないという悔しさからか的にかする事も無くなった。
 そんな時、ふと救いの手を差し伸べたのはまたブリジットだ。
「ほら、ゆっくり落ち着いて。当てようとするんじゃなくて当たると思えばいいんだよ」
 バーストで硬直していた私を後ろから抱きかかえ、彼女はアサルトライフルにロックを掛ける。すると彼女は私の手に自らの手を添えて、再びロックを外した。
「いくよ」
 私が引き金を絞る。跳ね上がろうとする銃口を彼女が私の左手を掴んで押さえ込んだ。ブリジットの補正を受けたライフル弾は寸分違わず的に吸い込まれていく。
 直ぐにマガジンが空になり、射撃が止まる。彼女は起用に私を抱きかかえたままマガジンキャッチを外すと、新しいマガジンをセットした。
「ほら、今度は一人でやってごらん。当てるんじゃなくて勝手に当たるの」
 ブリジットがそっと離れて、ケーキの匂いが鼻をかすめた。私は以外に冷静な自分に驚きながらも狙いを付けて引き金を引いた。
 断続的な発射音と共に的が吹き飛ぶ。
 後ろでブリジットが歓声を上げた。彼女は手を叩いて喜ぶと、射撃を終えた私の頭を撫でた。
 私の頭はブリジットのせいでくしゃくしゃになる。でも私は彼女を振り払う気にはなれず、そのまま成すがままにされていた。



 二人で共同の任務に当たることになったのは、それから少し経った頃だった。
 与えられた仕事はそれ程難しくない。
 左寄り過激派グループの殲滅戦だ。私の技量もブリジットと組むことによって以前より向上していたし、何より私を鍛え上げたブリジット本人と任務に当たるのだ。
 失敗するほうが難しい。
 私はアジトに突入するときも何処か気楽に構えている節があった。

 だが、その慢心が自分の首を絞めることになるとは、この時は露ほども考えていなかった。


 ブリジットがスタングレネードを投げ込んだ。私とブリジットは僅かな時間差を設けて、窓から突入する。
 耳を劈く破砕音と同時に、ブリジットの持ったMP5――サブマシンガンが唸りを上げた。
「がっ!」
 スタングレネードの光と音よって目と耳を潰されたテロリスト共は、ブリジットの放った弾丸を受けて崩れ落ちていく。私は微妙に息の残っているテロリストに銃弾を叩き込んでとどめを刺していた。
 部屋に突入してまず目に入ったのは三人の男の死体と幾つかの書類、そして不自然に浮き上がったカーペットだ。
 ブリジットが不自然に浮き上がったカーペットを引き剥がした。そこには慌てて閉めた為か微妙に隙間の空いた地下室の扉があった。
 どうやら私たちの突入は少し前に感付かれていたらしい。
 ブリジットがアルフォドに連絡を一つ取ると地下室の扉を開けて階段を下った。私は背後を警戒しながら彼女の後を追っていった。
 ふと、ブリジットが足を止める。彼女はサブマシンガンを肩に背負うと、腰に備え付けたホルスターから拳銃を抜いた。
 彼女が口の動きだけで、待ち伏せがいることを伝えてくる。
 私が了解の意を示すと、彼女は階段を一気に飛び降りた。すると下から怒号といくつかの銃声が響き、暫くすると何も聞こえなくなって不気味な静寂が訪れた。
 自分も降りるべきかと考えた頃、ブリジットがゆらりと階段を上って来る。
 右手に男の死体を引き摺って。
 私は思わず息を飲んだが、彼女が無事に帰ってきたことに安心して銃を下ろした。そしてそのままブリジットを見下ろしていると彼女がおもむろに口を開く。
「ねえ、殲滅すべき対象は何人だった?」
 私は数十分前のブリーフィングの様子を思い浮かべる。ジャンさんから聞かされた対象は左派過激グループの五人組だった。だから私はそのまま五人とブリジットに伝える。
「え?」
 今度息を飲んだのはブリジットだ。彼女は血塗れの顔を強張らせると右手の死体を凝視した。
「一人足りない!」
 ブリジットが叫び声を上げたのと、背後に気配を感じたのは同時だ。私は咄嗟に振り向いて発砲するが、背後の気配の方が早かった。
 胸に何かが当たり、私はブリジットの元へ吹き飛ばされる。私を抱きとめたブリジットは階段の上に向かって三発ほど銃を放った。
「エルザ!」
 床に転がされて、胸元をブリジットが引き裂いた。
 彼女の両手が真っ赤に染まって、自分の受けた傷の深さを知る。
「しっかりして!」
 彼女の叫びが喧しくて仕方が無いのに、私の意識はどんどん虚ろになっていく。
 ブリジットが襟元のピンマイクに何かを叫んだ。
「アルフォドさん! エルザが撃たれました! 早く車を!」
 義体の身体がそうさせるのか、それとも致命傷過ぎてどうしようもないのか、私の身体からは体温が失われいよいよ意識を保つのが困難になってきた。
 ブリジットに無理やり負ぶわれ、そのままどこかに運ばれていく。
 私が意識を手放す瞬間に感じたのは、彼女特有の甘いケーキの香り。

 いつもなら絶対ラウーロさんのことを思い浮かべるのに、その日だけは何故かブリジットのことをずっと考えていた。

 

 
 




[17050] 第11話 エルザ・デ・シーカ 【ついでに第一部の終わり】 3
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2010/03/28 23:32
 ――自分の引き千切れた手足はただ無感動に眺めていたくせに、
 
 ――広がっていく醜い血溜りはどうでも良かったのに、

  どうしてだろう。
  
  ブリジットの泣きそうな顔だけは、到底受け入れられなかった。





 

 アルフォドが俺の左腕に包帯を巻いてくれた。拳銃弾が掠めたのか、二の腕に小さな裂傷が出来ていたのだ。
「エルザは無事だったそうだ。弾丸は右胸を貫通していた。ちょっとした手術で直ぐに意識を取り戻すよ」
 大事をとって俺の腕をアルフォドが三角巾で吊り上げる。そこまで大した怪我じゃないのに、彼は熱心に治療していた。
「アルフォドさん、掠り傷ですから包帯だけでいいです」
 俺の提言を彼が聞き入れることはない。彼は俺の言うことを無視して三角巾を首のところで結んだ。
「幾らなんでもこれは大袈裟です」
「大袈裟なんかじゃないさ」
 少し語気を強めた抗議も、彼の手に掛かれば一蹴されてしまう。
 俺は流石にウンザリして、彼に背を向けた。
「ブリジット、俺は君を心配しているんだ」
 そんなことは百も承知だ。だからこそ鬱陶しいと感じるのは、もしかしたらとても贅沢なことなのかもしれない。
 アルフォドが俺の肩を掴んだ。
「君は何をそんなに焦っている」
 彼の声に身が強張る。俺は焦ってなどいない、と反論しようとして――でも反論の句が告げることが出来ず、
 小さな、咳をする様な息を一つ吐いた。
 そんな俺をアルフォドが引き寄せる。
 俺はアルフォドの胸元に顔を埋めて、彼の優しさに甘えた。
「最近、夢を見ます」
 アルフォドが何か声を発しようとする。俺はそれを指で遮って続けた。
「多分、二つともお腹を撃たれる夢です。片方は私が始めて殺した男、もう片方は誰に撃たれたのかはわかりません。でも、私を撃った二人は私のことを憎んでいた」
 不意に視界が雫で曇る。男に抱きついて夢の告白をするなんて本当はありえない筈なのに、今はそれにとても飢えていて、自然と涙が止まらない。
「ねえ、アルフォドさん。私はいつ何を書き換えられたのですか? 私を撃ったのは本当に五共和国派? それとも他の誰かなのですか?」
 俺はエルザを抱きとめた時の感触を思い出す。両の手が赤い熱い血に濡れて、それが酷く恐ろしくて寒気が止まらなかった。
 それはまるで夢に見ていた光景とまったく同じだ。
 

 違和感なんてとうの昔に気がついていた。
 あれほど夢を見ず、昔の自分のことなんて何も知らなかったのに、ある日を境に――五共和国派に撃たれたとされる日から始まった悪夢。
 衰えた自分の味覚。日に日に数が増えていった薬の種類。
 原作での一期生の末路を知っている俺が気が付かない筈が無いのだ。それでも見て見ぬ振りをしていた。自分はまだ大丈夫、これは予想の範囲内、自分はまだ生きていける――。
 認める。俺はまだまだ甘かった。なまじ知っている世界に生まれ変わったものだから、この世界が夢の世界だと思っていた。
 だがそれは俺に向けられる殺意、憎悪、嫉妬、
 そして両手に感じた血の感触によって全て否定されてしまった。
 俺はこの世界に確かに生きている。そしてそう遠くない頃、死を迎える。
 現実から目を背けて、今が神様がくれたボーナスステージだと一度でも思った自分が憎い。
 今の自分はボーナスステージでもなんでもない。ただ無気力に生きつづけ、そして自分の生の意味を考えることなく死んでいった俺の報いだったのだ。

 どれだけ拒絶しようと、どれだけ理屈付けようと、俺はこの世界で生きてかなくてはならない。そしてこの世界の全てを知っているが故にいつまでも孤独のまま。
 それは何という地獄なのだろう。
 エルザは愛するラウーロが永遠に手に入らないことに絶望して自殺した。
 俺はエルザに同情していた。だが、愛したものも、憎んだものからも、永遠に置いてけぼりにされていく俺と何が違うのだろう。
 根本的なところで彼女と俺は変わらない。

 アルフォドの胸の中で、初めて声を上げて泣いた。
 今まで恥ずかしくて、決して泣くまいと決めていたのに彼の前で初めて泣いた。
 アルフォドが静かに俺を抱きしめる。
 例え永遠に一人ぼっちでも、彼を手に入れることが出来なくても、
 今だけはこの温もりに縋っていたかった。




 ◆




 それはエルザ負傷から二日後のことだった。

 彼女が眠り続ける病室に一人の来客が現れた。腰まである長い黒髪と、同じ色をした夜のような瞳を持つ少女は静かに病室に入ってくる。
 照明は切られていて、室内を照らす光源は窓から差し込んだ昼の日差しだけだった。
 少女は先に病室にいた先客の背中に声を掛ける。
「ラウーロさん、アルフォドさんから聞きました。あなた二日間もそうしているそうですね」
 ラウーロと呼ばれた男は緩慢な動作で少女に振り返った。唯でさえ彫が深く陰影のはっきりした顔だったのに、ここ二日で憔悴しきった顔は幽鬼のようだ。
「少し、お時間はありますか?」
 ラウーロは己の腕時計を見て、そしてベッドで眠り続けるエルザを見た。彼女が一向に目を覚ます気配が無いのを確認して、彼は静かに頷く。
 少女はラウーロの隣に椅子を引っ張り出して、そこに腰掛けた。

「あれ程エルザを無視し続けていたあなたが、甲斐甲斐しく彼女の看病をするなんてどういった風の吹き回しですか?」
 ラウーロは直ぐには答えない。彼は瞳を伏せ息を吐く。組んだ両手に己の額を預けると、静かに口を開いた。
「こうして眠り続けている限り彼女は人間だからだ」
 確かに眠り続けるエルザは年相応の少女そのものだ。だが、普段の彼女も見方によれば一人の男性を敬愛する少女だ。ブリジットはそのことを疑問に思い問うた。
 ラウーロはこう答える。
「それは俺の罪だ。俺は俺の罪に抗えない。もし俺がその罪を直視すれば彼女を殺してしまう」
「罪とは? どうして直視すればエルザを殺すのですか?」
 ラウーロは答えない。額を組んだ手に預けたまま微動だにしない。ただ彼の口元だけは何かに訴えるように震えていた。
 ブリジットはラウーロが答えを示すのをただ待ち続ける。

「エルザ・デ・シーカ。それがこの子の名前だ」
 ラウーロは続ける。
「偽名でも何でもない。この子がトラックに轢かれて死に掛ける前も同じ名前だった」
 震えた唇が、必死に言葉を紡ごうとする。
「俺は五体を引き千切られるのがどんな感触かも想像が付かなかった。そして一度死んだ後、殺人サイボーグとして無理やり蘇えさせられる苦痛も想像できなかった」

「だから彼女の記憶を全て消してやろうとした。自分が死ぬまでの幸せな人生も、事故で轢き潰されるその瞬間も」

「でも名前だけ、名前だけは残してやらねばならないと思った。それだけが彼女が生きていた証だからだ」

「だが殆ど全てを奪ったことに対する代償は避けられなかった。彼女は俺を盲愛するという、全てを奪った俺に全てを捧げるという最もあってはならないことが起こった」

「俺は耐えられない。彼女が俺を憎まない限り耐えることが出来ない。全てを奪い残酷なものを与えた事実に向き合うことが出来ない」


 ラウーロの独白をブリジットは黙って聞き続けた。
 ただ、独白が終わったその瞬間だけこう言った。

「あなたがもしエルザのことを嫌っていないなら、エルザにもっと何かをあげて下さい。別に愛情じゃなくても良い、心がこもって無くても良い。ただあなたが何かをあげるというだけでエルザは幸せです」
 
 ラウーロは呆然とブリジットを見つめた。

「もしあなたがこのまま何もあげないのなら、私がエルザを満たします。でも私なんかで満たされるより、あなたに満たしてもらったほうがエルザは幸せです」


 病室でのやり取りのあと、ラウーロは仕事が溜まっているといってその場を後にした。
 薄暗い室内で、ブリジットはエルザの枕元に腰掛け続けていた。





 ◆ 





 私が目覚めたとき、病室にいたのは枕元で眠っているブリジットだけだった。
 ラウーロさんがいないことに、特に驚かない。
 私はある程度予測できたその事実に乾いた笑いで答えた。


 枕元で眠っているブリジットは、私が決して得られないものを全て持っている。
 彼女は担当官に愛されて、そして担当官の愛し方を知っている。
 私は何も知らない。私には何も無い。
 少し前までは憎くて仕方が無かった。彼女に対する嫉妬のせいで眠れない夜が続いた。
 それなのに、今は彼女が枕元で眠ってくれているだけで胸がはち切れそうになる。
 どうしようもない喜びで溢れて、何がなんだかわからなくなる。
 
 ――けれど、

 彼女に対する憎悪が、妬みが、さまざまな負の感情がどうしても消えてくれない。
 こんなことを考えちゃいけない筈なのに、この場で彼女をグチャグチャにしてやりたくなる。
 私は私が怖い。こんなことを考えている私が怖い。
 
 私は自分を抱きしめて、ただ震えていた。
 でもそれが情けなくなって声を押し殺して泣いた。




 ◆ 




 病院を抜け出した私は公社の中庭にいた。
 あたりはすっかり暗くなって人気が無い。大きなクヌギの木の下に腰掛けると、私は右手に手にしたものをそっと見つめた。
 SIGSAUER P-226。
 寝ていたブリジットから失敬した一丁の拳銃。
 他にも色々な方法を考えたけど、結局これしか見つからなかった。
 私はそれを右目に当てて引き金に親指を掛ける。私は私が悪者になるのが怖くて、ラウーロさんが手に入らないことが怖くて、引き金を絞る。
 
 ブリジットの銃の銃声はまるで彼女のように優しい音がした。

 



 
 
 
 



[17050] 第12話 エルザ・デ・シーカ 【ついでに第一部の終わり】 終章
Name: H&K◆03048f6b ID:d86a7d58
Date: 2010/03/29 10:47
 本当に本当に大嫌いだったのに、今ではどうしても嫌いになれない。
 嫌いになれないけど、無条件に好きになることも出来ない。

 私にはあなたが眩しすぎたのかもしれない。


 
 エルザ・デ・シーカ 終章


 
 優しい銃声の後、私の世界に訪れたのは静寂だった。
 これが死後の世界なのかと一瞬考えてみたけれど、私に馬乗りになっているブリジットを見てそれは間違いであることを確認する。
 だから私は間抜けな声でこう言った。
「生き、てる?」
 


 

 この間抜け、と自分に叫んでやりたかった。
 懐に収めていた拳銃が無くなっていることに気がついたとき、窓の外をふらふらと歩いていくエルザの背中が見えた。
 どうしてこんなものを取られたのに気が付けなかったのか、何より目覚めた彼女が俺の姿を認めた時どのような反応を示すのか、考えてみれば直ぐ分かる事なのに俺は呑気にも惰眠を貪っていた。
 でも、自分をぶん殴る事より、二階の窓から飛び降りた判断だけは褒めてやっても良いかもしれない。
 あの時飛び降りていなければ、エルザの持つ拳銃の軌道を反らせなかった。
 あの時飛び降りていなければ、エルザは死んでいた。
 エルザが茫然とこちらを見上げ、口を開く。
「生き、てる?」
 彼女の声を認めた時、俺は彼女をそっと抱きしめた。俺より幾分か背丈が低く、体格も華奢な彼女は力を入れすぎると壊れてしまいそうだった。
 そんなおっかなびっくりな俺の抱擁を、エルザが抜け出すのは簡単なことだった。
「エルザ?」
 俺の声にエルザが双眸を顰める。彼女は唇をきつく噛みしめていて、手足が震えていた。

 手にしたままの拳銃が俺に向けられる。





 ブリジットに助けられた。
 そのことに気がついたとき、私の中の焼けつくような殺意は止まる所を知らなかった。
 

 私はアルフォドと楽しそうに過ごす彼女が憎かった。
 私が持っていないものを皆持っている彼女が憎かった。
 いつもいつも嫉妬していて、彼女を殺してやりたいと考えていた。
 でもブリジットは私に優しかった。テロリストに襲われた私をその身を呈して助けてくれた。
 訓練ではいつも優しく教えてくれた。私がいくら失敗しても決して怒ることなく、最後まで私の傍にいてくれた。
 撃たれた私を抱きとめてくれたのも彼女だ。私は彼女の温もりがあったから、静かにその意識を手放すことが出来た。
 
 そして病室で目覚めた時――

 私の枕元で眠っているブリジットを見て、 自分の中に芽生えた気持ちをハッキリと理解した。

 ああ、私はこの人のことが好きなんだ。
 ラウ―ロさんも大好きだけれど、この人のことも大好きになっていたんだ。


 けれど私がこの気持ちを抱くのはきっと間違ったこと。
 私は私の醜さを知っている。
 こんなにも彼女のことが好きなのに、一方で彼女を憎む気持ちが常に渦巻いている。
 私はブリジットを好きになってはいけない。ブリジットに近づいてはいけない。
 私には彼女が眩しすぎて、こんなに醜い私に優しくしてくれる彼女が眩しすぎて、私が私でいられる自身がない。
 このままだと私が壊れるか、それとも私がブリジットを壊してしまうか、

 もしこれが優しい夢なら、私はこの夢を壊したくない。
 ブリジットがいて、ラウ―ロさんがいる世界を壊したくない。

 私は自分が消えるしかないと思った。
 ブリジットを消そうとする自分を消すしかないと思った。

 
 それで死のうとしたのに、
 よりにもよって私の死を邪魔したのはブリジットだった。
 涙が止まらない。
 ブリジットが憎くて、ブリジットが愛おしくて、涙が止まらない。
 私は叫んだ。

「どうしてあなたはそんなにも私に優しくしてくれるの!」





 
 エルザの叫びを聞いて、俺は彼女がもう限界であることを知る。
 握りしめた拳銃の銃口は震えていて、痛々しくて仕方がなかった。
 きっと彼女をここまで追い詰めたのは俺だ。
 だから俺は彼女の叫びに答えなくてはいけない。
 俺はこの世界に来て初めて、誰かの命を助けようとしている。



「俺は、一人ぼっちだから」
 エルザに一歩、歩み寄る。
「俺はこの世界の誰からも置いていかれる。どれだけ必死に生きても、どれだけ誰かに愛されても、俺のことは誰も知らないまま俺は死んでいく」
 銃口が徐々に下げられていく。エルザがたたらを踏んだ。俺は彼女に手を伸ばす。
「でも俺はこの世界で生きていこうと決めた。決めたからこそ、俺は君を助けたい」
 こんどははっきりと力を込めて抱きしめる。もう彼女が思いつめることのないように、ここから逃げ出してしまわないように。
「誰が君を死なすもんか」
 エルザが俺の中で泣いた。年相応の子供のように泣いた。銃が地面に落ち、彼女のあいた両手が俺の胸元を必死につかむ。

 今までアルフォドに抱きしめられてばかりだったけど、
 この世界に来て初めて、誰かを抱きしめていた。
 今はそれがとても幸せだったから、エルザが泣き疲れて眠ってしまうまで俺はそうしていた。
 




「エルザが迷惑を掛けたな」
 後日公社の廊下ですれ違ったラウ―ロはそんなことを言った。俺は菓子の袋を抱えた間抜け面のままで視線を反らす。
「何のことですか?」
 後になって考えたことなのだが、俺とエルザがやったことは大問題に発展しかけない事件だった。義体が自殺しようとして拳銃を発砲。それを止めた義体がそのまま彼女の病室で一晩を過ごして、自分の部屋に朝帰り。
 ジャンにバレたりしたら即刻薬漬けスタートだ。
 だが、俺の心配は杞憂だったようで、
「昨日のことならそれ程問題にはならなかった。むしろ俺の管理能力が問われて今日から軟禁だ」
 ラウ―ロの台詞を聞いて俺は不謹慎にもなるほど、と思った。義体には世間一般で言う独立した自由意思が存在しないと信じている公社の人間からしたら、義体の暴走は義体の責任ではなく担当官の責任だと考えるのが自然なことだからだ。
 だからラウ―ロの軟禁は納得が出来る。
「ちなみにどれくらい拘束されるんですか?」
「さあな。始末書と宣誓書の内容にもよるだろうが2週間かそこらだろう」
 それは不味い、と俺は少し焦る。やっとエルザが元気になり始めた今の時期にラウ―ロと2週間も会えないのは大きなマイナスでしかない。
 俺はどうしたものかと内心冷や汗を掻きまくるが、またもやその心配を杞憂に終わらせたのはラウ―ロの台詞だった。
「ブリジット、俺が拘束されている間、これをエルザに私といてくれないか」
 そう言って渡されたのは一冊の本だった。タイトルを見れば「楽しい家庭菜園の仕方」と書いてある。
「は?」
「何、昔から本を読まなかったあの子のことだ。最初はこれぐらいで十分だろう」
 俺は呆れて声が出なかった。自分に恋している女の子への初めてのプレゼントが「楽しい家庭菜園の仕方」とは斬新過ぎてぶん殴ってやりたくなる。
 これは一言何かを言ってやらねばと口を開こうとする。
 だが二の句が告げない。
 それは俺がふと一つだけ気が付くことがあったからだ。
 それは――、
「ラウ―ロさんとアルフォドさんて良く似てる……」
 そうだ。今思い出してみればあの担当官の初めてのプレゼントも「トランプゲームの勝ち方」とか言うわけの分からないものだった。
 プレゼントのセンスも、女の子のことを何も分かっていない間抜けぶりもラウ―ロはまさにアルフォドそのものだ。
「はは、」
 俺は可笑しくなって声に出して笑った。
 何だ、俺とエルザが似た者同士だったのなら、担当官の二人も似たもの同士だったのだ。
 
 何がなんだか分からず、茫然と立ちつくすラウ―ロを見るとさらに笑いが込み上げてくる。
 俺はアルフォドが何事か、とやって来るまでずっとそうして笑っていた。

 もちろんアルフォドの顔を見て俺の臨界が弾け飛んだのは言うまでもない。



「ラウ―ロ、そろそろ」
 アルフォドに促されて、俺は持っていた拳銃とIDカードを渡した。これから2週間、俺は独房で生活をしなければならない。
 だが不思議と気分は晴れていて、そんな俺の表情を見たアルフォドが訳が分からないと困惑していた。
 俺は去り際にこう告げる。
「良い義体――いや、少女に恵まれたな」
 アルフォドが何か声を上げるが、俺はそれを無視して保安部の元へ向かっていく。
 公社の建物の窓かあら外を見れば、エルザが一人本を抱えて歩いていた。




「ブリジット」
 クヌギの木の根元でビスケットを摘まんでいた黒髪の少女に、プラチナブロンドを三つ編みにした少女が声を掛ける。
 エルザというその少女の手元には、ブリジットから手渡されたラウ―ロのプレゼントがあった。
「何?」
「ここでこの本を読んで良い?」
 エルザの問いにブリジットは懐から飴玉を取り出すことで答えた。エルザはそれを肯定と受け取ったのか、腰掛けたブリジットの膝の上に座り込む。
「ねえ、エルザ。その本面白い?」
 ブリジットの胸を背もたれにしたエルザは一つ微笑むと、「うん」と答えた。
「そっか」
 それだけを告げると、ブリジットは静かに瞼を閉じて眠りについた。最近の彼女を知っているものからすれば、それはとても穏やかな眠りだった。
 甘い午後の陽気が過ぎていく。

 夕方になってトリエラとクラエスがやって来たとき、クヌギの木の根元には二人の少女が寄り添って眠っていた。




 また夢を見た。
 でもそれはいつもの夢と違っていた。


「やっと会えたな。俺はアルフォド、訳有ってフルネームは教えられないがこれが俺の名前だ」
 男が寝たままの私を覗き込む。
「君の名前はブリジット。かの有名な日記の作者と同じ名前だ」
 私は男――アルフォドに手を伸ばす。
「これからよろしく」
 男は私の手を握って笑った。




 



[17050] ガンスリ劇場1 シリアス好きにはオススメ出来ません 【ついでに百合のようなもの】
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2010/03/30 05:40
 第一話 寝取るもの、寝取られたもの




「わーん、クラえもーん!!」
「どうしたの? トリエラくん……ってクラえもんは無いでしょう。クラえもんは」
「そんなことよりクラエスー!! ブリジットが寝取られちゃったよぅ! ブリジットがエルザとか言う悪い女に引っかかったー!!」
「なっ、何ですって!」




 かのクヌギの木の下、濃密な百合空間にて。


「ふふふ、ブリジット、どうしたの? 物欲しそうな顔をして」
「ああ、エルザ様……。どうか、どうかご慈悲を……」
「いけない子ね。こんなに涎でぐちゅぐちゅにしちゃって。そんなにこれが欲しいの?」
「ああ、欲しいれすぅ! 下さい、エルザ様っ。下しゃいぃぃ」
「ならブリジット、私に永遠の忠を誓いなさい。あなたの心を、身体の全てを私に捧げなさい」
「捧げますからぁっ! 捧げますぅっ」
 エルザの白魚のような指がブリジットの顎を掴む。そしてそのまま人差し指で彼女の口内を蹂躙し、ブリジットが苦しそうな声を上げた。
「可愛いわ。可愛いわ。ブリジット……。なんて可愛いのかしら」
 エルザが一本の棒キャンデーを取り出す。それをブリジットの舌先に持っていくと、彼女は目を潤ませ頬を上気させながら健気に舐め始めた。
 淫らな水音が辺りに鳴り響く。
 全く抵抗のそぶりを見せないブリジットにエルザは一定の満足を得たのか、恍惚とした表情でブリジットの頬を撫で上げる。
「ふふふ、ブリジット。可愛いブリジット、これであなたは私のモノ……」
 エルザの顔が、キャンデーを舐め続けるブリジットの舌に近づいていく。彼女自身も舌を出し、二人の舌が触れ合う寸前になって――

「ちょっと待ったーっ!!」

 エルザの後頭部を引っ掴んで引き離したのはトリエラだった。彼女はエルザの手に堕ちたブリジットを悲しみを込めた視線で捉え、今まさにブリジットを手籠めにしようとしていたエルザを、殺意と憎しみを込めた視線で射抜く。
「ブリジットを初めて可愛がった、もとい、餌付けしたのは私だ!」
「あら、誰かと思えば負け犬のトリエラさんではないですか。見苦しいですわよ、捨てられた女の妬みなんて……」
「散々本編で嫉妬に狂っていたあんたはどうなの! それよりブリジットを返せ!」
「ふふふ、あなたの眼は節穴? 今この子は私に夢中よ」
「嘘だ! 嘘だと言ってよブリジット! 私があげたケーキの味はもう忘れてしまったの!?」

 トリエラがブリジットの肩を掴む。顔を覗かれたブリジットはその蕩けた瞳でトリエラのことを見た。
 そしてこう告げる。

「私、お菓子をくれるなら誰でもいいよ?」

 ブリジットの一言にトリエラは全てが敗れ去ったことを知った。そうだ、自分の愛情はエルザに書き換えられてしまうくらい脆かったのだ。
 お菓子の味で勝てなかった、ただそれだけのことだ。
 目の前でエルザに堕とされていくブリジット。
 そして何も出来ない自分。
 トリエラは拳を握った。そして何も出来ない自分を呪った。
 餌を与え続けられなかった自分を呪った。



 次回予告


 エルザにブリジットを取られたトリエラは復讐に燃える。
 そして新たに判明する子犬(ブリジット)の好物。
 殆ど出番の無かったクラエスの運命は?
 
 次回、お姉さまと書いてスールと読む。愛情と書いて餌付けと読む。
 お楽しみに!


            ◆◆

 第一部あとがき
 
 第一部を皆さまの沢山の御感想のお陰で書き切るることが出来ました。本当に感謝の極みです。
 ただ、原作からのズレは賛否両論がありますがご容赦くださいませ。
 さて次回からは原作2巻分が始まります。
 そこで切れ目がわかりやすいように、ガンスリ劇場なる本編とは似ても似つかないアホなSSで章分けをすることにしました。次回は第二章が終わってからです。
 この劇場が10本書くことが出来るようこれからも頑張っていきます。

 ご声援、よろしくお願いします。

 PS 一章だけで12話も使ってしまったことに焦りを覚える今日のこの頃。



[17050] 第13話 ヒルダという名の猫 【ついでにクラエスのこと】
Name: H&K◆03048f6b ID:e5ae5246
Date: 2010/03/31 01:57
 私には猫のような友人がいる。
 彼女は本当に気まぐれで、少し我儘なところがある。
 でも彼女は猫だから皆に好かれて、皆に可愛がられている。
 猫の名前はブリジット、お菓子が大好きで大人なんだけど子供っぽい、そんな感じだ。




「にゃー」
「何してるのブリジット……」
 クヌギの木の下で、私はルームメイト兼親友のブリジットを見つけた。彼女は木の根元に向かって四つん這いになっており、長い夜空のような黒髪と小さなお尻が左右に揺れている。
 私に見つかってもブリジットは奇行を中止することは無く、さらに「にゃー」と鳴いた。
「? 猫でもいるの?」
 ブリジットがこちらに振り向かないことを不審に思って私はブリジットの上から木の根元を覗きこんだ。すると一匹の小さな黒猫がいた。黒猫はブリジットから貰ったのか、砕かれたベビークッキーを食べていた。
「今日さ、エルザと一緒に本を読もうと思ったら木の根元に猫がいたの。とても可愛いからクッキーあげちゃった」
 ブリジットがそっと猫を抱きあげる。猫は然したる抵抗も見せず、そのままブリジットに抱かれた。
「ほら、可愛いでしょう」
 にゃー、と猫と少女の声が重なる。それは春が近くなった冬の終わりの日。
 私たちが存分に羽を伸ばした滅多にない休日だった。





「へー、猫……」
 私とブリジットで家庭菜園用の場所を鍬で耕している時、エルザがおっかなびっくりといった風に猫に触っていた。
 ブリジットを親と認めたのか、それとも餌をくれる体の良い奴隷と思ったのかは知らないが、小さな黒猫は彼女から離れようとしない。
「ねえ、クラエス。この場所の許可って誰がくれたの?」
 鍬を杖代わりにしたブリジットが問うてくる。私がジャンさん、と答えると予想でも付いていたのか「ふーん」と短く相槌を打っただけだった。
 ブリジットが再び鍬を地面に突き立てる。
「ねえねえブリジット、この猫飼うの?」
 いつの間にかエルザが猫を抱きかかえていた。ブリジットは作業を続けたまま答える。
「うーん、どうだろ。私的には飼いたいけど、同室のクラエスやトリエラ、あとアルフォドさんにも聞いてみないと……」
 そう言って、彼女は困ったような顔でこちらを見て来た。どうやら飼っても良いか本人なりに聞いているのだろう。私としては特に問題ないので、取りあえず構わないと告げておく。
「なら後はトリエラとアルフォドさんかぁ。何処にいるんだろう?」
 ブリジットが鍬を持つ手を止める。見れば私の指示した耕しは終わっていて、エルザに出て来た石を捨ててきてもらう段階まで来ていた。
 私は用意していたタオルでブリジットの頬に付いた土を拭ってやると、二人に休憩を促す。
「石を捨てるのは午後にして、取りあえず休息を取りましょう。ついでにトリエラとアルフォドさんを探せばいいわ」
 私の台詞にブリジットとエルザ、二人の少女の顔が見る見る晴れていく。
 手を取り合って喜ぶ二人はまるで姉妹で――、猫のようだった。





「猫?」
 トリエラは部屋で熊の人形と戯れていた。小人の名前を冠した人形に赤ちゃん言葉で語りかけている彼女を見たブリジットは、ベッドの上でお腹を押さえて痙攣している。猫は彼女の長い髪の毛で遊んでいた。
 顔を真っ赤に染めたトリエラはブリジットの頭の上の猫を睨んだ。多分笑い続けているブリジットを睨んでいるんだろうけど、私から見たら猫を睨んでいるようにしか見えない。
 因みにエルザは特に何のリアクションも示さず、部屋に置いてあった小説を一人読んでいた。この子は基本的にブリジットとラウーロ以外には懐いていない。
「あの猫を飼うの?」
 指を差された猫がこちらを見た。思わずトリエラが「にゃー」と口ずさむ。するとブリジットがひと際大きく痙攣し、押さえた口元から笑い声が漏れていた。
「ねえクラエス、ちょっとブリジットにお灸を据えてきていいかな」
「あら、珍しいわね。トリエラがブリジットに腹を立てるなんて。もしかして最近構って貰えないから妬いているの?」
 なっ、とトリエラがあからさまに動揺した。最近ブリジットはエルザと二人でいることが多く、トリエラは何時も寂しそうな視線で二人を追っていたのだ。
 私はトリエラをからかうのが楽しくて、さらに追撃を掛けるべくブリジットに声を掛けた。
「ねえブリジット、トリエラが構ってほしいそうだからこっちに来て遊んであげなさい」
 起き上ったブリジットとトリエラの視線が合う。猫がブリジットの肩口からベッドに飛び降りた。
「遊んでほしいの?」
「っ、うるさい!」
 トリエラが手近にあった縫いぐるみをブリジットの顔に投げつけた。猫が驚いてベッドから離れる。猫の向かった先はエルザの膝の上だ。
 どうやら猫の中の優先順位はブリジット、エルザの順らしい。
「で、トリエラ。猫は飼っても良いの? 駄目なの?」
 縫いぐるみを顔に乗せてベッドから動かないブリジットの代わりに私がトリエラに聞いた。
 トリエラはブリジットの方を一瞬見やって、少し思巡した後こう答えた。
「まあ、ブリジットが髪を梳かさしてくれるなら」
 ブリジットが顔に縫いぐるみを乗せたまま手を振った。どうやらその条件で良いのだろう。トリエラが上機嫌でブラシを持つと、ブリジットのベッドに上って行った。
 
 エルザの膝の上で猫が小さく鳴いた。





「ん? 猫かい?」
 アルフォドさんはヒルシャーさんと一緒にいた。二人は何かの書類をパソコンに取り込んでいる。
「へえいいなあ。猫。昔飼っていたよ」
 アルフォドさんがブリジットの抱いた猫の頭を撫でた。猫はアルフォドさんを怖がっているのか、ブリジットの胸元に必死にしがみ付いている。
 ヒルシャーさんはそんな猫を見て笑った。
「おいおい、本当に飼っていたのか? こんなに怖がられて」
 そう言ってヒルシャーさんが猫に手を伸ばす。すると猫がいよいよ怖がって、ブリジットの腕の中からヒルシャーに威嚇した。
「ははは、君も変わらないじゃないか。むしろ俺より酷い」
 バツが悪そうに目線を反らすヒルシャーさんが面白くて、私とブリジットは自然と笑顔になる。私はアルフォドさんが機嫌を良くしているのを見て、猫を飼う許可を取るなら今の内だと判断した。
 ブリジットの背中を後ろから小突く。
 彼女は一瞬こちらに振り返った後、アルフォドさんの袖を引っ張った。
「あのー、アルフォドさん。お願いがあるんですが……」
「ん? なんだい」
 ヒルシャーさんをからかっていたアルフォドさんが首をかしげる。この担当官はヒルシャーさんと相性が良い辺り、トリエラと相性が良いブリジットとよく似ていた。
「この子、飼っていいですか?」
 ブリジットの問いかけにアルフォドさんは「そんなことか」と笑った。
 どうやらこの反応を見る限り問題は無いらしい。
「ただし、ちゃんと世話をするんだよ」
 アルフォドさんの優しい笑みにブリジットは元気よく「はいっ」と答えていた。

 私とブリジットがアルフォドさん達の元から離れるとき、アルフォドさんが猫の名前を聞いてきた。
 ブリジットがまだ決めていないと答えると、彼は今決めたら? と促してきた。
「うーん、そうですねー。何となくですけどヒルダってのはどうでしょう」
 アルフォドさんとヒルシャーさん、そして私はブリジットの決めた名前に三者三様で驚いていた。
 私はすこぶるノーマルな名前を付けたブリジットに驚いて――お菓子の名前でも付けるのではと思っていた。
 アルフォドさんとヒルシャーさんは絶句したまま何も言わない。私からはどうして二人が驚いているのか分からなかった。
 私たち三人の反応を見たブリジットは受けが悪いと思ったのか、少し落ち込んだ風に言った。
「もしかして駄目ですか?」
 私は慌てて良い名前であることをブリジットに告げる。ブリジットはそれで安心したのか猫を抱え上げて喜んだ。
「君の名前は今日からヒルダだ」
 
 結局、私たちが帰るその直前までアルフォドさん達は曖昧な笑みを浮かべたまま何も言わなかった。
 どうやらヒルダという名前に何か心当たりでもあるらしい。
 私は心の何処かでそのことを気に掛けながらも、ヒルダを連れて外へ飛び出していくブリジットの後を追った。


 

「にゃー」
「……どうしたのクラエス?」
 眠りの世界から帰って来たブリジットは焦点の定まらない目で私を見上げていた。腹にはヒルダを抱えて、脇にはエルザがしがみ付いて寝ている。
「いや、何となくあなた達が猫のようだったから」
 土を耕し、石を捨て終えた私たちはクヌギの木の下で昼寝をしていた。
 一足先に起きた私は猫のように寝入っている二人を見て、思わず鳴き声を出してしまったのだ。
「そう……」
 まだ眠たそうにしているブリジットが起き上がって私の横に腰掛ける。私はブリジットの体温を間近で感じながら読みかけていた本を開いた。
「ねえ、クラエス」
 ブリジットが口を開く。
「これが無為に時間を過ごすってこと?」
 彼女の問いに私は是と返した。彼女は伸びを一つするとこう言う。
「何もしない時間て結構良いものだね」
 
 
 わかってるじゃない、と返した私が横を見るとブリジットがヒルダの顔を覗き込んで「にゃー」と鳴いていた。
 この気まぐれな猫はいつの間にか皆に好かれて、皆に可愛がられている。
「幸せ者だね」
 私の呟きにブリジットは「にゃー」と笑った。
 

 やっぱりこの少女は猫だ。
 そして私の大切な友人だ。



 その昔、お父さんか誰かに教えて貰った時間を無為に過ごす喜び、
 それをブリジットと共に過ごせることは何よりも大切なことなのかもしれない。



[17050] 第14話 ローマの休日 【ついでにフランカフランコのこと】
Name: H&K◆03048f6b ID:6ca6d66e
Date: 2010/04/01 15:52
 ヒルダに餌をやっていたら、アルフォドがやって来た。
 彼は私を部屋から連れ出して、仕事の予定が入ったことを伝えた。
「ヘンリエッタ、ジョゼ組から応援の要請だ。リコ達は既に現地入りしているから、俺たちはトリエラ組と共にローマに向かう」
 アルフォドの説明を聞いて、俺は原作の2巻まで話が進んだことを理解した。確か頭の悪い爆弾魔を生け捕りにする任務だ。この任務イベントが発生したということは、フランカ、フランコのコンビが本格的に活動を始めたということか。
「今回は屋内の近接戦が想定される。MP5ではなく、MP5K(クルツ)で行くぞ」
 クルツと言われて、俺は値札貼り機の出来そこない見たいな銃を思い浮かべた。確かにあれは室内で振り回すのには勝手が良い。
 俺は直ぐに着替えるとアルフォドに告げ、部屋に戻った。クラエスの膝の上で餌を食べていたヒルダが、俺の足元に寄ってくる。
 前の世界では猫なんか飼ったことが無かったので、俺はこの小さな黒猫を大層可愛がっていた。
「ごめんね、ヒルダ。今から仕事だから明日遊ぼう」
 ヒルダは俺の言ったことを分かっているのか分かっていないのか、機嫌が良さそうに「にゃー」と鳴く。
 俺はヒルダを蹴飛ばさないように注意しながら、クローゼットから動きやすい服装としてジーンズを取りだした。
「あら、ブリジットそんな服を持ってたの?」
 以外にも食いついてきたのはクラエスだ。確かに彼女の前ではスカートが多かったからズボンを履かない人間だと思われていても不思議ではない。
 実際、最近の任務ではスカートでいることが多かったのだが、俺が撃たれたり、エルザを負傷させたりと良いことが無いので改善しなければならないと思っていた。
 ジーンズを手早く履き、黒のセータを被って俺はヒルダを抱きかかえる。クラエスに世話をしておいてくれと頼むと、テーブルの上に置いてあった拳銃を持って部屋を出た。
 確かコートはアルフォドの車の中に置いたままだから、このまま飛び出ても問題あるまい。
 そう考えながら、アルフォドと共に公社の裏手にある駐車場へ向かって行った。





 フランカとフランコ、テロリストの間では有名な爆弾製作のプロフェッショナルだ。
 彼らの作る爆弾は解体不可能と言われ、公社も重要人物としてマークし続けている。ただ、未だに尻尾の一つも掴めないのは公社が無能なのか、彼女たちの立ち回りが上手かったのか原作では判断できなかった。
 まあどの道、クリスティアーノを捉えるときに嫌でも関りを持つことになるだろうから、今からどうこう言っても仕方が無い。
「遅かったね、ブリジット」
 クルツの予備マガジンを腰に下げ拳銃のスライドを引いていると、トリエラが合流して来た。
 俺たちは今、テロリストたちが潜伏していると思われるテ―ヴェレ川の中州にある屋敷の裏手にいる。ここから塀を越えて中に侵入するのだ。
「急に呼び出されたからね。準備に手間取ったわけじゃないけど、時間が掛った」
 その場で2、3回飛び、準備運動のような物をする。邪魔にならないようクルツを背中に回した。
「あら、よっと」
 トリエラと二人で壁に向かって飛びつく。一度壁を垂直方向に蹴りあげて塀に手を掛ける。後は腕の力だけでよじ登るだけだ。
 それは日本で生きていた時には絶対に出来なかったこと。
「アルフォドさん」
 塀の上からロープを下に落とす。私とトリエラがそれを掴んで屋敷の敷地内に飛び降りた。私たち二人の体重で大人の男一人分の体重を支える。
「君たちには、敵わないなっ」
 アルフォドのヒルシャーがロープをよじ登って次々と敷地に飛び降りて来る。俺たちは邪魔にならないよう素早くその場を離れた。
「おそらく見張りがいる筈だ。先にそれを始末してくれ」
 ヒルシャーの台詞に了解と示すと、俺とトリエラはナイフを抜いて、屋敷の敷地を駆けだした。






「エンリコ、どうして勝手にローマに入ったの?」
 風呂上りなのか、バスローブ姿の女性が受話器を耳に当て眉を顰めていた。彼女こそがフランカ。フランコフランカコンビの片割れだ。
「ブツはオスティアで引き渡す約束。それにローマって言ったら『公社』とやらのお膝元じゃない」
「悪いなフランカ、どうしても現場の下見を済ませて置きたかったんだ」
 電話口からエンリコと呼ばれた男が答える。
「何、昼間誰かに尾けられたが直ぐに撒いてやったさ。奴ら今頃は博物館の騒ぎで手一杯だろう」
「でも結局爆弾は回収されてテロは成功しなかった。ロレンツォがクリスマスに殺された今、計画自体が『公社』の手の中にあると考えた方が良いわ」
 そう、少し前にはロレンツォという信頼のある運び屋がいた。だが彼はクリスマスのその日に何者かに刺殺され、クリスティアーノと言うミラノの名士に届けられる筈だった書類は、何者かに奪われたままなのだ。
「だから計画には大幅な修正を加えたさ。日付も変えたし、場所もスペイン広場に変更した」
「スペイン広場?」
 エンリコが告げた地名にフランカの眉根がますます厳しくなった。
「とにかく明日の朝一で届けてくれ。悪いな」
 フランカが何かを言う前にエンリコは電話を切った。フランカがそのまま無言の電話を見つめていると、背後から一人の男が声をかける。
「困った奴だな」
 フランカが振り向いた先にいる男はフランコ。二人組のもう片方だ。
 主に爆弾の製造は彼が担っている。
「馬鹿につける薬は無いわ」
 フランカは不快感を隠そうとすることもなくフランカに語りかける。一般人を無差別テロに巻き込むことを良しとしない彼女はエンリコのことを忌々しく感じていた。
「上の指示だから手を貸したけど、早くあんな奴には消えて貰いたいわ」
 手元にのコーヒーをを啜りながらフランカは身をソファーに沈めた。そして電話をおざなりに放り投げる。
「場所は何処だって?」
「スペイン広場って言ってた」
「……いいのか?」
 フランコがアタッシュケースを取り出してフランカに見せる。赤いリボンが取っ手に巻いてあるそれは正真正銘の本物だ。
 だがエンリコを嫌っている彼女の為に、青いリボンを巻いたダミーも用意してある。
「もし本気だったら――偽物でも渡してやればいいわ」






 エンリコは部下を数人引き連れて、テーヴェレ川の中州に事構えていた。明日のテロ実行までここに潜伏するのだ。
 彼はフランカとの電話を切って部下に計画の進行状況を伝えた。
「爆弾の手配が出来た。予定通り明日決行するぞ」
 エンリコは計画の進行具合に満足したのか、一人部屋に備え付けられていた椅子に座る。そこへ彼の部下が窓の外を見ながらこう言った。
「エンリコさん、外の様子が変です。さっきから誰も橋を渡ってきません」
 部下が伝えた異変に、エンリコも窓に近寄る。確かに中州から陸へ繋がる橋は異様に静かで人っ子一人いない。
「事故でもあったか? 取りあえずシモーネに確認させろ」
 部下がシモーネと呼ばれた男に無線で指示を伝える。エンリコは窓からそっと離れ、今度は隠れるように椅子に座った。
 計画は万事順調――それなのに何故か嫌な予感が拭いされなかった。


 見張りの男が無線で何か連絡を受けている。どうやら橋の向こう側で車両の通行規制をしているのが感づかれたようだ。
 俺はナイフを構え、素早く男の背後に近寄った。
「むぐっ!」
 男の口元を手で押さえ、首の後ろにナイフを当てる。それをそのまま押し込むと、延髄が貫かれた男は何一つ抵抗することなく絶命した。
 男が取りこぼした無線機はトリエラが回収してヒルシャーに手渡している。
「向こうも始まったな」
 断続的な銃声を聞いてアルフォドが呟いた。どうやらヘンリエッタとジョゼ組が正面から突入を開始したらしい。
 俺とトリエラは顔を見合わせ一つ頷くと、屋敷の窓の下に駆け寄った。
 トリエラが手で踏み台を作り、俺がその上に飛び乗る。トリエラが思い切り組んだ両手を振り上げると俺は中に浮いた。
「いつ見ても凄いな……」
 アルフォドが下で感嘆したのと同時、俺は屋敷の窓に飛びついて窓を蹴り破った。原作ではこの部屋にエンリコが隠れていた筈だが、今回は違うらしい。
「今ロープを落とします!」
 部屋に飛び込んだ俺は手近にあったベッドにロープを結んで窓から落とした。
 トリエラがそのロープを使って登って来るのを確認して、俺は廊下に飛び出した。
 すると目に入ったのは物音を聞いてやって来たのか、拳銃で武装した男だ。
「くそ! 公社の犬か!」
 男が悪態をつきながら拳銃を構えるが、義体相手ではその挙動は遅すぎる。クルツの9ミリ弾のシャワーを男に浴びせてやると、男は呆気なく崩れ落ちた。
「キスカ!」
 今しがた始末した男の名前を叫んで新手が三人俺に拳銃を構える。クルツの掃射で片づけてやっても良かったのだが、ここは後ろにいるお姫様に華を持たすことにしよう。
「ブリジット伏せて!」
 トリエラの突き出したウィンチェスター――ショットガンが火を噴く。バラバラに飛び散った散弾は男たちに多数の穴を穿った。
 いつ見ても中々グロテスクな光景である。
「ありがと、助かった!」
 男達の屍を越えて、階下に続く階段に駆け寄った。下から上がってこようとする数人をクルツで射殺する。
「ヒルシャーさん、ターゲットは何処ですか!?」
 俺と一緒に階下へ発砲していたトリエラが無線でヒルシャーに問うた。ヒルシャーのよれば二階の東側の角部屋らしい。
 空になったマガジンを交換しているとトリエラに肩を掴まれた。
「ヘンリエッタが正面から突入するから私たちは外から挟撃しよう」
 俺はトリエラの提案に一つ頷くと、階下に留めの掃射をした。



 正面から銀色のシグを構えたボブカットの少女が突っ込んできた。
 俺はせめてもの抵抗に手榴弾を取り出してピンを抜こうとする。
 だが神は俺のことが嫌いだったらしい。
 背後の二枚のガラス窓が派手な音を立てて割れたかと思うと、ショットガンを構えた少女、クルツを構えた少女がそこにいた。
「参ったな、これは」
 手榴弾を懐に戻し、降伏の手を上げる。
 皮肉なことに、神様に嫌われたほうが命拾はしたようだ。
 


 翌日、青のリボンをつけたアタッシュケースを持ってテレーヴェ川の中州に行ってみると、検問が敷かれ一般人は立ち入り禁止になっていた。
 私はそれだけで、エンリコの奴がしょっ引かれたことを悟る。
「スペイン広場は命拾いしたらしいな」
 フランコの呟きに私は同意する。どうやらこのダミーは無用の長物のようだ。
「ねえフランコ」
 歩きだした私にフランコが着いて来る。私はサングラスを越しに彼の瞳を見るとこう言った。
「ちょっとスペイン広場に行かない?」
 
 ジェラートは食べないけど。
 
 私の悪戯心溢れた提案に彼は殆ど表情を変えなかったが、それでも少しだけ楽しそうに同意した。





 さて不詳私めはスペイン広場にやって来ております。
 本来ならヘンリエッタが任務を頑張ったご褒美に発生するスペイン広場でジェラートイベント。何故かそれと並行して俺もアルフォドと一緒に広場へやって来ているのだ。
 まあ、ジェラートを食べてその辺を歩いていると、フランカにニアミスイベントが発生しかねないのでジェラートは遠慮しているが。
「本当にジェラートはいらないのか」
 露店で買ったポップコーンを食べている俺にアルフォドはさっきからずっとこんな感じだ。
 これは俺にただ純粋にジェラートを食べさせたいだけなのか、それとも下心を持って俺に食べさせたいのか判断はつかない。
 因みにスペイン広場でジェラートというのは、かの有名な『ローマの休日』で出てきたシチュエーションで恋愛がらみのイベントだ。さらに如何でもいい事を追加すると、現在のスペイン広場は法律で飲食が禁止されている筈だが、ガンスリのこの世界では別に構わないらしい。
 原作でもヘンリエッタが普通に食べていたから不思議に思ったけど、良く似た並行世界のイタリアと捉えれば納得が出来る。
 俺の話に戻そう。
 いい加減、アルフォドの勧めが鬱陶しくなって来た俺はポップコーンを引っ掴むとそれをアルフォドの口に突っ込んでやった。
 そして、目を白黒させている彼にこう言ってやる。
「アルフォドさん、ここでのジェラートは恋人が出来た時に取っておいてください」
 自分で言って少しだけ後悔した。これは何だかんだ言って物凄く恥ずかしい。
 なお且つもっと恥ずかしいのはアルフォドの反応で……、
「はは、俺は君と食べたかったんだけどな」
 ああ、義体の暗示が無ければきっとこの担当官を思い切り蹴飛ばしていた。そんな台詞は慎み深い元日本人の俺には素面で到底言えない。 
 俺は顔が自分でも赤くなってると感じながら、無心でポップコーンを食べ続けた。
 公社に戻ったら、ヒルダとエルザを思い切り可愛がって今日の事は忘れよう。
 そう自分に言い聞かせ続けた日だった。



 ボブカットの育ちの良さそうな女の子を見送った後、私は広場の真中でポップコーンを食べ続ける少女と、そんな少女を優しく見守っている男を見つけた。
 容姿は髪の色が違って余り似ていないが、恋人というより兄妹に見える。
「スペイン広場が無事でよかったな」
 私の視線の先に気がついたのか、フランコがそう言った。
 私はサングラスを外して一つ笑う。

「そうね、私たち五共和国派が守るべきものはああ言った子たちだもの」


 
 五共和国派――パダーニャと呼ばれる彼らは程度の差こそあれ、北部の幸せを願っている。
 



[17050] 第15話 №9の日 【ついでにアンジェリカのこと】 
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2010/04/30 22:56
 歓びの歌を歌おう。
 
 皆で大きな声を出して、空に向かって歓びの歌を歌おう。

 どれだけ今が苦しくとも、どれだけ今が貧しくとも、

 笑いながら歌おう。

 それは歓びの歌



 №9



 クラエスに頼まれた家庭菜園の施工も終わりに差し掛かったとある日のこと、トリエラが花束とアマーティーの楽器ケースを脇に携えて訪ねてきた。
「だいぶ完成したね、ブリジット」
 泥で汚した顔をタオルで拭いながら、俺はまあねと返した。冬だというのに程よく汗をかいていて、土が肌に良く付く。
「その花束はアンジェリカの見舞い? だとしたら彼女も今夜誘うの?」
「うーん、先生が許可したらね。難しいと思うけど」
 それは数日前のことだ。流星群が観測できるというニュースを聞きつけたクラエスとヘンリエッタが、俺とトリエラ、そしてエルザをそれに誘ってきた。もちろんリコも。何でも引率にジョゼを使って皆で見に行きたいらしい。
 このこと自体は原作イベント通りなので、イレギュラーな存在といえど俺も参加することにした。
 まあエルザを殺さなかった時点で原作も糞もないだろうが、それでも出来るだけ原作に沿いたいと考えるのは俺がヘタレなのか慎重なのか……、
 話を戻そう。
 流星群観察イベントが発生した時点で、トリエラがアンジェリカを見舞いにいくと予想出来たので原作どおりに事が進んだことに少し安心した。
 よくある歴史の改変などで話にズレが生じるとなれば、のんびりと流れに任せて時間を過ごすという毎日を見直さなくてはならなくなるからだ。
 俺の隣で一生懸命レンガを積み上げるエルザを見ていると、こんな幸せな日々が続けばいいのにとどうしても願ってしまう。それが適わないとわかっていても抗いたくなるというものだ。
 俺はこの世界に来て、ここ最近が一番充実している日々だと実感していた。
「それじゃあ私はアンジェリカのところに行くけど、何か伝えておくことある?」
 トリエラがこちらに花束を向けながら問うてきた。
「早い復帰を願うとでも言っておいて。あと猫もいるよ、と」
 私の返答にトリエラがにかっと笑う。俺もトリエラに釣られて笑っておいた。
「じゃ、行ってくるね。それとさブリジット。今晩アルフォドさんは誘わないの?」
 トリエラのからかった口調に俺はべろを出してあっちへ行け、と罵る。俺をからかうことが楽しいのか、この世界のトリエラは必要以上に子供っぽい。
 それが良い傾向なのかどうかは判断しかねるが、楽しそうに病院へ駆けていく彼女を見ているとそれでも良い気がしてきた。
 空は快晴。
 今夜は星が良く見えそうだ。




「それはAUGか?」
 病院の廊下を歩いていたらアンジェリカの担当官であるマルコーさんに出会った。面会の旨を伝えると、私の持つ楽器ケースを見てそう言った。
「アンジェリカが触りたいといったので……もちろん実弾抜きです」
「そうか、なら構わんだろう」
 一言そう告げると、マルコーさんは何処かへ立ち去っていく。その様子を姿が見えなくなるまで眺めていた私は、ふとアンジェリカのいる病室の扉を叩いた。
「アンジェリカ、調子はどう?」
 扉を開けるとベッドにお姫様がいた。ブリジット程ではないけど、それでも長い黒髪を可愛いリボンで飾っている少女、アンジェリカだ。
「いらっしゃい。トリエラ」
 ニコリと笑う彼女を見て、私はここへ来た意味を知った。




「けっこう元気そうだね」
「本当はもう歩いてもぜんぜん平気なの。でもまだ検査があるってマルコーさんが」
 私は花瓶に持ってきた花束を差しながらアンジェリカの話に耳を傾けていた。
「あの人何か変わったよね。昔はもっと優しかったような……」
 私は病室前で見たマルコーさんを思い出す。昔はもっと優しそうな雰囲気だったのに、今では何かに苛立っているような……そんな雰囲気しか感じられない。
 でもアンジェリカは首を傾げて曖昧そうに笑った。
「そうだったかな…」
 私はこれ以上彼の話題を話そうとする気がしなくて、「私の気のせいだったかもね」と誤魔化しておいた。出来ればアンジェリカには楽しい話をしてやりたいのだ。
 ただ、楽しい話がブリジットの猫の話ぐらいしかなくて、私は間を伸ばすためにアンジェリカにAUGが入ったケースを渡した。AUGとはアンジェリカが良く使うアサルトライフルのことだ。
「ありがとう、トリエラ。触っておかないと不安だったんだ」
「どうして? そんなに退屈なの?」
「だって復帰したら目隠し分解から始まるんだもの」
 そういいながらアンジェリカはバラバラにされていたAUGを素早く組み立て始めた。その手つきは慣れていて、一切のブランクを感じさせない。銃器の扱いの上手いと言われるブリジットと良い勝負だ。
「なんだ……ばっちりじゃない」
 私の感嘆の声にも何の反応も見せずに、アンジェリカはAUGを黙って見つめる。私は彼女が何を考えているのか、うすうす理解したが、敢えて口に出して聞いてみた。
「どうしたの?」
「だって全然大丈夫だったもの。組み立て方で忘れていたことなんか何一つ無かった」
 アンジェリカが少し俯く。
「楽しいことも、哀しいことも……」
 病室を外からの日が照らす。ベッドの上に置かれたAUGが鈍い光を放った。
「大切なことはかんたんに忘れちゃうのにね」
アンジェが寂しそうに笑うのを見て、私は黙って彼女の髪をとる。懐からブリジット用の櫛を取り出してやると、それを彼女の髪に当てた。
「トリエラ?」
「梳いてあげるよ。どうせここの大人はしてくれないんでしょ?」
 アンジェリカの溶けてしまいそうな手触りの髪を梳く。ブリジットの髪が絹糸ならこの子は清流のようだ。
「ブリジットがよく触らしてくれるんだけどね、それと同じぐらいさらさらだよ。アンジェリカ。二人の髪を同じところに落としたら混ざっちゃうかもね」
「ねえ、トリエラがよく言うブリジットってどんな子?」 
 アンジェリカの疑問はもっともだ。不思議なことに、何処でも動き回っているブリジットはアンジェリカと一度も会ったことがない。正確には何処かで顔ぐらい合わせているだろうが、まともに会話をしたことが無いのだ。
 だから私はアンジェリカに掻い摘んで彼女の特徴を教える。
「まずとても髪が長くてね、甘いものが大好き。というか甘いもの意外は滅多に食べないね。好き嫌いが多いんだ。それで寝ぼすけ。私かクラエスが起こさないといつまでも寝てる。後は……」
 気まぐれで、恥ずかしがり屋だけど時折とても大人びて見える。髪はさらさら、猫とエルザを飼っているエトセトラ……
 私が彼女の説明をするたびアンジェリカは笑った。どうやらアンジェリカの頭の中のブリジットは猫のような女の子になっていそうだ。
 一度会って頭を撫でてみたいと言ったときは、流石に止めときなよと釘を刺したが。
「ありがとう。トリエラ。とても楽しかった。私もブリジットに会ってみたい」
「ならあの子が暇なときにまた連れてくるよ。何だかんだで忙しい子だから」
 私がそう言ってやるとアンジェリカはまるでベッドから飛び出さんばかりに喜んだ。この調子なら退院は近いだろう。しばらく良い話題が余りなかったので、素直に私は嬉しかった。





 アルフォドさんはいらっしゃいますか?
 いつもの聞き慣れた声がしたと思ったら、ブリジットが俺を訪ねて来ていた。俺はデスクから手を上げてブリジットに合図を送る。彼女はとことこと俺のデスクに歩いてきた。
「アルフォドさん、今晩のことでお願いがあるのですが……」
「ん? 流星群の観測の事かい?」
 俺はジョゼから義体の女の子たちが演習場で流星群観察をすることを聞いていた。まあ、ジョゼ本人は急な出張でドタキャン。代わりにトリエラの担当官のヒルシャーが引率をすることになっているらしいが。
「いえ、実は余り大きな声で言えたことではないので、テラスまで来ていただけませんか?」
 驚いた。普段は好き嫌いを超えた偏食の域に達し、結構我が強い――言いかえれば我儘なところがあるブリジットだが、実際は非常に模範的で大人びている。
 そんな彼女が周りに聞かれたくないと言い、俺を連れ出そうとしていた。
 つまりそれは決して無視できる案件ではなく、最悪彼女の体調に関ることかもしれない。
 俺はデスクで開いていたノートパソコンを閉じると、ブリジットを促しテラスへ向かうことにした。

「へ? 見舞い?」
 何を聞かされるのかと、気が気でなかった俺だが、ブリジットから聞かされた頼みごとを聞いて正直拍子抜けしてしまった。
 そうブリジットからの頼みごととは……
「アンジェリカの見舞いに行かせてください」
 何でもない、同期の義体の女の子の見舞いだった。ただブリジットの頼みの特殊なところは、
「それは今日じゃないと駄目なのかい?」
 そう、時計を確認してみても公社内にある病院施設の面会時間はとっくの昔に過ぎてしまっている。普通の患者なら特別な申請をすれば面会できるだろうが、今回は条件付けの副作用で入院しているアンジェリカが相手だ。申請が通るとは考えにくい。
「いけないこととはわかっているんですけど、どうしても今日は彼女のところに行きたくて」
 どうやらブリジットは面会が難しいことを百も承知で俺に頼んでいるらしい。つまりそれは忍び込むなり何なりをして、無理矢理面会しようとしているのだ。
 俺は流石にブリジットを叱りつけようとして――だが彼女の真剣な眼差しを見て、何より普段なら絶対にこんなことを言い出さないブリジットが気になって理由を聞いてみることにした。
 




 真っ黒に塗りつぶされた空を見て、私はブリジットのことを考えていた。
「何も見えないね、トリエラ」
 隣に立つリコが裾を掴んでくる。私は苦笑しながらまだ時間じゃないと答えた。
「もうすぐだから良く見ていて。ここがもっとローマから遠ければいいんだけど……、そのぶん私たちは目がいいから」
 クラエスが星座地図を見てリコをあやす。ここにいる年長組は二人、私とクラエス――そう一人足りない。
「ブリジットも来る筈だったんだけど」
 私の呟きは白い息となって夜空に消える。彼女は急にアルフォドさんと用事があるといって天体観測には来ていない。その報を聞いたクラエスは見るからに落胆して、私は少しだけブリジットを恨んだ。
「そういやアンジェリカは駄目だったの?」
 リコの問いに私は肯定の意を示しておいた。彼女はまだ部屋から出ることは出来ない。
「皆で見たかったね、流星」
 リコの嘆きには全面的に同意だ。こういったイベントは皆で過ごすから楽しいものなのに……。
 私が半ば投げやりに再び空を見上げたとき、ちらりと星が光った気がした。





 トリエラから流星が見られると聞いて、私はカーテンを開けて外を見ることにした。彼女が差し入れてくれたCDプレイヤーをスピーカーに繋ぐ。
 その時だった。不意に窓の外に人の気配を感じたのは。



 危なかった。もしアンジェリカが万全の状態で、銃を持っていたなら間違いなく撃たれていた。幸いにも彼女は病気療養中で、武装なんかしていないのでこうして叫ばれる前にベッドに押し倒すことが出来たのだが。
「…………」
 口を塞いだアンジェリカが涙目でこちらを見ていた。やばい、これじゃあまるで襲っているみたいじゃないか。
「…………」
 アンジェリカの眼から大粒の涙が零れ落ちる。せめてもの抵抗なのか、しきりに組み敷かれた両手を動かそうとしていた。
 あ、何かに目覚めそう……、
 自分がここに何しに来たのか目的を忘れそうになったとき、私の意識を現実に引き戻したのは窓の外から投げられた飴玉だった。
「何をしているの」
 怒ったような、それでいて何処か戸惑ったような声の主は俺と一緒に病院の壁を登ってきたエルザだ。トリエラたちと一緒に流星群を見て来いと諭したのだが、俺についてくると言うことを聞かなかったので、仕方なく連れてきたのだ。
「いや、咄嗟に体が動いて」
 エルザに釈明をして、俺はそっとアンジェリカの上から身体をどけた。この世界のアンジェリカとは実は初対面だったのだが、これでは第一印象は最悪だ。
 俺以外の見知った顔――エルザを見たから安心したのか、アンジェリカは叫び声を上げることなく、けれど明らかに戸惑った様子で俺たちを見てくる。
 俺はとりあえず現状を説明するべく、口を開いた。
「こんばんわ。そしてはじめまして。ブリジット・フォン・グーテンベルトです。以後お見知りおきを」

 



 窓の中に消えていったブリジットとエルザを俺とラウーロは下から見上げる。
「いいのかアルフォド。こんなことをして」
「そんなお前も止めなかっただろ。ラウーロ」
 結局、ブリジットたちが自力で忍び込むという形で、アンジェリカの見舞いは成立していた。テラスで語られたブリジットの言い訳はなんとも荒唐無稽で、考えるに値しないものであったが、結局はこの様だ。
「何、俺は昔から悪餓鬼でな。父親の書斎に忍び込むのはお手の物だった」
「父親の書斎とノルマンディー海岸は違うぞ。ラウーロ。警備の職員に言い訳をするのがどれほど苦労したか」
「それでもお前は彼女の願いを適えてやった。まったく泣けるね」
「ふん、仕方ないだろ。あの子が珍しく食べ物以外で我侭を言ったんだ。適えてやらないと愛想を尽かされる」
 アルフォドがタバコを取り出し、火をつける。ラウーロもそれに習ってたばこを咥えた。
「で、ブリジットがアンジェリカの病室に忍び込んだ理由は?」
 言われてアルフォドは空を見る。ちらほらと流星が見え始めており、それは明かりのついた病院の近くでもうっすらと見えた。
「彼女が言ったんだ。こんな素敵な夜を一人で過ごさせるわけにはいかないって」
 アルフォドたちが立っている位置を照らす、唯一の明かりであるアンジェリカの病室の明かりが不意に消えた。大方ブリジットが切ったのだろう。
「気の利く子だ」
「ああ」
 二つのタバコの光が空を見上げていた。





「凄い! また光った!」
 興奮した様子で空を指差すリコがいる。私は寝転びながら流星の空を見上げていた。
「アンジェリカにも見せてあげたかったね」
 ヘンリエッタが私の隣に腰掛けながらそう言う。私はまったくだと思いながらも、昼間に渡してきたCDプレイヤーのことを思い出してこう告げる。
「アンジェリカならきっと部屋から見ているよ。第九でも聴きながら」
「第9番てベートベンの? ♪~♪~~~♪て曲だよね?」
 ヘンリエッタが紡いだ調べに、私は自身が高揚するのを感じた。なる程、ベートベンの№9 こんな夜にはぴったりのシンフォニーだ。
 私は起き上がってヘンリエッタを抱きかかえると、ヘンリエッタの調べに自身の声を続けた。



「O Freunde, nicht diese TÖne ! (ああ友よ、そんな調べではだめなのだ!) Sondern laBt uns angenehmere anstimmen und freudenvollere ! (声をあわせてもっと楽しく歌おうではないか!)


 きょとんとこちらを見上げるヘンリエッタを見て、私は歌を催促する。
「ほら…いくよ?」



 歓び、それは美しい神々の輝き

 楽園の遣わす美しい乙女よ♪

 私たちは熱い感動の思いに突き動かされ……お前の国へと歩み入る!




 暗い病室でアンジェリカとエルザを抱きかかえて、俺は第九を聞いていた。元の世界では年末でしか聞いたことの無い曲だったのに、今では不思議とメロディと歌詞が頭をよぎる。
 だからこそ、三人で流星を見上げながら口をついて出てきたのは自然なことかもしれない。




 神の柔らかなる翼の庇護の元  全てものたちは兄弟となる♪

 心の通じ合える親友を得た者、気立ての良い妻をめとることが出来た幸いなる者よ

 よろこびの気持ちを声に出してあわせよ♪
 

  
「№9か。上手いな」
 ラウーロがそう言うとおり、ブリジットのものと思われる歌声は綺麗だった。まさか彼女にこんな才能があったとは。
「このくそ寒い中、美しいベートベンの調べ。義体にしておくのがもったいないな」
 俺は何も答えず、静かにブリジットの歌声に耳を傾けていた。




 流れ落ちていく流星を見上げながら俺は№9を紡いでいく。静かに耳を傾けてくる小さな少女二人を抱きしめ、歌う。
 これはまさに歓びの歌だ。俺がこの世界に生きていること、そして誰かが大切な人たちがこの世界で生きていることを教えてくれる歌。
 これだけの収穫があるなら、病院に忍び込んだこともお釣りが来るようなイベントだった。




 義体の少女たちが声を合わせて歓びの歌を歌う。歓喜に身を任せて今のときを歌にする。
 彼女たちの優しい調べは、冬の寒空にいつまでも響いていた。




 天蓋の果てに神を求めよ! 星星のかなたに神はかならずやおわしますのだ♪





[17050] 第16話 一マイル向こうの少女 【ついでに彼女のこと】 1 
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2010/08/06 22:26
 一マイル向こうの少女





 昔、俺の一マイル先に女の子がいた。ただ、一マイルというのは物理的な距離ではなくて、それぐらい遠い存在ということだ。





 南は言わずもがな、北も失業率が悪化し、毎日のように市民デモや抗議がローマ市内を賑わしていたとある夏の始まり。俺は本職の依頼がすっかり途絶えて副職のほうもクビになり、一人路地裏で腐っていた。
 ここは夏だと言うのに日が当たらないせいか比較的涼しく、俺のように行く宛ての無い屑共が常に数人寝そべっているような場所だ。
 そんなゴミ溜め見たいな路地裏に赤毛の花が咲いたのはとある日の午後。
「ねえ、あなた。どうして昼間からこんなところで寝ているの?」
 第一印象はムカつく奴だった。
 こちとら必死に就職先を探して疲れ果てて眠っているのに、それを捕まえて暇人を見るような目でこちらを見てくる。
 何よりその格好だ。ブランド物に詳しくない俺でも直ぐに高級品とわかるようなパンツにシャツ。そして香水。どこからどう見ても、どこぞの金持ちのお譲ちゃんが興味本位でおちょくりに来たようにしか見えない。
 ただこのお譲ちゃんが幸運だったのは、今日このゴミ溜めに寝そべっているのは俺だけで、女をドラッグを使ってセックスマシーンにしようと考え続けているバカ共が出払っていた事だ。
 俺はこの幸運を利用しない手は無いと考え、取り合えずガンを垂れて追い払うことにした。
 これでもそこそこ鍛えていて、尚且つ悪人面な俺だ。大抵の奴らは凄んで何処かに逃げていく。ましてや温室育ちのお嬢様なら造作も無いことだった。
 今思えば、この時目も合わさずに無視を決め込めばここでこの物語は終わっていたのだろう。
 だが俺は俺の視線を受け止め、尚且つこちらを見つめてくる彼女の視線を見てしまった。
 人生で初めて、そして唯一この日だけ見ることの出来たその瞳に、俺は虜になった。






「今更だけど私はヒルデガルト・フォン・ゲーテンバルト。ヒルダでいいわ。はじめまして、以後お見知りおきを」
 お嬢さん――赤毛のヒルダに連れて来られたのは大衆向けのカフェテリアだった。あの後、路地裏に留まり続けることの愚かさを懇切丁寧に教えてやった俺は、何故かここへ引っ張ってこられた。
 訳も分からずテーブルで膠着している俺を尻目に、ヒルダは慣れた様子で店員に注文していた。
「私はカプチーノ。この人はミネラルウォーターで」
 俺は勝手に注文を決められたことに対して不満を持ちながらも、店員が離れた頃を見計らってヒルダにここへ連れて来られた意味を問う。
 するとヒルダはあっけからんとした表情でこう言いのけた。
「私はね、自分と違う立場、世界を生きている人の話が好きなの。今日は偶々あそこで暇そうにしていたあなたがいたから誘っただけ」
 彼女の返答に、俺は先ほど感じた苛立ちとはまた違った苛立ちを感じた。
 それは彼女の言う立場の違いが裕福さの違いに直結していることを悟り、自分が見下されていると感じたからだ。だから俺は少し語気を強めて言った。
「社会勉強に熱心なのはいいがな、お前らみたいな金持ちの見せ物じゃねえんだよ。俺たちは。分かったらとっとと失せろ。ここの代金ぐらいは払っといてやる」
 大人気ないと自分で感じながらも、最近ろくに仕事も出来ていない所為で気が立っていた俺は突っかかるように彼女へ言い放つ。これで少しは考えを改めて、こんな馬鹿な真似はしなくなるだろうと俺は踏んだ。
 それでも彼女は引き下がらない。
「自意識過剰ね、あなた。別に私は社会勉強のつもりなんてこれっぽっちもないわ。貧困の差も生まれる場所と時間が少し違うだけのこと。私は自分が裕福である事に誇りを持っているし、別にあなた達が貧しいということを卑下するつもりはない。ただ人としてあなたの話が聞きたいの。さっきはああ言ったけど別に誰でもいいというわけではないわ。あの場所にあの時間にあなたがいたからこそ、私はあなたに話しかけたの」
 何処の口説き文句だ、と叫びそうになったが店員が乱暴にミネラルウォーターのボトルをテーブルに置いたことでその気勢は削がれてしまう。
 ヒルダはグラスにそのボトルを注ぐとこちらへ渡してきた。
「ならこう言えばいいかしら。私は暇で暇で仕方がないの。見たところあなたはお金に困っている。私は私の含蓄を深めるような話をあなたとしたい。大した額は出せないけど報酬も出します。これならギブアンドテイクで釣り合ってる。どう? 悪い話じゃないでしょ」
 舐めたガキだと俺は内心吐き捨てる。だが彼女が出すという報酬の話がどうしても耳から離れない。
 本職はさっぱりで副職はクビ。暢気に路地裏で昼寝をしていたが、決して楽観できるような経済状況ではない。
 そんな俺の内心を読んでいるのか、ヒルダは実に良い笑顔でこちらを見ている。俺はヤケクソ気味にグラスを傾けると渋々了承の意を示す。

 これが一マイル向こうの少女との最初の馴れ初めだった。





 ヒルダと出会ったその日の夜、前金として貰った紙幣を握り締めた俺はいつも通っているバーに来ていた。
 どうせ路地裏で不貞腐れていても本職の依頼なんて滅多にやってこないので、これをいい機会に一稼ぎする腹積もりだったのだ。
 そして俺の目論見は見事的中する。
「ユーリ」
 テーブル席の向かいに男が腰掛ける。いかにもここで待ち合わせをしていたと見せかけるその座り方は手馴れていた。
「久しぶりだな。最近は何をしていた」
「何、お前らが仕事させてくれないんで路地裏で寝ていたよ」
 男はよく俺に依頼をしてくる右翼グループの幹部だ。最近は用心暗殺やデモの煽動で中々忙しいと聞く。
 男は水割りを頼むと、手早く依頼の内容を伝えてきた。
「俺と同じ右翼グループの奴だ。最近どうもへっぴり腰でな、このままじゃクリスティアーノの足を引っ張りかねん」
「あのミラノの名士の? 奴があの計画を実行するのか?」
「さあな、だが人員は集めているらしい。先日はアレクサンドリアまで出張していた」
「エジプトまでとはまあ……」
 俺が副職を失い、食いぱぐれている間にどうやら状況は大分変わってしまったらしい。少し前まで右翼派は左翼思想の政治家ばかりターゲットにしていたが、ここに来て仲間割れを始めている。
 まあ俺にとっては詮無きことなので、早速依頼の人間の行動予定表だけを受け取るとバーを後にした。
 
 




 右翼派市民グループ代表、狙撃される。
 
 いつもの路地裏で新聞を拾った。そこには先日の俺の仕事の成果が書いてある。
 昔、軍警察で狙撃手の育成プログラムをこなしてきた甲斐もあって、久しぶりの仕事でも腕前は鈍っていなかった。
「何の記事を読んでいるの?」
 ただし、狙撃の腕が鈍っていなくても人の気配を感じる能力は完全に錆付いているらしい。上から俺の持つ新聞を覗き込んでくるヒルダに今の今まで気が付くことが出来なかった。
「ねえ、何を読んできたの?」
「何でもない三面記事だ」
 俺は新聞を畳んで近くにあったゴミ箱に叩き込む。彼女は一瞬怪訝な表情を見せてくるが、特に何も言わずそのまま俺の横に腰掛けた。
「ところで今日は何処に行く? いつものカフェテリア? それとも駅前の公園?」
 ヒルダの雑談に付き合って彼是1週間、俺の一日の過ごし方は彼女の行動に左右されていた。
 本職で少々儲かっても、相変わらず金欠状態を抜け出すことは出来ず、結局はヒルダが支払う小遣い程度の報酬に縋らないと苦しいものがあるのだ。
 それに、報酬云々かんぬんを抜きにしても彼女と過ごす一日は非常に充実しており、出会って最初の頃顔会うことを嫌がっていたのが嘘みたいだった。
 俺はいつのまにか彼女のことを気に入っていた。





 一マイル向こうには花があった。
 赤毛のその花は妙に活動的で、金持ちらしくなかった。
 彼女は俺が話すジョークにいちいち笑い、俺の話す体験談に耳を傾け、俺に今まで無関心だった政治の話を真面目に議論させる。
 ヒルダは俺を変えていった。






 二人目の狙撃は似たような仕事だった。どうやら右翼の連中はこの機会に裏切り者の燻り出しをしているらしい。
 どうりで商売が繁盛するはずだ。
「で、死体は川に流してきたのか?」
「爆殺しても良かったんだが例の計画があるからな。爆弾が手に入らなかった」
 何時ものバーで俺と右翼派の幹部は酒を呑んでいる。今日は報酬を受け取るついでに今後の身の振り方を話していた。
「いい腕だな。ライフルを使った狙撃以外にも近距離の拳銃もこなせるのか。フリーにしておくのが勿体ない」
「俺はどこにもつかないぜ。今回はあんただからこれだけ連続でこなしてやったんだ」
 基本的に俺は同じ人間から連続で依頼を受けない。特に理由はないポリシーのようなものだ。
「そうか、まあアナキーストというものはそんなものか。敵にならないことを祈るばかりだ」
 男はそう言うと紙幣の入った封筒を置いてバーから出て行った。
 俺も余り長居をする気分になれず、直ぐに会計を済まして店から出る。何時ぞやの時とは違って外は暑かった。
「今日は帰るか」
 どうしてだか報酬を使って遊ぶ気にはなれず、自分に言い聞かせるようにそういうと路地裏ではない、俺の本来の住処へ足を向けた。




 
 
 つけられていると気が付いたのは間抜けなことにアパートの敷地へ足を踏み入れたときだった。
 自分の感覚の鈍り具合に苛立ちながらも、ここまでつけられたことに焦りを感じずにはいられない。仮にこれが公安や警察関係者なら本職のことがバレていても不思議ではないからだ。
 俺は冷や汗を一つ拭うと、懐の拳銃に手を伸ばしアパートのホールへ入る。そして扉の影から外の様子を伺った。
 外玄関に誰かいる。
 足音を立てないように取り合えず裏口へ向かう。殺せるのなら殺すつもりで外玄関の人影へ近づいた。
 そして銃を突きつけ言い放つ。
「動くな」
 
 



 久しぶりに帰ってきた部屋の中が微妙な空気なのは掃除が行き届いていない所為ではない。ベッドの上で震えているヒルダが原因だ。バーから俺をつけていたのはこの赤毛の少女だった。
「どうしてついてきたんだ」
「家が知りたかった」
 聞けば彼女は俺と別れた後、家に帰る振りをしてずっとつけてきたという。俺はいよいよ自身の間抜けさと彼女の行動力に驚いていた。
「俺の仕事の意味はわかったか?」
 ベッドの上で震えているヒルダは静かに首を振った。バーを出るまでは何か怪しいことに関わっている程度にしか思っていなかっただろうが、どうやら先ほどの「動くな」で確信を持ったようだ。
「お前の思っている通り俺は殺し屋だよ。軍警察時代にいろいろあってこんなことをしている」
 ヒルダを見下ろし、一歩歩み寄った。彼女は恐怖で身体が動かないのか、ただ震えているだけだ。
 俺はため息を一つつき、彼女の首に手を掛ける。隣人がいない襤褸アパートとは言え、銃声を聞かれるのはいろいろと不味いのだ。
「ごめんな」
 彼女の瞳から大粒の涙が落ち、俺の手を汚す。俺は瞳を瞑ると、その手に力を込めた。
 彼女の白い首はまるで花の茎のようだった。



[17050] 第17話 一マイル向こうの少女 【ついでに彼女のこと】 2
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2010/05/03 22:16
 目の前のデモ隊が向かってくる様はさながら人の津波だ。
 防弾素材の盾を構え、俺たちはその波を押し止めようとするが、所詮多勢に無勢。
 あっという間に何人か吹き飛ばされ、怪我人の報告が耳元のインカムを鳴らす。
 そんな時だった。同僚の一人が何かを叫び、空に向かって発砲したのは。
 彼の判断はおそらく正解だ。狂気と化した群衆の頭を冷やしてやるには確かにその方法は有効だ。
 だが、彼らの熱気は正常対処の遥か上を行っていた。
 投げ込まれた火炎瓶で発砲した同僚が火達磨になる。撤退の知らせが無線を支配するが、身動きが取れなくなった俺たちにそんなものは関係ない。
「糞、誰か放水しろ!」
 誰かが叫んだのと同時、群衆の波に俺は押しつぶされる。
 そこから先は意識を保つことが出来なかった。



「お前は優秀な隊員だ。何故辞める? この前のデモのことを引いているのか?」
 上官のデスクの前で俺は直立不動。ただ口だけはここ数カ月考えて来たことの成果を伝える為だけに動いた。
「自分は国民を守るために軍警察に志願しました。然しながらここ最近の我々の活動は国民に銃を向けているだけです。私はこの矛盾に耐えられません」
 そう、俺は国民の生活と安全を守るために軍警察へ志願した。だがその国民に銃を向け、あまつさえ発砲する始末。
 これでは本末転倒も甚だしい。
「ならお前はここを止めてどうする?」
「はっ。福祉の勉強でもして今度こそ国民の為に働きたいと考えております。今までお世話して頂き有難うございました」




 結局のところ、俺は福祉の勉強やらに失敗し、軍警察時代のスキルを活かして殺し屋になった。
 でも俺はこれで少しでも社会が良くなるのならと、自分を騙し続けることが出来た。

 
 そう。俺が守る筈だった国民である、ヒルダを殺そうとする時までは。









 初めて見たときから、俺はその瞳の虜になっていた。
 だからこそ、最後の時を待つ彼女が、怯えながらもその瞳を宿しているのを見てしまったとき、俺は彼女の首を折ることが出来なかった。



 一マイル向こうの少女



「軍警察には国民を守るために入隊した。だがいつの間にその国民に銃を向けることが増えてきて、嫌になった」
 昔誰かが言った。一度殺すタイミングを逃してしまうと、その人物は二度と殺すことが出来ないと。まさにその通りで、一思いにヒルダを殺せなかった俺は何時の間にか自分の身の上を語っていた。
「それからは少しでも社会が良くなればと思って、活動家の暗殺をしている」
 ヒルダは何も言わず、ベッドの上で膝を抱えている。殺されそうになっても泣き叫ばなかったのは彼女が強いのか、それともそういった感覚が麻痺しているからなのかは俺にはわからない。
 俺は続ける。
「別に今やっている仕事が正しいことだとは露ほども思わない。でもこの仕事は俺の仕事だ」
 きっかけはデモ隊と衝突したときだった。恐怖に負けたバカがデモ隊に向かって発砲して、それからは泥沼だ。同僚は三人殉職し、市民は七人死んだ。どれもこれも皆この腐りきった社会の所為だと気が付いた俺は、軍警察にいることが耐えられなくなった。
「もう二度とここへ来るな。今日は見逃してやる」
 我ながら殺し屋失格だと思う。もしヒルダが俺のことを警察に言ったら俺は破滅だ。だが不思議とヒルダをここで解放しても、彼女は言い触らさないという自信があった。俺は彼女を信じていた。
 が、幾ら彼女を信じていたといっても、次の彼女の台詞までは予想することが出来なかったし、信じることが出来なかった。
「私はあなたと別れたくない」
 一瞬自分の耳を疑った。だってそうだ。つい先ほど自分を殺そうとした相手に「別れたくない」と告げる。それは余程の度胸者か、或いは救いようのないバカの台詞だ。
 俺は何の悪い冗談だと思いながら、彼女に向かい合う。
「俺の言うことが聞こえなかったか? ここを去れ」
 語気を強め、睨みを効かせて言った。だがそれは逆効果だったようで、開き直ってしまったのかヒルダは怯えることを止め、真っ直ぐな視線をもってこちらを見てきた。
 そして告げる。
「私はあなたのこと好きだから。別に殺し屋でも何でもいい。離れたくない」






 思わず彼女の首に再び手をかけた。俺は自分が何を考えているのか、彼女が何を考えているのか全く理解が出来なくて、気が付けば手にまた力を込めていた。
 殺せなかったのに。
 殺すことなんて出来ないのに。
 苦しそうな呻き声をあげてヒルダは俺を見る。
「あなたは本当は優しい人よ! あなたは私を嫌がったりしなかった!」
「うるさい! それはお前が金をくれたからだ!」
 ベッドの上に倒れこみ、俺は彼女に掴みかかる。ヒルダはさしたる抵抗を見せず、返ってそれが俺をますます激昂させた。
「お前に何がわかる! ただの金持ちの穣ちゃんが格好つけてるんじゃねえ! 世界なあ、俺みたいなゴミ屑が幾らでもいるんだ! 俺の目が見えるか!? これが人殺しの目なんだよ!」
 ヒルダの服がはだけ、白い胸元が上下しているのが見える。だが俺は欲情するよりも、ここまで彼女を傷つけた後悔で一杯だった。
 
 ただ自分から遠ざけようとしただけなのに、
 ただ社会の役に立ちたかっただけなのに、
 いつも俺のすることは碌なことにならない。
 
 俺は自分が嫌になって、情けなくて仕方がなくて、ヒルダの上から転げるように落ちた。
 そんな俺の頬にヒルダの手が触れる。
 縋るような気持ちでヒルダを見上げると、そこには俺を虜にした瞳があった。
「あなたの目は父と同じ目。あの人も直接手をかけてるわけじゃないけど人を殺している。でも私は父のことを愛している」

 彼女は俺を赦す。
 そして俺は救われる。

「私はあなたの目が好き」




 同僚が火達磨になったあの日を思い出す。
 あそこでは様々な感情が渦巻いていた。憎しみ、怒り、悲しみ、そして恐怖。
 碌な感情が存在しないゴミ溜めのような空間。俺はそれが嫌で逃げ出してきたのに、いつの間にかそれと同等か、それ以下の空間で生きていた。
 ここにも憎しみと怒りしかない。
 皆怒って誰かを殺そうとしている。
 多分もう諦めていたのだと思う。俺が生きている限り、俺がそこにいる限り、俺のいる場所はどうしてもゴミ溜めになることに。
 でもそんなとき、目の前の少女は違った世界を持ってきた。
 俺の世界に光が差した。


「俺もお前の瞳が好きだ」

 ヒルダと視線が交じり合う。

「お前の、この世界を見ようとするその瞳が好きだ」

 
 ヒルダが笑った。二人はおのずと口付けを交わす。 
 赤毛の少女の微笑みは美しかった。








 
 ヒルダからはいろいろなことを聞いた。
 曰く彼女は政治家の娘で、それもいろいろと黒い噂の耐えない人だそうだ。
 俺に話し相手になって貰いたかったのも、一般市民から政治の話を聞いて、父の行いを正当化したかったらしい。
 俺はヒルダの身の上を聞かされて、金持ちだと妬んでいた自分が恥ずかしくなった。
 俺には俺の苦悩があったように、彼女には彼女の苦悩があったのだ。
 彼女とベッドの中でお互いのことを語り合ったとき、俺はこの世界の意味が少しだけわかったような気がした。

 人はそれぞれの役割を持ち、そして様々な感情を持って生きている。
 ヒルダが父への感情に折り合いを求めたことも一緒だ。
 もしあの日の感情が俺のことを縛っているのなら、俺もヒルダのように折り合いをつけるべきだったのだ。
 俺の中で渦巻いていた矛盾は彼女に塗り替えられる。











 一週間後


「清掃のバイト?」
 カフェテリアでも駅前の公園でもなく、俺のアパートが二人の居場所になっていた。次女ということもあり、比較的家を抜け出すことが自由な彼女は、毎日のようにここへ入り浸っていた。
 俺はパスタを茹で上げる彼女の背中を見ながら最近ついた仕事について話していた。
「ああ、本職は店じまい。食べていくためにゴミ清掃のバイトを始めた。筋は良いらしいぜ」
 暗殺の仕事のほうは驚くほど簡単に辞められた。もともと一部の人間の仕事しか受け持っていなかった上に、目標が目標だったので公安のマークも緩かった。まあ、それに関しては過激派が行おうとしている「ある計画」の防諜に忙しいからだろうが。
「そう、それは良かった」
 ヒルダが皿にトマトスープのパスタを盛り付けて運んでくる。俺が南部出身であることを告げると、彼女は南部風の食事を良く作ってくれる。
「どうぞ召し上がれ」
 パスタを掻きこむ様に食べていく。一日中市内を走り回ったお陰でフォークが良く動いた。
「ところでヒルダ。明日の予定なんだがな」
 俺とは違って、上品にパスタを食べているヒルダがこちらを向いた。こんなところでも育ちの違いがよくわかるものだ。
 ただ今は昔とは違って嫉妬よりも彼女との違いを見つけることがちょっとした楽しみになっていた。
「俺の仕事……もちろん清掃のバイトだけど午前で終われそうなんだ。午後から少しいいか?」
「良いも何も今日みたいにここで帰ってくるのを待っているわ。明日は何が食べたい?」
「あ、いや。そうじゃなくてだな……、その、あれだ。明日の昼から何処かに遊びに行かないか。君を映画あたりに連れて行ってやりたい」
 我ながらもう少し格好をつけて言いたかった。だが、ヒルダがガッツポーズを作って喜んでいるところを見ると俺の頬は自然と崩れる。
「じゃあさ、今やってる恋愛ストーリーがいいな。あ、でもユーリはアクション映画のほうが好き?」
「はは、俺も恋愛もののほうが好きさ。アクションは昔から慣れてる」
 はは、と彼女が笑う。俺は残されたトマトスープをスプーンで啜ると待ち合わせ場所と時間を書いた紙を彼女に手渡した。
「明日の午後一時に初めて雑談をしたカフェテリア。ここで大丈夫か?」
「うん、とても楽しみ!」
 
 高嶺の花だった彼女が、映画を見に行くことに喜んでいる。
 一マイル向こうにいた筈の彼女が俺の提案に喜んでいる。
 俺にとって、これ程の喜びはなかった。






 待ち合わせの一時間前、俺はカフェテリアの近くにいる花屋にいた。
「お。お兄さん恋人にプレゼントかい?」
 店の女主人が恰幅のよい腹を揺らしながら近づいてくる。俺は素直に肯定すると探している花の特徴を告げた。
「赤い花がいいな。燃えるような花弁を持っているが、実は繊細な花だ」
「いい女の子じゃないか」
 主人の台詞を聞いて、俺はその通りだとつくづく思う。確かに彼女は俺には勿体無さ過ぎる。
「激情と繊細ね。ならこのカーネーションはどうだい? 彼女も喜ぶと思うよ」
 その花を見て、ヒルダの色を見た。彼女の赤毛は流石にここまで赤くはないが、でも彼女にぴったりの色だ。
 カーネーションを一本包んでもらうと、待ち合わせに向かうべくカフェテリアへ向かった。残り後三十分弱。もしかしたら気の早い彼女はもう着いて優雅にカプチーノでも楽しんでいるのかもしれない。
 俺の歩速は自然と早くなっていた。

















 それから三日後。
 路地裏に捨てられた新聞の一面にはクローチェ検事暗殺事件の見出しが躍っていた。
 その大事件の見出しの所為で端に追いやられているが、もう一つの事件が小さく書き連ねられている。



 
 ゲーテンバルト家 次女 ヒルデガルト誘拐事件


 今事件は被害者のヒルデガルトさんの死という悲壮な結末に至った。
 ヒルデガルトさんは犯人グループの隙を見て自殺を図った模様。犯人グループは未だ逃走しており警察は行方を追っている。











 



[17050] 第18話 一マイル向こうの少女 【ついでに彼女のこと】 終章 前篇
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2010/05/04 07:17
「ブリジット、前方800メートルのペットボトルだ。キャップの部分を撃ちぬけ」
 訓練場では黒髪の少女が積み上げられた土嚢に寝そべり、スナイパーライフルを構えている。微動だにしない彼女はさながら機械のようだった。
「緊張しなくてもいい。君ならやれる」
 担当官の声は魔法だ。彼らの声は義体を高揚させ、同時に心を落ち着かせる。ブリジットも例外ではなく、強張っていた引き金に掛けた指が、幾分か軽くなったように感じられた。
 ブリジットがスコープの十字を目標に重ねる。
 そして風が止み、手振れが収まったとき、

 銃声と共に、スコープの中のペットボトルが弾け跳んだ。


 ブリジットが見事ペットボトルスナイプを成功させたその晩、彼女は市内のカフェテリアに来ていた。落ち着いた雰囲気のそこはアルフォドのお気に入りだそうだ。
「俺はアイスコーヒー、君は?」
「カプチーノで」
 注文を済ませた二人は何を言うでもなく、のんびりとした時間を過ごしていた。
 テーブルに置かれていたサービスのクッキーをブリジットが頬張る。
「この店はユーリって言う同僚から教えてもらったんだ」
 アルフォドが口を開いたのは注文した品が届いて直ぐだった。
「軍警察時代の友人さ。彼は君のように銃器の扱いに長けていて……狙撃が得意だった」
 珍しく過去を話してくるアルフォドにブリジットは黙って耳を傾けていた。
 アルフォドは続ける。
「彼は俺が辞める一年ほど前に除隊した。正義感が強くて優しい奴だったからな。デモ隊に発砲した同僚が焼き殺されて……酷く動揺していた」
 彼が言うには自分もそのデモ隊の鎮圧に参加していたという。火炎瓶を投げつけられた隊員がいて、自分は放水車を呼ぶのに必死だったそうだ。
「ガソリンの火だから消えるわけがないのにな。でもそれぐらいあそこは悲惨だった」


「そのユーリって人は除隊した後どうしたんですか?」
 帰りの車の中でブリジットはそんなことを聞いてきた。アルフォドはハンドルを握ったまま答える。
「軍警察もあの頃は酷く混乱していて、彼の後を追いかけることは出来なかった。でも俺は一度だけ彼が除隊してから会ったことがある。あのカフェテリアを教えてくれたのもそのときだ。何でも恋人に初めて連れてこられた場所だそうだ」
「……ロマンチックですね」
「まあな。女っ気なんてまったく無い感じだったんだが、案外軍警察を辞めて人が変わったのかもしれないな」







 一マイル向こうの少女








 待ち合わせの時間になっても彼女は来なかった。
 意外にも携帯電話の番号を交換していなかったことが悔やまれる。
 俺は一時間待って、さらに二時間待って、日が暮れて閉店の時間になってやっとアパートへ戻った。
 それでアパートの部屋を開けるとヒルダがベッドで眠りこけているかもしれないと考えたが、そんなことがあるわけもなく、暗い室内は無人だった。
「何か飛び込みで用事でも入ったか?」
 暇そうに見えるがあれでも政治家の娘だ。立食パーティーでも呼ばれたんだろう。
 なら俺は彼女を責めることが出来ない。最初から身分の違いを黙殺して付き合いだした仲だ。こういったこともあるだろう。
 俺は買ってきたカーネーションをグラスに活けると、そのまま眠りに付いた。

 
 朝になっても彼女はやって来なかった。その日は清掃の仕事があったので伝言メモだけ残してアパートを後にした。
 その日も、彼女がやって来ない理由を深く考えなかった。


 そして三日目のこと。
 俺は清掃作業中にとある新聞を拾う。
 これが俺の世界の全てを砕いた。











「先日逮捕した活動家から議員の暗殺情報が出てきた。公社としてはこれを何としても阻止する」
 ジャンがリコをつれてフィレンツェに行っている為、今日は課長直々に作戦の説明があった。
 何でもとある大物政治家が狙われているらしい。
「目標にされているのは現内閣の重鎮、ゲーテンバルト氏だ」
 その一言で一部の担当官と二課の人間が声を上げる。かく言う俺も驚きで思わず目を見開いた。
 課長は各々の反応を無視して作戦の説明をする。だがそれが返って周りの反応を書き立てていた。
「おい、アルフォド」
 ヒルシャーが耳打ちをしてくる。俺は黙って頷き彼が言おうとしていることに同意する。
 そうだ、何を隠そう狙われている議員はアルベルト・フォン・ゲーテンバルト。

「彼女の父親じゃないか……!」



 アルベルト・フォン・ゲーテンバルト。
 彼は悲劇の政治家として一般国民の間では知れ渡っている。
 
 右翼派過激グループとの抗争の中で次女を失った。
 
 それが彼のキャッチコピーだ。確かに嘘偽りはない。だがこの事実には二面性がある。
 それは公社の中でも一部の人間しか知らない事実。

 俺はどうしようもない怒りに震えてミーティングを聞いていた。願わくば、ブリジットがこの作戦に参加しないことを祈って。だが彼女の非凡な実力は課長の目にも留まっている。このことが今回は災いした。
「アルフォド、ブリジットを使って暗殺者をカウンタースナイプしろ。それが今回君たちフラテッロに課せられた任務だ」
 ヒルシャーが息を飲むのがわかる。マルコーも驚きに満ちた目でこちらを見ていた。
 俺は黙って了解と告げると、早々にその場から立ち去った。
 もしそこに居続けてしまうと、自身を律する自信がなかった。









 自演誘拐。
 ヒルダが殺された真相を知ったのはとある活動家を締め上げた時だった。
 彼が言うにはヒルダは父親の選挙の為に、父親の手によって誘拐されたらしい。
 俺は最初、そんなことは作り話だと笑ったが、右足を俺に撃たれた活動家が必死に弁解するので事の真相を詳しく聞くことにした。
「お、俺は頼まれたんだよ! アルベルトから奴の次女を攫って三日ぐらい監視しろって! でも予定が狂った! 本当に右翼の奴らが彼女を横取り誘拐しやがったんだ!」
 つまり状況を整理するとこうだ。ヒルダの父親――アルベルトは自身を悲劇の政治家に仕立て上げるため次女を誘拐された振りをした。だが本当に右翼派のグループに誘拐されて彼女は殺された。

 何てことだろう。
 
 俺の愛した彼女はそんな下らない理由で誘拐され殺されてしまったのだ。
 
 あの赤毛の一マイル向こうにいた少女は二度と俺の手の届かないところへ消えた。

 こんな下種共に殺されて消えてしまった。

 散々犯され、嬲られ、死ぬしかないと彼女が思いつめるまで傷つけられて死んだ。





 
 その日から俺の復讐は始まった。
 手始めに縛り上げた活動家を殺し、その血を全ての狼煙とした。


 俺は彼女のためにあのゴミ溜めのような世界へ返っていく。



[17050] 第19話 一マイル向こうの少女 【ついでに彼女のこと】 終章 後編
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2010/05/05 08:15
 初めて彼女に出会った時のことを思い出す。

 自身が抱えていた矛盾に、嫌気が差していた俺を救ってくれた彼女のことを。

 ヒルダ。

 彼女の存在は理不尽にこの世界から消されてしまった。

 俺は誓う。

 もう直ぐ君の仇をとると。







 一マイル向こうの少女







 俺とブリジットはカウンタースナイプの下見のため、目標が狙われるとされている劇場の近くの企業ビルに来ていた。
「こちらヒルシャー、警戒圏内にそれらしき人影なし。どうぞ」
 周辺警戒をしていたトリエラ、ヒルシャー組が企業ビルの屋上から確認できる。
「了解、こちらアルフォド。我々はこの後企業ビル内に待機。決行時間まで待つ」
 ビルの上から下のヒルシャーに手を振ると、俺は隣のブリジットに向き直った。
「調子はどうだ?」
 手早く赤外線暗視装置を取り付け、マガジンさえ差し込めば狙撃が可能になるライフルを構えてブリジットが答える。
「風は無し。天気は快晴。これが夜まで持てば必ず成功させます」
 力強く言い放つブリジットを見て俺は一種の安心感を得るのと同時、本来なら彼女の仇である父親を守らなければならないという矛盾に気が滅入りそうだった。
 だが勿論ブリジットはそんなことを一切知らない。一応護衛する政治家の名前は伏せてあるものの、彼女が名前を聞いたところで父親のことを思い出すことはありえないのだ。
 そう、生前の全ての記憶を封印された彼女が覚えている筈がない。
「アルフォドさん」
 何時の間にか深く考え込んでいたらしい。ブリジットの声で現実に引き戻された俺は彼女に間抜けな面を晒すことになった。
「公社の人はここから半径800メートル以内を警戒すればいいと言いました。ですが本当にそれでいいんでしょうか?」
 ブリジットの疑問に俺は今回の作戦内容を思い出す。
 まず半径800メートル以内に公社の義体を複数配置、公社が予測した狙撃ポイントを徹底的に監視する。もし警戒の網に引っかからなくても、ここにいるブリジットがカウンタースナイプで妨害するという作戦だ。
 概要としては穴だらけの作戦だが、GISも用意できず時間も圧倒的に足りなかったにしては大分マシだろう。
 何たって義体の性能は折り紙つきだから。
「アルフォドさん、でも警戒圏内の800メートルを越えて……たとえば一マイル向こうから狙撃してくる場合は防げるんでしょうか」
「そうだな、それぐらい向こうからだと公社だけの監視は不可能になる。政府も今回の暗殺計画は全然信じていないから実働部隊も俺たちだけだ。だけどここには君が居る。君なら一マイル向こうへカウンターできる」
 俺が褒めてやるとブリジットは嬉しそうに笑った。
 その勢いで頭を撫でてやると香水なのか甘い香りがする。
 それはまるで一輪の花のようだった。









「ユーリ、除隊してから初めて会うな。今は何をしているんだ?」
 旧友と出会ったのは偶々だった。ヒルダから頼まれた買い物を済ませた俺はあのカフェエリアの近くで奴に呼び止められた。
「何だ、アルか。お前こそ元気そうだな。俺は女とよろしくやってるよ」
「本当か!? 糞! お前だけには負けたくなかった!」
 奴は軍警察時代の同僚であり同期だ。訓練の辛酸も実務の厳しさも分かち合った仲だからこそ、俺は奴を親友だと認識していた。
「で、どんな女なんだ?」
 他の野郎が言えば下衆にしか聞こえない台詞も、この整った顔立ちで言えば中々様になっている。何よりそこに不快感を生み出さないのはコイツの長所みたいなものだった。
 だから俺は昔のように笑いながら彼女のことを教えられる。
「赤毛のいい女さ。賢くて活発で飯が旨い」
 
 あれから奴とは二回ほど再会した。一回目の再開で俺はあのカフェテリアを教え、二回目の再開で奴はヒルダに花を贈るべきだとアドバイスしてきた。

 今ではもう大分昔に感じられる、彼女が生きていたときのこと。










 作戦時間まで残り二十分程。俺とブリジットは屋上の給水塔の影で即席の食事を取っていた。
「観測手の件だが本当に必要ないのか?」
 ブリジットはあろうことか、狙撃に大概は必要である弾着確認の観測手はいらないと言ってきた。それだけ彼女は自信があるのかそれとも俺の身を案じているのか……、
「両方ですよ。もしアルフォドさんが狙われても私は守れませんし、何より私は義体です。スナイピングには自信があります」
 俺は彼女が言うことに何も反論できなかった。確かに俺が狙われると彼女は集中してカウンターが出来なくなるし、彼女が失敗するとは俺も思えなかった。
「大丈夫です。必ず成功させますから」
 クッキーを頬張っている姿は年相応の少女なのに、その瞳に宿る殺意だけははっきりと異彩を放っている。



 劇場に動きがあった。
 双眼鏡越しにそちらの方向を確認すると、党重役との会談を終えたゲーテンバルト議員がSPに囲まれてホールから出てくるところだった。
 俺はライフルをそちらに向かって構え、暗視装置の電源を入れる。
「ヒルダ、もう直ぐ終わるぞ」
 俺はスコープを覗き込み、十字をSPの影に隠れるゲーテンバルトに合わせた。




 昔彼女は言った。父は決して褒められた人ではない。
 それでも愛していると。
 父を何とか理解して、父のやったことを正当化してやりたいと。
 その為に俺みたいな屑を捕まえて世界を学ぼうとした。
 俺はヒルダの父親が許せない。
 あれ程愛されていたのに、その娘を下らない政治利用した挙句死なせた奴が許せない。
 この二年間復讐のためだけに生きてきた。奴を殺すためだけに生きてきた。




 引き金に指が掛かる。
 憎しみが俺に引き金を引けと言っている。
 ヒルダが、ヒルデガルトが俺に奴を殺せと言っている。





























 
 その時、辺りに鳴り響いた銃声はSPの鍛えられた身体を動かした。
 ゲーテンバルトを地面に押し付けると自身も拳銃を抜き、周辺を警戒する。
 その様子を近くで見ていたヘンリエッタは今の銃声が狙撃犯のものではないと気が付いている。
 彼女は見た。
 劇場の背後に建つ企業ビルの屋上にいるブリジットを。







「アルフォドさん! 一マイル向こうのビルです! ブロックはD-33! 暗視装置の電源LEDが見えました!」
 屋上のフェンスの影から彼女は虚空に向かってライフルを構えている。だが恐らくその銃口は狙撃犯を捕らえているのだろう。
「やったか!?」
「いえ、風が吹いて右へ逸れました」
 ボルトを引き、ブリジットが次弾を装てんする。俺はポケットから無線を取り出すと、警戒を続けているヒルシャーに連絡を取った。
「ヒルシャー、こちらアルフォドだ。狙撃犯がいた。D-33.北東のビルの屋上だ。至急現場に向かってくれ」
 そう言った直後だった。目の前のフェンスが弾け飛び、火花を散らしたのは。







 

 狙撃手に待ち伏せを食らったことで、俺は咄嗟によく狙いもつけず発砲していた。残念ながら命中弾はない。ボルトを引くと薬莢が地面に落ち乾いた金属音を立てる。
 俺は俺の復讐を、ヒルダの願いを邪魔した輩を始末するべく、一マイル向こうの敵にライフルを向けた。
「……っ! 何だあれは!」
 スコープ越しに見つけた邪魔者に俺は動揺を隠せない。一マイル向こうにいたのは厳ついゴリラでもなく、スターリングラードの英雄でもなかった。
 そう、一マイル向こうにいたのは、
 俺と同じようにこちらを狙っている少女だった。

 俺の中で混乱が渦巻いている。あんな少女が狙撃手な訳がないという常識と、あれは確固たる狙撃マシーンだという兵士の勘が。
 だが俺の葛藤なんかあっという間に吹き飛ばされる。少女の構えるライフルが瞬いたかと思うと、直ぐ右端の金網に穴が開いた。
 
 俺はここからあの少女までの風の動きを読む。彼女は凄腕の狙撃手だ。こんな複雑な風の動きをしているというのに、たった二発でここまでの弾着修正をしてきた。
 その神業ぶりが逆に俺を冷静にさせた。
 そうだ、あれはいたいけな少女ではない。あれは俺と同類だ。
 幸いに今の一撃を外してくれたのは助かった。彼女の弾着を見て、照準の調整が出来るからだ。俺は引き金に指を掛け、少女に十字を合わせる。風の動きは変わっていない。後は昔から繰り返してきたことを思い出すだけだ。
 
 ヒルダが忘れさせてくれた狙撃の仕方を。



 思い出すのは彼女の微笑み。
 思い出すのは彼女の赤毛。
 思い出すのは彼女の愛情。

 そして思い出すのは俺を虜にしてしまった彼女の瞳。







 狙撃犯と眼が合う。酷く悲しみを湛えたその瞳は何だか懐かしい。
 私はこの眼を何処かで見たことがある。
 でも、思いだせない。
 背後のアルフォドが何かを叫ぶ。私の双眸が曇って狙撃犯を覆い隠す。
 風が止み、辺りの喧騒が聞こえなくなる。
「ユーリ?」



 焦りを浮かべつつも、果敢にこちらを狙っている少女の瞳がスコープ越しによく見える。
「はは、何だこれ」
 思わず笑みが零れたのは仕方のないことだと思う。
 だってそれは、あれ程までに恋い焦がれたもので、
 俺の世界に光を与え、俺がこの世で最も愛した瞳がそこにあったから――。 
「ここにいたのか。ヒルダ」









 一マイル向こうにいる少女から俺は照準を外した。彼女の瞳に会えたことがとても嬉しくて俺は泣いた。
 右胸を何かが貫いても俺の喜びは変わらない。
 俺は彼女に出会えた。
 またあの瞳に出会えた。




 ブリジットが倒れ込んだ時、彼女が撃たれたものだと酷く焦った。だが駆け寄って彼女を抱きかかえ、そして泣いているのを見て、俺は怪我の確認をするのも忘れた。
「殺し、ました」
 嗚咽交じりに彼女が言う。
「敵を、殺しました」
 



 報告を受けて私は件のビルの屋上に向かった。
 ウィンチェスターで扉をぶち破り、夜風が厳しい屋上に躍り出る。ヒルシャーさんもSIGを構えて後ろから付いてくる。
「ヒルシャーさん、あれ」
 私が指を差した先、一人の男が胸を撃たれて倒れていた。

「警察の者だ。救急車は呼んだ。頑張れ」
 狙撃犯は生きていた。ただそれは今生きているという意味でこの出血では恐らく助からない。
 男は震える唇で何かを紡ぐ。私は男の近くへ駆け寄ると彼の呟きに耳を傾けた。
「教えてくれ……、あの、あの一マイル向こうにいた少女はヒルダか?」
 私は彼が言っている事の意味がわからなかった。でもヒルシャーさんの顔色が失せているのを見て、彼の言ったことは何かしら意味のあることなのだと私は理解した。
 ヒルシャーさんは男の手を握ると絞り出すように答える。
「違う。彼女の名前は教えられないがヒルダではないよ」
 それを聞いて安心したのか、男が薄く笑った。
「そうか……。良かった。彼女を守るために、彼女を喜ばすために生きてきたのに……。彼女に銃を向けていては本末転倒だ」
 ごふっ、と男が血を吐く。その量が余りにも多くて彼の命が風前の灯であることが伺えた。
「ごめんよ、ヒルダ。仇は取れなかった。でも、今そこに行く」

 


 男が瞳を閉じる。そして眠るように息を引き取った。
 ヒルシャーさんが何処かに連絡した。恐らくアルフォドさんだろう。 
 私は男をそのままにしておくのが忍びなくて、彼の手を取り胸元で組ませる。そんな時、私はそれを見つけた。
「カーネーション?」
 男の胸ポケットにささっていた赤い花。私はそれの意味がてんでわからなかったが、男にその花を抱かせてやった。 
 
 



 

 昔、俺の一マイル先に女の子がいた。ただ、一マイルというのは物理的な距離ではなくて、それぐらい遠い存在ということだ。 
 でも俺は今、やっと彼女の近くで永遠に生きていけるような気がした。






[17050] 第20話 ピッツアの国のお姫様 【また彼女のこと】 前篇
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2010/08/25 01:50
 社会福祉公社の子供たちは皆幸福とは程遠く、そんな娘たちの間にあってはたいした不幸自慢にはならないが

 ここにある一人のかわいそうな女の子がいた。


 ブリジット・フォン・グーテンベルト。

 俺がここに来て初めて受け持った義体だ。







 ピッツァの国のお姫様








 精神サポートという名目で、義体の心理状態の監視と思考過程を研究するための面談がある。
 基本的には一対一だが、壁に掛けられた大きな鏡はマジックミラーになっていて、許可を得たものなら誰でも見学が出来る。
 プライバシーなんて存在しない。
 そんな面談がつい先ほど始まった。
 
 フェッロという怖いお姉さんが監視している中、俺とビアンキ先生が向かい合っている。中高時代も俺は面談が苦手で、よく担任に叱られたものだった。
 俺は若干の緊張を持ちながら、面談でどう受け答えするか必死に考えていた。
 ビアンキは手元の書類に何かを記入した後、俺に質問をしてきた。
「さてブリジット。ここのところの気分はどうだい?」
「すこぶる順調です。先生」
 訓練で培った人前で笑う術を使い、俺は出来るだけ自然に答えた。ここで変に疑われると薬の量が一気に増えかねない。
「そうか。なら体調は?」
「大丈夫です。生理も前回は苦しかったですが、今は大分楽です」
 新しく足されていた薬に体が慣れたのか俺の生理不順も概ね回復していた。今回は腹を押さえてウンウン唸っているトリエラを慰める立場になっている。
 ビアンキは再び報告書に何かを書き足すと、一つのレポートを取り出して俺に見せた。
 そこにはカウンタースナイプ、劇場、議員と三つの単語が書いてあった。
「……? 何ですかこれ」
 まったく覚えのないように俺は何かの心理テストかと考える。確か原作ではこんな検査はなかったような……。
「いや、別に大したことじゃないよ。よくある心理テストみたいなものさ」
「なら先生、テストの結果は?」
「今君はすこぶる機嫌がいいな」
 嘘だ。
 俺は反射的にそう言いそうになるのを必死にこらえた。恐らくビアンキは俺に何かを隠している。きっとあの三つは俺の忘れている過去に関連したものだ。
 胸にその三つの単語を刻み付けて、さらに2、3個の質問をこなしていく。
 後は酷く無難なもので警戒しただけ無駄だった。だがフェッロがアンジェリカを呼びに言った直後、ビアンキが告げた最後の質問には正直参った。
 よくもまあ、イタリア人は素面でそんなことが聞けるものだ。

「ブリジット、君は担当官――アルフォドを愛しているかい?」



 マジックミラー越しに俺はブリジットを眺めている。
 一週間前の狙撃ミッションの内容が書かれたと思われる紙を見てもブリジットは覚えていないと言った。これは最早確定的だ。
「あの場にいたのはやはり彼女だったのか」
 マルコーの呟きが酷く俺に圧し掛かる。そんなことは言われなくてもわかっていると叫んでやりたかったが、困ったように笑っているブリジットを見てそんな気勢は削がれた。
「封印された本来の人格か。義体の運用もまだまだ甘いということか」
 ジョゼが忌々しそうに言った。初期のブリジットを見ているマルコーとジョゼならその意味は痛い程わかるのだろう。勿論俺を含めて。
 ブリジットが残された質問に次々と答えていく。俺は模範生的なその返答を聞いて彼女が昔と比べて大きく変わったことを改めて実感した。
「好きな食べ物は?」
「シチリア風のピザとお菓子です。アルフォドさんが差し入れてくれたものが一番美味しいです」
 マイク越しに伝わってくる彼女の本音に胸が痛む。俺はただ担当官としての義務を果たしているだけなのに、ここまで信頼されている。
 マジックミラー越しに一かけらのプライバシーまで摘み取ろうとしているのに信頼されている。
 それくらいしか俺はしてやれないのに。

 
 そしてビアンキが繰り出した最後の質問。それは俺の葛藤を抉るようなものだった。
「ブリジット、君は担当官――アルフォドを愛しているかい?」
 見学室にいる担当官三人が全員凍った。
 ブリジットが答えようと口を開くのを見て、ひどく唇が乾き汗が噴出す。
 その感触は彼女と初めて出会ったときに似ていた。










 これが人間なのか、というのが正直な感想だった。
 病院施設ぐらいしか設備が整っていなかった社会福祉公社は、三人の瀕死の少女を受け入れていた。
 ブリジットもその中の一人だった。
 ビアンキは手元の書類を見ながら彼女の身元について話す。
「本名はヒルデガルト・フォン・ゲーテンバルト。先日の誘拐事件の被害者だ。犯人の目を盗んで飛び降りたが死に切れなかった」
 全身を包帯で覆われ、辛うじて赤毛であることだけがわかる彼女の様子は酷いものだった。聞けば爪は全て剥がされ、骨も幾分か砕かれてしまったそうだ。
「もっとも重症なのは骨盤の複雑骨折だな。大方犯しながらゴルフクラブでフルスイングしたんだろう。原型を留めていない」
 その時俺が感じたのは同情でも犯人グループに対する怒りでもなかった。
 ただ漠然とその事実を耳で流して、暢気に彼女の見えない顔を覗き込んでいた。
「手術は二日後に行われる。立ち会ってみるか?」
「冗談。そんな薄気味悪いのはそっちの仕事だろ?」
 ビアンキはそれもそうだな、と呟いて手元の書類に何かを書いた。
 俺はその様子を横目で見つつ、今度は彼女の手を取ってみた。
「完全にこん睡状態だから何も感じないよ。それより二日後までにこの子の名前を考えておいてくれないか? 基本的に義体の名前は君たち担当官が決めることになっている」
「まだマルコーさんの義体しかいないのに?」
「通例とはそんなものだ。何事も最初の事例が最後まで影響力を持つ」
 俺は命名用の書類だけを渡されて病室を追い出された。何でも面会は一日十五分らしい。
 意識のない患者だから当たり前と言えば当たり前だが、それでも短すぎると思う。
「もし彼女のことを理解したかったら彼女が目覚めてからにしろ。それが分かり合うということだ」
 ビアンキの変に説教くさい台詞を聞いて、俺はぼんやりとヒルダの新しい名前を考えていた。



 軍警察を諸事情で退役して、毎日暇していた俺を捕まえたのは同僚のジャンだ。左翼政党が内閣を組織したのと同時、秘密裏に創設された超法規的特別機関――それが社会福祉公社だった。
 食い扶持がなく、また軍人にも未練があった俺は二つ返事でその組織に加入し、そして担当官になったことを告げられた。
 それからはとんとん拍子で事が進む。
 ヒルダの手術は無事成功し、後は目覚めるだけとなった。俺自身も正式に作戦二課への配属を告げられ、専用のデスクが与えられる。


 分厚い義体の運用マニュアルを読み漁りながら、ヒルダが目覚めるのを待つ毎日が過ぎていく。


 転換期が訪れたのは、マルコーに童話の一説を提供した辺りの頃だ。
 いよいよ覚醒が近いと聞かされていた俺は、ビアンキに呼ばれて久しぶりの病室を訪ねていた。
「名前は考えたか?」
「まだ。どうもイマイチピンとこなくてな。この子と話をしてから決めようと思った」
「二日後までと言ったんだがな。アルフォド、君は夏休みの宿題をしないタイプだろう」
「夏休みの宿題? 普段の勉強からサボっていたのに、何で夏休みだけ優等生ぶらないといけないんだ?」
 実際幾つか名前は考えた。だがどれも彼女の本来の名前――ヒルデガルトの前では霞んでしまって、どうも納得がいかなかった。
「よくこの仕事に就けたな」
「うるさいな」
 そうやって俺とビアンキがヒルダのベッドを挟んで不毛な会話を続けていたときだ。彼女に繋がれた電極が何かの信号を拾ったのか小さくブザーが鳴ったのは。
「目覚めるぞ」
「おいおい、まだ心の準備は出来てないぞ」
 茶化した口調で言うが、内心は緊張で支配されていた。ヒルデガルト・フォン・ゲーテンベルト、本来なら当の昔に死んでいた少女の覚醒――。
 俺はまるで一流のSF映画を見るような気持ちで彼女の覚醒を観察していた。












 ヒルデガルトの持つ問題について。

 覚醒後、一定の意識混濁あり。
 意識回復後、重度の自傷癖あり。

 担当官が一人負傷。彼女の運用は要検討の余地あり。


 ドットーレ ビアンキ記す
 
 


 



[17050] 第21話 ピッツアの国のお姫様 【また彼女のこと】 中篇
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2010/08/06 22:28
 ベッドに横たわる彼女の肌は死人のように真っ白で、震えるまつ毛だけが彼女が生者であることを証明していた。
 
 
 ヒルデガルト・フォン・ゲーテンバルト。

 
 髪は赤毛で、身体の線は細い。瀕死の重傷を負ってここに運ばれてきたというのに、全身を義体に置き換えた彼女は生前に劣るとも勝らない容姿をしていた。
 彼女の瞳が開かれる。
 涙で縁取られた彼女の瞳は伽藍洞のように暗くて、この世の罪を映していた。
 意識が混濁しているのか、天井を見詰めたまま微動だにしない。
 そして彼女の乾いた唇が言葉を紡ぐ。近くで様子を見守っていたアルフォドが近づいて、その呟きにも似た言葉に耳を傾けた。
 ヒルダの頬を涙が伝う。
「ころ、して」









 ピッツァの国のお姫様









 その呟きは、俺の中にあった緊張と興奮を一瞬で消し去った。
 今まで斜に構えることで、俺たちの罪を誤魔化していたというのに、産まれたばかりの子供のような彼女にそんな幻覚は通じなかった。
 彼女の呟きは意識が覚醒する程大きくなり、今では血が滲む程自身の胸元を掻きむしって「殺して」と懇願する。
 ビアンキが何処かに連絡し、彼女に繋がれている点滴の弁を開いた。
 鎮静剤だと理解した俺は、彼女が点滴を外してしまわないように暴れる彼女を抑えつけた。
「落ち着け。な?」
 いくら義体でも筋肉の運動を薬で抑制されていれば、軍警察上りの俺ならそうそう負けない。
 俺は余裕を持った表情で、しかし決して油断をしないで彼女が静かになるのを待っていた。
 だがふと彼女と眼があった時、その余裕すらも吹き飛ばされてしまう。
「殺してよ。お願い……、殺して……」
 言葉が出なかった。光を失った彼女のガラス玉のような瞳に映る自分が酷く醜くて、そしてそんな自分を映す彼女の瞳が悲しくて俺は何も言えなかった。
 初めて見た地獄の淵のような瞳に、俺の手足は固まった。
 ビアンキが叫んだ時にはもう遅い。
「馬鹿っ! 早く彼女から離れろ!」
 突然襲ってきた衝撃に星が飛ぶ。
 拘束が解かれたヒルダが反射的に俺を蹴りあげたのだ。筋肉のパワーが落ちていると言っても、完全に不意を突かれた俺は面白いほどベッドから吹き飛んだ。
「がっ!」
 胃の内容物を床にぶちまけ、そのまま崩れ落ちる。
 もしかしたら肋骨が折れたかもしれない。
「くそ! 大丈夫か、アルフォド!」
 ビアンキに手を振って無事を伝える。するとそれと同時に病室に公社の医療スタッフが雪崩れ込んできた。
「今すぐ義体を拘束。鎮静剤の量を増やせ!」
 二人掛かりで一つの手足を押さえつけ、革で出来た拘束ベルトでヒルダをベッドに縛り付けていく。その間も彼女は切り裂くような叫び声で殺してと懇願していた。
「殺してっ! どうして生きてるの!」
 多分今の俺の顔はとても間抜けだ。半狂乱で目を見開き、ベルトを引き千切るような勢いで痙攣している彼女を見て正直言うと恐怖していた。
 これが人なのか。これが人の仕業なのか。
「何て、ことだ」 
 一際大きくヒルダが跳ねたかと思うと、それっきり彼女は動かなくなった。
 死んだのではなく、再び意識を失ったのは激しく上下する胸元で確認できる。 
 俺は医療スタッフが持ってきた担架に乗せられ、病室から連れ出された。そして痛みの閾値が超えてしまったのか、眠るように意識を手放した。









 ヒルダが恐慌状態になり、担当官を傷つけたことは直ぐに問題視された。



「彼女の場合、義体になる前も強く自殺を望んでいました。恐らくその時の意識が彼女を支配しています」


「だが彼女の記憶はネズミに食われたように穴だらけだ。現に自身がどうして自殺したのかも覚えていないのだろう?」


「人の脳は未だにブラックボックスであります。いくら精巧な脳地図が展開できても憶測に過ぎません」


「我々は彼女の早期処分を提案します。このままで要人の娘を使うという危険な橋を渡った意味がありません」


「しかし実用化の目処が立った義体はヒルダを入れて三人だ。現状戦力をこれ以上裂くわけにはいかない」





「もし彼女の自傷癖が問題ならこんな案はいかがでしょう」


 一人の医師がその案とやらを公社の幹部に語りだす。ビアンキの握った鉛筆が折れる。だが誰もそれに気が付かない。



「成る程、それは試してみる価値があるな。今後の臨床試験にもなる」


「器を完全に入れ替えられた人間がどうなるのか、未だに報告例はありません」


「これなら要人の娘だというハードルも解決できます。早速実行すべきです」



 会議が終わり、皆が退出していく。ビアンキは手元の資料を見つめたまま動かなかった。
 そこにはヒルダの笑っている顔写真と、生前の活動レポートが載っている。


 ヒルデガルト・フォン・ゲーテンバルト

 非常に活発で社交性高し。義体への適応率良好。親族への同意は必要なし。









 ビアンキがアルフォドの執務室を訪れたのはそれから数日経った頃だ。担当官となったアルフォドにはデスクに加え、専用の執務室が宛がわれていた。
「これは酷いな。少しは片付けろ」
 ビアンキの言うとおり、アルフォドの部屋は荒れていた。いくら三日間入院していたとしても、普通ここまで散らからない。
「別にいいだろ」
 アルフォドはベッドに寝転がって動こうとしなかった。ビアンキは床から灰皿を拾い上げ、タバコに火をつける。
「娘が嫌がるから止めたんじゃなかったのかよ」
「いや、最近我慢できないことが多くてな。ここでは吸ってるよ」
 回転椅子に腰掛、ビアンキはアルフォドの机を漁った。すると二日前に自分が渡した書類が出てきた。
 そこにはヒルダの再手術が明日に行われる旨が書いてあった。
「気持ちはわかるよ。でもどうした。急に。あれ程暢気に過ごしていたのに凄い荒れようじゃないか」
 アルフォドはのっそりと起き上がる。彼もタバコを取り出し咥えた。だがライターが見つからないのか火をつけない。
「お前は……あの目を見なかったのか」
 ポツリと呟いたアルフォドの声をビアンキは危うく聞き逃しかけた。
「俺は見た。あれが十代の女の子の目か?」
 アルフォドが頭を抱える。。
「彼女は義体化で救われるって言ったよな?」
「ああ、言った」
「ならどうして彼女はああなった」
「わからない。どの道義体化はまだ発展途上の技術だ。どんな不手際があってもおかしくない」
 ビアンキの台詞の後、アルフォドは暫く沈黙した。暗い部屋でタバコの火だけが輝いている。
 その小さな明かりが書類に張られたヒルダの写真を照らした。
 アルフォドが口を開く。

「ならどうして彼女を殺してやらないんだ?」


 ビアンキは何も言わない。机の上の書類を手早くまとめると、執務室を後にしようとする。そして去り際、こう言った。
「アルフォド、名前は考えたか?」
「ヒルデガルト・フォン・ゲーテンバルト。それが彼女の名だ」
 アルフォドの一言にビアンキが息を飲む。だが彼も負けじと語気を強めて切り返した。
「彼女の人格を全て消せば彼女は死んだことになる。それでも不満か」
「だが魂はそのままだ」
「俺は魂を信じない。今度君が会う彼女は新しい彼女だ。ヒルデガルトじゃない。君が名を与え、この世で生きる場所を与えてやらないと彼女は迷子のままだ」
 執務室のドアが閉じられる。明かりもない暗闇の中、アルフォドは小さく「わかっているよ、そんなこと」と吐き捨てた。










「脳地図を展開しろ。ヒルダの人格を全て消し、新たな人格を植えつける」
 ヘッドギアを被せられ、ヒルダは全身にメスを入れられていた。頭身を縮められ、髪は黒毛に植毛、顔たちも医師たちがデザインしたものに変えられていく。
「しかし整形手術と脳手術が同時とは前代未聞です」
「人格を入れ替えてもとの身体なら意味がない。逆も然りだ」
 医師たちが総出でヒルダの身体を入れ替えていく。その様子は宛ら人形のパーツを入れ替えているようだった。
「この子、手術前に泣いていました。意識はない筈なのに」
 女性医師が包帯に覆われたヒルダの顔を撫でた。胴体を執刀していた医師がその様子を見て答える。
「きっと悲しい夢を見ていたのさ」










 公社の屋上に二人の男がいる。アルフォドとビアンキだ。
「いかなくていいのか、ビアンキ」
「誰があんな胸糞悪いことを。今回ばかりは反対に回ったんでね。担当から外された」
 二人の男は柵に身を預け空を見上げていた。
「名前、考えたか」
 アルフォドはぽりぽりと頭をかいた。そしてポツリと名を告げる。
「ブリギッタ・フォン・グーテンベルト」
 ビアンキが思わずアルフォドを見る。それほどまでに二人の名は似ていた。
「アナグラムか? 正直苦しいぞ」
「良いんだ。いつか彼女には思い出してほしい」
 ビアンキはやれやれといった表情で額を押さえた。まさかアルフォドという男がここまで頑固だとは思わなかった。
 だが彼は笑みを浮かべ言った。
「ブリジットか。いい名だ」
 屋上を夏だというのに涼しい風が吹きぬけていく。アルフォドのよれたシャツがゆらゆらと揺れていた。













[17050] 第22話 ピッツアの国のお姫様 【また彼女のこと】 後篇
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2010/05/18 05:53
 何か、とても痛くて苦しいことがあったように思う。
 何か、とても悲しくて泣きたくなるようなことがあったと思う。


 今ではもう忘れてしまったけど、俺は昔別の世界で生きていた。
 それは遠い遠い昔のこと。




 




 目覚めたら薄暗い部屋だった。視界はぼやけて何も見えない。ただ誰かが俺の近くで会話をしているのだけはうっすらと聞いていた。
 手足を動かそうにも、何かに押さえつけられているのかそれは適わず、俺は冴えない頭で暫く天井を眺めていた。
 そして徐々に自身が置かれた不思議な状況に気が付き始める。

 そういえばここは何処だろう。

 何かとても痛くて苦しいことがあって死んでしまったのは覚えている。でもどうして意識があるのだろう。


 疑問に耐えかねて声を出そうとしたが、喉がとても乾いていて思わず咳き込んだ。俺の近くで会話していた人はそれに気がついたのか、会話を止めて近づいてきた。
 大きな手が額に置かれた。そして髪をそっと撫でる。
「おはよう」
 それは男の声。俺は折角のモーニングコールが男であることに若干失望し――だが何故か内から湧き上がってくる歓喜に驚いていた。
「気分はどうだい? ブリジット」
 男の顔が視界の中に入ってくる。男は外国人で中々の美丈夫だった。俺は男の言うことがはっきりと理解できていることに疑問を感じながらも、ぼんやりとした口調で答える。
 それは率直な感想。

「さいあく」




 靄がかかったような頭が覚醒し始めて、自身が感じてた疑問と不思議な状況に俺は言葉が出なかった。
 あの後、力が入らず中々起き上がれなかった俺は男に抱きかえられた。そこで俺は体が随分と縮んでいることに気が付いた。
 少なくとも、俺の身長は幾ら外国人の男でも軽々と持ち上げられる程小さくはない。
「えらく軽いな」
 男に補助してもらい、俺は壁にもたれかかるように立つ。そこでまた言葉を失う。
 今更ながら、病院の検査衣のようなものを着ていると知るがそんなことはどうでもいい。仮に死の淵から奇跡的に生還して、病院に担ぎ込まれたのなら何らおかしい事ではないからだ。
 だが、この胸に生えている二つの膨らみは何なのだろう?
 腰の辺りまで伸びている黒い髪の毛は?
 室内の鏡に見つけた、十台半ばの眠そうな女の子は?

 死んで人生を終えたと思ったら、日本人ではない少女の体?


 きっと俺の手足から力が抜けたのは疲労の所為ではない。
 自分の身に起こったことが余りにも狂っていて、俺はそのまま床にへたり込んだ。
 男が何かを叫び、肩を揺らしてくるが関係ない。
 俺は前にもそうしたように、電源が切れるように意識を閉ざした。
 願わくば、目覚めた先が今度こそあの世であることを願って。












 神の奇跡と人の罪を見た気がした。
 ヒルダが――、ヒルデガルトがブリジットとしてベッドから覚醒したとき、俺はそう感じた。
 アマルフィ海岸に並ぶ白壁の家のように色素の薄い肌、故郷のシュバルツバルトの森の闇のように黒い髪、
 そして、確かに生の光を宿したガラスの眼。
 美しい造形の少女はまるで人形のようで、生前のヒルダが持っていた激しい美しさとは対極にあるものだった。
 そんな彼女は目覚めて直ぐ意識を失った。ビアンキによれば手術の疲れで2、3日で回復するということだが、それでも一度壊れた彼女を見た身としてはのんびりとしていられなかった。
 彼女が退院した後は積極的に寮に通い、彼女の経過を見守ることにした。




「調子はどうだい?」
 ブリジットは他の義体とは別の部屋で暮らしていた。再び目覚めてから、精神状態が落ち着かないと診断を受けた彼女はここで監視されている。
 俺は監視されていることを承知しながら、ベッドの上で膝を抱えている少女に話しかけた。
「…………」
 ブリジットは膝を抱えたまま身動き一つしない。ただ目線だけを一瞬こちらにやり、直ぐに興味をなくしたのか虚空を見つめた。
 そんな様子を見て、俺は本当に彼女が条件付けされているのか疑問に感じた。他の義体を二人見てきたが、二人とも担当官の言うことはよく聞き、自分から目線を外そうとはしなかった、なのにこの少女は決して俺と目をあわそうとしない。
「いろいろ混乱することはあるかもしれないけど、慌てる必要はないよ。ゆっくりここの環境に慣れればいい」
 俺は何時も帰り際に唱える定型句を口にすると、ブリジットのいる部屋から退出した。










 男――アルフォドが去った後、俺は自身の手足を見つめた。
 そこにあるのは前とは違った少女の細腕。
 胸元にある二つの双丘は膨らんだ乳房。
 今度こそ目覚めたら全うな死後の世界だと思ったのに、やはり自分の身体は少女のままだった。
 そしてアルフォドが時たま口にする「公社」と「義体」という単語。
 俺はこの世界の仮説を当の昔に作り上げながらも、決してそれを認めることは出来なかった。 
 それを認めてしまったら俺はこの世界で生きていかなくてはならなくなる。
 昔読んだ漫画の世界。
 空想だったはずの銃と少女の物語。
「GUNSLINGER……GIRL]
 言って、不意に後悔の念が馬鹿みたいに膨れ上がった。



 何時の間にか頭の中にある銃と人殺しの知識。そしてアルフォドという男を見るたびに込み上げてくる、愛情にも似た不思議な感覚。
 確定的な仮説における結論。
 
 そう、ここは架空の世界のイタリア。
 復讐と憎悪が渦巻くGUNSLINGER GIRLの世界だ。


 俺は多分死んだ。そしてほぼ確実に、別の世界へ転生した。


 見上げた先にある蛍光灯が眩しい。
 自分の境遇には何の現実味もない癖に、それだけはやけにはっきりと感じた。










 ブリジット・フォン・グーテンベルト

 術後経過良好、ただし極度の人間不信と無気力性あり。
 これに関しては、消去されたヒルダの人格の空白が影響しているものと考えられる。
 解決法としては、担当官に対する盲愛を強めるか、精神統合剤の投薬が考えられる。

  
 ドットーレ ビアンキ







 あれから何日経っただろうか。
 相変わらずブリジットの元を尋ねていたわりには、どれくらい日が巡ったのか考えもしなかった。
 
 彼女は今、極度の体調不良で病室に舞い戻っている。
 原因は恐らく何も口にしようとしないことによる栄養失調だ。目覚めてから今に至るまで様々な物を食べさせようと公社は努力してきたが、彼女は何も口にしようとはせず見るからに弱って来た。
 今は点滴で直接栄養を受け取っている。
「やあブリジット。大人しくやってるかい?」
 笑みを携えながら、彼女に近づく。だが彼女は何時ものように一瞥をくれるだけで決してこちらを見てこない。
「あー、あれだな。暴れようにも腹が減ってそんな元気はないか」
 返事はない。ただ彼女は小さく咳をした。
 俺は彼女の腕につながれた幾つものチューブを見て、自分たちが実行してしまった罪を思い知らされた。
「君の名前はブリジット。公社三番目の義体だ。担当官は俺――アルフォド。君は俺の命令に逆らえない」
 彼女の手を取り、こちらを向かせる。白い痩せた顔には明らかな怯えの色があった。
 そんな彼女の瞳をまともに見ていられなくて、俺は思わず視線を外す。だがそれでは意味がないと気が付いて、再び視線を合わせた。
 そして恐らく、初めてとなる担当官としての命令を彼女に下した。
「食事をとりなさい。ブリジット。このままでは君は死んでしまう。折角生きながらえた命なんだ。粗末にしてはいけない」
 ブリジットの瞳が揺れる。彼女が何か言おうと口を開く。握っている腕越しでも、彼女が大量の汗を掻いているのがわかった。俺は神に祈るような気持ちで彼女の台詞を待った。
 だが、彼女から帰ってきたのは――、



 アルフォドの命令に感じたのは激しい怒りだった。
 俺は死んで世界から消えてなくなる筈だった。だが公社がこの体を無理矢理義体化した所為で、俺はここに呼び出され、毎日絶望を感じ、そして食を断って死のうとするささやかな反抗まで取り上げる。
 自分でも切れているのがわかる。
 思わず拳を握り締め、この美人面を砕き割ってやろうと思った。
 だが俺を繋いだ鎖――条件付けがそんなことを許す筈もなく、俺は込み上げてくる吐き気に抗えなかった。


  
 俺にしがみ付き、嘔吐を繰り返す彼女は痛々しい。
 記憶を消して、人格を消して、顔を消して、存在を消したらこの子は幸せになると聞かされ、そして信じていたのに、どうしてこの子は泣いているのだろう。
 救われるのではなかったのか。
 これが彼女の幸せではなかったのか。
 俺は自分たちがしたことがひょっとすると、取り返しの付かないことだったのではないかと密かに恐怖した。
 神の奇跡なんて当の昔に忘れた。
 今ここにあるのは人の業だけだ。
 死を望んだ彼女はそれすらも許されず、こうして醜く生かされ続け、苦しんでいる。
 俺はブリジットを抱きしめた。強く強く抱きしめ教えてやりたかった。
 この俺の中に渦巻く後悔の念を、そして彼女の儚さの中に見つけたこの愛情を。





 
 ブリジットが搾り出すような声でアルフォドに言った。
「だいっ嫌い……」
 ブリジットに掴まれたスーツのボタンが弾け飛び、アルフォドの首元が締め上げられていく。
「俺はお前を好きになるもんか。俺は俺なんだ」
 何かアルフォドに歯向かうようなことを告げるたび、ブリジットが涙を零し、そして嘔吐する。
 アルフォドはそんなブリジットの頭を撫でた。
「ごめん」



 病室に静寂が訪れる。ブリジットの嘔吐が止み、啜り泣きも止まった。
 アルフォドが告げる。
「許してくれなんて言わない。でも俺は君がこの世界に新しく生を受けた以上、生きていてほしいと思う」
 ブリジットが手を離し、アルフォドを見上げた。
 その瞳は涙に濡れているけれども、確かに光があった。
「また、やり直せと?」
「そうだ。君が君の境遇に納得できないのなら今から変えていけばいい。俺はそんな君を助けたい」 
 









 自分が死んで、この世界に来た理由をずっと考えていた。
 前の世界でどうして死んだのかも思い出せないけれど、きっとその死は、人生は大して意味のあるものじゃなかったと思う。
 目の前の男の言葉は麻薬だ。
 唯でさえ条件付けが働いているというのに、この世界で生きる意味があると一度他人から認められてしまえば、俺はきっと抗えない。
 一人が怖くて、病室の片隅で死のうとした。一人のままなら一人のままで死んでしまいたかった。
 でもこの男はアルフォドはこんな俺を見捨てなかった。
 こいつは俺の味方なんだ。

「ねえ、アルフォド」

 どうせ死んだのなら、もう一度別の人生を、義体としての人生を歩むのも悪くないかもしれない。

「お腹、空いた」

 どうせこの世界で生きるのなら、思いっきり楽しんでもいいのかもしれない。
 そう、たとえばイタリアならこれを頼んでもバチは当たらない。

「ピッツァ、ある?」


 我ながら間抜けな一言だと思う。けれども、嬉しそうに笑うアルフォドを見て、少なくとも間違ったことは言わなかったと俺は確信した。
 まだまだ問題は山積みで、これからどうしたらいいのかわからないけれど、
 少しだけこの世界で生きてみようと思った。

















「どうだ。初めて見たブリジットの問診は?」
 ブリジットが去った後の見学室で、アルフォドとビアンキはコーヒーを飲んでいた。
 マルコーとジョゼはどの様子を遠目で見守っている。
「重いな。改めて自分の責任と罪深さを知った」
「そうか、なら今日は酒もタバコも使わずに反省しろ。そして彼女に何か贈ってやれ。服でもケーキでも愛の言葉でも」
 アルフォドは思う。自分と彼女の間に必要なのはそんな言葉じゃなくて、もっと単純なものだと。
 ただそれをここで告げてしまえば、ビアンキから責められるのはわかり切っているので、口には出さない。
「あのお姫様は君を必要としているよ」
 アルフォドは静かに目を閉じ、ブリジットへ差し入れするピザのことを考えていた。







 以下の記述はビアンキ所有のICレコーダーによる。



 私は今でもあの人のことは嫌いです。

 特に偽善者ぶって、優しくしてくるところが。

 でも、そうやって優しくされると私は嬉しくなります。だから、私はあの人と打ち解けました。

 ねえ先生、これは作られた感情ですか、それとも私自身の愛情なのでしょうか。

 わかりません。

 わかりませんけれども、今はそれでいい様な気がします。

 だって、私はあの人のことが大嫌いだから。

 でもその気持ちだって、もしかしたら作られたものかもしれないから。 





 ピッツァの国のお姫さま     了
















[17050] ガンスリ劇場2 シリアス好きにはオススメ出来ません 【ついでにラジオのようなもの】
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2010/05/18 22:11
「ふふふ、ブリジット、どうしたの? 物欲しそうな顔をして」 CVエルザ


「ああ、エルザ様……。どうか、どうかご慈悲を……」 CVブリジット


「いけない子ね。こんなに涎でぐちゅぐちゅにしちゃって。そんなにこれが欲しいの?」 CVエルザ


「ああ、欲しいれすぅ! 下さい、エルザ様っ。下しゃいぃぃ」  CVブリジット


「ならブリジット、私に永遠の忠を誓いなさい。あなたの心を、身体の全てを私に捧げなさい」 CVエルザ


「捧げますからぁっ! 捧げますぅっ」 CVブリジット




「とまあ、私が描いた脚本なんだけどどう?」 クラエス
「これは酷い」 トリエラ













 ガンスリ劇場 「リスナーあってのレディオ。それ以上にパーソナリティーあってこそのレディオ。」











 BGM OP曲 15秒

 エコーの掛った声で

「はーい、皆さまこんばんわー。癒し系ガンスリンガーのブリジットでーす」
「こんばんわ。アシスタントのエルザです」
「今日も始まりました―、ガンスリレディオっ! 本日もシリアスぶち壊しの頭の悪い番組を御送りしたいと思います!」
「……ぽろりもあるかも」



 中割BGM 

「では初めにリスナーの皆さまから頂いたお手紙を紹介したり質問に答えたりするコーナー、題して『教えてブリジット先生』でーす。
 今回は二人のゲストをお呼びして始めたいと思います(ブリジット)」
「それではどうぞ、クラエスさんにトリエラさん(エルザ)」


「え? ちょ、何これ? え? ここ座るの? あ、余計なこと喋るな?(トリエラ)」
「ブリジット、こら、これが何か説明しなさい(クラエス)」


「はいはーい、乗りが悪いよそこのふたりー。今日くらいは頭の悪い放送をしても誰も怒りません(ブリジット)」
「私とブリジットの番組を壊さないで(エルザ)」
「ちょっと待ってブリジット。これは何? 私の書いた脚本の続きは?(クラエス)」
「クラエス先生の脳汁臭いので却下です。むしろあそこまで付き合ったことに感謝して欲しいくらいです(ブリジット)」
「…………(続きしたかった)」
「ちょっとエルザ、どうして私の服の裾を掴むの?(ブリジット)」




「というかー、本編で百合のゆの字も出さなかったクラエスがどうしてこんなものを書いたの?(トリエラ脚本を指差して)」
「わかって無いわねトリエラ。世の中にはね、需要があるのよ。別にこの脚本以外にもブリジットの寝顔やシャワーや果てまたトイレの写真も……(クラエス)」
「オイコラ。最近何かシャッター音がすると思ったら犯人はあなたですか。ていうか誰に売った(ブリジット)」
「安心しなさい。別にいけないところには売ってないわ。犯人は意外と近くにいるかもね(クラエス)」
「…………(エルザ)」



「くっ、気を取り直してどしどし御手紙の紹介をします。先ずはPN 通りすがりのドイツ人さん からのお便りです(ブリジット)」
「有難うございます(エルザ)」
「えー、何々? 最近面倒を見ている女の子の機嫌が悪く、プチ反抗期です。最新式のショットガンを勧めても、これが良いと骨董品物を離しません。
 もしかして僕の接し方が不味いんでしょうか? 助言を頂ければ幸いです.
  ……トリエラ、何してるの?(ブリジット)」
「ちょっ!? 何で私!? 大体この話は次の第三部からのお話でしょうが!(トリエラ)」
「もしかしたらヒルシャーさん、トリエラが言うことを聞かなくなるのを予知してるのかも(クラエス)」
「ほっといてよもーっ!! (トリエラ)」



「では次の御手紙です。PN これと言った特徴はありませんよ、さんからのお便りです。えーと、最近俺の義体がBという女の子から離れようとしません。
 付き纏われ過ぎるのも考え物ですが、こうも最近蔑にされると同僚のAに愚痴を零したくなります。同僚のAも気まずそうに聞いており職場の雰囲気が最悪です。
 どうしたらよいのでしょうか?  って、エルザ。最近やけに見ると思ったらラウーロさんはほったらかし?(ブリジット)」
「ううん。あなたとラウーロさんは週ごとにローテーションを組んで甘えているの。今週はあなた(エルザ)」
「それだとエルザの一週間は十四日あることになるね……(トリエラ)」




「それでは最後の御手紙です。 PN ドイツ系美丈夫 さんから頂きましたー、ありがとうございますー。えー何々? ここのところ、私の義体のBの偏食が酷くなったように思います。
 太った太ったと騒ぐ割には、お菓子を食べるのを止めません。どうしたら彼女に食育の概念を教えられますか? (ブリジット、無言で何かを破る音)」
「おいこらブリジット! ゴミ箱に捨てるな!(アルフォド)」
「あーっ! ディレクターさんは喋っちゃ駄目です!(ブリジット)」
「俺は君のことを心配してだなーっ! (アルフォド)」








 何かの破砕音。怒声、少し遅れてBGMへ。

 そして不意にマイク回復。



「えー、メインパーソナリティーのブリジットさんが急用により降板なので、本日はここでお別れです(クラエス)」
「次回は第三部終了後にお会いしましょう。(エルザ)」
「お付き合い頂きありがとうございましたー(トリエラ)」





 BGM ED曲 15秒 
 そしてCMへ。










 
















 舞台裏にて

「ところでこの PN いつもあなたの後ろに さんの義体のおっぱいのサイズを教えてって、どういうこと? (クラエス)」
「さあ? 質問が質問だから省略されたんだね。まあ、多分一番大きいのはブリジットだろうけど(トリエラ)」
「成程(エルザ)」
「ねえ、何熱心にメモしてるの?(トリエラ)」




 ガンスリ劇場2 了




            ◆◆

 第二部あとがき


 皆さまのご声援のお陰で無事に第二部を終えることが出来ました。
 感想欄にて、ブリジットの中の人の状況を質問された方がいらっしゃいましたが、第20話から22話までが現在お応えできる許容範囲です。返信が遅れて申し訳御座いませんでした。
 次回の三部からは「IL TEATRINO」編と銘打ち、話が大きく進みます。
 トリエラメイン、ブリジットサブが増えますがこれからもよろしくお願いします。それでは次の第三部あとがきで会えることを願いつつ。


 PS,感想を頂いている方のお陰でここまでこれました。
    特にいつも感想を頂ける方には感謝の極みです。
    お褒めの言葉、アドバイス、全てを糧にしてこれからもがんばっていきます。 

 



[17050] 第23話 IL TEATRINO 【プロローグ見たいなもの】 
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2010/07/14 01:28
 親友とも言うべき彼女が盛大に鼻血を噴出して吹っ飛んだのを目にして、私は思わず「やばっ、」と声を上げていた。
 ブリジットの決して大きくない体躯が地を跳ね、砂地の上に転がる。むくり、と顔だけこちらに向けた彼女は頬に血と土をこびり付かせていた。私は何ともいえない罪悪感に駆られながら、彼女に手を差し出す。
「ゴメン、やりすぎた」
 優しい彼女は決して私に怒ったりしない。どちらかというと、私に殺意を向けるのは外野で見守っている三つ編みのチビッ子――エルザだったりした。
 それでも痛そうに鼻を押さえているブリジットを見ていると、謝罪の言葉が止まらなかった。
「ゴメン。本当、ゴメン」
 ブリジットは苦笑しながらいいよ、と手を振る。彼女は教練場の外で様子を見ていたアルフォドさんからタオルを受け取ると、顔にこびり付いた汚れをごしごしを拭っていた。
 私もヒルシャーさんからスポーツドリンクを受け取って口にする。
「ははは、えらくうちのお姫様を痛めつけてくれたじゃないか」
 アルフォドさんが笑いながら近づいてきた。私は彼にも一つ頭を下げて逃げるように教練上へ戻っていった。そこでは鼻に詰め物をしたブリジットが既に待ち構えていて、シャドーボクシングをしてたりする。
「今度は負けないよ! トリエラ!」
 格闘訓練再開のブザーが鳴り、私たちは再び組み手を始めた。
 互いにタンクトップに短パンという出で立ちで、額からは汗が噴出している。
 ブリジットが掌低を繰り出したかと思えば、私が肘打ちで対抗する。
 射撃では彼女に軍配が上がるものの、格闘では私の方が多分強い。
 それは手足のリストが強いからか、経験値が勝るからか。
 そうこう考えている間にブリジットの腕を取って締め上げた。彼女が間接を捻って回し蹴りをしてくるけれども、手の甲で頭部への直撃を回避する。
「うわっ」
 本日何度目かわからない関節技が見事に決まり、ブリジットが降参、と小さく唸った。

 これは私が彼女に勝る、たった一つの事。










「また負けてしまいました。アルフォドさん」
 シャワーを浴びて泥と汗を流し、頬に大きな絆創膏を貼り付けたブリジットがアルフォドと並んで公社の廊下を歩いていた。
 アルフォドはそんなブリジットの頭に手を載せると、そっと髪を撫でながらこう言った。
「仕方が無いさ。近接戦で彼女に勝る子はここにはいないよ。いるとすれば相当なバケモノだ」
 彼の励ましに納得いかないのか、ブリジットがうー、と声を上げた。いつもはもっと大人らしい振る舞いをする彼女だが、最近トリエラに対して負けが込んでいるため若干子供っぽくなっている。
「ま、そんな気落ちしても仕方が無いさ。ほら、お友達も迎いに来ているから一緒に菓子でも食べて、気分転換してくるといい」
 そうやって指差した先には黒猫のヒルダを抱いたエルザが立っていた。表情こそいつもの無表情だが、ブリジットを見つけてご機嫌なのか体をそわそわと揺らしていた。
 ブリジットは一旦アルフォドに別れを告げると、そのままエルザの元へ走り寄って行った。









 エルザを膝に乗せ、俺はアルフォドから貰ったキャンデーをころころと舐めていた。勿論エルザも同じものを食べている。彼女は胸元にヒルダを抱えて、特に何をするでもなくじっとしていた。
「ねえブリジット」
 口を開いたのはエルザだった。彼女は起用にこちらへ向き直ると、口にキャンデーを含んだまま俺の顔を覗き込んできた。
「最近いたく格闘訓練をこなしてるけど、何かあったの?」
 ぺちぺちと頬の絆創膏が触れるのを感じて、俺はふと最近の出来事に思いを馳せる。すると成るほど、確かに射撃訓練よりか格闘訓練に熱を入れている毎日があった。
 でもそれにははっきりとした理由がある。
「もしかして、ピオッキオのこと?」
 エルザが問うたのはまさに確信だ。俺は曖昧に誤魔化しながらも、トリエラが一週間前に遭遇した無類の殺し屋のことを考える。それは原作で始めに迎える、大きな山場と共にある余りにも強すぎる敵。
 恐らく現時点では白兵戦最強。戦闘力も総合でなら俺やトリエラも適わない人間が確かにいる。
「ほんと、チートも大概にして欲しいわ」
 俺の呟きにエルザが首を傾げるが、そんなことを構っている暇は無かった。そうこうしている間にも原作内の時間が経ち、俺の今後についての振り方がより困難になっていく。

 
 始まりはやはり一週間前のとある事件。
 
 お姫様と木の嘘つき人形が主役のIL TEATRINO

 俺は訓練以外何も出来ない歯がゆさを感じながら、同時にトリエラに対する同情の念を強く抱いていた。



[17050] 第24話 あの子に勝るもの、劣るもの 【ついでにトリエラのこと】 
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2010/07/14 13:49
「これからコーエンていう人を探しに行くから数日明けるね」
 トリエラが午後のお茶の時間にそう切り出したとき、俺は情けないことにその人物が誰かわからなかった。
 言い訳をさせてらえれば、俺のいるこの世界は明らかに原作とは違う方向へ進んでいるように思えて、(エルザが生きている等)コーエンという名を聞いてもまた新しい人間が出てきたな、としか考えなかった。
 しかしあとでシャワーを浴びならがら、落ち着いて考えてみると俺は彼の名前を知っていた。
 それはピノキオ編の始まりを告げるキーパーソンであると遅ればせながら気がついたのだった。
「コーエンて、ピーノに殺された公社の工作員じゃないか……」
 後悔してもあとの祭り。
 トリエラヒルシャー組はとうの昔に出発していて、任務に割り込もうにも俺たちブリジットアルフォド組は既に別の仕事を振られていた。
 まあトリエラ自体もピノッキオに敗北するとはいえ、殴られて気絶するだけなのでそれ程心配する必要はないと思っている。むしろ危惧すべきことは、この世界におけるトリエラが自身の敗北をどう受け取るかだった。
「原作よりは……明るいというか子供っぽい、のか?」
 恐らくクラエス以外に年の近い俺がいる所為だろう。この世界のトリエラは年少組には頼りになるお姉さん、俺やクラエスなどの年長組には若干甘えてくるキャラクターを演じているように思う。
 彼女の仕事に対するスタンスはそれ程変わっていないように見えるけれども、何せピノッキオ編のトリエラはとても情緒不安定なので今後の展開がどうなるかまったく予測が付かなかった。
 とりあえず様子見を決め込むしかないので、俺は自身に振られた仕事に専念することにする。

 因みに仕事とは年少組への射撃指導だった。
 最近ぶっ倒れてばかりなのに、随分と信用されているものである。









 あのカウンタースナイプミッションからだろうか。私が彼女のことばかり考えるようになったのは。
 



 ユーリと呼ばれる殺し屋の死を見取った私はそのあとl、任務を成功させたのに何故か涙を流し続けるブリジットを目にしていた。
 よくも悪くも皆のムードメーカーな彼女がここまで泣いているのは正直異常だと思った。
 でも担当官の大人たちは何も教えてくれなくて、ブリジット自身も翌日は何事も無かったかのようにお菓子を食べていた。
 彼女にそれとなく訳を聞いても「わからない」と彼女自身が頭を捻っていた。
 私はそんなブリジットを見ているととても悲しくなって、思わず彼女を抱きしめていた。あの子は終始不思議そうに私を見ていたけれども、私は暫くそのままにしていた。



 
 私の知る限り、ブリジットより強い義体の子は公社には存在しない。
 射撃、特に狙撃に関しては天性の才能でもあるのか、彼女の適正は正直信じられなかった。あれだけビル風が吹いていたカウンタースナイプミッションでも、彼女は見事狙撃を成功させている。
 私の知る限り、公社に来た始めの頃は銃を握っても怯えてばかりで、あんなに上手じゃなかった。むしろ下手糞な部類で、いつもジャンさんに叱られていた。
 それがいつからか、人が変わったように上達するのだから世の中というものはよくわからない。

 格闘について言えば、まだ私の方が勝っていると思う。組み手訓練でもまだ私は土を付けられていないし、彼女自身滅多に格闘を実戦でこなすことはない。
 まあそれも銃の扱いに長けすぎていて、接近戦をする必要がないというのもあるかもしれないが。
 でも最近、ブリジットには格闘の才能が無いのではなくて、まだ体の使い方がよくわかっていないのではないかと考えることがある。
 反応速度や体のバネの力を見ていても、あれは恐らく私以上のポテンシャルがあるように思う。
 彼女はまだ白兵戦の師がいないだけで、このまま組み手を続けていれば、いずれ私が敗北を記することになるのは明らかに予想できた。




 私の中に渦巻くこの感情が、ブリジットに対する嫉妬なのか賞賛なのか私自身もよくわかっていない。
 でも何となくだけど、このままブリジットに気を取られすぎていると私も彼女も足元を掬われてしまうような気がしてならない。
 今はただ、漠然としたこの不安が的中しないことを祈ることしか出来ないが。








 
 度の高いワインを煽ったトリエラが思わず咳き込んだ。
 有名なワインだからてっきり知っているものだと思っていたヒルシャーは、彼女の意外な行動に苦笑するしかなかった。
「知らなかったのか?」
「知っていましたけど、ここまでとは思いませんでした……」
 ヒルシャーがハンカチを取り出しトリエラに渡した。ヒルシャー自身も少しだけワインを口に含む。確かにこれだけアルコールが効いていれば咳き込むのは無理なかった。



 
 彼らはコーエンという行方不明になった工作員を探しに、モンタルチーノという田舎町に来ていた。




「ニコラス カンビオ……あった。これだ」
 ヒルシャーがホテルの客員名簿からとある人物の名前を見つけた。トリエラが誰ですか? と問うが、ヒルシャーはコーエンの偽名の一つだと答えた。
 ホテルのフロントの男が困った様子でこう告げた。
「この方は外出されたきり戻っていらっしゃらなくて……、こちらもほとほと困っていたんですよ」
 聞くところによればもう三日も連絡が付かないらしい。いよいよ警察に届けようか迷っていたところに、ヒルシャーとトリエラが尋ねてきた形だ。 
「彼の止まっていた部屋は?」
「まだそのままですけど……、貴方がたは?」
 フロントが訝しそうに尋ねてくる。ヒルシャーは何食わぬ顔で偽造の身分証を提示した。
「ローマから来た刑事だ。……宿代はこれで足りるかな?」
 見知らぬ男が刑事と名乗ったことと、支払われていなかったカンビオという男の宿代が支払われたことで安心したのか、フロントは上機嫌にホテルのキーを差し出してきた。
 トリエラは横目でその様子を見守りながら、毎度の事ながらよくやるものだと感心していた。
「まあ僕はいわゆる「元警官」だからな。いわばこの身分証は『偽造された本物』 これはもう99%本物の警官だよ」
「ですが……、私は何から何まで偽者ですね」
 そう言って、トリエラは自身が着ている女性もののスーツを摘んだ。一応小柄な警官という設定だが、本人は何か釈然としないものがあった。
「はっはっは。じゃあトリエラにも警官IDを作ろうか。君の器量だ。上手く化けられる」
 ヒルシャーがフロントから預かったマスターキーで部屋の鍵を開けた。トリエラが銃を構え、そっとドアノブを回す。
「またそんな冗談を……」
「堂々としていれば意外と何も言われないものさ」
 ドアが開けられ、二人は同時に中へ踏み込んだ。
「さて、コーエンはどんな手がかりを残しているのかな。トリエラはスーツケースを空けてくれ」
 言われてトリエラは書斎机のしたから黒いスーツケースを引っ張り出した。もちろん指紋を消さないように手袋を付けるのは忘れない。
「手持ちの道具で空くと思うけど、無理なら壊していいぞ」
「大丈夫です。練習しましたから」
 懐からピッキングツールを取り出し、トリエラは小さな鍵穴と格闘し始めた。そうこうしている間にも数日前ブリジットと一緒に練習した風景が思い浮かんでくる。

 結局あの時は、ブリジットの方が断然早く開錠して、また一つ彼女に劣っているところを思い知らされたのだった。









 ヘンリエッタとリコが根を上げるまで射撃訓練を行って、やっと訪れた休憩時間だというのに俺の義体は何故か小さなスーツケースの鍵穴と格闘していた。
「何をしているんだブリジット」
 鍵穴に幾つもの針金をねじ込み、口には正規の鍵を咥えたブリジットがこちらに振り返った。
「いえ、この前トリエラと練習したら思いのほかはまっちゃって……。でも無駄にはなりませんよね?」
 ブリジットが数本の針金を操作した。すると鍵穴の奥で何かが動いた音がして、満足そうに彼女が針金を引き抜いていく。
「もう出来たのか?」
「はい。23秒ちょい。新記録です」
 完全に針金が引き抜かれたスーツケースを俺は受け取り、何が入っているものかと蓋を開けようとした。けれども閉じた口はウンともスンとも言わず、思わずそれをブリジットに付き返した。
「空いてないぞ、これ」
 スーツケースを受け取ったブリジットは少しぐらい動揺を見せるか、と思ったのだが彼女は逆に満足そうな表情を見せてよし、と笑っていた。
 彼女はしたり顔でこう宣言する。

「実は開錠に飽きたので、今度は鍵無しで施錠出来るか練習していたんですよ」

 呆気にとられたのは言うまでもない。
 彼女は鼻歌を口ずさみながら正規の鍵でスーツケースの蓋を開けた。すると中には俺が上げた菓子の詰め合わせが入っていて、彼女は上機嫌にそれを頬張り始めた。


「こっちの方がやる気が出るでしょう?」


 これは適わない。そう痛感したある日の午後だった。
 
 



[17050] 第25話 もう一人ここにいる 【ついでにピーノのこと】 序章 
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2010/07/14 19:17
「ピーノ!」
 通りを歩いていた少年が振り返る。彼は気だるそうに声の主がこちらへ走ってくるのを待った。
 端正な顔たちをした、十分美人と言える少年だった。
 少年は声の主の名を呼んだ。
「アウローラ……」
 アウローラと呼ばれた少女が嬉しそうに笑う。彼女は御使いにでも出ていたのか、食材の入った紙袋を抱えていた。
「今帰りなの?」
 少年は「うん」と一つ頷き、そのまま通りを歩き始めた。アウローラはその後ろをとてとてとついていく。
「うちのお母さんがね、ピーノがそろそろ帰ってくるだろうってお肉を沢山買い込んでいたよ」
「近所に住んでいるだけだから、そんなのことしなくてもいいって言っているのに……」
 面倒くさそうに応対する少年の事は少しも気にならないのか、アウローラは相変わらずにこにこと笑ったまま続けた。
「ピーノがかっこいいからだよ。かっこよければそれだけで人生得するのよ」
「かっこいいか、まあこの容姿が役に立つところに生まれれば良かったのかな」
 少年は通りの十字路でアウローラと別れた。そしてその後、とくに何をするでもなく彼女の姿が見えなくなるまでその背中を見守っていた。
 少女が消えた後、少年は静かにタバコへ火をつける。




 それは四日前の出来事だった。
 セーフハウスに帰ってきた僕は偶然その男に出くわした。出で立ちはいかにも空き巣風だったけど、躊躇無く特殊警防で殴りかかってきたから多分警察か何かの工作員だろう。
 殺した男の死体をいろいろ弄ってみるけれど、流石に身元が割れるようなものは何も携帯していなかった。
 僕は夏が近いということも考慮して、死体を冷蔵庫で保管することにした。
「身元はわからないけれど、このイベント自体はおそらく公社との接触か……。不味いな、近日中にトリエラがこいつを探しに来るぞ」
 何も考えずに殺してしまったことを悔やみながら、僕は死体を残してセーフハウスを変える方法を模索していた。
 このままここにいるとフランカフランコを迎えた上で公社の襲撃に会うことはわかっている。
 けれども叔父さんにセーフハウスを変える良い言い訳が見つからない。死体を作ってしまったと言ってもあの人のことだ。きっと始末屋か誰かを呼んで処理するように命じてくるに違いない。
 結局襲撃に会ってからでしか、セーフハウスを変えるきっかけが見つからなかった。
「はー、最近何も考えずに過ごしすぎたか」
 タバコを咥えながら、僕は冷蔵庫の前に腰掛けた。前の世界――日本じゃ到底考えられなかったけれど、死体に慣れてしまった今じゃそれ程嫌悪感も湧かない。
 僕は天井を見上げため息をつく。
 そして思わずこう口走った。
「この世界――GUNSLINGERGIRLの世界じゃ仕方無いのかな」

 
 言って、現実感がまったく湧かないことに苦笑を禁じえなかった。
 袖口やポケットの中に幾つものナイフを忍ばせているけれども、それは僕の知っているピノッキオという人物をなぞったからで必要に駆られてやったわけではない。


 僕は、ある意味でこれからの生き方を見失っている。





「ピノッキオ?」
「ああ、クリスティアーノが飼っている凄腕の殺し屋らしい。木の人形じゃないぞ」
 オープンカーに乗り込んだ男女二人はモンタルチーノを目指していた。
 彼らの雇い主であるミラノの名士、クリスティアーノが紹介した殺し屋はそこに居を構えているらしい。
「どんな男なのか気になるわね」
「ああ」
 特に思い入れもないのか、気のない返事しか返さない男を女はサングラス越しに睨んだ。
「相変わらず張り合いのない男ね」




 それは一本の電話だった。
「久しぶりだな」
 死体を背に、転寝をこいていたら電話が鳴った。慌てて出てみると予想通り叔父さんだった。正直この呼び方は余り好きじゃないけれど、僕の知っているピノッキオはこう呼んでいるのだから仕方がない。
 僕は燃え尽きたタバコを拾い上げて、電話口へ耳を傾けた。
「ブルーノから連絡があった。リヴォルノではご苦労だったな」
「いえ、楽な仕事でした。……ところで叔父さんはフィレンツェで大変だったようですね。僕がいれば良かったのに」
「そうだな。数が増えても質が落ちてきている。それで立続けにすまんがまた仕事を頼まれてくれないか」
 来た、と思った。僕は襤褸を出さないよう、叔父さんが言うことを黙って聞きことにした。
「これからプロの活動家がお前のところを尋ねる。名はフランカとフランコだ。暫く面倒を見てやってくれ」
「わかりました。任せてください。それと……一つだけいいですか?」
「何だ」
 僕は叔父さんに死体のことを話した。自分の周りが嗅ぎまわれていて、思わず下手人を殺してしまったこと。死体は処理せず保管していること。
 それとなくセーフハウスを変えるように仕向けたつもりだけど、フランカフランコが向かっている最中だからそれは出来ないと断られた。
 そして予想通り、始末屋のブルーノが死体を取りに来ることになった。
「しかしその場所が割れているとなれば、早いとこ引き払うに越したことはないな。この仕事が終わったら新しい場所を設けよう」
 どうやら話を聞く限り、フランカフランコと合流すれば別にこのセーフハウスにこだわる必要はないらしい。叔父さんに礼を一つ言うと、僕はそのまま電話を切った。
 今度は死体の入った冷蔵庫ではなく、ちゃんとしたソファーに腰掛ける。
 新しいタバコに火をつけて窓の外を徐に眺めた。
 原作通りならもう直ぐそこまでフランカフランコが来ている筈だ。
 もう暫くだけ、このまま窓を眺めて過ごそうと思った。

 

 



[17050] 第26話 もう一人ここにいる 【ついでにピーノのこと】 1
Name: H&K◆03048f6b ID:986ae05f
Date: 2010/07/15 09:18
 思ったとおり、フランカフランコの乗った車は少一時間もしないうちに僕のセーフハウスに到着した。
 そのまま出迎えても良かったのだけれど、初印象で仕事の出来る人間を印象付けたかったから敢えて警戒した振りをする。
「フランカとフランコだね」
 サングラスを掛けた男女は車から降りることなく僕の様子を伺っていた。なる程、賢い選択だと思う。これなら仮に僕に襲われても直ぐに逃げ出すことが出来るから。
「あなたがピノッキオ? 随分若いのね」
 フランカが車から降りて僕に握手を求めてきた。こういった社交辞令をこなすのも大切なことなので一応返しておく。
「ああ。皆からはそう呼ばれている」
 彼女を取り合えず先にセーフハウスに招きいれ、僕はフランコを車のガレージまで案内することにした。
 至極普通に助手席に乗ってくる僕にフランコは驚いていたみたいだけど、彼が僕のことをどう思っているのか何となくわかった。
「イメージと全然違うな」
「なに? 樫の木みたいに何も喋れないと思った?」
 ガレージからセーフハウスに上る階段の途中でフランコがそんなことを言った。僕は上手くピノッキオという人物を演じているつもりなのだけれど、何処かで違和感が生じるような、そんな行動を取ってしまっているのかもしれない。
「俺は少しこの家の間取りを調べたい。立ち入り禁止の場所とかあるか?」
「いや、とくにないよ。ただ余り窓際に立たないで。外から見られると不味いかもしれない」
「どういうことだ?」
「いつ誰がどこから見ているのかわからないってことさ」

 フランコは何処か納得できないといった顔をしていたけど、僕は気がつかない風を装ってフランカがいるであろう問題の部屋に向かった。

「ピノッキオ、これは今晩の食材じゃないわよね」
 嫌悪感を少しも隠そうとせず、フランカは冷蔵庫の前に立っていた。どうやら彼女を先に招き入れると勝手に冷蔵庫を開けてしまうらしい。(原作では先にフランコが入ってきた)
「身元不明の泥棒でね。いきなり殴りかかってきたから殺した」
 死体の手首を取り、フランカが何か検分を始める。どうやら彼女も何か身元がわかるようなものを探しているようだ。
「フランコ、どう思う?」
「そいつが誰にしろ早くここを立ち去るべきだな。死体は別の人間を呼び寄せる」
 まあフランコの言うとおり、僕自身も早く場所を変えるべきだと思う。この男が公社の工作員だと知っているからなお更だ。
 けれど変わりの場所はまだ用意されておらず、フランカに隠れ家を提供してくれと頼むのも不自然に思われた。
 また不謹慎だと思うけれども、公社出身の原作キャラをまだ目にしていない僕は、純粋な好奇心からトリエラと会ってみたいと思うようになっていた。まず負けることは無いだろうという変わった自信もそれを後押しする。
「数日中に始末屋がくるよ」
 だから口から出てきたのは原作どおりの一言で、フランカフランコももう数日だけならと、このセーフハウスの滞在を了承した。
 僕は白々しくそれがいいよと告げて、タバコを吸うべくフランカのいない隣の談話室へ引きこもることにした。


 






 
 コーエンの部屋から見つかったのは、電話番号を残したであろうメモとスーツケースから出てきた童話の本だった。
 ヒルシャーさんが下のフロントへ番号を調べに行ったので、私はコーエンが何かメモでも書いていないか探すために、「ピノッキオ」の絵本を捲っていた。

 そこにはこう書かれている。


 ピノッキオは不思議な薪から生まれたあやつり人形。

 彼は自分を作ってくれたお爺さんに恩返しをしたいと考えるが、頭の中まで樫の木なのでいつも事件を起こしてばかり。

 ついには自身の起こした事件によってお爺さんと別れ離れになってしまい、

 ピノッキオは彼を捜しに冒険の旅へ出る。

 冒険の末にお爺さんと再会したピノッキオは青い髪の仙女の力を借りて人間の子供に生まれ変わる……


 めでたし、めでたし。



 読了後、本を閉じた私は思わず声を上げていた。

「ふざけた話だ」

 








 タバコを咥え、ぼうっとこれからのことを考えていたらフランコに喧嘩を売られた。彼が言うには、お前のことは余り信用していない。俺たちは基本的に誰とも組まない、ということらしい。
 それはそれでカチンとくる一言だったけど、プロの姿勢と思えば当たり前のことなので、特に怒りを表したりはしない。
 しかしながらフランコはそんな僕の態度が気に食わなかったのか、さらに突っかかってきた。
「お前、腕はいいのか」
 ふむ、と一瞬だけ考える。
 それは僕が強いかどうかというものではなく、原作のピノッキオと比べてどれくらい強いのか、というものだった。
 叔父さんに拾われた時点で、自分がピノッキオであることを悟った僕はとにかくナイフの扱いだけを訓練し続けた。この体にナイフを扱わせると超一流であることは分かっていたことなので、長所を伸ばそうとしたのだ。
 結果、ナイフの扱いは原作に比べて異色ない……下手をすれば原作を凌駕するような域に達したと思う。
 それでも銃やその他の銃器の扱いが並になった気がするので、総合力では甲乙付けがたくなってしまった。
「腕なら自信があるよ」
 ただここで自信がないと言っても全く意味がないことなので、一応こう答えておく。
 するとフランコは原作どおりに僕へ銃を突きつけてきた。
「……お前ならこれをどうする」
 撃たないとわかっているのでナイフを抜いたりしない。それでも手首に忍ばした一本をスライドさせて、いつでも投擲できるようにした。
「本気で言ってるの? 瞬きする間に殺せるよ」
「もしこれが10メートル離れていたら?」
「九メートル寄る」
「口で言うのは簡単だ」
 そっとフランコが引き金に力を入れるのが確認できた。ここまでほぼ原作通りの会話だけれども、緊張感は少し増しているように思う。
 僕はこのやり取りを終わらせるべく、次の台詞を続けることにした。
「君は歩くときに左足を引き摺る癖がある。古傷でもあるんだろ? そこに付け込もうかな」
「試してみようか?」
 これだけ言ってもフランコは引かない。これはもう僕が引くしかないようだ。
「いいよ、別に。叔父さんは君たちを手伝えと言ったんだ。僕は孝行息子だから君たちと揉め事を起こしたくない」
 それだけ告げて、僕は一人散歩するべくセーフハウスを後にしたのだった。


 アウローラは大好きなピーノに会えるかもしれないという淡い期待を抱いて路地をうろうろしていた。
 すると彼女の願いは適ったのか、向こうの通りから歩いてくるピーノが目に入った。
「ピーノ! お買い物行ってきたの?」
 見れば彼は左手に買い物鞄を下げており、中にチーズやワインを詰め込んでいた。この時間から買い物に出ていることから、お客さんでも来ているのかもしれないとアウローラは考えた。
「ねえピーノ、お客さんが来ているのならお母さんに頼んで何か作ってあげようか?」
 善意からの申し出だったが、ピーノは何処か居心地が悪そうに視線を逸らしていた。如何したのかと尋ねてみれば、近いうちに引っ越すかもしれないので自分の周りをうろつくのは止めたほうがよいと言われた。
「ごめんね、アウローラ」
 そのままピーノは彼の家に去っていく。
 何処か悲しそうなその背中を、彼女は服の裾を握り締めながら見つめていた。

 

 





[17050] 第27話 もう一人ここにいる 【ついでにピーノのこと】 2
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2010/07/15 20:07
「フランコ、ピノッキオは?」
 シャワーを浴びたのか、髪濡らしたフランカが談話室に入ってきた。彼女はきょろきょろとピノッキオの姿を探している。
「買い物に出た」
 テーブルの上に置かれたままの銃を見つめながらフランコが答えた。フランカはその様子から何かを察したのかははん、と笑った。
「もしかしてあなた達喧嘩でもした?」
「何故そう思う」
 こちらに振り返ろうともせずにフランコが問い返す。
 これはますますビンゴか、とフランカは上からフランコを覗き込んだ。
「だってさっきからとても不機嫌そうなんだもの」
「…………、ああいう変人と組むのが不安なだけだ」
「今更何を言っているのよ。この世界の人間なんて皆どこかしらいかれてるじゃない。私たちも含めてね」
 自嘲気味に呟くフランカを見てフランコが眉を潜めた。彼は彼女がそう言う度に否定の言葉を放っていた。
「お前は違う」
 それは彼女がこの世界――暴力でしか物事を伝えられない、腐りきったテロの世界へ踏み込んでくる事を止められなかったことによる罪悪感によるものだった。
 フランカ自身はそれ程気にしていないようだが、フランコは全て自分の責任だと考えていた。
「あら、私だけ仲間はずれなのね。じゃああなたは変人なの?」
「まあそうだろうな」
 椅子に腰掛け微動だにしないフランコに苦笑しながら、フランカが向かいの椅子に同じように腰掛けた。
「ならあなたに色々教わった私はそれでも真人間なのかしらね」
 フランコがそっとフランカを見上げる。彼女は腕を組んで笑っていた。フランコはふとため息をつき、「からかうのはよせ」とぼやいてこう続けた。
「俺は張り合いのない人間だ」
 精一杯の皮肉を言ったつもりだったのだが、フランカには効果が無かったようで、「ふふ」と微笑していた。
「お前はあの男が気に入ったのか?」
 椅子から立ち上がり、談話室から出て行こうとするフランカにフランコは声を掛けた。フランカは少し立ち止まると、指を口元にやって己の答えを考えている。
「多分ないわね。まあそれでも気になるのなら私の母性ね」



 フランカが去った後、フランコは椅子にもたれ掛って瞳を閉じた。
 どうしてかわからないが、今は一時間ほど眠りたい気分だった。








 

 フランカフランコを迎えて二日がたった。
 的当ての日課を黙々とこなしていた僕はフランコに呼ばれて、地下の隠し部屋に来ていた。
 テーブルの上を見てみると、かのメッシーナ海峡横断橋の完成予想図が置いてあった。
「これが君たちの獲物?」
 完成予想図を手にとって眺めてみる。このつり橋方の鉄橋はまだ橋脚しか出来ていない。
「クリスティアーノ、君のおじさんが頼んできたの。南部の悪党に利権の一部が流れているらしいわ」
「これを爆破するの?」
 僕の問いにフランカは首を横に振った。
「別の仲間が建設責任者を誘拐する計画があるわ。もしこれが成功して政府が建設を断念してくれるなら、私たちの出番はないのだけれどね」
「断念されなかったら?」
「その時は何らかの示威活動をする必要があるわね」
 やるせなさそうに言うフランカを見て、この人は根本的にテロリストに向いていないと思った。原作でピノッキオが言ったとおり彼女の怒りは優しすぎると思う。
 それはいざと言う時に足枷でしかない。
 フランコも多分それを心配しているのだ。
「いろいろ大変そうだね」
 僕の気のない台詞にフランカは「大変よ」と答えた。そういう意味じゃないのだけれど、とやかく言っても仕方のないことなので黙っておく。
「ピノッキオ、俺に銃を貸してくれないか?」
 あてもなく完成図を眺めていたらフランコにそう言われた。そういえば原作で僕はフランコにスコーピオン(サブマシンガン)を貸していた。何気に活躍していたので、ここは原作どおりに貸しておいたほうが良さそうだった。
「いいよ、ついてきて」
 隠し部屋からもう一つ地下に降りたところが武器庫になっている。ナイフと一緒に閉まっておいた鍵を懐から取り出し、戸棚を閉じていた南京錠を開錠した。
 鎖をするすると外して中からスコーピオンを取り出す。
「ほら、拳銃も使うならスコーピオンがいいだろ。サブレッサーもあるよ」
 僕からサブマシンガンを受け取りフランコは動作を確認していた。僕も護身用に拳銃を一丁だけ抜き出して後ろのホルスターに納めておいた。
 着々とトリエラ襲撃イベントが近づいてきていることを実感しながらも、僕はいつものように原作どおり振舞うことしか出来なかった。








 
 アウローラはピーノの家を見上げている。手にはパイの入ったバスケットを握っていた。









 フロントで調べた電話番号の家を監視し始めて二日。ヒルシャーさんの携帯電話が鳴ったのは丁度昼食時だった。
 どうせアルフォドさんだろうと思っていた私は、ヒルシャーさんが買ってきたかぼちゃのパイをのんびりと頬張っていた。
 だからこそ、電話口から聞こえてきた猫のような少女の声に思わず咳き込んでしまった。
「もしもしー、トリエラ? 元気にしてる?」
 任務中に何をしているのか、と怒鳴りそうになった。それでもヒルシャーさんの手前なのでぐっとこらえる。
「何、ブリジット。用でもあるの?」
 私の静かな怒りを感じ取ったのか電話の向こうでブリジットが息を呑んだ。怖がるくらいなら最初から電話してくるなと、と思う。
「えーと特に用という用はないんだけれども一つだけ伝えたいことがー」
「何?」
 ひっ、と今度は声を上げて怖がった。私の声はそこまで威圧感があったのだろうか。
 しかし電話の向こうのブリジットは少し間を置くと、至極真面目な調子でこう言った。
「トリエラ、もし危ないと思ったら一歩体を引いて」
 何のこと? という前にブリジットが謝罪を始めた。
 彼女曰く任務中に電話してゴメンだとか、訳の分からないことを言ってゴメンだとか、お仕事頑張ってだとか……
「でもさ、ちょっと胸騒ぎしたからアルフォドさんに電話させてもらったの」
 そう言って彼女は電話を切った。
 私はよくわからないままヒルシャーさんに電話を返す。そして再び昼食をとり始め、彼女が言ったことの意味を考えてみた。
「心配、してくれてるのかな」
 そう考えると自然と笑みが零れてくる。
 なんとなく、早く帰って彼女の髪を梳いてやろうと思った。
 










 
 電話を切って、危ない賭けだと思った。
 アルフォドは俺の行動に疑問を持っているわけではないだろうけど、向こうのトリエラとヒルシャーがどう思っているのかわからない。
 それでも。
 この胸騒ぎを沈めるためにはこうするしか無かった。
「こんな感覚は初めてだ」
 自室で毛布に包まって、俺は自身に渦巻く違和感と戦っていた。
 事の起こりは射撃訓練を終えてピノッキオのことを纏めていた時だった。
 奴のことを考えると、頭に砂嵐がかかったような頭痛がした。最初は疲れているのかと思ったけれど、健康診断でいつも血液検査されていたからそれはありえないと思った。
 なら、と数ある可能性を潰すためにまずは、当面の懸念事項であったトリエラの安全を確保しようと思ったのだ。
 
 もしも、もしもピノッキオが原作とは違った何らかのイレギュラーを抱えていた場合、トリエラのリベンジイベントどころかこのままゲームオーバーになりかねない。

 ここに着て、バタフライ効果(俺が起こした原作改変が別のところにいる登場キャラクターに変化をもたらすこと)に怯えることが情けなくて仕方ない。
 それでも何とかして無事にこのイベントを切り抜けようと画策する。
 今出来ることは取り合えず全てやった。
 トリエラに注意も促したし、間接的にヒルシャーにも警告が出来たかもしれない。

 足元にじゃれ付いてくるヒルダを抱え上げ、俺はもう一度ピノッキオのことを考えた。


 相変わらず訳の分からない頭痛が頭を支配していた。
 
 




[17050] 第28話 接敵の日 【ついでに彼らのこと】 
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2010/07/16 10:42
 昼食を終えて、コーエンが残したメモに載っていた住宅の聞き込みをしていた。
 するとちょうどその家の前で、バスケットを持ったまま立ち尽くしている少女を見つけた。これは絶好のカモと見た私は声を掛けてみることにした。
「ねえ、貴方はこの家の子?」
 驚いた少女が一歩身を引いた。私はこれ以上警戒されぬよう出来るだけ笑顔を取り繕って彼女に続ける。
「それともこの家にお使い?」
 少女がこくりと頷いた。私は尻ポケットに収めていた盗聴器を手に取る。
「へえ、偉いね。ところでさ、マッシーモという人を探しているんだけどこの住所はここであっているよね」
 少女に調べた住所のメモを見せ、口から出任せの名を言ってカマを駆けてみた。
 これで恐らくこの家に住んでいる人間の正しい名が割れる。
「住所はここであってるけど……この人は知らない」
「じゃあ誰が住んでるの?」
「ピーノ」
 ビンゴ、と内心手を叩いた。
 私は女の子に礼を一つ告げて彼女の肩に手を置く。ちょうどフードで隠れるように盗聴器を仕掛けた。これで彼女がこの家を訪ねるものなら詳しい内情が探れるはずだ。
「わかったわ。いろいろありがとう」
 女の子に手を振って私はヒルシャーさんの待機する宿屋で小走りで向かった。










 笑顔で去っていた女の人はとても美人だった。
 ああいう人を見るたび、美人は人生得していると思う。

「私もあんな風に美人なら、少しはピーノに相手してもらえるのかな」








「ヒルシャーさん、やっぱりあの家は怪しそうです」
 望遠鏡で家の様子を伺っているヒルシャーさんがこちらに振り返る。
「誰が住んでいるのかわかったか?」
「近所の子と思われる女の子はピーノと呼んでいました。どうやらあの家に用があるようなので盗聴器を仕掛けましたが」
「ピーノ……わかりやすい名前だな」
 コーエンが調査していた男の名前は「ピノッキオ」 なる程、「ピーノ」とはとてもわかりやすい。
「いよいよ二人じゃ厳しくなってきたな……。フィレンツェ支部の応援は数時間かかるぞ」
「早く決めないと女の子が危険では?」
 自分で盗聴器を仕掛けておきながら随分な言い草だが、それでも心配しないよりはマシだと思う。
 私は早い突入を提案したがヒルシャーさんに却下された。
「中に何人いるかまだわからないんだ。もう少し様子を見よう」








 アウローラは意を決してピーノの自宅に入り込んだ。
 知らない女性に話しかけられて不安になっていたのと、引越しする前にぜひもう一度話しておきたいという乙女心からだった。
 玄関の鍵は開いていて、容易に中に進むことが出来たが辺りを見回しても人影らしきものは見当たらなかった。
「ピーノ?」
 名前を呼んでも返事はない。
 ふと玄関から入って左手を見ると、ドアの隙間から地下に続いているらしい階段が見えた。
 もしかしたら下にいるのかもしれないと、アウローラは恐る恐る階段を下っていった。
 
 
 予想通り地下室はあった。けれどもピーノの姿は見えない。
 少しがっかりしたアウローラは手にしていたバスケットをテーブルの上に置いて辺りを見渡した。すると同じテーブルの上でそれを見つけた。
「鉄砲?」
 手に取ってみると黒光りするそれはとても重たくて、玩具には見えなかった。
 何だか怖くなったアウローラは慌ててそれを元の場所に置こうとするが、その動きを遮るように怒鳴り声が聞こえた。





 少女の殺し屋の噂は前から聞いていた。
 だからふと地下室を覗き込んでその姿を見たとき、フランカは銃を構えこう叫んでいた。
「銃を下に置け! 噂の公社の殺し屋か!?」




 
 咄嗟に怒鳴られてアウローラは体が固まった。
 そして金髪の女の人が自分に向けている銃を見て思わず悲鳴を上げた。
 その間が命取りだった。
 背後から伸びてきた大きな腕が彼女の右手を掴んだかと思うと、そのまま捻られる。痛みで銃を取り落とし、彼女は地面へ打ち付けられた。横目で何事か、と状況を伺うと見知らぬ男が自分を締め上げていた。
「こいつは誰だ?」
 男が女に問う。女が知らないと答えている間にもアウローラは出来る限りの抵抗を見せた。だが如何せん子供の腕力では到底適わなかった。
「いや! 話して!」
 アウローラは混乱していた。ピーノにパイを届けに来ただけなのに、何時の間にか見知らぬ男女に拘束されて床に転がされてしまっているのだ。
 遂には泣き出してしまい、今度はその場にいた男女が困惑し始めた。
「これが公社の殺し屋か?」
「わからないわ。今はとにかく縛っておきましょう」
 男がアウローラの着ていたパーカーを剥ぎ取り、そのまま腕を縛り上げた。女がポケットからハンカチを取り出すと、近くに転がっていたロープを使って猿轡代わりにする。
「んー! んー!」
 少女が声にならない叫びで助けを求めた。
 男が床に転がったスコーピオンを拾い上げ、女が少女の持ってきたバスケットの中身を覗く。
 そんな時、少女の救世主と言うべき声が階段のほうから聞こえた。
「何をしているんだ」
 アウローラは表を上げ、その声の主に縋るように呻いた。男女が振り返り男の名を呼ぶ。

「どうして僕の言うことを聞かなかったんだ? アウローラ」

 しかし彼は非難染みた視線を向けただけで、一向に助けようとする素振りを見せなかった。




 


「どういうことピノッキオ? 説明しなさい」
「ただの近所の子さ」
 縛り上げたアウローラを覗き込みながら僕は答える。フードを少し捲ってやると、原作と同じで盗聴器が仕掛けられていた。
 これで半ば僕の目論見は成功したことになる。
 もちろんフランカフランコに気づかれぬよう、そっと裾を戻した。
「幸いかどうかわからないけれど公社の殺し屋じゃないのね」
 問題はここからだ。恐らくフランカはこのままアウローラをどう扱うのか問うてくるだろう。原作で僕は殺すと答え、盗聴しているトリエラを煽る形になっていた。
 結果的にはフランカの反対で何もしないのだけれど、少なくともこの会話がトリエラ襲撃イベントの発動キーになっていることは間違いない。
 そして原作通り、フランカはアウローラの処遇について話し出した。
「で、この子は如何するの?」
 これは選択のときだと思う。確かにこのまま殺すといえば、僕の信情である原作再現を達成できるだろう。始めは少なからずトリエラ襲撃イベントに怯えていたものの、公社側の人間に会ってみたいという欲望も無視できないし、何より原作を見ていればこの時点でトリエラに負けるはずがなかった。
 盗聴器の向こう側でトリエラが息を呑んだような錯覚を覚える。
 彼女は全てを聞いているのだ。
「顔を見られたから殺す。それだけだ」
 ナイフを抜き、アウローラの首元に押し付けた。これで後戻りは出来なくなる。
 フランカが殺すのはやりすぎだと言って、僕の意見を否定する。
 
 出会いのときは着々とカウントダウンが刻まれていた。









 突入は半ば強行に主張した。
 最後のほうは雑音が酷くて会話がよく聞き取れなかったけど、女の子が捕まってしまったことだけははっきりしている。
 私が突入を頑なに提案した理由は二つ。
 一つ目はやはりこちらの都合で利用した女の子の安全を必ず確保したかったこと。
 そして二つ目は……
「トリエラ、どこか側面の窓から入って暖炉のある部屋を目指せ」
 煙突から煙が出ているのを見てヒルシャーさんがそう指示する。恐らく証拠の隠滅でも図っているのだろう。
「僕は女の子を捜す」
 ヒルシャーさんと別れ、裏手の窓に回った。中を注意深く覗くが人影はない。

 そのまま中に踏み込んで、一つ息を吐く。
 ブリジットは気づいていないようだけれど、彼女が現場でよくやる癖だ。
 最近私の中は彼女の影が支配している。

「……行こう」
 私が突入を提案した二つ目の理由はこれだ。
 私は彼女ならこの場合どう行動するかを考え、その通りに振舞ってみたのだ。
 先程の彼女からの電話のお陰だと思う。

 私は遠くで年少の子達の面倒を見ているであろう彼女を思い、目的の部屋を目指した。









 証拠の書類やCDROMを燃やす火を、僕は眺めていた。
 もう後数分もしないうちにここへトリエラがやってくるだろう。けれども不思議と緊張というものが湧かなかった。
 暖炉を操作するフランコは「フランカに従うのが俺の流儀」だと話していた。
 僕はタバコを咥え、何かがここへ近づいてくる気配を感じていた。その時は近い。
「動くな! パダーニャ!」
 この震えは歓喜かそれとも恐れなのか。
 待ちに待った声が聞こえたとき、僕は思わず笑みが零れそうになった。ナイフを構え、その姿を見定めたとき彼女の凛々しさと美しさに驚嘆した。
 ウィンチェスターの銃口がこちらへ向けられ、トリエラが武器を捨てろと吼える。
 僕はナイフを少し離れた床に突き刺し、ことの成り行きを楽しもうと思った。







 武器を捨てさせ、次は床に伏せろ、と命令したとき若い方の男が動いた。
 一段高いところにいる私から死角になるように、壁に向かって走ったのだ。床に刺さっていたナイフを掬い上げる男に、私はウィンチェスターを向けるが、壁の角に阻まれて射角が足りなかった。
 男がナイフを投擲する。咄嗟にウィンチェスターでガードするが更なる男の接近を許してしまった。
「先に逃げろ、後から行く!」
 もう一人の男が背中を見せたので慌ててそちらを見やるが、ナイフ男の所為でそれは適わない。
 彼は私のウィンチェスターを蹴り上げ、ナイフを突き出してきた。
「くそ!」
 何とかそれをかわし、私も拳銃を構え応戦しようとした。短剣を抜く暇がないと判断してのことだったが、しかしこれは致命的なミスだった。

 早い!

 男が瞬きをする間もなく懐へ飛び込んでくる。銃の完全な死角だ。
 私はノーガードもいい所だった。

 でもその様子を確認したとき、冷静になった頭で先程の電話が思い出された。


 ブリジットは何と言っていた?


 前へ前へ、と向かっていた体が自然と後退する。そしてブリジットが言ったとおり私は出来る限り大股で体を引いた。
 ちょうど鼻っ面の先を男の掌低が通過していく。
「!?」

 初めて男の顔が驚愕に歪んだ。
 ざまあ見ろと、私は笑みを浮かべていた。







 
 



[17050] 第29話 敗北の日 【互いにまだ見えない】 
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2010/07/16 11:53
 必殺を狙って放った掌底は見事に宙を掠めた。咄嗟に身を引いたのだろう。何時の間にか僕から距離をとっていたトリエラが笑っていた。
「…………!」
 何だこれは、と息を吐く。何かとてつもない違和感がふつふつとこのトリエラから湧いて出てきた。確かに彼女との対戦は初めてだ。だが、原作の彼女を知っている身としてはこの違和感は見逃せない。
「誰だお前は?」
 トリエラは俺の質問の意味を理解していない。おそらく挑発か陽動と取ったのだろう。彼女は答えることなく短剣を抜き放ち、跳躍の構えを見せてきた。
 僕も大型のナイフを構え、彼女の挙動を注視する。
 
 始めに飛んだのはトリエラだった。





 
 
 短剣の斬撃はピノッキオの頚動脈を狙っていた。横薙ぎの黒い一閃が宙に光る。ピノッキオは頭を伏せそれをかわす。
 そしてカウンターに袖の隠しナイフを投げた。
 虚を突かれたのはトリエラだ。ナイフは咄嗟に突き出した手の甲に刺さり、赤い血糊をばら撒いた。握力が弱まり短剣が抜ける。ピノッキオがそれを蹴り飛ばしトリエラから武器を奪った。
「くっ」
 武装解除されてもなお、トリエラはピノッキオに向かっていく。
 彼女の拳がピノッキオの肩口を捉えた。
 




 鈍い、骨が砕けた音がしてピノッキオはナイフを取り落とした。だがまだ戦意は失っていない。
 彼はそのまま体を捻ってトリエラの側頭部目掛けてハイキックを繰り出した。
 未だに拳を放っていたトリエラにそれをかわす術はない。







 激しい打撃音が響き、少女の小さな体が飛んだ。硬い木の床で数度バウンドして壁にぶち当たる。
「あ……ぐっ」
 気絶したトリエラを見下ろしピノッキオは安堵の息を漏らした。折れた腕は動かしようがないが、辛くも勝利は掴めたようだ。
「くそ、完全に舐めていた……」
 まさかここまでやられるとは思わなかった。それどころかあの掌底さえ決まっていれば原作より早い幕切れを迎えることが出来たはずだ。
「僕が弱くなっているのか、こいつが強くなっているのか……」
 気絶したトリエラの脈を取って、生きているかどうか確認を取る。激しい運動の所為で若干乱れているが、命に別状はなさそうだ。
 ピノッキオは護身用にと用意していた銃を取り出すとそれをトリエラに向けた。
「仮にここでトリエラを射殺すると僕がリベンジを受けて殺されることはないのかな」
 それは以前からずっと考えていた問題でもある。
 ピノッキオ自身はこのまま原作通りに殺されることは吝かでないと考えている。その考えは原作に出来るだけ沿うように生きてきた彼にとって、至極当然のことだった。
まあ、トリエラが突入してくるように振舞ったことについて好奇心の所為ではないと百パーセント言い切ることは出来ないが。
「でも、何だろう。この違和感は」
 それは彼女が突入してきてからずっと感じていたものだ。
 見た目はトリエラ。戦い方も多分トリエラだ。
 だがあの時見せたトリエラの笑み。
 掌底をかわした時のしてやったりの笑み……。
 たった一つの表情なのにどうしても頭から離れることがない。今でも網膜に焼き付いている感じがして、何とか振り払おうとする。
「もしかして……ズレが出ているのか?」
 それは以前から危惧していたことだった。自分ではピノッキオを出来るだけ完璧に演じているつもりでも、何処か意識していないところで別の行動を取ってしまっていたとしたら。
 そうなれば例え無視できる範囲で起こした行動も、いずれ何処かで大きな波となって押し押せてくる可能性がある。それはピノッキオの破滅を意味していた。
 




 地下室で銃声が一つ木霊する。ピノッキオはそのまま拳銃をポケットに収め、フランコに合流するべくガレージに向かった。
 今の行動は迂闊だとは思う。筋書きとのズレを反省したばかりなのにまた原作と違った行動を取ってしまった。けれどもこの漠然とした胸の不安を打ち消すにはそうするしかなかった。
 彼は焦っていた。









 やけに静かだ。
 何か一つ大きな物音がしたが、それから何も動きはない。
 
 フランカは警察と思われる男に背後から銃を突きつけられそんなことを考えていた。

「本当に今日は千客万来ね。死体が呼び寄せたのかしら」
「銃を渡してもらおうか」
 男が手を伸ばす。フランカは手にしていたグロックを差し出した。
「仲間は取り押さえたぞ」
「あら、私の仲間は私服の手に負えないわ」
 行動は一瞬だった。フランカは差し出していた手の平を返し、銃を床に落とす。そして警官の目線がそちらにいった隙に肘へ手刀を放った。
「待て!」
 警官の持っていた銃が暴発し、床へ穴を開ける。フランカは一気に駆け出し、廊下の角に飛び込んだ。
 足首に括り付けていた予備の拳銃を取り出すと、向こう側からスコーピオンを持ったフランコが走ってきた。
「怪我はないか」
「私は無事よ」
 フランコは壁越しにスコーピオンを放った。たまらず警官が近場の部屋に飛び込んだのを見逃さない。
「ガレージに行け。ピノッキオが待っている」
 ポケットから出した携帯電話を操作しタイマーをセットした。それを部屋に投げ込んでやる。お手製の携帯爆弾は小火力だがボディアーマーを着ていない人体に対しては非常に有効だ。




 爆発音を背後に、フランカフランコはガレージへ急いだ。







               ●







 訓練を終え、エルザと二人してヒルダを弄っていたらアルフォドが血相を変えてこちらに走ってきた。隣にはエルザの担当官であるラウーロもいる。
「ブリジット、緊急だ」
 内容は言われなくてもわかっている。どうせトリエラがピノッキオに敗北したことだろう。俺は何食わぬ顔で何があったのか問う。すると、アルフォドから聞かされた返事は俺の全く予期していないことだった。
「トリエラが意識不明でフィレンツェ支部の病院に運ばれた。今から向かうぞ」
 

 言葉が出ないとはこういうことを言うのだろう。俺は何が起こったのかわからないまま、アルフォドに腕を引かれていた。エルザもラウーロと共に俺たちフラテッロの後ろをついてくる。
 よほど酷い顔をしていたのはエルザが心配そうに俺の袖を掴んだ。


 いつかの頭痛の所為で、息が苦しかった。







 



[17050] 第30話 少し昔の日 【ついでに二人のこと】 上 
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2010/07/17 22:07
 とても頭が痛い。多分踵で思い切り蹴られたからだと思う。
 意識はある。
 でも目を覚ますのは億劫だった。出来ることならこのまま眠っていたい。
 そんなことを考えていると、ブリジットが私を呼んでいるような気がした。
 夢の中でも出てくるのだから、相当私は彼女のことを意識していたのだろう。










 それはしとしとと雨が降る日だった。
 初めて彼女と出会ったとき、あの子は雨と甘いお菓子の匂いがした。




 
「初めまして、私がトリエラ。この子はクラエス」
 私と同時期に義体化されたらしいけど、このブリジットとかいう子は最近になって――半年程経ってから私たちと合流した。黒い髪が綺麗な少し長身の女の子で、余り活発そうな印象を持たなかった。
「はじめまして……ブリジットです」
 何をそんなに怖がっているの? と問いたくなったが、ここにいる女の子は何かしら問題を抱えている場合が多いのでぐっと堪えた。かくいう私自身もはじめは酷く萎縮していたらしいので、こういうものかと考えることにした。
「部屋は私たちと同じ。ベッドは二段ベッドが一つ、シングルが一つね。ブリジットは何処がいい?」
 クラエスは部屋を案内しながらブリジットの様子を伺っている。彼女も彼女なりに打ち解けようとしているみたいだ。
「空いているところなら何処でも……」
 でもブリジットがあまりにも消極的過ぎるのでこればかりはどうしようもない。
 クラエスも彼女との距離を掴みかねているのか、しどろもどろとしていた。



 結局その日はブリジットが疲れて眠ってしまったので、特に会話を交えることもなかった。








 次の日は私とブリジットで訓練を行うことになった。クラエスはお留守番だ。
 二人して教練所に向かい担当官に銃の手ほどきを受ける。
 私自身はこれがどうにも苦手で、愛用している古いウィンチェスターも使いこなせているとは言い難い。かと言って他の銃が得意というわけでもなかったので、今はウィンチェスターの訓練をひたすらこなしていた。
 ブリジットも担当官のアルフォドという人から銃を受け取っている。
 ただ不思議に感じたのは彼女が担当官に媚びていないというか、殆ど笑顔を見せていない点だった。私も笑顔が苦手なので、ヒルシャーさんによく笑いかけるわけじゃないけど、それでもあそこまで淡白に接している義体の子は初めてだ。
「良いか? これがセーフティ。安全装置だ。これが掛かっている間は発砲できない。よしそうだ。そうやって外すんだ。今度は一度だけ引き金を引いてごらん」
 セーフティが外されたSIGが的に向けられる。ブリジットの強張った指が引き金を引いた。すると降りていた劇鉄が上がって発砲可能状態になった。
「これがダブルアクションだ。スライドを引いて劇鉄を上げなくても発砲出来るようになる。次は弾が出る。ゆっくり撃ってみなさい」
 ブリジットが構える。
 その様子はいかにも戦々恐々といった感じで、とても実戦がこなせるようなレベルじゃなかった。
 

 この日、彼女が撃った銃は十五発。命中弾はゼロだった。









 訓練が終わって部屋に戻るとクラエスが待っていた。彼女は小さなダンボールを抱えていて、ブリジットの私物だと言った。
「これだけしかないの? そりゃあ私たちも持っている方じゃないけど、でも少なすぎない? 着替えは?」
「病院のガウンなら沢山あの子の鞄に入っていたわ。あの子の担当官はどういうつもりなのかしらね」
 まあ確かにこれは酷いと思う。私たちは給料の代わりに、身の回りのものを揃えるためのお金が担当官に振り込まれている。ブリジットも例外で無いはずだから何かしら服や小物は買って貰えるはずなのだ。
「でもまあ、担当官の人は意地悪そうな感じじゃなかったから多分ブリジットが何も言わなくて困っているのね」
 ありゃ、と私は首を傾げる。自分で非難しておきながらブリジットの担当官のことを擁護するクラエスを見て訳がわからなくなった。
「さっきまで来てたのよ。あの子のことを宜しくって」
「普通にいい人じゃないの」
 クラエスからダンボールを受け取り、私はベッドに腰掛けた。持ってみた感じ、中身はそれ程入っていない。
「これすらも入っていないのか」
 ダンボールをブリジットのベッド――二段ベッドの下に置いて、自分は上のベッドに転がった。熊の縫いぐるみを枕元に置いて天井を見上げる。
「これからどうするんだろ?」
 呟きにクラエスは答えなかった。






 シャワーを浴びたブリジットが当たり前のように病院着を着ようとしたので、無理やり私のパジャマを押し付けた。いい迷惑かもしれないけど、彼女の味方であることをアピールしたかったのだ。
 ブリジットは私の好意自体は察しているのだろうけど、それでも戦々恐々としていて下着姿のまま中々服を着ようとしない。業を煮やしたクラエスが無理矢理上着をブリジットに被せた。
「や、やめて……」
 あたふたと逃げ回る黒髪の四肢を押さえて、ボタンを閉めてやろうとした。起伏に富んだ白い肌が目に映えてとても綺麗だった。
 だけど。
「あれ、これって……」
 僅かに上下する腹を、縦横無尽に駆ける盛り上がった線。それが手術の縫い目だと気が付いた時、私は何か悪いものを見てしまったような気がして、思わず目を背けた。
「まだ……しっかりと定着していないから」
 ブリジットがゆっくりと起き上がり、着せられたパジャマを脱ぐ。そしてベッドに捨てられた病院着を羽織るとそのまま寝てしまった。
「やってしまったわね」
 気まずさから身動きが取れなくなってしまった私の肩に、クラエスが手を置いた。
 少しでも距離を縮めようと頑張ってみたのに、初日の成果は何も無く、逆に彼女と間を空けてしまった。
 身動き一つしないベッドの盛り上がりを見て、私とクラエスはそれぞれ眠りにつくことにした。










 それから暫くして格闘訓練の日がやって来た。ブリジットの手術跡が消え、皮膚が定着したと判断された為だ。組み合わせはある意味予想通りというか、作為的というか私と彼女がペアになる事が決まった。Tシャツに短パンを着込み、二人して砂地の訓練場に並ぶ。
「二人とも基本の動作は習っているな。今日はそれを活かして一対一形式で訓練を行う。ただし眼球等弱点への打撃は禁止だ。注意してくれ」
 アルフォドさんの説明を聞いて、組み手を始める。最初はどちらかがゆっくりと攻撃を仕掛けて、それをガード、或いはいなすといった動きを行った。そして徐々に動きを早め実戦形式に近づけていく。
 
私の蹴りがブリジットの胸元へ直撃し、ブリジットが吹き飛んだ。
防ぎきれなかった打撃の威力の所為か、呻き声を上げるブリジットは一向に起き上がってこない。アルフォドさんが駆け寄ってきて、ブリジットを抱き起こす。
「息は出来るか?」
 彼女は「はっ、はっ」と断続的に息を吐くことで答えた。アルフォドさんがブリジットのTシャツを捲り上げると、胸元に大きな紫の痣があった。
「折れたか?」
 ブリジットは首を横に振る。大丈夫です、とアルフォドさんを杖にして立ち上がった。彼女が再び拳を構えたのでアルフォドさんが慌てて訓練再開の合図を送る。
 彼女が決して早くない動きで向かってきた。
 ブリジットには悪いけど、こんな動きじゃまず負ける筈が無い。




 私が彼女を地面とキスさせること七回目。


 ついにドクターストップが掛かって訓練が終了する。私の手と顔にはブリジットの吐いた血がこびりついており、同じように付着した汗からは甘い匂いがした。
 



黒髪の女の子はまだ心を開いてくれない。

 
 



[17050] 第31話 少し昔の日 【ついでに二人のこと】 下 
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2010/08/02 23:14
 最初はぎこちなかったブリジットの動きは大分改善された。格闘も一般人を圧倒できるくらいの技量を手に入れていたし、射撃に至ってはプロの軍人も顔負けするほどの腕になっていた。
 ヒルシャーさんやアルフォドさんは才能だと驚いていた。
 私も的を正確に射抜き続ける彼女に見蕩れる事が多くなっていた。

 思えばこのときから私の中で彼女に対する親愛と嫉妬が芽生え始めていたように思う。








 出会った頃よりかは少しでも心を開いてくれたのか、ブリジットは私とクラエスの二人と行動することが増えていた。「他に頼れる人間がいないから、」という消極的な考えで彼女が私たちに近づいていたとしても、大きな進歩には変わりなかった。
「ねえブリジット。今日はいつにも増して小食だね」
 ここは食堂。私たち三人は午後の訓練を終えて、ちょっと早い夕食を取っていた。私はバジルソースのパスタ。クラエスはカジキのソテー、ブリジットはいつものようにトマトピザだ。
 ブリジットは手にしていた切り分けられたピザをトレーに戻すと、困ったように笑って見せた。
「明日、私の初実戦があるんだ。緊張しているわけではないんだけど、どうしても意識しちゃって……」
 私とクラエスは二人して顔を見合わせた。二人ともブリジットに返す答えを咄嗟に用意することが出来なかったのだ。
 ブリジットは続ける。
「人を殺すのだからもっとドキドキしたり、怖がらなくちゃいけないのに、今の私は任務の成否を心配してもその他のことは何も心配していないんだ。これって何かおかしいのかな」
 彼女の疑問は尤もだと思う。義体化される前なら人並みの倫理観や同属保護の拒否反応によって人を殺すことを恐れたり、疑問に感じたりするものだが、今の私たちにあるのは担当官――強いて公社の命令に従うことだけだ。そこには倫理も何もない。盲愛と敵に対する憎しみだけがある。
 だが目の前の少女、ブリジットはどうなのだろう。
 彼女は――私はともかく、他の義体の子たちに比べて随分と担当官に対する愛が希薄だ。一応敬愛はしているのだろうが、やはり薄い。
 憎しみに関しても、彼女の場合消された記憶が深すぎるらしく、私たちのように生前の断片のような夢を見ないらしい。
 これではテロリストに対する憎悪を糧に戦い続けることは出来ないだろう。
 私は目の前の、如何考えても先が続きそうにない彼女に同情した。
 目的も使命もないのに人を殺し続けるということは、何物にも変えがたい地獄のように思われたからだ。

 ブリジットが再びトマトピザを咥えて席を立つ。
 私とクラエスは、髪を左右に揺らしながら食堂を出て行くブリジットを静かに見つめていた。









 目覚めるのが辛い。
 私の名を呼ぶのはブリジットだ。
 私は彼女に会いたくなかった。
 私の中で渦巻く変な気持ちの所為で彼女が怖い。










 明日は望まなくてもやってくる。


 ブリジットの初実戦の日、私はバックアップに回っていた。
 彼女が乗り込んだ麻薬密輸の取引場から少し離れた駐車場で私は待機を続ける。夜風に乗って断続的な銃声と悲鳴が耳に届いた。
 暫くの無音の後、重なった銃声が夜を切り裂く。


 周りにいた担当官たちがざわつき始めたのはその直後だった。ブリジットが持っている筈のインカムから応答が無くなったのだ。インカム自体が壊れたのか、それともブリジットが戦闘不能になったのか。
 ブリジットの担当官であるアルフォドさんはブリジットの救出を要求するが、詳細な戦闘データを取りたがるジャンさんたちは反対した。変わりに同じ義体である私の応援が命令された。
 ヒルシャーさんからウィンチェスターとSIGを受け取り、最後に銃声がした方向へ進む。すると少し位置のズレたところで再び銃声がした。ブリジットはまだ戦闘を続けているようだ。
 私の耳元でインカムが通信を受け取る。声はアルフォドさんだ。
「トリエラ、彼女はまだ無事だ。早く連れ戻してくれ」
 アルフォドさんの台詞の意味が分からなかった。早く助けてくれならまだしも連れ戻せとは命令違反ギリギリの要請だ。撤退の許可は出ていない。
 でも――、
「君しか頼めないんだ。頼む」
 彼の怯えた声からもうなりふり構っていられないということだけは伺えた。私は歩速を早め、積み上げられたコンテナを飛び越し現場へ近づく。
 そして最初の銃声が下であろう積荷の隙間に飛び降りた。


 そこで私は自分たちがしてきたことの意味を知ることになる。

 




人を殺すのだからもっとドキドキしたり、怖がらなくちゃいけないのに、今の私は任務の成否を心配してもその他のことは何も心配していないんだ。これって何かおかしいのかな。





ブリジットは食堂でそんなことを言っていた。あの時は何も返せなかったけど、今なら確かに彼女へ答えを告げられる。
私はぬめりをもった水溜りに立ち尽くしながら、こう吐き捨てた。
「ブリジット、君は確かにおかしいよ。狂ってる。やり過ぎだ」
 むせ返るような血の臭いに吐き気を覚えながら、ウィンチェスターに括り付けられたフラッシュライトを点灯させた。後悔することは分かっていたけど、でもこうせずにはいられなかった。
 出来れば彼女の凶行が幻であることを願って。
 しかしながら、そんな淡い期待はコンテナに広がった真っ赤な花で粉々に打ち砕かれた。




 目の前に広がるのは胴体をバラバラに寸断された男の死体。一人分にしては量が多かったので頭を数えてみれば三人分あった。どれも下顎を引き剥がされ、地面に上顎の歯が食い込んでいた。
 誰の仕業か考えるまでもない。
 私は悪夢を振り払うように頭を振ると、血の跡が続く狭いコンテナの隙間を縫うようにしてブリジットを追った。



 
彼女はあっさりと見つかる。あれだけの返り血を浴びたのだ。赤い足跡を辿れば直ぐだった。
ブリジットは追い詰めた男の死体の前で座り込んでいた。こちらの男はバラバラにされておらず、よく見なければ銃創を探すのも困難だった。
ブリジットが振り返る。頬が血で濡れていた。だがそれは見覚えのある、私の拳によく付着していた彼女の匂いがした。
「撃たれたの!?」
 駆け寄る私にブリジットがもたれ掛る。黒くなった彼女の服を巻くり上げると、腹に穴が開いていた。
 脂汗を掻いた顔でブリジットが口を開いた。
「俺さ、一人殺しても怖くならないから二人目を殺したんだ。その時そこの死んでる奴は逃げ出した。残った三人目は足を撃って動けなくしたよ。そして一人目と二人目の死体をバラバラにしたんだ。少しは罪悪感が湧くかと思ったけど全くだった。だから三人目をバラバラにした。生きたまま手足を穴だらけにしてナイフで少しずつ。それでも何も感じないんだぜ? だから最後の奴は生かさず殺さず追い掛け回した。するとどうだ、罪悪感より嗜虐心が湧いたんだよ。倫理観は頭で理解していても、初めて沸いた殺人の感情が攻撃の本能だったんだ。馬鹿みたいだろ?」
 ブリジットの顔が月明かりに照らされて白く光る。私は彼女の二つの胡乱な瞳を覗き込んだ。涙で滲み、闇が支配するその目の色は、私が初めて見る彼女の感情らしい感情だった。
 私は強く強く彼女を抱きしめて救援の報を本部に送った。
 密輸犯は全員死んだこと、ブリジットが負傷したこと。そして私が保護したこと。
「ゴメンね、トリエラ」
 ブリジットの細い指が私の頬を撫でた。彼女の荒い息に混じって口の端から血が流れている。
 私が「大丈夫だよ、」とブリジットに語りかけたとき、彼女は深い眠りについた。













 ブリジットが病室で目を覚ましたとき、私は枕元にいた。
 様子をよく理解していないブリジットの髪を取って、そっと頭を撫でる。
「トリエラ?」
 彼女が私を見上げる。私は起き上がろうとする彼女を制すると、彼女の頭を抱え上げてベッドに登った私の膝の上に置いた。
「もう大丈夫だよ。ブリジット」
 私を見つめる二つの瞳がいつかの時みたいに涙で濡れる。彼女はひくっ、と一つ声を鳴らすとそのまま声を上げて泣いた。手の平で顔を隠し、ぽろぽろ零れる涙を拭いた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、私殺しちゃった。私殺したのにぜんぜん怖くない」
 あの夜、初めてブリジットの感情を覗き込んだとき、私はこうなることに薄々気がついていたように思う。そして望んでいた。ブリジットは誰かと触れ合いたがっていたのだ。でも彼女の周りには私には見えない、私たちとは決定的に違う壁があって、同じ世界を生きている人には感じられなかったのだろう。
それは意味もなく人を殺すことをより遥かに地獄でおぞましいことだ。
 けれど。
 ブリジットはあの夜からこちら側に足を踏み入れたのだ。
 ブリジットは何も感じないということが怖いと言うけど、何も感じなくて良かったのだ。
 ここで変に罪悪感を知ってしまうと、彼女は永遠に一人ぼっちだったに違いない。
 あの時と違って、私は起き上がったブリジットをそっと抱きしめた。やがて、彼女が震えながらも抱きしめ返してくれたとき、私はやっとこの黒髪の女の子と心が通じ合えたことを実感した。




 
 
 今だから告白しよう。
 私はブリジットのことが大好きで、そして大嫌いだ。
 愛とも恋とも違った愛情が私の中で彼女に向けられているし、
 彼女の持つ才能に対する嫉妬も羨望も抱いている。

 それでも。

 私は彼女の良き友人でもあるし、良きライバルでいたいと思っている。
 


 もし私が彼女とのこれからを望むなら、眠り続ける私に呼びかけを続けるブリジットの声に答えねばならない。
 


 私が手を伸ばした先、ブリジットの頬があった。
 その頬は決して血で濡れているわけではなく、また涙で濡れているわけでもない。
 彼女が私の手を握り返したとき、こう心の中で思った。



 先ずはエルザからブリジットを少しでも取り返してみよう。



 目を開けた先、ブリジットの笑顔がある。私は痛む体を押して、そのまま彼女の首に抱きついた。
 ブリジットが背中に手を回してくれた感触に涙が出そうになった。








「トリエラは元気だったか?」
 無理を押して病院に泊まらせて貰っていた俺は、数日振りに公社へ戻っていた。アルフォドと二人してサロンでくつろいでいる。
「ええ。もう大丈夫そうでした。昏睡も神経の保護機能によるショックらしいですし」
「まあな。君たちはあれぐらいじゃ後遺症一つ残らないよ」
 アルフォドに貰ったケーキをフォークで切り崩しながら俺はトリエラのことを考えていた。それは今になって意識される、俺の中での彼女のウェイトだ。
「忘れていた筈なのに……」
 アルフォドが「ん?」と首を傾げるが俺は気がつかない振りをした。ベッドで眠るトリエラを見たとき、俺が思い出したのは初めて人を殺した後の目覚めの日だった。
 あれからいろいろあって今の俺がいるのだけれども、何はともはれきっかけはトリエラの抱擁だった。
 彼女の温かみを感じて、物語ではないこの世界を意識した瞬間が俺の人生の始まりなのだ。


 残されたケーキを口に放り込み、アルフォドさんに別れを告げると、俺は自分の居場所である自室に戻った。






 斜光が差し込む部屋ではクラエスが描いていたであろう絵が残されている。おぼろげに輪郭が残されたそれは写生ではなく、彼女の心の風景を描いたものなのだろうか。
 俺は自身のベッドに倒れこむと、まだ手の中に残っているトリエラの温もりを見つめた。
 どうせお互い先も長くないし、
 世間の人の誰にも知られないまま死んでいくのだろうけど、
 俺が戦い続け、そして元の物語に抗う理由はこの手の中にあったのだ。




 義体で、しかもいろんな意味で監視の目がきつい俺に出来ることは少ない。
 それでもこの命に代えてでも、俺はトリエラに幸せになって欲しかった。
 あの日の夜、死体の前で絶望していた俺を助けにきたヒーローは彼女だった。

 
 


ベッドの脇からブリジットはこの前までトリエラが使っていた櫛を拾い上げた。
「私がいない間は自分で手入れするかクラエスにやって貰いなさい」と渡されたそれをブリジットはポケットにしまう。



 もし次に見舞うか、それが無理なら彼女が帰ったときにでも、互いに髪の手入れをしてみようかと思う彼女だった。
 




 
 



[17050] ガンスリ劇場3 シリアス好きにはオススメ出来ません 【ついでに一コマ劇場のようなもの】
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2010/08/03 16:32
 ガンスリ一コマ劇場


「ねえねえ、トリエラ! 『マロン アンド スカーラル』を日本語で言ってみてよ!」
「ブリジット、ここがイタリア語圏であること忘れてない?」



 ガンスリ一コマ劇場2


「ねえ、ブリジット。最近物陰から殺意的な視線を感じるんだけど」
「疲れてるんだよ、トリエラ。……あれ? そう言えば最近エルザ何処に行ったんだろう?」



 ガンスリ一コマ劇場3


「クラエスが出す次の本はどんな感じ?」
「あらブリジットじゃない。興味があるの?」
「まあ怖いもの見たさと言うか何と言うか」
「そうね……最初はエルザ×ブリジットだったけど今はトリエラ×ブリジットかしら。あ、ピーノ×ブリジットでもいいかも」
「どうして私はいつも受けなの?」



 ガンスリ一コマ劇場4


「『あ、駄目っ。ピーノ! やめて! いや!』」
「『そうは言うけど、ブリジットの顔、とても可愛いよ』」
「『駄目! 駄目なの! 私にはアルフォドさんが!』」
「『あんなオヤジ、構うものか。安心しろよ。直ぐに忘れさせてやる』」
「『あんっ』」
「……って寝取られ本かいっ!」
「あらブリジット、不満なの?」
「いや、素で男にやられるのは気持ち悪い」
「ならトリエラ×ブリジット本も読む?」
「うわ、表紙からしてピンクのモザイクが掛かってるし」
「そう言いながらも読むのね……」
「うわー、トリエラのウィンチェスターが私のに……」

 

 ガンスリ一コマ劇場5(もはや一コマではない)


「ブリジット、今からカフェでお茶しない? 奢るわ」
「最近えらく羽振りがいいね、クラエス。お金あるの?」
「まあね。あなたのお陰よ。これも利益還元みたいなものだし」
「?」


「ラウーロさん、今回の出動分のお金を下さい」
「あ、ああ。別に構わんが最近はいつも引き出しにくるな」
「新作ラッシュで入用なんです。因みにお勧めはピーノ×お姉さま。汚れていくお姉さまが背徳感バリバリで夜も寝られません。逆に私×お姉さまは私の妄想が勝ってしまうのでアウトです」
「ヒルシャー、エルザの台詞をイタリア語役頼む」
「現実を見ろラウーロ。それはドイツ語ですらないよ」

 

 ガンスリ一コマ劇場6(もはや一コマではない)


「くそ! ピーノ×ブリジット本の所為で夜も寝られん! まあ寝られなくても寝取られるんだがな! はははははははっ」
「全然上手くないですよ。アルフォドさん……」
「うおっ、何しにきたんだブリジット。こんな夜更けに」
「いえ、今日はアルフォドさんの部屋で寝ていいですか……ってきゃっ! 痛いですアルフォドさん!」
「うわあああああん、現実の君はやっぱり俺の味方だっ!」
「おー、よしよし。大丈夫ですよー。私はあなたのパートナーですから(エルザクラエスから逃げて来たとは死んでも言えんな)」


「ブリジットを追っかけて来たら思わぬシーンに遭遇ね。Sブリジット×Mアルフォドさん……ゴクリ」





 ガンスリ劇場3 了




            ◆◆

 第三部あとがき


 気が付けば第三部終了。ブリジットと共にここまで描き続けられたのはこの作品を見に来て下さる読者の方と感想を残して下さる方々のおかげです。
 作品に対する質問ですが出来る限り本編で返答していこうというスタンスなので感想欄で返信できることは稀ですが、これからもお褒めの言葉、その他作品に対するアドバイスなど全てを糧にして頑張って行きたいと思います。


 
 敢えてこの場をお借りして申し上げるのならば直前の30話 31話の中の人は今のブリジットの人です。ヒルダではありません。描写不足で混乱させてしまったことをお詫びいたします。


 それでは次の四部あとがきでご挨拶できることを願って。
 

 








[17050] 第32話 ブリジットの日常な日 【ついでに第四部プロローグみたいなもの】  
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2010/08/04 23:09
 トリエラ曰く、俺の体は柔軟性に富んでいて格闘に向いた身体つきをしているそうだ。ただ柔軟性がありすぎて怪我の心配がない所為か、動きが随分と大振りらしい。
 アルフォドやヒルシャーにも同じ事を指摘されたので、一人で動きの修正をこなしていた。
 課題は最小ステップでどれだけ移動距離を稼ぐか、だ。
「あらよっと」
 壁を踏み台にして何もない空中に回し蹴りを食らわせる。そして相手の反撃が着地した俺の真上から来ることを予想して、腕の力だけで後ろへ飛んで見せた。
 前世ではまず出来なかった漫画みたいな動きが楽しくて、ここに慣れた後は毎日のように訓練をしていたものだ。
 いい汗をたっぷりと掻き、そろそろ上がってシャワーでも浴びるかと伸びをしていたら背後から声を掛けられた。
「こんなところで何をやってるの。ブリジット」
 振り返った先にはクラエスがいた。まあトリエラと彼女を含めた三人の寝室で暴れ回っていた訳だから、彼女がここに帰ってくるのは極自然である。
「訓練の自習? 熱心ね。でも部屋を壊さないでよ」
 そう言って彼女がプリッツスカートを脱ぎ始めた。黒いストッキングから足を抜いた為、白い足とショーツが見える。
 これでも中身が男な俺は思わず目線を逸らす。女の裸にはなれたつもりだけど、他人の裸はまだまだ駄目らしい。
「あなた変わってるのね。女同士じゃない」
「良いから早く服を着てよ。恥ずかしいから」
 クラエスがクローゼットを開けると中から作業用の繋ぎが出てきた。どうやら今から畑の方へ行くようだ。
「手伝おうか?」
「そうね。じゃあエルザを呼んできて。あの子の蒔いたハーブの世話をするから」
 合点承知と、タオルで首周りの汗を拭きながら俺は部屋から出て行く。行きしなに飴玉を数個ポケットにねじ込むのも忘れない。
まだ肌寒いけど、確かな春の日差しを感じながら寮の廊下をとことこと歩いていった。









エルザの部屋はまだ彼女一人しか使っていない。それでも家具や物は随分と増えた。俺の枕やら俺の着替えやら、俺のお菓子やら。
「……何か物置みたいだな」
 それでもエルザは遠慮なく置いていって良いと言ってくれるので、俺はそれに甘えている。彼女は意外と家事が出来て、俺が脱ぎ捨てて行ったパジャマなどを翌日までにはきちんと洗濯してくれているのだ。
「いらっしゃい、ブリジット」
 エルザはベッドに腰掛けながら本を読んでいた。何の本かと覗き込んでみれば、これまた皮肉なことに『ピノッキオの冒険』だった。
「そこ、ヒルダ」
 意外なタイトルに頭を掻いていた俺の手を引っ張ってエルザが言う。彼女が指差した先にはヒルダが丸まって眠っていた。
 最近飼い始めた黒猫はエルザによく懐いていて、目を離すと直ぐに彼女の元へ行こうとする。
「おーい、ヒルダー。今からご主人様とご主人様その二は外へ行くけど君はどうするー?」
 ヒルダが尻尾を揺らして欠伸をした。どうやら俺はここで寝ているから好きにしろ、と言いたいらしい。
「誰に似てこんな怠け者に……」
「多分あなたよ」
 上着を羽織ながらエルザが笑った。直接彼女に言わなくとも、今の台詞で俺がここに来た理由が分かったらしい。
「そうかなー」
「そうよ」
 エルザと二人してクラエスの待つ畑に向かう。陽気な午後の空気に当てられて欠伸を一つしたら、エルザに「やっぱり似ている」と笑われた。
 それはそれでいいかもしれないと思えるあたり、最近は充実しているのかもしれない。









 夕食までは射撃訓練に当てられた。
 アルフォドの監督の下、新しい銃を何丁か試し撃ちしている。
「どうだ? アメリカの払い下げだがデルタフォースもパラミリも使っていた本物だ」
 俺が最後に撃ったのはそういう銃らしい。たしかソーコムなんちゃら。前の世界ではライトな軍オタもやっていたけど、流石に忘れ始めている。
「集弾は素晴らしいものがありますが、重量に若干の不満が残ります。咄嗟に抜いたらぶれるかもしれません」
「ふむ……。ならこれはどうだ?」
 次に出されたのはグロック。ただグロックはグロックでもフルオートの18だ。
「最初からフルオートの設定だからそのまま撃ちなさい」
 補助ストック無しで、手の握力だけで銃を支える。通常のマガジンより大分長いロングマガジンが扱いにくい。
 引き金を引くと思った以上の反動がやってきて、俺が狙った少し上に着弾した。それでも七割は当てたと思う。
「凄いな。プロの軍人でもそこまで集められんぞ」
 アルフォドの賞賛が条件付け云々抜きにして心地が良い。どうやらまだまだ射撃には自信を持っていいようだ。
「片付けは課のものに任せるからブリジットは先に帰ってシャワーを浴びなさい。浴びたら外行きの服を着て駐車場で待っててくれ。今日は外で食事しよう」
 チャンバーに弾丸が残っていないことを確認して、俺はシューティングレンジを出た。アルフォドが不意に髪を掴んだので、「きゃっ」と似合わない悲鳴を上げてしまった。
「火薬と汗の匂いがきついな……。すまない。無理をさせ過ぎたようだ」
 アルフォドが謝っているのは、銃の薬室から漏れる燃えカスの臭いが髪に移ったことだろう。確かに長い髪で長時間射撃を続けるとツンとした独特の匂いが暫く取れなくなる。
「よし、今日は食事の前に香水も買いに行こう。他に欲しいものはあるか?」
「いえ、特に」
 アルフォドから髪を取り上げ、腕に巻いていたゴムバンドでポニーテールに縛った。本当は射撃中に縛るべきなのだが、髪が引っ張られる感じがして俺は余り好きではない。
「じゃあ一時間後ぐらいを目安で」
 アルフォドに一礼して俺はシューティングレンジを出る。公社の庭を歩くと、火薬の臭いが夜風に流されてより目立っていた。







 
「で、買ってもらったの?」
 就寝前にトリエラと髪を梳きあっているとそんなことを言われた。彼女はベッドの上に置かれた香水を見ている。
「うん。トリエラも使っていいよ」
 トリエラが俺の髪を束ねてツインテールにした。枕元で本を読んでいたエルザの視線がやけに感じられる。ツインテールが好きなんだろうか。
「あら、可愛らしいじゃないの」
 シャワー上がりのクラエスも帰ってきて、いつものメンバーが揃ったような様子になった。そういえば最近はトリエラが入院したり、クラエスが検査に行ったりで全員揃う機会が少なかった。
「ブリジット、触ってもいい?」
 いつの間にか俺の背後に回ったエルザがそんなことを聞いてきた。別に良いと答えると彼女は恐る恐る俺の髪に指を通した。
「いつもこうやってのんびり出来ればいいのにね」
 消灯時間になってみんなが横になったとき、クラエスがそんなことを言った。俺もそれには激しく同意したい。けれどもそれが適わないことも分かっている。
「あなた達と暮らせて、私は幸せよ」
 クラエスの声を最後に、俺の意識は緩やかに落ちていった。腕の中のエルザとヒルダの温もりを感じながら体が眠りに移行していく。




 ただ、頭の片隅では漠然と負傷を負ったとされるピーノのことを考えていた。
 



[17050] 第33話 ミミ・マキャヴェリの日 【ついでにミミのこと】  
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2010/08/06 22:28
 本格的な対人戦闘を想定して訓練するために、今日は国軍の施設に来ている。原作でのトリエラヒルシャー組のイベントに便乗した形だ。
「ブリジット、ドア越しに掃射だ」
 無線越しにアルフォドの指示を受けて、木製のドアを撃ち抜く。M4から発射された弾丸が貫通し、室内に置いてあった人型の的をズタボロにした。
「クリア」
 残された的も蹴り潰し、仮想の敵の殲滅を報告する。不謹慎だけれども、日本で時たまやっていたFPSのゲームみたいで中々面白かった。
「いいスコアだ。ブリジット。M4をその場に置いて表に出てきなさい」
 こんな訓練で少しでも強くなれるのなら、毎日でも通いたいものだ。










 夕刻時、トリエラと二人で軍用レーションをかき込んでいた。基本偏食の俺だが、こういった普段食べない珍しいものは結構好きだったりする。
「よくそんなに食べられるね。普段は何にも食べないくせに」
 トリエラが言うとおり、軍用レーションというものは基本不味い。どろどろしたコーンビーフやらパサパサした味気のないクラッカーやら。
「でも食べないとお腹空くし、栄養価は高い筈だから」
 コーンビーフを丸呑みするように俺が食べたのを見て、トリエラがおえ、と口元を押さえた。まあ端から見ても見苦しい光景だったのは反省しておく。
「ところでさ、トリエラはヒルシャーさんと仲直りしたの?」
 トリエラの、唯でさえ進んでいなかったフォークの動きが完全に止まる。彼女は暫く言いにくそうに口篭った後、「まだ」と一言だけ声を発した。
「どうして? 大体話を聞く分には喧嘩なんかしていないんだから、普段通りに振舞えばいいのに」
「それが出来れば苦労しないよ……。私の我侭の所為でヒルシャーさんを怪我させたんだから」
 トリエラの言うとおり、彼女の提案した無謀な突入は失敗に終わって両名の負傷という最悪の結果になった。それでも聞くところによればピノッキオにもダメージを与えたのだから、そこまで落ち込まなくてもいいと思う。まあ、そこで思いつめて勝手に沈んでいく辺りがトリエラらしいといえばそうなんだけど。
「ブリジットはアルフォドさんと上手くやってるの?」
「まあそれなりには」
「羨ましいな。私はあなた達みたいに生きてみたいよ」
「止めときなよ。良いことよりも悪いことの方が多いんだから」
 トリエラが残したクッキーを摘み、口に放り込む。生姜の利いたそれは想像していた味とは随分違っていて、思わず咳き込んでしまった。










「ブリジットの体調はどうだ?」
 担当官が集まっての定例会議。解散して直ぐにジャンに捕まった俺は彼女の経過について色々と詮索されていた。
「薬の量が減ったよ。でも睡眠時間が随分増えているな」
「そこまでは想定の範囲内だ。視力や聴力に異常は?」
「本人は何も言わないし、それらしい素振りもなかった。前に食事に連れて行ったんだが、味覚もかなり戻っていた。どういう魔法だ?」
「何、感覚神経を増強させる薬が投与されただけだ。彼女にはこれからスナイパーとしての仕事もして貰わねばならんから、その辺りの処置は急務だった」
 別に寿命が延びたわけじゃないぞ、というジャンの台詞に、俺は何処かでそういった期待を抱いていたことを今更のように知った。
 最近の彼女を見ていると、とても中身がボロボロの一期生には見えない。
「トリエラが打ち負かされたという殺し屋との戦闘もある。数で押せば負けることはないだろうが、それでも限界があるだろう。ブリジットはこれからGISに派遣して格闘訓練を受けさせる必要があるな」
「作戦課の適性判断は?」
「Sクラスだそうだ。鍛えれば化けると言っていた。射撃でもスリーエスを貰っているのだから事実上、公社最強の義体になる」
「……全く嬉しくないね」
「いい加減割り切れろ。お前がそんなようでは結果的に彼女が傷つくぞ」
 少し前まで回りに怯えていた彼女がそこまでの評価を受けるようになるとは、最早笑うしかなかった。出来ればあのままひっそりと普通の生活をさせてやりたかっただけに尚更だ。
「それとお前、気づいているか? ブリジットの特異性に」
 ジャンが徐にそう言った。俺は少し前にビアンキへ相談した内容をそのまま奴に伝える。
「目を合わさない、か。意識しなければ殆ど気にならないが、お前たち兄弟のエッタやリコを見ているとよくわかるよ。彼女たちは自然と命令を欲しているから担当官の目をよく見る」
「ブリジットも一応合わせているらしいが、それでもかなり少ないらしいな。人格に齟齬が出ているのか……」
「俺は逆にそれが正常だと思いたいよ。彼女は人間だ。人間が常日頃から命令を欲しているなんて間違っている。それじゃあ犬と一緒だ」
 ジョゼに聞かれたらぶん殴られそうな台詞だが、この兄――ジャンなら問題はないだろう。
「公社が欲しているのは人間の少女ではない」
「それでも無理やり手を差し伸べたのなら責任は持つべきだ」
 ジャンが甘いな、と吐き捨てた。言われなくても百も承知だ。最初は仕事だと割り切るつもりで公社に就職したわけだが、ブリジットを初めて見たときからもう諦めた。
「ブリジットのことなら大丈夫だ。我侭だけど、基本賢い子だから心配する必要はないさ」
 逃げるようにジャンの元を俺は去る。出来ればこのまま、奴とは暫く顔を合わせたくなかった。









「マリオボッシの娘の護衛に私も参加するんですか?」
 車中で明かされた任務内容は本来トリエラがこなす筈の物だった。そもそも俺はマリオとの面識が全くない。
「いや、トリエラヒルシャー組も同行する。というよりメインはあちらだな。君は娘の家に遊びに来たスクールの友人という設定だ」
「? あの二人だけでは駄目なんですか?」
 この任務は別に義体が二人掛りでこなさなければならない任務ではない筈だ。大体トリエラの今後に関する重大なイベントが存在するので、出来れば干渉したくない。
「まあ復帰したとはいえトリエラは病み上がりだからな。軍施設での成績も余り良くなかった。言い方が悪いが君は保険みたいなものだよ」
「アルフォドさんはどうされるんですか?」
「俺はジャンたちと一緒に周辺警戒に回されている。何かあったら携帯で連絡してくれ」
 どうやらピノッキオ戦のズレが思わぬところに出てしまったようだ。これは少々不味いと思いながらも、俺はアルフォドに従うしかなかった。









 ヒルシャー、トリエラ組がマリオの娘――マリア・マキャヴェリ 通称「ミミ」に接触した翌日、俺は何食わぬ顔で彼女の家を訪ねた。連絡は届いていたのか、そのまま入って来いとインターフォン越しにヒルシャーから伝えられる。
「えーと、初めまして。トリエラの同僚のブリジットです。よろしくお願いします」
 値踏みするようにこちらを見てくるミミの視線に圧倒されながら、俺は当たり障りのない挨拶をした。ただどうしても背中に背負ったギターケースは目立ってしまう。
「何それ。仕事道具?」
 からかってくるミミの言うとおり、ギターケースの中にはアサルトライフルと複数のマガジンが入っている。もし大規模な襲撃が発生しても篭城できるように、という装備だ。
「ごめんね、ブリジット。私が不甲斐ないから」
 頭を下げてくるトリエラを慰め、俺は目の付くところにギターケースを置き、ソファーに座り込んだ。準備やら何やらで殆ど寝ていない体にはミミのテンションは辛い。
「すまないな。ミミの父親のマリオ――カモッラだが、彼の裁判の証言が終わるまではこの警戒態勢が続く」
「大丈夫です。ただ少し疲れたので横になっていいですか? あと、出来ればこのギターケースを紐で私の手首に繋いで貰いたいんですけど」
「その必要はないさ。ミミは好奇心で勝手に触ったりしないだろうし、僕が見ておくよ。夕食まで休みなさい」
 ヒルシャーに言われて、俺は眠りにつく。
 その日の夕食は宅配ピザで、もしかしたら、トリエラとヒルシャーが気を使ってくれたのかもかもしれなかった。
 









「へー、ブリジットって甘いものが好きなんだ」
「ええ、まあ」
 それから四日後。大した進展もないまま警護生活はまだ続いていた。俺の日課は窓の隙間から外の様子を伺って、公社の人間の働きぶりを覗き見することだ。因みにトランプゲームやチェスをしてミミを楽しませるのはトリエラの役だ。
「ブリジットもさー、トリエラのヒルシャーみたいにパートナーの男性がいるの?」
「まあね。あそこでタバコ吸ってる」
 俺が指差した先、ミミがブラインド越しに外を見た。公社の女性職員とデートという設定なのか、ジェラートを抱えた女の人と同席している。
「うわー、ブリジットはあれ見て妬いたりしないの?」
「仕事だから仕方ないでしょう。あの人、昔は体を使って情報を集めてた人だからああいうのが意外と得意なの」
「てことは仕事じゃないと妬けるんだ」
「まあ怒るかもね」
 ミミがにししし、と笑って俺の隣に腰掛ける。どうやら硬い雰囲気のあるトリエラヒルシャー組より結構ずぼらな俺の方が話し易いそうだ。ただこれは余り楽観出来る事ではないけど。
「ブリジットってさ、雰囲気は男の子見たいなのに、意外と乙女だよね」
「は?」
 これには随分と驚かされた。自分では年頃の女の子を精一杯演じているつもりでいたから、男の雰囲気があると言われるのは結構ショックだった。これもトリエラやクラエスらと違って、ミミが生身の女の子だからだろうか。
「なんかさー、とても格好良いんだ。ブリジットって。クールというか大人びているというか。その辺、トリエラも認めてたよ」
「私が?」
「そう。トリエラとヒルシャーは教え子と教師って感じなんだけど、君のあの男の人は年の離れた恋人って感じがする。大人の関係って奴?」
「馬鹿ね、私はまだまだ子供よ」
 ミミの台詞を笑いながら否定する。ミミはどうしてだ? と首を傾げるが理由なんて直ぐ分かる筈だ。
 何故なら窓の向こうの担当官様が、
 女性職員の肩を抱いたのを見てしまうだけで、こんなにも嫉妬してしまうのだから。
「焼きが回ったな。私も」
 きゃーきゃー、と喚くミミを無視して俺はトリエラたちが詰めているリビングに向かった。そこでは彼らが淹れてくれたコーヒーの匂いが満ちていた。










 それから二日ほど経って、警護生活に飽きたミミの脱走イベントが起こった。ミミが蹴倒したチェス盤の駒を拾ったトリエラとヒルシャーは見事に手錠で繋がれてしまって、その手際の良さに呆れた俺はミミを捕まえるのが遅れてしまった。
「ブリジット、二階の窓を破っていいから追いついてくれ!」
 拳銃を懐に収め、俺はミミの出て行った窓ではなく、いつも外を覗いていた窓から飛び出す。下が丁度垣根になっていたので、人にぶつかる心配が無かったからだ。
 裁判を妨害したいカモッラに捕まり、車で拉致されそうになっているミミは直ぐ見つかった。原作ではリコたちが止めるのだろうけど、それらしい人影が無いので俺で対処することにする。
 ぽん、とミミを車に押し込めていた男の肩を掴みそのまま引き倒す。後の抵抗が怖いので顔面を踏みつけて意識を刈り取った。
 けれども油断していた。
運転席の男が銃を抜き、発砲したのだ。咄嗟に身を捻って頬を掠めるだけですんだが、ミミに当たる可能性を考慮して、抜かせるべきではなかった。俺は男の胸倉を掴み、拳銃を持っていた手首を握りつぶす。抵抗の無くなった男も路面に寝かせて、銃を付き付けて拘束した。やがてリコとヘンリエッタ、ジャン ジョゼがやって来て、事件はその場で閉幕した。
 









「ごめんなさい、ブリジット! ほっぺに傷が!」
 ミミの剣幕に驚いてそっと触れてみると、傷口は微妙に深いらしく赤い血の線が出来ていた。
「大丈夫だよ、直ぐ直る」
「でも、跡が残ったら!」
 泣きじゃくるミミを宥めて、大丈夫、大丈夫と俺は繰り返した。実際皮膚の張替えで完全に直ってしまうのだから心配はいらない。
 俺は腕の中で泣くミミを見て、意外と良い子なんだな、と的外れな感想を抱いていた。









 手錠は直ぐに外れた。これもブリジットに負けじとピッキングを練習したからに違いない。
「早いな。もう彼女より早いんじゃないか?」
「いえ、ブリジットはもっと早いし、施錠もこれでこなしてしまいます」
 気がつけばあれ程避けていたヒルシャーと普通に会話していた。不思議とミミに出し抜かれたことも余りショックじゃなくて、むしろヒルシャーとの会話の糸口が出来たことでトリエラは感謝すらしていた。
「気にすることはないさ。ここだけの話だが彼女は今公社で最も仕事が出来る義体に指定されている。君はその次だ」
「……なら一つ聞いて良いですか?」
「?」
 自分の手首にも巻かれた手錠を外し、トリエラがヒルシャーに向き直った。
「あなたの一番大切な女の子って誰ですか?」
 意地悪で突拍子もない質問だと思う。それでもブリジットが昔アルフォドにそう聞いて仲直りした事があると言っていたから、自分も試さずにはいられなかった。
「珍しいな。君がそんなことを聞くなんて」
 今考えればこれはトリエラがヒルシャーに歩み寄るための呪文みたいなものだが、トリエラはそれを欲していた。彼女もまた、誰の傍にいたかったのだ。
「今も昔も、僕の考えは変わらないよ――」



[17050] 第34話  もう一人ここにいる 【ついでに彼らのこと】 3
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2010/08/06 22:07
 折れた腕は全治何週間というレベルだった。幸いだったのは複雑骨折でなかったことと、利き腕とは逆だったことか。
 僕は今、潜伏先の田舎のワイン畑で腕の治療に勤しんでいる。片手で格闘は出来るには出来るけど、それでも義体とサシでやれるかと言われれば微妙なところだ。
 フランカフランコは捕り物に襲撃されたというのに、まだメッシーナ海峡に掛かる橋の爆破を諦めていない。それどころかここ数日は仕掛ける爆弾製作にお熱で姿を滅多に見せなくなっていた。
 僕は大きなクヌギの木の下でタバコを咥えながら田舎の雰囲気を楽しんでいた。
 
 これだけ何も考えずに一日を過ごすのは久しぶりだった。







「ピーノ!」
 声はフランカが所有するワイン畑で働いている爺さんのものだ。トラクターから手を振っている爺さんの下にいくと、本館でフランカが待っているという。
「何でも火急の用事で早く来て下さりたいそうだ。乗せて行ってやるから荷台に乗りな」
 荷台に乗り込んで爺さんの言った丘の上にある本館を見る。
 これだけ立派なお屋敷を所有するほどお金持ちなのに、テロ活動を止めないという事はその復讐は余程深いところにあるのだろう。
 如何せん、僕には理解できない話だ。









「橋の爆破は橋脚の一つに済ませるわ。実際に壊さなくても示威行動だからそれで十分ね。計画は三日後よ」
 屋敷の一番広い部屋に招かれた僕はテーブルに載せられた計画書に目を通していた。原作では有耶無耶になったままのテロ計画が遂行されるあたりズレは大きなものになっている。
「シチリア島からボートに乗って橋に近づく。爆破自体は俺とフランカでやって、お前はその護衛だが……出来るか?」
 フランコが僕の折れた腕を見て言う。僕は即答せずに、少し時間をくれと言った。それは以前から温めていたプランを実行するかどうか決めるためのものだ。
「君たちを守ること自体は吝かでないんだが、一つ試したいことがある」
 僕の提案に「何だ?」とフランコが食いついてきた。この男の警戒心もあの襲撃の日から大分薄れてきたように思う。
 結局僕は、その以前から温めていたプラントやらを話すことにした。
「この計画はもう一つ別のグループが政府に対して脅しを掛けるんだろ? ならこの前の襲撃を見ての通り、そのグループは政府に目を付けられている可能性が非常に高い。要するに俺たちが爆破しようがしまいが計画の日程は割れていると考えたほうが良い」
「心配はいらないわ。向こうに連絡して日程を変えたのが三日後よ。本当は八日後だった」
「なら計画を八日後に戻してくれ。僕がやりたいのは計画の是非ではない。もっと違うことだ」
「どういうこと?」
 フランカフランコには悪いけど、僕は橋の爆破にはてんで興味が無い。叔父さんの進退が掛かっている計画でもあるけど、原作のピノッキオ程忠誠心を抱いているわけではないのだ。
「噂の公社の殺し屋を罠に嵌めるんだ。僕は護衛ではなく、鼠捕りの捕り器になる。君たちが計画を遂行しようとすれば間違いなく出てくるだろう。君たちは公社の情報が少しでも欲しい筈だ。ならこちらから手に入れてやろうじゃないか」
「つまり私たちを囮に公社の人間を捕まえるなり拷問して情報を得ようというの? 馬鹿馬鹿しい。リスキー過ぎるわ」
 そう言われるのは予想済みだ。だから僕は最後のカードを切る。
「どの道八日後にずらしても多分バレるよ。こっちの組織も一筋縄ではいかなくてね。叔父さんの敵は多い。叔父さんの行動は公社に筒抜けだ」
「公社と繋がっている人間がいると言うの?」
「ほぼ間違いなくね。目立った行動を起こしていないのに僕は公社にマークされていた。叔父さんの失脚を狙った奴が情報を流したんだ。幸い、ここの潜伏先を知っているのは叔父さんだけだから、まだ公社は把握していないと思う。叔父さんは今回のことに懲りて周りには話していないそうだから。で、さっきの話に戻るけど、僕たちがどう足掻いても計画は何処かしらか公社に流れる。下手をすればこちらが全滅するだろう。それならまだ気が付かない振りをして公社を待ち伏せするほうが建設的だと思うんだ」
 最終的に僕の提案は受け入れられた。ただし計画は三日後から変更しないという条件付で。フランカはもう一つのグループを態々見捨てるような真似はしたくないらしい。
 復讐の根は深い割りに、彼女は他人に優しすぎると思う。
 それが僕たち三人の破滅に、やがて繋がるんだけど、僕は敢えて何も言わずにいた。









「先日公社が逮捕した活動家の持っていた資料から、メッシーナ海峡大橋の爆破計画の日程が判明した。三日後の深夜だ」
 担当官が集まった会議室。ジャンがホワイトボードに書類を貼り付けながら概要を説明する。
「我々に活動の計画をリークしている人物からの情報とも一致する。よって政府から出動が命じられた」
「ちょっと待ってくれ、ジョゼ。この資料を見る限り、出動する義体がブリジット、エルザ、ベアトリーチェとなっているが幾らなんでも少なすぎないか? GISにも応援を」
「内閣は今回の爆破計画を通じて戦う内閣を演じたがっている。ある程度は好きに躍らせるつもりだ。それに軍内部からの五共和国派への武器密輸の取り締まりも同時に行われる。多くの人員はそちらに割きたい」
 アルフォドの疑問にジョゼが答える。アルフォドは悪態を吐きながらもこれといった反論材料がないのか、渋々と椅子に腰掛けた。
「ブリジットは狙撃能力を活かして橋脚塔の屋上から狙撃待機。ベアトリーチェは爆弾の発見に、エルザは遊撃に回っても貰う」
 各員解散が命じられて、メッシーナ海峡大橋護衛班、武器密輸取締班に分かれていった。
 アルフォドは何とも人の少ない護衛班を見て、溜息も隠そうとはしなかった。









「それにしても政治演目に利用されるとはついてませんね」
 ベアトリーチェ 通称 ビーチェの担当官であるベナルドがその独特の軽い雰囲気で笑って見せた。それに対照的なのは目に隈をこさえたエルザの担当官、ラウーロとブリジットの担当官、アルフォドだ。
「まあカラビニエリ(軍警察)時代から利用されるのは慣れてるよ。唯、あの子たちまで巻き込むのは忍びない」
 そう言ったアルフォドの視線の先には、今回任務を共にすることとなった三人の義体たちが合同訓練を行っている。エルザとビーチェの射撃訓練にブリジットが付き合っている感じだ。
「アルフォド、ブリジットが持っているのはM14か?」
「ああ。MP5じゃ威力不足だろうということになってな。MP7を注文したからそれが届くまではあれを使ってもらうよ」
「万能なんだな。お前の少女は。エルザにも見習わせたい」
「エルザも頑張ってるさ。安定してるんだろ? 最近は」
 エルザを背後から抱きすくめ、ブリジットが射撃の指導をしていた。最近はよく見られる光景だ。
「ブリジットに懐いてるからな。事あるごとに彼女の後ろについてるよ」






 射撃訓練場での合同訓練。以外にもこれがビーチェとの初邂逅である。
 ビーチェは赤い髪を切りそろえた可愛らしい義体で、鼻がよく利き特に火薬類を見つけるのが上手い。担当官はベルナルドという少し変わったオッサンで、他の担当官とは大分違う雰囲気を持っていた。
「ブリジット、撃ち終わったわ」
 因みにこのビーチェ、口数の少なさではエルザといい勝負で、必要なときしか声を発しない。訓練場でもベルナルドが一方的に喋って、ビーチェは聞いているか聞いていないのかよく分からない反応を示していた。
「ああ、うん。よく出来てる。凄いよ」
 原作では余り目立たなかった(一部除く)彼女だが、地味にそのポテンシャルは俺の知っている義体でもトップクラスにあるように思う。射撃も遠距離でなければ俺と異色無いし、格闘では多分俺が適わない。
「ブリジットは今回狙撃を担当するのでしょう? 訓練しないの?」
 ビーチェに問われて俺はアルフォドに振り返った。俺の意図を察したのか、他の担当官と談笑していた彼はここまで乗り合わせてきた車から大きなガンケースを持ってきた。あの様子だと、周りが帰った後にこっそりと訓練しようと考えていたのかもしれない。
「本当は君にプレッシャーを与えたくないから、人目のつかない所でやらして上げたかったんだけどな」
 アルフォドからガンケースを受け取り、中から狙撃銃を出す。アルフォドはレミントンと言っていた。 
 エルザがひとっ走りして、500m先に水を入れたペットボトルを五個置いてきた。風の強さを考えても中々やり応えのある的当てである。
「ブリジット、やりなさい」
 アルフォドの号令を受け、マガジンを差し込みボルトを引く。ライフルを構えて寝そべり、スコープを覗き込んだ。
「一つ目、クリア」
 引き金を引きペットボトルが弾けたのを見て、再びボルトを操作する。空薬莢が排出され、次弾が発射可能になった。
「二つ目、クリア」
 後はそれを四回繰り返すだけだ。風の流れとコリオリの力を弾道計算に入れて引き金を引いていく。今の俺に求められるのは命中することも勿論だが、何よりスピードだ。
「凄げえ。何だこれ」
 俺が五回目の挙動を終えたとき、ベルナルドが漏らした。見慣れたアルフォドとラウーロ、エルザは何も言わないが、ベルナルドビーチェ組は素直に驚いている。
「GISでもこんなスナイパーいねえよ。何処で覚えさせたんだ?」
「彼女の才能だ。余り詮索するな」
 興奮するベルナルドを押しのけて、アルフォドが面倒くさそうに応対していた。俺はライフルからマガジンを引き抜いて、薬莢を排出していた。久しぶりで少し心配だったが、無事に狙撃を終えることが出来た。
「格好良かったよ、ブリジット」
 エルザが抱きついてきたので、そのまま抱きかかえてやる。
 ただメッシーナ海峡に先ず現れるだろう奴のことを考えていると、そう喜んでもいられなかった。





















 三日後、深夜。メッシーナ海峡大橋、橋脚上。


 灰色の迷彩シートを被り、工事備品の隙間から俺は橋脚を見張っていた。ライフルをハイポッドの補助で構え続け既に三時間が経過している。ここからなら橋の上の道路に止められた工事車両の陰で警戒を続けるエルザとビーチェの様子がよく見えた。
 動きがあったのは二十四回目のアルフォドへの提示報告を終えた辺りだ。俺は背後の気配を確認し、静かに襟元のインカムを握った。これなら多少話しても声は向こうへ届かない。
 奴は月明かりの中、血のような色のジャケットを着ていた。


「驚いたな。もっと反撃されると思った。いつから気づいてたの?」


奴の声は何処か楽しそうな声色を含んでいる。そしてそれに返す俺も多分そのような声色なのだろう。


「ここに来たときから。ブルーシートの中で三時間も待機とかMなの? あなた」


 俺はライフルを床に置き、懐から拳銃を取り出した。奴も襟元からナイフを取り出しこちらへ見せ付ける。
「正直さ、トリエラの様子でおかしいと思ったんだ。元の彼女を知っているのならこの違和感は直ぐに気がつく」
「私もあなたが骨を折られたと聞いて同じ事を思った。この世界のトリエラは前に比べると弱体化している。それなのにあなたは不覚を取り左腕を失った。ならこの世界のピノッキオはイレギュラーだと考えるべき」
「僕はヒルシャー辺りがおかしいと思ったんだけどな。でも今日ここで君を見て確信したよ」
「私も確信した」


「君は」
「あなたは」


「「俺と同類だ」」



 冬があけても肌寒いメッシーナ海峡で、俺は彼に出会った。
 



 




[17050] 第35話  もう一人ここにいる 【ついでに彼らのこと】 終章
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2010/08/07 17:35
「それにしても意外と分かるものなんだな。もっと禅問答みたいなことをしなければいけないと思ってた。……そもさん」
「せっぱ」
「出身国まで同じみたいだな。なら一つ問うていいか?」
「別にいいけど、こっちはもっと沢山聞くよ?」
「構わないさ。……じゃあ聞く。君はいつからそうなった? 生まれたとき? それとも幼少時? 或いはそんな体になってから?」
 月明かりの中、己の得物を抜き、異邦者たちは向かい合っている。無線機を手の中に隠し、銃を右手に構える少女と、血のような赤いジャケットを着てナイフを構える男。 
「義体になってからだよ。それ以前の記憶はこの体の持ち主を含めて何も無い。強いて言えばこの世界の知識と前の世界での簡単なプロフィールか」
「僕とは少し違うな。僕は前の世界での出来事はほぼ全て覚えているし、この世界の知識もそうだ。ただ君と違って生まれたときからこうだった」
「原作では語られなかったピーノの半生とかあるわけ?」
「ああ。人身売買される前は二人の姉がいる大きな家に住んでいたよ。まあひょんなことで没落したんだけどね」
 ははは、と男が笑った。彼は工事関係のコンテナに腰掛けると手にしたナイフを弄び始める。ブリジットはその動きを目で追い続けた。
「その無線機を貸してごらん。握りつぶさないように手の中に隠すのも疲れるだろう。念のために聞くけど、音は拾ってないよね」
「公社で確かめてきたし、一番聞こえが悪いのを選んだ。向こうには何も聞こえてないよ」
 少女がインカムを男の足元に放り投げる。男はそれを躊躇いもなく踏み潰すと、粉々になったそれを少女に蹴り返した。
「返すよ」
「激しくいらない」
 また男が笑う。余程同胞と会えて嬉しかったのか、男は終始こんな調子だった。対する少女は不愉快そうに眉を潜め、溜息を吐いた。
「じゃあ今度はこちらから聞くよ。あなたから見て、この世界は何の世界?」
「GUNSLINGR GIRL」
「俺は何に見える」
「公社の義体。でも不思議だな。君みたいな奴はいなかった筈だ。担当官もそうなのか」
「多分ね。まあ、描写されていないだけで別のところにいたのかもしれないけど」
 それは少女が常日頃から考えていたことだ。原作の誰でもない、自分の知らないキャラクターを演じている不気味さはずっと意識していた。彼女がまた、この世界で自分の居場所があやふやであると嘆いているのもそれが大きな理由である。
 彼女は本当に自分が何者なのか、何も知らない。
「難儀だな。僕は行動の指針が示されているからね。ここまでの人生とても楽だった。同情するよ」
「ありがと」
 思ってもいないことを口にし、少女は中腰の姿勢から完全に床へ腰掛けた。もともと人の殺意に敏感な義体の体だから、男から発せられる感情が排他的でないと判断しての行動だった。
「あなたは自分がこの世界に来たメカニズムとか知ってる?」
「いや。余り深く考えてこなかったからさっぱりだね。でも君みたいな同胞がいるということは何かしらの条件でもあるのかな」
「条件?」
「詳しいことは何も分からないよ。少なくとも僕たち二人は前の世界で死亡したからこの世界に来れた。けれど生まれたときからこの世界を生きている僕と、義体になってからこの世界に生きている君とでは決定的に違う。だから互いに前世の状況の刷り合わせをしても恐らく役には立たない」
 男の投げ遣りな声に少女はあからさまに落胆した。少なからず情報が集まると思っていただけに、尚更だ。
「じゃあ最後に一つだけ聞くけど、あなたは私の敵? 味方?」
 少女が切り出した質問に男が微笑んだ。そしてそっと恋人に語りかけるようにこう呟く。









「味方なわけ、ないだろ?」









 月が雲に隠れて、辺りが暗くなる。少女は再び中腰の姿勢に戻り、そっと銃の劇鉄を起こした。引き金に指を掛けて、男の胸元を見つめる。
「僕はさ、別に人間らしく生きたいとは思ってないし、自分に自由意志があるとも思っていない。
折角この嘘みたいな世界に生まれ変わったのだから、物語の人物らしくシナリオに沿って生きて死のうと考えているんだ。今回の待ち伏せも君を待っていた。
君は言うなれば原作を勝手に書き換えてしまう編集者みたいなものなんだよ。それは僕に――シナリオを覚えている役者にとって邪魔で仕方が無い」










 初撃をかわせたのは奇跡みたいなものだ。飛んできたナイフを空中で掴んで止め、もう片方の手にある銃で二発発砲する。だが二発ともジャケットの弛んだ部分に穴を開けただけで、奴の神がかりなスピードについていけなかった。
 二本目の投擲ナイフが、銃を吹き飛ばし橋脚の下――暗い海へ落ちていく。
 ピーノの顔が必勝に染まり、大型の軍用ナイフを持って突進してきた。
 俺は一歩後退し、反撃の糸口を掴む。









「銃声!?」
 ブリジットの潜む橋脚から確かにその音は聞こえた。けれどライフルの発砲音ではない。彼女の持つSIGの発砲音だ。
「エルザ、見てあれ」
 隣にいたビーチェが指をさす。するとそこには月明かりの中、ナイフを構えて突進する男と、背後に置かれたライフルを取り上げ、今まさに引き金を引こうとするブリジットの姿が見えた。
 男がブリジットに肉薄する。









「吹き飛べ!」
 予め薬室に弾を送り込み、引き金を引くだけにしておいたライフルが役に立った。
ピノッキオは完全に虚を突かれて動きが鈍っている。ライフルの銃口は彼の頭に固定されていて、俺の勝利は揺らがない。
 なのに。
「甘いよ」
 俺の放った弾丸は虚空を切り裂くだけで、ピーノに如何なるダメージも与えることが出来なかった。
 俺は奴の身体能力を侮りすぎていた。

 
 そうだ。もし目の前の男が忠実にピノッキオを演じているのなら、義体とサシでやりあうなど朝飯前なのだ。
 まさに、バケモノ。





「くそっ!」
 人間業とは思えない体の捻りで必殺の弾丸を交わされた俺は焦っていた。ナイフによる斬撃をライフルのストックで何とかいなし、反撃の隙を伺う。だが、如何せん相手の手数が多すぎて有効な一打が撃てないでいた。
 じりじりと後退させられ、遂に橋脚の端に追い詰められる。
「よく頑張ったな。大したものだよ」
「右手しか使えないくせに……チートも大概にしろ」
 ボロボロになったライフルを捨ててナイフを抜く。白兵戦で勝てるなんて毛ほども思っていないが、それでも一度見切られたライフルよりは幾分かマシな筈だ。
「僕からしたら君達の方がよっぽどチートなんだけどな。まあとり合えずご苦労さん」
 奴が繰り出したナイフを受け止めると、あっさり弾かれてさっきの拳銃のように海のそこに落とされてしまった。ピノッキオが俺の襟首を掴みそのまま持ち上げる。
「本当はここで殺してやりたいけど、今回は同郷のよしみで見逃してあげるよ。ただしトリエラが僕を殺しにくるまではもう僕たちに関わるな。次は容赦しない」
 一歩、また一歩とピノッキオが歩いた所為で、俺の真下が海になる。俺は奴に突き落される前に声を振り絞って有りっ丈の疑問をぶつけてみた。
「お前はそれでいいのか!? 折角この世界で生きているのに、そんな人形みたいな生き方で!?」
「無論さ」
 手が離され、どうしようもない浮遊感が俺を支配する。
 視界一面に仄暗い海面が見えたかと思うと、全身を打ちつけたような衝撃がやって来て俺は意識を失った。
 VSピノッキオ。

 結果はどうしようも無いほど完敗で、
 また奴とは何一つ分かりあえることが無かった。










「ブリジット!」
 応援に向かおうと急いで橋脚を上ろうとした私の脇を、彼女は真っ逆さまに落ちて行った。大きな水飛沫を上げて、海面に沈み込んだその体は中々浮き上がってこない。
「助けないと!」
 肩にかけていた銃を捨て、私も海に飛び込む。
 まだ冬の気候のメッシーナ海峡の海水は冷たく、義体の私たちでも長時間の遊泳は命取りになる。
 私は真っ黒な水の中で沈みかけている、白い腕を思い切り引き上げた。
「エルザ! こっちだ!」
 ブリジットの担当官のアルフォドさんが橋の下に隠してあったボートから叫んだ。私は意識の無いブリジットを抱いたままボートに泳いでいく。
「水を飲んだのか息をしていません!」
 私の泣き声にも似た叫びを聞いて、アルフォドさんがボートに引き上げたブリジットの服を引き千切った。両手でブリジットの白い胸元を押し、息を吹き込んで人工呼吸を繰り返す。
「外傷は無いんだ。必ず蘇生させてみせるさ」
 アルフォドさんが再び息を吹き込み、ブリジットの胸が大きく膨れた。すると器官に詰まっていた水が出てきたのかブリジットが激しく咳き込んで息を取り戻した。
「げほっ、あ、アルフォドさん?」
 空ろな瞳をさ迷わせたブリジットは目の前にいる担当官の名前を呼んだ。アルフォドさんは自身が着ていたコートをブリジットに被せると無線で上にいるラウーロさんとベルナルドさんに連絡を取った。
「こちらアルフォド。ブリジットは無事だ。下手人はどうした?」
「はいはい、こちらベルナルド。橋脚の上は物抜けの空です。ただ薬莢三つと幾つかの血痕を見つけました」
 多分それはブリジットのものだ。彼女の手の平を見れば大きく切り裂かれていて、血がどくどくと溢れていた。
「本部に応援を要請。救急車両も一つ。あと課長に繋いでくれ」
 ボートが橋脚の登り場に着き、アルフォドさんに負ぶわれてブリジットが上っていく。
 私もその後を追って、橋の上の道路に出た。
 
 


海峡の肌寒い風が、濡れた体に響く。ラウーロさんから新しいジャケットを借りて、私は横たえられたブリジットの隣に腰掛けた。
 海水で濡れた彼女の肌は白いを通り越してとても青白く、まるで死人のようだった。



[17050] 第36話  GISな日 【ついでに閑話みたいなもの】 
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2010/08/09 22:48
 本日もう何度目かわからない空中浮遊を俺は体験する。GISの隊長に投げ飛ばされた体はゆうに三メートルは飛んでいった。
「くそっ」
 両手で地面を蹴り、受身の姿勢をとる。
 しかし、何とか着地した俺の体を、隊長はあろうことが思い切り蹴りつけた。
 今度こそ正真正銘のKO。地面に顔面を打ちつけ、盛大に鼻血を噴出した俺は大の字になって起き上がれなくなった。
 痛み云々以前よりも、体がこれ以上動いてはいけないと警鐘を鳴らすのだ。手足の筋肉が振るえ、全く力が入らない。
「ふん、少しは根性ある奴かと思ったがこんなものか」
 余裕たっぷりにこちらを見下ろす隊長が憎い。だが俺はそんな安い挑発に乗らない。勝機は今じゃないのだ。
「期待外れも甚だしいな」
 一向に起き上がってこない俺に見切りを付け、隊長がこちらに背を向けたのが唯一のチャンスだ。残された力を総動員して俺は飛び起きる。そして隊長が振り返る前にその太い首元へハイキックを見舞ってやるのだ。
「いい一撃だ。しかしまだまだ甘い」
 思わずバケモノ! と悪態を吐きたくなる。原作でもトリエラがコテンパンにやられていたから相当の達人だと警戒していたが、これ程とは思わなかった。
 普通、完全に死角からのハイキックを素手で止める人間は存在しない。
「うわっ!」
 次に投げ飛ばされた時、受身をとる体力など既に残されていなかった。全身に擦り傷をこさえながら、俺は無様に地べたに這いつくばる。ここまで完璧に押さえられると、逆にもうどうでも良くなった。
「どうした、テロリストは待ってくれないぞ」
 しかしこの隊長はまだ俺が歯向かってくると期待しているらしく、一向に訓練の終了を告げない。
 様子を見守っているアルフォドの方を視線だけで盗み見しても、特に反応が見られなかったので仕方なしに起き上がる。これは後でパフェ辺りを買ってもらわないと堪らない。
「けほっ」
 よろよろと構えを取り、口の中に溜まった砂利と血を吐き出して隊長に突進する。だがただ闇雲に突っ込むのではなく、衝突の瞬間に急ブレーキを掛けて。
「!」
 この日初めての驚きの顔を見せたのは隊長だ。俺を投げ飛ばそうとしていた腕が一瞬だけ宙をさ迷う。
 俺は再び地面を蹴ると、その丸太のような腕を掻い潜って隊長の体に組み付いた。技で勝てないのなら力押し。我ながら単純だと思うがそれでも効果はそこそこあった。
「ぐっ」
 隊長の巨体が若干後ろへ退く。炭素フレームと人工筋肉で出来た体だから出来る芸当だ。
 けれど大人と子供の体格差は如何せんどうしようもなく、スタミナ負けした俺がじりじりと押され始めた。
 そして――、
「きゃあっ」
 今度は投げ飛ばしではなく組み伏せが俺を待っていた。巨体で地面に押し付けられ息が出来なくなる。 
 積もり積もった疲労がピークに達し、遂に俺は動けなくなる。隊長も無理に起こそうとせず、駆け寄ってきたアルフォドに抱きかかえられて俺は大人しく退場になった。
 訓練場の脇に作られた仮設テントに運び込まれて、擦り傷の手当てを受ける。
 俺の隣では鼻に詰め物をしたトリエラが目元にタオルを置いてのびていた。
「勝てた?」
「全然駄目。馬鹿みたいに投げられた」
 トリエラから新しいタオルを受け取って顔を拭く。白かったタオルが砂やら血やらであっという間に汚れた。幾ら取り替えが利くからって女の子をここまでボロボロにするか普通。
「あれだけ強くてもまだピノッキオより弱いんだよ……」
 呻き声にも似たトリエラの声が聞こえる。確かにあの隊長は強い。それでもピノッキオから感じたような畏怖にも見えた強さではない。
「勝たないとね……ピノッキオに」
「うん」
 二人してGISの訓練風景を眺める。このミニキャンプに参加して早一週間。早くも自分たちがいかに実力不足か痛感する一週間になっていた。









「どうでした? あの二人は」
 アルフォドとヒルシャー、二人の担当官は教練の廊下でGISの隊長と向かい合っていた。隊長は少し思案するとこう答えた。
「トリエラとかいうウサギ、あれはまだまだだな。速度に頼りすぎている。一度いなされると建て直しがきかん。
 それに比べてブリジットとかいう猫は、まあ機転は利くな。速度で適わないと分かると力業で挑んできた。だが訓練不足だ」
「二人ともお目には適いませんか」
 ヒルシャーが息を吐く。彼らもまた、自慢の義体がここまでコテンパンにやられるとは思っていなかった。
「いや、あと数ヶ月ここに通わせろ。二人ともピノッキオとかいう小僧に負けない体にしてやる。こちらも女子供相手の訓練が出来るから好都合だ」
 隊長が言うには二人とも才能はあるが、恵まれすぎた身体能力でそれらを殺してしまっているらしい。
 だからこのまま負けが込めば、その内身体能力に頼らない戦い方が出来るようになるそうだ。
「それは有難い話です。是非ともお願いします」
 二人の担当官が頭を下げる。
 この瞬間からブリジットとトリエラ、二人の本格的な訓練生活が始まった。
 全てはピノッキオに勝つ。それだけの為だ。










 当然のことだが、ブリジットがピノッキオに敗北したという知らせは公社の作戦課を大いに悩ませた。彼らにとっても義体が生身の人間に連敗するとは予想外のことだったのだ。
 しかもピノッキオのその後の足取りは依然として掴めておらず、軍による武器密輸の問題と合わせて大きく公社に圧し掛かっていた。
「どうもブリジットの交戦記録が不鮮明ですが、これはどういうことか」
 査問委員会に問い詰められたアルフォドはこう答えた。
「二十四回目の定例報告会を終えた直後に音信不通になりました。
 現場から破壊された無線機が見つかったことから、この瞬間に二人は交戦したものと思われます。
 我々は丁度橋脚の陰に潜んでいたために応援が遅れました。全て私の責任です」
 





 実際のところ、公社にとって敗北責任の所在はどうでも良かった。
 重要なのは今後ピノッキオと相対した場合、もしくはピノッキオの処理の仕方だった。
 やれ義体の数で押せだの、出来るだけ交戦を控えろだの様々な意見が提示されたが、最終的に公社が選択したのはこのプランである。





【ブリジット、トリエラの両名を使った二対一作戦を遂行する。ただし両名共に要訓練】



 

 五共和国派の掃討における虎の子二人を使った贅沢な作戦だった。だが確実性も踏まえ、もう一つのプランも同時並行で行われることとなる。





【ピオッキオに最も近いクリスティアーノの早期逮捕、もしくは殺害】





 こちらに関してはクリスティアーノ周辺の活動家達の裏切りもあり、早期の実現が確実視された。さらに公社から襲撃の気配を伺わせておけば、クリスティアーノの子飼いであるピノッキオの出現も見込まれる。
 つまりクリスティアーノを襲撃すれば自ずとピノッキオも始末できるということだ。



 
 以上を持って五共和国派ミラノ派閥の名士、クリスティアーノの包囲網が敷かれる手筈となったのである。
 クリスティアーノの逮捕という結果は同じでも、その過程が原作から大幅に逸脱した事実にブリジットそしてピノッキオ両名は遂に気が付く事は無かった。
 これは後に、彼らの運命を大きく決定付けることとなる。







 

 GISの隊員に混じっての走破訓練は地獄そのものだ。
 十キロの装備とは言わないが、それでも四キロを超えるライフルを担いでの悪路ランニングは堪えるものがある。スタミナが絶対的に足りていないと診断された俺は前述の訓練を一日中こなす事になった。
 因みにトリエラはひたすらGISの隊員と格闘組み手らしい。
「げほっ、げほっ」
 ランニングが終了したら浴びるように水を飲む。咳き込みながらの飲水は血の味がした。手足のマメはとうの昔につぶれて、不細工なテーピングで覆い隠している。
「おいっ子猫! 誰が休んでいいと言った! こっちへ来てお前は組み手だ!」
 隊長のどぎついラブコールを受けて俺は格闘訓練所に向かう。視界の隅では叩きのめされたトリエラが転がっているが、今は他人の心配をする余裕がない。
 ピノッキオとの決戦まで恐らく三ヶ月少し。



 今は目の前の巨漢共を圧倒する事が、俺とトリエラに課せられた使命だった。



[17050] 第37話 手術な日 【ついでに夢のこと】 
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2010/08/25 23:49
「足の交換ですか?」
 GISとの合同訓練を始めてもう一ヶ月。最近になって、ようやっと達人の隊長に一筋入れられるようになった身としては、出来ればお断りしたいイベントである。
 だが義体は幾ら鍛えても筋力の増加は見込めず、反射神経と経験値しか得ることが出来ないので、人工筋肉の入れ替えでしかパワーアップが図れないのもまた事実だ。
 足の交換を持ちかけてきたアルフォドは渋い顔をしたままコーヒーを啜った。因みに俺たちは公社にあるいつものテラスで午後のコーヒータイムを行っていた。
「この前レントゲンを撮ったときに疲労骨折が見つかっただろう? 本当は足首を開いて手術すれば良かったのだけれども、詳しい検査で他の部分も大分磨耗しているから定期検査の機会に交換することになったんだ」
 アルフォドに言われて、自分の足を動かしてみる。疲労骨折の見つかった足首はサポーターが巻かれていて、薬が切れ掛かっている今では痛みに似た違和感があった
「向こうの隊長さんも君の訓練復帰を強く望んでいてね。他の子の予定を繰越して、君の手術が入った。三日後だよ」
 随分急な話だ、と溜息を吐くがここでアルフォドに文句を言っても状況は何も変わらない。というよりか俺の演じているブリジットは殆どアルフォドに歯向かったりしない。
 それはこの体に意識を宿して、出来る限り守ってきたことだ。
「……今日はもう一個ケーキを食べていいよ。暫くは病院食になるから味気なくなる」







 


 手術前の定期健診では、縫い目の跡が痛々しい足首に再びメスを入れられた。部分麻酔をしているから何も感じないが、皮膚の中から見える筋組織は気分のいい物ではない。
「やはりカーボンの骨が弱っているな。急激な運動を短期間に繰り返すとこうなるのか……」
 座るタイプのベッドに腰掛、下着姿のまま足を伸ばしている。右手に幾つも差された点滴が鬱陶しいことこのうえない。
「では予定通り両脚の入れ替えだ。出来れば腕も変えてやりたいが……」
「上からの要望書には、何度か損傷を受けた脊椎も変えて欲しいとあるが暫くは止めておいたほうがいいな。身体が持たん」
 俺の頭の上で好き勝手議論する医師にウンザリする。そういうことは本人のいないところでやってもらいたいものだ。俺は手早く縫われていく足首から目を離して、手術室に設けてあるフルスクリーンのアクリルガラス窓を見た。壁に埋まっているそれは外部の人間が中の様子を見守るために設置してある。
 そこで、見慣れた顔を見つけた。
「アルフォドさん……」
 浮かない顔で様子を伺っているのは愛しの担当官様だった。仕事の合間に経過を見に来たらしい。彼は俺の足首が乱暴に縫われている光景に、露骨に眉を顰め、もっと丁寧にやれと視線で語っていた。
 突然、医師たちに体を持ち上げられたかと思うと、点滴台が繋がったまま車椅子に乗せられた。腱まで繋げていないから、自力で歩くことは出来ないのだ。
 看護師に包帯を巻かれ、麻酔が抜けるまで横になるベッドルームに連れて行かれる。
 俺が扉の向こう側に消えていくその瞬間まで、アルフォドの視線を痛いほど感じていた。






 怪我をしたと気がついたのは、朝目覚めたとき自力で立てなくなっていたからだ。
 疲労かと思って横で寝ていたトリエラに助けを求めた。
 彼女に無理やりにでも起き上がらせてもらえば大丈夫だと楽観して。
 だがトリエラが俺の腫れあがった足首を見た瞬間、やってしまったなと笑ってしまった。
 二人であのいけ好かない人形野郎に一泡拭かせてやろうと約束していたのに、一時的に離脱する結果になってしまったのがとても情けなくて。
 まあ、それでも足の交換で全てがチャラになるなら恵まれている方だと、横になったベッドで俺は瞳を閉じた。










 そこは暗い暗い部屋でした。
 
 私を苛む全身の痛みは夜になって酷さを増しました。

 犯されたという屈辱と、殺されてしまうという恐怖と、あの人に会えなくなるという絶望が心を支配します。

 ねえ、ユーリ。私はここにいるよ。

 だから、たすけて。

 ユーリ。










 足首が痛くて真夜中に目を覚ました。麻酔が切れて鈍痛が絶え間なくやってくる。義体の体は痛みに強い筈なのに、薬で感覚神経を強化されている今では何の役にも立たない。
 枕に顔を埋めて荒い息を吐いた。
 そのときになってようやっと、自分の頬が涙で濡れていることに気が付いた。眠っているときに流した涙は枕を文字通り濡らしていたのだ。
 あまりに痛いので、ナースコールでも鳴らしてやろうかとした矢先、カーテンの向こう側で誰かが動くのを感じた。思わず体を強張らせ、臨戦態勢を取るが痛みの所為で全然様にならない。
 カーテンがゆっくりと開かれる。そしてそこに顔を覗かせたのは昼間俺を見ていた彼だった。
「………アルフォドさん?」




 パジャマの上からアルフォドのコートを着せられ、俺は車椅子に乗せられて拉致されていた。体調の関係で痛み止めを飲めなかった俺を不憫に思ったのか、気を紛らわせるため夜の散歩に連れ出してくれたのだ。
「星が綺麗だぞ。ブリジット」
 病院棟の屋上に出て、星を見上げる。そういえば何時ぞや二人して天体観測をしたこともあった。ジョゼとヘンリエッタの真似をしたのだ。
「まあ君のほうが星座は詳しいか」
 熱を持った傷口が夜風に冷やされて、痛みが少しだけマシになった。俺は車椅子の背もたれに身を沈めた。
「もう直ぐ春も真っ盛りになって夏が来る。そしたら何処かリゾート地に遊びに行こうか。知り合いにタオルミーナで別荘を持っている奴がいるからそこを訪ねるのもいい」
 アルフォドは一人で喋り続けた。俺は黙って耳を傾け、星の行く末を見つめている。
 また来年も、こうして二人で星を見ていられるかどうか漠然と考えていた。
 


 
 
この世界で出来る限りのことをして生きていこうと決めた。


でもピーノはそれを良しとせず、シナリオのレールを生きている。


ある意味でそれは、俺が生きたいと思った人生なのかも知れない。









手術が始まって、切り落とされた両脚が懸架台に乗せられる。人の足というものは以外に重くて、医師二人係で運搬をしていた。
両脚を切断されたブリジットはアイマスクが被されていて、何らかの要因で覚醒してもパニックにならないよう視界が封じられている。そしてそんな黒い布の隙間からぽたぽたと彼女の涙が流れていた。
「ドクター、義体が泣いています」
 手術を指揮していた男がブリジットの顔を覗き込んだ。なるほど、確かに泣いている。
 彼は拭いてやれ、とガーゼを手渡し、部下の医師にこう言った。
「この子達は眠ると大抵涙する。大方、本当の自分の夢を見ているのだろう」






 

 このところ、本当の自分がどんな姿をしていたのか全く思い出せなくなってきた。

 覚えているのは性別が男で、引きこもりで、世間一般でいうオタクだった。

 まあ、そういった趣向の人間だったからこそ、こうやって原作知識を持ったまま日々を過ごすことが出来るのだが。

 役に立っているかいないかは別にして。

 このブリジットという体はいろんな夢を見せてくれる。

 自分は見たことも無いようなイタリアオペラのワンシーンやら、知らない筈のイタリア人の友人達。

 家族のことは靄が掛かって曖昧だが、それでも幸せな人生に見える。

 一つだけ不可解なのは、時折湧き出すアルフォドではない男の顔。

 それは自分が始末した狙撃犯の顔で、もしかしたらこれはブリジットの元の人の記憶ではなくて、俺の記憶なのかもしれない。

 仮にそれが正しいのなら、この体が持つ記憶は俺に書き換えられていることになる。

 そのことを考えると無性に悲しくなって、居た堪れない気持ちになる。

 俺が憑依しなければ、この肉体で生きていた筈の彼女が完全に消えてしまうからだ。

 でもそれはどうしようもないことで、仕方の無いことだと思う。

 せめて俺が彼女のことを心の何処かで意識してやることが唯一の罪滅ぼしなのかもしれない。


 夢の終わりが近づき、世界が変わる。
 自身の中で渦巻く記憶の海の向こう、
 振り返ったその先で、こちらを見ている赤毛の少女がいた気がした。





 



足の交換手術が終わって、覚醒したのは翌日の午後だった。
 夜の散歩をしたときみたいにアルフォドの姿は無く、彼が仕事に忙殺されていることが容易に見て取れる。
 俺は手元のナースコールを鳴らさずに、ぼうっと眠たい頭で横になっていた。
 そして見舞いに来たエルザとアルフォドが俺の名前を呼ぶまでずっとそうしていた。


 直った筈なのに、足はまだ痛む。



[17050] 第38話 訓練再開の日 【ついでにアンジェリカのこと】 
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2010/09/19 11:10
 俺宛に届いた久しぶりの電話は妹からだった。
「もしもし、兄さん? 今年は帰ってくるの?」
 生まれ故郷であるドイツで暮らしている家族とはもう数年会っていない。ブリジットの担当官になってからは、まともな連絡すらやり合っていなかった。
「すまない、今年も帰れそうにないよ。仕事が立て込んでいる」
「……母さんはもう怒ってないって言ってるよ。いくら死んだ父さんの跡を継いでいるからって、そこまで外国に身を捧げる必要はないと思うな」
 家族には公社で働いているとは一言も伝えていない。未だに彼らは俺が軍警察で働いていると思い込んでいる。
「俺にとったら、父さんと暮らしたこの国こそが故郷だよ。そっちには友人もいないし、職もない」
「兄さんならどこからでもスカウトが来るよ。現役の軍警察官でしょ」
「なら職務は全うしないとな。俺はこの後用事があるから切るぞ」
 受話器を下ろして一つ溜息を吐いた。ノートパソコンの青白い画面を見るとメールが一通届いていた。妹からの追撃かと思って送り主を確認してみたら職場のビアンキからだった。
 文面にはブリジットの手術が無事終わったという旨が書かれている。
 俺は椅子にかかったジャケットを羽織ると、窓の外から見えている病院棟に足を向けた。








 ――一週間後

 手術が終わって丁度一週間。新しい足に慣れるため、俺は公社の外周をひたすら走り続ける訓練をやらされていた。少しだけ大きさが変わった足は時々もつれそうになって、彼是五回は転んだ。本来なら直ぐに馴染んで自由に動かせるようになるのに、体に溜まっている疲労のお陰で中々上手くいかない。
 そんな中、歩道に倒れこんでいた俺に声を掛けたのは意外な人物だ。
「えと、ブリジットさんですよね。大丈夫ですか? 気分でも悪いんですか」
 見上げた先に天使はいた。
 恐る恐る俺の視線を受け止めるのは長い髪をポニーテールに結ったアンジェリカ――アンジェだ。彼女も最近退院して現場への復帰のためにリハビリを続けている。
「ああうん。大丈夫。転んだだけだから。あと私のことは呼び捨てでいいよ。敬語はむず痒い」
「わかりました。ブリジットさん」
 にこやかに笑うアンジェに俺は苦笑を禁じえない。相変わらず敬語のままだと指摘してやると、彼女は顔を真っ赤にして恥ずかしがった。
 





 マルコーからランニングを命じられたという彼女と共に暫く走っていると、ベンチに腰掛けるマルコー本人を見つけた。どうやらここで監督をしているらしい。
「何だ、ブリジット。お前もランニングか? こんなちゃちな訓練じゃ体も鈍るだろう」
「いえ、今は鈍らせられる健康な体がありませんから。交換した足に慣れるので精一杯です」
 そう言って、履いている短パンの裾を捲り上げてやった。白い肌地に赤い線が入っている。
足の手術の跡だ。
「まあお前が慣らし運転をしているのなら好都合だ。アンジェを連れてお前の訓練メニューに参加させてやってくれないか? いい勉強になる」
 突然の申し出に俺は思わず「は?」と聞き返していた。少し乱暴な口調だったかと内心冷や汗を掻くが、マルコーは特に気にした様子も無く言葉を続けた。
「如何せんアンジェリカは実戦を離れていた期間が長いからな。つい最近まで前線に立っていたお前の動きを学ばせたい」
 マルコーの言うことは最もだと思う。これでも中々の場数はこなしてきた。だが「はい分かりました」と安請け合いする訳にはいかず、アンジェリカと共に行動する点のメリットとデメリットを考えてみる。
 先ずメリットとしては、彼女と付き合っていれば自然と本編のシナリオに関われることか。
 お世辞にも幸福な結末とは言えないアンジェリカのこれからだが、物語の根幹に関わるエピソードを彼女は沢山持っている。俺の少しでもマシな結末を目指すという欲求を満たすのなら避けては通れない道だ。
 他にも考えればいくつかメリットがあるのだろうが、今はこれくらいに留めて置く。重要なのはデメリットの方だ。
 俺が危惧しているデメリットの筆頭は、アンジェリカの暴走を果たして止められるかという事だ。これから薬の依存症に悩まされるアンジェリカは意図せずして公社の職員を傷つけてしまうだろう。仮に俺がその場に居合わせてしまうと、ただでさえ不都合を抱えすぎている身の上なのに、さらなる不都合を背負ってしまう。
 出来ればそういった面倒事は勘弁願いたかったし、ピノッキオとの決戦が終わるまでは自身の戦闘力の強化に努めたいという考えもある。生半可な訓練では返り討ちにあうのが関の山だからだ。
 だが結局、俺がマルコーに返した返答は了解の意だった。
 断る適切な理由を上手く思いつけなかったというのもあるし、何より一番大きかったのはアンジェリカがこれから通る道はまず間違いなく俺が通る道で、この世界における現実として目に焼き付けたかったからだ。
 せめてこの目で、義体がどういう最期を迎えるのか知りたかった。






 マルコーと別れた俺たちはとり合えずシャワーを浴びるために寮へ向かった。アンジェの部屋は寮ではなく未だ病室にあったが、シャワーを浴びるだけなら寮でも可だ。
俺の後ろでは不安げな表情でアンジェリカがとぼとぼ歩いていた。





シャワールームの外で服を着替えて待っていると、中から殆ど裸のブリジットが出てきた。彼女は素早く寮の廊下を駆け抜けると、クラエスがいる彼女たちの部屋に飛び込んだ。どうやら着替えを忘れてしまったらしく、部屋の中からはクラエスの小言とブリジットの気の抜けた謝罪が聞こえてくる。
一瞬だけ見えた裸のブリジットはとても綺麗で、女の子の私も思わず見惚れてしまうほどだった。
冬の夜に私の病室を訪ねてきたときも彼女はあんな感じで、いつも話の中心にいる。
それは遠い昔に読んだ――今は殆ど忘れてしまった物語の主人公のようで、私は羨望の眼差しを送るしかなかった。
部屋から出てきたブリジットは厚手のコートにデニムのジーンズという出で立ちで、手にはライフルケースを抱えていた。
これから彼女の担当官に掛け合って射撃レンジを使うらしい。私は頭一つ大きいブリジットに手を引かれながら黙って彼女の後ろをついて行った。





その日の夕食は直前まで一緒にいたブリジットと取ることになった。食堂に向かった私たちは既に席についていた三人の義体に名前を呼ばれる。
「ありゃ、トリエラじゃない。何でここにいるの?」
「つれないね。喜んでくれると思ったのに」
 悪戯っぽく笑うトリエラは、訓練に一段落が着いたから帰って来たと話した。ブリジットと話す彼女は活き活きとしていて、二人は仲のいい姉妹に見えた。トリエラもこんな感じで笑うのかと考えると、とても不思議な気分だ。
「ところでブリジット、足代えたの? 痛くない?」
 ブリジットの足と言えば、今日の訓練中もそうだった。彼女は時より歩きにくそうに振舞っていた。本人曰くどこか痺れた感触らしい。
 けれど彼女はトリエラに対しては何事も無かったかのように笑って見せた。
「大丈夫大丈夫。あと一週間もすればGISの巣に帰れますよっと。はあ、また投げ飛ばされるのか」
「私なんか顔面をしこたま殴られたよ。ブリジットはまだマシな方だと思う」
 二人で楽しそうに談笑する。一緒に食事をするクラエスやエルザも機嫌よくその様子を見守っていた。
 私はその輪に入る方法も勇気も持ち合わせていなかったけど、今はこうしてその雰囲気を味わえるだけ幸せだと思った。
 多分これが、私たちに与えられた小さな幸せなんだと思う。










 ブリジットが退院してから一週間経った。デスクで残業の準備をしているとマルコーに声を掛けられる。彼から差し出されたタバコを受け取って二人して火をつけた。
「今日はブリジットにアンジェリカの面倒を見てもらった。助かったぜ」
「礼ならあの子に言ってくれ。僕は何もしていない」
「俺はお前の義体教育がいいからだと思うけどな」
 マルコーの台詞に俺は違うと答えた。やや口調を荒らげた所為か、マルコーは目を丸くしてこちらを見ている。
「あの子は昔からそうだよ。誰にでも優しくて、誰にでも笑いかける。――だからいつもボロボロだ」
 マルコーは肺に溜まった煙を一通り吐き出した後、瞳を伏せてこう言った。
「そいつは悪かったな。でもお前の影響も少なからずあると思うぜ。別に実家に帰るくらい誰も咎めないのに、ブリジットがいるからって頑なに拒んでいるそうじゃないか。お前が一つ留守番を申し付ければ彼女は幾らでも待つだろう。真面目すぎるんだ。お前は」
「世界で一番似合わない言葉だよ。それは。彼女が真面目なのは俺がぐーたらだからさ」
 マルコーは何も言わなかった。
 ただ靴の底でタバコの火を消すと、その場を去ろうと背中を向ける。
 俺はそんな彼を呼び止めた。
「マルコー、もっとアンジェリカの事を見てやれ。昔のお前は何処に行った? 今のお前はアンジェリカに向き合っていない」
 お世辞にもブリジットと向かい合えているとは言えないが、それでもマルコーアンジェ組よかは、という考えが俺の中にあった。マルコーはそんな俺の浅はかな考えを感じ取ったのか、皮肉に満ちた声色で告げた。
「お前もいずれわかる。あれだけ薬漬けにされた義体だ。ブリジットも直ぐにアンジェのようになるんだ。そしたら少しは俺の気持ちも分かるだろうよ」
「それでもアンジェはアンジェ。ブリジットはブリジットだ。彼女たちは本質的には変わっていない。それなのに回りの大人が自棄になってどうする。彼女たちに対する侮辱だ」
「なら一つ聞くが、お前はその手でブリジットを助けられるのか? 俺たち担当官はあいつらに命令して命を縮めることぐらい幾らでも出来るが、延命してやることは出来ない。お前はその無力感を知らないだけだ!」
 殆ど怒鳴るように告げられたマルコーの言葉に俺は反論の術がなかった。彼の言うことは正しい。だがそれで納得できるならこんなことで悩んだりしない。
「何故だマルコー。何故お前はそこまで割り切れる。お前はそんな人柄じゃない筈だ」
 タバコの火が落ちて、足元で消えた。マルコーは俺の疑問に搾り出すような声で答えた。
「割り切れないから俺はこの態度を取っているんだ。割り切れるならアンジェリカのことは忘れて仕事に生きてみせる」





 その日の晩、俺の電話には留守電が二つ入っていた。




 もしもし、兄さん? もう実家に帰って来いとは言わないから、せめて父さんの墓参りくらいは一緒に行こう? 明後日の父さんの命日に私と母さんはそっちに行くから。兄さんはローマの教会で待ってて。また時間は連絡するわ。



 もう一つ、再生する。



 えーと、アルフォドさん? こんばんは。ブリジットです。携帯電話が使えないみたいなのでデスクの方に電話しています。今日は一度も会えなかったので一応報告だけ。
 ――今日はアンジェリカと一緒に射撃訓練をしました。マルコーさんもアルフォドさんも入用だった見たいなので、ヒルシャーさんに監督して貰いました。連絡は以上です。
 あ、それと足の方はもう大丈夫なので心配しないでください。
 明日からはGISの方で訓練をやっても問題ありません。足首の件はお騒がせして申し訳御座いませんでした。
 ではお休みなさい。
 ……えーと、留守番電話ってこれでいいのかな?
 ねえークラエスー……







 再生が終わった後、俺は一人仕事場で天を仰いだ。
 こうでもしていないと、油断してしまえば弱音を吐いてしまいそうになる自分がいて嫌気が差した。
 夜が更けていく。
 落ちて燃え尽きようとしているタバコの火だけが、俺の足元を照らしていた。
 
 




[17050] ガンスリ劇場4 シリアス好きにはオススメ出来ません 【ついでにMCみたいなこと】R15かも
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2010/08/26 01:19
ガンスリ劇場4 ここだけの話、寝取られとMCは大好物でしたブリジットさん




※今回は特に下ネタが酷いので、苦手な人はスルーでお願いします。




 
「はーい、皆注目―。今日はクラエスから御題を預かっているので我々はそれに従って行動したいと思いまーす」
「はいはーい、質問ですトリエラさん」
「何でしょう、ブリジットくん」
「一コマ劇場で散々下ネタに走ったのはいい思い出なんですが、今回もそっちの路線なんでしょうかー?」
「もちろんクラエスが用意した御題をこなすからには下ネタは覚悟せねばなりません。前の純潔は守っても後ろの純潔が守れないとかは日常茶飯事です」
「なにその嫌な覚悟。私は降りるわよ」
「おっと、エルザくん。今回の御題はブリジットを散々弄くる内容ですから心優しいあなたにはハードルが高いようですね。わかりました。無理にとは言いませんから退出してもらって結構です」
「は? 何言ってるのトリエラ。さっさと御題を発表しなさいよ。紙面と体力の残りは限られているわ」
「……微妙なメタ発言が多いねエルザは。まあいいけど。それじゃあ御題を発表します」
「ちょっと、私の意見は?」




 ドキッ★ 皆で仲良く初めてのMC体験! 気になるあの子を従属させちゃえ!



 三人の真ん中に嫌な振動を続けるモザイクと、乳白色色の液体が入った特殊な注射器が置かれる。
  


「さっ、最低だ! クラエスの御題もそうだけど、一緒に用意された器具が最悪すぎる!」
「あら、怖気づくのは早いわよ、ブリジット。本番はこれからなんだから。それじゃあ今回のルールを説明するね。先ず初めに全員でくじを引いて、MC――マインドコントロールを掛けられる人と掛ける人を選ぶの。次に掛ける人はこの箱からもう一回くじを引いて、被害者に掛けるMCを決める。簡単でしょ?」
「ひ、被害者って言った! 被害者って何それ! それに私たちは本編でもある意味MC被害者だからこれ以上の上書きは危険な気が!」
「あら、向こうの世界がこっちに影響を及ぼしても、こちらの世界からは何の影響も無いわ。だからこそ、私とあなたはシスターになれるの。……性的な意味で」
「前から薄々気が付いていたけど、君は百合属性持ちだな!? 大体私は中身は男だ! あとメタ発言が多いよエルザ!」
「はん、男かどうかなんて付いてるか付いていないかの違いでしょう。……まあ付いているお姉さまが攻めで私受けもそそるけど」
「うわーん! 変態だー!」



 気を取り直して御題スタート。それぞれくじを引く。



「うわ、被害者はよりによって私か!」
「お、私が掛ける側だ」
「ちっ。――お姉さまに色々出来るチャンスだったのに……」


  MC被害者 ブリジット
  ご主人様  トリエラ

  引いたMC内容……被害者をメス猫にすること。



「めっメス犬じゃない辺りマニアックさが半端ない……!」
「まあブリジットは猫だからねー。それじゃあMCいってみようか。因みに今回はオーソドックスに謎の薬剤を使ってみます。洗脳薬ともいうね」
「……そもそもどうして私たちは素直にこんなくだらない御題をこなしてるの?」


 薬を嗅がされるブリジット。徐々に目が虚ろになり、催眠状態に陥る。


「えーと、目が覚めて私がこの泥棒猫め! と告げたらブリジットはメス猫になります。どうしようもないドスケベなメス猫になります。ご主人さまの私が大好きです。私しか目に入りません」
「指示が細かすぎるわよ……」


 目が覚め辺りを見回すブリジット。次の瞬間トリエラが「この泥棒猫め!」と叫ぶ。


「にゃっ!? にゃにゃにゃにゃにゃ!」
「うわ! 本当に猫になった! 斜め七十七度七斜めて言ってみて」
「にゃにゃめにゃにゃじゅうどにゃにゃにゃにゃめ!」
「かっわあいいー!」
「……何処かで聞いたことのあるネタね…… ところでトリエラ、全然ドスケベじゃ無いんだけど」
「ん? そういえばそうだね。どうしてだろう?」
「指示が甘かったのか複雑すぎたのかも……。――あら、何か急にもじもじし始めたわ」
「わわわ! 顔舐めてきた! もしかしてこれは発情期!? ってこらエルザ! 何でブリジットのズボンに手をかけてるの!」
「え、いや。お姉さまが本当に発情期なのか確認を……」
「あのさ、本人の記憶が消えるような暗示は掛けてないから、戻ったときが怖いよ」
「それはお互いさまじゃ……」



 長くなったので後半戦に続く。





            ◆◆

 第四部あとがき

少し短いですが、第四部はこれで終了です。次は第五部となり物語の大きな転換期となります。本来はここで完結の予定なので、無事に第五部が終了すれば一つの大きな区切りとなります。その後の身の振り方などの詳しいことは、また五部のあとがきでお知らせします。
毎度同じことを書いている気がしますが、ここまで執筆できたのも応援して頂ける皆さまのおかげです。この場をお借りして御礼を申し上げます。これからもどうかよろしくお願いします。
それでは再びこのあとがきで皆さまにご挨拶できることを願いつつ。


追記 37話のタイトル変更、またご指摘いただいた誤字脱字の修正をしました。



[17050] 第39話 IL TEATRINO 【僕は人形、人間にはなれない】 2
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2010/08/26 22:07
 前の人生は、自分で言うのもあれだけど本当に碌でもない人生だった。
 薄給で深夜遅くまで現場に駆り出され、怪我をしてもまともな給付を得られることは出来なかった。
 挙句の果てには、勤務先で突っ込んできた乗用車に押しつぶされあっさりと死んでしまった。
 居眠り運転だった。





 だが僕は死のその瞬間まで、何一つ悲観することは無かった。
 この世に思い残すことなんてこれっぽっちも無かったし、仲の良い友人といっても大学で出会った男友達が一人だけだった。
 ぎりぎりと体が潰され、全身から血と肉が溢れ出ていくなか、僕はその世界と別れを告げた。






 次の人生がもしあるのならば、せめてもっと幸せな人生であることを願いながら。








 ILTEATRO  僕は人形、人間にはなれない。







 長いこと、果ての無い迷宮をさ迷っていた。そこはとても真っ暗で静かな場所だった。
 僕は音も光も匂いもないその世界で、発狂と覚醒を繰り返しながらただ歩き続ける。
 地獄というものは信じていなかったけど、これが地獄だと誰かから教えてもらったら素直に信じてしまうような、そんな場所だった。
 歩けど歩けど光は見えない。
 もう何日も、何ヶ月もその暗闇に惑わされている。
 そして遂に日数も分からなくなり、気が遠くなるほど光を失ったときにそれは唐突に現れた。
 失っていた体が、
 はっきりとした自我が、
 僕という存在が再構成されていくのが分かった。
 これが新しい次の人生の始まり――つまり転生だと悟ったとき、僕は光に包まれた。
 その光はとても暖かくて、僕は思わず声を上げる。
 辺りに響く赤ん坊のような泣き声を聞いたとき、僕は生を実感した。

 

 二度目の人生には余計なおまけが一つだけ付いていた。
 僕はそれを神が与えた罰なのかもしれないと考えていた。
 この小さな頭の中には生まれ変わるときに消えてしまう筈の、前の世界の記憶がそのまま残っていた。
 僕はそんなものこれっぽっちも有難いと思わなかった。
 まだ同じ日本に生まれたのなら兎も角、
 欧州のイタリア、そして以前とは全く違う家庭環境に送られた僕には日本で得た知識など殆ど役に立たなかった。
 それでも、優しい使用人や家族に触れるたびに僕の幸せはここにあるのだと思った。
 今度は死の間際くらい現世に悔いを残せるような、そんな人生を送りたかったのだ。








 僕の新しい家族は四人いた。
 父と母からなる両親。
 そして二人の姉。
 父は後から分かったことだけど、地元のマフィアを纏める組織のボスだった。麻薬や銃器の密売も行っていてしょっちゅう警察に睨まれていた。
けれど僕たち子供の前では絵に描いたような良き父だった。
休日は出来るだけ家で過ごし、二人の姉がスクールの夏休みに入ったときは家族五人でよく別荘に遊びに行った。僕を後ろから抱え込み、一緒に湖へ釣竿を垂らす父は頼もしかった。
前の世界では決して手に入らなかったものだった。
僕は父が大好きだった。




母はとても美人な人で、元は田舎のワイン畑のオーナーの娘だった。
僕のプラチナがかった髪色は母の髪色だ。
彼女は料理が上手で、夕食などの普段の食事は使用人に任せていたが、時折ケーキなどを作っては二人の姉や僕に食べさせてくれていた。
父との仲もとても良く、目立ったトラブルはそれこそ無かったと思う。
そして不思議と包容力のある人で、中身が大人である僕でも自然と甘えたくなるような人柄だった。
今更だけど、僕の新しい名前である「アルフレッド」と名づけたのは母だった。
彼女の祖父の名前から貰ったらしい。
僕は母が大好きで、彼女もまた、前の世界では決して手に入らなかったものだ。





上の姉の名前はエンリカと言った。
性格は母譲りの優しい人だけど、髪色は父の黒色だ。
僕が五歳になった頃にはもう大学に通っていて、随分と年の離れた姉だった。
彼女は使用人と共に時折僕を待ちに連れ出しては、社会勉強という名目で色々な史跡を見せてくれた。
大学でも古代ローマ史を専攻しているらしく、まだ年端も行かない僕相手に非常に熱心にコロッセオのことを語ったこともある。
ついでに婚約者も決まっているらしく、何度か家に連れてきているのを見ていた。
エンリカはとても幸せそうで、僕は彼女が家族の中で一番大好きだった。
誰かをここまで大好きになるのは、前の世界では決して無かったことだ。





 下の姉はイザベラと言った。
 上の姉とは五歳離れていて、母の容姿と父の性格を持っていた。
 彼女はとても静かな人で、いつも自室で本を読んでいるか中庭で鳥の観察をしていた。活発的なエンリカとは正反対の姉だ。
 けれど、僕のことを一番考えてくれていたのはイザベラだった。
 頭の中にある日本語のせいで僕がイタリア語の勉強に難儀しているときでも、彼女は自室から持ってきた絵本で根気良く言葉を教えてくれた。
 他にも色々と世話を焼いてくれたけど、一番心に残っているのはとある夏の午後の話だ。




 体も大きくなって、自分で好きに歩きまわれるようになったころ、僕は屋敷の中を探索のつもりで歩き回っていた。
 父が使用人に暇を出している所為か屋敷の中は閑散としていて、誰も僕のことを咎めなかった。
 けれど調子に乗りすぎた僕は、生まれてから一度も足を踏み入れたことの無い西館の中に迷い込んでしまった。普段は使用人の生活の場に使われているそこはとても薄暗くて、気味が悪かった。
 でも何より堪えたのは、延々と続く味気の無い廊下が何時ぞやの迷宮に見えたことで、僕は当てもなく世界をさ迷っている錯覚に陥った。
 自身の行動を嘆いてももう遅い。
 気が付けば僕は泣きながら走り回っていた。
 中身が大人だとか、そういったものを抜きにして、あの恐ろしい体験が目の前に迫っているようで僕は精一杯泣き続けた。
 もう二度とあの暗闇には戻りたくない。
 やっと手に入れた家族の幸せを失いたくない。
 僕はこの世界に来て初めて、自分が手に入れたものの意味を知った。前世の記憶は神の罰だと思ったけど大間違いだった。
 前世の記憶があるからこそ、僕はこうして生きているのだ。

「アルフレッド!」
 
 程なくして、僕は姉に捕まった。
 部屋にいないことを不信に思ったイザベラがわざわざ探しに来たのだ。そして彼女に手を上げられたのはこの事件が唯一だと記憶している。
 僕をぶった彼女はその後強く強く僕を抱きしめ、泣いている僕をあやした。
 僕はイザベラの胸に顔を埋めてわんわんと泣いた。
 この優しい姉が僕の手からすり抜けてしまわないよう、しっかりと抱きしめ返して。



 僕は生まれ変わったこの世界を、心底愛していた。





[17050] 第40話 IL TEATRINO 【僕は人形、人間にはなれない】 3
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2010/08/29 01:08
 懐かしい夢を見ていた。
 叔父さんに仕事を干されてはや一週間、一丁前に農作業が板に付いてきた僕は大きな木下で睡眠と覚醒を繰り返していた。
 夢の内容は僕がピノッキオとして生きる少し前の出来事で、まだ全うに世界を生きていた頃の話だ。



 けれども僕にとってその夢は夢でしかなく、今生きている二度目の人生でもその時期はまるで他人事のようにしか感じられなかった。
 僕はピノッキオでアルフレッドではないのだ。





 


 IL TEATRINO 僕は人形、人間にはなれない










 転換期が訪れたのは僕が10になるかならないかの時期だった。
 僕も当たり前のようにスクールへ通い始め、屋敷で迷って泣き出すことも泣くなった。
 上の姉は結婚し、家から出て行った。今は海外に住んでいて時たま国際便で向こうの景色が送られてくる。
 下の姉、イザベラは上の姉のエンリカと同じ大学に通い始め、多忙でありながらも充実した日々を過ごしていた。




 
 変化が明白になったのはその年の夏だった。
 屋敷に知らない大人が増え始め、父の顔を見る時間も随分と減った。馴染みだった使用人も次々と暇を受け取り、屋敷から去っていった。
 理由は今でも推測でしかないし、当時の僕ではてんで予測することも出来なかった。それよりもやっと手に入れた幸せを享受するのに精一杯で、回りのことなんか殆ど見えていなかった。
 だからこそ、神様は罰を下したんだと思う。










「仕事を干されたのか」
 見上げればフランコが立っていた。無精髭を生やした長身の男は僕の隣に腰掛けると手にしていた新聞を開く。
「ここはいい所だ。ローマからそう離れてはいないが、南部という土地柄のお陰で潜伏していられる」
「当局は北部にしか関心は無いから」
 僕はタバコを取り出し、火を点けずに咥えた。一度咥えてから出ないと、片手しか使えない今では吸うことも出来ない。
「……その腕はどれくらいで治る?」
「早くて四ヶ月、と言った所らしい。完全に使いこなすにはさらに一ヶ月かな」
 フランカが連れてきた医者の見立てではそうなっている。トリエラの馬鹿力のお陰で綺麗に折れたのが逆に良かった。中途半端に粉砕されてしまうとそれこそ手術ものだ。
「クリスティアーノは何と言っていた?」
 フランコが問うているのは先日掛かってきた叔父さんの電話だろう。結果的にメッシーナ海峡の破壊工作を失敗した僕らは叔父さんの叱責を受けることとなってしまった。
 特にモンタルティーノでトリエラを殺しそこなった僕は役立たずとまで言われてしまった。
 ただ、ここまでの展開は大体原作通りなのでそこまで心配はしていない。
「殺せない殺し屋は要らないんだって」
「厳しいな。それでもお前はクリスティアーノの言う事を聞くのか?」
 フランコの疑問に僕は笑った。
 別に彼の質問が骨董無形だったからではない。あまりにも当然のことを聞かれて思わず噴出してしまっただけだ。
「まあね。それがピノッキオだから」
 僕の答えにフランカがよくわからないといった表情を向ける。僕はそれがますます面白くて「ははは」と声に出して笑った。


 春の温かい風が、ブドウ畑を揺らしている。








 神に復讐しようと思った。
 どうしてなんて聞かないで欲しい。
 そうでもしないと、僕は自分のことが分からなくなる。






         ●





 マフィアのつまらない抗争だった。
 自分の組織が人身売買に手を染めていると知った父が、警察に該当者を突き出そうとしたのが問題だった。
 逆恨みした彼らは、武装させた組員を屋敷に雪崩れ込ませ父を殺そうとした。
 それはマフィア同士の抗争を装って人身売買の事実を隠そうとしたのかもしれない。
 でも僕にとってはそんなことどうでもよくって、家族を殺されたという事実だけが襲いかかってきた。
 僕はどうすることも出来なかった。






 イザベラに押し込められたクローゼットで、どれくらいの時間膝を抱えていただろうか。
 初めて感じた死の恐怖と絶望感に塗りつぶされた僕は、泣くこともできず、ただぼうっと暗い密室に閉じこもっていた。
 外から聞こえていた叫び声も銃声ももう聞こえない。
 けれど頭の中では最期に聞こえたイザベラの叫び声が焼きついていて、どれだけ振り払おうと消えてくれることは無かった。
 僕は目の前に佇むクローゼットの扉を開けることが出来なかった。
 これは箱の中の猫に似ている。
 この扉を開けてしまうと、僕を待っているのは絶望か希望だ。
 もしかしたら抗争の最中に警察が来て皆無事かもしれない。イザベラの悲鳴も気のせいかもしれない。
 それとも皆殺されてしまっていて、下手人も逃げおおせた後かもしれない。
 そのかもしれないを確かめることが僕にはとても怖くて出来なかった。
 この扉さえ開けなければ、夢は夢のままでいられる。僕がやっと手に入れた家族もそのままで、明日からは皆との楽しい暮らしが待っているのだ。
 今思えば、僕はそのときからおかしくなってしまっていた。
 きっとあの暗闇で絶望と戦っていたときから、アルフレッドという人物は死んでしまったのだと思う。





 

 クローゼットの扉が外から開けられる。
 僕は饐えた血のにおいを鼻に感じながら、徐に外を見上げた。
 そこに皆を殺した犯人がいるのなら、いっそのこと殺してくれと思って。
 けれども、いつまで経っても僕は殺されない。
 その代わり、アルコールの匂いと男の気の抜けた声が聞こえた。
「……お前はこの家の生き残りか?」






         ●




 



「……それでお前はクリスティアーノに拾われたのか?」
「ああ。生き残っていたのは僕だけだった。上の姉さんは嫁いでいたから助かったけど、他は皆殺された。叔父さんと先生はうちの屋敷の襲撃を察知して様子を見に来たんだ」
 ここまで饒舌になったのは僕と同類の義体と出会って以来だった。済し崩し的に昔話をし始めたら口が止まらなくなったのだ。
 あの日、先生――ジョンドゥと呼ばれる人に見つかった僕はそのまま叔父さんの屋敷に連れて行かれた。
 そしてあの屋敷で起こった虐殺の真意を公安に知られるのは不味いとして、そのまま叔父さんの下で暮らすことになった。
「上の姉は生きているんだろう? 会いたいとは思わないのか?」
「いや、姉さんも僕が叔父さんの下に行って直ぐに自殺したよ。どうやら自分だけが生き残ったのが耐えられなかったらしい。家庭もあったのに多分そうとう参っていたみたいだ」
「ならどうしてお前はクリスティアーノに忠誠を誓う? その話なら恨みこそすれ忠誠を誓うとは思えない」
 フランコの疑問は最もだと思う。僕も他人の視線から見たらそう感じるだろうし、実際似たような感情は抱いたこともある。
 でもそれを説明するには叔父さんから名前を貰ったあの日のことを思い出さなければならない。





 クリスティアーノから名前を聞かれた。
 僕は答えなかった。
 アルフレッドはもう死んでしまったから、名乗る名前なんて無かった。
 だから彼から名前を貰った。


 ピノッキオ。


 人間だけど人形な可愛そうな名前だ。
 でも僕はその名前がいたく気に入った。
 クリスティアーノの姿を見てから、そして共にいたジョン・ドゥという男から僕はこの世界が前世の記憶の中にある世界であることを知った。
 その事実を知ってから、僕は家族を殺した犯人を憎まなくなった。
 それどころか、あれ程愛していた家族の実感が湧かなくなった。


 当たり前だ。
 もしここが本当にGUNSLINGER GIRLの世界なら、僕が愛していたあの人たちは物語の中の偽者で、僕自身も実体を持たないただのアクターだから。
 神が僕に下した罰は創造を絶する地獄だった。


 死して尚、僕は僕の決めた人生を生きることが出来ない。
 生まれ変わった世界が物語の世界など、空虚で悲しく、そして切ないだけだ。


 僕が得たピノッキオの名から、あの悲しい暗殺者の役割は僕が背負うことになったのだろう。
 その証拠にクリスティアーノはもう少年を拾ってこなかったし、僕自身もクリスティアーノの手駒として生きることとなった。
 一時は原作と違った人生を生きようとも考えた。けれども自分の存在が架空のものだと思えば思うほど、そういった気勢は削がれる一方だった。
 そして初めてこの手を血に染め、自分より年下の女の子を殺したとき、僕はもう逃げられないことを悟った。
 

 僕の神への復讐はピノッキオとして生き、そして死ぬことだ。
 何を思ってこの世界に前世の記憶を持ったまま転生させたかわからないが、この世界の知識を使って自由気ままに生きるなんて、僕には耐えられない。
 ならせめて反抗の意味も込めて、原作通りに振舞って見せる。
 そうすれば、この空虚な感覚にちっぽけな意味を持たせられると信じて。




 決戦は近い。
 僕はその日まで人形として生き続けてみせる。




 



 
 



[17050] 第41話 IL TEATRINO 【俺は人間、人形にはなりたくない】 4
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2010/08/29 17:42
 実際のところ、四ヶ月という月日は人を変えるのに十分すぎる時間だと俺は思っている。それは俺自身が一番感じていることでもあるし、目の前で格闘訓練を続けるトリエラも同じことを体感しているだろう。
 GISとの合同訓練も終了し、来るべき日に向けて俺とトリエラは二人で自主練習をこなす。
 弁図上はあのいけ好かない人形野郎を打倒する事だ。
 けれども俺は自身が持つ反射速度の限界とピノッキオとの決定的力量差を痛感しながら、心の何処かでこの戦いに疑問を持ち始めていることに気が付いた。



 もしピノッキオが原作どおりの人物であるなら、俺は何も考えずにトリエラの無事を祈ってサポートすることだろう。
 だが現実では奴は俺と同じ異邦人で原作と同じとは到底言えない。まあ本人はどうしてだかわからないが原作再現を至上とする人物なので、トリエラが必要以上にダメージを受け殺されることはないだろう。
 一度はピノッキオの気が変わって、原作に反旗を翻す可能性も考えるには考えたのだが、俺がメッシーナ海峡で見たあの目がその説を否定した。
 あれは俺とは全く違う生き物で、俺の持ちうる考えなど何一つ当てはまらない。
 故に不気味でまた脅威でもあった。

 
 それに万が一の可能性も考慮して、出来るだけトリエラに負担が行かないプランも考えるには考えている。
 ただしこれをトリエラに話すと当たり前のように猛反対され、挙句の果てにはアルフォドに告げ口するとまで言われた。
 俺としてもそれはとても不味いので、ならこうしようと提案を出した。



 

 一本勝負で組み手をしよう。私が勝ったらトリエラは私の提案を聞き入れて。





 勝機に自身があるからこその提案だ。 
 そもそもトリエラに勝てないようでは、俺のプランは根本的に瓦解してしまうのだが。









 IL TEATRINO 俺は人間、人形にはなりたくない









 ブリジットを尋ねてエルザは彼女の部屋に向かった。
 最近、訓練やら何やらで甘えられなかったというのもあるし、何より彼女が何かを一人で背負っているように見えてエルザは心配でならなかったのだ。
 部屋ではクラエスがキャンパスに絵を描きながらベッドに蹲るトリエラの愚痴を聞いていた。内容はよく聞き取れなかったが、時折出てくるブリジットという人名から自分が探している人がまた何かをしでかしたのだと、エルザは思わず溜息をついた。
「あら、ブリジットならここにはいないわよ。今日はまだ帰ってきていないわ」
 こちらに気が付いたクラエスがそんなことを言った。なら何処にいるのかと問うて見れば、クラエスはこんなことを言った。
「さあね。そこでめそめそと泣いているお姫様なら知ってるかもしれないけど――言いたくないのね?」
 ベッドから顔を上げずにトリエラは頭を振った。こんな子供っぽい仕草をするトリエラはとても珍しく、もしかしたらブリジットと喧嘩をしてしまったのかもしれない。
 それはそれで如何なる同情にも勝る同情が湧いてきたので、エルザはトリエラを慰めてやりたかったが、如何せん彼女には方法が思いつかなかった。
「いいのよエルザ。トリエラは私にまかせて。あなたはまだ帰ってこない王子様を探して。あの子気まぐれだから今日はもう帰ってこないかもしれない」
 わかった、と了承の意を伝えてエルザはブリジット達の部屋を後にした。
 エルザは何となくだけど、ブリジットがいるところが分かったような気がした。











 最近、これで良かったのだろうかと思うときがある。
 それはエルザを生かしてしまったあの日から、心の何処かで感じていても敢えて無視し続けた考えだった。
 ピノッキオは原作を至上とし、シナリオへの介入を良しとしなかった。実のところ、当の俺はその思想に反論する術を持っていない。
 それは何故か。
 結局のところ、俺が目指した少しでも優しい結末というのは自己満足の究極系であって、原作の登場人物が願っている幸せとは限らないからだ。
 出来れば俺の行ってきたことは俺自身が肯定してやりたい。
 だが俺はそんな甘ったれた考えを抱き続ける神経の図太さは持ち合わせていなかった。

 そもそも、どうして俺はこの世界で義体として生きているのだろうか。
 俺が宿ったこの体の持ち主はどうしてしまったのだろうか。
 もし俺が宿らなければ、アルフォドとブリジットという名の少女はどのような関係を築いていたのか。

 IFの考えが俺の頭を過ぎり続け、ますますピノッキオのスタンスが本当は正しいのではないのだろうかという思考に陥っていく。
 このスパイラルは今後の決戦においても非常に危険なものだと理解しているのに、どうしても止めることは出来ない。



 いっそのこと、全てを投げ出して何処かへ逃げてしまいたい。
 もっと欲を掻くなら、ピノッキオと出会ったときにそれぞれ打ち解けて、二人で力を合わせて逃げれば良かったのかもしれない。
 そんなことはありえないのだろうけど。
 でもこんな滑稽なことを考える程、今の俺は参っていた。

 昼間の、恨むような視線を投げかけてくるトリエラの顔が忘れられない。









「……やっぱりここにいたんだ」
 夏になって夜風も熱を帯びていたころ。寮の屋上では一人の義体がその長い黒髪を揺らしながら黄昏ていた。プラチナブロンドの髪を三つ編みにしたエルザはブリジットにそっと歩み寄った。
「それ、トリエラにやられたの?」
 ブリジットの頬には大きな湿布が貼り付けられていた。良く見ればまだ晴れ上がっていて、相当な力で殴られたに違いない。
 ブリジットは頬の傷を隠すように手を当てると、しんしんと輝く月を見上げた。
「ぐーでやられた。あんなに怒ったトリエラは初めて見たよ。まあ私が勝ったんだけど」
 ブリジットの声にいつもの明るさはない。ただ淡々と自身が犯した過ちを告白しているように見えた。
「どうして喧嘩したの?」
 エルザの問いにブリジットは遠い目をした。そして観念したようにこう告げた。
「私が無茶なことをトリエラに頼んだからだよ。トリエラは悪くないよ。あの子は私のことを心配してあそこまで怒ってくれたから」
「……どうせ、ピノッキオを一人で倒すとか言ったのでしょう」
「うわ。良くわかったね。エルザって本当はエスパー?」
「馬鹿な事言わないで。あなたが考えそうなことは直ぐに分かるわ」


 ……だって私もそうやって助けてくれたから。


 エルザの呟きははっきりとブリジットの耳に届いた。
 ブリジットはそっと微笑むとエルザをいつかの時のように抱きしめた。エルザはブリジットの背中をぽんぽんと叩いて、無理しないでと言った。
「ねえ、エルザ。私、トリエラには謝らない」
「ええ」
「けれど必ず帰ってくる。そしたらトリエラも安心してくれると思う」
「ええ」
「はは、自分勝手だね」
「何を今更」
 ブリジットはエルザから身を離した。そして彼女の手を引くと屋上から寮に戻ろうとした。
「ねえエルザ。今日は泊めてくれない? 部屋に帰り辛くってさ」
「別にいいけど、その代わり一緒に寝て頂戴」
 善処します、とブリジットが笑った。その表情は何処か吹っ切れたような顔をしていて、黄昏で見せた憂いの色はない。
 エルザはそれが酷く嬉しくて、握った手の平に力を込めた。










 砂地に転がされたトリエラは信じられないと言った表情をしていた。
 俺は彼女の胸元を押さえつけ、切れた口元から血を落としながら声を絞り出した。
「御免、私の、勝ち、」
 息も絶え絶えに勝利を宣言する。トリエラが身を捩り俺から逃れようとするが、俺はその首根っこを押さえつけて彼女を拘束した。いくら訓練といえども、ここまで乱暴に扱ったのは初めてだった。
「約束、覚えているよね」
 トリエラがいやいやと首を振る。でも俺はその意思を拒絶し、駄目だと告げた。
「私がピノッキオを殺す。トリエラは手を出さないで」
 トリエラが何かを叫ぶが俺は何も返さない。彼女の怒りは理解できる。本の少し前までは二人で頑張ろうと励ましあっていたのに、ここに来て俺が手の平を返したからだ。
 けれど、俺も譲るわけにはいかなかった。
 最近考え始めた幾多の疑問が俺を後押しする。俺はもう一度、あの男に会って話をしたかった。それはこの四ヶ月でどうしようも無いほど膨れ上がった願い。
「本当に御免なさい」
 直後、トリエラに殴り飛ばされて俺は宙に飛んだ。
 トリエラは目に涙を浮かべて、こちらを睨んでいた。
 俺が何も言えないまま、彼女は走り去って行った。



[17050] 第42話 IL TEATRINO 【僕は人形、彼女は亡霊】 5
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2010/09/03 16:33
「ねえ、ブリジット。どうしてあなたはトリエラを突き放したの?」
 ベッドの中、エルザは横で握力運動を繰り返しているブリジットに問うた。ブリジットは運動を続けたまま、こう答えた。
「……わからない、じゃ駄目?」
 エルザは何も言わない。ただブリジットの寝巻の裾を掴んで、彼女の胸に顔を埋めた。
 ブリジットの頬は白い剥れかけのシップが貼り付けてある。






 始まりは足の手術を受けたときからか。
 人生で初めての剥離骨折を経験した俺だったが、その傷が一週間足らずで完治するのは初めての経験ではない。
 俺はそこで、自分の体はどうしようもなく人からかけ離れていて、どう足掻こうと人形そのものであるということを再認識させられた。
 さらにはGISとの訓練で否応無しに向上していく反射速度を体感し、鍛え上げられたGIS隊員を投げ飛ばしてしまう筋力も改めて感じた。



 一つ一つは些細なことでも、それらは確実に俺を蝕んでいく。

 

 気が付けば、
人間の体を持つのに、人形のように生きるピノッキオと、
 人形の体を持つのに、人間になろうとしている自分を対比させていた。

 俺はそのどちらが正しいかなんて全くわからないし、どちらが正しいかなど比べようも無いのだろう。
 けれどもメッシーナ海峡で奴に突き落される時に脳裏を過ぎったのは、奴の境遇への嫉妬だった。
 それだけの身体能力と、薬漬けでない体があるのなら、
 何より最終的には自由の身になれる立場を得ているのなら、
 どうしてそこまで死に急ぐと。


 あの時から今に至るまでに生じた迷いは、頑なで強い。
 俺は奴に嫉妬したが為に、自身が行ってきた介入行為が本当に正しかったのか分からなくなってしまった。
 自分より恵まれたピノッキオが原作に従順なのは、それが正しいからではないのか。
 恵まれているのに敢えてそうするのは、そうする事でしか生きてはいけないからか。
 疑問は疑問を呼び、さらに俺の迷いを広げていく。


 俺はこの迷いを抱いたまま、ブリジットを演じ続けてはいけない。
 この迷いに乗っ取られたまま、この体を勝手に傷つけてはならない。
だがこの迷いを解決する方法は一つしかない。





もう二度と顔を見せるなと言われた。
そうするならば見逃してやるとも言われた。
けれど俺にはその気はさらさら無い。
俺はもう一度ピノッキオと相対し、そしてこの迷いを断ち切るため奴と刃を交える。

決局のところ、トリエラが心配だとかそういった感情は言い換えれば自己弁護に過ぎなかった。
思えばGISの訓練に耐え続けたのも、ピノッキオを殴り伏せてやりたいという興奮にも似た昂ぶりがあったからだった。
俺はピノッキオをどうしようもなく渇望していた。



         ●



 私はブリジットが少しだけ分からなくなっていた。
 二人で最初は共に訓練に励んでいたのに、何時の間にか彼女は何かを抱え込んだまま私を突き放した。
 違和感はブリジットがメッシーナ海峡から帰ってきたときだった。
 私はそこで彼女がピノッキオに挑んで敗れ、そして負傷したことを聞いた。
 正直その報告は私にとってショックだった。
 私の中でブリジットは公社の中でも一番強い子になっていたし、何より私が片腕をへし折ったピノッキオなんかブリジット一人で十分片付けられると思っていた。
 でも彼女は敗れた。
 傷一つ負わせられない惨敗だと聞いた。
 私はあのメッシーナ海峡の夜で、ブリジットを揺るがしてしまう何かがあったのだと思う。ピノッキオに何かを言われたのか、それとも何かをされたのか。
 変化は些細なものだったけど、月日を進めるたびに彼女の変化はどんどん大きくなっていって、最後には私を砂地に転がして泣きそうな顔で謝ってきた。
 私が思わず頬を殴りつけても何も言わずに、そして帰ってくることも無かった。
 病室でやっと通じ合えたと思っていたのに、私たちは何処か根本的なところですれ違ったままだった。
 その事に気が付いた瞬間、私は涙が溢れてきて柄にもなく泣いてしまった。

 私はブリジットが大嫌いで、
 何より大好きなのだ。



         ●



 エルザと話して吹っ切れたと思っていたのに、一晩経てばまた一人になりたくなっていた。
 彼女の寝床をそっと抜け出すと、ぱっぱと運動着に着替えて訓練所に出向いていった。
 すると彼女はいた。
「……おはよ」
「おはよう。ブリジット」
 ベンチマットの上で柔軟を繰り返すのはトリエラだ。普通に挨拶を交わしたのだから機嫌も直ったのかと期待してみたが、彼女はそれ以降、目も合わそうとしない。
 一人になりたくてここに来たのは間違いだったと思わざるをえなかった。
 そうだ。負けず嫌いの彼女なら、早朝からでもこの訓練場で自主練習をしている筈なのだから。
 俺は対になったベンチに腰掛、トリエラの柔軟を眺めていた。同じような動きをしてみようかと一瞬思ったのだが、目を離した隙に何処かへ行かれるとどうにも収まりが悪いので、このまま見守ることにした。
 トリエラがそんな俺に向かって声を発したのは五分ほど経過してからだった。
「本当に、一人でやるの?」
 俺はその疑問に即答で返す。是以外の答えは出てこない。トリエラは少し諦めたように頷くと、こう言った。
「私とブリジットって、やっぱり違うんだね」
 最初は言葉の意味が分からなかった。
 けれど、原作でヒルシャーに向けられていた拒絶が、大分遅れて俺の元にやって来たと気が付いたときにはもう手遅れだった。
「ブリジットは私がどれくらいブリジットのことを考えているか全然わかってないんだね。君は私のことを心配してくれているんだろうけど、君が心配するたびに私が心配するってわかってる?」
 淡々とトリエラは続ける。俺は反論しようとして、でも何も言葉が出てこなかった。
 何故なら俺はトリエラへの気配りを、自分への誤魔化しに使っていたから。
「私は馬鹿だからさ、ブリジットとは分かり合えた気分になっていたんだ。でもそれは違った。
 君は私を見ていないんだ」
 衝撃というには生ぬるい感覚で頭が殴られた。
 俺は震える足元を踏ん張りながら、トリエラを向かい合っていた。
「ねえブリジット。君は何を見ているの? どうしてそんなに私の知らないところばかり見ているの? それじゃあまるで亡霊のようだよ」
 
 トリエラの台詞は俺の奥底に突き刺さる。
 彼女の口から放たれた言葉は、俺が一番聞きたくない言葉だった。


 確かに俺たち義体は人間ではなく人形だった。

 でも、俺は。
 ブリジットでありながらブリジットでない俺は。

 少しでも踏み外すと、人形ですらない。




 昔エルザに叫んだのは俺の孤独だった。
 この世界で確固たる居場所がない俺はさながら亡霊のようで、突き詰めてしまえば誰も本当の俺を知らない。
 だからこそ俺は俺を認識してくれるピノッキオともう一度会いたかった。
 はっきりと拒絶の意思を示されても、出来れば分かり合いたかった。
 俺が恐れていたのはトリエラの負傷でも、自分の抱えた迷いを消せないことでもなかった。
 俺が本当に恐怖していたのは、俺を唯一認識してくれるあの男を失うことだった。


 それは何と醜く、何と自分勝手な言い分だろう。
 散々原作を弄んで、ピノッキオと離別する行為を続けていたというのに、俺は身勝手な理由でピノッキオを、トリエラを、この世界の人間を利用しようとしている。

 はっきり言って、そんな行為が許される筈が無い。
 それでも俺は縋り付くしかなかった。
 トリエラは何も悪くない。トリエラはただ、俺のそんな見るに耐えない姿を指摘しているだけなのだ。




「……何か、言い返してよ」
 俺は何も言えない。何も言える筈が無い。
「私、とても酷いこと言ってるのにどうしてブリジットは言い返さないの?」
 一歩、トリエラから逃げた。
 それが引き金になって、俺は彼女の前から一刻も早く消え去りたくて、足を進める。




 この日、俺とトリエラは決定的にすれ違ってしまった。いや、元からズレていたことに今更気が付いてしまった。
 もう、後には戻れないと思う。







 同刻。
 昨晩からデスクに詰めていたアルフォドは、ブリジットが部屋に戻らず、エルザの部屋に泊まったことについて問いただすべきか否かとひたすら考えていた。そんな彼の肩を叩いたのは、奇しくもヒルシャーその人だった。
「アルフォド、君は少し休むべきだ。実父の墓参りも結局キャンセルしたんだろう?」
「休みなら十分貰ってるよ。最近はブリジットの任務もないから落ち着いている」
 そんなアルフォドの台詞にヒルシャーは溜息を隠さなかった。
「僕が言いたいのはそういうことじゃないんだけどな……。ところでブリジットの暇だが、それも今日で終わりだ」
 アルフォドが怪訝そうにヒルシャーを見上げる。するとヒルシャーは一枚の書類を差し出してきた。
 その内容に、アルフォドは目を見開く。
「クリスティアーノの検挙。明日に決まった」
 終焉は着々と近づいている。



         ●



 原作とのズレはこんなところにも出てきた。
 叔父さんの検挙の知らせが一日前に届いたのだ。それは公社の対応の意味が原作から剥離していることの証明でもある。
 けれど結果的に生じる事象は原作と大差が無いので、僕は一日早く叔父さんの屋敷に向かうことにした。
 そうしないと、フランカフランコに不思議がられるし、実際どれくらい原作から乖離しているのか確かめる時間も必要だった。
 ただ僕の頭の中に残るのはあのイレギュラーな義体のことだ。
 正直な話、あの義体が取る行動は二つ予想できる。
 一つは僕の忠告を聞く、或いはどうせ死ぬ僕に興味を無くし何も干渉してこないか。
 もう一つは意地でも干渉して僕に挑んでくるか。
 まあ、二つ目の可能性については公社に強制され――というかかなりそうなる見込みが高い。
 これに関してはもうどうしようもないので、彼女に殺されることで僕の終わりを迎えるしかないと結論付けた。出来ればトリエラの手に掛かりたかったが、そもそも初邂逅の時点でズレが生じていたのだからある意味仕方ないと割り切るしかない。
 本来ならあの義体を恨んでしかるべきなのだろうが、不思議とそういった感情は湧いてこなかった。
 ただ彼女も彼女なりにこの空虚な世界に意味を持たせたかったのだと思うと、同情すら湧いてくる。
 あのブリジットと名乗った義体は、僕は愚か、彼女も原作で見つけることが出来なかった義体だ。
 僕のようにこの世界が偽りの世界だと気が付いても、彼女が指針とすべきシナリオが存在しなかったのだろう。
 それは何とも恐ろしいことで、悲しいことなのだろうか。

 多分、彼女は一人ぼっちなのだと思う。
 僕のようにピノッキオという拠り所が無いばかりか、ブリジットという呪縛にも似た体を与えられて、魂だけはそのまま亡霊のように彷徨っている。
 まるで僕が惑い、逃げ出してきたあの暗闇の迷宮に随時いるようなものだ。


 
同郷の好として、似た境遇のものとして僕は彼女を助けてやるべきなのだろう。
 でも、僕自身が僕の居場所を得るのに精一杯な以上、彼女を救うことは僕には出来ない。


 ならせめて、僕が原作通りにあの屋敷で死んで、彼女がまだ原作に縋っていけるようにしてやろうと思う。


 僕は体中に隠しナイフを仕込むと、誰にも見送られることなくそっとワイン畑を後にした。




[17050] 第43話 IL TEATRINO 【ピノッキオとしての生き方】 6
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2010/09/01 01:50
 内務省が以前から接触していた五共和国派の派閥から接触があったのは十三日の深夜だった。内容はクリスティアーノの所在地と屋敷の間取りを詳細に記した地図が送られてきた。
 そして見返りとして、国に拘束されている活動家数名の解放を要求してきた。
 要求に応じた内務省は、すぐさま公社にクリスティアーノの拘束を依頼。そして平行して進められるクリスティアーノの子飼いの暗殺者殺害作戦も立案されることとなった。


 アルフォドら担当官に届けられた書類はそれら作戦の分担内容のみを書かれたシンプルなものだった。
 対ピノッキオの切り札として鍛え上げられてきたブリジットの担当官であるアルフォドに届いた文面にはこう書かれている。


 屋敷に突入次第、暗殺者を捜索。早期に殺害すること。尚、トリエラとは二手に別れ、接触した方に応援するものとする。




 IL TEATRINO 【ピノッキオとしての生き方】




 僕が屋敷に到着したのは十四日の夕方だった。襲撃があるのは明日のこの時間当たりだ。
 屋敷は使用人が皆叔父さんに追い出されているからとても静かだった。
 僕は大きな鉄門を見上げながら、中へ通されるのを待つ。



 
 アレッシオという使用人の男がクリスティアーノにこう告げた。
「旦那様、下にピノッキオが来ています」
 自分の仕事机に腰掛、意味もなく新聞を読んでいたクリスティアーノの目が見開かれる。その表情には様々な感情が写されていた。
「何故だ。私は明日のことを奴には話していないし、そもそもフランカの所で大人しくしていろと命じたはずだ。奴が私の命令に背くはずなどありえない」
「ですが実際にこちらへ来ています。お通ししましょうか?」
 クリスティアーノはまるで言葉を失ったかのように口を閉ざした。そして暫く思巡したあと、ようやっと搾り出した。
「……ここへ連れてこい」


「どうしてここに来た」
 僕に向けられた言葉は辛辣なものだった。原作ではここまで厳しく問われていない。やはりズレが生じているのかと、僕は半ば諦めながら予め用意された台詞を答えた。
「叔父さんを助けに来たんだ」
 ここで返される台詞はよく覚えている。助けは要らないと言われて、それでも僕ことピノッキオは「おじさんが好きだから」と引き下がらない場面だ。
 後は適当に押し問答を繰り返して、この屋敷に明日まで居座ればいい。
 だが、
「今すぐフランカのところへ帰れ。ピノッキオ。ここにいればお前は殺されてしまう」
 叔父さんから帰ってきたのは僕が予想だにしない台詞だった。


 僕は数秒何を言われたのかわからなかった。だから問う。
「……どういうこと? 何で僕が殺されるの?」
 自分でも馬鹿な質問だと思った。殺されに来たのにこんな問いを僕は発していた。それだけ、叔父さんの告げたことの意味が理解できなかった。
「お前は知らないだろうが私の拘束と同時にお前の暗殺も計画されている。だから今すぐにフランカの元へ返れ。今ならまだ間に合う」
 しまった――と僕は思わず唇を噛んだ。
 ここに来てズレの意味がようやくわかった。それは僕がトリエラばかりか、ブリジットという義体まで退けてしまったことから生じたミスだ。原作ではさほど目を付けられなかった僕が、今この世界では公社の目の仇にされていてもおかしくない。
 つまりトリエラではなく、公社そのものが僕を殺すつもりなんだ。
 でも、ここで引き下がってしまっては今日までやって来た意味がまるで無い。
「……僕は叔父さんに生きていて貰いたいから。だから帰れないよ」
 僕は叔父さんを見据える。もうここからどういう展開になるのか予想するのは難しい。ならせめて、原作に出来るだけ近づける努力をすべきだ。
 けれど、


「何故……、何故こんな時にお前は私に逆らうんだ!」
 

 僕の努力は呆気なく崩壊してしまった。
 



頬に衝撃が走った。たたらを踏んで、口の中に鉄の味がしたとき、僕は叔父さんに殴られたということに初めて気が付いた。
「どうして……」
それは全くの本心だ。頬を押さえたまま、僕は放心したように立ち尽くす。叔父さんは怒りに満ちた目で僕を睨むとこう続けた。
「お前が、私の息子だからだ」
 僕は一瞬、何を言われたのかわからなかった。


「お前は本来、あの一家の生き残りとして正々堂々とこの世を生きていく筈だった。だが我々の身勝手な都合でこちらへ連れてきてしまった。だから私はせめてもの償いとしてお前の父親になろうとした。……結果はどうであれそこに嘘偽りは無い」


 それだけを言い放って、叔父さんは僕の前から立ち去った。
 何かが、僕の中で壊れていく。




             ●




「あいつを学校にも行かせてやれなかったし、あまつさえあいつの好意に甘えて殺し屋に育ててしまった。私はこのミラノで名士として市民を守っていると思っていた。だが実際はどうだ、私は幼子だったあいつの未来を閉ざしてしまったのだ」
 執務室に篭ったクリスティアーノはアレッシオにピノッキオの境遇を語っていた。
「ピノッキオという名も、あいつが本当の名を語れるまでの仮名みたいなものだった。だからこそあいつは私の元を離れて元の名を名乗れるように生きて欲しい。私が死ねば、そこへ少しでも近づくことが出来るだろう」

「なのにあいつは私を助けるという。父親になり損ね、殺人鬼に仕立てた私をだ。私はどうすればいいのだろうな」


 クリスティアーノの嘆きに、アレッシオは静かに答えた。


「なら旦那様。大変差し出がましいようですが、お二人でやり直すことは出来ないのでしょうか。もし旦那様がピノッキオに何もしてやれなかったと言うのなら、これからその分をあの悲しき青年に与えてやれば良いのです。まだ時間はあります」
 クリスティアーノは瞳を伏せ、椅子にもたれかった。彼の瞳にはまだ、自分の目の前に現れた息子の姿が映っている。


 




そもそもクリスティアーノがピノッキオの父親になろうとしたのは、罪悪感でも義務感でもなくただの気紛れだった。
 彼は早くに妻に先立たれ、子がいなかった。
 チンピラの中でも、下手に位の高い地位にいた為に、家族へ省みるという経験を一度もしないまま、彼は家族を失っていた。
 そこに舞い込んできたのは、身寄りを無くし自分と同じ孤独を生きなければならない少年だった。
 クリスティアーノはそんな少年を見て、よく言えば極普通に、悪く言えば気紛れで父親役を演じてみようと思ったのだ。
 ただ彼の誤算だったのは、
 少年の中身がこの世に現実を求められない悲しき人形であったことである。



 
 そんな人形は屋敷の廊下の隅で膝を抱えていた。
 ピノッキオの頭の中では未だにクリスティアーノの台詞が渦巻いている。


「お前が、私の息子だからだ」


 ピノッキオは、何処で自分が間違えたのかひたすら考えていた。
 両親と二人の姉が死に、
 この世界が作りものの世界であると気が付いた時から、彼はこの世界から一線を引いていた。
 だからだろうか。
 いくら悩み、頭を抱えても、クリスティアーノの台詞の意味はわかる筈もなかった。
 夜が更け、一五日がやって来た。
 今日で死んでしまうという体なのに、冷えた廊下は身体に堪えた。




 



[17050] 第44話 IL TEATRINO 【ピノッキオとしての生き方】 7
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2010/09/01 22:42
 十五日の午後六時。
 
 あれからもう丸一日が経過したというのに、僕はまともに動くことが出来なかった。タイムリミットが刻々と近づいてきているのに、僕の頭の中は今日の決戦とは別のことが渦巻いていた。
 夕日が沈み始め、僕のいる廊下が再び寒さの中に埋もれていく。








 IL TEATRINO 【ピノッキオとしての生き方】






 

僕は作りものの世界で生きていくことに耐えられなくて、ピノッキオとして今日ここで死ぬことを選んだ。
それは僕にとって何にも代えがたい絶対的に正しいことで、他の出来事なんか眼中に無かった。


 

 けれど、
 こんなにも世界を嫌っていたのに、
 こんなにも人から距離を置いていたのに、
 叔父さんは僕を息子だと言い、死なせるのも憚られるから帰れと告げた。
 僕はこれから自分が行おうとしている行為が本当に正しいのか分からなくなっていた。



 
 そもそもピノッキオとして生きるということはどういうことだったのだろう。
 ピノッキオの技を身に付け、人を殺し、そして死ぬこと。
 アルフレッドが死に、ピノッキオが誕生したその日から僕はそう考えて生きてきた。
 でも、僕が無視してしまった前提条件の違い――僕の立場が叔父さんから見て地下室で拾った少年ではなく、一家惨殺事件の生き残りを保護した――は思わぬ形で僕を追い詰めてくる。
 あれ程木彫りの操り人形を演じたつもりだったけど、僕は意図せぬままに人間の少年に戻っていた。いやそもそも僕は木彫りの人形になんて最初からなっていなかった。
 この世界に生を受け、一度でも家族を愛してしまったから。
 そこが僕の居場所であると知ってしまったから。
 そしてその居場所が失われても、僕がそこにいた事実は揺るぎようがないから。
 あの場所からやって来た僕に、所詮ピノッキオの役割を演じるのは不可能だったのだ。




 今、僕は僕自身のことが手に取るようにわかった。
 この世界が偽者だから。
 前の世界で見た作られた世界だから。
 僕が人として生きることを止めてしまったのは世界に嫌悪していていたのでも何でもなくって、僕から最愛の居場所を取り上げた世界が信じられないだけだった。
 だからこそ。
 叔父さんの言葉で僕の居場所がまだ存在していたことに気が付いた時、僕を縛り付けていたピノッキオの鎖が音を立てて崩れ去った。
 世界はまだ僕を見放してなどいなかった。
 世界はまだ僕にチャンスを与えてくれている。
 僕はまだ、人として戦える。




 昨日まで虚構と見下していた世界と、素直に仲直りするにはまだまだ時間が掛かるだろう。
 だったらどうすればいいのか必死に考えた。
 必死に考え、そして頭を使った先、僕はとりあえずと決意を固めた。


 先ずは叔父さんを公社から逃がそう。
 その為に出来る限りこの屋敷で暴れてやろう。
 もしそれでも僕が生きていたのなら、叔父さんと、この世界に残っている様々な人々と、やり直して見せようと思う。
 心配することは無い。僕が培ってきた技術は原作に引けを取らないし、経験もある。
 何より、鎖から解き放たれたこの体は自分でもびっくりする位軽くて、どんな義体でも蹴散らしてみせる自信がある。
 出来れば彼女――ブリジットとは出会いたくないけど、
 僕は誰が来ようと、負けるつもりは無かった。







             ●







 屋敷はやけに静かで、先行するブリジットの足音だけが邸内に響いていた。
 つい先ほどから小高い山の上にある屋敷に通じる道は全て閉鎖された。邸宅の周りも武装した公社職員と義体が警戒していて、鼠一匹逃げ出す隙間は無い。
 先行するブリジットに命じられているのはクリスティアーノの確保ではなくピノッキオの暗殺だ。彼女は白いフロックコートを羽織り、手にはSIGを、腰には大型のアーミーナイフを装備していた。
「アルフォドさん、ここからは私一人で行きます」
 振り返ったブリジットがそう告げる。しかしトリエラと仲違いでもしたのか、昨日今日と精彩を欠いている彼女を一人にするのは忍びなく、俺は待てと返した。
「ですが突入時間は過ぎています」
 ブリジットの言うとおり、予定されていた作戦時間から二分ほど遅れている。俺が屋敷に突入させるかさせまいか判断しかねていると、ジャンが無線で突入を示唆してきた。
「トリエラの向かった北館にはクリスティアーノも暗殺者の姿もまだ確認できていない。ブリジットも南館から早く突入するんだ」
 無線を切り終わるよりも先にブリジットが屋敷に向かおうとした。俺はそんな彼女の首根っこを抑え、こちらに振り向かせる。
「何ですか」
 ここまで不機嫌さを隠さない彼女はとても珍しい。俺はそんな彼女の態度に一抹の不安を覚えながらも、こう伝えるしかやってやれる事は無かった。
「ブリジット、絶対に無理をするな。俺から君への命令は一つだけだ。必ず――必ず無事に帰って来い」
 結局は気休めにしかならない文句の所為か、ブリジットは何一つ表情を変えずに俺の前から去っていった。
 彼女の白い装束を月明かりが照らしている。







             ●







 気配が近づき、白い影が視界の端に躍る。
 僕は影の手元と思われる部分にナイフを投げつけ、手にしていた拳銃を叩き落した。
 しかし叩き落された当の本人はさしたる動揺も見せず、落ち着いた様子でナイフを抜いた。
「よっ。また会ったな」
 以前は闇に融けるよう黒の服装をしていた彼女は、今日は間逆の色をしている。
 その様子が余りにも綺麗だったので、僕は少しだけ見惚れてしまった。
「俺も……会いたかったよ。ピノッキオ」
 イレギュラーな義体。ブリジットはこうして僕の前に再び現れた。
 こうして見ると、彼女は亡霊そのもので僕の推測が間違っていなかったことを証明してくれる。
 僕もナイフを抜き、様子を伺う。

 第一ラウンドの火蓋はブリジットが無線を握りつぶしたその瞬間から切って落とされた。




 ピノッキオが原作でも脅威とされているのはその速度である。
 移動速度は勿論、反射速度、不利な体制からの早期復帰という意味合いでも彼は公社の義体たちに遅れを取ることは無かった。
 むしろ、一般的な義体の方が彼の速度には着いていけないだろう。
 なら今この場でピノッキオと相対するブリジットが、彼の動きに対応しているかと言われればまた微妙なところである。
 目立った速度の差は無いものの、ナイフを使った戦闘の経験地という面から見れば、ブリジットがピノッキオに適うはずが無いのだ。それでもここまで肉薄し、そしてナイフを打ち合っているのは一重にブリジットという身体が持っていたポテンシャルの高さ故である。





 ブリジットが椅子を蹴り上げ、ピノッキオに飛ばした。彼らが切りあっているのは南館の二階にあるやや広めの応接まで、障害物が多い。ブリジットはその障害物――椅子や机を持ち前の脚力で蹴り飛ばし、ピノッキオの動きを阻害している。
 また一つ、備え付けられていたソファーが宙を舞った。
「くおっ!」
 自分の頭上スレスレを跳び越し、壁を粉砕したソファーを見てピノッキオは地の不利を痛感した。先程までは互いに肉薄し、純粋な速度勝負だったのにフィールドをここに移した瞬間からどんどん距離が離されている。
 これではじりじりと体力を削られていくだけだ。
 だからピノッキオはブリジットが新しい対象物に足を掛けた瞬間、ある行動に出た。
「!」
 それは背を向けて全力で逃げることである。廊下に飛び出し、飛んできた椅子を間一髪でかわして、そのまま出来る限り走り去る。
 反応が遅れたのはブリジットだ。彼女も慌てて廊下に飛び出すが、既にピノッキオの姿はなく、かといって無闇に追っては待ち伏せされる危険性があった。
 反応速度で勝っているピノッキオに待ち伏せされると、それだけで致命傷になる。
 ブリジットは自身に付いた埃を振り払うと、警戒の網を強めながら一歩ずつピノッキオの向かった先へ歩いていった。






 


「まだここにいたのか……」
 廊下で出くわしたのはブリジットでもなくトリエラでもない叔父さんだった。
 叔父さんは一つ息をついた後、僕に何かを投げてよこした。それを受け取ってみると車のキーだった。
「アレッシオと話した。私は海外でやり直す。お前も一緒に来い」
 叔父さんが僕の手を引こうとする。でも僕は首を振って、叔父さんから距離を置いた。
「叔父さん、僕はもう少しだけこの屋敷で戦う。そうしないと叔父さんが逃げるのも難しい。それともう直ぐフランカフランコが迎えに来ると思う。下の間道は多分封鎖されているから出来れば森の中にある廃棄された道を通って。僕は必ず追いつくから」
 僕の説得は通じたようで、叔父さんは来た道を再び帰っていく。
 僕がその様子を見守っていると、叔父さんは一瞬だけ振り向いてこう言った。
「死ぬなよ、ピノッキオ」









 ピノッキオとクリスティアーノの別れをブリジットは黙って見つめていた。彼女はクリスティアーノが去った後、そっとピノッキオに話しかける。
「……変わったな」
「まあね。だからといっちゃなんだけど、見逃してくれたりはしないのか」
「俺が見逃してもトリエラが殺しにくる。なら俺が戦闘不能まで追い込んで投降させるしかない」
「ふん、やってみろよ」
 月明かりが廊下を照らし、二人の影を映した。
 彼らの故郷から遠く離れてしまったこの世界で、二人は向かい合う。
 ブリジットがナイフを構え、地を蹴った。
 ピノッキオが迎え撃つ。



 第二ラウンドが、始まる。






[17050] 第45話 IL TEATRINO 【離別】 8
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2010/09/03 16:30

 火花と火花がぶつかり合い、鋭い金属音が世界を支配している。
 防刃の意味を持たせたブリジットのフロックコートは所々切り裂かれており、白い生地に赤い血が滲んでいた。何より彼女の様子を様変わりさせてしまったのは、美しく濡れたように光っていた腰まであった黒髪が肩口のところで不恰好に切り裂かれていることか。
 彼女から分かれてしまった髪の毛は、ピノッキオの大型ナイフで壁に縫い付けられている。
「くそっ!」
 またもや受け損なったナイフの切れ先がブリジットのコートを切り裂いた。今度は傷口が深いのか、彼女の白い手を伝った赤い血がぽたりぽたりと床に染みを作っていった。
「いい加減に引けよ。君が勝てる筈無いだろう」
 対するピノッキオは全くといって良いほど無傷で、頬に赤い線を一つだけこしらえているだけだった。
 ブリジットの一撃はまだピノッキオに届かない。
「トリエラが来ようが誰が来ようが関係ない。僕は生き延びてみせる」
 ピノッキオがまた一歩、また一歩とブリジットに歩み寄る。


 圧倒的な力量差に、ブリジットは舌打ちをするしかなかった。




 
 
 ブリジットの誤算はGISで学んだ戦法をピノッキオにさせて貰えない事にあった。
 速度と技量に勝るピノッキオを相手取るとき、ブリジットが考えたのは義体が持つ桁外れの筋力で主導権を握るというものだった。
 実際部屋の装飾品を蹴りつけるという戦法はピノッキオに危機感を抱かせるほど有効だった。しかしこの戦法は一度逃げられると最早通用しない。
 ブリジットも馬鹿ではないから、筋力と、そして生身では考えられない体力を持った義体ならではの戦術をピノッキオに繰り出した。
 それは少々のダメージには目を瞑り、とにかくピノッキオに肉薄する。そして隙あらばパワーでねじ伏せるというものだ。
 この戦法はGISの隊員たちがその威力を認めたほど、対ピノッキオには最適な手段のはずだった。
 だが現実では全く通用しなかった。
 その理由に、ピノッキオが義体の持つポテンシャルに油断しなかったことがある。
 彼は原作によって義体が持つ怪力やダメコン能力を熟知していた。その為ブリジットが肉薄しようとすれば全力で距離を取り、いくら切りつけてもこちらに向かってくる突進性に怯えることが無かったのだ。


 
 この時点でブリジットの立てた作戦は全て瓦解した。



 あとはもう、一分の望みを賭けて、ナイフで切り結ぶだけである。








 ピノッキオの歩幅にあわせ、ブリジットが下がる。背後の壁が近づき、彼女の注意力が一瞬それた。
 そして、体制が不意に崩れる。 




 動きは一瞬。




 後退に失敗し、ブリジットが足を縺れさせていた。ピノッキオがその様子を見逃す筈がない。
 彼は手にした大型ナイフを構えブリジットに突進した。
 





 彼女の細い腹部に衝撃が走る。
 胃液と共に血を吐き出し、背後の壁に縫い付けられる。彼女はピノッキオに覆いかぶさるよう、四肢から力を失った。
「……今ので一回は死んだぞ」
 ピノッキオがブリジットから体を離すと、ブリジットが力なく床に転げ落ちた。
げほっ、と口の中に溜まった液体を吐き出した彼女はピノッキオを睨みつける。
「情けのつもりかよ」
 ブリジットの腹部にナイフは刺さっていない。ピノッキオがブリジットに繰り出したのはナイフの柄だった。されど咄嗟に反転し、全体重を掛けて突撃してきた木製の棒は確実にブリジットの肉体にダメージを与えた。
「これでわかったろう。君では俺に勝てない。おこがましいんだよ。投降しろだなんて」
 よろよろとブリジットが立ち上がった。ピノッキオは眉根を歪め、罵倒するように続ける。
「どうしてそこまで頑張る? ここで倒れても君を責める者はいない筈だ」
 ブリジットが壁にもたれ、傷ついた腕を抱えた。白かったコートは固まった血で黒く染まっている。
 彼女はナイフの切れ先を自分の額に掲げ、搾り出すように声を放った。
「確かにお前ならトリエラを撃退出来ると思う。俺なんか少し本気を出せば簡単に捻られる」
「それは結局同郷の好だ。これ以上時間が長引くなら、本気でねじ伏せなければならなくなる」
 ピノッキオの持つナイフが月明かりに光った。今度は峰打ちではなく刃で腹部を貫こうとする。余り使いたくなかった手段だが、最早形振り構っていない。
 だがそんなピノッキオの足を止めたのは他ならぬブリジットの声だった。
「――俺はお前が羨ましいよ」
 ナイフがブリジットの直ぐ目の前で止まった。
「この世界に俺の居場所なんて本当は何処にもないのに、そうやって自分の居場所の為に戦えるお前が羨ましいよ」
 それは全くの本心だった。








 ブリジットがピノッキオに抱いていた感情は多種多様だったが、その大部分を占めていたのは嫉妬と救済である。
 彼女に用意されたブリジットという肉体には確固たる、生きるための指針が無かった。彼女がこの世で覚醒したとき、真っ先に頭を抱えた問題である。
 それに比べて、目の前で相対する男はピノッキオという役割を世界から与えられていた。
 男はその役割の所為で人形として生きることとなってしまうのだが、ブリジットからしてみればそれが何より羨ましかったのだ。
 シナリオ通りに生きる人形であっても、シナリオが――与えられた役割があるが故に存在意義を観測し続けられるピノッキオ。
 シナリオに沿わず自由に生きることは出来ても、与えられた役割が存在しない――自らが何処まで原作に関与したらよいのか、それとも全く関与せずに生きるのか二つの選択に悩み続け、自分の存在意義を観測できないブリジット。
 彼女は前者に憧れ、メッシーナ海峡でその存在を確認したときからピノッキオを渇望して止まなかった。
 そして同時に、自分が願い続けた器を持つピノッキオに救いを求めるのも、いたし方の無いことだったのである。
 



 
 ブリジット自身、未だに自分が願う救済の正体を知らない。
 こうやって切り結び、あわよくば公社のほうへ引き込もうとしたが結局それも失敗した。
 ピノッキオから存在を認めてもらっても、この男がここから立ち去ってしまうのならそれは全くの無意味だ。
 トリエラに拒絶され、一人取り残された彼女は自分が何をしたいのか、最早見失っていた。
 ただ目の前に佇む、恋焦がれた男に向かって八つ当たりを繰り返すしかない。
 だがその行為も、やがてブリジットのスタミナ切れで終末を迎える。
 彼女には戦う意思も、力も残されていない。
 彼女に出来ることは、懇願するようにピノッキオに語りかけるだけだ。








「なあ、ピノッキオ。どうして俺たちはよりによって、こんな世界に生まれ変わったんだろうな。お前には現実がなく、俺には存在する居場所がないこの世界に」
 ブリジットの手が空中で止まったナイフを掴んだ。切れた手の平からさらに血が流れて、ピノッキオの手元に届く。
 ピノッキオは何処か自嘲を含んだ声色で答える。
「そんなことわかるものか。ただ僕たちの器がもしも最初から逆だったのなら、こんなことにならなくて済んだのかもしれないな。人の体である僕に君が、人形の体である君に僕が」
 ピノッキオがそっとナイフを手放す。
 ブリジットは非難するように、けれど柔らかな表情で言った。
「今のお前は木彫りの人形じゃなくて立派な人間だよ」
「いや、まだ人形さ。まあそれもここを逃げ出すまでだけど」
 ブリジットが壁から離れ、ピノッキオの胸に顔を埋めた。アルフォド以外の男だったが、不思議と嫌悪感は湧いてこない。それどころか、愛情とは違った温かみが感じられた。
「折角会えたのに、お前は俺を助けてくれないんだな」
「生憎僕自身のことで精一杯だからね。悪いとは思うよ」
 ピノッキオは縋り付いてきたブリジットをそのままに、ぼんやりとした月明かりを見上げた。思えば本当に遠い世界で二人きりだった。今の彼には戦う理由も、生き残る理由も、それを与えてくれる居場所もあるが、真の意味で通じ合えるのは目の前にいる義体の少女だけだ。
「僕は君の事を忘れない。だから君ももう少しだけ生きてみろよ」
 ピノッキオの言葉に、ブリジットは表情を曇らせる。
 だがピノッキオはブリジットの瞳を見据えるとそっと笑って見せた。
「君が悩み、絶望していることを僕は共有することは出来ない。けれど僕は君が亡霊であることを否定してみせる」
 ピノッキオがブリジットの顔を引き寄せた。そして互いの額をあわせると神託のように告げる。
「僕の名前はアルフレッド。この名前を知っているのは僕と、今聞いた君だけだ。君がこの名前を覚えて、そして生きている限り君は亡霊じゃない」
「意味がわからないよ」
「意味なんていらないのさ。よく言うだろ? 二人だけの秘密って。そういうものを互いに持っていれば、自ずと自分を見失わないで済むんだ。確かに君は不安定な体に、不安定な精神を宿した不安定な人間かもしれない。でも僕は認める。この世界で唯一本当の僕を知っている君は亡霊じゃない。君はブリジットという名の少女で、僕の友人さ」







 救われた、とは微塵も思わない。
 どちらかというと適当なことを言われて見捨てられたと感じるのが正しいのだろう。
 でもブリジットは笑って見せた。

 白い頬に血をこびり付かせ、長い髪の毛は失ってしまったけど、
 それでも十分に美しいといえる表情で笑った。

 ピノッキオはブリジットの本当の性別を知らない。だがそんなものを軽く超越して、思わず見惚れてしまうような、そんな笑みだった。
 

「俺は、ブリジットという名の少女か」
「一人称が私なら完璧だったね。思わず連れて帰りそうなぐらい綺麗だったよ」
 ピノッキオがブリジットから数メートル離れる。そして新しいナイフを抜いた。ブリジットもピノッキオから受け取ったナイフを無事な腕に持ち替えた。
「これって、意味あるのか?」
「大有りさ。残りの一本勝負で決着をつけよう。もし君が僕に一撃入れたら僕は投降する。逆に僕がそれをいなしたら見逃してくれ」
「そんなことしなくても、もう追いかけるだけの体力が残っていないから逃げたらいいのに」
「何処の世界に、友人から逃げ出す奴がいるんだよ。それにとても綺麗だし」


 


 余計なお世話だと、ブリジットが言う。
 半ば本気さ、とピノッキオが言う。





 二人は最後の別れを告げるために向かい合う。
そこにもう言葉はなく、自分たちが手にした肉体の限界を使って舞台で舞う。



 IL TEATRINO



 廻る舞台の終焉は直ぐそこだ。


 


 ブリジットが地を蹴り、渾身の一撃をピノッキオに見舞った。
 ナイフとナイフが触れ合い、刃が欠け幾つもの燐光が飛び散る。
 滑るようにブリジットのナイフがピノッキオの刀身をなぞっていく。
 しかし終に刃が耐え切れなくなり粉々に砕けていった。





 銀色の破片が舞い散る世界の中、二人はすれ違い、そして別れ、
 これからの舞台を生きていく――、























 筈だった。






 辺りを支配したのは静寂ではなくガラスの破砕音だ。
 ピノッキオの背後に抜けていたブリジットは音の正体が何かはわからない。


 でもピノッキオは、――満足そうに微笑み、ナイフを床に捨てたピノッキオは、




 窓ガラスを突き破って自身の胸元に短剣を突き立てるトリエラを、その青い双眸ではっきりと見ていた。


 ブリジットに赤い血潮と白いガラス片が降り注ぐ。



[17050] 第46話 IL TEATRINO 【離別】 9
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2010/09/04 22:57
 ガラスの海に、ピノッキオが倒れた。
 彼の胸に突き立つ短剣はさながら墓標のようで、カーペットが引かれた廊下の床に赤い血溜りを作り始めていた。
 ピノッキオの顔はブリジットから見えない。彼女が視界に映すのは、電気を流されたように痙攣を続ける哀れな肉体だけだ。



「トリエラです。ピノッキオを仕留めました。ブリジットは負傷しているものの大事は無いようです。救護班をお願いします」



 襟に付けられたピンマイク相手にトリエラは淡々と報告を繰り返す。ブリジットはそんなトリエラに掴み掛かろうとして、けれどもうそうするだけの体力も無いのか、無様に床へへたり込んだ。



「はい、……はい。私は無傷ですが、ブリジットはそちらに行くだけの余力はありません」



 そんなブリジットをトリエラは一瞬だけ見やった。だが直ぐに視線を外すと、無線の向こう――恐らくジャンかヒルシャーに連絡を取り続けた。



「――わかりました。今すぐそちらに向かいます」



 無線が切られ、一拍だけ世界を静寂が支配する。

 その沈黙を破ったのはトリエラで、彼女のブーツがガラス片を踏み砕く音がブリジットの耳に届いた。
 傍らに立ったトリエラに、月明かりが遮られる。


「ごめん。約束、守れなかった」









 ブリジットがトリエラを見上げた。トリエラは何処か申し訳なさそうに瞳を伏せると、傷だらけのブリジットを正面から抱きしめた。自身の体に血痕が付着するのも厭わず、ブリジットが苦しまないようそっと優しく抱きしめた。
 そして、微かに涙が混じった悲しみの声で告げる。
「無事で、良かったよ」





          ●
 



 
 ブリジットがトリエラを突き飛ばす。彼女は一目散にピノッキオへ這い寄ると、その真っ青になった青年の顔を覗き込んだ。
 
 ……まだ生きてはいるが、そう長くない。

 ブリジットは先ずピノッキオの血に塗れた自身の両手を見た。そして辺りに散らばったガラス片と床に広がっていく血を見る。次にピノッキオの胸の短剣を見て、最後にトリエラを見た。
 ――彼女の瞳に宿っていたのはどす黒い憎悪だったが、彼女の口からは何も言葉は出てこなかった。
 代わりに、縋り付くように虫の息の男を抱きしめ、トリエラの方を二度と見ることは無かった。
 トリエラがブリジットの震える肩に触れる。
 彼女は決して振り向かない。






 トリエラは、何となくこうなることを頭の中で予測していた。
 如何してかはわからないが、ブリジットはいたくピノッキオに執着していた。
 自分たち公社の義体には目もくれずに、彼女はピノッキオのことばかり見ている。
 その様子が酷く悲しくて、とても寂しくて、彼女なりにどうにかしてやりたくて、
 思わず口走ってしまった言葉が「亡霊」だった。







 今思えば、こうなることを予測したのはブリジットが自分の前から姿を消したときだった。
 彼女はアルフォドでもなく、トリエラでもなく、ましてクラエスやエルザでもない、もっと自分たちとは違う何かを持つピノッキオの元へ消えてしまったのだ。
 あれがブリジットを引き止める最後のチャンスだった。
 けれど引き止めるどころか、こちらから出て行けと罵ってしまって、ブリジットは言われたとおり姿を消した。
 さらにブリジットを持っていってしまったピノッキオを逆恨みして殺した。
 ブリジットが二度と自分の下に戻ってこないと理解しながら。
 彼女が必ず悲しむと知っていながら。
 それでもトリエラはピノッキオが許せなかったし、
 何より自身の血でコートを汚したブリジットを見てしまったときには、もう理性も知力も何もかもを置き去りにして短剣を繰り出していた。
 ピノッキオを殺したことには、何の後悔もない。
 彼女が後悔するのは訓練場での一言だけ。
 自分がどうしようもなくブリジットを傷つけてしまったから、舞台はこのような結末を迎えたのだ。
 ブリジットは何も悪くない。
 悪いのは呪いを呟いてしまった自分で、ピノッキオに縋り付いて離れようとしないブリジットは哀れんでやるべき存在なのだ。
 ただしトリエラは、自分にはもうその資格がないことを知っている。
 

 だからこそ、トリエラは何も言わずにブリジットの目の前から姿を消した。





 二人はこの瞬間、完全に離別して見せた。





          ●


 


 ピノッキオが血泡を浮かせた言葉を吐いたのは、トリエラが去りブリジットのすすり泣きだけが夜を埋めていた時だった。
「悪いな、ブリジット。先に行くよ」
 つとめて明るいその声は、まるでこれから死に逝く者の声色とは思えない。
 だが彼の灯火は確実に終焉の時を刻んでいた。
「死ぬな」
 対するブリジットの返答も絶望の色には染まっていなかった。ただ何処か伽藍を帯びたその表情は最早ピノッキオには見えない。
「まあ、色々あったけど良かったんじゃないかな。僕の人生」
 ピノッキオが瞳を閉じる。すると瞼の裏に、とっくの昔に見失っていた家族の姿が見えた。
 あの日死んでしまったと思っていた自分は、まだこうして微かに生きていたのだ。
「ブリジット、もう少しだけ頑張れよ。きっと、いいことがあるさ」
 ごふっ、と一際大きな血を吐いて、ピノッキオは自身の終わりを見た。
 ブリジットがもう一度、静かに死ぬなと告げる。
 ピノッキオが口元を緩めて笑って見せた。
「これで、僕は人間だ」














 夜が明け、朝が来たとき、屋敷内で行われた作戦の結果が取り纏められた。
 以下はその内容である。




 クリスティアーノの拘束は失敗。裏手の隠し道――緊急の脱出経路と思われる――を使用され行方は不明。逃亡の手引きを行った二人組も消息を眩ます。
 ただし使用人と思われる男一人をリコが射殺。身元の確認を急ぐ。


 ピノッキオの暗殺には成功。殺害したのはトリエラ、ブリジットの両名。
 ブリジットは手傷を負うも、いずれも軽症。早急の現場復帰が見込まれる。

 福祉公社側の目立った損害は特に無し。
 クリスティアーノを失ったミラノ派の動きも見られず、これを持って一応の解決とし、本件の管轄は軍警察が引き継ぐものとする。









 







 トリエラが予見したとおり、ブリジットが彼女たちの部屋に戻ってくることは二度と無かった。
 ブリジットはアルフォドの執務室に寝泊りする生活を始め、任務におけるペアもエルザと組むことが普通になってきた。
 アルフォドがブリジットの荷物を受け取りに、寮を訪れたとき。
 一年前のダンボール一つから、大きなキャリーケース二つ分に増えたブリジットの荷物に大層驚き、そして「今までありがとう」と一言告げていった。
 クラエスはブリジットに何があったのかと、二人に問うてみるがアルフォドもトリエラもその口を開くことは無かった。



 部屋の片隅には、ブリジットとトリエラ、そしてクラエスにエルザが仲良く談笑している様子が描かれた完成間近の絵が放置されている。もう長いこと、筆は入れられていない。









 動かなくなったアルフレッドの傍らで、ブリジットはこちらに歩いてくる担当官を見つめていた。
 担当官は何か二、三こと言い残しブリジットを抱えあげて階下に降りていった。
 ブリジットは担当官の胸元に顔を埋めてこう言った。


「もう、一人にしないで」 




 




[17050] 第47話 エピローグ 【ついでに俺のこと】 
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2010/09/05 22:03
 ぱらぱらと雨が降っていた。
 その雨の中を、一つの傘の中に寄り添うようにして男女が歩いている。

 男はやや長身で、細身の顔には無精髭が生えていた。傍らを歩く少女が濡れないよう傘を差しているため、彼の肩口は濡れていた。
 少女のほうは黒い髪をやや背中に掛かるぐらいに切り揃え、黒いセーターにプリッツスカートの組み合わせだ。
 これだけなら、普通の年頃の少女にしか見えないのだが、彼女の特異性を表現するのは頬に張られた大きな絆創膏と左手に巻かれた白い包帯だ。
 また立ち振る舞いに関しても歩き方は大変ぎこちなく、時折男に支えられながら前に進んでいる。




「……俺の部屋で寝ていても良かったんだぞ。ブリジット」
 俺はアルフォドと共に、町外れの教会から墓地へと続く雑木林の中を歩いていた。ぱらぱらと降る雨の所為で気温は低く、吐いた息が白くなって霧散していく。
 じくじくと左腕の傷口が痛んだ。
「待つのが、怖いですから」
 アルフォドの気遣いに返答し、そっと彼に肩を寄せて俺は霊園の中を進んでいく。
 今日はアルフォドが家族にドタキャンした父親の墓参りだそうで、ピノッキオとクリスティアーノの件が一応の解決をした今、有給を使ってここまで来たのだ。
 もちろんその話が昨日の夕食の席で聞かされたとき、俺は即座に着いていってもいいか? と問うていた。
 アルフォドは快諾も断りもしなかった。
 ただ、それなら今日は早く寝ろと告げただけだった。

 トリエラとはあの事件からもう一度も会っていない。
 公社の中で何度か互いに姿を見つけたことはあるけれど、話をするなんて到底出来なかったし、したくも無かった。
 あんなにトリエラを傷つけてしまったのに、今更どんな面を下げて彼女の顔を見ればいいのだろう。
 互いにもう、どうしようもないくらい離れてしまったから俺は彼女に触れることも出来ない。
 この世界で本当に一人ぼっちになってしまったのだ。
 だからこの瞬間、条件付けで刷り込まれた盲愛に俺は縋り付き、アルフォドに泣きついている。

 今だけは、この甘美な地獄の中で溺れ死んでしまいたかった。



 墓に花を供え、しばしの黙祷を捧げる。
 父の墓には妹と母親が置いていったのか、枯れかけの花束が既にあった。
 色々と忙しかった俺の為に、ほんの一週間前まで墓参りの日程を延ばしてくれたが、結局間に合うことは無かった。
 自分でも親不孝で、駄目な兄だと思う。
 だが今は家族に会えずとも、死んだ父に不義理をはたらこうとも、守ってやらねばならない存在が俺の隣に立っていた。




 
 帰りみち。
 ブリジットの包帯に巻かれていない手をアルフォドがそっと握った。
 ブリジットは一瞬驚いたようにアルフォドを見上げるが、直ぐにその手を握り返す。
 ただし表情に笑顔は無い。
 彼女はアルフォドの無骨な手を精一杯握り締めていた。

 もう、その手が決してここからは行けないところへ行ってしまわないように。
 隣に立つ、偽りの愛の人が、あの悲しき青年と同じにならないように。



 ブリジットは悲しき青年に思う。
 彼は頑張れと言った。
 ブリジットは何も返せなかった。
 でも彼の言うとおり、もう少しだけ生きてみようと思う。

 彼が虚構と悲観し、けれど最後には悪くはなかったと呟いたこの世界を。
 傍らに立つ、愛しい人と共に。





 ブリジットという名の少女   了







 ◆◆◆

 本来あとがきは劇場のほうに書くのですが、今回はタイミング的にこちらに書かせていただきます。
 まずはじめに、連載当初に考えたエンディングですがピノッキオ編でこの話は完結させるつもりでした。
 しかしながら、読者の皆様の暖かいご感想を受けジャコモ編まで連載することを何処かのあとがきで告げました。
 
 一応、本来の【ブリジットという名の少女】はここで完結を迎えます。
 何とも宙ぶらりんになってしまったブリジットですが、彼女の物語はここで一度終わってしまうのです。
 ですが、一度ジャコモ編まで行くとした以上その言葉を反故にする訳にはいきません。
 そのため第二期としてこちらのスレッドに近いうちに投稿させて頂こうと思います。
 これからもよろしくお願いします。

 PS
 今まで稚拙な文章にご指摘、またはご感想を頂いた全ての方に最上の感謝を。
 皆様のお陰でここまで来れました。
 本当にありがとう御座います。

 それではこれからもブリジットをよろしくお願いします。




 さらにPS
 もしかしたら、スト魔女ものの頭の悪いSSを投稿するかもしれない……。
 それが無理なら、担当官に憑依した人の話をかもしれない……。


 









[17050] ガンスリ劇場5 シリアス好きにはオススメ出来ません 【ついでにMCみたいなこと】2 R15かも
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2010/09/06 22:37
ガンスリ劇場5 ここだけの話、寝取られとMCは大好物でしたブリジットさん2




※今回は特に下ネタが酷いので、苦手な人はスルーでお願いします。




 
「えー、お姉さまが急遽シャワーを浴びたいと申されましたので、大変不本意ながら本編では空気を読まずにお姉さまを苦しめた腐れ外道のトリエラと二人きりになってしまいました」
「ちょ、紹介が酷すぎる……!」
「まあそれは置いといて、足の付け根を押さえながらシャワーに走っていくお姉さまは大変萌えました」
「ううっ、今更ながら多少の罪悪感が……」



 




 
「ではお姉さまが帰ってくるまで私たちだけでMC体験を行いましょうか。クジを引きましょう」
「まだこれ続けるの……」
「おっと、私が被害者でまたもやトリエラが加害者ですか。今度はどんな畜生道に堕としてくれるんでしょうね」
「さっきから言葉の端々がとげとげしいね、エルザ」
「私の中であなたの株は底値を割りましたから。では催眠術をお願いします」


 MC薬を嗅がされるエルザ。トリエラが嫌々ながら暗示をする。

「そういえば何でこんなことしてるんだろ……。ああ、ええと。暗示はブリジットと一緒で猫になれ! ただし健全な方で!」


 空ろな瞳になるエルザ。そして徐に四速歩行になり鳴き声を上げる。


「にゃー」
「おおう、発情期でもないのに何かそそられるものが。やっぱり王道は凄いね」


 その時、シャワーを浴びたブリジットが部屋に入ってくる。
 エルザの目が光を取り戻し、妖しく光る。


「にゃーん♪」
「きゃっ! え、ちょ、何これ!」


 押し倒されるブリジット。エルザがブリジットに馬乗りになり体中を舐め始める。


「うわわわわわわわ! 絶対洗脳解けてるよねこれ! 目に光が戻ってるし舐め方がいやらしすぎる! って、ひゃん!」
「ゴクリ……」
「トリエラも生唾を飲み込むなー! ――あ、あれ? え、エルザさま? その手にされている荒縄と白い液体が入った特殊注射器はなんですか?」
「ふふふふ、いけないお姉さま。この劇場初期の関係を取り戻すのですよ。さあ私にまかせて……」
「ひー! 駄目、駄目! 穴が違う穴が違う! いや、そっちも嫌だけどこっちはもっと違うー!」
「ふふ、可愛いお姉さま。大丈夫ですよ、直ぐに何も感じなくなりますから!」
「アー!!!!!!!!」


 一時間後、自身を覆い隠すシーツを抱きしめ、部屋の隅でよよよと泣くブリジットがいた。



「汚されちゃった……、汚されちゃったよぅ……!」
「あー、何か流石に可哀相な気がしてきた……」
「あああああの、お姉さま? 今度は私たちに好きな暗示をかけてもいいですから!」


 二人の必死の説得に一応泣き止むブリジット。恐る恐るMC薬を二人に嗅がせ、暗示を口にする。


「……なら、二人ともずっと私の友達になーれ」
「…………」
「…………」


 微動だにしない二人に間違えたのかなあ、と首を傾げるブリジット。
 そのとき、トリエラとエルザが徐に立ち上がった。
 そして我先にと部屋から飛び出していく。


「うわああああああああ、何この胸の痛みは! 罪悪感で死にそう!」
「じゅじゅじゅじゅ純情過ぎて自分の醜さが突きつけられた気がします!」


 

 一人部屋に取り残されたブリジット。彼女は「最近、汚されてばかり……」と呟き、一人部屋を後にした。






 その後、ブリジットとクラエスの会話。

「という訳で実験の結果を漫画にしてみました」
「実験てこの前のMC体験?」
「そう、あの部屋の出来事は逐一カメラで見てたわよ。同人誌の通り、可愛らしい声で啼くのね、ブリジット」
「その話はもう止めてよ……。ていうかもう変な実験に突き合せないでよ。今度からは絶対に協力しないからね」
「あら残念ね。ブリジットがそんなにつれないのなら、あなたとピノッキオが夜中にしてる長電話の記録をアルフォドさんにうっかり提出してしまうかもしれないわ」
「ななななななななな、何でそんなの持ってるの!」
「さあね。でもいい雰囲気よねー。お休みメールにおはようメール。顔文字もあんなに沢山使って。因みに昨日の電話の締めくくりはものスッゴイ猫撫で声で『明日も電話していい?』」
「うわわわわわわ」
「可哀相にねー、アルフォドさんも。まさか私の本が現実になるなんて……ってあらブリジット。どうして土下座なんてするの? 私とあなたは友達じゃない」
「後生ですからこのワタクシめに後慈悲を。何でも致しますから……」
「まあ、これじゃあ脅迫してるみたいだわ」
「いえいえ滅相も御座いません。ワタクシが自主的にクラエス様にお使えしているだけで御座います」
「そう。なら一つだけ願い事を聞いてくれないかしら?」
「ななな、何なりと」




「次の休日、私とデートしましょ」
「へ?」



 次回へ続く。



[17050] 第48話 アフターマス 【ついでにプロローグみたいなもの】 第二期スタート
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2010/09/06 22:39
 目の前を歩く私より頭一つ小さな女の子は、強そうに見えて弱い。
 や、別に彼女の実力にケチをつけてるわけじゃないんです。
 何度か彼女と共同で仕事をこなして、彼女がいかにプロフェッショナルか嫌という程思い知らされました。
 さっきまで隣を歩いていたと思ったら、何時の間にかテロリストの首をへし折っているし、ナイフの扱いにも秀でていて私なんかが彼女に格闘戦なんか挑んだら最後、片手で捻られると思う。
 だからといって銃器の扱いで彼女に勝てるのかといったら、それこそ比べること事態がナンセンスです。
 一度、百キロ近くで走っているフェラーリを建物の屋上から狙撃したのを見て、違う次元に生きている子だとしみじみと思ったものだから。
 近接の銃器を使った戦闘にも迷いがなく、アレッサンドロ曰く「あれは最早才能の一種で、義体になるために生まれてきたようなものだ』とのこと。
 でも公社最強とも謳われるエリート少女を弱いと私が感じるのは、アレッサンドロ直伝の人の見極めを彼女に試したときでした。
 まず背景が見えません。
 その人がどんな人生を送ってきたか、どのようなポリシーを抱いて生きているのか、そういったものが全く見えないんです。
 まあこれにかんしては、義体の子の殆どがそうなので特に気にしませんでした。
 私が気になったのはその表情でした。

 今更ですが、彼女の顔の右半分は医療用眼帯に覆われていて殆ど見えません。
 それでも、残された左半分からそうとうの美人であることは用意に想像が付きました。
 けれども、その美人顔にはどうしても言葉に表すことが出来ない暗い影がチラついていました。
 
 私はそれがとても不気味で、彼女のことが苦手でした。



 彼女の名はブリジットと言います。





 廃棄されたアパートの中を赤毛の女が疾走していた。デニムのジーンズに黒いシャツ姿で、片手にはベレッタを持っている。
 女は男を追っていた。男はとても素早く、強化された女の脚力を持ってしても中々追いつけない。
 女の名はペトリューシュカ。体の殆どを人工物に置き換えられた義体だった。
「待て!」
 威嚇に何発か発砲するが、男は怯むことなく外へ飛び出す。丁度アパートの中庭は給水棟が連なっていて、男はその陰に隠れた。
 ぺトラは男を取り押さえようと給水棟に駆け寄るが、男の手にするサブマシンガンの応射でそれも適わなかった。
「大丈夫か、ぺトラ」
 無線で担当官のアレッサンドロが安否を気遣う。被弾こそしていないので、ぺトラは大丈夫だと律儀に返した。
「ですがこのままでは近寄れません。どうします? サンドロ」
 顔を覗かせるたびに鉛玉が飛んでくるようでは、いくら高性能の義体と雖も用意に近寄ることは出来ない。
 だがぺトラのそんな心配を他所に、アレッサンドロはやや能天気な声でこう告げた。
「あー、それなんだがもう直ぐ上からお姫様が降ってくるぞ」
 サンドロの言葉にぺトラは一瞬その形の良い眉根を顰める。だが直ぐに意味を理解した彼女は思わず大声を上げて抗議した。
「そんな! 無茶です! 折角ここまで無傷で逃がしたのに!」
 男の悲鳴が聞こえたのはそれと同時だった。


 ブリジットは少しだけ伸びた髪をなびかせ、アパートの屋上から下を覗き込んだ。見ればテロリストが給水棟の影に立てこもって、相方のぺトラが釘付けにされている。
 彼女は担当官のアルフォドに一言告げると、躊躇うことなく屋上から飛び降りた。


 取り押さえられた男を後ろ手に縛って、ブリジットが尋問を始めた。ペトラはそれを一歩離れたところで見学している。
「仲間は何処?」
 知らない! と叫ぶ男に拳が振り落とされる。真っ赤に染まった彼女の手の甲には男の前歯が刺さっていた。
「あの爆弾は何処で手に入れたの?」
 男がまたもや知らないと叫んだ。ぺトラからするとそれは到底演技には見えず、少しだけ男に同情した。
 ブリジットが男の手を握り潰した。
 尋問を通り越して拷問になりつつある取調べに、ぺトラは気分が悪くなりこれ以上の暴力を止めようとブリジットの肩に手を置いた。
 ブリジットが徐に振り返り、返り血を浴びた顔で「何?」と冷淡に問う。
「いや、あのさ、そろそろ止めないと死んじゃうから後はサンドロとかアルフォドさんに任せよう?」
 出来るだけ言葉を選び、はははと笑いながらブリジットを止めようとした。
 だがブリジットはこちらから確認できる左目を少し歪めただけで、こう言った。
「別に? 死ねばいいじゃない。こんな奴」
 拳が再び振り下ろされる。男はもう何も言わず、時折手足を痙攣させるだけになった。ペトラはそれ以上関わるのが怖くて、ブリジットから離れた。
 結局その尋問はアルフォドたち担当官が到着するまで続けられた。




 撤収準備を続ける車の中で、ぺトラは窓の外にいるブリジットとアルフォドのフラテッロを見た。
「アルフォドさん、ブリジットのことを叱らないんですね。結局男を殺しちゃったのに」
「ああ、まあここだけの話、ブリジットが出てきた時点で生け捕りは諦めてたよ。上はこうなることがわかっていた」
 アレッサンドロの言葉にペトラが疑問符を浮かべる。
 アレッサンドロはこう続けた。
「あの子はな、今では腫れ物のような扱いを受けている。常日頃から暴走状態みたいなものだからな。アルフォドの言うことしか聞かないし、顔も合わせない。まだ無視されないだけお前は好かれてるほうさ」
「それがどうして男を殺すことに繋がるんですか」
 ぽりぽりとアレッサンドロが頭を掻き、車の天井を見上げた。ブリジットのフラテッロを見れば、既に男の死体を警察に引き渡し、別の車に乗り込もうとしているときだった。
「復讐だよ。あの子は義体なのにこの国のテロリストを心底憎んでいる。テロリストを殺すのが生きている意味だよ」
 ペトラはますますアレッサンドロの言っていることがわからなくなった。
 確かに公社の義体は不慮の事故を覗けば、犯罪被害者の女の子が数多く素体に使われている。だが皆一様に記憶を消されていて、自発的な復讐心は抱いていないはずなのだ。
「殺されたんだとよ、五共和国派に友達を。名前は言えないけど仲が良かったそうだ」


「本当、クソったれな職場だ。大人だけじゃなくあんな子供までも、怒りの矛先を見失っている」




 
 廻る舞台から約四ヶ月。
 夏が本格的に始まり、世間はバカンスに沸いていたころ。
 ブリジットという名の少女は自身の復讐のため、公社の狗になることを良しとしていた。
 その瞳には、今だ光が戻らない。




 GUNSLINGER GIRL  ブリジットという名の少女 第二章


 第 話 アフターマス  了




[17050] 第49話 泡沫の日 【ついでに四か月前のこと】 1
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2010/09/07 23:36
 ピノッキオの事件から全てを亡くした俺は、地獄の日々を生きている。


 自分の居場所なんて何処にもない、空ろで胡乱な地獄の日々。


 でもその日々は今から考えると、自分では気が付かなかっただけである意味では幸せだった。


 それは四ヶ月前のこと。


 まだペトラを初めとする二期生が一人もいなくて、アンジェリカも今よりずっと元気だったころ。


 そこにあった日常はまさに泡沫の日々だった。








 四ヶ月前、社会福祉公社


 望まなくても朝は来る。ブリジットはアルフォドの執務室のソファーで、遮光カーテンの隙間から覗く朝日を見て今の時間帯を知った。
 昨日アルフォドは帰ってこなかったのか、部屋には自分ひとりしか居た形跡がない。
 彼女はのそりと起き上がると、自分を覆っていた毛布を脱ぎ、寝巻を脱ぎ、包帯で所々を巻かれた肢体を顕にした。 
 そして全ての包帯を床に捨てると、それらを纏めてゴミ箱に廃棄し、新しい下着とシャツを持って執務室に備え付けられたシャワールームに向かった。

 
 薄暗い部屋の中では、絶え間ない水音だけが聞こえる。







 アルフォドが残業から帰宅したのは早朝の六時過ぎだった。ベタ付くシャツを手っ取り早く脱ぎ捨て、シャワーを浴びようとするが、部屋の中には先客がいた。
 バスタオルを頭から被り、ソファーの上で本を読むブリジットの姿が目に入った。
「おはよう御座います」
 一瞬だけこちらを見たブリジットは直ぐに本に視線を落とす。どうやら児童向けの小説のようで、時折可愛らしい挿絵が姿を覗かせていた。
 アルフォドは一端シャツを脱ぐのを諦め、戸棚から救急箱を取り出すとブリジットに包帯を手渡した。
「もう殆ど完治しているが、今日だけは念のためだ」
 ブリジットは素直に受け取り、手馴れた様子で包帯を自身の左腕、その他足のももや、首元に巻いていく。アルフォドは冷蔵庫にあったミネラルウォーターをがぶ飲みしていた。
「今から一時間後にMP5を持って駐車場に来てくれ。今日はパダーニャ(五共和国派)の摘発を行う。殺す必要はないと思うが万が一もある」
 服を着直したブリジットがわかりましたと告げ、部屋を出て行く。アルフォドは溜息を一つつくと、まだ湯気が漂っているシャワールームに足を踏み入れた。








 ブリジットが向かった先は食堂だった。早朝のため、まだ人もまばらでメニューもそれ程揃っていない。ブリジットはピザを一切れトレーに放り込むと、手身近な席に腰掛けた。
「あら、おはよう。ブリジット」
 そんなブリジットに声を掛けたのはエルザだった。パンと温かいスープ、シーザーサラダをトレーに入れた彼女はブリジットの席の正面に着いた。
「今日は少食なのね。ダイエット?」
「……仕事があるから。それに食欲がない」
 ピノッキオの件があって約二週間、ブリジットの話し相手はアルフォドとこのエルザに限定されていた。互いに離別したままのトリエラとは顔も合わせず、クラエスとも暫く会っていない。ブリジット自身、エルザにも出来るだけ会わないようにしているのだが、エルザが何処までも追いかけてくるので、然程意味はなかった。
「体調が悪いなら直ぐにアルフォドさんに言わないと……。あと仕事気を付けてね」
 ピザを食べ終え、席を立つブリジットにエルザはそう言った。
 ブリジットは何処か罰の悪そうな顔をすると、そそくさと食堂を出て行く。
 もう何度も繰り返されてきた光景がそこにあった。









 
「ブリジット、青いシャツの男が今回のターゲットだ。奴が駅のロッカーに荷物を入れる瞬間を取り押さえるんだ。ただ出来るだけ殺さないでくれ。こちらで拘束して、これからの検挙に繋げたい」
 駅のターミナルに備え付けられたバルコニーから、プラットホームを行きかう人々を二人は見下ろしていた。ブリジットは手にフルーツジュースが入ったカップを手にしており、時折啜っては咀嚼していた。
「自爆する可能性は?」
「奴はあくまで運び屋だ。中身については多分知らないし、信管もまだ付いていないだろう。もし他に仲間がいて、証拠隠滅の為に吹き飛ばそうものならここでも危ないがな」
 ブリジットは指定された男の挙動を見つめる。上方向へのエスカレーターに乗り、人の波に従って駅の入り口に向かっていた。



「行け、ブリジット。俺も後から追う」



 開始はその一声だった。
 バルコニーの階段を飛び降り、エスカレーター脇の階段を駆け上がる。男が鞄を抱えたままコインロッカーが並ぶ、ターミナルからは死角になる通りに入った。
 ブリジットは足音を押し殺し、男の後ろに付く。
 そして肩を叩いた。
「ん? 何?」
 ブリジットの正体に露とも気が付かない男は、人当たりが良さそうな顔を貼り付けて振り返った。ブリジットも同じように笑顔を返すと、徐に手にしていたジュースのカップを胸元に持ってきた。
 そして、勢い良く握りつぶす。
「うおっ!」
 不意を突かれたのは男だ。目にジュースが入り、視界を奪われた男は闇雲に暴れる。だがブリジットは軽く男の手首を捻り上げると、床にねじ伏せ膝で背中を押さえつけた。
 腰から拳銃を抜き、鷲摑みにした男の頭に突きつける。
「動くな。バックから手を離して大人しくしろ」
 威圧を込めた声色で男の髪の毛に銃をねじ込む。すると本能的に恐怖を感じたのか、男は体を強張らせて動かなくなった。
「ブリジット、良くやったぞ」
 拳銃を片手に追い付いて来たアルフォドがバックを拾い上げた。注意深く中身を見てみると、何本かのプラスチック爆弾に、起爆用の有線コードが入っていた。
「間違いなく最近出回っている型だな。おい、お前。これは何処で手に入れた」
 ブリジットが男の髪を掴み上げ、アルフォドに向かせる。男は何も知らないと首を振った。だがそんな反応は想定済みだったのが、アルフォドはブリジットに一つ合図を送る。
 彼女は男の腕を一本取り上げると、自分の足を支点にして思い切り引き抜いた。間接から引き剥がされた男の腕が軟体動物のような方向へ捻じ曲がる。
「あああああああっ」
 痛みに耐えかねて、男は情けない叫び声を上げた。ブリジットが表情一つ変えずにもう片方の腕を取り上げると、遂に男が口を割った。
「ここ、この爆弾自体はローマのブローカーから手に入れた! でも奴の名前は知らないんだ! 信じてくれ!」
 ブリジットが手に取った腕に力を込めていく。
「あああ! 本当だ! 本当に知らないんだ!」
 痛みと恥辱で泣き喚く男を見て、ブリジットとアルフォドは嘘を付いているようには見えなかった。どうやら公社の手に入れた情報とは違って、この男は末端もいいところらしい。
 アルフォドが別に待機していた職員に連絡を取ると、その日の捕り物はそれで終了となった。






 最近、政府の機関がある建物を狙った爆破テロが頻繁に報告されている。
 そこに使われる爆薬は海外からの密輸物だったり、軍が横流ししたTNTだから尚太刀が悪い。
 ブリジット達に回ってきた任務は、そんな爆薬がどのようなルートを使って活動家たちに流れているのか突き止めることである。
 本来は軍の特殊部隊の仕事なのだが、今回は軍の一部関係者も関わっている以上、社会福祉公社しか実質的に活動できる軍事力を持った組織は存在しなかったのだ。
 怪我から復帰したブリジットは自動的に、活動家の検挙の現場に動員されていた。








「結局今回も駄目でしたね」 
 無駄足に終わった捕り物の帰り、ブリジットは買い直して貰ったジュースを飲みながら駅の駐車場で車のボンネットに腰掛けていた。
 アルフォドはノートパソコンを同じくボンネットに広げて、何処かに通信している。
「流出ルートが幅広いから重要人物の絞込みがイマイチ出来ていないんだ。こうなったら虱潰しにやっていくしか……」
 アルフォドの台詞はそこで途切れる。
 何故なら駅から見て東の方角から爆音が聞こえたかと思うと、濛々と黒煙が空に上がり始めたからだ。
 直後、アルフォドの携帯電話にジャンから通話が掛かって来た。
『やられた、行政機関府だ。そちらから現場は確認できるか?』
「ああ。良く見えてる。……お前たちは今何処にいる?」
『駅ターミナルのテラスだ。今から俺も現場に向かうから、お前も急いでくれ』
 通話が切れ、アルフォドがノートパソコンをしまいだした。ブリジットもボンネットから降り、助手席に座り込む。
「悪いがブリジット、帰りは少しだけ延長だ」
 黒のアルファロメオが発進する。ブリジットはダッシュボードの下でMP5の薬室を引いていた。








 慌しい一日が終わって、ブリジットはアルフォドの部屋に帰ってきていた。
 爆発現場には犯人特定に至るものは何もなく、駆けつけただけ無駄だった。アルフォドは担当官の報告会か何かで今日も遅いという。
 ブリジットはいつもそうするように、毛布を一つだけ被るとソファーに倒れこむようにして休息を取った。最近、睡眠時間が徐々に増えていて、ビアンキに相談するかしまいか迷っているのだ。
「疲れてる、だけなのか」
 横になっていると、どうしても抗いがたい睡魔が襲ってきて、ブリジットは直ぐに寝息を立て始める。
 アルフォドが部屋に帰ってきたとき、彼女の目尻は薄っすらと濡れていた。







 夢だと認識したまま見る夢がある。
 自分はブリジットで、黒い髪を肩口辺りまで伸ばしている。
 もともと腰に掛かるくらい長かったけど、ピノッキオに切られてしまった。


 ここから、少し遠く離れた渦の向こう、赤毛の少女がこちらを見ている。
 彼女との距離は夢を見るたびに近づいていて、俺の体――ブリジットの体は渦に飲まれ、だんだんぼやけて来ている。



 漠然とした頭の中だけど、
 もう直ぐ、何もかもが終わりの気がした。 
  



 泡沫の日々は望まなくともやって来て、そして過ぎ去っていく。



[17050] 第50話 泡沫の日 【ついでに四か月前のこと】 2
Name: H&K◆03048f6b ID:72804d4f
Date: 2010/09/09 16:36
 ぱらぱらと朝焼けのような光が見える。顔の右半分が焼けたように熱くて、ブリジットは堪らず声を上げた。
 轟々と燃える火のなか。
 果たして彼女の呻きに答える人影が一つ。
 人影と、ブリジットの血が混じりあって涙のように流れ出したとき、人影はブリジットの手を取り、ブリジットはそっと意識を手放した。
 悪夢の始まりはすぐそこ。









 泡沫の日








 弱者の抗議に使われる爆弾の詳しい流通経路が判明しないまま、さらに一週間が経った。この間にもブリジット、アルフォドのフラテッロは五人の活動家を取り押さえ、五人ともババを引いていた。
 いい加減二人にも痺れと苛立ちが見えてきていて、五人の後半になればなるほど取り押さえは荒っぽくなっていった。中には入院するほどの大怪我を負ったものもいる。





「で、これが六件目か」
 人気のない納屋の廊下をブリジットが力任せに引き剥がした。隣では爆発物の匂いを感知し、それの発見に長けているショートカットの義体ベアトリーチェ、通称ビーチェが様子を見守っていた。
 バリバリと穴が開いた床板の向こう、かなりの大きさの木箱が二つ安置してあった。
「これは爆薬です。こっちは……」
 ビーチェが右の木箱を指し示す。ブリジットが左の木箱をこじ開けると、中にはオガクズに包まれたカラシニコフが鎮座していた。
「……何処から手に入れたんだろうな。最近は北のマフィアが海外から持ち込んでいるらしいが」
 アルフォドが手袋をした手でカラシニコフを取り出し、状態を確認する。弾は込められていないが、駆動部には油が丁寧に挿されていて、発砲には何ら問題が無さそうだ。
「で、どうします? ここまで来ると俺ら二組じゃ荷が重い。応援を呼びますか?」
 珍しく敬語を話すビーチェの担当官、ベルナルドがアルフォドに問うた。アルフォドはその必要はないと答え、ブリジットに武装準備を言い渡す。
「車からM4を取ってきなさい。ここで待ち伏せをする。さっき取り押さえた男はここで取引があると言っていたからな。ついでに二、三人ばかし連れて帰るぞ」
 ブリジットが納屋の外に消え、手持ち無沙汰になったのはビーチェとベルナルドだ。ビーチェも義体としての戦闘能力は高い水準を確保しているが、それでもトリエラやブリジット程ではない。
 アルフォドはそんな二人に考慮して、遠距離からの狙撃支援を言い渡した。
「別に当てる必要は無い。ただ逃げ出そうとする奴の頭を押さえてくれ」
 こうして二人は納屋の二階の農作具に紛れて、外の様子を監視することにした。








 納屋の中で、息を潜めるブリジットの様子を上から盗み見していた。
 実はブリジットとペアを組んだのは、これが始めてだったりする。
 訓練では何度か一緒にしたことはあるけど、実線に関しては全く接点が無かった。それでも彼女の活躍はベルナルドさんから良く聞かされていた。
 曰く、射撃の天才だとか。
 曰く、狙撃はバケモノだとか。
 曰く、格闘戦もGISを唸らせるとか。
 ベルナルドさんは、まるで好きなサッカーチームの選手を語るような口ぶりで彼女を評する。でも毎回必ずといって良いほど、こうも告げた。
「でも絶対に彼女の真似はしなくていいからな。人生は適材適所。無茶をすれば必ず何処かで力尽きる」
 ベルナルドさんが滅多に見せない真面目な口調だったので、私はその時の様子を良く覚えている。
 けれども、ベルナルドさんの真意は実際のところ理解しているとは言い難い。
 無理をするな、と言いたいのはわかる。
 だが私たち義体は無理をするために体を機械に置き換え、薬で痛みを軽減しながら戦っているのだ。ベルナルドさんの台詞は、私にとって大変矛盾に満ちており、到底承服出来る内容では無かった。
 そして私以上に戦い続け、傷ついているブリジットもまた、無理どころか限界をとうの昔に超えていると思う。
 以前はあれ程感じられたお菓子の甘い匂いも、今は血と硝煙と涙の匂いしかしない。
 彼女は私が少し見ない内に、随分と変わってしまっていた。









 活動家たちが取引のため納屋に踏み込んだ時、初めて目にしたのは椅子に括り付けられて気絶している商売相手だった。
 それだけで何が起こっているか悟って見せた彼らは大変優秀だ。
 だが彼らを狙っている襲撃者はそれ以上に優秀だった。
 一人が物陰から飛び出してきた少女の持つアサルトライフルのストックで昏倒させられた。他の一人はその様子を見て、慌てて銃を引き抜くが少女の放った弾丸でそれを弾き飛ばされる。
 骨が砕けた両手を庇っているうち、飛んできたハイキックで意識を刈り取られた。
 残された最後の一人は仲間二人を見捨てて外に飛び出した。そんな彼を襲ったのは納屋の二階から放たれたウージーの拳銃弾で、足元の弾着に怯え踏鞴を踏んでしまう。
 その隙を逃すほど、少女は生易しくない。
 突進する勢いで男に掴みかかると、背負い投げで地面に叩きつけた。
 背中を強打した男は潰れた蛙のような声を出し悶絶する。少女は男を踏みつけて銃を眉間に突きつけた。
 もう何人も殺さずに無力化してきたお陰か、少女が繰り出す動作には一切の無駄がなく、納屋の上から援護射撃をした少女が美しいと感じるくらい完成されていた。






 これで本日捕らえた活動家は合計四人。
 内一人が、今回の一連のテロ活動の根幹に携わる人物であったことが後に判明する。
 収穫らしい収穫に、作戦部が喜びの声を上げるのも無理は無かった。
 だがこの時、ブリジットという名の義体の雌雄は決してしまったと言える。
 泡沫の日々の終わりは近い。









「お帰りなさい、ブリジット」
 遅めの食事をとろうと、食堂に向かっていたブリジットを捕まえたのはエルザだった。彼女は猫のヒルダを抱いており、シャワーでも浴びた後なのか三つ編みを解いたストレートの髪をしていた。
「私もまだなの。一緒に食べない?」
 ブリジットはいつかのアルフォドのように快諾も、断りもしなかった。エルザはヒルダを床に離し、部屋に戻るよう言いつけるとブリジットの後ろをとことこと着いていった。
 昔はブリジットが歩くたびに、猫の尻尾のように長い髪が揺れていたものだが、今は大分短くなった所為でそこまで揺れることも無くなっていた。
「今日はどうだったの?」
「いつも通り。四人捕まえて軍警察に引き渡しただけ」
 ブリジットの声は淡々としていて、エルザはいまいち会話のテンポを掴みかねていた。
 それがブリジットなりの拒絶でもあることをエルザは知っていたが、敢えて無視して彼女に話しかける。
 少しでも、彼女が以前みたいに笑ってくれることを信じて。
「ねえ、ブリジット――、」


 
 けれども、ブリジットから返されたのは淡々とした言葉ではなく、今度こそはっきりとした拒絶の意志だった。
「もう、私に構わなくていいよ。エルザ」


 


 堪らずブリジットの裾を掴んでいた。
 そして、振り返った彼女の頬を平手で叩いていた。
「エルザ?」
 狐にも摘まれた表情で、ブリジットがエルザを見る。エルザはそんなブリジットを睨みつけると彼女の襟元を掴んで、自分の元へ引き寄せ、
「ブリジットのばか」
 





 エルザはまだ近くをうろついていたヒルダを抱え上げると、そのまま食堂とは逆方向へ歩いていった。ブリジットは暗い渡り廊下に一人取り残され、赤く腫れてきた頬を呆然と押さえている。
「あいつにも、愛想尽かされちゃったか」
 一言そう言い残すと、ブリジットは踵を返し再び食堂に足を進めた。
 その足取りは走るような速さで、すれ違う職員を一様に驚かす。
 何より、一番人目を引いたのは彼女の目尻に浮かんだ少量の涙だった。 










 また同じ夢を見ている。
 赤毛の少女が手を伸ばせば届くぐらいの距離でこちらを見ている。
 けれども互いに言葉を掛けることは出来ず、手を伸ばすことも出来ない。



 
 
 

 ブリジットの覚醒を促したのは、激しい胸の痛みだった。
 思わずアルフォドに助けを求めた彼女は、寝ていたソファーから転げ落ち、陸に打ち上げられた魚のようにのた打ち回った。
 そして発作が一通り過ぎ去り、やって来た医師たちに薬が打たれた後、熱に浮かされたようにこう告げたという。


「助けて、このままじゃ消えてしまう」


 国内に蔓延るテロリストの一斉検挙が近づいていた春の中ごろ。
 ブリジットの体はもう一人の亡霊に確実に蝕まれていた。
 誰かがヒルダと呼ぶ、赤毛の亡霊に。


 
 



[17050] 第51話 泡沫の日 【ついでに四か月前のこと】 終章
Name: H&K◆03048f6b ID:9d8e5db1
Date: 2010/09/12 22:30
 もし仮に、元あった体に宿っていた本来の人格が完全に消されず、さらに別の人格が宿ってしまった場合、後から宿った人格と元からあった人格はどちらが肉体の主導権を得るのだろうか。
 その問いに完全に答えられるものは恐らく存在しないだろう。
 だがそういった、人類が持つ未知の領域に片足を浸してしまった哀れな少女がここにいる。
 彼女は突発的にやってくる発作に苛まれながらも、自らに与えられた任を黙々とこなしていた。
 その名はブリジット・フォン・グーテンベルト。
 ヒルダ・フォン・ゲーテンバルトの肉体に、異邦人の魂を持つ世界にたった一人の亡霊だ。




 暗がりの執務室、深夜過ぎに帰ってきたアルフォドはソファーをベッド代わりに睡眠を取るブリジットを見た。彼女の枕元には黒猫のヒルダが丸まっており、小さくにゃあと鳴いた。
 ブリジットが寝苦しそうに寝返りを打つ。
 アルフォドはそんなブリジットの手首を取って、脈拍を測り始めた。
「発作はここ数日間見られず。バイタルも安定。薬を変えた途端にこれか」
 ビアンキの説明ではブリジットの発作はある程度予期されていたものらしく、彼女の感覚神経を強化していた薬剤の投与を諦めることで一定の解決は見られた。ただし、副作用として半年以上前に彼女が訴えていた味覚異常がぶり返してしまった。このままでは味覚だけではなく聴覚や視覚などの他の五感にも影響を及ぼすため、早急な対策が必要とされている。
「脈拍も一定してるし何より泣いていないのが幸いか」
 それは夢を見ていない証拠。
 ブリジットがここ最近訴えた症状の一つに夢の中での自己の消滅がある。他人の夢を覗き見ることは不可能であるため、あくまで推測でしかないが、公社の医師たちは発作による情緒不安定がもたらす悪夢の一種であると見ていた。
 だがアルフォドはそのような戯言を何一つ信じていない。
「元々の宿主をワザと殺して書き換えた人格なんだ。ビアンキが指摘した通り、もしも意識化のレベルで人格の剥離が起こっているのだとしたら、この子が見る悪夢の説明が付いてしまう……」
 彼は前々からビアンキに聞かされていた仮説に頭を抱えるしかなかった。
 本当にそうだとしたら、ブリジットの見る悪夢に根本的な解決手段はない。それこそブリジットという意識体の死をもってでしか悪夢を終わらせることは出来ないのだ。
 だがアルフォドは思う。
 そんなことはありえない。
 そのようなことがあってはならないと。
 アルフォドは「殺してくれ」と懇願するヒルダを見捨て、ブリジットという存在を自分たちの手で作り出してしまったその日から、彼女を最優先にして生きる道を選択した。
 彼はブリジットの生に責任を持つが故、安易に彼女を死なす選択を選ぶことは出来ない。
 それは極当たり前の事の筈なのだが、それでもこうやって自問自答しながら一つ一つ確認してやらないとブリジットに向き合うことの出来る自分というものは見えてこない。
「……結局のところ、君は鏡なんだな。俺の犯した罪を映す鏡だ」
 肩口で切りそろえられた髪を手に取り、アルフォドはゆっくりと指で梳き始めた。ブリジットがヒルダだった頃、この流れるような髪は元々燃え盛るような赤毛で、静かな美貌の顔立ちは、もっと動的で健康に溢れていた。
 まさに昼と夜のようだと、アルフォドは感じていた。
「んにゃ、……あれ? アルフォドさんですか?」
 いつの間にか目を覚ましたブリジットが白魚のような細い指で目元を擦っている。
のそのそと起き上がろうとする彼女を制すると、アルフォドはブリジットが被っていた毛布ごとその華奢な体を抱え上げ、彼がいつも休んでいる簡易ベッドに横たえた。
「ソファーで、いいですよ」
 まだ意識がはっきりとしないのか、とろんとした表情を見せるブリジットに苦笑する。
 アルフォドは別に構わないとブリジットに告げ、ソファーに取り残されたヒルダをブリジットの枕元に運んでやった。
 そして彼女が再び寝静まったのを確認して、そっと執務室に備え付けられたデスクにつく。
 彼が鍵付の引き出しから取り出したのは生前のヒルダを綴った資料群。
 ビアンキから受け取ったそれらをパラパラと捲り、気がついたことをページの余白に書き込んでいく。
 彼が最近没頭しているのは爆弾の流通経路の推測でもなければ、五共和国派の動向調査でもない。
 自分が責任を持つと決めた義体の少女の過去を少しでも学び、出来れば彼女のことを全て理解した上で共に生きていくことを願うのだ。
 夜も更け、朝日が昇り始めるまで、
 アルフォドはコーヒー片手に資料へ目を通し続けていた。



 


 壁抜き、という技術がある。
 ライフル弾などの貫通力が高い弾丸を使って、木材や石膏、果ては鉄板の向こう側にいる敵を狙撃する技術だ。
 ブリジットが元来、この壁抜きを得意としていた。それは彼女が使用する銃が貫通力の高いアサルトライフルだったり、人一倍の射撃制度を誇っていたからだ。
 だが、ここ最近の訓練では壁抜きが全くといって良いほど成功しない。
 壁越しにM4をぶっ放しても、壁の強度を測り違え貫通しなかったり、貫通したとしても中に設置された的にはかすりもしていなかった。
 ブリジットは自身のスコアを見て、感覚神経の鈍化がここまで作用していることに溜息を吐くしか無かった。
「全然駄目かな」
 バラック材とベニヤ板で構成された仮の建物から出て、教習訓練のスタート地点につく。
 M4のマガジンを代え、ラックテーブルの上に置かれた閃光グレネードを補充した。胸元に掛かっているストップウォチを作動させ、室内に突入する。
 バララ、と断続的な発砲音が当たりに木霊する。





 ブリジットの訓練風景を、少し高いところに備え付けられた櫓からアルフォドとジョゼが監視していた。定期的に聞こえる発砲音と閃光グレネードの炸裂音に耳を傾けながら二人は会話する。
「確実に影響が出ているな。今の彼女には身体が重く感じられるはずだ」
「はん、技術部が色々と弄くったからだろう。元はといえば、彼女の感覚器が鈍った時点で薬の投与を止めればよかったんだ」
 ジョゼはアルフォドの悪態を気にも留めずに続ける。
「あの薬はクラエスで効果が実証されていた比較的安全なものだ。今回ブリジットが拒絶反応を起こしたのはもっと別の部分だと上は考えている。それか過度のストレスで彼女の体質が変化したかだ」
「ピノッキオ戦で彼女の身に何があったか分かったのか?」
「いや、通信機を潰した理由も、あれ程ピノッキオに固執した理由も不明だ。彼女を直接催眠状態に掛けて聞き出しても良いんだが、如何せん身体が持たないだろう。不安定な爆弾みたいなものだ」
 銃声が止んで、建物からブリジットが出てきた。その顔は今日何度も見たのと同じように曇っており、直接聞き出さなくてもロースコアだったことが伺えた。
「ところでブリジットが捕まえた地元マフィアの幹部――奴の証言で爆薬の流通経路が分かったのは本当か?」
 アルフォドの疑問は先日捉えた活動家の話に移る。ジョゼは少し思巡した後、こう答えた。
「エジプトからアレクサンドリアを抜けて海路でシチリア島、さらにベネチアに密輸されていた。元はアルジェリアの反政府組織が使っていた榴弾砲や軍用爆薬を転用したものだ。近々大きな取引がある。その現場を我々が押さえることになった」
「軍は出ないのか?」
「今回ばかりは軍も敵だ。内部に潜んでいる内通者はまだ完全に割り出せていない。軍に協力を要請すると内通者を伝ってパダーニャに情報が漏れる恐れがある」
 テロに使われる爆薬の取引現場を取り押さえる。
 口で言うには簡単なことだが、実際に遂行しようとなると難易度の高いミッションになる。当然のことながら軍が関与しているのであれば取引現場にいるのは戦闘のプロフェッショナルばかりだ。
 義体の少女は大の大人に引けを取らない実力を持っているが、それでも負傷の可能性は常に付きまとう。
「作戦の概要も決まっている。お前とブリジットはラウーロ、エルザ組と狙撃支援だ。仮に現場を敵のスナイパーが監視しているのならそいつらを仕留めてくれ」
「狙撃ならリコでも出来るだろう。むしろ経験のあるリコを観測手に回したほうが良いんじゃないか?」
「リコはヘンリエッタと組んで遊撃、現場を押さえるのはトリエラとベアトリーチェ。アンジェリカとその他は後方待機だ」
「エルザラウーロ組と仕事をするのも随分と久しぶりな気がするが、ブリジットが何て言うか……」
 組み合わせが変えられないことを悲観して、アルフォドが息を吐いた。
「何かあるのか?」
「いや、実はブリジット、最近どの義体とも仲が悪いらしくてな、少々浮いた存在になっているんだ。エルザとも喧嘩別れしてそれっきりらしい」
「それは各担当官の裁量で解決しろ。命令で言う事を聞かせるんだ」
「こればっかりは俺も命令しているよ。ブリジットや他の義体の命に関わるからな。まあ薬や環境が変わったことによる一時的なストレスだと良いんだけどな……」
 ブリジットが再び準備を整え、訓練を開始した。
 アルフォドは手元に置かれていた赤いボタンを取り上げ、ブリジットの訓練が一段落するのを待つ。
 次に銃声が聞こえなくなったとき、訓練場にけたたましいブザー音が鳴り響いた。




 ブザー音を聞いて、ブリジットは床に捨てかけた空のマガジンを空中で受け止めた。彼女はアサルトライフルの薬室に玉が残っていないことを確認し、ドットサイトの電源を落として近くの壁に立てかけた。
 硝煙が髪に付かないように被っていたキャップもストックの部分に引っ掛けておく。
「これだけは誰にも負けない自信があったのに……」
 散々ロースコアを叩いたためか、彼女の声色は自嘲に満ちていた。
 だから外から入ってきたアルフォドの「調子はどうだ?」という台詞にも、思わず素っ気無く答えてしまった。
「見て分からないんですか」
 アルフォドが「すまない」と頭を掻く。ブリジットはアサルトライフル――M4を彼に返却し、外に置いてあったスポーツドリンクを口にした。
「まあ誰にでもスランプはある。今は焦る必要なんか無いさ」
 アルフォドも同じボトルでドリンクを飲んだ。彼はブリジットの頭を乱暴に二、三回撫でると先に車に戻るよう指示した。
「そうさ、誰だって上手くいかないことの方が多い」
 ラックテーブルを片付けながら紡がれた台詞は、ブリジットの耳には届かない。
 アルフォドは足元に転がっていた空薬莢を蹴っ飛ばすと、無造作に捨て置かれたブリジットに使われた的紙を見た。
 的紙に穿たれた穴は全て真ん中の5センチ径の黒丸を避け、外側の黒線に集中していた。



 






 一期生が緩やかに終焉――つまり義体化によって先延ばしにした寿命を使い果たそうとしている頃、彼女たちに使われた様々な技術の集大成である二期生の製作が実しやかに進められていた。
 整形を必要とするものや、高度な精神の再構成を望まれるものは全てブリジットのデータを参考にされている。
 その点においては、彼女がこの世界を生き始めて他人の役に立てた数少ない事象の一つだ。
 もちろんブリジットはそのような事実を知ることなく今日を生きている。 
 彼女は自身の存在意義と戦い続け、亡霊の有り様を否定しようとしていた。
 だが同時期。
 モスクワのバレリーナ学校に、自身の足に出来た悪性腫瘍、ガンに蝕まれ亡霊の領域に踏み込もうとしている少女がいた。
 将来的にはペトリシューシュカと呼ばれる赤毛の彼女が、今後ブリジットと深い関わりを持つことに誰も気が付いていない。
 それはブリジット本人さえも。


 
 IL TEATRINOと呼ばれる廻る舞台から抜け出せないままでいるブリジット。
 そして舞台に縛られたブリジットを救おうと動くエルザ。
 必然的に、舞台の残滓にその身を沈めるペトリューシュカ。


 彼女たちによる新しい協奏曲は今まさに始まった。







 ブリジットという名の少女【GUNSLINGER GIRL】 第二期  


 泡沫の日 終章   了


 Next Episode  復讐鬼








[17050] 第52話 復讐 【ついでに四か月前のこと】 序章
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2010/09/15 23:10
 少し前までブリジットがその体を休めていたベッドには、今エルザが横になっている。
 ルーム登録はブリジットのままであるが、帰ってこない主に代わってエルザが最近寝泊りしていた。
 黒猫のヒルダもアルフォドの部屋にいるブリジットではなく、エルザの元に来ることが多くなってきており、ルーム登録を解かれてしまうのも時間の問題だった。
 エルザは枕を抱きしめながら誰もいない部屋の天井を見つめる。トリエラは訓練に、クラエスは新しい義体パーツの試験に借り出されていた。
 久しぶりに過ごす一人の午後はとても心細かった。
 今思えば、いつも誰かと一緒に過ごしていた自分がいる。
 それは主に自分を嫉妬と絶望の狭間から救い上げてくれたブリジットの事で、彼女の周りを腰巾着のようにうろついていた。
 迷惑がられるだろうか、という心配はしたことが無い。ブリジットがそんなことを思わない優しい人であることを知っていたからだ。
 ブリジットは義体の少女たちの中でも明るく振舞う、良く言えば快活、逆に言えば能天気に見えてしまう性格をしていたが、その中身は酷く大人な部分がある。
 エルザはその大人のブリジットをとても尊敬していたし、また大好きでもあった。エルザがいつも甘えていたのもブリジットの大人の領域である。
 だが最近その大人の部分が何者かによって食い散らかされ始めているのにエルザは気が付いている。
 ブリジットの中に巣食う病魔といえばいいのだろうか。
 それはピノッキオ事件の前後から顔を見せはじめ、遂にはブリジットの回りから一切の義体を排除して見せた。
 勿論、排除されてしまった義体の中にエルザも入っている。
 最初は自分を捨てて一人になろうとしたブリジットを憎み、そして理解できないと感じたこともある。だがエルザが持ち主の消えたベッドの下からとある物品を見つけたとき、その考えは直ぐに消え去り、代わりにブリジットに対する深い同情と愛情が押し寄せて来た。
 エルザは今、ブリジットの中に巣食う何者か――言うなれば亡霊と戦おうとしている。
 トリエラはブリジットのことを亡霊と評したがそれは間違いだとエルザは断言する。
 亡霊はエルザが慕ったブリジットではなく、彼女の中で生きているもう一人の人間だ。
 エルザが認めるブリジットは一人。
 他のブリジットには何の興味も無い。
 エルザは自身のため、そして自分を引き上げたブリジットを守るために得体の知れない何者かと戦うことを誓った。
 たとえブリジットに拒絶されようとも。




 ――たとえ、エルザの命が尽きようとも。




 全ては幸せだった泡沫の日々を取り戻すために。










 GUNSLINGER GIRL ブリジットという名の少女 第二期 【復讐】









 
 早朝、担当官たちに呼び出された義体達が各々の武器を手にしながら公社の一区画に集まっていた。エルザはMP5を携えてラウーロの元に、ブリジットはレミントンの狙撃ライフルをチェロケースに入れてアルフォドの傍らに立っていた。
「港で行われる武器類の密輸犯を検挙するのが今回の任務だ。実行犯には軍人も含まれる可能性があることから、こちらもそれ相応の装備で挑む」
 ブリジットはエルザとパートナーを組み、狙撃班を構成することが決まっていた。検挙対象に狙撃グループが居た場合、カウンタースナイプを仕掛ける役である。
 他にもトリエラビーチェは実働部隊として、リコヘンリエッタは遊撃に、アンジェリカとその他は後方支援と、ジョゼが思い描いていた通りのポジショニングになっていた。
「作戦決行は本日の深夜。それまで各自フラッテロは英気を養え。最初で最後の一斉検挙のチャンスだ。何としても仕留めるぞ」
 号令と共に、フラッテロは各々自由に解散して行った。
 そんな中、アルフォドの傍らから動かないブリジットに近づく小さな影がある。
 エルザ・デ・シーカだ。
「ブリジット、久しぶりのペアね。あなたと一緒で嬉しいわ」
 今日のエルザは何時もの三つ網ではなく、後頭部で髪を結わえたいわゆるポニーテールの髪型にしていた。昔、ブリジットの髪が長かった頃、ブリジット自身がよくやっていた髪型だ。
「……ごめんね、エルザ」
 顔のパーツを線にして、苦笑とはまた違ったぎこちない笑みをブリジットが浮かべた。それはこの前の喧嘩別れのことを言っているのか、ただ単にブリジットが卑屈になっているだけなのかエルザには判断できない。
 だがエルザはそう言った理屈を抜きにして、ブリジットに微笑んでみせた。
「気にしなくていいよ、ブリジット。私とあなたの仲じゃない」
 その思いは果たしてブリジットに届いたのだろうか。
 ブリジットは短く「ん、」と息を吐いて、エルザに手を引かれても抵抗するでも無く後をついて行った。
 ここ一ヶ月ではまず見なかった、ブリジットが他の義体の少女と過ごしている珍しい光景だった。








 実際のところ、ブリジットが手を引かれるままエルザについて行ったのはほんの気まぐれだった。
 もし行き先にトリエラや、その担当官であるヒルシャーがいたら躊躇無くエルザの手を振り切ってアルフォドの元へ逃げただろう。
 だが幸運なことに、その二人を視界に捕らえることなく、エルザはブリジットを目的の場所に連れてくることが出来た。
 それはエルザがブリジットの拳銃で自殺しようとした、中庭にある広葉樹の根元だった。







「あ、ここは……」
 声を上げたのはブリジットだ。彼女は枝葉の間から零れる光に目を細めながら暫く上を見上げていた。
 そんなブリジットにそっとエルザが抱きつく。
「ねえ、ブリジット。私はこの木の下であなたと大喧嘩というか何というか、とにかく一杯怒鳴りあったよね」
 照れくさそうに告げるエルザの表情はブリジットの方からは余り見えない。しかし声色からその様子は伺えた。
「私はとても嬉しかった。あの時、あなたが助けに来てくれて。だから今度は私があなたを助ける番なの。あの時あなたは言ったよね。自分は一人ぼっちだって。それはあなたの身寄りが無いから? それとも、あなたの、あなたのブリジットとしての人格の居場所が無いの?」
いきなり確信を突く問いにブリジットの体が強張る。だがエルザはあくまで落ち着いた声色でブリジットの体を抱きしめ続けた。
「悪いと思ったのだけれど、あなたのベッドの下から見つけた日記帳に書いてあったの。『本当のところ、このブリジットとしての人格は本当に自分が認識している人格なのか』って。詳しい意味はよく分からなかった。でもあなたは自分のことを疑っている、この推測はあってるよね」
 この場合、沈黙は肯定と同義だ。エルザはブリジットの返答が無くてもさらに続ける。
「私は義体で、条件付けを受けた体だからあなたの為に出来ることは殆どないわ。でもね、私があなたのことを好いていて、あなたとこれからも生きていたいという気持ちは多分本当なの。これはあなたの存在を認めることにはならないのかしら」
 エルザがブリジットをこちらに振り向かせた。見ればブリジットの表情は何かに怯えているようで、今にも泣き出しそうだった。エルザはブリジットの頬を両手でしっかり覆ってやり、穏やかな口調で話した。
「私こと、エルザ・デ・シーカはブリジットのことを愛しています。世界で一番はまだラウーロさんだけど、その次に私はあなたのことを愛しています。……本当に感謝しているのよ、ブリジット」
 ブリジットの涙腺が崩壊したのは同時だった。
 彼女は一際大きく顔を歪ませると、目尻に溜めた涙を溢れさせて声を上げて泣いた。自分より頭一つ小さな身長のエルザにすがり付いて泣いてみせた。
 エルザがブリジットの頭を抱き、髪を何度も撫でてやる。
 うわん、うわんと中庭に少女の声が響き渡った。
 二人の義体の担当官は少し離れたところでその様子を見守っている。







 自棄になり、張り詰めていた精神が遂に事切れた。
 エルザの腕の中で大声を上げながら、ブリジットは己が怯えていたものの正体を再確認していた。彼女が最も嫌い、そして恐れていたのは孤独だ。
 ピノッキオが死に、この世界に一人で置いていかれてからブリジットは自分の居場所を、自分が世界に残した物を忘れてひたすら彷徨い続けていた。
 出口の見えない迷宮の中で、心の片隅で泣きながら誰かに助けを求めていた。
 最初はアルフォドに。
 でもそこには義体としての盲愛が存在していて、ブリジットが求めていた救いとは掛け離れたものしかなかった。
 盲愛を介さず、純粋な好意で、第三者の介入無しに得られる繋がりを持っていたのはエルザだった。
 そのことはブリジットが良く理解していた筈なのに、トリエラと離別した苦い経験から自分から歩み寄ることが出来ないでいた。
 だが今、エルザからブリジットに手を差し伸べられた時点で、ブリジットが抱えていた問題の一つが氷解した。
 その結果がエルザの腕の中で泣くブリジットであり、そしてブリジットを抱くエルザだった。
 ブリジットは完全とは言えないが、この世界で生きる意味を、そして己の居場所を、徐々に改めて見つけ出そうとしていた。






 泡沫の日々の、最終日のことである。



[17050] 第53話 復讐 【ついでに四か月前のこと】 前編
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2010/10/15 14:18
 結局のところ、自分がこの世界に残してやれたものは然程多くないと思う。
 手元にあるこの体も、元は名前も知らない少女のものだし、頭の中にある記憶も虫食いや条件付けの改竄の所為で確実とは言えない。
 あやふやなまま、あやふやに生きて、あやふやに死ぬ。
 きっと俺が二度目に手に入れた人生はそういった順序を辿るように出来ているのだ。
 その運命には逆らえないし、今更逆らうような気力も体力も残っていない。
 俺に出来ることは甘んじてそれを受け取り、いつ死のうと決して文句を言わないことだけだ。

 まあそれでも。

 こんなあやふやでいい加減な俺が好きだという奇特な少女だけは、彼女が俺を許してくれている限り精一杯守ってやろうと思う。
 一度は失敗して、トリエラと喧嘩別れしてしまったけど、
 今度は、今度こそは、
 俺のエゴで救い上げてしまったエルザ・デ・シーカだけは、
 俺を愛していると告げてくれて、感謝していると言ったエルザだけは、
 必ず守ってみせる。



 何から?

 
 そんなの、とっくに決まっている。
 彼女に降りかかる火の粉全てから。
 彼女が敵と認める全ての対象から。


 何があろうと。







 GUNSLINGER GIRL ブリジットという名の少女 【復讐】









 前から思っていたことだけれど、ブリジットはなんだかんだ言って、仕事道具の狙撃用ライフルがいたく気にいってるみたいだ。
 私たちは港に設置された貨物用クレーンのフレーム部分に二人で腰掛けて、今夜行われるであろう武器や爆薬の密輸現場を監視していた。ブリジットはマガジンの抜かれたライフルをしっかりと抱きしめて、義体特有の強力な視力を持ってコンテナの群れを見つめている。
「さっきから作業用車両に紛れて、不審なトラックが二、三台走っているね。あれかな」
 私は手にした通信機にブリジットの台詞をそのまま伝えた。すると可能性大として、暫く待機するように告げられた。
「どのコンテナに入っているかはまだ分からないから、奴らが開けるのを待てだって」
「他のみんなは?」
「トリエラたちは貨物に紛れて様子を伺ってる。リコたちはまだ後ろで待機」
 ふーん、とブリジットは余り興味がなさそうだ。
 彼女からしてみれば狙撃手という立場上、気を張り詰めていても良いことなど何もないらしい。まあ、密輸犯の検挙を邪魔する狙撃手をカウンターする役目を負わされているのだから、もう少し緊張感を抱いて欲しいが。
「ところでブリジット、いつも思うんだけれどどうやったら狙撃が上手くなるの? 射撃は大分上手になったのだけれど、狙撃だけはどうしても駄目なの」
 会話の内容はお互いに取り留めの無いこと。テロリスト無力化のコツや、美味しいケーキ、苦手な職員エトセトラ。
「それはやっぱ練習かなー。アルフォドさんに付き合ってもらってずっとペットボトルのキャップを狙ってたから。後は体を機械? みたいに考えること。頭の中で未来を予測する」
「未来?」
「そう、風向きや湿度は当たり前だけれど、目標がどういった行動を取るか目標の気分になって考えるの。それをやるには身体がスパコンか何かになったと暗示を掛けるんだ。そうすれば大抵当たる」
「……何か天才の感性に無理やり理屈をこじつけた感じね。ところでスパコンて何?」
「スーパーコンピューター。略してスパコン」
 いくら夏真っ盛りの7月とはいえ、海風が厳しいクレーンの上は上着無しで過ごすことは出来ない。私とブリジットはお揃いの黒いパーカーに顔を埋めながら話を続ける。
「情けないけど、私最近になってようやっとブリジットの性格が読めてきたわ。意外と物知りなのね」
「それって性格関係あるの? ……まあ、物知りというか雑学はあるかな。クラエス先生のお陰だね」
「クラエスとはどうなの? トリエラみたいに顔も合わせない?」
「残念ながら、いつも逃げ回ってるよ。大体公社にいるときはアルフォドさんの執務室に引きこもってる」
 私はそれ以上とやかく言うことなく、何も持っていないブリジットの手を握った。それは私だけはここにいるという伝達でもあったし、温もりを伝え合う親近の意味もあった。
「でもさ、今はこれでいいと思うんだ。ある意味自分の立場の再確認というか新しい船出みたいな意味で。色々と参ってしまっている故の安全策なんだけど」
 海風に煽られて、ブリジットの肩口まで伸びた髪がゆらゆらと揺れていた。彼女の鼻筋の通った顔に埋め込まれた、黒曜石みたいな深淵の瞳が下界を見下ろしている。
「いつか、仲直りはするの?」
 きゅっと、ライフルを抱えた腕に力が込められた。それは怯えというより、もっと別の違った感情の発露に思われた。
「まだその答えはわからないよ。そもそもどうして離別してしまったのかさえ忘れてしまいそうになるんだ。私が悪かったのか、トリエラが間違えたのか、或いは両方か。本当、何でこんな事になったんだろう」
 にゃはは、と冗談めかしてブリジットが笑う。その姿でさえかなり様になっているのだから、彼女が相当の美人であることを私は再認識した。
「おっと、少し雑談が過ぎたかな。自重しないと。……もしかして無線で向こうに聞こえていたかな」
「多分聞こえないわよ。こんなに海風が強いし、私が懐に納めているんだもの。元々感度もそんなに良くないのもあるわね。まあ、余り役に立っていないか」
 私も冗談めかして答えると、ブリジットは何処か気まずそうに目線を逸らした。 そこで私はここ最近彼女が毎回のように無線機を壊していたことを思い出す。
 追求しようとは思わないが、ひょっとすると全てブリジットが故意に壊していたのかもしれない。
「本当、不思議な人」
 私の呟きがブリジットに届いたのかは分からない。 
 でも、私と握り合った白い手の平に少しだけ力が込められたのは、はっきりと感じていた。






 ボルトアクション式ライフルのボルトを引く感触が好きだ。心地良い抵抗を解きほぐす様に引いてやると、機械独特の作動音と共に空になった長い薬莢が飛び出してくる。
 隣で観察望遠鏡を覗くエルザが俺に指示を出してくる。
 方位、風向き、風速等、狙撃に必要なあらゆる情報を口答で伝える。
 カラン、とクレーンのフレームから眼下に広がる暗闇に落ちていった。
 夜風が二人を洗っている。






 ぶるる、と手元に巻いていた腕時計が震えた。バイブ式のアラームが作動したのだ。それは作戦開始の合図を伝えるものでもある。
『各自フラテッロに伝える。F‐13にて複数台の不審なトラックを発見。ブリジット、エルザ組は検挙を妨害する狙撃手を仕留めろ。トリエラ、ビーチェは通達どおりトラックの強襲。ヘンリエッタ、リコは遊撃としてやや後方に待機。残りは全てバックアップだ』
 エルザがブリジットの耳に通信機のイヤホンを当てた。ブリジットは一つ頷くと、抱えていたライフルのハイポットを展開し、スコープ倍率の調整を始める。
「さて、エルザさん。君が軍人なら何処から狙撃してくる?」
「理想は対岸のクレーンなんでしょうけど、大の大人が構えるには目立ちすぎるわね。あっちはこちらと違って人の出入りが多いわ」
「なら?」
「今朝から動く気配の無いあのタンカーかしら。今調べてもらっているけど、恐らく明日まではあのまま停泊している筈」
 エルザが指差した先には比較的小型のタンカーが停泊していた。デッキには大小さまざまなコンテナが積まれており、狙撃手が紛れるには都合が良い。
「私たちの場所移動の必要は?」
「多分大丈夫。これでも上手く隠れられているつもりだし、このトラス構造上、下からの確認は困難だわ」
「了解、それでは午後八時十七分現在、カウンタースナイピングを開始します」
 赤外線暗視装置を起動し、スコープを覗き込む。エルザも望遠鏡を使ってタンカーのデッキを観測し始めた。
 薄緑のレンズ越しに、目標を見つけるまで20秒と掛からなかった。
「アルフォドさん、トラックを伺っている人影を二つ確認しました。武装は見えません」
 エルザに目配せして、今度は通信機のマイク部分を口元に当ててもらう。チャンネルはアルフォドの持っている無線と同じ周波数に合わせた。
 少しくぐもった返答がイヤホンから聞こえる。
『民間人か?』
 ブリジットはスコープ越しにもう一度二人組みを見た。息を潜めるように全く動かないので、その可能性は極めて低い。
「いえ、動きが民間人のそれではありません。恐らく事前に探りを入れた空挺部隊の特殊部隊員かと思われます」
『よし、狙撃手と観測手の区別が付くまでは絶対待機だ。観測手を殺しても狙撃手が生きていれば君達が反撃されかねない。落ち着いて事に当たれ』
「分かりました」
 がしゃん、とマガジンを差し込み、ボルトを引いた。引き金には指を掛けず、緑のレンズの中心に穿たれた赤い点を二人の男の真ん中に合わせる。
 そして一呼吸置いたとき、眼窩に広がる暗闇から複数人の叫び声と銃声が轟いた。






 
 始まった、とブリジットが呟く。
 見ればトラックを守るようにして、武装した男たちがコンテナの陰に銃撃を続けていた。トリエラたちの強襲は成功とは言えなかったようだ。
 私はブリジットの肩を叩き、タンカーの上にいる男たちから視線を外すなと告げた。ブリジットは引き金に指を掛けることで答える。
「! 右側の男がライフルらしきものを所持、あれはM82バレット!」
 男が足元から準備した得物に思わず声を上げる。ブリジットも度胆を抜かれたのか、うわっと声を吐いた。
「不味い! あれはコンテナなんか簡単に貫通するよ! ブリジット早く!」
 男たちが用意していたのはブリジットが使うレミントンみたいな対人用ライフルではなく、装甲車等を狙撃する対物ライフルだった。いくら義体と言えどもあれの直撃は即死を意味する。
 ブリジットが風を読み、ターゲットポインタを狙撃手の男に合わせた。男はまだこちらに気が付かず、下の騒動に視線を奪われている。
「ヘッドショットは不可、ハートショット、スタンバイ……スタンバイ――」
 かたん、と引き金が半分だけねじ込まれる。
 そして弾丸に内蔵された撃鉄が振り下ろされ――、






          ドン!
 





 一瞬、クレーンが揺れたように感じたのは錯覚ではなかった。
 


 ブリジットとエルザの聴覚が捉えたその音は現実のものだったから。
 突風による耳鳴り音が世界を塗りつぶした。








「ブリジット!」
 悲鳴に近い叫びを上げたのはエルザだ。クレーン周辺に吹いた突風は恐らく昼間の揺り戻しだ。
 この状況下では狙撃は愚か、ライフルの発砲ですら間々ならない。
 しかも不幸なことに対岸のタンカーには差ほど影響が無い風向きだった。
 ブリジットは翻る前髪を押さえ、狙撃手の男たちを見る。彼らは既に狙撃のセッティングを終え、目標を吟味する作業に戻っていた。もちろん狙われているのはコンテナの影で責めあぐねているトリエラたちだ。
「ブリジット!」
 風に飛ばされぬよう、腰に巻かれた命綱を握り締めたエルザがもう一度叫んだ。それはブリジットが垂直に切り立ったクレーンのフレームにしがみ付き、再びライフルを構えたからだ。




 ブリジットの体から伸びた命綱が風で揺れている。私はそれを手に取ると、彼女をクレーンのフレームに縛りつけた。
 ブリジットが引き金を引いたのはほぼ同時だ。
「エルザ、観測!」
 弾着の様子まで確かめられないのかブリジットが私に観測を依頼した。私はしっかりと抱きしめていた望遠鏡を覗き込み様子を探る。
「弾着確認、右1メートル!」
 男たちの近くに開いた穴がそれの証明だ。男たちも突然の狙撃に浮き足立っている。
 ブリジットがボルトを引き、次の弾を装てんした。そして直ぐに発砲する。
「まだ! 右五十センチ!」
 乱れる気流の所為で、ブリジットの弾着が定まらない。男たちも私たちの居場所を特定したのか、ブリジットが三発目を放つ前にこちらへ撃ってきた。
「当たるか、そんなもの!」
 向こうの弾丸はクレーンにかすりもしなかった。ブリジットがお返しに再び撃つ。しかし今度も弾際が逸れて命中弾にならなかった。
「落ち着いて!」
 ブリジットが四発目を装てんし、再び構える。向こうもこちらを殺すのに躍起になっているのか一向に引こうとはしなかった。こうなればどっちが先に当てるかのサドンデスルール。
 ブリジットが引き金に指を掛ける。私は咄嗟にそれを声で制した。
「待ってブリジット!」
 ブリジットがぴたりと動きを止める。彼女はこちらを見ることなく「なに!」と問うて来た。
「風が止むの!」




 兆候はあった。がたがたと揺れている隣のクレーンに引っ掛けた観測用の布きれが大分落ち着いている。
 そして耳鳴りのような音も無くなっていた。
 刹那の瞬間は直ぐそこ。





 凪と言えば良いのだろうか。
 エルザの告げたとおり、全くの無風の状態が世界を変えてしまった。
 音も何もなく、時ですら止まってしまったような錯覚を覚える。
 狙撃に最も適したこの状況、
 風向きは完全にイーブン。
 高低さもライフルの性能でほぼイーブンとなる。
 男たちも無風に気が付き、ブリジットの胴体に照準を合わせた。

 ただ勝利はブリジットにある。
 まだ彼女は引き金を絞っていない。それでも彼女の勝ちは確定していた。

 技量とか性能差とかそんなものを飛び越えて、無風になることを知っていたブリジットとタンカーの男では如何せん、差がありすぎた。
 狙撃手の義体が笑う。
 銃声は二つ。
 ブリジットの耳に、直ぐ左を抜けていく何かの音が届いた。
 そして聞こえるはずのない、男の脳幹を爆散させたヒットの音も届いていた。
 カラン、と排出された薬莢が足元へ消えていく。
 エルザが静かに、命中と零した。







 ダン! ともう一つ銃声が轟き、完全に狙撃チームを無力化した。柱に括り付けられたブリジットがふうと息を吐き、額の汗を拭っている。
 エルザはその様子を視界に捉えると、弾けたようにブリジットへ抱きついた。
「うわっ! うわわわわ!」
「凄い! 凄いよブリジット! とってもかっこよかったわ!」
 動けないブリジットに口付けの嵐を叩き込み、エルザは自身の頭をブリジットに擦り付けた。数時間前にお互い話した、何とも微妙なブリジットの狙撃論の意味がようやっと解った気がする
 暫くエルザの熱い抱擁が続く。やがて、少し落ち着いた彼女は静かに口を開いた。
「本当、凄いのね」
 下から見上げてくるエルザがおもむろにブリジットの頭を抱えた。
 ブリジットはこの後、自分が何をされるのか想像して、でも今回ばかりは逆らう気になれず、そのままされるままにしようと思った。
 エルザが抱え込んだブリジットの後頭部に力を込め、二人の顔が近づいてく。
 そっと、ブリジットが目を閉じる。
 エルザとブリジットの影が一瞬だけ重なった。





 こつん、





 合わせられた額から、熱が体中に広がっていく。
 ブリジットは間抜けな声を上げて目を開けた。そこには悪戯っぽく笑うエルザの姿があった。
「あはは、キスすると思った? もしかしてブリジットってあれ?」
「えっ、ちがっ、え!」
 うろたえるブリジットを見て、エルザがさらに笑った。そして真っ赤中をしたブリジットの頭をもう一度抱き寄せてこう言った。
「やっと、笑ってくれたね。やっと、私を見てくれた。あなたは、私の大好きなあなたのままだった」
「あっ」
 エルザがブリジットを縛り付けていた命綱を解く。開放されたブリジットはへたへたとその場に座り込んだ。
「別にブリジットは足掻く必要なんてないんだと思う。だってブリジットはブリジットだもの。私の心を解き放ったように、あなたはいつも誰かに心を開いているわ。それはあなたにしか出来ない凄いことなの」







 下ではまだ、銃撃戦が続いている。だがここでは静かな安らぎの空気が二人を待っていた。
 ブリジットがエルザと向かい合って、口を開いた。
「ねえ、エルザ。もしさ、君が好いてくれているこのブリジットがこの世界の人間じゃ無かったらどうする?」
 無線で聞かれる心配は無い。そんなもの、さっきの突風で予備のマガジンごと下に落ちている。
 その事実と、そしてエルザの慈母のような笑みがブリジットを大胆にしていた。
 エルザはほんの少しだけその綺麗な双眸を歪めるが、直ぐに微笑みに表情を戻して、
「そんなもの、こうするわ」
 ブリジットの体を殊更強く抱きしめた。



 

 


 



[17050] 第54話 復讐 【ついでに四か月前のこと】 後編
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2010/09/22 17:40
 義体達によって制圧されていくトラックを見つめる人影が二つ。彼女らはクレーンのフレームに腰掛けたまま、ライフルスコープ越しに現場を観察していた。
 時折、思い出したようにエルザがブリジットに指示を飛ばし、ブリジットは残された弾丸を使って狙撃支援をする。
「……ならあなたの意識体は元の体にあったものを改ざんしたのではなく、何処か外から持ち込まれたものなの?」
 しかし指示を飛ばすよりも、エルザはブリジットの出自を聞くほうに精神を傾けていた。
「私は――俺はそう信じている。ちょっと最近自信が持てなくなってきたけど」
 あと一発、とブリジットが人差し指と親指でライフル弾を摘んでいた。直接薬室からそれを叩き込んで装てんを済ます。
「不思議なこともあるのね。夢みたい」
「俺もこんなことを担当官以外に打ち明ける日が来るとは思わなかった。ちょっと失敗したかな」
 一度スコープから目を外し、ブリジットがエルザを見る。エルザは視線に気が付いたのか、同じようにブリジットを見た。
「どうして失敗したの?」
「いや、嫌われたかなって。不確かで、確かめる方法も無いけど、俺は男だったのかもしれないよ」
 自嘲気味に笑うブリジットだったが、言葉の端々からエルザに拒絶されることに対する怯えのようなものが見え隠れしていた。エルザはそれを敏感に感じ取っている。
 でもエルザは何ら特別なことをするでもなく、極普通の調子で言った。
「あら、結構好きよ。男の人は。ラウーロさんの性別を考えてよ」
 拍子抜けしたのはブリジットだったか。
 ライフルストックに巻かれた頬当てに額を乗せ、「一本取られた……」と零す。エルザはそんなブリジットに身を寄せて、肩に頭を置いた。
「ねえ、ブリジット」
「なにかな」
 見上げたブリジットの瞳にエルザが映りこんでいる。今思えば、初めて出会った時からエルザはブリジットの瞳にいた。あの時と違うのはエルザの瞳にもブリジットが映っていることだ。
 一拍、二人は見つめあう。
 二人を襲っていた突風はもう完全に鳴りを潜めていて、静かな聞こえの良い風の音が世界に満ちている。遠くのほうで港の、コンテナ港の明かりが煌き、光の水平線を形成していた。
 キスしてみようか、とエルザが言う。
 ブリジットもうん、と答えてエルザの手を取った。
 さっきみたいに瞳を閉じることはもう無い。
 二人ともしっかりと相手を見定めて、決してその視線から零れてしまう事の無い様に、口を少しだけ開いて、歯と歯がぶつからない様に顔を近づけていく。
 引くにはもうここしかない。
 でも、二人でこんな事が出来るのも今しかないと思う。
 禁忌に魅せられたわけではない、それでも今はこうして相手の事を自分に刻みたくて、二人は唇を重ねる。
 とろ、っとブリジットの舌が甘味を感じ取った。
 今まで気づかなかったが、エルザはどうやらアメを舐めていたらしい。ブリジットはそんなエルザが酷く愛おしくて、そして何だか懐かしくて、思わず目尻に涙を浮かべた。
 時間にして、本の数秒。
 でも二人が口を離した跡には銀色の筋が通っていて、それを見つけたエルザが顔を真っ赤にさせた。自分から誘っておいて狼狽しているエルザをブリジットは同じような赤い顔で笑った。
「そろそろ、降りようか」
 降下用ロープを手に取り、ブリジットが問う。
 エルザはまだ少しだけ頬を高揚させたまま、するすると先に下りていった。フレームに括り付けられていたブリジットとは違って、エルザは最初から命綱――降下用ロープを兼ねるを結んでいたので行動が早い。
 ブリジットも手早く準備を終えるとライフルをその場に残して、飛び降りるように真下へ広がる暗闇に降りていった。











 あらかた制圧が完了し、三台のトラックが押収された。万が一のため、爆薬の専門家の立会いの元トリエラたちがトラックの荷台を開ける。
「……やられたな」
 声を漏らしたのはヒルシャーだった。
 彼が照らす懐中電灯の明かりの向こう、中に積み込まれていたのはコンクリートブロックの山だった。
「恐らくここを守っていた奴らは中身については知らされていなかったな。クソ! こんな初歩的なダミーに引っかかるとは」
 悪態をついたアルフォドが無線を使ってブリジットに交信しようとする。しかし応答は無い。ラウーロもエルザに連絡を取るが、ブリジットと同様だった。
「とりあえず本部にこのことを連絡。港からの道路網を全て検問で塞げ。船の出入りも見逃すな」
 焦りの滲んだ表情でアルフォドが命令を飛ばす。
 だがその時、彼の背後――約二百メートル離れた対岸のコンテナの群れから突然光が舞い上がった。
 辺りに轟音が響き、黒い煙に紛れて赤く高熱を帯びた空気が雄たけびを上げる。
 爆発だ! と誰かが叫ぶ。
 トラックを囲んでいた一同は、呆然と燦燦と輝く業火を見上げていた。











 かつん、と足音がした。
 足音の主は、酷くやつれた薄汚い浮浪者風の男だった。
 彼は古ぼけ錆付いたコンテナの前に腰掛、懐からタバコを取り出した。
 そんな彼の前に、一人の少女が立つ。
「あなた、ただの根無し草とは違うよね」
 少女は黒い髪と黒い瞳を持っていた。髪は肩口まで伸びていて、夜風で揺れている。防寒具にも似た青いジャケットを羽織っていて、手には拳銃を収めている。
「……噂の、政府の殺し屋か」 
 男の台詞に少女は形の整った眉を歪める。されど手にした拳銃の銃口が鈍ることは無かった。
「私たちはさ、不正に密輸入されている武器や爆薬を取り締まりに来たの。本当はここから北に行ったところの載積場が取引現場の筈なんだけどどうしてかな。どうしてあなたの後ろにあるコンテナからこんなに火薬の匂いがぷんぷんするの?」
 男は少女が告げた内容に少しだけ驚きの声を見せて、でも直ぐ納得したように笑った。
「聡いな。だから我々は敵わなかったのか」

 
かつん、ともう一つ足音がした。

 
 男の背後にあるコンテナの上に別の少女が現れる。彼女もサブマシンガンを構えていた。黒髪の少女とは打って変わってプラチナブロンドの髪をしていた。
「本当、計画通りだ」
 男は自分を見下ろす少女を見上げて、そう言った。









 ブリジットとエルザは降下を終えた後、サイドアームズに切り替えてアルフォドたちに合流しようとしていた。ブリジットがその匂いを感じ取ったのは幸運なことに彼女たちが風下を歩いていたからだ。
 僅かに感じた火薬の匂いは、トリエラたちが交戦している場所とは正反対の場所から漂っていた。
 回収した無線機は粉々に砕けていたため、二人は連絡をいれるよりも先に様子だけでも伺おうと件の場所に足を向けた。
 そこで浮浪者のように小汚い男と、静かに狂気を孕んだ古ぼけたコンテナを見つけたのである。
「いつからそこに運び込んでいたの?」
 ブリジットが引き金に指を掛けた。男はさも興味が無さそうに淡々と事実を告げていく。
「彼是一週間前からだ。君たちが荷物の移動を制限したお陰で、ここにそれだけの期間放置していても怪しまれることは無かった」
「……中身は?」
「TNT。元はエジプト陸軍がムスリムに横流ししたものだ。量は覚えていない」
 ぎりっ、とブリジットが唇を噛む。恐らく公社が追っていた入手経路不明の爆薬はこうして港に隠されながら取引されていたのだろう。
 もしそれが本当ならば、トリエラたちが取り押さえているトラックは偽者である可能性が高い。
「……大人しくコンテナから離れて、手を頭の上に置け。妙な真似をしたら殺す。――エルザ! 向こうへ連絡する手段は?」
「今は無いけど……直ぐにこちらに気が付くと思う。男を拘束して、少し待ちましょう」
 コンテナから飛び降り、エルザが男を引き倒した。ブリジットはコンテナに注意深く近寄り、そっと観音開きの扉を開ける。
 そして懐中電灯で中を照らした。







 ぽつり、と男が言った。


「それは、お前たち社会福祉公社への手向けだ」


 ブリジットがドアから離れ、何かを叫んだ。 


「私は仲間を全てお前たちに殺された。お前たちに復讐するため、密輸現場の猿芝居もこなして見せた」


 男を引き倒していたエルザを小脇に抱え、一歩目を踏む。


「お前たち二人しか仕留められないのは残念だが、今はそれで良い」


 空気が膨張する。




 




「吹き飛べ、悪魔ども」









 コンテナの前に投げ捨てられた懐中電灯は、相変わらず胡乱な暗闇を照らしている。
 赤くLEDライトが点滅し、幾つかのコードと乱雑に巻かれたビニールテープが見える。
 地獄の底にも似た、その悪夢のような光景からブリジットは一刻も早く離れようとする。
 音は轟音というより、何かの破裂音だ。





 一瞬で視界が上下逆さまになり、重力を無視して身体が浮遊する。
 辛くも爆風から逃れた体は、右半身に多数の破片を浴びた。
 地面を滑るように転がって、全身の感じた痛みの所為で意識が何度もホワイトアウトする。





 ブリジットが見たのはただの爆薬ではなく、いつでも爆破できるように用意された爆弾だった。
 男が起爆させたそれは、男自身を吹き飛ばし、二人の義体を巻き込んだ。
 ブリジットは浅い呼吸を繰り返しながら、やっと静止した自分の体を認識した。


 焼け付くような痛みと、朝日のような光が視界を塗りつぶしていて、どくどくと流れる血が止まることは遂に無かった。
 彼女は苦悶に負け、か細い声でその名を呼ぶ。
「える、ざ……」
 見えなくなった右目を抑え、ブリジットは天に手を伸ばす。



 彼女の黒髪は、燃え盛る炎と真っ赤な粘りのある血の所為で、赤々と輝いていた。

  



[17050] 第55話 復讐 【ついでに四か月前のこと】 終章
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2010/09/23 20:03
 爆風に吹き飛ばされ、全身を酷く地面に打ちつけながらも意識を手放さなかったのは行幸だった。
 エルザは二、三度咳をしながらよろよろと立ち上がって見せた。
 その時になって始めて、自分の胴に食い込んだ鉄の破片を見つけた。
「くっ……」
 思わず押さえた手の平が赤く染まった。痛みを和らげるため鉄片を引き抜こうとするが、その過程で大きな血管を傷つけると、取り返しの付かないことになってしまうのは明白だった。
 だからエルザは痛みをこらえながら鉄片から手を離す。
「不味いわね、これは」
 定まらぬ視界のため不意に動くことを良しとせず、エルザは痛みの波が引くまでその場に立ち尽くした。自身の体を精査してみると骨折は無し、内臓の損傷も鉄片が突き刺さっている部分だけだ。
 彼女が吐いたのは安堵の息だった。
 決して楽観視できる傷ではないが、義体の生命力を上手く活かせば死に至るようなものではない。このまま地面に腰掛、安静にしていれば出血もやがて止まるだろう。
 エルザはそう結論付け、そっと膝を崩そうとした。



「える、ざ……」



 その、呟きが聞こえるまでは。




 
 エルザの視界が徐々に回復していく。
 そして、見てはならないものを見てしまった。
 自分より少し前、
 爆心地に近い所にブリジットが転がっている。
 エルザがブリジットに手を伸ばした。
 小さな手がブリジットの頬に触れる。彼女が得た感触は冷たいでも暖かいでもなく、熱い、だった。
 ぬるりと、赤い血が自分とは違うブリジットの血が手の平を犯す。

 
 地獄のような世界で、ブリジットは死に掛けていた。



 エルザはブリジットを見下ろし、服を千切って即席の包帯を用意していた。
 その包帯を使って特に損傷が酷い右目から胸元にかけて縛り上げていく。その一連の作業の中でも、己を苛む鈍痛を忘れることが出来なかった。
 ぽたりと、エルザの額から落ちた血がブリジットの綺麗な頬に落ちた。
 エルザはそれを優しく拭ってやると、もう一度最初から状況確認を始めることにした。



「私とブリジットはテロリストの自爆に巻き込まれて負傷。私の傷は命に別状は無し。ただしこのまま安静に過ごした場合のみ」
 がっ、と血を吐く。
「対してブリジットは瀕死。このまま放置すれば間違いなく助からない。応答は無し。意識も無し。脈拍微弱、呼吸も不規則」
 汗と血で濡れた髪をかき上げる。燦燦と燃え上がるコンテナの残骸を見上げた。
「この爆発に気が付いて応援が来ても、ブリジットは多分駄目。ならこちらから出向いて少しでも距離を詰めるべき。でもどうやって?」
 エルザは瞳を閉じた。
 痛みに思考を邪魔されながらも、彼女は諦めない。
「連れて行くの? ブリジットを担いで皆のところに? そんなことしたら……」
 自分で言って、鉄片が生えた胴を見た。心なしか先程より出血量が増えている。
 もしそんなことをしたら自分が助かる見込みは限りなくゼロに近づく。ブリジットが助かる確率もゼロから本の少しだけマシになるだけだ。
 果たして、そこまでのリスクを犯して行動を取ることが義体として正しいのかエルザには判断が付かなかった。
 思えば二人で独断専行や、男のボディーチェックを行わなかったなど、義体としての失態は数えられないくらいある。
 だからこそ、エルザに仕掛けられた条件付けがこの場で待機を必要以上に促してくる。
 前かここか。
 エルザはもう一度ブリジットを見た。僅かに上下する胸が痛々しい。即席で作った包帯も直ぐに血が滲んで真っ赤になっていた。
「本当――どうしたらいいの?」
 


 最初は大嫌いで、でも直ぐに大好きになった女の子。
 亡霊の意味を、本当の彼女を教えてくれた女の子。
 
 そして、この命を助けてくれた女の子。



 エルザはゆっくりと立ち上がった。表情は柔和に笑っている。
「迷う必要は、ないか」
 回収しておいた降下用ロープをナイフで手ごろな長さに切る。瀕死のブリジットを背負い、腹の鈍痛に顔を歪ませながらもエルザはブリジットを体に結びつけた。
「だって、助けてくれたんだから。私の命を救ってくれたから」
 じり、と一歩目を踏み出した。
 瞬間、更なる痛みで意識が飛びかける。エルザは己の唇を、下を血が滲むほど噛み締めてその場に踏みとどまった。
「動け、動くのよエルザ。前に行くしかないの。分かる?」
 出血が増えて、腹から血が吹き出した。さっきまで定まっていた視界がぼやけ始める。
「あんなに苦しんで。そして今も泣いているブリジットを殺しちゃ駄目」
 また一歩、また一歩と歩を進める。
 それに比例して、全身から警告を意味する痛みが襲ってきた。
 だが今はそれに従う余裕は無い。
「私は大丈夫だから。ブリジットをみんなのところへ連れて行くくらい簡単なことだから」
 ごふっ、とさっき吐いた血に様々な液体が混じって口から零れた。
 縛り付けたブリジットの体からも血が滲み出して、エルザの体を汚していく。
「まだ生きてるのよ、ブリジットはまだ生きてるの。あの日、ブリジットに救われた日に本当は死ぬ筈だった私とは違うの」
 ぽろぽろと涙が止まらない。
 エルザは痛くて痛くて、死ぬのがとても怖くて、もう誰とも会えなくなるのも怖くて、けれどブリジットを失うことが一番怖くて泣き出した。
「ブリジット、あなたのことが好きなの。本当に大好きなの。だって、だって――あなたは私に光をくれたじゃない。私に生きる意味を教えてくれたじゃない」
 ぼた、ぼた、とエルザが通った後は多量の血痕と、涙が残された。
「ブリジットも、もう少しだけ頑張って……」
 背中から、応答は無かった。
 エルザはその場に膝を付き、地面に屈した。
 背後を見ればまだ二十メートルも進んでいない。
 でも彼女は決して諦めることなく、這いずるようにして前を目指した。
 また、流れ出す血の量が増える。
「まだ、まだ進まないと」
 懇願にも似た小さな叫びがコンテナの森で木霊する。ずる、ずると血の跡を刻みつけながらエルザは進む。はっはっと不規則な息が漏れ、アスファルトを掴んだ爪が割れた。
「ごめんなさい、ラウーロさん。あなたに何も報えなかった……」
 いつの間にか痛みは麻痺し、視界はもう殆ど映らない。でもエルザはそのことに気が付かない。
「ごめんなさい、トリエラ、クラエス。今までありがとう」
 遂に、エルザが止まる。
 ブリジットを縛っていたロープを解き、地面にそっと寝かせた。どうしてこんなことをしているのかエルザは分からなかった。
 ただ漠然と、終わりが目の前に迫っていることだけは感じていた。
「馬鹿だな、私。結局自分を殺して進んだのがこれだけって」
 50メートルしか進まなかった事実に笑うしかない。けれどもエルザは後悔していなかった。
「私、ブリジットの為にこの命を使えて嬉しかったよ」
 エルザは意識のないブリジットを守るように、静かに覆いかぶさった。互いに血塗れの額をすり合わせ、涙をブリジットの目尻に落とす。
「結局私は一人じゃ何も出来なかったけど、あなたがいて幸せでした。ラウーロさんやトリエラたちにも感謝してるけど、あなたが一番よ」
 力なく、エルザがブリジットの上に倒れこむ。
「ごめんなさい、ブリジット。でもあなたはまだまだ生きて。生きて、私にそうしてくれたように、また誰かを助けてあげて」
 遠くから、複数の足音と人の声が聞こえた。


「さようなら、先にいって待ってるね」



 

 エルザ・デ・シーカはそっと息を引き取る。ブリジットの胸に顔を埋めて、何処か安心したように死んでいた。
 動かなくなったエルザの下、ブリジットの心音が一際大きく、跳ねた。







 そこは、暗い暗い意識のそこ。
 ブリジットは赤毛の少女に抱きすくめられ、胡乱な頭で声を聞いていた。
「はじめまして、かな。ブリジットさん。何度か会ってると思うけど、お話しするのはこれが始めてね」
 ブリジットは目の前の赤毛の少女――ヒルデガルトの瞳を見る。
 それは吸い込まれてしまいそうな奈落が映っていた。
「多分ね、この体はもう死んでしまうの。でもエルザって子があなたを助けようと戦っているわ。あなたは生きたい?」
 ブリジットはヒルダの瞳に吸い込まれていく。彼女の瞳には魔力が宿っていた。
 胡乱な、朦朧とした意識のブリジットを食い殺してしまう妖艶な魔力が。
「あなたの生命力はもう死に掛けてるの。でも私の生命力はまだ健在のまま。だから私に従いなさい」
 ヒルダがブリジットの手を取る。
 ブリジットはピクリとも動けなかった。
「さあ、私と生きてみましょうか。ブリジット。まだあなたは死ねないわ」
 意識が覚醒する。
 ヒルダが消えて、ブリジットだけ取り残される。
 彼女は瞳を開けた。






「……エルザ?」
 ブリジットは自分にのしかかる暖かい少女を見た。
 少女は笑っていた。
 だが終ぞ彼女がブリジットに笑いかけることは無い。
 ブリジットはそれでも、何度もエルザを揺らし続け、再び自分に微笑んでくれるのをずっと待っていた。









[17050] 第56話 復讐 【そして彼女が動き出す】 
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2010/09/26 08:38
 相変わらず俺は、暗い暗い世界をさ迷っていた。
 意識の本流が渦巻くそこで、俺は赤毛の少女に組み伏せられている。
 彼女は妖艶に嗤い、胡乱に満ちた奈落より深い瞳で俺を覗き込んできた。
「おめでとう、ブリジット。あなたは死なずにすんだわ」
 唇の端を吊り上げて、白く薄い歯を見せながら彼女は告げる。俺は煩いと赤毛の少女を振り払おうとするが、万力のような呪縛の所為でそれがままならない。
「暴れても無駄よ。あなたは私の身体――ヒルデガルトの肉体を依り代にしないと生きて生けないの。この世界ではあなたは私に逆らえない」
 赤毛の少女――ヒルダの髪が俺の黒髪に混じる。彼女は組み伏せられていた俺を抱き起こしてこう告げた。
「あなたはエルザという少女を一人犠牲にして生き残ったわ。残念ね、あなた自身の手でこの世界に残した唯一のものだったのにそれを亡くしてしまった」
 ヒルダの笑みは魔法が掛かっていた。それが悪魔の、決して耳を傾けてはいけない類の囁きである事などとっくの昔から知っていたのに、俺は耳を塞ぐこともできず、ただただ取り込まれていくだけだった。
「ねえブリジット。あなたはエルザの死に何を思う? 悲しみ、悲壮? それとも世の無常? 絶望? いやいや、あなたは人の死に悲しみを感じることの出来る全うな神経はもう無くしてしまった」
 やめろ、と声を絞り出す。ヒルダはそんな俺が可笑しいのか更に笑みを深めた。
 誰か、誰か俺の耳を潰してくれ。
「ピノッキオが死んだときも、エルザが死んだときもあなたは悲しみを感じていないわ。あなたが感じたのは怒りだけ。それもこの世界全てに対する怒り」
 ヒルダが俺の頬を撫でる。
「恨みなさい、ブリジット。あなたから全てを奪っていくこの世界を。あなたが幾ら最善を尽くしても常に裏切り続けるこの世界を。そして復讐するの。この世界に、この世界を生きる全ての人間に」
 魔法が掛かっていたのは笑みだけではない。
 ヒルダの一声一声が俺の意識を犯し、麻薬のように全身に染み渡っていく。いくら抵抗しても無駄だった。俺はヒルダの甘美な誘惑を断ち切ることが出来ない。
「殺して殺して屍の山を築きなさい。その先に何があり、世界に復讐しえたのか確かめるために」
 あっ、あっ、とあたまをおさえる。
 性的快楽にも似た興奮と、血と肉の匂いからなる暴力的衝動が入り込んでくる。それはヒルダの誘惑よりも遥かに鮮烈で、残酷だった。
「ブリジット、殺しなさい。あなたはその権利がある。そして義務も。大丈夫、邪魔するものは全て壊せばいいわ」
 衝動が全てを支配し、理性が蝕まれる。ヒルダの姿がぼやけ、全てを見失いそうになる。
 とん、と世界が逆転する。
 ヒルダに肩を押され、意識のそこから現実の淵に突き落される。
 意識が朦朧とし、現実にある肉体に引き戻された。
 悪夢というには心地よく、夢というにはおぞましい時間は、俺の心音をマークする電子音を境に終わりを告げた。



 目が覚めて最初に感じたのは激痛だった。
 やけどにも似たその感触の元を辿ると、右目だったところに触れた。
 体液の滲んだ包帯に覆われ、最早そこから視界を得ることは出来ない。
 ブリジットは右目を押さえ、全身に刺さっていた点滴を引き千切りながら身体を起こす。

 そして痛みの次にやって来た凶悪な興奮と快感の波に飲まれる。
 歯を食いしばり、残された左目で世界を睨む。
 彼女は検査着にも似た患者服を引き裂かんばかりの勢いでで握り締めた。



「ころして、やる……!」

  
 


 瞳に宿るのは明確な殺意。
 誰に向けられたわけでもなく、
 誰にでも向けられたその憎悪は留まるところを知らない。



[17050] ガンスリ劇場6 シリアス好きにはオススメ出来ません 【ついでにバレンタインネタ】
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2010/10/11 22:13
 ガンスリ劇場





いいいいいいいやったああああああああああ!!




「ねえ、クラエス。なんかシャワールームから叫び声が聞こえるんだけど。具体的にはエルザ」
「そっとしてあげなさいトリエラ。あの子は今、百合的喜びと本編退場の悲しみの狭間で戦っているのだから」
「あはははは、ではガンスリ劇場、今回は季節はずれネタです(少し後ろめたいブリジット)」
「……あら? 私とのデートは?(クラエス)」




 ばれん、たいん!




「あらブリジット、アルフォドさんにキッチンを借りたみたいだけど何を作ってるの?」
「あ、エルザか。えへへへ、これはね、チョコレートを作ってるの」
 PIYOPIYOとヒヨコの描かれたエプロンを身に纏い、ブリジットが鍋をかき混ぜていた。エルザが少し背を伸ばして覗き込んでみるとチョコレートが湯煎されている。
「? どうしてこんな時期にチョコレートを作っているの?」
「あれ、バレンタインって知らない?」
 ヘラに付いたチョコレートを舐め、ブリジットが問う。
 エルザは知らないわ、と首を振った。
「毎年2月14日はね、女の子が好きな男の人にチョコレートを渡す日なの。まあ最近はお世話になってる人にも贈るから、アルフォドさんにあげようかと」
「ふーん、成る程ね。でも女の子から女の子に渡したりはしないの?」
「一応友達チョコレート、略して友チョコみたいなのはあるよ。読んで字の如く友達の同性に贈ることが出来ます」
 ブリジットの説明を聞いたエルザは二つのことを考えていた。一つは自分がブリジットにチョコレートを贈れば喜んでもらえるかどうか。これに関しては元々甘党のブリジット故に無条件で喜んでもらえるだろう。まあ若干餌付けみたいで理想とは違うが。
 二つ目はブリジットが自分にチョコレートをくれるかどうかだ。むしろこれが本題といえる。優しいブリジットのことだからくれるにはくれるだろう。だがそこに宿された気持ちにラブ分が入っていないと本編から退けられた身としてはいささか――いや、かなり堪えるものがあった。
 だからエルザはバレンタイン前の男子の挙動不審さをそのまま体現しながらブリジットに問うた。
「あ、あのね、ぶ、ブリジット。あなたは私のことが好き?」
 遠まわしに聞こうとして、ど真ん中ストレートを投げ込んでしまったことが悔やまれる。これでは思春期の男子どころかただの不審者ではないか。
 だがブリジットの天然と純粋さはエルザの予想を遥かに超えていた。
「うん、大好きだよ」
 ぐさっ、と見えない言葉の槍が突き刺さった。思えばこのやりたい放題が出来る劇場で自分は敬愛するブリジットに何をしてきたか。
 お菓子を出汁に調教したこともあった。
 ブリジットの盗撮写真を買い漁った。
ブリジットを題材にした発禁本を買い漁った。
MC漬けにしてズボンを脱がせた。
MCを言い訳に貞操を奪ったこともある。
「さ、最低だ。わたし……!」
 くら、とエルザが地に四肢を付く。苦しくも本編でブリジットを救い上げた体勢そのものだったが、そこにあるのは達成感と慈悲ではなく、自己嫌悪と劣情であった。
「あのー、エルザ? どしたの?」
 ああ、心配そうに覗き込んでくるブリジットが眩しい。この汚れてしまった身と心に染み入るようだった。エルザは悟る。自分はこの汚れキャラポジションから脱却しない限り、ブリジットのチョコレートを受け取る資格はないのだと。
 だから彼女は薄っすらと目尻に涙を浮かべながら、ブリジットに告げた。
「ごめんなさい、ブリジット。私は暫くあなたの目の前から消えるわ。そして綺麗になって戻ってくるから……」
「え? 意味が全くわからないんだけど……」
「さようなら」
 そうやって、エルザはブリジットの目の前から姿を消した。ブリジットは困惑顔を浮かべながらも再びチョコレートを作る作業に戻るのだった。








「で、感動の別れを果たして綺麗になって戻ってくるつもりだったのが、お姉さま成分が足りなさ過ぎて三日と持たなかったと」
「はい、その通りで御座います。クラエス様」
「ふーん、こんな微妙なオチな話をするために私のデートを次回に伸ばしたのね」
「いえ、滅相も無いですクラエス様」
 暗い部屋の片隅でエルザは正座をしていた。ブリジットの元を離れ、暫くは寮を流浪していたエルザだったがクラエスの言うとおり三日坊主きっかりで限界が来ていた。
「まあ今回の騒動は多めに見てあげるわ。あなたのお陰で面白いものが見れたし」
「面白いもの?」
「そう。面白いもの。あなたがブリジットのチョコレートを味見しなかった所為で沢山の犠牲者が出たわ」
「ひょっとして凄く不味かったとか?」
「それもあったけど、やはり一番は寝取られの業ね……」
「?」





 満面の笑みが、目の前にある。
「アルフォドさん、これどうぞ」
 アルフォドは悶えていた。それはブリジットのチョコレートが鉄の味がしたとか、そういった些細な問題ではない。むしろそんなもの、今までの不遇に比べれば安いものだった。
 アルフォドは生まれて初めて、自分の意義を知っていた。
「ピノッキオにブリジットを掻っ攫われて彼是二話。あの屈辱はこの日の為にあったのだ!」
 そう、それはブリジットから手作りのチョコレートを貰ったという感動。食育の大切さを教えようと煙たがられ、ブリジットの所為でラウーロに愚痴を言われていた自分はもういない。
 今ここにいるのは義体からバレンタインを頂いた担当官――勝ち組のアルフォドなのだ。
「さあ、ブリジット。何でも好きなものを言いなさい。今から買いに行こう!」




 深夜、アルフォドの執務室で携帯電話を操作するブリジットがいる。

「あ、もしもしアルフレッド? ブリジットだよ。チョコレート届いた?」

「え? 包装が懲りすぎて面倒くさい? ……うう、ごめんなさい」

「でも一つしかないハート型を使って凄く頑張ったんだから! 味は良かったでしょ」

「あ、そうなの……。美味しくなかったんだ……。アルフォドさんで試してみたんだけど……」

「え、本当! わかった! 来年も頑張って贈るね!」

「ううん。大丈夫。アルフォドさんには内緒だから! うん、そう。じゃあおやすみなさい!」

「明日も、電話するからね!」


 通話終了。






「……え、何これ?」
「何って、ブリジットの携帯電話の通話記録よ。ついこの間からアルフレッドという青年と仲が良いの」
「ブリジットの猫撫で声って初めて聞いた……」
「というわけでアルフォドさんに贈られたのはダミーで、こちらが本命でしたっと」
「このことはアルフォドさん知ってるの?」
「教えられるわけ無いでしょ。あの人、嬉しすぎてヒルシャーさんたちに凄く自慢してたのだから」
「……何か本編の欝成分がこちらに伝染してない?」
「馬鹿ねエルザ。これ程面白いことは滅多にないわ」
「は?」
「このエピソードを同人にして売り出してみなさい。幾ら儲かるか検討も付かないわ。これはビジネスチャンスなのよ」
「……どうしよう、クラエスがここまでゲスだとは思わなかった……」
「ふふふふ、最高の褒め言葉だわエルザ」


 そんなんだから、デートエピソードが飛ばされるんだと、口が裂けても言えないエルザだった。




[17050] 第57話 黒毛と赤毛 【ついでにぺトラのこと】 
Name: H&K◆03048f6b ID:daca760b
Date: 2010/10/11 22:16
 人も元を辿れば生き物であるから、同種殺しである殺人に対しては強い抵抗感を持つ。
 義体化された少女たちは条件付けという一種の洗脳を施されて、殺人に対するストレス、抵抗感、倫理の壁を取り払われている。
 中身が一般人の意識体だったブリジットも同様の効果が得られていた。彼女自身、他の義体よりかは抵抗感を持っていたものの、やはり一般人に対して比較にならないほど低い。
 公社の医療班が異常に気が付いたのはカウンセリングの場であった。
 エルザの死を忘れさせるか、そのままにするかで一悶着あったのだが、上の判断はそのカウンセリングの結果によって下された。
 それは義体が本来持ち得ないはずの、テロリストに対する強い憎悪。
 担当官や後者の命令で敵性体を殺すことはあっても、自身が生み出した殺意を持って任務に挑む義体はこれまでに無かった。
 ブリジットは自ら復讐心という感情を内包し、テロリストを殺害していたのである。
 これに気が付いた医療班と上層部は一つの決定を下した。

 その決定とは、ブリジットの抱く負の感情を敢えて消去したりせず、それどころか増長させることによって義体が何処まで戦闘力を発揮するか、さらにどの様な影響を肉体及び精神に与えるか観察を続けることだった。
 
 ブリジットは自分がそう利用されていることに気が付いたとき、怒りを感じるよりも好都合だと笑って見せた。
 彼女からすれば無差別に殺戮が許される環境は、今最も望んでいるものだったのだ。
 己の運命を呪い、そして世界を殺さんとするブリジットはもう止まらない。
 ブリジットは眼帯で覆われた右目の下に憎しみも怒りも全て滾らせて敵を殺す。
 彼女がこの世界に来て初めて犯した殺人の感触など、とうの昔に忘れていた。













 黒のアルファロメオの助手席でブリジットは人を待っている。
 ブリジットは外から見えないよう、自分の膝元に隠された拳銃を左目だけで見つめていた。ピノッキオに切られた髪は少しだけ伸びて肩口より下になっている。ただ潰れた右目を隠す医療用眼帯はまだ外れていなかった。
 ぽつぽつと雨が降り始める。
 彼女は湿気で古傷が痛むのを感じながら、膝を抱えて丸まるようにシートへ転がった。視線の先にはアルフォドが吸ったタバコの柄が詰まった車内灰皿が見える。
 こつん、と運転席側から足音が聞こえた。
 ブリジットは手の中の拳銃を握り締め、身体を強張らせる。
 そして、不躾にもノックもなしに運転席へ乗り込んできた輩に銃を突きつけた。
「わわっ! 私だってばブリジット!」
 運転席に乗り込んできた赤毛の女は額に突きつけられた銃に怯えながら手を振った。ブリジットは舌打ちを一つすると、銃を下げて再びシートに丸まった。
「ねえ、いきなり酷いよ」
「煩い。ノックもしないあなたが悪い」
 取り付く島もなしにブリジットが返す。赤毛の女――ペトリューシュカは溜息を一つ吐くと、外で買ってきたホットコーヒーのカップをブリジットに突き出した。
「はい、エンジンも掛かっていない車の中では寒いだろうって、アルフォドさんから」
 白い湯気を立てる紙カップをブリジットが受け取る。彼女はブラックのままそれに口をつけた。
「……不味い」
「アルフォドさんから貰ったものなのに?」
「誰から貰ったって一緒でしょ」
 そう言ってカップを車内にあったカップホルダーに差し込む。ペトラも一緒に買ってきたチーズサンドを咥えてその様子を見ていた。
 ブリジットの携帯電話が着信を受けたのはそれから五分ほど後のことだった。
「ブリジットです」
 キッカリ3コールで応答した様子から、何かしらルールでも決めているのかもしれないとペトラは思った。ブリジットは何やら感心しているペトラを鬱陶しく思いながら、電話の向こうに耳を傾ける。
「ターゲットがもう直ぐそっちの通りに行く。車止めを使って止めなさい。後部座席にショットガンがあるからそれを使っても構わない」
 電話の音声を拾ったのか、ペトラが身を乗り出して後部座席から何かを引っ張り出した。布に包まれているが恐らくアルフォドの言うとおりショットガンなのだろう。
「了解しました。中の人間は?」
 息を呑んだのは電話口のアルフォドもペトラも同じだった。
 何処か嗜虐的に聞こえるブリジットの口調が思わず寒気を催す。
「運転席のターゲットは殺すな。尋問も駄目だ。他は――止めはしないよ」
 わかりました、とブリジットが電話を切る。ペトラは一度外に出てトランクに収められた車止めを準備しに行った。それはある意味で逃げの一手だ。
 ブリジットはホルスターに拳銃を収めて、布に包まれたショットガンを持った。くるくると踊るような手つきで布を解き、つや消しブラックの銃身を露にさせる。
 そしてポンプアクションの作動部を握り、ガシャ、と装填をした。
 薄く吊り上った唇が酷く蟲惑的で、薄く見える歯が凶器のように光った。
 黒の瞳は殺意の色で濡れていた。








 

 ブリジット達が待機する通りから少し離れたところで、担当官二人組みはフィアットを使って目的の車を尾行していた。
「……それにしてもお前の勘は良く当たるんだな。ブリジット達のいる場所へきちんと向かっている。前は何処にいたんだ?」
「内閣の情報部に少し。詰まらない仕事でしたよ」
 運転手はアレッサンドロ、助手席にはアルフォドが腰掛けていた。元々軍警察で対人戦の心得があるアルフォドが膝の上で拳銃のスライドを引く。
「アルフォドさんは軍警察だと聞いていますが、どうしてここに?」
「んー、まあ色々あった。市民に銃を向けたり、同僚が死んだり、母親の体調が崩れたりとか……溜り溜まったモノが一気に暴発したわけだ。くだらない理由だよ」
 尾行していた車が交差点を曲がる。アルフォドは車種をブリジットに伝えると交差点の手前で停止するようアレッサンドロに指示した。
「ここからは歩きだ。向こうに着いた頃には全てが終わっている」
「……信頼しているんですね。自分の義体を」
 アレッサンドロの台詞にアルフォドは少しだけ眉を歪めた。別に皮肉を言われているわけではないが、それでも最近のブリジットのことを考えると斜に構えずにはいられない。
「冗談、彼女は今一番危ない義体だ。ちょっとした事で暴走しかねない」
 自嘲気味に笑うアルフォドにアレッサンドロは何も返せなかった。男二人は傘も差さずに道を歩く。何処からか男の叫び声と銃声が聞こえた。










 襲撃者は黒髪の少女だった。
 突然進行方向に投げ込まれた何かを踏んだかと思うと、車の速度が目に見えて落ちた。そして飛び出してきた襲撃者が後輪に向かって散弾をばら撒いたとき、車体は完全に停車した。
 中に乗り合わせていた三人は運転手を残して、拳銃を手にして車外に飛び出そうとする。
 だがそれをあざ笑うかのように、襲撃者はフロントガラス越しに発砲した。
「うおっ!」
 運転手が咄嗟に伏せたのと同時、断続的に拳銃弾がフロントガラスを突き破ってきた。一発、二発では飽き足らず、それこそマガジン全てを撃ちつくす勢いで弾が放たれる。防弾でも何もなかったフロントガラスが粉々に砕け散り、滝のように運転手に降り注いだ。
 カラン、と空薬莢が雨で濡れたボンネットを転がっていく。運転手は地獄の終わりを願って、そっと顔を上げた。
 目に入ったのは原型を留めないほど鉛弾を叩き込まれた仲間の死体だった。
「ひいっ!」
 砕け散った頭部の所為でシートは真っ赤に染まり、こちら側に血の川が出来ていた。運転手は特に意識もしないまま内腿を己の体液で塗らした。
 そんな彼を、襲撃者は無言のまま窓枠だけになってしまったフロントガラスから引き摺り出した。
「たっ、助けてくれ!」
 右目を医療用眼帯で覆った少女の手を振り払い、血で濡れた路面を這いずるように逃げようとする。だがそれを襲撃者が見逃すはずもなく――、むしろ痛めつける口実が出来たといわんばかりに、ホルスターから抜かれた二丁目の小口径の拳銃で運転手の足を撃った。
「あがっ!」
 雨に解けて男の足から血が広がっていく。
 少女は運転手の髪を掴み上げ、大人しくしろと告げた。
「ブリジット、殺しちゃ駄目!」
 運転手を救ったのは皮肉なことに少女の仲間の女だった。ベレッタと車止めを抱えた女はブリジットから男を引っ手繰ると、用意していた手錠で男の手首を押さえた。
「殺してないよ。ただ聞き訳が悪いから大人しくして貰っただけ」
「だから必要以上に痛めつけたら意味ない!」
 少女は一応赤毛の女の言うことを聞いたのか、これ以上運転手に関わってくることはなかった。ただ彼女が道路に投げ捨てた拳銃――スライドが開き、十五発の弾丸が全て撃ちつくされていた――を見て、気を失いそうになった。
「前もそれで一人殺しちゃったし……いい加減こんなことは止めようよ。別に殺せとは命令されていないんでしょ」
 赤毛の女が車の惨状を見て苦言を呈した。微妙に開いたドアの隙間から絶え間なく血液が滴り落ちている。
「ペトラには関係ない。つべこべ言わないで」
 黒髪の少女はフロントガラスの無い車のボンネットの上で膝を抱えていた。いつの間に取ってきたのか、彼女たちの車に乗せてあったホットコーヒーのカップを持っている。返り血を少しだけ浴びた頬を白い弱弱しい湯気が洗っている。
「関係あるよ。私たちは立派な仕事仲間なんだから。パートナー同士手を取り合って仲良くしないと」
「私はペトラなんか知らない」
 そう言って醒めかけのコーヒーを啜る少女に女が何か叫ぼうとして、しかしそれは向こうからやって来た二人の男の声で中断された。
「ブリジット、ペトラ、首尾はどうだ!」
 走ってくる細身で無精ひげの男に、少女は自らが腰掛ける車を指差すことで応えた。後から来る赤毛の男は車の中を覗き込んで目を逸らした。
「男は拘束しました。こちらに損害はありません」
 無言でボンネットの上にいる少女に変わって、女が状況を報告した。
 その奇妙なやり取りに、地へ転がされた男は笑うしかなかった。









 
 ブリジットはここのところ、いつものように悪夢に苛まれる。
 それはヒルダの甘美な誘惑に身を預けてしまったその日からか。
 まどろみに誘われる暗闇で、ヒルダがブリジットの身体を押さえつけてくる。



 俺は体中を嘗め回してくるヒルダの舌から指一本逃げ出すことが出来なかった。 嫌な汗が全身から噴出し、ぴちゃぴちゃとした水音がさらに響き渡る。
「ねえ、ブリジット。今日で十二人目よ。でもまだ足りないわ」
 ヒルダの舌が俺の唇を這っていく。俺はその感触に身悶えしながら彼女を睨み付けた。するとヒルダは何を思ったのか赤い血のような舌を俺の口内に差し込んだ。
「んっ」
 上あごの裏を撫でられ、声が漏れた。それでも身体が動くことは無い。もしこの身体が自由に動くのなら今すぐにでもヒルダを突き飛ばし距離を置くだろう。
「あなたは世界を壊しなさい。あなたの世界を。あなたが憎むこの虚構を」
 ヒルダと俺の唇の間に卑猥な銀の糸が引く。裸の胸元に落ちたそれが体内から出た液体とは思えないほど冷たくで、俺は身体を震わす。
「さあブリジット、私にその身体を返すまで、精一杯殺すの。あなたが殺し続ける限り、私はあなたを殺さないわ」
 再びヒルダの唇が俺を蹂躙する。
 快楽とはまた違った一種の興奮に脳が焼き切られそうになり、俺は声にならない声を上げた。





 目覚めたのは相変わらずアルフォドの部屋。
 ソファーに横たえたその体は何時の間にか毛布が掛けられ、寝巻は汗で濡れていた。部屋の主は例の如く帰って来ていない。
 俺は痛む右目を押さえると、もう眠ってしまうことがないよう己の身体を抱いてソファーに座り込んだ。
 床のほうからこちらを見上げた黒猫のヒルダがにゃあ、と鳴いた。
 こいつは何も悪くないのに、俺は黒猫を脚で追い払っていた。










[17050] 第58話 失くすもの、忘れるもの、奪われるもの。【ついでに誰のこと?】 
Name: H&K◆6803d1d7 ID:8741e20e
Date: 2010/12/10 23:49
 いつまでもアレッサンドロの宿直室に寝泊りするわけには行かないと、寮に部屋を確保したのは昨日のことだった。
 もともと一期生の物置部屋として使われていたそこは、クラエスとか言う義体の女の子と一緒に片付ける手筈になっている。
 私は運動用のTシャツと軍手に着替えて、本部から北に位置する義体たちの寮に向かった。
 人影もまばらな――別に入居者が少ないわけではないのだが――寮の外観は浮世染みた異国の城のようだった。





 【失くすもの、忘れるもの、奪われるもの。】





 息巻いて指定された部屋に向かったペトラだったが、共に作業する予定の少女はまだ姿を現していなかった。
 部屋の鍵は開いたままで、若干埃っぽい室内ではカーテンの隙間から差し込んだ日光が見えた。
「んー、部屋はここであってるし何か急用でも出来たのかな」
 アレッサンドロから聞かされていたクラエスという少女は随分真面目な人のようで、訳もなく遅刻をするとは思わなかった。
 ペトラは伸びを一つして部屋に踏み込むと、先に一人で片づけを始めることにした。
 燃えるような赤毛にバンダナを巻き、白魚のような細い指に手袋を嵌める。彼女は取り合えず、部屋の隅に積まれていたダンボールを二三箱抱えて運び出した。
 それらはかなりの量で、他にも壁に立てかけられたキャンパスやキャリーバックの類も見つかった。
 ようやく約束していた協力者が現れたのは、運び出したダンボールが二桁に届くか届くまいかの頃だ。
「ごめんなさい、水を汲んでいたら遅れたわ」
 ちゃぷん、と部屋に響く水音が一つ。
 バケツ一杯の水と何枚かの雑巾を携えて、長いストレートの黒髪、度の入っていない眼鏡をした少女が入ってきた。
 恐らく、この少女がクラエスなのだろう。
「いやいや、こちらこそワザワザ手伝って貰って……。全然気にしてないよ」
「そう言ってくれると嬉しいわ。でもまあ、この部屋にあるのは私とあの子達のだから、私が片付けるのは当然のことね」
 ――あの子達?――
 ふとペトラが疑問を口にしようとする。だがその一言はクラエスが雑巾を絞って作業を始めた所為で、ぐっと喉の奥に飲み込むこととなった。
 彼女の疑問が解決するのはそれからさらに小一時間が経った後。一つのダンボールと無造作に置かれたキャンパスが彼女たちの目の前に姿を現した時だった。


「ねえクラエス、このダンボール中身は何?」
 声を上げたのは部屋の片隅でダンボールを整理していたペトラだった。彼女が掲げたそれを見て、窓枠を水吹きしていたクラエスが一瞬だけ目を見開く。
 そして、何かを諦めたかのように息を吐くと「まだ残っていたんだ……」とこぼした。
「それはね、もう四ヶ月、正確には三ヶ月と少し前に死んだエルザって子の遺品よ」
 クラエスの台詞を聞いて、無造作に掲げていた箱をペトラは慌てて床に置いた。確かに側面にはELZAとマジックでサインが刻まれている。
「死んだって何で? 寿命?」
 クラエスは首を横に振った。彼女は俯いたままペトラとは反対側の方へ歩き、いくつか重ねられていたキャンパスを手に取る。殆どは水辺の絵が描かれたものだったが、その中で一枚だけ木炭によるデッサンだけで終わっている絵があった。クラエスはそれだけを持ってペトラの元へ戻ってきた。
「……あなたはブリジットって知ってる?」
 キャンパスを手にしたままクラエスが問う。ペトラは質問の意味がよくわからなかったが、今の自分のパートナーだと返して見せた。
 クラエスがペトラにキャンパスを差し出す。
 木炭で描かれたそれは明らかに描きかけで、ペトラの目には時間が止まってしまった世界のように映った。
「これって、ブリジットと……」
「髪を二つに分けているのがトリエラ。ブリジットの膝の上で笑っているのがエルザよ」
 布地の上でベッドに腰掛けた三人の少女が思い思いに談笑していた。今とは違ってかなり長いブリジットの髪を梳いているトリエラと、髪を梳かれている彼女を見上げるエルザ。
 たとえそれがただの絵だったとしても、皆が幸せな一時を送っている時間に思えた。
「エルザはね、ブリジットを助けようとして死んでしまった。その日からブリジットはおかしくなった」
 ――おかしくなった。
 クラエスが言う「おかしい」とはあの異常までに滲み出ているブリジットの殺意のことを指すのか。
 ペトラはクラエスの肩を掴むと、もっと教えてくれと告げた。それは常々感じていたブリジットに対する違和感が爆発したようなものだった。
 クラエスは少し躊躇うように目線を逸らしたが、床に安置されたままの段ボール箱を見て、観念したかのように口を開き始めた。


「今、あなたはブリジットを見てどう感じる? まさか普通の義体とは思っていないでしょう」
「まだ他の子を沢山見たわけじゃないけど……何だろう、どこか薄ら寒い感じかな」
 ペトラが使うベッドだけを部屋に持ち込んで、二人はそこに腰掛けていた。髪を覆っていたバンダナは外され、放たれたカーテンからは午後の日差しが差し込んでいる。
「最初ここに来たときのあの子は周りに対して酷く怯えていたわ。まあそれもトリエラと何かあってから大分マシになった」
 クラエスは病院着ひとつで生活を続けていたブリジットを思い出す。あの頃の彼女はシャワーを浴びては恐慌状態になったり、まだ定着していなかった皮膚を掻き毟っては血塗れになっていた。
 今となってはその記憶も遠すぎるものだ。
「あなたは信じないでしょうけど、その後の彼女はとても明るくて、時折こちらがどきっとするぐらい大人で、何よりも人間だった」
 クラエスの一言一言がペトラにとって重く圧し掛かる。
 それは過去のブリジットを知ることで、今のブリジットに刻み付けられた傷跡が際立つからだ。
「全然義体らしくなかったわ。まるで別の世界から来たみたいに私たちと違っていたの。口では上手く言い表すことが出来ないけど、間違いなく彼女は人間らしく生きていたし、周りにもその生き方を教えてくれた」
 まさにそのブリジットこそキャンパスに描かれようとしていたものなのだろう。だが絵が完成せずに今も放置されているということは、つまり――、
「でもね、皆が寄って集ってあの子から全てを奪っていったの。あんまりにも酷いことを皆したものだから、ブリジットは人間をやめて亡霊でも何でもないただの人形になった」
 からん、とクラエスの手からキャンパスが零れる。
「私も、エルザもトリエラも、そして大人たちも皆大なり小なり傷をつけていった。やがて積もり積もったそれは化膿し、疼くようになり、取り返しの付かないところまで来てしまったの」
 傷を付けた――、それは随分と癒えた彼女の体の傷のことではない。ブリジットという存在そのものに刻み付けられていった傷のことなのだ。
「もうね、誰もあの子に触れることは出来ないの。唯一触れられていたエルザは死んでしまった。それもブリジットを庇って死ぬって言う最悪の傷を刻み込んで。この傷がブリジットから消えることはありえない」
 部屋が静寂に包まれる。クラエスは押し黙ったまま動かない。ペトラも同じだ。床に転がる書きかけのキャンパスを見つめて何も言えなくなった。
 キャンパスで止まってしまった時間を動かせる人間はこの世にはいない。
 恐らく、ブリジットもそうだ。
 一度復讐に身を焦がした以上、彼女が戻ってくることは限りなくゼロに近い。
 口を開いたのは沈黙に耐えかねたペトラだった。自分が不気味だと、人形だと思っていた義体の少女が、人間だった頃の面影を感じた彼女は搾り出すように話す。
「あっ、諦めるのは早いと思う! だって昔は皆通じ合えていたんでしょう? だったらきっとやり直せるハズ!」
「詰まらない慰めはやめて。幾ら私たちが望んでも無駄なのよ」
 冷たいクラエスの口調にペトラは一瞬怯む。だが彼女は続けた。
「でもブリジットはあなた達ともう一度分かりあいたいと思ってる!」
 叫び声の後ペトラの頬に衝撃が走った。気がつけば床に倒れ伏していて、クラエスに平手を受けたと理解するまでに多少の時間が掛かった。
 自分を見下ろすクラエスは赤い目でペトラを睨んでいた。
「何も知らないくせに勝手なことを言わないで! 誰もあの子のことなんてわかろうとしなかった! 理解なんてしなかった! 全部押し付けてのうのうとしていたのよ! あなたはその過程を見ていないからそんな悠長なことが言える! 私たちがブリジットに歩み寄るのは彼女の苦痛でしかないの! 彼女はそんな関係望んでいない! あの子はね、エルザが死んだ瞬間から一人ぼっちなの! それなのに今更希望を与えないで! どうせ私たちは最後にブリジットから全部奪っていくしかないの! 友人も愛する人も愛した物も! あなただってきっとそうするわ!」
 眼鏡の奥から涙を零しクラエスは言い切った。肩で息をしてベッドに倒れこむ。ペトラはただ呆然とその様子を見つめるしかなかった。
「……ごめんなさい。冷静さを欠いたわ。しばらく一人にして。片付けは私がするから」
 最早ペトラに逆らう術はない。彼女は部屋に残された幾つかのダンボールと――床に転がる書きかけのキャンパスを拾い上げて部屋を後にした。
 残されたクラエスは頬を伝う涙をそのままに、部屋に残されたエルザの遺品を抱きしめた。







 先日の騒動をこれっぽっちも知らないブリジットは淡々とペトラの隣で襲撃の準備をしていた。
 彼女の復讐の象徴でもある医療用眼帯が、黒曜のような前髪の隙間からちらついている。
 分解された状態で収められたMP5を慣れた手つきで組み上げていくブリジットは何も言わない。皮肉なことにこの作業に没頭している間の彼女が、一番人間らしいとペトラは思った。
 







 俺の中に巣食うヒルダが殺せと囁く。
 彼女の悪夢は日に日に身体を侵食していった。俺が誰かを殺すたびに彼女が脳裏に浮かんでは消える。逃げ道がない迷宮のような復讐劇に俺の全てが悲鳴を上げる。
 組み上げたMP5を担ぎ上げ、俺は指定された倉庫に踏み込んでいった。
 そして悪夢を払拭するように引き金を引く。目も覚めるようなマズルフラッシュと銃声に暗闇が照らされた。
 きっと倉庫の壁に写された俺の影は、血に濡れて見るも耐えない醜いものだろう。
 でも今はそれで良い。
 エルザの為に屍の山を築くことこそ他ならぬ己の存在証明なのだから。
 所詮は物語の、不確かな歪な世界。 
 誰を何人殺そうと同じことなのだ。
 自然と唇が釣りあがる。今は亡き右目も健在ならとても嗜虐的な笑みを構成していただろう。
 俺はペトラに取り押さえられるまで、物言わぬ死体に銃弾を叩き込んでいた。



 腕の中でブリジットが息を吐く。無理矢理手サブマシンガンを取り上げ、ブリジットを床に押さえつけた。
 彼女はさしたる抵抗を見せず、荒い息のまま埃っぽいコンクリートの床に接触している。どうしてブリジットを止めたのかは自分でも解らない。ただこの前のクラエスの姿が思い起こされたのは事実だ。
「もう……もう敵は死んでるよ」
 ブリジットは返事をしない。私はブリジットを床に寝かせたまま電話を取って外で待っている担当官二人に連絡を取った。これで何とか事を終えることが出来る。
 彼女はすっかり生気を失くした目で物言わぬ死体を見た。
 その瞳は僅かばかり揺れている。でもそれが殺人に対する後悔ではないことなど当の昔に知っていた。初めてペアを組んだときからこの瞳は見ている。
「どうしてこんなに悲しいんだろう」
 ブリジットの頭を抱きかかえ、静かに二人が来るのを待つ。
 あんなにもクラエスを心配させているのに、この少女は決してこちらを見ない。暗い瞳で見るのは己が築いた屍だけ。ペトラは腕の中のブリジットを見やりながらこう呟いた。
「私……一期生が大嫌い」
 まるでこの世界の憎しみを、理不尽を一身に受けて生きている一期生たちは義体として生まれたときから苦手だった。アルフォドの言う人間観察の対象にしても何も見えない真っ白な先輩たち。
「ブリジット、君は重すぎるよ」
 その真っ白な先輩たちに対して黒すぎて何も見えてこないのがブリジットだった。だがクラエスの慟哭を聞いた瞬間からブリジットのキャンパスに描かれた絵の具が剥がれ落ちた。それは何も写さない黒ではなく、鈍く光る様々な色だった。キャンパスに乱暴に描かれすぎた所為で、黒としか認識できないほど歪んでしまっている。
 ペトラはクラエスに啖呵を切ったときとは打って変わって、ブリジットが元には戻れないことを感じ取った。
 けれどそれを認めることだけは到底出来ずにいた。












 ねえ、友達って何なんだろうね?
 
 気がつけば今となってはもう殆ど覚えていない、生前の自分の部屋にいた。

 目の前に詰まれた「GUNSKINGER GIRL」の原作はあれから巻数が増えて第七巻に突入している。ペトラが様々な事件を通じて徐々に成長していくお話の巻だ。

 その本のページを捲るのは俺ではない。本を手に取りページを捲ったのは他ならぬ赤毛の少女、俺を誘惑し復讐を囁くヒルダだった。

「ねえ、友達って何なんだろうね。どうしてあなたと分かり合えた人は皆死んじゃうんだろうね」

 いつもの妖艶な雰囲気は何処へやら、さも楽しそうなヒルダに俺は何も答えることが出来ない。いや、答えようにも声を発すること事態が出来なかった。

「皆死んじゃって最後はあなたも死ぬんだよ、ブリジット。だってほら、もうあなたの存在はそんなに希薄だもの」

 俺はふと姿鏡を見る。こちらを胡乱気に見つめる黒髪の少女は己が誰であったかもう殆ど覚えていない。

「あなたを撃った義体の子の名前は覚えてる?」

 俺は答えることが出来ない。

「あなたが心に傷を負うことになった、娘思いの父親を殺したことは?」

 俺は何も言えない。

「トリエラがピノッキオに負けて焦ったことは? 橋の上から突き落されたことは? あなたとピノッキオの勝敗は? 何故あなたはトリエラが許せないと感じたの? じゃあ、あなたが慕ったピノッキオの本当の名前は?」

 何も言い返すことも、何も行動を示すことも出来なかった。

「ほら、もう友達の名前も忘れてる。ならあなたが一番大切にしていた女の子の名前は?」

 最後に見たのは彼女の微笑だった。

 炎を血にまみれた世界で、俺に命を託した女の子。

 そうだ――彼女の名前は――、

「――本当に、なんて愚かなこと。全部忘れて復讐の動機も無くしかけている。あなたは何処まで私の願いどおりに動いてくれるの?」

 ヒルダの舌が俺の頬を舐めた。

 そのまま身動きが取れないよう、押し倒された俺は天を仰ぐ。

 多分、これがきっと夢の終わり。





 動悸が治まらない。吐しゃ物で床を汚し、ゼイゼイと喘ぐ。
 ペトラに押さえつけられた四肢が暴れ、全てを跳ね除けようとした。
「ブリジット!?」
 驚いたペトラは思わず飛びのきそうになるが、何とかそのままブリジットを押さえ込む。異変を察知したのか倉庫に入ってきた二人の担当官は慌ててブリジットに近寄った。
「不味い、発作だ」
 喉を掻き毟ろうとするブリジットの腕を革の拘束具で縛り上げ、舌を噛み千切らないよう猿轡を噛ませる。アルフォドは懐から注射器の入ったケースを取り出すと、薬剤の入った注射器を縛り上げた静脈に差し込んだ。
「ビアンキから近いうちに起こると聞いていたがこれ程までに酷いとは……」
 努めて冷静に、されど脂汗と青ざめた顔を隠さないアルフォドはペトラを押しのけ、暴れるブリジットを強く抱き押さえる。もう何も見えていないのか、いよいよ光を失ったブリジットの瞳には涙が浮かび、しきりに何かを訴えていた。
 薬剤が効き、ブリジットが沈黙するまでアルフォドは懸命にブリジットを抑えた。
 

 ブリジットの終焉が迫っている。
 ただその様子を見つめていたペトラは背中に薄ら寒いものを感じずにはいられなかった。
 
 

 最初の一歩は忘却から始まった。
 ブリジットの中で、ヒルダが微笑んでいることに誰も気がつかない。
 今まさに、ヒルダの復讐が始まったのだ。



[17050] 第59話 覚えていますか。幻のような世界のことを【ついでに誰のこと?】1  
Name: H&K◆6803d1d7 ID:a5a901da
Date: 2011/03/02 23:44
 奴が笑っている。
 赤毛のあいつが笑っている。俺に巣食う俺の主が笑っている。
 ヒルダは凄惨な笑みでその整った顔を汚し、地に縫い付けられていく俺を笑っている。
 不愉快極まりない光景なのに、瞼一つ動かすことが適わなかった。
 誰かが俺を呼ぶ。誰かが俺を抱きしめる。
 懐かしい、暖かいその感触なのに今は一人にして欲しかった。





 【覚えていますか。幻のような世界のことを】





 友達って知っていますか。

 たとえばそう、いつも隣にいてくれてあなたの味方になってくれる人。

 たとえばほら、一度仲違いしてもいつかきっと分かり合える人。



 なら恋人って何ですか。

 たとえばこう、いつも隣にいてくれてあなたが一番大好きな人。

 たとえばあの、あなたが身体を許してもいいと思える人。



 人は皆、そうやっていろんな人と関わって生きています。

 一人じゃないです。生きている限り繋がりは自然と生まれます。



 でも私は、その繋がりすら嘘に思えてしまう私は何なのでしょう。

 人ですか。人形ですか。それとも亡霊ですか。

 名前を忘れたあのナイフ使いの少年は人だと言ってくれました。

 どうして自分を慕ってくれていたのか、もう解らないあの少女も人間だと言ってくれました。

 なのに私は思い出せません。あたまが痛くて、ただ寒気がするだけなのに、大切な彼らが思い出せません。

 私が撃たれたのはいつのことでしょう。私が殺したのはいつのことでしょう。私が孤立したのはいつのことでしょう。

 何も、何も解らないのです。何を忘れたのか何をしなくてはいけないのか。

 何か使命を感じて生きていたような気がしました。大切な何かを失って泣き続けていました。

 けれどその記憶も、じきに失い、忘れ、そして奪われるのでしょう。

 私は抗う術など一つもありませんでした。




「トリガーは張り詰めた復讐劇のストレス。代償はギリギリ生きていた彼女の命だよ」
 ビアンキが見下ろす先、酸素マスクに呼吸を助けられ規則正しい寝息を吐くブリジットがいた。肩口までの黒い髪に白い肌。外された医療用眼帯の下にあった潰れた右目が痛々しい。
 彼女の担当官で最大の理解者でもあったアルフォドはパイプ椅子に腰掛、ベッドの脇で身動き一つしなかった。
「諦めろとは言わない。でも覚悟はしてくれ」
 夢を見ているのだろうか。ブリジットの残された左目から涙が零れ落ちシーツを濡らした。いつもなら忙しなくハンカチで涙を拭いてやるアルフォドも、今日ばかりは何も行動に移さない。
「本当はどれだけ健康でもナターレを過ぎた当たりからおかしくなることは解っていた。アンジェリカの症例と全く同じだよ。断続的な体調不良に記憶の混乱。最後は発作を起こして倒れる」
 ビアンキは苦々しそうに腕を組んだ。
「正直僕は驚いている。もう十一月に入ったわけだが、あれだけ負傷と手術を繰り返していたブリジットが今まで動き続けていたことが奇跡のようなものなんだ。終わりはとっくの昔に始まっていたのに彼女は生きていた」
 病室には無機質な心電図の音とブリジットの呼気だけが響いている。急に押し黙ったビアンキは言葉を選ぶようにアルフォドに告げた。
「アルフォド、君には選択する義務がある。ブリジットをこのままベッドに寝かし続け、最期ぐらい泡沫の夢を見せてやるかそれとも――、神の御業に背く真似をして無理やりにでも彼女を生き永らえさせる方法だ。もう隠す必要もないから打ち明けるが、上はブリジットに最後の実験をやらすつもりでいる。内容は君が全てを承服してくれるまで話せない。だが君が激怒ではすまない事だけは保障するよ」
 静かな病室に、再び舞い戻る。だがアルフォドの苦しそうな呻き声をビアンキは聞き逃さなかった。
 アルフォドは搾り出すように言葉を放つ。
「俺は――、俺は失意のままに隊を去った同僚の為に、何より汚名を着せられたまま、侮辱の言葉を受けて死んでいった親父の名誉を回復したくて国家の犬になった。だが配属先はガキの面倒をみる児童施設だ。笑うしかなかったさ」

「テロリストに拉致され、肉親に裏切られ、犯され、自殺を選らんだヒルダを見てもその気持ちは大して変わらなかった。そりゃあ同情もしたし使命感もあったさ。でもそんなもの所詮は自分に対する言い訳で、清いままでいたかった甘えなんだよ」

「けどな、ヒルダがブリジットに置き換えられたとき、ブリジットが目覚めて俺の腕の中で『大嫌い』と抜かしやがった時から、そんなことどうでも良くなったんだよ。俺はこの子を守らなくてはいけない。この子のために出来る限りのことをしてやらなくてはならないと思った。理由は知らないさ。大方涙にあてられたんだ」

「だがなんだこの有様は。俺は彼女が受けてきた痛みの、傷痕の幾つを背負ってやれたんだ? 俺は守ってやったのか? ブリジットをこの世の悪意から救ってやれたのか?」

「復讐紛いの殺戮も止めろとはいえない、だからといって手伝ってやることも出来ない。そんな弱くて汚い人間が俺だったんだ。それが俺の正体なんだ」

 ビアンキは否定も肯定もしなかった。
 アルフォドは深く深く息を一つ吐き出すと、目頭を押さえ再び沈黙に舞い戻った。


 本当に。

 本当に誰が悪くて、誰が失敗したからこのようなことになってしまったのだろう。
 誰が守りきれなかったから、ブリジットは傷付いたのだろう。
 誰が望んだからブリジットはこうまで生かされ続けなければならないのだろう。


 病室に佇む二人の男はその答えを出せないまま、懇々と眠り続ける少女を見下ろしていた。



 
 結果的に言うと、ブリジットは目を覚ました。そして最後の砦とも言える投薬を終えて、何とか任務に復帰できる体調を手に入れた。
 失ったものは唯一つ。
 アルフォドに関する一切の記憶である。

 ビアンキの見立てでは、これもある程度予想された事案だったらしい。
 アルフォドはその事実をただ黙って受け入れ、病室で歩行訓練を繰り返すブリジットを強化ガラス越しに眺める日々が始まった。




「にゃあ、」
 執務室の端っこで、黒髪の少女が猫を抱き上げて笑っている。彼女はアルフォドが誰であるか認識できないまま、無邪気な笑みを貼り付けて飼い猫と戯れていた。
 ヒルダという、ある意味呪いにも似た名を持つ猫はご主人様の腕の中でエメラルドの瞳を輝かせていた。

 ブリジットの復讐劇は彼女自身の電池切れという終わりを迎えた。一週間ほど前まで血眼になってテロリストを探していた少女の姿はもう無い。見た目も中身も少女然とした、言ってしまえば自然体な彼女がそこにいたのだ。
 アルフォドはヒルダの肉球を弄ぶブリジットに近づくと、後ろからそっと髪を撫でた。
「にゃあ、」
 対するブリジットはヒルダに微笑み返すだけでアルフォドには振り向かない。
 この仕草も彼是彼女が目覚めてから五日間は繰り返された動作だ。ブリジットの脳は世界から綺麗にアルフォドだけを消去し、あたかもそこにいないかのように扱うようになっていた。発作を起こす直前に見た光景が彼女の精神を蝕み、認識することを拒否するのだ。
「にゃあ、」
 ブリジットの腕の中に抱かれたヒルダと目が合う。黒猫は小さく鳴くと、まるでアルフォドを嘲笑うかのように身をくねらせ、開いていたドアの隙間から外に出て行ってしまった。
 慌てたのはブリジットで、「ヒルダっ」と不自由な足取りで後を追いかける。
 アルフォドは特に止めることもなく(初日に止めて暴れた彼女に奥歯を折られた)、その様子を眺めるだけだった。
 どうせ本棟から出ることは許されていないのだ。いざとなれば他の義体の少女が止めるのだろう。
 彼は床に散らばっていた猫用のおもちゃを拾い上げると、静かに荒れた机に備え付けられたイスに腰掛けた。
 机に積みあがるのは義体から取られた臨床試験の結果と、精神科医の診断結果ばかりだ。
 ブリジットの為に学んできた医学書も、最早カタチだけの化石と化していた。
「……世界はこんなに辛かったんだな」
 アルフォドは天井を見上げ、火のついてない依れたタバコを咥えた。外からはヒルダを追いかけるブリジットの嬌声が聞こえる。




 腕の中で暴れるヒルダを宥めながら、最近殊更酷くなった物忘れに溜息をついた。
 意識を失ってから三日三晩眠り続けた俺は、肉体の終わりを切に感じていた。この世界に来たときから覚悟してはいたけれど、いざ始まった見れば怖いというより、一体どう過ごせばいいのか戸惑いばかりが溢れている。
 ここはどこだったか、と薄暗い廊下で俺はさ迷う。
 人気はなく、足元付近に備え付けられた非常灯には全く覚えがない。
 人の名前と姿かたちを忘れたと思ったら、公社の地理も忘れてしまったらしい。
 そうやって、完全に途方に暮れていた俺を救ったのは以外にも嘗て邪険に扱っていた同僚その人だった。


「そうか、元気になったんだね。ブリジット」
 俺の手を引くのは赤毛の長身の女。
 今となっては理由を忘れたけど、テロリスト狩りに精を出していた時期にコンビを組んでいたペトリューシュカだ。
 バレエで培った優雅な歩き方が様になっていて、よたよた歩きの俺とは比べようがないほど美しい。
 ペトラは俺の手を引きながらこんな風なことを言った。
「また二人で仕事が出来るね」
 ニコニコと笑うペトラに水を差すのが怖くて、もう下手したら仕事は出来ないと俺は言えなかった。
 黙って頷き、片手で抱いたヒルダを抱きしめる。
 ペトラは一瞬そんな俺の様子をいぶかしんだが、直ぐにいつもの調子に戻ると何でもなかったかのように歩みを進めた。


 担当官の宿直室に連れられて、俺は机で身動き一つしない男の姿を捉えた。
 彼が自分の担当官だと言うのは解る。でも彼の名前も彼がどのような人物だったかと言うのも、霞が掛かったように思い出せなくなっていた。
 だから俺は下手をこかないよう彼を認識できないように振る舞い、これからもそうするつもりだった。
「##さん、ブリジットを連れてきました」
「……ああ、ペトラか。ありがとう。帰ってくるのが遅いから心配していたんだ」
 疲れたように笑う男を少し気の毒そうに見やった後、ペトラは引き攣った笑みを貼り付け宿直室から出ていった。
 言いようのない静寂が部屋を包み込む。
「ブリジット、あまり心配を掛けないでくれ」
 床に座り込んでしまった俺に目線を合わせて、こちらを覗き込んでくる男に返す言葉はない。口を開こうにも何かが邪魔し、手を伸ばそうにも何も動かない。
 認識できないように振舞うのは演技だが、こちらからコンタクトが全く取れないのは真実だった。
「……夕食まで少し寝なさい。どうやら疲れているようだ」
 返事は返せない。俺は床に座り込んだまま、あたかも虚空を見つめるように彼を見た。
 彼の悲しみを湛えた瞳の奥で、俺の内に潜むあの女が笑っているような気がした。




 彼女はきっと一人ずつ俺の中から人間を消していくのだろう。

 半ば肉体の主導権を手渡した今、彼女に逆らう術は無い。

 いつの日か全ての人を忘れ、彼女が抱いていた強烈な自殺衝動に付き合わされるに違いない。

 それでも。

 そうやって静かに幕を終えるのも悪くないと思ってしまう辺り、もうどうしようもないほど、俺は彼女に飼い慣らされているのかもしれない。

 次は誰が消えるのか漠然と考えながら、俺は床の上で膝を抱えた。

 俺の復讐が失敗した今、彼女の復讐が俺を蝕んでいく。










 





[17050] 第60話 覚えていますか。幻のような世界のことを【ついでに誰のこと?】2 
Name: H&K◆6803d1d7 ID:13240d9d
Date: 2011/03/02 23:44
 暗い暗い意識のそこ、ヒルダという名の少女はさながら女郎蜘蛛の如く、俺というブリジットの身体を食らっていた。

 抵抗する意思は最早存在せず、空ろな感覚だけが全身を覆う。

 少しずつ記憶を消されていくのも、もう慣れた。

 そこにあるのは終末に向かう怠惰で甘美な眠気のみ。

「さあ、ブリジット。殺しなさい」

 手に握らされた拳銃の重さが、まるで命の重さ。




 


 この世界を走り続けてきた意味が、果たしてどういうものだったかは忘れてしまったけど、リハビリがてら何も考えずに走り続けるのは気持ちの良いものだ。
 ブリジットは著しく低下した体力を恨めしく思いながらも、珠のように汗を滴らせてランニングコースを無我夢中で駆け抜けていた。
 その様子をジャンとマルコーが見つめている。

「あれが記憶を失う過程の義体か……。案外元気なものなんだな」
「限界ギリギリまで引っ張り続ける投薬の所為だ。あれでも薬を切らすと五分と立たずに倒れる」
「ならああやって走らせていいのか?」
「勿論ダメだ。本来なら病室で寝かされている。だがアルフォドがそれを望まない。彼女がアルフォドに気がつけなくなっても、奴はブリジットの好きにさせたいと言っている」
「……元同僚には甘いんだな」

 よたよたと快速を飛ばしていたブリジットの足が止まる。まだ走り始めて五分。以前なら一時間でも二時間でもぶっ通しで走り続けていた彼女の姿はもうない。
 崩壊寸前まで磨耗した肉体がこれ以上のランニングを拒否していた。
「やっぱ、ダメかな」
 目を細めて笑うブリジットは若干伸びてきた髪を纏め、潰れた右目を再び眼帯で隠して、宛がわれた個室に帰っていった。

 

 全ての体力テストで最低ラインを叩き割り、義体としての性能に一つの期待も持てなくなっても、俺はのんびりと昼食を取っていた。
 ジャンから差し入れられた病院食を水で流し込み、デザートに用意されたキャディーを延々と舐め続ける。
 医者に無理言ってランニングをしたせいで、手痛い疲労感が全身を包んでいた。
「……あれだけ殺していたのが嘘のよう」
 つい最近まで感じていたテロリストに対する殺意も、まるで抜け落ちてしまった本のページのように消え去っていた。ペトラの前で倒れてからというもの、以前感じていた全ての動機が白紙に戻ったのだ。
「なんであんなに怒ってたんだろう。誰が殺されたから怒っていたのだろう」
 ナイフ使いの少年の名も、自分を慕っていた少女の名も思い出せない。
 多分、後者の少女の仇を取ろうとしたのだけれど、今となってはそんなことどうでも良くなっていた。
「最低だな、私って」
 
 私は欠伸を一つ噛み殺しながら、簡素なベッドの上で横になった。
 それはまるで頭を空っぽにしてしまうように。



 
 見上げた先には憎悪の視線。
 少年を殺されたリコは俺を許さない。彼女は俺の胴体に風穴を開けた後、止めを刺さんばかりに銃口を突きつけてきた。
 良かれと思って彼女を助けたのに。
 結局は無駄足に終わった結末だった。

 クリスマスに一つの親子の仲を切り裂いた。
 もの悲しげにこちらを見つめる男をナイフで突き殺す。
 肉を絶つ感触の向こうに、何か大切なものを見つけた。
 あの時聴いた、オルゴールのクリスマスソングはもう忘れてしまった。

 一人の悲劇の少女を助けたくて、運命に抗いたくて戦った。
 少女はまるで自分の鏡のようで、いつも傷付いていた。
 俺は彼女の心に一際大きい傷を刻み込んで、彼女に泣き言を吐いた。
 少女は死なずにすんだ。
 初めて誰かを救えた。

 少年は自分と同じだった。
 ただ立場を間違えてしまった。
 自分が人間で、少年が人形から始めたのなら。
 もしもう少し早くに分かり合えていたら、
 誰も死なずに済んだのかもしれない。
 少年は生きろと言って、先に消えた。

 自分が助けたものは、自分が得たものはいとも簡単にこの両手からすり抜けていく。
 たった一人の親友も、守り続けた少女も、全部自分の目の前から消えてしまった。
 後悔してももう遅い。
 それがこの世に示された現実。
 俺は何一つ変えることなく、終わりを迎えている。
 緩やかな終焉はもう待ってはくれない。
 この両手は何も掴めず、何も救えない。



「……私はね、ブリジット。あなたがユーリを殺したときからあなたを見ていた。でも私はあなたを恨もうとは思わなかった。もちろんこの世界は大嫌いだったし、あなたも大嫌いだった。
 でもね、私は死人だから。この世には存在しえない亡霊だったからどうでも良いと思っていたの。いえ、思おうとしたの」

「なら、どうして」

 ヒルダと正面から向かい合う。赤毛の髪をした自分。この身体の持ち主だった自分。

「あなたがね、エルザの死で憎しみを感じたからよ。亡霊で、自我も乏しかった、あなたに夢を見せるしかなかった私があなたのお陰でここまで元に戻った。
 あなたの復讐の炎は眠っていた私を覚醒させた」

 ヒルダは悲しげに微笑む。今まで凄惨に、妖艶に微笑んでいた女の姿は無い。それは年相応の、一人の人間としての微笑だった。

「私はあなたの憎悪に触れて、初めてあなたを恨んだ。あなたが感じた感情こそが自然だと知ってしまったから。本当にユーリを愛していたのなら、そうしないといけないと知ってしまったから」

 彼女は続ける。

「……あなたは本当にエルザを愛していたのね。陳腐だけど、どうしようもなく理想論で吐き気がするけど、私はあなたが眩しかった。こんな身体なのに誰かを愛しているあなたが眩しい」

「その点で言ったら、私はユーリに不義理を働いたのかな。彼を想うのなら、あの後直ぐにでも覚醒してあなたを殺せば良かったのに」

 互いの手の中には拳銃がある。ヒルダはそれを俺に向けた。

「私鉄砲の使い方なんて知らないから、あなたは殺せないかもしれない。でもあなたなら殺せるわ」



「さあブリジット。これがね、私の復讐の始まり。あなたと私だけの一対一の戦い。あなたの記憶から全ての記憶を抹消するわ。ただ一人を除いて」

 ヒルダが笑う。泣きそうな顔で、震えた眼で。

「さあ止めてみなさい。ブリジット。肉体の主導権は私。でも身体に刻み込まれた経験はあなたのものよ」


「……私は彼を殺すわ」


 世界が暗転する。





 アルフォドはもう一週間は引きこもっている宿直室で仮眠を取っていた。ただしブリジットがいつ遊びに来てもいいよう、ベッドは開けてある。
 机にうつぶせになるように、覚醒と半覚醒を繰り返していた彼は扉を開ける気配に気がつき、振り返った。
「ああ、ブリジットか」
 ふらふらとおぼつかない足取りで彼女は部屋に入ってくる。憔悴しているようだが顔色は良い。アルフォドはランニングで疲れているのかと気遣いながら、机の中からキャンディーの袋を取り出した。
 認識はされなくとも、ベッドの上に菓子を置いてやるとブリジットは喜んでそれを食べるのだ。
 アルフォドは相変わらず変わりのないブリジットの嗜好に苦笑しながら、再び振り返る。

 そして、言葉を失った。
「……ブリジット?」


 少女は幽鬼のように銃口を上げる。うわ言のように逃げて、逃げて、と呟きながら。
 カタカタと手にした銃が揺れて、アルフォドはその音を聞いてはじめて自らが陥った状況を知った。
 少女が残された左目から涙を流す。


 アルフォドは微動だにしない。真っ直ぐ銃口を見据えたまま、ブリジットを見上げる。
 荒い息を吐き、瞳を濡らすブリジットは搾り出すように問うた。

「……どうして逃げないんですか」

 アルフォドは答えなかった。
 ブリジットは絶望したように顔を歪めると、彼女のものとは思えないような凄惨な笑みを浮かべた。

「ごめんなさい」

 銃声が一つ。声はない。
















[17050] 第61話 覚えていますか。幻のような世界のことを【ついでにフラテッロのこと】3  
Name: H&K◆6803d1d7 ID:8dfa3657
Date: 2011/03/02 23:44
 銃声の余韻が残っているような錯覚を受けて、アルフォドは思わず身震いした。
 壁に穿たれた穴が、発砲は幻では無かった事を教えてくれる。
 
 そんな矢先、声を上げてブリジットは笑い出した。

「あはははは、何だ。ブリジット。やれば出来るじゃない」
 不自然に逸らされた己の手首を見据えながら彼女は笑う。相変わらず凄惨な笑みを貼り付けたまま。
 彼女は銃を床に落とすと、イスに腰掛けたままのアルフォドに圧し掛かった。そして左目だけでアルフォドの双眸を覗き込む。
「私の中のブリジットがこんなに怒ってる。良かったね、アルフォド。あなたあの子にこんなにも愛されてる。本気であなたを殺そうと想ったけど、ブリジットに阻止されちゃった」
 どういう意味だ、と搾り出すアルフォドにブリジットは答える。
「とぼけないでよ。あなた気がついているんでしょう? 私の中には二人の意識がある。ブリジットとしてのあの子と私としてのヒルダ。残念ね、あの子はもうこっちには出てこれないわ」
 二人分の重みに耐えかねてイスが軋む。ブリジット、否、ヒルダがアルフォドのネクタイを締め上げ、さらに続けた。
「もうね、あなたが大切にしていたブリジットは私の中に閉じ込められたの。時折干渉は出来るみたいだけど、大筋では死んだも同然ね」
「……何故、そんなことを」
 決してブリジットに向けられることの無かった殺意の篭った視線がヒルダを射抜く。ヒルダは愉快そうに唇を吊り上げると、赤い舌でアルフォドの頬を舐めた。
「ユーリを壊されたから、かな。思いのほかこの子の意思が強くて出てこれなかったけど、エルザが死んでその枷も外れたわ。後は適当に意識をすり減らしてやれば私は出てこれた」
 体中を襲う怖気に耐えながら、アルフォドはヒルダを見上げた。
 彼女は歓喜と憎悪を湛えた瞳でこちらを見下ろしていた。
 そして恋人に囁くよう、そっと告げる。

「これから、私の復讐が始まるの」


 ヒルダの手がアルフォドに伸びる。
 白魚のような指が彼の首に絡みついた。イスが崩れ、二人は床に転がる。




 朦朧とする意識の中でアルフォドは己の死を覚悟した。
 義体の腕力で首を絞められれば窒息どころか骨まで折られかねない。
 またそれ以上に、アルフォドは無理な抵抗をしてブリジットを傷つけることに耐えられなかった。
 ごめんなさい、ごめんなさい、と繰り返しながら、幼子のように泣きじゃくりながらこちらに手を伸ばすブリジットを押しのけることが出来なかった。
 アルフォドは想う。
 今までカタチこそは違うものの、ブリジットはこうして助けを求め続けていた。あらゆる痛みに呻きながら、あらゆる悲しみに押しつぶされながら、哀れな義体の少女はずっと救いを求めていた。
 それなのに、自分は何も出来なかった。いや、何もしなかった。
 自分は担当官であると言う線引きに甘んじながら、彼女のことを何も考えてやれなかった。

 少女に必要だったのは、大きな銃でも多量の薬でもなく、小さな幸せと誰かの愛情だったのだ。

 泣き喚き続けるブリジットが手を離した。
 アルフォドに覆いかぶさって胸の中で叫びを上げる。己の行為を後悔しながら、世界を恨みながら、アルフォドを憎みながら。
 静かに壊れていく彼女に差し伸べる手は無い。
 アルフォドは部屋のドアをリコが突き破ってくるその瞬間まで、ブリジットが一思いに殺してくれる瞬間を待ち続けていた。
 彼の意識はそこで一度途切れる。
 次に目覚めたときは、もうブリジットの泣き顔を見なくて済むよう願って。
 



 フラテッロ 兄妹または家族。



 
 リコに押さえつけられたブリジットはさしたる抵抗も見せず、床に転がった。
 リコの後から入ってきたペトラがそっと動かなくなったブリジットの頭を抱く。こちらの呼びかけにも答えなくなったブリジットはそのまま拘束具で縛り上げられ、意識を失っていたアルフォドは直ぐに担架に乗せられた。
「義体の暴走とは笑えませんね」
 アレッサンドロはペトラに拘束されたブリジットの輸送を命じる。ペトラは彼女をそっと抱き上げると、指定された病室へ向かっていった。
「完全に押さえつけたとしていた前の人格が今の人格と反発した結果だ。これで彼女の末路は決まったな」
 倒されたイスを元に戻し、ジャンはアルフォドの机に向き直る。そして写真立てを手に取ると、こう告げた。
「奴と彼女が眠っている間に全ての事は終わる。それが一番だ」
 写真立てには病室で撮られたと思われる写真が収められていた。
 そこではアルフォドに抱き上げられた、ブリジットが笑っている。




 ドイツ人の母とイタリア人の父との間に生まれた俺は、いつも父親の背中を見て育っていた。
 ローマで軍警察の仕事をしていた父は俺の憧れの人で、また目標の人でもあった。
 仕事一筋の頑固な父親だったが、俺は彼が大好きだった。
 
 そんな父も俺が14の時に死んだ。
 左翼政党の幹部の警護をしていた父は右翼の爆弾テロに巻き込まれて粉微塵になった。
 その後、右翼政党が政権を握ると、幹部と懇意にしていた父は一気に槍玉に上げられ、国から勲章を貰うどころか、トカゲの尻尾切りのように功績全てを抹消されてしまった。
 母は泣き、謂れの無い誹謗中傷に疲れきってしまって、学校に通っていた俺を残し、妹と共に祖国のドイツに帰ってしまった。
 だがこれは俺にとっても好都合なことで、父と同じように軍警察を目指すには丁度良い機会だった。

 四の五言わずに入隊した後はそれこそ馬車馬のように働いた。
 地獄のような訓練に耐え、上官からの嫌がらせにも耐え切った俺はローマ直属の部隊に配属されることとなった。
 そこでジャンと、そしてユーリと出会うことになる。
 これが一つ目の人生の転換期だった。




 担当官を襲撃するという、前代未聞の不祥事を引き起こしたブリジットの処分は二つに絞られた。
 それは担当官が意識不明の間に物理的処分、つまり殺害することと
 精神的処分、ブリジットの意識体を完全に殺し彼女をリセットすることだった。
 数時間にも及ぶ討論の末、下された結論は後者であったことをここに書き記す。
 そして処分可決から二時間という高速で、廃人状態と化したブリジットは手術室に運び込まれた。
 成功して制御できればもうけもの、失敗しても物理的処分と同じ結果になることから、比較的スムースに手術は行なわれた。
 アルフォドはその間、意識を取り戻すことは無かった。




 二つ目の転換期は公社に勤めて直ぐ、ブリジットと出会ったことだ。
 軍警察を辞めた理由はさて置き、彼は一度死に掛けた少女を無理矢理生き永らえさせ、暗殺の道具に使うという行為自体には賛成でも反対でもなかった。もし第二の人生に喜びを感じるのであれば、義体化という処置は彼女たちの救いになるからだ。
 そしてブリジットに対しても、出来れば幸せな人生を生きて欲しいとずっと願い続けていた。
 14の時に父親を失い、後は只管に軍への入隊しか考えていなかったアルフォドは、14で死んで殺人の道具にされるブリジットの気持ちが最初はわからなかった。
 今となっては結局最後までわからず仕舞いだったのだが、それ以上に戸惑いを強く感じていた。
 無邪気に菓子を食べ、偏食家で、少し我侭ぽかったブリジット。
 無慈悲にテロリストを殺し、狙撃の名手で、復讐に暴走してしまったブリジット。
 二つのブリジットの、どちらが本物の彼女なのか、アルフォドにはとても理解出来るものではなかったのだ。
 心の奥底で彼女の二面性に恐怖していたことはもう隠すまい。
 でもそれ以上に、彼女を担当官という枠を超えて愛していたことだけは彼女に伝えたかった。
 担当官という線引きに甘んじ、彼女を傷つけ続けた彼だが、ブリジットのことは誰よりも愛していた。
 それは保護者愛であり、家族愛であり、そして恋人に対する愛でもあった。
 ブリジットが恋人に対する愛を受け入れてくれたのかはもう知る由もない。
 けれど。
 もしその想いを素直に一度でも彼女に伝えていたら、物語の結末は変わったのだろうか。
 復讐に身を削ることなく。
 ヒルダに呑まれることなく最後を生き続けるブリジット。
 アルフォドが望んだのは本の小さな幸せだった。
 彼が与えたかったのも又、本のささやかな幸せだった。
 出来ればフラテッロではなく、一人一人の個人として。
 ただ一組の男と女として、過ごしてく未来を生きていきたかった。


 アルフォドは目覚める。
 この先にあるのはどうしようもなく暗い現実で、恐らく救いは無いのだろう。
 それでも、彼はただ一言、「好きだ」と伝えてやりたかった。
 君を見捨てないものがここにいる。世界中の誰もが君を敵視しても、いつだって味方でいる人間がここにいる。君になら殺されてもいいと思った馬鹿な男がここにいる。
 有りっ丈を叫んで、有りっ丈の力で抱きしめてやりたかった。


 

 目を覚ましたアルフォドの病室に訪問者が現れた。
 まだ医者から安静を命じられている彼は首の動きだけで訪問者を迎える。
 訪問者は少女で、潰れていた筈の右目が蘇生され、黒色とは少し違った色の瞳がそこにあった。
 少女は行儀よくアルフォドのベッドの傍に置かれた丸イスに腰掛けると、年相応の笑みを浮かべた。
「おはよう御座います。アルフォド様。具合は如何ですか?」
 アルフォドは一つ、失ったものの余りの大きさに言葉を失った。
 少女に手を伸ばしても少女は不思議そうに首を傾げるだけで、その手を取ろうとはしない。
 まるで人形のように。 
 作られた、予定された動作しか繰り替えさないブリジットには、
 
 到底、アルフォドの言葉は届かなかった。

 こうしてブリジットという名の少女は余りにも早すぎる死を迎えていたのだった。


 アルフォドの嗚咽が病室に漏れる。
 彼はブリジットに縋り付くと、まるで許しを請うかのように彼女の名前を呼び続けていた。














一応ここまで投稿します。
前二つのあとがきはこの投稿が終わり次第消去します。
これで一応、キリの良いところなのかな。
小分けにした連続投稿すいませんでした。

後一つ、エピローグみたいなものを投稿したらしばらくお休みです。
これからも宜しくお願いします。



[17050] 第61話 EXTRA STAGE 【ついでに赤毛と黒毛のこと】
Name: H&K◆6803d1d7 ID:6a11901b
Date: 2010/12/29 19:21
 いつか来たこの部屋で、俺は漫画のページを捲っている。
 対面に腰掛けるヒルダはにやにやと笑い続けていた。
「君の思い出の場所、なのかな。随分と面白い部屋だね。アニメーションが好きだったの?」
 俺は答えない。ページを捲って、捲って、ブリジットという名の少女がどのような結末を迎えるのか、ただそれだけを求めていた。

 彼女は禁忌とも言える担当官殺しをしてしまう。
 や、結果的には未遂に終わるのだが、耐え切れないストレスと薬からの禁断症状で判断力を失ったブリジットは、最後の味方であるアルフォドを手に掛けようとしてしまうのだ。
 もちろん代償は大きい。
 かんかんに怒った公社はブリジットの意識を完全に殺して、ただの殺人人形に作り変えようとする。
 そして怪我から復帰したアルフォドはブリジットを失ってしまったことに気がつき絶望。
 アルフォド様と微笑むブリジットに彼は自分の過ちを知った。

「……なんて救いのない……」
 思わず毀れたのはそんな言葉だった。
 だってそうだ。
 ブリジットはあんなに傷付いて、味方を殆ど失ってまで世界を変えようとしたのに、少しでも幸せな結末を望んだのに、彼女は得たものは公社の奴隷としての人生だけだ。
 ブリジットに自分の命を託して死んだピノッキオもエルザも、
 彼女と仲違いしたままのトリエラやクラエスも、
 ブリジットに親身になろうとしたペトラも、
 何より彼女に愛を伝えようとしたアルフォドが報われていない。

 こんなバットエンド、誰も救われていない。
 ブリジットは何一つとして救えなかった。

「それがあなたと私の終末なのかしらね」

 対面のヒルダは俺から「GUNSLINGER GIRL」の単行本を受け取る。ぱらぱらと流し読みした彼女はあらあらと笑った。
「公社が私を肉体的に殺すなり、精神的に殺すなりしてくれればもうこのお話は終わりだったのに……。まさか二人とも生きてるなんてね」
 そう、公社はブリジットの意識体を殺そうと画策するが、ものの見事に失敗してしまっている。
 俺とヒルダの意識はこうしてブリジットの深層意識に避難しており、肉体の主導権は失っているものの、まだ生きていたのだ。
「でも実質の終わりだ。ここでブリジットの物語は終わった。俺は何も変えられなかったんだ」
 失っていた外見が急速に取り戻されていく。ブリジットの姿を取った俺は赤毛のヒルダを真っ向から睨み付けた。
 ヒルダはその視線から逃げることなく、逆に受け止めるように言った。
「君は何も変えられなかったし、アルフォドを殺して君と共に死ぬという私の復讐も失敗した。本当、凄い抵抗だったよ」
「あそこで彼を殺しても物語りは救われない。だから助けた」
「嘘つき。彼のことが好きだったからでしょう? 身体を共有していた私が気が付かないはずないじゃない」
 俺はヒルダから視線を外す。彼女の嫌らしい笑みが癪に障る。
「条件付けの洗脳を抜きにしても、あなたは彼に好意を抱いているわ。私はこの気持ちを知ってる。私がユーリに抱いていた感情と全く同じ。
 親愛と、友情と、憎しみと、それ以上の情欲がそこにはある。ブリジットはね、世界の誰から認められなくても、アルフォドにだけ認めてもらえればそれで良かったのよ。
 そうすれば皆は救われずとも、ブリジットは幸せになれたわ」
 ヒルダの告げる事は本当だと思う。ブリジットは、俺が宿っていたブリジットは本当にアルフォドのことが大好きだった。アルフォドの首から手を外したのは俺でもヒルダでもない。
 身体に刻まれていた、ブリジットとしての意識が、そして願いが彼を助けた。
「何時の間にか身体の主導権はどちらにもなかった。私もあなたも宿主のふりをするだけで、ブリジットという名の少女は確かに存在していた。それは身体からくる人格であり、公社が植えつけたあなたが来る前の人格。
 今は彼女に全てを乗っ取られて、こうして二人仲良く深層心理に閉じ込められている。馬鹿みたい」
 ヒルダが漫画を投げ捨て、壁際に置かれたベッドに横になった。無機質なフィギアたちが見下ろしているにも関わらず、彼女は何事もないかのように身動き一つしない。
 彼女はこちらに背を向けたまま、ポツリと零した。
「もともと私は義体として覚醒するのが嫌で、早く死にたかったから肉体の主導権をブリジットに手渡したの。でもその過程であなたが紛れ込んだ。この世界の知識を持つ不思議なあなたがね。最初は神か何かと思ったわ。でも違った。あなたは私と同じただの人間で、しかも男の子だった。
 ……今でもわからないわ。あなたがここに来たのが果たして良かったのか悪かったのか。あなたが来なかったらユーリは死ななくても良かったかもしれない。でもあなたが来なければ私自身の手でユーリを殺さなければならなかったかもしれない」
 きゅっ、とヒルダが己の身を抱く。
「父親に裏切られて、男共に犯された私は死を選んだ。もしあの時生を選んでいたのなら皆幸せだったのかしら」
 俺はヒルダに答えない。ヒルダもまた答えを持っていなかった。
 ブリジットという器の中でさ迷い続けた俺と彼女は何も得ることが出来なかった。世界に対する結論も、皆に対する答えも持っていない。
「あなたはどうなの? もし余計な干渉をしないで、アルフォドに甘え続けて人を殺す物語と、今までの物語、どちらが幸せ?」
 そんなこと答えられるわけがない。彼女も最初から返答は期待していないのか、静かに溜息を吐くと、いよいよ本格的に動かなくなった。
 俺は手持ち無沙汰になった手で単行本の山を眺める。

 一巻から始まり、七巻まで来た物語は終わりを迎えてしまった。
 誰も救われないバットエンド。ヒロインが人形になったデットエンド。
 果たして俺が変えてしまった結果の物語。

 床に無造作に置かれた単行本を抱えると、俺は本棚に向かった。
 生前読んでいた漫画本の隙間にぽっかりと、七冊だけ抜け落ちている場所がある。
 俺はそこに一冊一冊丁寧に本を戻していった。
 そして七冊目を収めたとき、それに気が付く。
「あれ?」
 七冊ある単行本の後、真っ白な背表紙の単行本が六冊あった。
 手にとって中を確認するが白紙のページが刻まれただけで何もない。表紙も作者も校閲印もない、まっさらな白い本だった。
 そしてそれは、本来続くはずだった「GUNSLINGER GIRL」の八巻目からだと気が付いた。

 俺は慌てて今までの単行本の表紙を見る。
 描かれている人物や中身こそ違うものの、タイトルはしっかりと「GUNSLINGER GIRL」となっている。中身が別の道を辿っても、物語はまだ続く予定なのだ。
「中身も表紙もない。でも展開は書き進められる。これって……」
 自分でも暴論だと思う。自分勝手で都合の良い解釈だろう。だがそれでも、エンディングに納得できなかった俺はそこに可能性を見出した。
 ベッドに寝ているヒルダを叩き起こし、俺は白紙の単行本を見せる。
「ヒルダ、俺たち、また向こうの世界に出られるかもしれない」
 こちらを驚いたように見上げていたヒルダだが、直ぐにその綺麗な双眸を細めた。そしてその可能性は知っていると告げる。
「私はその方法を知ってるよ。でも到底薦められない」
 そう言うヒルダだが、瞳に若干の期待が混じっていることを俺は見逃さない。
 俺はどういう事だ、と彼女に掴みかかった。
「公社の作り出したブリジットに身体を乗っ取られたからこそ、私たちはここにいる。恐らくブリジットの肉体そのものが滅ぶまでね。けれどもブリジットは私とあなたから作られた折衷案みたいな意識体。
 ブリジット本体へ私たちが同化することによって肉体の主導権を取り戻す可能性はある。いや、十中八九取り戻せるわ。公社は意のままに操ることの出来る人形を製作したと考えているみたいだけど、実態は違うの。
 だって、今まで操っていた私たちが追い出されただけなのだから。再び手綱を握れば私たちの勝ちね」
「GUNSLINGER GIRLの物語は続いている。ブリジットの物語はまだ終わりじゃないんだ。元に戻ればやり直せる可能性もある」
「そう。肉体も精神体も死んでいないのだから、ブリジットの物語は厳密には終わりではない。でも同化するには一つ問題があるわ」
 俺の下になっていたヒルダが起き上がる。彼女は乱れた髪を整えると、俺が抱えていた白紙の単行本を奪い取った。
「ブリジット同化すること自体は今でも出来る。でもね、今のままじゃ彼女に取り込まれてデットエンドにしかならない。主導権も握れずに殺されるの。だから先ずは私たちが一つになる必要がある」
 彼女は白紙のページを俺に見せつけた。
「私はあなたの記憶を、ブリジットとして生きていた記憶を知ってるわ。でもあなたは私のヒルダとしての人生を知らない。私たちがブリジットに立ち向かうには記憶を共有する必要がある。互いに齟齬が発生し、そこに付け込まれないようにね」
「なら……!」
「確かにあなたへヒルダの記憶を追体験させるのは吝かではないわ。でもね、私は今でもあなたを憎んでいる。ユーリを殺したあなたをね。この憎悪は本物だわ。だから私があなたにヒルダの記憶を見せた場合、最後はあなたの意識そのものを殺し尽くそうとする」
 それはつまり消滅ね、とヒルダは笑った。彼女は悲しそうに、様々な感情を湛えながら笑みを浮かべる。
「あなたは私が死ぬその瞬間まで追体験しなければならない。でも耐えられるの? 私の憎悪渦巻くあの世界を。私はね、あなたも嫌いだけどそれ以上に世界そのものが大嫌い。父に裏切られ男たちに犯された記憶なんか碌なことはないわ。絶対あなたは壊される。私はあなたが憎くて仕方ないけど、この深層世界での話し相手としてなら結構好きよ」
 だから止めておきなさい、ヒルダはそう言ったきり俺のほうを向かなくなった。
 俺は床に撃ち捨てられた単行本を拾い上げて、渋々と本棚に戻った。
 
 本当に、俺はこれ以上何も出来ないのだろうか。



 ページを捲る音だけが世界を支配する。
 当てもなくページを捲り続けてはいるが、ブリジットには別段目的があるわけでもない。
 ベッドに横になったヒルダも、寝ているわけではないのに声一つ上げない。
 時折ブリジットがヒルダのほうを思い出したように見つめるが、声を掛けることは終になかった。

 どれくらいの間そうしていたのだろうか。
 ヒルダが三度目の寝返りを打った時、ブリジットが徐に口を開いた。それはヒルダに告げるのではなく、まるで自分に言い聞かせるかのような口調だった。
「何かが変えられると思った。前の人生でどんな死に方をしたのかなんて全く覚えてなけどさ、この世界のことは知っていた。変えられると思ったんだ。でも物の見事に失敗したよ。それが溜まらなく悔しい」
 一拍置き、
「ヒルダ。君の記憶を見せて。俺は少なくとも君よりかは長い時を生きてきた。君の憎悪になんか負けない。必ず君を受け入れて体の主導権を取り戻す」
 ヒルダが起き上がる。彼女はブリジットの正面に立つと、彼女の漆黒の眼を覗き込んだ。
 碧眼と黒眼が交錯する。
「もう、帰って来れないかもよ?」
「それでもいい。ここで朽ち果てるぐらいなら何とかしてみせる」
「あれ程世界に絶望していたのに? あんなにも皆を恨んでいたのに?」
「だからだ。ここに来てまだやり直せることを知った。物語はまだ続くんだ」
 ブリジットはヒルダを見据える。ヒルダは困ったように息を吐き、そっと腰を下ろした。そしてブリジットの手を取る。
「不思議な人。ここに来て条件付けが解けたのだから、アルフォドにもあの世界にも未練が無くなると思ったのに……。死ぬ前のあなたってこんなにも前向きで諦めが悪かったの?」
 ヒルダの手をブリジットが握り返す。彼女はここに来て初めての笑顔をヒルダに見せた。
「世界は変えられなくても、悲劇は変えられなくても、俺自身は、いや、私自身は十分変わったよ。ヒルデガルド・フォン・ゲーテンバルト」 
 虚を突かれたのヒルダだった。彼女は初めて驚きらしい驚きの表情をブリジットに見せた。
 そこには亡霊と化していた彼女の面影はなく、年相応の少女がいた。
 ヒルダはブリジットに答える。
「そう。ならもう止めないわ。何度も言うように、私はあなたが殺したい程大嫌い。……でも、死なないでね。ブリジット・フォン・グーテンベルト」
 ブリジットとヒルダの額が合わせられる。互いの手を取り合い、追憶の扉を開く。
「残酷な運命を変えてとは言わない。でも、一滴の救いをあなたにどうか」
「それだけあれば、何でも出来るよ」
 最後に見たのはお互いの微笑みだっただろうか。
 光の向こうへ待ち受けるヒルダの記憶へブリジットが歩みを進める。


 
 もう一度、運命に立ち向かうため、

 ブリジットという名の少女に、本当の意味でなる為に、

 彼女の戦いは再び始まった。






 Next episode

 ヒルダという名の少女   三月投稿予定。
  








 次回から、逆転サヨナラ満塁ホームランへ走ります。 
 あと劇場の存在を忘れていました。出来次第投稿します。これは大晦日までに。



[17050] ガンスリ劇場7 シリアス好きにはオススメ出来ません 【ついでに再開へのカウントダウン】
Name: H&K◆03048f6b ID:5a8ec555
Date: 2011/03/02 23:43
「はーい、皆さんこんにちわ ヒルダちゃんでーす☆」

「実はー、わたしー、これが劇場初登場なんですー」

「というわけで、よろしくお願いしますねー」




「……ねえエルザ。なに、あれ」
「ブリジットの中の人らしいわ。トリエラ」
「……あれがブリジットと合体するの? なんか色々と壊れたりしない?」
「そういうお姉さまもあの有様だけどね」




「あれ? アルフォド様。私が作ったシチュー食べてくださらないんですか?」
「いや、あのね、ブリジット……」
「そう。やっぱりアルフォド様は私のことを愛してはくださらないのですか。そうですよね、こんな出来そこないの肉○器、シリコンゴムの筒にも劣る下衆ですもの」
「いや、そうじゃなくて……人の腕が生えた赤い物体はシチューっていわな……」
「私はこんなにもアルフォド様をお慕いしているというのに……。ああこの気持ちは届かないのですね」
「うわああああああああああ! ピノッキオの元からブリジットが帰って来たと思ったらご覧の有様だよ!」




「……あれはブリジットじゃない。断じて違う。あれは器でただの肉だよ」
「そ。なら中身のうち一人はあそこにいるわ」




「ち、何なんだよあの女。私の担当官にべたべたして。ぶっ殺すぞ」



「ひい! 柱の陰から何してるのあの子!」
「俗に言うヤンデレね。私が言うのだから間違いないわ」
「うわー、ていうかこれブリジットが三人に増えてない!?」
「だから本編で合体するんでしょう。くんずほぐれつのあああのあ」
「エルザもしっかりして!」



「外野が騒がしい」
「ねえねえブリジット、本編で私と合体したのだから、あの女とアルフォドは一端忘れて私と一つになりましょう。気持ちよくしてあげるわ」
「ぐぬぬ。パワーアップしたらあのアマ、引き裂いてミンチにしてやる」
「そうそう、その意気よ。それでは頂きます」
「ん? あれ、合体ってこんなんだっけ? てか服脱がすの! うわ、どこ触ってんだやめ……!」



「……これって、劇場の初期コンセプトの百合になるのかなあ……」
「現実逃避しすぎて的を射ているようで外しまくってる台詞ね、トリエラ。ま、この劇場はリハビリみたいなものだから、次からはまともになるわよ。さて、私も混ざりに行こうかしら」
「うわー、何だあのピンクのモザイクは。ヒルダのカービンがブリジットのアタッチメントに……」



「オチは特にありませんが、そろそろ再開します。それでは本編で会いましょう」
「ん? クラエスいたんだ。てか誰に話してるの?」




暗転、フェードアウト。



[17050] Countdown 3
Name: H&K◆6803d1d7 ID:a2a0728b
Date: 2011/03/03 17:25
 生きて生きて、生き抜いて、全てを失って死んだあとはどこにいくんだろう。
 漠然とそんなことを考えながら、私は隣に腰掛けるブリジットを見る。
 射撃訓練で少しだけ上がった息と、頬を滴る汗が美しい。でも彼女の顔色に生気は無く、澄んだ黒色の瞳は人形の硝子眼のように何も映していなかった。
 いつのまにか帰って来た私の大切な人は、もう人ではなくなっていた。
 いや、もともと義体という人ならざるものだった私たちだったけどここまで酷くは無かった。
 クラエスやぺトラ、ビーチェの問いかけにも応答しないし、もちろん私の顔なんて全く見てくれない。
 時たま担当官のアルフォドさんを視線で追い、頬を赤く染めているけど、それはブリジットが見せていた反応とは似ても似つかない。
 彼女はもっと深いところで、誰にも見せないところで、誰よりも担当官を愛していた。
 ブリジットはいつもアルフォドさんの愚痴ばかり零していた。
 でも私は知っている。
 彼女が初めて貰った、プレゼントである日記帳をとても大切にしている事。
 アルフォドさんが差し入れるお菓子は全部食べていたこと。
 何かとても悲しいことがあったときは、猫のように甘えて彼の腕の中で泣いていたこと。


 これがが愛と言わなければ、ギリシャの哲学者たちを全て私は敵に回しても良いと思う。
 でも哲学者じゃなくて、大人たちを敵に回してしまったブリジットにもう逃げ道は残されていない。彼女はブリジットというただの人形で、私たちが知っている猫のようだったあの子はもう死んでしまった。
 お墓もお葬式も何もないけれど、ブリジットが戻ってくることは永久にない。
 彼女と仲違をしたあの日から開いてしまった心の隙間を、私は隣のブリジットに身を寄せることで埋めようとする。

 綺麗な眉根を顰めて私から離れた猫は、当てもないくせに公社の雑木林に消えていった。


 
 びっくりするくらい真っ白な手で、銃のスライドを引く。
 中に込められた弾の重みを感じながら引き金を引く。
 小さなマズルフラッシュと大きな反動がやって来て弾痕は的から大きく外れていた。
 こういうとき、ブリジットはどうするのだろうかとトリエラはため息をつく。雑木林に消えた猫はまだ帰ってはこない。
 ただ、もし仮に帰って来たとしても、今の彼女に教えを請うことがどれほど無謀なことなのかはわかっている。
 すっかり苦手になってしまったハンドガンの射撃を諦めてトリエラはウィンチェスターに持ち替えた。
 体調が悪化の一途をたどるアンジェリカに、気の沈んだままのクラエスなど頭の痛いことはたくさんあるけど、これを持っている時は全てを忘れられる。
 いや、正確にはブリジットのこと以外は忘れられるのだろうか。
 これを携えて彼女の背中を守っていたのはもう遠い昔のこと。
 二度と戻らない泡沫で素晴らしかった日々に涙は止まらない。

 カツン、とトリエラの背後に人が立つ。
 振り返ってみれば、憔悴しきった顔でこちらを見つめるアルフォドがいた。
 彼は視線だけでブリジットの痕跡を探し、ゲージに置かれたままのシグを拾い上げた。
 自分を神様のように敬愛し続ける人形が、人だったころに与えたもの。
 その冷たさと重さを握りしめながら、彼は雑木林の方へ歩いて行った。

 
 ついに最後まで、トリエラはアルフォドに声を掛けることが出来なかった。



[17050] 第62話 義体は赤毛少女の夢を見るか 【ついでに赤毛と黒毛のこと】
Name: H&K ◆03048f6b ID:91d01a3d
Date: 2011/12/27 01:30
「朝日ってこんなに染みるものだったんだなあ」
 一人が横たわるにしては大きすぎるベッドの上で少女は起き上がった。特徴的な赤毛が朝日に照らされて一つの絵画のような美しさを伴っている。
 彼女は血色のよい両手を静かに抱きしめると、声も上げずに涙した。
 もう二度と味わうことの出来ない感触だった筈なのにそこにある生という歓喜。たとえそれが同じ体を共有する同居人が見せている記憶の世界だとしても素直に嬉しかった。
「どうしよう、幸せで死んでしまいそうだよヒルダ」
 にへら、と笑って見せた彼女に答える者はいない。それでもブリジットは新しい物語の始まりを告げる音を聞いていた。
 一度は死に瀕した精神がここまで生を欲しているとは思わなかった。
 彼女は血も銃弾も無縁の記憶の世界でもう一度微睡みに身を任せてみた。


 ヒルダは一人の食卓が好きな少女だった。彼女はゆっくりと、深く深く何かについて考えるのが生き甲斐だった。そのため誰にも邪魔されることのない食事中に思考を続けるのが趣味だったようだ。
 ナイフとフォークを動かし、朝食を口にするブリジットも己の頭が自然と政治や哲学、またここ最近の父との問題を考えていることに気がついていた。
 どうやら地元マフィアと懇意にし、政敵を抹殺し続けている父の所行はどこからともなく彼女の耳に入っていたようだ。
「本当に気苦労が絶えなかったんだね、君は」
 食事を終えた後、スクールの準備を背負って彼女は広い広い屋敷を出た。さすが大御所政治家の娘というか、使用人に見送られながらの登校。
 これはこれで息苦しいな、と苦笑していたブリジットの足は自然と学校では無く、街の広場に向かっていた。
 どうして彼女がそちらに向かっているのか大方の予想は付く。
 それはそれで少し辛く悲しいことだったけれど、ヒルダの過去に挑むと決めた以上避けては通れない道だ。
 これからヒルダにとって人生で一番幸せな時間が始まる。でもブリジットは知っている。その幸せのすぐ隣には終わらない絶望がこちらを見ていることに。
 彼女は静かに息を吐いた。
 必ず絶望を克服してみせる。
 それが罪に塗れ地獄に落とされた自分に出来る唯一のことなのだ。

 最後ぐらい、誰かを殺すのでは無くて誰かを救ってみよう。
 散々誰かを、大切な人を死なせ続けてきた第二の人生だが終わりくらいは全うに生きてみよう。

 彼女は今は会えぬ愛しい担当官のことを忘れることにした。
 これはヒルダの人生。
 ブリジットになるまえの、彼女の追憶。

「生きて生きて生き抜いてやる。その先にあるのが何かは知らないけれど負けるもんか」

 こうして、彼女の戦いが始まった。



 ブリジットという名の少女
 義体は赤毛少女の夢を見るか。



 広場に向かったあと、ジェラートを一つ購入した俺はそこから北に向かって路地裏を進んでいた。何処か探検めいた行動に足取りが軽くなりそうになるが、これから起こることを少しばかり知っているうちはそういった気分にはなれない。いや、なってはいけないのだと思う。
 路地の片隅で寝そべっている男を確認したとき、俺は息を呑んだ。
 無精ひげを生やし、薄汚れてはいるがその顔はよく知った者だった。
 始めに出会ったのはライフルのスコープ越しだった。互いに狙撃を繰り広げ、最後は俺が仕留めた凄腕のスナイパー。だが、この体の主であるヒルダにとっては何者にも代えがたい、彼女が最期まで愛し続けた男。
「ユーリ……」
 幸い、俺の呟きは彼には聞こえなかったようだ。こんなに近くに立っても顔の一つもあげようとはしない。
 何処かくすぐったい、それでも少し悲しい感情をもて余しながら俺は記憶の通りこう告げた。
「ねえ、あなた。どうして昼間からこんなところで寝ているの?」
 俺の台詞にユーリはやっと顔を上げる。その表情は明らかに怒りに染まっていたが、もともと持ち合わせているヒルダの胆力と、死線をくぐり抜けてきた俺の精神が怯むはずも無い。
 ユーリと目が合い、互いに沈黙が流れる。
 この時彼が何を考えていたのかはわからない。それでも俺は内から沸き起こる愛しい感情に驚いていた。

 ああ、そうなのか。

 やっと腑に落ちたと言わんばかりに、俺の心の中で全てのピースがはまっていく。

 ここまで彼を愛していたんだ、君は。

 この世界を提供し続ける彼女に会う術など最早何処にも無い。それでもこの感情が彼女の持つものであることなど容易に想像が付く。
 ブリジットはユーリを殺してしまった罪悪感よりも、今彼女の代わりに恋に落ちてしまった自分が憎かった。
 ここは己の場所では無いはずなのに、確かに自分が生きてきた記憶として存在してしまっている。
 そしてこの感情を奪ってしまうことを許してくれたヒルダはもしかしたらブリジットのことを本当に恨んでなかったのかもしれない。彼女はただ知って欲しかっただけなのだろう。人形に作り替えられ、殺されてしまう自分の末路を。そして彼女が過ごしてきた尊い日々の記憶を。



 場面が飛んだ。
 気がつけばユーリに俺は首を絞められていた。バーで暗殺の仕事を受け持った彼を尾行してみたらこの様だった。どうやらこの肉体は義体だったときのようにはいかないらしい。それほどまで気配を消すのが下手くそだった。
 こちらの首を絞めてくるユーリの瞳は何かに怯えているようだった。
 そしてそれとは対照的に俺は恐怖を微塵も感じず、ただ彼がまた殺人に手を染めてしまうことに悲しんでいた。
 本当、なんて滑稽なことなんだろう。
 散々人を殺して血に塗れていた俺が、愛しい人が手を染めることを疎ましく思っている。本当はここにいてはいけない存在なのに、ずうずうしくここにいて、尚且つこの身は汚れていて……。
 ユーリが俺から手を離した。彼は二、三歩後ずさると怯えたように俺を見た。
 そしてそのまま崩れ落ちるように床に腰掛けた。彼は俺を殺すことが出来なかった。
「本当、なんでこんな」
 それからは彼の独白が続いた。国民を守るために軍警察に入隊したこと、けれど国民に銃を向け続ける現状に耐えられなくなったこと、そして少しでも社会を良くしようと活動家の暗殺を始めたこと。
 俺の知らなかったユーリの過去、そして内心がつらつらと語られていく。
 俺は何も言わず、ただ静かに彼の声に耳を傾けていた。
 彼を良かれと思ってヒルダは尾行したのだろう。そして彼女の選択は恐らく正解だった。ここで出会えるユーリという人間にここまでも愛情を注げるのだから。
 一度射殺してしまった男と寄り添う夜が続く。
 この心はアルフォドを愛していると知っているはずなのに、今だけはユーリの腕の中で身を任せてしまっても良いと思っていた。
 俺と彼女の境界が近づく。
 最初からそうなることはわかっていた筈なのに、何か大切な者を少しずつ失ってる気がして、俺は怖かった。
 人は結局、何処まで残酷になれるのだろう。


「本当、朝日って綺麗」
 シャワーを一つ浴びて、見事朝帰りと化した俺は赤い空を広場で独り見上げていた。確かに感じた生の実感と、徐々に曖昧になっていく「俺」だった時の人格に戸惑いを覚えていた。
 いや、戸惑いを覚えるのはきっとまだ覚悟が足りていないからだと思う。
 ヒルダと一つになると決めた。一つになって肉体の主導権を取り戻し、アルフォドに会うと決めた。少しでも世界に抗って行く末を救うと決めた。
 でも怖かった。
 徐々に自分じゃ無くなっていく今が怖かった。

 幸せで、濃密で、それでいて絶望を感じてしまう今が恐ろしい。

 俺は広場のベンチに腰掛け、膝をそっと抱えた。この世界のどこかで俺を見ているであろう「彼女」に語りかけるつもりでこう言った。
「自分が自分じゃなくなるって、こんなにも辛いことなんだね、ヒルダ」
 返事は無かった。ただ己の眼から涙がこぼれ落ちるだけだった。
「今だけ、ほんの少しだけでいいから泣いてもいいかな」
 それからしばらくブリジットは泣いた。ヒルダの肉体で泣いた。すっかり泣き虫になってしまった自分に嫌気が指しながらも、こうして泣いている自分が本当の自分のようで少しだけ安心した。
 世界は辛い。物語は悲しい。
 それでも、諦めること無く、もう少しだけこの世界で生きてみようと思った。










 アルフォドはベッドの上で涙するブリジットを見た。夢を見る義体はこうして涙する。
 彼は昔のブリジットが戻ってきたような錯覚にとらわれて、久しぶりに笑みがこぼれるのを感じた。
 意外と泣き虫だった、愛しいパートナーを気遣いながら。



[17050] Countdown2
Name: H&K◆03048f6b ID:91d01a3d
Date: 2011/06/27 19:22
 その日、アルフォドはブリジットを伴ってベネチアに来ていた。五共和国派の活動拠点からは随分と外れた街だが、彼にはある重要な目的があった。
 白いベンツを運転し、市内を巡っていたアルフォドは黒のBMWが背後に付いたことに気がついた。ブリジットがダッシュボードの下で拳銃を握るがそれを制する。
 彼はBMWに先を越させると、それが指示するように後ろをついて行った。
 向かった先は海辺沿いに並んだ大きな別荘の一つだった。


 本来ならば夏シーズンに賑わうであろうリゾート地だが、真冬に入ろうとしている今の季節では人影は無い。
 アルフォドはブリジットにサブマシンガンが入ったバイオリンケースを持たせると、自身は手ぶらのまま別荘の敷地に足を踏み入れる。ここまで自分たちを誘導してきたBMWはいつの間にか消えており、別荘の中からいくつかの視線を感じた。
「アシク、俺だ。そちらの要求通り彼女を連れてきたぞ」
 遂に扉の前にたどり着いたアルフォドは中に向かって呼びかけを続ける。だが応答は無い。
 いよいよこれはおかしいと訝しみ始めたとき、背後に気配を感じた。そしてその気配は扉に張り付いていたアルフォドにこともあろうか銃口を向けていた。

 反応したのはもちろんアルフォドの盾であり剣であるブリジットだった。

「っ!」
 彼女は一瞬で気配に詰め寄るとバイオリンケースを振るった。義体の怪力と遠心力から生み出される威力はいとも簡単に骨を砕く。だが気配の主はそれをいとも簡単にかわしてのけ、逆にブリジットの腹につま先を叩き込んだ。
「がはっ」
 胃液を吐き出し、体をくの字に折り曲げる彼女だったがそこで屈するほど柔では無い。素早く体勢を入れ替え、ハイキックをお見舞いした。だがこれも膝を捕まれたのち中空に放り投げられる。
 遂に地面に倒れ込んだ彼女は何とか起き上がろうとするが、先に気配の主の靴裏が彼女の胸を押さえつけた。そして再度銃口をアルフォドに突きつけられ身動きがとれなくなる。
 世界の時が確かに止まり、気配の主が静かに笑った。
「はっ、成る程。これが義体か。期待通りのすばらしい性能だな。社会福祉公社よ」

 ブリジットが見上げた先、アルフォドが振り返った先には一人の男がいた。
 やや長身でありながら引き締まった肉体をレギンスコートで隠した、彫りの深い長髪の男。
 彼はアルフォドに向けていた銃を下ろしこう告げた。

「久しぶりだな、ゲルマンの男よ。覚えているか、この俺を」

 歯を見せて笑う男にアルフォドは返す。

「ああ、忘れたくても忘れられん。クソッタレのジャコモ=ダンテ」

 吐き出すように紡がれた台詞に、ジャコモに踏みつけられたままのブリジットは身震いを一つした。



[17050] Countdown1
Name: H&K◆03048f6b ID:91d01a3d
Date: 2011/06/30 19:55
 ケプラー繊維で出来た拘束バンドで締め上げられたブリジットを、アルフォドは黙って見つめていた。彼が下した「何があってもじっとしていろ」という命令に彼女は従う。
 目隠しをされ、猿轡を噛まされても不平を漏らすことは無かった。
「大した忠犬ぷりだな。余程首輪の強度があると見える」
 首輪、とジャコモに告げられて顔を顰めるアルフォドだが、彼が何かを返すということはなかった。ただ招かれたコテージの一室でアシクと呼ばれる黒人の男に手にしていた装備を預けていた。
「……これはこれから会う人物が提示した必須条件ですので」
 頭を一つ下げるアシクに連れられアルフォドは玄関から最も遠くに離れた部屋に向かった。
 夏だというのにひんやりと涼しい理由は地下から流れてくる空気の所為だった。
「まさかこんなところにいたのか。どうりで公社が見つけられないわけだ」
「そちらでは国外逃亡となっている筈です。彼はそれの裏をかきました」
 薄暗い隠し階段をアルフォドとアシクが下っていく。そしてその背後から自由を封じられたブリジットを肩に担いでジャコモが続いた。
 不意に、明るく広い部屋に出る。
 そこでアルフォドは過去の仇敵とも言うべき、ある人物に出会った。
「ミスタークリスティアーノ、彼の人物をお連れしました」
 アシクの紹介は単なる蛇足だった。アルフォドは資料で、手配書で散々目にしてきた顔がそこにはあった。背丈はそう高くは無いが、精悍な顔つきとほどよい肉付きが過去の名士の面影を残している。
 彼の傍らにいる二人組の男女も同じようなものだった。
 クリスティアーノと紹介された男はアルフォドを見、そしてジャコモから床に転がされたブリジットを見た。彼はその相貌を歪めると、静かにブリジットに近づいた。
「成る程、この娘が我が息子を殺したのか」
 彼の憎しみに満ちた声色にブリジットは困惑の色をさらに深めた。ここにいる面々は彼女も手配書として見たことがある人物達ばかりだ。それなのに何故か自分の主人は何も行動を移さない。さらに息子を殺したと言われても、何のことを言っているのか分からなかった。
 だがブリジットの困惑を吹き飛ばすように、クリスティアーノの品の良い革靴の先が彼女の腹に食い込んだ。
 突然の出来事に対処などしようも無かったブリジットは猿轡の端から涎を垂らし、地に触れ伏す。
「……なんの真似だクリスティアーノ」
 怒りを称えたアルフォドにクリスティアーノは怯えない。ただ淡々とこう答えた。
「これで手打ちだ。社会福祉公社の犬よ。そして今この瞬間から君を同士と認めよう。なに、ちょっとした儀式だ」
 アシクに押さえられたアルフォドは地に転がり、苦しそうに息を吐き出すブリジットを横目で見た。だがそちらに駆け寄ることは許されず、最初から用意されていたテーブルに着くことを促される。すでにそこにはクリスティアーノが腰掛け、紅茶を傾けていた。
「さて、アルフォド――おっとこれは偽名だったか。では改めて……アルファルド・ジョルダーノよ、君は社会福祉公社を殺せるのか?」
 クリスティアーノの問いの意味を悟ったブリジットがこちらを見た。彼女は目尻に涙を浮かべ、拘束されながらも何とかアルフォドに縋り付こうとする。だがその歩みを止めたのはジャコモでもアシクでも、クリスティアーノの傍らに佇むフランカ、フランコでも無かった。

「……そのために俺はここに来た」

 アルフォドの言葉は呪文だった。一瞬でブリジットの条件付けが施された感情を焼き尽くし、酷く混乱状態に堕とす。
「あ、あ、」と声にならない声を上げるブリジットに見向きもせず、アルフォドはこう続けた。

「私は彼女をこうした社会福祉公社を許すことは出来ない。そして私自身も。全てが終われば彼女と共に私は死ぬ」

 宣告には魔力がこもっていた。それはブリジットに影響を与えるだけにとどまらず、対面に腰掛けていたクリスティアーノも驚かせた。
 彼は一言、噛みしめるようにこう零した。
「所詮、公社の犬も人の子か……」
 
 こうして、全てを決める賽がようやく振られた。それは本来のブリジットが与り知らぬところで静かに、しかし激しく振られた。
 ILTEATRINOから続く因縁は、ブリジットを捕らえて放すことがない。



 ブリジットは酷くうなされた。ヒルダの体で寝汗をかき、朝日の中で頭を抱えて座り込んでいた。昨日、静かに一人泣き続けたのは所詮過去のことで、今は今で新たなる問題が浮上していた。
「はあ、これだけうなされておいて夢の内容をこれっぽっちも覚えていないとか義体の体じゃあるまいし、どうしたんだヒルダ? もしかしたら現実の方で劣化が進んだのかな?」
 これは由々しき問題だとブリジットは身震いした。
 せっかくヒルダとの意識体の合体を果たしても、戻るべき肉体が死にかけでは何の意味も無い。彼女は決めたのだ。残酷な運命に抗うと、全てを救えなくてもせめて愛した男のことだけは幸せにしてみると。
 そのためにはいくらでも悪魔に魂を売り渡しても構わないと、括っているがそもそも先に死んでしまっては何も出来ない。
「ぐずぐずしている暇は無いな。幸いこちらの世界はヒルダが重要だと考える出来事のみしか起こらないから時間の流れは格段に速い。あとは私が頑張るだけだ」
 よしっ、と己の頬を叩いたブリジットは飛び上がるようにベッドから飛び降りた。そしてとりあえずシャワーを浴びるべく、ユーリの小汚いアパートの廊下をぺたぺたと歩いた。

 そとの世界で何が起こっているのか知らないままに。
  



[17050] 第63話 義体は赤い少女の悪夢を見るか。【ついでに黒毛と赤毛のこと】1
Name: H&K◆03048f6b ID:894910c5
Date: 2011/12/27 01:30
 首を絞められる。
 息が出来ない。中を彷徨う手には爪がなく、赤爛れた傷跡が残る。
 醜い男根が少女の秘部を蹂躙し、汚辱を刻みつける。
「ふっ、ふっ、ふっ、」
 少女を組み敷く男の息が小刻みになっていく。やがて一つの長い息が歪んだ口元から漏れたかと思うと、男は少女から離れた。
「……これで暫くは大人しくなるだろ」
 男はまっぱだった下半身に下着とズボンを身につけ、少女に背を向ける。
 彼の顔は一人の人間をとことん犯し尽くした喜びに震えていた。
 少女は―――ヒルダは濁った瞳でその背中を見た。
「うあっ」
 首絞めから解放されても声は出ない。
 ただ股の間だから流れ出る血液と精液が、薄汚れていた床をさらに汚していった。




 義体は赤い少女の悪夢を見るか。




 悪夢。
 そう形容するしかない夢の内容にブリジットはベッドの上で震えた。男に嬲られ、組み敷かれ、尊厳を踏みにじられる。
 この世界に来て性別が逆転している彼女だからこそ、その屈辱と嫌悪感は尚更だった。
「うえ」
 口元を押さえ、慌ててトイレに駆け込む。白い便器の向こう側に口を持って行けば後は何もする必要がなかった。彼女の意思とは裏腹に、黄色い吐瀉物が止まらなくなった。
 遂に胃液以外何も出てこなくなったとき、彼女は備え付けられていた洗面台で顔を洗った。
 そして涙で濡れた目尻を拭って鏡を睨む。
「フライングはなしだよ、ヒルダさん」
 これから己が立ち向かわなければならない運命。
 それに抗う術は今のところ見つかっていない。


 日ごとに自分という境界を失っていくブリジットは、多大なストレスを感じながらヒルダとして過ごしていた。行動や思考はヒルダが勝手に行ってくれる。だがブリジットとしての意識を持つ彼女はそういった経験が増える度に自分が自分でなくなる恐怖に耐え続けなければならなかった。
 ブリジットとして朝の広場で一人泣いても、それで気が晴れる程彼女は強くなかった。
 だからこそ、目の前でこちらを睨み付ける父親を見ても現実感が沸くことはない。
「……聞いているのか。ヒルダ」
 威圧するように口を開くのはヒルダの父親だ。彼は政治家で現内閣のアキレス腱とも揶揄されるほどの、黒い噂の絶えない人だった。
 ここ最近、政敵を追い詰めた違法な手段の数々をマスコミに追い詰められて気が立っている。
「ええ、お父様」
 目線をそっと伏せ、ブリジットは愁傷に答えた。中のブリジットはヒルダの父親に睨まれたぐらいで怖じ気づくことはないが、外を構成しているヒルダがそうさせた。
「ならば今すぐ何処の馬の骨ともわからん輩の下へ通うのは止めろ。これは命令だ」
 かちん、と気に障ったのがわかる。
 先ほど見せた愁傷な返答は何処へやら、今度は打って変わってヒルダが父親に噛みついた。
「あの人を悪くは言わないでください。少なくとも、卑劣な手段で政敵を蹴落としたお父様よりか清純な男です」
「ふん、ほざくな。その卑劣な男の庇護なしではまともに食事にもありつけん癖に。そういうことは一人前になってから吐け」
 ゲロならしこたま吐いたわ、とブリジットが内心毒づく。だがヒルダはそんなブリジットを置いてけぼりにしてこう続けた。
「それでも、私はあの人が不当に貶められるのは耐えられません」
 下がれ、と父親が一言告げる。
 これ以上無意味と悟ったのか、ヒルダはもう何も言わなかった。



 そこは酒場と言うには余りにも薄暗い空間だった。
 堅気の人間は決して近づかないような、そんな場所で二人の男が酒を傾けている。
「で、クローチェの方は順調なのかフェデリコ」
「ああ、当日の防弾処理車に爆弾を括り付ける案は頓挫したが、ルートは手に入れた。あのジャコモって男、中々侮れん」
 フェデリコと呼ばれた長髪の男がウィスキーを傾ける。その隣で黒髪に髭面の男が嘆息した。
「その点我々は何も進展していない。奴を揺すってもあの厚顔無恥さだ。マスコミを買収して事態を納めようとしている」
「……しばらく見ない間にこの国の構造も大分変わったようだ。政治家を糾弾すべきマスコミが界隈と化している」
「奴は我々のボスの敵だ。あいつは自分が助かるためにボスをマフィアに売り渡した。唯一死体が見つからなかったお坊ちゃまの足取りも掴めていない」
「政治思想を取るか義理を取るか。忙しいなベネチア活動家は。だがそんなお前達に朗報だ。ニッコロ」
 何だ? と髭面の男―――ニッコロが問う。
「奴の娘がどうやらしがない清掃員にお熱らしい。だがこの清掃員、もとを辿れば俺たちと同じヤクザ者だ。これを出汁に奴を揺すってみろ」
 それは名案だとニッコロは喜色の色を浮かべる。
 一政治家の娘が堅気ではない人間と交際しているとあれば、それこそアキレス腱になりかねない。マスコミとゴシップ好きの国民の格好の餌になるのだ。
 どうしても攻めあぐねていたニッコロは手放しに喜んだ。
「だがそんな情報を何処から? あの男の事だ。必ず外部に漏れる前に握りつぶすはず」
「ああ、それなんだがな」
 フェデリコが周囲を警戒するかのように目線を配らせた。そしてこちらに注目がないことを確認して……
「社会福祉公社って知ってるか? そこがな、奴の娘に興味をもっているんだよ」
 悪魔の一言を口にした。



「清掃のバイト?」
 カフェテリアでも駅前の公園でもなく、ユーリのアパートでヒルダはたむろしていた。父親の監視が強くなり、外へ出ることが難しくなってもこうして会いに来ることは日常と化していた。
 今彼女は、ユーリに少しでも喜んで貰うためトマトソースのパスタを茹でていた。
 エプロン姿のヒルダの背中に、純粋な少年のような声色でユーリが笑った。
「ああ、本職は店じまい。食べていくためにゴミ清掃のバイトを始めた。筋は良いらしいぜ」
 もとは軍警察のエリート。
 でも人間らしい挫折の仕方でヒットマンに身を落とし、今はこうして堅気の仕事に就こうとするユーリがヒルダは眩しかった。
 自身とは正反対の生き方をする彼を見て、一瞬だけ表情を曇らせるも直ぐに笑顔を取り繕う。
「そう、それは良かった」
 茹で上がったパスタを皿に盛りつけ食卓に運んだ。するとユーリはそれを掻き込むように食べ始める。
 彼が南部出身と聞いて南部料理を覚えた甲斐があったと思える瞬間だった。
「ところでヒルダ。明日の予定なんだがな」
 徐にユーリが口を開く。フォークを手にしたまま彼が言葉を発するのを待っていると、次のようなことを告げてきた。
「俺の仕事……もちろん清掃のバイトだけど午前で終われそうなんだ。午後から少しいいか?」
「良いも何も今日みたいにここで帰ってくるのを待っているわ。明日は何が食べたい?」
「あ、いや。そうじゃなくてだな……、その、あれだ。明日の昼から何処かに遊びに行かないか。君を映画あたりに連れて行ってやりたい」
 不意に涙が零れそうになった。
 もうすぐ破滅だと知っているのに、彼がこちらのことを気に掛けてくれるのが嬉しかった。
 照れ臭そうに頬を掻くユーリの姿がとても愛おしい。
 アルフォドに愛を誓っているはずのブリジットでさえ、内心はユーリに対する愛情があった。
 夢の終わりが近づいてくる。
 ヒルダが見せたかった夢がもう直ぐ終わる。
 ブリジットはユーリに笑顔を見せながら、終焉に思いを馳せた。



 その日、ヒルダが屋敷に帰ることはなかった。
 翌日の新聞記事には右派過激派のグループに誘拐されてたと報道された。
 だが真相は違う。
 彼女は実の父親が雇ったマフィアに誘拐されたのだった。
 父親であるアルベルト・フォン・ゲーテンバルトはマフィア達にこう告げたという。


 出来るだけ嬲って殺せ。


 彼女は娘を殺された悲劇の政治家を演じるための道具にされたのだった。
 
 



 



 


 



[17050] 第64話 義体は赤い少女の悪夢を見るか。【ついでに黒毛と赤毛のこと】2
Name: H&K◆03048f6b ID:182128c4
Date: 2011/12/27 01:30


 この体が義体だったのなら、と不覚にも考えてしまった自分にブリジットは嫌悪感を持った。
 時刻は不明、だが目隠しをされてから体内時間は既に10時間を超えている。つまり夜中の八時過ぎに拉致監禁されたということは今現在、翌日の早朝らしいことはわかっている。
 両手は拘束ベルトて拘束され、体は椅子に括り付けられていた。
 ご丁寧にガムテープが口元に貼られているため、声を出すことも出来ない。

(本当、あっというまだったね、ヒルダ)

 ヒルダと一つになると誓って、体感時間一ヶ月。
 外の現実世界でどれだけの時間が経っているのかは分からないが、まだこうして意識があると言うことは体そのものは無事である。
 けれど、この一ヶ月でブリジットという意識はもう義体だった頃の体を思い出せないくらい摩耗していた。
 あれほど覚悟を決めたはずなのに拭い去れない恐怖感。
 そして、これからの監禁生活で犯されるであろうヒルダの肉体の痛みに耐えきれるかもわからなかった。
 すっかり弱くなってしまった自分が情けなくて、ブリジットはそっと涙を流す。
 自分は今まで数え切れないくらいの人を殺してきた。
 日本という平和な国で平凡に過ごし、漫画やアニメ、ゲームを好んで享受していた自分は最早過去を通り越して前世のものだ。
 両手は血に塗れ、体からはいくら洗っても落ちない硝煙の匂いがする。銃で人を殺し、自分を殺し続けていた自分がこうなることはある意味で天罰みたいなものかもしれない。
 でも、それでも、早々にドロップアウトした自分とは違って今も戦い続けているであろうトリエラやヘンリエッタたちに天罰は相応しくないと思う。
 これはこの世界の顛末をある程度知っている自分が、その世界から眼を逸らし続けたことに対する天罰なのだ。
 ピノッキオも、エルザもブリジットに命を託して死んだ。
 ブリジットはまだ生きるべきだと言って二人とも死んでいったのだ。
 それなのに自分は生きることを諦めてしまった。たった一度の過ちとは言え、復讐に身を焦がし、生きることをおろそかにしていた。
 もう、あの二人に顔向けは出来ない。

(ごめんね、みんな)

 ブリジットはそっと意識を落とす。
 たぶんきっと、次に目が覚めたら、本当の地獄の始まりだと悟って。








 夢を見ていた。
 それはブリジットがブリジットになる前の、前世の記憶だった。
 まだ男の身体で、殺しや銃とは無縁の時代のこと。
 尚且つ、まだ成人も迎えていない高校生の時のことだった。
 彼はその日、夏休みも終わりを迎えそうな、うだるような暑さの中、道端の隅で蛆にたかられた猫の死体を見つけていた。
 車に轢かれたのだろうか。内蔵がはみ出し、苦悶の表情を浮かべたまま絶命したかわいそうな猫。誰からも見捨てられ、手に触れようともしない。
 かくいう彼も、物珍しさで眺めていただけで、小さな同情は描いていてもそれ以上の感情を描くことはなかった。
 でも何故だろう。
 今こうして、義体になって、あのときよりもっと沢山の命を切り捨ててきた身体になって、猫の死体の光景が鮮烈に浮き上がっている。
 もっとグロテスクな、それこそ目を背けたくなるような人の死体を、自分の手で沢山生み出してきた。なのに思い出すのは自分が手を掛けたわけでもない、かわいそうな猫の死体。
 ブリジットは思う。
 命とは多分自分の中の尺度でははかれない、はかってはいけない、もっと特別な何かなのかもしれないと。
 多分、この融合を果たした先、自分は公社の洗脳から解放される。
 もしそうなったとき、誰かを殺せない自分は果たして生きていく意味があるのかと。
 あの日見た猫に同情を抱いたように、自分が殺してきた人々に同情することは果たして正しいのかどうか。
 そもそも、あの日猫に同情したことは正しかったのだろうか。
 敢えて目を背けていた蛆の群れこそ、直視すべき命の姿だったのではないか。
 ブリジットはこれからの人生の、残り少ない時間の意味を考えた。
 おそらく、きっと、残り少ない時間の中で沢山の人を殺すのだろう。血に塗れていた両手はさらに汚れ、自身の細い足首には数え切れないくらいの亡者が張り付いている。
 アルフォドの為に殺そうとは思わない。
 ただ自分が自分であるために、今まで生きてきたこの肉体の人生を、二年もないけど特別だった人生を意味のあるものにするために沢山殺していこう。
 目が覚めれば地獄といった。
 でもそれはもしかしたら嘘かもしれない。
 地獄なんてこの世界、何処を探しても存在しない。
 ただそこにあるのは、自分が生きている世界。
 
 残り少ない時間を生きよう。
 数え切れないくらい殺そう。
 そして沢山沢山愛し合おう。
 
 欲しい物はもう手に入らない。小さな幸せなんてもう望まない。
 手に入れたいのは、自分が自分であるという意味。


 まやかしの世界に生きて、初めて、目標が出来た。


「よりよい結末……それは私が生きること」

 
 悔いの無いように。









 アルフォドはクリスティアーノの隠れ家である地下室で、パイプベッドにくくりつけられているブリジットを見下ろしていた。
 彼女は幾つものチューブに身体を繋がれ、静かに寝息を立てている。
 彼はそんな世界の中で、数日前、クリスティアーノが説いたブリジットの救済案を思い出していた。

 
「脳のロックを全て解除するだと?」
「ああそうだ。私にお付きの、信頼できる男からの提案だ。このまま殺人人形とでしか生きられない彼女の、唯一の救済だ」
 何をバカなことを、とアルフォドが吐き捨てる。医療に関しては一般世界より十年は先んじている公社が匙を投げたブリジットを、一医療機関ですらない、ただのテロリスト集団が治療しようとしているのだ。
 これほど滑稽なことが他に存在するのだろうか。
「いいか、ブリジットの脳はもう現界だ。いくら肉体をカーボンの骨、人工筋肉、人工臓器に置き換えてもこれだけは換えが効かない。度重なる投薬の結果、脳が壊れている」
 アルフォドの説明は正しい。義体化技術によって肉体を人工物に置き換えたブリジットに訪れる死は、脳が負担に耐えきれなくなって機能を停止させてしまう死だ。
 使えなくなった身体の部品は換えが効いても、生身のままの脳は換えが効かない。
 義体の大きな欠点である脳負担は、未だに公社は解決できていない。
 彼のそういった反論にクリスティアーノはこう返した。
「だからその前提条件を覆すのだ。脳負担が問題ならば、脳に負担を掛けているロックを解除する。そしてそれで生まれたキャパシティで延命を繰り返す。つまり君たちが手塩に掛けて育てた洗脳を全て無に返す」
 クリスティアーノの反論はこうだった。
 義体の脳に最も負担を強いているのは、公社に服従を誓わせる洗脳処置であり、それを解除さえしてしまえば随分と脳に掛かる負担を軽減することが出来る。
 もちろん、戦闘に関する知識などはそのままにしてだが。
 だがそれは……
「……そんなことをしたらもう取り返しが付かないところまでブリジットが壊れる可能性がある……」
 そう、脳負担を減らすために洗脳を解除した結果、どのような現象が起こるのか。
 それはブリジットが今まで消去されてきた、思い出さなくても良い記憶を全て思い出すことになる。
 彼女が苦しみ、悲しんだ記憶も、ヒルダとして死んでいった記憶も。
 もしもブリジットがそれらの記憶の奔流に耐えられなかったのならば、待ち受けるのは緩やかな死などではなく、彼女が持つ精神の崩壊だ。
「だが今のままでは公社の狗としての洗脳が強すぎて戦力としては全く宛にならん。ジャコモも何処までこちらに協力するか分からない以上、不確定要素は出来るだけ排除したい。それに―――。」
 一拍おいてクリスティアーノが口を開く。
「私はまだお前が公社を裏切ったということを信頼していない。その証拠があの娘だ。あの娘が最早公社の狗ではないと証明できない以上、お前は宙に浮いたままだ」
 そんなことは分かっている、とアルフォドは臍をかむ。
 クリスティアーノはその様子を一瞥した後、こう続けた。
「あと二日だ。二日で答えを出せ。ジョルダーノ。それと忘れるな。復讐に燃えているのは何もお前だけではない。この世界に生きている誰しもがそれらの炎に巻かれる可能性があるんだ」
 だから……、

「だから彼女の為に苦しむふりはよせ。大人しく認めろ。お前自身が公社に抱く憎しみを」

 アルフォドは、何も答えることが出来ない。




 アルフォドはベッドの上で眠るブリジットを見下ろす。
 クリスティアーノに告げられた自身の復讐の意味。いつのまにかブリジットの為に生きると決めていた彼の静かな誓い。
「ブリジット、目が覚めたら私を殺してくれても良い。君をこんな処に連れてきたのは正直失敗だと思っている。でも、」
 彼はそっとブリジットの手を取る。ただの殺人人形になってしまった彼女の白い手を。自分の所為で取り返しの付かないところまで血で汚させてしまった小さな手を。
「私は君の首輪を外す。もしも全てが終わって、君が生きていてくれたのなら、もうそれは君の自由だ」
 短い口づけを青白い額に。
「共に堕ちよう。ブリジット。もう戻れないのが私の所為ならば、地獄の炎に巻かれるのは私だ」


 だからもう少しだけ生きてくれ。



 呟きを、扉の向こう側でクリスティアーノが聞く。
 物語の歯車がまた一つ、動き出す。



 



 



[17050] 第65話 義体は赤い少女の悪夢を見るか。【ついでに黒毛と赤毛のこと】3
Name: H&K◆03048f6b ID:7e218f89
Date: 2011/12/27 18:25
 服を破られ、男にのし掛かられる。ヒルダの感じていた恐怖がブリジットの脳髄を焼き尽くし、同じ絶望を追体験させる。
 頭にちらつくのはユーリの事。
 何度もごめんなさいと謝りながら、涙をこぼす。
 痛みに息を吐き、憎悪に身を焦がす。
 それでも、義体ではない生身の肉体では何も抵抗が出来ない。
 ブリジットは知る。
 今まで義体の身体に慣れきっていた自分がいたことに。
 この身体は不便だ。痛覚遮断も、怪力で男を絞め殺すことも出来ない。

 生きると決めたのに。
 殺して生きると決めたのに。

 折角の決意が嵐のように押し寄せる様々な感覚の所為で、ノイズが走ったみたいにわけがわからなくなる。

 男の動きが止まった。内臓を蹂躙される痛みが終わる。股の間だから何かが零れて、こちらを見下ろした男の顔が酷く歪んで笑った。
 そこにあるのは女を犯して見せたという、とても不気味な独りよがりの喜びだけ。
 ブリジットは止まらない涙を床に落としながら、男の顔から目を背けた。





 脳のロックを外す。
 それは端的に言えば、催眠解除の催眠を掛けるようなものだった。幸いクリスティアーノの財力とコネはまだ海外ルートを通して生きている。 
 EU圏ならではの国越えのし易さが今回はプラスに働いていた。
「施術自体は終了しました。あとは目が覚めるのを待つだけです」
 クリスティアーノが雇った医者が残していったとおり、ブリジットは再び眠りについている。もう起きている時間よりも眠っている時間の方が長くなってしまった彼女を見て、アルフォドは息を一つ吐く。
 ジャコモはあれから、アシクを連れて何処かに出て行った。
 何か計画を練っているという話だから、暫くは戻ってこないだろう。
 今この隠れ家にいるのはクリスティアーノ、フランカ、フランコ、そしてアルフォドとブリジットの五人。
 しかし互いに会話は少なく、ただ共に暮らしているだけという体たらくだった。
「まだお姫様は目が覚めないのね」
 眠り続けるブリジットの傍らにいたアルフォドに声が掛けられる。それが余りにも珍しいことだったので、彼は一瞬反応が遅れてしまった。
「私の名前は知ってるかしら」
「……偽名なら」
 アルフォドは彼女を知っている。公社が爆弾魔のテロリストとしてマークし続けていた女だ。クリスティアーノ邸を襲撃したときから行方不明とされていたが、まんまと逃げおおせていたようだ。
「そう。ならピノッキオのことも知っているのね」
 ぴくり、とアルフォドの肩が動く。彼は思い出す。数ヶ月前、ブリジットと死闘を演じた殺し家の少年。何故かブリジットは彼に異常な執着を持ち、彼女が破滅への道を歩み始めたのも、彼を殺してからだった。
 フランカは続ける。
「クリスティアーノはピノッキオを我が子のように可愛がっていたわ。だから驚いたのよ。彼の仇であるはずのあなたたちをすんなりと仲間に引き入れたことが。それは何故だかあなたは知ってる?」
 シラを切ろうかとも考えた。
 だがフランカの声色はどこか確信めいていて、自分が何かしら理由を知っているとアタリをつけているようだった。だから観念したように口を開く。
「……俺に公社から抜けるように指示したのがジャコモだ。ブリジットが壊されてから数日経ったとき、奴が現れた」
「あら、随分とタイミングが良かったのね」
「公社も決して一枚岩ではない。中では足の引っ張り合いだらけだ」
 実際、社会福祉後者は義体の運用部とその他特殊部隊との仲は決して良くはなかった。
 それは私情関係無しに、互いの利害がぶつかり合っているためでもある。もともと軍警察出身のアルフォドはそういった組織の政治的関係にも精通していた。
「クリスティアーノが俺を引き入れた理由はジャコモに諭されたからだろう。おおかたピノッキオに変わる戦力が手に入る、とな」
「彼女の保護者としてあなたはそれでいいの?」
「さあな。実を言うと、今俺は自分が何をしているのかよくわかっていない。決してこれが正しい選択だとは思わないし、思いたくもない。ただのあてのない逃避行だよ」
 そう、とフランカが部屋の隅に腰掛ける。アルフォドはこちらを見ない。
「でもあなたの逃避行、多分間違ってはいないわ」
「はっ、何をバカなことを」
「だってそうよ。この世に正義と悪が存在しないように、人の選択に間違いなんてありはしないわ。だってその選択の意味は誰にも決められないのだから」
 
「あなたが彼女の人生の意味を決める必要は何も無いわ。責任を負うこともいらない。ただあなたは彼女が自分の人生に何か意味を持たせてあげられるよう、手助けしてあげればいいの。だってあなたたちはフラテッロ」

「兄妹、なんでしょ。助け合えない人間関係なんて、それは家族とはいわないわ」



 家族、ってなんだろう。
 ブリジットはいろいろなことを考える。
 男に犯されている間も、面白半分に拷問を重ねられている間も。
 ブリジットはヒルダの記憶を追体験して、とても彼女と同化できるとは思えなかった。
 だってそう、この記憶はあくまでヒルダの物であって、これを知ったところで自分はまだブリジットにはなれない。
 ブリジットになるためにはヒルダの記憶の中で、自分なりの答えを見つけなければならないのだ。
 それは問題すら提示されていない、不可視の答え。
 だからブリジットはいろいろ考える。今まで忘れていたことも、あえて無視してきたことも。
 答えが、わかるまで。


 向けられたのは憎悪。人は憎む。
 何か酷く自分を傷つけられると人は誰かを恨む。
 リコが突きつけてきた銃口の答え。
 ブリジットは後悔する。自分の手で彼女の何かを摘み取ってしまったことに。

 
 助けた女の子は本当に幸せだったのだろうか。
 自分勝手に助けて、本当はあそこで死ぬはずだったのに。
 でもその女の子は結局死んでしまった。
 自分を守るために。
 ブリジットは後悔する。自分の手で彼女の運命を狂わせてしまったことに。

 
 撃ち抜いた相手は過去の自分が愛した男だった。
 ライフルスコープ越しに交わした視線は今でも忘れない。
 彼を殺してしまった罪は一生消えない。
 ブリジットは後悔する。しばらく、彼のことを忘れていたことに。


 殺し合った青年は、死ぬ間際に人間になれた。
 羨ましいと思った。一人にしないでくれと恨みを吐いた。
 でも彼は確か言った。
 もう少しだけ生きてみろと。
 ブリジットは後悔する。彼の言ったとおり、果たして自分は生きてきたのかと。

 
 一番愛した男の人は今頃どうしているのだろう。
 きっとあの人のことだ。いらない苦労を背負ったり、自分のことに責任を感じて
 悲しんだりしているのだろう。
 でも彼にはこう言ってあげたい。
 自分は最後まであなたの味方だと。
 あなたと共に生きていきたいと。
 ブリジットはもう後悔はしない。振り返ることはあっても足は止めない。


 そっと瞳を開ける。自分にのし掛かっている男が見える。
 拘束バンドに力を込める。ぎちぎちと、少しずつ、少しずつ引き裂かれていく。
 そして……、


 
 ブリジットの拳が男の顔にめり込んだ。
 頭身が少し縮み、赤毛が黒髪に変化していく。今まで普通の少女だった肉体が、彼がこの世界に生まれ落ちたときのように義体へと変化していく。
「ああ、ヒルダ。俺、やっとわかったよ」
 呻く男の首を持つ。そして今まで何度もやってきたように、首の骨を砕く。
「君の悪夢はもう悪夢じゃない。だって俺はもうヒルダなんかじゃない。俺なんかじゃない」
 騒ぎを聞きつけた男達が部屋に入ってくる。ブリジットは返り血を浴びたままそちらを振り返った。
「俺は、いや、」
 掴み掛かってくる男をぶん投げた。ナイフで切りつけてくる男を床に沈め、銃を取り出した男を壁に頭から突っ込ませる。
 そして、高らかに声をあげた。



「私はブリジットという名の少女なんだから」









[17050] 第66話 義体は赤い少女の悪夢を見るか。【ついでに黒毛と赤毛のこと】エピローグ
Name: H&K◆03048f6b ID:7e218f89
Date: 2011/12/28 02:05
 ブリジットは男共を全て始末した後、ヒルダが死ぬ間際に見上げていた空の下、二つの足でしっかりと立っていた。
 石造りの通りから見上げる空は朝焼け独特の紫色が映えていてとても美しい。
 人通りは皆無で誰も居ない世界。静かに吹く風だけがブリジットの髪を揺らす。

「お疲れ様、ブリジット」

 振り返る。背後にはヒルダが立っていた。赤毛で、ブリジットより少し身長が高いヒルダ。
 彼女は今までに見たことのない、とても穏やかな笑みを浮かべながらこちらに近づいてくる。

「おめでとう。あの身体は君のものだ」

 ヒルダがブリジットの手を取る。見れば、彼女の身体は薄く透けている。

「ヒルダ?」

「あなたはブリジットであることを選んだ。それが正解。それが答え。あなたは、もうそれ以上でも以下でもない」

 ヒルダの身体が消えていく。否、それはブリジットに吸い込まれていくと言えば正しいのだろうか。
 彼女もまた、ブリジットのように一つの選択をしたのだ。

「私もブリジットとして生きていく。あなたとして生きていく。さあ生きましょう。もう一人の私。いえ、これからの私」

 ヒルダが笑った。ブリジットも笑った。

「そしてありがとう。もう悪夢はないよ、ブリジット。君のことが、やっと好きになれた」

 ヒルダが消える。さよならは言わずに消える。ブリジットは空を見上げた。緋色と紫色が混じった大きな大きな空。
 これから先、この身体はもう一つの魂しか居ない。
 もう、一人しか居ない。
 彼女は瞳を閉じた。
 意識が暗転する。
 でも知っている。
 この先、瞳が開いた先にあるのは絶望なんかじゃない。
 希望でもない。
 瞳の先にあるのはただそこに横たわる現実だけ。
 だからこそ生きていこうと思う。愛しい人の為に、なにより自分の為に。

 
 ブリジットの身体が通りから遠くへ離れていく。もう二度と戻ることのない場所。背後で誰かが手を振った気がした。
 少し気になって振り返ってみる。瞳を開いた先では、ヒルダとユーリが並んで手を振っていた。
 でもそれは多分幻で、多分現実。




 
 ブリジットの意識が目覚める。
 





































「ああ、おはようございます。アルフォドさん」
 目の前の男は狐に摘まれたような顔をしていた。少し頭が痛く、ぽやっと眠い。暫く自分の意思で動かしていなかった所為か、少し身体が重い。
 それでもやっと自分の身体に戻ってきたと実感することが出来た。
 辺りを見回すと、穏やかな笑みを浮かべながらこちらを見ている女がいる。どこかで見たことのある顔だが、きっと碌なものじゃあないだろう。
 それよりも、信じられない物を見たように、目を見開いたまま動かない担当官に笑いかけてみる。

「……お腹がすきました。ピッツァないですか?」

 これが新たな始まり。ブリジットとしての始まりだ。
 もう戻ることは出来ないけれど、後は前に進むだけだから楽なものだ。
 


 だって私は一人じゃないのだから。



[17050] ガンスリ劇場8 シリアス好きにはオススメ出来ません 【新章突入。すでに第二期なのに】
Name: H&K◆03048f6b ID:7e218f89
Date: 2011/12/28 06:50
「あはははははっ! これぞ最強! 復活! ネオブリジット!」

「余りにも久しぶりすぎて劇場のテンションがいまいち馴染まないエルザです。みなさんこんにちわ」




「と、いうわけで復活編終了! これからは私の時代が始まるのだ!」

「まあ浮かれることは良いことだと思いますよ。お姉様。ところで一つ気になったのですが……」

「うん? なに?」

「少し胸、大きくなってません?」

「ああ、ヒルダがもともと私より大きかったからね。多分それの所為で……」もみもみ

「絶望した! 本編で愛の逃避行をしたあげく、無駄なところまでパワーアップしたブリジットに絶望した!」

「あれ、トリエラさん。お久しぶり。でも愛の逃避行って、最新刊のあなたも結構大概のような……」

「うるさいっ! でもあれかー、きっとこれから私VSあなたとかそういった展開になるのかなー」

「展開とかメタ発言しないでよ……」

「うう、あれだけ愛し合ったのに戦わないといけないなんて、まさに悲劇……ってあいたっ! 何するのエルザ!」

「本編で絡みがある分、悲劇の主人公ぶらないで。むかつくわ」

「といいつつあなたもここではやりたい放題だよね。いい加減ブリジットの胸から手を離したら?」

「いいの。ここでは私がブリジット(の胸)を育てるの。ほれほれ、ここがええんか。口ではそう言っておきながら、身体は正直やでー」

「あんっ。いやっ。ちょっ、やめっ。無表情で揉まないでよっ!」

「ま、何はともあれ無事に戻ってきてくれてそれで良かったよ」

「何々お姉様。ならこんなふうに情欲に満ちた顔で犯せば良いの?」

「ひいいいいいっ。何で犯す思考なのさっ! すっかりヨゴレキャラが定着しちゃってもうっ!」




「というわけでまた次回の劇場でお会いしましょう。……あれ、私の出番、今回これだけ?」(クラエス)









◆◇◆◇

あとがき

というわけで八章終了です。滅茶苦茶時間が掛かりましたごめんなさい。
とりあえず一言。逆襲開始。公社VSブリジット編がスタート。
何年かかっても完結させます。やきうも同じ。
あと、最初はサンマルコ広場で完結のつもりでしたが、たぶん原発編までいくかも。
感想欄でジャコモラスボスが挙がっていましたが、ごめんなさい。正直確約できないと思います。現時点でのラスボスは結構意外な人なのです。

これからもブリジットをよろしくお願いします。



[17050] 第67話 ヴェネチアの一番長い一日【ついでに俯瞰風景の事】1
Name: H&K◆03048f6b ID:3b41b2ea
Date: 2011/12/30 00:27
 武器を取れ、同士達よ!

 俺は諸君らのことを誇りに思う!

 ヴェネチアの地に諸君らの名を刻みつけるのだ!

 今こそ、安寧に身を堕とした者たちに教えてやろう!

 我らの怒りを! イタリアの革命の炎を!


 
 ジャコモの演説は活動家達の胸に響いているのだろうか。各々の武器を掲げ、叫び声を上げる男達をブリジットは冷めた目線で見つめている。
 アルフォドがジャコモの下で協力すると決めた以上、彼らの活動にブリジットが反対する理由はない。
 それに条件付けのしがらみが外れたブリジットは公社に義理立てしてやる必要もなくなった。
「ブリジット」
 傍らに立つアルフォドがブリジットの肩を掴む。こちらを心配しているのだろう。顔色を伺うようにこちらを覗き込んでくる。だがそれには及ばないと彼女は微笑み返す。
 確かに五共和国派に対し、復讐心を抱いていたときもあった。
 けれどそれはあくまで過去の話であり、今の話ではない。
 今ならわかる。彼らは彼らの信念で戦っているのであり、そこには彼らの正義がある。それが彼らの意義であり意味であり、最早ブリジットには関係の無い物だ。
 それに―――。
 エルザはブリジットに復讐を頼んだわけではない。彼女はブリジットに生きることを望んでいた。
 ならば今のブリジットの状況はまさにそれであり、決して恥じるべき事ではないと彼女は思っている。
 しかしながらいつまでも活動家達の喝采を聞いていられるほど、ブリジットは達観していない。
 直ぐに踵を返してみせると、興奮冷めやらぬ室内をあとにした。



 ヴェネチアの一番長い一日


 

 ブリジットとアルフォドさんが消えて一ヶ月が経った。ジャンさんたちが行方を追っているそうだが、未だ手がかりは掴めない。
 恐らくアルフォドさんが連れて行ってしまったのだろうが、それにしても手際が良すぎた。公社は何物かが外から手引きしたと推測しているようだが、私もその通りだと思う。
 アルフォドさんは優しい人だから、ブリジットにされたことがどうしても許せなかったのだろう。
 かくいう私も、口には決して出さないけれど不満が無いわけではない。むしろ条件付けさえ存在していなかったら、ブリジットとアルフォドさんのことを素直に応援する立場になっていた。
 まあそれが出来ないあたり、現実は厳しいものだ。
「トリエラ、とりあえずはここまで出来た。あとは自分で調整しなさい」
 そう言って、私の隣で日曜大工に勤しんでいたヒルシャーが顔を上げた。彼が作業していたのは私のウィンチェスターをソードオフにすることだ。ノコギリを使って木製のストックを切り落とす。それだけで随分と取り回しが良くなり、格闘を織り交ぜて戦う私のスタイルにマッチするのである。
「ありがとうございます。ヒルシャーさん」
 素直に礼を言って、軽くなったウィンチェスターを受け取る。
 最近ふと思うことは、この目の前にいるヒルシャーとの関係のことだ。
 ブリジットがまだ公社にいて、元気にしていたとき、ヒルシャーと上手くいかないことがあれば、いつも彼女に相談していた。
 お互い担当官に対して、恋慕にも似た思いを抱いていたから悩みをある程度共有することが出来たのだ。
 けれどもし、ブリジットが最初から私の目の前に存在していなかったらどうしていたのだろう。
 今みたいに、ある程度素直に彼と過ごすことが出来たのだろうか。それともブリジットとアルフォドさんみたいに取り返しの付かなくなってしまうような酷い関係になったのだろうか。
 少し前までは考えることすら怖かったことだけれど、最近は自然と考えることが出来るようになってきた。
 公社には二期生と呼ばれる女の子達が入り始め、一期生の、しかも初期組としては何となく終わりが近いことが分かっている。
 自分の死期をある程度認識しているからこそ、もう悔いは残らないよう、精一杯生きてみようと思う。
 これはブリジットが反面教師として教えてくれたことだった。
 あの子は最後の最後で願いかなわずに壊れてしまった。あれだけ必死に生きていたのに、あれだけ必死に戦っていたのに、結局は失敗をしてしまって大人達に封印された。
 私は彼女に同情はしない。でも、後悔だけはしている。
 もっと私が彼女の力になってやることが出来たのなら。
 みんながよってたかって彼女を怖そうとしたとき、少しでも助けてあげることが出来たのなら。
 今となってはもう適わない願い。いや、私がピノッキオを殺して、あの子と決別したときからもう私たちの道は重なってはいなかったのだ。それぞれ別の、もう二度と交わることのない道をあの日から歩くことになった。
 たまたまブリジットの道が私より早く終わっていただけで、私は今日この日まで生きてくることが出来た。
 私の道がいつ突然終わってしまうかはわからない。
 それでもせめてこちらの道にブリジットを引っ張ってこれたなら、二人でもうしばらくの間生きていくことが出来たように思う。
 それが私の抱える一番大きな後悔であり、そしてこれからも引き摺っていくものだろう。
 私はウィンチェスターを空に掲げる。フロントサイト越しに見える空は、もしかしたらブリジットが今見ている空かもしれない。
 そう考えると自然と涙が零れそうになって、いつまでも下を向くことが出来なかった。


 

 私に出撃命令が出たのはそれから二時間後のこと。
 サンマルコ広場が乗っ取られたという知らせに大人達が怒りを剥き出しにする。
 でも私には彼らが何故そこまで怒るのかてんで理解が出来なかった。





 

 ジャコモの名は皆を盲目にする。
 誰が言った言葉かは忘れたが、耳に残るフレーズだった。
 そして今、一番実感しているフレーズでもある。

 私は今、黒人のアシクという男とサンクレメンテ島の高台に張っている。ジャコモが事前に持ち込んでいたアンチマテリアルライフルを私が構え、アシクという男が観測主を担当しているのだ。
 私たちに任せられた任務はサンマルコ広場の鐘楼に突入してくる特殊部隊群の妨害。何故私がこの役目を負っているかと言えば、狙撃の腕を買われたことと、本当にアルフォドの言うことをまだ聞き分けるのかテストするためだ。
 彼に関する服従以外を解除された私はとても不安定な義体とされている。つまりいつ何時暴走するか分からないと言うことだ。
 その為の保険として、私が何か余計な行動を取れば首に巻かれた爆弾がすぐさま爆発するようになっている。
 起動キーを持っているのはアシクとジャコモ、そしてクリスティアーノの三人。
 当然と言えば当然の処置だが、少しげんなりしているのもまた事実だ。
「突入してくるGISは無視していい。義体だけを狙え。出来るな?」
 観測用スコープを調整しながらアシクという男はそんなことを命令してくる。私はそれが少し癪に障ったので、こう反発して見せた。
「五月蠅いな。アルフォドさん以外が私に命令しないで。それに義体は撃ってあげるけど、頭とかは嫌よ。あれでももともとは仲間なんだから。腕ならいくらでもいいけど。あなたならわかるでしょ? 同胞殺しの辛さが」
 アシクは何も反応を返さない。だがそれが彼の最大限の反応だと私は確認する。
「あなたはどう考えてもイタリアの政治に興味があるようには見えないわ。宗教的情熱もね。典型的な無神論者。ならもう簡単よ。あなたが戦う理由は民族問題か、国境問題。そしてジャコモ個人に何か希望を見いだしてる。まあ気持ちは分かるわ。あいつの生き様は私から見てても清々しいものだもの。人の価値は闘争にあり。なるほど、私も一部賛成だわ」
 アシクはこちらを見る。それは畏怖の目だ。こんな小娘風情に素性を見透かされた事への。だがこれは単なるインチキである。
 原作をある程度知っているという広い目線。そして見た目の二倍以上の人生を生きてきたことによる分厚い視野が私の観察眼を強化している。ヒルダの人生経験も足せば、アシクよりも年上の精神年齢なのだ。
「そんなに怖がらないでよ。アルフォドさんがあなたたちの下に付くと決めた以上、それなりに働かせて貰うわ。……だから早いところこの首輪外して。悪趣味よ、女の子にこんなものを付けるなんて」
 アシクは何かを振り払うようにスコープを覗き込む。私はそれが何故だか面白くって少し笑ってしまった。
 まだまだ信用されていないようだが、今はそれでもいい。
 時間は有限なれど、精一杯生きるには十分すぎるほど存在してる。

 やり残していることは多いが、それ以上にまだまだ自分はやれるという自信が私を支えていた。
 戦いが始まるまでもう少し。

 こちらから見えるサンマルコ広場は不気味な静寂を保っている。





 ヴェネチアの街を一望するかのように建てられたサンマルコ広場の鐘楼は展望台として常時開放されていた。
 だが地元の、ヴェネチア派とされる活動家グループがこれを占拠。人質六名を持って籠城を始めた。また政府は未だ把握していないが、旧ソビエト製ミサイルの弾頭部分も持ち込まれており、かくなる上は自爆という手段も残されている。
 活動家グループの自爆は地元に幅広く存在しているヴェネチア派の人間達を高揚させ、さらなる困難を招くだろう。
 さらに五共和国派に荷担している最重要人物、ジャコモ・ダンテの肉声による声明文も発表され現場の緊張はより増していた。
 投入された義体は六組。特殊部隊であるGISも参戦しており、内閣が緊急に用意できる戦力はほぼ全て投入されたことになる。
 警察による偵察のヘリはスティンガーミサイルによって撃墜されており、内部の詳しい情報は不明のまま。
 内部情報は不明ながら、早急な鎮圧が求められているためGISと四組の義体はエレベーターか内部の非常階段を伝って最上階に突入することに。
 またそれらを陽動とし、本命の義体二組は外壁にとりつき、そのまま登坂して最上階に侵入することが作戦として立案された。
 対ピノッキオ戦以来の大規模な作戦が遂に遂行される。
 だが彼らはまだ知らない。

 行方不明として消息もそこそこにしか追われていないブリジットが銃口をこちらに向けていることに。
 彼女はもう、公社の忠実な犬ではないのだ。 
 



[17050] 第68話 ヴェネチアの一番長い一日【ついでに俯瞰風景の事】2
Name: H&K◆03048f6b ID:590265ce
Date: 2012/01/06 20:17
 隣でアンチマテリアルライフルを構える少女をちらりと盗み見る。
 流れるような黒髪は肩胛骨より少し上まで伸び、スコープを覗いている瞳は黒。対するもう一つの瞳は義眼なのか鳶色をしていた。クリスティアーノから支給された戦闘服に身を包み、とても年相応とは言えない出で立ちで獲物を見張る。
 先ほどこちらを小馬鹿にしたように見せていた少女性はとっくの昔に消え失せており、今は何かのために戦うただ一人の戦士としてそこに存在していた。
 彼女の戦闘力はここ数日で嫌と言うほど見せつけられている。
 訓練と称しナイフで武装した男達の中に素手で放り込まれても、何一つ慌てることなく全て無力化させて見せた。その手並みはお見事としか評することが出来ず、彼女が刷り込まれている戦術眼に畏怖したものだ。
 アルフォド曰く、公社でもここまで純粋に戦闘力が高い義体は存在していないらしいので、彼女はまさに最強の戦力と言える。
 特に狙撃に関しては条件付け関係なく天賦の才があったらしく、サンマルコ広場から2キロ離れたここからでも正確にターゲットを射抜けるそうだ。
 彼女の撃ち抜くなら腕か足という台詞がそれを物語っている。
 つまり、間違っても急所には当たらないと宣言しているようなものなのだから。
「ふわっ」
 作戦開始まであと一時間ほど。海風なびくヴェネチアの陽気に当てられたのか隣の少女、ブリジットが欠伸を漏らす。
 本来なら緊張感がないと叱るところなのだろう。だがブリジットの保護者でもない自分では何も出来ないと、敢えて見逃すことにした。
「ねえ、アシクさん」
 だから突然こちらの名を呼ばれたとき、とっさに反応することが出来なかった。
 沈黙のまま様子を伺ってると、返答がないことを大して気にした風もなくブリジットが続けた。
「どうしてみんな戦いたがるんでしょうね。こんな風に潮風に身を任せて昼寝でもしていれば良いのに」
 ブリジットの台詞に答えるべきか否か、アシクは静かに苦悩する。余り会話を続けることが良くないのは当然だ。相手は公社を裏切った義体だとしても、もともとは自分たちの天敵であり、憎むべき敵である。
 化け物と活動家達は恐れ、今回の占拠作戦でも最優先撃破目標に指定されている。
 彼女達を排除するためだけにロケット弾などの銃火器も持ち込まれているのだ。
「わざわざ安寧を壊してまで戦う。大人しくしていれば人生こんなにも幸せなのに」
 スコープから視線を外し、ブリジットはライフルの横に寝転がった。そして何処までも青い空を見上げる。
「人々は殺し合い、憎み合い、そしてまた殺す。無意味な悪循環は止まることを知らず、弱者を殺し尽くす。あれかなあ、みんな殺し尽くしたら世界は平和になるんだろうか」
 アシクは遂に耐えきれなくなった。彼女の古傷を抉るかのような言葉は、彼の中に静かな激情を育てるのに十分すぎるほどだった。
「人間は、そこまで割り切れるほど強くない。振り上げた拳を叩きつける先が必要だ」
 アシクの初めての言葉にブリジットは目を丸くする。
 そして唇の端をつり上げて笑うと、明朗快活にこう告げた。
「なら振り上げた拳を全部叩き潰せば争いはなくなるの? 拳を振り上げないと人は死んでしまうの?」
「下らないことを言うな。いくら人は闘争する生き物と言っても限度がある。そんなことをしていればいつか自分が砕け散る」
 その言葉をブリジットは笑った。決して声をあげて笑うのではなく、静かに、だがしっかりと愉快の意味を込めて。
 彼女は義体にあるまじき、とても人間らしい笑みを浮かべながら口を開く。
「ならジャコモが掲げる闘争の先は何処まで続くんだろうね。終わりは何処? どこまで砕け散らないで戦えるの?」
 その問いに対する答えをアシクは持たない。
 何故なら彼はその答えを得るためにジャコモに従うのだから。
 だが己の中で、いつしか抱いていた疑念が膨らんでいることを、彼自身が気がついていなかった。



 闘いは一発の銃弾から始まる。
 鐘楼の窓際に立っていた活動家を、GISの隊員が狙撃したのが全ての始まりだ。
 火種はあっという間に燃え広がり、灼熱の戦場をヴェネチアに提供する。
 地上からはアサルトライフルの弾丸が数多と鐘楼に撃ち込まれ、鐘楼からはロケット弾を持ってその返答とする。
 その中でトリエラとベアトリーチェは鐘楼の壁面に楔を打ち込み、今まさに登坂しようとしていた。
「ビーチェ、どちらが先に上る?」
「私が行く」
 ミリタリーブーツを履き込み、ミニウージーで武装した彼女はハーネスを自身の身体に括り付けてそういった。確かにサブマシンガンで武装している彼女の方が、面制圧力において優れているので適任と言える。
 だが、登坂している間はどうしても無防備になる以上、戦闘を上るということは大きな危険を意味していた。
 そのことをトリエラがベアトリーチェに告げると、

「でも、トリエラは会いたいんでしょう? ブリジットに。ならこんなところで死んだら意味がない。あなたは私が必ず守ってみせる」
 
 登坂の順番が決まったのはその瞬間だった。ミニウージーを肩から下げ、彼女は訓練通りにするすると上っていく。
 彼女達の頭上ではお互いの弾丸が鉄火雷風の様に往来し、ヴェネチアの海を血で染めていた。
 トリエラは登坂している間、今は行方不明の元相方について考えた。
 ブリジットならこの状況、どうやって切り抜けるのだろうか。公社の命令通り、素直に登坂していくのだろうか。意外と命令無視の常習犯の彼女のことだ。さらりと違った方法でたどり着こうとするのではないか。
 そうやって色々と考えながら登坂していると、上からロケット弾が降ってきた。
 ベアトリーチェが対応出来ないそれを私が蹴り上げて軌道を逸らす。
 矢面に立っている彼女に対してせめてもの償いだ。
「……ありがとう。トリエラ」
「どういたしまして」

 頂上部到達まで残り十メートル。




「……義体が二人、鐘楼の壁をよじ登っているそうだ。確認できるか?」
「こちら側からじゃ何も見えないよ」
 銃声と爆音がここまで届いても、戦場の怨嗟までは届かない。スコープから覗く景色が例え戦場であっても、ブリジットの周りはまだ穏やかな水上都市だった。
「GISの隊員は?」
「数人見えるけど、ここから撃ったら間違いなくこちらの居場所がばれる。まだ様子見に徹するべきだ」
 ブリジットのもっともらしい反論にアシクは臍を噛んだ。積極的に戦いたいとは思わないが、隣にいる少女がこうして何もせず、かといってこちらに反抗もしない今の状況が煩わしい。
 意図せず内に彼女に対して執着心を抱いていることを、彼は認めざるをえなかった。
「……仮に二人の義体が鐘楼に到達したら、上にいる人間はどれだけ持つ?」
「40秒持てば充分褒められるよ。私が突入したら20秒」
「……大した自信だな」
「だからそろそろ脱出用のヘリを呼んであげなよ。どれだけ逃げられるかはわからないけど」
 スコープを覗き込んだまま、ブリジットは続ける。

「それに、私たちみたいな殺人人形相手に生身の人間が戦わせられるのも可愛そうだ」




 戦いに望むと、いつも精神が高揚した。

 いつもそうだ。義体達はみんなそういう風に作られている。

 そこに動機も目的もない。

 けれど私は違う。

 私は生きるために戦う。

 こうして戦場で生きていたら、

 あなたにもう一度、どこかで会える気がするから。
 
 だから私は戦うんだ。


 トリエラとベアトリーチェが鐘楼に到達する。突入のさい、窓際にいた男をショットガンで吹き飛ばす。こちらに銃を向ける男に対しては、地を這うように接近し短剣を抜く。
 男がナイフで応戦してきても、それをかわし、すれ違い様に腹を切り裂いた。
 ベアトリーチェも撃ち尽くしたミニウージーの弾倉を取り替え、落ち着いた様子で活動家を始末している。
 無線に耳を傾けると、下の方で同期だった二人の義体がクレイモアで死んでしまったらしい。一瞬アンジェリカが巻き込まれていないか肝を冷やすが、彼女は第二突撃部隊としてすでにエレベーターのワイヤーを伝って登ってきているそうだ。
 順調に制圧が住んでいる安心感に身をゆだね、少しずつ、だが確実に鐘楼を制圧していく。
 だがふとした瞬間。いいようもない不安に駆られて思わずウィンチェスターを構えた腕を引っ込めた。
 そして、いままで腕があったところを吹き飛ばすように穿たれた銃痕を見て戦慄する。
「スナイパー!」
 ベアトリーチェに叫ぶ。彼女は頭上を見上げていた。
 トリエラも釣られて上を見上げると、鐘楼の天井部に鎖でミサイルと思わしき物体が括り付けられている。
 間違いなく五共和国派が用意した自決用の爆薬だ。
 そしてベアトリーチェはそれを処理しようとしたのだろう。徐に手を伸ばし―――、

「伏せて!」

 遠くの方で発射音。
 トリエラが感じた不安が再び身を焦がし、喉の奥から叫び声を上げさせる。
 だが彼女の声はベアトリーチェに届かない。彼女はミサイルに伸ばした右腕を引き千切られ、くるくると回転したままトリエラの元へ堕ちてきた。
 ドサクサに紛れてこちらに銃口を向けてきた男をショットガンで吹き飛ばし、中央に詰まれていた木箱の影に二人で身を隠す。
 ベアトリーチェはどうして自分の腕がないのか、その意味も分からないまま、朦朧とした意識でトリエラにしがみついていた。
「ごめん、なさい」
 トリエラは持っていた止血バンドで、ベアトリーチェの残された肘から肩に掛けて縛り上げる。取りあえずこれで義体ならば生命の心配は無いが、楽観するには重すぎる傷だった。
 何処から撃たれたのかおよその見当しか付かないが、義体の腕が吹き飛んだ以上、並の狙撃銃の性能ではない。
 そして狙撃手の能力も。
 だがトリエラは一人だけ、これだけの狙撃をやって見せる人間を知っていた。
「まさかあなたなの」
 木箱の物陰から、弾丸が飛来したであろう方角を睨み付ける。
 姿形は見えずとも、確かに感じる圧力がそこにはあった。

「ねえ、ブリジット」

 答えは、トリエラの直近で弾けた弾丸の痕だった。
 
  



 





 
 



[17050] 第69話 ヴェネチアの一番長い一日【ついでに俯瞰風景の事】3
Name: H&K◆03048f6b ID:4df69e0f
Date: 2012/01/06 20:16
 一人黙々と、エレベーターのワイヤーを登る。
 外でトリエラ達が外壁を登坂しているように、アンジェリカも鐘楼の頂上部に到達するため密かに駒を進めていた。
 ブリジットとエルザの反省を受け、義体運用が大幅に見直された所為で皮肉にもアンジェリカはここまで生き延びてきた。
 最近は物忘れが酷く、定期的にアンプルを静脈注射しなければ生きられない身体だが、彼女もまた自分を可愛がってくれた上級生達のために、担当官であるマルコーのために戦い続ける。
 誰も居ないエレベーターの経路は時折外の銃声が響き渡る。情報によればエレベーターの中に拘束された人質が閉じ込められているらしい。
 彼女の任務は鐘楼への突入はもちろん、閉じ込められた人質を無事解放する役目も担っている。
「はあ、はあ」
 彼女の戦いは孤独な戦いだ。GISも同行すると主張したが、どのような罠が仕掛けられているか分からない以上、生身の人間が鐘楼に突入するのは無謀である。
 実際義体の突入に同行した数人のGIS隊員が既に殉職している。
 五共和国派の活動始まって以来の大規模な死者数に、皆が苛立っていることが無線越しに伝わってきた。
 そしてトリエラと共に突入していたベアトリーチェの負傷も。
 しかも彼女の負傷は四肢を欠損するほどの重傷らしい。
 アンジェリカはワイヤーを掴む手に自然と力が入るのを感じながら、登坂していくペースを上げるのだった。






 
「銃声?」
 無線は突入した二人の義体のうち、ベアトリーチェが負傷し、トリエラもスナイパーの所為で身動きが出来ないと全軍に伝えていた。
 ジャコモが居る場所を探していたアレッサンドロとペトラは高足ボートの上で地図を相手に議論を繰り広げている。
「はい。ここから南の方角で。しかもレミントンのような対人銃の銃声じゃありません。恐らく対物狙撃銃です」
「……アンチマテリアルライフルか。だとしたらサンクレメンテ島か」
「でもここから二キロは離れていますよ?」
 ペトラの言うとおり二キロという距離は狙撃をするのに於いて殆ど現実的ではない数字だ。重力ばかりか地球の自転にすら弾丸は影響される。それらを考慮した上で動く人間を狙撃するなど神業に等しかった。
 だが理論上は、アンチマテリアルライフルなら、弾丸自体の殺傷力を保ったまま標的を撃ち抜ける。
「だとしたら厄介だな。援軍を呼んでいる暇はない。俺たちだけで始末するぞ」
「そこにジャコモが潜伏している可能性は?」
 殆どの人間が鐘楼にジャコモが潜伏していると考えている中、彼らフラテッロはそれに対して最初から疑問を抱いていた。十五年ほど前に別の事件で鐘楼が占拠されたとき、主犯格の人間がその場にいたため、今回の事件も同じイメージで語られている節がある。
「正直何とも言えないが……、俺の感はもっと不味い奴がいると言ってるな」
「不味い奴、とは?」
 ペトラの疑問にアレッサンドロは苦笑しながら答えた。
 それは彼がいつも見せる皮肉げな笑み。
「二キロ離れた人間の腕を正確に撃ち抜けるスナイパーだよ。出来れば顔も見たくない相手だ」
 ごくり、とペトラの喉が鳴る。
 そして彼女はふと、昔一時期だけパートナーとして共に戦っていた、悲しい義体の少女のことを思い出していた。 






「撤退?」
「そうだ。今脱出用のヘリを呼んだ」
 隣で観測用のスコープを片付け始めたアシクを見てブリジットが疑問の声をあげる。確かに勘の良いトリエラのことだ。こちらが何処から鐘楼を狙っているのかもう公社にばれているだろう。
 そうなれば完全武装のGIS隊員達が大挙して押し押せてくる可能性もあった。よって彼の判断は正しいと言える。
「でも鐘楼に残っている人間はどうするの? こっちにヘリコプターを呼んだら彼らは逃げれないよ」
 彼らが用意しているヘリはたった一機。もともとは鐘楼に立てこもった活動家達が逃走するために用意したものだ。そのためのヘリを自分たちのために使用したのでは、見殺しも良いところである。
 だがアシクは極めて冷静にこう返して見せた。
「彼らはどのみち名誉の自爆を選ぶ。あの天井に釣られたミサイル弾頭は時限式で自爆する。時間はあと十五分ほどだ」
 ブリジットの動きが止まる。確かあのミサイルは交渉用のミサイルだったはずだ。なのにアシクが言うにはあれは時限式で辺りを吹き飛ばす爆弾らしい。
「なんて、こと」
 彼女は再びスコープを覗き込んだ。こちらの様子を警戒しているのか身動きできなくなっているトリエラとベアトリーチェは鐘楼を脱出していない。
 このままでは彼女達も五共和国派の活動家達と共に木っ端微塵だ。
「……調子に乗りすぎた」
 ブリジットは思考停止しそうな頭で必死に考える。時限式になっているミサイルの起爆装置を狙撃する―――却下。そもそも構造を知らない上に誤爆の可能性がある。
 アシクが手にしている連絡用の無線機で自爆しないように説得する―――もっと却下。そもそも作戦として成り立つ以前の問題だ。
 トリエラ達に直接連絡を取ろうにも今彼女は公社が使用している無線機を持っていない。
 つまりトリエラ達に脱出を促すための手段を彼女は有していないのだ。
 たとえ、自分とアルフォドの為に生きると決めていた彼女でも、仲間だった義体の少女達を見捨てることは出来ない。
 いよいよこれまでか、と冷たい汗が地面に落ちたとき、皮肉にも救いの手は今は敵となった公社から差し伸べられた。
「動くな!」
 叫び声に振り返る。
 見えたのは赤毛の少女だった。彼女はベレッタ拳銃をこちらに構えて牽制の体勢を取っていた。
「ペトラ……」
 そう、こちらに銃口を向けていたのは、今となってはもうまともに話したこともない、けれど少しの間だけともに戦場を駆け抜けてきた仲間の義体だった。
「ブ、ブリジット? なんで君が……」
 驚いたのは向こうも同じ。一瞬だけ彼女の体勢が揺らぐ。それを見逃す程ブリジットは耄碌していない。素早く腰元のホルスターからSIGを抜き出すとペトラが手にしていたベレッタを弾き飛ばした。
 そして―――、
「つっ!」
 姿勢を低くし、地を這うようにペトラに襲いかかる。ブリジットが放ったローキックは寸でのところで止められるが、反対方向から叩き込んだ拳はぺトラの右頬にしっかりと食い込んでいった。
 そして思わずよろけたぺトラを羽交い締めにし、ナイフで首元を圧迫する。
「動かないで」
 その瞬間、世界は確かに止まる。身動きが出来なくなったペトラを締め上げ、苦悶の声を上げさせる。そして耳元でそっと、囁くようにブリジットは問うた。
「アレッサンドロはどこ? ここには何人で来たの?」
 ペトラは答えない。だがその様子から、ブリジットはアレッサンドロがこの場にいないことを悟った。彼女がこのような状況に陥っても彼が一向に現れる気配がないからだ。
 ブリジットはこれは好都合だとほくそ笑んで見せる。
「なら少し借りるわ。トリエラとはどのチャンネルで繋がるの?」
 締め上げたまま、胸元に隠されていた無線に手を伸ばす。ペトラはまたしても答えないが、ブリジットは昔自分がトリエラと共有していたチャンネルに合わせてみた。すると彼女の予想通り、鐘楼の中に釘付けにされて動けないトリエラの声が聞こえてきた。
「この無線機はね、オープンチャンネル以外に義体間だけのチャンネルも存在するの。あんまりみんな知らないけどね。今回で覚えておくと良いわ」
 ブリジットはナイフをペトラの首元から外し、彼女の足首に素早く突き刺した。そして足の健を切り裂いていく。
「ごめんなさい。暫く動かないでね。アシク、脱出用のヘリを早く呼びなさい。それと出来ればこれからのことは他言無用で」
「何をするつもりだ」
「言ったでしょ。あなたたちの活動には出来るだけ協力してあげるけど、昔の仲間を見殺しにするわけにはいかないの。だから一回だけ彼女達にチャンスをあげる」
 アシクは何も言わなかった。ブリジットはそれを了承と取り、無線機に語りかける。
 それは哀愁も懐かしさも介在しない、淡々とした内容。


「トリエラ、良く聞きなさい。あと十分足らずでそこが吹き飛ぶわ。あなたたちの探しているものはそこには存在しない。ベアトリーチェを連れて下に降りなさい。じゃあね」







 わけがわからない。
 ペトラは足から流れ出る血を見ながらそう思った。
 何故ここにブリジットがいるのか。何故ブリジットがこちらに銃口を向けたのか。何故ブリジットがこちらを切りつけたのか。
 自分は狙撃手が隠れているであろう、サンクレメンテ島の高台に踏み込んだはずなのに、どうしてここに彼女が居たのか。
 ペトラは朦朧とした意識の中、激痛に歯を食いしばり、腰元に手を伸ばした。ブリジットは気づいていないのか、そこにはもう一丁小型拳銃が隠してある。
 幸いブリジットはこちらに意識を向けていない。狙うなら彼女だろう。だがペトラはそれが出来なかった。
 例え自らを害されても、復讐に苦しみ、自分の腕の中で泣いていたブリジットを撃つことが出来なかった。
 だからブリジットと随伴していた黒人の男に銃口を向ける。静かに撃鉄を上げ、狙いを定める。
 黒人がこちらに気がつく。だがもう遅い。
 ペトラはブリジットに裏切られた怒りを黒人にぶつけることにした。そうだ、この男がブリジットを狂わせているんだ。
 だが彼女を絶望させる出来事はまだ続く。
 黒人に向けて引き金を引いたとき、あろう事かブリジットが射線に割って入ったのだ。彼女は肩を押さえてうずくまり、残された片腕に手にした拳銃でこちらの手首を撃ち抜く。
「おい、しっかりしろ!」
 黒人がブリジットを肩で支え、彼らが居た塔の窓際に近づく。すると窓の向こうでは横扉を開け放ったヘリコプターがホバリングしていた。
 彼女達が告げていた脱出用のヘリが到着したのだ。
「ごめんね。ペトラ。私はここで戦うことにしたんだ。私のために、愛する人の為に。だからもう二度と会うことのないように願っているよ」
 ホバリングしているヘリコプターの中にブリジットが乗り込んでいく。
 そして彼女は一言、最後にこう残していった。



「さようなら」



 





 



[17050] 第70話 ヴェネチアの一番長い一日【ついでに俯瞰風景の事】4
Name: H&K◆03048f6b ID:6fdbcb47
Date: 2012/01/06 20:16
「トリエラ! ベアトリーチェ!」 
 封鎖されたエレベーターホールを突破して一人の少女が鐘楼に乗り込んできた。ベアトリーチェの腕が吹き飛ばされて約二分程経過しており、彼女らを取り巻く状況は悪化するばかりだった。
「くそっ!」
 新しく増えた義体の応援に、鐘楼に籠城していた活動家達が一斉に銃口を向ける。だが、いくら第一世代の義体の中で一番戦闘力が低くても、義体は義体。アンジェリカは危なげなくそれらを処理していく。
 一人目は手にしたアサルトライフルで。二人目三人目も同じように。
 四人目を相手したとき、丁度弾倉が空になり、持ち替えたサイドアームズのワルサーで駆逐していく。
 アンジェリカという名がたとえ天使を模していたとしても、活動家達から見ればディアボロ、彼らが悪魔と呼ぶ義体そのものだった。
「アンジェリカ!」
 中央に詰まれた木箱の影からトリエラが手招きする。援護射撃するように物陰からベアトリーチェが持っていたミニウージーの弾をばらまいた。
 アンジェリカはミリタリーブーツの底を滑らせながら、木箱の影に飛び込んできた。
「ベアトリーチェは?」
「この通り。早く連れて行かないと」
 トリエラに抱きかかえられた小柄なベアトリーチェには腕がない。
 狙撃手―――おそらくアンチマテリアルライフルによって吹き飛ばされた彼女の腕からはとめどなく血が溢れており、大変危険な状態となっていた。
「撤退命令は出てないの?」
 狙撃手に睨まれ、これ以上鐘楼で暴れることが出来なくなった以上、最早彼女らに残された道は撤退か死か。
 頭上に吊されたミサイルのことも気になる。
「ううん。課長はジャコモを探せって、命令してる。でも多分奴はここにいない。それにこの上のミサイルを何とかしないと」
「海に投げるのは?」
「ベアトリーチェがやろうとして腕がなくなった。誰かが狙撃手を片付けてくれないと身動きが出来ない」
 忌々しそうにトリエラが毒づく。
 外では何度かロケット弾が炸裂する振動と砲声が轟いており、激戦を物語っている。このまま活動家達が公社とGISに押されるようなことがあると、下手をすれば頭上のミサイルで自爆自決しかねなかった。
「それよりアンジェリカ、人質はどうしたの?」
「ワイヤーで下ろしたよ。GISの人たちが下で受け取ってる」
 そう、とトリエラは息を一つ吐く。速断することは危険だが、取りあえず懸念事項として存在していた人質の解放は成し遂げられたようだ。
 あとは鐘楼を制圧し、ジャコモを見つけ出すだけだがキロ級スナイパーに見張られている以上、ここから飛び出すことは出来ない。
「あと何人くらい残っているんだろう」
「わからない。私が四人倒したから、もうそんなに残っていないと思うけど」
 死角を伺うための鏡を取り出し、木箱の影から様子を伺う。
 銃弾に倒れ、痛みに苦悶を上げている人間は何人か存在しているが、二つの足でしっかりと立っている人間は見当たらなかった。
「ねえ、トリエラ」
 鏡をしまい、アサルトライフルの弾倉を取り替えたアンジェリカが口を開く。
「どうしたの?」
 対するトリエラは荒い息を吐き続けるベアトリーチェを抱え、反対側から様子を伺っていた。
「私ね、もうすぐ死んじゃうんだ」
「うん」
 驚きはない。一期生の寿命が差し迫っていることなど皆が知っている。ブリジットの意識が殺され、公社からいなくなったことも、一部の子達の間では死亡説が流れているほどだ。
 まだまだ義体の技術が未熟で確立されていなかった時代の産物である彼女達は、多大な脳負担により徐々に弱りながら死んでいく。
 アンジェリカはさらに続けた。
「強いお薬も条件付けもそんなに受けなかったからここまで生きてこれたけど、本当なら私もっと早くに死んじゃってたと思う」
 トリエラはそんなアンジェリカをそっと抱き寄せた。二人の年下を抱きしめながら、彼女は中空を見上げた。
「だからブリジットがいなくなったのは私の代わりなのかもしれない。私が死ななかったからブリジットは消えたのかもしれない」
 そんなことはない。
 その一言がトリエラの口から出てこなかった。
 何故なら彼女自身も同じようなことを考えていたから。ブリジットが全員分の不幸を背負って、一足先に消えてしまったと錯覚しているから。
「私、最近犬の夢を観るの。大きな大きな白い犬。もしかしたらどこかで飼っていたのかもしれないね。……ねえ、ブリジットが飼っていた猫は元気?」
「ヒルダならクラエスと遊んでいるよ」
 そう、とアンジェリカが微笑む。
 彼女はアサルトライフルを構えてトリエラに笑顔を向けた。
「なら、私が囮になってくる。その間にベアトリーチェと撤退するなり、ジャコモ探すなり頑張って」
 トリエラは何も言えない。何故ならそれが今できる最善手であると彼女の中に根付いた条件付けが囁いているのだから。
 スナイパーの銃口をアンジェリカが引き受けてくれるのなら、このまま木箱の影に釘付けにされることもなくなるのだ。
 それに瀕死の重傷を負ったベアトリーチェも救うことが出来る。
 だがベアトリーチェを正確に狙撃し、トリエラの間近に至近弾を撃ち込んだ狙撃手の腕だ。囮になったアンジェリカの命の保証はされないばかりか、その凶弾に倒れる可能性が高い。
 たったそれだけの事実が、トリエラの首をタテには振らせず、アンジェリカを抱き寄せたままその手を離すことはなかった。
「……トリエラ」
 アンジェリカがそっとトリエラの手を取る。彼女が掴んで離さない自らの裾をそっと解いていった。
「私行くよ」
 だめ、の一言がどうしても出てこない。アンジェリカがトリエラから離れる。手を伸ばせばまだ届く距離だ。
 トリエラは葛藤する。
 そうだ。
 前は、ブリジットの時はこの距離で手を伸ばさなかったから―――、

『言ったでしょ。あなたたちの活動には出来るだけ協力してあげるけど、昔の仲間を見殺しにするわけにはいかないの。だから一回だけ彼女達にチャンスをあげる』

 アンジェリカが振り返った。トリエラの身体が固まる。
 懐かしい、でも聞くだけで悲しくなりそうな声。それが自らの胸元から聞こえてきていることに気がつくまで、トリエラは固まったままだった。
 声は続ける。
 昔彼女達に対して向けていた優しい声ではない。それはもう自分たちとは違う、遠い遠い場所に行ってしまったかのような、どこか夢うつつな音。

『トリエラ、良く聞きなさい』

 そんなこと、言わなくても分かっている。
 お前の声なんか、忘れるものか。聞き逃すものか。
 あれだけ、あれだけ求めていたものなのだから。

 そして声は無情にも言い放った。

『あと十分足らずでそこが吹き飛ぶわ。あなたたちの探しているものはそこには存在しない。ベアトリーチェを連れて下に降りなさい。じゃあね』

 アンジェリカは動かない。いつの間にか腕の中にいたベアトリーチェでさえ時を止めていた。
 声は、ブリジットはこちらのことを知っている。

「あんの、馬鹿!」

 一言吐き捨てると、トリエラはベアトリーチェを抱きかかえたまま木箱の影から飛び出した。狙撃はもうないと確信して。アンジェリカもそれに続き、残された活動家達を地に叩き伏せていく。
 やがて二人はトリエラとベアトリーチェが登ってきた南側の壁面にたどり着いた。
「はあ、はあ……。くっ。残り何人くらい?」
「もう無視して言い数だと思う!」
 アサルトライフルのバーストを繰り返しながらアンジェリカが返す。彼女が活動家達と戦っている間、トリエラは自分たちが登ってきたワイヤーにフックを引っかける。
「これ!」
 アンジェリカにベアトリーチェが使っていたワイヤーを手渡し降下の準備を終了させる。
 爆発までの残り時間はわからない。だが一刻も早くこの場から離れなければ全てが吹き飛んでしまう。 
 アンジェリカも降下の準備を終え、二人して南側の壁面に飛び出す。義体達の意図していない行動に作戦指揮部が悲鳴を上げるが二人はそれを無視した。

「命令無視が自分の十八番だと思ってるのなら巫山戯ないで!」
 
 たん、と壁面をブーツで蹴った。重力に引かれた二人は何者にも阻害されることなく下に落ちていく。

「私だってやるときはやるんだ!」

 ブレーキを掛けることなく、ベアトリーチェを抱きかかえてトリエラとアンジェリカは鐘楼から離れていく。地面まで残り十メートル足らず。
 上の方で閃光が弾け、轟音が世界を支配する。
「アンジェリカ!」
 トリエラは楔が砕け散り、ワイヤーによる補助がなくなったアンジェリカを腕に抱えた。三人で残された命綱を握り締め、海面へ接近する。
「もう少しだから!」
 音に遅れて到達する熱風と破片が三人を傷つける。だがまだ終わっていない。
 だが三人を支えていた命綱も焼き切れた。


「ああああああああああああっ!!!!!」


  ヴェネチアの海にトリエラの叫びが木霊する。彼女は腕にアンジェリカとベアトリーチェを抱きしめたまま海面に叩きつけられた。 












「アシク、お願い」
 彼の目の前にはその美しい上半身を惜しげもなく晒したブリジットがいた。だが彼女の雪のように白い肌には、―――正確には右肩には痛々しい銃創が刻まれている。
 そこから流れ出た血は彼女の雪原を赤々と汚していた。
「いいのか?」
「早く」 
 有無を言わせずブリジットが身体をアシクに差し出す。
 彼は手にしたナイフを持っていたライターで炙り、そっとそれを傷口にあてがった。そしてナイフが銃創に沈んでいく。
「うぐっ」
 ブリジットは歯を食いしばるためタオルを噛んでいた。痛みに意識が飛びそうになるが、喧しいヘリのローター音に意識を傾け気絶しないようにする。
「もう少しだ」
 アシクはナイフの先に何か堅いものを見つけた。傷口を筋肉などを傷つけないように切り広げ、そっと人差し指と中指をねじ込む。
 ブリジットが声にならない叫びを上げた。
「―――――――っ!」
「すまない! もう少しなんだ!」
 堅い何かをつまみ上げ、素早く傷口から取り出す。それはペトラによって撃ち込まれた9ミリの弾丸だった。
 からん、とブリジットの粘つく血を纏って弾丸が床に棄てられる。
 アシクは再びナイフをライターで熱すると、それをブリジットの傷口にあてがった。
「熱い!」
 肉が焼ける匂いと共に、ブリジットの傷口が塞がれていく。随分と手荒な治療だが、ブリジットがアシクに依頼したことでもある。
「終わったぞ……」
 全身から脂汗を吹き出しながら、アシクは息を吐く。医療品として持っていた消毒液をブリジットの焼いた傷口にぶっかけ、静かにシートへ身を預ける。
「ありがとう。でももっと優しくしてよ」
 脱いでいた下着と上着を着直し、ブリジットが愚痴を垂れる。彼女は床に落ちていた弾丸を拾い上げるとしげしげとそれを見つめた。
「今まで何度も弾丸の摘出手術はしたけど、こんな手荒なのは初めてだ」
「アジトに戻るまで我慢する方法はなかったのか?」
「撃たれた場所が場所だからね。それに骨までは達してなかったから抜けると思ったんだよ。まさかこんなに痛いとは」
 傷口を押さえながらブリジットもシートに身を沈める。すると遠くの方で機体を揺らすほどの爆発音が聞こえた。
「……トリエラ達逃げ切れたのかなあ」
 無線で逃げろとは警告した。だがあの短時間、果たして鐘楼から脱出する方法はあったのだろうか。
「―――今回のことはジャコモにもクリスティアーノにも報告はしない」
 ぼおっと窓の外を見ていたブリジットにジャコモが声を掛ける。するとブリジットは意外そうな表情をしてアシクを覗き込んだ。
「何で?」
 敵である義体達の命を助けたことについて、厳罰が下ると思っていたブリジットは疑問符を浮かべながら問う。その様子を見たアシクはブリジットの傷口があるであろう右肩を指さしてこう答えた。
「これで貸し借り無しだ」
 そしてそれっきり言葉を発することはなくなった。
 どうやら彼を庇って射線に立ったことがプラスに働いたようだった。殆ど義体の本能で行動したようなものだったが。
 もうアシクと会話することは出来ないと判断したのか、ブリジットはアシクとは反対方向、ヴェネチアの海が広がる外の景色を見やる。
「あーあ、早くアルフォドさんに会いたいなー」
 シートに身を預けたブリジットはそっと瞳を閉じる。
 彼女が悪夢を見ることはもうなくなった。だが同時に、自分の一番の理解者であったヒルダの夢を見ることもない。
 それについて一抹の寂しさを抱きながらも、これが自分の選んだ道だとブリジットは自らを納得させる。


 外では西日が傾き、ヴェネチアの海をいつものように照らしていた。











 と……え……らっ!

 とり……えらっ!

 トリ、エラ!

 トリエラ!


 自分を呼ぶ声に目を開けた。視界に広がったのはこちらを見下ろしているヒルシャーの顔だった。
「あっ……」
 彼の顔を見て、体中を襲う痛みに眉をしかめながら起き上がった。
 私は担架の上に乗せられていて全身ずぶ濡れだ。だが大した怪我は見えず、五感にも以上はない。
「……アンジェリカとベアトリーチェは?」
 彼女達を抱えてたまま海面に叩きつけられてたことは覚えている。おぼろげな記憶を頼りに鐘楼を見上げてみれば、自分たちが戦っていた頂上部分が丸ごと吹き飛んでいた。
「アンジェリカは元気だ。現場の収集に当たっている。ベアトリーチェは公社の医療施設に運ばれた。君の処置のお陰で命は助かったよ」
「そうですか……」
 安心感からか一気に体中から力が抜け、担架の上に再び横になる。
 ヒルシャーには悪いが、しばらく起き上がれそうにもない。
 彼もそれをどうにかしようとは思わないのか、そのまま私の傍らに立った。
「だがペトラが負傷した。何でも狙撃手の女にやられたそうだ」
 それを聞いて私は納得した。そうか、秘匿回線で私たちに語りかけてきたのはやっぱり彼女だ。
 私は大きなため息を一つ吐き、夕日が傾くヴェネチアの空を見上げた。

「絶対にその首根っこ捕まえて叱ってやる。あの気まぐれ猫め」

 自分でも清々しいくらい良く通った声色に、驚いたヒルシャーがたたらを踏んだ。
 




 ヴェネチアの一番長い一日   了


 



[17050] 第71話 二人ぼっち。【ついでに彼らのこと】
Name: H&K◆03048f6b ID:182128c4
Date: 2012/01/15 02:19
 サンマルコ広場が占拠される一週間前、ブリジットが目覚めて二日が経過した日。
 その日、アルフォドに呼び出されていた彼女は色々と混乱した頭を抱えながら大人しく彼の話に耳を傾けていた。曰く、
「私は、社会福祉公社に復讐するつもりだ」
 突然の台詞にブリジットの混乱はピークに到達する。返す言葉が告げない彼女にアルフォドは続けた。
「ブリジット、聞いてくれ。私は君を自由にしてやりたい。君を縛り付ける全ての鎖を断ち切りたい。だから君を追い続けるであろう社会福祉公社を許すわけにはいかないんだ」
 まさか目が覚めてそうそう、そのような話をされるとは思わなかったと、ブリジットは小さく息を吐いた。もう公社による条件付けもなくなっている彼女はアルフォドに反抗するワードを発しても苦しむことはない。だからはっきりと彼女はこう口にした。
「馬鹿なんですか。あなたは。公社がそんなことでなくなるわけないでしょう。無駄に命を磨り減らすだけです」
 全くの本心を伝えて見せたブリジットにアルフォドは驚愕の目を向ける。そりゃそうだ。つい先日まで人形のように命令を聞いていたブリジットはもういない。彼女はアルフォドに対して極めて対等に、敬語を使いながらも担当官と義体という垣根を越えて話しかけてくる。
「確かにあなたが公社から連れ出してくれたからこそ、私はこのように義体としてではなく人間として振る舞うことが出来るのでしょう。でも、リスクが大きすぎました。彼らは必ず血眼になって私たちを探しているはず。それに、ジャコモ達に協力したところで先は見えません。所詮はテロリスト崩れの活動家達。破滅は目に見えています」
 そこまで言って、ブリジットは少しだけ後悔する。
 非常に危ない橋を渡ってブリジットと共に逃げ出してくれたアルフォドの気持ちも考えずに、彼女は彼を批判してしまった。
 ただの人形として生きていた自分は何もしなかった癖に、何を偉そうなことをいっているのだ、と。
 しかしながらアルフォドはブリジットを叱るわけでもなく、少し眉根を下げながら、とても柔和な笑みでブリジットに語り掛けた。
「もちろん君がジャコモ達と戦う必要は無い。私が彼らに差し出したのは君ではなく公社が持っていたあらゆる情報だ。彼らも義体の君を戦力に引き入れるかでは随分もめている。君が彼らに危害を加えないと確約しないのならば手立てはある」
 そう言って、アルフォドは懐から何か封筒を取り出した。中々分厚いそれは少し力を掛けたくらいでは曲がりそうにはない。
「この中には現金が十万ユーロ、ドイツにある僕の口座番号、さらにパスワードが入っている。他にも連絡先と住所だ。これを使って君は私の実家に身を寄せなさい。大丈夫、公社はドイツ国内にある僕の実家には手が出せない。何たって、母は向こうの軍の高官と再婚しているからね」
 ブリジットはアルフォドの言葉の意味を咀嚼して、思わず目を見開く。つまりユーロ圏であることを良いように、亡命しろと言っているのだ。
「その先の人生はすまないが君が決めてくれ。安全については母と妹が最大限保証してくれる。もう然程時間が残されていない君の人生だが、普通の女の子として生きていくことも出来る」
 アルフォドがそっとブリジットの頭を撫でた。そしてブリジットの手に封筒を握らせる。そこで初めて彼女は理解する。アルフォドは自分を残して、一人戦うつもりなのだと。
 そこまで考えて、ブリジットはアルフォドを見据えた。
 そして―――、

 ぱんっ

 平手がアルフォドの頬に吸い込まれていく。全力は出していない。充分手加減した平手だ。だがブリジットは己の中に渦巻く煮え切らない怒りを正直にぶつけた。
「巫山戯ないでください。なにが一人で生きろですか。無責任だとは思わないんですか」
 静かに零すブリジットをアルフォドは呆然と見つめる。彼の頬は赤く腫れていた。
「ここまで私をぐちゃぐちゃにしておいて、今更逃げ切ろうなんて最低です。責任取ってください」
 ブリジットがアルフォドの胸ぐらを掴み上げる。対するアルフォドは何も反抗できない。ただ気まずそうに顔を逸らす。そしてこう漏らした。
「それに関しては謝罪の言葉もない。もし不服なら、君が亡命するとき私を殺してくれても良い。私に出来る贖罪はそれだけなんだ」
 そうだ。公社の義体として訓練し、今まで人殺しを直接させていたのはアルフォド本人だ。彼はブリジットが目覚めたとき、彼女が自身に復讐を望むのなら、その手に掛かることを覚悟していた。だからこそ、今この場でブリジットにバラバラにされても文句などあろう筈がない。
 だがブリジットはそれが一番気にくわなかった。
 何故なら、
「口で言っても分からないんですか。この朴念仁の馬鹿担当官は……」
 前世が男であることなどどうでもいい。もうブリジットとして生きることを決めた。それが消えたヒルダとの約束であり、今ここにいる自分に対する自戒だ。ブリジットはアルフォドの頬を掴む。そして思い切り自分に引き寄せた。
「っ!」
 アルフォドが驚きの声を挙げる。そして己の唇を塞いでくるブリジットの小さな顔を凝視していた。やがてされるがままブリジットに押し倒される。ぷはっ、と唇が離れたとき、上から涙が降ってきた。
「私はあなたを担当官として恨んだことなど一度もありません。愛する人としては例外ですが」
 こちらを見下ろしてくるブリジットは泣いている。それは悲しみの涙と言うより、己の心が他人に伝わらないもどかしさにイライラしているような涙だった。
「ともに生きてください。アルフォド。私とともに最期まで。そのためなら千の敵を殺す剣にもなりましょう。万の敵をとどめる盾にもなりましょう。それが、私の望みです」
 アルフォドは何も言えない。ただブリジットに無精髭が生えた頬を撫でられていた。
「だから自分を責めないで。私の愛しい人」
 ブリジットがアルフォドの上から降りる。そして来ていたガウンの袖で乱暴に涙を拭ってみせると、こう笑った。

「あ、これも条件付けの所為とかデリカシーのないこと言ったらいよいよ殺しますから」

 彼女の屈託のない笑みに、アルフォドは大人しく頷いて見せた。



 信じていたものに手痛い敗北と裏切りを受けたとき、人はどうするのだろうか。
 信じていた相手を恨むのだろうか。
 それとも静かに嘆き悲しむのだろうか。
 少なくとも、赤毛のペトラはそのどちらでもなかった。 
 彼女はこちらに銃口を向けたブリジットを思い出す。ペトラが覚えているブリジットは復讐に身を焦がし、条件付けの副作用に苦しみ悶える可愛そうな少女だった。ペトラの腕の中で血反吐を吐き、必死にしがみついてくるブリジットに保護欲が沸いていなかったと言えば嘘になる。
 それが担当官と共に突然の失踪。ジャコモの活動再開と時期が重なったこともあって、公社もそれほど全力で足取りを追うことが出来ていなかった。一部では任務途中に担当官共々殉職したとされ、死亡説まで流れた程である。
 かく言うペトラも直近に見ていたブリジットの様子から、半ば死亡説を信じていたのだった。
 だからこそ、あの日見た光景が未だに夢のようで、地に足が付いた感触がしない。
「ねえ、アレッサンドロ」
 日課である射撃訓練を終えた彼女は、汗をタオルで拭きながらこちらを見守っていたアレッサンドロに問いかける。
「あなたの観察眼から見て、ブリジットってどんな娘?」
 ペトラの問いにアレッサンドロが顎に手をやりながら考える。彼はペトラとブリジットが直接戦った場面を見ていない。だが自分が担当する義体でもあり恋人でもあるペトラが痛めつけられたことは知っていた。彼は過去に少しだけ見たブリジットの戦闘能力とスタイルに思いを巡らしこう答える。
「少なくとも人間ではないな」
 その答えに驚いたのはペトラだ。人間観察を得意とし、その背景を探ることに長けたアレッサンドロがブリジットをどう評するか。それを聞いたはずなのに帰って来た答えは「人間ではない」という彼の特技を真っ向から否定するような言葉。
「義体は元々人物像を特定しにくいように作られている。だがそれでも隠し通せない素性という物はある。ブリジットという人物も例外なくな。だが彼女はそこから読み取れる素性が今の人物像に直結していない。これがどういうことかわかるか?」
 ペトラは首を横に振る。
「俺が読み取った彼女の人物像を挙げてみよう。これは容姿や今の彼女の現状を無視した――――本当に読み取る部分だけで作り上げたブリジットの人物像だ。まず年齢は間違いなく成人している。だが若いな」
 アレッサンドロの分析。その一つ目はブリジットが成人と同等の精神を宿しているというものだ。これに関してペトラは大して驚きはしない。ブリジットの元になった人物がもともと十五歳前後だった場合、既に成人近いだけの年齢を重ねていても何ら不思議ではないからだ。
 よって黙ってアレッサンドロの台詞を待つ。
「次に彼女の性別だが――――これが意外なことにあやふやだ。少なくともブリジットは女と言い切るには難しい」
 これには正直面食らった。性別があやふや? 馬鹿な。彼女がれっきとした女であることは公社の誰もが認めている。生理だって確認されてるし、ペトラが一度裸体を見たときも違和感など無かった。それに今現在、適合の問題で義体は女性体しか存在していないはず。
 そのペトラの驚きを感じたのか、アレッサンドロはすかさずフォローを入れてきた。
「ああ、もちろん肉体は紛れもなく女性体だよ。だが精神面はそれにあらず。あの子の考え方は過去の報告書を見る限り酷く男性的なところがある。まあそれも公社が戦闘用に有利な男性的意識を植え付けていると考えれば辻褄はあう。けれどな、それでは解決できない矛盾があと一つだけ残っているのさ」
 ペトラが息を呑む。ブリジットが抱える矛盾。もしかしたらそこに彼女が自分を裏切った答えがあるのではないだろうか。
「正直に言おう。彼女は自我を持っている。二期生のお前もそれなりの自我を有しているが、あの子はそれ以上だ。前に報告を聞いてぞっとしたぜ? ブリジットは機嫌が悪いと担当官と目を合わせなかったらしい。じゃじゃ馬で有名なトリエラでさえそんなことはない。いいか? アルフォドさんは担当官として良くやっていたと思うが、ブリジットの制御を全く出来ていないんだよ。彼女は余りにも独断専行が多すぎた。それこそ義体化に失敗した可能性を示唆するくらいには」
 自我がある。
 当たり前に聞こえることかもしれないが、基本的に義体には自我が認められていない。最低限の、人間として必要な試行的プロセスは残されていても、担当官に刃向かったり、作戦内容に疑問を持てるようになったのはマイルドな条件付けを施された二期生以降だけだ。一期生の中でも最古参に近いブリジットがそんなもの持っているはずがない。一期生はそれこそ誰かが言ったとおり、殺人機械としての側面が余りにも強いのだ。
「ブリジットは一期生の中でもかなり強い部類の条件付けを施されてきた。だが実際は他の義体とは比べものにならないくらい自己というものを確立している。恐ろしく高い戦闘力もそれを土壌にしているからだ。いいかペトラ。これは重大な矛盾だ。あの子は人間性を最も否定されていながらもっとも人間らしいんだ。こんな矛盾を抱えて生きていけるのは人間ではありえない」
 当初の結論を確認するかのような声色でアレッサンドロが告げる。そのショックな内容にペトラは言葉を失っていた。そして急にブリジットという名の少女が怖くなってきた。
 何故なら昨日まで自分たちと同じ義体と思っていた少女が、実は自分たちの存在をすべて否定しかねない恐ろしいものだから。
「ああいった奴は本当に危険だペトラ。だから今度遭遇したら全力で逃げろ。最早義体の常識は通用しない。お偉方は未だにそのことをわかっていないが、いずれ手痛いしっぺ返しを喰らうことになるぞ」
 怯んだペトラは黙って己の手を見る。数ヶ月前にはか弱い少女を抱きしめていた己の腕。だが彼女の腕に眠っていた少女はいまや、全義体を脅かす怪物になっている。ブリジットがそうなってしまった一翼を自身が担っているような気がしてしかたがなかった。
 しかし同時に、もうだいぶんと昔だが、クラエスという義体に怒鳴られた台詞が脳内に渦巻いていた。

どうせ私たちは最後にブリジットから全部奪っていくしかないの! 友人も愛する人も愛した物も! あなただってきっとそうするわ!

全てを奪われ続けて、或いは最初からそうだったから奪われてしまった怪物ブリジット。彼女の手元には今何が残っているのだろう。自分より短い寿命の中で何を生き急ぐのか。
ペトラの瞳に徐々に力が戻る。そして彼女は拳を握り締めた。

あなただってきっとそうするわ!

今ならクラエスの台詞の意味が分かった気がした。ブリジットからみんな奪い続けた。ならばこれからはブリジットに全てを返してやるべきではないのか。
そして自分は多分それが出来る。
怖くないと言えば大嘘だ。とても怖い。死ぬことが怖いし、怪物と化した復讐鬼よりも厄介になったブリジットが恐ろしい。けれどもそれ以上に悲しい。
このまま何も返されずに奪われたまま死んでいくブリジットが。誰かに何かを与え続けたまま死んでいくブリジットが。
今度はペトラがブリジットに何かを捧げる番だ。いや、公社にいる全員が彼女に全てを一つ一つ返していかなければならないのだ。ならば自分はその先陣を切って見せよう。
自分でも知らない間に笑顔が零れた。
「アレッサンドロ」
 アレッサンドロがこちらを見る。その表情はペトラが何を告げるのか予想しているかのようなものだった。だからこそここまで困ったように苦笑しているのだろう。
 ペトラはそれを見越して、己の愛しい人にこう告げた。

「私、ブリジットに勝ちたい」



 星と雪が綺麗だと思った。
 ブリジットはコートを肩に掛けながらとある建物の屋上にいる。今なら思い出せる。昔、こうしてアルフォドと共に星を見上げた。まさかこうしてその記憶を思い出すことになろうとは。
 傍らに立つアルフォドがそっとブリジットの肩を抱いた。
「……もう直ぐ戦いがはじまる。恐らく最後の戦いが近い」
 ジャコモやクリスティアーノはつい先日バルト三国経由で核を手に入れていた。その爆弾が何処に使われるのか、組織に信用されていないブリジットとアルフォドは知らない。だが恐らく標的は社会福祉公社だろう。
「沢山人が死ぬだろう。私も君も沢山人を殺すだろう」
 だから、と続ける。
 白い息で星を見上げたまま続ける。

「共に地獄に堕ちよう。もう君には謝らない」

 

ブリジットがアルフォドに身を寄せた。彼女は赤みを増した表情で彼を見上げる。

「よろこんで」




[17050] 第72話 闘争と人間、そして人形【ついでにロベルタのこと】
Name: H&K◆03048f6b ID:e50e8188
Date: 2012/02/26 15:18
 支給された電子端末の画面が割れていた。黒い液晶が漏れ出して、いくらタッチしても反応は帰ってこない。地形図や連絡手段として重宝する筈だった物を無くしてしまって途方に暮れてしまう。
 たぶん、先ほどエスカレーターを転げ落ちていったときに割れたのだろう。義体であるこの身がそうとう痛いと感じた衝撃だ。精密機器なんてひとたまりもない。
 そんなエスカレーターの踊り場から視線を上に向けると、空気より重たい気体であるスモークグレネードの煙が上階から吹き下ろしてきていた。ゴリラのような特殊部隊、GISがばらまいたものだ。暗視スコープのような赤外線装置を持っていない今、あの煙にもう一度巻かれてしまったら今度こそ蜂の巣になりかねない。
 またM4の代わりに渡されたMASADAのグリップが血に濡れている。普段使い慣れていない装備の上にコンディションは最悪だ。ライフルの丈夫さ自体には随分と助けられたものの、やはり狙撃を得意とする性分からか、普段と違う装備という物は何処か心許ない。そして予備マガジンは残り1つ。現在MASADAにくっついているマガジンには約十発程。サイドアームとして用意していたシグにはまだまだ弾が残っているが、九ミリの拳銃弾では敵のボディアーマーを貫通させることはできない。
 どう足掻いても八方塞がりな状況に出てきたのはもちろん悪態だった。

「くそっ、こんなことなら、格好付けずに四の五いわず逃げれば良かった」
 グリップに付いた血を乱暴に拭い去りながら、ブリジットはエスカレーターの踊り場から這いずるように離れていく。右肩から血を滴らせる彼女は左手で患部を抑えながら、少しずつ少しずつ歩みを進めていた。傷自体はそれ程重傷ではなかったが、八メートルほどの高低差を転げ落ちてきた所為か意識がはっきりとしていない。
 さらに義体としての寿命が近づいている現実が、そのバットステイタスを加速させている。
「なん、とか、遮蔽物に」
 やっとの思いで彼女は近場にあった大理石の白い柱の陰に回り込んだ。そして柱に身を預けながら上から聞こえてくる足音に耳を澄ませた。
 1つ、2つ、3つと徐々に足音は近づいてくる。しかも複数。
 軍靴の癖に防音仕様の不気味な足音はまさに死の行進のようだった。
「次の撤退時間まで残り五分。それまで裏口の資材搬入路にたどり着かないとゲームオーバー、正直きついよ、これは、ねえ、アシク」
 とっくの昔に撤退した黒人の顔を思い浮かべながらブリジットは笑う。それは別に自暴自棄になった笑いではない。公社の義体として戦っていた頃の彼女の笑いではなかった。
 ただ一匹の獣として、人を自分の意思で狩り続ける獣が笑っているのだ。
「おっと、もうお出ましか」
 柱の陰から上階を伺っていると、スモークグレネードの煙の中、ゆらりと影が動いた。ブリジットが間髪入れずにMASADA、アサルトライフルのトリガーを引く。セミオートで放たれたそれは寸分の狂いもなく影の頭を撃ち抜いた。
 エスカレーターの上からブリジットの物とは違った血が流れ落ちてくる。
「……これで少しは牽制になるか」
 油断なくアサルトライフルを構えながら、ブリジットは息を吐く。
 これでこちらがまだ生きていることが露見してしまった。恐らく数十秒も経たないうちに煙の中からこちらに向けて総攻撃が行われるだろう。
 そんじょそこらのテロリストや暴漢相手ならば一人で圧倒できるものの、同じ戦闘訓練を受けている軍人相手にはどうしても分が悪い。
「さてはて、どうしようかな……」
 トリガーに掛けた指に力がこもる。煙の中から複数の殺意が発せられた。互いに姿は見えていない。それでも相手が何をしようとしているのか、相手がどこに潜んでいるのか、両者とも知り尽くしたまま弾丸は発射される。
 音速を超えて飛んでいった鉛の弾は、その与えられた役割の通り、人体の組織をズタズタにして突き抜けていった。



 時間は一時間ほど前に遡る。
 イタリア全土に記録的な寒波が到来していた頃、半年ほど前に建設されたレッジョ・エミリア新空港では出張に赴くビジネスマンや、休暇を取って旅行をもくろむ家族連れで溢れかえっていた。大雪の為一部の路線がストップしたエミリア空港では、時折不満や不安を告げる台詞がどこかしらから発せられている。
 そんな喧噪からは強制的に隔絶された、未だに建設途中の空港裏駐車場。そこでは大雪にも関わらず、多数の工事用車両が出入りしていた。
 ただし工事特有の建設音は一切聞こえず、不自然な静けさが漂っていた。
「……これで全員だよ。アシク」
 空港裏駐車場は屋内駐車場で、外で吹き荒れている大雪もここからでは全く見ることができない。工事用照明に照らされた駐車場の中、建設員にしては小さすぎる影が何かを引き摺っていた。
 引き摺られた痕には赤々と輝く血が残されている。
「よくやった。これでタイムロスは解消できる」
 照明から作り出される暗がりの中、複数人に指示を飛ばしていた黒人の男、アシクがこちらに振り返った。振り返った先にいるのは黒いコートに白いマフラーが眩しい、ブリジットその人だった。
 彼女は建設作業員と思われる遺体を数人纏めて駐車場の片隅に積み上げている。
「リストに載っていた勤務予定の人間は全員殺した。一人に気づかれたけど、逃がしてはいない。というかそちらがもっと静かに行動してよ。見つかったのはあなた達の誰かなんだから」
 のど元に小さなナイフを突き立てられた作業員達に目をくれることもなく、ブリジットは淡々と続ける。その機嫌は決して良いとは言えない。
 アシクはそんなブリジットの地雷を踏み抜かないように、努めて冷静に返答を告げた。
「こちらの幾分かは素人も同然だ。君や君の恋人、それにフランカフランコのようにはいかない」
「ふん、まあ別に良いけれど。ところでさ、アルフォドさんは上で見張りなのは分かるんだけど、フランカフランコはどうしたの?」
 詰まらなさそうに鼻を鳴らすブリジットを見て、アシクは当面の地雷は解除したことを悟った。
 だからこそ、もう取り繕うような言い訳はしない。
「この作戦はクリスティアーノの賛同を得ていない。つまり二人は不参加だ」
 その台詞を聞いて、ブリジットはまあそれもそうか、と嘯いた。今回の作戦内容は、ブリジットがジャコモ達に合流して以来、もっとも非人道的な内容となっている。もちろんサンマルコ広場でやったことが人道的であるとは微塵も思っていないが、それでも一般人を手に掛けることはなかった。
 ジャコモが用意した作戦は二つ。
 一つ目はバルト三国経由で手に入れた核を使い、新トリノ原発を占拠すること。
 この作戦はただ今準備中であり、もう二週間もしないうちに決行されることが決まっている。
 そして今回の、全ての始まりとされる作戦。
「……ロベルタ検事があと二十分ほどで空港に訪れる。幸い大雪での着陸延期は今のところ確認されていない。護衛は内閣府のSPが五名。社会福祉公社はまだ噛んでいない。だが余り長引くと時間の問題だな」
 アシクは懐からタッチパネル式の電子機器を取り出した。携帯電話や情報端末として扱えるそれをブリジットに手渡す。
「護衛は全員速やかに排除しろ。検事は殺さなければそれでいい。だが彼女を拉致した時点で恐らく空港警察、もしくは配備されているGISが動き出す。そうなれば我々は全滅だ」  
 アシクの告げるとおり、昨今のイタリアではテロに対する警戒が高まっており、空港などの主要施設は必ずGISなどの戦闘部隊が配置されている。白昼堂々の空港で拉致事件を起こせばどうなるかなど明白なことだ。だから作戦に携わる人間が手早く、しかも確実に逃げ果せることのできる策が必要になる。
 そしてそのことを義体であるブリジットは痛いほど理解していた。
「武器はいくらでもある。だからGISを含めて多数の人間を殺傷しろ。その混乱の隙に我々は空港から脱出する」
 痛いほど理解しているからこそ、こうした手段に出ざるを得ないことに虫酸が走りそうになる。
 ブリジットに下された命令は二つ。一つは空港にやってくるロベルタ検事を拉致し、空港から連れ出すこと。もう一つは拉致したロベルタ検事を運び足すための時間稼ぎに、GISを空港に釘付けにすることだ。
 そのためには誰もが注目するような、大規模なテロ行動を起こさなければならない。
 もちろんこれは、後に続くトリノ原発を占拠するためのカモフラージュにもなる。
「作戦決行は五分後。今のうちに、上にいる恋人に挨拶をしておくことだ」
 数人の活動家を引き連れて、アシクは照明の届かない暗闇の中に消えていく。ブリジットは足下に置かれていた旅行用鞄を肩に担ぐと、電子端末を操作しながら工事用として設置された仮設階段を上っていった。するとその先にはアサルトライフル片手に見張りに立っているアルフォドの姿があった。
「……いくのか、ブリジット」
 作戦内容を聞かされているアルフォドは眉尻を下げながらブリジットの頭に手をやる。彼女は猫のように瞳を細めると、そっとアルフォドの胸板にもたれ掛かって見せた。
「いいんです。こうやって生きていくと決めた以上、もう迷いません。あなた以外の人を守ろうとは思わない。あなたが生きるためにジャコモに荷担しなければならないのなら、私は戦います」
 ブリジットの首には未だに爆弾を内蔵した首輪が巻かれている。それを隠すために今回マフラーを彼女は巻いていた。そこに存在している死の首輪はブリジットを活動家達の先兵として使役させているのだ。
 しかしながら、ブリジット達は爆弾の恐怖によってのみ、ジャコモの活動に荷担しているわけではない。クリスティアーノが抱えている非公式の海外医療団体がブリジットの義体の管理をしている。もしも彼らから提供されている安定剤を欠いてしまったのなら、もう一ヶ月も生きられない体になってしまうだろう。
 誠に皮肉なことだが、公社を抜け出した彼女達が生きていくことのできる組織は、ジャコモとクリスティアーノを擁するここ以外には存在しなかった。
 ブリジットはアルフォドの背中に手を回す。
「だけど一つだけ約束してください。作戦が始まったら私の命の心配ではなく、自身の命の心配をしてください。もしもあなたが私のためを思うなら、私に余計な心配をさせないでください。例え私が死にかけても、あなたは決して私の盾になってはいけません。あなたの盾は私であり、あなたの剣は私です」
 こちらから見上げたアルフォドの瞳は困惑の色だった。たぶん、これだけ言っても、いざブリジットが地に倒れ込んでいたのなら彼は躊躇うことなく彼女の盾になるだろう。だが一応は釘を刺しておきたかった。それだけで、随分と心の持ちようは違うから。
「では行ってきます。大丈夫、私は強いんだよ。アルフォド」
 最後に一つ、頬に一つだけ口づけを落とす。
 ブリジットはそれからは一切振り返らずに、空港へ繋がる連絡通路に歩いて行った。肩口から垂れ下がる旅行用鞄のストラップを強く強く握り締めながら。



『目標が搭乗口から出てきた。A班とB班は裏口の確保。バンボラは至急準備しろ』
 音楽プレイヤーに見せかけてた無線機の向こうから指示が飛んでくる。ブリジットに当てられたコールサインはバンボラ。彼女はコートの中でSIGのスライドを引くと、出迎えで溢れている搭乗ゲートに旅行鞄を担ぎながら近づいていった。原作ではトリエラと深い関わりがあるロベルタ検事。ブリジットとの面識はないものの、勘の良い彼女ならもしかしたらブリジットの正体を見抜くかもしれない。
『護衛は予定通り5。そちらとのエンゲージまで約三十秒』
 耳に付いていたイヤホンを外し、ブリジットは出迎えの人々の間をすり抜けていく。
 左手にSIGを持ち、コートのポケットに隠す。搭乗口の向こうから、キャリーバックを引き摺っているメガネの女が見えた。
 彼女の周りにはそれとは悟られないよう、私服に身を包んだSP達が辺りを警戒している。数は無線が伝えたとおり、五人丁度。
 ブリジットが人々の波から抜け出したとき、こちらを見てきたロベルタと目線が合う。

「あっ」

 果たして声は誰の物か。
 旅行鞄を床に落とし、姿勢を低く保ったままブリジットはロベルタに飛びかかった。即座に肘鉄を下腹部に叩き込み、拳銃を抜き始めたSPに対して盾にする。
 そして、銃声が五つ。
 ブリジットが持つ銃口から煙が上がり、不自然な姿勢で立ち尽くしたSP達が床に沈む。白い清潔な床に赤い血だまりが広がり、その場にいた人々が悲鳴を上げる。
 さらにそれが合図となったのか、今度は四方八方から待機していた活動家たちがアサルトライフルを発砲し始めた。
「ご無事ですか、ロベルタ検事」
 悲鳴と血飛沫が舞う搭乗口の中心で、ブリジットに抱きかかえられたロベルタ検事が荒い息を挙げる。活動家の男の一人がブリジット達に近づき、ロベルタの身柄を渡すよう要求した。だがブリジットはそれを無視したまま、ロベルタに話しかける。
「見てください。この光景を。これはあなた一人を連れ出すために我々が作り出した地獄です」
 一切の抵抗が出来ない一般人は、乱射されるアサルトライフルの良い的だった。それもこれもみな、ロベルタ検事の拉致を成功させるための布石だ。
「憎しみの連鎖は止まらない。我々が正しいとは微塵も思わない。ですが、もしもあなたがこれからを生きることが出来るのなら、後世にこう伝えてください。もう長く生きることの出来ない私の為に」
 
「これが人間だと、ディアボロでもサタンでもない、これが人間だと」



 






 というわけで九章なのでした。いつか宣言したとおり、次が最終章。多分、次+エピローグの章でこの物語は終わりです。感想欄でご指摘いただいている誤字脱字、かなり多いと思うので、一度エンディングまで走り抜けたら少しずつ改訂を込みにして修正したいと思います。よってご指摘いただいている方々には感謝の言葉もありません。
 これから少しずつ終わりに向かっていきますが、最後までお付き合い頂ければ幸いです。あと、地味にもう直ぐ二周年。






  



[17050] ガンスリ劇場10 シリアス好きにはオススメ出来ません 【フラグ回収】
Name: H&K◆03048f6b ID:e31ddf34
Date: 2012/02/26 22:53
「えー、前回、あまりの出番の少なさに少々不満を抱いた私クラエスですが-、」

「ねー、クラエス-。誰と話してるの?」

「まさか最終章突入寸前にこのような出来事が起こるとは夢にも思いませんでした」

「ねーってばあ」

「ブリジットという名の少女、超超番外編、ガンスリ劇場始まって以来の珍事」

「くらえすー?」

「まさかの、ブリジットと二人きりのデートで御座います」




 以下クラエス独白。

 くっ、私としたことが抜かったわ。まさかもう一年と半分以上も昔に冗談で、もしくはカマかけのつもりでブリジットに告げた提案がまさか最終章突入寸前に適うなんて。何が「デートしましょう」よ。無理に決まってるじゃない。私は実践派ではなく完全妄想派。トリエラやエルザの欲棒、もとい欲望が純粋無垢なブリジットを貫いていく背徳感、またはアルフォドさんがブリジットを様々な人々にNTRされていく絶望感を楽しんでいたのに、私自身がそのステージに立った今、何をしたら良いのかさっぱりわからないわ。これはええとあれなの? 今すぐブリジットを押し倒してひん剥いて、あんあん言わせたら勝ちなの? それとも椿の花を落としたらいいの? もしくは私受けブリジット責め? そうよ。それよ。普段は猫を装っているブリジットがどう猛なオオカミに変身する瞬間、これだけでご飯三杯は堅いわ。あとはあれね、ブリジットを椅子に縛り付けられたエルザの目の前であひんあひん言わせるのもそそるわね。ブリジットと過ごした春色の日々を思い浮かべながら、私にブリジットをNTRされていく絶望感。百合寝取りというのもポイントが高いわ。でもこの場合、トリエラはどういった立場になるのかしら。はっ、まさかの黒幕。そうよ。それよ。自分が愛したブリジットが複数の女達の手によって開発、もとい調教されていく課程を楽しむことの出来る真性のマゾヒストがトリエラなのよ! 自分の所有物をぐちゃぐちゃにされていく課程で彼女は興奮を覚えるの。ふっふっふ。良いわ。凄く良い。私は私が恐ろしいわ。あれ、でもちょっと待って。ブリジットを散々○○してきた私だけど、コスチュームを弄くったことは全くないわ。これは駄目よ。ブリジットオタ失格じゃない。あわわわわ、とにかく何かコスチュームチェンジしないと! あ、そうだ! 私のメガネを掛けさせたらどうかしら? そうこれこれ! メガネッ子ブリジット! いやああああ、何コレ! 自分の想像の範囲だけどこれは駄目! 破壊力が高すぎる! あああああああ、どうにか、どうにか平静を保たないと! どうしよう! どうしましょう! ただでさえ綺麗系と可愛い系の中立の危うい顔立ちをしているブリジットがさらに凶悪になってしまった! 私は何という物をこの世に産みだしてしまったの? ああ、神よ。この内に渦巻く欲望を解放させて! …………ふう、少し落ち着いたわ。じゃあ次ね、次、次はあれよ。裸Yシャツに黒いハイソックスのブリジットよ。ベッドの上で座り込みながらこちらを見つめてくるの。……ぐふっ。やばいわ。これはやばい。今すぐ押し倒してブリジットの口に手を突っ込んで舌を鷲づかみにしてべろべろしたい眼球舐めたい。ああ、いけない娘ねブリジット。あなたは私をここまで狂わせてしまうの。今すぐその顔面を舐め尽くしてあげるわ。穴という穴から私という存在を注ぎ込んであげる。あなたを私色に染めるの。あなたが悪いのよブリジット私は何も悪くないもう何も怖くないああブリジット、頂きます。

 以上クラエス独白。


「ねえ、クラエス。さっきからどうしたの? 顔色悪いよ? 体調でも悪い?」


 以下再びクラエス独白。

 ああ、私としたことが。こんなに優しいブリジットに何をしようとしたの? だめよだめなのよ。クラエス。ブリジットは禁断の果実。囓った瞬間にエデンから追放されてしまうわ。ああ! でも私の中の蛇が囓ってしまうどころかむしゃぶりついてしまえと囁いているぅー! むしゃぶりつきたいぺろぺろした。ああ、ブリジット。あなたはどんな味がするの。美味しいの? そう、きっと美味しいのよ。ああ、ぺろぺろぺろくんかくんかくんか。ブリジットがこちらを覗き込んできて……ああ、柑橘系の良い匂いがする! …………ん? あれ、どうしてかしら。私夢でも観ているのかしら。ブリジットの口元から少しだけ煙草の匂いがするわ。待て、落ち着くのよ、クラエス。落ち着きなさい。煙草の銘柄を考えては駄目よ。駄目なんだから。ああ、しかもその銘柄を吸っている人物の顔を思い浮かべたら駄目なの! 何よ、ブリジットにこれだけ煙草の匂いを擦りつけるなんてどれだけ熱いキスをしたら匂いが移るのよ! あわわわわ、しかも意識したら口元どころかブリジットの全身からかすかな匂いがする! いやあああああ! 首元にあるあの赤い痕は何!? 何なのよ!? もしかして本編で何かあったの!? ついに担当官と義体の壁を越えてしまったの!? ああ、そういえば原作の原作も……。

 以上クラエス独白。


「あれ、クラエス。急に立ち上がってどうしたの?」

「ああ、ブリジット。少しね、用事思い出しちゃったわ。私、アルフォドを殺さないと」

「はっ? え、ちょっと、何!? 待ってってばクラエス! クラエス-!!」







[17050] 第73話 再び会えた日 【ついでにトリエラのこと】1
Name: H&K◆03048f6b ID:e31ddf34
Date: 2012/03/10 17:21
 夢の中で、私は地面に倒れ込んでいた。もう、立ち上がることが出来ないと思っていた。

 大丈夫、それはきっと少し躓いただけだから。きっと直ぐに歩き始めるよ。それが私の知っているトリエラだから。

 ここまで歩いてきたのだから、もう休んで良いと思った。
 けど、地に手をつく私に誰かが手を差し伸べる。ヒルシャーでもクラエスでもない影。彼女は柔和な笑みと声で私の手を優しく取る。

 さあ、立ち上がってトリエラ。

 誰かに立たされた先、視界がクリアになる。私の目の前に現れた影の正体はいつもいつも夢の中で追い続けるブリジットその人だった。
 猫のような気まぐれな表情も、夜のように澄んだ黒髪も、そして私を引きつけて止まない不思議な声も、もう何ヶ月絶縁状態が続いていても詳細に思い出すことが出来る。
 彼女はにこにこと私に笑いかけていた。けれどその瞳は何処か物悲しげだ。

「さあ、トリエラ。立ち上がったのなら、もう私の手を離さないで。そのまま捕まえていて」

 ブリジットの白い手をしっかりと握り締める。私は莫迦なことを言うな、と笑い飛ばした。だってそうだ。私がブリジットの手を離すなんてこと、あるわけないのだから。
 だけど、ブリジットは瞳を細めた。まるで涙か何かを堪えるように。

「離さないで、って言ったのに……」

 嘘だ、と私は言う。それでもブリジットは笑ってくれない。私に笑いかけてくれない。
 そして私は気づいた。

「捕まえていて欲しかったのに……」

 するりと擦り抜けてしまったブリジットの手をもう一度掴むことは出来ない。彼女はまるで霞のように、幻の様に私の前から離れていく。
 手を離した覚えなんてないのに。いつまでもその手を握り締めていたかったのに。

「じゃあね、トリエラ」

 ブリジットはもう二度と振り返ってくれない。私から離れたまま、彼女の手を握ることも許されない。
 いつもここで夢が覚める。
 つらく悲しい現実の日々が直ぐに始まる。

 トリエラは消えていくブリジットに掛ける台詞が今日も見つからないまま、寝汗たっぷりの起床を迎えた。



 レッジョ・エミリア新空港がジャコモ一派によって占拠されたと聞かされたのは、私が目覚めて五分もしないうちだった。




『屋上に待機しているSAMの所為でヘリでの侵入は困難です。現在空港に配備されているGISが応戦している模様。増援を要請しています』
「第七搬入口はどうした?」
『リモート制御の地雷だらけでまともに踏み込めません。作戦課は下水を通し、少数精鋭を送り込む方法を推奨しています』
 くそ、とGIS隊員の一人が悪態をつく。彼らは今、空港の西館からジャコモ一派に占拠された東館へ乗り込む渡り廊下の入り口で息を潜めていた。死角から鏡を使い、渡り廊下の様子を注意深く観察する。他の搬入口から突入しようとした仲間達が地雷で挽肉に変えられてしまった惨状を鑑みれば、当然の行動と言える。
「……こちらも正直増援が欲しいですね。敵がどれ位いるのかさっぱり分からない」
「UAV(無人攻撃機)の到着まで十五分足らずだ。それならば屋上のSAM野郎を蹴散らしてくれる。ブラックホークも乗り込めて一石二鳥だ」
「それまで我々が生きていれば、の話ですが」
 手を使ったジェスチャーを使い、突入のカウントダウンをとる。待機している隊員の数は七名。戦力としてはとても心許ないが、迷っている暇はない。
「生存者を見つけ次第確保。テロリストの糞共は腸をぶちまけてやれ。……GO! GO! GO!」
 一人が物陰から飛び出し、渡り廊下を突破していく。即席で作られたバリゲートを飛び越え、物陰から物陰へ移っていくのだ。
 だがその時、視界の端でマズルフラッシュが瞬いた。そして、遅れた銃声。
「くそ! 待ち伏せだ!」
 脳天を撃ち抜かれ、物言わぬ骸と化した隊員を押しのけ、複数のGIS隊員がアサルトライフルを発砲して応戦する。どこから狙撃されたのかは不明だが、これでも牽制にはなる。
「こちら西館渡り廊下! 待ち伏せ攻撃を受けている! 前進不可!」
『重火器で武装した増援が向かっています。残り二分』
「いいからもっと早く!」
 再び、一人の隊員が足を押さえて倒れ込んだ。太ももを撃ち抜かれた彼は痛みと出血の恐怖で叫び声を上げる。どうやらスナイパーはこちらを即死させるのではなく、一人、また一人と負傷させ徐々に戦力を削いでいく腹づもりらしい。
 テロリストらしからぬ戦略眼に、GIS隊員の一人は舌を巻いていた。
「ああ、もう誰が味方で誰がテロリストなのか分からない世界なんだな」
 昨日まで味方として戦っていた軍人や警察の人間が徐々に五共和国派へ鞍替えしていく現象はここ最近顕著だ。当初は素人集団と鷹を括っていた政府も、軍属だった人間が活動家達に加わる度、重い腰を上げざるをえなくなっていた。
 今まさに、イタリアの分裂がすぐそこまでやってきている。
「全隊員に通達。一度撤退だ。繰り返す、一度撤退だ」
 スナイパーに釘付けにされて数十秒。余りにも早い撤退命令が隊員達に通達される。このまま力押しを続ければ、いずれスナイパーの方が根負けするだろう場面。だが誰も異論を挟むことはせず、大人しく全員が少しずつ後退を始めた。もしかしたらもう、彼らには戦いの中に身を投じる気力が最初からなくなってしまっていたのかもしれない。
 イタリア中に伝染病のように広まる人々の悪意が戦いのプロフェッショナルを疲弊させているのだ。
 そして、とても不幸なことに、彼らが渡り廊下から西館の方へ徹底するには乗り越えなければならない一つの壁が存在していた。
「っ! 何者かがこちらに接近!」
 誰かが悲鳴のような声をあげる。そして本物の悲鳴が上がる。血飛沫が噴水の様に沸き上がり、小さな人影が渡り廊下へ踏み込んできていた。
 肩口よりやや下まで伸ばされた髪、両手にはナイフとアサルトライフルを持ち、返り血に身を汚した悪魔。
 それは彼らがサンマルコ広場で見た公社の義体によく似ていた。
「不味い!」
 仲間が一人ずつ血祭りに上げられていく中、最後に残された隊員がハンドガンを抜き放つ。この近距離でアサルトライフルは最早無意味だ。公社の義体もどきである少女はアサルトライフルを牽制に使いつつ、手にしたナイフでボディーアーマーの隙間からのど元を狙っていた。
 今まさに、少女の眉間にハンドガンの射線が重なる。しかしそれは余りにも遅すぎた。
「くおっ!」
 人間では到底考えられないバネの力で急接近した少女は、まず隊員の腕を脇に挟み込んだ。そしてひねりを加えて叩き折る。止めと言わんばかりに胸元へ跳び蹴りをかました後、俗に言うマウントポジションのような体勢になった。
「……はは、俺の負けだ」
 圧倒的すぎる戦力差に乾いた笑いしか出てこない。辛い訓練を乗り越え、エリートとして君臨していたGISがこうも簡単に殺されてしまうと、世も末だな、と笑うしかなかった。
「……ごめんなさいとは言わないわ」
 こちらから奪い取ったのだろう、GIS支給のハンドガンが眉間に突きつけられる。
 彼が最後に見上げたのは、地獄の堕女神のように返り血と汗に塗れた黒髪の少女の姿だった。


 胸元にしまっていた情報端末が着信を告げる。相手は何処かでこちらを見張っているアシクだった。
「何?」
「検事は既に偽造救急車に乗り込ませて出発した。あとは一部の活動家達とお前だけだ。残り十五分で出発する」
「了解、今から向かう」
 端末を切り、ブリジットは棄てたアサルトライフルを持ち直す。懸念だった渡り廊下へ導入されていた部隊が全滅したことによって、少しは時間稼ぎになっただろう。
 彼女は右頬に付いた返り血を乱暴に拭い去ると、撤退場所に向かうべく渡り廊下から搭乗ロビーの方へ歩き出した。その途中、五共和国派の人間達によって作り上げられた民間人の死体が目に付く。白昼堂々空港でこのような乱痴気騒ぎを起こしたのは、もしかしたら活動家達の怒りの捌け口となったからかもしれない。
 それくらい、今のイタリアでは憎悪と復讐が渦巻いている。
「…………」
 一人一人、倒れ伏す死体の顔を目に焼き付けながら、ブリジットはゆっくりとした足取りで前へ進む。彼女が歩いた白いタイル床には赤い足跡が残されていた。
 沢山の人々の血に塗れた呪いの足跡だ。
「っ!」
 その時だった。視界の片隅で身動きをする人影を捉えた。すぐさまアサルトライフルを構え、その人影に近づいていく。
 生き残りか撃ち漏らしか、どちらにしろ見過ごすわけにはいかない。例えそれが無力な民間人であっても、彼女は今更偽善者ぶって見過ごそうと思わなかった。
 そして言葉を失う。
 果たしてそれは、震えながら声を押し殺している二人の幼い姉妹。
「ひっ」
 ブリジットに見つかったことに気がついたのだろう。妹の方が思わず声を挙げてしまい姉が慌てて口元を押さえ込んでいた。
「……」
 無言のまま、銃口を下げ、ブリジットは姉妹に近づいていく。最早二人とも涙を堪えることが出来ていない。ブリジットはそこで、ふと自分がもともと何処の世界に住んでいたのか思い出してしまった。
 ブリジットとして生きる前の、ただの日本人として生きていた懐かしい時のことを。
 忘れたと、忘れたと思っていたのに、血の海で蹲る怯えた姉妹を見つけてしまったその時から、彼女の中で何かが崩れる。
 今更やってきた嘔吐感が彼女を襲い、床に吐瀉物をぶちまけた。
「あっ、うわっ、」
 突然蹲り、嘔吐しだしたブリジットを見て二人の姉妹は呆気にとられた表情を見せる。今まで死の象徴でしかなかったブリジットが、今まさに弱みを見せているのだから当然だった。
 ブリジットは慌てて口元を拭い、脂汗を浮かした真っ白な顔で姉妹を見据えた。
 まだ基礎課程学校に通っているであろう、幼い姉妹。
 おそらくこんな地獄のような世界とは無縁の場所を生きてきた、前の自分と同じ姉妹。

「今すぐここから東館へ向かう渡り廊下に行きなさい。もう怖い人たちはいないから。絶対に立ち止まらないで」

 自分が積み上げてきた死体の道へ姉妹を逃がそうとする、そんなどうしようもない状況に文字通り吐き気がするがもうなりふり構うことは出来ない。
 ブリジットはよろよろと立ち上がりながら、姉妹達に道を示した。そこは自らが歩いてきたと一目でわかる、血の足跡が続いていた。
「もう、こちらに来ては駄目。あなたたちはここにいるべきではないわ」
 二度と戻ることは出来ない道を示して、ブリジットは姉妹に告げる。普通の少女として生きることを願わなかったわけではない。普通の人間として生きる道を夢想しなかったわけがない。けれど約束した。一番愛している人に。一番守りたい人に。
「さよなら、あはは。なんだか最近お別ればかり告げてる気がするな」
 ブリジットの笑いに怖じ気づきながらも、姉妹は教えられた道へ歩みを進めようとする。それを見てブリジットはほんの一瞬だけ、完全に張り詰めていた戦闘勘を鈍らせてしまった。
 そのミスは取り返しの付かない事態を生じさせる。
「?」
 視界の中央で銀色の光が反射する。それがスナイパーライフルのスコープの反射光と気がつくのに一秒もない。搭乗ゲートの向こう側から向けられた銃口はブリジットに照準を合わせていた。
 ブリジットは咄嗟にその身を翻し、射線から逃れようとする。
 しかし、刹那の瞬間、ブリジットの動作を押しとどめるものがあった。
 それは、今まさに生への道を行こうとしている姉妹の姿だった。丁度射線とブリジットの延長線上に立つ彼女らは、ブリジットを盾にしているような状態だったのだ。
 スナイパーライフルから弾丸が放たれる。ブリジットはその時になってようやっと身を返した。
「くそっ!」
 頭部を砕かんとした弾丸は当初の狙いをはずれ、ブリジットの右肩を食い破っていった。激痛と衝撃にブリジットの体が吹き飛ばされ宙に舞う。ブリジットの肉体を貫通した弾丸は姉妹の間をすり抜けて、空港の強化硝子を突き破っていった。
 血のラインを宙へ描きながら、ブリジットは床に倒れ伏す。
「ひっ!」
 突然の銃撃に足を止めた姉妹へブリジットは叫んだ。
「走りなさい!」
 同時、獲物を仕留め損なったスナイパーが二発目を発した。血に伏していたブリジットは左腕の力だけで飛び上がり弾丸をかわす。そしてストラップで右腕に繋がれていたアサルトライフル、MASADAを左手に持ち替えて、水平撃ちの体勢で引き金を振り絞った。彼女が放った弾丸はスナイパーが潜んでいたゲート周辺のオブジェを砕き、破砕音を辺りに響かせる。しかしながら命中弾は確認できない。
 ブリジットは素早くその場から駆け出すと、搭乗ゲートとから見て西、東館とは真逆の方向へ駆けだした。
 スナイパーの狙撃が合図だったのか、潜んでいたGIS隊員が背後からアサルトライフルのバーストを放ってくる。
 それらを死角から死角へ飛ぶことでかわしながら、まともな遮蔽物……上階へ向かうエスカレーターの影にブリジットは飛びこんだ。
 だがそんな彼女をあざ笑うかのように、目の前に筒状の投擲物が転がってくる。
「スモークグレネード!」
 手榴弾とは比べものにならない小さな爆発音と共に、白色の煙が周囲へ充満していく。それらを吸わないようブリジットは左手で口元を押さえて溜まらずエスカレーターの影から飛び出した。すると煙の向こうからやけに正確な銃撃が叩き込まれる。直撃こそはなかったものの、いくつか掠めていった弾丸はブリジットをさらに傷つけた。
「あいつら……赤外線装備まで……。ああ、もう! 一番厄介なのが残ってた!」
 涙と煙で朦朧とする視界を頼りに、ブリジットは煙が渦巻く範囲外へ逃げ出そうとする。取りあえず下の階へ、と下階へ続くエスカレーターに足を踏み出した。
「つっ!」
 そして不幸なことに、GISが放った弾丸の一つがブリジットの足を掠める。傷自体は大したことないものの、大きく体勢を崩したブリジットはそのままエスカレータを転げ落ちるように下っていった。
 彼女はたどり着いた踊り場で血反吐を吐きながら絞り出すように呟く。

「……こんなところでっ!」




 静かすぎると思った。
 空港の中では惨劇が続いているとヒルシャーから聞かされていたのに、やけに静かだ。
 先ほどまで絶え間なく続いていた銃声も鳴り止み、外からの喧噪しか聞こえない。
 東館から西館へ続く渡り廊下では数人のGIS隊員が殉職していた。もしかしたらサンマルコ広場で共に戦った人間がいるかもしれないと思い、そっと目を伏せる。こんなことに意味はないかもしれないけれど、それでも私の中にある人間性が見過ごさせてはくれなかった。
 そして渡り廊下を渡りきったとき、搭乗ゲートへと続く赤い足跡を見つけた。大人のものではない、だからといってまるっきり子供の物でも無い少しだけ小さな足跡。
 何処か嫌な予感がするけれども、私は歩みを止めない。
 足跡を辿っていくと、床に広がる血だまりを見つけた。血だまりはそこから動いたかのように、赤い足跡と一緒に西の方へ続いている。途中、いくつもの民間人の亡骸と、殉職したGIS隊員を見つけた。
 スモークグレネードでも使われたのだろうか。煙ったい匂いが鼻につくようになってきて、エスカレーターの踊り場までそれが続いていた。
 そこから先の光景に私は思わず息を呑む。
 手にしたウィンチェスターが震え、それが恐怖から来る物だと気がつくのに然程時間は掛からなかった。
 目にしたのは無残なGIS隊員の亡骸達だった。皆、頭を撃ち抜かれていたりのど元を切り裂かれたりと、ただのテロリスト相手にやられたとは到底考えられない死に方をしていた。
 今まで死体なんて腐るほど目にしてきたけれど、ここまで凄惨なものは一度しか見たことがない。
 それは、私が大好きだった女の子が作り出してしまった――――、

 
 たくさんのむくろのなか、誰かが跪いている。
 真っ赤に染まった顔を苦痛に滲ませている。
 私は一歩、また一歩と彼女に近づく。彼女が顔を上げた。そして驚いていた。
 互いの声が交差する。

「トリ、エラ?」

「ブリ、ジット……」


 誰もいない戦場の片隅で、私たちは再会した。





 
 





[17050] 第74話 再び会えた日 【ついでにトリエラのこと】2
Name: H&K◆03048f6b ID:e31ddf34
Date: 2012/03/11 22:32
 二人の視線が交差する。ブリジットは何処かぼやける眼を擦りながら来訪者を見上げた。
 懐かしいその輪郭と匂い。そして声。
「トリエラ?」
「うん」
 初めてかわした言葉はとても月並みな物だった。けれどもトリエラの中では、いろいろと不思議な物がこみ上げてきて、恐怖で震えていたウィンチェスターの銃口が制止した。
 気がつけば、ぽろぽろと涙が零れていて自然とトリエラの足はブリジットに向かった。
「……こんなところにいたんだ」
 ブリジットの前に膝をつき、その顔を覗き込む。腰まで伸びていた髪は肩口で切られてしまっているけれど、義眼になっていた右目はいつの間にかもとにもどっているけれど、もう敵と敵同士になってしまっているけれど、紛れもなくそこにいたのは数ヶ月前まで大切に思い続けていた友人だった。
 二人は約数センチ程の距離を残して見つめ合う。言葉は中々出てこない。
「ごめん、トリエラ。今あんまりよく見えないんだ」
「うん。大丈夫さ。私はここにいるよ」
 ブリジットの頭を抱き寄せて、トリエラは彼女の髪を撫でる。ブリジットの目には光がない。一人でこれだけのGIS隊員と暴れたのが不味かったのか、スモークグレネードの煙が駄目だったのか、それとも負傷の所為か、とにかく視力を欠いているようだった。
 トリエラはブリジットの肩口から向こう側の光景を見つめる。幾つもの骸は怨嗟の声を挙げて倒れていた。けれども今はこの腕の中にある温もりの方がもっともっと大切だった。
「私ね、頑張ったんだ。一人で何度も何度も立ち向かおうとした。けれどもいつも負けてばかりで、挫けてばかりで、傷つけてばかりだった」
 ブリジットが言葉を零す。それはコップから流れ出す水のように。今までトリエラの目の前で注がれ続けていた水は、いつも表面張力によって危うい均衡を保っていた。今それが決壊していた。水はトリエラのほうに向かって終わりなく流れ続けてくる。
「もう駄目だと思ったよ。何度決意をしても、覚悟を決めても死ぬのが怖かったし、愛されないのが怖かった。殺すのも怖かったし、壊すのも怖かった」
 水は冷たい。乾いてもいない、泣き続けて湿ってしまったトリエラの瞳で受け止めるには余りにも冷たい水。
 だがトリエラは逃げない。ブリジットというコップが、少女が砕けてしまわないようにそっと抱きしめる。
「でもね、私少しだけ気がついたことがあるの。それも今。私が愛して、愛されたいのはアルフォドさん一人だけだけど、それでも一緒に行きたいと願ってた人がいた」
 トリエラはブリジットの首に首輪を見つけた。血のにおいに混じって漂う火薬の匂いが、ブリジットが今どのような境遇に置かれているのか如実に語っている。
 彼女は静かにブリジットの言葉を待った。
 そしてその言葉を聞いた瞬間、零れていた涙が押さえられなくなり、声を挙げて泣いた。

「それはね、トリエラ、あなたなの。……あなたは私の大切な友達だから」



 どうしてこんなことになったのだろう。ブリジットがSIGをトリエラの腹部に突き立てる。だが発砲がコンマ数秒遅い。素早く身を翻したトリエラのハイキックがブリジットの側頭部に向かう。
 ブリジットは自ら飛ぶことで衝撃を殺し、トリエラに再度SIGを向けた。しかしそれもこちらに向けられていたウィンチェスターの銃口の所為で断念することになる。
 打ち出された散弾はブリジットの髪を幾つかさらい、その場に黒色の粉雪を降らせた。
「トリエラ!」
 ブリジットが向けられている殺気は本物だ。彼女の言葉は嘘ではなかった。確かな真実だった。
 だがその真実に気がつくのに時間を掛けすぎてしまった。ピノッキオ戦で決別したときから、二人はこうなることを定められていた。
「私は君を止める!」
 接近戦に持ち込んできたブリジットの拳を、ウィンチェスターの銃身で受ける。何かが砕ける嫌な音がブリジットの拳から、何かが軋む耳障りな音がウィンチェスターから聞こえた。咄嗟にウィンチェスターを手放したトリエラは短剣に持ち替えて体勢を崩したブリジットの背中に突き立てる。
 ブリジットはそれを無理矢理身をよじることでかわし、カウンターと言わんばかりにSIGの銃口をトリエラの顎に突きつけた。
 銃声は一つ。
 待ったのは脳漿ではなくトリエラの金色の前髪。
「甘い!」
 視界不良からかブリジットの狙いが若干ずれていた。地力で決して叶わない相手でも、今ならほぼ互角以上に戦えている。
 トリエラはブリジットの脇腹を蹴飛ばし、自らはその場から離れるようにステップを取ることで距離を稼いだ。そしてサイドアームの拳銃を取り出してブリジットの四肢を狙い撃つ。
 だがブリジットの反応速度はトリエラの遙か上をいっていた。
 彼女はまたもや無事な左腕だけで体勢を立て直すと、そのまま怪物染みたバネの力でトリエラが向けた射線から飛び出していった。さらに落ちていたGIS隊員のアサルトライフルを拾い上げると、狙いもそこそこに引き金を振り絞る。断続的なマズルフラッシュと銃声の中、トリエラの左肩に一つだけ銃創が産まれた。
 トリエラはたまらずといった風に、柱の陰に飛び込んでいく。
「私は決めたんだ! もうブリジットの手を離さないって! だから君も私の手を離さないで!」
「何を今更! もうこの手をあなたに取って貰う資格なんかない! 早く私を見捨ててよ!」
 アサルトライフルのマガジンを交換し、断続的に射撃を繰り返す。スナイパースタイルを貫くブリジットらしからぬ射撃。だがそれが、それこそがブリジットの心境をトリエラに教えてくれていた。
 だからトリエラは諦めない。トリエラはすうっ、と息を吸い込むと大声で叫び込んだ。
「五月蠅い! この泣き虫黒猫め! 友達の手を掴むのに資格も糞もあるか!」
 刹那、銃撃が止む。柱の陰から飛び出したトリエラはブリジットの胸元を引っ掴んで、そのまま押し倒した。
 そして張り手を一つ、彼女の頬に叩き込む。
「人がどれだけ心配したと思ってるんだこの分からずや!」
 ブリジットが息を呑んだ。荒い息を飲み込みこちらを見上げている。いつの間にか手からSIGは離れ、行き場を失った手のひらはトリエラの腕を掴んでいた。
 トリエラはもう一度、反対の頬へ平手を打つ。
「急にいなくなったかと思ったらテロリストになって、挙げ句の果てにはこんなに怪我して! 死んだらどうするんだ!」
 再びトリエラが手を振り上げる。ブリジットは反射的にそれを掴んで引き留めた。そして下から見上げたままこう告げた。
 それは今まで口にしたくても出来なかった魔法の言葉だ。
「ごめんなさい」
 トリエラの動きが止まる。流れていた涙さえ止み、二人の間には永遠ともとれる沈黙が流れた。どちらも目を合わせたまま身動き一つしない。ただトリエラの左肩とブリジットの右肩から流れ出た血が混じり合って、床に赤い赤いアートを描いていた。
 ぴちゃり、とブリジットの頬に血の雫が落ちる。
「ゴメン」
 ブリジットがさらに口を開いた。さらに、こう続けた。
「もういかなきゃ」
 静かに、そっとブリジットはトリエラのマウントポジションをとき、床に這い出る。近くに落ちていたアサルトライフルを杖代わりにして立ち上がると、ブリジットはトリエラを見下ろした。
 トリエラは何も言わない。
「ありがとう。トリエラ。少しだけ、もう少しだけ頑張れそうだよ、私」
 一歩、トリエラからブリジットは離れた。先ほどまでこちらに向けていた殺意は何処に消えたのか、非常に柔和な笑みをこちらに向けてくる。
「お陰で目が覚めた。あなた、いや、君が友達でいてくれるから私は頑張れる」
 トリエラが何とか立ち上がる。そして向こうへ、向こうへ離れていくブリジットを後ろから抱きしめた。ブリジットは振り返らない。
「何度逃げても、必ず私が捕まえてみせる」
 ぐしっ、と血に塗れた鼻水をトリエラが啜った。ブリジットは「あはは」と笑うと、トリエラのホールドをゆっくりと解いていく。
「なら、いつまでも待ってるよ、トリエラ。……またね」
 完全にホールドが解かれたとき、トリエラの手が届かないところへブリジットは離れていった。けれど、夢に見たような絶望はない。ただ少し、ただ少しだけ出かけるような、そんな仕草でブリジットは消えていく。多分きっと、そのうち会えるとお互い信じて。
 
 もう道を共にすることは出来ないけれど、時にはそのきいろ道を交差させることは出来るのだから。
 だって、二人は友達。



 こうやって、救急車に乗るのは二回目だったりする。一回目はリコにお腹を撃たれたとき。今は空港から脱出するための偽造用救急車だ。幸い、検問では体中を傷だらけにした私を見せつけることで(もちろん武装は全て放棄してある)くぐり抜けた。
 撃たれた右肩には手荒く包帯が巻かれ、強心剤が点滴を通じて体に注ぎ込まれている。もしかしたら寿命自体がそろそろ危ないのかもしれない。
「トリエラに会ったのか?」
 私の額にアルフォドが手を置いていた。彼の体温を感じて気がついたことだが、少しだけ熱っぽい気がする。
 これも義体の終焉の前触れなのだろうか。
「……こちらの手に負えないくらい元気でした」
 途中からは殺すつもりで戦った。いくらこちらが負傷した手のポンコツ義体だとはいえ、彼女は充分強かった。そして、憎らしいくらいに眩しかった。
 まさかあそこまで格好いい少女になっているとは思いもしなかった。
「そうか。……それはそうと右肩ばかり負傷するな。大丈夫か?」
 ペトラに撃たれた右肩。そしてGISに撃たれた右肩。一応左利きだから融通は利くものの、銃器を扱う人間として致命傷になりかねない怪我だ。おそらく、あと一、二度が戦闘に耐えうる限界だろう。クリスティアーノの元では薬物投与による肉体の安定は図れても、公社にいたときのようにパーツの交換を行うことは出来ない。
 まあ、もうパーツ交換に耐えることが出来るほどの寿命は存在していないのだが。
「次は恐らくトリノ原発だ。そこが公社との最終決戦になるだろう。なあ、ブリジット。もう一度だけ聞く。君は戦えるのか」
 アルフォドの質問に返す言葉が見つからない。昨日までなら即答出来ていた筈なのに、あの、トリエラの泣き顔を見てから何かがおかしくなっている。
 彼の為に地獄に落ちると覚悟を決めた。けれど、トリエラのために、大切な友人のために決める覚悟が見つからない。
「……もう、戦わなくていいんだぞ。ブリジット。今日だって、あいつらのためによく戦った」
 何処からボタンを掛け間違えたのか、今となっては心当たりが多すぎてわからない。
 だから掛け違えたボタンを全て無視して生きようと思った。なのに今更、掛け違えたボタンが弾けてしまった。もう、元には二度と戻すことが出来ない。
 どうして、どうして、世界はこう――――、
「おい、ブリジット?」

 息が出来ない。心臓が強く跳ね上がった。何かが食道を駆け上がり、ただでさえぼやけていた視界がブラックアウトする。
 そして、口からあり得ない量の血液が噴き出した。

 そうだ。どうして、世界はこうも、思い通りには行かないのだろう。



 







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[17050] 第75話 ブリジットという名の少女 【ついでにブリジットのこと】1
Name: H&K◆03048f6b ID:e31ddf34
Date: 2012/03/17 01:52
 それは今から一ヶ月と半前。ブリジットの意識体が一度リセットされる直前の出来事。
 社会福祉公社の医療棟に備え付けられたビアンキの執務室では、アルフォドが一枚の書類に目を通している。彼はビアンキからブリジットが今後受けるであろう治療のリスクと、それに伴う後遺症についての承諾書を書かされた後だった。記憶の退行が激しい今では、もうえり好みをしていられる余裕はなかった。
「今日はどちらかと言えばこの書類の方が本題だ。一応、機密文書扱いだから他言は厳禁だ。本来ならお前のような担当官にすら見せられない代物だが、ブリジットがそのハードルを1つ下げている」
 文書にはイタリアの内情やテロリストの活動記録ではなく、諸外国のここ最近の動きが纏められている。それはイタリアが加盟しているEUのことであり、さらには米国、日本、中国についてだった。
 とくにEUについての記述が多い。
「……義体はイタリアが単独で開発、運用を進めているが、基礎技術は諸外国から買いあさったものだ。EUからは人工筋肉やそれの培養技術、米国からは義体の洗脳及び運用システム、日本からはカーボン骨格、中国からは表沙汰にはしにくいレアアースの輸入」
 ビアンキが手元にあった書類の裏に簡素な世界地図を描いた。イタリアを中心に描かれたそこには、イタリアに向けて様々な国から矢印が引かれる。
「もちろん政府は戦闘義体を作るため、とは一言も告げていない。できる限り民間の団体や活動家を通して技術をかき集めた。表向きは医療用義手、義足の開発だった。まあ、実際義体運用で培われた技術は医療分野に還元されているためあながち嘘ではないが。……だがここで一つ問題が発生した」
「問題?」
 書類を眺めていたアルフォドがビアンキを見上げる。確かに手渡された書類は機密事項で溢れていたが、彼がした説明は公社で働く人間ならば誰もが知っている暗黙の事実だ。その不確かな事実に確証がついたという意味では重要な問題だが、ここでそういった話の展開は考えにくい。
 アルフォドの考え通り、ビアンキはさらに言葉を続けた。
「技術の流出だ。もちろん早期から各国はイタリアが義体を運用、製造していることを掴んでいた。少し考えてみろ。調整次第では容姿を自由に設定出来る従順な兵士、それが義体だ。EUの財政事情やNATOの指揮権問題で軍縮が進む中、どの国も喉から手が出るくらい欲しがる自由戦力だろうよ」
 ビアンキの言うとおり、義体というのは正式に軍事転用すれば凄まじい威力を発揮する兵器になる。人道的な問題が存在していても公表さえしなければ、闇マーケットで素材さえ調達できれば、通常兵力の大幅な増強が見込めることは疑いようがない。
「当然左翼政権の現政権、もしくは開発に携わった政府関係者は首を縦に振らなかった。しかし上が突っぱねても、下まではそうはいかなかった。所詮、公社は一枚岩ではない。課と課の間では足の引っ張り合いが常にあり、さらには軍の高官を暗殺したことから軍とも仲が良くない。国内にはテロリスト以外にも敵で溢れている。そんな奴らの口にまで封鎖線が張れなかったてことだよ。そしてこれがその成果だ」
 ビアンキはそう言って机の上から封筒をアルフォドに手渡した。中にはA4判の書類がクリップで留められているものが入っている。
 アルフォドはそれをいぶかしげな視線で目を通した。そして、ただでさえ少なかった口数を完全に失ってしまう。
「……事態は思ったより深刻だ。イタリアの分裂を嘆くより世界の破滅を恐れた方がいいかもしれない。もちろん確固たる証拠があるわけではないが、イタリア政府はこの情報の信憑性、及び重大性を最高ランクに位置づけている。それこそ俺やお前が一存で見ても良い物ではない。だから長生きしたければ心の何処かの宝箱にそっと仕舞い込め」

 アルフォドが手にしたまま固まった書類。その一枚目には朱書きでこう書かれていた。


 義体技術の各国への流出について。

 主に以下の義体については技術のみならず、素体情報まで流出した物と考えられる。

 Type:Brigitta
 Type:Henrietta(ただし未だ確証とれず)

 主な流出先:ドイツ連邦共和国


 このときビアンキが提示した以上の記述が、アルフォドがブリジットをドイツに逃がそうとするための動機に繋がるとはまだ誰も知らなかった。


 



 そして現在。同じ社会福祉公社の医療棟では定期検査を受けたトリエラが病院着のまま棟内の廊下を歩いていた。すると廊下に備え付けられたベンチに赤毛の影を見つけた。
 自分と同じく、”ブリジットと思しき少女”と戦ったとされるペトラだった。トリエラはそっと彼女の隣に腰掛けると、そのままペトラに話しかけた。
「定期検査はまだ先だと思うけど、今日はどうしたの?」
 一期生で、しかも然程面識のないトリエラに話しかけられたペトラは緊張した面持ちでトリエラを見る。クラエスやブリジットを見てきた所為で、一期生は怖い人が多いと思い込んでいる彼女としては仕方のないことだった。だが、それでもトリエラを無視するわけにはいかず、おそるおそる口を開く。
「いや、その、あの、えと。そう、つまりあれだ。訓練で無理して怪我して……」
 見ればペトラの足には真っ白な包帯が巻かれていた。血が滲んでいないことから、おそらく打撲や打ち身などの中の怪我なのだろう。ブリジットが疲労骨折した現場を見たことがあるトリエラは少し顔を顰めた。
「あまり無理すると取り返しのつかないことになるよ。私の友達も、それで足を交換する羽目になった」
 そう言って、トリエラはブリジットと二人で訓練を続けていた懐かしい日のことを思い出す。
 あの頃はピノッキオという目標を超えるために、二人でがむしゃらに研鑽しあった。沢山怪我もしたし、沢山泣いたりもした。だがこの前空港で見たブリジットはあの頃のブリジットとは変わっていた。トリエラとは別の目標を見つけ、それを達成するために生きている。もう殺人機械でも何でもなく、ただの少女として生きているようにも見えた彼女は眩しかった。
 だが感傷に浸っていたところ、全く意図せずして瞳に涙が溢れそうになった。
 これではいけない、と何事もなかったかのように振る舞うが、人間観察が上手いペトラの前では誤魔化しようがなかった。
「トリエラはブリジットをどうしたい?」
 はた、と息が詰まる。彼女の口からその名が出てくることは不思議でもなんでもないはずなのに、純粋に驚きに満ちた目でペトラを見てしまった。
 ペトラはそっと口を開く。
「……私はブリジットに勝てなかった。最初から最後まで圧倒されてばかりだった。アレッサンドロさんにも止められたけど、私は彼女に勝ち逃げして欲しくない。私は彼女が失った物を一つ一つ返してあげたい。もちろん、私がこんなことをする必要はないんだろうけど、どうしてかな。あのとき、友達の復讐のために戦っていたブリジットは怖かったけど正しかったと思う。だってあれがブリジットの決めたことだから。ブリジットはいつも自分が決めたことを貫こうとする。私はそれが好き。だからブリジットを助けたい」
 ペトラの独白を黙ってトリエラは聞く。そして思う。トリエラ自身が返すことの出来るブリジットのもの。
 一応は和解をした二人。けれど二人の道はまだ平行線上を駆け抜けている。けっして交わることのない道筋。
 ならばトリエラに出来ることは道を共にすることではなく、その道を助けること。交わることはなくても、ブリジットの道の先にある障害を取り除いてやることは出来る。
 だからトリエラは答えた。ペトラが告げたように、自身もブリジットの生きる道を支える覚悟を。
「私も、ブリジットに返したい。彼女が進むはずだった生きる道を。もう共に生きていくことは出来ないけれど、それでも彼女が生きていくことを助けることは出来る。そうだ、それが友達だ」
 ペトラが満足そうに笑う。トリエラも笑顔を見せた。
 思い出されるのは自分から離れていくブリジット。彼女の道は決して平らな道ではない。だからこそ、私たちが手を貸さなければならない。
 もう自分たちが長くないことも、ブリジットが長くないことも知っている。
 だから精一杯生きて、精一杯生きようとしている大切な人の助けになりたい。
 それが誰よりも人間らしい、義体の少女達の願いだった。




 夢を見る。いや、夢じゃない。ただ頭がぼやっとして夢うつつなだけだった。
 視力は曇り硝子を通したようにぼやけ、息は弱々しくしか吐けない。あり得ないほどの血を吐いた口の中は洗浄でもされたのか、消毒液の味しかしなかった。
 いつもならベッドに寝かされているのだが、今日は違っていた。黒塗りのバンの中に備え付けられた担架の上に寝かされている。バンの天井から吊された点滴から幾つものチューブが私の体に伸び、数え切れない薬剤を注ぎ込んでいた。
 さらには私の隣にはアルフォドではなく、あのフランカが腰掛けていた。彼女は甲斐甲斐しく私の世話をやいている。彼女は私の氷嚢を取り替えながら、こう話しかけていた。
「あなたは本当にトリノ原発に向かうの? 私がいうのもあれだけど、間違いなくあそこは地獄になるわ」
 計画の概要は聞かされている。ジャコモとアシクを含む実働部隊は早急に建設途中の原発を占拠。核を盾にイタリア政府を脅迫し、内戦の火だねとする。ただし私とアルフォドは既に戦力とは数えられていない。アルフォドは元軍警察の人間のため、まだギリギリ戦力内だが、ぶっ倒れてしまった私はもう駄目だった。
 けれど戦闘に参加できないわけではない。何故だかはわからないが、ジャコモは私専用の医療用バンを一台用意していた。もしかしたら特攻兵器としての価値を見出しているかもしれなかったが、別にそれでも良い。
 私は最後まで、アルフォドの為に、そして自分がこの世界で生きる為の意味を確かめたかった。
 だから答える。フランカにYesと。
「そう。まあ、予想通りね。わかってたわ。……だってあなたはジャコモに似ているんですもの」
 ジャコモに似ている。
 フランカにそう言われて、成る程、と声にならない声で笑った。
 彼は確か、闘争に人間としての意味を見出した男だったはずだ。ならば闘いの中で生きる意味を見つけようとしている私はジャコモとそう違わないのかもしれない。
 ならば尚更ここで終わるわけにはいかない。まだ答えは出ていない。まだ闘い足りない。
「私はね、本当はあなたみたいな女の子が戦うのを止めるために、あなたみたいな女の子が幸せに生きる為に戦ったはずだった。でも駄目ね、私はあなたを止められないわ。これはもう引退かしら」
 屈託なく笑うフランカが私の手を握った。彼女の暖かい手が私の血の巡りが悪い手を温めていく。
「後悔のないように生きることは多分正しい。けれどたまには立ち止まってもいいかもしれない。……もしかしたらもうそれだけの時間が残されていないのかもしれないけれど、休息は必要よ」
 フランカが俺の手首についた点滴を外した。そして何処から取り出したのか、一本の注射器を取り出す。
「あなたが生きた証、義体として生きたデータは公式、非公式を問わず世界中に広まりつつあるわ。これはその結果から作り出された安定剤の試作。いわばあなたの人生そのものよ」
 注射器の中に詰められていた薬剤が注射される。劇的な変化は何も感じられないが、ぼやけていた視界が徐々に晴れてきた。
「さあ、愛しい人のところにいきなさい。ブリジット。私とフランコが必ず近くまで連れて行ってあげるから」
 何処かの路上に停止していたであろうバンが進み出す。私はよろよろと起き上がりながらフランカの顔を見つめた。そして問う。
「……どうして貴方たちは私を救うの? 私は貴方たちの仲間を殺した」
 フランカが動きを止める。私は彼らの仲間だったピノッキオという青年を間接的にだが殺している。いわば彼の仇。エルザの仇を取るために五共和国派を血祭りに上げていた私としては理解が出来なかった。
 だからこそ、この時彼女が告げた言葉の意味を知ることは恐らく永遠にこないだろう。
「馬鹿ね。それはあなたが子供だからよ。子供の手助けをするのは大人の仕事だわ」
 本当に、意味がわからない。
 意味が分からなくて、私は静かに泣いた。
 
 終わりの時は近い。遠くから銃声が聞こえる。
 戦場の熱が私の全身を温めていく。



[17050] 第76話 ブリジットという名の少女 【ついでにブリジットのこと】2
Name: H&K◆03048f6b ID:e50e8188
Date: 2012/03/23 08:36
 少しでも気を抜いてしまえば、あっという間に迷ってしまいそうな回廊があった。撃ち尽くされた薬莢と闘いに敗れた人々の骸が転がっている。
 こことは違う別のフロアでは絶え間なく銃声が轟き、爆発音も激しい。社会福祉公社によって用意されたUAVの空対地ミサイルが撃ち込まれているのだろう。
 ジャコモ一党、つまり五共和国派の最後の活動家達はここが最後の砦であることを熟知しているからこそ、それでも激しい抵抗を続けている。
 寒い寒い吹雪が止まないというのに、戦場からあふれ出る熱は人々を燃やし尽くす。
 決戦の舞台はここ新トリノ原発。それがブリジットの最後の戦場だった。


 ブリジットという名の少女


 アルフォドはいつの間にか仲間の全てが撃ち殺されていることに気がついた。新トリノ原発を占拠してから数時間。突入してきた政府の特殊部隊と、社会福祉公社の義体達は一定の犠牲を出しながらも、着実に活動家達を制圧していった。所詮は素人集団が多い活動家達は大した闘いも出来ぬままに死んでいく。
 だが一部の軍人崩れの人間や、ともすれば現職の軍人達からなる活動家達はジャコモから与えられた潤沢な装備によって逆に社会福祉公社を追い詰めている部隊も存在していた。
 アルフォドも一応現職の戦闘職の身ではあるが、残念ながら取り巻きまでそうはいかなかった。
「糞、一人づつ片付けられたか」
 配管と配管の隙間に身を隠しながら敵の様子を伺う。
 先ほどからちりちりと殺気からなるスナイパーの視線が痛い。どうやらここは狙撃するには丁度死角となっているらしく、弾丸は飛来していない。
 スナイパーに釘付けとなってしまった形だが、向こうも容易に姿を見せることが出来ない以上、無理に動こうとはしなかった。
 大人しく配管の上に腰掛けて、中途半端にばらまいてしまったアサルトライフルのマガジンを交換する。
「……ブリジットはいつもこの緊張感の中生きていたのか」
 死が本当の意味で隣り合わせにある世界。軍人として、担当官として生きてきた彼はもちろん一般人よりかは死というものに触れてきたはずだ。
 だがこうして常に死が隣にある世界というものを体験するのは初めてのことだった。そこで彼は今までブリジットがどれだけ辛い世界の中を生きてきたのか、身をもって体感したのだった。
「すまないな、ブリジット」 
 謝罪の言葉を受け取るべき少女はここにはいない。彼女は空港でのテロ活動の後、吐血を繰り返して倒れた。恐らくもう寿命はない。出来れば彼女の側にずっといたかったが、彼女をこれ以上の地獄に突き落とすわけにはいかない以上、彼一人で戦い抜く必要があった。
 それに彼にはまだやらねばならないことがある。
 イタリア中が、いや、ともすれば世界中が後に注目するであろうトリノ原発占拠事件の現場にいることこそが彼にとってもっとも意味のあることなのだ。
「義体の情報を非公式に流しても恐らく何処かで握りつぶされる。ならば、政府を返さずテロリストの犯行声明として流せば何とかなる」
 アルフォドが今回の作戦に参加するに当たって、一つだけジャコモに要求したことがある。それは政府が一つ目の要求、「イタリア国内に拘束されている活動家の解放」を突っぱねた場合、公社が研究していた義体の情報を全て公表することだった。
 彼は社会福祉公社を許すつもりは毛頭ない。もちろん、その暗部に手を貸していた己自身も。
 アルフォドはこれ以上、光に生きようとは微塵も考えていない。
「さて、そろそろ時間か」
 こつ、と戦場には似つかわしくない足音が聞こえる。静寂の中を突き破ってくる足音だ。
 アルフォドは配管をするりと抜けだし、回廊に躍り出た。人影の線がこちらの足下まで続いている。
「探したぞ、アルフォド」
 声は人影から。二つの意味での元同僚は怒鳴りもせず、怒りもせず、ただこちらに銃口を向けて佇んでいた。
 社会福祉公社で共に義体の担当官という立場にあった男の名はジャン・クローチェ。彼もまた、ブリジットとトリエラのように、アルフォドと道を違えた人間。
「……リコはどうした?」
 アルフォドが問う。彼はそっとアサルトライフルを背中に回し、腰のサイドアームズ、SIGに手を掛けた。ブリジットが本来愛用していた拳銃を借用してきたお守りみたいなものだった。
 ジャンは数秒の沈黙の後、こう告げた。
「何処かでこちらを見ている。お前に逃げ場はない。大人しく降伏して、ジャコモの居場所を教えろ」
 アルフォドはクローチェ兄弟がジャコモに抱く復讐の心を知っている。もちろんその話を聞かされたときは同情もしたし、できる限りの力になりたいと誓った。だが今は違う。今の彼は友人のためでもなく、イタリアのために戦っているわけではない。彼はたった一人の少女を守るためだけに戦っている。
 己が愛した、命を賭けても良いと願っている少女に。
「さあな、俺はジャコモに信用されてはいない。ただ互いの利害が一致し、利用し、利用されているだけだ。必要以上の情報は知らない」
 全くの本心から答えを返す。必要以上に互いの行動へ干渉しない。それがジャコモとアルフォドの暗黙のルール。
 だがその解答はジャンの引き金に掛けた指を動かすには十分すぎた。
「そうか、ならもう用はない」
 瞬間、アルフォドは射線から逃れるように走り出す。ジャンが放った銃弾は頬を掠め、何処からか飛来したSVDの弾丸は足下を穿った。配管から配管へと身を翻し、回廊の出口へ向かう。
「もう逃げ場はないぞアルファルド!」
 叫び声と同時、スナイパーが放ったSVDによって、出口頭上に吊されていた資材を支えていた留め具が撃ち抜かれた。轟音と共に出口は塞がり、二の足を踏んだアルフォドの脇腹にジャンの銃弾が突き刺さる。
 筋肉と内臓を焼き切っていく痛みを押し殺し、アルフォドはターンして工事用の階段を駆け上がっていった。するとそこから丁度対岸に設置された二階通路にSVD――――ドラグノフを構えているリコを見つける。
「くそっ!」
 再度放たれたリコの弾丸がアルフォドの至近距離に着弾し火花を散らす。牽制のためリコに向かってSIGを二発撃ち込むが全て見当違いの場所へ吹き飛んでいった。脇腹から響く鈍痛と出血が、彼の戦闘勘を大きく鈍らせる。
「ああ、なんてことだ……」
 そのまま崩れ落ちるように、下に詰まれた資材の山へ飛び降りを試みる。果たしてそれは正解だったようで、寸前まで立ち尽くしていたところの壁に銃痕が刻まれる。
 資材用のホロと鉄骨の中に身を通したアルフォドは、こちらに向かってくるジャンの影を見据えながらこう呟いた。
「君はこの痛みと共に戦っていたんだな」




 一時間前。

 連れて来られたのは原子炉の制御を担う制御室だった。まだ公社は到着しておらず、原発を占拠した活動家達が思い思いに時を過ごしていた。ともすればアルフォドの姿を見つけられるか、と思ったが、どうやら軍属だった彼は前線へ回されたようだ。出来れば今すぐにでも駆けつけてやりたいが、まだ己の足で立つことが出来ない以上、それは適わない。
「……フランカ、とフランコ。クリスティアーノはどうするの?」
 床に敷かれた担架の上に寝そべりながら、ブリジットは近くで作業を続けているアシクに問うた。
「彼らは公社が到着する前にここを離れ、EU圏の何処かに亡命する。お前の主人はそれに着いていくことを望んでいた」
 彼の傍らには何かが納められた黒い鞄が鎮座している。中身は十中八九核兵器だろう。旧ソビエト圏から密輸入されたそれは今回の原発占拠における切り札の一つだ。
 そしてもう一つは……
「ねえ、アシク。ならこの検事さんは連れて行かなくて良かったの? 彼女は社会福祉公社の特定人物と繋がりが深いから確保したはずじゃ」
 後ろ手を縛られ、制御室の片隅にロベルタ検事は座らされていた。原作ではたしかヒルシャーの恋人のような関係にある人物だった人間。アルフォドがジャコモに進言して拉致した経緯がある。
「世界中へお前達のような義体を公表するにはこれとない第三者の生き証人だ。実績も申し分ない。だが彼女には別の役割を演じて貰う」
「……それってアルフォドに対する契約不履行では?」
 アルフォドが公社のことを世界に公表するためにロベルタ検事を拉致したことは何となく察していた。だからこそ、ジャコモがロベルタ検事を原発に残したことにたいして、どうしても不満を抱く。
 もともと信頼も共感もしているわけではないが、信用はしていた。
「お前の言うとおり契約不履行だろう。だがそれはお前とアルフォドを繋ぎ止めておく鎖みたいなものだ。いくら私たちに協力しているからといって、彼女のような人間を見殺しにするとは到底思えない」
 成る程、とブリジットがぼやく。こちらが向こうを信用しているのなら、向こうはこちらを信頼していたのか。
 形振り構っていられない個人というのは、ある意味でもっとも信頼にたる人間なのかもしれない。
「人質みたいなもの、か」
「そうだ。そしてこれはジャコモが私に指示したことだ」 
 言って、アシクがこちらに近づいてきた。彼はブリジットの首輪に手を掛けると何処からかカードキーを取り出し、そしてそれを解除した。
「……どういうつもり?」
 首輪を外された白い首を撫でながら、ブリジットが問う。アシクは再びこちら背を向けると淡々と言葉を続けた。
「ジャコモはお前に期待している。何故ならお前は彼と似ているから。闘争に生きる意味を持った者同士、通じる物があるのだろう」
 ブリジットはそれを黙って聞きながら、身近に置かれていた装備に身を包んでいく。足に力をいれ、なんとか立ち上がると制御室の壁に寄りかかった。
「そう、一応感謝はしておくわ」
 そこでサイドアームズとして使っていた愛用のSIGがないことに気がつく。アルフォドが持って行ったのかもしれない。
 ブリジットはアルフォドにたどり着くまで体が持つことを祈りながら、制御室の出口を目指そうとした。しかし視界の片隅に映ったロベルタ検事に足を向ける。
 検事を見下ろすように立つと、彼女は頭を一つ下げてこう告げた。
「私はもってあと数時間、いや、もう一時間あるかないかの命です。だから今のうちに謝ります。ごめんなさい」
 そして懐から本を一冊取り出す。
「これは私の大切な人が、もうずっと前のクリスマスにくれた日記です。あなたはヒルシャーと知り合いなんですよね。ならこれがいつか大切な人のところに届くよう、便図を図ってくれませんか」
 ロベルタは目の前に置かれた日記帳に目が釘付けになった。それはそこから漂う重みの所為か、焦点の定まらない瞳をしているブリジットの所為か。
「これから私は死ににいきます。では、さようなら」
 今度こそ出口に向かうブリジット。その背中にアシクが声を掛ける。
「アルフォドは前線の回廊にいる。排気口を伝っていけば近道だ」 
 ブリジットは足を止めた。そして振り返る。脂汗を額に浮かせ、少し小突いてしまえば倒れ込んでしまいそうな足取りだったが、その時の表情はとても穏やかな物だった。
 彼女は桜色の小さな唇を動かした。
「アシク、最後までいろいろと有り難う。何だかんだいって、結構好きだったよ。あなたの国、救われると良いね」
 それっきり、両者に言葉はない。ブリジットは制御室を離れ、冬の冷気に支配された工事中の新トリノ原発に身を躍らす。
 時間は然程残されていない。けれど少しでも好きな人に会いたいから、歩みを止めることはなかった。



 排気口から音がした。小さな小さな音だけれども、気になって仕方がない音。
 アルフォドという、義体の女の子の担当官だった人にジャンさんが近づいていく。私はいつでも撃てるようにアルフォドさんに照準を合わしてはいるけれど、どうしても嫌な予感が捨てられなかった。
 そして、こういう時の嫌な予感はいつも当たる。
「っ! ジャンさん!」
 天井の配排気口の中から人影が飛び出してくる。人影はジャンさんの銃を握った腕を絡め取ると、そのまま投げ飛ばして見せた。
 私はスコープ越しに見つけた影に言葉を失う。
「……ブリジット?」
 いつ会ったかはもう思い出せない義体の女の子がそこにいた。
 彼女はアルフォドさんを守るようにジャンさんの前に立ち塞がると、こちらにもはっきり聞こえるようにこう叫んだ。
「私は、戦って、死ぬ!」



[17050] 第77話 ブリジットという名の少女 【ついでにブリジットのこと】3
Name: H&K◆03048f6b ID:22412ea8
Date: 2012/09/29 13:36
 彼女が俺の矢面に立った時、希望よりも絶望を感じた。
 何故ブリジットがここにいるのか。何故ブリジットがまだ戦おうとしているのか。
 彼女が血を吐いて倒れた時、正直なところ一抹の安堵を得たものだった。こてでブリジットの戦いは終わる。ブリジットを苦しめる負の連鎖は追わると。
 だが現実はどうだろう。ジャンとリコに追い詰められ、裏切り者の粛清を受けようとしていた俺を彼女は助けてしまった。
 矢面に立った彼女は叫びを上げる。戦って死ぬ、と、宣言した彼女の声色には決意が滲んでいた。
 悔しいことに脇腹一つ撃たれただけで、戦いぬく気力を削がれていた俺とは違う。いつも父親面して、そして恋人としてブリジットを愛した俺はまだまだ決意が足りていなかった。
 生き抜く決意が足りない。死にに行く決意が足りない。ブリジットを地獄に堕とす決意がなかった。
 ブリジットがこちらに振り返る。彼女は俺の頬を流れる涙を見つけ、はっとしたような表情を見せた。そしてそれを直ぐに憤怒に染め上げると今更起き上って来たジャンに向かって啖呵を切る。
「これ以上、この人は傷つけさせない!」
 ああ、違うんだブリジット。これは痛くて、傷が痛くて、死ぬのが怖くて泣いているんじゃないんだ。
 君を助けることが出来なくて。君を心の底から愛していると、誰にも自慢できることが出来ないことに情けなくなって泣いているんだ。
 だから頼むブリジット。こんな馬鹿な男の為に残りの命を使うな。
 君がもっと幸せと感じることに命を使うんだ。君はこんなところで死んではいけない。君は地獄に堕ちるべきではない。
「リコ!」
 ブリジットの乱入からいち早く立ち直ったジャンがリコの名を叫ぶ。すると数瞬と遅れることなくリコはこちらに急接近し、ブリジットに掴みかかった。ブリジットはそれに対応するように、ステップを踏み、俺から離れていく。
 やがて二人の姿が見えなくなり、打撃音と銃声も遠いものとなっていった。
 残された俺に歩み寄ったジャンはブリジットに折られたのか右腕をだらしなく肩から吊り下げていた。
「立て、アルフォド」
 言われて、出血の止まらない脇腹を押えながら立ち上がる。
「ジャコモを地獄に送る前に、お前を殺してやる」
 ジャンから再び銃口を向けられた。引き金が引かれる前に身を倒し、その場から離れる。いつのまにか手にはブリジットからお守り代わりとして借用していたSIGを握っていた。
 せめてこれを彼女に返すまでは生きよう。
 ブリジットとリコが消えていったと思われる方角へ、俺は走った。



 リコとの取っ組み合いはブリジットに何処か懐かしさを与えていた。
 彼女がこの世界に生を受けて、初めて戦ったのは意外にもリコだった。結果は惨敗。こちらを組み伏せてきたリコを投げ飛ばしたまでは良かったものの、まだ義体の体に慣れきっていなかったブリジットは技で全くと言って良いほど歯が立たず、手痛い敗北を喫していた。
 その感触を思い出す必要は全くと言って良いほどないのだが、それでも初めて義体として戦った相手というのは特別な物だ。
 さらにリコはブリジットが初めてボタンを掛け違えてしまった相手でもある。
 彼女が任務の途中でホテルボーイの少年を手に掛けることが耐えられなくて、ブリジットはその運命を変えようとした。結局は目論見は失敗に終わり、ブリジットとリコは仲違い、再調整されてしまうのだが、今更後悔はしていない。 
 ブリジットは今まで歩いてきた軌跡を後悔しない。振り返ることはあっても悔やむことはない。
 それは多分、もう終わりが目に見えているから。

「ぐっ!」
 リコの上段蹴りがブリジットの側頭部にヒットした。普段ならば考えられないブリジットの姿にリコは戸惑いを見せる。
 社会福祉公社最強の義体として君臨していたブリジットは格闘戦に於いても非凡な才能を見せていた。またついこの間まで負傷した右肩を庇いながら、左腕一つでGISを手玉にとって見せていた。
 だが今のブリジットは明らかに反応速度が遅れている。
 リコの打撃に対する速度が圧倒的に足りていない。まるでもう殆ど視力がないみたいに。
「ブリジット?」
 リコがバックステップを使ってブリジットから離れた。リコより頭一つ身長の高いブリジットは穿たれた側頭部から血を流し、鉄索に寄りかかっていた。
「……なあに、リコ」 
 息も絶え絶えにブリジットが答える。その瞳には光がなく、濁った瞳孔が広がっていた。
 リコは思わず目が合ってしまったブリジットの瞳に息を呑む。
「……ううん、なんでもない」
 恐れを、それとも憐憫か。
 ブリジットに対して抱いたもやもやとした感情を封じ込めながら、再度リコは掴み掛かった。互いに刃物類は一切使わない肉弾戦だけの殺し合い。
 だがその闘いは決して均衡していない。動きの鈍いブリジットの体に次々とリコの拳が吸い込まれていく。
 その度にブリジットは血反吐を吐き散らし、リコの白い肌を汚していった。
「まさか、こんな勝てないなんて」
 投げやりに笑ったブリジットが膝をつく。
「駄目だなあ、私。最後なのに全然しまらない。人生もっと格好良く終わると思ったのだけれど」
 立ち上がる力すら残されていないのか。拳を止め、リコは呆然と立ち尽くした。
 もっと戦えると思っていたブリジットは、「戦って死ぬ」と宣言したブリジットはもうこんなにも弱っていた。何故だかそれが悲しくて、ブリジットに近寄ることが出来ない。
「……自分の寿命ってのはね、ずっと分かってた。ねえ、リコ。私を殺してもいいから、アルフォドを殺すのは止めて欲しい。私の命をあげるから、あの人を助けて」
 ブリジットの泣き声にも似た懇願を聞いて、リコはある事実に行き着く。それは考えたくもないブリジットの悲しい覚悟。
 そう。ブリジットはこの戦場に来たときから決めていたのだ。まともに銃すら握ることの出来ない自身の戦う方法を。
 ガンスリンガーとして、義体として戦うことの出来なくなったブリジットはアルフォドの外敵を排除してやることが出来ない。ならばどうするか。答えは簡単だ。
 アルフォドが生き抜くための肉の壁なり、人質になって死んでやればそれだけでブリジットの悲願は達成されるのだ。
 ブリジットはもう生きようとはしていない。彼女が叫びを上げたように、「戦って死ぬ」ということが――――アルフォドの為に死ぬということがブリジットの目的なのだ。
 それに気がついた途端、リコはブリジットに拳を向けることが出来なくなった。
 何故ならリコもブリジットの気持ちが痛いほど理解できるから。担当官を守るために、まともに戦えなくなった義体がどれだけ辛い思いをするのか。
 担当官を守り通すことが出来ないのなら、いっそのこと担当官のために死ぬ。
 リコも恐らく、ジャンの隣で戦うことが出来なくなったらその答えに行き着くはずだった。
 だからもうブリジットに殺意を向けることが出来ない。
 一度ブリジットが内に抱いている感情に共感してしまうと、今までの場所に戻ることが出来なくなった。
「ブリジット……」
 膝をつき、俯いたままこちらを見上げてこないブリジットにリコは近づく。
 自分が彼女にしてやれることがなんなのか、まだわからない。だがリコはうっすらと思い出す。自分を庇うように、得体の知れない悲劇からこちらを庇うように目の前に立つブリジットの姿を。 
 
 ああ、そうか。
 私、この人のことが嫌いになれないんだ。
 条件付けの向こうに封印された光景が徐々に思い出される。
 あの場で少年を殺さなければならないのは、作戦を失敗したリコの筈だった。なのに、目の前で終わりを迎えようとしているブリジットはその悲劇を代わりに受け持って見せた。
 ならば今ブリジットの悲劇を肩代わりしてやれるのは誰なのか。
 それはアルフォドでも、ましてやジャンでもない。
 他ならぬ自分自身だと、驕ろうとも思わない。ただ、少しでもブリジットが楽になれるように、手を差し伸べて引っ張ってあげることは出来る。
「ブリジット」
 リコが血塗れの手で、血塗れのブリジットの手を掴んだ。
 こちらをやっと見上げたブリジットの反応は鈍い。まるで夢現の中を歩いているかのように、ブリジットの反応は脆弱だ。
「アルフォドさんのところへ行こう。私と一緒に行こう。そしてジャンさんを説得するんだ。ブリジットが少しでもアルフォドさんと一緒に生きていけるように」
 だから、と言葉を続ける。
 ブリジットの腹を撃ち抜いたときとは正反対の、憎しみではなく、優しさに包まれた表情で。

 だから立って、ブリジッ――――、

 銃声が、聞こえる。
 ブリジットは顔面に熱を感じる。






 ブリジットは朦朧とする意識の中で、己の顔面に降りかかった熱い物の正体を知った。
 こちらにゆっくりと倒れてくるリコの脇腹がごっそりと抉られていた。
 そして動かなくなったリコを受け止めたとき、ブリジットはこちらにアンチマテリアルライフルを構えている男の姿を見つけた。
「ジャ、コモ?」
 
 それはブリジットが生きる物語の災禍といっても良い、闘争に生きる男だった。



[17050] 第78話 ブリジットという名の少女 【ついでにブリジットのこと】4
Name: H&K◆03048f6b ID:cdccd3ec
Date: 2012/09/29 13:41
「お前には失望した」
 ジャコモはたった一言、アンチマテリアルライフルの銃口を下げてブリジットにそう告げた。
 リコの血肉を浴び、言葉を失ったブリジットを軽蔑してそう言った。
「お前も俺と同じ闘争に生きる人間だと思っていたのだがな、所詮は担当官のために死を選ぶ人形だったか」
 ジャコモがこちらに近づいてくる。ブリジットは凍り付いたリコの体を抱き留めたまま動くことが出来ない。目の前で起こった出来事が理解できない。
 何故自分ではなく、リコが動かなくなっているのか。
 ジャコモが拳銃を取り出し、ブリジットに突きつけた。
「立て、ブリジット。それか死ね」
 どうして、どうして、と頭の中に渦巻く。アルフォドと生きる為に、そしてアルフォドの為に死のうと、沢山の人を殺し、踏み台にしてきた。
 だからリコが撃たれたくらいで動揺する筈などない。悲しくなるはずないのに……、
「う、あ……」
 やっと絞り出した台詞は声にならない音。
 真っ白になった頭と、朦朧とする意識の所為で突きつけられた銃口にも反応を返すことが出来ない。
 ブリジットは夢遊病の患者のように、何も考えられないまま動かなくなったリコの体を抱きしめた。
「ふん、」
 つまらなそうに、とてもつまらなさそうにジャコモが引き金を引く。
 乾いた銃声の音は、原発内で繰り広げられる戦火の中に消えてなくなった。



 ジャンはアルフォドを追う途中、リコとの通信が取れなくなったことに気がついた。
 だが彼女は所詮道具だと言い聞かせながら、通信機に呼びかけることを止める。心の中に出来たしこりにも気がつかないフリをした。
 ブリジットはかつて公社最強と謳われた義体だ。いくら寿命が間近に迫り、動きが鈍くなっていたとしても不覚をとることは充分あり得る。
 ただ、こうして逃げるアルフォドを追いかけていても、一向にブリジットが現れないことを鑑みれば、もしかしたらブリジットと相打ちになったのかもしれない。
「俺は、俺の復讐を完遂する!」
 逃げ続けるアルフォドに銃口を向けながらジャンは叫び声を上げた。
 まずはジャコモに協力した憎い同僚をこの手で屠るため。
 一度アルフォドに抱いた殺意は決して消えることがない。


 
 撃たれた脇腹を庇いながら、リコに呼びかけを続けるジャンを振り返った。
 だがここまで来てもリコが現れないことを考慮すれば、ブリジットが押さえてくれているのか、それとも最悪相打ちか……。  
 アルフォドは一瞬脳裏に浮かんだ最悪の結末を、首を振ることで払拭しながら前へ進む。
 もうブリジットは助からない。空港から撤退する最中、多量の吐血をしたことはクリスティアーノが雇っている医者から聞かされた。意識がああやって復活したのも半ば奇跡みたいな物だとも言っていた。  
 公社にいたビアンキも、とっくの昔にくたばっていてもおかしくないと驚いていた。
 アルフォドは神を信じない。信じるのは神の業ではなく、人の業だけだ。
 こうしてイタリアが分裂の、内戦の危機に陥っているのも人の業だ。
 ジャコモがジョゼとジャンの家族を殺したときから、兄弟は復讐の中に身を堕とし、民間人に銃を向け続ける人生に耐えきれなくなったからアルフォドは軍から抜け出した。
 今更思い起こされるのはブリジットとの出会いだ。
 ベッドから起き上がった彼女を初めて見たときから、彼女と共に生きようと誓った。
 担当官と義体という垣根を越え、愛する者同士となった今でもそれは変わらない。ブリジットが死ぬときこそが自身の命日だとアルフォドは決めている。
「だがな、ジャン。まだあの子が生きている以上、俺は死ねない。俺はあの子をこの腕の中で死なせてやりたい」
 ブリジットが自分の為に死のうとしていることは薄々と気がついている。
 彼女がこの戦場に現れた時からそれは確信に変わった。
 だがそれを許してやれるほど、アルフォドはブリジットに優しくない。
 例えブリジットが自分の為に死ぬことを、そして彼女を踏み台にして生きることを望んでいたとしても、その願いを叶えてやるわけにはいかない。
「死ぬときは一緒だ、ブリジット」
 通路に転がっている死体からアサルトライフルを拾い上げる。そして逃げ込んだタービン室の影に飛び込み、追いかけてきたジャンに向かって発砲する。
 軍警察時代に培った戦闘勘をフル動員しながらこの場を切り抜ける策を手探りで見つけ出そうとする。
「裏切り者め!」
 ジャンから罵られてもだからどうした、と笑った。
 人として真っ当な道など、担当官となったその日から捨てた。人様に顔向けできる正義など、生まれてこの方持ち合わせてなどいない。
 あるのはブリジットに向ける愛情だけ。あの子が辛く悲しむ世界など滅んでしまえば良い。あの子を泣かせる人間などみな死んでしまえば良い。
 もちろんあの子を地獄に落とした己も例外ではない。
「さあ、こいジャン! 俺はまだまだ死なんぞ!」
 だがブリジットがその命を燃やし尽くすその時まで死ぬことはない。アルフォドは影からジャンに飛びかかり拳を振るった。
 切れよく飛んでいった拳はジャンの頬を殴りつけ、血を飛ばした。
「糞!」
 ジャンが反撃の拳をアルフォドの腹部に撃ち込む。そして追撃の銃撃も。だがそれはアルフォドが逆にジャンに掴み掛かることで命中には至らなかった。
「お前がジャコモに抱く気持ちはよく分かる。だが俺は公社がブリジットにしたことが許せなかった!」
 ジャンの首を締め上げ、アルフォドは血反吐が混じった叫び声を上げた。無精髭を生やしながらも、その整った顔立ちを怒りに歪めながら叫んだ。
 だが顔立ちを歪めているのはジャンも同じだった。
「だからどうした! アルファルド! 義体は所詮は道具だ! お前は道具に入れ込みすぎて破滅したただの愚か者だ!」
「彼女達を道具にしたのは誰だ!」
 ジャンの拳がアルファルドの鼻っ面に叩き込まれる。たまらずよろめいたアルフォドの胸に、ジャンの蹴りが突き刺さった。
「人の業を俺は背負おうとは思わない。俺はただジャコモを殺す。そのためだけに生きてきた。他に何もいらない」
「なら俺は俺の業を背負おう。そしてブリジット以外は必要ない。そのために立ち塞がる敵は誰であろうと許さない」
 アルフォドが立ち上がる。ジャンも立ち上がる。そして二人が拳銃を構えたのは同時だった。
 ジャンは己の装備品であるベレッタを。アルフォドはブリジットから借用したSIGを。
 狙いは一瞬、二つの銃弾が交差し、互いの胸を貫いていった。
 重なった銃声は消えることがなく、タービン室の高い高い天井に何処までも響いていった。



 ブリジットの視界に映ったのは天に向かって伸ばされた白い腕だった。ジャコモが放った弾丸はリコの炭素フレームで出来た骨によって止められていた。
「ほう……」
 ジャコモが楽しそうに、いや嬉しそうに笑う。それは闘争の中に生きる悦びを見つけた男の歪んだ笑みだった。
「ブリジット……」
 腕の中でリコが身じろぎをする。言葉を発する度に鮮血を口から吹き出し、ブリジットの体を汚していった。
 ブリジットはいつのまにか目尻に涙を溜ながら、リコの言葉を待つ。
「ねえ、ブリジット。私の代わりにジャコモを殺して。ジャコモはジャンさんの仇だから」
 リコの懇願にブリジットは頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けた。そうだ、これは義体の願い。義体となることで救われ、幸せを手に入れたリコの願い。
 リコは義体として生きることで幸せを感じていた。
 それは本質的にはブリジットと変わらなかった。
 自身が幸せと感じることのために命を燃やす。それはたぶんきっと、この世で一番人らしい行い。

 ブリジットが立ち上がる。
 朦朧とする意識に発破を掛け、見えない視界は全身で感じる気配で補完する。
 戦って死ぬ、と宣言したブリジットが蘇る。そうだ、最後くらい、原作のラスボスとやり合うのも悪くはない。
 アルフォドに向かって、笑顔で死ぬためにも後顧の憂いを絶たなくてはいけないのだ。
「ジャコモ」
 ただ一言、たった一言だけブリジットが呟いた。だがそれは万の言葉にも勝る威圧を持っていた。ジャコモは背筋を駆け上がっていく悪寒に歓喜する。
 そして手にしていた無線機に向かってこう唱えた。
「さあ、戦え五共和国派よ! さあ憎しみあえ! 公社の人間よ! 敵は、仇は、討つべき敵は――――、目の前にいるぞ!」
 立ち上がったブリジットにジャコモはただ笑った。
「早く来いブリジット。お前はまだ戦える。俺に見せろ、お前の闘いを」
 ブリジットが全身のバネを使ってジャコモに突進した。
 今まで無視し続けていた、義体として心にやどる闘争心を剥き出しにしてジャコモに突進した。

 この時ばかりはアルフォドのことを忘れよう。
 けれど、この闘いが終わったら、リコのことを救ったらあの人の腕の中で思いっきり泣こう。
 そして抱きしめて貰って死ぬんだ。

「ジャコモオオオオオオオオオオオオオッ!!」
 
 最後の戦いが始まる。
 ブリジットにとって長い長い最後の戦いが。



[17050] 第79話 ブリジットという名の少女 【ついでにブリジットのこと】5
Name: H&K◆03048f6b ID:d5c1f907
Date: 2012/03/30 21:07
 原発内の放送をジャックして告げられたジャコモの言葉。それは私たちの胸を穿つ強力な、それでいて恐ろしいほどの魔力を持った言葉だった。
 己の、家族の仇は目の前にいる。
 そう告げられるだけで、人々の中に渦巻く憎悪は何倍にも増幅し、引き金を引く指が止まらなくなる。
「トリエラ!」
 ヒルシャーの叫び声と同時に、前へ進む速度を爆発的に加速させる。今まで私が駆けていた空間に撃ち込まれていく弾丸の音が後ろから追いかけてくる。
 少しでも足を緩めたら、もしくは縺れさせれば即座に脳漿をぶちまけかねない極限の世界。
 私たち義体が生きていく世界は悲しいことに今日も健在だった。



「七時に複数! アンジェリカ、吹き飛ばせ!」
 アサルトライフルに榴弾砲を取り付けたアンジェリカがトリエラの影から飛び出す。
 彼女はトリエラと併走しながら放物線を描いて飛ぶ榴弾砲をテロリストが複数人固まっているポイントへ正確に撃ち込んだ。爆発と共に瓦礫と人が降り注ぎ、天井からスチームのように黒煙が噴きだしてくる。
「くそ、閉所の多人数戦がこんなにも厄介なんて!」
 十字砲座によって先頭を駆けていたトリエラとアンジェリカが足止めを受けた。彼女達が走っている下層区域を狙い撃てるように上層部には機銃座が設置されている。
 トリエラやヒルシャー、アンジェリカとマルコーに随伴していた公社の職員が機銃座の沈黙のため、散発的に発砲するが、運の悪い職員は機銃座の反撃に遭い露と消えていった。
「こちらD班! 十字砲火の陣地に嵌まり身動きが取れない! 応援を頼む!」
 マルコーが無線機に必死に呼びかけても、応答をする余裕を持つ者はここには存在しない。
 司令塔的な意味を持ち、各員に指示を飛ばし続けていたジョゼの無線も途切れたままだ。
「だめだ、どこも反撃が激しくて手を回せない」
 公社の突入によって勃発した新トリノ原発の攻防。序盤は義体や航空支援に長ける公社側が押す形となったが、機銃座や装甲車によって要塞化された原発内部に戦場を移した途端、戦線は膠着しだした。
 やや公社が押し込む形となっているものの、序盤の勢いに比べれば遙かに犠牲者が多い。
「マルコー、アンジェリカの榴弾は幾つ残っている?」
「さっきで四つめだからあと一つだ。手榴弾は三つ残っている」
「機銃座にどちらか投げ込めないか?」
「無理だな、頭を出した途端にミンチにされる」
 機銃座からは死角になっている場所に身を潜め、ヒルシャーとマルコーのフラテッロは機銃座の様子を伺う。
 絶え間なく降り注ぐ鉛の弾丸は例え義体といえども無事で済むものではない。
「マルコーさん、私が囮になりますから、その間トリエラが機銃座を潰してください」
「許可できない、アンジェリカ。これ以上誰一人として失うわけにはいかない」
 彼らに睨みを効かせている機銃座は巧妙に配置され、どちらかが襲撃されても残された機銃座が通路をカバーできるように設計されていた。それにガンナーの腕も良い。少しでも姿を銃座の前に晒そうものなら、瞬きするまもなく穴だらけにされてしまう。
「ですがマルコーさん、このままでは……」
 アンジェリカが表情を不安に染めてマルコーを見上げる。機銃座に押さえ込まれている今でも、じりじりと戦線が後退しつつある。
 このまま戦線が彼らに到達してしまうと、最悪全滅の危機になりかねない。
「くそ、誰か回り込める奴がいれば……」
 眉根を寄せながらマルコーが天井を見上げる。すると二つの影が高速で通過していった。赤毛の大人の影、そして栗色の髪を持つ少女の影だ。
 機銃座から悲鳴が上がった。

 

 マルコーが増援を要請したとき、応答こそ出来なかったものの、確かに情報を受け取ったグループがいた。それはアレッサンドロとペトラのペアだ。
 ペトラの高軌道を活かすために単体行動を認められていた彼らは、マルコーの無線を原発内に張り巡らされた排気口の中で聞いていた。
「聞いた? サンドロ」 
「ああ、何処も彼処もてんてこ舞いだな」
 二人はケプラー繊維で出来た戦闘服に身を包み、強襲型の軽装備で排気口内を進んでいた。目標は原発の制御室。そこにはソビエトから密輸入された核が運び込まれたという情報もある。
「で、どうする?」
 ペトラは排気口内で器用に振り返りながらサンドロに問う。それは助けに行くか、このまま制御室を目指すか、の二択を意味していた。
 もちろん重要度から言えば制御室に運び込まれているという核だろう。だが見知った同僚であるトリエラとアンジェリカが取り囲まれつつあるという報告も無視するわけにはいかなかった。
「……核が運び込まれたという情報はほぼ確実なものだが、百パーセントじゃない」
「なら!」
 アレッサンドロは声を荒げるペトラを見て彼女の心情を察した。ブリジットに敗北してからここ最近、彼女は血の滲むような訓練を己に課してきた。そしてそれはおそらく友人であるブリジットのためということも。なら同じ友人であるトリエラやアンジェリカを見捨てるという選択肢は最初からペトラの中に存在していないのだろう。
 だが、とアレッサンドロは臍を噛んだ。
 懸念事項はたった一つ。それはペトラのこれまでの人生だ。
 ロシア生まれのバレリーナだった彼女は、チェルノブイリの核汚染によって癌を患い自殺をした。そしてそこから、公社に使役される義体になったという経緯がある。 
 ソビエトの核の力によって人生を狂わされた彼女の使命はおそらくイタリアで使われようとしている核を止めること。普段から人の使命を説くアレッサンドロはペトラにその事実を知らせることなくここまできたことに後悔を抱いていた。さらに先の寿命が目に見えているペトラに、己の運命に対して決着を付けさせることがせめてもの罪滅ぼしになるとも考えていた。
 沈黙が二人を支配する。
 何かを訴えるかのようにペトラはアレッサンドロを見ていた。
 アレッサンドロはこちらをまっすぐと見つめるペトラを見て息を一つ吐く。
「決めたぞ、ペトラ」
 こちらに振り返っていたペトラの肩を掴み、己の方へ向き直るようアレッサンドロは彼女の体勢を変える。
「お前はヒルシャーさんとマルコーさんの援護に向かえ」
 ペトラの瞳がはっきりとした歓喜の色に染まる。だが次に続けた一言によって彼女の表情は一瞬で曇り果てた。
「俺は一人で制御室に向かう。核は俺が止める」
 何を馬鹿なことを、とペトラが口を開いた。しかしその言葉は続かない。アレッサンドロに抱き寄せられたペトラは己の口が彼のそれに塞がれていることに気がつくまで、暫く時間が掛かった。
「いいか、ペトラ。俺は核を止める。そして必ず生き残る。だからお前も死ぬな」
 ペトラの瞳を見据えるアレッサンドロの視線は堅く、鋭い。
 アレッサンドロはペトラを再び抱き寄せ、肩口に頭を乗せた。
「お前は核汚染によって義体になった女だ。本来なら制御室を目指し、ジャコモの核を止めることがお前の成すべきこと、使命なんだろう。だが使命を守り通すだけが人間じゃない。いいか、お前は掛け替えのないものを守れ。決してその手を離すな。一度離してしまっていたとしても再び掴み取れ。それがお前の人生の意味だ」
 いやだ、とペトラが呻く。それは愛しい人を一人死地に送り込むことに対する恐怖。
「安心しろ、俺は必ず帰る。お前が心配しているアルフォド組よか、もっと上手くやってみせるさ」
 アレッサンドロによって排気口の床が抜かれた。ここを降りて下層部に降りていくのがトリエラ達のいる場所へ続く近道。
 それでもなお、縋り付いてくるペトラの肩をアレッサンドは押す。
「さあ行け、お前ならきっと出来る」
 視界が急激に下がり、ペトラは一人誰もいない通路に落ちた。
 だが呆然とするのは数秒のみ、目尻に溜まった涙を乱暴に拭いながら、すぐに拳銃を抜き歩を進める。
 ここで一つ、人形と呼ばれ続けた義体は一つの選択をした。




 視界は赤。意識のイメージは真っ黒。
 死力と気力を振り絞りながら、ブリジットはジャコモをこの世から屠るべく突進を続ける。
 彼女の進んだ道の後には血の線が続き、散発的に放たれるジャコモの弾丸は少数ながらブリジットを確実に痛めつけていた。
 ブリジットは光のない瞳を涙に滲ませて、ジャコモに向かって拳銃を放つ。

 痛い、痛い痛い、痛い、怖い怖い怖い

 差し迫る死の恐怖と全身から吹き出す痛みによってブリジットの精神は摩耗し、焼き切れる寸前となっていた。
 だが歩みを止めるわけにはいかない。ここでジャコモを仕留めないと、ここで全てを清算しないと、今まで踏み台にしてきた全ての人が無駄になってしまう。
「どうした小娘! まだまだやり足りんぞ!」
 歓喜に表情を歪ませたジャコモはぎりぎりのところでブリジットの攻撃をいなしつつ、戦場を次々と変えていた。
 義体の持つ突進性は驚異ではあるが、柔軟性に欠けるという持論を展開する彼は、それをフル動員しつつブリジットをかわしていく。
 単純な戦闘力では決して義体に適わない彼だが、テクニックとそれ以上に経験に裏打ちされた戦闘勘で差をカバーしていた。
 その戦闘スタイルがブリジットに生きろ、と囁いた青年によく似ていて、ことさらブリジットの苛立ちを増幅させていく。
「なんで、お前が……!!」
 腰元からナイフを取り出し、ジャコモのがら空きになった脇腹に突き立てる。しかしナイフの切っ先はジャコモの肉に届かない。紙一重でかわされてしまったそれは勢い余ってブリジットのバランスを崩す。
 体勢を崩したブリジットの軟らかい腹部にジャコモのブーツがめり込んだ。
「どうしてあいつみたいに!!」
 だがブリジットは止まらない。
 髪を振りかざし、くの字に折れた体を反転。ジャコモの側頭部へハイキックを叩き込む。当たり前のように防がれる打撃だが、ジャコモは一つの誤算をした。
 それは義体の突進性、単純なパワーだ。
「ああああああああああああああああああっ!」
 防がれたハイキックを、体幹に力を込めることによって振り切る。
 打撃を吸収することに成功したジャコモだったが、追ってやってきた衝撃には耐えきれず吹き飛ばされた。
「ぐっ」
 壁に張り巡らされた配管を壮大に歪ませ、ジャコモは壁に打ち付けられる。ブリジットは確かな手応えを感じながら追撃を叩き込む。
「闘争がそんなにお望みなら!」
 拳を振り上げジャコモの顔面を貫いた。
「私が殺してやる!」
 本当は、ジャコモのことなんて興味なかったはずだった。もうアルフォドだけでいい。彼の為だけに残りの人生を使うつもりだった。けれどリコの白い腕が視界を遮ってから、彼女が弱々しく懇願したときからブリジットの中で何かが変わった。
 それはこの世界に生まれ落ちたとき、初めて思い立った原点のこと。
 すこしでもマシな世界を目指そう。
 すこしでも救いのある世界を作ろう。
 途中で挫折してしまったけれど、決して忘れて良いものではなかったブリジットの原風景。
「もう取り返しがつかないのかもしれない! もう間に合わないのかもしれない!」
 再びジャコモの蹴りがブリジットの腹部を吹き飛ばす。体重だけなら通常の少女と変わらないブリジットはそれだけで数メートル後方に飛ばされてしまった。
 ジャコモが拳銃を抜き、起き上がろうとしたブリジットの胸に数発の銃弾を撃ち込む。鮮血が宙を舞い、世界を汚す。
「けれど、ここまできたんだ! ここまで生きてきた! なら!」
 上体だけを起こしたブリジットが手にしていたのは一本のナイフ。彼女はそれを持って突進することはやめ、投擲の要領でナイフを手放した。
 柄を中心に回転が掛かりながら飛んでいったナイフは浅いながらジャコモの左胸に突き刺さる。
「後始末くらいはつけてやろうじゃねえか。クソッタレのジャコモ・ダンテ」
 ブリジットが立ち上がる。よろよろとした足取りで血に倒れ伏したジャコモに歩み寄る。ジャコモが落とした拳銃を拾い上げ今一歩、確実に一歩近づいていく。
「少しは感謝してるよ、ジャコモ。けれど、ここで終わりだ」
 引き金を引く。銃声がブリジットの耳を貫いていき、放たれた弾丸は螺旋を描きながらジャコモへ向かっていく。
 もう何千、何万と撃ち続けてきた彼女が放つ、最後の弾丸であることを願いながら。
 だが――――、
「あれ、?」
 狙いはジャコモの眉間。この距離ならば目隠しをしていても当てられる的。なのに弾痕はジャコモの左頬を掠め、堅い床に穿たれていた。
 そしてブリジットの視界が傾く。
 遅れてきた痛みが左足を襲い、倒れていく世界の中で吹き飛ばされたそれを見つけた。
「嘘……」
 切断された左足から血が噴き出し、倒れ込んだ視界で見つけたのはアンチマテリアルライフルを構えているテロリストの姿。
 伏せ撃ちの要領で追い打ちを掛けようとしていたテロリストを始末するも、緊張の糸を切られてしまったブリジットは起き上がることが出来ない。
「あはは、こんな終わりって……」
 身動き一つしないジャコモの横でブリジットは笑い声を上げる。
 彼女の最後の戦いが、ある意味で終わりを迎えた瞬間だった。
 



[17050] 第80話 ブリジットという名の少女 【ついでにブリジットのこと】6
Name: H&K◆03048f6b ID:7e3bfaa1
Date: 2012/03/27 15:32
 人生でこれほど寒いと思ったのは初めてだった。
 右胸と脇腹から流れ出る血が、生きている証拠である体温を容赦なく奪い取っていく。身動き一つ取ることも憚られ、背中に感じる冬のコンクリートが痛い。
「ジャン、」
 乾いた唇で声を挙げても応答がない。
 何とか首だけを動かし、ジャンが倒れているであろう方向を見れば、血溜まりしか残されていなかった。
 どうやら先に気がついて、こちらに止めを刺すことなく消えてしまったらしい。
「ついてるの、かな……」
 生かしておいてくれたのか、それとも止めを刺すだけの体力がむこうも残されていなかったのか、今となってはわからないことだがそれでも有り難い。
 あとはリコと消えたブリジットを迎えに行くだけ。
「今行くぞ、ブリジット」
 壁に手をついて立ち上がり、ふらふらとした足取りで前に進もうとする。
 速度にすれば、老人にも劣るものだったが、それでもアルフォドの瞳は死んでいなかった。
「頼む、生きててくれよ……!!」
 地獄のような戦場の中、再会のカウントダウンは始まる。



 ペトラはトリエラとアンジェリカの救出に向かう途中、ジョゼとヘンリエッタのペアと合流した。
 一期生の中でも症状の進行が速いとは言え、まだまだ現役たり得るヘンリエッタがこの戦いに投入されているのは当然のことなのだが、それでもペトラは自分よりも一回り、下手すれば二回りも小さな少女が銃を握っている光景に違和感を感じた。
「ペトリューシュカ、アレッサンドロはどうした?」
 五体満足のまま、ここまで到達してきたジョゼは一人で原発下層部に向かうペトラを訝しんで問いかけてくる。ペトラは一瞬思巡したのち、こう答えた。
「サンドロ様は一人で制御室に向かわれました。私はトリエラとアンジェリカの救出を命じられています」
 命じられたというより、こちらが懇願した形だったが、正直に伝えるよりかは少しだけ嘘をついた方がよいとペトラは判断した。数瞬、嫌な汗が体を流れるも、ジョゼはそれ以上追求してくることなく「そうか」と納得した。
「なら僕たちも救出に向かおう。ジャコモの行方が気掛かりだが、今焦っても駄目だ」
 ジョゼのその台詞にペトラは目を剥いて驚いて見せた。何故なら彼らクローチェ兄弟がジャコモに対して抱く復讐心の深さは散々アレッサンドロから聞かされていたから。
 だからここで二人に出会ったときも、ジョゼは単独でジャコモを探しているとペトラは考えていた。
 そんなペトラの思考を見抜いたのか、ジョゼは先に進みながら言葉を繋いだ。
「僕はジャコモを追うことはもちろんだが、別に探している人もいる」
 勘の良いペトラはそれだけでジョゼが誰を探していたのか理解した。
 だが敢えて沈黙を保ったままジョゼの後に続く。
「課長からアルフォドとブリジットの抹殺も命じられているんだ。公社から逃げ出した彼らが仮に諸外国に亡命してみろ。それこそイタリアの終焉だ。最初は二人のことをジャコモと同じくらい怨んだ。彼らの所為で僕はジャコモを追うことに専念することが出来ない」 
 逃げ出したブリジットとアルフォドの処断はペトラはおろか、アレッサンドロすら聞かされていないものだった。
 もう死んだものとして処理し、秘密裏に暗殺するという噂も流れていた。
「けれど僕は少し考えてみた。何故彼らが、あれほど公社のため、イタリアのために働いた彼らが今頃になってジャコモに手を貸すのか。それはとても不可解な問題だったけれど、答えはとても簡単なものだった」
 ジョゼが足を止める。ヘンリエッタが首を傾げつつジョゼの顔を覗き込んだ。そのヘンリエッタの頭をジョゼの大きな手が撫でた。
「彼らは僕たちみたいに復讐する相手がいないんだ。いや、正確には復讐するべき個人が。それはアルフォドの父を穢した政府だったり、さらにはブリジットを壊した公社だったり。もしも仮にそんな状況下で、アルフォドが担当官という垣根を越えた感情をブリジットに抱いていたら? それはもう、公社にいる理由がなくなる。僕はそう結論づけた」
 そして、とヘンリエッタを撫でていた手が彼女の頬に添えられた。
「僕はそんなアルフォドの決断を否定することが出来ない。僕がヘンリエッタをブリジットのように壊されたとき、この子を復讐の道具として割り切ることは出来ない」
 力強く放たれた言葉に、ペトラは息を呑んだ。そしてこう答える。
「……あなたはアルフォドさんとブリジットを殺すつもりですか?」
「それはまだわからない。僕はアルフォドの考えを推測ながら理解しているつもりだ。けれど見逃すかどうかは別問題だ。ならばせめて、理解している人間だからこそ全力でことに当たらせて貰う」
 ペトラは何も言えない。確かにブリジットたちが公社を裏切ったという事実は決して消すことが出来ない問題だ。
 それの所為とは限らないが、空港での大虐殺、検事の拉致のようにイタリアを揺るがす大きな事件も起こっている。
 しかし次にジョゼが伝えた言葉はそのようなペトラの懸念を一瞬で吹き飛ばした。

「僕個人としては、是非とも二人に生きていて貰いたいのだがな」


 

 ブリジット、ブリジット……
 誰かに体を揺すられた。閉じていた瞳を開けてみれば、こちらを覗き込んでいるリコを見つけた。
 荒い息と口の端から流れ出ている血が痛々しい。脇腹に穿たれた風穴も空いたままだ。
「終わったね」
 うん、と短く答えた。足まで無くしてしまった今、もうこれ以上歩くことは出来ない。リコも体力の限界だったのかブリジットの体に倒れ込んできた。
「暖かいね」
「うん」
「痛い?」
「とても」
「ありがとう」
「どういたしまして」
 視線だけを動かしてジャコモを見る。胸に刺さったナイフはさながら墓標のようで、呆気ないものだとブリジットは感じた。
 何故彼がそこまで闘争を崇拝していたのかは今となってはわからない。けれど、もし出会う場所、立場、時間が違えば彼とは良き友人になれた気がする。
「似てるんだよな、私と」
 理屈なんてどうでもいい、信念に生きよう、自分に素直に生きよう、という生き方が。
 だからブリジットはジャコモのことを否定しない。いつか戦った悲しい青年と重なるのも無理も無いことかもしれなかった。
「ねえ、ブリジット。もう死ぬの?」
 ブリジットの胸の上に倒れ込んだままリコは呟く。悪意も何もない、純粋な疑問。
 だからブリジットは包み隠さず正直に答えた。
「そうだね、変な言い方だけどあと一時間もないと思う」 
「そっか、残念だね。もっと遊びたかったよ」
 恐らくリコは助かる。ブリジットは彼女の背中をそっと撫でながらそう思った。脇腹を吹き飛ばされた彼女だが出血は思いの外少なく顔色も悪くない。
 何より、ジャコモという強迫観念として存在していた壁が無くなったことが良い方向に作用しているらしかった。
「ねえ、リコ。私の赤い線が入ったガンポーチから飴玉出してくれない? 多分二つ入ってる」
「これ?」
 ブリジットが身につけていたボディースーツの腰元からリコは言われた通り飴玉を取り出す。それは公社にいた頃ブリジットがよく舐めていたものだった。
 リコはブリジットに言われる前に、二つの包みを開け、それぞれ自分の口とブリジットの口に放り込んだ。
「どうしてだろう。懐かしい感じがするよ」
「どうしてだろうね」
 疑問を浮かべながらもころころと飴を舐め続けるリコを見てブリジットは笑った。そして思い出す。初めて原作に介入したとき、その相手はリコで、今思えば無茶苦茶をしたものだと。
 けれどもそれが自身の原風景だと悟ったとき、リコのことがとても愛おしくなった。
「ねえ、リコ」
「なあに? ブリジット」
「ありがとうね」
「なにが?」
「ううん、何でも」
 そう言って、ブリジットは再び目を閉じる。
 リコはそのままブリジットの胸に頭を預けた。
 そして――――、

「あれ?」

 音が、心臓の音が何も聞こえなくなって、


「死んじゃったの? ブリジット」



 呟きは静寂によって塗りつぶされてしまった。
 ただ、少し盛り上がっていたブリジットの胸が一番下まで落ちて、何も答えてくれないだけだった。



[17050] 第81話 ブリジットという名の少女 【ついでにブリジットのこと】7
Name: H&K◆03048f6b ID:e50e8188
Date: 2012/03/30 21:07
 私たちって、何のために産まれてきたんだろう。
 私たちって、誰に望まれて産まれてきたのだろう。
 私たちって、何のために生きるのだろう。
 私たちって、誰のために生きていけばいいのだろう。

 私たちって、誰の腕の中で死ねるのだろう。

 答えはまだわからない。


【ブリジットという名の少女】


 リコの背後で誰かが動いた。振り返れば胸にナイフを突き立てたジャコモが立っている。リコは咄嗟にブリジットが腰に差していた拳銃を抜いたが、ジャコモはそれを蹴飛ばした。
「ジャコモ、ダンテ……!!」
 憎悪に塗れた目でリコはジャコモを睨み付けた。ブリジットが文字通り、己の命を賭して討ち取った相手がまだ生きている。その衝撃たるや計り知れないものがあった。
 ジャコモは体力が切れ、身動きが取れないリコをブリジットからはぎ取る。
「やめろ!」
 動かないブリジットを乱暴に担ぎ上げたジャコモへ手を伸ばす。だが彼女の白い手はすんでのところで届かなかった。
 リコの手からブリジットが離れていく。
「もしもお前の担当官が来たらこう伝えろ。公社の狗」
 こちらから見上げるジャコモの影は大きい。己の担当官が全てを駆けて追い続ける男は遠い。
「核のもとで会おう、諸君らよ」


 ペトラ達と合流したトリエラは、テロリスト達の攻勢が静かになったことへ不信感を覚えた。
「ヒルシャーさん、ちょっと静かすぎませんか?」
 ペトラとヘンリエッタに機銃座を潰され、それに怖じ気づいたのかこちらへ攻撃を仕掛けてくるテロリストがいない。前へ進むチャンスと言えばチャンスだがあまりにも不自然すぎる。
 ヒルシャーは口元に手をやりながら思考を巡らせた。
「わからない。だがもしかしたら……」
 そう言ってヒルシャーは天井を見上げた。それは原発の制御室などが集まる区画がある場所。
「核、か」
 マルコーの呟きにヒルシャーは頷く。アレッサンドロが核の存在を確認、もしくは破壊に成功したという知らせは入ってきていない。
 だからこそ気になるというのがその場にいた全員の本心だった。それに音信不通となったジャンとリコのチームも心配だ。
「どうしますか? このまま全員で上がりますか?」
 トリエラが天井を指さしヒルシャーに問う。それに答えたのはヘンリエッタの傍らに立っていたジョゼだった。
「いや、ここで二手にわかれよう。課長に命じられた命令もある。僕とマルコーは引き続きジャコモの捜索だ。ヒルシャーとペトラはアレッサンドロが一人で向かった制御室へ急いでくれ」
 ジョゼの提案に反対する者はいなかった。
 一人で核を確認しに向かったアレッサンドロを案じる者、何処かへ潜んでいるとされるジャコモを追う者、それぞれ違った目的を抱えてるが目指すことは同じだ。
「必ず生きてまた会おう。では状況開始だ」
 ジョゼの号令に全員が応、と答える。戦いの終焉は近い。そう感じさせるような声色をそれぞれが含んでいた。


 目が覚めたのは女の悲鳴の所為だった。
「あなた……!!」 
 縛られながらも誰かがこちらに縋り付いてくる。重いまぶたをゆっくりと開ければ、視界に映ったのはいつぞやの検事の顔。
「こんなに傷ついて……」
 ブリジットは震える両手で己の体をかき抱いた。腹部には深部に達していないものの数発の銃創。そして打撲と打ち身が全身。極めつけは失われた左足だ。
 だが彼女の驚きはそこではない。
「生き、てる?」
 そう、ブリジット自身がもう終わりかもしれないと悟った以上、彼女が生きていることは奇跡に等しかった。
 さらに足から吹き出ていた出血はいつの間にか鳴りを潜めている。
「それは安定剤の所為だ」
 声は検事とは反対方向。見れば制御室の机の上で己の胸に刺さったナイフを引き抜いているジャコモがいた。粘つく血液を振り払うようにナイフが床に捨てられる。
 ブリジットはそんなジャコモを睨み付け、視線だけで台詞の続きを促した。
「お前に投与した安定剤は肉体が本当の限界に近づいたとき仮死状態にさせる効果がある。血圧を極端に下げ、それこそ一時的には心配が停止したと錯覚するほどにな。そこから目覚めるかどうかは運次第だが、どうやらお前は賭けに勝ったようだ」
 言われて思い出すのはフランカが直前に打ち込んだ注射だ。不安定な義体機能を補うためのものだと思い込んでいたが、まさかそのような効果があるとはブリジット自身も知らずにいた。
「だが次はないと思え。いわばお前は死人だ」
「なら何故ここに連れてきたの? そのまま見捨てて殺せばいいじゃない」
 ブリジットは回らない頭で疑問点を確認していく。それは何故ジャコモが彼女をここに連れてきたのか、ということだ。
 一度とは言え、ブリジットは完全にジャコモを負かせてみせた。そして殺そうとも。ならばそんな相手、あのまま捨て置けば良かったのだ。
「さあな、自分でもわからん。だが確信はある。お前はまだまだ面白いと」
 アシクとロベルタを置き去りにした二人の会話は、まるで積年の友人同士のような雰囲気を持っている。それはとても、数刻前まで本気の殺し合いをしたとは思えないほどに。
「お前は信念を持っていない。なのに戦う。今回もクリスティアーノと共に国外へ逃亡すれば良かった」
「それは嘘だ。私はアルフォドと共に生きたいから戦う」
「ならお前が目覚めた、いや、正気を取り戻したときに無理矢理にでも俺たちから連れ出せば良かったのだ。だがお前はそれをしなかった。それが何故なのか俺にはわかる」
 ブリジットの言葉が止まる。
 それはブリジットが常々思い続けていたこと。何故自分が戦うのか、何故自分がここまで来たのか。
 アルフォドを愛しているだけでは説明出来ない、自分が戦う、もっとも根本的な理由。
 それがジャコモの口から語られる。

「お前は死に場所を探しているんだ。己の終焉に相応しい、望む限りの死に場所をな」

 凍り付いたのはロベルタもアシクも同じだった。だがもっとも衝撃を受けたのはブリジットその人。
 彼女は目を見開いたまま呼吸すら止めていた。
「わからないか、小娘。お前は生きる為に戦ってきたのではない。死ぬために戦ってきたのだ」
 そこで脳裏に浮かぶのはブリジットに望みを託した二人の姿だった。二人は死に際にブリジットの生を願った。今思えばあの二人の言葉は呪いだ。
「お前は普通の死では満足できない。理由は知ったことではないが、お前は満足のある死を望んでいる。その為に今も生きているのだ」
 ピノッキオとエルザ、二人の生を踏み台に生きていたブリジットは本人が知らないままに呪縛を受けていた。それは生きることを強制するものではない。二人に対して胸を張って誇れる死を望むものだったのだ。
 そのことをジャコモに指摘されたブリジットはようやく動きを見せた。
 笑い声という音を持って。
「……なんだ、そういうことだったのか」
 こころの中に引っかかっていた最後のとっかかりが消えたとき、ブリジットは笑顔を見せた。
 それはこれから死ぬとは思えない、人間らしい綺麗な笑み。
「本当、お前には感謝してばかりだ、ジャコモ。これで心残りがないとは言わないけれど、それでも一つ消えてくれたよ」
 ロベルタの肩を借りて、ブリジットは起き上がる。
「だが死に場所を、いや、私と同じような生き方をしている人はもう一人いる。私はその人の腕の中で死にたい」
 立ち上がることも、銃を握ることも出来ない。だが彼女にはもうそれすら必要ない。
 彼女に必要なのは大きな銃では無く小さな幸せ。
「それまで戦おう。ジャコモ、アシク。私の死に場所のため、後悔しないように」







 ブリジットを連れて行かれたリコは己の無力さに涙した。
 折角楽になったはずだったのに、ブリジットはまだ戦場に囚われ続ける。
 だがそんな彼女の涙を拾う者がいた。それは胸をアルフォドに撃たれながらも、気力だけでここまでたどり着いたジャンだった。
「リコ」
 呼ばれてリコはジョゼに縋り付いた。それはジャコモを殺しきれなかった謝罪、そして友人を守り通せなかった懺悔。
 だがジャンはリコを叱りはしなかった。ただ彼女の髪をかき抱き、静かに抱きしめる。
「安心しろ、リコ。ここからは俺の戦いだ。お前はもう休め」
 リコを復讐の道具として見続けていた男の静かな声。それにリコは涙を止めた。
「ジャンさん?」
「俺はアルフォドに負けた。だからこそ、この様だ」
 身につけた防弾チョッキの隙間を縫って穿たれた一つの穴。左胸に空いた小さな穴はジャンの命の残りを教えてくれていた。
 リコはいや、と首を振る。最も大切な人が死のうとしている中、何も出来ない自分に殺意すら覚えている。
「俺は残りの命をジャコモを殺すために使う。それまで動けないお前を連れて行くことは出来ない。だからお前は生きろ。お前のためだけに生きろ」
 リコの願いは届かない。自分を連れて行って欲しいという願いも、自分の為に生きて欲しいという願いも。
 何も届かない。
「リコ」
「嫌です!」
 リコの手から再び誰かが離れていく。掴むことの出来ない非力さは何の罰なのか。
 背中を向けたジャンが歩みを再開する。

「ありがとう」

 ジャンが目の前から消えてから、
 戦場に響くリコの泣き声が止むことは無かった。
 
 
 
 
 
 


 



[17050] 第82話 ブリジットという名の少女 【ついでに         】8
Name: H&K◆03048f6b ID:e31ddf34
Date: 2012/04/01 00:04
 公社に追い詰められるかたちとなったテロリスト達の生き残りは、ジャコモとアシク、そして核爆弾が持ち込まれている制御室を目指していた。
 だがその道のりは決して楽な道ではない。死兵に近い義体達が獲物を狩る獣のように迫ってきていたからだ。
「くそ! これ以上の組織戦闘は無理だ!」 
 一人、又一人と撃ち倒されていく現状に、誰かが悲鳴を上げた。床を埋め尽くすのは戦いに敗れた骸達。
 彼らの屍を超える者はいても、拾う者はいない。

「トリエラ! 側面だ!」
「わかりました! ペトラ手伝って!」
 ペトラがスペクトラを掃射し援護射撃する。トリエラはその弾幕と共にテロリストに掴み掛かった。彼女が短剣を振るう度に血飛沫が舞い、活路が開かれていく。
 距離がある敵にはウィンチェスターをお見舞いし、近すぎる敵には得意の格闘術を叩き込んでいく。全てはブリジットと共に鍛えたトリエラの生きる術。
 サブマシンガン、スペクトラを放つペトラのそれも、ブリジットと共に培った技術だ。
 そして彼女達はたどり着く。不自然に静かな、いや銃声達は皆無でも少女の泣き声が木霊するフロアへ。
 床に広がった血溜まりの先に、声を挙げて泣くリコがいた。
「リコ!」
 風穴が空いた脇腹を見て、血相を変えたトリエラが近寄る。だがリコが涙を止めることはない。何故なら彼女は痛みで泣いているわけではないのだから。
 ペトラが応急セットを取り出し、治療を施していく。
「リコ、ジャンさんは?」
 リコを抱き上げたトリエラがジャンの所在を問う。本来なら決して離れることのない担当官の姿が見えないことは、とても見逃すことが出来る問題ではなかった。
 そしてリコの口から語られた事実はその場にいた人間にとって衝撃的なものだった。
「ジャ、ジャンさん、は……わ、私をおいてジャコモのところに、」
 さらに、
「ブリジットもジャコモに連れて行かれた……」
 そこまで告げて、いよいよリコの涙腺は崩壊した。己が最も守らなければならない担当官が一人死地に赴いたことも、折角再会したブリジットが連れて行かれたことも、彼女に取って一人で受け止めるにはあまりにも思い出来事だった。トリエラの胸に縋りながらリコは泣く。
「お願い、助けてトリエラ! ジャンさんを助けて! ブリジットを取り戻して!」
 リコの願いは在りし日の幸せを取り戻そうとするもの。もう二度と戻らない日々、人だということは知っていても彼女は抗うことを止めない。
 その命が続く限り、誰かに言葉が届く限り。
 そしてそれはトリエラも同じだった。
「わかったよ、リコ。私たちがジャンさんを助ける。ブリジットも取り戻す。……ブリジットはこの先にいるんだね?」
 リコは小さく頷く。
「うん……」
「そうか、ありがとう」
 トリエラが立ち上がる。ペトラもそれに続き、それぞれ手にしていた武器に弾を込める。最後の戦いが近い今、残された武器は少ない。もちろん寿命も。だが二人はこの先に友人がいることを知って覚悟を決めた。
「行こう、ペトラ。ヒルシャーさん、リコをお願いします」
 ヒルシャーが何かを返す前にトリエラは歩みを進めた。
 そして彼女は声を挙げる。
「待っててなさい、気まぐれ黒猫。今度こそ捕まえてみせる。もう、あなたを離さない」




 中央制御室、西側通路

 
 ブリジットとロベルタ、そしてアシクを残しジャコモは数人の部下を連れて中央制御室に繋がる西側通路に陣取っていた。
 最後の戦いを前にして各々の表情が硬いなか、ジャコモだけは笑っていた。
 そしてその笑みはゆっくりとした足取りで現れたジャンによってさらに深める。
「ようやく来たか。公社の狗の飼い主よ」
 ジャンは答えない。ただ通路から覗く配管が張り巡らされたフロアに身を潜めた。一対多数の今、彼に勝ち目はない。ここまで来て、仇に届かない己の力にジャンは血に塗れた唇を噛んだ。
「ソフィア……」
 ジャコモによって殺された恋人の名を呼ぶ。己を変えてくれる、いや、変える筈だった人はもうこの世にはいない。だがもう少し、もう少しでそこに行けるとジャンは笑った。
 もう失うものは何もない。全てを捨て、復讐のためだけに生きてきた。
 ならば復讐のために死ぬのが踏み台にしてきた全てに対する道理。
 ジャンは言うことを聞かない体にムチ入れながら、手にしたたった一つの拳銃を構えながら、通路に躍り出た。
「力をくれ! ソフィア!」
 狙いを付ける余裕はない。ジャコモが従える数人の部下が放つ弾丸が体を貫いていく。
 それでもジャンは止まらない。引き金を引くことに己の全てを注ぎ込む。
「ジャコモォオオオオッ!!」
 螺旋を描く弾丸は果たしてジャコモに届いたのか。
 その行方を見定めるまもなくジャンは床に倒れ伏す。そして彼は前のめりに、仇敵であるジャコモに向かって倒れ込んだまま動きを止めた。
「今、そこに……」
 最後に見えた光景が何だったのか、それはジャンにしか分からない。だが少なくとも彼は、片腕を押さえて立ち尽くすジャコモを見ずに死ぬことが出来た。
 その後に続く地獄のような笑い声も。
「そうか! 俺はまだ死なないのか! まだ生きているか小娘!」


 扉越しにジャコモの笑い声が聞こえる。ブリジットは荒い息で天井を見上げたまま、目頭をそっと押さえた。
「ごめんよ、リコ」
 謝罪は誰にも届かない。だが動く者はいた。
 核の起動スイッチの近くに待機していたアシクは床に転がされたブリジットに近づく。咄嗟にロベルタがそれを庇うも、拘束された状態ではそれも適わない。
「ブリジット、お前はまだ戦いたいのか」
 アシクの真っ直ぐな瞳がブリジットを射貫く。ブリジットは一瞬自分が何を言われたのかわからなかった。しかしその言葉の意味を理解したとき、彼女の答えは一つ。
「ジャコモを喜ばすのは癪だけどね」
 返答はそれで充分だった。アシクは床に転がされていたアサルトライフルを掴み取ると、マガジンを抜き、簡易ドライバーでストックを外した。そしてそれを失われたブリジットの左足にくくりつける。
「歩けるのも、立ち上がれるのも一瞬だ。その時をよく考えろ」
 アシクの言葉の意味は理解した。ブリジットは一言「ありがとう」と告げると、続けてこう言った。
「結構、あなたのことは好きだよ」


「……新手か」
 防弾盾を構えながら二つの影が西側通路に突入してきた。戦闘の収束を予感したジャコモは踵を返し、制御室に戻る。
 背後では赤と金色の髪をした少女達が残された部下達を血祭りに上げていた。
「ジャコモ!」
 ようやくこちらの存在に気がついた金髪の少女が叫びを上げる。だが捨て身で防衛網をはる部下達がその進路を阻んだ。五共和国派としての、イタリアのために戦う者としての意地だけが彼らを動かしていた。
 赤髪の少女が男に組み付かれながらも、スペクトラをジャコモに構える。
 その所為で男が取り出したナイフに胸を刺されようと、彼女は構えを解かなかった。
 だが断続的に放たれた弾丸は寸前のところでジャコモが閉じた防弾扉に阻まれる。ジャコモは度重なる小さな勝利に歯を見せて笑った。そして制御室の中、アサルトライフルを義足代わりにして立つブリジットを見たときも。
「まだ来るか、小娘」
「…………」
 返事はない。ただブリジットの姿が一瞬だけぶれた。ジャコモが抜いたナイフをすり抜け、ブリジットはジャコモの懐に飛び込んでいく。
 ジャコモは怖いくらいにゆっくりとした世界の中、ブリジットの瞳を見た。
 夜のように黒い瞳には、彼が追い求め続けた闘争の炎が宿っていた。
「……なんだ、こんなところにあったのか」
 台詞はそれだけ。
 掴み掛かったブリジットの小さな口がジャコモの喉仏を食い破り、制御室に血の噴水を巻き上げる。ロベルタは悲鳴を上げ、アシクは静かにその様子を見つめていた。
 ブリジットと共にジャコモは床に倒れる。
「ごふっ」
 血泡を吹き出したジャコモは己の上にのし掛かったブリジットを横に寝かせた。彼女は瞳を閉じたまま、血で真っ赤になった口を笑顔に染めていた。
「     」
 ジャコモの台詞は声にならない声。だがブリジットには届いていた。
 ブリジットは小さく、小さく笑う。
「最後の最後にブリジットって呼ぶな。クソッタレのジャコモ・ダンテ」


 傷ついたトリエラとペトラが防弾扉を蹴破り、制御室の床下スペースからアレッサンドロが飛び出してきたのは完全に同時だった。
 両者に囲まれたアシクは抵抗を一切見せず、ただジャコモ亡骸の傍らに横たわるブリジットを指さした。
「そこにいる彼女を助けてくれ」
 言われて三人が見たのは最早虫の息のブリジット。足にアサルトライフを括り付けていた彼女は眠ったように動かない。
 トリエラは手にしていたウィンチェスターも、体中に刻まれた傷も忘れてブリジットに駆け寄った。
「ブリジット!」
 空港で出会ったときよりも遙かに弱り切った彼女に視界が真っ暗になりそうになる。同じ義体だからわかる。ブリジットの寿命はもうとっくの昔に過ぎている。ならば今生きているのは奇跡みたいなものだ。
 なのに、ブリジットを抱きしめるべき人間はこの場にいない。
「目を覚まして、ブリジット!」
 無駄だと分かっていても、呼びかけは止まらない。ペトラもいつかのようにブリジットの頭を抱き体を揺さぶる。
「駄目よブリジット、眠っちゃ駄目!」
 応答を全く返さないブリジットに焦りだけが増えていく。
 猫のように笑い、全ての義体に好かれていた彼女は今まさに死のうとしていた。死に場所を探し続けて、亡霊のように生きていたブリジットという名の少女が。
「起きなさい! ブリジット! あなたはまだ死んじゃ駄目なの!」
 ブリジットの胸が下がり、中々上に上がらない。トリエラはブリジットの口周りに着いたジャコモの血液を拭い、そのまま口づけた。
 そしてまるで己の命を分け与えるかのように、息を吹き込んでいく。
「死なないで、死なないで、死なないで!」
 心臓を押し、弱々しい息を補うために人工呼吸を続ける。思い返すのはブリジットと共に戦い続けた日々、ブリジットと共に生きてきた日常。
「もう離さないって決めたの! もう逃がさないって誓った!」
 夢の中のブリジットの手を掴めたことは終ぞない。だが今は夢ではない。ブリジットは現実でそこにいる。ならば今掴むしかない。
 今離してしまえば、もう二度と掴むことが出来なくなる。
「お願い、ブリジット!」
 ペトラもブリジットの冷たくなった手を握る。薬の後遺症に悩み、発作を起こした彼女を救うことは適わなかった。だからこそ、今度こそ助けてみせるとブリジットの名を叫ぶ。
「まだ終わりなんて信じないんだから!」




「そうだな、まだ終わりには早いかもしれない」
 



 蹴破られた防弾扉に男が一人現れた。トリエラとペトラの叫びが止まる。
 現れた男は脇腹と胸を押さえながら、瞳を閉じ続けるブリジットに近づいた。そして赤く彩られた手で彼女を抱き上げる。
「ごめん、遅れた。許してくれ、ブリジット」
 
 ブリジットはアルフォドの腕の中、そっと瞳を開いた。








 次回、ブリジットという名の少女 最終回
 







 
 
  



[17050] 最終話 ブリジットという名の少女 【これがブリジットということ】
Name: H&K◆03048f6b ID:e31ddf34
Date: 2012/04/02 01:21
「首相、合衆国大統領はなんと?」
 イタリア中が五共和国派の決起にさらされ、国軍、軍警察共にフル動員されているなか、首相と呼ばれた男はホットコールの受話器を静かに下げていた。
 そして目の前に立つ内閣の人員を厳しい眼差しで見つめる。
「NATO軍の介入が決定した。拒否権はない。これからイタリアは冬の時代だ」
 それは世界中がイタリアのみでの事態の収束を諦めた結果だった。これ以上イタリアに内戦の火種が燻り続ければ、EU諸国共々崩れると判断されたのだろう。
 想定しうる最悪の事態に首相は小さく息を吐いた。
「新トリノ原発での戦いは終わったそうだ。だが空港、駅、市庁舎を狙ったテロはまだまだ続いている。もしかしたら年貢の納め時なのは我々かもしれんな」
 首相官邸の窓から見えるイタリアの夜は雪が降っていた。
 空はひっきりなしに軍用ヘリが飛び、町中では装甲車が睨みをきかせている。決して平和な夜とは言えないが、それでも美しいと断ずるに相応しい夜の景色だった。
「終わりが、近いのかもしれんな」




「遅いじゃ、ないですか」
 瞳を開いたブリジットは開口一番こう言った。
 それはいつものように、ただ自然に、これから死ににいくものとは思えないくらいに。
「これでも必死だったんだ。でも良かった。君より先に、君が先に死んでいなくて」
 死に場所を探し続けていたブリジットは今こうして、アルフォドの腕の中にいる。それがどれほど幸せなことか、周りのトリエラ達は理解していた。
 静かな邂逅は続く。
「まあ頑張りました。もう思い残すことはないくらいに」
 ブリジットの視線の行き先を追えば、そこにはジャコモの亡骸があった。泥臭く、けれど必死に掴み取った勝利の証が存在している。
 原作を変えようと、少しでもマシな未来を作ろうとしたブリジットがたどり着いた答えは今ここに結実した。
「ジャンさんやジョゼさんには悪いことをしましたね……」
 二人の兄弟がジャコモに賭けていた思いを痛いほど知るブリジット。だから彼女は、自身がジャコモに手を下してしまったことについて思うことがないわけではなかった。
 後悔ではない、もっと別の何か。
「……ジャコモにお前は死に場所を探している、って言われました」
 アルフォドの背中に手を回し、ブリジットは顔を彼の胸に埋めた。浅い息を幾つか繰り返し、そして続ける。
「私の死に場所はここです。だから見守ってください。私が死ぬところを。ブリジットという名の少女が生きた軌跡を」
 アルフォドは黙ってブリジットの体をかき抱いた。銃創に犯され、ボロボロになってしまったブリジットの体を。
 こんなにも小さかったのか、こんなにも細かったのか、と脳裏に走る懺悔も今となっては遅いものだった。
「……そして生きてください。私の生きた軌跡の向こうを繋いでください。それが、それだけが最期の望みです」
 ブリジットの言葉にアルフォドは頷くことが出来ない。もう助けることは出来ない。もう共に道を歩むことも出来ない。目先に現れた分かれ道が怖い。
 だから抗いたい。折角手に入れた、腕の中の小さな幸せの象徴を失わないために。
「駄目だ、生きろ。ブリジット。それに君が死ぬときが俺の命日だ」
 ブリジットがアルフォドの瞳を覗き込む。澄んだ泉のような綺麗な瞳で。そして彼女の瞳は真っ直ぐアルフォドを見つめたまま語る。「それはだめだ」と。
「ここまで生きてこれたのが不思議なものなんです。……それに、あなたに追いかけられても嬉しくありません」
 ブリジットの声が震えていた。
 彼女は目線を逸らすことなく続けた。
「ごめんなさい。嘘です。私は死にたくない。まだ死にたくないです。……だって、折角全部終わったのに、こんなのってあんまりじゃないですか。私が何をしたっていうんですか。何で私が死ぬんですか」
 全ての戦いが終わったとき、溢れてきたのは今まで気がつかないフリをしていた感情の全てだった。
 それはブリジットがこの世界に生まれ落ちたときから抱いていた悲しい心。味方一人いない世界で、一人で生きていかねばならなかった彼女の本音。
 憑きものが取れたように、全てを振り払うように生きていた彼女が最期の最期に漏らした本音だった。
「なんで私が、義体なんかに、なって、好きでもない、イタリアのために戦って、無理矢理好きにさせられた男を、愛して、戦って、死ななければ、ならないん、だ、」
 本音と共に溢れた涙が止まらない。
 ブリジットはアルフォドの首に掴み掛かった。
「もっと幸せに生きたかった! もっと誰かに愛される人生が良かった! あなたたちが、あなたたちが全部それを壊したんだ! 私はジャコモを、ピノッキオを、ユーリを殺してきたのに! あなたたちは何もくれなかった。自分で手に入れるしか無かった!」
 ぎり、と掴み掛かった手に力が入る。周りで呆気にとられていたトリエラとペトラが我に返り、ブリジットを止めようとする。しかしアルフォドはそれを手の動きだけで制した。
 彼は何も言わなかった。
「嫌だ嫌だ嫌だ! 死にたくないよ! 私、死にたくない! 助けてよ、トリエラ。助けて、ペトラ、……助けて、エルザ。私、君みたいになれなかったよ。ごめんよ、ピーノ。私君みたいに死ねない」
 ブリジットの手がアルフォドから離れる。掴み掛かる力すら失ってしまった彼女は無残にも床に崩れ落ちた。己の作った血溜まりの中で手足が震える。
「死にたく、ない。死にたく……」
 声が、どんどん小さくなっていく。だがそんなブリジットを再びアルフォドが抱き上げた。
「ならば、共に死のう。ブリジット。俺は君を一人にしない」
 いつの間にかアルフォドの手には拳銃が握られていた。それをブリジットの手の平に掴ませる。彼女ははっ、とした表情でアルフォドを見上げた。
 引き金が指に掛かる。

「愛している。ブリジット。地獄へは共に行こう。永遠君と共にいよう。だから怖がらないでおくれ。君の涙は必ず拭いてみせる」

 ブリジットが引き金を引いた。アルフォドに抱かれながら、唇を深く深く互いに合わせながら引き金を引いた。
 結論から言ってしまえば、この弾丸が、ブリジットが生涯最後に撃ち放つ弾丸だった。




 最終話 ブリジットという名の少女 【これがブリジットということ】




 ――――床を穿った弾丸は火花を散らした。
 ブリジットは弾痕の行く末を静かに見つめると、銃を床に捨てた。
「私に必要なのは、こんな銃じゃないよ。アルフォド」
 アルフォド腕の中にいるブリジットはもう一度唇を重ねた。最期のキスはブリジットとアルフォドの、それぞれの血の味がした。
「ごめんなさい。迷いは捨てれそうにないけど、持って行く覚悟は出来た。やっぱりあなたは死んじゃ駄目だ」
 笑顔は壮絶なものだった。その場にいた人間が誰一人として言葉を忘れるような、そんな笑み。

「だってあなたは、私の幸せそのものだから。――――最期くらい、それくらい守り通してみせる。全部壊してしまった私だけど、これだけは譲れない」

「さようなら。私の愛しい人。さようなら、私の大切な友達。私は幸せになります」

 
 ふらり、とブリジットが倒れる。慌てて抱き留めたアルフォドが何を告げても、彼女が言葉を発することは永遠にこなかった。
 ブリジットは、ブリジットという名の少女は、義体らしく担当官の腕の中で死に、幸せな少女らしく、愛する人の腕の中で死んだ。

 彼女が手に入れたのは、大きな銃ではない。
 たった一つの小さな幸せだった。



 ここに、ブリジットという名の少女の生きた物語は終わりを告げた。

































 いつかきた、真っ白な空間でブリジットは一人立ち尽くしている。
 彼女は心細い気持ちで歩みを進めた。すると目の前に二人、懐かしい顔を見つけた。
「ああ、ピーノ。エルザ、ここにいたんだ。ありがとう。二人に言われたとおり、もう少しだけ生きてみたよ」
 歩き出した彼女の足は止まらない。
 こちらを見守る二人に向かってただ歩き続ける。

「楽しかったよ、今までありがとう」

 そこから先、ブリジットが何処へいったのか、知る人はいない。




 ブリジットという名の少女   END









 第十章あとがき。
 
 ブリジットという名の少女。二年掛けて完結しました。多分エンディングには賛否両論あると思いますが、ブリジットの生きた道はこれで終わりです。
 次回作は何も考えていません。強いていうならチラ裏のやきうを本職にするくらいでしょうか。あちらもぶっちゃけWBC編くらいの構想はあるので書こうと思えば一番楽です。
 感想欄にて個別に名前を出すことは出来ませんが、二年もの間この作品を見守ってくださった読者の方々、あなた方のお陰でブリジットは完結しました。何度途中でエタろうと思ったか数え切れないくらいです。
 感謝のしようがありませんが一言だけお願いします。本当にありがとう。
 さて、同じArcadiaにて連載をされている「主」さまがこの作品の三次創作を書かれています。本当に有り難う御座います。楽しく読ませて頂いております。是非ともブリジットを救ってやってください。
 最後に、このお話の後日談のようなものを近日中に投稿することだけを報告してあとがきとさせて頂きます。しつこいようですが今まで本当にありがとう御座いました。
 またいつか出会える日がくることを心待ちにしております。
 
 



[17050] エピローグ
Name: H&K◆03048f6b ID:e31ddf34
Date: 2012/04/02 16:15
「アルファルドさん! 今日は何処に行くんですか?」
 ベッドの上で少女が声をあげる。黒髪を肩口まで伸ばした彼女は左足がなかった。
 彼女はアルファルドと呼んだ男に義足をはめて貰いながら、楽しみを隠しきれないっといった様子で問いかける。
「……今日は俺の大切な人のお墓参りさ。ブリュンヒルデ」
 朝日が差し込む病室で、無精髭を生やした男は静かに笑った。



 墓は海が見える丘の上にあった。石碑には名が刻まれていない。ただ手入れは行き届いているのか、大理石で出来たそれは昼の暖かい日差しを受けて白く輝いていた。
 ブリュンヒルデは自分の介護士が墓に花を手向ける様子を黙って見守っていた。彼女が世話をしている二匹の黒猫が足下で鳴き声をあげる。
「ねえ、アルファルドさん。ヒルダとブリジットがお腹空いたって」
 二匹を猫を抱えあげてブリュンヒルデが笑う。アルファルドはそうか、と呟くとポケットの中からチョコレートを取りだして彼女に渡した。
「もう、ヒルダとブリジットはチョコレート食べられないよ!」
 到底、猫の餌には相応しくないものを手渡されてブリュンヒルデは頬を膨らます。アルファルドは一瞬、我に返ったような表情をすると「すまない」と小さく頭を下げた。
「……昔、これが好きな女の子がいたんだ」
 彼の視線の先には大理石の墓がある。ブリュンヒルデはそれを見てこう言った。
「その女の子がそこにいるの?」
「いや、ここにはいないよ。もう何処か遠い、俺の手の届かないところに行ってしまった」
 寂しそうに答えを返すアルファルドを見て、ブリュンヒルデは眉根を下げた。
 きっとその女の子は自分なんかより、よっぽど彼の心の中を支配していたに違いない。
「彼女はね、幸せじゃなかった。けれど諦めなかった。彼女が生きてくれたおかげで今の俺がいるんだ」
 丘に風が舞い、芝生が宙に舞う。ここから見える海はとても雄大で、綺麗な景色に違いなかった。
 そしてアルファルドは何かを思いついたかのように言葉を開いた。
「ヒルダとブリジットの餌は車に積んである。取ってきてもいいよ」
「アルファルドさんはどうするの?」
「暫くここにいる。ここで待っているよ」
 穏やかに告げるアルファルドに従い、二匹の猫を携えてブリュンヒルデは丘を駆け下りていく。それと入れ替わりに、春だというのにロングコートを纏った男が麓から歩いてくるのが見えた。
 アルファルドはその様子を見て、目を見開いた。
「ヒルシャー……」


 五年ぶりに出会った同僚は記憶よりも老けて、けれど生気に満ちた顔をしていた。
「久しぶりだな。アルフォド。いや、もうここではアルファルドか」
 丘を降りていくブリュンヒルデを見ながらヒルシャーは再会の挨拶を告げた。
「似ているな、彼女に。聞いたよ、実家に戻って介護士になったんだってな」
 イタリアでアルフォドと呼ばれていた男は、偽名を名乗ることをやめ、ドイツの地で静かに暮らしていた。あれほど変えることを拒んでいた実家にもすんなりと順応できた。
 もう公社で働いていたのは遠い昔のことのように思える。
「……彼女はブリュンヒルデ。ドイツが持ち帰った義体の情報を民間に流用した義足をはめている。ブリジットの系譜だよ、彼女の足は。その所為かここ数年でよく似てきた」
 墓の前に腰掛けてアルフォドは語る。
「君はいま何をしているんだヒルシャー、トリエラはどうした?」
 新トリノ原発戦で戦力を大幅に減らした社会福祉公社は解体された。その際、NATO諸国の介入も激しかった。
 生き残った義体はそれぞれ専用の施設で最期を迎えたという。
「一昨年逝ったよ。戦いを止めた途端、随分もった。その半年後にクラエスが、その翌月にはペトラとアンジェリカも逝った」
「……リコはどうした?」
 新トリノ原発で産まれた殉職者には軍警察で共に戦ったジャンの名前もあった。彼に付き従っていたリコは弟のジョゼに保護されたようだが、それから先のことをアルフォドは知らなかった。
「まだ生きてるよ。と言っても去年から歩くことが出来なくなったが。……成長して美しい女性になった」
「義体は成長しないはずじゃ……」
「いや、彼女の場合は特別だ。最小限の条件付けでもともと脳の状態も良かったから、精神年齢に沿って体を置き換えていったんだ。これは彼女が望んだことだ。――――その課程でブリジットの臨床結果から作られた薬剤が役に立ったよ」
「そうか……」
「僕はEU警察に復帰した。君の足取りを探すためにね。ドイツに帰国したことまでは掴めたんだが、それからが大変だった」
 ジャコモをブリジットが殺したことによって、アルフォドは五共和国派に共謀したことを罪に問われることはなかった。
 裁判が決着し次第、彼は故郷であるドイツに亡命にしていたのだ。
「今日はこれを渡すためにここに来た。……僕の妻のロベルタがブリジットから預かっていたものだ」
 そう言って取り出されたのは色あせた赤い日記帳だった。いつかのクリスマスに、ブリジットへ贈ったものだと思い出すのに少し時間が掛かった。
「これは?」
「さあな、中身は僕も知らない。ただブリジットは君へいつか届くことを願っていたらしい」
 ヒルシャーはそれだけを告げて手にしていた花束をブリジットの墓へ添えた。名を刻むことの出来ない墓石に一瞬表情が曇るが、直ぐに墓石前へ膝をついてみせた。
 アルファルドはそれを見届けた後、静かに日記帳を開いた。
 
 一ページ目には決して綺麗とは言えない字で、でも確かにブリジットの筆跡でこう書かれていた。




 思い出を忘れてもいいように、日記を付けようと思った。でも、忘れることが運命ならば、それに抗うのではなく受け入れて見せよう。それが多分正しい。
 なら何を書こうか? 
 そうだ、あの担当官に思うところを書けば良いんだ。


 二ページ目以降からは、毎日毎日、ブリジットがアルフォドについて思うところが書き連ねられている。




 今日、とある重役のパーティーに潜入。珍しく着飾ったあの人は気持ち悪いくらい格好良かった。何だろうあれ。普段からもきっちりとすればいいのに。

 
 今日、猫を飼い始める。名はヒルダ。あの人は賛成してくれた。なんだかんだいって優しい。


 このごろ物忘れが酷い。でも書かない。決めたことだから。あの人のことだけで埋めると決めたんだ。だから書く。あの人は中々私を助けてくれない。


 また憎まれ口を叩いてしまった。そんなつもりはないのに。もう時間がないのに。どうしていつもこうなるんだろう。

 多分もう直ぐ終わりが来る。でもあの人には言えない。きっと悲しむだろうから。



 そして、アルフォドがブリジットを連れ出した後の日付には日記では無くメッセージが刻まれていた。



 ごめんなさい。アルフォド。これをあなたが呼んでいるとすれば多分私が死んでいるときです。だから全部書きます。私のことを全部。嘘だと思うかもしれませんが、これが真実です。
 ごめんなさい。あなたの元で教養を伸ばそうとしませんでしたから、変なイタリア語になっているかもしれません。とても恥ずかしいことですが、精一杯書き連ねます。
 ――――私は実は私ではありません。あなたたちが作ったはずのブリジットという名の少女ではありません。
 私はどこか遠い場所からやってきた、ここにあるはずのない人格なのです。
 私には未来が読めました。私にはみんなの心が読めました。私にはみんなに降りかかる災禍が読めました。
 でも私はそれを踏まえてみんなを救う力がありませんでした。自惚れの結果、全部壊してしまいました。謝罪は出来ません。してはいけないと思います。
 でも、みんなから怨まれるのは仕方の無いことだと思っています。
 ――――できればあなたには憎まれたくないです。
 話を戻しましょう。そういうわけで私はずっとブリジットという名の少女として振る舞い、生きてきました。でもいつしかそれは演技ではなくなり、私はブリジットという名の少女として生きると決めました。
 それはあなたのお陰です。
 あなたが私を愛してくれたから、私はブリジットとして生きていくことを決めました。
 多分これは正しい選択ではないのでしょう。
 私が演技を続けていればきっと救われた命もあったでしょう。
 けれど私はあなたと共に、あなたのために生きることを決めました。この手を掴んで離さなかったあなたを信じて。
 果たしてそれは間違いではありませんでした。だからここで全部書きます。
 
 あなたが好きです。あなたを愛しています。あなたの為に生き、死にたいです。あなたの子供を身ごもりたかったです。あなたと共に本当の家族になりたかったです。
 
 でも、それはきっと適いません。適ってはいけない願いです。
 だから私はあなたの為に死にます。
 そして自分の為に死にます。壊してしまった世界を放り投げて、自分の為だけに死にます。
 今まで、本当に有り難う御座いました。
 私は遠くに行きます。でも忘れないでください。引き摺らないでください。

 私は、私が死んだ後、あなたが幸せであることを世界中の誰よりも願っています。
 たとえこれが作られた感情でも、運命づけられた愛でも、

 私は、ブリジットという名の少女なのですから。
















 後日、仕事に明け暮れるアルフォドの元にヒルシャーから一つの荷物が届いた。大きなテレビほどはあるそれは一枚の絵だった。
 サインにはクラリスの文字。
 今その絵はアルフォドが勤めている介護施設の一角に飾られている。

 猫のような少女が、金髪と三つ編みの少女に囲まれて笑っている絵だった。
 

 
 



[17050] HEAVEN HEART HEART 【ついでにパラレルワールドみたいなもの】
Name: H&K◆03048f6b ID:e31ddf34
Date: 2012/04/28 21:26
 僕がこの世界に生まれてからもう二十年と七年を過ぎたとき。

 あるいは彼女と出会って二年が経過したとき、所謂運命の分かれ道みたいなものに出くわした。

 僕が前いた世界、わかりやすく言い換えるならば前世ではこんなことを考えたことなど一度もない。

 けれど銃弾が毎日の様に飛び交い、そして兵器に仕立て上げられた少女達が毎日のように傷ついていくこの世界では、僕は物語の主人公のように苦悩し涙する。

 そうだ、たとえば、今みたいに。



 その世界の空は青かった。
 人々の心に渦巻く憂鬱など知ったことではないと言わんばかりの快晴。僕は一人の少女を引き連れて街を歩く。僕の容姿なんてどうでも良いと思うけど、所謂ラフな服装だと想像してもらえれば幸いだ。
 からっと乾いた日差しを遮るキャップに白いTシャツ。くたびれたジーンズ。センスがあるかどうかはわからないけれど、道行く人々が気にもとめないことからそれ程奇異な出で立ちには見えないのだろう。
 問題は僕が連れている少女のこと。
 さらさらとした長い金髪は黒いリボンでポニーテールに纏めていて、白磁のような白い肌は日差しを受けて輝いている。起伏こそは乏しいものの、それでも嘘みたいに整ったスタイルは男の視線を射止めて止まない。
 瞳は鳶色で少し猫眼気味。どこをどう見ても美少女としか言いようのない彼女の名はキスカ。
「ロッソ様、ロッソ様」
 そして桜色の小さな唇から紡がれる声は明るい鈴みたいな声。けれど文言は年頃の少女が発して良い言葉ではない。
 僕は道行く人々がまだこちらのやりとりに気がついていないことに安堵しながら、キスカの方を振り向く。
「だから様付けは止めてくれと言っているだろう。せめて『さん』とかにしてくれ」
「ならば条件付けで設定し直してください。私はそうあなたを呼ぶように『設定』されているのです」
「馬鹿野郎。そんなことで今更条件付けのやり直しが利くものか」
 そう、キスカは僕の命令ならば何でも聞いてしまうお人形――――義体だった。製品名は『義肢・サイバネティックス正式型MA02-03』
 僕がこの世界で生まれ直して、やっとの思いで就職した組織から与えられた備品。人を殺すために作られた殺人サイボーグ、それが彼女だ。
「ああ、融通の利かない『設定』だな。全く。一期生を見ろよ、もう少しは人間的だ。けれど君はマイルドな条件付けを受けた二期生。それなのにここまで頑固だとは。たく、どこがマイルドだ」
 口から漏れる愚痴を向けるのは彼女を作った技術部の奴ら。たしかに彼女が施された処置は随分とマイルドなものだったのだろう。けれど個体差というか個人差というか、それですら彼女を『条件付け』という鎖で縛り付けるには充分だったらしい。
 僕は自分に宛がわれた義体の扱いづらさに常々参っていた。
「もういい。わかった。ならこの任務が終わるまでお前は僕に話しかけるな。これは『命令』だ。お前は任務だけに集中しろ」
 けれどもコツさえ掴めば彼女のコントロールは簡単だ。こちらから命令だと脅せば人が変わったように言うことを聞くようになる。出会ったばかりの頃はそれなりに抵抗を感じていたが、今となってはそんな感情など邪魔なだけ。割り切りこそ、この世界を上手く生きていく妙手なのだ。
「…………」
 果たしてそれは彼女に伝わったらしく、首を縦に振るだけでキスカは僕に話しかけようとはしなかった。
 一定の効果を得られて満足した僕は彼女を引き連れて再び歩を進める。

 このとき、何故彼女が僕に話しかけようとしたのか考えなかったことを、後悔することになるとは思いもしなかった。



 僕の雇い主は社会福祉公社という。表向きは児童福祉施設を装っているが、真の姿は政府に飼われた暗殺組織だ。
 まるで三文小説みたいなお話だけれども、それが事実であることは常々思い知らされる。
「さあ、きびきび吐いたほうが身のためだぞ。僕のパートナーはその辺の容赦が一切ない」
 僕の言葉と共にキスカは拳を振り下ろした。耳を塞ぎたくなるような打撃音と共にキスカの来ていた白いワンピースが赤く染まる。彼女に馬乗りにされた哀れな男は声にならない悲鳴を上げた。
 ただ僕の命令を聞くだけのお人形は手加減というものを知らない。
 いや、殺さない程度は知っているのだけれど。
「は、はなすから、や、止めさせてくれ!」
 数分前、威勢良く僕に銃を向けてきた男の姿は何処にもない。彼は僕に銃口を捧げた瞬間、飛びかかったキスカに文字通り右腕を握りつぶされていた。
 あとはワンマン解体ショーの始まり。キスカが何か行動する度に男は泣き叫び、失禁し、血を流し続けた。出来れば目を背けたかったけれど、少しでも目を離したら再起不能にしかねないのでそれは出来なかった。
「おい、キスカ。やめろ。『命令』だ」
 お決まりの便利ワードを告げ、キスカの暴走にも似た暴行を止めさせる。
 最早四肢の原型を止めていない男は前歯のない汚い口で言葉を紡いだ。
「や、奴らはクリスティアーノの隠れ家に向かった。お、俺はその仲介をしただけだ」
「俺が聞きたいのはそんなことじゃないよ」
 言葉と同時、キスカが男の顔面を鷲づかみにする。ぎり、と万力のような握力で握られた男は眼球を少し飛び出させながら泣きわめいた。
「ちゅ、仲介した先はナポリの埠頭だ! 住所は俺の持っている鞄の中にある! それ以上は何も知らない! 本当だ信じてくれ!」
 男の懇願をBGMに僕は男から取り上げたセカンドバックをあさった。すると中から癖のある文字で殴り書きにされたメモが出てきた。確かに男の告白は正しいらしい。
「キスカ、もう終わりだ」
 僕に頭をぽん、と叩かれた彼女は大人しく男の顔面を手放した。漸く解放された安堵からか、男の顔はだらしなくたるんでいる。
 男に馬乗りしていたキスカを後ろから抱きかかえ、隣に下ろす。彼女はされるがままちょこんと男の隣に座り込んだ。
「有り難う。礼を言うよ。これで課長にどやされることはなさそうだ。そしてこれはそのお礼」
 僕が手にしていたのは一丁の拳銃。ベレッタ92Fだ。キスカを抱きかかえた際、彼女が隠し持っていた拳銃を抜き取っていた。キスカもこれには驚いたのか、自分のスカートの中に隠していたホルスターを確認している。僕は素早くスライドを引くと、男の眉間にそれを突きつけた。
 男の顔が絶望と哀願に染まる。
「だって、君はもうまともに生きられないだろう? だから安心しろ。楽にしてやる」
 銃声は一発。床に落ちる薬莢の音が嫌に響く。
 呆然とこちらを見ているキスカに銃を返し、僕は男から取り上げたメモにもう一度目を通した。
「それじゃあ、ちょっと出張するか。キスカ」
 何の気無しにキスカを立たせ、僕はメモをポケットにねじ込む。行き先はナポリ。そこで再び地道な調査作業だ。
 そして標的は社会福祉公社を裏切った一組の『兄妹』

「待っていろよ。ブリジット。さくっと始末してやるから」







荒削りの外伝みたいなもの。多分五話くらい。パラレルワールドなので、本編の分岐ルートみたいなもの。
もともとはブリジットの初期案です。次の投稿文にこれを統合します。ようするにこれはプロローグみたいなもの。
あしからず。劇場もそのうち投稿します。

 



[17050] HEAVEN HEART HEART 【ついでにパラレルワールドみたいなもの】2
Name: H&K◆03048f6b ID:e31ddf34
Date: 2012/04/30 21:12
 からからと巨大な換気用のファンが回転し、西日に照らされた工場に影を落とす。
 もうとっくの昔に持ち主によって打ち捨てられてしまった工場にある人影は二つ。一つは夜のように長い黒髪を揺らし、その手には余りそうな大きな拳銃を持っている少女。
 もう一つは少女に撃たれたのだろうか。両の足に風穴を開けて、息も絶え絶えに這いずり回る小汚い男だった。
 少女は男の背中を踏みつけると、肩越しに男の涙と鼻水に汚れた顔を覗き込んだ。そして唇の端を歪めながら言葉を発する。
「あなたのお仲間、私とアルフォドさんのことを話しちゃったみたい。……約束が違いませんか?」
 不気味なほどに整った容姿。大人と少女の中間体ともいうべき危うい美貌を誇る彼女は嗜虐的な色を瞳に宿している。形と発育の良い二つの丘が男の背中によってつぶされた。
 本来ならば欲情してしかるべきシチュエーションでも男の心は恐怖によってのみ支配されている。
 少女が持つ拳銃が男の後頭部に強く押しつけられた。
「もちろんあなたたちが好き好んでゲロったとは思わないよ。なんたって相手は社会福祉公社。仕方ないよね、私だって怖いんですもの。……でもね、だからといってあなたを見逃すわけにはいかない」
 少女の手が男の前髪を掴む。強制的に上を向けさせられた男の口に銃口がねじ込まれた。
 引き金に掛かった指に力が込められる。
「バラされただけなら私たちは大人しく逃げた。なのに貴方たちは私たちを殺そうとしたよね」
 日がさらに沈み、工場内部を照らす西日の範囲が広がった。そこに映えたのは辺り一面に転がる人間の死体。
 四肢が拗くれたものから眉間を撃ち抜かれたものまで殺され型は様々だが、皆一様に恐怖に顔を引き攣らせて死んでいた。
 そう、まだ成人にも満たない少女に虐殺される恐怖に。
「数を揃えただけで勝てるとは思わないで欲しいな。これでもあたたち以上に人も殺しているし修羅場も経験している。仲間も沢山死んだ。いい? あなたたちとはくぐってきた場数が違うの」
 男が首を必死に横へ降る。それは生に対する最期の執着。だが少女は瞳に侮蔑の色を一つ浮かべただけで、まともに取り合おうとはしなかった。
「じゃあな。来世はもっと堅気の仕事をしろよ」



 HEAVEN HEART HEAT



 全てが終わったとき、俺は骸の横に座り込んだ。義体として、担当官を守る盾として切り替わっていたスイッチが俺のものに切り替わる。
 やってくるのは怖気と後悔。ここに横たわる骸達を作り出したことに対する罪の意識が芽生えてきたのだ。
 それもそのはず。本来の俺は義肢・サイバネティックス試験体XA14-05という殺人サイボーグではない。至って平和な国日本で生まれ、至って平凡な人生を送っていた凡人に過ぎないのだから。
 間違っても拳銃一つで二桁の人間を殺せるような人間ではなかった。
 それが気がついたらこの体が自分の体になっていた。『義肢・サイバネティックス試験体XA14-05』が俺の製品名になっていた。
 もちろんまともな正気など保てたことがない。
 気がつけば血の海に立っていることなど日常茶飯事、自分自身が銃創をこしらえていることも間々あった。何より耐えられなかったのが『条件付け』という俺に施された洗脳。
 スイッチさえ切り替われば俺でも手際よく人を殺すことが出来ることにも関係しているが、この条件付けは担当官という男に対する盲愛を強制する最悪の洗脳だった。もちろん前世で男色の気などなかった俺がそれを受け入れられる筈もない。
 俺は条件付けに逆らった副作用として嘔吐物をまき散らしながら、担当官の男――――アルフォドを拒絶し続けた。
 触られれば生娘のように心が温かくなる自分が許せなかった。話しかけられるだけで多幸感に包まれる自分が気持ち悪かった。
 だから普段から徹底的に罵り、誹り、少しでも近づこうものなら手にしているものを手当たり次第投げつけた。
 それをあの男はどう思ったのか、何一つ叱り飛ばそうとはせず、食事だけを届けては姿を殆ど見せなくなった。
 この体はアルフォドに会うことを渇望し続けたが、前にいた世界のことを思い続けることによって自制した。
 こんな、わけもわからない、名も知らない世界に飛ばされてしまった己の運命を呪い続けながら。
「ブリジット」
 廃工場内に声が響く。俺がこの工場にいた人間で生かしておいたのはただ一人だけ。つまりは俺がもっとも憎悪し、愛している男、アルフォドだった。
 少し伸びた金髪と、同じ色の無精髭を蓄えた男は声が届くか届かないかの距離で俺に話しかける。
「外の安全は確保した。早くここから出よう。あと二日待てばシチリア行きの船に乗れたんだが予定変更だ。私たちは陸路で逃げる」
 言葉と同時、彼が担いでいた旅行鞄を投げつけられる。普通の少女ならば怪我をしかねない行為だが、この体は規格が違う。数キロに及ぶ鞄を危なげなく受け止めてみせると、手慣れた様子で中から着替えを取りだした。何故なら虐殺の過程で俺の服装は盛大に汚れているから。
 来ていたワンピースとカーディガンを脱ぎ、身につけていた下着にも目を通す。白かった筈の下着も赤黒く染まり、中々グロテスクなことになっていた。
 結局ワンピースとカーディガンはその場に放棄し、白シャツとパンツルックに着替え直した。組み合わせはちぐはぐだが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
 俺が手にしていた拳銃を旅行鞄に放り込む様子を見て、アルフォドは踵を返して歩き始めた。俺はその五メートルほど後ろを大人しくついていく。
 体がもっと近づけとあたまに囁いてくるが、そんなもの無視を決め込むに決まっている。
 脂汗が止まらなくとも、嫌な予感が止まらなくとも、俺は折れない。

 何故なら、目の前を歩くこの男が憎くて憎くて仕方がないのだから。



 見つけた。
 声はロッソと呼ばれる男のものだった。彼は隣で狙撃ライフルを構えるキスカの肩を掴み、手にしていた資料をめくる。
「戦力としては義体三体分。また課長のいつもの脅しだと思っていたけれど、あながち嘘ではないな。だってあの暴漢、公社が用意した特殊部隊員だぜ? それが本能だけで全滅させられちゃ、信じざるをえないな。……少ししくじったか」
 独り言のように呟く彼の声は明るいが、眼は笑っていない。それは少女の肩を掴む手の震えからも察することが出来た。
「……いいか、担当官ではなく後ろを歩く義体の方を殺せ。必ず初弾で当てろ。外せばこちらが終わりだ」
 公社の義体にとって、敵の狙撃ポイントを特定するなど造作もないことだ。ならばこの狙撃で仕留めきれなければ、複数の特殊部隊員を殺害した暴力がこちらに振るわれることになる。
 それだけはどうしても避けなければならない未来だった。
 キスカは義体としては融通が利かない分、義体の中でも実力が高いわけではない。
 それが義体三人分の戦力と畏怖されるブリジットとぶつかればどうなるか。結果は火を見るよりも明らかだ。
 思わずその光景を想像してしまい、ロッソは身震いを一つする。
「ああ、くそ。いいか、キスカ。必ず当てろよ」
 言われて、キスカはスコープを覗き込む。
 視界に写るのは酷いくらい瞳を濁らせた黒髪の少女。キスカは十字を黒髪の少女に合わせると、静かに引き金を引いた。


 飛来した弾丸は確実にブリジットを狙い撃つ軌道だった。
 その点に於いて、キスカのスナイピングは完璧だったと言える。だが、彼女が完璧でなかったのは、ブリジットという名の少女の実力を完全に読むことが出来なかったことだ。
 こちらの発砲炎はサブレッサーの所為で殆ど見えなかったはず。ならば極小さな発砲音のみでしかブリジットは狙撃を感知できない。
 しかし音速よりも遅く飛来する亜音速弾を己の致命点から逸らすことなど、彼女に取っては朝飯前の事象だったのだ。
 ブリジットの左腕を貫通した弾丸が西日に照らされた地面を穿つ。鮮血をまき散らす腕を庇いながらブリジットがこちらを見た。
 キスカとスコープ越しにブリジットの視線が交差する。
 たったそれだけのことでキスカは身動きが取れなくなってしまった。
 何故なら……、
「こ、わい……」
 その瞳に渦巻く確かな憎悪を一心に受けてしまったのだから。


 ブリジットは狙撃犯と思われる人物が潜む、目の前に佇む倉庫の屋上を見た。左腕から血が流れ出る度に、気が遠くなりそうだ。
 痛みが脳を揺さぶり、ともすればその場にへたり込みそうになる。だが、ブリジットの中に存在する『条件付け』がそれを許してくれない。
 今すぐにでも下手人をバラバラにしてやれと、悪魔のように囁き続けている。そして、ブリジットはそれに対向する手段を知らなかった。
 アルフォドが何かを叫ぶが、ブリジットの耳にはもう届かない。拳銃を抜きだし、地面を蹴ったブリジットの姿がぶれた。追い打ちの弾丸が飛来しても、捉えるのは彼女の影のみ。
 倉庫に向かって突進するブリジットの顔は嗤っている。
 痛みも常識も捨て去って、彼女は嗤った。








 

 というわけでこの世界のブリジットは原作知識もなく、アルフォドとの仲が最悪な状態。
 ただアルフォドはブリジットを連れ出しているあたり、ブリジットのことを気に掛けている。そんなパラレルワールド。あと、前のプロローグとの統合はちょっと保留。






[17050] HEAVEN HEART HEART 【ついでにパラレルワールドみたいなもの】3
Name: H&K◆03048f6b ID:e31ddf34
Date: 2012/06/24 21:39

 壁面を駆け上がってきた化け物を見て感じたのは、体の奥底から沸き上がる恐怖と、自分に対する怒りだった。

 キスカは昔からロッソの命令を忠実にこなすことが出来なかった。
 必ず中てろ、と言われた弾丸を中てることが出来ない。言葉遣いを直せ、と言われても直すことが出来ない。
 役立たず、と見捨てられても仕方のないようなミスを沢山してきたし、これから自分が器用に立ち回る自信もない。
 ただ己の命と担当官の命を守ることが精一杯で、生きることが精一杯だった。
 ブリジットに勝て、と言われても恐らくそれは不可能な現実。
 その証拠に今この瞬間、自分に向かって飛びかかってきたブリジットの一撃を右腕で受け止めるだけで精一杯だった。
 もちろんナイフの斬撃が見えたわけではない。ただ、動物的な本能で、己の顔を庇うように突き出した右腕が盾の代わりになっただけだった。けれど運が良いのか悪いのか、骨にまで達したナイフの刃は炭素繊維で出来たそれにぶち当たり真っ二つに折れていた。
 夕日に煌めく鮮血の中、ブリジットの昏い瞳がこちらを見下ろしている。
 背中を駆け抜けていく寒気を振り払いながら、キスカは渾身の力でブリジットの腹を蹴り上げた。
 意外にも軽い彼女の体は倉庫のトタン屋根の上をバウンドしていく。キスカは己の右腕に食い込んだナイフの刀身を捨て、自身のナイフを左腕に構えた。
 そして出来るだけ姿勢を低く、出来るだけ重心を低く、転がっていくブリジットに突進していく。
「死ね!」
 口から自然と沸き上がってくることは憎悪の言葉。ブリジットの淀んだ殺意を受けて飛び出した必然の言葉だった。
 ゼロから瞬く間に最高速へと到達するキスカのナイフがブリジットを捉える。バウンドをしていったブリジットはトタン屋根の隅で今まさに起き上がろうとしている最中だ。
 煌めく銀色の切っ先がブリジットの脇腹に食い込む。
「つあっ!!」
 口端から血を吹きだし、ブリジットの身がトタン板に縫い付けられそうになる。だが彼女は素早く身をよじらして、軟らかい腹部を突き抜けた刀身を敢えて利用し、内蔵を傷つける前にその場から離脱した。
 それを見たキスカの手が一瞬だけ止まる。
 そして右側頭部に衝撃。
 見れば見事なまでにブリジットのハイキックが頭部へめり込んでいた。あまりにも鮮やかな手並みに声を出すことが出来ない。
 彼女が感じたのは絶望的なまでの力量差だった。


 ブリジットが自分ではなくキスカに突撃したことは行幸と言えた。
 もし自分が標的にされていたのなら五秒と持たずに肉片に還られていただろう。
 だがキスカとブリジットの戦力差は明白だった。善戦はしているものの、とても打ち勝てるような展開ではない。それはナイフの斬撃に対する捌き方で顕著に表れていた。
 利き腕を犠牲にしたキスカと脇腹を犠牲にしたブリジット。どちらが優れているかと言えば断然ブリジットだと言える。
 義体はそもそも失血死で死ぬことは殆どない。
 脳に深刻なダメージを負うか、肉体をバラバラに吹き飛ばされない限りは限りなく死ににくい体質なのだ。
 ならば戦闘行為に支障をきたす利き腕を差し出したキスカは、余り差し支えのない脇腹一つで纏めたブリジットに遠く及ばないことになる。
 報告書で「上手い」と評されていたブリジットの戦闘スタイルにただただ舌を巻く他ない。
 ただ闇雲に飛びかかっているだけに見えるブリジットはその天才的なセンスを武器に、実に精緻な動きを体現しているのだ。
「あぐっ!」
 そして決着は現実の時間にして三十秒ほどだった。
 血を円上にまき散らしながら放たれたブリジットのハイキック。それはキスカの側頭部を見事に捉えて彼女を吹き飛ばした。
 キスカがブリジットを蹴り飛ばしたときよりも質量と速度を持った飛翔。
 小さなキスカの肉体はトタン屋根をバウンドすることなく倉庫の谷間に堕ちていった。


 いたい、。いたい、いたい、痛い、いたい、痛い。

 物の見事に墜落したキスカは倉庫と倉庫の谷間で呻いていた。大きな外傷は無いものの、落下のショックとハイキックの衝撃で脳が麻痺している。
 まさかここまで差があるとは思わなかった。 
 まさかここまで一方的にあしらわれるとは思わなかった。
 キスカは残された左腕だけで立ち上がろうとする。全ては上に残してきてしまった担当官を守るため。ブリジットという敵から守るため。
 だがその心配は無用だった。一刹那、倉庫の合間から見上げていた夕日が影に遮られる。
 見開かれたキスカの両の瞳に映ったのはこちらに飛び降りてきたブリジットだった。
「はあ、はっ、はっ」
 キスカに穿たれた脇腹が痛むのか、ブリジットの額には脂汗が浮かんでいる。自身の血とキスカの血でドロドロになった右手が傷口を押さえていた。
「ころ、さないと……」
 決して確かではない足取りを無視しながらブリジットが迫ってくる。キスカはそれを見て泣きたくなった。
 身近に差し迫っている死の恐怖と、悪魔のような義体の姿に。
 あまりにも濃密すぎる凶器の色がキスカの世界を絶望に塗りつぶしていく。ブリジットの左手がキスカの頬に触れた。
 何千発と銃器を振り回してきたであろう手にはタコの一つも存在していなかった。白魚のように細い指先がキスカの唇をなぞる。
「殺してあげる」
 次の瞬間、ブリジットの両手がキスカの首を掴んだ。いや、掴むという表現は生ぬるい。まるでそこにある首をへし折らんばかりに握力の込められた掴み方だった。
 実際のところ、義体に改造されているキスカではなく常人のそれだったならば二秒と持たずに握りつぶされていただろう。 
「ひくっ」
 キスカは残された左腕でブリジットの腕を掴む。だが悲しいかな、それは彼女の拘束を振りほどくには弱すぎた。
 酸欠の所為で舌が引っ込みそうになるのを必死に堪えながらキスカは声を絞り出す。瞳には涙を讃え、倉庫の隙間から広がる夕焼けを見た。

「たす、けて。ロッソ……」


 正直、射撃の腕は社会福祉公社の中でも指折りに下手くそだった。
 だからこうして引き金に指を掛けている間も震えが止まらない。キスカと重なったブリジットに星門を重ねても手先の震えから狙いが定まることはない。
 こうなることは薄々と分かっていた。キスカを信じていないわけではなかったが、心の何処かで作戦が失敗することを知っていた。
 僕はこの世界が大嫌いだ。僕にこんな辛いことをさせるこの世界が大嫌いだ。出来ることなら平和に、前いた世界の日本で暮らしていたかった。銃とは無縁の世界で生き、そして死にたかった。
 なまじキスカを助ける手段があるからこそ、僕は力を行使しなければならない。
 僕はそれが嫌で嫌で仕方がないのだ。
 それに、ほら。
「たす、けて。ロッソ……」
 彼女の懇願を聞いてしまったのなら、もう選択肢など残されていないのだから。


 倉庫の屋根から飛来した弾丸はブリジットの左肩を撃ち抜いた。衝撃に打ちのめされブリジットがキスカに覆い被さるように倒れ込む。絞殺から逃れたキスカはブリジットの下で大きな咳を繰り返した。まさに失われた酸素を取り戻すために。だが自分にのし掛かるブリジットを押しのける力はないのか四肢を弛緩させたまま身動きを取らない。
 漠然とした頭で自分が助かったことをキスカは知った。
「ロッソ、さま」
 愛すべき担当官の名を呟いたとき、キスカは己に課せられた任務をやっと思い出す。のろのろと倒れ込んできているブリジットの腰にぶら下がっていた拳銃を抜き取り、薬室に弾丸が込められていることを確認した。
 そう、自身に課せられた任務は裏切り者のブリジットを殺すこと。
 今それを果たす千載一遇のチャンス。
「ふっ、ふ」
 肩を撃たれたことで意識が混濁しているのだろうか。ブリジットは荒い息を吐き出すだけで抵抗しようとしない。
 キスカは拳銃をブリジットの顎に押し当てた。

 とくん、

 何処かで鼓動が聞こえる。それがブリジットのものなのか、それとも自分のものなのかはわからない。

 とくん、とくん、とクン……

 どちらの鼓動か分からないまま、リズムは加速していく。
 

 キスカは、引き金を引いた。




 HEAVEN HEART HEART

 


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