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[996] 誘宵月
Name: アービン
Date: 2005/11/23 13:06
初めまして、SS初投稿のアービンと言います。

今更!?な感じですけどさつきシナリオについて考えて書いていきます。

さっちんが好きな人も、そうでない人も出来れば読んでみてください。

感想を頂けると非常に嬉しいです。

申し訳ありません、間違ってスレッドを消してしまったので新たに作り直しました。



[996] プロローグⅠ
Name: アービン
Date: 2006/03/25 15:59
ザア――――

「はあっ、はあっ、はあっ」

吐き気が止まらない。

胃の中のものを全て吐き出してもおさまらない。

喉から血が出ている。

痛い、内臓も痛くてしょうがない。

涙が止まらない。

……俺は人を殺した。

何の意味もなく、容赦もなくバラバラに切り刻んだ。

あの人にだって人生があったのに、

未来だってあったのに、夢だってあっただろうに、

その全てを…俺がぶち壊した。

それは絶対に許されない事だ。

ザア――――

体がひどく寒い、このままだと死んでしまうかもしれない。

いや、そのほうがいいのだろう。

早く、消えてしまいたい。










「志貴…くん?」

不意に、そんな名前を呼ばれた。

「――――――――」

そこには――――弓塚の姿が会った。

懐かしそうに思い出を語って、俺の事を信頼してくれた少女。

俺は彼女がピンチになったら助けると約束した。

それは昨日の事なのにそれはもう随分昔の事のような気がする。

「こんな所に座り込んでたら風邪ひくよ?」

優しい声、そんな気を遣ってもらう資格なんて無いのに…

「いいんだ、もうどうなっても…ほっといてくれ……」

投げ遣りに俺は答える。

「よくないよ志貴くん一体どうしたの?元気ないよ?」

「…………」

答える気力も無くなった俺は黙っていた。

だが次の弓塚の言葉には反応せざるを得なかった。

「志貴くんから随分血の匂いがするのと何か関係あるの?」

「…………!!」

どうしてそんな事がわかるんだ!?

「そうだなー例えば……」

驚きに固まっている俺に弓塚が追い打ちをかける。

「人を殺しちゃったとか?」

その瞬間、俺は心臓が止まったかと思った。

弓塚は口調こそ疑問系だが…そうだと確信している。

「…ああ、そうだよ、俺は人を殺した」

言った、言ってしまった。

今まではどこかまだ否定している自分があったような気がする。

けど、今俺ははっきりと認めてしまった。

「俺は人殺しなんだ、それも何の理由も無く殺してしまったおかしい奴なんだ。だから弓塚さんはこのまま帰るなり、警察に連絡するなりしてくれ」

これで弓塚も俺の前からいなくなるだろう、それが当然だと思った。

――――なのに

「何で人殺しがおかしいの?」

そんな事を言ってきた。本当にわからない、と言った顔で。

「な!!」

絶句した、弓塚が本気でそんな事をきいている事に。

「何でって…俺は人を殺してしまったんだぞ!!それも何の意味もなく、容赦もなく殺した。殺された人にだって人生があったのに、未来だってあったのに、夢だってあっただろうに、その全てを…俺がぶち壊した。そんなの絶対に許されない事じゃないか!!」

それを聞くと弓塚はどこか寂しそうな顔をした。

ようやく俺は弓塚の様子がおかしい事に気付いた。

弓塚は昨日から家出しているっていうのに何でこんなとこにいるんだ?

この雨の中どうして俺が血の匂いをしているとわかるんだ?

俺が人を殺した事を知ってもどうして平然としていられるんだ?

なぜそんなに眼が紅いんだ?

そして……どうしてずっと手を隠すように後ろに回しているんだ?

「そっか、そうだよね……それが普通の考えなんだよね……でも、志貴くん、そういう風に考えられるのなら志貴くんはまだ全然まともだよ。だって……私なんてね………」

弓塚が手を前に出した。

「たくさん人を殺したのに、もうほとんど何とも思わないもの」

その手は…乾いた血の跡がこびりつき、袖が真っ赤に染まっていた。

「な……!!」

目の前にあるものが信じられない、弓塚が…人を殺した?

「本当なのか弓塚?」

「嘘だって言っても信じてくれないんじゃない?」

信じられない、信じられないが間違いなく彼女は嘘をついていない。

「いったいどうしてそんな事を……」

「私もまだ状況を完全に把握してないからうまく説明できないなあ」

そういいながら弓塚は噴水に近づき手を洗う。

紅い血が噴水の水に溶けていく……

「これでいいか、ねえ志貴くん、とりあえずもういい加減帰ったほうがいいよ。
いつまでもここにいたら本当に風邪をひくよ」

「…………」

「もう、しょうがないなあ」

動こうとしない俺を弓塚は無理やり背負った。

明らかに弓塚より大きい俺を軽々と。

「弓塚!?」

「ちょっと揺れるけど我慢してね」

そういって弓塚は走り出した。

かなりのスピード。

とても人を背負った少女に出せる速さではない。















「ここでいいかな、さすがにこの格好で志貴くんの家には入れないし」

屋敷の門の少し手前で俺を降ろすと弓塚はそう言った。

「弓塚……」

「あんまり考えすぎるのはよくないよ。それじゃ…うっ!!」

急に弓塚が苦しみだした、胸を押さえてしゃがみこむ。

苦しげに喉をかきむしり、弓塚は口から血を吐いた。

「痛い…やっぱり無闇に吸うべきじゃなかったな…質のいい血じゃないと体に合わないみたい…」

もう何もかもよくわからなかった。

でも、今目の前で弓塚が苦しんでいるのははっきりとした事実だ。

「大丈夫か弓塚!?」

弓塚の手を取ろうとする。

「だめ!離れて!!志貴くん」

弓塚が鋭く叫ぶ。

「弓塚、お前……」

「離れてって言ってるのに!!」

ドン、と体に衝撃が来て俺は吹っ飛ばされた。

弓塚が俺を突き飛ばしたのだ。

「ほんとに、いつもいつも、わかってくれないん、だから」

「わかってないって、じゃあ何一つわからないよ、一体何が起こってるんだよ!!」

「あ…そっか、それでも私の相手をしてくれているんだ…」

弓塚は苦しそうでひどく体が震えている。

「……痛いよ、志貴くん」

息を震わせながら弓塚が言う。

「……痛くて、寒くて、すごく不安なの。ほんとは、今すぐにでも志貴くんに助けて欲しい…………けど、まだダメなんだよ」

弓塚が突然、立ち上がった。

「今度私が会いにいく時は元気になっていてね、その時は私も一人前の吸血鬼になっているから!!」

「あ、待て弓塚!!」

あっと言う間に弓塚は走り去っていった。

その速さは明らかに人間のものではない。

「くそっ、いったい何がどうなっているんだ!?」

わからない、何一つ俺はわからなかった。















屋敷に入り、翡翠に用意してもらった風呂にだけ入ると、夕食もろくにとらずにベッドに倒れこんだ。

秋葉が何かうるさく言っていたような気もするが今は聞く気にはとてもなれなかった。

「はあ……」

今日はとんでもない事が起こりすぎてわけがわからない。

わけもわからず人を殺してしまった。

家出していたという弓塚が俺の前に現れて弓塚も人を殺したという。

そして弓塚は明らかに様子がおかしかった。

弓塚が最後に言った言葉が気になる。

「今度私が会いにいく時は元気になっていてね、その時は私は一人前の吸血鬼になっているから!!」

吸血鬼……まさか最近起こっている猟奇殺人事件を起こしているのは………

「やめだ、もう考えるのはよそう……」

今日はもう疲れた、今はもう眠りたい……



[996] プロローグⅡ
Name: アービン
Date: 2006/03/25 16:00
ヒヤリ、と冷たい感触が額にして目が覚めた。

「うう………」

ゆっくりと目を開く。

目を開けると目の前に琥珀さんがいた。

さっきの冷たい感触は濡らしたタオルのようだ。

「志貴さん、お目覚めになったんですか」

「どうして琥珀さんが……?」

「朝、翡翠ちゃんが志貴さんを起こしにいったら、ひどく苦しそうにしてたので、私を呼んだんです。今は少し下がりましたけど朝は酷い熱でしたよ。昨日は随分雨にうたれたみたいですし風邪をひいたんでしょう。」

そう言われてみると、頭がぼうっとして体がだるい。

「起きたんだしたら、お薬を飲んで欲しいのですが、飲めますか?」

「ああ、大丈夫」

「私が飲ませてあげましょうか?」

「え……いや、いいよ」

「そうですか、それは残念です」

クスクス笑いながら琥珀さんは薬を渡してくれた。

「それでは志貴さん、学校には欠席の連絡をしておきましたから、ゆっくりと休んでください」

そういって琥珀さんは部屋から出て行った。
琥珀さんの薬が効いたのか夜になる頃には調子は大分良くなっていた。

「兄さん、もう大丈夫なのですか?」

「ああ、もう大分良くなった」

「そうですか、ですが兄さんは人より体が弱いのですから無理しないで下さい、今日は早い目に休んでくださいね」

「わかったよ、心配してくれてありがとう」

「別に……兄妹なんですから心配するのは当たり前です」

そういって秋葉は顔を背けてしまった。
「………眠れない」

散々昼間に寝ていたせいでなかなか寝付けなかった。

こうして何もしていないと昨日の事が鮮明に思い出されてしまう。

俺が殺した人はまだ発見されていないんだろうか?

弓塚はいったいどうしてしまったのだろう?

眠れずに時間だけが過ぎ、時刻はもうじき十二時になろうとしていた。

「志貴様、起きていらっしゃいますか……?」

……翡翠の声だ。

どうしたんだろう、こんな夜更けに。

「起きてるけど、どうしたの翡翠?」

「――――はい、なにぶんこのような時間なので迷ったのですが、志貴様が起きていらっしゃるようでしたらお伝えしようと思いまして」

「伝えるって、何を?」

「先ほど、志貴様にお電話がありました。公園で待っている、と」

「こんな時間に電話?」

「はい。お名前も言われずにお切りになりましたので志貴様にお伝えするのはどうかと迷ったのですが……」

「いや……それは」

その電話は、弓塚からのものだろう。

「……ありがとう。でも、今夜は遅いからまた明日にする。その子、学校のクラスメイトだから明日になれば会えるんだ」

「嘘です。そんな辛そうな顔をしているのに、笑われては、困ります」

「ばか、嘘なんてついていないよ。大丈夫、こんな時間に外出なんてしない。秋葉をまた怒らせるだけだし、翡翠にも迷惑をかけるじゃないか。だから、そんな事はしないって」

「……………」

翡翠は無言で俺を見つめる

しばらく、俺たちの間には言葉が無かった。

「……志貴様。どうか、ご無理はなさらないでください」

「やだな、別に無理なんかしてないって。これから寝るんだから、翡翠も部屋に戻っていいよ――――それじゃあ、おやすみ」

俺は耐え切れなくなって、強引にドアを閉めた。
「まいったな……翡翠に隠し事はできないか」

一応用心の為ナイフを持って行こう。

「公園か…どうしてこんな時間に」

吸血鬼は夜じゃないと活動できないという寓話があった気がする。

もしかして弓塚はこんな時間じゃないと呼び出せなかったんじゃないか?

「考えても始まらない、とにかく公園に行こう」
連日の殺人事件で公園付近には人影が無い。

翡翠が受け取った電話が弓塚からのものなら…彼女はこの奥で俺を待っているはずだ。

公園の中もやはり人気はない、物音一つしない。

わけもなく、全身が悪寒に襲われた。

喉だけが熱くカラカラに渇き、いつのまにかポケットの中のナイフを握り締めていた。

不安を振り払い、俺は奥へと進んだ。
誰かが蹲っていた。

呼吸は荒く、顔色は真っ青で、苦しそうに喉をかきむしっている。

「弓…塚?」

その姿があまりにも苦しげだったから、昨日の事なんて考えもせず、弓塚へ駈け寄ろうとした。

「待って!!」

その俺の行動を弓塚が叫んで止めた。

「来てくれたのは嬉しいけれど、今は近くに来られると困っちゃうんだ。お願いだから、それ以上は近寄らないで」

「ばか、そんな顔色をしているのに放っておけるわけがないだろ!!」

「ううん、私は大丈夫、志貴くんが来てくれたから、もう元気になっちゃった」

無理やり体を起こして、弓塚は笑顔を浮かべた。

「……いったいどうしたんだよ弓塚。どうして家に帰ってないんだ。昨日言った事は本当……なのか?」

「ん?昨日言った通りだよ、私はたくさんの人を殺してる、あの血の跡はその時についたものだよ」

否定して欲しいと思っている俺を嘲笑うかのように弓塚はあっさりと返答する。

「街で起きている殺人事件は、弓塚の仕業…なのか!?」

「あんまり言いたくないけど。そうなるんだろうね」

「どうしてだよ、何で弓塚が!!」

「どんなに否定しても事実は事実だよ。私はたくさんの人を殺しているし、きっとこれからも同じ事をしていかなきゃいけないんだよ。なら認めるしかないでしょ?」

「弓…塚、おまえ……」

「その呼び方、やめてくれないかな。私だって志貴くんって呼んでるんだから、志貴くんも名前で呼んでくれないと不公平だよ」

「なっ!!」

「よく考えると、私ってばかみたいだよね。こんな風に志貴くんって呼ぶこともできないで、何年間も貴方の事を遠くから見てるだけだった」

「弓……塚?」

「ずっと志貴くんの事を見てた。あの倉庫で助けられる前から、ずっと志貴くんの事を見てた。私、本当は臆病なんだ。だから周りの人たちに合わせて、無理して笑ったり話を合わせたりしてたらね、いつのまにかアイドルみたいに扱われちゃった」

懐かしそうに弓塚は語る。

「だから、学校はあまり楽しくなかったんだ。でも中学二年生になったばかりの時にね、志貴くんに話しかけられてから変わったんだ」

「え――――?」

「ううん、志貴くんは覚えてなんかないよ。何て言うのかな、貴方はいつも自然で、飾らない人だから。たぶんあの時の言葉も、志貴くんにとってなんでもない一言だったんだろうなあ」

「――――――――」

なんて言えばいいんだろう。

弓塚と何を話したのか、いや、弓塚と話した事があるなんていう事さえ覚えていない。

「いいよ、そんな顔しなくても。志貴くんはあの頃から乾くんに付きっ切りだったから、他のクラスメイトには興味がなさそうだったし、けど、それでも良かったんだ。志貴くんと同じ教室にいるんだって思うだけで、すごく嬉しかった。いつか貴方にちゃんと話しかけて、弓塚さんって呼ばれる事を目標にしてたなんて、今思うとすっごく損してたなって思うけど」

とても昔、もう二度とやってこない日々を思い出すように彼女は言った。

「私、ずっと貴方の事を見てた。気付いてくれないって解ってたけど、ずっと見てたんだよ」

「……………………」

それは……正直嬉しいけど。

「ね。志貴くんは私の事、好き?」

今の彼女に、俺は何て答えてあげればいいんだろう?

「弓塚……………俺は」

俺は……答えられない。

自分でもひどい奴だって思うけど、それが本当の気持ちなんだ。

弓塚さつきっていうクラスメイトの事を、今まで意識した事は無い。

「そうだよね。志貴くん、私の事なんて見てなかったもの。私の事を好きになってくれるはずないわ」

「あ……………」

びくり、と弓塚の体が震えた。

弓塚はハァハァと苦しげに息を吐いて、そのまま――――地面に膝をついてしまった。

「――――弓塚!?」

今度こそ弓塚に駆け寄った。

「弓塚、大丈夫か、弓塚……!」

ぜいぜいと上下する肩に手をやる。

「ばかっ、こんなに体が冷え切ってるじゃないか!何でこんなんで夜出歩いてるんだよ、お前は!」

「――――志貴、くん」

虚ろな声で俺の名前を呼んで。

そのまま、弓塚は倒れるように俺にしなだれかかってきた。

「弓……塚?」

「志貴くんが私の事を好きじゃなくてもいいよ。私だって、今までずっと志貴くんの事がわからなかったから」

「いいから、もう喋るな……!すぐに病院に連れて行ってやるから……!」

「でも、今なら解るよ。志貴くんの事も、志貴くんがやりたい事も、本当によくわかるんだ。だって――――」

「え――――?」

「だって私も、志貴くんと同じになれたんだから――――!」

言って、弓塚は俺の首にその歯を突きたてた。

「あ――――」

意識。意識が、遠のく。

首筋には弓塚の牙がえぐりこんできている。

「――――――――」

吸われていく。

何か、体中の全ての物が、液体に変えられて、吸い上げられていくよう。

「――――あ」

何も考えつかない。

このままだと死んでしまうって解っているのに、何も――――

だっていうのに。

「弓塚――――!」

両腕はただ反射的に、弓塚の体を突き放した。

どすん、と地面に尻餅をつく弓塚。

「何、を――――」

立ち上がろうとする。

けど、それはできなかった。

体中が疲れきっていて、自分の腕一本さえも満足に動かせない。

弓塚はまるでアルコールを飲んだ後みたいに、ぼう、と座り込んでいる。

「あ――――」

首筋に穿たれた、弓塚の歯形。

深く食い込まれた二つの穴から、何か、黒いモノが体の中に注ぎ込まれているよう――――

「あ――――ぐ、ううううう!」

背骨、背骨を抜き取られるような痛み。

「は――――あ、ぐうう……!」

弓塚は恍惚とした瞳のまま、俺を、見つめて、いる。

「弓…塚…、お前、何を………!」

「大丈夫、痛いのは最初だけだから我慢して。初めは苦しいけど、血が混ざってくればすぐに落ち着くよ。
安心して、志貴くんを殺すようなことはしないわ。ちゃんと私の血を流し込んでおいたから、昨日の出来損ないみたいに崩れることもないし、私の事だけを見てくれるようになるよ」

弓塚は嬉しそうに囁いてくる。

「何――――言ってる、んだ、弓塚……」

「何って、志貴くんも私と同じになるっていう事だよ。普通の食べ物の代わりに人間の血を吸って、太陽の下は歩けないから夜で歩くしかなくなる、違った生き物になるの」

……何だ、それ。

馬鹿げてる、それじゃあまるで――――

「うん、吸血鬼みたいだよね。私もどうして自分がこんなになっちゃったか解らなかった。二日前の夜、志貴くんが夜の繁華街で歩いているって言う噂を確かめにいって、気が付いたら路地裏で倒れてて。そのときはただ、暗くて、寒くて、体中が痛いって思うだけだった。
けど不思議なことにね、時間がたつと、色々な事がわかるようになってた。私の体が痛いのはすごい勢いで崩れていっているからで、太陽の光を浴びるとそれが早まっちゃうとか、体の崩壊を止めるには同じ生き物の遺伝情報っていうのが必要なんだとか」

「うん、理屈はよくわからなかったけど、とにかく何をしなくちゃいけないかは簡単だったんだよ。私は寒かったし、一人で寂しかった。あのまま消えちゃうなんて嫌だったから、とりあえず適当な人の血を吸ったんだ。そうしたらね、それがすごく美味しいの!体の痛みも薄れて、もう何だって出来る気がしたんだから」

「けど、あんまりにも美味しかったから、気がついたらその人の血を残らず吸っちゃってた。その人ね、干からびたミイラみたいになっちゃって、すごく後悔したわ。私、体だけじゃなくて、心まで怪物みたいになっちゃったのかなって。――――でも、生きていく為にはそうしないといけなかった。私は憎くて人を殺して人を殺しているんじゃないわ。私が人から血を吸うのは志貴くんたちが他の動物を食べてるのと同じ理由よ。だから、人を殺すっていう事をあんまり深く考えないようにしたんだ」

「ば――――」

何だ、それは。

生きる為に必要だから人間を殺してもいいって言うのか。

そんな事、俺は――――

その時、弓塚は少しだけ悲しそうな顔をした。

「そう、ほんとにそのつもりだったんだよ…志貴くんが昨日余計な事を言わなかったらそのまま気にせずにいられたのに……うん、志貴くんの事は大好きだけどその事だけはちょっと恨んだな。余計な事を考えちゃったから少し辛かったもの」

俺は何も言えない。

「でもね、結局耐えられるものじゃないんだよ、あれは、しかもね、だんだん楽しくなってきたんだ。志貴くんならわかるでしょう?貴方は私なんかより、もっと上質な人殺しなんだもん」

「な――――」

何、を。

何を言っているんだ、弓塚、は。

「私はずっと貴方を見てきた。だから貴方の優しいところも、恐いところもちゃんと解ってた。私が貴方に話しかけられなかったのはね、志貴くんの恐いところが何なのか解らなかったからなんだ」

「でも今なら解る。貴方は私と同じだもん。憎いとか好きだとかいう感情とは関係なく、誰かを殺したいって思うんでしょう?」

「ちが……う」

「違わないよ。私、志貴くんが持ってる脆い空気が何なのか解らなかった。けど、こんな体になって理解できたんだよ。志貴くんはね、ただそこにいるだけで死を連想させる。世の中には稀に生まれついての殺人鬼がいるけど、その中でも貴方は生粋の殺人鬼だわ」

弓塚はうっとりとした表情をする。

「私ね、昨日は嬉しかった。こんな体になって、初めて良かったなって思えた。だって今まで解らなかった志貴くんをようやく理解できたんだもの。ね、志貴くんだって同じでしょう?誰かを見ただけで理由もなく心臓がドクンドクンって高鳴って、喉がカラカラに渇いて…殺しちゃったんでしょう?」

「う…あ……」

否定できない。彼女の言った事は、まさに事実だったから。

「志貴くん、理由もなく人を殺してしまったって言ってたよね、それが感情に左右されない、純粋な殺人衝動だよ。私が理解したくてずっと理解できなかった志貴くんの脆いところ」

そん…な……

「それともう一つ言い忘れてた。吸血鬼はね、血を吸った人間を吸血鬼にするっていうでしょ?あれはね、ほんとの事なんだよ。正確に言うとね、血を吸っただけじゃその人間は死んじゃうだけなんだ。吸血鬼は血を吸うときにね、自分の血を相手の体に流し込むことで吸血鬼の分身にしてしまうの。さっきまで志貴くんの体の中にあったのはね、私の血液」

立ち上がって、満足そうに、弓塚は言った。

「……そう。コレ、弓塚さんの、血、なん、だ」

……未だ体の中で毒を放ち続ける、黒いモノ。

こんな一口分にも満たない量で、狂いそうな寸前まで苦しいなんて信じられない。

「さあ、もういいころだよね。立って、志貴くん」

……弓塚の命令が聞こえる。

痛みが薄れる。

手足の自由が戻って、俺はようやく立ち上がれた。

「――――よかった。これでずっと一緒だね、志貴くん」

「………………」

「さあ、こっちに来て。私の傍に来て、私の手を握って、私を安心させて」

手を差し伸べてくる。

足が勝手に動き出す。

ただし、前ではなく後ろに動いた。

「志貴……くん?」

――――どくん。

心臓が高鳴る。

喉がはあはあと渇いていく。

神経という神経が、目の前のモノを敵として認識していってしまう。

「はあ……はあ……はあ」

体の中で未だ融けずに残っている弓塚の血の毒と、体中から沸きあがってくる衝動を、必死に堪えた。

「どうしたの……?ねえ、どうして私の言う事を聞いてくれないの……?」

どくん、と心臓が脈打つ。

その鼓動は、ころせ、ころせ、と自分自身に命令するように、繰り返されている。

「志貴くん、貴方――――」

「正気に戻るんだ、弓塚」

はあはあと苦しい呼吸のまま、弓塚を見据える。

「どうして――――!?どうして私の血が効かないの……!?」

「……さあ。わからないけど、ほんの少しだけ、体の中に、泥が入っているような気がする」

それが弓塚の、吸血鬼の血。

こんな―――たった一口分ぐらいの水だけの量で、これだけ吐き気がするというのなら。全身がこんな血になってしまった弓塚は、どれほど苦しいのか想像もつかない。

……痛い、と。

弓塚が何度も繰り返して言っている言葉の意味が、ようやく理解できた。

「……やめよう、弓塚さん。こんな事しても何もならない。弓塚さんは、病気なんだ。だから早く病院にいって、元の体に戻らないと」

「――――私の血は確かに志貴くんの血に混ざってる。それなら、貴方はもう私の体の一部のはずなのに……!」

「……だから、俺にはてんでわからないんだ、弓塚。俺にわかるのは、ただ――――暗くて寒くて独りきりだって、辛そうに言った君の姿だけだ。二日前の帰り道、笑顔でピンチの時は助けて欲しいって言ってた笑顔が、思い出されるだけなんだ」

「……弓塚。君は、苦しいって言ってた」

「そうだよ。私、こうしている時も苦しいんだ。まだ血管が人間の時のままだから、血が流れるだけで苦しいの。細くて弱くて、すぐに破裂しちゃう。でもね、もっと多くの血を吸っていけば、すぐに血管も丈夫になるから平気だよ」

「……痛いって、言ってた」

「ええ、ココロが痛いわ。生きる為とはいえ、みんなの血を奪わなくちゃいけないんだもん、そしてね、それに何にも感じなくなってきている自分が自分じゃないようで恐い。けど、それも独りじゃなくなれば恐くなくなる」

「……寒いって、言ってた」

「うん。寒くて寒くて、指先が壊死してしまいそう。けど、それは別につらくはないよ。ただ暖かいって感じなくなっただけだから」

「必死に――――助けてって、言ってた」

「助けては欲しいけど、もうダメだよ。私は元のさつきには戻れっこないんだから」

弓塚はあの時とまったく同じ笑顔で告げる。

「どうして――――どうして、こんな、事に」

「どうしてこんな事になったかなんてそんなの私の方こそ聞きたいよ、気が付いたらこんな体になっていて、人の血を飲まないと生きていけなくなっていたんだよ、目が覚めたら死んでいた方がずっとずっと楽だったのに…………でも、こうなったからには仕方がないよね。みんなが当然のように他の動物を食べるように私もみんなを食べるしかないんだもん」

「なっ――――何だよそれ………!そんなのはどうかしてる……!そんなの―――どうして、弓塚がそんな事に――――」

弓塚は無言で、ふるふると首を振る。

「どうして……!昔みたいに、普通に笑って、普通に歩いて、普通に話したりする事が、もうできないっていうのか。たった――――たった二日前の話なのに……!」

「……そうだよね。たった二日前まで、私も志貴くん側の生き物だったなんて、夢みたい。失ってみて初めてわかった。――――うん、ほんとに夢みたいな時間だったなあ。もし戻れるのなら、私はどんな代償を払っても戻りたい」

「なら――――」

「でも無理だよ。私は元に戻れない。ずっと、この寒くて痛くて、独りっきりのままで生きていくしかない」

弓塚はうつむく。

がくがくと震えていく、冷たい体。

「――――助けて、志貴くん」

喉から搾り出すような、小さな声。

「恐いの。すごく寒くて、どこにいっても私は独りきりで、すごく不安なの。お願いだから、私を助けて」

……わかってる。

二日前の帰り道にした、なんでもない約束を、覚えている。

「――――ああ。俺に出来る事なら、何でもするよ」

……本当に。

それで、君が元の弓塚さつきに戻れるっていうのなら、俺は何だってしてみせる。

「……あは。志貴くんったら、この後におよんでまだ私を元に戻したいって思っているんだ。……ほんと、うっとりするほど優しいんだね。人殺しが大好きなくせに、それ以外ではすごく優しいなんて、すごい矛盾」

クス、と楽しそうに笑う弓塚。

「無理だって言ってるのに。志貴くんのやり方じゃ、私を助けるなんて事はできないよ」

「なっ――――じゃあ、じゃあどうすればいいんだ……!俺は何も出来ない。弓塚を助けてやれなくて、どうしていいか解らない―――!」

「そんな事ないよ。志貴くんなら私を助けてくれるもん」

いって、弓塚は歩いてくる。

背筋が、危機感で凍った気がした。

「――――俺が弓塚を助けられるって、どうやって」

「簡単だよ。志貴くんが、私の仲間になってくれればいいんだから……!!」

「っ――――!」

紅い眼光に見据えられて、息が出来なくなった。

――――まずい。

はっきりとそう分かるのに、両足は全く動いてくれない。

「そうすれば私は独りじゃなくなって、寒い思いも恐い思いもしなくなるわ。ううん、志貴くんさえ私のモノになってくれれば、人間だった時より私はずっとずっと幸せになれるんだから――――!」

弓塚は真っ直ぐに、迷いなく俺の首を掴まえようと腕を伸ばしてくる。

その速度は、それこそ弾丸のようだ。

「――――ぐっ………!」

必死に首をひねって地面にしゃがみこむ。

風切り音をともなって、弓塚の腕が頭の上を通り過ぎていく。

「は――――あ」

「――――嘘」

襲ったモノと、かわした者。

俺たちはお互いを驚愕の瞳で見ている。

「弓塚、お前――――」

「志貴――――くん?」

呆然と弓塚が俺を見下ろしてくる。

俺は――――逃げなくっちゃって分かっているのに、全身が固まったままだった。

片手は麻痺している俺の理性とは関係なく、ポケットの中のモノを掴んでいく。

弓塚は動かない。

ただその目だけが、驚きから喜びへと変化していく。

「……そうなんだ。志貴くんを手に入れるのは簡単に済むと思ってたけど、これなら――――」

どくん。

「今夜は、わりと楽しめそうだよね、志貴くん?」

容赦なく伸びてくる、獣のような腕。

全身の毛が逆立つ。

俺の手は独りでにポケットのナイフを取り出していた。

どくん。

「――――え?」

自分の声より、自分の腕の動きのほうが早い。

ナイフはざくりと音を立てて、弓塚のむき出しの太ももを縦に削り取った。

「きゃあああああああああ!」

――――呆然と自分の腕を見る。

そこには、たった今彼女の片足を裂いた、血に染まったナイフがある。

――――気がつけば。

俺は震えながら、弓塚から逃げ出していた。
「はあ、はあ、はあ、はあ――――!」

ただ走った。

「なん、で――――なんで、俺は――――」

どうして弓塚を刺してしまったのか、自分の事だっていうのにまったく理解できない。

気がつけば、ナイフで弓塚の足を裂いていた。

「なんで――――」

本当に、何でこんな事になったんだろう。

俺はただ――――弓塚さつきを、助けようと思っただけなのに。

なのに、弓塚の顔を思い出すと心臓がどくん、とはねあがる。

弓塚は俺を殺そうとしている。

俺では、遠野志貴では、あの生き物には太刀打ちできない。

捕まってしまえば、後は当然のように殺されるだけ。

だから逃げている。

ただ、夜を走る。

とにかく今は走っている。

――――――――何の為に?

そんなのは決まっている。

そうしなければ捕まってしまう。

弓塚さつきが、自分を追いかけて来ている気配を感じている。

さっきまでは針の先ほどの気配が、あっというまに背中全部をのっぺりと覆うほどに大きくなってきている。

「はあ、はあ、はあ、はあ――――!」

逃げる為に走ってる。

けど、誰から逃げようっていうんだろう。

……あれは、きれいな笑顔だった。

中学時代の思い出話を語った弓塚さつきの笑顔は、本当に、優しかった。

「く……そ………」

こんな事って、こんな事ってあるか……!

弓塚は人を殺して、人の血を吸う化け物になってしまった――――

「――――!?」

突然、暗くなった気がした、同時に全身にすさまじい悪寒がした。

俺は反射的に、前に飛んだ。

ダンッ!!

その直後大きな音がした。

「ちょっと力加減を間違えちゃったな…ほんとはもう少し手前に着地するつもりだったんだけど」

恐怖とともに俺は振り向いた。

俺がさっきまでいたところに弓塚が立っている。

着地の衝撃でコンクリートの地面が砕けている、にも関わらず、弓塚は何ともなっていない。

「あ…………」

寒気がした。

さっき切り裂いたはずの弓塚の足の傷が無かった。

残っているのは血の跡だけ。

「弓塚……お前は本当に……化け物になってしまったのか?」

俺のその問いにほんの一瞬だけ弓塚が悲しそうな目をした気がした。

「今更何を言ってるの、そうだよ、そして志貴くんも、すぐにそうなるんだよ」

ああ、ほんと今更だと自分でも思う、けどどうしても認めたくなかったんだ。

ナイフを握り締めたまま、立ち上がった。

どのみち彼女は俺の血を吸うつもりだ。そうすればこの命はなくなってしまうだろうし、俺は吸血鬼の仲間入りをするつもりはない。

なら。

初めから、やるべき事は決まっていた。

「――――弓塚。俺は、お前を助けられない」

「そんな事ないよ。志貴くんが大人しくしてくれれば、それで私も志貴くんも幸せになれるんだって」

違う。その幸せは歪んでいるんだ、弓塚。

「けどな、それでも約束したから。――――俺は別の方法で、お前を助けてやらなくちゃ」

言って、メガネを外した。

ずきん、と頭痛が走る。

俺は、本当にはじめて。

人を殺す為に、この視界を受け入れた。

「――――そう。やる気なんだ、志貴くんってば。でもだめだよ。おいかけっこはもうおしまい」

「がっ――――!?」

――――なに、なにが、起きたんだろ、う。

一瞬だけ弓塚の姿が消えて、気がついたら真横に弓塚の顔が見えて――――そのまま、横腹を殴られた、のか。

「はっ――――あ、ぐ………………!」

……背中が痛い。

あの、なんでもない一撃で建物の壁まで吹き飛ばされた、のか。

「く――――――――!」

強くナイフを握って何とか立ち上げる。

「あれ、まだ動けるんだ。志貴くんってわりと頑丈なんだね。いつも貧血を起こしているから、病弱なのかなって思ってた」

「はあ――――はあ、はあ」

呼吸――――呼吸が、荒い。

俺は、とんでもない勘違いをしていた。

「だめだよ、そんなナイフなんかに頼っちゃ。志貴くんの動きなんて止まって見えるんだから、てっぽうを持ってても私には敵わないのにね」

クスクスと、愉しげに笑う声。

「――――はあ――――あ」

それが、勘違いだ。

俺はモノの壊れやすい線が見えるけど、ただそれだけの人間なんだ。

今の弓塚みたいに、俺の何倍も速く動く動物が相手なら、その線に触れる事さえままならない。

ようするに。

彼女の前じゃ、こんな線が見えたとしても意味なんかないんだ。

「――――もう。仕方ないな、少し荒っぽくするからね。大丈夫、頭と心臓だけ生きていれば、あとは何とかできるから……!」

ドン、という衝撃がして、目の前が真っ暗になった。

弓塚の手が、俺の腕を握って。

そのまま、引きずるように放り投げたらしい。

それこそサッカーボールみたいに放り投げられて、背中から地面に落下した。
「あ――――ぐ――――!」

――――見えない。

全身が痛すぎて、何も、見えない。

「ほら、そんな所で寝てるとタイヘンだよ、志貴くん……!」

「――――!」

咄嗟に横に転がる。

さっきまで自分がいたらしい地面を、弓塚の腕が叩いたのか。

ぴきっ、なんてシャレにならない亀裂音まで聞こえてくる。

「はっ――――く…………!」

痺れている体を無理やりに動かす。

視界はまだ真っ暗のまま。

感じられるのは弓塚の気配だけ。

「……こ………の」

立ち上がって、弓塚の気配がするほうに、ナイフを構える。

「もう、無駄だって言ってるのに、どうして大人しくしてくれないかな、志貴くんは!」

弓塚の気配が迫る。

どくん、という自分の心音。

なまじ目が見えないおかげなのか、今度は弓塚の腕をすり抜けられた。

「――――嘘」

呆然とした、弓塚の声。

きっと、弓塚は今背中を見せている。

けど目が見えない俺にはどうする事もできない。

「このぉ――――大人しくしてって言ってるのに!」

弓塚の声。迫ってくる死。

それに合わせて、闇雲にナイフをふるった。

「きゃあ――――!」

びしゃり、という音。

今、確かに弓塚の腕を切った。

「しまっ――――弓塚、大丈夫か……!?」

思わず口にして、自分の甘さにほとほと愛想がつきた。

何だって俺は、自分を殺そうとしている相手にそんな心配をして――――

「――――あ」

正面から何かに殴りつけられて、弾き飛ばされる。

「あ――――」

視界が、戻った。

今の一撃があんまりにも強力だったおかげだろうか。

どうも、さっきの一撃で路地裏の壁まで弾き飛ばされたみたいだ。

背中には硬い壁の感触がある。

「――――あ」

意識が遠のく。

なのに、弓塚は容赦なくやってくる。

「うそつき――――!」

恨みのこもった声をあげて、俺めがけて手を振り上げる。

動けない。

動けないから、もう、殺されるしかなかった。

どんっ!!

「………………え?」

壁がゆれる。

弓塚の腕は、俺のすぐ横の壁を、ただ乱暴に叩いただけだった。

「うそつき――――!助けてくれるって、私がピンチの時は助けてくれるって言ったのに!」

また、見当違いの所を彼女は壊している。

「どうして?私がこんなになっちゃったからダメなの?けど、そんなのしょうがないよ……!私だって、好きでこんな体になったんじゃないんだから……!」

どん、どん。

駄々をこねる子供みたいに、ただ、彼女は叫んでいる。

「………こんなに痛いのに、こんなに苦しいのに、どうして志貴くんは私を助けてくれないの!?助けてくれるって約束したのに、どうして――――」

どん、どん。

出口のない苦悶の声。

いつ自分の体を串刺しにされてもおかしくないこの状況で。

どうしてだろう、これから殺されるという恐怖は薄れていた。

「志貴くん――――志貴くんが私の傍にいてくれるなら、この痛みにだって耐えていけるのに。どうして、どうして貴方まで私の事を受け入れてくれないの……!」

……なんて、愚かさ。

繰り返される言葉は、俺に対する恨み言なんかじゃない。

弓塚さつきは、ずっと、どうしようもなくて泣いているだけだったって、いうのに――――

――――弓塚の声が聞こえなくなった。

弓塚は、ピクリとも動かなくなった俺を見て、呆然と立ち尽くしている。

……まるで。

悪い夢から覚めて、自分のした事を、後悔する、ように。

「――――志貴くん、私……こんな、つもり、じゃ――――」

「……いい………んだ]

――――そんなに、自分を責める必要なんて、ない。

たとえ、身も心も吸血鬼なんていうモノになってしまったとしても。

彼女はやっぱり、どうしようもないぐらい、可哀相な被害者なんだ。

どのみち、もう俺の体は動かない。

弓塚、君がそんなに一人で、痛くて、寒いっていうんなら。

俺に出来る事は、もう一つしか残っていない。


「……いいよ弓塚」

「志貴……くん?」

「俺の血でよければ吸っていいよ。約束だもんな・・・キミと一緒に、いってやる」

「――――ほんとに、いいの?」

「・・・なんだよ。今までそうしたくて散々追い回したんだろ。なんでここで遠慮するかな、弓塚は」

「だって――――私、本当にそうしたいけど、でも――――それをしたら本当にだめになってしまいそうで――――」

「――――痛いんだろ。なら、いいよ。俺はキミを助けられない。だから、弓塚の言う方法で助けるしかないじゃないか」

「・・・・・志貴くん・・・・・」

コクン、とうなづいて。

彼女は、俺の首筋に唇をあてた。

・・・・・・・・・・・・・・・

しかし、いくらたっても首筋に牙がたてられる事はなかった。

「弓塚・・・・?」

俺は弓塚に目をやった。

弓塚は・・・泣いていた。

「志貴くんはずるい、いっそのこと最後まで抵抗してくれたら私は血を吸えたのに、どうして、どうして最後にそんなに優しいの?できない、そんな風にされたら私には吸うことなんてできないよ・・・」

「・・・・・・」

なんて皮肉だろう、彼女の残った人間の部分が彼女を苦しめているなんて……

「弓塚・・・」

「本当はわかってた…私が望んでいる事は間違っているって、でも、でも………それでも、望まずにはいられなかった!!」

まるで子供のように泣きじゃくる弓塚に俺は何も声をかけられなかった。
しばらくして弓塚は涙を拭うと立ち上がった。

「ありがとう、志貴くん、私は最後の一線を越えずにすんだ。決めたよ、私、もう血は吸わない。死ぬのが怖くないなんて言えないけど、心だけでも最期まで人間でありたい」

そう言ってはっきりと弓塚は俺を見た。

その瞳を見て俺は驚いた。

「弓塚・・・・・・」

「気にしないで、これは私が決めた事なんだから」

「違う、そうじゃない、弓塚、瞳が・・・」

弓塚の瞳が黒に戻っていた。

もしかして弓塚の体は・・・

「どうして?私は吸血鬼になってしまったはずなのに・・・」

「まだ・・・吸血鬼になりきっていないんじゃないか?だったら・・・戻れるかもしれない」

それは小さな、とても小さな希望。

だが、弓塚が吸血鬼の部分を抑えた・・・

俺はそう信じてみたい。

「・・・あはっ、格好悪いね、ものすごい一大決心だったんだよ、さっきの、でも、それを聞いたらね、信じてみたく、なっちゃった」

「ああ、俺も信じたい、弓塚を助けたいんだ・・・」



[996] 第一話 暗黒烙印Ⅰ
Name: アービン
Date: 2005/11/23 15:57
日はもうとっくに暮れてそろそろ真夜中になろうとしている。

そんな時刻に俺は路地裏の廃ビルにいた。

中は真っ暗でほとんど何も見えない。

「弓塚、いるか?」

俺は暗闇の中に声をかける。

――――と、真っ暗だった部屋に小さな明かりが灯った。

「志貴くん、入ってきていいよ」

それを聞いて俺は中に入っていく。

明かりが点いたとはいえまだ暗く、足元がよくみえない。

「あ、そこ段差があるから気をつけて」

彼女はそれなのに見えているかのようにそういった、

いや、実際見えているのだ。

彼女がさっきまで明かりを点けていなかったが見えなかったわけではない。

彼女には明かりなど必要がないのだ。

なぜなら彼女は・・・吸血鬼であるから・・・

「ほら、頼まれた物は買ってきたよ」

「ありがとう、今日はちょっと遅かったね」

「ごめん、なかなか屋敷を抜け出すタイミングがなくて」

秋葉達が俺の為に歓迎会を開いてくれたのが長引いてしまった。

「いいんだよ、だってこれは私のわがままなんだから・・・本当は志貴くんはこんな事しなくてもいいのに・・・」

弓塚はそう言ってうつむいた。

「それは前にもいったろ、俺が弓塚の少しでも助けになるなら喜んで手を貸すよ。助けるって約束したじゃないか」

「うん・・・ありがとう」

「礼を言われる事はできてないよ。俺は弓塚を助ける事ができない・・・弓塚が苦しんでいてもただ見ている事しかできない俺は・・・何もできていないんだ・・・」

「そんなことない!!
私が今の私でいられるのは志貴くんがいるから!!
本当の吸血鬼になりかけていた私が戻ってこれたのは志貴くんがいたから!!
人を平気で殺めてしまった私が生きていられるのは志貴くんが許してくれたから!!
志貴くんがこうして来てくれるから私は苦痛に耐えることができる!!
だから・・・そんな事いわないで・・・」

「弓塚・・・ごめん」

弓塚は吸血鬼でありながら確かに人間だった。

今、弓塚は吸血衝動を必死に抑えている。

そしてそれは真夜中に最も強くなるらしい。

その前に、俺と話していると、落ち着くらしい。

俺には話す事と弓塚に必要な物を買ってくる事ぐらいしかできない。

無力な自分が恨めしい。

「あっ、うう・・・・・・」

弓塚が苦しみだした、時間が来てしまったのか。

「弓塚・・・・・・」

「志貴くん、出て行って・・・」

「ああ・・・・・」

こうなったら俺は出て行くしかない。

下手すると弓塚が俺を襲いかねない、そしてそれはどちらにとっても望まない事だ。

俺はビルから出て行く。

後ろから弓塚の呻き声が聞こえる。

「くそっ、俺はなんて・・・無力なんだ」

屋敷に戻る足取りはどうしようもなく重かった。



[996] 第二話 吸血姫
Name: アービン
Date: 2005/11/23 15:58
夢…………

薄暗いビルの闇の中、

一人でうずくまっている。

体がズキズキと痛む、

でも、そんなことよりも…

寂しくて、たまらない……










徐々に意識が覚醒していく。

「朝か・・・・」

柔らかい朝日が窓から差し込んでいる。

穏やかな光景。

まるで昨日までの事は夢だったかのように。

「それだったらどんなによかっただろうな・・・」

俺があの女性を殺してしまった事も、

弓塚が吸血鬼になってしまった事も、

全て夢だったらどんなによかっただろう・・・

けど、そんな事はありえない。

コンコン、とノックの音がした。

「入っていいよ」

カチャ、とドアが開き翡翠が入って来た。

「志貴様、起きていらしたのですか?」

「ああ、嫌な夢を見て目が覚めちゃって」

本当に嫌な夢だった、まるであれは弓塚の体験している事みたいだった。

翡翠はそうですか、と言って着替えを渡してくれた。

「秋葉様は既に居間でお待ちしています」

「ありがとう、着替えたらすぐ行くよ」






「おはよう秋葉」

「おはようございます兄さん、今日は早いのですね」

「ああ、たまたまだ」

「私としてはいつもこのぐらいの時間に起きてほしいのですが」

「努力はするよ・・・」

「前にも言った気がしますが努力は要りません。結果を出してくれれば結構です」

秋葉はピシャリと言い放った。

わかっているのだが、それはなかなか出来ないんだよ。










「いってらっしゃいませ、志貴様」

そういってふかぶかとおじぎをする翡翠に見送られて俺は屋敷を出た。

どうも照れくさいなあ・・・

登校の途中で俺は思う。

今の俺の状況はとんでもない事になっているのに俺は学校に行っている。

いつもと変わらない事をしている自分にとまどい、また安堵している。

まあ、今は日常にいるとしよう。

夜になればどうせ非日常に向かい合うんだから。

――――が、それはもっと早くきてしまった。

登校途中の交差点、人が大勢いるというのに俺はそれを見つけてしまった。

「そん・・・な・・・」

見覚えのある、いや忘れようの無い後姿。

美しい金髪と白い肌。

俺がバラバラにして殺したはずの女の姿が見えた。

俺が唖然としている間にその姿は人ごみに消えていく。

落ち着け俺。

単なる見間違いか、人違いさ。

気にする事は無い、さっさと学校に行こう。

そう、気にする必要は無い。

無いというのに――――

俺は気付くと女の消えていった方に足を向けていた。

しばらく歩いても女は見つからなかった。

ほら、見間違いさ、もう戻ろう。

そう思った時。

――――いた。

その女を見つけてしまった。

しかも、さっきより近い。

やはり後ろ姿だがそれは以前見たものと酷似している。

どうする?話しかけてみるか?人違いだとわかるかもしれない。

だが、もし本物だったら・・・

答えを出せず、俺は・・・とりあえずあとをつけた。

――――女はこっちに振り向かない。

俺の中で振り向いて欲しい、という思いと、

振り向くなという思いが両方渦巻いていた。

だんだん人通りが少ない道に来てしまった。

まずい、引き返した方がいいかもしれない。

それなのに足は止まってくれない。

――――と女が曲がり角を曲がった。

数秒置いて俺も曲がり角を曲がる。

が、女の姿が無かった。

「な!?いったいどこに!?」

この道は行き止まりで特に隠れられる場所は無い。

「ねえ、私に何の用?殺人鬼さん」

ヒヤリ、とした指が俺の首に触れていた、俺の「後ろ」から。

「う、うわあああああ!!」

俺はその指を振り払って、振り向いた。

認めたくなかった、人違いだと思いたかった。

だがそこにいたのは紛れも無く

俺が殺したはずの女だった。

「そ、そんな・・・」

「こんにちは、この前は本当にお世話になったわ」

「あ、ああ・・・」

俺は今すぐこの場から逃げようとした。

だが、足が全く動いてくれない。

いや、足はおろか、腕すら動かない。

まるで蛇に睨みつけられた蛙のように、

俺は全く動けなかった。

「逃げようとしても無駄だよ。私の目を見ちゃったからね。ここは人通りも無いし、ゆっくり話せるね」

ゾッとする、俺は捕まってしまったのだ。

とんでもない化け物に・・・

「全く、本当に大変だったわ、突然見知らぬ殺人鬼にバラバラにされるし二日前にずっと探していたのに、全然見つからないし、そのうちネロに見つかって散々な目に遭うし。おまけに探すのを諦めた途端に探していた奴に跡をつけられるし、ふんだりけったりっていうのはこういう事をいうのかな。」

「お前は、確かに俺が・・・」

「ええ。この前貴方に殺された女よ。覚えていてくれて嬉しいわ」

「なっ!!」

そんな事が有り得るはずが・・・

「ふざけるな、死んだ人間が生きてるハズがないだろ!」

「ただ生き返っただけだよ、そこまで驚かなくてもいいんじゃない?」

「いきかえった・・・」

どういう事だ?あの後に息を吹き返したとでもいうのか。

「馬鹿にすんなっ!あんなに手足をバラバラにされて生き返る人間なんているはずがないだろ――――!」

「うん。だって私、人間じゃないもの」

「――――は?」

人間じゃない、じゃあ一体?

「当たり前でしょ。手足をバラバラにされて、ひとりでに再生できる人間なんているわけないじゃない」

そりゃそうだ、そんなのは人間に似ているだけの全く違う怪物だろう。

殺しても蘇る。

息の根を止めてもお構いなし。

バラバラにしても、すぐに元通りになって動き始める人間とは呼べないもの。

それが、今自分の目の前にいる女の正体らしい。

正直言って笑い飛ばしたい。

だが俺にはそれができなかった。

俺は、ひとつだけこの女の正体に心当たりがあった。

人間と酷似していて人ではない化け物。

「・・・人間じゃないって言ったな。それじゃあ何なんだ、お前」

「私?私は吸血鬼って呼ばれてるけど。」

それを聞いた途端、俺の中で何かがキレた。

吸血鬼?



「知ってる、志貴くん?吸血鬼にかまれるとね、その人も吸血鬼になるっていうよね、あれ本当なんだよ、正確にはかんだときに自分の血を送り込むとそうなるんだけどね」

じゃあ、お前が・・・

「どうしてこんな事になったかなんてそんなの私の方こそ聞きたいよ、気が付いたらこんな体になっていて、人の血を飲まないと生きていけなくなっていたんだよ、目が覚めたら死んでいた方がずっとずっと楽だったのに」

お前のせいで・・・

「痛いよ、志貴くん、痛くて、寒くて、すごく不安なの。ほんとは、今すぐにでも志貴くんに助けて欲しい。」

「恐いの。すごく寒くて、どこにいっても私は独りきりで、すごく不安なの。お願いだから、私を助けて」



「お前のせいで弓塚は・・・!!」

「え?」

気が付くと俺は動けないはずの体を動かし、

ナイフを持って女に襲い掛かっていた。

コロス・・・・

ナイフは正確に首の『線』を狙っている。

殺った、俺はそう確信した。

ガッ!!

「ぐうっ・・・・!!」

だが、俺はいつのまにか地面に叩きつけられていた。

「自惚れないでよ、魅了の魔眼を破ったのは誉めてあげるけど、何度も殺されてやるほど私は甘くないわ」

「がはっ・・・・」

肺が強くうちつけられて息が詰まる。

だが、こいつだけは許せない・・・

「何よその目は・・・何でそんなに怒っているの?私には貴方を恨む理由はあっても貴方に恨まれる心当たりはないわ」

「ふざけるな・・・!お前が弓塚をあんな風にしたんだろうが!!」

自分に恨まれる心当たりはないというこの女に俺は更に怒りを増す。

「誰それ?」

「お前に血を吸われて吸血鬼になった人だよ!!」

「・・・・・それ、私がやった事じゃないわ、勘違いよ」

「嘘をいうな!!お前がやったんじゃないなら他に誰がいるんだよ!?吸血鬼なんてそうそういるものじゃないだろ!!」

「まあ、確かにそうそういるものではないわね、だけど私は別の吸血鬼を追ってここに来たから、その弓塚とかいう人を襲ったのもそいつでしょうね」

「な・・・」

じゃあほんとに勘違いなのか・・・?

「ふうん、私って勘違いで殺されたの、それはものすごく腹が立つわね・・・」

ぞっとする殺気を女は放つ。

正確には最初殺したのはそういうわけではないのだが、

そんな事をいう余裕は俺には無かった。

コロサレル、

そう思った、この女は間違いなく自分を殺すだろう。

「・・・まあ、いいわ」

フッ、と殺気が霧散した。

「俺を殺さないのか?」

「そうして欲しいならしてもいいけど、非効率的だからとりあえずやめとくわ」

そして女は少し考えた後言った。

「ね、あなた反省してる」

「え?」

「私を殺して悪かったって思ってるか聞いてるの、もし反省してるようなら許してあげようかなって、どうなの?」

「反省って俺が?」

「うん、貴方が本当に反省していて私に謝ってくれるならそれでいいよ」

信じられない、自分を殺した相手をこの女は許すと言っているのだ。

「もうっ、真面目に聞いてるんだからちゃんと答えてよ」

そりゃあ、反省してるかっていわれたら……

「もちろん悪いとは思っているし後悔している、俺はあんたを殺してしまった、それは紛れも無い事実だし、殺されても文句いえない」

「そっか、あなたいい人みたいだね」

女は笑った、すごくまっすぐでこれ以上ないぐらいの顔で。

「うん、決めた。貴方には手伝いをしてもらうわ」

「手伝う・・・いったい何を?」

「私が追っている吸血鬼を倒す手伝いよ。貴方ほどの殺害技術を持った者なら、死者を狩る程度は造作もないだろうし」

「殺害技術って・・・そんなのあるわけないだろ!!俺はただの学生なんだから」

「ふうん、ただの学生って人をバラバラにするんだね」

「そ、それは・・・」

「貴方は私を殺したのよ、そんな事ができるなんて普通じゃない」

「――――」

「協力してくれる?」

「…吸血鬼を追っているって言ったな?」

「ええ」

「その吸血鬼が今、通り魔殺人事件を起こしているのか?」

「そういう事になるかな、貴方が言っていた弓塚って人も襲われたんでしょうね」

……なら俺は戦う必要があるだろう。

弓塚を吸血鬼にしてしまったそいつが憎い。

それにそいつを倒せばもしかすると弓塚を救えるかもしれない。

「やるよ、俺にも関係があるし、協力する」

それを聞いて女は心底驚いた顔をした。

「本当にいいの!?私吸血鬼なんだよ!?」

「なんだよ、頼んだのはそっちのほうだろ」

「まあ、それはそうなんだけど……」

女はしばらく何か考えこんでいたが

「ま、いっか!ありがとう、正直助かるわ。今ほとんど力が残っていないから、回復するまで一人ではきつかったから」

そう言って女は俺に手を差し出してきた。

「これで契約は成立、と自己紹介するわね、私はアルクェイド、真祖って区分けのされる吸血鬼よ貴方はなんていう人?」

「遠野志貴。あいにくただの学生だよ、役に立たないかもしれないけど」

俺はその手を握って握手をした。

「それじゃ志貴、これからよろしくね、私を殺した責任ちゃんととってもらうから」











「……というわけなんだ」

「何て言うか…すごい話だね……殺した相手に責任を負うなんて……」

夜、弓塚の所に来て連れて来たアルクェイドの事を話すと、弓塚はそんな反応を返した。

「確かにそんなの俺だけだろうな……」

何だか俺には変わった事ばかり起きていると思う。

「まあ、この話はこれぐらいにして……それで…アルクェイド……弓塚の今の状態はどうなんだ?」

「そうね……こんなの私でも初めて見たわ、かまれて一日で活動しだすなんて聞いた事無い。よっぽどポテンシャルが高かったのね……今の彼女は人間の部分と吸血鬼の部分がせめぎあっている。そんな事有り得ないはずなんだけど……半分人間で半分吸血鬼というのが一番近いかな」

「人間に戻る事はできるのか?」

「……少なくとも私の知る限り吸血鬼から人間になる方法は無いわ」

「じゃあ弓塚は……!!」

「話を最後まで聞いて、人間に戻ることはできない、けど吸血鬼化を食い止める事はできる。彼女を襲った吸血鬼を倒せば吸血鬼化は止まるし、吸血衝動も弱くなるはずよ。人間の部分が残っているなら、吸血衝動を我慢すれば普通に生活できると思うわ」

「じゃあそいつを見つけて倒せばいいのか?」

「そうなんだけど、死徒は…死徒って人間が吸血鬼になったものを指すんだけど、大抵、殺した人間に自分の血を送り込んで操り人形にした『死者』を作って、死者に吸血をさせて死者がいなくならない限り自分は隠れて出てこない」

「まず死者を全滅させないと死徒を倒すことはできないって事か」

「そういう事よ、だから死者を狩る事から始めないといけない」

その時今まで黙っていた弓塚が口を開いた。

「ねえ、志貴くん、本当に志貴くんも戦うの……?」

「ああ、そのつもりだよ」

「やっぱり、危ないと思う……」

そう言って俺を心配してくれる弓塚、その気持ちはとても嬉しい、でも…

「やっと、俺に出来る事が見つかったんだ、俺はやれるだけの事はやりたい、大丈夫だって、アルクェイドもいるんだし」

「でも……うっ!!」

何か言おうとした弓塚が苦しみだした。

「志貴、彼女の吸血鬼の気配が強くなってきている。そろそろ出て行ったほうがいいわ、死者も動き出す時間だし」

「わかった、……弓塚、行ってくる」

「志貴くん……本当に気をつけてね……」

不安そうな目で俺をみる弓塚、

俺なんかよりも自分のほうがよっぽど辛いのに……

「ああ」

「アルクェイドさんも…気をつけてください……」

「え……?あ、う、うん………」

俺とアルクェイドは廃ビルから出て行った。

一刻も早く弓塚を苦痛から開放してやりたい!!










「それでアルクェイド、どうやって死者を探せばいいんだ?」

「まず私が死者の気配を探るから志貴はとりあえずついてきて」

そう言ってアルクェイドは歩いていく。

俺はその後を追った。

しばらく歩いて大通りにさしかかったとき、アルクェイドはピタリと足を止めた。

「見つけた」

その声を聞いた時俺は背筋が寒くなった。

ぞっとするほど純粋な殺意。

「志貴、眼鏡を外してあの人間を見て」

「あの人間ってあのサラリーマンっぽい男の人?どうして?」

「いいから早く」

「わかったよ、あんまりやりたくないんだけどな」

そう言いいながら俺は眼鏡を外す。

ちなみに俺の眼の事はアルクェイドに話してある。

こめかみに痛みがはしる。

周りに黒い『線』が視える。

あの男にも当然『線』が……

「なんだよあれ……!?」

『線』の数が普通じゃない、

男の風貌がわからないほど『線』に埋め尽くされている。

「そう……やっぱりね、すでに死んでいる者すら『死』を視る。破壊できるものなら例外なく、ほんとに化け物じみた力ね」

「あれが『死者』なのか……」

「そう、殺された後ですら、死徒に操られ続ける意思なき人形、ただ命令に従い血を吸うだけの存在」

アルクェイドはその男に近づいていく、

その男はアルクェイドに気付くと裏路地に逃げていく。

「志貴はここにいていいわ、死者一人だけなら手助けは要らない」

そう言うとアルクェイドは路地裏に消えていった。

気付くと体が震えていた。

「あれが…『死者』…」

何故だかよくわからない、

だがあれがとても恐ろしかった。

「くそっ!!」

パン、と両手で頬を打つ、アルクェイドはここにいていいと言ったが……

「それじゃ来ている意味がないじゃないかっ!!」

俺はアルクェイドの消えた路地裏に走っていった。










「はあっ、はあっ、まさかここまで力が落ちているなんて……」

路地裏に入るとアルクェイドは息を切らしていた。

「アルクェイド!!」

「志貴……?来なくていいっていったのに……死者はもう倒したわ……」

「おい!!お前ふらふらじゃないか!!」

「大丈夫よ……ちょっと疲れただけだから……」

「ばかっ!!疲れているんなら休めよ!!そんな顔で言っても全然大丈夫に見えないぞ!!」

「気にしたってしょうがないのよ、これは……私たちはそんな悠長な事言ってられない。急がなくてはいけない事ぐらいわかるでしょう?」

それは……確かにそうだ、のんびり傷を癒している暇なんてないだろう、でも……

「ばかっ!!」

そう言わずにはいられなかった。

「さっきの弓塚を見ただろ!!弓塚は自分の為に誰かが犠牲になって助かっても喜ばない!!それに何の為に俺に手伝いを頼んだんだよ!?そりゃ俺はあまり役に立てないかもしれない!!でも……ちょっとは頼れよ」

「志貴……うん、わかった、ごめんね、これからは気を付け…!!」

アルクェイドは突然顔を険しくして、

「志貴、後ろっ!!」

「えっ!!」

俺が振り向いたのと同時に俺の後ろから死者が襲い掛かって来た!!

「うわぁ!!」

叫び声をあげながら咄嗟に俺はナイフを振るった。

ザシュッ

「ギ…ガ……」

死者は呻きながらその場に崩れ落ちた。

「志貴!!大丈夫!?」

「あ…ああ……」

目の前で死者が灰になっていくその光景に俺は呆然としていた。

「アルクェイド、これは一体?」

「あれ?言ってなかったっけ?吸血鬼は死ぬと灰になって消えるわ」

灰は風に吹かれて消えていく、そして元通りになった、もう何も残っていない。何も…

「志貴…顔色が悪いよ?」

「大丈夫、少し気分が悪くなっただけだ」

そう言って俺は眼鏡をかけた。

今ここで死んだというのに、何も残らない。
それは悲しい事のような気がした。

「アルクェイド、次はどこへ行くんだ?」

「ん……今夜はもう出て来ないと思う」

「そうか……じゃあどうする?」

「今夜はここでお別れにしましょう。明日、またあの廃ビルで十時に」

「わかった」

「志貴…一つだけ言っておくわ、死者はもう人ではないわよ」

そう言ってアルクェイドは去っていった。

「ああ…わかってるよ」

俺も屋敷に帰るとしよう。










屋敷に帰り自分の部屋に入るとベッドに倒れこむ。

「今日はまたずいぶんいろいろあったな……」

殺したはずの女に会って、

弓塚がどうなっているのかわかって、

そして…死者を殺した……

――――死者はもう人ではない――――

「わかっているさ…でもそんな簡単に割り切れない……」

さっきナイフで切った時の感触がまだ残っている。

「やめよう…それよりもう寝ないと……」

そう思うと急に眠くなってきた。

「弓塚…必ず助けてやるからな……」

そう決意しながら俺は眠りに落ちた。



[996] 第三話 死猟
Name: アービン
Date: 2005/11/23 15:59
「志貴様、起きて下さい、志貴様」

ゆっくりと意識が覚醒していく。

目を開くと眩しい朝日が差し込んできた。

何だか頭がくらくらする……

「おはよう翡翠」

体を起こして翡翠に挨拶する。

「おはようございます志貴様…少し顔色が悪いようですが大丈夫でしょうか?」

「え…ああ別に心配するほどの事じゃないよ、たまにある事だし」

顔色が悪い理由なんてわかりきっている、昨日の事だろう。

気付くと体がひどい寝汗をかいていた。

どうやら俺は死者の事が相当こたえているようだ。

でもやると決めたんだ、くじけるわけにはいかない。










「兄さん、今日はまたいつもよりさらに遅い……兄さん?顔色が悪いですよ」

居間に入って来た俺に小言を言おうとした秋葉が俺の顔を見て心配そうな顔をした。

そんなに俺は顔色が悪いのか?

「大丈夫だよ、たいした事無い。貧血のせいか時々こうなるんだよ」

そういってごまかす。

「それならいいのですけど……念のため琥珀に薬を処方させましょう」

「ああ、じゃあ頼むよ」










朝食を終えた後、琥珀さんに薬を渡された。

「はい、志貴さん」

「ありがとう」

「これを飲んでもよくなっても、激しい運動などは控えてくださいね、薬が効いているだけなんですから」

「わかった」

そういうわけにもいかないけど……















教室に駆け込む。

「――――ふう」

一息をついて机に向かう。

「いょぉう、さぼり魔」

背後から、聞き慣れたあまりいい気分にならない声がかけられた。

「どうしたんだよ遠野。お前が学校をさぼるなんて聞いてないぞオレ。困るじゃんか、ちゃんと今日はさぼって遊びに行くぞ報告してくれなくちゃ!」

「さぼったんじゃなくて風邪引いてたんだよ……だいたいさ、何で俺が学校を休むって事をいちいちお前に報告しなくちゃいけないんだ」

「あったりまえだろ。遠野が来ないって事は先輩もうちの教室にやってこないんだから、事前に手を打っておかないとまずいじゃねえか」

……だから、一体何がまずいんだろうか、この男は。

「しっかしさ、ホントの所はどうなんだよ。お前は中学からこっち、貧血持ちの癖に学校だけは休まなかっただろ。まあ、そりゃあ登校した瞬間に帰るっていう離れ技は何度かあったけどな」

「朝起きたら既に学校を休む連絡がいっていたんだよ。まあ熱が随分あったからだけど」

実際に昨日の場合は学校に行かなかったのはアルクェイドにあったからなのだが。

と、ホームルーム開始のチャイムが鳴り響いた。

「おっと、んじゃオレはこれで。真面目に勉学に励むんだぞ」

有彦はいそいそと教室を出て行った。

つまり、あいつは学校をさぼるという事らしい。

「何しに学校に来ているんだ、あいつは……」















午前の部、終了。

「……さて、どうしようかな」

有彦もいないし、今日はゆっくり昼飯を摂る事にしよう。

「あれ?遠野くん一人なんですか?」

「そうだけど――――先輩、もしかして昼飯食べに来たの?」

「はい、みんなで食べようと思って急いでやってきたんですけど――――」

じっ、と。

何を思ったのか、先輩はそのまま俺にぴたりと寄り添ってくる。

「ちょっ――――せ、先輩……?」

すぐ近くに先輩の体がある。

ほとんど抱き合っているような身近さ。

「――――」

先輩は何も言わない。

ただ俺の体に寄り添って――――くんくん、と匂いをかいでいたりする。

「――――はい?」

……何してるんだろ、この人は。

先輩はそのまま、ぱっと俺から離れる。

「……あの、先輩?」

「遠野くん、何かありました?」

「何かって……その、何が?」

「わかりません。わからないから聞いているんです」

先輩は上目遣いで、何だか怒っているようにも見えた。

「別に――俺はいつも通りだけど。何、何かおかしいの、今日の俺って?」

「うーん、それが私にもよくわかりません。何となく思っただけですから、気のせいなのかもしれませんね」

「…………?」

はて、と首をかしげる。

「さ、お昼ごはんにしましょうか。遠野くん、今日は学食でしょう?早く行かないと席が埋まっちゃいますよ」

「ああ、そっか。そういう先輩も、今日は学食?」

「はい、今日はおいしいものが食べたくなる日なんです」

先輩はにこやかに答えて、こっちの手を引いて歩き出した。

結局その後は他愛のない話をしただけだった。

しいて言えば先輩がおいしいものが食べたいといってカレーを頼んだ事が印象に残った。















放課後、特にする事もないので真っ直ぐ帰る。

夕焼けが景色を茜色に染めている。

坂道にさしかかる。

あたりに人通りはない。

「………………」

ほんの数日前、俺と弓塚はここを一緒に帰った。

あの時は特に何とも思わなかった。

けれど、今はあの時がいかに幸せだったかがよくわかる。

平和な日常が続く、当たり前のようにそう思っていた。

きっと弓塚だってそう思っていただろう。

それなのに…………

「……ぐっ!!」

夕焼けをみていると急に頭がクラリときた。

まずい……これは貧血の兆候だ……

立っていられず地面にしゃがみこむ。

こんな人通りの無い所で倒れたら洒落にならない。

「うう…………」

鞄を開け、琥珀さんから調子が悪くなった時の為にと渡された薬を取って飲む。

そのまましばらくじっとしていると何とか治まった。

「……ふう」

まずいな……やっぱり体が弱っている。

ここ数日睡眠時間が短くなっているからある意味当たり前なのだが……

「早く終わらせないと本当に倒れかねないな……」















そして……今日も時間がやってきた。

時刻は十時少し前。

「よし、そろそろ行こう」

そう言って部屋から出ると……翡翠がいた。

「翡翠!?」

「志貴様、今日もお出かけになるのですか?」

「わかってたんだ……」

考えてみたら屋敷の管理をしている翡翠なら俺が屋敷を抜け出しているのに気付くのも当たり前だ。

「……うん、実はこれから何日か夜に出掛ける事になるんだ。でも誓って悪い遊びをしてるわけじゃない。どうしても行かなきゃいけないんだ」

そう、この街を脅かす吸血鬼を倒す為に。

そして、弓塚を助ける為に。

俺は、行かなければならない。

「――――翡翠にも迷惑をかけるけど、しばらくは見過ごしてくれると助かる。出掛けたら勝手に帰ってくるから、屋敷の門だけ開けといてくれ」

「志貴様は私に理由は話せない、というのですね」

「……ああ、ごめんな翡翠。だらしない奴だって思ってくれていいからさ、今は何も聞かないでくれ。きっと、何を言っても嘘になる」

「いえ、志貴様は私の主人です。主人をだらしない方と蔑む使用人はおりません」

「……ありがとう」

そういって俺が行こうとすると、

「お待ちください」

翡翠に呼び止められた。

「……その、差し出がましい事なのですが」

翡翠は一度言葉をきってから、ぐっ、と両手を握り締めてこちらに視線を向けてきた。

「志貴様さえよければ、秋葉様に夜に出掛ける事をお隠しすることができます」

「え?」

「夕食後、秋葉様はお部屋からお出になる事は稀です。就寝前の見回りは私と姉さんで行っていますからその報告に虚言を混ぜてしまえば秋葉様に気付かれる事はありません」

「それは……そうしてくれるとすごく助かるけど……いいの?秋葉は翡翠の雇い主なのに」

「私の主人は志貴様といったはずですが」

「ありがとう……じゃあお言葉に甘えさせてもらうよ」

「では屋敷を出入りするのは裏口からなさってください」

「裏口?」

「はい、この屋敷には裏手に使用人用の扉があります、そこなら鍵があれば気付かずに出入りできます」

すっ、と翡翠が鍵を差し出した、どうやらこれが裏口の鍵のようだ。

俺は翡翠から鍵を受け取った、これで夜の出入りに心配は無くなった。

「じゃあ、行って来る」

「いってらっしゃいませ、お気をつけて」















程なくして廃ビルの前まで来た。

「少し遅れたかな……」

そう思いながら中に入ろうとすると――――

「ん?……何か話し声が聞こえるな?」

片方の声は弓塚だろう、もう片方は……

「ああそうか、アルクェイドが先に来てるのか」

二人だけだったらちょっと気まずそうだな……

「さっさと中に入るか……」










中に入って俺は正直驚いた。

「ねえねえ、さつき、他に志貴の事で何か面白いことない~?」

「えっと、中学の修学旅行に行った時にね、志貴くんが……」

何か随分打ち解けた感じになっていた。

「……それで、何か大事そうな仏像の腕を折っちゃったんだけどね、志貴くんが『この像を隠してしまえばわからない』って言って……」

「……って弓塚!?どうしてそれを知っているんだ、あれは秘密にしていたはず!?」

「……まあ、そう言うと思ってたけど………志貴くん、あの時私は志貴くんと修学旅行、同じ班だったんだよ」

俺は唖然とした、全然覚えてない。

「志貴、物覚え悪すぎるよ、三年間も一緒にいるのにろくにさつきの事覚えてないじゃない」

「この場合、物覚えが悪いのとは少し違うと思うけど……」

何だか俺が『三年間も一緒にいて、しかも修学旅行も同じ班だったクラスメイトを全く覚えていない酷い奴』となりつつある。

いや、まあ、事実なんだけどさ。

「それはまあいいけど志貴遅いよ、私待ちくたびれたよ」

「待ちくたびれたって……一体いつからいたんだよ?」

「うーん……起きてすぐに来たから……八時ぐらいかな?」

「待ち合わせの時間の二時間も前に来てたらそりゃ待ちくたびれるだろ、それでずっと弓塚と話してたのか?」

「うん、だから本当は退屈なわけじゃなかったけどね、さつきと話しているの面白かったし」

「はあ……ごめんな弓塚、アルクェイドの雑談に長々と付き合わせて」

「そんな事ないよ、むしろ楽しかった」

まあ弓塚とアルクェイドが仲良くなるのは好ましい事だ。

俺たちはその後もしばらく雑談をした。

その時気付いた事は、弓塚は話を聞くのが上手い、という事だ。

話をうまくうながして、どんな話でもしっかり聞こうとする。

だから、話す方も気分良く話すことが出来る。

話し上手は聞き上手と言う、弓塚はそんな感じだ。

こういう所もみんなに好かれる理由の一つなんだろうな、と俺は思った。










「もうそろそろ時間だ……」

そう言って俺が立ち上がろうとすると

「うっ……」

体がふらついた、またか……

「志貴くん……大丈夫?」

弓塚が心配そうに俺を見る。

「ああ、ちょっと立ち眩みがしただけだよ」

俺は弓塚に心配させないようにそう答えたのだが、

「……無理はしないでね、本当に」

弓塚はかえって心配そうにそう言った。

「大丈夫だって、そんなに心配……」

「さつき」

アルクェイドが会話に割り込んできた。

「志貴が無茶をしそうになったら私が止めるから安心して」

おい……俺はそんなに信用無いか?

さつきはそれを聞いて少し笑って、

「それなら安心ですね」

弓塚、お前もか……まあ弓塚が安心してくれるならそれでいいんだが……

「さっさと行こう、アルクェイド」

憮然とした表情で俺は言った。















ザシュ!!

切り裂かれた死者が灰になって消えていく。

「はあっ、はあっ、はあっ」

頭痛が酷い、死を視すぎているせいだ。

今日俺が倒した死者はこれで四人目。

後ろを見るとアルクェイドも死者を倒したようだ。

「志貴、もういいわ、眼鏡をかけて」

「まだ……大丈夫だ」

「あんまり死を見続けると本当に廃人になってしまうわよ、それに多分今日はこれ以上死者は出てこないわ」

「わかったよ」

俺は眼鏡をかけた、視界が正常に戻る。

「ふう……」

落ち着いた瞬間、怖くなる。

もちろん死者と戦う事も怖い、が、それ以上に死者を殺す事が段々平気になってきている自分が恐ろしい。

昨日は一人殺しただけで震えが止まらなかった。

なのに今日は四人も殺してまだ戦おうとした。

「………………」

「志貴、どうしたの?」

「え?あ、なんでもない」

「そう…………」

今ひとつ納得してなさそうだったがアルクェイドは特に追求してこなかった。

「今日で大体死者は狩り尽くしたと思う、そろそろ死徒のほうにも動きが出てくるはずよ」

「そうか……いよいよだな……」

死徒……大元の吸血鬼、そいつを倒せば全て終わる。

弓塚を助ける事が出来る。

絶対に……倒してみせる。

「……志貴」

「ん?何だ?」

「気負うのもいいけど程々にしなさい」

「ああ、わかった」

「本当にわかったの?」

「え?」

アルクェイドが何だか怒っているように見える。

「……さつきが言っていたわ、志貴は危うい所があるって、今日の志貴の戦いを見ていて私もそう思った。
志貴はね、自分から危険に飛び込んでいく。そして生きるか死ぬかギリギリの所で戦っていても恐れを抱かない。
見てるこっちの方がぞっとするぐらいよ。勇敢……といえば聞こえがいいけど、そんな事ばかりしていると……死ぬわよ」

俺はアルクェイドの言葉に対して何も言えなかった。

「さつきは本当に志貴の事を心配しているわ。私にもはっきりわかるぐらい。
志貴は私に言ったじゃない、さつきは誰かが犠牲になって助かっても喜ばないって。
だから……あんまり無茶するのはやめなさい」

そう言ってアルクェイドは帰っていった。















「………………」

屋敷に戻った後、俺はアルクェイドの言った言葉について考えた。

「自分から危険に飛び込んでいく、か」

確かに思い当たる節がある。

弓塚を一刻も早く助けてやりたい。

俺はそう思って焦りすぎなのかもしれない。

だがそれで無茶しすぎて倒れてしまっては元も子もない。

アルクェイドはそう言いたいのだろう。

「もう少し冷静にならないと」

これからもっと強い死徒と戦う事になるのだ、無茶は禁物。

気をつけなければならない。

「よし……もう寝よう」

疲れがたまっているせいかあっという間に俺は眠りに落ちた。



[996] 第四話 暗黒烙印Ⅱ 前編
Name: アービン
Date: 2005/11/23 16:01
「ぐっ、げほっ」

体中が悲鳴をあげる。

息をすることでさえ困難。

苦しさを紛らわそうと握った袖は裂けてしまっている。

爪が腕に食い込んで血が出ている。

「何……で、急に痛みが強く……」

それ以上言葉を続ける事はできなかった。

「あ……ああああああああぁぁぁぁーーーーー!!!!」

痛い。イタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイ!!

ただ、悲鳴をあげる事しか出来ない――――

体中が飢えている、叫び声をあげている。

――――血が欲しい――――











「う、うわあああああ!!!」

俺は自分の悲鳴によって目が覚めた。

「な、何だ今のは……」

夢にしてはあまりにも生々しかった。

気付くと寝巻きが張り付くほど寝汗をかいていた。

「志貴様!!」

翡翠が血相を変えて部屋に飛び込んできた。

「あ、翡翠、ごめんちょっと嫌な夢をみてしまって……
悪かったね、大きな声をあげてしまって」

「いえ、それは構わないのですが……大丈夫でしょうか?」

「ああ、心配かけてごめん」










いまいち納得していない翡翠を着替えるからと言って部屋から追い出すと俺はベッドに倒れこんだ。

「何だったんだあれは」

夢にしてはあまりにも生々しすぎる激痛。

あんな痛みは今まで経験したことがない。

何か…引っかかる……










学校にいってからもずっとその事が引っかかっていた。

「遠野くん?さっきからどうしたんですか?ぼうっとして」

昼休み、食堂で先輩はそう言った。

「いえ、別に……」

「はあ、さっきも遠野くんそう言ってましたよ。
何か悩み事があるなら相談に乗りますよ?」

「………………」

どうしようか、先輩に話すべきだろうか?

「ひどく嫌な夢を見たんだ」

迷った末に俺は話すことにした。

「先輩、夢って何だと思います」

「夢…ですか……」

先輩はしばらく考えて

「まあいろいろ考え方はあると思いますが、
私はその人の無意識が作り出すものだと思います。
意識的に望む夢を見ることはできませんが、
自分の体験が夢に影響を与える事はあるでしょう」

「うーん……」

確かに弓塚の姿を見ているからあんな夢を見たのかもしれないけど。

それにしてもあの苦しみはあまりにも生々しいような……

「後は……極稀に予知夢や他人の意識と共感するなんて事があるらしいですけど、
まあそれはまず無いでしょうね」

「他人の意識と共感?」

「ええ、双子などに稀に見られて、一方が傷付くともう片方も痛みを感じる事があるらしいです」

「へえ……」

その時テレビにニュース速報が流れた。

「番組の途中ですが、臨時ニュースを放送します。
今朝未明、三咲町の某ホテルの中にいた人全てが突如集団失踪すると言う事件があり……」

「いったいどうなればそんな事が起こるんだ?」

俺はそう言いながら先輩に視線を戻して……

そのまま固まった。

先輩は今まで見たことも無い厳しい顔でテレビを凝視していた。

その顔がいつもとあまりにもかけ離れていたからしばらく声もかけられなかった。

「あの……先輩?」

その声を聞いた途端先輩はハッとした感じで目つきを緩めて、

「最近、いろいろと物騒ですね、遠野くんも気を付けたほうがいいですよ。
乾くんの言うように夜出歩いたりするのは止めた方がいいですね」

あからさまに不自然だ、その事について聞こうとしたが、

丁度その時予鈴が鳴った。

「あ、もうこんな時間ですか、それじゃ、遠野くん」

そう言って先輩は食堂から出て行ってしまった。

「何だったんだ?」

少し考えたが結局わからなかった。










「よし、行くか……」

翡翠の手助けのおかげで夜屋敷から抜け出すのも楽になった。

いつまでもこんな事を続けていたらまずいだろうけど。

あんな夢を見たせいかどうも弓塚の事が気になる。

俺は急いで廃ビルへ向かった。










廃ビルの中に入ると話し声が聞こえた。

やはりアルクェイドはもう来ているみたいだ。

「あ、志貴くん」
「志貴、やっときたの」

俺の顔を見ると弓塚とアルクェイドは微笑んだ。

だが俺は弓塚を見て息を呑んだ。

「志貴くん?どうしたの?」

「弓塚……袖が破けてるけど、どうしたんだ」

「え?ああ、これはちょっとひっかけて破けちゃった、
ごめんね、せっかく志貴くんに買ってきてもらった物なのに」

「いや……別にそれはいいんだけど」

そう、破けている事自体はまあたいした事じゃない。

問題は……破けている箇所が俺が夢で見た場所と同じであることだ。

今、俺が考えている事が正しいとすれば……あの夢は……

「弓塚……昨日の夜、急に今までより吸血衝動が強くならなかったか?」

「…………!!」

弓塚は驚愕の表情を浮かべた、それを見て俺は確信する。

「どういう事、志貴?」

アルクェイドがわけがわからない、と言った顔をする。

「説明は後でする、どうなんだ?弓塚?」

俺が弓塚を真っ直ぐ見つめると、弓塚は顔を俯けて、

「うん……志貴くんが言ったとおりだよ、
昨日の夜、急に痛みが強くなった、袖が破けたのもそのせい」

「さつき、何で言わなかったの」

「言い辛かった……ただでさえ私は迷惑かけてるし」

どうも弓塚には抱え込む所があると思う。

そういえば、弓塚が泣き言を言っているのを見た事はほとんど無い。

泣き叫んでいてもおかしくない状況なのにもかかわらず。

「さつき」

アルクェイドは何だか怒っているみたいだ。

「なぜだかわからないけど今のすごく腹が立ったわ。
言わなくちゃ助ける事も出来ないじゃない。
今度から黙っていないで……もう少し頼りなさいよ」

「アルクェイドさん……」

何かアルクェイドに言いたい事を言われてしまったな。

「弓塚、俺もアルクェイドも迷惑だなんて思っていない
辛かったらいつでも言って欲しい」

「うん……わかった」





「でも志貴くん、どうして気付いたの?」

「夢を見たんだ」

「夢?」

「ああ、多分あれは弓塚が体験した事を見ていたんだ。
弓塚の服の袖が夢と同じように破れていたから気付いた」

「どうしてそんな夢を?」

「それは俺にもわからないけど……
アルクェイド、何でかわかるか?」

「え……?いえ、わからないわ」

「そうか……」

何でなんだろうな……

「まあそれはいいや、それより、どうして急に悪化してしまったんだ?」

「それは多分死者が無くなったせいね」

「アルクェイド、それはどういう事だ?」

「死徒が死者に自分の代わりに血を吸わせているのは話したわね」

「ああ」

「死者は親の命令を受けて血を吸う、その命令は死者が少ない程強くなる。
今まではさつきは死者ではないし死者がまだいたから命令の影響は少なかった。
でも死者がいなくなると命令はさつき以外に行く所がない。
だから、命令の影響をもろに受けて突然吸血衝動が強くなったんだと思う」

「何とかできないのか!!」

「……死者がいなくなった以上、そう長い間死徒も隠れていられないわ。
3、4日もすれば、必ず出て来る、出て来た所を倒せばそれで終わりよ」

「こっちから倒しに行く事はできないのか?」

「……無理よ、あいつは隠れる事だけは上手い。
出て来るまで待つしかないわ」

「くそっ……!!」

もし弓塚の夢も見ていなければ、まだ待つ気にもなっただろう。

だが、俺は知ってしまった、弓塚がどれだけ苦しいか。

夢で体験した苦しみ、あれは一部でしかないだろう。

それでさえ、俺は気が狂いそうになった。

あれ以上の苦しみが3日も続いたら、到底耐えられるとは思えない。

だが弓塚は

「じゃあ長くて後4日で終わるんだね」

とむしろ良いことであるように言った。

「弓塚……?」

「よかったー、このまま永久に続くかと思ったよ、ほっとした」

俺は耳を疑った、アルクェイドも驚きの表情を浮かべている。

「何……言ってるんだよ弓塚」

「え?だって後たった4日でしょ?
私結構我慢強いし、それぐらいなら全然大丈夫だよ」

「大丈夫なはずないだろ!!
あんなのに4日も耐えられるはずが……「私は」」

俺の言葉を遮って弓塚が喋りだした。

「私は、志貴くんがきっと私を助けてくれるって信じている。
だから……耐えられる、大丈夫だから……ね?」

俺は勘違いしていた自分が猛烈に嫌になった。

4日も耐える事がどれほど難しいかなんて弓塚の方がずっとわかっている。

それがわかってて……だからこそ弓塚は明るく言ったのだ。

「馬鹿だよ……弓塚は……」

そこまで無理して……

「うん、そうみたい」

「志貴、時間よ」

もう、弓塚は苦悶の表情を浮かべ始めていた。

「ああ」

そこまでされたら俺が諦めるわけにはいかないじゃないか。

立ち上がり弓塚に背を向ける。











「弓塚」「さつき」

「約束する」「約束するわ」

「絶対に君を救ってみせる」「必ず貴女を助ける」

そして俺とアルクェイドは歩き出した。











【後書き】
量と流れの関係で今回は前後編に分けます。



[996] 第四話 暗黒烙印Ⅱ 後編
Name: アービン
Date: 2005/11/23 16:03
「志貴、ちょっと聞きたい事があるんだけど」

外に出てしばらくしてアルクェイドは俺に訊ねてきた。

「何だ?」

「さつきは志貴の恋人なの?」

そんな事を言い出した。

「ちっ、違うって、話してたらそれぐらいわかるだろ!?」

思わず俺は声を大きくしていた。

アルクェイドは首を傾げて

「そうかなー? むしろ私にはそう見えるけど……
 でもそうじゃないと辻褄が合わない……」

「何が?」

「さつきが聞くと気にしそうだから言わなかったけど
 さっきの志貴がさつきの夢を見た話の事、
 あれは契約している人の間でたまに起こる事があるの」

「契約?」

「そう、血や精をやりとりすることによって『繋がった』状態にする。
 多分志貴とさつきの間に契約があると思ったんだけど」

そんな事あるわけが……いや、まてよ?

「弓塚に血を吸われたあの時に……?」

「ちょっと、それどういう事?」

「弓塚が正気を失っていた時に一度だけ血を吸われた。
 幸いちょっとだけだったからか俺は吸血鬼にならなかったけど」

それを聞くとアルクェイドは何か考え込んで、

「体質的に吸血鬼にならない?
 有り得るとしてもそんなのは退魔の一族でもなければ……
 けど、多分遠野という血筋はむしろ逆の……
 それにしては志貴にはそういうのが感じられないけど……」

ぶつぶつと何かを呟いている。

「おい、アルクェイド」

俺が声をかけても反応しない。

「おい!!」

突然、

アルクェイドは険しい顔つきをした。

「志貴、話してる場合じゃなくなったみたい」

「え?」

俺はアルクェイドの睨んでいる方に振り返った。




ドクンッ




心臓が激しく打った。

そこには黒いコートを着た男が立っていた。

あの男は……

初めて屋敷に来た日、夜、外にいた男。

恐怖と共にその記憶が甦る。

俺でもはっきりわかる。








あれは……間違いなく化け物だ……








「再開といこうか、真祖の姫君」

アルクェイドは一瞬俺を見て、

「ここじゃ狭くてお互い戦いづらいと思わない?
 私としてはもっと広い場所で戦いたいんだけど」

「……よかろう、ならば公園に来い」

そう言って、男は去っていった。

「アルクェイド、あいつが……?」

「違う、あいつはネロ・カオス。
 私を追ってきた吸血鬼よ」

「お前を追ってきた?」

「ええ、死徒の中に真祖を殺そうと考える奴がいてね、あいつはその刺客みたいなものよ」

うんざりした感じでアルクェイドは言った。

「そんなわけだから、あいつは私の相手よ。
 だから……」

「俺には関係無いって言いたいのか?」

「……本当はそう言いたい所なんだけどね。
 正直に言うと今の私一人ではネロを倒す事は難しい」

「なら俺も戦えばいいじゃないか!?」

「志貴、ネロと戦えば死ぬかもしれない。
 それに、これは私の問題であって志貴が関わらなければならない理由は無い。
 それでも、手を貸してくれる?」

「前にも言っただろ、少しは俺を頼れって。
 俺たちは仲間なんだ、助け合うのは当然だろ」

「ありがとう」

アルクェイドは微笑んで、しかしすぐに真剣な顔に戻った。

「普通に戦ったらネロは殺せない。
 私がネロの注意を引き付けるから志貴はネロの隙を突いて。
 志貴の眼ならおそらくネロも殺せるはず」

「わかった」














「妙に遅かったな、待ちくたびれたぞ」

「ふん、しつこく追いかけてくる奴にたいしての嫌がらせよ」

俺は今、ネロの背後から少し離れた場所に隠れている。

「なるほど、だがもうそのようなことも無い。ここが、貴様の終焉だ」

ネロは全くこちらに気を払っていない、これなら忍び寄れそうだ。

「随分と自信があるのね、この前あれだけやられた奴の台詞とは思えないわ」

「私としてもあれは予想外だったよ。
 おかげで蛇につまらん借りが出来てしまった」

細心の注意を払いネロに近寄る、ネロは気付いていない。

後、三歩……三歩近づけば一気にネロに襲いかかれる。

「そう、あいつと接触したのね。あいつは今どこにいるの?」

後、二歩……

「知らん、知っていたとしても言うと思うか?」

後、一歩……

「思わないわね、じゃあもういいわ、死になさい」

アルクェイドが震えそうなほど強烈な殺気をネロにたたきつけた。

ネロはこっちに全く注意を払っていない、いける!!

俺は一気にネロに駆け寄って距離を詰めると奴の『死』を視る。

「え……!?」

『線』が……ない?

そんな馬鹿な!? そんなはずは……

頭痛に耐えながらさらに眼を凝らす。

すると一つだけ『点』が見えた

これだ!! これを衝けば終わりだ。

だが、突然『点』が増えた。

十、二十、五十、百、二百、三百。

これは……いったい?

「くっ!!」

迷ってる暇は無い、とにかく『点』を衝けば終わりだ!!

ナイフが刺さる直前、

ネロの背中が膨れ上がり黒い犬が凄まじい速さで飛び出してきた。

「なっ!?」

咄嗟にナイフを振るうが足の『線』を切る事しか出来なかった。

犬の勢いは止まらずもろに体当たりをくらう。

「ぐっ……」

数メートルは吹っ飛んだ、衝撃に体が悲鳴をあげる。

だが犬は容赦なく俺にのしかかり噛み付こうとする。

まずい!!

首を食い千切られる寸前、何とか俺は犬の腹の『点』を衝いた。

黒い犬は崩れて液体となった……だが、

「くっ、何だよこれは!?」

黒い液体にまみれて俺は地面に縫い付けられたかのように動けない。

「志貴!!」

「ふむ、後ろで何か起こったようだ、貴様の使い魔か?
 残念だったな、私が気付かずとも私の内のいずれかが対応する。
 この身に奇襲は通用しない」

「……そうみたいね、群体の強みってやつかしら、ネロ・カオス。
 けど、奇襲が通用しないなら普通に倒せばいいだけの事」

「たわけ、その慢心、後悔するがいい」

ネロの体から無数の生物が飛び出していく。

獅子、豹、虎、象、鷲、熊、さらに地面を泳ぐ鮫なんてふざけたものまで。

一斉にアルクェイドに向かって襲い掛かる。







あっさり、終わった。

ある者は爪で引き裂かれ、

ある者は首を引き千切られ、

ある者は頭を握り潰された。

数秒もしない内に全ては黒い液体と化した。

「この程度?」

何だよ……アルクェイドの奴、全然余裕じゃないか。

「…………」

ネロは再び獣を放つ。

「無駄よ!!」

アルクェイドはそれを爪で引き裂いて、

「ちっ!!」

大きくその場から飛びのいた。

さっきまでアルクェイドの立っていた所に黒い液体が襲い掛かった。

「この程度の速さ、警戒さえしていれば捕らえられはしない」

「それはどうかな?」

黒い液体が地面から消えていく。

そしてアルクェイドの背後に現れ襲い掛かった。

アルクェイドは前に大きく飛ぶ。

「かかったな!!」

ネロの体が大きく膨らみ、

その体から黒い濁流が噴出した。

「しまっ――――」

空中にいたアルクェイドはそれをかわせず飲み込まれる。

「『創世の土』を改良したものだ。
 まだ不完全で混沌を一部失うと言う問題はあるがな。
 何、真祖の姫君を得られるなら安い代償だ」

「くっ、この……」

「いかに貴様といえどそこまで飲み込まれては脱出できまい」

アルクェイドが黒い液体に沈んでいく。

このままじゃアルクェイドが……

「こ……のぉ!!」

自分に纏わりついている黒い液体を『視る』。

『線』を切断するとただの水のようになった。

「よし!」

何とか立ち上がる、体の自由は戻った。

だが……どうすればいい?

俺では奴に近づく事もできない。

アルクェイドの言っていた事はよくわからないが、
あの獣たちは全てあいつらしい。

つまりあいつを倒すにはあの獣たち全てを倒さなければならない。

そんなこと、どうあがいてもできない。




どこからか、

声がした。




あいつの声じゃない、もっと遠い。

足音が聞こえてくる。

「ま――さか」

足音はこちらへ近づいてくる。

遠くに人影が見えた。

俺と同じくらいの年頃の見知らぬ少女が。

「ふむ、あれを使ったせいで養分が足りん、ちょうどいい所にやってきた」

少女は何も知らずにこっちに近づいてくる。

「に、逃げろぉぉぉ――――!!」

俺がまだいる事がばれるとか考える前に、力の限り叫んだ。

ネロから黒い虎が飛び出す。

一瞬で終わった。

短い断末魔がした後、黒い虎が死体を引きずって来た。

不思議な事に死体はネロに触れると忽然と消えてしまった。




なのに




音がする、




ゴリ、グシャリ、ガリ




ギギ、ゾブリ、ゴクリ。




ネロの身体から、食べている音がする。

食われている、ネロの中で、

なんて――――無慈悲

「てめえぇぇぇ――――!!!」

何も考えれない。

ただ、ネロへと走り寄る。

「――――食え」

ネロから黒豹が飛び出す。

だがそれがどうしたというのだ。

生きている限り、俺の敵ではない。

「邪魔だよ、お前」

一閃し、黒豹を解体する。

「ほう、さっき私に襲い掛かったのはお前か」

ネロは感情のない目で俺を見る。
だがそれがなんだというのだ。

「アルクェイドを放せよ、そんな他に力を裂いた状態では話にならないだろ。
 俺がお前の相手をしてやるから、アルクェイドを放せ」

「お前が私の相手をする、だと?」

「そうだ、だからアルクェイドを放せ」

ネロは口元を歪めた、笑っているらしい。

「興がそがれた、その責任とってもらうぞ」

アルクェイドの拘束を解くつもりは無いらしい。

「契約しよう、お前はすぐには殺さん。
 生きたまま、高熱で熔かすようにゆっくりと咀嚼しよう」

ネロの身体から何十という数の獣が出て来た。

「私の相手をしようなどという思い上がり、万死に値する」

「なっ!?」

俺は襲い掛かってきた黒い犬の『線』を断ち切る。

だが、一つ一つでは何とかなっても、それが何十ともなればどうか。

無数の蟻に群がられる角砂糖の様に、食い潰されるだろう。

カラスが頭をついばむ。

「つぅ――――」

だが痛みに構う暇など無い。

同時に左右から黒犬に食いつかれていた。

二匹の犬の『点』を衝く。

だが全然間に合わない。

次々と襲ってくる獣たち。

一匹殺す間に十匹襲ってくる。

もう、何も見えない。

目がおかしくなったんじゃない。

気がつけば、俺の周りは黒い獣たちで埋め尽くされていた。

死ぬ、このままじゃ五秒も持たない。

足首に黒犬が食いついて倒れそうになる。

だが倒れたらそれこそあっという間に食い尽くされるだろう。

このままじゃだめだ。

大元を、ネロ本体を倒せば何とかなるかもしれない。

「あああああああ――――!!」

闇雲にナイフを振るいとにかく前に出る。

おそらくこの先に、ネロがいるはず!!

「騒ぐな、見苦しい」

ズブッ

「え?」

ネロの身体から角が出て、

俺の身体に刺さっていた。

それはどうやら黒い鹿のものの様だった。

あまりに鋭く突き刺さったせいか痛みも感じない。

そのまま仰向けに倒れ込む。

「私は人間であれば選り好みはしない主義でな、
 安心しろ、細胞一つ残さんよ」

声が聞こえた。

同時に黒いドームが覆いかぶさってきた。

それは全て目を輝かせた獣。

ジュッ

皮が裂かれる。

ザクッ

肉が食われる。

ゴリッ

骨が削がれる。

死ぬ、このままでは殺される。

だけど俺にはどうすることも出来ない。



ズバッ



唐突に、黒いドームが裂けた。

「え?」

何が起こったのかわからない。

「あああああああ――――!!!」

ザンッ、ザンッ、ザンザンザン!!

次々と獣たちが切り裂かれていく。

「はあっ、はあっ、はあ……」

視界が開けた。

そこには……

「弓……塚?」

「志貴……くん、大……丈夫?」

苦しそうにしながらも俺を気にする弓塚の姿があった。

「貴様は……蛇の娘か、何ゆえ私に敵対する?
 私は蛇と争うつもりはない」

ネロがそう言うと弓塚はネロを睨みつけて、

「蛇がどうとかなんて関係ない、これは私の意志」

「クックックッ、そうか、面白い奴だ。
 よかろう、その意気に免じて少しだけ相手をしてやろう」

ネロが弓塚に向かって獣を放つ。

「このぉ!!」

弓塚はそれを爪で切り裂く、……爪で?

弓塚の爪は鋭く伸び、眼は紅くなっていた。

吸血鬼の力を……解放している!!

そんな事をしたら弓塚は……

「やめろ弓塚!!」

だが弓塚は襲ってくる獣を切り裂いていく。

ついにはネロの放った獣を全て倒した。

「はあっ、はあっ、はあっ、うう……」

苦しそうに弓塚はうずくまった。

当たり前だ、本来なら動ける方がおかしい。

この時間はまだ吸血衝動に苛まれているはずだ。

「ふむ、たいした素養を持っているようだな。
 だがもう限界だろう」

俺は何をしている?

仲間の手助けも出来ず、

人が殺されるのを見ているだけしか出来なくて、

おまけに助けるはずの少女に助けられてる。

俺は何をすればいい?





カンタンナコトダ、

アイツヲ……コロセ





「くっ、あははははははははは!!!」

何て……簡単。

こんな単純な事に気付かないなんて笑いが止まらない。

俺が考えるべき事は、

あいつを殺す、

それだけで十分だった。

「はっ、いいぜ、殺してやるよ、ネロ・カオス」

そう言って俺はネロに向かって駆け出した。

「この後に及んで何をほざく」

ネロの身体から黒犬が飛び出す。

だがそんなものでは足を止めるにも値しない。

ザンッ

一瞬で黒犬は消え去った。

「な……に?」

今度は虎が出た、アルクェイドに出していたものと同じだ。

だがそれも長くはもたない。

いくら獰猛で凶暴であろうとも、触れなければ俺を殺す事は出来ない。

なら触れようとする部分を切断すればいい。

結局、黒犬も虎もあまり大差ない。

虎は崩れ去って黒い水に変わっていく。

ネロまではまだ少しあるか。

「――――馬鹿な。姫君でさえ消滅させられなかった私たちがことごとく無に帰している。
 不可解だ、貴様何をした」

何か言ってるがそんなのはどうでもいい。

ネロの『死』を凝視する。

ネロに見える無数の『点』。

これを全て衝くのは無理だろう。

だが諦めるわけにはいかない。

黒い粘液に飲まれたアルクェイド。

殺されてしまった人。

そして……自分も苦しいはずなのに俺を助けてくれた弓塚。

ギリ、と歯を噛んだ。

恨み言を言っている余裕は無い。

あいにく動くだけで精一杯だ。

そんな余裕があるなら。

「――――よかろう、お前をわが障害と認識する」

さっさとこいつの息の根を止めてしまった方がましだろう。

奴のコートの中から、額に角がある馬だの、羽の生えた大きなトカゲだの、
子供の頃絵本で見たようなものが出てくる。

それらは確かに強いのだろう、『線』がとても少ない。

だからこそ、真剣になる。

体中のあらゆるものが障害を排除する為に連結していく。

角の生えた馬を角ごと真っ二つにする。

トカゲはその胴体を切り裂いた。

「有り得ん、おのれなぜ私がたかが人間風情に渾身でかからねばならんのだ!!」

びゅるん、と、ようやくアルクェイドを拘束していたものをネロは戻した。

「殺す! 我が系統樹には貴様らを凌駕する生命があると知れ!!」

なにか、奇怪なものが出てきた。
たとえるなら、蟹の様な蜘蛛。
大きさは、さっきの象より大きいくらいか。

焼けるからだ、頭痛がひどい。

傷口が痛い。

しかし悲鳴は上げない。

脳が、そんな余力があるなら殺せと命じる。

取りあえず三匹。邪魔者は全て消した。

「有り得ん」

ネロは眩暈でも起こしたように、よろりと後ずさる。

「……私のあらゆる殺害方法が殺されるなど、そのような事実が有り得るはずが無い!
 私たちは不死身だ。
 私が存命している限り死しても混沌となりて我に戻り転輪する不死の獣達が……
 何故貴様に刺されただけで元の無に戻ってしまうのだ!?」

叫んでいる敵に歩み寄る。

ネロは後ろに退こうとしてかろうじて後退する事を押しとめた。

「……無様!」

機械のようだった目に、赤い憎しみの感情が、漸く燈った。

奴の心は理解できる。

おそらく、殺人鬼としてのネロは己に撤退を命じている。
しかし吸血鬼としての奴は自らがただの人間に敗退することを認めない。

理解しない。

撤退することさえ許さない。

だから、それ以上後退する事を可能としない。

其精神、自身が無力だと悟るも認めぬ頑なさ。

「否、断じて否!! 我が名はネロ、朽ちずうごめく吸血種の中において、なお不死身と称された混沌だ!
 それがこの様な無様を見せるなぞ、断じて有得ぬ!!」

ネロの体がかたちを持っていく。
今まで闇でしかなかった体は、明らかに個として化肉していく。

「この身は不死身だ。死など、とうの昔に超越した!!」

ネロの身体が跳ねる。

奴は獣をまとめあげ、自分自身を最高の獣とした。

その速度、アルクェイドにも劣らない。

触れれば簡単に骨を砕かれるようなその一撃をかわし、
すれ違いざまに奴の腕の『線』を切った。

ざざざ、と言う音。

速過ぎてその動きを制御できないのか、
ネロはすぐに止まれずに通り過ぎていく。

また、距離が開いてしまった。

「なんだ、これは?」

切られた腕を見て、ネロは愕然としている。

「なんなのだこれは?何故、何故斬られた箇所が再生しない!?
 こんなたわけた話があるものか! アレは魔術師でもなければ埋葬者でもないと言うのに、
 何故、ただ斬られただけで私が滅びねばならんのだ!?」

「馬鹿ね。そんなつまらない体面を気にしてると殺されるわよ、ネロ・カオス」

聞き慣れた声がした。

「貴様!」

ネロは血走った目を弓塚を抱き起こしているアルクェイドに向ける。

ああ、そうか、さっきネロが拘束を解いた時にアルクェイドは自由になっていたんだった。

「あぁ、私の事は気にしなくていいわ。貴方の始末は志貴がする。
 邪魔をしたら私まで殺しかねないものね、今の彼は。
 苦しませて殺そうなんて考えるからこういう目にあうのよ。
 敵は反撃の機会を与えずに倒すものでしょう?」

そう言ってアルクェイドは弓塚を担ぐと、

「貴方の相手をする必要は無いみたいだし、少し外させてもらうわ。
 いつまでもさつきを血の匂いがする所においておけないし」

「待て、逃げる気か!?」

「しばらくしたら戻ってくるわよ。
 最も、それまで貴方が生きていられるかわからないけどね」

「黙れ! 私には未だ560もの命がある。
 この思い上がった奴をくびり殺した後、もう一度貴様を捕らえる」

「思い上がってるのはどっちかしらね。
 何しろ彼は……」





――――私を一度殺したのだから――――





そう言ってアルクェイドは弓塚を担いで出て行った。

「な……に……?」

ネロはその言葉に動揺していた。

「そんな馬鹿な……」

自らの動揺を押し殺すように獣が吼える。

片腕で、

一直線に俺の心臓を貫こうと疾走してくる。

その速さは文句無く。
俺を殺すためだけの単純な動き。

伸ばされた腕を切る。

奴の体には無数の『点』がある。
だがそんなものよりも奴の中心にある『極点』が確かに視えた。

ネロ・カオスの宿してる混沌。
その世界そのものを殺す。

その『点』を貫く直前、

ネロの身体から黒い液体が噴出した。

「なっ!?」

すぐにそれはただの水と化したが、その一瞬の隙をついてネロは俺の攻撃を回避した。

再び、距離が開く。

「……思い上がっていたのは私の方だったと言う訳か。
 認めてやろう、お前は私に死の危険をもたらす者だ」

ネロは怒りを押し殺した声で言った。

「ここは退いてやろう、だが覚えておけ!! 私は必ずお前を殺す!!
 私にとって死の危険など乗り越えるものでしかない!!」

ネロの身体が黒い液体と化していく。

「待てっ!!」

だが黒い液体は地面に溶けるように消えていった。

「くそっ!!」

最後の最後で、詰めをしくじった。

「あ……」

緊張が解けた瞬間、俺は地面に倒れこんだ。

そのまま意識が薄れていく。

誰かの足音が近づいてきた……

「まさか、ネロ・カオスを退けるとは……
 それにしても無茶にもほどがありますね」

誰だ……何をしている?

アルクェイドじゃない、だけどこの声は聞き覚えがある。

考えようとしたが、もう意識を保ってられない。

「彼女、このまま見過ごすわけにはいきませんね……」

意識を失う直前、そんな悲しそうな声を聞いた気がした。



















「……貴、志貴!!」

誰かが呼んでいる。

ゆっくりと目を開くと、アルクェイドが俺を見ていた。

「あ、起きた」

「…………」

とりあえず眼鏡を掛ける。

俺は……ネロと戦った後、倒れたのか……

「あれ? 傷が……治ってる。
 アルクェイド、お前が治してくれたのか?」

「違う、私が来た時にはもう志貴の傷は治っていたわ」

「そうか……いったい誰が?」

意識を失う直前に誰かが近づいて来たような……
その人の仕業だろうか?

まあ、あまり考えても仕方が無い。

それより……

「アルクェイド、すまん、ネロを逃がした」

「嘘!? あいつが逃げたの!?」

俺はアルクェイドにあの後の事を話した。

「そう……それは仕方がないわ。
 そもそも私がしっかりしていたら、
 さつきが戦う必要も無かったのに……」

「弓塚は……」

「何とか持ちこたえたみたい……
 でも正直耐えているのが不思議なくらいよ」

「そうか……」

重い沈黙が場を満たす。

「この時間だともう見回りしても意味がないわ、
 志貴も帰ったほうがいい」

「ああ……わかった」





















部屋に戻った時にはもううっすら朝日が射して来ていた。

そのままベットに倒れ込む。

傷は塞がっていても体力は激しく消耗している。

俺は急速に眠りに落ちていった……



[996] 第五話 カルマ
Name: アービン
Date: 2005/12/26 21:43






理由も無く目が、覚めた。





「う…ん……」

時計を確認する、寝てまだ3時間しかたっていない。

昨日は散々な目に遭って疲れきっているはずなのに。

「もう一度寝よ……」

今日は学校の創立記念日で休みだから遅くまで寝ていても問題無い。

しかし、身体は疲れているのに、寝ようとしても寝れない。

「ああもう、全然眠れない!!」

しばらくして俺は諦めて起き上がった。

「散歩でもするか……」

気分が変われば眠たくなるかもしれない。

そう思って俺は外に出る事にした。















あてもなく散策していると中庭の壁に落書きを見つけた。

「うわぁ……なつかしいなこれ」

子供の頃、秋葉とよくやっていた陣地取りのゲームで書いた名前の跡だ。

シキ、志貴、シキ、志貴、秋葉、シキ、志貴、シキ、志貴、秋葉。

やはり男の子の方が行動範囲が広かったのか俺の名前の方が随分多い。

これじゃあ負けず嫌いな秋葉を散々悔しがらせただろう。

「まったく、少しは手加減してやればよかったのに」

まあ今更言ってもしょうがないが。

なんとなく懐かしい、平和な心持ちになって中庭を散歩していく。










「翡翠……?」

裏庭にやってくると、ちょうど翡翠の後ろ姿が目に入った。

翡翠はこちらに気付いていない。

何をしにいくのか、翡翠は森の中へ入っていく。

「……?」

気になって、少しだけ後についていく。

翡翠が歩いていった先には、ちょっとした広場があるようだった。

「……あれ? あんな所に広場なんてあったっけ?」

普通に歩いている分にはまず見つけられないぐらい隠れた広場。

翡翠が行かなかったらこの屋敷にいても一生気がつかなかったかもしれない。

少なくともあんな所で秋葉と遊んだ記憶は……

――――ない、ような、気が、する。

「……? あんな所、あったかな。あったならかっこうの遊び場になってたはずなんだけど」

どうにも記憶が曖昧だ。

「…………」

しばらく考えて、俺は広場に入っていった。










「なんだ――――ただの空き地じゃないか」

広場には特別何も無かった、先に入っていった翡翠もいない。

きれいにまったいらににされた土の地面と周りを囲む深い森の木々。





蝉の声と。

溶けるような強い夏の陽射し――――





「え…………?」

蝉の声? 今はもう秋なのに?

「い――――痛ぅ…………」

胸の傷が痛む。

ザクリと、包丁で胸を刺されたかのような痛み。










みーん みんみん

みーん みんみん

みーん みんみん――――

白く溶けてしまいそうな夏の陽射し。

遠くの空には入道雲。

見えるのは空蝉のこえ。

足元には蝉のぬけがら。

ぬけがら。誰かの、ぬけがら。





塞がったはずの傷が開く。

胸が真っ赤に染まる。





……うずくまる誰かの影法師。

近寄ってくる幼い少女の足音。

遠くの空には入道雲。空蝉の青い空。

気がつけば、





目の前には

血まみれの秋葉の泣き顔。





「あ――――ぐ」

胸が痛い。

――――なんてこと。

俺の傷は、ぜんぜん治ってなんかいない。







イタイ

コワイ

コレガ






――――死トイウ衝動カ――――







意識が沈む。

どさり と、自分の身体が地面に倒れ込む音を聞いた。




















「一体どういうつもりなの翡翠。
 兄さんをあそこに近づけてはいけないって、
 あなたも知っているでしょうに……!」

「もうしわけ…………ありません」

……話し声がする。

ここは、シキのへやだ。

あきは と ひすい がなにか話している。

「謝って済む問題じゃないわ。
 あなたを兄さん付きの使用人にしたのは、
 こういう事態を避けさせる為でしょう?
 それを忘れて、あなたは何をやっていたっていうのよ……!」

秋葉は普段では考えられないくらい、感情を剥き出しにして怒ってる。

起き上がって止めようとしたがとしたが体に力が上手く入らない。

「答えなさい翡翠。あなたはいったい何をしていたの?」

翡翠は答えない。

秋葉は表情をさらに険しくして翡翠に近づいた。

どう見ても翡翠に手を上げるつもりだ。

「――――ちょっと待て秋葉」

「兄さん――――気がついていたんですか!?」

「ああ、秋葉があんまりにうるさいんで、今、目が覚めた」

「あ…………」

秋葉は気まずそうに視線をそらした。

「あのさ、あんまり翡翠にあたるなよ。
 事情は知らないけど、ようするに俺が倒れたことでもめてるんだろ?
 なら翡翠に責任なんかないよ。こんなの俺が勝手に倒れただけなんだから」

腕に力を入れて、何とか上半身だけベッドから起こした。

「まったく、お前も俺の事なんかで喧嘩なんかするな。
 大人びたように見えてまだ子供なんだな」

「でも――――
 兄さんはあれからずっと気を失っていたんですよ?
 十時間以上も昏睡しているなんて、今まで無かったはずです。
 もし、兄さんがあのまま目覚めなかったら、
 私はどうすればいいんですか……!」

「ばか、縁起でもない事言うなよ。
 こんなのはただの貧血じゃないか。
 ……ってなんだぁ!?」

時計を見るともう六時を指していた。

「ですから、兄さんは朝から今までずっと気を失っていたんです」

遠慮がちに秋葉は語る。

そりゃ、心配するのも当然だな。

「悪かった、秋葉、心配かけて……
 でも、だからと言って翡翠にあたるのは間違いだろ?」

「それは……
 ……いえ、わかりました。
 確かに少し感情的になっていました」

よかった、どうやらちゃんとわかってくれたみたいだ。

と、体を支えていた腕に力が入らなくなって、俺はベッドに倒れこんだ。

「兄さん!?」

「大丈夫だ、ちょっと疲れただけだから……」

「兄さん……もういいですから休んでください」

「ああ、悪いけどそうさせてもらう」

約束の時間にはまだある、休んでも大丈夫だろう。

もう目を閉じればすぐに眠ってしまいそうだ。

……あ、そういえば、

「秋葉、うちの庭に、あんな場所あったっけ?」

「ええ、私たちが子供の頃、良く遊んだ場所です」

「そっか、何だか、よく覚えてないな」

本当に、そこの記憶が曖昧だ。

「それともう一つ。……変なことを聞くんだけど、
 子供の頃さ、俺と秋葉と――――もう一人ぐらい、
 子供がいたとかいう話は知らないか?」

「は?」

秋葉はわけがわからない、といった顔をする。

「いや、なんでもない。忘れてくれ」

自分でもなぜそんな事を思ったのかよくわからなかった。

「そうですか。兄さん、ゆっくり休んでくださいね」

「ああ、そうする」

今度こそ、目を閉じる。

すぐに俺は眠りに落ちていった。




















「うう…………」

何か、おかしい。

自分の手の平をみる、手の震えが止まらない。

何か、得体の知れない黒い衝動がこみ上げてくる。

昨日、戦ってからずっとこうだ。

「はあっ、はあっ、はあっ……」

息が切れる。

熱に浮かされているようで、それでいて身体が芯から冷え切っているような感覚。

飲まれてはいけない。

直感的にそう思った。

感覚が異様に研ぎ澄まされている。

空気の音さえ耳障りなほどに。





だからだろうか、

突然飛んできた物に対して咄嗟に対応できたのは。





頭に何か剣のような物が飛んできた。

反射的に首を横に曲げる。





パサッ





髪留めが千切れて縛っていた髪が解けた。

「な、何?」

頭が状況についていけない。

だが再び飛んできた剣に対して身体が勝手に反応した。

すばやくその場から飛び退くと、遮蔽物の多いほうへ移動する。

ようやく、頭が理解した。

自分は命を狙われている、と。

「誰なの!?」

物陰に隠れながら、剣が飛んできた方を睨みつける。

「出来れば気付きもしないうちに一撃で葬ってあげようと思ったのですが……
 やはりそういうわけにもいかないようですね」

聞いた事のある声に私は動揺する。

そんな……あの人だと考えるなんて馬鹿げている。

誰かが近づいてくる、

薄暗い中でも吸血鬼の私はその姿がはっきり見えてしまった。

青い髪に整った顔立ち。

眼鏡はかけておらず、服装も普段と違うもののその姿は紛れも無く……





「シエル……先…輩?」

私の先輩だった。





理解できない、

どうして先輩がここにいるの?

なぜ私を殺そうとするの?

「死徒、弓塚さつき……貴女を浄化します」

ぞっとするほど冷たい声で先輩はそう言った。

学校にいる時の暖かく、柔らかい表情は欠片も無く、

その顔からは感情が全く感じられない。

それはまるで別人だった。

だが、先輩は私に悠長に考える暇など与えてくれなかった。

一瞬のうちに、剣が投擲される。

その数は六本。

私はかわそうとしたが、一本、腕をかすめた。

瞬間、焼けるような痛みに襲われる。

かすっただけで、これほどこの身体が痛みを感じるなんて普通じゃない。

殺される、本当にそう思った。

次々と剣が飛んでくる。

かわそうとするがかわしきれず、傷が増えていく。

かろうじてもろに剣が刺さってはいないがそれも時間の問題だ。

もし剣が一本でも刺されば動きが止まって針鼠のようにされてしまうだろう。





ダッタラ、ソノマエニアイツヲ■■シテシマエバイイ





「…………!!」

私、今、何を…………

ドスッ

私の左足に鈍い音と共に剣が刺さった。

神経が焼き尽くされるような痛み。

「あ、あああああぁぁぁぁーー!!!」

思考に囚われた一瞬の隙、それはこの状況であまりに致命的だった。

あっという間に右足にも刺さり、

続いて、両肩、両腕にも刺さった。

もはや、身じろぎすることも出来ない。

「これまでですね」

シエル先輩が近づいてくる。

「どうして!? どうして先輩がこんな事をするんですか!?」

「貴女のような吸血鬼を狩る事が私の仕事だからです」

抑揚の無い声で先輩は言った。

その言い方が私にはなぜかひどく癪にさわった。

抑えている黒い衝動が強まっていく。

それに飲まれそうになって歯を食いしばって耐える。

「貴女の身体を蝕む吸血衝動。
 それがある限り貴女は血を吸わずにはいられない。
 人を殺め、その血をすすることでしか生きられない。
 いえ、それはもはや生きているとは言えない」





……ウルサイ





「人の身で生を受けたにもかかわらず、
 人の命を喰らわねばならないという矛盾。
 吸血鬼というのはその存在自体が罪となる」





……ダマレ





「私だって……なりたくてなったわけじゃない!!」
 
「ええ、それはわかっています。
 しかし貴女は紛れも無く被害者であり、
 これから先、間違いなく加害者となる」





……ヤメロ





先輩はゆっくりと剣を構えた、

「諦めなさい。
 吸血鬼は死ぬ事が救いであり、
 それ以外に救いはありません」





その言葉を聞いた瞬間、

私の中で、





――――ナニカガ、ハジケタ――――




















「やめろおぉぉぉぉぉ――――!!!!」

自分の叫び声で俺は眼を覚ました。

「はあっ、はあっ、はあっ」

心臓が恐ろしいほど速く打っている。

痛いほど強く握り締めていた手は真っ白になっていた。

「弓塚……」

なぜあんな事になっているのかはわからない。

わからないが今俺がしなければならない事は……

「行かないと……」

立ち上がると眩暈がした、けど今はそんな事に構ってられない。

ナイフを取ってポケットに入れる。

「志貴様!!」

翡翠が部屋に飛び込んできた。

「ああ、翡翠、悪いけど俺、ちょっと出かけてくる、どうしても行かなければならない用事を思い出した」

翡翠の返答を待たずに横を通り抜けて部屋から出る。

翡翠には悪いが今は問答をしている時間は無い。

「兄さん!! どうしたんですか!?」

間の悪い事に秋葉に出くわした。

俺の声に驚いてやってきたみたいだ。

「秋葉、俺ちょっと用事を思い出したから出かけてくる」

それだけ告げてさっさと行こうとしたが、秋葉に腕を掴まれた。

「馬鹿な事言わないで下さい!!
 そんな身体でどこに行くというのですか!?
 もっと自分の身体を大事にしてください!!」

「放してくれ秋葉!!
 一刻も早く行かなければならないんだ!!」

俺は秋葉の手を振りほどこうとしたが秋葉はさらに強く掴んできた。

「だめです!!
 部屋に戻ってください兄さん!!
 無理すればまた倒れてしまいます!!」

「秋葉!!」

俺は秋葉を怒鳴りつけた。

「あ……」

怯えたように秋葉は身を竦ませた、掴まれていた腕から手が離れる。

「今は話している場合じゃないんだ。
 今行かないと俺は絶対後悔する」

そう言って俺は外へと向かった。




















「はあっ、はあっ、はあっ」

少し走っただけで息が切れる、今にも倒れてしまいそうだ。

だが今は急がなければいけない。

早く行かないと取り返しのつかない事になる。

俺は廃ビルに向かってひたすら走った。










「着いた……」

ようやく廃ビルの手前まで来た。

廃ビルの中に足を踏み入れようとして、





ドクンッ





「何……だ?」

身体が震える、この中は危険だと直感が告げる。

「くっ」

ここまで来て、何を怯えているんだ俺は。

覚悟を決めて中に入る。

「なっ!?」










そこには有り得ない光景があった。

砂塵が漂う、血の様に赤い空。

全てが枯れ果てた不毛の地。

そして……べったりと纏わり付く『死』の気配。

何て……『死』に満ちた世界。










「何だよ……これ……」

目の前に広がる光景が理解できない。

身体の震えが止まらない。

「くっ、うう……」

かすかに誰かの呻き声が聞こえた。

声のした方を見ると見覚えのある人が倒れていた。

両手両足が戒めを受けているように木の葉で覆われている。

その顔は激しい苦悶の表情を浮かべていた。

そして……





「人の事言えませんけど随分しぶといんですね先輩、
 死の救いを説く割には生き汚いとか思いません?」

――――その後ろで、苦しむ姿を笑って見ている見慣れた少女。





いつもとはあまりにかけ離れたその姿。

いつもと違う、結ばれていない髪。

いつもと違う、紅く染まりきった瞳。

そして何よりも……





――――いつもと違う、恐ろしい程冷たく残酷な笑み――――





「弓……塚?」

呆然と呟く。

信じられない、あれは本当に弓塚なのか?

その声が聞こえたのか弓塚は顔を上げてこちらを見た。

「あれ? 志貴くん来ちゃったんだ?
 今日は随分と早いんだねー」

目の前の光景に全くそぐわない話をする弓塚。

それがより異常さを際立たせる。

「ねえ志貴くん聞いてよ、シエル先輩ったらひどいんだよ。
 私が苦しんでいる時にね、いきなり襲って来たんだよ?
 もう全然躊躇無しに私を串刺しにして殺そうとするし、
 おまけに『死が救いです』なんて言うの!!
 いくらなんでもひどすぎると思わない?」
 
さっ、と弓塚が手を上げる。

すると突然何も無い空間から無数の木の葉が現れる。

弓塚が手を振り下ろすとシエル先輩に向かって飛んでいく。

グサグサグサッ

「かはっ!!」

信じられないことに木の葉はシエル先輩に刺さった。

しかもおかしな事にかなり深く刺さった様なのに血が全く出ていない。

「ふざけないで欲しいよね。
 私がどんな思いで吸血衝動を我慢しているとか、
 志貴くんとアルクェイドさんがどんなに必死で私を助けようと頑張ってくれているとか、
 何も知らないくせに……知った風な口で全てを否定するような事言わないでよ!!」

弓塚が音が聞こえそうな程強く手を握り締めた。

シエル先輩に刺さっている木の葉がさらにめり込んでいく。

「ぐああああぁぁぁぁーーー!!!」

「どうですか先輩、私の渇きが少しはわかりましたか?
 身体から血が失われていく怖さがわかりますか?」

悲鳴を聞いてようやく俺は我に帰った。

「やめろ弓塚!!」

きょとんとした顔で俺を見る弓塚。

「何で志貴くん?
 先輩ものすごいふざけた事を言った上、私を殺そうとしたんだよ。
 殺したいって思うのは自然だと思わない?」

やばい、今の弓塚は完全に正気を失っている。

これではまるで弓塚が吸血鬼になってはじめて会った時の様だ。

「落ち着いてくれ弓塚、今のお前は正気じゃない。
 とりあえずその力を止めてくれ」

「何を言ってるの志貴くん?
 私は全然大丈夫だよ?
 むしろ最近で一番調子がいいくらい。
 いつもの吸血衝動も今は随分少ないし、
 身体もびっくりするぐらい軽いの。
 それは多分この力のおかげなのに」

「弓塚……
 俺は弓塚に人を殺して欲しくないんだ。
 だから頼む、もうやめてくれ」

弓塚の目を見つめながら必死に訴える。

どうしても弓塚が止めないのなら力づくで止めなければならない。

でもそれは絶対に避けたかった。

「………………わかったよ。
 志貴くんが私に頼み事するなんてめったに無いから
 こういう機会は大事にしないとね」

弓塚が手を横に振ると周りの景色が元の光景に戻る。

戒めが解けた先輩に向かって弓塚は言った。





「逃げれば? 今なら見逃してあげるわよ、先輩」





嘲笑うかの様に弓塚は言う、その様を見るのが辛い。

「くっ……」

シエル先輩はよろよろと立ち上がるとどこからか剣の様な物を取り出す。

「シエル先輩!!」

「なに? ほんとに殺されたいの?」

構える先輩に俺は動揺し、弓塚はむしろ嬉しそうな表情をする。

緊張が走る。

「何をしているのかしらシエル?」

それを破ったのは殺気と共に現れたアルクェイドだった。

怒りを露にしてアルクェイドは先輩を睨みつける。

「ちっ……」

舌打ちをして先輩は窓を叩き割って外に飛び出した。

「待ちなさいシエル!!」

アルクェイドがシエルを追って飛び出す……

ぐっ

「え?」

いつのまにか弓塚がアルクェイドの腕を掴んでいた。

「いいんだよアルクェイドさん。
 志貴くんに見逃すって言っちゃったし、
 それに……」

寒気がするほど冷たい笑み。

「あれは私の獲物だから、
 アルクェイドさん、横取りはだめだよ」

「さつ……き?」

いつもと全く異なる弓塚にアルクェイドは動揺している。

……これ以上耐えられない。

弓塚のこんな顔を見ていたくない。

「弓塚!!」

弓塚の両肩を掴んでいまだ紅い瞳を見つめる。

「しっかりしろよ!!
 何のために今まで頑張って来たんだ!?
 人間で……人間としてありたいと思っていたんだろ!?
 こんなところで負けるなよ、正気に戻れよ!!」

「あっ……」

怯えたように弓塚が身体を震わせた、紅かった瞳が黒に戻っていく。

「あっ、あああっ……」

その瞳から大粒の涙がこぼれる。

「わた…し、なん…てこと……を」

手で顔を覆ってかがみこむ弓塚。

その姿はさっきとは逆にひどく弱々しかった。

「弓塚……」

「ごめん……今日は一人にしてほしい」

俺は迷った、今の弓塚を一人にしていいのだろうか?

「怖いの、またさっきみたいになるのが、
 志貴くんやアルクェイドさんを傷つけてしまいそうで、
 だから……お願い……一人にして……」

「……志貴」

アルクェイドが俺の腕を引く。

「わかった弓塚、また明日来る」

「うん…………」




















廃ビルから出た俺達はしばらく無言だった。

「くそっ!!」

俺は苛立ち、壁を殴りつけた。

途端に疲労を身体が思い出したのか眩暈がした。

身体が倒れそうになる。

「志貴!?」

「大丈夫だよ……」

「大丈夫って……
 顔、真っ青じゃない!!」

「大丈夫だって言ってるだろ……」

そう、弓塚に比べればこの程度なんだというのだろう。

「何でだよ!? いったい弓塚が何をしたっていうんだよ!!
 どうして弓塚ばかりこんな目にあわなくちゃならない!?
 何でだよ……」

「志貴……」

弓塚に何もしてやれない自分がどうしようもなく腹立たしい。

「……行こう、アルクェイド」

「え?」

「死徒を探しに行く」

今の俺に出来る事はそれしかない。

「無茶言わないで、そんな身体じゃ無理よ」

「これぐらい大した事ない。
 こんな貧血は日常茶飯事だから平気だ」

「全然平気じゃないわ、志貴はわかってない!!」

アルクェイドが声を荒げた。

「いい? 志貴の貧血は普通の貧血より深刻なの。
 志貴はひどく不安定な身体をしている。
 よく気絶するのも志貴が危険を感じるより早く、
 身体自体が察して活動を最小限に抑えているから。
 身体が不調を訴えてるのに無理に動こうとしたら、
 本当に死んでしまうかもしれないのよ!?」

「それでも……俺は……」

「ああっ、もう!!
 はっきり言って今の志貴じゃ足手まといなの!!」





その言葉に俺は固まった。

確かに今の俺がどうあがいても邪魔にしかならない。

それが……現実。

「そっか……そうだよな……」

「あ…………」

アルクェイドが俺の顔を見て気まずそうに目を逸らす。

「アルクェイド、俺、帰るよ」

「うん……
 とりあえず今日はもう休んで、
 今の志貴は本当に危ないんだから」

「ああ……」

アルクェイドに背を向けて歩き出す。

「志貴……その……ごめん」

「……いいんだ」

俺は振り返らなかった。




















「兄さん!! いったいどこに行っていた……の…ですか?」

帰ってきた俺を見るなり凄い目つきで睨んできた秋葉は俺の顔を見てなぜか動揺した。

「秋葉……ごめんな……突然飛び出して行って」

「兄さん……いったい何があったんですか?
 そんな顔で謝られても困ります」

「…………悪いけどそれは言えない」

「兄さん!!」

「本当に悪いと思ってる、けど……言えない」

秋葉はそんな俺を悲しげに見ていたが、

「……わかりました、今回だけは不問にします」

「ごめん、秋葉」

「わかっているなら……あんまり私に心配させないでください」

「秋葉……」

「もういいですから早く休んでください。
 また倒れてもらっては困ります」

「うん……ありがとう」










自分の部屋に戻ってベッドに入る。

身体はもう指一本も動かせないぐらい疲れている。

「何も……出来ない」

そう、今の俺は何も出来ない。

弓塚を支えてやる事も、

アルクェイドと共に死徒を探す事すら出来ない。

「俺に出来る事は何だ……?」

暗い部屋の中で俺は考える。

夜明けはまだ遠かった。







[996] 第六話 妖の聖歌 前編
Name: アービン
Date: 2006/03/08 01:49






「志貴様……起きて下さい」

翡翠の声が聞こえる。

「う……」

目を開けるとひびだらけの世界が写った。

頭痛がする。

急いで眼鏡をかけた。

「志貴様……気分がよろしくないのですか?」

「いや、大丈夫、軽い貧血だよ、もう治った」

「そうですか」

「朝食だろ、着替えてすぐ行くよ」

「かしこまりました」

そう言って、出て行く翡翠。

……何も聞こうとしない。

昨日は翡翠だって心配したに違いないのに。

翡翠がいつもと変わらず接してくれる事がありがたかった。






秋葉は少し不機嫌そうだったがもう俺を問い質そうとはしなかった。

あいかわらず朝が遅い事にはしっかり文句を言ってきたが。

穏やかな、変わらないいつも通りの朝の光景だった。










登校する途中、考える。

昨日、酷く弓塚は落ち込んでいた。

俺に何かしてやれる事はないだろうか?

何か……

そんな事を考えながら歩いていたら学校に着いたのはぎりぎりだった。

辺りにはもう人が見当たらない。

急いで校舎の中に入ろうとして、

「遅いですよ、遠野くん、待ちくたびれました」

「え……?」

声をした方を見るとシエル先輩がいた。

「話があります。すみませんがちょっと来てください」

「…………」

さっきまで先輩に気付かなかった事とか、
昨日大怪我したはずなのに全く何事もなく学校に来ている事とか、
この先輩は謎な部分が多い。

けど今はそんな事はどうでもいい。

「わかった。俺も先輩に聞きたい事がある」















俺達は体育館裏に移動した。ここなら人目につかないだろう。

「さて、私の用件ですが……」

「その前に教えてくれ、どうして昨日弓塚を襲ったんだ?」

これだけは絶対に聞かなくては気が済まない。

うやむやにならないうちに聞いておきたい。

「遠野くん、人が話している時に割り込むのはよくないですよ」

「はぐらかさないでくれ先輩」

俺は先輩を睨む。

「…………どうしても説明しなきゃだめですか?」

「当たり前だろ!!」

「はあ、やっぱりこうなりましたか。
 わかりましたよ、どっちにしろそのうちばれるでしょうし」
  
大きく溜息をついて先輩は話し始めた。

「私は教会から派遣されてきた代行者……
 まあいわゆるエクソシストと呼ばれる様な者です。
 この街に潜伏した死徒、及びその眷属となった者達の殲滅。
 それが現在の私の任務です。
 弓塚さんは私の標的の1人という事になります」

淡々と事務行為の様に先輩は語る。

それが俺には腹が立ってしかたがない。

「納得できない、弓塚は……」

「ただの被害者、と言いたいんですか?
 被害者なのは否定しません。
 しかし、彼女は吸血鬼になってしまった。
 そしておそらく既に犠牲者も出している。
 そうでなくてもこれから確実に犠牲者を出す。
 それでも同じ事が言えますか?」

「でもまだ弓塚は吸血鬼に成りきってないんだ。
 死徒さえ倒せば何とかなるかもしれない」

「有り得ません。確かに稀に吸血鬼に血を吸われても吸血鬼にならない人はいます。
 しかし吸血鬼化が始まったという事は吸血鬼の血に身体が負けたという事です。
 2、3日ならまだしも、今はもう彼女はとっくに吸血鬼になっているはず」

俺の言葉を先輩はあっさりと否定する。

「だけど弓塚は現に吸血鬼に成りきっていない!!
 俺だけじゃなくアルクェイドもそう言ってる。
 まだ手遅れじゃないんだ!!」

「貴方はアルクェイドが嘘をついているとは思わないのですか?」

「あいつは嘘は言わない。
 それにあいつだって弓塚を助けたいと思ってる」

それはきっぱりと言い切れる。

「……では仮にそうだとしましょう。
 しかし、それならば彼女は想像を絶する苦痛を味わっているでしょう。
 凄まじい吸血衝動とそれに拒む事によって起こる体中に走る激痛。
 そして……徐々に自分が自分で無くなっていく恐怖。
 そんな事が続けばどれほど強い心を持つ人でも精神が崩壊する。
 それに今まで耐えているのも信じられないですが、
 彼女は長くて今日を入れて後3日、次の満月には確実に限界が来る」

後3日、長くはもたないとは思っていたけど本当に……

「でも……まだ弓塚は耐えている。
 死徒を倒せば助かる可能性だってある」
 
俺の言葉に先輩は首を横に振った。

「彼女は危険なんです」

「どうして、弓塚は血を吸っていないのに」

「アルクェイドが言わなかったですか?
 本来、死徒に血を吸われた者は長い年月を経てようやく自我を持つようになる。
 なのに弓塚さんはほんのわずかな時間で自由に活動できる程になっている。
 私の知る限りここまで早く死徒になった者は他にいません。
 そして恐ろしい事に固有結界すら使いました」

「固有結界?」

「固有結界とは自らの心象世界で世界を塗りつぶす禁断の魔術。
 昨日彼女が固有結界を使った結果は遠野くんが見た通りです。
 本来長い時を経て得るはずのその力を彼女は使いました。
 彼女は明らかに並みの吸血鬼のレベルを超えています」

「だけどあれは先輩が弓塚を襲ったからだろ。
 そうでなければ弓塚はあんな事はしない」

そもそも弓塚はあの廃ビルからほとんど出ない。

「昨日に関してはその通りです。
 しかしあの力を含めて彼女は危険すぎます。
 彼女が暴走すれば恐ろしい事になります」

先輩は俺を見つめて訊ねた。

まるで俺の中にある不安を見透かすように。

「遠野くん、もし彼女が本当に貴方の言うような状態なら、
 あの後、彼女は言いませんでしたか? 『自分が怖い』と」

――――怖いの、またさっきみたいになるのが、志貴くんやアルクェイドさんを傷つけてしまいそうで――――

「どう…して?」

先輩はそこまでわかるのだろう?

「言ったんですね……」

先輩が少しだけ悲しそうな顔をした。

「遠野くん、もうこれ以上アルクェイドと弓塚さんに関わるのはやめてください」

「そんな事できな『遠野くん』」

即座に断ろうとした俺に先輩は少し強めの声で言う。

「弓塚さんが何を望み、そして何を望まないかよく考えてみてください」

そう言うと先輩は消えた。

今まで確かに目の前に居たはずなのに忽然と。

「先輩?」

呆然と呟いた声に答えは返って来なかった。




















さっき言われたことが頭から離れない。

ぼんやりと授業を受けながら考える。

弓塚が望む事、望まない事……

弓塚は自分が誰かを傷つけたり迷惑をかける事をひどく嫌う。

弓塚を見てるとそういう事をかなり気にしてるのはわかる。

だからこそ先輩は手を引けと言ったのかもしれない。

けど、やっぱり俺は弓塚を放って置くことなんて出来ない。

俺には俺の出来る事を弓塚にしてあげたい。

でも……それが何なのかはまだわからない。




















「あの、兄さん?」

「え?」

「さっきから全然食べていませんが、
 もしかして、まだ調子がよくないのですか?」

どうやら食事中に考え事をしていたせいで、

食べるのが止まっていたようだ。

「いや、大丈夫だよ」

変に思われるわけにもいかない。

とりあえず今は食べる事に専念しよう。

しかしもう屋敷に来て1週間以上たつけど、今だにこれだけは慣れない。

少しでも不作法をすると、秋葉の機嫌が悪くなる。

それに琥珀さんや翡翠が食べないのに目の前で自分だけ食べているのも居心地が悪い。

俺的には食事って言うのは、もっとこう――楽しく……

「!!」

そうか、そういう事なら俺でもできるかもしれない。

でもどうやれば……

「……兄さん」

あいつの所で貸してもらって、それから……

「兄さん!!」

「え?」

「本当にさっきからどうしたんですか?
 ぼうっとしてばかりいて」

「あ……」

大丈夫、と言おうとして思い直した。

「ごめん、やっぱり調子が悪いみたいだ。
 悪いけどもう今日は休んでもいいかな?」

「それは構いませんが……
 琥珀、薬を処方してあげて」

「いや、今はとにかく眠りたいんだ。
 それにそこまでするほど酷くはないよ」

そう言って、部屋に戻ろうとして、

「ああ、翡翠、部屋に着替えを持ってきて欲しい」

「……かしこまりました」










もちろん、そのまま休む気なんてなかった。

部屋に戻ると、とりあえず財布を取り出し中身を確認した。

「結構減ってるな……」

貯金を下ろして来てまだ一週間もたってないのに……

まあ随分いろいろ買わなきゃいけなかったからしょうがないが。

「まあでもこれだけあれば十分足りるだろ」

そう思いながら外に行く準備をする。

と、ドアがノックされた。

「入っていいよ」

翡翠が着替えを持って入って来た。

「ごめん翡翠、実は頼みたい事があるんだ」

「はい」

「その、悪いけどこれから出かけなきゃいけないんだ。
 だから……また口裏を合わせて欲しい」

「今から、ですか?」

「うん、今日はちょっとね……」

「……かしこまりました」

翡翠は一礼して出て行った。

「さてと、行くか」





何とか見つからずに屋敷から出れた。

「こんなところを秋葉に見られたら、怒るどころじゃすまないだろうな」

……やめよう、怖くなってきた。

「ええっと、まずは繁華街からだな……」










「ありがとうございました」

店員の声に送られながら店を出た。

手に持つのはスーパーの袋と紙袋が一つずつ。

店を出ると財布の中身をもう一度確認する。

「…………」

財布は随分と心細くなっていた。

「まさかあそこまで高いとは……」

甘く見ていた、その報いは貯金の枯渇。

「嘆いても仕方が無い……次に行こう」

無駄遣いをしたわけじゃないんだから、きっと。










インターホンを鳴らす。

今更だが先に電話でもしておけばよかったと思ったが、

幸いにもドアは開いてくれた。

「あん? 何だよ遠野か。
 こんな時間にお前が来るなんてどういう用件だよ」

「頼みがあるんだ有彦」

「何だ?」

「台所を貸して欲しい」

「はぁ?」

「料理をしたいから台所を貸して欲しい。
 食材は自分で持ってきている」

「何だってそんな事を……
 大体それならお前の家でもできるだろうが」

「頼む」

「……ふざけてるわけじゃなさそうだな。
 わーったよ。使いたきゃ勝手に使え」

「ありがとう、恩に着るよ」

「やめろよ。お前に礼なんか言われると気持ち悪くてしょうがない」

「…………」

とりあえずその発言はスルーして中に入る事にする。

台所に入ると持って来た食材を出す。

「よし、まずは野菜を洗って……」















「出来た……」

正直不安だったが、割とうまくいったと思う。

「終わったのか?」

「ああ、迷惑かけて悪かったな有彦。
 これからすぐ片付けるから」

「ったく。それは俺がやっといてやるからさっさと行けよ」

「え?」

「何だか知らんが急いでいるんだろ?
 なら料理が冷めないうちに早く行けよ」

「有彦……」

その言葉に対して感謝を込めて俺は答えた。

「お前が親切なのは気持ちが悪い」

「黙れ、俺も少しそう思ったから言うな」

手早く料理を容器に詰めて俺は有彦の家を後にした。




















廃ビルが見えてきた。

「弓塚、喜んでくれるといいんだけど……」

ビルに入ろうとした時、誰かがビルから出て来た。

「あれ……?」

「え……? し、志貴くん!?」

出て来たのは弓塚だった。

「どうしたの?」

弓塚が外に出ようとするなんて珍しい。

それに……さっき俺に気付く前、
弓塚は酷く思い詰めた顔をしていた気がする。

「あ……え、えっと……
 ちょっと気が滅入っちゃったから、
 散歩にでも行こうかなって思って」

嘘だ。

弓塚は外に出たがらなかったし、

昨日の事で弓塚の服は所々破けている。

それなのに弓塚が散歩に行くとは考えにくかった。

けど、問い質しても素直に答えてくれそうにない。

ここは話をあわせたほうがよさそうだ。

「うん、まあそれもいいんじゃないかな。
 けどその前に食事をしてからにしないか?
 今日はちょっといつもと違う物を持って来たんだ」

「あ……うん。じゃあそうするよ」

とりあえず俺と弓塚はビルの中に入った。

「それで志貴くん、いつもと違う物って?」

「うん、これなんだけど……」

袋から取り出した容器の片方を弓塚に渡す。

「え? これってもしかして?」

「うん、俺が作ってみたんだ。
 いい加減パンとかばっかりだったら飽きると思って、
 あまり手の込んだ物は出来なかったけど」

「後、ずっと独りで食べるのも味気ないだろ?
 だから今日は俺と一緒に食べよう」
 
「…………」

弓塚の身体が震えている、どうしてだろうか?

「あの、弓塚?
 ちゃんと味見はしたし、割とうまく出来たと思うから、
 とりあえず食べられない事は無いと思うけど……」

「そうじゃないよ……
 すごく……嬉しいの」

弓塚がそっと目じりを拭う。

「ありがとう。
 それじゃあ、いただきます」

その声は少しだけ震えていた。
  
「ああ……いただきます」

そう言って容器を開ける。

「わあ、五目炒飯だね。
 いい匂い……」

弓塚が一口目を食べる。

「どう?」

やはり反応は気になる。

「おいしい、志貴くん料理上手だね」 

「よかった、気に入ってくれて」

安堵したらお腹が空いてきた。

俺も自分の分を食べるとしよう。

「ん? 少し冷めてしまったかな?」

作ってから少し時間がたってしまったからな……

「ううん、あったかい。
 久し振りだな……こういうの」

しみじみと弓塚は言う。

「ほんとに、すごくあったかい……」

「弓塚……」

もっと早く気付けばよかった。

弓塚はずっとこんな当たり前の事を望んでいたんだ。




















「ごちそうさま、おいしかったよ。
 わざわざ本当にありがとう」

「いや、弓塚が喜んでくれてよかった」

「う、うん、何だか元気が出た」

ん? 弓塚の顔が少し赤くなったような?

「そう、よかった。
 じゃあ、行こうか」

「え?」

「散歩に行くんだろ? 俺も付き合うよ」

「あ……」

弓塚が目を伏せる。

「やっぱり、いいよ……
 よく考えたら服もぼろぼろだし」

「ああ、それだったら」

俺は紙袋から包装紙に包まれた箱を取り出して渡す。

「これは?」

「まあプレゼントみたいなものかな? 開けてみて」

「うん」

弓塚が箱を開ける。

「洋服と、これは髪留め?
 あれ? この洋服って……?」

洋服を手に取って見ていた弓塚は驚愕の表情を浮かべた。

「し、志貴くん、こんなの貰えないよ!!
 これってすごい高級なものじゃない!!」

どうやら弓塚はこの服のメーカーを知っているらしい。

まあ、確かにびっくりするぐらい高かったけど……

そういう事は気にして欲しくない。

「いや、それはそこまで高くなかったって。
 だから心配しないでいいよ」

弓塚が俺の眼をじっと見てくる。

「この服、私も欲しかったからよく知ってる。
 あんまり高かったから諦めたんだけど」

「う」

あっさり嘘がばれた。

「ねえ、志貴くん……」

少し目を伏せて弓塚は言った。

「さっき散歩に行くって言ったけど、
 あれはね、ほんとは」

「嘘なんだろ?」

「え?」

「弓塚、嘘つくの下手だよ。
 あれは俺でもすぐにわかった」

「そっか、だったら……『でも』」

俺は弓塚の言葉を遮って言った。

「俺も弓塚とどこか行きたいと思っていたんだ。
 それとも弓塚は俺と一緒にどこか行くのは嫌?」

「そんなわけない!!」

「じゃあ、それに着替えて一緒に行かないか?
 それに返されても正直困る」

「志貴、くん」

弓塚がうつむいて持っていた服を抱き締めた。

「ありが……とう、大切にする……」

「うん、じゃあ俺は外に出てるから」

そう言って俺はビルから出た。

「あんなに喜んでくれるとは思わなかったな」
ちょっとでも元気になってくれたら、と思ってたけど予想以上に効果はあったみたいだ。

「本当に良かった……ん?」

「あ……志貴」

ビルから出るとアルクェイドが居た。

ただ、どうも今来た感じじゃない。

俺を見るとなぜか気まずそうな顔をした。

「何してるんだアルクェイド?
 来てたなら入ってくればよかったのに」

「え……?」

アルクェイドは驚いた顔をした。

「よかったの?」

「よかったの、って……」

何でそんな事疑問に思うんだろう?

「志貴、私の事怒ってないの?」

「怒る? ああそういう事か」

どうやら昨日俺に言った事を気にしてるらしい。

「別に気にしてないよ。
 言ってた事は正しかったし」

あの時アルクェイドが止めなかったら、

俺は本当に倒れていただろう。

そう考えるとむしろ感謝しなければならない。

「そう、よかった。
 じゃあ志貴、私も一緒に行っていい?」

「さっきの話聞いてたのか……
 それは弓塚に『もちろんいいよ』」

俺が返事をする前に声が聞こえた。

弓塚がこちらに歩いてくる。

「弓塚?」

「えっと、ど、どう? 変じゃないかな?
 私こんなにいい服着たこと無くて」

恥ずかしそうにしながら笑顔を浮かべるその姿に俺は一瞬見惚れた。

黒いセーターに膝丈ほどの長さの赤いスカート。

セーターの胸の部分には小さく天使の羽の刺繍がしてある。

セーターもスカートも決して派手なデザインではない。

けれど、それが逆に弓塚自身の魅力を引き立てている。

「あの、志貴くん?」

何も言わない俺に対して弓塚が不安そうにする。

「ああ、すごく似合ってるよ」

「んー、私はそういうのよくわからないけど、
 今のさつきは綺麗だなーって思うよ」

「ありがとう」

弓塚が少し頬を赤らめる。

と、突然弓塚が身を竦ませた。

「あ、あれ?」

きょろきょろと弓塚が辺りを見回す。

「どうしたんだ?」

「えっと、誰かに見られた気がして、
 今、ぞっとするような感覚がしたの」

それを聞いて俺も周りを見回す。

だが特に人影は見つけられなかった。

「気のせいかな? もう感じないし。
 まあいいや、じゃあ行こっか?」

「ああ」「うん」





「それで、どこに行く?」

歩きながら俺は弓塚に聞く。

「志貴くんが決めていいよ」

「いや、ここは弓塚が決めるべきだろ」

弓塚は少し人に気を遣いすぎる。

目的は弓塚を元気付ける事だから、弓塚に楽しんでもらわないと意味が無い。

「こういう時って、男性が女性をエスコートするものじゃないの?」

アルクェイドが口を挟む。

「エスコートって……それじゃあまるでデートみたいじゃないか?」

「あれ? 違うの?」

「違うって!!」

大体普通、デートは二人でするものだろう。

けど何かそう言われるとそんな気もしてきた。

しかしここでそれを認めたら俺が行く場所を決める事になる。

「わ、私は志貴くんにエスコートして欲しいかな?」

弓塚は顔を真っ赤にしてとんでもない事を言った。

「ええっ!?」

「ほら、さつきもこう言ってるし、
 志貴が決めてあげなさいよ」

なぜだろう、この二人俺が微妙に困る時に限って息がぴったり合う気がする。

「わかったよ」

観念して俺は言った。

しかし、どこに連れて行けばいいんだろう?

弓塚が楽しめそうな場所って言ったら……

「あ、そうだ」

俺はポケットを探る。

「あった」

カラオケの割引券が上手い具合に三枚ある。

さっき繁華街に行った時に半ば無理やり渡された物だ。

「えっと、カラオケなんかどうかな?」

そう言って割引券を見せる。

「カラオケ? ああ歌う所ね。
 やったこと無いけどあれ楽しいの?」

アルクェイドはあまり興味なさそうだった。

「私は歌うのは好きだよ。
 いい気分転換になるし」

弓塚は乗り気みたいだ。

「ふーん、そうなんだ。
 じゃあ私もやってみようかな?」

「よし、決まりだな」















店員は客が来てよほど嬉しかったのか何と格安にしてくれた。

どうやら事件の影響で客が来なくて困っていたらしい。

財布が心もとなかった俺は密かに安堵した。

「さて、誰から歌う?
 俺は後がいいけど……」

何となく最初に歌うのは恥ずかしい、あまり自信ないし。

「最初は恥ずかしいな……」

弓塚も同じみたいだ。

と、なると。

「アルクェイド、歌うか?」

「別にいいけど、わざわざ来たのに何で歌いたがらないの?」

「いや、まあなんとなくだ」

この感覚をアルクェイドに理解させるのは難しい。

「さっぱりわからないわよ」

納得してなかったがアルクェイドはマイクを握った。

「使い方はわかるか?」

「一応ね、知識としてはあるから」

アルクェイドが機械を操作する。

曲が流れる。

そしていよいよ歌が始まった。










それは一体何に例えればよかったのだろう?

大地の怒りか、天の号泣か。

大気を伝ってくる物はもはや音では無く衝撃に近い。

止めようと声を張り上げても全く届かない。

身体は怯えた様に動かない。

何てプレッシャーだ。

俺は涙が出そうになった。

なぜこれを予測できなかったのか。

アルクェイドは歌った事が無いと言っていたのに、気付くチャンスはあったのに。

だが隣に座っている弓塚は笑顔だった。

無茶苦茶引き攣っていたがそれでもそれは笑顔と言えた。

強い、君は本当強いよ弓塚。

俺は違う意味でまた涙が出そうになった。










ようやく悪夢は終わった。

「やってみると意外と楽しいもんだねー
 うん、気に入った、もう一曲いい?」

俺達の気も知らず、アルクェイドはさらりと恐ろしい事を言った。

「馬鹿言うな!!」

俺はアルクェイドからマイクをひったくる。

「む、何よ志貴、さっきは歌いたがらなかった癖に」

「そういう問題じゃない!!
 どうやったらあんなに声を張り上げられるんだよ!?
 耳が壊れるかと思ったぞ!!」

「だってあれはああいう歌でしょ?」

確かにアルクェイドの選んだ歌はロック系で大きな声で歌う物だった。

ある意味、音程がどうとかより、勢いが重要と言えなくもない。

だが……だが……

「物には限度って言う物があるだろ!?
 もっと曲に合わせて歌えよ!!
 お前の歌い方じゃ曲がそもそも聞こえないだろ!?」

「仕方が無いじゃない、歌ったこと無かったんだから。
 じゃあ志貴がお手本を見せてよ」

「む、わかったよ、じゃあよく聞いてろよ」

さすがにアルクェイドよりは上手く歌える。

口で言うよりやってみせる方が手っ取り早いだろう。

機械を操作して、さっきと近い感じの歌を選ぶ。

「あ、間違った」

もう一回入力し直す。

「志貴くん……」

弓塚が俺を潤んだ眼で見つめてきた。

その眼には不安が見えていた。

大丈夫だよね?

そんな風に言われてる気がした。

やはり弓塚もさっきのショックは大きかったらしい。

曲が流れてくる。

俺は弓塚に無言で親指を立てた。










「ふう、どうだ?」

こういうノリのいい歌はあまり歌ったこと無い。

普通程度には歌えたと思うが……

「なるほどね、そんな感じで歌うんだ」

「よかったよ」

アルクェイドは感心して、弓塚は惜しみない拍手をくれた。

「じゃあ、次は弓塚だな」

マイクを弓塚に渡す。

「何か、恥ずかしいなあ」

そう言いながらも弓塚はマイクを握る。

「えっと、これにしようかな」

弓塚は慣れた感じの手つきで機械を操作する。

「弓塚はよくカラオケに来たりするのか?」

「まあ、結構来るほうかな」

曲が流れ始める。

ゆっくりと弓塚は歌い始めた。










弓塚が選んだ歌はテンポの遅い穏やかな感じのものだった。

こういう歌は勢いでごまかせないので上手い下手がはっきり出やすい。

弓塚の口から歌が紡がれる。

清流の様に滑らかで透明感のある歌声。

それは繊細でいて力強さを感じさせ身体の奥まで心地よく響く。

まるで彼女の歌に優しく包み込まれている様な感覚。

今、この空間は彼女の歌に魅了されていた。










弓塚が歌い終わっても俺はその余韻にひたっていた。

「あの、どうだった?」

弓塚の問いかけでようやく我にかえる。

「す、すごい……」

それだけしか言えなかった。

「さつき!!」

アルクェイドが両手で弓塚の手を握る。

「私、歌を聴いてこんな感動するなんて思わなかった!!」

「そんな、大げさだよ。
 アルクェイドさんも練習すればこれぐらい出来るようになるよ」

「ほんと? どうすればあんな風に歌える?」

「えっと、楽しんで歌う事と……」

弓塚は苦笑して続けた。

「とりあえず曲に合わせる事かな」

それは間違いない。特にアルクェイドには。















それから俺達は存分に楽しんでカラオケハウスを後にした。

ちなみにアルクェイドは最初のあれ以外はまともに歌った。

どうやらあまり歌について知らなかっただけのようで、上達は早く最後のほうになると俺よりも上手く歌っていた。

それでも弓塚のほうが上手だったが。

「それにしても弓塚があんなに歌が上手いとは思わなかった」

「子供の頃からよく歌っていたから……
 実を言うとちょっとだけ歌には自信があるんだ」

「なるほど」

「さつきが歌うとなぜか違った感じになるんだよね。
 私が同じ様に歌おうとしてもどうしても出来ない。
 うーん、一体何が違うんだろ?」

「人によって歌い方は違うから無理に私のまねをしてもしょうがないと思う。
 基本はもう出来ているから後はアルクェイドさんに合った歌い方をすればいいよ」

「そっか、あーもっと歌いたかったなー」

「何言ってんだ、俺と弓塚より相当多く歌っただろうが。
 あれだけ歌っておいてまだ歌い足りないのかよ」

「だって楽しいんだもの」

「まったく……」

呆れた口ぶりをしたが俺は笑っていた。

今日はとても楽しかった、楽しすぎた。

だから、忘れてしまってた。

「ねえ、また今度行こうよ」

アルクェイドのその何気ない問いに俺も軽い気持ちで答えてしまった。

「ああ、そのうちな」

そう言いながら弓塚の方を向いた。

「……そうだね」

悲痛な声。

「また、行けるといいね……」

その声に込められたあまりにも強い思いに俺達は言葉を失った。

「あっ!? ご、ごめん。
 変な事言っちゃって」

謝るのはむしろこっちのほうなのに、この心優しい少女は俺達を気遣う。

きっと俺が軽はずみな事を言った事なんか全く腹を立てていないのだろう。

絶望に飲まれてもおかしくない状況でそれでも彼女は気丈に振舞おうとする。

「弓塚」

だからこそ俺はそんな彼女を

「違うだろ」

「え?」

約束だからとかそういう理由ではなく、

「行けるといい、じゃない、行くんだ。
 全てが終わったら3人で行こう。必ず」

「……うん!!」

ただ純粋に、支えてやりたいと思った。







[996] 第六話 妖の聖歌 後編
Name: アービン
Date: 2006/03/08 02:09






弓塚を送った後、見回りを開始する。

だが死者は1人も見当たらない。

「志貴、もう眼鏡をつけていいわ」

溜息をつきながらアルクェイドは言った。

「まだ大丈夫だ、もう少し続けよう」

「駄目、志貴に負担がかかりすぎる。
 それにこれ以上やっても無駄よ。
 死者が居たなら残るはずの気配が無いし、
 もう人通りもほとんど無くなっている。
 今日はもう現れないと考えていいわ」

「わかった」

眼鏡をかける。視界が正常に戻りほっとする。

「全く、いい加減出て来るしかないのに、
 いったいどこまで臆病者なんだか」

苛立たしそうにアルクェイドは言う。

弓塚の限界は近い。このままでは……

「アルクェイド、やっぱりもう少し続けないか?
 何か少しでも手がかりが見つかるかもしれない」

「駄目よ。今の時点でもかなり志貴に負担がかかっている。
 これ以上続けたら本当にまずいことになりかねない」

「だけど!!」

「気持ちはわかるけど今日はここまでにしましょう。
 今日無理して明日動けないほうが困る」

「……わかった」




















アルクェイドと別れ屋敷の外周まで戻ってきた。

何一つ収穫を得られず疲労も隠せない。

「ん?」

街灯の明かりの届かない暗がりにかすかに人影が見えた。

ドクン、と心臓が高鳴る。意識が研ぎ澄まされていく。

何か厭な予感がする。

人影はこちらに向かってゆっくりと近づいてくる。

コツコツと足音だけが静かに響く。

街灯に照らされ姿が明らかになる。

全身が包帯で覆われている。体格からみて男だろうか。

その男は異様だった。

外見だけじゃない、包帯の間から覗く眼は狂気を感じさせる一方で確かに理性を持っている。

そして何よりもただいるだけで死の気配を感じさせる。

本能が殺せと告げる。

この男は……敵だ。

そして、理解した。

「お前が、吸血鬼か」

憎しみを込めて訊ねる。

男は俺の言葉を聞いて心底楽しそうに笑った。

「あの女の血は美味かったな」

「――――!!」

それが答えだった。

全身の血が沸騰する。

この男が存在している事が許せない。

一秒でも早く殺したい。

「テメェ――――!!」

眼鏡をむしり取るように外す。

男との間合いを一瞬で詰める。

男の『線』にナイフを振るう。

男は笑いながら俺の攻撃を受けていく、その手にはいつのまにかナイフが握られていた。

刃がぶつかり合う。

耳障りな金属音が響く。

男は防ぐ事しか出来ない、俺の方が押している。

いける、このままいけば殺せる!!

防ぎきれずに男がわずかにバランスを崩した。

「とった!!」

『線』にナイフを走らせ――――

瞬間、俺は屋敷の塀まで蹴り飛ばされていた。

「かはっ……」

潰されかけた肺が酸素を吐き出す。

身体に力が入らない。

「くっ、くはははは!!」

男が狂った様に声をあげて笑う。

「まさか今、俺を殺せるとでも思ったのか?
 ただの人間のお前が? あんな単純な攻撃で?」

何て……愚か。

こいつは防ぐことしか出来なかったんじゃない、防ぐことしかしなかっただけだ。

押すどころか俺は遊ばれていた。

「笑わせる、俺が『視えている』事すら気付かなかったくせに」

「なん……だって?」

ハッとする。この男は俺の攻撃をほぼ同じ角度でナイフを振るって相殺していた。

――まるで、どこを狙っているか完全にわかっていたように。

もし、こいつの言った事が事実だとしたら……

「理解したか、俺もお前と同じ力を持っている。
 お前が俺より勝っている所など何一つ無い。
 つまり、お前に勝ち目などあるはずが無い」

そう、それが事実。

俺が普通の人間と違うのは『線』が視えるという事だけだ。

それが通じなければ身体能力で遥かに勝る吸血鬼相手に勝てるはずが無い。

「さて、このままお前を殺すのは簡単だが……
 気が変わった。それでは芸が無くてつまらない」

男は邪悪な笑みを浮かべる。

「お前もこのままでは無念だろう?
 あの女の最期を看取ることも出来ないのだからな」

「貴様……!!」

男を呪い殺さんばかりに睨みつける。

だが男はそれを見てさらに笑う。

「そこでだ、今は見逃してやる。
 あの女はもうほとんど限界だ。
 直に血に負け、狂い、化け物と化すだろう。
 それまでせいぜいあがくんだな」

「黙れ!!」

男は俺に背を向ける。

くそっ、身体さえ動けば後ろから襲い掛かってやるのに。

「じゃあな、志貴。また会う時が楽しみだ。
 その時、お前はどんな顔をするんだろうなぁ?」

「なっ!? 何故お前が俺の名を知っている!?」

「さあな、自分の胸に手を当ててよく考えてみるんだな。
 八年前、抉られた傷に手を当ててな」

そう言って男は笑いながら立ち去っていった。

「くそっ……」

ぎりぎりと歯が砕けそうなほど噛み締める。

やっと、見つけたのに。

今ほど自分の無力さを恨んだ事は無い。

拳を地面に叩きつける。

全力をこめたつもりだったその拳はただ弱々しく地面を打っただけだった。















ようやく動かせる様になった身体を引きずり、屋敷の中に入る。

もう既に日付が変わっているので当然、明かりは消えている。

自分の部屋に行く為に階段に向かう。

突然、明かりが点いた。

「え?」

急に現れた強い光に目が眩む。

「ようやく帰って来たんですね、兄さん」

声がした方へ視線を向ける。

「秋……葉?」

秋葉が射殺すような目つきで俺を睨んでいる。

「こんな遅くまでどこに行って何をしていたのですか?」

「秋葉、どうしてこんな時間まで……『聞こえませんでしたか?』」

背筋が凍りつくような秋葉の声に俺は黙る。

「私は、どこに行って、何をしていたのか、と訊いたんです」

違う、今までの怒り方とは比べものにならない。

怒ってる。秋葉は本気で怒ってる。

「……言えない」
 
今の秋葉に嘘やごまかしなど通用しないだろう。

だからといって本当の事を言うわけにもいかない。

「…………」

秋葉の眉がつり上がり目つきがさらに険しくなる。

「秋葉が俺を心配している事は痛いほどわかる。
 けど、それでも話す事は出来ない」

秋葉の目を真っ直ぐ見返す。

「どうしても話す気にはなりませんか?」

「ああ」

「……わかりました、百歩譲ってその事については不問にしましょう。
 その代わりもう二度とこのような事をしないと約束してください」

「それも、出来ない」

どのみち嘘をついてもばれる、もうはっきり言うしかない。

「何……ですって」

あまりの怒りのせいか秋葉の声は震えていた。

「後、数日間は続けなければいけないんだ。
 守れない約束をする事は出来ない」

「何故? 兄さんがそうしなければならない理由は?」

搾り出すように秋葉が声を発する。

「……もうこれは俺だけの問題じゃないんだ。
 今、やめてしまったら俺は絶対に後悔する。
 必ず守らなければいけない大事な約束なんだ」

「ふざけないでください!!」

ついに秋葉が怒声をあげる。

「さっきから黙って聞いていれば、勝手過ぎます!!
 どこに行ったか話せない、何をしたかも話せない。
 挙句の果てにこれからも続ける、ですって!?
 戯言を言うのもいい加減にしてください!!」

よほど頭に来ているのだろう。もはや俺を見る目つきには殺意すら宿っている気がする。
 
「……ごめん」

無茶を言っているのは解っている。

けど、引くわけにもいかない。

「わかりました、そこまで言うのなら勝手にしてください。
 兄さんがそのつもりなら私も勝手にさせてもらいますから」

そう言って秋葉は俺に背を向けて歩いていく。

その姿が見えなくなる寸前、秋葉がぽつりと言った。

「そんなに……そんなにあの女の事が大切ですか?」

「え?」

聞き返した時には秋葉はもう見えなくなっていた。

「秋葉?」

しばらくの間、俺は呆然とその場に立っていた。







[996] 第七話 割れる日々 
Name: アービン
Date: 2006/03/25 15:44






「…………」

誰かの話し声が聞こえる。

霞がかかった意識でそれを捉える。

「秋葉様、本気ですか?」

「当然よ、これ以上あの女と兄さんを関わらせるわけにはいかない。
 あの女のせいで兄さんはこんなにぼろぼろに……
 兄さんに手を引くつもりが無いならそうするしかないでしょう?」

どうやら俺の事について話している様だ。

「おそらく、志貴様はその御方の事が……」

「黙りなさい琥珀、兄さんはただ騙されているだけよ。
 あの女との関わりを断てば、すぐに目を覚ますでしょう。
 どちらにしろ私はあの女を許さない」

言ってる事が気になるが、意識がまた沈んでいく。
よっぽど俺は疲れているらしい。

「私は兄さんを傷つける者は誰であろうと――――」

その続きを聞く前に俺の意識は途絶えた。




















「……はっ!?」

目覚めると同時に身体を起こした。

妙に寒気がして身震いをする。

「あれは――――」

現実か、それとも夢なのか。

そしてこれほど恐ろしく感じるのは……

「考えても仕方が無い、とにかく聞いてみよう」

頭を振りよぎった考えを消す。

ベッドから出て、時計を見る。

「ん?」

時計はちょうど7時を指している。

しかし外を見ると真っ暗だ。

時計が狂っているのか、それとも――――

「まさか、夜の7時だっていうのか?」

呆然としているとドアがノックされた。

「え、ああどうぞ」

「失礼します」

静かにドアが開き翡翠が入ってくる。

「志貴様、お起きになられたのですね」

翡翠はわずかに安堵した表情を見せていた。

「うん、ついさっき。
 あのさ翡翠、今何時?」

「午後7時ちょうどです。
 志貴様は今までずっと眠っておられて、
 いくら声をかけてもお目覚めになりませんでした」

「ほんとに?」

「はい」

予想はしていたが実際に言われるとやはり驚く。

前もこんな事があった、だが今回は寝る時には何とも無かったのに。

俺の身体は弱ってきているのだろうか。

「ごめん翡翠、心配させてしまって」

「いえ、志貴様がご無事なら何よりです」

「……ありがとう」

しばらく会話が途切れて沈黙が続く。

「そういえば、秋葉と琥珀さんは?」

俺はさっきから気になっている事を訊ねる。

「秋葉様は急用が出来たらしく、姉さんを連れて先ほどお出掛けになりました」

何だろう、酷く嫌な予感がした。

秋葉と琥珀さんが出掛けている、ただそれだけなのに。

「翡翠、変な事聞くけどそういう事って今まであった?」

「秋葉様が夜にお出掛けになる事は稀にあります。
 珍しい事は確かですが全く無いわけではありません。
 ただ――――」

「ただ?」

「姉さんを連れて行った事は私の知る限り今までありません。
 私もその事については少し不思議に思いました」

「…………」

単なる杞憂かもしれない。

でも俺はどうしても気にかかった。

昨夜、秋葉が最後に言った言葉。

秋葉と琥珀の会話。

二人が今出掛けている事、そしてそれが非常に珍しい事。

「ごめん翡翠、俺もちょっと出掛けてくる」

一瞬、翡翠は唖然として、

「お止めください!!」

信じられないという感じで翡翠が大声を出す。

そりゃまあ、当然だろう。

さっきまでずっと起きなかった俺がいきなり外に行くと言うのだから。

翡翠が心配するのは当たり前だけど――――

「姉さんから志貴様がお目覚めになっても絶対安静にさせるように言われました。
 これ以上無理をすればどうなるかわからない、と。
 ご無礼を承知でお願いします。どうか今はご自重ください!!」

深々と頭を下げて翡翠は懇願する。

その必死な姿に心が揺らぎそうになる。

ここまで翡翠に心配かけてまで行く必要があるのだろうか。

だが、秋葉と琥珀さんの会話が頭から離れない。

秋葉が最後に言った言葉。

聞く前に意識が無くなったのに、

――――どうして『殺す』と言ったなんて思ってしまうのか――――

それが恐ろしい。

だから、確かめないといけなかった。

「大丈夫だって翡翠、今日はすぐに帰って来るから」

「ですが――――」

「どうしても気がかりな事があるんだ」

無理を承知で翡翠に頼み込む。

「……かしこまりました。
 ただちに着替えを持ってまいります」

失礼します、と言って翡翠は部屋から出て行った。




















夜の闇をひたすら走る。

あたりには人影は無く、静寂の中で自分の呼吸音だけが嫌に耳障りに感じる。

「はあっ、はあっ、はあっ」

まだ数分も走ってないのにもう息切れしている。

それでいて走るペースはいらいらするほど遅い。

身体が酷く重く、力が入らない。

一歩踏み出す度に昨日やられた胸の怪我が痛む。

「はあっ、はあっ、はあっ……くっ!!」

耐え切れず、立ち止まる。

その途端強烈な眩暈がして倒れそうになった。

「く……」

かろうじて持ちこたえる。

ここで倒れるわけにはいかない。

「はあっ……」

呼吸を整える。

だがあまりのんびりしてはいられない。

急がなければ何かが手遅れになってしまう気がする。

ぼろぼろの身体に鞭を打って俺は再び走り始めた。










「何だよ、これ……?」

ようやくたどり着くと、廃ビルは赤い糸の様な物に覆いつくされていた。

それだけじゃない、辺りに灼けそうな程の熱気が立ち込めている。

ここは最早、異界だ。

「くそっ!!」

何が起こっているのかわからないがとにかく中に入らないと。

「駄目ですよ志貴さん、中に入っちゃ」

声がした方に振り向くと琥珀さんが居た。

こちらに向かってゆっくりと歩いてくる。

「この中で今、秋葉様が仕事中です。
 入ったらお仕事の邪魔になってしまいます」

「仕事って……こんな場所で何をしているんだよ!?」

「さあ? 私にはわかりません。
 ですが、秋葉様は遠野家当主ですから、
 人には言えない様な事もあるのでしょう」

ぞっとした。

中で秋葉がしている『仕事』

どう考えてもそれはまともなものでは無いと思う。

その時ビルの中から悲鳴が聞こえた、この声は――――

「弓塚!?」

「あっ、志貴さん!!」

琥珀さんの制止を無視してビルに入ろうとして、

赤い糸に触れそうになった所で本能的に立ち止まった。

これは……やばい。

「志貴さん、翡翠ちゃんに言ったはずですけど、
 志貴さんは安静にしてなければ危険な状態なんです。
 こんな所に居てはいけません。今すぐ帰ってください」

珍しく琥珀さんが焦った声を出す。

「悪いけど、それは聞けない」

眼鏡を外して赤い糸を視る。

眼鏡越しより余計に禍々しさを感じさせるそれを一息に断ち切った。

辺りの熱気が弱まる。

「え?」

呆然としている琥珀さんを置いて、俺は中に飛び込んだ。










ビルの中は息をするのも苦しいほど熱気に支配されていた。

その中心には――――

「はあっ、はあっ、はあっ」

倒れて何かに耐えるように身体を震わせている弓塚と、

「意外と手こずらせてくれましたね。
 ですが、もうこれで終わりです。
 最期に何か言い遺す事はありますか?」

美しい長髪を燃えるように赤く染め、

勝ち誇った様に弓塚を見下ろしている秋葉の姿があった。

「弓塚!!」

俺は弓塚に駆け寄り抱き起こす。

「にい……さん?」

「はあっ、はぁ……志貴くん?」

秋葉は呆然と、弓塚はぼんやりと俺を見つめる。

弓塚の姿は目を背けたくなるほど酷かった。

まるで油をかけられて火をつけられた様に身体中に火傷を負っており、左足にいたっては足首から先が無かった。

俺は秋葉を睨みつける。

「秋葉、お前がやったのか?」

感情を押し殺した声で訊ねた。

「そんな、兄さんがどうしてここに……?」

秋葉が動揺している、それが答えだった。

「どうして、だって……?」

何でこの状況でそんなどうでもいい質問をするのか。

頭に血が上っていくのがわかる。

「それはこっちの台詞だ!!
 お前は何でこんな所に来て、しかも何をしようとしたんだ!?」

自分でも驚くほどの大声で怒鳴る。

秋葉は俯いて何も言わない。

「答えろ、秋葉!!」

「そう、やっぱり兄さんは怒るのですね……」

ぽつりと、秋葉が呟いた。

「そんなの決まっているじゃないですか」

顔を上げた秋葉は歪んだ笑みを浮かべていた。

「兄さんを苦しめる、そこの女郎蜘蛛を殺しに来たんですよ」

その言葉に込められていたのは紛れも無く殺意。

秋葉は本気で言っている。

「ふざ……けるな、何で俺が弓塚に苦しめられているって言うんだ?」

秋葉に気圧されながらも反論する。

秋葉はそんな俺の言葉を聞いて笑った。

「何がおかしい」

「いえ……そうですか。
 兄さん、自覚してないのですね。
 それじゃあ仕方が無いかもしれません」

「何が言いたい」

「では訊きますけど……
 最近、兄さんが毎晩出歩いているのはその御方の為じゃないのですか?」

確信のある口調で秋葉は問いかけてくる。

「それが――――」

「元々、身体の弱い兄さんが睡眠時間を削ってまで夜出歩いているのはその御方の為ですよね?」

「…………」

「その無理が祟って日中ずっと倒れていたにも関わらず、
 私の制止を振り切って兄さんが夜出て行ったのはその御方の為ですね?」

弓塚が息を呑んだ。

「昨日、私に調子が悪いと嘘をついてまで屋敷を抜け出し、
 プレゼントと手料理を用意して、励まそうとしたのも、
 当然、その御方の為だからでしょう?
 よくもまああんな臆面も無く抜け出せるものです」

その言葉を聞いて気付いた。

何で秋葉があそこまで怒っていたか。

どうして秋葉がここがわかったのか。

昨日の事をなぜそこまで詳しく知っているのか。

それは昨日、秋葉が俺を見ていたからだ。

おそらく弓塚が感じたと言った気配が秋葉だったのだろう。

「そして……」

いつのまにか秋葉の声は震えていた。

「今、ぼろぼろの身体を引き摺って兄さんがここに来たのはその女の所為です!!
 ほら、これでどこが兄さんを苦しめてないというのですか!?
 兄さんが傷付いているのはみんなその女の所為じゃないですか!!」

そう叫んで秋葉は弓塚を呪い殺す様に睨みつける。

「その女さえいなければ……兄さんと関わらなければ!!
 兄さんがこんなに苦しむ事は無かった、違いますか!?」

「あ……」

弓塚が脅えた様に目を逸らす。

「いい加減目を覚ましてください兄さん!!
 どんな理由で兄さんがここまでするのかは知りません。
 でも兄さんがぼろぼろになってまでする必要なんて無いはずです!!」

涙をにじませた目で秋葉はすがる様に俺を見る。

それで、俺は今までいかに秋葉を心配させていたかわかった。

どうしようも無く自分が嫌になる。

「……お前の言いたい事はわかった」

秋葉の視線を真っ直ぐ受け止め、見つめ返す。

目を逸らす事なんて俺には許されない。

「確かにお前の言う通りかもしれない」

俺の言葉を聞いて秋葉が歓喜の表情を見せる。

「兄さん、じゃあ――――!?」

「けど、それで弓塚を傷付けるのは間違ってる」

凍りついた様に秋葉が固まる。

「別に強制されているわけじゃない。
 俺は望んで弓塚の助けようとしているんだ。
 例えそのせいで傷付いたとしても弓塚を恨んだりなんかしない。
 だからもう……弓塚を傷つけないでくれ……」

「志貴……くん」

秋葉は俯いて押し黙った。

「どうしてですか……?」

そう呟いた後、秋葉は弾けた様に顔を上げた。

「どうしてその女ばかり見るんですか!?
 それじゃあ心配してる私が馬鹿みたいじゃないですか!?
 何で……何で兄さんは私を見てくれないんですか!?」

それは心の底から搾り出すような悲痛な叫びだった。

「秋葉――――」

すっと秋葉の顔から抜け落ちた様に表情が無くなった。

唯一、その目に全てを凍りつかせる様な憎悪を残して。

ドクンと心臓が激しく跳ねる。

今目の前にいるのは――――俺の知る秋葉とは違う。

「もういいです、兄さんは退いてください。
 兄さんが死ぬと分かってて放っては置けません」

「……出来ない、弓塚を殺すなんて絶対に許さない」

俺は秋葉の前に立ちふさがる。

「言いましたよね兄さん。
 兄さんが勝手にするのなら――――」

秋葉の赤い髪が爆発的に伸び、蜘蛛の糸のごとく俺を包み込む。

「なっ!?」

「私も勝手にさせてもらいます、と」

瞬間俺の身体は浮き上がり、壁に叩きつけられていた。

「かはっ……」

口から血が溢れ出る。

「志貴くん!!」

弓塚の悲鳴が遠く聞こえる。

持っていかれそうになる意識を必死で繋ぎ止める。

「少しそこでおとなしくしていてください。
 心配しないでもすぐに済ませますから」

愉悦を含んだ声で秋葉は絶望を告げる。

このままでは弓塚が――――

「ねえ、何とも思わないの……?」

その声に俺は凍りついた。

弓塚が怒りをあらわにしている。

「……っ!! うるさい!!」

秋葉は弓塚を蹴り飛ばす。

ごろごろと弓塚が転がる。

「貴女がそれを言うの!?
 貴女が……貴女さえいなければ兄さんは私を――――」

「やめろ秋葉!!」

それ以上やったら死んでしまう。

「ふざけないで」

弓塚の周りの空間が歪みかけている。

「そんな理由で志貴くんを傷つけたの?」

徐々にその歪みが大きくなっている。

だが秋葉は怒りに捉われて気付いていない。

「それじゃあ――――私と変わらないじゃない」

弓塚が秋葉を睨みつける。

その目が更に紅くなっていく。

「黙りなさい!!」

赤い髪が弓塚を包み込もうとする。

「よせ秋葉!!」

叫びながら同時にもう手遅れだと感じる。

死ぬ。

死ぬ以外のイメージが沸かない。

確信する。

間違いなく。

何の救いもなく無慈悲に、

――――弓塚が望めば秋葉は死ぬ――――

その死の宣告はあまりにも小さく些細だった。

「もういいや」

瞬間、爆発的に歪みが広がり全てが枯渇した世界が現れた。

荒廃した死の大地。

褪せた血を思わせる紅い空。

砂塵が渇いた風と共に舞う。

「何よ……何なのこれは!?」

突然変化した景色に秋葉は狼狽した。

それはしてはならないミスだった。

もし勝機が存在するとすれば、この一瞬だけなのに。

秋葉は自らそれを手放した。

「せっかく我慢してたのに……」

弓塚は何事も無かったかの様に立ち上がった。

既に先ほどまでの怪我は痕さえ残っていない。

「よっぽど貴女死にたいんだね」

「何をふざけた事を……!!」

秋葉は再び赤い髪を伸ばす。

だがもうそれが弓塚に届く事は無い。

周りから木の葉が現れ弓塚の前に集まる。

赤い髪は木の葉に遮られ弓塚に届かない。

「くっ」

「お返しだよ」

弓塚が手を振ると木の葉が横殴りの雨のごとく秋葉へ襲い掛かる。

「こ……のぉ!!」

秋葉は後ろに大きく跳びながら木の葉を消し去る。

「へえ、すごいね秋葉さん。
 これなら少しは楽しめそうだよ」

あの、もう二度と見たくなかった残酷な笑みを弓塚が浮かべる。

「さあて――――」

弓塚が演奏を始める指揮者の様に右手を上げる。

「さっきまでの借り、たっぷり返してあげないとね」

秋葉は弓塚を睨みつける。

その目に今までの余裕は無い。

「貴女なんかに……私は負けない!!」

「二人共もうやめろ!!」

皮肉にもその俺の声が戦いの合図となった。




















それは最早殺し合いと言う言葉さえ生ぬるい。

虚空から果てなく溢れ出る木の葉は生を枯らそうと押し寄せる。

赤い髪は全てを喰らい尽くす様に広がりそれをかき消していく。

お互い、少しでも攻撃の手を緩めれば次の瞬間この世から消されるだろう。

割って入る事など到底出来ない、したとしても気付かれる事すら無く殺される。

今でこそ危うい均衡を保っているがいつ崩れるかわからない。

いや、もう均衡は崩れ始めている。

「はあっ、はあっ……」

「どうしたの秋葉さん、もう限界?」

「だれ……が、この程度ならいくらでも続けられるわ……」

言葉とは裏腹に秋葉の息は荒く、身体は震えている。

誰がどう見てももう限界だった。

対する弓塚は息一つ切らしていない。

どちらが優勢なのかは火を見るより明らかだった。

「そう? でも私もいい加減飽きてきたから、
 もうそろそろ終わらせちゃってもいい?」

自分の勝利を確信し、弓塚が告げる。

「そうですね、もう終わりにしましょう――――」

かっと秋葉が目を見開く。

「貴女を殺して!!」

そう叫ぶと秋葉が大きく前に飛んだ。

「なっ!?」

俺は驚きの声をあげた。

馬鹿な、今立っている位置でもギリギリだってのに、近づくなんて自殺行為だ。

当然、木の葉は秋葉を貫く――――

前に全てかき消された。

「え?」

呆然とする弓塚。

秋葉は今までより遥かに速く赤い髪を振るっていた。

襲い掛かる木の葉を次々とかき消してゆく。

その速さは弓塚が木の葉を出す速度を上回っている。

秋葉は更に距離を詰めていく。

ここに来て、形勢は逆転していた。

「これで……終わりです!!」

ついに弓塚の姿があらわになる。

「弓塚!!」

悲鳴をあげる身体を無理やり動かして走る。

間に合わないと分かっていてもそうせずにはいられなかった。

だが絶体絶命の窮地において弓塚は――――

「くす……」

小さく、しかし確かに笑って言った。

「渇きを知れ」

その瞬間、秋葉は地面に倒れこんだ。

「秋葉……?」

「あ、あああああ……」

両手で喉を押さえて秋葉は呻き声を上げる。

一体何が起こったというんだ?

「驚いたよ秋葉さん、まさかここまでやるなんて。
 初めから距離を詰められていたら負けてたかもしれない。
 けどちょっと私と長く戦いすぎたね」

「な……ぜ?」

「私が操れるのは木の葉だけじゃない。
 この世界に漂う無数の砂塵。
 戦っているうちにそれは少しづつ身体に付着していく。
 そして今、それを一斉に発動させた。
 一つ一つの威力は弱いけどそれだけあれば効いたでしょ?
 どうかな? 私の渇きを知った気分は?」

秋葉はもうそれに答える気力も無い様だ。

弓塚は楽しそうに笑う。

「おもしろかったよ秋葉さん。
 このまま貴女を塵になるまで吸い尽くしてもいいのだけど、
 それじゃあんまりにも可哀相だから――――」

弓塚が秋葉に飛び掛る。

その意図に気付いて俺は必死に走る。

「やめろ弓塚!!」

「楽に殺してあげる」

弓塚の腕が唸りを上げる。

手の爪は秋葉の心臓を狙っている。

今の秋葉にかわす事など不可能だ。

弓塚を止めるのは間に合わない。

――――弓塚は秋葉を殺す――――

「ふざ……けるな!!」

弓塚が人を殺す事も、

秋葉が殺される事も、

どっちも俺には耐えられない。

心臓が破裂しそうなほど激しく打った。

全ての力を足に込めて跳ぶ。

「え?」

ずぶりと嫌な音がして、

弓塚の爪は俺の胸に突き刺さっていた。

俺の身体がゆっくりと後ろに倒れる。

酷く不快な、肉が裂ける音がして爪が抜ける。

「あ……」

弓塚は放心した様に自分の爪を見ている。

真っ赤に染まった爪の先からぽたぽたと血が垂れている。

「嘘でしょ……?」

ピシ、とどこかで音がした。

「嘘……だよね?」

また音がした。

気付くと空間にヒビが入っていた。

「あ……あ」

ヒビが連鎖的に広がっていく。

「あああ……」

既にヒビはそこら中に広がっていた。

「弓……塚……」

喋った拍子に血が口からこぼれる。

それが引き金になったのか、

「あ、あああああああああ――――――――!!」

発狂した様な弓塚の叫び声と共に、空間は砕け散った。

弓塚は全てを拒絶するかのごとく俺に背を向けて走り去って行った。

「弓塚!!」

追いかけないと。

立ち上がろうとして膝をつく。

「ぐっ……!!」

頭を下げると胸の傷が目に入った。

シャツは血で真っ赤に染まっている。

「こんなの全然大した事無い」

そう、この程度では死にはほど遠い。

八年前に比べたらこんなもの――――

そう思った瞬間強烈な眩暈がした。

耐え切れず、倒れる。

意識が薄れていく。

「にい……さん?」

秋葉の声が聞こえた。

何とかそっちを向くと秋葉は泣きそうな顔をしていた。

「兄さん!! しっかりしてください!!
 兄さん!! 兄さん……」

秋葉の声がだんだん遠く感じる。

ぐしゃぐしゃに泣きながら俺を呼ぶ秋葉の顔を見て、

パズルの最後のピースがはまった様な感覚がした。

ああ、そうか……

――――八年前もこうだった――――

思い出して納得すると俺の意識は闇に落ちていった。







[996] 第八話 境界線 
Name: アービン
Date: 2006/07/30 02:36






そっと壁に手を当てる。

手が冷たい感触をわずかに感じ取る。

あの日、ここに居た時は寒くて死んでしまいそうだった。

けど今はそんな事は無い。

あの時と季節が違うから?

違う、それだけじゃない。

わかっている、私が寒さを感じなくなってきているんだ。

笑いがこみ上げてくる。

そもそも私はどうしてこんな所に来たんだろう?

ここにいればあの時のように助けてくれるとでも思っているのか。

「馬鹿みたい、まだ思い出にすがっているなんて。
 私にはもうそんな資格ありはしないのに」

そう、私に助けは来ない。来てはいけない。

差し伸べられた救いの手を私は自ら払ってしまったのだから。

「……っ!!」

気が付けば泣いていた。

唇をかみ締める。

本当は泣き叫んで助けを求めたい。

だけど、それは駄目だ。

そうしたら本当に助けに来てしまう気がするから。

絶対に、呼べない。

でも――――

「寂しいよぉ……」

泣き言ぐらいは言ってもいいだろう。

私はもう、独りなのだから




















ゆっくりと目を開けた。

「……ふざけてる」

何よりも先にそう思った。

どうしてそんな風にしか考えられないのか。

辛かったら誰かを頼ればいい。

それは決して悪い事なんかじゃない。

なのに弓塚は自分だけで全てを抱え込んで、その所為で独りの時にしか泣けなかった。

独りで苦しんで、独りで泣いて、そして独りで消えようとしている。

「そんなの……ただのやせ我慢じゃないか」

ぎり、と音がするぐらい歯をかみ締める。

認めない。

例えそれで他の全てが丸く治まったとしても、

――――弓塚が笑顔になれない終わり方なんて絶対に認めない。















辺りを見回す。

どうやら俺の部屋みたいだ。

ずっと看病してくれていたのだろうか、秋葉がベッドにもたれかかって寝ていた。

その手は寝てるにも関わらず俺の手を固く握っている。

「ごめんな、心配ばかりかけさせて」

そっと秋葉の髪を撫でる。

全く本当に俺は駄目な兄貴だ。

「悪いけど、あと少しだけわがままをさせてくれ」

ゆっくりと秋葉の手を開こうとすると、

「ん…………」

少し身じろぎをして秋葉が頭を上げた。

一瞬、ぼんやりと俺を見つめて、

「兄さん!!」

見る見るうちに泣き顔になる。

「落ち着け秋葉。俺は大丈夫だから」

「大丈夫なわけ……ないじゃないですか……
 兄さんは丸一日ずっと……目を覚まさなかったんですよ。
 下手をすれば……死んでいても……おかしくはなかったんです」

「…………」

自覚はあったけど俺の身体は大分参っているみたいだ。

「ごめ……んなさい……私の所為でこん……な事に」

泣きながら秋葉はそう繰り返す。

「違うって、お前が悪いわけじゃない」

「そう……じゃないんです兄さん……
 初めから……全部私が原因だったんです」

「え?」

嗚咽をもらしながら搾り出すように秋葉が声を発する。

「弓塚さんが吸血鬼になったのは……私の所為なんです」










しばらくして秋葉が事情を少しずつ話し出した。

「兄さんが倒れた後、アルクェイドと名乗る方が来て、
 ここまで兄さんを運んでもらったんです。
 その方から大体の事情を話していただきました」

「アルクェイドが……」

「兄さんはこの街にいる吸血鬼を探していたんですね。
 吸血鬼にされてしまった弓塚さんを助ける為に」

俺の視線を避けるように秋葉は目を伏せる。

「みんな、私の所為なんです。
 私が早くシキを殺していれば……
 こんな事にならずに済んだんです」

それはどういう意味なのか。

ふと包帯の男の言葉を思い出す。

あの男は俺の名と、さらに八年前の事まで知っていた。

つまり――――

「そうか……あいつはシキだったのか」

「え……?」

俺の呟きに秋葉が息を呑む。

「兄さん、記憶が戻っているんですか!?」

「ああ、もっとも思い出したのはついさっきだけど」

きっと、八年前に近い状況を体験した所為だろう。

そこまで考えて気付く。

「秋葉、お前は八年前の事も、シキの事も、全部知っていたのか?」

「……はい。シキの事は、兄さんには思い出して欲しくなかった。
 出来ることなら、ずっと忘れたままでいて欲しかった。
 けど、それもおしまいですね。
 初めから―――隠し通すことなんて無理な話だったんです。
 いつかはこうなる事が解っていたのに……」

秋葉はぎゅっと胸の前で手を握り締める。

「……兄さん、信じられないでしょうけど、
 遠野の血は人間以外の血が混ざっているんです。
 少なくとも、私は子供の頃から父にそう教えられて育ってきました。
 もちろん、それを本気で信じてきたわけではありません。
 けど、信じざるをえない出来事が起きてしまった。
 それが八年前の、兄さんがシキに殺された事故なんです」

ズキリ、と胸の傷が痛んだ。
 
「遠野の人間は個人差はあれど、
 歳をとるごとに自分の中の"異なる血"が増えていきます。
 この血は、あまりいいものではないんです。
 遠野の血筋に混ざっている異種は、
 ただのケモノなのかもしれないと思うほど自己の本能を肥大化させ、
 やがて人格の"反転"を引き起こします。
 人間らしい部分を理性とするのなら、
 ケモノじみた部分である本能が理性を駆逐してしまうんです。
 ……反転しかけた私が弓塚さんを何の躊躇いも無く殺そうとしたように」

「秋葉、それは……」

「いいんです、兄さん。
 あれは紛れも無く私の罪ですから」

唇を噛んで、秋葉は自分の傷を抉るかのように言葉を出す。

「八年前、あの時兄さんは反転したシキに胸を貫かれてもう瀕死の状態でした。
 そこに父が駆けつけて、シキを止めたんです。
 理性を失っていたシキを止めるには、息の根を止めるしかない。
 遠野家の当主には反転してしまった一族の者を処理する義務があるんです。
 ……結局、殺す事は出来ませんでしたが」

その事はかすかに、覚えている。

「その後、兄さんは奇跡的に一命を取り留めました。
 後は兄さんも知っている通り、
 遠野志貴は事故に巻き込まれたという偽証をして病院に運ばれたんです」

「――――」

「私が当主として育てられたのもそれが原因でした。
 一度でも"反転"した者を当主として迎えるわけにはいきませんから、
 シキは後継ぎではなくなって、唯一血を継いでいる私が後継ぎになったんです」

唯一血を継いでいる?

「ちょっと待ってくれ秋葉、それはおかしい。
 その言い方だとまるで――――」

――――俺が遠野の人間ではないみたいじゃないか。

秋葉は何も言わない。

ただ、何かに耐えるように俯いている。

それが答えだった。

「そういう……事なのか」

「……はい、兄さんは養子として取られた子供だったんです。
 社会的地位の高い遠野家の長男を亡くなったとする事は出来なかった。
 お父様は養子であった兄さんとシキの名前が一緒だった事を利用し、
 二人の存在を入れ替えて養子の方が死んだ事にした。
 殺された側が生き残って、殺した側が死んでしまった。
 それが兄さんとシキの関係なんです」

「そんな、じゃあ俺は……」

一体どこの誰だって言うのか。

頭が真っ白になる。

今まで信じていた「自分」という存在。

それがガラガラと崩れる音が聞こえた気がした。

「……ごめんなさい」

ぽつりと呟かれた声で我に帰る。

「私、兄さんに迷惑かけてばかりですね。
 こんな事なら、兄さんを呼び戻さない方が良かったのかもしれません」

そう言った秋葉はいつもと違いとても弱々しく見えた。

それで、秋葉がどれだけ俺に罪の意識を持っているかがわかった。

「秋葉……どうして俺をこの屋敷に呼んだんだ?
 俺が本当の兄貴じゃないってわかっていたのに」

「そんな事は関係ありません。
 私にとって今も昔も貴方が兄なんです」

秋葉は迷い無く言い切る。

それが今の俺にとって救いだった。

「秋葉、俺はお前に屋敷に呼んでもらって感謝している。
 それにさ、他の事だってお前を恨んでなんかいない」

「兄さん……でも私は――――」

「あ、けど弓塚を傷つけた事だけは俺には許せない」

「……はい、それはわかっています」

「うん、だから弓塚に謝って許してもらって」

「は?」

俺の言葉に秋葉は呆けたような声を出す。

「だから『俺が』勝手にお前を許す事は出来ないから、
 弓塚に謝って許してもらえって言ったんだ」

「でも、弓塚さんは……」

「大丈夫。弓塚はきっと俺が助ける」

きっぱりと言うと、体を起こす。

「……!! 兄さん、やめてください!!」

無理してる事なんてわかってる。だけど――――

「ごめん秋葉、後一回わがままを聞いてくれ。
 今、行かなかったら絶対に後悔する」

秋葉を押し退けて立ち上がる。

そして一歩踏み出そうとして、強烈な眩暈でその場に倒れこんだ。

足元が小船の上に乗っているようにぐらぐらする。

「ほら、今の兄さんはとても無理なんて利く身体じゃないんです!!
 兄さんはそんなぼろぼろになるまで頑張ったじゃないですか!?
 もう十分じゃありませんか!? 後は私が何とかしますから……
 お願いですから……もうやめてください」

「駄目だ、これは俺がしなくてはならないん……だ」

俺は床に手をつき、体を起こそうとする。

だが手に力が入らなくて上手くいかない。

「わかりません、兄さんがそこまでしなきゃいけない理由っていったいなんですか……?」

涙声になりながら秋葉が尋ねてくる。

そういえば、何でなんだろう?

自分でも正直疑問に思った。

秋葉の言う通り今の俺はぼろぼろだ。

こんな俺が動くより、いっそ秋葉に任せた方が楽だし、有効だ。

秋葉には頼れないにしても、アルクェイドがいる。

あいつならきっと独りでも何とかするだろう。

ぼろぼろの俺がわざわざ動く意味なんて無い。

なのに、俺は立とうとしている。

俺の中の何かが立てと繰り返し叫んでいる。

頭に浮かぶのは彼女の事。

他愛の無い約束に彼女は本当に嬉しそうだった。

何にも出来ない俺を信じて頼ってくれた。

自分が一番辛いくせに俺達の心配ばかりして、本当は泣きたいだろうにそれでも彼女は笑ってくれた。

励まさなければいけないはずが、いつしか逆にその笑顔に励まされていた。

「ああ、そうか……」

約束したから、彼女を助けたいんじゃない。

それでここまで出来るほど俺は聖人じゃない。

「俺は弓塚の事が好きなんだ」

義理とか正義感だとかそんなカッコイイものとは違う。

彼女が好きだから俺の手で救ってあげたい。

ただ、それだけの話。

「だから、弓塚を助ける役は譲れない」

心は決まった。

渾身の力を込めて立ち上がる。

「助けなければいけない、じゃなかった。
 秋葉、俺は自分で弓塚を助けたいんだ」

秋葉の目を真っ直ぐ見て決意を告げる。

「兄さん……」

静かに呟いて秋葉は黙り込む。

その顔がとても悲しげで胸が痛んだ。

「――――わかりました」

そう言うと秋葉は俺の額にそっと指を当てる。

すると、あれほど酷かった眩暈が治まっていった。

立っているので精一杯だったはずの身体に力が湧いてくる。

「くっ!!」

俺から指を離すと秋葉は苦悶の表情を浮かべた。

顔色が悪くなり、何かに耐えるように胸を押さえる。

「秋葉、お前いったい何をしたんだ?」

「そんなに大した事はしていません。
 兄さんが動けるように少し力を分けただけです」

「力を分けただけって――――お前顔が真っ青じゃないか!?」

「このくらい……大丈夫です。
 そんな事より兄さん、身体が動かせるのなら早く行ってください」

「何言ってるんだ、どうみても大丈夫じゃ『兄さん!!』」

俺の言葉を秋葉が無理やり遮る。

「兄さんには弓塚さんを助けたいのではないんですか!?
 さっきまでの言葉はみんな嘘だったんですか!?
 違うのでしょう!? だったら早く行ってください!!
 兄さんに私の事を心配している暇なんかないはずです!!」

秋葉の言葉が俺に突き刺さる。

そうだ、何の為に秋葉がここまでしていると思ってる。

今、俺がやらなければならない事なんて解りきっている。

「さっさと行ってください。
 私が弓塚さんに謝れなくなるじゃないですか」

「――――わかった、行ってくる」

秋葉に背を向けて歩き出す。

ドアを開けて出た時に秋葉の呻き声がわずかに聞こえた。

それでも俺は振り返らなかった。




















「話は終わった?」

廊下に出るとアルクェイドが俺を待っていた。

「ああ……
 ごめんアルクェイド。
 俺をここまで運んでもらって」

「別にいいわよ、大した事じゃないし」

そう言うアルクェイドの言葉にはどこか翳が感じられた。

しばらくお互い沈黙が続く。

「アルクェイド、訊きたい事がある」

意を決して俺は口を開いた。

「秋葉が聞いた話からすると、
 弓塚を吸血鬼にしたのはシキ……
 説明は省くけど俺の知り合いなんだ。
 でもお前は死徒を追ってきたと言った。
 これはいったいどういう事なんだ?」

「……多分、どちらも間違ってないわ」

「え?」

アルクェイドは俺に背を向ける。

「そういう奴なのよ、あいつは」

アルクェイドの表情は見えない。

それでも背筋が凍りつく程の憎悪を感じた。

「そうね、もういい加減話すべきなのかもしれない」

感情を押し殺したような声でアルクェイドが言う。

「あいつの名はミハイル・ロア・バルダムヨォン。
 教会の連中には『蛇』と呼ばれているわ」

淡々と、アルクェイドは語る。

そうしなければ話せないという風に。

「ロアは強さだけで言えばネロよりも弱い。
 だけどロアはどんな奴よりも厄介な存在だった。
 あいつはね、『転生』するのよ」

「転生って――――死んだ後生まれ変わるっていう……?」
 
「そう、ロアは自分が生きている間に次の自分の肉体をあらかじめ決めておいて、
 その人間が誕生した時点で『自分』の全情報を移植する。
 『自分』を引き継ぐに相応しい知性をもった時、その人間はロアという吸血鬼になる」

「じゃあ、シキは……」

「ロアが選んだ転生先の肉体よ。
 シキという人間がどんな奴だったかは知らないけど、
 ロアが現れた時点でもう別の存在になっているわ」

「…………」

無意識の内に拳を握り締めていた。

それは、つまり人の人生を奪っているという事。

「私が話せる事はそれだけ」

そう言うと、アルクェイドは廊下の窓を開けて外に出ようとする。

「――――って、おい、ちょっと待てよ!!」

独りで飛び出して行こうとするアルクェイドを慌てて止める。

「……志貴」

その声は今までと違って悲しみを含んだものだった。

「ロアは私が絶対に、刺し違えてでも殺してみせる。
 だから……志貴はさつきを助けてあげて」

「アルクェイド……?」

こちらに背を向けていてアルクェイドの表情は見えない。

「私ね、さつきに嫌われちゃった」

ぽつり、とアルクェイドが呟く。

「昨日、あのビルから飛び出してきたさつきにあったの。
 何とか引き止めようとしたんだけど……
 物凄い剣幕で怒鳴られて私は何も出来なかった。
 私は……さつきの事何もわかってやれなかった」

「それは違う、弓塚はお前の事を嫌ってなんかいない。
 ただちょっとその時は混乱していただけだ」

それは間違いなく言える。

「……私にはよくわからない、でもその時に思った。
 きっと、さつきを助けられるのは志貴だけだって」

「…………」

「お願い志貴、さつきを助けて」

その願いは純粋だった。

だから余計に自分自身を考えない事に腹が立つ。

「ああ、わかったよ。
 元々そのつもりだ、弓塚は必ず俺が助ける。
 けどな、お前約束を忘れてないか?」

「約束?」

「三人でまた遊びに行こうって約束しただろ。
 お前がいなくなったら守れないじゃないか。
 弓塚が楽しみにしているのにどうするんだよ?」

「それは――――」

口ごもるアルクェイドに俺は強い口調で言う。

「弓塚は俺が助ける。
 その間、シキはお前に任せる。
 だけど刺し違えるなんて馬鹿な事言うな。
 後で必ず俺も行くから」

「……うん、わかった。
 頼りにしてるから」

音も無く、窓からアルクェイドが出て行く。

その窓を閉めて、ふと空を見上げた。

空には雲ひとつ無く。

ただ満月だけが佇み、光を降り注いでいた。

「行こう」

決意と共に俺は歩き出した。




















街中探し回っている余裕はない。

弓塚はどこに行ったのか。

考えろ。

おそらく俺の夢の光景は実際に弓塚が体験したものだ。

あの場所は何処だった?

暗くて周りがよく見えなかった。

わかったのは目の前に壁があった事ぐらい。

ただ……弓塚にとって何か大切な場所みたいだった。

「……駄目だ、わからない」

考えてみれば俺は弓塚の事を全然知らない。

最近まで俺は弓塚を意識した事なんて無かった。

俺にとって弓塚を初めて意識したのはあの夕焼けの……

「……え?」

そういえばあの時、弓塚は楽しそうに俺の事を話していたっけ。

「あ……」

ある。たった一つだけ。

俺が知っている、弓塚が大切に思っている場所。

いる可能性はとても高いとは言えない。

だけどそれでも……俺はそこに賭けてみたいと思った。

気がつけば、その場所に向かって走り出していた。




















その場所は昔と変わっていなかった。

かつて、女生徒達が閉じ込められてこっそり俺が開けた場所。

弓塚は懐かしそうにその時の事を俺に話してくれた。

俺は弓塚の事なんか全く覚えていなかったのにそれでも弓塚は楽しそうだった。

――――俺の通った中学校の旧体育倉庫。

その扉を、俺は震える手で開く。

月の光が開かれていく扉の隙間から入り込む。

闇が光に照らされて消えていく。

そして、闇に覆われていた少女を光は照らし出した。





「志貴……くん」

呆然とした表情で弓塚は俺を見つめている。

「弓塚……」

ここにいてくれた事を嬉しく思いながら一歩踏み出す。

「っ!! 来ないで!!」

弓塚は怯えたように叫ぶと俺に背を向けて部屋の暗がりに逃げ込む。

「どうして、どうしてここに来たの!?」

「そんなの決まってる」

また一歩、踏み出す。

「弓塚を助けに来たんだ」

俺の言葉にびくり、と弓塚が震える。

震えを止めようとしたのか弓塚は左手で右肩を指が食い込むぐらい握り締める。

「……いらない」

かすかに呟かれたその言葉は、なのに鋭く俺の胸に突き刺さる。

「もう、いいよ」

小さく、だがはっきりとした、拒絶。

「もう、助けなくていいよ」

「何を……言ってるんだ」

知らず、声が震える。

弓塚は大きく深呼吸をして言った。

「ねぇ、遠野くん」

こんな状況にも関わらず、その声は酷く穏やかに聞こえた。

「私ね、遠野くんの他の人と違う危うい所に惹かれてた。
 私も同じようになりたかった」

懐かしい、遠い思い出を語るように弓塚は言葉を紡ぐ。

「でもこうなってしまってやっとわかったんだ。
 こんなの欲しがるものじゃない。
 あの当たり前の日常がどんなに素晴らしいものだったか。
 遠野くんはきっとそれがわかっていたんだよね」

弓塚の顔は見えない、でもきっと弓塚は……

「遠野くんは……約束を十分守ってくれたよ。
 遠野くんは日常が似合ってるし、いるべきだと思う。
 だから……もう……」

弓塚は天を仰ぐように顔を上げて、

「もう、私に構わないで」

きっぱりと、自分の意思を告げた。

「そう……か」

俺はゆっくりと目を瞑る。

弓塚がどんな想いで今の言葉を発したのか。

それは俺の想像を絶するものだろう。

俺は……しっかりとその想いを受け止めなければならない。

そして――――

「いい加減にしろよ弓塚」

絶対に認めてなんかやらない。

想いに衝き動かされ、弓塚に駆け寄る。

弓塚の肩を掴み無理矢理こちらに振り向かせる。

「あっ……」

やっぱり。

弓塚はもうこれ以上無いほどに泣いていた。

涙が次から次へと溢れ出し、頬を濡らしている。

それでも必死で平静を装って、弓塚は自分の決意を告げたのだ。

その決意は、その覚悟は確かにすごいだろう。

だけど、どうしようもなく馬鹿だ。

「そうやって……また一人で耐えて、一人で苦しんで、
 そして一人で泣くのかよ!?
 いつまでそうしてばかりいるつもりなんだ!?」

そんな決意を受け取って喜べる奴なんていやしない。

その当たり前の事に弓塚は気付かない。

「答えろ弓塚!!
 誰にも迷惑をかけたくないから助けを拒んで……
 それでお前はどうなるんだ!?
 それでお前は幸せになれるのか!?」

「……だって」

弓塚が表情が険しくなる。

「だって、しょうがないじゃない!!」

瞬間、視界が九十度回転する。

気がつけば、俺は床に叩きつけられていた。

弓塚が俺の身体の上に馬乗りになる。

そのまま弓塚の腕が振るわれる。

骨に響くような鈍い音がして、





頭のすぐ横の床が砕かれた。

息が触れ合うくらい近くに弓塚の顔がある。

その眼は、紅く染まっていた。

ドクン、と心臓が高鳴る。

コロセ

頭の中で何かが叫ぶ。

「馬鹿!!」

弓塚が怒りとも悲しみとも取れる声を上げる。

「何でわかってくれないの!?
 私は……もう化け物なんだよ。
 私、志貴くんだけは傷つけたくなかった。
 でも私はそれすらも守れなかった。
 志貴くんを傷つけた時、私は壊れたの」

弓塚の手が俺の首を掴む。

俺を見つめる眼が変わる。

涙が止まり、人を見る眼から獲物を狩る眼に。

「本当の事言うとね、今も志貴くんの血を吸いたくて仕方が無いの。
 志貴くんの首を千切れる程咬んで血を一滴残らず飲み干したい。
 そういう事を考えるだけでたまらなく興奮してくる」

心臓が早鐘のごとく鳴っている。

弓塚は本気だ。

頭の中の叫び声が強くなる。

コロセ

「志貴くん、これが本当に最後のチャンスだよ。
 今、私の前からいなくなるなら見逃してあげられるかもしれない。
 もっとも、はっきりとは言い切れないけどね」

そう言って弓塚は俺の首筋を撫でる。

いつでも殺せると誇示するように。

コロセ

コロセ

コロセコロセコロセ

――――うるさい、少し静かにしてろ。

頭の中の叫びを黙らせる。

「好きにすればいい」

「……え?」

思わぬ言葉だったのか弓塚が動きが止まる。

「俺だけ助かる、なんて半端な選択肢はいらない。
 二人とも助かるか、どうしても駄目なら二人とも堕ちるか。
 選択肢なんてその二つだけで十分だ」

「ふざけないで!!」

激昂した弓塚が俺の首を締め上げる。

気道が圧迫され、呼吸が止まる。

首の骨が折れる寸前、弓塚の手の力が緩んだ。

「かはっ……」

塞がっていた気道が拡がり、激しく咳き込む。

弓塚は仇でも見るように俺を睨みつける。

「これでもまだそんな事が言える?」

「何度でも……言う、弓塚の好きに……すればいい。
 少なくても俺は……絶対に逃げたりはしない」

絶対に譲らない意思を込めて俺は弓塚を見返す。

そんな俺を見てますます弓塚は怒りを顕にする。

「いい加減にしてよ。
 せっかく私が選択肢を作ったのに……
 どうしてそんなにあっさり捨てられるのよ!?」

「それは……」

そういえばまだ一番肝心な事を伝えてなかった。

「弓塚の事が好きだから」

俺の言葉を聞いて弓塚が固まる。

「だから、弓塚を見捨てて俺だけ助かるなんて耐えられない。
 それぐらいならいっそ弓塚に殺されたほうがよっぽどマシだ」

「嘘……嘘だよ。
 だって前聞いた時は答えてくれなかった」

首を振って弓塚は俺の言った事を否定しようとする。

「確かにあの時は答えられなかった。
 けど、今ならはっきりと言える。
 俺は……弓塚の事が好きだ」

真っ直ぐ弓塚の眼を見て想いを告げる。

「信じられない……」

弓塚が呟く。

「自分を殺そうとしている相手に告白する人がどこにいるの?」

弓塚の紅い瞳から大粒の涙が溢れ出す。

俺は微笑んで返答する。

「だったら、人を殺す時に涙を流す化け物っていると思う?」

「あ……」

涙の水面の下で揺れていた紅い瞳が元の色に戻っていく。

「本当に……志貴くんはずるいんだから」

力が抜けて、倒れてきた弓塚を俺はそっと受け止めた。

「ねぇ、志貴くん。じゃあ一つだけお願いしてもいいかなぁ」

「もちろん。一つと言わずいくつでも」

「一つでいいよ」

弓塚は苦笑して言った。

「私の事、名前で呼んで欲しい」

「それだけ?」

「私にとっては大事な事だよ」

弓塚が少し膨れる。

その仕草がとても可愛くて笑みがこぼれる。

「わかった、じゃあ……」

弓塚を見つめる。

「さつき」

「うん」

眼を閉じて嬉しそうに反芻する弓塚……さつき。

そして、同じようにさつきが返す。

「志貴くん」

俺たちはしばらく見つめ合って、

どちらからとなく唇を合わせた。






























「何だか夢みたい、志貴くんとこんな風になれるなんて」

俺の胸の上に頭を乗せてさつきが言う。

「おかしいよね、私はずっとこうなりたかったのに。
 心のどこかでその願いはきっと叶わないって思ってた」

さつきは俺の服をぎゅっと掴む。

そうしなければ俺が消えてしまうとでも言うように。

その手は酷く震えていた。

「夢じゃない」

さつきの髪を優しく撫でる。

今はただ、さつきが愛しい。

「俺はここにいるから」

「うん……」

目を閉じたさつきの頬に一筋の涙が伝う。

「志貴くん、私こんな身体になっちゃったけど」

さつきが掴んでいた手を放して俺を見つめる。

「今は幸せだよ」

「さつき……」

さつきの瞳に曇りは無かった。

「だから、私行くね」

「え?」

その意味を理解する前にさつきの瞳が紅くなる。

「ぐ――――」

それを見た途端、視界が揺れた。

急速に意識が薄れていく。

「わがままだけど、決着は私が着けたいの」

暗くなっていく視界。

さつきの声だけが俺の耳に届く。

もう、さつきの顔が見えない。

それでも俺は叫ばずにはいられなかった。

「やめろ、さつき――――!!」

さつき一人で戦いに行くなんて無謀でしかない。

さつきはきっとそれがわかってて言っている。

「ありがとう――――」

さつきの声が遠く聞こえる。

「それと、ごめんね」

俺の意識はそこで途切れた。







[996] 最終話 在る理由 前編
Name: アービン
Date: 2006/09/30 04:00






「くああっ……」

堪え難い衝動が私を蝕む。

「やっぱり……眼を使ったのはまずかったかな……」

たまらず私はその場に蹲った。

意識が混濁していく。

「あ……」

目の前に志貴くんがいる。

気を失って、無防備な志貴くんが。

スッテシマエ

私の中で弱い私が囁く。

それはとても甘美な誘惑。

ふらふらと志貴くんに近寄って肩を掴む。

しばらくその首筋を見つめる。

「はあっ、はあっ……」

ゆっくりと私は口を開く。

牙が肉を突き破る。

口の端から血が一筋垂れていった。










「ああ……」

身体の力が抜けて後ろに倒れこむ。

噛み切った唇の傷を拭う。

「よかった……」

止められた。

その事がどれほど私を安堵させてくれたかわからない。

涙が溢れてくる。

相変わらず衝動は身体を蝕んでいる。

気を抜けば一瞬で自分は崩壊するだろう。

それでも……大丈夫だ。

弓塚さつきは堪えられる。

そう思う事が出来た。

涙を拭いて立ち上がる。

ふと志貴くんを見下ろして呟く。

「帰ってきたら、志貴くんの恋人になれるかなぁ?」

言って、くすりと笑う。

「それじゃ、行ってきます」

倉庫の扉を開け放つ。

青く澄んだ月の光が差し込んでくる。

大きく深呼吸をして私は外へ歩きだした。










静まり返った夜の学校に私の足音だけが響く。

吸血鬼の居場所を見つけるのは簡単だった。

さっきから私を呼ぶ声が頭の中でしていて酷くうるさかったから。

今更私を呼んで何がしたいのか知らないけどこっちとしては好都合だ。

「…………!!」

突然、身体が悪寒に襲われた。

――――来る。

肩の震えを手で抑え込んで、廊下の奥の闇を見据えた。

闇の中から悪寒の原因が現れる。

「ようやく観念したか」

それは男のカタチをしていた。

顔は包帯に覆われて見えないが、隙間から覗く眼から狂気が洩れている。

そして何よりもこの男には周りを塗り潰す様な濃い『死』の気配がする。

正直、恐くてたまらない。

だけど――――

「まさか、意地でも貴方になんか屈してやらない。
 私は貴方に従う為にここに来たんじゃない。
 貴方を倒して全てに決着をつける為に来たの」

ここで屈したらそれは弓塚さつきという存在を放棄したという事。

それでは……あまりにも失礼だ。

そんなんじゃあ――――志貴くんに顔向けが出来ない。

「はっ、わかんねぇ奴だな。
 仮にだ……俺を倒せたとして、その後どうする?
 結局お前が化け物だっていう事実は変わらない。
 ならどっちにしろお前は闇の中で生きていくしかない。 
 お前はもう二度と光の下で歩く事など出来ないのだから」

「歩けるよ」

「あ?」

嘲笑いながら言った男に対してきっぱりと言い放つ。

「確かに私もそう思ってた。
 でも私がどんなに深い闇にいても光を照らしてくれる人がいる。
 その人がいる限り私は光に向かって歩いて行ける。
 だから、後はただ……私が闇を振り払うだけ」

「は……」

男の口元が歪んだかと思うと、

「あは、あっーはっはっは……っ!!」

男は狂った様に笑い出した。

「なるほどねぇ……
 それがお前の戦う理由か。
 おもしれぇ――――」

男は心底愉快そうに私を見る。

「いいぜ、そこまで言うのなら少し遊んでやるよ」

言葉と共に押し潰されてしまいそうな程の殺気が放たれる。

逆らうな、と身体が告げる。

逆らえば死ぬと生存本能が危機を訴えている。

――――そんなの知らない。

本能の叫びを押し殺す。

唇を噛み切り、その痛みで身体の硬直を無理やり解く。

――――前に踏み出せ。

床を砕けるぐらい踏みしめて男に飛び掛る。

鋭く伸ばした爪を男に向かって振り下ろした。




















「……っ!!」

目覚めると同時に弾けた様に俺は身体を起こした。

多少眩暈がしたがそんな事はどうでもいい。

辺りを見回す。

わかりきっていた事だがさつきはいなかった。

「わからず屋」

静かに、怒りを込めて呟く。

「幸せ? 違うだろさつき。
 これからじゃないか……
 幸せになるのはこれからだろ!!」

拳を床に叩き付ける。

――――決めた。

そっちがそうするならこっちも意地だ。

「絶対に、嫌だって言っても助けてやる」

決意と共に立ち上がると、俺はさつきの元へと駆け出した。










見慣れているはずの学校は全く異質なものに見えた。

心臓が破裂しそうな程に鼓動している。

走ってきたからではなく、ここの気配に中てられた所為だ。

ここは……やばい。

だがさつきはこんな所で独り戦っている。

なら、迷う余地なんて何処にも無い。

校門をくぐり、俺は校舎の中へ入ろうとした時――――

「来たか、人間」

それは闇が湧き出るかの様に現れた。










「ネロ・カオス……」

俺に恐怖を刻みこんだ存在。

しかしその姿は以前より弱って見えた。

両腕は無く、心なしか身体も少し小さくなった気がする。

なのに……どうしてこうも恐ろしく感じるんだ?

その時、校舎の窓ガラスが一枚割れた。

その音に我に帰る。

そうだ、急がなければさつきが――――

「ふん、中の様子が気になるか」

不愉快そうにネロが言葉を発する。

「先ほど、姫君が中に入って行った。
 弱ったと言っても真祖の姫君。
 蛇ではおそらく敵うまい」

アルクェイドが?

「なぜそれを俺に言うんだ?」

言葉の内容も気になったが、それよりもネロの意図が読めない。

「貴様は私に死の危機をもたらした。
 それを克服する為に私は貴様を殺す。
 本気でない貴様など殺しても意味が無い」

――――感じていた恐怖の原因を理解する。

以前の俺はネロにとって獲物に過ぎなかった。

今は違う。

今のネロは俺を敵として見なしている。

『狩る』のではなく『殺す』

今のネロに慢心は無い。

ポケットからナイフを取り出し、眼鏡を外す。

避けては通れない。

そんな事を考えていては即座に殺される。

「ふっ」

俺を見てネロがかすかに笑う。

「では、行くぞ」

急に辺りが暗くなる。

不審に思って空を見上げると――――

「なっ!?」





百近い数の鴉が号令を待つように並んでいた。





「喰らい尽くせ」

黒い弾丸の様に襲い掛かってくる鴉の群れ。

いや、本物の弾丸の方がまだましかもしれない。

咄嗟に飛び退いてかわす。

かわしても、かわしても追ってくる。

「くっ」

嘴で頭を抉ろうとした鴉をナイフで解体する。

「がっ!!」

その隙に別の鴉が腕を抉る。

「くそっ……」

鴉を振り落とし、再び飛び退く。

ネロが攻撃に使っているのは鴉のみ。

おそらくネロの出す獣で最弱だろう。

一羽なら問題ない。

多くても動きがばらばらなら何とかなるかもしれない。

だがそれが統制されたものだとしたら?

一羽倒せばその隙を突いて攻撃してくる。

迂闊に戦うと、たちまち包囲される。

後はただ、死肉の様についばまれて殺されるだけだ。

統制された群れの恐ろしさ。

『大群』というより『大軍』

俺がどんなものでも殺せるとしても一度に殺せるのは一つのみ。

ネロはその弱点をつき、数と連携で勝負している。

更に本体のネロは一定の間合いを保ち決して俺を近づかせない。

隙が無い。

このままではじわじわと消耗させられて殺される。

「どうする……?」

周りに何も無い校庭ではこちらが圧倒的に不利だ。

どうにかして場所を変える必要がある。

逃げ回りながら少しずつ校舎に近づく。

ネロは俺より校舎に近い位置にいる。

迂回して校舎に入ろうとしてもさせてくれないだろう。

そうは言ってもこのままではどうしようもないのも事実。

なら――――危険を承知で突っ切るしかない。

「むっ?」

意を決して群れが比較的密集していない場所に突っ込む。

「ぐ……!!」

鴉達が容赦なく襲い掛かってくる。

みるみる内に体中に傷が出来る。

痛みに気を取られるな。

足を止めればその時点で死ぬ。

ナイフを振り回しながらひたすら前に進む。

校舎が間近に迫る。

悠長に入り口を探している余裕なんて有りはしない。

勢いそのままに飛び込むと窓を突き破った。

「かはっ――――」

床に叩き付けられて息が詰まる。

身体中にはガラスの破片が突き刺さっている。

「はあっ、はあっ――――」

のんびりしている暇は無い。

急いで立ち上がると窓に向き直る。

予想していた追撃は来ない。

「やばいな……」

ここですぐ追撃が来たのならばらばらに来る所をある程度撃退出来た。

ネロはもっと慎重に、冷静に俺を追い詰めようとしている。

だがわずかに時間は得られた。

「考えろ、奴を倒す方法を」

俺にあの鴉の群れを全て殺しきるのは不可能だ。

勝つのなら本体のネロを直接殺すしかない。

一番問題なのは奴に近づけない事だ。

何とか奴に近づく事さえれば――――

「――――!!」

ガラスの割れる音。

見ると俺からやや離れた窓から鴉が次々と入り込んでいる。

「ちっ……」

鴉の方に向き直った直後に別の方向でガラスの割れる音がした。

「え?」

後ろを見るとさっきと反対の方向の窓から鴉が入り込んでいる。

何て――――迂闊。

鴉の群れがずっと一つにまとまっていたといっても、二手に分かれる事も有り得るのを失念していた。

このままでは前後から挟み撃ちにされる。

「まずい……!!」

周りを見回す。

鴉はまだ襲っては来ない。

十分な数が集まってから一気に突撃させるつもりの様だ。

かと言って挟まれている今の状況で突破するのは難しい。

その時、ある物が目に止まった。

これは――――

「終わりだ、人間」

声がした方に目を向ける。

廊下の奥にネロ・カオスの姿があった。

鴉を突破して走り寄るには遠く、こちらの動きが把握出来る程度には近い間合い。

ただ特攻しても決してその間合いは崩せないだろう。

「ああ――――」

故に俺の勝機は奇襲のみ。

相手の意表をつく、動きが乱れている間に殺す。

だが奇襲には常にリスクがある。

失敗すればそれは死を意味する。

……それでもやるしかない。

「これで決着だ!!」

叫ぶと俺は拳を壁に着いている非常ベルに叩き付けた。

静寂を打ち破る様にベルが鳴り響く。

「ぬっ!?」

ネロが一瞬騒音に気を取られる。

「これでもくらえ!!」

備え付けられていた消火器をネロに向かって投げ付ける。

「むっ」

咄嗟に鴉に迎撃させるネロ。

鋭い鴉の嘴は消火器すら突き破る。

――――俺の思惑通りに。

瞬間、消火器が破裂した。

「何っ!?」

粉塵が辺りに充満する。

一時的に視界が塞がれる。

この状況では何も見えない。

――――俺が視ている『死』以外は。

一気に俺はネロに走り寄る。

「おのれ!!」

ネロが手当たり次第に鴉を襲い掛からせてくる。

出来るだけ身を低くして攻撃に当たらないようにする。

一瞬前にいた場所が砕かれてゆく。

もっと速く。

もっと速く足を動かせ。

ネロに近づく。

後数歩近づけばネロに飛び掛れる。

そう思った直後。

「ぬあああああ――――!!」

雄叫びと共にネロの中心から馬鹿でかい三本の爪が生えた腕が現れる。

「なっ……!?」

ネロが空間ごと俺を薙ぎ払おうとする。

断ち切る――――三本同時には一気に断ち切れない。

前に飛び込む――――まだ懐に飛び込める程近くない。

横に避ける――――廊下の幅では避けられない。

後ろに下がる――――そうすれば鴉の餌食になる。

駄目だ――――かわせない。

終わった。

遠野志貴はネロ・カオスに敗北した。

振るわれる爪は俺をただの肉塊に変えるだろう。

「あ……」

いいのか、それで。

まだやり残した事だってあるのに。

諦めてしまっていいと言うのか。

違う……!! そんなわけない!!

「こんな所で……終わってたまるかぁ!!」

どくん、と心臓が高鳴る。

巻き起こる死の暴風。

振るわれた腕はその風圧だけで粉塵を吹き飛ばした。

凄まじい風圧に俺は『天井』に押し付けられる。

無我夢中だった俺は壁を足場にして跳び、天井に張り付いていた。

「な……に!?」

ネロは驚愕の目で俺を見る。

それがネロの唯一の、

しかし致命的な隙だった。

天井を蹴る。

ネロが俺を迎撃しようとする。

だがそれより一瞬早く――――俺はネロの『極点』を貫いていた。





「ふん……」

ネロの身体が崩れていく。

「油断したわけではない。
 驕りを捨て、策を練った。
 万全の準備までしたというのに」

かすかにネロが笑った気がした。

「それでも……滅ぼされるとは。
 全く――――――――」

すっ、とネロが目を瞑った。

「実に、面白い」

それが……ネロ・カオスの最期の言葉だった。










「はあっ、はあっ、はあっ……」

いつの間にか手が震えていた。

強かった。

間違い無くネロ・カオスは強かった。

もし、もう一度戦ったら確実に俺が負けるだろう。

たまたま奇策が成功して、たまたま足掻いた結果が上手くいっただけ。

生きてるのが不思議なくらいだ。

極限の緊張が解けて床に倒れ込みそうになる。

「まだ……だ……」

まだ本当に倒すべき敵が残っている。

へたりこんでいる時間は無い。

「待ってろ……さつき……」

鉛みたいに重い身体に鞭を打って走り出す。

さっき窓が割れたのは一番上の階だった。

おそらく今戦っている場所はそこだ。

階段を駆け上る。

最上階に近づくにつれて争っている音が聞こえてくる。

取り壊し工事の様な凄まじいその響きに俺の焦りが増していく。

「くそっ!!」

ようやく最後の階段を上りきり廊下に飛び出す。

「――――え?」

目に映ったあまりに予想外な光景に思考が停止する。

そこには――――無表情でアルクェイドに爪を振り下ろしているさつきの姿があった。







[996] 最終話 在る理由 中編
Name: アービン
Date: 2006/09/30 04:01





「なん……で?」

目の前で起こっている事が理解出来ない。

どうしてさつきがアルクェイドを襲っているのか。

「さつき!!」

あらん限りの声で叫ぶ。

「志貴?」

俺の声にアルクェイドだけが反応する。

さつきは全く反応せずにアルクェイドに襲い掛かる。

その差がわずかにアルクェイドの対応を遅くした。

「ちっ!!」

薙ぎ払われたさつきの爪をアルクェイドはぎりぎりで防ぐ。

だが衝撃を完全に殺し切る事は出来ず弾き飛ばされる。

こちらに向かって飛んで来たアルクェイドを反射的にかばう。

「ぐぅ……!!」

それが失策だと気付いたのは衝突してからだった。

人一人を吹き飛ばすだけの力を受け止めるのは容易い事ではない。

結果、俺はアルクェイドもろとも倒れ込んでしまった。

さつきはその隙を見逃さず飛び掛って来ようとして――――

「戻れ」

廊下の奥から聞こえた声に反応して後ろに下がって行った。

「はあっ、はあっ」

アルクェイドが立ち上がる。

ちらりと一瞬見えたその顔は怒りに歪んでいた。

「アルクェイド、さつきはどうなってるんだ」

「支配されているのよ……アイツに」

忌々しげに言うとアルクェイドは廊下の奥を睨み付ける。

「やっと来たか、志貴」

奥から誰かが歩いてくる。

近づくにつれて明らかになるその姿はやはり――――

「シキ……」

俺の呟きを聞いてシキが笑う。

「おお、ちゃんと思い出してるじゃねえか。
 完全に俺を忘れたのかと心配したぞ」

「御託はいい、さつきを解放しろ。
 お前の相手は俺がしてやる」

怒りを押し殺してシキに言い放つ。

「はっ」

俺の言葉にシキはますます笑みを深める。

「随分この女に入れ込んでるじゃねえか、まあ確かに――――」

言葉を切るとシキは傍に控えていたさつきの肩を抱き寄せる。

「いい女だよなあ、こいつ。
 俺に逆らえないはずの身体を無理やり動かして、
 必死で俺に立ち向かってくる姿には涙が出た。
 結局、気を失うまで俺の支配を拒み続けたんだぜ?」

そう言いながら、シキはさつきの首筋に舌を這わす。

さつきは何の反応も見せず、為すがままにされている。

さつきのあんな顔は見た事無い。

感情と言うものが抜け切った顔。

まるでそれは――――人形。

「どうだ、志貴? 自分の大切なものを奪われる気分はよぉ!?」

「て……めぇ――――!!」

押し殺していた怒りが爆発する。

一息で間合いを詰めるとシキにナイフを振るう。

しかし俺の攻撃はシキに届く前に阻まれた。





「さつ……き」

気が付くとさつきがシキの前に立ちはだかりナイフを止めている。

無造作にさつきがその腕を振るう。

呆然としていた俺はただそれだけで弾き飛ばされた。

「がっ!!」

廊下の壁に叩き付けられて肺から息が押し出される。

「くっ、くくく、あは、あっーはっはっは……っ!!」

シキの笑い声が聞こえてくる。

「それだ、その顔が見たかったんだよ!!
 俺を死ぬほどに憎んで、その果てに絶望する顔が!!
 ほんとに最高だ、ここまでした甲斐がある!!」

痙攣した様に身を震わせながらシキは笑い続ける。

「ひっ、ひひひ、なあ志貴?」

突然、シキはぴたりと笑い止むと俺を見る。

「こいつがお前を殺したら最期にお前はどんな顔をするんだろうな?」

「…………!!」

思考が停止する。

「ああ、その考えはとても魅力的だ。
 全く逆らう事が出来ない程に」

シキが何か言っている。

「安心しろよ、こいつは俺が大事に使ってやる。
 ここまで便利な奴は他にいないからな。
 そうだ、お前を殺したら褒美として、
 お前の血を全てこいつにやる事にしよう」

その瞬間俺の中で、

――――ナニカガキレタ

「じゃあな、志貴」

さつきが俺に爪を振り下ろしてくる。

それを間に割り込んできたアルクェイドが阻んだ。

爪が擦れ合い耳障りな音が鳴る。

「志貴」

ちらりと俺を一瞥した後、アルクェイドが続ける。

「私がさつきを抑えておくわ。ロアは志貴に任せる」

そう言うとアルクェイドは腕の力を抜く。

さつきの身体が前に傾くと同時にアルクェイドは腕を掴み勢いを殺さずに後ろへ投げ飛ばした。





「ちっ、あの女いい所で邪魔をしやがって」

シキがまた何か言ってる。

「まあいいか」

そう言うとシキは懐からナイフを取り出す。

「やはり最期の決着は俺とお前でつけるのも悪くない」

ああもう、さっきから――――

「ごちゃごちゃうるさいんだよ」

一閃。

首を狙った一撃はシキが咄嗟に盾にしたナイフを弾き飛ばす。

間髪入れずに追撃する。

しかしそれはシキが大きく飛び退いた為に腕を掠めただけに終わった。

「てめぇ……!!」

シキが射殺す様に俺を睨む。

「お前俺と殺し合いをしたいんだろ?
 なら言葉を並べるなんて無駄な事する必要は無い。
 まあすぐに殺されたいんだったら止めはしないけど」

「……っ!! はっ、そうかよ。
 じゃあ遠慮無く本気でお前をぶち殺してやる」

だから――――そういうのが無駄だって言ってるのに。

シキが走る。

その動きはまさに獣のもので身体能力の差は歴然。

だが俺達の攻撃は互いに一撃が必殺。

まともに入ればそもそも力なんて関係無い。

だから俺はシキの攻撃を捌きながら隙を探せばいい。

俺が死ぬまでシキに隙が無かったらシキの勝ち。

その前にシキに隙が出来れば俺の勝ちだ。

負ける気なんてしない。

――――シキはきっと隙を見せる。

振るわれるシキの爪をかわし、逸らし、弾く。

一撃受ける度に腕が痺れていく。

そんな事をどれだけ繰り返しただろうか。

「ぐ……」

シキの攻撃を正面から受け止めてしまう。

ナイフと爪がぎちりと噛みあい嫌な音を立てる。

こうなると力の差がものを言う。

いい加減手が痺れていた俺ではナイフを支え切れない。

「はあっ!!」

シキが鬩ぎ合いを押し切る。

ナイフが跳ね飛ばされた俺の手から落ちて廊下の端に転がっていった。

「ちっ、手こずらせやがって……
 だがまあ、これでお終いだな志貴。
 得物を失ってはどうしようもあるまい」

「…………」

ナイフの位置を確認する。

俺のナイフは三メートル後方にある。

取りに行けない距離では無いがそれはシキの邪魔が無ければだ。

シキが目の前にいては立ち上がる間も無く殺される。

「これだけ頑張ったなら心おきなく死ねるだろう?」

一方でその事実が今シキを油断させている。

後、一手足りない。

少しだけでもいい、シキが何かに気を取られれば。

「あばよ」

シキが俺を引き裂こうとしたその時――――

何かがガラスを突き破って飛び込んで来た。

「何っ!?」

あれは――――シエル先輩!?

先輩は音も無く着地した後予備動作も無しに細長い剣を投擲する。

「くそっ、どいつもこいつも邪魔を!!」

シキは素早く向き直ると剣を叩き落す。

突然の背後からの攻撃に対してここまで反応したのは驚嘆に値するだろう。

だが――――それは致命的な失敗だ。

この瞬間シキは完全に俺に背を向けていた。

もし俺がナイフを持っていたらシキは絶対にこんな事しなかったに違いない。

ほら、油断した。

得物が無いだって? もっと周りをよく見ろよ。

そんなんだから足元を掬われる。

お前のナイフがすぐ傍に落ちているじゃないか。

素早くナイフを拾うと手近に見えた肩の『線』を断ち切る。

ごとり、と音がして右肩ごとシキの腕が落ちた。

「ぐ、ぎゃああああああ――――!!」

血が噴出てる右肩の切断面を必死に抑えてシキはこちらを向く。

「志貴、貴様……」

「落し物だ、返してやるよ」

そう言いながらシキの右足の『点』にナイフを突き刺す。

「あ、が……このヤロォォォォ――――!!」

苦し紛れにシキが爪で薙いでくる。

そんなもの最早何の恐怖も感じない。

後ろに下がって難なくかわすと自分のナイフを拾い上げる。

右腕と右足を殺されたシキは身体を支えられずに倒れこむ。

そこへ先輩が投擲した剣が残った手足に刺さり動きを封じる。

「くそがぁぁぁぁぁ――――!!」

シキが血を吐く様な叫びを上げる。

これで……止めだ。

そう確信した時、

「……っ!! しまった!!
 志貴危ない、さつきが……!!」

「遠野君!!」

切羽詰ったアルクェイドと先輩の声が聞こえた。

直後に、背中に衝撃が走る。

「ご……ほっ」

床に強く身体を打ち付ける。

口の中から血が溢れ出す。

最後の最後でしくじった。

背後をおろそかにしていたのは俺も同じだった。

「ごふっ!! き、キサマ……」

……? 何だ今のは?

朦朧となりかけた意識を何とか取り戻し顔を上げる。

目に映った光景に呼吸を忘れる。

「支配が……解け……」

「オマエダケハ……」

さつきが――――シキの胸を貫いている。

さつきは何の表情も浮かべていない。

ただ……眼だけが、他のものを何一つ捉えずにシキのみを見ていて――――

「オマエダケハユルサナイ」





――――周りを凍りつかせる程の狂気を放っていた――――





その言葉が処刑の合図だった。

さつきが爪をシキに突き刺す。

それを引き抜いては突き刺し、突き刺しては引き抜くを繰り返す。

その速さは視認する事すら難しい。

シキと言う存在が原形を失うまで一分もかからなかった。

「ハアッ、ハアッ、ハアッ」

さつきが立ち上がる。

その足元には肉塊が蠢いている。

信じられない事にそれはまだ生きていた。

もっとも、死んだ方がよほどましだったのだろうが。

「ハアッ――――」

さつきは何かに集中している。

悪寒がする。

気が付けば喉がカラカラに渇いていた。

この感じは、まさか――――

「やめろさつき、それだけはよせ!!」

「よしなさい弓塚さん、取り返しの付かない事になりますよ!!」

しかし俺達の制止の声は遅すぎた。

「ア、アアアアァァァ――――――――」

さつきの叫び声と共に空間が歪み、

――――世界が塗り替えられた――――

どこまでも続く砂漠に、紅い空。

漂う砂塵は辺りを『死』の気配で満たし、

舞い散る木の葉は『生』を枯らし尽くす。

全てが渇ききった、『枯渇』した世界。

「――――、――――」

肉塊が這って逃げようとする。

それは本能的な行動。

誰もが『死』に抱く恐怖。

しかしこの世界の主はそれを許しはしない。

無言でさつきは指を指す。

それで終わり。

木の葉が肉塊を覆い尽くし、

シキと言う存在はこの世界の砂となった。










「はあっ、はあっ……」

さつきの荒い息遣いのみが場に響く。

誰もが何も言えない。

「はあっ、はあっ、はあっ……」

さつきは先程までの狂気は無くなり何かに堪えているような様相をしている。

それが俺の嫌な予感を生む。

「さつき」

意を決して俺は話しかける。

「これで全て終わったんだ。もう結界を止めてくれ」

「出来……ない」

「え?」

苦しげにさつきが答える。

「止まらない、閉じる事が……出来ない」

がくがくとさつきの身体が震えだす。

「しっかりしろ、さつき!!」

「来ない……で、もう……抑えきれない!!」

さつきが搾り出すような声で駆け寄ろうとする俺を制止する。

それがさつきの限界だった。

「駄目、身体が弾けて……!!」

「さつき!!」

「いけません、遠野君!!」

先輩が俺を無理やり抱えて力の限り跳ぶ。

瞬間、さつきの周りから溢れ出るように木の葉が現れた。










かろうじて俺達は木の葉から逃れる事に成功した。

「くそっ、どうなってるんだ!?」

現れた木の葉はさつきの周りに渦巻いている。

今までとは違う、近づくもの全てを無差別に枯らそうとする。

「暴走している……」

アルクェイドが呟く。

「正直、自分の眼を疑うわ。
 さつきはまだ吸血鬼になりきってすらいない。
 それで固有結界を展開するなんてでたらめもいい所よ。
 強大な力は同時に自分も滅ぼす危険性を孕んでいる。
 このままじゃあ――――さつきが負荷に耐え切れない」

さつきが……死ぬ?

「冗談じゃない!!」

そんなの認められるか。

木の葉の渦に踏み込もうとした俺を先輩が止める。

「落ち着いてください遠野君!!
 あの中に踏み込めば私やアルクェイドでもただでは済みません。
 遠野君が入ろうとしても何も出来ずに無駄死にするだけです!!」

「じゃあこのまま見ていろって言うのかよ!?」

「……これは彼女が自分で招いた末路です」

「…………っ!!」

駄目だ、これ以上先輩に言ってもしょうがない。

「アルクェイド!! 何か方法は無いのか!?」

「…………」

俺の問いにアルクェイドは押し黙ったまま何も喋らない。

「アルクェイド!!」

「…………あるわ、一つだけ」

静かに、アルクェイドは言った。

「固有結界は術者の心象風景を具現化したもの。
 故に固有結界と術者の精神は密接な関係がある。
 固有結界が暴走すると精神も乱れる。
 逆に精神が安定すると固有結界も安定する。
 要はさつきが正気に戻れば暴走は収まるって事」

顔を険しくしてアルクェイドは続ける。

「私が力を使えばさつきまでの道をこじ開けられる。
 けど、相当強引な力技になるから長くはもたない。
 もって数分、多分それよりもっと短いと思う。
 そのわずかな時間で志貴がさつきを正気に戻す。
 チャンスは一度だけ、失敗したら死ぬわ」

俺の眼をまっすぐ見つめるとアルクェイドは問う。

「どう? それでも志貴はやる?」

「当たり前だ」

迷う必要なんて無い。

可能性があれば命を賭ける理由として十分すぎる。

「そう……わかったわ」

俺の答えに満足したのかアルクェイドが笑う。

「アルクェイド……なんて事を言うんです!?
 死徒を助ける為に本来無関係な人を危険に晒す気ですか!!」

「そうね、普通に考えたらこんなやり方馬鹿げてる。
 被害を拡げたくないなら私が固有結界を破壊すればいい。
 固有結界内で部分的干渉を維持するよりその方がよほど簡単よ。
 暴走状態の固有結界を破壊されたさつきは負荷で死ぬけどね。
 少ない犠牲で確実。現実的に考えたらそれが最善の選択。
 だけどそんな終わり方、志貴は望んではいないし――――」

アルクェイドがかすかに笑う。

「――――私だって望んでない」

「アル……クェイド」

先輩が信じられないものを見た様な顔をする。

「私が合図をしたら走って。頼んだわよ志貴」

「わかった、任せろ」

アルクェイドが呼吸を止める。

アルクェイドの周りの景色が揺らぐ。

揺らぎは徐々に大きくなり前に広がっていく。

揺らぎが木の葉に到達したその時。

空間に波紋が広がり、木の葉の渦が二つに割れた。

「行って、志貴!!」

その声と同時に俺は全力で疾走する。

段々と狭まる道を駆け抜けていく。

「……さつき!!」

渦の中心、わずかに開けた場所に蹲っているさつきが見えた。

結界の負荷の影響か身体中から血を流している。

さつきの傍に近づこうとして、

「……つ、ああ!!」

灼け付きそうな渇きを感じた。

それと伴って襲う急激な脱力感。

どさり、と音がした。

「は、あ……」

それが自分が倒れた音だと遅れて気付く。

「さつ……き……」

地を這ってさつきに手を伸ばす。

指先がほんの少し、さつきに触れた。

何かが流れ込んで来る。

(サムイ、クルシイ、イタイ――――)

これは……さつきの心?

(サビシイ、ワタシヲミテ、コワイ、ワタシヲミナイデ――――)

混在する様々な感情が俺の頭を掻き回す。

(サビシイ、カワク、カレル、カレハテル――――)

――――タスケテ、ヒトリハイヤ――――

ぽたり、と手に冷たい感触が垂れる。

ようやく俺はさつきは泣いている事がわかった。

その眼は虚ろで、その涙はまるでさつきから潤いが抜け落ちているみたいだった。

「まった……く、馬鹿だろ」

そんなに辛いのに、そんなに助けて欲しかったのに。

どうして心を押し殺そうとするんだ。

よろよろと身体を起こす。

手を伸ばしてさつきの肩を掴む。

べっとりと手にさつきの血がついて紅くなる。

そんなの全く気にならない。

さつきを引き寄せると躊躇無く抱き締めた。

「あ……」

そこで初めてさつきが俺に気付き身じろぎをする。

そんなさつきを俺は固く抱き締める。

「もう、いいんださつき」

彼女をもう離してしまわない様に、

「もう全部自分で抱え込んでしまう必要も、辛い時に独りで泣く必要も無い」

彼女が独りぼっちにならない様に、

「辛い事は俺が一緒に背負う。泣きたくなったら俺の胸を貸してやる」

彼女に寂しい想いをさせない様に、

「ピンチになったら――――」

彼女がもう一度本当に――――

「――――きっと、俺がさつきを助けてみせるから」

――――心から笑う事が出来る様に。

「いい……の……?」

さつきの声は震えていた。

「ああ」

おずおずとさつきが俺の背中に腕を回す。

ゆっくりとさつきの力が抜けて俺に身体を預けてくる。

渇きが無くなる。

薄れていく結界が消える直前、緑に満ちた美しい庭園が視えた気がした。







[996] 最終話 在る理由 後編
Name: アービン
Date: 2006/10/01 01:30





「やったわね、志貴」

こちらに向かってアルクェイドが歩いてくる。

「ん、ああ、ありがとうアルクェイド」

見られている事に気付くと急に恥ずかしくなってひとまず抱き締めるのをやめようとした。

「え?」

その試みはさつきが腕に力を入れた事によって止められる。

「もうちょっと……このままでいさせて」

それはその……ものすごく嬉しいんだけど。

さすがに思いっきり人の目の前では恥ずかしい。

アルクェイドに眼で救いを求める。

「いいんじゃないの? さつきが自分から甘える事なんて今まで無かったし」

それは……確かにそうなんだけど。

「残念ですが、こちらも仕事ですのでそう言う訳にはいきません」

機械みたいに感情の無い声がした。

「先……輩?」

いつの間にか先輩が近くに立っている。

両手に剣を握り、さつきに背筋が震える程の殺意を向けて。

「何のつもりかしら? シエル」

アルクェイドが先輩を睨み付ける。

「私の仕事は吸血鬼を殺す事。ただそれだけです」

「さつきは正確には半分人間よ。
 今代のロアを倒した以上吸血衝動も弱くなる。
 吸血行為の必要が無いから放っておいていいと思うけど」

「冗談にしても笑えませんね。
 貴女もさっき彼女が使った固有結界を見たでしょう?
 あんなものを使う死徒を放っておける訳ありません」

「それは……」

アルクェイドが口ごもる。

二人にはあれがどれほど規格外なのかわかるのだろう。

「大体、わかりませんね。
 貴女は死徒を狩る事が使命なのでしょう?
 何でそこまで彼女に肩入れするんです?」

びくり、とアルクェイドが身体を震わせる。

「そんなの簡単だろ」

見ていられなくなって俺は口を挟む。

「遠野君?」

「アルクェイドはさつきの友達なんだ。
 友達が困ったら力を貸すのは当然じゃないか」

「友達……? 笑わせてくれますね」

先輩がアルクェイドを冷たい眼で見る。

「貴女に彼女の何がわかると言うのですか」

ぎり、とアルクェイドが歯軋りをする。

「……わからないわよ」

身を切る様な声でアルクェイドが呟く。

「ええ、その通りよ!! 私はさつきの事何もわからないわよ!!
 さつきの事詳しく知らないし、気持ちも理解してやれない!!
 でもね……だからこそ――――」

真っ直ぐ先輩の眼を見返すとアルクェイドは言い切る。

「これからさつきの事をわかっていきたいのよ!!
 さつきに手を出すのなら私は容赦しない。
 私と完全に敵対する事を覚悟しなさい」

「…………」

先輩は険しい顔でアルクェイドを見つめている。

「先輩……俺は先輩とは戦いたくない。
 でもどうしても先輩が退かないんだったら……やる」

張り詰めた沈黙が場を満たす。

不意に俺の背中に回されていた腕が離れる。

「さつき?」

さつきは立ち上がると先輩と向かい合う。

「シエル先輩……私の犯した罪は決して消えないのはわかっています」

先輩は何も言わない。

さつきは続ける。

「けど、こんな私でも大切に思ってくれる人がいると気付いたんです。
 だから……私は死にません。いえ、死ねません。
 身勝手だと責められても、一生闇を抱えなければいけなくても、
 それでも私は――――前を向いて生きて行きます」

淡々と語られたはずのその言葉は心に深く響く。

目の前にいるのは自分の罪深さに怯えていた少女ではない。

その道の困難さを理解し、彼女はそれでも生きて行くと決意した。

「はあ――――」

いきなり先輩が溜息をつく。

「何なんですかこの雰囲気は。
 これじゃあまるっきり私が悪役じゃないですか。
 わかりました、わかりましたよ」

降参です、と言う風に先輩は手を上げる。

「貴方達を下手に突っついたら藪蛇になりそうです。
 それでしわ寄せが私に来たらたまりません」

苦笑してそう言った先輩は真面目な顔に戻ると、

「ですがこれだけは言っておきます。
 弓塚さん、もし貴女が闇に堕ちたのなら。
 その時は私が貴女を必ず殺します」

はっきりとさつきに告げた。

「はい……」

神妙な顔つきでさつきは頷く。

「やれやれ、余計な仕事が増えましたね」

ぶつぶつ呟きながら先輩は歩いていく。

「はあ――――」

緊張の糸が切れてさつきがその場にへたりこむ。

「こ、怖かった……」

そりゃそうだろう、関係ない俺でも先輩の殺気は怖かった。

向けられた当人のさつきは生きた心地がしなかっただろう。

「とりあえずこれで終わったの……かな?」

「ああ」

そう、これで終わり。

眼鏡をかける。

「終わったんだ。帰ろうさつき」

俺はさつきに手を差し伸べる。

「うん……あれ?」

微笑んでいたさつきが不思議そうな顔をする。

いつまでたってもさつきは俺の手を取ろうとしない。

「どうしたの?」

アルクェイドが動こうとしないさつきに怪訝な顔をする。

「え……? あれ? あれ?」

肩だけを揺らしてさつきは不自然に動く。

その腕はだらりと垂れ下がったままだ。

何か――――様子がおかしい。

「え、この感じは……」

突然、アルクェイドが顔を強張らせる。

「そんな、まさか……」

後ろから声がして振り向くと同様の顔をした先輩がいた。

嫌な予感が加速的に膨らむ。

「さつき、一体どうしたんだ!?」

「おか……しいの。感覚がちゃんとあるのに手足が動かない」

「……馬鹿なっ!?」

先輩の叫びはまるで悲鳴だった。

さつきの身体の動きが止まる。

「な……に、これ?
 わ、わたしが……わたしが染まる……
 あ、あああああああぁぁぁぁぁ――――」

「さつき!? しっかりしろ!!」

発狂したみたいに絶叫するさつきに必死で声をかける。

その直後、がくんと頭を垂らしさつきが黙る。

「さつ……き?」

「く、くく……」

ゆっくりと頭を上げるさつき。

その瞳が俺を捉えたのと俺が後ろに引っ張られたのは同時だった。

顔に風が吹き付けられる。

そこで初めてさつきが爪を振るっていた事に気付く。

アルクェイドが俺を引き寄せてくれなかったら頭が吹き飛んでた。

「悪趣味にも程があるわよ」

アルクェイドが憎悪の篭った視線をさつきに叩き付ける。

いや、あれは――――

「く、くははははははは!!
 素晴らしい、ついに見つけた!!
 私にふさわしい最高の器を!!」

――――さつきじゃない?

「なぜ、そこにいるのです」

先輩が怒りに震えながら問い詰める。

「答えなさい、ロアァ――――!!」

ロア?

ロアはシキだからもう死んだはずじゃ……

いや、そもそもシキにロアがいたのは――――

――――『転生』したからだ。

じゃあ、今さつきの中に……ロアがいる?

「なぜ、か。確かに本来私は自分が決めた身体にしか移れない。
 それを可能にしたのはこの身体の特異性によるものだ」

自分の胸に手を当てるさつき……いや、ロア。

「これは例えるなら、無色の器。
 注がれた中身に応じてその性質を変えるもの。
 故に私の血を受けたこの身体は最も私に相応しいものとなった。
 高い適性。加えてこの素晴らしいポテンシャル。
 これこそ、私が求めていた理想の肉体だ」

邪悪な笑みを浮かべるロア。

あれはさつきじゃない。

あんな邪悪な笑い方をさつきはしたりしない。

憎悪が掻き立てられる。

「エレイシア、君も非常に優れていたが……
 これはそれ以上だよ……実に私は幸運だ」

「黙れ」

放たれた先輩の言葉に俺は冷水を浴びせられた気分になる。

先輩が――――怒っている。

俺と同じかそれ以上に。

「もう、その声で喋るな。
 その顔でそんな笑みをするな」

今まで常に平静を保とうとした先輩が、

「彼女をこれ以上穢すなあぁぁぁ――――!!」

我を忘れる程激昂していた。

先輩が構える動作も無くロアに剣を投げ付ける。

「ふん、つまらんな」

「なっ!?」

いつの間にかロアは先輩の背後に現れていた。

「くっ!?」

「――――」

振り向いた先輩の胸に手を当てロアが何か呟く。

瞬間、眩い閃光が走り雷が落ちた様な轟音がした。

声も無く先輩が崩れ落ちる。

「先輩!!」

先輩に駆け寄る。

傷をみてその酷さに息を呑む。

先輩は上半身のほとんどがぼろぼろに焼け焦げていた。

「ふむ、魔術の具合に問題は無い様だ。
 それにしても情けないなエレイシア。
 調整で使った魔術程度で倒れてしまうなんて。
 まあ仕方無いか、それが力の差というものだ」

嘲笑いながらロアはアルクェイドを見る。

「さて、姫君。貴女にはこの程度では失礼極まりない。
 そこで私のとっておきを披露させてもらうとしよう」

「……っ!!」

空間が歪む。

これは――――

「魔術の限界は肉体にある」

唐突にロアが喋りだす。

「無限の魔力を得るすべはあってもその魔力を用いるすべは無い。
 脆弱な人間の肉体は膨大な魔力の負荷には耐えられない。
 それは死徒になったとしても結局大して変わらない」

ロアの指に光が灯り、それが蛍みたいに辺りへ飛んでいく。

「ならばこれをいかにして解決するか?
 人間の身体でも大魔術の構築自体は十分に可能だ。
 問題はそれに魔力を込める場所として人間は狭すぎるという事。
 私が辿り着いた解答は実にシンプルなものだよ――――」

空間の歪みが元に戻る。

一見した所何も変わっていない。

なのに同じ場所だとは思えない。

空間が息が詰まる程何かに満たされている感覚。

「もっと広い場所を用意してそこで魔力を込めればよいのだ。
 具体的に言うのならば魔力を込める為の世界を創ればよい。
 そうすれば――――いくらでも過負荷をかける事が可能だ」

ロアが指を軽く鳴らす。

網膜に光が焼き付けられる。

視界が真っ白に塗り潰されていた。

「ああぁ――――!!」

手で眼を覆う。

そうしてさえ光を感じる。

聴覚が幾重にも重なった放電音を捉える。

「では名残惜しいがこれで終わりだ」

轟音が響き渡る。

吹き寄せる風が焼ける様に熱い。

ひしひしと詰め寄って来る死の影。

だがそれが俺を捕らえる事は無かった。

風が弱まり音が止む。

恐る恐る手をのけて周りを見る。

廊下は半ば溶解しかかっていた。

窓は跡形も無くなり壁も形を失いかけている。

この惨劇の中でどうして俺が生き残れたのか。

答えは一つしかない。

「アルクェイド……」

目の前でアルクェイドがうつ伏せに倒れていた。

かろうじて生きてはいる様だがその気配は酷く弱々しい。

「は、ははははは!!」

ロアの笑いが木霊する。

「流石だよ姫君、あれを喰らってまだ生きていられるとは!!
 しかしそこまでだろう。これ以上耐える事は出来まい」

再びロアが光を創り出そうとする。

「やめろ!!」

「今度こそ終わり――――」

その時、アルクェイドの指先がかすかに動いた。

同時に空間に波紋が広がる。

一瞬、陽炎の様に景色が揺らいだ。

「ぐっ……」

ロアが呻き声を出して膝をつく。

「ふん、最後の悪足掻きか。
 魔力の集中した瞬間を狙って固有結界に干渉するとは。
 残念だったな、この程度では結界をこわせな――――」

いきなりロアが言葉を切る。

「お、おのれ……逆らおうと言うのか。
 愚かな、貴様は……もう……
 がっ、ぐあああ――――!!」

叫び声を上げてロアは身を震わせる。

空間に満ちていたものが消えていく。

心臓を鷲掴みにされているみたいな殺気も無くなった。

「はあっ、はあっ……志貴、く……ん」

ロアじゃない、

「さつき!? 元に戻れたのか!?」

「志貴……くん。私は……これで限界」

「え?」

苦しそうにしながら、さつきは切れ切れに言葉を紡ぐ。

「私……頑張ったよ? 必死で……抑え込んで……
 何とか……志貴くんと話す事が……出来た。
 でも……もう……これで本当に……限界なの」

「……そうか」

さつきが言いたい事はわかった。

「じゃあ、助けないとな」

「え……?」

さつきに近づいてそっと髪を撫でる。

「言っただろ――――」

俺は絶対にさつきを助けると決めたんだ。

「――――ピンチになったら、俺がきっと助けてみせるって」

「あ……」

さつきの眼から涙が零れ落ちる。

「志貴くん……私……」

さつきの瞳に浮かんでいるのは迷い、そして不安。

その言葉を口にする事への躊躇い。

それでもさつきは嗚咽をもらしながら、涙声で、

「私を……助けて……」

小さく、だが確かに助けを求めた。

なら俺も応えなくてはならない。

「ああ、必ず助ける」

眼鏡を外す。





「さつきが死ぬしかないのなら――――
 ――――そんな運命(モノ)、俺が殺してやる」





かつて、先生がこの眼鏡をくれた時の言葉を思い出す。

「君は個人が保有する能力の中でもひどく特異な能力を持ってしまった。
 けど、それが君に有るという事は何かしらの意味が有るという事なの。
 神様は何の意味も無く力を分けない。
 君の未来にはその力が必要になる時があるからこそその直死の眼があるとも言える」

ああ先生、確かにそうだった。

今、きっとこの瞬間の為にこの眼は在るのだと思う。

こんな眼が無ければ、と何度思ったかわからない。

それでも……今はこの眼があった事に感謝している。

――――大切な人を救う事が出来るのだから。

さつきは見える『線』がとても少ない。

眼を凝らして『点』を見極める。

要はさつきの中にいるロアの『点』を衝けばいい。

「ぐっ……」

神経が焼き切れそうになる。

限界を超えている事なんてわかっている。

もう少し……もう少しもってくれ。

さつきの身体の『点』が視えた。

どれだ? どれがロアの『点』だ?

感じ取れ、わずかな『死』の違いまで理解しろ。

「あ、あああ――――!!」

さつきの悲鳴が上がる。

もう俺もさつきもこれ以上もたない。

くそっ、どれなんだ!?

ぎしぎしと脳が軋む。

まだ、だ――――

「愚か……者が、死ねぇ――――!!」

ロアの爪が俺に振り下ろされる。

その声を聞いた瞬間、一つの『点』が蠢いた。

「そこだあぁ――――!!」

ナイフを振るう。

だがロアの方が速い。

ロアの爪が俺を引きさ――――

「何!?」

飛んで来た剣がロアの爪を弾く。

「遠野君……の、邪魔は……させ……ませ……ん」

「おのれぇ――――!!」

その直後、俺のナイフが確かにロアの『点』を貫いた。





「キッ、キキ、キサ、マ―――――」

ロアは俺を巻き込んで倒れる。

「消絵、消江る、ワタ、、、シが、キエ、留――――」

血走った目でずるずると倒れた俺の体にのしかかってくる。

「ナにヲ、ナニヲ、シタ―――キエル、ナゼ、ドウ、ヤッ、テ、
 ワタ死を、殺シ、シし死し死、たた、たたタたたタた――――」

鋭い牙の生えた口を開けて、俺の首筋に噛み付こうとする。

「消エ・ナイ、ワタしとオマエは、繋ガッて、いい、ル。
 オマ、エニ、移レバ、マ、ダ、存在ノ鎖ハ、切れナイ………!」 

その言葉とは裏腹に口を開けた状態でロアはそれ以上動かない。

「な、なナ菜名なゼぜぜダだダだだだ!!」

「ロア、お前は――――」

そんな事もわからないのか。

「――――俺達を甘く見過ぎたんだ」

「き、キきキきき気鬼、消江絵ル!!
 あ、アああアアあ亜唖――――!!」

今、ここで、ミハイル・ロア・バルダムヨォンは消え失せた。

倒れこんで来たさつきを最後の力を振り絞って受け止める。

意識が遠くなっていく。

――――なあさつき、俺、今度こそ約束守れたよな?







[996] エピローグ 夕映えの月
Name: アービン
Date: 2006/10/05 02:01






「志貴様、朝です。お目覚めください」

聞き慣れた声が穏やかに俺を目覚めさせる。

「ん……」

ゆっくりと眼を開く。

「ふあぁ……おはよう、翡翠」

「え……?」

翡翠が少し驚いた顔をしている。

「どうしたの翡翠? 眼鏡貸して欲しいんだけど」

「あ、はい……」

なぜか慌てながら翡翠が俺に眼鏡を渡す。

渡された眼鏡を掛けると俺は大きく伸びをした。

「……それでは朝食の支度をいたします。
 着替えが済み次第、食堂にいらしてください」

一礼すると翡翠は部屋から出て行った。

心なしかその後ろ姿が落ち込んでいる様に見えた。

「何だろ……? 今日はちゃんと起きれたよな?」

時計を確認する。

時刻は六時半。

昨日翡翠に頼んだ通りの、いつもより少し早い時間だった。

この日が来た事がとても嬉しい。

今日から――――さつきが学校に復帰する。










「おはようございます、今日は珍しく早いのですね兄さん」

居間に入るなり俺を出迎えたのは、どこか棘のある秋葉の言葉だった。

「おはよう秋葉。秋葉もこれから朝食か?」

「いいえ、私はつい先程済ませた所です。
 兄さんも早く食堂に行ったらどうですか?」

……気のせいか秋葉がますます不機嫌になった気がする。

どうやら何かまずい事を言ってしまったみたいだ。

「あ、ああ、そうさせて貰うよ」

これ以上秋葉の機嫌を損ねる前に食堂に行こう。





朝食を済ます。

少し時間に余裕があったので秋葉に付き合ってお茶を飲む事にした。

「全く、いつもこれくらいは余裕を持って欲しいのですけど」

相変わらず秋葉は小言を言うものの大分機嫌は治った様だった。

しばらくして静かに秋葉がカップを置くと立ち上がる。

「兄さん、私は時間ですのでお先に失礼します」

「あ、俺もそろそろ行くよ。
 せっかくだし入り口まで一緒に行こう」

そう言って俺もお茶を飲み干して立ち上がる。

そんな俺を見て秋葉が微妙な顔をする。

「まあ……いいですけど」

「どうかしたのか?」

「いえ、何でもありません。
 兄さん、早く行きましょう」





翡翠から鞄を貰って俺達は外に出る。

翡翠、まだ落ち込んでいた気がするのだが大丈夫だろうか?

かすかに「使用人として……能力が……不足」とか聞こえたし。

翡翠に不満は特に無いのだけど。

いろいろ考えていると目の前に車が来て止まる。

これに乗って秋葉はいつも登校しているのか。

すごいな……いかにも高級車ですと言った感じだ。

俺がこれに乗って登校する事が無くてよかった。

運転手が出て来て音も無く後部ドアを開く。

「兄さん」

秋葉が車に乗り込んだ後、

「彼女に会ったら伝えてください。
 私の兄は非常に朝がだらしないので、
 待ち合わせをするならうちに来て貰って構いません。
 私自身も一度貴女と二人で話をしてみたい、と」

真面目な顔をしてそんな事を言ってくれました。

「へ?」

俺が呆気に取られている内にドアが閉められ車は出て行った。

「えっ……と」

ちょっと頭が混乱している。

「とっくにばれてたって事?」

俺がさつきと待ち合わせしているのが。

……よく考えたら俺こんな時間に起きたの初めてだな。

さつきの復学の事は話したから結構ばればれだったかもしれない。

「まあ、とりあえず行くか」

きっとさつきはもう待ってるだろうし。










「おはよう、志貴くん」

坂道で待っていたさつきは俺を見つけると笑顔で挨拶する。

「おはようさつき、待った?」

「ううん、私も今来た所」

「そうか、それは良かった。じゃあ行こうか」

「うん」

――――あれから一週間が経つ。





アルクェイドは俺達が気付いた時には既にいなかった。

酷く消耗した力を回復させる為に自分の住処に戻ったらしい。

「きっと、帰ってくるから……」

アルクェイドはそう言い残したと先輩は教えてくれた。

ちゃんと約束したんだ。

あいつはいつか必ずここに帰って来るに違いない。





先輩は今も変わらずこの町に残っている。

本人はさつきの監視する為と言っているが……

それにしては随分と世話を焼いてくれていると思う。

「別に……彼女の歩みがどこまで続けられるのか。
 私はそれを少し見てみたいと思っただけです」

一度その事を尋ねてみたらそんな風に先輩は答えてくれた。





そしてさつきはこの一週間、太陽光に慣れる訓練をしていた。

その結果、ある程度は日中でも動く事が出来る様になった。

その後、決心して家に帰ったさつきは親に全てを打ち明けた。

そんなさつきを彼女の親は優しく抱き締めたと言う。

ようやく――――さつきに日常が戻って来たのだ。










何気ない会話をさつきと交わす事がとても嬉しく感じる。

「あ、そう言えば秋葉がさつきに遠慮せずに屋敷に来ていい、って」

何気なしに秋葉の話を切り出す。

「え? う、うん……それは……まあそのうちに」

さつきは曖昧に言葉を濁す。

さつきと秋葉の関係は複雑だ。

どちらも嫌っているわけでは無いと思う。

おそらくお互いが相手に対して後ろめたく感じている。

だからどうしても態度がよそよそしくなってしまうのだろう。

「なあさつき、秋葉はさつきを恨んでないよ。
 さつきだって秋葉を恨んでなんかいないだろ?
 秋葉もさつきと話し合いたいって言ってる。
 一回、うちに来てちゃんと話してみないか?」

「う……ん……そうだね」

しばらくさつきは悩んでいたが、

「いつまでも後ろ向きな考えはよくないよね。
 わかった、一度秋葉さんと話してみる」

決心してさつきは頷いてくれた。

「よし、秋葉に伝えておくよ」

俺はさつきと秋葉は意外と相性がいいんじゃないかと思う。

きっと、仲良くなれるだろう。










学校に着いて教室の前まで来た。

さつきが職員室で少し手続きをしてたのでやや遅めの時間だ。

大体の生徒はもう教室に入っているのか廊下にあまり人はいない。

ドアの前でさつきが一度大きく深呼吸をする。

静かにドアを開ける。

「おはよ――――『お帰り、さつき!!』」

開けた瞬間に待ち構えていた女子生徒達が声を揃えてさつきを迎えた。

「え、ちょっ……わっ!!」

たちまちさつきは囲まれてもみくちゃにされる。

「もう大丈夫なの? 元気になった?」

「このぉ……心配したんだから!!」

「やっぱさっちんがいないと盛り上がらないって」

「ちょっと、さつきが困ってるじゃないの」

「いいの!! 散々私達を心配させた罰よ!!」





「すごいな……」

改めてさつきの人望の高さを実感する。

休んでいた所為でクラスに馴染めないという心配は杞憂だった。

「おはようございます、遠野君」

「こら遠野、自分だけ後ろからこっそり入りやがって。
 無関係を決め込もうとしてもそうはさせないぜ」

席に着くと先輩と有彦がこっちにやって来た。

「おはよう先輩。有彦、いつもながらお前の言う事は意味不明だ」

「はははっ、とぼけるんじゃねえよ!!」

笑って、有彦はばしばしと背中を叩く。

その後、肩に手を回されて有彦に頭を引き寄せられる。

「で、どうなんだよ?」

「何が?」

「決まってるじゃねえか。お前と弓塚の関係について訊いてんだよ」

有彦の言葉に俺は内心動揺した。

俺とさつきの関係って言うと多分恋人と言っても差し支え無い。

だがそんな事こいつに話すと無駄に話が大きくなる事は明白だ。

「別に……関係って言われても普通だよ。
 たまたま今日は一緒に教室に来たけど」

「ほおー? 普通……ねえ?」

有彦が意地の悪そうな笑みを浮かべる。

「あのなあ、そんなわけねえだろうが。
 あの弓塚とお前が仲良く登校してる事態普通じゃない」

「それは考えすぎだ。お前が単に面白くしたいだけだろ」

有彦の言う事は大分こじつけが入っている。

けどそれがやけに的を射ているから始末が悪い。

ふと隣にいる先輩を見ると何か妙にいい笑顔だった。

……先輩、まさか話していませんよね?

少し不安になる。

「まあ否定はしないけどな。本当に弓塚と何も無いのか?」

「だからそうだって言ってるだろ、さっきから」

「ふーん」

ニヤニヤしながら有彦は視線を先輩に向ける。

「こいつこんな事言ってますよ先輩?
 聞いていた話と違うんですけど?」

顔色が変わったのが自分でもわかった。

「せ、先輩、話したんですか!?」

「へえ? じゃあ先輩は知ってるんだ?
 それなのに俺には隠すなんて冷たいな遠野」

「あ……」

やられた。

会心の笑みを浮かべた有彦を見て嵌められた事に気付く。

くっ、さっき先輩を見た時に動揺を見せてしまったか。

「はあ、駄目ですよ遠野君。
 下手にごまかそうとするから裏目に出るんです」

先輩がくすくすと笑う。

「私は訊かれたら嘘はつきませんよ。
 遠野君が言って欲しくない事でも」

先輩、それは脅しって言うんです。

「もう一度だけ訊こうか遠野。お前と弓塚の関係は?」

勝ち誇った表情で有彦が訊いてくる。

非常に癪に触るがもう隠し様が無い。

「……お前の思っている通りだよ」

「ああ? それじゃあわからねえよ。
 ちゃんとお前の口から言ってくれ」

こいつ、絶対わかってて言ってやがる。

「ああもう……付き合っているって事だよ!!」

「はははっ、そうかそうか!!」

大笑いする有彦。

俺は有彦をぶん殴りたくなる衝動を必死で抑えた。

「しっかし、まさかお前と弓塚とはねぇ……」

有彦はなぜか感慨深げに俺の顔を見る。

「あんだけ疑って置いてよく言う」

「そりゃ今日の弓塚を見りゃ誰でもわかるさ。
 俺が言いたいのはそうなるとは思わなかったって事だよ」

急に有彦が笑うのを止めて真面目な顔になる。

「前に俺はお前に弓塚はやめとけって言っただろ」

「そんな事言ったか?」

俺の言葉を聞いて有彦は呆れた顔をする。

「ったく。人の忠告はちゃんと憶えとけよな。
 弓塚はああ見えても内気で一途だ。
 お前みたいにぼんやりしてる奴とは相性が悪すぎる。
 深入りすると危ないからやめとけって言ったんだ。
 まあ、今となっては俺が間違っていたみたいだが」

それを聞いて俺は驚く。

有彦の言葉は弓塚さつきと言う人物を的確に捉えたものだった。

「いや、お前の言った事は確かに正しいよ。
 でもな、一つ言うのなら――――」

さつきの事を考える。

さつきに関わって危ない目に遭ったのは事実だ。

でもだからと言ってさつきを好きになった事を後悔なんてしない。

「俺だってさつきの恋人やっているんだ。
 さつきがそういう性格しているのはわかってる。
 だからさつきが無茶しそうになったら俺が止める。
 そうすれば、何も問題なんか無いだろ?」

「は」

有彦が一瞬何か呆気に取られた表情をして、

「は、ははははははは!!」

直後に思いっきり爆笑した。

「ははは、すげぇこれは本物だよ!! 手の施しようが無い!!」

「きゃー、そんな事言うなんてダイタンですね遠野君!!」

腹を抱えて笑い続ける有彦とその隣で何か舞い上がっている先輩を見て自分の言った事の恥ずかしさに気付く。

「……っ!! うるさい少し黙れ」

顔が赤くなるのが自分でもはっきりとわかった。

「ははははは!! ……やれやれ」

ようやく有彦の笑いが止まる。

「変わったなお前、いや弓塚もか。
 前みたいな危うさが無くなった。
 どうやらもう大丈夫みたいだな」

「有彦……お前」

もしかして心配してくれたのか。

わかりにくいがこれはこいつなりの気遣いなのかもしれない。

そう思ったその時、有彦がニヤリと笑った。

「じゃあ遠野、勇者のお前に一ついい事を教えてやろう」

何だろう、酷く嫌な予感がする。

「さっきお前が大声出した時から周りがずっと聞き耳たててるぞ」

瞬間、俺は凍り付いた。

――――うそだ。

そんなそれじゃあおれはあんなはずかしいことをみんなにきかれたのかそんなわけないだろきっとうそにちがいないそうさまちがいなくかんちがいにきまってる。

混乱しかけた思考を何とか纏める。

――――大丈夫だ、落ち着け志貴。

まずよく見て、そのあとによく考える。

そんな教えを、今までずっと守ってきたじゃないか。

オーケー大丈夫落ち着いた。

俺は壊れかけた機械みたいにぎこちなく周りを見回す。

思い切り見られていた。

と言うか俺が視線を向けても眼を逸らす事すらしてくれない。

さつきの周りにいた女子でさえこちらを好奇心全快で見ている。

いや、一人だけ俺を見ていない人がいる。

「し、シキクン……」

……さつきだった。

焦点が定まらない眼で何かをぶつぶつと呟いてる。

湯気が出そうな程赤くなってる壊れかけのさつきを見て理解する。

ああ、もう駄目だこりゃ。

かくして俺はさつきに続いて囲まれる事になった。

もみくちゃにされる中俺は後で有彦に八つ当たりする事を固く決意した。




















「つ、疲れた……」

今日の感想はそれに尽きる。

あの後俺とさつきは休み時間になる度に散々質問攻めに遭った。

その癖放課後の今はみんなさっさと帰って周りに誰もいない。

気配りだとしたら何か逆に腹が立つ。

そんな俺を見てさつきが笑う。

「そうだね、でも――――楽しかった」

本当に嬉しそうなさつき。

その笑顔を見ていると他の事はどうでもよくなった。

「そう――――だな」

慌しくも平和な日常。

それが送れる事は幸せに違いない。

……まあ、ここまで慌しいのは流石に勘弁して欲しいが。

「帰ろう、志貴くん」

「ああ」

二人で夕焼けの道を歩いて行く。

感傷に浸っているのかさつきの口数が少なくなる。

沈黙が多くなるがそれは決して嫌なものでは無い。

俺にとってこの夕焼けの帰り道がさつきとの始まり。

また……さつきと一緒に帰る事が出来て本当によかった。

そんな事を考えているとさつきがいきなり俺にもたれかかってきた。

「さつき?」

「ごめん、少しよろけちゃった」

心なしか少しさつきの顔色が悪く見えた。

はっとする。

「さつき、もしかして日光が……」

「うん、ちょっと日差しを浴びすぎたかもしれない。
 でも大した事ないからじっとしてればすぐ治るよ」

もっと早く気付くべきだった。

さつきは夕方に最も不安定な状態になると先輩に教わったのに。

「志貴くん、そんな顔しないで。
 確かに夕日は少し身体に応えるけど――――」

さつきは鼓動を聞く様に俺の胸に頭を寄せる。

「それより志貴くんとまた夕焼けを見れた事の方がずっと嬉しい」

さつきの言葉に俺は何も言えなかった。

「ん、もう大丈夫。ありがとう志貴く――――」

離れようとしたさつきを俺は答える代わりに抱き締める。

さつきは少し驚いたみたいだが抵抗はしなかった。

「あんまり……無茶をするなよ。
 さつきは何でもすぐ独りで抱え込もうとするから」

「……他の人ならともかく志貴くんがそれを言う?
 私に言わせれば志貴くんの方がよっぽど無茶してるよ」

「あはは、じゃあお互い様って事で。お互いに気を付けよう」

「くすっ、そうだね」

笑って、さつきは俺に身体を預けてくる。

「時々ね、不安になるんだ」

ぽつりとさつきが呟く。

「あの時シエル先輩に言った事は嘘じゃない。
 私を大切にしてくれる人達に報いる為にも、
 私は精一杯生きていくって決めた、ただ……」

さつきが俺の胸に顔を埋める。

「私、いろいろな人に助けてもらって今も生きている。
 でも私はそれに見合うほどちゃんとしているのかな……って。
 どうしようもなく不安になる時があるの」

さつきのずっと抱いていたであろう悩み。

それにどう答えるべきか迷う。

肯定するのは簡単だ。

だがきっと本当の答えはさつきにしか出せないのだと思う。

だから俺が言うべき事は答えを示す事じゃない。

さつきを少し強く抱き締める。

「それは俺にはわからない。でも悩みを聞く事は出来る。
 辛かったら誰かに話すだけでも楽になるんじゃないか?
 俺はいつでも傍にいるから……ゆっくり考えていけばいい」

「志貴……くん」

さつきが俺の眼を真っ直ぐ見た。

視線が交錯する。

お互いの鼓動が共有される。

俺を見つめるさつきの瞳が静かに閉じられた。

そして――――「やっほ――――!!」





突如聞こえた誰かの大声が雰囲気をぶち壊した。

「…………!!」

出せる限界の速さで咄嗟に離れる俺達。

俺は声のした方を睨み付けた。

「「え?」」

俺とさつきの声が重なる。

見覚えの有る姿がこちらに向かって走って来た。

「あれ? 反応ないなぁ?
 まさか私の事忘れたとか言わないわよね?」

「「…………」」

何も言えない俺達。

「ちょっと!! 本当に忘れちゃったの?」

「あ、あ、あ……」

「あ?」

「アルクェイド!! 何でここにいるんだよ!?
 お前、帰ったんじゃなかったのか!?」

困惑と怒りを込めて俺は大声で叫んだ。

「いったぁ――――そんな大きな声で言わなくてもいいじゃない。
 だからもう力が戻ったから帰って来たのよ。
 シエルにわざわざ伝言頼んだのに志貴、聞いてないの?」

それは聞いた、聞いたけどあれは――――

「このばか女!! それならもっと普通の伝言にしろよ!!
 あれの所為で俺とさつきがどれだけ心配したと思ってる!?」

あの言い回しは二度と会えない事を危惧させるものだぞ。

「む、何よ志貴。おとなしく聞いていれば文句ばかり言って!!
 せっかく帰って来た私を暖かく迎えるとか出来ないの!?」

俺とアルクェイドは睨み合う。

「ぷ……」

突然、黙って見ていたさつきが吹き出す。

「あはは、あははははは!!」

「「あ……」」

おかしそうに、さつきが本当に心の底から笑っていた。

「ほら、あんまり怒っちゃ駄目だよ志貴くん。
 アルクェイドさんはちゃんと帰って来てくれたんだから。
 とりあえず細かい事は抜きにしよう?」

さつきは満面の笑みを浮かべてアルクェイドに話しかける。

「お帰り、アルクェイドさん」

「……うん、ただいま」

少し恥ずかしそうにアルクェイドが笑う。

「じゃあ、行こっか?」

唐突にアルクェイドがそんな事を言い出す。

「は?」

「もう、約束したじゃない!! また三人でカラオケに行くって」

「いいね、私も久し振りに思いっきり歌いたい気分」

すぐに意気投合した二人の視線が俺に向けられる。

もちろん俺だって断る理由は無い。

「ああ、行こう」

「決定!! 今度こそさつきより上手く歌って見せるから!!」

そう言ってアルクェイドは駆け出す。

「やれやれ」

俺は苦笑する。

きっと俺達はこれからこんな騒がしい日常を繰り返すのだろう。

ああ全く――――望む所だ。

大切な仲間が、そして最愛の人がいる。

これでその日常が楽しくならないはずがない。

「行こう、さつき」

「うん!!」

夕焼けに美しく映える彼女の笑顔に――――





――――もう、翳りなんてどこにも無い。





――――Fin――――







[996] 後書き
Name: アービン
Date: 2006/10/05 01:50
ここまで読んでくれた方、いくら感謝してもしきれません。
さて誘宵月、一年以上もかかってようやく完結させる事が出来ました。
正直な話、一時期これ本当に終わらせられるのかと不安でした。
それでもここまでやれたのは偏に感想を送ってくれた方々のおかげです。
本当に皆様、ありがとうございました!!


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