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[9101] 運命に 流れ流され 辿り着き(風の聖痕)
Name: 酒好き27号◆3e94cc3d ID:6939b0d4
Date: 2009/10/03 23:05


 自分という存在が、はたして本当に自分なのだろうか。

 幼さゆえに言語化ができなくとも、そういった漠然とした不安に襲われたのは3歳のころだった。

 自分はもしかして他人と記憶を共有しているのではないか。

 体験していないはずの記憶に翻弄されるたびに、理不尽にも突発的に襲い来る記憶を憎んだのは8歳のころだった。

 自分の記憶は、前世の記憶というものではないだろうか。

 無才であるがゆえに知識を求め、力を求めた日々。己の記憶をそう評価したのは10歳のころだった。

 そして今、俺は自分が自分であるための歯車が、カチリと噛み合う音を聞いた。

 風と炎の紡ぐ物語。その中に入り込んだ自分という異物。

 __まさかこんな役どころかよ……

 己を焼く炎に包まれ、数秒後にも大地に倒れ込もうとする己を見つめながらも、彼は不思議なほど穏やかな苦笑をこぼした。





 『運命に 流れ流され 辿り着き』





 幼いころから彼、神凪道哉(かんなぎみちや)は奇妙な目で見られていた。

 年齢に不釣り合いな知識を持っていたりするくせに、肝心の知識に対する理解がまるで足りていなかったり、一般常識を大人顔負けに心得ているかと思いきや、妙なところで周りとの食い違いを見せたりしていた。

 周りの大人がどこでそういった知識を得たのかと聞いても、本人の記憶が混乱しているのか一度たりともまともな答えを返せたことがないらしい。

 そういった妙なことを除けば、彼はいたって優秀で学業も武道もかなりのものだと聞く。

 彼女にとって神凪道哉という少年は、噂話と一度の邂逅だけの接点しかないにもかかわらず、少しの興味とちょっとした憧れ抱かせられた年上の男の子だった。




 そして、まだ幼さが多分に残る顔つきをした彼女が少年と二度目の邂逅を果たすのは、嘲笑と悪意が満ちる屋敷の庭先だった。




 大神操がその場面に居合わせたのは偶然というにはあまりにも出来すぎたタイミングであったと言っても過言ではない。

 分家でも有数の炎を持つ大神家において、自由にできる時間というものはまだまだ子供である彼女にとってあまりに少ないといえる。

 本来であったなら休日であるその日も朝から習い事や勉強の予定が入っており、その時間は外部から招かれた教師とともに広大な神凪邸の遠く離れた部屋にいたはずだった。


 その日、生真面目な彼女にしては珍しく自室に忘れ物をしてしまう。


 優等生ともいえる彼女の申し訳なさそうな顔に対して教師役のその男はひとつ頷くと、特に小言を言うこともなく自室に忘れ物を取りに行くよう促した。

 神凪の屋敷は広い。とてつもなく広い。

 それは常識であるから、普通の子供ならばゆっくりと歩いて退屈な習い事の時間を減らしてやろうかと考えるだろう。

 しかし彼女はもちろんそのようなことはせず、小走りで自室まで向かった。今時珍しいけなげな子供である。



 庭に面した廊下に出たとき、彼女は見た。

 分家の子供、燃え盛る炎、嘲笑、火傷、悪意

 少女に怯えを感じさせるには十分すぎるほどに醜悪なその光景の中に、炎を受けながらもうっすらと気の光をまとった少年が、そびえたつ巌を思わせるようにまっすぐと立っていた。










「すごいですね、どうしてそんなことをしっていらっしゃるのですか?」

 眼を輝かせながら幼き自分は彼を見る。

 偶然会った宗家の少年。本来ならば平伏すべき相手は、幼いがゆえに遠慮のない少女に向けてどこか嬉しそうな眼をしながら、楽しいことをたくさん話してくれた。

 セピアがかったその思い出は、交わした会話のほとんどを忘却の彼方に追いやってしまっていたが、最後のやりとりだけは今も心に焼き付いている。


___自分でも、よくわからないんだ。


「それでもみちやさまは、まわりのひととはどこかちがいます。すごいとおもいます」


 自分の無邪気な言葉に対して少年はどこか遠くを見るように、こう呟いたのだった。


___そう?でも僕は凄くなくてもいいから、普通に生まれたかったのかもしれないね。


 自分のことなのに、どこか他人のことを語るようだった少年の横顔が、彼女の心には夕焼けとともに今もなお焼き付いている。







「生意気なんだよ!!」

 その言葉で操は我に帰った。

 視線の先には少年の後ろ姿と今まさに炎を放たんとする分家の子供。

「炎を使えないくせに!!」

 何人もいる分家の子供たちが口々に言う言葉は操にとって新事実とも言えるもので、しかし意外に動揺をもたらすものではなかった。

 ゆっくりと膝から崩れ落ちるように倒れる少年を見て、操はとっさに走りだす。

 彼女は怖かった。目の前に広がる空間が果てしなく怖かった。

 だが、倒れ伏す少年を見て全てが頭から吹き飛び、気づいたら少年をかばうように分家の子供たちと向き合っていた。

「なんだよお前は!」

 先頭の男の子から発せられた怒声に、気の強い方ではない操はビクリと体を震わせた。

 涙がこぼれそうになる、膝は震えている、それでも彼女は前を見て言い放った。



「こんなの……こんなの酷すぎます」



 言ってしまったな。と操はぼんやりと思った。

 これでこの場の悪意が自分へと向くのだろうか。それとも諦めてどこかに行ってくれるのだろうか。

 恐怖にうちふるえながらも視線だけは逸らさない操は、かすれていながらもどこか笑いを含んだ声を背中に聞いた。




___ヤバい、惚れそうだ。あの場面の気持ちがわかるとは思わなかった。





「え?」「何をしている!!!」

 すでに気を失ったと思っていた少年の声に彼女が振り向いた瞬間、庭に怒声が響き渡った。

 そして顕現する莫大な熱量。炎術の最高峰と言われる黄金の輝きが操と分家の子供を分断するように燃え盛った。

 蜘蛛の子を散らすように逃げる子供たち。

 皆一様に青ざめた顔をしてあまりにも違い過ぎる宗家の炎から一歩でも遠ざかろうと小さな足を動かしていた。


「道哉!道哉!大丈夫か!」

「よぉ和麻……少しばかり眠い」


 やっぱりかすれた声で少年は駆け付けた双子の弟に笑いかけた。

 命にかかわる重症、早期に心霊治療を施さなければ命にかかわる火傷を負いながらも、少年はどこか気楽そうに笑った。


「寝るな!寝たら死ぬぞ!」

「それは雪山だろ……」

「そんなことはどうでもいい!寝るなよ!ただでさえ気が尽きかけてるんだから制御を止めるんじゃないぞ!今から人を呼んでくるからな!」

「声がでかい」


 目の前で繰り広げられる漫才にも似たやりとりと、先ほどまでの状況のギャップに操は呆然としていたが、駆け寄ってきた和麻に声を掛けられたために驚きつつも精神の再構築を果たした。


「道哉を見ておいてくれ、頼む」

「あ……はい、わかりました」


 軽く微笑んで走り出した和麻の後姿を一瞥し、彼女は道哉へと向きなおった。

 その姿は間近で見ると痛々しく、先ほどの恐怖が鮮やかに蘇る。


「ごめんな」


 道哉は顔を青ざめさせた操に対して、さきほどの和麻とよく似た微笑を浮かべていた。

「これがきっかけでいじめられたりしたら和麻にでも言ってくれ、きっと力になってくれるから」

 違う、そんなことを言いたいわけではない。

「どうせさっきので誰もこの辺りには誰も近付かないだろうから大丈夫」

 こんな状況でも弱い自分を心配してくれる道哉に、操は己の情けなさから涙が浮かぶ。

 それを見て少し慌てたようにいろいろな言葉をかけてくれる道哉に、首を振ることで返答する。



 __違う、違う、違う。そんなことを言いたいわけじゃない。そんな言葉を聞きたいんじゃない。



 内気な自分に悔しさを感じながら、それでも声が出せない操は行動に出た。

 道哉の隣に腰をおろし、頭をそっと持ち上げて自分の膝の上に。

 ちょっと慌てたような気配に今までの恐怖が少し緩んだのを感じながら、両手に気を纏わせる。

 目の前の少年の噂に比べれば、果てしなく稚拙であろう行為。気を使用した簡易的なヒーリングをもって、操はそっと少年の火傷した頬に触れた。

 全身にわたる火傷に打撲痕。全くと言っていいほど意味のないであろう行為。


 でも、確かに彼は無邪気に笑ってくれた。


 一瞬が永遠になったような錯覚。そのなかで、彼女は確かに彼の声を聞いた。








____ありがとう。





 その言葉に、彼女はやっと笑みを浮かべることが出来たのである。




05/26 初稿
05/27 名前の間違いを修正
08/23 チラ裏よりその他版へ移動 よろしくお願いします




[9101] 第2話
Name: 酒好き27号◆3e94cc3d ID:6939b0d4
Date: 2009/05/26 23:57

 燃え盛る炎。

 幼いころから渇望したもの。

 何度泣いただろう、何度叫んだだろう。

 漠然と存在する『違う知識』がささやく。


___炎が価値観のすべて?おかしいよそんなの。


 幼い自分が叫ぶ。


___それでも、ここではそれが全てなんだ!


 人目もはばからず彼は泣いて、わめいて、声よ枯れろとばかりに叫ぶ。

 普段の彼からは想像できない行為。それもこれは夢だと理解しているが故。


___大丈夫。


 聞き覚えのある声。誰のものかわからない声。

 全てをまかせたくなるような、そんな安心感をもたらす声が響く。


___悲しいことも、苦しいこともこれからいっぱいあるけれど。


 辛い、苦しい。諦めよう。諦めてしまえ。そうすれば全てを受け流せる。


___運命というものがあるならば、風は俺たちを愛してくれているはずだから。


 運命なんて認めない。この努力が、この嘆きが、この渇望が、流した血と汗と涙の全てが『決まっていたこと』なんて認めない。

 決まっているならば、そこに存在するのは道筋をなぞるだけの機械にすぎない。

 この意志が、決して運命などに負けてやらぬと叫ぶこの意志が、己の裡以外から生まれたものだなんて決して認めない!



 震え立つような怒りが体に満ちる。

 涙などとっくに乾き、握った拳は血を流し、弱き意志は鋼を纏う。


___運命が嫌いかい?


 笑いを含んだ声が聞く。幼いはずの自分は、今の自分へと変わっていた。


「ああ、大嫌いだ」


 自分も笑っている。世界に挑戦状を叩きつけるように。産声をあげるように大嫌いだと言い放つ。


___流石俺だ。


「当たり前だろ」


 目の前には冴えない大学生。お気楽に生き、自堕落に過ごし、死ぬほどの苦労なんてしたことのない男。


___俺とお前は別人格だなんて思ってるか?


 まさか。あの頃の軟弱な俺じゃあそんな顔は出来ない。





___では始めよう。
   運命に抗い、障害を叩き潰し、大切だと思った奴は死ぬ気で守れ。
   主役は俺だ。はばかることはない。さんざん楽しんだ後に、笑いながら老衰で死んでやろうじゃないか。




 『俺』が差し出してきた手をとる。

 流れ込む欠けた記憶。母の顔は?父の顔は?兄弟はいたのだろうか。虫食いに似た欠落。

 こぼしてしまった大切だったはずのもの。たった数秒、それを悼む。

 少し、不安になった。俺は何なんだろうか。

 自分が虚構であるかのような不安が鋼になったはずの意識を侵食する。




 物語【風の聖痕】




___我、思うがゆえに我あり。


 唐突にそんなことを嘯いた目の前の男に対して、しばし呆然としたあとニヤリと笑って言ってやる。



「なんださっきから、そういう言い回しが好きになるお年頃か?」


 奴の苦虫を大量に噛み潰したような顔を見ながら、歯車の噛み合う音を聞き、俺たちは『俺』になった。
 








 炎に包まれながらの覚醒。どうやら軽く意識を失っていたらしい。

 痛み?熱さ?そんなものとっくの昔に麻痺している。

 先ほどまで感じていた狂おしいまでの憎悪や怒りは消えてはいない。

 諦めでごまかしたもの、目をそらした感情、すべて飲み込んで大地に立つ。

 気の量は十分、手足はまだ動く、決意は胸に。

 よし、死ぬ気で鍛錬したあげく天才だなんて言われた体術を見せてやろう。

 炎の祝福を受けた神凪一族。一人捕まえて盾にすれば十分だ…!



 気付かれぬよう拳を握る。

 骨の数本は覚悟してもらおうじゃないか。何か言われたって宗家の権力見せてやろう。

 さんざん殴ったらそれでチャラだ。ヘドロのように心の奥底にたまった怒りも俺の裡に収めてやろう。




 お前たちのおかげで、俺は、俺になれたんだ。




 十分に力を貯めた筋肉、掌に食い込むほど握られた拳。今まさに襲いかかろうとしている道哉は、ふと自らの境遇に気づき苦笑いを浮かべた。


「にしても、まさかこんな役どころかよ……」





 彼にとって、力尽きたように倒れたのは作戦の一つだった。

 とどめとして放出されるであろう炎を目くらましにして気を使い炎を飛び越し、着地と同時に対応されるより早く数人を殴り倒してから、人間を盾に使って戦いを有利に進めようとしたのである。

 もう立てないほどに消耗した落ちこぼれにとどめを刺すのに、誰が警戒心を抱くだろうか。

 体術や気の扱いに優れるとされている自分が、相手に接近できる唯一のチャンス。


___手負いの猛獣ほど怖いものはないだろう?


 一瞬の差が生死を分ける場において、しかし彼はあまりにも高い集中力を発揮していたために背後から駆け込んできた少女気付かず、目にした瞬間に不覚にも意識を奪われた。

 己と相手の力量の差を考えずに飛び込むことは愚かである。

 ましてやそれが何の作戦も存在しない行為だとしたらなおさらである。

 だが、その姿に見惚れた。

 話したことは一度だけ。けれど、争いを好まない内気な少女であることは見かけた訓練の様子で知っていた。

 原作でのエピソード。

 主人公は何の抵抗もできずに追い込まれ瀕死。

 だが、自分は諦めていたけれど半端に抵抗をした。

 頭に血が上った子供ほど考えなしなものはなく、美しかった庭は一部が焼けただれ、美しく敷き詰められた砂利は荒果て、自分は炎との連携で殴られもした。

 来ないと思った。凄惨な場面だ。大人でも二の足を踏む。

 原作の数行程度のエピソードが無くなる。その程度だと思っていた。


 小さな背中。

 震える身体。

 蚊の鳴くような声。

「こんなの……こんなの酷すぎます」


 精一杯背筋を伸ばし自分の前に立ちはだかるその背中を見て、まぶしいと、美しいと思ったのだった。

 思わずくつくつと喉を鳴らす。


___ヤバい、惚れそうだ。あの場面の気持ちがわかるとは思わなかった。


 無意識にそう呟いてから、全力で自分のロリコン疑惑を取り消す。

 やっとのことで場違いな思考を切り捨てたところで、目の前に考えるのも馬鹿らしい力の炎が顕現した。

 兄弟を妬んだこともあった。今はそうでもない。

 飛び掛かる一瞬前の状態を維持していたせいか気の量が危ない。我ながら情けない、これで勝つつもりでいたなんて。

 和麻は人を呼びに走っていく。

 残された操を見れば青い顔をしている。それはそうだろう、小さな子には少しばかり刺激が強い光景だ。

 不安を和らげるために頑張って話しかける。あ、涙目。

___小さい女の子の扱い方なんて知らねーよ!あれ?とすると前世に妹はいないに違いない。

 そんな益体もないことが頭をめぐる。

 操は懸命に頭を振る。

 違うと否定するかのように。自分を叱咤するように懸命に。

 膝枕をされた時は、流石の道哉といえども激しい動揺に長年で培われたポーカーフェイスが崩れかけた。


 不意に、頬に暖かな感触。

 とっくに麻痺が治り、全身の苦痛に苛まれた中に感じた一筋の光。

 不埒なことを考えて動揺していた自分がどこかおかしくて、彼は思わず笑みをもらす。





「ありがとう」





 思わず出た言葉は、どうやら正解だったらしい。

 花が咲いたような笑みを見せる操がまぶしくて、道哉は少しだけ目を細めるのだった。





[9101] 第3話
Name: 酒好き27号◆3e94cc3d ID:6939b0d4
Date: 2009/05/29 04:41


 鋭い呼吸音

 板張りの床を蹴る音

 空気を裂いて振るわれる拳

 振り回された鈍器のような音を立てながら通過していく蹴り

 ギャラリーなんて一人も存在しない道場において、鏡に写したようにそっくりな2人が舞踏を踊る。

 小手先の技術なんて通じない。
 炎を持たぬがゆえに、その体術を妬まれた。彼にとって卑怯な手などすでに既知。

 気の量が違う。
 どれほど体をいじめたのだろうか、道場で倒れていたのを発見されたこともある。

 技術が違う。
 天才などと言われていたが、日ごろの修練においてどれだけ技を盗み、どれだけ反復し、どれだけ考えを巡らせたのか。

 心が違う。
 日頃から怪我が多いとは思っていた。信じたくはなかった。兄が死にかけたあの日。初めて実際に現場を押さえたが、あれほどの暴力にどれだけ耐えてきたのだろう。


 神凪和麻は兄を思う。

 兄は強い。

 生半可な使い手では相手にならぬほどの体術。

 兄は弱い。

 浄化の力を持つ神凪一族。その宗家に生まれてなお欠片も使えぬ炎。

 兄は賢い。

 幼いころから大人顔負けの立ち振る舞いをし、妖魔の特質や相対した敵に応じた戦術、古代の術の知識などを貪欲に吸収している。

 兄は愚かだ。

 例の事件の後、分家どもが俺がいないときにお礼参りに来たらしいが、全員を殴り倒して骨の2,3本も折ってやったらしい。

 神凪家での立場が悪くなるばかりか有数の実力を持つ分家の長までが数人敵に回っただろう。やられたガキも怪我が治り、ほとぼりが冷めたころに来るだろう。体術しかない兄に次の勝利はあり得ない。

 幼い頃は共にいた。引き離されたのはいつだったか。

 煉は道哉とはめったに会うことがない。

 和麻は双子だからこそ技を盗めるだろうと炎術以外でよく組まされる。

 双子とは言え自分とは何もかもが違う道哉を見ることは、和麻にとって兄との距離を感じさせるものであった。

 そのような感傷は致命的な隙となり和麻に牙をむく。

 強化された床に穴をあけそうなほどに踏みしめられた軸足

 一片の躊躇もなしに頭部を狙う蹴り足



 込められた気の量____防御不能。

 多数の布石を用いて巧みに崩された体勢____回避不能。

 今まで30分以上にわたって殴り合った疲労____耐久不能。

 それ見たことかと言わんばかりににやけた口もと____遠慮不要。



 長い長い打ち合いの末、後頭部に砲弾のような蹴りを食らった和麻が意識を刈り取られ、倒れがけの頭突きが股間に直撃した道哉が15分にわたって悶絶することとなる。









「何が悪かった?」

 意識を取り戻した和麻は開口一番に悔しさをにじませながら兄に聞いた。

「しばらく自分で考えてろ」

 対する道哉はふてくされた様子で顔をそむける。

 彼は、ともすればうずくまりそうになる腹筋を強靭な背筋で抑えつけながら股間の痛みと闘っていた。

 思わず和麻が笑みを浮かべかけるが、次の瞬間自らの股間手前で寸止めされた足を見、慌ててまじめな顔を作った。


「あー、ごめん」

「お前男のくせに腹いせで股間狙うとか何考えてやがる……」

 軽く口元を引きつらせながら必死に余裕そうな表情を作っている道哉を見ながら、和麻は兄に知られぬよう心中で感嘆の声を上げた。

 可能な限り予備動作を削った攻撃、自然に立ち方を改めたと思ったらいつの間にか整えられている姿勢。

 一つの極みともいえる無拍子には遠く及ばないものの、十分に通用する体さばきである。

 深呼吸を繰り返し、激しい動きで再発した何とも言えない痛みを押さえているという間抜けな姿を見ながら、和麻はまた一つ兄との距離を感じていた。

 大きくため息をつくように深呼吸を切り上げた道哉は、ガリガリと頭をかきむしりながら弟に向き直る。


「全く、相変わらずの負けず嫌いだな」

「双子なのに負け続きなんて俺のプライドが許さない」

 そういやって笑った彼の言葉は、実際には道哉のものでもある。


 なぜ俺は弟のように炎が使えない。

 なぜ俺は兄に比べこんなにも心身ともに弱い。

 なぜ俺には弟のような才能がない。

 なぜ俺は兄に近づけない。


 ここで注意しておきたいのは、彼らの兄弟仲は実に良好だということだ。

 主に道哉が原因だが、双子であるにも関わらず圧倒的に中身が違う二人は、外見の差異の少なさからお互いに無いものを羨まずにはいられない。

 もしかしたら自分も持っていたはずのもの。

 目の前にあり、自分の手に入りそうに見えても決して手に入らぬもの。

 実に危うい関係の上に成り立つこの双子は、それでもやはりお互いを尊んで切磋琢磨出来る仲のいい兄弟なのであった。

「和麻」

 脳裏に重くのしかかる何とも言えない気分を振り払って道哉は弟に指導を与える。

「神凪で使われる体術ってのは炎術が前提だ」

「そりゃそうだろ」

 何を今さら。とでも言いたげな和麻を「少し黙ってろ」と注意して道哉は話を進める。


「炎術の最大の特徴は何だ?そう、力だ。

 炎術師は他の系統の精霊術師と比べ圧倒的なエネルギーを持っている。

 炎術師の家系に生まれた奴は大抵気においても恵まれている奴が多くてな、一撃一撃が必殺と言ってもいいほどに高められる系統なわけだ」


 ほー。とばかりに和麻は興味深げに聞いている。前半は耳にたこができるほど聞きなれているが、後半の気については初耳だった。


「お前自分の属する系統の特徴くらい知っておけよ……。

 それでだな、うちの家系の武術は一撃の重みに比重を置いてる。莫大な気と圧倒的な炎を纏う体術なんて近づいたら一瞬で消し炭だな」


 ま、それでも体術に重きを置く奴なんていないが。と、道哉は心の中で呟いた。

 気や体術と言ったものは圧倒的な炎の加護をもつ神凪家の術者にとって、生半可なものでは補助にもならない。

 そんなものを極めようとするよりも炎を適当に鍛えていれば並みの妖魔なら一撃で葬れるのだから。

 そんなことを思っている兄に気づかず、和麻は「へぇ~」とでも言いたげな顔をしてうなずいている。


「でもな、お前いくら一撃一撃が必殺だからと言っても全部を必殺にしてどうするよ。

 一撃一撃は確かに重いがコントロールが稚拙すぎる。それも炎術師の特性ではあるが、克服しておくに損はない。
 布石、フェイント、本命、全力、様子見もろもろを使い分けてこそ流れができる。

 一発ごとに必要以上の力がこもってるから流れも途切れるし、隙もできやすい。もっと精進だな」


 そう言って締めくくると納得したようにコクコクと頷く和麻を見て、今日はおしまいとばかりに息をつく。

「和麻」

 と、嫌な声が聞こえた。

「はい、何でしょうか父上」

 かすかに緊張しているような和麻の声がどこか遠い。

「炎術の修練の時間だ」

 何の温かみもない父親の声。何も感じ無くなったと思っていたが、違うのだろうか。

 心がざわめく。制御できない感情。

「わかりました」

 和麻の了承の声を聞いて、父、神凪厳馬は道哉に一瞥も与えずに立ち去った。

 いつものことだろうに、和麻が軽く眉をひそめて道哉を見つめた。



___そんなにひどい顔してるかね。



 実際には道哉の表情に何の感情も浮かんではいないのだが、双子の直感か、和麻は兄に違和感を感じとった。

「ほら、早くいかないと小言をもらうぜ」

 なるべく気楽そうな声を出して和麻を促す。

 いつもと同じようで違う道哉の様子に不審を抱きながらも、和麻は小言をもらうのは嫌なのかそそくさと道場を出ていった。






「ちっきしょうめ……!」

 道場にただひとりとなった道哉が絞り出すように声をもらす。

 あの事件のおかげで、半端に混ざり合っていた前世と今世の道哉は完全に一つとなった。

 だが、転生の影響かあくまで主体は道哉である。

 厳馬が実は情に厚く、子のことを考えているという知識はある。

 それでも、普段の行いからその片鱗も見つけることが出来ないのもまた事実。

 愛されなかった幼少時代。トラウマに近いそれは【風の聖痕】の知識を得たためにかすかな期待を持ってしまったがゆえに、今まで以上に道哉を苦しめる。

 風術を習得できていないことも彼をじわじわと追い詰める。

 人知れず風の精霊を感じようともしている。だが全くと言っていいほど成果が出ない。



___お前は八神和麻じゃない。



 悲観的になった心がつぶやく。

 あの物語で契約者となったのは自分ではない。こんな世界に属さないような異端ではない。

「………」

 ギリリと奥歯をかみしめて涙をこらえる。

 まだ全力を尽くしてはいない。まだ余力が残っている。この程度でくじけるな。楽しむと決めただろう、笑って死ぬと決めただろう。

 壁に背を預け、ズルズルと座り込む。

 絶望とは、希望が見えた後に叩き落された方がダメージが大きい。

 深呼吸をする。ひとつ、ふたつ、みっつ。


 よし、これでいつもの俺だ。

 心に仮面をかぶって前を向く。廊下から近づいてくる足音がする。





 そこに、大神操の姿があった。





___悲しいのですか?


 ひび割れて欠けた仮面。その隙間から本心がのぞく。

「わからないよ」

 この子に対するとどうしても優しげな口調になってしまう。

 緊張しているわけでもないだろうに。

 軽い自嘲とともにうつむいていた道哉は、不意に抱きしめられた自分を自覚した。

「心が弱った人は、抱きしめてあげるといいそうですよ?」

 耳元でささやかれる声。

 冷たい床、女の子のぬくもり。

 あの事件から数年。顔を合わせることなんてほとんどなかった。

 避けていたわけではない、宗家で落ちこぼれの男と分家の有力者である大神の娘との間には純粋に接点がなかっただけだ。

 何を聞くわけでもなく、何を言うわけでもない時間がゆっくりと流れる。

 荒れ狂っていた心は凪いで、悲観的な思考はなりを潜めた。




___この少女は、本当にいてほしい時に傍にいてくれるんだな。



 2度目。ただの偶然。ちょっと親切にされたら勘違いする男。

 錯覚でもいいかな、と道哉は思う。今までは愛が足りなかった、かりそめでもそれは。

「ありがとう」

 いつかと同じ響き。

 操は一つ頷くとゆっくり道哉から体を離した。

 そしてニコリと笑って道場の出入り口まで。

 そこでふと立ち止まり、思い出したかのように背を向けたまま口を開いた。


「和麻さまが心配しておいででしたよ」


 そうか、あのおせっかいめ。




 ふと操に目を向ければ、彼女の耳が真っ赤に染まっていた。流石に思春期の少女には恥ずかしい行為だったらしい。


 クッ、と思わず笑いが漏れた。操の肩が揺れる。

 くくくくっ……抑えようにも抑えきれない笑いが際限なく押しかける。

 し、失礼します!と慌てたように早足で去っていく操。その耳は先ほどの倍ほど赤みが増していた。



「ははっ、あははははは!」

 ついにこらえきれなくて道哉は大声で笑った。腹を抱えて大いに笑った。

 すでにマイナスの気分は蒼穹の彼方へ。

 眼を閉じる。

 和麻がいた、煉がいた。そこに操が加わった。



 世界は思ったよりも厳しくて、思ったよりも優しかった。


 自分は世界を俯瞰しているつもりで、ほんの少ししか見えていなかったらしい。

 この日、道哉はほんの少し強くなった。


 これは、たったそれだけの話_____。





あとがき

思いついたので3話まで一気に書き上げました。あれー外が明るいよー?



5/27 初稿
5/29 微修正



[9101] 第4話
Name: 酒好き27号◆3e94cc3d ID:6939b0d4
Date: 2009/05/28 04:04


「継承の儀に挑め」


 そう言い渡されたのは18歳のとき。

 いつものように父親は傲岸不遜で、人間らしい温かみなど全く無いように見える。

 あの日、あの時、『俺』になってからどれほどの月日がたったのだろうか。

 あいかわらず神凪道哉は精霊術師としては無才のままで、愛をくれと泣き叫ぶクソガキの頃からまったくと言っていいほど成長なんてしていなかった。

 変わったとすれば、少しばかり痛みに鈍感になった程度。

 一族の中で評価は低い。無能。その言葉が心を傷つけていたのは何歳のころまでだっただろうか。

 神凪家での生活はゆっくりと心を蝕む死の呪い。

 特効薬はたった3人。最近は会う機会すらなくなった。

 意図的だろうな、とぼんやりと思う。鍛練のスケジュールをわざとずらさなければここまで会う機会はなくならない。


 高校に行くことはなかった。

 前世の知識の恩恵か、努力も相まって大学生以上の知識を中学で習得していた自分。

『お前にとって高校以上の学校に意味はないだろう』

 厳馬の『学業はすでに不要。もっと鍛錬を』という言い分に、特に反論せず従った。

 原作でさえ一応高校には行っていたというのに。

 これは道哉だからこそであり、普通の人間なら対人能力に著しい欠陥ができる可能性がある程度には危険な行為である。

 神凪の屋敷でひたすらに己の体をいじめ抜いたこの3年間、心の中は常に灰色だった。

 これで解放されるのだろうか。勘当される用意はできている。

 申し訳程度にまとめられた自分の荷物が部屋にはある。もともと私物なんてほとんど持っていないのではあるが。





___ただ、心の準備だけができていない。





「わかりました」

 ひとつ頷き了承の意を返す。

 双方ともに全くと言っていいほど揺らがない表情は、親子という関係を感じさせない。

「相手は綾乃になるだろう。敗北は許さん」

 そこで初めて道哉の表情が変わった。ひそめられた眉は軽い困惑を示す。


「和麻は、どうしたのですか」


 神炎使いを除いた全術者のなかで最高の力をもつ者。

『神凪家の宗主は最強の術者がなるべきである』

 目の前の男の信念は知っている。だからこそ納得がいかなかった。


 神器『炎雷覇』

 精霊王から与えられたとされる炎術最強の武具。

 あの神剣を受け継ぐということは、次代の宗主になることがほぼ確定するということである。

 その儀式に最強の男が出ないという矛盾。

 己の手の内のほとんどを知る弟。似ていない双子だが、心はつながっている。

 和麻ならば己の全力を受け止めてくれると思っていた。全力で挑んで、全力で受け止められて、容赦なく叩き潰されて初めて自分は炎と決別できると思っていたのに。

 冷酷な父親からではなく、自分の半身の手で区切りをつけて欲しかったのに。

「和麻は未熟だ。継承の儀を拒否するような者に神凪の至宝を任せることはできん」

 その言葉を聞き、一拍遅れて道哉に湧きあがったのは怒りだ。

 忘れたと思っていた感情が再燃する。




___今、俺は確かに和麻を妬んでしまっている。



 持つ者、持たざる者は世の常だ。そんなこと理解している。

 だが、これだけは許容できない。

 我が半身。誰よりも共に過ごし、誰よりも互いの深いところまで知っている二人。

 あの渇望を。あの無念を。命にかかわる修練の果てに手に入れられなかった至高の炎。

 その思いを知ってなお、焔統べる一族の至高の座を捨てるという愚行。

「わかりました。不肖神凪道哉、継承の儀に最善を尽くします」

 裏切られたとは思わない。

 そんな浅い関係ではない。

 それでも一発殴るくらいは許されるだろう。

 灰色の数年間で久しぶりに感じた怒りを完璧に隠し通しながら、道哉は厳馬に向けて2度目の頷きを返したのだった。







 【継承の儀】


 それは神凪の一族にとって神聖かつ絶対なものである。

 実力さえ伴えば誰であろうと参加できる儀式でありながらも、生半可な覚悟で挑戦するようなものではないのだ。

 同様に、ある程度年齢を重ねたものも慣例として参加することはない。

 継承の儀とは、神器と精霊王に対し、次の世代の先頭を担うものたちの輝きを託すものなのである。

 ゆえに、儀式の場に足を踏み入れることが許されるのは強者のみ。

 分家の当主が数人、宗家の者も数人。

 神前には炎雷覇がささげられ、上座から順番に力関係と同じ並びで並ぶ術者たち。

 普段は道哉に対して侮蔑を隠そうとしないもの、興味を持たぬ者、冷然としているもの、気遣いを見せるもの、その全てが一様に厳粛な様子を崩さずそこにいた。


 これこそ神凪一族。


 世界でも有数の炎術師。

 未だ精霊と感応することのできない道哉には精霊が見えない。

 それでも儀式の間に入った瞬間に感じた圧倒的な力の奔流。炎雷覇を起点に最強の術者たちがそろうことで発生する『聖地』。

 極限まで浄化された空間は、穢れを知らぬ『原初の世界』と言っても過言ではない。

 世界の歪みとして存在する妖魔程度では触れただけで消滅するようなそれは、これから生まれ出るであろう炎の巫女のゆりかごであるようだった。

 顔ぶれをざっと眺める。

 兄弟はそこにいない。未熟者と断じられた和麻、本来ならば今向かい合っている綾乃の代わりにそこにいただろうに。

 未だに幼いゆえここにいない煉、あまり会ったことはないが和麻から話を聞いていたのかよくなついてくれた。

 ふと気づく。勢ぞろいした有力者の中に厳馬がいない。




「精霊術師とは、世界の歪みを正す者」


 宗主重悟の声が力強く響く。


「炎術師とは、炎をもって邪悪を討つ者」


 空間が震えるような覇気を持つ者、これが神凪最強。


「我ら神凪一族。火の精霊王に祝福されしその力、全ては守るためにこそあれ」


 似ているが、精霊術師としての戒めの言葉ではない。

 それは重悟の信念である。数多くの妖魔を討滅し、一族をまとめ、片足を失ってなお輝く。


「精霊王の御前である!死の穢れで汚すべからず!」


 緊張が高まっていく。見えない炎が胎動する。

 重悟は言外に語る。『炎雷覇の為に殺人を犯すような者に資格なし』


「我らが至宝炎雷覇を継がんとするものよ!その力に呑まれるな!己の意思のもとにその力を振るわん!」


 地水火風のうち、炎ほど攻撃に特化した属性はない。

 力に飲まれるな。力に驕るな。


「その意思をもって相手を屈服させて見せよ!」


 己に克て、相手に克て。

 さすればおのずと勝敗は決まる。



「始めぇい!!!!」




 その大喝とともに、次代を担う者たちの戦いが始まった。






[9101] 第5話
Name: 酒好き27号◆3e94cc3d ID:6939b0d4
Date: 2009/05/29 04:25


 眼前に顕現する金色の炎。

 分家がすでに失った浄化の極みともいえる炎。

 いつか求め、今なお捨てきれぬその輝きが道哉に迫る。

 神凪綾乃。焔の寵児。

 炎術の鍛錬をはじめて1年で黄金の炎にたどり着き、幼いながらもその凛とした立ち振る舞いは人を引き付けて止まない。

 現宗主を父に持ち、あらゆる経験と知識を楽しみながら吸収できる天才。

 12歳の子供に負けるということにいささかプライドを傷つけられなくもないが、それでも和麻の代理としては申し分ない。

 一撃で勝負を決めるつもりなのだろう、そのまなざしは純粋で、敬愛する父の期待に応えんとその力を振り絞っている。

 炎の祝福がない道哉の為に制限された熱量。

 だが内包するエネルギーと衝撃は、道哉の意識を奈落の底の落して余りある。

 そう、道哉にとって炎術師とは『そういうもの』であったはずだ。

 一撃食らえば負け。かすっただけでも行動不能。ただの魔術に比べ高すぎる応用力は、力なき自分に逃げることさえ許さない。

 和麻、なぜここにいてくれなかった。なぜ俺をこの場で完膚なきまでに打ち倒してくれなかった。

 希望の入る余地などいらない、みっともなくすがりきたくなるような可能性などいらない。

 諦める。それだけのために俺はこの儀式に出るはずだったのに。


 これでは。この綾乃では、あまりにも____







___そう、あまりにも弱い。



 構えなどすでに終わっている。

 緊張による力みなど存在しない。

 何度も反復した、己の肉体だけが武器だった。

 道哉の体から莫大な量の気が立ち上る。神凪一族の特性。炎だけがその身に宿らなかった。







 『気』とは、つまるところ属性を持たないエネルギーである。

 いや、それもある意味では間違いだ。

 自然霊、世界、悪魔、妖魔。様々なものからの祝福や助力を受けず、人が己の身一つで発揮する桁違いの力。


 すなわち、人間という属性。


 有史以来、人はあらゆる存在によって死を迎え、逆にあらゆる存在を打ち倒してきた。

 人から神になったもの、人から魔に堕したもの、世界の理の中に取り込まれたもの。

 純粋な人の力とは、それゆえに全ての属性に強く、同時に全ての属性にエネルギー量として敗北する。

 いくら力が強くても、素手で岩盤を割ることはできない。

 いくら泳ぎが上手くとも、押し寄せる津波の中では生き残れない。

 いくら飛行機を乗りこなせても、ハリケーンに突っ込んで助かることはできない。



___そして、いくら我慢強くとも、太陽に近づけば燃え尽きるだけであるはずなのに。



 打倒する。打倒する。打倒する。

 既に脳内は灼熱し、後先のことなんて忘れている。

 あたかも生き物のように迫りくる粘性の炎。勝てない?馬鹿を言うな。

 今から俺の全てをかける。

 今の俺に出せる全てを見せつける。

 あの日の決意を、あの宣言をもう一度___!






 いつの日からか道哉の中には不安があった。

 もしかしたら勘当を言い渡されないかもしれない、アルマゲストの襲撃なんてないかもしれない、反乱、天使、富士山、瑠璃色、精霊喰い、その全てが起きないかもしれない。

 生まれ出でてから18年間、心震わす出来事なら腐るほどあった。

 その大半が原作に書かれていない矛盾。

 省かれただけかもしれない、考えすぎかもしれない。だが、自分という存在を形作ったはずの出来事のほぼ全てが『知識』に存在しない。



 だから、原作の知識なんてものは当てにならない。



 どちらかといえば思慮深い方である道哉にしてみれば、あまりにも短絡的な結論。

 すでに彼の心は限界だった。

 神凪の生活からの解放を望みながらも、全てを無くすと同義のそれを恐れるという矛盾と葛藤。

 ゆえに宗主の事故を見逃した。

 いつ起きるともしれない事故。それを予見するという異常性。そもそも信じてもらえるのだろうか。

 知識の中に正確な日時など有るわけもなく、事故が起きた日、宗主は退魔を生業とする者たちとの重要な会合の帰りだった。

 事故が起こるかもしれない。確信もないそれだけの理由で欠席などできない。

 それでも注意を促すことは出来たかもしれない。あの重悟の人柄だ、信じてくれたに違いない。注意さえしていれば炎で身を守ることなんて簡単だっただろう。

 起きないかもしれない事故が起き、彼が片足を失ったと聞いた時、道哉は確かに思ってしまった。

 継承の儀、勘当、解放。




 『これで楽になれる』




___ふざけるな。運命を打倒するなどと大言を吐いておきながら何という脆弱さか。


 これを認めたら、俺は俺でなくなってしまう。


___宗主の思いやりを踏みにじり、恩人を見捨てておいて貴様は笑えるのか。


 継承の儀。その中にあってさえ、道哉の中に綾乃は存在せず、全ての敵意は己に向けられていた。

 眼を真っ赤に血走らせるほどの怒りの中、道哉の体はいたって自然体だった。

 足を踏みしめ、全身の筋力を気とともに流れに沿って全て右の拳へ。

 発勁。中国武術におけるただの効率的な力の発し方にすぎないそれ。極めれば唯人にも大男を吹き飛ばす力を与える技術。

 見よう見まねで無駄も多いそれは、それでも確かにあふれんばかりの道哉の力を最小限の減衰で作用させた。

 瞬間的に限界を超えた力の行使。

 気を残らず使用しての暴走ともいえる一撃。



 この綾乃に負ける程度の運命を変えられなくて、前へなんて進めるものか____!


 目の前の相手は敵ではない、打倒すべきは運命のみ。

 ブチブチと筋繊維のちぎれる音を聞きながら、彼は18年の人生で最高の一撃を解き放った。







 神凪綾乃にとって、父とは最大限の敬愛に足る人物である。

「しょーらいはおとーさんとけっこんするの!」

 と、世の中の父親という父親を感涙させること間違いなしの台詞を口に出したこともある。もちろん重悟も泣いた。


 神凪綾乃にとって、神凪和麻とは信愛に値する人物である。

 はとこでありながら和麻のことを「兄さま!」と呼ぶ程度には慕っている。

 和麻は友人にそういう性癖をもった男がいるため、初めてそう呼ばれたときは軽い頭痛を感じ頭を抱えた。


 神凪綾乃にとって、神凪厳馬とは尊敬の念を向ける人物である。

 自他共に厳しく、父重悟に次ぐ力を持った男の背中は、彼女にとってとても大きく見えていた。

 彼は小さな女の子の扱いなど心得ていないため、人知れず彼女の扱いに悩むという人間らしい場面もあった。


 では、彼女にとっての神凪道哉とはどのような人物だったのだろう。

 結論からいえば、幼いころから神凪のエリートとしての教育を受けてきた綾乃は、道哉を良くも悪くも一般人としかとらえていなかった。

 上記でもあるように、この時点において彼女にとって特別に意識を向けるに足る人物とは炎術において隔絶した力を持つ者。

 路傍の石ころ。と原作でも語られていたが、この世界において彼女の認識は『雑踏のうちの一人』程度のものであった。

 その二つの評価に大した違いはない、という主張はしばらく置いておいおく。

 そんな彼女だからこそ、継承の儀に臨むにふさわしい人物は和麻だということに一片の疑いも抱いていなかったのである。

 継承の儀は火の精霊による特殊な結界の中で行われる。

 そのため、闘争の中で炎術師として爆発的に成長し、炎雷覇を勝ち取った例も神凪の歴史の中では多く存在している。

 現在の力では和麻に敵わない。それでも背を向けることはせず、最後まで立ち向かおうという気概にあふれた綾乃は、相手を知らされて愕然とする。


 なぜ道哉なのだろうか。炎が使えないものが儀式に参加する。そこに意味はあるのだろうか。


 原作のように、綾乃だけが隔絶した力を持っている場合ならば別に何に悩むこともなかったに違いない。

 だが、越えるべき目標があった。尊敬する人がいた。

 自分より明らかに優れたものが継承の儀に出ないという事実は、綾乃にとってみれば炎雷覇が勝ち取るものから譲り受けたものに堕したことと同義である。

 綾乃は考える。



___兄さまは炎雷覇をもった自分よりも強いに違いない。



 未熟者、と言われた気がした。

 今の綾乃の力は、確かに炎雷覇を継承しても遜色ない程に高い。

 だが、和麻がその上を行っているのもまた事実。

 手が届きそうだったはずの後姿が、一瞬にして米粒大になったような気持ち。

 心が揺れる。それでも炎の巫女はあきらめない。


___見返してやろう。継承の儀で、自分の力を見せつけるのだ。



 奇しくも試合形式である継承の儀において、敵同士のはずの2人は、お互いのことなど全く眼中になかったのである。







 開始の合図が響いた瞬間に放出された己の最大火力。

 物理法則を否定し、殺傷能力こそ低くなっているが内包するエネルギーは人の身で抗うことなど不可能。

___決まった。

 綾乃は確信する。次の瞬間には壁に打ち付けられ気を失った道哉が炎の中から現れるだろう。



「あまりにも、弱い」




  ズドンッ



 大砲が撃たれたような鈍い音が響いた。

 炎の壁が真っ二つに断ち割れる。

 己の全力が打ち砕かれる。

 何の装備も、何の作戦も、何の奇跡もそこには存在しなかった。

 ただ、鍛えた体、堅固な意志のみで、炎術という絶対的なアドバンテージをひっくり返した男が、そこにいた。



「……なん、で」



 精霊術とは精神力に左右される。

 和麻が出ないことに心を揺らし、自分で自分にプレッシャーをかけていた綾乃の炎は確かに弱まっていただろう。

 だが、それは神凪一族の宗家にふさわしい炎であったはずなのに。


 まだ幼い綾乃にとって炎とは未だ絶対の価値観である。

 いや、この場合はその価値観に常識さえも味方する。

 いったい誰が、何の加護も無い人間が『災害』とも形容される神凪の宗家に立ち向かえると思うだろうか。

 装備は消滅するだろう、作戦は意味をなさない、神凪の力こそ奇跡の結晶。

 100人が100人綾乃の絶対的な勝利を予見するだろう。



___ゆえに、それは有無を言わさぬ綾乃の敗北だった。


 幼い心の一番もろい部分に突き刺さった、考えるのも馬鹿らしい一撃。


 その衝撃を噛みしめる綾乃には、限界を超え血を吐いて倒れた道哉も、綾乃の勝利を言い渡す重悟の声もどこか遠いものとしか思えなかった。






5/28 初稿
5/29 誤字脱字修正



[9101] 第6話
Name: 酒好き27号◆3e94cc3d ID:6939b0d4
Date: 2009/05/29 05:08


「勘当だ」

 その言葉に、思ったほどの衝撃は受けなかった。

「今日中に荷物をまとめ、神凪を出るがいい」

 目の前の父親がそういう男であることは知っていた。

 抱いた期待を切り捨てる。

 綾乃が消し切れなかった残滓を残らず拭いとる。

 これが始まり?

 ありえない。所詮無様な敗走でしかないのに。

 だから言おう。負け惜しみだとは理解している。

 薄っぺらなプライドをもって、道哉は最後の最後に父親に仕返しを、決別の言葉を放った。




「わかりました、厳馬殿」



___二度と、父上などと呼んでやるものか。










 厳馬にとって、道哉にそう呼ばれることは全くの予想外だった。

 今までピンと張りつめてきた糸。

 ともすれば拷問とも思える修練を繰り返し、親しい人間とはほとんど接触しない日常。

 そう仕向けたのは他ならぬ自分だ。

 あまりにも強き意志、休息などいらぬと言わんばかりの努力は、いつか必ず道哉自身を食い尽す。

 取り返しがつかなくなる前に止めなければならない。

 だが、厳馬は神凪の術者。

 道哉を止める言葉など持ち合わせてはいない。

 だからこそ限界まで追い詰めた。


 いずれ、神凪に縛り付けられた鎖を解き、自由という道を指し示すその時に、後ろを振り向くことなど決してないように。


 彼の執着を破壊し、その有り余る才能を別の方向に伸ばさんがために。

 双子の兄、初めて抱いた自分の子。

 愛していないと言えば嘘になる。

 心配していない、といっても嘘になる。

 親というものは、いつだって心配性なものであるから。

 それでも厳馬は己の子の力と心を一切疑ってはいなかった。


___道哉には、神凪は狭すぎる。


 炎術こそを至高とする男の、胸中。

 綾乃の炎を正面から打ち破ったと聞いたときは耳を疑った。

 厳馬も盲目ではない。どうあがいても人間がかなわない者や、己の力など塵芥とも感じぬ化け物が存在することを知っている。

 ゆえに、その中の一柱である精霊王、世界を構成する要素の頂点に立つ偉大な神の眷属たることを誇りとしてきた。

 己の矮小さを知り、かの者の偉大さを知り、伏して力を求め、与えられた力は一片の妥協もなく磨きあげてきた。



 いと小さき人の身。

 拳一つで神の眷属たる炎の巫女を打倒した息子。



 制御しきれなかった気は内臓を傷つけ、限界を超えた腕はズタボロだ。

 完治させるのに心霊治療で丸一日かかったほどの代償をもってもたらされた結果。

 そう、『たったそれだけの代償』で彼は惨敗の運命を打倒した。

 それで充分。心配など不要。胸を張って送り出そう。

 道哉に炎術の才がないことを確信した時からかぶった仮面が不要になる瞬間。

 疲労と、安堵。

 その一瞬に入り込んだ他人を思わせる響きは、確かに厳馬を強く揺さぶったのだった。






 厳馬がほんの少しだけ、表情を変えた。

 そんな生きた表情を最後に見たのは一体いつだっただろうか。

 『してやったり』と思う感情がある。

 『この程度のことで?』と不審に思う経験則がある。

 『また期待して裏切られるのか』とおびえる自身がいた。

 話は終わったはずだ。このまま無感情に突き放してこの部屋を去る、それだけのことであるはずだ。

 浅はかにも希望を持とうとする自己を戒める。

 この男が何を言おうが、心にまでは届かせない。



 そうして、数秒の沈黙の後に厳馬が懐から取り出したのは一枚のキャッシュカードだった。


「一千万入っている。これを持ってどこへなりとも行くがいい」


 自分からは渡さないつもりだった。このあと道哉が向かうであろう宗主か、母親に渡してもらうつもりだった。

 何故自分は。

 その困惑は、この場において厳馬のものだけではなかった。


 なぜ厳馬は、完全に突き放したこのタイミングで。

 受け取るのか、受け取らないのか。

 迷ったあげく、道哉は真意を確かめんと厳馬を見た。

 そこにあったのは、どこか悔やむように目を瞑った父親の顔。


「ありがたく、頂戴いたします」


 頭をさげ、目の前に置かれたものを手に取る。

 今度こそ厳馬は振り向かずに出ていった。まるで何かを振り切るように。

 複雑な親子関係。お互いの胸中などあずかり知らぬ二人は、それでもどこかスッキリとした気分のままに、別々の道を歩みだしたのだった。




 この数日間は、ある程度予想を立てていた道哉にとっても激動の日々であった。

 望んだ相手と望まぬ相手。

 迫りくる炎と新たにした決意。

 解放と追放。

 父と、息子。

 不完全燃焼で終わった継承の儀のせいで、心が砕けるほどの苦痛を味わうかと思っていた。

 蓋を開けてみれば何のことはなく、こうして数少ない思い出を振り返りながら出口に向かって歩く。

 特別誰かに別れを告げる気はない。


 和麻は再会したら一発殴る。それだけでいい。

 煉は数日前に会った。お前は強くなれる、焦らずすすめと言った。別れの言葉だとわからなかったらしい煉は無邪気に笑っていた。


 玄関にたどり着く。

 靴を履いて振り返り、頭を下げた。

 全てを水に流せるほど強くはない。けれど、ここは確かに神凪道哉の居場所だった。

 玄関を出る。

 門までの長い長い道のりに、一人たたずむ黒髪の少女。





「行くのですか?」





 道哉は苦笑する。

___だって笑うしかないだろう。別れを知らせたいと思った最後の一人が、待ち構えたようにいるなんて。


「勘当、されちまったからな」

 当たり障りのない答え。

 今生の別れにもなり得る場面なのに、口を衝いて出るのは強がりや無意味な言葉。

「宗主に挨拶はなさいましたか?」


「いや。礼を失すること甚だしいとは思うんだけどな、気苦労の多い人だ、これ以上迷惑はかけられない」


「何も言わずに、という方が心配なさるのでは?」


「ははっ、そうかもしれないな。それでも、決意が鈍ると前に進めなくなるから、会わない方がいいんだ」


 このまま行けば、心引き裂く『運命』とやらが待っていることは確実だろう。

 けれど誓った。

 運命になど負けてやらぬと己に誓った。


「道哉さま」


 初めて会った、あの日のような声だった。

 和服の少女、大神操が深々と頭を下げる。


「お帰りを、心よりお待ち申し上げております」


 既に神凪は帰ってくる場所ではない。

 世界にひとり放り出された道哉。二度と会えないかもしれないからこそ、その言葉を選んだ。

 死なないでほしい。また、いつか元気な顔を見せてほしい。

 万感を込めた操の言葉に、道哉はニヤリと笑う。


「若妻みたいなセリフだな、それ」


「道哉さま、そこは颯爽と『行ってくる』とでもおっしゃるところでしょうに」


 不満げにする操の頬は、ほんのりと赤く染まっている。多少は耐性がついたらしい。

 過ごした時間自体は少なくとも、わかり合えることはある。


「じゃあな。何年後になるかわからないが、次会う時には酒でも飲もう」


___いつか見た小さな少女。彼女には助けられてばかりで。


「はい、その時を楽しみにしていますね」


___俺がもらったもの。返し切れない恩。「ありがとう」の言葉を君に。


 道哉は今度こそ振り返らずに前へと踏み出した。

 道のりは険しく、力は足りず。

 それでも前に進まんとする歩みは、力強さに満ちている。






___いってきます。


 道哉が口の中だけでつぶやいた言葉は操の耳に届くことはなく、やわらかな風に乗って空へと消えた。








 あとがき

 寝る間も惜しんで頑張りました。とりあえず第一部完!みたいなノリです。
 ここまで感想をくださった皆様に感謝を。ううむ、やはり勉強になる。
 ここからどういう展開になるのか、正直作者にも不明です(ォィ
 いやいや、一応の展開は考えているのですが途中からキャラが勝手に動き出して描写に苦労しました。
 さて、数々の風の聖痕作品において、更新停止率が最も高い打倒アルマゲスト編が近づいてまいりました。ああ怖い怖い。
 うーん、無理せずキングクリムゾン!『結果』だけだ!!この世には『結果』だけが残る!!みたいなことをやってもそれはそれで…
 あ、みなさんのご感想をお待ちしております。





[9101] 第7話
Name: 酒好き27号◆3e94cc3d ID:6939b0d4
Date: 2009/05/30 01:40


「道哉よ」

 しわがれていながらも、未だ張りを失っていない声が響く。

 そこにいたのは一人の老人。

 白髪、白眉、白い髭。そして黒の道士服に身を包んだ彼は、半年前に突然訪ねてきた青年に声をかける。


 道教。

 宇宙と人生の最も根源的で不滅の真理を探求し、神仙に至ろうという者たちの集団がある。

 中国の奥地。それも地脈と道士の術により微妙に位相をずらされた修行場は、人外魔境といっても過言ではない。

 はるか古代の神秘を今もなお残すその異界において、虎の爪は大地を割り、熊の一撃はカマイタチを起こし、小動物でさえ不可思議な力を操る。



 そもそも見つけることなど不可能な異界。

 見つけたところで進入することなど不可能な結界。

 そして、侵入できたところで最も神仙に近い者たちが住まう隠れ家に辿り着くことなど決して出来ぬ。


 それでも青年はたどり着いた。

 それは特別なことではない。


 彼は、ほんのわずかな異常を見つけることが出来るほどに五感を研ぎ澄ませていた。

 彼は、現代において世界から半ば独立している人間であった。そして世界に属するものとの契約を結んでいないゆえに世界と異界の境界を超えることが出来た。

 彼は、妖魔や悪魔といった歪みや瘴気を纏うものたちとの繋がりが存在しなかった。ゆえに結界にはじかれなかった。




 そして、彼はその異界に住む、どの野生生物よりも強かった。




 ただそれだけの話である。






「何でしょうか」

 彼は眼を閉じ、己の中に満ちる力を完璧に統御すべく修練に励んでいる最中だった。

 月が光る晩。
 
 その場に満ちるは清廉な大地の気。

 ここに来たときのような周囲を威圧するほどに高い彼の気は、すべて体の内側に。

 ゆっくりと力を練り上げ、心身の清浄を保つことで人間としての格をあげる修行である。


 だが、彼にとってそんなことに意味はない。

 より純粋な気を精製し、完璧に制御することで己の力を高めようとしているのだ。

 そんな彼を見ながら、老人は道哉がこの異界に侵入してきたときのことを思い出していた。



___仙人になる気など有りません。



 何のためにここまで来たのか。

 あまりにも若すぎる容姿と、鋭いまなざし。

 世捨て人とも形容される仙人を目指すには似合わぬ雰囲気。思わず出た質問に、返された答えは予想の範囲内だった。

 この国に来て日が浅いのか拙い言葉だったが、並々ならぬ決意をもっていることがわかった。




『仙術を学び、力を得て何をする?その力を何のために使う』



___我が力は守るために。



 理想論だ。

 そしてそれは本音でありながらも真実ではない。


『答えよ』


 低くもなければ大きくもない声。

 だが道哉は縛り付けられたような圧力を感じ、呼吸さえも自由にならない。

 これが『道士』。300年の歳月を修行に費やし、隠された異界に数十人の弟子を持つという『半仙人』。

 今この場で死したとしても、肉体を解体して仙人に変じる権利を持つ者。

 もう50年で肉体をもったまま仙人の高みに至るとされる現代最高の道士。

 魔道の研究などというものではない。ただひたすらに自己を高めた300年の重みは道哉の想像を覆して余りあった。



___運命を、叩き壊すために。



 目の前の青年から絞り出された言葉に、彼は小気味よさげな笑い声を響かせた。


『なるほど、なるほど。確かにそれでは意味がない。仙人では現世にちょっかいを掛ける程度しか出来ぬものなぁ』


 仙人とはすなわち世界からの完全なる独立を指す。

 霞を食って生きる、などといわれるのもその副産物であり、限定的ながらも真理を理解した仙人はありとあらゆるエネルギーを己が裡に取り込むことが可能となる。

 世界から切り離された故に、全てを利用せねば存在すら危うい。

 ゆえに、どんなものでも飲み込むことが出来ぬ者は仙人に値しない。

 人間の真理、大宇宙の流れ。

 其は善悪など入り込めぬ絶対の境地。

 全てを等価とし、気ままに世界を覗くもの。

 興味を持つままに行動しながらも、決してどこかに傾かざる者。

 仙人になることで人間性が失われるのではない、人間性、つまり世界への執着を捨てなければ仙人の高みには至れないのである。

 だが、感情までは殺さない。

 どんなに世界が変わっても興味が尽きることなど決してないのだから。





 己の名前すら消し去った『道士』が笑う。

『よかろう。若人よ、お主に力を与えよう。だが忘れるな。世界は汝の思った以上に厳しいぞ』

 脅しのようなその言葉。

 お前にそれができるのか、と言外に問う老人に重圧で動けなかったはずの道哉は小さく笑った。





___望むところです。







「李を覚えておるか」


「先月にここを出て行った方ですね。よく修行に付き合ってもらっていました」


 気のいい壮年の男だった。

 名を捨てることは仙人にとって必須ではないのだが、無理に捨てようとして捨てきれず、一文字だけ残してしまったのだと笑った男。

 高みまでの道がおぼろげながらも見えてきたとして、自身に合った修行場へと去った彼は今何をしているのだろうか。

 中国には様々な環境の修行地が点在しているとは道士の言葉。

「黄河の上流にある修行場に行ったそうなのだがな、居るはずの者が皆死亡しておったらしい」

 効率よく循環させていたはずの気が乱れる。


「未熟者」


 老人の叱責に返す言葉もない道哉。

「なぜ、そのようなことに?」

 仙人自身の戦闘力はあまり高いとは言えない。しかし、気の扱いに長け、なおかつ一部の仙術すらも使う者たちの集団を皆殺しにするとは。

「わからぬ。建物などは破壊されていないそうだ。人間並みかそれ以上の知性を持つ存在だと考えてよかろう」

 凶暴な幻獣や神獣の仕業にしては鮮やかすぎる手口。

 ならば目的をもって襲ったと考えていいだろう。

「李さんは無事なのですか?」

 ここに来てからの知り合いでは一番親密になった人物だ。

「うむ、先ほど2通目の手紙を鳥が持ってきおった。自分一人では対処できぬ、とな」

 未だ日の浅い彼には荷が勝ち過ぎるだろう。正しい判断だ。


「そこで道哉よ」


 道士がほんの少しだけ顔に険しさをにじませながら口を開く。

 希薄すぎてほとんど判別がつかないが、これは怒り、なのだろうか。

「あの修行場の者がなすすべもなくやられたのならば、我が弟子を何人送っても意味はない」


 道士は動けない。結界の維持もある。

 なにより、半仙人となった彼は自身を自身に縛り付け、強い執着を許さない。


「汝が行け。戦いならば汝の担当だろう」

 修行の対価。

 仙人を目指さないと公言した道哉の、それが対価だった。

 神秘の残る地で起こるトラブルの解決が、今現在の彼の仕事である。

「わかりました」

 その返答に満足げな笑みを浮かべると、彼は一枚の呪符を投げつけた。

 それは通り抜ける風をものともせず一直線に道哉へと張り付くと淡い光を放つ。


「なっ!」


 陰と陽。

 出現と消失。

 唐突に出現した力場が道哉を覆い、周囲の力を取り込んで光り輝く。

 何の準備もなしに大した情報もない危険区域へ行けというのか。

「気の運用は実際に使うべき場面で使えなければ意味がない。己の身一つで生き残って見せよ」

 このクソじじい!という道哉の叫びを飲み込んで、拒否を許さぬ転移術が発動した。









 月夜の晩。

 青白き肌、血色の唇。

 高級感を漂わせながらも黒一色な装い。

 圧倒的な妖気と真紅の眼光。

 そして、唇から覗く二本の牙。





 転移した先で道哉が目にしたものは、絶望すら生ぬるい生粋の化け物。












___月の光を反射して、強大な吸血鬼がそこにいた。








 あとがき

 キングクリムゾン!って感じでとりあえず1年ほど吹っ飛ばしてみました。
 本当なら外伝入れるつもりだったんですがなぜかこんな感じに。
 最近キャラを書いているっていうか、キャラに書かされているような気がしてきました。





[9101] 第8話
Name: 酒好き27号◆3e94cc3d ID:6939b0d4
Date: 2009/05/31 19:54


 その光景を目にした瞬間に道哉が感じた感情は恐れでもなければ怒りでもなかった。


 それは、純粋な『悔しさ』。

 修行場に中国の奥地を選んだのは単純な消去法だった。

 西洋の異能使いたちは基本的に己の肉体を鍛えず外部から力をもってくるために道哉とは合わない。

 数ある少数民族の使い手はキワモノにすぎる。

 聖人になどなれぬ。魔人などもってのほか。

 今持つ己の力をさらに高めることができる場所が、中国の奥地に他ならないだけであった。


___畜生め、原作でも語られていただろう。



 原作に出てきた人物がいないからと言って油断した自分が憎らしい。


 自分の意思で選んだはずだった。

 己の足で情報を聞き出し、飽きるほどに繰り返した肉体鍛錬系の流派を除外した。

 今の自分に必要なのはさらなる力ではなく、精密な技術。

 そうやってついに見つけ出した仙人を目指す者たちが暮らす修行場。

 争いの匂いのない土地で力を練り上げるのは本当に楽しかった。


___それでも、こいつと俺の出会いは必然だとでも言うつもりか!


 選んだはずだ。

 否、それは選ばされたものだ。

 どんなに考えをめぐらそうが、どういった道筋を通ろうが、『それは決まっていること』でしかないのか。


 圧倒的な敗北感が道哉を襲う。

 順調に力をつけ、知識にない環境での修行で気が緩んだ彼の意識の空白。それを貫いた非情な現実。


 【運命】


 それに流されるしかないというならば。



「一つ聞きたい」

 何かに突き動かされるように道哉は口を開いた。

 その吸血鬼の表情に変化はなく、『特別に感情を向けるに値しないもの』としてこちらを見る。

 見つめられただけで何倍にも膨れ上がる威圧感。

「貴様、人の血潮を糧にどれだけ生きた」

 鬱蒼と茂る森の中の開けた土地。点在する建物。遠くに転がっている人型の何か。

 そこに怒りはない。見も知らぬ人々の為に怒れるほど道哉は純粋ではない。

 8割方答えることはないだろう。そう考えていた道哉に対して、ひどく簡単にその答えは返された。

 中国の奥地。吸血鬼。膨大な妖気。

「そうだな。正確な記憶はないが、ざっと3000年」

 そのなんでもないように返された言葉によって、道哉はしたたかに打ちすえられる。


 最後のピースが当てはまり、世界の歯車の回る音がする。


 倒したのか。その問いに返された答えは何だっただろうか。

 かすんできた記憶。忘れてしまえば楽になれるであろう知識。

 その中にあるやりとりが、文字列として鮮やかに蘇る。


___そうだ、みっともなくも尻尾を巻いて逃げだせば命だけは助かるだろうよ。


 相手はこちらに興味を見せていない。

 このまま視線を外さぬように引けば、あっけなくこの場を去ることができるだろう。

 だが、それでは意味がない。

 『自分』が生まれたあの瞬間、あの思いこそが己の生きる意味。

 体内で気を練り上げる。

 不規則に嫌な鼓動を奏でていた心臓は一定のリズムに、強張っていた筋肉は自然な脱力を生んだ。

 かすかな震えも止まった。深呼吸一つで体を戦闘態勢に移行させる。

 絶対に勝つことはできない。

 奴は流也に取り憑く妖魔と同格かそれ以上。それに勝つということは、風牙衆の反乱が意味のないものとなる。


 辛勝、負傷多数。

 そのような結末の未来以外を、運命は許さないだろう。

 そもそも、契約者の力を発揮した原作の和麻でさえ決め手に欠けていた存在に、今の力で勝利することなどできない。


___それがどうした。


 それでも道哉は笑っていた。


___運命よ。こんなに早くお前を打ち破る機会を与えてくれた、それだけには感謝してやってもいい。


 先の言葉とは逆になるが、この戦いに勝利したところで大した意味はない。

 原作の数行にわたる会話の改編を行ったところで大きな変化はなく、それすらも飲み込んで物語は続くだろう。

 だが、試金石くらいにはなる。

 賭け金は常に自分の命。


 さあ、コールだ。







 縮地法。


 本来その呼び名は仙術における瞬間移動以外に用いられることはない。

 武道における鍛え上げられた脚力によって一瞬のうちに移動する足運び自体には、本来呼び名はないのである。


 地面を陥没させて一気に間合いを侵略した道哉に、吸血鬼はかすかに意外そうな顔を見せた。

 そうして繰り出される発勁。

 綾乃に向けたものに比べ込められた気の量こそ少なものの、修練の果てに研ぎ澄まされた一撃。

 雑魚妖魔ならそれで消滅、中級でも確実に大きなダメージを負わせるに足る力は、目の前の化け物にあっけなく受け止められる。

 瞬間、道哉は凄まじい速度で大木に叩きつけられていた。

 とっさに気で防御したものの、視界が揺れ、膝が震えるほどの衝撃が走る。

 追撃を警戒して、彼は即座に立ち上がる。

 この程度の苦痛で彼が諦めるなどあり得ない。

 身体面から人間を超えた吸血鬼に対して接近戦を挑む愚行。

 奥の手を持たず、ひたすら基礎能力を鍛えた道哉は、それを超える相手が現れた時点でなすすべもなく敗北する。


 力___圧倒的に敗北。

 耐久力___吸血鬼ならば人間をそれをはるかに超える。

 速度___身体能力のみの相手と、仙人の修行で歩行法を学んだ自分。相手の方が少々上か。


 先ほどの攻防では腹に来た拳に対して防御を固め、後ろに跳ぶまで余裕があった。

 積み重ねた年月が纏う莫大な妖気は体力を削り、理想的な受け方をした攻撃でさえこの威力。


「まったく……」


 たった一度の攻防で弱気になった自分に呆れかえりながら、それでも彼は逃げ出そうとはしなかった。

 今度は気楽に、歩いて距離を詰める。

「シッ」

 相手が己の攻撃範囲内に入った瞬間の蹴撃。

 側頭部を狙って放たれたそれは羽虫を払うような手つきで弾かれ、逆に相手から腹を貫かれるような蹴りをくらい吹き飛ばされる。

 最短距離を突き付ける正拳突きは身を沈めた敵にかわされた。

 カウンターの足払いをなんとか跳び上がって回避し、そのまま振るった蹴りを空中で掴まれ地面に叩きつけられる。

 続く踏みつけを転がって回避、距離をとる。


 ダンッ


 2度目の高速移動。

 今度は敵の眼前で90度方向転換、木を蹴って背後に回る。

 が、敵はこちらを見ようともせずに必殺の後ろ蹴りを放つ。

 ガードにまわした左腕から鈍い音が響き、またしても吹き飛ばされた。

 折れたであろう左腕をだらりとぶらさげながら、道哉は震える足で立ち上がる。


___勝てない。


 相手は出会った瞬間から一歩たりとも動いていない。

 攻撃は通じず、徒に負傷を増やすばかり。

 回る視界のなかに人型の異形を映しこむ。

 ギリギリと音が鳴るほどに奥歯を噛みしめ、敵を睨みつけた。



 勝てないからどうしたというのか。

 運命に流されるままにこの場を生き延びて、『生かされ』、その果てに死んでゆく。その流れに俺という存在が生じた意味はあるのか。

 道筋をなぞる機械。そんなものになる気などない。


___いいだろう。この命、燃やし尽しても奴を仕留める。


 運命に相対するとき、いつも彼を侵食する怒りが彼の脳内に渦巻いた。

 冷静さなど欠片もなく、己の命までも燃やして一撃を放とうとする彼の中には、これは実戦であり、綾乃の時のような戦いを止める審判や救助など存在しないことは抜け落ちていた。

 我知らず狂笑が浮かぶ。

 その姿を目にした吸血鬼は、初めて道哉という存在に意識の焦点を合わせた。


 奴は知っている。


 命をかけた人間の爆発力と恐ろしさを理解している。

 重圧が増した。
 
 3000年という重みが、死地に向かわんとする道哉の足を縛りつける。


 一瞬の静寂。


 己の裡から生じる警告をすべて切り捨て、感情から来る衝動に身を任せようとした道哉の心に、涼やかな風が吹いた。










    『お帰りを、心よりお待ち申し上げております』







 いつか交わした約束。

 大切だと思えた人、楽しかった日々。

 操、和麻、煉。


 嗚呼、わかっていた。

 命をかけて運命を打倒する。その行為が自己満足だとは理解していた。

 大切な人を守るわけでもなく、気に入らないからあらゆる手を使って打倒するわけでもなく、ただ弱った心のままに命をどぶに捨てようとしていた自分。


 いびつに歪んだ表情が元に戻る。

 灼熱した頭に冷水をぶっかける。


「いつか、必ず」


 これは未だ、打ち倒すべき運命ではない。

 限界まで力のこもっていた両足を使い、道哉は大きく後方へ跳んだ。

 一瞬にして森の闇に紛れこむ彼を見ながらも、吸血鬼は動かない。





 その無価値なまなざしが『力の差に逃げ出すような者は敵ですらない』と語っていた。







[9101] 第9話
Name: 酒好き27号◆3e94cc3d ID:6939b0d4
Date: 2009/06/10 20:22


 東の空がうっすらと明るさを見せ始めたころ、道哉は鬱蒼と茂る森の中で無事に兄弟子との再会を果たしていた。

 周囲を警戒しながらも、大木に背を預けて休憩する男が二人。

 壮年の男が仙術を用いて己と道哉の傷を癒す。

「道哉」

 虫が鳴く森のなか、彼はゆっくりと口を開いた。

「なんですか?」

 道哉がけだるげに返事を返す。


「お前は、俺の本名って知ってるか?」
「知りませんよ」


 あまりに早い断言。

 片方はそのあまりの切り捨て方に、もう片方は「何を今さら」という気分のまま数秒間の沈黙が満ちた。

「俺が知るわけないじゃないですか。そもそも李さん、10年以上前に自分の名前は一文字残して捨てたんでしょう?」

 どこか呆れたような顔をして聞き返してくる道哉に、李と呼ばれた男はどこか苦い笑みを浮かばせた。

「まぁ……な」

 その後に何かを続けようとした唇は、結局何の言葉も紡がないままに力なく閉じられた。

 その様子にどこか感じるものがあったのか、道哉は今まで自分がたどった道筋を思い出す。


「執着を捨てる………ですか。俺にはできそうもありません」


 彼はどこか遠くを見つめながら呟いた。

 多少なりとも疲労をにじませた道哉の様子に、李はその瞳に意地悪げな光りを灯らせた。

「恋人か?」

 きょとん、という表現のままの顔をした道哉。かと思えば唐突に「ふむ…」と考え込み始めた。

「おいおい、悩むようなことじゃないだろう」

 兄弟子の新種の生物を見るような視線を手を振って追い払い、道哉は噛みしめるようにつぶやいた。


「恋かといわれると……どうも『これ』は弱いですね」

「なら、」

「ならば、愛なのでしょう」


 愛。愛ときたか。


 一瞬呆然とした後、李は道哉に背を向けて震えだした。

 必死に抑えようとしているものの「くくくくく……」と笑い声がそれなりに響く。

 ため息をつく道哉。

「笑うのは構いませんがね、狙われてる本人が目立つようなことをするのはやめてくださいよ。流石に奴が相手ではフォローできません」


 あの吸血鬼はどうも仙人を目指す者たちをターゲットにしたらしい。

 人間として格が高く、高純度のエネルギーをもつ道士たち。

 そんな彼らは、吸血鬼のえさとしては最上級といっても過言ではない。

 何の祝福も汚染も受けていない血液。それでも内包する力と純度は普通の人間とは比べ物にならない。

 それを大量に取り込んで力を高めるつもりだろうか。

 いや、もしかしたらあのレベルまで達すると普通の人間では『食事』足り得ないのかもしれない。



 レベルの低い道士たちに、本来ならば必要のない結界の媒介とその劣化。

 各地の痕跡から推測を立てた李の話では、そうやって緩んだ結界を莫大な妖気で力任せに破壊したらしい。

 何というでたらめな相手。

 『出会った瞬間に仙術使って逃げ出したんだがな、姿見られちまった。ありゃー俺に狙いを定めた感じだ』と、どこまでも気楽に言い放った男は、目の前でどうしようもないほど無防備に痙攣している。


 ため息。二度目だ。


 胸中から湧き上がる何だかわからない気分のままに、道哉は無造作に李に歩み寄った。

 容赦なく渾身の力で蹴り倒す。流石に気は使用していないが。

「ぐはぁ!!」

「おいオッサン、地脈の起点はどこだ。夜も明けたしさっさと帰るぞ」

 雑談をしているうちにいつの間にか夜が明けたらしい。この深い森の中にも、いつの間にか光が入ってきていた。







 いつの間にか道哉のポケットの中に入っていた符。

 間違いなく『道士』が仕込んだであろうそれは、李によれば到着地点のみを定めた転移符らしい。

 キ○ラの翼みたいなもんか、とは道哉の言。

 未だ力の制御しか習っていない道哉には起動できないそれは、なんと李の手にも負えないものだった。

 といっても制御に問題はなく、足りないのはエネルギーであるとのこと。

 そういうわけで2人は夜明けを待って地脈の起点に行き足りないエネルギーを補って、昼間吸血鬼が寝ているうちにさっさと逃げ出してしまおうと考えたわけである。




「これでようやく死の鬼ごっこから解放される……」

 やつれた顔でうめく李に道哉は同意した。

 夜が明けるまでは本当に地獄だった。

 吸血鬼の超感覚で足取りは的確に追跡され、圧倒的な身体能力でじわりじわりと追い詰められていく恐怖。

 自然の中に己を紛れ込ませる仙術や、道哉に目印を持たせてから二手に分かれ、李が追いつかれたら道哉のいる場所まで転移するなど、自らの持てる手段をフルに活用して彼らは生き残った。

 特殊な歩法で凹凸の多い樹海を滑らかに進みながら、道哉は隣の男にチラリと視線を投げかけた。


 あの化け物に狙われているのに正確に術を発動できる胆力。

 広く浅いながらも、最低限の練度まで到達している仙術の数々。

 そして揺らがないまなざし。


 仙人を目指すものとしては俗っぽさが目立つが、間違いなく最高の才能を持つ者の中の一人。


 もう克服したと思っていた感情が胸を突く。


 才能。



 嫌な気分をため息一つで追い払った。

 どうも今日は調子が悪い。自分が敵わない圧倒的な相手に出会ってしまったからだろうか。

 ふと、李があたりを見渡した。

「どうしましたか?」

 鍛え上げられた道哉の五感には何も引っ掛かるものはない。

「いや、なんとなく違和感があってな。直感以上の根拠はない」

 神秘に身を置く者にとって、直感というものは重要なもののうちの一つだ。

 2人は立ち止まると注意深く周囲に意識の糸を張り巡らせた。

「何もない……と思うんですが」

「そうだ、な」

 何もないはずだ。あの醜悪な妖気も感じてはいない。

 また移動を開始する。



「道哉」



 ただ名前を呼ばれた。

 だが、彼は驚いた顔で兄弟子を見る。

 1年前に離れた国の言葉。祖国の響き。

「まさか、日本の方だとは思いませんでした」

 このとき、彼はすでに迫りくる危機をハッキリと認識していたのかもしれない。

 彼は不思議な穏やかさを浮かべたままに、決定的な言葉を口にした。


「■■幸彦」





___それが、俺の名だ。













 『それ』は絶望に足る光景だった。

 地脈の起点、300mも進めばたどり着けたはずの場所。

 周囲の木々が全て排除され、自ら更地にしたであろうその場の中心に、冷たい殺意をもって君臨する吸血鬼。

 唐突に発動した結界が、彼らの逃走を阻む。


「声に出して作戦を立てたのがまずかったな。いつから聞いてやがったんだか」

 いつものような気楽な声。しかし動揺は隠し切れないそれが虚ろに響く。

「妖気で日光を相殺なんて、反則にもほどがありますよ。俺もそれくらいの出力欲しいぜこの野郎」

 平地で吸血鬼と接近戦。笑えないにもほどがある。

 一回挑んでボロ負けした道哉が乾いた笑いをもらす。


「作戦その一
 お前が特攻、殺されてる間に俺が結界破って逃げる」

「1秒で俺死亡。次の2秒で李さんが死にます。よって却下」

 妖気となぎ倒された木々で作られた簡易的な結界。

 普通なら簡単に破れるはずの結界は莫大な妖気で強化され、数十秒なければ破壊できないものへと変貌を遂げていた。



「作戦その二
 2人で特攻、倒せればラッキー」

「既に作戦じゃないですね。2人で全力出しても速やかに殺されます。よって却下」

 奴は既に本気だ。さんざん逃げられたことで誇りでも傷つけられたのだろうか。



「作戦その三
 2人で特攻、生死の境で特殊な力に覚醒する」

「現実を見なさい。よって却下」

 軽口を叩きながらも彼らの頭脳は生き残るための手段を高速で模索していた。




 結論、死亡。



「ま、簡単に殺されてやるわけにはいかないな」

「まったくです。命一つでも十分、二つも使えば奴を仕留めることくらい楽勝でしょう」

 ゴキリ、と道哉が拳を鳴らす。

 李が大量の符を取り出した。


 次の瞬間、戦いが始まる。







 先手、吸血鬼。

 地面を陥没させて迫りくるそいつに、道哉は引きつった笑みを浮かべた。

「そう簡単に、真似されると、ショック、だよ、この化け物め」

 サイドステップでかわす、間をおかずに振るわれる長く伸びた爪を手首に蹴りを入れて逸らし、続く回し蹴りは身を沈めて回避した。

 道哉の足払いが小揺るぎもせずに受け止められる。

 打ち下ろされた拳を紙一重でかわす。

 全力で離脱し、乱れた息を整えた。


 デジャヴ。


 細部は異なるが、立場を代えて昨晩の攻防を再現された。

 そして、次来る攻撃がわかっていても全く相手にダメージを与えられず、防戦一方な自分。

 たった5秒。それだけの時間を稼ぐだけで昨日の疲労も合わせ、かなりの体力を消耗した。

 李に視線を向ける。

「はっ」

 大量にばらまかれた符が力場を形成、世界に満ちる力を取り込んでいく。

 そして人差し指を相手に向け、己の気を放った。


 刹那、自らの力を途切れさせた吸血鬼が硬直する。

「行け!」

 その声と同時に道哉は走りだしていた。



 全力で振るわれる拳。

 継承の儀で放たれたものと同じ技。

 だがその威力は修行により格段の上昇を見せていた。



___神凪の炎すら退けた拳、耐えられるなら耐えてみるがいい!



 あまりに隙が大きく、ある程度気を制御できるようになった今でさえ危険が伴う全力の一撃。


 タァーン


 銃声のような音とともに、その拳が吸血鬼を吹き飛ばす。

 固いものが叩きつけられる音とともに、大量の砂埃が舞った。

「やったのか?」

 李の疑問に答えることすらできず、地面に膝をついた道哉は砂埃の向こう側を睨みつけた。




 ザッ…ザッ…ザッ



 彼らに聞かせるように、ゆっくりな足音がする。

 そうして現れる吸血鬼。

「こっちは瀕死、あっちは左手だけかよ……!」

 せき込んで血を吐きながらも道哉は怨嗟の声を上げた。

 相手の動きを拘束し、最高の一撃を放った。それでも届かぬ距離に歯ぎしりをする。

 あの瞬間、奴は術を力任せに破り、頭部を狙った攻撃を左肩でくいとめた。


 奴の手が振られ、密度の高まった妖気が2人を打ち砕く。

 道哉はもともと満身創痍、李は後衛の術者という特性から防御力が低く、起きあがることさえできなくなった。


 そうして奴は落ちていた腕を拾い上げ、なんてこともないように接合する。

 道哉はすでに言葉もない。

 とどめを刺さんと振り上げられた爪。

 邪魔な奴から殺すつもりか。仙人を目指さない者の血に用はないとでもいうのだろうか。

 軌道予測は自身の頭。きっと石榴のように弾けるだろう。

 せめて最後まで諦めるものかと、精一杯相手の眼を睨みつけた。


 やけにゆっくりと迫る死。


 世界がその針を遅らせ、走馬灯が明滅する。



 ザンッ



 命を絶つはずの腕が宙を舞った。

 貫くは大地の槍。



「ははっ、作戦その三がビンゴだったらしい」



 捨てたはずの名前を手に、『石蕗』幸彦が立ち上がる。


 既に傷はなく、力の制御は完璧。

 道哉をかばうように立ち、吸血鬼に相対している彼は苔生した巨岩を思わせた。

 相手も突然能力を覚醒させた地術師に警戒したのか、こちらを見つめたまま動かない。




 不意に、道哉に投げつけられた一枚の符。

 それを目にした道哉の眼が見開かれる。

 帰還用の符。使えないはずのそれをなぜ今ここで。

 そうして道哉だけを包み込むように顕現する力場。

 幸彦のニヤリと笑った顔、流れ込む力。全てを理解した道哉の顔が悲痛に歪んだ。


「あんた何してんだよ!せっかく力に目覚めたんだろうが!一族に目に物見せてやるんじゃなかったのかよ!!」


 血を吐くような叫び。

 既に力の入らぬ体を必死に動かして、道哉は大地に爪を立てた。

「俺みたいに既に諦めて終わっちまった男はな、表舞台には上がれないのさ」

 15年前、富士を守護する一族から追放された『能無し』が笑う。

 前を見れば、吸血鬼が地面から生えた蛇のように波打つ岩に拘束されていた。

 本来なら数秒も持たないはずのそれは、3000年の月日を生き抜いた吸血鬼すら縛りあげる。


「オッサンの命なんかもらっても嬉しくなんかない!諦めてんじゃねぇよ!この程度で俺もあんたも終わるような奴じゃないだろうが!!」


 現在進行形で命を燃やし続ける男を止めんと、道哉は声を張り上げる。

 転移に足りないのはエネルギー。

 対象が二人ではなく一人になり、術者が命を使えば解決する。

 余裕のある分は、存命ではなく吸血鬼の足止めに使えば完璧。

 簡単なことだった。そう笑う兄弟子に、道哉は悔しさから涙を流す。


___力もないくせに調子に乗ったから、追い出されちまってな。


 どこか諦めたような笑顔。それが今の顔と重なった。

「そうだ、お前に一つだけ頼みごとをしたい」

 拘束を解かんと叫ぶ吸血鬼を尻目に、幸彦はいつもの調子で話す。

「俺の妹分っつーか、まぁ分家の俺と宗家のあいつじゃ天と地ほどの身分差があるんだが、そういうやつがいてな」

 拘束にヒビが入る。転移の術式が光を増した。

「そいつに伝えてくれ。『俺は頑張った、お前も頑張れ。俺は諦めちまった、お前は諦めんな』ってな」

 再度繰り出される石の槍。

 鉄すら貫くその槍が、力を増した吸血鬼の肌に弾かれる。


「恋人か?」


 泣き笑いのような表情で、道哉が問う。

「まさか!俺はロリコンじゃない。ま、最愛の妹分にして同類ってやつだ」

 すでに吸血鬼は自身の阻む戒めを9割破壊することに成功していた。

「名前は石蕗紅羽だ。頼むぜ」

 転移符が燃え上がり、複雑な文字を描く。



「行け。お前なら大丈夫だよ、親友」

 過ごした年月も、年齢の差も関係ないと彼は笑った。

 最後の一割が破壊される。





___まさか神凪にもそんな奴が生まれるとはねぇ。


___気になったんですが、李って文字なんて入ってないじゃないですか。


___あ?李って『イ』だろ?石蕗の『石』から取った『イ』だ。


___異常にわかりにくいわ!それと日本人なら『リ』って読んでおけよ!


___はっはっは、そんなにムキになるなよ。たかが名前だ。


___訓読みだと『スモモ』ですね。随分とかわいらしいお名前で。


___適当に付けた後に知ったんだよ!


___今度からスモモちゃんって呼んであげましょうか。


___勘弁してくれ……。





 転移の瞬間。


 最後の力を振り絞って顔を上げた道哉の眼に映ったのは、彼の不敵な笑顔。




 そして、その喉元に食らいつく青白い顔をした吸血鬼だった。













 あとがき

 今回は分量多め。平日にこれはつかれる。
 時間がとれなくて更新速度が多少落ちると思いますが、まだまだ更新停止にはならないよ!

 ホントは作品の外で解説を入れるっていうのは自分の表現力の無さを肯定するみたいで主義に反するんですが、背に腹は代えられずちょっとした補足を。
 この辺の話の会話は基本的に中国語だと思いねぇ。中国語って地方によって結構変わるらしいけど気にしない!
 9話途中から日本語で話してたとか脳内変換よろしく!
 あ、吸血鬼は17ヶ国語を話すという裏脳内設定があったりなかったり。

 皆さんの感想を楽しみにしてます。



 感想欄の展開予測できわどいのあってビビったわー(汗



6/4  初稿
6/10 コメントを受けて多少の修正 感謝



[9101] 第10話
Name: 酒好き27号◆3e94cc3d ID:6939b0d4
Date: 2009/06/10 20:29


 悪いこととは重なるものである。

 そしてそれは、重なるほどにより強く心を穿つ。

 結局たった12時間程度しか離れていなかった修行場の一室で、道哉は目を覚ました。

 降り注ぐ木漏れ日、穏やかな小鳥の鳴き声。

 今日も世界は人の意思など気にせず回る。

 粗末なベッドに横たわる道哉。

 現状を把握し、周囲に誰も存在していないことを理解していながらも、彼はとっさに額に手をやった。

 力の入らぬ手の甲で目元を隠す。涙は出ない。いや、出してはいけない。

 それをしたら己は崩れる。

 避けられぬ別離を惜しむのも良い。力の無さを嘆くのも構わない。

 だが戻らぬ者に追いすがり、彼を求めて泣いてしまったら、きっと自分はこの道を踏み外す。


 そうしたらどうなるだろう。


 今は亡き幻影にすがって生きるのか。それともあの吸血鬼を全力で殺しに行き、無様に殺し返されるのだろうか。

 奥歯を噛みしめる。まばたきを止める。手のひらに爪を立て、喉元までせりあがった叫びを封殺した。



 耐えきれぬ事柄に涙することが許される者は幸いだ。傍らに人がいるのだろう。


 涙した後に立ち上がれるものは幸いだ。それは、そもそも心など折れてはいない証拠。



 幼いころから知識を憎んだ、一族に疎まれた、炎を妬んだ。

 流れのままに大切な者たちと別れ、たった一人になった自分。

 何の支えもなく、己の力のみでここまでたどり着いた自分にとって、一度の挫折は己を殺して余りある。

 そこに、自らの決意を穢してなお止まらない浸食を予感する。


 あの時~していれば。

 あの場面で~という状況だったなら。


 弱った心のままに、彼は無意味な仮定を繰り返す。

 不毛であると理解していても止められない思考が空回り。いや、俺の今までの行動が全て空回りなのではないか。


 運命にとらわれた。

 弱さを突き付けられた。

 約束を思い出し、同類を見つけた。



 そうして最後に残ったのは『奴から命からがら逃げ出した』という事実。



 最近、自分で自分を追いつめることが多くなった気がする。原作にある事象を回避、または踏破できなかっただけで傷つく心。


 怖い。

 全力を尽くしても救えないかもしれない人々。

 注意していてもわずかな隙に付け込まれる者。

 無視していても付きつけられるであろう事実。


 最初は、自分自身の存在を肯定するためだった。運命の操り人形を拒絶する、そのためだけに力を磨いた。

 今は、彼らの為だ。


 和麻。原作になかった位置にいる彼は、それゆえに運命から嫌われて命を落とすのではないか。

 煉。この世界でも初めて愛した人を亡くし、その慟哭が力の呼び水になるのだろうか。

 操。兄が死に悲しみに暮れ、憎しみをもって多数の人を死に追いやり消えぬ罪を背負うのだろうか。


 大切な人。

 彼らの行く末を予期してなお何もできずに見守るしかない、そんな絶望は御免こうむる。


「無力。泣きそうだよ、ホント」


 軽口で自己が特定の感情に塗りつぶされるのを防ぐ。

 そうして体を起こすと、軽い違和感。

 いたる所が傷ついていたはずの体が完治している。


 奴に付けられた傷はともかくとして、自らの気によってついた傷は体がそれに対して鈍感になる。

 自然治癒力を高めたり、生命力や一定のエネルギーを与える治療では完治まで時間がかかるはずなのに。

 実際、神凪を出てしばらくは体を動かすたびに微妙な鈍痛が走ったものだ。


「気がついたか」

 師の声で我に帰った。

 神出鬼没。

 仙人の行動は常人には知覚できないことが多い。相変わらず心臓に悪い。

「流石ですね。あの傷は簡単には治せるものじゃないでしょうに」

 道哉は自身の爪によって滲んだ血を拭いながら、かすかな溜息をついた。

 最近ため息も多くなった。不幸を呼ぶのだろうか。そんな言い伝えを思い出す。


「我が術ではない」


 益体もない思考を弄んでいた道哉は、その言葉に不意を突かれた。

「昔、命を救ってやった者からとり急いで霊薬を入手した。治癒の効きにくい自滅の傷に加えて全身が妖気に侵されておったのでな。間に合ったのが奇跡と思え」

 道士の口から出た思わぬ言葉に、道哉は呆れたような笑みを浮かべた。

「エリクサー、ですか。あなたなら簡単に作れると思っていましたよ」

「馬鹿を言え、わしが作ったら汝はとっくの昔に死ぬか水銀中毒になっておる。ふん、未熟なものよ」

 西洋の錬金術に近い術。どちらがどちらを取り込んだのか、それとも関係などないのかは不明だが修行を積んだ仙人にもエリクサーは精製可能だ。

 それでも容易には精製できない別格ともいえる霊薬。

 手を加えれば不老不死の薬にもなり得るとされるそれに手を伸ばし、不完全がゆえに水銀中毒で命を落としてきた歴代の中国皇帝たち。

「あなたが作れないなら、現代には作り手が存在していなさそうですね」

 全身で意外だ、と表現している道哉に道士はどこか不機嫌そうに返答した。

「世界は広い。わしを上回るものがどこにいるかわかったものではないぞ」

 そうやって道士は己を戒める。

 こういった所も見習わなければな、と道哉は自身のはるか遠くに位置する背中を見た。




「さて、回復したばかりで悪いが次の仕事だ」


 その言葉に道哉は片眉を上げることで答えた。

 おかしい。このような頻度で道哉が動くほどの事件が起こるほど、ここは開放的な場所ではない。

「そうだな。だが今回はわしに直接的な関係のない話だ」

 どこか道化を感じさせる口調で彼が笑う。

「では、なぜそのようなことに手を出すのですか?」

 今までにない『道士』の態度に不信さを隠そうともせずに道哉が問う。


 しかし実際はそのような顔を見せていても、内心ではこの事態を歓迎していた。

 今という時で過去を一時的にでも忘れてしまいたい。時間は優しくて残酷だ、そう前世からの知識がささやいた。



___今だけ、今だけは起こってしまったことから目を逸らすのを許してほしい。



 眼を閉じ、年の離れた親友に心の中で頭を下げる。

 次にその眼を開いたとき、彼の思考は戦闘用に切り替わっていた。

「エリクサーだ。無理を言って譲り受けたのでな」

「なるほど、命の恩人へ直接恩返しに行けということですね」

 道哉は返された言葉に納得の表情を見せるが、対する道士は首を横に振った。

「少し前から依頼は来ていた。だが我らは己の高みを目指すもの。どのような対価であっても関わる気はない、と断った」



 以前に依頼者の命を救ったというのも成り行きだったのだろう。

 当然のことだという態度を崩さない道士に、日ごろの言動を加味して当時の状況を予測していた道哉は「だが」と続けられた言葉で我に帰った。


「汝はそこに当てはまらぬ。エリクサーを求めなければならない理由も出来た」


 これは既に結ばれてしまった契約なのだ。その言葉に道哉は静かに頷いた。

 『道士』にまで声がかかるほどの事件と己の命。主観的な天秤は水平を指した。

 文句など有るはずもない。


「依頼内容はどのようなものでしょうか」


 期間は長い方がいい。

 今回ばかりは冷却期間が必要だと、弱りきった意識が悲鳴を上げる。

「ある者の護衛だ。本来ならば定期的に護りの術をかけてほしいというものだったのだがな」

 依頼内容を説明しながら、道士はどこか遠くを見るような眼で道哉を見る。



 瀕死の重傷を負った道哉を転移させてきた符より感じられた命の残滓。

 濃厚な血の匂いのする妖気に、先ほどまでの道哉の様子。

 帰還時に絞り出した「生き残りは0です。なすすべもなく敗北しました」との言葉。

 それらから推測した出来事を一切会話に出すことなく、道士は事務的に話す。

 長い時を過ごし、ある程度感情を読める彼にとって、それでも消えることのない道哉の奥底に灯る炎は興味の対象だった。


 これから道哉が向かうであろう場所に式を放ち、依頼人の周囲に妙な気配が漂うことを知りながらも、彼は道哉にそれを伝えることはしない。


 手助けなどせず、求められるままにそれなりの力を与え、興味のまま傍観に徹する。

 彼の感じている多少の執着を除けば、まさしく自由気ままな仙人といえるだろう。



「護衛……ですか」

 先の吸血鬼事件に至るまで、自分すら明確な意志のもとに守ったことがない道哉にとって未知の行為。

 闘争の中でひたすら前へのみ進まんとしてきた弊害がそこにあった。


 それでも、やらなければならない。


「わかりました。命をかけて依頼を果たしましょう」

 命には命で返さなければならない。

 本気でそう思っているわけではないが、恩知らずにはなりたくないな、と道哉は思った。


 心は決まり、あとは向かうだけ。

 今までになく調子のいい体で立ち上がり、少ない荷物を手に取りながら道哉は最後の質問をした。







「それで、どこに向かえばいいのでしょうか」





 あくまで生き急がんとする青年に苦笑をにじませながら、老人は口を開いた。








___香港へ行け。そこの引退した顔役が依頼人だ。









 点はつながり線となり、抗えぬ道筋を定める。





 道哉の心を置き去りにして、物語は静かに加速してゆく。








[9101] 第11話
Name: 酒好き27号◆3e94cc3d ID:6939b0d4
Date: 2009/06/21 05:16


「孫娘の護衛を頼みたい」


 そのときの道哉にとって、状況は既に怒りや悔しさを感じさせることもなく、ただ緩やかな諦観と共に受け入れるしかないものであった。

 古びた骨董屋のカウンター越しに向かい合う老人と青年。

 外からかすかに聞こえる喧噪とは対照的な静寂がその場を包んでいた。

 しわがれた老人の声が響く。


「名は翠鈴。活発な娘なのでな、少々護衛には骨が折れるかもしれん」


 差し出された写真を見ながら道哉は無感情に質問を返す。


「まさか四六時中張り付いているわけにもいかないでしょう。見知らぬ男一人を大事な孫娘に近づけるのですか?」


 慇懃無礼とも取られかねないその態度も、老人にとっては感情を殺したプロフェッショナルの行いに見えたようだった。

 こちらを推し量るような視線が多少緩む。


「道士からの紹介だ。疑うことなどせぬよ。あなたには恩人の孫、という演技をしてもらいたい。親を亡くし路頭に迷った所を引き取ったという設定だ」


 白くなったひげをなでながら、老人はゆっくりと幼子にでも言い聞かせるように語る。


「昔のつてを頼ってわしの所を訪ね、身元保証人を引き受けてもらったという立場だ。翠鈴が働いている店にはコネがある。未だ香港に不慣れなあなたのサポートを孫娘に頼んだ、ということでどうだろうか」


 なるほど、と表面上は相手の作った筋書きに無感情を貫いていたものの、道哉の内心は必ずしも穏やかではなかった。

 老人は「引き取った」という表現を使った。

 つまりそれは老人の家に住む可能性が高く、孫娘というのなら彼と同居している可能性も高い。

 もしそうなった場合、四六時中一緒にいる理由ができてしまった。

 だがそれはあまりにも道哉に対する負担が大きすぎる。

 流石に感情を抑えきることができず、無言で眉をひそめた道哉を見、老人は安心させるように言葉を付け足した。


「本来ならば誰ひとり来てもらえずとも文句は言えない立場だ。大きな負担をかけるつもりはないから安心してくれ。エリクサーも以前の礼として道士に差し上げるつもりであったしな」


 その重要度が低いともとれる発言に、道哉ははっきりと不信を示した。


「わざわざかの道士に依頼をするほどの状況にあるのではないのですか?私はエリクサーの対価として命一つ分守り抜くつもりでいたのですが」


 この世の全てに興味がないかのような口調で道哉が問う。




 良くない傾向だ。

 自暴自棄とでもいえばいいのだろうか、礼を尽くすことすら満足にできていない。



 仙人の修行場にいた者にとって自らの依頼は筋違いなものと理解しているのだろう。

 老人はその態度を咎めたり不審に思ったりはしていないようだ。


「今のところは保険以上に意味はないのだ」


 どこか疲れたような口調で彼は語る。


「近頃、翠鈴の働く店のある地区を中心に妙な事件が頻発している。人が消える、特殊な力を持つ物品が盗まれる、などのな」


 個人ではなく組織的な手口だ。

 忌々しげな顔で老人が吐き捨てた。

 先ほどの疲れたような顔といい、どうやら思ったように捜査が進展していないらしい。

 引退したといっても香港の表と裏の中間に位置したとされる顔役。未だに多大な影響力と責務、気苦労が絶えないのだろう。


「わしの家にいるときは好きにしてもらって構わない。護衛をしてもらいたいのは店にいる時だ。何か違和感などを感じたり、直接的な被害があったら対処と報告をしてもらうだけでいい」


 住居と仕事が用意され、仕事の最中にだけ同居人と周りに気を配っていればいいということか。




___それにしても「対処と報告をしてもらう『だけ』でいい」か。





 呆れたような笑みを浮かべるのを間一髪で抑え込みながら道哉はひとりごちた。




___ただの強盗、窃盗団からの護衛と秘密結社からの護衛、どちらにになるかわからないのに気軽に言ってくれる。



 人が消えた、と言っていた。

 記憶が確かならば原作ではアルマゲストの首領が翠鈴の心臓を手にしていたはず。

 もしも既に消えた人間が生贄にされたのだとしたら、既に儀式は終わっているのではないか?

 べリアルが召喚された時も有象無象の若者100人程度を捧げただけで、限定的とはいえあれほどの強大な悪魔を召喚出来ていた。

 特殊な力を持つ物についてはわからないが、どう転ぶのか未だ確定していない状況。


「わかりました。受けましょう」


 元から拒否する気はなかった。うじうじとためらっていただけ。

「そうか、それはよかった」

 肩の荷が一つ下りたように老人が安堵の息を漏らした。緩んだ頬が、いかに孫娘を心配していたかを物語っている。


「周りには客人として扱うように言い含めておく。必要最低限の護衛さえ果たしてくれるならそれなりの便宜を図ることができるだろう」


 この老人の一言はどれほどの影響力となって返ってくるのだろうか。


「何か、恩を返しに来たのにそこまでしていただくと申し訳ない気持ちになりますね」


 老人につられるように道哉も自然な笑みを浮かべた。

 そうして彼らは契約を結ぶ。



 期限:事件の概要がつかめるまで。

 報酬:依頼中の住処と食事。(道哉が遠慮したため)

 内容:対象の護衛と受動的な捜査。



 簡単に確認を済ませ、道哉は差し出された手を握り返した。


「頼むぞ、道哉」


「俺に任せれば百人力。安心しろよ爺さん」


 これからの生活のための予行演習。


 どこか芝居がかったやり取りとともに、その契約は交わされたのだった。














「こいつを5番テーブル!」

「はい!」

「道哉!2番のお皿片付けて!」

「了解!」


 そうして1ヶ月後、そこには店にすっかりなじんでしまった道哉がいた。



 人気店とは聞いていたが、平日休日を問わず食事時には異常に忙しくなる店だとは思わなかった。

 素早く食器を片づけながら道哉はチラリと翠鈴に視線を向けた。


 若干のあどけなさが残るものの間違いなく美人。

 どんなときにも笑顔を絶やさず、どんな客にも嫌な顔一つしない。

 初めて会ったときも同じだった。


___お爺ちゃんに引き取られたんでしょう?だったら今日から私たちは家族。よろしくね、道哉。


 家族。

 前世の知識が穴だらけの道哉にとって、その言葉は困惑に足るものだった。



 父≒敵

 母=路傍の石

 弟=半身

 弟=庇護対象


 そんな家族しか経験していない彼は翠鈴の取る行動の一つ一つが新鮮で、驚きで、そして確かな安らぎを感じさせてくれていたのだった。

 友人より近くて、恋人とは種類が違い、尊重しながらも遠慮はない。

 この世に生を受けてから初めて訪れたある種の安心感が、道哉の心の傷を確かに癒していた。



 ここ1ヶ月の生活を思い出しながらも道哉の手は止まることなく動き続け、人の多い店内を足音も立てず滑るように移動する。

 仙人の修行の成果。

 まさに技術の無駄遣いだった。

 それにしても、と道哉は店内を見渡した。


「野郎どもの多いこと多いこと」


 大衆向けの飲食店だからと言ってここまで男だらけとは。


「それもこれも、看板娘のおかげってやつかな」


 そんな独り言を口の中で呟きつつ、道哉は困ったように笑いながら昼間から酔っ払っている男の相手をしている翠鈴に再び目をやった。

 最近は勤労意欲に目覚めてしまったのか働くことに熱中しがちだが、本来の仕事は翠鈴の護衛である。

 意識を出来るだけ彼女から離さないようにしなければ。そんなことを考えた瞬間、不意に翠鈴がこちらを向いた。



 まるで元からそうであったように重なった目線が、喧噪を遠くへ追いやって時を止める。


 世界にたった二人しかいなくなったような錯覚。



 見つめ合ったまま固まった二人を解凍したのは、やはり不満の音色を含んだ野次だった。



「見せつけてくれるじゃねーか!」

「おいおい、俺に望みはないとでもいいたいのかこの野郎~」

「翠鈴ー、こんなひょろい兄ちゃんじゃなくてこの俺と!」

「いやいや、ここは俺が」

「てめぇ彼女に言いつけるぞ」

「こいつ彼女持ちだったのか!裏切り者め!」



 あっという間に混沌と化した店内に、道哉はやれやれと溜息をつきながら事態の収拾をはかった。


「俺と翠鈴は家族です。やましいことはありませんよ」


 嘘つけ。という視線が道哉に集中する。

 それをものともせずに新たな料理を運びながら言葉を重ねる。


「なんなら本人に聞いてもかまいませんが」


 すぐさま自分に向けられた視線に慌てながらも、翠鈴は早口で疑惑を否定した。


「そう、そうです家族です。あなたたちが想像しているようなことは決して。それと道哉はひょろい兄ちゃんなんかじゃありませんよ。結構筋肉がついてて胸板とか厚「ちょっとその口を閉じようか」痛い痛い痛いいたいいたい!」


 ギリギリと音が鳴りそうなほど強くかけたアイアンクローを外し、また道哉は仕事に戻る。

 幸い店内に響き渡るほど大きくはなかったようで、売上が落ちるほどではないようだ。

 店長が親指を立てているのが見える。グッジョブ。あ、親指が下向いた。


 恐るべし翠鈴、すでに店長まで虜にしていたらしい。まさに魔性の女である。


 と、くだらないことを考えていると先ほど彼女持ちがバレて集中攻撃に合っていた男が見えた。


「翠鈴ー!昨日彼女に振られたんだ、慰めてくれぇ~」


 実に情けない声で翠鈴の腰のあたりに抱きつこうとする振られ男。

 瞬時に道哉は翠鈴が回避不能な位置にいることと、手には熱い料理があることを見て取った。


 加速。

 するりと人の隙間を縫い、地面を蹴って一瞬のうちに翠鈴のもとへ到達する。

 彼女の手からそっと料理を奪い、近くのテーブルに素早く滑らせながら翠鈴の腰を抱いて体を入れ替えた。

 ここに依頼主がいれば手放しで称えるほどの刹那の早業。


 初めての護衛ということで、老人の人脈を使って人種や人柄を問わずに教えを請うたことが見事に実を結んでいた。

 もちろん、1ヶ月程度では突発的な事態への反応と自らの体を盾にすることしかできないが。


 驚いた顔で自らの腰に抱きついている男を冷めた目で見ながら、道哉は丁寧な口調を崩さずに大きな声で死刑宣告を下した。


「お客様、セクハラはご法度です」


 途端に殺気立つ店内。

 蒼白になった振られ男の顔が実に哀愁を誘う。

 体格のいい男が数人席を立ってこちらに歩いてくる。

 無言で近づいてくるところが怖い。真顔なところが実に怖い。

 問答無用で振られ男改めセクハラ男を捕まえると、店の外に引きずっていく。


「店の評判だけは落さないようにしてくださいねー」


 冗談とも本気とも取れる一言に筋肉質な男たちはニヤリと笑うと、返事をせずに出ていった。せめて肯定してから行って欲しい。


「み、道哉、大丈夫なのあの人!?」


 自分が抱きつかれかけ、危うく火傷を負いそうだったことも忘れて翠鈴が声を上げる。


「大丈夫だよ。彼は傷一つなく、しかし驚くほどに礼儀正しくなって再登場するから」


 左手で十字を切りながら道哉は返答する。

 実際彼らから悪い噂を聞くこともなく、話した限りではいたって善良な人物だったので本当に心配はない。

 客観的に見たら明らかにコメディタッチな脅しを受けるだけだろう。

 はっはっは、と笑いながら翠鈴をからかう道哉には、1ヶ月前にあった影など欠片もなかった。



 久しぶりに心の底から浮かべた笑顔。それを再び亡くしたくはないと強く思う。



___我が力は守るために。



 その言葉の意味が、自分にはどれだけ分かっていただろう。

 その言葉の重みが、自分程度に支えられるなどと思いあがっていたのだろうか。



 宝石のように輝く時間を過ごしながら、道哉は再び運命に抗い始めようとしていた。






 家族としての距離感がつかめぬまま翠鈴の腰にまわしている右手と、殺意のこもった視線を必死に無視しながら。







 あとがき

 どうも、尿に血が混じった挙句真昼間に倒れた作者です。
 流石に1日1食で睡眠時間を削るのはやりすぎたか……。
 動き、というか躍動感の無い展開が続きました。こういう面倒な場面を飛ばしたら薄っぺらい話になるような気がするので進まない筆に苦労しました。
 キンクリの使い方も考えものですね。
 とりあえず2章の山場が近づいてきました。
 ええと、翠鈴の性格の微妙な変化は原作和麻の子供っぽさと無駄に精神年齢の高い道哉との違いだと思ってください。
 爺さんの立場とかそういったところはぶっちゃけ覚えてな(ry
 皆さんの感想お待ちしております。






[9101] 第12話
Name: 酒好き27号◆3e94cc3d ID:6939b0d4
Date: 2009/07/06 03:33


 それはまるで実体を持たない影のように、音もなく日常を侵食した。



 ある日から、老人の言いつけで仕事に行く際は道哉と翠鈴は二人で歩くようになっていた。


「まったく、道哉もお爺ちゃんも心配しすぎなんだから」


 呆れ半分怒り半分といった様子の翠鈴を道哉は苦笑しながらゆったりとした歩調で歩く。

 珍しく早めに帰ることが許された仕事帰り、並んで歩く二人の影がオレンジ色に染まる街の中に伸びてきた。

 穏やかで、喧噪すら遠くなるような情景。

 その中に違和感無く溶け込みながらも、道哉は日に日に増してゆく違和感を殺意すら込めながら警戒していた。

 普段なら微笑ましく見つめてしまうような、楽しそうに隣で跳ねる長い栗色の髪さえも彼にとって特別な感慨をもたらすことはない。


「たった一人の孫娘だ。少しぐらい過保護になっても仕方がないさ」


 穏やかな笑みとともに自動的に吐き出される言葉は、実のところ何の感情も含まれていない。


「少しぐらい買い物はするかもしれないけど、わざわざ人通りの少ないところに一人で行くほど不用心な女に見える?」


 拗ねたような声。

 その声に、警戒のため凍らせた感情がかすかにざわめく。


「注意してても翠鈴が事件に巻き込まれるのが怖いんだよ、俺も」


 両方の瞳にしっかりと彼女を映しこみ、道哉は大真面目に普段だったら赤面もののセリフを紡いだ。

 体の守護と心のケア。どちらが大事かと聞かれれば、両方と答えるしかないのだろう。


___少し、気を張り過ぎていたかな。


 大切なものを守るために握りしめ、結果として傷つけてしまえば本末転倒。

 第六感に直接訴えかけてくるような違和感。それに対する警戒レベルを少し下げ、道哉は挙動不審になった翠鈴に少しばかり意識を振り分けた。









 ある時期を境にまったくと言っていいほど無くなった人間、物品の消失。

 代わりに町全体を包む空気もしくは雰囲気とでもいうべきものに妙な違和感が生じた。

 ゆっくりと、しかし確実に増大していくそれは、空気を注入されていく巨大な風船を思わせた。

 ほんの少しでも裏の世界に踏み入るような力を持つ者には容易に感知できるほどはっきりした違和感であるにもかかわらず、その発生原因が巧妙に隠蔽されているという矛盾。

 香港の裏社会で騒がれ始める1週間以上前からそれを感じていた道哉は、もちろん依頼主に報告し、調査を依頼していた。




 ある日、老人から違和感の調査が成果を上げていないことを聞かされ、重要な決断をする。


「一つだけ、心当たりがあります」


 そう切り出した道哉だったが、確信も薄ければ相手に信じられるともあまり思っていなかった。

 それでも頭の中に知識、幼いころから読破した様々な書物を思い出しながら、前世の知識という貧弱な根拠に肉付けをしていく。


「違和感を感じている、ということは大なり小なり世界が変質してきているということでしょう。この状況が意図的に作り出されたものだとするならば、術者は本来この世界では起こり得ないことを実現させようとしている可能性があります」


 世界は多くの矛盾を内包しながらも決定的な線引きによって区切られている。

 因なくして果は生じず、生なくして死はあり得ず、法則無視して反発は避けられぬ。

 全体として調和のとれた世界において起こされる決定的な矛盾は、たとえ神であっても容易になし得るものではない。


 ならば、どうすればいいか。


 世界を騙せばいい。

 生を死に。不可能を可能に。自然を不自然へ反転させる。

 世界を騙り、己の創りし真理を語り、至高の頂へと至る。


 その道哉の推論に、老人はかすかに感心したような顔を見せた。


「昔の知り合いから現状について似たような話を聞かされた。だが、それはすでに失われて久しい術なのではないか?」


 存在したことすら忘れられようとしている術。それを知る道哉の歩んできた道のりはどれほどのものだろうか。

 決してあり得なくはない可能性を示されてなお、老人は懐疑的な姿勢を崩さない。


「確かにその可能性はあるかもしれん。しかし現実的ではない」


 彼の考えはまったくもって正論であり、本来ならばここで会話が打ち切られるはずだっただろう。



「アーウィン・レスザール」



 道哉が静かに発した一言は、間違いなく老人の意表を突くことに成功した。


「現代最高の魔術師。彼ならばそのような術を知っていてもおかしくはないでしょう」


 沈黙の淵に沈んだ相手を見つめながら、一見ばらばらに見えるピースを組み立ててゆく。


「人が消えた。アルマゲストは人ならざる者を使役している術者が多いと聞きます」


 例えばスライムを操ったミハイル・ハーレイ。

 実験と称してべリアルのコピーを憑依させ、贄としたヴェルンハルト・ローデス。


 アルマゲストは占星術を基本としながらも雑多に他流派を取り込んで、今では混成西洋魔術ともいえるものになっている。

 そして、西洋魔術でメジャーなものといえば使い魔、もしくは悪魔の使役。

 古来からそう言ったものの好物といえば人間の体や魂である。


「物が消えた。世界を騙すには対象を知らねばならない。リストを見せていただきましたが、この地に縁の深いものが多かったようですね?」


 土着の神の祭具や地脈を調べる特殊な風水盤が消えた。

 基本的に大きな力を持つ土地というものは完全に安定しているか、現地の組織が管理している。

 霊的に見てそれなりに大きな流れの中にある香港だが、多くの勢力こそ存在しながらも支配関係は皆無。

 加えて揺らぎが多く、どこか不安定な属性を帯びている。

 大規模な実験には好都合だろう。


「足取りが消えた。組織を相手にできるのは組織だけです」


 いくら腕の立つ術者であっても、自分の痕跡を全て消した状態で人をさらい、物を盗み、誰にも気取られずに儀式の準備を整えることなどできはしない。

 だが、それぞれの分野の一流が結集しているなら話は別だ。

 そのような人材を揃えられる程に多様性を持つ巨大魔術組織『アルマゲスト』。


「そうして日常の空気が消え、誘拐と窃盗が消え、行われる可能性のある儀式が浮かび上がった」


 一般人を巻き込んだここまで大規模な儀式が今まで気づかれなかった。それだけで敵の強大さが知れるというもの。

 香港の各勢力が土地の違和感に気づいてからまだ二日。

 ここまで痕跡を消して進められた計画だ。もう儀式の準備は完了していると見て間違いがない。


「もう、猶予はないということだな……」


 老人の口から力ない声が漏れた。

 言うまでもなく、簡単に感知でき、既に手のつけられない程まで何らかの儀式が進行してしまったことはわかっていたのだろう。


「世界を一時的だとしてもすり替えるような行為です。どんなことが起こるかわからない以上、翠鈴を守るならば今のままでは不安です」


 そうして、やっとのことで道哉は本題に入る。


 翠鈴の警護の増強。それだけの為に道哉は老獪な相手の意表を突き、昔の知識を引っ張り出し、本来ならば知り得ないはずの前世の記憶を偽装して表に出した。

 相手を冷静にさせては全力になってくれないかもしれない。

 相手がある程度予想していた状況では危険度を低く見積もられる。

 トップという立場は時として非情な判断を強いられる。

 そのような人間に対して不確定要素の多い話では弱いため、必死になって会話の流れをシュミレーションした。

 交渉とも言えない拙い話術だったが、老人が顔役を引退していることと孫娘に対する心配で上手く誘導できたらしい。


「まだ決まったわけではない。だが、何らかの努力はすべきだろう」


 疲れたような顔で老人がどこかに電話をかける。

 老いたとしても元顔役。その彼にそのような顔をさせた。

 それほどの組織であり、それほどのビッグネームであった。



 秘密結社アルマゲスト首領 アーウィン・レスザール



 老人が現役であったならこのような弱々しい態度を表に出さなかったに違いない。

 ここにいるのは、良くも悪くも孫娘の安全を願う一人の祖父だった。







「素晴らしい、まったくもって素晴らしい。まさか儀式を終える前に見破られるとは思わなかった!」





 静かな骨董屋の店内。そこに突然乾いた拍手の音が響く。

 透明感のある涼やかな青年の声が虚ろに反響した。


「何者だ」


 受話器を手にしたまま、体がひとまわり大きくなったような威厳とともに老人が問う。

 それは真っ白な燕尾服を着こなした、絵にかいたような美青年であった。


「わかりきったことをいちいち相手に尋ねるのは感心しないな、御老人」


 白い手袋をはめた人差し指を「チッチッチ」と振りながら、まるで演劇の主役のように両手を広げる。


「生贄として、あなたの孫娘をいただきに来た」


 道化のような笑み。虚飾に彩られた振る舞い。

 それでも隠し切れない圧倒的な威圧感がそこにあった。


「それを私が許すとでも?」


 憤怒の表情で老人が問う。

 激発一歩手前、いや、既に彼は白衣の青年を殺害対象に定めている。

 熱すら伴うような鋭い眼光が相手を射抜く。


「電話の先にいる彼に聞いてみたまえ。戦争か、娘一人の命か、上に立つ者が選ぶとしたらどちらかな?」


 現れたときから一切変化しない笑顔。だがその瞳には隠し切れない愉悦が滲んでいた。


「貴様……!」


 老人の顔に焦燥が浮かぶ。

 電話の先の相手に早口に何事かを告げる。

 断片的な言葉は暗号の一種なのだろう、道哉にしてもその会話の内容を推し量ることはできなかった。


「御老人、あなたはわかっていない。自ら現役を退いたということはありとあらゆる権力を手放したということ」


 その口が音を紡ぐたびに老人の顔に絶望が広がってゆく。


「影響力を持っている?そんなものは緊急時に何の役に立つこともない。激流に岩をひとつ投げ込んだところで、流れが変わることなどないのだから」


 力ない右手が受話器を置く。

 10年も老けこんだように見えるその顔は、先ほどまでの威厳など消え失せていた。


「話は終わったようだね、では私は失礼させていただこう。孫娘を誇りたまえ。彼女の才能は大いなる叡智の一部となり、いずれ人類を救うだろう」


 今まで何の感情も覗かせなかった青年がかすかに口調を変えた。

 真摯ともいえる口調が、彼が本気でそう思っていることをうかがわせる。


「そこの君。自らの知識と間接的に知らされた情報だけで私に辿り着いたことは見事といっておこう。私の元に来るのなら歓迎させてもらうよ」


 そう言ってその青年、アーウィン・レスザールは消え失せた。

 道哉は何もせずにそれを見送る。

 彼は転移したのでもなければ、姿を隠したのでもない。

 隙だらけだったその体は、最初から最後まで虚像でしかなかったことを道哉は理解していた。





 沈黙が物理的な質量をもったかのように重くのしかかる店内。

 老人が、その震える両手で顔を覆った。


「なぜだ、なぜ翠鈴がこのような目に……」


 その体と同じく震える声。

 老いた自分では抗うことすら出来ぬ状況。いや、若かろうが特殊な力など持たない個人が出来ることなど無くなってしまった。

 たった一人の孫娘。


 彼の者は生贄と言った。

 生贄にされたものの運命は完全なる消滅か永劫にわたる束縛か、終焉までの苦痛しかない。

 それをただ見逃すしかない自分。彼は始めて自身を呪った。

 その体に力はなく、道哉に道哉にこのような結果に終わってしまったことの謝罪だけでもしなければならない。そう考えた刹那。





 ガシャン





 何かが割れたような音が響く。

 続いて何かをねじ切るような音や、握り潰すような音が連続した。


「何を……」


 目の前には鍵を破壊し銃器を取り出し、厳重な封印をピンポイントで打ち砕いて霊刀を抜き放っている道哉がいた。


「どんな妖刀かと思ったら七星剣ですか。造りは並ですが重ねた年月のおかげでそれなりに力があるようですね」


 呆然とした顔の老人を無視して、道哉は次々と店内を物色していく。

 銃器にナイフ、果ては爆薬まで見つけ出した道哉に、彼はようやく我に帰った。


「何をするつもりだ!」


 悲鳴とも聞こえるその声に、道哉はようやく老人に目を向けた。


「家族を奪い返しに行くだけですよ」


 気楽ともいえるその言葉。そこに込められた感情はどれほどのものか。

 アルマゲスト首領の名声を聞いたことがある者ならば鼻で笑うようなささやかな武装。それでも彼は揺らぐことはなかった。

 既に表情はなく、その脳裏は怒りで埋め尽くされている。


「相手は世界最高の魔術師だぞ!」


 老人が、自らの無力を嘆くように叫ぶ。


「ええ、知っています」


 それがどうかしたか。

 傲岸不遜とも取れるように道哉は笑う。


「お前が行く必要などない。もう、止まらぬところまで自体は進んでしまった!」


 個人の手を離れた状況。それがどうしたというのか。


「これは、馬鹿な男のただの悪あがきです。例え俺が死んだとしても、あなたは気に病むことはない」


 店を出ようとした背中に浴びせられる老人の怒声。

 それに道哉は穏やかに笑って振り向いた。

 その笑みは絶望に暮れる老人が息をのむほどに静かで、それでいて苛烈な笑みだった。


 なぜ、年老いた自分ではなく未来ある若者ばかりが。

 老人の頬に涙が流れ、それを隠すように再び顔を覆った。

 そのまま深々と頭を下げる。


「翠鈴を、頼む」


 万感のこもったその声に、道哉は無言を返答とした。

 確約などできない。虫けらのように殺されるかもしれない。




___だが、諦めてなどやるものか。




 既に香港の霊的拠点は調べてある。現地の組織との密約が結ばれたのなら何らかの被害が出たとしても最小限に抑えられる場所だろう。

 無力に嘆く老人に背を向け、道哉は動き出す。



 そこに希望などなく、勝利はあり得ない。


 それでもその瞳に映るのは大切な家族。


 またしても変えることの叶わなかった運命。そこに救いはあるのだろうか。


 彼の歩く茨の道の先にあるものは____










 あとがき

 原作と関わる重要な過去がこれほど書きにくいものだとは思わなかった。
 どうも、一応健康体に戻った作者です。
 最近時間が足りないぞー!ということで8月前半まで更新ペースが落ちます。楽しみにしてくださる方がいるようでしたら、申し訳ありませんが少々お待ちください。
 そうそう、ブッ○オフで原作読んだら翠鈴の爺さんが情報屋って書いてて吹きました。ええーっと、この話に出てくるのはもう片方の祖父ってことでひとつ……。
 そろそろ2章も終了。とりあえず原作1巻までは進めるつもりなので、見捨てないでいてくださると助かります。
 では、皆さんの感想をお待ちしております。




[9101] 第13話
Name: 酒好き27号◆3e94cc3d ID:6939b0d4
Date: 2010/03/13 01:06


「運命というものを感じたことはあるかな?」


 目の前の男が全てを見透かすような眼で問う。

 その顔に浮かんでいたはずの笑みは、いつの間にか欠片も残さず消え去っていた。


「恋人同士の甘いささやきのようなロマンティックなものではない。どんなことが起ころうとも、いや、『起こること全てが唯一の終末に向けて収束』していくような絶望感。君はそれを感じたことはあるかな?」


 男の表情は既に亡く、その声は何度も読み返した本を朗読するかのような退屈さに満ちていた。

 それでも、その瞳はブラックホールを閉じ込めた宝石のように虚ろに輝き相手を射抜く。


「我らの星読みが俗世に満ちるような安易なものだと思ってもらっては困る。この星に起きた出来事を魔術的に把握し、属性を記録し、対応する星の動きと象徴を導きだすものだ」


 それは近代科学に近い学問ともいえるもの。

 もちろん、その方法や解釈には多分に神秘が含有されているのではあるが。


「ある程度知識を持つ者ならば鼻で笑うだろう。生ずる事象も星々も無限に近い。それらを組み合わせようとすれば無限の解釈が発生するのは自明の理だからね」


 たとえば一つ星が墜ちたとして、それから死亡した者は何人いる?消滅した現象はいくつある?滅んだ種族はどれほどで、栄光が衰退に変わった国はどれだけあったのだろう。

 影響しあう星の関係をも計算しようとすれば、まさに無限の解釈が成り立つと言っても過言ではない。

 そして、その要素を結びつけるという方法が占い。

 『風が吹けば桶屋が儲かる』に近いそれを大真面目に信じている人間は現代において少数だろう。


「だが、見つけてしまったのだよ。星を読むことで『大いなる流れ』を観測する方法をね」


 人類一人ひとりの行動を全て縛るほど、世界は精密にできてはいない。

 しかし、抽象的かつ包括的な道筋が確かに存在することを彼らは知ってしまった。



「ある地域の破滅を予見して阻止しようとした者がいた」

「世界に影響を与える人物の長寿を知り、憎しみを持って殺そうとしたものがいた」

「ある者は束縛からの解放を、ある者は自由を束縛せんがために歴史の流れを変えようとした」



 だが、と白衣の男は首を振る。

 はるか遠くを見るその目が、運命に挑んだ彼らの末路を雄弁に語っていた。


「それこそが運命だ。あらゆる不確定要素を飲み込んでなお止まることのない流れ。それが風水のようなものならまだよかった」


 身近な大地や気象、そして人間の意思が集まることで大いなる流れを作り出すのならば救いはあった。

 その願いとは裏腹に、よりにもよって星空が変えられぬ未来を指し示す。


「夜空を見るがいい。そこに満ちる光は生まれ出でてからどれほどの時を超えてここに来た?」


 赤と青と黒が入り混じる黄昏の空を仰ぐ。

 それが演劇ならば観客の胸を打たずにはいられない、そんな動作だった。


「万年を超えて届いた悠久の過去。その残滓を拾い集め近しい未来を指し示す。星を読むとはそういうことさ」


 地球に届く星の輝きはいったい何年前のものだ?そしてそれを読むことで未来を占うとはどういうことだ?

 東の空に浮かんだ一番星を冷めた目で見つめながら、一片の揺らぎも見せぬ男の声が朗々と響く。


「考えても見るがいい、確かな体系として存在するそれが、遥か昔から我らが星の光に拘束されてきたこと以外の何を語るというのだ」


 アルマゲストの首領が、アルマゲストの根源を否定する。

 驚天動地ともいえるその場面に立ち会っているのはただ一人。


「それを真理だと?くだらない、実にくだらない。それが負け犬でないとしたら何だ。それが戦う前から負けている者でないとしたら何だ」


 星を読もうと読むまいと、そこにある光は定まった未来を指し示す。

 退屈をにじませる声に炎が灯る。

 気だるげな声も、虚ろな瞳も変化などない。それもかかわらず彼の発する声と圧力によって空間が軋みを上げる。


「数万年前、私たちの世界がたどる道筋はすでに決まっていたのさ」


 自力でその境地までたどり着き、真実を知ったものの絶望はどれほどのものか。


「そう、それこそが私たちが占星術を中心に据えている理由だ」


 数万年前の星の光。その輝きを、その導きを否定する。

 うつろいゆく歴史こそが真実。

 我らだけの今を創るため、過去の光からの解放を。



「星と叡智の名のもとに、我らは集った」



 それは一握りの幹部、それも寿命を超越した者たちしか知ることのないアルマゲストの真実。


「星に畏怖を。世界を解き放つ叡智を。遥か昔、我らは世界と宗教の神々全てに反逆すると誓ったのさ」


 占星術を極めた者たちが辿り着く絶対無二の真実。

 知っただけでは運命は代えられない、だからこそあらゆる神秘を、更なる力を求めた。

 道程を知り、力の無さを呪い、それでも諦めるものかと叫ぶ賢き愚者たちの祈りを知れ。

 数百年の時を過ごしたとされるアーウィン・レスザール。

 その一途ともいえる誓いが胸を衝く。

 手段を選ばず、時には効率を、時には美学、さらには愉悦で事を行う彼ら。


 その願いの正体は。


「運命など認めるものか。我らの闘争が、嘆きが、渇望が、流した血と汗と涙の全てが星の光によって『遥か昔に決まっていたこと』にすぎないだと?

 我らの往く道筋が定まってるならば、そこに存在するのはそれなぞるだけの機械にすぎない。

 我らの意志が、己の道を往かんと叫ぶこの意志が、己の裡以外から生まれたものなどと認められるものか!」


 世界最高の魔術師にも抗えぬ事実がそこにあった。

 遥か昔から続く悠久の縛鎖。

 つまり、奴らは、俺と。


「君ならば理解できるはずだ。最高の炎術師、神凪における唯一の異端児」


 今まで目にした中で、唯一真実だと思える表情が覗く。


 それは共感。


 お互いが、相手の行動原理に感じる強烈なシンパシー。


「星が示す。世界を飲み込む激流が、焔の中から産声を上げると」


 その言葉に、頭を思いっきり殴られたような衝撃が走る。

 世界が、足もとが崩れていくような感覚。

 自分が手に入れた力も、決意も、それは悠久の過去において既に____


「それが君だという保証はない。常に抽象的な星の動きは、我らに直接的な結論を伝えることなどないのだから」


 どこか安心させるように、アーウィンは無表情を微笑に変えた。


「だが、これでわかったはずだ。もしこの予言が君を指しているのだとしたら、君は『その時』が来るまで決して生まれ出でることなど出来ないということを」


 アーウィン・レスザールが限りない優しさをもって両腕を広げた。


「さぁ、これが私の答えだ。では逆に君に問おう」







「神炎。あの桁外れの炎を見て何を思った?それに最も近くて遠い自分をどう思った。今までの道のりが定めの上にあったかもしれないと知り、そこに何を見た?」







___その運命を、どう感じた?











 道哉は草を踏みしめ、少々上がってしまった呼吸を整えながら立ち止まった。

 儀式の会場。その正解は、見当をつけた場所20のうち8か所目だった。

 一見何も存在しないように見えるその場所は、しかし隠し切れないまでの強烈な違和感を五感にうったえかける。


 店の昼休みにアーウィン・レスザールと遭遇してから約6時間後。

 秋の深まる季節、力を失った太陽が周囲を血の色に染め上げていた。

 周囲を雑木林に囲まれながらもぽっかりと空いた広場。

 古の時代に大地を崇めるために整備された土地が、その逆の目的に使われるとは因果なことである。


 一つ深呼吸をする。

 そして彼は気を纏わせた手をゆっくりと目の前に差し出した。

 感触も反発もなく、それでも確かに道哉は『境界』に触れていた。

 感覚を研ぎ澄ませ、実際に触れている彼でさえ「そこにあるかもしれない」という程度しかわからないほどの見事な結界。

 自身が持つあらゆる手段で破壊することが不可能であろう完成度を誇るそれが彼の行手を阻む。

 物理的な力では街一つ灰にするくらいの火力でなければ影響すら与えられないだろう。

 術式を問答無用で破壊する神凪の炎ならばともかく、ただの力でしかない気ではそのエネルギー全てを受け流されてしまう。



 逢魔が刻。



 昼と夜が入れ替わる今こそが儀式のとき。

 日付の変わる瞬間という可能性もあるが、世界を相手にするならば人間の決めた境界に意味はない。

 ゆえに道哉に残された時間はなく、前に進むための手段すらない。

 いや、正確には手段すらないはずだった。

 その顔に一片の焦燥すら浮かべることもなく、道哉は伸ばしていた右手を握り締めた。

 その体から噴火と見まごうまでの莫大な量の気が立ち昇る。

 ブーストとしては有効ながらも非効率的なそれは、仙人の修行場でとうに卒業したはずのものであった。

 奴の性格、世界を変える大規模な術式、そして数時間前に聞いた賞賛の言葉。



___ちょうどいいギャラリーが来たんだ、少しばかり入れてくれたっていいだろう?


 わざと目立つように莫大な力を発生させて結界に干渉する。

 目の前の空間がかすかに歪む。

 たわんだ結界はそれでも決して崩れることはない。

 だが、それで充分。


「アーウィン・レスザール!」


 少々荒々しいノックとともに響いた呼び声、そのきっかり2秒後に道哉はその場から消失した。









「ようこそ我が異界へ。ささやかではあるが歓迎させてもらうよ、神凪道哉君」


 影絵の世界。

 世界を丸ごと反転させたような異界で、白の青年は穏やかな笑みを浮かべながら君臨していた。


「名のった覚えは、ないんだけどな」


 嫌なことを聞いたとばかりに顔をしかめた道哉を見て、アーウィンは爽やかな笑い声を上げた。


「それはお互い様というものだよ。何、完璧に隠蔽していたはずの私の名前を引きずり出した君に対するささやかな意趣返しだと思ってくれたまえ」


 そう言って邪気のない顔で笑うその様子は、数百年の歳月を過ごした魔術師にしては驚くほど幼いものだった。


「さて、何の目的を持って今この場所に足を運んだのか。明確な回答を頂けるかな?」


 戯言はここまでだ、笑みを崩さぬままに青年が問う。

 その視線を真正面から受け止め、道哉は不敵な笑みを浮かべた。


「人の受けた護衛の仕事を妨害されたことに対して、一言文句を言いに」


 虚偽を許さぬその空気において彼が堂々と放った軽口に、一拍置いて返ってきたのは静かな笑い声だった。


「やはりいい。君は素晴らしい。この状況を自覚してなおそのようなことを口に出せる、それだけで価値がある」


 パチン


 アーウィンが指を鳴らす。

 その瞬間、道哉の周囲を囲むように空中に描かれた大量の魔法陣と異形の使い魔たちが現れた。

 この場に出現した瞬間、道哉は偽装された大量の攻撃手段を見抜いていた。いや、『道哉にも感知できるように仕掛けられた』数々の罠を理解させられていた。

 世界最高の魔術師自ら仕掛けたそれらに臆することなく前を見つめる道哉を今度こそアーウィンは手放しで称賛する。


「だが、その心は君の力に見合っているかな?」


 使い魔たちに号令が下される。

 宙に浮かんだ魔法陣が発光を始めた。


「行」


 け、と続くはずだった声が途切れた。


 ザンッ と音を立てて、彼の首と両腕が宙に舞う。

 先ほどまで道哉がいた場所には簡易的な魔術が刻まれた大量の爆弾。

 アーウィンと使い魔を囲むように四方に突き刺さった短剣が結界を発動し、圧倒的な爆発が結界内を薙ぎ払った。







 はぁ、と体に溜まっていた緊張を吐息とともに排出する。

 個人が手に入れるには過ぎた威力は、刻まれた魔術のおかげだった。

 魔術師の拠点攻略用に作られたそれは、対となる特殊な結界具と同時に使って初めて威力を完全に内側に集中させる。


「攻撃を予告するなんて馬鹿のやることだ。ついでに魔術師が前衛と近距離で相対するならもう少しまともな防御術を使っておくんだな」


 そう、道哉の勝利は必然だった。

 いくら数百年に来たとしてもあくまで技術者である魔術師が近接戦闘で道哉に勝てるわけがない。

 存在する場所がわかっても、見えなければいつ攻撃が来るかすらわからない道哉に対して偽装を解き、あまつさえ攻撃の予備動作まで見せた。

 彼の名声を考えればあまりにも稚拙な行為。


 それはつまり。


「で、お遊びはそろそろやめにしないか」


「そうだな、非礼を詫びよう」




 そして世界が砕け散った。



 光と闇の立場が反転し、大地は空へ、空は大地へ、生者と死者が等価となり、世界の法則が組み替えられる。

 影絵の世界は既に無く、燃えるような夕日が顔をのぞかせた。

 足元には半径が20mにもなろうかという巨大な魔方陣。

 そしてその中心の祭壇には、道哉の家族が規則的な呼吸で安らかに横たわっていた。


 世界を作りかえる術式。

 素人目でも翠鈴を核として起動していることがわかるそれが、音もなく世界の一部を侵食していく。

 感じた怒りを完全に抑えつけ、冷却した頭で白い服の男を見る。


「自らに対する危険を完全に消し去ったその力と判断力と称えよう。そうでなくてはつまらない」


 数時間前と同じ乾いた拍手の音。

 揺らぎ、混沌に満ちる世界において鮮烈な白が網膜に焼きついた。

 その外見に内面を何一つ表すことなく、アーウィン・レスザールが立っていた。


「では改めて聞こうか。何の目的を持って今この場に足を運んだのかな?」


 先ほどと同じ問い。

 だが感じられる深みと圧力は段違いだった。

 軽い深呼吸。

 感情のままに出そうとした怒声を飲み込んで、道哉は低い声で答えを返した。


「何のためにここまで大がかりな儀式をしたのか。それを聞きたい」


 ここまでアルマゲストが組織的に動いたことは未だかつて数えるほどしかない。

 個人としての動きならば各地であるにもかかわらず組織としてはそれに不干渉を貫いてきたのに、なぜ今回は。

 問いかけに対して返答とも言えない言葉。

 それを特に気にすることもなく、アルマゲストの首領は決定的な一言を放ったのだった。







___運命というものを感じたことはあるかな?










 あとがき

 時間が足りない。
 といいつつこれを書いてる俺は何なんだろうか。
 どうも、自分で自分を追い込むのが好きな作者です。
 いつも感想ありがとうございます。ちょこっと出ていた本板への移動につきましては、2章が区切りを迎えてからにしたいと思います。
 さて、時間がないとか言っておきながら書くのが楽しくなってまいりました。
 しばらく書けないのか、それとも禁断症状が発動して書いてしまうかはわかりませんが、楽しみにしてくださる方は気長にお待ちください。


 7/15追記
 どうも納得いかないのでそれなりに加筆。
 伝えたいことの半分も伝わってないのに文章だけはクドくなってしまいました。申し訳ない。
 

7/14 初稿
7/15 加筆修正
3/13 誤字修正



[9101] 第14話
Name: 酒好き27号◆3e94cc3d ID:6939b0d4
Date: 2010/03/13 01:08

「答えは、無いようだね」


 沈黙に沈む世界。再び浮かべた笑みとともに、アーウィン・レスザールが憐れむように首を振った。


「だがこれでわかっただろう。私たちは対立する必要などないと」


 見た者に安らぎを与えるような微笑みが道哉を縛る。


「見たまえ。今宵世界はその装いを変え、真理への道を開くだろう」


 世界は自力で真理に辿り着いた者にしか究極の知識を与えない。

 どのようにその知識を手に入れようが、辿り着いていないものには決して理解できない情報の波。

 到達者の知識を強奪したところで意味はない、悪魔から知識を得たところで意味はない。

 なぜなら、手に入れても理解できなければ意味がないのだから。

 世界によって、真理は保護されるものなのである。

 解読することすら不可能な流動する知識を理解するために、彼は世界を欺いた。


「さあ、これが始まりだ。これからの壮大な戦いの序曲が奏でられる」


 巨大な魔法陣が発光を始めた。

 渦巻く矛盾、逆巻く力。


『開け。閉じよ。歪み、生じよ。

 我らここに供物を捧げ、虚無の知識を欲す者なり。

 古の盟約。残滓を基に再び破滅への道程を刻まん。

 穢れよ。穢れよ。穢れよ。

 三度繰り返すは重ねの言葉。我らは重なり、共に得る。

 均衡の片翼。交わらざりしもの。悠久の時の流れに漂う汝』


 道哉には理解できぬ言語。

 頭の中に直接意味を響かせる声が、空間を超えて広がってゆく。


『供物は世界。世界を創造する御魂。

 貴きものよ。尊きものよ。二元の頂点、世界の結晶』 


 行使される世界を改編する力。

 この世界はアーウィン・レスザールの支配下にある。

 道哉の体にすでに自由はなく、声帯すら凍りついていた。

 見開かれた目に映るのは数歩の距離にある魔法陣と、中に渦巻く力の渦。

 動くことなど出来ない。世界の呪縛はそれを許さない。

 絶望の声さえ口に出来ない。




『汝に請う。契約を』




 瞬間、世界が震えた。


 ズルリと空間が裂け、圧倒的な力の塊が姿を現す。


 アーウィン・レスザールの顔が歓喜に歪んだ。


「そう、これだ!我らが悲願はこの知識で成就する!」


 悪魔から彼に向って伸びる光の帯。

 脈動するそれが知り得ぬ知識を流し込んでゆく。

 そして翠鈴を使うことでアーウィンが限定的に手に入れた権能が、彼に理解できぬ知識を噛み砕く。

 止めることなど出来ない。

 儀式が始まったためか呪縛こそ解けているものの、魔法陣の周囲に渦巻くエネルギーは触れた瞬間道哉を焼きつくして余りある。

 世界の法則と異界の法則がお互いを食らいあう儀式の中核において、人間など波間を漂う芦にすぎない。


___だから、どうした。


 俺の命以外、全部まとめてくれてやる。

 覚悟など生まれたときから決まっていた。

 一瞬生じた躊躇いにも似た感情を笑い飛ばす。




 そうして彼は、光り輝く儀式の中心に身を躍らせた。




 それは、至極当然の光景だった。

 荒れ狂う力の波が、音を立てて道哉の体を侵食してゆく。


 奇跡は起きない。

 奇跡は起きない。

 奇跡なんて決して起こらない。

 我知らず瞳に涙が浮かぶ。


 無力。


 その言葉が胸をえぐった。

 世界とは、運命とは何か。

 自分がここにいる意味は何か。


「………それ、でも」


 内圧に耐えきれなくなったかのように皮膚がはじけ血液が飛び散る。

 ひとりでに骨に亀裂が入り、臓腑からにじむ赤が口からあふれ出る。


 楽になってしまいたい。

 何も考えずに身を任せてしまいたい。

 運命という流れがあるのならば、それが自分に有利に働くのならば、流されることを肯定しろ。


「俺…は……」


 これが終われば、力が手に入るかもしれない。

 何にも侵されざる強大な力が絶望を対価に与えられるかもしれない。

 たかが他人の命一つ。

 言葉にすればそれだけだ。

 己の命に換えることはできない。ただそこにあるもの。


「無駄だ」


 目の前の男が、抑揚のない声で言う。


「その行為に意味はない。我が使い魔を倒したことは称賛に値する、未だ術の余波に抗い続けていることも評価しよう」


 この世界の主。

 神にも等しい権能を所持する男が、それをもって道哉を縛る。


「だがそれ以上のことは決して起こし得ない。君にはもはや、残された手段など存在しないのだから」


 そうだ。

 反論さえ浮かばない。

 いまだに立っていることが不思議なほどの傷。身を苛む世界の反発の余波。底が見え始めた力。

 状況全てが己の敗北を指し示す。

 手段も無しに飛び込むことは愚かだ。

 敵わないのならば、自分の出来る範囲で代替手段を用意するか諦めるしか道はない。

 全ての道が閉ざされたならば今は素直に諦めろ。

 それでも闘志を燃やし、雌伏の時を耐えて、いつの日か必ず_____









___いつの日か?


 たった今、目の前で繰り広げられる絶望

 それに対していつの日かだと?


 くだらない。

 ああ、くだらない!


「笑わ、せるな」


 拳を握れる。己の足で立っている。耳は音を捉え、目は敵を睨みつけている。

 この意志が、この程度で折れるようなものだと思っているのか。

 目の前には運命がある、世界がある、絶望があり、希望があり、敵がいて、家族がいる。


 ならば十分だ。

 さあ心を震わせろ。感情を爆発させろ。限界を超えた力を振り絞り、完璧に制御して叩きつけろ!


「世界がどうした」


 運命がどうしたというのだ。俺はここにいる。俺はここにいる。俺はここにいるんだ。世界が変わろうが俺は決して変わらない。自身を飲み込む世界を見ろ。黄昏に沈む歪んだ世界。既存の世界と反発し、すぐにでも限界が訪れる程度の世界。ハッ、鼻で笑う。表面だけ取り繕った不完全な景色。この程度が世界を左右するなどと言うのならば底が知れる。


 奴は言った「世界を解き放つ」と。嗚呼、それは尊い願いだろう、敬意に値する意思だろう。世界最高の魔術師、その称号を手に入れるまでにどれほどのものを捨ててきただろうか。だがそこに優しさはない。ただ気に入らぬと遊び半分に破壊する餓鬼。人類を救う?世界を解き放つ?人類を救うために人間を殺し、世界を解き放つために世界を壊す。それを高笑いしながら行う彼らを、俺は決して認めない。


 力を失っていた両腕に血液という名の炎を流し込む。

 今にも崩れかけていた両足に意志という名の鋼を纏わせる。

 心臓が、脳髄が、魂が、奴を叩き潰せと猛って吠える。



「が、あ………あああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!」



 天を衝いて轟く咆哮。


 鉤爪のように曲げられた両手をもって、道哉は世界という名の縛鎖を引きちぎった。
 
 
「馬鹿な!!」


 目の前の男が初めて笑み以外の表情を浮かべた。

 純粋な驚愕。

 現在進行形で手に入れている知識も、悲願の達成までの計画も全てを吹き飛ばすような驚きが伝わってくる。

 余裕などない、いつ倒れてもおかしくはない。

 滴る血液が思考能力をガリガリと削っていく。


「は、はははは……」


 けれどアーウィンの表情を変えてやったことがどこか可笑しくて、道哉は楽しげな笑い声をあげた。

 命以外で払えるだけの対価をすべてくれてやり、ついに彼は世界を改変する術式の中核に足を踏み入れた。


「このようなことが!」


 驚愕の表情を張り付けたまま、世界の主が手をふるう。

 触媒や術式を大幅に短縮して、混沌とした輝きをもつ地獄の炎が召喚される。

 だが、それより一瞬早く



___お前がこの世界で神に等しいというのなら



 道哉はゆらりと地面に膝をつき


___俺は、その源泉を破壊する。



 全身全霊で目の前の淡い光を放つ魔法陣に拳を振りおろした。



 それと同時に、圧倒的な力で意識の8割が消し飛ばされ―――









 世界の権能が混線する。

 乱れた術式が無差別に世界を改変していく。

 無秩序な力は、新たに発生した焦点を求め殺到する。

 それは所々欠けた場所から入り込み、蹂躙した。

 自然は不自然に、4大元素はその要素を入れ替え、道哉の中の形なきものが意味を変えていく。

 霊的欠陥という不自然が自然という名の不自然に書き換わる。

 彼の有するありとあらゆる属性がランダムに変換されていく。


「が、ぁ……ぐぅ……」


 自分の根源が全て混ざり合い、無限に分岐していく感覚。

 例えるなら、全身全てのパーツの区別がなくなり、手足は断たれ、その瞬間に治癒し、さらには各部分が増加しては消え去っていくような果てしのない違和感。

 実際の世界からの抵抗力も相まって道哉の体と魂が悲鳴を上げる。


 無茶をやったツケ。運が良ければ助かるだろうな、と道哉は薄れゆく意識の中思った。

 助けなど求めるべくもない状況。

 全ての結果は、己の力で起こすべきことでしかない。

 だが、脳と魂の処理速度が絶対的に追い付いていない。

 その情報量は容量からとっくの昔に溢れ出し、制御が甘くなった全身がガクガクと震えている。


 かりそめの世界に干渉し、その機能を簒奪した道哉は既に道哉ではない。

 彼は世界であり、核である翠鈴であり、一部であるアーウィンであり、同時に異物である悪魔でもあった。

 膨大な力に飲み込まれ自己が喪失する。

 体こそ形を保ったままだが、果てしなく拡散した彼の中身は自身を自身として認識できない。

 2割だった残りの意識が1割となり、5%になり、ついには消えようとしたその時


『道哉!』


 大切な人の、声を聞いた。












___道哉は、風みたいな人ね。


 1ヶ月と少し。

 共に過ごした中で出た、過ぎ去った瞬間に忘れてしまうような何気ない会話。


___なぜって?


 彼女はいつものように穏やかに笑って、彼を表現した。


___だって道哉はいつも私たちとは違うものを見てる。

   だから近づいて触れても触れたような気がしないし、同じものを隣で見ても隣にいると確信できないの。


 目の前に立って、男の頬に触れる彼女。


___あなたは、ここにいる?


 その時、自分がどんな顔をしていたのかはわからない。

 けれど彼女は取り繕うかのように言葉をつづけた。


___それが寂しいわけじゃないの。

   風や空気っていうのは、触れられなくてもそこにあるのが自然なものだから。

   でもあなたはいつか、風みたいに私の手の届かないところに行ってしまいそう。


 その言葉とは裏腹に、彼女の顔は儚く。


___もしそうなっても忘れないでね。私たちは家族なんだって。


 それほど長い時間を共に過ごしていないにもかかわらず、彼女の瞳に他人に向けるような光は何ひとつ無く。



 やがて避け得ぬ別れが来る。そう確信しているかのような一抹の寂しさが浮かんでいた。










 自分を包みこもうとした炎が、何らかの干渉を受けてかき消される感覚。

 いつの間にか閉じていた瞳を静かに開く。

 目の前には冷え切ったまなざしの男。

 暗黒を宿した瞳をもつ悪魔。

 そして、雲霞のような使い魔の大群がそこにいた。



 空を仰ぐ。



 いつの間にか完全に日は落ち、空には星が輝いていた。



 道哉は己の血にまみれた手で、涙をこらえるように目元を隠した。

 ため息のような、音と意味をなさない声が口をつく。


___運命の流れに身を任せ、抗いながらも流され、そして、ここまで辿り着いてしまった。


 アーウィンの口が動く。

 使い魔の群れが脈動する。


___それでも、確かに変わっている。あとは結果唯ひとつ。


 血の気こそ失せているものの、いまだ呼吸をつづける翠鈴を見る。

 ありがとう。

 心の中で静かにつぶやいた。

 ゆらりと立ち上がり、軽く足を開く。


「さあ、来いよ」


 異形の声が空気を震わせ、彼らの足が大地を踏み鳴らす。

 1対100

 目の前に迫る絶望。

 死を予感させる殺意。

 かき消された炎の残滓が宙を舞う。













 そして、荒れ狂う暴風が断末魔ごと異形の群れを叩き潰した。








 あとがき

 皆さんは、運命というものをどう思いますか?
 私のスタンスはこの作品に示しているような考えなのですが、友人にとってはロマンのようです。
 歳を考えろって突っ込むのが楽しい楽しい。
 どうも、本格的に時間が足りない作者です。
 展開の速さを売りにここまでたどり着きました。ひとえに皆様の応援のおかげです。
 2章もついに終わりを迎えそうです。次の更新は8月中旬になるかも?
 今回の話は自分の中で改善の余地があるものなので、皆様の感想や意見をお待ちしております。



7/26 初稿
3/13 誤字修正



[9101] 第15話
Name: 酒好き27号◆3e94cc3d ID:6939b0d4
Date: 2010/03/13 02:55

 体が軽い。

 全身を駆け巡る今まで感じたことのない力。

 精霊たちの祝福の声が瘴気の混じる大気を満たした。

 この世界に新たに誕生した風と共にあるものを助けんと無邪気に力を貸してくれる未分化の意識たち。

 既に限界を迎えていたはずの手足は精霊たちの力を借りて脈動する。

 本来ならばすぐにでも治療を必要とする程の傷をかりそめの力で抑え込んだ。

 応急処置というものが本格的な治療の全段階として行われるものであるならば、それは応急処置などと呼べるものではなかった。

 近い未来における破滅を予期しながらも、今だけ動けばいいとするその行為は自殺に近い。



 とっくの昔にカウントダウンは始まっている。

 0になる前にすべてを終わらせよう。さもなくば、俺は何も成し得ない!



 何かが噛み合ったような感覚があった瞬間、彼はあふれ出た力をそのままに使い魔の群れに突っ込んだ。

 風を伴った体当たり。それだけで十体以上の使い魔が消滅する。

 重傷の身であるためか、覚醒時のブースト状態ともいえる一時的な能力の向上がその一撃で消失した。

 それでも彼は動揺を見せず、遅滞なく動き続ける。

 血液を飛び散らせながら力強く踏みしめられる軸足が滑らかに重心を移動。

 骨折の痛みを気力で抑え込み、修練の果てに固くなった拳を振るった。


「ギャウン!」


 いくら気で強化していたとしても、現在の体調ならばたいしたダメージを与えられるはずがない。

 しかし、彼の拳は容易に狼のような使い魔の胴体を貫き、消滅させた。

 遅滞なくターンをするかのようにくるりと回転する。

 振り返った先にいた人型。その分厚い筋肉に覆われた胸板をやさしくなぞる人差し指。

 次の瞬間にはその人差し指の軌跡に沿って切断された物言わぬ肉の塊が散らばるのみ。



 熱に浮かされたように道哉は使い魔の軍勢を屠ってゆく。



 精霊術師にとって重要なのは意志力と制御である。

 しかし風術師としての力を手に入れたばかりの道哉にとって、意志力こそ十分にあるものの制御の点では新たな腕が増えたような感覚であるために威力のある攻撃ができない。

 だからこそ力の範囲を自分の周囲に限定し、攻撃は実際の体の動きに沿って発動することで威力の減少を可能な限り抑え込んだ。

 例え今の道哉が全力を持って風の刃を放ったとしても、そこにどんなに多くの精霊が込められていたとしても、わずか数メートルを進んだ瞬間に霧散するだろう。

 放つ瞬間に合わせて腕を振ることでイメージを補わなければ、放った瞬間に霧散したとしてもおかしくはない。

 だからこそ一定以上距離のある精霊は空間把握にしか使用できず、比較的距離の近い精霊を常に引き寄せて身にまとわせる。

 本来の速度からしてみれば半分以下になったはずの回し蹴りは振り向きざまに背後の使い魔の頭を爆砕させ、軽く放った掌底は飛びかかってきた異形の胸の中心を陥没させながら10メートル以上吹き飛ばした。

 鉤爪のように曲げられた右手をたたきつければ深い5本の裂傷が刻まれ、その流れのままに左手で振り向くように裏拳を放てば数匹まとめて使い魔たちが吹き飛ばされる。


 見るものからすれば本当に弱々しく遅い舞踏だろう。


 風術がなければ下級の妖魔すら屠れまい。

 傷こそふさがっているものの受けたダメージは甚大で、体力を消費するたびに思考にノイズが走る。

 それでも道哉は笑みすら浮かべて拳を放ち、重力などないかのように舞い、体重差をものともしない蹴りで敵を吹き飛ばしていた。



『ゴォォォォォォォォォォォォォ……………』



 地鳴りのような声をあげて迫りくる、ひときわ大きな体を持つ鬼に似た異形。

 その丸太のごとき両腕が道哉を握りつぶさんと伸ばされる。

 相手の攻撃の風圧に押されるかのように彼はスルリと身をかわしていく。

 完全に避けたにもかかわらず研ぎ澄まされた妖気によってビリビリと体が震え、抑え込んだはずの傷から少量の血がにじんだ。







___ああ、そうだ。いつだってそうだった。


 ほんの少し新たに血液が失われただけで、彼は体力が大幅に削られたことを自覚する。

 余波だけで追いつめられるこの状況を初めて自覚したかのように、どこか茫洋としていた彼の目に静かな覚悟が戻った。


___お前たちは、俺を殺せる。あいつだって俺を殺せた。


 焦れたように首を振る巨体。

 何かを握りしめるようにした手のひらに濁った色をした力が集まってゆく。

 大地に大穴をあけて余りある力。

 それから逃れるには、あまりにも傷を負い体力を使いすぎた。


___そして、彼らも俺を見下す程度の力は持っていた。


 そうだ、俺は弱い。

 昔だって今だって、俺は弱かったんだ。

 いつの間にか自分をごまかしてはいなかったか。自分に嘘をついてはいなかったか。

 自分が『強い』などと思いあがってはいなかったのか。



 激発寸前の力が目前で不気味に震えている。


___今だってそうだ。この体で、一撃食らえば俺は死ぬ。あのときだって、奴が俺を見ていれば出会った直後に死んでいた。


 今まで出会った戦う手段を持つ者たち。


 その全てが己とは比べ物にならない力を持つ強者ばかりだっただろう。






 だからこそ、俺は全てを出し尽くさなければ生きることすら許されない!






 どこか己を卑下した考えをもって、道哉はふらつく体に檄を飛ばした。

 おおよそ半分まで減じた使い魔たちに動きが生じる。

 これからなされるであろう力の衝突に備えて防御の体勢をとる者や、翼をはやして距離をとろうとする者たち。

 目の前で力を溜める巨体はどうやら彼らとその位階が異なるらしい。

 チリチリと肌を焼く圧迫感。

 天高く掲げられた漆黒の腕を見つめる道哉もまた、瞳を半眼にして内圧を高めていた。

 生半可な攻撃では小揺るぎもしないほどの巨体とエネルギーに対抗するため、ありったけの力を集約して仁王立つ。

 巨体に似合わず、透き通るような銀色の光を放つ眼光が道哉を貫いた。

 それに合わせるかのように、道哉は腰を落として右の拳を胴体に引きよせた。



 どこか侍同士の立会いのような静謐な雰囲気が辺りを包む。



 先ほどまで咆哮を上げていたような有象無象の魔たちも、どこかその空気に呑まれたように一切の動きと音を失っていた。

 コイン、木の葉、わずかな音。

 それらを合図として始まるようなまっとうな決闘ではありえない。

 己の持つ最大の一撃を、いかに被害を少なくして相手に当て致死さしめるか。それだけを考えて相手の隙をうかがっているにすぎない。

 どちらの保持するエネルギーも解放するために一瞬の隙が生じてしまうほどに大きく、なおかつ放たれた相手がその一瞬で自分を消滅させられる攻撃を放つだけの速さを持っている。

 決闘でありながらも決闘ではなく、殺し合いのようで殺し合いらしくない静寂。



 その均衡を破ったのは、やはり残された時間が少ない道哉だった。



 眉毛まで伝わってきた血液を何気ない動作でふき取る。

 相手は彫像のように動くことはなく、ただ瞳だけが爛々と輝いて道哉を見つめていた。


「お前に、俺は殺せない」


 どこか祈るように、20mほど先にいる巨体に向かって宣言する。

 既に拳は解かれ、棒立ちともいえる格好で道哉は敵に己を誇った。



 撃ってこい。当ててみろ。この俺を、殺せるものなら殺してみるがいい。



 相手が自分の言葉を理解するような存在だと確認することもなく。コミュニケーションをとれるような知性を感じ取るわけでもなく。

 ただ相手に挑発ともとれる敵意をぶつけることで真正面から力を受け止めて見せることを示した。


 殺し合いをルールある決闘へ。


 相手の隙を狙って繰り出されるべき大技を相手に宣言させて使わせる。

 その大胆不敵ともいえる様子に目を細め、眼前の敵は掲げられた腕に力を込めた。





『ゴァァァァァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!』


 行くぞ。





 そう言われた気がして、道哉は猛獣のような笑みを浮かべた。

 空間すら引き裂きながら、天高く掲げられた巨大な腕が最短距離で振り下ろされた。



 炸裂。



 轟音を立てて周囲にまばらに点在していた木々がなぎ倒され、宙を舞う。

 その閃光は周囲の使い魔たちの眼を焼き、その振動は遠く離れ堅牢ななずの祭壇を揺らがせた。









 そして、土煙が晴れた後。


 まるで隕石が着弾したかのようなクレーターの中心に存在していたのは、鬼のような巨体だけだった。






























 それに気づいたのは、まったくの偶然だった。

 それを感知したのは、全くの偶然だった。



 風と共に流れ込んでくる膨大な情報が脳裏を満たし、その整理に手いっぱいだった彼がふと感じた違和感。

 既に崩壊しかけた術式と契約の失敗における反発が空間を満たし、その制御に手いっぱいだった彼が偶然に感知した存在があった。



 風の精霊が自然に見逃すように仕組まれ、違和感がない場所が存在しないこの場において唯一異常なしであるとしかわからない場所。

 唐突に強大な力を使用した存在が風使いだと理解した瞬間、術式に使用した膨大な数の触媒をそのまま転用し起動した対精霊術師用隠蔽結界。




 道哉は戦闘を維持しながら慎重に捜索を行い、そこがいつの間にか認識内から消失していた翠鈴とアーウィン・レスザールの居場所だと確信する。

 その結界を維持しながら術式と契約を同時に制御。そのどれもが失われて久しく、制御に困難を極める種類の魔術であるのにもかかわらず、神業のような手腕と膨大な魔力をもってそれらを行使する。




 本来ならば気づくことはなかっただろう。

 本来なら感知できるはずもない。




 100を超える使い魔の軍勢との戦闘において、身につけたばかりの風術で広範囲を捜索することなどできはしない。当たり前のように異常がないという風の精霊の言葉に従うはずだったのに。

 いくら世界最高の魔術師だとしても、人間のキャパシティを超えることなどできはしない。このような高位の魔術の多重起動は人間の限界ギリギリであるがゆえに最高の集中力を持って行い、外界に意識を振り分ける余裕などないはずなのに。




 ひときわ大きな使い魔との激突の瞬間、彼は自らを強力な風の結界で覆い後方へ飛んだ。

 術式の混線に応急処置を施し、悪魔との契約が半ばでキャンセルされたことにより自分の魂に伸ばされた悪魔の腕を術によって惑わせ、代わりの対価を差し出すことで回避する。それらが一応の区切りを見せた瞬間、彼は即座に物理的魔術的な性質の両面を備えた結界を起動した。



 放射状に広がる破壊エネルギーを推進力として使い、乱戦の果てにかかなりの距離を移動していた自分を儀式の場所まで高速で弾き飛ばす。

 足元の魔法陣に含まれる刻印や手元の薬品、貴金属などを使い並の魔術師では構築に1時間はかかるであろう堅固な結界を僅か数秒で構築する。




 完全には相殺しきれなかった衝撃が骨を軋ませ、思わずもれそうになったうめき声を奥歯を噛みしめることで封殺した。

 一応の区切りこそ付いているものの継続している高位魔術に加えて行使される力が体を傷つけ、頬に走った朱線からこぼれた血液が真っ白な服に赤を付け足した。




 自らの後方300m。
 距離が離れた精霊を引き寄せることができない道哉は、移動時に接近した精霊を片っ端から引き寄せ強靭な意志で保持する。

 彼の周囲、半径20mほど。
 七色の輝きを持つ透明な壁を作り上げたアーウィンは、それで安心することなく腕を動かし続ける。




 仙術で力の制御を学んだ。だから、この程度で終わるわけがない!

 目覚めたばかりの風術師未満ごとき、何の障害になるものか。




 軽く握られた右手に精霊を集め、研ぎ澄ませていく。

 彼の頭脳に保管されている万に届こうかという術の中から今現在の状態で使用可能なものを選び出し、組み上げ、起動を保留して待機。




 まさに風のごとく接近する道哉は、ついに結界の概要を把握する。

 そうして彼は迎撃の準備を整える。




 何も分からないということがわかった程度のものであるが確かにそこは儀式の中核であった場所であり、間違いなくそこに翠鈴の気配を感じ取る。

 結界を通してまでも伝わる強烈な力の波動。自らの使い魔が放ったであろうそれにまぎれて高速で接近する圧縮された嵐を観測した。




 先ほど術式の中心に飛び込んだ要領だ。一点に力を集中し、少しでも揺らいだ部分から一気に力を流し込んで道を切り開く。

 先ほどの不可能を可能にした男を思い出せ。あの男はすでに障害でも素質ある者でもなく、正真正銘私の敵となり果てた。




「アーウィン・レスザァァァァーール!!!!」


 接触の瞬間に上げられた叫びは敵対か挑戦か、それとももっと穏やかな何かだったのかもしれない。


「神凪、道哉………!」


 急激に増大した負荷に、数百年の年月の末に摩耗したはずの強い感情が言葉となって迸る。彼はようやく本心からの賞賛と敵意を相手に向けた。





 落雷のように迅速に、銃弾のように一点に。

 そして有無を言わさぬ威力と共に、風の刃は振り下ろされた。

 その一撃で堅固なはずの結界は断ち割られ、使用されていた魔力の残滓がまるで砕けたガラスのように降り注ぐ。


『灼熱 閃光 天雷 奔れ!』


 既に組みあがっている魔術の同時起動。

 先ほどまでの道哉ならば感知することすらできず、なすすべもなく惨殺されていたであろう苛烈な攻撃を防御を捨て右手に圧縮した風で切り捨てる。

 緩急をつけて襲い来る十二条の攻撃を、あるものは回避し、あるものは迎撃した。

 既に配置してある術式の全てを風によって把握し、視線すら向けずに起動する寸前で輝く魔法陣を切り捨てていく。



 「翠鈴を返せ」などと言うことはない。

 魔術師に会話程度でも時間を与えることは死とまではいかないものの多大な不利を意味する。


 相手を見るがいい。


 世界で並ぶものなき高みにいる者。知らぬものなき至高の座に百年以上座り続けている存在。

 その規格外が本気で自分を殺しに来た。自分という存在を認めて、全力で排除しようとしている。

 ならば、問答など不要。こちらはこちらの全力を持って翠鈴を強奪してやろう!















__最悪の相手だ。

 アーウィンは心の底から忌々しげな思いを抱くことになった。

 いままで気しか使ってこなかった相手。

 気は全ての属性に優越するものの、物理的な限界を超えることは決してない。

 いや、超えることは可能であるものの、それをなし得たときその存在は仙人と呼ばれるようになるだろう。

 だからこそ感知能力の低さもあいまって魔術師にしてみれば最も戦いやすい相手であるといってもいい。

 火力を上げればそれに足るし、空間ごと消すような攻撃を仕掛けてもいい。下手をすれば人間の出力と速度を上回る雷撃を一発撃っただけで勝負は決まるだろう。

 現に道哉が干渉程度しかできなかったような結界さえ事前に準備しておけば一方的に攻撃を加えることができる。



 だが精霊術師は別物だ。



 どんな存在だろうと必要なだけの精霊を集め意思のものとに制御すれば、破壊できないものなど本当にわずかだ。

 それが目の前の相手のような強き意志を持つものならなおさらである。

 さらに風という属性。

 真正面から戦うという選択肢が、その準備の手間や即効性の問題からほとんど選択されることがない魔術師にとって風術師の感知能力は致命的であると言ってもいい。

 罠など相当に準備と隠蔽を重ねなければ一瞬で見破られ、それが物理的なものでなかったとしても問答無用のシングルアクションで消滅させられる。

 本来の定説である風術の威力不足も、この相手では桁が違う。

 遠距離はあちらの土俵、近距離でさえ修練を積んだ精霊術師と格闘する程に体を鍛えていないため敗北する。

 アーウィンも永き時の果てにそれなりの武術はたしなんでいるものの、風術と体術を組み合わせるようなでたらめな相手に挑む気はない。

 久しぶりの大魔術で触媒も魔力も残り少なく、事前の準備もない。

 少しでも探査能力を減少させようと使い続けている隠蔽結界の維持で使い魔たちに与える魔力の余裕がなく、既に全て送り返してしまった。

 また召喚したとしても与えられる魔力が少ないために一瞬で倒されるだろう。

 隠蔽結界を解いた瞬間に魔術の軌道を発動前に全て見切られ、なすすべもなく切り捨てられることを彼は理解していた。

 これが事前に相手が風術師だと知っていたら、要塞のごとき入念な準備をしていたら、これほどまでに術式が破壊されることがなく、連れてきていた人員の全てが現在その制御に死力を尽くしていなければ。

 全ての負のベクトルが彼を指し、絶妙な加減で拮抗していた戦闘がゆっくりと彼の敗北を予感する。








 そして風術と魔術の乱舞のさなかに生じた一瞬の隙。



 タンッ、という軽いひと蹴りで目の前に出現した風術師を認識した瞬間、彼はここ100年では感じることもなかった死の予感が首筋を撫でたのを自覚した。
 

























 彼にとっての最優先は決してアーウィン・レスザールではなかった。

 道哉にしてみれば翠鈴さえ助け出せればよく、後顧の憂いを断つためにアーウィンを殺しておくのも悪くはないかと思う程度だった。

 殺したとしてもアルマゲストの攻撃対象になり、殺さなかったとしても翠鈴に危険が及ぶ可能性が残る。

 そういった板挟みの中、綱渡りのような攻防で生じた一瞬の隙。

 アーウィンの背後にいる翠鈴までの障害となるものが全て消えた瞬間に、彼は迷わず敵ではなく家族を取った。

 自分が目の前に現れた瞬間にほんの少し顔をこわばらせた敵を無視して彼は祭壇から翠鈴を抱き上げ、一気に離脱する。

 既に魔法陣とのつながりも感じられない。


 だが。


「なるほど、君は優先順位というものを間違えないようだね」


 先ほどまでの焦燥感や敵意をすべて消し去り、虚ろな瞳に戻ったアーウィンが述懐する。


「お前………!!」


 息もしている、心臓も動いている。

 しかし、何か大切なものが翠鈴の裡から感じられない。

 そう、まるでそれは――――


「だがこの場合、その選択肢は間違いだ。既に私が受け取った知識とその対価の関係は儀式が中断したとしても無くなることはない」


 そう、途中でどんなトラブルがあったとしても契約はすでに結ばれていた。


「本来ならば契約違反として私の魂が奪われるはずだった」


「翠鈴の魂を自分の身代りにしたのか!」


 あくまでも淡々と語るアーウィンとは対照的に、道哉の声は怒りに満ちていた。


「まさか。彼女のような希少な魂、失敗の対価としては高すぎる」


 部下からの念話に分割した思考で応答しながら、彼は生徒に語る教師のように丁寧な口調で説明する。


「一時金のようなものだよ。次の儀式の用意と供物が整うまで悪魔に預け、契約違反ではないことを証明したのさ」


「なるほど、それはつまり……」


 今までで一番の敵意をもって、道哉が体内で力を練る。


「そうだ。つまり、私を殺せば契約違反となり私の魂が奪われ彼女の魂は帰還する」


 その言葉が終るか終らないかで振られた腕、放たれた刃。

 だが、それは半透明になったアーウィンを通過し、一筋の傷も与えられずに霧散した。


「香港の組織と結んだ盟約の時間が過ぎた。私はここで失礼させてもらうよ」


 ほぼ全ての道具と魔力を使い果たしたアーウィンが部下の魔術で転移していく。

 既にこの場での勝負が終わったことを理解した道哉は、無駄に術を放つこともせず殺意を込めて彼を見送った。


「認めよう。君はすでに私の敵だ。容赦なく、私は君を殺すだろう」


 朗々と、透き通った声が星空にこだました。


「神凪道哉。その娘を救いたければ私が儀式を終える前に、その娘の体が限界を迎える前に私を殺すがいい」


 明確な殺意が交錯する。


「違うな」


 唇を釣り上げ、道哉は言葉を返した。


「俺はすでに神凪から勘当された身だ。呼ぶなら、そうだな……八神道哉とでも呼んでくれ」


 脳裏でかすかな苦笑を浮かべる。まったく、語呂が悪いにもほどがある。


 道哉が勘当されたことに、異物として排斥されたことに何の痛痒も感じていないことを見てとったアーウィンも不敵な笑みを浮かべた。







「いいだろう、八神道哉。偶然が重なった結果とはいえ私をここまで追い詰めた君に賞賛を。そして、次に会う時が君の最後だ」


「それはどうだろうなアーウィン・レスザール。自分が死なないように運命にでも祈ってろ」









 その会話を最後に、その場から彼がいたすべての痕跡が消え去った。


 魔法陣、祭壇、ふざけたことに戦いの痕跡すらそのほとんどが元に戻っている。


 道哉は腕の中で安らかに眠る翠鈴を見た。

 彼女を抱きしめ、彼は森の中で一人声もなく慟哭する。

 その悲しみと怒りに共感するかように、風の精霊がどこか悲しげに宙を舞っていた。











 あとがき

 8月中旬と言っておきながら少しばかり遅くなってしまいました、申し訳ない。
 ついに2章はここで完結です。
 皆様からの感想が時間に追われながらもとても励みになっております。
 今回は今までの中でも一番の文章量……なのかな?
 なんと伝えることは作中でのみという主義を全廃しまして、各話の解説なんかを書いてみることにしました。自分の文章力のなさに軽くへこみますね。
 最初の注意書きを読んだ上でお楽しみください。
 それと本板への移動に関しましては2、3日後に予定しています。
 うーん、少しばかり怖いなぁ。
 では、みなさんの感想をお待ちしています。



 追記

 私も感想欄で初めて知ったのですが風の聖痕の作者である山門敬弘氏がお亡くなりになられました。
 風の聖痕の続きが読めなくなってしまったことを惜しむと同時に、二次創作者の一人としてここに深い哀悼の意を表しご冥福をお祈りしたいと思います。


 追記2

 いろいろ考えた挙句、解説っぽいものを思い切って削除&誤字修正。やっぱぶっちゃけすぎたかなぁ。
 しかし、寄せられた感想はかなりためになるものでしたのでここに感謝を。うーん、読者の皆さんにはマイナスだったけど、作者にとってはプラスになりそうな予感。
 ちょっとした改定や加筆も視野に入れつつ細々と頑張っていきたいと思います。



8/21 初稿
3/13 誤字修正



[9101] 第16話
Name: 酒好き27号◆3e94cc3d ID:6939b0d4
Date: 2009/09/01 21:31


「後手に回ってる、か……」


 活気と声にあふれた騒がしいオフィスで、ある女性がいらだたしげに指で机を叩いていた。

 コツ、コツ、コツと規則的に響く音はわずかながら彼女に普段の冷静さを取り戻させる。


「4人目が出たそうだな」


「はい、手口はいまだに不明です。使用された物品すらわかっていません」


 一部の隙もなく茶色のスーツを着こなした壮年の男が厳しい表情を崩さぬままに問いかけた。

 対する女性はそれに対して背筋を伸ばし、現在の状況を簡単に報告していく。


「今までの犠牲者は4人とも共通点がありませんでした。年齢、性別、職業や出身に今のところ統一性は見られません」


 さらに彼女は事件の起こった場所や、遺留品、魔力等の残滓が皆無であることなどを補足していく。


「結構。それ以上の報告は文書として提出してもらおう」


 さらに自分の推論と我流のプロファイリングで犯人像の大まかな予想を述べようとしたところで、彼女の上司であるサミュエル・ロバーツ警部はなだめるように話の流れを断ち切った。

 一応話すことはやめたものの、どこか不満そうな顔をした異国の研修生に内心苦笑しながら彼は厳しい表情で続けた。


「君はどうもスタンドプレーに偏った捜査をしているように見える。我々は君にとってそこまで頼りない存在かな?」


 穏やかに、しかし断固とした厳しさをもって問いかける上司に彼女はうつむき、沈黙を返答とした。


「今述べたことだけで君が高い分析力と観察眼を持っていることはわかる。しかし私たちが組織である以上、担当官が一人で全てを行うということは非効率的だ」


___若いな。


 感情が読みやすい態度をとる女性に、彼はほんの少しだけ唇を緩ませた。

 彼の胸中で警察組織に入ったばかりの頃の想いがほろ苦い記憶とともに蘇る。


「現場の状況は鑑識が複数の手法で調べるだろう、プロファイリングには行動科学捜査アドバイザーや地理的プロファイラーだって存在している。さらに、ここに勤めている者たちは私を含め全員が君より経験を積んだ熟練者達だ」


 個人では限界があるからこそ組織としてあり、組織だからこそ多種多様な専門家を使うことができる。

 彼女の将来目指す立場から言えば彼女は地道な捜査をすべきではなく、捜査の全体を主導することこそが重要であるというのに。


「確かに君はまだ研修生だ。だが同時にこの事件の担当でもある。君の仕事は事件の捜査を統括することだ。鑑識でもプロファイリングでも聞き込みでもない」


 彼女には研修生と言う立場ながらそれなりに大きな権限が与えられている。

 帰国してから創設される部署の長になる予定であることが一つ。

 オカルト関係では重要視される名家の血筋であることもそのひとつ。

 そして、まだ20にも満たない年齢で解決した事件や倒した妖魔の数が確かな実績として認められているからである。


「研修生という立場だから多少の失敗が許されるとはいえ、解決が遅れればその代償は罪もない一般人に求められることになる」


 目の前の女性は一言も発すことなくそこにいる。

 しかし、強ばった頬が噛みしめられた歯と内心の悔しさを滲ませていた。


「肩の力を抜け、とは言わない。今の君にとってその言葉に価値はないだろう。だが、誰かと協力するということは君の将来にとって大切なことであるはずだ」


 どのように言ったところで何かに急かされるように捜査をする彼女を止めるには足りない。

 やむを得ない事態にまで発展したら強制的に担当者を入れ替え、早期解決を図ることもあり得るがゆえに彼は研修生の反発を招かないよう、ゆっくりと言い聞かせるように語った。


「足を止め、周りを見ることだ。遠い景色だけを見つめていれば足元の小石に躓くことがあるのだから」


 その言葉を受けてなお、彼女は周囲の喧騒に取り残されたかのような頑なな雰囲気を残していた。

 やれやれ、と言わんばかりにため息をつく。

 今までの穏やかな雰囲気を少しだけ厳しいものに改め、彼は最後の念押しを行った。


「Ms.橘。君は我々の心霊捜査のノウハウを学びに来たのではなかったのかな?ならばそれにふさわしい行いをすべきだ。自分がどうすべきか、今一度しっかりと確認しておきなさい」


 そういってロバーツ警部は去って行った。

 そして残された女性__橘霧香は絞り出すように吐き捨てた。


「そんなこと、わかってる……」




















 古都ロンドン。

 英国という国は現代においてもオカルト色を色濃く残す国として有名だ。

 妖精にそそのかされた話や、近代西洋儀式魔術などといわれるものを修めたとされる人間が真偽はともかくとして存在し、大戦中は占星術などを使用していたという噂まである。

 フリーメイソンの発祥やUFOの目撃例が多いのも英国であるのだが、これは雑学程度の話としてここまでにしておこう。


 古くから栄えてきた国であるということに加え、このようなオカルト色が強い国であるために充実している心霊関係の対策は陰陽寮の解体以降国家が主導する心霊対策機関が存在しない日本にとって手本となるべき国である。

 国家公務員1種を取得し、大学を卒業してすぐにエリートコースへと進んだ彼女は様々な繋がりを利用して未だ内定ではあるが、警察組織の中にオカルト対策の本部を作ることに成功した。

 追放された手前、実家の力を頼るわけにはいかなくなった彼女は以前個人的に依頼を受けた大物や協力したことのある専門家を頼り、ある程度の取り決めを作って反発を抑えた。

 例をあげるならば、術者たちの領分に干渉しすぎないことや国という情報網の提供、国にとって重大な事件とみなされるものに対する無償協力などである。

 個人として仕事を引き受けている術者や情報屋にしてみれば、国が自分たちの仕事をさらっていくことに反発を覚えるだろう。

 だからこそ、そのデメリットと等価もしくはそれ以上のメリットを示すことで半年近い話し合いの末にようやく決着を迎えたのだった。



 今の彼女にとって後ろ盾など無いに等しい。


 元依頼主であった警察の官僚などはあくまで話を聞いてもらい理解を得ることができただけで御の字であるし、同業者にしても口には出さないが不満と納得が半々と言った態度だった。

 そのような事情も相まって、この研修期間中に彼女がそれなり功績をあげられなかった場合、予定されている規模より大幅な縮小がなされることもあり得るのだ。


 それを実際に言われたわけでもなければ、通知されたわけでもない。


 しかし、オカルトという一般人にとってはイメージでしかないものに価値をつけようとするならば実績こそが何よりの証拠となるのは間違いがないのである。

 だからこそ、彼女は苦悩する。

 このような背景が全くない状態での研修ならばどれだけの人間と共に行動できただろうか。

 ただ学ぶことだけが目的ならばどれだけ楽しい研修期間になっただろうか。

 本場と言われる街で自分の力を何の制約もなしに行使し、一般市民を守るため、理不尽な力を振るう術者を駆逐することがどれだけ自分にとって嬉しいことだろうか。

 目的はあるが野心など全くといっていいほど持ち合わせていない自分が、無理をしてまで追い求める大きな手柄。



「悔しい、なぁ……」



 感情、立場、目的。

 そして何より一向に進展を見せない捜査が彼女を少しずつ追い詰めていく。

 彼女の手元には4枚のレポート。

 ロンドンの各地で廃人のようになって発見された、4人の男女の調査書だった。


「よし、じゃあ行きましょうか」


 どこか疲れたように彼女は車のキーを手に取って立ち上がった。

 犯人の手掛かりが全くない状況では、犯行現場や当時の状況から傾向を割り出す程度しかできず、それなりの使い手であると自負している陰陽術も出番がない。

 今自分にできることはそのわずかな手がかりから次の犯行現場を予測することだけ。

 気持ちを切り替えようとしながらも、どこか暗くもやがかかった気分のままに彼女はオフィスを後にした。



















 その事件は2週間ほど前にあった、1件の通報を発端とする。



『突然断末魔のような恐ろしい叫びが聞こえた』


 高級住宅地であるノッティングヒルに深夜突如として響いた声。

 その通報から15分後、駆け付けた警官が発見したのは虚ろな目をしてピクリとも動かなくなった一人の女性だった。

 暴れまわってついたようなすり傷などがあっただけで、精密検査の結果薬物反応や大きな外傷などはなく、唯一の手掛かりは無理やり首を抑えつけたとみられる大きな手のひら型のアザだけだった。

 奪われた金品は無し。

 性犯罪の痕跡もなく、目撃者は0であったため捜査は難航していた。

 その後も数日おきに点々と場所を変えて繰り返される犯行。

 通常の手段では説明がつかないとして警察の捜査本部は3件目の事件が発生した後、指揮権を心霊対策課に譲渡した。

 心霊対策課はこの事件が未だ殺人に発展していないこと(被害者に回復の見込みが存在するかは別として)、犯人が警察などの捜査を意識して犯行現場を変えていること、常に被害者は一人ずつであり絶叫が響き渡るため事件の発覚は早期であることなどから、当該案件が無差別殺人等の大事件に発展する可能性は高くはないと判断。

 日本からの研修生である橘霧香警部補を担当官に任命した。

 橘警部補はすぐに捜査を開始。

 各現場を心霊的観点から捜索、さらに病院に直接出向くなどして犠牲者の状態を確認し、貸し出された人員には資料を頼むなど雑用以上の使い道は無し。

 許可を申請し式を街に放つなどの行為を行うものの、現状では目立った成果は上がっていないとみられる。

 といった大ざっぱな報告が今出てきたオフィスでされているとはつゆ知らず、その話題の当事者である霧香は次に犯行が行われそうな場所を回り簡単な感知魔術をかけていた。

 基礎の基礎とも言うべき魔術だが、日本や中国などの術式体系とは全く異なった術式をロンドン行が決まってから短期間に習得したセンスと努力は目を見張るものがあるだろう。

 なぜわざわざ彼女が得意分野以外の術を行使しているのかといえば、環境や目的の違いによる。



 陰陽道は基本的に悪霊や悪鬼を敵とし、占いや祈祷を中心とする。



 直接戦闘能力は高くはなく、どちらかといえば式神や符を用いることが多い。

 痕跡がない状態では占いの正確性が疑われ、式神は使役数に限界があり燃費も悪い。符にいたっては街中に放置しておくことが難しいという問題点があった。

 だからといって陰陽師が役立たずというわけではない。

 媒介などがそろえば高確率で対象の位置を探り当て、危険な場所にも自分の意のままに操れる式神を送り込むことができる。

 方位が重要視される陰陽術を使うからこその空間把握能力などもあり、彼女が捜査の主導となって人員を使えばその頭脳も相まって理想的な捜査チームができるに違いない。

 だが彼女はこの研修で誰かを必要以上に頼ることができない。

 悩んだあげく、輝石や植物などを媒介とすることが多く、地水火風を使役するなど直接的な戦闘も可能な西洋魔術を補助として学んだのだった。

 単一の感情、この場合は気が狂うほどの恐怖や苦痛に反応するだけという簡単なものだが今回の事件にはうってつけだろう。

 5か所目の候補に術をかけ終えたところで、彼女の携帯に連絡が入った。



「はい、橘です」

『悲鳴を聞いたとの通報があった。5人目の被害者の可能性がある』

「場所はどこですか!」

『キングウィリアムストリートから……』



 場所を聞くと彼女はすぐに車に乗り込み、現地へと急いだ。

 思ったよりも近い。これなら―――!

 タイヤに悲鳴を上げさせながら誰よりも早く現場の近くに車を止めた彼女は、普段の冷静さをかなぐり捨てて走った。

 犯人が未だいるかもしれない。

 それだけを考えて人通りのない路地を走る。

 相手は単独犯か、複数か。

 人間だろうか、魔獣の類だろうか。

 何の準備もしていない状態で遭遇したら勝ち目はあるだろうか。

 考えることはとても多かったはずなのに焦りからか彼女はその全てを忘却し、ほとんど思考停止状態で彼女はとある一角に足を踏み入れた。



「ハズレ、か。思ったより時間がかかりそうだ」



 何の準備もしないまま、彼女は一人の青年と遭遇する。

 どこにでもいるような服装。

 東洋系の整った顔立ち。

 その男は静かにたたずみ、痙攣する被害者と思われる女性を見下ろしていた。

 何かを考えているように伏せられていた顔がゆっくりと上げられる。

 男の視線が霧香をとらえた瞬間、彼女は思わず後ずさった。

 感情を凍てつかせたその目は無機質な鉱物のようで、自分を歯牙にもかけていないことを雄弁と語る。

 彼からはなんの力も感じていないにもかかわらず、その体から不可視の圧力が襲ってくるかのようだった。

 決意や信念などというものよりさらに冷たく、もっと強固な意志がそこに存在していた。







 原作における風牙衆の反乱より2年前。



 魔都ロンドンにおいて、彼と彼女は出会った。



「そこから動くな!ゆっくりと手を上げ、膝をつきなさい!」


 向けられたのは厳しい視線と拳銃。


 取り出されたのは術の知識と符。


 そして、出会ったのは互いに家から追放された、似た者同士の男女だった。










 あとがき

 今回は少々短めになりました。
 というわけで3章の始まり始まり。
 前回から微妙にキングクリムゾンですがその辺はご勘弁を。
 次回更新は……申し訳ありませんが気長にお待ちください。
 皆さんの感想、ご指摘をお待ちしております。





[9101] 第17話
Name: 酒好き27号◆3e94cc3d ID:6939b0d4
Date: 2009/10/03 23:10

 目の前の男は、霧香を見てかすかに眉根を寄せた。

 その表情は焦りや面倒事を抱え込んだようなものではなく、どこかいぶかしげな雰囲気を伴ったものに思えた。

 銃を向けられているにもかかわらず全くといっていいほど揺らがない気配が逆に彼女に大きなプレッシャーとしてのしかかる。


「3度目はない!腕を頭の後ろで組んで膝をつきな」「一つ聞きたい」


 彼女の警告を遮るように放たれた言葉はいっそ穏やかですらあった。

 だが、その声は霧香の怒声を一刀両断して辺りに響き渡る。

 先ほどまでは独り言すら英語を使用していたはずの男は、ロンドンという土地でアジア系であるとしかわからない霧香に向かって『日本語で』話しかけた。

 この男は何を知っているのか。

 心理戦かもしれない。あてずっぽうかもしれない。もしかしたら、既にロンドン警察の情報は筒抜けなのではないか。

 何も分からず、何の準備もできていないということがこのときの霧香にはとてつもなく恐ろしかった。

 目の前の男から、全く言っていいほど力を感じない人間から噴き出る得体のしれない圧力。

 『これ』は殺意や憎悪といったわかりやすいものではない。

 気温が高いわけでもないのに彼女の背筋に一筋の汗が伝った。

 冷たい氷のような意思を持つようで、燃え盛るような激情を秘めているようで、優しさにあふれているようで、残酷さを感じるようだった。

 矛盾した印象を同時に抱かせる、そんな存在。

 例えるならば人間のような機械。

 己の意思を至上の命令として、ただ一直線に突き進む無機質の何か。


___冗談じゃない。術者として、実力として上回っていても、『こんなもの』を相手にしていたら命がいくらあっても足りはしない。


 戦慄とともに霧香は目の前の存在を理解する。

 若くして数多くの外道や妖魔を処理した彼女は、目の前の存在の本質をおぼろげながらつかんでいた。

 人並み外れた精神性が作り出す、どこか欠けていてどこかが増強された歪な力。



 それでも彼は、どこまでも人間だった。

 手段がないのなら一から作れ。術がないのなら命をかけて身につけろ。結果が出るまで諦めなどは許さない。

 本来ならあるはずのブレーキを意図的に壊したような危うさがそこにはあった。

 無意識に、霧香の足がじりじりと後方に移動する。


「貴女の名前は霧香、でよかったか」


 何かを思い出すような調子で、目の前の男はいとも簡単に彼女の名前を口にした。

 霧香の中で現状に対する危険レベルが一気に跳ね上がる。

 だが、彼女にはこの硬直した状況を打破する手立てが存在しない。

 ロンドンで警官は一般的に拳銃を携帯していない。

 本来ならば研修生であり、特殊部隊等に区分されていない彼女にとって街中で発砲するということは大きな意味を伴う。

 拳銃による先制は会話しかしていない今では不可能。ならば___。


「そう、心霊対策課に属す私の名前まで調べているなんてよほどの術者ね。つまり、あなたが犯人と言うことでいいのかしら?」


 少しでも会話を引き延ばそうと努力しながら、霧香は注意深く相手を観察した。

 自然体で立ち、軸のぶれない体。長袖であり肌がほとんど見えないがある程度引き締まった筋肉。力強い掌と無骨な指。


___最悪だ。前衛系の術者とこの距離で相対するなんて!


 術よりも拳が早い距離において彼女ができることなど無きに等しい。

 例えリスクを覚悟で銃を撃ったとしても、肉体強化系の前衛ならば生身で弾かれる可能性すらある。

 顔を見ただけで良しとし、この場は引くべきか……

 と、そう思った直後





「俺もこの事件の犯人を追ってる。手を貸そうか?」





 どこか子供じみた笑みとともに放たれた言葉に、彼女は不覚にもポカンと口をあけて立ちつくすのだった。



















「まず、名前を聞きましょうか」


「警察に尋問されるようなことは……してないとは言わないが、その喧嘩腰はやめてくれ」


 目の前で霧香の態度を嫌そうにしながらもどこか楽しそうな顔をしてコーヒーを啜る青年に、彼女はこめかみをひくつかせた。

 あの後、目の前の男は銃を構えた霧香の腕をあっけなく捕まえると、どうやってか一瞬にして拳銃を奪い「話は落ち着けるところでしようか」などと言いながら先に歩いて行ってしまった。

 あわてて追いかけた先にあったのは個人経営の小さな喫茶店。

 目の前でしまったドアから数秒遅れで入った彼女が見たものは、品の良いアンティーク類に囲まれながら席についてリラックスする青年の姿だった。


___どう考えても喧嘩を売っているとしか思えない。


 というようなことがあって、最近になり様々な葛藤を抱えている彼女は普段よりとても殺意を抱きやすい性格にクラスチェンジしていた。

 目の前にあるコーヒーから漂う良い香りにさえ意識を向けることなく、彼女は全集中力を殺気じみた苛立ちとともに男に対して向けていた。


「名前は?」


 思わず平坦な声になった霧香に対して青年は「へぇ」と興味深そうな声を出すものの、特に何を言うでもなく名乗った。


「貴女にならこう名乗った方がいいかな。俺の名前は『神凪』道哉だ、と」


「それを信じる根拠がないわ」


 内心の動揺をかろうじて抑え込み、霧香は即座にその名を否定した。

 陰陽師として有数の実力を持つ彼女は、出会った直後から道哉をあらゆる角度から分析していた。

 どのような術や技を使うのか、前衛か後衛か、属性はどのようなものか。

 その観察眼を持ってしても前衛だろうとしか理解できなかった相手が莫大な火の精霊をまとう炎術師の一族だとはどうしても思えなかった。


「炎術が使えなくてな、少し前に家を追い出された。『無能は不要』だそうだ」


 皮肉気な笑みとともに再びコーヒーに口をつける道哉を霧香は厳しい目で見つめる。

 高いプライドを持つ神凪一族ならばあり得ない話ではない。しかし、名前を知っているならば実家を追い出されたという自分の経歴も知っているはず。

 似たような過去を持つ男女が『偶然』ロンドンで同じ事件にかかわる。

 そんな都合のいい展開を彼女が疑いもなく信じるとでも思っているのだろうか。

 もし追い出された者同士、同情して信用するなどと思われているとしたら舐められたものだ。



 自然と強まる視線。

 それを平然と受け流す相手に、霧香はこれ以上の追及を断念した。


「じゃあ次の質問をいいかしら?」


「スリーサイズ以外なら構わないさ」


 道哉の戯言を無視して質問を続ける。


「何故、あなたはあの場所にいたの?『ハズレ』ってどういう意味?」


 静寂が満ちる。

 喫茶店に流れる穏やかな曲、マスターが洗い物をする音、他にいる数人の客の談笑が遠ざかる。

 真剣な顔になった道哉が口を開いた。


「三週間くらい前に、とある人物がロンドンに入ったという情報を得た」


 最初の事件が起きたのが二週間前。

 その話に出てくるのがどのような人物かわからないが、時期的には合っていると言っていい。

 目の前の人物が犯人でないとしたら、だが。


「結構な大物なんだが、そいつに用があった俺はその情報を頼りにロンドンに入った」


 椅子に深く腰掛け、窓の外の景色に視線を向けながら穏やかな声で語る道哉。


「そうしたら何度か感じたことのある違和感があってな、俺の捜索系の術が役に立たなくなった」


 どんな術なのだろうか。

 反射的に聞こうとした霧香は、術者は手の内を明かさないという常識の前にかろうじて踏みとどまった。


「何度か相手にしたんだが使い勝手も悪くコストもかかる妨害術だ。その割に効果が薄くてな、今世界でも一人か二人程度しか使えないだろう。だが俺が来たことで発動したということはこの街で何かを企んでいて、俺に詳細を知られたり邪魔されると困るということだ」


 メモを取るべきだろうか。と考えて伸ばしかけた手を引っ込める。

 この男の話は明確な個人名等を使っていない。正確に記録に残したところで得るものは少ないだろう。


「それでも力技で探り当てたところは直前で逃げられてたり罠だったりしてな。仕方がないから自分の本来の感覚に頼って最近始まった妙な事件の現場を見たり、市内を歩き回ったりしていたら妙な気配に気づいた」


「妙な気配?」


「説明しづらいんだが……そうだな、違和感しかない人間とでも言うべきか。普通の人間のようなのにどこか不自然な力を発しているようだった」


 嘘をついている、というには少し弱いか。この程度の情報ならばたいした意味を持たない。


「もちろん無関係という線もあるが、気になって追ってみたら案の定事件が起きてた。気配も覚えたし、案外早く犯人を見つけて俺に関係があるかどうかを確かめられると思ってたんだがな」


 そこから先は聞くまでもない。感じた気配を元に追うものの見つけられず、足を止めたかと思ったら事件を起こして素早く逃走されたというところだろう。

 誰よりも早く現場に到着し、周囲の妙な気配を探っていたところで霧香と遭遇したというわけだ。

 険しい顔をして黙りこんだ霧香に、道哉は言葉を重ねる。


「名前以外何一つ自身の情報を明かしていない俺を信用しろと言うのも虫のいい話だ。だからこそ『協力』はしない」


 あくまで情報交換、もしくは自らの手に負えないと判断した時にのみ助力を乞う。

 伝える情報の選別はお互いが判断し、何かを要求するときは対価を用意しろ。

 相対する得体のしれない術者はそんなビジネスライクな提案をしてきた。


「それでも虫のいい話だということに変わりはないわ。ビジネスこそお互いの信用が大事だと思うけど?」


 今のところ、霧香は目の前の青年に対して何一つ優位に立てるものがない。

 能力もわからず、何故自分を知っていたかもわからず、最初感じた恐怖に似た感情を抱かせる圧力が際立って思える。




 簡潔に言おう。

 霧香は道哉を恐れ、欠片も信用してはいなかった。


「確かに俺は自分の情報を全くと言っていいほど明かしてないが……そこまで警戒されるようなことはしてないはずだろう?」


 少しばかり困ったように道哉は言う。

 その姿はどこにでもいる人間にしか見えず、だからこそ警戒に値する。

 本当に恐ろしいのはわかりやすい異形や残酷さ、暴力ではない。

 人間個人の力が大きな力を持つ世界に長く身を置いてきた経験から、真に恐れるべきは得体のしれない存在だということを彼女は思い知らされていた。


「なぜ、あなたは私のことを知っていたの?」


 思わず口を衝いて出た問いに返されたのは虚を突かれたような、何とも言えない表情だった。


「なるほどなるほど、そういうことか。当たり前すぎて忘れいてた。それじゃあ警戒されるのも無理はない」


 くつくつと笑う道哉の発言に聞き捨てならないことを感じ取った霧香はさらに追及を深める。


「『当たり前』?私は神凪に繋がりは無いし、仕事でも一緒になったことはないわ。あなたはなぜ……いえ、私のことをどこまで知っているの?」


「安心してくれ。下の名前と陰陽師ってことくらいしか覚えてない。昔に貴女を見たことがあるだけだ」


 どこか釈然としないものの、霊団の排除のような大規模な仕事をさまざまな組織と協力して成し遂げたこともある彼女は納得するしかない。

 そこでふと、何かに気づいたように道哉に目を向けた。


「もしかしてあなた、外で神凪を名乗ったのは」


「もちろん、今回が初めてだ」


 大規模な霊障の解決に個人として参加した人物をいちいち覚えていることなどできない。神凪を名乗らず、前衛と後衛ならば顔を合せなかったとしても不思議ではないだろう。

 プライドの高い神凪が果たして無能と断じた者に『神凪』の姓を名乗らせただろうか。


「皮肉なものね。お互いに家を追い出されてから自由に苗字を使えるようになるなんて」


 名刺などに書くことなどは許されたものの、彼女も今まで能動的に橘の名前を名乗ることはしてこなかった。

 普段ならこの程度の雑談で相手を信用することもなく、警戒を続けていただろう。

 しかし、自分の目的の障害とならない協力者は喉から手が出るほどに必要としていたことに加え、異国の地で一人奮戦する彼女がその心細さから偶然出会った日本人を信用したいと思うことは自然な流れだった。

 未だ警戒はしているものの、彼女はようやくどこか気の抜けた笑みを浮かべたのだった。


「全くだ。それと今は八神と名乗ってる。好きに呼んでくれ」


「橘霧香よ。この事件が解決するまでよろしく」


 自らの苗字を聞いて納得したような顔を見せた道哉と心持ちしっかりとした握手を交わす。

 ビジネスというには少しばかり力強い握手が警戒の気持ちから来たのか、それとも誰かにすがりたいと思ってしまった自身の弱さなのか、彼女には判断がつかなかった。


「じゃあ、細かい取り決めに入りましょうか」


 握った手を離し、コーヒーで一息ついてから霧香が言ったその言葉に道哉は反応を返さなかった。

 不審に思った彼女の視線の先には、窓の外を鋭い目で見つめる先ほどまでの得体のしれない圧力を持った存在あった。


「捕捉した。これを使って追ってこい」


 道哉はその場で自身の髪の毛を数本引きちぎりテーブルの上に置く。

 呪殺の媒介にもなり得る髪の毛を無造作に陰陽師へと渡す豪胆さに霧香は目を白黒させた。

 あわてて反論しようとも既に遅く、小銭を数枚テーブルに放り出して店外に走り去った男の影だけが目に焼きつく。


「ちょっと!……ああもう、何も決めてないって言うのに!!」


 鞄を手に取り、上着を羽織って彼女もあわただしく店を出る。

 痴話喧嘩とでも思われたのか、妙に優しげなマスターの視線が気になった。

 外に出ても既に彼の姿はなく、先ほどの事件によって駆け付けた警察官と野次馬の姿が目に映る。

 体の一部から対象の大まかな位置を突き止める術を思い出しながら、彼女は早足に車へと向かうのだった。
















「仙人ってのはな、世界と同化することで人間を超える奴のことを言う」


___世界と同化?世界から独立するの間違いでは?


「あん?誰に聞いたんだそんなこと」


___『現代最高の道士』にですが。


「ああ、あの爺か。くっくっく、お前騙されてるぞ」


___まさか、あちらにメリットがない。


「本当のことを言われなかった、と言い換えてもいい。だいたいな、世界から独立してどうやって世界を操るって言うんだ」


___いや、それは……


「間違っちゃいない。それと世界と同化するだけで周囲を操れるなんつーのも実際は間違いだ」


___自分で言ったことすら否定しますか。それだったらどちらの主張も間違いになるのでは?


「まぁ聞け。お前、手足が頭を操れると思うか?」


___それは無理でしょう。手足の役割は頭に従うことですから。


「そうだ。同時に自分の頭が他人の手足を操ることもできない」


___つまり、人間はその例えでいくと手足であり。そこにヒントがあると?


「わかってきたじゃねぇか。で、お前ならどうする?」


___手足であることから解放されると同時に、自身が頭となればいい。


「90点といったところか。残りの10点はそのうちわかるだろ」


___適当ですね。


「さて、な。それと一つだけ訂正しておく。お前が出会ったあの爺な、太公望だとか蝦蟇仙人だとか曹国舅だとか言われてる本物の仙人だ」


___………嘘でしょう?


「聞いた話には遊び過ぎて仙人から外れそうになったんで精神修行をしてるらしい。反動で妙に堅物になってるとかなんとか」


___だから身分を隠してるのか……。


「嘘だ」


___は?


「くっくっく、全部が根拠のない噂話さ。確かめたきゃ探してみな。多分二度と見つからねーだろうけどな」


___時間が惜しいんです。早く修行を始めてください。


「この程度の冗談、笑って受け流したらどうだ」


___………。


「わかったわかった、今日は世界を把握する訓練だな。適当に教えてやるからできるまで続けろ」


___あなたという人は……。







 ほんのかすかな地脈の流れ。

 喫茶店の下に流れるそれを利用してロンドンに生じる『不自然』を把握した道哉は、風を使って空を駆ける。

 普段は感知できず、不自然な相手が何かしらの力を使うときにのみ生じるその感覚が事件の発生を告げた。


「頻度が上がった、か。手慣れてきたな」


 何の表情も浮かべず道哉はつぶやいた。

 風術で姿を隠し、霧香に配慮して隠蔽は科学で感知できない程度にとどめておく。

 目指すはテムズ川沿いにある自然公園。

 仙術を極めていない道哉は地脈から足を離したため既に『不自然』を見失っている。

 だが、最短距離で到達した今ならば犯人は近くにいるはずだ。近づきさえすれば見つけるのは容易であるはず。

 道哉の眼下に広がる風景。

 生い茂る木々に隠れ何者かが胎動している、そんな予感が彼の脳裏をかすめた。










[9101] 第18話
Name: 酒好き27号◆3e94cc3d ID:6939b0d4
Date: 2009/12/03 16:52


 霧香が現場に到着したのは、道哉と別れてから約10分後だった。

 思ったほど時間がかからなかったのは喫茶店から現場までの距離が思ったより短かったことに加え、事件を一人で解決するつもりだったために用意していた多岐にわたる道具の数々が役に立ったからである。

 車の中にあった式盤と道哉の髪の毛を使い大まかな位置を特定することで彼女はテムズ川沿いの自然公園へと到着する。

 既に薄暗さが際立つ夕暮れ時。

 車外へと出た彼女は鞄の中から一枚の符をとりだし、道哉の髪の毛を包むように複雑な形の折り紙とした。

 そうして出来上がった5センチ四方ほどになった符を手のひらに乗せ、つぶやいた。


『彼の者の分け身、彼の者の元へ。急急如律令』


 その言葉とともに吐きだされた吐息が手のひらの上の符をやさしく吹き飛ばす。

 ふわり、と重力に逆らうかのように浮き上がった符は空中で滑らかに開花した。


 それは蝶だった。


 まさに脱皮するかのごとく形をなした紙の蝶は、しばし霧香の周りを漂っていたものの唐突に思い出したかのごとく公園の中に向けて羽ばたき始める。

 向かうは公園の一角。

 特に見通しの悪い木々が生い茂る場所は近接戦闘が不得手である霧香にとって鬼門だが、進まないという選択肢はあり得ない。

 そして黄昏の公園から感じる違和感が、ためらっていた彼女の足を前に進ませたのだった。










 
 その人影は実にわかりやすい不審人物だった。

 全身をこげ茶色のローブで包み、見た目の体格以外一切の身体情報を与えない。

 イメージではタロットカードの隠者とでも言えばいいだろうか。

 魔術的な隠蔽がしてあるのか本来見えるはずの顔は影に隠され、存在感すらあやふやだった。


「八神」


 公園の土の上で15メートルほどの距離をあけ相対するローブの人影と道哉。

 人影の足元には気を失っているであろうスーツ姿の男が一人横たわっていた。

 道哉の背後から近づく形になったものの、彼は視線を向けるわけでもなく無造作に返答した。


「道哉でいい」


「……この状況で返す言葉じゃないでしょう」


 平坦な言葉は心臓に悪い。

 それでもあきれたような声を出せる程度には、彼女は道哉に耐性をつけていた。

 自身を鼓舞するかのように不敵な笑みを浮かべてやる。


「なら私も『貴女』なんて他人行儀な呼び方じゃなくて霧香、と呼んでくれるかしら?」


「そんなことを言う方も人のことをとやかく言えないな、それは」


「あら、他人のことなんてなんとでもいえるものよ。知らなかった?」


 道哉の無感情だった声に少しだけ笑みが混じった。

 彼の後方にいるため表情こそ見えないものの、きっとその顔は少しばかり優しげになっているだろう。


「これは評価を改めないといけなくなったか」


 どのような評価がどう変化したのか気になるが、そろそろ時間かせぎも限界だ。

 目の前の人影がじりじりと何かしらの行動をとるために場所を変えようとしている。


 後は協力して捕縛するだけ。

 そして彼女は最後の確認をとった。


「それで、『それ』が犯人ということでいいのかしら?」


 その問いに反応したのは以外にも道哉ではなく、


「『それ』?この身を『それ』といったか!」


 歪んだ声。

 男女の区別もつかず、それでも聞く者を奈落に引きずり込むような声だった。

 グルルルル……と手負いの獣のように喉を鳴らす人影。

 叩きつけられる殺意。

 子供が癇癪を起こして暴れるように、相手は驚くほどあっさりと怒り狂った。


「俺もお前も、目的は捕獲じゃなかったか」


 怒りに支配された相手は殺しやすい。いや、殺るか殺られるかという勝負になりやすい、とでも言うべきか。

 攻撃の威力こそ上がるものの、リズムは単調で誘いにも乗りやすい。

 だが無力化となると格段にその難易度が増す。

 怒りは簡単に気絶することすら許さず、その気力は時として入念に仕掛けられた罠すらも食い破る。


「じ、事故よ」


 面倒なことになったと言わんばかりに道哉に、霧香は気まずげに返した。

 まさかこの程度で……などと不満げに口の中で呟くのも忘れない。

 人影は顔が見えずともわかるほどの怒りを振りまきながら四足獣のごとく両手足を地面につけ、全身をたわめていまにも飛びかかる寸前の体勢をとっていた。

 やけに白い腕がローブの端からのぞく。


「だが、手間は省けそうだな」


 そんな相手の態度を一顧だにせず、道哉は無造作に足を踏み出した。

 ゆらり、と彼の周囲を軽く歪ませるほどに濃密な気が彼の体を取り巻いた。

 霧香に殺意を向けていた相手が弾かれたように道哉に体を向ける。


「邪魔を……」


 するな、と新たな怒りとともに意識が完全に道哉へと向けられた瞬間、霧香が動いた。

 既に組み立て終わっている力の流れ。

 気づかれぬように取り出された5枚の紙。

 動いた腕は神速で符を放ち、刃のような鋭さで地面に刺さったそれらは遅滞なく効力を発揮した。


『禁!!』


 力の流れが五芒星を描き、一瞬にして被害者と加害者を隔離する。

 距離が近かったため力場に弾かれた影が獣のようなしなやかさで距離をとった。

 すそからのぞく左手にはうっすらと火傷のような赤みが差している。

 焦れたように荒々しく立て直される体勢。



 だが、既に道哉は人影の眼前に肉薄していた。



 被害者の保護と敵の牽制、そこからつながる攻撃という流れが人影に余裕を許さない。


「眠れ」


 道哉の蹴りが空気を貫通しながら一直線に迫る。


 狙い。

 体の中心。

 威力絶大。

 回避不能。防御不能。

 気付いた時にはすでに手遅れ。

 予測されるダメージは容易に意識を奈落へと運び去る。

 着弾の刹那、人影は吼えた。


「Wooooooooooooooooooooooooooooo!!!!!」


 コンマの後にいくつも零を重ねた時間の流れ。

 コマ落としのように、途方もなく無様で鮮やかに人影が体をひねった。

 本来ならば遅すぎる動作を、人影の内側から湧き出る何かが補った。

 そして、避け得ないはずの攻撃を人影は右腕部分の布を犠牲にして回避することに成功する。

 青白い腕に刻まれた朱線から、ジワリと血がにじんだ。


「ビンゴだな」


 トンットンットンッと地面を蹴って霧香の傍に戻ってきた道哉が言った。


「喜べ、協力体制の継続は確定なようだ」


「どうして?話し合いよりも殴り合いの方がお互いをわかりあえるなんて言わないでしょうね」


 霧香から見ても完璧に決まったと思えたタイミングを並はずれた加速で回避した相手。


___手の内がわからない以上、迂闊には動けないか?


 常にあの速度が出せるとしたら自分も危険だ。

 緊張で手に軽く汗をかきながらも、霧香は全く態度が変わらない男に呆れたような視線を向けた。


「道哉。あなたって罠は壊して進むタイプ?」


 この臨時の相棒は、どうもそのようなことを気にせず突き進みそうな予感がする。


「右腕だ」


 否定も肯定もせず、軽く肩なんかをすくめながら道哉は簡潔に言い放った。

 それにつられて視線を移したものの、相手は逃れるように自らの右腕を隠す。

 瞬間、霧香の瞳にその腕に刻まれた刻印が焼きついた。


「ウロボロス……」


 自らの尾を食らう蛇。

 自身の終わりを飲みこむ竜。

 古き書は語る。


『其は無限。其は不滅。其は永遠。完全にして流転の象徴。そして“世界”』


「刺青……ではないか。ということは」


 一瞬しか見えなかったが、明らかに異質なものを霧香は思い返していた。

 錬金術のシンボルマークともいえるウロボロスはありふれたものであり、様々なものに刻まれる。

 ただしそれは必ず意味を持ち、書物やシンボルに描かれるのが一般的だ。

 そして例外として、『精製物』が生まれる時にその証明として刻まれる。

 目の前の相手にある刻印は物質的なものではなく、神秘を宿した奴の根源だった。


「お前が何だろうと俺にとっては関係ない。だが質問には答えてもらおう」


 ゆっくりと道哉が足を踏み出す。


「俺が知りたいのはただ一つ。お前の『製作者』はどこにいる」


 脅すように、けれど穏やかに問いかけた。

 人影が気圧されたように後ずさる。


「やっぱり……」


 霧香は信じられないという顔で相手を見た。






 錬金術の結晶。

 完全なる存在。

 フラスコの中の小人。
 偉大なるパラケルススの成功から500年の時を超え、歴史上2例目に作られた人型。

 目の前に存在するはホムンクルス。

 苦しみながらも生き続ける、ただ一人の『人間』だった。












 あとがき

 ずいぶん間が空いてしまいました。作者です。
 今回は少々分量が少なめ。
 ですが今夜もしくは明日には続きを投稿できると思いますので、楽しみにしてくださっている方はご勘弁を。
 ロンドン編は閑話みたいな扱いでサックリ終わらせるつもりが何故か細かい設定まで考えてしまって、もう少し続きそうなのは秘密。
 皆様からの叱咤激励、感想や指摘をお待ちしております。

 追記
 申し訳ない、もう少々お待ちを……(汗






[9101] 第19話
Name: 酒好き27号◆3e94cc3d ID:6939b0d4
Date: 2009/12/06 23:19


 既に日は落ち、黄昏の名残を空に残すのみとなった時間帯。

 自然公園の一角は一触即発の緊張に満ちていた。


「ねぇ……」

 沈黙に耐えきれなくなったように、霧香がためらいがちに口を開いた。


「彼、いや彼女かもしれないけど、ホムンクルスってことでいいの?」


「そうだな」


 あっけなくされた肯定に唖然としながらも、彼女はさらに言葉を重ねる。


「でも、成功例は今までパラケルススただ一人。確かサイズはフラスコに入るほどで、そこから出したらあっけなく息絶えた……はずよね?」


「そうだな」


 何でもないかの如く道哉は言うが、もし本当だとしたら一大事である。

 連綿と続く錬金術の流れの中で最奥まで到達し、さらに今まで最高峰と思われていたパラケルススの作品を超えた者。

 そんな人物が今まで無名だったとは考えられない。

 だが、


「近代でそんな腕のいい術師なんていないでしょう?」


 とすればどう考えても数百年クラスの偉人しかいない。


___終わった……。


 若輩の身には重すぎる事件だ。

 空を仰いで涙をこらえる。あ、流れ星。


「違和感は腕から……いや、刻印からか?とすると核はそれか」


「何の話よ……」


 軽く自暴自棄になった霧香にかまうことなく、道哉は人影に牽制を入れながらつぶやいた。


「あれはフラスコの外に出ることで崩壊する体を、何らかの術で間髪いれず再生させているだけだ」


 え?と霧香は思わず声を上げ、同時に注意して相手を見つめてみた。

 隠蔽の術でほとんどわからないが、何らかのエネルギーがローブの中で循環している。


「ねぇちょっと、わかってるだけで結構洒落にならない力の量なんだけど……もしかして、傷つけたのってまずいんじゃあ……」


 詳細こそわからないが、あれの本質は『循環』だ。

 バランスが崩れたらこの周辺を吹き飛ばす程のエネルギーが無差別に解放される可能性を想像して、霧香は顔を青ざめさせた。


「その辺の余裕はあるだろう。にしても、振る舞いは自然……痛覚だけ消してあるのか?」


 感覚を消すということは自分の体がどうなっているかを把握するすべがないということである。

 触覚を消していたとしたら必ず動きに違和感ができる。

 ということは、腕を隠すのが遅れたということも合わせ、痛覚だけ消すという高度な技を使用しているに違いない。

 考えれば考えるほど深みにはまる思考。目の前の人影がホムンクルスかすら疑われてきた。

 どうも判断材料が少なすぎる。


___ああもう、なんでこいつはこんなに秘密主義なんだ!


 少しばかり殺意を込めて道哉に視線を走らせる。


「殺した」


 無感情を装ったような声。

 ヘドロのように耳の奥にへばりつく声が、霧香の背筋を撫であげた。


「……殺した。殺した。殺した!!」


 一言口にするたびに強さを増す声。


「この身は決して失敗作などではない!破棄されるような軽いものではない!処理されるべき命ではない!!」


 人造生命。

 人を模したもの。

 彼、もしくは彼女は怒りとともに叫んだ。



『生きたい』



「ならば何故無関係の人間を襲った!」


 思わず、霧香が激情に駆られ怒鳴った。


「この身は完全なる生命のひな型。ならば足りないものを補うことは当然のこと」


 突如として抑揚のない声に戻った相手を油断なく見つめながら霧香は内心で舌打ちをする。

 生きたいから殺した。

 ならば何故、生きるための手段になるはずの『完成品』を目指すのか。

 破棄される心配がなくなったのにもかかわらず動き続ける空っぽの人もどき。

 存在の意義、中途半端な己の意思。加えて痛みや感情の不安定さ。


___『これ』は放置しておくにはあまりにも危険すぎる。


「もういいわ、あなたを」


 破壊します。

 そう続けようとした霧香は、道哉の声にその殺意を遮られた。


「ひとつ確認したいんだがな」


 今までのやり取りを冷めた目で見つめていた道哉は、普段と変わらぬ声でそう問いかけた。


「お前がその手袋を使って人間の脳だか魂だかを探っているのはわかった」


 何らかの術具か。

 というか何故知っているのか。

 もしかして私が到着する前に何かあった?

 協力者として、不可解な術具に関してせめて一言あってもいいと思う。 


「どっちが先だった?」


「え?」


 茫然としたような声の発生源は、霧香だったのか人影だったのか。

 静止した場で、彼はゆっくりと質問を続ける。


「お前が処分されそうだったなら、何故術具の使い方を知っている」


 確かに。

 使い方を一つ間違えば使用者が死ぬようなものは腐るほどある。


「そもそも、処分されることをどうやって知った」


 ゆっくりと刻みつけるように彼は言った。


「親を殺したのが先か。それとも、お前はその術具に」「黙れ!」



 迫る爪。

 捌く腕。

 打ち上げられる掌。

 捻られる体。

 そして離脱。



「ああ………」


 フードの中から漏れた声は、どこか迷子のような。


「待て!」


 一気にこの場所を離脱する人影を、霧香の術が足止めする。

 まるで意志を持つかのようにうごめく木々を強引に押し通る人影に向けて道哉から『何か』が放たれた。


 人影の手前であっけなく消失したそれに、道哉は忌々しげな顔で吐き捨てた。


「チッ、やはり奴が核か」


 既に捕捉できなくなった人影はとりあえず置いておき、霧香は青筋の浮かぶ笑みで道哉に情報の開示を要求するのだった。













 その存在に性別はなかった。

 しかし、ここでは便宜上『彼』と呼ぶことにしよう。

 『彼』は薄暗い地下室で生まれた。

 子供が一人入るほどに大きなフラスコの中、彼はピクリとも動かずそこにあった。

 『彼』にそのとき魂はなく、外からの刺激に対して一定の反応を返すだけの肉人形でしかなかった。

 成功を確信していた『彼』の製作者である錬金術師は失望させられることになる。



 錬金術とは、大ざっぱにいえば「完全」を求める学問であるといっていい。

 ありとあらゆる物質から根源とされる『精』を開放することであらゆる物質に変化させたり、より完全なる存在へと錬成しなおすものである。


 万物を初期化し、創造する。


 昔は金こそが完全な物質と考えられていたため、金の錬成は一種の到達点とも言われている。

 『精』の扱いを極め、生命の根源へとたどり着く。

 それをなんというだろうか。

 そう、神である。

 その過程として、神ならぬ人が一から生命を作りだすホムンクルスは、最も錬金術の頂点に近い秘術といっても過言ではない。


 完全たる物質 『賢者の石』

 無欠たる生命 『ホムンクルス』


 万物の根源から作り出された完璧な生命であるはずのホムンクルスとはどうしても思えない存在に、錬金術師は頭を悩ませた。


___金や銀、プラチナまで侵す薬液に耐える特別製のフラスコをこの存在のために使い続けるのは惜しい。


 偶然が積み重なってできたとは言っても、あくまで失敗作。

 だがフラスコから出した時点で、無機物から作り出し生命や魂が宿る原因が無いホムンクルス(仮)は『素材』に戻るだろう。

 もっとも成功に近い失敗作の研究が出来ないのは痛い。

 そう考えた錬金術師は『彼』の根源たるウロボロスに術を刻み、円環を閉じた。

 痛みなど気にすることはなく、痛みによる行動阻害を抑えるために痛覚を奪った。

 そこに罪悪感を感じることはなかった。

 明確に対象を区別する研究者として人型の肉人形に情を移すことはなかったし、余計な性質を付加することを嫌ったため『彼』がツクモガミのような存在になることもなかった。

 例えるならば、道具の不要な機能を削って自己修復機能をセットしたようなものである。

 それ以後『彼』は手足の動かし方と簡単な知識を脳に刻まれ、研究対象兼助手という役割を手に入れた。



 そこである日、ちょっとした事件が起こった。



 彼の研究室に存在する研究対象のうち、犬が一匹逃げ出したのだった。

 錬金術師はそれを特に気にすることもなく放っておき、いつものように多くの薬品と一組の手袋を取りだして研究を始めた。

 手にはめるだけでほぼすべての物質を透過し、その最奥に秘められた情報を読み取る術具。

 とある依頼の対価として作成を依頼したそれは予想以上の出来であり、限界を感じていた彼は頻繁にそれを使用していた。


「これはあくまでも物質専用だ。生き物に使用するとどうなるかはわからない」


 そう言われていた彼は生物にそれを使用することはなかったし、もし使用したとしても生命という複雑な存在に対しては構成要素や思考、記憶を読み取るのがせいぜいだろうと予想していた。


 そこでふと考える。


___自身の失敗作がこれを使用した場合、読み取れる情報に違いはあるのか。


 多角的な評価を求めて『彼』に手袋をはめさせ、ただの鉄に手を伸ばさせたその時。





 とっくに逃げ出して遠くに行ったと思っていた犬が飛び出してきた。





 それは錬金術師を慕ってのことかもしれないし、もしかしたらホムンクルスの放つ違和感を警戒したのかもしれない。

 だがここで重要なことは、『彼』がとっさに「手袋をはめたまま」防衛行動をとったことにある。

 黒い手袋は正確無比に犬の眉間を貫く。

 それなりの威力を持って突き入れられたためか、犬は一度ぶるりと震えるとあっけなく絶命した。

 だが、同時に『彼』も意識を失うこととなる。

 困惑した錬金術師はなるべく刺激を与えないように『彼』を調べ尽くした。


___これは、犬の性質とでもいうべきものを取り込んだ。


 人型の器と空白の中身。

 あるいは、これが必然だったのかもしれない。


 錬金術師は、目覚めてからどこか従順になった『彼』にあらゆる物質を探らせた。

 それは金属であったり、植物であったり、人工物であったりもした。

 犬の本能のさらに表層を手に入れた『彼』はソフトを入れたハードにすぎない。

 魂を、完全を目指すには足りないものが多すぎる。

 入力された情報を自身に刻みつける性質を利用し、錬金術師は『彼』に途方もない数の性質を付加し続けた。

 莫大な情報の流れの中、ふと発生するかもしれない魂。

 全ての性質を集め、集約することで発生するかもしれない根源たる『精』と完全な命。


___そこに至り、過程を観測することで私は並ぶもののない高みへと……


 それから先はありふれたものだ。

 長年の目標に目がくらんだ錬金術師はその命を散らせ、汚泥が流し込まれた器は憎悪と狂気を糧にロンドンを彷徨う。



 そう、これはとっくに終わった物語。



 これもまた、一つの運命であった。











「姿まで見ておきながら逃げられるなんて……!」


 霧香は歯噛みしながら車の中の術具をひっくり返していた。

 一方道哉は冷たい地面に手を置いて静かに目を閉じている。


「捕捉できないな、しばらく身をひそめるつもりかもしれない」


「それがどうしたっていうの!私には時間がないわ、協力を打ち切るなら邪魔だからどっか行きなさい!!」


 噛みつかんばかりの勢いで道哉の方を見もせずに車の中を探し続ける霧香に、道哉は軽く苦笑を浮かべた。


___何というか、若い時はこんな感じだったんだな……。


 社会の裏事情に染まりきった原作とのギャップを感じ、完全に制御していたと思っていた精神がかすかにほころぶ。


「確証がないから話せないと言っただろう?」


 やれやれ、とでも言いたげな顔で何度も繰り返した言い訳を口に出せば、殺意すらこもった眼で睨まれた。


「黙ってなさい」


「……了解」


 肩なんかをすくめながらの返答に、霧香はまたしても車内に向き直った。


「ああもう、情報が足りない!!」


 腹立ち紛れに叫びながら、偶然手に取った郵便局のマスコットキャラクターの人形を叩きつけた。

 ちなみに同僚からもらったのだが、どう考えても日本人の感性には合わない造形である。

 隠蔽結界によって先ほどの人影の情報は何一つつかめていない。

 おかげで手持ちの術を使ったとしても、あの隠蔽を破れるほどの捜索は出来ないだろう。

 唯一現場に残ったローブの欠片からどうにかして情報を引き出せないかと悪戦苦闘している真っ最中であった。


「大ざっぱな相手の方向ならば今から調べられる。そうすれば多少なりとも精度は上がるだろう。霧香はそいつを調べておいてくれ」


 返事を待たずに道哉は暗がりに消えてゆく。


 背後からの霧香の怒声を無視しながら。








「西の方角……でいいのか?」

 よくわからないな、などと独り言を言いながら道哉はロンドンの空を飛びまわる。

 奴に近づく程に『精霊が感じ取れなくなっていく』ため、墜落覚悟で飛びまわればある程度の情報は期待できる。

 本来ならば精霊術師の間でもっと騒ぎになっていてもいいはずなのだが……。

 一応の義務を果たし、道哉は帰還する。




『認めよう。君はすでに私の敵だ。容赦なく、私は君を殺すだろう』




「チッ、何が『次に会うときが君の最期だ』だ。俺の前に姿すら現さないくせに」


 星が輝く空の下。

 胸に下げて服の中に隠したアクセサリーを軽く握りながら、道哉は苦々しげに吐き捨てたのだった。







 あとがき

 次の日までに上げると言いながらなんという体たらく……な作者です。
 いや、ホント申し訳ない。
 予想以上に詰め込みすぎたロンドン編がそろそろ佳境に近づいてまいりました。
 なんというか説明的で設定入れすぎ~みたいなノリなので少々不安です。
 しかも、ロンドン編を書いているにもかかわらず気分が乗って風牙衆反乱編における和麻の戦闘シーンを書いている……だと……。
 次はアーウィン編がいいのか原作突入編がいいのか悩みどころです。
 結構間が空いたのでこれから可能な限りペースを上げていきたいなと思っています。
 皆様の感想、指摘等々お待ちしております。





[9101] 第20話
Name: 酒好き27号◆3e94cc3d ID:17f35bae
Date: 2010/03/13 03:00


 苦しい。苦しい。体が燃えるようだ。

 茶色のローブの人影が、滑るように路地裏を駆ける。

 先の男が放った言葉はその心を刺し抜いた。

 息がどんどんと荒くなる。

 機能を超えた躍動は呼吸中枢を侵し、容量からあふれ出た感情は目を赤く染めた。


 助けて。父よ、私を___


 弱々しい声が無意識のうちに口から放たれる。

 千々に乱れる思考は留まるところを知らず、確実に思考能力を低下させていた。

 人外の速度で移動する人影を見て、浮浪者のような格好をした男が目を見開いて立ち止った。

 思考は一瞬。

 行動も、僅か数秒で完遂された。

 徐々に最適化されていく体が、今までよりもはるかに速い速度で検索を完了する。

 五芒星の描かれた黒い手袋が引き抜かれ、男は力なく崩れ落ちた。


 響く悲鳴。


 スーツを着こなした女性が腰を抜かしてへたり込んでいた。

 虚ろな目で口から泡を吹き痙攣する男から必死に目をそらすように、這いつくばって逃げようとする。

 その頭を背後から貫き、その情報を飲みこんだ。

 にわかに騒がしくなる周囲。

 複数の気配が近づくのを察知した人影は、原初に刻まれた理に従いその場を高速で離脱する。


 賽は壊された。


 残されるは暴走の後のメルトダウン。

 雲が出てきた暗黒の空を仰ぎ、人影は身を引き裂くかのような絶叫をあげた。












「心配するな!車を運転するのは今回で5度目だ!」


「ペーパードライバーを自慢げに語るんじゃないぃぃぃぃぃ!!!!」


 ロンドンの片隅で絶叫が響く。


「ほらさっさと占え!相手は大体こっちの方向にいるぞ」


「ならせめて車を止めるか速度を半分にしてから言いなさい!」


「マイル表示なんてわかるわけないだろうが」


「周りを見て常識的な速度を出すことくらいできるでしょう!」


 霧香は座席に必死につかまりながら、道哉は真剣な表情の中にほんの少しの笑みを浮かべて暗い道を走る。

 prrrrrrrrrrrrrrrrr

 と、唐突に霧香の携帯が無遠慮に音を立てた。

 ディスプレイには上司の文字。

 新たな情報でも入ったか、などと楽観しながら電話を取った霧香は次の瞬間その顔を青ざめさせた。


「今……なんて?」


『被害者が12人になったと言ったのだよMs.橘。君の権限を取り消し、至急対策本部を設置する。すぐに帰還したまえ』


 周囲の音が一気に遠ざかる。

 目を見開いたまま、彼女は悪夢のように響く声を聞いた。

 チラリと視線を向けた道哉も、相変わらず危なっかしい運転も気にならない。

 それは考えないようにしていた最悪のパターン。

 こちらとの接触と先ほどの会話がトリガーとなって身をひそめるか、逆に暴走するのか。

 天秤は後者に傾き、狂ったように被害者を生み出し続けていた。


 ギリギリと音を立てて歯を食いしばる。

 今にも人目をはばからず感情をまき散らしたいのを必死に我慢すると、低い声で答えを返した。


「お断りします」


『何?』


 鋭さを帯びた上司の声は一流の術者にふさわしいものだったが、彼女は恐れることもなく言いつのった。


「今ならば、民間の協力者とともに相手を追うことができます。今まで集めた情報ならば私のデスクの上から2番目の引き出しにディスクがありますので、それを見てください」


 組織に属するものとして、その解答は必ずしも正しくはなかったのかも知れない。

 だが、長い長い沈黙の後に上司は返答した。


『……犯人に追いつけるのか』


「はい、必ず」


『そうか。ならば私が責任を取ろう、意地でも相手の背中に食らいつけ。そして君の独断専行の責任は引き受けるがそこからの失敗は君自身に返る』


「肝に銘じます」


『ああ、最後にデータのパスワードを聞こう』


「pride、ですわ」


 その言葉に、相手は少しだけ笑ったようだった。


『言うべきことも、注意すべきことも、叱責すべきことも後回しだ。今は事件の解決に全力を注げ』


 そういって、実にあっけなく通話は切断された。


「何と?」


 興味があるのかないのか分からない様子で道哉は問う。


「犠牲者が私の能力を超えて増加したらしいわ……」


 思わず口を衝いて出た、落ち込んだような声は予想以上に情けなかった。

___あれ?私はここまで弱みを見せるほどこの男を信用していただろうか?


「それに、本部に帰れば小言が数えきれないほど待ってるに違いないし……」


 先の言葉にあった『言うべきこと、注意すべきこと、叱責すべきこと』は、どう考えても全て同じ意味である。

 一刻を争うような状態にあるにもかかわらず、ここにきて霧香はどこか呆けたように愚痴をもらしていた。

 それは強くあろうと努力し自己を鎧で覆った彼女が見せた、ほんの少しの弱さと本音だったのかもしれない。

 漠然とだが彼女はその心の動きを理解していたし、それを恥じる心も存在した。


「つかんだ。行くぞ」


 意気消沈した霧香を全く意に介さず、道哉は車のスピードを上げる。

 その横顔を茫然と見つめた彼女は気づいてしまった。

 そんなことは後にしろ、それで愚痴は終わりか?、五月蠅い黙れ。そのどれかでもいいから自分を叱責してほしかったのだと。

 なんでもいいから立ち上がるためのバネになるような言葉がほしかった。

 立ち上がる決意すら、人任せにするほど自分は弱かったのだ。


「……どれくらい先?」


「精度は低い。この方向に3~4kmってとこだろう」


 既に彼は自分と一緒にいる必要がない。

 先ほどもホムンクルスを捕捉したのは道哉だし、情報も彼が上だ。今だって自分は役立たずでしかない。

 ほぼ独力で捜査していることを感づかれた時点で本来ならば切り捨てられてもおかしくはなかったのだ。

 それでも彼は自分を手助けするわけでもなく、見捨てるでもなく、ただ自然に隣にいてくれた。


 彼は常に態度で語っていただろう。

 『強くあれ』と。

 それは霧香の錯覚かも知れない。だが、考えてしまうのだ。

 真剣になるとほとんど変わらない表情、自ら渦中のど真ん中に切り込んでいくような態度、複雑さを秘めた心。


 まるで、全力で背伸びをする子供のようだと。


___何だか、かわいい。


 思わず苦笑してしまう。最初に感じた得体の知れなさが嘘みたいだと。

 自分に何も与えてくれない男、己の目的のために動いて自分を何も助けなかった男。




 きっと、だからこそ橘霧香は彼を信用してしまったのだ。




「本部に獲物を横取りされるわけにはいかないわ、急いで」


「言われずとも」


 もはや迷いはなく、霧香は不思議なほど澄み切った心境になった自分を自覚したのだった。













「殺しに来たのか」


「お前が抵抗するならそうなる可能性もあるだろうな」


 廃ビルの一つ、窓も割れもちろん電気などつくはずもない場所の2階でその人影は横たわっていた。

 瀕死の獣のように、うつ伏せになりながらも『彼』は言った。


「この身に捕縛されるという選択肢はない」


 ゆっくりと身を起こす人影。

 その左腕がまるで風化した岩のように崩れ落ちた。


「あなた……!」

「死んだお前に用はないぞ」


 険しい顔をした二人に人影はまるで「どうしようもない」とでも言うかのごとく肩をすくめてみせた。

 その動作はとても、そう、今までで一番と言っていいほど人間臭いものだった。


「さあ、行くぞ」


 そうして『彼』は走りだす。

 無事な右腕を振りかぶって愚直に、まっすぐに道哉を目指して突き進む。

 獣のようだった動きは今となっては見る影もなく、成人男性より多少速い程度の動きで10m程度の距離を走り抜けた。

 霧香はすばやく懐に手を入れ、しかし道哉の制するように伸ばされた左腕に止められる。

 道哉を中心に歪む空間。

 静かに、されど迅速に力が集ってゆく。

 おかしい。自身はこの力を知っている。この現象を知っている。それなのに理解できないという強烈な違和感。

 一拍置いて解放された力は、いとも簡単に人影を吹き飛ばしてコンクリートの壁面に叩きつけた。

 再び静寂が満ちる室内。かすかに舞い上がったほこりが戦闘の残滓を伝えていた。


「……何をしたの?」


「そのうちわかる」


 素直に答えてはくれないだろうと思いながらも聞けば、やはり彼はこちらを見もせずに切り捨てた。

 そのまま強く体を打って気絶したであろう人影に向け、無造作に歩き出す。

 だが、数歩も歩かないうちにその足が止まった。


「どうし……!?」


 不審に思った霧香が問いを発するかしないかの瞬間に、人影の体から膨大な瘴気が噴き出した。


「ぐ……ぁ……」


 残った右手で心臓のあたりを握りしめるように『彼』が倒れたまま身をよじった。


「何て、こと」


 霧香が戦慄する。

 黒い霧のように人影にまとわりつく瘴気は力こそそこまでではないにしろ、人の闇に触れることが多い陰陽師をして怯ませるほどの怨念に満ちていた。


「マズいっ!」

「きゃっ!!」


 それは爆発だった。

 濃度を濃くした瘴気が廃ビルを破壊し、汚染し、飲みこみながら拡大していく。

 道哉に荷物のように抱えられて窓から飛び出した霧香は、そのまま空中を滑るように退避しているのに気付かず、茫然と崩れてゆくビルを見つめていた。

 携帯が鳴り、ほぼ無意識に通話ボタンを押したことで流れ出した怒声のような声に自己を取り戻す。


『何が起こった!』


「犯人に接触、既に力尽きる寸前でした。……おそらく、収集していた何かが暴走を起こしたものかと」


 可能な限り冷静に答えれば、舌打ちがひとつ聞こえた。


『場所を報告しろ。最も近い起点を使って結界を起動する』


 ロンドン市内には多くの起点が点在し、非常時には人払い等の簡易的な結界が張られることになっている。

 もちろん障壁としての力などほとんどないのだが。


『わかった。そのエリアならばもともと一般人は少ない、すぐに起動しよう』


 場所のコードを口にすれば即座に返される返事。

 コードのみならずそれに付随する情報まで彼の頭には入っているようだった。


『だが、感知した力からして君には重い。先ほども言ったが、帰還する気は?』


 再びなされた質問は、予想以上に霧香を揺さぶった。

 自嘲的な笑みが口もとに浮かぶ。

 これはどうしようもなく自分の失態だ。既に隠蔽が効かないほどのミスは今度の研修の失敗を意味していた。


___もう、いいかな。


 そんな思いが思考の隅をかすめる。

 だが、それでも。

 それでも自分が自分であるためには。

 実家に反発して力を求め、公務員という地位に甘んじたのは。

 遠い日の情景。抱いた想い。

 心の奥底に、普段なら決して思いだすことがない程深くに沈ませた原初の誓い。

 答えは、何年も前に決まっていた。


「ありません。即座に鎮圧して見せます」


 既に迷いはなく、返事も聞かずに通話を切れば相手に変化が起きていた。

 古びた建物は3,4階部分が吹き飛び、2階が直接見えるようになっている。


「まるでキリストだな」


 安定性に欠き、軽く額に汗を浮かべながらも道哉は二人分の体重を宙に縫いとめていた。

 彼が皮肉気に言うように、まるで磔にあった聖者の如く宙に浮かぶ人影。

 左の二の腕が欠けたシルエットが歪な十字架を描いていた。

 既に原型を失ったフードは真っ白な長髪を外気にさらし、中性的な顔は美しいと言うに足る造形を際立たせている。

 むき出しになった右腕の刻印が真紅に輝き、瘴気をエネルギーに変えてホムンクルスの『全て』が組み換えられてゆく。


「無茶な!?こんな状況で瘴気を使うなんて目分量で原子力発電を行うようなものよ!」


 瘴気とはこの世界に適合しないからこその瘴気。

 ひとつ扱いを間違えれば、あの量の瘴気がこのロンドンを文字通り死の都と化す。


「ちっ、この状況じゃ手が出せないな。まがいなりにも制御には成功してる」


 止めたいが、手を出せばバランスを崩しかねない繊細な操作。

 ほんの十数秒。

 二人にとっては十数分にも感じられた変化は、唐突に終焉を迎える。


「何、これ……?」


 霧香が最初に感じたのは、自らを包む強大な力の存在だった。

 まるでクジラにでも飲みこまれたような圧迫感。


「風、術師?」


 唐突に安定した飛行。

 今までどうして気づかなかったのだろうか。

 いくら風術師が隠蔽を得意としているといっても、これほどの力を目の前で行使されればすぐに理解できるはずなのに。

 次に見つけたのはホムンクルスの変化。

 直径10mほどの魔法陣が『彼』を核として空中に展開される。

 瘴気はその濃度を薄めながら100m四方程度に拡散していく。


「ああ、なるほど」


 ポツリと道哉が口を開いた。

 目つきは鋭さを増し、瞳の輝きは狂おしいまでの感情に満ちていた。


「あれは手掛かりどころか、奴の本命だったわけだ」

「どういうこと?」


 霧香が不審に思う間もなく、莫大な力の奔流が瘴気に汚染された空間を蹂躙した。

 いっそ滑稽なほどの狼狽をその顔に張り付けて霧香が叫ぶ。


「あり得ない!こんなことができるわけが!」

「そう、あり得るわけがない。だがな、この世界で常識なんてものが役に立ちはしないことくらい、お前は知っていたんじゃないのか」





 古き書は語る。


『其は無限。


 其は不滅。


 其は永遠。


 完全にして流転の象徴』





 ウロボロス、それは“世界”を指す。






「こんなでたらめな術が……ここら一帯の法則が無茶苦茶になるわよ!!」


 あまたの物質に触れ、多くの人間の思考を取り込み、その断末魔の感情を糧として『彼』は世界を侵略した。


「今の奴は思考も意思も存在してないだろう。まさしく神サマってわけだ」


 口もとをゆがめながらも、全く笑っていない目をした道哉が皮肉った。

 世界を完全に支配しながらも、語らず救わず動かない肉人形。







 そう、それは翠鈴を使った術の不完全な再現。






「奴が狂ったのかと思っていたら、ただ操られていただけか。あの手袋はそんなに性能が良くない、覗けるのは発狂寸前の苦痛と憎悪ばかりだっただろうに」


「まるで蟲毒ね……。対価性や影響力の強い命までは取らずに、負の感情のみを加速させて瘴気を生み出したわけか」


 呆れるほど綿密で無駄に複雑な計画だ。

 ここまでくると、あれを作った錬金術師が本当に存在するのかすらあやしい。


「何が起こるか分からないわ。早く離脱しましょう!」

「今出たら、多分だが二度と入れない。奴の自滅を待つだけになる」


 ここは敵の体内も同様。一刻も早い離脱の提案は、道哉にバッサリと切り捨てられた。


「でも」

「時間がない。ぐずぐずしてると反作用でロンドンが吹き飛ぶぞ!」


 この儀式はどう考えても代用品ばかりの代物だ。

 無理やり発動の要素を満たしただけであるホムンクルスでは確実に暴走する。周囲との反発が修正可能な域を超えたときの崩壊は想像を絶する。

 そのようなことを早口で説明された霧香はひとつ頷くとありったけの術媒介と力を絞り出した。


「サポートするわ。それしかできないけど全力を尽くしましょう」

「今の奴は意識がない。直接的な攻撃でもなければ感知しないはずだ。一撃で決めるぞ」


 霧香を手ごろなビルの屋上に降ろし、飛び立とうとする道哉に10センチほどのものを投げ渡す。

 これは?という目線での問いかけに笑って答えてやった。


「謎の骨よ。それを起点にするから持ってなさい」


 あえて言明を避けたせいか、少々渋い顔をしてそれを懐にしまいこむと道哉は一気に飛び上がった。

 霧香は緩やかにかつ迅速に歩行を刻み、呪文を口ずさみながら道哉の髪の毛を仕込んだ人型を場に置く。

 大量の符で鬼方を封じ、起点を元に意識の奥底に道哉の姿を思い描いた。


「やられた……」


 術の効きが良くない。

 周囲から力を取り込むようなものは効率が悪い。この付近の自然系の力は7割以上ホムンクルスに持っていかれているようだ。

 無いものねだりは無意味。

 不要な術を片っ端からカットして、力の増幅と防御に意識を割いた。

 自分の力を全て流し込むように全力で術を重ねがけし続ける。

 周囲の空気が一気に緊張感を帯びた。

 まるでひとつの生き物であるかのように統一される意思が、違えようのない格を示していた。

 上空で集う風。

 かけた術、送った力を抜きにしてもその力は大きく、風術師というものに対する常識を覆されるような気持ちになる。

 自分が取り込もうとして失敗した自然系の力である風の精霊も、僅かなぎこちなさのみでいとも簡単に自らの力としていた。


『霧香』


 不意に木霊法で呼びかけられた。


「何?これ以上は無理よ」

『奴の足元から力の流れがある。制御は別の場所に依存しているかもしれない、遮断系の術は?』

「貴方の防御を切ればいけるわ」


 相手を取り巻く未変換の瘴気、防衛本能による周囲からの圧力を全て貫くには火力がものを言う。

 ゆえに切り捨てるべきは防御。


『それでいこう。少しでも不安定になれば崩せる』

「じゃあこれを相手の四方に、間隔は小さいほど効力が高いわ」


 無造作に符を投げれば風に乗って魔法陣の周囲に突き刺さった。

 既に状況は感情や作戦などの段階を超え、打てば響くようなやり取りで舞台が整っていく。


 手に印を組み、静かに目をつぶった。

 それでも彼女には周囲が『見えて』いる。


 道哉が天高く右腕を掲げた。

 彼の周囲を巡っていた風の精霊たちがさらに一点に集い、純度を上げて研ぎ澄まされていく。


『合わせる』

「行くわよ!」



 世界を操る技と、空間を切り裂く刃が同時にその力を解き放った。














 『彼』は暗い暗い瘴気の胎内でまどろむように眠っていた。

 脳裏に浮かぶのは生まれてから今までの記憶。

 いや、記録とでもいうべきほどに無味乾燥なそれらの一部をひたすらにリピートしていた。

 『彼』が初めて建物の外に行き、周囲のものを術具を用いて探るように命じられたとき、一番最初に手を伸ばしたのは禁じられていたはずの人間だった。

 流れ込む憎悪と『自ら考える』という性質。

 その時真っ先に考えたのは誕生の瞬間の記憶だった。


『失敗作か』

『ただ破棄するには惜しい』

『これを使って次の段階へ……!』


 人間の思考回路が反発し、軋みを上げる。

 流し込まれた死への恐れと苦痛が、一瞬にして『彼』の脳裏を駆け巡る。

 そこで彼がやったことは一直線に研究所に戻り、後ろから無防備な頭を貫くことだった。



___もしもあれがなかったならば。



 犬を取り込み、人形という印象を薄れさせた『彼』に対して錬金術師はほんの少しだけ態度を変えていた。

 ノイズ。

 否、変化は自己に。

 エラー。

 記録への信頼性低下。





___私は、今頃どうなっていただろう?













 突如発生した暴風が近づいてきている。

 自らを包む黒き繭は先ほどまでの堅牢さが嘘のように揺らいでいた。

 一瞬の停滞に続いて、鮮烈なまでの暴風が暗闇を裂いて駆け抜けた。

 心臓に当たる部分を破壊されても、人間ではない『彼』にとって意味はない。

 断絶していた意識が急速に浮上する。

 断ち割られた瘴気の殻は既に薄れている。

 夜空に目を向ければ、黄金に輝く月が見下ろしていた。


___そうだ、私は


 すぐ目の前には拳を振り上げた男。

 スローモーションのように見える拳は迷いなくウロボロスの刻印を破壊し、身に纏った風は瘴気を吹き飛ばして魔法陣をズタズタに切り裂いていった。

 急激に遠ざかる意識。

 そもそも生まれなかった『彼』は、そこに存在した証拠を何一つ残さず無機物へと還っていく。

 完全に意識が断絶する刹那。


「人間に、なりたかっ…た……」


 そこに一筋だけこぼれた水滴が、心の証明になるのかどうか。


 始まらなかった物語がここに消えてゆく。



 それを弔うかの如く、崩壊した結界が幻想的な燐光を放ちながら散って行った。















『警察に所属しているなかでも指折りの術者である君がこのような結果になったのは残念でならない』


 研修期間が終了する日、国際電話でお偉いさんはそう切り出した。


『つまり、私たちの力は微々たるものでしかないということだ。我が国では民間が大きな力を占めている。下手に刺激すると善からぬ軋轢を生じることにもなるだろう』

「調停者、になろうということですか?」

『そうだ。国という権限を使って大きな事件が起きた際の縄張り争いを抑制する。残念ながら現状ではその程度しかできない』

「では、予定された規模での新部署は……」

『残念ながら不可能だ。室長は日ごろから警察官のオカルト相談係のようなことでで実績を持つ久米警部に依頼することになっている。ああ、既に話は通してあるよ』


 ここまで言われれば馬鹿にでもわかる。


___結局のところ、全国規模のオカルト対策組織なんか最初から作る気はなかったわけね。


 オカルトに国が関わることができないということは忌避すべきことだが、全国規模で展開するには人員不足かつ反発が大きいらしい。

 そもそも、オカルトというものはハイリスクハイリターンが基本であり、公務員には向かない。

 そういったことで規模を縮小したいが、霧香の人脈に辟易した上層部はあえて研修中の実績に左右されるように匂わせて失敗を誘い、口実を作ろうとしたのだろう。

 冷静に考えればわかる、研修生の実績ごときで新部署うんぬんが左右されるはずがなかったのだ。


 久米警部を信用していないわけではない。

 相談ごとにはしっかりとした答えが返ってきたし、術者としての実力は疑うまでもない。


 新しい部署が作られることがうれしくないはずがない。

 例え創設者が自分ではないとしても、自らの足で歩きまわった成果がここにある。


 だが、それでも。

___理想には程遠い。



「わかりました。今回の経験を行かせるよう努力します」

『詳細は帰国してからだ。最後の一日くらいゆっくり観光してもいいだろう』


 電話が切れた後も、彼女はしばし立ちつくしていた。

 息を吐き出して思い出したかのように受話器を置く。

 結局、錬金術師が作った失敗作の暴走ということで片づけられた。

 結界の中を観測することはできず、どのようなものだったのかを知っているのはあの中にいた二人だけ。

 巻き込まれた一般人もいたが詳細を理解できるはずもなく記憶を操作されて終わりだった。

 あんな非常識な術、一笑に付されると思い報告はしていない。


『通りすがりの術者の協力の元、暴走した研究体を処分しました』


 術具はいつの間にか消失していたため、報告のみに留めた。

 周囲は納得し、錬金術師の死体も見つかったことからこの事件は解決したものとなった。

 被害が拡大するまでに有効な手を打てなかったとして霧香は叱責を受け、先ほどの電話のような状況が待っていた。

 偶然とはいえ発動現場に居合わせた彼女は黒幕の存在を認識していた。

 ホムンクルスを作者すら欺いて誘導した手口、見たことも聞いたこともない術式。

 自分の手には余る背後関係に彼女は徹底的に敗北したのだった。

 デスクを一通り片付けると、同僚たちに挨拶をすませて外に出た。

 飲み会は既に済ませてある。予定がめったに合わない部署なんてこんなものだ。


 空は相変わらずの曇り空。


 ひとつ伸びをすると、霧香は颯爽と歩きだす。


 道哉とはあの夜から会っていない。


 ただ、最後の一撃の後に届けられた一言だけが彼と霧香をつないでいた。


『またな』


 重荷も責務も目的も全部放り出して、今日は思いっきり遊び倒してやる。


「どうせ次に会うときも厄介事の真っ最中でしょ。二度と会いたくないわ、あんなやつ」


 どこか確信を持って吐きだされた言葉は、その内容に反して霧香の唇に緩やかな弧を描いたのだった。






















「とうとう追いつかれたか。少々予定より早いのではないかな?」

「遅すぎたくらいだ。お前を殺してゆっくりしたいんだよ俺は」



 今日もまた、運命の歯車をもって世界は回る。








 あとがき

 ロンドン編が終了しました。
 閑話的な扱いだったので最後はサックリとしてました。物足りないかもしれませんね。
 さて、次はどうしたらいいのか少々迷ってます。
 正直なところアルマゲスト決着編は原作のように小出しにする形式のほうが演出的にいいかなと思ったりして。
 ということは次から原作に入る……のかな?
 では皆さんの感想、指摘、意見をお待ちしております。


12/20 初稿
3/13 誤字修正



[9101] 第21話
Name: 酒好き27号◆3e94cc3d ID:17f35bae
Date: 2009/12/20 21:58


「何というか、確かにこれは入るのをちょっとばかし躊躇う外見だな」


 始まりはここからにしよう。


 10年前から、それは心に決めていたことだった。

 しかし、少々実物に対するイメージは『常識』の範囲を逸脱しないよう補正がかかっていたらしい。


 派手な色使いに金のしゃちほこ。

 その家が持つ周囲との調和をまるっきり無視した雰囲気は、逆に感心を覚えるほどだった。

 道哉は思う。

 恥ずかしくないんだろうか、これ。


 これから始まる全てがどうでもよくなったかのように、苦みを含んだ笑いが口をついて出た。


 感情の整理をつけると軽く周囲に視線を走らせ、気配を探った。

 ひとつ頷き、おもむろに携帯電話を取り出す。

 コールは1秒。

 即座に出た相手に、有無を言わさず自らの主張を叩きつけた。



「おい情報屋。こういった依頼が術者の命にかかわるってのを甘く見てないか?見てない?見てるだろうが阿呆。数文字の情報が生死を分けることがある。思わぬ油断が永遠の後悔を招くこともある。俺の腕を信用して?何言ってやがる。現場に行った直後にわかる情報なぞたかが知れてる。滅ぼしたところで復活する妖魔がいないとは限らない。特殊な呪いが残らないとは限らない。依頼人の周囲や地域性を隅々まで調査して術者を補助するのがお前の仕事じゃないのか」



 相手にわかっていることを殊更に強調して言いつのってやる。

 悪霊なのか、妖魔なのか。

 それだけでも依頼金額の桁が違うのは分類の問題ではない。

 依頼人と術者の生死に直結する。それが故の金額である。

 この情報屋は軽い態度をとってはいたが、この世界で一定の信用を築く腕前は買っている。

 だからこそ、このような『遊び』を許すような甘い術者だと思われたくはなかった。

 あくまで信頼を前提としたビジネス。

 出来ごころなどで『間違ってはいない』情報を渡されるようになるなど言語道断。

 しかも、今回は情報屋の言っていた「ただの悪霊退治」以外にそれなりの格を持つ妖魔の気配が濃厚だ。

 流石にこのレベルになると見逃すことはできない。







 ……と、いうのが今考えた建前。

 日本に帰ってくるまでにあった様々な事件で懐はスッカラカン。ついでに言えば戸籍を偽造したせいで本当に所持金が底を尽きた。

 霊的な守りのあるホテルは高価だが、術者にとって背に腹は代えられないために一泊数万のホテルに泊まるしかなかった。

 どうせ泊るならスイートに泊ろうと思い、その金額は倍になっている。

 この男、これから起こる出来事を利用して原作和麻並に金銭をむしり取る気満々であった。

 今までこの若さで結構苦労して来たんだ、これからそれに見合うだけの贅沢をしたっていいじゃないか。というのが当人の主張である。



「なに、難しいことを言ってるわけじゃない。お前がこの情報のミスを認め、それにふさわしい『誠意』を見せてくれれば見逃そう。ついでに今後贔屓にしてやってもいい。ああん?たった6ケタの金額が命をかける依頼の情報に釣り合うとでも思ってるのか?それも見た感じそれなりに強力な妖魔だ。なぁ情報屋、お前なら信頼性の意味を正しく知っているはずだよな……?」



 裏の世界で有名になりながらも今まで詳細を隠し通している男が妖しく笑う。

 すなわち、「自分が顧客だということはメリットだろう?そして、自身の知名度と流す噂次第では情報屋生命が断たれると知れ」と。

 この世界で情報というのは大きな意味を持つ。

 属性や由来における相性が重視されるため、本来ならば江戸時代に封印された妖魔の討伐などは月単位で時間をかけ、古文書を探し、依頼人を守り周囲の安全を確保し、なおかつ対象によって引き起こされた現象を上手く鎮圧しながら最終的な依頼を達成する。

 そのような場合に一から資料をあさっているわけにはいかないからこそ情報屋という職業が成り立つ。

 情報を扱うということは、信頼性と確実性がなにより重視された商売なのである。

 もちろん、依頼人はそれに見合う対価を払うこととなるのだが。


「よし、その金額で手を打とう。今から言う口座にとっとと振り込め。へぇ、もう振り込んだのか。仕事が早いな、これからも頼むぜ」


 ということで労せずして7ケタ後半の金額を手に入れた道哉。

 電話の最中浮かべていた不敵な笑みをだらしなく弛緩させると、先ほど買ったコーヒーなどを飲みつつ踵を返した。


「と、いうわけで帰ろう」


 正直な話、風牙衆によって具体的な被害が生じるまで待つ気は全くなかった。

 原作にもあったような強力な妖魔を呼び出すにはそれなりの準備が必要で、既に召喚されているといっても過言ではない。

 風牙衆の拠点をしらみつぶしに探せば案外早く見つかるのではないだろうか。

 残金の問題が解決した今、道哉は「情報屋との齟齬があった」などとのたまって帰る気でいたのだった。




『お待ちしておりましたっ。八神道哉様ですね』


 その瞬間、慌てたような声とともに門が自動で開かれた。

 信用第一なこの商売、ここまでされて帰るようではこれからに差し障りがある。


「場所を間違えたのかと思いました。申し訳ありません」


『いえ、どうぞお入りください』


 一瞬浮かべた実に面倒だとでも言いたげな顔を即座に微笑で塗りつぶすと、道哉は飲みきった缶コーヒーの缶を無造作に投げ捨てた。

 背後に向かって投げられた空き缶はくるくると回転しながら物理法則を無視して進路を変え、離れた場所のゴミ箱に入る。

 もちろん、監視カメラに見えるであろう場所をわざと選んでいた。


___この業界、案外ハッタリって重要なんだよな。


 世界にはひと癖もふた癖もあるような人物が多すぎる。

 小手先の技術だろうと見せつけて、早いうちに主導権を握っておくのは悪いことではない。


「にしても、火の精霊の気配が多い。宗家……には足りないな。分家の有力者でも来てるのか?」


 あ、火属性の妖魔のせいか?

 出迎えの使用人に軽く会釈しながら、道哉はどこか軽い胸騒ぎを感じていた。









「予想外だ……」


 どこか途方に暮れたように道哉がうめいて一歩下がれば、


「はい、私もです道哉様」


 花咲くような笑みとともに小走りで近づいてきた女性が存在を確かめるようにその腕を取り、


「無能を理由に神凪を追い出された手前、よくも顔を出せたものだな!」


 青年は反発心から気炎を上げ


「君、話が違うじゃないか!私は優秀な術者だと聞いて……」


 依頼人は予想外の情報で慌てたように視線を彷徨わせる。

 道哉が門をくぐってから数分後、応接間は実に混沌とした様相を呈していた。

 観念したとでも言うように、道哉は両手を挙げて降参のポーズをとる。

 以前はちょくちょくとからかったものだが、まっすぐな視線と意外に押しの強い態度に押し切られたことは数多い。


「あー久しぶりだな、操」

「はい。お久しぶりです」


 伸びた背筋に楚々とした立ち振る舞い。

 明らかに動きにくいのではないかと思われる和服は注意して見れば巧妙に隠された切れ目などで余裕を持った造りになっており、実践に耐えうるもののようだ。



 4年。



 その年月は思ったよりも長かったらしい。


 記憶よりもだいぶ成長した、大神操がそこにいた。


「髪、ずいぶん伸ばしたんだな」

「はい。また会えるようにと願掛けの意味合いを込めまして」

「話を聞け!今更戻ってきていったい何をたくらんでいる!」

「そんなことより早く怪奇現象を解決してくれ!」


 名前も忘れた神凪の分家と依頼人。

 そこに加えてなぜか一名、懐かしい顔を見つけてしまった道哉は予想以上の動揺を顔に浮かべたのだった。


「良く似合ってる。だがどうしてここに?」

「ありがとうございます。今年で成人こそしたのですがまだ未熟者で……皆様の依頼に同行させていただいていろいろと学ぶことができればと」


 その邪気のない頬笑みは暖かな日だまりのようで、道哉にとってとてつもない癒し効果を発揮した。

 それこそ生まれた時からそう言ったものに縁がない道哉は、「抱きしめてもいいかな……」などと軽い現実逃避に走る。

 運命を打ち壊した、同時に打ち壊されたあの日から、世界は変わったのだろう。

 既に遠い過去へと詳細を置き去りにした物語の記憶と昔の決意。

 これから始まるのだと、どこか映画の観客のような気分でいた道哉は、予想外の展開に打ちのめされて色々といっぱいいっぱいだった。


「ほほう、彼とは因縁があるのか。ならば先に依頼を達成した方に成功報酬を払うということでいかがかな?」

「ええ、それで構いません。道哉!格の違いというものを見せてやろう!!」


 死んだ魚のような目をした道哉を無視して盛り上がる男二人。

 あれよあれよと言う間に(道哉を置き去りにして)話はまとまった、かのように思えたのだが。


「仲介人との齟齬がありまして、後日あちらから正式な謝罪が来ると思いますが、プロとして依頼なしに関わることは出来ません」


 真剣な顔をして道哉はもっともらしいことを主張する。

 依頼内容の査定に偽りがあった時点で契約は無効。正式な契約もなしに動くわけにはいかないと。

 一流の術者ならば当然。

 力を持つからこそ、それを振るう理由は外因ではなく内因に求めるべきだ。

 周囲に流されるようでは愚の骨頂。

 人に無い知識を持つからだろうか、彼はある種傲慢な考えを持っていた。

 ついでに言えば。商売に『例外』は禁物である。


「ふん、臆病者め」


 どうしても名前を思い出せない分家の術者が見下したような目で見てきたが、正直相手にしたら疲れるだけなので無視した。


「慎治さん、坂本様の前です。あまりそのような態度を取るべきではないかと」


 道哉の態度に機嫌を損ね、さらに何か言いつのろうとする分家(名前から結城家の術者と判明)を操が穏やかにたしなめた。

 内気な性格だった昔を思い出し、少々感心しながら視線を操に向ければ軽く怒った顔をして慎治を見つめていた。


「そ、そうだな。申し訳ありません、見苦しいところをお見せしました」


 年下に注意されたことか、それとも術者であり社会人としての態度を見失ったことかを恥じ、頭を下げた。

 いくら退魔の大御所といっても、いや、退魔の大御所だからこそ誠実な対応が重要視される。

 何だかわからないものを何だかわからない力を使って退治し、何だかわからないけれども大きな態度で高額な報酬を取っていく。そんな術者はいくら腕が良くても信頼されないのだ。

 丁寧な説明とアフターケアも重要な仕事となっている。


「いや、君たちにも事情があるのだろう。私としては依頼さえ解決してもらえれば構わないよ」


 依頼人……操も言っていたが確か坂本だったか、がいかにも『大物っぽく』頷いた。

 だが、何というか貫禄が足りていない。

 成り上がり者なのか何かコンプレックスでもあるのか。

 関係ないのですぐに意識から外した。

 と、気配が湧く。


「あら、いらっしゃったようですね」


 道哉に数秒遅れて操が


「む、来たか」


 さらに数秒遅れて慎治が気づいた。


「な、何が起こったのかね?」

「ご依頼にあった悪霊が来ました。坂本様は私の後ろに」


 操はすばやく依頼人の安全に気を使い、慎治は集中して両手の間に炎を生み出した。

 注意深く観察すれば、その精霊魔術の行使はやはり未熟といってよいほどだった。


 血筋としては最上級。

 引き寄せる精霊の量はスタート地点からして凡人とは異なる。

 それでも血がほとんど分散していない神凪一族にもかかわらず、彼の研鑽は最低限のものでしかなかったようだ。


「はぁっ!」


 悪霊が出現した瞬間に間髪いれず放たれた炎は、悪霊に何一つさせることなくその存在を焼きつくしていく。


  おおぉぉぉおぉぉぉ………


 既に断末魔と化した声。

 それを鼻で笑うと慎治は道哉に向き直った。


「見ろ、これが神凪の力だ」

「慎治さん!!」


 勝ち誇ったような態度は、狼狽の色が濃い操の声で色を無くす。


「何っ!そんな馬鹿な!?」


 振り返った慎治が見たものは燃えるものがなくなっても燃え続け、あろうことかその力を高め続ける火球だった。

 悪霊を焼きつくしたはずの炎が消えない。

 それだけならばまだしも火の精霊が自身の制御を離れ、さらなる火の精霊を取り込んでいく。

 何とかしようと手を伸ばすも既に遅く、炎は一気にはじけた。


「ぐあああぁあぁ!!」

「操!」


 爆発した炎の塊は慎治を猛スピードで部屋の壁に叩きつけ、一気に室内を荒れ狂った。



  呵々々々々々々々々々々々々々々々々々



 神経をささくれ立たせるような声で、悪霊を隠れ蓑にしていた妖魔が嗤った。











 炎がはじけた瞬間、道哉は操を抱きしめるように確保し、気を障壁のように前面に押し出して依頼人ごと操を守った。


「道哉様……あの、私は守っていただかなくても炎には耐性がありますから」


 火の海と化した部屋、後ろでおびえたような声を出す依頼人、炎にまかれて壁に叩きつけられた慎治。

 その全てを忘れて、操は照れたように視線を彷徨わせる。


「何を言ってるんだ、完全に反応が遅れていただろう?操はともかく、依頼人まで傷つけるところだぞ」


 若干呆れたような声。

 術者として当然の配慮を忘れていたことを思い出し、羞恥やら何やらで加熱状態にあった操の頭が一気に冷却された。


「そう、ですね。やはり、まだまだ私は未熟です」


 未だ戦闘状態にもかかわらず気落ちしたように眼を伏せる操に、今度こそ道哉ははっきりとした苦笑を浮かべた。

 いくら炎に耐性があるといっても衝撃は防ぎきれないはずだし、現に慎治は気を失っている。


「それに、その服はそんなに耐性が高くないだろう?体は無事でも、服が燃えたら流石に恥ずかしいんじゃないか」


 道哉はその言葉に今度こそ顔をトマトのように赤くさせた操を一通り観賞しながらにやにやとしていたのだが、ふと気づいたことがあった。


「操……?」


 細かく震える足。

 道哉の服をか弱く握りしめる手。

 預けられた体重が、操の内心を如実に表していた。


「いつからだ?」


 にわかに真剣味を帯びた声色で道哉が問いかける。


「わかりません。ですが、宗主によれば道哉様と二度目に会った……あの日のことが原因ではないかと」

「つまり、火と殺意か?」

「……はい。でも、どちらかというと誰かが傷つくような光景です」


___だから、か。

 もう成人しており、他の仕事に就くわけでもない術者を遊ばせておくほど神凪が甘いとも思えなかったが、これで納得した。

 確かに、小さなころに見たあの光景はトラウマになってしかるべきだ。

 それ以外で問題がないので、年上の術者と一緒にリハビリのようなことを行っていたのだろう。

 そういう意味では、火の属性を持つ目の前の妖魔は最悪の相手だ。

 しかも殺すこと、苦しめることを楽しんでいる節があるところなぞデジャヴが過ぎる。



 相手が炎術師であるためか、火力が足りないと判断したのだろう。

 言語にならぬ声を発す妖魔は首だけの体で浮かびながら、さらに炎を威力を高め続ける。

 その迫力におののく依頼人を安心させるように目を合わせ、力強く頷いた。

 そして操の両肩に手を乗せ、目線の高さを合わせて向き直る。


「操。今、お前は戦わなくていい。ただ周囲の炎を制御して、依頼人を守るだけでいい」


 ゆっくりと、安心させるように。


「焦ることはない、俺が何とかしてやる。だから、少しの間だけでいい。立ち上がって依頼人を守れ」


 あの日、神凪道哉は確かに救われた。

 世界のほぼ全てが敵で、どうしようもない毎日に差した一筋の光。

 その光の未来が自分の救いと引き換えにだったなどと認めたくはない。


 トラウマとは一般人の想像以上に大きな壁として当人に立ちふさがる。

 道哉の言い方は、聞き様によっては酷ともとらえられかねないものだった。


「道哉様は……相変わらず意地悪なのですね」

「好きな子には意地悪したくなるもんさ」

「道哉さまは……相変わらず優しいのですね」

「女性には可能な限り優しくする主義でね」


 その言葉に、操は少しだけ笑みを浮かべたようだった。

 そして彼女は自ら道哉の腕を抜け出した。


「坂本様の守りはお任せください」


 まだ震えが止まらない体で操が一歩下がり、清浄な炎が渦を巻いた。

 軽くその力量に目を見張る。分家でもかなりの実力者じゃないだろうか?


「心配するな。とっとと終わらせてくる」

「心配なんてするだけ無駄でしょう?道哉様」


 炎の中から聞こえる声に安心して、道哉は前へと踏み出す。

 操のものとは正反対の炎が意思を持って叩きつけられる。

 だが、その時すでに道哉の姿はそこに無く、十分に遠心力を利用した回し蹴りが妖魔の体を壁に叩きつけた。



  グォオォオォォォォオォオオン……


 撃ち込まれた大量の気が妖魔の体力を大幅に削る。

 それでも途切れなく打ち出される炎弾を踊るように避けると、全身のバネを十分に利用して一息で天井まで跳び上がった。


 妖魔に笑みが浮かぶ。

 空中とは身動きのとることができない場所。

 飛び上がった高さから、一拍力を溜めて全力で攻撃ができる。


  呵々々々っ…………!?


 勝ち誇った嗤い声は、次の瞬間には妖魔の本体ごとコマ落としのように真っ二つになっていた。

 別に道哉は特別なことをしたわけでなく、天井を蹴って急加速しただけである。

 彼の手にはナイフのように小ぶりな七星剣。

 核ごと強大な気を含んだ刃で真っ二つにされた妖魔は、溶けるように空中に消えていった。


「…………地味に痛い。かっこつけ過ぎた」


 一方道哉は床にめり込むほどの衝撃を両足に受け、なおかつ受け流し損ねたため、なんとも締まらないことになっていたが。

 と、そんなことをしている間にも支配者を失った炎が操によって束ねられ、黄金の輝きを放っていく。


「……は?」


 浄化の炎の最上位。

 既に分家が失って久しいとされる『黄金』がいとも簡単に行使され、周囲を浄化しながら散って行った。

 茫然とした表情の道哉に、操は青い顔ながらもいたずらっぽく微笑んでゆっくりと膝をついた。


「すまない、無理をさせたか?」


「いえ、いつもこのような状況になると足に力が入らなくて……」


 トラウマはそう簡単に克服できるものではない。

 むしろそれを抑え込んで依頼人を守り、後始末まで行った操は称賛されてしかるべきだ。

 小走りで操に駆け寄る。

 未だ震えの止まらない手を優しく握ってやりながら、落ち着かせるように背中に手をまわした。


 4年ぶりの再会。


 話すことはそれなりに多く、依頼完了の報告の後に小粋なバーか高級レストランにでも誘おうかなどと思考は巡る。





 だが、その前に。



 何よりも先に、聞くべきことがある。



「道哉様?」


 様子のおかしい道哉に気づいた操がきょとんとした声を上げる。

 道哉はなんかいろいろ精いっぱいの笑顔で、出来るだけ平常心を維持しながら問いかけた。


「なんで、操は、『黄金』なんて使えるんだ?」


 分家が黄金の炎を失って100年以上。

 宗家との差は歴然としたものになっており、それが当然であるという風潮が満ちていた。

 動揺がにじむ道哉に目を向け、操は会心の笑みを浮かべる。







「私、恥ずかしながら『分家最強』などと呼ばれているのですよ?」



 親にテストの点数を誇る子供のように。

 操は最高の笑顔とともに道哉の手を握り返したのだった。






 あとがき

 ノリで書いた、後悔はしていない。な作者です。
 筆が進んだのでその日のうちに投稿です。お楽しみいただけたでしょうか?
 まさかの操強化&弱体化。こんなんやったのは私くらいだと自負しております。
 ついでに大神雅人涙目。
 過去編を複線にしつつ、これからもがんばります。
 これからの展開、自重しませんよ?





[9101] 第22話
Name: 酒好き27号◆3e94cc3d ID:17f35bae
Date: 2010/01/22 03:00


 その日、神凪は騒然としていた。

 分家の術者が数人、屋敷のすぐそばで息絶えていたためである。

 宗主は報告を受け即座に屋敷の結界を起動。

 出払っている術者全員に即座に連絡を取り、可能な限り早急な帰還を伝えるとともに風牙衆に犯人の情報を集めさせた。


「兵衛!早くせんか!」


 恐怖の裏返しともとれるような怒声を放つ分家の術者たち。

 次は我が身とでもいうおびえたような空気が一同に伝染している。

 屋敷の広間で風巻兵衛は現場から集めてきた妖気の一端を解放した。


「ぬぅ……」

「これは……」

「何と凄絶な…」


 妖気というものはその大きさで測るものではなく、そこに込められた怨念などといった負の因子ともいえるもので決まる。

 兵衛が集めてきたその妖気は少量ながらまるで数多くの魂と感情が込められたような、怖気の走るほどに凶悪なものだった。

 どれだけの人間や同族を食らい、悪意や憎悪を糧にすればこの領域に至るのか。


「何か情報はつかんでおらぬのか?」

「桁違いの妖魔です。おそらく我らとは次元の違う風術を使う妖魔が風の結界で犠牲者を取り込み、我らに気づかれぬうちに殺害したのでしょう」


 そわそわと落ち着きなく問う術者に兵衛が平然と返せば、そんなことはわかっているとばかりに罵声が飛んだ。


「現在我らの情報網には何もありませぬ。これほどの妖気を持つ妖魔、封印が解放されるようなことがあれば即座に情報が入るはず」


 強大な妖魔の封印ほど厳重に管理される。

 未だ何の情報もないということは最近召喚されたか、何らかの要因によって顕現したと考えるのが自然だろう。

 もしくは、『誰か』が連れてきたのか。


「ならば即座に神凪に恨みを持つものを調べよ!それがそなたらの役割であろう!!」

「やめよ、風牙は今も情報を集めておる。これ以上急かしても仕様があるまい」


 感情的になりかけた場を重悟が静止した。

 声に込められた圧力だけで、一気に空気が持っていかれる。


「兵衛、相手の実力は油断できん。もし我らを狙ったものならば十分に警戒して事にあたれ」

「お気づかい感謝いたします。ですが、そのようなことを申していては此度の事件、手遅れになりかねませぬ」


 宗主の気づかいに深く頭を下げながらも、彼は言う。これも仕事のうちであると。


「そうか、苦労をかける」

「いえ……」


 一見社交辞令にも見えるやり取りだが、そこには確かに穏やかな感情が込められていた。

 静かに頭を下げた兵衛にひとつ頷きを返すと、重悟は一同を見渡した。

 屋敷の目と鼻の先で行われた犯行に怯えを隠せぬもの、威勢よく反撃を叫ぶ者、冷静に犯人の意図を探ろうとする者。

 その誰もが一様に不安な感情を隠すことができていなかった。


「失礼します」


 と、そこに入ってきた男がいた。

 それは、つい先ほどまで悪霊の討滅に従事していた結城慎治であった。


「い、依頼の報告に参りました」


 部屋にいる者全員から一斉に視線を向けられた慎治は、狼狽しながらも頭を下げた。


「これで今日依頼に出ているものは残り3人か……よくやってくれた。報告書をここへ」


 戦力は多いに越したことはない。

 個々の安全の面でも個人行動をしている術者が屋敷に戻ってきていることに満足すると、重悟は報告書にざっと目を通す。

 そこで、彼の眉毛が鋭角に跳ね上がった。


「道哉が日本に?」


 ざわり、と周囲がざわめいた。

 現在の神凪一族にとって多くの意味で印象に強く残る人物である道哉の名前は、そのインパクトもあって場に強く響いた。


「はい。……私が妖魔に不覚を取った際にその身一つで大神操と依頼人を守り、その後七星剣を用いて一撃で妖魔を滅しております」


 悔しさからか情けなさからか、苦渋をにじませた表情で慎治は自身の失態を報告した。

 場の空気は一部が道哉への賞賛、残りの大部分が慎治に対する厳しい評価だった。

 いくら炎属性の妖魔だからといっても、浄化の力を秘めた炎をあっさりと奪われた彼の力量は神凪としての誇りに傷をつけるものである。


「そうか……道哉が帰ってきたか」


 重悟は遠い眼をして在りし日に思いをはせた。


 あの鋭い眼差しを覚えている。

 歯を食いしばり、弱音を吐かず、ただひたすらに修練に打ち込んでいたあの目つきを覚えている。

 そう、あれこそ『天才』と賞賛されてしかるべきものだった。

 格闘のセンスも、気の量も扱いも、勉学すら平均を超え、なおかつ自分では決して止まることをせずに上を目指した少年。

 生まれたのが神凪でなければ、いや、神凪だからこそあそこまで至ってしまった不遇の天才。

 その危うい強さは、厳馬に勘当を言い渡されても揺るがなかったという。

 たった二人の酒の席で厳馬が誇るように、嘆くように語ったやりとりが目に染みた。


「そう、か……」


 彼の嘆息に、どこか空気が硬質化したような感覚に陥る一同。

 彼に危害を加えた当時の子供、侮蔑を隠そうとしなかった大人。

 道哉が死にかけたあの事件にかかわった子供は例外なく重悟によって厳しい処罰が言い渡され、その親も大きなハンデを負った。

 その激怒はすさまじく、普段なら完璧に制御しているはずの精霊が感応し、周囲に火花を散らせるほどであったという。

 守るためにある炎。それを私利私欲のため、しかも人間をなぶるために使うなどもってのほか!

 その重悟の怒りに加え、その数年後にあった継承の儀での一撃。

 強大な『力』とそれを与えた火の精霊王に誇りを持つ彼らは、最後の最後であの馬鹿らしい一撃に何を見たのか。

 彼らにとって神にも等しい力の差がある宗家の炎が割られたあの光景が、分家の長たちの心に強く焼き付いていた。

 気まずい部分もあるだろう、宗主に対して後ろめたい気持ちもあるだろう。

 だが、それを上回る道哉本人に対する複雑な感情が彼らにはあった。


「道哉の帰りを知っていたか?」


 自身の機嫌をうかがうような雰囲気を察し、重悟は軽い咳払いとともに厳馬に問いかけた。


「いえ。ですがあれは既に神凪のものではありません」


 例え知っていたとしても連絡する気などないと言外に語る厳馬は、珍しく少々ためらうような調子で言葉をつづけた。


「此度の事件、偶然にしては時期が合いすぎています。容疑者として話を聞くべきかと」


___やはり、そう考えるべきなのだろうな……。


 感情的な面からもう少しだけ後にしようと思っていたその言葉を厳馬に言われ、重悟は深い溜息を吐いたのだった。


「そうだな……慎治よ、道哉は何か言っていたか?」


 そう問えば、慎治は面白いように顔を青ざめさせた。


「奴は『デートしよう』などと言って大神操を強引に連れ姿を消しました……」


 事件の捜査が進み、妖魔を警戒して術者の帰還命令が出されたのはその後だったという報告に、集まった者は皆顔をしかめた。

 道哉が犯人だった場合、操の命は風前の灯と言える。


「どう思う」

「妖魔の力を宿しているならば、神凪の屋敷で朝に術者を殺害、その後横浜まで大神の娘を目当てに移動……不可能ではないですが、少々無理がありますな」


 思案顔だった分家の当主は難しい顔で懸念を否定した。

 捜査のかく乱ならばもう少し賢い方法が存在するし、わざわざ慎治に姿を見せる必要がない。個人的に操と接触すればそれに足る。


「ならば妖魔を従えているのでしょうか」


 比較的若い術者が純粋に疑問を口にした。

 道哉と妖魔を切り離して考えれば確かに不可能な話ではない。


「ふむ、慎治も道哉自身から妖気を感じなかった模様。万が一道哉が犯人だった場合は本人を抑えれば何とかなるでしょう」


 結城家の当主の総括に軽くうなづくと、重悟は今後の方針を決定した。


「風牙衆は道哉の情報を集めよ。大神操の行方は最優先で把握し報告するように」


 むやみに動いても犠牲者を増やすばかり。

 ここは下手に動かず、情報がそろうのを待つべきだと重悟は言った。

 続いて、神凪の術者に対する支持を出そうとしたところで兵衛が声を上げる。


「どうした」

「大神操様に連絡がつきませぬ。道哉は都内に帰還、大まかな現在位置までは探り当てましたが、何らかの妨害を受けた模様」


 この瞬間、神凪のなかで道哉は敵対者と認識された。

 にわかにあわただしくなる周囲を一括して黙らせると重悟は宗主にふさわしい威厳を持って宣言する。


「まだ道哉が犯人と決まったわけではない。しかし!もし我らに敵対し術者を殺害したと言うならばその命で贖わせよう!」


 妖魔におびえる術者たちを鼓舞し、具体的な指示を出してゆく。


「道哉の場所はどこだ。……ほう、その場所ならば綾乃が近いな、すぐに雅人に連絡を取れ、十分に警戒しながら道哉に接触し見極めよと」

「道哉の周囲に網を張れ、妖魔が出現したら即座に綾乃たちに撤退の指示を」

「恨みならば、犯人を特定したと気づかれた場合この屋敷が襲撃される可能性が高い。一刻も早く臨戦態勢を整えよ!」


 一礼した後、一斉に早足で部屋を後にする術者たち。

 皆一様に口数も少なく、緊張した面持ちで支持を出すために去って行った。


「私が出ましょう」


 部屋に残ったのは木霊法で即座に部下へ指示を出した兵衛と厳馬のみ。

 そして最初に口を開いたのはやはり厳馬だった。


「気持ちはわかるが落ち着け。まずは確認が最初だ。兵衛、和麻はどうしている?」

「依頼を完遂し、こちらに向かっている模様です。少々遠出なさっているので……そうですな、1時間もあれば」


 本当ならば道哉を問いただすのは厳馬と和麻の二人に任せるべきなのだろうが、状況の把握を迅速に行いたい重悟は効率を重視した。

 細かい話を詰めて行きながら、3人はひとつの懸念が頭から離れなかった。




「雅人がいるから大丈夫だとは思うが……綾乃め、早まってくれるなよ」



 なら任せるな、という視線を無視し重悟は愛情と責務の板挟みで重い息を吐いたのだった。














「お嬢、さっきの連絡に追加だ」


 都内某所の幽霊屋敷を丸ごと浄化していた綾乃は、気心の知れた親戚からの言葉に眉をひそめた。


「また誰か犠牲者が出たの?」

「いや、容疑者が絞り込めたらしい……道哉、だとよ」


 複雑な顔をして言う雅人に対して、綾乃は眼を見開くことで返答とした。

 それは綾乃にとって予想もしなかった名前、同時に決して忘れられない名前だった。


「道哉って……あの道哉さん?」

「そう、あの道哉だ」


 『あの』で通じるほど、彼らにとって道哉と言う青年は鮮烈な印象を残した人物だったといえるだろう。


「腕は落ちるどころかさらに磨きがかかったようだぞ。分家の術者が不覚を取って炎を奪われた妖魔をその炎ごと一刀両断したらしい……お嬢?」

「そう……道哉さんが」


 呆けたように虚空に視線を向ける綾乃を雅人は揺さぶって正気に戻した。

 4年前のあの日、儀式の場所に彼もいたのだった。故に、彼にとって幼いころから面倒を見てきた綾乃の気持ちは手に取るようにわかる。

 超えるべき壁。越えなければならない人。自己満足だろうと、道哉と真正面から向き合わなければ彼女は一歩も踏み出すことができなくなったのだろう。

 それが心の準備もできないままに突然出現した今、綾乃は予想外の動揺を見せていた。


「道哉はうちの姪っ子といるらしい。近い俺たちが偵察係だ、一刻も早く動きたい。……行けるか?」


 彼女の内心を見透かしたうえで彼は問いかけた。

 既に彼女には敵の妖魔がどれほどの相手か伝えてある。神凪最強とされる厳馬に匹敵するであろう風の妖魔。

 このままでいるならば死ぬぞ、と。


「あったりまえよ!さっさとここを浄化して向かいましょう、叔父さま!」


 その声とともに神器炎雷覇が引き抜かれ、彼女の纏う炎が一気に燃え上がった。

 床や壁をきっちり避けて振るわれる炎が一気に室内の空気を浄化していき、有象無象の悪霊たちは抵抗することもできずに焼きつくされてゆく。


 だがその瞬間、何も存在するはずの無い空間に予想外の手ごたえを感じ、綾乃は振り向いた。




 宙を舞う腕。

 吹き飛ばされる体。

 飛び散る血液。

 血まみれになった雅人が壁に叩きつけられるのを、綾乃は茫然と見ていた。



「呆けるな!こいつが犯人だ!!」


 喉に血が絡んだ声で雅人が怒鳴る。気づけば、目の前に黒い風を纏った『何か』がいた。

 風の結界に包まれ何一つ見えないながらも、綾乃はそこに隠しきれない愉悦を見た。


___こいつは自分たちを舐めている。嬲り殺すための餌としかみていない。


 体の大ざっぱな輪郭しか見えないそれは、見せつけるように近づいてきた。

 傷口を抑えながら雅人が立ち上がり、妖魔はその風の力を増す。

 転がった叔父の右腕、完全に自分を侮った態度、4年前の光景、それらがまるで走馬灯のように綾乃の中を駆け巡った。


 ふざけるな。叔父の腕を奪い、自身を侮り、神凪の術者を殺した。


「ふざけるなぁ!!!!」


 彼女の怒りが精霊と感応する。

 今まさに雅人が放とうとしていた精霊まで引きずり込んで、黄金の炎が室内を埋め尽くした。

 怯んだように一瞬止まった妖魔に全力で肉薄する。

 大上段から振り下ろされた刃は風の結界をかすめながらも回避され、余波である炎が爆発したように周囲をえぐり取った。

 不利を悟ったのか、それとも雅人の腕一本で満足したのか、妖魔はその一撃であっけなく姿を消した。


「叔父さま!」


「俺にかまうな!可能な限り張り付いて少しでも情報を集めろ!!」


 叔父に駆け寄ろうとした綾乃は、その怒声にその足を縫いとめられた。

 雅人はどう見ても瀕死の重傷だ。

 とっさに腕を盾にしたのか右腕はひじから先が存在せず、それでも止め切れなかったのか、胸にある袈裟がけに切られたような大きな傷跡から血を流していた。

 でも、と言いつのろうとする綾乃を制して彼は胸の傷を焼いた。


「ぐ……ぅ……」


 ある程度それで出血を止めると右腕の傷口を残った左手と口を使って縛り、力尽きたように壁に背を預けた。


「これで俺は大丈夫だ。ほら、風牙衆もきたところだ。このまま病院に行くから心配するな」


 既に意識も満足に保てないのだろう。

 焦点の合っていない目で雅人は言った。


「奴の結界だけでも破壊して中身を確かめろ。奴は強い……決して油断せずに……危ないと思ったら、逃げろ」


 駆けつけてきた風牙衆に支えられながら言い終えると、雅人は唐突に気絶した。

 綾乃はぎしりと奥歯を噛みしめると、即座に反転して屋敷から飛び出す。


「妖魔が向かった方向は?」

『今の綾乃さまが向いている方向から左斜め前方向です。……そちらには道哉が』

「そう……あなたは叔父さまを病院へ、それと道哉の近くにいる風牙衆を下がらせなさい」


 桁違いの妖魔が相手だ。風牙衆など足手まといにしかならないと判断した綾乃は手早く支持を出しスピードを上げた。

 気で強化された脚力がオリンピック選手を超える速さで躍動する。

 感覚を報告のあった方向に伸ばせば、ほんのかすかながら邪悪な気配を感じ取ることに成功した。


 目指すは道哉。

 叔父の腕と殺された術者の命の対価を十二分に払ってもらおう。


 頭に血が上った綾乃には、叔父の言った「話を聞く」という言葉も「容疑者」という扱いも抜け落ちていた。







 あとがき

 クリスマス?鍋に日本酒でしたよ。もちろん一人で。
 この作品、実は酒が入った状態で書いているものが多いとはだれも思うまい。




12/26 初稿
1/22 誤字脱字修正



[9101] 第23話
Name: 酒好き27号◆3e94cc3d ID:17f35bae
Date: 2010/01/22 03:20


「道哉様、次はどこへ連れて行ってくださるのですか?」

「ん?ホテル」

「まぁ、御冗談を」


 うふふふふ……

 あはははは……


___なんだこれは。いったい何がどうなった。


 道哉は操と一緒に穏やかな笑みを浮かべながら道を歩く。

 黒髪の大和撫子と長身かつそれなりに整った容姿を持つ男という二人組は、その笑顔も相まって実に絵になる情景をつくっていた。


「あ、あれなんて綺麗なのでは?ちなみに私の薬指のサイズは……」

「はっはっは。操、ちょっと指輪は重いんじゃないか?いろんな意味で」

「あらあら、年ごろの女性に対して重いなんて言うものではありませんよ?」


 ウィンドウショッピングなんかをしながら交わされるやり取り。

 一見恋人同士にも見える会話だったが、なぜかそれは我慢比べのように微妙な緊迫感に満ちていた。

 最初こそほほえましげに見ていた各店の店員たちも、彼らが店を出るころにはかすかに首をかしげる程、二人の雰囲気はどこかおかしい。

 怒りや殺意のような負のベクトルを持つものではなく、獅子が戯れにじゃれあうかのようなアンバランスさである。


___どこがどうなって俺はこんな妙なメルヘン空間に迷い込んだんだ……。


 先制こそしたものの、その後すっかりペースを握られてしまった道哉は操の予想外の強さに対して動揺を現さないようにするのが精いっぱいだった。


「うーん、操のイメージに合うアクセサリか。いつも和服姿なのか?」

「いいえ、これでも女性ですから洋服も結構持っていますよ」


 ふと気になっていたことを聞けばあっけなく新事実が判明。

 再会祝いに何か小物でも買ってやろうかと言った手前、半端なものを送るわけにはいかない。

 問題は残金の少なさであるが、さてどうしたものか。


「あの……道哉様?」

「ああ、どうした?」


 思案顔で視線を彷徨わせる道哉に対し、今までの押しの強さから一転して困惑したような顔になった操が声をかけた。


「私はそこまでしていただかなくても結構ですから」

「男としてのプライドが……いや、わかった。次までの課題にしておこう」

「そういうわけでもないのですが…わかりました、楽しみにさせていただきますね」


 遠慮の言葉を断固とした態度で拒絶すれば、操は苦笑しながらも了解してくれた。

 それからは一転して、ふたりは気楽な態度で行く先を決定するのだった。






「今更東京タワーか?」

「ええ、案外ここに来る機会はないものですから」


 何故か東京タワーを徒歩でのぼる二人。


「あの……これはちょっと」

「すげぇ、この寄生虫動いてやがる」


 知る人ぞ知る寄生虫博物館で対象的な態度を見せる二人。



「久しぶりに来たが、やっぱり落ち着くなここは」

「そうですね。霊的にもこんなに調和のとれた場所はなかなかありません」


 皇居東御苑の一角で穏やかに談笑する二人。 etc……


 付近に住んでいるにもかかわらず、初めて東京に来た観光客のように有名どころを回って案外楽しんでいる二人だった。


「道哉様、少々お手洗いに」

「おう、この辺で待ってるから行って来い」


 街中を二人で歩いていたときに操がそう切り出してきたので快く送り出す。

 近くの自販機を何となく眺めたりしながら、道哉はこれからの予定に思いをはせた。


___どうしたもんかな……今の神凪と風牙の情報がないとどうにも動きようがない。


 外部の情報屋に頼んではいるものの、世界的に有数の力を持つ神凪とその下位組織である情報系専門の風牙は容易に探れるような存在ではない。

 下手をすると道哉まで辿られていらぬ誤解を招くことにもなるだろう。

 既に変わってしまった運命がどう作用するのか、道哉には全く分からなかった。











 唐突に膨大な火の精霊の気配が生じた。


「おいおい、まさか『もう』か?」


 道哉は思わず多分に苦みを含んだ笑みを浮かべた。

 油断したつもりも、甘く見ていたつもりもなかったが自体は既に犠牲者を出すまでに進んでしまっているらしい。

 今までのゴタゴタで準備が足りないことも認めよう。

 全てを救うなど高慢なことは思っていない。

 既に道筋を外れていることも分かっていた。


 だが、それでも


 重々しく、道哉はひとつ息を吐く。


「こんな街中で炎雷覇を全力起動か……風牙衆の苦労がしのばれるな」




___そうだろう?綾乃。








 綾乃は当初、暴力的な行為を成す気はなかった。

 継承の儀のころとは次元違いになったと断言できる己の火力ならば、妖気を感じない=特殊な力を持っていない道哉に抗う手段はない。

 つまり、無理に戦わずとも真実を彼の口から聞きだすことは容易であるだろうと思っていた。

 問題は妖魔だったが、奴が出てきたならばそれこそ道哉が犯人だろう、と。

 だがそのような冷静な思考も、己自身をごまかすための落ち着いた態度も、彼を目にした瞬間にはすべて吹き飛んだ。


「そうだろう?綾乃」


 呆れたような笑み。

 炎雷覇の継承者たる自分を特に意識していない態度は、彼女にとってみればむしろ好ましいはずなのだが。


「道哉ぁぁぁああ!!!!!」


 紫電一閃。

 一片の躊躇いも見せず、彼女は自らの相棒を全力で振り抜いた。


「おいおい、俺がっ、何をした!」


 それでも道哉はあらかじめわかっていたかのように少々後ろに下がるだけでかわしてしまう。

 逃がさないとばかりに炎雷覇よりあふれ出た黄金の炎は、彼から放射された莫大な量の気で一瞬だけ拮抗状態に持ち込まれ、その間にネコ科の猛獣を思わせるしなやかな動きで離脱されていた。


「まぁ落ち着こう。言葉とは人間の持つ偉大な意思疎通手段どわっ!!!」


 落ち着いて相手に話す時間さえ与えない連続攻撃。

 それでも危なげなく全てを回避し続ける道哉に綾乃の脳内はどんどん熱く、同時に冷たく冴えていく。



 そうだ、これだ。

 これこそが『あの』道哉だ。生身の人間が、特別なことをしているわけでもないただの人間が自身と拮抗するという生きた理不尽。

 この4年間。そう、自らが完膚なきまでに敗北したあの日から彼女は恋焦がれるように、怒りに燃えるように彼への思いを募らせてきたのだった。


「叔父さまの腕と、殺された術者の仇!」


 彼女の怒りに比例して炎の温度と威力がさらなる高まりを見せる。

 道哉はその様子を「おいおい……」とでも言わんばかりのあきれた表情で見るしかなかった。


「いきなり何を言い出すんだ。俺は確かに神凪に対して思うところが無いわけじゃないが……」

「何で一緒にいるはずの操がいないの!?まさか既に!」

「聞けよ。ちなみに操はトイレにだな」

「問答無用!」


 気で強化され、炎を纏って既に人外の域にまで高められた斬撃が容赦なく道哉に振り下ろされる。

 さらに繰り返される攻防。

 苦々しげな顔をしながらも、どこか余裕を感じさせる道哉に彼女はさらなる苛立ちを募らせる。

 何度目かもわからない攻撃を繰り出し、またしても回避され、いい加減我慢の限界に達した綾乃は一気に道哉を焼きつくさんと一拍だけ力を込める時間を取ると、大上段に炎雷覇を振りかぶった。


 瞬間。


「……この猪娘が」



 絶対零度の、声を聞いた。







 綾乃と命懸けのダンスに興じながら、道哉の脳内は全力で思考を組み立てていた。

 風術の使用不可能。

 既に事件は起きているとみられる。とすると風術の使用は自らにかけられた嫌疑に対して不利なものになるに違いない。


 綾乃の説得不可能。

 完全に頭に血が上っている。止めるとしたら体を張ることになるが……正直そこまでしてやる義理はない。


 攻撃不可能。

 親馬鹿。以下説明不要。

 ついでにいえば、周囲に綾乃と協力できそうな戦力が感知できないため綾乃を無力化してしまうと万が一襲われたときお互いに対応できない。


 そんなことを考えているが、道哉は段々馬鹿らしくなってきた。

 つまり、何でこっちを殺そうとしている相手を気遣わないといけないのか。ということだ。

 一発でも食らったら消し炭になる攻撃に対し、全力で回避に専念しながらも道哉は少々イライラして来た。


___操が来てくれればある程度綾乃も冷静になると思うんだが……待てよ、狙いは操か!


 一気に思考が戦闘用に切り替わる。

 わずか20代で分家最強。

 主戦力としても、炎に対する耐性の高さからも狙われる可能性が高い。

 この綾乃は道哉の陽動としてこちらにおびき寄せられたと考えるべきか。

 一撃ごとに苛烈になる打ち込み。

 焦れたように大振りになった攻撃の瞬間、彼はごく自然に綾乃の懐に入り込んできた。


「……この猪娘が」


 思わず苛立ちが口に出てしまう。

 ひざの裏を押しこむように蹴り込み、バランスを崩した綾乃に対して過剰なまでに気を込めた掌底がはしった。



 スポンッ



 そんな音を想像するほど気持ちよく綾乃の手から炎雷覇がすっぽ抜けた。

 尻もちをついて茫然と道哉を見上げる綾乃から軽く距離を取ると、ゆっくりと言い聞かせるように口を開く。


「ひとつ、俺はお前の言っていることに心当たりはない。ふたつ、宗主と厳馬に伝言だ『こちらに敵対する意思はない』ってな。最後、急用ができたから俺は行かせてもらう」


 既に神凪の身内ではない。あえて敵対という言葉を使うことで言外にそのようなことを匂わせ、彼は踵を返す。

 操のことやらで少々他への配慮を欠いていた道哉は、自身の態度が綾乃にとってどのように聞こえるかなど全く持って考えていなかった。

 自身の長い髪の毛で顔が隠れた綾乃は表情こそ見えないものの、震える拳がその内心の如実に表していた。


「アンタを……逃がすわけないでしょうが!」


 ゆらりと立ち上がった綾乃は、次の瞬間にはあきれるほどの初速とともに一直線に突っ込んできた。

 炎雷覇を使っても有効打を与えられなかった相手に無手で挑むその無謀さに道哉はため息をひとつ吐くと綾乃に向き直る。

 互いの技量と精神状態を考慮するならば、無手の綾乃など炎にさえ注意すれば風術を使わなくともとりあえず負けはない。

 適当にあしらってから、隙を見て逃げ出すしかないか。



 そう考えたとき、視界の隅で炎がきらめいた。


「なっ!」


 離れたところに転がっていた炎雷覇は燃え上がり、あっという間に姿を消したかと思えば瞬きの間に綾乃の手に収まった。

 突如として伸びた綾乃の間合い、上昇した炎の威力に道哉は冷たい汗を感じた。


「消し飛べぇぇぇ!!!!!」


 つつましさの欠片もないその掛け声とともに放たれた極大の炎塊に、彼は自らの態度の失敗を悟るのだった。









「はぁ、はぁ、はぁ、やった……?」



 ペース配分も考えずに動き、最後の一撃を全力でぶちかました結果大きく息を弾ませながら綾乃は顔を上げた。

 クレーターのようにえぐれたアスファルトや周囲を警戒しながらも綾乃は思う。

 最後に感じた気配。あれはたしかに風術のものだったと。

 自分を侮っていたからか、最初から風術を行使してくることはなかったが今回はそれに救われた。

 あの体術に加えて精霊魔術まで行使されたら、例え術者として力量が上だとしても勝てる気がしない。


「……はぁ。まだ妖魔が残ってるけど、これでひと段落ね」

『そんなわけないだろう、この猪娘が』

「うひゃあああ!!!」


 突然聞こえた声に、綾乃は色気のない悲鳴を上げた。

 木霊法を用いてかけられた声は意図的にかそうでないのかわからないが、彼女の耳をくすぐるように響いた。

 耳元で吐息を吹きかけられるようなそれに鳥肌を立てながらも、綾乃は周囲を見回した。


「どこにいるの、出てきなさい!!」


 風牙衆がいない神凪の悲しさか、彼女は道哉の気配を辿ることすらできていない。


『さっきも言ったが急用ができたから俺は行かせてもらう。伝言は頼んだぞ』


 その言葉を最後に消えた声が無性に腹立たしく、綾乃はもう道哉がいないとわかっていても叫ぶのを止められなかった。







「待ちなさい、このひきょうものーー!!!!」





 その大声は、すでに離脱した道哉にも聞こえるほど大きな声だったという。







 あとがき

 上手く分割できる場所がなかったので少々短めになりました。
 各場面はすでに書きあがっている部分が多いのですがそれを結合するのが難しい……。






[9101] 第24話
Name: 酒好き27号◆3e94cc3d ID:17f35bae
Date: 2010/01/25 15:18


「あのお嬢ちゃんは元気だねぇ」


 背後から鳴り響く人目もはばからない絶叫を聞き流しながら、道哉は空を駆けていた。

 綾乃が放った太陽と見紛うばかりの力の行使は彼が気配を消して隠れるためのちょうどよい隠れ蓑になってくれた。

 先ほど操に害が及ぶ可能性に思い至ってからの捕捉は完璧だ。

 こういう場合、一番危険なのは操が建物から出てきた瞬間。ならば敵がこちらに気づく前に先制する。

 道哉は自身の気配と姿を付近にいる『かもしれない』相手から完璧に隠しつつ、周囲に意識の糸を伸ばしていた。


 某有名デパートの中から操が姿を見せる。

 彼女は既に傾き始めた日の光に軽く目を細めると、先ほどまで道哉がいた方向に足を向けた。

 と、その行動を唐突に停止させ、逆方向に向き直り斜め上空に視線を向ける。

 道哉が感知する範囲で、その方向ではおよそ1km先まで建物以外に何もない、はずだ。

 それでも彼女は周囲に目を向け、平日であるためかまばらな人通りを認めると、早足で歩きだした。

 その足取りに油断はなく、向かう方向は人気のない大通りからは外れた場所。

 操が風術師以上の感覚を持っているとは思わないが、周囲に一般人がいると困る『何か』を感知したに違いない。


「あの辺か?」


 道哉は自身の隠蔽結界を乱さないよう細心の注意を払いながら操が目を向けたあたりを捜索する。



 風を舞う塵。談笑する声。車のクラクション。気流。熱。光。


___見つけた。



 ほんのかすかな違和感。

 中身こそわからないが、一度気づいてしまえば否応なく目が行ってしまうほど強力な結界が緩やかに移動していた。

 光の屈折率を極限まで精密に操作するその力は、例え目を凝らしたところで早々見破れるものではないほどに自然だった。

 見たところ、位置関係からすると先制攻撃は可能だ。

 問題はある程度まで力を集めた場合にすぐさま気付かれることだが……。

 チラリと操に視線を向けた。


「……優先順位の問題だな」


 対象の動きから自身が未だ見つかっていないことを確信すると、彼は一気に加速した。

 空高く舞い上がった状態から流星のごとく落下する。


「きゃっ!」

「静かに。それと火の精霊も抑えろ」


 物陰に入り、気休め程度に相手の直線攻撃がしづらくなった瞬間の操を抱き上げると、何重にも隠蔽結界を重ねつつ高速で舞い上がった。


 200m……300m……400m……


 息をひそめるように、されど迅速に飛ぶ道哉の腕の中で、やはり操は震えていた。

 抱える腕に力を込める。


「もう大丈夫だ」


 うつむいた顔を見ることはできないが、彼は操の耳元で力強く囁いた。


「は……い……」


 道哉の胸元をを指が白くなるまで握りしめ、彼女はか細い声で返事をする。


「にしてもよくわかったな。俺も初見じゃわからなかったってのに」

「悪意には……敏感になってしまいましたから」


 あえてそれ以上言及することはせず、道哉は軽い態度で話題を変えた。

 それに答える操は先ほど感じたものを思い出したのか、両手により一層力を込める。

 しばらく安全と思われる場所まで飛ぶと、手近なビルに着地し操をおろす。


「っと、大丈夫か?……いや、大丈夫だな?」


 力が入らないのか道哉に抱きつくようにバランスを崩した操に、彼はあえて厳しい言葉を使った。

 血の気が失せて白くなった顔で、操は歯を食いしばる。


「はい、大丈夫です。けど……もう少しだけ、このままで」


 自らの体を抱きしめるようにしながら道哉の肩に正面から寄りかかる操は、どこか泣いているようにも見えた。

 無理もないだろう、操を抱き上げた時に一瞬だけ解放され、道哉にも向けられた鳥肌の立つ程に醜悪な気配。

 怨念で鍛えられたオーラのごとくからみつくそれは、一般人なら気絶しても不思議ではない。



 そこで道哉の携帯が震える。



 左手で操の背をやさしく叩いてやりながら、彼は通話ボタンを押した。


『頼まれてた神凪と風牙の情報だ。今日の10時過ぎに神凪の分家3名が風の妖魔と思われる犯人によって殺害された。高レベルの使い手以外は屋敷に引きこもってるようだから、それ以外の情報がないのは勘弁してくれ』


 聞こえてきた軽薄な男の声に、道哉は思わずひとつ舌打ちをしてしまう。


「遅い」

『だから勘弁してくれって言っただろ?あんな化物揃いの一族のトップシークレットをこの短時間に入手した俺を褒めてほしいね』

「こっちは既にその犯人らしき奴に襲われかけたばかりだ」

『おいおい、相変わらずあんたも化物だな。神凪に正面から喧嘩売る妖魔に会って生きてるのかよ。どうせ無傷なんだろ?』

「こんなときでも俺の情報を集めようとする根性は買うけどな。まぁいい、ところでその程度の情報で金を払うと思ってるのか?」

『思ってないね。というわけでメインディッシュだ』


 電話先から、分厚い紙の束をめくるような音が断続的に響いた。


『理由は不明だが神凪和麻が風巻流也と合流、今から2時間前に電車ごと潰されて行方不明になってる。各所の監視カメラから直前に会っていた仕事の依頼人周辺まで調べたから間違いない』

「2時間前?もっと早く持ってこれなかったのか」

『裏を取るために無茶したら妨害受けてな、そのせいでこっちもヤバい。しばらく逃げさせてもらうよ』

「犯人と妨害者が分からないのが痛いな。まぁ情報としては十分だ。料金はサービスで100万やるよ」

『それ5時間前に俺から脅し取った金の一部じゃねーか』

「自業自得って言葉知ってるか?」

『情報屋にそんな質問は無意味だね。ま、精々頑張ってくれ』


 最後まで軽薄な態度を崩さず、情報屋は電話を切った。

 閉じた携帯電話を弄びながら道哉は操に視線を向ける。


「聞いていたな?」


 操の顔色はいくらかマシなものになっており、しっかりと自らの足で立っていた。


「はい。まずは宗主に連絡を取りましょう。私が口添えすれば信じてくれるはずです」


 報告、連絡、相談を正しく行おうとする操の意見を、どこか虚ろな道哉の笑いが斬って捨てた。


「さっきな、綾乃に襲われてうっかり風術を使ったんだが……」

「…………そういえば先ほど初めて知りましたが、道哉様は風術師でしたね」


 敵が風の妖魔だと断定されている状態に、どう考えてもおかしいタイミングで帰国した道哉が風術を身に着けていた。

 その偶然としてはあまりにも出来過ぎた状況にしばし言葉を失う操だったが、強靭な精神力で思考を再構築すると代替案を考え始めた。


「綾乃さまと敵対したならもう容疑は固まってしまっているでしょうし……私が言っても操られている、で終わってしまうことに」


 問題の当人よりもよっぽど真剣に悩む操に、道哉は思わず微笑ましい視線を向けてしまう。

 彼にしてみれば神凪にどう思われようと構わないし、宗家以外の有象無象などまとめてなぎ倒す自信があった。


「道哉さまも真剣に考えてください!」

「ん?ああ、操が操られるっていうのはずいぶん高度なギャグで……」

「なんでそうなるのですか……もう、こういうところは変わっていないのですね」


 本当に珍しく疲れたような溜息を吐いた操に、思考をまとめていた道哉が口を開いた。


「そうだな、狙われたことだし操が心配だ。事件がひと段落するまで俺が取った部屋に泊まってけ」

「え!?あの、その……」


 思わぬ方向の返事に、操は眼を白黒させる。

 『そういう意味』でないことは流石にわかっているだろうが、赤くなった顔を隠しきることはできていなかった。


「そうだ、着替えはあるか?うん、取りに行くとかケチなことは言わないからさっさと買いに行くぞ」

「あの、道哉様、今はそのようなことをしている場合では」

「何言ってるんだ、金銭をふんだんに使用した本家の結界に神炎使いが2人と炎雷覇持ちだぞ?心配するだけ無駄無駄」


 操が必死に緊急事態だと主張するものの道哉は全く取り合わず、彼女は手をひかれるままに店へと入っていく。

 顔を真っ赤にして恥ずかしさや混乱を鎮めようとしている操も、冷静だったならばそれに気づくことができたかも知れない。



 楽しそうに笑いながらも、それとは対象的に冷たい光を帯びて周囲を睥睨する道哉の眼差しに____









「ずいぶんと豪華な部屋なのですね……」

「そりゃあロイヤルなスイートだからな。シャワーなんかの時は外に出てるから好きにくつろいでくれ」


 3時間後、彼らは諭吉が群れをなして飛んで行くほどの荷物とともに道哉が泊まっているホテルに来ていた。

 とある高名な建築家とデザイナーが手掛けたという部屋は調和のとれた美しさを見せている。

 部屋はリビング、寝室、ダイニングなどに分かれており、明らかに一人で使うには過ぎた造りをしていた。

 純和風の造りである神凪の屋敷とは異なった豪華さに、操といえども驚きを隠せないようである。


「驚くほどか?霊障の解決なんかを依頼されると解決した礼に泊まって行ってくれとか言われるだろう。それに神凪でも忘年会とかあった気がするが」


 その辺は少しでも依頼料を安くしたいホテル側の思惑もある気はするが。

 それはともかく、一般人には決して手出しできない怪奇現象を解決してくれる専門家とは、予約が尽きないはずの部屋に礼として泊まらせてもらえるほど有難がられる存在であるはずなのだが。


「いえ、私は比較的解決が容易な事件で慣れようとしていましたから……それに、現宗主はそれほど贅沢をなさいませんし」


 そんな道哉の疑問に答える操の表情には若干の陰りがみられる。

 『分家最強』などと言われていても、彼女はまだまだ重要な依頼に関わらせてもらえる段階にはいないのであった。


「ああ、確かに宗主は無駄な贅沢が嫌いそうだな。引退した爺どもなら別なんだろうけど」


 そんな益体のない話をしながら荷物を降ろして片付けていく。

 封を解くのを手伝っているうちにうっかり下着を手にするものの、特に感慨もなく片づけれたのを見た操が若干不満顔であったりしたひとコマなどがありつつ、おおむね平和に緩やかな時間が過ぎていった。


「さて、少し遅くなったが飯にしよう」

「そうですね……この場合はどうするのでしょうか?」

「ここはロイヤルスイートの客ならいつでも好きな時間に食事を持ってきてくれるらしいぞ」

「至れり尽くせりとでも言うべきでしょうか?……にしても、ずいぶん手慣れているのですね」


 感心したような操の視線がくすぐったい。

 以前ロイヤルスイートに泊まったあげく、とある事件によってホテルごと周囲が更地になったことは内緒にしておくことにした道哉だった。



 と、そこで非通知着信。


 操はそこでほんのかすかに強ばった道哉の顔と手つきを見逃さなかった。


「道哉様……?」

「いや、何でもない」


 動揺を悟られた自身を脳内で微塵に刻みながら、道哉は素早く表情を取りつくろう。

 気づかれないように一つ深呼吸。

 この場面、このタイミングで来る電話など一つしかない。

 それをわかっていながらも、切り捨てたはずの自分の弱さが泣き言をもらした。



 既に大幅に変わったはずの運命に、一縷の望みを。






「どちらさまで?」

『私だ』


 それは彼にとって全く変わらず、懐かしささえ感じるほどに無骨な声だった。

 久しぶりに会う人たちに何と言ったものかと、脳内でリハーサルまで繰り返してきた道哉が唯一避けてきた存在。

 幼き日々の敵であり、壁であり、そして憧れだった存在が電話の向こうにいる。

 決別したはずだ。決別できていたはずだ。それなのに、たった一言でこれ以上ないほどに揺さぶられる自分は何だ。


「只今デート中です。馬に蹴られないうちに退散をお勧めしますよ」

『戯言は不要だ』


 強がりにも似た台詞を一言で斬って捨てられ、彼は一瞬だけ虚空に放り出されたような感覚に陥っていた。


「人生には余裕というものが必要ですよ。急いては事を仕損じると……ええと誰だかが言っていたとかなんとか」


 彼の手を離れた精神は簡単に均衡を失うかと思われたが、予想に反して彼の唇は軽やかに音を紡ぎ始める。


『なぜ日本に戻ってきた?そして大神の娘がそちらにいるはずだが』

「もちろん帰ってきたのは操に会うためです。彼女とは昔結婚の約束をしましてね、っと冗談だ。ペーパーナイフでもその持ち方は怖い」

『神凪の屋敷に出頭しろ。お前には神凪の術者殺害の容疑がかかっている』


 照れ隠しなのか真面目な場面でふざけたことに対してなのか、判別がつかない怒りの表情で物騒なものを向ける操を軽くあしらいながら、道哉はあくまでも気楽に答えた。


「で、『厳馬殿』は私が犯人だとお思いで?先ほど襲われかけたこっちとしては巻き込まれていい迷惑ですよ」


 その呼び方にどれほどの感情がこもっているのか、どれほど多く意味で印象深い言葉だったのか、それを真に理解できるのは彼ら二人だけだろう。

 世界が凍ってしまったかのように長い沈黙。

 その道哉の表情に何を見たのか。いつの間にか操はソファーに座っていた道哉の隣に腰かけ、その手を軽く握っていた。

 その行為に特別な感情はなく、ただ傍にいることだけを主張するかのようにささいなものだった。


『……風術を、使ったそうだな』

「……ええ、色々ありましてね。下術だなどと言われてしまうかもしれませんが」


 お互いが絞り出すように出した声は、どこか他人事のように響いた。

 何も聞かず、何も語らず。

 互いの深いところまで入り込もうとしないやり取りは、彼らを知るものから見れば驚くほど臆病な態度だった。


『綾乃に、またしても勝ったか』

「煙に巻いて逃げたのを勝ったというのだったら」


 どこか調子の狂うやり取り。

 少々不審に思う道哉の気持ちを察したのか、厳馬は咳払いとともに話題を仕切りなおした。


『神凪と敵対する気か?』

「因果応報。そちらが手を出すならばこっちが黙っている道理はありませんが」

『……この馬鹿者が。このままではらちが明かん、直接会うのがいいだろう。今から向かうから場所を言え。都心ならば少々時間がかかるだろうが』

「それには及びませんよ、移動速度ならこちらが速い。神凪の屋敷からだっら……ええと、港の見える丘公園がいいでしょう。人払いはそっち持ちで」


 前世と今世が噛み合ったあの事件のすぐ後に行った場所。原作での親子対決の決着の地。

 父を超えようという誓いを今こそ果たすときだろう。

 【風の聖痕】をなぞる気などないが、あの頃の自分は験を担ぐような気持ちで誓ったのではなかったか。



『……わかった』

「あれ、驚かないんですね」



『子の成長を見たいと思うのは、特別なことではないだろう』




 しばし絶句する。

 浮かんだのはかすかな怒りだ。

 嬉しいと思う気持ちがないわけではない。驚きの気持ちがないわけではない。

 だが、それでも思ってしまうのだ。






___何を今さら。






 体は既に戦闘準備で、体はホットに頭はクールに。ならばやることは一つだけ。


「……なら、手加減は無しだ」

『いいだろう、身の程というものを知るがいい』


 既に宣戦布告とも取れるやり取りを交わし、今まさに電話を切らんとする道哉だったが意外な言葉でそれをひきとめられた。


『最後に、そこにいるだろう大神の娘に代われ』

「そんなことを言う時点で俺が犯人じゃないことくらいわかってるだろうに」

『いいから代われ』


 すごく嫌そうな顔をして電話を差し出す道哉に、不思議そうな顔をしながら最新機種の携帯を受けとった。



「はい、お電話代わりました……はい……はい…え?そうなのですか……はい、わかりました」



 丁寧に返事をしながら厳馬と話す操を尻目に、道哉は手早く外出の準備を整えていた。

 軽くジャケットを羽織って、手首に時計を巻きつける。

 刃物が入ったホルダに伸びた手は一瞬ためらうかのように停止し、振り切るようにそれをつかみ上げると懐に突っ込んだ。


「はい、ではまた……」


 厳馬との会話が終わったのか、携帯電話を差し出してくる操に笑みを一つ返すと彼は再びそれを耳に当てた。


「場所は入口近くの展望台に30分後程度」

『……わかった』


 親子とは思えないほどの簡潔なやり取りで、あっけなく通信は途絶する。

 既に最初見せた動揺を完全に消し去った道哉に、操は形容しづらい視線を向けていた。


「私が行くと無粋でしょう。ここでお待ちしています」

「駄目だ。満足に戦えない身で何を言ってる」


 彼女が遠慮気味に申し出たその言葉を道哉はタイムラグなしで却下する。

 一度狙われた身でそのようなことは自殺行為だ。あの吐き気がするような妖気一つで動けなくなるような彼女を置いていくのはあまりにも不安だった。


「厳馬様がおっしゃってました。神凪でも私たちが東京にいるということ以外の居場所はつかめないと……道哉様のおかげでしょう?」


 その言葉に道哉は押し黙った。

 先ほどの妖魔らしき存在さえ騙しきった彼の結界は、その後高速で離脱したゆえに周囲の尾行を全て消し去っていた。

 いくら探査・戦闘補助に優れた風牙衆といえども、術者として上を行く道哉の結界に隠された火の精霊の気配を感知することは難しい。

 神凪であり、多くの火の精霊をかかえる操の気配を辿れなくなった彼らは、東京という人ごみの中で自らの目で彼らを探すことになっていた。

 加えて、デパートや専門店の監視カメラや今現在宿泊している高級ホテルの宿泊者名簿に干渉するほどの権限は神凪にもない。

 場所が特定されていない以上、この部屋にかけられている何重にも重ねられた防御、隠蔽の結界が操を守るだろう。


「確かにあれから一応ダミーは用意したし、周囲にさっきの妖魔と偵察者の様な気配はない。でもな操、この世に絶対はないんだよ」


 道哉は既に忘れているが、今彼らが泊まっている場所は原作で和麻が用意した部屋とは異なる。

 特別な理由はなく、東京都心という何かと便利な場所にあり、同時に情報管理と防衛システムが徹底した稀有なホテルだったから程度のものだった。

 だが、そのホテルすらも『ただの』一流。

 あの妖魔相手には不安が残る。

 だが、彼は意図せずして東京にいる操、横浜の神凪を分離することによって敵の捜査の手を制限することに成功していた。

 捜査範囲、この場合は気を配らなければならない範囲が大きくなることで相手の精度が落ちている。


「……わかったわかった。すぐに終わらせて帰ってくる」


 一歩も引かない。そんな目をしてこちらを見つめる操に、道哉はとうとう根負けした。

 東京での足取りに対する偽装は自信がある。実際操を連れていった方が危険が高いかもしれない。

 諦めたように首を振ると、彼は立ち上がった。そのまま何を言うわけでもなく出口へと歩き出す。


「いってらっしゃいませ」

「…………ああ」


 彼らしくないそっけなく返されたその返事が、本当は操に来てほしくなかった彼の心境を表していた。














 海に面して開けた展望台。そこでついに親子が対峙する。

 風牙によって、夜には目立ち過ぎる炎術を隠すために張られた簡易的な結界。


 入口から堂々と歩いてくる厳馬には、王者の風格すら漂っていた。


 両者ともに、お互いの姿を視界に入れ無言で相手に近づいていく。




「……っらぁ!」

「……ふんっ!」



 道哉の腹と厳馬の頬。


 互いに突き刺さった拳は、彼らの22年間が全て込められたかのように重い一撃だった。
















 あとがき

 ありのままに起こったことを(ry
 『可能な限り原作に近づけようと書いた綾乃が感想でフルボッコだった』何を言ってるかわからねーと(ry
 どうも、そんな感じの作者です。
 前回の綾乃はウザい、ああこんなんだった等の賛否両論があったようですがその辺は原作の内容からも仕方がない面があるかなと思いました。
 できるだけマイルドにしたいなと思っていた私としては涙目。
 私の筆力不足もあるので少々感想に対する補足を。

 綾乃と交戦した場所は、操と観光地を巡ってた最中の街中です。さすがに皇居前は洒落にならないw
 道哉を勘違いで殺そうとした綾乃。原作もそういう視点で読むとアレですね。そういう価値観についてはそのうち作中で。
 彼らが東京に行ったのは私に横浜の土地勘がなかったからです。実はそれ以上の意味がな(ry
 というのは冗談で、日付が違うのに綾乃が同じ土蜘蛛の依頼をしているのはおかしいから場所も変えなきゃなという感じですね。それ以外の理由は今話参照。
 この補足部分が消えていたら『ああ、23話にこっそり修正入れたな?』とか思ってください。精進精進っと。

 相変わらずマイペースな更新速度ですが、更新頻度は前向きに善処したいと思います。
 では、皆様の感想指摘等をお待ちしております。





[9101] 第25話
Name: 酒好き27号◆3e94cc3d ID:17f35bae
Date: 2010/02/11 20:52


 深夜、人気のない公園で鈍い音が響く。


「この、中年が!もう年なんだから、いいかげんっ……楽になったらどうだ!」

「若造ごときがっ!ぐっ……その程度の腕で、よく吠えられたものだな!!」


 およそ人体を打つ音とは思えぬ音が断続的に響く空間は、聞く者がいたならば砲丸投げの競技会場かと思うほどだった。

 がっしりとした骨格と堂々とした体躯を持つ厳馬に、どちらかといえば細身かつ長身で引き締まった体つきをした道哉。

 ともに一般人を軽々と越える筋力を有した二人の殴りあいは衝撃波が発生するかと思えるほど苛烈。


 似ているようで似ていないこの親子の共通点とは何だろうか?


 それはその血筋がもたらす圧倒的な気の量とそれを用いた人外の格闘能力である。

 岩を爆砕する拳が、木を折り倒す蹴りが互いの体に容赦なく打ち込まれる。

 常人ならば一撃で骨が粉砕される一撃でも、彼らにとってみれば青あざができる程度でしかない。

 最低限の急所だけに注意を払いそれ以外は全くのノーガードで打ち合う様はどこか狂戦士を思わせた。

 しかし、それだけでは決定打にならないと見たのか動きに緩急をつけ、互いに変幻自在に渡り合う。

 拳、抜き手、蹴り、膝、投げ、関節技、果ては頭突きや絞め技までが使われ、お互いの体から決して少なくはない血が流れている。


 幾度目かの攻防の果て、年齢に見合わぬ身のこなしで厳馬がかろやかに道哉の拳をすり抜けた。

 突き出された拳の外側に向かって大きく踏み込んだ彼はそのまま道哉の背後、それも頸椎に向かって躊躇なくその剛拳を振り下ろす。

 瞬間、その手をすぐに折りたたむと、そこに打ち上げられるように繰り出された道哉の肘が直撃した。

 体を拳を突き出した姿勢から勢いを殺さず、そのまま半回転して逆の腕でなされた肘打ちは狙い通りに命中していればわき腹の内臓と肺に重大なダメージを与えていたに違いない。


「ちっ」


 自身の隙をおとりにした必殺の一撃を防がれ道哉が舌打ちをした。

 背後を取られたままでは拙い。

 迷わず踵を厳馬の足に向かって振り下ろす。

 コンクリートにヒビを入れる一撃は、それでも厳馬の足の指の骨を砕くには至らずに耐えきられる。

 その隙を逃さず厳馬が道哉の腰に抱きつくかのように手をまわした。

 そこから渾身の力を込めて道哉を持ちあげる。


「有り得ない、っだろ!!!!」


 ジャーマンスープレックス。

 もっとも厳馬に似合わないだろう技で持ちあげられた道哉の視界が一面の夜空に占められる。

 プロレスで見られる技だがリングの上ならばともかく、硬い地面の上に本気で叩きつけられたならば命にかかわる。

 しかも厳馬はご丁寧にコンクリートの段差めがけて道哉の頭を振りおろそうとしていた。


「ぐぅっ!!!」


 だが、そこでそのまま叩きつけられるほど道哉は往生際が良くなかった。

 すぐさま厳馬の手、それも骨の隙間を狙うように拳をめり込ませて拘束から脱出すると素早く地に足をつける。

 体勢を立て直そうとする厳馬。

 道哉はそれを許さず、即座に反転するとバランスを崩して傾いている厳馬の足を蹴り飛ばした。

 普段ならば何でもないような体重の乗らない蹴りでも、この状況では抵抗すら許さずに厳馬を地面にたたきつける。

 さらにそのみぞおち目がけて道哉の足が振りおろされた。

 もちろんそれで終わるはずもなく、厳馬は受け身を取り地面を転がるようにそれを避ける。


 すぐに追撃する道哉。


 間違いなくこの状況で有利なのは道哉だが、厳馬を相手にしては全く意味のないことでもあった。

 何もない地面を穿った足で半ば跳ぶように踏み出すと道哉は拳を振りかぶった。

 上空から打ち据えるように振るわれるそれを、いまだ体勢を立て直していない厳馬が避けることができるとは思えない。



 だが、厳馬は動いた。


「甘い!!!!!」


 ぐるり、と腰を支点に体を回し、厳馬は一気に足を跳ね上げた。

 まるでブレイクダンスのように跳ね上がった厳馬の蹴りは、不安定な体勢だったにもかかわらず完全な制御と勢いを持って道哉に迫る。

 跳び上がるように肉薄していた道哉にそれを避けるすべはなく、最大級のカウンターが彼の顎を真下から打ち抜いた。


「がっ!」


 かろうじて舌を噛むことだけは避けられたものの、軽く脳が揺れ、視界が明滅する。

 その威力たるや桁違い。それも道哉が縦に2回転する程の馬鹿げた力が込められていた。


「こんの馬鹿力が……!」


 ほんの一瞬だけ飛んだ意識を強引に引き戻すと、回転の勢いのままに道哉は綺麗に着地した。

 ざざざっ…と音を立てて殺しきれなかった衝撃が彼を後退させる。


「……ほざけ」


 本来ならば即座に来るはずの追撃は無く、厳馬が苦しげな声でゆっくりと立ち上がった。

 それもそのはず、道哉は厳馬の蹴りによる衝撃を利用するようにそのわき腹につま先をめり込ませていたのだった。

 浸透勁などを使うこともできないほどとっさの行動だったが、その攻撃は十分な威力を厳馬の体内に伝えている。


 まずは互いに一手。


 自己の痛みを強靭な精神力で押さえつけると二人はまるで痛みなどないかのような表情と動きで立ち上がった。

 生命力の一種ともいわれる気を巡らせて彼らの出血が収まっていく。

 地術師ほどではないものの、軽症の部類に入る内出血と切り傷、擦り傷などが塞がった。

 こびりついた血液を拭えば治りかけた傷跡が垣間見えることだろう。


「強く、なったな」


 苦痛に歪み、堪えるように絞り出された厳馬の声はそれでも全く揺らいではいなかった。

 そこに込められた感情は純粋に賞賛と呼べるものであったが、道哉にとってそれは既に何の価値も存在しない。


「風術師にただの格闘戦だ?それも全盛期から数段落ちる身体能力しかないあんたがか」


 口の中を切ったことで出た血液を吐き出しながら、道哉は怒りすらない冷たい口調で答えた。


 精霊術師ならばある程度周囲の情報を得ることができる。

 だが、火と風ではその量のケタが違う。

 一瞬の気の緩み、消しきれなかった予備動作は格闘の心得のある風術師にしてみれば容易に次の攻撃を予測する材料となる。

 厳馬が一瞬でも気を抜けば360°から見られているといっても過言ではない彼の攻撃は、道哉にとって真実目をつむってでも避けられるものに堕すだろう。

 先ほどの蹴りにしろ、インパクトの刹那に道哉は地面を蹴って衝撃を逃がし、さらに自身の攻撃を当てるという芸当は風術師としての視点が大きな位置を占めていた。


「技で補うとか『らしく』ないことをしてるなよ。『それ』は『こっち』の領分だろうが」


 無形である風の真骨頂こそが技だ。

 そしてその一番の天敵こそが火の持つ圧倒的な破壊力。

 あらゆる技術を小細工に貶める神凪の炎こそ彼の弱点であり、超えるべき壁だったのではなかったか。


「さっさと本気を出せ。父親としてのあんたなんて今の俺には何の価値もない。『蒼炎』の厳馬。神凪最強。そっちがその気にならないんだったらあんたのその看板、跡形もなく切り刻んでやるぞ」


 道哉の声に力がこもった。


 今さら父親としての厳馬など不要だ、そう言う彼の表情はその言葉とは裏腹にどこか途方に暮れた幼子にも見えた。

 その様子を見て厳馬の内心に苦いものが広がる。

 後悔などない、間違っていたとも思わない。

 しかし、それが果たして最善だったのか。それだけが彼には判断がつかなかった。




「……いいだろう」




 瞑目は一瞬。自らの上着に手をかけ、遅滞なく脱ぎ捨てる。

 厳馬はこれ以上の対話を切り捨てると、掛け値なしの本気で炎術を起動した。

 紅、黄金、蒼と数秒で切り替わってゆく炎の色。

 人間の出力としては最高峰に位置する力を背負い屹立するその姿は、いっそ神々しくもあった。


「……そうだ、それだ。ようやく、俺はここまで来たんだ」


 泣きたいようで。怒りたいようで。喜びたいようで。そんな何もかもが混ざってしまったかのような表情をして道哉がつぶやいた。


 神凪厳馬の蒼炎。


 知識としてあるそれと、実感としてそこにあるそれは天と地ほどのリアリティの差をもって道哉の前に立ちはだかった。

 生物としての本能が五月蠅いくらいに警鐘を鳴らす。

 それはそうだろう。太陽を目指したイカロスやゴモラを振りかえったロトの妻を思わず想像してしまうほどに、それは災害に等しい力の量を伴いそこにあった。


「どうした。まさかこのまま何もせずに消えたいわけではないだろう」


 厳馬が怪訝そうに問うた。

 未だ全力の6割程度とはいえ、既に十分な量の精霊が召喚されている。

 すぐにでも開放すれば道哉は骨も残らない。


「待ってやったんだ。ありがたく思え」


 そんな厳馬にどこまでも無表情で道哉は言い放った。

 そして、天高く右腕を掲げる。


「ば、馬鹿な……」


 ハッタリかそれとも強がりか。そんなことを言おうとした厳馬は道哉の手に集っていく膨大な量の風の精霊に目を見張った。

 風術師になったことも、世界を巡って強くなったであろうことも分かっていた。

 しかし、よもや全力を出しても倒せるかどうかはわからない程になっていたとは思いもよらなかった。

 道哉の『待ってやった』という発言は、どうしようもなく正しかったことを思い知らされる。


 一瞬の空白。


 厳馬の驚きが貴重な時間を消費しているうちに、既に彼の手には厳馬の炎に匹敵するほどの嵐が圧縮されていた。


 だが、それでも。


「認めねばならないだろうな、道哉。お前に、私はもう必要ない」


 万感の思いを込めて厳馬が嘆息した。

 例えば師匠が弟子に超えられたときに、このような顔で言うのかもしれない。


「故にこれが最後だ。神凪の炎、その身に刻め」


 その言葉とともに、爆発的なエネルギーの放射が厳馬の体から立ち上った。

 太陽、火山の噴火、超新星の爆発とも言われるその圧倒的な炎が、まるで鉱石か何かのような深い色合いに変化する。

 既に道哉の集めている風の精霊は厳馬の制御する精霊よりも多い。

 しかし四大の理に従うならば全力を出し切った厳馬に風術師たる道哉が対抗できるはずもない。

 どのような術を使おうがその全てを破壊する神凪の炎に対抗などできない。そう厳馬は確信していた。


「行くぞ。死ぬな」


 蒼い竜。

 そうとしか形容できないほどの力強さを込めた蒼炎の奔流が道哉に向けて一直線に駆け抜ける。

 対する道哉は天高く掲げた手を、何かを握るかの如くゆっくりと握り締めた。



_____。




 相対する厳馬にも聞こえないほど小さな声で道哉が何事かつぶやいた。

 瞬間、この場の全ての大気が一つの意思で統一される。


「それは」



 支配下の全ての精霊を己の手に宿し、右手の付近がぶれてハッキリとは見えなくなるほどに圧縮された風を彼は大きく振りかぶった。



「……こっちの台詞だ!」



 まるで野球の全力投球のごとく振り下ろされた手。

 音速を軽々と超越した暴風の塊が、万物を燃やし尽くす蒼の奔流と真正面から激突した。


 轟音。


 二つの莫大なエネルギーが衝突したことで発生した衝撃が、厳馬を1mほど後退させる。


「……っ」


 厳馬が目を見開く。

___押されている?

 本来ならば決してあり得るはずがない現象。

 四大で最弱であるはずの風がゆっくりと、しかし確実にまるで餓狼のごとく彼の炎を食い散らかして迫っている。

 このままであれば遠からぬ未来に暴風が厳馬を蹂躙することだろう。


___否。否!否!!


 厳馬が吼える。


 普段の厳格さや背中で語るような雰囲気をかなぐり捨て、彼は己の心に火をつけた。

 彼のそのような声を聞いたことがあるのは重悟くらいのものだろう。それほどの気迫をもって彼は目の前の暴風をにらみつけていた。


 『神凪の炎術こそ最強』

 彼が口にするそれは、実のところ彼以外の一族が言うそれとはまったく異なる。

 それは血筋でもなく、浄化の力でもなく、一片の妥協もなく磨きあげた己の力とそれを超えた重悟に対する強烈な自負と賞賛である。

 自身の歴史。重悟と競い合った日々。その全てが彼の根本に根差していた。


 彼の親友曰く、『究極の負けず嫌い』。


「神凪の炎を、舐めるな!!」


 落雷のような一喝が空間を打った。

 炎がさらに猛りを増し、風と共に叫びを上げる。

 それでようやく互角。

 奥歯を砕けんばかりに噛みしめ腰を落とし、右手に左手を添えるような形で突き出した厳馬の姿は一族の者にとってみれば驚きの光景であろう。




 自らの炎でサファイアのごとく染まった視界、その中に厳馬は見た。




 まるで一条の矢のごとく、己の放った風に追従して神炎のド真ん中を駆け抜ける息子の姿を。







「舐めてんのはどっちだ、このクソ親父がぁぁああああああ!!!!!!!!!」


「ぬ……ぬおおおおおおおぉぉぉぉっっっ!!!」






 風を纏い自らの全てを込めたその右拳を避ける間もなく。

 道哉の全力の拳が、厳馬を彼の意識もろともに吹き飛ばした。




















 今まで手に入れた情報を統合し、やっとのことで潜伏場所をつかんだ流也は自らの父親と敵対者として相対した。


「神の解放のために妖魔を使うなど言語道断!あなたは風術師の誇りすら忘れたのですか!」

「風牙の名を出してみるがいい、どこへ行っても神凪の添え物としか扱われぬ日々だ」


 風術師としても力が弱く、情報収集程度にしか使えない。

 精霊術師として期待される力のほとんどを神凪の炎に依存する集団。


 確かに優秀だろう。

 確かに価値はあるだろう。

 だが、神凪のためにしか動けない集団に意味はなく、単独で妖魔を討滅できない術者に依頼はない。


 兵衛の声は遺恨に満ちていた。


「神凪は我らの力を封じた。我らの精霊術師たる根幹を奪い、道具に貶めた」


 そう、自身が『精霊術師』であったなら、神凪に隷属していたとしてもその誇りを持てたなら、きっと彼らは。


「精霊術師の本分すら守れず、忠誠に対する相応の対価もなく、『あの程度』の者たちに使われなければならない屈辱に耐えろというのか!!」


 圧力を伴ったような怒声。

 そこに込められた精神力は、感応する精霊に比べて明らかに大きかった。

 風牙衆の神の封印が神凪の長による口伝だというのなら、風牙衆の長にも口伝があってしかるべきだ。


 強大無比な炎の眷属『神凪一族』。


 その力を何よりも正確に伝えているのが風牙衆の口伝だろう。

 不得手な闇討ちにすら対抗する圧倒的な精霊の加護。

 それほど多くはない宗家の術者だけで都は安泰だと時の為政者に言わせたほどの力。

 そして、『神』との激闘。

 神凪の栄光の時代を知るからこそ代々の風牙は道具としての立場に甘んじてきた。

 だが、年々衰えてゆく神凪を見るほどにその気持ちは揺らいでいく。

 力の源を封じられているために神凪の術者の何倍もの鍛錬を必要とする風牙の一族、そのさらに上位の者たちしか命の危険がある任務には出ることができない。

 そこで数多くの神凪の術者と協力し、思ってしまうのだ。


___この程度なら、神凪を滅ぼせる。


 宗家の術者には精霊術師の端くれとして相変わらずの敬意を持っているものの、近年に至ってはその宗家にすら不満が出ることがあった。

 もし、力の源さえ解放されれば。

 もし、宗家の介入さえなければ。

 もし、鍛錬に見合う力が手に入ったならば。



___今の神凪の分家ごとき、全力で滅ぼしてくれるものを。



 そして次世代へと繋がる血を残せばこちらの勝ちだ。

 宗家には手が出せず、出す気もないものの分家を全て滅せば規模の縮小は避けられず、逃げ出した風牙衆を追うことはできない。

 この世界での評判は落ちるだろうが、はるか昔の力を取り戻せばいくらでも仕事はある。

 神凪に隷属させられている立場がゆえ血の分散も最小限にとどめられており、解放の暁には神器を保持する彼の一族にも匹敵する術者集団として名を轟かせることができるだろう。




 術者の世界というのはある意味弱肉強食だ。

 すぐさま殺し合い、というわけではないが、力を手にする初期の段階で殺し殺されるという概念はしつこく教え込まれ、術者ならばその両方について常に覚悟を強いられる。

 もちろん一般的なモラルもあり、それが特に顕著な精霊術師として風牙衆の計画はふさわしくないだろう。


 だが、風牙衆は隷属させられてきた。実力主義であるこの世界において下剋上など珍しくもない。

 多少の風評の低下さえ覚悟すれば、力を手に入れた風術師はすぐさま世界に名をはせるだろう。


 加えて風牙の『神』の性質はこのようなものだったとされている。

『風を縛ることあたわず。風を留めることあたわず。汝ら協力者たらんとするならば、歪みを正し己を貫け』


 簡潔に言えば、風は自由の象徴であるため歪みさえ普通に処理する限りにおいて文句言わないから好き勝手に生きろ、ということである。

 一説には精霊王の分霊だったとか、風の妖魔が昇華したものだとか言われていたものの、世界規模での秩序さえ守られればいいという超常存在らしい存在であるという点だけは共通していた。


「退け、流也。これは我らが誇りのための戦だ。あの妖魔を使い神凪の分家を滅ぼし神を開放する」

「退けません。1000年の長きにわたり無辜の民のために戦い続けた神凪と我ら風牙、どちらがより信用が置けるかなど知れたこと」


 道具ではなく、精霊術師に戻る。そのために己の魂すら差し出そうと兵衛は吼える。

 傲慢だろうがなんだろうが、神凪は決して一般人にその力を振るわない。だからこそ仕えるに値するのだと流也は語る。


「結局は平行線。なら、暴力で決着をつけるのが道理だろうよ」


 既に怒声に近い声で口論を繰り広げる親子を無視するかのように、流也の傍で状況を見守っていた男が口を開いた。

 我関せずとばかりに煙草なんかをふかしながらも鋭い目つきで兵衛を見つめていた。


「だが!」

「わかってるんだろう?お前が保護した風牙の穏健派は兵衛に『逃がしてもらった』ってことくらい」


 その言葉に流也は口を閉じざるを得なかった。

 風牙の有力者が全て敵にまわっている状態で情報が漏れないわけがない。

 戦力も情報もそろっている相手から『何故か』逃げ切れたという矛盾は、どんな無能でもわかるくらい露骨な情けだった。


「和麻様、それは間違いというもの。我らの悲願は風牙の解放。ならば保険として血筋を残しておくのは当然のことでありませぬか」


 笑みすら浮かべずに兵衛が断じる。

 そんな態度に「そういうことにしておこうか」などと肩をすくめる和麻は煙草を塵すら残さずに燃やし尽くすと、一歩前に出た。




「それでどうする。抵抗か、降伏か」




 高慢な物言い。

 だが神凪の宗家として、それは至極当然の態度だった。

 もしこの場にいるのが重悟や厳馬だったとしても、相手の妖魔が自身よりも強いと知りつつこう言い放つだろう。


『それでも俺が勝つ』


 意志の強さがそのまま力量に直結する彼らの、それは誓いのようなものであった。


「ありとあらゆる連絡手段を封じられた上に気の休まる暇も与えられない状況はうんざりだ。さっさと選べ」


 携帯電話は真っ先に壊され、公衆電話等を使おうにも連続した不意打ちにさらされ、乗り物に乗ればそれごと妖魔の風でつぶされる。

 流也が来てくれなければ本当に消耗戦になっていたかもしれない。

 ぱっと見たところそうは見えないが、和麻はかなりのストレスをため込んでいたのだった。

 そんな和麻を目の前にしても、兵衛は全くと言っていいほど態度を崩さない。

 むしろ盤石の自信を持って言い放った。





「いえ、こちらは逃亡を選ぶこととしましょう」

「っ!脱出するぞ!!」






 次の瞬間、兵衛の言葉とともに突如として発生した局地的な竜巻が、風牙衆の使用するセーフハウスを丸ごと吹き飛ばしていた。








[9101] 第26話
Name: 酒好き27号◆3e94cc3d ID:17f35bae
Date: 2010/03/13 03:04


 ドサリ。

 それほど大きくないその音は、夜中の公園という状況も相まって意外なほど大きく響いた。

 打ち抜いた拳の余韻を感じる間もなく、道哉は天を仰ぎ背をそらせて声を張り上げる。


「ああああああああああああ!!!!!!!!!」


 術者を失った膨大な数の火の精霊。

 無秩序に荒れ狂わんとするそれらを、轟々と渦巻く暴風が切り裂き一気に散らしてゆく。

 収束もされず広範囲にその猛威を振るおうとする炎をその4倍に値する風で圧殺した。

 ただの術者ならば脳が焼き切れてもおかしくない程の能力行使のためか、声が枯れんばかりに張り上げられたその絶叫。


 しかし、それだけのためではない証拠に彼の瞳からは一粒の液体が流れおちた。


 突如生じた熱と風。

 それによって起きた乱気流が木々の葉を散らさんばかりにその荒々しい歌声を響かせた。

 本来ならば即座にそれらを鎮めるはずの風の主はそれをむしろ歓迎するかのごとく無秩序にその力を行使する。

 その裡にあるのは激情か歓喜か悲哀か。

 18年という歳月を埋めるためにはたった一度の勝負はあまりにも短く、そしてあまりにもあっけなくその幕を閉じた。



 これで振りきれるはずがない。この程度で終わるはずがない。



 どうしようもなく心の奥底に沈殿した澱が、巻き上げられるかのように心を染めた。



___ああ畜生め。この甘ったれが。覚悟を決めて決着をつけてもまだこれか。



 彼から爆発的に放射されるエネルギーは何もない空間にこそ猛威を振るい、されど公園を傷つけることなく夜空に消え去った。

 稀有なまでの自己制御を可能としている道哉ではあるが、今回ばかりは心の中心の平静を保つことができない。

 木々から引きちぎられた木の葉が円を描くかのように舞い上がる。






「失せろ」



 握りしめていた手を解くころには穏やかにおさまっていた風。

 ほんの少し焦点がずれたような茫洋とした目をした道哉が、不意に口を開いた。

 それと同時に上空から降り注ぐ無数の風の刃が、公園の至る場所に張り付けられた札を微塵に切り刻む。


「こいつを殺す気はない。わかったら失せろ」


 感情が抜け落ちたようなその声にこそ風牙衆は戦慄する。

 勝てない。裏をかくような光景さえ浮かばない力の差。

 足止めを兼ねた隔離結界さえも起動前に見切られた彼らにとって、既に打つ手は存在しなかった。



『退くぞ』


 リーダー格である男は、その木霊法が傍受されていることを承知したうえで周囲の仲間に撤退の指示を出す。


___やはり、あの兄弟は最大の不確定要素か。


 あわよくば。その程度の認識で親子喧嘩の隙を窺っていた彼らだったが、地力の低さまではどうにもならなかったらしい。

 道哉の言葉からして未だその立場は中立。彼らの計画の脅威になる段階にはいない。

 そう判断した風牙衆は世界でも上位に入るであろう程の制御で宵闇に姿を消していった。



 舌打ちを一つ。


 ゆっくりと大の字に倒れ込んだ道哉は忌々しげに眉根を寄せた。

 雑魚をいくら潰しても意味はない。

 ならば誤った情報を流して撹乱した方がまだましだろう。


 始まりと目的とその手段。

 すでに覚えているのはそれくらいになってしまった道哉は、その中途半端な知識ゆえに手を出しあぐねていた。

 いや、完璧に話の内容を覚えていたとしても広大な範囲から妖魔を見つけだすことはできず、後手に回るしかないだろう。

 風牙衆も馬鹿ではない。拠点は移しているだろうし、すでに姿を隠しているはずだ。


 道哉が動く前に既に始まっていた事件。


 物語の覚えている部分をなぞるようにした自身の行動は、利益どころか害悪しか生まない感傷にすぎなかったのだろうか。

 ここまで来たら地道にやるしかないだろう。ひとつひとつ、手の届く範囲から。

 ある程度強くなったとはいえ結局はそれくらいしかできない自身に、道哉は物憂げにため息をついたのだった。



 ~♪



 そこに鳴り響く重厚なメロディ。

 その方向に目を向ければ脱ぎ捨てられた厳馬の上着が見えた。

 重苦しいながらも壮大なオーケストラの音色を着信設定にしている携帯は、持ち主に似合っているのかそうでないのか。

 道哉はけだるげに立ち上がると落ちていた厳馬の上着を手に取り、ポケットに入っていた携帯電話を取りだした。

 画面には重悟の文字。

 苦悩するようだった彼の顔が懐かしさからかすかにほころんだ。


「もしもし」


『……道哉か』


 一瞬の間は懐かしさからか、それとも警戒心からか。

 それでも重悟の声は深い優しさを伴って道哉の耳に響いた。


「ええ、お久しぶりです」

『道哉。お前は……変わらないな』


 街中で偶然出会ったかのように気楽に返された返事に重悟は嘆息する。

 どこか内罰的であり、辛さを外へ見せることをよしとしない彼を重悟はいつも気にしていたのだった。


「これでもずいぶん変わったんですよ」

『そうだといいがな。して、厳馬はどうした?』


 たった二言。

 それだけで重悟は9割がた道哉を信用していた。

 本来ならば緊張感とともに出されるはずのその台詞が、まるで挨拶であるかのような気軽さで投げかけられる。


___ホントに、敵わないな。


 今度こそ道哉はハッキリとした笑みを浮かべた。

 ああもう、俺の周りにはどうしてこうも強い人間しかいないのか。


「すぐそこに転がってますよ」

『……転がっている?あの厳馬がか!』


 携帯電話の音が割れるほどの笑い声。

 思わず道哉が携帯から耳を離すほどに、重悟は心の底からの大笑を響かせた。

 道哉には見えないが、その時の彼は涙さえ浮かべ、膝を叩きながら豪快に笑っていた。


『……ふぅ。まさか殺してはいまいな?』

「それこそまさか。奥の手の一つまで切らされてスッカラカンですよ」


 ひとしきり笑った後、申し訳程度になされた確認にそう答えれば、またしても笑い声が響く。

 それは、長年の心のつかえがとれたかのような爽快な笑いだった。


『ならばよい、一族の者には私から説明しておこう。明日にでも屋敷に来てはくれないか?』

「……いいでしょう。良い茶菓子でも用意しておいてください」

『ははっ、楽しみにしておいてくれ』


 少しの逡巡の後、道哉は承諾の返事を返す。

 これが高圧的な出頭命令だったら反発の一つもしていただろうが、恩人である宗主に請われたのならば特に拒否する理由はない。


『厳馬の傷はどうだ?救急車がいるほどの大事がないようならば迎えの者を遣るが』

「この男なら明日には8割方回復してる程度の傷です。加害者として引き継ぐまでは面倒見ましょう」

『そうか、助かる。明日は日中だったら好きな時間に来てもらって構わない。その時は大神の娘も連れてきてくれ』

「わかりました。では」


 一通りの会話を終わらせると、道哉は通話を切って携帯を厳馬の上着の上に放り投げた。

 倒れている厳馬を特に気にするでもなく、再びだらりと地面に寝っ転がる。



 都会だというのに珍しく星は綺麗で、中途半端に欠けた月が鈍く光っていた。


 穏やかな風が、ゆるりと肌を撫でていく。


 遠くに聞こえる喧騒と対象的なこの場の静寂が耳に痛い。


 裡に抱えたもやもやとまとまりのない思考を巡らせながら、道哉は深く息を吐く。








「ああ、まったく。面倒事ばかりだな」


「父さま!」

「煉、不用意に近づかないで!!」


 幕が下りた舞台に現れた闖入者に、道哉はさらに気分が落ち込むのを感じるのだった。













「どうしたの、煉?」


 叔父の怪我のことや道哉のことでストレスをため込み、気晴らしに道場で木刀を振るっていた綾乃はこそこそと話をしている煉と風牙衆の一人を見つけた。

 二人は明らかに人目を気にしており、加えて普段はおとなしい煉が相手を問い詰めるという珍しい光景。


「いえ、これは……」

「父さまと兄さまが会う約束をしたらしいんです!」


 即座にごまかしてこの場を去ろうとする風牙衆を押しとどめるかのように煉が声を張り上げる。


「嘘、それって……」

「内密にお願いします……!結果次第では志気に関わりますので」


 暗に『一騎討ち』を匂わせる男に綾乃は思わずといった風に詰め寄った。


「それって今から?場所は?他に誰も行かないの?」

「これ以上は勘弁してください!現在この情報をご存じなのは宗主と我ら風牙の数名のみ。煉様の強い要望でしたので概要だけお話ししましたが、これ以上は無理です」


 焦りからか口早に否定の言葉を紡ぐ男を一瞥すると、綾乃は煉に向き直った。


「煉、あなたはどうしたいの?」


 真剣な目をしてこちらを見る綾乃に一瞬気圧されたような煉だったが、表情を改めると決意に満ちた表情で返答する。


「僕は兄さまを信じています。だから、この事件の解決に協力してくれるよう頼みに行こうと思います」

「道哉が犯人かもしれないわよ。そのときの覚悟はある?」

「それこそあり得ません。もしそうだったとしても、覚悟はできています」

「そう、なら確かめに行きましょう」


 自分一人の欲求だったならば綾乃も思いとどまっていただろう。

 敬愛する父親からも重ねて言われている待機命令と厳馬への信頼感は、自分一人のわがままで振りきれるものではない。

 しかし目の前には今にも飛び出していきそうな少年が一人。

 放っておくこともできなければ説得することもできそうにない。



___むしろ、これって好都合かも?



 思い至ったならば即決即断即実行。

 そんな脊髄反射のようなシンプルすぎる思考をもって綾乃は厳馬を追うことに決めた。

 そもそもの力関係として風牙衆は宗家に敵わない。そんな相手を侮った思考があったということも否定できない部分ではあった。


「いけません!宗主の命に背くおつもりですか」

「大丈夫よ、あなたに迷惑はかけないわ。ほら、こうすれば話さないわけにはいかないでしょ?」


 ね?と可愛らしく微笑む綾乃だったが、その行動は凶悪に過ぎて思わず煉すらも表情をひきつらせた。

 男の首元に突き付けられた炎雷覇と、逃げ道をふさぐように彼の背後に展開された黄金の炎。


「姉さま……それはちょっと……」


 見るに見かねた煉がどうにかして綾乃を説得しようと試みる。

 もともと心優しき少年である。自分も父親のところに行きたいのは確かだが、ここまでして情報を聞き出したいとは思わなかった。


「何を言ってるの。『身内』である『宗主の娘』に『炎雷覇で脅されて』情報の提供を『強要された』。ここまでやらないとこの人が怒られちゃうでしょ」


「あ、姉さまはそこまで考えてたんですか」


 なるほど。と得心したように手を打った煉だったが、少々の沈黙ののちに恐る恐る言葉を続けた。








「それって、今考えたとか言いませんよね……」

「あ、ばれた?」


 てへっ☆






 今までの凛々しい表情から一変して似合わないぶりっ子をする綾乃に、煉は軽い頭痛を覚えて虚空を仰いだ。


「ばれた?じゃありません!いつもいつも姉さまはなんでそんなに力押しなんですか!」

「なによー、主張としては間違ってないでしょ」

「主張が間違ってなくても前提が間違ってます!そういう気づかいは協力してもらえる段階になってからするものでしょう!?」

「あ、それは大丈夫。彼に拒否権はないから」

「とりあえず炎雷覇と出している炎をしまってください!」

「そんなことしたら逃げられちゃうじゃない。そんなんだから訓練の時に『詰めが甘い』なんて言われるのよ」

「『もう少し考えてから動け』と言われる姉さまに言われたくはありません!」


 声が枯れるんじゃないかと思えるほど綾乃に説教する煉。

 その言葉を受けても全く悪びれない綾乃。

 そんなやり取りを止めたのは、思わずもれてしまったような男の笑い声だった。


「ほら、煉のせいで笑われちゃったじゃない」

「もうそれでいいです……」


 諦観に満ちた煉の表情またしても彼の笑いを誘う。

 先ほどまでの焦ったようでいながらも頑なな態度とは対照的に、ずいぶんと穏やかな表情で彼は口を開いた。


「…失礼しました。そうですね、脅されたならば仕方がないでしょうね」


 笑いの余韻を色濃く残しながら彼が口にした言葉に、二人はそろって目を輝かせた。


「じゃあ!」

「厳馬様が向かった先をお教えしましょう。しかし、一つだけ条件があります」


 にわかに真剣な表情をした彼につられ、その場の雰囲気が改まる。


「ま、その条件を呑むかはわからないけどね」

「姉さま……」


 もはや何も言うまい。悟りきったような煉の表情は小学生とは思えないほどだった。

 そんな煉を安心させるかのように、風牙の男は笑いながら言った。


「いえいえ、そんなたいしたことではありません。ただ、屋敷を出るのはもう少し待ってほしいというだけですから」


「どうして?勝負が終わっちゃうかもしれないじゃない」

「そうです、猶予はないはずでしょう?」


 口々に疑問を呈する二人に対して、彼は言い聞かせるようにゆっくりと話す。


「まず皆様方炎術師では予想される風の妖魔の不意打ちに対して圧倒的に不利であることが一つ。これは私たちが偵察としてある程度の安全を確認するまでお待ちください」


 つまり、道中の安全を確保するまで待てということだ。

 策敵が得意でない身としては彼女たちもこれに頷くしかない。


「次に厳馬様は周囲の人払いこそ我ら風牙衆に任せるものの、『一人で』相手に会うとおっしゃりました。例え追いついたとしてもお二方では追い返されてしまう可能性があります」

「確かに。厳馬の叔父さまって誰にでも厳しいものね」

「そうですか?父さまは優しい人ですよ?」


 奇妙なものを見るような視線が煉に集中する。

 一拍後、煉以外の二人は無言でその発言をスルーした。


「最後にこれが罠であった場合、固まっているのは逆に危険です。タイミングをずらして向かえば相手の不意を突くこともできるでしょう」


 理路整然と語られる話の内容に、綾乃と煉は思わずひきつけられるように聞き入っていた。

 戦力の分散になるなどの不備こそあるものの、今敵の目が厳馬に向いているならば十分に聞き入れるべき意見だろう。



「流石情報を扱う風牙衆ね。やっぱり皆で道哉を袋叩き、とはいかないか」


「そんなこと考えてたんですか!?」


 煉、驚愕。

 同時に心の中で決意を新たにする。自分がしっかりしないと!

 気の毒そうな目を向けてくる男の視線から逃れるように、煉はそっぽを向いて目頭を押さえた。


「そうと決まったら着替えなりなんなり準備をしましょう。なるべく動きやすい服装でね!」


 生き生きとした表情で煉をひっつかんで走り出す綾乃の背に「20分後、北側の勝手口までお越しください」という言葉が投げかけられた。








 無人になった屋敷の片隅。


 先ほどまで穏やかな笑みを浮かべていた風牙衆の男はおもむろに携帯電話を取り出して通話ボタンを押した。


「ターゲットを引き離しました。少々予定とは異なりますが誤差の範囲でしょう」

『誤差とは?』

「向かうのは綾乃様と煉様です」

『いいだろう、よくやった。といいたいところだが……』

「どうしました?」


 通話相手の躊躇うような話し方に、彼も眉根を寄せて問う。


『和麻と流也に拠点の位置を割り出された。予定を変更してアレはまずそちらに回す』

「ではターゲットはどうしますか。今動かせる人員ではどう考えても力不足でしょう」


 予定外の状況に軽い動揺が走った。

 場合によっては今の行為が丸ごと無駄に終わるかもしれない。


『そうだな……宗主と厳馬は無理だとしても、その二人ならばある程度思うように動かせるかも知れん。可能な限り時間を稼ぐ方向で行こう』

「……わかりました。臨機応変に、ということですね」

『すまないな。にしても、何かあったか?含むことがあるような話し方だが』


 その言葉に、男は顔を上げて二人が去った方向を眺めた。

 その瞳に浮かんださざ波は苦悩か寂寥か。


「いえ、少しばかり……揺れただけです」

『そうか。抜けるときは言えよ』

「まさか」


 どこまでも軽く返された言葉に苦笑すれば、相手も笑いながら通話を切った。


 深い深いため息をつくと、彼はまた別の番号を選び出した。

 屋敷にいる仲間に木霊法を飛ばしながら歩き出す。

 その表情には、先ほどまで浮かんでいた感情の一切が抜け落ちていた。



「手加減する、などと思いあがったことすら言えない身か……」



 それは生死が混ざり合う闘争の舞台。

 神凪は強大であり、全力でやらなければ風牙衆など塵一つ残るまい。

 抑えきれなかった感情が発したその言葉から逃げるように、彼はその場を早足で立ち去ったのだった。







___古今東西、鋭利なはずのナイフを鈍らせるのは常に人の心であるが故に。








 あとがき

 今日も元気だお酒が美味い。 
 わかっているけど直すのが面倒だなぁとか思っていた誤字を修正しました。細やかな指摘に感謝感謝。
 一か月くらい余裕で間があくこの作品ですが、次は少し早めに更新できそうです。期待せずにお待ちをw
 というわけでまずは『新潟酒の陣』行ってくる!






[9101] 第27話
Name: 酒好き27号◆3e94cc3d ID:17f35bae
Date: 2010/03/16 19:51


「今度は逃がさない……!」

 仁王立ちしてこちらを睨みつける綾乃とおろおろしながら厳馬と綾乃を交互に見ている煉。

 どう見ても早すぎる到着であるということは、重悟の言っていた迎えとは別件だと考えられるだろう。

 目の前で文字通り気炎を上げる綾乃。

 まるで空気が帯電したかのようにピリピリとした緊張感が夜の公園に満ちる。

 音や予備動作の欠片もなく、唐突に彼女の手に現れた炎雷覇が道哉にまっすぐ向けられた。

 4年前の綾乃は12歳だった。この時期の成長の速さを証明するように、彼女は見違えるほど美しく成長していた。

 先の戦闘では相手をつぶさに観察するほど心に余裕がなかったためか、道哉は遠い過去に思いをはせるかのように目を細める。



 しかし、風を統べる彼にとってみればその炎術はあまりにも。





「存外に不細工な炎じゃないか、綾乃」





 威力も浄化の力も宗家として申し分ない。

 だが『それだけ』で渡って行けるほどこの世界は甘くはないと、心身に刻まれた傷が囁いた。


「……なら、試してみる?」


 その言葉に綾乃がより一層眼光鋭く睨みつける。

 それをまるで無視するかのように「よっこらせ」と立ち上がった道哉は厳馬の携帯電話を拾い上げると、無造作に煉へと放った。


「宗主とは話がついてる。冤罪だよ、俺は」


 わっわっ、と投げられた携帯をお手玉する煉に構うことなく道哉が言った。

 そのまま今度は手近なベンチへと腰掛ける。

 深々と体重を預けたその姿は、いっそふてぶてしいと言えるほどであった。


「姉さま!」

「わかってるわ。煉、早くお父様に連絡を」


 そんな道哉の様子にさらなる怒りを募らせた綾乃だったが、煉の声で即座に冷静さを取り戻す。

 もし厳馬の生存を感じ取っていなければすぐにでも飛び出して行ったであろうことは想像に難くない。

 それが心からの冷静さかと言われれば否と言うに他ないが。

 一方そのやり取りには目もくれず、道哉は瞳を閉じて体力の回復に努めていた。


「あの……兄さま、姉さま」


 道哉の態度に内圧を高めている綾乃と、ギスギスとした雰囲気に怯えるように煉が口を開いた。



「何だ?」「どうしたの」



 先ほどの「自分がしっかりしないと」という決意もむなしく、煉は同時に向けられたその視線に対して完全に腰が引けていた。

 それでも手元の携帯のディスプレイを見せるようにしつつ、引きつった声で言う。


「あの……繋がらない、んですが……」


 電波の届かないところにいるか……と小さく聞こえるそれに、道哉は眉をしかめた。


「2分前に繋がったはずなんだが……ちょっと貸してみろ」

「あ、はい」


 持ち前の素直さで思わず小走りに兄のところへ向かおうとする煉をすかさず綾乃がその手で静止した。

 不満そうにする煉を無視して携帯を受け取ると、近づこうとするそぶりすら見せずに手元のそれを投げつける。

 そんな綾乃に対して特に何も思うことなく道哉はアドレスを呼び出した。


 神凪本邸、神凪重悟、風巻兵衛、神凪和麻……



「……全滅か」



 試しに関係のない番号へも掛けてみたが、こちらはしっかりとつながった。

 綾乃にも掛けたが、そのポケットから鈍い振動音が聞こえただけで無視された。

 風牙衆の数名には当然繋がらない。

 同時に神凪の関係者にもつながらないということは、本邸の電話線が切られた上にジャミングがかけられたと見るべきか。

 ほぼすべての術者が集合している今現在、これは十二分に効果的な策であろう。


「つまり、あんたの発言には全く信憑性がなくなったってこと」


 苦虫をかみつぶしたような顔をした彼に、綾乃は遠慮なく敵意を開放する。


「はぁあああああああ!!!」


 虚空に向けて振り下ろされた刃からまばゆいばかりの金色の炎がほとばしった。

 それより一瞬早くその場を離脱していた道哉が疲労の色もあらわに距離を取る。


「姉さま、やめてください!」


 追撃をかけようとする綾乃の腰に、煉がまるでタックルをするかのように飛びついた。


「僕は話し合うために来たんです!兄さまを説得するために来たんです!」


 がっしりと綾乃にしがみつき、瞳を潤ませながら彼は叫ぶ。


「父さまだって生きてます!風術だって妖気が感じられないじゃないですか!冷静になってください!」


 その言葉に綾乃の頭が若干冷えた。

 全力で前に向けられていた視線が、自らに抱きつくようにして行く手を阻む煉にピントを合わせる。

 今にも煉を振り払おうとしていた動きが止まったことで公園に沈黙が落ちた。


「…………煉」


 彼女の裡に渦巻く混沌とした感情が、その開放先を求めて道哉に殺到する。

 どんなに修練を重ねても、どれほど友人と笑いあっても、何をしていても消えなかった遠い日の残照がそこにあった。


「姉さま……」


 しがみつく煉の腕に添えられた手。

 穏やかな声で名前を呼ばれ、「もう大丈夫、落ち着いたわ」という声を期待して視線を上げた彼は、綾乃の瞳に隠しきれない感情の荒波を見た。


「ごめん」

「姉さま!!!」


 少しだけでも冷静さを取り戻したことで冴えた技は、いともあっけなく煉の拘束を打ち破った。

 悲鳴じみた煉の声を背に受け、綾乃は足元のタイルに亀裂を入れながら飛び出す。

 道哉との距離、およそ15m。



 走り出した勢いのままに、綾乃は己の一番の相棒を全身全霊で振り抜いた。













「なに?外部との連絡が?」

「はい。有線、無線ともに」


 数人の術者や側近と共にこれからの対策を協議していた重悟は、側近の一人の報告に首をかしげた。

 それによれば、各自の携帯電話と備え付けの電話が突然全て不通となり、インターネットも使えないという有様らしい。


「兵衛をここに。情報網の管理は風牙衆だろう」


 壮年の術者が怪訝そうに言った。

 術の威力こそ遠く及ばないものの、風牙衆は世界でも有数の炎術師である神凪一族の下部組織である。

 常に完璧に近い補助を求められてきた彼らが犯したにしてはあまりにも重大な失敗であった。


「それが、『今回のことは我らの不始末。一刻も早い復旧のために伝言にて済ますことをお許しいただきたい』とのこと」


 本家の結界の中に引きこもっている彼らにとってみれば情報網の遮断は死活問題だ。

 報告の時間すら惜しんで走りまわっている、となれば不自然ではないはずなのだが。

 その場にいた一同にどこか雲をつかむような形のない違和感が漂った。


「妥当ではある、妥当ではあるのだが……」

「原因や手段の報告も無いとは兵衛らしくもない」


 口々に疑問点を挙げるものの、現状で打つ手段は無い彼らはしだいに口を閉ざしていく。

 一番の違和感は通信手段そのものであるはずの風術師が持ち場を離れるという矛盾。

 緊急用の結界が起動している今、内から外、外から内に対する木霊法が使用できない状態であるといっても風術師の存在と言うものはやはり重要だ。

 皆一様に首をかしげる一同を見回していた重悟の脳裏に、落雷のごとく重大な懸念が浮かび上がった。


「待て、今すぐ宗家のものが厳馬以外すべて屋敷内にそろっているか確認せよ」

「宗主……もしや煉様と綾乃様が外出なさったことは?」


 この場では一番立場が低い術者が恐る恐る聞いた。


「戦闘準備を整え、誰も屋敷から出るなと厳命したはずだ!!」

「しかし、風牙衆が『厳馬殿の補佐だ』と!」


 瞬間、焦りから怒声に似た強い調子で詰問する重悟に萎縮する術者。

 その様子を見た重悟は温厚な彼らしくもなく舌打ちを一つ打つと、腹の底から声を響かせた。


「総員、風牙衆を拘束せよ!」

「は?いや、それは」

「理由は後で説明する。今は一刻も早く、一人でも多くの風牙衆を捕らえよ!」

「はっ、ただいま!」



「周防」

「ここに」


 にわかにあわただしくなった周囲を見回した重悟は側近の一人を呼びつけた。


「信用のおけるフリーの情報屋、もしくは風術師で……いや、それに加えサポートが得意な術者ですぐに協力を請える者を探せ」

「よろしいのですか」

「一刻の猶予もない。契約規定と守秘義務関係は最も厳しいものを。金に糸目はつけん」

「かしこまりました」


 万が一このことが広まったとしても、神凪の名はこの程度で揺らぐことは無い。

 しかし、リスクの方がはるかに大きいこの事件。重悟にとってもこれは苦渋の決断ではあった。

 一通りの指示を出し終えた彼は、思い悩むかのように目を伏せる。

 肘置きになかば体重を預け、額を軽く押さえたその姿は普段の重悟と比べて弱々しいと形容されるほど。





「そこかっ!!!!」


 と思えたのも束の間。

 金色にきらめく炎弾が窓をぶち破って庭に放たれた。

 だがそこにはすでに何の影もなく。


「……逃がしたか」


 神凪の術者が集まり、結界まで張られていることで通常ではありえないほどに火の精霊の密度が高まっているこの場において、重悟程の術者ともなればこの程度のことは可能である。

 それでも探査精度と攻撃速度は一歩及ばなかった。


「何とかして道哉と厳馬に連絡を取らねば……」


 もはや一刻の猶予もない。

 それでも重悟には誘い出された綾乃と煉、それに傷を負っており全力を出せないであろう親子の無事を祈ることしか今のところはできそうになかった。











「はぁ、はぁ、はぁ……宗主が感づきました。総員至急撤退を」


 重悟に気づかれ、間一髪で撤退した男が屋根の上で木霊法を使う。


『結界破りの用意は』

『離れの西側に』

『連絡が行ったと思われるのは本邸南側が最初かと』

『手薄な場所はどこだ!』


 結界とは内と外を隔てるものである。

 属性が火であり、同時に様々な機能が付加されたこの結界を抜けるには神凪の分家当主以上の耐火能力と破壊力が必要とされることだろう。

 3ヶ所ある結界の出入り口まで連絡が行き、実力派の術者によって固められるまで残り数分。

 間に合わず脱出が困難になった場合にも一応の保険はかけてあった。


『内線まで不通にしておいて助かったようだな。今ならば行ける』


 今現在門番をしている術者はそれほどでもない。

 本気で身を隠すか、全員で不意打ちをかければいとも簡単に門をくぐることができるだろう。


「左足を潰されました。先に行ってください」


 簡易的な処置を施しながら、木霊法による通信網で男が言った。

 脂汗を流し、かすかに震えながらもその瞳に後悔の色は無く。


『……結界破りは松の木の上に縛り付けてある。準備はできたな、一斉に抜けるぞ!』


 指揮権を持つ術者からの言葉に続き、その他の術者からも激励代わりの減らず口が届く。


「御武運を」


 その言葉を口に出して数秒後、結界を抜けたのだろう、知覚内全ての反応が消失した。

 未だ痛みが治まらないものの動けるようになった彼は、よろよろとした動作で風に乗る。


「……まだ、まだ、こんなもんじゃない」


 この程度の対価じゃ安すぎる。

 そういった男の顔には、苦痛の中まぎれもない笑みが浮かんでいたのだった。












 目の前に牙をむく炎の壁。

 今にも自身を燃やし尽くさんとするそれを見ながらも、道哉は微動だにせず立ちつくしていた。


「兄さま!!」


 煉が最悪の未来を想像して走り出す。







「未熟者」



「きゃあ!!!」







 道哉は最後まで動かなかった。

 いや、『動く必要が無かった』。

 180度反転して綾乃自身に牙をむいた炎が、彼女を軽々と弾き飛ばす。


「と……父さま?」

「もう狸寝入りはいいのか?」

「ふん」


 道哉の背後からのそりと起き上った厳馬が鼻を鳴らした。

 いつものように泰然とした調子で歩き出す。


「目的は果たした。帰るぞ」


 本来ならば背を丸め、足を引きずりたいほどのダメージであるはずなのに呆れるほどのタフネスぶりである。

 そのまま手負いの獣のように膝をつき、道哉を睨みつける綾乃へと近づいた。


「綾乃」


 優しい声だ。煉はその声を聞き、少し嬉しくなった。

 丸くなったもんだ。道哉は全くの他人事としてその光景を見る。

 綾乃はその声を聞き、弾かれたように顔を上げた。


「帰るぞ」

「でも!」


 思わず、といった調子で反発した綾乃はそれ以上の言葉を紡ぐことができなかった。

 この状況を見て、それでも道哉に向かって行けるほど彼女は愚かではない。

 一方道哉は新しい面ばかりが目につく厳馬を感情の読めない瞳で観察している。

 彼にとってみれば、自分の言葉が耳に入っていないような未熟者に対して、厳馬が言い聞かせるように同じセリフを言うとは思ってもみなかった。




 そんなことをつらつらと考えつつ、道哉はさっさと踵を返す。


「あ、こら、待ちなさい!」


 それにいち早く気づいた綾乃がまたしても条件反射的に声を上げた。

 しかし、道哉は厳馬を挟んだ反対側にいるためとっさに動くことができない。


「じゃあな、明日にはそっちに向かう」

「いいだろう」


 ふわり、と道哉が宙に浮き上がった。

 顔すら互いの方向に向けようとしない無味乾燥なやり取り。


 この場はそれで収まる、かに思えた。



「えいっ!」

 ガシッ




「…………」

「…………」

「…………」



 空気が凍った。

 地面から1mほど浮いているの膝辺りから、ぷらーんとぶら下がっている小柄な影が一つ。


「……煉」

「さっきも言ったはずです。僕は兄さまと話すために来ました」


 何と言っていいかわからない。そんな声を出した道哉に、煉は意地でも離さないとばかりに力強くしがみつく。

 いつもならば厳馬の言葉に従ったであろう煉。

 触れ合いなどほとんどなかった兄弟。

 それでも自然体としてそこにいる二人に、厳馬の口もとがほんのかすかに弧を描いた。


「……おい」


 その笑みを目ざとく見てとった道哉が、その意味をどう曲解したのか半眼で睨みつける。

 さっさとこいつを連れ帰れ。そんなニュアンスを含んだ視線は厳馬に無視された。


「そうだな、道哉についていけば屋敷にいる程度には安全だろう」

「本当ですか!?」


 父からの許可と、予想以上の道哉の力量に煉がキラキラとした目を向けてくる。

 こういう相手だとどうしていいのか分からなくなる道哉が困ったように目をそらした。


 厳馬の足に走る細かい震えを見て内心舌打ちをする。


___限界に近いだろうに、この負けず嫌いが。煉がいるからってカッコつけやがって。



「あー……」


 ガシガシと頭をかきむしり、仕方がないとばかりに道哉は猫をつまみあげるように煉を引っ張り上げた。


「仕方がない。連れて行ってやる」

「やった!」


 きゃっきゃとはしゃぐ煉を背負うと道哉は空高く舞い上がる。

 その後を追うように、綾乃が数歩前進した。


「どうして、どうしてあんたは…………!!!」


 絞り出すような声。

 まるで涙にぬれたかのように震える声が、力無く夜空に響く。

 最初から。

 そう、あの継承の儀から今までただの一度たりとも。


「どうして、私は……」





___道哉は、綾乃自身を見てくれてはいないのだった。





 悔しいのか悲しいのか、それすらわからないままに綾乃は道哉を見上げている。

 これは彼女の誇りなのだろうか、神凪の誇りだろうか。

 そんな大層なものが原因ではないことだけは、彼女自身理解していた。


「……私は!」


 それ以上は言葉にならず、既に彼らが遠く去った方向を見つめるしか綾乃にできることは存在しなかった。





 一方、煉に心配をかけないよう、その声を遮断しながら道哉は思う。

 自分がかかわってきた人々はその全員と向き合い、『人間』として見てきたつもりだった。

 だが、もしかしたら自分はその付き合いの浅さから綾乃を『イベント』の一環としか見ていなかったのではないだろうか。


 継承の儀という区切りが最初の本格的なやり取りであったこともそれを助長する。

 襲撃を受けた時も、ついさっきのやり取りも、『事件の始まり』『宗主の娘』『浅い行動パターン』『未熟者』と、向き合ってもいないのにレッテルを張ってはいなかったか。




 それは俺にとって最大のタブーではなかったのか。




 遠ざかる公園。

 そこに、泣きじゃくる12歳の少女を幻視する。



 だがこれからの魑魅魍魎が跋扈する世界において、彼女が神凪綾乃としての存在を確立しているかというとそうでもない。

 実力も、中身も、まだまだ完成には程遠い未熟者。





___強くなれ、綾乃。俺にそんなことを言う資格は無いのかもしれないけど。



 背中に煉の体温を感じながら、彼は初めて綾乃と向き合おうと決意したのだった。










 あとがき

 新潟酒の陣に行き、知らないおじさんたちと楽しく飲んでぶっ倒れたぜ!な作者です。みなさんお酒には注意しましょう。
 やはり書いていて思うのですが綾乃は難しい。
 ですが女子高生ならば感情的になるのも仕方がないのかな、という感じで匙加減に悩みつつ書いております。
 感想欄でも少し出ていましたが、作者自身原作でもいまいち精霊術についてよくわからなかった面があります。
 ま、そういう面は絡めようとするとテンポが悪くなる部分もありますので(力量的にw)そのうちあとがきの下にでも蛇足として考察なんかを書きたいと思います。
 (多分)次も早めに投稿が可能かと。では、皆様の感想指摘等お待ちしております。





[9101] 第28話
Name: 酒好き27号◆3e94cc3d ID:17f35bae
Date: 2010/03/17 22:00


「こんなホテルに泊まってたんですか」

「口を閉じろ口を」


 数十分の空中散歩の後、道哉は煉とともにホテルへと戻ってきていた。

 夜の10時を過ぎていても依然美しい照明がついたロビーに煉が感嘆の声を上げる。

 正直子供の相手があまり上手とは言えない道哉だが、そんなちっぽけな心配など吹き飛ばすほど彼の弟は良い子だった。


 あんなの(父)とあんなの(母)の間からどうやってこんなのが。

___どちらにも似なくてよかった。


 万が一の場合を思わず想像してしまい、道哉は今にも目元からあふれ出そうな熱い雫をこらえる。

 もちろん、煉は不思議そうな顔していたが。



 スイートルームの前でスリットにカードキーを通す。

 簡素な電子音ではなく、耳触りのいいメロディとともにロックが解除された。


「おかえりなさいませ、お怪我はありませんか?」

「あー、いや、その」

「そういえばベッドが一つしかないのはどうしましょうか。いえ、道哉様を信用していないわけではないのですよ?」

「いや、だからだな」

「服が埃まみれですよ。まずは上着を脱いで……」



「……」


「……操、さん?」


 時間が、止まった。


 中途半端な笑みを浮かべ、『下に何も着ていないバスローブを少し着崩した操』が空気に接着されたようにその動きを停止する。

 道哉は「あちゃ~」とでも言いたげな表情をし、煉は茫然とした表情で道哉にしなだれかかるようにしている操を見つめていた。

 三者三様の表情で固まった3人のうち、最初に動きだしたのは操だった。


 目を前髪で隠し、ぷるぷると震えだす。

 じわりとその肌が赤みを帯びた。


「煉、出るぞ」

「え?え?」


 ……パタン。


 操を刺激しないように、かつ迅速に道哉は部屋から退場する。

 静かに扉を閉めた直後。


『◇※△○×☆Ψ~~~!!!!!』


 羞恥ゲージが限界を突破したのか、言葉にならない叫び声が防音加工の壁を貫いてかすかに響いた。

「……兄さま」

 じと~、という擬音語が聞こえてくるほど白い眼をした煉が道哉を見つめる。

 その頬が僅かに赤く染まっているのは御愛嬌と言ったところだ。


「なんというか……誤解だ」


 何をどう説明したらいいかわからない道哉は、うめくようにそう言うしかない。


「今度から操さんのことを『操姉さま』と呼ぶことにします」

「勘弁してくれ!」


 そこから煉の誤解をある程度解くまで10分ほどの時間を要するのだった。

 運よく誰も通りがからなかったことを、道哉は神に感謝したらしい。









「……操、もういいか?」


 道哉は彼にしてみれば驚くほど慎重にドアを開けた。

 右よし、左よし。

 まるで泥棒かなにかのように周囲をうかがいながら慎重に歩を進める。

 後ろについてくる煉はと言えば、周囲の調度品や間取りなんかを興味深そうに眺めていた。

 リビングにも操はおらず、何となく予想しながらも彼らは寝室に足を踏み入れた。


「これじゃあ着替え終わってるかもわかりませんね……」

「……そうだな」


 キングサイズのベッドに、巨大なかたつむりがいた。もちろん比喩であるのだが。


 毛布の端っこを引っ掴み、くるりと丸まって震えている様子はどこか子犬を思わせる。


「操、着替えたんなら出て来い」

 もぞもぞもぞっ


 どうやら嫌らしい。

 ここまで拒否されると意地でも布団をひきはがしたくなるのが人情というものである。

 手の指を使ってボキボキと派手な音を鳴らしながら、布団にくるまった操に覆いかぶさるように___


「……兄さま?」

「冗談だ」


 苦笑しながら道哉はベッドに腰掛ける。

 操が入っている毛布がすすすっ……と遠ざかった。道哉軽くショック。

 煉はリビングから椅子を持ってくると、ちょこんと座ってこちらを見た。行儀のいいことだ。



 そうして彼は、躊躇うように口を開いた。


「それで、お二人は結婚を前提としたお付き合いを……」

「そのネタはもういい」

「では私の体が目当てだったのですね!」

「人聞きの悪いことを言うな!」


 真面目な声でそんなことを言う煉と、布団から顔だけ出してそんなことを言い出した操に頭を抱える。

 操はといえば、まだ恥ずかしさが治まらないのかすぐに引っ込んでしまったが。

 赤い顔とうるんだ瞳がぷりてぃ。

 それでも危険な冗談が言える程度には落ち着いたようなので、道哉は複雑な表情で述懐した。


「まったく、お前たちはどうしてそんな風になっちまったんだろうな」


 基本的に遊びが少なく、誇り高い神凪一族においてこのようにどこか自由な心を持っていてくれることが彼には嬉しかった。それが良いことなのかは置いておくにしても。

 そこに含まれた感情は万感を込めた優しさと喜びであったのだが、それを向けられた二人は不満げな表情(一人は毛布の中で見えないが)をする。

 まるで『お前のせいだ』もしくは『お前が言うな』と言わんばかりのじっとりとした目線が、正面とベッドの隙間から注がれた。


「にしても、操はどうしてあんな格好だったんだ」


 そのような視線など道哉の防御力を高めた心に毛筋ほどの傷をつけることもできない。

 と、見せかけて地味に傷ついているピュアハートを持った男であった。


「だって……だって道哉さまが昔わたしをからかうから!」


 もぞもぞと動きつつ、毛布の中からくぐもった声で操が言った。

 その幼子のような声に煉が目を丸くする。

 昔散々からかわれた仕返しに、無理をしてまであんなことやってたのか。

 道哉はと言えば煉の手前、浮かびそうになる笑みを必死に噛み殺していた。


___これだから操は面白い。


 本人に聞かれたら激怒間違いなしの感想を抱きながら、道哉は呆れたような口調を装った。


「それで俺が動揺しないからあんな痴女まがいな……」

「言わないでください!」


 毛布の中から聞こえてくる声は既に涙声である。

 その声に道哉ゾクゾク。危ない趣味に目覚めてしまいそうだ。


「あの……そろそろ僕の話を聞いてもらってもいいでしょうか」


 すっかり忘れ去られていた煉がついにしびれを切らして切りだした。


「おお、すまんすまん。で、さっきも言ってたが話って何だ?」

「……ヨーロッパのオカルトサイトで見たんです」


 煉は重々しげに言った。

 これか。と道哉は思う。

 どういう話になるかは大体わかったが、果たしてこれから語られる情報が信頼に足る情報筋からのものなのかだけが心配だった。

 自分の情報だ。信頼性の低いところにすら細かな情報が出回っているとなると当事者として不安がある。






「『ニンジャマスター』は若い日本人だって」「ちょっと待て」






 予想の斜め225°の角度で繰り出された話題に道哉は頭を抱える。


「待て待て待て、何がどうなってそうなった」


 そんな道哉の様子を一顧だにせず、煉は少々高めのテンションで言葉をつづけた。


「だって『素手でドラゴンを撲殺した』とか『蹴り一発で空間にヒビを入れた』とか『気づいたら後ろに回り込まれていた』とか!」

「何だその無敵超人」


 めくるめくガセ情報のオンパレードに眩暈までしてきた道哉。


「他にも『気づいたら隣にいた奴の首が掻き切られていた』とか、『瞬きする間にその身一つで妖魔の群れを全滅させた』とか!!」


 その話は留まることを知らず。


「確か他にも『爵位持ちの悪魔を気合でぶん殴った』なんていうのも……」

「まぁ落ち着け」


 鼻息荒く、まるで憧れのヒーローでも語るように話す煉を嫌々ながら制止する。


「兄さま……なのでしょう?」

「なんでその情報と俺を結びつけようと思った!」


 期待するかのように一拍溜めてからの言葉は、計り知れないほどのダメージを道哉に与えた。

 断固として抗議すれば煉は残念そうな顔で元凶の名を語る。


「兄さんが……」

「オーケィわかった理解した。なぁに、殴る理由が増えただけだ」


 ふははははは、とまるで魔王のような笑い声を上げる道哉に煉と操はどん引きである。


「煉」

「はいっ!」


 どす黒いオーラをにじませたその声に、煉は思わず背筋を伸ばした。


「その『ニンジャマスター』だとかいう変人は俺じゃない。わかったな?」

「はい、『ニンジャマスター』は兄さまじゃありません!」

「よし、魂に刻みつけろ」


 頭をがっしりと握られた煉は、その得体の知れない迫力にコクコクと頷くしかない。

 そんな様子を見て満足した道哉はゆっくり手を離すと、眉をしかめてため息をついた。


「そもそもだな、そういった噂は見間違いとか誇張された話がほとんどだぞ」

「そうなんですか?」


 きょとん、とした表情で煉が首をかしげた。

 あたりまえだ。全く、誰がニンジャマスターだ失敬な。




「竜ってのは力の象徴だからな、使い魔の形にする奴は多い。けどそういった外見だけ取り繕った使い魔なぞ素手で十分なほどに弱い場合がほとんどだ。空間にヒビ?起点さえ見つければ徒手空拳だって結界は壊せる。その様子がそう見えたってだけだろう。一般的とは言えないが仙術を2年もやれば超限定的な状況下でなら高速移動が可能だし、他にも手段は多い。風術師や地力の低い術者にとって相手に見つからないようにするなんて基本だ。それに大量の妖魔なぞ足止めのための三下だろう。その程度さっさと倒せなかったら俺はここにいない」



「…………」

「…………」


 早口で語る道哉を煉と布団から顔を出せるまで回復した操が形容できない視線で見つめた。

 そして、煉が意を決したように口を開く。


「兄さま」

「なんだ」

「……それって実体験ですか?」

「そりゃそうだが、それがどうかしたか?」


 何でそんなことを聞くのか。と疑問顔の道哉に向けられるかわいそうな人を見るかのような視線。

 そういう種類の視線を向けられる心当たりがない彼としては、ただただ困惑するばかりである。


「心を落ち着けて聞いてください」


 重要なことを告げなければならない。例え兄のためにならないことでも!

 悲壮なまでの決意を込めて煉は宣言した。




「話を聞く限り……どう考えても兄さまが『ニンジャマスター』です」


「…………………………馬、鹿な」




 はぁ?とでも言いたげな顔をした道哉は、次に待てよ?と自分の話を思い返し、最後に愕然とした表情で瞳の焦点を消失させた。

 それなりに派手なことをやってきた自覚はあるが、いや、まさかそれは……。

 自身の行動に対して第三者視点と日本人→忍者というフィルターをかけ、尾ひれをつければ。






「それは俺じゃない」





 脳裏に浮かんだ結論を八つ裂きにすると、平坦な声で道哉が言った。

 その瞳に何を見たのか、煉と操は無言で視線をそらす。



 コホン。


「で、まぁ俺らしき強い術者の情報を手に入れたから協力を請いに来た、と。そういうことでいいのか?」

「……はい」


 思わず言いたくなった様々な言葉をやっとのことで呑みこむと、煉は短く肯定した。

 しかし彼の期待とは裏腹に、兄は考え込むように沈黙する。

 道哉ならば二つ返事で了承してくれると根拠なく思いこんでいた煉はその様子に目を見開いた。


「兄さま!」

「操、どう思う」

「……わかっていることは、綾乃様でも厳しいということだけでしょう」

 焦った様子の煉を無視して操に聞けば、遭遇時における自らの精神状態も加味した答えが返された。

 さらに操が続ける。


「主観ですが、あの妖魔は時代が時代ならば伝説になってもおかしくないほどです。場合によっては……負けることも」

「ですから、兄さま!」

「煉、覚えておけ。この世界で情などという根拠のないものを一番最初に使う奴ほど信用されないってことをな」


 血のつながった弟の懇願を一言で切り捨て、道哉は立ち上がった。

 そして迷うことなく出入り口へと歩き出す。


「どこに……!」

「外の空気を吸ってくるだけだ。すぐ戻る」


 混乱によりぐるぐると回る頭で、それでも道哉に追いすがろうとする煉をベッドの中から伸びた操の繊手が引き留める。

 うなだれる煉。

 それを無視するがごとく、無情にも扉は閉じられたのだった。















「流石一等地。いい地脈があって助かった」


 ふわり、と道哉は音もなくホテルの屋上に降り立った。

 ひとつ伸びをすると準備体操なんかをしつつ上空に意識を向ける。


「で、やるのか」


 彼の言葉と同時に、ホテルの結界に静電気のようながノイズが走る。

 その中心から芋虫のような何かが這い出してきた。

 ミシミシミシミシッ!!

 黒い風を纏って輪郭しかわからない。

 しかし道哉はこの暗闇の中、それが指であると見てとった。

 まるで布を引き裂くように簡単に、されど圧倒的な力をもって最高級の結界が無効化される。

 余計な壁が取り払われた時、彼は月を背に浮かぶ力の塊を見た。



 断続的に響く異音。

 結界が力を失った刹那、両者から放たれた6つの風の刃が互いを食らい合って消失する。

 しかし。


「おっと」


 転がるようにその場から道哉が跳んだ。

 油断なく体勢を立て直せば、視界の端にコンクリートに刻まれた3条の傷痕が映った。

___やはり地脈からある程度力を取り込んだとはいえ万全には程遠いか。

 ギシリ、と突き出された妖魔の腕から真っ黒な爪が伸びた。


 ここからが本番だ。

 そう言わんばかりに妖気を高ぶらせる相手の一挙手一投足を、道哉は全ての集中力を使って……


「そんなわけないだろうが」

「ぐぁ!!」
「ちぃ……!」


 結界が解けたホテルに入り込もうとしていた風牙衆を風の刃で切り捨てる。

 様々な防御が敷かれ霊的に安定したこのホテルにおいて、目の前の妖魔本体ならともかく妖気を含んだ風に守られた術者程度ならば簡単に見つけ出せた。


「さぁ、時間稼ぎは失敗だ。次はお前が直接来るか?」


 タネさえ分かっていればこの程度。

 問題は道哉がこの妖魔に殺される可能性があるというだけだろう。

 逃げる程度の体力は残すつもりでいるが、どう転ぶかは運次第。


「来ないなら、こっちから行くぞ」


 出し惜しみなどする気は一切無い。

 道哉は今出せる全力をもって膨大な数の精霊を召喚し始めた。

 しかし一方の妖魔は唐突にその妖気を薄れさせる。

 瞬間、あっけなく夜空にその姿を消した。

 ご丁寧にも妖魔の風に相殺され、殺しきれなかった風牙衆まで回収していったらしい。


「さて、次はどう出る」


 大騒ぎになっている従業員たちの気配を感じながら、道哉は屋上を後にしたのだった。









 翌日。




 あの後、部屋に帰った瞬間に迫ってきた煉を「眠い」の一言で黙らせ、3人川の字になって寝た道哉は携帯の着信音で目を覚ました。


 登録されているアドレスではない。

 睡眠が足りないと愚痴を言う脳味噌を黙らせると、乱暴な手つきで通話ボタンを押す。


「もしもし」

『ようやく繋がったか!』

「あぁ……宗主ですか」


 気心の知れた相手だからか、彼は回転の遅い思考のままに応答した。


『今回の事件の犯人を知らせておこうかと思ってな。そちらは無事か?』

「ええ、昨日襲われましたが……」


 宗主の声の調子に違和感を感じるものの、睡魔がその思考を許さない。


『ならば安心だ。道哉、今すぐお前を雇いたい』

「応相談ってやつですね……午後には行きますよ」


 やけに落ち着きのない宗主に、どこかゆるい雰囲気をした道哉。



『それでは遅い!!』



 大喝が彼の脳に突き刺さる。……起きがけにこれは辛い。

 脳を揺らす大声にうめきながらも、道哉はのそのそと身を起こした。


「一体何があったんですか」

『今回の主犯は風牙衆だ。昔我らが幕府の勅令で討伐し、力の源の神を封じて取り込んだのだが』


 まくしたてるように早口で話す宗主。

 概要を把握している道哉でなければ理解が追いつかないだろうに。


「それがどうかしたんですか」

『綾乃がさらわれたのだ!!!!』




「…………は?」








『既に妖魔は和麻が倒した、神の封印である三昧真火の破壊も許可してある!!!』



「はぁ!?」








『頼む、いくらでも払うから綾乃を探し出してれ!!!!』



「はああああああああああああああああああああああああああああああ!?!?!?!?!?!!?!?!」







 その宗主に負けないほどの大声に、操と煉がベッドから転がり落ちた。









 あとがき

 別に連続更新は構わんが、さらに続きを書いてしまってもかまわんのだろう?




3/17 初稿&修正 指摘に感謝




[9101] 第29話
Name: 酒好き27号◆3e94cc3d ID:17f35bae
Date: 2010/03/18 17:31


 道哉が去った夜の公園。

 そのベンチに二人の男女が腰をおろしていた。

 一人は神凪最強の男。

 もう一人は神凪時期宗主。

 いかつい中年と可憐な女子高生という組み合わせは、その外見からも職務質問を受けそうな程に違和感がある。

 しかし、彼らにとって互いが気まずい間柄と言うわけではない。

 むしろ炎術の修練においてある程度『まとも』な相手として成り立つ人物が少ないため、実戦形式の場ではよく炎をぶつけ合い、闘い方について議論を交わしていた。

 綾乃にとって大神雅人が『気安いおじさん』ならば、厳馬は『尊敬すべき年長者』とでも言うべきか。


 先ほど「帰るぞ」と綾乃に言った厳馬だったが、ふらついたところを綾乃に支えられるという失態を犯し一時の休憩をとることになっていた。

 夜11時をまわり、周囲に静寂が満ちても遠くに見える街の明かりは美しかった。

 うつむいて表情が見えない綾乃と対照的に、厳馬は深く椅子に腰かけてその光を眺めていた。


 長時間続く沈黙。


 それでも、二人にとってそれは苦痛ではなかった。


「綾乃」


 ためらうように、厳馬が切り出した。


「……はい」

「道哉も、お前も、あの日からまるで変わっていない」


 彼は冷徹に断言する。

 それは道哉に負けた彼が言うべき台詞ではなかったのかもしれない。

 それとも、負けたからこそ出る言葉だったのだろうか。


「だが道哉は一歩進んだ。お前は進めなかった。それだけの違いだ」


 その言葉は綾乃を叱責するような内容ではあったが、彼女はそれに傷つくわけでもなくむしろ笑みすらこぼした。

 厳馬に似合わないその声の柔らかさに、彼女に向けたもの以外の感情を感じ取る。





「親馬鹿ですね、おじさま」

「……何を馬鹿な」




 クスクスと笑いだした綾乃に、厳馬が憮然とした表情で反論する。

 一通り笑い終わって顔を上げた彼女は、先ほどよりかは幾分かマシな表情をしていた。


「やっぱり、道哉さんとあの日の決着をつけないと……私は前に進めない」


 今にも泣きそうな顔でそう言う綾乃に、厳馬は何も言わなかった。

 究極的に言えばこれは綾乃の自己満足である。

 だからこそ、他者が介在する余地は無いと考えたのだろう。


「帰るぞ、綾乃」

「はい、厳馬叔父様」


 迎えの人影を認め、彼らは立ち上がる。

 もてあましていた感情を自覚し、決意を新たにした綾乃。

 息子の成長を認めた厳馬。

 激動の事件。そのなかにおいて、彼らの胸中には穏やかな風が吹いたのだった。










 東の空が青い。もう半刻もすれば太陽が顔を出すだろう。

 封印の地京都。

 その山奥、木々という遮蔽物の少ない場所で二人の男が陣取っている。 


「来る」

「わかるのか」


 風の精霊と同調しているのだろう、どこか茫洋とした目をした流也が緊張に満ちた声を上げた。

 気配を察知するのが苦手な炎術師たる和麻にはわからないが、その声は確信に満ちている。

 煙草の煙をくゆらせながら、和麻は半分地面に埋まっている岩から立ち上がった。

 ズボンのすそを両手で払うとゴキリッと首の骨を鳴らす。


「妹の気配だ。死んでも忘れないよ」


 その言葉に何を思うのか、和麻は何も言うことなくゆっくりと気を高ぶらせていく。


「狙いは俺だろう。流也、お前は逃げろ」

「何故!あれほどの風術師が不意打ちを仕掛けたら炎術師に防げる道理はない!」


 わざと神凪を単身で離れ封印の地に向かい、狙ってきた妖魔を仕留める。

 そんな命知らずな計画を立てた友の決意に共感したからこそ自分はここにいるというのに。

 自分の命をかけてサポートする気でいた流也は和麻の言葉に色を失う。


「あいつにとって俺は格下だ。不意打ちなんてあり得ない」


 妖魔はときにずる賢い。

 それは弱いからであり、退魔の者を退けて人間を食らうことにすら難儀し、正面から力持つ人間に挑むことができないからである。

 人間の絶望を至上の喜び、餌とするものが多いということも確かではあるが、あれは違うと断言してもいい。

 あれほどの存在規模を維持するためには、たかが数人の負の感情程度では何の足しにもならないからである。

 さらに言えば、格上に妖魔になればなるほど賢くはあっても不意打ち等を純粋に勝利のために使用することは少なくなっていく。

 そもそもの力として上級妖魔が人間に負けることなどあり得ないからだ。


 そして、和麻には奇妙な確信があった。

 あの妖魔は真正面から自分を打ち砕くために自分の元を訪れると。


 その根拠のない自信に、流也はため息をひとつ吐くと目を合わせ言った。


「僕のサポートはいらないんだね?」

「そうだ」

「僕を守りきることができないって?」

「そうだ」

「僕がいると、本気が出せない?」


「……そうだ」

 わかった。



 そうして、流也は何の未練もないかのように身をひるがえした。


「そうそう、どれくらい離れればいい?」

「あの化け物だ。余裕を見て20kmは離れておいた方がいい」


 真面目な顔をしてそんなことを言う友人に、流也は思わずといった風に噴き出した。

 今から20km離れるとなると、下手をしたらその前に勝負が終わってもおかしくない。

 背後から一撃をもらう可能性もある。


「ずいぶんと厳しいけど命は惜しい。やってみようかな」

「ああ、幸運を祈る」


 それはこっちの台詞だと笑い、流也は風に乗って舞い上がる。

 そして、妖魔を感じ取る方向とは逆に全速力で離脱を始めた。

 振り向けば既に米粒大になったにもかかわらず、とても雄大に見える男の背中があった。






 






 彼には才能がなかった。

 炎術師なら持っていて当然の才能、それが決定的に欠けていた。


「姿も見せず、さんざんやってくれたな」


 対峙するは暴風の化身。地獄の底から湧き出した正真正銘の化け物。

 わざわざ姿を見せたのは何のためか。

 風術師ならば炎術師に気取られることなく一瞬で首を落とすことも不可能ではないはずなのに。

 もちろん神凪の宗家が常日頃から纏う火の精霊たちは、風牙衆の通常戦闘員程度の攻撃ならば例え不意打ちであろうと突破することはできない。

 純粋に精霊を扱う精霊術師同士の場合、相当に実力が離れているのでもなければ攻撃の意思を伴った精霊を感知することが可能であるためだ。

 感知した瞬間に周囲を漂う精霊に意識を向けるだけで、放たれた風の刃は一瞬にして燃え尽きるだろう。


 だが、こいつは格が違う。


「全力で行く。油断するなよ?」


 神凪の術者が殺され、自身を上回るかもしれない相手とたった一人相対してもなお、和麻の胸の内には戦いへの期待感があふれていた。

 山の麓にある広大な土地で、普段は決して出せぬ全力をぶつけ合う。




 流也はとっくの昔に5km以上は離れただろう。


 ならば、遠慮することはない。






 肉食獣が舌なめずりするかのような獰猛な笑みを浮かべて、和麻が炎を召喚した。



___≪覇炎降魔衝≫




 瞬間。

 和麻の手のひらに生じたライターほどの火が、周囲を飲みこんで荒れ狂った。

 それは妖魔すらその裡に取り込み、それでもなお止まらず広がってゆく。

 ようやくその広がりが停止したとき、その大きさは半径にしておよそ2kmにまで達していた。

 かすかに金色に染まった炎が、巨大なドーム状となり空間を飲み込む。


 無音の咆哮とともに、妖魔が風の結界に力を注いだ。


 もう一度言おう。彼には才能がなかった。

 黄金の炎にたどり着いて、しばらく後に判明した欠陥。

 その並はずれた炎術の適性によって、一定以上の力の行使に彼の制御能力が追いつかない。

 ゆえに精霊との感応は際限なく広がり、彼を起点に莫大な土地を薙ぎ払う。

 幾重にも耐火の紋が刻まれ、内と外を隔てる結界があり、なおかつ火の精霊の扱いに長けた神炎使いが二人もいる神凪の屋敷でなければ大変なことになっていただろう。


 強者を相手にするには収束が足りない。

 弱者を相手にするには制御が足りない。


 黄金の炎の行使こそ最近になって無意識レベルまで上昇したが、雑魚の思わぬ反撃に家一つを灰にしたこともある。





 そう、彼には『収束』という才能が決定的なまでに欠けていた。







「油断するなって言っただろうが!!」

 狂った風で浄化の炎を相殺しつつ、緩やかに火の海から離脱しようとする妖魔は『空中に炎で足場を作った』和麻のかかと落としで地面にたたき落とされた。

 風術師ならともかく、召喚速度の遅い炎術では足場を作るだけで時間がかかる。

 だがここにはもともと莫大な数の精霊がそれこそ風の精霊以上に存在している。

 ただ意思を伝えるだけで、彼らは思う通りに力を貸してくれた。


「手加減などするな、油断などしてくれるな!次の標的でもなく、神凪の滅亡でもなく、今この瞬間の俺を殺しに来い!!」


 炎の本質が怒り?

 ああ、それも一つの解釈だろう。

 だがこの体の奥底で燃え上がるこれはなんだろう。

 心臓から噴き出し、筋肉を燃やし、脳髄を焼き尽くすこの感情は何だろう。

 炎の領域がさらに広がり、すぐさま収束の意思に従ってその範囲を狭めてゆく。

 密度と温度は中途半端な妖魔など魂ごと焼きつくすほどに上昇する。



 情報屋は言った。


『情報が錯綜している。だが、彼は文句なしに世界最強の風術師だよ』


 自分には適性があっても才能がない。

 厳馬には敵わない。

 炎雷覇を持った綾乃にも敵わない。

 いつか、煉にすら負ける日が来るだろう。


 『全力が出せない』


 それが負け惜しみ以外の何であると言うのか。


 それでも、全力を出さぬ訓練や戦いにおいて着々と地力を伸ばしていく和麻はまさに神凪の宗家にふさわしい。

 周囲の被害を気にしなくて良い環境。父ですら負けるかもしれない相手。


___道哉と同じ、最高の風使い。


 自身が継承の儀に参加しなかったことで、どれだけ道哉は怒っただろう。

 その弟がこの程度で、どの面下げて兄に会えるというのか。


 自分をどうやって誇れるというのか!



「それで俺とお前は対等だ!!」



 内に秘めた激情が、自制心を突き破って吐き出された。

 それは、必ずしも目の前の妖魔にあてた台詞ではなかったのかもしれない。

 それでも目の前の妖魔はそれに応える。



 オォォォオォォオオォォォォォォ!!!!


 人間の声帯では成し得ない咆哮。

 妖魔の周囲を巡る黒い妖気が力を増し、浄化の炎を押し返して猛り狂う。



 風と炎の力関係。

___収束の差を補うエネルギー量が発現する。


 妖魔と浄化の炎という摂理。

___歪みに対して圧倒的な優位に立つ力は彼の血に刻まれていた。


 精霊を狂わせてから力とする相手と、既に召喚した莫大な火の精霊に命じるだけでよい和麻。

___浄化の炎が満ちるこの空間において、妖魔の妖気の大部分は風の精霊を狂わせる前に相殺された。


 この瞬間、火は風の速度を上回り、神凪で唯一確実にこの妖魔を倒すに足る存在が顕現した。



 風を使う妖魔の天敵。

 炎には足りず、火としてはあまりにも鮮烈。

 ポテンシャルは神炎に匹敵し、一部では上回りながらもその頂には至れぬ神凪の異端児。

 それは紫炎でもなく、蒼炎でもなく、炎の名を与えられなかった出来そこない。


 容赦なく周囲を薙ぎ払う暴虐の炎術師。 

 『烈火』の和麻。


 神凪において神炎使いのみが名乗ることのできる二つ名を例外的に許された唯一の男。

 壮絶な親子喧嘩の果てに発現した力が、ついに妖魔に牙を剥いた。

 父しか知らない全力。

 誰も実態を見たことのない二つ名の意味を、今ここで世界に刻みつけよう。


「来やがれ三下。てめぇを倒して俺は進む」


 いつになく乱暴な口調と獰猛な笑み。

 神凪の誰もが苦戦するであろう強大な風術師との戦いを、ただの殴り合いへと引きずりおろして彼は疾走する、





 溢れんばかりの気を発しながら、次の瞬間には周囲の精霊を握りしめ、炎を纏った和麻の拳が妖魔の顔面にめり込んでいた。







 あとがき

 まだだ!まだ終わらんよ!!







[9101] 第30話
Name: 酒好き27号◆3e94cc3d ID:17f35bae
Date: 2010/03/22 23:46


「お迎えにあがりました」

「状況に何か変化はあったか」


 公園付近に車を停止させ、丁寧に礼をした風牙衆に厳馬は開口一番で状況を確認した。

 その問いに無言で首を振る男。

 軽く眉をしかめ、彼らは車に乗り込んだ。

 発車の準備を整えながら男が言う。


「病院へ向かいますが、よろしいですね?」

「不要だ」

「……叔父様」


 相変わらずの厳馬の頑固さに綾乃が心配するような声を出した。


「いつ襲われるかわからん屋敷の方が心配だ」

「私には厳馬様の方が心配ですが。……その左手、折れてるでしょう?」

「本当!?」


 その言葉に綾乃が目を見張った。

 即座に起き上ってからの厳馬の行動を脳内で再生する。


「確かに……ほとんど動かしてな、い?」


 座るときや起き上る時は右腕を主に使い、歩く時は堂々と、効き腕なんだから普通に右手で車のドアを開け……。

 綾乃悩む。普通だ、いたって普通だ。


「骨の固定は専門家に任せた方がよろしいでしょう。一応レントゲンも撮っていただいて、処置が終われば即座に屋敷へ」

「……いいだろう」


 自分の記憶に悩む綾乃をよそに話が進んでいく。

 話題に置き去りにされた綾乃は、こっそりと厳馬の左腕に手を伸ばした。


「……叔父様、こんな状態で戻ろうとしてたの?」


 強靭な意志力を無駄に使い、綾乃が触れた時ですら反応しなかったその左腕はゆったりとしたスーツのおかげでわかりにくいが、普段の2倍近くまで膨れ上がっていた。

 ひんやりとした綾乃の手に骨折特有の発熱が伝わった。


「綾乃様もそれでよろしいですか?」

「そうね、こんな状態の叔父様一人だったら不安だし。私も行くわ」


 自分の何倍も強い厳馬を心配するなどおこがましいにもほどがある。

 そう思う面が無いわけではなかったが一度遭遇した妖魔の記憶が彼女を後押しした。

 個別に撃破などされないよう、少しでも固まっているべきだろう。

 明かりが少なくなった住宅街を、一見そうとは見えない高級車がひた走る。

 それっきり会話は絶え、15分少々で神凪御用達の病院に到着した。


「既に手配は済ませてあります。私は他の者と周囲の警戒にまわりますので、何かあれば付近の術者にお申し付けください」

「あ、待って!」


 受付を示し、一礼してこの場を去ろうとする彼を綾乃が引き留めた。

 一方厳馬はと言えば、軽くうなづきさっさと行ってしまったが。


「どうかなさいましたか?」

「雅人叔父さまも……ここに?」


 本当にいろいろなことがありすぎて、彼女の頭からはすっかりとそのことが抜け落ちていた。

 薄情なことだ、と自分でも思う。

 そんな感情からか普段より低めの声で出された質問は、相手の一瞬の空白にその不安を増した。


「はい、確かに大神雅人様はこの病院に入院なさっております」

「じゃあ!」

「ですが今は集中治療室にいらっしゃいますので、残念ながら面会謝絶ということに……」

「そう……」


 意気消沈したような綾乃に、風牙衆の男は考えるような表情を見せた。

 実直そうな顔が何か思いついたかのように緩む。

 それと同時に綾乃にもわかるようなハッキリとした風術の気配。


「少々お待ちください、確認をとってみますので」


 木霊法を使っているのだろう、綾乃に対して「今話し中です」とでも言わんばかりに風の精霊が流れる気配がした。

 話が終わったのか男が綾乃に目を向ける。


「親類である綾乃様になら、ガラス越しでよろしければ様子を見る程度は可能だそうです」


 風牙衆のその言葉に、綾乃の表情が輝いた。

 苦笑する男に迫るように案内を要求するのだった。


「それで、叔父さまの容体はどうなってるの?」

「詳しいことは私にも……ですが峠は越したようです」

「そう、よかった……」


 その言葉に綾乃は大きく息を吐いた。

 少々感情的な面がある綾乃に配慮してか、殊更にゆっくりと先導する男に軽くイライラする綾乃。

 しかし、そんな自分を自覚した彼女は道哉に対する行動の数々を思い出し自分を叱咤した。


「……落ち着かれましたか?」

「ええ、ごめんなさい」


 申し訳なさそうな声色で男が言った。

 時期宗主として、風牙衆にまでそのようなことを言わせてしまった自分を綾乃は恥じる。

 いくら激しい感情との相性がいい炎術師とはいえ、冷静さを欠いたまま勝てるとは思えないほどに強大な相手。

 傷心であることも相まってか、驚くほど素直に綾乃は謝罪の言葉を口にした。


「叔父さま……」


 到着した病室の外、様子を見るためにあつらえられた部屋からガラス越しに見る雅人は、綾乃にとって意外なほど小さく映った。

 未だ予断を許さない状況なのだろう、看護士がベッド近くで輸血のパックを手に取っている。

 立ちつくしたまま、まるで時が止まったかのようにその様子を眺め続ける綾乃を案内した男が呼んだ。


「既に深夜の12時を過ぎております。我々が警護しておりますので、例え15分ほどでも仮眠をとられた方がよろしいかと」

「……ねぇ」

「はい?」


 どこか途方に暮れたように、綾乃が口を開いた。


「どうしたら、いいのかな」

「…………」


 抽象的な問いかけ。

 それでも風牙衆はその言葉の意味を十分に把握していた。

 しかし彼の職務、力量、関係が直接的な返答を許さない。

 沈黙を保つ40代中ほどに見える男に、綾乃は切り替えるように頭を振った。


「ごめんなさい。あなたに聞くことじゃなかったわよね」

「これは経験談ですが」


 普段の彼女からかけ離れた言動にしばし戸惑いを見せていた男だったが、まるで独り言を言うかのように彼女から視線を外して口を開いた。


「人は、主観を排することなど不可能です。誰もが自分と言うフィルターを通して世界を見ている」


 抽象的な話だ。

 実利を好む綾乃にしてみれば、普段聞けば即座に切り捨てるであろう言葉だったがこのときに限ってそれは彼女の心に響く。


「私たちは精霊術師です。歪みや外道との戦いが多くなるにつれ、殺伐とした日々の中で『何か』を忘れてしまうということはよくあることです」

「『何か』映さなくなった主観。それは情であったり、道徳と呼ばれるものだったり、時には家族という存在をも忘れてしまう。そしてそれが客観であるなどと錯覚してしまうのです」

「神凪ほどの出力を持つ術者は世界的に見てもごく少数でしょう。その他多数に含まれる私たちは、だからこそ妖魔すら欺いて情報をもぎ取り、奸智に長けた犯罪者すら罠にはめる」


 今は神凪の補佐ばかりになりましたが。と男は苦笑を洩らした。

 物心ついたときから風牙衆が傍にいた彼女にとってかすかな違和感。

 それを無視するように話は続く。


「圧倒的な火力で妖魔を滅するその力。神凪の皆様も本質的には同じでしょう。こんな言葉をご存知でしょうか?___怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ、と」


 その言葉が彼女に突き刺さった。

 自らの行動を振り返る。

 法治国家。治安のよい国、日本。

 この土地において異端者と一般人の境に立つ者。

 『人たることを忘れずに大切なものを守れ』その誓いの意味を彼女は改めて考える。


「もしかしたら、それが大昔の我らの敗北の原因なのかもしれません」


 その言葉を聞きながら、綾乃の中の違和感が急速に膨れ上がる。

 この男は、何について語っている?


「綾乃様はまだお若い。悩み、迷い、それでも前に進もうとする行為は何よりも貴いものだと私は思っていますよ」


 その柔和な表情と穏やかな声が、まるでエコーでもかかったように綾乃に響く。

 否、これは精神的なものではない!


「あん、た……!」


 とっさに炎雷覇を引き抜いたものの、綾乃の体は既に彼女の制御を離れていた。

 足が力を失い、ゆっくりと膝が床に落ちる。

 周囲を漂うどこか甘い匂い。

 全力で目の前の術者に意識を向ければ、男の周囲を漂う緩やかで清浄な空気の流れを感じ取った。


「私たちは本当ならば他の手段を選ぶことができた。『これ』を選んだのは私たちの罪でしょう」


 綾乃の頭に重くのしかかる圧倒的な睡魔が精霊魔術を使うための集中を許さない。

 病院の床に突き刺した炎雷覇に体重を預けるようズルズルと倒れゆく綾乃を、男は静かな目で見ていた。

 綾乃の中で今までの風牙衆の行動が繋がっていく。

 すぐに帰ろうとする厳馬を引き留めた男。こっそりと厳馬の行き先を教えてくれた青年。無理をしてまでこの密室に綾乃を連れてきたその理由。


「深淵を覗き、深淵に魅入られた私たちは既に怪物になり果てた。それでも私たちは戦うと決めたのです」


 そして綾乃が完全に意識を失う寸前。


「貴女もいずれ覚悟を決める日がやってくる。願わくば、自らの意思で後悔のない選択をなさいますよう……」




 その、死すら覚悟した声を聞いた。












「……倒された、か」


 この日のために以前から準備をしてきた場所で、兵衛は静かに目を閉じていた。

 都心から少々離れた林の中。

 めったに人は奥まで入ってくることはなく、彼らは結界すら張っていない。


「できることならば、このまま計画通りにと思っておりましたが」


 そばに控える着物を来た老人がどこか悔やむように首を振った。

 この場所にいるのは兵衛を除いてたった6人。それも60歳に満たぬものは存在していない。

 既に全盛期の力を失って久しい術者たちではあったが、その眼は歴戦の兵とも言える強靭な光を放っていた。


「我らは犠牲なくして進むことはできん……覚悟は、していたことだ」


 兵衛の体が細かく震える。

 それは、制御しきれない感情を押しとどめようとするかの如く、自らの体を抱いて爪を立てた。

 ギリギリと噛みしめられた奥歯が周囲に耳障りな音を放つ。


「長、儀式の準備、つつがなく完了致しました。加えて三昧真火の消失が確認されたとの報告が」

「わかった。各々、準備はよろしいか」


 背景から滲みだすように現れた若い術者の報告を聞くと、兵衛はゆるりと力を抜いて問いかけた。

 一人一人に目を合わせ、睥睨するかのごとく周囲を見渡す。

 圧力さえ感じさせるその視線に対して、既に若者にとってみれば老人と言える年齢になった術者たちは皆一様に笑みを浮かべて頷いた。


「準備など遠の昔にできていまするぞ、長よ」

「いやいや、全くだ。今更そのようなことを言われてもなぁ」

「怖気づいたか?兵衛。我らはお主に命を託した、感傷なぞ似合わぬぞ」


 その姿を見て、兵衛は思わず口に出してしまいそうになった謝罪の言葉を全力で押しとどめた。

 この場での謝罪など、何にも勝る侮辱でしかない。

 強靭な精神力で、今にも歪んでしまいそうな顔を不敵な笑みに変える。



「では参ろうか、我ら風牙の未来のために」



 彼らの年齢を感じさせない力強い歩み。

 木々が途切れ、広場のようになった場所で綾乃は丁寧に寝かされていた。

 そして彼女を中心とし六芒星の陣が敷かれ、神凪の至宝である炎雷覇を抱くように握らされた様子は、さながら殉教者のようでもあった。

 陣の頂点に術者がひとり、またひとりと並んでゆく。


「御武運を」


 準備を整えていた年若い術者たちが一斉に頭を下げ、四方へと散って行った。

 今までは個々の隠密能力の高さを利用し逆に結界を張らないことで隠蔽工作としていたが、儀式が始まってしまえばそのようなことは言っていられない。

 さらに言うならば、これ以上は彼らにとって危険な領域と化す。

 結界の起動を確認し、兵衛は朗々と声を上げた。


「これより、我らは300年の時を取り戻す」


 ほんの少しだけ陣から離れた場所で兵衛が力を練り上げた。

 風の精霊が集い、綾乃の真上に集ってゆく。


「我ら世界の調律者。自由を体現する風牙の一族」


 6人の術者たちがそれに合わせ、さらなる力を練り上げた。


「我らが神の解放により、我らは誇りを取り戻さん!」


 瞬間、熟練の術者が7人がかりで制御した強力な風の刃が一直線に綾乃の持つ炎雷覇に振り下ろされた。


「ああっ!!」


 まるで鉄塊をぶち当てられたかのような衝撃に綾乃は無意識ながらも声を上げた。

 と、同時に吹きあがる黄金の炎。

 生存本能か炎雷覇の意思か、制御もされない炎は周囲を食らいつくさんばかりに荒れ狂った。


「ではゆくぞ!」

『応っ!』


 兵衛を除く6人が、そのなかの一番の年長者の掛け声に従って力を解き放つ。



 ごおぉぉぉおおおおおおおおぉおおおおおおおおお!!!!!



 空気を圧するような恐ろしいまでに重苦しく荒々しい音が空間を軋ませた。

 それはまさしくファイヤーストーム。

 陣の六点から円を描くように吹きつける風が炎とともにお互いを高め合ってゆく。

 細身ながらもまばゆいばかりの光を放つ炎の竜巻が、今にも術者の手を離れんばかりに産声を上げた。



 本来ならば6人がかりですら制御が不可能であるはずの炎雷覇の炎は、入念に準備された術により危ういながらも見事に制御されていた。



 だが、その代償は。


「…………さぁ、これが最後の仕上げぞ」


 6人の術者全員が血を吐き、目を血走らせ、命を削って風を起こす。

 送り込まれる風は勢いを増し、天高くそびえていた竜巻は急速に圧縮されてゆく。

 1人が倒れ、2人が倒れ、それでも彼らは術を行使し続ける。


「風牙の…子らにっ……栄光と、繁栄を」

「後は頼んだぞ、兵衛」


 術者全員の命を飲みこんで、彼らの風がうなりを上げた。

 その意思は全員が死してもなお留まるところを知らず、暴れ馬のような炎とともにその力を純粋なものと変えていく。

 それは未だ陣の内側に固定されているものの、その余波だけで術者の死体を全て灰も残さずこの世から消滅させるほどだった。


「風牙の意志、確かに受け取り申した」


 兵衛は偉大なる先達に深々と頭を下げる。

 未だ術が成功したのかすら判別はできない。だが、失敗などあり得ぬことを彼は確信していた。

 頭を上げ、堂々と仁王立ちして、彼は馬鹿らしいまでの力の塊に向けその力を解き放つ。


 風と炎は正しく拮抗している。

 ならば、それを崩すのは自分に他ならない!


「神凪よ、我ら風牙の魂を舐めるなぁぁぁ!!!!」


 目の前で脈動する力の塊に比べれば、悲しいほど小さな風。

 だがそれは6つの風と感応し、爆発的に力を高め合ってうなりを上げる。




「世界よ見るがいい。我らの意地を!我らの怒りを!我らの誇りを!」




 炎雷覇は神器である。

 つまりそれは精霊と対等である術者とは違い、ある程度精霊に対する上位権限を有していることに他ならない。

 ならばこそ召喚された炎はより純粋なものであると考えるのが正しいだろう。

 そして風によってあおられた炎は、より深くより純粋にその力を高めていく。

 束ねるのではない、押し固めるのでもない。



 それは、精製であった。





___ドクン






 スイッチが切り替わるかのように、歯車が噛み合うかのように明確に『それ』はやってきた。

 黄金だったはずの炎がゆっくりとその色を失っていく。


 遠く離れた京都から繋がる、とてつもなく細い地脈の流れ。

 そこから情報を写し取ることで本来ならばあり得ない現象を一時的にこの世に導き出す。

 純粋なるもの。それが世界から消えた瞬間にだけ行使できる虚飾の儀式。


「さぁ、今こそ……顕現せよ」


 息も絶え絶えになりながら兵衛が眼前の光景を睨みつけた。

 金はとても深い朱色にその色を変え、『浄化』などという不純物はまるで元から無かったかのように消えてしまった。

 風は完全に炎に取り込まれ役目を終える。

 炎の巫女を飲みこむように、完全に安定した炎がまばゆいばかりに揺らめいた。









「神の牢獄、三昧真火よ!!」












 あとがき

 これで今月の更新は終わった、と思っていたのか?
 いやはや、自分でプレッシャーをかけるのはよくないですね。
 というわけで未だかつてない短期更新に疲労困憊の作者です。
 これからはさすがに更新速度が落ちますが、気長にお待ちください。
 では、皆様の指摘感想等をお待ちしております。

 おまけ
 
 風の聖痕キャラ診断なるものをやってみました。
 一応本名を使ってやってみたのですが、上位2名の結果はこちら。
 1位 久遠七瀬……(相性:89 %(俺の嫁))
 2位 篠宮由香里…… (相性:82 %(俺の嫁))
 ……どういうことだ。もしやさっさと出せという神のお告げでしょうか?
 で、一番笑ったのがこれ
 6位 神凪煉……(相性:2 %(宿命のライバル))
 小学生のライバル……だと……。作者、まさかのショタ疑惑。






[9101] 第31話
Name: 酒好き27号◆3e94cc3d ID:17f35bae
Date: 2010/04/22 00:07


「あっはっはっはっはっはーー!!!!もう知らん!もう何が起こっても俺は驚かんぞ!!!!」

「兄さま!正気に戻ってくださいぃぃいいぃいぃぃいい!!!!」


 何も視界を遮るものがない空の上で、煉の悲痛な声が響いた。


「もう事件なんて終わったようなもんじゃねーか!俺の出番はなしか!?かっこいい登場シーンと見せ場とシニカルな笑みはどうした俺!!」

「うわああああああああああああああ!!!!!!!」


 完全に壊れた笑みを浮かべながら彼らは文字通りまっさかさまに落下している最中だった。

 結界のおかげか雲を突き抜けようが高速で落下しようが全く問題は無い。

 しかし「それでは面白くない」という道哉の無駄なこだわりによって微妙に感じられる風と悲鳴を上げる三半規管が煉の恐怖をあおっていた。


 どうしてこのような状況になっているのか?


 それは一行がホテルを出るまでさかのぼる。

 宗主からの電話の後、一行はすぐさまホテルから出ると結界を張って一気に上空へと飛びあがった。

 ある程度の高さまで上昇したら、おおよその方向に検討をつけ今度は滑り台にでも乗るように風に乗って斜めにすべりおちていた。

 イメージで言うならばホテル、その上空、神凪家、の三点で作った直角三角形。

 その程度ならば特に恐れることもないのではないか。否。

 いくら公園の遊具に近いと言ってもその規模が異なれば必然的に中身すらも別物に変わる。

 高さ成層圏。長さ東京横浜近郊間。速度新幹線以上。

 煉の絶叫も仕方がないと言えるだろう。


「うぅ~~……操さんはよく平気ですね……って気絶してる!?操さん!操さ~~ん!!?」


 まるで墜落する飛行機にでも乗っているかのような迫力に各々の反応を見せる彼らを全く気にせず、道哉は風とともに空を駆ける。

 高速で飛行するだけならばこのようなことにはならないのかもしれない。

 しかし3人分の体重を長距離にわたって運ぶということは実際かなり負担が大きい作業である。

 敵に捕捉されにくく、速さが重視され、消費する力が比較的少ない。

 この点を満たす方法がこの荒っぽい移動方法であった。

 これならばある程度の移動エネルギーを重力で補うことができる。


 消耗を気にする道哉。

 妖魔が倒されて終わりではないと、彼の第六感が囁いた。


「綾乃と炎雷覇を人質にして団体交渉権か、それとも国外逃亡か、洗脳して敵対か?!ああもう、あの小娘は面倒事ばっかり持ってきやがって……!」


 ここぞとばかりにストレスをぶちまける道哉だったが、幸いにも煉と操はそれを聞きとる余裕がなかった。

 思いつくままに罵詈雑言を垂れ流す彼も、綾乃にあまり責任は無いことだけは理解している。

 戦力の分断、情報戦、完璧に敵対心を隠し通し、ついには途方もない戦力差がある綾乃さえも手に納めた風牙衆こそをたたえるべきだろう。



 そのようなことを考えながら大地よりはるか上空で見降ろす世界。

 風の精霊たちが道哉の周囲を舞い踊る。

 朝日に照らされ、穏やかなまどろみより動き出した街の息吹が感じられた。

 両腕に感じられる温かみも今は遠く。

 空白の画用紙に落とされた一点のインクのごとく、彼は無限の風に囲まれながら安堵と不安という相反する感情を抱えていた。


「……さて、どうなることか」


 これは自分で選びとった道、その選択の感傷に過ぎない。

 ふと冷めた表情をした道哉が、鼻を鳴らして湧きあがる泉のような淡い心の動きを吹き飛ばす。


 空は快晴。

 光があふれ、活気に満ちた世界が何故か心に染みた。


「まあいい。立ちふさがるものは全部ぶっ飛ばす、それくらいやらなくて何が主人公か……!」


 普段ならば絶対、それこそ死んでも使わない表現とともに彼は莫大な力を練り上げた。

 高速に歪む視界の中、神凪の屋敷を補足する。



「さあ目を見開け、その脳味噌に刻みつけろ、神凪の面汚しが帰ってきたぞ_____!!」


「何やってるんですかーーーーーーーー!?!?!?」



 まるで阿呆のような高笑いと共に、厳馬との戦いから完全に回復した風の刃が神凪の総力をかけて張られた結界に振り下ろされた。

 無形の爆発が空間を震わせて走る。

 物理を伴わない衝撃が響き、刃と盾がお互いを喰らわんと力を増した。

 屋敷がにわかに騒がしさを帯びる。

 100を超える層があり、堅牢な守備を誇るはずの結界はその一撃でほぼ全てが無効化されていた。

 妖魔が倒されたからか既にある程度緩和されているそれは道哉にとって力不足にもほどがある。


「流石神凪」


 それでも未だ完全には破られていない。炎の加護、つまり屋敷内の術者数によって強度が変化するという炎結界の本領発揮だった。

 建造物を傷つけないようにと多少手加減があったことも理由の一つではある。


「に、兄さま……?」


 くつくつと不気味に笑いだした道哉に、煉がかなり引いた声を出した。

 そして瞠目。

 先ほどの攻撃よりもさらに大きな力が、倍以上の精霊たちか道哉に引き寄せられ鋭利に研ぎ澄まされていく。


「兄さま!そういう誤解を受けそうなことは……」

「逝くぞ煉!しっかりつかまってろよ!!!!」

「なあああああああああああああああ!!!!!!!!!!」


 それはまさに風の砲弾。

 威力を上げるためか、それとも煉で遊ぶためか、まるで銃弾のように螺旋状の回転が加わった。

 ご丁寧にも頭から揺らぐ結界にぶち当たる。


 パンッ


 そんな軽い音がした。

 純粋な破壊力というものはその力を分散させることは無い。

 結界という壁を壊すのではなく、その圧倒的な力で『貫く』その技巧は炎術での対象限定にも似ていた。


「放て!!」


 爆音。

 四方八方から炎が走った。

 それは一直線に、まるで図ったようなタイミングで道哉へと襲いかかる。


「ぐぁっ!!」

「馬鹿な……!」


 結界を突き破ってきた侵入者を囲んで放たれたはずの炎は一つとして対象に当たらず、反対側にいる味方に直撃した。

 元来耐火力が桁外れの神凪である。

 ある程度のダメージこそあるものの、体の一部が軽く焦げた程度であるだろう。

 しかし、その衝撃であるものは尻もちをつき、あるものは膝をつきながらも茫然と道哉を見つめていた。


 魔術の根本は力にあらず、技術にあらず、世界を捻じ曲げるほどの意思である。

 20人以上の意思が、ただ一人に敗北する。

 それだけならば神凪の宗家という神にも等しい力を目の当たりにしている彼らにも納得できる。

 道哉はその風で彼らの炎をあおり、威力を上げたうえでその勢いを殺さぬままに受け流すことで同士討ちに持ち込んだのだった。


「何やってんですか、宗主」

「おお……道哉か、よく来てくれた」


 苦渋に満ちた声で重悟が視線を上げた。

 彼の足もとには若い男が一人転がっている。

 目を閉じ、ピクリとも動かないその表情は、何かをやり遂げた人間の満足と諦観がありありと浮かんでいた。

 人の心を揺さぶるような、そんな強い意志と達成感が浮かんだ顔は芸術的ともいえるかもしれない。



 ただし、左胸にこぶし大の穴が開いていなければ、だが。


「風牙衆ですか?」

「ああ、綾乃を連れ出した術者らしい」

「危険です、お下がりください!」

「人質をとっているような卑怯者に……」


 彼らの話に割り込むように、周囲の術者が声を上げた。

 なるほど、気を失った二人を抱えている自分は確かにそう見えるだろうな。などと道哉は他人事のように思う。



「黙らんかああああああああ!!!!!!!!!」



 一喝。

 その声に込められた怒りに、周囲から小さく悲鳴が上がった。

 温厚な重悟にしてみれば驚くほど余裕のない態度が新鮮ではある。


「その二人はどうした?」

「ちょっと急いだら気絶しまして、まぁ遊び心ってやつですよ」


 小脇に抱えた操と煉をうやうやしく近づいてきた使用人に引き渡した。

 おぼろげな記憶に、その男の同情的な視線を思い出す。

 あまり愉快ではない過去の記憶。

 ここが神凪の屋敷であるからか、どこかセンチメンタルになった気分を振り払った。


「まぁいい、話がある。茶くらいは出そう」


 様々な感情を含んだ視線に見送られながら、彼は4年ぶりに神凪の屋敷の内部へと足を踏み入れたのだった。






「道哉」

「なんですか?」


 客間に通され、道哉と腰をおろして向かいあった重悟はどこか居心地悪げに切り出した。


「和麻とよく似た顔でそのような態度をとられると違和感がありすぎてな……。それに、昔はもう少し気安いものだったろう?」


 あの愚弟め。

 思わずひきつった顔の筋肉を隠しもせずに、道哉は呆れたような溜息をついた。

 和麻は宗主に普段どんな態度をとっているのだろうか。


「了解りょーかい。もっとこう、フランクな感じってことで」

「まぁそうだな。そもそも生まれた時からの家族付き合いだ、遠慮はいらん」


 意図して軽い態度をとった道哉に返された言葉。

 家族。

 それは血か、共に過ごした時間か、それとも。

 意味もない思考を弄びながら、道哉は軽い笑みを浮かべた。


「じゃあお言葉に甘えて…………宗主、あんた馬鹿なことしたな」


 ギロリと、圧力を感じさせる瞳が重悟を射抜いた。


「…………」

「三昧真火を消さば封印ごと神が消える?だったらなんでさっさと神ごと消さなかった。封印が解ける危険性を残しながら風牙を取り込んだ、それこそ『三昧真火を消すわけにはいかなかった』ことの証明だろうに」


 先ほどの電話で、動揺する宗主から詳しく聞き出した話。

 以前から疑問に思っていたそれを宗主に叩きつける。

 炎そのものに神を封じ、神凪の直系でなければ解けないようにした。

 炎によって神を封じるのではなく、炎そのものの中に神がいるため、炎を消せば封印ごと神も消失する。



 ならば、もしめったなことでは消えない純粋な火のエレメントが消えたとしたら?


「『京都』の『三昧真火』のなかに封じられていた神は、『京都』という縛りを失った瞬間に全ての『三昧真火』へと転移する。ちがうか?」


 三昧真火とは結果である。

 地上に存在しないはずである純粋な火のエレメント。

 それはつまり神の御技、その残滓にすぎない。

 逆に言えば聖地として堅固に秘され守られている場所で、火にまつわる神が奇跡を起こしたとされる場所ならば世界中どこにあってもおかしくはない。

 純粋な火のエレメントという特殊な属性の炎に封じられた神は、その特殊性ゆえに「場所」という限定条件を失った瞬間に同属性の炎全ての裡に存在することとなる。


「まぁそもそも俺はそれの存在を知識として持っていても、京都に三昧真火があるなんてことを聞いたことは無かったわけだ。どちらにせよ他の三昧真火を見つけるのは容易じゃないだろうな」


 道哉の口調はどこか怒ったような、いや、実際に腹に据えかねているのだろう。どこか棘のある道哉の言葉を重悟は無言で聞いていた、


「確かに京都の三昧真火を消すのは時間稼ぎとして有効だろう。神凪の権力を使えば風牙衆が他の三昧真火を見つけるまでに捕らえることも可能だろう。それまで綾乃の身の安全は確保されることも予想できる」


 綾乃は鍵だ。

 炎雷覇を体内に宿す彼女は、そもそも妖魔を憑依させることなどできない存在。

 封印を開放できる程度『最低限』に無事ならばそれこそ方法を選ばなければ無事回復できる。

 あちらとしても時間稼ぎのための人質として価値があるだろう。


「だが、これから風牙衆がとる最善は綾乃を放り出したうえで姿をくらますことだ。宗主、神凪宗家全員の将来で綾乃を買い戻す気か」


 既に封印自体の管理は神凪を離れた。

 ならば綾乃と炎雷覇を返したうえで積極的に追われる原因を無くし、新たな三昧真火を見つけたうえで宗家の誰かをさらえばいい。

 この場合、宗家の誰もが常に風牙に狙われているかもしれないという莫大な注意力を発揮しながら生活を余儀なくされるだろう。


「和麻に許可を出したときは、そこまで考えているわけではなかったのだ」


 ポツリと重悟が口を開いた。

 どこか後悔するようなその調子を一顧だにせず、道哉が無言で続きを促した。


「火の精霊とかかわりの深い我らにも、京都以外の三昧真火は確認されていない。風牙衆が自暴自棄になるのを防ぎつつ綾乃の安全を確保するにはこれが最善だと思ったよ」


 綾乃のためにあえて長期戦を狙ったのだと、宗主は語った。

 愛娘が誘拐された。

 確かにそれは通常の判断力を失わせるに足る理由だろう。

 それが神凪宗主という立場以外だったら、だが。


「まぁ、過ぎたことはしょうがない。で、依頼とは?」

「まずその前に謝罪をさせてくれ。神凪の負債にお前を巻き込んでしまった」


 深々と頭を下げた重悟に道哉は眼を丸くする。


「依頼と言ったが、本来ならば道哉にはかかわりのないこと、拒否は自由だ。ただ、拒否すると決めたならばせめて静観を約束してほしい」


 そんな弱気な宗主の態度に、道哉は憮然とした表情で口を開いた。














「何故だ……何故だ!」

 封印はそれほど複雑なものではなかった。

 神凪の直系が炎の中に入ることで顕現する封印の術式を、浄化の炎を用いて力ずくで浄化するだけである。

 浄化とは自然を自然としてあるがままに戻す力。このような場合にはもってこいだ。

 それこそが精霊術師の役割。簡単な暗示で、綾乃は驚くほど素直にこれを実行した。


 三昧真火の中に入れるだけの加護。

 封印が反応する血の濃さ。

 そして何よりも封印を破壊するに足る力。


 同じ宗家であっても煉だったならばこうはいかなかっただろう。

 いや、宗主や厳馬であっても力不足かもしれない。

 なにせ神を封印する術式だ。浄化という絶対的なアドバンテージがあってなお、正規の手段を用いない解放は難しい。

 正規の手段を用いたとしても、解放には丸1日かかるような儀式が必要とされるだろう。


 だが綾乃には炎雷覇がある。

 年若くとも神器に認められるほどの術者が直接それを封印へと突き立て、力を流し込む。

 そうすることで封印はあっけなくその力を失った。


 だが、炎を吹き飛ばしてその中から現れたのは。


「ただ一度の過ちで、我らは永遠に縛られねばならぬのか!救いは、誇りさえも許されぬというのか!!」



 馬鹿らしいまでの力の塊。

 神の名にふさわしいそれには、悲しいまでに意志というものが感じられなかった。

 それもある意味当然だろう。

 自分と相反する属性の、さらに純粋な力の中に縛られた神。

 同属性だったり、盾となる肉体を持つ神でもない限り、そのような状況である程度のダメージを受けることは免れない。

 しかも、風牙衆の加護すら失わせるほどに徹底的なまでの力の封印。

 全てをはぎ取られ灼熱の裡に封じられた神の魂は、長い時間をかけてゆっくりとその核を蝕まれていったに違いない。

 兵衛の目の前に存在する力でさえもおそらくは全盛期の3割にも満たず、方向性を持たない力はいずれ拡散して消失するだろう。


「退路など既に捨てた!我らには勝利しかないのだ!ならば、ならば!!!!」


 おぞましい音と共に兵衛の体が変化していく。

 鋭利な爪が伸び、瞳孔が縦に裂けた。

 肌に張りが戻り、どちらかといえば細身だった体格に強靭な筋肉が纏われた。



 妖魔よ、くれてやる。

 この体の、血肉の一片、頭髪の一本までも。

 持っていきたいのならば持っていくがいい。対価さえ用意するならばいくらでもくれてやろう。


 だが。



____この魂、安くはないぞ。



「この俺が神になるしかあるまい!!!」



 精神が肉体と妖魔に引っ張られ、口調すら変化させながら兵衛が凄絶に笑った。

 例え見る影もなく衰えたといっても神の力。

 人の身でそれに耐えられないのならば、人間をやめてしまえばいい。


「神よ!御身の力、貰い受ける!!!」


 異形と化した腕で、神の残滓に手を伸ばす。

 あまりの威力、風圧。触れた瞬間に触れた手が吹き飛んだ。

 構うものか、体の一部などすぐに再生する。


 ぎちぎちと体が妖魔化し、肌の色すら変化を始めた。



 苦痛から獣のような声を上げながらも、兵衛は圧倒的なまでの暴風の塊へと挑みかかった。









 あとがき

 お久しぶりです。花見酒の後に勢いで更新した作者です。
 明るいうちから飲んだので花鳥風月の全てを肴に良い酒が飲めました。
 前回の連続更新から間が開きすぎて申し訳ないです。というか風の聖痕のssの更新停止率に絶望した!誰か書いてください、マジで。
 今月中にもう何度か更新できたら……いいかな?
 では、皆さんの指摘感想等お待ちしております。




[9101] 第32話
Name: 酒好き27号◆3e94cc3d ID:17f35bae
Date: 2010/06/09 13:27


 風牙衆の現在位置を割り出すのは思ったより容易であった。

 重悟が金に糸目をつけずに招集した術者たちは戦闘力こそあまりないものの、それぞれがその道での一流。

 人脈、金、情報網、術とありとあらゆる手段を用いて探しだされた風牙衆の現在位置は、なんと東京都内だった。

 いくら東京と言ってもその西側の端は山々が点在する深い森であり、妖魔を隠していたのもここだろうと思われる。

 日の出からすぐに神凪に呼び出された道哉は小回りのきく車に乗って同乗者と共に現場に急行していた。


 このペースならば午前中には到着するだろう。


 東京とは思えないほどののどかな風景を視界に入れながら、道哉は目を閉じ無言で周囲を探っていた。

 妖魔が倒されたといっても奥の手が無いとは限らない。


 と、車内に響く乱暴な声。


「風牙衆の奴ら、ぶち殺してやる!」

「やりすぎるなよ。少なくとも綾乃様の安全を確保するまでは慎重に行かないとな」


 分家で有数の戦闘力を誇る二人組。結城慎吾と大神武哉は厳馬の命令により風牙衆討伐と綾乃救出の任務に駆り出されていた。

 本来ならば大規模な討伐部隊が組まれてもおかしくは無い事態だが、個人で集団を打ち破れるからこその神凪。

 本家の守護との兼ね合いから少数精鋭が選択された。


「で、まだつかねーのか」

「まだだ。何回も同じことを聞くな」


 武哉はうんざりしたような表情で返答した。

 言葉は違えども何度も同じようなことを聞かれた武哉は運転席で呆れたように息を吐いた。

 神凪を出発した時から全く変わらないテンションを維持している慎吾は、そんな相棒の様子に全く気付くことなく言葉を続ける。


「ハッ、よわっちい風牙程度さっさと片付けてやろうじゃねぇか」

「……弟の友人を殺された程度でよくそこまでやれるもんだよ」

「それもあるけどな、風牙衆みたいな雑魚に神凪が揺るがされるわけにはいかねーだろ」


 どちらかといえば粗暴な友人の口から発せられた静かな声に、武哉は思わず助手席を見た。

 不貞腐れたような態度は20を過ぎた大人としてガキくさいところがあるが、その言葉の内容は神凪一族として正しい。


「確かに」


 その不意打ち気味な言葉に、武哉は短く返答するのが精いっぱいだった。

 何となく終わってしまった会話だったが、すぐさま益体もない話が始まった。長い付き合いのせいか話すことはいくらでもある。


 まるで何かに追われるように彼らは話し続ける。


 表情も態度も性格も違う二人だが、この時点において共通する点が一つだけ存在した。



「………………」

「………………」


 後部座席に無言で座っている親子から全力で意識をそらしているという点が。

 宗主直々に説明を受け「なぜ神凪を追われた道哉が。どうせ索敵以外役にも立たないだろう」などと考えていた二人は、先に正門前の車付近で待っていた二人に顔をひきつらせた。

 視線も合わせず、ただ無言で立っているだけの厳馬と道哉から発せられていた桁違いのプレシャー。

 この瞬間に『炎術も扱えず、苦し紛れに下術に手を出した弱い風術師である道哉』などというイメージは完全に崩れ去った。

 殺意にも似た威圧感に震える声で彼らを促せば、無言で車に乗り込む二人。

 狭い車内の中で無言の親子喧嘩に巻き込まれることになった慎吾と武哉は、少しでも気を紛らわせようと必死に会話をつづけているのだった。


 彼らの脳内にあるのはたった一つ。


 一刻も早く風牙衆の元に到達したい。凸凹コンビとも言われる彼らの内心は、今はじめて完全なシンクロを見せた。







 その彼らの会話を道哉は無感情で聞く。

 それは持つ者の傲慢だ。相手方の理由も覚悟も何もかも置き去りにして力を振るう強者の理論。

 だがそれは神凪ならば許される。それだけの力を持つが故に。


 一種の無法地帯でもあるこの業界、衰えた分家であるといっても慎吾と武哉は、神凪の術者として満点をつけてもいいだろう。

 だがそれも、弱者にとってみれば勝手な話だ。

 所詮広大な空をゆく白鳥に矮小な燕や雀の心は理解できないのだから。





「ど、どうした?」


 不意に目を見開き、身を起こした道哉に偶然バックミラーを見ていた武哉は声をかける。

 既に厳馬との意地の張り合いは終了したようで先ほどまでの胃が痛くなるような威圧感こそなくなっているが、道哉の鋭い瞳と張りつめた空気が車内に緊張をもたらした。


「三昧真火だ」

「あぁ?」

「三昧真火の気配がする」


 いまいちわかっていないような声を出す慎吾とは対照的に、武哉は顔を青ざめさせ厳馬は眉根に皺を刻んだ。


「まさか綾乃様はもう……」

「もう賭けだろうな、最悪炎雷覇だけでも取り戻さないと」


 茫然とした顔で綾乃の安否を気遣う武哉に道哉が軽く返す。

 そんなやり取りにようやく慎吾が追いついたらしい。


「おいおいおい、まさか神が復活したとでも言うのかよ!そもそもこんなところに三昧真火があるなんて聞いてねぇぞ!!」

「いや、冷静に考えればそうだな。道哉、三昧真火の気配が何かの間違いだという可能性は無いのか」


 にわかに騒然となる車内。

 一縷の望みを込めて武哉が聞けば、道哉は無表情で返答した。


「精霊術師が純粋なエレメントの気配を間違えるとでも思ってるのか。それに三昧真火ならある程度の仮定がある、聞くか?」

「あぁ」

「頼む」


 事態が事態だからか、やけに素直な二人に違和感を感じながら道哉は話し始めた。


「そうだな、タンスか何かを思い浮かべればいい。タンスの引き出しを思いっきり閉めれば隣接する引き出しが押し出されたりするだろう?」


 ずいぶん庶民的な例えが来た。

 武哉は内心顔をひきつらせながら確認した。


「つまり和麻様が京都の三昧真火を破壊した瞬間、繋がった地脈から三昧真火が押し出されると?」

「そんなに大層なものじゃないだろう。影響と言っても誤差の範囲内だ、まぁそれを増幅する手段でも見つけ出したんだろうさ。まったく、どこまで用意周到なんだか」


 慎吾と武哉は不吉な予感に沈黙する。

 神。つまりは超越存在。

 人間を超越したもの、どうあがいても打倒できない存在が神の定義ならば宗家でもない彼らの生存確率はゼロだ。


 ただの風牙衆の反乱。


 相手の最大の牙を折り、残すは人質の救出と後始末だけ。その気楽な任務は最高難易度に様変わりした。

 文字通りの神話級は、彼らには荷が重すぎた。


「それにな、来たぞ」


 何が?そんなことは問うまでもない。

 その音を認識した瞬間に武哉は車を急停止させ、他の3人は即座に車外へと飛び出した。

 本来爽やかなはずの朝の空気が汚染されていく。

 360°視界の全てがぐにゃりと歪んだ。


「おいおい、こりゃあ……」


 慎吾が珍しく呆けたような声を出した。

 彼らを囲んで視界を埋め尽くすかのように、100体以上の妖魔が姿を現す。



 オオォォォオオォォォオォオォオオォォォ………



 召喚された妖魔たちが口々に鳴き声を上げた。

 だが、妖魔たちはある一定距離から近付いてこない。

 本能に任せて飛びかかった一匹はその瞬間に灰すら残さず燃え尽きた。


「……今の召喚でつかんだ。行くぞ」

「お前たちはこの妖魔を殲滅しておけ」


 最高に自分勝手な台詞を残し、厳馬と道哉は風にとって高速で飛び立った。


「…………」


 そのあんまりな態度と早技に、分家二人はともかく妖魔たちまでしばしの停止を余儀なくされた。


「あーーー、ちくしょうめ!さっさとこいつら殺して追うぞ!!!」

「あ、ああわかった!神凪の炎を受けるがいい!」


 妖魔たちより一瞬早く再起動した彼らは全力で炎を行使する。

 先ほど飛び出した妖魔は厳馬に瞬殺されたが、彼らにとってみれば少々手間のかかる相手だった。

 それと同格な妖魔が100体以上。

 とてつもなく厳しい戦いを予感しながらも彼らに退く気など微塵もない。


 何故なら、たった今離脱した親子は自分たちよりもはるかに強大な敵へと立ち向かいに行ったのだから!


 己の無力を噛みしめながら互いの死角を補いつつ妖魔たちを焼き払う二人を、周囲から冷静な瞳が見つめていた。 
 









 一方、空を駆けながら道哉が言う。


「綾乃がどういう状態か知らんが、速攻で炎雷覇を取ってこい」

「いいだろう」


 風と炎は相性がいい。

 風にあおられた炎はその勢いを増し、さらに強大に燃え上がる。

 神器を用いた厳馬ならば、あるいは神に対しても効果があるかもしれない。

 今やはっきりと感じられる大型台風のような風の気配。

 それは逃げも隠れもしないとでも言っているかのようだった。

 ついに視認できる場所まで接近。

 爆心地のように削られ、未だ炎がくすぶり続ける木々の一角。そこには、綾乃と見知らぬ青年だけが立っていた。

 特に迎撃を受けることもなく、無事に大地へと降り立つ二人。


「神は?」

「死んでいた」


 厳馬の問いに皮肉気な笑みで男が答えた。

 血まみれの服、薄い青色の肌。しかし、内包する力の強大さだけは明確に伝わっていた。


「誰だ?見たことが無い風牙衆だが」

「兵衛だ」

「…………は?」

「この姿ならば2、30年ぶりというところかな、厳馬」


 それなり整った顔が場違いな笑みを浮かべる。厳馬は鼻を鳴らした。

 道哉はあずかり知らぬことではあるが、彼らは若いころよく共に妖魔の討伐任務を行っていた。

 厳馬についていけたのが兵衛だけだった、ということもある。

 探査系が苦手であるにもかかわらず、「足手まといの弱者など不要」と強大な妖魔の群れの中でも風牙衆を置いてきぼりにして進んでいた厳馬。

 今は厳格な彼にもやんちゃな時代があった。よくそれを重悟にネタにされるのではあるが。


「外身は妖魔、中身は神、思考は人間、か。一番に消えるのは思考だろうが、わかってるのか?」

「今さら言われるまでもない」

「なら、最後に同じ風術師として手合わせを願おうか」


 不敵な笑みを浮かべて言う道哉に兵衛は不意を突かれたようだった。

 まさか風の神に喧嘩を売る風術師がいるとは思いもしなかったのだろう。

 無言で茫洋とした目をした綾乃に向き直る厳馬を見て、納得したように頷いた。


「なら、やるか」


 諦めにも似た表情で道哉が一歩踏み出した。

 炎術師二人の邪魔とならないよう、兵衛に背を向けて歩き出す。

 もちろんその背に攻撃するような無粋なマネはせず、兵衛はゆっくりとそれに続いた。


「神凪厳馬、いや、炎術師ならばまだ俺を倒す可能性もあるだろう。風術師がサポートに着けばなおさらだ。見誤ったな」


 淡々と、何の感情も見せずに兵衛が言う。

 それはどうしようもないほどに正論だ。神を相手に同属性の精霊術師が出来ることなど何もない。

 風の神を相手にした場合、風術師など時間稼ぎすらできない。


「よく練られた計画だ。煉を使おうが綾乃を使おうが十分に可能性を残している」


 兵衛の自身を侮ったような言葉に何も返さず、道哉は独り言のように続けた。


「だが、神凪の術者を殺す必要が無い。それもたかが分家の雑魚だ。それさえなければ既に逃げおおせていてもおかしくないだろうに」


 沈黙が満ちた。

 かろうじて車が通れる、その程度の砂利道を彼らは視線も合わせずに歩く。

 それは何の気づかいもいらない友人同士にも見えた。

 彼らは本来ならば戦う必要が無い。

 兵衛の目的は風牙の解放。道哉の目的は親しい人間の安全。

 綾乃さえ解放すれば神凪が死に物狂いの追跡を行うこともない。人死が珍しくないこの世界で、神凪と風牙は痛み分けという形に落ち着くことも可能である。


 争わずに解決することは可能だ。


 だが、それでも彼らはここにいる。


 それが今の彼らの全てだった。


 彼らの力から言えばあまりにも狭すぎる場所で二人は相対する。

 少々ひらけているといっても周囲には木々が生い茂った場所はキャンプなどにうってつけだろう。

 申し合わせたように距離を取って向かいあう。


「お前は神じゃない。出力だけで勝てるなら世の中もう少し単純だよ」

「奴は上級妖魔のくせに食い意地が張りすぎた。よもや短時間とはいえ好き勝手に動かれ、計画自体に支障が出る程とは予想外でな」


 互いの疑問に、視線すら合わせずに答える。

 変に律義な二人を象徴するようなやり取りと共に彼らは力を高めていく。

 ただの空気が、そこに当然あるだけのものが圧倒的な存在感を帯びた。


「死ね」


 それはどちらの口から出た言葉か。

 工事現場のような硬質の音が、それこそ無数に響き渡った。


 俺のために死ね、彼のために死ね、彼女のために死ね、金のために、物のために、心のために、誇りのために。

 あれのために死ね。これのために死ね。


 裏と呼ばれる異能の世界の本質。

 そう、多くの人間はこういうだろう。「人の命は何よりも重い」

 ならばその裏は?


 『人の命など、何よりも軽い』


 神凪で殺された分家の術者がいた。

 しかし、彼らの死は家族や交流のあった者以外に何一つもたらすことは無かったと断言できる。

 他の術者にしても、家の誇り等に関わることを除けば、1ミリたりとも心を揺らしてはいない。もちろん、想定される妖魔の格から「明日は我が身」などと思うことはあるにしても。

 あの重悟でさえ、彼らの死を悼みながらもそれを「当たり前のこと」として受け入れていた。

 実にシンプルだと道哉は思っている。

 ただのエゴのぶつかり合い。そこに余計な感情が入らない先の言葉だからこそ、覚悟が響くのだろう。

 故に、道哉は自身を殺しかけた綾乃に対して思うところは何もなかった。


 第三者に聞いてもこう言うだろう。『誤解を与えた方が悪い』


 周囲の風が爆発するように吹き荒れる。

 撃ち出され、ぶつかり合い、そして統制を失った風に耐えきれず、成人の胴体ほどもある幹がはぜ割れた。


 刹那に十。

 瞬きの間に三十。

 一歩踏み出す間に五十の死が、互いを喰らいあってその形を霧散させる。


「息が上がっているようだな」


 兵衛の言葉はただの挑発だ。

 現に道哉の息は乱れてすらいない。

 ただ、額にかいたうっすらとした汗だけが彼の現状を表していた。


「自分の力も制御できない三流術者が言うじゃないか」


 彼らは精霊術師として全力で、最速の次元で戦っている。

 自身の限界まで鍛え上げたといっても人間である道哉と、妖魔化した上に神の力を手に入れた兵衛の闘いは本来なら論ずることもできないはずだ。

 一撃の威力ならば文句なしに兵衛の勝利だろう。無造作に放たれる風の弾は、人間の肉体を消し飛ばすには過剰すぎる。

 だが、道哉は元から力でぶつかり合う気などない。

 数千、数万と繰り返した術の行使。

 自分と言う存在の力を隅々まで統御し尽くした道哉と、後付けの力に振り回されている兵衛とでは精霊術師の技量として天と地ほどの差が存在する。

 絶え間なく、道哉の制御限界までの量で打ち出される風の刃はその全てが必殺。

 対してそれに追いつこうと無理やり振るわれる力は、術から精密さを奪い去り、力負けするはずがない道哉の風とぶつかり合っただけで『弾ける』。


 兵衛から感嘆の声が漏れた。


 最弱の風にもかかわらず地を裂き、炎を呑みこむ程の力に惑わされていない。

 己の力と技量を知り、的確な判断のもとに降り注ぐ刃は美しいと思えるほどだった。

 それと同時に風術の行使に違和感があった。

 もどかしげに兵衛は風を操る。

 一月もすれば災害クラスの攻撃を溜めなしで繰り出してくるようになるであろう兵衛も、今の道哉にとってみればこの程度で出力差ごまかせる相手でしかない。

 互いにそれを理解してなお、兵衛の余裕は消えず、道哉のしかめられた眉は戻らなかった。


 接近はできない。


 少しでも余計なことをすれば妖魔として脳すら人間を超え始めた兵衛に押し切られる。

 そしてそれは、暴れ馬に乗っているかのように術を行使する兵衛も同じだった。

 今の彼らにできることは、道哉が力尽きるまで、もしくは兵衛が自滅するまで互角に戦いを続ける。それだけであった。







 厳馬の鋭い眼が、既に臨戦態勢に入った綾乃の背後を射抜いた。

 不可視の力の塊。かすかに揺らぐそれが綾乃を操っていることを理解する。


「綾乃」


 それは呼びかけではない、そんな生温いことをするような男ではなかった。

 意識が無い。もしくは正気ではない。

 それを確かめるためだけの言葉だった。

 厳馬の呼びかけにも一向に関心を示さず、ただ立ちつくす綾乃。

 それを確認した厳馬は一気に炎を練り上げた。

 精霊魔術は感覚に依存する。それは、言い換えれば術の行使は術者個人の人格、記憶に依存するということだ。

 式を編めば誰にでも使えるようなものとは一線を画す、だからこその精霊魔術。

 加えて、炎雷覇の制御にもそれなりの集中力を伴う。

 神凪の至宝は、炎術の適性だけで使いこなせるようなものではない。

 心技体。それらがそろって初めて使用可能になる孤高の神器だ。

 故に感情を含む人格を抑え込まれ、操られているだけの綾乃など敵にもならない。

 その炎の威力も精度も、普段からしてみれば比べ物にならないほどの弱体化していることだろう。

 加えて厳馬の持つ力、人質としての価値すら消滅させる浄化と対象限定の技量。

 彼にとって今の綾乃は、勝敗を語るにすら値しない敵未満の存在である、はずだった。


「ねぇ叔父様、道哉さんはどこに行ったの?」


 まるで童女のような笑み。

 唐突に焦点を結んだ彼女の瞳が、厳馬に対して最大の懸念の的中を告げた。

 彼の炎が不意に蒼く染まる。その力の奔流が、内圧を高めながら彼の周囲を照らす。

 無言の厳馬に何を思ったのか、綾乃の制御する黄金の炎が『爆発』した。


「神、いや兵衛の分霊か」


 妖気が感じられない。ならばそれは神の力の一端だろう。

 神の風という最高の起爆剤が、綾乃の黄金の炎を神炎並の火力まで引き上げる。


「道哉さんはどこ?道哉さんを殺さないとあたしは……」


 二度目の問い。

 そこには既に笑みは無く、不満げにしかめられた顔と敵意がのぞいた。

 倫理観の欠如?それとも思考誘導か、それとも暗示か。

 ブレーキの壊れたトラックのごとき思考を口に出す綾乃は、厳馬に場違いな懐古の念を抱かせる。

 道哉に負けた(と本人は思っている)日から捨て去った無垢な心。

 あの日、あの場所に置き去りにされたお転婆な少女としての綾乃が、そこにはいた。

 だが、敵としてある目の前の存在に対して語ることは既になく。


「教えてくれないの?だったら……!」


 輝く炎に意思がともる。

 ただそこにあるだけだった炎が、明確な方向性を手に入れた。


「だったら叔父様も、死んで」


 その踏み込みは10mほどの距離を瞬く間に縮め、予告の無い勝負の合図となった。


「やあああああああああ!!!」


 腹の底から出された声は普段の綾乃と何一つ変わるところが無い。

 しかし悩みや迷いから解放され、ただ一つの目的のために力を振るう綾乃の技は、現在の技量からほぼ最高の冴えを見せていた。

 神の風、炎雷覇、そしてなにより目的のためならば全てを犠牲にして後悔のない心が桁外れの炎を呼び出した。


 形容できない音と共に蒼炎と炎雷覇が噛み合う。


 半ば物質化した炎と神剣がお互いを消し去ろうと拮抗した。

 本来ならば抵抗さえ許さない力の差が、綾乃のために用意されたものたちによって埋められる。

 ここが熾烈な戦いの幕開け。だが綾乃は動けず、厳馬は動かなかった。

 妖魔でもなければ神でもない綾乃は、そもそもの地力が厳馬に遠く及ばない。風はサポートにすぎないのだ。

 いくら力だけが増大したとしても精霊術師としての持久力や技術の差は如何ともし難く、少しでも息切れした瞬間に綾乃は炎に呑まれるだろう。


 厳馬はまるで王侯のごとく仁王立ちし、鋭利な瞳で綾乃を静かに見ているだけであった。

 そう、厳馬の視線は自然すぎるほどに自然に『綾乃を下に見ている』。



 これがその力のみで君臨する者。神凪最強。


 圧倒的な力が寸分の狂いもなく行使される。そんな光景が、思考を縛られているはずの綾乃に若干の畏怖を与えた。


「~~~~っ!なら!!」


 突破は不可能。弱気になった自身がそうささやいても、綾乃の心に撤退の二文字は浮かばなかった。

 手段が目的にすり替わり、彼女の脳髄は厳馬の打倒にのみ向けられる。

 彼女の制御する炎。その力の大部分がゆっくりと炎雷覇に収束されていく。

 厳馬の気によって染め上げられた蒼炎はすでに自然の炎ではなく、耐火体質など服ほどの意味もない。

 ひとつ間違えれば魂ごと燃え尽きることを理解しながら、彼女はさらに一歩踏み込んだ。


 デジャヴュ。


 神剣の切っ先が蒼炎をほんの少し切り裂いてもぐりこむ。

 彼我の距離は既に一足一刀の間合い。

 ならば相手の炎を相殺しようなどとはせず、負傷覚悟でただまっすぐに切り込めば倒せる!


「行…………っけぇ!!!!!!!!!」


 綾乃の力強い一歩が大地をえぐった。

 サファイアの光を突き抜けて、黄金の輝きが厳馬の心臓めがけて奔る。


 未だ無事な自分。途方もなく重い手ごたえ。


 決まった。


 とてつもなく大きな壁を乗り越えた喜びは、しかし一瞬にして砕け散った。


「うそ……」


 無造作に差し出された右手。

 何の変哲もないそれが、最強の名を持つ刃を喰い止めていた。

 神炎という制御が困難であるはずの力の塊を使ってつくられた、炎の結界。

 その桁外れの精霊と技量、そして意思が神の力すら跳ね返した。


「っ!」


 最高の一撃があっけなく止められた、その瞬間の忘我を見逃すほど厳馬は甘い男ではなかった。

 情け容赦のない前蹴りが綾乃の鳩尾に突き刺さり、彼女をm単位で弾き飛ばす。

 ゴロゴロと、まるでマネキンか何かのように受け身も取れずに転がる綾乃。

 さすが、とでも言うべきか。敵の姿かたち、加えて自分との関係にさえ惑わされたない様子は客観的に見て冷酷冷徹外道と言われても仕方がない。

 一歩たりとも動くことなく厳馬は綾乃に完勝した。圧巻という言葉すら生温い振る舞いだった。


 すかさず追撃。


 対象を綾乃の背後にいるものに定めた対象限定の炎は、しかし綾乃の炎によって防がれた。


「浅かったか」


 厳馬といえども人の子だ。本来ならばあばらを軒並み粉砕してもおかしくない一撃は綾乃の戦力を一時的に奪う程度に手加減されていた。

 火の精霊に圧倒的な上位権限を持つ神器を使用されたせいか、一文字にやけどを負った右手を見る厳馬。


 それでも彼の余裕は崩れない。


「ぅ………あ……」


 震える腕で置きあがろうとする綾乃。

 その口からは胃液が吐き出されており、くしゃりと歪んだ顔は今にも泣き出しそうな幼子を思わせる。

 横隔膜が一時的に制御を離れ、衝撃で平衡感覚すらあやしいだろう。


 それでも彼女は立ち上がる。


 ここで、この場所で倒れたら神凪綾乃は神凪綾乃ではなくなるのだ。

 根性で保持している炎雷覇を血がにじむほどに握りしめた。

 炎雷覇を、綾乃を、そして綾乃の背後の揺らぎを見た厳馬は迷いなく綾乃に歩み寄った。

 この場で炎雷覇を奪えば勝率は9割9分まで跳ね上がる。

 だが、厳馬はその足を止めざるを得なかった。


「小賢しい!!」


 その言葉と共に厳馬へと向けられた風の刃が全て燃え尽きた。

 それを成した兵衛の分霊からは意思が感じられない。

 あらかじめ与えられた指示通り力を貸しているにすぎないプログラムのようなそれは、単体ではさしたる脅威にもならないものだった。

 だが普通の風術師とは一線を画す力が厳馬に迎撃を強いる。

 唐突に生じたそれに厳馬が意識を裂く10秒程度の間に、綾乃は小刻みに震えながら立ち上がった。




「はぁ……はぁ……ぁ、あああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!」




 余裕を無くした綾乃の脳は、兵衛の誘導も相まって『余計なもの』を片っ端から封じ込め始める。

 ただ一人を残して人間を忘れる。

 未だ心の裡にくすぶる迷いにも似た感情を破棄する。


 ただ今は激情を。


 自然から、王から、そしてなによりも自身の裡から灼熱の業火だけを求めて雄たけびを上げた。

 それでも彼女の炎は爆発的な高まりを見せるわけではない。

 申し訳程度に強くなった炎。

 だがそれは、厳馬を害するには十分な力だった。

 その力も使い手が未熟なら何の問題もない。

 厳馬は冷静に綾乃の力を測りながら炎を収束する。

 冷静さを失った綾乃ならば次の行動を予測するのは簡単だ。

 一撃で背後の揺らぎを射抜く。それを成すだけの技量が厳馬にはあった。


 静と動。


 対象的な二人のうち、先に動いたのは意外にも厳馬だった。

 まるで銃弾のように極限まで圧縮された蒼炎が飛ぶ。

 ある程度厳馬のコントロールを受け付けるそれば、綾乃の炎など楽々と貫通し、多少の動きならば完璧に合わせて背後のゆらぎを射抜く。

 迎撃も回避も不可能なはずのそれは。


「やああああ!!!!!」


 今や目がくらむほどの光を放つ炎雷覇に斬り飛ばされた。

 防御など捨てた、炎術の差などわかりきっている。

 綾乃の本能ともいえるべきものは厳馬に対抗する唯一の手段を正確に選び出した。


 そう、自身の力を全て炎雷覇に注ぎこんだ捨て身の攻撃。


 刀身の周囲をまるで螺旋を描くかのように風と炎がめぐっていた。


「くっ!!」


 後の先。

 一撃で決めるつもりで集中していた厳馬は、その強靭な脚力で最短距離を突き抜けて来た綾乃に一瞬反応が遅れる。

 炎雷覇と言う最強の近接武器を持つ綾乃が武器にその力の大部分を注いだ場合、接近戦で厳馬に勝ち目は無い。

 だからこそ厳馬は炎の撃ち合いに終始していたし、先の蹴りも過剰なまでに防御を敷いた上でのものだった。

 それでも剣であり呪法具でもある炎雷覇を完璧には防げなかった。


 だが厳馬も一流の術者である。


 一息で出現した炎塊、実に10。


 僅かな乱れもなく射出されたそれらは、今や最高の冴えを見せる綾乃の炎雷覇で一刀のもとに斬り伏せられていく。

 防御を捨てたことで手に入れた絶大な破壊力。

 炎雷覇の届く範囲ならば今の綾乃の攻撃力は確実に厳馬を上回っていた。


 風に押されて、人外の速度で綾乃が迫る。


 回避も、まして防御などけして許さない一撃がまるで居合のように横薙ぎに繰り出された。

 極限の集中力が作り出す緩やかな視界。

 全てがスローモーションで展開する風景の中に、綾乃は一瞬だけ視線を伏せた厳馬を見た。

 次の瞬間には彼女の量目を射抜く厳馬の眼光は、まるで死の覚悟を決めたように見える。


 勝った、勝った!勝った!!


 油断などするわけがない。

 しかし綾乃は完璧な勝利の予感に背筋を震わせた。

 伸びてきた蒼の炎は綾乃の速度に追いつくことができず、その力を十全に発揮する前に両断される。


 一歩、二歩、三歩、四歩。


 加速する綾乃主観では異常なまでの時間をかけて、ついに厳馬をその間合いに補足した。




「あたしの────!!」


 勝ちだ。








 その声は突如として生じた風で、一瞬にして崩壊する。


「きゃん!!」


 莫大な力である神炎に隠れるようにして迫った風のつぶてが綾乃の足に直撃し、彼女に顔面スライディングを強要した。

 極限まで高められた炎雷覇の炎は、その際に触れた地面を跡形もなく蒸発させる。


「……余計なことを」


 いつものような冷厳とした瞳で、その風を放った人物を睨みつけた。


「無理無理。あんな化物相手にしてたら命がいくつあっても足りない。というわけで選手交代だ」


 軽く肩なんかをすくめながら道哉が空から降ってきた。

 彼が来た方向に視線を向ければ、まるで「取るに足りないこと」とでも言わんばかりに堂々と浮遊する兵衛がいる。

 そして、命の危機を救われたにもかかわらず厳馬の表情には全く揺らぎが存在しない。


「神凪……道哉っ……!」


 まるで人形のような動きで綾乃が立ち上がった。

 その表情は歓喜ではない。

 憎しみでもなければ、渇望ですらなかった。

 強いて言うならば、それは悲しみであったのかもしれない。


「というわけで綾乃は俺を御指名だそうだ」


 シッシッと猫でも追い払うように手を振る道哉に厳馬は形容のし難い視線を向け、無言で兵衛に足を向けた。




 同時に空気が一変した。




 愕然とした表情で綾乃が厳馬の背を見つめた。

 厳馬が背を向けた瞬間、周囲に漂っていた大量の火の精霊が厳馬に根こそぎ持っていかれたからだ。

 自分の制御全てを使って炎雷覇に炎を宿した彼女は気づく余裕がなかった。

 炎雷覇に全てを込めていたせいで防御と探査に回す精霊が存在せず、厳馬が『いつでも綾乃を殺せた』ことを理解できていなかったなど。


 簡単なことだ。

 炎術を『塊』として行使すれば切り裂かれるならば、綾乃を周囲ごと焼きはらってしまえば殺すに足る。

 そもそも、掛け値なしの全力で炎を召喚し、その全てを神器に込めているならば『それ以外の精霊を制御できない』ということに他ならない。

 この場には神凪宗家二人の全力戦闘により異常なまでの火の精霊が存在している。

 綾乃を害すに足るだけの量が周囲にあったことに気づかなかったのは致命的だ。

 彼女は防御を捨てた瞬間、知らず知らずのうちに自らの首を差し出していたのだった。



 だが、厳馬のあの表情は?



「あの男にしては胸やけがするほど甘いな。さて綾乃、命の恩人に何か一言ないのか?」


 嘲るような笑み。

 道哉のその言葉で綾乃は自分が手加減されていたことに気づく。


 あの表情は、自分を殺すことを決めた表情だった____?


 認めたくない。どうあがいても敵わないという事実が綾乃を打ちのめす。

 そんな綾乃を尻目に道哉はその手を天高く突き上げた。

 膨大な風の精霊が集う感覚。




─────────。



 慌てて炎雷覇を構えた綾乃の耳に聞き慣れない言語が響いた。

 その言葉に込められたニュアンスから、彼女はそれが謝罪のようなものだと当たりをつける。


 今すぐにでも攻撃を仕掛けるべき。

 綾乃の僅かに残った冷静な部分はそう囁くが、彼女はあえてそれを黙殺した。

 それでは意味がない。今の彼女に必要なのは勝利ではなく納得であるが故に。

 ちょっとしたバーサーカーと化していたはずの綾乃は、ここにきて完全な戦闘者として切り替わった。

 狂おしいまでの想い。それが脳裏を縛る鎖すら捻じ曲げた。


 それを見た道哉は喉の奥で短い笑い声を洩らした。


「それでいい……さあ、来い綾乃。これでイーヴンだ、あの日の決着にはふさわしいだろうよ」


 風が轟々と音を立てて道哉の右手に集まっていく。

 桁違いの精霊の密度によって蜃気楼のごとく歪んだ部分は、何故か彼の右手から細長く伸びる。

 そしてそこからゆっくりと離脱していく精霊たち。


 崩れるように崩壊する風の殻より、漆黒の文様が現れた。


 ぶおん、と風を切り裂いて『それ』を旋回させ、ぴたりと保持。


 さっきまでの凝縮した風の精霊以上の力が、真正面に立つ綾乃に強烈なプレッシャーを与えた。

 先の死の恐怖。今にも破裂しそうな激情。言いたいこと、言えなかったこと。

 綾乃は何一つ言葉を発することもできず、それでも殺意だけが凝縮する。


「行くぞ綾乃。死ぬなよ」


 奇しくも厳馬と同じ物言い。

 今まで綾乃を揺らしてきた全ての感情が戦闘状態に入った瞬間意味を無くす。


____もう、何もいらない。


 何の制約も理由も言葉もなく、それゆえに強力に燃え盛る綾乃の炎が莫大な熱量を放出する。

 笑みすら浮かべる道哉とは対照的に、綾乃の瞳はただただ真剣だった。











 厳馬の攻撃の影響から完全に回復した綾乃は、地面を蹴って漆黒の槍を持つ道哉に全力で挑みかかった。








 あとがき

 どうも遅れました、作者です。
 お詫びの意味も込めて普段の倍の量で投稿したのですが楽しんでいただけだでしょうか。
 そろそろ原作1巻も終盤に近づき、短編集を使ったキャラ達の日常が書きたくて仕様がありません、
 ですがこの時期は正直余裕が無く皆さんをいつも以上にお待たせしてしまうこともあると思いますが御容赦の程を。
 では、皆さんの指摘感想をお待ちしております。

 そういえば投稿を始めて1年もたったか……。




6/8 初稿
6/9 誤字修正


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