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[7903] 【生存報告・新話投稿】異形の花々(リリカルなのはStrikers×仮面ライダーシリーズ……?)【あと既投稿分修正】
Name: 透水◆44d72913 ID:35af097c
Date: 2023/12/29 21:15
【注意】
 本作は仮面ライダーシリーズとリリカルなのはのクロスオーバーとなっておりますが、作中、仮面ライダーに類する存在はかなり後半まで出てきません。また同様に、仮面ライダー側の原作キャラも最小限の人数しか出ない予定です。
 世界観や設定を主としたクロスオーバーであり、「仮面ライダー+リリカルなのは」ではなく「魔法少女VS怪人」の方向を目指す為であるとご理解ください。
 
 また、仮面ライダーシリーズの諸設定が一部変更されている事も御座います。
 「仮面ライダーに出てきた○○は実はリリカルなのはの世界における××だった(あるいはその逆)」的なこじつけと牽強付会が満載な話になります。こちらも、先にお断りさせて頂きます。
  
 本作では平成仮面ライダーシリーズ以外にも、昭和シリーズから幾つか設定を持ち込んでいます。「平成シリーズは認めん!」という方や「昭和シリーズなんて古臭い!」という方にはやや向かないかと。
 どちらも楽しめるという寛容な方にお勧めです。
 この作品のこの設定はどうだろうか、というご意見がございましたら、出来得る限り作品に取り込んでいこうと思いますので、お聞かせ頂きたいと思います。……ただし、上述しました様に原作キャラをそのまま出す事(転生とか憑依とか来訪とかの手段を含め)はありませんので、その辺ご注意ください。


 最後に、上記の注意書きは本作を読んでくださった方が「騙された!」という事態を防ぐためのものであり、ご批評ご批判をお断りするものではありません。
 この展開は納得いかない、これではつまらない原作への冒涜だというものでも結構ですので、何か思った事がありましたら一言感想など。

 それでは。 


12/29追記:
 復活という訳ではないですけど最新話投稿。お待たせしました。



[7903]
Name: 透水◆44d72913 ID:35af097c
Date: 2023/12/29 20:29



◆     ◆





異形の花々/序





◆     ◆







 ――なんで。
 ――どうして。

 何故を問う言葉だけが、頭の中でぐるぐる回る。
 だがその言葉を、彼の口は音声に出来ない。必然、それに応える者もなく、故に彼の逃亡・・と、彼への追撃・・は、終わる事なく続いていく。

 否、終わりは既に見えている。彼が逃走を諦めれば。追撃者達が諦めれば。そこでこの追いかけっこはお終いだ。
 しかし彼が逃亡を諦めるという事は、即ち己の命を諦める事であり――追撃者達が彼を追うのは主義や余興でなく、仕事である。双方に諦めるという選択肢は有り得ない。

 つまるところ、この追跡劇の幕が降りるには、彼の死しか選択肢はないのだ。



 嫌だ。こんなところで死ぬのは嫌だ。いや、どこであっても死ぬのは嫌だ。
 もう、死ぬのは、いやだ。



 死とは底無しの暗闇に堕ちていく事。冷たく暗くおぞましい、あの奈落へと堕ち続けていく事。かつて彼もそこへと堕ち、そこから浮かび上がってきた。それはある種の奇跡と言えるだろう。
 ただ、奇跡などという綺麗な言葉は、果たして正しい表現だろうか。神か悪魔の気紛れと言った方が、まだしも現状に繋がるものではあるまいか。

 もし、あれが奇跡だというのなら。
 彼は今、こうして追われる事などなかったはずなのだ。

「!」

 ぞくりと背筋を駆け上がる悪寒に、彼は咄嗟に身を横へと躍らせる。
 次瞬、彼の頭があった場所を、一発の光弾が駆け抜けていった。
 追いつかれた、そう彼が理解するのとどちらが早かったか。頭上を水色の帯が伸びていき、前方で緩やかな螺旋を描きつつ地面に降りて、彼の進路を塞ぐ。
 駆動音が近づいてくる。車輪が路上を駆ける音が近づいてくる。複数の足音が近づいてくる。そのどれもが、彼にとっては死刑執行の秒読みに等しい。

 水色の帯を滑り、一人の少女が彼の前に降り立った。白い鉢巻と、右腕の鋼拳が特徴的な、青髪の少女。
 じりと彼は一歩後ずさる。それは間違いなく、怖れから生まれた挙動だった。だが彼が反転して逃げるよりも先に、少女の仲間達が彼の逃げ道を塞いだ。
 彼の背後で、橙色の髪の少女が銃――と思しき得物――を構える。それより幾らか年若い赤髪の少年が槍を構える。少年と同年齢くらいの、桃色の髪の少女が二人より一歩引いた位置で身構える。

「でやぁああああっ!」

 先に動いたのは、青髪の少女。
 鋼拳の手首にある歯車状のパーツを回転させ、一直線に彼へと殴りかかってくる。攻撃の意思を存分に瞳に漲らせ、少女が彼との間合いを詰める。
 迎撃を――と身構えたところで、しかしぎしりと、歯車に異物の挟まった機巧のように、彼は動きを止める。止めざるを得なかった。頭の中で囁く声が、彼の脳髄から肉体の操作権を奪ってしまった。



 ――人間を、傷つけるのか?



 その硬直はいっそ致命的であったが――幸いにも、少女の鋼拳が彼を捉えるより早く、咄嗟の回避行動が間に合った。鋼拳は彼の身体を掠めるに留まるも、しかしその風圧は、それだけで彼の“外殻”を削っていく。直撃すればどうなるかは明白だった。
 そして攻勢はまだ終わらない。体勢を崩した彼へと向けて、槍を構えた赤髪の少年が突っ込んでくる。槍が推進器の機能を果たしているのだろう、その突撃はいっそ弾丸と呼べるほどに疾く直線的。反応は出来ても回避は出来ない。

 ただし。相手が人間であれば、の話だが。

「えっ!?」

 困惑の声を、彼の耳ははっきりと聞き取っていた。
 何の事は無い。彼は一閃必中の槍撃を回避する事に成功したのだ。崩れた体勢から、片足の筋力のみで跳躍し、槍撃の軌道上から逃れる。

 だが着地した彼が立ち上がるよりも速く、橙色の光弾が彼へと襲いかかった。
 銃弾らしからぬ複雑な軌道で迫る光弾に、実のところ殺傷力は無い。直撃したところで昏倒する程度だ。
 しかし。それを知らぬ彼の処方は、“迎撃”だった。

 迫る光弾に向けて左手を翳す。『待った』をかけるかのようなその動きは、無論、猶予を求めるものではない。彼の前腕が不気味に蠕動し、次瞬、光弾へと向けて何かが次々と、それこそ機銃の如き速度で射出された。細長く先端の尖った弾体はいっそ針と呼ぶのが近い。
 飛針に貫かれた光弾が爆発し、周囲が爆炎によって燈色に照り返される。地面も空も、少女達も。その中でただ一人、ただ一つ、彼だけは例外だった。

 炎の照り返しを受けて尚、彼の身体は鈍い灰色を失っていない。人骨を思わせる灰色の外殻に鎧われた、人間生物のシルエットからかけ離れたその姿。人の如き四肢を持ち、二本の脚で直立しているものの、それは明らかに、人間とは別種の“何か”。
 強いて既存の何かに準えるなら、それは“蜂”と呼べただろう。頭部の半分近くを占める、吊り上がった複眼。大鋏を思わせる顎。額から伸びる触角。甲冑の如き灰色の外殻は鋭利な突起が至る所から突き出ていて、酷く威嚇的。

 ――端的に言えば、蜂の意匠を持った人間。
 恐らくそれはどの世界、どの生態系にあっても、異端に分類されて然るべきものだろう。だがそれも至極当然。何せ彼は、既存の如何なる生態系にも属さない、一代限りの突然変異・・・・であるのだから。



 オルフェノク。
 人間の中から生まれ出でる、人間とは別個の進化種――その名を、少女達は知らない。



 爆発による黒煙が風に吹き散らされる。その向こうに、体勢を整えた少女達の姿が見えた。
 今にも飛び掛ってきそうな少女達を睨みつけ、同時に、この場を離れる隙を窺う。

 彼は一度も、少女達に対して口を開いていない。交渉も命乞いも皆無だ。彼は己が人間では無い事を正しく弁え――つまり“逮捕”では無く“駆除”されるべき存在であると理解して――その上で、生存の為に行動している。
 逃走か、鏖殺か。そのどちらかを選ぶ事のみが、彼に許された自由。

 殺すのは簡単だ。そして彼にはそれが出来る。オルフェノクと人間の間には絶対的な格差が存在する。生物としての位階が違うのだ、少女達に如何なる技能技術があったところで、それを引っ繰り返すには至らない。
 にも関わらず、彼はあえて、困難な方を選んだ。……誰も傷つけず、誰も殺さず、逃げ延びる。
 人間の上位種、オルフェノクの力を以ってしても容易ではないと、解った上で。

「………………」

 互いに機を窺い、張り詰める静寂が辺りを包む。
 一帯の大気が質量を持って圧し掛かるような膠着状態は、しかしあっさりと破られた。
 不意に、彼と少女達が立つ道路が、その路面がびきびきと不吉な音を伴って亀裂を穿たれていく。何かが地下に居る。そう気付くと同時、アスファルトをぶち破ってそれ・・は地上に姿を現した。

「ガジェット……!?」

 橙色の髪の少女が、呆然と呟いたのが聞こえた。
 彼と少女達の間に飛び出してきたのは、触手めいたコードを伸ばした、薬剤のカプセルを思わせる楕円体。それがガジェットⅠ型と呼ばれる類の機械兵器だと、彼は知らない。

 機械は一体だけではない。ざっと数える限り七体、いや八体。彼と少女達の間へと割り込んだそれらの動きは、まるで彼を護るかのようで。
 無論、彼はこの機械を知らない。この機械を遣わしてくる――機械が自身で判断してここに来たという事はないだろう――人間にも、まるで心当たりはない。

「こいつ……スカリエッティ一味の残党!?」

 だが、少女達はそう思ってはくれなかったらしい。それを責める事は出来ない、逆の立場なら、彼も恐らく同じ判断を下しただろうから。

 しかしこれは間違いなく好機だ。この機械が何を目的としてこの場に現れたのかは定かで無いが、少女達の意識が機械へと向く。今しかない。
 判断から行動までに要した時間は一刹那。たん、と後ろへ飛び退いて距離を取り、彼は逃走へと移行して――



 それが、隙だった。



「!?」

 気付いた時には、遅かった。
 青髪の少女が、既に彼を間合いに捉えている。進路を塞いでいる機械兵器達を、蜃気楼の只中を突っ切るようにすり抜けて、鋼拳を振りかぶっている。
 少女の背後に視線を遣る。それもまた隙だったのだが、彼の瞳は確かに、仲間達と共に身構える青髪の少女の姿をそこに認めた。目の前で今しも一撃を繰り出さんとする少女の後方に、まったく同じ姿形の少女がもう一人居る。

 馬鹿な。
 混乱が思考を攪拌する――しかしすぐに、そのどちらかが幻という可能性に思い至る。
 
 そしてその答えに辿り着くまでもなく、後方の少女は掻き消えた。残るのは眼前で拳を構える少女のみ。幻術によって気配を遮断し、この間合いにまで踏み込む事に成功した時点で、少女は完全に王手をかけている。
 鋼拳の歯車が火花を散らす。半端に逃走態勢に入った彼は、繰り出されるであろう一撃を躱せない。落ちてくる断頭台の刃を眺めるような、そんな奇妙な感覚があった。

「――やああああああっ!」

 咆哮と共に、拳が振り抜かれる。
 彼の胸板に、鋼拳が抉り込むように叩き込まれ。



 ごきりぼきりと、胸の奥でくぐもった音が響いた。






◆     ◆





序/了





◆     ◆







後書き:

 何これ訳分かんないんだけど、というツッコミが聞こえてきます。
 時系列順に話を進めていくと戦闘シーンが大分後になってしまうので、こうして最初にもってきた次第です。
 次回以降の数話を使って、この展開に辿り着くまでを書いていこうと思います。人によってはあまり好みではない進め方かもしれませんが、作者の趣味と思って、もう暫くお付き合いください。

 それでは次回で。



[7903] 第壱話/甲
Name: 透水◆44d72913 ID:35af097c
Date: 2023/12/29 20:31
「ふぁ」

 気がつけば、酷く薄暗い場所に居た。
 妙な臭いが鼻をつく。ベッドにしてはごわごわと妙な触感のある何かに半ば包まれて、横たわっている。

 むくりと身を起こし、振り返ってみれば、山と積まれたゴミ袋が目に入った。周囲を見回してみれば、そこが建物と建物の間に挟まれた、日の届かぬ路地裏であると気付く。
 まだ眠気に蝕まれ、胡乱なままの頭で状況を整理する――路地裏のゴミ捨て場で、ゴミに埋もれて寝てました。以上。

「…………あれ?」

 おかしい。記憶の辻褄が合わない。こんなところで、こんな状態で居るはずがない。
 酒癖の悪い人間なら酔っ払って家に帰る途中、ゴミ捨て場で酔い潰れ寝てしまったという事も有り得るのだろうが、少なくとも彼に関してはその可能性は排除出来る。酒癖云々という以前に、当年とって十四歳、中学二年生の少年であるのだから。

 空を見上げる。建物と建物の間、細く切り取られた空は、真っ青に澄み渡った快晴。これもまた、彼の記憶とは異なっている。
 つい先刻までの空は、夕焼けの茜色に染まっていた筈なのに。

「そうだ、携帯……!」

 ポケットをまさぐる。もしかしたら眠っている間に誰かに抜き取られているかもしれないという予想があったが、それに反して、携帯はちゃんと残っていた。

「良かっ……ん? あれ? あれ、財布は!?」

 ほっとしたのも束の間、尻ポケットに入っている筈の財布が無い事に気付く。ぱんぱんと尻ポケットを叩き、体側、着ているワイシャツの胸ポケットも同様にしてみるが、そのいずれにも手応えは皆無。背後に積まれたゴミの山を漁ってみるも、無論、そこに財布は見つからない。
 落としたか盗まれたか。どちらにしろ最悪だ。大した額が入っている訳ではなが、現金からカードからが根こそぎに無くなったのである。一瞬、目の前が真っ暗になった気がした。

 がっくりと肩を落とし、中折れ式の携帯電話を開いて、液晶画面を確認する。――そして彼は、いよいよ訳の分からない状況を認識する事になった。
 23:37。
 液晶画面の時刻表示は、真夜中を指し示していたのである。

「何で……!?」

 最早動揺というには生温い混乱が、彼の脳内をぐちゃぐちゃに攪拌する。
 額に手を当て、記憶を遡る。思い出せ。思い出せ思い出せ。此処で目を覚ますその直前まで、自分は一体何処で、何をしていた――?

 今日は朝から学校に行った。それは間違いない。今の彼の衣服は、通っている中学校の制服のままだ。授業を終え、所属している映画研究会(単に映画を視るだけの同好会)で香港系アクション映画を一本視聴して、下校した。そこまでは良し。
 ――そうだ。その帰り道だ。
 ぼんやり考え事しながら歩いていると、いきなり変な車――黒塗りのベンツだった気がする――が歩道に乗り上げるようにして停まり、そこから黒服の男達が飛び出してきて、有無を言わさず車の中に連れ込まれた。抵抗した気もするが、所詮中学二年生の腕力だ、屈強な男達に敵うはずもない。
 その内何か、布のようなもので口を塞がれ、そのまま意識が遠のいて――

「ああ、誘拐だったんだ」

 今更になって認識する。一度納得する答えが見つかれば、それ以上の混乱は無い。彼特有の精神構造だった。
 いや、特有というほど大したものでもあるまい。……極端な話、彼は物事に対する基準というものが、他人からやや離れている。
“あの経験”を物事の基準としているのだから――大抵の事に『大した事無い』と言い切ってしまう。王侯貴族の食事に慣れてしまった人間が、ジャンクフードに戻れなくなるようなものと例えれば、恐らく近いのだろう。方向性は真逆であったが。

 ……が、誘拐という答えもまた、幾つか説明のつかないところがある。
 時間感覚と実時間の齟齬もそうだが、こうしてゴミ捨て場に放置されているという現実。誘拐というよりはむしろ拉致に近いが、そのどちらであっても、こんなところに放置していく理由にはならないだろう。

 ともあれ、ここで考えていても仕方がない。とりあえず家に帰って考えよう。落とした財布に入っていたカードなども、利用停止の手続きをしなければ。
 路地裏から表通りへと出る。予想通りといえばその通りなのだが、見た事もない街並みだった。閑静な住宅街を歩いていたはずなのに、今、彼の視界に映るのはビルが立ち並ぶ繁華街。人通りも多い。浦島太郎の気分である。

「……どうしよう」

 途方にくれてぽつりと呟いた次の瞬間、周囲に悲鳴と怒号が響き渡った。次いで轟く、耳を劈く軋音。

 音の聞こえる方へ視線を向ければ、
 いやその挙動がそもそも間違いで、
 突っ込んでくる車が視界に入り込んで、
 やけにゆっくりと世界が流れて、
 血走った目で何事かを叫ぶ運転手が見えて、
 ああこれ轢かれるなあとやけに冷静な自分がいて、
 車を追って走ってくる藍髪の女の人が見えて、
 このタイミングじゃもう逃げられないと悟って、

 ………………………………。





◆     ◆





異形の花々/第壱話/甲





◆     ◆







 目が覚めたら病院だった。
 真実病院であるかどうかは明言出来ないが、少なくとも天井や壁は白一色、寝かされているベッドのシーツも真っ白である事や、消毒液臭い空気、ベッドの横に備え付けられている妙な機材などから見て、まず間違いないだろう。

「……生きてる」

 上体を起こす――全身に取り付けられたチューブやコードが邪魔臭くて、乱暴に引き剥がした。
 掌に視線を落とす。ぐーぱーと握り開いてみる。ぐるりと腕を回してみる。そのいずれの動きにも、違和感はない。
 あらためて、周囲を見回してみる。生命維持装置と思しき機材に面積の大半を占領され、ただでさえそう広くないというのに、一層狭苦しく感じる個室。その割に閉塞感が薄いのは、開け放たれた窓から吹き込んでくる風のせいだろうか。
 と。

「あ……!?」

 不意に、困惑の声が彼の耳朶を打った。
 声が聞こえた方、個室の入り口へと視線を向ける。入り口の扉が開いており、そこにやや紫がかった藍色の髪の女性――少女から女性へと変わる半ばほどだろうか――が、口をぽかんと開けて突っ立っていた。驚きによって思考がフリーズしてしまった人間の顔。しかしすぐに彼女は再起動を果たし、扉を開け放したまま、ぱたぱたと走り去ってしまった。

「?」

 女性のリアクションに思い当たるところの無い彼は、ただ首を傾げるだけ。
 程無く、ばたばたと複数の足音が聞こえ、医者と看護師が個室へと駆け込んできた。その後ろに、先程出て行った藍髪の女性の姿も見える。
 慌しく医者と看護師は彼の身体を検査し、生命維持装置の記録を調べて、どこか釈然としない顔をしつつも部屋を出て行った。一応、最後に「安静にしてて下さい」と言い残して。
 かくて部屋には、彼と藍髪の女性だけが残された。

「えっと……その、えっと、座ってください」
「あ、はい」

 立たせたままというのも気が引けたので、ベッド横のパイプ椅子を展開して、女性に勧める。あっさりと女性はそれに腰掛けた。
 ……が、そこから先が続かない。女性が何か言いたげにしているのは判るのだが、果たしてそれを訊いても良いものか。
 嫌な沈黙が個室を満たし、重たい空気が彼と彼女を包む。それにいつまでも耐えていられるほど、彼は厚顔ではなかった。

「「あの」」

 お約束と言えばお約束だ――彼と彼女が口を開いたのは、まったく同時。
 どうぞお先に、いえいえ私は後で、というこれまたお約束のやり取りの後、結局、彼の方から先に、質問を切り出す事となった。

「此処……どこですか?」
「ここですか? ああ、ミッドチルダ総合医療センターです。四日も眠っていたんですよ、貴方」
「みっどちるだ……?」

 医療センターという事は、まあ病院という予想は外れていなかったようだ。……しかしその頭についていた聞き慣れない名前に、彼は首を傾げる。
 彼は北海道札幌市在住の中学生であり、北海道には幾つか漢字読みの難しい地名がある事も知っているが(『訓子府』で『くんねっぷ』とか、『新冠』で『にいかっぷ』等だ)、“みっどちるだ”なる地名に関しては、まるで聞き覚えが無い。
 まさか外国という事もないだろう。彼のその予想は、半分外れ、半分的中する。

ミッド首都クラナガンの郊外にあるんですけど……ご存じなかったですか?」
「くらながん?」

 至極あっさりと、さも一般常識のような口調で女性は言うが、しかしその名詞も、彼の知識の中にはない。カタカナ表記すら出来ない有様だ。
 妙に噛み合わない会話に、藍髪の女性は眉を寄せ、「貴方、ご自宅はどちらに?」と訊いてきた。

「えっと……札幌市中央区南一条西二十三丁目――」
「サッポロシ? そんな住所、あったかしら……?」

 首を傾げる女性だったが、不意に「あ」と何かに気付いたかのような反応を見せると、渋い顔で目を伏せた。何かを考え込んでいるようにも見える。“ように見える”と言うか、事実、その通りであったのだが。
 やがて顔を上げた女性は、しかしその思索の結果をすぐに口にはせず、まったく別の言葉を彼へと向ける。
 別段、脈絡のない話に切り替えた訳ではない――むしろこれをこそ最初に彼女は言おうとしたのだろう、彼女が彼へと向けたのは、彼の名を問う質問だった。

「名前……ああ」

 そういえば、彼はまだ彼女に対して名乗っていないし、彼女の名も知らない。

「ああ、私が先に言うべきですね。――ギンガ・ナカジマです。よろしく」
「あ、ご丁寧にどーも。衛司……結城(ユウキ)衛司(エイジ)です」

 彼――結城衛司と彼女――ギンガ・ナカジマが共に自己紹介を済ませ、ぺこぺこと互いに頭を下げる。傍から見れば微妙に滑稽な図であった。
 こほん、と一つ咳払いを置いて、ギンガが改めて口を開く。

「その……結城くん」
「あ、衛司で良いです。皆、下の名前で呼ぶから」

 ちなみに下の名前で呼ばれることに、大した理由はなかったりする。
 同じ読みの『悠木ユウキ』とか、『由木ユキ』とか『夕浮ユウウキ』とか紛らわしい苗字の同級生が何人も居るので、ややこしいから下の名前で呼んでもらっているのだ。
 説明がめんどくさいので、その辺の事情は割愛。ギンガもわざわざ訊いてこなかった。

「そう。じゃあ、衛司くん。……これから私が話す事は、貴方にとっては信じられない事かもしれないけれど……最後まで、聞いてください」

 やけに勿体つけた前置きに、はあ、と衛司は生返事を返す。
 信じられない事かもしれない――ギンガはそう言うが、衛司にしてみれば、そんな事は存在しない。彼の身は既にこの世の条理常識・・・・・・・・から離れている・・・・・・・。今更何を言われたところで、それを拒絶する事は有り得ない。
 ただ、『信じる』という事と『理解する』という事は、まったく別の事柄で。

「結城衛司くん。この世界は――貴方が居た世界ではありません」
「………………はい?」

 だからギンガの言い放った言葉に対し、呆けたような間抜け面を晒してしまったのは、ある意味必然であったと言えよう。





◆      ◆







 次元漂流者。
 時空間の歪みや亀裂、次元嵐などの次元災害などによって、他の次元世界へと飛ばされてしまった人間の事を指す。

 もっとも、次元漂流者というものは滅多に現れない。人為的に起こされた次元災害ならともかく、自然現象的に発生する時空間の歪みが人間一人を飲み込むサイズになる事など滅多に無いし、またそうなった場合でも、他の次元世界に放り出される可能性は極めて低いからだ。大抵の場合はそのまま永久に次元空間を彷徨う事になる。
 現在の結城衛司はまさしく次元漂流者であったのだが、それがどれほど奇跡的な確率であるかを実感するには、話が少しばかり彼のキャパシティを超えていた。

「えっと……じゃあ、ここは地球じゃなくて、ミッドチルダ、って世界なんですね?」
「はい」

 衛司の確認に、ギンガがはっきりと頷く。

 最初、からかわれているのではないかと疑った。『見知らぬ外国の地』、というのならまだしも(それはそれで激しく嫌だが)、『別の世界』である。SF小説か漫画、アニメでしか聞いた事の無い概念が今の現実であると言われて、すぐに納得出来る人間はそうはいないだろう。衛司もまた、例外では無い。
 それを語るギンガの態度が真摯であった事、話の内容を現実に照らし合わせれば大半の疑問に説明付けられる事が、彼女の言を戯言と切って捨てる事を阻んでいる。とは言え、半信半疑から先に進まないのも確かであるが。

 彼女によれば、世界というものは次元空間という海に浮かぶ小島のようなものらしい。衛司が居た世界もそうだし、ギンガがミッドチルダと呼ぶこの世界もその一つ。これらの世界において治安維持を行う組織に、ギンガは属しているとの事だった。
 時空管理局――中でも、管理局の直接管理下にある世界に常駐する部隊を『地上部隊』というらしいが、ミッドチルダにもそれは存在し(地上部隊の総本部があるらしい)、彼女が属しているのも、その中の一部隊なのだとか。

「はあ……成程。公務員みたいなもんなのかな」
「そうですね。多分、そんな感じです。……えっと、その」

 そこまで話したところで、不意に、ギンガが口ごもる。何か言い辛い事でもあるかのように。
 そして彼女はやおら「ごめんなさい!」と頭を下げた。

 謝られる心当たりが何一つない衛司としては、ただ目を白黒させるだけ。私のミスなんですこの度は大変なご迷惑をかけてしまい誠に申し訳ありません、と言葉を連ねるギンガに対し、何をどう言ったものかとおろおろするしか出来ない。
 とにかくまず説明を、という衛司の言葉に、ギンガはようやく顔を上げ、ぽつぽつと説明を始めた。

「……実は……」

 言い辛い事を言わせているためか、ギンガの言葉は衛司の聞き取れるぎりぎりの音量だった。ただしその内容に関しては意外なほど明快で、余計な疑問を差し挟む余地の無いほど、分かり易いものであったのだが。

 ……分かり易い彼女の説明を更に要約すれば、ギンガはあの日、とある犯罪者を追っていたらしい。
 逮捕する一歩手前まで追い詰めたは良いのだが、彼女のミスによって逃走を許してしまい、犯罪者は近くにあった車を奪って逃走。それを追う途中で車が歩道に乗り上げ、そこを歩いていた人間を盛大に撥ね飛ばしてしまった。

 言うまでも無く、撥ねられた歩行者とは衛司の事。ちなみに逃げた犯人は直後ハンドル操作を誤り――人間一人の質量を撥ね飛ばしたのだから、まあ、当然というところだろう――近くの電柱に衝突。無事逮捕されたらしい。
 そういえば、と衛司は思い出す。この場所で目を覚ます前の、最後の記憶。こちらへ向けて突っ込んでくる車のその向こうに、車を追って走ってくる女性が居たような。
 今にして思えば、あれがギンガだったのだろう。

 一通りの説明を終え、怯えるように目を伏せているギンガを見遣る。彼女にしてみれば、衛司が撥ねられたのは自身の責任なのだろう。事実、彼女が犯罪者を逃がさなければ衛司が巻き込まれる事も無かったのだから、彼女の態度はある意味で当然でもある。

 ただ衛司にしてみれば、別段恨み言を述べるつもりも無い。被害者でこそあるものの、良くある話だと割り切ってもいる。
 ついでに言えば、自身を撥ねた犯人に対してならいざ知らず、それを追っていた人間にまで怒りをぶつけるほど、衛司は短気でも無い。
 気にしてない、という衛司の言葉に、ギンガはその表情をますます固くしたものの――そこにその場凌ぎの慰めが無いと気付いたか、やがてゆっくりと頷いた。

「――けど、驚きました。もう目が覚めるなんて」

 暫くして、ふと、ギンガがそう呟いた。

「ここに運び込まれた時は、死んでてもおかしくなかったって、お医者様が言ってましたから」

 と言うより、死んでないのがおかしいという有様だったらしい。僅か四日で、後遺症の類も見られずに起き上がってくるなど、本来有り得ない事だ。
「まあ、傷の治りは早い方なんで」と、愛想笑いを浮かべて衛司は返した。

 それは決して嘘では無かったが、かと言って真実からも程遠い。
 死んでないのがおかしい。医者の見立ては間違いではない。ただそれは人間の範疇においてという事であり、結城衛司を人間と見てしまったのが、そもそも間違っている。

 故にその診断は、間違いではないからこそ間違っている……と、酷く矛盾した結果を導き出す。
 その矛盾にギンガは気付かず、その矛盾に気付いている衛司は、その矛盾の存在を口にはしなかった。

「あ、もうこんな時間――ごめんなさい、私、そろそろ」
「ああ、はい。色々とありがとうございました、ナカジマさん」
「いいえ。また来ますね、衛司くん」

 最後ににっこりと微笑んで――衛司が思わず赤面してしまいそうな、それはそれは綺麗な笑顔だった――ギンガが衛司の病室を後にする。
 ぱたんと扉が閉まり、部屋には結城衛司がただ一人残された。
 起こしていた上体を倒し、ベッドに横になる。白く清潔な天井が視界を占拠する。染み一つ無いそれをぼうと見上げながら、衛司はぽつりと呟いた。

「……異世界、か」

 まるで実感はないが、そうであるというのなら、それを受け入れるも吝かではない。

 本来なら――もう少し、取り乱すべきなのだろう。
 衛司に向けられていたギンガの目には、彼女自身がそうと認識しているかはともかくとして、確かに不審が混じっていた。どうして彼はこうも冷静なのかと、どこかで訝しんでいるのが見て取れた。
 考えてみれば、当然だろう。衛司がこの世界に来るまでの経緯は、どう考えても自然現象からは程遠い。何らかの事件に巻き込まれ、この世界まで拉致されてきたというのに、彼はまるで混乱した様子がなかったのだ。不審な目で見たところで、誰が責められよう。



 ああ、まったく。
 こういう時、もっと混乱して取り乱して喚き散らすのが、人間らしい・・・・・振る舞いというものだろうに――



「…………っ、と」

 不意に、衛司が顔を掌で覆う。誰が居る訳でもないのに、その顔を見られたくないとばかりに覆い隠す。

 いや。事実、見られたくないのだろう。不気味な紋様――どこか“蜂”を思わせる――の浮かび上がった顔は、万が一であっても他者の目に触れさせる事は出来ない。
 指の間から覗く瞳は本来の黒が抜け落ちた灰色。顔に浮かび上がる紋様と合わせ、その面相は最早、人間のそれとは著しくかけ離れている。もしそれを目にした人間が居たならば、まず間違いなく、恐慌と共にこう言い放つだろう。

 化物――と。

「いや……うん。別に、間違っちゃいないんだけど、ね」

 顔を覆っていた掌を下ろし、一つ大きなため息をついて、衛司は目を閉じる。その顔はいつも通りの、結城衛司の顔。人間の顔だった。
 何故だろうか、酷く眠い。四日間も眠り続けていたというのに、何日も徹夜した後のような眠気が、彼の脳髄を蝕んでいる。
 睡魔に誘われるまま、衛司の意識は泥の底へと沈んでいった。



 寝顔は安らかだった。
 まるで、死んでいるかのように。





◆     ◆





第壱話/甲/了





◆     ◆







後書き……は、甲乙終わった後にまとめて。



[7903] 第壱話/乙
Name: 透水◆44d72913 ID:35af097c
Date: 2023/12/29 20:32



◆     ◆





異形の花々/第壱話/乙





◆     ◆







 その日、八神はやてとリインフォースⅡはミッドチルダ首都クラナガンに存在する、一棟の高層ビルの前へと立っていた。

 時空管理局地上本部の超高層建築と比べればさすがに見劣りするが、それでもミッドチルダにおいては一、二を争う規模の建築物。天を衝くと評しても決して過言ではないだろう。その先端は雲にかかって窺えない。見上げていると首が疲れてくる。
 管理局地上本部の威容を知っているが故に、はやてとリインはその大きさにこそ驚きを覚えないものの、しかしその背景――つまり、このビルディングが此処に在る理由――に関しては、些か以上の驚きを抱いていた。

 この高層ビル、無論、ただ大きいだけの箱ではない。
 ミッドチルダを初めとする幾多の次元世界を股にかけた多国籍企業、否、多世界籍・・・・企業の本社ビルである。管理局地上本部がその権力の上に築かれたものとするのなら、このビルは膨大な財力の具現。 

 ビルの正面入口までにはやや距離がある。今、二人が立っているのは、正面玄関へと続く道の始点だ。
 彼女達の傍らには高さ五メートルほどの鉄柱が聳えている。上から見れば六角形、つまり六角柱の形状をしたそれは、どの面にも社名が刻み込まれた鋼板が填め込まれている。どの位置、どの角度からも、それを視認出来る距離にあれば、鋼板に刻まれた社名を確認出来るだろう。
 刻み込まれているのは、十文字のアルファベットだ。ミッド文字でもベルカ文字でもない。第97管理外世界で最も広く使われている文字をレタリングしたものが刻まれている。



 SMARTBRAIN――スマートブレイン、と。



 ミッドチルダにおいて知らぬ者は居ないと言われる超巨大企業。時空管理局にさえ――本局・地上部隊を問わず――多大な影響力を持つと言われるメガ・コングロマリットの本拠を、今、はやてとリインは見上げていた。

「はやてちゃん、お時間に遅れちゃうですよ?」
「ん、そやね。行こか、リイン」
「はいです!」

 頷きあって、二人はスマートブレイン本社ビルの正面入口へと向け、足を踏み出す。まるで鯨の口内へ自ら飛び込んでいくような感覚は、恐らく、はやてとリインフォースⅡに共通のものだっただろう。

「けど、何やな……まさかこっちに来てから、スマートブレインと関わるとは思わへんかったなぁ」

 ふと、はやてが苦笑気味にそう呟いた。
 はやてがミッドチルダに居を構えて、四年と少し。その間、最も驚いたのは――無論、彼女のごく個人的な事でだ――地球に存在していた大企業が、ミッドチルダにその本拠を移していたと知った事だ。

 存在“していた”と過去形であるのは、地球におけるスマートブレイン社が既に無いからだ。
 確か、ヴォルケンリッターの面々と出会う半年ほど前に、何の前触れも無く倒産してしまった。どのチャンネルを回しても一日数回は目にするスマートブレインのCMが、倒産のニュースが流れた日を境にぱったりと見なくなった。

 ただ、だから何だというほどのものでもない。八歳かそこらの記憶など放っておいても風化し消えてなくなる。はやてがスマートブレインの名前を思い出したのは、ミッドに移住して直後、こちらのTVを初めて見た時だ。
 画面一杯に群れ飛ぶ、蒼色の蝶。
 それが作り出す、どこか幻想的な光景が、はやての記憶からスマートブレインの名を引き摺り出した。
 とは言え実際問題、八神はやてという個人と超巨大企業スマートブレインとの間に接点などあるはずもなく……日々の生活を営む間に再び忘却の彼方へ追い遣ってしまったのは、ある意味当然の事と言えよう。

「リインは良く知らないですけど……スマートブレインって会社は、地球では有名だったですか?」
「せやね。知名度って意味やったら、多分日本一やったと思う。ま、今はもう、地球じゃ誰も憶えてへんやろけどな」

 どれほど覇と威を称えようと、忘れ去られる時は一瞬だ。リインフォースⅡがこの世に生を受けた時には既に、スマートブレインの名は過去のものとなっていた。
 さておき二人は正面入口のドアを潜り、エントランスホールへと這入った。まっすぐ受付へと向かい、受付嬢に、来訪の目的と面会相手を告げる。
 ロビーに置かれたソファーにて待つ事数分、やがて整った身形の男が一人、はやて達のところへと歩み寄ってきた。

「時空管理局の八神二佐と、リインフォースⅡ空曹長ですね。お待ちしておりました」

 台本を読みあげるかのように滑らかな口調で、男ははやて達の名を確認する。
 酷く特徴に乏しい男だった。目を瞠るほどの美形でも眉を顰めるほどの不細工でもなく、高くも低くもない背丈に太っても痩せてもいない体型。およそ特徴と呼べるものが皆無。平凡、という事ではなく、印象に残らないと――恐らく視線を切ってしまえば、どんな顔をしていたかすら思い出せまい――そんな男だった。

 特徴の無い男は、「ご案内致します。どうぞ、こちらへ」とはやて達を先導して歩き出す。エレベーターに乗り込み、最上階のボタンを押した。重力の狂う感覚が一分弱――やがて音もなくエレベーターは停止し、電子音声のアナウンスと共に、扉が開かれる。
 最上階のエレベーターホールは酷く静かだった。一階のロビーにあった喧騒が、ここには欠片も存在しない。
 そしてエレベーターホールから伸びる通路の突き当りに、目的の部屋はあった。『社長室』と、こちらはミッド文字で書かれたプレートが扉に填め込まれている。

「失礼します、社長。八神二佐、リインフォースⅡ空曹長をお連れしました」

 幾つもの次元世界を股にかける超巨大企業の社長室――とは思えぬほど、そこは簡素な部屋だった。
 決してみすぼらしいという意味ではない。素朴ではあるが重厚な造りの実用品で整えられており、無用な華美さが見受けられないというだけの事なのだが、しかしそれ故に、妙に拍子抜けするような感覚を、来訪者に与えている。
 四囲の壁の内、入口の向かいにある一面は壁は丸ごと透明なガラス張りの窓となっていて、燦々と差し込む陽光が、室内を照らし出している。

 その窓際に――女が、一人。
 はやて達に背を向けていた彼女が、男の言葉に反応し、振り向く。

 この部屋へはやて達を案内してきた男と異なり、やけに特徴的な―― その外見に備わる諸々によって、一度見れば忘れられないほどの印象を与える女だった。
 年の頃はどう見ても二十代に乗ったばかり。はやてやフェイト・T・ハラオウン、高町なのはと同い年と言っても通るだろう。はやてとて管理局の中でかなり高位の役職に就いているが、それでも自分と同年齢の小娘が超巨大企業のトップを務めているというのは、驚くべき事でしかない。

 脛裏にまで届こうかという、長い長い黒髪。
 黒曜石を思わせる、漆黒の瞳。
 髪と瞳の色に反して、白磁の如く白い肌。その肌のせいか、ルージュの引かれた唇が酷く艶かしく見える。
 はやてにしてみればやや残念な事に、さして肉感的な身体ではない。女性用のスーツを纏っているが、その上から窺える胸の膨らみははやてと比しても尚ささやかな方だ。しかしそれで良いのだろう。彼女のスタイルは控えめな胸によって完成されている。いっそ人造物を思わせる調律の取れたそのプロポーションに、余計な扇情を招く肉感は不必要だ。

 イメージとしては、古い日本人形。整った顔立ちが八神はやてや高町なのはと同様、東洋系のものであるせいか、余計にそんなイメージを見る者に抱かせる。
 彼女が、現在のスマートブレイン社における最高責任者。
 八神はやてとリインフォースⅡは、彼女と会う為にここを訪れている。

「ああ――ご苦労様、シャルム。退がって良いわ」
「は」

 一礼して、男が部屋を去っていく。残されたはやて達は勧められるまま、社長室の片隅に置かれた簡易な応接スペース――革のソファーへと腰を下ろした。
 一階のロビーに置かれていたソファーとはまるで座り心地が違う。会談に応接室では無く社長室を使うあたり、この女社長は実用一辺倒の人間なのかと思っていたが、どうやらそれだけでもないようだと、はやては判断した。
 窓際のデスクの脇に置かれたトランクを手に取り、女社長がはやて達の対面に座る。
 懐に手を差し入れ、そこから名刺を取り出して、それをはやて達へと差し出した。

「初めまして。わたくし、弊社の社長を務めております、結城(ユウキ)真樹菜(マキナ)と申します」
「あ、これはご丁寧に、どうもです」

 差し出された名刺を受け取り、返礼に自身の名刺を差し出すはやてとリイン。まあ、リインの名刺ははやてが代わりに渡したのだが(と言うか、サイズ的な問題から、リインの名刺ははやてが持ち歩いている)。
 がちゃりと社長室の扉が開き、小柄な女性が部屋に入ってきた。手にはコーヒーの注がれたカップや、ミルク、砂糖の載った盆。ご丁寧にリインサイズのカップまである。それをはやて達の前に置き、「ごゆっクリ」と微妙なイントネーションで言い残してから、彼女は出ていった。
 部屋の扉が閉まると同時に、女社長――真樹菜が口を開く。

「本日はお呼び立てしてしまい、誠に申し訳御座いません。本来ならわたくし共が出向くのが筋なのですが――」
「いや、そんな、恐縮です。これもわたしらの仕事ですので、気にせんといてください」
「そう言って頂けると、有難いですわ」

 薄っすらと微笑みつつ、真樹菜がテーブルの上にトランクを置く。それが故郷において、核の直撃にも耐え得ると評された一品である事をはやては知らない。ただその頑丈さは見るだけで知れて、それだけの強度によって防護しなければならない代物が中に収められている事を、改めて認識する。

 かちゃりと、ささやかな金属音と共にトランクが開く。中に収められていたのは、掌サイズの宝玉だった。大きさとしてはテニスボールより一回り小さいくらいだろうか。翡翠の如き深緑色であったが、翡翠よりも尚透明度が高い。
 真樹菜の身体が障害となり、窓から差し込む陽光は直接宝玉を照らしてはいない。にも関わらず、宝玉は不気味な輝きを見せていた。
 ロストロギア。この宝玉が、そう呼ばれる古代遺物の範疇に在る物体であると、事前にはやては知らされていた。元より、今日の彼女は、これを受け取る為にスマートブレイン社を訪れているのだ。

「……これが」
「ええ。かつて、とある世界において猛威を奮った邪教集団の至宝――『キングストーン』ですわ」

 スマートブレインを訪れる前、はやては無限書庫から、そのロストロギアについての情報を仕入れている。

 遥か昔――それこそ古代ベルカが成立するよりも前、アルハザードがまだ伝承では無く現実として存在したと謳われる時代。とある宗教が存在した。
 教義自体は何処にでもある宗教と大して変わりない。神と崇める存在に供物を奉げ、己等の繁栄を祈願する。だがその供物という部分において、その宗教は常軌を逸していた。
 正確には、供物を用意するプロセスが、であるが。

 ――殺し合い、である。
 『太陽』と『月』、二つの秘石をそれぞれ手にする二人の“選ばれし者”が、その智と力の全てを駆使し殺し合う。そうして生き残った方を、神への供物として奉げるのだ。

 それだけならば良い。宗教において生贄という概念は珍しいものではない。この宗教が異端であるのは、“選ばれし者”同士の殺し合いにおいて、周囲への被害がまるで考慮されていない点にある。否、むしろそれをこそ推奨していたらしい。
 流血に濡れ、悲鳴を浴びてこそ勝者である。無辜の民が何人犠牲となったのかは、記録にも伝承にも残されてはいない。それを目にした者達が、数える事すら放棄したが故だ。その惨禍を封印すべしと断じた故だ。
 とは言え、それも既に遥か過去の話。既にその宗教は廃れ、至宝たる秘石も、こうして今、はやて達の目の前にある。

「随分と前の話になりますけれど。とある世界でわたくし共が進めていた開発事業がありまして、そこの現場から出土したものですの。そのまま社の保管庫に仕舞いこまれていたのですが、やはりロストロギアですし、管理局の方で預かって頂いた方が良いかと思いまして」
「ありがとうございます。皆が皆、結城さんみたいに協力的やったらええんですけど」

 苦笑気味にはやてがそう言うと、真樹菜は口に手をあて、ころころと上品に笑った。
 とある世界、と真樹菜がぼかしたのはそれなりの意図があっての事だろうが、それは実際、吉と出ていた。もし目の前のロストロギアが、己の故郷――地球から出土したものと知れば、はやてとてこうも暢気にはいられなかっただろう。

 トランクが閉じられ、すいとテーブルの上を滑るようにして、差し出される。それをはやては受け取り、己の膝の上に乗せた。
 これで仕事は終わりである。はやては元より、真樹菜とて多忙な身の上であろう。あまり長居するのは良くないと、はやてが辞去の言葉を口にしようとしたその直前、それを見越して、そしてそれを留めるかのように、真樹菜が話題を切り出してくる。

「けれど、正直驚きましたわ。管理局の方がこれを受け取りに来られるとは聞いておりましたけれど、まさかそれがあの『奇跡の部隊』の隊長さんとは」
「あはは……いや、あれは皆が頑張ってくれたおかげです。わたしは何もしてないと言いますか……」
「ご謙遜を」

 つい先日――もう一月以上前になるが――ミッドチルダを震撼させた『JS事件』は、まだ人々の記憶に新しい。そしてそれを解決したとされる機動六課は、今や『奇跡の部隊』として連日メディアに取り上げられている。
 正直、はやてにしてみれば、その評価は好ましいものではない。隊員達の奮戦は元より、多大に運に助けられて拾った勝利だ。それを、部隊長である自分の手柄のように評されるのは、愉快とは到底言えるものではなかった。

 しかし個人の感傷など、組織が一々酌んでくれる訳もない。今日、はやてがこうして“お使い”を命じられたのは、ひとえにその名声が故の事である。
『JS事件』によって巷では評価が大暴落している(しかも未だその真っ最中だ)管理局に、以前と変わらぬ、いや以前にも増して多大な献金を贈る企業からの頼み事だ。ご機嫌取りの為にも、現状、管理局で最も有名な人間を遣わそうと考えたところで、さして不自然はない。
 また、機動六課はレリック専任部隊とは言え、本局の古代遺物管理部に属する部隊である。ロストロギアの回収はその役目から離れている訳でもない。いつぞや、地球の海鳴市に派遣された前例もある。命令とあらば、はやてに否やは無かった。

 ……ちなみに。
『JS事件』の終結後、機動六課は予想外に静かな日々を送っていた。無論、はやてやフェイト、なのは達隊長陣は山のような書類整理や事務仕事に煩わされているのだが、ガジェットの出没数が激減したせいか、それでも往時ほどの忙しさではない。
 こうして一部隊を預かる人間らしからぬ“お使い”は、はやてにとってはむしろ気分転換でもあった。

「部隊長ともなると、お暇な時間なんて少ないのではありませんか?」
「んー。いや、そんな夜も寝れへんほどやないです。特に最近は急な出動もありませんし。そういう結城社長こそ、お忙しいように見えますけど」
「そうでもありませんわ。これで結構、プライベートな時間も取れますし。ただこの仕事、思ったより出逢いが少なくて」

 おや、と内心で僅かな驚きを覚える。
 人形めいて美しく、どこか超然とした雰囲気すらある女社長が、予想外に俗っぽい事を言い出したのである。
 どう対応したものか少しだけ迷うが、むしろここは普段の自分で良いだろうとはやては判断した。向こうもはやての緊張を解そうと、気安い話題を振ってきたのだろう。

「えー? そんな事言うて。上流階級のセレブな人たちと毎晩パーティーしてるんとちゃいますか?」
「パーティーは否定しませんけれど……言い寄ってくるのが馬鹿な二代目ボンボンとか、粗野な成り上がりばかりで。何処かに良い殿方はいらっしゃらないかしら」
「あはは。そこは本当に悩みどころですー」
「リインさんは、如何ですの? 誰か良い人などいらっしゃいません?」
「ふぇ!? り、リインは、まだそーゆーのは……」
「あら残念」

 大企業の社長とは言え、はやてとほぼ同年齢の真樹菜である。お喋りの種は互いに多々持ち合わせていたし、それが重なるところも少なくなかった。場を辞そうとするそのタイミングに先んじて話題を振ってくる真樹菜に、はやては暫しそのお喋りに付き合おうと決める。
 そう決めてしまえば、思った以上に砕けた口調で、いい感じに会話は盛り上がった。

「――そう言えば」

 暫く、他愛無いお喋りを続けていたはやてと真樹菜だったが、ふと、思い出したように真樹菜が切り出した。

「管理局の方と会ったら訊いてみたい事があったのですけれど――構わないでしょうか?」
「はあ、答えられる事に限られますけど」

 はやての答えに真樹菜はくすりと笑んで、もう大分温くなったコーヒーを一口啜ってから、続きを口にする。

「最近、ミッドに出没する『灰色の怪物』について――八神二佐の見解を、お伺いしたいのですが」





◆      ◆







「糞! 畜生! 何だよ――何なんだよ、あの化物ッ!」
「がたがた言ってる間に撃て! 撃ち続けろっ!」

 恐慌と共に撃ち放たれる魔力弾。数にして二十を超えるそれが、迫り来る怪物へと向けて加速する。
 魔力弾は既に非殺傷設定を解除されている。常人が当たれば、それこそ風穴を開けられるだろう。一発でも喰らえば致命傷であるそれを、しかし標的は躱そうともしない。

 ぎんぎんぎんぎんっ――と、異音が響く。
 魔法障壁の一つも、相手は展開していない。そもそも防御に類する行動さえとっていたかどうか。
 結果から言えば、魔力弾はその全てが全て、標的に命中した。人体であれば急所となる部位を寸分無く穿った。にも関わらず魔力弾は全てその灰色の外殻に弾かれ、砕けて霧散するか、跳弾して周囲の構造物を傷つけるに留まる。

 先程から、この繰り返しであった。
 今、怪物と相対している陸士211部隊は、決して練度の低い部隊ではない。先の『JS事件』においても、最前線でガジェットと戦いながら部隊員の重軽傷者合わせて七名という被害に抑えた実績がある。隊員の半数以上が病院送りとなった隊が珍しくない中、それは疑いの余地無く誇れる実績だ。
 その彼らをして、まるで歯が立たない――目の前の怪物は、文字通りに怪物であるが故に。

 そう、怪物である。
 中世のプレートアーマーを思わせる重厚な灰色の外殻、肥大化した上半身によって逆三角形を描くシルエット、頭部から伸びる一対の角。まるで牛、それも強靭な野牛の如き意匠を、目の前の怪物はその身に備えていた。
 昨今、ミッドチルダを騒がす化物――『灰色の怪物』に相違無い。

「――来るぞっ!」

 隊長が叫んだ刹那、空気が爆ぜた。
 否、それは大気を一瞬で伝播した音響。砲弾の炸裂と紛うばかりの大音響は、“牛男”が足元の地面を蹴って突貫する音だ。

 散れっ――隊長の指示が隊員達の耳に届くよりも更に速く、“牛男”は密集隊形を取る隊員達のど真ん中へと突っ込んで行く。
 それはさながら、蟻の群れに突っ込む重装甲車の如き有様であった。違うのは怪物と隊員達の体格にそう差がない事くらいだろう。踏み潰し轢き潰される事態にこそならないものの、しかし怪物のぶちかましを喰らった隊員が、木の葉のように吹き飛ばされて宙を舞う。

 隊員達の中を突っ切った“牛男”が、蹄を蹴立てて停止する。――反転。その視線が、地に倒れ伏し、恐怖に腰を抜かす隊員達を捉える。

「ひ、い、いいい……!」

 一人の隊員が、引き攣った悲鳴を上げて後ずさった。
 心折れ、障害足り得なくなった彼を、しかし怪物に見逃す気は無いらしい。
 がん、とアスファルトを蹄が蹴り砕く。再び始まる重装甲の突進。今度という今度こそ、その蹄にかけられた誰かが命を落とすだろう。そう予感させるだけの暴力を、“牛男”は全身から発していた。
 迫る怪物。その圧に射竦められた隊員は、最早逃げる事もままならない。数瞬の後に挽き肉と変えられるであろう彼の名を、仲間が叫ぶ。無駄な事だ。怪物が突進を始めた時点で、それを止める術は無い。

 ――否。

「はぁああああああっ!」

 裂帛の叫びが、突進の轟音の中にあって尚、高らかに響く。
 次いで響くは剣戟音。耳を劈く高音が辺りに轟き、派手に散る火花が周囲を一瞬だけ明るく照らし出す。
 音の源は乱入者。突如として割り込んできた、一人の女性―― 一人の騎士からのもの。
 時空管理局にその人ありと謳われる『剣の騎士』、シグナム二等空尉であった。
 割り込むと同時に繰り出したシグナムの一撃が“牛男”の突進を逸らし――阻む、とまではいかなかった――怪物はそのまま、近くの壁へと激突する。

「シグナム二尉!」
「大丈夫か!? 負傷者を連れて退がれ! ここは私が引き受ける!」
「しかし……いえ、了解しました!」

 万全の状態ならばシグナムの援護も出来ただろうが、今は足手纏いにしかならない。それを過たず理解していたのだろう、隊長はシグナムの指示に素直に従い、負傷者と共に撤退していく。良く訓練されていると窺える、見事な引き際だった。

「――さて」

 退がっていく陸士211部隊から視線を切り、シグナムは敵を見据える。壁に突っ込んでいた“牛男”が、それと同時に瓦礫を吹き飛ばして、再び姿を現した。

「貴様に告げる! 大人しく投降するならば良し、さもなくばこの刃にて貴様を斬り伏せる事となる! こちらは不要な戦闘を望まぬ、同意あらば武装を解除し、こちらの指示に従え!」

 実際、シグナムのこの言葉は無用であると言える。この怪物に対しては既に排除許可が降りている。殺傷設定の魔法の行使が許されているのだから、交渉に意味はない。
 そして、“牛男”の側とて今更交渉のテーブルにつく気は皆無だったのだろう、シグナムの言葉に対して、彼は突撃、つまり攻撃行動によって応えた。

「良かろう! ならば――参る!」

“牛男”の突撃を、さすがにシグナムは真正面から迎え撃つ事はしなかった。単純な質量の差、それに速度の差。それを強引に引っ繰り返すだけの膂力を、残念ながらシグナムは持ち合わせていない。
 構わない。力比べがしたい訳ではない。故にシグナムは“牛男”の側面に回り込む。正面からでは速度と質量の混成に弾かれる剣撃も、この角度ならば。
 がぎんっ――と、鋭い音が響く。

「――くっ……!」

 シグナムの顔に苦いものが走り、そのまま一度後ろに跳んで、間合いを離した。
 牛男は――未だ健在。
 驚くべき事に、あの“牛男”は、シグナムの一撃をその外殻硬度だけで弾き返したのである。シグナムから十数メートル離れたところで足を止めた“牛男”には、この距離で見る限り、傷一つついてはいない。近づかなければ判らない程度の傷ならば、それは傷を負わせていないのと同義だ。

「……成程。他の奴とは、一味違うという事か」

 苦々しげにそう呟いて、シグナムは再び構えを取る。
 シグナムが怪物と戦うのは、これが初めてではない。無論、この“牛男”とは初戦であるが。

『灰色の怪物』。
『JS事件』終結とほぼ時を同じくして、ミッドチルダ全域で出没を始めた、二足歩行型生命体の(現時点における)総称である。

 現在までに確認された怪物の数は十四。そのどれもが、人骨を思わせる灰色の外殻に、動植物の意匠を持った外見をしており――そして例外無く、人間を襲っている。
 犠牲者は既に四十名を超え、時空管理局地上本部はこれを明確な脅威と断定。『JS事件』において地に落ちた名声を取り戻すべく、積極的な駆除に当たっている。
 だが。

「レヴァンテイン……奴の外殻硬度は」
【先の一撃から推測するに、以前戦った“鯰男”の、およそ3.6倍と推定されます】

 機動六課ライトニング分隊副隊長シグナムであっても、『灰色の怪物』を倒すのは容易ではない。無論、機動六課に所属している現状、彼女には魔力リミッターがかけられているのだから、それも已む方無い事ではあるのだが。
 今までにシグナムが戦った怪物は三体。内二体を駆除する事に成功しているが、それは客観的に見て、酷く運に助けられた勝利であったと言わざるを得ない。
 一般的な魔導師で構成される――つまり六課のような飛び抜けた実力者を擁していない――陸士部隊では、苦戦を余儀なくされているというのが現状だった。

「ちっ!」

 再び、“牛男”が突進を始めた。
 策を練る暇も与えぬその速攻に、シグナムが舌を鳴らす。
 アスファルトを踏み砕き、その角で標的を突き殺さんと猛牛が加速する。
 シグナムもまた、“牛男”へと向けて走り出す。見る間に詰まっていく彼我の距離。

紫電――

 レヴァンテインに炎が宿る。
 集中する意識が一秒を永遠にまで引き伸ばし、脳内麻薬に濡れる脳髄が敵の姿をスローモーションに捉える。
 敵の挙動を見極め、刃を奮うその瞬間を刹那に見出す。

―― 一閃ッ!

 交錯は、一瞬だった。
 シグナムと“牛男”が互いの立ち位置を入れ替え、シグナムは剣を振り抜いた態勢で、“牛男”は双角を突き出した前傾姿勢で停止する。

 いや。
 双角――では、最早ない。
 ひゅんひゅんひゅん――と、何かが空気を裂いて飛んでいき、がつっ、とアスファルトに突き立つ。見ればそれは、斬り飛ばされた“牛男”の角。レヴァンテインの一撃によって半ばほどから真っ二つに斬り落とされた右の角が、その勢いのままにアスファルトを穿っている。

「浅いかっ……!」

 角を斬り飛ばしただけだ、相手はほぼ無傷。
 すぐさまシグナムは振り向き、敵の反撃に備える――だが、既にその場に“牛男”の姿は無かった。角を折られた事で形成の不利を悟ったか。突進するばかりが能の野牛らしからぬ、見事な引き際と言える。
 その引き際に感心しつつも、シグナムの表情に敵を讃える晴れやかさは微塵もない。当然だろう。あれは騎士の好敵手たる武人の類ではない。見境無しに人を襲う怪魔の類だ。ここで逃がしてしまった事が、いずれ新たな犠牲者を生む事になるのは明白だった。

「…………おのれ……」

 レヴァンテインを鞘に収め、一人、シグナムは憎々しげに呟く。
 不意に吹いた強い風が、彼女の呟きを運び去っていった。





◆      ◆







 八神はやてが辞した後、スマートブレイン社社長室には普段通りの静寂が戻っていた。
 部屋の主である結城真樹菜の嗜好か、室内は常に静寂を保たれている。音楽も雑音も等しく締め出されたその部屋の中で、一人、真樹菜は椅子に腰掛け、ぼんやりとした顔で手元の紙切れに視線を落としていた。

 紙切れ……否、それは一枚の写真であった。安いインスタントカメラによって写された写真。その中に、四人の男女の姿がある。
 中年の男女に、小学校から中学校へとあがるその前後と思しき少年、そして写真の中央に結城真樹菜の姿。
 写真の中の真樹菜は少女から女へと変わる過渡期の、その最後の辺りだろう。残る三人の男女と、どこかしら顔立ちに共通する部分がある。それも当然だろう、真樹菜と一緒に写真に写っているのは、彼女の家族であるのだから。
 今から三年前に撮られた写真だ。最早戻らない、思い出の中にしか現存していない家族の、実体として残る最後の一つである。

「はーい。お邪魔しまーす」

 不意に、能天気な――不愉快なくらいに――声が、社長室に響き渡った。
 一つため息をついて写真を仕舞い込み、真樹菜は椅子の回転機構を利用して振り向く。そこに居たのは、何とも奇妙な格好をした女だった。
 青を基調とした服はそれだけならばさして珍しくもないが、そのデザイン、素材ゆえの光沢が、一般的な衣服と一線を画している。スマートブレインのロゴを取り入れたデザインは、何処の場であっても人目を惹くだろう。
 スマートブレイン社のスポークスウーマン――スマートレディと呼ばれる女が、そこに居た。

「社長さんのご命令通り、“あの子”をミッドに連れてきましたよう」
「そう。ご苦労でしたわね、レディ」

 スマートレディ。その本名は、真樹菜も知らない。
 先代、いや、先々代の社長の頃から――つまり、社が本拠をミッドチルダに移すよりも前から――スマートブレイン社の“顔”として存在していた女であったが、その個人情報を、真樹菜は殆ど把握していなかった。
 別に構わない。元より興味もない。故に、真樹菜はただ『レディ』という呼称のみで、彼女を呼んでいる。

「けれどぉ。本当に良かったんですかぁ? 社長さんが『乱暴でも良い』って言ってたから、ちょーっとだけ乱暴にしちゃいました。えーん、かわいそうなエイジくん」
「構いません。どうせ普通に説得したところで、納得はしても従属はしてくれないでしょうから。あの子にとっては現状維持が人生の命題ですもの。異世界からのお招きなんて怪しいものに応じるはずもないでしょう……ならいっそ、強引に引っ張ってきた方が幾らかマシというものです」

 そこまで言葉を継いだところで、ふと、真樹菜は「ちなみに」とスマートレディに向き直った。

「あの子をどうやってこっちに連れてきたのか、訊いても良いかしら?」
「えーっとですねー、やり方は任せるって事でしたからぁ、黒服さん達にお願いして、学校帰りの彼を拉致してもらいましたー。暴れてたみたいですけどぉ、ざーんねん、やっぱり力尽くじゃ勝てなかったみたいです」
「そう。それはそれは」

 くすくすと忍び笑いを漏らす真樹菜に、今度はスマートレディの方が怪訝な顔をして、首を傾げる。

「でもぉ。何でここに連れてこなかったんですかぁ? ミッドに連れてきたらそこらに捨てて構わないって事でしたからぁ、クラナガンのゴミ捨て場に放ってきちゃいましたけど」
「ゴミ捨て場……ふふ、悪くありませんね。――あの子はまだ理解していない。この世界の真理を、オルフェノクとしての在り方を。だからこそ、まだ此処に呼び寄せる訳にはいきませんの」

 そして真樹菜はふいと視線を窓の外へ――既に日も暮れ、夜の帳が降りたクラナガンの街へ――向け、薄っすらと目を細める。
 その顔に浮かぶのは微笑であり邪笑。およそ人間生物の浮かべる笑みとは思えぬほどに邪悪で、吐き気がするほどに醜悪な笑み。なまじ真樹菜が整った顔立ちをしているせいか、それはより一層、おぞましさを増して見る者を恐慌へと突き落とす。

 まるで毒蛾のようなその笑みは、しかし誰の目に触れる事もない。スマートレディには背を向けているが故に、クラナガンの街を歩く人々には地上百数十メートルの高度が故に。
 人間社会に紛れ込んだ異形存在に、誰一人として気付いていない。
 笑みを浮かべたまま、真樹菜が呟く。静かな口調でありながら、そこに確かに、隠しきれない愉悦を含ませて。

「『戦わなければ生き残れない』……あの子がそれを理解出来るようになったら、私が直々に迎えに行くとしましょう――」


「――新たなるラッキー・クローバー、その最後の一葉としてね」





◆      ◆





第壱話/乙/了





◆      ◆







後書き:

 という訳で、第壱話の甲&乙でした。お付き合いありがとうございました。
 一応、甲がオリキャラの結城衛司を基本とした視点、乙が原作キャラを基本とした視点の話と思っていてください。
 本作は基本、こうして別のところで起こっている二つの話を同時進行させるスタイルをとる予定です。演出としては『仮面ライダーキバ』に範をとったものですが、あちらとは異なり時間軸は基本同じな為、相互に影響を与え合う形にしたいところです。


 原作の固有名詞が少ないため、何がどれの事を指しているのかいまいち判り辛いかとは思いますが、もう暫くご辛抱ください。
 それでは次回で。



[7903] 第弐話/甲
Name: 透水◆44d72913 ID:35af097c
Date: 2023/12/29 20:33
あれは確か、今から七年……いや、八年ほど前の事だ。
 まだ結城衛司が人間であった頃。結城衛司が、人間である事を許されていた頃。



 どうしてその日、自分がそこに居たのか、衛司は憶えていない。
 当時の自分はまだ小学一年生、六歳かそこらの子供だったのだから、一々憶えている方が不自然だろう。世の中には生れ落ちてからの全てを記憶しているという人間も居るらしいが、生憎、そんな非凡に衛司はまるで無縁だった。少なくとも、衛司が自覚出来る限りにおいては。
 山奥だった気がする。周囲を木々に囲まれた、さらさらという涼やかな水音に満たされた渓流。心洗われるようなその風景を、渓流の岩場の中でも一際大きな巨岩に腰掛けて、衛司と“あの人”は眺めていた。

「確かに人間は弱い。動物と違って、爪も牙も持っていない。動物としては酷く弱い種だ」

 何故、“あの人”はそんな話をしていたのだろう。脈絡のない話でもなかったのだろうが、それが思い出せないのならば、同じ事。
 不思議な男性だった。衛司の遠縁と本人は言っていたが――故に衛司は“おじさん”と男を呼んだ――会ったのはその時が初めて。名乗ったその名前も、まるで憶えのないものだった。どうしてその男を信用したのか、今でも解らない。治安の悪化が叫ばれる昨今、親類を装って近づいてくる不審者など幾らでもいるだろうに。

 シックなスーツ姿。右腕だけを覆う革の手袋は街中で見る限りならそれなりにお洒落なものなのかもしれないが、この山奥では少しばかり場にそぐっていない。その意味でも、男は不審と言えば不審だった。
 それでも――それでも、である。
 結城衛司は、その男を疑おうとはしなかった。
“おじさん”の言に、黙って耳を傾けた。

「だが、だからこそ人は誰かを思いやる事が出来る。力を合わせる事が出来る。弱いが故に強くなれる。――だから、(まも)るに値する」

 そう言い切った“おじさん”の顔には、恥じらいも衒いも何一つない。一切の偽りなく、それを信じている人間の顔。
 どこか屈託のなさを窺わせるその顔を衛司へと向けて、“おじさん”は言葉を続けた。

「誰かを衛る事の出来る男に――君の名前には、そんな願いが込められているんだろうね」
「でも、丈二おじさん――」

 何を――言おうとしたのだろう。
 今はもう解らない。憶えていない。男の言葉に対する反論めいたものだったのかとは思うのだが、その文言は最早、忘却の彼方にある。

「――結城・・

 そして結局、その言葉は発せられる事はなかった。不意に割り込んだ第三者の声が、衛司からそれを切り出すタイミングを奪ってしまった為に。
 振り向けば、そこには若い男の姿。やや長めの髪に切れ長の目、冷静というよりは冷徹という表現が似合う、そんな男――ただし決して冷たいだけではない、その表情は人間らしい柔らかさも、確かに併せ持っていた。
 名を呼ばれ、衛司と“おじさん”が揃って振り向く。新たに現れた男が呼んだのは“おじさん”の方だったのだろうが、呼ばれたその名、姓が同じだったせいか、衛司も一緒になって振り向いてしまった。
 衛司のそのリアクションに、一瞬、男がきょとんとした顔を見せ、やがて可笑しそうに微笑する。

「ああ、風見カザミ。待たせてしまったか」
「いや。だがそろそろ余裕もない。……まだ、かかりそうか?」

 いや、と軽くかぶりを振って、“おじさん”が立ち上がる。ぱんぱんと尻についた土を払って、踵を返した。
 衛司は立ち上がらない。ただ呆っと、胡乱な目で“おじさん”を見上げるだけ。そんな衛司を“おじさん”は柔らかな微笑と共に見下ろして――いや、見下ろさない。片膝をつき、視線を衛司に合わせて、彼は口を開く。

「さようなら、衛司くん。……私の言った事を憶えていろとは言わないが、忘れずにいてくれると、嬉しい」

 そして――“おじさん”は去っていった。
 “おじさん”とはそれっきりだ。電話もなければ、便りもない。何処で何をしているのか、まるで見当もつかない。
 別に構わない。会いたいとは思わないし、会ったところで話すべき事もない。衛司は既にあの頃とは違うのだし――精神的にも、肉体的にも、そして何より、種族的にも――恐らく、“おじさん”とてそうだろう。

 ただ、もし再会が叶うのなら。何一つ期待を抱いてはいないが、それ故に、何らかの偶然によって、再び会う事が出来るのなら。
 一つ、訊いてみたい事がある。己のその質問に、あの“おじさん”が如何なる答えを返してくれるのか、ほんの少しだけ、それに興味がある。



 ねえ――丈二おじさん。
 ニンゲンというのは、本当に、衛るに値する生き物なんですか?





◆     ◆





異形の花々/第弐話/甲





◆     ◆







 どうでも良い話だが、結城衛司は暇潰しが得意な少年である。
 いや、こういう表現だとどうにも根暗な印象になってしまうが、要するに空いた時間を使って行う、細々とした作業の引き出しレパートリーが多いのだ。「暇だなー」と思ったら何かを始めている。手を止めている事が少ない。そういう少年なのである。
 加えてこれもどうでも良い話だが、衛司が持つ数少ない“人に自慢出来る事”として、手先の器用さが上げられる。米粒に字を書くくらいなら朝飯前。いつだったか、友人と『胡麻粒に字を書けるか』という賭けをして勝った事もある(ちなみにその時胡麻粒に書いた字は『憂鬱』だった)。

 まあ、それはさておき。ここまではただの枕だ。
 彼がミッドチルダ総合医療センターに入院してから十日が過ぎた――つまり衛司が目を覚ましてから一週間近くが経った――ある日のこと。

「あ、ナカジマさん」

 その日、まあ実際は昨日あたりからだが、談話室でもないのに衛司の病室(個室である)はやけに賑わっていた。ベッドを取り囲むように、十人近くの入院患者達がひしめいている。
 人数に見合って、病室の中は酷く騒がしい。そろそろ全員窓から投げ捨ててやろうかな、とか考え始めたところで、衛司は病室の入口から中を覗き込む少女の姿に気が付いた。

「あ、えっと、こんにちは。……入って、良いですか?」
「どーぞどーぞ。つーかキミタチ、そろそろ自分の病室に戻りなよ。回診の時間だろ」

 衛司の言葉に、えー、とか、やだー、という声が帰ってくる。
 そう。今、衛司の病室には、何故か幼い子供達が詰め寄せていた。
 ミッド総合医療センターには当然ながら小児科もあって(と言うか十四歳の衛司も一応は小児科の患者である)、子供の入院患者も少なくない。その子供達が、いつの間にやら衛司の病室に入り浸るようになってしまったのである。

「つるー! つるおしえてー!」
「しゅりけんがいいー! しゅりけんー!」
「ふねつくりたいー! おふろにうかべるー!」

 お風呂は無理だろ、と苦笑しながら、衛司は近くの子供の手から一枚の紙を受け取った。
 子供達の手には赤青黄色、色とりどりの紙。今受け取ったのは紫色の紙。それをすいすいと折り畳んで折り曲げて開いて押し付けて、見る間に形を為していく。

 折り紙、である。ミッドチルダでは折り紙という文化が無いのか、或いは子供達の近くに出来る人間が居ないのか。昨日くらいから子供達が衛司の病室にやってきては、折り紙やってとねだるのだ。
 元来の器用さで、折り紙やら紙細工やらがそこそこ得意だったのが運の尽き。懐かれたら突き放せない、頼まれたら断れない、そんな気質も相俟って、いつの間にやら病院内で『折り紙のお兄ちゃん』と呼ばれている衛司なのだった。

「ほい、舟。濡れたら沈むからな、風呂に持ち込んじゃダメだよ」
「ありがとー!」
「あー! ずるい! ぼくもつくって! ひこーきつくって!」
「だめー! わたしのばん! いぬがいい、いぬー!」

 一人つくれば我も我もと子供が群がって、一向に帰ってくれる気配がない。
 まあ無理矢理追い返さない衛司が悪いのだが、どうしたものかと思ったところで、病室入口に佇むギンガの後ろから看護師が顔を出した。

「あ、みんなここに居たの!? ほーら、みんな今日はおしまい! 先生が来るから、自分の病室にもどりなさーい!」

 看護師にしてみれば慣れたもの。襟首掴んで放り出す……とまでに強引ではないものの、そんな感じに看護師は子供達を衛司の病室から追い出していく。

「うふふ。ごゆっくり」
「何がですか」

 で。子供達が全員病室から出たところで、看護師は衛司と、待たされたままのギンガの顔を交互に見て、にんまり笑って(衛司のツッコミも聞き流して)出て行った。
 腹立つな今の顔。という内心を呑み込んで、衛司はギンガに椅子を勧める。

「あー……すいません、ナカジマさん。どぞ、座ってください」
「し、失礼しますね。……ずいぶん仲良くなったんですね、他の子たちと」
「暇潰しに折り紙折ってたら、うっかり見られちゃって。リクエストとか聞いてたらどんどん人増えちゃって」
「え。オリガミって、地球の芸術ですよね? 衛司くん、芸術家だったんですか……!?」
「ふつーの学生です。母が上手だったから、教わっただけですよ」

 あと折り紙は別に芸術じゃないですよ、と勘違いを訂正しておく。いや、実際に芸術品クオリティな折り紙作れる人も地球には居るのだろうが、少なくとも衛司のそれはただの紙遊びだ。
 ミッドチルダには日本文化が結構入ってきているらしく、談話室に備え付けのTVを見ていると、時折それっぽいCMをやっていたりする。……あくまで『それっぽい』だ。居酒屋チェーン店のCMのようだったが、少なくとも日本の居酒屋で女性店員はメイド服を着ないし、男性店員がふんどし一丁で働いていたりもしない。
 日本文化が微妙に誤解されているのか、それともあのCMの店が独特なのか。後者だと思いたいが、ギンガの折り紙に対する誤解を見るに、前者の可能性も否定しきれない。

「って、あれ。ナカジマさん、今日は私服なんですね」
「はい。今日は非番なので」

 今日のギンガは見慣れた制服姿ではなく、私服姿。年齢相応の恰好で、ギンガの雰囲気に良く似合った服であったのだが、それを褒めるのはちょっと気恥ずかしい十四歳男子だった。

 ――衛司が目を覚ましてからというもの、ギンガは二日に一回は、こうして見舞いにやってくる。
 ミッドチルダの就業年齢は地球のそれと比べて随分と低いそうだが、仕事中に病人の見舞いに来たり、非番取れたりと、管理局とやらは意外に時間の融通が効く仕事であるらしい。未成年を働かせるほど人手不足なのか大変だな、とか思っていたのだが、存外ホワイトな職場であるようだ。

 ……実際のところ、ギンガは割と無理して時間を作って、衛司のところへ通っていたのだが。ホワイトだなんてとんでもない。今日の非番も危うく無くなるところだった。
 知らぬは少年ばかりなり、である。

「もうすっかり良いみたいですね。ちょっと、安心したかな」
「はあ……いや、随分前から良くなってるんですけど」

 実際、六日前に目を覚ました時には既に、殆ど完治と言って良い状態であったのだ。こうして入院が長引いているのは、ただ単純に、今の状態で退院させられても行くあてがない衛司を慮っての事である。……と思う。

 ギンガから聞いた話によれば、普通、次元漂流者はすぐに元の世界に戻る手続きが取られるらしい。もし希望すればその世界に居続ける事も出来るのだが、そうでない場合は迅速に元居た世界へと送り届けられる。
 しかし、今回の衛司はその例外と言えた。彼がミッドチルダに放り出されたのは事故や災害によるものではない。何者かが彼をこの世界に運び込んだ・・・・・のだ。
 言うまでもない事だが、管理外世界の人間を本人の許諾無しに他の次元世界へ連れ出す行為は管理局の法で禁じられている。いやこれは『管理外世界の』という部分を外したところで何ら文意は損なわれない。拉致誘拐はどの世界どの法律であっても禁じられている。

 今回、衛司がクラナガンの医療センターに留め置かれているのも、彼がこの世界に現れた経緯に事件性が認められるからというのが理由の大半であるらしい。この数日間、ギンガ以外にも管理局の人間が何人か現れ、衛司へ事情聴取を行っている。
 ただ、衛司に言える事など一つきりだ。訳の分からない内にこの世界に連れ込まれていたと、それしかない。

「ああ、それについてなんですけど――近いうちに、早ければ来週にでも退院出来るみたいです」
「……本当ですか?」

 疑わしげな口調とは裏腹に、衛司のその顔は晴れやかだった。
 別段、入院生活に嫌気がさしている訳ではない。お子様達の相手も別に嫌いじゃない。ただそれでも、軟禁めいた病院暮らしに辟易し始めていたのは事実である。

 相好を崩した衛司に、ギンガもまた、にっこりと微笑んで――そうして彼女は、己の膝の上に乗せていた風呂敷包みを、ベッドに備え付けられたテーブルの上へと置いた。
 縦、横、高さがそれぞれ30cm前後の四角柱。それが、ギンガの髪と同じ藍色の風呂敷で包まれている。
 ごと、と重たい音が響く。それだけで、風呂敷包みの中身が相当の重量物であると知れた。

「それじゃ。退院前に、ちゃんと栄養もつけなきゃいけませんね」

 風呂敷包みが解かれる。はらりとテーブルの上に広がった風呂敷の上に鎮座しているのは、漆の艶を帯びた黒い箱。
 表面に施された細工こそミッドチルダ独特のものであったが、それが重箱と呼ばれる、料理を収める為に用いられる箱であると、衛司は正しく理解していた。

「看護師さんから聞きましたよ? 衛司くんがちゃんとご飯食べてないって」
「あ、いや、それは――」

 確かに、衛司は病院で出される食事にあまり……と言うか殆ど、手を付けていない。
 ただ、それは病院食が口に合わないという訳ではなく、衛司は普段から物を食べない・・・・・・人間なのだ。
 一日二食、日によっては一日一食。傍から見れば些か以上に少食だ。衛司の外見が同年代の男子と比して見劣りしない、痩せすぎていたり小柄だったりという事がないのは、ある種奇跡的とさえ言える。燃費が良いと言ってしまえばそれまでだが、ギンガが心配するのも無理からぬ事だろう。

 ……ただし、だからといって重箱三段分の弁当を作って持ってくるというのは、少しばかり行き過ぎではないだろうかと、衛司は思うのだが。
 重箱の蓋が開けられる。中に入っているのは卵焼きに唐揚げにきんぴらに巻き寿司にと、異世界という割には和風な惣菜の数々。衛司の出身に合わせてくれたのか、それとも単なる偶然かは定かではないが、しかし蓋を開けた瞬間に広がった弁当特有の臭いに、少しばかり胸が悪くなる。
 本来なら食欲をそそる匂いである筈のそれも、食事に快楽を見出せない衛司にしてみれば、ただ肺腑をべとつかせるだけの臭いに過ぎなかった。

「いや、あの、ナカジマさん――」
「はい、衛司くん」

 衛司の言い訳などまるで聞く耳持たず、どころか発言すら封殺する勢いで、小皿に巻き寿司と唐揚げを一つずつ乗せて、ギンガが差し出してくる。
 はい、と差し出されてしまえば、受け取るしかない。人の好意を無下にするのは褒められた事ではないと、衛司はそう親から躾けられている。

「……いただきます」
「はい、たくさん召し上がれ」





◆      ◆







 先に味の評価だけを述べてしまえば、ギンガの作ってきた弁当は非常に美味しかった。食事に興味のない、極論すれば栄養だけ補給出来れば良いと考える衛司も、(本当に久しぶりの事ではあるが)もう少し食べてみたいと、そう思ったくらいである。
 ただ、そう思うまでもなく、目の前の食物は膨大に過ぎた。食べても食べても減った気がしない。まあ、“食べても食べても”などという表現を使うには、衛司の食べっぷりはお世辞にも豪快と言えるものではなかったのだが。

 正直な話、最初に差し出された一皿だけで、衛司は殆ど満腹になっていた。空になった皿を戻す時、もう結構ですと言いかけた。それを結局、ぎりぎりのぎりぎり、限界寸前まで言い出す事が出来なかったのは、嬉々とした顔でお代わりをよそってくれるギンガを目にしてしまったからだ。
 美人のお姉さんが手作りの弁当を食べさせてくれる。そんなシチュエーションに多少なりと心揺れる程度には、結城衛司は年頃の男子であった。

「…………男って、馬鹿だ」

 その筆頭は恐らく自分だろう、という思いを言外に込めて、衛司は呟いた。
 食事を終えてから二時間近く経っているが、まだ胃がずっしりと重い。食道から腸から、内臓全てにみっしりと食べ物が詰まっている気がする。

 当たり前だが、実際、そんな事はない。結局衛司が食べたのは三段重ねの重箱の内、一箱の半分が精々というところなのだから。
 衛司のキャパシティではそれが限界だった。残りは全て、ギンガの胃に収まっている。ぱくぱくと惣菜が彼女の口の中に消えていく様は健啖という言葉では追いつかないくらいに壮絶なものだったが――というか、一体どこにあれだけの量が入るのかがまったく理解不能だ――まあ、それに関しては深く考えない方が良いのだろう。

 ちなみに、ギンガは既に病院を後にしている。話を聞けば、今日はこれからクラナガンの街へと繰り出して、妹やその友達と一緒に遊んで回るという事らしい。
 だったら別に無理して見舞いに来なくても良いのに、と思ったのは事実だが、それをギンガに言う事はなかった。沈黙は金。

 さておき。図らずも人体の限界に挑戦する羽目となった衛司は、ギンガの去った病室で、ベッドに横たわり食物が消化されるのをただじっと待っている。
 ただ漫然と寝転がっている訳では無く、暇潰しに携帯を弄くってはいるのだが。とは言えこの世界では無論圏外だ。誰に連絡出来る訳でもない。

 管理局に申請を出せば、携帯やPCを地球のネットワークに繋げる事が出来るらしい。現にギンガの知り合いである地球出身の女性は、これによって地球の友人と頻繁にメールのやり取りをしているそうだ。
 しかし衛司にそのつもりはない。申請など出さずとも、来週には地球に戻れる。急いて連絡するべき友人もおらず、無事を案ずる家族も居ない。強いて言うなら、二週間近く無断欠席になってしまう学校への連絡だが、これに関しては地球に戻った後で考えれば良い。適当にどこかで事故って入院していたとでも言えば良いし、少なくともそれは嘘ではない。
 だから今の衛司は、ぽちぽちと手慰みに携帯電話のボタンを押しているだけ。

 ――と。

「………………うん?」

 不意に彼の耳に、病院には似つかわしくない喧騒が飛び込んできた。
 何だろう、と首を傾げつつ、携帯を入院着のポケットに押し込んで、衛司は病室を出た。まだ胃がもたれているが、とりあえず、歩く事が出来る程度には消化している。
 総合医療センターの廊下を、衛司と同じく入院着を纏った患者達が足早に走り抜けていく。その表情は一様に興味津々という内心をそのまま顔に表した、野次馬のそれと変わらないもの。
 目の前を通り過ぎていく内の一人を呼び止めて、衛司は事情を訊く。先を急いでいるのだろう、無視されるかとも思ったが、割と素直に彼は教えてくれた。

「霊安室だよ霊安室! そこから物音がするんだって!」
「……霊安室から、物音?」

 なんだそりゃ。
 どこのホラー映画だよ――と思いつつ、しかし衛司もまた興味を惹かれて、彼の後を追うように霊安室へと向かう。

 ミッドチルダ総合医療センターはつまるところ病院であって、病院である以上は必然的にそこで息絶える人間も少なからず存在する。葬儀屋、或いは遺族が遺体を引き取りにくるまでの僅かな時間、遺体を安置する為の部屋が霊安室だ。
 当然ながらその部屋に居るのは遺体であって、それが動くはずはない。遺族が一緒に居るというのならともかく、そうでないのなら、霊安室から物音がする事など有り得ないのだ。
 にも、関わらず。

「成程。音、してるね」
「だろ?」

 先程質問に答えてくれた男が、何故か微妙に自慢げに、衛司の呟きに言葉を返す。
 ごん……ごん……ごん……と、断続的なノックの音が、霊安室の扉の向こう側から響いてくる。
 霊安室の扉の前には野次馬が群がって、しかし皆が皆揃って絶句しているせいか、霊安室からの音は人だかりの最後尾に居る衛司の耳にも充分に聞きとれた。

 と、廊下の向こう側から、医師と看護師が数名、こちらに向かってくる。漸く霊安室の異変に職員が気付き、扉の向こうで何かが起こっていると知ったのだろう。果たして医師の手には、霊安室の鍵と思しきカードキーが握られていた。
 人だかりをかきわけて、医師と看護師が霊安室の扉の前に立つ。すぐさま扉を開けるかと思いきや、ごんごん、と医師は乱暴に扉を叩いて、「中に誰か居るのか?」と問いかけた。しかし答えはない。代わりに聞こえてきたのは、相変わらず断続的な、扉を叩く鈍い音だけだった。

 医師が傍らの看護師二人に目配せを送る。それを受けて、看護師達は扉の前に集った患者達を押し戻しにかかった。
 離れてください、と声を張り上げる看護師に従い、野次馬達は二歩三歩と後ずさるものの、その場を後にしようという人間はいない。その場に居る誰もが、霊安室の中に居る何者かが姿を現す瞬間を見逃すまいと、霊安室の扉を注視している。
 衛司もまた、その中の一人だった。
 医師が扉の脇にある端末、そのスリットにカードキーを通す。気の抜けるような軽い音と共に、霊安室の扉は開いた――そして。

「…………!」

 どよめきが、総合医療センターの一角を満たした。
 開いた扉の向こうに居たのは、ごく普通の、一人の男。それはつい先日、クラナガンの街で『灰色の怪物』に襲われ、命を落とした犠牲者であった。
 既に司法解剖さえ終えて、後は遺族に引き渡されるのを待つばかりという死体が、立って歩くその怪奇。理由、原因、それらを知る者は誰も居ない。想像すら出来はしない。
 結城衛司を、除いては。

「ぎ、あ、うううう……」

 男はふらふらと、夢遊病者のような足取りで霊安室から歩き出てくる。その場に居た誰もが、彼から距離を取るように後ずさった。
 これがホラーやSF映画のワンシーンならば、この男は周囲の人間を襲い始め、次々と“生ける死者”を増やしていく事だろう。だが幸いにも、そんな展開にはならなかった。……なりようがなかった、と言う方が、より正確かもしれないが。

 霊安室から出てきた男は、数歩、人だかりの方へと歩いてきたかと思うと――不意に、その肌を青褪めた死者の色から、焼け崩れた木炭の如き灰色へと変化させ、そしてその例えの通りに灰と化して、衣服だけを残し、文字通りに崩れ去った。
 悲鳴が上がる。野次馬達が目の前で起こった現象に理解を放棄し、奇声を上げてその場から逃げ出していく。その中に医師と看護師達が含まれていた事も、ここに付け加えておくべきだろう。
 その中で、衛司だけがただ一人、灰と化して崩れ去った男へと歩み寄る。

「…………使徒……再生」

 正確には、その失敗。
 人間を人為的に“進化種”として覚醒させる手法。しかしそれによって覚醒する人間はほんの一握りだ。その大半は、崩れ去った彼のように僅かな時間だけ甦った後、こうして灰と化して消滅する。
 呆然と呟く衛司だが、一方で彼の脳髄は冷静に、目の前の事態から一つの事実を読み取っていた。

 ――この世界。ミッドチルダに、“進化種”が存在している。
 思考が理解に至ったその瞬間、まるでそのタイミングを見計らったかのように、彼の懐から電子音が響き始めた。

「!?」

 まさか、という思いと共にポケットから携帯電話を取り出してみる。予想通り、鳴り響いているのは携帯電話の着信音。着メロの類を何も設定していない、デフォルトのままの呼出音が、人気の失せた廊下に響き渡る。
 有り得ない。電波の受信感度を知らせるアンテナは一本も立っておらず、未だ圏外のままだ。にも関わらず携帯が鳴っているという事実が、衛司の思考を攪拌する。
 液晶画面に表示されているのは『非通知設定』の五文字のみ。出るべきかこのまま切るべきか、二秒ほど逡巡して、結局衛司は通話ボタンを押し、携帯電話を耳に当てた。

「……もしもし」
『はーい。こんにちはー、エイジくん。ご機嫌いかがですかー?』

 聞こえてきたのは、聞き覚えのない女の声。子供向け教育番組に出てくる女性司会のような喋り方が、どうにも不愉快だった。

「どちら様でしょう」
『うーん。教えてあげたいんですけどぉ、ざーんねん、それは出来ない事になってるんですぅ。代わりに、良い事を教えてあげますね?』
「良い事……?」

 胡散臭い。何が胡散臭いというか、何もかもが胡散臭い。必然、衛司の顔には不審が浮かぶ。名前すら名乗らない相手だ、至極当然の反応と言える。
 衛司の内心、そして表情に気付いているのかいないのか、最もありそうなのは気付いていて無視しているという可能性だったが、さておき女は調子を変えずに言葉を続けた。

『そうでーす。じゃあこれから、服を着替えてお外に出てきてくださぁい』

 それだけ言うと、ぶつり、と乱暴に通話が切られた。残るのは無機質なビジートーンのみ。
 呼び止める暇もなかった。いや、元より呼び止めるつもりもなかったのだが。口調と声音から判断するしかないが、あの女は、衛司が己の指示に従う事を疑っていないだろう。

「………………」

 少し――迷う。
 女の指示に従うか否か。常識的に考えれば、無視するのが正解だ。顔も知らず、名前も名乗らない相手に従う義理も義務も、衛司にはない。むしろ、誰とも知れぬ女の言に従う事自体が、迂闊の謗りを免れないだろう。
 だが、結城衛司は知っている。常識なるものが如何にあやふやで曖昧なものであるか。瞬きほどの刹那に崩れ去るその脆弱さを、身をもって理解している。

 ちっ、と舌打ち一つ。衛司は踵を返しその場を後にして、病室へと戻る。訳有り患者を隔離する目的で作られた個室には、当然ながら誰も居ない。入院着を脱ぎ捨て、この世界に連れて来られた時に着ていた服――つまり学校の制服――に袖を通しても、それを見咎める人間は居ない。
 私服姿でうろついているところを看護師に見られればややこしい事になる。病院の玄関を潜り抜けるまでは、物陰に身を潜めつつ慎重に行動した。実際のところ、それは傍から見れば逆に怪しい、不審人物そのものという姿であったのだが、幸か不幸か、衛司は誰に目撃される事もなく、ミッドチルダ総合医療センターを脱け出す事に成功する。

 そして。

「……これ、は」

 医療センター正面玄関。そこに、一台のサイドカーが停まっていた。
 黒と金で塗装された、独特の意匠を持つサイドカー。厳密にはサイドカーではない、ヴァリアブルビークルと区分される乗物であり、サイドバッシャーという名称があるのだが、衛司には知る由もない。
 暖気が済んだ状態、いつでも発進出来る状態で(キーも挿しっ放しだ)で放置されているそれが、この状況において無関係であるとは、衛司には思えない――再び鳴り始めた携帯電話が、その予想を裏付ける。

『はーい、外に出ましたね? それじゃ、そのサイドカーに乗っちゃってくださぁい』
「いや、免許持ってないんですけど……」

 車と違い、バイク、或いはサイドカーというものは、搭乗者がつまり運転者である。中学二年生、十四歳の結城衛司はそれを運転する為の免許資格を持っていない。
 ミッドチルダでは案外十四歳でも免許が取れるのかもしれないが、どちらにしろ保有していないのだから同じ事。

『知ってますよぅ? ですからー、バイクじゃなくて側車の方に乗ってくださいねー?』
「………………」

 無言のまま、衛司はサイドカーの側車部分に腰を下ろす。と、尻の下に何か、違和感を感じた。何か平たいものの上に腰掛けてしまったと気付き、少し腰を浮かせて、尻の下からそれを引っ張り出す。
 どこかで見たような――いや、記憶に照らし合わせる必要もない。つい十日ほど前までは、毎日目にしていたものだ。気付くまでに一秒以上の時間は必要なかった。

「あぁっ! 僕の財布!?」

 この世界に拉致されてくる際、盗まれたはずの財布。中学生が持つにはやや高級感のありすぎる黒革の財布が、一体いかなる経緯を辿ったのか、サイドカーの側車部分に放り込まれている。
 その事実に混乱しながらも、衛司は財布の中身を検めた。……大丈夫だ、減っていない。札も小銭もカードも、少なくとも衛司の記憶している限りから増減してはいない。

『はい。親切なお姉さんが取り返してあげました。エイジくんが喜んでくれるかと思って、お姉さん、頑張っちゃいましたよ?』

 滅茶苦茶嘘臭い台詞だった。衛司を拉致した人間達とこの女との繋がりが透けて見えるようである。
 実はあんたが盗ったんじゃないのかよ、と突っ込んでやりたい気持ちをぐっと胸の奥に押し込めて、これからどうすれば良いのか、何をすれば良いのかと質問を口にしようとする――だがそれよりも僅かに早く、電話口の女が言葉を被せた。

『それじゃ、出発しまーす!』

 衛司が口にしかけた何事かが、急発進するサイドカーの勢いによって、喉の奥へと転がり落ちていく。
 オートバイ部分に誰も乗っていないにも関わらず、側車に衛司を乗せたサイドカーは、初速の段階で既にこの世界の法定速度を完璧に無視し、暴風の如き勢いでクラナガン医療センターを後にする。
 吹き付ける強風に総身を嬲られながら、衛司は側車の座席に身を預ける。最早賽は投げられた。お膳立てはされていたとは言え、自身の意思で賽を投げ、現状に身を投じてしまった以上、ここから先は全て己の責任によるものだ。それを衛司は過たず理解し――



 ――逃げ場を、失ってしまった。





◆      ◆





第弐話/甲/了





◆      ◆


 





後書き:

 という訳で、第弐話の甲でした。これに対となる『乙』があるのですが、投稿はもう少し後になりそうです。
 いや、二つとも書き上げてから投稿した方が読んでくださる方にとっては分かり易いとは思うんですが、こまめに投稿しないと忘れ去られていきそうで。結構、感想とかPV数とかが気になる小市民なのです。ごめんなさい。

 今回の冒頭に出てきた“おじさん”ですが、まあ勘の良い方は既にお気づきかと思いますが、元悪の組織の科学者だったあの人です。四号さんです。本作ではオリキャラの結城衛司の遠縁という設定にしてみました。
 今後、回想以外で登場するかどうかはまだ未定なのですが、どうでしょう、出した方が良いですかね?

 サイドバッシャーに関しては本当に単なるお遊びです。つーかアレ、遠隔操作の自動操縦なんて機能ついてませんよね(笑)。

※追記:これに関して、ご指摘頂きました。サイドバッシャー、コードを入力する事で遠隔操作が可能だそうです。作中描写での間違いではありませんが、失礼しました。

 ともあれ、本日はこの辺で。
 何かご批評ご批判などございましたら、感想掲示板に書き込んで頂ければ。
 では。



[7903] 第弐話/乙
Name: 透水◆44d72913 ID:35af097c
Date: 2023/12/29 20:34
 蟠る闇があった。
 夜の闇よりも尚深く、深海の闇よりも尚色濃く。
 淀み、停滞した空気は、そこが室内……窓一つない事から、遥か地の底であると伝えている。地の底であるが故に底無しの暗闇は、常人ならば一夜と保たずに発狂するだろう。五感が悉く意味を失うこの空間で、正気を保てるというのなら、それは最早人間ではあるまい。

 そんな、重苦しい漆黒に塗り固められた空気の中に、硬質な音が響き渡る。
 残響を伴い、闇の隙間を縫うようにして、その足音は響き渡る。

 やがて――地底の暗黒から溶明してくる、一つの影。
 一帯を覆う暗闇を喰らい、呑み込んだかのような、漆黒の髪。反して白磁の如き白い肌。唇に引かれたルージュが、白と黒のコントラストの狭間で妖しく蠢く。
 スマートブレイン現社長、結城真樹菜であった。

 硬質な足音を高らかに響かせて、彼女は歩く。何処まで続くのか、何処から続いているのか解らぬ暗闇の中――茫とした光が、彼女の進む先に見えてきた。
 ゆらゆらと揺らめく、橙色の光。蝋燭の炎の照り返しにも似たその光は、光を当てた水面のようでもあり。その比喩が比喩でなく、むしろ事実を言い表していたと知れる距離で、真樹菜は足を止めた。
 そこにあったのは、一基の水槽。二メートルを優に超えるだろう、大型のものだ。そこに満たされた溶液が、直下からの光に照らし出され、その揺らめきを周囲に映し出している。
 再び、真樹菜が前へと踏み出した。水槽の中身に目を眇め、口の端に笑みとも嘲りともつかぬ感情を刻みながら。 

「……冴子さん」

 水槽の傍らには、一人……いや、一体の女が居た。いや、それを“女”と評して良いものか。その疑問が故に、一人ではなく一体という数え方をしているのだが。
 女は人間ではない。その身体に、最早人間の意匠は何処にも見られない。それはいっそ海老と呼ぶのが近いだろう。海老の意匠を持った、二足歩行の生物。
 その異形に真樹菜はまるで怯む事もなく、足早に“海老女”へと近づいていく。 

「ああ……真樹菜ちゃん。どう……この方・・・を目覚めさせる方法は、見つかった……?」
「いえ。八方手を尽くして探してはいるのですが……最有力のキングストーンも駄目でしたから、難航してますわ」
「そう。……ああ。貴方を責めている訳じゃないのよ。いいの……時間は幾らでもあるわ……幾らでも」
「ええ」

 真樹菜と会話しながらも、“海老女”は真樹菜の方を振り向こうとはせず、ただ水槽に縋り付くようにして、その中を覗きこんでいる。
 橙色の溶液に満たされた水槽の中に横たわるモノを、まるで我が子のように愛しげに。
 だから彼女は気付かない。その彼女を見下ろす真樹菜の視線に、隠しようもない侮蔑の色が混じっている事に。

「我等の王。全てのオルフェノクを統べる者。いずれ……いずれ必ず、甦る……」

 譫言のように呟く“海老女”から視線を切り、酷薄な冷笑を浮かべながら、真樹菜は踵を返した。





◆     ◆





異形の花々/第弐話/乙





◆     ◆







 さて。
 今日のギンガ・ナカジマは非番である。
 非番、即ち休日。

『JS事件』の後遺症が未だ抜け切らず、魔導師として前線に復帰するには至っていない彼女であるが、しかしそれによって普段の勤務が楽になったかと言えば、これがまったくそんな事はない。
 捜査員の仕事は前線に出るばかりではないし、日々の雑務に加え、事件を通して新たに得た“妹”達が社会復帰するまでの指導員を買って出た事で、その仕事量は事件前より更に増えている。
 ギンガは休日だからといってだらだらと惰眠を貪るような人間では決してなかったが、それでも非番である日、普段よりも少しばかり起床が遅れてしまうのは仕方のない事だろう。むしろそれが自然と言える。事実、先週の休みには二時間ほど朝寝坊をしてしまったのだ。

 ならば今日はどうなのかと言えば、これが不思議な事に、ギンガは普段通りに――いや、普段よりも更に一時間ほど早く目を覚ましている。昨日は定時に退勤せず、残業までこなしている事を考えれば、驚くべき事と言えた。
 幼稚園や小学生の子供は、平日の朝はなかなか起きないくせに、休日となると早起きして遊んでいる事がままある。この日のギンガも、恐らくはそれに近かったのだろう。

「おーう、おはようさん……て、うぉ、何だこりゃ」

 欠伸を漏らしながら居間にやってきたゲンヤが、朝方には些か似つかわしくない光景に声を上げる。
 ナカジマ家の台所は地球でもお馴染みの、居間と一体化したLDK。居間に入れば台所の様子は丸見えであり、そこで忙しなく動いているギンガと、台所はおろかダイニングのテーブルにまではみ出すように並べられた食材やら料理の山を目にしたゲンヤの反応は、至極当然のものだった。

「あ、おはよう、お父さん」
「ああ……おいギンガよ、こりゃ一体何だ?」

 台所からひょっこりと顔を出して挨拶したギンガに、ゲンヤは食卓上の食物の山を指し示して訊いた。
 これは何だ、という父の問いが意味するところを、ギンガはすぐに悟れなかった。食物は食物だろう。調理前の食材と出来上がった料理とが一緒くたに並べられているが、ゲンヤの質問はその中の何か一つについて問うものではあるまい。
 結局、「お弁当ですけど」と、端的かつ微妙にどうとでも取れる答えを返してみた。――ゲンヤがますます訝しげな顔になったのは、予想出来て然るべきだったが。

「弁当? どっか出掛けんのか?」
「ううん。衛司くんが全然ご飯食べてくれないって看護師さんが言ってたから、差し入れにって思って」
「衛司? ……ああ。この前の捕り物ン時に巻き込まれたってぇ小僧か」

 納得した顔で頷くゲンヤ――だがその表情が、にやりと意地悪な形に歪む。

「そうかいそうかい。お前ぇにもようやっと、そういう相手が出来たかよ」
「な――違います! そんなんじゃありません!」

 思わず声を張り上げたギンガに、分かった分かったと鷹揚な笑いを残して、ゲンヤは居間から出て行った。廊下の向こうで扉の開く音。便所にでも入ったのだろう。
 まったくもう、と頬を膨らませながら(微妙に似合わない仕草だった)、ギンガは料理を再開する。ただ、ゲンヤの言葉が彼女の中で多少なりと引っ掛かっているのか、その手つきは先程までと比べいまいち料理に集中しきれていない。

 ギンガ・ナカジマという女性に関して、一種驚くべき事に、色恋沙汰の噂はまったくと言って良いほど聞かれない。管理局に入る前も後も含めてだ。
 ただこれについては理由は単純。傍目には見目麗しい美少女であり、言い寄ってくる男も皆無ではないギンガであるが、それを恋愛対象として見る事をしないのだ。
“押し”の強い男というのは彼女の好みからは程遠く、またギンガ自身もこと異性関係について“押し”の強い方ではない。寄らば引き、引かば追わぬであるのだから、良い出会いがあるはずもない。
 このままでは某教導官や某執務官や某部隊長と同じ道――男っ気の無い人生という意味で――を辿るのではないかと密かに囁かれている事をギンガ自身が知らないのは、果たして幸か不幸か。ちなみに誰が囁いているのかについてはここでは割愛するが、とにかく、今年で十七になる娘に浮いた話の一つもないというのは、少しばかり寂しすぎる話であった。

 ただ、だからといって妹よりも年下(確かスバルが十五だから、一つ下だ)の男子に懸想を抱くほど切羽詰っている訳でもない。元よりギンガにそういった危機感はない。今日、こうして差し入れの弁当を作っているのも、あくまで先日の事故に対する詫びの意味合いからであって、それ以上の感情はない。
 ……ないはずである。

「よし、っと……こんなものかな」

 出来上がってみれば、三段重ねの重箱におかずが満載の弁当である。一般常識で考えれば、お見舞いにも差し入れにも些か以上に過剰な量だ。
 ただしそれはあくまで“一般”常識の範疇での事。ギンガ・ナカジマの常識で考えれば、これでまだ少ないくらいである。
 後はこれを風呂敷に包んで、と棚へ足を向けたその時、不意に電子音がナカジマ家の居間に鳴り響いた。居間の隅に置かれた通信用端末が着信を告げている。
 エプロンを外しながらぱたぱたと近寄って、ギンガは端末を操作した。ウィンドウが彼女の眼前に展開し、そこに金髪の女性が映し出される。

『おはよう、ギンガ』
「おはようございます、フェイトさん」

 ウィンドウに映る女性――フェイト・T・ハラオウンは挨拶に続いて、『ごめんね、朝早くに』と詫びてきた。詫びるほどの早朝でもないが、非番のギンガにしてみれば起きたばかり、或いはまだ寝ている時間帯だと思ったのだろう。そういう気遣いが心苦しくもある反面、嬉しくもあった。
 朝早くに済まない、と言う以上、雑談の為に連絡してきた訳ではないだろう。フェイトは今仕事中の筈だ。『JS事件』の終結後、機動六課隊長陣の中で最も忙しいのはフェイトである。執務官というのは事件に伴う諸々の手続きや事件後の始末こそが本領なのだ。
 その忙しい仕事の中、時間を割いて連絡してくれたのだから、それが何時であろうとギンガに文句はない。加えて、元はと言えばギンガの依頼によってフェイトは動いてくれているのだ、感謝の言葉以外の何があろうか。

『この前、頼まれた事だけど……次元漂流者の、結城衛司くん? 彼が元の世界に帰れそうだから、連絡したんだ』
「本当ですか!?」
『うん。一度、私が直接会って、面談の結果次第だけど』

 次元漂流者を元の世界に送り返す為には、色々と煩雑な手続きや申請が必要となる。ギンガ個人でも出来なくはないのだが、執務官に頼んだ方が遥かに申請が通り易い。
 基本、執務官の仕事は所属部隊の法的案件に限られるのだが、執務官の居ない他部隊からの依頼でも動く事が出来る――ただし、執務官を抱える部隊は自分達の仕事に支障をきたすのは御免だと、他部隊からの依頼はなるべく受けさせないようにしているのだが――幸いにもギンガは近い知り合いにフェイトという執務官が居り、先日保護(?)した次元漂流者の少年が故郷に帰る為の手続きを、彼女に頼んだのである。

「済みません、ご迷惑をおかけしてしまって」
『ううん。気にしないで。私の昔住んでた世界の出身者だからね。他の管理外世界からの漂流者よりは、早く申請が通ったんだ』
「昔住んでたって……ああ、フェイトさんも地球育ちでしたね」
『うん。生まれはミッドだけど。九歳から六年くらい住んでたかな。結城くんの住んでいるところとは少し離れてるけどね』

 そう言って、どこか照れたように、フェイトは笑った。つられてギンガも笑みを返す。
 幾つかの連絡事項が、フェイトの口から伝えられる。面談は来週の頭。問題無しと判断されれば、その日の内にでも彼は元の世界に戻れるとの事。
 ただしこの世界に来た経緯に事件性が認められる為、暫くは管理局の人間が陰ながら護衛に付くらしい。また数日に一度、局に連絡を入れる事も義務付けられる。加えて、言うまでもない事ではあるが、管理外世界で魔法や時空管理局の事を口外しないと遵守して貰わなければならない。

「分かりました、伝えておきます」
『宜しくね。……ギンガは、今日非番だったよね?』

 一通りの連絡事項を伝達し終えたところで、フェイトが話題を変えた。
 今日は午前中に衛司の見舞いに行き、昼からはクラナガンの街で久しぶりにスバルと会う約束をしている。スバルが言うには、六課フォワードの他三人も連れてくるらしい。ティアナとはまだ彼女が訓練校に居た頃、一緒に遊んだ経験があるが、エリオとキャロの二人とオフに会うのは今日が初めてだ。

『ごめんね。折角のお休みに、エリオとキャロが迷惑かけちゃって』
「いいえ! そんな事ありませんよ、私も楽しみにしてますから」

 最初の「いいえ」が自分でも予想外に大きな声になってしまったせいか、続く言葉はややボリュームを下げた。フェイトの顔に浮かぶ申し訳無さそうな苦笑が、ギンガの反応に可笑しそうな微笑へと入れ替わる。
 と、画面の向こう側で何やら物音。別口の通信が入ったらしい。先程も述べた事だが、フェイトは忙しいのだ。

『それじゃ、ギンガ。二人をお願いね』
「はい。フェイトさんも、無理はなさらないでください」

 ありがとう、と礼を述べて、フェイトからの通信が切られる。
 ギンガも立ち上がる。重箱を包んで、クラナガン医療センターへ向かうとしよう。





◆      ◆







「ギン姉~♪」
「スバル~♪」

 ああこれ昔見た憶えがあるわ、というのが、目の前で久しぶりの再会を喜んでいるスバルとギンガを見たティアナ・ランスターが最初に抱いた感想だった。

 手を繋いでくるくると回り、ミット打ちよろしく拳と掌を打ち合わせるその姿は、数年前、訓練校時代に初めてギンガと会った日と何ら変わらない。変わった事と言えばティアナもスバルもギンガも相応に齢を取り、ギャラリーにエリオとキャロの二人が加わった事くらいだろうか。
 成長と進歩の違いって一体なんなのかしらね、と益体もない思考に耽っているティアナのところへ、ぱたぱた手を振りながらスバルがギンガと共に戻ってくる。

「お久しぶりです、ギンガさん」
「うん。ティアナも元気そうだね」

 久しぶりに見るギンガは、『JS事件』の後遺症などまるで見られぬ、健康そのものといった感じだ。久しぶりと言ってもおおよそ一月程度の事であるのだが、最後に会ったのが事件後に入院していたギンガのお見舞いの時であり、それより前、スカリエッティ陣営に攫われてからの期間を合わせれば、随分長い事会ってないような気分でもある。

 ティアナやスバルも事件後に入院していたのだが、ギンガはスカリエッティに受けた改造手術の治療のせいか暫く面会謝絶が続き、漸く会えたのがティアナ達の退院前日。退院後は二人ともまた仕事で忙しく(主に事件の残務処理でだが)、その後ギンガも退院して仕事に復帰したので、退院後に会うのはこれが初めてである。
 まだ前線に立てるほど回復してはいないと聞いていたから、少し心配していたのだが……見る限りは元気そうで、安心した。
 と思っていたら向こうも同じような事を言ってきたので、知らずティアナの顔に苦笑が浮かぶ。

「エリオ君とキャロちゃんも、久しぶり」
「こんにちは、ギンガさん」
「お久しぶりです」
「フリードも」
「きゅくるー」

 揃ってぺこりと頭を下げるエリオとキャロ、フリードにギンガが優しく微笑んで、頷いた。

「ねえねえギン姉! 今日はどこ行くの?」
「そうね、クラナガンに新しいアイス屋さんが出来たみたいだから、そこに行ってみない?」
「アイス!? いくいく、さんせーい!」
「ティアナ達も、それで良いかな?」

 勿論、ティアナに異論があろうはずもない。エリオとキャロも同様だろう。計ったようなタイミングで同時に頷いて、ちょっと照れ笑い。
 という訳で移動開始である。待ち合わせ場所の公園を始点に、クラナガンのメインストリートを五人はそぞろ歩く。
 途中、アーケード街のショーウィンドウを覗いてみたり(微妙にエリオが居辛そうだった)、ゲームセンターに寄ったりしながら(ギンガがパンチングゲームで最高点を叩き出した)、寄り道した分を合わせて一時間半ほど歩いただろうか、目的のアイスクリームショップへと辿り着く。

 最近、クラナガンに進出してきた大手チェーンの新店舗であるその店は、規模としてはクラナガンの系列店で最大のもの。八階建てビルディングの一階から三階までを占有し、屋外テラス席も完備(ちなみに四階から八階まではボウリングやバッティングセンターなど、スポーツ関連のテナントが入っている)。アイスも数十種類に及ぶ品揃え、ソフトクリームやジェラートまで用意している隙の無さだ。
 季節柄、屋外テラス席はやや寒くなってきているのだが、今日は珍しく風もない、気温の高い日であったせいか、店内だけでなく店外にもそこそこ人は多い。その中の一席を素早くスバルが確保し、残る四人が腰を下ろしたところで、アイス買ってくるねとそのままスバルは店の中に向かった。手伝いますとエリオとキャロ、それとフリードがその後に続く。
 図らずも、その場にはティアナとギンガの二人が残された。

「……思い出してる?」
「え? ……はい、ちょっとだけ」

 いつぞやの時も――アイスを買いに行ったスバルを、ギンガと二人、お喋りしながら待っていた。
 ギンガもそれを思い出していたのだろう、くすりと悪戯っぽく笑いながら、ティアナに問いかけてくる。

「ねえ、ティアナ。最近どう?」
「どう、と言われても」

 漠然とした問いに、ティアナは肩を竦めた。ギンガが望んでいるような面白い話は生憎と持ち合わせていない。
『JS事件』終結後、六課は隊舎復旧までアースラを仮隊舎としているが、人員の大半が入院中、或いは通院中なものだから、仕事は殆ど有って無いようなものだ。隊長陣はともかく、ティアナ達フォワード陣は正直暇を持て余している。
 訓練漬けの毎日ではあるのだが、やはりアースラの訓練室は狭く、どうにも物足りないというのがティアナの感覚だ。寧艦寸前である老朽艦の訓練室と、最新鋭の設備が整った六課の訓練施設を比較するのもどうかとは思うが。

 まあ、それも今週いっぱいまでの事。
 来週の頭には事件中に破壊された六課の隊舎が復旧し、そちらに移る事になる。あっちに戻ったら徹底的にしごきまくってやっからな、と退院したばかりのヴィータが言っていたが、その時の彼女の顔はもうなるべくなら思い出したくない。
 ……というティアナの現状報告を、「そっか」とギンガは嬉しそうな顔で聞いていた。

「そういうギンガさんこそ、何かあったんですか?」
「? 何もないけれど、どうして?」
「いや、何て言うか……こう、生き生きしてる感じがするから」

 生き生きと言うか、溌溂と言うか。穏やかな雰囲気のある女性であるが、今日はそれに、いつもよりもどこか活気が満ちている気がする。
 それは案外、ティアナだからこそ判る事なのかもしれない。戦域全てを俯瞰し見通すセンターガードの観察眼だからこそ見抜ける事かもしれず、現にギンガ本人でさえそれに気付いていなかったと見えて、「そうかなあ」と小首を傾げている。

「そうですよ。何か良い事でもあったのかなって思ったんですけど」
「良い事……ねえ。何かあったかなあ」

 本気とも韜晦とも取れない口調でギンガはそう言って、何か考え込むように顎に人差し指を当てて天を仰いだ。釣られた訳でもないが、ティアナも同じように空を見上げる。晴れ渡った初秋の青空。漂う薄い雲は風がないせいか、ゆるりと蛞蝓のように視界を横切っていく。
 と、ぱたぱたと足音が近づいてくるのに気付いて、ティアナは顔を元の位置に戻した。四段に重ねたアイスクリームを右手と左手にそれぞれ二つずつ、危うげにバランスを取りながらスバルが近づいてくる。

「お待たせー! あれ、どしたの? 二人して上見て」
「別に、何でもないわよ。……あれ、ちびっこ達は?」
「どれにしようかって、キャロが迷っちゃって。エリオが見てくれてるから、あたしは先に戻ってきたんだ」

 言いながらスバルがアイスをティアナに差し出してくる。それを受け取って、一番上のアイスクリームを口に含んだ。チョコミントの甘さと爽やかさが同時に口の中に広がる。スバルほどに底無しではないが、やはりティアナも女の子、甘いものには目が無い。
 ギンガにもアイスを渡し、スバルが腰を下ろした。右と左に一つずつ、アイスクリームのタワーを持って交互にかぶりついている。えらく豪快な食べ方だ、女の子としての慎みとか淑やかさとかは皆無である。今に始まった事でもないのだが。

「……うん?」

 ふと気付けば――妙に、周りが騒がしい。
 ばたばたと逃げるように通りを走り去って行く人々。遠くから聞こえてくる激突音衝突音、悲鳴と怒号。イベントの類でない事はそれだけで明らか、何か良くない事が街の何処かで起こっている。そういった“異変の前兆”に対して、ティアナは敏感だった。

 混乱が少しずつ感染したか、テラス席に座っていた人々が少しずつざわめいてくる。アイスを食べる事に夢中だったスバルも、いい加減気付いて顔を上げた。食べるスピードは落ちていないのは、まあ、ご愛嬌だろう。
 ギンガもまた険しい顔で、人々が逃げてくる方へ睨み付けるような視線を向けている。

「何かあったんですか!?」

 そこへ丁度、カップタイプのジェラートを手にしたエリオとキャロが戻ってくる。二人とも、周囲の雰囲気が違う事に気付いたか、その顔は仕事中の時と同じように――いや、戦闘中の時と同じように、真剣そのものだった。
 キャロの頭の上に浮いているフリードが低く唸り声を上げている。竜族の感覚はヒトよりも遥かに鋭敏に、脅威の存在を捉えているらしい。そう、脅威たる存在が居ると認識しているのだ。ティアナの懸念が裏付けられたも同然だった。

「――行くわよ、三人とも」
「え!? ちょ、ちょっと待って、ティア。いま食べちゃうから」
「…………さっさと食べちゃいなさい。エリオとキャロも」
「「は、はい!」」

 慌ててアイスをかっこみ、アイスクリーム頭痛(嘘のような正式名称)にエリオとキャロが悶絶する。そんなところまでお揃いだった。
 ともあれ二分としないうちにアイスは片付き、頭痛を堪えやや青褪めた顔で、二人が立ち上がる。と同時にスバルがコーンの最後の一欠片を口に放り込んだ。顔の下半分のデッサンが崩れるくらいに豪快な咀嚼をして、飲み込む。その時には既に、彼女も“魔導師”の顔へと切り替わっていた。

「ティアナ、私も――」
「いえ、ギンガさんはここで待っていてください。……まだ、リハビリ中でしょう?」

『JS事件』の後遺症が未だ残っているギンガを、詳細不明の状況には連れていけない。折角順調に回復しているというのに、ここで無茶をしては台無しである。ティアナの判断は至極当然だった。
 けど、と言いかけたギンガを手で制して、ティアナは耳を澄ます。――通りの向こうから聞こえてくる物音が、一層派手になった。激突音と衝突音に、爆発音と炸裂音が混じって出来上がった、耳障りな交響楽。つい一月ほど前、嫌というほど耳にした音楽だ。

 戦闘。
 誰かと何かが、戦っている。

 一人きりであれば歯軋りの一つも漏らしていただろう。それをしなかったのは、ティアナ・ランスターがこの場で指揮を取る側の人間であり、指揮官である以上、怒りや苛立ちを部下の前で晒すのは褒められた事ではないと解っているからだ。

「行ってくるね、ギン姉!」
「……気をつけて、みんな!」

 そして少女達は走り出す。
 逃げ惑う人々の波を逆に掻き分け、顔も知らぬ誰かが戦っているその場所へ。
 懐に手を差し入れる。取り出したのは己の得物。陽光を反射して鋭く光るそれの手触りが、これより戦場へ赴く己にとって、何よりも心強い。

 両面にクロスが刻まれたカード。
 蒼いクリスタルのネックレス。
 デジタル表示式の腕時計。
 羽飾りのついた宝玉のアクセサリー。

 それぞれをそれぞれに掲げて――少女達は高らかに、相棒の名を口にする。

「クロスミラージュ!」
「マッハキャリバー!」
「ストラーダ!」
「ケリュケイオン!」
【Stand by ready――】



「セット――アップ!」
【Drive ignition.】



 瞬間、光がティアナの視界を満たした。ひょう、と身体を風が撫で回していく感覚。衣服が粒子化して格納され、魔力がバリアジャケットへと再構成されて彼女の身体を覆う。一秒にも満たない一瞬で彼女達は変身を終え、敵の下へと加速する。

「……!」

 不意に、音が止んだ。戦いが終わったのか、それとも別の場所に移ったか。どちらかと言えば後者の方が望ましい。面倒事に関わらずに済む。かと言って前者を厭う訳では無く、折角の休日をぶち壊してくれた落とし前をつけさせてやれるのなら、それはそれで悪くないと考えるティアナが居た。
 前者か後者か。その答えは、すぐに判った。
 通り過ぎる人々の流れが途絶え、周囲の風景が繁華街からそのもの戦場跡と化した頃、スバルが「ティア、あれ!」と声を上げる。四人の中で最も目の良いスバルが最初にそれを捉え、彼女に教えられると同時に、ティアナもまたそれの姿を捉えた。

 大通りの一角が、まるで霧がかかったようにぼやけている。粉雪のように舞い上がる灰によって覆われているのだと気付いた瞬間、ティアナの目はその向こう側に佇む何かの輪郭を把握し――違和感に、眉を顰める。
 一見、人間かと思った。それがヒトならぬ何かであると判ったのは、そのシルエットがあまりに人間から乖離していたからだろう。極言、人間と“それ”との共通点など、二足歩行で直立しているという程度でしかない。甲冑の如き灰色の外殻も、吊り上がった複眼も、大鋏を思わせる顎も……どれも人間生物が備えてはいないものだ。

 そう、それはむしろ、人間と言うより――蜂。
“蜂男”は足元に視線を落とし、呆然と言った風情で突っ立っている。その複眼からは視線の向かう方向など見当も付かないが、敢えて人間のそれと同じと仮定すれば、すぐ目の前の地面にぶち撒けられた灰を見ているのだろう。

「………………」

 四人が足を止める。ざり、という足音に気付いたか、“蜂男”が顔を上げ、酷くのろくさとした動きで、ティアナ達へと顔を向けた。
 スバルが、エリオが、共に身構える。キャロを護るように、フリードが低い唸り声と共に相手を睨み付ける。ティアナもまた、ツーハンドモードのクロスミラージュ、その一挺の銃口を“蜂男”へと向けて、相手の出方を窺う。

 ぞくりと何かが背筋を駆け上がる感覚。それは恐怖に似て、しかし恐怖とは根本的に異なる何か。
 その正体への考察に費やす容量はないと、ティアナは目の前の光景へと意識を一本化する。雑事に気を取られていては、一瞬で心臓を抉り取られる。そんな予感がある。
 そしてそれはティアナに限らず、他の三人……否、フリードに至るまで、共通であっただろう。



 機動六課フォワード陣は、この日この時、初めて『灰色の怪物』と接敵した。
 ――悪夢の連鎖が、始まる。





◆      ◆





第弐話/乙/了





◆      ◆







後書き:

 という訳で、第弐話乙でした。お付き合いありがとうございました。
 もうお分かりかと思いますが、この話の後に序幕が入る形になります。序幕の後書きでも書きましたが、この時系列の入れ替えは戦闘シーンが殆ど出せない為の苦肉の策であり、“掴み”の為の演出とご理解ください。
 次回はようやくまともな戦闘シーンが書けそうです。日常パートは書いてて微妙にストレス溜まるなあと感じる今日この頃。リリなのはともかく、仮面ライダーはやっぱ戦闘してなんぼですよね。ライダーじゃなくて怪人しか出ませんけど。
 ちなみに今回の海老姉さんはまだ顔見せです。ちゃんとした活躍(?)はもう暫く後になります。ご了承ください。

 それでは次回で。



[7903] 第参話/甲
Name: 透水◆44d72913 ID:35af097c
Date: 2023/12/29 20:34

 結城衛司、十四歳。
 中学二年生――ただし現在、異郷の地ミッドチルダに放り出された事で休学中。

 学校での成績は中の上。満遍なくそこそこの点数を取っている反面、飛び抜けて得意な教科も無い様子。教師受けも良く、その意味では優等生と言える。
 部活動は映画研究会に所属、ただし半ば幽霊部員と化している。取り立てて仲の良い友人は居ないようだが、それ故か交友関係は広い様子で、多少素行の悪い生徒とも親しげに話しているところを何度か教師に目撃されている。悪影響も懸念されたが、少なくとも現時点で目に見える変化は確認されていない。

 性格は概ねにおいて温厚。友人からの頼み事は大体において聞き入れ、交友関係の広さはそこにも起因すると考えられる。一方で興味を持った事にのめり込みやすい気質なのか、時間を忘れて何かしらの作業に没頭している事も多い。
 家族、係累は無し。父母と姉が一人居たのだが、二年前、とある事件に巻き込まれた際に死別。以降、両親の遺産や保険金などで生活している。



 ……ここまでプロフィールを羅列したところで、勘の良い人間ならばもう気付いただろう。
 結城衛司という“人間”は、酷く薄っぺらである。プロフィールから内面が読み取れない。『平凡』であり、『何処にでも居そうな』少年だ。他者から観察される彼は凡百の中の一人であり、風景の一つとして処理されてしまう程度の存在に過ぎない。

 しかしこれは、ただ一つの前提を崩す事によってがらりと姿を変える。
 裏返る。
 反転する。
 即ち、結城衛司が“人間”であるという前提。これを否定するだけで、見える景色はまったく異なるものへと変貌する。
“人間”で無いモノが、“人間”として平凡であるという不可解。条理の外側に在るモノが、条理の内側で凡百の中に埋もれるというその異常にこそ、結城衛司を読み解く鍵があって――





◆     ◆





異形の花々/第参話/甲





◆     ◆







 どれだけ走っただろうか。周囲の風景が長閑な田園から猥雑な繁華街へと変化し、運転手の姿が見えないサイドカーに奇異と好奇の視線を向ける人間の数が目に見えて増え出す――その、直前。
 タイミングを見計らったかのように、衛司を乗せたサイドカーは路肩へと寄せて停止する。どるん、と一つ吼える様に排気音を立ててエンジンも止まり、その排気音に追い立てられる様に、衛司も側車を降りた。

 ぐるりと周囲を見回してみる。これ本当に異世界か? という疑問がまず先に立った。
 異世界というのはもっとこう、車が空を飛びロボットが往来を闊歩するSF的な街並みか、妖精が宙を舞い魔物が荒野を徘徊するファンタジーな空間であるものではないのか。無論、立ち並ぶ高層ビルの威容は目を瞠るものがあるが、それでも地球の都市と比べ圧倒的に文明が進歩していると窺えるほどではない。

 まあ、衛司が入院していた病院を顧みれば、それほど驚く事でもないだろう。それに街中の看板や標識は日本語ではなく、確かミッド文字と言ったか、とにかく衛司の読めない字体で綴られ記されている。疑問は残るが、疑念を消し去る程度には充分な状況証拠だった。

「…………さて、と」

 ここから――どうしたものか。
 ポケットから携帯電話を取り出し、中折れ式のそれを開いて、液晶画面に視線を落とす。地球時間を表示したままの待受画面は何も動きを見せず、沈黙するばかりのそれに一つため息を漏らして、衛司は携帯電話を仕舞い込んだ。
 この場所が終着というのなら、ここに衛司を連れてくるだけの何がしかがなくてはならない。指示されるまま動く事に今更異存はないが、その指示すら届かず、加えて自身がこの場で何を望まれているのか分からないのでは、ただ立ち尽くす以外に処方はなかった。

 知らず、舌打ちが漏れる。もしかしたら、これは――この世界に拉致されてきた事も含めて――壮大な嫌がらせではないのかという疑念さえ湧いてきた。異世界に放り出され、市街地に放り出される、畳み掛ける様な放置プレイの二連撃。
 こちらは覚悟を決めて来ているというのに、その決意すら空回りしている。否、空回りさせられている気がして、つまり衛司の胸の中で蟠る、怒りと焦りが綯い交ぜのもやもやした感情は、それに起因するものなのだろう。

「……ナカジマさん、怒るだろうなあ」

 現実から目を背けるように、衛司は呟く。だが呟いたその言葉もまた、現実の一面を映していた。
 正直な話、覚悟だの決意だのという言葉は、ギンガ・ナカジマに対してのみ向けられたものである。 

 飯を食べないという程度ならともかく、病院を脱け出しましたはさすがに洒落で済ませられないだろう。今の衛司は法的には不法入国者である。ミッドチルダ総合医療センターに入院しているのもあくまで建前としてであって、その実は軟禁に等しい。問答無用で留置場や牢獄にぶち込まれないのは、管理局員――この場合はギンガの事だ――の不手際によって負傷した事と引き換えという面も少なからずあるのだろうが、それもこうなっては望むべくもない。
 まったく短慮であり、軽挙と言われたところで否定は出来ない。ただ、それはそれで構わないと考える衛司も確かに居た。自らの判断で決めた事だ、それによってどんなペナルティを負わされたとしても、仕方の無い事と割り切れる。例え地球に戻れなくなるとしても、それは変わらない。



 極端な話。結城衛司は、故郷に未練を抱いていないのだ。
 これまでの人生、十四年という時間の中で積み上げてきたものに、価値を見出していないが故に。



 だから結局、彼が不安を抱いているのは、これを知ったギンガがどういう反応を示すかだ。
 怒るだろう。もしかしたら殴られるかもしれない。それも平手ではなく拳で。何となくではあるが、そんな予感があった。
 そこまで考えたところで、衛司はため息をついている自分に気付いた。先の、携帯電話を眺めながらのため息とはまったく違う、落胆ではなく苛立ちを含んだため息。

 ギンガ・ナカジマ。この世界において、結城衛司のほぼ唯一と言って良い知己である女性。
 自身が事故に遭わせてしまったという罪悪感か、或いはこの世界に紛れ込んだ衛司を最初に見つけた責任感か、足繁く病院に、衛司の病室に足を運んでくる女性。まだ一週間足らずの付き合いではあるが、しかし彼女に対する評価を下すには、それは充分な時間と言える。
“善い人”、だ。
 彼女の側が衛司をどう思っているかは定かではないが、少なくとも内心を表に出さずに他者と付き合えるという点で、そう判断出来る。



 だからこそ――気分が悪い。
 その善意に胸焼けすら覚えるのは、結城衛司が人外である事と、きっと無関係ではないだろう。



「…………?」

 ふと視界の端に、妙なものが映り込む。
 いや、見た目、外見が奇妙という訳ではない。二十代半ばほどの若い男。カジュアルな服装は繁華街を行き交う人々の中で取り立てて浮いてはいない。むしろ至極馴染んでいると言えよう。

 だから奇妙と表現出来るのは、その挙動である。何かに怯え、何かに追われているように、目を血走らせながら息を切らし倒けつ転びつ通りを走る男の姿は、どう好意的に見ても不審という形容でしか表せない。
 自然、周囲の人間の視線は、男へと集中する。衛司も例外ではなかった。何の気無しに男を追う、人々の視線――だがその視線がまるで実体を持って身体を射抜いたかのように、びくん、と男が身体を仰け反らせて反応する。
 そして男はぎろりと周囲を睥睨すると、やおら口から泡を飛ばしつつ喚き始めた。

「な、な、なに、何を見てやがる……! 何で見てやがる、何で、何で、何で何で何で何で……!」

 まるで呂律が回っていない、熱病患者か薬物中毒者を思わせるその口調に、男の近くに居る者は目を逸らし、男から離れたところに居る者は眉を顰めつつ、その視線に侮蔑の色を含ませる。

「ふざけんな、ふざけんな、ふざけんな、ふざけんな……! て、てて、てめぇら、てめぇらもか、てめぇらもかぁああああ!!

 自分の言葉に煽られたか、暴発するように男は声を荒げる。近くのショーウィンドウに拳を叩きつけ、中のマネキン人形を引き摺り出して、その足を掴み、棍棒よろしく振り回し始めた。
 ガラスの砕き割れる音が周囲に響き、人々が慌てて男の周囲から逃げ出した。その反応に益々男は激昂し、奇声を上げながら周囲にあるものをマネキンで殴りつけていく。
 最早完全に錯乱していると知れる男に、偶々近くに居合わせたのか、ギンガの着ているものと同じカーキ色の制服を着た男性が二名向かっていった。恐らくはあれも時空管理局の人間なのだろう。この世界における警察のような存在であるというから、街中で暴れる男を放置は出来まい。

「おい、君――」

 局員の一人が、男の腕を掴んで制止にかかった。多少なりと腕に覚えがあるからこその行動だったが、それは実際、ただ迂闊としか言い様のない行動でもあった。
 がつっ、と鈍い音を響かせ、男の肘が局員の顎を直撃する。仰け反った局員を、ぶんと振り回されたマネキンが殴打した。悲鳴とも奇声とも取れぬ声を上げて、局員が倒れ伏し――だがその瞬間、残るもう一人の局員が、男を背後から羽交い絞めにし、足払いをかけて、そのまま押さえ込む事に成功する。

 これで終わりだろう。始終を見物していた衛司のみならず、周囲に居た人間が揃ってそう判断する。
 それが早計であったと判るまで、そう時間はかからない。

ぎぃいいいいいあああああああああああっ!

 喉が裂けんばかりに、男が怒号を吐き散らす。それは或いは悲鳴であったかもしれない。何にしろ、その絶叫が響き渡った瞬間、異変は始まった。
 男の周囲の空間が沸騰する水面の如くに歪み、男の姿が人間としての輪郭を失い、何かまったく別種のものへと変貌する。男の上に圧し掛かり、押さえ込んでいた局員の顔が驚愕に硬直し、その顔のまま、次の瞬間には彼は男の上から弾き飛ばされていた。
 片側二車線の車道を横切る形で局員は文字通りぶっ飛ばされ、向かいの歩道に面するコンビニエンスストア――と思しき商店――へと突っ込んだ。ガラスが砕ける凄絶な音に混じり、何かが潰れるような、不気味に水っぽい音が聞こえる。

 ゆらり――と、男が立ち上がる。
 いや、違う。立ち上がったのは男ではない。
 局員に押さえつけられ、局員を弾き飛ばし、そして今立ち上がったそれは全て同一であるのに、その姿は数秒前とまるで異なっている。

 人間と同じように四肢を備え、二本の脚で直立している。だがそのシルエットに、人間としての意匠は無かった。中世のプレートアーマーを思わせる重厚な灰色の外殻、肥大化した上半身によって逆三角形を描くシルエット、頭部から伸びる角。右の角が半ばほどから切り落とされたように欠けている。
 例えるならば、牛。それも家畜としての牛ではない、厳しい自然環境を潜り抜けるだけの強靭さを備えた、野性の猛牛。

「……オルフェノク・・・・・・……!」

 衛司が呆然と呟く――だがその呟きは、恐慌に陥った人々の悲鳴にかき消された。
 雪崩を打って逃げ出していく人々。我先にと、他者を押し退けてまで逃走する彼等の姿は、衛司の目にはただ醜悪にしか映らない。

 一人の女性が、無理な走り方をしたせいか靴のヒールを折ってしまい、その場に倒れこむ。引き攣った顔で振り向いた彼女の視線の先には、地響きのような足音を響かせて近づいてくる牛男――バイソンオルフェノクの姿。
 踏み潰されなかったのは彼女の幸運か、或いは野牛の気紛れか。代わりにバイソンオルフェノクはむんずと女性の服の裾を掴むと、そのまま人外の膂力に任せ、小石が如くに放り投げる。綺麗な放物線を描いてぶっ飛んでいく女性の悲鳴が、ドップラー効果さえ伴って辺りに響いた。

「――って、ちょっと!」

 気付いた時には、衛司は走り出していた。
 さして身体能力に特筆すべきところもなく、身体の動かし方に心得がある訳でもない衛司がそれに追いつけたのは、一種の奇跡と言って良いだろう。女性が地面に叩き付けられるよりも僅かに速く、彼はその落下地点に到達する。
 ただし奇跡と呼べるのはそこまで。女性を受け止める事が出来れば百点満点だったのだろうが、生憎とそこまで格好良い展開は結城衛司に望むべくもない。自らの身体をクッションにし、つまりは女性の下敷きとなって衝撃を和らげる事しか、衛司には出来なかった。

「げはっ!」

 内臓から強制的に空気が搾り出される。女性はやや小柄な方であったものの、衛司とて十四歳の少年、体格差は殆どない。落下による重力加速を含めれば、数十キロの塊が直撃した事になる。十数秒の間呼吸困難に陥るものの、それだけで済んだというのは掛け値無しに幸運だった。
 女性はと言えば、空中高く放り投げられたショックからか、気を失っている。これもまた、幸運の一つだった。――この後の展開を、目にする事がないのだから。

「がほ、げ、げふっ……ごほっ!」
〖…………何だ、て、てめ、手前ぇは〗

 酸素を求めて咳き込む衛司に、どこかくぐもった声が投げかけられる。
 バイソンオルフェノクの足元から伸びる影。直上からの陽光を受け、足元に黒々と野牛の形を映す筈のそれは、斜陽を受けたかのように長く伸びて、しかも奇妙な事に、影としての色と形を持ち合わせていない。古い映写機によって映し出された映像のように、上半身裸の男が路面には映し出され、その男が衛司へと声を向けたのだ。
 ただ、影の中の男を視認出来るのは衛司だけだろう。例えば、衛司の足元でのびている女性がそれを見たところで、ごく普通の影であるとしか認識出来まい。

〖じゃ、邪魔、邪魔すんのか、邪魔すんのかあぁあっ!〗

 がん――とアスファルトを蹴立てて、バイソンオルフェノクが突っ込んでくる。
 咄嗟に横に飛び退いて躱せば、野牛はそのまま勢いを落とさず、衛司の背後に停まっていた一台の車に激突した。哀れ乗用車は紙屑の様にぐしゃぐしゃになりながら路面を転がり、何回転しただろうか、スクラップというにも生易しい有様となって漸く停止する。だがそれだけでは終わらない、停止した次の瞬間には、耳を聾する爆音と共に炎を噴き上げた。

 轟と吼える炎を背に、野牛が振り返った。がりがりと蹄でアスファルトを削るその所作からは、目の前の獲物を逃がさないという意思がありありと見て取れる。
 逃げられないという理解に衛司が至ったのは、むしろ遅すぎたと言えよう。

「……ちくしょう」

 ぼそりと静かに毒づいて、衛司は立ち上がった。
 この姿を晒すつもりは――なかったのに。
 ぎりと歯軋りが漏れる。その眼差しが抜き身の刃が如き剣呑なものへ変化する。ざわりと彼の顔に浮かび上がる、奇妙な紋様。それはどこか、“蜂”を思わせて。

「――――――ッ!!」

 変異は一瞬。
 人間の可聴域を超えた高周波の雄叫びと共に、結城衛司が本来“在るべき”姿へと回帰する。



 現れ出でるその姿は、一匹の雀蜂。人のカタチに雀蜂の意匠を上乗せした、灰色の異形。
 これぞ人外存在たる結城衛司の本来の姿――ホーネットオルフェノク。



〖な、て、手前ぇ……!?〗

 驚愕からか、バイソンオルフェノクが一歩後ずさる。
 だが続く二歩は、終ぞ踏み出されない。一歩の後退は驚愕であっても、二歩の後退は気圧された事を意味する。直感でそれを理解したか、後ろへと踏み出しかけた二歩目を無理矢理地に降ろし、蹄でアスファルトを砕き割って、野牛は雀蜂を睨み付けた。

〖そうか……手前ぇ、手前ぇも、スマートブレインの回し者だなぁ!?〗
〖……スマートブレイン……!?〗

 鸚鵡返しに衛司が呟いたその名を、バイソンオルフェノクは己の問いに対する肯定と取ったらしい。
 野牛の眼差しに宿る戦意が、明確に殺意へと切り替わった瞬間を、衛司は確かに感知した。それは即ち、最早如何なる説得も無為であると理解した瞬間でもあり、交渉の術が断たれた瞬間でもあった。

〖こ、殺して、殺してやる……! 何がスマートブレインだ、ふざけ、ふざけやがって……! さ、指図は受けねえ、お、俺は、俺は好きなようにやるんだ、やるんだ、やるんだだだだだだだ――ああああああっ!〗

 咆哮は最早爆風の如き圧を伴って、衛司の総身を叩く。
 再び、バイソンオルフェノクが突進を始めた。崖を転がり落ちる巨岩よりもなお破滅的な暴力と化して、野牛が敵へと突貫する。一匹の蜂に向けるにはあまりに破格の暴力。それこそ斧で胡桃を叩き割るようなオーバーキルだ。
 だがそれも、相手がただの蜂であれば。ホーネットオルフェノクでなければの話である。

 たん、と衛司が地面を蹴る。バイソンオルフェノクの直線軌道から逃れ、側面に回りこんだ彼が、左掌を敵へと翳した。
 ごりり、と歯車が擦れ合うような軋音が左の前腕から響き、奇妙な蠕動によって形を変える。尺骨に当たる部分がせり上がり、掌部側の先端が筒口の如く開いて完成したそれは、前腕と一体化した銃身。オルフェノクとしての闘争本能が作り出した、結城衛司の“武器”、その一つだった。

 金切り声にも似た音と共に、“銃口”から弾丸が射出される。いや、弾丸と呼ぶのは相応しくあるまい。撃ち出された弾体の形状は細く長く、それこそ針に近い。連射速度は突撃銃のフルオート射撃にも匹敵しよう。秒間に二十発を数える飛針は例外無く音速の壁を越え、野牛の急所に向けて加速する。
 だが。

〖…………!〗
〖無ぅぅぅぅぅ駄ぁぁぁぁぁ!〗

 掠めただけでも肉をごそりと抉り取る飛針は、しかしバイソンオルフェノクの外殻を貫くには至らない。耳を劈く金属音を響かせるものの、ただの一発とて、敵に傷を負わせるに至っていない。
 それは必然。衛司には知る由もない事であったが、その外殻は以前に、かの『炎の魔剣』レヴァンテインの一太刀すら弾いているのだ。
 野生の猛牛が持つ強固な体皮が、オルフェノクの能力によって昇華された灰色の外殻。最早それは防具に留まらず、ホーネットオルフェノクの飛針と同様、バイソンオルフェノクの“武器”と言えた。

 バイソンオルフェノクの攻撃はただ単純な突撃のみ。総身を砲弾とする愚直な直線軌道の体当たりである。何度躱されようと飽きず懲りずに突撃を繰り返すその様を見れば、余計な小細工を文字通りに蹴散らすその戦法にこそ、敵は絶対の信を置いていると知れる。
 間合いを取っての射撃では埒が開かない。だがあの砲弾を相手にクロスレンジでの戦闘を挑む事が如何に難題か、衛司は過たず理解していた。
 暴走するトレーラーを横合いから殴り付けるようなものだ。その速度、その質量が相手では、生半可な攻撃はおろか、前に立つ事すら致命的。

〖……ふん〗

 だがそれは、ただ逃げ回る事を意味しない。
 複眼と呼ばれる眼球構造がある。それぞれにレンズを持つ個眼が蜂の巣のように集まった器官であり、昆虫を含む節足動物に特有のそれを、雀蜂の能力を持つホーネットオルフェノクもまた当然に備えていた。数万、いや数十万の個眼が敵の挙動の全てをつぶさに観察し、そこに在る隙を見逃すまいと駆動する。

 果たしてホーネットオルフェノクの複眼は、そして結城衛司の観察力は、敵の挙動の内に潜む勝機を見出した。仕掛けるのは次だ。野牛が間合いに入った瞬間、雀蜂は己の切り札を敵へと繰り出すだろう。
 だが野牛が間合いに踏み込むその寸前、はたと衛司はそれに気付いた。広い視界を確保する複眼の恩恵であったか、それとも気配を感じる皮膚感覚によるものか。己の背後、数メートルの位置に、女性の姿がある。先程、衛司が己の身体をクッションとして助けた女性が、未だ意識を取り戻さないまま、そこに横たわっている。

(――まずい!)

 バイソンオルフェノクは既に突進に入っている。最高速に達するまでに一秒とかかるまい。
 脳内で組み上げていた策が使えなくなった事を悟る。あの位置に人が居ては駄目だ。戦闘経験の少なさに起因するものとは言え、周囲の状況に気を配らなかったのは、間違い無く衛司の失策だった。
 ――見捨てれば良い。
 脳内で、誰かがそう囁く。
 ――誰に咎められる事もない。元よりあの女を衛る為に戦っている訳でもあるまい。
 それは結城衛司の本心か。或いはホーネットオルフェノクの本音か。その声は静かに、そして冷たく、衛司を縛るしがらみを解かんと囁いてくる。

〖五月蝿いっ……!〗

 唾棄するが如くに吐き捨てて、衛司は横に飛び退いた。野牛の突進の軌道上から女性を離す為の、ただそれだけの動き。回避ですらないその行動は、当然、彼を窮地に追い込む事となる。
 バイソンオルフェノクが進路を変える。無理な挙動で体勢を崩した衛司は、それを躱せない。
 野牛の体当たりが雀蜂を直撃し、衛司の身体が撥ね飛ばされて宙を舞う。錐揉み回転のまま固い路面に叩き付けられ、それでも勢いを殺しきれず、滑るように地面を転がった。
 幸いだったのは、突進中に急遽進路を変えた事によって、バイソンオルフェノクの突撃に本来の威力が乗っていなかった事であろうか。全身が軋み、激痛に悲鳴を上げているが、それでも致命傷には至っていない。

 敵も、衛司をまだ仕留めていないと理解しているのだろう。蹄でアスファルトを削りつつ反転、再度衛司へと向けて加速する。もう一度この突進に巻き込まれれば、如何にオルフェノクと言えども命はあるまい。否応無しにそう理解させる蹄音を前に、雀蜂がゆらりと立ち上がる。
 立ち上がった雀蜂を、嘶きの裏で野牛が嘲笑う。無意味の極みだと。伏せたまま踏み潰されるか、立ち竦んで撥ね飛ばされるか、その程度の違いしかない。

 どうあろうと結末は変わらない。この時確かに、野牛は勝利を確信していた。
 だが刹那、ぽつりと放たれた呟言が、その確信を突き崩す。

〖……調子に乗るなよ、駄牛が……!〗

 撃鉄が落ちる。
 総身を苛む痛みが電流火花の如き戦意によって駆逐され、千々に乱れていた思考が脳髄を焼き焦がす殺意によって一本化される。

 元より雀蜂という種は非常に攻撃性の高い生物である。大型の甲虫であろうと目に付けば餌食とし、外敵とあらば熊にさえ牙を剥く。その獰猛さは他の昆虫と比しても類を見ず、雀蜂の能力を持つホーネットオルフェノクもまた、その攻撃性を確かに備えている。
 それが今、この時まで表に出なかったのは、結城衛司が人間として積み重ねてきた十四年という月日のせいであろう。彼が人間として、人間の中で過ごしてきた時間は、争いを好まない穏やかな性格に彼を醸成している。
 だがそれも、所詮は表層に上塗っただけの事。生死を賭したこの極限状況はいとも簡単に、結城衛司が繕ってきた“人間”を剥がれ落ちさせる。
 そうして剥き出しとなったその本質は、攻撃的で獰猛な、雀蜂そのものであった。

 野牛の突進を、雀蜂は最早躱そうともしなかった。重心を落とし、胸の高さにまで腕を掲げたその様は、猛牛の突撃をその身一つで受け止めようとする無謀に他ならない。
 鉄塊同士が高速でぶつかり合えば、或いはこのような音がするのではないか。そう思わせる音が一帯に響き、バイソンオルフェノクが遂にホーネットオルフェノクを、最高速度の突撃に捉え――両者が、激突する。

 衛司にとって幸運だったのは、バイソンオルフェノクの頭部から伸びる角、その片方が半ばほどからへし折られていた事。剣の騎士、烈火の将が負わせた手傷。それが、このタイミングでホーネットオルフェノクに利した。
 右の手で残る左角を掴み、左の手で額を押さえ込む。バイソンオルフェノクの突進攻撃において最も危険な角による突き上げを、片方だけとは言え封じられた事は、間違いなく僥倖と言えた。
 だがその勢いまでをも瞬時に減殺出来る訳ではない。単純な力比べではない、野牛には突撃による加速が上乗せされているのだ。事実、衛司の身体は後方へと押し出され、両者組み合ったままの態勢で、背後に聳えるビルディングへと突っ込んだ。

〖おおお――おおおおおおおおっ!
〖………………!?〗

 握り締める左の角から、バイソンオルフェノクの動揺が伝わる。
 足裏から火花を散らし、壁と言わず窓と言わず障害物を粉砕しながら、しかし確かに、突進の勢いが殺されていく。絶対の自信を持つ突撃が阻まれる事態に、野牛は確かに驚愕し、そして動揺した。
 換言すればそれは、野牛が初めて見せた決定的な隙であり――雀蜂は、それを見逃さない。

 野牛の額から左手を離す。頭上に掲げたその掌の中で得物が形成される。虚空から掴み出したそれは、一条の槍だった。細長い円錐に、笠状の鍔がついた槍。斬撃をも用途に含めた突撃槍とは違う、ただ“突き刺す”事にのみ特化した騎兵槍。
 それを掌の中でくるりと反転させ、逆手に持ち、振り下ろす。切っ先が抉ったのは野牛の大腿。外殻と筋肉によって比類無き頑強を誇る上半身に比べ、『走る』機能を優先しなければならない下半身の物理的強度は僅かに劣る。

 果たして、ぞぶりとおぞましい音を立てて槍は野牛の腿を貫通し、そのまま地に突き刺さって、野牛の身体を縫い付けた。
 慣性に従って、がくりと野牛が前につんのめった。この時点で野牛の突撃は最早完全に威力を失っている。そして体勢を崩したこの瞬間こそ、紛う事無き勝機。

 音も無く雀蜂が床を蹴り、跳躍。中空での挙動は一種芸術的とすら言えただろう。月面宙返りによって天地を逆転、そのまま重力に引かれ、直下の野牛へと落下する。
 同時に右の前腕が変化、否、変形を始めた。甲冑の如く前腕を鎧っていた外殻が形を変え、ナックルガードの如く右拳を覆う。見ようによってはボクサーのグローブにも似ているそれは、しかし拳の延長に存在する一本の衝角によって、その印象を全く異なるものへと変えている。

おおおっ!

 狙うは延髄――プレートアーマーの如き外殻の“継ぎ目”にあたる部分。
 繰り出された右拳の衝角は狙い過たず、深々と敵の致命点を穿った。
 根元まで捩じ込まれた衝角を引き抜き、バイソンオルフェノクの肩を蹴って再度跳躍。数メートル離れた地点に着地する。

〖ご、お、おおお……!〗

 野牛から漏れる呻き声。最初はただの吐息であったそれに、じわじわと苦悶が混じっていく。
 ぶん、と雀蜂が右腕を振った。右拳の衝角に付着していた液体がアスファルトに飛沫を散らす。それでも未だてらてらと衝角を濡らしているのは、バイソンオルフェノクの体液のみならず、衝角そのものから染み出す無色透明の液体。先の一撃によって野牛の体内に打ち込まれた“必殺”の、その残滓だった。

〖い――い、ぃいいいいぎぃいいいいいい!?〗

 野牛の呻きが悲鳴へと変わる。両腕で胸を掻き毟るも、鎧の如き外殻に阻まれ、掻痒も苦痛も和らぐ事はない。
 外からの攻撃を一切遮断する強固な外殻も、内側からじくじくと肉体組織を蝕む攻撃に対してはまるで無力、いやむしろその外殻が障害となって、苦痛への干渉を阻んでいる。
 己の相手が“蜂”である事を、どうやら野牛は失念していたらしい。古今東西、蜂と名の付く生物に共通する武器はただ一つ、毒針である。万象必殺の猛毒を纏う衝角こそ、雀蜂、ホーネットオルフェノクの毒針――結城衛司の切り札であった。

 やがて野牛の身体、外殻の隙間から、青い炎が噴き出してくる。オルフェノクの最期を示す青い炎。蝋燭程度の炎は、いつしかバイソンオルフェノクの全身を包み込み、血肉の一片に至るまで、その全てを灰と化さしめる。
 ざらりと野牛の輪郭が青い炎の向こうに崩れ落ち、不意に吹き抜けた涼やかな風に吹き散らされた。大腿に突き刺さっていた騎兵槍が地面に落下し、がらん、と耳障りの悪い金属音を奏でる。足元まで転がってきたそれを拾い上げると、雀蜂の手の中で、騎兵槍は形を失って霧散した。

〖……………〗

 脳髄を灼く戦意と殺意が――冷めていく。
 代わって思考を埋めるのは、酷く空虚な失望感。アドレナリンに溺れたその反動か、それは何処か、自己嫌悪にも似て。
 一体自分は何をしているのか。誰かを衛るつもりもなく、何かに対する怒りでもなく。誘われるままに庇護を離れ、流されるままに同胞を手にかけて。その主体性の無さに、衛司自身が呆れ果てる。

 何たる無様。
 何という無様。
 お前は一体、何がしたいんだ――頭の中で、誰かが衛司に問いかける。それに答える事は出来ない。その答えを衛司は持ち合わせておらず、もし持ち合わせていたところで、それを胸を張って誇る事など、出来ようはずもない。

 そんな彼に殺された野牛こそ哀れだ。バイソンオルフェノクに変化したあの男が一体何によってあれほどまでに錯乱していたのか、今となっては知る由もないが……それでもただ戦い、ただ殺す以外に処方があったのではと、今更に考えてしまう。衛司の取った手段は、いわば最も簡単で、安楽なものだったのだ。
 だから。



 戦闘という安易へ走った代償を。
 共食いにも似た同胞殺しの罪深さを。
 結城衛司は、すぐさま思い知らされる事になる。



 ざり、と靴裏が路面を削る音に、衛司は顔を上げた。ホーネットオルフェノクの複眼が場に現れた人間達の姿を捉える。近づいてくる足音にまったく気付かなかった、それだけ意識を己の内に没入させていたのだろう。
 呆然と突っ立った、隙だらけの雀蜂をそれでも警戒するかのように、彼等……いや、彼女等は衛司から十メートルほど離れたところで、相手の様子を窺っている。
 衛司と同年代の少女が二人、小学生くらいの少年と少女がそれぞれ一人。幼い少女の傍らには羽の生えた蜥蜴らしき生物――有り体に言えば“竜”だろうか――が浮遊している。

 四人の少年少女は皆、奇妙な服装をしていた。この世界に“魔法”なる技術体系が存在する事は既にギンガ・ナカジマから知らされている衛司であったが、魔導師の戦装束、バリアジャケットを実際に目にした事はなかった為、彼が少女達の服装を“奇妙”と表現したのは、無理からぬ事かもしれない。

「そこの貴方! 言葉が解るなら、今すぐ武装を解除し、こちらの指示に従いなさい!」

 少女達のリーダー格と思しき橙髪の少女が、銃に似た得物を衛司へと突きつけつつ、そう声を張り上げる。
 武装解除しろも何も、衛司は武器の類を何も手にしてはいないのだが、しかし武器と言うのならオルフェノクはその総身が凶器である。衛司の左腕の様に体内に武器を仕込んでいるオルフェノクも居るし、殆どのオルフェノクは自分の得物を自ら作り出す事が出来る。
 橙髪の少女がそこまで知った上で武装解除を勧告しているのかは不明だが、厳密にその指示に従おうと思うなら、オルフェノクは己の四肢を切り落とすより他に処方は無い。

「警告は一度です! こちらの指示に従わない場合――実力行使によって、貴方を拘束します!」

 その言葉が放たれた瞬間、衛司の中で、何かがびきりと音を立てて亀裂を穿たれた。
 理解したのだ。否、それは本能による直感と言う方が、より実際にそぐっているかもしれない。何の根拠もなく、だがそれ故にはっきりと実感する。

 彼女達こそ、結城衛司に――ホーネットオルフェノクに対する“断罪”。咎人を吊り下げる絞首刑の荒縄であり、頸を刎ねる断頭台の刃。人から生まれたヒトならぬモノへ、世界が用意した断罪の手段であると、論理を超えた何かによって認識する。
 だから恐怖する。そのあまりに一方的な“死刑判決”に、結城衛司は恐怖する。

 殺される。
 死ぬ。
 あの暗闇に、あの奈落に、再び突き落とされる。

 ――いやだ。
 ――死ぬのは、いやだ。

 たった今、同じくそう思っていた筈の野牛を手にかけた事など綺麗さっぱり忘却して――結城衛司は、逃げ出した。
 恥も外聞も無い、それはそれは無様な、逃走だった。





◆      ◆





第参話/甲/了





◆      ◆







後書き:

 という訳で第参話でした。お付き合いありがとうございました。
 前話の後書きで「この後に序幕に続きます」と書きましたが、実際にはこちらの方が序幕直前ですね。失礼致しました。
 ぶっちゃけ、今回の『蜂VS牛』をやりたいが為に、第壱話で牛をシグナムと戦わせてみたのです。伏線というほど大したものでも無いですけど、(作中での)衛司の第一戦ですので、ある程度強い相手であると印象付けたかったんです……が、その為にシグナムが割食った形になってるので、この辺、反省すべきですね。

 今回で漸く『衛司=蜂男=ホーネットオルフェノク』の図式が出せました。空は飛ばないの? という質問もあるでしょうが、今のところはまだ飛ぶ予定は無いです。今後、基本形態→飛翔態→激情態の様な形で段階的に強化していこうかなと。話数が増えてしまうのは問題ですが。
 ちなみに衛司の設定というか、作者のイメージとしては、身体のスペックは高いけどそれを生かしきれていない感じですね。オルフェノクとして覚醒はしていたものの、実戦は殆ど無かった(皆無では無いですが)ので。作中の『戦闘経験が少ない』というのはつまりその辺の事です。
 
 主人公の割にいまいちスマートさの感じられない衛司ですが、申し訳ありません、私にはこれが精一杯でした。強くて万能で優しくて格好良い、な主人公だと良かったのかもしれませんが、それだと作中で成長する余地が無いですし。
 個人的な趣味で申し訳無いのですが、二次創作では原作キャラに影響を与えるオリキャラよりも、原作キャラから影響を受けて成長(または変化)していくオリキャラが好きなのです。特に原作アフターな二次創作では。
 なので暫くは全体的に主人公が泥臭い感じですが、長い目で見て頂ければと思います。

 それでは次回で。



[7903] 第参話/乙
Name: 透水◆44d72913 ID:35af097c
Date: 2023/12/29 20:36
 雀蜂に限らず、或いは野牛に限らず、野生動物というのは押し並べて外敵の存在に敏感である。
 そうでなければ生き残れない。弱肉強食が野生の理。その中で他者の餌とならずに在り続けようと考えるならば、外敵の存在を如何に知覚するかは至上命題と言える。

 雀蜂ならば、威嚇と先制攻撃。
 野牛ならば、身を寄せ合い防護を固める。
 外敵への処方に違いこそあるものの、まず外敵を察知するという一点においては何ら変わる事はない。

 だがそれにも限度がある。外敵との距離による感知能力の限界、状況への対処に追われる最中ならば処理能力の限界。噛み砕けば、遠すぎるところに居る敵には気付けず、何かに忙殺されているならば敵の存在など頭に無いという事。
 その時の雀蜂と野牛は、まさしくその二つの限界によって、第三者の存在を感知する事が出来ずにいた。

「うふふ、すごいすごーい。エイジくん、なかなか頑張っちゃってますねー」

 ホーネットオルフェノクとバイソンオルフェノクの戦闘が繰り広げられている地点から、北西方向におよそ1.5km――クラナガン中心部からやや外れたところに建つ高層ビルの屋上で、独特な造形の双眼鏡を手に、一人の女が楽しそうな……鼠を甚振る猫のような顔で呟く。

 その奇抜な服装を見咎める者がこの場に居なかったのは、ある意味で僥倖であったのだろう。何せ彼女、ミッドチルダではそれなりに顔が売れた人間であるのだ。ミッドチルダの住人、特にクラナガンなど都市部の住人は、日に何度と無く彼女の姿を目にしているのだから。
 一般大衆への認知度という点で見れば、先の『JS事件』を解決したと謳われるかの機動六課の隊長陣――高町なのは、フェイト・T・ハラオウン、八神はやての三人とて、彼女の後塵を拝するだろう。メディアへの露出を数字で表すならば、彼女の数字は六課隊長陣のそれに拮抗し、累積で言えば凌駕している。

 ミッドチルダに本拠を置く超巨大企業、スマートブレイン社のスポークスウーマン、スマートレディ。
 彼女こそ、雀蜂と野牛の死闘を、当事者達に感付かれる事無く観察している第三者の正体であった。

「あら?」

 不意に彼女の横顔を、黄色の光が照らし出す。双眼鏡で区切られた視界に黄のエフェクトがかかった事で、スマートレディは来訪者の存在に気付いたか、双眼鏡を目から離して、光の放たれた方向へと視線を遣った。
 その光の正体を、彼女は良く知っている。恐らくは現スマートブレイン社社長、結城真樹菜よりも。
 スマートブレインが開発した流体エネルギー『フォトンブラッド』が出力を上げる時に発する光。出力レベルによってその色彩を変えるフォトンブラッドが“黄色”く光った事から、この場に何が――いや、誰が現れたのかを、彼女は瞬時に悟る。

 かちゃり、と金属同士が擦れ合う、硬質な音。一度きりでは無い、かちゃり、かちゃりと、規則性を持って音は響き、少しずつ音量が増していく事から、その音源が近づいてきていると知れた。
 あえて極論を怖れずに言うのなら、それは甲冑を着込んだ中世の鎧武者が歩く時の音と同質のものであった。歩く度にその微細な振動が甲冑を擦れ合わせ、金属の触れ合う硬質な音を奏でる。

 そしてスマートレディの前に今姿を現した“それ”もまた同様に、職人の技法の結晶か科学技術の粋かという違いこそあれど、その全身をくまなく鎧で覆っていた。
 光沢の少ないゴシックブラックのスーツ。胸部と肩部を鎧う装甲。走る黄色のラインが、相克する陰陽が如くに漆黒の中で煌く。
 ギリシャ文字の『X』を模した意匠が施された、超鋼金属『ソルメタル』の仮面。交錯する十字の下で、紫色の“眼”が、威嚇するかのように瞬いた。

「あ、来たんですね? ないすたいみんぐですよぉ、エイジくん、やる気になったみたいですからー」

 言って、スマートレディが再び双眼鏡を目に当てた。仮面の男――実際に男性であるかどうかは仮面に覆われて判別出来ないものの、その体格から、男性であると推測出来る――もまた、それに習うかの様に彼女と同じ方向へと視線を向けた。スマートブレインが培ってきた技術の結晶たるその鎧は、遥か彼方の風景をも眼前の事のように、仮面の内側に映し出す。
 スマートレディと仮面の男の見ている景色が一致する。折しもそれは、野牛の突撃に撥ね飛ばされた雀蜂が、よろけながらも立ち上がったその瞬間――雀蜂の中で、戦意という名の撃鉄が落ちた瞬間であった。

「ああ、あの牛の人ですか? ちょっと白華パイファさんに手伝ってもらったんですよー。こちらのスケジュールに従って頂けないって言うものですからぁ、白華さんにお脳をいじってもらったんですー」

 こう、ぐりっと。
 片手で双眼鏡を保持したまま、もう片方の手、その人差し指をこめかみに当てて、くいと手首を捻る。
 実際に外科的措置を施した訳ではないが、スマートレディのその仕草は、一体野牛に何が行われたのかを実に解り易く示していた。

 ……ちなみに注釈を入れるまでもない事であるが、仮面の男はこの場に現れて以降、一言も喋ってはいない。明らかに様子がおかしい、精神の平衡を欠いている野牛の様子を訝る言葉など口にしてはいないのだが、スマートレディはまるでお構いなしだ。
 今に始まった事でもないのか、仮面の男はそれを聞き流した様子で、反応を見せない。その間にも彼女は絶好調に喋り続ける。
 もう使い物にならないんですけどぉ、エイジくんへの“餌”には丁度良いかと思って――誰に問われた訳でもないのに事象の裏側を暴露するスマートレディを、仮面の男が制止する事はない。誰が聞いている訳でもないという事に加え、例え聞かれたところで、その者を始末すれば問題無いという物騒極まりない思考に基づく判断だった。

「あは。決まり、ですねー」

 雀蜂の“毒針”が野牛を刺し貫く。毒素が野牛の体内を駆け巡り、肉を内臓を脳髄を灼いて、野牛の身体から青い炎を噴き上げさせる。
 断末魔すら無く、燃え尽きた野牛の身体が灰となって崩れ落ちる。風に吹き散らされ、舞い上がる粉塵の只中で佇む雀蜂の姿。寂寞感を漂わせるその姿に、スマートレディの喉から低く抑えた笑い声が漏れる。鳩の鳴き声を思わせるその笑いは、どう控えめに言ったところで、嘲笑以外の何物でもない。
 と――

「あら? あらあらあら?」

 スマートレディが表情を変える。
 彼女にとっては少しばかり予想外な事に、雀蜂と野牛の死闘が繰り広げられていたその場に複数名の人間が現れる。魔導師と思しき出で立ちの、四人の少年少女。見たところ管理局の魔導師のようだが、管理局が介入してくるにはまだ少しばかり時間があると踏んでいたスマートレディにとって、これはあまり歓迎出来ない事態であった。
 双眼鏡を目に当てたまま、横を向いて――傍らに佇む仮面の男に視線を向けて、彼女は問う。

「どーおしましょう、かー?」

 仮面の男は、応えない。





◆     ◆





異形の花々/第参話/乙





◆     ◆







 ティアナ・ランスターの認識として、『灰色の怪物』とは現在の時空管理局、ひいてはミッドチルダにおいて、最も重大な脅威である。
 目撃例こそ未だ多くはないものの、突如として街中に現れ、無差別に人を襲い死に至らしめるという点で、その危険度はかつての『JS事件』におけるガジェット・ドローンよりも遥かに高いレベルに在ると言えよう。

 実際、時空管理局はこれを一種の災害と認定、ガジェット・ドローンへの対処と同様、管理局所属の魔導師に対物設定魔法の使用許可を下している。しかし残念ながら、現状、それが怪物駆除に効果を齎しているかと問われれば、否と答えるしかない。
 今日までにミッドチルダで確認された『灰色の怪物』は十四体。その内、管理局が駆除に成功したのは僅か四体に過ぎない。残る十体は管理局を嘲笑うかのように、一頻り暴れ回った後、姿を消している。管理局は面子に賭けても怪物を放置出来ず、管理局所属の魔導師には既に、『灰色の怪物』を発見次第、即時撃滅せよとの命が下されている。

 人命尊重を謳う管理局は、基本、犯罪者であっても殺害を良しとはしないが、人間どころか意志の疎通が取れる存在であるかも不明な相手に対してまで、そのスタンスを取るつもりはない。むしろそれによって一般市民に害が及ぶとなれば、どちらを優先するかは自明である。
 故に、ティアナが“蜂男”に対して投降を呼びかけたのは、ある種の命令違反に等しい行為であった。
 だが――

「………………」
「ねえ、ティア」
「……解ってる。とにかく、あいつの動きを止めて。エリオとキャロも、良いわね?」

 今、ティアナ達の前を逃走していく“蜂男”に、抵抗する様子は欠片も見られない。威嚇射撃として数発、魔力弾を撃ってみるものの、それを躱すだけで反撃の一つも、その姿勢すら見せようとしない。これまでに確認された十四体、その全てが全て、苛烈とすら言える抵抗を見せた事を考えれば、明らかに不可解と言えた。
 各個体で行動パターンに差異があるとしても、さすがにこれは差がありすぎる。非戦派とでも言うべき存在なのかもしれないが、それならばクラナガンに現れた事に説明が付かない。

 この時点では仕方のない事ではあるのだが、状況を考察するティアナに、ある程度偏見があったのは事実だろう。この時の彼女には、まさか『灰色の怪物』の中に、人間を殺す事を良しとしない――むしろ、その行為に恐怖を覚えている個体が居るなどとは、考えも及ばない事であったのだ。
 だからこそ不審を覚えていた訳だが、その不審があったからこそ、迂闊に“蜂男”に近づく愚を犯さずに済んでいる。しかしこのままでは埒が開かないと感じ始めていたのもまた事実。

 都合の良い事に“蜂男”はクラナガンの街中から離れ、廃棄市街区の方へと向かっていた。そこなら周囲の被害を気にしないで済む。もし相手が抵抗してきても、巻き込まれる人間は居ないはずだ。
 念話で三人に指示を送る――廃棄市街区、第四ブロックに“蜂男”が入り次第、仕掛ける。

「スバル、行って!」
「うん!」

 スバルの足元から、空色の光帯が伸びる。スバル・ナカジマの先天系魔法、ウイングロード。帯状魔法陣によって構成される光の道を、スバルが駆け出した。マッハキャリバーの加速力を全開に、“蜂男”の頭上を追い越して行く。
 同時にティアナは魔力弾を一発、“蜂男”の頭部を狙い撃ち出した。非殺傷設定の魔力弾ではあるものの、直撃すれば昏倒は免れまい。
 人間よりも遥かに広い視界を確保出来る複眼であっても、真後ろからの攻撃までは視認出来ないだろう。魔力弾を非殺傷設定にしたのは、後頭部を直撃する事によって障害を残さない為の配慮であった。とは言え“蜂男”は完全な死角から迫るその一撃を回避してしまったのだから、結局、配慮は無用だったと言える。

 だが充分だ。その一発は“蜂男”の足を止める事に成功している。時間にして数秒ではあったが、その数秒を使い、スバルが“蜂男”の前に回りこんだ。
 動きを止めた“蜂男”から一定の距離を保って、ティアナ達も足を止める。

《エリオ、スバルとタイミングを合わせて攻撃。キャロはブーストをお願い――速攻で、決めるわよ》
《はい》
《わかりました》

 念話で指示を飛ばし、“蜂男”の肩越しにスバルに目配せを送る。もう三年以上の付き合いだ、念話すら必要とせず、自分の意図が伝わった事を確信する。

「猛きその身に、力を与える祈りの光を……」

 ぼう、と一瞬、エリオとスバルの身体が柔らかな光に包まれる。
 キャロが行使したのは補助魔法、ブーストアップ・ストライクパワー。補助魔法としてはそう高位のものではないが、しかしエリオはともかく、かなり離れた位置に居るスバルにも同時に効果を齎すという点が、魔導師としてキャロの実力が非凡の域にあると示していた。

 ちき、とエリオが構える槍型デバイス――ストラーダから、鍔鳴りのような金属音が漏れた。それとどちらが早かったか、スバルが“蜂男”へと向けて突貫する。リボルバーナックルのスピナーを高速回転させ、練り上げ圧縮した魔力を拳に纏わせて、標的を打倒せんと加速する。
 一瞬のタイムラグを置いて、エリオもまた駆け出した。距離と速度から計るに、その槍の切っ先が届くのはスバルの一撃が叩きこまれた刹那後。同時攻撃ではなく、防御する側にとってはより対処し辛い、多方向からの連続攻撃。
 それがこの瞬間における、ティアナの策だった。

「!?」
「――えっ!?」

 だが――実際のところ、ティアナ・ランスターは、目の前の敵を多少なりと見縊っていたらしい。
“蜂男”はスバルの一撃を躱し、次いでエリオの突撃も回避する。タイミングは完璧だった、スバルにも、そしてエリオにも非は一切無い。ただ“蜂男”の反応反射が、彼女達の予想を上回っていただけの事。

 しかし、ティアナもティアナで、予想外のその事態にすぐさま対処する。後詰めとして用意していた魔力弾二十六発を、無茶な回避で体勢を崩した“蜂男”へと撃ち放った。
 同時にキャロも、傍らの飛竜フリードリヒに指示を下す。轟、と大気を燃やして放たれたのは火球ブラストフレア。ティアナの魔弾と合わせ総数二十七発の制圧射撃が、ただ一人の“蜂男”を目掛けて殺到する。

 蜂男に躱す術はない。だが、“蜂男”はそもそも躱すつもりもなかったらしい。ごきり、と奇怪な音が響いたかと思えば、“蜂男”の左前腕が奇妙に蠕動し変形、そこから次々と“何か”を撃ち出した。
 魔力弾と火球の全てを貫き、中空に爆花を咲かせたそれの正体を、クロスミラージュが把握した。――針。長さ10cm前後の、針と串の中間くらいの物体が射出されたのだと、愛用のデバイスを通じてティアナは知る。

「…………厄介ね、本当……!」

 事此処に至って、ティアナは目の前の“蜂男”への警戒レベルを引き上げざるを得なかった。相手の手札には飛び道具があり、しかもそれは魔力弾と違って非殺傷設定など存在しない代物だ。もしあったとしても、自分達相手に非殺傷で使用するはずもない。

 加えて、あれだけの連射速度とあらば、防御魔法が間に合うかどうかも微妙なところである。以前、フェイトの魔法――魔力弾の一斉射撃、フォトンランサー・ファランクスシフトの実演を見せてもらった事があるが、発射速度は恐らくそれを上回る。
 バリアタイプにしろフィールドタイプにしろ、最も一般的なシールドタイプの防御魔法であっても、無限に防ぎ続けられる魔法など存在しない。あれだけの針を射掛けられれば、スバルであっても数秒と保たないだろう。

 スバルとエリオが一度退いて、ティアナの近くへと戻ってくる。挟撃が失敗した以上、散らばるのは却って危険だ。一人ずつ狙い撃ちされる危険の方が大きい。だがその判断は果たして適切であるのか、それすらも曖昧だった。
 次の一手を打ちあぐねて、ティアナは黙り込む。その脳髄はフル回転で次の策を組み上げていくも、それが形として纏まるにはまだ少しばかりの時間を必要とした。
 場が膠着し、沈黙が降りる。





◆      ◆







「うーん。これはちょぉっと、まずい状態ですねー」

 ミッドチルダの衛星軌道上には、スマートブレインの保有する人工衛星が周回している。
 管理局には単なる観測衛星として登録されているそれは、無論、それ以外の用途を主目的として打ち上げられたものであるが、しかしカモフラージュとしての観測衛星の機能も、また同時に持たされている。
 人工衛星『イーグルサット』の把握する情報は、クラナガンはおろか、ミッドチルダのほぼ九割に及ぶ。イーグルサット単機のみならず、他の同種衛星の観測機能を一時的に乗っ取る事によって、ミッドチルダで起きるあらゆる事象を天空から俯瞰する事が可能なのだ。

 クラナガンを離れ、近隣の廃棄市街区に入った雀蜂と、それを追う魔導師達の姿は、本人達の与り知らぬところでイーグルサットに全て見通され――未だクラナガンに留まっているスマートレディの前に展開されたウィンドウに、中継映像として映し出されていた。

「エイジくんはなんか逃げ回るだけみたいですしー、おねえさんとしてはちょっぴり不安になってくるんですよぅ」

 どうしましょう? と傍らに佇む仮面の男に水を向けるも、仮面の男からはやはり反応はない。ただの置物か、単なるオブジェのように、雀蜂の居るであろう方向を見据えたまま、泰然と佇んでいる。
 無視された形のスマートレディは、しかしそれに気分を害した様子もなく、薄笑いを浮かべたまま、ウィンドウの映像に視線を戻す。
 彼女が口にした通り、現在の状況は些か以上に望ましくない状態である。あの雀蜂がオルフェノクと戦うのは良い。それによって死亡する、或いは戦闘不能に追い込まれる事となってもそれは止むを得ないと、彼女は主から言質を取っている。

 だが魔導師に狩られるのは駄目だ。その理由はスマートレディの知るところではないが、とにかく、魔導師によって倒されるという事態だけは絶対に避けよとの厳命を受けている。
 加えて予想外だったのは、雀蜂を追っている魔導師がどうやら凡百の魔導師ではないらしい事。
 一般的な陸士部隊に所属する魔導師なら、オルフェノクである雀蜂の敵ではなかっただろう。だがあれは、かの有名な機動六課の魔導師だ。現在のミッドチルダにおいて最も有名で、最も実力のある部隊の魔導師。先の『JS事件』において敵戦力の中核を打倒した実績は決して伊達ではない――中継される映像からでも、それが窺える。

 加えて、雀蜂がまるで抵抗しないというのも予想外だった。四対一とは言え、雀蜂のスペックを考えれば敵ではない。追っ手を蹴散らす事など造作もないだろうと思っていたのだが、その予想に反して、雀蜂はただ逃げ回るだけ。しかも野牛との戦いで負傷しているのか、追っ手を振り切る事も出来ない有様である。
 このままではそう遠くないうちに、雀蜂は機動六課の魔導師によって捕縛されるか、或いは駆除されるだろう。どちらにしてもそれは歓迎出来ない事態だ。

「仕方無いですねー。それじゃ、ちょっとお願い出来ますかぁ?」

 ここで漸く、仮面の男が反応らしい反応を見せた。腰のベルト、そのバックルにあたる部分からパーツを引き抜く。一見、それは単なるスライド式の携帯電話。事実、それは携帯電話としての機能も持ち合わせているのだが、本来の機能、本来の用途は、それとは全く別のものだ。
 男の指が電話のボタンをプッシュする。ボタンを押し込むごとに電子音が鳴り、液晶画面が明滅する。
 9、8、1、4――Enter。

【Sidebasher get into the action.】

 電子音声が言葉を紡ぐ。それを確認してから、仮面の男は携帯電話を――ベルトには戻さず――スマートレディへと差し出した。
 はーい、といっそ挑発的とも取れる声を上げてそれを受け取ったスマートレディは、こちらは携帯電話本来の用途、他者との通信機器として使うのだろう、ボタンをプッシュした後に、それを耳に当てた。
 程無く通話が繋がり、緊張感の欠片もない声が、電話の向こうに居る相手に向けて放たれる。

「はーい。お待たせしましたー。あれ、用意出来てますかぁ? え? はーい、そうでーす。ジェイルくんからの貰い物ですよー。社長さんから許可もらってますし、維持費も馬鹿にならないって言ってましたから、景気良く使いきっちゃいましょう!」

 用件は終わったのか、スマートレディが携帯電話を仮面の男に戻す。男は今度こそ電話をベルトのバックル部へと戻し、そして踵を返した。
 最早この場に用は無いとその所作が告げている。かちゃり、かちゃりと金属音を鳴らしながらその場を後にしようとする仮面の男を、何を思ったか、スマートレディが呼び止めた。
 仮面の男は振り向かない。だが呼び止めるその声は確かに聞こえていたか、足を止め、その場に静止した。その背が、さっさと用件を言えと無言の内に促している。

「別に大した用じゃないんですけどぉ、なんで“変身”したんですかぁ? おねーさんは不思議に思っちゃったんです」

 正直なところ、仮面の男がこの場で仮面を被る理由など、まるで皆無であったのだ。生身一つでも充分に用は足せただろう。何せ彼等の仕事は、ただ雀蜂の戦う様を観察するだけなのだから。
 にも関わらず、仮面の男はスマートレディの前に現れたその時から、全身を強化装甲服の鎧で覆い、その面相を仮面で隠している。スマートレディの疑問は、当然と言えば当然のものであった。

「………………」

 しかし結局、仮面の男は何一つ口にしようとはせず、一度は止めた足を再び前へと踏み出して、ビルの屋上から消えていった。
 それを追おうともしなければ、いつまでもその背に視線を向けもせず、スマートレディはウィンドウに視線を戻す。画面の中では雀蜂と魔導師達が睨み合ったまま動かない。
 雀蜂は魔導師達の隙を窺い、魔導師達は次の一手を打ちあぐねている。
 破裂する寸前の風船を眺めた時のような――そしてそれを針で突くような――奇妙な昂揚を、スマートレディは覚えていた。





◆      ◆







 膠着する状況を動かしたのは、“蜂男”でも、しかしティアナ達六課フォワード陣でもなかった。
 びきり――と、突如として路面に亀裂が穿たれる。

 廃棄市街区は至るところで崩落や倒壊の危険性がある(それ故に『廃棄』されている訳だが)、ただ路面に亀裂が入るというだけならば、さして驚くには値しない。
 だがそれがこのタイミングで、しかも“蜂男”と自分達の間にある十数メートルの距離、その中間点近くに穿たれたとなれば、この都合の良い“偶然”に驚きを覚えるのも至極当然だった。

 どん、と腹腔に響く爆音。ティアナにとっては、いやスバルやエリオ、キャロにしてもそうだろうが、既に聞き慣れた音だ。質量兵器の炸薬が吼え立てる、爆裂の轟音。言うまでもなく音は前方から、そう、路面に穿たれた亀裂の直下から響いてくる。
 路面が炸裂する。亀裂の入ったアスファルトを木っ端微塵に粉砕し、瓦礫と破片を撒き散らして、地の底から何かが飛び出してくる。
 音に聞き覚えがあったのなら、飛び出してきたそれにも見覚えがあった。否、見覚えどころではない。つい一月ほど前まで、幾度と無く目にしたものだ。忘れようとして忘れられるものではない。しかしこの場に、このタイミングで現れるというのは、まったくティアナの慮外の事だった。

「ガジェット……!?」

 狂科学者ジェイル・スカリエッティの作り出した汎用機械兵器、ガジェット・ドローン。最も多く確認された、Ⅰ型と呼ばれる楕円体タイプのそれが八体。
『JS事件』終結後も、一度組み込まれたプログラムに従い、ガジェットはミッドの各地に散発的に――それでも、事件中の頻度からすれば激減している――出没している。そういった“はぐれガジェット”の駆除も、『JS事件』終結後の機動六課の仕事だ。

 だがそういったはぐれガジェットは基本、ごく単純なプログラムを実行するだけの機械に過ぎない。指定範囲に入った物体を攻撃する、目標に向かって突撃する、その程度の命令しか組まれてはいない。今、この場に現れた機体のように、何かを護衛するという複雑な命令を組み込まれたものは、少なくとも『JS事件』終結後には一度として確認されていない。
 だからこそ、その例外は、一つの結論を容易に導き出す。

「こいつ……スカリエッティ一味の残党!?」

 ティアナのその理解はごく自然なものと言える。彼女に与えられた材料では、それ以外の可能性は組み上げようがない。
 スカリエッティと『灰色の怪物』との接点は不明だが、戦闘機人などと同様、スカリエッティが作り上げた兵器だとするのなら、ある程度辻褄も合う。それが完全に誤解であると気付かないまま、ティアナは即座に判断を下す。
 あの“蜂男”を、逃がす訳にはいかない。

《スバル!》
《うん!》

 援護が来た事で、いよいよ本気で逃走に移る気になったか、“蜂男”が大きく飛び退いて間合いを離す。だがそれこそ、ティアナが待っていた隙。“逃走”と“回避”を並立させていた思考を、“逃走”のみに一本化するその瞬間こそ、ティアナ・ランスターが待ち望んでいた隙である。

 クロスミラージュのデバイス・コアが明滅、ティアナ達の前面で幻術魔法が展開される。高位幻術魔法フェイク・シルエット。ティアナ達四人と一匹の姿を、本体の眼前に出現させる。また同時にスバルに別種の幻術魔法、オプティック・ハイドを行使。彼女の姿を消し去った。
 オプティック・ハイドは急激な運動や大魔力の使用で効果時間を減じさせる。今回であれば二秒と保たないだろう。だがそれで充分、必要なのはスバルが“蜂男”の懐に入る一瞬だけなのだから。

 そしてティアナの策は成功する。オプティック・ハイドの効果が消失し、実体が顕わになったその時には、スバルは既に鋼拳を振りかぶり、“蜂男”の眼前へと踏み込んでいる。
 そこはスバル・ナカジマの間合いだ。それだけの接近を許し、逃走に移行するために防御も迎撃もままならぬ半端な体勢となってしまった時点で、“蜂男”に最早打つ手は残されていない。

「――やああああああっ!」

 リボルバーナックルが唸りを上げる。歯車に巻き込まれた空気が魔力と共に圧搾されて吼え立てる。
 繰り出す一撃は紛う事なく必殺――スバル・ナカジマの切り札、振動拳。
 戦闘機人としてのスバル・ナカジマの先天固有技能、『振動破砕』の振動エネルギーを拳周辺に圧縮、ナックルスピナーによる螺旋動作を加えて対象を粉砕する、絶対破壊の一撃。抉り込むようなその一撃が“蜂男”の胸部に叩きこまれ、低く鈍い打撃音を響かせる。

 だがティアナの驚きは、そこから先にあった。
 要因は幾つかあるだろう。まず第一に、“蜂男”の体勢。逃走に入りかけたその体勢は、一面から見れば確かに隙であったのだが、しかし足を浮かしかけた、換言すれば地に直立していない体勢は逆に振動拳の威力を、風に揺れる柳が如くに、ある程度受け流してしまった。
 第二に、スバルが、本人も気付かぬ程度にではあるものの、一撃を加減していた事もあるだろう。人間からはかけ離れた容貌の“蜂男”に対して、心優しき少女はただ破壊する事を厭うてしまったのだ。
 そして第三に、“蜂男”の挙動である。判断か本能かは定かでは無い。何にせよスバルの一撃を胸部に叩きこまれたその瞬間、“蜂男”は右脚を跳ね上げた。その爪先がスバルの鳩尾を強打、彼女の身体をその威力で中空に押し上げ、反作用で振動拳の威力を相殺する。

 これら三つの要因が、一秒にも満たぬ一瞬に重なった結果。
 振動拳の破壊力は標的である“蜂男”を砕く事なく周囲に拡散、ガジェットの出現に際して破壊されていた路面のアスファルトが更なる亀裂を穿たれ、直下へ崩落していく。恐らく地下水道か何かの空間があるのだろう、がらがらと瓦礫片が黒々とした路面の穴に吸い込まれ――そして“蜂男”もまた、その中に含まれていた。
 間一髪、スバルはウイングロードを展開、崩落に飲み込まれる事は避けられた。カウンター気味に入った“蜂男”の蹴撃がバリアジャケット越しにも効いたのか、腹を押さえて軽く咳き込んでいる。

《スバル、戻って! 先にガジェットを叩くわよ!》
《りょーかい!》

 ウイングロードの先端が弧を描いて背後へと伸び、ガジェット達の後背へと回る。同時にエリオがストラーダを構えて突貫、ティアナとキャロもガジェットへと魔力弾を撃ち放つ。
 Ⅰ型ガジェットの展開するAMFなど、それが八体分のものであったところで、今のティアナ達にとっては何ほどの物でもない。魔力弾はいとも簡単にガジェットの装甲を貫き、打撃斬撃が標的を鉄屑へと化さしめる。要した時間は三分に満たないだろう。場に現れたガジェットの群れは、鎧袖一触に蹴散らされた。

「――よし! あいつを追うわよ!」

 今ならまだ間に合うはずだ。地下水道に落下した“蜂男”も、そう遠くには行っていないだろう。不完全とは言えスバルの振動拳を喰らっているのだ、深手を負ったのは間違いない。捕まえるにしろ駆除するにしろ、今以上の好機はないはずだ。
 一も二もなく、スバル達が頷いた。

「行こう、ティ――」

 ア、という発音が、不意に轟いた爆音に掻き消された。
 驚きと共に振り向いたティアナ達が目にしたのは、彼方から此方へと向けて、ミサイルの如き猛速で突っ込んでくる、一台のサイドカー。
 黒と金のカラーリングが施されたそれには、更に驚くべき事に、単車にも側車にも、誰も乗っていない。ただ無人のままに、その進路上にティアナ達を捉えている。

 それが今、この状況に――己等の前に『灰色の怪物』が現れ、ガジェットが現れたこの状況に――無関係であると考えるほど、ティアナ・ランスターは楽天的ではない。
 むしろ彼女の危機察知能力は、向かってくる無人の車両が明確な脅威であると瞬時に察知していた。

「気をつけて! あれは――」

 だがその脅威の度合いを、ティアナは見誤っていたと言えよう。
 ただ、それは責められるべき事ではない。まさか爆走するサイドカーが、その速度のままに変形し、二足歩行の恐竜を思わせる形態へと姿を変えるなどという非常識を、事前知識を持たずに予測出来るはずもない。
 度肝を抜かれた、という表現がぴたりと嵌る。ティアナもスバルもエリオもキャロも、揃ってその異形に絶句する。こと鉄火場において、大概の事では動じないつもりでいたティアナも、さすがにこの無茶苦茶をすぐさま許容は出来なかった。

 変形したサイドカーの“右腕”が吼える。四連装の銃身から吐き出される光の礫。ガジェットの機銃とは口径、発射速度共に、比べ物にならない。威力は推して知るべし――ティアナ達を掠めていったそれが、少女達の背後で一棟のビルの壁面を穴開きチーズのような有様に変えていったのを見れば、直撃した際の惨状は考えるまでもない。

「キャロっ!?」

 無理な体勢での回避が祟ったのか、着地と同時にキャロが倒れ伏した。足を挫いたか、顔を顰めてその場を動かない。その獲物を敵が見逃す道理もなく。
 右のバルカン砲に続き、今度は“左腕”が動く。サイドカーとしての形態では排気筒であったそこから次々と吐き出されるミサイルの雨。一発あたりのその巨大さに、ぞくりとキャロを除く三人の背筋を戦慄が駆け抜けた。あんなものを一発でも喰らえば、粉々になって欠片も残るまい。

 瞬時にティアナは魔力弾を精製、キャロ目掛けて殺到するミサイルに向けて撃ち放つ。だがミサイルも、まるで意思を持っているかの様な不規則な軌道で魔力弾の弾幕をすり抜けていく。それでも一発、二発と魔力弾がミサイルを貫き、空中で大爆発を引き起こした。猛烈な熱風と衝撃波が四人を襲い、バリアジャケットの上から彼女達の総身を叩く。
 そして、まだ終わらない。総数六発のミサイルの内、二発が弾幕を抜けた。魔力弾の再精製には時を要する、その間にミサイルはキャロを確実に捉えるだろう。エリオやスバルの遠距離攻撃では、ミサイルを止めるどころか、進路を少しばかり変えるのが精々だ。それではキャロが爆発に巻き込まれる。

 しかし直前、ウイングロードを駆けるスバルが、すれ違い様にキャロとフリードの身体を抱えてその場を離脱する事に成功した。
 ミサイルはキャロの居た地点に着弾、二発ほぼ同時の爆発は、それが地表近くであった事も合わせて、凄まじいばかりの威力でティアナ達を吹き飛ばした。ティアナとエリオの身体が衝撃に宙を舞い、スバルもウイングロードから転がり落ちる。
 猛烈な黒煙が一帯を覆い、視界が完全に塞がれた。

「リボルバー――シュートっ!」

 スバルが右拳で足元の路面を殴りつける。ナックルスピナーの回転により生じさせた衝撃波を放つスバルの魔法、リボルバーシュートの、その変則使用。ミサイルの爆発とは比べ物にならないものの、その爆風が一帯を覆う黒煙を吹き散らす。
 クロスミラージュを、ストラーダを構え、ティアナとエリオがすぐさま飛び出せるように身構える。しかし黒煙の失せた一帯に、あのサイドカーの姿はない。黒煙に視界を奪われていた僅か数秒の間に、霧か霞の如く消え去ってしまった。
 呆然と、エリオが得物の切っ先を下ろす。戦闘機人のインヒューレントスキルならいざ知らず、まさかあれだけの質量、幻術魔法で気配を消せる筈もあるまい。ならばあのサイドカーは既にこの場を離れていると見て良いだろう。そう判断し、ティアナもまた、クロスミラージュの銃口を下げた。

「ティア、エリオ!」
「スバルさん! キャロは……!」
「わ、わたしは大丈夫です。それより――」

 スバルと、スバルに背負われたキャロ、そしてエリオが、ティアナのところへと歩み寄ってくる。未だ警戒を顕わにした視線で周囲を睥睨していたティアナだったが、三人が自分の傍らで足を止めるのと同時に、大きく息を吐いて残心を解いた。
 今からでは“蜂男”を追っても無意味だろう。あの変形サイドカーが退いたのは、恐らく時間稼ぎという目的を達したからだ。
 一応、念の為に索敵は継続するよう、クロスミラージュに指示を送る。ただそれが成果を上げる事は無いだろう。もうこれ以上、この場においては何も起こらない。漠然とではあるが、ティアナはそう確信――と言うにはやや弱いかもしれないが――している。

「……ま、皆無事で、何よりね。一応、近隣の陸士部隊に連絡して、引き継いでもらわないと」

 ティアナ達も管理局の、つまりは組織の一員である以上、『標的に逃げられました』で『はいお終い』という訳にはいかない。駆けつけてくるであろう陸士部隊に状況を説明し、事後を引き継いでもらう必要がある。クロスミラージュ経由で既に連絡は入れているから、程無く合流出来るはずだ。
 ただ、ギンガのところに戻るには少し時間がかかるだろう。折角の休日が台無しである。そういえばいつぞやの休日も、急な事件で駄目になった。まあ、それでヴィヴィオと出会えた事を考えれば、それはそれで悪くなかったのだが。

 どうにも休暇休日に縁がないわね――はあと漏れたため息は、失意が多分に含まれたものでありながら、どこか自嘲的でもあった。
 と、不意にエリオが「けど」と口を開く。

「あれは――あのサイドカーは一体――いや、それを言うなら、ガジェットからそうなんですけど――」

 何を質問して良いのか分からないのだろう、思いついた事をただ口にしている様なエリオの言葉は酷く纏まりに欠けている。
 ただ、何を言いたいのかはティアナにも良く解った。スバルもキャロもそうだろう。

 今日のこの一件―― 一体誰が、何を目的としていたのか、まるで判らない。それはかつて『JS事件』の渦中に在った時に通ずるものがあったが、しかしあの時は、ジェイル・スカリエッティという“目印”があり、その男の思惑が全てに絡んでいるという判り易さがあった。
 だが今日の一件はそれがない。恐らくは複数名の思惑が、いやそもそも思惑と言えるようなものがあったのかさえ不明であるが、それらが複雑に入り組み、絡み合って、総体が混沌の様相を呈している。

 主を失ったにも関わらず、指向性を持って動き回るガジェット。
 ミッドチルダに、否、管理世界において在ってはならない質量兵器を満載した、可変式サイドカー。
 そして――『灰色の怪物』。

 訳の分からない事だらけだ。しかもそれらは全てティアナ達とは無関係のところで動いている、ティアナ達の存在など一顧だにせず蠢いているというのが、酷く不気味で、気持ちが悪い。
 けれども。

「考えるなとは言わないけど、変に意識しない方が良いわよ。どうせあいつら――って、そう呼んで良いのかわかんないけど――、あたし達の事なんて眼中に無いんだろうし」

 さも相手が既知の存在であるかのような言であったが、しかしティアナの言う事はあながち間違いではない。特に前半の部分においては。
 どうせ何も分からないのなら、それを殊更に意識する必要などないのだ。いずれ相対するというのなら、放っておいても向こうから現れる。だから自分達がやるべきは、その時に備えて己を磨く事である――元より、それ以外の処方を、彼女達は知らないのだから。

 来週には六課隊舎が復旧する。訓練の密度も倍増しになるだろう。望むところだとは間違っても言えそうになかったが、それを厭う気持ちは、ティアナ・ランスターの中にはない。
 クラナガンの市街へと通じる道の彼方から、車の駆動音が聞こえてくる。先の変形サイドカーとは違う、管理局制式採用車の聞き慣れた駆動音だ。連絡を受けた陸士部隊が到着したのだろう。
 ぱたぱたと手を振りながらその車へと向かっていくスバル(とその背に背負われたキャロ)に苦笑を漏らしながら、ティアナもまた、陸士部隊の局員を迎えるべく、歩き出した。





◆      ◆







 アイスクリームショップで待つギンガの携帯電話に連絡が入ったのは、スバル達がその場を後にしてから、おおよそ一時間が過ぎようかという頃だった。
 マッハキャリバーを経由してギンガの元へと届いたメールは、事後の引継ぎにもう少し時間がかかるという内容の文面。それでもあと三十分の後には終わるだろうという予測が、それには添えられている。
 思ったよりは早い――どうやら、本日のプランを大幅に変更する必要はあるものの、休日そのものが無くなってしまうほどの事態ではないようだ。時刻はそろそろ夕刻にさしかかる、夕食を共にして、今日の休日の締め括りにするとしよう。

 そう思って立ち上がったギンガの耳朶を、不意に、どるんと重く響く排気音が叩いた。人通りが戻り始めた界隈には車やバイクも少なからず行き交っており、一際音が大きい訳でもないのに、その音は妙にギンガの意識へ訴えかけてくる。

「……?」

 首を傾げたのは、その音に対してではなく、その音に引き寄せられる様に足を踏み出した自分に対してだ。
 しかしその排気音の元を目にする事はなかった。アイドリング中と思しき排気音は、ギンガが数歩踏み出したその時に、不意に走り出してしまったらしく、エグゾーストのノイズを高らかに遠ざかっていく。
 だがその瞬間、少し首を回せば――横を向けば、その場を走り去って行く無人のサイドカーの、そのテールランプくらいは目にする事が出来ただろう。しかし仮定では無く結論から言うのなら、それは彼女にとって、全く不可能な事であった。彼女の目は……戦闘機人として人間よりも遥かに高い視力を誇るその目は、直線上にある路地裏、ビルとビルの隙間で、壁面にもたれかかり手足を投げ出して座りこむ人影を捉えていたのだ。

 それが誰かに気付いた瞬間、まず最初に、彼女は現実を否定した。まさか彼がこんなところに居るはずがない、見間違いだろうと。
 次いで彼女は、何にせよ放ってはおけないと、その人影に歩み寄った。怪我か病気か、或いは酔っ払っているのかもしれないが、とにかくこんなところで座りこんでいては風邪を引くと、ごく自然な親切心で近づいた。
 そして最後に、最初に見間違いとして排除した可能性が現実のものであると、認識から随分な時間をかけて、漸く理解した。

「え――衛司くん!?」

 結城衛司――この場に居るはずのない彼が、一体如何なる経緯を辿ったのか、路地裏に転がっている。
 素っ頓狂な声で彼の名を呼び、ギンガは衛司に駆け寄った。
 まるで死体のようにぐったりと動かない彼は、酷い有様だった。数日前、ギンガの取り逃がした犯罪者が運転する車に撥ねられた時ほどではさすがに無いが、しかし相当な大怪我を負っているのは明らかだ。男子にしては端整な顔立ちが、青痣や擦り傷で無残な有様と化している。

 何度も何度も呼びかけて、そうして漸く衛司が反応を見せたその瞬間に、ギンガは思わず破顔した。生きていると判っただけで喜ばしい。
 ただしそれも、数秒の後には霧散する喜びでしかなかった。

「な……かじま、さん……?」

 虚ろな、焦点の合わない瞳でギンガの姿を認め、その名を呼ぶ。
 だが次の瞬間、衛司の口からごぼっ、とおぞましい音と共に、真っ赤な鮮血が迸った。ただでさえ重傷を負っていたところに、今の言葉――発音するという挙動そのものが、彼の内臓か気道か、そのどちらかに限界を超えさせてしまったのだろう。

「衛司くんっ!」

 ずるり、と倒れこむ衛司の身体を支え、ギンガが呼びかける。だがもう、衛司が反応を見せる事はない。呼ばれようと揺さぶられようと、それこそ死体のような無反応しか、衛司からは返ってこなかった。





◆      ◆





第参話/乙/了





◆      ◆







後書き:

 という訳で第参話乙でした。お付き合いありがとうございました。
 なんだか頂いた感想見てると、『ライダーが出ないので敬遠してました』というご意見が多かったので、ちょっと予定を前倒ししてカイザ(作中で名前出してませんが)登場です。前回の海老姉さんと同じく、この時点ではまだ顔見せですが。誰が変身してたんだ? という疑問への答えも、まだ棚上げです。
 それと以前、サイドバッシャー関連でご指摘頂いた事へのお礼(?)として、六課フォワード陣VSサイドバッシャーなんてやってみました。おかげでなんか容量が多くなってしまって。戦闘パートに入ると容量が増えてしまうのが悩みどころです。あっさりしすぎてると面白くないし、かと言ってごてごてしてるのも何だかなあ。これについて皆様のご意見を頂きたかったり。
 ちなみにサイドバッシャーのコード入力ですが、作中では攻撃命令の『9814』だけですけど、本来ならあれを呼び出すコードとか、変形を指示するコードとかも必要になるかと思います。ただそれを全部やると分量が増えて冗長になる、という事で、その辺はカットしました。演出という事でご勘弁ください。

 ともあれ、これでようやく、序幕というかプロローグ編が終わった形になります。長かった……。
 とりあえず衛司はまだ死んでませんが、まあ、結構な大怪我です。なので次回からまた、入院生活に戻ります。

 次回から新展開です。ただし第四話の前に、一本幕間を挟もうかなと。

 それでは次回で。宜しければ、またお付き合いください。





[7903] 幕間
Name: 透水◆44d72913 ID:35af097c
Date: 2023/12/29 20:37


◆     ◆





異形の花々/幕間





◆     ◆







 暗黒結社ゴルゴム――新暦75年のこの時点において、その名は既に失われたものと言って良い。
 かつて、幾多の次元世界を恐怖と恐慌の只中に突き落とした邪教集団。人類が営々と積み重ね発展させてきた文明文化を破壊し、ヒトならざる存在によって支配された世界を作り出すべく暗躍していた組織である。

 この組織の恐るべきは、滅ぼそうと目を付けた文明の中から協力者を募り、政治経済を裏から操って、文明を内側から侵食し蚕食して、崩壊させていく点にあった。
 どの世界であっても、富と権力を持った人間の考える事はそう変わるものではない。不老不死を求めるのが人の性。ヒトならざるモノへの変貌、これによる不滅性の獲得を悦びとするゴルゴムの教義は、繁栄を極めた文明を次々と滅亡に追い込んでいった。

 しかしそれも、過去形で語られるべき事。
 その衰退についての詳細は明らかとなってはいないが――元よりこの組織に関する資料が殆ど現存していない――ゴルゴムは徐々にその勢力を縮小させ、少なくとも新暦が始まった頃には、完全に滅び去ったものと思われていた。

 だが今より三十年近く前、とある管理外世界で突如として、ゴルゴムが活動を再開する。

 不干渉が原則である管理外世界においては、それが余程差し迫った事態でも無い限り、時空管理局は介入出来ない。またそうでなかったとしても、数多の次元世界に跨る大組織だ、迅速な行動は期待出来なかっただろう。
 文明を裏側から食い潰すゴルゴムの手管は、それが表沙汰となった時点で手遅れを意味するのだ。加えて、管理外世界の中でも取り分け小さな島国に範囲が限定されていた事も、管理局がゴルゴムの暗躍に気付く事を遅らせた。

 結局、管理局が動いた時には……否、動こうとした時には、全てが終わっていた。
 組織内の内紛――組織に裏切り者が出たと言われているが、詳細は不明だ――によって、ゴルゴムは崩壊。活動範囲としていた島国をほぼ掌握していたにも関わらず、吹き払われる塵屑が如くに、その管理外世界から消え去った。

 時空管理局は安堵した。管理外世界への介入は、一歩間違えれば魔法技術の漏洩に繋がってしまう。管理外世界という“未開の地”に住まう“蛮族”どもに、魔法という“武器”の存在を知られる事だけは絶対に避けなければならない。慎重に慎重を要して動かねばならないその面倒を背負い込まなくても済む結果に、安堵していたのだ。



 それ故に、彼等は見なかった。
 都合の良い現実だけを視界に入れて、それ以外の不都合から目を背けた。
 その愚行の代償は、二十年以上の時を経て、遂にカタチを伴い彼等の前に具現する事となる。





◆      ◆







 ――暗く深い闇の底。
 諸共に落ちてきた瓦礫が積み重なる中で“彼女たち”が目を覚ましたのは、一種の奇跡だった。
 とは言え、その奇跡は美談とするには些か弱い、奇跡の名で呼ぶにも少しばかり世知辛いものであった。それは突き詰めれば、死に至るはずの者が僅かな時間を存えたと言うだけの事であって……しかしその僅かな時間に、“彼女たち”は未来へと向けて、新たなる災厄の種を蒔いていた。

 光の一片も差さないその闇の底が、時空管理局が虚数空間と呼ぶ場所の最下底であると、“彼女たち”は知らない。理解するだけの思考能力が既に無い。文字通りの奈落の底で、しかし“彼女たち”は戸惑う事も躊躇う事も無く、己等に組み込まれた機能に従って、動き出した。
 圧し潰されそうな暗闇の底を徘徊するその姿は、もしそれを目にする者が居たならばの話だが、酷く憐憫を誘うものであった。既に壊れ、本来の用途には使用出来ないのに、それでも稼動し続ける機械を目にした時に覚える空しさに近い感情。哀れさと滑稽さに塗れながら、それでも“彼女たち”は己の本分に従い、動き続ける。

 やがて、積み重なる瓦礫の中から、“彼女たち”は捜し物を見つけ出した。暗闇の漆黒に塗り潰された視界の中では大層な難儀であったものの、その手触り、その感触は、間違えようはずもない。
 次いで瓦礫の中から引っ張り出されたのは、石造りの箱だった。全長にして二メートル強、厚みも五十センチはあるだろうそれが三つ。
 棺だった。石棺と呼ばれる、石造りの棺桶である。
 そして棺である以上、その中には骸が収められている。爆発四散した後の、遺体と言うよりは単なる肉片……否、焼け焦げた残骸が詰め込まれた箱だとしても、それが骸である事に変わりはなく、故に、その箱は確かに棺であった。
 三つの石棺の蓋上に一つずつ宝石が置かれる。丁度掌に収まるサイズの、六角形にカットされた宝石。三つそれぞれに色合いの異なるその宝石が、示し合わせたかのように一度、暗闇の中で明滅した。その光がじわりと直下の石棺へと広がり、アスファルトに染み込む雨水の如く石棺の中へと消えていく。

 為すべき全てを終え、“彼女たち”が動きを止める。存えた僅かな時間が尽きる。がくりと膝を突いた“彼女たち”の身体から力が抜ける。動きが途絶え音が途絶え、一帯の暗闇に、本来の伴侶たる静謐が戻ってくる。
 あまりにもつまらなくあまりにも呆気無い、一つの終わりであった。





◆      ◆







 そして――三十年近くの時が過ぎ。





◆      ◆







 ごり、と重たい物同士が擦れ合う軋音が、暗闇の底に響く。
 それも一度きりではなく、一つきりではい。芥子粒を石臼で轢き潰すような音が、三つ重なり合って暗闇に溶けていく。
 どれだけその音が響いただろうか、やがて、ごとんと何かが落ちる音。同時に軋音が一つ分減り、次いでごとん、ごとんと同様の音が響いて、軋音が完全に停止する。

 そして――茫と鈍く弱々しい、それでもこの暗闇においては目を灼くほどの光が、一帯を照らし出した。

 熾火を思わせる燈色の光が、暗闇を押し退け、そこに在るものに輪郭を取り戻させる。周囲に散乱する無数の瓦礫に石片、等間隔に並べられた三つの石棺、そしてその傍らに蹲る、人間のようでいて人間とは明らかに異なる、朽ちかけた二つの骸。
 この場において最も注視すべきは、並べられた三つの石棺であろう。そのどれもが、重い蓋をずらされ、棺の横に落ちている。先の軋音は、つまり石棺の蓋をずらす音であった。
 だが。一体誰が、材質に見合い相応の重量を持つ石棺の蓋を引き摺り下ろすというのだろう? 
 その答えはすぐに現れる。蓋の開いた石棺の中から、ゆらりと陽炎の如く立ち上がる三つの人影。否、それを“人”影と果たして呼んで良いものか。ヒトとしての四肢を備えてこそいるものの、明らかにヒトとしてあってはならないモノをも、それは同時に備えている。

 古代の蟲を思わせる、白く朽ちた肌。
 古代の獣を思わせる、顎から伸びた長い牙。
 古代の翼竜を思わせる、両腕と一体になった翼。

 そのどれもが、人間としてあってはならないものだ。
 それもそのはず、彼等は人間に在らず。太古の昔、人の姿と人の形と人の心を、つまりは人としての在り方を、己の意思で捨て去った者達であるのだから。

 ふわり、と、蓋の上に載っていた――ずり落とされた蓋と共に床面に転げ落ちていた――三つの石が、彼等の頭上へと浮遊し移動する。次瞬、石から頭上の光源とはまた別種の光が放たれ、彼等の身体を包み込む。数秒の後、その光は物質となって実体化、衣服となってその身体を覆う。
 色褪せた白色のローブ。それによって漸く、彼等の姿はとりあえず常識の範疇に収まった。だがそこから覗く顔はやはり、それが常識の埒外に在る事を伝えている。

 腐木のように白く朽ちた肌の老人。
 鉱物の如き緑色の膚を持つ男。
 右半面に痣とも刺青とも取れぬ模様を刻んだ女。

 彼等は一様に、その異形の面相に驚きと困惑が綯い交ぜになった表情を浮かべていた。それもその筈、彼等は己が死んだ、怨敵に敗北し滅びたと認識していたのだから、此処でこうして肉体を取り戻している事実こそが不可思議なのだ。

「どういう事だ、これは」

 やがて最初に口を開いたのは、緑色の膚を持つ男だった。その疑問に追随するかのように、白く朽ちた肌の老人が呟く。

「我等は仮面ライダーブラックに敗れ、滅びたはず……何故に、こうして生きている?」
「……ダロム、バラオム!」

 首を傾げる二人に、残る一人、右半面に模様を刻んだ女が己の石棺の傍らに何かを見つけ、二人を呼んだ。

「これは……!」
「マーラとカーラ……そうか、こやつらが我等を此処へ」

 かつて、彼等の主に仕えた侍女怪人の成れの果て――最早物言う事もなく、死蝋の如く原型を留めたまま骸と化している“彼女たち”の姿によって、彼等は此処で何が起こったのか、それを想像するだけの材料を得る。
 そう――彼等には想像によって推し量るしか術は無かったが、その想像は寸分違わず真実を衝いていた。
 あの時。全てが終わり、崩壊していく『神殿』が炎に包まれた時。最後の煌きとばかりに引き起こされた大爆発が、次元空間との境界に断裂を穿ったのだ。超小規模な次元断層となったそれは、場にあった全てを飲み込み、虚数空間へと崩落せしめたのである。

 全ての魔法が解除されてしまう虚数空間に関して、時空管理局が存知している事は少ない。虚数空間というものが一体どれだけ広範なものなのか、その深度がどれほどのものなのか、全く知らないと言っても過言ではない。その空間に下底がある事すら、彼等は知り得ないだろう。
 飲み込まれたのは『神殿』の残骸のみならず、彼等の骸が収められた石棺も含まれていた。更に、これは完全に彼等の知らない事であったのだが、かつて彼等の主を甦らせる為にエネルギーを使い果たし、その後次代の幹部へと引き継ぐ為に充填が行われていた三つの『石』もまた、同時に落ちてきていたのだ。

 死にかけの侍女怪人達が行ったのは、至極簡単な事。戦いの末に討たれた幹部達の骸に、『石』のエネルギーを流れ込ませる段取りを整えただけ。
 さすがに肉片レベルにまで粉々となった骸を再構築するまでには三十年近くの時を必要としたのだが、しかし侍女怪人達が望んだ通りに、彼等はこうして復活を遂げた。
 想像によって疑問を埋め、己等が此処に在る事実を受け入れた彼等は、静かにその顔を見合わせた。意思の疎通はそれだけで充分、だからその後に彼等が口にしたのは、余禄程度の確認に過ぎない。

「解っているな」
「無論ですとも」
「新たなる創世王様を生み出し――世界に、ゴルゴム帝国を築き上げる」

 ふわりと彼等の足が地を離れる。拠って立つ足場を捨て、暗闇の中に色褪せた白いローブが舞う。
 魔法とは全く別系統の異能力。それはこの虚数空間においてさえ、制限を受ける事はない。

「往くぞ。まずは世紀王の証――キングストーンを、取り戻さねばならん」



 暗黒結社ゴルゴム。
 かつて滅びたはずの脅威が、再び次元世界の裏側に暗躍を始めた瞬間であった。





◆      ◆





幕間/了





◆      ◆







後書き:

 という訳で、幕間でした。お付き合いありがとうございました。
 本当は本編中でやろうと思っていたのですが、現在の構想だと登場人物達がこの顛末を知る機会が無く、また三神官が一々「我々はこうやって生き返ったのだ!」なんて言うのも不自然かなと思い、こうして幕間として登場人物達の知らないところで起こった話として出してみました。
 代名詞が多いのでいまいち解り辛いかと思いますが、近日中に設定資料集で補足を入れますので、そちらも参照にして頂ければ。

 ちなみに、今回の幕間ですが、実はこれだけだと『てつを参戦フラグ』では無いんです。これにもう一つか二つ、別のフラグが立つ事によって、初めててつを……もとい、南光太郎が出てくると。
 作中の舞台が基本的にミッドチルダで固定されている為、彼の出てくる余地が無いんですよね。本作の主人公がオリキャラであるのも、その辺に理由があったりします。
 まあやろうと思えばライドロンで次元を突破してくる事も出来るんでしょうけど、その場合まず“異世界の危機を察知する”エピソードが必要になってしまって。別フラグというのはこれに関連している感じです。もう暫くお待ちください。

 また、本作ではブラックVSゴルゴムはかなり少ない感じになります。これは作中に出てくるどのライダーにも共通する事ですが、原作で因縁のある敵と戦う事が本作では少なめです。いいとこ555登場ライダーVSオルフェノクですが、これはオルフェノク側が本作オリジナルになっているので、原作の因縁とはちょっと違うかと。
 原作で因縁のあった時と改めて決着、というのも悪くないとは思うんですが、それだとリリなのキャラが介入する余地が無い(要らない子になるならまだしも、邪魔になる)ですし。と言うかそれなら私よりもっと上手な方が、もっと燃える形でやってくれると思いますので、本作ではちょっと変化球で攻めてみました。
 あくまで本作の主体はリリなのキャラであり、最初の注意にも書きました通り、基本的なスタンスは「魔法少女VS怪人」であるので、その為だとご了承ください。

 それでは次回で。宜しければ、またお付き合いください。





[7903] 第肆話/乙
Name: 透水◆44d72913 ID:35af097c
Date: 2023/12/29 20:38
 フェイト・T・ハラオウンが海上隔離施設を訪れたのは、これで三度目の事だった。
 一度目は『JS事件』に関する諸々の聴取の為。二度目は、この施設に収監されている友達に会いに行くというエリオとキャロを、仕事のついでに送り届ける為。
 そして三度目の今日は、一度目と同様に、事件の聴取の為であった。

 ただし今回は、それほど重要度の高い案件ではない。既に『JS事件』の始末は殆ど終わっており、後はスカリエッティが『JS事件』を引き起こすまでの期間、一体何処で何をしてきたのかという確認を残すのみとなっている。幸いにも、スカリエッティ自身は捜査にそこそこ協力的であり、当初の予想を大幅に上回る早さで、捜査は進展している。
 しかし当然ながら、彼が語らない事もまた少なくない。或いは黙秘で、或いは質問をはぐらかして、立ち入らせない部分を残している。故に、これもまた当然と言えるのだが、フェイトはスカリエッティ以外の人間にコンタクトを取る事を試みた。

 戦闘機人、ナンバーズ。
 外法科学者ジェイル・スカリエッティによって生み出された、人と機械の混成による生命。
 事件終結後、管理局への恭順を拒み、造物主であるスカリエッティとはまた別の軌道拘置所に収容された彼女達から、フェイトは聴取を試みた。

 ……先に言ってしまえば、それが芳しい成果を上げる事はなかったのだが。
 ある意味予想された事ではあった。スカリエッティへの忠義、或いは己の矜持と、その理由には多少の違いがあるものの、管理局への協力を拒むが故に獄に繋がれているのだ。スカリエッティが語らない事を、彼女達が語るはずもない。
 そんな訳で、一縷の望みを託して――と言うほど切羽詰っている訳でもないが――フェイトは今日、この海上隔離施設を訪れているのである。

「まあまあ、お忙しいところをわざわざすみませんねえ。あの子達も喜びます」
「あ、いえ……一応、仕事ですので」

 フェイトを案内してくれたのは、海上隔離施設においてナンバーズ達の主な世話をしているという、中年の女性だった。
 良く言えば恰幅の良い女性、悪く言えばボンレスハム。そんな体型の彼女のイメージを一言で表すとすれば、“母ちゃん”というのが最も相応しいだろう。……“お母さん”では無く“母ちゃん”なのがミソである。父も無く母も無く、造物主のみが存在している、そんな歪な成り立ちを持つ少女達の面倒を見る役割には、ある意味うってつけな人材かもしれない。
 受付の職員の話では、ナンバーズは今自由時間で、解放区の方でのんびりしているのだとか。面会室に呼び出します、という職員に対し、自分の方が窺いますと伝えたところ、この恰幅の良い中年女性が案内にやってきたのである。

「ナンバーズの皆は、元気でやっていますか?」
「ええ、ええ。みんな良い子でしてねえ。とてもじゃないけれど、あの子達が悪い事をしたなんて信じられませんよう」

 そうですね――と、フェイトは苦笑と微笑が綯い交ぜになったような表情で、女性職員の言葉に応える。
 彼女達のした事は決して許される事ではない。彼女達の行為によって多くの悲劇が生まれたのは、否定出来ない事実だ。だがそれは多分に彼女達の置かれていた環境が原因である事もまた、否定出来ない。
 造物主の命令に従う事しか知らなかったから――それは言い訳でもあるが、しかし端的に表された事実でもあり、そして彼女達の裁判において、フェイトが最も強く主張した事であった。かつて同様の立場であったフェイトにしてみれば、当然の事であっただろう。

 結果、その主張が認められ、ナンバーズ――事件の捜査に協力する者に限られるが――はこうして、この海上隔離施設で更生・社会復帰の為のプログラムに従事している。
 限られた世界しか知らなかった彼女達が上手く更生プログラムに、ひいては一般社会に馴染めるのか、フェイトとしてはささやかながらも不安を抱いていたのだが……しかしこの女性職員の言葉を聞く限り、その不安は杞憂に終わっているようだ。
 やがて、通路の突き当たりに扉が見えてくる。この扉の向こうが、ナンバーズ達が自由時間を過ごす解放区だ。

「はいはい、開けゴマ……っと」

 ギャグなのか合言葉なのか微妙に判断に苦しむ呟きと共に、女性職員が扉の横に設置された端末を操作する。しゅん、と気の抜ける様な音と共に扉が左右に開き、向こうの空間と通路とが繋がった。解放区の空気が風となって通路へと流れ込み、ふわりとフェイトの髪を靡かせる。
 人工芝が敷き詰められたその空間は室内というよりは、どこか公園を思わせる。恐らく、天窓から燦々と差し込む陽光もそのイメージを演出するのに一役買っているのだろう。その空間で思い思いにくつろぐ少女達の中に、フェイトが今日、この施設に訪ねてきた相手が居た。

「チンクちゃ~ん! お客様ですよ~!」

 女性職員の張り上げた声に、最も小柄な少女が反応して、顔を上げる。
 日本刀の鋼を思わせる、涼やかな銀髪。海上隔離施設の中では最年長でありながら、それに反して幼い体躯。右眼を隠す仰々しい眼帯が、微妙にそれらの外見にそぐわない。
 ナンバーズNo.5――チンクが、自分を呼んだ女性職員、そしてその後ろに佇むフェイトの姿に気付いて、ぺこりと頭を下げた。





◆     ◆





異形の花々/第肆話/乙





◆     ◆







 解放区の一角にあるベンチへとフェイトは腰を下ろす。その横に、チンクもまた腰を下ろした。
 微妙に座席が高い位置にあるベンチだ、フェイトはともかく、チンクは座ると足裏が床につかない。ぶらぶらと脚を揺らすその様は妙に微笑ましく、事実フェイトもくすりと笑いを零してしまう。それを目聡く見咎めたチンクはすぐにその笑いの理由に気付いたのか、しかめっ面で脚を組んだ。

「ごめんね? そんなつもりじゃなかったんだけど。……あ、これ、差し入れ。後で皆で食べて」
「む……ああ、ありがとう」

 フェイトが差し出したのは、クラナガンでも有名な洋菓子店のケーキ。さすがに『翠屋』と比べるのは酷かもしれないが、しかしクラナガンではかなりの高評価を得ている店の品であり、接待などにもしばしば使われる分値段も相応に張るので、あまり気軽に買えないものである。
 ケーキの箱をチンクが受け取ったその瞬間、不意に――と言うかむしろ狙ったようなタイミングで――チンクの背後からひょいとウェンディが顔を出す。

「おっ? お土産っスか!? サンキューっス!」
「ああ、ウェンディ。丁度良い、これ、皆のところに持って行ってくれ」
「アイアイサーっス!」

 チンクから箱を受け取って、それを頭上に掲げながら「お土産もらったっスよー!」とウェンディが姉妹達のところへと走っていく。何だかなあ、という苦笑を共に浮かべて、フェイトとチンクが顔を見合わせた。

「皆、元気そうだね。……何か困った事とか、不満な事とか、ない?」
「いや。職員の方々には良くしてもらっているし、とりわけヤマムラさんには大変お世話になっている。感謝の言葉こそあれ、不満などある筈が無い」

 フェイトを案内してくれた女性職員の名を出した時、チンクの顔が嬉しそうに綻んでいたのを、フェイトは見逃していない。
 だからこそ。「それに」と続けた彼女の顔に、どこか陰が差した事――それは恐らく、自嘲に近いものだろう――にも、フェイトはすぐに気付く事が出来た。

「そもそも私達は重罪人だ。分不相応な厚遇を受けていながら、それに文句を言ったりけちを付けたりなど、図々しいにも程があるだろう。そこまで厚顔にはなれないさ。……ああ、そんな顔をしないでくれ、ハラオウン執務官。今の生活に充分満足しているというだけだから」
「チンク……」
「で、今日の用件は? まさか私達にケーキをご馳走してくれる為に来た訳ではないだろう?」

 陰鬱になりかけた空気を振り払うように、チンクは飄げた風に肩を竦め、冗談めかした台詞で強引に話題を切り替える。
 これ以上この話題を続けたところで意味はないだろう。心情的には納得していないが、執務官としてのフェイトはまだ冷静だった。一つ小さなため息をつき、鞄の中から資料を取り出す。
 A4サイズの用紙をベンチの上で広げ、記載された事項を順になぞっていくフェイトの指が、ある一点で停止する。 

「えっと……これだね。ここなんだけど……チンク、昔、地球に行った事があるよね?」
「地球……?」
「第97管理外世界って言った方が良いかな。時期的には今から十五年くらい前なんだけれど」

 今から十五年前と言えば、まだ『PT事件』も起こっておらず、無論なのはやはやてと出会ってもいない。しかしその時点で既に一番から三番までのナンバーズは稼動しており、チンクがロールアウトしたのも、概ねその頃である。
 問題はその“十五年前”に、地球で一体何があったのかだ。化外の地とされる地球に戦闘機人を送り込むだけの事態となれば、加えてそれを管理局が感知していなかったとなれば、これは放置しておく訳にはいかない。
 フェイトの質問に、チンクは腕を組み、うーむと唸って考え込む。戦闘機人と言えども脳髄は人間だ、記憶は出来てもコンピュータのように記録出来る訳ではないし、記憶を好きなように引き出せる訳でもない。思い出すのにも相応の時間を必要とする……ましてそれが十年以上前となると、過度の期待は却って失望の方が大きいだろう。

「地球……地球……ああ。そういえば確かに、以前に一度、その世界に行った事があるな」
「何の為か、覚えてる?」
「ドクターの御指示でな。トーレと一緒に、ドクターの友人を訪ねた」

 驚愕、というほど大したものではなかったが、それでも予想外の言葉にフェイトが瞠目する。
 地球に――魔法文明の無い化外の地に、外法科学者ジェイル・スカリエッティの知己が居るという事実。犯罪者の友人は犯罪者などという偏見がある訳ではないが、しかしスカリエッティの知り合いがまともな人間であるとも思えない。
 そんなフェイトの内心を察したのだろう、彼女の驚きを的確に察して、チンクは言葉を付け加える。

「いや、心配しなくても良い。既に十五年前の時点でドクターの御友人は亡くなっておられた。それの遺品を取りに遣わされただけだ。まだ私はロールアウトしたばかりだったからな。調整も兼ねていた」

 チンクとトーレが訪れた時、スカリエッティの友人は既に死亡し、事故か事件か災害か、何が起こったのかは判然としないものの、その研究所も瓦礫の山と化していたらしい。
 瓦礫の撤去は難儀であったものの、チンクのインヒューレントスキル、ランブルデトネイターはそういった作業にも応用が効く。瓦礫を根こそぎに吹っ飛ばすほどの破壊力はないが、要所要所を上手く爆破してやれば、それで充分なのだ。
 最終的に彼女達は瓦礫の下から幾つかの“研究成果”と思しき物品――記録媒体と思しきディスク、そして何らかの溶液に満たされた、中に歪な形状の球体が浮かぶカプセル――を回収し、スカリエッティに渡したとの事だった。

「そう……その、スカリエッティの友達の名前は、判る?」
「む」

 さすがに名前までは憶えていないだろうと思いつつの質問だったが、しかし予想に反し、チンクは一秒弱考え込んだ後で、スカリエッティの友人の名前を口にする。

「確か、モチヅキ……プロフェッサー・望月というお名前だったと思うが」
「『プロフェッサー』? 科学者……って事?」
「ああ。遺伝子工学の権威だったらしい。我々戦闘機人の素体製造技術にも、プロフェッサー・望月の協力があったと聞いている」
「…………!」

 フェイトの眦が、本人ですらそれと気付かぬ程に吊り上がる。
 戦闘機人の素体製造技術――ジェイル・スカリエッティが確立した、人間の身体を予め機械を受け入れる素体として作り出す技術。

 成程、遺伝子工学の権威ともなれば、その技術との関連は深いはずだ。スカリエッティが保有していた『プロジェクトF』の技術に彼の協力が合わさる事で、素体製造技術は完成したと見て良いだろう。
 プロフェッサー・望月なる人物がスカリエッティとどのようにして知り合ったのかは不明だが――スカリエッティは望月なる人物の名前すら口にしていない――その男の存在もまた、『戦闘機人事件』の一因と言える。

 ふと、フェイトは疑問を覚える。チンクの言葉では既に死亡しているとの事だったが、それだけの人物が、果たしてスカリエッティの協力者というだけで収まるだろうか? 
 自身もまた何らかの研究を行っていたのでは……そしてそれが何がしかの成果を上げていたのではないだろうか?

「チンク。その、プロフェッサー・望月が何を研究していたのか、知ってるかな?」
「ああ。地球から戻った後、ドクターから聞かされた。確か――」



「――『ネオ生命体』という生物兵器の研究をしていたと、記憶しているが」





◆      ◆







 十月の心地良い夜気に包まれたクラナガンの繁華街は、恐らく週末の宵である事も手伝ってか、それこそ祭りのような賑やかさで、訪れる者を迎え入れている。
 毒々しいネオンの光も、この場においては彼等を讃える篝火だ。それは何処の世界にも変わらず存在する、日常から一時的に切り離された空間。誰もがひととき現実の苦渋を忘れ、酒と料理と愉楽とに浸かって、明日からの活力を充填していく。

 だがそんな宴の街に、異物が一つ。
 否、一人。
 否々、やはりそれは一つと表現すべきであろう。それは人の姿を持ち、人として世界の中に在りながら、しかしその本質が既に人からかけ離れている。『一人』と、人間としての数え方をして良いものではあるまい。
 脛裏にまで届こうかという長い黒髪。白磁のように白い肌。白と黒の狭間で、唇に引かれたルージュが一際艶やかに映える。
 華美さを表に出さず、適度な素朴さによって却って高級感を醸し出すスーツは、すれ違う酔漢の着衣と比して明らかに一つ二つ高位のものであると知れるが、しかしそれをまるで普段着のように着こなしている。

 驚くべきは、繁華街を目的地へと向けて歩く彼女が、共回りの一人も付けていないという事だろう。幾多の次元世界に跨る超巨大企業の長が、護衛も送迎も無しに一人で居るという事実は、明らかに常識から外れている。
 時空管理局の高官であっても、コンビニに買い物に出る時だってもう少し外出には気を使うだろう。それとは比べ物にならない社会的地位を備えた人物がこうして一人そぞろ歩いている様は、最早迂闊や危機感の欠如といった言葉では表しきれない軽挙である。

 だが残念ながら――誰に、或いは何に対して『残念』なのかはともかくとして――結城真樹菜にとって、それはさして考慮に値する事ではない。
 スマートブレインは決して真樹菜一人の才覚に寄りかかるワンマン会社ではなく、社長という位置に居る彼女が消えたところで首を挿げ替えて存続していく事が出来るし、事実真樹菜が居なくなればすぐにそうなるように仕組んである。
 ただ真樹菜がこのような軽挙に出ているのは、自分の価値を安く見積もるが故ではない。
 言葉にすれば、それはごく単純な事。……砂粒に蹴躓いて転ぶ者は居ない・・・・・・・・・・・・・・

 やがて、その足が止まる。見上げる視線の先には、一棟の超高層ビル。
 クラナガンで最も規模の大きいカジノホテル、『クラナガン・サンズ』。
 各次元世界の例に漏れず、クラナガンにもそういった賭博施設は存在し、過剰なまでの電飾と照明、それらと組み合わされた噴水などで飾り立てられたその門構えもまた同様である。
 第97管理外世界で例えるなら、ラスベガスよりはマカオ寄りの意匠だろうか。650室を超える部屋を持つホテル内に、クラナガンで最大のカジノやレストラン、スパなどの施設が完備されている。

 政財界のVIPが高級車で乗り付けるのが通例の正面入口に、真樹菜は一人、徒歩で歩み寄っていく。
 玄関先に立っていたボーイが怪訝そうな視線を真樹菜に向け、すぐにその客が一体誰なのかに気付いて顔色を変え、駆け寄ってくる。それを片手を上げる事で制して、真樹菜は彼の横を通り過ぎ、ホテルの中へと這入った。
 特上の上客の来訪に、従業員の誰もが驚きの表情を浮かべて真樹菜を見、恐縮した顔で近づいてくる。それらの一切を取り澄ました顔で受け流しながら、真樹菜はロビーを抜けてエレベーターホールへと進み、最上階へと繋がるエレベーターへと乗り込んだ。

 一分弱の浮遊感が、不意に増した重力で停止する。エレベーターの扉が開き、最上階のエレベーターホールへと、真樹菜は歩み出た。
 最上階はフロアが丸ごとレストランとなっており、その味、品目、値段など、全ての面においてこれもクラナガン最高峰との評価を受けている。
 中華料理『四葉飯店』――真樹菜の出身でもある第97管理外世界で、広く浸透している食文化を再現する店。尤も、ある程度はミッドチルダの客の口に合うように手を加えられているのだが。それ故の高評価とも言える。
 既に一階のフロントから連絡が入っていたのか、店内に入った真樹菜のところへ支配人と思しき壮年男性が歩み寄ってくる。

「いらっしゃいませ、結城様。オーナーがお待ちしております」
「ええ。案内してくださるかしら?」

 畏まりました、と恭しく一礼してから、支配人が真樹菜を先導して歩き出す。通されたのは、パーティーなどに使われる大広間。
 天井で燦然と輝くシャンデリア、床に敷き詰められた絨毯、壁に飾られた絵画や美術品の数々。
 五百名からの人間を収容する事が可能なその部屋は今、多くの客で賑わっている。数十のテーブルに並べられた料理は、どれもミッドチルダのみならず、近隣の次元世界から輸入された高級食材をふんだんに使ったものだ。その中には明らかに管理局が持ち込みを否としているものも含まれていたのだが、それに頓着する者が、この場に居ようはずもない。

 奇妙だったのは、この立食パーティーに参列している人間の装いが、まったく統一されていない事だ。高級感溢れるスーツに身を固めた紳士も居れば、ジーンズにTシャツと、明らかに普段着の若者も居る。どう見ても学校の制服としか思えぬ服を着た少女と、宝石で飾り立てられたドレスを纏う淑女が語らう様は、違和感無しには眺められない。
 その中で恐らくは最も“浮いている”であろう一角に、真樹菜は案内された。

「あらあらあらまあまあまあ。やっと来たわね、真樹菜ちゃん。待ってたわよう?」
「お待たせして申し訳ありません、伽爛ガランさん」

 支配人が一礼してその場を去ると同時に、野太い胴間声が真樹菜に浴びせられる。ただしその声音には充分過ぎるほどに親愛の情が篭められており、応える真樹菜の表情も険の無い、柔らかな微笑であった。

 問題はその口調が、明らかに声質に見合っていない事。
 水商売の女性を思わせる、露出度の高いドレス。一着あたりの値段はそこらのサラリーマンの年収に相当するだろう。だがそれを纏っているのが、身の丈二メートルを超える巨漢、それもボディビルダー顔負けの鍛え上げられた筋肉を備えた男性であるのだから、これはもう悪い冗談としか言いようがない。
 オカマだ。それ以外に何と呼べと言うのか。万人が『オカマ』という言葉から連想するイメージを取り出して煮詰めたらこんな感じの人間が出来上がるのだろう。ただ真樹菜の視線に侮蔑や差別の色はなく、伽爛と呼ばれたオカマの方もそれを解っているのか、ガハハと豪快に笑った。

 クラナガンで最も有名なオカマバー(有名とはいうものの、クラナガンに同業種の他店は少ないのだが)で一番人気のホステス。本来ならば稼ぎ時である週末の夜にも関わらず、真樹菜の召集に応え、此処に居る。
 臥駿河(ガスルガ)伽爛(ガラン)。本名は誰にも判らない。とにかくそれが、このオカマの名前である。

「仕事が忙しかったアルか? シャチョーさんも、大変アルな」

 そして伽爛の傍らで、紹興酒の注がれたグラスを呷っている女性。こちらはちゃんと女性である。金糸の刺繍が施された濃紺のチャイナドレスに身を包んだ、二十代後半と思しき女。
 窮屈そうに服の下に押し込められた胸と、裾のスリットから覗く艶かしい脚。女性の魅力というものをこれでもかとアピールしている彼女であったが、その胡散臭い喋り方に反して、金髪碧眼の白人女性という容貌である。

「ええ。少し会議が長引いてしまって。白華パイファさんこそ、お忙しいのではありませんの?」
「ひひひ。ま、そうアルな。商売繁盛で結構な事アル」

 白華と呼ばれた白人女性は微妙に厭らしい笑いを漏らし、紹興酒のグラスを呷って、中身を一気に飲み干した。
 白華(パイファ)・ヘイデンスタム。
 この店――カジノホテル『クラナガン・サンズ』に出店している中華料理店『四葉飯店』のオーナーである。

「それで、ラズロさんは何処に?」
「うん? ああ、ラズロちゃんならあっち」

 そう言って伽爛が指し示した先は、大広間の隅。
 そこに在るのは、立食パーティーでありながら絨毯に直に腰を下ろし、膝を抱えた姿勢で座りこんでいる男の姿。四方の角に置かれた観葉植物が彼の姿を隠しているが、一度気付いてしまえばもう無視出来ない程度の存在感を周囲に放出している、若い男の姿だった。
 袖の長い黒のTシャツにジーンズと、VIP御用達のホテルには些か似つかわしくない格好。まあそれは良いだろう。この部屋では他にもカジュアルな格好をした人間は少なくないし、洒落っ気が無いというのは落ち着いた格好という意味でもある。
 だから彼の異様は、それ以外にある。

「――お久しぶりです、ラズロさん。お元気でしたか?」
「……ふ。うふ、ふふふ、うふふふふふふふふふふふふふ……あ、ああ、真樹菜さん、真樹菜さんだね真樹菜さんですね真樹菜さんなんですねうふふふふふふふふふふふ」
「ええ。結城真樹菜です。今日もご機嫌そうで何よりですね、ラズロさん」

 かたかたと小刻みに震える男の瞳は明らかに焦点を失っている。奇妙な笑い声の混じるその言葉も、およそ真っ当な精神状態とは思えない。こけた頬に落ち窪んだ眼下、およそ潤いというものを失ってかさかさの肌と紫色の唇は、どう見ても薬物中毒者以外の何物でもなかった。
 ラズロ・ゴールドマン。
 その筋では有名な辣腕プログラマー……らしいのだが、その仕事ぶりはともかく、実態は見ての通りのジャンキー(それもかなり重症な)である。

 今日の会合を呼びかけたのは真樹菜であるが、正直、この男が来るとは思っていなかった。大丈夫アタシが連れてくから、と伽爛は言っていたものの、その言葉を鵜呑みにもせず……別に来なくても仕方がないという心持ちでいたのだから、望外の出席に喜びは大きかった。
 ただまあ、来たところでこうして部屋の隅で天井を見つめ震えているのだから、居ても居なくても大した違いはないのだが。

 ともあれ、ひらひらとラズロに手を振って、真樹菜は伽爛と白華のところへ戻る。白華からグラスを受け取って、それに伽爛が老酒を注いだ。
 老酒を一気に呷る――液体に喉を灼かれる心地良い感触を愉しみながら、真樹菜は一つ息を吐いた。

「で? 前に言ってた子の話、どうなったアルか?」
「結構楽しみに待ってんのよう? やっと『ラッキークローバー』が四人揃うってねえ」

 白華と伽爛の問いに、真樹菜はくすりと笑みを零す。元より、今日はその為に彼等を呼び出したのだ。
 ラッキークローバー。オルフェノクと呼ばれる人類の進化種の中で、最高峰の能力を誇る四人の総称。かつて先々代のスマートブレイン社長が揃えた四人、『上の上』と謳われる実力者に付けられたその名を真樹菜も踏襲し、既に三人までのメンバーを選出している。

 臥駿河伽爛。
 白華・ヘイデンスタム。
 ラズロ・ゴールドマン。

 人格言動その他の問題を一切合財度外視し、ただ戦闘能力だけを突き詰めた、オルフェノクの中でも最武闘派の三人。
 その三人に並ぶ最後の一人。暗黒の四葉を構成する最後の一葉に、一人の少年を仕立て上げようと真樹菜は目論んでいる。

「色々と仕込みは済ませているのですけれど……恥ずかしながら、なかなか手間取っておりまして。今日お集まり頂いたのも、それに関してですの」

 そこでやおら真樹菜は後ろを振り向くと、その華奢な体躯からは想像も付かぬ、大広間の隅々まで響き渡る声で「皆さん!」と室内に居る人々に呼びかけた。
 がやがやと雑音めいた歓談がその声に断ち切られ、一同の視線が真樹菜に集中する。それは一種異様な光景であった。大広間に集った二百名以上の人間が、ただ一人の女へと視線を収束させる様は、そう滅多に見られるものではない。
 視線もここまでの数を束ねれば相当な圧力を伴おう。総身に浴びせられる視線圧力を受けて、しかし真樹菜は身じろぎもしない。ただ不敵な笑みだけが、彼女の顔には貼り付いている。

 懐に手を差しいれ、そこから真樹菜は一枚の紙切れを取り出した。それが写真である事に一番早く気付いたのは誰だったか。
 その写真を高々と掲げて、真樹菜は再び声を張り上げる。

「お集まり頂いたのは他でもありません――この写真の人物を殺してくださる方は居りませんか?」

 どよめきが漣のように部屋の空気を揺らす。こうして真樹菜が“刺客”を募る事は、これが初めてではない。過去に何度となくあった事であり、その度にこうして『四葉飯店』の大広間に人を集めているのだから、この場に集った者達にしてみれば、別段驚く事でもない。
 だが今、真樹菜が掲げている写真に写っているのは、まだ年端もいかない一人の少年である。これまで真樹菜が放った刺客によって殺された人物は、それが誰であれ、ある程度“殺される理由”が判り易い相手であった。スマートブレインに害を為す、または彼等オルフェノクが作る世界に害を為すと知れる人物。

 ……結城真樹菜が社長の座に就いてから、スマートブレインはほんの少しだけ、それまでの方針を転換した。
 人を殺すのは必要最低限。以前のように無差別な使徒再生を禁じたのだ。何時、何処で暴れるべきかを細かく指定し、それに従わない者は容赦無く粛清する。それは決して人間達への配慮ではなく、むしろその逆である事は容易に想像が付き――だからこそ、殆どのオルフェノクは、素直にスマートブレインに従った。

 故に読めない。結城真樹菜が、写真の少年を殺そうとする理由が。そこに何らかの意図があるのは確かだろうが、かと言ってそれに乗っても良いものか、踏ん切りがつかないのだろう。結城真樹菜個人の遺恨に巻き込まれるのは御免だと、誰もがそう思っていた。
 しかし続いて真樹菜が放った一言は、その逡巡を吹き飛ばすに充分過ぎるものだった。

「もし首尾良くこの少年を殺す事が出来た方には――『帝王のベルト』の正装着者の座を差し上げましょう。如何ですか?」

 どよめきが一層強まって、大広間を満たす。
 真樹菜の出した条件はあまりに魅力的に過ぎた。かねてからその存在が噂されてきた代物が、この場において遂に真樹菜の口からその存在を示されたのだ。
 オルフェノクの頂点に立つ証。天と地にそれぞれ一つ、何人をも寄せ付けぬ“力”を約束する武器にして鎧。
 胡散臭い企みの片棒を担ぐ報酬として、これ以上のものはあるまい。

「……ちょっと真樹菜ちゃん。それ、完成してたの?」
「いえ、完成にはもう少し時間がかかるのですけれど。まあ、予約受付ってコトですね」

 声を潜めて訊いてくる伽爛に、真樹菜もまた、ひそひそ声で答える。
 そしてもう一度、一同を見回して、真樹菜は「誰か居りませんか!」と声を張り上げた。

「面白い――その役目、俺達が引き受けよう」

 やがて進み出たのは、二人組の男達。灰色のスーツに身を固めた中年男性と、革ジャンを羽織った若い男という、微妙に関連性の窺えない組み合わせの男達だった。

「帝王のベルト……それ、本当だろうな?」
「ええ。完成の暁には、貴方達をその正装着者として登録させて頂きます」

 にやりと男達が獰猛に笑い、真樹菜の手から写真を受け取って、踵を返す。そのまま彼等は大広間を出て行った。気の早い事だ、と真樹菜は含み笑いを漏らす。
 どよめきが収まり、パーティーの出席者が再び歓談に戻った。用件を済ませた真樹菜もまた、伽爛や白華とのお喋りに戻る。

「けど本当、酷い話アルな」

 にやにやと厭らしい笑みを浮かべながら、白華がそう口にする。そうねえ、と似たような笑みを浮かべながら(しかしこちらの方が遥かにおぞましい)、伽爛がその先を引き取って、続けた。

実の弟に刺客差し向ける・・・・・・・・・・・姉ちゃんなんて――そうそう居ないわよ、ねえ?」

 その言葉にくすくすと笑みを零しながら、真樹菜は老酒のグラスを呷る。

「愛の鞭というやつです。あの子にはもう少し強くなって貰わないと。今のままでは、こちらに連れてきても大して役に立ちませんから」

 伽爛と白華が肩を竦める。彼等も解っているのだ。このパーティーに出席している者達と真樹菜があくまで仕事の関係であるのに対し、伽爛、白華、ラズロの三名は本当の意味で真樹菜の“共犯者”である。
 彼女の意図するところを彼等は遺漏無く汲み取っているのだから、真樹菜に対する言は単なる皮肉に過ぎない。まあ、そこに充分な親愛が含まれているのだから、皮肉であっても嫌味ではないのだが。
 薄っすらとした笑みを表情に残したまま、酒が回り始めほんの僅か頬を赤らめた顔で、真樹菜は呟く。

「……そう。殺し合いの“作法”を覚えてもらわないと――ね」

 差し向けたのは悪意では無く厚意。これより先に待ち受ける地獄への処方を教え込まんとする、姉としての心遣い。
 それによって流れる血も、生まれる慟哭も、この時点ではまだ誰にも知り得ぬ事――そうなるだろうと予想しつつも黙認する、暗黒の四葉を除いてはであるが。





◆      ◆





第肆話/乙/了





◆      ◆







後書き:

 という訳で、第肆話乙でした。お付き合いありがとうございました。
 ドラス登場フラグ&本作におけるラッキークローバーのお披露目回という事で、動きが無い割に設定説明のせいか文量が多くなってしまいました。さらっと説明を流すのは無しにしても、もう少しすっきりと端的に説明出来ないだろうか……要精進ですね、これ。

 本作でのスカリエッティはオルフェノクではなく、ドラス関連のイベントに関わってくる形にしてみました。
 最初は死神博士と絡めてみようかなとも思ったのですが、考えてみればあの人とスカリエッティとでは微妙に方向性が違ってるんじゃないかと思い、望月博士との親交があったという設定に。
 先にお断りとして、本作ではドラスは出ますが、ZOの登場予定は今のところありません。前回の後書きにも書きましたが、『原作で因縁のある敵と戦う』というシチュエーションは本作では少なめにしたいという意図がありますし、何より味方キャラを増やしていくと、相対的に一人当たりの見せ場や出番が減ってしまう事がありますので。
 半端な扱いにするぐらいならばっさりカット……なのですが、ファンの方からの反応が怖い。

 で、ラッキークローバーの三人。こんなオリキャラ出すくらいならZO出せよ! と言われそうなのですが、今後の展開の為という事でどうか一つ。
 オカマに似非チャイナにヤク中という三人ですが、SSという事で、特撮やアニメなどの映像作品では出し辛いキャラに仕立ててみました。その上でなるべく陰鬱な雰囲気にしない様に、原作のラッキークローバーと差別化を図るという意味でも、全体的に明るい感じの変人集団で。本作は皆様に愛されるラッキークローバーを目指します(笑)。
 ちなみに、海老姉さんは本作ではラッキークローバーではありません。あくまで彼女は先代の、村上社長時代のラッキークローバーであるという設定にしております。

 あとどうでも良い話ですが、ラッキークローバーの一人、オカマこと臥駿河伽爛。
 実はこいつ、透水の書くSS(一次、二次問わず)には大抵出てきます。昭和五十八年の雛見沢をうろついていたり、地球連合軍のMAパイロットだったり、二十七祖入りを目指す吸血鬼だったりと様々ですが、基本、身長二メートル超えでマッチョでオカマなのは変わりません。
 文体のせいで重たくなりがちな作中の空気をイイ感じにぶち壊してくれるので、結構使い勝手の良いキャラなんです。
 まさか誰も知らないとは思いますが、もし以前にどこかでこいつを見かけた方には一応お断りさせて頂きます。それも私だ。


 それでは次回で。よろしければ、またお付き合いください。




[7903] 第肆話/甲
Name: 透水◆44d72913 ID:35af097c
Date: 2023/12/29 20:39
 まず痛みだけが、猛烈な勢いで戻ってきた。

 痛覚だけが結城衛司を構成する全て。意識が思考が人格が、結城衛司を形作る何もかもが、ただ痛みという感覚に蹂躙される。
 最早悲鳴もない。喉から漏れるのは発火しそうな熱を帯びた吐息のみ。全身の血液が溶岩へと差し換えられたかのように熱い。その灼熱に総身の神経が焼かれ、肉体が煮え爆ぜる。無論錯覚だ。だが感覚の全てがそれに占拠されている現状、虚と実の間に境はない。

 だがそれも僅かに一瞬。引き払う津波のように痛みは失せ、水塊に押し潰された街並みが後に残るよう様に、無残な有様となった“結城衛司”が戻ってくる。
 そうして意識が常態にまで回復した時、彼の目に映ったのは見慣れた天井であった。

「……ぅ、あ」

 声を上げようとして、しかし胸に残る鈍痛にそれを妨げられる。息をするだけでも全身が軋む。上体を起こす事はおろか、首を動かす事もままならない。やむなく眼球だけを動かして周囲の状況を確認すれば、それは予想通り、ミッドチルダ総合医療センターの一室。
 何故此処に――脳内に浮かぶ疑問、だがそれに解答を求めようというアクションがない。痛覚の残滓に蝕まれた胡乱な頭は、思考行動を完全に放棄している。

 ベッドの周りに置かれた医療機器の駆動音が酷く耳障りで、それを止めようと手を伸ばす。……届かない。医療機器は衛司の手の届く範囲になく、もし触れる事が出来たとしても、今の衛司には『電源を落とす』という事さえ難儀であったのだが。
 目一杯伸ばした腕も、やがて重力の縛りに負けて、くたりと落ちる。腕を伸ばすというだけの挙動が、僅かに残っていた体力を全て奪い去った。じっとりと厭な汗が衣服を湿らせるも、それを気持ち悪いと感じる頭すらなく、ただ荒い息を自動車の排気のように口から吐き出して、衛司は瞼を閉じる。
 身体が重い。思考が重い。体感時間は常人の何倍になっているのだろう。泥の底に居るような倦怠感だけが、今の衛司に感じ取れる全て。

 もういい。もう面倒臭い。泥濘のような諦観が、衛司の意識を再びまどろみの底へと誘っていく。このまま沈んでしまえば、或いはもう浮き上がる事は出来ないかもしれない――それでも構わないと、そう思っていたのだが。
 だらりとベッドから垂れ下がったその腕、その掌に、不意に温かな感触を覚えて、衛司は目を開けた。
 
「……ナカジマ、さん……?」

 傷による発熱か、奇妙にぼやける視界の中に映りこむのは、この数日間で幾度となく目にした、藍色の髪。
 衛司の手を己の両掌で握り締め、喜びと思しき感情を笑みという形で表して、ギンガ・ナカジマが、衛司のベッドの傍らに佇んでいた。
 良かった、とそう呟く彼女の目の端に浮かぶ涙の滴に、終ぞ衛司は気付かなかった。





◆     ◆





異形の花々/第肆話/甲





◆     ◆







 話を聞けば、あれから――衛司がクラナガン市街で重傷を負い、ギンガに助けられたあの日から――既に二日が経っているとの事。
 二日の間生死の境を彷徨っていた衛司には時間の感覚がないのだが、携帯電話を確認してみれば、確かに日付は二日分進んでいた。ただし地球時間での日付であるが。

 携帯電話を折り畳み、近くのテーブルに戻したところで、衛司は自分の身体を改めて眺める。意識を失う前に着ていた服は当然ながら着替えさせられ、灰色の入院着を着ていたのだが、その袖口や胸元から覗く部分にはぐるぐると包帯が巻き付けられ、肌の色が窺える部分は首から上と、手首から先に限られている。
 怪我の度合いで言えばまだ前回の、車に轢かれた時の方が重篤であったらしい。しかし傍目から見る分には明らかに今回の負傷の方が明らかに重傷だ。目覚めた時にはほぼ無傷だった前回と比べれば、その差は歴然だった。

 理由としては単純。今回の負傷において、衛司に治癒魔法の効果が現れていない為だ。
 魔法文明が発達したミッドチルダにおいては、医療関係にも魔法は利用されている。治癒魔法とはあくまで医療の補助であり、致命傷やそれに極めて近い重傷を負った患者を完治させるだけの効力はないものの、しかし大半の負傷に関しては、魔法を使わないよりも遥かに短い時間で回復させる事が出来る。

 恐らく、衛司の負った怪我は、その例外に位置するものなのだろう。理由は今のところ不明である――ごく稀に、治癒魔法の効き辛い体質の人間も居るらしいのだが、しかし衛司は先日の負傷の際にかけられた治癒魔法が問題なく機能していた為、それも考え辛い。
 全く効果が現れていないという訳ではなく、ほんの僅かにではあるが治癒魔法によって傷が癒えてもいるのだが、それが余計に不可解。医者も看護師も治癒魔法を行使した魔導師も、揃って首を傾げているらしい。

 そんな訳で今のところ、魔法に頼らない、ミッドチルダでは原始的とすら言える治療しか施す事が出来ていない。包帯塗れの衛司のその有様は、つまりそういう事だった。

「……そう……ですか」

 上体を起こし、ギンガの話に黙って耳を傾けていた衛司だったが、話に一区切りついたところで、合いの手というほどではないものの、ぽつりとそう呟きを漏らした。
 実際のところ、医者その他が揃って首を傾げているその不可解について、衛司にはおおよその見当がついている。無論それは衛司にのみ判る事であり、それを他人に言うつもりは欠片もない。言えるはずがない、というのが正直なところかもしれないが。

 オルフェノクの姿へと変化したせいだ。人間の進化形たるその姿へと変化し、その力を奮った事の反動なのだろう。
 元より、進化というものは長い時間をかけ、数世代に渡って行われるもの。それをただ一代で、極めて短い時間のうちに行うのだから、そこに何の代償も伴わない訳がない。
 変化の度に命を削る、とまではいかないが、端的に言うならばオルフェノクというものは押し並べて『身体に悪い』ものなのである。

 ただ、そんな事――そう、まさに『そんな事』だ――よりも今の衛司にとって切実なのは、ベッドの横に置かれたパイプ椅子に腰掛けるギンガの存在である。

「…………………………」

 重い静寂が病室を満たす。それに被さる機器の駆動音が、より一層静寂に重圧感を増させていた。
 衛司が目覚めるまでの経緯を一通り説明した後、彼女はそのまま沈黙を通していた。説明の方も原稿を読み上げるかのように感情を篭めず淡々としていたものだから、衛司にしてみれば逆にそれが不気味で堪らない。

 怒られるとは思っていた。ぶん殴られる事まで覚悟していた。その予想が外れたのはある意味では幸いだったが、ある意味では予想通りの方がまだマシであったと言える。
 何せ、黙りこくっているギンガは俯くでもそっぽを向くでもなく、じっと衛司の顔を見詰めているのだ。もうそれは凝視と言って良いレベルである。ギンガは普段から会話の時には相手の目を見て話すのだが、さすがにここまでの凝視は今までにない。
 心に疚しいところのある人間が(つまり衛司が)その視線を直視出来るはずもなく、必然、その視線から逃れる様に、明後日の方向へと顔を向けてしまう。

「えっと……その、ナカジマさん」
「どうして」

 静寂に耐え切れず、その場凌ぎに(ギンガを視界に入れないまま)何かを言わんとした衛司の言葉を遮って、ギンガが口を開く。

「どうして、あんなところに居たんですか?」

 低く抑えた声が滅茶苦茶怖い。まだ怒鳴りつけられた方が気が楽だった。ただそれは意図して抑えた訳ではなく、自然とそうなってしまったのだろう。それでも衛司にとっては充分以上に効果的であった。
 怒りを無理矢理に押さえ込んだ時、人の声音は往々にしてこの様な低く抑えられたものになる。それを理解している衛司にしてみれば、今の状況は目の前に破裂寸前の風船を置くシチュエーションと何ら変わりない。対応を誤れば即座に破裂すると、一見しただけで知れる。
 だが。

「……………………」

 そこまで解っていた上で、衛司の取った対応は、およそ最悪に分類されるものだった。
 沈黙である。ただ無言で、貝のように口を噤み、ギンガの問いかけを黙殺する。
 答えられない、ではなく、答えたくないという意思を表すその沈黙を、果たしてギンガはどう受け取るか。……考えるまでもない。風船が破裂するが如くに、今度こそ、彼女はその怒りを顕わにするだろう。怒り呆れ失望して、衛司の前から立ち去るだろう。

 だがそれでも、真実を告げるよりは遥かに安楽だ。謎の女に誘われるまま、街へと向かったというところまでは話す事も出来る。だがそこまで言ってしまえば、そこから後を隠す事は出来まい。話し出せば芋蔓式だ。そこで異形の野牛と戦った事、見知らぬ少女達に襲われた事、そして己が人外の存在である事まで、全て口にしてしまう。
 嘘を吐いたり、事実を脚色して話すような器用な真似は、結城衛司には土台不可能な事。

「……そうですか」

 かたん、と響いた音は、ギンガが椅子から腰を上げた音だろう。
 呆れ果てて病室を後にするつもりか――まったく予想通りだ。或いはもう二度と衛司の前に姿を現さないかもしれないが、別にそれでも構わなかった。
 しかし衛司は、少なくともこの時点の彼は、ギンガ・ナカジマという女を見縊っていたと言えよう。

「!?」

 するり、と頬を温かくすべすべとした何かが撫で回した――かと思った次の瞬間、衛司の頭部がそれによって固定され、ぐりっ、と首を回される。その際、ぐきりと首から妙な音もしたのだが、それに頓着出来る状況でもない。
 次瞬、視界のど真ん中にはギンガの顔。両頬を彼女の掌に押さえ込まれ、無理矢理視線を合わせられたのだと、更に一瞬遅れで、衛司は気付く。
 て言うか近い。近い近い近い。鼻息すら感じ取れそうな距離で顔を突き合わせている、当然の如く当然ながら、思春期真っ只中の少年は顔を赤らめた。
 対してギンガの方はと言えば、これもまた当然と言えば当然なのだが、衛司の動揺など眼中にないと知れる真顔で、衛司の目を覗き込んでいる。

「どんなに心配したと――思ってるんですか」
「………………」
「勝手に病院から脱け出して。こんな酷い怪我をして。わたしが心配しないとでも、思ってたんですか?」

 語尾が微妙に滲んでいたのは、恐らく目の端に浮かぶ涙のせいと、衛司にもすぐに理解出来た。
 その真摯な眼差しと言葉を真正面から向けられて、それでもまだそ知らぬ顔が出来る人間だったなら、衛司はそもそもこんな大怪我を負う事は無かっただろう。あの怪しい女からの電話に応じる事もなく、野牛と戦う事も少女達に追い回される事もなかっただろう。
 それが出来ない衛司だからこそ――ギンガに対する処方は、ただ謝るより他にない。

「…………すみません、ナカジマさん」
「謝るなら、ちゃんと話してください。一体どうして、あんなところに居たんですか?」
「それは……」
「――事情が、あるんですね?」

 言い淀む衛司から察したのだろう、質問というよりは確認に近いギンガの言葉に、未だ頬を彼女の掌に固定されたまま、衛司はこくりと頷く。
 はあ、とギンガのため息。明らかに納得していないが、それでもこれ以上の追求に意味はないと理解したのだろう。その理解の早さはそのまま彼女の聡明さを表していた。
 ただ――

「……えっと、その、ナカジマさん」
「なんですか」
「いやなんですかってほどの事じゃ無いんですけど、何と言いますかその、そろそろ離してほしいかな、って……」

 ――その聡明さは、衛司の心中を斟酌する事にまでは役立ってくれないらしい。
 ため息をついて追求を諦め、不満を腹の底に沈めるその間も、ギンガは衛司の頬から掌を離していない。吐息がかかるほどに近い距離もそのままだ。見る者の角度にもよるだろうが、それが誤解を招く体勢であるのは明らかである。
 百人居れば九十九人が間違いなく美人、もしくは美少女と評するだろう女性と、超至近距離で顔を突き合わせる――そんな状況に置かれた青少年が、冷静であれるはずもなく。

 心臓はばくばくと破裂するんじゃないかってぐらいに鼓動しているし、そのせいで顔は真っ赤になっているし、なんか良い匂いするなあいやいやそうじゃなくてナカジマさんの掌って柔らかいないやそれも違うだろという感じに思考はぐちゃぐちゃで。
 と言うかもう駄目です。無理です限界ですいっぱいいっぱいです。何の拷問ですかコレ。或いはご褒美なんですかコレ。

「あ――あ、あはは」

 衛司の言葉に、ギンガも漸く自分の体勢が傍からどう見えるかという事に気付いたらしく、誤魔化し笑いを浮かべながら衛司から離れる。
 頬に残る、しかし少しずつ薄れていくギンガの体温にちょっとだけ未練らしきものを覚えつつも、衛司もまた、愛想笑いだか照れ笑いだか判断の難しい表情で、ギンガの誤魔化し笑いに応えた。

「ちょ、ちょっと花瓶の水、替えてきますね」

 ベッド脇の棚、その上に置かれた一輪挿しの花瓶(ちなみに数日前、ギンガが持ってきたものである)を手に取って、そそくさとギンガは病室を出て行った。ぱたぱたと遠ざかっていく足音が微妙に危なっかしい。
 彼女の背を追う様にぼんやりと病室の扉を眺めていた衛司だったが、やがて天井を見上げ、深々とため息を吐いた。

 本当に善い人だ。つくづくそう思う。彼女の立場なら(と言えるほどギンガの事を知っている訳でもないが)、衛司をもっと問い詰めねばならないはずだろう。『言えません』に対して『仕方ないですね』で済ませられる訳がない。
 そこまで解っているのに、しかしそれでも、衛司は本当の事を言おうとは思わない。言う気になれない、とするのが正しいか。それはある意味で保身であり、またある意味で自虐であった。

 もし、彼女に全てを包み隠さず話したとして――ギンガがそれにどう反応するか、まずそこから、衛司には想像出来ない。ただ予想は出来る。真っ当な人間なら驚き、恐怖して、その存在を拒絶するだろう。それが当然だ。そうあるべきだと、衛司は考えている。
 だが。もし、ギンガ・ナカジマが、結城衛司を拒絶しなかったのなら。
 衛司にとっての最悪とは、むしろそちらの可能性である――その可能性を現実として突き付けられるのが怖いばかりに、衛司は沈黙するしか出来なかったのだ。

「――ん……?」

 ふと、病室の扉が開く音。ノックも無しに扉を開ける人間に、衛司はギンガしか心当たりがない。
 だがそこに居たのは一人の若い男。無論、ギンガとは似ても似つかない。整髪料で撫で付けた茶髪、じゃらじゃらと耳元を飾り立てるピアス、自作と思しきクラッシュジーンズに、裸の上半身に直接羽織った革ジャンと、いっそ狙いすぎとすら言える出で立ちの男である。

 最初、病室を間違えたのだろうと思った。余所の病室に入院している患者の見舞い客が、間違えて衛司の病室に這入ってきたのだろうと。
 言うまでもなく、この男に見覚えは無い。地球でもミッドチルダでも変わらず、である。ただ己の記憶力にいまいち自信のない衛司の事、もしかしたら何処かで会った相手かもしれないと思うと、「どちら様ですか?」と質問も出来ない。
 加えて、

「見ィーつーけた♪」

 衛司を指差しにやりと笑う男を見れば、少なくとも向こうは、衛司の事をはっきり認識しているのは明らかであった。
 男はずかずかと病室に這入り込んでくると、ベッドの傍らで足を止める。さして背の高い男でもないが、しかしベッドの上で上体を起こしている姿勢の衛司よりはさすがに視点が高い。にやにやとした笑みを浮かべたまま、同じくにやついた視線で、衛司を見下ろしてくる。

「えっと……あの、すいません。何処かでお会いした事、ありましたか?」
「うん? いいや、初対面だぜえ?」

 もしかしたら、という思いでの質問を、しかし男はあっさりと否定して、足元に置かれていたパイプ椅子に手をかける。ギンガがつい先程まで座っていたパイプ椅子。それに座る訳でも無く、背もたれの部分を掴んでひょいと持ち上げ、折り畳んだ。

「初対面……ですよね」
「ああ。あ、自己紹介はいらねえよ。結城衛司クンだろ? ちゃんと知ってっから。俺の自己紹介は――こいつも、必要ねえか」

 これから死ぬ奴に教えても、意味無えよな?
 男が変わらぬ調子で口にした、次の瞬間。

 ぶんと男が腕を振る――パイプ椅子を持った腕を、横薙ぎに。
 鉄塊を金属バットで殴ったら、或いはこんな音がするのだろう。ただしその音は衛司の頭の中でのみ鳴り響いたものだったが。

 まったくの不意打ちに衛司は何の反応も出来ず、振るわれたパイプ椅子で強かに頬を殴りつけられ、ベッドから転がり落ちる。とにかく生産性を優先して作られた量産品であるパイプ椅子の強度というものを、ただ一撃で、その顔面で存分に味わって。

「ぎっ……ぁ、あがっ……!」

 びちゃびちゃと厭な水音。衛司の口元と鼻孔から滴り落ちる鮮血が、リノリウムの床を赤色に濡らす。
 オルフェノクとして幾つかの死地を潜ってきた衛司と言えども、人間態のままで、パイプ椅子に顔面を殴打されるなどというのは初めての経験だ。
 これは彼が未だ人間だった頃からそうであるが、ヒトの姿である限り、結城衛司はまったく荒事に向いていない。喧嘩と言えば亡き姉との姉弟喧嘩が精々、それとて一度たりと勝った事はない(より正確に言えば、いつも泣かされて終わっていた)。
 かつん、と何か形のあるものが床の上に吐き出され、硬質な音を立てて転がった。先の殴打によってへし折られた奥歯だと、痛みに攪拌される思考でも、それは理解出来た。

「――へっ」

 激痛に呻く衛司を男は鼻で笑い、パイプ椅子を放り捨てる。そのまま大股に衛司に歩み寄ると、まるでサッカーボールでも蹴るかの様な気軽さで、うずくまる衛司の腹を思い切り蹴り上げた。

「げふぇっ!」

 蛙の潰れるような声を喉から胃液と一緒に吐き出し、衛司が病室の床を転がった。
 その無様な姿をさも愉快そうに眺め、ひひ、と男が厭らしい笑いを漏らす。

「あ……ぁ、ぁう……」
「あん? おいおい、おいおいおいおいおいおいおいおい。なんだ、抵抗しねえのか、お坊ちゃんよ?」

 胃液を撒き散らし、吐血と鼻血に塗れながら咳き込む衛司を、男は髪を掴んで引き摺り起こす。
 ぎっ――と、瞬間、衛司の視線が質を変えた。痛みに濁った人間の視線から、純度の高い闘争本能で満たされた攻撃的な視線。同時に衛司の顔に浮かび上がる、雀蜂を思わせる紋様。
 男の顔が驚きと戦慄に凍りつく。射竦められたよう様にその身体は動かない。どうしようもなく致命的な隙を、男は雀蜂の眼前で晒してしまった。
 ざわりと衛司の髪が逆立ち、眼球が灰色に変化して、そして――

「…………っ!」

 ――そして、何も起こらない。
 真の姿とも言える戦闘態への変化が、途中でキャンセルされてしまう。
 理由は明白。少なくとも、衛司にとっては。先日の戦いで負った傷が響いているのだ。生存本能が闘争本能を押し退け、傷ついた肉体が異形への変化を拒絶する。

「……あ? おい、なんだよ。何かすんじゃねえのか? 期待しちまったじゃねえか――ええ!?」

 期待が外れた事への失望か、それとも衛司の視線に覚えた戦慄を隠す為か、容赦の無い膝蹴りが衛司の腹に叩きこまれ、少年の身体がくの字に折れた。その拍子に男に掴まれていた髪がぶちぶちと音を立てて引き抜かれる。

「げ、ぇえ……っ!」
「ああ? おいこら、なに汚えもん吐いてくれてんだ。俺の服が汚れちまっただろうがよ!」

 撒き散らされる血と胃液の混合液、その飛沫が男の靴とジーンズにまで飛び散って付着する。
 びきりと男が顔を歪め、床に突っ伏した衛司の頭を、その苛立ちのままに思い切り踏みつけた。

「ち。もういいや、さっさとぶっ殺して帰るか。ベルガンの旦那にゃ悪ィけど、ま、早い者勝ちだって言ってたしな――」

 男の言葉はもう衛司の耳には入らない。いや、入っていたのかもしれないが、それを理解するだけの思考力は、既に衛司から失われている。
 だが男が独り言を言い終えた直後の異変は、その衛司にしても驚愕を覚えざるを得ないものだった。

 ざわりと男の周囲の空間が、沸騰する水面のように泡立つ――だがそれも僅かに一瞬。しかしその一瞬が過ぎた後、そこに居たのは数秒前までの若い男では無く、灰色の異形だった。
 衛司や、以前戦った野牛のように、極端に人間離れしたシルエットではない。だが不要なものを省いたそのシルエットは、傍目からにもその敏捷さ、強靭さを窺わせて余りある。雀蜂にも野牛にもない、『猛獣』という肩書きを、その姿はまさに体現していた。

 風格とも換言出来る、肉食獣の脅威。それが、目の前の異形――ジャガーオルフェノクから、存分に醸し出されている。

〖……あ?〗

 不意に聞こえる悲鳴、そしてざわめきに、ジャガーオルフェノクが胡乱そうに振り返る。見れば、病室の前には数人の人だかりが出来ていた。何やら騒がしいと覗き込んだ野次馬が、入院患者を襲う異形の姿に悲鳴を上げたのだ。
 ちっ、と舌打ちを零して、猛獣が衛司の頭から足を離す。爪先を衛司の身体に引っ掛け、ごろりと仰向けにさせてから、彼の首を掴んで持ち上げた。
 陸に打ち上げられた鯉のように、衛司の口が酸素を求めてぱくぱくと開閉する。めきりめきりと厭な音が、結城衛司の頚骨が上げる悲鳴が病室に響く。

 今まさに殺人が行われようとするその様に、しかし野次馬達は一歩も動かない。動けない、と言うべきか。ジャガーオルフェノクの発する気配が、一歩でも病室に足を踏み入れれば容赦はしないと、言外に告げている。
 だがそれに臆しない者も、確かに居た――ただ、それは野次馬とはまた違う存在であったのだが。

「衛司くんっ!」

 病室に飛び込んでくるなり叫んだその名に、衛司では無く、ジャガーオルフェノクが反応する。
 突風の如き勢いで飛びかかってくる藍色の髪の女に、猛獣は咄嗟に獲物の首から手を離し、後ろに飛び退いた。開け放されていた窓の桟に着地し、じろりと闖入者を睥睨する。
 衛司を庇う様に猛獣の前に立ったギンガ・ナカジマが、その視線を真正面から受け止める――己の視線によって、猛獣の視線を迎撃する。

「なか……じま、さん……」

 息も絶え絶えに、衛司がギンガの名を呼ぶ。その声に一瞬、ギンガが反応するも、視線そのものは敵から外さない。一瞬の油断が文字通りに命取りとなる敵と相対しているのだ、それは当然の事。

「貴方は――!」
〖……五月蝿えぞ、メスガキ。ぎゃあぎゃあ騒ぐなや〗

 こきこきと首を鳴らしてみせる猛獣に向けて、ギンガが口を開く。続く言葉は誰何か罵倒か。しかしそれは結局、ギンガの口から出て行く事はなかった。
 敵意も顕わに放たれた言葉をまるで涼風のように受け流し、ギンガの続く言葉を見事に封殺するタイミングで、ジャガーオルフェノクが言葉を発した為だ。

 いや、ギンガが何も言えなくなったのは、ただタイミングを制されたばかりではない。ミッドチルダ各地に出没する『灰色の怪物』が……無差別に暴れ回り周囲の人間を殺傷する化物が、人語を喋ったという事実への驚愕。それが彼女から言葉を奪ったのだ。
 だからだろう、その言葉の意味を理解するまでに、ギンガは少しばかりの時間を必要とした。

〖うん? 何だ、手前ぇ管理局員か。……ふん、魔導師かよ。っち、面倒臭え――いいや、出直すか〗

 ぐらりと猛獣が後ろに向けて身体を傾ける。必然、その身体は重力の縛りによって、窓の外へと落下していった。
 一拍遅れてギンガが窓に駆け寄るも、既にジャガーオルフェノクは眼下の地上へと降り立ち、ミッドチルダ総合医療センターを囲む森の中へと駆け込んで、その姿を木立の中に晦ませていた。

 逃がす訳にはいかない。『灰色の怪物』が人間を襲うのは周知の事実、ここで逃がせばまた無辜の人間が犠牲となる。
 倒れ伏す衛司に駆け寄り、その身体を抱え起こす。血塗れとなった彼の顔は酷い有様だったが、幸い、まだ生きているし、意識もある。

「ここでじっとしていて下さい。いいですね!」

 やや強い語調の言葉に、衛司がゆっくりと頷く。それすら今の彼には容易ではないと、のろくさとしたその動きだけで知れた。

「ブリッツキャリバー!」
【All right.Stand by ready――Set up.】

 彼女が身に付けるペンダントが光を放ち、ギンガの身体を包みこむ。衣服が一瞬で分解され、代わりに光が防護服となって実体化。更にその上から鋼が彼女の左腕と胸、そして脚を覆って、“変身”が完了する。
 魔導師としてのギンガ・ナカジマが、結城衛司の前で初めて見せるその姿。壁にもたれ掛り、苦痛に顔を歪める衛司が、その姿を目にした瞬間、それまでの苦痛を忘れ去ったかのような表情で瞠目する。
 ギンガはそれを、魔法文明に触れず生きてきた人間が、瞬時に服装が変化する様を目撃した事への驚きととった。彼の育ってきた世界の常識からは遠く離れた光景だ、驚くのも無理はないと、そう判断してしまった。
 それが完全な誤解だと、気付かないまま――彼女は『心配要らない』という意味の微笑みを衛司に向けると、足元から光の帯を展開し、その上を滑る様にして、窓から飛び出して行った。

「あ……あ、ああ」

 そう――誤解である。
 衛司が瞠目したのは、決してギンガの“変身”にではない。それに対する驚きより何より、まず彼の思考を占拠したのは、先日の記憶である。
 ずくんと胸の傷が疼く。めきりと鼓膜があの厭な音を思い出す。網膜に映し出されるのは、鋼拳を振りかぶり突っ込んでくる少女の姿。

 金属の質感に煌く鋼拳。
 空気を軋ませて唸る歯車。
 光帯を噛んで回転する車輪。

 それらの要素が、先程目にしたギンガの姿と重なり合い、脳内で融合する。

「う、う、ううううううう……!」

 顔を覆う手の、その指の隙間から漏れ出る呻き声。恐怖を噛み殺し、悲鳴を噛み潰し、その挙句に単なる音声へと堕した呻きである。
 思考が分割される。意識が細分化される。恐怖恐慌絶望憎悪憤怒、感情の一つ一つがそれぞれに喚き立て、衛司の脳内で無様な混声合唱を奏でる。だがそれらが、更に奥底から響いてくる“何か”に駆逐されていく。
 脳髄の、思考の、意識の奥底から這い出てくる“何か”――強いてそれに言葉を当て嵌めるとすれば、それは殺意であり、敵意と呼べる感情であった。
 そう、それはつまり、雀蜂という生物の攻撃性を支える感情であって――

「ふふん。ロイの奴め、上手い具合に囮となってくれた様だな。重畳重畳、これで手柄は私一人のものだ」

 不意に病室に現れた新たなる不審者の言葉も、衛司の耳には届かない。
 灰色のスーツを着込んだ中年の男性。先の若い男に比べれば酷く洒落っ気に欠ける、それ故にフォーマルな格好。野暮ったい黒縁の眼鏡が、どことなく人当たりの良さを窺わせる。

 だがその姿も長くは続かない、衛司に歩み寄る中年男性の姿が、直に人間からかけ離れた異形へと変貌する。ある程度のスマートさを備える下半身と胴に比べ、恐ろしく不釣合いな、肥大化した両腕。それはどこか、人間以外の霊長類を思わせる――そう、ゴリラのような。
 異形の霊長ことコングオルフェノクが、衛司の眼前で足を止める。
 まだ恐る恐る病室を覗き込んでいた野次馬達が、コングオルフェノクの姿を見て、今度こそ悲鳴を上げて逃げ出した。先のジャガーオルフェノクのように周囲へ無差別に殺意を発する事がなかったから、逃げ出す事自体は容易だった。

〖さて。それではさっさと仕事を済ませるとしよう――悪く思うなよ、少年〗

 コングオルフェノクが、その丸太の如き豪腕を振り上げる。一瞬後に振り下ろされるであろうそれは、鉄槌の如くに衛司を粉々に砕く事だろう。その体躯を粉微塵にしてまだ余りある破壊を、結城衛司に齎すだろう。
 奇しくも文字通り、目の前に迫る死を、しかし衛司は完全に意識の外へと置いていた。
 がきんがきんと、脳髄の何処かで撃鉄が起きる音。敵意と殺意が肉体の生存本能を殴り倒し、その身体を戦闘生命としてのカタチに組み替える。
 だからその激発の瞬間と、コングオルフェノクが拳を振り下ろした瞬間が重なったのは、まったくの偶然でしかなかった。

「ううううう――うぁああああああああっ!

 咆哮が轟く。
 そうして今度こそ、雀蜂が――人間の真似を止め、本来の異形を取り戻した。





◆      ◆





第肆話/甲/了





◆      ◆








後書き:

 という訳で、第肆話甲でした。お付き合いありがとうございました。

 何だか前回投稿から間が開いてしまった様な。前半のギンガと衛司の会話シーンでかなり手間取ってしまって。がっつり叱られたり喧嘩したりするのも何か違うよなあ、と悩んだ挙句、『北風と太陽』もどきのあんな展開になりました。
 まあ前半に悩んだ分、後半の衛司がどつき回されるシーンは凄く書き易かったのですが。奥歯折られて鼻血噴いて胃液吐いてと、書いてて妙に楽しかった様な。個人的にはもう少し酷い目にあわせてやろうかなと思ったんですが、さすがに読んでくれる方が引くとまずいので、あんな程度に留めてます。
 ちょっと本作を読んでくださる方の傾向が知りたいので、「もっとやれ」か「自重しろ」か、一つお教え頂ければ。

 あとどうでもいい話ですけど、今回のギンガと衛司、あれも一種のラブコメと言うんだろうか?
 『可愛いおねーさんと至近距離で見詰めあってどきどき。ただし男の側が一方的に』って展開をラブコメと言っていいのかどうか、微妙に判断がつかなかったり。
 個人的にああいったシーンを書くのが凄い苦手で、今回も頭抱えて捻り出したんですが。ラブコメを書ける方が羨ましい……どなたかコツを教えてください(笑)。


 それでは次回で。宜しければ、またお付き合いください。



[7903] 第伍話/乙
Name: 透水◆44d72913 ID:35af097c
Date: 2023/12/29 20:40
 機動六課フォワード陣、とりわけスバル・ナカジマやエリオ・モンディアルにとって、仮隊舎である巡航艦アースラの環境はあまり満足のいくものではなかった。
 不満というほど大したものではない。先の事件の際に破壊された六課隊舎と比較して、アースラの方は些か見劣りすると、その程度のものである。まあ、設備や個室の広さを比べれば、寧艦寸前の船が六課隊舎のそれと比べて勝っているはずもないのだが。
 ただしそれに関してはもう仕方のない事だと、彼女達は割り切っている。そも、設備が古い部屋が狭いと文句を垂れるほど、贅沢な育ち方をしてきた人間でもないのだ。

 しかしそれでも、ただ一つだけ不満を口にするとしたら、それはアースラの食堂であろう。量、味ともに、六課隊舎の食堂で出されるものと比べて、一回り落ちるのである。
 六課隊舎と巡航艦とでは補給物資を受け入れる量に差があり、一回の食事に供される材料も限られるのは当然だ。そして隊舎が破壊された際、六課専任の料理長――元はクラナガンでも有名な店のシェフを、はやてが引き抜いてきたらしい――他、調理師の大半が負傷し入院してしまったのだから、味が劣るのも道理と言える。
 設備や部屋の広さと同様、これも仕方のない事とは言え、しかし育ち盛りであるフォワード陣には辛いところであって、特に大食らいのスバルとエリオにしてみれば、かなり切実な問題であった。
 裏を返せば、八神はやてが機動六課を立ち上げる際、隊員の福利厚生にどれだけ気を使っていたかが窺え、そしてそれを切り詰めなければならないほどに『JS事件』が六課にとっても薄氷の上の解決であったのだと窺える。

 まあそれも昨日までの事。遂に六課隊舎が復旧し、アースラに移っていた人員が戻り、入院していた職員も大半が復帰して、スバルやエリオの待ち望んだ六課食堂も、この日漸く再開した。
 久しぶりに六課食堂での昼食だ、自然足取りも軽くなる。事実スキップしている。ついでに鼻唄なんぞ口ずさんでいる――と浮かれ気分を隠しきれないスバルと、苦笑交じりにその後に続くティアナ、エリオ、キャロ(とフリード)が、揃って食堂に向かっているというのが、つまるところこの場面で記述の要がある事だった。

「嬉しそうですね、スバルさん……」
「あれは浮かれてるって言うのよ。まったく」
「でも、わたしも楽しみです。久しぶりに六課食堂のご飯ですし」

 にこにこと微笑みながらキャロにそう言われてしまえば、ティアナとてそれを否定するつもりもない。彼女自身、久しぶりの六課の味を楽しみにしているのだ。
 先日、休暇でクラナガンに遊びに出た時は、不慮の事件――事件と呼べるのか、微妙に曖昧だが――に巻き込まれ、一緒に遊びに行ったギンガも途中で急遽戻らざるを得なかったので、夕食を共にする事は出来なかった。
 何でもギンガの知り合いが事件か事故かで大怪我を負い、病院に運び込まれたのだとか。そんな状態で自分達だけ食事して帰ろうという気が起きるはずもなく、結局、その足で直接アースラに戻ったのである。

 そんな訳だから、今日の食堂再開を楽しみにする気持ちは、ティアナもまた同様だった。ただ性格的に、スバルほどそれを表に出さないというだけで。
 前方でスバルが「ほらほら、はやくー!」と手を振っている。子犬を思わせるその仕種に、内心とは裏腹な渋い顔で、ティアナは少しだけ歩く速度を速めた。

「そんな急がなくても、食堂は逃げないわよ」
「でも向こうから近づいてもこないよ!」

 まあその通りではあるのだが、何となくそれを認めるのも癪なので、「うっさい」と邪険にあしらうティアナだった。
 と、廊下の前方、スバルの更に向こうから、見慣れた姿がこちらに向けて歩いてくるのが見える。

「あれ、ヴィータ副隊長? それに……リイン曹長も?」
「おー」
「おはようなのです♪」
「あ、はい、おはようございます」

 厳密にはもうおはようという時間でもないのだが、まあまだ午前中でもあるし、リインには今日初めて会ったのだから、おはようという挨拶も間違いではない。
 さておき、向こうから歩いてきたヴィータとリインはティアナ達の前で足を止めた。訓練の時のラフな格好とは違い、ちゃんとした服装――陸士部隊の制服を着ている。
 その手には金属製のトランク。一見しただけでその頑丈さが窺える、無骨な作りのトランクである。相応の重量があると窺えるそれを両手で担いで、えっちらおっちらと歩くヴィータの姿は、傍目にはそれなりに微笑ましいものだった。
 無論、そんな事は口が裂けても言えないが。言ったが最後、鉄槌の錆となるのは目に見えている。

「ヴィータ副隊長、お出かけですか?」
「ああ。ちょっと本局まで行ってくる」
「本局に?」
「はやてちゃんの代理なのです。本局の古代遺物保管庫に、預けてくるですよ」

 リインがそう言うと、ヴィータもそれに応じ、トランクを胸の辺りに掲げて、その存在を示す。その仕種だけで一目瞭然、古代遺物保管庫に預けてくると言うからには、これの中にロストロギアが収められているのだろう。
 びくりと、ティアナ達が身を強張らせた。この数ヶ月、『レリック事件』に関わってきた彼女達であるから、その反応もある意味当然。如何に頑丈なトランクとは言え、そんな無造作に扱って大丈夫なのだろうか?

「びびんな。心配しなくてもレリックじゃねーんだし、爆発しねえよ」
「はあ」
「あの、ヴィータ副隊長。これ、何てロストロギアなんですか?」

 横合いからのスバルの質問に暫し考え込んでいたヴィータだったが、やがて傍らに浮遊するリインの方を向いて「何だったっけ?」と訊ねた。決して物忘れの激しい人間ではないが、その表情から察するに、ただ度忘れしただけだろう。誰にでもある事だ。
 ヴィータからの質問に、ふふん、とリインは得意気に微笑んで小さい胸を張り、ぴっ、と指を一本立てて、教師のような口調で答える。

「『キングストーン』ってロストロギアなのですよ。スマートブレインの社長さんから、はやてちゃんが……じゃなくて、部隊長が預かったのです」
「スマートブレインって……あの大企業の!?」

 ミッドチルダに居を構える者ならば、誰もが知るその名前。幾つもの次元世界に跨り活動している多世界籍企業、スマートブレイン。
 その社長ともなれば、それこそ時空管理局の上層部にも等しい社会的立場であろう。一介の管理局員とは住む世界が違う存在だ。そんな人間とも繋がりがあるとは――八神はやてが持つコネクションに、ティアナは改めて驚きを覚える。聞いた事のないロストロギアの名前よりも、遥かに実感のある驚きであった。
 まあ実際には、管理局がスマートブレインのご機嫌取りにはやてを遣わしたというだけの事であって、コネクションと言うには些かしょぼすぎるものであったのだが……それはティアナ達には知り得ない事であり、はやてと共にスマートブレイン本社に赴いたリインも、それに注釈を入れる事はしなかった。

「ホントははやてが持ってく予定だったんだけどな。急な会議が入って、地上本部に呼び出されちまったから、あたしが代理だ」
「リインも付いて行くのですよー」
「つー訳で、午後の訓練にあたしは出ねえから。さぼるんじゃねーぞ」

 さぼるなも何も、命が惜しければそんな事が出来るはずがないのだが。
 そんな突っ込みをおくびにも出さず、はい! と声を揃えるフォワード陣に、ヴィータは満足気な内心を無理矢理押し込めたと知れる仏頂面で頷いて、リインと共に歩き去って行った。
 その後姿が通路の曲がり角に消えるまで見送って、そして再びティアナ達は食堂に向けて歩き出す。予想外の展開に少しばかり時間を食ったものの、それも微々たるもの。まだ昼休みは充分にある。予定変更の要はないし、そもそもそのつもりもない。
 だがこの後の展開は、さすがの彼女達であっても、最初のスケジュールに拘泥出来るものでは無かった。

「? アラート……!?」

 スバル、ティアナ、エリオ、キャロの四人がそれぞれ身に付ける装飾品――待機形態のデバイスから、緊急事態を告げる電子音が鳴り響く。次いで聞こえてきたのは、機動六課通信士、アルト・クラエッタの声。

『状況、アラート2。クラナガン医療センターに未確認体出現。隊長陣及び707、出撃準備。待機中の隊員は準警戒態勢に入ってください。スターズ・ライトニング両分隊の隊員は、ヘリポートへと集合して下さい……』
「……お昼ご飯は、お預けみたいね」

 苦々しげに呟くティアナに、エリオが毅然と、キャロが決然と頷く。
 ……反応が見えないスバルの方へちらと視線を向ければ、泣きそうな顔で、こちらは悄然と頷いた。餌をお預けされた子犬の如き顔である。だがそれに一々斟酌していられるほど、出撃前のティアナに余裕はない。
 頷きを交し合って、少女達は走り出す。指定のヘリポートには既に離陸準備を終え、ハッチを開けた状態でティアナ達を待つヘリと、そのハッチの傍らに佇む一人の女性の姿。

「なのはさん!」
「あ、早かったね、皆」

 スターズ分隊隊長高町なのはが、ヘリポートに駆け込んできたティアナ達を見て、意外そうに顔を綻ばせる。食堂からヘリポートまでの距離を考えれば、もう一、二分はかかると予想していたのだろう。
 実際、その予想は間違っていない。通路で偶然ヴィータ達と話し込み、その為に食堂に着くのが遅れたから、よりヘリポートに近い位置で通信を受けたのだ。

「なのはさん、ガジェットですか!?」
「ううん」

 スバルの問いに、なのはは緩んでいた表情を引き締め、首を横に振る。
『JS事件』終結後の機動六課の主な任務は、散発的に確認されるはぐれガジェットの掃討である。プログラムのバグかそれ以外の不具合か、ともあれスカリエッティの蜂起に間に合わなかったガジェットが時折ミッド各地――と言ってもクラナガンを中心とした、そう広くない範囲でだが――で暴れるのだ。

 ただ、それの駆逐は、今の六課フォワード陣にしてみれば造作もない。半年以上に亘ってガジェットとの戦闘経験を積んできた彼女達だ。加えて『JS事件』という、掛け値無しの死線を潜り抜けたのだから、今更ガジェットが何体束になったところで、苦戦どころか手間取る事もない。
 だからなのはのその表情、その挙措は、待ち受けているものがガジェット以上の何かである事を容易に推察させた。

「医療センターからの通信だと、ガジェットは確認されてないみたい」
「じゃあ、一体――」
「……『怪物に襲われてる』。そう言って、通信が途絶えたって話だよ」

 重ねて問い質そうとするティアナの言を遮る様に、なのはが言葉を被せる。それだけで、ティアナは勿論、残る三人も言葉を失った。
 四人の脳裏を過ぎるのは、先日の一件。クラナガンの廃棄市街で戦った、一匹の雀蜂の姿。
 昨今のミッドチルダを騒がす、暴虐の異形――『灰色の怪物』。

 あの時こそ、何故か雀蜂が抵抗しなかったから、何とか追い払う事が出来たものの――それが他の怪物にも同様であるなどという楽観を、この場の誰一人として抱いてはいない。
 六課にお呼びがかかる訳ね、と、内心でティアナは納得する。あの『灰色の怪物』を相手取るとなれば、生半な実力の魔導師など、戦力としては無いに等しい。実質、現状のミッドチルダにおいて最強戦力を保有する部隊、機動六課であって初めて、『灰色の怪物』に対抗する事が出来るのだ。
 一同が言葉を失い、しかしその沈黙が闘志と戦意の燃料と化す瞬間を見計らったかのように、操縦席の窓からヘリパイロットのヴァイス・グランセニックが顔を出した。

「なのはさん! 準備、出来ましたぜ!」
「うん。それじゃ、皆、ヘリに乗って。詳しい話は、現地に向かう間にするから」

 四人が声を揃えて返事を返し、ヘリの中へ駆け込んで行く。座席に腰を下ろし、ベルトを締めたところで、ヘリが飛翔を開始した。
 最新鋭輸送ヘリ、JF704式ヘリコプターがローターの爆音も高らかに、およそ発揮し得る最高速度で、ミッドチルダの空を切り裂いていく――






◆     ◆





異形の花々/第伍話/乙





◆     ◆







 ミッドチルダ総合医療センターは首都クラナガンの外れ、ミッドチルダ南部・アルトセイム地方との境に接する一角に存在している。市街や住宅街からはやや離れているものの、公共交通機関と直結している事から、交通の便自体はそう悪くはない。
 稀にギンガやスバルが“メンテナンス”の為に訪れる先端技術医療センターと混同される事もあるが、あちらはどちらかと言えば研究施設としての趣が強い場所であり、結城衛司が入院しているこちらとはまるで別物と、それは一見しただけで知れるだろう。

 地球、それも日本のイメージに照らし合わせるのなら、先端技術医療センターは大学病院か医薬開発施設、総合医療センターはサナトリウムかホスピスというところか。建物自体はそう大きなものではないが、敷地面積自体はかなり広く、そこかしこに設えられた花壇や噴水から、病院と言うよりは寧ろ公園や広場空間といった印象を与えている。
 ちなみに同様の特徴を持つ施設として、ミッド北部に聖王医療院が存在しているが、あちらが元々自然豊かな山中に建てられたものであるのに対し、ミッドチルダ総合医療センターの景観はあくまで敷地の内側にそう設えたというだけのものである。

 故に、それらが破壊された跡に残るものは、自然物のそれよりも遥かに醜く、そして判り易い。

「……っ! 酷い……!」

 ウイングロードを展開し、その上を滑走して衛司の病室から飛び出したギンガがまず目にしたのは、粉砕され無様な水柱を上げる噴水、掘り返されて無残な有様と化した花壇、幹の半ばほどからへし折られて悲惨な姿となった樹木。
 それら破壊されたオブジェクトの中に降り立つ、一匹の獣。人骨を思わせる灰色に染まったその姿は、明らかに条理の外側に位置する存在であると知れる。
 猫科の猛獣と思しき意匠をその身に備えながらも、しかしその体躯はヒトと同じ二足歩行。
 そう、あれこそ『灰色の怪物』。ミッドチルダにて暴虐の限りを尽くす、この世界に生きる者にとって看過出来ぬ存在。

〖追ってきやがったかよ――上等だメスガキ! 死にたいってんなら、望み通りにしてやるぜぇ!〗

 逃走に移るべく、着地から疾走へと体勢を継ごうとした猛獣がふと天を仰ぎ、そこにヴェイパーの如く光帯を引いて迫ってくるギンガの姿を捉え、快哉の如く叫んで吼えた。
 逃げぬというなら是非も無い。ギンガの左腕でリボルバーナックルのスピナーが回転し、空気を引き込んで魔力を圧搾していく。

「はああああっ!」
〖しぃあああっ!〗

 一瞬の交錯――ドリルの如き螺旋軌道の光帯を疾走して猛獣に迫るギンガと、大地の反動を得て跳び上がりギンガに迫る猛獣の、それぞれ繰り出した一撃が互いの身体を抉る。ギンガの拳が猛獣の脇腹を掠め、猛獣の爪がギンガの肩を浅く裂いて、一人と一匹は再び間合いを離した。
 どちらも致命傷には至らぬ一撃、しかしその裏の脅威に気付いて、ギンガの表情が一瞬凍る。

 あの『灰色の怪物』はともかく、今のギンガは、バリアジャケットを展開しているのだ。防護服そのものがフィールド系防御魔法の一種である為、拳銃弾程度なら弾く事も出来るし、包丁程度の刃物では傷一つつけられない。装甲では無く布地の部分でも、それは同様である。
 それを切り裂き、浅手ではあるが傷を負わせたという事は、AMFの様な『魔力結合を阻害する』付加効果を持たないのならば、生半な攻撃魔法とは比較にならない殺傷力を有している事になる。 
 今は掠り傷だからまだ良い。だが急所にあの爪を打ち込まれれば、いかにギンガと言えども――常人よりは遥かに“頑丈”な彼女でも――致命傷だろう。

「く…………!」
〖ひひ。どうしたよ? 顔色が変わったなァ〗

 じり、と猛獣が間合いを詰める。隙を窺い、機を狙い、一瞬に飛びかかるのが猫科の猛獣の戦闘スタイル。目の前の異形もまた、そのスタイルを踏襲している。
 ごきりごきりと指を鳴らし、爪を突きつけて、猛獣が己の脅威を見せ付ける。ギンガの首筋を灼くのは戦慄か焦燥か。一帯に充満する戦意と殺意が、楽観の全てを否定する。
 空気が張り詰めていく。互いが互いの一挙手一投足を凝視し、付け入る隙をそこに見出さんと睨み付ける。

 どれだけ、睨み合っていただろうか。時間にすれば二分弱、しかし当事者にしてみれば数倍数十倍の体感時間。それだけの膠着は、破壊された噴水の残骸から、がら、と瓦礫片が零れ落ちる音で、あっさりと崩壊した。
 何の策も無く、ただ愚直に突っ込む猛獣。愚直なだけの突進は、しかし人間ではなく怪物によって為される……ただそれだけで、恐るべき脅威と化す。
 繰り出される一撃は何の変哲もない凡庸な爪撃でありながら、ただ一点、速度のみが常識の遥か範囲外。

【Tri Shield】
〖は!〗

 猛獣の上げる哄笑が、爪牙が障壁を引っ掻いた事による金属音を追い越して、ギンガの耳朶を打つ。

 ギンガ・ナカジマの張った障壁は決して薄くなく、脆くない。いや、それは明らかに同ランク魔導師の平均と比しても、飛び抜けて強固なものであっただろう。最前衛を任せられるフロントアタッカーの障壁であるならば、それがこれほど簡単に砕かれる事こそ異常と言うべきだ。
 ばりん、とガラスの割れる音と言うよりは瓦板を砕き割るような音を立てて、ギンガの張った障壁、トライシールドが砕かれる。ギンガの魔力光で編まれた紫光の盾が破片となって飛散し、無色の魔力と化して消失した。

 そして気付いた時には、既に猛獣はギンガの間合いから遠ざかっている。弾丸の如き速度による一撃離脱。それは古代近代に関わらず、ベルカの魔法と共通するところがある。ただ、その完成度は凡百の魔導師、騎士とは桁違いであったのだが。化生の類がその域に至っている事に、それどころではないと解りながらも、僅かばかりの口惜しさを覚える。

〖ひゃははっ! おら、もいっちょ――行くぜぇあっ!〗

 猛獣がぐるりと反転、再度地を蹴って、ギンガに襲いかかる。最早視認する事の困難な速度で迫る、人間サイズの質量体。それを捉えるのがいかに困難か、ギンガは過たず理解している。
 理解しているからこそ、それが不可能ではないという認識は、正しく事実にそぐっていた。

「……!」

 リボルバーナックルに鎧われた左拳を引き込み、半身の姿勢で猛獣を迎え撃つ。相手もギンガの意図に気付いたか、しかしそれに臆する事もなく、更に速度を上げて、彼女の間合いに飛び込んだ。
 此度の交錯もまた一瞬。だが先の二合と比べ、その一瞬は恐ろしく濃密な時間であった。

 猛獣への迎撃に放たれたのは、鎌のような軌道を描いて打ち下ろされる左の鋼拳。だがそれは猛獣の鼻先を擦過するに留まり、故に猛獣の突進を阻む事は出来ずに終わる。
 そして更に一歩、猛獣がギンガの間合いに踏み込んでくる。この時点で、猛獣もまた、己の間合いにギンガを捉えていた。必殺の爪撃が唸りを上げて加速する。しかしその爪がバリアジャケットのフィールド効果に触れた瞬間、下方から突き上げられてくる一撃が、その爪撃を寸前で阻んだ。
 シューティングアーツの打撃コンビネーション、ストームトゥース――打ち下ろしの打撃と打ち上げる打撃を高速で撃ち込む二連撃。その速度は名に違わず疾風、猛獣の顎を打ち砕かんと突き上げられた拳は、まさしくギンガ・ナカジマの牙であった。

 されどその拳が猛獣を砕く事はない。驚くべき事に、猛獣はギンガの拳が届く刹那、ギンガの喉へ向けていた爪撃の矛先を鋼拳へと切り替える。拳が猛獣の肉球――その見た目に反し、やけに柔らかい感触だった――に受け止められ、ふわり、と猛獣の身体が宙に浮いた。
 これだけの挙動が、僅か一瞬の間に終わっている。そしてまだ終わらない。交錯の一瞬が終わった直後に、新たなる交錯が始まる。

〖しゃあっ!〗
「はあっ!」

 ギンガの直上で猛獣が回転――ヨーヨーのような縦回転から繰り出される、猛速の踵。断頭台の刃が如くに振り下ろされるその踵に向けて、ギンガの拳が突き上げられる。
 鋼拳を覆うように展開される魔法陣。硬質のフィールド系防御魔法を打撃の強化として利用する、近代ベルカ式の近接戦闘用魔法ナックルバンカー。
 敵の近接攻撃に対するカウンターとして放つ事で、対象の武器・攻撃部位を破壊する効果を持つそれは、しかしその難度故に、高い戦闘技術と戦術判断能力の裏打ちを必須とする。逆説、それを行使するという事は、ギンガの実力がベルカ式魔法の使い手として非凡の域に在る事を示していた。

 鉄塊の衝突を思わせる金属音が、辺りに響く。
 ギンガの鋼拳と猛獣の踵が激突し、その衝撃に周囲の空気が弾かれた。一秒弱の均衡の後、猛獣の踵はフィールドの表面を滑るようにして拳から逸れ、ギンガの真横に落着して、石畳の路面を粉砕した。
 威力の大半が減じられたとは言え、それでもその暴力は明白に脅威と言えるだけの質量を有している。粉々となった石畳が礫となってギンガの総身を叩き、ぶわりと粉塵が巻き上がる。視界の塞がれた一瞬に猛獣は飛び退いて間合いを離し、体勢を立て直す。

「く……」
【相棒、これ以上は――】
「大丈夫。まだ、いけるから」

 ずきりと左肩を刺す痛みに顔を顰めたギンガを、相棒――ブリッツキャリバーが制しようとするも、しかしギンガはそれを拒否する。
 先の『JS事件』において負った傷。奪われた左腕を元の形へと戻したその代償。未だ治りきらぬその傷が、ここで退けと彼女に囁く。必倒の威力を持つ左腕に爆弾を抱えているようなものだ、このまま戦ったところでジリ貧になるのは目に見えている。

 だが退けない。ここで退くという選択肢は、ギンガ・ナカジマにはない。否、彼女にないのは、あの猛獣を見逃すという選択肢か。
 結城衛司を傷つけたあの化物を、ここで見逃せるはずがない。……それが結城衛司ではない、まったく別の人間だとしても同じであったかどうかは、ギンガ自身にも知るところではなかったが。

「!」
〖あぁ!?〗

 再びギンガと猛獣が対峙し、周囲の空気が張り詰め始めたその瞬間、不意に強風が彼女達の周囲で吹き荒れた。僅かに空気に残留する粉塵がその風に吹き散らされ、クリアな視界を取り戻す。
 同時に鳴り響く爆音は、ヘリのローターが奏でる咆哮か。頭上を振り仰いだギンガが、そこに予想通り、陽光を遮って浮遊する輸送ヘリの姿を……機体にペイントされたエンブレムを捉えた。

「機動六課……スバル!?」





◆      ◆







「ギン姉……戦ってる!?」

 ギンガが機動六課ヘリを視認するより一分ほど早く、ヘリの窓から眼下の風景を見下ろすスバルが、持ち前の高い視力によって姉の姿を捉えていた。
 久しぶりに見る姉のバリアジャケット姿。己のそれとどこかしら似通った造形――左腕の鋼拳、足のローラー付ブーツ――のそれは、少なくともそれを着用しなければならない事態に在る事を示している。
 無茶だ、と、スバルの脳裏に浮かんだのはただ一言だった。ギンガ自身より、スバルや父であるゲンヤ、担当医であるマリエル・アテンザ技官の方が、より正確に彼女の状態を把握している。彼女は未だ、戦闘に耐え得るだけのコンディションにまで復調してはいないはずだ。

「ライトニングは医療センターの人達の避難を! スターズはわたしと一緒にギンガを援護!」

 素早く下されたなのはの指示に、打てば響く鐘のようなレスポンスで、四人の少年少女が応答を返す。
 機体後部のハッチが開き、眼下のクラナガン医療センターへと向けて、まずエリオとキャロが中空に身を躍らせた。重力に引かれる自由落下の間に二人の衣服は戦闘用の防護服へと組み替わり、同時に本来の姿を取り戻した飛龍フリードリヒがその背で二人を受け止める。

「急いでくれ、フリード!」

 エリオの言葉に轟と一つ飛龍が嘶き、少年と少女を建物へと運んでいく。
 その様を最後まで見届ける事なく、スバルとティアナもまた、ハッチから飛び出した。真っ逆様に眼下の地上へと落ちながら、二人が懐から己の得物を取り出して掲げ、その名を高らかに謳い上げる。

「マッハキャリバー!」
「クロスミラージュ!」
「「セット――アップ!」」
【【Stand by ready――Set up.】】

 一秒に満たない時間で少女達が“変身”を終え、戦場に臨むに相応しいカタチへとその姿を転じた。次瞬、スバルの足元から伸びる空色の光帯。展開されたウイングロードがスバルとティアナの足場となり、文字通りに道となって二人をギンガの元へと参じさせる。
 いっそ垂直かとも思うほどの急斜面を滑降するその途中、スバルの目はギンガと向かい合う形で佇む一つの異形を捉えた。背後を追うティアナもほぼ同時に気付いたか、思わず息を呑む音が聞こえる。

「ティア……!」
「分かってる――『灰色の怪物』!」

 先日、クラナガン近郊の廃棄市街区で戦ったあの“蜂男”とはまた違う、猫科の猛獣と思しき意匠を備えた異形。
 あの時の“蜂男”は何故か碌な抵抗も見せないまま、スバルの打拳に倒れたが――眼下の猛獣もまたそうであるなどという楽観を、スバルは欠片も抱いていない。一帯に充満する厭な空気は、猛獣の殺気と呼ぶべき気配だろうか、とにかく容易ならざる相手とスバルの第六感を刺激している。
 そして――

「ヴァイス君、わたしが降りたらすぐにエリオ達の援護をお願い!」
「了解っす、なのはさん!」

 そしてヘリに残る最後の一人、高町なのはが空を舞う。
 今はフェイトもシグナムも、ヴィータもこの場に居ない。故に極めて例外的な事であったが、スターズ分隊隊長であるなのは自身が、フォワード陣と共に前線に立つ事になる。
『JS事件』以来の実戦ではあったが、しかしなのはの心に不安はない。だが逆に、昂揚がある訳でもなかった。嫌な予感というのか、言い知れぬ不安が、エース・オブ・エースの胸中に蟠っている。
 胸だけではない、全身をじくじくと侵していく不安を振り払うように、なのはは声を上げ、既に十年以上の歳月を共に歩んだ相棒の名を口にする。

「レイジングハート、お願い!」
【All right.】

 首から提げられた赤い宝玉のアクセサリーが、主の言葉に応えて明滅する。その表面に起動を示す文字が浮かび上がり、桜色の光がなのはを包みこんだ。先の四人と同様、一瞬の間に彼女は白を基調とした防護服を纏い、戦闘準備を完了する。
 先に降下したスバルとティアナを追い、高空から一気になのはは降下する。同時にレイジングハートの先端を地表へと向け、ギンガと相対する猛獣に狙いを据えて、一瞬に精製した魔力弾を撃ち放った。

「ディバイン――シューターっ!」
【Divine Shooter.】

 頭上から降り注ぐ魔力弾は、その数、その威力共に、最早流星雨にも等しい暴力の嵐であった。非殺傷設定であり、アクセルシューターよりも多少劣るとは言え、一撃でも喰らえば昏倒は免れない威力の魔力弾だ。
 まさしく絨毯爆撃、蟻の一匹も逃げられぬ程の密度で降り注いだ魔力弾によって、ヘリのローターの風圧で払われた粉塵が再び舞い上がり、猛獣の姿を包みこむ。
 その隙にスバルとティアナは着地に成功、ギンガのところに駆け寄る。疲弊の色が窺えるが、とりあえず未だ健在のギンガにスバルは内心安堵しながら、姉の名を呼んだ。

「ギン姉!」
「ギンガさん!」
「スバル……ティアナ。どうしてここに――」
「クラナガン医療センターに怪物が出たって……ギン姉こそ、どうしてここに!?」

 元よりスバルにしてみれば、此処にギンガが居る事自体、予想外である。陸士108部隊が出動したという話は聞いていない。いや、六課以外の陸士部隊が現地に向かっているという連絡さえ受けていないのだから、その疑問は全く正当だった。
 えっと、と微妙に言い辛そうな顔をギンガが見せた瞬間、スバル達の後ろになのはが降り立つ。

「なのはさん!」
「久しぶり、ギンガ。大丈夫だった?」

 彼女には珍しい飄げた笑みを表情に乗せ、首だけ振り向かせてギンガを見遣るなのは。だが彼女の意識の大半は粉塵の向こう側に向けられている。あれだけの魔力爆撃を行って、未だ残心を解いていない。
 慌ててスバルとティアナも、意識を戦闘用のそれに切り替えた。無論、ギンガも同様に。――それがあと一秒遅ければ、彼女達は、恐らくはなのはも含め、ただでは済まなかっただろう。

 何かが粉塵の中から飛び出してくる。『灰色の怪物』ではない、それよりも大分小さい。それが足元に敷き詰められていた石畳の破片であると気付いた瞬間、前に進み出たスバルが、リボルバーナックルでそれを砕き落としていた。
 しかしそれだけでは終わらない。二発、三発と、粉塵の向こう側から石片が撃ち出されてくる。魔力弾ではない純粋な質量体、まともに当たればバリアジャケットを着用していても、怪我では済まないだろう。ただそれはシールドの強度を超える程の威力を有している訳ではなく、なのはとスバル、師弟が同時に張ったラウンドシールドとトライシールドによって弾かれ、礫よりも微細な破片となって地に落ちる。

「このっ……!」
「待って、ティアナ!」

 石片が撃ち出されて来る粉塵の向こう側へと向けてティアナがクロスミラージュを構えるが、それをなのはが制止する。その指示を不可解と問う視線をティアナが向けるのとほぼ同時、再度粉塵を切り裂いて、敵の攻撃が飛来した。
 またも懲りぬ石片の投擲――そう考えたティアナであったが、確かにそれも間違いではなかったのだが、だがその予想を現実が斜め上に凌駕する。

 飛来する石片は、最早『石片』ではなかった。石畳どころかその下の地面を丸ごと抉り抜いて投げつけられたそれは巨大な土塊であり、その質量もその速度も、およそ防御魔法で凌ぎ切れるレベルではなかったのである。
 咄嗟に散開し、ティアナ達は土塊の砲弾から逃れる。耳を聾さんばかりの轟音が鳴り響き、土塊が己ごと着弾地点の石畳を粉砕する。更に同規模の土塊が、散り散りとなった彼女達へと向けて殺到、回避行動を余儀なくされた。

「こんのぉっ!」

 だが回避だけがこの土塊に対する処方ではない。スバルが裂帛の気合と共に、鋼拳の一撃で土塊を粉砕する。
 ウイングロードを展開し、土塊の砲弾に向けてスバルは加速。次々と迫る土塊を片っ端から破壊し、ただの土砂へと貶めていく。

「――!?」

 彼女の視界に、高速で飛来する土塊以外の何かが映り込んだのは、都合三つ目の土塊を粉砕した瞬間だった。
 同時に彼女の耳は、たたん、と軽快な音を捉えている。それが何を意味するのか想像するよりも早く、解答は彼女の前に現れた。
 スバルの更に上方――太陽を背に、一匹の猛獣が中空を跳躍している。撃ち出した土塊の砲弾に取り付き、それを隠れ蓑に、そして足場として利用し、敵の間合いの只中に飛び込んだのだ。

しぃいいいあっ!

 咆哮と共に繰り出される蹴撃。咄嗟の防御魔法も、その衝撃を相殺するに至らない。ウイングロードから蹴り落とされたスバルが、直下の地面に叩き付けられる。

「スバルっ!」

 思わず声を上げ、妹に駆け寄ろうとしたギンガの眼前に、猛獣が降り立つ。転移による出現と見紛うほどの速度で現れた敵に、さすがのギンガも即座に反応は出来ず、猛獣の一撃によって弾き飛ばされた。ブリッツキャリバーが咄嗟に防御魔法を展開していなければ、或いは致命傷であっただろう。
 だが怪物の猛襲も、そこまでだった。

「アクセル――」
「クロスファイア――」

 がしゅん、とカートリッジの排莢音が響く。びくりとそれに反応して振り向いた猛獣は、己の得物を掲げ、攻撃魔法の術式を組み上げる二人の魔導師を視認した。
 桜色と橙色の光弾、合わせて四十三発。それらは例外無く猛獣へと照準を合わせ、今にも標的へと向けて加速せんと、術者の号令を待っている。

「――シューターっ!
「――シュートっ!

 大気を引き裂いて撃ち出される魔力弾の雨。今度は最早非殺傷などという生易しいものではない、標的を粉砕するだけの威力を有した対物設定の魔力弾。それらが複雑な軌道を描き、前後左右、四方八方から猛獣の退路を絶って、標的へと殺到する。

〖ぶぼぁっ!〗

 結論から言えば、猛獣はそれを躱しきれなかった。
 幾つかの魔力弾を躱し、叩き落とす事に成功するものの、しかしその数は猛獣の処理能力を遥かに超えている。結果として猛獣は三十発以上の対物設定魔力弾に総身を殴り付けられ、奇声を上げて吹き飛ばされた挙句、破壊された噴水の残骸に突っ込んで、漏れ出した水溜まりの中で動きを止めた。

「スバル! ギンガさん!」

 なのはと目配せを交わし、ティアナがスバルの元へと駆け寄る。ウイングロードから蹴落とされた際に腰を打ったようだが、どうやらスバルはほぼ無傷。次いでギンガの方にも視線を遣れば、多少ふらついてはいるものの、しっかりと己の脚で直立するギンガの姿が目に入った。
 二人ともそう大した怪我ではない、まだ充分に戦える。果たして敵は、と猛獣を見遣ったその時、凄まじい轟音に大気が震え、ティアナの鼓膜を引っ叩いた。
 その轟音の正体は、一目見れば瞭然であった――立ち上がった猛獣が、その苛立ちを近くに在った噴水の残骸に叩き付けたのだ。既に原型を留めないほどに破壊されていた噴水が、今度こそ、木っ端微塵に爆砕する。

〖――くそがぁあああああっ!

 怒号を吐き散らす猛獣から放たれるのは、最早殺意と呼ぶにも生温い攻撃的な想念。その視線は睨み据えるだけで対象の心臓を止めかねないほどの怒気に溢れている。ぎりぎりと歯軋りの音を漏らしながら、猛獣が喚き立てる。 

〖ッの、ガキどもがぁ……“苗床”の分際で、オルフェノク・・・・・・のこの俺に何してくれやがったぁ!〗
「『オルフェノク』……!?」

 猛獣の言葉に含まれた、聞き覚えのない名称。それを耳聡く聞きつけたなのはが、鸚鵡返しにその名を口にする。
 と、激昂に前後の見境すら無くしていたはずの猛獣が、途端に冷却水を浴びせられたかのように沈黙する。その視線からは敵意の感情が抜け落ち、粘つく嘲笑のそれへと入れ替わった。

〖……は! ひゃはははは! そうかそうか、知らねえのか、手前ぇら――なら教えてやる、俺“等”は『オルフェノク』、人類の進化種! ヒトの叡智にケモノの力を備えた、新たなる万物の霊長! この世界、いや、全ての次元世界を手に入れるに相応しい存在だァ!〗>

 そう――これこそが、遂に現行の人類が進化種の名を知った瞬間。
 まるで宗教家の様な身振りで高らかに叫ぶ猛獣は、明らかの己の言に酔っていた。或いは、だからこそその姿が宗教家に被って見えたのかもしれない。それほどに悦に入る猛獣の姿は人がましく、それ故に滑稽であったのだが、当の猛獣はそれにまるで気付いていない。

「それが――」

 猛獣……否、ジャガーオルフェノクが、不意に差し挟まれたギンガの言葉に、ぶち上げていた弁舌を遮られる。
 不快そうにぎろりとギンガを睨み付け、しかし反応はそれだけで、彼は続くギンガの言葉を待った。

「――その『オルフェノク』が、どうして衛司くんを……!」
〖はっ。悪ぃな、そいつは企業秘密だ――まあ、知ったところで誰にも言えねえだろうけどよ〗

 そう言い放つと、やおらジャガーオルフェノクは地面に手を付き、四つん這いの姿勢を取った。一見すれば降参の意を示しているように取れなくもないが、しかし無論、凶獣にそんな意図はない。
 四つん這いになったという事は、四つん這いになる必然性が有り……そしてその必然性は全て敵の排除に向く事を、彼女達は理解している。
 べきべきと異音が響き、ジャガーオルフェノクの腕が、そして上体が変形する。腕が前脚となり、胴と首が一体化して、人型の猛獣が本来あるべき四足歩行の姿へと変じていく。
 そう、これこそジャガーオルフェノクの“本当の”戦闘形態――ジャガーオルフェノク、疾走態。

〖どうせ手前ぇら、ここで死ぬんだからなァ!〗

 蛮声に次いで放たれた一撃を、ギンガは躱せなかった。
 ジャガーオルフェノクの攻撃は、その四足をバネとした単純極まりない突撃殺法である。だがその速度が違う。先程までの、二足歩行であった時に繰り出された攻撃とは、速度の面において雲泥の差があった。
 そう、ギンガの知覚よりも更に速い、人間の神経伝達速度すら凌駕する勢いで飛び込んできた敵に、ギンガもブリッツキャリバーも、何一つ対処など出来なかったのだ。

「ぁうっ!」

 鈍い音が己の身体の中に響き、次の瞬間、ギンガは己の身体が中空に浮いていると知った。今の一撃で吹っ飛ばされたのだろうと気付いた時には、固い路面に強か叩き付けられ、ごろごろと転がる。バリアジャケットのおかげで目立った外傷こそないものの、その衝撃が身体を軋ませ、立ち上がる事を阻んでいる。
 そしてギンガを打ち倒した猛獣の牙は、当然、残る三人にも向けられる事となる。

「っ、の――!」

 クロスミラージュの銃口を敵へと向けたティアナだったが、魔力弾が精製されるよりも更に速く、ジャガーオルフェノクの一撃に撥ね飛ばされる。何の変哲もない突進からの打撃、だがシンプルであるが故に、防御も回避も容易ではない。
 ティアナの認識にしてみれば、同質量の鉄球を叩き付けられたようなものだろう。少女の細い体躯がそれに耐え切れるはずもなく、ティアナもまた、ギンガ同様に吹っ飛ばされた。
 その反動を利用し、猛獣はくるりと空中で一回転、いっそ優雅とすら言える挙動で地面に降り立つ。しかし着地の際に生じる一瞬の隙を見逃さず、スバルが鋼拳を振りかぶり、ジャガーオルフェノクに襲いかかった。

「よくもティアを、ギン姉をぉおっ!」

 打ち下ろされる一撃。一撃必倒を体現するスバル・ナカジマの切り札、振動拳が、ジャガーオルフェノクを粉砕せんと空気を引き裂き唸りを上げる。
 しかし、ある意味予想通りと言うべきか、その拳が猛獣を捉える事はなく。

 ひゅん、とジャガーオルフェノクの輪郭がぶれる。敵の姿を見失う。必然、振動拳は一瞬前まで猛獣が居た空間で空振りし、ただいたずらに路面を破壊するに留まった。
 切り札として繰り出した一撃を回避され、結果として、スバルは致命的な隙を猛獣の前で晒してしまう。ジャガーオルフェノクがその隙を衝かない道理がなく、スバルの直上から、その頭蓋を叩き砕かんと――

〖っ、とぉ!?〗

 ――叩き砕かんとした一撃が、一条の魔力砲撃に阻まれる。
 咄嗟に身を翻してそれを回避したジャガーオルフェノクは、すぐ近くで滔々と溢れ出る魔力の気配に喉を鳴らした。果たして猛獣の視線の先には、先程までとは意匠の微妙に異なるバリアジャケットに身を包んだ、白い魔導師の姿。

「なのはさんっ!」
「スバル、二人をお願い!」

 エクシードモードを起動させた高町なのはが、スバルに指示を下しつつ、一斉に桜色の魔力弾を撃ち放つ。高速で迫る十七発の魔力弾を、しかし猛獣は事も無げに回避してみせた。その動きはまさしく野獣、いや単純に速度の面でそれを遥かに超える。

〖ひゃははっ! いいぞ! 面白ぇじゃねえか、あぁ!? おらもっと撃ってこい、もっと楽しませろ!〗
「悪いけど、あなたと遊んでいる暇はないの……!」

 それは確かな本音。暇もなければ、軽口を叩く余裕すらない。
 正直な話、エクシードモードを起動させている今であっても、本当にぎりぎりの戦況であるのだ。能力限定をこれほど恨めしく思った事は過去にない。機動六課を発足させる為の裏技としてかけられた能力限定措置が、今、紛れもなくなのはの足枷となっていた。

 能力限定はあくまで出力面に対する措置であって、誘導弾操作や、魔法の術式構成にまでは及ばない。だが出力を制限されるという事は、そのもの攻撃魔法の威力が減じる事を意味する。ディバインシューター、アクセルシューターが数十発単位で直撃しているにも関わらず未だ健在の敵を見れば、その制限は倍増しで重く圧し掛かってくる。
 加えてこの速度。こと戦闘機動という点のみ見れば、フェイト・T・ハラオウンにすら匹敵するだろう。バインドによって動きを止めようとしても、まずそのバインドに引っ掛からない。なのはにとってこの猛獣は、かなり相性の悪い敵であった。

 リミットブレイクという選択肢が脳裏を過ぎる。ブラスターモードを起動させれば、この程度の敵など一撃で吹き飛ばせるだろう。だがそれは絶対に取る訳にはいかない手段だ。“ゆりかご”での死闘の爪跡が未だ残る現状、ブラスターモードは諸刃の剣どころか、単なる自殺行為でしかない。

〖ひゃ――はぁっ!〗

 猛獣がその身に宿す『ジャガー』の名――それは『一跳びで獲物を殺す獣』という意の言葉に由来する。その由来、その由縁を、まさにこの瞬間、ジャガーオルフェノクは体現していた。
 ばんっ、と地面を蹴り、弾幕の隙間を縫って、ジャガーオルフェノクがなのはへと飛びかかる。がきんと金属音を立てて口が開き、そこから鋭利な乱杭歯が覗く。
 獲物の喉笛を目掛けて加速する牙。バリアジャケットも障壁もその牙は一瞬に噛み砕くだろう。そう、この時、ジャガーオルフェノクは己の牙を、それによって繰り出す咬撃を必殺と信じて疑っていなかった。



 そして。
 猛獣の牙が深々と、高町なのはの喉笛に突き立てられた。



〖ひゃはっ!?〗

 がちん――と、猛獣の牙が噛み鳴らされる。
 無論、牙の間に獲物の肉はなく。確かに己の牙が噛み千切ったはずの喉笛は、その感触すらなく、霧か幻のように消失している。
 ……霧か、幻?

〖な、まさか――!?〗

 ジャガーオルフェノクがその理解に至った瞬間、喉笛を抉り取られた高町なのはの姿が、ふいと一瞬で消え失せる。その向こう側に佇む少女が――ティアナ・ランスターが、狼狽する彼を見て、にやりと笑んだ。

 幻術魔法フェイク・シルエット。幻影を作り出し、対象の感覚をすら狂わせて『そこに居る』と誤認させる魔法。数日前の“蜂男”と全く同じ轍を、この時、ジャガーオルフェノクも踏んでいたのだ。
 そして更に次の瞬間、ジャガーオルフェノクの周囲に、円を描くように光帯が展開されていく。猛獣を中心として、その周囲三百六十度を囲んでいく、空色と紫色の光帯。地と平行にではなく、地と垂直に展開されるウイングロードによって作り出された即席の檻が、猛獣を閉じ込める。

〖嘗めんな! こんなもん、すぐにブチ抜いて――〗

 ウイングロードは数百キロ単位の荷重にも耐えられるだけの強度を有しているものの、しかしオルフェノクの力を前にしては薄紙も同然。
 ジャガーオルフェノクが突進する。跳躍の威力をそのまま威力に転換した体当たりが、即席の檻を粉砕する。
 だが。

「せぇ――」
「――の!!

 ウイングロードを破壊して、檻の外側へと飛び出した瞬間。
 まるで待ち構えていたかのようにそこに居たスバルとギンガが、ナックルスピナーの回転音も高らかに、魔力を極限まで圧縮した一撃を、同時にジャガーオルフェノクの鼻先へとぶちかました。
 姉妹だからこそのコンビネーション、絶妙のタイミングで叩き込まれたその拳は、累積では無く累乗となって威力を跳ね上げる。ジャガーオルフェノクの身体が文字通りにぶっ飛ばされ、再びウイングロードの檻の中に叩き返される。

 カウンターとして入った一撃だ、さすがのジャガーオルフェノクと言えども無傷ではいられない。鼻面は陥没し、頚椎や脊椎もその衝撃に歪んでいる。人間ならこれだけで致命傷であっただろう。
 だが哀れな事に、ジャガーオルフェノクは人間を遥かに超える耐久力を持ち合わせており、それ故に、安楽な最期を迎えさせては貰えない。

「ディバイぃいいいいいいン……」

 ウイングロードの檻は地面から天へと向けて、円柱を描く形に伸びている。つまり底面で仰向けになれば、円形に区切られた空が望めるのだ。
 仰向けに引っ繰り返ったジャガーオルフェノクがその光景を目にしたのは、或いは神様が現世で彼に与えた、これまでの悪行の報いだったのかもしれない。断頭台の刃が己の首を切り落とす瞬間を見せ付けられる死刑囚。そう例えるのが最も近く、そしてそれは最早比喩ですらない。

 彼の頭上で、背に負う陽光よりも眩い桜色の魔力光を収束させていく、高町なのはの姿――その姿から連想されるのは、『不屈のエース・オブ・エース』という二つ名ではなく、陰口として囁かれる蔑称。
 そう――

〖ちょ、待――〗



 ――『白い悪魔』!



バスタぁああああああっ!!

 放たれる桜色の極光。
 直下のジャガーオルフェノクを完膚無きまでに圧し潰し、打ち砕き、吹き飛ばす魔力砲撃。ウイングロードで構成された檻を内側から木っ端微塵に吹き飛ばし、その余波が周囲の瓦礫片をも舞い上げて、着弾地点から二十メートル圏内を綺麗さっぱり片付ける。

「ひゃあ~……」

 砲撃の余波にばさばさと髪を煽られながら、スバルが呆然と呟いた。相変わらずとんでもない威力。あれで本当に魔力制限がかかっているのだろうか、と疑ってしまうのも、無理からぬ事だろう。
 その傍らでぶるりと身を震わせるティアナ。嫌な記憶がフラッシュバックである。思わず浮かんだ苦笑いも、どこか引き攣っていた。

 砲撃の光柱が徐々に細り始め、やがて消える。さすがに非殺傷設定となればクレーターが出来る程に痕跡は残らないが、それでも瓦礫片の類が一掃されたそこは、爆心と呼んでまず差し支えない。
 そして、その爆心地でぴくりとも動かない、猛獣の姿――仰向けに引っ繰り返って意識を失ったジャガーオルフェノクの姿。まるで寿命が尽き、道端で死骸を晒す昆虫を思わせるその姿は、例え化物であっても少しばかりの同情を禁じ得ないものだった。

「ふうっ……みんな、大丈夫?」

 地に降り立ったなのはが、エクシードモードを解除しながら、スバル達に向けて呼びかける。こくこくと三人が揃って頷いた。まるで示し合わせたかのようなその動きに、なのはは思わず苦笑を漏らす。
 さて、病院の中に居る人達の避難誘導に当たるライトニングは、どうなったか――とりあえずこちらの状況を知らせようとなのはが念話のチャンネルを繋いだ、その瞬間。

 強烈な爆発音が大気を揺すり上げ、暴力的な空気の振動が彼女達の鼓膜を叩く。
 何事かと顔を上げ、音のした方向へと視線を向ければ、総合医療センターの一室からもうもうと黒煙が噴き上がっている様が目に入る。爆発が起きたのだ、と彼女達が理解するまでには、まだ一秒強の時間を必要とした。
 そう、その一秒こそが、致命的。

「! なのはさんっ!」

 最も早く気付いたのはスバルだった――だが彼女の位置は、それを防ぎ得るだけの距離になく。
 故に言葉を以って注意を促す事しか出来なかったのだが、それすら、高町なのはにとっては遅すぎた。
 スバルの声に従い、背後を振り向いたなのはが目にしたもの。つい数秒前まで無残に引っ繰り返っていたジャガーオルフェノクが、その牙を剥き出しに、今度こそ必殺の隙を衝いて、己に飛びかかってくる、その瞬間だった。

「……っ!」
死ぃぃぃぃぃぃぃぃぃいいいいねよやぁあああああああああっ!

 最早ティアナの幻術も間に合わない。いや、既に猛獣はなのはの実体を見極めているのだから、この後に幻術を作り出したところで、騙されてくれるはずもない。
 レイジングハートの自動防御も間に合わない。起死回生を、乾坤一擲を狙って放たれる一撃を易々と阻めるはずもなく、故に猛獣の牙がなのはの喉を抉るのは、数秒後に決定された未来であった。

 しかし。
 決定された未来を、一条の稲妻が覆す。

「!」

 いや、稲妻というのはあくまで比喩だ。だがそれはまさしく稲妻の如き速度で、この戦場へと飛び込んできた。
 驚きの五重奏――なのはが、ギンガが、スバルが、ティアナが、そしてなのはへと飛びかかったジャガーオルフェノクが、揃ってその事態に驚愕する。
 ただし、ジャガーオルフェノクに関しては、ある意味例外としても良いのかもしれない。彼は確かに驚愕していたものの、己が驚愕しているという認識すら、遂に抱く事は出来なかったのだから。

 ――槍である。
 エリオ・モンディアルの使うアームドデバイス、ストラーダとはまるで異なる作りの槍。斬撃も用途に含めた突撃槍ではなく、刺突にのみ特化した騎兵槍。細長い円錐に傘状の鍔という、本来馬上にて扱う槍だ。
 頭上から稲妻の如き速度で飛来したそれが深々とジャガーオルフェノクの胴を抉り、突き刺して、貫いて、猛獣の身体を文字通り串刺しにして、地面に縫い付けている。

〖あっ……が……?〗

 ぼうとジャガーオルフェノクの身体から、蒼い炎が噴き出す。見る間に蒼炎は猛獣の身体を焼き尽くし、その身体を灰と化さしめて、ばさりと地面にぶち撒けた。
 そこに残るのは一振りの騎兵槍。およそデバイスとは思えない、灰の一色に塗られた、純粋な“武器”としてのそれが、新たな脅威がすぐ近くに居ると告げている。
 そして。

「っ、あれ!」

 声を上げたのは、ティアナだった。
 戦場を俯瞰し見通すセンターガード。この場に現れた“それ”を真っ先に捉えたのが彼女だったのは、ある意味必然と言えよう。
 空中に浮遊する、一体の異形。頭部の半分近くを占める、吊り上がった複眼。大鋏を思わせる顎。額から伸びる触角。甲冑の如き灰色の外殻――諸々の意匠がまるで“蜂”を思わせる、その姿。

「あれ、あの時の……!」

 スバルの呟きに、無言の首肯でティアナが応じる。数日前、クラナガン近郊の廃棄市街区で戦った――いや違う、ただ追い回しただけだ――“蜂男”。あの時とは異なり、背から二対四枚の翅を展開して、中空に佇んでいるが、その姿を見間違えはしない。

 今なら解る。あれもまた、オルフェノクの一体だ。雀蜂の特質を備えたオルフェノク、ホーネットオルフェノク。
 あの時、崩落した地下水道を隈無く探したものの、終ぞ発見する事の出来なかった敵。どうやって逃げ延びる事が出来たのかは未だに分からない。だが分からないと言うのなら、何故逃げ延びたこの“蜂男”が、この場に現れたかという疑問の方が先に立つ。

 ゆっくりと、ホーネットオルフェノクが地に降り立つ。翅を振るわせる事で生まれる耳障りな音が、着地と同時に止んだ。地に突き立ったままの騎兵槍を引き抜き、逆手から順手に持ち換えて、ひゅん、と一度振ってみせる。
 なのはがレイジングハートを構える。スバルとギンガがリボルバーナックルを構える。ティアナがクロスミラージュを構える。臨戦体勢となった少女達に対し、しかし雀蜂は身じろぎもしない。まるで見当違いの方向を向いたまま、静かに突っ立っている。
 ティアナ達を見るなり逃げ出した前回とは、明らかに異なる態度だった。

「…………?」

 そう、前回とは違う。
 ぎぎぎぎぎ、とまるで油の切れた機巧カラクリのような動きで、雀蜂がティアナ達の方を見遣る。瞬間、まるで背筋に氷を押し当てられたような感覚が、ティアナの身体を走り抜けた。びくんと思わず身体がそれに反応し、痙攣のように跳ねる。それはなのはやスバル、ギンガもまた、同様に。
 殺意に対する身体反射。彼女達の知覚が思考よりも先んじて、雀蜂から放射された殺気に反応したのだ。

〖                                ッ!!

 次いで襲ってきたのは強烈な耳鳴り。人間の可聴域を遥かに超えた超音波の咆哮が、少女達の耳を劈く。
 咆哮の源は言うまでもなく雀蜂。ホーネットオルフェノクの叫び声。それは最早、一種の兵器としてすら通じるほどのものだった。

 そして咆哮と共に、雀蜂がその姿を変えていく。べきべきと、めきめきと、厭な音を立てて、その身体が変形を開始する。
 僧帽筋から肩にかけて、何本もの突起が突き出てくる。鋭利で鋭角で、指でも触れようものならその肉が裂け千切れると知れる、まさしく棘のような突起。
 左の前腕からせり上がってくる筒。前腕をぐるりと囲む様にせり上がる六つの細い筒は、六連装の銃身であると見て取れる。
 胸部も更に鋭角化。衝角の様な鋭さを持って、前方へと突き出してくる。同様に頭部も、より凶悪な面相へと変貌していく。

 オルフェノクという存在が、極限まで感情を昂ぶらせた時に発現する姿――激情態。
 無論その名を少女達が知る由もなく、だがその姿が、先程までとは比べ物にならない脅威であるという認識だけは、この場に居る全員が正確に抱いていた。

〖……………………〗

 ぶぉん、とホーネットオルフェノク激情態が、騎兵槍を構える。ただそれだけの動きが酷く威嚇的。そしてそれは同時に、雀蜂が少女達を完全に敵性存在として認識した事を意味している。
 狩る者と狩られる者が、あの日とは完全に逆転した。

「来るよ! 皆、気を付けて!」

 なのはの警告と雀蜂が動いたのは、どちらが速かったか。いや、どちらでも構わないだろう。どちらが早くても、起こった事象に変わりはない。
 ホーネットオルフェノクが、機動六課スターズ分隊、そしてギンガ・ナカジマへと、滾る殺意のままに襲いかかった。





◆      ◆





第伍話/乙/了





◆      ◆







後書き:

 という訳で、第伍話乙でした。お付き合いありがとうございました。

 なんか延々と戦闘ばっかりしていた様な。ぶっちゃけ作者の方が胸焼けしています。けどこの後、もう二話くらい戦闘が続くんですよね……うっぷ。
 まあそれはそれとして、ジャガーオルフェノクVS機動六課スターズ分隊+αの戦いでした。何だか仮面ライダーというよりは、戦隊モノ的なノリになってしまった気が。複数が入り乱れる戦闘というのは難しいです。精進せねば。
 最初はギンガ一人で倒してしまおうかなとも思ってたんですが、まだ病み上がりな彼女が一人で倒すってのもなんか後々のバランスが悪くなるかな、とあんな感じになった次第で。最終的になのはさん最強! なオチになってしまったのもどうかと思うんですが。
 考えてみたら、本作でのなのは初登場回な訳だし、今後は彼女の戦闘シーンは(相対的に)少なくなってしまうので、初回くらいはこんな扱いでも良いかなと。その分、ギンガが割食った感が否めないのですが。……その分、他での出番は多くなりますのでと、ギンガファンの皆様にはここで謝っておきます。

 ぺらぺらお喋りなジャガーくんでしたが、まあ大方の予想通り、あっさり死亡です。『雑魚の癖にそこそこ強い』と噛ませ犬にあるまじき扱いでしたが、まあ、曲りなりにも帝王のベルトを欲しがる様な奴ですし、こんなもんかなと。ちなみに相方のゴリラは次回登場です。

 最後にちょっとだけ出てきたホーネットオルフェノク激情態。折角のパワーアップイベントなのに、なんでヒロインの皆様に襲いかかってるんだよ! という突っ込みもあるでしょうが、今後の展開に関する仕込みという事で、どうか一つ。
 ……ほら、アギトのバーニングフォームも最初は見境なくなって暴走してましたし……TVスペシャルだったっけ。
 ちなみに激情態の外見イメージですが、『爆竜戦隊アバレンジャー』に登場するアバレキラーのアバレモードを参考にしています。他四人よりも更にトゲトゲしたあの感じがなんか好みなもので、リスペクトしてみました。

 長々と失礼しました。
 それでは次回で。宜しければ、またお付き合いください。



[7903] 第伍話/甲(残酷描写? 有り)
Name: 透水◆4dfd011f ID:35af097c
Date: 2023/12/29 20:41


 父親の頭に、銃弾が撃ち込まれた。



 大口径拳銃から放たれた弾丸は父親の頭蓋骨をただ一発で粉砕し、脳髄を掻き回して、鮮血と脳漿を飛び散らせる。
 跪かされていた父親の身体がゆっくりとくず折れて、床に突っ伏した。砕き割れた頭蓋の内に残っていた脳髄と脳漿が、びしゃりと厭な水音を立ててぶち撒けられる。まだ僅かにびくびくと痙攣する父親に、更に二発、三発と銃弾が撃ち込まれ、その首から上はただの肉片へと成り果てた。父親の自慢であった、年齢の割に白髪一つ無い黒髪も、今は肉片にへばりついて、真っ赤に濡れ濡れている。

 その様はまさしく、銃殺刑に処せられる死刑囚さながらであった。しかし無論、父親が何らかの罪を犯した訳ではない。処刑によって贖わなければならないほどの罪など、彼は何一つ犯してはいない。
 強いて言えば、運が悪かったのだ。今日、この日、この時、この場所にさえ居なければ、彼は死なずに――殺されずに済んだ。
 そしてそれは彼だけに留まらない。彼は決して特別ではなく、ただ単純に順番が早かったと、それだけの事でしかない。

 ……言葉にすれば、或いは文章にすれば、それはごく有り触れた、ただのテロ事件に過ぎなかった。とある高層ビルの最上階を武装した十数名の男達が占拠し、そのフロアに居た人間達を人質に取っただけの事。人質の安全と引き換えに身代金や逮捕された仲間の釈放を要求するなど、彼等の目的もまた、全く目新しさを感じさせるものではなく。
 だがそこから先が、およそまともではなかった。
 要求が達成されるまでは最低限の安全を保障するべき人質を、あろう事か遊興として一人一人惨殺していくなど――どう世辞で繕っても、正気と評する事は出来まい。
 そうして、ほら、今もまた一人。

「……! ……っ!」

 物言わぬ骸と化した父親の元へと、その息子と思しき少年が駆け寄ろうとして――踏み出したその足を払われ、無様に床に転倒した。
 両の手首を後ろで縛られ、猿轡を噛まされた状態の彼は受身を取る事も出来ず、固い床に強か叩き付けられる。悲鳴を上げる事すらままならず、苦悶か悲嘆か、恐らくはその両方と取れる嗚咽が、猿轡の隙間から漏れた。

 今、父親が殺された。それより先に、姉も殺された。跪いたまま頭を撃ち抜かれた父親と比べて、今彼等が居るこのビルの屋上、地上数百メートルの高さから突き落とされた姉の死に方は、果たしてマシと言えるものであっただろうか。
 潰れた柘榴のような有様となった姉と、首から上を肉片にまで砕かれた父。つい一時間前まで生きていた家族の無惨な姿が、もう戻らないという認識と共に、少年の脳裏を過ぎる。言い切れぬ悔しさに、ぼろぼろと目尻から涙が零れた。後ろ手に縛られ床に転がされた彼には、その涙を拭う事すら出来はしない。

 そんな少年の頭を、父親の頭を撃ち抜いた男が容赦無く踏みつける。げらげらと響き渡る哄笑、嘲笑。手足と翅をもがれた虫けらに向けるべき笑みが、今、四方八方から少年へと向けられていた。
 この時の少年は未だ人間でありながら、しかしそれ故の皮肉と言うべきか、彼の命には虫けら程の価値も認められていなかった。人間であるが故に虫けら以下。虫けらに向けられる嘲笑も、その意味ではまだ温情的であったのかもしれない。
 ぐいと髪を掴まれ、少年の頭が持ち上げられる。その顎に銃口が押し当てられた。あと一秒の後には、銃口から撃ち出された弾丸が、彼の頭を粉微塵に吹き飛ばすだろう。父親の後を追わせるべく、頬に薄ら笑いを浮かべたまま、男が引鉄にかけた指に力を篭める――その寸前。

「待って! ……待ってください!」

 一人の女性が、少年に銃口を押し当てる男のところへ駆け寄ろうとして、男達の仲間に押さえつけられた。屈強な男達に組み伏せられ、己もまた銃口を突きつけられながらも、彼女は動きを止める事なく、振り絞るような必死さで言葉を継ぐ。

「お願いします! 息子は! 衛司だけは! お願いします!」

 たった今夫を、それより前に娘を目の前で殺されたばかりだというのに、彼女――少年の母親だろう――は己の悲嘆よりも、残る息子の安否を優先させていた。
 母親としては至極真っ当なその在り方。だがそれすらも、この場に居る鬼畜どもにとっては、新たな遊興の素材に過ぎない。元よりその為に、拘束し猿轡を噛ませている少年とは対照的に、母親の方は何の束縛もしていなかったのだ。
 がらんっ、と、母親の足元に投げつけられる鉄塊。それが軍用の大型ナイフであると彼女が気付くまでに、少しばかりの時間を必要とした。そしてそれが凶器の類であると気付いた後も、どうしてそれが自分に放り投げられたのかについては、終ぞ彼女は気付かなかった。

「おいババア。息子、助けたいか?」
「はい……はい! お願いします! 私はどうなっても構いませんから、息子だけは……!」
「ひひひ。『私はどうなっても構わない』? おい手前ぇら、聞いたかァ!?」

 土下座して懇願する母親を無視して、男が周囲の仲間達に問う。その顔に浮かんでいるのは明らかに愉悦の感情。男の言葉に応え、「聞いたぜ」「ああ、そう言ったな」と返事を返す仲間達の顔にも、まったく同様の表情が張り付いている。
 母親の前にしゃがみ、先程放り投げた大型ナイフを拾い上げ、その刀身を摘んでぶらぶらと揺らしながら、男は端的に母親へと告げた。

「腹切れ」
「……は? 腹、を……?」
「だーかーら。このナイフ使って、切腹しろっつってんだよ。腹ァ切って内臓引きずり出して見せろや。そうすりゃ、息子は見逃してやるぜ?」

 その言葉の意味するところを悟り、蒼白となった母親の手に、男が無理矢理ナイフを握らせる。
 腹を切れ、というのはつまるところ、いや要約するまでもなく、自ら死ねという意味でしかない。息子を助けたければ自殺してみせろと、男はそう言っているのだ。
 無論、はいそうですかと自殺出来る人間などそうはいない。この母親であってもそれは変わりなく、しかし「早くしろ」と息子に銃口が押し当てられる様を見れば、逡巡している暇はないとも理解させられた。

「本当に、私が死ねば……息子は、助けてくれるんですね?」
「おお。約束してやる。――あまりもたもたしてやがると、どうなるか分かんねェけどなァ?」

 そこで一度、母親が息子を見た。顔色は蒼白を通り越して土気色になりながらも、しかしその眼差しだけは慈愛に満ち溢れ、心配しなくても良いと伝えている。
 猿轡を噛まされた少年には、最後に母親に声をかける事さえ叶わない。息子を助ける為に自殺するという母の暴挙を、遂に彼は制止出来なかった。
 ナイフの切っ先を腹に当て、数秒、躊躇するかのように目を閉じていた彼女だったが――やがて意を決して、その切っ先を腹へと押し込んだ。ぞぶり、と厭な音が漏れ聞こえ、じわじわと彼女の服が赤黒く染まっていく。

「ごっ……ぎ、いぃいぎぎぎ……」

 ぎち、ぎち、ぎち、ぎち。
 少しずつ突き立てられた刃が横に引かれ、母親の喉から、呻き声とも喘ぎ声ともつかぬ音が漏れ出してくる。耳を塞ぎたくなるようなその音に、少年は声にならぬ絶叫で、男達は喝采と拍手で応える。
 ごびゅ、と食い縛った歯の間から血反吐が漏れた。既に内臓の傷は致命の域まで達していると、それだけで知れる。最早ここで刃を退いたところで絶命は免れまい。しかしそれでも尚、彼女は腹腔を切り裂く刃を止めようとはしない。
 ごぼごぼと口の端で鮮血が泡立つ。彼女の下半身は噴出した血液で真っ赤に染まっていた。苦痛激痛に白目を剥いたその面相は、真っ当な神経を持つ者なら直視に堪えないものであっただろう。それでも少年は母親から目を逸らさなかった。己の為に命を捨てる母親の姿を、網膜に、脳髄に焼き付けんと、瞬きすら忘れて凝視していた。

「げひゅっ……げ、げひっ……ひっ……」

 どれだけ――時間が経っただろうか。
 割腹を終えた母親が、己の内臓から搾り出した血液と宿便の中に突っ伏した。蛙の潰れるような声が彼女の断末魔。びくんびくんと暫くの間痙攣を続けていた身体も、やがて静かに動きを止める。
 それを笑いながら眺めていた男達の一人が、母親に近づき、後は少しずつ体温が抜けていくばかりの彼女の身体を爪先で軽く小突いた。反応はない。

「あーあ、死んじまった」

 後ろを振り返り、仲間へと向けて、男が肩を竦める。もう少し遊べたのにな、とでも言わんばかりのその仕種は、足元で絶命している女性への、己を犠牲にして息子を助けようとした覚悟への、人として見せた最上級の尊厳への、これ以上ない冒涜であった。
 ぎりぎりと少年が猿轡を噛み締める。血走って見開かれた目は慟哭と憎悪に滾り、せめて視線で一矢を報わんと、男達を睨み据えている。それが芋虫の如く床に這い蹲る少年に出来る、精一杯の抵抗。

 だが無論、その視線が何かを齎す事もなく。
 男達への天罰も、この状況を打開出来るだけの天佑もこの場に降りる事はなく、ただ当然の結果だけが、少年に降りかかる。

「そんじゃ、もう充分遊んだし、始末しとくか」

 そんな言葉と共に、少年に再び、拳銃の銃口が突き付けられる。
 割腹自殺の実演を見せれば、息子の命だけは助けてやる――母親と交わした筈の約束を、男はあっさりと反故にした。
 命乞いの暇もない。元より猿轡を噛まされ、縛り上げられて床に転がされた少年には、その術からして存在しない。そしてそれ以上に、少年は最早、己の生存に一片の期待すらも抱いていなかった。命をかけて息子の助命を願った母親の思いを、当の息子自身が裏切っていた。

 乾いた銃声が、フロアに響く。
 銃口から吐き出された弾丸が、うつ伏せにされた少年の胸部を背後から深々と抉り――背骨を撃ち砕いて、心臓をぶち抜き、彼の身体を貫通して、床のタイルに突き刺さる。

 灼熱が胸の奥からせり上がってくる。気管に鮮血が溢れ、口内を満たす血液が猿轡の布地に染み込んで、呼吸を妨げる。ただこの時点で、最早彼にとって呼吸行動は生命維持と等価ではなくなっていた。
 熱いけれど寒い、そんな矛盾した感覚。彼の身体の中にある熱が全て体外へと流れ出て行き、冷たい外気が代わりに入り込んで、彼を凍てつかせる。

 寒い。
 寒い。
 さむい。
 なんだか、めのまえが、くらくて。
 まっくらに。
 ………………………………。



 これが、結城衛司という“人間”の末路。
 そして、結城衛司という“化物”の、その起源だった。





◆     ◆





異形の花々/第伍話/甲





◆     ◆







 コングオルフェノクの剛拳を少年の細腕が受け止めた――傍から見れば驚くべき光景は、しかし僅か一秒と保つ事はなかった。次の瞬間には、少年の身体は燃え立つ炎のような、或いは沸騰する水面のような奇妙なエフェクトに包まれ、その姿をまったく別のものへと変異させていたからだ。

 異形の雀蜂が、コングオルフェノクの拳を己が掌で受け止めたまま、ゆらりと幽鬼の如く立ち上がる。 
 複眼の奥底に煮え滾る殺意を感じ取り、コングオルフェノクの背筋が冷たいものに撫で回された。その冷気は氷と言うよりは、抜き身の刃が持つ金属的な冷たさか。刃物の切っ先で背を撫でられたような感覚は、恐らく戦慄と言い換えたところで何ら齟齬はあるまい。

 そう、戦慄だ。
 雀蜂が、ホーネットオルフェノクが、結城衛司が周囲へと無差別に撒き散らす憎悪の波動は、彼の同胞たる異形、コングオルフェノクをして戦慄させるだけの、そして恐怖させるだけの質量を確かに有している。常人ならばそれだけで心臓を止められているだろう。逆説、それはコングオルフェノクの“強度”を表していたが、それに自惚れる暇が、今の彼にあろうはずもない。

〖ぬぅあっ!〗

 咆哮と共にもう片方の豪腕が、巨岩すら砕く剛拳が、ホーネットオルフェノクへと向けて加速する。だがその拳が届くよりも先に、コングオルフェノクの拳を掴んだまま、雀蜂がぐいと腕を引き込んだ。必然、コングオルフェノクは胸の前で腕を交差させられ、繰り出したパンチの勢いも相俟って、前のめりに体勢を崩す。
 次瞬、弧を描くように放たれた猛速の蹴撃が、コングオルフェノクの身体を蹴鞠の如くに蹴り飛ばした。病室のドアを諸共にぶっ飛ばし、ゴリラの巨体がミッドチルダ総合医療センターの廊下に転がり出る。
 避難の途中だったのだろう、廊下を走る入院患者達が、悲鳴と共に逃げ出していく。患者達の大半は一体何故避難しなければならないのか解っていなかったのだろうが、目の前に化物が飛び出してくるという状況は、どんな説明よりも覿面だった。

〖く、くふふ……成程。どうしてただの子供を殺せと言うか、少しばかり不思議と思っていたが……成程成程、成程だ。彼奴もオルフェノクとは――それもあの力。オリジナルのオルフェノク、か〗

 僅か一合で、コングオルフェノクはホーネットオルフェノクの戦力を、それがどれほどの脅威であるかを見抜いていた。
 彼自身はオリジナルのオルフェノクではない。オルフェノクとしてはごく一般的な、使徒再生によって生み出された存在である。だがその力はオリジナルのそれに勝るとも劣らないと、彼自身は信じていた。
 事実、彼がこれまで手にかけてきたオルフェノクの中には、オリジナルのオルフェノクが少なからず存在している。知識ではなく経験として、彼は知っている――オリジナルであるというだけならば、それは恐れるだけの要因足り得ない。

 そうして見据える視線の先、『結城衛司』と名札のかかった病室の中から、ゆっくりと歩み出てくる異形の影。コングオルフェノクの視線を受け止め、それに含まれる戦意に倍する殺意を返してくる、雀蜂の姿。
 総身が震える。あれは強い。人間としての姿はあれほど弱々しく見えたというのに、目の前に迫る死が、或いはそれ以外の何かが、奴の本性を引き摺り出してしまったのだろう。雀蜂の全身から放射される殺意は、それまで幾多の敵を屠ってきた彼をして、その心胆を寒からしめる。
 成程、『帝王のベルト』と引き換えにするに相応しい敵だ。そう認識した時点で、コングオルフェノクは己の総力を以ってこの雀蜂を打倒する事を決意した。

〖往くぞ! 少年っ!〗

 握り締めた両拳で胸板を叩く。『ドラミング』と呼ばれる、ゴリラの威嚇行動。だがゴリラのそれが高く響く音を奏でるのに対し、コングオルフェノクのドラミングはそれこそ和太鼓を打ち鳴らしたかのような重低音。敵への威嚇でなく、ただ己の昂揚のみを目的とした行為であった。

 どんっ! と一際大きく胸板を打ち鳴らし、そしてコングオルフェノクがホーネットオルフェノクへと向けて突進する。繰り出したのは床を舐めるような低空軌道のボディブロー。牽制の意味など欠片も持たない、一度喰らえば内臓が粉砕されるだろう一撃。
 それをホーネットオルフェノクが受け止める。腹の前で腕を十字に組み、その交差点に敵の拳を着弾させる。だが両腕を防御に回しながらも、威力の全てを受け止める事は出来なかった。ふわりと雀蜂の足が浮き、その身体が中空に押し上げられる。まさにそれこそ、コングオルフェノクの狙いであった。

 低空からの左拳に続くは、上方から打ち下ろす右拳。地に足がつかない体勢の雀蜂には、それを躱す事も、防ぐ事も叶わない。巨拳が雀蜂の胸へと叩きこまれ、そのまま床へと身体を叩きつけた。
 雀蜂の背中を中心として、床面がクレーターの如く陥没する。みしりと厭な音がどこかから聞こえた。常人なら身体が真っ二つに千切れてもおかしくない。オルフェノクである雀蜂はさすがにそこまでの惨状には至らないものの、しかし胸骨、その下の肺腑と心臓に致命的なダメージを負ったと見て間違いあるまい。
 最初の左拳で敵の体勢を崩し、続く右拳で地に押し潰す。コングオルフェノクの最も得意とする必殺の連撃。これまでに数多のオルフェノクを屠ってきたその連撃が、今もまた敵を仕留めたと、彼は疑っていない。――だからこそ、次の瞬間に起こった事態に、すぐさま対応は出来なかった。

〖!〗

 ゆるりと持ち上がる、雀蜂の左腕――その前腕が奇妙に蠕動し、筒状の器官がせり上がってくる。
 それが銃身であると気付くよりも更に早く、筒の先端に開いた孔から飛針が放たれた。突撃銃のフルオート射撃にも匹敵する速度で浴びせかけられた飛針を、当然ながら、コングオルフェノクは躱せない。
 コングオルフェノクの強固な外殻を薄紙の如くに貫いて、ざくざくと飛針が突き刺さる。咄嗟に急所を庇うものの、それによって彼が怯んだのは紛れもない事実。時間にして一秒に満たないその隙が、しかし雀蜂にとっては充分過ぎるだけの好機であった。

〖く――ぅおっ!〗

 身を捻る様な、身体に相当の負担を強いる回避運動。それをコングオルフェノクが強いられたのは、そうでなければ死に至る、殺されるという予感……否、確信が故だ。突き出された雀蜂の右拳、拳を覆う装甲から伸びる衝角が背後の壁面に突き刺さった瞬間、その確信は間違いではないと知れた。

 しかしコングオルフェノクにとっての驚きは、むしろ回避運動を成功させた後にあった。
 床を掌で叩き、その反動を利用してその場を離れる。その様はゴリラと言うよりは樹上で生活する霊長類――日本猿やオランウータンのそれを思わせた。長い両腕を振り回すように旋転しつつ距離を取り、間合いがおよそ十メートル弱離れたところで、コングオルフェノクが動きを止める。

 そして瞠目。雀蜂の一撃が穿たれた壁面、ずるりと衝角が引き抜かれた後に残る痕跡。それはまるで銃痕のような、真円形の孔だった。あれだけの威力で殴りつけて、壁は砕ける事なく、罅割れる事すらなく、ただ孔だけを穿たれている。どれだけ威力を収束すれば、こんな痕跡が出来上がるというのか。
 先に雀蜂の姿を視認した時とはまた質の違う戦慄が、彼の総身を走った。
 雀蜂――ホーネットオルフェノクの持つ“毒針”。蜂という生物の切り札を体現するそれは、致死毒という要素を差し引いたところで、尚充分過ぎる脅威。そんなもので身を穿たれれば、例えオルフェノクであろうと無事では済むまい。

〖……ふ、ふふ。成程。“一撃必殺”、という訳か……つくづく侮れんな、少年〗

 未だ腕や胸、脚に突き刺さったままの飛針を引き抜いて、コングオルフェノクが身構える。それに反応したか、ホーネットオルフェノクもまた、コングオルフェノクへと向き直った。
 十メートル弱の間合いも、雀蜂にしてみれば無いも同然だ。踏み込みの速度がどれほどのものかは未だ定かではないものの、瞬きにも満たない一瞬で詰め寄られるであろう事は容易に想像出来る。
 なればこそ、コングオルフェノクに、それを迎え撃つという選択肢はなかった。

〖ああまったく侮れない――侮れないからこそ、小細工を弄させてもらうぞ、少年〗

 コングオルフェノクが腕を掲げる。そこに現出するのは、オルフェノクが己の戦意を形として為した武器。大剣であったり鞭であったり騎兵槍であったりとオルフェノクごとに千差万別、そしてコングオルフェノクが作り出したのは大型の筒――形状としては無反動砲のそれに近い。
 その砲口が床へと向けられると同時に、砲弾が撃ち出される。床面に激突して炸裂するそれは、しかし予想に反して然程の爆発を起こす事はなく、ただ黒煙だけを撒き散らす。それが敵の目を晦ます意図であるのは明白であり、そして黒煙が吹き散らされるよりも早く、コングオルフェノクはその場から逃れていた。





◆      ◆







 ミッドチルダ総合医療センターの建物内に居る人間達が、『灰色の怪物』による突然の襲撃でパニックに陥っているであろう事は、エリオ・モンディアルにとっても充分に予想の範囲内であった。
 最前線でガジェットと戦うのが機動六課フォワード陣、ガードウィングとしての彼の職務である。民間人の避難誘導任務に従事した経験は少ないものの、しかしそれは機動六課の一員としてであって、管理局に入局する際に受けた諸々の研修には、避難誘導の心得も充分に含まれていた。
 故に、医療センターの屋上へと飛び降りるエリオの胸に不安は無く、ただ背後で『灰色の怪物』と戦うスターズ分隊への心配だけがあったのだが、それも今は考える事ではないと、目の前の光景だけに――自分がやるべき事だけに意識を集中させる。

「行こう!」
「うん!」

 エリオとキャロが降りると同時にフリードの竜魂召喚が解かれ、飛竜が常時のサイズに戻る。翼長十メートルを超える形態のままでは施設内に入れない。火力という面ではやや不安が残るものの、それはこの際止むを得ない事。
 予想に反して、医療センター内の混乱はそれほど大きなものではなかった。
 医師や看護師達が右往左往しているものの、それは混乱によるものではなく、患者達の避難を行う為。この非常事態において、職員達は冷静でこそなかったものの――その表情から、彼等もまたこの事態に困惑していると窺える――行動そのものは全く適切だった。

「あ、貴方達――!」
「管理局です! 避難状況はどうなっていますか!?」

 通路の先、曲がり角から現れた看護師が、エリオとキャロの姿を見咎める。二人を入院患者と勘違いしたか、声をかけようと口を開くが、それに先んじてエリオが声を張り上げた。
 どう見てもローティーンの子供が管理局員を名乗った事が、予想外の驚きだったらしい。こんな状況下にも関わらず、看護師が間の抜けた顔を晒すのだが、しかしそれに頓着せず、エリオは看護師へと駆け寄りながら「避難状況は!?」と繰り返した。

「だ、大体終わっています。今は中に残された患者さんが居ないか見回ってて――」

 そこまで聞けば充分だった。エリオが振り向いた瞬間には、既にキャロはエリアサーチを開始している。高町なのは直伝の観測魔法が、総合医療センターをその隅々までキャロ・ル・ルシエの知覚の下に置く。
 目を閉じ、複数のサーチャーから送られてくる視覚情報を脳内で並列処理しているキャロだったが、やがて不意に瞼を開くと、「四階――」と呟いた。

「四階に子供が一人、残されてる……!」
「四階――最上階か!」

 今、エリオ達が居るのは二階だ。ナースステーションが二階にあると事前に知らされていたから、まっすぐ階段を駆け下りて二階を目指したが――それが故に、取り残された患者の横を素通りしていたという事実に、少しばかりの歯痒さも覚える。
 しかしそれに拘泥していても仕方がない。今から向かえばそれで済む話だ。スターズ分隊とギンガが『灰色の怪物』を引き付けている間に救出しなければならないが、しかしスターズの中になのはが居る以上“引き付ける”程度では済まないだろうし、そう考えればさして余裕が無い訳でもない。無論、楽観出来る状況にないのは確かだが。

「キャロ、他に逃げ遅れた患者さんは!?」

 エリオの質問に、キャロは数秒沈黙を置いた後、小さく首を横に振った。建物内に残されているのはその子供一人。職員達の避難誘導は充分に適切だった、という事だろう。
 良し、とエリオは頷いて、おろおろと落ち着かなく身体を揺すっている看護師の方へと向き直る。
 逃げ遅れた患者は僕達が連れて行きます、貴方は避難した患者を一箇所に集めるよう、責任者の方に伝えてください――エリオの指示はやや早口で、少々聞き取り辛いものであったのだが、それでも伝わったらしい。看護師はこくこくと何度も頷くと、脱兎の如くその場から駆け出していった。

「――!?」
「! どうしたの、キャロ?」

 ついさっき下ってきたばかりの非常階段へと戻り、鉄扉のノブに手をかけたところで、キャロが不意にその表情を強張らせる。
 それを目聡く見咎めたエリオが問い質すと、キャロは即座に反応を――その表情に焦燥を滲ませ、眼差しに怯えにも似た感情を含ませて――返した。

「エリオくん――大変、敵が居る……!」
「敵……!?」

 この場における“敵”とは何か。数ヶ月前ならば、それはガジェット、或いは戦闘機人という認識で良かっただろう。レリック事件専任である機動六課にとって、それらが主たる敵であり、障害であったのだから。
 ならば今は。今、この場において、エリオ達の敵と呼べる存在とは。
 言うまでも無い。『灰色の怪物』――ミッドチルダを騒がす異形の存在。そして今、この総合医療センターを混乱の只中に陥れた襲撃者。キャロは思わず、意識しないままに“敵”という表現を使ってしまったのだろうが、しかしそれは何よりも適切であった。
 恐らくはスターズ分隊が引き付けているものとは別の個体が、四階に取り残された子供に近づいている――

「急ごう、キャロ!」
「うん、エリオくん!」





◆      ◆







 少なくとも、その時の結城衛司には、冷静とは言わないまでも充分な思考力が残されていた。
 脳内に響き渡る殺意と憎悪の混声合唱とはまったく別の位置で、彼は目の前の現実を認識し、それに対応している。極言を恐れずに言うのなら、彼にとっての殺意と憎悪とは、その行動に方向性を持たせる事にしか作用していないのだ。
 斃さなければならない。殺さなければならない。だがそれはあくまで結果に過ぎない。斃せれば良いし、殺せれば良い。だからこそ、コングオルフェノクの逃走を許した現状であっても彼に焦りの感情はなく、ただ淡々と追撃の態勢へと移行するだけの事だった。

 前へと向けて踏み出せば、僅か数歩で黒煙の立ち込める範囲から脱する事が出来た。フロアを丸ごと覆うほどの目晦ましではなかったらしい。そもそも、こういった使い方こそがイレギュラーなのだろう。
 オルフェノクが精製する武器は、彼等の闘争本能を具現化したものであり、つまるところ『人を殺す事』を主目的として生み出されるものだ。逃走や撹乱に転用出来るほどの汎用性は無い……コングオルフェノクの作り出した“無反動砲”は、その例外らしいが。

 身体に付着した煤を払い、コングオルフェノクが逃げて行った方へと視線を向ける。既に視界の中に敵の姿はない。戦術的撤退であろうが、ああも一目散に逃げ出したのだ、それも当然。小細工を弄するとわざわざ宣言したのだから、何がしかの策を以って、雀蜂の死角から襲いかかってくる事だろう。
 だがそれに一々付き合う程、雀蜂は暢気でもなければ、寛容でもない。

〖………………〗

 視覚情報を一時的に意識から切り離す。眼球機構が昆虫の複眼と同様のものであり、瞼を持たない雀蜂には、『目を閉じる』という挙動が叶わない。故に視覚をマニュアルで意識から切り離すしかないのだが、それによって得られる効果は、人間が目を閉じた時とは比べ物にならない。
 五感の一つを自ら断つ事で、残る四感を鋭敏に研ぎ澄ます――漫画などではお馴染みの技法であるが、無論常人が一朝一夕に出来る事ではない。しかし人外の異形たる雀蜂がこれを行った場合、その知覚は充分に、遮断された感覚を補って余りある。
 聴覚と触覚、そして嗅覚。僅かな空気の流れに乗って運ばれてくる気配を、それらの感覚が察知する。

 ――居る。このフロアに一人、何かが、誰かが。
 踏み出した一歩目はごく凡庸な足捌き。だが二歩目の時点で、既に雀蜂は疾風と化していた。音すらなく影すら残さぬその疾走は、威嚇的な羽音を立てて飛び回る雀蜂らしからぬものだっただろう。それ故に、忍び寄る雀蜂の気配に、“獲物”は雀蜂の姿を視認するぎりぎりまで気付かなかった。

「……ひっ……!?」

 子供――だった。
 まだ三歳か四歳くらいの、小さな男の子。入院着姿であるところを見ると、総合医療センターに入院している患者であると見て間違いあるまい。
 突如として現れた雀蜂に――少なくとも、この男児にしてみれば雀蜂の出現は本当に唐突だっただろう――しゃっくりのような、一種可愛らしさすら含んだ悲鳴を漏らして、男児がその場にへたり込む。恐怖に身体を縛り上げられ、身動きを忘れ去ったその様は、さながら蛇に睨まれた蛙。相手が蛇では無く雀蜂というところが、諺とは異なっていたが。

 正直、彼にしてみればどうでも良い相手だ。殺すにも値しない対象である。これが普通のオルフェノクなら、小さな子供であろうと年老いた老人であろうと、その本懐に従い使徒再生の餌食としていただろうが――進化種の中でも異端たるホーネットオルフェノクは、オルフェノクとしての在り方に縛られない。
 雀蜂は目の前の男児を路傍の石ころ程度にしか見ておらず、そしてそれが己が踏み出す足の位置に重ならないと知れば、蹴飛ばす理由もない。まして視界の範囲内にコングオルフェノクの姿がないとなれば、男児に近づく必要すらなかった。
 しかし。

〖………………〗

 踵を返そうとしたその足が、止まる。
 思考にノイズが走る。殺意と憎悪が炙るように意識を侵食する。
 誰に対する殺意なのか。何に対する憎悪なのか。最も肝心なその点が蜃気楼のようにぼやけて、霞んで、酷く曖昧。それを向けるべき相手を見失った今、“誰”と“何”を区別する事に、何の意味があるだろう?

 何故見逃す。何故殺さぬ。頭の中で誰かがそう叫ぶ。喚き立てるその声は秒刻みにその音量を増していく。それは恐らく、雀蜂の獰猛な攻撃性が声というカタチを取ったもの。
 傷付ける必要はない。危害を加える意味はない。雀蜂としての本能にヒトとしての理性が抗うも、結城衛司の本質が既にヒトならぬ蜂であるのだから……人間ならぬオルフェノクであるのだから、その抵抗は決して実を結ばない。

 刺し貫けば良い殴り潰せば良い引き千切れば良い否それは出来ぬ抉り取れば良い引き裂けば良い打ち砕けば良い駄目だそれは出来ない毟り取れば良い剥ぎ取れば良い殺してしまえば良い否々それをしてしまえば最早人間じゃない殺すのが良い殺さなければならない殺したいあの目を潰しあの舌を引き抜き殺したい殺したいあの鼻を削ぎあの耳を千切り殺したい殺したい殺したいあの腕をもぎあの脚を落とし殺したい殺したい殺したい殺したいあの内臓を引き摺りだしてあの脳髄を掴み出して殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい――



 ――あの時のあいつら・・・・・・・・のように、殺してやりたい。



〖…………、…………〗

 いつの間にか、雀蜂の手には凶器が握られていた。傘状の鍔がついた、細長い円錐。ホーネットオルフェノクが作り出す武器、刺し貫く事に特化した騎兵槍。その切っ先が向かう先にあるのは、恐怖に震える男児の心臓。
 風を裂いて繰り出される一撃は、酷く凡庸な一突きでありながら、その実、蟻を潰すのに核を持ち出す行為に等しい。
 ――しかし幸か不幸か、槍の切っ先が標的を、男児の心臓を抉る事はなく。

「はああああああっ!」 
〖!〗

 火花が散る。
 瞬間の反応で雀蜂は槍を横薙ぎに振り、一帯に響く裂帛よりも尚速く、目にも止まらぬ程の高速で迫ってきた一撃を払った。飛び散る火花に刹那先んじて、甲高い金属音が周囲に響く。
 無為な殺戮を止めたのは一人の少年。身の丈にも匹敵する長さの槍を構えた、赤い髪の少年だった。
 
〖…………?〗
 
 男児を庇うように雀蜂の前に立つ、赤髪の少年。そしてその後ろから駆け寄ってくる、桃色の髪の少女。その二人の姿に――正確には、少女の傍らに飛んでいる竜も含めて、二人と一匹に――見覚えがあると感じたのは、果たして気のせいであっただろうか。
 否。それは錯覚ではない。確かに以前、雀蜂はこの少年と少女に相対している。銑鉄の如き灼熱を保ったまま、意識が記憶を紐解いて、眼前の光景と照らし合わせる。

 程無く、当該する記憶が、雀蜂の脳裏に甦った。あの日――謎の女の言葉に導かれ、クラナガンの街へと連れ出されたあの日。野牛と殺し合いを演じたその直後、自己嫌悪に塗れて立ち尽くす雀蜂の前に現れた、四人の少年少女達。その中に、この赤髪の少年と、桃色の髪の少女が居た事を、雀蜂ははっきりと思い出す。
 そしてそれは同時に、少年と少女から“何をされたのか”をも、鮮明に思い出させる結果となった。

〖…………は、はは〗

 ぞくりと寒気にも似た何かが、全身を電流の如くに駆け巡る。
 ああ敵だ。これは敵だ。雀蜂が殺しても良い、ホーネットオルフェノクが殺しても良い、結城衛司が殺してもまったく構わない――敵だ。
 胸の奥から湧き上がってくるこの衝動を、歓喜以外のどんな言葉で表せようか。

「キャロ! その子を連れて、下がって! ……僕が、時間を稼ぐ!」
「う……うん! 気を付けて、エリオくん!」

 男児を連れてその場を離れる少女を横目で一瞥して、赤髪の少年が槍を構える。その切っ先に戦意を乗せて、この場は断固通さんという意思を全身で表して。
 対する雀蜂も槍を構える。奇しくもそれは槍対槍。突撃槍対騎兵槍。若き騎士と、人外の異形が、同種の得物をそれぞれ構えて相対する。

 あの時は抵抗しなかった。あの時はただ逃げるだけだった。人間を傷付けたくない、ヒトを殺したくないと、そんな下らない(・・・・)思考に囚われていたから、彼から手を出す事は最後まで一度たりとなかった。
 ならば、今は?
 問われるまでもない――今の雀蜂は一個の機巧。敵性存在を排除する為だけに駆動する装置。
 敵が人間であろうとオルフェノクであろうと、もう、どうでも良い。全てが些事で、取るに足らない事で、無視しても構わない雑多へと成り下がる。

 この殺意を叩き付けられるなら。
 この憎悪で踏み躙る事が出来るなら。
 相手が誰だろうと、知った事か――!
 


 ――『誰かを衛る事の出来る男に、なってほしいと』――



〖…………五月蝿いっ!〗

 いつか誰かが言った言葉を振り払うように一喝し、雀蜂が赤髪の少年へと飛びかかる。
 否。飛びかかる、というのは早過ぎる。飛びかかろうとした、と言うのが正確だろう。踏み出した一歩目はともかく、二歩目が床に触れるよりも前に、彼の前進は終了していたのだから。

 びきり――と、不吉な音が頭上から降ってくる。蜘蛛の巣が如くに天井に亀裂が穿たれたと、気付いた時には既に遅い。目の前の獲物にのみ意識を向けていたのが致命的な失敗。雀蜂とタイミングを合わせる様に前へ出ようとした赤髪の少年が、必死の制動で己の勢いにブレーキをかける。
 だが少年より遥かに高い初速を誇る雀蜂に、それは望むべくもなく。

 そうして次の瞬間、直下型の大地震もかくやという凄まじい振動が、ミッドチルダ総合医療センターを揺るがし――雀蜂の直上、亀裂の穿たれた天井がその衝撃に屈して、破滅的な音と共に瓦礫と化して崩落する。
 加速態勢に入っていた事。意識が目の前の少年に集中していた事。建物を揺るがす衝撃。それら全てが、雀蜂にとって悉く裏目となった。結果として雀蜂は降り注ぐ瓦礫を躱す事が出来ず、まったく無防備な体勢で、その被害を浴びる事となった。
 視界が瓦礫によって埋め尽くされる寸前、降って来るコンクリート塊の隙間に“灰色”のシルエットが見えたのは、果たして気のせいであっただろうか。





◆      ◆







 小細工を弄する。
 ホーネットオルフェノクの前から一時撤退する際に、コングオルフェノクが言い放った一言であるが――実際問題、それが一般的に小細工と呼べるかどうかに関しては、大多数の人間が首を傾げる事だろう。
 総合医療センターの屋上へと上がり、コンクリートが剥き出しの床面を力一杯殴りつけて、階下へと崩落した瓦礫によって敵を押し潰す。例え手練れの魔導師であろうとも、その質量を防ぎきれるだけの防御魔法を咄嗟に展開は出来まい。コングオルフェノクの言う“小細工”とは、つまりそういう事であった。

 問題は分厚いコンクリートに隔てられた上から敵の位置を把握しなければならない事だったが、雀蜂が無差別に撒き散らす殺意は、厚さにして三メートル近いコンクリートの壁面に隔てられて尚、コングオルフェノクの知覚を刺激してくる。一挙一動を把握出来る程に精確な探知ではないが、しかし対象が近づいていると……確実に天井の崩落に巻き込める範囲内に踏み込んだと知れる程度の確度はあった。

 両手の指を組んで拳を作り、身体構造の限界まで上体を逸らして、その拳を振り下ろす。
 ただ一撃で床面には下階の天井にまで届くであろう亀裂が穿たれ、一秒と保たずに崩落が開始された。完全に足場が崩れ落ちるその前にコングオルフェノクは後方へと飛び退き、己の武器たる無反動砲を作り出して、その砲口を崩落によって出来上がった“孔”へと向けて、狙いを定める。
 
〖悪く思うなよ、少年!〗

 引鉄にかかる指に――実際のところ、オルフェノクの武器である以上、『引鉄を引く』というアクションにさしたる意味も無いのだが――力が篭もる。
 だが引鉄の角度がいよいよ砲弾の激発にまで到達する直前、彼の視界に不思議なものが映りこんだ。

〖!?〗

 総合医療センターの中庭で、空色と紫色の光帯が螺旋を描き、光柱となって天へと伸びる。それが一体何なのかコングオルフェノクが悟るよりも先に、円柱が空気を送り込まれた風船の様に膨れ上がる。次瞬、光帯で編まれた円柱が内側から吹き飛んで、そこに桜色の光柱が屹立した。
 その光の基点に一人の女の姿を見定めて、一つ、コングオルフェノクが舌打ちを漏らす。

〖ロイめ……やられたのか〗

 あの女は確か、管理局の中でもトップクラスの実力と言われる魔導師――『不屈のエース・オブ・エース』、高町なのは。
 先の『JS事件』を解決に導いた立役者の一人。コングオルフェノクもその顔は雑誌やTVなどで見知っていた。彼女の知名度が美貌だけではなく、その高い実力に裏打ちされたものである事も、当然、彼は知っていた。

 ジャガーオルフェノクことロイ・ボルツォイクの実力をコングオルフェノクは良く知っている。幾度となく己と組んで、数多の敵を狩ってきた彼の手練を、充分以上に知悉している。凡百の魔導師相手に後れを取る事はまずないと理解しているが、しかしだからこそ、あの高町なのはを相手取って尚勝利を収められる程の猛者ではないとも理解している。
 彼方に屹立する光柱を眺めていたのも僅かに数秒。すぐに彼は意識を切り替え、再度無反動砲の引鉄にかかった指に力を篭める。ジャガーオルフェノクが倒されたとなれば、一刻も早く雀蜂を仕留めて、この場を離れるのが最上であろう。

 だが数秒のタイムラグは、コングオルフェノクの目算を致命的なまでに狂わせていた。
 火山の噴火口の如くもうもうと粉塵を噴き上げる“孔”から、何かが飛び出してくる。ロケットの如き勢いで粉塵を振り払い勇躍するそれは、管理局の魔導師――いや、得物を見る限り、騎士と言うべきか――と思しき赤い髪の少年だった。
 雀蜂と違い、彼は崩落に巻き込まれなかったらしい。何が起こったのか判らないまま、とにかく屋上に何かがあると踏んで飛び出してきたのだろう。そうして屋上に異形の姿を視認した少年の表情は、困惑と驚愕の入り混じった、混沌としたものとなっている。

 それでも、何を為すべきかは一瞬の内に悟ったらしい。少年が槍の穂先を眼下のコングオルフェノクへと向け、槍の各所から魔力光を噴射し、その推進力を速度へと変換して、流星の如く突貫する。コングオルフェノクはその一撃を受け流すものの、結果としてそれは、雀蜂に止めを刺す機会を永遠に失う事となった。
 床面を滑るようにして、その摩擦で速度を殺しながら少年は反転、再び槍の穂先をコングオルフェノクへと向けて構えた。その一連の挙動が、相当の訓練を積み相応の実戦を潜り抜けてきたと告げている。

「――こちらは時空管理局です! 建造物破壊及び威力業務妨害の現行犯として、貴方を逮捕します! 抵抗を止め、こちらの指示に従ってください!」

 少年がそう言い放つも、無論、コングオルフェノクに従うつもりなど欠片もない。むしろそんな事を一々宣言する少年に、侮蔑の視線すら向けていた。
 相手に投降の意思が無いと悟ったのだろう、少年の四肢に力が篭もるのが見て取れる。元よりこの事態を予想していたと見えて、戦闘態勢への移行は極めて迅速だった。
 
「ストラーダ!」
【Jawohl――Explosion.】

 踏み出した一歩が床面を踏み砕く。同時にカートリッジを二発ロード、槍の先端に高密度の魔力光で編まれた刃が現出する。
 排出された薬莢が床に落ちて奏でる、涼やかな音。それを一瞬に追い越して、少年の身体が疾風と化す。

「一閃――必中!」
【Messerangriff.】

 少年の突撃は明らかにコングオルフェノクの反応速度を凌駕していた。こと直線軌道の突撃においては、その若年とは裏腹に、少年は既にスペシャリストである。にも関わらずコングオルフェノクの防御が間に合ったのは、ひとえに彼が積み重ねてきた戦闘経験によるものだった。

 コングオルフェノクの掌が槍の穂先を阻む。魔力刃の切っ先は怪物の皮膚を貫くに至らず、また魔力刃に付与された電撃も、周囲の空間に火花を散らすのみで目に見える効果は得られていない。しかしその勢いまでは殺しきれなかった、少年と槍の質量に槍からの噴射による加速を重ね合わせた突撃の威力は、コングオルフェノクの身体を後方へと押し出していく。
 床の崩落によって生じた“孔”の縁にまで押し出され、もう後が無くなったところで、漸く怪物の身体が停止する。少年の槍からは未だ魔力光が噴射されており、突撃の威力そのものは些かも衰えてはいない。非常に危ういバランスで成り立つ拮抗状態、膠着状態であった。
 必然、そんな均衡がいつまでも保つはずもなく。
 
〖ぬぅう……ふんはぁっ!〗

 咆哮と共に、コングオルフェノクが穂先を受け止める掌を握り込んだ。魔力刃が粉々に砕け散り、その衝撃に少年が体勢を崩す。格好の隙をコングオルフェノクは見逃さず、ぶんと横薙ぎに振った無反動砲の砲身が少年を殴り飛ばした。咄嗟に槍の柄で防御したものの、少年の腕力で防ぎきれる威力ではない。その矮躯は軽々と宙を舞い、屋上の床面に叩き付けられる。
 そして追撃。無反動砲の砲口が倒れこんだ少年へと向けられる。少年と怪物の距離は回避行動を取るには足りず、怪物の放つ砲弾は少年の防御魔法など有って無きが如くに粉砕するだろう。故にこれは王手。詰んでいる、と少年は未だ気付いていないが、その理解よりも早く、少年は木っ端微塵となる。
 未来は最早確定されたに等しく、それを現実と為す為、コングオルフェノクが無反動砲の引鉄を――



 ばづん



 ――引くよりも早く、妙にくぐもった音が、コングオルフェノクの耳朶を打った。
 その音が奇妙だったのは、空気の振動として鼓膜を叩く音とはまた別に、音が身体の内側に谺したような感覚が付随したからだ。
 音の正体に気付くまで、コングオルフェノクは少しばかりの時間を必要とした。意識が少年の排除へと向いていたのも、要する時間を長引かせた。
 認識が理解に至るまでにかかった時間、およそ四秒。愚鈍と言われても仕方が無いだけの時間をかけて、漸く彼は己に何が起こったのかを理解する。



 コングオルフェノクの左腕が、消失していた。



〖あ……あぁっ!? あぁあっ!?〗

 無反動砲を構えていたのは右腕だ。人間が無反動砲、或いはそれに近い対物火器を使用する際は、長い砲身を右の肩に乗せ、左腕で保持する形になる。しかしオルフェノクの膂力であれば、それを片手のみで行う事も難しくは無く、現にコングオルフェノクはそうして無反動砲を扱っていた――だからこそ、使わない左腕が消え失せた事に気付くのが、遅れた。
 左腕は肩から、つまり腕の付け根から消え失せている。断面から赤黒い体液が噴出し、床面を濡らしていく。その荒々しい切り口を見れば、左腕は切り落とされたのではなく、力任せにもぎ取られたのだと判るだろうが、今の彼に、それに気付く余裕があろうはずもない。

 故に、それ以外の異変にも、彼は気付かなかった。彼のすぐ背後、先に彼の一撃によって崩落した床の“孔”。つい数秒前までそこから薄く立ち昇っていた粉塵が、今は完全に消え失せて、階下を覗き込む事が出来るまでに晴れている。
 粉塵の只中を“何か”が超高速で飛び去っていったが為に、生じた衝撃波が粉塵を吹き散らした――説明すればそんなところだろうが、無論それを説明してくれる者はこの場になく、説明してもらったところで、今の彼にはそれを理解するだけの余裕は無かっただろう。

〖う……ぐ、ぐぅうっ……!〗

 大量出血によって明滅する視界。意識もまた断線を繰り返して連続しない。そんな中で彼が空を見上げたのは、恐らく野生の本能に近い勘によるものか。
 ミッドチルダ総合医療センター屋上から、十メートルほど高い位置。踏み締める足場など何一つ無い中空。抜けるような青空と、千切れ飛ぶ薄い雲、燦々と降り注ぐ陽光を背にして佇む、一体の異形。

 吊り上がった複眼。大鋏を思わせる顎。額から伸びる触角。甲冑の如き灰色の外殻。それらの全てが異形に“蜂”の印象を与えている。だがつい先程目にした時と比べて、そこには一つ、大きな差異があった。
 背から伸びる、二対四枚の翅。鳥類が持つ羽では無い、虫が空を飛ぶ為の器官としての、翅。それが雀蜂を中空に佇立せしめている。
 元より雀蜂は空を舞う昆虫。霊長類のように、地べたを這って生きるモノでは無い。だからこそそれは――飛翔態と呼ばれるその姿は、ホーネットオルフェノクにとってごく自然な姿であり、本来在るべき姿と言えた。
 
〖き、貴様……っ!〗

 雀蜂の手からぶら下がっているのは、もぎ取られたコングオルフェノクの左腕。恐らくは空へと飛翔する際、すれ違った一瞬に、コングオルフェノクの腕をもぎ取っていったのだろう。
 それをあっさりと放り捨て、ゆるりと雀蜂が身体を傾けた。重力に引かれ落下する雀蜂だったが、床面すれすれで一回転すると、ふわりと床面すれすれで浮遊する。
 生理的嫌悪感を催す、威嚇的な羽音。片方の腕を奪われた事で耳を塞ぐ事も出来ないコングオルフェノクには、その音から逃れる術は無い。
 総身の神経を鑢で削る様な羽音は、しかし唐突に断絶する。それと雀蜂の姿が掻き消えたのは――雀蜂がコングオルフェノクへと突撃態勢に入ったのは――果たしてどちらが速かったか。

<ぬ――ぅあああっ!>

 遂に放たれる無反動砲の砲弾、だが雀蜂は軽く身体を傾けるだけでそれを回避する。戦闘機で言うバレルロールの機動。床面を這うような低空に螺旋を描きながら、ホーネットオルフェノクがコングオルフェノクとの距離を詰める。
 彼我の距離は一瞬にして零と化し、気付いた時には既に、雀蜂は敵の懐へと入り込んでいた。

 だがその位置はコングオルフェノクの間合いである。無反動砲が反転し、先に赤髪の少年を殴りつけたように、即席の打撃兵器となって雀蜂を襲う。
 しかしそれが雀蜂の頭蓋を叩き砕く前に、ぶぅんと一つ羽音を残して、雀蜂は敵の間合いを脱していた。
 接近が一瞬ならば、離脱もまた一瞬。瞬きほどの刹那に距離を取った雀蜂は、その距離を保ったまま、円を描くようにコングオルフェノクの周囲を旋回する。
 しかし如何なる攻撃にしろ、最終的には敵が自分へと突っ込んでくるであろう事は、コングオルフェノクにも容易に予想出来た。

 雀蜂の飛針では、コングオルフェノクの防御を抜く事は出来ないと既に証明されている。至近距離から浴びせかけて仕留める事が出来なかったのだから、残る攻撃手段は接近しての一撃、恐らくは右拳の衝角しかあるまい。
 だからこそ、雀蜂が再び標的へと向けて突撃を開始する瞬間を、コングオルフェノクは捉える事が出来た。
 無反動砲が再度反転、ぐるりと一回転して、再びその砲口が向く先を雀蜂に据える。本来の無反動砲は一発限りの使い捨てであるが、オルフェノクが作り出す武器である以上、その辺りの欠点はいいように無視されている。つまるところ“無反動砲”というのは、形状が似ているからそう呼んでいるに過ぎない。

〖っ!〗

 しかしそこで、コングオルフェノクは己が致命的な失敗を犯した事を悟った。
 彼が無反動砲を構えるのとほぼ同時に、雀蜂もまた、左掌をコングオルフェノクへと翳している。雀蜂の持つ飛び道具、飛針を撃ち出す左腕。彼がそれに気付いた時には既に、彼の指は引鉄を引いており、そしてそれに僅かに先んじて、雀蜂もまた飛針を撃ち放つ。
 そう、雀蜂に接近の意図などなかった。雀蜂が狙っていたのは、無反動砲の砲口が己へと向く瞬間。飛針の弾道上に砲口が据えられる、その瞬間だったのだ。
 そうして雀蜂の狙い通り、飛針は無反動砲の砲口へと飛び込み、今にも射出されんと砲身内で加速していた砲弾を貫いて――

〖しまっ……!〗

 ――爆発する。





◆      ◆







 炎と煙が、ミッドチルダ総合医療センターの屋上で爆華と咲いた。
 爆発の中に消えたコングオルフェノクの最期を見届ける事なく、ホーネットオルフェノクは踵を返す。敵を排除した感慨など欠片もない。数日前、野牛を殺した後に襲ってきた虚脱感も、今はまったく皆無だった。
 脳髄を蝕む殺意と憎悪はまるで衰える事なく、次の敵を、次の獲物をと猛っている。一度外敵と認識すれば、それを鏖殺するまで止まらない。雀蜂という昆虫に特有の獰猛な攻撃性だけが、今の彼を突き動かしている。“人間”と“それ以外”の区別を付ける理性など、最早望むべくもない。

 そして雀蜂の複眼が、その視界の端、屋上から見下ろした地上に、新たなる敵の姿を捉える。
 角度的に向こうから此方への視線は通っていないのか、雀蜂の姿に気付いてはいないようだ。どうやらこちらも今し方一戦を終えたところらしく、微妙に脱力しているのが、この距離からでも見て取れた。
 たん、と雀蜂が床面を蹴る。羽音を撒き散らして飛翔する彼の手には既に騎兵槍が握られていた。標的の心臓を抉るべくして精製されたその凶器を握る手に力が篭もる。さあ、まず誰から血祭りに上げてくれようか――

「ま――待てっ!」

 眼下から聞こえる声――槍を杖代わりに支えとして立ち上がった、赤髪の少年の声――も、雀蜂の耳には届かない。主敵たるコングオルフェノクに意識を集中させていた雀蜂は、そもそも屋上にもう一人、赤髪の少年が居た事にすら気付いていなかった。最上階で天井の崩落に巻き込まれた時点で、彼は赤髪の少年の存在を綺麗さっぱり忘却していたのである。
 尤も、赤髪の少年にとっては、そちらの方が良かっただろう。もしその声に雀蜂が反応していれば、彼の命運はここで尽きていたのだから。酷くちっぽけでささやかな幸運ではあったが、それに命を救われていた事実に、しかし少年は気付いていない。雀蜂も、気付かない。

 双方がそれぞれ微妙に違った形で錯誤を抱いたまま、更に状況が動き出す。雀蜂の複眼が地上に居る人間達の姿を捉える。少女が四人――うち三人に奇妙な既視感を覚えるのとほぼ同時に、彼女達の背後に引っ繰り返っていた灰色のシルエットがむくりと起き上がったのが見て取れた。
 雀蜂が瞠目――無論、オルフェノクの肉体反応としてではなく、比喩表現としてだ――する。その姿はつい先程、己を存分に嬲ってくれた猛獣のもの。そうであると認識すれば、思考に先んじて雀蜂の身体は行動へと移行する。
 ぐぅうっ、と身体を目一杯後方へと反らし、その反動反発を利用して、ぶんと騎兵槍を投げつける。渾身の力で投擲された槍は落雷の如き速度によって、少女達の中の一人に飛びかかった猛獣を上空から刺し貫いた。
 哀れ串刺しとなった猛獣、ジャガーオルフェノクが、蒼い炎に包まれて灰と化す。恐らく灰となったその瞬間まで、いやそれより後も、猛獣は己の身に何が起こったのか理解してはいなかっただろう。

 ゆっくりと雀蜂が高度を下げ、静かに地へと降り立つ。猛獣と同様に状況が呑み込めないまま、しかしそれでも雀蜂を脅威と悟った少女達が、その顔に困惑を貼り付けたまま雀蜂に対して得物を構える。
 複眼によって得られる広範囲の視界の端に少女達の姿を収めた雀蜂だったが、そこで遂に、彼は女性達を見た時に覚えた既視感の正体を悟った。つい先刻、医療センターの中で赤髪の少年と桃髪の少女を見た時と同じ。あの日、己を追い回し殺そうとした連中であると、彼は気付いたのだ。
 そして気付いてしまった以上、最早雀蜂に躊躇う事など何一つ無かった。

〖                                ッ!!

 撃鉄が落ちる。
 歯車が噛み合う。

 めきめきべきべきと響く厭な音は、雀蜂の身体が変貌していく音であると共に、その意識にほんの僅か残されていた“人間”が圧し潰されていく音。
 現出するのはオルフェノクという存在の一つの究極――激情態。
 変貌したホーネットオルフェノクが、騎兵槍を構えて少女達に相対する。沈黙は僅かに数秒。その僅かな猶予は、雀蜂の発した殺意が大気を伝播して、少女達へと届くまでの時間でもあった。
 そして雀蜂が前へ出る。騎兵槍を振り翳し、六連装の銃身を唸らせ、毒に塗れた衝角を敵へと向けて。



 殺意と敵意と戦意と憎悪、それらの感情に濁りきった雀蜂の瞳に藍色の髪が映り込むも、それが彼の足を止める事はなく――





◆      ◆





第伍話/甲/了





◆      ◆







後書き:

 という訳で、第伍話甲でした。お付き合いありがとうございました。

 前回から妙に時間がかかってしまって申し訳無い限りです。本当はもう少し早く出来ていたのですが、投稿前に見直してみるとどうにも冒頭の部分が気に入らず、全面的に書き直した為に遅れてしまいました。
 で、恐らくは今回最大の問題点だろう冒頭部分。これ年齢制限描写がかかるかな、と、一応サブタイトルに『残酷描写? 有り』と入れてみたのですが、実際どうなんだろうと思ったり。て言うかこれで読者の何割かは離れていくんじゃないかとちょっと不安。
 性的描写ってのはガイドラインみたいなのがありますが、人体破壊描写(グロ描写)のラインってのが見る限り無い感じでして。拙作より温めなグロ描写でも十五禁って書いてある作品も多いんですが、どうなんでしょう、拙作もタイトルの方に十五禁って入れた方が良いですかね? 
 個人的にはこの程度なら必要無いかなー、とは思うんですが、結構私の感覚ってあてにならないので、皆様のご意見を窺いたいところです。

 まあそれはそれとして、今回、衛司がオルフェノクになったきっかけをちょっとだけ出してみました。何故あんな状況になったのかについてはまた今度ですが、とにかくああいう経験があったという事だけは提示しておこうと、ここでやってみた次第です。
 でもこういう辛い経験って、後々オリキャラのSEKKYOUの裏付けみたいになりがちなんですよね。その辛い経験があるからこそ、彼の言葉には説得力があるのだ! 的な。一歩間違えば盛大に地雷になる危険性が……ただでさえクロスオーバーの癖にオリ主っていう地雷要素があるのに。
 とりあえず、衛司が他のキャラ(原作キャラ、オリキャラ共に)に対してSEKKYOUするシチュエーションが今のところまったく無いので(SEKKYOUされるシチュならあるのですが)、大丈夫かな。………………大丈夫だよな?

 
 それでは次回で。宜しければ、またお付き合いください。





[7903] 第陸話/乙
Name: 透水◆4dfd011f ID:35af097c
Date: 2023/12/29 20:42
 八神はやてが機動六課において隊員達の福利厚生に気を使っているのと同様、スマートブレイン社社長、結城真樹菜もまた、社内の福利厚生については最大限の注意を払っている。
 福利厚生や労働環境というものが仕事の能率及び効率にどれだけ影響を与えるものか、一組織を預かる身である彼女は過たず理解していた。それ故か、スマートブレイン・ミッドチルダ本社はクラナガンに本拠を置く企業――その規模の大小に関わらず――の中でも飛び抜けて整った労働環境、噛み砕いて言えば“働き易い”職場となっている。
 こと、スマートブレイン本社内にある社員食堂は、味、量、値段とその全てにおいて非の打ちようが無いほどの評判を得ている。味に関して言えば下手な飲食店はおろか、一流ホテルのレストランと比較しても遜色無い。惜しむらくはそれが本当に『社員食堂』であり、社員証を持たない人間は割引どころか利用も出来ないという点であろう。

 にも関わらず、この日の真樹菜が社員食堂を利用していないのは、別に社の重役がヒラ社員と一緒に飯など食えるかなどという傲慢極まりない理由などでは勿論なく、ただ単純に、仕事に追われる彼女にはのんびり食堂に出向く余裕が無いというだけの事……つまり、純粋に時間的な問題からであった。
 デスク上のウィンドウに彼女の確認や決済が必要とされる書類を映し出し、左手でコンソールを操作しつつ右手で食事を口へと運ぶその様は、これだけ言えば確かにキャリアウーマンとして間違ってはいないのだろう。
 しかしそのメニューは文字通りの片手間に食べられるおにぎりやサンドイッチではなく、熱々の鍋焼きうどんである。結果、社長室に現出するのは、何ともコメントに困るシュールな光景だ。

「……いいじゃありませんの。好きなんだから」

 誰にともなく呟いた言葉は、言い訳以外の何物でもなく。
 猫舌の人間は可哀想ですわね、と呟きながら、器用にも鍋焼きうどんを啜る真樹菜。それを中断させたのは、無粋に――いや、仕事中なのだから別にそんな事もないだろう――鳴り響いた、携帯電話の着信メロディだった。
 一つため息をついて箸を置き、真樹菜は携帯電話を手に取った。無論その間にも、仕事を進める左手は休めない。
 もし仕事上の連絡であれば、いま展開しているウィンドウの隅にでも『メールを受信しました』と表示されるはずだ。しかし真樹菜の私物である携帯電話に連絡を寄越してくる事からして、それが仕事とは別件であるのは明白。公事と私事を同時に処理する事はままあるが、しかし決して私事を公事より優先させないのもまた、結城真樹菜という女だった。

「もしもし」
『あ、社長さんですかぁ?』

 およそ緊張感というものに欠けた、小さな子供に向けるような声音が、電話から聞こえてくる。その声の後ろに入り込んでいる雑音から、電話の相手が屋外に居ると知れた。
 液晶画面の表示で、電話の相手が誰なのかを真樹菜は知っている。また画面に表示されない、電話の相手が何処で何をしているのかについても、真樹菜は知っていた。彼女がそう指示したのだから、それは当然と言える。

「ああ、レディ。どうですの? あの子の様子は」
『そうそう、それなんですよー。びーっくりです、なんとエイジくん、激情態になっちゃいました!』
「………………へえ」

 予想外の一言に、真樹菜が相好を崩す。それは例えるなら、初詣の御神籤で『大吉』を引き当てた時のような反応と言えた。諸手を挙げて大喜びするような事ではないが、慮外の幸運に思わず顔が綻んでしまったと、そんな印象を与える微笑である。

「そう。そうですの、激情態に。それはそれは。それはそれはそれはそれは。あの雑魚どもがそこまでやってくれるとは――あは、嬉しい誤算ってやつですね」

 くすくすと、忍び笑いにも似た笑い声が漏れる。
 自分の送り込んだ刺客とは言え、真樹菜は彼等が標的の少年を殺せるとは全く思っていなかった。そも、彼女の狙いは“敵”を用意する事で少年を闘争状態に置き、生命の危機に追い込んで、オルフェノクとして更なる進化を遂げさせる事にあるのだから、少年をあっさりと殺せるだけの実力者では意味がない。
 だからこそ、“当て馬”は慎重に選んだ。あの日、『四葉飯店』に集めたオルフェノクは皆、おおよそ同程度の能力を持った者達。誰が名乗り出ても構わないように配慮しての人選だったが、前提として、現在の少年――ホーネットオルフェノクと対等程度の戦闘能力を持ったオルフェノクである事が求められる。
 故に、真樹菜の驚きは至極当然のものであった。オリジナルのオルフェノクが最大限にまで感情を昂ぶらせた時に発現する姿、激情態。まさかそれが発現するまでの状況にまで少年を追い込んでくれるとは、まさしく望外であった。
 しかしその後に続く報告が、真樹菜の悦びに水を差す。

『けれどぉ。ちょーっと困った事になってるんですよー。ロイさんもベルガンさんもやられちゃって、エイジくん、六課の魔導師さんと戦ってるんです』
「六課? ……古代遺物管理部、機動六課の事ですの?」
『はーい、それでーす。なんとびっくり、隊長さんまでいらっしゃいますよう』

 微笑が一転、苦虫を噛み潰したかの様な顔へと入れ替わる。
 真樹菜の目的の為には、少年と魔導師との戦闘は、相手が誰であれ避けなければならない。より厳密に言うのなら、少年が魔導師を敵だと認識する(・・・・)事さえ望ましくないのだ。今の状況が望ましいはずもない。

 しかも相手は機動六課。かの『JS事件』を解決に導いた、現在のミッドチルダで最強を謳われる部隊だ。
 幾ら激情態を発現させた雀蜂とは言え、戦闘経験などほぼ皆無に等しい――つい数日前まで平和な世界に暮らす平凡な一民間人であったのだから、それは当然であるのだが――それでも相手が凡百の魔導師なら鎧袖一触に蹴散らせるだろう。雀蜂にそれだけの戦力がある事は既に自明。だが相手が百戦錬磨の機動六課となれば、その経験の差が大きく圧し掛かってくる事もまた、想像に難くない。

「……レディ。そこに、“あの人”はいらっしゃいます?」
『え? あ、はーい。一緒でーす。変わりますかあ?』
「いえ結構。カイザギアも持ってますね? ……予定を少し前倒しにしましょう。直接介入を許可します。あの子を魔導師どもから遠ざけさせるよう、あの人に伝えてください」
『分かりましたあ。あ、でもお、バッシャーが今メンテ中なんですけどー』
「ああ、そう言えばそうでしたわね。仕方ありません、バジンの使用も許可します。あちらの方が使い易いでしょう?」

 はーい、と間延びした返事を最後に、通話が切られる。少しの間ビジートーンを黙って聞いていた真樹菜だったが、やがてふんと一つ息を吐くと己も通話を切り、携帯電話を机の上に置いて、再び昼食を再開した。





◆     ◆





異形の花々/第陸話/乙





◆     ◆







 高町なのはの戦闘スタイルは基本的に、敵の射程外から強力な砲撃魔法を撃ち込む一撃必殺である。ミッドチルダ式魔法の基本を突き詰めたスタイルと言っても良い。
 教導官という職務上、全ての技能が非常に高いレベルで纏まってはいる。しかしやはり、凡百の魔導師ならばまだしも、それぞれの技能を特化させ突き詰めた使い手には及ばないのが実情だ。ベルカ式ほど近接戦闘には長けておらず、高速戦魔導師の様な戦闘機動は望むべくもない。
 必然、戦闘、こと訓練や教導ではない実戦においての彼女は常に、如何に敵との間合いを取るかに腐心する事となる。高精度の誘導弾と一撃必殺の魔力砲撃。これらを駆使し、敵を『近寄らせずに倒す』事が、砲撃魔導師高町なのはの本領と言える。

 故に逆説、彼女と相対するならば、徹底的に肉薄し近接戦闘を挑む事こそが最良。ただしその為には彼女の繰り出す弾幕を掻い潜る必要があり、その難易度がどれほどのものかについては一々説明の要は無いだろう。
 だが、その困難を踏破する事が出来たなら。
 前方だけではない、後方、左右、上下、三百六十度全てから迫り来る誘導弾の群れをまるで意に介さず、無人の野を往くが如くに突っ切る事が出来たなら。

 それが出来たなら――今、高町なのはの眼前に在る雀蜂のように、彼女の急所に手が届く位置ポジションを得る事も出来るだろう。

「…………っ!」

 なのはの背筋を、悪寒にも似た何かが撫で上げる。
 彼女が精製し、撃ち放った魔力弾は数にして四十発を超える。その全てを雀蜂――ホーネットオルフェノクは躱し、或いは手に持つ騎兵槍を回転させて叩き落とし、また或いは無雑作に振り薙いだ腕脚で打ち落とした。
 もしこれが、ブラスターモードを起動させた状態であったなら、話は違っていたかもしれない。ブラスター時ならば魔力弾一発あたりの威力も速度も桁違いに跳ね上がる、躱す事も捌く事も容易ではあるまい。しかし今の彼女にリミットブレイクは禁忌でしかなく、また雀蜂の突貫は彼女にエクシードモードを再起動させる暇すら与えない。

 そして遂に、雀蜂が己の間合い……騎兵槍の殺傷圏内になのはを捉えた。刹那ほどの間も置かず、騎兵槍がなのはへと向けて疾駆する。無論それ自体はなのはの予測の内。咄嗟に展開した障壁、ラウンドシールドの魔法陣が、騎兵槍の切っ先を押し留めた。
 耳を劈く軋音が周囲に響き、表面を削られた魔力盾が激しく火花を散らす。空間に噛み付く紫電は魔力盾の断末魔か。切っ先が穿つ一点を中心として、べきべきと魔力盾の表面に亀裂が走っていく。盾が崩壊するのは、或いは槍が盾を貫くのは、最早時間の問題であった。
 しかしそれも、高町なのはには想定の範囲内だ。

「――はっ!」
【Barrier Burst】

 なのはの口から裂帛の気合が放たれた次の瞬間、雀蜂の一撃を押し留めていた魔力盾が一際強い発光の後に炸裂。雀蜂の身体を爆煙の中に呑み込んだ。
 攻勢防御魔法、バリアバースト。防御魔法表面の魔力を収束し、爆発と変える魔法である。
 本来はその名称の通り、バリア系魔法から派生する魔法であるが、今回はそれをシールド系魔法に応用している。周囲全面を覆うバリア系魔法と比べ、一点に魔力を集中するシールド系魔法ではバーストに転用する魔力量も知れているが、しかしそれでも、雀蜂を一旦退けるには充分な爆発だ。
 そして雀蜂の身体が爆発に押し出され、間合いが開いた瞬間に、なのはは反撃へと移行する。

「ディバイン――」

 レイジングハートの先端に魔力が収束していく。一秒に満たぬ時間の後、それは魔力の奔流となって雀蜂に襲いかかるだろう。だがその一秒の間に、ぞくんとなのはの総身を怖気が駆け抜けた。生物として誰もが持つ、危機を察知する本能。それがなのはの身体へと発した警告だった。
 果たしてその警告は実際と為った。未だ立ち込める黒煙を切り裂いて飛来する飛針の群れ――砲撃の発射態勢に入っていたなのはには、それを防ぐ術はなく。

「なのはさんっ!」

 咄嗟に彼女の背後から飛び出してきたギンガが、なのはを押し退けるようにして腕を伸ばした。その掌の先に展開される防御魔法、ディフェンサーの光壁が、殺到する飛針を悉く弾き落とす。
 最後の一本が弾かれると同時にディフェンサーは過負荷によって割れ砕けながら消滅したが、それでも、一本たりとなのはに敵の攻撃を届かせなかったのは、流石と言うべきだろう。

「…………っ!」

“それ”を察知出来たのは、恐らく高町なのはの、十年に及ぶ経験の賜物だった。
 目の前で光壁に弾かれた飛針が、一体何処を目指して飛んでいたのか――その軌道上に何があったのかを悟る事が出来たのは、それが現場であれ訓練場であれ、常に第一線で活躍してきた彼女なればこそであった。

 眉間。
 両目。
 喉。
 心臓。
 肺臓。
 肝臓。
 横隔膜。
 飛来した飛針のその全てが、標的の――高町なのはの人体急所を目掛けて放たれていた事実に、なのは以外の誰も気付かない。

 どくんと心臓が高鳴る。ぞくりと肌が粟立つ。内臓が氷漬けにされたかのように冷たく感じる。しかしそれでも、彼女の身体は敵の打倒に向けて不都合無く駆動していた。放たれるディバインバスターの光条。桜色の濁流が、視界を塞ぐ黒煙を引き裂いていく。だが黒煙の向こうに、標的たる雀蜂の姿は影も形もなかった。
 視界の端を掠め過ぎた何かに、なのはの身体が本能的に反応する。なのはの側面から再び急襲してくる雀蜂の姿を改めて視界に収めるも、それ以上の行動は出来ない。未だディバインバスターを放ったままのなのはには、そして無理な姿勢でなのはの援護に入ったギンガには、雀蜂を止める術はない。

 だがそれは決して絶望を意味しない。なのはとギンガの頭上を掠めて、橙色の光弾が加速する。ティアナが放ったクロスファイアシュートの魔力弾。一見、明後日の方向へと飛んでいったそれは、しかし雀蜂の頭上で突如軌道を変え、その突撃を阻まんと上方から襲いかかる。
 しかしそれは叶わない。現状、能力限定がかけられた状態ですらティアナを上回る実力者のなのはが放ったアクセルシューターですら、雀蜂を阻止し得なかったのだ。威力、弾数、そのどちらも劣るクロスファイアで阻める道理はない。

「スバルっ!」
「うん!」

 構わない――元より、ティアナに雀蜂を止めるつもりなどなかった。
 彼女の狙いは、雀蜂を一瞬だけでも、その位置に釘付けにする事。足止めさえ果たせれば、彼女はそれで良かったのだ。
 そして狙い過たず、クロスファイアシュートを捌く為に動きを止めた雀蜂へと向けて、スバルが加速する。雀蜂も気付いたのだろう、優先順位をなのはから、迫るスバルへと切り替え、騎兵槍をぐるりと一回転させて、迎撃の態勢に入った。

「……はぁあああああっ!」

 ナックルスピナーの回転音よりも尚高らかに、スバルの咆哮が響く。繰り出すは彼女の切り札、振動拳。
 かつて雀蜂の胸を穿ち抜いたその一撃を、今再び、此度は確実な必殺を賭して、スバル・ナカジマは繰り出した――その瞬間、スバルは無意識下に、直感とも呼ぶべき感覚によって悟る。

 これは駄目だ。これでは駄目だ・・・・・・・

 果たしてその直感は真実。突き出された腕、繰り出された拳。それよりも尚速く、更に疾く、騎兵槍がスバルの心臓へ向けて奔る。振動拳が届くよりも速く、槍の切っ先がスバルの心臓を抉るだろう。
 そして直感が理解に至った瞬間には、既に彼女は己で制動をかける事が出来るだけの間合いにはなかった。一瞬の後に待ちうける結末を明確に脳裏に描きながらも、それを回避するだけの余裕は、最早スバルにはなかったのである。
 しかし――

「!」
「行きなさい、スバル!」

 がががん、と連続して鈍い音が響く。
 その音の正体を見極められたのは、スバル・ナカジマの卓越した動体視力あってこその事だろう。飛来した三発の魔力弾が、騎兵槍の刀身を横から殴り倒し、スバルの心臓を狙うその軌道を強引に逸らしたのだ。
 驚くべきはティアナ・ランスターの精密射撃だ。ただ魔力弾が当たったというだけなら、それが何発であろうと、騎兵槍の速度と質量の前には何程の事もない。しかしティアナの放った魔力弾は、全く同じポイントにコンマ一秒未満の時間差で着弾していた。結果、その衝撃に雀蜂の騎兵槍は僅かに軌道を逸らされ、スバルを必殺する為の刺突足り得なくなった。

 だが次の瞬間、雀蜂は手首を捻り、その運動だけで騎兵槍を回転させると、繰り出される振動拳の軌道上に翳した。振動拳が騎兵槍の横腹に叩きこまれ、細長い円錐はひしゃげてねじくれ、最早武器とも道具とも呼べない無惨な有様となってぶっ飛んでいく。
 振動拳の威力はその大半が騎兵槍を破壊する事に費やされて必殺を失い、そして切り札を無為に浪費してしまったスバルは、雀蜂の眼前で大きな隙を晒してしまっている。それが致命的である事は誰に説明されずとも、スバル自身が最も深く理解していた。
 ゆらりと雀蜂の右腕が動く。右拳が装甲に鎧われ、衝角が伸び、一歩前へと踏み込んだかと思えば背中の翅がぶるんと唸った。

「こっ――のぉ!」

 叫ぶと同時にスバルは身体の関節をロックし、無理矢理に全身を硬直させながらも、膝だけはがくりと折り曲げた。その上で更に加速。リンボーダンスのように上体を極端に仰け反らせた姿勢、傍目には非常に滑稽に映る体勢で、スバルは雀蜂の一撃を回避しつつ、その間合いから脱出する。

「――ぶっ!」

 しかし当然ながら、そんな体勢でいつまでもウイングロードを滑走出来るはずもない。
 仰向けに引っ繰り返ってウイングロードから転げ落ち、進路上にあった大木に思いっきり激突して、そこで漸くスバルは停止した。バリアジャケットの対衝撃機能のおかげか、怪我はないものの、無茶な挙動を強いられた身体は数秒の停止を強いられる。

 だがそんな余裕すらないと、すぐにスバルは悟った。天地が引っ繰り返った視界の中、こちらへと向けて突っ込んでくる雀蜂の姿を捉える。慌てて身を起こして飛び退けば、その刹那後、雀蜂の衝角がスバルの背後にあった大木の幹を刺し貫いた。
 そして。

「…………っ!」

 驚きはその場に居た者、全員に等しく降りかかった。
 ずるりと雀蜂が衝角を引き抜く。大木の幹には衝角によって穿たれた穴が残されるものの、幹の直径からすればさしたる傷ではない。

 にも関わらず、異変は急激に実体となって、彼女達の目前へと現れる。
 はらりはらりと葉が舞い落ちる。やがて枝も自重に耐え切れなくなったかのように折れ落ちて、幹は朽ちさらばえて割れ裂けた。大木がほんの十数秒で完全に死に絶えるその光景。VTRの早回しのようなそれは、どう見ても常識圏内の事象ではない。彼女達の驚愕は、全く当然の事と言えよう。

「毒……!?」

 呆然と、それでも目の前の事象だけは冷静に観察して、ティアナが呟く。
 雀蜂の右拳でてらてらと濡れ光る衝角が無言の内に告げている。刺されれば死ぬ、と。それはまさしく文字通りの一撃必殺。目の前で奈落の如く口を広げる“死”に対し、戦慄も恐怖も抱かぬほど、少女達は鈍感ではなかった。
 ティアナの呟言に反応したかのように、雀蜂がなのは達へと向き直る。再び突貫の体勢に入る雀蜂――だが彼が一歩を踏み出す、或いは翅によって飛翔するのに先んじて、彼を桜色の光紐が縛り上げ、その動きを阻んだ。
 拘束魔法レストリクトロック。魔力光の色から歴然ではあるが、言うまでも無く、高町なのはが行使したものだ。この距離で、しかも発動のタイムラグがほぼ皆無。彼女の実力の一端が窺い知れる。

「! ギン姉っ!」
「スバルっ!」

 妹が姉を、姉が妹を呼んだのはまったく同時。そして彼女達が飛び出すのも、まったく同じタイミングであった。恐らくは、それが千載一隅の好機であると認識した瞬間からして同一であっただろう。
 空色と紫色の光帯が雀蜂へと向けて伸び、その上を少女達が走り出す。右と左の鋼拳がそれぞれに大気を歯車に引き込んで唸りを上げる。また同時にその後方で、なのはとティアナが砲撃の態勢へと入った。身動きの取れない敵に対しての一斉攻撃。卑怯だのフェアじゃないだのという点に目を瞑れば、それは確かに有効であり、彼女達一人一人が強力な攻撃魔法を保有している事を踏まえれば、紛れもなく必勝の戦術であると言える。

 そう、必勝。
 それが魔導師相手ならば――人間を相手にするならば・・・・・・・・・・・、間違いなく必勝。

「!?」

 びきり、という音が、雀蜂へと突貫するスバルとギンガの耳朶を打つ。と同時に彼女達の目は、雀蜂を縛り上げる光紐に生じた亀裂を捉えていた。

 バインド――拘束魔法を“破る”手段は、大きく分けて二つ。
 一つは、バインドを構成するプログラムに割り込みをかけ、魔法そのものを解体してしまう手法だ。一般的に魔導師がバインドを破ると言えば、こちらの手法である事が多い。
 ただしバインドを行使した魔導師の実力は、バインドの強度にそのまま反映される。故に、なのはのバインドがこの手法で破られた事は少ない。
 そしてもう一つは、バインドの強度以上の負荷を与える事。つまるところ力づくで無理矢理ぶち破るという意味なのだが、こちらは魔導師でなくとも使える、魔法の有無に関係なく取る事の出来る手法でもある。ただ、人間一人の腕力で破られるような強度では、そもそもバインドとして要を為さないのだが。

 雀蜂は魔導師ではなかった。そして人間ですらなかった。なればこそ、バインドへの処方など最初から一つきり。
 そう――力技で、引き千切る。
 ばぢんっ! と太いゴム紐が千切れるような音と共に、バインドがばらばらに破断する。そうして戒めを解かれた雀蜂が、背中の翅を振るわせて、迫る少女達へと向けて自らも駆け出していく。瞬きほどの間もなく雀蜂はスバルとギンガに肉迫し、無雑作にその両腕を振り薙いだ。
 単純極まりない打撃も、雀蜂の膂力、そして少女達と雀蜂との相対速度を合わせれば、充分な脅威と化す。現にスバルとギンガは防御魔法の行使すら間に合わず、雀蜂のその一撃によってウイングロードから弾き落とされ、地面に叩き付けられた。

「ディバイン――バスターっ!」
「ファントム――ブレイザー!」

 だがスバルとギンガを落とした直後、雀蜂を襲ったのは桜色と橙色の光条だった。
 こうなる事を予測していたのか、雀蜂の意識が目の前の障害――つまりはスバルとギンガ――を排除するという一点に集中した瞬間を狙い、二種の直射砲撃魔法が撃ち放たれる。タイミングは完璧、威力の方も申し分無い。対物設定の魔力砲撃だ、直撃すれば雀蜂とて無傷ではいられない。

 殺った――なのはとティアナの胸に、全く同時に勝利の確信が兆す。
 その確信が瞬時に崩される事など、考えもせず。

「!」
「えっ!?」

 破壊と打倒の意図を以って放たれた桜色と橙色の光条は、しかし空しく虚空を薙ぐのみに終わった。魔力砲撃が直撃する刹那、雀蜂の姿が掻き消えたのだ。

「なのはさん、ティア! 上っ!」

 先の一撃のダメージがまだ残っているのか、地に伏せたままのスバルが、それでもあらん限りの声を振り絞って二人に叫ぶ。
 その言葉に従い空を振り仰いだ二人の目に映ったのは、天地を逆様に宙を舞う、雀蜂の姿。
 不快を催す羽音を撒き散らしながら、左の掌を眼下のなのはとティアナに向けている。それが何を意味するのかを理解するよりも早く、恐怖と悪寒が彼女達の身体を動かした。認識に一歩も二歩も先んじて、彼女達は防御魔法を展開する。未だ立ち上がれぬスバルとギンガも同様に。

 直後、上空から降り注ぐ飛針の雨。雀蜂の左腕、六連装の銃身から撃ち放たれる飛針が、眼下の少女達へと襲いかかる。どう考えても体内に収まらない弾数のそれは、発射速度と合わせて、最早艦船や航空機に搭載される多連装機関砲をすら凌駕する脅威であった。
 数える事すら馬鹿馬鹿しいほどの飛針の嵐。その全てが全て魔導師達の障壁を直撃する訳ではなく、弾数に比例して外れも多くなるのだが、少女達の周囲に着弾したそれは隕石の落下もかくやという轟音と共にクレーターを穿っていく。

 飛針の斉射は時間にしておよそ四秒弱というところだったが、それだけで、四人の周囲は原型も留めないほどに蹂躙された。
 その只中を耐え切ったのだ、少女達の消耗が軽くあるはずもない。障壁に絶えず魔力を送り続けていたのだから、その過負荷によって誰も彼もがブラックアウト寸前の状態である。
 故に――斉射の直後、地表へと向けて突撃を開始した雀蜂を阻む事など、出来る訳もなく。

「……ギンガっ!」
「ギンガさんっ!」

 標的はギンガ。
 うつ伏せの状態のまま地に横たわる彼女の背中を目掛け、雀蜂が落下する。
 その手の中には新しい騎兵槍。先にスバルにへし折られたものとは違う、雀蜂が新たに作り出したもの。
 なのはとティアナの声を聞き取る事は出来たものの、しかしギンガは動けない。雀蜂の飛針を防いだ代償が最も大きかったのは、実は彼女であった。『JS事件』の後遺症も癒えぬまま、久方ぶりの実戦。それも予期せぬ連戦で、彼女の身体は本人が思う以上に疲労とダメージを蓄積させていたのである。

 落ちてくる雀蜂。騎兵槍の切っ先はギンガの心臓を軌道上に捉えている。つい数分前、串刺しとされた猛獣の姿がギンガの脳裏を過ぎり、同様に串刺しになった自分の姿が脳裏を過ぎる。
 走馬灯は見えなかった。全身を包む倦怠感に反して奇妙に冷えた脳髄は、酷く冷静に自分の末路を彼女に受け入れさせる。

 ――そう言えば。
 その瞬間、ギンガの思考に、ぽつりと黒点の様に疑問が兆した。今という状況には酷く場違いな疑問。それは現実逃避以外の何物でもなく。
 彼は、あの少年は、無事だろうか――と。

「ギン姉ぇえっ!」

 スバルの叫びがその疑問を吹き払う。
 そして遂に、騎兵槍の切っ先がギンガの心臓を――





◆      ◆







 ――9。
 ――1。
 ――3。

【Standing by――】
「変身」
【――Complete.】





◆      ◆








 結論から言えば、雀蜂の槍がギンガの心臓を抉る事はなかった。騎兵槍はギンガではなく地面を抉り、地に垂直に突き立って、まるで墓標のような有様。
 無論、それはギンガが雀蜂の一撃を躱した事を意味しない。その時のギンガに回避行動を取る余裕はない。更に付け加えれば、雀蜂が狙いを外した訳でもなかった。ならば何故ギンガが未だ存命なのか。
 その答えは酷く単純。だがそれ故に理不尽で、全く脈絡の無い、不条理と謗られても仕方の無いもの。
 場に突如として現れた第三者が――まるで見覚えの無い第三者が――ギンガを庇うようにして彼女と雀蜂の間に割り込み、雀蜂の騎兵槍を捌いて退けたその光景を、いったい誰が予測出来ようか。

「………………誰?」

 呆然としたスバルの呟きが、この場における全員の――機動六課の魔導師、という意味に限定されるものの――代弁だった。

 陽光を吸い込んだかのように光沢のない、ゴシックブラックのスーツ。胸部と肩部を鎧う装甲。体表を走る黄色のラインは、相克する陰陽を思わせる。
 その意匠のどれもが魔導師の纏うバリアジャケット、或いは騎士の装う騎士甲冑と一線を隠しており、それが最も顕著なのが、首から上。
 仮面である。フルフェイスヘルメットのように、頭部全てを覆う仮面。
 紫色の“眼”と、その上で「X」を描くように交錯する十字。自らの正体を覆い隠す為の仮面にしては、何とも奇抜に過ぎる造形と言えた。黒を基調とした色彩も、闇夜ならばともかく、日中の今においては直立する影法師の如く周囲の風景から乖離している。

 地に突き立った騎兵槍から手を離し、雀蜂が大きく後ろに飛び退いた。
 突然の闖入者を眼前に置いて、それでも当初の獲物に拘泥するほど愚かではないのだろう。毒に塗れた衝角を構える雀蜂に、仮面の男――男、かどうかは実際のところ定かではないが――もまた、己の得物を翳して応じた。
 奇妙な得物だった。仮面の意匠と同様に「X」を模した、ある意味で製図用の定規にも見える、銃とも剣ともつかない得物。恐らくはその両方の機能を併せ持つ複合兵装なのだろう、それを逆手に構え、じり、と仮面の男が間合いを詰める。
 この時点で、ギンガ達四人の立場は、一気に傍観者へと格下げだった。

「!」

 仕掛けたのは仮面の男。
 じりじりと摺り足で雀蜂との間合いを詰めていた彼が、一気に雀蜂へと飛びかかる。
 その挙動自体は酷く凡庸。目を瞠るほどの速度でもなければ、軌道に不規則性もない。そんな凡庸が雀蜂を打倒する様を、ギンガ達はまるで想像出来ない。

 雀蜂が左腕を翳す。寸刻の躊躇もなく、仮面の男へと向けて撃ち出される飛針の嵐。横殴りの暴風が正面から仮面の男へと襲いかかる――だが驚くべき事に、仮面の男はそれを躱そうとしない。むしろ殊更にゆっくりと、歩み寄るかのように速度を緩めて、雀蜂へと向かっていく。
 誰もが滅多刺しとなる姿を幻視した。毬栗の様な有様となって倒れ伏す仮面の男の姿を、一秒の後に現れるものと覚悟した。
 その予想をいとも簡単に覆されると、誰一人思わずに。

「え――ええっ!?」

 素っ頓狂な声はスバルからのもの。しかしそれが他の三人の耳に届いたかと言えば怪しいだろう。僅かに先んじて周囲に響いた金属音が、彼女の声を完全に覆ってしまったからだ。
 殺到する飛針の群れ――機関砲の如き発射速度、弾数、威力のそれを、仮面の男は片っ端から己の得物で叩き落としたのだ。
 無論その全てを切り払う事は出来ていないものの、数百数千に及ぼうかという飛針の内、人体急所を目掛けて迫るものを的確に見定めて切り払っている。常軌を逸した芸当であった。

 飛針を切り払いながら、仮面の男はじわじわと雀蜂に迫っていく。逆に言えば、切り払う作業と並行であるが故に前進は遅々とせざるを得なかったのだが、それでも仮面の男が雀蜂との間合いを詰めているのは事実。
 と、不意に飛針の連射が止まった。それがあまりにも唐突だったせいか、かくん、と仮面の男が前につんのめるようにして、僅かに体勢を崩す。
 それを見越していたのだろう、雀蜂が一気に仮面の男へと詰め寄った。挙動の始点と終点がまったく同時に感じられる超高速機動。刹那遅れて羽音が届く頃には、既に雀蜂は仮面の男の眼前で、必殺の毒針が宿る右拳を振りかぶっている。

 男を目掛けて繰り出される衝角の一撃に、男もまた反応する。得物を構えた右腕が閃き、雀蜂の拳を、そこに備わる衝角を、刀身を滑らせるようにして捌いた。
 そして次瞬、男の左腕が動く。腰部のベルト、そのバックルにあたる部分から何らかのパーツを抜き取ると、手首のスナップでそれを素早く振った。見た感じではターン式の携帯電話の様にも見えるそれが、どこか拳銃を思わせる形状を取り、そしてそのイメージそのままに、“銃口”が雀蜂の腹へと向けられる。
 1、0、6。男の指が携帯電話のボタンを押す度に電子音が響き、そして最後のボタンを押し込んだ直後、電子音が声となって言葉を紡ぐ。

【Burst Mode.】

 瞬間、“銃”から放たれた三連発の光弾が雀蜂の腹で炸裂、雀蜂を大きく仰け反らせる。
 すかさず仮面の男は雀蜂の胸に足刀蹴りを叩きこんで、敵を大きく弾き飛ばした。さすがに雀蜂も倒れこむような事はなかったが、大きく体勢を崩し、敵との間合いを広げられた彼は、致命的な隙を敵の前で晒している。

【Exceed Charge.】

 仮面の男が携帯電話をベルトのバックルに戻し、『ENTER』のボタンを押した。電子音声が響き、スーツに配されたラインの上を辿って、発光点が腕へと移動する。
 恐らくはこれが仮面の男の切り札。必殺を約束する一撃と雀蜂も気付いたのだろう、崩れたままの体勢で、それでも敵の切り札を阻止せんと前へ飛び出す。

 やがて男の右手、そこに握られた得物へと光点は吸い込まれた。直後、銃口から撃ち出された光弾が雀蜂へと迫り――それを見越して、雀蜂は光弾の前に左腕を晒していた。
 腕一本を引き換えに敵へと迫る、そういう目論見であったのだろう。しかし予想に反して光弾は雀蜂を穿つ事はなく、鉄板に滴る水礫のように体表で拡散したかと思うと、一瞬で網の様に雀蜂を縛り上げた。ぎしりと半端な姿勢で停止する雀蜂。

 そう、彼は敵の切り札を見誤ったのだ。初撃が即ち必殺と勘違いした。実際は初撃で動きを止め、続く二撃で斃す技。その予測こそ間違っていない、仮面の男の得物、その刀身が猛るように眩く発光しているのを見れば、間違いであるはずがない。

「ちょ、ちょっと、待って――」

 瞬間、なのはの口から漏れたのは、制止の言葉だった。
 仮面の男の切り札が如何なるものかは不明であるが、それが雀蜂を殺す目的で放たれようとしているのは明白。しかし今のなのはは、それを良しとは出来ない。

『灰色の怪物』、オルフェノク。その存在を彼女は知ってしまった。人間と意思の疎通が取れる存在であると知ってしまった。人命尊重を謳う管理局は、人間と同レベルの知的生物にも、人間と同等の権利を(ある程度の建前を含みつつも)与えている。
 なればこそ、ここで雀蜂を殺害する事は出来ない――例えそれが、同じオルフェノクを殺めた者であったとしても。

 驚いた事に、なのはの制止を聞き入れたのか、仮面の男は動きを止めた。そしてそのまま構えを解き、戦闘態勢を解除する。まさか制止に応じるとは思っていなかったなのはであったが、それはなのはに限らず、ティアナやスバル、ギンガも同様であった。
 突然に戦闘が終了したせいか、周囲の空気が微妙に弛緩する。安堵とも落胆ともつかぬ空気に、少女達から肩の力が抜けた瞬間、不意に高らかなエンジン音が鳴り響いた。

「てぃ……ティア、ティア! あれ、あれ!」

 真っ先に気付いたのはスバルだった。彼女が指し示した方角に視線を向けたティアナ、そしてギンガになのはが、揃って絶句する。
 彼女達が目にしたのは、こちらに向かってくる一台のバイク。と、これだけならば別に驚くには値しないが、問題はそれに誰も跨っていない事だ。
 しかもそれで終わりではない――無人走行するバイク、というだけで終わりではない。むしろその後にこそ、本当の驚きが待ち構えていた。

 見る間にこちらへと迫ってくるバイク。そのタイヤが不意に路面から離れ、車体が浮き上がったと思った次の瞬間、突如としてその形が崩れたのである。いや、崩れたという言い方は正確ではない。形を変える、そう、変形と言うべきか。
 乗物としてのカタチが、四肢持つモノのカタチへ。ガジェットや戦闘機人とは全く別の意味での機械人形、それこそアニメに出てくるような“ロボット”へと変形したバイクが、仮面の男の前へと降り立った。
 その変形を間近で目にした少女達の反応は、ぽかんと口を開けるか、唖然と顔を引き攣らせるか。無人走行のみならず、人型に変形するバイク――そんな奇天烈な存在を受け入れるには、つい先程まで彼女達の中で張り詰めていた緊張感が邪魔だった。

 くい、と仮面の男が顎で雀蜂を指し示す。未だ拘束されたままの雀蜂を、“ロボット”はひょいと荷物のように抱え上げて、背面のフローターを作動させふわりと浮き上がる。雀蜂をどこかへ運び去るつもりらしい、恐らく、仮面の男はその為にこの場に現れたのだろう。
 無論、そんな事を許す訳にはいかない。雀蜂は今回の一件における重要参考人だ。参考“人”と言えるかどうかはともかく、彼から聞き出したい事は山のようにある。断じて見逃す訳にはいかない。

 仮面の男もそれを解っているのだろう、“ロボット”を追おうとするなのは達を阻むようにその前へと歩み出て、銃口を向けた。邪魔をするならば撃つとその所作が告げている、しかしなのは達も、それで引き下がるほど物分りが良い人間ではない。
 再び一帯に張り詰める、一触即発の緊張感。仮面の男が引鉄を引くのが早いか、なのは達が仕掛けるのが早いか。

「――っ!!」

 状況を動かしたのは、そのどちらでもなく。
 突然、なのは達の周囲で巻き起こった爆発。機動六課も仮面の男も揃って巻き込むその爆発は盛大に土砂を巻き上げ、爆音と衝撃波で容赦無く少女達を叩く。
 上方から爆撃のように降り注ぐ炸裂の暴風に耐えながら、少女達は頭上を見上げる。総合医療センターの屋上。その縁から眼下の地面へと向けて、無反動砲と思しき大型兵装を乱射している異形の姿が、そこにあった。

 言うまでもなく、それもまたオルフェノク。ゴリラを思わせる重厚なシルエットのオルフェノク――コングオルフェノク。
 だが不思議な事に、そのオルフェノクは既に戦闘に巻き込まれたかのような、その上で既に敗北したかのような、酷い有様だった。砲を担ぐ右腕は健在だが、左腕が肩口から消失している。また全身も、爆発を至近距離で浴びたかのように焼け焦げ、焼け爛れていた。

こんガキャああああああっ!!

 見た感じは満身創痍、精神状態もまともではない――恐らく錯乱状態にあるのだろう、コングオルフェノクはあらん限りの声量で罵言を叫びながら、次々に砲弾を撃ち込んでくる。
 恐らくは誰かを、何かを狙っての攻撃なのだろうが、しかし面制圧を主眼とする無反動砲の攻撃は、標的のみを砕くには甚だ不向き。必然、その周囲に居るなのは達も、そして仮面の男も、諸共にその被害を浴びる事となる。

死ね、死ね、死ね、死ね死ね死ね死ね死ね死ね死にやがれぁああああああああっ!!

 空爆にも等しい連続爆発の只中、それでもなのはの眼は敵の姿を捉え、敵を撃ち抜かんと魔力弾の精製を開始する。それはスバルやティアナ、ギンガも同様だった。
 この状況下でも誰一人諦観を抱かないというメンタルの強さこそが、機動六課の強さの根源。なればそれは至極当然の事であったのだろう。

《皆、行くよ! タイミングを合わせて――》

 念話で指示を飛ばしながら、着実に、なのはは仕掛けるタイミングを窺う。耳を劈く爆発の中、総身を引っ叩く衝撃の中、それでも思考は冷静に。
 そして砲撃が一瞬途切れた、その瞬間。射出から装弾の間に生ずる、避け得ない空白の瞬間。待ち望んだ勝機の到来を、少女達が悟る。
 が。

「はあああ――ああああああああっ!
〖ぐぉあっ!?〗

 裂帛の気合はその場に居た誰のものでもなく、頭上から降ってきたもの。
 魔力弾を撃ち放とうとしたなのはとティアナが、ウイングロードを精製し飛び出そうとしたスバルとギンガが、その咆哮にタイミングを狂わされて硬直する。
 ある面では隙だらけであった彼女達であるが、しかしそれは別段、彼女達を一層不利な状況に追い込むには至らない。

「――エリオ!?」

 そう。
 その叫びは機動六課ライトニング分隊ガードウィング、エリオ・モンディアルの咆哮。総合医療センターに突入したはずの彼が、ストラーダの推進力を威力へと転換する必殺の突撃によって、コングオルフェノクを背後からぶっ飛ばしたのだ。
 中空に放り出されるエリオとオルフェノク。ただエリオに関しては心配要らなかった。彼が中空に飛び出した瞬間、飛龍本来の姿に戻り、キャロを乗せて飛翔していたフリードが、その背にエリオを受け止めていたからだ。
 だがコングオルフェノクにそれは望むべくもない。喰らった突撃の威力に挙動の自由を奪われ、重力に引かれるまま、眼下の地上へと真っ逆様に落ちていく。
 そして。

【Exceed Charge.】

 コングオルフェノクの爆撃が巻き上げた粉塵の中で、電子音声が響く。撃ち出された光弾が中空でコングオルフェノクの身体を縫い止める。
 最早躱す事も防ぐ事もままならない。その時点で満身創痍の異形は、断頭台に据えられた、或いは絞首台に括られた死刑囚と同質の存在へと堕していた。

「だ――」
「駄目っ!」

 ティアナとスバルの制止も、何ら意味を持たない。元より、彼が少女達の言葉に耳を貸す理由はない。
 跳躍した仮面の男が、光と化してコングオルフェノクへと突っ込んでいく。その身体が標的へと吸い込まれたかと見えた次の瞬間、再び仮面の男は姿を現し――同時に、コングオルフェノクが中空で蒼色の爆炎と共に灰と化す。
 爆炎が失せた後、残るのは黄色の『X』の文字。それも数秒の後には霧散して、と同時に、仮面の男が地へと降り立った。

「……貴方は……!」

 粉塵が晴れていく。ホーネットオルフェノクとコングオルフェノクによって惨憺たる有様へと変貌した周囲の風景が、今、漸くはっきりと視界に収める事が出来た。

 仮面の男に向けるなのはの声には、隠しようもない怒りが篭められていた。オルフェノクという存在が如何なるものかは定かではないにしろ、それをこの仮面の男はあっさりと殺害したのである。人命尊重という管理局の方針以前に、高町なのは個人の義憤が、その声には篭められていた。
 ティアナが、スバルが、ギンガが、そしてフリードの背から飛び降りたエリオとキャロが、なのはの横に佇んで、仮面の男を睨みつける。仮面の男の態度によっては一戦交える事も辞さないと、彼女達の視線が告げていた。

 仮面の男が得物を下ろす。一見、戦闘の意思はないとも取れる所作。だがそれはただ単に、“迎え”が来たからこれ以上戦うつもりはないと、それだけの意味であったらしい。
 仮面の男の前に、一機のヒトガタが降り立つ。先程雀蜂を運び去っていった“ロボット”。何処かに雀蜂を打ち棄ててきたのだろうか、それとも仲間に引き渡したのか、ともあれ今はもう雀蜂を抱えてはいない。
 そして雀蜂の移送を完了した以上、この場に彼等が留まる意味もなく。

「!」

“ロボット”が人の形から、再びバイクへと変形する。仮面の男はそれに跨って、一気にアクセルを開けた。
 待て、と告げる暇もあらばこそ、実力行使で引き止めるには時間が足りず、彼等は疾風の如くその場から走り去ってしまう。その後ろ姿、テールランプが視認出来ていたのは一秒に満たなかっただろう。気付いた時には既に、彼等は遥か彼方へと消え去っていた。

「逃げられ、ちゃった……」

 呆然とスバルが呟く。
 へたり込みそうな脱力感と共に吐き出されたその言葉は、それ故に、この日この場で起こった事件が終わった事を――何も解決していない、何も判明していないままに、この場で起こるべき全てが終わった事を、否応無しに皆に理解させた。





◆      ◆







 時空管理局本局の古代遺物管理区画にロストロギアを預けた時点で、その日のヴィータの仕事はほぼ全て終わっていたと言って良い。
 書類仕事の類は本局へと赴く前に全て片付けているし、新人達の教導もなのはに任せている。今から六課に戻っても、今日の教導は既に終わっているだろう。
 それ故に、無限書庫に寄っていきたいというリインフォースⅡの頼みを断る理由は、別段ヴィータにはなかった。

 何でも数日前、無限書庫の未整理エリアから、古代ベルカ時代のユニゾンデバイスに関する資料が見つかったのだとか。旧暦の頃に記された魔導書であり、メールに添付してはい送信、という事は難しい。と言うか無理だ。
 六課宛に配送するつもりでいたらしいのだが、丁度そこにリインが本局を訪れるという事で、それなら時間に余裕があれば無限書庫まで来てくれないかと、無限書庫司書長、ユーノ・スクライアから頼まれていたとの事。
 思ったよりスムーズにロストロギアの受け渡しを終える事が出来たので、時間の余裕はそこそこある。さっさと帰って休もうかと思っていたヴィータだったが、リインに頼まれては断れないし、可愛い末っ子を放って一人で帰るという選択肢もない。
 結局のところ、ヴィータもリインには甘いのである。

 古代遺物管理区画から無限書庫までは歩いて数分。無限書庫に収められた資料の中には、様々な世界から集められるロストロギアの正体を解く手掛かりになるものも数多く眠っているのだから、ほぼ隣接しているに近いこの配置も納得出来る。
 ともあれ、ヴィータとリインは無限書庫の受付を通り過ぎ――既に話が通っているのか、受付嬢はにこにこと微笑むだけで何も言わなかった――円筒形の書庫内部、無重力空間に身を躍らせた。

「あれ、ヴィータにリインじゃないか」

 さてユーノはどこだろう、と無限書庫の中をきょろきょろと見回していた二人に、不意に足元から声をかけてくる者が居た。
 身体の向きを変えてそちらに視線を向ければ、分厚い本を何冊も抱え込んだアルフが、ふわふわと浮かびながら二人のところに近づいてくる様が目に入る。

「よー、アルフ」 
「こんにちはです!」
「おー。今日はどしたんだい? 二人だけってのは珍しーな」
「ちょっとユーノさんに用事があるですよ。ユーノさん、居るですか?」

 あー、と何かを納得した様にアルフが頷く。そういやそんな事言ってたねェ、と呟くあたり、彼女も話は聞いていたのだろう。ただ、誰が資料を取りに来るのかまでは伝わっていなかったようだ。

「ユーノなら第三分庫だよ……って言っても解りづらいなー。どれ、案内するよ」

 と言いながらアルフは反転、本を抱えたまま、下へと降りていく。ヴィータとリインもそれに続いた。

 無限書庫の構造は円筒の内側がびっしりと書架になっているというものだが、その中にぽつぽつと、書架と書架の間に扉が点在する一角がある。
 書庫に収められている資料の中でも、旧暦時代に記された書物などはさすがに経年劣化のせいだろう、製本が崩れかけている物も少なくない。いや実際ページがばらばらになってしまって、どれがどの本だか判らなくなっているものも相当数存在する。
 そういった壊れた本、壊れかけの本を修復する為の部屋が無限書庫分庫であり、点在する扉はその分庫へと繋がる扉である。

 だが分庫とは言うものの、実際のところは単なる物置だ。少なくともユーノが無限書庫に来るまではそうだった。
 この分庫が分庫としてまともに機能するようになったのは、つい最近の事である。ユーノが無限書庫入りしてから続けられていた書架の整理作業に漸く目処が立った為、分庫と言う名の物置に手を回す余裕が出来たという。

 ここ一月ほど、ユーノは分庫に篭もって作業を続けているらしい。前々から探していた資料――の断片――が分庫の中に乱雑に詰まれていた紙切れから見つかったという事で、暇を見つけては分庫の方に足を運んでいるのだとか。
 実際、リイン達に渡そうという資料も、分庫の方から見つかったものであるらしい。
 正直、司書長ほどの役職に在る人間のやる事ではない。一般の司書でも充分に出来る仕事だ。にも関わらずユーノが自身で作業を行っているのは、ただ単純に、その仕事にユーノを引きつける何がしかの魅力があるのだろう。

 そも、彼は遺跡発掘を生業とするスクライア一族の出だ。それが遺跡であれ資料であれ、価値ある何かを探し出すという点においては共通。
 ならば膨大な断片の中から『資料』を組み上げていくという作業に、彼が進んで携わろうとするのは、まったく自然と言える。

「ユーノ、はいるぞー」

 がちゃり、と分庫の扉を開けて、アルフ、ヴィータ、リインが中に這入る。

「うぉ」
「わー」

 思わず、ヴィータとリインが声を漏らした。扉の大きさからは想像も出来ないほどに部屋は広く、その広い部屋が隅々まで、積み上げられた紙の束に占拠されている。
 ヴィータの背丈よりも高く積み上げられた紙の束は、たかが紙でありながら結構な威圧感を伴っている。その一枚一枚が歴史的な価値を持つ書物の一片であると考えれば、なお一層、威圧感が増すような気がした。

「あ、いたいた。ユーノ」
「ん?」

 部屋の中央、紙の束を脇へと寄せて確保したスペースに、ユーノは居た。
 大型の長机を三つほど合わせた簡易な作業台(無論、これの上にも紙が散乱している)の傍らで、両手に持った書類と睨めっこしている。
 作業に集中していたのか、アルフに呼びかけられるまで、彼は気付いていなかったらしい。振り向いてヴィータとリインの顔を見た瞬間、ユーノが意外そうな顔を見せて――すぐに、ああ、と納得したように頷く。

「久しぶり、ヴィータ、リイン」
「おー」
「お久しぶりなのです♪」
「例の資料だね? ごめん、司書長室にあるんだ。ちょっと取ってくるから、待っててくれる?」

 そう言って、ユーノがその場を後にしようと、踵を返した瞬間だった。
 やおら襲ってきた激震に、ユーノが足を取られて転倒する。ヴィータとアルフもまた、その振動の中で佇んではいられなかった。唯一浮遊しているリインだけはその振動による被害を受ける事は無かったものの、ヴィータの頭にしがみついて悲鳴を上げている。
 幸いにも、振動は長く続く事は無く、直に収まった。揺れていたのは実際四秒から五秒というところだろう。だがそれだけで、分庫の中は惨憺たる有様と化していた。積み上げられた紙の束は崩れて床に散乱し、長机の上にあった資料もその仲間入りである。折角整理したのも台無しだ。

「な、なんだあ?」

 崩れ落ちた紙の束に埋もれながら、アルフが混乱を隠しきれない顔で声を上げる。
 ここが地上本部であれば、自然災害――つまりは地震という事で納得も出来ただろう。だがここは次元空間内に浮かぶ時空管理局本局だ。地震など起こり得ないし、次元震ならば或いは有り得るのかもしれないが、そういった事態を見越して、本局には常に障壁が張られている。余程大規模な次元震でもない限り、ここまでの揺れは起こらない。

 そしてヴィータは気付いていた。これは自然災害なんかじゃない。爆発による衝撃、それも本局の内側、加えて言えば無限書庫に程近い場所で起こった爆発。百戦錬磨のベルカの騎士は、混乱する思考とは別の領域で、たった今起こった事象への考察を済ませていた。
 不意に電子音が鳴り響き、ユーノの眼前に一枚のウィンドウが展開する。映し出されたのは無限書庫司書の一人。先の振動でどこかにぶつけたのか、こぶの出来た頭をさすりながら、苦々しくも焦燥の窺える顔でユーノに呼びかける。

『ご無事ですか、司書長!?』
「あ、うん。僕は大丈夫――怪我人は?」
『俺とジョニィが落ちてきた本の直撃を喰らいました。あとリックが書架にアタマ突っ込んで抜けなくなってます。そんくらいですね』
「そうか、良かった。すぐに医務室に行って手当てを受けて。リックは放っといて良いから。……今の爆発について、中央センターから何か報告来てる?」
『古代遺物管理区画で爆発があったとしか――ロストロギアの暴走でしょうか?』

 ユーノと司書の会話に耳を傾けていたヴィータだったが、その瞬間、彼女は走り出していた。背後からリインとアルフが呼ぶ声が追いかけてくる。それに振り返る事無く分庫を飛び出して、無限書庫の入口まで一気に駆け抜け、そして本局の廊下へと転がり出る。

『古代遺物管理区画』。『ロストロギア』。この二つと先の激震を重ね合わせた時、彼女の胸は墨汁を垂らされた水槽のように“厭な予感”に濁りきった。それが勘違いであると、単なる杞憂であるという証明が欲しくて、彼女は走った。
 何故ここまで厭な予感を覚えるのか、ヴィータ自身にも解らない。幾多もの戦場を潜り抜けたベルカの騎士が故の直感か、それ以外の何かであるのかすら、判然としない。だから走る。何だ早とちりだったのかと笑いたくて、悪い心配かけたとリイン達に告げたくて。

 しかし――

「……………………っ!」

 古代遺物管理区画――字面から読み取れる通り、数多の次元世界から集められたロストロギアを封印する為に本局内に設けられた一角である。

 ロストロギアと言ってもその中身は千差万別である。ジュエルシードや闇の書、レリックといった危険度の高いものもあれば、かつて滅びた古代文明で使われていた掃除用具なんてものもある。
 だが一見して危険性の低いロストロギアであっても、何らかの要因で豹変する事とて充分に考えられるのだ。元は単なる魔力集積型ストレージデバイスであった『夜天の書』が、『闇の書』へと変貌してしまったように。

 故にロストロギアである以上は、そのどれもが厳重な封印を施された上でここに収められている。
 だからこれまでに一度として、区画内でのロストロギアの暴走事故などという不名誉は起こった事がない。そして恐らくは、これからもそうであり続けるだろう。
 ならば今回は? 先の激震は、ロストロギアの暴走事故ではないというのか?

 結論から言えば、その通りだった。先の激震はロストロギアの暴走によるものではなく、それ以前に、事故ですらなかった。
 管理区画に這入った瞬間、ヴィータはそれを悟る。爆発の残滓と思しき粉塵によって塞がれた視界。その中を慎重に、否、恐る恐る、ヴィータは進んでいく。
 踏み出す一歩ごとに心臓が高鳴る。それは果たして如何なる感情から生ずるものであるのか、ヴィータ自身にも判然としない。
 粉砕された鉄扉。亀裂の穿たれた壁面。瓦礫に覆われた床。事故などではない、明らかに指向性を持った何かが通り過ぎた、破壊の痕跡。
 そして。



「……む。思ったより早いな。もう来たか」
「構わないでしょう。既に目的の物は確保したのですから」
「その通りだ。往くぞ、バラオム、ビシュム」



 管理区画の最下層――最高ランクの危険度を誇るロストロギアが収められている場所に辿り着いたヴィータを迎えたのは、予想通りの光景であった。
 いや、それを予想と言うのは些か語弊があるだろう。そうであるという確信があったからこそ、ヴィータは此処に赴いたのだから。

 そこに居たのは、三人の男女だった。色褪せた白色のローブを纏い、まるで幽霊のように希薄な存在感で、ヴィータの前に佇んでいる。驚くべきはその面貌であろう。三人が三人とも、およそ人間離れした貌を、深々と被ったフードから晒していた。
 一人は、朽ちた白木の様に罅割れた肌の老人。
 一人は、翡翠の原石を思わせる、硬質かつ緑色の膚を持った男。
 一人は、漆器を思わせる肌艶に、右半面に不気味な紋様を刻んだ女。

 その異貌のどれもに、ヴィータはおぞましさを覚え――同時に既視感を覚える。
 だがその既視感の正体が解らない。こんな奴等は知らない。知らないのに、知っている。その違和感が、何とも不気味で、気持ち悪い。

「……な、なんだよ、お前等……」

 呆然と呟いた言葉は、発音が狂って酷く聞き取り辛いものだっただろう。
 しかしその言葉を、それが意味するところを、“相手”は過たず理解したらしい。人間離れした異貌を怪訝そうに歪めて、ヴィータをねめつける。

「ほう。驚いたな。こやつ――闇の書の守護騎士ではないか?」

 やがて緑膚の男が、ヴィータの顔に何か思い出すところがあったのか、意外そうに声を上げる。それを受けて、残る二人も頷き、その視線に微かな驚きを含ませた。

「おお。確かにその通り。確か――」
「『鉄槌の騎士』ヴィータ。闇の書を護る四人の守護騎士、ヴォルケンリッターが一人。随分と懐かしい。四百年ぶりでしょうか」

 異貌の三人組が語る言葉は、明らかにヴィータを既知の内に置いていると知れるもの。それがヴィータを一層混乱させる。
 何故こいつらは、あたしの事を知っている?
 こんな奴等は知らない。知らないのに。知らないのに知らないのに知らないのに――知らないのに。
 どうしてこんなに、こいつらが怖い(・・)

「久しいな、鉄槌の騎士。息災のようで何よりだ――此度は、どのような主を得て現界した?」
「『久しい』……!? なんだよ、何言ってやがるんだよ!」

 内心の混乱を吐き出すように声を荒げたヴィータに、三人組はそれぞれ異形の面貌に嘲笑を乗せて応える。無知への侮蔑、ただそれだけの意図を持って向けられる嘲笑。
 だがそれに対する嫌悪よりも、記憶と認識の齟齬から生まれる不快感の方が先に立つ。

「ほほほ。これは面白い。憶えていないと見える」
「滑稽だな。成程、だから我々を前にして、そうして突っ立っていられる訳か」
「何も憶えておらぬか。我等の顔も。我等の名も。我等の力も。ならば――」



「――我等に殺された事も、憶えてはおらぬか」



「………………っ!?」

 朽肌の老人が放ったその言葉は電流の如き驚愕と化して、ヴィータの総身を打ちのめす。ただの言葉、たかが言葉が、今この場においては何よりも致命的な刃となって、彼女の胸を、その心を突き刺した。

「ヴィータちゃーん!」
「!? リイン、来んなっ!」

 背後から聞こえる声に、ヴィータは思わず振り向いて叫んでいた。敵の眼前で背中を晒す迂闊も、家族がこの場に現れてしまう事を思えば、取るに足らない瑣末でしかない。
 この瞬間、ヴィータの首が落とされていたとしても、何ら不自然はなかったのだ。だが幸いにも、そのような状況が訪れる事はなく。再び振り向いたヴィータの目に映ったのは、ふわりと浮遊し、上昇して、その場を後にしようとする三人の姿。

 その中の一人、紋様を右半面に刻んだ女に、見覚えのあるトランクが抱えられているのに気付く。
 つい十数分前、この古代遺物管理区画にヴィータ自身が預けたトランク。ロストロギア、『キングストーン』が収められたトランクを、謎の男女達は持ち去ろうとしている。
 追おうとは思わなかった。思えなかった。まるで金縛りにあったように、彼女の身体は動かない。三人の姿が陽炎の様に消え失せ、影も形もなくなるその瞬間まで、ヴィータは何も出来なかった。

「ヴィータちゃん!」
「ヴィータ!」
「ヴィーター!」

 程無く、リイン、ユーノ、アルフの三人がヴィータを追って場に現れる。呆然と佇むヴィータに走り寄って、口々に無事だったか、怪我はないかと問う。彼女の様子がおかしい事は一見して明らかだ、ユーノ達が心配するのも、無理からぬ事であろう。

「……大丈夫だ。大丈夫……あたしは、大丈夫だ」

 ゆるりと首を振って、ヴィータは心配そうに呼びかけてくるユーノ達に応える。三度繰り返した『大丈夫』には最早信憑性などまるで残っていなかったが、それに気付く余裕が、今の彼女にあろうはずもない。

「ヴィータちゃん……」
「心配すんな、リイン。何でもねーから。……戻ろう」

 未だ心配そうに顔を覗きこんでくるリインに、苦笑にも似た表情を返して、ヴィータは踵を返す。――瞬間、彼女の脳裏に一つの映像が閃いた。
 思い出したというほど明確ではない。サブリミナルの映像のように、その光景がヴィータの記憶野に差し挟まれているというだけ。それがいつの事であったのかも、そこに至るまでの経緯も、何一つ解らない。記憶が繋がらない。

 全身を引き裂かれて倒れこむ、シグナムの姿。
 心臓を穿たれて横たわる、シャマルの姿。
 首をねじ切られて転がった、ザフィーラの姿。

 ヴォルケンリッターの断末魔の瞬間。血の海に沈む仲間達の骸と、それを傲然と見下ろす三つの影。ただ絶望だけに満たされたその光景だけが、ヴィータの脳裏を去来する。
 そしてその惨状を齎した者達の姿と、たった今相見えた者達の姿が重なる。一分の齟齬もな、一片の差異もなく。なればヴィータの記憶にある名前もまた、あの三人組を示す名前と考えて間違いない。

 そう、奴等こそは破壊の悪霊。暗闇の兵士。邪悪の名を体現する一個軍団。
 その名は――

「………………ゴルゴム」

 知らずヴィータの口から漏れた呟きに、リインは、アルフとユーノも、ただ首を傾げるばかりだった。





◆      ◆







 魔力も体力も共に限界。気を抜けば膝が笑い出しそうになるし、魔力切れ寸前なせいか、倦怠感も酷い。
 それでもギンガ・ナカジマが足を止めないのは、今の彼女にとって、己の体調など考慮するに値しない事であったから。
 まるで小型の竜巻でも吹き荒れたかのような惨状を呈するミッドチルダ総合医療センターの廊下を、一応病院という事で全力疾走は遠慮しつつも小走りに、ギンガは急ぐ。目指す先は四階の端、廊下の突き当たりにある個室。
 内側から吹っ飛ばされ、くの字に折れ曲がった状態で転がる扉の横を通り過ぎ、ギンガは病室に駆け込んだ。

「――衛司くんっ!」

 部屋に這入ると同時に声を張り上げるも、返事はない。
 結城衛司の入院していた個室は、最後にギンガが見た時の記憶よりも、更に酷い有様となっていた。ベッドは引っ繰り返され、ベッドの周囲に置かれていた医療機器も軒並み破壊され、残骸が散乱している。
 部屋の窓ガラスといい、天井の蛍光灯といい、まともな形を留めているものは何一つないと思わせるほどの、それは惨憺たる光景であった。

 無論、その中に衛司の姿は見えない。
 最悪の想像がギンガの脳裏を過ぎる。あの時はとにかく化物を彼から引き離そうと必死だったのだが、もし敵――オルフェノク、と名乗っていた――が二匹以上居たとすれば、一人取り残された衛司を襲おうとするのは自明である。
 現に、ギンガ達に襲いかかってきた雀蜂のオルフェノクや、仮面の男に倒された片腕のオルフェノクなど、クラナガン医療センターには複数のオルフェノクが入り込んでいたのだから。
 呼べど叫べど、衛司からの応答はない。絶望がギンガの胸に広がっていく。あの時、自分が彼の傍を離れなければ――後悔というものは大概考えるだけ意味のない事であるのだが、この時のギンガもまた、その例外ではなかった。

 ただ、今の彼女に関しては、ややその意味合いも違っていただろう。普通の人間は後悔という行動が無意味である。しかし今のギンガは、後悔を懐く事そのものに意味がなかったのだ。
 引っ繰り返ったベッドの下から伸びる、肉付きの薄い手を見つけた瞬間に、それは証明された。

「衛司くんっ!?」

 慌ててベッドを持ち上げ、脇に放り捨てる。そこにあったのは予想通り衛司の姿。生きているのか死んでいるのか、ギンガの呼びかけにまるで応えず、ぴくりともしない――いや、生きてはいる。弱々しいが確かに、彼の呼吸が聞き取れる。
 ギンガは気付いていない。何故衛司がベッドの下敷きになっていたのか。彼の腕力では持ち上げる事すら困難な、大型の看護用ベッドの下敷きになっていた不自然を、ギンガ・ナカジマは見過ごしてしまった。

 ただ実際、それは大した理由でもなかったのだが。彼を此処へ運んだ“何者か”が、とりあえず彼の姿を隠そうと、床に横たえた彼の上にベッドを乗せたに過ぎない。悪餓鬼が砂場に玩具を隠す行為と同程度の事である。
 衛司が病室を離れていた事。殺し合いを繰り広げていた事。殺意に突き動かされるまま、戦場に現れていた事。それらの一切を、ギンガは知らないのだから――彼を此処へ連れ戻した“何者か”の存在など、想像すら及ばぬ事。
 だから今のギンガにあるのは、ただ安堵の一念である。

「良かった……本当に……」

 目尻に涙すら浮かべながら、ギンガが呟く。怪我は酷く、お世辞にも無事とは言い難いものの、それでも生きていてくれたというだけで、今の彼女には充分だった。
 それが本当に“良かった”事なのかどうか、ギンガは疑いもしなかった。





◆      ◆





第陸話/乙/了






◆      ◆







後書き:

 という訳で、第陸話乙でした。お付き合いありがとうございました。

 とりあえず、長々と続いた戦闘も今回で一区切りです。次回は今回の事件の後始末と、次エピソードへの導入になる感じですね。大体三話(六本)で1エピソードという体裁を取っております。
 カイザ登場&ゴルゴム出現な今回ですが、実際のところ、カイザは今回が初登場となる予定でした。以前にも後書きで書いた通り、「ライダー出ないので敬遠してました」な感想を多く頂いたので、少し前倒しして出した次第です。結果として各エピソードの中にライダーを一回以上出せたので、これはこれで良かったのかも。
 ゴルゴムは作中描写の通り、ヴィータ、というかヴォルケンリッターと関連する形にしてみました。感想掲示板の方でも気付いた方がいらっしゃったのですが、ただ存在を知っているというだけでなく、もっと積極的な因縁のある感じになっております。折角のクロスオーバーですので、少し冒険してみたのですが……大丈夫だろうか、これ(作者の力量的な意味で)。

 伸び伸びになっていた主人公VS原作キャラ、今回で漸く書けました。ただ見直してみると、やっぱり俺Tueeee!な描写になってるかなあとちょっと反省。
 なのは達は連戦ですし、諸々のハンデを課せられている状態なので仕方無い面もあるのですが、やっぱり原作キャラにオリキャラが勝ってしまう描写には嫌悪感を抱く方も居られるので、なるべく自重していきたいところです。

 前二話と同様、今回も随分長くなってしまいました。どうも戦闘に入ると長々としてしまって困ります。次回以降は今回の半分程度に収めるつもりですので。

 今回はこの辺で。宜しければ、またお付き合いください。




[7903] 第陸話/甲
Name: 透水◆44d72913 ID:35af097c
Date: 2023/12/29 20:43

 どうでも良い話だが、結城衛司はいままでに女子と付き合った事がない。
 無論ここで言う“付き合い”とは、男女交際、つまりは彼氏彼女の関係である。

 まあ十四歳、中学二年生の身分で彼女のいる男子は決して多数派ではないだろう。衛司もまた、彼女を持つ少数には含まれていない。
 クラスではいまいち目立たない存在で、女子を引きつけるような諸々の魅力にも乏しい。ただ後者はともかく、前者については衛司自身が望んでそのポジションに居るのだから、別段問題視すべき事でもないだろう。
 また後者に関しても、スポーツ万能だとか成績優秀者だとか、同年代女子にアピールできる要素が少ないという意味だ。温和な気質は決して女子ウケも悪くない。人気者とまでは言えないが。
 背丈は標準でやや痩せ気味。黒髪黒目。黒子だの傷跡だのといった、目立つ特徴もない。それなり端正な顔立ちではあるものの、こと外見に関する限り、良くも悪くも平凡の域を脱しない少年なのである。

 さておきそんな衛司であるが、ここまで述べたところで既に自明の事ではあるのだけれど、当然、いままでに女性と二人っきりで出かけた事などない。
 姉がまだ存命の頃は買い物に付き合わされたりもしたが、それを『女性と出かけた』とカウントするのは些か無理があるだろう。衛司にしてみれば、姉というものは女性の範疇には入らない。というか入れたくない。
 女性と二人っきりで出かける。一般的にはそれは『デート』と呼んで差し支えないのだろう。
『デート』の定義とは『恋愛関係にある二人が、日時や場所を打ち合わせていっしょに外出するか、もしくは街中で落ちあって、逢瀬を楽しむ行為』である。しかし上記の定義より転じて『男女の組合せが二人きりで行動する事』もまたデートというのだから、広義の意味では、その日の衛司がしているのもまた、デートと言えばデートと言える。

 女性と、それも年上で美人なお姉さんと二人っきりでの外出。思春期の少年にしてみれば垂涎もののシチュエーションと言えるのだが――

「それじゃ、次は衛司くんの下着ですね。衛司くんはブリーフとトランクス、どっちが好みですか?」
「……えっと、いや、どっちでも……」

 ――さてこれは、果たしてデートと呼んでも良いものだろうか?





◆     ◆





異形の花々/第陸話/甲





◆     ◆







 ミッドチルダ総合医療センターが『灰色の怪物』、オルフェノクの襲撃を受けてから、二日が過ぎた。

 この二日、センター内は上を下への大騒ぎだった。襲撃を受けた当日より、その後の方が混乱のピークだったと言って良い。
 台風や洪水といった災害は、それが過ぎ去った後に残される惨状によってその規模を量る事が出来るものだが、ここ二日間の医療センター内の混乱ぶりを見れば、オルフェノクの襲撃もまた一種の災害に等しいと言える。
 総合医療センターの建築はそう古いものではない。数年前に落成したばかりの、ほぼ新築と言っても良い物件だ。
 それが一時間と経たぬ内に、まるで廃棄市街区に打ち棄てられた建物の様に無惨な有様と化しているのだから、災害という表現はまったく的確であると言えよう。

 もっとも、建物への被害は、オルフェノクのみによって齎された訳ではないのだが。
 機動六課との戦闘の痕跡。ミッドチルダにおいて最強を謳われる魔導師達が、『灰色の怪物』と戦った結果である。
 相手が相手だ、周囲の建造物に気を使っての戦闘など出来るはずもないとは誰もが理解しているのだが、しかし実際、彼等が居なければもう少しこの惨状も大人しいものではなかっただろうか――少なくとも、そう考える事に罪はないだろう。

 幸いなのは、職員による避難誘導が適切だった為か、医療センターに入院している患者達に怪我人が殆ど出なかった事だろう。
 軽症を負った者は数名居るものの、それらは避難の際に転んだとか、角を曲がった時の出会い頭に衝突したとか、その程度であって、機動六課とオルフェノクとの戦いに巻き込まれて負傷した者は居ない。
 ただ一人の、例外を除いて。

「おはようございます、衛司くん。具合はどうですか?」

 その日、面会時間が始まって早々に、今日も結城衛司の見舞いにやってきたギンガ・ナカジマが、病室に入るなり開口一番、そう口にする。
 対する衛司はそれに返事を返さない。返せない、と言う方がより正確か。顔の下半分に包帯を巻き付けられ、まるでミイラ男と見紛う姿に成り果てた彼には、むーと唸る事でしか、ギンガの言葉に応えられない。

 ついでに言えば、首から下もまた酷い有様だった。右腕はギプスで固められ、腹には大仰なコルセット。
 二日前の彼も既に相当な重傷患者であったのだが、今の彼はそれに輪をかけて重傷患者であった。何故病院に入院しているのに怪我が増えていくのか、甚だ不思議である……いや、原因は明白だ。オルフェノクによる暴行の結果である。
 ただ、その暴行に一体如何なる理由があったのかが分からないのだから、結局、首を傾げるしか他に処方がない。

 とは言え、ギプスもコルセットも、明日には外れるらしい。相変わらず治癒魔法の効きが悪いものの、それでも数日前ほどではなく、ゆっくりとではあるが(それでも、魔法を使わないよりは遥かに早く)彼の身体は回復に向かっていた。
 軽く左手を挙げて『問題無い』の意を示す衛司に、ギンガは優しげに微笑みながら、ベッドの脇にパイプ椅子を引っ張り出して、腰を下ろす。もう勝手知ったると言わんばかりの所作であったが、当然、それについて文句を垂れる口は、衛司にはない。
 それよりも――

「………………」
「うん? どうかしたんですか、衛司くん?」

 衛司の視線に気付き、きょとんとした顔で問い返してくるギンガに、衛司はふるふると首を振って答える。衛司のその反応に可愛らしく小首を傾げるも、ギンガはそれ以上何も訊いてはこなかった。
 それは今に始まった事ではない。二日前の一件以来、ギンガは衛司に何も訊いてこない。普通通りに普段通りに、当たり障りのない雑談しか話を振ってこない。

 何故、自分がオルフェノクに狙われるのか。先日襲ってきたオルフェノクとの関係は。問われたところで衛司自身にも解らないのだから答えようがないのだが、そもそもその質問すら来ない今の状況は、まったく衛司の慮外であった。
 ただ、衛司の方には「何故訊かないんですか?」と問う気はない。訊かれないのならそれで構わない。例え綱渡りのような関係でも、それが維持されているのなら、わざわざ自分からそれを壊すつもりなどなかった。

 ……しかし。
 所詮、綱渡りは綱渡り――歩いて渡りきるならいざ知らず、その上に留まっていられるはずもなく。
 この日、彼の前に現れた“転換点”は、その意味では遅すぎたのかもしれない。

「こんにちは、お邪魔するでー」
「お邪魔します」

 不意に、ノックもなく――というかそもそもノックする為の扉が先日の一件で吹っ飛んでしまい、入口にはカーテンが掛けられているだけなのだが――病室に入ってきた二人組の女性に、衛司が驚いて顔を上げる。
 歳の頃はギンガより二つ三つ上というところだろうか。栗色の髪をショートに揃えた女性と、金髪をストレートに流した女性。そのどちらもが、目を瞠るような美人である。
 勿論衛司の知り合いではない。まあこの世界における知り合いなどギンガ以外には居ないのだが、とりあえず、初対面である事は間違いない。

「八神部隊長――フェイトさん!?」

 ギンガが驚いたように声を上げて、席を立つ。その反応から察するに、恐らくはこの二人、ギンガの知己か。ギンガと同様の制服を着用しているところを見ると、彼女達もまた、時空管理局の人間と見て良いだろう。
 包帯に下半分を覆われた顔で、それでも何とか怪訝な表情を作る衛司――それはつまり、何故ギンガの友人が自分を訪ねてくるのかという疑問が故の表情であったのだが、来訪者達は衛司のそんな内心を知っているのかいないのか、優しげな微笑を浮かべながら、衛司のベッドに歩み寄ってくる。

「初めまして、やな」

 優しげな微笑、というのは栗髪の女性と金髪の女性に共通しているのだが、しかし衛司の顔を覗きこんでくる栗髪の女性に関しては、そこにどこかしら、悪戯っ子のような色も含まれている。
 例えるなら、そう、童話に出て来る様な化け狸。さすがに初対面の女性を面と向かって狸呼ばわりするつもりもないのだが(そもそも喋れない)、衛司がそんな印象を抱いた事は否定出来ない。
 とりあえず、初めましてである事は確かだ。こくりと頷いてみせた衛司に、「ん」とにんまり笑って、栗色の髪の女性もまた頷いた。

「時空管理局古代遺物管理部機動六課部隊長、八神はやてや。宜しゅうな」
「時空管理局古代遺物管理部機動六課所属執務官、フェイト・T・ハラオウンです。宜しくね、結城くん」

 名乗ってもいないのに衛司の名前を知っているあたり、自分の自己紹介は必要無さそうだ。ぺこりと一礼する事でそれに代える。
 部隊長に、執務官。知識の乏しい衛司にははっきりとは分からないものの、それが組織内においてかなり高位の役職である事はおおよそ想像がつく。
 そういえば――と、執務官という役職については、以前にギンガから聞かされていた事を思い出す。衛司が元の世界、地球に戻る為の法的処理を行ってくれる人間だったか。名前までは聞いていなかったが、恐らく、ギンガが言っていた執務官とは、この金髪の女性の事だろう。

 ギンガが用意した椅子に腰掛ける二人。具合はどうかな、見ての通りです、とそんなやり取りが交わされる(質問に答えたのは衛司ではなくギンガだったが)。
 見舞い客と入院患者の会話としてはまあ間違いではないのだが、しかしそんなお約束の為にわざわざ時間を取るほどに、彼女達は暇な身分ではあるまい。
 ご用件は、と急かすような衛司の視線を受け、フェイトと名乗った金髪の女性が柔らかな口調で切り出した。

「結城くん……あ、名前で呼んだ方が良いのかな?」

 頷いて肯定の意を示すと、フェイトは改めて、「じゃあ衛司くん」と仕切り直す。

「ちょっと残念な話になるんだけど、君をすぐに地球に戻す事は出来ないんだ」

 申し訳なさそうに、フェイトがそう口にする。別に彼女に責任がある訳ではない、むしろ責任を云々するのならば、衛司にこそ責任があるのだ。
 地球に戻せない理由については、言われずとも解っている。先日、勝手に病院を脱け出してしまった一件のせいだろう。それもただ脱け出したというだけならともかく、その先で瀕死の重傷を負わされて戻ってきたのだから、無理からぬ事である。
 立場的には(犯罪被害者であれ)不法入国者である衛司が曲りなりにも自由を保障されていたのは、ひとえに管理局の厚意によるものである。それを蔑ろにするような真似を仕出かしたのだから、こうなる事は自明であったのだ。

 ギンガから聞かされていた話では、衛司が地球に戻るにあたっては、彼女が色々と手を尽くしてくれたらしい。それを衛司自身が台無しにした。
 さすがに本人を目の前にして罪悪感の一つも抱かぬほど、結城衛司は厚顔では無い――心情的にはベッドの上で土下座したいところだが、今のコンディションではそれも少しばかり難しい。結局、深々と頭を下げる事しか、衛司には出来なかった。
 ただ、それに対するフェイトの反応は、慌てたように胸の前で手を振るというもの。衛司の謝罪が、まるで過ぎた行いであるかのような反応であった。

「実はね――君を地球に戻せないのは、その件だけが理由じゃないんだ」

 フェイトが言うには、衛司が勝手に病院を脱け出した件は確かに問題ではあるものの、それは別段、地球への送還が取り止めになる程の大問題ではないとの事。フェイトが用意しなければならない書類の枚数がかなり増えるのは事実であるが、それでも昨日、遅くとも今日には、衛司を地球に戻す事が出来ていたらしい。
 それが出来なくなった理由は実際のところ衛司の側にはなく、ただ管理局の都合であるらしい事は、フェイトの反応から凡そ察する事が出来た。
 そして事実、続く彼女の言葉によって、それが裏付けられる。

「二日前の一件、憶えているよね?」
「…………」

 無言のまま、衛司は頷く。
 否、それは嘘だ。いや嘘というほど積極的ではないにしろ、実際からは程遠い。

 衛司が憶えているのは、不意に病室へとやってきた謎の男に殴られ蹴られ殺されかけた事だけ。それをギンガに救われた事はおぼろげにしか記憶しておらず、その後に起こった事については、完全に忘却の彼方にある。
 つまり、コングオルフェノクを斃し、ジャガーオルフェノクを貫き、機動六課の魔導師達と戦い、ギンガ・ナカジマを殺しかけた事など、彼はまるで憶えていない――身に覚えのない事である。

 医学的に判断するのならば、それは一種の記憶障害と言えた。
 無理からぬ事であろう。数日に亘る昏睡から覚めた直後の暴行。そして身体に多大な負荷をかけるオルフェノクへの変化。飛翔態、激情態の発現。彼の脳髄が“記憶する”という機能を忘れた事は、いっそ必然とも言える。
 そうで無ければ、いかに人外である衛司とて、文字通りの人でなしである結城衛司とて、こうも平然とギンガ・ナカジマと接してはいられない。殺しかけた事、殺されかけた事に恥じ入るだけの神経を、衛司はまだ持ち合わせているのだから。

 ただ、この場におけるフェイトの質問は、あくまで“人間”の、“人間”として認知されている『結城衛司』にのみ向けられたものであって、その意味からすれば、衛司の応答は嘘でも間違いでもなかった。単に実際からは程遠いというだけだった。

「あの事件の関係者として扱われているから……今はまだ、君を元の世界には戻せない」

 関係者――とは言うものの、それはかなり控えめな、ともすれば誤解を招く言い方であった事だろう。何せ彼が居なければ、あの事件は起こっていなかったかもしれないのだから。
 複数のオルフェノクによるミッドチルダ総合医療センター襲撃。過去に前例のないその事件の渦中に、いや、最早中心と言って良い位置に在った事こそが、衛司の地球送還を妨げている要因であると、執務官は告げた。

 先日の一件において明らかとなった事実は、そのどれもが、時空管理局にとって無視出来ない程の重要性を帯びていた。
『灰色の怪物』に『オルフェノク』という呼称が存在する事。そのオルフェノクが、実は人間との意思疎通が可能な知的生命体であった事。そしてオルフェノク達が、何らかの意図を持って活動している事。
 機動六課と戦ったオルフェノクの言によれば……少なくとも先日ミッドチルダ総合医療センターを襲ったオルフェノク達は、ただ一つ“結城衛司の抹殺”を目的として現れていたらしい。これまでに確認されたオルフェノクの全てが、単なる破壊活動のみに終始していた事を考えれば、それは際立った異変と言えた。

 故に、管理局は結城衛司を逃せない。彼がミッドチルダに出没する化物の謎を解く鍵である事は明らかだ。
 今はまだ、彼を元の世界に戻す訳にはいかない――少なくとも、オルフェノクという存在を解き明かすまでは。

「管理局としては、君にこの世界に留まってもらって、オルフェノクの調査に協力してもらいたい――んだけど」

 と、そこで不意にフェイトの言葉がトーンダウンする。目を瞬かせる衛司に、調子を落とした声音のまま、「実はね」とフェイトは続けた。

「言い辛い事なんだけど……君がこの病院に入院していられるのは、今週いっぱいまでなんだ」

 もし衛司が言葉を発する事が出来たなら、はい? と聞き返していた事だろう。
 今週いっぱいとは言うものの、既に今日は金曜日。明日、遅くとも明後日にはここを追い出される事になる。
 明日にはギプスとコルセットが外れ、立って歩ける程度には回復するだろうが、それでもこんないきなり退院させられるというのは、幾らなんでも唐突過ぎた。普通はもう少し余裕を持って通知されるものではないのか?
 衛司がそう視線で問うと、フェイトはますます申し訳なさそうな顔を見せた。何となく苛めているようで心苦しい。

「この前の事件のせいで、病院側から管理局に苦情が来てるんだ……これ以上君を入院させておく事は出来ない、管理局で引き取ってくれって……」

 成程、確かにそれは至極当然の事であるだろう。衛司自身に責任があるかどうかはともかくとして、ミッドチルダ総合医療センターのこの惨状に、結城衛司は決して無関係ではない。

 どこの世界でも、人は厄介事を厭うものだ。そしてこの場合の厄介とは、オルフェノクの標的である少年の存在に他ならない。
 それをわざわざ本人に伝えてくれたのは、果たして彼女の好意であろうか、はたまた単なる無思慮によるものか。
 まあどちらにしろ、衛司の処方に変わるところはないのだが。元より好んで此処に居座っている訳でもない。極論、雨風を凌げる場所であればどこでも構わなかった。

 どこか白けたような顔で頷く衛司に、フェイトが、その後ろで成り行きを見守っているギンガが困ったように眉根を寄せる。
 その反応もむべなるかな。未だ傷の癒えぬ身で病院を追い出されるのだと聞かされて、しかし衛司に動揺らしい動揺が見られないのだから、彼女達も何と声をかけて良いのか分からないのだろう。

「――で、そこでわたしの出番てワケやな」

 それまで黙ってフェイトの言葉に耳を傾けていた栗髪の女性――八神はやてが、ずいと身を乗り出すようにして口を挟んだ。

「さっきも言うたけど、わたしは今、機動六課て部隊を預かっとる。ほんまはロストロギア……古代文明の遺産を扱う部隊なんやけど、今はどこも人手不足やいう事で、わたしらがオルフェノク問題に対処する事になっとるんよ」

 まあその分、オルフェノク問題に関してはわたしらにほぼ一任されとんのやけどな。はやてはそう付け加えた。
 衛司には説明を省いたのだが、あえて注釈を入れれば、これはあくまで“オルフェノクに対抗出来るだけの実力を持つ魔導師”が足りないという事。
 ただでさえ地上には魔導師が不足しがちなのに、先の『JS事件』によって多くの魔導師が負傷し、未だ復帰していない者も数多い。そんな状況下でオルフェノクに対処出来る部隊などそうある訳も無く、機動六課にお鉢が回ってきたという次第である。
 ただなあ、とそこで、はやては肩を竦めた。気持ちは解らなくもないのだが、しかし彼女には微妙に似合わない仕種だった。

「正直なところ、管理局はオルフェノクに関して殆ど何も掴めてへんのが現状や。名前だけはこの前の一件で知れとるけど、正体不明ちゅう事は変わらへん。ぶっちゃけ藁にも縋りたいて感じなんよ」

 この場合の“藁”がつまり何の、誰の事を指すのか。それに気付かぬほど衛司は愚鈍ではなく、続くはやての言も、それを承知した上でのものだった。

「さっきもフェイトちゃん……おほん、ハラオウン執務官が言うた事やけど、管理局としては君に協力してほしいんや。いやまあ、具体的に何してもらおとは考えてへん。居てくれるだけでええんよ――用があるんは、君を狙って出て来る連中の方にやから」

 つまるところ、衛司に期待されている協力とは、オルフェノク出現の“目印”となる事。これはより言葉を選ばなければ“生餌”であり“囮”であろう。
 言葉を飾らず、誤解や勘違い、騙しや誤魔化しの介入する余地がない物言いは衛司が好感を抱くに充分であり、もしそれを見越した上で彼女が発言を組み立てているのだとすれば、驚嘆すべき聡明さと言えた。

「前置きがちょう長なったけど、こっからが本題や、結城衛司くん」

 ぽん、と膝を叩いて、八神はやては不敵な笑みを表情に刻み、真っ直ぐに衛司を見据える。一見真摯であるようでいて、その実、挑発するかのような視線だった。
 その視線に気圧されている自分に、衛司は気付く。

「うちに――機動六課に、来いへんか?」





◆      ◆







「ねえ、はやて」
「んー?」

 結城衛司の病室を辞し、機動六課隊舎への帰路の途中、愛車のハンドルを握るフェイトが、ふと思いついたように口を開く。
 気の無い感じに返事を返すはやてだが、無論、フェイトの話にちゃんと耳を傾けている。彼女が何を言いたいのかについても、凡その見当がついていた。
 果たしてはやての予想通り、フェイトが向けてきたのは、先の見舞いの際にはやてがあの少年――結城衛司へと向けた言葉に関する問いであった。

「どうして、あんな言い方したの? あれじゃ、はやてが嫌いなやり方と変わらないよ」

 長い付き合いだ、言葉を省いてもその意図は伝わる。
 八神はやての嫌いなやり方。それはフェイト・T・ハラオウンもまた好まないやり方という意味であるが、要は『何も知らない少年』を『化物に対する囮』として使う行為の事だ。
 先の病室におけるはやての言葉は、彼女が手法としてそれを行う事を意味している……いや、それ以外に解釈のしようがない。
 んー、と韜晦するように一つ唸ってから、しかしそもそもそんなつもりは欠片もなく、はやては至極あっさりとフェイトの問いに答える。

「ま、そーなんやけどな……『わたしらが全力で保護します!』て言うときながら、その裏でこっそり餌か囮みたいな扱いするん、わたしはあんまり好きやないんよ。それやったら、最初にきちっと説明した方がええ。メリットとデメリットをちゃんと提示して、その上で選んでくれた方が、本人にもわたしらにもええと思うたんや」

 とは言うものの、実際のところ、はやてに衛司を餌として使うつもりなど皆無であった。
 管理局の上層には、彼を囮としてオルフェノクを引きずり出そうという意見も少なからず存在しているという。さすがに人命尊重を謳う管理局、そこまで非人道的な手段を大っぴらに行使する事は出来ないだろうが、しかしそれは逆説、公にしないのならばその限りではないという事でもある。
 つまるところ、はやてが結城衛司を機動六課に招いたのは、彼女自身の言とは裏腹に、彼を保護しようという目論見に他ならない。名目上はヴィヴィオと同じような扱いになるだろうか。
 ただし――

「問題は、うちで保護出来るんはあと半年ちょっとしか無い、ちゅう事やな」

 そう。機動六課は来年の四月には解散する事が既に定められているのだ。今は十月も半ば、残された時間は既に半年を切っている。
 そも、先のはやての言にもある通り、機動六課がオルフェノク問題に対処する事自体イレギュラーなのである。あくまで六課は代理、場繋ぎとして用立てられたに過ぎない。
 オルフェノクに対抗出来る戦力を有する部隊であれば何処でも構わなかった――先の『JS事件』における人員の損耗が最も少なかったから選ばれたと、それ以上の理由はない。

「地上本部の対オルフェノク専門機関……それが発足するまで、だったっけ」
「せや。わたしらがオルフェノクに関われるんは、六課が解散するまでのあと半年ちょい。それが過ぎた後は、オルフェノク絡みの案件は全てその新設機関が担当する事になる。……当然、衛司くんの身柄も、その機関に引き渡さなあかん」

 そしてそうなった場合、衛司の身柄がどのように扱われるのか、保証の限りではない。
 彼がオルフェノクを招き寄せる理由。恐らく、それは彼自身の意思によるものではないのだろうが、しかし今後発足するであろう対オルフェノク機関がその辺りの事情を考慮してくれるかどうか。
 判断する為の材料がまるで揃っていない現状において、出来得る限り悲観的な予測を立てておくのは、最早指揮官としての八神はやての業とも言える。
 だからこそ、彼女は過たず理解していた。時間稼ぎは対オルフェノク専門機関の発足に関する事だけではなく、あの少年の処遇に関しても、だ。

「その半年が終わる前に、オルフェノク問題が片付いてくれればええんやけど――そこまで言うたら、単なる高望みやな」

 苦笑を浮かべて言うはやてに、そうだね、とこれまた苦笑と共に、フェイトが応える。
 欲を言えば、この半年の間にオルフェノクに関する問題が片付いてほしい。だがそう思う一方で、あの苛烈なる『JS事件』を潜り抜けた隊員達に、あと半年、静かな時間を過ごさせてやりたいとも思うのだ。そのジレンマこそが、八神はやてをしてやや憂鬱にさせている原因であった。
 赤信号に引っ掛かり、車が交差点の直前で停止する。エンジン音が車内に薄く残響し、そしてそれに被せるようにして、フェイトが口を開いた。

「大丈夫だよ、はやて。はやての気持ちは皆、ちゃんと解ってるから」
「んー? わたしの気持ち? 何の事やろなー」
「ふふ。うん、そうだね。何の事だろうね」

 韜晦の言葉を無為にする、子供をあやすかのようなフェイトの言葉に、む、とはやてが口を尖らせた。と同時に信号が青へと変わり、タイヤが再び路面を噛んで回り出す。

「……ん? 結城……結城衛司くん……やったよなあ」
「? そうだけど。さっき見せた資料の通りだよ――どうかしたの、はやて?」
「んー。いや、別に大した事やないんよ。最近会うた人と似た名前やなあ思うて」

 確か、スマートブレイン社の社長――彼女もまた、“ユウキ”なる姓であった筈だ。
 元々スマートブレイン社ははやて達の出身である第97管理外世界の企業。そして結城衛司もまた、第97管理外世界からミッドチルダに迷い込んだ人間である。奇妙と言えば奇妙な符号であった。
 ただ、はやてはその符号を偶然で片付けた。同姓の人間など幾らでもいるだろうと。また漢字文化のないミッドチルダでは、スマートブレインの社長も結城衛司も、同じ発音の姓でしか無い。そうなれば同姓の範疇は更に広がる。そこから一々あの女社長と衛司との共通点を探していくほど、八神はやては暇ではなかった。
 暇ではない――そう、彼女は全く暇ではなかった。今も、そしてこれから先も、当分の間。
 彼女があの女社長と結城衛司の接点を知るのはこれより暫く先の話であり、そしてその時には、結城衛司に関する諸々の事態は全て終わりを告げていたのである。





◆      ◆







 結局、結城衛司は八神はやての誘いに乗った。
 そもそも、彼に選択肢など、有って無いようなものだった。元の世界に戻る事は許されず、この世界、ミッドチルダに留まるしかないのだが、ミッドチルダ総合医療センターを追い出される事となった彼には行き場所がない。
 さすがに異郷の地で『ホームレス中学生』を実践する気にはなれず、まあ管理局も住む所くらいは世話してくれるだろうが、あてがわれたそこが住み良いところであるかに関してはまったく保障がない。どこでも同じだ、と考えてしまえば、直々に誘いをかけられた方を選ぶのは、ごく自然な思考であるだろう。

 そういう面から見ると、八神はやての誘いはかなり巧妙であったと言える。
 自身の意思で選んだように思わせて、その実誘導されるがままに相手を動かす――こう書くと八神はやてが悪女の様に感じられてしまうが、さにあらん、結果としてそうなったというだけで、彼女がそこまで意図した訳ではない。実際、八神はやてが結城衛司を誘ったのは、ただ純粋に善意からの事であったのだ。
 ただ、いっそ偽悪的ですらあった言葉のせいか、誘われた側にそれが伝わりきってはいなかったのだが。

 ……閑話休題。

「え? ナカジマさんも、六課に行かれるんですか?」
「はい。出向という形ですけど、わたしも六課に配属になりました」

 以前にも一度出向していたんですけどね、とギンガがはにかむように笑う。
 不意に向けられた笑みに、思わず息が止まる。思考も止まる。心臓も止まったかと思った。女性の笑顔というものがここまでの破壊力を持っていたとは。女性にまるで免疫のない少年が頬を染めたのは、至極当然な流れであるだろう。
 幸いにも、ギンガはまだ、衛司が真っ赤に染まっている事に気付いていない。その隙に衛司はぶんぶんと首を振って顔面を冷却する……いきなり首を振り始めた衛司をギンガが怪訝な面持ちで覗きこむが、いやもう本当になんでもありませんから、と言われて、首を傾げつつも大人しく引き下がった。
 ギンガに背中を向けて深呼吸。火を点けられたように熱い顔面が、一呼吸ごとに温度を下げていく。一分間をたっぷり呼吸活動に費やし、肺の中の空気を完全に入れ替えてから、改めて衛司はギンガに向き直った。

「うーん。この柄は衛司くんに似合うと思うんだけどなあ……もう一つ大きいサイズ、無いかしら?」

 ちなみに。
 衛司とギンガが居るのは、クラナガン市街にあるショッピングセンター――その中の紳士服売り場の一角。更に言えば、紳士用肌着が置かれた一角。より端的に言えば、男物の下着が揃えられた一角。トランクスからブリーフからふんどしまで何でも揃っている。

 今朝方、ミッドチルダ総合医療センターを退院し――追い出された、と換言しても良い――その足で機動六課へと向かう事になった衛司だったが、その迎えとして現れたのがギンガであった。そして彼女は衛司を真っ直ぐ機動六課へ連れてはいかず、こうしてクラナガンの市街へと連れ出したのである。
 無論、ただ遊ぶ為に連れ出した訳ではない。元よりギンガは仕事中であり、その格好も陸士部隊制服のままだ。では一体何故かと言えば、要は衛司が暮らしていく為に必要な品の買い出しである。
 ギンガが衛司に語ったところによれば、機動六課は“食”と“住”を保証するものの、“衣”についてはその限りではないのだとか。とは言え最低限の衣服は貸してくれるらしいが、さすがに下着類までは用意出来ない。
 またそれ以外にも、人間一人が生活する為には必要なものは多々ある。故に、六課へと赴く前に、それらの生活必需品を揃えておこうというのが、こうして衛司をクラナガン市街へと連れ出した理由であった。

 上のギンガの台詞も、一枚のトランクスを手に取った上での発言である。年頃の娘が男物の下着を手にぶつぶつ呟いている図はなかなかにシュールなものであったが、当のギンガに、それを気にした様子はない。
 ちなみに余談ではあるが、今の衛司には管理局から一時的な補助金が出ている。何らかの要因で元の世界に戻れない次元漂流者が、ミッドチルダで暫しの間生活していく為……という名目で支給されるものであるが、今はそれが、衛司の生活必需品を購入する予算に当てられていた。

「んー。ちょっとごめんなさいね、衛司くん」
「わ、ちょ、ナカジマさん!?」

 不意にギンガがトランクスを手にしたまま身を屈め、衛司の腰元にそのトランクスを当てる。しかしそれは換言するなら、未だ少年の範疇に在るとは言え、男性の股座に少女が顔を近づける事でもあった。
 いや、実際にはそういやらしく考える事ではない。衣料品を購入する、或いは仕立てる際、店員が客のウエストを計る事はままあるが、ギンガの行為も意味合いとしてはそれとさして変わらない。
 だが全くの他人である店員ではなく、見知った女性にそれをされるというのは、思春期真っ只中の少年にとって同一に語れる事ではないのだ。
 言葉を失って口をぱくぱくさせる衛司とは裏腹に、ギンガは「うーん」と唸って、何事もなかったかのように立ち上がる。

「やっぱり小さいか……衛司くんも、下着はゆったりしたものの方が良いですよね?」
「や、その、えと、はい」
「お父さんも、家で穿くぱんつは一回り大きいものなんですよ。ぴっちりしてると収まりが悪い、とか言って」
「はあ」

 もう生返事しか出来なかった。て言うか年頃の娘さんがぱんつとか人前で堂々と口にするのはどうなんだ。
 折角冷却した顔が、また真っ赤に熱を帯びていた。どきどきばくばくと心臓が厭な感じに高鳴っている。
 ただ、その頭は先程と比べれば、まだ冷めていたと言えるだろう。いっそ無防備とも言えるギンガの所作は、つまり衛司を男性として見ていないとも取れるものであったからだ。その失望にも似た感情が、熱暴走しかねない衛司の思考に、僅かながらも冷静さを保たせている。
 そうと考えてしまえば、男が女性用下着を見立てている様は明らかに犯罪臭が漂うのに、女性が男性用下着を見立てていてもそんな感じがしないのは何故だろうと、軽く現実逃避する余裕も生まれてくる。
 無論、現実から目を背けたところで、背けた先に何が見える訳でもない事は理解しているが。

「あ、すいませーん!」

 ふと近くを通りがかった店員を呼び止め、トランクスを手に、ギンガが歩み寄っていく。どうやら、もう一回り大きいサイズがないか訊いているようだ。
 衛司の本音としては、別に下着の柄など、どんなものであろうと構わないのだが――透明な素材で出来ているとか、変なところに穴が空いているなどといったものは別だが――見立てる側のギンガにしてみれば、何がしかのこだわりがあるのだろう。
 いやもう別にどうでもいいや、ナカジマさんならそんなとんでもないものは選ばないだろ、と半ば諦めの境地で、はあと衛司はため息をついた。



 で。
 それから、およそ二時間後。



「このお店、ちょっと前に家族で来たんですよ。なかなか美味しかったんです」
「はあ」

 衛司の衣類などを購入する為に訪れたこのショッピングセンターは、最上階フロアに幾つもの飲食店テナントが入っている。ファーストフードからちょっと小洒落たレストラン、居酒屋の様な造りの店まで様々だ。
 中には一体どんな料理を食べさせるのか、まるで想像つかない装飾の店もある。幾多もの次元世界の文化が流入するミッドチルダならではの、調和が取れているようでいて、しかし雑然とした店並びであった。
 買い出しを終え、さあ機動六課へ向かおうとしたのだが、折しも時間は丁度昼時。先にご飯を食べてからにしましょうか、というギンガの誘いを衛司が断る理由もなく、こうして二人、最上階フロアの飲食店の中でも一番規模の大きいレストランに入って、二人向かい合わせに座っているのである。

「衛司くんは、何食べます? 好きなもの頼んで良いですよ」

 メニューを差し出しながら、ギンガがそう訊いてくる。ただメニューを渡されたところで、ミッド語を解さない衛司はそれをさっぱり読めなかったのだが。
 ギンガもそれは知っている筈なのだが、多分度忘れしていたのだろう。言葉は普通に通じる、会話は出来るのだから、文字が読めないという事をうっかり忘れてしまいがち。メニューを差し出したところでそれを思い出したらしく、誤魔化し笑いを浮かべながら、彼女はメニューを引っ込めた。

「あ、僕、ちょっとトイレに」
「はい。場所、判りますか?」

 大丈夫です、と応えて、衛司は席を立った。便所を示す記号は総合医療センターのものと同様らしい、迷う事もなく衛司は便所を見つけて、中へと入る。

「………………はあ」

 用を済ませ、洗面台で手を洗う衛司の口から、知らずため息が漏れる。期待と失望が比率も判らないほどに混じり合った胸中の混沌を如実に表した吐息。萎れた老人の吐息と言われればいっそ納得してしまいそうな、力無いため息だった。
 なんだかなあ、と思う。生まれて初めての“デート”に舞い上がっているつもりはこれっぽっちもないのだが、しかし全く何も感じなかったか、何も覚えなかったかと問われたならば、首を横に振る事も出来ない。

 正直なところ、結城衛司がギンガ・ナカジマに好感を――好意、では無く――抱いているのは、否定しようがない事実であった。
 彼女が有する人格の善性に多少なり思うところが無いでもなかったが、しかし少なくとも、それはギンガを拒絶するに至るほどの質量を有していない。

 恋愛感情というほど大したものでは無く、健全な青少年なら誰もが一度は抱くであろう、“年上”の“お姉さん”に対する憧れ。ギンガに対する衛司の感情も、凡そその範疇に収まる程度のものであると言える。
 で、今日はそんな“お姉さん”とのお出掛け、つまりはデートであるはずなのだが、何故だろう、何かが微妙に間違っている気がする。
 間違っているのが衛司の方なのか、それともギンガの方であるのかまでは、衛司には判別出来なかったが。いや別にこれが正解というイメージがある訳でもないけれど。



 ――そもそも。
 人外物体である結城衛司に、人間生物の“正解”が当て嵌まるかどうかすら、定かではなかったのだけれど。



 まあ良い。所詮、僕の人生だ。この辺りが妥当なところだろう――諦観によって現状を受け入れて、衛司は煩悶(と呼べる程大したものでは無かったが)を打ち切った。
 考え込んでいる間、ずっと蛇口の水を流しっぱなしにしていた事に、今更気付く。栓を捻って水を止め、近くにあったエアタオルで手を乾かして、さてギンガのところに戻ろうと踵を返した、その瞬間。
 かつん――と、爪先に何か固い物が当たる感触。蹴飛ばされた“それ”が床を滑って、便所の扉に衝突し停止する。何かと思って拾い上げれば、しかし拾い上げて尚、それが何なのか、衛司にはまるで判らなかった。

「何だ……これ?」

 形状としては拳銃のグリップに近いだろう。だが拳銃にしては奇妙だ。何しろそれには銃身も弾倉も無い、引鉄と思しきものはあるが、撃鉄があるべき部分には電飾と思しきものがついているのみ。玩具の部品のようにも思えるが、しかしそのサイズ、そしてその重量感が、玩具という印象を否定している。
 矯めつ眇めつそれを眺めてみるものの、結局、それが何なのかについて衛司は判断を保留し、落とし物として店員に渡せばそれで良いだろうと結論するに至った。





◆      ◆







 実際のところ、結城衛司が考えるほどに、ギンガ・ナカジマは“二人きりでの外出”に何も覚えていない訳ではなかった。
 いや、厳密に言うのならば、つい先程までの彼女は確かに、衛司の想像する通りであっただろう。家族以外の異性と二人だけでのお出掛けというものは、実のところギンガも生まれて初めての事であったのだが――妹よりも年下の少年であるせいか、相手を異性と認識する事を忘れていた。

 では何故今になって、それを認識する羽目になったのか。何の事はない、周りの席に座る他の客が、どれもこれも男女の二人連れであった為だ。
 カップル。アベック。恋人同士。まあ何と言ったところで同じだが、とにかくそんな関係性と見て取れる二人ばかりが、ギンガの周囲……否、このレストランの席の大半を埋めている事に、衛司がトイレに立ったその直後、ギンガは気付いたのである。

 今日は土曜日、時間はそろそろ正午を回るのだから、カップル達が昼食を摂っていたところで何の不自然もない。またギンガの居るこのレストランは、フロアに出店している他の飲食店と比べ、カップルが入り易い雰囲気であった事も付け加えておくべきだろう。
 そんな客達に囲まれているのだから、もしかしたら、傍からは自分達もそんな風に見えているのではないか。ギンガの思考はふとそこに至ってしまい、そして一度そう考えてしまえば、もう平然としていられる事は出来そうになかった。
 午前中に買い物を済ませた時のあれやこれやが、今更になってとんでもなく恥ずかしい事に思えてくる。あの時自分は何をして、何を言った?

 そう言えば、今朝家を出て来る時、ゲンヤがやけににやにやしていたように思えるが――あれはつまり、そういう事だったのだろうか?

(いやでもわたしと衛司くんは別に付き合っている訳じゃないし、それに、そう、あれはただのお買い物よね。そんなデートなんて大したものじゃないし、うん、デートじゃないデートじゃない、ただ一緒にお買い物に来ただけなんだから……!)

 半ば無理矢理に自分を納得させようとするギンガだったが、しかし思考とは裏腹に心臓は割れんばかりに鼓動を早め、彼女の頬に朱を差し込ませる。
 必然、それによって思考も熱暴走、ぐるぐると堂々巡りを繰り返す。茹で海老のように赤い顔で、時折ぶんぶんと頭を振り、落ち着かなく周囲を見回すギンガの姿は、紛う事無く不審者のそれであった。もしこの時、衛司が戻ってきたのなら、話はより一層ややこしくなっていた事だろう。
 だが『もし』とある通り、現実にはその様な展開が訪れる事はなかった。しかしそれは決して幸いではない。どう足掻いてもどう引っ繰り返っても、幸運からは程遠い。
 何故なら――

「あれー? 変ねえ。どこいったのかしら? ……あ、ちょいと御免なさいね。……んー、こっちにも無いかあ」

 不意に視界の端を掠めた悪趣味な色彩と、耳朶を打つ野太い胴間声が、ギンガの思考に冷水を浴びせた。
 視線を胴間声の聞こえた方へと向け、視界の中央に改めてそれを捉える。
 次瞬、ギンガの顔が引き攣った。思考が目の前の事象に強制停止を余儀なくされた。端的に言えば『呆気にとられた』という事なのだが、しかしそれが何らかの事件でも事故でもなく、ただ一人の人間の姿を目にしたが故である事は、特筆しておくべきだろう。

 身の丈二メートルを超える巨躯。衣服の上からでも見て取れる、ボディビルダー顔負けに鍛え上げられ肥大した、鉄塊のような筋肉。
 だがそれを包んでいるのは、水商売の女性を思わせる露出度の高いドレスである。その上から袖を通さず羽織っているコートも、優雅な雰囲気を醸し出す事なく、むしろ威嚇的な空気を周囲に放出している。
 岩石めいてごつい顔もべたべたと化粧品が塗りたくられ、ぷんぷんと臭う香水はやや離れたギンガの席にまで漂ってくる。化粧も香水も控えめなギンガとはまったく対照的である。
 オカマだ。嗚呼、それ以外に何と呼べというのか。今時こんなステレオタイプなオカマが居るのかどうかは定かでは無いが、目の前に居る以上、それに異議を唱えるつもりは、ギンガにはない。

 で、そのオカマはと言えば、何やら探し物をしているらしく、店内の床を、客席の足元を、舐めるように見回している。二メートルを超える巨躯を折り曲げてじろじろと眺め回すその様は、先程のギンガなどとは比べ物にならない程の不審人物であったが、店員も客も怯えきってそれを注意しようとしない。
 さすがに店の迷惑になっている――恐らく、オカマ自身にそのつもりはないのだろうが――、放っとく訳にもいかないと、ギンガは席を立ちオカマへと歩み寄って、「どうかされましたか?」と声をかけた。
「うん?」とオカマが振り向いた瞬間、脇目も振らず逃げ出したくなったのだが、それをぐっと堪える。

「んー。ちょっと落とし物しちゃったんだけど、見つかんないのよう。他は全部調べたから、もうこのお店で落としたとしか考えらんないんだけどねえ」

 困り果てたように嘆息しながらそう言うオカマだったが、しかし客観的に見る限り、そこから連想されるのは舌なめずりと共に獲物を狙う猛獣だ。

「落とし物、ですか……どういったものなんですか?」
「んーと。こう、これっくらいの大きさで、拳銃のグリップっぽい形してんの」
「拳銃……ああ」

 勿論、ミッドチルダにおいて拳銃はご禁制の品であるが、時空管理局地上本部の捜査官であるギンガ・ナカジマは、その形状についてある程度の知識を持ち合わせている。
 しかしその知識に照らし合わせる限り、この店の中でそんなものを目にした憶えはない。足元を見ながら歩いていた訳ではないので断言は出来ないが、オカマがジェスチャーで示したサイズからすると、気付いてもおかしくない筈だ。

「おトイレで落とされたとかは? 見たところ、お店の中には落ちてないみたいですし」
「ん。んん。あーそうね、トイレで落っことしたのかも。ちょっと見て来るわ」

 ギンガの言葉に幾度か頷いて、オカマが店の隅にある便所へと向かっていく。さすがに男性用便所に一緒に入る訳にもいかず、そもそもオカマにこれ以上付き合う気もなく、踵を返し元の席へ戻ろうとした――その瞬間。
 がちゃり、と便所の扉が開き、そこから衛司が姿を現す。丁度それはオカマが扉を開こうとドアノブに手をかけた瞬間。オカマの巨体は衛司の進路を完全に塞いでおり、また衛司も何かに気を取られていたのか、ぼふん、とオカマの腹に顔を突っ込んでしまう。まさしく肉の壁。
 予想外の障害に狼狽し、一歩後ずさって頭上を見上げる衛司だったが、それは即ちオカマの分厚い化粧を施された顔面を直視する事でもあった。

「あ……う」

 まさに蛇に睨まれた蛙。顔面蒼白となって硬直する衛司をオカマは怪訝そうな顔で見下ろしていたが、やおら身を屈めると、衛司の手から何かを奪い取った。

「あ、それ――」
「あー! あったあった! コレよコレ、デルタフォン! ね、ちょっとコレ、ドコにあったの!?」
「え、えっと、手洗い場のところに落ちてて――」
「落ちてたのを拾ってくれたのね!? んまーありがとう! 助かったわ! どうしようかと思ってたのよーう!」

 満面の笑顔と共に、オカマが衛司を抱き締める――さながら羽虫を絡め取る食虫花の如き有様で。いやむしろ、プレス機がスクラップを押し潰す光景と例えた方が近いかもしれない。みしみしめきめきと響く凄惨な音が、その想像を裏付ける。
 テンション右肩上がりのオカマに、最早周囲の誰も近づけない。いや近づきたくない。嫌悪と恐怖が彼等の足を竦ませる。それはギンガもまた例外ではなく、結果として彼女は、この直後に起こる惨事に何ら介入出来ぬまま、その顛末をただ見届ける事となった。

「ぐ……むぐ、むぐぐっ……! ちょ、離し、息、出来な、胸、胸板が……!」
「あててんのよ」
「だ、誰か、助けっ……!」

 助けを求める声も僅かに遅い。そも、それが届いたところで、彼の為に身を捨てて動いてくれる者など居りはせず。
 ばしばしとオカマの二の腕をタップしていた腕が、やがてべきべきぼきっ、という鈍い音が響いたかと思うと、力無くくたりと落ちた。





◆      ◆







「アタシの名前は臥駿河ガスルガ伽爛ガラン。呼ぶ時はあらん限りの親しみとありったけの愛を込めて、『がらりん♪』って呼んでくれると嬉しいわ」

 誰が呼ぶか。

「いやー、ホントごめんなさいね。アタシったらついうっかり」
「いえ、もう良いんですけど……」

 うっかりで殺されかけた身としては間違っても『もう良い』で済ませられる事ではなかったのだけれど、済ませたくはなかったのだけれど、しかしそれよりもこのオカマ――伽爛に関わりたくないという気持ちの方が遥かに切実だったせいか、どことなく投げ遣りな口調で、衛司は応える。ただその気持ちは、誘いもしないのに図々しく衛司とギンガが座っていた席に伽爛もまた腰を下ろした事で、ものの見事に踏み躙られてしまったのだが。
 四人掛けの席に衛司とギンガが向かい合って座っていたのだが、今は衛司の真向かいに伽爛が座り、ギンガは衛司の横に移動している。ギンガは衛司ほどに伽爛に怯えてはいない様子だが、それでもオカマの隣席と衛司の隣席なら、後者の方がまだマシだと考えたのだろう。
 平時ならギンガと並んで座る事に少しばかりの昂揚も覚えただろうが、目の前に物の怪にも等しい変態巨漢が鎮座している状況では、ときめいている余裕が衛司に有ろうはずもない。

「あ、来た来た。さあさ、食べちゃいましょ。冷めちゃうわよう?」

 店の奥からウェイターが二名、両手に大皿を持って近づいてくる。
 衛司達のテーブルに料理がずらずらと並べられ、にんまりと(威嚇にしかなってない)笑みを浮かべて、伽爛が箸を衛司とギンガに差し出した。

 ちなみにこれらの料理、伽爛が勝手に注文したものである。
 メニューをウェイターに差し出して、「上から順に持ってきて頂戴」と、漫画かアニメに出て来る成金のような台詞を吐いたのだが、どうやら店側はそれを冗談とは解釈しなかったらしい。いや、「ははは、ご冗談がお上手ですね、お客様」と受け流すだけの余裕がなかったのか。
 ともあれテーブルには料理が満載、それを見た衛司が僅かに眉を顰める。元より少食な衛司だ、これだけの量、見ているだけで腹一杯である。

 いただきます、と早速料理に手を付ける伽爛。がつがつばくばくといっそ暴力的とも言える勢いで料理を口に運んでいく様は、一昔前の漫画かアニメの食事シーンさながらだった。
 ちらと横を見れば、ギンガもまた、ぱくぱくもぐもぐと、伽爛ほどにがっついてはいないものの、それでも凄い早さで目の前の料理を平らげていく。伽爛に比べ余計な動きが少ないぶん、食べるのが余計に速く見えた。
 完全に食欲が失せてしまい、ジュースをちびちびと啜るだけの衛司を、ギンガが目聡く見咎める。

「あ。また衛司くん、食べてない。駄目ですよ、ご飯はちゃんと食べないと。大きくなれませんよ?」
「え、いやでも、ナカジマさん――」
「これとこれと……これも食べられますよね? あ、あとこれも」

 小皿に料理を幾つか取り分け、はい、とギンガが差し出してくる。いつぞやと似たようなシチュエーションであり、当然今回もそれを断る事は出来ず、差し出されるままに衛司は皿を受け取った。
 と、不意に伽爛が箸を止め、じっとりと厭らしい視線で衛司達をねめつける。

「えっとぉ……結城衛司ちゃんに、ギンガ・ナカジマちゃんだったかしら?」

 ちゃん付けは勘弁してほしい。
 無論、そうツッコむ事はしなかった(出来なかった)が。
 胡乱そうに眉を顰めて訊いて来る伽爛に、衛司とギンガが一度顔を見合わせ、その質問の意図が掴めないまま、揃ってこくりと頷く。その反応に伽爛はますます訝しげに目を細めると、「うーん」と首を捻った。

「ギンガちゃん。衛司ちゃんを、何て呼んでる?」
「え? 呼び方……ですか? 『衛司くん』、ですけど」
「衛司ちゃん。ギンガちゃんを、何て呼んでる?」
「……? 『ナカジマさん』って呼んでますが――」
「駄目よ!」

 やおら声を張り上げた伽爛に、衛司とギンガ、周囲の席に座る客、そして遠巻きに彼等の席を眺める店員達が、びくりと身を震わせる。

「駄目よ、駄目。もう駄目駄目。それじゃ全ッ然駄目よう――いいこと、衛司ちゃん!?」
「は、は、はい!」
「ギンガちゃんが『衛司くん』って呼んでるんだから、衛司ちゃんもギンガちゃんの事を『ギンガちゃん♪』って呼ばなきゃ!」
「い……え、ぅえっ!?」

 さすがにこれには、衛司もただ困惑するしか無かった。
 元の世界に居た頃からそうだが、衛司は同年代の女子と付き合った経験もなく、会話すらそう多くはない。有ったとしてもそれは学校行事か何かの準備などにおいてであり、ファーストネームを呼び捨てにするとか、愛称で呼ぶとか、そういった経験は皆無である。いきなりそれをやれと言われて、困惑しないはずがない。
 ギンガもギンガで何も言わないが、しかし彼女もまた伽爛の発言に困惑している事は、頬を染めたその表情から見て取れた。

「はい、りぴーと・あふたー・みー。『ギンガちゃん♪』」
「いや、でも、伽爛さん――」
りぴーと・あふたー・みー、よ。はい、『ギンガちゃん♪』」
「ぎっ……ぎん、が、ちゃ……」

 ぎろりと睨まれながら凄まれれば、最早衛司に否やはない。拒否すればどうなるか解らない(主に貞操的な意味で)となれば、それに従うしか、衛司に処方はなかった。
 しかし当然と言うべきか、その声は緊張に震えて、言語の体を為していない。無論、それで伽爛が納得する訳もなく、「ノンノンノンノン。はい、もう一回――」と駄目出しが入る。もう羞恥プレイ以外の何物でもない。
 だがそれも、不意に終わりを告げた。
 不意に伽爛の懐で鳴り出した電子音、携帯電話の呼出音と思しきそれが、衛司へのレッスンを妨げたのである。伽爛が懐から取り出したのは、先程衛司が拾った、拳銃のグリップにも似た物体。電子音はそれから鳴り響いている。
 ちょっとごめん、と伽爛が顔を背け、撃鉄部分の電飾を押し上げた。【Connectioning.】という電子音声の直後、グリップから人の声と思しき音が流れてくる――どうやらあのグリップ、形状はともかく、機能的には携帯電話に近い通信機器であるらしい。

「もしもし? あーはいはい、アタシよアタシ」
『……。……、……』
「んー? だいじょーぶだいじょーぶ、デルタドライバーの方はちゃんと送ったから。まだ届いてないの?」

 何やら上機嫌に話している伽爛を、ただ呆気に取られて、衛司とギンガは眺めるしかない――いや、衛司に関しては、少しばかり違っていただろうか。
 グリップから流れてくる音声は、さすがに音量と距離の都合上、衛司にまでは届かない。だが断片的に漏れ聞こえてくるその声音に、衛司は奇妙な既視感(“声”に既“視”感というのもおかしな話だが)を覚えていた。
 どこかで聞いたような声。そう、それは、不思議に安らぎを覚える声で――

「え、届いてる? じゃ何で……ミッションメモリーが刺さってない? んー、ちょっと待ってね――あらやだ。ポケットに入ってたわ」
『……! ……、……!』
「わーかったわよう。今から持ってくから。はいはい、受付で名前出せば良いのね?」

 しょーがないわねえ、と呟いて、伽爛はグリップの電飾を元の位置に戻し、懐に仕舞い込む。どうやら通話は終わったらしい。そしてそのまま伽爛は腰を上げ、テーブルの上の伝票を摘み上げて、申し訳なさそうな苦笑を、衛司達へと向けた。

「ごめんなさいねえ。ちょっとお仕事入っちゃったのよ。ここの支払いはアタシが済ませとくから、ギンガちゃん達はゆっくりしていって頂戴な」
「え、でも――」
「いーのいーの。お近づきのしるしよう。……あ、そうだ」

 そこで伽爛は財布を出し、そこから名刺を二枚取り出して、衛司とギンガにそれぞれ渡す。
 オカマバー『CANNIBAL』。伽爛の名前の横にはそう店名が記され、裏面には店の略図と、営業時間が記されている。

「アタシ、そこで働いてるから。良かったら今度、遊びに来て頂戴――サービスするわよう?」

 未成年です、というギンガのツッコミを待つ事なく、ひらりとその巨体に見合わぬ軽快さで伽爛は踵を返し、そのまま店のカウンターに紙幣を十枚ほどまとめて叩き付けると、お釣りも受け取らずに店を出て行った。
 伽爛が去った後の店内は、例えるならば台風一過。店内に居る者の皆が皆、伽爛の去っていった店入口を呆然と眺め、唖然呆然と沈黙するしかなかった。
 とは言え、やがて一人二人と我に返る者が出始めて、店内に再び喧騒が戻ってくる。その中で最後まで呆けていた衛司とギンガだったが、やがて苦笑を浮かべつつ顔を見合わせると、ぷっ、と吹き出した。

「さ、食べちゃいましょう。冷めちゃいますよ?」
「はい、ナカジマさん」

 最低でも、ギンガが小皿に取り分けてくれた分くらいは食べる事にしよう。
 一見するだけで己のキャパシティを超えていると知れるが、まあ気合と根性で何とかなるだろう多分。食事という行為に臨むには些か大仰な決意と共に、衛司が料理へと箸を伸ばした、その瞬間。

「あ。違いますよ、衛司くん」

 めっ、とでも言いたげに指を一本立て、ギンガが言う。
 違います?
 何が?
 予想外の否定に箸を止め、きょとんとした間抜け面を晒す衛司へと向けて、彼女はくすりと悪戯っぽい笑みを零した。

「『ナカジマさん』じゃなくて――『ギンガ』、でしょう?」
「……う」

 悪戯っぽい微笑みを浮かべていながら、その言葉は決して冗談ではないと、ギンガの目が語っている。
 思えば先程伽爛に言わされた時も、ギンガはそれを止めなかった。口を挟むのは危険だと悟ったが故の事だと思っていたが、しかし考えてみれば、ギンガ・ナカジマが命惜しさに(決して過剰な表現ではないだろう)我を曲げるような女であるかどうか。
 だとすれば。
 だとすれば、ここで衛司が言うべきは――

「…………いただきます、ギンガさん」
「はい。たくさん召し上がれ」

 いつぞやと殆ど同じやり取り。違うのはただ一点、彼女を姓で呼ぶのか、名で呼ぶのかのみ。衛司にしてみれば取るに足りない差異でありながら、しかしいつぞやの記憶を参照するまでもなく、あの時よりも尚、ギンガ・ナカジマの顔は晴れやかだった。





◆      ◆







 機動六課の隊舎がある此処は、お世辞にも交通の便が良いところではない。
 隊員の移動や物資の輸送は部隊保有のヘリで賄うが故の立地選択であり、最寄りの交通機関までは徒歩でも数十分かかる。いっそ僻地と言っても良い。

 そんあ六課隊舎へ衛司とギンガが辿り着いた頃には、既に日は西に傾いていた。
 空は未だ青を残すものの、千切れ飛ぶ雲は斜陽を受けて茜色に染まっている。昼間より気持ち長くなった影を引き摺って、衛司とギンガは六課隊舎の前に立った。
 小奇麗な建物だな、というのがまず最初に、少年が抱いた感想。再建されたばかりの建物であるのだから、至極平凡な感想と言えよう。

 ギンガに続いて六課隊舎へと這入る。下着類などの生活必需品と一緒に購入し、それらを詰め込んだドラムバッグを床に下ろして、ぐるりと玄関ロビーを見回した。
 ミッドチルダの様式と言うよりは、むしろ衛司の故郷、第97管理外世界のそれに近い意匠が凝らされた玄関ロビー。郷愁の念と言うほど大したものではなかったが、それでも一種の懐かしさにも似た感情が、衛司の胸に兆す。
 そう言えば、ギンガが教えてくれた事だが、確かこの部隊の部隊長は、衛司と同じ世界出身だったか。

「それじゃまず、部隊長室に挨拶に行きましょうか」
「あ、はい。部隊長って……この前来た、えっと……ヤガミさんでしたっけ?」
「ええ。八神はやて部隊長。出向の挨拶をしなきゃいけませんから。衛司くんもこれからお世話になるんですから、ちゃんと挨拶しなくちゃ駄目ですよ?」
「はい」

 完全に子供扱いなのは業腹だったが、それに一々反論していたら話が進まない。無表情ではありつつも素直に返事を返す。
 床に下ろしていたドラムバッグを改めて担ぎ上げ、ギンガの先導によって、部隊長室へと足を向けようとした――その時。

「は~……今日の訓練もキツかった~……あれ、ギン姉?」
「あ、スバル!」

 衛司の背後で隊舎の扉が開き、ぞろぞろと四人の少年少女達が、隊舎へと這入って来る。
 その中の一人に声をかけられて、ギンガが振り向いた。それにつられるように、衛司もまた後ろを振り向いて、――硬直した。
 思考が停止し、意識が凝固し、身体から随意が失われる。

 ……上述した事ではあるが、結城衛司は数日前、ミッドチルダ総合医療センターで何が起こったのか、何が行われたのか、そして自分が何をしたのか、それらに関する諸々の記憶を失っている。
 それが激情態へと変貌した事への代償なのか、苛烈な戦闘の後遺症なのかは定かではないが、ただ事実だけを述べるのならば、彼はあの日の事を何一つ憶えていないのだ。
 だから衛司の認識では、彼が“彼女達”の姿を目にするのは、これが二度目。
 脳裏を過ぎるのは、朽ちた市街の片隅で追い立てられ、狩り立てられ、殺されかけた、あの記憶。条理の外に在る事を即ち悪と断じ、世界より排除しようとする意思の元、己に加えられた暴虐の数々が、結城衛司の脳内で鮮明に再生される。
 無論――少女達には、何一つ知り得ぬ事だ。彼女達が相手取ったのは異形の雀蜂であり、見も知らぬ平凡な少年ではないのだから。

「あ、そっか。ギン姉、今日からまた六課に出向になったんだよね!」
「うん。またよろしくね、皆」
「こちらこそ宜しくお願いします、ギンガさん!」
「また一緒に働けて、嬉しいです!」

 ギンガの言葉に、赤髪の少年と桃髪の少女が嬉しそうに応える。心底から喜んでいるのだろう、その笑みには一片の曇りも見受けられない。
 桃髪の少女の頭上に浮遊している羽の生えた蜥蜴(竜、だろうか)も、ギンガを歓迎しているのだろう、喉を撫でられた猫のような鳴き声を上げている。

「で――」

 そして、橙髪の少女が、ついと視線を衛司へと移して、小首を傾げつつ、ギンガに問う。
 何ら敵意のない、無垢とすら言えるその仕種も、しかし今の衛司には恐怖を呼び起こす一要素でしかない。少女達の一挙一動が、一言一句が、氷の刃のように衛司の総身に突き刺さり、その心胆を寒からしめる。

「こっちの人は、どなたですか?」
「あ、うん。紹介するね。結城衛司くん――ちょっと事情で、暫く六課に居候する事になったんだ」
「へえ――」

 そうギンガの言葉に相槌を打ちながら、橙髪の少女はつかつかと衛司の前に歩み寄ってきて、上から下までじろりと衛司を睥睨したかと思うと、ふんと鼻を鳴らしながら、それでも柔らかい笑みを浮かべて、衛司に手を差し出した。

「ティアナ・ランスターよ。よろしくね」
「あ、ティアずるい! あたし、スバル! スバル・ナカジマ! ギン姉の妹ね!」
「僕、エリオ・モンディアルです!」
「きゃ、キャロ・ル・ルシエです! 宜しくお願いします!」

 口々に自己紹介してくる少女達に、衛司は気圧されながらも、努めて冷静に、平静に、宜しくと言葉を返す。
 それが、彼に出来る精一杯の痩せ我慢。背を冷たい汗でびっしょりと濡らし、気を抜けば膝が笑い出しそうになるのを必死で堪えながらの応答を、幸か不幸か、不審に思う者は居なかった。
 実際、彼の耳に、少女達の自己紹介など聞こえてはいなかった。彼の耳が捉えていたのは、あの日聞き取った、凄惨な破壊音。魔力弾が空気を引き裂く音であり、突貫する槍が吼え立てる音であり、鋼拳が己の胸をへし砕く音であったのだ。



 そうして、結城衛司は理解した。
 否応無しに、理解した。
 己が致命的な失敗を犯した事を――虎穴に入るまいと賢しく立ち回ったその挙句、虎口へと飛び込んでしまった事を。
 どうしようもなく、理解した。





◆      ◆







第陸話/甲/了





◆      ◆





後書き:

 という訳で、第陸話甲でした。お付き合いありがとうございました。

 前回まででちょっとシリアスに傾きすぎていたので(戦闘パートだから仕方無いんですが)、今回はちょっと趣を変えてみました。日常パートと戦闘パートの温度差をはっきりさせる、という事で冒険してみたのですが、実際成功してるのかどうか。
 ギンガとのお買い物がメインの回になった訳ですが、どうなんだろう、こういう“ギンガさん”はアリなんだろうか。
 ギンガって文字通りの「お姉さんキャラ」な訳ですし、世話焼きなおねーさんって感じをイメージしてたんですけど。時折二次創作で見る『デレデレで甘えてくるギンガ』とか、『妹キャラなギンガ』とか、『主人公を慕ってついてくるギンガ』とか、それ別にギンガじゃなくても出来るんじゃないか? という感があったので、本作ではこんな感じになりました。
 いや、別に他の投稿作品のギンガを否定している訳ではありませんので、ああ透水はギンガをこう見てるんだなあ、程度に思っていただければ。

 脱シリアスという事で、満を持してラッキークローバーの一人であるオカマを投入。何でこいつがデルタフォン持ってたんだ? という疑問については、次回投稿の幕間で公開予定です。
 ただ、こいつ自体は別にデルタに変身する訳ではありません(デルタギアを持っているというだけ)ので、ご安心ください(笑)。
 ちなみにこいつの勤めているオカマバー『CANNIBAL』。カニバル、またはカンニバルと読みます。『食人』って意味だったり。

 今回で漸く、主人公が機動六課到着です。普通のSSならこれが第一話なのに。主人公と原作キャラが関わるまでの経緯をきちんと描いていこうと考えたら、こんなに時間がかかってしまいました。
 主人公をどうやって六課に連れていこうか悩んだのですが、今から管理局入りするとか、嘱託魔導師にするとかではあまりに唐突過ぎるので、ヴィヴィオの様に保護対象という形で放り込んでみました。ただしいつまで保護して貰えるかは不明ですが。その内叩き出されたりしそうですが。

 もう一~二話、戦闘を含まない日常パートの話をしてから、再び戦闘に入ろうかなと思っております。
 それでは次回で。宜しければ、またお付き合いください。



[7903] 幕間
Name: 透水◆44d72913 ID:35af097c
Date: 2023/12/29 20:44




◆     ◆





異形の花々/幕間





◆     ◆







 その日、三原修二は一日の勤めを終え、疲労に軋みを上げる身体を引き摺るようにして、家路を急いでいた。

 彼の勤める『創才児童園』は今週末に園児の発表会を控え、園児たちがお遊戯などの演目に練習を重ねているのと同様、三原たち保育士などの職員もまた、小道具やら園児の衣装やらを用意する為に連日遅くまで残業し、準備を進めている。
 とりわけ三原は貴重な男手である、今日は年長組の演劇の大道具作りに駆り出され、慣れない大工仕事に従事したせいか、普通に歩いているだけでも腰が痛い。こんな時ばかりは、オルフェノク達の人間離れした身体や膂力が羨ましくも感じられる。

 今日はさっさと風呂に入って寝てしまおう。ああ、そういえば洗濯物が溜まっていたか。発表会で着ていく服も早目に用意しておくべきだろう。本番当日までに一度『西洋洗濯舗・菊池』に預けて、人前で着ても恥ずかしくない形に整えておく必要もある。
 と、そこまで考えたところで、三原はふと、ある事を思いだした。

「……ああ、そうだ」

 発表会の招待状をまだ、西洋洗濯舗・菊池で働く“彼等”に渡していなかった。
 もう十年――流星塾で一緒だった彼女に関して言えばそれ以上――いずれにしても結構な長きに亘る付き合いとなる彼等。運動会や発表会といった創才児童園の行事には必ず招待状を送っている。
 この十年、予定が合わずに来られない年もあったが、しかし概ねにおいて、彼等は喜んで創才児童園の行事に足を運んでくれる。

 ――そう、十年だ。
 あの戦いから、もう十年の歳月が過ぎている。
 敵も味方も、強敵も仲間も、多くの人間と非人間が倒れたあの戦いから、十年。

 十年という時間は決して短くない。この時間の中で変化した事、変質した事、それらを数え上げていけば切りがない。三原修二が元々アルバイトの保育士として勤めていた創才児童園に正式な職員として雇われたり、彼と同様に正職員となった元流星塾生、阿部里奈と婚約したりなどは、その中のほんの一例だ。
 だから、あの苛烈な戦いの日々など、とうの昔の事として、三原の中では片付けられている――片付けられているからこそ、あの日々を思い出す事に躊躇いはなく、故に忘却に風化する事もなく、あの日々は三原修二の中で鮮やかな色を保っている。

 戦っていたあの日々こそが己にとって最も充実した時間だった、そんな陳腐を口にする気はない。そも、あの戦いに、三原は当初関わるつもりなどなかったのだ。
 草加雅人に引き摺りだされ、阿部里奈に支えられて、漸く彼は戦場に立てたのである。決して好んで戦場に赴いた訳ではない。逃れられぬ宿命と戦い、運命と戦う為に、已む無き手段として闘争を選択した、それだけの事だ。
 彼にとってはあの戦いの日々も、その後の平和な十年も、等しく価値がある事なのだから、戦いを懐かしむという感傷はまったく皆無であった。

 ただ、それでも未だに、彼は習慣としてデルタギアを持ち歩いている。あの戦いが終結して以降、街に現れるオルフェノクは激減した。無差別に人を襲うオルフェノクは年に一度現れるかどうかというところだろう。現に、彼が最後にデルタギアを使用したのは、もう二年近く前の事になる。
 デルタギアが収められたトランクは決して重たいものではないが、かと言って今のように疲れ果てたコンディションにあっても気にならないという程軽くもないし、正直荷物になっている面も否定出来ない。
 それでも彼がデルタギアを手放さないのは、万が一に備えてという以上に、デルタギアに愛着を感じている事もあるのだろう。やや語弊のある言い方かもしれないが、これは三原修二にとって、“父”の形見でもあるのだから。

 そんな事をつらつら考えながら歩いていれば、いつしか三原の住む家は目の前だった。築八年のワンルームマンション。交通の便も良く、近くにコンビニやスーパーもあるのにそこそこ家賃は安い、掘り出し物な物件。と言っても年末には引っ越す予定なのだが。里奈との婚約を機に、もう少し広いマンションで同棲を始める予定なのだ。
 マンションの五階までエレベーターで上がり、フロアの一番端にある扉まで歩いていく。そこが彼の家。ポケットから家の鍵を取り出し、鍵穴に差し込んで――

「…………?」

 ――差し込んで、鍵が開いている事に気付く。朝方、鍵を掛けずに出て行ったのだろうか。鍵を掛けるのを忘れるほど、今朝はばたついていなかった筈なのだが。
 或いは里奈が合鍵を使って入ったのかとも思ったが、しかしそれを考慮するよりも早く、その可能性は消えた。つい先程、彼は里奈を自宅まで送り届けたのだ。彼女が先回りして三原宅に向かう理由は無いし、そもそも時間的に不可能だろう。
 ならばやはり、朝に鍵を掛けるのを忘れていったのだろう。そう判断し、さして深く考える事もなく、彼は扉を開けた。

「な……っ!?」

 靴を脱ぎ、明かりを点けた瞬間、その予想が完全に的外れであったと、彼は理解する。
 まるで小型の竜巻でも暴れたかのような有様。さして広くもないワンルームマンションの一室は今、見るも無惨に荒らされていた。
 言ってしまえばそれは空き巣に入られたと同義なのだが、しかし箪笥やベッド、冷蔵庫まで文字通り天地を逆さに引っ繰り返して荒らす空き巣など、普通は存在しないだろう。
 狼狽し混乱し、後ずさるべきか前に踏み出すべきか、その判断すら付かずに三原の身体が微妙な姿勢で硬直した瞬間――彼の視界の端を、かさりと動く何かが掠め過ぎた。
 びくりとそれに反応し、視界を掠めた“何か”を改めて確認しようと、そちらに視線を向けた、その瞬間。

〖『デルタギア』、見ィ――つ――けた♪〗

 野太い胴間声の癖に、まるで童女のような口調の言葉が、三原の耳朶を叩く。咄嗟に彼は踵を返し、自宅から外に飛び出した。
 彼の身体が通路に躍り出た直後、炸薬の爆裂にも等しき轟音が響いて、鉄扉が蝶番から破壊されくの字になって宙を舞う。そのまま鉄扉はマンションの外へと落下し、眼下の駐車場に落着して、耳を劈く破滅的な音を響かせた。
 ずしん、と腹腔に響く重低音。それがただ一体の異形が歩む音であると、誰が納得出来ようか。

〖うふ――うふふ。なあんだ、持ち歩いてたんだあ。じゃあ家捜しする必要なかったわねえ〗

 扉が吹き飛ばされ、引き千切られた蝶番が無惨な有様を晒す三原宅の玄関から、のそりと灰色の巨躯が姿を現す。
 目を惹くのは、オルフェノクにしては奇妙と言える、その体表の光沢だ。天井の蛍光灯が放射する光を照り返して輝くそれは、まるで油を塗ったかのようで――その光沢は否応無しに、ある昆虫を連想させて。

「ご……ゴキブリ……!?」

 その名を口にした瞬間、ぞくりといやな冷気が三原修二の背筋を撫で上げる。恐怖よりも遥かに勝る嫌悪感、本能レベルで刷り込まれている忌避感が、この時彼の意識の表層を支配し、彼の身体を縛り上げた。
 ゴキブリの特質を備えるオルフェノク――コックローチオルフェノクが、ゆるりと三原へと向き直り、彼へと向けて一歩を踏み出した。その標的が三原であるのは最早明らか、恐らく、いや間違い無く逃れる事は不可能であると、三原の直感がそう告げる。

 故に、彼が取り得る処方は一つきり。
 トランクを開き、中からデルタドライバーとデルタフォンを取り出す。久方振りの感触に懐かしさを覚える余裕もない。空になったトランクを投げ捨て、腰にデルタドライバーを装着する。
 この挙動を終えるまでに、およそ一秒。

 スマートブレイン製ライダーズギア共通の欠陥として、『装着する』というプロセスを踏む事が挙げられる。一見大した事のないようでいて、しかしこれは戦闘において致命的な欠陥と言えよう。敵を眼前に置いて、ベルトを装着する挙動がどれほど隙だらけであるか、一々説明の要はあるまい。
 まして今の三原のように、至近距離にまで敵の接近を許しているとなれば、最早完全に手遅れである。にも関わらず、コックローチオルフェノクは飛びかかってくる事もなく、焦る必要など皆無とばかりに、悠然とこちらへ歩んでくる。

 構わない。余裕のつもりか何か意図があるのかは定かではないが、元よりこちらにはこれしかオルフェノクに対抗する術はないのだ。訝しんでいる暇などない。
 デルタフォンを顔の横へと掲げ、起動のトリガーとなる言葉を紡ぐ。

「――変身っ!」
【Standing by――】

 デルタフォンをベルトの側部、デルタムーバーへと差し込む。がきん、という小気味良い音と共に接続されたデルタフォンがデルタドライバーを起動させ、遥か上空、衛星軌道上を浮遊する人工衛星イーグルサットにシステムの発動を伝える。

【――Complete.】

 デルタドライバーを基点として、エネルギー流動経路フォトンストリームが生成され、三原の身体を囲むようにしてフレームを形成。直後、イーグルサットから電送されてきたスーツがフレームに沿って彼の身体を覆い、変身は完了する。
 夜闇に溶暗する黒いスーツ。反して暗闇に浮かび上がる、人骨が如きブライトカラーのライン。橙色の“眼光”が迫る異形を照らし出す。
 スマートブレイン製ライダーズギア、最初期の傑作機。――仮面ライダーデルタ。

〖あは。変身したわねえ――そうこなくっちゃ〗

 まったく臆する事なく、コックローチオルフェノクが三原との距離を詰めてくる。
 だが三原は敵の接近に対し、やおらマンションの通路から、眼下の地上へと飛び降りた。一見して敵前逃亡とも取れるその行動の真意は、何と言う事もない、ただ単に戦場を移しただけの事。狭い通路より広々とした空間での戦闘を好んだが故と、それだけの事でしかない。
 地上五階という高さも、デルタと成った今ならば恐れるに値しない。事実、彼は音もなく地上への着地に成功し、落着の衝撃をまるで意に介さぬ所作で、頭上の異形を睨み据える。
 その視線を挑発と取ったか、コックローチオルフェノクもまた、中空に身を躍らせた。ほぼ無音の着地を行ったデルタとは対照的に、まるで隕石でも落下したかの様な大音響を轟かせ、落着点のアスファルトをクレーターの如く陥没させて。

「…………!?」

 ふと意識の端に兆した違和感が、三原の動きを止める。
 あれだけの音が響いたというのに、周囲の民家からまるで反応がない。一帯を包む静寂はまるでゴーストタウンのそれだ。夜更けである事を考慮しても、しかしだからこそ、野次馬の一人も現れないというのは不可思議以外の何物でもなかった。
 彼は知らない。その以上が彼の常識圏外の技術によって為された事であると。結界魔法なる不可思議の存在を咄嗟に発想出来るほど、彼の思考回路は常識を逸脱していない。
 故にその違和感を解消する術はなく、また状況は、彼にそれを許してすらくれない。

〖余所見してて良いのかしら――気ィ抜いてると、即死ぬわよぅ?〗
「っ!」

 頭上から降ってくる胴間声に、咄嗟に三原はその場を飛び退く。刹那遅れて、コックローチオルフェノクの剛拳が三原の居た空間を切り裂いて、アスファルトの路面に深々と突き刺さった。
 ただ一撃、たった一撃で、路面は蓮華の如くめくれ上がり、本来そこにあった平坦を失う。その破壊力に臓腑が凍るような戦慄を覚えながらも、三原は、仮面ライダーデルタは極めて冷静に次の行動へと移行した。
 戦慄、恐怖、嫌悪。そういった感情と肉体の挙動を切り離す術を心得ているという点で、彼は充分に戦士の資格を備えていると言える。

 腰部にマウントされたままのデルタムーバーを取り外し、“銃口”を敵へと据える。「ファイア!」と内心の戦意を口から吐き出せば、【Burst Mode.】と電子音声が応え、三発の光弾が標的へと襲いかかる。果たして光弾は狙い通りコックローチオルフェノクの体表で炸裂すると、その巨躯をぐらりとよろめかせた。
 だがそれだけだ。よろめいただけ――予期せぬ一撃に体勢を整える暇がなかったが為に、ただ光弾の威力に“押された”だけなのだと、一見して知れる。事実、敵の身体に目立った傷など何処にもなく、ダメージが皆無である事は瞭然であった。

 ――構うものか。何発でも撃ち続けてやる。
 三原修二は知っている。自身はファイズであった彼や、カイザであった彼に比べて、その戦力は大幅に劣っていると。ライダーズギアの中でも最大の出力を誇るデルタギアを使っているからこそ、己は何とか彼等と比肩出来ていたのだと。
 そんな己が戦ってこれたのは、曲りなりにも勝利を手にしてこれたのは、決して諦めないという不屈の心がそこにあったからだ。戦うと決めたあの日から、己を支えてくれる彼女に恥じるまいと思うのなら、どんなに無様でみっともない戦いであっても、諦める事だけはしたくなかった。
 だから、今も。
 彼女が見ているかどうかは問題では無い。ただ彼女に恥じる真似だけはしたくない。それだけの事。

〖あは。いいわねえ素敵ねえ、そうこなくっちゃねえ――うふふ、それじゃアタシも、ちょぉぉぉぉっとだけマジになろうかしら〗

 ゆらりと、コックローチオルフェノクの手元が、陽炎のように歪む。
 街灯の僅かな明かりだけでは視認する事は難しかっただろうが、今の三原はデルタギアによって補正された視力を有している。仮面の内側に映し出される光景は、夜の闇も有って無きが如き鮮明さで、彼にそれを視認させた。

 オルフェノクは皆、己の扱う得物を自ら作り出す事が可能である。剣であったり槍であったり鞭であったりとそれは様々だ。通常の物理法則を超えて生成されるそれは、どれもオルフェノクという存在が等しく有する闘争本能の具現という点で共通する。
 だがその謂で言うのなら、今この時、コックローチオルフェノクが作り出したそれは、不可解以外の何物でもなかった。

 板である。広げた新聞紙程度の大きさの、薄い板。
 勿論これもオルフェノクと同様の灰色に塗られているのだが、これが一体如何なる武器であるのか、三原には想像も付かない。

〖あ、ちょっと待ってて頂戴〗

 そう言うと、コックローチオルフェノクはやおらしゃがみこみ、その板を端からくるくると丸め始める。明らかに隙だらけであったのも束の間、棒切れの様に丸めたそれをひゅんと一回振って、異形昆虫は改めて敵へと相対した。

〖そ・れ・じゃあ――ゲーム、再開♪〗

 その言葉が三原の耳に届いたのと、コックローチオルフェノクが彼との間合いを詰めたのとでは、どちらが速かったか。
 異形の巨体が三原の視界を一杯に覆ったその瞬間には、コックローチオルフェノクは彼の眼前で、奇妙な得物を振り被っている。
 受けるか躱すか、一瞬にも満たない刹那に迫られた選択に対し、三原は後者を選び取った。そしてそれは、即座に正解であったと判明する。

 空気を引き裂く音はまるで爆発音。体勢を崩しながらも敵の得物の圏内から逃れ出るが、しかしすぐさま距離を詰められ、次撃が繰り出される。
 掬い上げるような下段からの一撃を、今度も何とか躱す事には成功したものの、代わりに三原の背後に停めてあった乗用車が一台、敵の攻撃の犠牲となった。
 数百キロに及ぶ重量が、風に舞い上げられる紙屑の様に軽々と宙を舞う。一体空中で何回転しただろう、車はやがてフロントバンパーから真っ逆様に路面に突き刺さって潰れると、ガソリンに引火したか、数瞬の沈黙の後、大爆発を引き起こした。
 爆発の衝撃に周辺の街灯が砕き割れ、夜闇が更に重圧感を増す。燃え盛る火炎だけが唯一の光源。それはいっそ幻想的な光景とすら言えた。

「………………っ!」

 言葉も出ない。眼前で起こった出鱈目を、三原の意識は許容するだけで精一杯だった。
 だがその反面で、ああ成程、と冷静に納得する自分も居る。コックローチオルフェノクの得物。そこに隠された、いや見た目からしてまったく隠してもいないのだが、その中の皮肉を、彼は読み取っていたのだ。
 丸めた新聞紙でぶっ叩く。それは人間がゴキブリへ対する処方として、最も一般的ではなかろうか。今の状況はそれと完全に真逆。丸めた新聞紙で人間をぶっ叩くゴキブリという構図である。それを皮肉と言わず、何と言おう。

 澄み切った夜気が紅蓮の炎に切り裂かれ、轟と吼える炎が夜のしじまを引き裂いていく。これだけの惨事が起こって尚、周辺民家に動きはない。爆発の衝撃に割られたのは街灯だけではなく、民家の窓ガラスも含まれているにも関わらずだ。
 ここで漸く、三原は何か尋常ならざる手段によって、この一帯が周囲と隔絶されている事を悟る。閉じ込められた――それは確かだが、しかし見方を変えれば、無関係な人が巻き込まれる可能性も少ない。それだけは、間違いなく僥倖と言えた。

〖ほらほら、まだ終わりじゃ無いわよう――!〗

 再び、コックローチオルフェノクが三原との間合いを詰めてくる。十メートル強の距離を僅かに二歩、異形としての能力に頼らず足運びのみによって行われたその接近は、俗に縮地と呼ばれる歩法の極であった。
 横薙ぎに振り抜かれる“棒切れ”を、今度ばかりは、三原も躱せなかった。べきりめきりと、防御に回した左腕から嫌な音が響く。だがその痛みよりも先んじて三原が覚えたのは、宇宙空間に放り出されたような浮遊感。
 先の一撃によって文字通り吹き飛ばされたのだと脳髄が理解する直前、彼の身体は駐車場に停められている車の一台へと強か叩きつけられた。新車と思しき光沢を保った軽自動車が哀れスクラップと化し、三原の受けた一撃の威力を引き受けるかのように、部品と破片を撒き散らしながら駐車場を転がっていく。

「ぐ……う、ぎ……!」

 ただ一撃、たった一撃で、全身という全身が軋みを上げている。敵の一撃に対する防御へと使った左腕はもう完全に感覚がない。見る限り原型を留めてはいるものの、スーツの下がどうなっているのかについては考えたくもなかった。
 それでも、彼に立ち止まる事は許されない。次々と繰り出される追撃を必死に回避し続ける、傍目には背を向けて逃げ回るだけの無様この上無い格好で、いずれどこかに兆すであろう機を窺いながら、彼は全力で生を繋ぐ。

 無論、無抵抗のままに逃げ回ってはいない。そして無策のままに逃げ回っている訳でもない。
 散発的に撃ち放たれるデルタムーバーの光弾。それはまさに光の速さで敵へと殺到するものの、コックローチオルフェノクの強固な外殻はいとも容易くそれを弾き返し、周囲の路面や壁面、或いはこの駐車場に停まっている車や街灯の柱をただ穿つのみ。
 それで良い。威力が通らないのは業腹だが、『この武器は恐れるに足りない』と考えてくれれば、それで良い。

 車が紙屑のように宙を舞う。巨体が足を踏み締める度に路面がめくれ上がる。刃ではなく鋭器ですらない棒切れに壁面が切り裂かれる。破壊という暴風が吹き荒れる只中を、仮面ライダーデルタが駆け抜けていく。
 そんな中、ゴキブリの一撃がデルタの頭上を掠め過ぎ―― 一刹那前に、デルタが身を屈めたが故に――その背後の街灯を真っ二つに両断する。ぐらりと傾いた鉄柱は重力の縛りによって大地へと落下し、すぐ近くにあったライトバンのルーフを直撃した。
 その間にコックローチオルフェノクの間合いから脱したデルタが、街灯に押し潰されたライトバンとコックローチオルフェノク、その両方を直線上に捉える。待ち望んでいた勝機の到来を、一瞬のうちに三原が悟る。

「おおおっ!」

 裂帛の咆哮と共に、三原はデルタムーバーの引鉄を引き続ける。三連発の光弾が三度に渡ってコックローチオルフェノクの胸部で炸裂、当然の如く目立った外傷は無いものの、その巨体を後方に押し出す事に成功する。
 どん、とコックローチオルフェノクが、潰れたライトバンにぶつかって後退を止めた。そう、それこそ彼が勝利の為に満たすべき最後の条件。それが達成された今、三原修二の勝利はここで決定していたと言っても過言ではない。
 デルタムーバーが放てる光弾は十二発。うち九発を敵を“押す”事に使った。そして残る三発は、コックローチオルフェノクではなく、その背後のライトバンに――より正確に言うのなら、損壊したタンクから零れ出すガソリンに向けて。

〖っ!〗

 コックローチオルフェノクも気付いただろう。だがもう遅い。どれだけ機敏な動きが可能でも、まさしく光の速度で直進する光弾より速い動きは有り得ない。
 三点バーストで放たれた光弾は三発が三発ともに、ライトバンのガソリンタンクに着弾。高熱源体たる光弾は三原の意図した通りに火種となり、ガソリンをコックローチオルフェノクの直背で爆発させる。

 だがこれだけならば、オルフェノクたる異形昆虫にとっては何程の事もない。ガソリンの爆発に巻き込まれ火達磨と化そうとも、灰色の外殻はその熱にすら耐え得るだろう。人間であれば燃え盛る火炎に呼吸を遮られたかもしれないが、オルフェノクの生態において呼吸行動は人間ほどの重きを持たない。
 それは三原も理解している。オルフェノクをどうすれば倒せるのか、どれほどでは倒せないのか、三原修二は知悉している。だからこの時、ガソリンの爆発に彼が期したのは、ただ標的の体勢を崩す事――爆発の衝撃波によって前へつんのめった姿勢を取らせる事、ただそれだけであったのだ。

 デルタが前へと走り出す。敵へと向けて走り出す。デルタムーバーを腰部に戻し、ベルトのバックル部からミッションメモリーを抜き取って、ムーバーに差し込んだ。
 左腕が使えないが為に酷くぎこちない動作だったが、それでも問題無くその挙動を終える事に成功する。

【Ready.】

 電子音声と共に、デルタムーバーの銃身が伸長する。ポインターモードへと移行したデルタムーバーを再び構え、三原はコックローチオルフェノクとの間合いを詰める。
 まだだ、まだ遠い。この距離では弾かれる。より確実を期そうと思うなら、それこそ零距離で放たなければならない――

「う、お、おおおおおおおっ!」

 そうして遂に、デルタムーバーの“銃口”がコックローチオルフェノクの胸部に押し当てられた。だがそれに瞬刻遅れて、崩れた体勢から尚も繰り出されたコックローチオルフェノクの一撃が迫る。

「チェックっ!」
【Exceed Charge.】

 体表のラインを通り、デルタドライバーから光がデルタの右腕へと移動する。光点がデルタムーバーへと吸い込まれたその瞬間、三原の指は引鉄を引いていた。それは“棒切れ”がデルタの頭部を、彼の頭蓋を砕き割るまさしく寸前。
 だがどれほどその時差が小さかろうと、三原修二が先に切り札を切った事実は変わりなく。
 デルタムーバーから放たれた針状の光弾がコックローチオルフェノクを弾き飛ばし、炎上するライトバンにその巨体を叩きつけた。次瞬、針の様に細く長い光弾は傘のように展開して、三角錐を形作る。
 吸血鬼を穿ち滅ぼす聖杭を思わせる光錐が周辺の空気を引き裂き、極小の乱気流を生み出して、標的の身体を縛り上げ挙動を奪う。

「ぃやああああっ!」

 咆哮と共にデルタが跳躍、空中で飛び蹴りの姿勢を取ると、そのまま三角錐へ身体ごと蹴り込んだ。ドリルのように回転する三角錐が蹴撃の威力と人間一人分の質量を更に上乗せされ、必殺の名に相応しい暴力と化して、標的の身体を穿ち抜く。
 これぞ、仮面ライダーデルタが必殺の一撃――ルシファーズハンマー。
 コックローチオルフェノクを、その直背のライトバンを諸共に貫き、デルタの身体が標的の背後で着地を決める。同時にコックローチオルフェノクの身体から吹き上がる真紅の炎。ライトバンを包む燈色の炎よりも尚赤々と燃えるその炎の中心に、蒼くΔの文字が浮かび上がる。
 立ち上がったデルタがゆっくりと振り向いた瞬間、ぼん、とゴキブリを包む炎が一際膨れ上がったかと思うと、その巨体を完全に灰へと化さしめた。

「はあ……はあ……はあ……ふ、うう――」

 戦闘の昂揚に際限無く上昇していた心拍と体温が、深呼吸によって冷却され平静を取り戻していく。と同時に、彼の身体は立っているのもやっとな疲労と、四肢からの悲鳴を漸く認識した。特に左腕が酷い。熱を孕んだ疼痛が、肩から先を丸ごと包みこんでいる。

「な、何とか、勝てた……」

 恐ろしい敵だった――恐らくは今まで戦ったオルフェノクの中でも、一、二を争う強敵であっただろう。かつて戦ったオルフェノクの王や、ラッキークローバー達に勝るとも劣らない敵。勝利し、生存したからこそ、その脅威がはっきりと解る。
 未だ勢いが衰えぬまま轟々と燃え盛るライトバンを眺めつつ、変身を解こうとデルタムーバーへ手を伸ばす。
 しかし彼の指が銃把に絡むその直前、彼の目はライトバンを包む炎の向こう側、陽炎に揺らめく夜闇の中に、およそ信じ難いものを、そこに有るべからざるものを見つけ出した。

「な――何で……!?」

 目を疑うその光景は、しかし背筋を撫でる冷たい汗によって、錯誤の可能性を否定される。
 暗闇から溶明してくるシルエット。炎の照り返しを受けて燈色に染まりながらも、彼等異形に共通する灰色はどうしようもなく健在。そして油を塗ったかのような光沢が、そのシルエットが何者のものであるのかをこれ以上無い程明確に知らしめている。
 そう、間違えようがなかった。たった今、ルシファーズハンマーによって灰燼と帰した筈のコックローチオルフェノクが、そこに居た。
 そして――

「………………は? はあっ……?」

 目の前の現実が、三原修二の認識能力を飽和させる。思わず漏れる間抜けな声。それが現実に処する上で三原に出来る精一杯だった。
 炎の向こう側に佇むコックローチオルフェノクのシルエット――それが一体だけでは無く、二桁を超えて存在しているとなれば、三原の反応は至極当然、むしろリアクションの面で物足りないとすら言えるだろう。
 街灯の上に佇み、マンションのベランダにもたれかかり、車の後部座席で膝を抱えて座り、茂みの中からこっそりとこちらを窺い、路面に寝そべって脚をばたばたさせている。それらコックローチオルフェノク“達”の全てが全て、三原を見据えながらの所作であるのだから、これはもう恐怖する以外にどうしようもない。
 しかも溶明してくる異形の数はどんどん増えていく。十、二十、いやもっと。一匹だけでもあれだけ梃子摺った敵がダース単位で現れるのだ、そこにあるのは絶望以外の何物でもなかった。

「あ……ああ――なるほど」

 一匹見たら三十匹居ると思え――ゴキブリという昆虫の繁殖力を評して良く使われる言葉であるが、実のところそれは、ゴキブリでさえあればオルフェノクであっても適用される言葉であるらしい。
 最早恐怖や恐慌といった感情を通り越し、呆れ果てたといった風情で、仮面の下に苦笑すら浮かべつつ三原が呟く。

〖ふ――〗
〖うふふ――〗
〖うふふふふふふふふ――〗
〖うふははははははははははははははは!〗

 気色の悪い忍び笑いが、いつの間にやら高らかな哄笑にすり替わる。三重奏ならぬ三十重奏。おぞましい“同声合唱”が、夜闇に包まれ火炎に照らされた駐車場に響き渡る。
 そうして、コックローチオルフェノク“達”が動き始める。街灯の上から飛び降り、ベランダから駆け降り、車の後部座席から脱け出し、茂みの中から飛び出し、寝そべっていた身体を体操選手よろしく跳ね起きさせて、その全てが全て、三原修二に向けて走り出す。

 対して、三原もまた、敵へと向けて駆け出した。逃げるでもなく退くでもなく、敵へと向けて真っ直ぐに。
 それは例えるならば、押し寄せる津波に向かっていく子鼠。誰もが愚かと笑うだろう。三原自身ですら己の愚かさを笑っていたのだから、誰が笑おうとも、意味合いとしては同じ事。
 だがそれでも、彼は己を嗤う事はしない。道化のような滑稽さを笑う事はしても、決して嗤う事はない。彼の愚行にただ一つ意味があったとするのなら、安穏と死を享受したと嗤われたくないが故であったのだ。

 デルタムーバーの“銃口”を敵へと向け、喉が裂けんばかりの咆哮を吐き出して、仮面ライダーデルタが迫る敵へと向かっていく。
 絶望の濁流へ真正面から、最早そこに己の生存を賭さず、自棄と同義の特攻。

あはははははっ! あはは、あはははははははははははははは――はっはっははははははァ!

 そうして、三原修二が最後に耳にしたのは――割れ響く鐘の音が如くに大気を揺すり上げる、異形のその喉より迸る笑声だった。





◆      ◆







 ――そこで、目が覚めた。
 じりりりりりりり、と枕元でけたたましく鳴り響く目覚まし時計に手を伸ばし、上部のスイッチを叩いて黙らせる。

 その体勢で固まる事数分。ついいつも通りの習慣で目覚ましを止めてしまったのだが、つい先程まで彼が居た風景と今己が置かれている現状の齟齬にそこで気付き、結果彼は暫しの間、その姿勢で硬直する事になった。
 むくりとベッドの上で上体を起こす。己の身体を検めてみれば、就寝時にいつも着ている寝間着姿。決して仕事着のままではない。
 そしてぐるりと周囲を見遣れば、そこにあるのはいつも通り、何ら変化のない、己の家、己の部屋。荒らされてもいなければ散らかってすらいない。箪笥もベッドも冷蔵庫も常態のまま、間違っても引っ繰り返されてなどいない。

 呆然とベッドから降り、呆然とした態で部屋の中を改めて見回してみる。テーブルの上にあったリモコンを手に取り、TVの電源を入れた。
 映し出される朝のワイドショーと、画面左上の時刻表示が、夜は既に終わったと告げている。

「夢……だったのか」

 夢と言うにはあまりに現実的であったが、しかしそれは、三原修二が視認出来る範囲に在るリアルを覆せる程の質量を有していない。
 事実、彼がふと掲げた左腕――夢の中でへし折られ破壊された左腕は、この現実においては傷一つ負ってはいなかった。それが何よりも、あの記憶が夢であったと、目覚めれば掻き消える幻であったという証明だった。

「――っ! そうだ!」

 やおら声を張り上げると、三原は部屋の片隅に置かれたトランクを取り上げ、叩き付けるようにベッドの上に置いて、鍵を開き蓋を上げた。……中に収められているデルタギアを確認した瞬間、遂に彼はあの記憶は夢であったのだと、己を納得させる事に成功する。
 そう、夢だったんだ。あんな突拍子もない事が、現実である訳がない。そう納得してしまえば、最早彼は現実を疑う事をしなかった。
 時刻を見れば、やや余裕のない時間になっている。少しばかり急がなければ遅刻だ――慌てて彼は寝間着を脱ぎ、鞄に仕事で使う道具やら資料やらを詰め込んでいく。朝食を摂っている暇はなさそうだ。昼まで保つかどうかは不安だが、まあ、何とかなるだろう。
 そうして彼は夢を忘れる。元より一睡の間に終えた幻、脳内の記憶野から薄れて消えるまでに、そう時間はかからない。そして一度忘却してしまえば、それには最早、彼を日常から引き離すだけの引力は残っていなかった。





 ……だから、彼は気付かなかった。
 トランクの中に収められているデルタギア――それが形だけの張りぼてとすり替えられているなど、まったく彼の慮外であったのだ。
 気付けと言う方が明らかに無体な要求であろう。そんな要求を突き付けられるほど、彼は“物語”において重要な位置を与えられてはいない。
 彼がその事実に気付くのは、これより二年の後。とある事件の只中で、彼はそれを知ると同時に、それを知ったが故に、絶対的な窮地へと陥る事となる。
 ただ、その顛末が語られる事はないだろう。今、ここで語られる“物語”において三原修二の動向はさしたる意味を持たず、つまるところこの“物語”における彼には、デルタギアを所有していたという一点以上の意味などないのである。
 だからこれより後の彼が何処へ行き、何処へ向かおうとも、それはまったく枝葉末節の一端でしかない。



 有り体な言い方をするのなら。
 それはまた、別の話――だ。





◆      ◆





幕間/了





◆      ◆







後書き:

 という訳で、幕間でした。お付き合いありがとうございました。

 書き上げてからふと思った。これ、とらハ板に投稿する内容か?
 仮面ライダーと怪人が戦うってだけの話で、リリなの要素は知らないうちにこっそり展開されていた結界魔法ってだけで。
 いや、本編を進める上で説明しておかなければならない事ではあるんですが、考えてみたらこれ、本編中でモノローグか何かで済ませられる事だったんじゃないだろうかと。「三原くんからデルタギアぶん捕ってきました」って、それだけで済みますよね。
 個人的には固有名詞をぼかす必要が無いので、凄く書き易かったのですが。

 まあそれはそれとして、書いてしまった以上は仕方無いと投稿してみました。作者のワガママに付き合わせてしまって申し訳無いです。
 内容としてはまあ、仮面ライダーデルタVSコックローチオルフェノク。何気に本作の作中で仮面ライダーという名前が初登場です。
 「ヘタレてない三原なんか三原じゃない!」という声が聞こえてきそうなんですが、まあ作中の時間的に555TVシリーズから十年経ってますし、設定上二十代後半の男がヘタレてるのも見ていてむかつきますので(笑)、ちょこっと格好良く、一人で敵を倒せる様にしてみました。まあ結局は敗北してる訳ですが。
 ある意味キャラ崩壊ではあるんですが、オリキャラを持ち上げる為に原作キャラを貶めるのでは無く、原作キャラを格好良く見せる為のキャラ崩壊なら良いかなと。スパロボ補正みたいなもんだと個人的には思っているのですが、どうなんでしょう、原作のイメージを壊さない方が良いのでしょうか。

 あと創才児童園。設定上では孤児養護施設なんですが、作中の描写ではなんか幼稚園みたいになってます。発表会とかもろにそんな感じですね。この辺はある程度意図的なものである事をお断りしておきます。

 ちなみにコックローチオルフェノク。もう口調とかでバレバレなんですが、前回出てきたアレの変身した姿です。
 ネタキャラなのにチートキャラ、というところをイメージして作ってみました。武器なんか特に。て言うかまあ、作中の演出としてはまんまメタルクウラなんですが。
 詳しい設定は近日中に怪人図鑑の方で公開しますので。

 それでは次回で。宜しければ、またお付き合いください。



[7903] 第漆話
Name: 透水◆44d72913 ID:35af097c
Date: 2023/12/29 20:44

「ん。全員に飲み物、行き渡ったなー」

 機動六課隊舎、食堂。
 とあるイベントの会場として供されたそこは今、満員御礼と言わんばかりに詰めかけた人で溢れ返っていた。
 言うまでもなく、此処に集った全ては六課の隊員、或いは隊舎で働く職員である。内輪の集まりに一々部外者を招くほど、機動六課は派手趣味ではない。
 形式としては立食パーティ。幾つもの長机の上には六課食堂自慢の料理の数々が並べられ、さすがにこの後の勤務に差し支えるという事で酒こそ出てないものの、その代わりか、飲物の種類は結構な数が取り揃えられている。
 食堂に詰めかけた面々をぐるりと見回して、よし、と八神はやてが頷いた。

「ほんなら、歓迎会始めるでー!」
「結城衛司くん! 機動六課にようこそですー!」

 司会進行であるはやてとリインフォースⅡの掛け声に一拍遅れて、わっ、と歓声が上がる。その隙間に混じるのはかちんかちんとグラスが打ち鳴らされる音、クラッカーが弾ける音。華やいだ宴の席に相応しい賑わい方である。
 聞くところによれば、この集まりは機動六課へとやってきた“新入り”の歓迎会であると同時に、六課隊舎復旧のお祝いでもあるらしい。この会場に集まった面々の顔が随分と晴れやかなのはむしろそちらの方に理由があるのだろうと、結城衛司はそう判断した。

 ちなみに今の衛司が居るのは、会場に設置された特設ステージの上。『六課へようこそ☆結城衛司くん』と書かれた(微妙に外している感のある)垂れ幕の下に用意された一席である。
 立食パーティで一人だけ座らされてしかも上座に祭り上げられているこの状況。もう何らかの罰ゲームか、或いは嫌がらせの類としか思えないのだが、まあ厚意でしてくれている事なのだと思えば文句も言えない。
 正直晒し者のようで(『ようで』どころかまさしく晒し者なのだが)恥ずかしい事この上ないが、この程度の羞恥心ならば許容範囲である。多分。

「楽しんでますか、衛司くん?」
「……ギンガさん」

 主賓(?)そっちのけで盛り上がる六課隊員を、何かいたたまれないモノを目にしているかのようなアルカイック・スマイルで眺めつつ、ちびりちびりとジュースを啜っていた衛司の頭上から、ふと降ってくる声。
 顔を上げればそこには予想通りにギンガ・ナカジマの姿。にっこりと咲いた微笑みが眩しくて、思わず見蕩れてしまった。

「衛司くん?」
「あ、いや――た、楽しんでますよ、はい」
「そうは見えませんけど」

 ギンガの優しげな微笑みが、困ったような、或いは哀しむような、そんな苦笑へと摩り替わる。咎める言葉はないにしろ、その表情、その視線が、その場凌ぎのお愛想を口にした衛司を責めていた。
 ギンガ・ナカジマという女性には酷くそぐわないその表情に、衛司も愛想笑いを止めた。彼女にそんな顔をさせた己に恥じ入る程度には、彼はまだ真っ当な――人間社会の常識に照らし合わせたとしても――神経を有している。
 手にしたグラスに残ったオレンジジュースをぐいと一息に飲み干し、ふうと一つ大きく息を吐いて、衛司は改めてギンガに向き直った。

「こういう席って、苦手で」
「そう……ですか。ごめんなさい」
「あ、えっと、ぎ、ギンガさんが謝る事じゃないです。僕の方こそ、こんな歓迎してもらってるのに……」

 ……ん?
 と、そこで、衛司はふとある事に気付いた。
 振り返って頭上を見上げる。『六課へようこそ☆結城衛司くん』と書かれた結構、いや相当恥ずかしい垂れ幕。今更ではあるが、そこにギンガの名前は見当たらない。ようこそと言われているのは衛司だけだ。
 まさかギンガは歓迎されてないのだろうか。ギンガいじめなのだろうか。

「え? ああ、わたしは前にも六課に出向していたんですよ。二ヶ月くらい前の事件で怪我しちゃって。いったん元の部隊に戻って、それでまた出向してきたんです」

 出戻りの出戻りですね、と年頃の娘にしては些か洒落にならない比喩が、その後に続く。
 自虐のつもりなのかそうでないのか、何と応じれば良いものやら衛司が考え込んだ、その時。

「おーい! ギン姉ー! 衛司くーん!」

 料理が山盛りになった大皿を熟練のウェイトレスよろしく両手に持った藍髪の少女と、恐らくはその少女の分であろう巨大ジョッキと自分用のグラス(普通サイズ)をそれぞれ手にした橙髪の少女が、人を掻き分けるようにしてステージへと向かってくる。
 先程、隊舎玄関ロビーで会った四人の内の二人。衛司にとっては否応無しに嫌な記憶を想起させられる少女達。藍髪の少女の楽しそうな笑顔も、橙髪の少女の不機嫌を装った上機嫌な顔も、ずくんと衛司の胸骨を――今はもう無い傷を疼かせる。
 自己紹介は先程会った時に済ませている。確か、名前は――

「えっと……サイトウさんと、ナカハラさんでしたっけ」
「間違ってないけど間違ってるわよ」

 ナカハラさんと呼ばれた橙髪の少女が、呆れ顔でじろりと衛司をねめつける。その視線に気圧されて仰け反る衛司に、あはは、と藍髪の少女が快活に笑いかけた。

「スバルだよ。スバル・ナカジマ。ギン姉の妹。憶えてね」
「ティアナ・ランスターよ。一回で憶えなさいよね」

 すみません、と頭を下げると、元より大して怒ってもいなかったのだろう、呆れ顔のままではあったが、ティアナの表情から険が消えた。

「ほら、お料理持ってきたよ。みんなで食べよ!」

 たんまりと料理の載った大皿。少食な衛司には見ているだけでお腹一杯、ふわりと鼻をくすぐる良い香りに喚起されるのは食欲ではなく胸焼けのみ。
 すいません、僕は結構です。遠慮というよりは最早ただの防衛本能で、衛司はそう口にしようとした。
『しようとした』という表現を使ったのは、無論、それが実際には叶わなかったから。

 衛司が口を開くのとほぼ同時に響いた、がちっ、という鈍い金属音。違和感に視線を下へと向ければ、身じろぎ一つ許さぬとばかりに鉄鎖でがんじがらめに縛り上げられ、椅子に拘束されている己の身体。
 なんだこれはと思わず声を上げるその寸前、開いた口の中に発音より先んじて、何か太い管のようなものが突っ込まれた。
 それが大きな漏斗であると衛司が理解するより早く、ぐいと顔を上に向かされる。
 はい、いっぱい食べてねというスバルの言葉と共に、漏斗の上で大皿が傾けられ、食物の投下が開始された。

「がっ!? がぼっ!? がぼぼっ!?」

 これ知ってる、確か、ガチョウに無理矢理エサ食わせてフォアグラにするあれだ――!
 どぼどぼと胃に流し込まれる大量の食物。無論衛司はガチョウではない、人間というと少しばかり語弊があるが、しかし今の状態では人間とさして変わらない身体である事も事実。こんな無茶苦茶な食物摂取に耐えられる身体な訳がない。
 一気に膨れ上がっていく腹。ぱんぱんになったそれはまるで蛙か鱈のよう。いやいや僕は蜂なんだって、とツッコむ暇もツッコむ余裕もなく、限界を超えた腹はしかしそれでも止まらぬ食物の濁流によって更に膨れ上がって膨れ上がって膨れ上がってぱんっ。
 嫌な音がして、弾けた。





 ――という、夢を見た。

「……今日も、か」

 カーテンの隙間から差し込む光で、朝の訪れを悟る。べっとりじっとりと寝間着を肌に貼り付かせる寝汗。それが染みこんだベッドの寝心地は素敵なまでに最悪で。
 結城衛司が機動六課へとやって来て、今日で既に一週間。
 この一週間に見た夢は、まあこんな感じに七日間例外なく悪夢ばかりだった。





◆     ◆





異形の花々/第漆話





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 大概何処の世界でも似たようなものという前提で話を進める事になるが、家事というのはこれが意外に重労働だ。掃除洗濯炊事にその他諸々、まあ今回の場合炊事に関しては専門職が居る為に除外しても良いのだろうが、それを除いても充分に面倒で大変で苦労する事である。
 更に付言すれば、一つのコミュニティの中に生活する人間の数に比例して、その仕事量は増加する。寮母だのハウスキーパーだのという職業が『仕事』『生業』として成り立つのだから、それは瞭然。
 文句の一つも言わずに無給で毎日そんな重労働をこなしている世のお母様方には最大限の敬意を払って然るべき――とまで行くと、今回の話からはやや脱線してしまうが。

 まあ、つまるところ、機動六課の寮母ことアイナ・トライトンの仕事は、機動六課で働く管理局員の仕事と比して決して楽なものではないという事だ。肉体労働という側面を考えれば、こちらの方が大変な仕事であると言っても良いだろう。
 閑話休題。

「アイナさーん。男子寮の便所掃除、終わりましたー」
「はい、ご苦労様。それじゃあ次は、自販機コーナーの蛍光灯換えてきてくれるかしら? ちかちかしてるからすぐ判ると思うけれど。蛍光灯の方は管財に届いてると思うから」
「了解っす」

 アイナに便所掃除用のバケツやらモップやらを手渡し、新たな指示を受けて、少年がくるりと踵を返し歩き去っていく。たったったっ、と小気味良い足音を響かせて小走りに。その背中を何とはなしに眺めて、アイナはくすりと微笑んだ。
 結城衛司。一週間ほど前に、機動六課部隊長八神はやてが何処からか連れてきた少年。話によると『JS事件』当時のヴィヴィオ同様、機動六課で保護する事になったらしい。
 ……事実書類上はそう処理されているのだが、実際のところは六課隊付きの備品、アイナ預かりの寮母見習い、つまるところは六課の雑用係という扱いと化している。

「アイナさん、お疲れ様ですー」
「あ、はやて部隊長」

 横合いから不意にかけられた振り向けば、休憩中なのだろう、缶コーヒーを手にした八神はやてが歩み寄ってくる姿が目に入る。
 お仕事は宜しいんですか? というアイナの問いに、んー、まあぼちぼちですー、と気がないのかはぐらかしているのか微妙な顔で、はやてはそんな答えを返してきた。

「どやろ。衛司くん、真面目に働いとります?」
「ええ。良く働いてくれます。お給料が出ないのが不思議なくらいで」

 くすくすと笑いながらアイナが答えれば、はやてもまた、にんまりと破顔してそれに応える。
 冗談めかしてはいたが、その実アイナの言はかなりの割合で本音だった。機動六課にはアイナ以外にも十数名の寮母やハウスキーパーが居るが、その中でも衛司の仕事ぶりは特筆すべきものと言える。
 その働きっぷりはまるで働き蜂のようだなどと、アイナ達六課寮母の中で評されている程だ。その評価が微妙に真実を掠めている事など露知らず。

 本人としてはあくまでただ飯喰らいに甘んじるのを良しとしない為の奉仕活動(と暇潰し)との事。ただそれがどこまで本当かは疑わしい……一応補足しておくと、ここで疑わしいのはあくまで衛司の言い分であって、彼の仕事ぶりに関してではない。
 ただ飯喰らいは嫌だと言うものの、碌に“飯も食べない”奴がそれを言ったところで、信憑性というものは付いてこないだろうという話だ。

「はやて部隊長。前にもお訊きした事なんですけど……衛司くん、身体の方は大丈夫なんでしょうか?」
「んー。シャマルからは大丈夫やってお墨付きもろとるんですけど。栄養失調とか発育不全とか、そういうんも見られへんみたいですし。燃費のええ身体っちゅう事やないですかねえ」

 ちょう羨ましいなあ、と一転して苦い顔(無論、そう見えるように作ったもの)で呟く妙齢の女性。まあ確かに、衛司のあの体質は体重計と日々戦う世の女性にとっては、ある種の羨望を以って見られるものであろう。
 見ていて不思議なくらいに飲まない食べない口にしない。朝にパン一切れとコップ一杯の牛乳でその日の食事は終わり、などという事も頻繁にあるようだ。
 少食どころの話ではない、育ち盛りの子供がそんな食事量で大丈夫なのかとかなり真剣に心配なのだが、本人が大丈夫と言い張っている以上、止める事も出来ない。全体的に見ればやや痩せ気味の身体ではあるが、目に見える体調不良は今のところ確認されていないのである。
 ただ、一つ――

『リンカーコアがちょっと変なんですけど……でも、障害になってるほどじゃありませんし……うーん』

 はやて曰く、不思議そうに首を傾げながら、シャマルはそう言っていたらしい。
 リンカーコア。魔導師と非魔導師とを隔絶する器官。体内にこれを持たない人間は魔法を使えず、逆説、これを持っているという事は、結城衛司もまた魔法を使えるという事なのだが、しかしシャマルが言うには彼のリンカーコアは酷く歪であり、畸形のそれはまともに機能していないのだとか。
 一般的な魔導師……つまり人間のものでは無く、観測指定世界などに生息する非人間型の原生生物――大型の羽虫とか甲虫とか――が持つリンカーコアに近いらしい。はやてはそう続けたのだが、しかしそこまで来るとアイナには完全に畑違い、適当に相槌を打って聞き流した。

 ともあれ健康状態に問題はないとの事で、本人も至って平然としているものだから、それでもやっぱりいつか(という名の『近い内』)倒れるんじゃないだろうかと心配しつつも、こうして六課雑用係として働いてもらっているという訳である。
 ちなみに、これはあくまで余談であるが、彼が働く場所は男子寮と男女共通区画に限られている。
 さすがに年頃の男の子を女子寮に入れる訳にはいくまい、女性職員のプライベートとか男に見られたくないあれこれとか男が見たくないあれこれとかがあるだろう。
 と、他ならぬ衛司自身がそう上申した結果の、彼の配置である。

「ま、元気に働いとるんやったら、それでええです。ほな、わたしも仕事に戻りますんで」
「あ、はい。お疲れ様です」

 ぺこりと互いに一礼して、はやてとアイナが歩き出す。はやては己の執務室へ、アイナは六課隊舎の屋上へ繋がる階段へと向けて。
 天気予報では今日は一日綺麗な青空が臨めるとの事。日差しもこの季節にしてはやや強く、気持ちの良い風が吹き抜けていくでしょうと、気象予報士は言っていた。
 つまり洗濯物を干すには絶好のシチュエーション。変わり易い天気の多い秋の空で、これほど明確に快晴を保証される日は貴重と言える。その機を逃すアイナ・トライトンではない。
 お日様の光をたっぷりと浴びてふかふかになったタオルやシーツ、そして衣類がどれほど快適な使い心地を提供してくれるものか、アイナは過たず理解している。理解しているからこそ、プロフェッショナルの彼女は、それを皆に満喫してほしいという思考に至るのだ。

「よーし」

 それでは、一つ気合を入れて洗濯物を干すとしよう。





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 悪党が三人以上顔を突き合わせてする事と言えば、大抵それは悪巧みと相場が決まっている。
 そんな一種偏見の様な法則も、少なくともこの日の結城真樹菜に限ってはそう的外れなものではない。彼女は紛う事無く正真正銘、何処に出しても恥ずかしくない悪党であり、『四葉飯店』においてこの日彼女が“友人”であるラッキークローバーの面々と話していたのは、確かに悪巧み以外の何物でもなかったのだから。

 ミッドチルダ首都クラナガンの一角に存在する、超大型カジノホテル『クラナガン・サンズ』。その最上階フロアを店舗として利用するクラナガン最高級の料理店『四葉飯店』の一室が、この日彼女が悪巧みを練り上げる為の会場として選んだ場所であった。
 いつぞやの集会の時とは異なり、数名での利用を目的とした個室。一種のVIPルームと言えるそこは他の個室と比べて尚豪奢に彩られ、装飾のみならず調度類までもが燦然と輝きを放って、利用者の格を問うている。凡俗の存在を許容しない雰囲気、と言い換える事も出来よう。

 だが生憎と言うべきか、今この一室を利用しているのは、その誰もがおよそ凡俗や平凡といった言葉から、そして高貴や気品という概念からも縁遠い連中ばかり。
 調度類や部屋の装飾が醸し出す煌びやかな気配を、その三人は己の存在だけで蹂躙する。

「しかし、どーしたもんかネ。まさかあのコが機動六課に保護されるとは、思ってもみなかったアル」
「そうねえ。確かあの部隊って、レリック事件専任じゃなかったっけ? オルフェノク関連の事件まで受け持つとは思わなかったわ」
「空気読んで欲しいヨ。何だってのこのこ出張ってきたアルか。こちとらいい迷惑ネ」
「いやいや、むしろ空気を読んだ結果っていうか、読者のニーズに応えたんでしょ。ほら、一応二次創作なワケだし。オリキャラ出すにしても、ちゃんと原作キャラと絡ませなきゃ! って思ったんじゃない?」
「最終的には原作キャラに対してSEKKYOに俺Tueee! アルか。最低SSまっしぐらアルな」
「クロスオーバーの癖にオリ主って時点で、もう手遅れな感じもするンだけどねえ」

 酢豚とエビチリをそれぞれに口へと運びながら、白華・ヘイデンスタムと臥駿河伽爛が愚痴とも揶揄ともつかぬ口調で言葉を交わす。微妙にメタな台詞が混じっているのはご愛嬌。途中から作者批判に話題が摩り替わっているが、別に止める義理も無いと静観する真樹菜だった。
 とは言え、いつまでも関係のない話をされていても困る。時間は有限であり、真樹菜はこの後にも仕事が控えているのだ。無駄なお喋りは……まあ真樹菜も女の子だ、決して嫌いではない、むしろ大好きではあるのだが、さすがに仕事そっちのけで興じる訳にもいかない。

「とにかく」

 やや強めの語調で伽爛と白華の会話を断ち切り、卓に肘を着き指を組んだ両手の上に顎を乗せ、薄っすらと目を細め真樹菜が言う。

「逃げ回ってくれる分には構いませんけれど、引き篭もりは困りますの。戦って貰わないと。殺し合って貰わないと。常に殺意に怯え敵意に凍えて貰わないと意味がありません――もう少しで使い物になる程度に完成するのですから、ここで手を抜く訳には参りません」

 弛まぬ錬磨こそが刃を鍛え上げる。怠惰と安穏を与えてはならない。結城真樹菜の“弟”に対するスタンスは、つまるところそれに尽きる。
 ただ現状、それがどれほどの難題か、真樹菜だけでなく伽爛と白華も、過たず理解していた。
 実際のところ、六課に逃げ込まれた時点で、彼女達は取り得る手段の大半を封殺されているのである。何せミッドチルダ最強を謳われる部隊の本拠だ。そこに襲撃を仕掛けるという事は、即ちオーバーSランク・ニアSランクの魔導師を一度に複数名相手取るに等しい。
 それを可能とするだけの実力を持つオルフェノクとなるとほんの一握り、そしてそれらのオルフェノクは真樹菜の計画に不可欠な人材であり、“当て馬”として浪費出来るものでは無い。
 しかし真樹菜の顔に悲壮感は無く、角度によっては不敵とも取れる冷笑が浮かんでいる。それが意味するところを読み違える臥駿河伽爛と白華・ヘイデンスタムではなかった。

「という訳で――こんな策、考えてみたのですけれど」

 果たしてそんな言葉と共に、伽爛と白華の眼前に表示されるウィンドウ。そこに映し出された文面を一読した白華が、「は!」と吼える様に笑声を響かせる。

「はは――あはは! こりゃ良いアルな! 成程これなら良い! わざわざあの僻地に駒ァ送りこむ必要もないネ!」

 哄笑する白華とは対照的に、伽爛はにやりと凄絶に笑んで、しかしその舌には白華と同じく賛辞を乗せる。

「成程、ね。なかなか面白いプランじゃないの」
「出来ますか? 伽爛さん」
「愚問よ、真樹菜ちゃん。この程度なら朝飯前。て言うか夜食。まあ、大船に乗ったつもりでいなさいな」

 鉄板のように分厚い胸板をとんと親指で小突き、伽爛は真樹菜の依頼を請け負った。
 これで今日、この場で話すべき事は終わり。終わってしまえば別段、此処でこうして顔を突き合わせて話すべき事でもなかった。通信であっても充分に片付く事であり、誰かに傍受されるリスクを考えるのなら書面で伝えれば良かった。時間を割いてこの場に赴く必要など何一つなかったのだ。
 だから真樹菜が此処へ来たのは、伽爛と白華を呼び出したのは、必要に駆られての事ではない。此処でこうして顔を見て話すという事そのものに意味があるのだから、必要性を云々する事こそ筋違い。
 友達と楽しくお昼ご飯。そこに何故、小難しい理屈を付ける必要があるだろうか。

「それにしても、楽しみねえ――早く“こっち側”に来ないかしら、あのコ」

 酒蒸しの海老をばりばりと殻ごと咀嚼しながら、うっとりとした顔で伽爛は言う。
 若い男が足りないわ、ぴちぴちの男の子が足りないわ、と常々愚痴っているこのオカマが、恐らくは“彼”の加入を最も心待ちにしている。恐らくは、“彼”の実姉である結城真樹菜よりも。待ちきれなくて待ち遠しくて、一週間ほど前についうっかり顔を見に行ってしまったぐらいだ。
 当然ながら真樹菜にこってり怒られる事となったのだが、怒った側に『私だって我慢してるのに』的な嫉妬が混じっていたのは否定出来ない事実だろう。

「言っておきますが伽爛さん。あの子が“こちら”に来ても、一緒に暮らすのは私ですからね。お忘れなきよう」
「えー!? ちょっとお、そりゃ無いんじゃない? 独り占めはズルいわよう」
「姉弟水入らずですわ。二年間音沙汰無しだったんですもの、その辺、配慮してくれても宜しいのではありませんか?」
「それなら言うけど、あのコを連れてくるまでにはアタシの協力が必要不可欠じゃない? 上手く事が運んだ後のご褒美とかはないワケ? 一緒にご飯食べるとかー、一緒にお風呂に入るとかー、一緒の布団で寝るとかさあ」
「仕方ありませんわね……ご飯の時に『はい、あーん』くらいは譲歩してさしあげます」

 弟の貞操を切り売りする姉ちゃんなんて初めて見たアル、と、呆れ果てたと言わんばかりの顔でそう呟く白華を、真樹菜は完膚無きまでに無視してのけた。

「しかし真樹菜、一緒の風呂だの布団だのはともかく、そこの変態の言う事も一理有るネ。激情態まで発現させてるアル、そろそろ“収穫”しても良いんじゃないアルか?」
「そうですわね……まあ、私としても無駄に時間をかけるつもりはありません。あと一回か二回様子を見て判断、というところでしょうか」

 伽爛と睨み合っていた数秒前とは一転、くすりと笑みを零し、真樹菜が烏龍茶を一口、口に含む。

「『計画』は着実に進展しています。もう少しの辛抱ですわ――そう、もう少しの」

 淡い微笑を浮かべる口元。
 無垢な赤子を目にするかの様に細められた瞳。
 それらの一々はどれも人の目を奪うほどに美麗でありながら、それらが組み合わさって生まれた表情は、目を背けたくなる程に醜悪で。
 およそ条理の外にあるその表情――それを言語というツールによって表現するとしたら、ただ一つ。
 邪悪という言葉こそ、相応しい。





◆      ◆







 十月も半ばを過ぎた季節となれば、陽が落ちるのも夏場と比して大分早くなる。
 その日も、午後の訓練を終えた六課フォワード陣が隊舎への帰路に着く頃には、既に斜陽は地平線に半ば没して、茜の一色に染まった空も東の果てに薄っすらと夜闇の紺を滲ませていた。

「あ~……やっと着いたぁ……」
「隊舎が遠いです……目の前なのに……」

 へとへとの身体を引き摺るように歩きながら、スバルとエリオが半ば放心状態で呟く。口が利けるだけまだ彼等は余裕があると言えるだろう。後ろを歩く後衛二人はもう喋る事さえ億劫らしい、幽鬼のように足を動かすばかりで、合いの手を入れる事すらしない。
 『JS事件』が終わり、六課隊舎が復旧してからこっち、一日ごとに訓練の密度は増している。六課の解散まではもう半年も無い、教える事は山積みで伝える事は目白押しらしい。一分一秒も無駄には出来ないのだ、訓練が日々苛烈の度を増していくのは必定と言えよう。
 目が回るようなスパルタ訓練の日々……ではあったが、しかし昨日より今日、今日より明日と、確かに力をつけていく己を実感出来る毎日である事も否定出来ない。
 へとへとのふらふら、一歩踏み出すごとにがたぴしと身体が軋むも、その疲労に一種の心地良さを覚えているのも、また確か。

「あ」

 六課隊舎が視界の先に見えてくる。六課発足から半年以上の月日で既に見慣れた、それでも新築であるが故に一抹の違和感を覚えさせるその佇まい。それを改めて視界に収めたスバルが、隊舎の玄関先に人影を見咎めて声を上げた。
 身の丈ほどもある大きな竹箒を使い、さかさかと隊舎の玄関先で落葉を集めている(これでレレレとか言い出したらもう完璧だ)、一人の少年。
 黒髪黒目、やや痩せ気味の体型と、外見上の特徴に酷く乏しい彼に向けて、スバルが「おーい!」と声を張り上げ大きく手を振った。身体を苛む疲労もその時だけは意識の外、尻尾を振る犬を思わせる動きで、ぴょこぴょことスバルが少年――結城衛司へと近づいていく。
 びくんっ! と神経系に電撃でも流されたかのような過剰反応。振り向いた衛司の顔からは明らかに怯えや恐怖といった感情が読み取れたのだが、気付いていないのか気付いていて無視しているのか(多分前者だろうが)、スバルにそれを気にした様子は見受けられない。

「す、スバルさん? えっと、その、お、お疲れ様です」
「うん。衛司くんも。お掃除中?」
「あ、は、はい。落ち葉集めを頼まれて――あ、そうだゴミ袋がないなあ! ちょっと取ってきますのでそれじゃ!」

 そう言うが早いか、衛司は踵を返し、脱兎の如くその場を駆け出していく。引き止める暇もない、それはそれは見事な逃げっぷりであった。

「…………むー」

 スバルが口を尖らせる。こうまであからさまに不満を顕わにする彼女は珍しいと言えるが、しかしそれも無理からぬ事であろう。
 この一週間というもの、何かにつけてスバル達はこうして衛司に話しかけているのだが、衛司はと言えば常に先程のような感じで露骨にスバル達を避けている。
 無視するでもなく拒絶するでもなく、ただよそよそしいというだけなのだが、しかしそれが却ってスバル達にとっては辛い。しかもそのよそよそしさは、先のスバルに対する反応からも解る通り、些か以上に度を越していると言って良い。

 その癖、スバル達四人以外に対してはごく自然に接しているらしい。アルトやルキノ、シャーリーから聞いた話では、やや気弱なところや押しの弱いところはもあるものの、総じて気の良い少年であるという評価をロングアーチの面々から頂いているとか。その他の六課職員も概ね同様、つまりあれだけ露骨に避けられているのは、やはりスバル達だけなのだ。
 歳も近いんだし、もっと仲良くしたいのに。それが偽らざるスバルの気持ちなのだが、残念ながら、それもいい加減挫けそうである。

「僕たち、何か衛司さんに嫌われるような事したんでしょうか……」

 悄然とエリオが呟くが、その理由が判っていれば、とうの昔にこんな関係も改善されているはずである。
 彼女達も薄々気付いていた事ではあったが、衛司の態度は結局のところ、彼の方にのみ理由があるのだ。彼自身の問題であるのだから、スバル達がどう頑張ったところで根本的な解決には成り得ない。
 だからこそ、衛司の方に関係を改善しようという姿勢が見られない今、この関係が当面続くであろう事は容易に想像がついた。

「………………」
「? ティア?」

 衛司の走り去った方を睨み据えて押し黙るティアナへ、スバルが呼びかける。……呼びかけたその直後、スバルは気付いた。
 ここ最近の彼女からは想像も出来ないほど剣呑な視線。思い出せば、彼女と――ティアナ・ランスターと初めて会った頃、彼女は常にこんな目をしていなかったか。世界を『いま敵対している者』と、『これから敵対する者』との二色でしか見ていない、そんな瞳。もう見る事はないだろうと思っていたその目で、彼女はあの少年を見ている。
 だがスバルの呼びかけに、予想に反してそれを無視する事なく、ティアナはあっさりとその面持ちから険を取り去って「何でもないわ」と応えた。

「ほら、行くわよ。お腹減ってもう倒れそうなんだから」
「あー。ティア、腹ぺこキャラはあたしの担当だよ」
「うっさい」

 ぺしりとスバルの頭を叩いてすたすたと先へ行ってしまうティアナを、笑みを浮かべつつスバルが、そしてその後とエリオとキャロが追っていく。
 陽は完全に西の空へと没し、鳥達も既にねぐらへ戻ってしまったのだろう、暗色に染まりつつある雲の他に、空で動くものはない。少女達の靴裏から伸びる長い影法師も、その裡に含まれる黒を少しずつ夜闇の中へと溶かしていく。
 天上に煌く一番星と二つの月が、夜の訪れを告げていた。





◆      ◆







「……………………はあ」

 とぼとぼと六課隊舎の廊下を歩きながら、もう何度目になるだろう、衛司の口から辛気臭いため息が漏れる。

 今日もまた、彼女達にあんな態度をとってしまった。避けている、関わらないようにしているという言葉では追いつかない、いっそ忌避していると言っても過言では無い、露骨なまでに距離を置く態度。機動六課フォワード陣の四人に対する態度は、当事者である衛司自身の認識でも、友好的とは程遠いものだった。
 会話を拒否し、触れ合いを拒絶し、顔を合わせるのも嫌だとばかりによそよそしい。真っ当な社会生活を送る上では致命的なまでに間違ったその態度を、この一週間、結城衛司は彼女達に対して取り続けている。
 ここで彼が批難されるべきは、それが間違っていると自覚しながらも、その態度を取り続けているという点だ。内心では申し訳ない、彼女達が望むように仲良くしたいと思っているのに、いざ彼女達を前にすれば、平然とはしていられなくなってしまう。

 理由は単純。怖いのだ。スバル・ナカジマが、ティアナ・ランスターが、エリオ・モンディアルが、キャロ・ル・ルシエが。
 彼女達を前にすると、殺されかけたあの日の記憶が嫌でも脳裏を過ぎってしまう。ずきりと胸骨が幻痛を訴える。心臓は早鐘の如く脈動し、総身の骨に氷を差し込まれたかのように体温が下がっていく。そんな有様で、まともな――少なくとも人付き合いとして最低限の――対応が出来るはずもない。

 スバル達が自分に愛想を尽かすのも、時間の問題だろう。今までそうなっていないのが不思議なくらいである。親しげに話しかけた相手からあんな態度で返されれば、それっきりもう話しかける気など起きるまい。少なくとも結城衛司はそうだ。と言うよりは、普通の人間ならばそれが自然であろう。
 この一週間というもの、ほぼ毎日のように顔を合わせ、その度に話しかけてきては衛司によそよそしくあしらわれ、にも関わらず次に会った時には以前の事を忘れたかのようにまた親しげに話しかけてくる彼女達は、衛司にはどうにも理解し難い人種であった。

 だからこそ一層、彼女達に対して申し訳ない気持ちが募る。
 何とかしないと。そう焦るばかりの心は、未だ恐怖に怯える身体を掌握出来ない。気持ちだけが空回りしていた。

「あれ、衛司くん?」

 衛司の進む先にある扉がその時不意に開き、そこからギンガ・ナカジマと、六課所属のデバイスマイスター、シャリオ・フィニーノが顔を出す。
 部屋を出た途端、悄然とした面持ちでとぼとぼ歩いている少年を目にしたせいか、彼女達の表情と声音には戸惑いと共に、衛司への気遣いが色濃く表れていた。それを察した衛司が慌てて明るい表情を繕うが、それで誤魔化せたと思っているのは、恐らくは衛司だけだろう。

「あ、ギンガさん。……と、えっと……フィニーノさん」
「んー、シャーリーで良いよ。皆、そう呼ぶから」

 快活に笑うシャーリーに、はあ、と曖昧な返事を返す。まだいまいち六課職員の名前を憶えきれていない、間違ってたらどうしようと不安だったのだが(未だに名前を間違える事が頻繁にある)、どうやら大丈夫だったようだ。

「衛司くんは、お仕事中?」
「へ? あ、はい。ちょっとゴミ袋を取りに――」

 横合いから放たれたギンガの質問に答えようとして、そこで一瞬、つい先程のスバル達とのやりとり――とすら言えないような僅かな会話――が脳裏を過ぎり、僅かに衛司の表情が硬直する。
 それを見逃すギンガではない。少しだけ眉根を寄せ、心なし口を尖らせて、困ったような怒ったような、微妙な顔を見せた。

 衛司がスバル達に対して取っている態度は、無論、ギンガも知るところである。と言うより、六課の中で知らない者は居ないと言った方が近い。
 ある者は衛司に「ちゃんと仲良くしなきゃ」と忠告し、ある者は「何か揉め事でもあったの?」と心配してくれ、またある者は「なんや、誰かに惚れたんか? スバルか、ティアナか……んー、キャロって線もあるんかな? 大穴でエリオやろか。やー、好きな子の前でどぎまぎしてまうんは良う解るで。ええなあ、こう、青春って感じやなー」と明らかに勘違いしまくった放言を吐いていたのだが、そのどれもが完全に的外れであるのは言うまでもない。

 だがギンガは何も言わない。何も言わず、ただ表情と視線だけで衛司を咎めてくる。
 思い返せば、あの時もそうだった。病院を脱け出し、クラナガンの街へと向かって、そこで重傷を負い再び目覚めたあの時も、ギンガはこうして衛司をじっと睨み付けていた。
 それが衛司に対して最も効果的と知った上での処方なのか、それとも誰に対してもこうなのか。ともあれ万言を費やした説教より、遥かに結城衛司にとってキツい対応であった。

「う……えと、その、あ、ぎ、ギンガさんはここで何を?」

 傍から見ても無理矢理の、何だかもう駄目駄目な話題転換ではあったが、しかしギンガは一つ小さくため息をつくだけで、予想外な程に快く衛司の質問に答える。
 ギンガが懐から取り出したのは、小さなクリスタルが付いたアクセサリー。以前、クラナガン医療センターに入院していた頃にも一度、それを見せてもらった事を思い出した――ギンガ・ナカジマという魔導師の使う魔具にして相棒、ブリッツキャリバー。

「デバイスの調整をお願いしていたんです。この前の戦闘から、ちょっと調子が悪くって」
【もう万全です。ご心配をおかけしました、相棒】

 ギンガの言葉に続くブリッツキャリバーの“言葉”を受けて、ああ、と衛司はギンガ達が出てきた部屋の扉を見遣る。確かこの部屋はデバイスの開発室だったか。六課に来た次の日、隊舎を案内された時に中を見せてもらった覚えがある。
 魔導師ではなく、魔法にさして興味もない衛司ではあったが、『魔法』というファンタジーな概念に反したSFチックな内装に驚いた事は、まだ記憶に新しい。

「訓練に合流するのは明日からになりそうだね。ブリッツキャリバーもそうだけど、ギンガも無茶するからさー」
「す、すいません。もう大丈夫ですから。シャマル先生にも許可を頂いてますし」

 苦笑混じりなシャーリーの言葉に、微妙に気まずい顔でギンガが頭を下げる。
 十日ほど前のミッドチルダ総合医療センターでの戦闘は、ギンガの身体にも無視出来ない爪痕を残していたらしい。衛司がこの世界に拉致されてくるより以前に起こった事件で――確か『JS事件』といったか――ギンガは重傷を負ったという。
 事件後の根気強い治療によりそれも大分癒えてきていたのだが、そこに起こったのがあの医療センター襲撃事件。目に見える形での負傷こそなかったものの、戦闘行為は確実に彼女の身体を反動という形で蝕み、完治に向かっていたはずの身体と、調整の終わっていないデバイスの双方に影響を及ぼしていた。

 決して無関係ではないはずの雀蜂は、それをさも他人事のように聞き流していた――都合良く記憶を失っているが故に、そこに己が関与していた事など、想像もせず。
 ともあれそんな経緯で、ギンガは六課に出向してもこれまでスバル達の訓練には参加していなかったのだが、漸く身体とデバイスが本調子に戻ったとの事で、明日から訓練に参加するのだと言う。

「無理はしないでくださいよ」
「ええ、気を付けます。……でも、衛司くんには言われたくないなあ」

 笑みを浮かべながら、しかしその上でやや辛辣に、ギンガが衛司の言葉を切り返す。まあ確かに彼女の言う通りだ。病院を脱け出して街へと向かったり(そしてそこで重傷を負わされて帰ってきたり)する人間が何を言ったところで説得力はあるまい。それが他者の体調を案ずる言葉であるのなら尚更。
 しかしこのタイミングでそれを持ち出すあたり、未だギンガはそれを根に持っている事が窺える。ぐ、と言葉に詰まった衛司に、更にギンガは追い討ちをかけていく。

「そうだ、衛司くん。またご飯ちゃんと食べてなかったんですって? アイナさんから聞きましたよ」
「げ」

 アイナさん、余計な事チクんないでほしい……無論、それを言葉にする事はしなかったが。
 別に、ギンガ・ナカジマは結城衛司の保護者でも後見人でも無い。だが六課において、衛司の事についてはギンガに報告しておけという雰囲気があるのもまた事実。
 大概は手伝いに来てくれて助かっただの、役に立っただのという礼の言葉であるのだが、一方で碌に飯も食わない、休みもしないと、彼の身体を心配する言葉もまた多い。

 その度にギンガがこうして衛司を叱っているのだが、実際、その効果に関しては甚だ怪しいと言える。
 何せこの一週間で、衛司は同じ事を既に三度も言われているのだ。今回で四度目だ。腰に手を当てて説教を垂れるギンガも、さすがにいい加減同じ事を言い飽きてきたのか、その顔には怒りよりも呆れの方が色濃い。まあその二つよりも更に心配の色が強いのだから、傍目にはむしろ微笑ましいものと映るだろう。
 と、不意に聞こえたくすくすという笑い声に、説教中のギンガとうなだれて説教をやり過ごそうとしていた衛司が共に反応する。言うまでも無く、傍らで二人を眺めていた、シャリオ・フィニーノの笑声であった。

「……? どうかされたんですか、シャーリーさん?」
「ん? んーん。ギンガがなんか、衛司くんのお母さんみたいだなー、って」
「お、お母さん……!?」

 落雷に打たれたかの様な驚愕と衝撃がギンガを打ちのめす。シャーリーの一言が余程ショックだったのだろう。
 まあ当然と言えば当然だ、ギンガ・ナカジマは花も恥らう十七歳の乙女である。それが事もあろうに『お母さん』と評された。ましてこれまでに男性と付き合った経験すら皆無な彼女だ、踏むべきプロセスを二つ三つすっ飛ばしたその放言は、思ったより致命的なポイントを穿ったらしい。
 魂が抜けたかのように、がっくりとギンガが肩を落とす。ごめん違うね、お姉さんだねと慌ててフォローに入るシャーリーだったが、正直なところそのフォローも微妙だった。

「そ、そう言えば、衛司くんにもお姉さんが居たんだって? やっぱりギンガみたいな人だった?」

 それは――その質問は、少なくとも衛司にとってはまったく慮外のものだった。
 予期せぬ問いに対応しきれない脳髄が表情筋の操作を忘れ、面食らったような間抜け面を作り出す。
 シャーリーの質問は聞きようによっては些か配慮を欠いた口調であったのだが――彼が姉と死別している事は、シャーリーも知っている筈だ――しかし衛司が姉を失ったのは昨日や一昨日の事でもない、既に心の整理はついている。
 まさかそれを見越した上であえて軽く言った訳でもないだろうが、おかげで変に場の雰囲気を暗くする事なく、衛司はその質問に答える事が出来た。 

「……ギンガさんとはまるっきり逆でしたね。横暴で傲慢で、何て言うかもう、非道い人でした」

 僕の買ってきたジャンプは先に読むし、ドラクエのデータは消しちゃうし、テレビのチャンネルは独り占めするし、推理小説読んでる途中に犯人教えてくるし、と異世界の人間には些か理解に苦しむ(特に前半の二つ)愚痴が衛司の口を吐いて出る。
 だがそれは決して憎々しげなものではない。少年の面持ちには物憂げなところこそあれど陰鬱さは皆無であり、それは端的に言うのなら、もう戻らぬ日々に対する追懐の感情であった。
 はは、といっそ自嘲的にすら見える笑みを零して、衛司は続ける。

「本当――非道い人でしたよ」
「お姉さん……嫌いだった?」

 シャーリーの質問に、ゆるりと衛司は首を振って、否定の意を示す。
 そう、決して嫌いではなかった。飛び抜けて頭が良くスポーツも万能、若干十三歳で名門・城南大学に飛び級入学した姉は、衛司にとっては自慢の姉でもあったのだ。
 家庭環境のおかげか、両親の人格のおかげか、その理由はどうあれ、『出来の良い』兄弟姉妹を持った人間にありがちなコンプレックスを抱く事もなく、衛司は姉を好きでいられた。それはきっと、とても幸せな事であるのだろう。

 それじゃ、僕はそろそろ――簡易な辞去の言葉を口にして、衛司が踵を返す。仕事中という事を忘れ、ついうっかり話しこんでしまった。職務怠慢と怒られても文句は言えまい。……無給で働いている点に目を瞑れば、であるが。
 ギンガやシャーリーもあっさりとそれに頷き、軽く手を振って、少年を見送る。
 彼女達から引き止める言葉はなく、衛司は遅れを取り戻そうと少しばかり歩調を速め――

「ん?」

 しゃきん、と不意に鳴り響いた涼やかな音に、その足を止められた。
 視界にかかる赤のエフェクト。足元を炙る熾火のように視界の下半分を薄っすら赤く染めるその光は、衛司の直下、廊下の床面に展開された魔法陣からじわりと滲み出たもの。
 濁血を思わせる赤黒い魔力光で編まれた魔法陣が、衛司をその中心に置いて、煮え立つ魔女の釜が如くに赤光を滾らせている。

「何ですか、こ」





◆      ◆







 恐らく、前後の状況から推理する限り、衛司は「何ですか、これ?」と訊きたかったのだろう。
 だが残念ながら、その問いは成立する事はなかった。最後の「れ?」の音を、遂に衛司は発声する事が叶わなかった。
 いや、発声自体は何の問題も無く行えただろう。より正確を期するなら、その音をギンガとシャーリーの耳が捉える事が叶わなかったのだ。
 衛司の喉が空気を振るわせ、その振動が音となって彼女達の鼓膜に届くよりも更に速く、音を伝播させる周辺の空気ごと、結城衛司は消失していた・・・・・・のだから。

「………………え?」
「………………はい?」

 目の前のあまりにも信じられない光景に、脳髄の処理能力が飽和する。間抜けな声が喉から漏れ出るのを、少女達は制止しきれなかった。

 つい今し方起こった事実を、ありのままに述べるとすれば――衛司が会話を打ち切り、この場を後にしようと踵を返したその瞬間。彼の足元に突如として魔法陣が顕現、ギンガとシャーリーが声を上げる暇もあらばこそ、魔法陣は一際大きく明滅し、衛司の姿を消し去ったのだ。
 恐らくあれは転移魔法の魔法陣。飛行魔法と同様、ミッドチルダにおいては無許可の行使が禁じられている魔法である。

 だが。言うまでもなく、二人が周囲を見回したところで、その魔法を行使した術者の姿はない。およそ信じられない事だが、今の転移魔法を行使した術者は、遠隔地から人間一人を狙って転送効果を発生させたらしい。
 術者の周囲ではなく、距離を隔てた地点に効果を発生させる魔法自体は、珍しくはあるものの皆無という訳ではない。次元跳躍魔法と分類される大規模儀式魔法も世には存在するし、機動六課部隊長八神はやての魔力資質として『遠隔発生』なるものも存在する。しかしそれとて、極端な話、野放図に威力を放つものであって、こうまで精密な操作を行う事はほぼ不可能に近い。

 と、ここまでつらつらと述べてはみたのだが、つまるところ事実として残ったのはただ一つ。

「あ……あ、ああああああああっ!」

 その事実を認識した瞬間――シャリオ・フィニーノが声を上げる。
 対してギンガ・ナカジマは沈黙した。声を上げる事すら忘れていた。
 ――この場で起こった事を、端的に総括するのなら。



 結城衛司が、攫われた。





◆      ◆





第漆話/了





◆      ◆







後書き:

 という訳で、第漆話でした。お付き合いありがとうございました。
 先にお断りさせて頂くと、今回は甲乙表記は無しです。決して一エピソードで二本書くのが面倒臭くなった訳では無く、主人公が六課に居座ってしまった為、『一方その頃』という形で主人公又は原作キャラの視点をやる必要がなくなった為の処置と御理解ください。
 次回からまた甲乙つけて、同じ時間軸の別視点の話となる予定です。

 内容としては全体的にだらだら感が漂っております。非戦闘パートなので、ちょっと弛緩した感じで。
 保護対象だからと日がな一日ごろごろだらだらしてるのはあまりにも主人公としてアレなので、用務員みたいな仕事させてみました。
 作中、衛司はリンカーコア持ちみたいな事言われてますが、今後魔法資質に目覚めてデバイス手に入れてスターズなりライトニングなりの一員に、という展開は間違いなく有り得ませんので、御安心ください(?)。
 と言うか、今回はクロス要素の薄い一本になってしまいました。前回の反動と言う訳ではないのですが、期待して下さった方には申し訳無いです。次回は多分、もうちょいライダー成分が多くなると思いますので。 

 それでは次回で。宜しければ、またお付き合いください。



[7903] 第捌話/甲
Name: 透水◆44d72913 ID:35af097c
Date: 2023/12/29 20:45

 熾火の如き赤黒の魔力光が、夜闇の紫紺が敷き詰められたクラナガンの空を炙る。
 クラナガン市街に林立する高層ビル――その中でもさして目を惹く事のない、規模もデザインもまったく没個性な一棟の屋上。眼下で猥雑に煌くネオンの光も届かず、さながら墓場めいた静寂に閉ざされたそこは、誰の認識からも抜け落ちた都会の盲点。
 なればこそ、臥駿河伽爛が“儀式”の舞台としてこの場所を選んだのは、至極順当な、必然という表現以外の何物でもなかった。

「…………うふふ。こんなもんかしら」

 分厚い筋肉に鎧われた、身の丈二メートルを超える巨躯が、足元に展開された魔法陣からゆらめくように立ち昇る赤黒の魔力光に照らされて、一層怪しく不気味におぞましく、そのシルエットを暗闇から溶明させていく。
 さながらB級ホラー映画の一場面にも似たその光景。しかしそれは、その見た目に反して、酷くささやかな目的を為す為に用意されたものであった。

『儀式魔法』と分類される魔法がある。一定の手順、一定の文言を紡ぎ上げる事によって発動する魔法の総称である。
 天候操作や結界形成などその内容は多岐に渡るが、必然的に共通するのは、そのどれもが詠唱無しで行使される通常の魔法と比べ、非常に大規模な効果を得られるという事。

 だが今、臥駿河伽爛が発動させようとしている儀式魔法は、驚くほどに小規模なものであった。
 極言するならば、たった一人の少年を別の場所に移動させるというだけの魔法なのだ。魔導師の常識で考えるならば、その程度の事にわざわざ手間隙かけて儀式を整える事など、まったく非効率的である。
 事実、伽爛の足元に展開された魔法陣の中を流動する魔力は、発現する効果から見ればあまりにも膨大過ぎた。魔力運用の面から見れば無駄遣いにも等しい。

 しかし、こと“目的”の面からこの儀式魔法を鑑みるならば、間違いなくこれは正解と言えた。元より伽爛に『大規模魔法』を『行使』するつもりなどない。出来得る限り確実に、一人の少年を己等が用意した戦場へと運び去る事が出来れば、それで良かった。
 そう、ここで伽爛がこの儀式魔法に期したのは、効果の規模では無く精密さ。“遠隔地に居る標的を転移魔法で運び去る”という常識外れ、ただそれを実現するためだけに、このオカマは驚く程の手間と呆れる程の魔力を費やしたのである。

 す、と伽爛が頭上に杖を――管理局の一般武装局員も使っている、廉価品のデバイスを掲げる。
 人によっては意外と感じる者も居るだろうが、臥駿河伽爛は自前のデバイスを持たず、普段からこうして何処にでも売っている廉価品のデバイスを使っている。
 自分用に調整したインテリジェントデバイスやアームドデバイスというものはとかく高価なものであり、維持するにも結構な金がかかるものだが、伽爛が自前のデバイスを持たず廉価量産品を使っているのは別に金銭的な理由からではない。そもそも一生遊んで暮らせるだけの金は持っている。
 ならば何故かと言えば、単に安物の方が気兼ねなく乱暴に扱える、壊れてもすぐに替えが効くと、それだけの理由でしかなかった。

 ともあれ、伽爛は掲げた魔導杖を勢い良く床面、魔法陣の中心へと突き立て、儀式の締め括りに入る。
 紡ぐは呪言、儀式魔法を完成させる最後のパーツ。これを唱える事で、臥駿河伽爛の構築した儀式魔法はそこに流動する膨大な魔力を以って、常識の埒外たる効果を発生させる――

ぴっちんぱっちんつんつるりん♪ おしりもおちちもつんつるりん♪
「……相変わらず、恐ろしい呪文アルな」

 聞くだに恐ろしい呪文を何の衒いもなく謳い上げ、魔法陣がぎらりと一瞬だけ輝きを増したところで、不意に背後から浴びせられた呆言に、伽爛は振り向く。
 高層ビルの屋上、吹き抜ける風はなかなかに強い。びょうびょうと唸りすら上げる強風に鮮やかな金髪を靡かせ、白絹に金糸の刺繍が施されたチャイナドレスの裾をはためかせて、白華・ヘイデンスタムが伽爛へと向かい歩み寄ってくる。

「あら白華。遅かったわねえ。こっちはもう支度済んだわよ?」
「そりゃ悪かったアルな。ちと手間取ったネ。意外に頑固というか、抵抗してくれたアル――ま、この白華サマにかかれば、ちょちょいのちょいアルけどナ」

 そう言って白華が背後を指し示す――そこに居たのは一人の男。管理局陸士部隊の制服を着た、二十代半ばくらいの、若い男だった。制服の胸元、肩口にそれぞれ縫い付けられたエンブレムには『陸士108部隊』の名。確かミッドチルダ西部に拠を置く部隊だったか。
 どうにも特徴に乏しい、何処にでも居そうな男ではあったが、二メートルを超える巨漢のオカマと、チャイナドレスを着て怪しい訛りで喋る金髪白人女性がすぐ近くに居たのでは、大抵の人間は凡俗に見えてしまうだろう。その意味では別段平凡な男でも無いのかもしれない。

 特筆すべきは、男の表情にまるで生気が無い事だ。だらしなく半開きになった口、光を失って虚ろな瞳は、店頭に並べられた魚を思わせる。何らかの薬物を投与された時の様に人事不省なその有様は明らかに尋常ではなく、しかし伽爛と白華にそれを気に留める様子はない。
 伽爛の足元に展開された魔法陣に視線を落とし、ふん、と白華が鼻を鳴らす。侮蔑のようでありながら、その癖自嘲のようにも見える、何とも微妙な挙措であった。 

「流石は元戦技教導隊・・・・・――儀式魔法もお手の物アルか」
「やあねえ、昔のハナシよ、昔の。今のアタシは一介の魔法少女よう」
「こりゃびっくり。昨今は魔法少女の敷居も随分低くなったアルなあ」

 身長二メートルを超えるマッチョなオカマでも『魔法少女』を名乗れるご時世らしい。
 恐ろしい時代になったものアル、と白華が嘆いたところで、伽爛の眼前に一枚のウィンドウが展開される。伽爛の仕掛けたサーチャーから中継されてくる、“出口”の模様を伝える映像。
 伽爛と白華の視線がそれに向けられるとほぼ同時、映像にゆらりと陽炎のような歪みが生じ、画面上部が濁血に浸されたかのように赤黒く染まる。
 今宵の祭りが幕を開けた事を示す、その事象。伽爛の、そして白華の顔に浮かぶ笑みが、一層凄絶の度を増していく。

「さて、手並みを拝見アル」





◆     ◆





異形の花々/第捌話/甲





◆     ◆







「――ぎゃんっ!」

 がん、ごん、がしゃん! と凄絶な音が響き渡るとほぼ同時、蹴飛ばされた犬のような悲鳴がそれに被さる。
 無論、それは説明するまでも無く、転移魔法によって機動六課隊舎から連れ去られた結城衛司の発したもの――転移先の座標が床面ではなく中空だったせいか、当然のように重力に引かれて落下し、碌に受身も取れないまま周囲のオブジェクトにぶつかりながら転げ落ちた彼の発したものだった。

「~~~~っ…………! っ痛ぅ……!」

 逆様に引っ繰り返った、ちょっと人には見せられない無様な体勢で悶絶する衛司。本当ならのたうち回って痛がるところだが、妙に狭苦しいこの空間ではそれも叶わない。少し身動きするだけでがん、ごん、と周囲の壁にぶつかった肩や腰が鈍い音を立てる。
 一体何が起こったのか。全身を走る疼痛、数秒前までとは激変した視界、狭所に押し込まれた自分の身体。現状を認識する事で一層彼の混乱は煽られ、ぐちゃぐちゃに攪拌された意識はまともな思考を行えない。

 とは言え、時間の経過と共に疼痛が薄れるにつれて、少しずつその混乱も収まっていく。一分もすれば、一体自分に何が起こったのか、記憶を改めてたぐる事が出来る程度には、思考は回復していた。
 確か、隊舎の廊下でギンガとシャーリーの二人に出くわし、少しだけお喋りに興じて、そして別れたその直後。いきなり足元に何やら光る円陣が浮かび上がったかと思うと、落とし穴に突き落とされたかの様に足場を失って、今、この状況に至っている。

 ……事の経緯を改めて整理して、その不条理というか、脈絡の無さに愕然とする。
 眼球を動かして周囲を窺えば、今の自分が何処に居るのかは判らずとも、どんな場所に居るのか、それだけは把握する事が出来た。
 もぞもぞと必死に身体をよじり、体勢を変えて、何とか天地逆の状態を脱する事に成功する。そうして立ち上がれば、改めて周囲の光景が視界に収まった。

「……便所……だよね」

 一メートル四方に区切られた空間。正面には扉。やけに高級感のある白い陶器の便器。地球のそれと何ら変わりない、個室の洋式便所。
 当然ながら、機動六課隊舎の便所ではない。間接照明が用いられ、不思議に幻想的な雰囲気の漂うそこは、実用的と言うか余計な装飾のない六課隊舎の便所とはまるで趣きの異なるものである。
 恐らくはどこぞの娯楽施設の便所であろうが、しかし何故自分がこんなところに放り出されたのか、その疑問に対する回答となりそうなものは全く見当たらない。

 周囲の物音に耳をそばだててみるも、話し声もなければ足音もない。近くには誰も居ないと判断して扉を開け、個室の外に出てみれば、予想通りに便所の中には誰も居なかった。改めて見覚えのないその空間に眉を顰める。――此処は、明らかに六課隊舎ではない。
 瞬間移動、というやつだろうか。魔法というものの知識を持ち合わせない衛司は、己がこの場に居る事をそう推測する。実際には転移魔法による拉致であったのだが、少なくとも認識として、衛司のその推測は然程外れてはいなかった。
 恐る恐る便所から外に踏み出してみる。便所の前には広々とした廊下が延々と続いており、右か左か一秒ほど逡巡した後、左を選んで、衛司は廊下を歩き出した。ふわりと頬を撫でる空気の流れが、屋外、もしくは広い空間に続いている事を示している。

 不意に視界が開けたのは、二分ほど歩いた後の事だった。
 廊下の終端から向こうにあったのは、屋外では無く、広々とした吹き抜けのアトリウム。
 さすがに日も落ちた今では黒々とした夜闇しか窺えないものの、昼日中であれば燦々と陽光が差し込むであろうアクリルの天蓋に覆われたそこは、噴水や花壇なども設えられた屋内庭園の様相である。
 ミッド語を解さず、ミッドの地理に関する知識を持ち合わせない衛司には知る由もない事であるが、そこはクラナガンの一角に存在する、ミッドチルダでも有数の大型ショッピングモール――その中央部に位置するアトリウムだった。

「はあ……?」

 呆けたようにため息を漏らし、ふらふらと衛司はアトリウム内に足を踏み入れる。
 平日の夕暮れ時だ、アトリウム内に居る人間の数は決して多くなかったが、それでも閑散としているという程でもない。走り回る子供の姿も見えれば、お喋りに興ずる若い女性達の姿、これから家路に着くのだろう老夫婦の姿も見える。

 そのどれもがごく有り触れた日常の光景で、別に『悪の組織の秘密基地』に連れて来られたとは思っていなかったものの、衛司にとってはまったく慮外な光景であった。
 近くにあったベンチに腰を下ろし、背もたれに体重を預けて、天井を見上げる。アクリル越しに見える空は、最早違和感も薄れかけた、二つの月が煌々と輝くミッドチルダの夜空。何一つの異変も無い光景は、胸の内で張り詰めていた筈の緊張の糸をぶちりと引き千切る。

「ああもう、この世界に来てからこんなんばっかりだ……」

 失望、裏切り、肩透かし。別に何かを期待していた訳ではないけれど、これから起こるであろう何がしかに対する備えが悉く無為になっていく感覚。
 ミッドチルダに放り出されてからの衛司は、その感覚を間断無く味わっているようなものだった。泣き言を漏らしたところで誰に責められよう。周囲に己を知る者が誰一人居ない状況だからこそ、本音を隠す事が出来なくなった面も否定出来ないが。
 ともあれ、天を仰ぎ泣き言を漏らし、盛大にため息を吐いたところで、思考は僅かばかりの冷静さを取り戻した。

「……ギンガさん、心配してるだろうなあ」

 何せ、目の前で攫われてしまったのだ。その一切を目撃していた彼女がどれだけ驚き、そして行方知れずの衛司を心配する事か。
 攫われた当の本人はこうしてだらりとベンチに腰掛けているのだが、まさかそんな事がギンガに予測出来るとも思えない。
 いつぞや、病院を脱け出してクラナガンの街に赴いた時も似た様な事を呟いたような気がするが、しかし今回は衛司に一切の非が無い以上、それは本心からの、無用の心配を強いてしまうギンガを気遣う言葉だった。

 一刻も早く無事を知らせたいところだが、残念ながら、今の衛司は通信手段を何一つ持っていない。携帯電話は隊舎の自室に置きっぱなしだし、そもそもミッドチルダでは使えない。公衆電話を使うにしても、財布もまた自室の机の上。故に隊舎に戻る為に交通機関を使う事さえ、衛司には出来ないのである。
 そも、隊舎からこのような形で外に出る事など誰一人予期していなかったのだから、この状況に対する備えがあるはずもない。結局、大人しく迎えを待つ以外の選択肢はなく、故に彼に出来る事と言えば、もう一つ派手なため息を吐くのが精々。

「見てごらんよハニー。今日も月が綺麗じゃないか」
「そうねダーリン。まるで私たちを祝福しているみたい」

 ……いつの間にか、隣のベンチに一組のカップルが腰を下ろしていた。
 身を寄せ合い睦言を垂れ流すその様は傍から見ていて、いや視界に入れずとも聞いているだけで果てしなく不快を催すものであったのだが、当の本人達は幸せ絶頂、周囲の視線などまるで意に介していないのだろう、まるで恥じたところがない。
 そもそも他人の視線なるものが存在する事さえ、彼等は理解しているのかどうか。

「けれどハニー、どんなに綺麗な月も星も、君の前では霞んでしまうよ」
「ああダーリン、貴方はまるで太陽だわ。私にとっての太陽よ」

 いらっとくる。なんだかとってもいらっとくる。
 かと言って席を立つのも何だか癪だ。何か負けた気がする。断固、連中よりも先に此処を離れてなるものか――まったく不毛な根競べだったが、その不毛さを少年に説いてくれる者は、幸か不幸かこの場に居ない。

「ああハニー、愛しているよ。君の為になら何だってしてみせよう」
「ああダーリン、愛しているわ。貴方の為になら何だってしてみせる」

 勝手にしろよ。
 苦虫を一ダース纏めて噛み潰したような渋面で、明後日の方向を向いたまま、それでも漏れ聞こえてくる愛の語らいに、内心で衛司が毒づく。

「きっと幸せになろうね、ハニー――その為には、やっぱりベルトが必要だよね」
「きっと幸せになれるわ、ダーリン――ベルトさえ手に入れれば、私達は永遠になるのよ」

 ……ベルト?
 こっちの世界では、結婚指輪の代わりにベルトを使うのだろうか――何だか良く分からない絵になる気がしたが(ウェディングドレスの上からベルトを巻く図が頭に浮かんだ)、余所の世界の風習にけちをつけるほどに野暮でもない。

「帝王のベルト、必ず手に入れよう――結城衛司を殺せば良いんだよね、ハニー?」
「ああダーリン、期待しているわ――結城衛司を殺して、帝王のベルトを手に入れて頂戴」

 ああそうですか、結城衛司を殺せば良いんですか。
 何やら物騒な話だが、まあ地球でも嫁入りの際には豚とか牛とかを一頭卸して奉げる風習もあるところにはあるし、余所の世界の風習にけちをつけるほどに野暮でも――



「え?」



 看過出来ない名前がそこに含まれていたような気がして、衛司が振り返る――瞬間、襲ってきた猛烈な衝撃に、少年の痩躯は弾き飛ばされた。
 視界が回転する、全身の骨と肉がみしりと軋む、内臓から搾り出された空気が胃液と混じって喉から溢れる。不意に背中を思いきり叩かれる感触。それが放物線を描いて吹っ飛んだ先、地面に叩き付けられたが故のものであると気付けたのは、ごろごろと路上を転がる身体が停止してから十数秒の後であった。

「ぐ……ぁうっ……!?」

 先に便所に転移した時の比ではない混乱が、衛司の脳髄を攪拌する。だが回転するミキサーの中に放り込まれたかのようにぐるぐる回る視界の中に、見慣れた灰色のシルエットを捉えた瞬間、混乱は一挙に戦慄へと塗り替えられた。
 どすん、と重たげな音を響かせて地面に落着する灰色の球体。ぴしりとその表面に亀裂が走り、腕が、脚が、内側に丸め込まれていた四肢五体がヒトと良く似たカタチへと立ち戻る。だがそれでも完全なヒトガタには程遠い。鱗状の外殻を背に負い、体側から細い触腕を幾本も突き出させたそのシルエットは、どこか団子虫を連想させる。
 最早疑う余地はない。ミッドチルダを騒がす『灰色の怪物』、結城衛司の同属にして同胞――オルフェノク。
 団子虫の特質を備えたオルフェノク、ピルバグオルフェノクが、不意打ちのダメージに苦悶を漏らす少年を睥睨する。

「ああダーリン、格好良いわ、素敵だわ。もっと徹底的に執拗にぼこぼこにやっちゃって頂戴」
〖HAHAHA、御安い御用さハニー。この僕がそこの貧相なガキを華麗に優雅にその上COOLに叩きのめすところをとくと御覧あれ〗

 恋人からの声援を背に、びしりとポーズを決めてみせる団子虫。
 変異の瞬間こそ目にしていないものの、先程まで衛司の隣で愛を語らっていた男女の内、男の方がピルバグオルフェノクに変異しているのは、まともな思考行動がままならない衛司にも察する事が出来た。
 加えて、異形の姿へと変貌した恋人の姿を見ても驚かず、エールまで送っているところを見れば、女の方もまた真っ当な人間ではあるまい。事実、突如現れたオルフェノクの姿に、彼等の周囲に居た人間達は恐慌状態に陥り、我先にとその場を逃げ出しているのだ。
 内臓への打撃による奇妙な嘔吐感に苛まれながら、衛司は立ち上がる。がくがくと震える脚は地に直立している感覚がない。傍目からは立ち上がる事で精一杯の虚勢を張っているとしか見えず、そしてそれは、まさしくその通りでしかなかった。

〖さあ行くぞガキ、僕達の明るい未来の為に死ぬがいい!〗

 全く以って身勝手な台詞の直後、団子虫が標的へと向けて走り出した。助走の勢いをそのままに、体操競技の跳馬を思わせる前傾姿勢での跳躍――空中でくるりと前転したかと思えば、再び四肢を内側に折り畳んで球体と化す。
 自身の質量をそのもの威力へと変換する体当たり。かつて衛司が相手取った野牛と同質の攻撃方法でありながら、その対処は野牛のそれよりも遥かに難題である。
 受け止める。これは却下だ。団子虫の突撃は一見ただの体当たりに見えて、その実高速で回転しつつ迫ってくる。下手に受け止めようものなら、触れただけで指や腕がへし折られるか、摩り下ろされてしまうだろう。人間態のままである今の衛司なら尚更だ。

 そう、結城衛司は己の命を狙う敵が目の前に居るこの状況にも関わらず、未だ人間態のまま、己の本質たる雀蜂の姿を晒そうとしていない。
 それは決して戦略や戦術上の判断からでは無く、単純にまだ人々の避難が完了していない今――つまり人目がある今はまだ、人外存在の本性を現す訳にはいかないというだけの、単なる保身が故の判断だった。

 故に、横っ飛びにその一撃を回避するしか、衛司に取り得る処方はなかった。少年の爪先を掠める様にして通り過ぎた団子虫は、直線上にあるアイスクリームショップへと突っ込んでいく。
 既に店員も逃げ去った後、死者も怪我人も出る事はなかったのは幸いだったが、破壊された機械から噴出するソフトクリームに汚された店頭は悲惨な有様へと成り果てた。
 勿体無い、と思ってしまうのは、果たして衛司の庶民性が故であろうか。

「ちょっと! なんでダーリンの攻撃を躱すのよ! さっさと死になさい、このガキっ!」

 背後から浴びせられる罵言に、射殺さんばかりの視線で衛司が応じる。少年が目一杯に敵意を漲らせた衛司の視線を受けて、しかし女に怯んだところはない。だがこれから死ぬ事が確定している獲物――少なくとも、彼女はそう思っている――から向けられるその視線は、女の癇性を刺激するに充分なものであったらしい。
 きいぃっ! と聞くに堪えない金切り声を上げて、女が衛司に向けて一歩踏み出す。一歩目を踏み出し、そして二歩目が地に着くよりも前に、女の姿は人間として在るべきカタチを擲ち、異形への変異を終えていた。

 一見、首から上に壺が載っているかのような意匠。如何なる動植物の特質を備えているのか判然としないそのシルエットに、衛司が戸惑う。赤や黄色といった原色を欠片も持たぬ、人骨が如き灰色が体躯を覆っているが為に、その正体に気付くには少しばかりの時間を必要とした――それは園芸植物としては最も一般的な植物、チューリップを模した姿。
 正面から迫るピルバグオルフェノク。
 そしてチューリップオルフェノクが背後に。
 完全に挟撃の態勢。掛け値無しに絶対絶命の状況を正しく認識した衛司の身体が、意思とは裏腹に冷たい汗を背筋に滲ませる。
 加えて――

「……くそっ……!」

 ちらと視線を敵から外し――それは実際、致命的と言うにもまだ足りぬ程に迂闊な挙措であったのだが――衛司が毒づく。
 アトリウムの一階に居た客はほぼ全員が逃げ去った。人気の失せたこの一帯で動くものは衛司とピルバグオルフェノク、そしてチューリップオルフェノクの三体だけ。

 しかしその彼等を見下ろせる位置、アトリウムの二階にまだ六人ばかり人が居る。逃げ遅れた訳ではない。まるで見世物でも目にしているかのように、避難を呼びかけるアナウンスを無視し、衛司達を囃し立てているのだ。
 ざっと見る限り、誰も彼もが十代後半、いいとこ二十代半ばの若者ばかり。この距離ならまさか自分達にまで被害が及ぶ事はあるまい、と高を括っているのだろう。それがどれだけ甘い考えなのか声を大にして教えてやりたいところだが、生憎今の衛司にそんな余裕は微塵も無い。

 知らず、歯軋りが漏れる。脅威の度合いを認識出来ない馬鹿共のせいで、結城衛司は身を守る事すらままならない。己がオルフェノクであるという事実は何を置いても隠匿しなければならないのだ――人間社会の中で、生きていこうと思うなら。
 いっそあの連中を皆殺しにしてしまえば。たかが人間、魔導師でも無い一般人だ。口を封じる事など蟻を潰す程度の労力で済むだろう。そんな短絡的な思考が甘い囁きとなって衛司の脳裏を掠め過ぎる。

「……いや、駄目……駄目だ」

 それだけは、出来ない。
 本能に任せて人を殺すのなら、自分も目の前の化物どもと一緒ではないか。オルフェノクと戦う事に抵抗はなくとも、ただの人間をその手にかける事を、少年はまだ許容出来ない。
 人外の化物であっても、その在り方まで化物に堕ちる必要などないと、滑稽にもまるで処女の様な潔癖さを以って、少年はそう信じている。

 ……ただし、それはある意味、仕方のない事であるのだろう。
 彼が人外に成って初めて出会った同族・・・・・・・・・が、今の彼の在り方に深く影響しているとするのなら――当時でまだ十二歳の少年だ、他者からの影響は決して無視出来るものではない――無意味な殺戮を、自身に許すはずがない。
 だが、だからこそと言うべきか、その為に衛司は動けない。障害を排除するという選択肢を奪われた少年は、最早狩り立てられる外に道のない獲物であった。

〖…………ふふん〗

 不意に、ピルバグオルフェノクが厭らしい含み笑いを漏らす。その声にびくりと衛司は反応し、二階へと向けていた視線を正面の団子虫へと戻すが、当のピルバグオルフェノクは先程まで衛司がちらちらと視線を向けていた方向へと、己の視線を固定していた。
 
〖気になって仕方がない、という風情だね――いいだろう。君の気掛かりを、この僕が取り除いてあげよう〗
〖ああダーリン、素敵だわ。何て優しいのかしら。惚れ直しちゃうわ〗

 正面と背後、進路と退路をそれぞれ塞ぐ異形が、衛司の頭越しに言葉を交わす。その言葉の意味するところを理解した瞬間、衛司の総身をぞくりと怖気が駆け抜けた。
 次の瞬間には、衛司は敵の挙動を窺う事を完全に放棄し、隠す事もなく背後を振り向いて、二階から自分達を見下ろす野次馬達に向けて精一杯の声を張り上げる。

「逃げて! 逃げてくださいっ!」

 しかしそれも、発した時点で既に手遅れだったと言えよう。
 ピルバグオルフェノクが走り出す。疾走の速度を保ったまま、再び跳躍して己の身体で砲弾を形作る。
 先にアイスクリームショップの店頭を粉砕せしめたあの一撃。だが今回の標的は衛司ではなかった。少年の頭上を跳び越えてその先、チューリップオルフェノクの立っている地点を落着点として、団子虫の砲弾は緩やかな放物線を描いて加速する。

〖いくよ、ハニー!〗
〖いいわよ、ダーリン!〗

 ピルバグオルフェノクの肉弾を、チューリップオルフェノクが幅広い葉を思わせる腕で弾き、かち上げる。
 それはさながら、バレーボールにおけるレシーブに近い動作であった。だがそれによって肉弾が更なる加速を得たという一点が明らかにレシーブとは異なり、そして肉弾は狙い済ましたように、二階で衛司達を見下ろしていた若者達の居る場所を直撃する。
 転落防止用のフェンスを粉砕し、そのまま天井にまで突き刺さる団子虫の肉弾。破壊された天井が重力に引かれて落下、肉弾の直撃を免れた彼等の上に降りかかる瓦礫の雨は哀れな獲物達を容赦無く押し潰し、圧し砕いていく。
 そして団子虫もまた、次なる肉弾攻撃を――

「や――止めろぉっ!」

 悲鳴にも似た制止の声を上げて、衛司が走り出す。だがその進路は突如として眼前に踏み込んできたチューリップオルフェノクによって阻まれた。無関係の人間への攻撃という暴挙に及んだピルバグオルフェノクにのみ気を取られ、チューリップオルフェノクから意識を切った……それは紛れもなく、衛司の失策。
 ぶんと風を切って唸る異形の葉腕。叩き落とされる羽虫のように、チューリップオルフェノクの平手打ちを喰らった衛司の身体が、錐揉み回転を加えながら吹き飛ばされる。
 がづん、と額に衝撃。
 そして、暗転――





◆      ◆







 ここで一つ、どうでも良い話をしよう。
 今、この場で語る理由が特別有る訳ではない――けれど、どのタイミングで語ったところで唐突の謗りを免れ得ない話であるのだから、どこで持ち出したところで変わりはない。
 ならばいっそ、結城衛司を語る上で憶えておくべき知識の一つとしてここで語るのが、或いは最良なのかもしれない。



『人間』としての結城衛司の在り方を定めたのが、あの日、ほんの僅かな時間だけでも言葉を交わした“丈二おじさん”であるとするのなら。
『化物』としての結城衛司の在り方を定めたのは、恐らく、彼が雀蜂の本能に目覚めた直後に出会った“あの男”であったのだろう。




『ちゅーか、なんだ、オルフェノクだって人間なワケだろ? 普通に怒って普通に笑って、誰かに惚れて夢を見てだ。ちっと見た目が“人間離れ”してるからって、差別すンのはよくねーよな』

 多分それは、あの日の衛司への慰めだったのかもしれない。ただそれが何となく的外れであったのは事実だ。累々と転がる屍の中、撒き散らかされた血肉の中心で膝を抱え蹲る少年に向けるには、あまりにも普通過ぎる言葉だったのだから。
 ……変わった男だった。もう二十代も後半、もしかしたら三十路に届いているかもしれないのに、どうにもそういった年齢相応の貫禄というものに乏しい、言葉を選ばずに言うのなら、軽薄な男。
 ただしそれ故に、少年の警戒心をするりと潜り抜けて、衛司の中に入り込む事に成功していたのだが。それは或いは、“蛇”のようにと例える事も出来たかもしれない。

 そして、“蛇”が衛司の前に現れたタイミングは、後にして思えばまさしく最善であった。
 人間として死に、怪物として再生した直後。常識が根こそぎ引っ繰り返され、化物としての生を理解した、死よりも尚おぞましい絶望の只中に突き落とされたその瞬間。
 自分が一体何物に成ったのか、衛司を苛むその問いへの答えそのものとして、彼は少年の前に現れた。
 そう、人外の怪物へと堕ちたのが、結城衛司ただ一人だけではない――ごくごく僅かな、稀有と言うにもまだ温い極少数ではあるものの、衛司の同族は確かに存在しているという事実を、あの“蛇”は教えてくれたのだ。

 それだけではない。今、衛司が保有するオルフェノクとしての知識もまた、“蛇”から伝えられたものだ。
 オルフェノクという名称、使徒再生能力の詳細、自律的な意思による戦闘態への変化。人外存在たるオルフェノクの、その特異な――およそ他の生物に類を見ない――生態について、彼は己が知り得る限りの事を、衛司に教えてくれた。

『ちゅーか、なんで俺様がこんなん教えなきゃなんねーんだ』

 と事あるごとに愚痴っていたが、そもそも頼まれもしないのに衛司にそれを教え始めたのは、他ならぬ彼自身である。
 そう長い事、行動を共にしていた訳ではない。期間としては一週間にも満たないだろう。ただしその一週間、あの男は家族が皆殺しにされた後の結城家に図々しくも上がりこみ、我が物顔で居座っていたのだが。
 それは家族を奪われ、頼るべき親族もない、一人ぼっちとなった少年に対する気遣いだったのかもしれないが、微妙に空気を読めていない感があったのは否めない。
 それでも、その一週間に孤独を意識しないで済んだ事だけは、衛司は純粋に感謝している。

『オルフェノクが人間っちゅー事はだ。そりゃアレだ、つまり何だ、オルフェノクも人間も変わんねーんだよ。あー、そうだな――“あいつ”はそこが解ってねえもんだから……じゃねーな。解りすぎてたのか』

“蛇”がしばしば口にしていた“あいつ”について、結局、衛司は最後までそれが一体誰の事なのか、訊く事はなかった。“蛇”の友人関係に興味がなかった事に加え、“あいつ”と口にした時の彼の表情が、何も知らぬ者が触れて良い事ではないと暗に告げていたからだ。
 オルフェノクも人間も変わらない。だから共存出来ると信じていた一人の男が、あまりにもおぞましい人間の醜面を直視したその時、人間生物に絶望した――もし衛司がその顛末を知っていたとしたら、“蛇”が自分に近づいた理由も納得出来ただろう。オルフェノクとして成る前か後か、事の後先が逆になっただけで、衛司もまた、人間の醜面を目の当たりにしていたのだから。
 結局、あの“蛇”のおかげと言って良いものかどうかはともかくとして、衛司はまだ、人間達の中で生きている。人間のふりをして、人間のような顔をして。人間という生き物に一抹の不審を抱いたまま、それを悟られぬように。



 さて。
 ここまで話を進めたところで、一つ、棚上げにしていた問題がある。
 オルフェノクも人間も、突き詰めれば何も変わらない――あの“蛇”の友人曰く、『怖いのはオルフェノクじゃない。その力に溺れる人間の弱さだ』との事らしい――のだが、しかし衛司にとっては、それをすんなりと受け入れる事は出来ない。
 人間に抱く一抹の不信。それに等しいものを、今の衛司はオルフェノクに対して抱いていないのだ。オルフェノクと人間が等価というのなら、人間への不信と同じ意味を持つ何がしかを、オルフェノクに対して覚えていなければならない。
 そう、つまるところ、棚上げにしていた問題とは、以下の一文に集約される。



 ……結城衛司にとってオルフェノクとは、一体何なのだろう?





◆      ◆







 意識を失っていたのは、ほんの数秒の事だったらしい。
 泥濘の底から浮上してくる意識が最初に捉えたのは、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくるチューリップオルフェノクの姿。バージンロードを歩むが如くに悠然とした足取りは、窮鼠の一撃などまるで意に介さぬが故のものと知れる。

 軋む身体に鞭打って立ち上がる。悠然と歩み寄る敵を睨み据えたその瞬間、不意に視界の半分が赤く染まって潰れた。
 額、正確には右眉の上あたりだろうか、そこからの流血が右眼を塞いだのだと気付き、慌てて服の袖で拭い取る。だが傷口が深いのか広いのか、次から次へと溢れ出る鮮血は一時拭い去った程度では収まる事なく、あっという間に少年の右半面をべっとりと赤く染め上げた。
 拭いても無駄だ、そう理解するまでに時間はかからない。元よりそんな些事など意識にはなかった。今の彼には己の身体よりも気掛かりな事がある――ピルバグオルフェノクが突っ込んだ二階の通路、未だ粉塵が立ち込めるそこへと左だけの視線を向ける。

 瞬間、粉塵を切り裂いて飛び出してくる、灰色の球体。縋ってくる粉塵の残滓をヨーヨーのような高速回転で振り払い、床へと落着して重たげな音を響かせる。
 厭な予感が、衛司の思考を冷たく凍らせる。いや、それは最早予感でもなければ、確信ですらなかった。ピルバグオルフェノクが此処へ降りてきた事。その事実だけで、何が起こったのかを――何が終わったのかを、少年が悟るには充分過ぎた。

 それでもまだ衛司が一抹の希望を抱いていられたのは、単にその証拠を実際に目にしていない、ただそれだけの理由でしかない。現実逃避にも等しい屁理屈であったが、ともあれそのお陰で、衛司はまだ平静を保っていられる。
 だがそれも、折り畳んでいた四肢を解放し、歪な人型へと戻った団子虫が不意に衛司へと放り投げた“何か”によって、粉微塵に粉砕されてしまった。

「……? …………っ!」

 ぼとん、と厭な音を立てて落ちた“それ”が一体何なのか、数秒の間、衛司は理解する事が出来なかった。或いは理解したくなかったのかもしれないが、どちらにしろ、それは同じ事。気付くまでに数秒の時間がかかったと、それだけが事実。

 それは――腕だった。
 恐らくは女性のもの、細い指に嵌められた指輪や爪を彩るマニキュアから、それが判る。

 腕だけだ。上腕の半ばほどから引き千切られた左腕。人間の体幹部分は何処にも見当たらない……団子虫がそもそも持ってきていないのだから、恐らくはまだ、二階通路に転がっているのだろう。
 毟り取られたと表現するのが相応しい荒々しい断面から、静かに流れ出る血液。じわじわと床を濡らしていく鮮血は、腕の太さや長さからは想像も出来ない量だった。人間というのは血の詰まった袋、そんな比喩表現は、決して誇張ではないと衛司は知る。

「あ……あ……」

 唇が震える。視界にノイズが走る。目の前の光景と共に、あの日の光景が網膜に映し出される。血。肉。死体。父の銃殺死体。母の割腹死体。姉の潰殺死体。それらの全てが一瞬の間に衛司の脳裏を掠め過ぎて、そして最後に、心臓を撃ち抜いた銃弾の感覚を思い出させる。
 目の前に転がる引き千切られた腕が、やがてざらりと灰化して崩れ去った。使徒再生による殺人の結末。進化種として成る事を許されなかった者が例外なく辿るそれが、今、衛司の目の前で起こった。
 それは取りも直さず、二階に転がっているだろう人々もまた、同様の末路を辿った事に他ならない。

〖ダーリン、大丈夫? 怪我はなぁい?〗
〖はっはっは。御覧の通り健在さ、ハニー。あんなクズども相手に、僕が怪我する訳ないじゃないか〗

 衛司へと向けていた足を反転、チューリップオルフェノクがピルバグオルフェノクに駆け寄って抱きついた。
 仲睦まじい恋人同士として、それは決して間違いではなかったが……それを行うのが共に人間生物からかけ離れた異形の怪物オルフェノクであるのだから、そこに在るのは目を背けたくなるようなおぞましい光景だけ。

「お――前、らぁっ……!」

 喉の奥から、腹の底から振り絞った少年の言葉は、自分達の世界に没入していた彼等であっても、聞き捨てる事の出来ないものであったらしい。
 絡み合って睦言を囁き合っていた彼等が、無粋な怒言に不満を浮かべながら――オルフェノクとしての“顔”にではなく、足元に浮かび上がる影の方にだ――衛司へと向き直る。睦み合いを中断させられた事への苛立ちと共に、静かにしていればもう少しの間は生きていられたのにという侮蔑の混じった挙措でもあった。

 じゃあダーリン、ちょっと殺してくるわねと言い置いて、チューリップオルフェノクが衛司へと歩み寄る。足音とは思えぬ奇怪な音を一歩ごとに響かせながら、今度こそ標的を縊り殺し、殺人の対価として提示された報酬を手に入れるべく、殺意と欲望を剥き出しにして。
 一瞬ごとに、物理的な意味においても迫り来る脅威。だがそれに対し、少年は顔を俯けたまま、にじり寄る敵の姿を見ようともしない。先に声を荒げたきり、もう怒鳴る事も叫ぶ事もせずに、戦意を喪ったかの如く押し黙っていた。

「……て…る」

 いや、沈黙してはいない。オルフェノク達の、人の数倍数十倍に及ぶ聴覚機能であっても聞きとれぬ程に小さな声であるが、何事かを呟いている。
 繰り返し、繰り返し、呟いている。

「…して…る」

 それを一言で表すのならば、呪いと呼ぶのが最も相応しいだろう。
 ありったけの負の感情を詰め込んで、己の胸の内をどす黒く染め上げながら放たれる、憎悪と殺意で組み上げられた呪詛の言葉。
 驚くべきは、それを言い放つのが、ただ一人の少年であるという事だ。非凡という言葉からはまるで無縁の、何処にでも居そうな只の少年が吐き捨てる呪詛は、余人の耳には断末魔よりも尚おぞましく、それこそ“身の毛もよだつ”悪寒を伴って聞こえる事だろう。
 そう、オルフェノクであっても、それは例外ではなく――少年の口から漏れ出る呪詛を人間離れした聴覚機能で確と捉えた瞬間に、チューリップオルフェノクが足を止め、そして少年が顔を上げる。 

「殺してやる」

 ざわりと少年の面貌に浮かぶ紋様。瞳が黒色を失い、人骨の如き灰色へと染まる。その現象を目の当たりにしたチューリップオルフェノクの驚きは一際のものであっただろう。ただの子供としか聞かされていなかった少年が、まさか己と同族であったなどと。
 チューリップオルフェノクが足を止めていたのは、半秒にも満たない僅かな時間。すぐに彼女は再び足を踏み出した――しかし、もうそこに余裕ぶった悠然さは見られない。一刻も早く少年を捉え、その首をへし折ってしまわなければならないと、そんな脅迫観念に突き動かされた疾走で、殺人植物が結城衛司に迫る。

 だが遅い。僅か半秒の静止が致命的なロス。チューリップオルフェノクが標的の少年を攻撃圏内に捉えるにはあと三秒ほどの時間を必要とし、少年にとってその三秒は永遠と同義である。
 三秒も要らない。あと一秒。あと一秒あれば、結城衛司は己が本質たる雀蜂の姿を晒していただろう。雀蜂が園芸植物を引き千切り、団子虫を串刺しにしていた事だろう。だが幸いにと言うべきか、それとも不幸な事にと言うべきか、その様な展開は終ぞ訪れる事はなかった。少年は雀蜂の本性を晒す事なく、しかしチューリップオルフェノクもまた、少年への殺傷に届かなかった。

 それよりも早く、まるで狙い済ましたかのようなタイミングで、状況が彼等の手を離れ更なる混沌に落ち込んだ為に。

〖!〗
〖!?〗
「…………なぁっ……!?」

 轟音が頭上から降り注ぐ。アトリウムの天蓋が粉砕され破壊される爆砕音。何の脈絡もなく起こったそれは、少年にとっては救いであり、雀蜂にとっては更なる脅威の訪れであった。――ただし、少年が未だ少年のままであり、本性である雀蜂の姿を顕現させていない以上、それは前者以外の意味を保有してはいなかったのだが。
 炸薬の爆裂よりも尚暴力的なその音に、チューリップオルフェノクとピルバグオルフェノク、そして結城衛司が揃って天を振り仰ぎ、降り注ぐアクリルの破片の中から飛び出してくる“それ”を視認する。
 粉塵の只中から飛び出してきたのは、空色に輝く光の帯。一直線に少年とチューリップオルフェノクへと向けて伸びてくる光帯の上を、一人の少女が滑り降りてくる。
 藍色の髪と白の鉢巻を靡かせ、靴裏の車輪に火花を散らせ、右拳の歯車を唸らせて、猛る戦意を咆哮に乗せて。

「でぇやああああああ――あああああっ!

 ぶち破られた天井の穴から降り注ぐ、高らかなヘリの翼音――耳を劈くその翼音よりも尚高らかに、少女の喊声が一人の少年と二つの異形の耳朶を叩く。

「――スバルさん……!?」

 愕然と衛司が呟く。
 顔に浮かび上がっていた紋様も、灰一色に染まった瞳も、頭上から少女が天井ぶち抜いて降臨してくるという完全に予想範囲外な事象に消え失せた。
 そう、スバル・ナカジマが――機動六課フォワード陣がこのタイミングで場に飛び込んでくるという展開を、結城衛司はまったく予想していなかったのだ。





◆      ◆







「――ああ。着いたみたいね、六課のコ達」

 誰が知ろう。当事者である衛司にすら予想し得ないこの展開を、事が始まるその前から既に予想し予測し、その処方すらも万全整えていた者達が居た事など。
 仕掛けられたサーチャーによって、アトリウム内の様子は一部始終が臥駿河伽爛と白華・ヘイデンスタムの手の内にあった。衛司が便所の個室に転移を終えたその時から、彼の行動の全ては本人の預かり知らぬところで監視されていたのである。

 覗き見に対する罪悪感など、無論、彼等が持ち合わせているはずもない。彼等にとって少年は、少なくとも今の時点においては、愉楽の対象として消費されるだけの存在でしかないのだから。
 ただ極言してしまえば、彼等にとっては世界に存在する遍く全てが愉楽の対象であり、玩弄するべき存在であるのだ――少年が殊更に例外という訳ではない。

「思ったより早かったアルな。――ふふん、良かったアルなあ? 出番が早くなったヨ?」

 視線は眼前に展開されているウィンドウから外さないまま、しかしそれは確かに、白華の背後に佇む一人の男へと向けた言葉であった。
 陸士108部隊の制服を纏った男は、白華のその言葉にも何一つの反応を見せず、ただ茫と立ち尽くしている。さながら人の形をしたオブジェの如き風情である。無視と言うよりは、言語を認識していないかのような。人間に話し掛けられた犬猫とて、もう少しまともなリアクションを返すだろう。

 ひょいと伽爛が足元に置いていたトランクを取り上げ、白華に投げ渡す。受け取った白華は手早くロックを外すと、その中から一本のベルトを取り出した。
 大仰な、ともすれば重すぎるようにも見えるバックルと、右腰部に取り付けられた箱状の――形状としてはデジタルビデオカメラのそれに酷似した――機器が特徴的な、およそ服飾品としては不適格としか思えぬベルト。

「“こっちに来い”」

 もしこの場に何も知らぬ人間が居たのなら、白華の言葉に奇妙な違和感を感じた事だろう。発音も声音にもおかしなところは一切無いというのに、その言葉は明らかに人間の発する事の出来る言葉とは一線を画していた。何が違うのかは説明出来ない。しかし確かに、それは何かが違っていたのだ。
 相変わらず視線を向けないままに放たれた言葉に、今度は男も反応した。ふらふらと幽鬼の如き足取りで白華に歩み寄ってくる。しかしまともな反応があったのはそこまで。陸士制服の上から腰にベルトが巻かれても、男は一切抵抗しない。このベルトが何なのかと訝る素振りすら、そこにはない。

 男の腰にベルトを巻き終えた白華が、トランクに残されていた部品を取り出す。拳銃のグリップと思しき形状の、掌サイズの機械装置。
 名を『デルタフォン』。ベルト型トランスジェネレーター『デルタドライバー』のロックを解除し、ベルト装着者に流体エネルギー『フォトンブラッド』の力を与える鍵。
 それを顔の横に寄せ、紅い唇を艶かしく動かして、白華・ヘイデンスタムが呟く。

「変身」
【Standing by――Complete.】

 するりと白華が男の背後から抱き付いて、朝顔の蔓が如くに腕を伸ばし男の身体を撫で回した後、手にしたデルタフォンをベルトの右腰部に差し込んだ。
 起動キーを打ち込まれたデルタドライバーがエネルギー流動経路『フォトンストリーム』を生成。後継機とは異なり、要所で三股に別れて逆ボトルネック効果を生み出すビガーストリームパターン。デルタドライバー特有のそれが装着者である男の身体を囲み、人工衛星『イーグルサット』から電送されてきたスーツが体表を覆う。

 夜闇を切り裂く橙の眼光。変身を完了した男が――途端、身を折って悶絶する。
 胸部に配された闘争本能活性化装置『デモンズスレート』から発される特殊な電気信号、『デモンズイデア』による脳神経の侵略。繰り返し変身する事で麻薬にも似た多幸感を齎すそれも、初回の変身においては猛烈な苦痛を伴うものだ。
 ベルトに適合出来る者ならまだしも、男のようにごく普通の人間であるならば、それは逃れられぬ変身の代償である。

「あらあらまあまあ。大変そうねえ、辛そうねえ」
「んー。もうちょいマシかと思ったアルけど。ま、ただの人間ならこんなもんアルな」

 やがて、男がゆっくりと立ち上がる。デモンズイデアが脳髄を満遍無く侵食し、闘争本能に満たされたその体躯が敵を求めてかたかたと震えている。
 ある意味では武者震いと言えるのかもしれないが、それはむしろ、獲物を前にした猛獣が身を束縛する鎖をふり解かんとする様を連想させた。
 す、と白華がビルの床面と平行に腕を伸ばし、一方向を指差した。それは標。男が戦うべき敵が何処に居るかを指し示す標である。

「さあ、行ってくるアル、ラッド・・・カルタス・・・・! 人間も! 魔導師も! オルフェノクも! みんな纏めて薙ぎ払ってくるよろし!」

 夜空で煌々と照り映える二つの月まで届かんとばかりに、白華が声を張り上げる。
 それを合図として、男が走り出した。一歩ごとに速度を倍増しにして、疾風の如くビルの屋上を駆け抜けていく。
 だんっ――と、屋上の縁で踏み切って、男は中空に身を躍らせる。



 そうして、陸士108部隊隊員ラッド・カルタスが、“デルタ”の力を心ならずも手に入れた彼が、混沌とした状況を更なる混迷の中へと叩き落とすべく、眼下の地上へと落下していった。





◆      ◆





第捌話/甲/了





◆      ◆







後書き:

 という訳で、第捌話甲でした。お付き合いありがとうございました。

 なのはとライダーのクロスオーバーでは偶に見られる、仮面ライダーに変身するリリなのキャラ。……なのに本作ではその栄えある第一号がラッド・カルタス二尉というあんまりな展開。お前ひねくれんのもいい加減にしとけよ! という突っ込みが聞こえてきそうな。
 あと、ラッドって誰? という方も多いかも。ギンガと一緒に出向してきたのに最終決戦ではいつの間にか108部隊に戻っていたあの人です。
 元々、感想掲示板で『デルタで一般管理局員とかが凶暴化して暴れまわるとかあっても面白いかも』というご意見を頂いたので、ちょっと捻ってこんな感じにしてみました。これはイケる! というアイデアは積極的に取り込んでいきたいと思っておりますので、じゃんじゃん言って頂ければ。

 回想だか走馬灯だかの中で出てきた蛇の人。もう言うまでも無いですが、555のレギュラーで最近はシンケンレッドにご執心なあの人です。
 ちなみにこれが、以前にちょっとだけ触れて放置してきた、『何故スマートブレインに関わってなかった衛司がオルフェノクとか使徒再生とかの名称を知っていたのか?』という疑問に対する回答です。あの人が教えてたという事で。ただしあの人、明らかに説明とか教育とかに向いてない感じなので、教えてくれた事も衛司はいまいち理解してません。駄目じゃん。
 ついでに言うと、オリジナルのオルフェノクだけど、人間態のままで何か特殊能力は使えないのか? という疑問を以前に頂いたんですが、それの回答もこれになります。あの人はオリジナルでは無かったので、人間態のままでの能力行使は知らなかったか、知っててもやり方が判らなかったので、教えてないと。
 『丈二おじさん』は展開次第では本編に登場する可能性がありますが、この人は今回限りというか、回想にしか出てきません。元々早死にする設定の人なので、二年前の時点まで生きていた事が不思議なくらいなんですよね。

 衛司を攫ったのは伽爛だった訳ですが、まあ作中でもある通り、元教導隊の人間だったと。何をどう間違えてあんな風になったのかはぶっちゃけ作者も考えてません。魔法も使えるオルフェノク……まずい、ますますあれがチート化してきた。
 一応、伽爛が教導隊を辞めたのが八年ちょい前。対してなのはが教導隊入りしたのが六年前。なのでなのはとの直接の面識はありません。ただし同僚から「昔こんな奴がいた」くらいの事は聞いてるかもしれないので、今後どこかでその辺の事を書くかも。
 あと伽爛の呪文。本当は「リリカル・マジカル……」とか「アルカス・クルタス・エイギアス……」とか格好良いやつを付けてやりたかったんですが、なんかどれもこれもいまいちぴんと来なかったので、結局あんなネタに走った呪文になりました。確か元ネタは入浴剤のCMだった様な。

 それでは次回で。宜しければ、またお付き合いください。




[7903] 第捌話/乙
Name: 透水◆44d72913 ID:35af097c
Date: 2023/12/29 20:46
 機動六課オペレーションルームは奇妙な静寂に包まれていた。
 機器の動作音だけが不気味に響くそこは、無論、無人ではない。有事の作戦指揮を執る為に誂えられたこの一室が、まさに有事であるこの今、無人であろうはずがないのだ。

 機動六課部隊長、八神はやて。
 同部隊部隊長補佐、グリフィス・ロウラン。
 同部隊通信士、シャリオ・フィニーノ、アルト・クラエッタ、ルキノ・リリエ。
 そう広くないオペレーションルームに五人もの人間が詰めて、しかし室内は爆弾の解体作業に立ち会っているが如くに重い沈黙で張り詰めている。

 五人の男女がまんじりともせず正面の大型モニターに視線を釘付けている様は、傍から見れば異様と言う以外の何物でもない。だがこの場にそれを指摘する者はなく、よしんば居たとしても、場に満ちる緊迫した雰囲気の前には口を噤まざるを得ないだろう。
 五分。もう五分もの間、彼等彼女等はこうしてモニターを凝視している。何をしているでもなく、じっと。
 ただしそれは決して彼等の怠慢ではなく、やるべき事を全て終えてしまったが為だ。打つべき手を全て打ち終え、後は状況に変化が起こるのをただ待つしかない。ある意味で拷問めいたその状態で、無駄口を叩けようはずがない。
 まして、人の命が懸かっているのだ。今この瞬間にも、あの少年が『灰色の怪物』に……オルフェノクに襲われているかもしれないと考えれば、不謹慎な雑談に興じる余裕など誰にも有りはしなかった。

 やがて――響き渡る電子音。
 耳を劈く警告音に、真っ先にシャーリーが反応。手元のコンソールを猛烈な勢いで叩き、モニターに音の正体を光点として表示させる。

「来ました! 転移反応ですっ!」
「どこや!?」
「クラナガン東33ブロック――第七区です!」

 よし、とはやてが大きく頷く。
 ミッドチルダにおいては、飛行魔法の行使と同じく、転移魔法もまた、予め許可が必要となる。ただし飛行魔法と違い、個人レベルでの転移魔法の行使はそれほど簡単に許可は降りないのだ。事故を防ぐ為に転移先の座標を空けておく事前処理や、関係各所への通達、術式の煩雑さなどから、ミッドチルダでは転送ポートなどごく一部でしか転移魔法は許可されていない。

 だからこそ、はやてはそこに網を張った。
 転移元の座標が機動六課の敷地内である以上、申請を出しているはずがない――この場合、申請の際にはまずはやての認許印が必要となる――無許可の転移反応はほぼ確実に管理局に感知される。
『人間一人が転送魔法で連れ去られ』た直後に、ミッドの何処かで転移反応が感知されるのならば、それが今回の一件に関係している可能性は限りなく高いと見て良いだろう。
 果たしてはやての読みは、見事当を得ていた訳だが――しかし。

「え……?」

 呆然としたルキノの呟きが、はやてが口に上しかけた指示を封殺する。
 更に一拍遅れて、正面モニターに表示される光点。先に表示されたものとは別にもう一つ、転移反応を感知したと報せる光点が、画面上に煌々と灯っている。画面を見上げる一同が言葉を失うと同時、更に追い討ちをかけるかの様に、もう二つの光点が画面上に出現した。
 転移魔法の痕跡が、これで四つ。攫われた少年がどの地点に現出したのか、これだけでは掴みようがない。

 考えてみれば、当然の事だ。それがどんな効果を発生させる魔法であれ、痕跡が皆無な魔法は存在しない。今回の様な大規模な魔法なら尚更。その痕跡を消そう隠そうとするのはごく自然の事であって、ここまで大胆な犯行に及ぶ犯人が、その程度の事に気が回らない筈が無いのだ。
 業腹ではあるものの、認めざるを得なかった――八神はやての“網”は、完全に見破られていたのだと。

「……やってくれるもんやな」

 きし、と静かな歯軋りに僅か遅れて、はやてが呟く。
 言葉ばかりは相手を讃えるようでありながら、その口調には苦々しさを隠せない。
 目を閉じ、数秒間逡巡。刻一刻とあの少年に危険が迫っているという焦燥に思考を阻害されながらも、彼女の脳髄は現状に対する最善の処方を求めて稼動する。
 結論を導き出したのは、黙考から四秒と経たない内にであった。

「スターズ・ライトニング両分隊に連絡! ポイントAに高町隊長、ポイントBにヴィータ副隊長! Cにシグナム副隊長、そしてDにフォワードの新人達をそれぞれ向かわせてや! それと近隣の陸士部隊に連絡、現場に急行が可能なら衛司くんの捜索を依頼や! 衛司くんの保護が最優先、くれぐれもオルフェノクとの接触は避けるように伝えといてな!」

 了解! とオペレーター達がはやての指示に呼応し、フォワード陣への通達、近隣陸士部隊への連絡を開始する。
 ここにフェイトちゃんがおってくれたら――別件で六課を離れている彼女が居れば、フォワード陣へのフォローも万全だったのだが。無いものねだりとは言え、やはりそう考えずにはいられない。

「戦力の分散を強いられましたね……連中、ここまで読んでいたんでしょうか」

 眼鏡を押し上げつつ口を開いたグリフィスに、そやろな、とはやては肯いた。
 攫われた少年の確保ないし奪還が最優先、不要な戦闘は可能な限り避けろと厳命してはいるものの、いざ現地に到着したところで包囲されてしまえば、戦闘無しに切り抜ける事は難しいだろう。
 オーバーS、ニアSランクの隊長・副隊長とは言え、魔力に制限がかけられている状態ではオルフェノクに抗しきれない。それは既に先日、ミッドチルダ総合医療センターにおいて高町なのはが実証済みの事であった。
 場合によっては、隊長陣の制限解除を申請する必要があるだろう。だが『JS事件』において解除度数は大幅に消費されている。後々の事を考慮するならば、それは本当に最後の手段と言える。

「しかし、解らない……あの子を――衛司くんを、何故オルフェノクはこうも狙うのでしょうか」

 今、この場で言うべき事ではない。だがそれは逆に、どんな時であっても意識の一部で思考し続けなければならない問題である。だからこそ、はやてはグリフィスの口にしたその疑問を黙殺する事なく、むうと一つ唸って意識のリソースを割く。
 敵――この場合はオルフェノクという意味で――の目的が、一見明確のようでいて不明確であるこの現状。オルフェノク達があの少年を殺す為に動いているのは確かだが、その理由が判然としないのだ。

 八神はやてに関わらず、機動六課の隊員達に概ね共通する見解であるが、あの少年はごく平凡な、どこにでも居そうな子供である。肉体的には何一つ異状がなく、戦闘機人のように人体改造を施された形跡もない。リンカーコアこそ持っているものの、畸形のそれはまともに機能していないのだから魔導師の定義にも当て嵌まらない。
 性格はやや気弱で自己主張をせず、かと言って他人に媚びるような事もない、そもそも積極的に他人と関わろうとしない、言ってしまえば影の薄い感じ。恨みを買うような性格とも思えない……そう、何故狙われるのか、その理由が何一つ見出せないのである。

 恐らくあの少年を殺す理由は、オルフェノク達の側にのみ存在するものなのだろう。彼等にとってあの少年の殺害が何かのメリットに繋がる、或いは何らかのデメリット回避の為に彼を排除する。考えられるのはその二つ。
 はやてやグリフィスには知る由もない事であったが、どちらかと言えば前者が正解に近い。少なくとも少年を殺害すべく向かってくるオルフェノク達は、報酬に目が眩んで殺人行為に臨む者しかいないのだから。
 しかしそれはあくまで正解に“近い”というだけの事。どこまで近づいても正解には届かない漸近線。彼女達には推理する為の材料が殆ど与えられていない、必然、組み上げる論理は決して真実には辿り着けない。
 だからこそ。
 八神はやてが“それ”に辿り着いたのは、推理や推測ではない、閃きや天啓に等しい、非論理的な直感の賜物であった。

「衛司くんを襲うんが、手段や目的と違うとしたら……“手段”でも“目的”でもない、単なる“経緯”……?」

 彼を襲う事。彼を殺す事。それらの事象が何らかの利害関係に起因するのでは無く、何かを組み上げる為の一片に過ぎないとしたら。
 何処かの誰かが書いたシナリオ通りに、あの少年が襲われなければならない・・・・・・・・・・・としたら。
 あの少年が傷つく事が、何かの伏線だとしたら。彼が血を流す事は既に決定していて、その決定を実現する為に襲われているとしたら。
 そして、こうして八神はやてが思い悩む事も、機動六課の者達が彼の身を案ずる事も、彼を救おう、助けようとする事も、そのシナリオに既に記載されているとしたら――

「……不愉快な話やな、本当」

 見知らぬ誰かの意図するままに踊らされる。それを許容出来るほどに八神はやては大人ではない。猿回しの猿で在れるほど、人形劇の操り人形で在れるほど、物分りの良い大人ではないのだ。
 故に――この状況に身を委ねる事を、許せるはずもなく。
 八神はやてが“脚本家”と対面するのは、ここからもう暫く後の話。だが彼女が“脚本家”と相対する事を決めたのは、このシナリオに抗う事を決めたのは、今、この瞬間であった。





◆     ◆





異形の花々/第捌話/乙





◆     ◆







 ここ数日間、ティアナ・ランスターにはずっと引っ掛かっている事がある。

 あれは確か五日前、結城衛司が機動六課に来てから二日ほど経った頃の事だ。
 早朝の訓練を終え、一度自室に戻って陸士部隊の制服に着替えてから、ティアナとスバルは食堂に足を向けていた。朝っぱらからの割と容赦無い訓練のせいか、身体が空腹と疲労を訴えている。
 まあ疲労に関しては言うほど大したものではない、頭に“適度な”と付く程度だ。ティアナ達にはこの後も仕事があるし、午後からもまた訓練があるのだから、この時点でへとへとにさせてしまっては元も子もない、上司件教官の教導官殿はそう考えているのだろう。
 合理的と言えば合理的だが、しかし逆にそれが午後の訓練の苛烈さを暗示しているようで、どうにも不安は拭えない。

 果たして今日は自力で宿舎に戻れるのだろうか。昨日は一日の訓練が終わった時にはもう自力で立ち上がる事すら出来ず、ギンガに自室まで運んでもらったのだが、さすがに毎日そんな迷惑はかけられまい。プライド云々以前に申し訳無さが先に立つ。
 とにかく、まずはきっちりと飯を食べる事だ。魔導師は身体が資本、ましてティアナ達は成長期真っ只中なのだから、一食たりと疎かには出来ない。……まあ、くうくうきゅるると可愛らしい音を立てる腹の虫を考えれば、疎かになどなりようもないのだが。

「あう~……お腹減ったぁ……」
「ほら、もう少しだから。しゃきっとしなさいよ」

 ちなみに幸いと言うべきか、ティアナの腹の音は誰の耳にも届いていない。すぐ近くでスバルのそれが盛大にコンサートを開いている為だ。
 前衛組はカロリー消費が多い為か、それともスバルの“体質”によるものなのか、腹の虫とは普段の食事量に比例して音量を上げていくのだと言われれば信じてしまいそうなほどの、それは見事な演奏であった。

「あら、スバル、ティアナ。これからお昼?」
「あ、ギン姉」

 六課宿舎は当然ながら男女別に分かれている。共通区画にティアナとスバルが足を踏み入れたところで、彼女達はばったりとギンガに出くわした。
 先日の戦闘の後遺症か、ギンガはこの時点ではまだ訓練に参加していない。書類仕事やデバイスの調整などの為にティアナ達とは別シフトで動いているせいか、こうして勤務時間内に顔を合わせる事は、案外珍しくなっている。
 盛大に鳴り響くスバルの腹の虫はギンガの耳にも届いていたらしい。顔を合わせるなり、ギンガは妹達がまだ昼食を取っていないと看破する。そのまま流し目でくすりと微笑まれたあたり、どうやらティアナの腹の音も、ギンガは聞き取っていたらしい。先の“誰の耳にも届いていない”は、どうやら撤回する必要がありそうだ。
 顔を赤らめ、取り繕うように、ティアナはギンガに言葉を向けた。

「ぎ、ギンガさんは、お昼は?」
「わたしもまだ。ちょっと今日のリハビリが長引いちゃって」
「じゃあ一緒に食べようよ、ギン姉」

 スバルの誘いに、しかしギンガは「うーん」と苦笑しつつ小首を傾げた。まだ仕事が残っているのだろうか。そう思って問い質せば、ギンガはあっさりとそれを否定する。

「ううん。ほら、最近リハビリと書類仕事ばっかりで身体動かしてないから。ちょっと太ってきちゃって」

 一応注釈を入れておくと、ギンガのスタイルは『JS事件』以前と比してまったく崩れていない。戦闘機人は常に最適な体型が維持されるのではないかと思わせる程で、ティアナあたりからすればある意味で羨望の的である。
 ただ、まあ、他人の目と本人の目とでは誤差が生じるのも常だ。周りが何を言っても譲れないところだってあるだろう。年頃の乙女というのはその範囲が他の人間よりもやや広いのだ。多分。
 しかし。

「でも、ちゃんとご飯は食べないと駄目だよ?」
「そうですよ。身体に良くないですし」

 スタイル維持の為に食事を抜く事の愚かしさ、無意味さは、今更説明するまでもない。
 それをギンガに言うのも釈迦に説法という感じなのだが、それでも言わずに済ませられるほど、ティアナ・ランスターは淡白な女では無い。ギンガもギンガでそれは理解していたのか、微苦笑を浮かべつつ、「そうね」と肩を竦めた。

「ちゃんとご飯食べないと、衛司くんみたいになっちゃうもんね」

 冗談めかして放たれたその言葉に、ティアナがぴくりと反応する。内心を表情に表さないように努めたつもりであったが、しかし無理に感情を押し隠した無表情は、それが本心と裏腹な――言い換えれば、その表情から窺える感情の“逆”が彼女の本心であると告げている。
 ティアナのその無表情は、必然、ギンガにも反応を齎した。困ったような、哀しむような、そんな微妙な表情を眦と口の端で作り出す。
 ただ彼女の反応はそれだけで、ティアナを責める事も咎める事もなく(そも、責められる事も咎められる事も理不尽でしかないのだが)、ごく自然に食堂へと向けて歩き出した。

「そういえば、エリオくんとキャロちゃんは?」
「あ、あの二人なら先に食堂に行ってます。席とっておいてくれてるんで」

 別に待ってなくていいから、先に食べちゃっても良いわよ――と、ティアナはエリオとキャロの二人に言ってあるのだが、しかしあの二人の性格を考えるに、きっとティアナ達が来るまで律儀に待っているだろう。
 融通が利かないと言うか、真面目過ぎると言うか。尤も逆の立場ならティアナ達だってエリオとキャロが来るまで待っているだろうから、それはお互い様なのだが。
 ともあれそんなお喋りをしている内に彼女達は食堂へと到着。スバルの腹の虫が最後の一押しとばかりに音量を倍増しにするのを耳にしつつ、食堂の扉を潜ったその時。
 スバルの腹の音が霞む程の音量で、絶叫染みた悲鳴が食堂に響き渡った。

「いぃだだだだだだだっ! 痛、痛い痛い痛いっ! 痛いってー!」

 誰の悲鳴かは声ですぐに判った。二日前に六課に来たばかりの、先程ギンガが名を口にした彼だ。
 食堂を見回せば、その悲鳴の理由もあっさり理解出来た。――結城衛司が、フリードに手の甲を思い切り噛み付かれている。
 少食な(いやむしろ絶食と言った方が近い)衛司が食堂に居る事に少しばかりの驚きも覚えるが、しかし考えてみればそうおかしな事でもない。雑用係として六課の至るところでこき使われている衛司だ、食堂や厨房でも皿洗いやら掃除やらと仕事は多い。今も何やらテーブルを拭いていたところらしく、近くの卓には布巾が置かれている。
 だから不可思議なのは、そんな彼が何故フリードに噛み付かれているのか、その一点に尽きた。

「痛い痛い痛い痛い! はな、離して、離してー!」

 ぶんぶんと腕を振ってフリードの噛み付きから逃れようとするも、動物というものはそうやって無理に逃げようとすると却って強く噛み付くもので、衛司の右手は一向に解放される気配が無い。
 幸いなのはフリードが本来の姿ではない事か。一噛みで鉄柱を砕く程の咬筋力も、今の小さな(ティアナ曰く『ちび竜』)姿では、子犬のそれと大して変わりない。

「ふ、フリード! 何してるの!」
「フリード! 駄目だってば!」

 キャロとエリオが必死にフリードを引き剥がそうとしているものの、残念ながら一向にフリードは衛司から牙を離す気配がない。主であるキャロの制止さえ聞こえていないのだから、食堂に居る他の者達ではまったく手が出せない状況だ。それは今し方食堂に入って来たティアナとスバルも、例外ではなかった。
 しかし――意外と言うほど意外な事でもなかったが、例外はすぐ近くに居た。
 ギンガが衛司へと歩み寄っていく。背後から近付いた彼女は、ぶんぶんと振り回される衛司の腕を無造作に掴んだ。
 戦闘機人の腕力云々を差し引いたとしても、前衛で戦う魔導師とただの一般人とでは鍛え方が違う。衛司の腕は万力に挟まれたかのようにがっちりと固定され(と同時に、無理矢理動きを止められた衛司が別種の痛みに顔を顰めた)、急に勢いを止められた事で、フリードの顎が僅かに緩んだ。

「ほら、今のうちに」
「え? あ、はい!」

 ギンガに促され、慌ててキャロは衛司の手からフリードを引き離した。また衛司に襲い掛かるその前に、キャロの腕がフリードの身体を後ろから抱き締める。
 暫くの間ばたばたともがいていたフリードだったが、やがて諦めたのか、大人しくなった。

「もう……どうしちゃったの、フリード」

 抵抗は止めたものの、しかしフリードは未だ低く唸って衛司を威嚇し続けている。ここまで露骨な敵意を、それも敵でもない人間に向けるフリードの姿は、ティアナやスバルにとって初めて見るものであった。

「あのすいませんギンガさん折れる折れる腕折れる離して離してあだだだだだだだだだだ」
「あ、ごめんなさい」

 掴まれた腕をいつの間にか関節技のように極められていた衛司が、情けない声で懇願する。ぱっとギンガが手を離せば、そのままべしゃりと彼は床に突っ伏した。
 かなりみっともないその有様に、苦笑しながらティアナとスバルが歩み寄る。心配そうにスバルが衛司の顔を覗き込むが、それに対する衛司の反応は、いつもの様にびくりと怯えた様な顔で後ずさり、彼女と距離を取る事だった。

「大丈夫? 衛司くん」
「あ、いやその、大丈夫です――って、わ」

 その場凌ぎの強がりを言って逃れようとした衛司の手を、ティアナが掴んだ。ぐいと先程までフリードに噛まれていたその腕を引っ張ってみれば、手の甲にくっきりと刻まれたフリードの歯型が目に入る。じわりと血の滲んだその傷跡は見るからに痛そうで、放置しておいて良いものには見えない。
 目の端に涙を浮かべた半べそ状態。そんなザマで大丈夫と言ったところで何一つ信憑性がない、強がり以外の何物でもないとすぐに知れた。

「あんた、これ大丈夫なワケないでしょ。ちょっとキャロ、ヒーリングを――」
「あ、いや、本当に大丈夫ですから! い、医務室で薬もらってきますんで!」

 言って、衛司はするりとティアナの手から逃れ、そのまま逃げるように――いや、それは実際に逃亡だったのだろう――食堂を出て行く。
 スバルの制止も間に合わない。ちょっと待って、と言いたげに晒された掌が、なんともばつの悪い感じであった。

「どうしたの? フリードが人に噛み付くなんて、珍しいね」

 衛司が居なくなった途端、ころりといつもの雰囲気に戻ったフリードを見て、ギンガが不思議そうにキャロに訊ねる。
 その質問にキャロはエリオと顔を見合わせ、次いで視線を胸元に抱えたフリードに落としてから、申し訳なさそうに眉を寄せて答えた。

「それが……解らないんです。食堂に入ったとたん、急にフリード、衛司さんに襲い掛かって……」
「食堂に入るまでは機嫌が良かったんですけど。衛司さんも、食堂の片付けをしていただけで……フリードを怒らせるような事は何も」

 キャロの言葉を引き取って、エリオが補足する。
 確かにそれだけ聞けば、衛司がフリードに襲われる理由は何一つ見当たらない。話を聞く限り、フリードは食堂に入った瞬間に衛司の姿を見定めて襲い掛かったらしく、そもそも衛司はエリオ達が食堂に入った事すら気付いていなかったようだと、エリオとキャロは証言した。
 ティアナやキャロのいないところで衛司はフリードを虐待しており、そのせいで報復された――という可能性も浮かんだが、考えてみればフリードは常にキャロかエリオと共に行動している、こっそり苛める隙などない。
 ……まあそれ以前に、あの少年が小動物を虐待している図が、そもそも浮かばないのだが。

「こっそりって言うなら、なんかプラモデルとか美少女フィギュアとかこっそり作ってそうな感じだよね」
「どっちに話持ってくつもりよスバル」
「そういえば、入院してた頃になんか工作してたわね……えっと、ボトルシップ? とか何とか……」
「乗らないでくださいギンガさん」

 ちなみにそのボトルシップはミッドチルダ総合医療センターに寄付したとの事。ロビーに飾られているらしい。半ば追い出されるような形で退院させられたのに寄付するあたり衛司の鈍感さが窺え、それを断らない病院側に一種の疚しさがあった事が窺える。
 さておき、一向にフリードに襲われた理由は掴めない。皆で揃って首を傾げたまさにその時、ぐう、とスバルの腹の虫が再び演奏を開始した。
 苦笑交じりに一つ嘆息して、ティアナはこの話題を打ち切る。

「……ま、いいわ。ご飯食べちゃいましょ。午後からまた訓練なんだから」

 結局、今に至るまで、何故フリードが衛司を襲ったのか、その理由は判明していない。
 ただ、フリードが露骨に衛司を嫌っている事だけは確かで、この日だけでなくこれ以降も、フリードは衛司と顔を合わせる度に低く唸って彼を威嚇し続けるのだった。
 今ではもう誰も半ば諦めている感じで、軽くフリードを窘める程度である。フリードも噛み付いたら怒られると学習したのだろう、威嚇以上の事はしていない。そもそも、衛司の方がフォワード陣を見るなり逃げ出す有様なのだから、幸いと言えるかどうかは別として、流血沙汰は起こっていない。

 けれど、ティアナはずっと引っ掛かっている。納得しない、すっきりしない、そんな思いが澱の様に胸の中に蟠っている。
 何故、フリードは衛司を嫌うのだろう――あの凡庸な少年の何処に、飛竜の本能を刺激するものがあるというのだろう?





◆      ◆







「そんじゃ、あたしも行ってくっからな。おめーら、気をつけろよ」

 乱暴ながらも気遣いに溢れる言葉を残し、スターズ分隊副隊長、ヴィータがヘリの後部ハッチから漆黒の夜空へと飛び出していく。
 ハッチが閉じるまでの間、高空の強風がヘリの中で渦を巻く。ティアナ・ランスターのトレードマークとも言えるツインテールがばさばさと風に煽られ、彼女の頬を叩いた。
 既になのはとシグナムは機を降り、それぞれ転移反応があったポイントへと向かっている。ヴィータを降ろした今、ヘリは反応が確認された最後のポイント、クラナガン市内のショッピングモールへと全力で急行していた。
 ヘリの中は重苦しい沈黙に包まれている。それは機動六課オペレーティングルームに張り詰める空気と全く同種のもので、こうしてる間にも刻一刻とオルフェノクの魔手があの少年に忍び寄っている――或いは既に魔手が牙となってあの少年を引き裂いているのではと考えれば、無駄口を叩く者は誰一人居なかった。
 いや。誰一人居ない、というのは過言だった。一人居た。一種の重圧にも似た沈黙の中で、普段と変わらぬままの態度を保っている女が、一人だけ。

「考え事? ティアナ」
「あ……いえ、そういう訳じゃないんですけど」

 不意に横合いからかけられた言葉に、ティアナが顔を上げる。声の主に視線を定めれば、そこには至極悠然とした微笑を浮かべるギンガの姿。他の面々が揃って焦燥を表情に映しているのに対し、彼女だけはまるで平然と、普段通りの顔をしている。
 明らかに不自然な、ギンガの表情――彼女は、衛司が心配では無いのだろうか?

「あの……ギンガさん?」
「ん? どうしたの?」
「いや、どうもしないんですけど……ギンガさん、やけに落ち着いてるなあって」
「そうだよギン姉! 衛司くん、今どうなってるかわかんないんだよ!? のんびりしすぎだよ!」

 横からスバルが口を挟んでくるが、それはエリオやキャロも同じ気持ちであるらしく、視線と表情でギンガを問い質している。
 それらの視線にギンガは柔らかく微笑んで、それでもゆるりとかぶりを振って否定を示す。

「落ち着いて……は、いないかな。多分、わたしが一番焦ってると思う。衛司くんが襲われてるかもしれない、傷ついてるかもしれないって考えたら、心配で心配で、どうにかなっちゃいそう」
「でも――」
「けどね。なんか、『ああ、やっぱり』って気もしてるの。衛司くんは何か人に言えないこと抱え込んでて、多分オルフェノクはそれの為に衛司くんを狙ってきて――衛司くんが六課に来た時から、多分、いつかはこうなるだろうなあって思ってた」

 その『いつか』が思った以上に早く来ちゃったんだけどね、と付け加えて、ギンガは悪戯っぽくぺろりと舌を出した。――普段通りに平然としていながら、それはどこか、普段の彼女らしからぬ仕草だった。

 人に言えない事。抱え込んでる秘密。それこそが、結城衛司が狙われる原因で、理由。
 ある意味でそれは、八神はやてが達した結論と真っ向から相反するものであった。結城衛司に何の理由も無いと見るはやてと、結城衛司にこそ何かがあると考えるギンガ。そのどちらも正解であり、故にどちらも正解とは言い難い。

 ならば――もしそうであるならば、ティアナ達フォワード陣が衛司に避けられているのも、フリードが衛司を警戒しているのも、それが理由なのか。
 冗談じゃない、と思う。あまりにも勝手過ぎる。秘密を持つのは構わない、人に言いたくない事だってあるだろう。現にギンガやスバルだって、戦闘機人という己の身体の事を、当初は皆に明かしてはいなかったのだ。ティアナも秘密の共有に一枚噛んでいたのだから、衛司の秘密を一々暴き立てるつもりは毛頭無い。
 だが、それは決して言い訳にはならないし、免罪符でもないのだ。結城衛司の隠し事とティアナ達とは、何の関係もないのだから。

「うーん……ちょっと違うかな、それ」
「違う……?」
「わたしやスバルがあの事を秘密にしていたのは、他の人達の負担になっちゃうからってところがあるからだけど……衛司くんの秘密は、多分、衛司くんの中だけで完結する事だと思うんだ。他の人に知られたら何もかもお終い、そういう類のものなんだと思う」

 ギンガやスバルが己の身体の事を――自分達が戦闘機人であるという事実を秘密にしていたのは、それが他の人には些か重過ぎるから。
 そんな重い事実を急に受け止められる人間などそうはいない。だからこそ、彼女達はそれを六課の仲間達にも秘密にしていたし、今だって率先して明かしてはいない。

 だが衛司の秘密は、それが何であるかこそ未だ不明だが、知られた時点で結城衛司が破滅する類のもの。何をおいても隠し切らねばならない、何があっても露見する事は許されない、恐らくはそういう種類のものだ。
 もし秘密を明かして協力を請う、などという展開に至ったなら、それは既に彼が破綻している事と同義である。
 配慮と自衛。“秘密”という言葉の上では共通だが、その本質において彼と彼女達との“秘密”はまったく異なるものだ。同列に論じる事に意味はない――ギンガが言いたいのは、つまりそういう事だろう。

「もう少し様子を見よう――って事ですか」
「うん。難しいとは思うけど……お願い」

 他ならぬギンガに『お願い』されては、さすがのティアナも断れない。ティアナとしても、秘密を持っている事を理由に糾弾するのは趣味ではないのだ。
 しかし同時に、当然と言えば当然の事であるのだが、些かの不安を覚えずにはいられない――自分は一体どこまで、あの少年の態度に我慢出来るだろうか。

「…………んー」
「? どうしたの、スバル?」
「んー。なんて言うか、ギン姉、衛司くんの事良く見てるよね。あたし全然気付かなかったもん」
「え? そ、そうかな。そんな事ないと思うんだけど……」

 それまでの悠然とした態度から一転、あたふたとし始めるギンガに、ティアナがくすりと頬を緩める。

「ほら、なんていうか、えっと、衛司くんってちょっと見ててほっとけないっていうか、高いところに上って降りられない猫とか、陸に打ち上げられた魚とか、翅がもげた虫とか、そういう感じで、目を離すと何してるかわかんないからちゃんと目の届くところに居てもらわないと困るっていうか」

 後半になるほど比喩が酷い事になっているのだが、まあ、そこについては突っ込むまい。

「なーんだ。衛司くんがあたしのお義兄ちゃんになるのかなー、とか思ってたのに」
「飛躍しすぎっ!」

 顔を真っ赤にしてギンガが声を荒げたところで、コックピットの方から「そろそろ着くぞ!」とヴァイスの声が飛んでくる。
 ヘリは既にクラナガン市街の上空へと入っており、窓の外にはクラナガンの夜景が広がっている。夜空を逆さにしたかのような景観は目を奪われるほどに幻想的であったものの、今の状況を思えば、のんびりと眺めてはいられない。
 目指すショッピングモールも、既に視界の中だった。アクリルの天蓋に覆われたアトリウムが白色の矩形に夜景を切り取っている。生憎、ティアナの視力ではアトリウムの中の様子までは見て取れない。別に構わない、突入すれば嫌でも――とそこまで思考したところで、不意にスバルが「あーっ!」と素っ頓狂な声を上げた。

「な、何よスバル!」
「あれ、あれあれ! 衛司くんがいる!」

 スバルが指し示す先、アトリウムの内部に、何やら人間と思しき人影。ティアナにはそれが真実衛司であるかどうか判別出来ないものの、スバルの視力はその姿を明確に捉え、その上であれを結城衛司と認識していた。
 それに異論はない。スバルがそうだと言うのなら、そこを疑っても始まらない。だからティアナが息を呑んだのは、その人影に歩み寄る灰色のシルエットに気付いたが故だ。
 この距離でも、アクリルの天蓋越しでも、そのシルエットが文字通りに人間離れしているのははっきりと視認出来る。視認の瞬間に走り抜けた戦慄は、きっと的外れではあるまい。――『灰色の怪物』、オルフェノクの姿を認識した人間の反応として、それはきっと。

「ヴァイス陸曹!」
「ああ!」

 ティアナが声を張り上げる――が、ヴァイスの方も解っていたのだろう、その言葉を言い終わるよりも早く、ヘリのハッチが開いていく。びょうと吹き込む旋風に目を細めながら、ティアナはスバルに向き直った。一つ頷いたスバルがシートベルトを外し、マッハキャリバーを掲げてセットアップを完了する。

「いいスバル、とにかくあいつからオルフェノクを引き離して! あたし達もすぐ追いつくから!」
「うん!」
「それと――」

 視線をスバルからギンガへと転じると、既にギンガもセットアップを終えている。ティアナの指示を待たず、しかし彼女は自分が何をするべきかを理解していた。その聡明さが、今、寸刻の余裕も無いこの状況では頼もしい。
 ティアナと目配せを交わし、スバルがヘリから飛び出した。ウィングロードを展開しアトリウムへと向けて一直線。普段なら螺旋軌道を描くようにウィングロードを展開し、安全な速度を保って降りるのだが、そんな悠長な事は言っていられない。地に突き立たんばかりの超急斜角で直滑降。マッハキャリバーの速度とグリップ力を頼みに、彼女は眼下のアトリウムへと突撃していく。

 そしてギンガもまた、その後ろに続いて疾走を開始する。魔導師としてのスバルが非凡の域にある事は確かだが、しかしそれでも、単独でオルフェノクには抗し得ない。業腹だがそれは事実だ。
 加えて、今回の目的がオルフェノクの打倒では無く、結城衛司の保護――即ち、足手纏いを抱えた状態での戦闘――である以上、たった一人敵前に放り込む様な指示は下せない。ギンガにフォローを頼むのは、至極妥当な結論と言えよう。

「スターズ04からロングアーチへ! ポイントDにて結城衛司を発見! 尚、同ポイントにオルフェノクを確認、戦闘行動に入ります!」

 報告を済ませ、ティアナもまた、ヘリ後部のハッチから中空に躍り出る。さすがにこの超急斜角なウィングロードは走れない――ただ滑り落ちていくだけだ――、今回ばかりはエリオやキャロと共に、フリードの背に相乗りする形となった。
 勇躍する飛竜の巨体。地上で煌くネオンの光に照らし出された白亜の威容が、クラナガンの空を飛翔する。
 フリードの背から眼下の光景を見下ろせば、丁度その瞬間に、アクリルの天蓋をぶち抜いて、アトリウムへと突入していくスバル・ナカジマの姿が目に入った。

「…………うーん……」
「? どうかしたんですか、ティアさん?」
「いや、大した事じゃないんだけど――」

 そう、大した事ではない。大した事ではないのだが、ふと、ティアナは疑問に思った。思ってしまった。
 ――あの天井、一体誰が弁償するんだろう。





◆      ◆







 アトリウム内に突入したスバルがまず狙ったのは、結城衛司に迫るオルフェノクでも、まして結城衛司本人でもなく、彼等の間合いのちょうど中間点。屋内庭園の様相を呈するアトリウムに敷き詰められた石畳だった。

 裂帛の咆哮と共に振り下ろされたリボルバーナックルは容赦無く石畳を砕き割り、巻き上げられた粉塵が瞬時に一帯を覆い尽くす。元来の威力に急降下の勢いも上乗せされた一撃だ、それは石畳を砕き粉塵を巻き上げるのみならず、床面に小規模ながら深々とクレーターの如き撃砕痕を穿ち抜いた。
 スバルの目論見は明白――粉塵による視界の閉塞。端的に言えば目晦ましであり、この隙に衛司の安全を確保する心算である。

 意外に誤解されがちであるが、スバルとて陸士訓練校を主席で卒業した才女。書類仕事は苦手なものの座学の成績が悪い訳ではなく、緊急時にはティアナに遜色無い判断力も垣間見せる。
 この時の彼女もまたその通りであり、実際、敵性体が如何なる特殊能力を備えているか不明な状況において、先に衛司の安全を確保するという判断は決して間違いではない。
 しかし。判断は間違いではないにしろ、取った手法に関しては、残念ながら正解と言えるかどうか微妙なところであり。

「衛司くんっ! 大丈夫!?」

 声を張り上げるも、衛司からの返事は無い。二度、三度と呼びかけても、粉塵の中から帰ってくるのは沈黙以外に無かった。
 まさか既に手遅れだったのでは――スバルの背筋を冷たいものが撫で上げる。幸いにも、程無くマッハキャリバーが彼の生体反応を確認。単に気絶しているだけらしい。
 さもありなん。バリアジャケットによる保護のおかげか、爆心に居たスバルには大した影響はないものの、しかし何の防護措置も取られていない衛司にとって、先の一発は余りにも強大過ぎたのだ。
 彼にしてみれば至近で榴弾が炸裂したに等しい。衝撃と爆風は衛司の矮躯を軽々と吹き飛ばし、大音響が彼の意識を刈り取った。敢えて誤解を恐れずに言うのなら、それはスタン・グレネード等の直撃によるショック状態と大差無いものと言えた。

〖きぃいいいいいいっ!〗
「!」

 思わず衛司に駆け寄ろうとしたところで、粉塵を切り裂き、甲高い奇声が迸る。
 薄れ始めた粉塵の中から飛び出してくる灰色のシルエット。先端に種子状の――球根状の、と言うべきか――物体が付いた長柄の武器が、スバル・ナカジマの頭をかち割らんとばかりに振り下ろされる。
 半身をずらすだけでその一撃を回避。元より何の技も術もない、ただ膂力に任せただけの一撃だ、躱す事も容易ければ、がら空きの胴にカウンターの一撃を叩き込むのもまた容易。飛びかかってきたオルフェノクは何を成す事もなく、あっさりとスバルの攻撃に弾き飛ばされる。

〖しぃぁあああああっ!〗

 が。それが誘いであったと、そしてそれにまんまと嵌ってしまったと、刹那の後にスバルは悟る。頭上から降ってきた奇声によって。
 咄嗟に頭上を見上げる。そこに展開されていたのは、直径一メートルを優に超える球体が、眼下の獲物を押し潰さんと降って来る瞬間。しかもその狙いがスバルにない事は瞭然であった。最早薄っすらと靄がかかる程度にしか残っていない粉塵は、伏臥する衛司の姿を覆い隠してはおらず――球体の落下地点に彼の身体が在ると、すぐさまスバルに気付かせる。
 押し潰されて四散する少年の姿を、スバル・ナカジマが幻視する。予測や想像よりも遥かに明確なビジョンとなって去来するそれは、恐らくこれより一秒後の現実だ。

「はぁっ!」

 それでも。スバルは、その場を動かなかった。動く必要がなかった。
 衛司を目掛け、重力の助けを得て更に加速し落下する球体。そこに横合いから飛び出してきたギンガが、裂帛と共に蹴り一発。サッカーボールよろしく吹っ飛んでいった球体が近くのベンチを粉砕して落着すると同時、ギンガもまた、衛司の傍らに着地する。

「衛司くん! 衛司くんっ!?」

 肩を掴んで揺さぶってみるが、当の衛司は完全に失神状態、かくんかくんと壊れた玩具のように首が揺れるばかりで、まるで反応がない。
 とりあえず生きてはいるようだ。白目を剥いて口は半開きで顔の右半面はべっとりと血塗れで、と下手なホラー映画(に出て来る被害者)さながらの有様であるが、命に別状無い事は、簡易ながらも彼の身体を検査したブリッツキャリバーが請け負った。

「ギン姉! 衛司くんは!?」
「大丈夫みたい。けど、早くシャマル先生に診せた方が良いかも……」

 衛司の目立った外傷は右眉の上の裂傷程度。いつぞやに比べればほぼ無傷と言って良い。
 だが頭部の傷というものは一見軽傷に見えても、その実、脳に重篤な傷害を負っている可能性が常に付いて回る。一刻も早く専門医、この場合は六課医務官のシャマルの診断を仰ぐべきというギンガの判断は、全く以って正当だった。

 スバルの空けた天井の穴から、フリードに乗ってティアナ達が降りてくる。これはこれで、タイミングが良かった。屋内での戦闘に巨躯は不向きと、キャロがフリードの竜魂召喚を解こうとするが、それをギンガが制止した。訝しげに首を傾げるキャロに微笑を向けて、ギンガは衛司の身体をフリードの背に乗せる。
 無論、フリードが衛司を毛嫌いしているのは承知の上だ。しかし各々の役割を考えると、衛司を任せられるのは、フリードの他にない。

「フリード。気持ちは解るけど、今だけはお願い。……ね?」

 苛立ちか、或いは不快によるものか、威嚇するように低く唸るフリードの眼を覗き込み、真摯な口調でギンガが語りかける。キャロもまたフリードの頭を軽く撫でて宥め、そうして明らかに渋々とではあったが、フリードは大人しく指示に従った。

「じゃ、お願いね、キャロ」
「はい。ギンガさんも、スバルさんもティアさんもエリオくんも、お気をつけて……!」

 エリオとティアナを降ろし、代わりに衛司をその背に乗せたフリードが、キャロの指示に従いその翼を羽ばたかせて再び飛翔を開始する。
 目指す先はショッピングモール上空で待機中の六課ヘリ。――そう、この状況で彼女達がフリードに任せたのは、衛司の搬送だ。元より、今回の任務の目的は結城衛司の安全確保にある。無用な戦闘は避けるのが正解だ。
 だが相手が易々と獲物を、衛司を見逃してくれるとも思えず、故に最低限の戦闘は不可避と彼女達は断じた。
 ギンガやスバルが衛司を抱え、ウィングロードを展開してヘリまで向かうという選択肢を選ばなかったのはその為。スバルやギンガが抜けるより、キャロとフリードが抜けた方が戦力の低下を抑えられるという、ある意味で冷徹ながらも合理的な判断によるものだった。

〖おのれ、逃がすか!〗

 上昇していくフリードを目掛けて、灰色の球体が跳躍する。重力に逆らって尚加速するオルフェノクの肉弾は、さながら砲弾の如き暴威となって獲物へと襲いかかる。
 竜魂召還で本来の姿となったフリードでも、その速度、その質量、その回転力によって生み出される威力が直撃すればただでは済むまい。むしろ的が大きいだけ、その威力を余すところなく受け止める事になる。
 ただし。そこまで明白に、見え見えにフリードを狙った一撃を妨害するのは、さしたる困難でもなく。

「シュート!」

 ティアナが放ったクロスファイアの弾丸を横から浴びせられ、哀れ球体は再び地上へと落下。今度はアトリウム内に出店していたファーストフードの店舗に突っ込んで、ケチャップとマスタードに塗れる羽目となった。

〖ああダーリン! ……なんて事するのよ、人間風情がっ!〗
〖ふっ。大丈夫さハニー、この僕があんな連中にやられるワケがないだろう?〗

 先にスバルに奇襲をかけ、あっさりと撃退されたもう一体のオルフェノク――まるで壺か花瓶を頭に載せているような奇妙な意匠の――が、ケチャップとマスタードでまだら模様にペイントされた同胞に駆け寄り、無事と知るやすぐさま視線を転じて、ギンガ達を睨み付ける。
 球体が内に折り畳んでいた四肢を解放し、歪ながらも人の形となって立ち上がった。連想するのは団子虫。オルフェノクは何らかの動植物の意匠をその姿に取り入れている事が多いが、目の前の団子虫は、中でもかなり判り易い類と言える。反してもう一体の方は微妙に判断が難しいが、恐らくはチューリップか、その類縁の植物であろう。

 意外だったのは、この二体がそれぞれを『ダーリン』『ハニー』と呼んでいる事。これまで不明だったオルフェノク同士のコミュニティ、その一端を、この時ギンガ達は垣間見たのだ。
……まさかそれが、昨今ではもう漫画の中にしかないような呼称を伴ったものだとは、思いもよらなかったが。

「え、っと……あの、お二人は、どういうご関係でしょうか……?」

 何となく毒気を抜かれてしまったギンガが、目の前の異形へと向けて問い質す。人間を襲う怪物に対する質問としてはどうにも暢気に過ぎるものと言えたが、しかしこんな質問を緊迫感溢れる声音で放つほど、ギンガ・ナカジマは空気の読めない女でもない。 

〖どういう関係? 見てわかんないの、人間?〗
〖まあまあハニー、人間如きの頭じゃ僕達を理解出来ないのも仕方ないさ――この僕が君をどれだけ愛しているのか、奴等には想像する事も出来ないだろうよ〗
〖ああ嬉しいわダーリン、けど私の愛だって人間如きに測れるものじゃないわよ〗
〖はっはっは、こいつめ〗
〖うふふ〗

 もう毒気どころか全身の力が抜けそうな遣り取りであったが、とりあえず、彼等の関係がギンガ達にも想像出来る範疇のものである事は理解出来た。そして理解は同時に、文字通りの人外存在を眼前に置いて、それでも尚平静を保っていられる自分にも及んでいた。
 人間は『何だか良く解らないもの』に恐怖する。オルフェノクという存在はまさに恐怖を煽る不明瞭そのものだ。だが目の前のそれが、まるで人間のように・・・・・・・・・振舞ってくれた事で、不明は完全に取り払われた。理解不能な化物は、理解可能なただの猛獣に堕した。
 故にもう、恐怖はない。

〖ああ、こうしてる暇はなかったよ、ハニー。さっさとあのガキを縊り殺さないと〗
〖そうねダーリン、私達の明るい未来の為に、あのガキには無様に死んで貰わないと〗

 だから。目の前で戦闘態勢を取るオルフェノク達に対して、ギンガ・ナカジマが抱くのは、ただ身勝手な戯言への怒りだけであり。
 同様にスバル・ナカジマ、ティアナ・ランスター、エリオ・モンディアルの心境も戦意によって一本化されて、彼女達はギンガの隣に並び立つ。
 ここから先は通さない。その断固たる意思と決意を眼差しに込めて、少女達は怪物を、ピルバグオルフェノクとチューリップオルフェノクを睨み据える。

「残念ですが、それは叶いません。貴方達には……いえ。誰であろうと同じ事です。――衛司くんは、傷付けさせない」

 その宣言は時報アナウンスの様に淡々とした口調でありながら、一切の反言を許さぬ仮借なさに満ち満ちている。
 鋼拳の歯車が、ギンガの戦意に呼応するかのように回転を始め――高らかに唸りを上げた。





◆      ◆







 当然の事ながら、ヴァイス・グランセニックの仕事は、現場上空でフォワード陣を降ろす事で終わりではない。
 任務終了後のフォワードを回収する為に、近隣のヘリポート、ないしヘリの着地出来る地点を確保しておく事。上空からの偵察による状況の報告。またそれらとは別に、状況の推移によってはフォワード陣の援護にも回らねばならない。
『JS事件』以前ならば確かにフォワード陣の送迎だけが彼の仕事であったが、魔導師として復帰を考えている今は、彼もまた機動六課の戦力として数えられている。

 数年のブランクによって錆び付き、鈍らとなっているというヴァイス本人の認識とは裏腹に、はやてを初めとする六課の指揮官達は現時点の彼を随分と評価しているらしい。
 実際、『JS事件』終盤においては、彼の援護が勝利の一因となったのだから、これに関してははやて達の評価は決して過大なものではないと言えよう。
 故にこの時も、ヴァイスは近隣ビルの屋上ヘリポートの使用許可を取ったという司令部からの連絡を受け、そのヘリポートを確認してから、フォワード達の援護に回るべくヘリを旋回させていた。

「よっしゃ。ここ頼むぜ、ストームレイダー」
【お任せください】

 ヘリパイロットでありまた狙撃兵でもあるヴァイス・グランセニックの強みとは、その双方を高レベルで両立させる事が出来る点にある。愛用のデバイス、ストームレイダーの補助によって、彼はヘリを操縦しつつ――ストームレイダーに半ば任せる形となるが――狙撃態勢を取れるのだ。
 ストームレイダーの展開形態である狙撃銃を手に、ヴァイスは操縦席を離れる。だがその瞬間、彼は視界の端に、奇妙な赤黒い光を捉えた。繁華街のネオンにしてはあまりに毒々しい色合いに、自然、彼の足が止まる。

 だがその光の正体を確認するに先んじて、彼の脳内に声が響く。念話のチャンネルが接続されたのだ。キャロ・ル・ルシエから届いたそれは、結城衛司の身柄を確保したという報告。彼は意識を失っており、頭部に負傷が見られるとの事。一刻も早く六課に搬送したい、彼をヘリに移し、先に六課に連れていってくれという要請が、報告に続いて齎された。
 ヴァイスが衛司を連れて六課に戻れば、クラナガンの街にフォワード陣が置き去りにされる形となってしまう。が、そこは既に、アルトが予備のヘリを駆って六課を飛び立っているらしく、案ずる必要はない。
 一つ頷いて、ヴァイスは身体を操縦席へと戻し、先に指示されたヘリポートへとヘリを向かわせる。

《ヴァイスさん――》
《ああ、確認した。先降りるぜ》

 キャロと衛司を背に乗せたフリードが近付いてくる。距離的に、ヴァイスの方が先にヘリポートへと辿り着くだろう。先行すると念話で伝えてから、ヴァイスは操縦桿を傾け――先程視界の端を掠めた赤黒い光を、今度は視界の中心に捉える事となった。
 屋上にヘリポートが設置されたビルの隣。目指すビルよりやや背が低い、『高層』という言葉の範疇にぎりぎりで収まるような規模のビル。そこの屋上で、赤黒い光が何やら円陣を描くように灯っている。
 魔導師であるヴァイスは、その円陣を幾度となく目にしている。見慣れていると言っても、見飽きていると言っても良い程に。――ミッドチルダ式の、魔法陣だ。
 
 だが、一体誰が。
 近隣の陸士部隊が現場近くに居るという報告は受けていない。一般の陸士部隊に所属する凡百の魔導師でオルフェノクに対抗出来るとは思わないが、それでもこんなところに居るのなら、まず衛司の確保を頼んだはずだ。
 特殊部隊か何かに属する魔導師が秘匿任務に就いている可能性――その任務の一環として、ここで魔法を行使している可能性――は否定出来ないが、その可能性を、しかしヴァイスは思いつく前に却下した。論理によってではなく、ごく純粋に、感覚として。

 その感覚を言葉として要約すれば、こうなるのだろう――あんな気持ち悪い色の魔力光を放つ魔導師が、真っ当であるはずがない。
 独断と偏見に満ちたその感想は、少なくとも今、この場においては、当を得たものであった。

「人……!?」

 赤黒い魔力光で編まれた陣の中に、人が居る。この距離では詳細は判らないが、二人……いや三人。うち二人は何やら話しこんでいるように見え、残る一人はただ呆然と立ち竦んでいるように見える。
 と、その佇んでいた一人が、不意に行進する軍人の様な足取りで、二人の方へと向かう。魔法陣の中央部分にまで歩み出た事で、それが陸士部隊の制服を着た男である事が見て取れた。話し込んでいた二人のうち一人が男の背後へと回り、抱き付く様な形で腕を絡める。
 そして。

「……! なんだ、ありゃあ……!?」
【魔力反応無し――未知のエネルギー反応を検出】

 不意に、赤黒い光陣の中で白光が閃く。しかしそれも僅かに一瞬、白光はすぐに消え失せた。
 驚くべきは、それより後。つい数秒前まで陸士部隊制服を着ていた男の姿が、それとは似ても似つかぬ、奇妙としか形容しようの無い姿へと変貌していたのだ。
 夜闇よりも更に暗い漆黒の上を、陰陽の如くに走る純白。鎧とも衣服ともつかぬ装束を纏ったそれは、頭部を丸ごと覆うヘルメット……否、仮面によって、完全に日常と常識から乖離した存在へと成り果てている。
 ある意味でそれは、オルフェノクとは比べ物にならない、極上の不審人物と言えた。

 ヴァイスは気付かない。否、忘れていると言うべきか。それと同種の存在を、彼は記録映像で目にしているはずなのだ。
 ミッドチルダ総合医療センターでの戦闘に突如介入し、オルフェノクを血祭りに上げた仮面の男。細かい意匠は違えど、ヴァイスが記録映像で見たそれと、遠目にではあるが肉眼で確認出来るそれは、明らかに何らかの関連性が窺えるシルエットであった。

 仮面の男が走り出す。瞬時に最高速へと達した男は、その速度のまま、屋上の縁からその身を中空に躍らせた。
 一見して優雅とも評し得る挙動であったが、しかしその実、単なる投身自殺に他ならない。魔導師であるというのなら話は別だが、重力に引かれるまま眼下の街並みへと落下していく仮面の男を見れば、その可能性は否定される。

「……!?」

 瞬間。ヴァイスは不意に、全身を毛虫に這いずられるような、奇妙な悪寒を覚えた。
 恐怖ではない。ただ純粋に、“気持ち悪い”という感覚――その源を捉えるまで、さしたる時間はかからない。
 仮面の男が走り去った後のビル屋上。そこに未だ残された魔法陣の上、赤黒の魔力光が熾火の如くゆらめくそこに佇む二人の内の一人。この距離でも大柄と判る、しかし格好はどう見ても女性のそれにしか見えない、男とも女とも判別出来ないそれが、ヴァイスに、彼の駆るヘリに視線を向けている。

《ヴァイスさんっ!》

 悲鳴のような絶叫が、ヴァイスの脳裏に響き渡る。
 それがキャロからの念話であると、ヴァイスは理解出来なかった。理解するだけの猶予もなかったし、理解するだけの余裕も失われていた。
 突然。そう、全く突然の凄まじい振動衝撃が、ヘリの操縦室を揺るがしていたから。

 ミキサーの中に放り込まれたような――というと些か陳腐な比喩となってしまうが、実際、操縦室はそれと大差無い状態であった。
 幸いだったのは、先に座席へ座り直した際、シートベルトを装着していた事だろうか。ヘリパイロットとして最低限の安全確保が、この時、掛け値無しにヴァイスの命を救ったのである。そうでなければ、彼の身体は回転する操縦室の中で壁や天井に叩きつけられ、ぐずぐずに崩れ潰れていたはずだ。
 必死に操縦桿を握り――操縦桿にしがみつき――ヘリの姿勢を制御しようと試みる。だが叶わない。高度が足りない。安定を取り戻すよりも早く、回転するヘリは地面に、或いは立ち並ぶ高層ビルに激突し大破するだろう。
 避け得ない未来を必死に回避しようと、ヴァイス・グランセニックは必死の抵抗を試みる。

「がぁあああああっ!」

 喉から迸るのは、もう言葉にならない咆哮だけ。
 現状を御するので精一杯の彼には、この現状が何によって齎されたものなのか、それを察するだけの余裕はなく――





◆      ◆







 ――だが一歩引いた位置でそれを俯瞰していたキャロ・ル・ルシエは、それを余すところなく目撃していた。
 ただし彼女の目の前で起こった事象は、キャロ本人にしても目を疑うような――自分の眼球構造と視覚機能、双方の正常稼動を疑いたくなるような、あまりに非現実的な代物であったのだが。

 とは言え、起こった事自体を説明するのは、そう難しい事ではない。近隣のビル屋上に居た人間が突如として飛翔、弾丸もかくやという速度でヘリへと接近し、そのままヘリの胴体、横っ腹を、その速度のままに蹴りつけた・・・・・というだけなのだ。
 それでも、キャロが仰天したのは言うまでもないだろう。ヘリに接近する速度、大型輸送ヘリを蹴り一発で吹き飛ばす威力。そのどれもが、キャロの常識を遥かに逸脱していたのだ。隊長陣と比較しても遜色無い――否、それを凌駕するのではないか。

「――っ、あ、アルケミックチェーン!」

 ある意味で非現実的な事象に、数秒、キャロは呆けていたものの、しかしすぐに彼女は我に帰り、咄嗟に召喚魔法を行使する。
 錬鉄召喚、アルケミックチェーン。対象を捕縛し拘束する鉄鎖の召喚。だが今回は、対象――墜落するヘリを直接捕縛はしない。質量も運動エネルギーも違い過ぎるのだ、上手くヘリを絡め取ったところで、すぐさま引き千切られるのが落ちだろう。それはキャロも理解していた。

《ヴァイスさん! こっちに!》

 故に。今回、キャロの取った手法は、ビルとビルの間に数十本のチェーンを張り、即席のネットを形成してヘリを“受け止める”であった。
 咄嗟の機転としては充分に評価に値しよう。ヴァイスが上手く機体を制御し、ネットを張ったポイントまで移動出来るかどうか、そこだけは賭けだったが――さすがに一流のヘリパイロット、墜落する方向を逸らすくらいは造作もない。

「く、う、ううう――!」

 ヘリの巨体を受け止めた鉄鎖が、強烈な負荷に軋みを上げる。いや、既に数本はそれに耐え切れず破断した。キャロもまた、必死にチェーンに魔力を送り込み、暴れ狂うヘリを押さえ込む。付近に居た人々は墜落してくるヘリに気付き、我先にと逃げ出しているが、それでも実際に墜落させてしまえばどれだけの被害が出るものか。断じて落とす訳にはいかないと、魔力のキックバックに耐え、歯を食い縛って、キャロは鉄鎖を操作し続ける。
 鉄鎖の網の中でヘリが暴れていたのはおよそ十数秒というところだろう。しかしキャロの体感時間はその十倍、百倍に及んでいた。やがてヴァイスが動力機関を停止させ、ヘリが動きを止める。同時に、精根尽き果てたキャロもまたフリードの背に突っ伏した。

「……ふ……う、なんとか、なった……」

 息も絶え絶えといった風情ではあったが、それでもはっきりとした口調で、キャロが呟く。心配そうに首を傾け、背に乗ったキャロへと視線を向けてくるフリードを軽く撫でる程度には、彼女にも余力が残されていた。
 だが次の瞬間、キャロはある事を思い出す。そう、“思い出す”だ。状況が余計な思考を許さなかったとは言え、今の今まで、彼女はそれを忘れていた。忘れてはいけない事を忘れていたのだ。その迂闊は、何よりも致命的な失策。

「うふふ。凄い凄い、とってもお見事よ、お嬢ちゃん。お持ち帰りしたくなっちゃうわねえ――持ち帰っておうちに飾りたくなっちゃうわねえ――ま、今日はお仕事だから、そういうワケにもいかないんだケド」

 弾かれた様に頭上を振り仰いだキャロの目に、見るもおぞましいシルエットが映り込む。
 身の丈二メートルを超える身長に、ボディビルダーのようなに見事な筋肉を搭載した巨躯。だがそれを包むのは水商売の女性が着用するような、けばけばしい色合いのドレス。そのミスマッチはいっそ滑稽でありながら、しかしそれを滑稽と笑い飛ばすには、目の前の巨体が発する空気は余りにも剣呑に過ぎた。
 オカマだ。嗚呼、それ以外に何と呼べと言うのか。どこに出しても恥ずかしくないほどにテンプレなオカマが、今、キャロの眼前に――鼻を突き合わせる様な超至近距離に――佇んでいた。

 そう、キャロはこのオカマを忘れていた。ヴァイスの乗るヘリを蹴り一発で叩き落したこのオカマを、彼女は意識から外してしまったのだ。
 何たる迂闊、何たる失策。その代償は、最早どうあっても払いきれない。

「ごめんね? アタシもこんな事したくないんだけど、そこの彼にはもうちょっとここに居てもらわなくちゃなんないから」

 あからさまに嘘と知れる白々しい言葉(特に前半)を放って、オカマがキャロへと掌を翳す。ただそれだけの動作なのに、キャロにはそれが顎を開き牙を剥き出す猛獣の如く映った。
 実際、それはさして的外れな感覚でもない――次の瞬間、彼女は凄まじいばかりの爆風に吹き飛ばされ、その身体を中空へと弾き出されていたのだから。
 魔法と呼ぶには些か原始的、ごく単純な魔力運用による衝撃波。キャロの友人、ルーテシア・アルピーノが得意とする技法であり、キャロも実際にその威力を目の当たりにした事がある。

 しかし今、目の前のオカマから放たれたそれは文字通り桁違いだった。総身を鉄板で叩かれたかのような衝撃。咄嗟に張った障壁は焼き菓子の如くに粉砕された。
 もしこれが、オカマに出来る精一杯の手加減を為された上の、オカマにしてみれば蟻をつまむ程度の優しさで放たれたものと知ったなら、彼女は一体どういう反応を見せるだろうか。

「きゃ――あああっ!?」

 飛行魔法を習得していないキャロには、重力の縛りから逃れる術はなく。
 フリードが反転、キャロを受け止めようと疾駆するも――それは無防備な背中を、オカマに晒すという事でもあり。
 衝撃波が飛竜の巨体を打ち据える。空気を軋らせるような悲鳴を上げ、フリードが身をよじらせた。生物としては至極当然の反応、しかしそれによって衛司がフリードの背から零れ落ちてしまう。
 意識のない彼にはフリードの背にしがみつく事も出来ない、真っ逆様に彼は眼下の街へと墜ちていく。曲りなりにもバリアジャケットを展開しているキャロとは違い、彼はほぼ生身。地面に叩き付けられれば生き残る術はない。

 傷ついた身体に鞭打ち、フリードが空を駆ける。オカマからの追撃を一切考慮しない、狙い撃ちされる可能性を完全に意識から切り捨てた疾走。幸いにして――何の気紛れか――オカマからの追撃は無く、フリードを阻むものはない。
 だがそれでも、フリードが少年と少女に追いつくにはほんの少し足りなかった。アトリウムからやや離れた位置、ショッピングモールの外れに彼等は墜落する。

「あらま。衛司ちゃん、生きてるかしら」

 天井をぶち抜いて建物内に落下する寸前、飛竜が少年と少女を受け止める様に身体を割り込ませたように見えたが……生憎、オカマの位置からでは、それは正確に把握出来なかった。
 そも、別に死んでも構わないというスタンスで攻撃を仕掛けているのだから、頓着すべき事柄でもない。

「ま、ここで死ぬなら、それも幸せなのかしらねえ――どうせ、早いか遅いかの違いなんだし」

 とは言いつつも、オカマの表情からは、結城衛司の生存を全く疑っていない事が読み取れる。
 結城衛司の生き汚さを、オカマはよくよく知っていて――それ故に、彼にはのたうち回って苦しみながら生きる他に道はないと、誰より深く理解していた。





◆      ◆





第捌話/乙/了





◆      ◆







後書き:

 という訳で、第捌話乙でした。お付き合いありがとうございました。

 デルタの大暴れ(?)を期待していた方には申し訳無いのですが、一応、本作のお約束で、前回の裏側を説明しておかねばと。
 こういうの、やろうと思えばキャラの台詞で全部説明出来るんですが、説明臭くなる上に長台詞になるんですよね。原作キャラのイメージにそぐわない感じもして。まあそれ以前に、会話で話を回したりとか、台詞で説明させたりとか、そういうのが苦手なもので。
 極端な話、今回は『転移反応をキャッチして急行しました』なだけの話です。フリードに嫌われる衛司とか、ヘリの中での会話とか、言ってしまえばおまけな訳で。どうしてもここでやらないといけない内容では無いんですが、けどどこかでやらないといけない事でもあるし、後回しにするほど後付け臭くなっていくし、という事で、ここでやってみました。

 とりあえず、デルタは次回登場という事で。ただし活躍出来るかどうかは不明ですけど。
 
 それでは次回で。宜しければ、またお付き合い下さい。



[7903] 第玖話
Name: 透水◆44d72913 ID:35af097c
Date: 2023/12/29 20:47


 掛け値無しの不意打ちだった。



 将棋やチェスといった類のボードゲームでは――数多の次元世界の例に漏れず、ミッドチルダにも同種のゲームは存在する――十手二十手先を読む事が勝利の秘訣と言われる。状況を見極め、自陣と敵陣の戦力を把握し、起こり得るであろうこれからを予測する。
 ティアナ・ランスターのような現場指揮官にとって、それは無くてはならない必須スキルであると言えよう。

 ただ、一つだけそれに注釈を入れるとすれば、ここで言う『先読み』とは、あくまで現時点での状況から先の展開を推し量るもの。つまり、その時に出揃っている要素のみが判断材料の全てなのだ。
 無論、予想外、想定外の要素は厳然として存在する。だがそれも、あくまで『不確定』という要素の一つでしかない。先の将棋やチェスの例えで言うのなら、どんな棋士であっても、対局中に突然野良猫が飛び込んできて盤面を滅茶苦茶にしてしまう可能性を考慮して戦略を組み立てはしない。

 だからこそ――この時の機動六課フォワード陣にとって、“それ”は掛け値無しの不意打ちであった。
 一体、どう予想しろと言うのだ?
 一体、どう想像すれば良いのだ?
 先にスバルがぶち抜いた天井の穴から飛び込んできた――落下してきた――第三者が、今しも交錯せんと身構えるチューリップオルフェノクを文字通りに踏み潰して乱入するという不条理を、どうすれば発生する前から感知出来るというのか。

 いや。或いは、これを予想し想像しろと言う者も居るかもしれない。ミッドチルダ総合医療センターにおける一件で、同様の事例は既に発生していたのだから。一度似たような事が起こった以上、それはどう間違っても、“有り得ない”事ではない。
 そう。魔導師とオルフェノクが対峙するその場に、何の脈絡もなく飛び込んでくる仮面の男という構図において、ミッドチルダ総合医療センターでの事件と、今、クラナガン市街のショッピングモール内アトリウムで起こっている戦闘は、同一とは言わないまでも、限りなく酷似していた。 

「あれ……あの人!」
「いや、違いますよ、あれ――あの時の人とは、ちょっとカタチが違います」

 エリオの言う通り。クラナガン医療センターに出現した仮面の男と、目の前の男とは、その意匠において若干の差異が見られる。
 装甲の形状。仮面の形状。そしてその身を彩る色彩。
 特に、色彩の違いは顕著だった――外見から受ける印象が全く異なる。以前に確認された仮面の男を彩っていたのは、黒と金。対して目の前の男を彩るのは黒と銀。黒を基調としたスーツの上を走るブライトカラーのラインは、まるで白骨を思わせる。

〖でっ……『デルタ』……!?〗

 驚愕に慄いた声に、ティアナ達が揃って、ピルバグオルフェノクへと視線を向ける。
 仮面の男の乱入に驚いていたのはティアナ達も同様だが、どうやらピルバグオルフェノクの驚きは、フォワード陣とは比べ物にならないらしい。後ずさり、じりじりと距離を取るその様は、誰に説明されるまでもなく、仮面の男を恐れていると告げていた。

〖な、何で……何でここに居る! 俺達は“頼まれて”ここに来てるんだ! 裏切ってない!〗

 悲鳴の様な団子虫の言葉に、仮面の男はさしたる反応を示さない。ただ静かに佇んでいるだけだ――チューリップオルフェノクを踏みつけにしながら。その黙殺こそが何よりの威嚇であり、ピルバグオルフェノクの恐怖を煽り立てると、彼は知っているのだろうか。
 じりじりと緊迫の度を増していく空気。火の付いた導火線をただ眺めるに等しいその時間は、機動六課フォワード陣、オルフェノク、仮面の男、そのいずれもが身動きの取れない膠着状況を作り出す。
 いや、仮面の男に限っては、その範疇外なのかもしれないが。身動きが『取れない』ではなく、単に『取らない』だけという可能性を、少女達は否定出来ない。

〖う、ううう……うぁあああああっ!〗

 やがて張り詰める空気に耐え切れなくなったか、ピルバグオルフェノクがやおら踵を返してその場から走り出す。
 言うまでも無く逃走だ。戦略的撤退などでは間違っても有り得ない、未だ踏みつけにされたままの“恋人”を見捨て、ただ恐怖から目を背ける逃走行為。あまりにも身勝手で、自分の事しか考えていない。化物でありながら、吐き気がする程にそれは“人間的”であった。
 仮面の男が動く。右腰にマウントされた装備を取り外し、同時にベルトのバックル部から部品を取り外して、それに装填。拳銃を思わせる外観の装備が“銃身”を伸長させ、【Ready.】と電子音声が鳴り響く。
 ゆらりと仮面の男が右腕を持ち上げ、逃げるピルバグオルフェノクの背へと、照準を定めた。

「……、…………」
【Exceed Charge.】

 男が口にした何言かを、ティアナ達は聞き取れなかった。が、仮面の男の装備はそれに反応。ベルトを始点に、光点が体表のラインを走って、構えた拳銃へと吸い込まれる。
 次瞬、銃口から奔る、針の様な光弾。団子虫が背に負った甲殻に炸裂するかと思われたそれは、しかしその寸前で傘の様に展開、三角錐状へと変化する。同時にピルバグオルフェノクが動きを止めた。光錐に引き裂かれた空気が極小の乱気流を生み出し、ピルバグオルフェノクの身体を縛り上げたのである。
 仮面の男が走り出す。疾走するその先には、光錐の切っ先を突き付けられた団子虫。ティアナの直感が警鐘を鳴らす――これを見過ごしてはいけない、と。

「待ちなさい!」

 制止の声は届かない。
 足止めに魔力弾を撃ち放つも、止められない。
 殺到する橙色の弾丸を易々とかわし、仮面の男は高々と跳躍。空中で一回転すると、光錐へ身体ごと蹴り込んだ。男の姿が光錐の中に消えた瞬間には、団子虫の寸前で停止していた光錐はドリルの如く回転、団子虫の身体を抉り抜く。
 それはまさしく悪魔の鉄槌。団子虫の声にならない悲鳴が、言葉に出来ない絶叫が、アトリウムの中に響き渡る。凄絶の一語では片付けられない断末魔に、少女達が揃って色を失くした。

 やがて飛び込んだ反対側――ピルバグオルフェノクの前方――に、仮面の男が姿を現す。
 蹲った姿勢から立ち上がり、手にしたままの“銃”を右腰に戻すと同時、団子虫の身体が真紅の炎を噴き上げて灰と化した。後に残されるのは青白い『Δ』の文字一つきり。しかしそれも、数秒の後には霧散する。

「なんて……事を……!」

 呆然と、ギンガが呟いた。
 オルフェノクには人間と同じだけの知性がある。使い魔であれプログラム生命体であれ、人間と同程度の知性を持つ存在に対しては基本的人権を認めるのが、現在の管理局の方針だ。であるならば当然、オルフェノクにも人権は認められ……つまり、たった今、彼女達の目の前で起こった事は、紛れも無い“殺人”であった。

 殺人。人命尊重を謳い、非殺傷を旨とする管理局の魔導師にとっては最大の禁忌。『殺さない』を基本方針とする彼女達は、必然、『殺させない』も同様に基本としている。目の前で起こる殺人を見過ごすなら、それは自分が手を下す事と変わりない。
 例えそれがオルフェノクであったとしても――人間を襲う化物であったとしても――今まさに殺されそうになっている者を、少女達は放置出来ない。

 故に。ピルバグオルフェノクを殺害し、次はその相方とばかりに踵を返してチューリップオルフェノクへと歩み寄る仮面の男を、看過する訳にはいかないのだ。

「……クロスミラージュ」
【All right.】

 仮面の男が乱入した際に踏み潰され、未だ意識を失ったままのチューリップオルフェノクを、橙色に光るリングが拘束する。
 高町なのは直伝の拘束魔法、レストリクトロック。強度においては未だ師のそれには及ばないまでも、凡百の魔導師の基準からは充分以上に逸脱している。
 オルフェノクを相手にいつまで拘束していられるかは不明だが――オルフェノクがバインドを力尽くで引き千切ったところを、ティアナは以前に目にしている――それでも、瞬時に破断する様な構成ではないと自負出来る。とりあえず、仮面の男と戦っている最中に、後ろから撃たれるという事態は回避出来よう。

 結城衛司を助けに来て、その衛司を殺そうとしたオルフェノクを護らねばならないというのは、全く業腹な話だったが……それでも、一度そうと決めた以上、その後の判断に迷いはない。
 そして指揮官としてのティアナ・ランスターに迷いがない以上、スバル・ナカジマに、エリオ・モンディアルに、そしてギンガ・ナカジマにも、迷いの有ろうはずがなかった。
 仮面の男が歩み寄る。チューリップオルフェノクに向けて、その前に立ち塞がる機動六課フォワード陣へと向けて。歩調からは何も読み取れない。少女達を敵と認識したか、障害と認識したか、それとも道端の石ころ程度にしか認識していないのか。

「別に、どっちでも良いんだけど――どの道、邪魔する事には変わんないんだし……ね」

 奴が自分達を石ころ程度にしか見ていなかったとしても。
 教えてやるだけの事――石ころに蹴躓く人間は、何処にだって居るという事を。
 クロスミラージュの銃把を握るティアナの手に、知らず、力が篭った。


 衛司を乗せてヘリへと向かったキャロから、未だ連絡が来ない事に――ティアナは、気付いていなかった。





◆     ◆





異形の花々/第玖話





◆     ◆







「おう、邪魔するぜ」
「な、ナカジマ三佐……!」

 ベッドから身を起こそうとして顔を顰めた部下を手で制し、ゲンヤ・ナカジマは病室へと入った。
 ミッドチルダ西部、陸士108部隊の拠点から程近い病院の一室。近隣の陸士部隊かかりつけの病院だ、ゲンヤも何度と無く世話になり、また部下の見舞いに訪れる事も多い。

 この日ゲンヤがここを訪れたのも、例に漏れず見舞いの為。勿論手には見舞いの必需品、メロンを携えている――余談だが、ミッドにおいても『見舞いと言えばメロン』なイメージがある。日本食などと同様、地球から輸入された文化のようだ。
 メロンを部下へと放り投げ、勝手にパイプ椅子を引き出して座る。無意識に煙草を取り出そうと懐に伸びた手が、院内禁煙を思い出してぴたりと止まった。ばつの悪い顔でゲンヤは頭を掻き、投げ渡されたメロンをどうしたものかとうろたえている部下を見据える。

「ラッドの野郎が見つからねえ。何か知らねえか、アントン」

 部下がメロンをベッド横の棚に置いたのを見計らい、ゲンヤは口を開く。
 数日前の事だ――陸士108部隊の隊員が、警邏任務中に路地裏で奇妙なものを発見した。
 壁に残された夥しい血痕。そして、そのすぐ近くに広がる血溜まりの中に突っ伏した、同僚の姿。
 それを発見した時の隊員達の動揺は想像に難くない。強盗か通り魔か、とにかく何者かに襲われ、ここに放置されたのだと、混乱しながらも彼等はそう結論し、彼をすぐさま近くの病院に運び込んだ。

 だが現実は、想像の斜め上をいって奇妙だった。何者かに襲われた、という隊員達の結論に反し、現場に残された証拠からは、そこに第三者の介入を見出せなかったのである。
 冷静に証拠を検証する限りにおいて、現場に残された血痕は、被害者が自ら壁に頭を叩きつけた・・・・・・・・・・・結果であるとしか判断出来なかったのだ。

 被害者の名はアントン・ボリシャコフ。陸士108部隊所属の捜査官、階級は陸曹。魔法の適性は持たないものの、堅実な仕事ぶりから同僚や上官からの信任も厚い。
 何をどう間違えても、こんな一風変わった自傷行為とは縁のない男と、周囲には思われていた――それ故に、彼を発見した同僚達は、何者かに襲われたのだと推測したのだが。

「ラッド二尉……ああ、やはりあの人に何かあったんですか……!」

 重傷を負って発見される前日、彼は同じ部隊の上官と共に近くの繁華街へと繰り出していくところを目撃されている。アントン陸曹は先述の通り、翌日に発見されたのだが、しかし彼と共に出かけたというもう一人は未だ発見されていない。
 そう。ゲンヤが今日、アントンの見舞いに訪れたのは、未だ行方不明の部下――ラッド・カルタス二等陸尉の所在に繋がる情報を求めての事でもあったのだ。

「わからん。何かあったのか何もなかったのか、とにかく連絡がねえし隊舎にも戻ってねえ。……知ってる限りでいい。事情、話してくれや」
「はい……!」

 仰臥しながらも大きく頷いて、アントンは語り始めた。
 証言の通り、重傷を負って発見される前日、アントンとラッドは連れ立って繁華街に出掛けていたらしい。いや、繰り出した当初はここに他の人間が数名混じっていたらしいのだが、二軒、三軒と梯子していく内に一人抜け二人抜け、やがてラッドとアントンの二人だけになったのだとか。
 そうしていい感じに酔っ払った彼等は、これが最後と明け方まで営業している飲み屋へ足を向けた。始発までの時間をそこで飲み明かして過ごすつもりだったらしい。
 だが。そんな彼等の前に、不意に一人の女が現れたという。

「ええと……なんて言うんですか、97管理外世界の……ああ、チャイナドレス?」

 和装ほど一般に浸透してはいないものの、その特徴的な衣服は、ここミッドチルダにおいてもそれなりに知られたものであった。が、それを纏う女は、明らかにチャイナドレスが生まれた文化圏の住人とは思えぬ、目を奪われる程に綺麗な金髪の美女であったと、アントンは続けた。
 衣服と頭髪のミスマッチ。ただ、それは単にアントンの感想であって、ゲンヤの求める情報ではない。顎をしゃくって続きを促す。

『ご機嫌で結構な事アルなあ、人間』

 まるで、自分が人間ではないかのような物言いで、女はアントン達の進路に立ち塞がった。
 目指す飲み屋へ近道しようと狭い路地裏に入ったものだから、人間一人がそこに仁王立ちとなればもう通れない。やろうと思えば横を通り抜ける事も出来ただろうが、如何せん、その時の彼等はしこたま酒が入っており、まともに直進する事すら困難な有様。
 彼女に道を開けて貰うか、彼女を突き飛ばして道を作るかしかない。そして勿論、法と治安を護る時空管理局の一員である彼等に、後者の選択肢があるはずもない。

『んー……そうアルな。そっちの男にするネ。そこそこ鍛えてるみたいアルな、重畳重畳』

 ラッドを指差して、嬉しそうに、女は微笑んだという――そこで初めて、アントンは女の口調がどこかおかしい事に気が付いた。
 どこか訛ったような、片言の喋り方。その癖、わざと片言を装っているかよう様な不自然さが端々から感じられる。が、次に女の唇が紡いだ言葉には、その不自然が微塵と感じられなかった。
 ただ。

『“こっちに来い”』

 それを耳にしたラッドが、びくんと痙攣するかのように身を震わせると、足早に女へと歩み寄っていく。引き止めようとしたアントンの手は、空しく空を切った。
 奇妙としか言いようのない事象であった。明らかに不審人物としか思えない女の言に現職の管理局員が従い、彼女の傍らにまで足を進め、そこで次の指示を待つかのように直立不動の姿勢で立ち竦んだのである。
 ふふん、と女は満足気な表情で鼻を鳴らし、踵を返してその場を立ち去ろうとする。それに付き従うラッド・カルタス。付き従う、と見えるものの、それは実際『連れ去られる』を言い換えただけに過ぎない事は、誰に説明されるまでもなく理解出来た。

『ちょ、ラッドさん――』
『ああ。そういや、忘れてたアルな』

 アントンが声を上げた瞬間、ぴたりと女が足を止め、アントンの方を振り返る。そうして彼女はぴたりとアントンを指差したかと思うと、

『とりあえず、“壁に頭でもぶつけてろ”』

 まるで呼吸するように滑らかな口調で投げつけられたその言葉。訛りもない、片言でもない、ともすれば聞き惚れてしまいそうなその声が、アントン・ボリシャコフの耳朶を打った次の瞬間。
 あくまで、これはアントンの体感であるが――彼は、首から下が消えて無くなったかのような感覚を覚えた。無論錯覚だ、眼球を巡らして視線を下に遣れば、彼の身体は未だそこにある。だがそこに、彼の随意はない。身体の操作系統が、身体の主である彼から奪略されてしまったのだ。
 そして。アントンの意思の下にないアントンの身体は、側面の壁へと向き直り歩み寄って行く。何が起こるのか理解した彼が蒼白になるものの、身体は動きを止めない。壁に両手をついて、ぐいと背を反らせて勢いをつけたかと思うと、思い切り額を壁へと――

「……で、気付いたら病院だった、か」
「はい」

 何度も何度も、アントンが意識を失うまで彼の身体は頭部を壁へと叩きつけ、頭蓋を割り、壁を血で真っ赤に塗りたくった。彼が一命を取り留め、且つ現時点で目に見える後遺症が残っていないのはある意味奇跡だと、ゲンヤは医師から聞かされている。
 そして当然、いつの間にか女とラッドは姿を消していた。何処へ消えたのかは見当もつかない。拉致――そう、形こそ奇妙ではあるが、あれは間違いなく『拉致』と言って良い――されたラッドをどう『使う』のかは、最早想像する事すら不可能だった。
 ふん、とゲンヤが腕を組んで鼻を鳴らす。事の経緯は判ったが、しかしラッドがどうなったかは、相変わらず不明のままなのだ。失望感が、知らず彼に不機嫌な態度を取らせていた。

「すいません、三佐……お役に立てなくて」
「あん? ああ、気にすんな。元から期待してもねえ。とにかく、お前はさっさと怪我ァ治して戻ってこい。いっぺんに二人も抜けたせいで仕事が溜まってんだ」

 言い方こそややキツい感じではあるが、口の端をにやりと吊り上げ、悪童染みた笑みを浮かべて言うゲンヤからは、嫌味なところなどまるで感じられない。彼なりの励ましなのだろう、アントンは小さく頷いて、弱々しく微笑んだ。
 ゲンヤが腰を上げる。彼も暇ではない、むしろ最近はとある密輸組織がミッドに入ったという情報が入っており、多忙な日々を送っている。こうして部下の見舞いに訪れる暇など、本来有りはしないのだ。

 じゃあな、と言い置いて、ゲンヤは病室を出た。そのまま真っ直ぐに病院の外へと出る。晩秋の冷たい風に煽られながら、今度こそ彼は懐から煙草を取り出し、口に咥えて火をつける。
 紫煙を吐き出しながら空を見上げた彼の口からは、自然、「どうしたもんかね」という呟きが漏れていた。
 その言葉に応える者は、当然なく。
 呟きは紫煙と一緒に、昏い夜空に消えていった。





◆      ◆







 仮面の男が躊躇なく、誰何の言葉すらなく発砲した事を、ティアナは不思議と思わなかった。
 元より彼女達は仮面の男を敵性体として認識している。右腰の銃型装備を抜き放ち、銃口を向けてきた瞬間には、少女達は既に散開していた。光弾の三連射は一瞬前まで少女達が居た空間を駆け抜け、背後の壁を抉り、鉄骨を穿って火花を散らすのみである。

「はぁああああっ!」

 裂帛の気合と共にエリオがストラーダを構え、魔力で編まれた刃を穂先に煌かせて、カートリッジの激発音も高らかに、仮面の男へと突貫していく。
 銃口を構え、それを迎え撃たんと身構える仮面の男。だが無駄だ。先に団子虫を仕留めたあの光錐、あれを放つまでには数秒のタイムラグが生じる事を、エリオは団子虫の最期を目の当たりにして学習している。それで充分。光錐が放たれるまでの数秒の間に、ストラーダの切っ先は男の胸板を貫いているはずだ。
 加えて――

「クロスファイア――シュート!」

 ティアナの放つ十数発の魔力弾に援護されているのだから、突撃の結末は疑う余地もない。
 ゆらりと、仮面の男の手中で銃口が揺れる――次瞬、撃ち出される光弾。魔力弾と違い誘導性はないものの、それ故に速度はまさしく光の如く。
 だがその光弾が狙ったのは迫るエリオではなく、彼を援護する橙色の魔力弾の方だった。ティアナの誘導も追いつかず、次々と撃ち抜かれ爆砕していくクロスファイアの弾丸。程無く魔力弾は全て撃ち落され、しかし引き換えに、エリオは回避不能な距離に仮面の男を捉えている。
 慮外な展開に眉を顰めつつも、それでも速度は緩めず落とさず、エリオは更に加速する。

「躱せる、ものならッ――!」

 この距離であれば――突撃が最高速に達するまでの距離が確保されているのであれば、その槍撃は正しく一閃必中。
 自信というほど大したものではない。彼は己の未熟を十全に弁えている。ただし己を過小評価する事もなく、それ故に、己の最高速へと至ったこの一撃が、エリオ・モンディアルに出来る最高である事を疑わない。

「――え……っ!?」

 男は、躱さなかった。避けなかった、逃げなかった。
 仮面の男が左手を掲げる――掲げた左手が、間合いに飛び込んできた槍の穂先を押さえ込む。突撃の速度、術者の質量、それらの要因が全て複合され、必殺と呼ぶに相応しい威力を保有するに至った一撃を、掌一つ、腕一本で。

 火花が散る。電撃が舞う。受け止めた男の足元で床が砕け、ほんの僅か、男の身体が後ろへと押し出される。
 目に見えるのはそれだけ。エリオ・モンディアルの渾身を受けきって、それだけの現象しか起こらなかったのだ。その理不尽に、場に居合わせた誰もが表情を凍らせる。
 それでも、彼女達の攻勢は終わらない。エリオの突撃に僅か遅れて、スバルとギンガが男へと襲いかかる。エリオの突撃を受け止めた男は、それに即応出来ない。まして二方向からの同時攻撃となれば。

「…………」
「え?」

 爆ぜる空気の只中で、エリオは確かにそれを耳にした。何と言ったのかは聞き取れない。しかしそれが嘲笑の類であろう事を、少年はすぐさま理解した。
 次瞬、仮面の男がストラーダの穂先を無造作に掴み――先端に展開されていた魔力刃が、埒外の握力によって砕け散った――そのまま、膂力に任せてストラーダごとエリオを投げ飛ばす。如何に年齢不相応な実力を持った魔導師、騎士と言えども、身体はまだ十歳の少年に過ぎない。
 放り投げられたその先には、迫るスバルの姿。言ってしまえば何と言う事はない、男はエリオの身体を質量弾、或いは動く障害として、スバルにぶつけようと目論んだのだ。少年とは言え人間一人、それと衝突して尚、突撃の速度を保てるはずもない。

「エリオ、ごめんっ!」

 故に。スバルは、エリオを受け止めるという選択肢を放棄した。直線軌道のウィングロードが捩れるような螺旋軌道へと変化、マッハキャリバーのグリップ力と速度を頼みにスバルは天地逆の態勢となって、吹っ飛んできたエリオの身体をすれすれで躱す。
 後方で落着したエリオが、僅かに呻き声を漏らすのが聞こえた。しかし先にすれ違った瞬間、『気にするな』と告げるエリオの視線を確認していたスバルは、速度を緩めないままに男への突撃を続行する。

 が、その『回避』ですら、男は折り込み済みだったのだろう。速度は落ちないまでも、螺旋軌道へと変化した事で距離は稼げる。ギンガとタイミングを合わせた同時攻撃は、この僅かなタイムロスによって単なる連続攻撃へと堕し、そうであるのならば、対応は難しい事ではない。
 ギンガの拳を左手で。銃型装備を腰へと戻し、空いた右腕でスバルの拳を。男はそれぞれ受け止める――常軌を逸した理不尽ではあるものの、既にエリオの一撃を同様にして阻んでいるのだから、それは驚くに値しない。
 予想通りの事態であり、用意していた最後の一手を、予定通りに場に出すだけの事である。

「ファントム――」

 クロスミラージュの銃口で収束する、橙色の光。照り返しを受けるティアナの顔に昂揚は無く、しかし彼女の髪色と同じオレンジの光は、少女の表情をどこか猛々しく演出している。……そう、獲物の喉を食い破る雌獅子が如くに。

「――ブレイザーっ!」

 そして放たれる橙の奔流。直射砲撃魔法ファントムブレイザーの光条が、仮面の男へと向かって迸る。
 ギンガとスバルの拳は仮面の男に阻まれているものの、逆に男も、スバルとギンガによって挙動を封じられている。男に砲撃を躱す術はなく、寸前で少女達が身を退いた時には、最早回避は不可能であった。
 だが。

「…………っ!?」

 そもそも、男は砲撃を躱そうとしなかった。それどころか、防御行動すら見せなかった。橙色の奔流を、男はその身体で文字通り受け止めたのである。
 水流が如く、ファントムブレイザーの光条が男の胸部で弾けて飛沫を散らす。対物設定の砲撃魔法だ、奔流の前に身を晒すという事は、肉体を粉砕されると同義。
 だが仮面の男が纏う鎧とも甲冑ともつかぬ装甲の装束は、砲撃の直撃を受けて尚、傷一つ付く事はない。
 驚愕に少女達が息を呑む――それはどこから見ても、明白な隙であり。

【Exceed Charge.】

 電子音声が響く。男が再び右手に携えた銃型装備へと光点が吸い込まれる。放たれるのは針のように細く串のように長い光弾。それがファントムブレイザーの光条を切り裂いて――切り裂かれた砲撃魔法が術式構成を崩され、男の両横で爆発した――ティアナの眼前で展開。光錐が空気を引き裂き、発生した乱気流がティアナを縛り上げた。
 先に、ピルバグオルフェノクを抉り抜いた光錐の一撃。それが此度はティアナ・ランスターを貫かんと唸りを上げ、少女の心臓に狙いを定める。

「ティアっ!」
「ティアナ!」

 スバルとギンガが走り出す。が、それに先んじて男は光弾を乱射。二人の足下に着弾したそれが盛大に火花を散らし、少女達の介入を妨げる。

「く――ぐっ……!」

 必死にもがくティアナだったが、総身を締め上げる気流は頑として彼女を解放しない。顔を背ける事すら不可能なのだ。跳躍し、中空で一回転して、身体ごと蹴り込んでくる仮面の男から視線を外す事も、彼女にはままならない。
 紛う事なく絶対絶命。『JS事件』における決戦時であっても、ここまで差し迫って切羽詰った窮地に追い込まれた事はない。数秒先に明確な“死”が用意されたこの状況を覆す手段は、最早ティアナ・ランスターには無かったのである。

《そこ動くんじゃねーぞ、ティアナ!》

 脳裏に聞き慣れた声が響いたのは、その時だった。
 同時に、ティアナの目は男の後方、スバルのぶち抜いた天井の穴から飛び込んでくる少女の姿を捉える。アクリルの天蓋から覘く夜空を背景に、煌々と輝く真紅のシルエット。可愛らしいと形容するに足る意匠の装束が、目を奪われる程に鮮やかな紅色と、手に携えた鉄槌で、どこか倒錯した印象へと変質している。

「でやぁああああっ!」

 少女が奏でる咆哮を捉えたか、男が振り向いたが――既に遅い。少女が横薙ぎに振り払った鉄槌が男を殴り飛ばす。ティアナに止めを刺す為、大技の態勢に入っていた男には、回避はおろか防御さえ間に合わなかっただろう。
 アトリウムの一角に落着し、盛大に粉塵を巻き上げた男へは目もくれず、少女はそのままの勢いで鉄槌を振るい、ティアナの眼前で停止していた光錐を殴り壊した。乱気流が消失し、戒めを解かれたティアナがその場に蹲る。

「あ、ありがとうございます……ヴィータ副隊長」
「おー。衛司はどうした? ここに居たんだろ?」
「既に保護しました。今はキャロが、ヘリに搬送してます」

 そうか、と機動六課スターズ分隊副隊長――つまりティアナの直接の上官――ヴィータが頷く。言葉を交わす間も、視線は男が落着した方向から外さない。理解しているのだろう。この程度で斃れるような、生半可な相手ではないと。
 程無く、ティアナとヴィータの下へ、スバル、ギンガ、エリオの三人も駆け寄ってくる。スバルとギンガはほぼ無傷、投げ飛ばされ地面に叩き付けられたエリオも、バリアジャケットのおかげか負傷はほぼ皆無だ。戦闘続行に不都合はない。
 戦いの趨勢は明らかに彼女達へと傾いていたが、それでも、誰一人楽観を抱いてはいない。あの仮面の男がどれほど規格外な存在なのか、たった今、彼女達は見せ付けられたばかりなのだから。

「ヴィータ副隊長は、待ち伏せとかはなかったんですか?」

 妙に暢気な口調で、ギンガが問う。
 口調はともかく、質問の内容は真面目なものだった。戦力を分断したのなら、それを各個に撃破するのが策を弄する上での基本だ。
 まさかヴィータが後れを取るとは思わないが、彼女もまた能力限定措置をかけられている、先のクラナガン医療センターにおける一件で高町なのはが予想外の苦戦を強いられた事を考えれば、一抹の不安はどうしても残る。
 またそれとは別に、ヴィータを追ってきた敵がこの場に乱入してくるという事態も、可能性としては無視出来ない。

 ギンガの問いに、しかしヴィータは苦い顔で、懐をまさぐった。取り出したのは良く解らない物体。ギンガへと投げ寄越したそれは一見してぬいぐるみのようであったが、その手には変な金属製の円盤が取り付けられ、腹にはぜんまいネジのような部品が窺える。
 一般的にシンバルモンキーと呼ばれる類の玩具であるのだが、無論、ミッド育ちの彼女達には、それに関する知識はなかった。

「……あたしが向かったトコにあったのは、これだけだ」

 息せき切って現場に到着したヴィータを待っていたのは、じーじーとぜんまいの駆動音を立ててシンバルを鳴らす玩具だけ。
 その様を想像したギンガ達が、揃って何かいたたまれないものを見たかのような表情で押し黙った。
 さておき、何かの証拠品になるかもという事で、ヴィータはこれを持ってきたらしい。あまり意味のある事とも思えなかったが。

「! ――おめーら、来るぞ」

 活火山の火口のように立ち昇っていた粉塵が、薄っすらと晴れていく。その向こうにぼんやりと見えるシルエット。四肢持つ人間のそれでありながら、肩部が微妙に張り出し、より攻撃的なシルエットへと変化している。
 誰のものかは、言うまでもない。

「…………あれ?」
「どーした、エリオ!」

 その時。張り詰める緊張感にまるでそぐわない呟きをエリオが漏らし、それにヴィータが反応する。

「いや、あの、さっきのオルフェノクが――!」

 エリオの言葉に、彼女達が驚いて振り向いた。視線の向かう先は、先程バインドで縛り上げたチューリップオルフェノクが居る地点……いや、『居るはずの』と言うべきか。つい数分前までそこに転がっていたチューリップオルフェノクは、既にその場から姿を消していたのだから。
 無論、ティアナはバインドを解いていない。望外の幸運が重なった結果とは言え、貴重な『捕虜』である。またバインドを力技で破壊するにしろ術式構成に割り込んで解除するにしろ、そうなれば術者であるティアナはそれに気付くはずだ。
 そう、バインドは解かれていない。――現に、レストリクトロックの光輪は、チューリップオルフェノクが居た地点に未だ転がっている。
 結論から言えば、如何なる手法を用いたのかはさておき、チューリップオルフェノクはバインドをすり抜けて、この場を逃げ去ったのだ。

「一体、いつの間に……!」

 呆然と呟いたティアナだったが、その瞬間、彼女は己の失態を悟る。敵を眼前に置いて、その敵から意識を切ってしまうとは。この瞬間に急所を撃ち抜かれたとしても、それは彼女達の不注意が招いた結末と言えるだろう。
 だが。幸いな事に、仮面の男はその隙を衝いてはこなかった。
 かしゃん、と硬質な音が、粉塵の中から聞こえてくる。装甲が触れ合って生じる金属音が混じった足音。だがその足音は連続しない。ただ一度、一歩だけ前に踏み出して、そこで止まった。……次の瞬間に響いたのは足音では無く、どうと仮面の男が倒れこむ音だったのだ。

「!?」

 慮外の展開に、少女達が息を呑む。
 粉塵が晴れる。その向こうに佇む人影が、はっきりと場に姿を現した。倒れ伏す仮面の男を睥睨するように見下ろすそれは、半ば予想通りではあったが、明らかに人間の姿とはかけ離れている。灰の一色に染まった体躯は一目でオルフェノクと解り、針のように長く伸びた口元や、背中の翅、黒曜石のように黒々と光る眼球は、まるで蝉を連想させる。
 蝉の特質を備えるオルフェノク――シカーダオルフェノクが、ゆらりと流麗な足取りで、ティアナ達へと歩み寄ってくる。反応してフォワード陣が身構えるが、しかし蝉の“攻撃”はそれに先んじた。

〖“動くな”〗

 瞬間――ぎしりと、少女達が動きを止める。まるでVTRの『一時停止』さながらに。
 困惑と混乱に歪み、更に刻一刻とその度合いを深めていく少女達の表情だけがその印象を裏切っている。

 事実、ティアナを初め、スバルやギンガ、エリオ、そしてヴィータに至るまで、これは全く理解不能の事象であった。首から下がまるで失くなったかのように動かない。指一本動かす事が出来ないのだ。
 精々が眼球を巡らせて視線を蠢かす程度か。随意によって動かせる部分が、軒並み脳髄からの命令信号を受信しなくなっている。
 何をされたのかは皆目判らない。しかし、これが目の前の蝉が仕掛けた何かである事だけは、はっきりと理解出来た。

「く――ぐっ……!」
〖無駄な事は止めた方がお利口さんアルよ――と言っても、無駄アルな〗

 蝉が呟く。どこか片言な口調の、若い女の声。
 いっそグロテスクと言っても良い蝉の姿から響いてくるその声は、聞く者に違和感を抱かせ、それはすぐに奇妙な不快感へと変化する。
 ゆるゆると、緩慢な足取りで蝉が少女達へと近付いてくる。逃げる事も出来なければ、その歩みを妨げる事すら出来ない。随意を奪われた彼女達には魔力弾を精製する事もままならず、果たして異形の蝉は、ティアナ・ランスターの眼前で足を止めた。

〖くふふ。理解してるアルかー? 生殺与奪、この私が握ってるヨ。不安だよネ、怖いよネ。ああおっかなイおっかなイ、どんな殺され方をするのカナー?〗

 つい、と蝉の伸ばした手が、化物のそれとは思えぬ程に細く長い指が、ティアナの頬を撫でる。頬を撫で、首筋を撫で、両の鎖骨の間を通って胸元から腹へ。いやらしさよりも嫌悪が先に立つ。角度的に見る事は出来ないが、きっとびっしり鳥肌が立っている事だろう。

「こ……んのぉっ! ティアから、は、なれ、ろぉっ……!」

 必死に身体をよじろうとして叶わず、無駄な足掻きを無駄と知りつつ、それでも諦め悪く束縛から逃れようとするスバルが、声を荒げる。
 いや、束縛に抗っているのは他の皆も同じだ。ギンガも、エリオも、ヴィータも同様に。そして当然、ティアナだって、その例外ではない。

〖――くふふ〗

 と、不意にシカーダオルフェノクは奇怪な笑みを漏らして、くるりとティアナに背を向けてしまった。そのまま、近付いた時とは打って変わって明瞭な足取りで離れていく。未だ倒れ伏したままの仮面の男を抱え上げると、ぶぅん、と背の翅を振るわせて、中空に浮遊――上昇を開始した。

〖悪いけど、今日はここまでアル。目的は済んだネ、もうここに用は無いヨ。コイツも連れてくから、安心するよろし。あ、心配しなくても十分もすれば動けるようになるネ。……それじゃ、再見〗

 一方的にそう言い残し、蝉は天井の穴からアトリウムの外へと飛び去っていった。
 後には蝉の翅音だけが残され、それも数秒の後には聞こえなくなる。先程までの戦闘が嘘のように静まり返ったアトリウムに、身動きを封じられてオブジェと化した少女達が取り残された。

「目的……?」

 ふと、ギンガが呟く。意図してのものではあるまい。思わず漏れ出てしまった、言葉としては大した意味を持たない呟きだ。
 目的――オルフェノクの目的。今更思い出すまでも無い、『結城衛司の殺害』である。理由は未だ不明なまま、しかし怪物達は確かに少年の命を欲して暗躍している。それを阻む為に、こうして機動六課フォワード陣は、このショッピングモールへと急行したのだ。
 故に、シカーダオルフェノクが去り際に残した一言は、どうあっても聞き逃す事は出来なかった。

「目的が、済んだ……?」

 それは、つまり。
 背筋を冷たいものが走っていく。最悪の予想が脳裏を過ぎる。あの少年が殺されたというのなら、彼を連れて行ったキャロはどうなった。フリードは。ヴァイスは。疑問は次々と彼女達の脳裏に浮かんで、しかし消える事無く膨れ続けていく。
 念話は繋がらない。返答出来ない状況に彼等が置かれている為か、それとも挙動を封じられたのと同様、魔法もまた封じられている為に念話が発信出来ていないのか、それすら定かではない。
 焦りだけが、募っていく。 



 ……彼女達にとって、オルフェノクとは群体であって、そしてあくまで群体でしかなかった。人間と同じだけの知性を持つと解っていながら、そこに個の意思がある事を、決して単一の意思によって動いてはいない事を、彼女達は完璧に失念していたのである。
 そう。結城衛司を殺そうとするオルフェノクが居るのは事実としても。それ以外の意図を持ってこの戦闘に介入している者が居る可能性を、少女達はまるで考慮に入れていなかった。『殺そう』というスタンスで臨む者と、『死んでも構わない』というスタンスで事に当たる者とが混在している可能性など、全く想像すらしていなかったのだ。
 『目的は済んだ』という言葉の意味を取り違えたのは、だからきっと必然であったのだろう。





◆      ◆







 チューリップオルフェノクがティアナ・ランスターのバインドから抜け出せたのは、単に彼女がオルフェノクとして持つ特殊能力が故であった。
 特殊能力、と言ってもそれほど大したものではない。雀蜂のように猛毒を持っている訳でもなく、ゴキブリのように同時に自身を複数存在させられる訳でもない。役に立たない能力、という意味では、チューリップオルフェノクの特殊能力はある意味特筆すべきものであるだろう。

 端的に言うのなら、彼女の持つ能力とは、身体を一時的に“球根”の状態に変化させられるというものだ。手足を胴体に収納し、頭部の花弁を散らして首を引っ込め、球根形態へと変形する。
 ……が、それだけだ。球根になったからどうなるものでもない。四肢がないので攻撃は出来ず、丸まった割には防御力も然程上がらず、何より転がる他に身動きが取れなくなるのは致命的である。
 だが、今回ばかりはそれが彼女に利した。身体形状の変化はバインドから彼女をするりと脱出させ、ころころと転がりながらその場を離れれば、『デルタ』との戦闘に没頭していた魔導師達は彼女の逃走に誰一人気付かなかった。恐らくは史上初、そして今後二度と訪れる事はないだろう、彼女の能力が実際に役立った瞬間であった。

 しかし。残念ながら、その幸運を使って何かを為すという考えが、その時のチューリップオルフェノクには完全に欠落していた。心折れ、恐怖に戦きながら場を逃げ出すしか、彼女には出来なかったのである。
 ただ、これは責められる事でもないだろう。『デルタ』の急襲によって気絶してしまったものの、それを傍から見ていた魔導師達が考えるよりも早く、彼女は目を覚ましていたのである。
 しかし目を覚ました瞬間、彼女が目にしたのは、愛する男が光錐に抉り抜かれるその光景。理不尽な殺戮を目の当たりにして、尚その場に留まっていられるほど、彼女は剛胆では無かった。

 そして相棒を殺された直後、彼女を縛り上げたバインドが、それに拍車をかけた。魔導師達にしてみれば彼女を保護し、また彼女に余計な介入をされない為の処方であったのだが、実際としてそれは、相棒を殺されたばかりの彼女には『貴様を逃がさない』と告げられるに等しく、そこからごく自然な連想として、後でゆっくりと嬲り殺しにされるのではないかという恐怖を抱かせた。
 その恐怖は、今もまだ――アトリウムを逃れ、ショッピングモールの中を右も左も解らないまま必死に走り続ける今もまだ、彼女の背を追ってくる。

〖はっ……はっ……はぁっ……〗

 息が上がる。
 呼吸が出来ない。
 人間を超越するオルフェノクの身体能力、たかだか数百メートル走ったところで息が切れるなど有り得ない。だが崖っぷちにまで追い詰められた精神は、肉体の性能を見る影もなく下落させてしまう。
 今の彼女ならそこらの野良猫と戦っても負けるだろう。いや、野良猫が溝鼠であったところで、敵意を持って向かってくる者に立ち向かうという行為そのものが、今の彼女にはもう不可能事であった。

〖な……なんで、なんでなんでなんで……!〗

 何故、という疑問だけを繰り返し繰り返し呟いて、彼女は逃げ続ける。
 本当に、訳が解らない。一体何がどうなって、今自分はこんな目に遭っているのか、彼女にはまるで理解出来なかった。

 どうして自分達が『デルタ』に狙われるのか。彼女達は『デルタ』についてそう多い知識を持ち合わせてはいなかったが、あれがスマートブレインに仇為す者を狩る死神である事は理解している。
 彼女はともかく、彼女の相方であった団子虫は、その狩りの手口を目の当たりにした事もあるらしい。その本人が『デルタ』に殺されてしまった以上、もう確かめようもない事だが。

 だから、尚更解らない。
 今日、彼女が此処を訪れたのは、スマートブレイン……正確には、そのトップに立つ女からの依頼である。組織として公式に依頼してきた訳ではない、あの女にも何がしかの思惑があるのだろう。だが自分の抱える組織に害となる事を依頼するとも思えない。
 事実、チューリップオルフェノク達が受けた依頼は、どう見てもスマートブレインにとっては何の関係もない、ただ一人の少年を殺せというもの。それを果たすべく此処を、このショッピングモールを訪れているのだ。それが『デルタ』に狩られる要件とはまるで思えない。
 だから解らない。何故自分は狙われるのか。殺されそうになっているのか。こんな目に遭っている理由が、原因が、何一つ判然としない――付け加えるなら、例えそれが明らかになったとしても、きっと納得は出来ないだろう。

〖…………っ!〗

 逃走は、不意に終わりを告げた。
 崩落した天井に塞がれた通路。まるで上空から何かが落下してきたかのような、そんな有様だ。
 勿論天井の照明は瓦礫の下敷きとなっていて、一帯は夜闇の中に落ち込んでいる。天井の穴から差し込む月明かりだけが唯一の光源で、月光によって濡れ光るような質感へと変貌した瓦礫の中に、一つ、明らかな異物があった。

 崩れ落ちて積み重なった瓦礫の上に腰掛けて、どこか俯き加減に、しかし確かにチューリップオルフェノクを睨み付ける、少年の姿。
 ぞくりと。背筋を、悪寒が走り抜ける。それが恐怖という感情から来るものと、彼女は気付いているか。

〖……あ、ああ〗

 一歩後ずさる。と同時に少年が立ち上がり、それを受けて、もう一歩彼女は後退した。
 少年は彼女の獲物でしかなく、彼女と彼女の恋人が栄達する為に殺されるだけの存在に過ぎない。少なくとも十数分前まで彼女はそう認識し、それに何の疑問も抱いていなかった。
 オルフェノクが人間を殺すのは生物としての必然であり、自分はオルフェノクで、少年は人間であるのだから、自分が少年を殺すのも当然の権利であるとすら、彼女は考えていたのである。
 その認識が誤りであったと、彼女は既に知っている。奇怪な紋様の浮かんだ面貌と、灰色に濁った瞳。アトリウムで彼女はそれを目撃し、少年が己と同族、進化種の一人である事を知っている。

 故に。彼女へと歩み寄ってくる少年の姿が人間のそれから異形の雀蜂へと変化した事に、驚きはなく。
 故に。どうあっても覆しようのない己の末路に、彼女はただ絶望する。

〖ひ――い――いいいっ!〗

 無様な悲鳴と共に彼女が踵を返し、脱兎の如くその場を走り去る――が、雀蜂の動きはそれに先んじた。彼我の距離は一瞬にして詰められ、横に並ばれたかと思った瞬間、雀蜂の手は彼女の首へとかかり、側面の壁に思い切り身体を叩きつける。
 衝撃が内臓を軋ませ、脳髄を揺らす。ぐらぐら揺れる視界の中で彼女が見たのは、衝角が伸びる右拳を掲げた雀蜂の姿。滲出する液体でてらてらと濡れ光るそれは、一度穿たれれば逃れる術なく絶命に至る凶器だと見て取れる。

〖や――止めて――助けて、お願い、たすけて〗

 震える声で懇願する。月光が作り出した影に映り込む女は、がちがちと歯を噛み鳴らし涙と鼻水でぐしゃぐしゃに顔を歪めながら、それでも必死に命乞いを続けていた。
 雀蜂は動かない。拳を振り上げたまま、いつでも毒針を打ち込める態勢のまま、そこで停止している。
 代わりに――

〖勝手なこと、言うな……っ!〗

 雀蜂から――否、少年から放たれたのは、喉の底から絞り出すような、嗚咽染みたそんな言葉だった。

〖殺したじゃないか! あんた達は! 何の関係もない人を――何の関係もなかったのに!〗

 もしこの時、チューリップオルフェノクにまともな思考能力が残されていたのなら、少年の言葉に反駁した筈だ。
 アトリウムで無関係の人間達を殺したのは、自分では無くピルバグオルフェノクである――という、くだらない言い訳だけではない。

 オルフェノクは人間を殺すモノ。そうであるが故にヒトの先に立つ存在。少年もオルフェノクであるのならばその例外ではなく、オルフェノクであるのならばヒトを殺しているはずだ。オルフェノクの殺人行為を責めるオルフェノクなど、矛盾を通り越して滑稽極まりない。
 事実、雀蜂はこれまでに、少なからぬ数の人間を、或いは同胞をその手にかけている。彼女を責める資格などこれっぽっちもありはしない。
 けれど。

〖自分一人、助かろうなんて……っ!〗

 少年が見ているのはチューリップオルフェノクではなく、かつての己であり。
 多くの人間の命を奪った自分と、無関係の人間を殺害したチューリップオルフェノク達を重ね合わせて見て――醜く命乞いする彼女の姿を、己に置き換えて見ている。
 だからきっと、少年がチューリップオルフェノクを殺そうとするのは、思春期の子供らしい潔癖症が故だ。醜い己を直視したくないからだ。嫌なモノから目を背け、臭いモノに蓋をする、そんな心理に起因している。

〖う、う、うぅうううう……!〗
〖助け……助けて、お願いします……!〗

 ぶるぶると、毒針の切っ先が揺れる。蝋燭の炎が如くに揺らめく毒針は、そのもの少年の葛藤であった。
 醜い己を殺したくて、だから目の前の女を殺そうとして、けれどやはり人殺しは嫌で、今更一人や二人殺したところでと考えて、しかしこんな殺し方をしてしまえばもう戻れなくなるという予感があって。
 迷って、
 惑って、
 悩んで、
 悔やんで、
 そして、彼は。

〖……………………〗

 静かに、振り被った右腕を――毒針を、下ろした。
 同時に、首を締め上げていた左手も解かれる。床にくず折れたチューリップオルフェノクが、不可解そうに雀蜂を見上げた。

〖行けよ〗
〖え……え?〗
〖行けよ! 行っちゃえよ! もう二度と――僕の前に姿を見せるなッ!〗

 悲鳴のような言葉に、チューリップオルフェノクはひっ、とか細く、しかしこちらは確かに悲鳴を上げて、その場を逃げ去っていく。

 …………いや。
 逃げ去ろうとしたチューリップオルフェノクの足が、止まる。
 恐る恐る、彼女は振り返る――雀蜂は悄然と俯いたまま背を向け、逃げ去ろうとしている彼女を見ようともしていない。

 チャンスだ、とチューリップオルフェノクの中の何かが囁いた。今なら殺せる、今なら倒せる。だって相手はもう私を見ていないのだから。あんな隙だらけの虫けら、殺さない方が難しい。
 滾々と湧いて来る昏い暴力衝動。或いはそれは、つい先程まで彼女を苛んでいた恐怖の反動であったのかもしれない。恐怖の対象が恐怖足り得なくなった瞬間、それが実際よりも一層、矮小に見えてしまったからかもしれない。
 チューリップオルフェノクが、己の得物を手に、静かに雀蜂の背後へと忍び寄る。一メートル半ほどの長い棒、その先端に球根状の塊がついた打撃武器。これで後頭部を強打すれば、いかなオルフェノクとて只では済むまい。

〖ひ……ひ、ひひっ〗

 抑えようとして抑えきれない笑声が、喉の奥から漏れる。
 そうだ、そもそもこの為に、彼女はここに来ていた。この少年を殺せば栄光が約束されている。帝王のベルトを手に入れれば、彼女はオルフェノク達の中で絶対的な権威を手に入れられる。
 その為に――少年には、雀蜂には、結城衛司には、死んでもらうしか外にない。

〖死ィ――ねぇええええっ!〗

 振り被った得物を、振り降ろす。
 空気を引き裂いて迫る凶器。
 頭蓋を砕き割らんと唸る暴威。
 彼女の殺意の、その具現。



 それが見事に――空を切る。



〖へっ?〗

 躱された。その事実を彼女が悟るまでには、少しばかりの時間を必要とし。それを悟った後も、一瞬で眼前から消え失せた雀蜂の姿を捉えるまでには、更にもう少しの時間を必要とした。

〖――!〗

 やがて、彼女が弾かれたように上を見上げる――そこには、通路の天井に張り付き、天地逆の態勢で彼女を見下ろす雀蜂の姿。
 ぶぅん、と低い唸音が、チューリップオルフェノクの耳朶を叩く。雀蜂の背から伸びる二対四枚の翅が奏でるその威嚇的な音こそ、先の彼女の一撃を回避せしめた理由の一端。

 彼女にもう少し余裕があったなら、雀蜂の外殻形状に多少の変化があった事にも気付けただろう。流線的なラインへと変化したそれは一見流麗なようでいて、その実、純粋に機能性のみを――より空気抵抗を減らす為の――追及した形状でしかない。
 これこそ雀蜂、ホーネットオルフェノクの高速戦闘形態、飛翔態。瞬発的に亜音速にまで達するその速度をもって彼はチューリップオルフェノクの一撃を回避、のみならずその姿を一瞬で敵の視界から離脱させたのである。
 そして彼女が雀蜂を視認した瞬間、雀蜂は天井を蹴りつけ、一気に眼下のチューリップオルフェノクに襲いかかる。足場となった天井が衝撃に砕け割れ、降り注ぐ破片に倍する速度で、彼は標的を床に組み伏せた。

〖ごっ、ごめんなさ――〗

 最早命乞いの暇もない。
 ホーネットオルフェノクの毒針が、チューリップオルフェノクの喉元を深々と穿ち抜き――その言葉を、永遠に封じる。
 喉を穿たれた時点で、それは既に致命傷。毒針と言う名の衝角はそれだけで充分な凶器、急所を穿たれればそれだけで死に至る。衝角表面から滲出する毒液は間違いなく余分であり余計であり、過剰殺人オーバーキルでしかなく……彼女に、安らかな死を許さない。

〖ぎ、ぃ、ぃいぁあああああ……!〗

 全身が内側から燃やされていく感覚。
 神経が根こそぎ鑢に削られるかのような激痛。
 血液が沸騰し、筋繊維が破断する。およそ知覚出来る全ての“痛み”が、同時に彼女の体内で暴れ狂う。
 痛い。
 痛い。
 痛い痛い痛い痛い。
 なんでこんなに痛いのか、なんでこんな目に遭わされるのか、何も悪い事なんかしていないのに、オルフェノクとして当然の事をしただけなのに――



死ね・・



 断末魔の思考に割り込んでくる、冷たく尖った声。
 それが少年から放たれたものと認識する事すら、最早彼女には叶わない。



〖お前なんか――死んでしまえ・・・・・・っ……!〗



 それが、チューリップオルフェノクが最期に耳にした言葉で。
 その後に続いた嗚咽と慟哭を、彼女は聞く事が出来なかった。……尤も聞いたところで、この時点の彼女は既に意識も思考も体組織も何もかもが灼き尽くされていたのだから、何を思う事も出来なかっただろうが。


 蒼炎に視界と意識が燃やし尽くされ、チューリップオルフェノクは灰となって焼け落ちた。





◆      ◆







「――大成功ッ!」

 儀式魔法の魔法陣が未だ熾火の如く揺らめくビルの屋上で、臥駿河伽爛が一人、手を打ち鳴らして快哉を叫ぶ。
 伽爛の眼前には一枚のウィンドウ。ショッピングモールの一角を映し出すそれは、たった今、一人の少年が犯した殺人行為の一部始終を余すところ無く捉えていた。憎悪のままに怒りのままに、その上で素早く鮮やかに、家畜を屠殺するが如き手際で他者を殺害してのけた少年の姿を見て、伽爛は大成功と宣ったのだ。
 そう。これこそ臥駿河伽爛が、白華・ヘイデンスタムが、そして彼等にこの一件を託した結城真樹菜が望んでいた結果。知らぬ事とは言え、少年は見事なまでに、悪党どもの期待に応えたのである。

〖おう、そっちも終わったアルか〗

 ふと上空から降ってきた声に、伽爛は視線をウィンドウから頭上へと移す。そこに居たのは一匹の蝉。重装した人間――即ち『デルタ』――を軽々と肩に担いだシカーダオルフェノクが、ゆるゆると空から舞い降りてくる。

「あら白華、お疲れ様。悪いわね、片付け任せちゃって」
〖まったくアル。こんなすぐに回収するんなら、『みんな纏めて薙ぎ払え』とか言うんじゃなかったヨ。ホント、恥ずかしいネ〗

 愚痴っぽい口調でそう言って、着地した蝉が肩に担いだ男を投げ下ろす。
 荷物のように床に転がった男は呻き声一つ漏らす事はなかったが、しかしそれに代わるように、デルタドライバーが機能を停止。スーツと装甲、仮面が消失して、骨組みの様に残ったフォトンストリームもドライバーに引き戻されていく。
 蝉が仰臥する彼の傍らに屈み込んで、ラッドの腰からデルタドライバーを毟り取った。だが、それだけだ。ドライバーのないラッドに興味はないと言わんばかりに、彼女は伽爛の近くにまで歩いていって、展開されたままのウィンドウを覗き込む。
 次瞬、蝉はその姿を灰色の異形から人間のそれへと変化させる。緩くウェーブのかかった鮮やかな金髪、しかし纏う衣服は白絹で織られたチャイナドレス。見る者に違和感を抱かせる絶妙なミスマッチこそ、シカーダオルフェノクの人間態、白華・ヘイデンスタムの姿である。

「で、首尾はどうネ? あのガキ、ちゃんとヒトゴロシ出来たアルか?」
「ええ。ばっちりよん。思った以上の手際だったわ――泣いて喚いて殺した割には、うん、悪くないわね。今までの経験、ちゃんと活かしてるってカンジ?」

 今までの経験――結城衛司が、人を殺した経験。
 彼が初めて人を殺したのは、オルフェノクとして覚醒した直後。己を殺し、父を殺し、母を殺し、姉を殺した者達を、その人外の力によって引き裂いた。
 次に彼が人を殺したのは、ミッドチルダへとやってきて数日の後。クラナガン市街で暴れ狂う野牛を、毒針によって刺し貫いた。
 前者は報復。理不尽に命を奪われた少年が、理不尽に命を奪った連中を同じ目に遭わせただけの事。
 後者は自衛。訳も解らぬままに襲われた少年が、自身を防衛する為に敵を斃しただけの事。
 しかし。

「それじゃ、駄目なのよねえ――『憎悪』が足りない、『殺意』が足りない。ただ振りかかる火の粉を払うような殺人なんて、何の意味もないのよね」

 そう。それでは駄目なのだ。伽爛達が求めているのは、報復でも自衛でも無く、ただ殺人の為に殺人を犯す――それが出来る人材。
 その意味で、結城衛司は不適格だった。なまじ“人間”に未練を抱えているから、殺人行為を厭わしく思ってしまう。オルフェノクとしては致命的に間違いきったその在り方。ラッキークローバーの一人として迎えるには、能力的にはともかく、人格的に、彼は完全に不適格だった。

 必要なのは、言い訳の余地なく、彼が己の意思で『殺したい』と思い、それを実行に移す事。だからこそ、今回彼に差し向けたのは、オルフェノクの中でもとりわけ判り易く下種な連中。他者を虐げる事に何の疑問も抱かず、ただ己の利益だけを追求する者達。
 ここで重要なのは、それが結城衛司にとって脅威足り得ない事だ。下手に彼と拮抗する、或いは彼を凌駕する戦力を持った者では、そこに『自衛』が成立してしまう。また彼を害する事が出来る者なら、そこに『報復』が成立してしまう。彼にとっては取るに足りない、けれど見逃す事は出来ない、その程度の実力者を差し向ける必要があった。

 結果として、結城衛司は伽爛達の思惑通り、チューリップオルフェノクを殺害した。泣きながら喚きながら、迷いながら躊躇いながら、それでも相手を『生かしておけないモノ』に分類し、そうして殺害したのだ。
 最早それは報復でも自衛でもない。ましてやオルフェノクの本能などでは有り得ない。至極人間的な、唾棄すべき醜い感情から生まれる殺意であり、その行使である。

「て事は、これで結城衛司は『完成』アルか?」
「そうね。ま、多少の修正は必要でしょうけど――最低限の条件はクリアって事で」

 言って、伽爛はついと指を振る。しゃん、と涼やかな音と共に足元の魔方陣が消失し、一帯が本来の夜闇に包まれた。
 ウィンドウも閉じてしまおうと、振った指をそのままウィンドウへと向けた。監視対象に張り付いたサーチャーは未だ少年の姿を捉え、その挙動をウィンドウに中継している。
 既に雀蜂ではなく、人間態へと戻った少年の姿を消してしまうのがほんの少し惜しくなって、伽爛は動きを止めた。

 先の墜落の影響か、或いはその直前に伽爛に吹っ飛ばされた為か(恐らくは後者だろうが)、意識を失った桃髪の少女を背負い、その使い魔と思しき竜(こちらも意識が無い様子だ)を小脇に抱えて、少年はとぼとぼとアトリウムへ繋がる通路を歩いている。力無い足取りはまるで亡者のようだ。尤も、オルフェノクという存在そのものが、見ようによっては歩く死体のようものなのだから、いっそ似合いの比喩と言えるか。
 と、近づいてくる複数の足音を、伽爛の耳が捉える。無論、此処に向かってくる足音では無く、ウィンドウの中の結城衛司に向かってくる足音だ。潮時か、と、今度こそ伽爛はウィンドウを閉じた。

「あら」

 しかしウィンドウを閉じる寸前の一瞬、曲がり角から飛び出してきた少女達の姿が、画面に映り込む。その中の一人、紫がかった藍色の髪をした少女の姿を見咎めた伽爛が、思わず顔を綻ばせ――だが次瞬、眉根を寄せて顔を顰める。
 数日前。臥駿河伽爛が結城衛司と直接対面したその時、少年の傍らに居た一人の少女。姉のように母のように、妙に甲斐甲斐しく少年の世話を焼いていたあの少女が、今、この場に居る事に、伽爛は少しばかりの懸念を抱いてしまった。

「? どうかしたアルか?」
「ん? んーん。何でもないわ――さ、帰りましょ」

 確と言葉に出来るようなものではない。茫漠と蟠る靄のように虚ろで薄弱な感覚。だからこそ、伽爛はそれを気に留める必要のない事と判断し、『忘却可』として脳の中のゴミ箱へと放り込んだ。それっきり思い出す事はないだろうと、承知の上で。
 ……後々で振り返れば、これが彼等の犯した最大のミスだった。
 そう、後悔先に立たずという格言を承知の上で、あえて言うのなら。


 彼等は、もう少しの間だけ、結城衛司から目を離してはならなかったのだ――





◆      ◆







 結局のところ、人間もオルフェノクも変わらないというのは、つまりこういう事でしかなかったのだろう。
 キャロを背負い、フリードを抱え、とりあえず皆と合流するのが最善と判断し、悄然とした足取りでアトリウムへと向かいながら、衛司はつらつらとそんな事を考えていた。

 少し前までなら、キャロを背負う事など出来なかった。フリードに対しても同様。いつ背中から首を掻き切られるかと怯え、それ以前にキャロにもフリードにも、触れようとすらしなかったはずだ。
 だが今の彼は違う。恐怖も怯懦も、今の彼にはまったく取るに足りない些事に過ぎない。むしろそれに没入出来るのなら、まだその方が彼にとって安楽であっただろう。

 今の彼を支配しているのは、強いて近い言葉で表すのなら、失望と、幻滅。
 別に、何を期待していた訳でもない。オルフェノクという存在が俗に言う“化物”である事は、己の身を以って充分に理解している。だが“化物”であるが故に、そこに一種の超越性を望んでいた自分も、結城衛司の中には確かに居たのだ。
 オルフェノクを忌避していながら、その一方で、オルフェノクを“人間以上”の存在と、そう考えていた。

“蛇”に言われた、『人間もオルフェノクも変わらない』という言葉を、彼は本当の意味で理解していなかった。
 ただ、これに関してはある意味、仕方のない面もあるのだろう。彼は今迄、人間の醜面ばかりを見せつけられていた。人間の汚くおぞましい本質ばかりを見ていて、オルフェノクという存在に目を向けていなかったのだから。
 だからこそ、チューリップオルフェノクの最期は、痛烈に衛司の中に傷を遺した。無様に惨めにみっともなく、恥も外聞も投げ捨てて助命を乞う姿は、オルフェノクという存在に少年が抱いていた幻想を木っ端微塵に打ち砕き、挙句、己の中にそういった幻想がある事までも、少年に突きつけた。

 ――なんて、醜い。
 オルフェノクは“人間以上”などではなかった。
 単に、“人間以外”の存在でしかなかった。
 その癖、人間の様に醜く汚くおぞましい、どうしようも無いイキモノでしか無かった。

 そして当然、それらは全て、衛司自身にも言える事。彼もまたオルフェノクであるのだから、そこから外れる事はない。チューリップオルフェノクの醜態は、衛司にとっては鏡に映した己の姿でもあったのだ。
 だから殺そうとした。醜い己を見たくなくて。
 けれど殺せなかった。人殺しは嫌だったから。
 オルフェノクという人ならざる存在の殺害を、人殺しと言えるかどうかはともかく。

 結局、最終的に彼はチューリップオルフェノクに引導を渡した訳だが、それも『見逃す』という温情を踏み躙り、背後から攻撃を仕掛けるという卑劣に、雀蜂の本能が反射的に応えたが故のもの。
 結果、その行為によって彼に残ったものは、どうしようもない後味の悪さだけ。
 胸の中で熱した泥がうねっているような、嘔吐感にも似た感覚。そればかりが今の衛司を支配していて、背中に負った少女や、小脇に抱えた飛竜に恐怖する余裕など、微塵も残っていなかった。

「…………ん」

 やがて、ばたばたと複数の足音が、前方から近付いてくる。それが誰のものなのかすぐに理解したものの、別段歩調を速める事もなく、衛司はそれと出くわすのを待った。
 数秒と経たず、曲がり角から複数名の少女達が飛び出してきた。スバル、ティアナ、エリオ、ヴィータ、そしてギンガ。皆が皆、表情に色濃く焦燥を映している。その表情の意味に気付かないまま、あれいつの間にヴィータさん来たんだろう、とどこか暢気な感想を、衛司は抱いた。

「衛司くん!」

 真っ先に衛司を見咎めたスバルが、マッハキャリバーの加速力に物を言わせて駆け寄って……否、突っ込んでくる。体当たりする気か、と衛司は思わず身を退いてしまったが、その必要も無くスバルは衛司の眼前で急停止。ずい、と衛司の顔を覗き込む。

「大丈夫だった!? 怪我してない!? してないの? よかったー。あーでも血出てる! ってあー! キャロ! フリードも! どうしたの大丈夫!?」

 矢継ぎ早に繰り出される質問に反応が追いつかず、おろおろとうろたえながら衛司は後退。が、後退した分だけスバルが詰め寄ってくるので何の意味もない。元より、スバルのように押しが強い人間は少しばかり苦手なのだ。
 幸いと言って良いのか、程無くスバルの意識は衛司から、衛司の背負ったキャロへと移る。脳震盪だろうか、意識を失ったままの彼女をスバルへと渡し、フリードをエリオへと渡して、ふうと衛司はため息をついた。安堵のような落胆のような、どちらともつかない微妙な吐息だった。

「びっくりしたよー。オルフェノクに逃げられちゃってさ、仕方ないからあたし達も帰ろうと思ったら、ヘリが墜落してたんだもん。あ、墜落って言っても壊れた訳じゃなくて、キャロが上手い事何とかしたみたいなんだけど、そのキャロがどっか行っちゃってて。多分あのオルフェノクの仲間がやったと思うんだけど。でも無事で良かった、うん!」
「……はあ」

 生返事を返す衛司だったが、正直、今の彼にはこれが限界だった。まともな反応を返す事も出来ないくらいに、今の彼は疲れ果てていたのである。
 言うまでもなく、ヘリの墜落に関する仔細など、彼が知っているはずもなく――その時、彼は意識を失っていたのだから――それ以前に、全く興味もなかった。今の彼は、胸の中に蟠る厭な感覚を御するだけで精一杯であり、スバルの言葉など雑音とさして変わらなかったのだ。

「……あー。ごめんなさいギンガさん。ちょっと、限界」

 頭を掻きながらティアナが呟いたのは、その時だった。
 怪訝な顔で、一同の視線がティアナへと集中する。ただ一人、俯いたままの衛司を除いて。そしてティアナはその衛司へと歩み寄ると、

「ねえ。いい加減にしてくんない?」

 そう、静かながらも熱を含んだ声で言い放った。
 のろくさと顔を上げた衛司へと、ティアナは続ける。

「ギンガさんにも言われてたし、もう暫く黙ってようと思ってたけど……だめ、やっぱり限界」
「…………?」
「あたし達に引いた態度取るってのは、それならそれで構わないわよ。あたし達があんたに何したのか知らないけど、あたし達が解らないだけの理由って事もあるんでしょ。あんたが抱え込んでる“何か”のせいでもあるんだろうし――それだけなら、何も言うつもりなかったわ。
 けど、今のあんた見てると、やっぱりそれで良いって思えない」

 そこで一度ティアナは言葉を切り、きっ――と強く、衛司を睨み据えた。

「秘密にするのは良いわよ。けどあんた、そのせいでそんなぼろぼろになってるんじゃないの? 言えないなら言えないで構わないわよ、あたし達にだけ態度違うのだって別に良いわよ、けど一人で秘密抱え込んで、それで傷ついて、それに潰されて――それを黙って見ているしかないあたし達は何なわけ!? 馬鹿みたいじゃない!」
「ちょ、ちょっと、ティア――」
「ティアさん――」

 ティアナの剣幕に思わずスバルとエリオが口を挟もうとするが、それをギンガが制止する。厳しい顔をする訳でなく、宥める訳でもなく、ギンガ・ナカジマには不似合いな無表情で、彼女は二人を制止する。
 ヴィータは何も言わない――成り行きをただ見守るように、壁に背を預け、無言で佇んでいる。

「……っ、言いたい事はそれだけ! じゃあね!」

 言い捨てて、ティアナは踵を返し、その場を足早に立ち去っていく。スバルとエリオがおろおろと、ティアナの背と衛司との間で視線を往復させるが、「行くぞ」とヴィータに促され、後ろ髪を引かれるような顔ではあるものの、その後について歩き出した。
 と。ヴィータが足を止める。ただし振り向く事はせず、独り言のような調子で、ぽつりと彼女は呟いた。

「アルトが予備機でこっちに向かってる。だいたい、あと十分くらいで着くだろうな。十分後にさっきのアトリウムに集合だ。トイレとか済ませとけよ、おめーら」

 それだけ言い残して、彼女は歩みを再開する。直にその姿は曲がり角を折れ、見えなくなった。
 衛司は壁に凭れ掛かり、ずるずると背を擦りつけながら、尻餅をつくようにして床に腰を下ろす。立っている事も、思考する事すら億劫だった。
 何もかも面倒臭くて、どうでも良くて、倦み疲れて、それでも――ティアナの言葉が、頭を離れない。

 解っている。きっと彼女は、今夜の一件が無ければあそこまで怒らなかっただろう。衛司の態度とティアナの気性からすれば時間の問題だったかもしれないが、先に見せたほど激昂もしなかったはずだ。
 自分勝手に秘密を抱え、自分勝手に少女達を拒絶し、そして自分勝手に傷ついて、挙句自分勝手にぼろきれのようになった結城衛司の姿が、ティアナ・ランスターに我慢の限界を越えさせてしまったのだと、衛司は理解している。

 理解しているのに――解らない。
 ならば一体、どうするのが正解だったというのか。

「駄目ですよ、こんなところで寝ちゃったら」

 ふと頭上から降ってきた言葉に、衛司は反射的に――それでも、傍から見れば酷くのろくさとした動きで――顔を上げる。そこに佇んでいたギンガと視線が交錯し、いつもと変わらぬ彼女の視線に、束の間、衛司は懊悩を忘れた。
 てっきりヴィータと一緒に、アトリウムへと向かったものと思っていた。思い返せば先のヴィータの言葉も、衛司にではなく、ギンガにこそ向けられていたのかもしれない。さすがにそこまで察するほど、衛司は聡い少年でもなかったのだが。

 余程間抜けな顔をしていたのだろう、ギンガはくすりと微笑むと、衛司の眼前にしゃがみこんで、懐からハンカチを取り出す。何をするのかと思いきや、「動かないでください」と、ギンガはそのハンカチで衛司の顔を拭き始めた。
 右眉の上の裂傷によって、赤黒く染まった右半面。もう殆ど渇き、拭かれる度にぽろぽろと垢のように剥がれ落ちる血を、丹念にギンガは拭っていく。

「ちょ、ギンガさん――」
「ほら、動かないで」
「いや、でも、ハンカチが汚れる――」
「いいから、じっとしててください」

 無理にギンガを振り払う気にもなれず、結局、ギンガが顔を拭き終わるまでの間、衛司はされるがまま身じろぎもしなかった。

「うん、綺麗になった」

 ぼろ布のように汚れたハンカチを懐に仕舞い、そうしてギンガは、衛司の隣に腰を下ろした。

「ティアナが怒るのも、当然ですよ」

 先のヴィータの言葉が独り言のようだとしたら、今のギンガの言葉は花壇の花々に語りかけるかのような調子だった。
 相手の反応を求めないという点では同一だが、相手を明確に意識しているかどうか、そこが異なる。そしてこの場合、ギンガが誰を意識して語っているか、説明の要はないだろう。
 衛司は応えない。ギンガもそれは求めているまい。故に衛司は沈黙を以ってギンガに応え、ギンガは衛司を窺う事なく言葉を続ける。

「わたし達は衛司くんを護りたいのに、衛司くんは自分の秘密にばっかり目を向けてて、わたし達なんかどうでもいいって感じなんですもの」

 どうでもいい、訳じゃない。
 単に、怖かっただけ。
 けれどそれは、同じ事――どちらにしろ、それは結城衛司が抱え込んでいる秘密に根ざす事なのだから。
 それが故に彼は少女達を怖れ、少女達を蔑ろにした。その意味でギンガの言葉は、確かに正鵠を得ている。

「『おまえは護られる側なんだから、大人しく護られてろ』とか『護る側に感謝しろ』なんて口幅ったい事は言いませんけど――これでも、わたし達、頑張ってるんですよ? 衛司くんを護ろうって」

 ギンガの言葉はあくまで静かだ。声を荒げる事もしなければ、苛立ちが含まれている訳でも無い。
 だからこそ、その言葉は、衛司にとって痛烈な糾弾の言葉となる。
 そうして彼女は一拍の間を置いて、ギンガは静かに、恐らく最も結城衛司を抉る一言を、言葉に乗せた。

「もう少し――わたし達を、信頼してくれませんか?」
「…………信、頼」
「はい。信じる――のは、難しいかもしれないですけど。頼ってくれると、嬉しいです」
「………………ギンガさん。僕は、」
「秘密を打ち明けてとは言いません。言えない事は言えないままで良いんです。言っちゃったら、それまで通りではいられなくなっちゃいますから。わたし達も、衛司くんも。
 ……けど、衛司くんがどんな秘密を持ってても――隣に居る事くらいは、できますから」

 それだけ、憶えていてください――そう言い置いて、ギンガは立ち上がる。

「先に行きますね。早く来ないと、置いてっちゃいますよ?」

 歩き去っていくギンガの足音。遠ざかっていく背中を、衛司は目で追う事もしない。ただ項垂れたまま、足音が聞こえなくなるまでの時間を、彼は呆と床に視線を落として過ごした。

「……ずるいですよ、ギンガさん――そんな事言われたら、意地の張りようもないじゃないですか」

 左掌で目元を覆い、周囲に人の気配がない事を確認して、衛司は呟く。
 結城衛司は隠し事をしている。秘密を持っている。それは『誰か』にではなく、己を取り巻く『全て』に対して。
 それは非難されるべき事だ。糾弾されるべき事だ。彼を知る者全てに対しての背信であり、彼の周りに居る者全てへの裏切りであるのだから。少なくとも衛司自身がそう認識している以上、衛司にとって、それが真実。……の、はずだった。

 だが。ギンガ・ナカジマは、それを『是』と言ったのだ。隠し事をしてても良い。秘密を持ってても良い。背信も裏切りも構わない――ただ、自分達が此処に居る事だけは忘れないでくれと、そう言ったのだ。
 いや、ギンガだけではない。ティアナ・ランスターも、表現こそ違えど、言いたい事は同じだったのだろう。彼女の気質から、それが激昂という形になってしまっただけの事。
 であるならばきっと、スバル・ナカジマも、エリオ・モンディアルも、キャロ・ル・ルシエも、変わる事はないはず。

「ああ、くそ――なんだろうなあ、これ」

 胸の中の悪寒は、いつの間にか消え失せていた。
 代わりに彼の胸を満たす感覚を、野暮ながらも言葉にするのなら、それはきっと――





◆      ◆







 機動六課の運用期間は来年の四月までと明確に定められており、それはつまり、ティアナ達への教導も来年の四月には終了する事を意味している。
 彼女達の教導に当たるなのはやヴィータ曰く、それまでに教える事は山積みの目白押しなのだとか。一分一秒と無駄には出来ない、そんな訳で出動がかかった翌日であっても、訓練メニューには些かの変更もない。

 昨夜の戦闘の疲れが残っているのだろうか、身体が微妙に軋む。まあ、この程度ならヒーリングを頼むほどでもないと自分で肩を揉み解しながら、ティアナは仲間達と共に、訓練施設へと向かっていた。
 隊舎を出た瞬間、ひょうと冷たい風が首筋を撫で回す。さすがに暦は冬に入っている、早朝ともなれば特に気温も低い。訓練が始まればすぐに暖かくなるだろうが、始まる前のこの時間が実は割と辛いティアナだった。
 ……それを口に出すのは、彼女のプライドが許さないのだが。

「うー、さぶ。この季節は辛いよねー」

 自分の我慢している事をあっさり言ってしまえるスバルが、時折羨ましくもありそうでなくもあり。

「大丈夫、キャロ? 体調が悪かったりしない?」
「うん。もうすっかり。ありがとう、エリオくん」

 傍らを歩くエリオが、隣のキャロを心配そうに覗き込んでいるが――当のキャロはと言えば、至って普段通りの面持ちで、それに応えている。

 昨夜の一件で、衛司をヘリへと運ぶ途中、何者かの介入によりキャロは上空から落下。幸い大事には至らず、軽い脳震盪と打撲程度で済んだものの、六課に戻るまで意識は戻らなかったのだ。
 シャマルの診断では、今日一日は安静に――とは言え布団を被って寝ていなければならない程に絶対安静という訳でも無く、訓練への参加は厳禁だが見学だけなら問題はないとの事で、こうしていつものように一緒に訓練施設へと向かっている。

 エリオの心配は至極当然で、しかしキャロが大丈夫と言うのもまた自然な事。互いが互いを気遣うその様は、それなりに微笑ましいものだった。

「……ん? あれ、――なのはさん?」
「え? あ、ほんとだ」

 やがて訓練施設が見えてくる――と、ギンガがそこに人影を見つけて声を上げた。僅かに遅れてスバルも続く。
 ギンガやスバルほどの視力を持たないティアナ達も、程無くその姿を視認する。風に靡く栗色のサイドポニー。青と白を基調とした教導隊の制服。機動六課フォワード陣の教導を受け持つ彼女、高町なのはが、そこに居た。

「やば――遅刻した!?」

 慌てて走り出し、なのはの元へと駆け寄るティアナ達。教官より先に訓練場に集合しておくのは最低限の礼儀だ。いつも通りの時間に隊舎を出ているのだから、遅刻しているはずもないのだが、それでも教官より遅れるというのは、あってはならない事である。
 息せき切ってやってくる生徒達を、しかしなのはは咎めるでもなく、にっこりと微笑んで迎えた。

「あ、おはよう、皆」
「す、すいませんなのはさん! 遅れました!」
「ん? ううん、遅れてないよ。わたしがちょっと早くに来ただけ。――気になっちゃって、ね」

 そう言って、なのはは背後を指し示す。機動六課自慢の設備、六課特製シミュレーター。
 海へと貼り出す形で設置されたそれは、今の時点では単に海上に浮かぶ真っ白な広場だ。装置を起動させればここに様々な風景が実態を伴って映し出されるものの、訓練が始まっていない今はまだ、ただ殺風景な広場がそこにあるだけ。
 いや――

「――衛司、くん?」

 無地のキャンバスにも似た殺風景なその上で、動くものがある。
 目を凝らすまでも無く、それが結城衛司の姿である事は瞭然だった。モップと思しき掃除用具を手に、シミュレーターの上を動き回っている。

「昨日ね。帰ってきてすぐ、衛司くん、わたしのところに来たんだ。『訓練場を掃除させてください』って」

 衛司の仕事は、主に隊舎の中での雑用である。厨房だったりロビーだったりトイレだったり大浴場だったりと場所は問わないものの、実際、隊舎から外に出る事は稀だ。いいところ、昨日の夕刻にそうしていたように、玄関先の掃除が精々である。
 加えて、彼は今まで訓練施設に赴いた事はない。ティアナ達を避けていたのだから、その彼女達と鉢合わせる可能性が高い此処に来る事がないのは当然。近付く事すら、これまでしてはいなかった。
 だからこそ、こうしてシミュレーターのモップ掛けをしている彼の姿は、心底慮外なものであった。

「衛司くん、あんな事があったばっかりだったし、そうでなくても普段から働いてくれてるのに、これ以上お仕事させるのも悪いと思ったんだけど。どうしてもやりたいんです、やらせて下さいって頼むんだ。……にゃはは、他の人が居るところでいきなり土下座された時は、どうしようかと思っちゃった」

 快活に笑うなのはだったが、正直、そんな事はどうでも良かった。
 今の彼女達にとって重要なのは、あの少年が変心した理由――いや、それですら、実際のところはどうでも良い。

 やがて掃除を終えたのだろう、額の汗を拭って、モップやバケツ、諸々の掃除用具を手に、少年はシミュレーターを後にする。と、そこで彼は、なのはの後ろで呆然と自分を見遣るティアナ達に気が付いた。余程掃除に熱中していたのだろう、彼女達が来ていた事には今の今まで気付いていなかったらしい。
 昨日までの彼なら、目が合った時点でお終いだった。「こんにちはさようなら」と回れ右、そのまま脱兎の如くに逃げ出していた。いや、「こんにちはさようなら」の「こん」まで言ったところで、もう逃げていたかもしれない。だが今の彼は海上に張り出したシミュレーターの上だ。どこにも逃げ場はない。

 が。そもそも、彼は逃げなかった――逃げようとしなかった。ほんの少しだけ、怯んだように身を強張らせたが、それだけだった。
 そして。

「…………お、おはようございます」

 ぎこちないながらも――彼はそう言って、頭を下げた。
 ごく普通の、朝に交わす挨拶。それすら蔑ろにしていた昨日までと、明白に異なる。

「おはよー、衛司くん!」
「おはようございます、衛司さん!」
「おはようございます!」

 嬉しそうに衛司に応え、スバルが、エリオが、キャロが、衛司に駆け寄っていく――ティアナもまた、その後に続いて。

「おはよ。………………それと、ありがと」
「へ? あ、いや、僕の方こそ。掃除させて頂いてありがとうございます」
「掃除させて頂いてありがとうって……何よ、その奴隷根性」

 言葉こそややきついものではあったが、しかしティアナの顔に浮かぶのは、どこか嬉しそうな色を含んだ苦笑だけ。
 ティアナの言葉に、う、と衛司は一つ唸って、やがて照れ臭そうに笑った。

「うん、お疲れ様、衛司くん――さ、訓練始めるよ?」

 やってきたなのはの言葉に、ティアナ達は慌てて整列。姿勢を正して、なのはに向かい合う。
 はい! という元気な返事の五重奏が、早朝の訓練施設に響き渡った。





◆      ◆







 それじゃ、僕はこれで。
 そんな言葉を残し、掃除用具を手に、衛司が訓練場を後にする。
 ――瞬間。ティアナは、ふとそれを目にしてしまった。
 去り際の衛司と、アップを始めるギンガがふと視線を交わし――まったく同時に、くすりと笑みを零す。
 ギンガはどこか嬉しそうに、衛司は何故か恥ずかしそうに。
 その様を見ていたティアナの中で、何かがすとんと腑に落ちた。何かに納得して、何かを理解した。それは決して不快な感覚ではなく、むしろその逆。
 知らずティアナの顔に浮かぶ表情は、果たしてどんなカタチであっただろうか。

「あれ。どしたの、ティア?」
「……なんでもないわよ。ほら、訓練始まるわよ――」





◆      ◆






第玖話/了





◆      ◆







後書き:

 という訳で、第玖話でした。お付き合いありがとうございました。
 『上手くいけば今月中には投稿出来るかも』とか言っておきながら、結局前回から一ヶ月。変に期待させる様な事言っちゃって、いやもう、本当に申し訳ございません。
 ついでに、デルタの活躍を期待していた方にも、期待外れに終わった事をお詫び致します……や、これに関しては、後々デルタを使うにあたって、この時点であまり派手な活躍させられなかったという面もあるのですが。

 今回で一話あたりの最長記録を更新。後書き抜きで66kb……Arcadiaで一話がこれだけ長い作品、滅多に無いんじゃないかと思ったり。
 分割しようかなとも思ったのですが、今回の話はどこをどう切っても不自然になるので、読んでくださる方の負担になると解りつつ、纏めて投稿。いるかどうかはともかく、携帯とかで読んでくださってる方、読んでも読んでも終わらないとうんざりしてるんじゃないでしょうか。……次回は、もう少し短い話になる予定ですので。

 で、今回の反省点。ライダークロスなのにライダー出さず、延々とオリ主の描写やってしまった。
 クロス物って、極論してしまえばキャラが格好良く動いていれば、それで良いんじゃないかと思うんですよ。勿論文章力とか、ストーリー構成とかは重要ですけど。クロスでオリ主ってだけで受け入れられない事もあるのに、そのオリ主の事ばかり描写して、いったい誰が得するのかと、書いてる途中ずっと頭の中で誰かが文句言っていてw
 作者(私)の側としても、オリ主に比重をおいた回は感想の数が少なくなる傾向にあるし、その意味で、作者も読者も得しないんですよね。
 ただ、やっぱりオリ主を出す以上、オリ主の描写を蔑ろにして先に行く事は出来なくて。描写薄くして『こいつ要らなくね?』になるか、描写濃くして『こいつ鬱陶しい』になるかだったら、後者を選ぶ訳です。
 結論として『作者のわがまま』って事で、どうか一つ。

 本作は三話で一エピソードという体裁を取っているので、今回のエピソードはこれでお終いです。
 オリ主の出て来るSSって、どうにもすぐ原作キャラと仲良くなってるイメージがあって。オリ主が気さくな人柄って事も大きいんでしょうけど、仲良くなるまでにもう少しあれこれあってもいいんじゃないか? と思うんですよね。
 という訳で、本作では『仲良くなるまで』の部分をちゃんと書いておこう、と結構最初の方で決めてました。成功したかどうかはともかく。

 次回から新展開です。伏線だけ張って放置していたアレとか、ようやく登場予定w
 それでは次回で。宜しければ、またお付き合いください。



[7903] 第拾話
Name: 透水◆44d72913 ID:35af097c
Date: 2023/12/29 20:48

 草木も眠る丑三つ時――という表現がミッドチルダにあるかどうかは、定かではないけれど。
 とりあえず、深夜。何時頃であるかどうかは、この際、さして重要な問題ではない。誰しもが眠りについた、夜闇と静寂とが全てを包みこむ時間帯という理解だけがあれば、それで充分。

「…………んぁ?」

 かたかた、かたかた。
 微妙に身体を揺すられるような感覚と、小刻みに鳴る硬い音に、結城衛司は目を覚ました。
 揺すられる、と言ってもそう激しいものではないし、人為的なものではない。車に乗って多少荒れた道を走った程度の揺れであり、小刻みな音もどこかそれを連想させる。自然、衛司はその振動が何であるか、寝ぼけた頭でもすぐに理解した。

「地震……?」

 ミッドチルダにも地震ってあるんだなあ――泥濘から浮上したばかりの胡乱な意識は、そう理解するだけで精一杯で。
 程無く、揺れは収まった。かたかたと震え鳴っていた机の上の小物が動きを止め、少年の部屋は再び深夜の静寂を取り戻す。衛司の意識はそのまま覚醒する事なく、再び泥濘の中へと沈んでいった。
 そう。衛司にしてみれば、ただそれだけの事。朝になれば忘れてしまう、或いは夢の中の出来事と思ってしまっても不都合無い、その程度の事。





 故に。この自然現象が、後に発生する恐るべき事態の引鉄になっていたと、誰一人知る由もなく。
 ミッドチルダ東部に広がる森林地帯。クラナガンよりも一足早く冬が訪れ、景観は舞い落ちる雪に白く染め上げられている。
 その真っ白な景色の中を進んでいけば、やがてぽっかりと開いた黒い孔が眼に入るだろう。上空からは窺う事極めて至難、地と平行の視点を持って初めて見つける事の出来るそれは、一見して単なる山肌の洞穴。
 だがそれこそ、かつての次元犯罪者、ジェイル・スカリエッティの根城たる研究施設である。
 ……否、研究施設『であった』と、過去形で語るべきか。主たるスカリエッティが此処に戻る事は永劫になく、いずれ朽ち果てるか、内の全てを運び出されて解体されるか、どちらかの末路しか残されていない此処は、いっそ残骸と評しても何ら齟齬がない。

 ただ現時点では、この研究施設が解体される目処は立っていない。数ヶ月前の『JS事件』終盤、起動しかけた施設の自壊プログラム。崩壊自体は辛うじて阻止されたものの、地下施設周辺の地殻と岩盤に深刻な損壊を齎したそれは、僅かな衝撃でも崩落しかねない危険性を遺して、施設内の検証を阻んでいる。
 元より重要部分を外敵に触れさせぬよう破壊するのが、自壊プログラムの役割。プログラムそのものは完遂されずに終わったが、しかしその目的だけは十全に果たしたと言えよう。
 だがこの日、危ういながらも何とか均衡を保っていたそれが、不意の自然現象――ミッドチルダ東部を震源地とする地震によって、遂に決壊した。

 機動六課隊舎近辺の震度に比べ、こちらはより震源地に近いせいか、揺れの度合いは桁違い。振動は亀裂を穿たれた岩盤を容赦無く揺さぶり、均衡を破壊する。
 崩れ落ちた岩盤が眼下の機材を押し潰し、圧し砕く。崩落に巻き込まれなかった機材も衝撃で転倒し、折り重なる様にぶつかりあったそれらは次々と原型留めぬスクラップに堕していく。
 幸いだったのはそれが誰もが寝静まる夜半に発生し、また『崩壊の危険有リ』として予め封鎖された区画のみに崩落が限定されていた為、巻き込まれた人間が誰一人居なかった事であろうか。

 だが、逆説。
 巻き込まれた人間が居ないという事は、そこで何が起こったのかを知る者もまた居なかったという事であり。
 最早如何なる用途に使われていたのかも判然としない、まさしく鉄屑と成り果てた機材の中から滲み出て来る液体と、残骸の隙間から転がり出てきた歪な球体を目に留める者も、誰一人居なかった。





『彼』が暗闇の中でまず考えた事は、このままでは死ぬという自己認識だった。
 そこに危機感はない。ただ数値を計測するが如く、この状態が続けば己は機能を停止するという認識だけが、『彼』の理解した全て。
 酷く機械的なその認識は生物として明らかに間違ったものでありながら、それを自覚する事が叶わない。そも、『彼』は既に生物を超越した、新たなる階梯へと踏み出した生命である。既存の生物が抱く認識とかけ離れているのは、いっそ必然と言える。
 此処が何処であるのか。何故自分は此処に居るのか。そういった現状に関する考察は、端から思考の中になく。

 ぴちゃん、と水滴が何かに当たって弾ける音を、『彼』は知覚した。
 つい先刻まで、羊水にたゆたう胎児が如くであった『彼』は、ここで漸く己が外気に晒されている事と、己を包んでいた羊水が流れ出している事、そして己が死に瀕している理由がそれらの要因である事を理解した。もう一つぴちゃんという水音が響けば、それが床に生じた亀裂から下層へと滴る音である事にも気付いた。
 ふわりと『彼』は浮遊を開始する。物理法則を無視した、重力の縛りをまるで意に介さぬ浮遊で、『彼』は床の亀裂が最も大きい箇所を探り当て、下層へと降りて行く。

 やがて辿り着いた先は、累々と積み重なる屍の山。
 ……否、それは屍に非ず。機能を停止し、或いは破損し、或いはそれ以外の理由で“使い物にならない”と打ち捨てられた、ガジェットと呼称される機械兵の成れの果て。
 見渡す限りに転がり折り重なり積み上げられた残骸の上へと羊水は滴り、それを辿って、『彼』は墓場へ辿り着く。
 いや。『彼』にとって、ここは墓場ではない――餌場と言った方が、より近いだろうか。

 ぐばぁっ――と、歪な球体であった『彼』が、花弁を広げる毒花の如くに表面を割り広げる。次瞬、顕わになった内側から放たれる、稲光が如き閃光。地の底には似つかわしくない白光に照らし出されたガジェットの残骸達が、不意に、かたかたと動き始める。動き始めたそれらは程無く重力を忘れて浮遊を開始、『彼』へと向けて殺到する。
 装甲板が。ケーブルが。電子機器が。ガジェット・ドローンを構成していた部品は、『彼』の元へと向かう間に、本来のカタチを忘れてどろりと融解する。液体金属のような質感へと変化したそれらは溶けあい、混じりあい、その中心に『彼』を置いて、歪ながらも確かに四肢持つ人型へと構築されていく。
 蟲のような、獣のような。その上で尚、人のような。何とも形容し難いその姿は、『怪人』という言葉以外の何で表現出来ようか。

〖………………〗

 ざり、と『彼』の視界にノイズが走る。
 この姿は決して完成ではない。『彼』は未だ完成していない。だがそれは今に始まった事ではなく、そも、『彼』は元より“未完成品”として留め置かれていたのだから、どうあれば完成に至るのか、『彼』自身も知り得ぬ事なのだ。
 だから今の『彼』にとって重要なのは、程無く訪れるであろう崩壊を、如何にして遅らせるか――或いは食い止めるか。

 ざり、ともう一度、ノイズが走った。今度は視界だけでなく、意識、思考の方にも。
 今の『彼』はかつての『彼』ではない。かつて有った明晰な知能は、あの日負った致命的な損傷、そしてそこから始まった二十年の休眠でその大半が失われている。衰えきった知能は本能を満たす為だけに駆動し、生命維持の為に何が必要か、その解析だけに全てを費やされていた。
 やがて結論は出る。先刻まで、『彼』の本体を包んでいた羊水を確保する事。定期的にこの液体に浸かる事でかつての『彼』は生命を維持していたのだが、その液体を作り出す術を『彼』は持っていない。それを持っていたのは、

〖ぱぱ〗

 そう、『彼』の“父”。だが此処に父は居らず、そも、父が既に亡き者である事は、理解の内。

〖ぱぱ は いな い だか ら おじ さん に おねが い し なきゃ〗

『彼』をこの地に呼んでくれた、“おじさん”――確か、そう、スカリエッティと言ったか。
 あのおじさんにお願いして、羊水を再び用意してもらおう。そこまでは『彼』の衰え、壊れかけた知能であっても、恐らく間違った結論ではなく。

〖そう だ おね がい し よう だ から おねえ ちゃ んを みつけ ない と〗

 だがそこから先が、致命的にずれている。
 かつて、『彼』が“父”にお願いした時に取った手段。“兄”を捕らえ、その命の対価として、己を完全なる生命として完成させろというもの――その経験のせいだろう、お願いという言葉の意味を、『彼』の壊れた知性は、完全に間違って認識してしまっている。

 そして、誤ったその認識に都合良く、“おじさん”には娘が居た事を、『彼』は記憶していた。自分を此処へ呼び寄せたのは“おじさん”であったのだが、実際に自分を此処へ連れてきたのはその娘であった事を、記憶していたのだ。
 胡乱な思考ではあったが、それでも結論に辿り着くまで、そう時間はかからない――それを実行に移すまでには、更に時間がかからない。 



 そうして、かつて『ネオ生命体』と呼ばれた『彼』は、異郷の地にて再び活動を開始した。





◆     ◆ 





異形の花々/第拾話





◆     ◆







 先の『JS事件』の終結によって、機動六課の本来予定されていた、或いは期待されていた役割は、概ね完了していると言って良い。
 危険度極上のロストロギア『レリック』の回収・確保を主たる目的としていた彼等の役割は、レリックを悪用し、次元世界に大混乱を巻き起こそうと――本人に言わせれば、またもう少し違う目的があったのだろうが――目論んだジェイル・スカリエッティの逮捕によって、確認されているレリックの大半を回収し終えた事で、ほぼ完結しているのだ。
 無論、それは“管理局側”が機動六課に期するところが解決したという意味であって、六課の隊長陣にしてみれば、まだやるべき事は数多い。やるべき事とやりたい事はここでは同義であるのだが、まあ、それに関しては蛇足だろう。来年四月の解散まで、変わらずに職責を全うするだけの事である。

 さておき『JS事件』の終結は、ごく単純かつ明快な事実として、機動六課の仕事を激減させた。現在はオルフェノク問題の専任部隊として動いている彼等だが、かつてレリック関連事件に即応すべく二十四時間態勢の緊張を強いられていた頃に比べれば随分と余裕があると言える。
 実際問題、一月ほど前からオルフェノクもぱたりと姿を見せなくなり、六課が保護している少年に何らかの干渉を行う様子も見られない。僅かながらも警戒レベルを引き下げたのは、さして不自然な判断ではないだろう。

 そんな訳で、先日のスターズ分隊の休暇に引き続き、この日はライトニング分隊に休暇が与えられている。正確に言うなら、この日は彼等に与えられた四日間の休暇の内、最終日に当たるのだが。

「――それで、地球はどうだった?」

 目的地へと向かう途中、車のハンドルを握るシグナムが、ふと後部座席のエリオとキャロに向けて問いかける。
 ちなみに、助手席には誰も乗っていない。珍しいと言えば珍しい事に、今日はシグナム、エリオ、キャロの三人だけだ。車はフェイトから借りたものだが、さすがに分隊全員が揃って休暇を取るのもまずいだろうと、フェイトは六課に残って雑務に当たっている。

 昨日までフェイト、エリオ、キャロの三人は揃って海鳴で休暇を過ごしており、その間はシグナムが六課に残っていた訳であるが、戻ってきたフェイトに半ば仕事を奪われる形でシグナムも休暇を取らされている。趣味の薄いシグナムの事、休暇を与えられても却って困る面もあるのだが、この日に限っては休暇の使い道もすぐに思い付いた。
 出かけようとフェイトから車を借りたシグナムであったが、丁度出掛けにエリオとキャロに会い、聞けば二人もシグナムと目的地が同じという事で、こうして意外に珍しい、分隊長を除いたライトニング分隊三人の道中と相成った訳である。

「はい、とても楽しかったです!」
「フェイトさんのご実家に泊めていただいたんですけど、カレルとリエラにすごい懐かれちゃって。昨日、帰る時に泣かれちゃいました」

 嬉しそうに地球での体験を話すエリオとキャロ。バックミラー越しに二人の反応を見て取ったシグナムが、そうか、とこちらもどこか嬉しそうに笑みを零す。
 十歳という年齢で、管理局という枠組みの中に生きている二人だ。せめて休暇の時くらいは歳相応に楽しんできてもらいたい。明確にそう言葉にして考えていた訳ではないが、シグナムのそんな期待は、二人を見る限り充分に叶えられているようだ。

「そういえば、地球土産。食べさせてもらったぞ、有難う。旨かった」
「あ、はい! 帰りになのはさんのご実家に寄ったんです。そこで買ってきたんですよ」
「ああ、やはり翠屋のケーキだったのか。懐かしい味がしたからな」
「衛司さんにもお渡ししたんですけど、なんか複雑な顔されちゃいました」

 苦笑しつつ呟いたキャロの言葉に、む、とシグナムは軽く眉を顰める。

「そういえば奴も地球出身だったか。……まあ、無理もないだろうな。衛司の側にしてみれば、強制的に此処に引き止められているようなものだからな。地球土産を貰っても良い気分はしないか」
「あ、いえ、そうじゃなくて。衛司さん、ご飯とかあまり食べない人だから、お菓子貰っても嬉しくなかったんじゃないかなって」
「む? ああ、そうか。そうだったな。忘れていた」

 結城衛司は他人と食事を共にしない。六課の雑用係として朝から晩まで都合良く扱き使われている彼は食事の時間が不定期であるからだ――というのも確かに理由の一つなのだが、そもそも彼は殆ど食物を口にしないのだ。一日に食べたものがパン一切れに牛乳一杯などという事も珍しくないのだとか。
 栄養失調にならないのが不思議なくらいだが、まあ、燃費の良い身体なのだろうと、シグナム個人はそれほど問題と思ってはいない。もし問題があったとしたらシャマルが黙っているまい。彼女が何も言わない事が、逆説、衛司の身体に当面の問題はない事の裏付けとも言える。

 さておきそんな理由で他人と食事を共にしない、共にする機会の乏しい衛司であるが、そうであるが故に彼の度を越した少食も、あまり知られてはいない。それを知っているシグナムやエリオ、キャロでさえ、うっかり忘れてしまう程だ。
 一応、六課の面々には翠屋のケーキを地球土産として買っていったのだが、衛司にだけはそれが小さなクッキーの袋(四~五枚程度のものだ)であり、彼の体質に配慮してはいたのだが――どの道、先にエリオが言ったように『複雑な顔をされた』事に変わりはない。きちんと礼は言っていたが。

「そうだ、衛司さんと言えばですね――」

 不意にエリオがぽんと手を叩く。何か思い出したか、何か思い付いたか。『衛司と言えば』な前置きからして恐らく前者だろうが、その溌剌とした声音を聞けば、どちらにしろそれは不快な話ではないと知れる。無論、シグナムにそれを妨げる口はない。
 という訳で、以下回想。







 その日も、いつものように機動六課フォワード陣は五人揃って朝食を摂っていた。
 テーブルの上には大皿の上に山と積まれた料理。余人ならば見るだけで食欲が失せる、いっそ膨大と言っても良いだけの量があるそれは、エリオとスバル、ギンガによって、現在進行形でその体積を削り取られている。
 勿論その行く先は彼等の胃袋だ。それをどこか呆れ顔で見ているティアナと、自分の口とフリードの口に交互に料理を運んでいるキャロ。ごく普段通りの、もう十ヶ月近く、日に三度は見られる光景である。

「……うー」
「ほらヴィヴィオ、頑張って」

 フォワード陣の隣の席ではなのはとフェイト、ヴィヴィオの三人が揃って朝食を摂っている。今日も今日とてヴィヴィオはピーマンに苦戦中、えいと口に入れれば後は何とか飲みこめるものの、その口に入れるまでに随分と難儀している様子だ。
 ちらとエリオが横に視線を向ければ、そこには人参を睨み付けて硬直しているキャロの姿。少し前まではエリオに頼んで始末してもらっていたのだが、それでは同様に苦戦しているヴィヴィオに対して面子が立たないのか、最近は自分で食べるようになっている。
 ただしこちらも口に入れるまで散々躊躇しているのだから、面子というほどの面子は立っていないのが現状だ。
 ちなみにキャロが自分で人参を食べるようになった事で、頼られなくなったエリオは内心ちょっとだけ寂しさを覚えたりもしているのだが、まあそれについては余談だろう。

「えい!」

 気合一発、ヴィヴィオがピーマンを口の中に押し込んだ。しょっぱい顔をしながらもぐもぐと咀嚼して、ごっくんと飲み込む。すぐに牛乳で流し込んだものの、うぇ、と顔を顰めたあたり、彼女がピーマンを完全に克服する日はまだまだ遠いようだ。
 一方、キャロはまだ人参を睨み付けたまま固まっている。ヴィヴィオに先を越されて焦る気持ちもあるのだろう、睨み付ける視線は先程よりも随分と力の篭もったものだった。穴が開く程睨みつける、という類のアレである。

「――あ。おはようございます」

 エリオ達と隣席のなのは達、その双方に纏めて放たれた挨拶に、一同の視線がその元へと集中する。そこには、自身の朝食を載せた盆を手にした結城衛司の姿。
 朝にしろ昼にしろ夜にしろ、普段、他の面々と食事の時間が重なる事が少ない衛司である。食堂の掃除をしているというのならともかく、彼が食事するところを目にする事も珍しければ、エリオ達とそれが重なる事もまた稀有であると言えた。

「衛司くん、こっちこっち!」

 衛司としては挨拶だけ済ませて、食堂の隅の席で一人食事を摂ろうと考えていたのだろう。が、それを引き止めるように――本人にその自覚は無いのだろうが――スバルがいつの間にやら近くの席から椅子を持ってきて、ここに座れとばかりに手招きしつつぽんと座席を叩く。
 ついこの間までの衛司なら怯えた顔で回れ右だっただろうが、先日の一件以降、こうした誘いにも乗ってくるようになっている。果たしてこの日も、スバルの強引さに照れたような困ったような、微妙な表情こそ浮かべたものの、それでも誘いを断る事なく、衛司はスバルに示された座席へと腰を下ろした。

「あー。衛司くん、またそんな朝ご飯」

 席に座るやいなや、ギンガが衛司の盆の上に載せられた彼の朝食を見咎めて声を上げる。小さな皿にビスケットが五枚、それにコップ一杯の牛乳。幾ら少食と言っても限度がある、窘めるようなギンガの口調の方が、この場においては理が有ると言えよう。

「いや、ビスケットじゃなくて、玄米クッキーなんですけど――」
「おんなじです! ちょっと待っててくださいね!」

 有無を言わさぬ口調でそう言い置いて、ギンガは席を立ち、食堂に隣接する厨房へと入っていった。
 程無く戻ってきた彼女の手には一枚の皿。ビスケット(衛司曰く、玄米クッキー)の載った皿より二回りほど大きいそれに、ギンガはひょいひょいと自分達の朝食を取り分けていく。パスタにしろサラダにしろ、どれもこれも十人分は優に超える量があるのだから、皿一枚に載る程度分けたところで総量にはさしたる変化もない。

「はい。これくらいは食べないと駄目ですよ。朝ご飯は一日の元気の源です」
「え、でも、これはちょっと多すぎますよう……」

 差し出された皿を途方に暮れた顔で眺め、しばし逡巡するかのに様に視線を彷徨わせてから、泣き言臭く衛司は呟いた。
 こういった“弱いところ”をあまり隠さなくなったというのが、衛司と六課フォワード陣が打ち解けてきたという端的な証左と言える――勿論それはエリオ達フォワード陣にとって嬉しい事であったのだが、衛司にしてみれば適量を遥かに逸脱した(彼個人の感覚として、だ)料理を押し付けられる羽目になっているのだから、一概に良い事とも言えまい。

「すききらいしちゃ、だめだよ?」

 横合いから幼い声が割り込んだのは、その時だった。
 声のした方向へと視線を転じれば、デザートのヨーグルトを口に運びながら衛司を見遣るヴィヴィオの姿。

「えーじくん、すききらいしちゃだめ。おおきくなれないよ?」
「……うぐ」

 ヴィヴィオの目には、あれは駄目これは嫌いと、衛司が我儘を言ってごねているように見えたのだろう――いや実際、『食べ切れない』と『好き嫌い』の違いがあるだけで、衛司が我儘を言っている事に違いはないのだろうが。
 ちょっとお姉さんぶった口調はギンガの受け売り、と言うよりは真似っこだろうか。割と押しに弱い衛司に対しては覿面だった。
 ともあれ、これで完全に退路は絶たれた。
 ぱん、と衛司は両の掌を合わせて、

「……………………いただきます」

 意外に礼儀正しく、朝食を口に運び始めたのだった。



 ――で。
 実はこの話、もう少し続きがある。



 その日の訓練は恙無く終了し、つまりそれは徹底的にしごかれまくったフォワード陣がへとへとになって隊舎に帰り着くという事であったのだが、この日の彼等は疲れた身体を引き摺って医務室へと立ち寄った。
 苛烈な訓練は必然的に怪我や生傷を伴う。魔法は当然ながら非殺傷、バリアジャケットの展開も義務付けられているが、それでもちょっとした弾みで軽い怪我をする事は頻繁にあり、そのせいか手持ちの傷薬が底をついていたのだ。

「こんにちはー」
「あら、いらっしゃい。どうしたの?」

 机上に浮かんだウィンドウと手元のコンソールとの間で視線を往復させていたシャマルが、不意の来訪者に気付いて顔を上げる。
 どうしたの、と訊いたシャマルだが、元より医務室に来る者の用事などそう多くはないだろう。偶にシャーリーやリインが一緒にお茶でも、とやってくる事はあるが、少なくとも訓練直後のフォワード陣が何用で此処を訪れるのかは推して知るべしだ。
 事実、シャマルはエリオ達の返事を待たず、バンドエイドなどが収められた棚へと歩み寄っている。

「ん?」

 それに気付いたのは、エリオが最初だった。医務室の端、並んだベッドの中で最も窓際の一床。それが、ぐるりと周囲をカーテンに覆われて、中が窺えなくなっている。
 誰かが寝ているのだ。そう理解して、エリオは他の面々に使用中のベッドを指し示す。体調が悪い人間が居るのだ、あまり大きな声で喋るのは良くないだろう。それを伝えるエリオの身振りを、残る四人はすぐに理解し、めいめいに頷いた。

「シャマル先生。誰か具合悪いんですか?」

 声を潜めて、スバルがシャマルに問う――バンドエイドを取り出し、あら傷薬はどこに置いたかしらこの前仕入れたばかりなのに、と棚を漁っていたシャマルが、その問いを受けて振り向いた。

「うん? ああ、衛司くんが寝てるのよ。静かにしてあげてね?」
「――え?」

 衛司が?
 まったく予期しない名前に、フォワード陣の誰もが程度に差はあれ、驚きと困惑の表情を浮かべる。朝までは元気に見えたのに、何かあったのだろうか。

 容態を確認するつもりか、スバルがそろりそろりと音を立てないように、ベッドへと忍び寄る。一瞬、他の面々はどうしたものかと顔を見合わせたが、結局スバルの後に続いてベッドへと歩み寄った。
 静かにカーテンをはぐり、中を覗き込む……シャマルの言う通り、そこに横たわっていたのは結城衛司。見た感じ重傷にも重篤にも見えないが、青い顔をしてうーんうーんと唸っているあたり、ベタではあるが確かにこれは医務室の世話になる必要があると解る。

「え、衛司くん? 大丈夫……?」
「大丈夫くないけど大丈夫です……」

 意味が解らない――とりあえず、返事出来る程度には大丈夫という事なのだろうが。

「あの、シャマル先生……衛司さん、どうされたんですか?」
「うーん。簡単に言っちゃうと、ただの食べすぎかな」
「食べすぎ!?」
「お昼過ぎに運ばれてきたのよ。食堂出たところで倒れたんですって」

 視線がゆっくりと衛司に集中する。視線の温度は明らかに、彼に対してこう告げていた――何やってんのあんた?
 あうと一つ唸って、気まずげに、或いは空々しげに、衛司は彼女達の視線から目を逸らした。
 代理で説明したシャマル曰く、彼は昼頃に食堂で仕事していたらしいのだが、そこに昼食を摂りにきたヴィヴィオに出くわしたのだとか。はいこれあげる、と言われてしまえば衛司に断る術はなく、当然そこにはなのはとフェイトも居た訳だが、ヴィヴィオを制止してはくれなかったらしい。

「で、また食べたんですか?」
「…………はい」
「馬鹿じゃないの?」
「うう」

 ティアナの辛辣な突っ込みに反言する気力もないのか、一つ唸って衛司は頭から布団を被った。







「――って事があったんですよ」
「……ふ、ふふ。そうか、それはまた、何とも災難だったな、あいつは」

 笑いを噛み殺しながら、それでも声音に笑みを隠しきれずに、シグナムは呟いた。もしこれが彼女の家だったら、笑いを我慢する事はなかっただろう。そうしないのは単に運転中、ハンドルを握っている最中だからという以上の理由はない。
 元よりシグナムという女は大口を開けて馬鹿笑いするような人間ではないが、今回ばかりはあの少年の災難に同情しつつも笑わせて貰う――他人の不幸は蜜の味。
 まあエリオやキャロが居るのだから、どの道人目を憚らず爆笑するような事はないだろうが。シグナムとて、上司の威厳というものに無頓着ではない。
 ふん、と一つ鼻を鳴らして、シグナムは愉悦の残滓を表情に残したまま、それでも態度ばかりは普段と変わらぬ程度にまで復調させる。

「しかし、衛司は随分と馴染んだ様だな」
「そう……ですね。六課に来たばかりの頃が嘘みたいです」

 結城衛司が機動六課で保護されてから既に一月以上が経過しているが、その中でも最初の一週間は酷いものだった。フォワード陣をこれ見よがしに拒否して拒絶する態度。しかも不思議な事に、拒むのはフォワード陣の四人だけで、ギンガは言うに及ばず、シグナム達他の六課職員に対しては至極普通の態度であったのだ。
 幸いな事に、六課到着から一週間後に起こった事件以降、その態度も解消されているのだが――もしあのままの態度がもう暫く続いていたとしたら、畢竟、フォワード陣のみならず六課職員の側も、衛司に愛想を尽かしていただろう。一方的に誰かを拒絶する人間、それも自分達の仲間を拒絶している人間を受け入れるには、『保護対象だから』という理由は些か弱すぎると言える。

 とは言え先述したように、その態度も既に解消されている。今のエリオの話からも判る通り、フォワード陣の面々とも仲良くやれているようだ。
 何が切っ掛けとなったのかは定かではないが――先日の一件が絡んでいるのは疑う余地もないが、そこでの何が彼を変心させたのかは不明のままだ――少なくともそれは決して悪い事ではないし、シグナム自身、エリオやキャロと衛司が良好な関係を築けている事は、正直に嬉しいものであった。

 願わくば、あと半年弱の間。機動六課が解散し、彼の身柄が今後発足するであろう対オルフェノク専門機関へと移されるまでの間、エリオやキャロ……いやその二人に限らず、機動六課の面々と、彼が良好な関係を保っていられれば。良い思い出を築く事が出来れば。
 詮無い望みかもしれないが、シグナムはそう思わずにはいられない。

「あ。見えてきましたね」

 後部座席でちょっと背伸びをし、助手席のヘッドレストに顎を乗せる形で、キャロがそう呟く。
 シグナムが思索に耽っている間も、車は進んでいる。キャロの言う通り、目前の風景は少しずつ建築物の姿を減らし、陽光に煌く海面がその隙間から顔を出し始めた。程無く海面は視界いっぱいに広がり、その只中に浮かぶ施設がその中央に現れる。
 海上隔離施設。ミッドチルダにおいて逮捕・検挙された犯罪者の内、若年者の更正を目的として運営される施設。今日のシグナム達の目的地である。
 到着までは、あと数分といったところか――それはつまり、彼女達が友人と再会するまで、あと数分という事でもある。





◆      ◆







 その時、「あれ?」と多くの人が首を傾げた。
 その時、「おや?」と多くの人が眉を顰めた。
 その時、クラナガンを中心とする一帯で突如ネットワーク回線が不調をきたした。画面にノイズが走り、回線が混雑し、転送中の情報はぐちゃぐちゃに掻き回され原型を失って転送先へと到達し、ネットワークに繋がる機器も一時的にその機能をダウンさせた。
 僅か数分の不調ではあったが、これはクラナガンのあらゆる場所で深刻な被害を齎した。経済、医療、その他諸々……一定以上に発達した文明はネットワークに依存する傾向が見られるものだが、それはミッドチルダを初めとする魔導文明も例外ではなかった。

 後にネットワークが回復し、混乱に収束の目処が立つと同時、すぐさま管理局は調査を開始。しかし最終的な結論は『原因不明』。一体何がこの不調を、それによる混乱を引き起こしたのか、彼等はまるで解明出来なかったのである。
 強いて言うなら、何かが酷く暴力的に、それこそ家捜しをする強盗が如くにネットワークを荒らし回ったせいだと言えるのだが――その“何か”は結局不明のまま。

 仮定の話をすれば、天才的なハッキング技術を持つ者が数人がかりで、しかも管理局で使われている機器の数倍の性能を誇るマシンを使ったというのなら、同様の惨状を起こす事も或いは不可能ではない。無論、調査班の中からもその可能性が挙げられたのだが、彼等は酷く常識的な判断で『そんな事は有り得ない』と結論付けた。
 実際、それはあまりに突拍子も無さ過ぎて、およそ現実的ではなかったのだ。『原因不明』とした方が、まだしも理解を得られる程に。



 だから、結局。
 その仮定が、ある意味で真相に最も近かったと知る者は、誰一人居なかったのである。



〖み つけ た〗
〖お ねえ ちゃん〗
〖み つけ た〗
〖かいじょう かくり しせつ〗
〖み つけ た〗





◆      ◆







「ルー!」
「ルーちゃん!」
「久しぶり……二人とも」

 海上隔離施設に到着したシグナム、エリオ、キャロの三人(正確にはここにフリードも居る訳だから、三人と一匹だが)は、そのまま解放区へと通された。
 どうやらこれから彼女達は自由時間らしく、殺風景な面談室よりはここの方が良いだろうと、シグナム達を出迎えた女性職員(妙に恰幅の良い中年女性だった)が気を効かせてくれたらしい。
 広々とした解放区にはシグナム達三人だけ。そのせいか室内はやや物寂しく感じ、以前に訪れた時よりも一層広々として感じる。天窓から差し込む陽光も、冬の柔らかい日差しである事が却って弱々しく見えた。人が居ないだけで空間というのはこうも様相を変えるのだと、静かな大広間は無言の内に伝えている。

 ともあれ、そんな解放区で待つ事数分。やがてシグナム達が入って来た扉とは反対側の扉が開き、そこから二人の少女が姿を現した。物静かな雰囲気を漂わせた紫の髪の少女と、リインフォースⅡと同程度の大きさ、つまりは人形と大差無いサイズの、赤髪の少女。
 紫の髪の少女が、エリオとキャロが今日この施設を訪ねる理由としての少女――ルーテシア・アルピーノ。
 そしてもう一人が、シグナムがこの日面会を望んで訪れた少女――『融合騎』『烈火の剣精』、アギトであった。
 ルーテシアに駆け寄るエリオとキャロに続き、シグナムもまた、ゆっくりとした足取りで――焦る必要など何一つないと言わんばかりに――アギトへと歩み寄り、軽く微笑み掛ける。

「久しぶりだな、アギト。元気にしていたか?」
「おっ、おう。元気だよ……てか、この前通信で話したばかりじゃんか」
「そう言うな。こうして面と向かって会うのは久しぶりだろう?」

 稚気を顕わにするような、シグナムにしては珍しい笑みを向けられて、アギトは「ま、まーな」とそっぽを向きつつも頷いた。

「ルーテシア。少し、アギトを借りるぞ」
「……ん。延滞料金がかかるから、返却は忘れないでね」
「ちょ、ちょっと、ルールー!?」

 了解だ、と応えて、シグナムはうろたえるアギトの服をちょいと摘み上げ、すたすたとその場を離れていく。
 別に聞かれたくない話をする訳でもないが、エリオ達の邪魔になるのも良くない――それ以前に、アギトと時間の許す限り、邪魔の入らないところで話したいというのは、紛れもないシグナムの本音であった。

「あんた、割と強引だよな」
「そうか? まあ、家族相手になら、そうかもしれんな」
「家族って……あたしは別に」

 あたしは別に、あんたの家族じゃねーし。
 アギトはそう言おうとしたのだろうが、結局、その言葉は彼女の口から発される事はなかった。
 先日の通信で、アギトは八神はやてから、『出所後はうちに来ないか』という誘いを受けている。その誘いが何を意味するか、アギトも解っているだろう……はやての誘いは、そのまま『家族にならないか』という言葉に置き換えられるのだから。

 元より八神はやての家族に血縁はない。シグナム達ヴォルケンリッターはプログラム生命体であり、リインフォースⅡはユニゾンデバイスである。しかしそれは逆説、八神はやてにとって家族とは血縁に縛られるものではないと示す事でもあり、なればアギトを家族の一員として勧誘するのは、ごく自然な流れとも言えた。
 誘いを受けたその時には、アギトは返事を保留した。はやても急がない、ゆっくり考えてくれと言い置いてある。
 その意味で、シグナムがアギトを家族扱いしたのは些か早まった真似であったのだが――アギトがそれを否定しない以上、彼女の中ではやての誘いに対する返答は、既に決まっているのだろう。

 さておき、エリオ達からやや離れたところにあったベンチに、シグナムは腰を下ろした。
 その隣に、摘んでいたアギトを降ろす。子猫のような扱いを受けたアギトは暫し渋い顔をしていたが、やがてふん、と鼻を鳴らして、シグナムに向き合った。

「どうだ最近は? 何か、不便な事はないか?」
「ん……いや、何もねーよ。そりゃこんなところに居るから、自由に飛び回れないってのは不便だけどさ。皆良くしてくれるから、不満はないな」

 実際、この遣り取りは以前にフェイト・T・ハラオウンがこの施設にチンクを訪ねてきた時に交わされた会話とほぼ同一であったのだが、無論、シグナムはそれを知らないし、フェイト達の会話を聞いていなかったアギトも、それを知らない。
 つまるところシグナムもフェイトも、この施設に収監されている少女達を慮る気持ちは同じという事であり、チンクやアギトが現状に不満を抱いていないという点で同じだったのだから、この会話は偶然の一致でありながら必然の酷似であったと言える。

「あ――そうだ。この前、あたしとルールーに面会の人が来てたな」
「面会……?」

 アギトの口から出た意外な言葉に、シグナムの眉が寄る。
 アギトとルーテシアの知り合い、それもこの海上隔離施設に訪ねてくる程の関係者となれば、ルーテシアの母であるメガーヌ・アルピーノくらいのものだろう。だがアギトの口調からはそうは思えない、もしメガーヌであったのなら、そのまま『ルールーのお母さん』と言っているはずだ。

 加えてシグナムが引っ掛かりを覚えた理由は、アギトやルーテシアが未だ『JS事件』の重要参考人である事実だ。機動六課所属のシグナム達だからこそ簡単に面会出来ているが、一般の人間はそうはいかない。
 事実、『JS事件』終結後、ミッドチルダの各種マスコミが彼女達への取材と称して引っ切り無しに面会許可を申請しているが、その悉くが却下されている。少女達の保護を考えれば至極妥当な措置であるが、それ故に、アギト達に面会した人間が稀有な存在であると知れる。

「なんか、どっかの会社の社長さんって言ってたけど……すっごい長くてきれーな黒い髪の女の人でさ。八神隊長と同じくらいの齢の人だった」
「ふむ……」

『社長』、『黒髪の女性』、そのどちらの特徴も、シグナムに思い当たる節はない。
 必然、その『黒髪の女性』がアギト達を訪ねてきた理由についても、まるで見当が付かなかった。

「その御仁、一体何用で来られたのだ?」
「んー。なんか良くわかんなかったんだけど、あたしの名前について訊かれたな。『アギト』って名前、どういう由来なのかって」
「名前……? 確かその名前、ルーテシアが――」
「うん。ルールーが付けてくれた名前。どういう意味の言葉なのかはルールーも憶えてないみたいでさ。何かの本だか伝承だかにある言葉らしいんだけど」

 アギトという名前は、言ってしまえば記憶の大半を失い、己の由来も自身の名前も憶えていない彼女の為に、ルーテシアが便宜的に名付けたものだ。
 この名前の他にも幾つか候補があったらしいのだが、アギトの好みに合わないとかゼストが難色を示したとか発音し辛いとか語感が良くないとかある管理外世界の方言でとんでもなく卑猥な言葉だったとかで片っ端から却下していった挙句、『アギト』に落ち着いたのだとか。
 その経緯からも知れる通り、アギトの名は何らかの積極的な理由があって付けられた名前ではない。尤も、アギト自身がその名前を気に入っているのだから、それに不都合はないのだが。

「『あぎと』って言葉をどこで知ったのかとか、『ぎるす』って言葉に聞き覚えないかとか、色々訊いてたけど。ルールーが良く憶えてないって言ったら、じゃあ仕方ないって言って帰ってったよ」
「……むう。まるで解らんな……察するにその御仁、お前達が何か知ってるものと思っていたようだが……」

 しかし当のアギト達が何も知らない以上、どういう意図の質問だったのかは推し量る事も出来ない。
 そう簡単に面会許可が降りないはずのアギトと面会出来た事も不思議なら、恐らくは貴重であるその機会を使って意味不明の質問をした意図も不可解だ。シグナムにとってはどうでもいい事ではあるのだが、どうにも気になってしまうのも、また事実。
 次元犯罪者に良いように利用されていた経歴のあるアギトやルーテシアだ、この上更に誰かが何らかの陰謀に巻き込もうとしているのではないか――そう疑ってしまうのは、シグナムの善良さを差し引いたとしても、恐らく不自然なものではあるまい。

「…………うん?」

 自分の持ち出した話題のせいか、考え込んでしまったシグナムを困った様に眺めていたアギトだったが――不意に、何かに気付いたように頭上を見上げる。
 解放区の天井は陽光を取り入れる大きな天窓が設置されており、そこから初冬の澄んだ青空を窺う事が出来る。……だが、それだけだ。薄くたなびく雲以外は、鳥の一羽も見えない。ごく普通の空でしかない。
 にも関わらず、彼女は何かに反応した。何かに引っ張られるように、何かを察知したかのように、空を見上げた。
 思索に耽るシグナムは、まだ、アギトの反応に気付かない。





◆      ◆







 落ちていく。
 降りていく。
 上空から真っ直ぐに、地表へと向けて、撃ち放たれた矢のように。
 いや、地表ではない。落ちる先には、降りる先には海しかない。だが落着するであろう地点にあるのは海面ではなく、人が造った人工の大地。
 海上隔離施設を目掛けて、
 そこに居るであろう彼女を求めて、
 彼女と引き換えにした延命を求めて、
 落ちていく。
 降りていく。





◆      ◆







 ルーテシア・アルピーノは、『JS事件』における次元犯罪者ジェイル・スカリエッティの協力者として逮捕されている。
 事件の規模が規模だ、そこに果たした役割の多寡を問わず、本来ならば重罪人として裁かれても決しておかしくはない。が、彼女が未成年、自身にて確たる意思決定を行えないと見做される年齢であった事は、彼女を裁く側にとっても無視出来ない事実であり……加えて彼女個人の事情を斟酌すれば、ただ機械的に法を当て嵌めて罰を下すのは躊躇われた。

 結果としてルーテシアには『魔法資質の大半を封印した上、辺境世界での無期隔離謹慎』と、一見してかなり厳しい判決が下されている。
 しかしその内実、彼女の身元引受人がその世界に同行し、それが他ならぬ彼女の母、メガーヌ・アルピーノであるのだから、それは引き離されていた母娘が親子としての時間を取り戻す為に、余計な邪魔の入らぬ環境を用意したと評する事も出来よう。
 勿論、その世界から外に出る事は許されず、魔法資質の大半を封印されているのだから、これまでのように魔法に頼った生活は出来なくなる。母一人子一人での生活だ、何かと不便は多いだろう。召喚蟲ガリューの介助は許されているとは言え、それらの事を勘案すれば、決してただ寛大なだけの判決ではない。
 それでも。エリオ・モンディアルは、そしてキャロ・ル・ルシエは思うのだ。
 決して最良では無いけれど――次善以下かもしれないけれど――少なくともルーテシアにとって、これ以上の結末は有り得ないのだろうと。

「そっか。じゃあ、メガーヌさんはもうそろそろ退院なんだ」
「うん……筋力が弱ってただけだから……一人で動けるようになったら、もう、退院」

 いつもながらの訥々とした、抑揚のない喋り方ではあるが、それでもルーテシアの声音からは内心の喜びが読み取れる。
 感情を表に出す事の少ない娘ではあるが、決して感情のない、感情の起伏に乏しい訳ではないのだ――眠り続ける母を目覚めさせる為に、スカリエッティに組し犯罪幇助を、或いは犯罪行為そのものを行っていたというのは、裏を返せば、酷く感情的な行動であると言える。

 ともあれ、メガーヌの退院が近いとなれば、ルーテシアがこの施設を出るのもそう遠くないだろう。彼女が現在受けている矯正プログラムの進行状況もあるから、具体的に何月何日に出所という話ではないだろうが、エリオやキャロがこうしてルーテシアと会えるのも、もうそんなに機会が無いのかもしれない。
 彼女が隔離先の世界『マークラン』に移された後も会いに行くつもりではいるが(面会は別段禁止されてないらしい)、やはり同じ世界に居る者に会うのと、次元世界を跨いで会いに行くのとでは、かかる手間も要する時間もまるで違う。

「こういうと、ちょっと変かなって思うんだけど……楽しみだね、ルーちゃん」
「……楽しみ?」

 キャロの言葉がいまいち理解出来なかったのか、怪訝そうな顔でルーテシアは首を傾げる。
 謹慎状態に置かれる、もしくは無人世界に軟禁されるのが楽しみという意味に取られかねないと気付いたか、どこか慌てた口調で、キャロは言葉を継いだ。

「えっと、ほら、お母さんと一緒に居られるようになったんだし。一緒に暮らしたら、お母さんにしてあげたい事とか、してもらいたい事とか、いっぱい考えちゃうよね――って」

 多分、エリオの個人的な予想ではあるが、キャロのその言葉は、ルーテシアだけに向けたものではない。
 エリオに対して向けたものであり、そして恐らくは、キャロ自身に向けられてもいる言葉。

 キャロもエリオも、両親から引き離され一人ぼっちだった時期がある。
 今の己はその時期があったからこそで、それを否定するつもりはないが、けれどもう戻らないあの頃が、何かの間違いで今も続いていたとしたら――そう考えてしまうのも、また否定出来ない。そして仮定だからこそ、そこで何をしたいかと考えるのは、人間の心理としてごく自然と言える。
 まあエリオにとっては、両親から引き離されたという思いと共に、両親に捨てられたという感もあるので、複雑なところだ。もう自分の中で折り合いはついているから両親を恨む気持ちもないけれど、キャロが思うほどに、そういった仮定に胸が躍る事もない。

「そう……かな。よく……わからない」

 キャロの言葉にそう応えたルーテシアだったが、それはあくまで『今まで意識していなかった』というだけの事。こうして言葉にして出された以上、意識的に自覚的に、彼女はそれを考える事だろう。そう遠くない未来に待っている母親との生活で何を為したいか、考えていく事だろう。
 尤も。それは友達であるキャロの言葉だからこそと言え、まだ友達でなかった頃の――端的に言えば『JS事件』の頃の――ルーテシアでは、耳を傾けても貰えなかっただろう事は、想像に難くない。それはエリオも充分に理解している事であり、今のルーテシアとの関係があの事件における数少ない“不幸中の幸い”である事を、説明の要無く理解していた。

「まあ、ゆっくり考えていけばいいんじゃないかな? まだ、時間はあるんだしさ」
「うん……そうする」

 こくりと頷いたルーテシアに、エリオとキャロが顔を見合わせて微笑みを交わしあい――と、その時、解放区に入ってきた人影を、エリオは見咎めた。
 赤髪の少女と、やや色の濃い桃色の髪の少女。濃桃色の髪の少女は自由時間に浮かれているのか足取り軽く表情明るく、反してそれに続く赤髪の少女はどこか苦々しげな仏頂面。まあ実際のところは別段機嫌が悪い訳でもなく、濃桃髪の少女のテンションに付いていけないだけなのだろうが。

「あ、ノーヴェさん、ウェンディさん――」
「あり? エリオ、キャロ? 来てたっスか?」

 エリオの声に気付き、濃桃髪の少女――ウェンディがぴこぴこと跳ねるような足取りで近付いてくる。
 最近は休暇を貰う度に海上隔離施設を訪れているエリオとキャロであるが、その割に、彼女達ナンバーズと顔を合わせる機会はそう多くない。エリオ達の目当てがルーテシアである事は彼女達も解っており、邪魔になってはいけないと気を効かせているのだろう、エリオ達が来た時に解放区に顔を出す事はあまり無かった。
 今日はその『滅多に無い』シチュエーションなのだと言えるが、それも何か用件がある訳ではなく、単にエリオ達の来訪に気付かなかったというだけの事らしい。
 ウェンディの後を追う様に近付いてきた赤髪の少女――ノーヴェが、ため息混じりにウェンディを呼び止めた。

「ウェンディ、邪魔すんじゃねーよ。せっかくこんなトコまで来てんだから、ゆっくりお嬢様と喋らせてやれ」
「じゃ、邪魔なんかしてないっスよー。ほんじゃエリオ、キャロ、ゆっくりしていくっスよ」
「お前はここの主人かよ」

 呆れ顔でノーヴェがそう突っ込んで、それを最後に、二人は踵を返す。……が、そこで不意に、ノーヴェが足を止めた。思わずウェンディが背中にぶつかるが、それを意に介さず、ノーヴェは再びエリオ達の方を振り向いて、

「あー……その、なんだ。ちょっと、いいか?」

 と、そう訊いてきた。
 ノーヴェらしからぬ歯切れの悪い口調に――らしくない、と言えるほど、エリオ達は彼女との付き合いがある訳でもないが――内心首を傾げながら、「はい?」とエリオはノーヴェに先を促す。
 ジャマしてるのはノーヴェの方じゃないっスか、と口を尖らせるウェンディを完膚無きまでに無視して、ノーヴェは口を開いた。

「えっと、………………スバルとギンガ、元気してっか?」

 言葉は一度途切れ、長い逡巡の後で漸く続いたそれは、ある意味で酷く意外な、思わずエリオとキャロが呆けた顔を晒してしまうほどに慮外な、そんな問いだった。
 彼女達ナンバーズと、スバル、そしてギンガは酷く近しい存在だ。スバルとギンガが彼女達を気に掛けるように、彼女達もまた、スバルとギンガを気に掛けている。

 ギンガはナンバーズの更正プログラムに参加している都合上、頻繁に此処を訪れているのだが(それでも、衛司を連れて六課に再出向してからは、その機会も減っている)、スバルはさすがにそこまでの頻度で来る事は出来ない。
 これまでに海上隔離施設を訪れた際にも同様の問いを投げかけられた事はあるし、その都度にスバルの近況を語っていたエリオ達だったが、しかしノーヴェの口からその問いが向けられたのは、これが初めての事であった。

「にっしっし。ノーヴェ、この前スバルが来た時に冷たくあしらっちまったもんだから、気になってるっスよねー」
「う、うるせーな!」

 真っ赤になってウェンディを追い払うノーヴェに、エリオとキャロもぷっと噴き出した。

「おめーらも、笑ってんじゃねーよ」
「す、すいません」
「ごめんなさい」
「許してください」
「……いや、別に、そんな真面目に謝らなくてもいいけどよ……てかお嬢、なんで一緒になって謝ってんだよ。一瞬気付かなかったじゃんか」
「……つい」
「で、どうなんだよ。スバルとギンガ、元気か?」

 どこか不貞腐れたような態度で、或いはそれは単なる開き直りが故だったのかもしれないが、ノーヴェは先の質問を繰り返す。
 これまであまり接点を持つ事が出来なかった彼女が、自分達にスバルの近況を訊いてきた。エリオとキャロにはそれが何故か嬉しく、だからこそ、質問への答えには一片の虚飾も混じらない。

「はい。スバルさんもギンガさんも、とても元気です」
「そ、そっか。それならいいんだ」
「あ、そうだ! スバルさんと言えばですね、この前――」

 声に喜悦を隠しきれないまま答えたエリオの後を引き取って、キャロが何かを口にしようとした、その時。
 ずん、と海上隔離施設が揺れた。まるで建物を掴んで持ち上げ、高所から放り落としたかの様な、連続性の無い一回きりの、それ故に凄まじい衝撃。

 一瞬、地震かと誰もが思い、しかし次の瞬間に、それを否定する。海上隔離施設は名の通り海上に“浮かんでいる”。津波の直撃というのならまだしも、地震そのものの揺れを感じる事など有り得ないし、衝撃が一度きり、一瞬だけで、後が続いていないという事実も地震という予想を否定した。
 あえて災害という可能性を保留するのなら、隕石の直撃を受けたとでもした方が、まだ納得出来る可能性である。
 施設内の職員や受刑者に何かアナウンスを告げようとしたのだろう、解放区のスピーカーから音が漏れ出て――がりっ、というノイズだけを漏らして沈黙する。

「エリオ! キャロ!」
「シグナム副隊長――今のは!?」
「判らん! だが――」

 ごごん。
 漏れ聞こえてきた重低音が、駆け寄ってきたシグナムの言葉を遮った。正確にはその音にシグナム以下、場の全員が意識を取られてしまい、会話の優先順位が一気に下がったが故の中止であったのだが、結果だけ見れば同じ事。
 ごごん。ごごん。ごががん。
 先の振動と違い、重低音は断続的に、微妙に差異を生じさせながら続いている。この時点でエリオ達は、これが何らかの自然現象ではない、とんでもない異常事態である事を確信していた。

「……!? フリード、どうしたの……!?」

 今の今まで、キャロの傍らでのんびりと浮遊していたフリードが、急に牙を剥き出しにして唸り声を上げ始める。
 その様は否応無しに、先日まで、フリードが結城衛司に対してとっていた態度を連想させたが――すぐに、それとは質の違うものと察した。
 衛司に対する反応は威嚇。対して、今のフリードのそれは、明らかに脅威に対する警戒反応であった。警戒反応であって、だがその脅威は明らかに自身の手に負える範囲のものではないと理解しつつも、それでも主を護る為に起たなければならない、そんな反応。
 今ではキャロと同じく、フリードの背を許されているエリオには、フリードの内心が嫌と言うほど読み取れる。 

「――行くぞ、二人共。お前達は職員の方の指示に従え」

 いつの間にかレヴァンテインを起動させ、騎士甲冑で身を鎧ったシグナムが、エリオとキャロに指示を下し、ルーテシア達収監者へと指示を下す。
 異を唱える者は、誰も居なかった。





◆      ◆







 ナンバーズ達隔離施設の収監者が日に許されている自由時間は、実際そう多くない。
 一日の大半を更正プログラムと奉仕労働(と言っても、施設内の清掃とか、その程度なのだが)に費やされている彼女達だ、法を破り罪を犯した身であるのだから当然と言えば当然なのだが、しかしその中でも、チンクの自由時間は特に短い。一日の内一時間強、ともすれば三十分に満たない事もある。

 と言っても、別段、彼女が他の姉妹達に比べて拘束時間が長いという訳では無い。彼女はその自由時間を職員の手伝いに当てているのだ。
 海上隔離施設には彼女達ナンバーズやルーテシア、アギト等、『JS事件』に関わった者以外にも収監者が居るのだが、しかし『JS事件』の規模やその背景に絡む機密の関係上、彼女達は他の収監者とはあまり接触しない様に取り計らわれている。完全に遮断されているという訳ではないのだが、それでもやはり、担当の法務教官と顔を合わせる時間の方が多いのは事実。

 ちなみに担当法務教官というと何処となく教師然とした人物を連想するだろうが、ナンバーズ達の担当に就いているのは、以前にフェイトが施設を訪れた時やこの日のシグナム達を案内した、恰幅の良い中年女性である。年頃の(戦闘機人である以上、外見年齢と実際年齢は比例しない事も多いのだが)少女達を担当するにはうってつけの人材と言え、事実、ナンバーズ達は彼女に良く懐いていた。
 一見しただけでは、収監者と担当法務教官という関係とは思えないだろう。実際、彼女はナンバーズ達の身の回りの世話をしているのだが、その様は合宿に来た少女達とその面倒を見る寮母と喩えた方が近い。
 さておき担当教官に懐いているのはチンクも同じで、まあ彼女のパーソナリティとして『懐いている』という言い方はいまいちそぐわないかもしれないし本人は否定するかもしれないが、自身の自由時間を費やし、担当教官の手伝いをしているのだから、それが単なる奉仕活動や贖罪の一環でない事は確かと言える。

「それじゃ、チンクちゃん。そっちの箱を持ってきてくれるかしら?」
「そっちの……ああ、これですか」

 担当教官の指示に従って、部屋の片隅に積み上げられた箱をチンクはひょいと持ち上げ、同じく箱を抱えて部屋を出て行った教官の後を追って歩き出す。
 箱は見た目ほどに重くは無く、少女然としたチンクの体格でも問題無く持ち上げる事が出来た。聞けば中身はナンバーズ達の下着類らしい。先にも述べた様に年頃の少女達だ、下着類はちゃんと身体に合うものが必要である。主にぱんつとかぶらじゃーとか。
 下着に限らず、衣類は二月に一回はまっさらな新品が支給される様になっている。名目上、脱走を防止する為(衣服を改造して道具や手紙を仕込む、という事例が以前にあったらしい)の衣類支給らしいのだが、脱走の意思など欠片もない彼女達にしてみれば、常に真新しい衣服を用意して貰えるという意味しかなかった。

「ちゃんとチンクちゃんの分もありますからねえ。ぱんつとぶらじゃー」
「………………はあ」

 気遣いからの言葉だったのだろうが、それを聞かされたチンクの反応は、何とも言えず微妙なものだった――この体型で、下はともかく上は必要なのか。
 正直、妹達の体型を羨ましく思った事も一度や二度ではないし、なんで私だけこの体型、と“父”たるスカリエッティに内心で愚痴を零したのも、一度や二度ではない……勿論、それを表に出す事は、姉の面子にかけても出来ないのだが。

 やがてチンク達は下着類の詰まった箱を抱えたまま、洗濯機がずらりと並んだ部屋へと這入る。卸したての下着はやや固い、一度洗濯してからナンバーズ達に渡そうという事らしい。それは義務でも規則でもなく、担当教官である彼女の心遣いからの事。
 重罪人たる自分達への心遣い。それが、チンクには嬉しい。

「はい、お疲れ様。今日はもういいわよ? 皆のところに戻ってあげなさい」
「はい。では、失礼します」

 担当教官への手伝いに関して、チンクは妹達には何も言っていない。言えば必ず、チンクだけを働かせられないと、妹達も自分の自由時間を割いて手伝いにやってくるだろう。そう長くない自由時間なのだから、せめて楽しく過ごしてほしいと考えるのは、姉としての心遣いか、それとも単なるエゴイズムか。
 ともあれ、担当教官にぺこりと頭を下げて、チンクは部屋を出る。今日はまだ時間に余裕がある、妹達と何かゲームでもするには充分な時間か――そう考えた刹那、不意に襲った衝撃が、彼女の思考を中断させた。

「……っ!?」

 施設全体を揺るがす振動――その正体を思索しようとしたチンクだったが、背後から「きゃあ!」という悲鳴が聞こえた事でそれも中断、たった今出てきたばかりのランドリールームへと戻ってみれば、そこには尻餅をついた担当教官の姿。

「大丈夫ですか、ヤマムラさん!」
「あいたたた……ん、だいじょうぶ。だいじょうぶなんだけど――あいたたたた、ちょっと、立てないわね」

 担当教官の名を呼んで駆け寄ると、幸いにも、彼女に目立った怪我はなかった。
 ただし腰を打ってしまったのか、自力で立ち上がる事は出来ないようだ。恰幅の良い身体をしているせいもあるのだろう。チンクの体格では肩を貸してやる事も出来ない、ちょっと人を呼んできますと、チンクは部屋を飛び出して――

「!」

 ごごん、という物音に、足を止めた。
 明らかに尋常の物音ではない。チンクがこの海上隔離施設に収監されてから、一度として耳にした事のない音だ。だがその音の正体に、チンクは薄々感付いていた――であるが故に、その音が指向性を持って、自分の居るこの場へと近付いてきている事も、直感的に理解した。

 ごごん。ごごん。ごががん。
 音は微妙に音程と音域を変えながら、一つ鳴るごとにそれらを増大させながら、こちらへと近付いてくる。
 程無く、チンクの眼前――通路の先で壁が粉砕される。火薬や魔法による発破ではない、明らかに質量物の激突による粉砕。チンクの残された左目、戦闘機人としての能力を殆ど封印された今でも残る埒外の視力は、壁が吹き飛ぶ瞬間を確実に捉えていた。

「…………!」

 もうもうと立ち昇る粉塵の中に、揺らめくものがある。最初はただの瓦礫片かと思えたそれは、少しずつ色を濃く、形を明確にし――それが歪な人型であるとチンクが気付いたその瞬間、粉塵の向こうから姿を現した。
 瞬間、チンクは息を呑む。粉塵の中から現れた“それ”を目にした者の反応としては、至極当然のものであっただろう。

 それは――怪物だった。
 生物のような機械のような、ぬめりと金属の光沢を併せ持った皮膚。
 蟲のような獣のような、無機質でありながら獰猛な印象を与える面貌。
 赤紫色に輝く瞳は怪物然としたイメージをより一層煽り立てているが、それと同時に知性の存在を感じさせる。……尤も、その知性が人間のそれと同義のものであるかについては、定かではなかったが。
 びだん、と怪物の尻尾が床を叩いた。怪物にとっては別段何という事もない所作だったのだろうが、それを目の当たりにしたチンクが身を強張らせる。

〖み つけ た〗

 ぎぎぎ、と油の切れた様な動きで、怪物がチンクを指差す。その挙動だけで、この異形の狙いがチンクにある事は瞭然だった。
 チンクは知っている。この怪物の事を知っている。知ってはいたが忘却の彼方にあったはずのそれは、先日のフェイト・T・ハラオウンの訪問により記憶の奥底から引っ張り出され、今、こうして相対する事で、明確に意識の中で形を為した。

 かつて地球に赴いた事。ドクターから託された任務。帰還後、ドクターの友人が残したというデータを、戯れに見せられた事。それらの記憶が、チンクの脳裏に去来する。
 これは。
 こいつは。

「…………ドラス。何故――ここに」

 呆然と呟いたチンクの言葉は、

〖お ねえ ちゃん きて いっしょ に きて おじ さん に おねが い して〗

 目の前の怪物――ネオ生命体『ドラス』には、届いていなかった。





◆      ◆





第拾話/了





◆      ◆







後書き:

 という訳で、第拾話でした。お付き合いありがとうございました。

 内容的にはドラス復活、海上隔離施設急襲と、それだけの話です。
 第4話で提示した伏線をやっと回収。伏線提示してから一年近く経ってる……普通、忘れますよね。個人的にもこの伏線はもう少し後になってから出すべきだったと、もしくはもう少し早く伏線を回収すべきだったと、ちょっと反省。
 ただ、その間にディケイドの映画とかでドラスが出たりしてたので、ある意味で回収が遅れたのは良かったのかも。
 一応、本作のドラスは原作映画『仮面ライダーZO』でライダーに敗れた後という設定です。まあ本作のライダー関連は基本原作終了後の話なんですが。壊れた様な口調は原作でライダーに敗れた名残って事で(「原作と違うじゃん」という突っ込み回避の言い訳です)。
 詳細は今後設定資料集なり怪人図鑑なりで解説しますが、とりあえず蛇足っぽく説明しておくと、本作のドラスは

 肉体を維持する為に特殊な溶液が必要。
  ↓
 地震のせいで溶液漏れちゃった。スカおじさんに新しく作ってもらおう。
  ↓
 スカおじさんの娘を人質にしてお願いしよう。

 な流れとなっております。
 この場合、お願い=脅迫なんですが、その辺はまあ、原作準拠って事で。原作でそういう手段を取っていた、という事を憶えてたせいと解釈して頂ければ。

 ちなみに今回でヴィヴィオが初登場。StS本編が終わった後の話なので、ヴィヴィオは日常の象徴(平和に暮らしてます)という感じで描いていくつもりだったのですが、そのせいで登場が大幅に遅れてしまいました。失敗したなあ。
 あと、ナンバーズ数名を出してみたんですが、ウェンディの書き易さに驚きました。前に何かの漫画で作者が『あまり物事を考えないキャラは動かしやすい』と言っていたんですが、成程その通りだった……まあ、今回は大して出番無いんですけど。

 そんな感じで、次回はドラスVSライトニング分隊(予定)。戦闘多めのお話です。やっぱり、心情描写より情景描写の方が書き易いw
 それでは次回で。宜しければ、またお付き合いください。



[7903] 第拾壱話
Name: 透水◆44d72913 ID:35af097c
Date: 2023/12/29 20:49


 海上隔離施設収監者、元ナンバーズが一人、チンクがネオ生命体ドラスと遭遇する――その、およそ四分前。



『何をしているのか判らない』が『何でもしている』――それが、ミッドチルダに本拠を構えるメガ・コングロマリット、スマートブレインの一般的な評価である。
 重工業、電子技術は元より、食品、医療、出版業。ミッドチルダの何処でも良い、学校、病院、飲食店、その何処であろうとも、視界に入るものの中に、間違いなくスマートブレインが関連している何かが存在しているはずだ。多かれ少なかれ、現状のミッドチルダにおいてはその全てがスマートブレインの影響下にあると言っても過言ではない。
 それ故に、スマートブレインの全体像を把握する事は至難であると言える。人間が窒素の存在を意識するようなものだ。それが当然のようにそこに在り、加えて個人の認識を遥かに超越して巨大であるが故に、殊更に意識する事がないのである。

 さておき、それに関しては、今回は余談に近い。今回語るべきは、海上隔離施設にて運用されている電子機器の類もまた、スマートブレイン関連企業によって納入されたものであり、そしてその保守整備に関しても、スマートブレインが請け負っているという事実だ。
 その日は月に一度の保守整備の日であり、スマートブレインから派遣された技術者が海上隔離施設の管理システムの点検に訪れていた。
 点検自体は恙無く終了、特に異変も不調もない。保守整備は毎月行っている訳だから、そうそう異変が起こる事もないし、それが大事に発展する事もないのだが。

(……無いんだけど、個人的にゃ、ちょい物足りねえっつーか……)

 点検を終え、手元の書類に『異常無し』と記入しながら、この日点検に当たっていたエンジニア、フリック・ヘルリックは内心で呟いた。
 何も起こらないのならそれが一番。フリックとてそれは理解しているし、何かが起こった時に最も迷惑するのは自分であると解っているのだが、それでも一抹の物足りなさは否めない。単調な毎日にちょっとした刺激が欲しいのだ。

「ぃ良し、っと。点検終了しましたので、こちらにサインを頂けますか?」

 勿論、顧客の前で『あーあ。偶には何かとんでもないアクシデント起きねーかなー』なんて口にするほど、フリックは仕事を舐めていない。業務用スマイルで海上隔離施設の職員に書類へのサインを求め、署名されたそれを鞄に仕舞って、彼は一礼し部屋を出た。
 これで今日の仕事は終わり。会社にはそのまま直帰すると伝えてあり、加えて明日が休日である事も手伝って、彼の足取りは酷く軽い。羽が生えたようにと言うとさすがに言い過ぎだろうが、実際、足取りはともかく彼の心境はそう喩えてもさして間違いではなかった。
 それが数秒後、冷や水をぶっかけられる事など、誰が想像出来ただろうか。

「うぉあ!?」

 不意に――何の脈絡もなく、何一つの伏線もなく、まさしく青天の霹靂と言うべき唐突さで、彼を取り巻く状況は一変した。
 施設全体を揺るがす衝撃、彼はつんのめるように前方へ倒れこんだ。床面に衝突する寸前に手を付く事には成功したが、果たしてそれは幸いであったか。
 次の瞬間、凄まじい粉塵が通路の前方から迫ってきたかと思うと、一瞬の内にフリックを包みこむ。逃げる事も対処する事も叶わなかった。微細な粉塵は容赦無くフリックの目に飛び込み、鼻や口から体内へと侵入してくる。

「げほっ! げ、げへっ! くそ、何だ……!?」

 派手に咳き込み、腕で目を擦りながら、このあまりにも唐突な展開、己を置き去りにした理不尽に、フリックは毒づく。
 一体何が起こったのか。一メートル先さえ見通せない、さながら煙幕の如き粉塵の中で考察する――隕石でも落ちてきたか、或いは誰かがここの収監者を逃がそうとテロでも起こしたか。
 フリックは知る由もない。半ば冗談で考えたそれらの可能性が、両方共に真実を掠めていた事など。

「…………!?」

 ふと、彼の耳は奇妙な音を捉えた。微妙に水っぽい響きを伴った金属音。断続的に響くそれは、まるで足音のようなリズムで、こちらに近付いてくるかのように音量を増していく。
 粉塵が薄れ始める。天井に据え付けられた照明が判別出来る程度にまで視界が回復した時、フリックはその音の正体を知った。
 足音のような。そう考えたのは決して間違いでは無かった。それはそのもの、足音だったのだ。

 だが、『何の』という点について、終ぞフリックは答えを出せなかった。足音の主の姿を視認して尚、それが何であるのか、フリック・ヘルリックは理解出来なかったのだ。
 生物のような機械のような、ぬめりと金属の光沢を併せ持った皮膚。
 蟲のような獣のような、無機質でありながら獰猛な印象を与える面貌。
 四肢を持つ人型でありながら、明らかにそれは人ではなかった。ならば何なのかと問われれば、これはもう端的に、『怪物』としか喩えられない。

 それが『ネオ生命体』と分類される存在である事など、彼は知らず。
 それが『ドラス』という名で呼ばれる個体である事など、彼は全く知らなかった。

 怪物はゆっくりと、奇妙な足音を響かせながら、フリックへと向けて歩み寄ってくる。
 実際のところそれは逆で、怪物の進路上にフリックが居るというだけの事なのだが、この時のフリックにはその違いすら理解出来なかっただろう。

「う――うう――うぉあああああっ!!」

 フリック・ヘルリックが吼える。
 咆哮は一瞬にしてその質を変じ、同時にフリックの姿もまた、人間のそれから変質していた。周囲の空間が沸騰するようなエフェクトに包まれた次の瞬間、彼の姿は人間のものから、人骨が如き灰色に塗り固められた異形へと変化していたのである。

 鋭利な爪の装備された四肢。鉤型に曲り尖った嘴。ぎょろりと敵を睨み据える眼球。甲冑を思わせる人骨色の外殻は、首回りや肩、腰部など、要所に備わった同色の羽毛でどこか豪奢に飾り立てられている。
 猛禽類の特徴を余すところ無く備えたその姿は、まさに隼――ファルコンオルフェノクと化したフリック・ヘルリックが、歩み寄る怪物へと向けて飛び出した。
 ただしそれは猛禽が獲物を狩るが如くではなく、迫る脅威に対し何もせずにはいられなかったというだけの、酷く“人間的な”処方であったのだが。

〖けぇえええええええっ!!〗
〖………………〗

 咆哮を上げながら飛びかかってくる隼に、しかし怪物は歩みを止める事も、逆に歩を速める事もない。迫る敵を迎撃しようという反応すら、そこには見られない。
 ただ一つ、ファルコンオルフェノクの突撃に対して反応があったとするのなら、それは怪物の右肩。体表に存在するレンズ状の器官。それが一度だけ、ぎらりと瞬きながら煌いて。
 その煌きを、フリックは視認していた。視認していたが、それへの対処は不可能だった。光というのは当然の如く光速で奔るものであり、隼が如何に早くとも、物体である以上光速は超えられず。
 ましてそれが、結果として自身の攻撃に対するカウンターとなったのなら、尚更の事。

〖ぎゃぁっ!?〗

 隼の爪が怪物の喉を貫く寸前――怪物の右肩から放たれた光が、ファルコンオルフェノクの胸部で炸裂する。
 衝撃は突撃の威力を完全に相殺し、どころか彼の身体を突撃とは逆方向に弾き飛ばす。緩い放物線を描き、床へと叩き付けられるフリック。盛大に火花を散らした胸部は抉れ裂けて無惨な様相を呈し、威力はそれに留まらず、彼の全身を軋ませ、次の挙動を奪っている。

 ここで漸く、フリックは己とあの怪物との間に存在する、絶望的な格差を認識した。勝てない。勝てるはずがない。あんな化物に、何をどうしたところで勝ちの目なんか存在しない。
 常人ならば最初に相対した時点で気付く事だろう。だが闘争本能の具現たるオルフェノクである事が、彼にとっての不幸だった。常人ならば脇目も振らず逃げ出していただろうが、オルフェノクである彼にはその選択肢がない。こうして重傷を負わなければ、彼我の戦力差に気付く事は出来なかった。

 だが――真実は、彼の想像を超えて残酷で。
 たった一撃で己を戦闘不能に追い込んだ怪物が、実は本調子で無かったなどと――野暮に数字で表すならば、現在の怪物は全盛期の三割に満たないなどと、例え説明されたところで、信じる事は出来なかっただろう。
 その絶望的な事実を最後まで知る事がなかったのは、果たして幸いであっただろうか。……幸いであったにしろそうでなかったにしろ、彼の末路に変わりはないのだが。

〖………………〗
〖が……ぐが、ぎ……〗

 無言のままに歩み寄ってきた怪物が、フリックの頭を鷲掴みにして持ち上げた。
 その膂力に驚く余裕も、頭を握り潰されるのではないかと恐怖を覚える余裕さえ、フリックにはなく。
 ぐばぁっ――と花弁を広げるが如くに、怪物の胸部が割り開かれた事も、認識は出来なかった。

〖………………〗

 フリックの身体が奇怪な光に包まれる。光はやがてフリックの身体そのものと同化して、まるで液体のように形を無くし、怪物の胸部へと吸い込まれていった。
 既存の生物とは明らかに異なる、しかし定義からするのなら、それは明らかに“食事”。エネルギーを外部から摂取するという意味合いにおいて、たった今、フリック・ヘルリックことファルコンオルフェノクを取り込んだ行為は、食事以外の何物でもなかったのである。

 事実、この時の怪物は――ドラスは、エネルギーの摂取が急務であった。自身を維持する為の溶液を失い、刻一刻と崩壊が迫る身体を維持する為には、応分のエネルギー摂取が必要不可欠だったのだ。
 ただし。この場において最も重要なのは、その餌が他ならぬオルフェノクであったというただ一点のみ。



『ドラス』が『オルフェノク』を『喰った』――この事実の意味を知る者は、誰も居ない。
 少なくとも、今はまだ。





◆     ◆





異形の花々/第拾壱話





◆     ◆







 数週間前の時空管理局本局襲撃事件に関して、管理局は徹底的な緘口令を敷いている。
 別段、それ自体は特筆すべき事柄ではない。失態を隠蔽し、何事もなかったかのように通常業務を続けていくその様は、組織の在り方としてそう珍しいものではないだろう。
 尤も、倫理的・道義的な面から見るならば、それは明らかに糾弾されるべき事であった。次元世界の治安維持を標榜し、法の番人を自負する組織の本拠に賊が押し入り、あろう事かそこに保管されていた危険物を強奪していったなどと、隠蔽を許される域を遥かに超えている。

 だが逆説、そうであるからこそ、その不名誉な事実は、組織としてはどうあっても隠蔽しなければならなかった。
 時空管理局は次元世界の安定の為に必要不可欠な存在である。これに異を唱える者は決して少なくないが、実際に現時点において治安維持に成功している以上、疑う事の出来ない事実でもある。もし今、管理局が――次元航行部隊、地上部隊、双方併せて――崩壊したとしたら、それこそ次元世界は旧暦以前の混沌へと舞い戻るだろう。
 だからこそ、今回の襲撃事件は表に出せない。面子が潰れるという以前に、管理局への信頼が失墜しかねないこの事実は、決して明るみに出す事は出来ないのだ。

 ただ――良く言われる事であるが、秘密、隠蔽、そういったものは永劫には続かない。続ける事など出来ない。
 如何に完璧に隠そうとも、『何かを隠した』痕跡がそこには生まれてしまう。物事が衆目に晒されるのが道理なら、その道理を捻じ曲げようとする試みに不自然が出ないはずがない。
 そう。本局が“何者か”に襲撃された事も、そこに収められていたロストロギアが強奪された事も、遠からず明らかになる事であり……実際、厳重に隠蔽されているはずのその事実は、程無く外部の者の知るところとなっていた。

「……成程。やはり、本局を襲ったのはゴルゴムという事ですか」

 本局襲撃事件の発生から、ちょうど一月が経ったその日。
 事件の詳細を綴った報告書、本局内で厳重に封印されている筈の書類を――無論原本では無く、複写であるが―― 一読した真樹菜が、苦々しげな口調で呟く。

 日頃から余裕を湛え、いっそ優雅とも言える雰囲気を纏った彼女であるが、この時ばかりはそれも半減であった。とは言え口元に笑みを浮かべたその表情は、苦渋と言うよりはむしろ戦意をより色濃く映している。
 余裕が無いように見えるのは、単に余裕を表に出す必要がないだけだ。今の彼女は今後想定される事態にどういう処方で臨むのか、それを考える事に意識の大半を費やしているのだから。

「はーい。ゴルゴムの皆さんです。噂ではぁ、なんとあの三神官が直々にお出ましだったみたいですよう?」
「へえ。復活したばかりで手駒が少なかったのかしら――化石みたいな連中の割に、随分とフットワークが軽いこと」

 苦々しげな口調を呆れたような口調に切り替えて、真樹菜はぴんと書類を指で弾く。ふわりと中空を滑った書類は、引き寄せられる様に卓の上へと落下して、ぱさりと乾いた音を奏でた。

 暗黒結社ゴルゴム。旧暦以前の遥か昔から、次元世界で暗躍してきたという秘密結社である。
 王と崇める存在への供物として選抜者に殺し合いを強要したり、独自の技法で改造した生物に破壊工作を行わせたりと、そのカルト宗教染みた教義の数々は広く知れ渡っている――そのせいか、管理局はゴルゴムを『宗教団体』と位置付けている――無論、秘密結社という前提上、広くとは言っても決して巷間に知れ渡っている訳ではなく、あくまで関係者の間にという意味であるが。
 管理局が現在の規模にまで発展するより以前、様々な世界で猛威を奮ったゴルゴムであるが、暦が新暦へと切り替わる頃には、その姿は既に影も形もなく……今から二十年ほど前、とある管理外世界で確認されたのを最後に、完全に消滅したものと思われていた。その二十年前の事件において、幹部連の死亡が確認された事も、それを裏付けた。

 だが。そのゴルゴムこそが、先日の本局襲撃事件の犯人である――残された各種映像記録、また実際に犯人と接触した管理局員の証言から、それは断定されている。
 管理局が本局襲撃事件の隠蔽を決めたのは、ゴルゴム復活の事実と、決して無関係ではないだろう。

「ゴルゴムが表に出て来るのは、もう少し後だと思ってましたけれど。危ないところでしたわね」

 暫く前に、真樹菜は某所から出土したロストロギアを管理局に預けたのだが――ゴルゴムの復活は、それに前後しての事だったらしい。もう数日管理局との接触が遅れていれば、襲撃されていたのは本局施設ではなく、このスマートブレイン本社であっただろう。
 ゴルゴムの復活自体は真樹菜も予測の内であったものの、しかし彼女の予測では、ゴルゴムが活動を再開するのはもう少し先の話だった。少なくとも真樹菜の“目的”が達せられるまでは、目立った活動はないだろうと考えていたのだ。
 思ったより、甘い考えだったらしい。

「思ったより情報を集めるのに手間取っちゃいました。やっぱり本局は探り辛いですねー。お姉さん、もうくたくたです」

 社長室のソファーに腰掛けたスマートレディが、わざとらしくとんとんと自らの肩を叩く。
 ただしその言は正確ではない。スマートレディは情報収集に際して何の貢献もしていないのだ。彼女はあくまでスマートブレインのスポークスウーマン、情報収集は本業ではないし、そもそもそういったスキルすら、持ち合わせてはいない。

 彼女は単に、真樹菜の依頼を受けて、情報収集を担当する者のところへ出向いただけだ。
『手間取った』も『探り辛い』も、その者の仕事を後ろから覗き見た彼女の個人的な感想である――電話やメールには一切反応しない、二ヶ月引き篭もっていたかと思えば三ヶ月ふらふらと放浪しているような男。直に人を差し向けるしか連絡の取りようがなく、今回は偶々それがスマートレディだったというだけの事。
 それはそれで、彼女の本来の業務ではなかったのだが。 

「ご苦労様、レディ。畑違いのお仕事頼んじゃって、ごめんなさいね」
「いえいえ。社長さんのご命令とあらば、どこにでも行きますよぅ? ……でもぉ。あの人のところへのお使いは、ちょーっと遠慮したいですねー」
「あら。ラズロさんは好みのタイプじゃありませんの?」
「好みと言うかですねー。お話を聞いてくれないのが悲しいんです。えーん」

 白々しく泣き真似をしてみせるスマートレディに、真樹菜は微笑んで肩を竦めた。
 ラズロ・ゴールドマン。ラッキークローバーの一人にして、辣腕のプログラマー。……加えて、これを知っているのは真樹菜他ごく一部に限られているのだが、情報収集のスペシャリストでもある。

 いや。より正確を期するなら、情報収集はあくまで余禄で、彼の本質はむしろ“不法侵入”の専門家と言える――比喩でなく厳然たる事実として、ネットワーク上において、彼に侵入出来ないところはない。如何なるプロテクトもあっさりと突破し、その向こう側に入り込む。それが管理局のデータベースであろうと例外でなく。
 そもそも真樹菜と彼との出会いからして、彼がスマートブレインの内側に踏み入ってきた事こそが発端であったのだ。今回、真樹菜が本局襲撃事件の詳細を入手出来たのも、ラズロの助力あってこそ。
 しかし。

「薬の量が増えていたんですの?」
「はい。なんて言うかー、片手でコンソール弄って、もう片方の手で錠剤口の中に押し込んでましたぁ」

 私の事なんかガン無視でしたよう――と、再びスマートレディは泣き真似をしてみせる。
 ラズロ・ゴールドマンという男を語る際、真っ先に挙げられるのはラッキークローバーの一葉という事でも、辣腕プログラマーという事でも、情報収集のスペシャリストという事でも無い。常軌を逸した薬物中毒者である、という点だ。
 日常生活に支障をきたすほどの薬物摂取。それこそを日常としている彼は、既に他人の言葉と周囲の雑音との区別がついていないのだろう。
 勿論。こうして真樹菜の依頼に応え、資料を入手してくれたのだから、まだコミュニケーションは取れるのだろうが……スマートレディの反応を見る限り、依頼を聞いてもらうまでが面倒であったのだろうと(事件発生から真樹菜の手元に資料が届くまで一月かかっているのも、その辺が理由だろう)、容易に想像がついた。

「まあ、良いでしょう。薬の入っていないラズロさんは大して役にも立ちませんし。……うん?」

 その時。不意に、社長室の扉がノックされた。
 はて、今日は誰かと会う約束もしていないのだけれど――と内心首を傾げながら、「どうぞ?」と真樹菜は入室を促す。
 扉が開き、その向こうに佇んでいた人間が姿を現した。その姿を目にした瞬間、真樹菜が驚きに目を瞠る。普段冷静を己に強いている彼女には酷く珍しい表情と言えるが、それも無理からぬ事であっただろう。
 事情を知らない者には、いや事情を知っている者であっても、一瞬でその事実を認識し了承は出来まい。

「あれ、社長さん?」

 スマートレディもまた、驚きに瞠目して声を上げる。
 そこに居たのは、社長室の椅子に腰掛けている筈の結城真樹菜であり――事実、振り向いた彼女は、変わらずそこに居る真樹菜の姿を確認する。まるで合わせ鏡のような光景に、しかし当の真樹菜はそのからくりに気付いているらしい。ふうと呆れたように一息つくと、

「伽爛さん。要らない事してないで、さっさと入ってきてください。――貴方も」

 と、姿の見えないオカマへそう言い放ち、佇んでいる己の似姿にも、じろりと一瞥して入室を促した。

「いやんもう。真樹菜ちゃん、もうちょっと可愛げがあるリアクションしてくれると思ったのにい」

 ゆらりと、真樹菜の似姿の背後で空間が歪む。直にその歪みは人型を為し、そこに身の丈二メートルを超える巨躯を顕現させた。どうやら幻術魔法の一種なのだろう、かつて戦技教導隊に属していた辣腕の魔導師たる彼にしてみれば、幻術魔法とて造作もない。
 にやにやと不敵に、且つ気色悪く笑いながら、臥駿河伽爛が社長室に足を踏み入れる。それに続いて、真樹菜の似姿も社長室へと入った。「こっちどーぞー」とスマートレディがソファーを譲り、二人はそこに腰を降ろす。

「……で? 呼びもしないのに何の御用ですの、伽爛さん?」
「なーんか棘があるわねえ。……んふふ。別に、用事ってほどの用事でもないんだけどぉ」
「へえ。わざわざワーム……ああ、ネイティブの方ですか。――を連れてきてまで?」

 真樹菜の言葉を受け、え? とスマートレディが伽爛の横に座る、真樹菜の似姿へと視線を転じる。
 気付いてなかったのだろうか――鏡に映すよりも尚同一なその姿は、魔法や科学技術で再現出来る域を超えている。人外の保有する異能、超常の現象でしか為し得ない事であると。

 ぐにゃりと真樹菜の似姿が形を失い、次瞬、全く別の形となって再構成される。人によっては、オルフェノクが人間態から戦闘態へと姿を変じる様を連想するだろう。だがそれは一見しただけで明らかに異なっており、事実、変異したその姿は戦闘態でも、異形ですらなく、また別の人間の姿であった。
 若い男の姿となった偽真樹菜が、ゆるりと立ち上がって真樹菜の前に歩み出る。腰を落として中腰の姿勢を取ったかと思うと、差し伸べるかのように右手を突き出し――

「お控えなすって、お控えなすって、早速、お控えありがとうござんす。軒下三寸借り受けましての御仁義、失礼さんにござんす。
 これより上げます言葉の後先、間違えましたらごめんなすって。手前、生国と発しますは、第3管理世界はヴァイゼンにござんす、ヴァイゼンと言いましてもいささか広うござんす、ヴァイゼンはトリリア地方のカルスルエ、トリバーガの滝で産湯を使い、姓はアダルベルト、名はアルノルト、人呼んでセパルチュラのビリディスと発します。
 以後、面体お見知りおきの上、万端よろしくお引き回しのほど、お頼み申します」

 真剣な顔で仁義を切る男に、しかし真樹菜の反応は冷淡だった。冷淡と言うか、どこか白けた顔を男に向けている。
 生国と言っても貴方ワームなんだからそれ“擬態元”の生国でしょうとか『人呼んで』の方がワームの正式名じゃないですかとか色々言いたい事はあるのだが、それを全部飲み込んだ結果としての、けれど飲み干しきれなかったが故の、白けて呆れた表情だった。
 そもそも仁義の切り方からして微妙に間違っている。半端に日本かぶれの外国人がサムライのコスプレする様なズレっぷりだ。まあそれを一々指摘してやる義理も無い、はあとため息をついて、真樹菜は視線を伽爛へと切り替えた。

「伽爛さん。何ですの、この方」
「ん? 今アルノちゃんが言ったじゃないの。あ、聞いてなかった? 仕方ないわねえ、アルノちゃん、もう一回やってあげて」
「へい、姐さん。お控えなすって、お控えなすって、早速、お控えありがとうござんす。軒下三寸借り受けましての御仁義、失礼さんにござんす」
「いや、もういいですから」

 大真面目に再び仁義を切り始めたアルノルトを蝿でも追い払うかのような手付きで制する真樹菜に、にひひ、と伽爛が厭らしい笑い声を零す。

「いやね――衛司ちゃん、今までオルフェノクとしか殺り合ってなかったじゃない? 偶には気分を変えて、ワームとも戦ってもらおうかなーって」
「ふむ…………」

 顎に手を当てて、真樹菜は考え込む――確かに、それは真樹菜も考えていた事だ。
 真樹菜の“目的”を考えるなら、いずれ衛司はオルフェノクのみならず、ワームやファンガイア、それ以外の敵とも戦う可能性がある。特にワームは他の種族が持たない固有の特殊能力がある、予め戦闘経験を積ませておく事は、決して無駄にならないだろう。
 勿論、今の段階で積極的に戦わせる必要はない。まずは衛司の戦闘技術の底上げと、殺し合いに臨む者としての心構えを実戦形式で叩き込む事を優先すべきとし、そう動いてきた。だが伽爛がこうしてネイティブ・ワームを連れてきた以上、この好機を無為にするつもりも、真樹菜にはなかった。

「まあ、折角ですから、お願いしましょうか。えっと――アルノルトさん? アルノルト・アダルベルトさん?」
「へい! アルノと呼んでください、真樹菜の姉御!」
「姉御は止めて。私を姉と呼んで良いのは一人だけです。――ご協力には感謝しますが、一つだけ約束してくださいますか」

 へいなんなりと、と即答するアルノルトに、本当に大丈夫かこいつと眉を顰めながら、真樹菜は続ける。

「死なない事。あの子を殺すつもりでかかるのは結構ですが、貴方ご自身が生き残る事を最優先させてください」
「あら。あらあらあら、まあまあまあ。随分優しいじゃないの、真樹菜ちゃん。何か悪いもんでも食った?」
「失礼な。私はいつもいつでも誰でも誰にでも優しいじゃありませんの――ふふ。まあ、正直に言うと、『怪人同盟』の皆さんにはお世話になってますからね。それに、私を手伝ってくれるネイティブ・ワームの方は希少ですから。こんなところで死なれると困るんですよ」

 割と誤解されがちな事であるが、臥駿河伽爛を初めとするオルフェノクのトップランカー四人(現時点ではまだ三人しかいないのだが)、通称『ラッキークローバー』はスマートブレインの社員ではない。結城真樹菜個人の繋がりで、真樹菜との個人的な友誼によって、彼女に手を貸しているのだ。
 そして彼等ラッキークローバーを通じて、真樹菜は様々な組織・集団から力を借りている。殊に伽爛の属する集団には世話になる事も多い。真樹菜子飼いのオルフェノク達とはまた別の、様々な世界から弾き出された人異人外が名を連ねる狂気の集団。
 誰が呼んだか『怪人同盟』――ミッドチルダの裏側に暗躍する彼等こそ、真樹菜が己の手駒と同等に信を置く“戦力”である。

「それでは! 自分は早速、その小僧のところに参りやす! 御免なすって!」

 そう言い放ったが早いか、アルノルトは踵を返し、足早に社長室を後にした。呆気に取られた顔でそれを見送る真樹菜だったが、やがて何度目になるだろうか、深々とため息をついて、椅子の背凭れに体重を預けた。

「あらもう。せっかちねえ、アルノちゃんたら」
「せっかちなのは結構ですが――いや、良いでしょう。伽爛さんも向かってください。……くれぐれも、あの方を死なせませんように」

 今回は今までの戦闘と異なり、衛司へと差し向ける刺客を“使い捨て”に出来ない。加えて、アルノルトにはああ言ったものの、出来る事なら今回の戦闘で衛司が死ぬ展開も避けたかった。
 何の関係も無い人間が衛司を殺してしまったのでは、帝王のベルト欲しさに機を窺っている他のオルフェノクが不満を募らせてしまう。鍛え上げる過程で衛司が命を落とすとしても、彼を殺すのはあくまでオルフェノクの中の誰かでなければならない。
 衛司を死なせず、アルノルトも死なず。その上で、衛司に戦闘経験を積ませ、次なる階梯へと進ませる。その見極めが出来るのは、業腹ながら、臥駿河伽爛をおいて他にない。

「了解。それじゃ、アタシも準備にかかるわね――夜には始められると思うわ」

 そう言って。
 伽爛もまた、ひらひらと手を振りつつ社長室を後にした。





◆      ◆







“人質”へと伸ばされたドラスの腕が、次瞬、不意に断ち切られて宙を舞う。
 チンクの意識は現実に一歩遅れを取った。切り飛ばされた腕ががちゃんと奇妙な金属音を立て床に落ちたその時に漸く、誰かがドラスを攻撃したのだと理解したのだ。

 加えて言うのなら、彼女の思考がその“誰か”の正体に辿り着くのもまた、一歩遅れた。チンクの脳髄が正解を弾き出す寸前、彼女の眼前で翻った紅色の髪は、何者がこの場に介入したのかを言外に、しかし如実に語っていた。
 時空管理局にその人ありと謳われる『剣の騎士』、シグナムの振るった一閃が、迫る怪物の腕を切り飛ばした――そうチンクが理解した時には、シグナムは既に次の行動に移っている。現状把握に先んじた、迅速と拙速の境目にあるその行動は、今この時点における限りは決して間違いでは無い。

「下がれ、チンク!」

 耳朶を打つ声から僅かに遅れて、鈍い音が周囲に響く。
 眼前で翻ったシグナムのポニーテールにほんの一瞬だけ視界を奪われたチンクだったが、その指示の通りに後ろへと飛び退いて距離を取る。そうして一歩引いた位置から彼女が捉えたのは、レヴァンテインの柄尻による打突を繰り出したシグナムの姿と、それによって弾き飛ばされたドラスの姿だった。

「チンクさん!」
「大丈夫ですか!?」

 背後からの声に振り向けば、そこには駆け寄ってくるエリオとキャロ、そしてその頭上に浮遊するフリードの姿。シグナム同様、異変を察知して駆けつけたのだろう。
 二人がチンクに並ぶと同時、シグナムもまた、とんと後ろに飛び退いて合流する。レヴァンテインを構え直し、視線は油断無く敵を睨み据えながら、臨戦体勢を崩す事なくシグナムは背後のチンクへと向けて口を開いた。

「無事か、チンク」
「……ああ。お陰様で」
「そうか、何よりだ。――で。あれは何だ?」

“あれ”――レヴァンテインの柄頭のよる打突で弾き飛ばされ、床に仰臥する異形の人型。
 オルフェノクではない。四肢を備えた人型である事、明らかに人からかけ離れた異形である事は共通するものの、目の前の異形は明らかにオルフェノクとは異なる存在だった。
 色が違う。質感が違う。人骨の如き灰一色ではなく、石膏を思わせる硬質な質感でもない。爬虫類のようにくすんだ色合いの皮膚、ぬめりと金属の光沢を併せ持った体表は、『灰色の怪物』オルフェノクとは一線を画している。

 強いて言うなら、ルーテシア・アルピーノの従者たる召喚蟲、ガリューが近いだろうか。だがガリューとは全く異なる存在である事も、一見すれば明らかだった。生物か非生物かすら曖昧なその姿は、明らかに知性ある生命体と知れるガリューと同列には語れまい。
 ……いや。チンクは知っている、あれも確かに生命体だ。ネオ生命体と呼ばれる、既存の生物とは一線を画する特異な生物群。その詳細までは知らないにしろ、あれが“生きている”事だけは、疑いようがない。

「……ドクターの御友人の“研究成果”だ――何故此処に居るのかは、判らないが」

 チンクの言葉に嘘はない。が、真実を言い表している訳でもなかった。
 判らないのはあくまでドラスが此処に現れた経緯。スカリエッティのラボで厳重に管理されていたネオ生命体が、どういう経緯を辿って此処に、この海上隔離施設に現れたのかが判らないというだけ。

 逆に。その動機に関しては、チンクには凡その推察が出来ていた。やや語弊のある言い方ではあるが――ドラスは、チンクを“頼ってきた”のだ。チンクと、恐らくはチンクから繋がって、スカリエッティを。それはドラス自身が先程、己自身で口にした事であった。
 けれど、それには応えられない。チンクは既にスカリエッティとは関係が切れている。勿論生みの親だ、思うところがないでもないが、彼女が罪を償い未来に生きると決めた以上、ドラスの望みに応える事は出来ない。 

「スカリエッティの……? ……そうか。誰かは知らんが、迷惑な事だ」

 そんな言葉とは裏腹に、シグナムの顔には笑みが浮かんでいる。苦笑の色合いを多分に含んだ笑みであったが、それでも、戦闘に臨んで笑みを零した事に変わりなく。

「名は」
「『ドラス』。ドクターは、そう言っていた」

 ふむ、とシグナムが頷く。
 名を知ったところで、彼女の為すべき事に変更はない。元より、誰を相手にしようと、何を相手にしようと、シグナムに出来る処方などそう多くはないのだが。

「急いで此処を離れろ、チンク。出来る限り周囲に被害を及ぼす戦い方はしないつもりだが、保証は出来ん。……エリオ、キャロ。チンクを連れて――」
「ま、待ってくれ。そこの部屋に、ヤマムラさん――担当教官の人が居るんだ。腰を打って動けなくなっている、一人では……!」

 シグナムの顔に一瞬苦いものが走ったのを、チンクは見落とさなかった。シグナム達も何度か顔を合わせているから、恰幅の良い中年女性である事は憶えているだろう。それがチンクの矮躯では抱えられないだろう事も、チンクと大差無い体格のエリオやキャロでも同様であろう事も、解っているはずだ。
 かと言って、今から他の人間を連れてくる事も難しい。ゆっくりと仰臥の体勢から起き上がろうとしているドラスの姿は、時間的余裕がない事を如実に物語っている。

「エリオ、キャロ。奴をここから引き離す――出来るな?」
「はい!」
「やれます!」
「良し。チンクはその部屋に入っていろ、教官殿を守れ」
「……ああ。了解した」

 返答に少しの間を置いてしまったのは、『守れ』というシグナムの言葉の意味を量りかねたから。
 戦闘機人としての能力を殆ど封じられ、一般人と大差無い身体能力しか持たない今のチンクでは、護衛という大任は到底果たせない。シグナムだってそれを解っているだろうに、それでも彼女はチンクに『守れ』と言った。出来もしない事を強制するような人間ではない、それは先にエリオとキャロに『出来るな?』と訊いた事からも明らかだ。

 ならば何故、と思った瞬間、あっさりと答えは出た。そもそも考える必要もない事だ。
 今のチンクは明らかに足手纏いであり、この場で出来る事はない。しかしそれを面と向かって指摘し、早々に去れと言ってしまえば、チンクが傷つくのも明白。つまりシグナムの言葉は、チンクの面子に配慮した台詞であったのだ。

 その無骨な、ともすれば気付かないような心遣いを嬉しく思い――それに礼を述べるよりも、指示に従う事こそ先決と判断し、チンクは踵を返した。
 たった今飛び出したばかりのランドリールームへと引き返し、扉を閉める。さすがに鍵をかける事は出来ないが(出来たところで、ドラスならあっさり扉ごと吹っ飛ばすだろう)、開けっ放しよりは幾らかましだ。

「ち、チンクちゃん、どうかしたの……?」

 打った腰を擦りながら訊いてくる担当教官に、チンクは振り向いて――『人を呼んできます!』と飛び出していった娘が、手ぶらで戻ってきたかと思えば扉を閉めたのだ。彼女でなくとも変だと思うだろう――精一杯、平然とした顔を教官へと向ける。

「ちょっと、アクシデントが――大丈夫です。機動六課の方々が、来てくれましたから」

 はあ、と怪訝な顔をする担当教官だったが、それ以上深く追求する事はしなかった。
 響き始める轟音。それだけが、しかしそれこそが充分に、戦闘の激しさを物語っていて。

「……ドラス……」

 ふと呟いたその名を掻き消すように――轟音は扉一枚程度の障壁など有って無きが如く、響き渡る。





◆      ◆







 背後でランドリールームの扉が閉められると同時、立ち上がったドラスが、ゆるりと辺りを睥睨する。誰かを、何かを探しているような挙措。誰を探しているのかは明白であったが、問題は、ドラスが動く度に妙な音が漏れ聞こえてくる事だ。
 金属同士を擦り合わせるような、耳障りの悪い軋音。そのせいか、ドラスの動きも、どこか油の切れた機械じみて見える。
 それが何らかの策によるものなのか、或いは何らかの不調によるものなのか、もしくはこれが基本、ドラスの動作においてデフォルトのものであるのか。
 シグナムには、判断出来ない。

〖お ねえ ちゃん ど こ〗

 断続的に発せられる言葉――最初、シグナムはそれを“言葉”と認識出来なかった。音程の狂ったぶつ切りの音。それが誰かを捜し求める声であると気付けたのは、偶然と言い換えても齟齬のない、単なる直感が故の事であった。
 奇妙な心境だった。底の抜けた柄杓で水を汲む姿を見たような、誰も居ない部屋で鳴り続ける目覚まし時計を見たような、そんな感覚が、シグナムの中にある。
 チンクがランドリールームに立て篭もったのは視認出来ずとも理解出来ただろうに、ただ視界から消えたというだけで獲物を認識出来なくなった怪物の姿は微妙に哀れだ。それこそ、底の抜けた柄杓であり、無人の部屋で鳴る時計を連想させる程に。

「シグナム副隊長……」
「ああ、解っている。――あの怪物を制圧する。エリオは私の後に続け。キャロはエリオのフォローを頼む」
「はい」
「解りました」
「良し。――行くぞ!」

 号令も高らかに、シグナムが、一拍遅れてエリオが飛び出した。まずはこの場からドラスを引き離す事。何を目的にチンクを狙うのかは知らないが、どの道それは許してやれない。チンクから距離を取らせる事が最優先だ。
 加えて、この狭い通路ではシグナムもエリオも本領を発揮出来ない。遮蔽物が無い空間は彼女達の様な近接戦闘型には不利であり、更に横幅の狭い通路では、『真っ直ぐ向かって斬る』以外の選択肢が限られてくる。もし敵がなのはやティアナの様な射撃型であったのなら、通路いっぱいに弾幕を張られて近付く事も出来ないだろう。迂闊に突っ込めば蜂の巣だ。

 見たところ、ドラスにそういった遠距離戦闘の手段はないように思えるが――シグナム達にとって、此処が不利な場所である事に変わりはなく。
 そして致命的な事に、シグナムはドラスの戦力を見誤っていた……勿論、これに関してはドラスの詳細な情報を知らなかった事が大きく、また彼女の戦闘経験がまるでアドバンテージにならない、新機軸の生命体を相手取っている事が主たる理由であったのだが。

「! エリオ、避けろっ!」

 叫ぶやいなや、シグナムは大きく身を仰け反らせて回避する。
 そう、回避だ。敵の攻撃を躱す為の挙動。それはつまり、ドラスが攻撃を仕掛けた事を意味していて。
 それはシグナムの、長年に渡る戦闘経験から生まれる直感――否、反射だった。彼女の脳髄が判断し指示を下すより早く、彼女の身体がそれに反応したのだ。本能が反射に直結するか否かが、シグナムを生かし、彼女の知らぬところでファルコンオルフェノクを死に至らしめた決定的な差であったのだが、それはさておき。
 きゅん、と甲高い音がシグナムの身体を掠めて飛び去っていく。シグナムに追随していたエリオも何とか回避に成功した。幸いにもキャロはその進路上に居らず被害を免れたが、その代償と言うべきか、彼女は最も近い位置で“それ”の痕跡を目の当たりにする事となった。

「……ひっ……!?」

 声も出ない。
 キャロの横を光速で――高速ではない、まさしく光の速さで――駆け抜けていったのは、魔力弾や魔力砲撃とは全く異質な、光のライン
 怪物の右肩に埋め込まれたレンズ状の器官。それが煌いたまさしくその瞬間、撃ち出された光線。シグナムを掠め、エリオを掠め、キャロの横を通過していった光線は、進路上の終点、通路の突き当たりの壁に衝突して――炸裂した。
 耳を聾する轟音。僅か一撃で壁は原型を失い、セメントと鉄骨、プラスチックの混合物たる瓦礫へと変貌する。がらがらと崩れ落ちる瓦礫の音は、聞く者にただ戦慄しか齎さない。

「……化物め……!」

 吐き捨てるように、シグナムは呟く。
 怪光線の威力は常軌を逸している。シグナムの張れる防御魔法など、薄紙の如くに貫かれるだろう。エリオやキャロの障壁は言わずもがなだ。もしあの光線を正面から防ごうと思うなら、ザフィーラと同格の障壁を張れる者を連れてこなければなるまい。シグナムの見立てはやや正確さを欠いていたが、それでも、決して的外れではなかった。

 迂闊に飛び込めば、光線のカウンターで切って落とされる。かと言って遠距離からの狙撃は、シグナム、エリオの得手とする戦術ではない。キャロに至っては問題外。酷ではあるが事実である。補助と援護を主体とする彼女には、護身に最低限の魔法こそ仕込まれているものの、敵の攻撃を防ぎ受け流す、或いは敵のレンジ外からの攻撃を行う手段が無い。
 かと言って、躊躇している暇もなかった。ゆっくりと、ドラスが前へと向けて歩き出す。目指す先はランドリールーム、そこに立て篭もるチンクを求めて、怪物は歩を進めていく。
 決して早い足取りではない、どころか一歩一歩、足元を確かめるかのように遅々とした足取りだ。それが余裕であるのか、最初からそうとしか歩けないのかは定かではないが、必定、そう遠くない内に、ドラスはチンクへ辿り着く。

 余裕は、ない。

「シグナム副隊長。僕が前に出て撹乱します、その隙に――」
「駄目だ。危険過ぎる……お前では一撃当たれば終わりだぞ」
「解っています。けど、このままじゃどの道、手が出せません!」

 逡巡――いや、それは躊躇と言った方が、より実際にそぐっている。
 出来るとは思う。エリオの速さであれば、被弾の恐れなく敵を惑わす事も出来るはずだ。
 現状、ドラスは“近付いてくる”ものにのみ攻撃を仕掛けている。距離を取って睨み付けるシグナム達に、自身から攻撃を仕掛けては来ない。
 もし本気でシグナム達を排除しようとするのなら、間断無く光線を撃ち放ってくるはず。それをしない理由は不明だが、とりあえず、間合いに入らない限りは攻撃もないものと考えて良いだろう。

 エリオの速度を以ってすれば、ドラスの間合いに飛び込む事も、そこから一瞬で離脱する事も、そう難しくはあるまい。ドラスは間合いの内側で飛び回る標的を優先するだろう、その隙に、遠距離から攻撃を叩きこんでやれば良い。シグナムとて遠距離攻撃の手段が皆無ではない、連射こそ効かないが、威力は折り紙付きの一撃を有している。
 それでも彼女が迷ってしまうのは、この策はどうしてもエリオの回避能力に依存してしまうからだ。エリオが避けきれなければ、それだけで破綻する策。最早AAランクに匹敵する戦闘能力を得ているとは言え、たった一人に極度の負担を押し付ける策を、シグナムは許容出来ない。

「シグナム副隊長、わたしからも、お願いします……エリオくんに、任せてください」
「キャロ……いや、しかし」
「シグナム副隊長!」

 きっ、とシグナムを見据えて――エリオが、声を荒げる。
 その視線は鋼の如く剛く。炎の如く熱く。歴とした騎士の瞳から、シグナムへと真っ直ぐに放たれている。

「――いけます。出来ない事は、言いません……!」

 その言葉に、シグナムの中で何かがすとんと“腑に落ちた”。
 彼女は管理局員である以前に一人の騎士である。そして将である。勝利の為に最善を尽くすのが己の役目、部下を気遣うあまりに最善手を逃すなど本末転倒。
 いや、認めよう――躊躇していたのは、最も危険な役回りを押し付ける相手がエリオだったからだ。愛弟子と言っても良いこの少年を囮に使う事を、シグナムは拒んだのだ。エリオでなければ或いはあっさりと通していたかもしれない。躊躇はなかったかもしれない。エリオだから躊躇したと言うのなら、それは決して優しさからでは無い、単なる甘さ。
 エリオを甘やかし、自分自身を甘やかす事に他ならない――

「いいだろう――なら、やってみせろ!」
「はいっ!」

 視線をドラスへと転じ、エリオが愛槍ストラーダを構える。同時に後方でキャロが補助魔法を発動、少年の身体は淡い光に包まれた。

「行くよ、ストラーダ!」
【Jawohl.】

 愛槍の言葉を待たず、エリオは駆け出した。敵へと向かって一直線に。
 それが普段の彼と違ったのは、突撃に際して、ストラーダの推力を一切使っていないという点だ。ストラーダが生み出す莫大な推力は、少年一人の矮躯を軽々と運んで加速出来る。その推力は擬似的に飛行する、重力の縛りに抗う事すら可能としているのだ。しかし今回、エリオはあえてそれを封印する。

 推力が莫大過ぎるのだ――現時点でのエリオには、ストラーダの推力を完全に御する術が無い。どうしても動きは直線的になるし、実際それこそがストラーダの持ち味であるのだが、今回に限ってはそれが利点とならない。狭苦しい通路では、推力を『真っ直ぐ突っ込んで』『真っ直ぐ逃げる』の二つにしか使えないのである。
 故に。間合いを詰めるに当たって、エリオはストラーダの推力を封印した。それは自身の最大攻撃たる突撃戦法の封印に他ならなかったのだが、しかしエリオの戦術は、それ一つきりではない。

「初撃さえ、躱せれば……!」

 どれだけ近付けば、ドラスが撃ってくるのかはまだ判らない。だから初弾の回避は完全に勘任せ、自身の直感だけが頼みである。戦闘においてはある意味で暴挙とも言えよう――ただし、エリオはそれを、不可能とは微塵も思っていなかった。
 見ろ。見ろ。見ろ。どんな攻撃であっても、何らかの事前動作が必ずあるはず。戦場を縦横無尽に駆けるガードウィングには、その見極めこそが生死を分ける。瞬きを忘れてドラスを凝視しながら、エリオは一気に敵との間合いを詰めていく。
 右肩のレンズ、その周囲の皮膚が、痙攣するかのように蠢いた――

「ストラーダっ!」
【Sonic Move.】

 瞬間、少年の身体は疾風と化した。
 果たしてエリオは放たれたドラスの光線を回避――横っ飛びに、右手側の壁へと“着地”する。そのまま壁を足場として跳躍、天井に張り付いたかと思うと、今度は床へ。床に降り立っても半秒とその場には留まらず、今度は左手側へと跳躍する。
 それはさながら、通路に乱反射するスーパーボール。高速で跳ね回るエリオに、ドラスは照準を合わせられない。闇雲に光線を撃ち放つも、それは全て、一瞬前までエリオが居た地点を抉るに留まり、標的であるエリオ自身には傷一つ負わせられない。

 ――思った通りだ。
 常人には視認すら難しいだろう加速の中、己の見立てが間違っていなかった事に、エリオは内心安堵する――勿論、それで気を緩めるほど、彼は迂闊ではない。
 光線はドラスの右肩、レンズ状の器官から放たれている。それは即ち、レンズ状の器官が銃口であるという意味であり。右肩を基点として放射状に放つ事は出来るものの、必然として、ドラスの“前面”にしか攻撃出来ない事を意味している。
 常に移動を繰り返し、ドラスの左手側、或いは背後に回りこめば、敵が己を射界に捉えるまでに僅かなタイムラグが発生する。時間にして一秒に満たないそれは、しかしエリオ・モンディアルにとって充分過ぎる余裕である。
 事実、ドラスはエリオの動きに完全に翻弄されていた。高速で動き回るエリオを何とか己の前面に捉えようと試みているが、捉えた瞬間に光線を撃ち放っているが、それでは遅い。いかに光速で奔る弾丸とは言え、『照準を合わせて』『撃つ』というプロセスを経る以上、それはエリオに届かない。

 ……或いは、ドラスが本調子であったのなら、この展開は成り立たなかっただろう。
 崩壊しかけの身体を無理矢理駆動させ、戦闘能力は全盛の三割程度に落ち込んでいる今のドラスでは、これが精一杯。
 全盛期のドラスであったのなら、最大出力の光線で建物ごとエリオを、否、エリオはおろかシグナムやキャロも纏めて薙ぎ払っていた筈だ。それが出来ないのはエリオにとって紛れもない僥倖であったのだが、幸か不幸か、槍騎士の少年は知る由もない。
 そして。

「――おおおっ!」

 遂に、エリオの動きはドラスの速射に先んじた。ドラスが怪光線を放ったその瞬間、エリオ・モンディアルは敵の背後に回りこむ事に成功する。
 その好機を、エリオは無論、逃すつもりない。

【Stahlmesser.】

 ストラーダがカートリッジをロード、穂先に魔力刃を展開。それを以ってエリオがドラスへと斬りかかる。完全に隙を衝いた一閃は、確かにドラスの背中を深々と切り裂いた。炸裂する火花は一撃の威力を物語り、穿たれた傷跡は目を覆わんばかりの大きさと凄惨さで、余人ならば致命傷であると知れる。
 そして。

「良くやった、エリオ――そこから離れろ!」
「はいっ!」

 それだけで終わりでは無い。余人ならば致命傷、しかし相手は怪物だ。新たなる階梯に進んだ生命体だ。人間の常識でおよそ測れる存在ではない。
 なればこそ、駄目押しの一撃は必須であり――それを担うシグナムは、既に準備を終えていた。準備を終えて、エリオが作り出す一瞬の隙を待っていた。

 愛弟子をただ一人、敵の眼前に送り込んだのは、この瞬間の為に。そしてエリオがドラスの至近から飛び退けば、最早阻むものは何もなく。
 鞘と剣が連結し、弓の形を為す。レヴァンテイン第三の形態ボーゲンフォルム。番えた矢は真っ直ぐにドラスへと向けられ、ががん、と弓の上下で同時にカートリッジが激発、魔力が一気に矢へと収束して、射出の時を待つ。

「翔けよ、隼!」

 そして紡がれる撃発音声。
 轟と大気を引き裂いて、必殺の一撃は唸りを上げて敵へと奔る。
 これこそ『烈火の将』シグナムの切り札、彼女が保有する魔法の中で、最大の速度と破壊力を誇る一撃――シュツルムファルケン。
 奇しくもそれは、シグナム自身は知らぬ事とは言え、先にドラスへ挑んで返り討ちとなった隼の、意趣返し――

〖………………〗

 ドラスは動かない。動けない。背部の損傷は修復に少しばかりの時間を要し、修復を優先する都合上、どうしてもその数秒は動けない。だからこそシグナムの一撃が必殺足り得る。本来のドラスを相手取れば躱され、弾かれ、流されるであろう一撃が、充分に必殺として機能する。
 その数秒を作り出したエリオは賞賛されて良いだろう。その数秒を衝いたシグナムもそうであり、またそれらの成果にキャロの補助があった事を踏まえれば、最も賞賛されるべきは彼女なのかもしれない。

 だからこそ。迫る必殺に対してドラスのとった処方もまた、賞賛されて然るべき。
 それは壊れかけの知性と理性が下した判断だったか。
 或いは生物としての本能が優先した結果だったか。
 動かない身体を、それでも無理矢理、ほんの僅かに動かして――ドラスは背を反らし、天井を仰ぎ見るような態勢を取る。次瞬、右肩から放たれる怪光線。一発ではない、二発、三発と続けざまに放たれたそれは、当然のように天井を穿ち抜いて炸裂する。

 空気を震わす爆音と共に、めきっ、と何かが歪み軋む音が響いた。その音の正体に人間達が気付くよりも先に、状況は動く。
 光線の直撃を受けた天井が、その威力に耐え切れず崩壊。がらがらと音を立てて瓦礫が落下する――シグナムとドラスの間に存在する空間を塞いでいく。
 つまりそれは、シュツルムファルケンの射線を塞ぐ事も意味していて。

「しまっ……!」

 シグナムの叫びは僅かに遅い。
 進路を阻まれたシュツルムファルケンが瓦礫に激突して爆発、爆炎と爆煙が通路を焼き焦がす。爆風は射手たるシグナムと、その背後で待機するキャロの元にまで届き、彼女達の髪を猛烈な勢いで煽り肌を叩いた。
 瓦礫そのものは爆発によって粉砕されたが、その代償に、必殺を賭して繰り出した一撃は完全に威力を失っている。魔力限定がかけられていなければ、或いは瓦礫を貫通してドラスを穿つ事も出来ただろう。
 だがそれはあくまで仮定。現実として、シグナムは必殺に失敗した――そう、失敗したのだ。

「そんな……、っ、――!?」

 その光景をドラスの背後から目の当たりにしていたエリオだったが、不意に、しゅるんと足首に何かが絡まる感覚に眉を顰める。ドラスの右手から伸びた鞭状の器官が、己の右足首を絡め取った感覚であった。
 そしてそうと気付いた瞬間、鞭は一気に引き縮み、エリオを床に引き倒したかと思うと一気に己の手元まで手繰り寄せる。

 咄嗟にストラーダを振るい、足首に絡まる鞭を切り裂いたものの、その時点で既に彼はドラスの腕が届く距離にまで引き寄せられていた。
 戒めから自由になったのも束の間、彼の細い首に手をかけて、怪物は高々とエリオを持ち上げる。崩壊寸前、全盛期の三割――いや、もう二割に満たないだろう――まで能力が落ちているとは言え、怪物は怪物。少年一人を持ち上げるだけの膂力は、未だ失われていない。
 そして。少年一人の首を捩じ切るだけの膂力も、まだ残されている。

「がっ……ぐぁ……!」
〖お ねえ ちゃん いな い ど こ?〗

 今にもエリオの首をへし折らんと力を篭めておきながら、しかしドラスの口が紡ぐのは、まるで場違いな“姉”を求める言葉。
 ぞくりと、エリオの背筋を寒気が這い上がる。死に対する恐怖ではない。戦場に立てばいつだってそんなものは付いて回る、今更感じる事ではない。

 その寒気は、ドラスが自分を、エリオ・モンディアルを見ていない事への恐れだった。この怪物はエリオも、シグナムも、キャロも、等しく眼中にないのだ。飛び回る蝿を叩き落とす程度の感覚で自分達と相対しているのだと、否応無しに気付かされる。
 戦意を向けられた事はあった。殺意を向けられた事もあった。あの『JS事件』の最中、幾度と無く死を覚悟し、しかしそれを受け入れず抗ったからこそ、今、彼はこうして生きている。だがそれすらないというのは、敵とすら見て貰えないというのは、エリオ・モンディアルにとって初めての経験だったのである。

《エリオくん、動かないで!》

 その時。不意に脳内に響く耳慣れた声が、一瞬だけエリオに寒気と悪寒を忘れさせた。
 次瞬、飛来してきた二発の魔力弾が、エリオを掴み上げるドラスの右腕を直撃する。誘導制御型射撃魔法シューティング・レイ。
 キャロの保有する魔法の中では希少な直接攻撃魔法であるが、元より援護が本領のフルバック、威力面で特筆すべきところはない。とは言え直撃すればそれなりの効果を齎し、その衝撃にほんの僅か、ドラスの握力が緩んだ。

 更に次の瞬間、猛速で飛来してきた何かがドラスの胸部を貫通。先の魔力弾を遥かに凌駕する速度で怪物に突き立ったそれは、『炎の魔剣』レヴァンテイン。
 何を考えたのか、シグナムは驚くべき事に、己の命を託すべき愛剣を敵へと向けて投擲したのだ――純粋な質量体の直撃はドラスを仰け反らせ、エリオの首にかかっていた怪物の指は、ここで完全に少年から離れた。
 そして。

《伏せてっ!》

 叫び染みたその声に、エリオは咄嗟に反応――指示の通りに床へ伏せ、ストラーダを持ったまま頭を抱えて防御する。
 ずどん、と頭上から聞こえる爆発音。髪を焦がす熱風は、フリードの放った火炎弾ブラストフレアが直撃した事を物語っている。

 ……が、今回に限っては、そこに明確な違和感があった。この距離でブラストフレアが爆発したのなら、いかに伏せていたところで、エリオもまた被害を浴びているはずなのだ。
 まるで加減したような。しかし手を抜いた訳ではない、キャロ・ル・ルシエは、このぎりぎりな状況下で手を抜くような少女ではない。
 ならば一体、と顔を上げれば、視界は完全に黒煙に塞がれ、直近のドラスの姿もはっきりと窺えない――そこで漸く、エリオはキャロの意図に気付いた。

「良くやった、キャロ!」

 賛辞の言葉と共に、シグナムが黒煙の中から飛び出してくる。
 そう、これこそキャロの狙い。あえて術式構成の甘い魔法を、半ば暴発気味に爆発させる事で目眩ましとする。その目論見は成功した。あと一歩の踏み込みで、シグナムはドラスを間合いに捉えるだろう。その距離にまで近付かせた時点で、キャロは己の職分を十全に果たしている。
 故にここから先は、シグナムの問題だ。

「シグナム副隊長、危ないっ!」

 エリオが叫ぶ。ドラスは既に迫るシグナムを認識している――昆虫を思わせるその眼が本当にシグナムを捉えているかどうかは定かでは無いが、それでも上体を敵へと向け、シグナムを射界に収めた事は間違いなく。
 無論言われるまでもなく、シグナムもそれに気付いている。だが逃げない。足を止める事もない。形はどうあれ絶好の好機、目の前の怪物が紛れもない強敵である以上、この好機を逃すつもりは、シグナムには微塵もなかったのである。

 そして、それ以上に。
 彼女らしい意地と面子が、真正面からドラスに飛び掛るという選択肢以外を選ばせない。
 放たれる光線。光の速さで奔るそれは、シグナムの心臓を目掛けて加速して――

「――はぁっ!」

 ――迸る裂帛と共に、斬り払われた。
 銃弾よりも尚速く強く迫る光線を、ただ一撃にて斬って落とす。シグナムの技量を、数多くの戦場で培われた濃密な戦闘経験を以ってすれば、決して不可能な芸当ではない。

 だが彼女の愛剣レヴァンテインは、未だドラスの胸に突き立ったまま。まさか徒手空拳で斬り払いを成功させた訳でもない――別段隠す事でもない、あっさりと種明かしをしてしまえば。
 鞘である。
 レヴァンテインの刀身と同等の硬度を誇る鞘。剣士に限らず、書家も料理人も同じ事であるが、技を極めた一流は得物を選ばない。ましてシグナムは紛れも無い超一流である。愛剣には及ばずとも扱いを知悉する鞘、かつてフェイト・テスタロッサの一撃すら防いだその鞘によって、シグナムは神業とも言える斬り払いをやってのけたのだ。
 そしてドラスが次弾を放つよりも更に早く、更に速く、シグナムの手はドラスの胸に突き立った愛剣の柄を握り込む。

「これで――終わりだ!」

 がん、とカートリッジが激発する。
 かしゃん、とレヴァンテインの刀身が剣の形を失う。
 怪物に突き刺さったままで顕れるのは、剣とも鞭ともつかぬ、しかし特性としてその両方を併せ持つ姿――連結刃。
 噴き上がる魔力によって、連結刃はまさしく蛇の如くにのたうち蠢き荒れ狂い、怪物の身体を内側から食い荒らしていく。

「シュランゲバイゼン――アングリフ!」

 シュランゲバイゼン・アングリフ。レヴァンテインの連結刃形態、シュランゲフォルムから放たれる空間攻撃である。強力なバリア破壊効果を持ち、空間攻撃という特性上、一度放たれれば回避は困難。

 加えて今回、シグナムはそれを、あろう事か零距離で行使した。自身すら巻き込まれる恐れのある距離で、しかも敵に得物を突き刺した状態でだ。およそ躱しきれるものではない――そして、耐え切れるものではない。
 ドラスの上体が引き千切れる。腕が切り裂かれる。足が抉り斬られる。腹が断ち割られる。文字通りに触れれば斬れる暴風が、ドラスはおろか海上隔離施設の通路をずたずたに切り裂いていく。最早それはシグナムを起点とした、壮絶な殺人ミキサーだった。

 程無く細切れとなったドラスが通路に落ちる。びしゃんがちゃんと水に濡れた金属音が、奇妙に静まり返った通路に反響する。連結刃に切り刻まれ、飛び散った体液に染め上げられた通路は、見るも無惨な様相を呈していた。

「く――ふ、ぅう……」

 通常形態へと戻したレヴァンテインを杖代わりに、体重を預けながら、シグナムは大きく息を吐き出した。
 さすがに、彼女の騎士甲冑はずたずたのぼろぼろである。衣服なのかぼろきれなのか判らない。
 被害は騎士甲冑に留まらず、彼女自身の肌にも無数の切り傷が出来ていた。自身の技とは言え、勿論出来る限り精一杯の制御は為されていたのだが、自爆同然の零距離攻撃は彼女自身にも少なからぬダメージを負わせていたのである。

 ――強敵だった。掛け値無しに、そう思う。
 傍から見れば愚策でしか無い零距離攻撃も、シグナムにしてみればそれしか無いと判断した故の、止むを得ない手段だったのだ。
 遠距離からの攻撃は防がれ、腕一本切り落としても平然と活動していたところを見れば通常の斬撃は効果が見込めない。残る手段はこれしかなく、唯一の必殺をより確実に直撃させる為には、零距離攻撃というリスクを負うしかなかった。
 敵の戦力を推し量るに、この程度のリスクで打倒出来たのは心底僥倖であっただろう。

「シグナム副隊長!」
「ご無事ですか!?」
「ああ――お前達こそ、怪我はないか」

 駆け寄って来るエリオとキャロにそう声を掛けて、シグナムは騎士甲冑を解除した。ぼろぼろの防護服が消失し、普段の陸士制服へと立ち戻る。それを受けて、エリオとキャロもバリアジャケットを解除して、平時の姿へと戻った。
 幸いな事に、エリオも、キャロも、怪我らしい怪我は負っていない。表情からは疲弊の色がありありと窺えるが、それだけだ。あの怪物と渡り合っていたのだから当然、その上で負傷がなかった事を素直に喜ぶべきだろう。

「済まんが、近隣の陸士部隊に連絡を入れてくれるか……さすがに、これを放置してはおけん」

 ここまで細切れにしてしまえば、いかに怪物と言えども戦闘不能のはずだ。しかし油断は出来ない――何せ、これは怪物であるのだから。人間の常識で測れる存在ではないだろう。
 加えて、機動六課の所属であるシグナムとしては、この怪物の正体も捨て置けない問題であった。先にチンクから聞かされたのは、スカリエッティの知己による研究成果。これが『JS事件』と無関係であるとは思えない、地上本部なり本局なりに残骸を搬送して、詳しく調査する必要がある。
 本来ならシグナムが連絡を入れるのが筋なのだろうが、実際問題、今のシグナムはそれすらままならぬ程に疲弊しきっていた。
 ――と。

「……! チンク、まだ……」

 通路の向こう側で、しゅん、と扉が開く音。音の聞こえた方へと視線を遣れば、そこにはランドリールームから恐る恐る顔を出したチンクの姿があった。戦闘が一段落したものと思い、様子を窺いに顔を出したのだろう。
 咎めるシグナムであったが、実際、戦闘は確かに終結している。ばらばらに斬断されたドラスの部品はぴくりとも動かず、機能を停止している事は明らかだ。故に、ふらふらとランドリールームから踏み出してくるチンクを、無理に制止する事もしなかった。

「…………」

 床に転がるドラスの頭部――斜めに断割され、半分になった生首――に近付き、片膝をついて、チンクはそれに手を伸ばす。
 指先が奇怪な光沢の残る皮膚に触れ、断面から滲み出る体液に濡れる。……ドラスは動かない。当たり前だ、ここまでばらばらにされて、尚活動出来る生物は存在しない。ネオ生命体にとってのそれが“死”であるのか単なる“機能停止”なのかは定かではないが、ともあれ、チンクに触れられた事が、何らかの変化を齎す事はなかった。

「……すまない」

 ぽつりと、チンクの口から漏れたその言葉。それを聞き取れたのは恐らくシグナムだけだっただろう。或いは呟いてすらなく、唇がそう動いたというだけだったのかもしれない。どうあれそれを聞き取った、或いは見て取ったシグナムは何と声をかけて良いものか判らず、エリオやキャロはチンクを不思議そうに眺め遣るだけで、さしたる反応を見せなかった。

 何故謝るのか。
 この怪物とチンクは、一体どういう関係だったのか。

 そんな疑問が泡の様に浮かんでくるが、結局、シグナムはそれを問い質す事はしなかった。
 しなかったのか、それとも出来なかったのか――それすら判然としなかったのだから、無言を通したのは確かに賢明であったと言えるだろう。





◆      ◆







 さて。
 ここから先は、ある意味で余談である――今回の一件におけるシグナム、エリオ・モンディアル、キャロ・ル・ルシエの役割が既に終わっている以上、エリオの視点から見る“その後”は単なる蛇足に過ぎない。
 とは言えエリオ本人はそれを蛇足とは思っていなかっただろうし、そもそも“その後”という物言い自体が、当事者であるエリオではなく傍から俯瞰する第三者の感想である以上、余談も蛇足も彼等にとっては必然であったのだが。

 ともあれ。
 エリオ達が機動六課隊舎に帰り着いたのは、日が西の空に没して間もなくの事であった。
 あの後。駆けつけてきた陸士部隊に事の顛末を説明し――説明と言うにはあまりに曖昧で、エリオ自身、不明瞭な点が多いと認めざるを得なかったが――事後を引き継いで貰い、ついでに戦闘が行われた場所の後片付けを手伝ってから、彼等はルーテシアやナンバーズに暇を告げて海上隔離施設を後にした。

 ドラスの残骸はやってきた陸士部隊が回収していった。地上本部の研究機関に持ち込んで解析するのだと言う。ウェンディあたりは『おおう、お約束のニオイがぷんぷんするっス。運び込まれたそこで怪物が復活、新たなる惨劇が始まるっスよ』とか何とか言ってノーヴェに頭を叩かれていたのだが、それはさておき。
 車を駐車場に停め、隊舎玄関のロビーにまで歩いてきたところで、先を歩くシグナムが足を止め、二人の方を振り向いた。

「ご苦労だったな、二人とも。今日はもう休め」
「はい。お疲れ様でした、シグナム副隊長!」
「お疲れ様でした!」

 ああ、と薄い微笑と共に頷いて、シグナムはオフィスの方へ歩いていった。恐らくフェイトに任せた(フェイトに奪われた、と言うべきか)仕事を片付けに行ったのだろう。
 エリオ達も本音を言えば手伝いたかったのだが、今日の戦闘で疲れ果てているのもまた本音、シグナムの言葉に甘えて今日は休養しようというのが、エリオとキャロの間で交わされた了解だった。

「それじゃ、エリオくん。わたし、いったん戻って着替えてくるね」
「うん。また後で、キャロ」

 ぱたぱたと手を振って去っていくキャロ(とフリード)を見送って、エリオもまた、隊舎内の男子寮にある自室へと向かう。

 今日はあくまで私用、休暇を使った外出だから、エリオやキャロは私服である。休暇なのに制服姿であったシグナムの方が変と言えば変なのだが、まあ常在戦場の心意気なのか、そこについては深く考えない。
 問題はその私服が、昼間の戦闘によって埃まみれになってしまった事だ。休暇自体は今日いっぱいだから、まだ暫く私服姿で居ても良いのだが、この埃まみれな服でうろつくほど、エリオは身嗜みに疎い少年でもない。
 また、埃まみれなのは服だけではない。エリオ自身もまた埃まみれで、戦闘の際に盛大に汗を掻いたものだから、汗が渇いた今はどうにもべとついて仕方ない。着替えるついでにシャワーを浴びようと、一旦部屋に戻ってから着替えを手に、エリオは隊舎内の大浴場へと向かった。

 ところが。

「あれ」

 やってきた男子大浴場の扉には、『清掃中』の札。無駄足だったかと内心で落胆しながら、また同時に、何でこんな時間に清掃しているんだろうという疑問も抱く。
 冬の早い日没とは言え、時間的には既に夜である。普段ならフォワード陣も訓練を終えて戻ってきている、一っ風呂浴びてから夕食にするのがいつもの事だから、この時間までに風呂掃除は終わっているはずなのだ。
 エリオの性格からして、それを怠慢だの何だのと罵る事は間違っても有り得ないのだが――それでも、少しばかりの不満を覚えた事に違いなく。
 まあ仕方ないか、と一つため息をついて、自室へ引き返そうとした、丁度その時。

「あ゛ー、やっと終わった……ん、あれ、エリオ君?」

 からりと大浴場の扉が開き、へとへとに疲れ果てたといった風情の結城衛司が、そこから顔を出す。踵を返したばかりのエリオの姿を見咎めて、その背に呼びかけた。

「あ、衛司さん」
「風呂? 丁度終わったとこだよ。遅くなってごめん」

 言いながら、衛司は『清掃中』の札を取り下げて、大浴場の中へと戻っていった。エリオもその後を追って、大浴場に入る。
 掃除が終わった直後なだけあって、大浴場――の、脱衣場だが――は塵一つない。掃除洗濯その他諸々の雑用に関して、衛司の手際は六課職員の間でも評価が高いのだが、その一端がここにも現れていた。
 で。その衛司はと言えば、清掃用具を脱衣場隅のロッカーに詰め込みながら、エリオの方を振り向く事なく声を掛けてくる。

「思ったよか時間かかっちゃったなあ……待たせちゃったよね」
「いえ、僕も来たばかりでしたから――けど確かに、普段より終わるのが遅かったですね。どうかしたんですか?」

 んー、と苦い声音で唸って、衛司はぱたんとロッカーの扉を閉じる。

「いや、大した事じゃないんだけどね。昼間、ちょっと事故があって、寮母さん達が寝込んじゃったんだ。僕とか、何ともない人が仕事代わったんだけど、やっぱり人手が足りなくて。全体的に仕事遅れちゃった」
「じ、事故!? 何があったんですか!?」
「事故、って言うと大袈裟だったかなあ。ちょっと気分が悪いって言ってるだけだし。軽い集団風邪かも」
「え、でも、寮母の人達だけが風邪ひくなんて――食中毒か何かじゃ……」
「それこそないと思うけど。寮母さんのご飯も隊舎の厨房で作ってるし、それなら他の人も倒れてるよ。寮母さんしか食べてないものなんて……あ、ない事もないのか。クッキー食べてたな」
「クッキー?」
「うん。午前中にシャマル先生が作ってた。お裾分けで貰ったんだけど、ほら、僕、あまり食べないから。アイナさん達にあげたんだよね。いやでも、クッキーで食中毒ってのもなあ。ナマモノじゃないんだし」
「………………」

 大体わかった。
 シャマルが作って、衛司が配った。六課内に悪評轟くシャマルクッキングも、シャマル本人からではなく、一見して無関係な少年から差し出されれば、誰も疑わず口にした事だろう。その被害が寮母の一部に留まっているのは、これは真実僥倖と言う他にない。
 衛司に悪意がないのが、また厄介な話であった――シャマルの料理に関して何の知識もないのだから、そもそも悪意も何もあったものではないのだろうが。
 世の中一番怖いのは、無知な者と無自覚な者であるという事か。

「……あれ? いや、でも――」

 シャマルが料理下手なのはエリオも聞き及んでいるが――そんな、人がぶっ倒れるようなレベルのものだっただろうか?
 漫画やアニメじゃあるまいし。

「なんでだろうね。僕も手伝ったんだけど、そんな変な事はしてなかったと思うけどなあ」
「え? ……衛司さんが、手伝ったんですか? クッキー作るのを?」
「うん。あまり料理の事は解らないから、シャマル先生の言う通りに動いて――いや、言う通りに動けてたのかな。料理なんかした事ないから、結構いっぱいいっぱいだったし。粉こぼしちゃったし卵に殻入っちゃったし。僕のせいで味が落ちてたかも」

 原因は貴方か。
 シャマルだけなら『変な味』で済む料理が、そこにもう一人のど素人が噛む事で『毒物』になったという事か。いや、勿論エリオの想像だけれど。

 と言うか、クッキーを配ったのが衛司で、それを作った(有毒化した?)のも衛司で、それによる被害の後始末が衛司に降りかかってきたというのなら――それは何処から見ても完璧に、自業自得ではあるまいか。
 マッチポンプにも程がある。

「まあ、ついさっき、みんな体調良くなったって言ってたから。明日には元通りだと思うよ」
「そ、それなら良いんですけど」

 引き攣った顔で答えるエリオに、どこか怪訝そうな顔を向けて――衛司もまた、着ているものを脱いでいく。

「衛司さんも入るんですか?」
「ん? ああ、今日はこれで仕事お終いだから。終わったらそのまま上がって良いって言われてるし、ざっと汗だけ流しちゃおうかなって」

 ちなみに衛司の服装は、作業し易いようにか、地味な色合いのジャージである。
 彼が持っている服は学校の制服とジャージが数着。元より衣服には無頓着であるらしく、エリオはジャージ以外の服装を見た事がない……まあ厳密に言えば、六課で初めて顔を合わせた時は制服を着ていたのだが。
 ジャージを脱げば、その下には無地のTシャツ。それも脱ぎ捨てて顕わになった上半身は、酷く肉付きの薄い、肋骨が浮き出た痩躯であった。体格の差もあるから一概には比べられないが、まだエリオの方が筋肉質と言える。
 もっと食べれば良いのに――これはエリオだけでなく六課職員に共通する意見であるが、食べすぎでぶっ倒れた事もあるだけに、それを勧められないのが残念なところである。

「……ん? どうかした?」
「あ、いえ――それ、ちゃんと付けてるんですね」

 視線に気付いて怪訝な顔をする衛司に、そう言ってエリオが指し示したのは、衛司の左手首に嵌められたバングル。
 まさかカラダを見てましたとも言えず、咄嗟の誤魔化しでバングルを指したのだが、衛司の方はそれに気付かなかったらしく「ああ」と左腕を掲げて見せた。

「そりゃまあ、また攫われるのは勘弁だしね。言われた通り、二十四時間付けてるよ」

 実はこのバングル、機動六課技術陣特製の超小型AMF発生装置である。言ってしまえばデバイスの亜種。
 勿論魔導師では無い、リンカーコアこそあれど機能不全で魔力を精製出来ない衛司にはデバイスなど使えないので、駆動は電力によるものであるが。同型機が他に二機あり、計三機を八時間ごとに交換して充電、二十四時間態勢で衛司の周囲にAMFを張り巡らせている。

 先日の転移魔法による拉致。まさか六課を襲撃しては来ないだろうという思い込みを逆手に取ったそれに、六課隊長陣は感嘆しながらもその対処を迫られた。
 頭を悩ませた末の結論は、衛司の周囲に常時AMFを展開する事で、転移魔法の行使を妨げるというもの。対ガジェット用のAMF研究の応用であった。

 ただしバングルが展開出来るAMFの範囲は、そう広くない――と言うか、衛司の周囲三十センチまで広げるのが精々だ。あまり広ければ彼を護る魔導師、この場合は六課フォワード陣であるが、彼等が魔法を使えなくなるし、そもそもバングルに内蔵出来る程度のバッテリーでは微弱なAMFを張るだけで精一杯。
 しかしそれで充分。転移魔法は術式構成や魔力結合に僅かな瑕疵があるだけで発動しない。微弱なAMFでも、充分に用を成すのだ。

「そう言えばエリオ君、やけに埃まみれだったけど、何かあった?」

 服を脱ぎ終え、浴場へと這入り、かけ湯の後で湯船に浸かって一息ついたところで――ふと思い出したように、衛司が訊いて来る。
 エリオが埃まみれの汗まみれになる事は別に珍しくない。訓練の度にへとへとのぐたぐたになってる訳だし、衛司が訓練場にタオルやら飲み物やらを持ってくる事も多いから、衛司にとっても別段珍しい事ではないはずだ。
 が、今日のエリオは非番であり、朝出て行く時に衛司と顔を合わせてもいた。どこかお出掛け? という質問に、友達に会いに行くと答えて出て行ったのだ。それが埃まみれになって帰ってきたのだから、衛司が不思議に思うのも無理からぬ事と言える。

「何か……って言えるほど、僕も良く解っていないんですけど。ちょっと、戦闘になって」
「戦闘って……え、会いに行ったっていう友達と?」
「いや、それだったら戦闘じゃなくて喧嘩って言いますから。違いますよ。いきなり、怪物が襲ってきて」
「怪物? ……オルフェノク?」
「いえ。僕も最初はそう思ったんですが、見た感じ全然違うものでしたし。オルフェノクとは別物だと思います」

 チンクが『ドラス』と呼んでいたあの怪物についての詳細を、エリオは聞いていない。そんな余裕が――時間的にも精神的にも――なかったというのが正直なところだ。しかしそれでも、あれがオルフェノクとは全く違う存在というのは、誰に説明されるまでもなく理解していた。
 戦場において相対する。それだけで充分だ、相手が何者であって、何者でないのかを知る為には。
 そっか、と呟いた衛司の表情に、どこか安堵した様な色が混じっていたのは――果たして、エリオの気のせいであっただろうか。

「でも、まあ、無事で良かったよ。――ああ、でも首が……」
「あはは。これは仕方ないです。この程度で済んだだけ、運が良かったですよ」

 衛司の指摘する通り、エリオの首にはくっきりと痣が出来ている。戦闘の際、ドラスによって首を掴まれた際に付けられたものだろう。制服を着てしまえば外からは判らないだろうが、その分、裸の今は酷く目立ってしまっている。
 首の痣を痛ましそうに見遣る衛司が、ふう、とため息を漏らした。

「……凄いよね、皆――エリオ君もだけど、さ。僕には出来ない」
「え? 凄い……ですか?」
「うん。誰かを守ったり、その為に戦ったり、傷ついたり。魔法が使えるからって事もあるんだろうけど――もし魔法が使えたとしても、僕には、真似出来ないよ」

 その声音が酷く自嘲的だったせいだろう、エリオには、衛司の言葉の真意は終ぞ理解出来なかった。ただ単に、『僕は弱い』という事を遠回しに言っているだけとしか解釈出来なかったのだ。
 それは決して的外れでは無く、衛司自身、そういう意味も込めての言葉であったのだろうが、その出生に曰くありつつも“人間”であるエリオと、正真正銘の“人外”である衛司との間には、目に見えぬ認識の落差がどうしようもなく存在していたのである。
 その落差にエリオが気付くのは、もう少し後の話だ。

「衛司さん……」

 彼の言葉を否定も肯定も出来ず、エリオが言葉に詰まったその時、衛司はやおら立ち上がって、湯船から上がってしまった。と思いきや彼はエリオの方を振り向いて、

「おいでよ。背中、流してあげる」

 と、エリオを手招きする。

「え……あ――はい、お願いします」

 衛司の誘いに、一瞬、躊躇してしまったエリオだったが――すぐに、笑みを浮かべて頷いた。

 別段、背中を流したり流されたりする事は珍しくはない。稀にではあるが、ヴァイスやグリフィスと共に風呂に入った時も、彼等の背中を流したりはしていた。ただ、それを誘われたのはこれが初めてであり、その相手が衛司だったという事が、返答に少しだけ時間のかかった原因だった。
 いつぞやの余所余所しい態度が、まるで嘘だったかのようだ。勿論、今の衛司の方がずっと良いし、このままの関係が続いてくれれば、それに越した事は無い。

 エリオもまた湯船から上がり、近くの椅子に腰を下ろす。衛司がその傍らに膝をついて、備え付けのボディソープを手拭いに吸わせ、ぶくぶくと泡立てる。

「それじゃ、痛かったら言ってね」
「はい」

 衛司の言葉に、エリオが朗らかな声音で応えた、その瞬間。



 ――しゃきん。



 耳慣れた音がエリオの耳朶を打ち、視界の端が赤黒く染まる。それは背後で何か、赤黒い光が輝いたと思しく……こと魔法文明に親しんだ者であれば、別に魔導師でなくとも、すぐにそれが何なのか連想出来ただろう。エリオもまた、その例外ではない。
 そう。まるで魔法陣が展開したような――誰かが何かの魔法を使ったような。

「……………………え?」

 そして。エリオの呟きに応える者は、誰も居らず。
 背後から人の気配が消失する。ぴちゃん、と天井から滴った水滴が、やけに長々と残響する。

 バングルを付けてるから大丈夫だと思っていた。AMFが展開されているから大丈夫だと思っていた。それが単なる思い込みであるなどと、まるで考えもしなかった。
 実際、高濃度のAMF環境下でも魔法を行使する技法は、かなり高難度ながらも存在する。機動六課隊長陣は皆、それを体得しているが――それは彼女達が特筆すべき実力の持ち主だからと、そう納得していた面があった。
 彼女達に比肩する実力者などそうそう居ない。それこそ、思い込み以外の何物でもないと言うのに。

 恐る恐る振り向いたエリオの目に映ったのは、誰も居ない大浴場。エリオ以外には誰も居ない、数秒前と比してやけに広々として見える大浴場の光景。
 背中を流そうと誘ってくれた彼の姿は、何処にもない。

衛司さぁああああん!?

 エリオの叫びに応える者は、誰一人なく。
 その名前だけが、空しく浴場に反響する――





◆      ◆







 ちなみにこの日は金曜日。地球と同様ミッドチルダの暦にあっても週末であり、その夜ともなれば、首都クラナガンの繁華街に繰り出す人の数は相当なものである。
 とは言えまだ時間的には宵の口、行き交う人々は繁華街に来た者とこれより帰路に着く者が半々と言ったところか。もう数時間もすれば酔漢の闊歩する混沌が現出するだろうが、今の時点では猥雑ながらも理性的な空気が保たれている。
 そう。その瞬間、クラナガンのメインストリートのど真ん中に、いきなり赤黒色の魔力光で編まれた魔法陣が出現するまでは、ごくいつも通りの週末の夜だったのだ。

「――へ?」

 不意に現れた魔法陣に、人々の視線が集中する。魔法文明に親しんでいる彼等は、魔法を利用した犯罪ともまた隣り合わせの日常を送っている。街中に突如現れた魔法陣から慌てて距離を取りつつも、奇異の視線だけは外さないあたり、その証左と言えるだろう。
 ゆっくりと回転する魔法陣は、まるで熾火の様な色合いの魔力光を一度強く明滅させたかと思うと、陣の上に何かを現出させた。どうやら転移魔法の類だったらしい。すわ爆発物かと一帯に緊張が走るも、現れたのは人間が一人だけ。
 転移魔法を行使した術者ではないのだろう、間の抜けた顔で周囲を見回して素っ頓狂な声を上げた『少年』は、次の瞬間、自分の出で立ちに気付いて赤面し――
 それに僅か遅れて、周囲のギャラリーも『少年』の格好に気付いて赤面し、或いは驚愕し――

「………………………っ、」

 悲鳴が上がった。





◆      ◆







 そして同時刻。
 クラナガンの上空を、一機の輸送ヘリが飛行していた。
 機動六課に配備されているヘリと比してやや旧型であるが、それでも地上部隊では最多の配備数を誇る優秀な中型輸送ヘリ。十名前後の兵員を空輸出来るヘリであるが、しかしこの日に限っては、操縦席に一人、助手席に一人、計二人しか乗り合わせていない。

 機内には小型のコンテナが積まれているばかりであり、外部から溶接され、専用の器具が無いと開封すら出来ない様にされたそれ以外には誰も乗っておらず、何も積まれていない。
 海上隔離施設から管理局地上本部へとこのコンテナを輸送せよ――操縦席と助手席に座る彼等に伝えられたのはその命令だけであり、コンテナの中身についての情報は何一つ与えられていなかった。

「なんだろうな、コレの中身。開けるな触るな気にするな、って言われてもよぉ。気になるっつーの」
「だよなあ。海上隔離施設からってのがまたわかんねぇ。あんなトコから何を運び出すってんだ」
「アレだ。『実録・女囚調教』とか何か、その類の映像データじゃね? 地上本部のお偉いさんがこっそり注文して、あそこで撮影してんだよ」
「ぎゃはは。そりゃいいな、実に俺好みだ。このままバックレてかっぱらっちまおうか」

 とは言いつつも、職務に忠実な彼等の事、本当に持ち逃げするつもりなど全くない。
 付言するなら、話題にこそしているものの、実際のところコンテナの中身に大した興味を持っていなかった。正体不明の物体を輸送する任務は彼等にとってある意味通常業務であり、それを専門とする部隊に属している以上、覗き見を趣味とする者が居ようはずもない。

 ただし今回に限っては、ほんの少しだけでもコンテナの中身を気にしておくべきだった。無論それは全てが終わった後、これより起こる奇怪な事象を観測した、居る筈の無い第三者……つまりは神の視点からでのみ語れる事であるのだが。
 コンテナの中身を知ろうと知るまいと、彼等の末路に変わりはなかっただろうが――それでも、事実の認識は例え僅かであっても、彼等の救いになっただろうから。
 逆説。彼等はそれすら許されず、最期を迎える事になる。

「――うん?」

 ばちっ、と火花が散るような音。ヘリのローター音の中ではあまりに小さなその音は、奇跡的に副操縦士の耳に届いた。
 助手席から身を乗り出し、背後を覗き込む。小型のコンテナが鎮座しているだけの機内を、彼は想像していたのだろう。振り向いた彼の表情は緊張とはまるで無縁で、だからこそ、次瞬にそれが恐怖と驚愕に引き攣る様は、ある種のコメディ映画もさながらだった。

「な、な、ぁああ!?」

 言語の態を為さない言葉が、喉から勝手に漏れていく。
 ばちっ、と更に火花が散る音。しかし今度は音だけではない、眼を灼く白光がそれに混じっている。操縦士もまた機内を覗き込んで、驚愕に表情を凍らせた。大型トラックが衝突しても凹みすらしないと謳われる、小型ながらも強度は折り紙付きのコンテナが、まるで虫食いのように抉られて――そこから、眩いばかりの光が溢れ出している。

 光は稲妻のように明滅して、その度、コンテナは箱の形を失いただの鉄屑へと堕していく。
 この日の昼間、海上隔離施設で起こった事件を、彼等は知らなかった。何が起こったのかも知らなければ、その後始末に当たった者達が『金属製の』コンテナに“残骸”をありったけ詰め込んだ事も知らず、それが致命的な失策であったなどと、想像すら出来なかった。

 一際強い光が、ヘリの内部を照らし出す。そして遂にコンテナは完全に形を失った。固形物ですらなくなった。水銀を思わせる不定形の何かに変化したかと思うと、それは急激に膨張し――四肢を備えた人型となって、機内に顕現する。
 ぬめりと金属の光沢を併せ持った膚。昆虫を思わせる触覚と眼球。どう間違っても怪物としか評する事の出来ないそれは、しかし苦しげに漏らすごうごうという吐息で、呼吸困難に陥った人間を連想させる。

 ……実際問題、“それ”が呼吸もままならない状態であるのは確かであった。身体を構築するだけで精一杯、否、びしゃんと液体金属に戻って床にぶち撒けられた右腕を見れば、それすらままならないと知れる。

〖…………〗

 ごぉお、と苦悶の呻き声が、機内に響く。
 操縦士も副操縦士も、目の前で起こる事象を理解出来ず、ただ言葉もなくそれを凝視するのみ。
 ぎらりと、怪物の右肩に備わったレンズ状の器官が瞬いた。――それが、彼等の目にした最後の光景。



 ミッドチルダの夜空に爆炎の華が咲く。
 炎と煙を目一杯撒き散らして、しかし次の瞬間には高空の強風に吹き散らされて。
 後に残るは歪な人型。
 ただ怪物としか評されぬ、完全を期して作られた未完成。



 『ネオ生命体』の恐怖は――まだ、終わらない。





◆      ◆





第拾壱話/了





◆      ◆







後書き:

 という訳で、第拾壱話でした。お付き合いありがとうございました。

 作中にもある通り、今回の時点でのドラスは原作のだいたい三割程度の能力に抑えられています。言語機能に障害が出るほどぼろぼろなのに、戦闘力だけ全盛期のままってのもおかしいかなと、ちょっと制限付けてみました。都合良くシグナムも制限付きですし。
 ドラス自体はもう暫く使い続ける予定なので、最終的には本来の戦力を取り戻すと思います。……原作以上になるかも。ディケイド完結編でやたら活躍してたから、ちょっと補正が入りそう。

 今回、ちょっと予定を前倒しでワーム(ネイティブですが)を出してみました。戦闘は次回以降ですが。当初の予定だと次回の戦闘がちょっとボリューム不足になりそうなので、何か無いかなと。カブト関連のネタがかなり後回しになりそうなので、伏線と言うには少し弱いんですが、ここで顔見せしておこうと。
 という訳で出してみたアルノルト・アダルベルトさん。名前は即興。最初は単なる冴えない中年男性だったんですが、ちょいキャラが弱いかなと試行錯誤した結果、渡世人かぶれの変な人になりました。どうにも拙作に出て来る怪人、人間態が『変人』になってしまって困ります。
 それと作中に出てきた単語『怪人同盟』。頂いた感想からのネタを借用させて頂きました。ありがとうございます。


 ちなみにあのタイミングで衛司が転移させられたのは偶然です。偶然ですってば。
 次回、いろんな意味で主人公に人生最大のピンチが来るような来ないような。



 それでは次回で。宜しければ、またお付き合いください。



[7903] 第拾弐話
Name: 透水◆44d72913 ID:35af097c
Date: 2023/12/29 20:51

 埃に塗れた暗闇の中に、ふわりと降り立つ白い影。
 墓場に灯る鬼火が如く、色褪せた白のローブが暗闇の中に舞い踊る。
 その数三つ、つまりは三人。
 ふわりふわりと揺らめくそれは、どこか道に迷い彷徨っているようにも見えて――否。それは彷徨ってなどいない。確固たる目的があって此処に居る。

 そも、此処は既に人が立ち入れる場所ではない。先だって進入を禁止され、更に先日の地震によって崩落した洞窟の最深部だ、尋常の人間には元より立ち入る術がない。
 逆説。立ち入れぬ筈のそこに踏み入った者達が、無為にそこへ足を運んだはずもなく。

 かつての次元犯罪者、ジェイル・スカリエッティが根城としていた山肌の洞窟。大半が崩落によって瓦礫と土砂に埋め尽くされたその中で、奇跡的に残った僅かな隙間。
 数日前までガジェットの骸が堆く積み重ねられていたそこに、今、条理の埒外と知れる三人の男女が現出する。
 いや、そもそも“男女”という表現すらそぐっているかどうか。男や女といった“生物としての”区別から、彼らはとうの昔に逸脱している。ローブの隙間から覗く面貌を一目見れば、それは瞭然と言えよう。

 故にここで“男女”と呼ぶのは、あくまで便宜的なものでしかなく。
 一人は朽ちた浮木の如く罅割れた、白墨を思わせる白い肌の老人。
 一人は翡翠の原石を思わせる、硬質かつ緑色の膚の男。
 一人は漆器の如き光沢の面皮と、右半面に痣とも見える文様を刻んだ女。

 彼等こそ、かつて次元世界にその名を轟かせた邪教集団の大幹部。神と戴く創世の王に仕える大神官。
 ダロム、バラオム、ビシュム――暗黒結社ゴルゴムの最高幹部、三神官。それが、機械兵器の墓場に浮遊する白い影の正体であった。

「……おらんな。反応は間違いなく、ここから出ていたというのに」

 スカリエッティが築いた拠点は、地下数十メートルに及ぶ広大かつ深遠なものだ。その最下層に機械兵器ガジェット・ドローンの廃棄場は存在している。この廃棄場一つで他の施設総てと同等、或いはそれ以上の広さがあって、四方を囲まれた地下施設でありながら、バラオムの声はどこにも反響する事なく暗闇に消えていく。
 ただ、それは空間の広大さに加えて、音を反射する物が何一つない事も挙げられよう。かつてはこの広大な面積を埋め尽くしていたと思しきガジェット・ドローンの残骸は、今や影も形も見当たらない。まるで何者かに根こそぎ食い尽くされたかのようだ。
 その“何者か”が何であるかなど、考えるまでもない――それを求めて、彼等はこの暗闇に赴いている。

「……ネオ生命体ドラス。我等ゴルゴムの信奉者、望月博士の作り上げた究極の生命体」

 ビシュムの呟きに、うむ、とダロムが重々しく頷いた。

「然様。彼奴の言が真実ならば、それは我等ゴルゴムにとって有用となるに違いない――だからこそ、我等は彼奴をゴルゴムの一員として迎え入れ、その研究を援助した」

 かつてゴルゴムは、機械工学、遺伝子生物学など、様々な方面で第一線を張る科学者達を拉致し、或いは家族を人質に、ゴルゴムの為の研究を強要した。
 それは或いは主戦力である“怪人”の強化であったり、或いは武器兵装の開発であったり、時には巨大な機械兵器の製造であったりもした。

 ただし、ゴルゴムの手管は決して強要、無理強いに限定されるものではなかった。表沙汰に出来ない研究、学会に認められない成果、社会倫理に照らして『否』とされる領域に踏み込んだ者に手を差し伸べたのも、またゴルゴムであったのだ。
 手厚く保護し援助を惜しまず、その研究を継続させた。無論それは善意からの事ではない、その成果を吸収、自らの戦力とする目算があっての、打算的な行動である。
『ネオ生命体』と呼ばれる生物兵器の研究を行っていた望月という男もまた、その中の一人だった。生憎、その研究が形となるのは、ゴルゴムが第97管理外世界で滅び去ってから数年後の事であったのだが。

 あくまでこれは仮定の話だが、ネオ生命体がゴルゴムの戦力として運用されていたのなら、或いはゴルゴムの滅亡も避けられていたかもしれない。
 ゴルゴムの側にしてみればそう期待値の高い研究という訳でもなく、研究の完成を待たず最終作戦を実行に移したのだが、結果としてそれが彼等自身の滅亡に繋がったのは、これは皮肉という他ないだろう。

 ともあれ――何の因果か偶然か、先だって復活したゴルゴムは、自分達とは全く関係のないところで潰えていたその研究を捜し求めた。
 無論、優先させるのはゴルゴムの至宝、キングストーンの捜索だ。しかしそれも先日、時空管理局本局にて回収に成功している。片手間であったネオ生命体の捜索はこの時に本筋となり、そして遂に昨日、その所在を掴んだのだ。次元犯罪者、ジェイル・スカリエッティが保有していると。
 しかし。

「一足、遅かったようだ」

 そう。既にドラスは此処には居ない。ガジェットの残骸を糧とし、身体を構築して、この場を後にしている。
 何処へ消えたのかは見当も付かない。ネオ生命体も、ゴルゴム三神官も、人外であるという一点において共通だが、その在り方は全く異なるものである。ドラスの思考や目的が辿れるはずもない。
 なれば畢竟、彼等が辿るべきは思考や目的では無く。より現実的な“痕跡”である。

「――見つけたぞ。僅かに、残滓が残っている」

 ネオ生命体ドラスが既存の生命体と“生物として”最も異なる点は、無機物を有機物が如くに変質させ、己の肉体としている点にある。
 一体如何なる原理においてそれが為されているのか、創造主たる望月博士亡き今、それは解答の失われた謎として放置されるより他にない。
 故にここで問題とすべきは、ドラスの肉体構築には膨大なエネルギーを要するという事実だ。

 ただの人間や魔導師は勿論の事。ネオ生命体であっても、或いはゴルゴム三神官、いや進化種たるオルフェノクや異星生命であるワームに至るまで、存在する限りそれらは逃れようも無く物理法則に縛られる。
 何らかの事象を起こそうとすれば、その引鉄となるだけのエネルギーが必須なのは言うまでもない。ましてドラスのそれは物質に本来起こり得ない変質を発生させるものである。必要とされるエネルギーがどれほどのものであるか、想像は容易く……バラオムがその残滓を捉える事、そしてそれが流れていく先を掴む事も、また容易な事であった。

「往くぞ。ネオ生命体ドラス――必ず、我等ゴルゴムが手に入れる」

 暗闇に白いローブが翻る。
 しかしそれも僅かに一瞬、その姿は夜気に溶ける紫煙が如くに、暗闇の中へと消え失せていた。





◆      ◆





異形の花々/第拾弐話





◆     ◆







 機動六課にとって、拉致された結城衛司を救出するべく緊急出動するのは、これで二度目――しかし前回が完全な不意打ちであったのに対し、今回は一度そういった手段を取られたという経験がある。当然、相手が再度同様の手段を行使してきた場合を想像し想定し、その処方も万端……とは言わずとも、それに近い程度には整えていた。
 更に今回、六課が捕捉した転移反応は一つきり。囮の転移反応が複数確認された前回と異なり、ただ一つきり確認された転移反応は、それが罠である可能性はどうしても排除出来ないものの、即応を妨げるものではなく。
 結果として。転移反応が確認されてから三分と経たず――衛司が転移魔法によって拉致されてから十分経たない内に――機動六課の面々は、反応が確認されたクラナガンのメインストリートへと向かうヘリに乗り込み、現場へと向かっていた。

 機内には機動六課スターズ分隊――高町なのは、ヴィータ、スバル・ナカジマ、ギンガ・ナカジマ、ティアナ・ランスター――とライトニング分隊――フェイト・T・ハラオウン、シグナム、エリオ・モンディアル、キャロ・ル・ルシエ――の計九名。
 さすがにこの人数が一度に乗り込めば、最新鋭輸送ヘリもやや狭苦しく感じる。が、それでも機内には充分なスペースがあり、狭く感じる事など本来は有り得ない。

 そも、彼女達は実際のところ、機内を狭く感じている訳ではない。機内に満ちる微妙に重苦しい雰囲気に、圧迫感を覚えている……そう言った方が現実に近い。
 しかもその“重苦しさ”に、“沈鬱”という意味合いが含まれていないのだから、どうにも、居心地が悪いのだ。

「……その、何だ、エリオ。さっきも聞いた事だけどよ、もっかいいいか?」

 重苦しい雰囲気に耐え切れなくなったのか、ヴィータがエリオへと向けて口を開く。
 はい、と頷くエリオは、同僚や上官の少女達と異なり、上気したように顔を赤らめている。見れば髪の毛も全体的にしっとりと濡れていて、普段は全体的に跳ね癖の強い髪が、今はさらさらと直毛に近い状態であった。
 さにあらん。彼はつい先程まで入浴中であり、緊急事態という事で急遽飛び出してきたのだ。風呂上りの姿としてはむしろ自然であり、その風呂上りの状態でヘリに乗っているこの状況の方が奇妙と言って良い。

「えっと――衛司がお前の背中を流そうとしたところに魔法陣が出てきて、振り向いたら衛司の姿が消えていたんだよな?」
「はい。魔法陣そのものは確認してませんが、魔力光は視認しました。赤……って言うか、赤黒い感じの色で」

 魔力光の色は基本的に指紋や声紋と同様、個々人で異なるものである。一見して同色に見えても明暗などに僅かな差があり、実質、完全に同色の魔力光は存在しない。魔法を使った犯罪などでは、魔力光の色彩を基に犯人を割り出すという捜査手法が一般的となっている。
 今回、エリオが目撃したのは赤黒色の魔力光。濁り淀んだ血液を思わせるその色彩は、先日、ギンガ・ナカジマやシャリオ・フィニーノの前から結城衛司を連れ去った魔法陣のそれと同色であった。
 暗色の魔力光というのは割と稀少であり、前回と今回、衛司を拉致する為の転移魔法を行使した魔導師が同一人物であると知れる。

 が――ヴィータが聞きたかったのは、そういう事ではないらしく。
 あー、いや、そのな、と散々口篭った挙句、何とか彼女は言葉を搾り出す。

「風呂に入ってる時に、攫われたんだよな?」
「………………はい」

 ヴィータが何を言いたいのかを察したのだろう、エリオは言葉少なに頷いた。
 そう。風呂に入っている時に、だ。この一点こそが重要……少なくとも、機動六課の女性陣にとっては。
 結城衛司は入浴中に攫われた。無論、その時の彼が衣服を着用している筈が無い。手拭いの一枚くらいは持ち合わせているだろうが、そんなものが何の役に立つのかと言われれば、これはもう何の役にも立たないと言わざるを得ないだろう。
 いや。回りくどい言い方はするまい。つまるところ今の衛司は、

「裸、という事になるな」

 ぼそりと呟いたシグナムの言葉が、正解だった。

「…………………………」

 機内に満ちる嫌な沈黙。
 今更説明するまでもない事だが、機動六課の主戦力たるスターズ分隊・ライトニング分隊を構成するのは妙齢の女性と少女である。
 例外はエリオ・モンディアルただ一人。それとて彼の年齢のせいか、仲間達から“男性”という目で見られていないのが現状だ。いつぞや第97管理外世界への出張任務に赴いた際、現地の入浴施設における一件を思い起こせば、成程それは明らかである。

 が。相手が十四歳の少年となれば――さすがに、そういう訳にもいかなかった。
 エリオと四つ五つ齢が離れているだけ、そう納得するには、十四歳という年齢は何とも微妙であったのだ。“子供”から“男性”に変質しつつある思春期の少年の、その裸体。それに何も思わないほど、機動六課の女性陣は枯れた女ではない。

 つまるところ。機内に満ちる沈黙は、それが故の事。この先に待ち受けているであろうオルフェノクとの戦闘とか、もしかしたら再び介入してくるかもしれない仮面の男とか、そういう不安要素はもう完全に二の次である。
 と言うか彼女達にしてみれば、そんな事はもうどうでも良かった。

「早く助けに行かないと――衛司さん、風邪ひいちゃいます!」

 ただ一人、キャロだけがその沈黙の意味を致命的に誤解していたのだが。
 勿論、その誤解は彼女の純真さに起因する事で……それを糺す者は、糺せる者は、生憎この場には誰一人居なかった。





◆      ◆







「ええそうです、そこ、その辺りにいきなり出てきて」
「はい、真っ裸でした。なんか風呂に入ってる途中で飛び出してきた、って感じで」
「年齢? 十代の半ばくらいですかね……十四か十五くらい? 子供なのは間違いないんですけど」
「あんな齢の子供が露出狂だなんて、世も末ですよね」


 以上、『変質者が現れた』という通報によって駆けつけてきた管理局員に対する、目撃者の証言である。
 もし結城衛司がそれを聞いていたとしたら、ふざけるな、と叫んだ事だろう――彼は紛れも無い被害者であり、一糸纏わぬすっぽんぽんで街中に放り出されるという異常事態に、何の原因も何の責任も無いのだから。変質者扱いは冤罪以外の何物でもない。
 しかし同時に、変質者として扱われるのも致し方ないところ。何せ先述した通り、今の彼は下着一枚身に着けていない、公序良俗に真っ向から喧嘩を売るあられもない姿なのだ。如何に冤罪と主張したところで説得力も信憑性も皆無である。問答無用で逮捕されるのが関の山であろう。

 故に逃げた。クラナガンのメインストリートを脱兎の如く逃げ出し、路地裏に身を潜め、運良く転がっていたダンボールで最低限隠すべきところを隠して(勿論隠れているのは“前”だけであり、後ろは丸見えである)。
 つまるところ。幾ら異世界でも、自分を知る者の居ない異郷の地であっても、性犯罪者として捕まる事を良しと出来るほど、結城衛司は社会倫理に縁遠い少年ではなかった……という話である。

「ううう……なんでこんな事になってるんだよう……」

 半べそかきながら漏らした泣き言は、誰の耳にも届かず暗い路地裏に消えていった。
 これ全然役に立ってないじゃん、と恨みがましく左手首のバングルを睨み付ける。機動六課技術陣特製、超小型AMF発生装置。
 前回の転移魔法による拉致を教訓に、同様の手段を防止する目的で急遽開発されたアイテムである。常に微弱なAMFを展開する事で転移魔法の発動を阻害するという触れ込みの機器であるのだが、しかし実際問題、衛司がこうして転移魔法で拉致されている以上、役に立ってないという衛司の言に間違いはない。

「ああもう、誰でもいいから、誰か助けて……あ、いや、それも困る」

 割と極限状態に追い込まれてはいたものの、それでも衛司は最低限冷静だった。今の自分の格好を把握し、『誰でもいいから』と言った場合真っ先に助けに来るのが誰であるのか、それを察する事が出来る程度には。

「ギンガさんとかティアナさんとかスバルさんとか……ああ、もしかしたらなのはさんも来るかも……」

 実際はそれにフェイトとシグナム、ヴィータ、そしてキャロとエリオ(まあエリオに関してはこの場合例外としても良いかもしれないが)も加わっているのだが、まさかそんなオールスターが救出に向かっているとは、知る由もなく。
 そして今更言うまでもなく、法に触れるとか性犯罪者の烙印とかの問題とはまた別に、衛司には“見られて悦ぶ”変態趣味の持ち合わせはない。これっぽっちもない。
 助けに来て欲しいけど来て欲しくない。そんな二律背反に苛まれながら、少年は路地裏で身を縮こまらせる。この時点で既に暦は冬、実は割と切実に凍死の危険もあるのだが、幸か不幸かそれに思いを致す余裕は、今の衛司には欠片もなかった。

 ……そう。今の衛司には、欠片も無く。
 そして残念ながら、これより先の衛司にも、有りはしない。
 何故なら――

「…………っ!」

 ざり、と靴裏がアスファルトを削る音に、衛司は振り向く。
 まずい管理局の人かここじゃ逃げ場も無いぞどうしよう裸で人前に出るのって確か猥褻物陳列罪だっけけどミッドチルダにそういう犯罪ってあるのかないやいやない方がおかしいだろ主人公逮捕ってなんか打ち切り漫画っぽいよねいやもう打ち切っちゃった方がいいんじゃねよしこれで『異形の花々』もお終いだご愛読ありがとうございました――という思考が振り向くまでの一瞬に走馬灯の如く脳裏を過ぎって、しかし振り向いた次の瞬間、彼はまるで予想外の展開に、目を瞬かせた。

「へ……?」

 間抜けな声が漏れていく。
 路地裏の薄闇とは言っても繁華街の中心部、差し込むネオンの光はある程度の光源となって視界を確保している。いつの間にか背後に居たその男の風体を見て取るのは、そう難しい事ではなかった。

 しかし、その男の風体に関してコメントする事は、これは難しい――と言うか、不可能だった。路地裏とは言え市街地のど真ん中で真っ裸な衛司の姿も大概だが、男の姿もまた(さすがに裸ほど犯罪染みていないとは言え)、奇妙奇天烈であったのだ。
 三度傘、道中合羽、脚絆に手甲、ご丁寧に振り分けも装備している。まるで時代劇に出て来る渡世人さながら……と言うには片手落ち。道中合羽の下はどこにでも居るサラリーマンよろしくのスーツ姿であり、三度傘を外して顕わになった面貌は、金髪碧眼の見るからに西洋人染みたものであった。
 コスプレと言うにはいささか物足りない、それは日本かぶれの外国人が、半端な知識で揃えたグッズを身に着けているという程度の姿としか思えない。

 尤も、此処は日本から、いや地球から遠く離れた異郷の地ミッドチルダ。ここ数ヶ月で衛司が見た風景の中には、明らかに日本文化としか、或いはそれを元とした文化としか思えないものも多々あった。そしてその大半が、オリジナルを知る衛司の目からすればやや首を傾げるような代物であったのだから、眼前の男の奇妙な風体も、そういう物として納得するしかないのだろう。
 ともあれ、男は三度傘を小脇に抱えると腰を落とし、手を差し伸べるような姿勢で、衛司に相対する。

「お控えなすって、お控えなすって」
「へ……? あ、えと、お、お控えなすって?」
「早速のお控え有難うござんす。そちらさんとはお初にござんす、手前、生国と発しますは第3管理世界はヴァイゼンにござんす、ヴァイゼンはトリリア地方のカルスルエ、トリバーガの滝で産湯を使い、姓はアダルベルト、名はアルノルト、人呼んでセパルチュラのビリディスと発しやす。以後、面体お見知りおきの上、お引き立ての程宜しくお願い致しやす」
「あ、ああ、はい。よろしくです」

 何をどう宜しくすれば良いのか見当もつかないが、とりあえず、社交辞令として頭を下げておく。
 そして男はと言えば、衛司の反応に対し、何やら嬉しそうに笑みを浮かべる。何が男の琴線に触れたのか定かでは無いが、そのせいだろう、衛司が何の用かと質す前に、彼は先んじて用件を、己の目的を口にした。

「いきなりの本題、ご勘弁くだせえ。そちらさんにゃあ何の恨みもございやせんが――お命、頂戴致しやす」

 瞬間、男の姿が変化した。
 奇天烈な格好をしてはいたものの、それでも人間としてまともであったその姿が、一瞬にして人外のそれへと姿を変えたのである。
 まるでオルフェノクが人間の姿から戦闘態たる異形へと変質するように。だが違う。それはある意味でオルフェノクの“変化”と同義でありながら、発生する現象エフェクトが完全にオルフェノクのそれと異なっており――そして、現出する異形もまた、オルフェノクのそれとは一線を画していた。

 右腕に鋭利な鉤爪。左腕は盾と一体化した巨腕。左半身は黒光りする甲冑で鎧われ、反して毒々しい緑色に染まった右半身は余計な装飾のないシンプルなもの。その非対称性が見る者を圧倒し、事実、衛司の背筋に冷たいものを走らせる。
 人骨を思わせる灰一色のオルフェノクと異なり、その異形の――あくまでオルフェノクと比してであるが――鮮やかな色彩を誇る体表は、明らかに別種の生物であると一目で知れた。
 ……そう、生物だ。灰一色という色彩のせいかどこか非現実的で、骨格標本のように作り物染みているオルフェノクに対し、その異形は生命としての存在感を充二分に外見から放射している。その存在感こそが、衛司をして目の前の異形をオルフェノクとは別種の何かであると気付かせた要因であった。

 だが知らない。結城衛司は異性生命体『ワーム』の存在を知らない。彼等が持つ固有能力の脅威を知らず、必然、その処方とて知る由もない。
 故に。怪物の姿が突如として掻き消えた瞬間、衛司が咄嗟に雀蜂の、ホーネットオルフェノクの姿へと変化したのは、ただ危機を察知する本能によるものだった。本能が思考を凌駕し、判断に先んじる反射が、彼の本性を顕わとさせる。

〖ぐぁうっ!?〗

 次瞬、猛烈な衝撃が彼の身体を中空へと弾き飛ばす――かと思いきや、続く衝撃が今度は雀蜂の体躯を地面に叩き付けた。アスファルトが砕け割れ、剥き出しの地面が強かに彼の総身を打ちのめす。骨まで軋む衝撃は、それが何者かの攻撃によるものと悟らせるには充分過ぎた。
 オルフェノクの姿になっていなければ致命傷。防具もなく武器もなく、皮肉なまでに文字通りの丸腰であった数秒前の衛司なら、この時点で絶命していたはず。

〖ぐ……っ、う〗

 何だ今のは?
 一体――何をされた?
 身体を地面から引き剥がすようにして起き上がる。しかしその挙動とは別に、頭の中はぐるぐると回る疑問符で埋め尽くされている。突如として掻き消えたあの怪物。直後の衝撃。この二つに関連性が無いと考える程、衛司は暢気な頭をしていない。

 透明になって攻撃している? ……いや違う。そうじゃない、それなら気配で判る。

 闘争本能の具現たるオルフェノクにとって、敵の気配を感知する事は呼吸と同様に容易い事。これは雀蜂にも当然のように備わっている能力であり、事実、今相対している敵の気配も感知しているのだが、しかしそれが明滅するかのように周囲三百六十度、至るところから感知出来るのは、一体どういう事か。
 思考を中断させたのは、またしても衝撃。今度は横から。軽々と吹き飛ばされた雀蜂が側面の壁に激突して、ずるりと崩れ落ちる。

〖そう……か、こいつ……!〗

 僅か二合で、衛司は答えに辿り着いた。
 学業の成績も運動能力も中の下程度の衛司であるが、戦闘という極限状況、そして人外たる雀蜂の姿に立ち戻った事、それらが彼の洞察力を常時の比ではない程に研ぎ澄ましている。たった二合、三撃をその身に受けた事で、彼は敵の攻撃の正体を悟った。

 攻撃を受けた方向から考えるに、明らかに敵は視界の中に居る。にも関わらず見えない。透明になっている訳ではない、それでは周囲で明滅する気配の説明がつかない。
 故に衛司は結論した。速度だ。圧倒的な高速で、視認出来ない速度で動き回っている。速度が僅かに緩まった時だけ、雀蜂の知覚が敵の気配を感知出来ると言うのなら、不可解な気配の正体も納得出来る。

 衛司の予想は、実のところ八割方正解を衝いていた。
 これぞ異星生命体ワームが共通して備える特殊能力が一つ、『クロックアップ』。一般的にネイティブと呼称される種族に属するアルノルト・アダルベルト、セパルチュラワーム・ビリディスもまた当然のようにこの能力を保有し、それによって結城衛司を、ホーネットオルフェノクを追い詰めている。
 しかし。

〖速度って、言うのなら――!〗

 べきべきと音を立てて、雀蜂がその外殻を変形させていく。背部に形成された二対四枚の翅が、ぶぅんと耳障りの悪い音を奏でて震え始める。
 敵のアドバンテージが“速度”であるのなら、まずはそのアドバンテージを潰させて貰う。
 速度特化の第二形態、飛翔態へと変化したホーネットオルフェノクが、側面の壁を蹴って跳躍――三角飛びの要領で交互に両側面の壁を蹴り、狭い路地裏からビルの屋上、そして空中へと躍り出た。

 クラナガンの夜空に雀蜂が勇躍する。眼下のネオンに照らし出されたその姿は、しかし人々の目に触れる事はなかった。
 繁華街を行き交う皆が皆、一夜の狂騒を楽しむ事に夢中で、夜空を見上げる余裕も必要も皆無であり。
 そして何より、夜空に舞った雀蜂が、次の瞬間にはそこから叩き落とされていたからだ。

〖ぁ――ぐぁっ!〗

 背中を殴りつける衝撃に、一瞬、気が遠くなり――次瞬、ビルの屋上に叩きつけられる痛みで覚醒する。
 起き上がるまでに半秒。一体何をされたのかと、数瞬前まで自分が居た空を見上げるまでにもう半秒。合わせて一秒、だがその一秒が、致命的な隙。そしてその隙を敵が見逃すはずもなく、更なる攻撃が、更なる衝撃が、衛司に襲い掛かる。

 顔面を鉄塊でぶん殴られたかのような衝撃に吹き飛ばされ、ビルの屋上から落下する寸前、屋上の縁を蹴る事で態勢を立て直す。
 ぶぅんと背中の翅が唸り、瞬発的に亜音速にまで達するその速度を以って隣のビル、そしてもう一つ隣のビルにまで移動。傍から見れば瞬間移動と大差無い、VTRのコマ送りが如き高速移動。
 にも、関わらず。

〖残念。逃げ場はござんせん〗

 距離を取ったはずのそのビルに、敵は既に待ち構えていて。
 雀蜂が瞠目した瞬間――無論比喩であるのだが――再びその姿が掻き消え、同時に腹部に痛烈な打撃が撃ち込まれる。
 くの字に身を折って崩れ落ちる衛司の顎を、追撃の一打が跳ね上げる。屋上に大の字になって倒れこむと同時、セパルチュラワーム・ビリディスが、再度その姿を現した。

〖あ……ぐ、ぎ〗
〖む。なかなか頑丈でござんすねェ。割と本気で打ち込んだんですがねェ、あっしァ――〗

 脳を揺らされたせいか、回転する視界と流動する意識で、衛司は必死に考える。何故追い付かれたのか。速さでは決して引けを取らない筈なのに、こうも一つずつ上を行かれるのは、いったいどういう訳か。
 衛司は知らない。ワームの保有する特殊能力、クロックアップの詳細を。己の現状が、その無知が故に生じた順当な結果である事に、気付いていない。

『クロックアップ』とは、体内のタキオン粒子を操作する事による時間流の緩慢化――それによる相対的な超高速移動能力の通称である。
 より解り易く換言するなら、それは超高速の速度域に“在り続ける”能力と言って良い。一挙手一投足、思考や感覚に至るまで全てが加速された状態を維持する事、それこそがクロックアップの正体。

 最高速という点で比較するなら、恐らくホーネットオルフェノク飛翔態に軍配が上がるだろう。だが最大速度に達する前、加速に入る直前の挙動を、クロックアップ中のワームはつぶさに見て取れるのだ。筋肉の隆起、視線の方向、踏み出す足の角度。それら全てを把握するのなら、先読みは難しい事ではない。
 どれほど最大速度が速くとも、初速と最高速度に厳然とした落差が存在する以上、ホーネットオルフェノクはセパルチュラワーム・ビリディスに追い付けないのだ。

〖……じゃあ、追わなければいい〗

 ぼそりと漏れたその呟きは、恐らく、敵の耳には届いていない。
 敵の能力の詳細は判らない――だが、それが自身の能力で、飛翔態で対抗出来るものでない事は、充分に解った。
 ゆらりと幽鬼の如く立ち上がる雀蜂の姿に、迷いはなく。
 無論、次の瞬間に雀蜂が取った行動にも、迷いのあるはずがなかった。





◆      ◆







 その瞬間、標的である雀蜂の取った行動に、セパルチュラワーム・ビリディス――アルノルト・アダルベルトは思わず眉を顰めた。
 勿論比喩だ、ネイティブ・ワームとしての本性を表したアルノルトには、顰める眉がそもそも無い。まあそれに関しては余談だろう、この場面で説明の要があるのは、つまり雀蜂の行動の意図を彼が理解出来なかったと、ただそれだけである。

 不意に雀蜂の左腕が蠕動したかと思えば、左前腕が変形、尺骨側に筒状の器官が形成される。まるで銃器のようだ、というアルノルトの予想に違わず、次瞬、機関銃の如き速度で、それは針の如く細長い弾体を撃ち放った。
 しかしその飛針が穿ったのはアルノルトではなく、雀蜂の足下、ビル屋上のタイル。加えて雀蜂はその場で左脚を軸に回転、自身を中心とした円形に、ミシン針の如く床面を穿っていく。
 必然、刳り貫かれる形となった床面は重力に引かれて落下、雀蜂諸共建物の中へと崩落する。

〖は! 逃げようって腹でござんすかァ!? そうは問屋が卸さないってェやつでさァ!〗

 夜闇に包まれた視界が白色を帯びて、万物の動きが急激に停滞する――クロックアップ発動時特有の、緩慢化した時間流の中の景色。
 建物の中へと消えた雀蜂を追い、アルノルトもまた、屋上に穿たれた穴から建物の中へと飛び込んだ。
 クラナガンの繁華街に隣接する形で存在しているオフィス街、林立するオフィスビルの中でも取り立てて特徴のない一棟。さすがに屋上で戦うならまだしも、屋内での戦闘となれば建物内に居る人間に感付かれる。騒ぎになると面倒だ、その前に始末をつける。

〖あの小僧をぶちのめしゃァ、伽爛の姐さんもあっしを無視出来なくなるってもんでござんしょ……!〗

 言葉となって漏れる目算。思わず口をついたそれが我ながら可笑しくて、アルノルトはつい笑みを浮かべてしまう。
 アルノルト・アダルベルトにとって、結城衛司の殺害は手段であって目的ではない。そも、ワームである彼には、あの少年を殺す事によるメリットが薄いのだ。

 臥駿河伽爛や結城真樹菜の目的の為に、少年にワームとの戦闘経験を積ませるというのは理屈としてアルノルトも理解している。だがそれはあくまで伽爛や真樹菜の理由だ。アルノルトがそれに付き合い、殺し合いに臨む動機には成り得ない。
 ならば、何故。

 隠す事ではないし、伽爛や真樹菜もそれを知った上で彼を送り込んでいるのだから、ここで明かしてしまうと――アルノルトが結城衛司を殺す理由。殺人の動機。それは奇しくも、伽爛と真樹菜があの少年に期するところと全く同一であった。
 そう。彼女達が結城衛司を鍛え上げようとするのと同様、アルノルト・アダルベルトもまた、強敵との戦闘、困難な任務によって己を鍛え上げるつもりでいたのだ。

〖今度こそ――次ィ殺り合う時にゃァ、あんな無様は晒さねェ……!〗

 アルノルト・アダルベルトが臥駿河伽爛と衝突したのは、もう三年ほど前の事になる。
 理由は忘れた。或いは、理由などなかったのかもしれない。アルノルトと伽爛はごく自然な成り行きで戦闘を開始して、ごく当然の様に勝者と敗者を決定した、それだけの事。

 結果、アルノルトはぼろ負けした。

 一矢報いる事も出来なかった、死なば諸共と道連れにする事も出来なかった、どころか腕一本へし折る事すら出来なかった。徹底的に徹頭徹尾、上から見ても下から見ても、何をどう見ても文句の言えない、言い逃れ出来ない惨敗であった。
 リベンジはいつでも受け付けるわよう、と伽爛は言った。だが一日二日で埋まる実力差で無い事は、アルノルト自身が誰よりも実感し、理解していた。

 その日から、彼の特訓の日々が始まった。来る日も来る日も特訓、鍛錬、修行に稽古。一昔前のスポ根アニメよろしく、まさしく地獄の特訓を己に強いた。
 それが擬態のモチーフとなった『アルノルト・アダルベルト』の人格が故に成せる事であったのか、それともネイティブ・ワーム『セパルチュラワーム・ビリディス』の性格がそれ以外の選択肢を排除した為なのか、そこは定かではないけれど。

 そうして三年――彼は強くなった。
 今なら負けない。臥駿河伽爛にも、コックローチオルフェノクにも。だが三年の月日が鍛え上げたのは決して己だけではない、そう考えられる程度には、彼は冷静で、かつ頭が回った。自分がこの三年で強くなったのなら、伽爛とてこの三年で強くなっている可能性は否定出来ない、と。
 或いはそれは過日の敗北が必要以上に彼を慎重にさせていただけかもしれないが、それはさておき。

 いつリベンジを仕掛けるべきか悩みながら、もしくは機を窺いながら日々を過ごしていたそんなある日、彼はふとしたきっかけで伽爛から“仕事”を持ちかけられた。彼にとってそれは更なる階梯へと踏み出す好機と映り、誘いに対して微塵と悩まず、それを快諾。
 仕事の内容そのものは少年の殺害というつまらないものであったが、そんなつまらない仕事をわざわざ伽爛が回してくるはずがない。きっと何がしかの裏がある、そう思って引き受けてみれば、果たして少年はオルフェノクであり、それもかなりの腕利きと一目で知れた。
 一見の印象、そして僅か数合の交錯で、予想は確信へと変わる。この雀蜂は容易ならぬ敵だと。こいつを倒せば、確実に己は次の階梯へと進めると。

〖……! 見つけたでござんすよッ!〗

 オフィスビルの最上階、通路の端。そこにホーネットオルフェノクの後ろ姿を見咎めて、アルノルトが声を上げる。
 屋内に這入ったのは明らかに失策だ。飛翔態の最大速度で空を逃げるのならば、アルノルトは追い付けなかった。クロックアップの速度は飛翔態の最大速度に劣り、加えて飛行能力が無い以上、屋上を飛び移る形で追うしかない。障害物のない空中ならば加速は遮られる事なく、すぐにアルノルトを引き離してしまうだろう。

 だが屋内となれば話は別だ。限定された空間の中では、雀蜂は最高速度を維持出来ない。
 アルノルトが見るに、雀蜂の加速は銃弾のそれに近い。始点と到達点の間の直線ではまさしく瞬間移動が如くだろうが、加速中の方向転換は不可能。方向転換の為には減速又は停止して、到達点を再設定し、そして再度加速するというプロセスを踏まなければならないのだ。障害物だらけの屋内ではそのプロセスが致命的なロスとなる。クロックアップで追いつくのは容易い。
 そうしてアルノルトは雀蜂へ接近する。雀蜂は廊下の突き当たりにある部屋へ這入ろうとしていた。何故か扉を蹴破らず――そちらの方が遥かに手っ取り早いだろうに――鍵穴に飛針を撃ち込んで破壊、扉を開けて室内へ。すぐさま身を翻して扉を閉めようとするが、それよりも僅かに早く、アルノルトもまた部屋の中へと這入りこんだ。

〖隠れたつもりでござんすかァ? ――甘いッ!〗

 盾と一体化した左の巨腕が雀蜂を捉える。弧を描く軌道の一撃は雀蜂の背中に直撃、その身体を弾き飛ばした。
 敵が室内に這入り込んだと気付いていなかったのか、雀蜂は無防備にその一撃を喰らい、無様に床へと倒れこむ。

〖手応え、あり〗

 クロックアップを解除――異形の姿を顕わにして、アルノルト・アダルベルトはゆるゆると結城衛司に歩み寄る。右の鉤爪をぎちりと唸らせ、その首頂くと言外に告げて。
 背中への痛打はアルノルトが思うよりも雀蜂にダメージを与えていたのだろう、立ち上がろうとする雀蜂の動きは、それこそ死にかけの昆虫の様に弱々しい。だがアルノルトに楽観は無かった。雀蜂の右拳にはいつの間にか、てらてらと濡れ光る衝角が備わっていたからだ。

 雀蜂の本能が、アルノルト・アダルベルトを危険と判じた様に。
 ワームの本能もまた、雀蜂を脅威と感じている。弱っていようと傷んでいようと変わりなく。

 あの衝角は恐らく毒針。一度穿たれれば逃れる術なく死に至る、ホーネットオルフェノクが持つ切り札。相手がオルフェノクであろうとワームであろうと例外はあるまい。だからこその切り札だ。
 ぽたり、と衝角から毒液が一滴垂れて、床に落ちた。

〖しかし――ここで退くってなァ、あっしにゃ有り得ねェ選択ってやつで――〗

 奴の毒針は確かに脅威だ。だがそれを恐れて足踏みしているようでは、百年経っても臥駿河伽爛には追い付けない。
 ゆるゆるとした歩みが、雀蜂の間合い一歩手前で停止する。クロックアップの前では無きに等しい距離である、だがそれでも、アルノルトはその距離で一度足を止めた。

 ぽたり、と毒液がもう一滴。

 衝角を構えたまま、雀蜂は微動だにしない。下手に逃げ回ったところで逃げられるものでは無い、ならば接触の一瞬にカウンターで毒針を突き刺すと、そういう腹であるのだろう。
 乾坤一擲を賭して一撃を放つ。その覚悟を決めて向かってくる相手は、実力に関わらず侮る事の出来ない敵である。

〖その心意気は買わせて頂きやしょう――けどあっしにも目指すところがあるんでさァ、ここで退ィちゃァ男が立たねェ〗
〖………………〗
〖白黒つけるとしましょうや、結城衛司……!〗
〖……一つ、訊いて良いですか〗

 更に一滴、毒液が床へ滴ると同時、雀蜂が静かに問いを投げかける。
 命乞いの類とは思えない。奇妙に落ち着いた声音は、助命を乞うには些か不似合い。同情を引き哀れみを催すだけの熱があって、初めて命乞いは命乞いとして機能する。それは理屈ではなく、本能として誰もが知っている事だ。
 その声音に少なからぬ不審を覚えながらも、アルノルトは少年の言葉に応答する。 

〖何でやんすか?〗
〖貴方は何がしかの目的があって、僕を殺しに来ているんですよね。僕が許せないとか、僕への復讐とかじゃなくて――『僕を殺した』という結果が必要だから、その為だけに此処に来ていると、そう考えて良いですか〗
〖明察でござんす。いかにもその通り、少年、君に個人的な恨みァございやせん。お前さんの首ィ欲しいってェ御仁がおられるもンで。まァ少年にとっちゃいい迷惑かとは思いやすが、そこはそれ、世の中ってやつァそういうもンって事で、勘弁願いてェところでござんす〗
〖……そう、ですか〗

 哀しそうな、寂しそうな、妙に枯れた声でそう言って――雀蜂は、どこか物憂げにかぶりを振った。
 だがそれも僅かに一瞬。俯けた顔を起こし、両の複眼に敵の姿を捉えた雀蜂が、毒に塗れた衝角を右に、ぎゃりんと唸りを上げる騎兵槍を左に構えて、アルノルトへと相対する。

〖――遠慮する理由が、無くなったよ〗
〖遠慮? 今までは遠慮してたってェ言うんですかい、少年?〗
〖………………〗

 雀蜂は答えない。
 いや――反応はあった。ただしそれは言葉によるものではなく、そして友好的なものでもなかった。
 次瞬。アルノルトの総身を、這い上がるような寒気と怖気が駆け抜ける。神経網を糸鋸で引っ掛かれたかのようなその感覚は、雀蜂から放射された“何か”に――恐らくは『殺気』や『殺意』と呼ばれるものと同質の――アルノルトの身体が反応したが為のもの。
 言葉による応答より、それは遥かに直截的で、……挑発的だった。

〖……っは。はは、ははははは! 上等じゃァありやせんか――やれるもンなら、やってごらんなせぇっ!〗

 怒号の如く声を荒げて、セパルチュラワーム・ビリディスの姿が掻き消える。
 クロックアップの速度域に入ったワームは、如何にオルフェノクの視力でも、雀蜂の複眼でも捉えられない。それは既に実証されている事だ。ただ木偶のように攻撃を喰らい続けるしか出来ないはず、人間もオルフェノクもそれは等しく変わらない。

 だが――本当にそうか?
 あの雀蜂は、何か、クロックアップに対抗する術を持っているのではないか?

 部屋の中央に陣取り、右拳の衝角を構えた状態で静止する雀蜂の姿を見るに、どうしてもその疑問はアルノルトの思考から離れない。
 毒針によるカウンターを狙っている、その読みは変わらないが(だからこそ、雀蜂を恐れるに足りないと判じているのだが)、そのカウンターを確実にヒットさせる為の策を、何か講じているのではないか。そんな疑念が、思考の隅にへばりついて離れない。

 それでも男は足を止めない。敵の策を恐れて二の足を踏むのなら、それこそ相手の思う壺。少年の狙いが何なのかは未だ不明だが、例え何を考えていたとしても、それを真正面から打ち砕いてこそ、アルノルト・アダルベルトは臥駿河伽爛に届くのだ。
 躊躇は、ない。

〖覚悟ォ!〗

 音の止まった加速の中で、男が一人、必殺を賭して裂帛を叫ぶ。
 右の鉤爪が唸りを上げて敵の急所へ。狙うは延髄、抉られればオルフェノクであっても絶命に至る絶対急所。
 捌けるものなら捌いてみよ、何を企もうと所詮は小細工、この身一つで蹴散らせる――!

〖――ぅあ?〗

 だが鉤爪の先端が雀蜂の延髄に触れた、その瞬間。
 やおら視界が回転し、周囲の輪郭が歪み、天地の感覚を失って、突如現れた巨大な壁がアルノルトの総身に叩き付けられる。いや壁ではない、それは床だ。無様に床へと突っ伏したが故に、己の真正面に床面が来ているのだと、しかしそれを理解するまでにも、彼は数秒の時間を必要とした。

〖あっ……が、がが、がぎがががががががが〗

 喉から漏れるのは、声帯を削り取られたかのように奇怪な呻き声だけ。
 何が起こった?
 何をされた?
 視界は突っ伏したままでもぐるぐると回転し、胸は溶岩を注ぎ込まれたかのように熱く淀み、力が抜けた四肢はまるで棒切れを繋ぎ合わせたかのように動かない。数秒前の自分からは想像も出来ない現在のコンディションが、更に一層、彼の混乱を煽り立てる。

 クロックアップは既に解除されている。全身の筋肉が至るところで痙攣を起こし、直立どころか上体を起こす事すらままならない状態にあるのだから、加速状態が維持出来るはずもない。
 つまりそれは雀蜂の眼前で無防備な姿を晒しているという事であり、その事実に気付いた瞬間、アルノルトは初めてその時、この状況に、そして目の前の敵に恐怖を抱いた。

 そして。その恐怖を違えぬとばかりに、雀蜂は左手に握った騎兵槍をぐるりと回転、切っ先を下に向けた逆手へと握り直す。床に突っ伏すアルノルトの頭上に掲げられたそれは、頭蓋も外殻も有って無きものとして、アルノルト・アダルベルトの脳髄を貫く事だろう。

〖ま゛……ま゛で、ま゛っでぐれ゛……!〗

 動かない身体が絶死の恐怖で稼動する。
 震える舌が必死に言葉を紡ぎ出す。
 だが身体は僅かに首を回して雀蜂を捉えるしか出来ず、紡いだ言葉はぶつ切りの濁音。ぎりぎりで言語として成り立つ……否、ぎりぎりで言語として成り立たないそれは、命乞いの役目を果たすにはまるで役不足。
 そして。

〖――っ、〗

 見上げた雀蜂の、その温度無き複眼を目にした瞬間――残された僅かな希望も、打ち砕かれた。
 視線の温度は氷点下。そこには一片の温情も窺えず、なれば当然、アルノルトの生存は有り得ない。
 アルノルトは知らない。雀蜂にとって、結城衛司にとって、殺人は既に禁忌ではないのだと。その禁忌はとうの昔に踏み越えて、しかし最後の一線として残されていた領分すら、アルノルト自身が踏み躙ってしまったのだと。

 もし、アルノルトが自身の怨恨によって結城衛司を殺しに来ていたのなら。
 もし、アルノルトが化物を放置出来ぬという“正義”によってこの場に現れていたのなら。

 無論、そうであったなら無抵抗を貫き、アルノルトに命を投げ出していたと、そういう次元の話ではない。だがこの戦いの起点が、原因が自身にないというのなら、雀蜂の抵抗にも理が通る。
『遠慮する理由が無くなった』とは、つまりそういう事。
 そしてアルノルトにとっては不幸な事に、雀蜂は既に殺人行為を経験している。殺人の容易さを、身を以って学習している。臥駿河伽爛、白華・ヘイデンスタム、そして結城真樹菜による“教育”は、その方向性はどうあれ、殺人行為に対する忌避感を少年の中から確実に削いでいた。

〖……あんたも、オルフェノクと――人間と、同じだな〗

 呟く言葉は絶対零度。
 断頭台の刃が如くに硬く冷たく、アルノルトの耳朶を打つ。
 人間と同じ。
 オルフェノクと同じ。
 まるで変わらず等しく醜く。
 だから、

死んでしまえ・・・・・・





◆      ◆







「――あらあら。アルノちゃんも、ここまでかしら。もうちょっとイケると思ったんだけど」

 クラナガンの地下は居住区・廃棄市街区問わず、網の目の様に下水道が走っている。
 地上の喧騒もネオンの光も届かぬその暗闇の中に、赤黒の魔力光が熾火の如く揺らめいて、術者の姿を溶明させている。
 ただしその光がなかったところで、例え光一筋差さぬ漆黒の只中であったところで、術者の総身から迸る存在感は彼がそこに居ると知らしめるには充分過ぎたのだが。

 術者の名は――言うまでもなく、臥駿河伽爛。
 結城衛司を転移魔法によって拉致し、アルノルト・アダルベルトを差し向けた彼は、当然の如く当然に少年と刺客との戦いの一部始終を秘密裏に仕掛けたサーチャーによって追跡・視認していた。雀蜂が近隣のオフィスビルに逃げ込んだ瞬間も、雀蜂を追い詰めていたアルノルトが唐突に倒れこんだ瞬間も、逃す事なく。
 勿論、少年がクラナガンの繁華街に放り出されてから、アルノルトと接触するまでの一部始終も余すところ無く網膜に焼き付けている。加えて手持ちのデバイスにも記録している、後でダビングして真樹菜にプレゼントする予定だ――まあ、それはさておき。

「うふふ、けどまあ、こりゃ予想外だったわねえ……んにゃ、予想以上って言うべきかしら」

 まさかそんなやり方で、クロックアップを封じるとはねえ――と、どこか喜悦を混じらせて、伽爛が呟く。
 当事者であるアルノルトと異なり、第三者の視点で彼等の戦闘を目撃していた伽爛は、雀蜂が何を仕掛けたのかを概ねのところ把握していた。
 自身の特性、その身に備わった異能を最大限に生かした雀蜂の策は、百戦錬磨の臥駿河伽爛をして感嘆を禁じ得ない。性能差による力押しでは無く、頭を使って策を弄したという事実は、また一歩、少年が伽爛の望む領域に近付いた事を意味している。

「気化毒、か―― 一歩間違えば自滅するってのに、また大胆な事するものねえ」

 恐らくアルノルトは、雀蜂がオフィスビルの中へ逃げ込んだものと思って追撃していたのだろう。あの時点では確かにクロックアップを有する彼の方が優位であったのだから、雀蜂の行動を逃走と考えるのも無理からぬ事。
 だが彼はもう少し慎重であるべきだった。空を飛んで逃げる事なく、わざわざ屋内に逃げ込んだ雀蜂の意図を、もう少し推し量るべきだった。
 もし彼にもう少しだけの慎重さがあったのなら、雀蜂の行動を逃走ではなく退転と、ビル内に逃げ込んだ事を単なる失策ではなく、自分を嵌め殺す罠の為だと考えられただろう。

 そう。それは罠。オフィスビルの中に飛び込んだ雀蜂は、その時点で右拳に衝角を展開していた。しかしここで重要なのは衝角そのものでは無い、それから滲出し表面を濡らす毒液の方。
 ホーネットオルフェノクの真価と本領はこの毒液にこそある。それを知らなかった事が、アルノルト・アダルベルトの敗北に繋がった。

 ビル内に飛び込んだ瞬間。通路を駆け抜ける途中。そして突き当たりの一室に飛び込んだ後――それらの中で、雀蜂は衝角から毒液を撒き散らしていた。
 飛散した毒液は雀蜂の意思によって瞬時に気化、周囲に有毒の気体となって充満する。闘争本能の具現、或いは殺意と暴力衝動の顕現こそがオルフェノクの武器だ、雀蜂の毒液も例外ではなく、飛散した瞬間に気化するという条理外も驚くには値しない。

 そして雀蜂を追ってビルに突入したアルノルトは、知らずその毒ガスを吸い込んでしまった。
 如何にワーム、異星の生命体であろうと、生物である限り呼吸は必然。人間とは桁違いのレベルで無呼吸運動も行えるものの、それはあくまで、“息を止める”という随意あってこその業。無色無臭の気体を感知する以前から警戒し対処するなどという芸当は、それこそ生物の域を超えている。
 つまるところ、雀蜂の目論見はカウンターなどではなかった。
 雀蜂が目論んでいたのは――罠だったのだ。

「しっかし、何て言うか……まだまだ甘さが残ってるわねえ。敵しか殺さない、ってカンジかしら」

 まあ、それだけでも充分な進歩よね、と諦め口調で伽爛が呟く。
 雀蜂がアルノルトをオフィスビルに引き込んだ理由。それは先述したように、毒液から発生する毒ガスを標的に吸わせるという策の為だ。
 だがそれだけを目的とするのなら、別に屋内に逃げ込む理由はない。飛翔態の速度に任せて敵を振り切った後、風上に陣取って散布すればそれで済む。余計なリスク、余計なダメージを負う事もなかった筈だ。

 その方策を採らなかったのは、ひとえに雀蜂の甘さが故。無関係の人間を巻き添えにしたくないという甘ったるい“人間らしさ”が、より難度の高い処方を選ばせたのだ。
 伽爛にしてみれば失笑ものの倫理観であるが、どうあれ策そのものは完遂している以上、文句をつける筋でもない。

「さて。じゃ、そろそろアルノちゃんを迎えに――うん?」

 眼前に展開したウィンドウの中には、無様に床に突っ伏すアルノルトと、その頭上に翳した騎兵槍を今にも振り下ろさんとする雀蜂の姿。
 あと数秒としない内に、騎兵槍は標的の脳髄を串刺しにする事だろう。どうあってもこの状態から、セパルチュラワーム・ビリディスの逆転は有り得まい。伽爛の判断は至極正当で、当初の予定通り、彼はアルノルトを回収すべく魔法陣を稼動させた。
 転移魔法の確実性を徹底的に突き詰めて組み上げられた魔法陣、それが対象たるアルノルト・アダルベルトを捕捉し、転移を開始しようとした、その刹那。
 不意に発生した予想外の事態に、伽爛が瞠目する。

「何、あれ……? ちょっと、聞いてないわよ、こんなの」

 どこか緊張感に欠ける、愚痴のような呟きではあったが、しかしウィンドウの中で展開される状況はその暢気さを確実に裏切って、一秒ごとに最悪へと転がり落ちていく。
 数秒、伽爛は思考に時間を費やした。無論その間にも状況が悪化していく事は承知の上で。思考の内容そのものはそう難しいものではない、単に『自分が乱入するか否か』を迷っただけ。

 如何に最悪の状況下であっても、臥駿河伽爛が介入するのなら、それは最早“最悪”と呼ぶに値しない。それだけの実力を、魔導師としてもオルフェノクとしても、伽爛は有している。
 それを躊躇うのは、単純な話、伽爛では歯止めが利かないというだけの事。一度戦闘に入ったが最後、周辺被害が許容不可能なレベルにまで跳ね上がるのだ。例えどんな敵が相手でも、例えどんな場所の戦闘であっても。伽爛はそれを誰よりも理解し、自覚していた。

 例えば先日のショッピングモールにおける一件。結城衛司に殺人行為を学習させる為のあの一件において、伽爛はほんの少しだけ、戦闘に介入した。戦域から逃れようとする少女を、飛竜諸共、結城衛司諸共に叩き落とした。ただそれだけの介入であったのに、結果としてそれはモールの一角を損壊させ、のみならず攻撃の余波は――後ほど判明した事だが――近隣のビルディング、その窓ガラスを軒並み砕き割っていたのだ。
 どれほど細心の注意を払っても、予想外に被害は膨れ上がり、想定外に損害が跳ね上がる。臥駿河伽爛という魔導師の逃れられぬジレンマであり、それこそが、伽爛が介入に難色を示す唯一にして最大の理由であった。

「結界張ったら逆効果だし……むう、どうしたもんかしら」

 いつぞや、地球に赴いてデルタギアを強奪してきた時とは違う――魔導技術が周知されているミッドチルダだ、街中でいきなり結界が展開された日には、それを感知した近隣の陸士部隊が大挙して押し寄せるだろう。それでは何の意味もない。その陸士部隊が戦闘の被害として計上されてしまう。
 眼前のウィンドウはただ淡々と、予想外の状況に翻弄される少年を映し出している。眉を顰めてその様を注視していた伽爛だったが、ふとその眉が上がり、何かを思い出したかの様にぽんと手を打った。

「あら? あらあらあら? 確かココ……そっか、そうだったわね。よし、じゃあ後はあのコに任せちゃうとしましょ。確かまだ、アレを持っていた筈だし――」

 他者にはまるで理解出来ない独り言に、一人うんうんと頷いて。
 臥駿河伽爛は方針と処方を決定、即座に行動を開始した。





◆      ◆







 標的の脳髄を貫くべく振り下ろされた騎兵槍には、躊躇も迷いも一片たりとなかった。
 雀蜂の殺意を乗せて加速するその切っ先は、しかし倒れ伏す敵の頭蓋を抉る事はなく。
 つまりホーネットオルフェノクの殺人は、寸前で阻まれる事となった――尤もそれは単なる偶然、或いは最悪と言って良い程の不運によって齎された事象であったのだが。

〖!?〗

 何の予兆もなく、何の前触れもなく。突如、ずん、と腹腔に響く衝撃がオフィスビルを揺るがした。
 同時に衛司の頭上で天井が崩落、破片と瓦礫が直下の少年へと降り注ぐ。下敷きとなる前に彼はその場を飛び退いていたが、アルノルトと名乗った男にそれは望むべくもなく――雀蜂の毒に蝕まれ立つ事すらままならないのだから、当然と言える――その姿は瓦礫の下へと消えていく。
 一体何が起こったのか。それを考察する余裕は、しかし衛司には微塵もなかった。飛び退いて着地した位置、そこから一歩も動かないまま、動けないまま、彼はつい一秒前まで自分の居た空間を凝視する。
 凝視するしか、出来ない。

〖……? なん、だ……!?〗

 全身の体温が下がっていく。殺意という熱に炙られていた意識が、氷を突き刺されたかの様に冷えて固まる。
 もうもうと立ち込める粉塵が、天井の穴から吹き込んできた風によって密度を減じた。薄っすらとした霧の如く視界を覆うその向こう側に、人らしき何かが佇んでいる。

 先程まで戦っていた敵か。その予想は、すぐさま自身で否定した。
 直接身体に打ち込む場合と異なり、気化した毒液には敵を即死させるだけの毒性はない。とは言えそれはあくまで即死しないというだけ、適切な処置を取らない限り全身の筋肉組織や内臓器官をじわじわと破壊して、最終的には死に至らしめる猛毒だ。立ち上がれるはずがない。

 ならば、あのシルエットは一体何者であるのか。その疑問に、終ぞ彼は答えを得る事が出来なかった。シルエットだけでは判別出来ず、シルエットの主が粉塵の向こう側から踏み出して、その全身を雀蜂の前に晒した後も、それを判別する為の知識を持ち合わせないが故に。
 金属の光沢と生物の質感を併せ持った膚。昆虫の如く生気の無い瞳。頭部に備わる鞭のような触覚と、肩から突き出た突起、恐竜のそれを思わせる尻尾。その特徴のどれもが、およそ人間の範疇にない。



 怪物の名はドラス。一人の科学者がその狂気によって創造した、新機軸にして新世代の生命体。
 ただし――今はまだ、ただ『怪物』とのみ呼ばれるモノに過ぎなかった。



〖…………。…………、…………〗
〖……?〗

 ――なんだ、こいつ……?
 アルノルトと名乗った男とはまた別の意味で、オルフェノクとはかけ離れた容貌の怪物は、見る限りどうにも様子がおかしかった。ごうごうと漏らす吐息と、一歩踏み出すごとによろめく身体は、明らかに何がしかの不調を抱えていると見て取れる。
 怪物然とした風貌との落差にどうしようも無く緊張感を削がれながら、しかし雀蜂の本能は最大音量で警報を掻き鳴らしていた。
 さもありなん。目の前のそれはオルフェノクという“種”の上位に立つ存在。食物連鎖のヒエラルキーにおいて、オルフェノクを餌とする生命――いわば、オルフェノクの天敵。それを眼前に置いた雀蜂の反応は、生物として何一つ間違ってはいない。

〖あ――あ、あ〗

 目の前の怪物が、唸るように喘ぐように、吐息に混じって声を漏らす。
 まるで女性か、或いは声変わり前の子供の様に甲高いその声は、怪物の姿形をしたモノから聞こえたものでなければ、それなりに同情を催すものだっただろう。逆説、怪物から聞こえるそれは、同情どころか戦慄となって、衛司の総身を凍らせる。

〖み つけ た ごはん たべ な きゃ ごは ん〗

 衛司は知らない。この日の日中、同胞たる隼が一羽、この怪物の餌となって食い尽くされていた事を。
 雀蜂は知らない。それが故に、怪物の中でオルフェノクという種族が“餌”として定義されてしまった事を。

 怪物の身体は正真証明、崩壊寸前。今こうして“怪物”の形を取っている事すら奇跡的と言える。一刻も早く食物を摂取し、一時的にではあっても身体の崩壊を食い留めなければならない。身体維持に必要不可欠な溶液がない以上、崩壊はどうあっても免れないだろうが、それでも餌の捕食は、僅かながらも崩壊を押し留める事が出来るはず。
 無論、そんな怪物の事情など、結城衛司には知る由もない事――だから衛司に解るのは、次の餌として自分が見定められたと、その一点のみ。

〖……っ、く、くそっ……!〗

 幸いにも、衛司は未だ飛翔態を発現させたままだった。背中の翅が唸ると同時、加速を得た衛司の身体は、部屋の窓ガラスを砕き割ってビルの外へと飛び出していた。
 戦略的撤退……などではない。完全なる逃走だ。雀蜂の本能は彼我の戦力差を計るよりも先に、敵から距離を取る事を優先させた。

 雀蜂は攻撃性の強い生物である。巣に近付くものあらば容赦無く攻撃を加え、それが自身より遥かに巨大な人や熊でも例外なく。雀蜂の本能と能力を有するホーネットオルフェノクもまたその通りであるが、しかし元となった少年の人格が故に、その攻撃性を発揮する機会はごく僅かであった。
 だが。この時は、その攻撃性は充分に前面へと押し出されていた。外敵からの攻撃を受け、その報復に今しも殺人を犯さんとしていた彼は、雀蜂の攻撃性に突き動かされているに等しかったのだ。

 にも関わらず。衛司は躊躇無く、逃走を選択していた――いや、選択の余地などなかった。雀蜂の闘争本能を圧倒して膨れ上がった生存本能は、彼に逃走以外の選択を許さなかった。
 それほどまでに、目の前の怪物は圧倒的だったのである。

〖わ、ぁ、あぁあっ!?〗

 窓から外へと飛び出し、隣のビルの壁面を蹴って、その反動を推力に飛翔する衛司だったが、直下から襲い来る光線に思わず動きを止めてしまう。それが失敗だった。対空砲火よろしく次々と、レーザーを思わせる直射軌道の光線が、衛司を狙って殺到する。
 光線が怪物からの攻撃である事は明白だった。天井を易々と貫通してくるそれは、標的の姿を確認もしない盲撃ちの癖に、ことごとく衛司を直撃する軌道で迫ってくる。一発でも当たれば致命傷だろう。必死の回避を続けながら、それでも至近を掠めていく光線に、衛司の背筋が凍りつく。

 やがて無数の穴を穿たれたビルの屋上が、重力に耐え切れずに崩落する。重量物の落下に伴う振動と重低音に、道行く人々も気付いたらしい。空を舞う雀蜂と、それを狙う光条に気付いた人々が、次々と天を指して声を上げる。それが少年の集中力を乱すと気付く事もなく。
 更に。ゆっくりと崩落した天井の跡から浮上してくる怪物の姿は、僅かに残っていた余裕すら衛司の中から奪っていった。

〖ごはん ぼく の ごはん〗
〖…………ッ!〗

 息を呑む衛司へと向けて、更に光線の猛射が襲いかかる。

〖く、早く、何とか――〗

 間断無く放たれる光線を躱しつつ、必死に怪物から距離を取ろうとしながら、刻一刻と悪化する現状に衛司は歯を噛み鳴らす。
 放っておけばすぐに管理局が来る。機動六課の面々もこちらへ向かっている事だろう。だが彼女達が発見するのは、あくまで人間『結城衛司』でなければならない。怪物『ホーネットオルフェノク』は、保護されるべき存在ではなく、駆除されるべき存在でしかないのだ。
 一刻も早くこの怪物を振りきり、人間態へと戻って、救助を待たなければ――

〖ぐぁっ!〗

 余計な事を考えたのが、裏目に出た。
 一条の光線が雀蜂の背中を掠め、それによって、飛翔態の翅が灼き切られる。
 魔導師の飛行と異なり、雀蜂のそれはあくまで背部の翅によって飛翔能力を得ている。それが失われるという事は、飛翔能力が失われる事と同義。
 ぐらりと態勢を崩し、衛司は真っ逆様に墜ちていく。幸いにも地表にまで落下する事はない、墜ちる先は近くのビルの屋上だ。この高さ、この落下速度なら受身も充分に間に合う、落着した瞬間に次の回避行動へ移れる――

 そう思っていたが為に、いざ着地しようとしたその寸前、落着点に突如発生した魔法陣には、驚きを禁じ得なかった。

〖ちょ、嘘――あだっ!〗

 どぷん、とまるで水に飛び込んだかのような音と感触――そして、衝撃。受身を取るタイミングがずれたせいか、肩を強か打ち付けてしまった。
 気付いた時には、衛司は室内に居た。恐らくは落着するビルの最上階、あの魔法陣が入口となって、建物の中に墜ちたのだろう。察するに転移魔法では無く物質透過魔法か。魔法に関しては完全に門外漢の衛司だが、その予想に限っては、概ね間違っていない。

 だが、一体誰が。

 このタイミングで、こんな形に魔法を行使してくる第三者――第三者である事は間違いないだろう、衛司は魔法を使えないし、あの怪物だって魔導師の類とは思えない――の存在に、衛司はまるで心当たりがない。
 いや、無い事はない……むしろ一つ、巨大な心当たりがある。衛司をクラナガンまで連れ出した、転移魔法の術者だ。

 思い返せば、先刻目にした転移魔法の魔法陣と、今の透過魔法の魔法陣、同色の魔力光で編まれたものではなかったか。同一人物と考えるのはごく自然な流れであるが、しかしこんな形で介入してくる理由に関しては、結局不明なままだ。
 一体何のつもりなのか。そう訝る思考を押さえつけ、早くここから離れようとして、しかし背中の翅を灼き切られた痛みに、思わず衛司は膝をつく。翅そのものは時間さえかければ傷が癒えるように修復されるのだが、痛みだけはどうしようもない。

 ――そこではたと、彼は周囲を見回した。
 窓の類は全て閉め切られ、カーテンか何かで覆われているのだろう、月の光もネオンの光も室内には届いていない。かと言って室内は完全な暗闇という訳でもなく、直下の路地裏よりは余程明るい。
 部屋の光源となっているのは、魔導文明特有の空間に直接表示されるウィンドウ。衛司の感覚ではSFの中の代物としか思えないそれが、大小合わせて計二十七枚、部屋の至るところに展開されている。その全てが全て、何かの画像や動画を映し出しており、蛍光灯の類がない部屋を仄明るく照らし出していた。

 そして。部屋の中央、全包囲に展開されるウィンドウの中心に、一人の男。
 床に直接胡坐をかき、コンソールと思しき機器をがちゃがちゃと乱暴に打鍵しているその男は、部屋にいきなり飛び込んできた雀蜂に目もくれようとしない。眼球を巡らして複数のウィンドウを眺め見ているだけで、それ以外には全く興味が無いと言わんばかりの反応だった。

〖あ――えっと、そこの人! 危ないです、逃げてください!〗

 精一杯の声を張り上げて逃げろと訴える衛司に、男はぐるんと奇怪な動きで首を回して――どこぞのホラー映画もさながらだった――漸く、衛司に視線を向ける。ただしその瞳が本当に衛司を、雀蜂の姿を捉えているのかどうかは不明なままだ。焦点が合わず瞳孔も開いたその瞳からは、およそ意図や思考というものが読み取れない。
 そして、男の反応はそれだけだった。衛司の言葉に反応したと言うより、物音に反応しただけなのではと思わせる程、そこから続く行動がなかった。未だ床に座り込んだまま、手はコンソールを弄くったまま、視線だけを衛司へと据えている。人間なのかそういう置物なのか、そこからしてまず疑わしく思える。

〖あの……えっと、もしもし……?〗
「…………?」

 呼びかける衛司の言葉に、男は更に首を回してみせた。どうやら『首を傾げている』らしい。一体どういう頚椎構造であればこんな形に首を回せるのか、己が人外である事すら棚上げにして、衛司の思考に疑問が涌く。

〖その、危ない、ですよ?〗

 もしかしたら言葉が通じていないのか、そんな思いと共に、言葉を続けてみる。が、その行為の無意味さに、衛司自身が気付いていた。
 実際、この部屋には衛司と男の二人……もとい、一人と一匹だけ。
 衛司の発言の趣旨は『巻き添えになるから危ない』であったが、男にしてみれば『怪物が部屋に飛び込んできた』状態であるのだから、今更衛司が何か言うまでもなく、真っ当な神経を持っているのなら悲鳴を上げて逃げ出して然るべき。
 その気配すら見せない時点で、男がおかしいのは明白なのだ。

「あ――ああ――うふ、うふふ、ふふふふふ。そうだね危ないね、来るんだね来るんだね僕を殺しに来るんだね、未来から殺人ロボットが僕を狙って来るんだね、未来を変えようとしてるんだね、うふふふふそうだねタイムマシンで僕の部屋の机からこんにちはだね、うふふふふ危ないね危ないね、ああそうだ押し入れに布団を用意してあげないといけないね、布団が無いと安心して寝れないもんね僕を殺せないもんね、うふふふふふふふふふふふ」

 そうして。
 漸く口を開いた男は、その言葉によって正気ではないと確信させた。 
 下顎部だけをかくかくと、まるで腹話術の人形じみた動きで駆動させ、男は言葉を紡ぐ。だがその言葉は明らかに現状を認識していない。否、現状“以外”のものまで認識している。変な電波に汚染されまくったその台詞は、それだけで会話が成り立たないと理解させるに充分だった。

 ふと、男は打鍵を止めて、膝の上に載せていた小瓶に手を伸ばした。右手で瓶を降り、左の掌にざらざらとその中身を零し出す。見ればそれは白い錠剤で、明らかに薬物の類と知れるそれを、男は一息に口へと放り込んだ。
 ぼりぼりごりごりと錠剤を噛み砕く音が、辺りに響く。

〖…………っ!〗

 先に、怪物に対して抱いたものとはまた質の違う戦慄が、衛司の総身を駆け抜けた。
 ただし、先の戦慄が“恐怖”からなるものであったのに対し、この男に対する戦慄は“忌避”からなるもの。その差はほんの僅かなようでいて、今この場においては無視出来ない巨大な落差であった。

「うふふふふ――ああ、来たね来たね来ましたね、僕を誘いに来てくれたんだね、ああやっぱりカツオくんのベストフレンドはナカジマくんだよね、うふふふふ、イソノー、カバディしようぜ……」

 そこは野球じゃないのかよ。
 そう突っ込む余裕は、この時点の衛司からは消え失せていた。
 ばばばばばばばばんっ――と、部屋の窓ガラスが軒並み、破裂するように砕け割れる。硝子片がきらきらと光を反射しつつ舞い散って、ひょうと冬の冷たい風が室内に吹き込んできた。

 そして。室内に這入り込んできたのは、風だけでは無く。衛司を追ってきたのだろう、あの怪物もまた、ふわりと浮遊しつつ這入り込んでくる。
 浮遊と言うよりは、上方から繰り糸で吊られる人形が如き直立姿勢。六課フォワード陣の訓練を見学した際、魔導師の『飛行』を目にした事はあるが、それともまた微妙に異なる。物理法則がこの怪物に関してだけは作用していないのではないか、そう思わせる移動術であった。

〖に がさ ない まて ごはん まて〗

 怪物は完全に、衛司を餌として認識している。
 いや、より正確を期するなら、餌以外の価値を認めていない。人間がパック詰めの肉を見て、それを食物としか認識しないのと同じ。『餌』という記号だけが、怪物の中での結城衛司の全てなのだろう。そこに衛司の人格や意思が入り込む余地はない。

〖……くそ。ああ、来るなら来い……! 簡単に食べられてやるものかよ……っ!〗

 完全に補足された。翅を失った飛翔態では、この怪物から逃れるだけの速度は望めない。
 紛う事なく絶体絶命の窮地。……だが、だからこそ、衛司は腹を括った。怪物に追い詰められ、状況に追い詰められて、漸く彼の覚悟は定まった。
 彼我の格差は圧倒的で、捕食者と被食者の立場はどうあっても覆しようがない。それは十全に理解している。しかし彼の生き汚さは折り紙付きだ、無駄な抵抗も無意味な反抗も、それが生存というベクトルに向かう限り、尽きる事はない。
 死にたくない、という意思だけが、雀蜂を上位存在たるネオ生命体へと相対させる。

〖……へ?〗

 不意に鳴り響いた場違いな電子音が、場の緊張感をへし折った。
 ばんばらばんばんばん、と某秘密戦隊のED曲――の着うた――は、どうやら男の方から聞こえてくるらしい。意識は怪物の方に固定しながらも、ちらと後ろを振り向けば、ちょうど男がポケットから携帯電話を取り出したところだった。
 通話ボタンを押し、けれど直接電話を耳には当てず、少し離してそのまま待機。誰何の言葉も口にしなければ、相手の方もそんなものを待ってはいなかったのだろう、すぐにどこかで聞いたような、耳障りの悪い蛮声が携帯電話からがなり立てられる。

『はーあーい! ラズロちゃん、元気してる? クスリやりすぎてない? やりすぎてアタマ飛んでるのはおおいに結構だけどお仕事に差し支えないようにしてねぇ? というワケでお仕事よぅ、そっちにあの子行ったでしょ? 行ったわよね? じゃあ行ったっていうコトで。その子死なれちゃまずいのよ色々と。アタシが行ければ良いんだけど、ちょいオトナの事情ってのがあってサ。てコトだから、ラズロちゃん、何とかしてあげて頂戴な。ベルト使っても良いから――そんじゃ、よろしくねん』

 スピーカーモードでも無いのに、耳を聾さんばかりの大音声だった。相手の声帯は一体どういう構造をしているのか。
 さておき電話の相手は一方的にまくし立てて、そして一方的に通話を切った。残されたのは空しいビジートーンと、どうにも訳の解らない、微妙に居た堪れない空気。
 呆気に取られたと言うのか、雀蜂もその場に棒立ちだった。どこから見ても隙だらけ、この隙を怪物が衝いてこなかったのは単なる偶然か、はたまた怪物が空気を読んでくれたのか。どちらにしたところで有難みは皆無であったが。

「うふふふふ……了解だね了解ですね、この星の明日の為のスクランブルだね、うふふふふふ」

 相変わらず意味不明な事をぶつぶつ呟きつつ、『ラズロ』と呼ばれた男がのそりと立ち上がる――長身痩躯の体型が、ここで初めて見て取れた。
 百九十センチは優に超える長身、酷い猫背でありながらそれでも見上げる程に背が高い。やけに長い手足はどこか樹上で暮らす霊長類を思わせる。げっそりと頬はこけ、目の周りは濃い隈に縁取られてまるでパンダのようだ。潤いの無いかさかさの肌は今にも罅割れそう。健康という言葉をどこかに置き忘れてきたような、それが男の風貌だった。

 奇怪な笑声を漏らしながら、ラズロはジーンズのポケットに手を突っ込む。先に携帯電話を取り出したのとは反対側のポケット、そこから取り出したのは、携帯電話と打って変わって見慣れない物体。長さ十五センチ程度の、円柱形の機械だった。
 円柱の一端にはぽつんと小さな穴が一つ。もう一端には押し込むタイプのボタンが一つ。『自爆装置のスイッチ』と言われれば成程と納得してしまいそうなそれを、彼は首筋に押し当てて、何の気兼ねもなく何の躊躇もなく、親指でボタンを押し込んだ。

 ばしん。心肺蘇生用の電気ショックに似た音が、室内にこだまする。
 変化は突然で、かつ顕著だった――ぐるん、とラズロの眼球が裏返る。猫背の身体が背骨に鉄芯でも打ち込まれたかのようにしゃきんと伸びる。かたかた震える手足はびしりと固定され、身に纏う雰囲気もまた、凛冽としたものに一瞬で入れ替わった。
 反転していた眼球が正常な位置へと戻れば、そこには抜き身の刃物を思わせる鋭利な視線。
 薬物中毒者の面影など、微塵も残っていない。

〖は――は、あ……?〗

 あまりにも唐突な変貌は、遂に衛司の処理能力を飽和させた。思わず漏れた間抜けな声は、少年に限らず、その様を目にした者なら共通の反応である事だろう。
 そしてラズロが起立した事で、彼の傍らに置かれていたモノが、その時初めて衛司の視界に入った。一見しただけで頑強さが窺えるアタッシュケース。側面に記されたロゴは組織名か何かだろうか。異世界ミッドチルダに放り出された衛司にとっては、見慣れているが故に見慣れない、地球で使われる文字の一つ『アルファベット』をレタリングしたロゴ。

〖すまーと、ぶれいん……?〗

 英語の成績がそれほど良い訳ではない衛司の事、発音は些か拙いものになってしまったが。
 衛司がロゴに記された名前を読み上げると同時、ラズロの爪先がアタッシュケースを軽く小突いた。ばくんとケースが開き、その中に収められていたものを彼は取り上げる。見ればそれは一本のベルト。服飾品としては明らかに実用性に欠ける、機械装置と組み合わされたそれを腰に装着して、男は手にしたままだった携帯電話のボタンに指をかける。

 ――9。
 ――1。
 ――3。

 三つのボタンを静かに押し込めば、【Standing by.】と電子音声がそれに応え。


「変身」
【Complete.】


 そして携帯電話をベルトのバックル部に装填する事で、変異が――否、“変身”が始まった。
 ベルトから伸びる光のラインがラズロの周囲で展開していく。男の身体を模るかのように体表をなぞりながら、胸を、肩を、腕を脚を囲んで、“鎧”の骨格を形成していく。
 次瞬、眩い光が放たれたかと思えば、男の姿は既にそこにはなかった。

 そこに現出していたのは、仮面と装甲でその身を覆った、中世の鎧騎士を彷彿とさせる重厚な鎧姿。魔導師のバリアジャケットではない。魔導騎士の騎士甲冑ではない。衛司の知っている彼女達が纏う戦装束と、男の鎧姿は、詳細を知らぬ衛司ですら全くの別物であると断言出来る。
 薄暗い部屋の中で、鎧の表面を走る黄のラインと、仮面に備わる紫の瞳が煌々と照り映える。闇を反転させるかの如く光を放つ“眼”の中央で、『X』を描く十字が黒々と己の存在を主張していた。

 その豪壮にして精緻、素朴にして絢爛な鎧姿に、雀蜂が目を奪われる。ただしそれは鎧に見惚れたが為の事ではなく、その姿、その仮面が、彼の中の何かを刺激するが故に。脳髄の奥底、記憶野の最奥を抉られるが故に。

〖――ぅ、あ〗

 ずきん、と頭が痛む。
 何かを訴えるように、頭が痛む。

〖なん、だ……!? あの人、いや違う、知らない……知らない、のに……!?〗

 結城衛司は忘れている。
 だが雀蜂が憶えている。
 過日の敗北を。手も足も出ず、一方的にあしらわれたあの時の屈辱を。だがその記憶は未だ衛司の中で欠落としてのみ存在し、その空白は他との断絶となって、ただ衛司の脳髄に痛みとして知覚される。結果、衛司はただ、正体の解らぬ頭痛に顔を顰める事となった。

〖あ ああ やっ た ごはん ふえた たくさん たべ ら れる〗

 ぶつ切りの言葉は相変わらず意味の解らないものだったが、しかしそこにはどこか、喜悦の色が混じっている。
 そうして怪物は仮面の男を敵として、或いは餌として認識したのだろう、静かに一歩、前へと踏み出した。

 迎え撃つは銃弾。“変身”したラズロが携えた装備――製図用定規にも似た、恐らくは仮面と同様『X』の文字を模した兵装が容赦なく火を噴き、撃ち放たれた光弾が怪物の胸部で炸裂する。
 思わずたたらを踏む怪物だったが、すぐさま体勢を立て直し、返礼とばかりに右肩のレンズ状器官から光条を迸らせた。アミューズメントパークのイルミネーションを思わせるマルチレーザーが室内を蹂躙し、展開されたままのウィンドウを次々と切り裂いていくが、しかしそれが標的たるラズロを捉える事はなく。
 驚くべき事に。雀蜂をして伏せる他にやり過ごす術のないそれを、男はその身一つで完全に躱しきっていた。それは果たして男の身体能力が故の神業か、鎧の性能による超人技か。ただ一つだけ言える事は、その回避によって彼は再攻撃に絶好のポジションを得る事に――怪物の懐に飛び込む事に成功した、という事実。

 ベルトのバックル部に装填された携帯電話から部品を抜き取り、銃撃兵装に装填。次瞬、兵装のグリップ下方へと光が伸び、見る間に“刃”として形成された。
 掬い上げるような下段からの一閃が怪物を斬り裂き、その胸部で盛大に火花を散らすが、元より回避や防御という概念は持ち合わせてなかったのか、もしかすると痛覚がそもそも存在しないのか、深々と胸部を抉られて尚、怪物は動きを止めなかった。

 怪物の右掌が仮面を鷲掴みにする。仮面ごと敵の頭を握り潰すつもりなのか、人外の握力にめきめきみしみしと超鋼金属が軋む。しかもそれは一秒ごとに音量を上げていく、仮面が砕け割れるのは、男の頭部が潰れたトマトと化すのは、時間の問題と言えた。
 ラズロとて無抵抗ではない、怪物の腹に銃口を押し当て、零距離での連続射撃を試みる。が、怪物の握撃は緩む事なく、逆にその抵抗が怪物の握力を一層強めさせた。
 怪物が男の頭を握り潰すか、男が怪物を引き剥がすか。状況は明らかに根比べの様相を呈していたが、それが長く続かないであろう事はすぐに知れた。

 みしみしと仮面の軋む音に、ほんの僅か、びきりと亀裂の穿たれる音。ここから先はもう転げ落ちる岩の如くだ、ごく小さい亀裂であっても、一度それを穿たれた以上力はそこに集中し、程無く破断が待っている。強度と展性を共に高いレベルで両立させる超鋼金属も、金属である以上、例外ではない。
 だが。『長く続かない』と評したのは別段、『男が頭を潰されて終わる』結果の到来を意味しない。

 仮面の男は怪物しか見ておらず、
 怪物は仮面の男しか見ていなかったが、
 この部屋の中にはもう一人、いやもう一匹、状況と無関係では無い第三者が居るのだ――それを、彼等は失念していた。

〖う――ぉおおおおおおぁああっ!!

 轟く咆哮。
 逆手に握った騎兵槍を振り翳し、ホーネットオルフェノクがラズロと怪物との間に飛び込んでくる。悲鳴のような絶叫のような、戦意の発露と言うよりは、胸中の恐怖を振り払うような喊声。無我夢中で騎兵槍を突き出せば、それは予想外にも、ざくんと怪物の前腕を貫いた。

 衛司にしてみれば、自分でも何故と思う程に馬鹿げた行動であった。怪物の意識は仮面の男へと集中していたのだから、ここで逃げるのが最上であったはず。事実、衛司もその心算で居たのだが、気付けば何故か、彼の身体は騎兵槍を振り翳し、戦闘に介入していた。
 衛司の意識はともかく、雀蜂の本能は理解していたのだ。この怪物からは逃げ切れない。ここで打倒するより他に道はない、と。

〖…………!〗

 さすがの怪物も、これほどの質量体に腕を串刺しとされては堪らない。痛覚はなくとも思考中枢からの命令を伝える回路―― 一般的な生物で言う『神経』に相当するもの――が断線する。腕が千切れ落ちなかったのは単なる偶然の領分だろう、それでも仮面を掴む掌に最早握力は望めない。
 顔を覆うばかりとなった怪物の掌を振り払いながら、男は素早く手の中で得物を持ち替えた。剣と銃の複合兵装を右腰に戻し、左腰にマウントされていた装備を右拳に嵌める。
 デジタルカメラのような機器がボクサーグローブかメリケンサックの如く拳を覆い、先にバックル部の携帯電話から抜き取り剣銃複合兵装に装填されていたパーツが、今度は右拳の拳撃兵装へと装填される。

【Exceed Charge.】

 更にバックル部の携帯電話をスライドさせ、『Enter』ボタンを押し込めば、電子音声と共に体表のラインを光点が走り始めた。腹から胸、胸から肩を通って右腕へ。やがて光点は右拳、そこに装備された兵装へと吸い込まれ、猛るようにただ一度明滅する。
 雀蜂の奇襲に腕一本を奪われた怪物は、続くラズロの攻撃に反応しようとして……しかし、反応するだけに留まった。防御も回避も、およそ行動と呼べる様な所作は何一つなく、ただ無防備に鳩尾へと男の右拳を叩き込まれる。衝撃は光となって怪物の身体を貫通し、その背後に飛沫を散らした。僅かに遅れて怪物の身体そのものも吹っ飛んでいく。

〖あ ああ あ だめ もう だめ ぼくが くずれる いやだ くずれる の いや だ〗

 無雑作に床に仰臥する怪物が、がくがくと全身を痙攣させながらも上体を起こす。だがそれだけだ。
 ラズロの一撃は、遂に怪物を活動限界にまで追い込んだ。自壊は時間の問題と誰の目にも明らかであり、上体を起こすという挙動すら既に奇跡的と、衛司も、ラズロも理解していた。

 しかも驚くべき事に、その奇跡にはまだ先があり。
 上体を起こした姿勢から、怪物が最後の力を振り絞り――振り絞るだけの力が残されていた、それが奇跡と言えよう――光線を撃ち放つ。文字通り最後の抵抗、死力を振り絞った一撃は、今夜何度となく放たれた怪物の攻撃を遥かに凌駕していた。
 極大のレーザーは照準も何もつけていなかったのだろう、加えて姿勢制御すら考慮外だったのか、のたうつ蛇の如くに室内を、いやこのビルそのものを削り取っていく。

 天井が崩落する。壁が粉砕される。床が破壊される。このままでは怪物が自壊するよりも早く、建物の方が限界を越えてしまうだろう。そう規模の大きいビルではないが、それでも雀蜂一匹とは比べ物にならない大質量。崩壊に巻き込まれればオルフェノクと言えども無事では済むまい。仮面の男とてまた同じ。
 自壊を待ってはいられない。一刻も早くあの怪物に止めを刺さないと、建物ごと道連れにされる。既に危うい振動が建物を揺らし始めている、次の瞬間に崩壊が始まってもおかしくはない。
 衛司とラズロが走り出す。今度こそ完全に、怪物に引導を渡すべく。



「動くな、下郎ども」



 だが、それを阻まれた。
 踏み出した一歩が床を踏みしめ、更なる加速に二歩目を踏み出そうとしたその瞬間――彼等は総身を謎の衝撃に縛り上げられ、その挙動を完全に封殺されていたのである。

 全身に電流を流し込まれたかのような衝撃は、無論、人為によるものだ。必死に首を巡らせて背後を窺えば、一体いつ、どうやってこの場に現れたのか、全く見覚えのない三人の男女がそこに佇んでいる。その中の一人が放つ怪光線が、衛司達の動きを封じていた。
“男女”という言葉で表されたものの、彼等が尋常の人間でない事は一見しただけで明らかだった。衛司達の動きを封じている事そのものは驚くには値しない、この世界に存在する『魔法』という技術やそれを扱う『魔導師』であれば、そう難しい事ではないだろう。だから人間では無いと断じたのはあくまで“見た目”の問題だ。

 色褪せた白いローブ。そのフードから覗く、人間離れした面貌。
 朽ちた白木が如き肌の老人。
 翡翠の原石が如き膚の男。
 漆器の如き艶と、痣とも刺青ともつかぬ紋様を刻んだ女。

 完全に慮外の展開であった。この状況、このタイミングで現れる闖入者を、まさか予見出来るはずもない。加えて、それが自分達の行動を阻むという事実もまた、衛司にとっては不可解なものであった。遠からず崩壊する建物、その崩壊の原因を止めようとしているのは傍から見ても明らかだろうに、何故それを邪魔しようとするのか。
 疑問と疑念を込めて睨みつければ、その視線に気付いたのだろう、衛司達を縛る怪光線――それを放っている緑膚の男が嘲笑うかのように鼻を鳴らし、後ろに佇む朽肌の老人が、それに続けて言い放った。

「危ういところであったな。もう少し遅ければ、取り返しのつかん事になっていた」
「ネオ生命体ドラスは我等ゴルゴムのモノ――貴様ら如きが、触れて良いモノではない」

 老人の言に、更に頬痣の女が言葉を続ける。それだけで彼等がこの場に現れた理由を推し量るには充分だった。どういう因果かは知る由もないが、この三人組、あの怪物を捜し求めてここに現れたらしい。
 老人の言から察するに、タイミングとしてはあくまで偶然だったのだろう。それが今まさに怪物へ止めを刺そうとする瞬間であったのは、彼等にとっては僥倖で、衛司達にとっては不運であったと、それだけの事。
 と。遂に振り絞る死力も尽きたのか、怪物の右肩から放たれていた光線がその威力を減じ、光条は見る間に直径を細らせて、やがて消える。建物の崩壊よりも先に怪物の限界が来たようだが、しかしそれに白いローブの三人組がむ、と気色ばんだ。

「まずいな。このままでは――ダロム、ビシュム」
「うむ」
「参りましょう」

 指先から怪光線を発し、衛司達を縛り上げる緑膚の男が促せば、朽肌の老人と痣頬の女がふわりと浮遊して、衛司達へと迫る。
 いや狙いは衛司達ではない、その後ろの怪物だ。何の為にあの怪物を求めているのかは不明なれど、それが怪物の生存に繋がる事は自明である。
 それは許容出来ない。あの怪物の脅威を知っている雀蜂は、この好機を逃せない。

〖悪いけど、そうはさせない――“あれ”は、生かしておけない……っ!〗

 殺さなければならない。結城衛司が生きていく為に、今、この場で。
 総身に力を篭める。挙動を封じる怪光線の縛めを、人外存在たるオルフェノクの身体能力、言うなれば力技で引き千切らんと。みしみしと骨が、筋肉が、外殻が軋む。身体からの悲鳴を噛み殺す。脳髄を刺す苦痛を振り払う。
 時として昆虫は目的の為に自身を省みない暴挙を冒す。自身の何十倍という敵に立ち向かい、又は巣を襲う脅威へとその身を晒し、腕が千切れようと翅がもげようと一顧だにせず。この時のホーネットオルフェノクの行動もまた、それと同列に語られる事であった。

「ぬ、き、貴様――」
〖がぁっ!〗

 咆哮一発、遂に怪光線の縛めを弾き飛ばし、雀蜂が迫る老人と女へ向き直る。まさかこのような力技で束縛を脱するとは思っていなかったのか、驚愕が彼等の動きをほんの一瞬凍らせた。
 その隙を見逃す雀蜂ではない、左前腕が奇妙に蠕動し、そこに銃身が形成される。刹那ほどの間も置かず、衛司は銃口を標的へと向け、その殺意を解き放った。
 白いローブを纏った三人組も、何らかの方向性で人の域を脱した存在であったのだろうが、しかし機銃さながらの連射速度で飛針を浴びせかけられては敵わない。堪らず身を引けば、緑膚の男が入れ替わるように一歩前へと踏み出し、翠緑色の障壁を展開して飛針を防いだ。――しかしそれは即ち、ラズロを縛っていた怪光線の消失を意味しており。
 自由の身となった仮面の男が、今度こそ怪物に止めを刺さんと走り出す。それに気付く三人の怪人物であったが、しかしその機先を制して、雀蜂は飛針を浴びせ続ける。完全に動きを縫われた彼等は、走るラズロを阻めない。

「おのれ――オルフェノク風情が!」
「良い、バラオム。儂が往く」

 猛速で迫る飛針の群れに障壁を削られながら、緑膚の男が声を荒げる。その背後からゆらりと浮遊した朽肌の老人が、衛司へと向けて掌を翳した。

「むん!」

 瞬間――まるで万力に握り潰されるかのような感覚が、衛司の総身を締め上げた。
 目に見えない何かが、雀蜂の身体を文字通り握り締めている。恐らくは念動力と呼ばれる類の異能だろう、朽肌の老人が翳した掌をゆっくりと握りこめば、それに連動して衛司を締め上げる圧力も増していく。
 先の怪光線による“拘束”とはまるで違う、これはあくまで、“攻撃”としての現象だ。普通の人間ならばとうに肉片と化しているだろう圧力は、オルフェノクの肉体であっても無視出来る負荷ではない。

〖ぐ――ぐ、ぅっ……!〗
「消えるがいい、オルフェノク――!」

 更に続けて、頬痣の女が衛司を睨みつける。その瞳に光が宿り――比喩ではなく、実際の現象として――次瞬、光は灼熱の光球となって、衛司へと襲い掛かった。狙い違わず雀蜂の胸部で光球は炸裂し、その衝撃が標的を弾き飛ばす。
 衛司にとっての不運は、弾かれた方向に窓があった事。怪物がこの部屋に現れた際、窓ガラスの類は軒並み叩き割られていたのだが、そのせいで彼を受け止めるものが何一つなかった事。
 結果として衛司は割れた窓からビルの外へと弾き出され、飛翔態としての能力を発揮する翅を灼き切られていた為に中空に留まる事も出来ず、重力に引かれるまま、薄暗い路地裏へと落下していく事となった。

〖わ、ぁ、ぁあああああっ!?〗

 悲鳴は空しく路地裏の暗闇にこだまして。
 そうして結城衛司は、舞台の上から姿を消した。





◆      ◆







 そして結城衛司が消えた後も、事態は止まる事なく動き続ける。
 雀蜂の援護によって拘束を脱したラズロは、躊躇無く怪物へと向けて走り出した。既に事切れたかのように、上体を起こした態勢で静止している怪物だったが、それだけで良しとする程、彼は楽天家ではない。まだ生きているなら止めの一撃を、死んでいるなら駄目押しの一撃を。
 三人の怪人物が制止に入ろうとする――が、僅かに遅い、届かない。雀蜂を退けるというプロセスを経た為に、彼等は完全に機を逸した。

【Exceed Charge.】

 仮面の男が跳躍する。バックル部の携帯電話をスライドさせ、『Enter』を押し込んで。光点が腿を伝い脛を通って降りていく。
 辿り着く先の足首には、双眼鏡を思わせる機器が既に装着されていた。光点がその機器へと吸い込まれるのと、跳躍の着地点に居た怪物を男の足が踏みつけ、床に叩きつけるのとでは、果たしてどちらが早かったか。

 足首の機器から撃ち出された光針が、仰臥する怪物の身体を押し出す。
 怪物の攻撃で損壊していた床が衝撃に耐えきれず崩壊する。
 男と怪物が諸共に下階へと崩落。
 しかし下階の床へ落着するよりも早く、光針が四角錐状に展開し、怪物の身体を空中で縫いとめて。

「………………ッ!」

 そして男が角錐へ身体ごと蹴りこむと同時、角錐がドリルの如く回転し――怪物の身体を、抉りぬく。
 やがて怪物の背後、つまるところは下階の床に、仮面の男が着地する。それが意味するのは、彼が怪物の胴を文字通りに貫いたという事実。次の瞬間に頭上で起こる爆発がそれを裏付け、ばらばらと降ってくる怪物の残骸と体液の飛沫が、動かぬ証拠となってその場に残る。
 ゆっくりと、男が屈んだ姿勢から立ち上がる。同時に、頭上の爆発点に残っていた『X』の文字も薄れて消えた。

「な、なんと……!」

 ラズロと怪物が落ちてきた天井の穴――上階の床に穿たれた穴――から、白いローブの怪人物達が降りてくる。粉々に破壊された怪物の残骸を見遣って、緑膚の男が痛恨に声を上げた。
 鉱石を思わせる顔面の皮膚が、切歯するかの如く歪んでいる。その貌の中で唯一生物らしさを残す瞳に憎悪を滾らせ、ラズロを睨みつける緑膚の男だったが、しかし背後からの「よい、バラオム」という朽肌の老人の言葉が彼を押し留めた。

「まだ間に合う。だが猶予はない――急ぐのだバラオム、ドラスが“死ぬ”前に」
「…………ぬう……っ!」

 最後にぎろりと剣呑な視線でラズロをねめつけ、しかしそれも一瞬の事、緑膚の男がばさりとローブを翻した次の瞬間には、彼の姿は周囲の空間に溶けるようにして消え失せていた。見れば朽肌の老人や、頬痣の女もその姿を晦ませている。撤退したと見て間違いはあるまい。
 だが。――ラズロは気付いていた。彼等が姿を消すと同時、床に散らばっていた怪物の残骸も消え失せた事に。
 元より彼等の目的が怪物の回収にあったのだから、それ自体は当然と言えよう。向かってくるのなら一戦交える事も辞さない覚悟であったが、退くと言うのならそれで結構、追う理由はない。そも、この場でラズロに託されたのはあの少年の援護であり、それ自体は十全に果たされているのだ。

 と。そこで漸く、ラズロはあの少年が窓の外に放り出された事を思い出す。怪物へ引導を渡す事に集中するあまり、彼の事をすっかり失念していた。まあ曲りなりにもオルフェノクだ、この高さから落下しても死ぬ事はないだろう。
 それでも一応安否は確認しておくべきかと、彼が踵を返した瞬間。彼の眼前に赤黒色の魔法陣が展開され、次瞬、身の丈二メートルを超える巨漢が、転移魔法の光と共に姿を現した。

「はぁいラズロちゃん、お疲れ様ぁ。お仕事終了よん」
「………………」

 現れた臥駿河伽爛へ仮面越しに冷ややかな視線を向けて、ラズロは小さく嘆息する。面倒事がやっと終わってくれた、と言わんばかりの挙措であった。

「アルノちゃんも回収したし、さっさと帰りましょっか――あ、そっか。ラズロちゃん、おうちなくなっちゃったんだっけ」

 肩に荷物の如く担いだ男――雀蜂の毒にやられ、人事不省に陥っているアルノルト・アダルベルトである――の尻をぽんと叩いて言う伽爛だったが、ふと思い出したようにラズロの顔を、と言うか仮面を、覗き込んで呟いた。
 ラズロの部屋が戦場になり、結果的に無惨な有様と成り果てたのは伽爛がそこへ誘導したから、という事実に関しては綺麗に忘却しているらしい。今に始まった事ではないが、都合の良い思考回路である。

 尤も、それに関してラズロが抗議する事もない。ラズロにしてみればミッドチルダに幾つかある拠点の一つが潰れただけの事だ。金銭的な面から言っても、腐るほど金を持っている彼には大した痛手ではない。文句を言う口は、そもそも持ち合わせがなかった。
 ゆるりとかぶりを振って『問題無い』という意思を表せば、あっそ、と伽爛もあっさりとそれに頷いた。

「それじゃ行きましょ。早くしないと、六課のコ達が来ちゃうしね。――前の事もあるし、アタシもラズロちゃんも、顔を見られると厄介だしね」

 言いながら伽爛の足下、そしてラズロの足下に、それぞれ転移魔法の魔法陣が展開される。
 その時。猛々しいヘリの翼音と、サーチライトの白光が、廃墟もさながらの様相を呈する室内へと飛び込んできた。
 と言っても別段、ライトは室内を照らし出す意図を持って光を放っている訳ではなく、単にヘリがこのビル近辺を飛行している為に光が差し込んだというだけの事であり、ローター音も先程からおぼろげに聞こえていたのだから、今更驚く事ではない。

 ただ、彼等にとってヘリがこの空域を飛行しているという事実は、あまり歓迎出来ない事態の到来を意味している。つまりは機動六課の到着。
 伽爛の言う通り、伽爛もラズロも(ラズロに関しては“変身後”の姿に限るのだが)、以前に六課と接触している。それも六課の任務を妨害する形で。早々に逃げ出さなければ、面倒事が増えるだけだろう。
 魔法陣が一際輝きを強める。――次の瞬間、ラズロ・ゴールドマンと臥駿河伽爛、そして伽爛に担がれたアルノルト・アダルベルトは、誰に知られる事もなく、その場から姿を消していた。





◆      ◆







 意識を取り戻すと同時、全身を鈍器で殴打されるかのような痛みに、衛司は顔を顰めた。
 特に胸部の疼痛が酷い。軋む身体に鞭打って、胸を撫で回してみれば、ずきりと鋭い痛みが胸を刺す。あの時、頬痣の女が放った灼熱光球の直撃を食らった場所。雀蜂の強固な外殻でも完全に衝撃は遮断出来なかったらしい、目立った外傷こそないが、痛みだけは未だ疼くように胸に残っている。

 それでも、いつぞやスバルに殴りつけられた時に比べれば(スバル自身は知らない事であるが)遥かに軽傷だ。少なくとも骨や内臓に損傷は無いだろう。上体を起こして周囲を見渡せば、そこが大通りに接した路地裏である事はすぐに解った。
 恐らくはすぐ横に聳えるビルが、つい先程まで戦闘を繰り広げていたビルのはず――見上げたビルの最上階、その窓が不自然に割れているところを見れば、それは瞭然だった。

「っ痛ぅ……くそ」

 立ち上がろうとして、ぎしぎしと軋む身体に衛司は毒づく。あの高さから受身も何もなしに転落したのだ、この程度で済んだ事は掛け値なしに僥倖としか言いようがないのだが、それはそれ。やはり痛いものは痛いのである。
 戦闘は既に終わっているらしく、頭上からは何の物音も聞こえてこない。一体どれだけの時間気絶していたのかは知る由も無いが、戦闘に決着がつくには充分な時間だったのだろう。そしてそれが、衛司にとって望ましい形で終結した事も推察出来る。
 もしあの仮面の男――確か、ラズロとか呼ばれていたか――が怪物を倒せていなかったのなら、衛司はこうして安穏と気絶してなどいられなかったはず。尤も、衛司が戦場から脱落した時点で、怪物はほぼ機能停止状態にあったのだから、この結果は至極順当と言えるのだが。

「何だったんだ、あの化物」

 一般的には衛司達オルフェノクとて“化物”というカテゴリに入るのだろうが、しかしオルフェノクをすら捕食して己の糧とする生物、どう取り繕ったところで“化物”以外の表現では表せない。
 その脅威を免れ得たのはまさしく幸運と言えよう。綱渡りのような状況を渡りきった後だからこそ、その綱の細さに気付く事が出来る。

 しかし――と、衛司は思考する。
 前回といい今回といい、いやそれ以前、クラナガン医療センターでの一件もそうだろうが、衛司の首には何らかの価値があるらしい。賞金首と言うとやや語弊が生じるが、その首と引き換えに報酬を得ると言うのなら、喩え自体は概ね間違ってはいないだろう。
 実際、アルノルト・アダルベルトは衛司のその予測を肯定した。衛司の首を求めている者が居ると、その口ではっきりと言っていた。

 だがその場合、あの怪物が解らなくなる。あの怪物は明らかに、衛司を“餌”としてのみ狙っていた。報酬を目的としたアルノルトや、今夜よりも以前に相対したオルフェノク達と明らかに違う。
 恐らくはアルノルト達の黒幕すら感知しないところで、全くの偶然によってこの場に現れたイレギュラー。白いローブを纏った三人の男女も、あの怪物だけを目的としていたのは明白だ。衛司やラズロと敵対したのは、あくまで彼等があの怪物に危害を加えようとしたからであって、それ以上の理由などなかったのだろう。

 そこまでの考察を終えたところで、だが衛司は、そこから導き出されるある仮説に身震いした。
 ――この世界ミッドチルダは、あんな怪物がその辺をうろついているのか……?
 丸っきりの誤解、今夜の一件は彼がオルフェノクという人異人外に属するが故に招き寄せた偶然でしかなかったのだが、しかし当事者であるが故に致命的に情報を持ち合わせない衛司にしてみれば、その仮説は充分以上の信憑性を有していた。

「……ああ、もう。地球に帰りたいなあ……」

 脱力しながら漏れた呟きは、まあ多分に冗談めかした単なる愚痴であったのだが、しかし本音の一端である事も、また紛れも無い事実であった。
 ともあれ、泣き言を言っても始まらない。もう少しポジティブな思考に切り替えようと、少年は一つ大きく深呼吸して、改めて周囲の状況へ意識を向けた。
 頭上が深閑としているのとは対照的に、繁華街の大通りは何やら騒がしい。当然と言えば当然か、すぐ間近で怪物同士が殺し合っていたのだ。特に雀蜂の姿は多くの人間に目撃されている、騒ぎにならないはずがない。

 いつまでも此処に居る訳にはいかない。迎えが来るまで、安全な場所に身を潜めなければ――と、よろめきながらも歩き出そうとしたその時、衛司の耳が聞き慣れた音を捉えた。
 機械の甲高い駆動音と、路面を滑る車輪の音。六課訓練施設で幾度となく耳にしたそれに衛司が顔を上げれば、路地裏の先にある大通り、両脇のビルによって細く区切られた視界を、一人の少女が横切っていった。その紫がかった藍色の髪を見違える衛司では無い、それが一体誰のものであるのか、判別は何より容易だった。
 そして少女の方も、路地裏の衛司を見咎めていたのだろう。きぃいっ! と、耳を劈くブレーキ音。そして程無く、ギンガ・ナカジマが衛司の佇む路地裏へと駆け込んできた。

「ギンガさん」
「衛司くんっ! 大丈夫、です、か――」

 息せき切って駆けつけたギンガの言葉が、尻窄まりに途切れる。

 ――改めて説明するまでもない事であるが、結城衛司が転移魔法によって拉致されたのは、入浴中・・・の事である。無論入浴時に衣服を着用する訳もなく、そのままの格好で彼はクラナガンの街中へと放り出されている。
 それでもついさっきまで、近くに落ちていた段ボールで最低限隠すべきところは隠していたのだが……アルノルト・アダルベルトの襲撃、そして立て続けに謎の怪物、白いローブの男女との戦闘に入った事で、とうの昔にどこかへ放り捨ててしまった。

 で。ここで問題にするべきは、それを衛司が忘れていたという事。

 少しだけ彼の弁護をするのなら、それも仕方ない事と言えよう。生死を賭した戦闘をつい今し方まで繰り広げていたのだ、今の己がどんな格好であるのか、それを一々気にする余裕など微塵もなかった。意識を取り戻した時点でオルフェノクの姿は解除され、人間態へと立ち戻っていた事すら、彼は意識していなかった。
 そして今気付いた。今、思い出した。――それがどれほど最悪なタイミングであるか、瞬時に理解した。

「…………あ、あ、あ」
「――っ、あ、わ、わわわわわ」

 ギンガの顔が一瞬で朱に染まる。
 衛司の顔色が見る間に蒼白と化す。


きゃぁああああああああっ!
ぎゃぁああああああああっ!


 顔を両掌で覆い背を向けて、ギンガが悲鳴を上げる――同時に絶叫した衛司のそれと相俟って、道行く人々が一斉に何事かと足を止めた。
 更に。

「なに今の悲鳴!? ギン姉!? ――あ」
「ギンガさん!? 何かあったんですか!? ――あ」

 ギンガの悲鳴を聞きつけ、スバルとティアナが路地裏に飛び込んできて。

「何かあった、ギンガ? 今の悲鳴――あ」
「おい、ギンガ!? 大丈夫か!? ――お」

 同じく、頭上からなのはとヴィータが舞い降りてきて。

「今叫んだのはギンガか? ――む」
「どうしたのギンガ!? 何が――あ」

 更に衛司の背後から、シグナムとフェイトが到着して。
 ここにエリオとキャロが到着すれば、いよいよ結城衛司救出に出撃した機動六課フォワード陣勢揃いであったのだが、幸か不幸か、彼等はギンガの悲鳴が届かない場所に居たのか、もしくは繁華街の雑踏が悲鳴を掻き消したのか、部隊最年少の彼等はこの場に現れる事はなかった。
 ただし、それが衛司にとって救いとなったのかと言えば、これは全くそんな事はなく。

「あー! あーあ゛ー!?

 哀れを催す悲鳴が、路地裏に響く。
 その悲鳴を引鉄として、更に六人分の悲鳴と絶叫がそこに被さる事となるのだが――それは、ここから二秒後の話。





◆      ◆







 ちなみに数時間後。結城衛司は無事、機動六課隊舎に帰還する事になるのだが。
 出迎えた六課職員の面々に対する彼の第一声は、『地球に帰りたい』であったという。





◆      ◆





第拾弐話/了





◆      ◆







 という訳で、第拾弐話でした。お付き合いありがとうございました。

 ワームとの戦闘&ドラス襲来&カイザとのタッグマッチ&ゴルゴム登場と、書き上げてから見てみると、少し詰め込みすぎたかも。 
 当初はカイザとゴルゴムが出て来るだけの話だったんですが(前話で彼等の話題が出たのはその名残)、それじゃ物足りないなあと追加した結果、容量ばっかり大きくなって。もう少しコンパクトに纏める力が欲しいところです。

 で。絶対にどこかから苦情が来ると思うんですが、本作のカイザ。
 見ての通りのヤク中兄さんが変身してますが、これは前回(第六話)の時も同様で。
 いや、最初はもう少しまともな人を変身させようかと思ったんですが。ただどうしても、こういうクロスオーバーでのオリ要素、原作と比較されちゃうので。草加さんと比べれば大抵のキャラは印象薄くなってしまうので、もういっそネタ方向に振り切ってやれと、こんな感じにしてみました。期待した方にはごめんなさい。
 ……しかし本作、ライダーとのクロスオーバーなのに出て来るのが『ヤク中ライダー』と『洗脳ライダー』の二人だけって……うーん。
 いや、今後ちゃんと、原作ライダーも出て来るんですけどね?
 
 作中の通り、ドラスはゴルゴムが回収していったという事で。そう遠くない内に再登場の予定です。
 と言っておきながら、平気で半年とか一年とか放置する作者ですので、あまり期待しないでください。

 あとアルノルトさん。これも近日中に再登場予定。割と使いやすいキャラなので、もうちょっと引っ張ろうかなと。

 それでは次回で。宜しければ、またお付き合いください。





 そういえば、以前に頂いた感想への返信で『いっそ主人公をヒロインにしちゃおう』とか『風呂を覗かれて「のび太さんのえっちー!」と言わせよう』とか書いてたんですよね、私。
 いつの間にか、形は違うけど現実になっている……おかしいな。方向性間違えたかな……



[7903] 第拾参話
Name: 透水◆44d72913 ID:35af097c
Date: 2023/12/29 20:52
 ふわりふわりと、雪が降る。
 鉛色に凍った空から、静かに静かに雪が降る。
 窓の外から差し込む光も、どこか灰色に凍てついて。

 音の無い部屋はまるでモノクロ写真の一葉だ。白と黒と灰色に切り取られた、時間の止まった世界。
 全てが止まったその中で、少年は“それ”を見上げていた。

 人間サイズのてるてる坊主。天井からぶら下がるそれは、多分晴天を祈願するものではなかったのだろう。部屋の中央からだらりとぶら下がり、時折くるくると揺れ回るそれは、本来の用途にはとてもご利用頂けない。
 ……まあ、もし本来の用途の為に吊るされていたのだとしても、この曇天、祈願は空しく散るばかり。

 逆光のせいか、てるてる坊主のシルエットは判然としない――いや、それは本当に、逆光のせいだけであっただろうか。
 或いは視ていなかったのかもしれない。見てはいたけど、視ていなかった。視界に入れているだけで、それが何であるのかという思考を放棄していた。本能的に無意識的に、彼は思考と、思考の始点となる視覚をシャットアウトしていた。

 視てはいけない。その姿を視てはいけない。
 考えてはいけない。それが何であるのか、考えてはいけない。
 気付いてはいけない。それが     の変わり果てた姿と、気付いてはいけない。

 そう。天井からぶら下がるてるてる坊主の顔が、酷く見慣れたものであると解ってしまえば――



「――おねえちゃん」



 ふわりふわりと、雪が降る。
 墓場の様な静謐の中に、舞い散る雪だけが影を落とす。
 多分それが、結城衛司の最初の記憶――もう忘却の彼方に追いやられ、省みられる事もない、姉との最初の思い出だった。





◆     ◆





異形の花々/第拾参話





◆     ◆







 決戦の時は来た。
 思えば長い雌伏の時は、この日この時、この一戦の為にあったのだ。

 準備は万端。恐怖はなく畏れもなく、適度に解れた身体と明晰に冴え渡る思考は、最高のパフォーマンスを既に約束している。かつて勝負事に臨んでここまで完璧なコンディションを用意出来た事があっただろうか。そう言える程に今日の彼は“絶好調”であった。
 今日この日ならば、誰にも負ける気がしない。それは確信だ。今日の結城衛司は紛れもなく過去最高、なればこの自信も至極当然。

「――ぃ良し!」

 気合を入れて立ち上がる。
 今日の仕事は既に終わっている。まあ厳密にはまだ多少の仕事は残っているのだが、普段から働きづめの衛司である、アイナ・トライトンをはじめとする寮母達も心配になったのだろう、半ば無理矢理ではあるが半日の休みを与えられている。
 いつもなら降って湧いた半休に暇を持て余すところだが、珍しいと言えば珍しい事に、今日の衛司はその時間に使い途があった。

 前々から彼は『勝負』を挑まれていた。何の勝負か、誰から挑まれたのかはさておき、衛司としても敵前逃亡は面子が立たない(命が懸かってない限りは、という注釈が付くが)。いつでも受けて立つ気概ではあったのだが、六課公認の雑用係という仕事は割と多忙であり、意気とは裏腹に勝負は延び延びになっていたのだ。
 それが今日、唐突な半休によって時間が空いた。これ幸いと衛司の側から勝負を持ちかければ、相手は二つ返事で快諾し、では夕食前の時間を使って勝負しようと打ち合わせ、彼は一度己の居室へ戻ってきた……ここまでの経緯は、概ねこんなところである。

 勝負そのものは割と急な話であるが、いつでも勝負出来るよう、衛司は常から研鑽を積んできた。仕事の合間の空いた時間、或いは仕事が終わり就寝するまでの僅かな時間。あくまで常人の域を出ない――人外ながらもその属性を『普通』『凡俗』とする衛司なればこその必然だ――努力ではあるけれど、それで充分。本番が偶々今日になっただけの事。
 身支度を整え、必要な道具を手に、衛司は部屋を出た。日の暮れかける時間帯、外は一面の曇り空。隊舎の廊下は薄暗く、雰囲気としてはいまいちよろしくない。だが今の衛司にはその程度、舞台演出の一つに過ぎず、歩みを鈍らせるには至らない。
 廊下の暗さも窓から窺える曇天もまるで意に介さず、彼は食堂へと辿り着く。

「お待たせしました」

 勝負の相手たる少女と、審判を勤める少女は既に、食堂で衛司を待っていた。
 衛司の顔を見るなり、相手の少女は嬉しそうに両手を振ってくる。『早く早く』と誘っているのだろう。衛司が最高のコンディションであり、誰にも負ける気がしないのと同様、少女もまた必勝を確信しているらしい。上等だとばかりに笑みを返せば、少女もまた満面の笑みでそれに応えた。

「衛司くん、お疲れ様です! 準備は出来てるですか?」
「勿論。いつでもやれます」

 本日の勝負、その審判を勤める少女――リインフォースⅡの質問にそう応え、衛司は相手の対面に腰を下ろした。勝負は衛司と彼女の一騎打ちだ、衛司が到着すれば最早待つ必要は無い、すぐさま勝負は始められる。
 ……勿論、勝負と言っても荒事ではない。衛司は喧嘩などからっきしだし、相手の少女とてそれは同様。
 だから勝負はもっと平和的で、もっと残酷に優劣のつく方法だ。

「じゃ、いくですよ? よーい――スタートです!」

 リインが高々と手を掲げ、それを勢い良く振り下ろして号令をかけた次の瞬間――それを合図に、衛司と少女が動き出した。





◆      ◆







 機動六課解散までに残された時間、六課フォワード陣には徹底的な教導が予定されている。
 一日ごとに精も根も尽き果てるような、徹底的で究極的でいっそ偏執的な訓練訓練また訓練。スパルタ兵もびっくりの詰め込み教育であったが、それを受け入れるだけの強靭さがそもそも彼女達には備わっていたのだろう、拷問じみて容赦のない教導は確実に実を結んで、日一日と着実に、彼女達はレベルアップを果たしている。

 尤も。これに関しては、教導にあたる高町なのはやヴィータの“手加減”が絶妙である事も挙げておくべきだろう。フォワード陣に『歩いて帰れる』程度の余力が残ったままこの日の教導が終わったのは、その手加減の一環として、少女達に疲れを溜めさせない為の配慮であった。
 そうして普段よりもやや早い時間帯に、ギンガ達フォワード陣は夕食の為に食堂を訪れ――

「あれ、衛司くん?」

 ――食堂の一席でテーブルに突っ伏している、結城衛司の姿を発見したのだった。
 死体の如くぴくりとも動かない彼の対面にはヴィヴィオが座っており、眼前に浮遊しているリインフォースⅡと何やら話しこんでいる。ヴィヴィオの足下にはザフィーラが伏せていて、くぁ、と大きく欠伸を漏らしていた。
 ヴィヴィオ達だけならば日常風景の一コマとして処理出来るのに、衛司のせいで何ともシュールな絵面となっている。

「あ、お疲れさまですー。今日の訓練は終わったですか?」
「はい。……で、その、リイン曹長? 衛司くん、どうされたんですか?」

 食堂に入って来たギンガ達に気付き声をかけてくるリインへと、ギンガは問い質す。
 まあ、ヴィヴィオやリイン、ザフィーラの雰囲気からして、別に心配する程の事でもないのだろうが。普段この時間はまだ仕事しているはずの衛司が食堂に居る事、魂を抜かれたかのように突っ伏している事、それらを不思議に思っただけ。
 実際、リインに訊ねるギンガの声音には焦燥も陰鬱さもなく、呆れの色だけがあった。

「えーとね。ヴィヴィオとテストでしょーぶしたの。ほらみて、ヴィヴィオ、ひゃくてん!」

 嬉しそうに答案用紙を見せびらかすヴィヴィオ。どれどれとそれを覗き込んでみれば確かに、名前の横に100の数字。答案用紙にはずらずらと赤ペンで書かれた丸が並んでいる。
 何のテストかと問題の方を確認してみれば、それは国語――ミッドチルダ共用語の試験であった。どれも幼稚園から小学校低学年程度の学力があれば解ける問題だろう。

 地球の一部地域と同様、ミッドの子供にも義務教育は課せられている。地球の様に九年間もの長きに渡る教育ではないが、その分学校選択の自由度が高く、より設備や環境が整った学校を選ぶのが一般的となっている。
 高町ヴィヴィオはミッドチルダに存在する各校の中でもちょっとした名門として知られるザンクト・ヒルデ魔法学院への進学を希望しており、入学までに最低限必要な学力を身に付けるべく、日夜勉強に励んでいる。
 今日のテストもその一環であるらしく、満点のそれを見る限り、基礎学力にもう心配するところはないだろうと知れた。

「凄いね、ヴィヴィオ」
「うん!」

 太陽を思わせる満面の笑顔が、少女の顔を朗らかに彩る。高町ヴィヴィオのそれは一際明るく朗らかで、傍らに突っ伏す陰鬱そのものの十四歳と見事なまでに対照的。
 もう死体かそういう形の前衛芸術か、といった具合の衛司の姿を眺めつつ、キャロが小声でリインに話しかける。

「あの、リイン曹長? 『勝負』って事は、衛司さんも同じテストを受けたんですか?」
「はいです。衛司くん、まだこっちの言葉に慣れてないですから。ヴィヴィオとおんなじ内容のテストですよ」

 結城衛司は次元漂流者である。それも天災に巻き込まれて他世界に紛れ込んだ一般のそれと違い、何者かによってミッドチルダへと拉致されてきた人間だ。
 だから当然と言えば当然なのだが、リインフォースⅡの主たる八神はやてや、その親友高町なのはとは違い、ミッド文字の識字能力をさっぱり持ち合わせていない。

 勿論、はやてやなのはも最初からミッド文字が読めた訳ではない、管理局員として働くにあたり、ミッド文字の読み書きが必須だった為に頑張って覚えたのである(特に文系が苦手ななのはは並々ならぬ苦労があったのだが、その辺りは本筋とは関係ないので割愛)。
 会話そのものは翻訳魔法という便利な魔法が存在し、意思疎通に支障はないのだが、文字の読み書きにまでその便利さは適用されないあたり、世の中都合良く出来てはいない証左と言えよう。

 さておき。そんな訳で(この世界では)文盲な衛司であったが、生活範囲を六課隊舎の敷地内に限られていても、やはり文字が読めなければ何かと不便なもので、一月ほど前からミッド文字の勉強を始めている。暇な時間に単語帳を捲っているところや、仕事しながらぶつぶつ文法などを暗唱しているところを、ギンガ達も何度か目にした事があった。
 勉強に限った事ではないが、学習行動において最も効果的なのは、競い合う関係の人間と共に学ぶ事である。今回の衛司とヴィヴィオもそうだった。

 ザンクト・ヒルデ魔法学院入学に必要とされる学力、この時点でのヴィヴィオに与えられている学習プログラムは、ミッド語を学び始めた衛司にも使えるものであり、必然、衛司とヴィヴィオは肩を並べて勉強する事となった。ただし衛司は仕事の合間を縫っての勉強であり、ヴィヴィオと一緒に勉強する時間はそう多くなかったのだが。
 競い合うその関係によって衛司とヴィヴィオはそれぞれ、飛躍的に成績を伸ばしていった――しかし。

「で? アンタは何点だったのよ?」

 ティアナの問いに、ゆらりと衛司の右腕が持ち上がる。軟体動物の触腕を思わせる、肩から先が別の生物と化したような動きで上がった右腕は、その指先で一枚の紙切れを摘んでいた。
 取り上げてみれば、それは予想通り、衛司の答案用紙。
 点数は――72点。
 高町ヴィヴィオ100点、結城衛司72点。ヴィヴィオの圧勝である。

「負けたんだ」
「負けたのね」

 割と容赦のないスターズ03と04の言葉に、上がっていた右腕ががくりと落ちた。
 競い合う関係の人間が居れば、それに負けじと自身も集中して学習し、成績が上がる――成程一面で真理ではあろうが、しかし例外なくという程に絶対的なものではなく、結果にも個人差があるという事。
 言い換えるなら、知能や知性が伸び盛りなヴィヴィオと、取り立てて(地球での)学業成績が良かった訳でも無い衛司とでは、その結果に差が出るのはある意味当然なのである。
 まあ、衛司にしてみれば、それは何の慰めでもなく。
 更にティアナの放った言葉が、彼へ追い討ちをかけた。

「て言うか、これ名前間違えてるから、0点じゃない?」
「嘘ぉ!?」

 がば、と衛司が身を起こす。
 死体さながらの数秒前からは想像も出来ない勢いで振り向けば、ティアナは答案用紙を裏返し、衛司へと表面を向けて説明を始めた。

「まあ、間違いって程でもないんだけど。これ、この綴りの通りに発音したら、『結城衛司』じゃなくて『結城ウェーイ司』になるわよ」
「あ、ほんとだ。衛司くんがウェーイ司くんになってる」
「あとここ、『そんな事』が『ドンドコドーン』になってません?」
「『何故見てるんです』が『ナズェミデルンディス』って読めるんですけど……」
「これ、この『ボドボド』、『ぼろぼろ』って意味ですか?」

 ティアナの言葉にスバルが続け、エリオが、キャロが、そしてギンガが次々と答案用紙を覗き込んで指摘し。
 リインから赤ペンを借りたティアナが、正解とも不正解ともとれる曖昧な回答――リインはそれを全て正解としたらしいが、もう少し厳しい判断で――に、片っ端から×を付けていく。結果的に点数は72点から48点にまで下落した。
 はい残念でした、と答案用紙を返された衛司だったが、当然、それを受け取るだけの気力が残されている訳もなく。
 衛司の身体が再びテーブルへと突っ伏して――頭が重力加速で真っ逆様に卓の上へと墜落し、ごどん、と重たい音を食堂の中に響かせた。





◆      ◆







 時間は幾らでもある。
 それを費やす方法が思索を巡らすのみというのは常人には些か辛い事かもしれないが、生憎、彼――ジェイル・スカリエッティにとって、それはさしたる苦痛でもない。
 思考する、という行為そのものが彼にとっては娯楽の一種に成り果てているのだから、退屈とはまったく無縁。第九無人世界『グリューエン』の軌道拘置所に収監されて既に三ヶ月を過ぎようとしているが、この生活も存外悪くないとスカリエッティは考えている。

『無限の欲望』は此処で朽ち果てる。ほぼ確定され、恐らくは自分自身では覆しようのないその末路に、彼は何一つの不満も恐怖も覚えてはいなかった。彼は己が敗者である事を正しく弁え、それ故に、俗世に対する未練を切り捨てている。
 きんと耳鳴りにも似た静寂の中には、思考行動を妨げる雑音は何一つ混じっていない。彼の独房から窺える範囲には誰一人居らず、看守はおろか獄卒さえ存在しない、例え存在したところで彼の視界に立ち入ろうとしないその環境は、余人ならばとうに発狂してもおかしくない。
 その只中にあって尚スカリエッティは泰然としているが、それは果たして尋常ならざる精神力の賜物か、はたまた彼の精神が、既に狂人の領域に在るが故か。

「…………む」

 足を組み腕を束ね、瞼を下ろして、傍目には居眠りとしか見えぬ姿勢で――実際それが瞑想なのか、瞑想している自分の夢を見ているのか、本人にしても酷く曖昧だった――つらつらと思索に耽っていたスカリエッティが、ふと何かに気付いて意識を現実に引き戻す。
 静寂を切り裂く硬質な音。かつん、かつんと連続して響くそれは、ヒールが床を小突く音……端的に言えば、誰かの足音。それがスカリエッティの耳朶を打ち、彼の思索を中断させたのだ。

 徐々に近付いてくるその音に反応し、スカリエッティは瞼を押し上げた。いつも通り、何の変哲も無く殺風景な独房の光景が目に入る。四囲の壁面のうち、今スカリエッティの正面にあるのは、鉄格子代わりの強化ガラスが嵌め込まれた一面だ。半透明に色づき、此方と彼方とを隔てる境界と主張しているその向こう側、独房に負けず劣らず無機質で殺風景な通路に、その時不意に影が差した。
 噂をしていないのに差す影。その正体に、スカリエッティは一つだけ心当たりがあり。

「こんにちは。お久しぶりです、ジェイルさん」

 そして予想を裏切らず、心当たりはあっさりとスカリエッティの前へと姿を現した。
 脛裏にまで届こうかという、長い長い黒髪。反して白磁の如く白い肌。唇に引かれた一筋のルージュが、相克する陰陽の中で艶かしく蠢く。
 スカリエッティにとっては古い知己――いや、そのまま端的に、“友人”と呼ぶべきだろう。かつて次元世界にその名を轟かせた次元犯罪者である彼にとっては、ほぼ唯一と言って良い友人だ。

 どうやって此処に、とは問わなかった。訊いたところで答えはしまい、それ以前に、まるで興味も無い。衛星軌道上に存在し、外部からの侵入者なるものが完全に絶無とされているこの牢獄に入り込んだ手段に対して、スカリエッティは何一つ興味を抱いていなかった。
 そも、今日が初めての事でもない。スカリエッティがこのグリューエン軌道拘置所に収監されて以降、“彼女”は二月に一度くらいのペースでスカリエッティの元を訪れている。その手段がおよそ非合法なものである事に疑いの余地はないが、それを二度、三度と繰り返しているのだから、最早手法を問う事はさしたる意味を持たなかった。

「ああ、君か。今日は、何を持ってきてくれたのかな?」

 鉄扉と真空によって俗世と隔離されたこの空間では、外界と繋がる縁は来訪者たる彼女ただ一人である。時折、先の事件に関する聴取の為に管理局の人間がスカリエッティを訪ねてくる事はあるものの、それはあくまで彼から情報を引き出す事が目的であって、彼に外界の情報を齎してくれる事はない。
 その点、この来訪者は訪れる度に何かしらの手土産をこの牢獄に持ち込んできてくれる。中にはどう考えても収監中の犯罪者に与えてはいけないものもあり、その点からも、彼女が法の外側に居る存在である事が窺えた。……いや、いつぞやの様にぐつぐつ煮立った鍋焼きうどんを持ち込まれた時は、さすがに閉口したのだが。
 別段、スカリエッティは退屈を厭うていないし、そもそも思考行動に快楽を見出す彼にしてみれば退屈などという概念は端から保有していないのだが――それでも、ちょっとした“変化”は嬉しいものであり、

「ああ。今日はちょっとゲームなぞを一つ――私の出身世界のものなのですが」

 携えているハンドバッグから、一見しただけで明らかにそのバッグには収まらないと知れるサイズの木製の立方体を取り出した事にも、驚きこそあれ言及はしなかった。

「ふむ? ゲームとは、また典雅だね。ああ――そう言えば随分前に、そんな話をした憶えがあるかな。確か『ショーギ』だったか」
「ええ。ちょっと用事で里帰りしたのですが、その時に物置の隅で埃を被ってたのを見つけまして。近いうちに勝負しましょう、という約束が延び延びになっておりましたから、これ幸いと持ってきた訳です」

 将棋盤を見せびらかしながら、“彼女”は独房と通路を隔てる強化ガラスの脇に据えられたコンソールを操作する。衣擦れにも似た音を立てて透壁が中央から上下に二分割、天井と床とに吸い込まれていった。
 遮るもののなくなった境界をいとも簡単に踏み越え、“彼女”がスカリエッティの独房へと踏み入ってくる。

「ルールはご存知でしょう? まあ私もそう暇な身ではないので、勝負は一局だけになってしまいますが――」
「充分さ。ふむ、では何を賭けようか。賭けるものがないと勝負はつまらない、だろう?」
「ええ、その通りです――けど、まあ。この有様じゃ、賭けるものなんてありそうにもないですが」

 ぐるりと独房内を見回す彼女。ベッドに便器に小さな机、調度類はただそれだけで、華やぐ家具も無ければ主の趣味を窺わせる品もない。当然と言えば当然だ、豪奢に飾り立てられた牢獄など、それは最早牢獄としての態を為さない。
 いつぞや読んだ漫画本には巨大監獄の中で優雅な暮らしをしている囚人の姿が描かれていたが、生憎現実はそう甘くなく、次元世界に名を轟かせた凶悪犯罪者ジェイル・スカリエッティの牢獄と言えども、他の凶悪犯のそれと何ら変わるところは無かった。
 賭け事に供せる事の出来る物など、何一つない――しかし。

「さあ、どうだろうね? 私の頭脳。私の身体。私の矜持。私の知識。モノとして存在してはいないが、しかし君には充分以上の価値があるんじゃないのかな?」
「あら。どういう風の吹き回しでしょうか――それを賭けても良いと、そう仰るんですの?」
「勿論。言った以上は二言無しさ。勿論、君にも相応のモノを賭けてもらうがね」
「相応のモノ、ですか……困りました。私に賭けられるモノがあれば良いのですが」
「ふふ。ではそうだね、君の話などどうかな?」
「……私の?」
「そう。君がどこで生まれ、どう育ち、そして何を踏み外して人外へと堕ち、ミッドチルダへと移ったのか――それを、聞かせてもらおうかな。悪い取引では、ないだろう?」
「――あは」

 一つ優雅に微笑み零し。
 では結構、尻の毛まで毟り取ってあげましょう――と、そう言って。
 ジェイル・スカリエッティに向け、結城真樹菜はにっこりと微笑んでみせた。
 どこか毒蛾を連想させる、綺麗ながらも毒々しい笑みだった。





◆      ◆







「今日は自信あったのになあ……まさかヴィヴィオちゃんが百点取るなんて……」
「まだ言ってる」

 呆れ混じりに微苦笑を浮かべつつギンガがそう言えば、傍らの少年はしょぼんと肩を落とした。
 と、その拍子に、衛司の腕に抱えられた何本ものペットボトル、その一つがぽろりと彼の腕から零れ落ちる。それが廊下の床に落ちる寸前、咄嗟に身を屈めたギンガの掌が、優しくそれを受け止めていた。
 ギンガもまた、その腕にスナック菓子の袋を大量に抱えていたにも関わらず、まるで衛司がペットボトルを取り落とす事を見越していたかのような、それは俊敏な動きだった。

「あ、すいません」
「いえいえ。――って、ほら」

 衛司の腕にペットボトルを戻す。礼を言いながら頭を下げる衛司だったが、その動きでまた別のペットボトルが零れ落ちそうになる。ぐらりと傾いた一本を押し留めて、ふふ、とギンガは笑った。侮蔑でも嘲笑でもない暖かな微笑に、少年が思わず息を呑んだ。

「あ、う……は、早く戻らないと。皆待ってますし」

 ぶっきらぼうにそう言い、ずんずんと先を歩いていく衛司に、くすりと一つ微笑み零して、「はいはい」とギンガはその後を追った。
 ……夕食を終えた後、この日はもう訓練も書類仕事の類もなく、フォワード陣は自由待機の時間となった。じゃあ宿舎の休憩所でお菓子でも食べながらだらだらお喋りしようか、という流れになり、当然ながら衛司もそれに参加する事になった(衛司曰く『拒否権なかった』)。
 そこから二時間ほど彼等はだらだら雑談に興じていたのだが、二時間もお喋りしていれば持ち込んだお菓子も飲み物も食べ尽くしてしまうのが道理で、けれど就寝にはまだ余裕がある、お菓子追加ぷりーず。
 という訳で、衛司がお菓子と飲み物の補充に休憩室を出て、しかし一人だけでは大変だろうとギンガもそれに同行した――というのが、ここまでの経緯。
 
(けど、まあ――)

 先を行く衛司に追いつき、その横顔をちらと横目で眇め見て、ギンガはふと思う――随分と馴染んだものだ。
 いや、馴染んだというのなら、もう少し前から既にそうだった。六課に来た当初から、フォワード陣以外の職員とはそれなりに仲良く話していたし、フォワード陣に対してもあのショッピングモールの一件以降、少しずつ打ち解けていった感がある。関係が好転するきっかけとなったのは間違いなくギンガとの対話であるのだが、生憎、それを自覚し自認する様な性格では、ギンガは無かった。

 そしてショッピングモールでの一件が最初のターニングポイントならば、第二のターニングポイントが、先日の一件。入浴中の衛司が攫われ、クラナガンの繁華街に放り出された時の一件だ。
 どうやら拉致された先で、またぞろ衛司は何者かに襲われたらしく、戦闘と思しき光や爆発が確認されている。まあそれについては余談だろう、問題はその衛司を発見したのが、ギンガを初めとする六課の面々であったという事。……いや、思い出すと妙な気分になるので、事実を提示するだけだが。

 ギンガ達によって無事保護され、六課に戻った後の衛司は三日ほど部屋に引き篭もってしまい、それが再び顔を出すまでにはまた一悶着があったりしたのだが――それはさておき、その一件を境にして、また衛司に少し変化が訪れた様に思える。
 強いて言うなら、良い意味で遠慮がなくなった。愚痴も吐くし文句も垂れる、ヴィヴィオとの勝負にぼろ負けした事をこうして(ギンガの前で)嘆いているあたり、その証左と言える。
 だとするなら。オルフェノクの襲撃も、満更悪い事ばかりではなかったのだろうか。

「……なんですか?」
「ん? ううん、何でもありません。――衛司くん、少しはわたし達を信頼してくれてるのかなーって、そう思っただけです」

 ギンガのその言葉に、衛司は一瞬きょとんと目を瞬かせて、何か言おうと口をもごつかせた。
 恐らくは否定の言葉。いつぞや、ギンガは衛司に『もっとわたし達を信頼してください』と言った事があるが、それを鵜呑みにして態度を軟化させたと思われるのは、衛司としては不本意であるのだろう。
 だが、それが事実の一面である事も確かで。結局衛司は一つ唸り、曖昧な否定の言葉を呑み込んで、渋い顔ながらもギンガの言葉を肯定した。

「いや、まあ……うん。その、感謝……してます。皆のおかげで、僕、こうしてのほほんと過ごしていられる」

 年頃の少年にしてみれば、感謝の気持ちをストレートに言葉で表すのはどうしても照れと気恥ずかしさを伴うのだろう。顔を赤らめ、視線をギンガから逸らして、しかしそれでも尚、衛司ははっきりと、自分の言葉で感謝を口にした。
 ギンガにしても、正直、予想外。もっと曖昧な言葉ではぐらかすと思っていたのだ。
 それは或いは、ギンガと二人きりだからこそ出た言葉だったのかもしれないが、それはさすがに自惚れが過ぎると、彼女はその可能性については却下した。

「そうですか。そう――ですね。ふふ、うん、そうですね」
「……ギンガさん?」

 一転、訝しげな目を向けてくる衛司だったが、しかしギンガはどうしても、溢れてくる笑みを抑える事が出来なかった。
 掛け値なしに、偽りなしに、嬉しかった。結城衛司にとって、ギンガ・ナカジマを含む機動六課の面々が、どうでも良い雑多の範疇にない事が。
 ただ、傍から見ればそれはどこか、挙動不審な態度であり。
 眉を寄せ口をへの字に結び、衛司は難しい顔を作る。それがふと、思い出した様に言葉を紡いだ。

「ねえ、ギンガさん」
「はい?」



「オルフェノクって、何だと思います?」



 後に振り返ってみれば、恐らく、この時の衛司は気が緩んでいたのだろう。
 結城衛司が張り続け、その維持に腐心してきた“壁”の向こう側から、衛司自身がほんの少しだけ踏み出してきた。打算でも計算でもなく、単なる油断、単なる迂闊によって、彼は壁の向こうから――『結城衛司』を保つ為に何者も踏み入らせてはならない領域から、ほんの少しだけ、ギンガの近くへと踏み出してきた。

 オルフェノク。その名前を、これまで衛司は自身から口にした事はない。オルフェノクに命を狙われている彼だ、事情聴取などの中でその単語を言葉とする事は幾度かあったものの、話題として自分から持ち出してきたのは、これが初めての事であった。
 だからこそ。その珍しい、稀有な事態に目を奪われて――ギンガ・ナカジマは、結城衛司の油断に気付かなかった。或いはその油断を、自分達を信用し信頼してくれたが故のものと勝手に解釈してしまった。
 その錯誤に彼女が気付くのは、もう少し後の話である。

「オルフェノク……ですか?」

 随分と唐突な質問だ。少なくとも、脈絡がない事は間違いない。

「ん、ああ――いや、何でもないです。変な事言いました、忘れてください」

 ギンガの答えを待たず、没個性な愛想笑いと共に、衛司は自分から持ち出した話題を打ち切った。
 けれどギンガは打ち切られたその話題を引き取り、忘れてくれという衛司の言葉を無視する形で、話を続ける。

「オルフェノク……『灰色の怪物』。人間を襲い、何らかの目的で衛司くんの命を狙っている人外種族。――けど、衛司くんが聞きたいのは、そういう事ではないですよね?」
「……はい。ああ、言い方が悪かったですね、これ。忘れてくれって言った後でなんですけど――ギンガさん。ギンガさんは、オルフェノクの事をどう思いますか?」
「どう思うか、ですか」

 難しい問いだ。いや、質問自体はそう難しい事ではない。ギンガ・ナカジマがオルフェノクをどう思っているか。裏を疑う必要のない、シンプルな質問である。
 だから難しいのは、そんな問いを投げかけてきた衛司の真意、それを推し量る事。本当にどうでもいい、何ともつまらなさそうな――本心を押し殺していると知れる――顔で口にしたその質問に、一体どういう答えを返せば良いのか。それを迷う。
 元よりギンガはそういった駆け引きを好まない。言葉の裏を読む事は苦手だ。だから結局、彼女は自身の見解をストレートに口にした。
 恐らくはそれこそ、衛司の求めている答えだと……そんな、漠然とした予感があった。

「わたしは――寂しいヒト達なんだろうなあって、そう思います」

 ミッドチルダを恐怖に陥れる『灰色の怪物』を、あえて“ヒト”と、彼女は呼んだ。
 ギンガにしてみれば、ガリューのような例もある事から、それはあくまで人型の生物という意味での言葉に過ぎなかった。しかし自身の言葉が、それを発した本人にも知り得ぬところで痛烈な皮肉を孕んでいた事に、終ぞギンガは気付かなかった。
 そして。皮肉というのなら、更にもう一つ。
 よほど慮外な言葉だったのだろう、衛司が眉を上げて、ギンガの言葉を繰り返す。

「寂しい――ですか」
「これがオルフェノクに共通するのか、それともわたしが見てきたオルフェノクが偶々そういうヒト達ばかりだったのか、それは判りませんけど――と言うかそもそも、これわたしの勝手な推測なんですけど――きっとあのヒト達は、自分の暴力にしか拠って立つものがなかったんじゃないかって、そう思うんです」

 四肢を持つ人型の猛獣――オルフェノクに対する一般の認識は概ねそんな感じに集約される。それは決して間違いではないし、ギンガも別段、それに異を唱えるつもりはない。
 だがギンガの見解は違う。別に他人に押し付ける気は無いし、反論されればあっさり撤回してしまうかもしれないが、ギンガはオルフェノクを単なる『猛獣』とは思っていない。
 猛獣並みの、いやそれ以上の戦闘能力を持つ生物である事は疑いない。しかし特筆すべきはそれが、人間と同様の思考・メンタルによって運用されているという事実だ。その一点を以って、ギンガはオルフェノクをただの猛獣と見做していない、見做せないのだ。

「人間にとって暴力って、結局のところ、対人関係における最後の手段だと思うんです。自分から捨てたのか、周りに奪われたのか、その辺の事情は人それぞれですけど――それ以外に何も無くなったから、或いはそれが一番効率的になってしまったから、暴力に訴える。
 けれど、普通の人はそう簡単に暴力を振るえない。暴力を振るうってのは、それ以外の関係を断ち切るって事とイコールです。換言すれば、暴力を前提とした関係しか築けなくなってしまう。それでいいって言える人はそう多くありません。誰かと傷つけ合う関係を良しと出来る人は、人間社会では絶対的に異端です」
「つまりオルフェノクは、他人を傷付けても何も感じない連中――って事ですか」

 衛司の言葉に、しかしギンガはゆるりとかぶりを振った。

「衛司くんの言う事も、それはそれで間違ってないと思うんです。だからこそ、オルフェノクは衛司くんを狙ってくるんでしょうし。けれど――衛司くん、いつぞやのショッピングモールの事、憶えてますか?」
「ああ――はい。憶えてます」
「あの時、あの場所に、オルフェノクは二匹居ましたよね。団子虫に似たオルフェノクと、花に似たオルフェノク。あのヒト達、その……えっと、何と言うか……こ、こいびと同士、でしたよね」

 恋愛にはいまいち疎い、だがそれ故に想像力の逞しいギンガだ、気恥ずかしさに思わず声が上擦ってしまった。
 衛司の方もギンガが何に引っ掛かっているのか察したと見えて、「え、ええ、まあ」と明後日の方を向いて頷いている。
 こほん、と一つ咳払いを置いて、ギンガは話を続ける。

「あのヒト達を見て、思ったんです。オルフェノクにも、人間と変わらない恋愛感情があるんだなあ、って。――なのに彼等は、当然の様に暴力を行使した。有り余る暴力で衛司くんを殺そうとしたし、実際、近くに居た人達を手にかけた。……そしてそれに、何の後悔も抱いてなかった」
「…………」
「多分――本当に多分で、何の根拠も無い話なんですけど、彼等は暴力が前提なんじゃないかって、そこで思ったんです。なまじその身体に圧倒的な暴力が備わっているから、暴力こそを至上価値としてしまった。暴力を持たない他者を、自分より劣るもの、虐げて良いものとして認識してしまった。
 それって、すごく哀しい事だと思うんです。同じ言葉で会話出来て、同じように恋愛出来るんだから、きっと解り合えるはずなのに……『相手は自分より弱い』って見下して、同じだけの暴力が振るえる相手しか対等に見られない」
「……けれどそれは、オルフェノクに限った事じゃないでしょう――人間だってそうだ。人間だって、自分より弱い誰かを虐げてる」
「そうですね。その意味じゃ、オルフェノクも人間も変わらないんでしょう。そこに違いがあるとしたら、オルフェノクの力は人間にとって『見え易い』って事だと思うんです。いや、人間だけじゃないですね。オルフェノク自身にだって、それはとても見え易いもので――見え易いからこそ、視界にそれしか映らない」
「ああ――そっか。つまり『寂しい』ってのは、オルフェノク個人の認識じゃなくて」
「ええ。それを『寂しい』と思うのは、彼等を見ている私達の方です。あのヒト達はきっと、自分達が寂しいだなんて思っていないんでしょうね。……そういうの、自分では解らない事ですし。
 持ち合わせる暴力のせいで、暴力の介在しない関係性を見失ったヒト達――だからわたしは、あのヒト達を……オルフェノクを『寂しい』って思うんです」

 ギンガはここで言葉を切り、自身の見解を述べ終えた。
 成程、と衛司が頷く。感心しているような納得しているような、微妙な挙措。恐らくはその両方だろう。
 その身に備える暴力に目を眩まされ、暴力を前提とした関係性のみを『是』とする者達。それがオルフェノクと、ギンガは言った。実際、ギンガが前置いた通り、ギンガの前に現れ、僅かながらとは言え言葉を交わしたオルフェノクは、皆その通りの醜悪な存在であった。

 だが世の中に存在する何であれ、そこに例外が存在するのは必然。なればオルフェノクとて、ギンガが言うばかりの者達のみではあるまい。
 保有する暴力に負けない、暴力を持ちながら暴力に拠らないオルフェノク……ギンガの言葉を使って換言するところの『寂しくない』オルフェノク。それだってきっと、何処かに存在しているはず。
 それはギンガの願望で、しかしそれをはっきりと言葉にする事を、ギンガは怠ってしまった。それは自分が言葉にした事が自身の見解の全てと、そこで確定させる事に他ならず。
 畢竟、それはごく当然に、ギンガの認識と衛司の認識をすれ違わせる。

「だよなあ……だったら本当、救いが無いんだよなあ……」

 ぽつりと零した衛司に怪訝な顔をしながらも、ギンガはそれを質す事はしなかった。
 そこに悲壮感がなかったからだろう。問い質す程の事ではないと、そう判断してしまった。
 質したところでどうせ彼は答えまい、嘘を吐くのが致命的に下手糞なこの少年は、都合の悪い事には貝のように押し黙るという悪癖がある。それを理解しているからこそ、ギンガはそれを、いつか話してくれる事と諦めた。

 ただ一つだけ、そこに不安を覚えているとするのなら――その“いつか”が、いつ来るか判らない事。
 時間は有限で、楽しい時間も穏やかな時間も、永遠には続かない。それはどうあっても覆せない理だ。
 出来る事ならこの穏やかな時間の内に、彼が抱え込んでいる何かを話してほしいというギンガの思いは、決して間違ったものではなかっただろう。





◆      ◆







 ともあれ、お喋りをしていれば道中などあっという間で、程無く衛司とギンガは休憩室へと辿り着いた。
 しゅん、と気の抜けるような音を立てて開く自動ドア。それを潜った瞬間、

「あ、ギン姉、衛司くん、おかえりー」

 と、二人が居ない間も雑談に興じていた面々の中で、スバルが真っ先に彼等に気付き、そう声をかけてきた。
 他の面子も口々に二人を労い、それに応えながら衛司達は仕入れてきたお菓子と飲み物をテーブルへと広げる。次々と少年少女がそれに手を伸ばし、そうしてお喋りの方も第二ラウンド突入。

「そういえばですけど――衛司さん、元の世界では学生さんだったんですよね?」

 そんな中、ふと思い出したように、とりあえず不自然ではない程度の流れで、エリオが衛司に水を向けた。
 元よりそう雄弁な性質ではない衛司だ、雑談に加わっているとは言ってもにこにこと他の連中が駄弁っているのを眺めているだけで、自分から話に加わってくる事は少ない。フォワード陣にしてみればどこか村八分にしているようで心苦しいところもあったのだが、だからと言って無理に話題を振ってみる方が衛司は嫌がるのだと、ここ数ヶ月で学習している。

 だから今、エリオがこうして話しかけたのは、純粋に衛司との会話を求めている――気を遣った訳ではなく――から。
 それを了解しているのだろう、衛司も「うん?」と、ごく自然な態度で応えた。

「ああ、うん。普通の中学生。自分で言うのもアレだけど、日本――あ、僕の出身の国ね――じゃ一般的な学生かな。義務教育って言って、ある程度の年齢までは学校に通う事が義務付けられてるから」
「はい。フェイトさんからも聞いてます。その……随分学校休んじゃってると思うんですけど、大丈夫なんですか?」
「…………うう」

 ぶっちゃけ全然これっぽっちも大丈夫じゃない。
 このままじゃ進級出来ないよなあ、と衛司は渋い顔を見せた。いくら義務教育とは言え、出席日数が足りなければ留年も有り得る。しかも恐らく、ミッドに連れてこられた経緯を鑑みるに、地球での衛司は失踪者扱いではあるまいか。もしかしたら結構な大事になっている可能性は否定出来ない。

 とは言え、衛司がミッドに留まっているのは管理局側の要請(実質はほぼ強制だが)あっての事で、衛司には責任がないのだが――その分、責任を負うべきは管理局であり、管理局に属しているギンガ達も、それと無縁ではない。学校に関して触れたエリオの声音が、少なからず遠慮がちであり、申し訳なさそうな調子であったのも、そこに起因する。
 尤もギンガ達の“責任”など微々たるもので、そもそも存在しないようなものだ。嫌な言い方をすれば、彼女達が勝手に責任を感じているに過ぎない。それは衛司も充分に理解の内であり、一つため息をついて継いだ言葉は誰を責める調子でも恨む調子でもなく、普段通りの声音であった。

「けどまあ、こういう時には独り暮らしで良かったって思うよ。家族が居たら大騒ぎになってるだろうし」

 何気無い調子で漏らした言葉に、ん? とその場に居た面々が揃って首を傾げた。その反応を受けて衛司もまた首を傾げる。自分は何か変な事を言っただろうか?
 場に居る者全員が互いに首を傾げあっている光景は、傍から見ればどうにもシュールなものであった事だろう――当事者には判らない事であったが。

「衛司さん、独り暮らしされてたんですか?」
「うん。――あれ、前に言わなかったっけ?」
「言ってないわよ。あんた、自分の事ろくに喋らないじゃない」

 横合いから口を挟んだティアナに、あう、と渋い顔をして、衛司は黙り込む。
 実際、ティアナの言う通り、衛司は自身の事を殆ど話していない。家族構成は両親と姉が一人、それも二年前に亡くなっているというくらいで、ミッドに拉致されるまでどう暮らしてきたのか、どう日々を過ごしてきたのかについては、殆ど話していなかった。

 機動六課に配属されている者達、特に隊長陣やフォワード陣は皆、何かしら人には言えない過去を抱えている。出生に常人とは些か異なる経緯を踏んでいたり、愛する者を失ったり、それが故の辛酸や苦渋を舐めてきている。
 勿論、それらの艱難が彼等彼女等を強くした側面は否定出来ず、また六課発足から半年以上が経った今では隊員達の間でそれらの秘密も共有されている。ただそういった事情のあるせいか、他人の過去を詮索しないというのは、六課内における暗黙の了解であった。
 ティアナの言葉にも、だから責めるような響きは一切ない。

「うん、まあ、別に隠してた訳じゃなかったんですけど……でも別に、聞いても面白い話じゃないですよ? 父さんと母さんと、姉さんが死んで、それからずっと独り暮らししてたってだけですし。父さんがそれなりに稼ぎ良かったから貯金はあったし、保険金も降りたから、とりあえず高校出るくらいまで生活には困らないし。掃除洗濯が面倒臭かったってくらいで」
「あ――じゃあさ、一ついい?」

 そう言って手を挙げたスバルに、衛司は視線でどうぞと促す。 

「衛司くんのお姉さんの話、聞かせてもらっていい?」
「姉さんの? や、別に構いませんけど……」

 衛司の視線が語っている。それこそ、聞いたところで面白い話ではないと。
 ただ、スバルの振ってきたそれは、別段脈絡のない話題でもなかった。現につい先程まで――衛司とギンガが食物を補充に行く前まで――の話題がまさにそれ、フォワード陣それぞれの家族に関してだったのだ。より正確を期するなら、既に亡くなっている、或いはもう会えなくなっている家族の話である。
 ティアナ・ランスターの兄、ティーダ・ランスター。ギンガ・ナカジマとスバル・ナカジマの母、クイント・ナカジマ。エリオ・モンディアルの生家、モンディアル家の両親。キャロ・ル・ルシエの出身世界『アルザス』の辺境、ルシエの郷の人々。
 その思い出を語り合っていた中で、ただ一人、衛司だけが自身の家族について何も言わなかった。単に話すタイミングが掴めなかっただけなのだが、その意味でスバルの問いは僥倖であったとも言える。

 先述した通り、『他人の過去を詮索しない』が六課における暗黙の了解である。にも関わらずスバルは衛司の亡き姉について訊いてきた訳だが、これは別に、彼女が空気の読めない人間という事を意味しない――むしろ逆だ、一見の印象に反して彼女は気遣いの出来る人間である――単に、衛司にとって隠す事ではない、触れられたくない事ではないと、それが周知の事実であるからだ。
 衛司が自身について語らないのは、彼の視線が理由の全て。つまり、聞いたところで面白い話ではない。サービス精神旺盛では決してないが、しかしわざわざつまらない話で時間を費やす事に、衛司は価値を見ていない。
 その視線に首肯で応え、スバルは更に言葉を継いだ。

「前にシャーリーさんから、ギン姉とは全然違うタイプだって聞いたんだよね。どんな人だったのかなって、気になっちゃって」
「どんな人って言われても……うーん」

 腕を束ね首を傾げる衛司。眉根に寄せた皺を見れば、言葉を選ぼうとして、しかし選べる言葉の選択肢が殆ど無い事に今更気付いたのだと知れる。
 元より弁舌の達者な、語彙の豊富な男でもない。結局彼はごくありきたりの言葉で、今は亡き姉について語り出した。

「まあ、頭の良い人だったと思います。一度見たり聞いたりした事は大概忘れなかったし、飛び級で大学入ったりもしてましたし……遠くの大学だったから、僕が十歳になる前に家を出ちゃってたんですけど」

 ただ、衛司の印象としては、単に頭が良いばかりの少女でもなかった。
 いつぞや、シャーリーの質問に答えた様に、本当に横暴で傲慢で、性格の悪い娘だったのである――いや、弟から見た姉というのは、どこの家庭も似たようなものなのかもしれないが。
 衛司が買ってきた雑誌は先に読む(問答無用にぶん捕られた)、ゲームのデータは消してしまう(何十時間もかけたデータが吹っ飛んだ)、TVのチャンネルは独り占めする(お気に入りのアイドルが出るドラマしか見せてもらえなかった)、推理小説を読んでる途中に犯人教えてくる(しかもトリックまで一々説明された)と、いっそ弟いじめを楽しんでいる節があった気もする。

「本ばっかり読んでた人、ってイメージがあるんですよね。家の近くに大きな図書館があるんですけど、そこから毎日どっさり本を借りてきて、家でも学校でも読んでました。休みの日なんか一日中部屋に篭もって本読んでて、偶に気分転換に僕いじめて。それが終わったらまた部屋に戻って読書してる感じでした」

 一度、姉がどんな本を読んでいるのか気になり、彼女が読み終えたそれを手に取ってみたのだが――当時小学一年生の結城衛司には、まるで理解出来なかった。
 姉とて当時は小学六年生であったのだが、彼女がさも当然のようにそれを読んでいたものだから、自分にも読めると思ってしまった。実際は、彼女が読んでいたのは大学の講義で使われる様な専門書であり、衛司にしろ姉にしろ、小学生が理解するには破格に荷が重いものであったのだ。

 締め切った部屋で黙々と読書に熱中している姉の姿を、幸か不幸か、衛司は目にしていない。姉の部屋には鍵などついていなかったが、しかし何故か、彼はその部屋に入る事が出来なかった。
 思い返せば不思議な話だ。誰に禁じられている訳でもない、まあ無断で這入ればどつかれるのがオチだろうが、決して『入ってはいけない』場所ではなかったのに。

「…………」

 考えてみれば。
 衛司が姉の部屋に入らなかったのは、入れなかった訳では無く――入りたくなかったからではないだろうか?
 入れば見るべきでは無い“何か”を目にしてしまうと、そう解っていたからではなかっただろうか?

 そう、例えば。
 窓の外に舞い散る雪。
 灰色に凍てついたまま、差し込んでくる陽光。


 天井からぶら下がる、大きな大きなてるてる坊主。


「衛司くん? どうかした?」
「…………あ、いえ。えーと、どこまで話しましたっけ――っと、本ばっかり読んでた、ってトコまでですね」

 スバルの言葉が、ふと記憶の深奥に落ち込みかけた衛司の意識を引き戻した。そのせいで思い出しかけた何かは霧消してしまったのだが、無論それはスバルの知るところではないし、衛司にしても大した意味を持つ事ではない。

「だから正直、昔は姉さんが嫌いでした。何かこう、月並みな言い方なんですけど――姉さんが家を出ていって初めて、ありがたみが解った気がします」

 だからあの日――二年前のあの日は、惨劇が起こるその時までは、本当に楽しかったのだ。
 飛び級による大学進学の為に家を出たきり滅多に連絡も寄越さなかった姉が、珍しく『明日帰る』と電話を寄越してきた。どういう風の吹き回しかと衛司はじめ家族は怪訝に思いながらも、長女の帰省を厭うところがあるはずもなく、迎えに行くついでに家族揃って外で食事でもしようか、という流れとなった。

 結果として、姉が家族の住む北海道札幌市に戻ってきたその日、結城一家は文字通り皆殺しの憂き目に遭う事となったのだが。
 勿論、それが衛司の口から語られる事はない。

「……まあ、あれです。今でこそ姉さんの事を好きだって言えますけど、それ、やっぱり死んじゃってるからって事もありますし。もう居ないから、全体的に美化されてるんじゃないかなーって」

 そう言って飄げた風に肩を竦めた衛司だが、しかしそのリアクションに、ギンガが静かに首を振った。

「違いますよ、それ」
「? 違い――ますか?」
「衛司くんはきっと、生きてる時からお姉さんが大好きだったんだと思います。お姉さんが亡くなってしまわれたから、それを表に出せるようになっただけ。衛司くんのお姉さんへの想いは、きっと、何も変わってないんですよ」

 むう、と衛司が唸る。
 衛司の事など何も知らない、姉の事など何も知らない、そんなギンガ・ナカジマの言ではあったが、しかしその言葉は確かに、衛司の内腑を衝いていた。
 すとんと何処かに何かが嵌まるように、衛司はギンガの言葉に納得していたのだ。
 尤も、それをストレートに認める事は、十四歳男子のしょっぱいプライドが邪魔してしまったのだが。

「そういうもんですか」
「そういうものですよ」

 衛司は苦笑して、ギンガは微笑する。
 その微笑に、結局、衛司はそれ以上何も言う事が出来なかった――より正確を期するなら、何かを言う気も失せてしまった。
 それは決して失望や落胆故のものではなく、単に、無粋な反論でギンガの微笑を潰したくないと、ただそれだけの事だった。





◆      ◆







「自分で言うのも何ですけど――私、割と頭の良い娘だったんですよ」

 そんな言葉から、結城真樹菜は自身について語り出した。
 彼女の眼前には頬杖をついてそれに聞き入るスカリエッティ。だが真樹菜の台詞はともかく、口調は明らかに、眼前の男に語りかけるものではなかった。形式としては会話でありながら、しかしその実、彼女のそれは独白と大差なかったのである。
 スカリエッティは何も言わない。無言のまま、視線だけで先を促している。それに気分を悪くした様子もなく、そもそもスカリエッティの存在など眼中にないかのように、男の視線とはまるで無関係に、真樹菜は静かに言葉を継いだ。

「具体的に知能指数を測った訳でもないのですけれど。知識を詰め込む事が面白くて、詰め込んだ知識で問題を解いていくのが面白くて――そういう時期があったんです。まあ、これに関してはどんな子供も一度は通る道なんでしょう。ただ、私はそれが他の子より少しだけ早くて……そして、少しだけ度を越していた」

 そう。結城真樹菜という少女の性能は、一般的な子供と比して明らかに規格外だった。記憶力。理解力。演算能力。思考行動に必要な諸々が、同年代の子供と比較して……否、成人と比較しても尚、彼女は圧倒的であった。それこそ、常軌を逸していると言える程に。
 どれだけ膨大な情報も漏らさず記憶し記録し、どんな難解な問題であっても解答を導き出すに手間取った事はない。そういった規格外をして人は『天才』と称する。
 真樹菜はそれを誰に教わる事もなく知っていた。自身が天才と呼ばれる類の規格外である事も、規格外は即ち異端であり、異端を排斥しようとするのが人間に限らず生物のコミュニティにおける必然である事も。

「小賢しい子供だったと思います。自分の能力を自覚して、それが他者からの嫉視を受けるものと自覚して、叩かれないように身を屈めて日々をやり過ごそうとしていたのですから。……でもまあ、仕方ない事なんでしょうね。その頃の私はただの人間で、それ以外がある事なんて知らなかったから――人間を外れても生きていけるなんて、思ってもいなかったから」

 真樹菜は才能に溺れなかった。他を見下して増長する事もなければ、その能力故の退屈を抱く事もなかった。
 ただし、それを幸いと言えるのは天才ならぬ凡百だけ。ベクトルが真逆なだけで、やはり彼女も自身の才能に憂鬱を感じていたのだ。
 人間とは社会性の動物であると言われるが、その社会に順応しようと努力していた当時の彼女は、紛れもなく“人間”であり――しかし同時に、埋没する為に努力を必須とする時点で、紛れもなく“異端”であったと言える。

「けれど――やっぱり、駄目でした。我慢出来なくなったんですよ。破綻した、と言った方が近いかもしれません。金属疲労みたいな感じで、ある日、ぽきっといっちゃいました」

 だから真樹菜が九歳のある日、彼女は何の未練もなく、ごくあっさりと己を捨てた。
 きっかけは無かった。本当に唐突に、彼女は不意に世の中が厭になったのだ。もしかすれば、そこに何らかの原因があったのかもしれないが、恐らくそれは他人に話して理解の得られるものでもなかったのだろう。人間の埒外、規格外たる少女が世界に絶望する理由など、凡俗共に理解出来るはずもない。
 そも、真樹菜自身それが解っていないのだから、理由など有っても無くても同じ事。

「気付いた時には準備を終えてました。天井に縄結び付けて、部屋の中央に台を置いてそれに乗って……あは、天才だの規格外だのって言う割に、やった事は平凡極まりない首吊り自殺だったんですよね」

 首にロープを括りつけて。
 体重を支える台を蹴飛ばして。
 そして望み通り――結城真樹菜は、人間社会から脱落する事が出来た。

 逸脱した己を社会に埋没させられなかった少女は、自殺という手段を以って人間社会から脱落する事を正当化した。
 死人は如何なる理由があっても人間社会に入り込めない。逆説的ではあるが、人間社会に順応出来ない少女は、『死人』というラベルを自身に張る事で、『逸脱していても仕方がない』という免罪符を得るつもりであったのだ。それが不可逆的なもので、得られるものなど何一つない無為であったとしても。

 そこに誤算があったとするなら、死という事象が、結城真樹菜の予想に反して“終焉”ではなかった事。確かに人間としての結城真樹菜はそこで終了したが、しかしその直後に、人外としての結城真樹菜が始まってしまったのだ。
 そして、もう一つ。

「見られてしまったんですよ――衛司に」

 そう。これは本当に予想外だった。
 当時四歳になったばかりの衛司が、ふと姉の部屋に踏み入ってきたのだ。その頃の衛司はごく普通の子供として姉に懐いていたから、姉の部屋に無断で入ってくる事も珍しくなかった。真樹菜も真樹菜で齢の離れた弟を可愛がっていたから、それを咎める事もしなかった。
 だが実際、それ自体は予想していた。愛する弟が自身の骸を最初に発見する可能性は、真樹菜も充分に想定していた。だがどうせここで死ぬ身と、彼女はその可能性に対する考察を放棄した。

 だから予想外というのは、一つ目の誤算に起因する事。
 即ち、結城真樹菜がオルフェノクとして新生する瞬間を……弟の結城衛司に、目撃されたという事。

「まあ、これに関してはそう難題でもありませんでした。衛司、お昼寝から目を覚ましたばかりで、まだ半分寝ぼけてましたから。夢か何かだと思ってくれたんでしょうね。――本当に幸いでした。私自身もその時の自分に何が起こったのか、はっきり理解していませんでしたから。下手に騒がれたら、うっかり殺していたかもしれません」

 ともあれ、こうして真樹菜は人外へと堕ちた。
 極めて稀少な、自然死から蘇生する事で誕生するオリジナルのオルフェノク。その中でも更に稀有な事例、“自殺”を因に誕生したオルフェノクとして。

 ちなみに。真樹菜が人外として新生したその日、遠く海鳴の地では『闇の書』にまつわる諸々の事件が終焉を迎え――後に異郷の地ミッドチルダで出会う事となる少女、八神はやてが魔導の道に足を踏み入れていたのだが、それは当然、真樹菜も知らぬ事であり。
 期せずして同日、それまでの条理常識から逸脱した世界を知った少女達が十年の時を経て邂逅していた皮肉も、だから無論、知る由もない。

「オルフェノクに成ってから、私は躊躇を止めました。覚醒したっていうか、どちらかと言えば、たがが外れたって言う方が近いのかもしれませんね。嫌な言い方すれば、他人の視線が気にならなくなったんです。人外に成った事で自分のキャパシティがどれだけ広がったのか、ポテンシャルがどこまで伸びたのか、それを探る事に時間を費やしていたから、それ以外に気が回らなくなった感じですね」

 それはある意味、彼女の弟たる結城衛司と真逆の在り方だ。
 排斥の恐怖に怯え、しかしオルフェノクに堕ちた事でその恐怖を払拭した真樹菜と。
 何も知らずに生きてきて、しかしオルフェノクに堕ちた事で排斥される恐怖を抱え込んだ衛司。
 血を同じとする姉弟なのに、こうも違う。

「運良く、中学を出たらすぐに大学に飛び級で進学出来る事になりましてね――これ幸いと私は家を出ました。知識を掻き集める環境として、自分の家、自分の部屋は物足りなくなってきたところでしたから」
「けれど君は、その大学とやらには通わなかった」

 ここで漸く、スカリエッティが口を挟んだ。その顔にはいつもの、しかし普段と比して更に凄愴な笑みが浮かんでいる。真樹菜の話に興が乗っている事の証だった。

「籍だけは置いていたんだったかな? しかし君はそこで勉学に勤しむ事も、研究に打ち込む事もしなかった。君が高校生というプロセスを飛び越えて大学に進んだのは、あくまで、世間一般の枠組みの中で時間を捻出する為だった」
「ええ――そうです。その通り。小学生の頃はそうでも無かったんですが、中学生になると学校での拘束時間が少しばかり辛くなってきまして。高校生になると更に伸びるのは自明です。……その点、究極的にはですが、大学生というのは単位さえ取れば何処で何をしていても良い訳ですからね。しかも遠方の大学に通うとなれば、一人暮らしの名分も立つ訳で」
「そう。そして君は一人、周囲には大学に通うと見せかけて――実際、月に数日は大学にも通っていたのだろうが――地球を離れ、ミッドチルダへと赴いた」

 頷く真樹菜。
 彼女が地球を離れる事を決めたのは、中学校に進学して二月ほど経った頃の話だ。

 真樹菜の通う中学校で起こった、とある猟奇殺人事件。その解決に真樹菜は人知れず寄与し――ただしそれは決してハッピーエンドとは言い難い、目を覆う程に無惨なバッドエンドとして解決したのだが――だがその事件によって、彼女の存在がスマートブレインに知られてしまった。
 それをきっかけに、真樹菜はスマートブレインに接触。中学校の三年間を使い、卒業と同時にミッドチルダへと赴く算段を整え始めた。彼女の計画は悉くが遺漏無く実現、彼女が目論みスマートブレインが望んだ通り、彼女は大学生という『自由に動ける時間の持てる身分』を手に入れて、ミッドと地球とを往復しつつ、二重生活を開始する。

 スカリエッティと初めて出会ったのも、その二重生活が始まってすぐの頃。ただし初対面の時に関しては、現在の様な友人関係ではなく、問答無用の敵対関係でしかなかったのだが。現在の和やかな関係は、出会った当初には想像も出来なかっただろう。
 そうして、およそ二年が経過した頃――つまり、現在から約二年前。

「正直、面倒臭くなってきちゃったんですよね」

 真樹菜の顔には照れ笑いとも取れる微笑が浮かんでいるが、しかし彼女の目は笑っていない。

「地球とミッドを行ったり来たりするのにも手間がかかりますし、ミッドのお仕事もだんだん忙しくなってしまって。……だから二年前、私は私を殺す事にしたんです。勿論“社会的に”という意味ですけど。地球に残っていた『結城真樹菜』という存在を抹消するつもりで、私は地球に戻りました」

 帰省すると実家に連絡を入れれば、家族は当然、真樹菜を迎えに来るだろう。既に肉体的にも精神的にも人間を逸脱していた真樹菜だったが、家族への愛情そのものまで消え失せた訳ではない。迎えに来るとなればそれを断る理由はなく、どうせ程無く死人扱いとなる身、残された僅かな時間を家族と過ごしたいという思いとてあった。

 しかしそういった家族への愛情とは全く別のところで、彼女は冷酷に冷徹に、その家族をすらパーツの一つとする策を組み上げていた。
 そして事実、その策は完遂された。帰省した真樹菜を最寄り駅にまで出迎えた家族は、そのまま札幌の市街地にまで足を伸ばし、林立するシティホテルの中の一棟、その中に店を構えるレストランで夕食を食べようという運びとなった。そこを、真樹菜の手配したテロリストが襲撃したのだ。

 勿論、真樹菜が直接、テロリストに指示を下していた訳ではない。警察の摘発から逃れたテロリストが、真樹菜達を人質に立てこもるよう誘導したに過ぎない。彼等にとって真樹菜は人質の一人でしかなく、そして見せしめの為血祭りに上げられる、哀れな生贄でしかなかった。
 目論見通り、真樹菜はビルの屋上から突き落とされ、無惨な最期を遂げた――そう装ってその場を逃れるはずだった。テロリストは逮捕されるはずで、犠牲者は彼女だけに留まるはずで、衛司を初めとする家族含め、人質は無事に解放されるはずだった。

「そこで、誤算が起こりました。……ああ、思い出すだけで頭に来ます。増長していたんでしょうね、私。本当に下らない、慢心が故の小さなミス――」

 ――それが、彼女の計画を致命的に狂わせた。真樹菜自身の犯したミスが、真樹菜の計画に拭えぬ泥を塗りつけた。
 いや、先述した通り、計画そのものは完遂されたのだ。結城真樹菜を地球での人間社会から排除するという目的は達せられていたのだから。しかし真樹菜の思惑に反し、犠牲者は次々と増え、結城家の面々は殺害され、そして衛司は人外へと堕ちた。付言するなら、それによって『逮捕されるはず』のテロリストもまた皆殺しとされた。
 全ては真樹菜の責である。真樹菜の犯した小さなミスが、最小の犠牲で終結する筈の策を、見るも無惨に汚してしまったのだ。

「小さなミス、か。ふむ――気になるところだね。差し支えなければ、何を失敗したのか、教えて貰えるかな?」
「差し支えはあるのですけれど……ええ、懺悔の意味もありますし、構いません。と言っても、本当に下らないミスなんですよ。言い訳の余地も無いくらいに、ね」







 握り潰される林檎のよう、ぐしゃんという水気を含んだ音。
 岩石同士が高速で衝突するかのような、がづんという重々しくも硬質な音。
 それらが同時に発生した結果、周囲に響いたのは耳を塞がんばかりに凄惨な落着音。高空からアスファルトの路面に叩き付けられた人間が、その総身で奏でる衝突音。
 言うまでもなくそれは、たった今ビルの屋上から突き落とされた結城真樹菜の奏でた音で。
 言う必要のある事は、しかしその音に反し、結城真樹菜が何の傷も何の怪我も負っていないという事。

「…………ふん。まあ、こんなものかしら。とりあえずは誤魔化せるでしょう」

 そう嘯いて佇む真樹菜の傍らには、(俗っぽい表現だが)潰れたトマトの様な有様と化して路面に伏臥する結城真樹菜の姿。
 生者と死者が同時にその場に存在している――無論、それは現実ではない。
 真樹菜の足元で潰れているのは真樹菜に似せたというだけの他人であり、それが誰であるのか、真樹菜ですら把握していない。背格好が似ているだけで身代わりとされた彼女に同情はするものの、それも数秒の後には綺麗さっぱり頭の中から消えている事だろう。

 付け加えて言うのなら、事実ないし真実はどうあれ、現実として認識されている光景は潰れた少女ただ一人。その傍らの真樹菜は、誰の目にも映ってはいない・・・・・・・・・・・・
 テロリストに占拠されたホテルは警察と報道陣とで十重二十重に包囲され、無論突き落とされた少女の姿も報道陣のカメラに収められているものの――それを制止しようとする警察との間でもみ合いになっている――逆に言えば、少女の死体しかカメラには記録されていないのだ。

 踵を返す。足音は上空を旋回するヘリのローター音が掻き消して、それに気付く者はない。誰に見咎められる事もなく、真樹菜はそのままホテルの地下駐車場へと歩を進めた。
 さすがにここまでは警察も報道陣も入り込んでいない。遠く地上の喧騒を耳に、真樹菜は懐から小さな金属片を取り出し、軍隊で使われるドッグタグに似たそれを指先で弄ぶ。
 勿論、これは単なる金属片ではない。今回の策を遂行するにあたり、友人である臥駿河伽爛に頼んで用意して貰った、小型の幻影魔法発生装置である。言ってしまえばデバイスの一種。ただし使用は一回限りの使い捨て、しかもコストが滅茶苦茶高いので一般にはまず出回らない代物なのだが。

 さておき、この装置を使って真樹菜は幻影魔法を展開、身代わりの死体とすり替わったのである。道具に頼っている時点でトリックとしては三流だが、しかしこの世界におけるオーバーテクノロジーを組み込んだトリックだ、言ってしまえば反則の域。そうそう見破れるものではない。
 ぴ、と解り易い電子音が響いて、真樹菜を包む魔法が解除される。傍目には突然真樹菜が姿を現したようにしか見えないだろう。無論仮定だ、この場には誰一人居はしない。それを解っているからこそ、真樹菜もここで装置を解除したのであり――

「…………っ!?」

 ――誰かが息を呑む音で、それがただの錯覚と知った。
 やば、と振り向けば、駐車場の奥から一人の男が姿を現す。逆立てた茶髪の、目付きの悪い男。全体的にラフな格好をしているものの、アスリートの如き引き締まった体躯は容易に見て取れる。そのせいか随分若く見えるが、恐らくは三十路に近い年齢であろう事は想像がついた。
 じり、と男は真樹菜へと向けて歩み寄ってくる。突然姿を現した――と見えているはず――女に、何故か男は“逃げる”ではなく“近付く”という選択で応じた。その視線は警戒に満ち満ちて、真樹菜へと向けられている。

 明らかに真樹菜のミスだった。地下駐車場は警察によって封鎖されている。まさか誰も居るまいと思い込んで、周囲の状況確認を怠った。見つかったのは運が悪かったと言えるかもしれないが、それも真樹菜がもう少し注意深ければ避けられた事である。
 ただ――後年、スカリエッティへと語った“つまらないミス”とは、この事ではなく。

「あーあ。見られちゃいました、か――運が悪かったですねえ、貴方」

 見られたのなら仕方ない、口を封じよう――という、ある意味でポジティブな思考から来る選択。これこそが、後々まで彼女が悔やむ事となる失策であった。
 真樹菜の姿が沸騰する。否、空間が沸騰するかの様なエフェクトに包まれる。刹那の後には、そこに“人間”としての少女の姿は微塵も残っていなかった。

 背には花弁の如き大きな翅。
 額には亜熱帯の植物を思わせる、複雑な形状にして威嚇的な巨大さの触覚。
 吊り上った複眼と女性的にほっそりとしたボディラインが酷くミスマッチで、見る者に倒錯した印象を与えている。

 現出したのは結城真樹菜の本性、毒蛾の特質を備えたオルフェノク――モスオルフェノクの姿。

「…………っ! お前、アギト……!? いや、アンノウンか……!?」

 男は耳慣れぬ単語を口にして、しかし化物の姿を目にしたのだから当然に、目を見開いて狼狽する。
 一歩、真樹菜が男へと踏み出した。反転して逃げるであろう男の背に、容赦無い一撃を叩き込んでやるつもりで。だが男は逃げない。狼狽が表情を覆っていたのは僅かに数秒、今はただ戦意だけが滲んだ表情で、歩み寄る毒蛾を睨み据えている。

〖ふうん――度胸座ってるんですのね。そういう殿方は嫌いじゃありません〗

 けど、ごめんなさい。
 時間がないので――さっくり死んでくださいな。
 そう言い放つと同時、真樹菜の手の中に得物が顕現する。闘争本能の具現でありながら“武器”というカテゴリからはやや外れた、それは一枚の扇であった。

 ゆらりと毒蛾が扇を翳し、ぎり、とその総身に力を込めた。さながらそれは矢を番えた弓弦のよう。その比喩を是とするならば、当然次には、引き絞られた弦が矢を弾き出す。
 振り薙がれる腕。弧を描いて大気を弾く扇。瞬間、地下空間に有り得べからざる事象が、彼女を中心に発生した。台風か竜巻かと言わんばかりの猛烈な突風が、男を目掛けて吹き荒れたのだ。風速は秒速にして40メートルを超えるだろう、人間一人を吹き飛ばすには充分な強さ。必定、男の身体もまた紙屑のように吹き飛ばされ、後方に停めてあった車に強か叩きつけられた。

「ぐ……がぁっ……!」

 呻きながら倒れ伏す男へ、更に真樹菜は一歩歩み寄る。 
 苦痛に顔を歪めながらも男は身を起こし、しかしここに至ってやはり逃げようとはしない。代わりに彼が取った行動は、『両腕を胸の前で交差させる』、ただそれだけの、逃走でも攻撃でも防御でもない、真樹菜には理解不能の行動だった。
 事実、それは逃走ではなかった。攻撃でもなければ防御でもなかった。
 それは――“変身”だったのだ。

「変身……!」

 男が叫ぶ。低く重く、獣の唸り声じみて。
 瞬間、真樹菜は己の目を疑った。オルフェノクである自身とて、条理からは充分以上に逸脱している存在だ。だが目の前で起こった現象は、オルフェノクのそれとはまた方向性を別として、純粋に異常だった。

 男の傍らに何かが浮かび上がる。男と同じく腕を胸の前で交差させた姿勢のそれは、しかし明らかに人間の姿ではなく、またオルフェノクの姿でもなかった。人骨を思わせる灰色に塗られたオルフェノクとは対照的に、男の傍らに現れたそれは、目を瞠る程に鮮やかな色彩で、総身を彩っていた。
 深緑と黒に塗り分けられた体表。反して鮮血の如く赤く輝く複眼。金属にも似た質感の口回りは牙のようなものが見て取れ、噛み付けば鋼鉄すら寸断するものと知れる。
 そして更に次瞬、男の姿が茫洋と薄れ始める。反して一秒、否、一刹那ごとに現実感を増していく、傍らの異形。程無く男の姿は完全に消失し、そこには深緑色の異形だけが残される。――まるで最初から、そこにはこの異形しか居なかったかのように。

〖貴方……!?〗

 男は真樹菜の事を知らなかったが――真樹菜は、男の事を知っていた。
 と言ってもそれはあくまで“知識を持っていた”というだけだ、直接対峙するのはこれが初めての事であり、そもそもこの遭遇があくまで偶発的なものである以上、真樹菜に予めの処方がある訳もない。

 確か、今から十年以上前。東京を中心に多発した“不可能犯罪事件”において度々目撃され、また非公式ながらも警察機構と協力関係にあったと言われる、謎の民間協力者。
 当時の資料を(非合法な手段ではあるが)目にしていた真樹菜は、その姿、そしてその名を記憶していた。
 何故それが此処に居るのかまでは、どうしても知りようがない事であったのだが。……彼は偶さかこの場に居合わせただけであり、テロリストによるホテルの占拠に際して無関係だからと知らぬ顔を決め込む事も出来ず、一人人質の救出に訪れていた――その意味で、彼の目的は真樹菜のそれと衝突するものではなかった――事など、真樹菜には知る由もない。

〖確か――『ギルス』だったかしら……?〗

 その名を真樹菜が口にすると同時、異形と化した男がゆっくりと立ち上がる。男の総身からは猛獣もかくやという戦意が容赦無く放射されていたが、彼が立ち上がった瞬間、その戦意は倍増しとなって真樹菜の知覚を刺激する。

GuGAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAHHHHッ!!

 交差させていた腕を解き、天井を振り仰いで、男は壮絶な咆哮を喉から迸らせた。地下という閉鎖空間でその咆哮は反響し増幅され、最早衝撃波の域となって、壁を床を天井を、停められている車を、そしてモスオルフェノクこと結城真樹菜を叩く。

 事ここに至って、真樹菜は漸く、自身の失策を認識した。手を出してはいけなかった。見られたところで早々にその場を立ち去れば良かったのだ、口封じそのものは決して間違いでは無いものの、一刻を争うこの状況において、己と対等に近い相手に対するそれは、明らかに悪手以外の何物でもない。
 しかもこの場合、先に手を出してしまったのは真樹菜の方だ。それも、真樹菜個人の勝手な都合で。只の人間であれば何の苦もなく排除に成功していただろうが、それはオルフェノクにも匹敵する、或いは凌駕する異形であり、口封じとして殺害する事も、踵を返して逃げ出す事も、最早容易ならぬ事態となっている。

 この事態を招いたのが真樹菜自身の判断ミスである以上、誰を恨む事も、彼女には出来なかったが――それでも痛恨に舌を打つくらいは、許されても良いだろう。

〖鈍らになったものね……昔はこんなつまんないミス、絶対にしなかったのに〗

 死にたくなるわ。
 自身が既に死人と大差無い存在である事を棚上げにして、真樹菜は舌打ちついでにそう呟く。
 そして真樹菜が己自身を嘲った、次の瞬間。
『ギルス』と呼ばれた男が、凶器の域に達する四肢五体を振り翳し――結城真樹菜、モスオルフェノクへと襲い掛かった。







「――で、その後は?」
「予想通りの泥仕合。何とか隙を見つけて逃げようとする私と、隙を突いて止めを刺そうとするギルスさんとじゃ、戦い方からして噛み合うはずがありませんからね。時間だけ無駄に食い潰して――結局、私は間に合わなかった」

 最終的に、戦闘による騒音と轟音に驚いた警察が地下駐車場へ駆け込んできた事で、その時の戦闘は有耶無耶に終わった。
 真樹菜はその場から離れる事に専念せざるを得なくなり、ギルスがどうなったのか、逃げ果せたか警察に拘束されたか、それすらも彼女は知らないままだ。……やろうと思えば調べられない事もないのだろうが、真樹菜にとってはもう“終わった事”なので、今更調べようという気も起こらない。
 済んだ事、終わった事に拘泥する性質でも無い真樹菜が、それでも二年前の一件を未だ忘れられないのは――彼女にとってそれが、忘れようにも忘れられない屈辱の記憶である為だ。司法試験に合格する為日々勉強してきたのに、回答を書き込む欄に一つずつずれて書き込んだようなもの。どうしようもないくらいしょぼいミスで、しかしその失敗の代償があまりに大きい為、脳髄の記憶野が忘却を拒否しているのだ。

「……ふむ。しかし先程から聞いていると、君は弟くんがオルフェノクになる事を望んでいなかったと思えるね。オルフェノクというのは基本、同族を増やそうとするものなんだろう? スマートブレインに属するオルフェノクに、そう勧めているんじゃなかったのかな?」

 やや意地悪げなスカリエッティの言葉は、しかし実際、そう的外れなものではない。
 彼の言う通り、スマートブレインは傘下のオルフェノク達に使途再生を推奨している。一般的な生物と異なり、生殖行動によって数を増やす事のないオルフェノクには、使徒再生こそがほぼ唯一の繁殖方法。倫理を基準とした善悪はどうあれ(人間の常識から言えば『人殺し』以外の何物でもない)、その方法を伝える事そのものは、決して間違いではない。
 ただし地球に本拠を構えていた頃とは異なり、無差別に、かつ大規模な使徒再生を、真樹菜は禁じている。その意図は至極単純、この時点で目立ってしまうと、後々の計画に支障をきたす恐れがあるからだ。事実、オルフェノクによって殺された被害者は今のところそれほど多くはないが、しかしミッドチルダ全体の失踪者・行方不明者の数は前年と比べて大幅に増えていた。

 その中で、真樹菜の弟に対するスタンスは確かに不可解なものであった。弟がオルフェノクとなったのは不幸な偶然から――強いて言うなら真樹菜の失策に起因する事で、それが無ければ彼は未だに人間のままだっただろう。
 そして真樹菜も、弟がオルフェノクになってしまった現状を次善とし、それを“利用”しているだけに思える。弟を戦力の一環として組み入れようと策を巡らせているものの、そこにはどうしても弟でなければならないという必然性が見当たらないのだ。

「そうですね――ええ、その通りです。正直な事を言ってしまえば、あの子にはオルフェノクなんかになってほしくありませんでした。あの子は人間のまま、どこにでも居る平凡のままで終わってほしかった。それがあの子に……衛司にとって最も幸せなんだと、そう思ってました」

 過去形で言ったものの、その思いは今でも変わっていない。
 結城衛司の幸福はオルフェノクにはない。オルフェノクとは“特別”であり“異端”であり“例外”だ。普通と凡百に埋没する結城衛司には、どうあってもそぐわない属性なのである。誤解を恐れずに言うのなら、それは分不相応と表現するのが最も適切だろう。
 だからこそ――分不相応にもオルフェノクになってしまった今、真樹菜に出来る事は次善の結末を用意するだけ。死んでも構わない、というスタンスで刺客を差し向け、実戦に追い込んで鍛え上げるそのやり方は、真樹菜がオルフェノクである弟をどう見ているか、それを端的に表していると言える。

「ふふん。オルフェノクなんか、とはね。その親玉が随分な言い様じゃないか、真樹菜君。……あぁ、そうだね。丁度良い機会だ、前々から気になっていた事があるんだが――ここで訊いておくとしようか」
「何でしょう?」
「なに、大した事では無いよ。君は――結城真樹菜は、オルフェノクをどういうモノと思っているのかな?」

 その問いは、少なくとも真樹菜にとっては酷く慮外なもの。質問もそうだが、目の前の男がそれを前々から疑問に思っていたという事実もまた、真樹菜にとって意外で慮外だった。そんな事を一々気に掛けるような男ではないだろうと、そう思っていたから。
 うーん、と真樹菜は首を傾げて考え込む。実際のところ、考えるまでもない事ではある。真樹菜はその問いへの答えを持っている。が、それを言葉というツールで表そうとするのなら、やはり多少の思索は必要になるのだ。

「そうですね……一言で言うなら、不感症な連中でしょうか」
「不感症? それはまた、随分と俗っぽいね。私はてっきり、進化した人類とか、優良種とか言ってくるものと思っていたんだが」
「そうですね。まあ、それも一面で真実なんでしょう。ただまあ、それってやっぱり、肉体的・身体的な事で……肝心の中身はと言うと、これが意外に人間と大差無いんですよ。ハードウェアばかり強化されて、OSが旧世代のままなんです。これが機械なら、多少不便というだけで何とか動かせるものですが、人間はそうはいかない。ハードに引っ張られて、ソフトの方に歪みが出てくる訳です。
 と言っても、その辺は割と融通の効くものでして。人間にしろオルフェノクにしろ、その歪みに適応してしまうんですね。オルフェノクというハードで起動する為に、ソフトの方が最適化される。フィジカルを運用する為のメンタルが形成される。この内面が最適化されて、初めてそれはオルフェノクであると言えます」
「ふむ。つまり君は、オルフェノクを外形としてのものでは無く――」
「ええ。心、精神、そういった内面にこそ定義しています。外面だけでは足りない。人を超えた異形というだけでは、それは単なる化物――化物の身体に思考と精神が順応してこその、オルフェノクな訳です」

 それはある意味で、ギンガ・ナカジマのオルフェノクに対する見解と一致している。

 ギンガはオルフェノクを、暴力に目を眩まされたヒトと評し。
 真樹菜はオルフェノクを、身体に思考が最適化した結果と評する。

 表現はまったく別であるものの、しかし彼女達が言いたい事は、根底の部分で一致していた。
 まず外面、異形としての肉体がありき。それによって内面が変質した『結果』こそがオルフェノクであると。

 ギンガ・ナカジマはそれを否定的、しかし同情に値するものとして見て。
 結城真樹菜はそれを肯定的、そしてそれこそが自然な在り方であるとする。

 一致する見解は、導き出された答えにおいて対極となり――しかしどちらにしても、結城衛司を半端者と謗る点において、また共通だった。

「さて。外面、肉体というハードを運用する為に内面を変質させた者がイコール『オルフェノク』と言った訳ですが、どうしてもそれは副産物として、人間としての倫理やモラルを喪失してしまう傾向にあると言えます。まあ、使徒再生を見れば判るように、オルフェノクの生態にはどうしても殺人行為が付き物ですから。一々それに囚われていたら潰れてしまいます。精神の平衡を保つ為の自己防衛の結果――と言ってしまうと早いんですが、それでも人間のままである場合と比べて、現実に順応するスピードはかなり早いと言えます」

 人間とて、例えば銃を渡して『好きに撃ち殺して良い。罪には問われない』と言ったならば、最初の一人を殺すまでには躊躇し葛藤するだろうが、やがてそれに慣れてしまうだろう。一人殺し二人殺ししていく内に禁忌は薄れ、殺人を作業や娯楽として消費するようになるはずだ。
 オルフェノクへと“変質”するのもまた、それと意味合い的には大差無い。そこに違いを見出すなら、速度という一点か。人殺しを厭わなくなるまでの時間。禁忌と倫理が失われるまでの時間。人間と比して、オルフェノクはそれが極端に短いのだ。
 思考を司る脳髄が、オルフェノクへの転生によって機能に支障をきたしたのか。或いはそもそも禁忌と倫理の薄い人間が、優先的にオルフェノクへと転生するのか。詳細なところは誰にも判らない――無論、真樹菜にも。 

「……と言っても、厳密に統計を取った訳でもありませんし。そういう傾向がある、ってだけの話です。実際、ミッドチルダだけでも、人を襲わない半端者なオルフェノクは少なからず居られますからね。私はそういう方々とのお付き合いが薄いので、正確なところは判りませんが。ただまあ、そういう方々が少数派と言うのは間違いないでしょう。
 それでは、話をここで最初に戻します――『結城真樹菜がイメージするオルフェノクとは、「不感症な連中」である』について。……あは、ここまで話を進めれば、もうお解り頂けますよね。異形へと変質した肉体に合わせ、内面が変質した結果、出来上がるのは『殺人・暴力行為に何も感じない』イキモノ。暴力を厭いもしない、暴力に酔いもしない。ただ“有るから使う”程度の認識しか持ち合わせなくなる訳です。
 ある意味で強靭なんですよ、オルフェノクの――私が定義する『内面が変質し終えた』という意味のですが――メンタルって。人間のように、簡単に傷ついたり壊れたりしないんです。自分の行動に疑問や躊躇、後悔を抱かなくなる……でも、まあ、それは人間の視点からすれば“不感症”、感受性に乏しいと表現出来るのではないかと」
「ふむ……ああ、つまり君は、オルフェノクを特別視していても神聖視はしていないと、そういう事かな」

 頷く真樹菜。
 スカリエッティの言う通り、結城真樹菜はオルフェノクを特別視していても、神聖視してはいない。
 彼女がオルフェノクを特別とするのは、単にそれが『平凡でないから』。人間生物はおろか、既存のどの生物にも当て嵌まらない分類の『オルフェノク』という生物を、他と同様に見る事がないと、ただそれだけの事である。
 だからこそ、“不感症”という、ともすれば侮蔑とも取られかねない表現でオルフェノクを評する事も出来るのだ。

「まあ、改めて言うまでもない事ですが、これはあくまで私がそう思うというだけの事です。一般的な定義としては一度死んで転生した時点で、もうそれはオルフェノクと呼ばれる存在な訳ですから。だからあの子だってオルフェノクですし、私だってオルフェノクです。内面の変質を重視するのは、案外私の感傷なだけかもしれません」
「ふふん、卑怯な纏め方だね。それを言われると突っ込む側が野暮に見えてしまうじゃないか。……いや、しかし興味深い話を聞かせて貰ったよ。礼と言っちゃ何だが――うん?」

 そこで不意にスカリエッティは言葉を切り、真樹菜の肩越しに、その背後へと視線を向けた。釣られて真樹菜も振り返る。

「お迎えに上がりました、社長」

 いつの間にやらそこに、一人の男。
 三十路を越えたばかりというところの、『若い』という形容がそろそろ難しくなってきそうな、そんな年代の男だった。
 先に真樹菜がこの独房を訪れた時は、高くヒールの足音を鳴らしてやってきたのに対し、男は全くの無音でこの場に現れている。ただし現れた時点で気付かれるのもまた必然。インバネスコートに鹿撃ち帽、ご丁寧に口元にはパイプまで咥えている。もう有名な探偵小説に出てくるアレとしか言いようのないその格好は、スーツ姿の真樹菜と比しても尚、牢獄の中で目にするには場違いなものであった。
 その場違いな姿の男を見て、しかし真樹菜とスカリエッティの反応はそれぞれ、至極平然としたもの。常識条理を甚だしく逸脱している彼等にとっては、『牢獄の中に探偵』程度の不条理は最早特段の反応を見せるに値しないのだろう。

「ん――ああ、ご苦労様。もうそんな時間?」
「はい。臥駿河様、ゴールドマン様共に、準備を整えておられます。社長が戻り次第状況を開始するとの事です」

 そう、と名残惜しげに呟いて、真樹菜が腰を上げる。独房内には当然ながら来客用の椅子などないので、真樹菜とスカリエッティは直に床に腰を下ろして喋っていた訳であるが、その微妙にシュールな光景を見れば、探偵姿の男の何とも言えぬ微妙な表情も納得出来よう。

「おや。もう行ってしまうのかい?」
「ええ、申し訳ありません。また近いうちに遊びに来ます。何かお土産のリクエストなどございますか?」
「ふむ。では次に来る時は、弟くんも一緒に連れてきてくれると嬉しいね。私はオルフェノクにこれと言って興味はないが――君の肉親と言うなら、話は別だ」

 そう。ジェイル・スカリエッティはオルフェノクに興味を抱いていない。彼が興味を抱くのは常に、『己自身の手によって作り出せる、或いは再現出来るもの』だ。
 ガジェットしかり、戦闘機人しかり。天然自然の理の中で、人間から生まれ出る怪物は成程不可思議ではあるだろうが、それはスカリエッティの手を借りずして完成しているもの、彼が惹かれる要素も介入する余地もない。
 真樹菜との親交に関しても、それは結城真樹菜個人との付き合いであり、そこに彼女がオルフェノクであるか否かはさして問題ではない。……なればこそ、『無限の欲望』らしからぬ個人への興味は、狂科学者では無く一個人のジェイル・スカリエッティとしてである限り、稀有ではあるが有り得ない事象でもなかった。

「衛司を? ……ああ、それならそう遠くない内にご希望に沿えそうですわね。何せこれから迎えに行くところですから」
「ほう。では漸く、弟くんが君の望むレベルにまで達したという事かな」
「はい。先日、ワームの方と戦わせてみたんですが――予想外に善戦しまして。戦闘能力という点では充分と判断しました。後はまあ、こちらに連れてきてからゆっくり“教育”すれば良い事ですし。そろそろ迎えに行こうかなと」
「そうかい。二年ぶりの再会という訳だ――直に見られないのが残念なところだよ」
「ふふ。宜しければ、ドキュメント番組みたいに編集したものを差し上げますけれど。……それでは失礼します、ジェイルさん。ああ、その将棋盤は差し上げます。次までにもう少し、腕を上げておいてくださいな」

 そう言い残し、真樹菜は探偵姿の男を従えて、スカリエッティの独房を出ていった。かつんかつんと甲高いヒールの足音が次第に遠ざかり、やがてふいと消えてしまう。
 そうして再び静寂に満たされた独房内で、ふむ、とスカリエッティは床に残されたままの将棋盤へ視線を落とした。

 ……そも、真樹菜がオルフェノクになるまでの経緯を語るのは、対局に敗北した際のペナルティであった。スカリエッティが負けた場合は、彼の持つ知識を真樹菜に提供する取り決めであったのだが、しかし今日、スカリエッティが己の知識を披露する事は最後までなかった。
 だがそれは、スカリエッティの勝利を――真樹菜の敗北を意味している訳では無く。

 真樹菜が王将、スカリエッティが玉将での対局。
 将棋盤に残されていたのは十枚の駒――盤の隅に追い込まれた玉将と、それを取り囲む飛車、角行、桂馬に、五枚の歩兵。そしてその包囲から離れたところに退避している王将。どう足掻いても玉将に逃げる道はなく、配下の駒も残らず奪われている以上、逆転の目も皆無。
 つまり完全な詰みの状態であって、後はスカリエッティが投了するか、真樹菜が玉将を取ってしまうか、そのどちらかしか有り得ない状態である。
 にも関わらず、真樹菜は己の過去を語った。勝利が磐石の状況を作り出したその瞬間、ふと思い出した様に、もしくは取り決めを忘れたかの様に、彼女は語り出したのだ。

「誰かに喋りたかった――という事なのかな?」

 難儀な性格だね、とスカリエッティは苦笑混じりに呟いた。
 或いはそれは、一種の哀れみからの事だったのかもしれない。ただその場合、スカリエッティは露骨なまでに情けをかけられ、面子を大いに潰された形となるのだが。
 ふふん、と彼は一つ、虚勢の如く優雅に笑って。

「これで、ジ・エンド――だ」

 自分の玉将を盤から落とし、その位置に相手の桂馬を置いた。
 真樹菜の迂遠な嫌がらせへの、ささやかな意趣返し――尤も、その相手が既にこの場を去っている以上、あまり意味のある事ではなかったが。





◆      ◆







 それじゃ、今日はそろそろお開きにしましょっか。
 衛司とギンガが調達してきた食べ物もあらかた無くなって、大分夜も更けた時間帯。ティアナのそんな言葉と共に、機動六課フォワード陣はめいめい頷き、テーブルの上に散乱したスナック菓子の袋や紙コップを片付け始める。
 だが衛司が動かない。いつもなら率先して片付けに入る彼が、今日に限っては酔い潰れたかのように俯いて身じろぎもしない。勿論この場で酒を出しているはずもなく、供されていたところで飲み食いをしない衛司が口をつける事はなかっただろうが。
 ふと動かない衛司に気付いたスバルが、小首を傾げながら衛司へと歩み寄り、その肩に手を置いて揺さぶった。

「衛司くん? 今日はもうお終いだよ、お片づけだよー?」

 スバルにしてみれば、軽く揺すっただけの事。最前線での戦闘を本領とするフロントアタッカー、相応に身体を鍛えてはいるものの、しかし平時にまで有り余って持て余す程の筋力やらパワーやらを持っている訳ではない。……まあ、ごく普通の女子と大差無い、そう言える程にささやかなものでもないのだが。
 にも、関わらず。
 揺すられた衛司は何の抵抗もなく、そのままずるりと椅子から滑り落ちて――がだんっ! と盛大に物音を響かせ、床に崩れ落ちた。
 そのまま、動かない。

「……衛司くん?」

 あれ? と呆けた表情のスバルよりも先に、ギンガが少年の名を呼んで歩み寄った。寝ているにしてもおかしい、あれだけ強か床に叩きつけられれば、普通誰だって目を覚ます。どんなに熟睡していても、そこまで鈍い少年ではないはずなのに。
 歩み寄って屈み込み、衛司へと手を伸ばして――そこで漸く、ギンガは彼の異変に気がついた。
 全身に脂汗が浮いている。顔色は蒼白で、唇は紫色に変色していた。呼吸はふいごのように荒く、極寒の地に裸で放り出されたかのようにがちがちと歯を噛み鳴らしている。――まるで熱病患者だ、というギンガの感想は、そのもの今の衛司を表すに相応しい。

「衛司くん? ……衛司くん!」

 ギンガの呼びかけにも反応しない。何が起こったのかとティアナやエリオ、キャロも近寄ってくるが、それにすら反応する事はない。完全に意識を失って、しかし突然の変調に身体が悲鳴を上げている。
 恐る恐る、ギンガは衛司の額へと手を伸ばした。その指先が触れた瞬間、焼けた鉄板に水滴を垂らしたような音が聞こえて、咄嗟に彼女は手を引いた。明らかに人間の体温ではない。つまりそれは、衛司の身体に何か――それこそ放置すれば命に関わると明白な――異変が起こっているという証左であった。

「衛司くん! 大丈夫ですか、衛司くん!」

 何度呼びかけても反応はない。
 エリオが『シャマル先生を呼んできます!』と部屋を飛び出していく。
 残されたティアナの、スバルの、キャロの、そしてギンガの必死な呼びかけが、その必死さに反比例する空しさを伴って、休憩室の中に響き渡る。
 かふ、と衛司が喉の奥から無理矢理呼気を搾り出す。呼びかけに反応しようとしたのか、単に身体が呼吸すらままならない状態にまで変調しているのか、それは判らないが――結果としてそれは、ギンガ達により一層の混乱と恐慌を齎した。

「――衛司くんっ!」 

 呼びかけは最早悲鳴のようだ。
 それでも尚――結城衛司は、応えない。



 少女達はまだ知らない。
 全てが終わった後であっても、知る事はない。
 結城衛司が機動六課で過ごす穏やかな時間は――この時既に、終わりを告げていたのだと。





◆      ◆







 そして真樹菜がふと呟く。

「さあて――楽しい夢は、もうお終い」

 謳うように吟じるように、静かな声でそう呟く。

「そろそろ現実を見てもらわないと。ねえ、衛司――」





◆      ◆





第拾参話/了





◆      ◆







後書き:

 という訳で、第拾参話でした。お付き合いありがとうございました。

 一応、作中で真樹菜が言っている通り、彼女が言っているのは『結城真樹菜の見解』で、本作におけるオルフェノクの定義ではありません。ギンガのも同様に。「違うよ、オルフェノクってのはこういうもんだよ」という突っ込みはご勘弁願います。

 今回は概ね真樹菜の話。ラスボスに近いポジションにいるので今回やった様な裏話はもう少し後回しにしても良いのですが、あまり黒幕ぶって謎ばっかりのキャラってのも薄っぺらいかなあと、ちょっと早めに公開。
 まあ、スカリエッティとの関連は逆にもう少し早い段階で出すべきだったので、両方合わせてこのタイミングで良かったかなと。序幕にガジェット出てきたの憶えてくれてる読者の方、何人いるかなーと思ったり。
 
 ちなみに真樹菜、自殺でオルフェノクになった訳ですが、これどうなんだろう。555製作側がどこかで『自殺した人間はオルフェノクになれません』的な事言ってたら、設定が丸ごと引っ繰り返っちゃうんですが。……言ってないよね?
 原作でオリジナルのオルフェノクになった人って、割と綺麗な死に方(木場さんの交通事故死、長田さんの転落死)してるんですが、逆に本作では映像の制約が無いのでかなりグロい死に方してます。衛司は射殺されてるし、真樹菜は首吊りで。ちょいネタバレすると、伽爛はダイナマイト腹に巻いて爆死した後、オルフェノクになってたり。

 あと作中のオンドゥル(?)語。あくまで『衛司がミッド語を筆記するとああなる』というだけで、衛司の滑舌が悪い訳ではありません。一応お断りしておきます。

 ほのぼのな日常編は今回でお終い。次回から、少し重たい話になっていくかと。鬱ってほど重くは出来ませんが(作者の技量のせいで)。
 あと、ここまでは三話で1エピソードの体裁取っていたんですが、今回からのエピソードは三話以上かかるかも。予めご了承ください。
 それでは次回で。宜しければ、またお付き合いください。



[7903] 第拾肆話(残酷描写? 有り)
Name: 透水◆44d72913 ID:35af097c
Date: 2023/12/29 20:53
 ジェイル・スカリエッティとの会談を終え、その足でクラナガンのスマートブレイン本社社長室に戻った真樹菜であったが、そこで彼女が目にしたのは何ともコメントに困る、奇妙かつ奇怪な光景であった。

 ミッドチルダのスマートブレイン本社には勿論来客用の応接室が存在するし、社長という役職柄、真樹菜も頻繁にそれを利用している。
 ただし巨大企業の重役という公人としての顔とは別に、彼女は街に潜む人異人外を取り纏める役割も担っており、その関連で会社とは関係のない、ごく個人的な友人が社を訪れる事も少なくない。それらの客は大概表沙汰に出来ない話題を携えて訪れるものだから、機密保持に不安が残る応接室ではなく、社長室には設けられた簡易応接スペースを使っての会談が専らである。
 尤も。いつぞやロストロギアを引き渡す為、時空管理局の八神はやて二佐との会談に臨んだ際も――つまりは公人の身分、公人としての仕事でだ――この社長室の簡易応接スペースを使っていた訳だから、単に真樹菜が出不精であり応接室まで出向くのを面倒がった為に、こうして社長室にソファーやらテーブルやらが持ち込まれているというのも、また一面の真実であるのだが。

 さておき。社長室に戻った真樹菜、そしてその部下としてグリューエン軌道拘置所に随伴していた探偵姿の男を迎えたのは、その来客用ソファーに腰を下ろしてくつろぐ、質素ながらも豪奢に飾られた社長室にはあまりにもそぐわない二人組。
 一人は身の丈二メートルを超える巨漢。ボディビルダーもかくやという見事な筋肉を水商売風のドレスに包んだ、世間一般で『オカマ』という言葉から連想されるイメージそのままの男(?)。
 そしてもう一人は、まだ人間の姿をとっている伽爛とは対象的に、骨灰色に染まった異形の存在。言うまでもなくそれはオルフェノク、顔の半分を覆う大きな丸い複眼、ブラシのような形状の口元、細い体毛に薄く覆われたその姿は、一見しただけで蝿の特徴を備えているものと知れる。

 そんな二人組がさも勝手知ったる他人の家と言わんばかりのくつろぎようでソファーを占領している光景は、人により驚くなり呆れるなり怒るなりリアクションは様々であろうが、しかしそれを見た真樹菜の反応はと言えば、カレンダーで曜日を確認するかのように淡々としたものだった。

「あら、伽爛さん――ラズロさん。いらしてたんですか」

 真樹菜の言葉に、はぁい、と伽爛は手を挙げて応え。
 蝿の特質を備えるオルフェノク――フライオルフェノクことラズロ・ゴールドマンもまた、何も言わずに同様のリアクションで応えた。

「……あの、ラズロさん? 確かに私、ラズロさんに“アレ”使ってくださいとお願いしましたけれど。何もその格好で待っていて頂かなくても良かったのですが……」

 今回真樹菜が組み上げた策は、フライオルフェノクが持つ固有能力の行使を前提とした策である。
 オリジナルのオルフェノクには人間態のままでも特殊能力を行使する事が出来る者が存在するが――現ラッキークローバーの中では、白華・ヘイデンスタムの声による身体操作が挙げられよう――しかしラズロ・ゴールドマンの能力はその範疇になく、行使の際には戦闘態として一度オルフェノク本来の姿に立ち戻らなければならない。

 ただ、一度行使され、標的に発現してしまえば、その時点で能力は彼の手を離れる。
 言ってしまえば爆弾を放るようなものだ。時限装置などを使って爆発のタイミングを操作する事は出来ても、放った後の爆発までも制御する事は出来ない。
 つまり。能力の行使に際して戦闘態への変化は必須であるが、その姿のまま真樹菜の帰りを待っている理由など、全く以って皆無だったのである。

「…………」

 真樹菜の言葉が聞こえているのかいないのか、或いは聞こえていても認識していないのか、フライオルフェノクの身体は風に揺れる振り子が如くにゆらゆらと右へ左へゆらめいている。
 どうやらいい感じに薬が効いているらしい、話しかけるだけ無駄と判断して(これまでの経験から、話しかけて返答が返って来る時とそうでない時は辛うじて判別出来る)、真樹菜はため息を吐きつつ自分の椅子へと腰を降ろした。

「で、伽爛さん。状況は?」
「想定通りに大過無く、ってトコね。ラズロちゃんの仕掛けたアレ、ちゃぁんと衛司ちゃんに効いてるみたいだし。もう二、三時間もすれば先端医療技術センターに移されるんじゃないかしら。六課から一番近くてそれなりの設備がある病院、あそこくらいでしょ?」

 ふむ。と真樹菜が満足気に頷く。予想通りで想定通り。強いて言うなら少しばかり展開が早い感もあるが、ラズロのコンディションによって能力の効果も多少の強弱が発生するし、標的である衛司の体調などによっても誤差は生じる。そして現在の状況は概ねその誤差の範疇内。問題は無いと見て良いはずだ。
 ではこちらも予定通りに次の段階へと進むべきだろう。そう判断すると同時、まさか思考を読み取った訳でもあるまいが、真樹菜の言葉を待たずして伽爛とラズロはソファーから腰を上げていた。

「それでは――宜しくお願いしますね、伽爛さん」
「おっけー。ま、このアタシにどんと任せておきなさいな。さ、行くわよラズロちゃん」

 無言のまま佇むラズロの額をぺんと叩いて、最後に真樹菜と探偵姿の男にウィンクを一つ(夢に出てきそうなおぞましさだった)投げ寄越し、そうして臥駿河伽爛とラズロ・ゴールドマンは社長室から出て行った。
 その姿が扉の向こう側に消えれば、一種の重圧にも等しい存在感が少しずつ離れていくのがありありと感じ取れる。やがてエレベーターに乗ったのだろう、その存在感が知覚範囲から完全に消え失せると同時、真樹菜はふうとため息を零した。

「一つ宜しいでしょうか、社長」
「……はい? ああ、ごめんなさい。何かしら?」
「今回の策、ゴールドマン様の能力が鍵となるような事を仰っておられましたが。差し支えなければ、それがどういったものかお聞かせ願えますでしょうか」

 ラズロや伽爛、白華といったラッキークローバーと違い、探偵姿の彼は純然たるスマートブレインの社員。つまり真樹菜の部下であって、あくまで真樹菜の友人でしか無い伽爛達とは接点がなく、故にその実力を聞き知ってはいても、その能力の詳細までは把握していない。

 今回の策においては、彼にもまた重要な役回りを任せるつもりでいる。どう見ても古い探偵小説に出てくるアレとしか言いようのない格好も、身元が割れないように私服で来いという真樹菜の指示によるものだ(とは言え、こんなコスプレめいた恰好で来るとは思っていなかった)。
 にも関わらず彼にラズロの能力について説明していなかったのは、真樹菜自身の不精さもさる事ながら、彼が与えられた命令に対し意見を挟む事はないと、ただ黙々とそれを遂行するだろうと考えていたから。
 逆に言えば、そんな彼をして情報の開示を請求する程に、ラッキークローバーの面々が怪しく不気味で胡散臭い連中だという事なのだろうが、それはさておき。

「――まあ、良いでしょう。貴方が直接目にする事もないでしょうが、知って害になる情報でもありません」

 真樹菜の指がデスクに備え付けられたコンソールを叩く。次瞬、僅かな起動音と同時に真樹菜の眼前、そして男の眼前にウィンドウが表示される。
 画面を覗き込んだ男が、そこに表示されている内容を確認すると同時、眉を顰めて頬を引き攣らせる。元よりそう感情表現の豊かな男ではない、しかしそれなりに付き合いの長い真樹菜には、それが最大限の警戒と驚愕を表す顔であると見て取れた。

 事実、ウィンドウに表示されているラズロ・ゴールドマン――フライオルフェノクの特殊能力は、人間であろうとオルフェノクであろうと関わりなく、極上の警戒に値するものであるのだから、無理もない。
 一般的には単なる薬物中毒者でしかないあの男が、オルフェノク最強を謳われるラッキークローバーの一葉として迎えられているのは、つまりこの能力故の事だ。

「人間の免疫機能を混乱・失調させる能力……ですか」
「ええ。人間に限らず、生物なら誰しも免疫機能が備わっています。例えばウィルスに感染した場合、身体が熱を出してウィルスを駆逐しようとする。ラズロさんの能力はこのシステムを滅茶苦茶に引っ掻き回す訳です――身体は間違いなく健康体なのに、免疫機能が暴走した結果、重病を患った時と同様の症状が発生してしまう」

 用法・用量を守らなければ薬も毒になるように、人間の免疫機能とて、使いどころを間違えれば人体そのものを痛めつけてしまう。
 蝿という昆虫はしばしば衛生害虫として扱われ、死骸や糞に集る事で病原菌を媒介するものとして忌み嫌われる。蝿の特質を備えるフライオルフェノクの能力も、表面上は蝿による感染症と同様の症状を引き起こし、また相手の身体に能力を送り込む行為を“感染”と呼んでいるが、しかしそれは通常の感染症と比して更に悪辣なもの。

 恐らく今、衛司は原因不明の発熱に襲われている事だろう。重篤な感染症の如く床に伏せっているだろう。
 しかし機動六課では、否、どんな医療設備を備えた病院であっても、それを治療する事は叶うまい。治癒魔法を使うにしろ医療技術によるものにしろ、“治療”がそもそも人間の免疫機能を補助し増幅させる事で行うものである以上、その免疫機能がずたずたになっているのでは、治療行為など端から成り立たないのだ。 

「しかし、一体いつ、ゴールドマン様は結城衛司少年に能力を行使したのですか? あの手の能力は絶対的に、直接接触か呼気の交換が可能な至近距離に居なければ行使出来ないはずです。あの方が衛司少年と接触したのは、先日の一度きり――」
「ええ。一度きり、その時しか会っていません。……だったら、その時に“感染”させたと見るのが自然でしょう?」

 探偵姿の男が慮外の答えに顔を呆けさせる様を、真樹菜は愉快げな微笑で眺めていた。
 ラズロと衛司が接触したのは、先日の策において不確定の要素が混じった末の偶発的なもの。その時点で既に真樹菜はこの状況を見越し、ラズロに能力の行使を命じていたのだろうか。だとすれば何と言う戦略眼かと、恐らくはそういう驚愕だ。

 ただしそれは純然たる誤解。ラズロ・ゴールドマンは己に近付く者へ無差別に能力を“感染”させる習慣を持っており、先日の戦闘で偶然にも共闘態勢を取った衛司でさえ、その例外ではなかったというだけの事。真樹菜の策は実際、後付けのものでしかない。
 ラズロの能力はただ“感染”させるだけでは発動せず、戦闘態へと変化して後に“スイッチ”を入れる事で発動する。その制約もこの場合は好都合だった。衛司や六課の緊張が緩むだけの時間と、真樹菜達が準備を整えるまでの時間、両方を稼ぐ事が出来たのだから。

「さて。他に質問はあるかしら、エルロック?」
「――いえ。任務の障害になる疑問は払拭されました、もう充分です」

 それでは私も参ります、と真樹菜の正面にまで歩み出た後に男は言い、踵を返し社長室を出て行った。
 探偵というより軍人向けの性格だ、と生真面目な部下に呆れながらも苦笑して、真樹菜は椅子の背もたれに体重を預ける。座り心地と耐久度を兼ね備えた、質素ながらも職人技の光る一品だ。真樹菜の体重程度では軋む音すら立てはしない。

「順調にいけば今日か明日には感動の再会、か。……ふふ、楽しみね。ああ、楽しみ――」

 くすくすという忍び笑いが、真樹菜以外誰も居ない社長室に響き渡る。
 心底嬉しそうで心底愉しそうな、しかし聞いた者に例外無く寒気と怖気を覚えさせる、亡霊の鳴き声が如き笑声――およそ人間の漏らす笑声ではなかっただろうが、しかしそれがオルフェノクが故のものであるのかどうか、当の真樹菜自身、確と解っている訳ではなかった。





◆     ◆





異形の花々/第拾肆話





◆     ◆







 ミッドチルダ先端技術医療センター。
 クラナガンの中央区画に存在する医療施設であり、管理局の援助によって、そこでは常に最先端の医療技術が日々研究され提供されている。

 ミッドチルダに限らず、近隣の次元世界において治療不可能と判断される難病重病の患者を受け入れる事も多く、また一般の病院では治療出来ない事情を抱えた――体質の問題や政治的な事情など、そこは人それぞれだが――人間の治療も請け負っている。
 ギンガ・ナカジマが『定期健診』の為に此処を訪れるのは、概ね後者の理由から。
 そして結城衛司がこの日、先端技術医療センターに運び込まれたのは――純然たる、前者の理由から。

「…………衛司くん」

 呼びかけに応える声はない。
 ギンガが居るのは医療センターの通路。衛司が居るのは直線距離で僅か数メートルと離れてはいないものの、厚い壁に隔てられた集中治療室の中だ。必然、ギンガの声は少年の耳まで届かない。
 いや、例え届いていたとしても、それに反応する事は出来なかっただろう。原因不明の高熱に浮かされ、六課医療班ですら匙を投げる程に容態が悪化している彼に、反応を望む事こそナンセンス。ギンガとてそれは重々承知であり、故に彼女の口から漏れた呟きは、少年への呼びかけではなく、彼の身を案ずる気持ちの顕れであった。

 発熱、呼吸困難、血圧低下、感覚の麻痺に意識の混濁。衛司を襲う諸々の症状は、そのどれもが刻一刻と悪化の一途を辿っている。
 昨日の夜、休憩室での談話を終えた直後に突然倒れこんで以降、衛司の意識は戻っていない。慌てて六課医務室に運び込まれ、シャマル他医療スタッフの懸命の看護も空しく、衛司の体調は悪化する一方だった。

 最終的に彼は夜明けを待たず、機動六課隊舎からクラナガンの中心部、この先端技術医療センターに運び込まれた。しかしそれでも、『風の癒し手』ことシャマルをしてどうしようもない症状の患者だ、先端技術医療センターの設備と言えども症状の悪化を僅かに遅らせるのが精一杯。
 そも、その症状自体、何かの病毒に冒された結果ではない。むしろその逆、免疫機能が過剰に働いた結果、崩れたバランスが却って彼の身体を傷つけているだけ。治療する以前に、既に彼の身体は自身を治癒せんと動いているのだ。それが全く逆方向に作用しているだけで。
 結局、医療センターのスタッフが取った方法は、生命活動そのものを停滞させる事で免疫機能の暴走を抑えるという処方。だがそれとて、そう長く保ちはしない。生命活動を停滞させるという事は、つまり緩慢に死へ向かっていると同義なのだから。

「――ギン姉」

 ふと自分を呼ぶ声に、ギンガは顔を上げた。そこに居たのはスバルとティアナの二人組。ギンガと同様に心労を隠せない表情で、それでもギンガ程に思い詰めた表情ではなく、病院の廊下を足早に歩み寄ってくる。
 視線を交わして頷きあい、スバルはギンガの横に、ティアナは更にその横に、それぞれ腰を下ろした。そのまま口を開こうともしない二人だったが、しかしそれは沈み込むギンガを慮っての事。ちらちらとギンガの横顔を心配そうに眇め見るスバルを見れば瞭然だった。
 やがてスバルのその視線に気付いたのか、沈み込んだ表情をとりあえず表面だけは普段のそれに繕って、ギンガがスバルの方へと向き直る。

「フェイトさん達は?」
「うん。もう戻った。後はあたし達だけ」

 そっか、と安心したのか落胆したのか判別し難い微笑を見せて、ギンガは再び正面へと視線を戻した。
 集中治療室の壁は矩形に切り抜かれてガラスが嵌め込まれ、部屋の中の様子を窺う事が出来るようになっている。ギンガの視線はその窓からベッドに横たわる衛司に注がれており、その眼差しは、彼の容態が好転するまで此処で見守り続けるという、断固とした意思を表していた。
 スバルやティアナもまた、ギンガに釣られるように集中治療室の中へと視線を向ける。

「大丈夫かな……衛司くん」
「――大丈夫。衛司くん、あれで結構しぶといから」

 微妙に冗談めかした言い方ではあったが、実際、ギンガの言葉は間違っていない。とにかく怪我や負傷が付いて回る少年なのだ。オルフェノクに狙われ、幾度と無く襲撃を受けている事もあるのだが、それ以外の要因でも彼は軽重様々な傷を負っている。
 考えてみれば、ギンガが初めて衛司に会った時も――まだ三ヶ月ほどしか経っていないというのに、随分と昔に感じる――そうだった。暴走車に撥ね飛ばされ、アスファルトに叩きつけられ、一時はかなり危険な状態に陥っていたのだ。

 そしてそれ以降も、彼は何度となく危険な目に遭い、その度に傷を負い、しかしそれでも何とか切り抜けて生き延びている。しぶとい、というギンガの表現は、親愛故の乱雑な表現ではあるが、実のところ割と的を得ていた。
 ただし、それはあくまで、これまでの衛司を見ての事であって――今この場においては、気休め以上の意味は全く持ち合わせていなかった。

「でも衛司くん、割と貧弱だよ。弱々だよ。この前、腕相撲でエリオに負けてたもん」
「……ま、まあ、そんな事もあったわよね」

 確か先週の事だったか。夕食を終えてだらだらと駄弁っていたところに、その日の仕事を終えた衛司がやってきたのだ。
 どういう流れでそういう話になったのかは憶えていないが、衛司くん痩せすぎだよね、エリオの方が腕太いんじゃない? とスバルが言い出し、衛司は衛司で何かプライドか面子かに障ったらしく、そんな事ないですよ良く見てくださいとか言い返し、何故かそれが衛司VSエリオの腕相撲対決に発展してしまった。

 ……結果はスバルの言う通り、エリオの勝利、否、完全勝利で終わったのだが。
 いい試合と言うのも憚られるような瞬殺だった。開始三秒で決着だった。

 まあ四歳ほど齢が離れているとは言え、戦闘要員として日々厳しい訓練を積んでいるエリオと、単なる一般人の衛司とでは、腕力にしても比較にならないのだろう。付言するなら衛司は碌に飯も食べないせいか、同年代の男子と比してもかなりの痩躯。エリオが身体を鍛えていなかったところで、勝てたかどうかは怪しいところだ。

「でも、大丈夫。きっと――大丈夫だから」

 言葉というものは繰り返す度にその重みを失っていくものだが、ギンガの言葉もまた例外ではない。
 大丈夫、と繰り返す以外、今のギンガに出来る事はないのだが、しかし繰り返す都度にその言葉からは信憑性が削がれ、嘘臭い気休めへと堕していく。
 それを解っているのに、それでも、ギンガにはそう繰り返す他に出来る事はなかった。

「あ、皆揃ってるね」
「なのはさん――ヴィータ副隊長」

 聞こえた声に反射的に反応し、ギンガ、スバル、ティアナが立ち上がる。果たしてそこには廊下の向こう側から歩み寄ってくる高町なのはと、ヴィータの姿。
 穏やかな口調、穏やかな表情とは裏腹に、なのはの目は真剣そのもの。傍らのヴィータは言うまでもなく。それも当然、彼女達は今、任務に従事している真っ只中なのだから。それも人命が懸かった任務だ、軽薄に居られるはずもない。

 そう。彼女達スターズ分隊は現在、結城衛司の護衛任務に就いている。
 オルフェノクが衛司の命を狙っている事は周知の事実。まして今、彼が居るのは常に高ランク魔導師が控えている六課隊舎ではなく、防衛設備も碌にない先端技術医療センター。オルフェノクにしてみれば六課隊舎よりも遥かに襲撃し易いはずだ。
 加えて、六課の仕事は衛司を護るだけではない。今の機動六課はオルフェノク問題専門の部隊として運用されている。尤もこれは対オルフェノク専任機関が発足するまでの場繋ぎでしかないのだが、それでも現状、ミッドに出没するオルフェノクに対応するのは六課をおいて他になく、故に六課総出で衛司を護衛する訳にもいかなかった。

 現在、先端技術医療センターに衛司の護衛として詰めているのは、スターズ分隊の五名のみ。残るは六課隊舎で待機し、オルフェノクの出現に備えている。
 つい先程までエリオとキャロ、フェイトもこの場に居たのだが、六課の重要戦力であるライトニング分隊の彼女達がいつまでも衛司の見舞いに居られる訳もなく、後ろ髪を引かれるような顔をして六課隊舎へと戻っていった。

 なのはとヴィータは医療センターの責任者と、衛司の護衛について幾つか打ち合わせがあったらしい。医療センターには当然ながら、衛司の他にも入院患者が居る。もしオルフェノクが襲撃してきたとなれば他の患者も巻き添えになりかねない、彼等オルフェノクが周囲の被害を省みないのは既に証明されている。
 医療センター側としてはそんな患者の受け入れに難色を示すのは当然で、既に六課部隊長八神はやてから連絡は行っているものの、現場の責任者であるなのはとヴィータが改めて挨拶と、襲撃が起こった際の打ち合わせに向かうのも、また当然であった。

「お話、終わったんですか?」
「うん。ちょっといやーな顔されちゃったけどね。病院で騒ぎは困るって」
「でも……!」
「心配ねーよ。向こうだって解ってる。けど病院側としちゃ、『どうぞ好きなだけ暴れてください』とは言えねーだろ」

 思わず声を上ずらせたスバルを制するように、ヴィータが割って入った。
 乱暴な口調ではあったが、それはヴィータにしてみればいつもの事であって、窘めるその言葉はスバルに反感を抱かせず彼女を抑える事に成功する。
 複雑な顔をして、何とか納得しようとむぐむぐ口を動かしているスバルに苦笑して、なのはは眼前に一枚のウィンドウを展開する。
 医療センターの見取り図が映るその画面を、最前線で戦う魔導師とは思えぬ細く綺麗な指で指し示して、なのはは今後の動きに関して説明を開始した。

「それじゃ、配置を説明するね。ヴィータ副隊長はセンターの屋上でセンター周辺の警戒。わたしは警備室で監視カメラとレイジングハートを連動させて、建物の内部を警戒。必要に応じて指示を出すから。ティアナとギンガ、スバルはここで衛司くんを警護。……言うまでも無いけれど、建物への被害は最小限に抑えて。オルフェノクを確認したらすぐに避難誘導を開始するようセンターにお願いはしてるけど、周りへの被害は無いに越した事はないから」

 なのはの指示に各自がめいめい頷いて、部下達のその反応に、なのはは厳しい眼差しのままながらも僅かに表情を緩めた。
 そして――その厳しい眼差しは、今度はギンガ一人にのみ向けられる。

「ギンガ。気持ちは解るけど――集中を切らしちゃ駄目だよ」
「……はい。すいません、大丈夫です」

『大丈夫』という言葉はまたしてもギンガの口をついて出たが、しかし先の、結城衛司の容態もいずれ好転するはずという楽観を含んだそれと、今ギンガが口にした言葉は、その質において明確に異なっていた。
 衛司の容態に対して口にした『大丈夫』は口にする都度に重さを失っていったが、それでもギンガの願いと祈りが篭められていたせいか、薄れる信憑性に反比例して不思議と力を持っていた。気休め程度にしか作用せずとも、慰めと励ましになる言葉ではあった。
 けれどこれは違う。なのはの言葉に対して返された『大丈夫』は、ただ一度きりしか言わないにも関わらず、重さも信憑性もこれっぽっちも含んでいなかった。明らかな虚勢であり、それを聞いたなのはの表情が、心配なのか悲哀なのか微妙に判別がつかないものへと変質する。

 それでも、ギンガの言葉は嘘ではない。なのはに注意されるまでもなく、集中を切らす事はないと断言出来る。
 衛司の容態に気を取られて集中を乱すな――なのはの言葉の大意は概ねそんなところであろうが、そもそもギンガのモチベーションがその少年にあるのだから、彼を害しようとする者を相手取って、ギンガの集中が乱れる道理がない。
 ただ。

「ギン姉……ほんとに、だいじょうぶ?」
「大丈夫よ。衛司くんも頑張ってるんだから――わたし達も、頑張らなくちゃ」

 視線を横へと移動させれば、壁を切り抜いた窓から集中治療室の中を窺う事が出来……その中で昏々と眠り続ける衛司の姿が、目に入る。
 衛司を護る。
 目的と思考が一致し、やるべき事はシンプルに一本化されている。

 ……だがそれ故に、解り易くあるが故に、ギンガが余裕を失っていたのも、また事実。
 集中しすぎて視野狭窄に陥る、というほど単純な話でもないが、少なくとも『衛司を護る』以外の思考を二の次としている時点で、それは少なからず危うさを伴ってしまう。
 今のギンガはその危うさを傍から見ても判るほど明白に抱え込んでおり――けれどその危うさが具体的に何かと説明も出来ない――しかしそれに、ギンガ自身が未だ気付いていなかった。





◆      ◆







 以下回想――高町なのはが教導隊へと入隊し、念願の教導官となっておよそ半年が経った頃の話だ。

「うぉーい、高町! こっち空いてるぞ!」

 その日、なのはは翌月に控えたミッド地上部隊と本局との合同演習に関するミーティングを終え、帰る前にお昼ご飯でも食べていこうと食堂へ足を向けた。
 時間が悪かったか、食堂は意外に混雑している。どこか座れる席はあるだろうかと食堂内を見回したところに、同僚が声をかけてきた。三十代半ばの中年男性と、同年代の女性。二人共、なのはが属する戦技教導隊の人間であり、なのはの先輩に当たる。

 本局所属の管理局員の中でも、戦技教導隊に属する人間は少ない。管理局のトップエリート、エースの集団である教導隊は時空管理局の中でも特に実力主義に拠っている部隊であり、教導官には相応の能力が求められる為だ。本局に居る教導官となれば二十名に満たないだろう。同僚と言っても、顔を合わせる機会はそう多くない。
 食堂に居た男女と会うのも、およそ二ヶ月ぶりの事だった。

「あ――ボブさん、ジェシーさん」
「はいはいはいはい、高町ちゃんこっちこっち。はいここ座んなさい」

 ジェシーと呼ばれた女性がひらひらと手を振って、なのはに笑いかける。ジェシーという名前の割に日本人みたいな顔立ちの、どことなく『購買のおばちゃん』といった雰囲気を漂わせる中年女性。
 その雰囲気に違わず、ジェシーは一つ隣の椅子にずれて、それまで座っていた椅子をぺしぺしと叩いてみせる。此処に座れ、という事だろう。なのはが教導隊に入って既に半年、その間彼女達は何かとなのはの世話を焼いてくれる。ちょっと鬱陶しいと思う時もないではなかったが、概ねにおいて、その厚意をなのはは素直に受け取っていた。

「高町ちゃん、今日はお仕事? あれでもこの前どこだかの武装隊の教導に行ってたわよね? もう次入っちゃった?」
「はい。来月の合同演習のミーティングで」

 あ゛ー、とボブと呼ばれた男性が唸る。熊のような髭がワイルドな男だ、低く唸ればますます獣染みて見える。
 最初の頃はその見た目が微妙に怖かったものだが、慣れとは恐ろしいもので、今では唸っていようが喘いでいようが別段怖いとも思わない。見た目の怖さに慣れてしまえば、この男のリアクションは意外と思考や感情が読み取り易いものであった。

「今年もそんな時期かよ。ま、運が良いっちゃ運が良いな。俺ァ今年は余所の部隊に教導に出てるわ」
「私も技術部の方に出向中ね。助かったわー、正直アレ二度とやりたくないし」
「え? え?」

 あからさまに面倒事から離れられてほっとしてる、といった風情の二人に、なのはは二人の間で視線を往復させた。来月にその“面倒事”を控える身としては、滅茶苦茶不安になるリアクションである。
 ああ、高町は初めてか――と、ボブは説明を始めた。
 翌月に控えた地上部隊と本局との合同演習。どのような演習をするのか、という事については、なのはも概ね知っている。つい先程まで、それについてのミーティングを行なっていたところだ。

 総合火力演習、と呼ばれる一般公開の演習と、非公開の演習。一般公開の方については管理局の広報活動の一環でもある為、どちらかと言えばお祭り、パフォーマンスとしての側面が大きい。今日は主にこちらについてのミーティングを行なっていた。
 だがボブ曰く、面倒臭いのは非公開の演習であるらしい。ミッド地上部隊と本局の魔導師による軍事演習なのだが、地上と本局の連携を云々という建前とは裏腹に、足の引っ張りあい邪魔のし合い、嫌味に陰口、挑発行為と嫌がらせのオンパレードという、何とも精神的疲労が溜まるイベントなのだとか。

 一般の局員レベルならまだそれ程でもないものの、演習に参加する魔導師が下手にエリート揃いというのが問題なのだろう。その対立はそのまま地上部隊と本局との間にある確執の縮図でもあり、だからこそと言うべきか、互いに退く事をしないらしい。
 昨年、ボブとジェシーが参加した時には――教導隊からは毎年二名ないし三名がこの演習に参加するのだが――それこそ演習どころか衝突寸前にまで諍いが発展したらしい。宥め役に回った彼等は徹底的に神経を磨り減らし、暫くは調子が戻らなかったという。

「ま、さんざっぱら脅かした後で何だけどよ、演習自体はそう難しいもんでも無えから。心を広ーく持って、セコい嫌がらせは無視して、やる事だけやってりゃ面倒は無えよ」
「はあ……」

 もう曖昧に頷くしかなかった。
 ……ちなみに、これは全くの余談であるが、この翌月に予定通り行なわれた地上部隊・本局合同演習において、史上稀に見る惨事が発生する。
 地上部隊・本局問わず、演習に参加した魔導師の実に八割が非殺傷設定魔法の直撃を受け、数日間意識不明となる大事件であったのだが、その詳細は極秘事項とされ、新暦が百年を数えるまで、公開される事はなかった。

『来る……悪魔が来る……』
『光が! ピンク色の光がぁっ!』
『冷えてます……頭、冷えてますから……』
『大きな星が点いたり消えたりしている。アハハ、大きい……彗星かな。イヤ、違う、違うな。彗星はもっとバーって動くもんな』

 ――以上、新暦百七年に公開された、被害者の証言記録の一部である。
『クールダウン・クライシス』と後に言われるその事件は、翌年からの合同演習の在り方を抜本的に変更する原因になると共に、『管理局の白い悪魔』の名を一気に広める契機となったのだが、それはまた、別の話だ。

「つーかよ、一昨年にスレーガの奴が滅茶苦茶しやがったから、去年の俺達が苦労したんじゃね?」
「確かにね。あの男が地上の皆様を完全に無視して暴れたから……」

 はー、とボブとジェシーが項垂れる。昨年の演習を思い出しているのだろう。
 と、なのはは彼等の会話に出てきた人名と思しき単語を聞きつけた。聞き覚えのない名前。教導隊にそんな人間、居ただろうか……?

「スレーガ……さん、ですか?」
「ああ、そっか。高町は会った事無かったな」
「まー当然っちゃ当然だわね。高町ちゃんが教導隊に入る前に管理局辞めちゃったし」

 元教導隊の人間らしいが、しかしそれにしては、二人の反応はいまいち腑に落ちない。まるで口にする事すらおぞましいとでも言うかのような、なるべくなら触れないで済ませたい、そんな感じが窺えた。

「時空管理局ってのも大きい組織だからよ、魔導師も結構な数が居るワケだ。高町、今のランクは?」
「あ……Sです。空戦Sランク」
「じゃ俺と同じくらいか。ジェシーがAAAだったよな?」
「AAA+よ」

 魔導師の中でも、ランクAAを超える魔導師はごく僅かだ。なのはやボブのようにSオーバーの魔導師ともなれば、存在自体が希少価値を持つ。
 質量兵器が廃絶され、戦力が文字通りの意味で個人に集中する昨今において、彼等彼女等は有能であるが故に危険な存在とも見做される。なのは個人に関してはそれで不都合不具合を被った憶えはないのだが、皆が皆そうであるかと言われれば、素直に頷く事も出来ない。

「ガラン・ガ・スレーガ三等空佐。二年……三年くらい前か? ――に教導隊を辞めた男なんだが、確かその時で、魔導師ランクはSS+……管理局内でも最強の一角、って言われてたな」
「――最強、ですか」

 意外にありふれている言葉だ。限られ、区切られた範囲の中で比べれば、何処にだって最強は居るし、最弱も居る。
 ただそれが、巨大にして膨大な時空管理局という組織の中であるのなら、当然ながらなのは以上の戦力や魔力を有する人間とて、決して少なくはない。
 管理局における最強の一角。『最強』という言葉が持つ意味を、そのままに体現した存在。……であるのだが、ボブとジェシーの二人の口調には、それに対する憧憬も賛辞も、嫉妬すらもなく。
 吐き捨てるような蔑みだけが、そこにあった。

「いや実際、能力的には本当に、非の打ち所のない人間だったよ。けどなあ――」
「性格的に、非の打ち所だらけの人間だったのよね」
「教導に行った部隊の人間が、教導終わった翌日に全員辞表出したって聞いた事あるぜ。……しかもその後、辞めた連中が皆どこぞの犯罪組織に再就職したとか」
「気に食わない上官を航行中の次元航行艦から放り出したとか聞いたわね。てか出航した艦が戻ってきた時には、奴一人しか乗ってなかったって話よ」

 なにその怪談。
 何故そんな人間が武装隊員の規範たる教導隊に居たんだろう、というなのはの疑問は至極当然で、しかし残念ながら、ボブもジェシーもその疑問に対する答えは持ち合わせていなかった。

「なんだか、凄い人ですね……」
「うん? ああ、まあな。斜め上に凄ぇ男だったよ。ま、高町が会う事ァ無ぇだろうけどな。会ったら死んだ振りでもしときな。運が良ければ、見逃してもらえっから」
「いやそんな、熊じゃないんですから……」

 熊より危険なのだろうけれど。
 さておき――いつぞや、そんな会話を交わした事があった。
 何故そんな事を今思い出したのかは判らない。だが恐らくは、なのはには何がしかの予感があったのだろう。虫の知らせとでも言うべき予感直感が、数年前の会話をふと思いださせた。実際はここまで明確にではなく、もう少し曖昧で茫とした回想だったのだが。
 ともあれ、回想はこれにて終了。
 そして。



「今ンとこ一番問題なのは――連中側、オルフェノク側についてる魔導師の事なんだよな」



 そして、現在。
 集中治療室周辺の警護をギンガ達に任せ、それぞれの持ち場へと移動するなのはとヴィータだったが、その途中でふと思いついたように、ヴィータがそう切り出した。

「…………」
「? おい、なのは?」
「え? あ、ごめん、ヴィータちゃん。どうしたの?」
「……ったく、お前がそんなんでどーすんだよ。ギンガの事言えねーぞ? ――オルフェノクに味方してる魔導師が厄介だ、って話だよ」

 そう。今回の護衛任務において、最も重要視、そして危険視しなければならないのは、オルフェノク側――ある程度組織として統率されている可能性が高い――が擁する魔導師の存在である。
 過去二度、衛司は六課隊舎に居ながらにして拉致されている。別に二十四時間態勢で警護していた訳ではないのだが、常に高ランク魔導師が控え、かのジェイル・スカリエッティとて襲撃は隊の主要人員が不在の隙を狙って仕掛けざるを得なかったその場所から、まんまとなのは達を出し抜いて少年を拉致したのだ。

 方法は至極単純、遠隔地からの転移魔法行使。離れた場所から転移魔法を発動させる事で、一瞬にして衛司を連れ去ったのである。
 転移魔法そのものは決して難度の高い魔法ではない。ただし転移魔法に限らず、魔法効果を遠隔地に発生させるというのは非常に難しい。一般的には先天資質に近いものとして扱われ、八神はやても『遠隔発生』の先天資質を保有しているが、そういった“資質持ち”以外に遠隔発生能力を持つ者はごく少数である。

 ただ、炎熱や電気などの魔力変換資質と同様、後天的に技能として習得する事は不可能ではない。だがその習得の難しさ、また魔法術式に組み込む難易度の高さから、習得する者は殆ど居ないのが現状だ。
 ……逆説、先天資質にしろ後天的に習得したにしろ、それを扱っているという時点で、敵魔導師の能力が非凡の域にある事は明白である。

 その意味で、ヴィータの『厄介』という表現は、実際非常に的を得ていると言えた。
 少なくとも『危険』と言えるかどうかが定かでない現状においては、最もベターな表現であっただろう。

「そうだね……転移魔法一つ取っても、ここで使われるのはまずいかな。衛司くんを攫われる可能性もあるし、逆にオルフェノクを送り込んで来る事だって出来るから」
「だろ。今の衛司が攫われたりしたら、その時点でアウトだし――今のあいつは機械に繋いでやっと生きてる状態だかんな――オルフェノクのデリバリーなんかされた日には最悪だ。こんな建物、一時間で更地になっちまう」
「いや、ヴィータちゃん、『こんな建物』呼ばわりはさすがにどうかと思う……」

 苦笑を浮かべつつなのはがそう突っ込めば、う、とヴィータは一つ唸り、軽い咳払いでそれを誤魔化してから、改めて話を続けた。

「正直、フルバックポジションの魔導師ってのはやり辛いよな――転移魔法だけの一芸屋ならまだマシなんだけど。そんな半端な相手じゃないだろうしな」
「シャマル先生と同レベル……って事はないと思うけど。やっぱり、最悪は考えておくべきだよね」

 なのはが想定する最悪――それはオルフェノクが擁する魔導師が、シャマルをすら凌駕する技量を持った支援と援護のスペシャリストである場合。
 ただし実際、この“最悪”は少なからず信憑性の高い予想と言えた。先述した様に衛司は二度に渡り転移魔法で拉致されている訳だが、二度目の拉致は六課技術陣が製作した小型AMF発生装置の効果範囲内で行われたのだ。
 AMF状況下でも魔法を行使する手法は存在しているが、誰にでも出来ると言う程容易いものでは無く、また身体への負担も大きい。易々とこなせる事ではない。

 『遠隔発生』の能力を、先天的な資質にしろ後天的な技能にしろ身に付けている魔導師。
 AMF状況下にあっても魔法を行使する事が出来る魔導師。
 その二つだけで敵魔導師の能力を推し量る事は容易く、故になのは達は最低でもシャマルと同等、或いはそれ以上の魔導師を相手取る覚悟で臨まざるを得なかった。

 衛司の居る集中治療室には魔力を感知するセンサーが幾つも配置され、転移魔法の魔法陣が現出した瞬間、大音量のブザーが鳴り響く仕掛けになっている。また集中治療室のすぐ傍にはギンガ達が控え、異変が起こった瞬間に治療室の中へと飛び込む手筈だ。
 遠隔地からの魔法行使はどうしても魔法陣の出現から効果の発現までにタイムラグが生じ、僅か数秒ではあるのだが、ギンガ達が衛司を確保し、転移魔法の発現を阻止するには充分な時間と言える。

「でも、多分、それはない……もし衛司くんを転移魔法で連れていこうとするのなら、病気にする意味がないから」
「だな。衛司の病状がオルフェノクの仕業だったら、って前提だけど――単純に衛司を殺したいなら、病気になんかしないで、今まで通り転移魔法で連れ出せばいい。衛司を病気にしたのは六課から引き離す為で、そう考えるなら、望み通り六課を離れた此処から転移させる理由がない」

 そう。つまりそれは、オルフェノク側が此処を――六課隊舎以外なら何処でも良かったのだろうが――先端技術医療センターを戦場とする腹でいるという事。なのはとヴィータはそれを警戒し、衛司の直近での護衛を諦め、こうして医療センターそのものを警備するべく衛司の傍を離れている。
 彼女達は時空管理局の一員だ、人々の安全を守る義務と責任を負っている。衛司一人護れれば良いと言える程気安い立場ではない。衛司も他の入院患者も、医療センターの職員に至るまで、全員を守りきってみせる。
 そう言えるだけの能力があるのだから、尚更の事。

「そんじゃ、あたしは屋上に行くから――そっちも、気をつけろよ」
「うん。ヴィータちゃんも、くれぐれもね」

 解ってる、と軽く手を挙げて、ヴィータは角を曲がり、屋上へと続く非常階段を昇っていった。
 その背を見送る事なく、なのはもまた警備室へと向けて歩き出す。なのはの役割は医療センターの警備システムとレイジングハートを連動させ、建物の中を警戒する事。通常の手段で入り込んでくる敵に関してはヴィータに任せられるが、敵に転移魔法を使う魔導師が居る以上、いつ何処に敵が入り込むとも判らない。
 デバイスの性能と魔導師としての傾向を鑑みれば、スターズ分隊では高町なのはが最も索敵能力に優れている。なれば彼女がこの役割を受け持つのは至極当然で、なのはもそれを十全に理解していた。
 と。

「あだっ!?」

 べぃん、と妙な音がして、それとほぼ同時にヴィータの悲鳴染みた声が聞こえたかと思うと、更に続けてどだだだだっ、と鈍い音が連続して響く。何事かと思って振り向けば、そこにはたった今別れたばかりのヴィータがひっくり返って転がっていた。部下にはおよそ見せられないあられもない態勢だ、スカートの中も丸見えである。
 慌てて駆け寄って助け起こせば、「悪ィ」と一言だけ礼を口にして、ヴィータは転がり落ちてきた階段の上を睨み付けた。既に夜半という時間帯、加えて天井の照明が切れかけている事もあり、階段の先にある屋上への扉は見えるか見えないかというぎりぎりの光量。だがそれでも、なのはの目はそこにある異常をすぐに見て取った。

 一見して何の異常も無い空間。しかしほんの少し、ごく僅か、その空間が雫を垂らされた水面のように揺らめいた。
 まさか、となのはの脳髄が直感的にその正体を予測し、相棒たるデバイスに解析を命じようとしたその瞬間、なのはの言葉に先んじてレイジングハートが主の望む答えを口にする。

【結界魔法の展開を確認――このフロア全体を囲っています】
「――っ!」

 結界魔法と一口に言っても、その効果は様々だ。一定空間を外界から完全に隔絶するものもあれば、入るのは自由でも出る事は不可、或いはその逆という結界もある。
 恐らく今回のこれは中の人間を“閉じ込める”為の結界、丁度その境界が屋上へと続く階段の途中に現れ、それにぶつかったヴィータが弾かれて転げ落ちたのだろう。

 だが。そこまでの推測は容易だったものの、一つだけ、そこに疑問が残っている。
 ……何故、この階なのだ?
 今、なのは達が居るのは先端技術医療センターの最上階。衛司の居る集中治療室は一つ下のフロアだ。レイジングハートの報告では結界はこのフロアを囲う形で展開されている。つまりそれは、この階だけを囲っているという事。衛司を殺そうとするのなら彼の居るフロアを隔離し、衛司の逃げ場と六課の介入を防ぐのが道理――

「違う……! 閉じ込められたのは、あたし達だ!」

 言われるまでもなく、なのはもその結論に達していた。
 僅かではあるがヴィータよりも気付くのが遅れたのは、その解答がなのはにとって最も低い可能性だったから。

 高町なのはは自身を過小評価していない。教導官として未熟である事は重々承知しているものの、『不屈のエース・オブ・エース』なる二つ名を面映くは思っているものの、しかし魔導師としての実力が管理局にあってトップクラスである事は理解しているし、ミッドにおいて自身の知名度が非常に高い事も知っている。
 今までのオルフェノクの襲撃が、衛司を攫っていく形であった事――要はなのは達から引き離す形であった事も、それに拍車をかけた。

 クラナガン医療センターでの戦闘において、なのは達は刺客として現れたオルフェノクを打倒している。
 それはなのは達にしても薄氷の上の勝利であったが、オルフェノク側にとっても無視出来る事ではなかったのだろう。六課魔導師との戦闘は避けるべきと考えても不自然はなく、だからこそ、標的単体を転移魔法で拉致するという処方に至ったのだと推測出来る。

 故に。名の知れた魔導師であり、その実力を見知った相手である高町なのはを狙ってきたこの事態は、決して予想外ではなかったにしろ、少なからぬ驚愕を彼女達に齎した。
 そして。

「…………! おい、なのは――」
「――うん。判ってる」

 ――ごつ。
 ――ごつ。ごつ。
 ――ごつ。ごつ。ごつ。
 まるで巨岩で床面を小突くかのように重く鈍い音が、連続して響く――それが足音であると気付くまでに、そう時間はかからない。
 廊下の先から響いてくるその足音は、少しずつ音量を増して、こちらに近付いてきていると告げている。

「レイジングハート、セットアップ」
「いくぞ、アイゼン」
【Standby, ready――Drive ignition.】
【Jawohl.】

 なのはとヴィータがデバイスを起動させ、その姿を陸士制服から白と紅のバリアジャケットへと変貌させた次の瞬間。
 足音はいよいよ音量を増し、そして遂に、廊下の角を曲ったその主が、彼女達の前へと姿を現した。

「あ。いたいた。見ィ――つ――けた♪」
「………………!?」

 現れた男――男?――の姿に、思わずなのはとヴィータが、揃って息を呑む。
 身の丈二メートルを超える巨躯。ボディビルダーよろしく鍛え上げられた筋肉が搭載された総身からは、迸るような威圧感が放射されている。
 だがその威圧感は外界に放出された瞬間に質を変じていた。べたべたと化粧品が塗りたくられた顔、そして水商売の女性が如く露出度の高いドレス。男性としての体躯が女性的な要素に彩られ、彼が発する威圧感に、奇怪という成分を濃厚に混じらせている。

 オカマだ。嗚呼、それ以外に何と呼べと言うのか。
 なのはもヴィータも真性のそれを見るのはこれが初めての事であったが、疑いようも無い程に、目の前の男(?)はそう呼ぶに相応しい姿形で、彼女達の前に立っていた。

「機動六課スターズ分隊隊長、高町なのはちゃんに――副隊長のヴィータちゃんで良かったかしら?」
「……はい。貴方は、何者ですか」

 反射的になのはを庇うよう様に前に出たヴィータの肩に手を置き、一つ深呼吸をして思考を落ち着かせながら――生憎、それはさほど冷静さを齎してはくれなかったが――なのははオカマからの問いに答え、そして問いを返す。
 とは言え、それは問うまでもない質問だった。軍用と思しき地味な色彩のロングコートを袖を通さずに羽織っているのはまだ良いとしても、その手に握ったデバイス、管理局の一般武装隊員も使っている様な廉価型デバイスを見れば、彼が何者で、何の為に此処に現れたのかは明白だった。

「うふん。『何者ですか』、か。うふふふふふ、そうね、そう来るわよねえ――」

 答えてあげるが世の情け、だったかしら? とオカマが笑う。
 それもう古いですよ、という突っ込みを、なのはは黙って飲み込んだ。

「!」
「なっ……!?」

 だが次の瞬間、突如としてオカマの姿が変質を開始した事に関しては、さすがのなのはも、傍らのヴィータも、思わず声を上げざるを得なかった。
 周囲の空間が沸騰する水面の様に歪み、そのエフェクトがオカマの姿を覆い隠したと思った次の瞬間には、彼の姿は人間のそれから一瞬にして逸脱していた。
 筋肉まみれの巨躯に女性の衣服というだけでも、それは充分に常識外の姿ではあったが、それでもまだ『人間』の範疇。だが今の彼は、最早その範疇にすらない。
 人骨を思わせる灰色の体躯。手にしたデバイスがなければあのオカマが変貌したものと気付く事すら難しかっただろう。

 ただ二人にとっては、それは大した問題ではなかった。
 いや厳密に言えば大した問題ではあった、何しろ『人間がオルフェノクに変化した』のだ。これまでにない事例であり、対オルフェノクの戦略戦術を根本から変更せざるを得ない事実であったのだが、しかし彼女達にとってより切実で重大だったのは、目の前の異形がその身に備える特徴の方。

 頭部から生えた一対の長い触角。正面から見る分にはやや判り辛いが、全体的に扁平な体躯。四肢を覆う棘のような体毛。そして何より、そう明るくはない病院の廊下にあって尚、油を塗ったかのように光を反射して照り輝く体表。
 それら全てが、地球出身のなのはと、地球で数年を過ごしたヴィータには既視感を覚えさせるもので……同時に、本能的な忌避感と嫌悪感を催させるもの。
 ゴキブリの特質を備えたオルフェノク、コックローチオルフェノクが、手にしたままのデバイスをひゅんと一回転させ、その先端を床へと突き立てる。がきんと硬い音が響いて床のタイルが砕け割れ、周囲に飛び散った。

「ごっ……ご、ご、ごきっ……!?」

 なのはが一瞬で蒼白になり、意味不明の言葉を呟きつつ、それでも威嚇するようにレイジングハートの先端を目の前の異形へと向ける。
 うら若い娘がゴキブリ(に酷似した怪物)を見て悲鳴も上げず逃げ出そうともしない事そのものは褒められてしかるべきだろうが、嫌悪と恐怖が如実に顕われたその表情を見る限り、それが虚勢である事は瞭然だった。

 ちなみにヴィータもヴィータでそれと大差無く、アイゼンを握り締めたまま固まっている。
 半ば金縛り状態に陥っていた彼女達であったが、しかしコックローチオルフェノクがごきりと首を鳴らし、なのは達の方へと歩み出した事で、反射的に目の前の敵へと対処するべく身構えた。

〖それじゃ、リクエストにお応えして自己紹介――アタシの名前は臥駿河伽爛。呼ぶ時にはありったけの愛とあらん限りの親しみを込めて、『がらりん♪』って呼んでくれると嬉しいわ〗
「………………」

 呼ぶもんか。



 そして彼女達は思い知る。
 高町なのはの想定していた最悪――オルフェノク側が擁する魔導師が、シャマルをすら凌駕する技量を持った支援と援護のスペシャリストである場合――が、その実、“最悪”などにまるで足りぬ楽観であった事を。





◆      ◆







 底無し沼に引きずり込まれた経験はないけれど、きっとこういうものなのだろう――そう、結城衛司は思考する。
 どこまでもどこまでも、ゆるやかに落ちていく感覚。総身に感じる泥闇の圧力。音も光もなく、思考だけが機能しつつも落ち沈んでいく感覚は、まるで己が脳髄だけの生き物になってしまったかのようだ。

 そこは酷く寂しく、酷く怖い。果てのない暗闇に一人放り出されたかのような、それは人間生物が本能的に忌避する、『孤独』の感覚であった。
 死ぬというのは、この感覚がずっとずっと、終わる事無く永遠に続く事。
 そんなのは厭だ、と心底から慄いた瞬間、この感覚が酷く懐かしいものであると気付いた。胸を撃たれ、心臓を貫かれ、血肉を撒き散らして絶命した自分が進化種として蘇生する僅かな時間の間に、永遠の如く体験したものだ。

 だからこそ、これが夢だと理解出来た。意識が急激に泥の底から引き上げられ、暗黒に塗り潰されていた視界が色と形を取り戻す。その目に映る風景が六課隊舎でも病院の天井でもなく、結城衛司が新生したあの場所であった事に驚きはなかった。
 これが夢だと、二年前に刻まれた記憶の再現であると、既に解っていたからだ。
 そう――二年前。
 結城衛司が人間生物から引きずり堕とされた、あの時だ。

「あ――ぅあ」

 ごひゅ、と気管に詰まった血を吐き出しながら、呻くように声を発して、衛司は顔を上げた。後ろ手に縛られ、床に突っ伏した態勢では顔を上げる事が精々だったが、幸か不幸か、それ故に挙動は最小限。レストランを占拠したテロリスト達は、誰一人異変に――死者が甦るという異常に――気付いていない。
 鼻を突く鉄錆の臭い。炸薬の臭い。そこに混じる生臭さは、周囲に飛散する生物の体液から漂ってくるもの。

 どれだけ“死んで”いたのかは解らない。けれど記憶しているよりも死体は確実に増えていた。首を刈られていたり内臓を引きずり出されていたり、どれもこれも冗談のような死に様の死体。変わっていないのはその下手人たちが奏でる、げらげらという下卑た笑い声だけ。
 尺取虫のように身を折り、膝と額を支点にして、強引に衛司は身を起こした。まだ誰も気付かない。ぐるりと周囲を見回せば、広いホールのそこかしこで震えていたはずの人質達は、既にその数を半分ほどに減らしていた。

 ホールの中央に視線を向ければ、数名の女性が男達に輪姦されている光景が目に入る。そこで漸く、先程から耳朶を打つ妙な音が、嗚咽と悲鳴が入り混じる声であったと気付いた。
 面白半分の殺戮には飽きたのだろう、けれどこの空間において彼等が絶対者である事に変わりはないのだから、面白半分の陵辱へと移行したのはごく自然な流れと言える。どうあれ十二歳の少年には理解の難しい事であったが。

 ただ理解が難しかったのは、あくまで殺戮から陵辱へと至る思考だけ。それが身震いする程おぞましい事であるというのは、誰に説明されるまでもなく、少年は理解していた。
 理解していたから、それに如何なる処方で臨むべきか、迷いもしなかった。

「……! …………!?」

 先程射殺したはずの少年が起き上がっている――その異常事態に、漸くテロリスト達も気付いたらしい。一人が気付き、それに促されてもう一人が気付き、あっという間にテロリスト達は揃って少年へ視線を集中させた。

「何故――る筈――心臓を――」
「――生き返――化物――」
「撃――ぶっ殺――今度こそ――」

 うるさい。
 うるさい。
 聞きたくない。

 テロリスト共が何か騒いでいる。喚いている。しかしその声は奇妙にぶつ切りで、言葉の態を為していない。ただそれは彼等に非のある事ではなく、衛司の耳が彼等の薄汚い声も言葉も聞きたくないとばかりに、音を選択して排除していたが故の事。
 驚愕に顔を歪めながら、それでも『弾が急所を外れていたのだろう』というぎりぎり現実的な推測に至ったのだろう。今度こそ確実に射殺するべく、彼等は少年に銃口を向ける。
 拳銃と短機関銃の銃口が合わせて七つ。吐き出されるであろう銃弾の数を考えれば、少年の未来は蜂の巣以外に有り得ない。
 だが。

「              ッ!!」

 人間の可聴域を遥かに超えた、高周波の雄叫びが響き渡る。
 両手首を縛る拘束はいとも簡単に解けた。綿か何かで縛られたかのようなそれは、引き千切るのに力を篭める必要すらなかった。
 ゆらりと少年が立ち上がると同時、遂に男達が引鉄を引いた。少年へと向けて弾丸が殺到する。ただ一発だけでも人間を死に至らしめる暴力が、百を超える数で襲い掛かる。誰もが、テロリスト達もまだ生きている人質達も、その誰もがずたずたに引き裂かれて崩れ落ちる少年の姿を幻視する。

 それが現実の光景とならなかったのは、少年が既に人間ではなかったから。
 少年は――否。
 雀蜂・・は、弾丸を躱そうともしなかった。

 雀蜂の体表、人骨色の外殻で火花が散る。僅かに遅れて、変形し或いは破損した弾丸が床へと落ち、涼やかな音を奏でた。無論それらはただの一発とて雀蜂を傷付けるに至っていない、骨灰色の外殻はこの程度の暴力では傷一つ付きはしない。
 それに最も驚いていたのはテロリスト達ではなく、雀蜂本人であったのだが。

〖…………〗

 ぼんやりと掌に視線を落とす。人間の眼球とは全く異なる複眼構造の視界で捉えたその掌は、十二年見慣れた己の掌ではなかった。
 指の一本一本がまるで鉤爪のように反り尖って、軽く突くだけでも岩石程度なら易々貫くと知れる。そんな凶器染みた手は、断じて結城衛司の掌ではない。

 だが同時に、それが間違いなく己の掌であるという確信も、また彼の中にあった。疑いようがない、疑う必要がない。困惑と確信の板挟みになりながら、それでも衛司は足を止めなかった。一歩、また一歩と男達との距離を詰めていく。恐慌に駆られた男達は必死に引鉄を引き続けるが、当然、それが雀蜂を止める事はなく。
 やがて最も少年から近い位置に居た男の傍で、雀蜂は足を止めた。奇しくもそれは父親の頭に銃弾を撃ち込み、その頭蓋を肉片にまで砕いた男。その男に近付いたのは単なる偶然、最も近いところに居たからと、それだけの理由でしかなかったが、しかしそれが父の仇と思い出せば、見逃す理由は何処にもなかった。

「ひっ――」

 ひたりと。
 男の顔面に雀蜂の掌が当てられ――次瞬、その掌が一気に握りこまれた事で、男の頭も同時に潰れて砕けた。
 まるで紙屑でも握り潰すかのような。ぐしゃりという音も拍子抜けする程にあっさりとしていて、人間一人が死ぬ音にしては酷く呆気無い。
 それでも、殺人の実感としては充分だった。掌に僅か残る頭蓋の感覚。握りこんだ指の隙間から零れ落ちていく血液と脳漿の混合液が、首から上を失い、膝から崩れた男の身体に滴り落ちる。

 不意に酷く汚らしいものに触れている気がして、ぶんと掌にこびりつく肉と血、骨を振り払えば、そこで漸く衛司は実感した。
 殺せる。こんな簡単に、こんな気楽に、虫でも潰すかのような感覚で。

〖は――〗

 ぞくりと、腹の底から何かが湧き上がって来る。
 それは歓喜。それは快楽。もう言葉にも出来ない、嬉しくて楽しくて愉快で痛快で堪らない。
 それは怒り。それは憎悪。もう言葉など必要ない、哀しくて腹立たしくて不愉快で苛々して許せない。

〖――あはは〗

 悲鳴が上がる。それがテロリスト達のものではない、まだ生き残っている人質が発したものであると、今の衛司には解らない。解ったところで大した意味を持っていない。
 銃弾が一際強く、一際多く、雀蜂の身体を叩く。その衝撃が益々衛司の内で噴き上がる何かを刺激した。既に狩られる弱者の側に立たされているとも知らず、銃器という暴力に酔ったままの男達。その絶対を疑う事もない滑稽さに、思わず吹き出しそうになる。

〖あはは、ははははは、はははははははははは――あはははははははは!〗

 銃声よりも尚高らかに――雀蜂の哄笑が、フロア一帯に響き渡った。
 立場は逆転する。格差が崩壊する。嬲り殺しにされるだけの少年は最早獲物でも生贄でもなかった。今の彼は獲物を、生贄を選別する側に立ち、それをどう処するかの権限を与えられていた。そして虐げられ、嬲り者とされ、挙句己のみならず家族の命まで奪われた彼に、躊躇など微塵も有りはしなかった。

 一瞬で近くの男へ肉迫。唸りを上げる短機関銃をものともせず、右拳を顔面に叩きこむ。たった一撃で男の顔面は陥没し、鼻血と砕けた前歯を撒き散らしながらくず折れた。
 次の犠牲者はその傍らにいた男。恐慌が行き過ぎて錯乱状態にまで陥り、狙いも碌に付けず拳銃を乱射している。当たったところで何の効果もないにしろ、それではそもそも当たりすらしない。逆に銃弾は射線上に居た人質を直撃し、無為な犠牲を二人増やした。

 がしりと雀蜂の手が、拳銃を乱射する男の手首を握り締めた。そのままぶんと男の身体を振り回し、仲間達へと放り投げる。
 いや厳密には振り回した衝撃で男の腕が肩口から千切れ、遠心力によってすっぽ抜けていったというだけの事であったが。どうあれ腕を毟り取られた男はその衝撃に絶命し、高速で人間一人を叩き付けられた仲間達も昏倒。結果としては大差無い。

「う――動くなぁっ!」

 引き千切った腕を放り捨て、次の獲物を求めるように周囲を睥睨する雀蜂を、不意の叫びが呼びとめた。
 見ればテロリストの一人が人質に銃を押し当てている。どういう術理によるものかは不明だが、雀蜂の元があの少年である事は確か。そもそもが人間であるのなら、人質を殺すと脅せば動きも止まるだろう。そう予測するのはさして不自然ではなく、事実、雀蜂はそれによって動きを止めた。
 ただし。動きを止めたのは、『人質に銃が突きつけられている』状況が故の事ではなく。

〖――は〗

 漏れた笑いは、侮蔑か、嘲笑か。
 雀蜂が左掌を男へと翳す。次瞬、雀蜂の左前腕がごきごきと音を立てて変形、尺骨側に“銃身”が形成された。

 それを何かと男が訝しむ暇もなく、“銃口”から飛針の掃射が迸る。機銃もかくやという速度で連射されるそれは、狙い過たず男と、そして人質を物体へと還元していく。人間から死体へ、死体から肉片へ。十秒も撃ち続ければ、テロリストと人質との区別も付かない挽き肉がそこに出来上がった。
 しかし、それだけでは終わらない。雀蜂は飛針の連射を続けたまま、その場で回転を開始した。全方位三百六十度、その場に居合わせた全ての者へと――そう、テロリストも人質も分け隔てなく――圧倒的な暴力が降りかかる。

 差別無く。
 区別無く。
 容赦無く。
 遠慮無く。
 満遍無く。

 逃れる術も防ぐ術も誰一人持ってはいない、嵐の様な飛針の斉射は何もかもを穿ち引き裂き打ち砕いていく。

〖ははは――あはははははは! あはははははははははは、ははははははははははは、は――は……?〗

 斉射はおよそ三十秒。だがその三十秒が終わった時、その場に動いている者も、原型を留めている物も、何一つなかった。雀蜂の姿から人間の姿へと戻った、結城衛司を除いて。
 無論、あくまで衛司は人間の“姿”に戻っただけだ。既に彼は人間ではない。人間のような形をした人間以外の生き物でしかなく、呆然と立ち竦む衛司自身、それを厭と言う程理解していた。

 歓喜は消えた。快楽は失せた。怒りは無くなった。憎悪を忘れた。
 つまり、そこに居るのはただの結城衛司で。
 総身を灼く感情が急激に消失し、空っぽになった少年の目に、凄惨な光景が飛び込んでくる。

 廃墟のような周囲の景観。床を埋め尽くす器物の残骸と、それにへばりつく肉片。テロリストも人質もお構いなしに“かき混ぜられた”その惨状。
 充満する血煙と臓物臭が眼と鼻を刺激し、くらりと眩暈を覚える。

「あ――あ、ああ…………?」

 がちがちと歯が噛み鳴らされる。
 がたがたと総身が震え上がる。
 何て――酷い。
 ただの人間に――こんな酷い事、出来るものか。
 出来るとしたらそれはもう人間じゃない、化物だ。……つまりこれを為した結城衛司は、既に化物という事であり。

「――違う」

 何が違う?
 こんな酷い事、やったのに。

「違う」

 何故違う?
 こんな殺し方、化物にしか出来ないのに。

「違う、違う、違う……! 僕は人間だ、人間――人間だ……ッ!」

 言い訳がましく独語したその瞬間、衛司の耳にふと、ずるりと何かを引きずるような音が聞こえた。見ればそこには半死半生の身体を這いずらせながら、必死にこの場を逃れようとするテロリストの姿。この場に居た者達の、恐らく最後の生き残り。
 男は右足を大腿の中ほどから失い、右脇腹は皮膚と肉が破れ、そこから内臓が露出している。明らかに致命傷、放っておけば数分と経たずに死に至る。だがその男へと向けて、衛司は歩き出した。

 飛針に穿たれ砕けた柱、その残骸であるコンクリート塊を抱え上げる。バスケットボールより一回り小さい程度のそれはずしりと重たく、そう大柄でも膂力自慢でもない衛司には少しばかり辛かったが、しかしそれを辛いと思う理性すら、今の衛司は見失っている。
 ゆっくりとゆっくりと、衛司は男へ近付いていく。男も必死に這いずっているが、五体満足な衛司の歩みより速いはずもない。程無く衛司は男に追いつき、馬乗りのように男に跨って、抱えたコンクリートを大きく掲げた。

「僕は人間だ……人間……人間、だか、ら……!」



 人間だから。
 こうやって、殺すんだ。



 掲げたコンクリート塊を――男の後頭部めがけて、振り下ろす。
 がづん。
 厭な音。
 嫌な感触。
 噴き出る血。
 漏れ出す脳漿。
 短い断末魔。
 もう一度。
 がづん。
 跳ねる身体。
 割れる頭蓋。
 覗く脳髄。
 もう一度。
 がづん。
 潰れる脳味噌。
 飛び散る血肉。
 もう一度。
 がづん。
 小さい痙攣。
 もう一度。
 がづん。
 もう一度。
 がづん。
 もう一度。
 がづん。
 がづん。がづん。がづん。がづん。がづんがづんがづんがづんがづんがづんがづんがづんがづんがづんがづんがづんがづんがづんがづんがちゅんがちゅんがちゅんがちゅんがちゅんがちゅんがちゅんがちゅがちゅがちゅがちゅがちゅがちゅがちゅがちゅがちゅがちゅがちゅがちゅがちゅがちゅぐちゅぐちゅぐちゅぐちゅぐちゅぐちゅぐちゅぐちゅぐちゅぐちゅぐちゅぐちゅぐちゅぐちゅぐちゅぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ。



 そうして――何回打ち付けただろうか。
 いつしか奇怪な水音だけが辺りに響き、振り下ろすコンクリート塊に硬い手応えがなくなった頃、漸く衛司は手を止めた。
 男は死体になっていた。首から上が肉片と化した惨殺死体。奇しくもそれは、頭を撃ち抜かれて絶命した父親と良く似た死に様だった。

「はっ、はっ、はっ……ひ、ひひ……あは、は、はははは、は――あはははははは。あははははははは――ぅぶ」

 荒い息遣いが引き攣る様な笑いに変わり、それが乾いた笑声へと変化して、不意に込み上げてきた何かに遮られる。
 次の瞬間、げぇ、と衛司は胃の中身を盛大にぶち撒けていた。吐瀉物がびちゃびちゃと音を立てて死体の背中に浴びせられる。胃の中身が空っぽになってもまだ足りぬとばかりに舌を突き出して、衛司はぜいぜいと喘いだ。舌の付け根を焦がす胃酸の味に、知らず顔を顰める。

 ――けど、ここで終わりだ。
 頭のどこかで、そんな声が聞こえる。自分自身の、結城衛司の声。これは夢。これは非現実。二年前の事件の追体験。衛司の記憶通りであるのなら、この直後に“蛇”がやってきて、自分はここから連れ出される。この地獄から、この悪夢から救い出される。
 だが―― 一向に、変化はない。夢が終わらない。まるで現実のように終わらない。早く来てくれ。この夢を終わらせてくれ。そう願う衛司の声にならぬ叫びは、しかし誰にも届かず霧散していく。

「          」

 ふと、声が聞こえた気がした。それが真実自身に向けられた声かどうか確かめもせず、衛司は振り向く。構わない、どうせこの空間で声を発するのはあの人だけだ。記憶通りに進むのなら、振り向いた先にあの人が――“蛇”が居るはずだ。
 しかしそこに、望む姿はなく。
 代わりにそこで、衛司が目にしたのは。

「――え?」

 スバル・ナカジマの死体だった。
 生気も感情も軒並み消え失せた虚ろな表情は、しかし半分しかない。頭部の半分が削り取られたように消えている。ずるりと零れ落ちた脳髄が今更のように『死んでいる』と主張していて、その慮外の有様に、衛司の思考は一瞬で漂白された。

「スバル、さん?」

 愕然と彼女の名を呟けば、更にその向こうに、見慣れた姿を見咎める。
 ティアナ・ランスターの死体があった。
 一見して正座の様な姿勢。床に座りこんだ姿勢の彼女は、しかし細く長い鉄棒にその喉を串刺しにされていた。鉄骨を伝って滴り落ちる鮮血は彼女の足下に黒々とした血溜まりを作り上げている。池か沼かと言う程に広がるその血溜まりは、どう見ても人間一人が死に至る血量で構成されていた。

 そして更にその向こう。
 四肢を引き千切られて転がる、エリオ・モンディアルの死体があった。
 そしてその傍らに。
 首が有り得ない方向に捻じ曲がった、キャロ・ル・ルシエの死体があった。

 フォワード陣だけではない。そこには結城衛司が異郷ミッドチルダで得た知己の、目を背けたくなる程に無惨な死体が、まるでその為の展示会であるかの如く、そういう見世物であるかの如く、そこかしこに散乱していた。

 高町なのはの死体があった。
 フェイト・T・ハラオウンの死体があった。
 八神はやての死体があった。

 シグナムの死体が、ヴィータの死体が、シャマルの死体が、ザフィーラの死体が、リインフォースⅡの死体が、高町ヴィヴィオの死体が、シャリオ・フィニーノの死体が、ヴァイス・グランセニックの死体が、グリフィス・ロウランの死体が、アルト・クラエッタの死体が、ルキノ・リリエの死体が、アイナ・トライトンの死体が、死体が死体が死体が死体が死体が死体が死体が死体が死体が死体が死体が死体が死体が死体が死体が死体が死体が死体が死体が死体が死体が――。

「あ……あ、あああ……!?」

 後ずさる。が、すぐ近くにはたった今衛司が殺したばかりの死体があり、それに蹴躓いて彼は尻餅をついた。それでも衛司は必死に後ずさる。少しでも、少しでも彼女達の死体から離れたくて。目を逸らす事も出来ないその死体から、それでも距離を取りたくて。
 だがそれも、やがて限界が来る。
 背中にどんと何かがぶつかる。壁だ。いつの間にかフロアの端まで後退していたらしい、これ以上距離は取れない。それでも往生際悪く、その壁に沿って横へとずれ始める衛司だったが、ふと奇妙な感覚を手に覚え――まるで女性の頭髪の中に手を突っ込んだような――、視線を落とした。



 ギンガ・ナカジマの首が、転がっていた。



 息が止まる。
 心臓さえ、止まったかもしれない。
 他の誰より、他の何より、ギンガが死んでいる事。この事実だけが何より致命的に、結城衛司を停止させる。
 どんよりと濁ったギンガの瞳が――もう生きているはずもないギンガの瞳が――ぎょろりと動いて、衛司を捉えた。もぞりと唇が動く。責める風でも咎める風でもなく、ただ音節の羅列の如き調子で、蠢いた唇は言葉を紡いだ。



「人殺し」



 夢が終わる。
 結城衛司が、目を覚ます。
 ただし朦朧とする意識は本当に覚醒しているのかどうかも怪しく、奇妙に輪郭の歪む視界は未だ夢の中に居るのだと言われても頷けそう。
 それでもこれが現実である事を、衛司は疑っていなかった。二年前に見たあの光景じゃない、ただその一点だけで、これが現実であると確信した。

 高熱は未だ引く事なく、衛司の総身を蝕み続けている。脳味噌がボイルされているようだ。熱に浮かされる頭はまともな思考を行えない。
 此処が自分の部屋でも、六課の医務室でもない事は何とか把握出来たが、ならば何処であるのかという推察に至る前に、思考は霧散してしまう。
 それでも、今の状態で衛司に出来る事は思考行動以外にない。霧散した思考を必死に繋ぎ合わせ、機械に繋がれ呼吸器をあてがわれた己の有様を認識し、ここが何処かの病院であるとあたりを付けた。

「ぁ――ぅ、ぁ」

 呻き声は声とも呼べない程に掠れきり、発した当の衛司でさえ聞き取れない。
 酷い倦怠感が全身を包んでいる。総身の骨という骨が疼きながら溶け出していくような感覚。身を起こすどころか指一本動かす事もままならない。
 より深い睡眠を、より深い休息をと身体が訴求しているが、しかしそれを受け入れたが最後、再びあの悪夢に囚われると、衛司は直感していた。恐らく今度は戻って来れまい。結城衛司はあの悪夢の中で、延々と永遠と、彼女達を殺し続ける事になる。
 それは、嫌だった。

「う――うう――ぎ――」

 唸りながら悶えながら、必死に衛司は全身に取り付けられたコードやチューブを引き剥がす。点滴も無理矢理引っこ抜いた。針が折れなかったのは運が良かったのだが、その程度の幸運、今の衛司にはまるで取るに足りない。
 身体をよじるようにしてうつ伏せの姿勢を取り、がくがくと震える腕を支えに身を起こす。だが完全に身体を起こすよりも早く腕は限界を迎え、無理に力を入れていたのがまずかったのか、倒れこむ勢いで彼はベッドから転がり落ちた。

 床に突っ伏す事数分。割と盛大に音を立てて転がり落ちたというのに、誰も部屋に入ってこない。これ幸いと、衛司はその数分を立ち上がる為の力を充填する為に使った。ベッドの縁に指をかけ、必死に身体を起こす。
 ぐるぐるぐにゃぐにゃと正体を失う視界に吐き気を覚えたその時、衛司の耳を激しい物音が叩いた。

「…………?」

 四囲の壁の内、通路に接していると思しき一面は矩形に切り抜かれ、ガラスかアクリルかが嵌め込まれた窓となっていた。恐らくは通路の外から室内を窺う為のものだろう。その窓から、見慣れたけれど見慣れない、そんな姿を見た。
 ギンガ・ナカジマの姿。この数ヶ月で毎日のように顔を合わせる彼女は今、戦装束であるバリアジャケットを纏っている。鋼を各所に配したその姿は、初見でこそないものの、衛司にはそう見る機会の多いものではない。
 軽快に動き回るその姿が窓の枠から消えた瞬間、次いでスバル・ナカジマの姿が入ってくる。こちらもバリアジャケット姿、ギンガのそれよりもやや露出が多い。そして彼女を援護する様に横を掠めていく橙色の光弾。恐らくはティアナ・ランスターの放ったものだ。

 彼女達がバリアジャケットを装着している事実――それは取りも直さず、彼女達が戦闘中である事を意味する。そして戦闘であるからには敵が居るのが道理であり、彼女達が戦う敵が何なのか、熱に浮かされた頭でも推察は容易だった。
 ――オルフェノク。先日のアルノルトなる男の例もある、断定は出来ないが、しかしそれが自分の命を狙ってきている事だけは確か。
 だと、するのなら。

「ぎ――ぃ、ぐぅ――」

 歯を食い縛り、呻き声を漏らしながら、衛司は遂に立ち上がった。二本の脚で、誰の支えも無く。
 もしあのオルフェノクが結城衛司を殺しに来ているのなら、それを相手にするのは衛司の役目だ。己の功名心、欲望、そういったものに動かされて、殺人を犯す者。そういう相手なら殺していい。そういう相手をこそ殺していい。ホーネットオルフェノクである結城衛司は、そう方針を確定する事で、無差別な殺人と線引きを行っている。

 無意味な殺戮は――二年前だけで充分だ。
 改めて己に言い聞かせ、一歩前へ踏み出すと同時。
 結城衛司の姿は、雀蜂のそれへと変化を遂げていた。





◆      ◆







 ギンガ・ナカジマと結城衛司の関係について訊かれた時、ギンガはいつも少し言葉に詰まる。

 友達、と言うには少しばかり距離が近すぎる気もする。六課や108部隊の男性局員と比べ、衛司との関係は非常に親しい。ただの友達とは言い難い。
 仲間、と言うと何かニュアンスが違う気がする。衛司は管理局員でもなければ民間協力者でもない、仲間と呼ぶには些か弱い。
 かと言って知り合いと言うと、何か余所余所しさを感じてこれも外れている気がする。何よりギンガが『ただの知り合いです』とは言いたくない。

 どうにも曖昧で不確かな関係。それで良いとギンガは思っているのだが、傍から見ればそれはやはり奇妙であるのかもしれない。年頃の男女が仲良くしているとその関係を邪推する者はどこにでも居るが、六課もその例外ではなく、邪推と言うほど悪意に満ちてはいないものの、何度となくギンガは衛司との関係を質された事があった。
 衛司とはどういう関係なのか、彼の事をどう思っているのか――その質問に対し、ギンガは少しばかり考えて、結局『友達』という言葉で少年との関係を表している。それが正確ではないと知った上で、違和感を拭えないままで。

 ただ、ギンガのその言葉を言葉通りに受け取っている人間はほぼ皆無だ。実際まるで説得力がない。『ただの友達』である少女が、どうしてあれやこれやと少年の世話を焼くだろう。
 いつぞやシャリオ・フィニーノは衛司に対するギンガのスタンスを『母親』と評し、ギンガはそれに少なからぬショックを受けていたのだが(何せ十七歳の少女である)、実のところそれは六課の面々の共通認識でもあった。

「……はあ」

 ため息が漏れる。
 考えてみれば。衛司とギンガは次元漂流者とそれを最初に発見し保護した局員という、ただそれだけの縁でしかなかったはず。調書を取り、次元漂流者の送還を専門に担当する部署へ引き渡せば、それでギンガの仕事はお終いだった。
 それが何かと世話を焼き、その身を護り、病に倒れた少年の身を案ずるまでの仲となっているのだから、成程六課の面々が奇異に思うのも無理はあるまい。
 ただ――

『ね、ギン姉――衛司くんのこと、好きなの?』

 単刀直入、スバルにこう訊かれてしまっては、さすがに苦笑も引き攣らざるを得なかった。
 無論、それは今この場で訊かれた事ではない。壁一枚隔てたすぐ向こうで生死の境を彷徨う少年が居る中でそんな質問を投げる程、スバルは空気の読めない娘ではない。
 だからその質問はもう随分と前、衛司が六課にやってきて十日ほど経った頃――衛司とフォワード陣の関係がごく当たり前の友人関係と言えるまでになった頃――の話だ。

 果たしてその質問に何と答えたのか、ギンガは憶えていない。
 不意打ちのような質問だった(実際かなり脈絡のない、いきなりな質問だったと思う)、赤面してうろたえまくってしどろもどろになって何言ってるか自分でも解らない状態で、それでも多分、曖昧に否定したはずだ。ただの友達だ、と言えたはずだ。それをスバルや、他の六課フォワード陣の面々が信じているかどうかはさておき。
 ただ。今、こうして衛司が死の淵を彷徨っている状況において、もう一度冷静に考えてみれば。心配と不安で気が狂いそうになりながら、それでも冷静に考えてみれば。
 ……ギンガ・ナカジマが結城衛司に抱いている感情は友人に向けるべきものではなく、しかし恋愛感情ともまた違うものであると、そういう結論に達してしまう。

「違うって言うか……そう言いたくないって感じなのよね」
「え? 何か言った、ギン姉?」

 何でもない、と苦笑して誤魔化しながら、ギンガは再度思索に戻る。
 ギンガが衛司に抱く感情が恋愛感情であるのなら、まだ解らなくもない。むしろ男女関係としてはそれが自然だ。六課の面々が頻繁に衛司との関係を訊いてくるのも、それを期待しての事だろう。

 ギンガ自身、別に衛司が嫌いと言う訳ではないし、好きか嫌いかの二択を迫られれば好きであると答えるだろう。好意を抱いているのは事実だ、そうでなければああも甲斐甲斐しく世話は焼けない。
 ただしその好意が親愛や友愛、恋愛といった愛情から来るものではないと、ぼんやりとではあるが、ギンガはそう考えている。

 ……それはむしろ、憐憫の感情に近いものではないだろうか。
 まるで翅をもがれた虫のような。衛司を見ていると、ギンガはふとそんな感覚に囚われる。
 他者の餌となるのを待つばかりの、死にかけの虫けら。それを『自分には関係の無い事』と無視出来なかったのは、やはり彼女の優しさ故だろうが、それを単純に是と出来ないのが、ギンガ・ナカジマという娘である。

 ギンガの恋愛観が古風という事もある。彼女の見てきた(と言ってもドラマや漫画、小説などで)恋愛が、どれも情熱的なものであった事もある。
 だからこそ、この憐憫、哀れみ、同情を起点とする感情を恋愛と呼べるかと言えば、少なくともギンガの恋愛観に照らし合わせて、それは否であった。

「……やだなあ……わたし、厭な女だよね……」

 傍らのスバルに聞こえないよう、口の中だけで呟いたその言葉は、言った当人の裡に深く深く沈みこんでいった。

 憐憫。
 同情。
 哀れみ。
 それはどれも、自分より下のものに向ける感情だ。上から目線でしか有り得ない感情だ。

 何の事はない――ギンガ・ナカジマは、結城衛司を保護しながら、世話を焼きながら、それによって彼を見下していた。自身の庇護欲を、あの少年を使って発散させていたに過ぎないのだと、そう気付いてしまった。
 気付いてしまえば自責の念が後から後から湧いて出て、どうしようもない自己嫌悪が、ギンガの総身を包んでいた。 

「…………、え――?」

 そしてギンガの思いなど知る由もなく、異変は彼女達の前に姿を現す。
 いや、それは果たして異変と言うに相応しいものだったか。音もなく予兆もなく、まるで最初からそこに居たかのような自然さで、しかし唐突に姿を現したというだけの事。
 意識の隙間にぬるりと入り込んだが如き出現は確かに不可解であったが、その姿が何処にでも居そうなごく普通の男性であるのだから、それを異変と呼ぶのは些か彼に対して失礼かもしれない。

 街中で頻繁に見かけると言う程、有り触れた格好でもない。インバネスコートに鹿撃ち帽、口にはパイプを咥えている。どこぞの探偵かと言うような、何かのコスプレ染みた格好ではあるが、非常識と言う程に現実離れもしていない。平時であれば奇異の視線を向ける事すらないだろう。
 だが、今、この場に彼が居る事。これ自体が不可思議ではあった。オルフェノクに狙われているという事情から、衛司の居る集中治療室は面会謝絶、一般人は近寄る事すら許されていない。男の姿は明らかに病院関係者のそれではなく、そして見舞い客とさえ思えない。

「貴方は――」
「失礼。私、エルロック・シャルムと申します。此処は、結城衛司くんの病室でありますか」

 誰何に声を上げたティアナの言葉を遮って、男は己の名前を名乗り、間髪入れずに質問を向けてくる。探偵の様な風貌に反して、どこか軍人を思わせる口調の質問だった。
 ティアナはちらとギンガの方を窺い、ギンガが無言で頷いたのを確認してから、警戒も顕わに「……はい。結城衛司の病室は、此処ですが」と答える。男はゆっくりとそれに頷いたかと思うと、一歩、病室へと向けて踏み出した。
 さすがにそれを許す程に愚鈍ではない。先述した通り衛司は面会謝絶、関係者以外は立入禁止だ。さっと男と病室との間にティアナが身を割り込ませ、強い視線で男を見据える。

「今は面会謝絶です。あー……シャルム、さん? 結城衛司にご用件があるなら、私が窺いますが」

 口調こそそれなりに丁寧ではあったが、その視線、その声音は、およそ友好的とは程遠い。
 それも当然、この状況で衛司に接触を図ろうとする者が、オルフェノクに通じる者以外に居るはずもないからだ。
 男に見えないようにティアナは一枚のカード――彼女のデバイス、クロスミラージュの待機形態――を握っており、事が起これば即座にデバイスを起動させるつもりでいる。

 ただし。それでもまだ、彼女は想定が甘かったと言えよう。つまるところそれは、『デバイスさえ起動出来れば相手を制圧出来る』という判断に基づくものでしかなかったのだから。……とは言え、それは責められる事ではない。オルフェノクの生態に対する無知から生じた判断ミスだ、そもそもオルフェノクとは何かという基礎的な事さえ彼女達は知らないのだから、無理からぬ事と言える。
 そう。ティアナは知らなかった。彼女に限らず、機動六課において、それを知っている者はほぼ皆無だった。
 つまり――

「いいえ。貴方達は不要です――私の仕事は、結城衛司くんにのみ関するものでありますので」

 瞬間、男の姿が沸騰する。いや、彼の周囲の空間が沸騰したかのようなエフェクトに包まれ、彼の姿を覆い隠しただけだ。
 その現象はギンガ、ティアナ、スバルの三人にとっては全くの初見であったが――しかし沸騰のエフェクトが消失した瞬間、そこに現出する灰色の異形に関しては、嫌と言う程見慣れた、見間違えようもないものであった。
 ぬるりと凹凸の少ない体表。目と思しき器官は顔の何処にも見当たらず、大きく裂けた口が顔の半分を形成している。これまでに確認された異形とは些か印象が異なるものの、人骨色の体色と総身から発する威圧感は、まさしくそれがオルフェノクであると……鰻の特質を備えたオルフェノク、イールオルフェノクであると告げている。

「え……ええっ!?」

 スバルが混乱に声を上げる。ギンガもティアナも、実際に声こそ上げなかったものの、同じ心境であった。
『人間がオルフェノクに変化した』。この事実はそれ程までに慮外で予想外で、そして重大な新事実。人間がオルフェノクに変化していたのか、オルフェノクが人間に擬態していたのかは不明だが、その事実は戦略上、決して無視出来るものではない。
 何食わぬ顔でオルフェノク達は人間社会に紛れ込み、裏で密かに人間を襲っている。確定した事実ではないものの、その推測は放置するにはあまりに危険過ぎる。

 その推測が思考を占拠したせいか、ティアナの反応は一歩遅れた。イールオルフェノクの変化から、ティアナがセットアップを開始するまでにおよそ一秒。その一秒の空白が、彼女から先手を取る権利を奪った。
 振り薙がれたイールオルフェノクの腕がティアナを弾き、いよいよ衛司の眠る集中治療室、その扉へと手をかける。

「――このッ!」

 敵の攻撃――相手にしてみれば蝿を払う程度の行為だったのだろうが――が直撃する刹那、デバイスの起動とバリアジャケットの装着を終えていた事で、間一髪ティアナは負傷を避け得ていた。
 それでもイールオルフェノクの一撃に弾かれた事に変わりはなく、床に転がりながらも彼女はクロスミラージュの銃口を敵へと据える。銃口の数センチ先には既に橙色の魔力弾が形成され、次の瞬間には躊躇無くそれが撃ち放たれる。

 空気を裂いて迫る光弾を、しかし敵は躱そうとしない。構わない。オルフェノクの外殻をこの程度の魔力弾で抜けるとは、元よりティアナも思っていなかった。ティアナがそれに期したのは単なる撹乱、次の一撃を届かせる為の目晦まし。
 響く車輪の音。轟く歯車の音。同時にセットアップを終えたギンガとスバルが、空気ごと魔力を鋼拳の歯車に引き込んで圧縮する。彼女達の拳撃はいかにオルフェノクと言えども無視出来る威力ではない。なればティアナの役目は、それを相手へと届かせる状況を作り上げる事。
 だが。

〖ふん〗

 イールオルフェノクが鼻を鳴らす。挑発的と言うよりは、ただ単に魔力弾の迫る現状を認識したと示すだけの挙措。
 顔面に直撃する軌道で加速する魔力弾。触れれば炸裂する対物設定。さしたる威力でないとは言え、人間の顔に当たったならば顔面の皮膚を軽く吹き飛ばすくらいの威力はある。オルフェノクにとってどれだけの効果が見込めるかはさておき、目晦ましには充分なはず。

 だが――術者の予想に反し、それは目晦ましどころか、敵の注意を逸らす事すら叶わなかった。
 鰻の顔面に直撃した魔力弾は炸裂する事なく、その顔面を滑るように逸れて、あらぬ方向へと飛んでいった。どん、と壁に当たって炸裂した魔力弾が轟音を撒き散らす頃には、既にイールオルフェノクはギンガとスバルを迎撃する態勢を整えている。
 両腕を広げ、顔面も胸部も剥き出しにした無防備な態勢。殴れるものなら殴ってみろ、と言わんばかりの挑発的な態勢は、つまり明らかにカウンターを狙ったもの。見え見えの誘いであったが、それを警戒して躊躇していては、フロントアタッカーは務まらない。鋼の車輪が一際大きな駆動音を響かせて、少女達を加速させる。

「はぁああああああ――」
「――あぁああああっ!」

 圧縮魔力を威力に転換、鋼拳の同時攻撃が鰻の顔面と胴体をそれぞれ捉える。姉妹ならではのコンビネーション、全く同一のタイミングにおける同時攻撃。二点同時攻撃をそれぞれ捌いてカウンターを叩き込めると言うのなら、それは最早人知を超えている。

「え? ――きゃあっ!?」
「わ、――わわっ!?」

 結論から言えば。イールオルフェノクは人知を超えた存在ではなかった。ギンガ達の攻撃を捌く事などしなかった。
 だがそれは捌く必要が無かったというだけの事であり、二点同時攻撃はイールオルフェノクが何をするまでもなく、彼の急所を逸れていた。先にティアナが放った魔力弾と同様、体表を滑って逸れたのだ。

 しかも間の悪い事に、同時攻撃という都合上、ギンガとスバルはかなりの密着状態で攻撃を繰り出していた。必然、攻撃を逸らされた事で態勢を崩した彼女達は互いに激突、敵の眼前で大きな隙を晒してしまう。
 そこを見逃す程甘い敵でもなく、瞬時に彼の両腕が閃く。意趣返しとばかりに放たれた単純極まりないパンチは、咄嗟にギンガが張った障壁を破壊こそ出来なかったものの、凄絶な打撃音を響かせた。――急所を殴られれば、衝撃だけで内臓破裂に至るだろう。
 たん、とイールオルフェノクが一歩踏み込んでくる。だがそれを阻むかのように、ギンガとスバルの背後を回りこんで魔力弾が飛来する。先と同じようにそれらは標的の体表で滑り、床と壁を穿つに留まるものの、敵の反撃行動を阻むという目的だけは達成された。

「ぃやぁっ!」

 迸る裂帛。
 再度距離を詰めたギンガが、敵の上方で振り被った左腕を、鉄槌よろしく振り下ろす。
 狙うは肩口。鎖骨に当たる部分を砕いて戦闘力を失わせる。その目算は、しかし鎖骨部分に直撃したはずの腕が空しく滑った事で破綻した。ぬるりと油を塗った床板を滑るが如くに、何の技も何の術もなく、ギンガの一撃は捌かれたのだ。

〖!〗
「だぁあああああああっ!」

 しかしギンガは一瞬で思考を切り替え、敵の反撃を待たずしてその場を逃れる。
 代わりに――魔力弾の援護を受けて、スバルが突っ込んでくる。姿勢は低く、床を舐めるようにして疾走するその様は、ラグビーやアメフトの如き下半身へのタックルを狙っていると知れた。まずは病室の扉から引き剥がす。判断としては最良である。

 だが次瞬、やおらオルフェノクは床に身を投げたかと思うと、そのままうつ伏せに寝そべってしまった。これではタックルも何もあったものではない、しかも彼我の距離からして、急停止も間に合わない。ただそのままではスバルに轢き潰されるのも必定。
 だが交錯の寸前、イールオルフェノクは一気に身を起こした。するりとスバルの懐に入り込み、同時にその脚がスバルの脚を払って、がくんと態勢を崩した彼女を己の肩に乗せる。更に次の瞬間、独楽の如く彼はスバルを担いだまま半回転して、弾く様に彼女の身体を放り投げた。結果的に彼女は加速の勢いを殆ど残したまま、ただベクトルだけを真逆とされて、来た方向へと投げ返される羽目になった。

 幸いな事に、いやそれは不運と言うべきなのか、スバルが放り投げられた方向にはつい一秒前に敵の間合いから離れたギンガが居た。ギンガは見事スバルの身体を受け止め、床に叩きつけられる事態を防いだものの、しかしそれによってギンガ自身は更なる追撃の機を逸した。

「あ、ありがと、ギン姉……」
「ううん。怪我はない、スバル?」
「なんとか」

 ティアナも、ギンガとスバルも、こうしてイールオルフェノクから距離を取る形になる。イールオルフェノクの病室侵入は最早阻止し得ない。だが不可解な事に、イールオルフェノクは病室の扉に手をかけるでもなく、その前でくるりと踵を返すと、ギンガ達に向き直った。

〖……邪魔をなさらないでください。彼に危害を加えるつもりはありません。貴方達にも〗
「え……?」

 危害を――加えない?
 それまでの常識、それまでの前提を根底から引っ繰り返すイールオルフェノクの言葉に、ギンガが眉を顰める。

 信用出来るかと言えば、明らかに否だ。嘘やブラフと考えるのが自然である。だがしかし、この場で嘘を吐く理由がないのも事実。
 ポジション的にイールオルフェノクは既に衛司を確保しているに等しい、集中治療室に飛び込んで衛司を仕留めるまで十秒とかかるまい。ギンガ達の妨害があったところでそれが数秒、いいところ十数秒遅れる程度だ。
 邪魔をするなとギンガ達に告げる事そのものが、オルフェノク側にとって無駄な時間、無意味な手間でしかないのである。
 なればこそ。それが何らかの策であると疑うのは、至極当然な流れと言えた。

「それを信用しろっての……? じゃあアンタ、一体何しに来たのよ」

 銃口を突き付けながら、ティアナが問う。
 その問いに、イールオルフェノクは即答しなかった。逡巡したのか躊躇したのかは不明だが、返答までに空いた僅かな間は、より一層ギンガ達の警戒と不審を煽る事になる。

〖私はとある方・・・・の命を受けて、結城衛司少年を迎えに来ただけです。抵抗するならば武力行使も已む無しと言われておりますが、殺害は許可されておりません。また戦闘は最小限に抑えよとの命も受けております。障害とならないのであれば貴方達にも危害は加えません。どうか賢明な判断を願います〗
「…………。とある方――というのは、誰ですか?」
〖答えられません。私はその質問に答える権限を与えられていません〗
「じゃあその人は、衛司くんを連れていって何をするつもりなんですか?」
〖答えられません。私はその質問に答える権限を与えられていません〗

 淡々と、感情を込める事なく鰻は言う。
 これまでギンガ達が相対してきたオルフェノクがどれも結城衛司の殺害を誇らしげに語ったのに比べると、それは違和感を覚えざるを得ない程に淡白で、いっそ事務的とも言える、インテリジェントデバイスの方がまだ感情的とすら思える態度だった。

「論外ですね」

 がしゅん、とカートリッジをロードして、ティアナがギンガの横に歩み出る。ちらと横目でギンガを窺ってくるティアナに、ギンガは無言の首肯で応えた。
 そう、論外である。例えその言葉に嘘がなかったとしても、結局、衛司の身の保証は何一つされていないのだ。連れていって殺す、という可能性は否定出来ないし、それが展開として最も無理がない。信用するしないという以前に、そもそも受け入れる事の出来ない言葉だ。
 ただ。

《ギンガさん》
《ギン姉》
《うん、解ってる――なのはさん達と、連絡が取れない》

 そう、ギンガ達は先程から念話やデバイスの通信機能で連絡を取っているのだが、なのはとヴィータから一向に応答がない。
 管理局でも有数の実力者である彼女達が窮地に陥る様はいまいち予想の難いものではあったが、それでも今のなのはとヴィータはそれぞれリミッターによって戦力を抑えられている。万が一は否定出来ないし、現に今、連絡が取れなくなってもいる。助勢は期待出来ないものと考えて良いだろう。
 となれば。今、衛司を護れるのはこの場にギンガ達三人のみ。現状を改めて認識し、腹を括る。

「ティアナ。わたしがトップ、次にスバルで行くから――援護、お願い」
「はい」
「いけるわね、スバル」
「うん」

 本来指示を下すのはティアナの役回りだが、この狭い空間では、誰が下すにしろ方針は大差ない。後衛の援護を受けて前衛が仕留める。建物への被害を考慮すれば、ギンガとスバルの直接攻撃を叩き込む以外に処方はなかった。

 言葉少なに頷いて、スバルとティアナが身構える。ギンガも同様に。そして一秒の溜めを置いて、少女達が走り出した。
 交渉の余地無し、と相手も悟ったのだろう。イールオルフェノクがここで初めて身構えた。半身の姿勢で待ちに徹するそれはどこか拳法の構えを思わせる。迂闊に飛び込めば返り討ちは必定と理解はしているが、病室に繋がる扉の前に陣取られた状態では、あえて敵の間合いに飛び込むより他にない。

 距離が詰まる。もう二秒と経たぬ内に、ギンガとイールオルフェノクは交錯するだろう。先のスバルと同様、方針はまず病室の扉から奴を引き離す事。それだけに集中して、ギンガはブリッツキャリバーを加速させる。



 そう。
 集中していたからこそ、次の瞬間に起こった事を、彼女は余さず知覚出来た。



 ギンガを待ち構えていたはずのイールオルフェノクが、不意に何かに気付いて飛び退いた。ギンガを怖れた訳ではあるまい、ならば何故と訝る間も無く轟音が響き、一瞬前まで彼が居た空間を何かが猛速で吹っ飛んでいく。それは内側から何者かに吹き飛ばされ、くの字に折れ曲がった、集中治療室の扉であった。

 そしてのそりとその向こうから歩み出て来る、灰色のシルエット。頭部の半分近くを占める、吊り上がった複眼。大鋏を思わせる顎。額から伸びる触角。甲冑の如き灰色の外殻は鋭利な突起が至る所から突き出ていて、酷く威嚇的。
 見間違えるはずもない。それは過日、クラナガン医療センターにおいて機動六課フォワード陣と相対した雀蜂のオルフェノク――ホーネットオルフェノクの姿。仮面の男に挙動を奪われ、バイクが変形した人型機械に連れ去られたはずのそれが、何故か今、再びギンガ達の前に現れたのである。

「あ……あ、――っ!!

 慮外の闖入者に、一瞬、ほんの一瞬だけギンガの思考が真っ白になるも、次の刹那、それが猛烈な憤怒に塗り替えられる。
 出てきたのが雀蜂である事はどうでもいい。大した問題ではない。問題はそれが、『衛司の居る病室』から出てきたという事――!

「――衛司くんに、」

 それは憐憫。
 それは同情。
 それは哀れみ。
 上から目線で、見下して、自分勝手に庇護して――

「何を――ッ!!」

 それでも――ギンガ・ナカジマにとって。
 友達かどうかは判らなくても。
 仲間であると言えなくても。
 知り合いと呼ぶには近すぎても。
 結城衛司が大事な人間である事に、変わりは無い。

「ギン姉っ!」
「ギンガさん!」

 突然出てきた雀蜂に警戒を促しているのだろう、スバルとティアナがほぼ同時にギンガの名を叫ぶ。
 雀蜂は迫るギンガなど眼中にないとでも言うかのように、よろめきながらイールオルフェノクへと向き直る。それはつまりギンガへと背を向けたという事であるのだが、それを不審に思うだけの余裕は――心理的にも距離的にも――今のギンガにはない。

 スピナーが魔力を引き込んで吼え立てる。圧縮された魔力が暴力と化して拳に宿る。それの行使に躊躇はない。愚直そのものの、それ故に無駄がない拳は、狙い過たず雀蜂の背中、その中央へと叩き込まれた。
 先の鰻を殴った時とはまるで違う、慣れ親しんだ確実な手応え。緩い放物線を描いて吹っ飛ばされた雀蜂は、そのまま床へと叩きつけられ、ごろごろと転がり、やがて停止した。
 そのまま、動かない。

「…………?」

 床に横たわったまま身じろぎもしない雀蜂に、それを殴りつけた当のギンガが困惑する。何かの罠か。死んだふりでもして、近付いてくるのを待っているのか。しかしそんな姑息を使う相手とも思えず、違和感と混乱が彼女に追撃を止めさせる。
 果たしてそれは正しかった。追撃に移り、まかり間違って止めを刺したりしようものなら、彼女は一生後悔していただろうから。

「え?」

 雀蜂の姿が沸騰する。彼の周囲の空間が沸騰する。それは先に、エルロック・シャルムと名乗った男がイールオルフェノクへと変貌を遂げた時と全く同じ現象――いや、厳密に言うのなら、その逆回し。

 そう。ギンガは知らなかった。スバルもティアナも知らなかった。それを知ったのはつい今し方で、だからそれがオルフェノクに須らく共通であるのか、それとも目の前の男だけが例外であるのかさえ、彼女達は判別出来なかった。
 オルフェノクが人間に擬態する。人間がオルフェノクに変化する。つい先刻知ったばかりのその事実は、例外の範疇に雀蜂は居ないと付け加えられる。沸騰する空間のエフェクトはすぐに消失し、そこには最早、ホーネットオルフェノクの姿は無かった。

 代わりに、



「衛司――くん……!?」



 結城衛司が、
 そこに居た。





◆      ◆







第拾肆話/了





◆      ◆





後書き:

 という訳で、第拾肆話でした。お付き合いありがとうございました。

 やっと正体バレイベント発生。長かった。投稿開始から一年半経ってる。
 のんびりゆっくりだらだらが信条なんですが、しかしこのペース(だいたい月一投稿)でいくと、完結はいったいいつになるんだろう。……とりあえず『リリカルなのは第五期・なのはさん三十歳』とか公式のアナウンスが出る前には(出ないよね?)完結させたいんですがw

 今回はちょっとグロ描写多め。どうしても二年前の事件を入れる場合、エグい描写が不可欠になってしまって。まあ作者の趣味って事もあるんですけど。
 そもそもが子供向け番組である仮面ライダーの二次創作で殺人だの陵辱だのやって誰が喜ぶんだ? 的な自問はあるんですが、考えてみれば拙作の対象年齢は大分上の方なので別にいいかなーと。て言うかこんなグロいSS読む幼稚園児とか小学生とか居ませんよね。
 ちなみに今回や第伍話などで過去(二年前)の話やってますが、感想返信などで時折作者が口にする過去編とはまた別物です。もう少し話が進んだら、回想か何かで一話使ってやろうかなーと考えてますので。

 あとやろうやろうと思って先延ばしにしてたなのはVS伽爛。申し訳ありません、これ多分次々回になっちゃうと思います。
 次回はぶん殴られて正体バレた主人公と、知らないでぶん殴ったギンガのお話。……の予定なんですが、あまりあてにしないでくださいw


 それでは次回で。よろしければ、またお付き合いください。



[7903] 第拾伍話/乙
Name: 透水◆44d72913 ID:35af097c
Date: 2023/12/29 20:53


 先端技術医療センターは言うまでもなく医療施設、つまりは病院であり、故に当然ながら、多数の入院患者が施設内で療養している。
 施設の性格上、長期に亘って入院している患者も決して少なくないのだが、しかし逆にミッドの最先端医療の恩恵により短期の入院で済む患者も相当数居る訳で、そういった患者は病状ごとにフロアと病室を分けられている。退院間近な患者ほどより下階の病室に移される傾向が見られるのだが、それはさておき。
 比較的病状が軽く症状が軽い、或いは大分回復して退院も近い様な患者が多いフロアは、もうごく普通の病院と大差無く、病室は数人で一部屋。同室の患者達が顔を突き合わせながら飯がまずいだの暇で暇で仕方ないだのあの看護婦さんえろいよねいや今は看護師さんだぞそこ突っ込まなくてもよくねと愚痴を零す様など、どこの病院でも見られるごく当たり前の光景である。

「つーか遅ぇな。あいつどこまで買い物に行ったんだよ」
「いや、どこまでっつーか、売店は一階にしかねーだろ。逃げたんじゃねーか?」

 ちなみにこの病室は四人部屋。うち三人が一つのベッドを囲む形でカードゲームに興じている。此処に居ない残る一人は今、先だっての勝負に負けた罰ゲームとして一階の売店へ買い出しに行かされている。先端技術医療センター名物(?)、人気商品チョコポットを自腹であるだけ買い占めてこいという、割と過酷な(体力と言うより財布的に)罰ゲーム。
 とは言え十分もあれば余裕で戻ってこれる距離だ、あるだけ買い占めろと言ったところで量も知れている。にも関わらず、三十分以上経っても罰ゲーム担当は戻って来ない。いい加減不審に思うのは当然で、病室に残る三人の内二人は怪訝そうに軽口を叩いていたのだが。

「や、そう焦る事もねェでしょう。なァにその内戻ってくるでしょォや、苛々するだけ損ってェもんでござんすよ」

 残る一人は何という事も無い顔で、隣の患者の手からひょいとカードを抜き取った。
 その言葉遣いは方言であろうか、妙に時代がかったものであったのだが、さすがに慣れているのだろう、同室の患者達にそれを不審と思う様子は無い。

「へい、これで上がりでござんす。今回もあっしの一人勝ちでござんすねェ」
「げー! マジかよ、アルノさん強すぎだぁ!」
「くっそ、六連勝かよ! 何かイカサマでもしてんじゃねーの!?」

 同室の患者達の悲鳴に、男はからからと陽気に笑ってみせる。
 ひらひらと手を振っているのは『イカサマなどしていない』というアピールか。と言っても同室の彼等とて本気でイカサマを疑っている訳では無い、それを解っているからこその飄々としたリアクションであった。

「そーいやさ、アルノさん、何で入院してるんだっけ? 見た感じもう全快っぽいけど」
「ん? ああ、ちィと喧嘩で負けちまいましてねェ。いやァ、ありゃァ本気で死ぬかと思いやした」

 喧嘩で負けた、というのは確かにその通り。ただし男の言はやや正確さを欠いていた。
 一般的に『喧嘩』という言葉が持つイメージ、『正面からの殴り合い』で傷を負った訳ではないのだ。どれだけ重傷でも、普通の喧嘩で負った傷なら他の病院で事足りる。
 気化毒の吸引。言ってしまえば彼の負傷はそれだけなのだが、しかし先端技術医療センターに担ぎ込まれる――他の病院では手に負えない――程のダメージと言えば、その甚大さが理解出来よう。
 実際、全身で血管が破裂し呼吸器が破損し消化器系にも重篤な損傷を負い筋繊維も断裂しかけていて、彼の『死ぬかと思った』という言葉はかなり的確……いや、むしろささやかすぎる表現とすら言える。ここまで持ち直した事がある種奇跡的なのだ。

「うへぇ、アルノさんに喧嘩で勝つって……どんなバケモノだよ、そいつ」
「バケモノ……あァ、ま、確かにその通りなんでございやすが――」

 何と言えば良いのやら、男が言葉に詰まったその瞬間、タイミング良く病室の扉が開いた。

「ぅおい野郎共! ちょ聞け、大変だぞ!」
「遅ぇよ! どこまで行ってやがったんだ!」

 這入ってきたのは、罰ゲームで買い出しに行かされていた患者。その手にチョコポットがぎっしり詰まった袋が握られているあたり、ちゃんと罰ゲームは果たしてきたのだろう。ただ彼の慌てようはそれだけでは説明がつかず、自然、時間がかかった事への追求は棚上げになる。

「いいから聞けって! 機動六課来てるぞ! 何か護衛だってよ!」
「六課? マジ? あの『奇跡の部隊』?」
「そう、それ!」
「て事は何だ、『不屈のエース・オブ・エース』とか『金の閃光』とか居たのか?」
「あー、執務官の方は見なかったけど、教導官の方は見たぜ。野次馬が多いせいでいまいち見え辛かったけど」

 先の『JS事件』によって、機動六課の知名度は急上昇。雑誌やTVで幾度も特集が組まれ、今やミッドで知らぬ者はないと言っても良い程に、その名前は認知されている。
 しかも隊長陣が皆妙齢の美女となればメディアへの露出が少ない筈も無く、特に部隊長八神はやて、分隊長高町なのはとフェイト・T・ハラオウンは下手な芸能人よりも余程有名人。それが自分達のすぐ近くに来ているとなれば、ちょっとした騒ぎになるのも道理だろう。

「機動六課ねェ……護衛ってェ話ですが。いったい誰の護衛なのか、ご存知ですかィ?」
「へ? ああ、噂で聞いた話じゃあるんすけど、なんか、子供みてーですね。六課の人間がジュニアハイくらいの男のガキに連れ添って病院に入ってくるのを見たって奴がいたんですよ」
「……へェ。男のガキ、でござんすか……そりゃ、まァ、興味深い話でござんすねェ……」

 くくく、と低く笑う男に、同室の患者達が怪訝そうに顔を見合わせる。
 無理からぬ事だろう。彼等は『六課が護衛する少年』とこの男との間にある確執、いやそれは確執と言えるほど大したものではないが、それらの事情を何一つ知らないのだから。
 ともあれ。
 全くの偶然、数奇な奇遇によって再会がお膳立てされていた事を知り――アルノルト・アダルベルトことセパルチュラワーム・ビリディスは、静かに不気味にほくそ笑むのだった。



 それは、機動六課スターズ分隊隊長高町なのは、副隊長ヴィータが謎の怪物と接触する三十分ほど前の事。
 ギンガ・ナカジマ、スバル・ナカジマ、ティアナ・ランスターがとある少年の正体を知るほんの十五分ほど前に、先端技術医療センターの一室において見られた光景。
 ただし、それは少女達の知るところではなく。
 故に伏線と成り得ない、そんな無意味な一場面――。





◆     ◆





異形の花々/第拾伍話/乙





◆     ◆







 午前十時五十分。
『JS事件』の解決以降、機動六課の業務は大幅に減っている。今は対オルフェノク問題の専任部隊として動いているとは言っても、往時の膨大な仕事量とは比べ物にならないのが現状だ。
 特に結城衛司を六課で保護して以降は、僅か数件しかオルフェノクが確認されていない事もあって、部隊長である八神はやての仕事も激減。普段ならこの時刻は『今日のお昼はなんにしよかなー』と食堂のメニューを頭の中で思い浮かべながらのんべんだらりと業務に勤しんでいる時間帯である。

 だがこの日のはやては違った。デスクの上には一枚のウィンドウが表示され、そこに映し出される内容を食い入るように見つめている。睨み付ければその内容が変わると言わんばかりのきつい眼差しであり、傍らに控えて自分の仕事を片付けているリインが、居心地悪そうにちらちらとはやての方を窺っている事にも気付いていない。
 とは言え、やはり睨んだところで状況も内容も変わる訳でなし。やがてはやては大きく伸びをして、表示されているウィンドウを閉じた。

「あー……うん、睨んでてもしゃあないな。リイン、お茶入れてくれへん?」
「はいです!」

 充満していた重い空気が一気に緩み、嬉しそうに笑みを浮かべたリインが部屋に備え付けのポットへと飛んで行く。
 そういえばお茶っ葉もそろそろ切れかけていたのだったか。近い内に買いに行こうと考えて、しかしそんな暇は無いだろうという予測がそれを塗り潰す。――つい数時間前にもたらされた一報は、今後当分の間、はやての元へ大量の面倒と厄介事が転がり込むと予想させるに充分なものだった。

 不意に、呼出音が室内に響いた。部隊長室への来訪者を告げるドアチャイム。どうぞと促せばすぐに扉は開き、グリフィス・ロウランが部隊長室へと入ってくる。
 グリフィスの表情は普段に輪をかけて固い。元より喜怒哀楽をはっきり顔に出す人間ではないが、今日の彼は特に硬質な無表情。だがそれは内心の動揺や葛藤、苛立ちといった感情を無理矢理押し殺したが故のものであり、普段と比べても尚、判り易い表情と言えた。

「失礼します。――八神部隊長、やはり例の情報は本当のようです。複数のルートから裏付けが取れました。一両日中には、こちらにも正式な通達が来るかと」
「そっか。メインは本局? それとも地上部隊だけやろか?」
「主だったスタッフは本局からの出向になる様です。オルフェノクが今後、ミッド以外に発生する可能性もありますし。地上部隊よりは本局の管轄にした方が良いと判断されたのかと」
「んー……それやったら、少しくらいはこっちの話聞いてくれるやろか。まー望み薄やけど、なんもやらんよりはマシやな。衛司くんの事もあるし……ほんま、嫌な事やら面倒な事ちゅうんは、足並み揃えてやってくるもんやなあ」

 ため息を吐きつつ、はやては椅子の背凭れに体重を預けた。
 と、ふとグリフィスの怪訝な顔が目に入る。話の流れからして、ここでグリフィスがそんな顔をする事こそ意外。必然はやても怪訝な顔になって、互いが互いに怪訝な表情を交換するという、傍から見れば微妙に間抜けな構図になった。

「なに? どしたん、グリフィスくん。そないな顔して」
「いえ、失礼しました。……結城衛司がどうされたのですか? 何か彼に問題でも?」
「問題も何も――あ、そか。グリフィスくんのとこにまだ情報が行ってなかったんかな。わたしのとこに来たんもついさっきの事やからなあ」

 単に情報伝達のミスが故だったらしい。
 ならばここで自分が教えても同じ事だろうと、そう考えたところで、ふとはやては言葉に詰まる。一体どう言えば良いのかと。
 事実を端的に伝える。それだけで良いはずなのに、それを口に出来ない――否、口にしたくない自分が居る事に、はやては気付いた。
 つまるところ、はやてもまた、その情報を自分の中で整理出来ていないのだ。どう理解すれば良いのか、どう受け止めれば良いのか。つい先刻、唐突にもたらされたその情報は、たかが数時間では理解も納得も出来ない程に重く、そして苦いものだった。

「八神部隊長?」
「ん――や、ごめんな。やっぱ駄目やな、適当に誤魔化すっちゅうんはわたしの性に合わんし。……実はな、グリフィスくん。衛司くんは――」

 そうしてはやてがグリフィスに向けて口を開いた、その瞬間。
 先にグリフィスが来た時と同様の呼出音が、紡がれかけたはやての言葉を喉の奥へと引っ込ませた。
 誰が来たのかは判っている。隊舎に戻ったらまずここに顔を出せと命令してあるからだ。果たして開いた扉の向こうから現れたのは、高町なのは、ヴィータ、スバル・ナカジマ、ティアナ・ランスター、ギンガ・ナカジマの五名。機動六課スターズ分隊の面々だった。

 なのはは額に特大の絆創膏、ヴィータも骨折でもしたのか右腕を吊っている。スバルやティアナ、ギンガの三人がほぼ無傷なところを見れば、些か以上に違和感のある光景と言えた。
 しかしより重傷と見えるのはむしろ無傷なギンガ達の方で、悄然となのは達の後に続いて部隊長室に入ってくる様は、まるで夢遊病者を連想させる。

「スターズ分隊――只今、帰投しました」
「ん。ごくろーさん。……報告、聞かしてもらえるかな? 医療センターで何があったん?」

 なのはの敬礼を受け、はやてがその問いを投げかけた途端、なのはの後ろに佇んでいたギンガが不意に俯けていた顔を上げた。その反応だけで何が起こったのかは概ね察する事が出来たのだが、今のはやてに必要なのは曖昧な憶測ではなく、確定された事実の方である。
 ティアナに向け、なのはが「それじゃティアナ、お願い」と報告を促す。先行してはやての元にもたらされた情報では、昨夜の一件を直接目撃したのはフォワードの三人。なのはとヴィータは別の敵と交戦していた為、その場に居合わせる事が出来なかったという。
 常に状況の俯瞰を要求されるセンターガードが最も事態の把握に長けているはず。ティアナに報告を促したのはつまりそういう目算から。だがティアナがそれに応え報告を開始するに先んじて、ギンガが一歩前へと踏み出した。

「あの、八神部隊長っ……!」
「ちょい待ち、ギンガ。何言いたいんかはだいたい判る。けど、まずは報告が先や」
「あ……はい、失礼しました」
「ん。……わたしが聞いてるんは、衛司くんがオルフェノクやったて事と――その衛司くんが、攫われたて事だけや。具体的に何が起こったんかきっちり説明してくれんと、わたしは何も言いようがない。……分かるな?」

 はい、と大人しく頷いて、ギンガは再び顔を俯けた。
 グリフィスははやての傍らで固まっている。衛司の正体、つい先程はやてから聞かされようとしていたそれを、不意打ち気味に聞かされたのだ。彼の反応はごく自然なものと言えるだろう。
 実際、はやてもまた、最初にそれを聞かされた時は頭が真っ白になってしまったのだから。

「じゃ、ティアナ」
「はい。昨夜、なのはさん達と別れて十分ほどしてからの事です。突然、私たちの前に妙な男が現れて――」

 ティアナは訥々と語り始めた。
 インバネスコートに鹿撃ち帽。どこぞの探偵小説の主人公さながらの出で立ちで現れた男は、結城衛司を連れて行くと言い放った。無論それを許すティアナ達ではなく、その男の進路に割り込めば、男はその本性を――イールオルフェノクの姿を顕わにし、ティアナ達を排除にかかってきた。

 その戦闘の最中、不意に衛司が居るはずの集中治療室から、雀蜂――ホーネットオルフェノクが姿を現した。先日の戦闘において攻撃を仕掛けてきた事実もあり、ティアナ達はそれを敵性体と判断。また治療室内に居る筈の衛司の安否も確認せねばならず、迅速な排除を試みようと、ギンガが雀蜂へと先制攻撃を仕掛け。
 そして――







 ――そして、時間が止まった。
 勿論そんな事は有り得ない。時間はあくまで不動のものだ。けれどその場に居合わせた者達の体感として、時間は確かに止まっていた。
 ……それ程までに、彼女達の目の前で起こった事象は信じ難いものだったのだ。

「衛司、くん?」

 呆然と、ギンガがその名を口にする。ただし呼びかけという体裁ではない。眼前の事象を今更確認するかのような、どこかに否定する材料を探すような、それは単に内心の動揺を吐き出しただけの音声であった。
 無論、それに応える者はない。床に倒れ伏す少年はぴくりとも動かない。如何に怪物の姿であったとは言え、背中を強打されて平気なはずがない。まして今の彼は著しく体調を崩し、体力を失っているのだ。常人よりも遥かにダメージは大きいはず。

 そして。
 それを――そんな状態の少年を殴りつけたのは、他ならぬギンガ・ナカジマ自身であって。

「あ――あ、えい、衛司くんっ!?」
「ギンガさん、危ないっ!」

 駆け出したギンガに声を荒げて、ティアナは魔力弾を撃ち出した。一見すればギンガを後ろから撃つような構図であったが、言うまでもなく狙いはギンガではなく、その前方。ギンガが動くとほぼ同時にイールオルフェノクもまた衛司へと向けて走り出しており、ティアナの魔力弾はそれを阻む為のものだった。
 だが先の交錯と同様、魔力弾は鰻の体表を滑って逸れるばかりで、阻むどころかその速度を緩める事すら出来はしない。結局衛司の元に先に到達したのはイールオルフェノクが先で、一秒弱の遅れで到達したギンガは、交差法気味に放たれた敵の一撃に大きく弾き飛ばされる事になった。

「あぐっ、っ、くぅっ!」
「っの――よくもぉっ!」
〖お止しなさい〗

 弾かれながらも態勢を立て直し、再度の突撃に入らんとするギンガと、同じく走り出そうとするスバルを、しかしその時、イールオルフェノクの落ち着いた声が押し留めた。
 厳密には声だけではなく、彼が衛司を一瞬で仕留められるポジションを既に確保していた事もあるのだが、どうあれ結果として、ギンガとスバルは突撃を開始する寸前で制止を余儀なくされる形となる。

〖そのまま。そのままです――先も言った通り、私はこの少年に危害を加えるつもりはありません。貴方達がそこで止まって下さるのなら、話はここでお終いです。貴方達は怪我をせず、私は彼を無傷のまま連れ帰る事が出来る。双方に損は無いという事は、お解り頂けると思いますが〗

 静かに、かつ丁寧な物腰の言葉は慇懃さとはまるで無縁のもので、それがある意味で誠意と呼ばれるものである事は言われるまでも無く理解出来たが、しかしその内容はどうあれ受け入れられるものではなかった。
“説得”を完全に黙殺し身構える少女達に、イールオルフェノクは一つ大きなため息を吐いた。物分りの悪い子供に道理を言い聞かせる時のような、どこか苛立ちを含んだため息。

〖ご覧になったでしょう。彼はオルフェノクです。私達の同胞です。貴方達とは違う――貴方達、人間とは〗
「……っ!」
〖彼が生きる場所は“こちら側”です。人間の世界ほどに生温くはありませんが、人間の世界に彼を置き去りにする不自然に比べれば、何という事もないでしょう。在るべきところに居るべき者を。私の主の意図はただそれだけです〗

 これで解らないのなら、もう話す事はない。イールオルフェノクはそう言いたげに言葉を切って、ギンガ達の反応を窺う。
 怯んだのは確かだった。結城衛司はオルフェノクである。その慮外な事実が、少女達の決意に僅かな揺らぎを生じさせたのは否定出来ない。だからこそイールオルフェノクの言葉をすぐさま否定は出来なかった。

 人間ではないから。
 住む世界が違うから。
 それならいっそ、任せてしまった方が彼のためではないか? 

 そんな思考が、ほんの僅かではあるが、意識の端に差し込んだ。それが逃避であると、目の前の問題から目を背けるだけと気付いていながら。
 ただし、

「関係ありません……っ!」

 スバル・ナカジマとティアナ・ランスターは確かに揺らいだ。迷った。諦めかけた――けれどギンガ・ナカジマは違った。
 イールオルフェノクの言葉に、これっぽっちも揺らいではいなかった。ただしそれは決して均衡を保っていたという訳ではなく、むしろ盛大に揺れ惑っていたが為に、イールオルフェノクの言葉で今更揺れる余地などなかったというのが正確なところであったのだが。
 ギンガが走り出す。ブリッツキャリバーの加速力が一気に敵との間合いを詰める。それは現実としての行動でありながら、一方でギンガ・ナカジマの精神状態と同義でもあった。走らなければ破綻する。距離を詰めねば見失う。それを怖れるあまりの処方。

「衛司くんを――返してっ……!」
〖出来ません。彼は私が連れていく――貴方こそ、諦めなさい!〗

 繰り出される鋼拳の一撃をぬるりと体表で滑らせて、一瞬でイールオルフェノクはギンガの懐に潜りこむ。
 そして肩が触れたかと思えば、ギンガの身体は一瞬で弾き飛ばされていた。敵の勢いをそのまま威力として弾く技法。ある種の武術のそれに連なる技法で以って、ギンガは詰めた間合いを再び引き離され、衛司との距離を作り出される。

「くっ……う……!」
「ギン姉! だいじょうぶ!?」
「だ、大丈夫……それよりも、衛司くんを――早く、わたし、殴っちゃった――!」

 支離滅裂のようにも思えるギンガの言葉は、実際、そう外れてはいない。ギンガ・ナカジマの戦闘能力は折り紙付きで、その彼女が容赦無く打撃を叩きこんだのだ。非殺傷設定とは言え、拳そのもののダメージは決して無視出来るものではない。まして今の衛司は高熱によって衰弱しきっているのだ。早く治療しなければ命に関わる。
 ちっ、とイールオルフェノクが舌を打つ。交渉に乗るつもりが見えない彼女達に、いい加減苛立ちを覚えているらしい。ここまでの経緯を見ればそれは至極当然で、故に次の瞬間、彼が自らギンガ達との間合いを詰めてきた事も、驚くに値する事ではない。

「!」

 踏み込みの速度は決して速いとは言えないものの、その足捌きは敵の意識の隙間を縫う、ぬるりするりと入り込む奇怪なもの。気付いた時には既に、彼は少女達の間合いに侵入していた。
 ただし。移動から攻撃に繋ぐまでの一瞬のタイムラグ、こればかりはイールオルフェノクも潰しようがなく。その一瞬こそが、ギンガ達に残された最後の勝機。
 二つのリボルバーナックルが左右それぞれに大気を引き込んで唸りを上げる。クロスミラージュがダガーモードへと変形して振り薙がれる。三方からの同時攻撃は明らかに敵の処理能力を飽和しているだろう。体表に滑らせて捌くにしても限度はあるはず。ただしこの同時攻撃すらも全て捌ききるとなれば、最早彼女達に打つ手はないのだが。

 ――結果として、イールオルフェノクへの攻撃は届かなかった。
 体表に滑った訳ではない。それ以前の問題だ。そもそも敵の皮膚にすら、攻撃は届かなかったのだ。
 ばち、と何かが爆ぜるような音が響いたかと思った刹那、少女達の総身を衝撃が駆け抜けた。時間としては半秒にも満たなかっただろう。だがその衝撃はギンガ達の攻撃行動を中途で停止させ、のみならず彼女達の身体から随意を奪い、その場に倒れ伏せさせた。

「な……ぁ、これ……!?」
「あ……つぅ……!」
「こ……れ、まさか……!」

 全身が痺れて立ち上がる事も出来ない。眼球を巡らせる事すらままならない。まるで何か、高圧電流に感電したかの様な――感電?

「そう、か……“電気”……!」

 真っ先に気付いたのは、やはりと言うべきか、ティアナ・ランスターだった。
 そう、電気。感電したかのような、ではない。そのものまさしく、感電しているのだ。

 恐らく、いや間違いなく、それはイールオルフェノクの放った攻撃。目の前の鰻が生成し、床を伝って少女達へと到達した高圧電流。
 何の事はない、イールオルフェノクは鰻の特質を備えるオルフェノクではなく、電気鰻・・・の特質を備えるオルフェノクであったというだけ。鰻と電気鰻は生物種的に殆ど別物ではあるが、傍から見ればそれは大差無いもので、事実、この場に居た誰もがイールオルフェノクの正体に気付いてはいなかった。

 床に這いつくばったまま、少女達はイールオルフェノクを見上げる。見上げるしか出来ない、というのが正しいか。電撃を流し込まれた彼女達の身体は完全に麻痺し、指一本動かす事すらままならない。
 彼女達は当然ながらバリアジャケットを纏っているのだが、バリアジャケットは本来防弾防刃、耐熱耐寒性能を備えてこそいるものの、こと耐電に関してはそれ程の性能を有してはいない。魔法を構成するプログラム次第ではそれも可能だが、しかし今は耐電性能を要求される状況になく、必要の薄い機能にリソースを割く余裕はなかった。
 実質、ギンガ達が展開するバリアジャケットの耐電能力は、皆無とは言わないものの特筆するレベルでは到底無く――通常の衣服より多少電気を通し難いという程度であって――感電し床に這いつくばるこの現状は、いっそ必然と言えた。

〖電圧は抑えてあります。怪我はさせていないと思いますが、暫くは立てないでしょう。念のため後ほど医師に診てもらう事をお奨めします。……では、失礼〗

 そう言い残し、イールオルフェノクが踵を返す。かつんかつんとわざとらしい程に足音を響かせて。
 床に突っ伏したまま、ギンガ達はそれを見送るしか出来なかった。追おうにも身体は動かない。引き止めようにも声が出ない。意識を保っている事すらぎりぎりで、気を抜けばすぐに落ちてしまいそう。

 だからせめて、その姿を睨みつける視線だけは緩めない。少年に害為そうとする者への怒り、それを止めきれない自身への悔しさ。それらの感情を視線に乗せて、睨み殺すとばかりに凝視する。
 しかし無論、それが相手の歩みを止める事はなく。

 イールオルフェノクの手が、少年の襟首を掴んで持ち上げる。意識を失った人間の身体は自重を支える事も出来ず、本来はずしりと重いはずなのだが、元より痩せて軽い少年の身体、怪物の膂力ならば綿埃も同然だろう。
 ひょいと担ぎ上げられた彼は僅かに呻いたようで、それはまだ少年が生きているという証であったが、それを喜べる状況に、今のギンガ達はない。

「衛司……くん……」

 ギンガの声も届かない。掠れて消えるその声は、ギンガ自身にもまともに聞き取れない。
 衛司を肩に担ぎ、イールオルフェノクがその場を立ち去らんと歩き始める。少しずつ離れていく彼我の距離。何も出来ないままに少年と怪物とを――いや、少年もまた怪物であるのだから、それは二匹の怪物がと言うべきなのかもしれないが――見送る自分に、ギンガがぎりと奥歯を噛み締めた、その瞬間。

「!?」

 驚愕はギンガ、スバル、ティアナの三人に――そして、イールオルフェノクにも共通のもので。
 わけてもイールオルフェノクの驚きは一際だっただろう。少年を担いで歩き去るその最中、突如彼は強烈な衝撃に弾き飛ばされ、担いでいた少年の身体を放り落としてしまったのだから。

 その衝撃の正体に、当初、彼は気付かなかった。気付けと言う方が無理な話だ。何の変哲もない通路だ、進路を阻む物、ぶつかるような代物など何一つない。強いて言うなら通路の壁と一体になったベンチくらいだが、それは明らかに彼と触れる場所になく、そもそもそんなものに弾き飛ばされるはずがない。
 混乱が彼の思考を硬直させ、放り落とした衛司を一瞬、意識の外に追いやってしまう。

 それは明らかな失態。
 それは紛う事なく失敗。
 そして、その失策は――言うまでも無く、付け入られる隙。

 ただし。それに付け入ったのはギンガ達ではなかった。当然だ、電撃攻撃によって総身が麻痺した彼女達が、何を出来るはずもない。だから必然、イールオルフェノクの失策に付け入ったのは、それ以外の第三者。
 何の伏線もなく何の脈絡もなく、図々しいまでの唐突さで舞台に上がり込んできた、見ず知らずの第三者であった。



〖こいつァ失礼――こちとら病み上がりなもんで、ちィとばかし加減を間違えちまいやした〗



 ぎゃりん、と急停止した足裏が床を引っ掻き、耳障りの悪い金属音を奏でる。
 姿を現した“第三者”に、誰もが息を呑む。およそ人間からはかけ離れた異形の体躯。とすればそれはオルフェノクと考えるのが自然な流れであろうが、しかし突如としてこの場に現れたそれは、一見して明らかにオルフェノクとかけ離れた外観を有していた。
 甲冑に身を包んだかの如く重厚な左半身。反して地肌と思しき体表が剥き出しの右半身は毒々しい深緑に染まり、人骨を思わせるオルフェノクと一線を画している。ある種の彫像染みた調和が窺えるオルフェノクの造形と比して、“第三者”の姿は醜悪でこそあるものの、より生物然としたフォルムとして完成していた。

〖貴方は――アダルベルト様!? アルノルト・アダルベルト様ですか!?〗
〖如何にも如何にも。問われて名乗るもおこがましゅうございやすが、セパルチュラのビリディスことアルノルト・アダルベルトたあ、あっしの事でござんす〗

 イールオルフェノクの問いに、アルノルトと呼ばれ、そして自ら名乗った深緑色の異形は見栄を切るかの如くにびしりとポーズを決めて応えた。
 次瞬、その姿は急激に収縮して、瞬き一つほどの間に怪物そのものといった風情の外観から、ごく普通の人間へと変化する。金髪碧眼の、何処にでも居そうな若い男。服装こそ何故か衛司と同様の患者衣であったが、顔立ちはそれなりに整った、身形を整えれば伊達男と呼んでも良いだろう風貌。しかしそれ故に、怪物の姿と酷い落差を感じさせる。
 完全に状況から取り残された状態のギンガ達であったが、それでも、一つの事実だけは理解した。……この怪物もまた、オルフェノクと同様に、人間の姿へ変化したと。

〖何のおつもりですか、アダルベルト様……! 何故邪魔をなさるのです!〗
「は。何故って訊かれちゃァ、答えねェ訳にゃいかねェや。なァに大した事じゃァございやせん――あっしの意趣返しがまだ済んでねェんですよ。あっしァ、ちィと前にこの少年に痛い目に遭わされやしてね。そのリベンジが済むまで、連れてかれる訳にゃァいかねェんで。この少年を殺すのァあっしだけ、それ以外の奴にゃァ手出しさせねェ……ってェと、ちィとばかし陳腐でやんすがね」

 妙に芝居がかった喋り方のせいか、いまいち聞き取り辛い言葉であったが、しかしそれの意味するところは明白だった。

「ってェ訳で、この少年はあっしが預からせて頂きやす――悪しからずご了承下せェ」

 そう。今時少年漫画でも滅多に出ないような動機によって、彼は衛司の身柄を横取りすると、そう宣言したのだ。

〖その様な我儘、通るとお思いですか!〗
「そりゃァアンタ、あっしだって常識ってェもんに無縁じゃありやせん。通ると思ってるかッつうんなら、そりゃ通らんでしょォや」
〖ならば――〗
「おっと、話は最後まで聞いてくだせェよ。通るかどうかじゃ通らねェ――けど問題はそこじゃねェんで。あっしがこの我儘を通すか通さねェかでござんす。あっしァこの我儘通してェ、そちらさんは通したくねェ。それだけの事でござんすよ」

 衛司を渡したくないと言うのなら、実力で奪い返してみろ――アルノルトの言っている事は、つまりそれだけの事。
 アルノルトとイールオルフェノク、それぞれの立ち位置から衛司のところまでは、ほぼ等距離。より速く到達した方が少年の身柄を確保出来る。一瞬で双方はそれを了解し、そして彼等が走り出すのはほぼ同時。ただし双方が双方共に、衛司へと向けて駆け出した訳ではなかったが。
 アルノルトはイールオルフェノクへ。イールオルフェノクはアルノルトへ。要は彼等は衛司を無視し、それぞれの敵へと走り出したのだ。ただしそう見えたのは走り出した直後の一瞬だけで、次の瞬間にアルノルトは再び深緑色の異形へと変化したかと思うと、その姿を消失させてしまった。

「え――なに、消えた……!?」
【質量体の反応を感知。恐らく超高速での機動を行っているものと推察されます】
「追尾は?」
【不可能です。センサーが捉えきれません】
「あんたでも駄目って事は、どうしようもないって事よね……癪だけど」

 消失したアルノルトに思わずティアナが声を上げた瞬間、クロスミラージュが眼前の事象に対する考察を報告する。しかしその内容はおよそ歓迎出来るものではなかった。自分ではどうしようもない、という事実を突き付けられたに過ぎないからだ。
 そして次瞬、イールオルフェノクの身体が大きく弾き飛ばされ、壁に叩きつけられる。同時にアルノルトの姿は衛司の傍らに出現。悠然と佇立するその姿を見れば、先の交錯における勝敗は問うまでもなかった。

〖そんじゃまァ、少年は頂いていくでござんすよ〗

 そう言いながら、深緑色の異形は少年へと手を伸ばす。が、その手は途中で止まった。
 横たわる少年が、結城衛司が、目をかっと見開いて異形を睨み付けていたのだ。
 ただしその目は高熱のせいか、微妙に焦点が定まっていない。今自分が睨み付けているそれが、以前に相対した敵と判っているかどうか。それでも少年の視線は煮え滾る溶岩の如くに殺意を湛え、見境のない殺気を周囲に振り撒いていた。

〖こりゃァ驚いた。まァだそんな目ェ出来るんでござんすか。――結構結構、死体をぶっ殺すよりァ、イキの良い相手をぶちのめす方が面白ェってもんで〗
「…………っ」

 ぎ、と弱々しくも歯を食い縛り、衛司は立ち上がる。食い縛った歯の隙間からひゅうひゅうと苦しげな吐息が漏れていた。それは彼を蝕む高熱が未だ失せていない事を、ギンガから受けたダメージが無視出来ないものである事を示している。
 その顔に茫と浮かび上がる奇怪な紋様。それは彼の本性たる雀蜂の意匠。悪鬼もかくやという形相と成り果てた少年に、思わずギンガが息を呑む。
 そして。

「衛司――くん」
「…………!?」

 思わず漏れた呟きに、衛司は大仰に反応した。ばっとギンガの方を振り仰ぎ、そうして彼は床に倒れ伏す少女の姿を認識する。
 この場にギンガが、またスバルやティアナが居る事を、彼は意識から外していたのだろう。高熱に断線を繰り返す意識は眼前の敵以外のものを視界に入れていない、だからこそ何とか均衡を保っていられる。
 さながらそれは綱渡り。前方にだけ意識を集中し、それ以外の雑多を切り捨てる事で、辛うじて彼はバランスを保っている。
 故に。“それ以外”を認識してしまった今、瓦解するのは必然で。

「あ――あ、ああ」

 面貌に浮かんだ紋様が一瞬で消え失せ、気圧されるかの様に、或いは恐ろしいものを目にしたかの様に、愕然と後ずさる。
 考えてみれば当然だ、彼は部屋から出てきた直後、ギンガに背中を殴りつけられていた。それによって彼は人間の姿へと立ち戻り、結果オルフェノクという正体がギンガ達に露見した訳だが、しかしギンガからの攻撃によって意識を刈られていた以上、彼は自身の正体が露見した事に気付いていなかった。
 そして今、彼は気付いた。直感が理解を強要した。何をおいても隠し通さなければならない秘密は、既に他者の知るところであり。しかも絶対に知られたくない相手に、それは知られてしまったのだと。

「あ、あ、あああああああああ……!」

 弱々しく悲鳴を上げ、更に一歩後ずさる衛司だったが、しかしその瞬間、間合いを詰めたアルノルトが彼の鳩尾を強打。あっさりと少年は意識を刈り取られ、深緑色の異形にもたれかかる様に倒れこんだ。

〖それじゃァ、失敬〗

 短くそう言い置いて、アルノルト・アダルベルトは結城衛司を担いだまま、その姿を一瞬にして掻き消した。
 引き止める暇もない、引き止めたところで足を止めるはずもなかっただろうが、それでも『何も出来ず、少年が連れ去られる様を見ているしかなかった』という事実は思った以上に痛切に、少女達の胸を抉った。

〖ええい、余計な事を……! これまでの仕込みが水の泡ではありませんか……!〗

 苛立ちを隠そうともせず、舌を打ちながらイールオルフェノクが立ち上がる。衛司が連れ去られたとあってはもう戦うつもりもないのか、その姿が鰻を模した怪物から探偵姿の人間態へと立ち戻り、彼はそのまま廊下の窓を開け、そこから飛び降りていった。
 一分ほどして、漸く僅かながら挙動の自由を取り戻したティアナが、開け放たれた窓から外を見渡すも――そこには当然ながら誰の姿もなく、ただ黒滔々とした夜闇が広がるばかりであった。

「ギン姉……元気、出そうよ。衛司くん、きっと――」

 うずくまるギンガを慰めるスバルの声にも覇気が無く、その言葉は途中で途切れた。
 途切れた言葉の後に何と続けるつもりだったのか。『きっと大丈夫』か、『きっと取り戻せる』か。しかしどうあれそれは単なる気休めでしかなく、そしてそんな気休めで誤魔化せる程、ギンガの受けたショックは軽くも安くもない。そう気付いてしまったからこそ、スバルは無意味な慰めを口にする事を止めたのだろう。

 機動六課に居る者の中で、結城衛司と最も近しかったのはギンガ・ナカジマである。それは純然たる事実で、ギンガ自身、それを疑ってはいなかっただろう。
 その最も近しい相手を殴りつけ、正体を露見させ、挙句その事実を本人に突きつけて、少年を瓦解させてしまった。運が悪かったと言えばその通り。しかしその運の悪さは全てが全て裏目に出て、ギンガを“加害者”として仕立て上げてしまったのだ。

「…………、…………」

 泣きそうになるのを必死で堪えているのだろう、口を真一文字に結んだギンガが、それでも何かを呟いたように見えたが――生憎それは、ティアナの耳にまでは届かなかった。







 そして十数分後、なのはとヴィータがその場に駆けつけた。彼女達もまた何者かと一戦交えていたらしく、目に付く負傷がそれを裏付けていた。
 ティアナは衛司が攫われた事、現れたオルフェノクと“それ以外”の事、そして明らかとなった衛司の正体についてそれぞれ報告し、それを受けてなのはは近隣の陸士部隊へと連絡。衛司の正体については伏せたままで、彼等の捜索を手配した。
 程無く先端技術医療センターにも陸士部隊が到着。スターズ分隊は先の戦闘における現場検証に立会い、そうして夜が明け、朝が過ぎ、そろそろ昼になろうかというこの時間になって漸く、六課隊舎に戻ってくる事が出来た……それがこれまでの経緯であり、ティアナ・ランスターが八神はやてへ報告した事の全てであった。

「そっか。大変やったな、皆」

 ティアナからの報告を聞き終え、暫し腕を組んで黙考していたはやてだったが、やがて大きく息を吐いて、部下達を労った。
 が、それで良しと出来る筈も無い。労いの言葉は有難くあるものの、今の彼女達が――否、ギンガ・ナカジマが求めているのはそんな言葉では無い。

 無言のままつかつかと前へ歩み出て、ギンガがデスクを挟み、はやてと向かい合う。何を言いたいのかは概ね予想がついた。いや、はやてにしてみれば、予想するまでの事でもなかった。
 もしはやてが、ギンガの立場になったなら。そう考えるだけで、ギンガが何を言いたいのかは手に取るように解るのだから。

「衛司くんを、探しに行かせてください」

 果たして予想通り、ギンガの言葉は攫われた衛司の捜索を求めるもので。
 それに即答せず、はやてはデスクチェアの回転機構を利用して、くるりとギンガに背を向ける。

「八神部隊長!」
「ちょ、ちょっと、ギン姉……!」
「ギンガさん……!」

 声を荒げたギンガに、さすがにそれは上官に対してまずいと思ったか、スバルとティアナが制止に入る。
 ただ、なのはとヴィータは何も言っていない。上官と部下の関係に決して厳格ではないが、それでもきっちりと一線を引いている二人だ。ギンガの態度を看過する事こそ不自然であったのだが、それを違和感と思ったのは傍でその光景を眺めるグリフィスただ一人であり、そして彼の性格上、それを一々追求する事もなかった。
 一分ほど、はやてはギンガからの追求を黙殺して――そうして、再びくるりと椅子を回し、ギンガに向き直った。

「探しに行って、どうするん?」
「どうする、って……」

 よほど慮外な質問だったのだろう、その問いに対する答えを咄嗟に用意出来ず、ギンガは口ごもる。
 そして返答を待たず、はやては言葉を続ける。畳み掛けるという程に攻撃的ではない、しかし相手に口を挟む隙を与えない、会話というよりは交渉の際に用いられるそれに近い、話の運び。

「や、うん……ほんま言うとな。もしかしたら、とは思うとったんよ。衛司くんがオルフェノクに狙われる理由を考えれば、どうしてもそれが一番自然やから。『ただの人間の子供』を殺すより、『人間に取り入る裏切者』を殺すって考える方が、遥かに無理がない。衛司くんが自分をオルフェノクやって公言してるかどうか、向こうは知らんやろうし。それなりに筋の通る仮説やて、そう思うとった」

 その仮説を立証する為、はやては衛司がミッドチルダ総合医療センターへ入院していた頃のカルテも取り寄せたし、シャマルに健康診断の名目で実際に彼の身体を調べさせたりもした。結果はどれも普通の人間と殆ど変わらないもので、実質、はやての仮説はほぼ否定されていたと言っても良い。
 それでも衛司はオルフェノクであり、つまりそれは『人間に変化したオルフェノクを見破る術は現状存在しない』という事実を示しているのだが、それはこの場においては余談であろう。

「なあ、ギンガ――衛司くんが何を思って正体隠してたんか、わたしには判らん。ギンガにも判らんやろ? ……けど現実として衛司くんは秘密にしとった。わたしらを、『秘密を打ち明けるに値しない相手』としか見てへんかった。それが事実や」
「……それは、そう、ですけど――」
「衛司くん探しに行ってや。ほんで上手いこと見つけて――それで、どうするん? 連れて帰るんか? 六課に戻ろうて説得するんか? はいわかりましたと、衛司くんは帰ってきてくれるんか?」

 六課に居る者は皆多かれ少なかれ秘密や人に言えない過去を抱えており、ギンガもまた例外ではな。天然自然の理とはかけ離れたところで生を受け、その身は純粋なヒトとはおよそ言い難いモノで構築されている。その意味で言えば、ギンガもまた、衛司と同様に人ならざる存在である。

 だからギンガ――いや、六課に居る者達ほぼ全てと言うべきか――と衛司の違いは、秘密を隠すに至った動機、その発端たる心情だ。
 ギンガ達は自身の抱える秘密があまりに重く、それが他者の重荷になる事を厭うから、それを明かさなかっただけで。
 自身を護る為、秘密を明かす事によって偏見と差別、隔意を向けられる事を怖れた衛司とでは、その心情は全くの対極。

 もし衛司が攫われたというだけなら、はやてもすぐに六課隊員を捜索に就かせただろう。六課で保護していた少年が拉致されたのだから、六課がその捜索・救出に当たるのは至極当然。
 ただし。衛司の抱えていた秘密が露見した今となっては、そうもいかない。ギンガ達と衛司が顔を合わせる事になれば、間違いなく話はこじれてしまう。ギンガ達は本心から、混じり気のない善意から衛司に戻ってほしいと思っているだろうが、その善意こそが今の衛司にとっては何より信用出来ないものであるはずだから。

「八神部隊長は、衛司くんに戻ってきてほしくないんですか……?」
「そりゃもう、戻ってきてくれるんやったら大歓迎や。衛司くんは随分働いてくれとるし、あの子のおかげで大分助かっとる。けどな――嫌がる子を無理矢理連れ戻すゆうんは、なんか違う気がするんよ」
「………………」
「最初に衛司くんに会った時な、わたしは衛司くんに訊いたんよ。『機動六課に来いへんか』、ってな。それに衛司くんは『はい』と言った。解るか? つまり――衛司くんがここに居たんは、衛司くんが望んだからや。まあ建前ちうか、それ以外に道が無かったて面もあるんやけどな。それでも選択は選択。もう六課は厭だって言うんやったら、それまでの話やろ」

 勿論、そんな簡単な話ではない。結城衛司は管理局の要請によってこの世界に留まっているのであり、六課での保護を当人が拒絶したからと言って、すぐに他の施設へ移せる訳でもない。
 はやてが言ったのはあくまで『六課に戻らない』というだけの話であり、拉致された彼を救出しないのか、という意味合いで放たれたギンガの問いに対する答えとしては、些か噛み合わない回答と言えた。

 無論それははやても承知の上。意図的に話をすり替えるという、どこか詐術めいた会話であったが、その本人に自覚が有るとないでは雲泥の差。そして当然、その自覚を持たないままに話を進める程、八神はやては恥知らずな女ではない。

「なあ、ギンガ。今は良うないと思うんよ。もちろん衛司くんは捜索する。見つかった時に敵、まあオルフェノクか新しく出てきた敵のどっちかは判らんけど、その敵が出てきたら戦ってもらう。……けど今、ギンガが衛司くんを捜しに行くんは逆効果やないかなって、わたしは思う」
「…………」
「何て言うんかな――頭を冷やす時間が必要やないかな。衛司くんも、ギンガもや。衛司くんは秘密がバレてしもうたから当然やし、ギンガかて、衛司くんの秘密をいきなり見せられて、頭パンクしそうやろ? そんな状態の二人が顔合わせても、良い事ないと思うんや」

 一見してそれは正論だ。今の、心の整理がついていないギンガと衛司を引き合わせたところで、互いに傷つけあってしまうだろう事は想像に難くない。それを避ける為の猶予として、ギンガ達に衛司の捜索を担当させないというはやての判断は、決して間違ってはいない。
 ただし――はやてにしてみれば、それは決して最良という訳ではないのだが。
 単に傷つく事を先延ばしにするだけの選択が、最良であるはずもないのだから。

「まあ、わたしが言いたいんはそういう事やけど――ギンガは、どう思う?」

 一同の視線がギンガに集中する。
 俯いてはやての言葉に耳を傾けていたギンガは、はやてからのこの問いに数秒の沈黙を挟んで、やがて顔を上げた。

「――わたしは」





◆      ◆







 その部屋には色がない。
 四囲の壁も床も天井も、全てが純白に塗りたくられた空間。ただしその白は酷く人工的で、見る者に寒々しさしか抱かせない。と言ってもこの部屋に色のコントラストを求めるのは却って無粋と言うべきだろう、そもそも此処は“居室”ではないのだ。

 此処はつまるところ“実験室”でしかなく。
 その中に居る者は“実験動物”でしかなく――部屋の中央にぽつんと置かれた椅子、そこに座らされている男もまた、実験に供されるだけの存在に過ぎなかった。

 男は四肢を椅子に拘束され、その頭には不恰好なヘッドギア。そこから伸びるコードは天井に繋がり、また身体に取り付けられたコード類は床を伝って壁に繋がっている。
 此処が“実験室”であり、男が“実験動物”であるのなら、まさに今こそが、彼を被験体とした実験の最中だったのである。



 男の名前は、ラッド・カルタス。
 陸士108部隊所属の管理局員、階級は二等陸尉――ただし今は単なる実験動物、験体番号67番とのみ呼ばれて、それ以上の意味も価値も何一つ持たないモノ。



「――しぶといな、こいつ。まだ変化が出ねえぞ? おい、デモンズ・イデアはちゃんと流してるんだろうな?」
「はい。指示の通りに、波長を三段階に変えてやってます」
「おっかしーなー、放電能力はちゃんと付いたんだけどよ……なんでこいつ、ただの人間の癖に凶暴化しないんだ?」

 ラッドの居る部屋は外部からモニターされており、別室に控える複数の研究員達が、画面に映る彼の様子と計測されるデータとを付き合せている。

 現在彼が供されているのは、スマートブレイン製ライダーズ・ギアの一つ、デルタギアが人間に与える影響の観測実験。
 より厳密に言えば、デルタギアに搭載された装置、デモンズ・スレートが発生させる電気信号、デモンズ・イデアが人間の脳にどういった現象を発生させるのか、その観測だ。

 デモンズ・イデアは人間のガンマ脳波の周波数を強制的に引き上げる。これによってデルタギアの装着者はその闘争本能を刺激され、極めて攻撃的な性格へと変化させられるのだ。これに付随してある種の脳内麻薬が発生、変身を繰り返すごとに装着に快楽を見出し、戦闘を渇望するようになっていく。一部の人間は指先からの放電能力を獲得し、この能力を発現させた者ほどデルタギアへの依存が強まる事も確認されている。
 ――が、これに関しては、既に過去のスマートブレインが把握している事。今更実験を行ってまで確認する事でもない。今回の実験の目的は、人間とオルフェノクとの間に見られるギア装着の影響の差異……要はデルタギアを使った“後遺症”が、人間には顕著でオルフェノクには殆ど見られないという点の解明、及びその改善。

 最終的な目的としては、オルフェノクにもデモンズ・スレートの影響を及ぼせるように、デルタギアを改良する。何故そんな事をするのか、という動機は生憎、この実験に携わる者の大半が知らないままであるのだが。
 その為に、スマートブレインはミッド各地から人間を掻き集めている。デルタギアを装着させられた人間がデモンズ・スレートによってどう狂うのか。ラッドもまた、そのサンプルの一人に過ぎない。
 ……はず、なのだが。

「失礼」
「お邪魔するアルよ」
「こ、これは社長、ヘイデンスタム様。こんなところまでわざわざ」

 不意に部屋の扉が開き、実験室横のモニタールームに結城真樹菜と白華・ヘイデンスタムの二人が這入ってきた。
 白華はさておき、真樹菜はスマートブレイン社長としてそれなりに多忙な身。実験や研究開発に関する報告は大概レポートをメールの形で受け取るのみで、わざわざラボにまで足を運ぶ事は少ない。
 ……まあ、わざわざと言ったところで、ラボラトリは本社の中に在り、社長室からは歩いて数分と離れていないのだが。

「進捗は?」
「は――こ、これを」

 研究員の一人が恐縮しきった顔で、真樹菜へと一枚のレポートを差し出す。ミッドでは珍しい紙媒体の情報。機密保持の為には紙の方が都合良いという事情もさる事ながら、真樹菜の好みによって、紙媒体と電子媒体が併用されている。
 受け取ったレポートに目を通していた真樹菜の顔が、レポートの下部へ視線が移るにつれて怪訝で胡乱なものへと変化していく。真樹菜の肩越しにレポートを覗き込んだ白華もまた同様に。

「この方、67番のラッド・カルタスさん? デモンズ・スレートの効果が出ていないようですが」
「はい。デモンズ・イデアは間違いなく脳に浸透しておりますし、放電能力も確認しました。にも関わらず、凶暴化やデルタギアへの依存が見られないのです。今もデモンズ・イデアを流しているのですが、これといった変化は――」
「ふうん……」

 どこか気の無い返事を返し、真樹菜はちらと展開されたままの画面――実験室のラッド・カルタスを映し出している――に目をやった。
 ……馬鹿馬鹿しい。見れば判るでしょうに。
 そう内心で研究員を罵倒したのは、画面に映るラッドが明らかに想定外の反応を見せているからだ。検出されるデータにでは無い、ヘッドギアに半ば隠された表情にこそ窺えるそれは、他の実験体とは明白に一線を画している。

 通常、デモンズ・イデアの影響下にある人間の反応は、興奮するか恍惚とするか、個人差はあっても概ねその二つに大別される。しかしラッドにはそのどちらも見られない。歯を食い縛ったその表情は、必死に何かに耐えている事を窺わせる。
 先天的にデモンズ・イデアへの態勢があるのではないか、などと研究員達は囁いているが、それが的外れなのは瞭然だ。これは体質や資質という問題ではない。ただ意思の力一つで、電気信号に刺激された闘争心や快楽中枢を抑え込んでいるのだ。

 これまでにスマートブレインがデルタギアの実験に供した人間は、優に百名を超える。だがその誰もがあっさりとデルタギアの魔力に屈し、人格が破綻した。それが当然で、そも、デモンズ・スレートはその為に搭載されている機能なのだ。
 それを、ラッド・カルタスは我慢している――そう、それは本当にただの“我慢”でしか無く。
 明らかに痩せ我慢としか言いようがなく、このままではそう遠からず精神崩壊に至るだろうが、それでも彼の精神力は間違いなく特筆に値する。

「成程、これは良い。素晴らしいですわね、この方」
「は? 社長、それは一体……」

 嬉しそうに、しかし同時に隠しようもなく加虐的な笑みを浮かべる真樹菜に、まるで意味が解らないといった顔の研究員が問い質そうとして――瞬間、真樹菜の眼前に展開されたウィンドウに、それを阻まれる。

『社長』
「うん? あら、どうされました?」
『警備部から連絡です。不審者を確認したと。映像をそちらに送りますので、ご確認頂けますか』

 部下の顔が映し出される画面が、社内の廊下を映した画像へと切り替わる。
 そこに居たのは結城真樹菜。無論それは偽者だ、本物の真樹菜は今、この場所に居るのだから。ただし画面内の“偽者”は顔立ちや体格という点でまるで真樹菜と同一であり、唯一服装だけが異なっていたが、それも真樹菜が持っているスーツの中の一着であり、幾度となく袖を通したものと同一の仕立てである。つまり外見だけ見るのなら、それは本物の真樹菜と寸分違わないのだ。
 ん? と画面を覗き込んだ白華が、不審そうに眉を顰める。

「んー? こりゃどういう事ネ? 真樹菜、双子か何かだったアルか?」
「まさか。……ふふ、その内来るでしょうととは思ってましたけど。思ったよりも動きが早いですね、感心感心」

 くすくすと笑う真樹菜だったが、すぐに彼女はその笑みを引っ込め、研究員の一人に向き直る。

「デルタギアを用意してください。それと――そこの、ラッド・カルタスさんを。申し訳ありませんが、白華さん、お手伝いをお願い出来ますか?」
「ん。そりゃ構わないアルけど……どうするネ、真樹菜?」
「どうするもこうするも」

 悪戯っぽく微笑して、真樹菜は肩を竦める――彼女にしてはやや珍しい仕種で、それ故に、どこか見る者に違和感を覚えさせる挙措であった。

「私のプランを邪魔してくれた訳ですから。少しばかりの意趣返しは、当然でしょう?」





◆      ◆







 結城衛司を連れて先端技術医療センターを出奔したアルノルト・アダルベルトだったが、必然、彼はそれだけで事を済ませる訳にはいかなかった。
 彼の目的は彼自身が言った通り『結城衛司と再戦して勝利する事』であるのだから、死にかけの少年をそのまま放置は出来ない。まして今の少年は生命維持に必要な機器を取り外されているのだ、放っておけば二日と保つまい。自身が招いた事とは言え一刻の猶予もない状況、アルノルトもまた病み上がりだからと言って、のんびり身体を休める余裕など欠片もなかった。

 アルノルトは医者ではないし、そもそも魔導師ですらないので、治療魔法の類は使えない。よしんば使えたとしても、先端技術医療センターの最先端医療ですら匙を投げた衛司の容態に、半端な医術が通用するはずもない。
 だがそれはあくまで“治す”場合に関してだ。アルノルトに出来る処方は元よりそれではなく、言うなれば“原因の排除”にある。勇気衛司の身体を蝕む病毒、その根源を排除する事さえ出来れば、自然に少年は治るという寸法だ。
 医者でない者に出来る事と言えばそれくらいで、そして幸いな事に、アルノルトはその手段について心当たりがあった。

 そうして彼が向かったのは、クラナガン中央区に拠を構える、スマートブレイン本社ビル。そこにこそ衛司の容態を好転させる唯一の方法があると、一縷の望みをかけて、彼は潜入を試みた。
 ……ちなみに衛司は連れてきていない。アルノルトの自宅(ミッド東部の安アパート)、敷きっぱなしの布団の上に放り投げてきた。

「へっへっへ、ちょろいちょろい。まァこの格好じゃァ当然でござんすか」

 潜入――とは言ったものの、それは些か字面に反する居直りようで、アルノルトは通路を堂々と憚る事なく歩いていた。
 尤も、その姿はアルノルト・アダルベルトのものでは無く、そして本性であるセパルチュラワーム・ビリディスでも無く。長い黒髪と白磁の肌、人形を思わせる細く均整の取れた体躯は、スマートブレイン社長、結城真樹菜そのものであった。
 当然、自社の社長が社の廊下を歩いているからと、不審の目を向けてくる者が居るはずもない。

 異星生命体ワームの備える擬態能力。一度目にした相手であれば毛髪の本数から歯並び、皺の一本に至るまで、何もかもを完璧に模倣する事が出来る。その能力を以って、彼は結城真樹菜に扮し、まんまとスマートブレイン本社ビルへ潜入を果たしたのである。
 更に。結城真樹菜に擬態する事は、怪しまれずに潜入するというだけでなく。

「ッと、こっちでやんすかね」

 通路の突き当たり、左右に分かれた道を、躊躇無く右へと曲がって進む。
 アルノルトが本社ビルを訪れるのはこれで二度目。だが一度目は社長室に直通のエレベーターに乗り、真樹菜と顔を合わせただけで終わっている。ビル内部の構造など知る由もないし、目指す一室が何処にあるのかも判らない。――本来ならば、という注釈が付くが。

 今のアルノルトは結城真樹菜の姿に擬態している。ワームの擬態能力の特筆すべき点は、それが外面だけではなく、内面まで模する事が出来る点だ。人格、思考、記憶。そういった諸々ですら完璧に再現出来るのだから、それを看破するのはほぼ不可能に近い。
 つまり今のアルノルトはアルノルト・アダルベルトでありながら結城真樹菜。スマートブレイン社長である真樹菜なら本社ビルの構造は完璧に把握しているし、目的の場所に向かう為にどう進めば良いのかも理解している。
 自然、進む足は速くなる。少年の容態は一刻を争う、再戦を果たすまで――それはアルノルトの一方的な希望であるのだが――死なれては困るのだ。それ故に彼は急ぐ。結城真樹菜として不自然ではない程度の早足で。

「っち、……早く、しねェと――」

 ただ。内心の焦りだけが彼を急がせているのかと言えば、そういう訳でもなく。
 視界にノイズが混じる。頬を一滴の汗が伝う。その不調に、彼は知らず舌を打った。
 ごく稀な事ではあるが。擬態元の人間があまりに強固な意志、揺るがない人格を確立している場合、それが擬態したワームの人格を逆に乗っ取ってしまう事がある。擬態元の人間と自身の境界が曖昧となって、自分を擬態された側の人間だと思い込んでしまうのだ。
 以前に聞いた話では、自分が殺した相手に擬態してしまったワームが、自身がワームである事を忘れて、同時に殺された姉の仇を討つべく自身を捜し求めていたというケースもあったという。

 結城真樹菜に擬態したアルノルトであるが、正直、結城真樹菜の人格は彼の御せるものではなかった。まるで暴れ馬だ、気を抜けば一気に真樹菜の人格に肉体を乗っ取られる。人形じみた見た目からは想像も付かない、博愛と狂気、矛盾と破綻がどす黒く渦を巻いて螺旋を描く、底無しの暗闇。
 オルフェノクに擬態したが故の事か、それとも結城真樹菜が並外れて規格外の人格を保有しているのか。それを考えるだけで彼女の人格に呑み込まれそうになる。
 いつぞや最初に真樹菜に扮した時は、見た目だけを似せた、文字通りの擬態だった。それだけならば何という事も無かったのだが、こうして真樹菜の記憶を参照するとなると、途端に負荷が跳ね上がる。アルノルト・アダルベルトの人格とてそもそもは擬態元のもの、単なる模倣であるのだから、より強い方に引きずられてしまうのは理の当然だ。

 ……やがてアルノルト――が扮した結城真樹菜――が、とある部屋の前で足を止める。指紋照合とキーワードの入力で扉が開き、薄暗い部屋の中へと入った。

「……あァ、これこれ」

 彼の前には一基の通信端末。電源を入れ、パスワードを入力。次瞬、アルノルトの目の前にウィンドウが表示された。それも一枚や二枚ではない、部屋を埋め尽くすように次々と、増殖する細菌の如き勢いで展開されていく。
 顔写真。名前。身長体重等のフィジカルデータ。出身地、趣味、特技、学歴職歴経歴に、嗜好や思想傾向、果ては性癖に至るまで、徹底的に網羅されている。プライバシーの概念など端から知った事ではないと言わんばかりのそれは、顔写真の横にもう一枚、並べる様に画像が表示されている。
 およそ人間のものではない、骨灰色の異形。部屋を埋め尽くすウィンドウのどれも、顔写真と同時に異形の画像が映し出されていた。
 そう。これはスマートブレインに所属するオルフェノクのデータベース。誰がどんなオルフェノクで、どのような能力を持っているのか。それらの全てを収めた、個人情報の倉庫である。

「確か『ラッキークローバー』でしたっけねェ。そいつで検索……っと、おう、出た出た。伽爛姐さんと……このヘイデンスタムってェ姉さん……ゴールドマン……あァ、こいつでござんすか。ふん、タチの悪ィ能力を持ってるもんでござんすねェ。お陰であっしが一苦労、っと。良し、これで――」

 ぶつぶつと呟きながらコンソールを操作すれば、部屋を埋め尽くすウィンドウは一瞬で、ただ一枚だけを残して消え失せた。
 最後に残った一枚はアルノルトの眼前に。表示されているのは酷く顔色の悪い、こけた頬と落ち窪んだ眼窩が薬物中毒者である事を物語る男の情報。ラッキークローバーが一人、フライオルフェノクこと、ラズロ・ゴールドマンのものだった。

 そして次瞬。アルノルトの姿が結城真樹菜を模した女性のものから、酷く痩せこけた、骨と皮ばかりの男へと変化する。
 ワームの擬態能力は、そのほぼ唯一と言って良い制限として、擬態する相手を視認しなければならない。とは言えそれは写真や動画といった画像でも構わないので、リスクやデメリットとはおよそ言い難いものであるのだが。写真を確認する為にわざわざ不法侵入を犯さねばならないというのは、リスクと言うには些か弱いものだろう。

「ふん。ま、こんなモンでござんすかね……さて、さくっと済ませちまいましょう」

 さておきラズロ・ゴールドマンの姿へと擬態を終えたアルノルトが、目を閉じ、天井を仰いで意識を集中させる。
 フライオルフェノクの特殊能力、『相手の免疫機能を失調・混乱させる』。それが今、結城衛司を蝕む病毒の正体であり、ラズロへと擬態した今のアルノルトは、その対処法を理解している。

 スマートブレイン本社に忍びこんだのはこの為だ。一般の医療施設では衛司を治療出来ない、ラズロが能力を解除しない限り直らない。ならばどうするか。答えは簡単、『能力を解除すれば良い』。一種のトートロジー的な矛盾を含んだその解決法は、しかしアルノルト・アダルベルトに関する限り、矛盾足り得ない。
 そう、ワームの擬態能力。人格・思考・記憶、それら全てを模倣出来るその能力は、擬態元の人間が持つ能力ですら模倣出来る。
 ただし。

「オルフェノクになるってェのは、初めての事でやんすがね……」

 今まで、アルノルト・アダルベルト――否、セパルチュラワーム・ビリディスは、他の人外種族への擬態を行った事がない。
 オルフェノクやファンガイアといった種族への擬態。それらが持つ特殊能力を得ると考えれば、これは相当魅力的に思える。

 だが駄目だ。予感がある。オルフェノクやファンガイアは、総じて人間よりワーム寄り――そんなものに擬態してしまえば、その瞬間、アルノルトの意識は乗っ取られてしまうだろう。
 人間態に擬態するならまだしも、戦闘態へと変化したオルフェノクに擬態すれば、どうなるのかは自明の理。
 だが躊躇している時間はなく、ここまで来て退く選択が、アルノルトにあろうはずもない。

〖ぐっ……が、がががががぎ……!〗

 ラズロ・ゴールドマンの姿が、蝿を模した異形へと変化して――瞬間、アルノルトは猛烈な苦痛に声を上げた。
 意識と思考と人格が端から真っ黒に塗り潰されていく感覚。それを必死で押し止め、同時に残る意識を掌に集中させる。掌の中心から五指の先端まで、熱を少しずつ拡散させていくように。
 やがて、頭の奥の方で、ぱりんと硝子が割れるような音が聞こえた。それが終了の合図。すぐさまアルノルトは擬態を解除、セパルチュラワーム・ビリディスの姿へと立ち戻り、僅かに間を置いてアルノルト・アダルベルトの姿に成り変わる。

「ぶはぁっ……はっ、はっ、ふ、ぅうう……」

 ぜいぜいと荒い息をついて、アルノルトは床に這いつくばった。
 頭痛が酷い。頭蓋の内側から釘を打たれているような感覚。オルフェノクに擬態する事がここまでの負荷を伴うものとは。想像以上の反動に、アルノルトは暫く、その体勢から動く事が出来なかった。
 ただ――まだ確認が取れた訳ではないが――衛司を蝕む能力は、これで解除されたはず。酷く大雑把な、無差別に近い能力解除だったから、衛司だけでなくラズロの能力に苦しむ者も纏めて救ってしまったのだが、それはさておき。
 どれほどそうしていただろうか。頭蓋を割らんばかりの痛みが漸く薄れ、真っ当な思考が戻ってくる。痛みの残滓に顔を歪めながら彼は立ち上がり、



「“動くな”」



 振り向いた瞬間、耳にした言葉に、その挙動を縛られた。

「――っ!?」

 ぎちりと身体が硬直する。首から下が無くなったかのように感じる。
 振り向く事そのものは完了していた、アルノルトの視界は自分が入って来た部屋の扉に向いている――その扉の前にいつの間にか一組の男女が佇んでいる様を、彼ははっきり見て取った。

「まったく、あのオカマめ。部下の躾がなってないアル。ま、そのお陰でラズロの阿呆に能力を解除させる手間は省けたネ、そこだけは礼を言っておくヨ。あのヤク中に指示するのは面倒でしょうがないからネ」

 男女の内の片方――チャイナドレス(どこか悪趣味な緑色の)を纏った金髪の女が、アルノルトを見据えて傲然と言い放った。
 それが誰であるのか、アルノルトは知っている。つい先程確認したばかりだ、忘れるはずがない。
 だからこそ。戦慄はアルノルトの総身を駆け抜けていった。この状況を作り出された時点で、既に詰みだと理解した。
 白華・ヘイデンスタム。オルフェノク最強を謳われる武闘派集団、ラッキークローバーの一人。

「あ……あん、た……!」
「うん? まだ喋れるアルか。声も出せないくらいに強く言ったつもりだったケド。やっぱりワームにはいまいち効きが悪いヨ――ま、身動きは取れないみたいだし、よしとするアル」

 言って、白華は手に提げていた何か――ごてごてと金属部品が取り付けられたベルト――を、傍らの男に投げ寄越す。
 男はそれを受け取って腰に装着。続いて投げ渡された銃のグリップ状の機器を顔の横に掲げて、しかしそこで停止した。歯を食い縛り身体を強張らせ、何かに抗うように、何かに耐えるように。

「“変身しろ”」
「……あ、が、ぎっ……」
「ちっ――“変身しろ”」

 苛立ちを隠さず、白華が同じ言葉を繰り返す。
 言葉を媒介にした瞬間催眠能力、それが彼女の、シカーダオルフェノクの能力。
 聴覚機能を持つ生物ならば逃れられぬその呪縛を、ワームの様に異種族であるというのならまだしも、ただの人間が意思などというあやふやなモノ一つで抑え込んでいる。その事実は、白華・ヘイデンスタムにとって決して愉快な事ではない。
 ただしそれは、アルノルト・アダルベルトにとって、全く与り知らぬ事であり。

「…………変、身……!」
【Standing by――Complete.】

 呪縛に抗いきれず、男は顔横に掲げた機器へとそう呟いて、ベルトの横腰部にその機器を差し込んだ。
 瞬間、ベルトから伸びていく光線。それは骨組みの様に男の体表をなぞり、強い白光を放ったかと思うと、男の姿を変質させる。黒と銀の甲冑、橙の眼光を炯と光らせる仮面。オルフェノクやワームの“変化”ではない、それはどうあっても“変身”としか形容出来ぬ変質であった。

 アルノルトは動けない。逃げられないし、目を逸らす事も出来ない。そんな彼へと向けて、男は右腰部の機器――先に差し込んだグリップと合わせ、大型の銃に見える――を突きつける。
 まずい。
 まずい。
 このままでは殺される。何の抵抗も出来ず、虫けらの如くに殺される。ワームの本性を顕しているならまだしも、今のアルノルトは人間態だ。強度という点ではただの人間と変わらない……撃たれれば躱せない、殺されれば死ぬ。

「ま、ちょ、待った――」
「待たないネ。――お前は邪魔アル、ここで死んどけ」 

 だから猶予の言葉は容易く切り捨てられるのも、また当然の成り行きで。
 そして男の指が、躊躇無く引鉄を引いて――



 衝撃と共に、アルノルト・アダルベルトの意識は暗転した。





◆      ◆







 結城衛司がオルフェノクであるのと同様、ギンガ・ナカジマもまた、真っ当な人間ではない。
 戦闘機人。人の身体に機械を埋め込んで造り出された、天然自然の理に反して在る生命体。それがギンガ・ナカジマと、スバル・ナカジマの正体である。
 正真の人間からは些かかけ離れたその出生、その在り方を、しかしギンガは恥じてはいない。誇示出来る程に誇ってはいないものの、決して負い目と感じてはいない。その姿勢こそが、自衛の為に秘密を抱える衛司と、他者への配慮で秘密を抱えるギンガの相違を如実に表している。

 極言するならば、ギンガの秘密は知られても構わない類のものでしかなく。
 知られる事そのものが破滅に直結する衛司の秘密とは、根本的に異なるものでしかない。
 そう――理解していたはずなのに。



 無論、それは衛司の抱える秘密に比して、ギンガとスバルのそれが軽いという事を意味しない。
 常人とは異なる経緯で生まれてきた。その事実がどれだけ彼女達を苦悩させてきたか、他の人間は決して知り得ない。父と母でさえ、それを本質的な意味で理解してはいないだろう。天然自然の理の中から生まれてきた彼等には、そうでないモノの苦悩はどうあっても理解する事は出来ない。

 それでもギンガや、そしてスバルが真っ直ぐに歩いていけるのは、きっと周囲の人々が自分を受け入れてくれたから。父ゲンヤもそう。母クイントもそう。技師マリエルもそうだし、機動六課を初めとする人々もそうだ。
 戦闘機人。
 人造魔導師。
 ヒトとキカイの境界に立つモノ。
 そんなギンガ・ナカジマを是としてくれる人々に、ギンガは恵まれた。

 確かに理解は出来ない。だが許容する。ギンガ・ナカジマ個人の存在を、ただ受け入れる――口外出来ぬ秘密を抱える者にとって、それがどれほど安心と安息を与えるか、ギンガは実経験によって過たず理解している。
 だから衛司に対しても、そうあろうと努めた。秘密を抱えたままでも良い、何も言わなくても良い。ただ結城衛司個人を受け入れようと、ギンガはそう努めてきた。
 それが崩れたのは一瞬だけ。ただしそれは最悪のタイミングだった。積み重ねてきた今までが、その一瞬で全て台無しになった。



 衛司の正体を知った時、頭が真っ白になった。ごく普通の、どこにでも居る少年。それがミッドチルダの脅威たるオルフェノクの一体であると、彼女の脳髄はすぐさま認識出来なかった。
 真っ白になった思考は、すぐさま混乱でぐちゃぐちゃに塗り潰された。ミッドチルダ総合医療センターでの戦闘において、ギンガやスバル、ティアナ、そして高町なのはへと襲いかかってきた雀蜂のオルフェノク。その正体が衛司だとするのなら、つまり彼は内心でギンガへの殺意を抱いていたと、そういう事なのだろうか。

 その疑念を、少年は敏感に感じ取ってしまった。ギンガが思わず呟いた彼の名前。そしてギンガが彼へ向ける視線。それらが直感的に、彼に全てを悟らせた。
 秘密を暴かれ。
 疑念を抱かれ。
 関係が破綻した事を、彼は瞬時に悟って――そうして、結城衛司は瓦解した。ギンガ・ナカジマが、瓦解させてしまった。

 直後に衛司が連れ去られてしまったのは、果たして幸か不幸か。何もかもがぶち壊しになった瞬間がそのまま継続する事を思えば、確かにそれは幸運であったかもしれない。しかしそれによって、ギンガやスバル、ティアナといった、その場に居合わせた者達が解決しない煩悶を抱える事になったのだから、単純にそれを良しとは出来まい。
 そしてその煩悶は、未だにギンガを苛み続けている。――わたしは一体、衛司くんに何が出来るのだろう?



 答えは出ない。
 ある意味それは当然の事。早々に答えを出せるのならば、そもそもそれは悩むまでもない事だ。

 けれど長々悩む事に意味を見出せる程、ギンガは悠長ではない。事実として衛司は攫われ、身の安全は一切保障されていない。アルノルトと名乗ったあの異形の言葉から察するに、すぐに命を奪われる事態にもならないだろうが、それを鵜呑みにしてのんびりと構えられるはずもなかった。
 捜索活動への参画を要望するギンガではあったが、しかしその実、彼女の内心は『会いたいのに会いたくない』という二律背反に揺れていた。

 その意味で、八神はやての言は僥倖とすら言えた。互いに頭を冷やす時間が必要だろうと、それ故に機動六課フォワード陣を衛司の捜索から外すと。
 彼女の言う事は正論だと、ギンガの理性は思ったより冷静に判断していた。それを覆すだけの論理はギンガの中になく、故に彼女はそれを受け入れるより他に処方はない――そう、解っているのに。

「――わたしは」

 顔を上げ、はやてからの『どう思う』という問いに答えようとして、しかしギンガは言葉に詰まった。
 頭では納得しているのだ。はやての言葉に否定する余地はない。大人しく頷いて、衛司が見つかったという報せを待てば良いのだ。ただそれだけの事、何を悩む必要がある?
 そう解っているのに、……頷けない。
 はい解りました、という言葉も、喉に詰まって出てこない。

「わたし、は……!」
「ギンガ」

 詰まった言葉を無理矢理搾り出そうとしたその時、制する様にギンガの名を呼ぶ声があった。 
 背後から飛んできたその声に、ギンガがふと振り返り――柔らかい眼差しと共に微笑む、高町なのはの姿を確認する。

「なのは――さん」
「いいから、思った事を言ってみて。八神部隊長の言った事は『こうした方がいいんじゃないか』ってだけだから。ギンガがどうしたいのか、どう在りたいのか。ちゃんとギンガの言葉で聞かせてくれないかな」

 お話聞かせて。――と言うと要約しすぎかもしれないが、つまるところ、なのはが言ったのはそれだけの事。
 けどそれだけの言葉が、今のギンガにとっては不思議と心強い。
 そう。求められているのは、理屈をこねくり回して作った『論理』じゃない。
 ただ剥き出しの『本音』であれば。偽り無い『感情』であれば、それで良い。
 一つ頷き、再びはやてに向かい合った時には、胸中に蟠っていた葛藤はとりあえず無視出来る程度にまで薄れていた。

「わたしは……すみません、八神部隊長。やっぱりわたしは、衛司くんを捜しに――いえ。衛司くんに、会いに行きたいんです」
「……そっか」
「その、八神部隊長がわたしや、衛司くんを気遣ってくださってるのは、凄い良く解りますし、とても嬉しいんです。けど、今じゃないと……今じゃないと、きっとわたし、衛司くんと“本当に”話し合えないって、そう思うんです」

 話し合うとは言うものの、何が言えるかは解らない。
 もしかしたら、より深く、より酷い傷を負う事になるかもしれない。
 それでも。

「時間を置いたら、その時間でわたしは言い訳を探してしまうんです――適当に波風立たない言葉で、“いつも通りのわたし”を繕う為の言葉を探してしまって……それじゃ、今までと同じなんです。同じにしか、ならないんです」

 認めよう。ギンガ・ナカジマは、結城衛司の“大切”になり得なかった。
 秘密を打ち明け、それを共有する相手として見て貰えなかった。
 露見した秘密を受け入れる事にさえ、失敗した。

 けれど、それで終わりじゃない。
 終わりなんかに、したくない。
 見苦しく足掻いているだけかもしれないが、利口ぶって諦めるより、遥かに自分らしい結論のはずだ。

 ギンガに出来るのは、衛司と話す事。話し合う事。オルフェノクである結城衛司と、戦闘機人であるギンガ・ナカジマ、偽りの無いそれぞれの立場で、本音を曝け出して言葉を交わす事。それ以外にない。
 人外生物、オルフェノクである彼を本当に受け入れる事が出来るのか。その是非を言えるのは、少なくとも、あの少年と心の底から、本音を曝け出して話し合って――その後の事だろうと、ギンガは思うから。
 例えその結果、結城衛司と決定的な断絶を果たしたとしても――

「お願いします。衛司くんを、捜しに行かせてください。衛司くんの捜索に、わたしを加えてください」

 言える事はもう、それだけで。
 ギンガは深々と腰を折って、はやてへと頭を下げた。
 更にその横へ、スバルとティアナが進み出て――同様に、はやてに対して頭を下げる。
 そして三人揃っての懇願を無下に切り捨てる程、八神はやては道理に傾倒している人間ではなく。
 人間の性質としては真逆の方向だ、先に長々と述べた口上こそ、はやてらしくないと言って良い。

「ま、そーやろな。そう言うと思うとったわ――まあ、何てゆーか、アレやな。衛司くんは幸せ者って事なんかな――」

 そう言うはやての顔は、どこか嬉しそうに緩んでいる。指揮官、司令官としての判断を拒絶されて尚、だ。この展開をこそ望んでいた、と言うとあまりに御都合主義に過ぎるだろうが、少なくともこの現状を否定するつもりでない事は瞭然だった。
 はやてが手元のコンソールを叩くと、ギンガの懐で、ブリッツキャリバー――の待機形態のクリスタル――が電子音を奏でる。何らかのデータを受信したと示す電子音。その音にはっとギンガが顔を上げれば、それと同時、はやてが口を開いた。

「つい三十分ほど前に来た連絡なんやけど、ミッド東部の第11区あたりでちょっとした目撃証言があったらしいんよ。何でも今日の明け方、時間はだいたい朝四時頃かな、『入院患者みたいな患者衣を着た若い男が、同じく患者衣を着た男の子を背負って走っていた』て話でな。本当に衛司くんかどうかはまだ判らんけど――」
「ミッド東部――第11区」
「ん。現地の陸士部隊にはわたしの方から連絡入れとく、もう出発してええよ。今日は休暇って事にしとくから。ええやろ、なのはちゃん?」

 首肯して賛意を示すなのは。実際、この状況では今日の教導も空しいばかりだろう。衛司の事を忘れて訓練に集中しろと、そんな簡単に言える話ではないのだから。

「あ――ありがとうございます!」
「ええから。ほら、早う行かんと、衛司くんがどこ行ってまうかわからんよ?」

 にやにやと(何となく狸を連想させる)笑いながらひらひら手を振るはやてに、ギンガは深々と頭を下げて、踵を返す。
 なのはとヴィータにも頭を下げる。返ってきたのは首肯と微笑み、サムズアップ。それに背を押されるようにして、彼女は走り出した。
 慌てて追ってくるスバルとティアナが視界にも意識にも入っていなかったのは、まあ、仕方のない事だったのだろう。





◆      ◆







 ギンガの後を追う様に、スバルとティアナも部隊長室を出て行って。
 その場に残されたのは機動六課の隊長陣。グリフィス、リイン、そしてなのはとヴィータ。その面子をぐるりと見回して、「ごめんな、なのはちゃん、ヴィータ」とはやては苦笑しながら謝意の言葉を述べた。

「や、いーけどさ。いきなり念話で『何があっても口を出すな』って言われた時には、何する気なのかと思ったよ」

 念話は魔導師の基本スキルであり、ベルカ式を使う騎士も同様。チャンネルを絞った秘匿回線ならば、他者の目の前で内緒話も容易である。
 はやてはそれを使って、なのはとヴィータを抑えていた。ギンガが何を言っても、どれだけはやてに突っかかってきても、決して口を出すなと。
 十年来の付き合いだ、なのはとヴィータにとって、その意図を推し量るのは難しくなかっただろう。はやての言葉に反言する事も無く、彼女達はただ成り行きを黙して見守っていた。……まあ、なのはに限っては、口を出すなという指示に反してギンガにちょっとした助言も与えていたのだが。

「で、はやてちゃん。まだ何かあるんでしょ?」

 そう。はやてが念話で耳打ちしたのは、短に彼女達を制止する言葉だけでない。ギンガとの話が終わった後、この場に残ってくれと、そう指示していたのである。
 なのはの問いに、はやては一転、渋い表情を作ってみせ――忌々しげにため息をついてみせた。明らかに愉快ではない話を親友と家族に告げなければならない、その憂鬱さがあからさまに態度に顕れていた。

 故に、なのはは促すだけで、それ以上何も言う事はなく。
 やがてはやては、真剣な眼差しでなのはを、そしてヴィータを見据えて、彼女には似合わない重々しさで口を開いた。

「まだ公式に通達が来た訳やないんやけど……グリフィスくんに色々確認してもろうたから、多分、間違いないと思う」

 そう、前置いて。

「近日中に、わたしら六課はオルフェノク関連の任務から外される事になる。管理局の対オルフェノク専門機関が動き出しとるんよ――発足が随分前倒しになったみたいやな。本当は来年の四月まではオルフェノク問題はわたしらの担当やったけど、予定が随分早まって……たぶん今週中には、わたしらはお払い箱や」

 飄げた感じに肩を竦めるはやてだったが、無論、その仕種を見たままに受け取る者が、この場に居るはずもなく。
 その場に居た全員の表情が等しく驚愕に染まる様は、事情を知らぬ第三者ならば面白おかしく眺められただろうが、生憎はやては疑いの余地無く当事者であり、下がる溜飲などこれっぽっちも持ち合わせていない。

「急がなあかん――衛司くんをとっ捕まえて隠すか、こっそり逃がすか。このまま連中に引き渡したらモルモット決定やからな――」





◆      ◆





第拾伍話/乙/了





◆      ◆







後書き:

 という訳で、第拾伍話乙でした。お付き合いありがとうございました。

 ちょい時系列がキング・クリムゾンしてるせいで判り辛くなってますね、ごめんなさい。普通に時系列通りやっていくのが一番判り易いんですが、やっぱりそれだと淡々と事実だけ羅列してるみたいで、ちょい面白味に欠けるかなと。演出の一環って事で見逃して頂けると有難いです。

 何だかんだで秘密バレしちゃった訳ですが、実際、今回は問題の先送りしただけなんですよね。単に『正面から本音でお話しないと』、『だからとりあえず連れ戻そう』ってだけで、何か結論を出した訳じゃなくて。その辺は次回に。
 『○○がバケモノだった!』→『○○は○○じゃないか! そんなん気にしないよ!』ってのがまあお約束なんでしょうけど、そういう場合に即答出来るのも何か違和感あるなあと。ワンクッション置く感じで、こんな風にしてみました。……こういう事してるから展開遅いんだ……w

 ちなみに割と唐突に再登場したアルノルトさん。割と最初からここで再登場と決めてた……んですが、実は前話を投稿した時点でその事すっかり忘れてて。前話で顔見せさせておけば伏線っぽくなってもっと良かったかなあと、ちょい反省点です。
 前話は割と長くなっちゃったので、後で追加すると更に長くなるし。という事で今回の冒頭に持ってきたんですが、これのせいで更に時系列が判り辛くなったかも。けど変に前話で出すとネタバレというか、展開予想し易くなるんじゃないか? って気もするので、微妙なところです。

 あとついでにラッドさん。『我慢強い人(デルタ使用後の人格破綻に耐えてる人)』って感じにちょいプラス補正(?)してみたんですが、これどうなんだろう。原作であまり出番の無い人だったので、どう補正すればウケが良くなるのかがいまいち読めないw


 それでは次回で。宜しければ、またお付き合いください。



[7903] 第拾伍話/甲
Name: 透水◆4dfd011f ID:35af097c
Date: 2023/12/29 20:55

 オルフェノクも人間も変わらない――かつて“蛇”は、結城衛司にそう言った。
 それは恐らく、衛司を慮っての言葉だっただろう。人外へと成り果てた少年に対し、ある種の励ましとして投げかけた言葉であったのだろう。

 だがその言葉が衛司にとって何らかの救いになったかと言えば、これは否だ。
 少年はその言葉に何も救われていない。覚醒と同時に多数の人間を殺害し、その現実を『化物になったからだ』と安直に結論付けて逃避した少年にとって、化物も人間も同義で等価という言葉は決して救いにはならなかった。
 それが今の今まで、曲がりなりにも衛司の内に刻まれていたのは、彼の中で『人間』と『化物』の価値順列が曖昧だったからに過ぎない。人間の方がましな生き物なのか、化物の方が優れているのか。それが明確ではなかったから、とりあえず同義で等価という“蛇”の言葉に頷いていたと、ただそれだけの理由でしかなかった。

 そうして二年間、彼は自分が化物の側に在る事を自覚しながら、人間社会の中で生きてきた。そもそもが人間であった彼だ、他人に違和感を覚えさせない程度に溶け込むのはそう難しくなかった。人間であった頃と同じように生きていれば、それで良かった。
 それが狂ったのは、この世界――ミッドチルダに連れて来られてからだ。
 幾度と無く繰り返される襲撃。結城衛司の命を狙い、周囲の人間を平然と巻き添えにしながら迫るオルフェノクの刺客達。その癖、いざ自身に危機が訪れれば命乞いを躊躇わない彼等の姿は、少年を幻滅させるに充分だった。

 無論それだけで、人間の方が優れているなどと言う気はない。彼の家族を殺したのは紛れもなく人間で、そこに化物が入り込む余地はなかったのだから。幻滅すると言うのなら、少年はとうの昔に人間に幻滅している。
 つまるところ――両方醜い。
 オルフェノクも人間も変わらないという言葉を、酷くネガティブな意味で、今の結城衛司は認識している。どちらも唾棄すべき醜い生き物、その醜さに優劣がないという意味で、化物と人間は同義で等価なのだと。
 そして、そう認識した上で、結城衛司は考える。考えるだけ、どうあっても実現の望みはない、そんなどうでもいい事を。



 どうせ同じと言うのなら。
 何故自分は――化物なんかになってしまったのだろう。
 どうして僕は――人間ではいられなかったのだろう。
 どうせ同じと言うのなら。……そのまま、放っておいてくれれば良かったのに。





◆     ◆





異形の花々/第拾伍話/甲





◆     ◆







 そこは奇妙な部屋だった。
 奇怪と言う程に常識を逸脱してる訳でもなく。異常と言う程に狂気を孕んでいる訳でもない。単純に、『良く解らない』空間であるのだから、奇妙という以外に表しようがない。

 フローリングの居間には中央に畳が四枚。正方形を描く形で敷き詰められたそれは当然中心部分に空白が生まれ、そこに囲炉裏を模しているのか、鉄製の茶釜がちょこんと置かれている。
 壁に直接かけられた掛け軸には『歌舞伎』の三文字。棚の上には模造刀が台座と共に飾られ、手裏剣やら編み笠やらがそこかしこに置かれている。ついでに言えば天井の照明も取り外され、燈篭だけが光源の部屋は酷く薄暗い。日本文化を見事なまでに履き違えた、間違った日本観の見本市のような部屋だった。

 そんな奇妙な部屋の片隅で、膝を抱え震える少年が居る。
 熱に浮かされている訳ではない。寒さに凍える訳でもない。ただ内心の恐怖から、結城衛司は怯え震える以外の処方を持たなかった。

「…………」

 目覚めたのはついさっきの事だ。気付けばこの部屋の中に居て、床に敷かれた布団に仰臥していた。ここが何処なのか、どうしてここに居るのか、寝起きの胡乱な頭は必死に考えようとしたが、直に『判らない』と当然の結論を弾き出して考察を止めた。
 総身を苛む高熱はその時点で消え失せていたものの、身体にはどこか漫然とした気だるさが残っている。免疫機能が自身を蝕むほどに失調・混乱していたのだから、後遺症としては酷くささやかな方だろう。思考では無く感覚でそう理解し、どうして熱が引いているのかという根本的な疑問に思い至らないまま、少年は布団から這い出した。

 瞬間――頭蓋の内側で、火花が散った。
 無論比喩だ。だが思考と記憶が直結され、意識を失う寸前に起こった事――そしてそれよりも前、ミッドチルダ総合医療センターで起こった事――が頭の中に流れ込んでくる衝撃は、少年の脳髄を一瞬にして焼き焦がした。

 そうして彼は今、一人部屋の片隅で震えている。
 知られた。知られてしまった。何をおいても隠し通さなければならない事が、何があっても知られたくない人に知られてしまった。
 思い出した。思い出してしまった。どうあっても直視出来ない、忘却して目を背けた不都合を、このタイミングで思い出してしまった。

『結城衛司はオルフェノクである』、その事実が知られてしまって。
『ギンガ・ナカジマを殺そうとした』、その事実を思い出してしまった。

「あ……あ、ぅああ……!」

 がちがちと奥歯を噛み鳴らす。寒くない。寒くなんかないのに、歯の根が噛み合わない。
 もう、戻れない。
 六課にも、地球にも、どこにも結城衛司の居場所なんかない。
 その事実が何よりも怖くて、恐ろしくて、――泣きそうになる。

「何で……何で、だよ……こんなの、こんなつもりじゃ、なかったのに……!」

 漏れる言葉は薄暗い部屋の中に溶けていって、誰の耳にも届く事なく霧散する。
 そう、こんなつもりじゃなかった。結城衛司はただの少年であれば良かった。そう在りたいと、衛司本人が願っていた。

 現実はこの様だ。化物の本性を晒し、命を狙われた事を理由に殺人を繰り返し、異邦人の自分に優しかった少女をも殺そうとして、あまつさえそれを忘れたまま、彼女の傍でのうのうと暮らしていた。
 どれだけ恥知らずなのか。誰に責められた訳でもないからこそ、自責の声が頭の中でより高らかに反響する。それを否定しようとして、けれどこの図々しい舌が紡ぐのは、無様に自己を正当化するばかりの『こんなつもりじゃなかった』という言葉だけだった。

「どうしよう――どうすれば、どこに行けば――」

 やがて泣き言に混じって、そんな言葉が口をつき始めた。
 絶望と後悔に塗れながらも、意識の奥底、脳髄の一部は冷静に思考を続けていた。だからこそ、八方塞がりの現状に一層の絶望を煽られた。

 結城衛司はもう機動六課に戻れない。機動六課はオルフェノクと戦う為、倒す為に存在している。設立の目的とは随分とかけ離れてしまったが、そもそもの成り立ちを知らぬ衛司にしてみれば現状こそが全てだ。
 六課の面々がどう思っているかは判らない、しかし彼女達が組織の一員である以上、一度命令が下れば衛司を、ホーネットオルフェノクを駆除にかかってくるだろう。

 ただのオルフェノクなら、或いは保護される事もあるかもしれない。単に『人間ではない』というだけなら、そこに罪は無いのだから。
 けれど結城衛司はただのオルフェノクじゃない――“殺人を犯した”オルフェノクだ。
 オルフェノクは本質的にヒトを殺すモノであるのだから、それこそオルフェノクとして真っ当な在り方と言えるのかもしれない。しかし彼が他者を傷つけた事は紛れもない事実で、人間社会においては、それは明白な罪。
 人外であるが故に法で裁かれる事はなくとも、有害として排除される事は有り得るし、そうなった場合の執行を請け負うのが誰であるのか、考えるまでもない。

 それは怖い。それは厭だ。死ぬのも厭だし、それ以前に、彼女達と戦う事が厭だった。
 結城衛司は死にたくない。死というものがどういうものであるのか、彼は実体験として知っている。だからこそ彼は死に抗い、その姿勢を崩さないのなら、六課の魔導師との戦いは避けられない。そしてこと戦闘となれば、雀蜂は相手を殺害するしか出来ないのだ。 
 死ぬか殺すか。どっちに転んでも、それは衛司にとって割に合わない選択である。

「…………!」

 どこからか聞こえる足音に、衛司は俯けていた顔を上げた。
 建物はだいぶ老朽化が進んでいるのだろう、通路を歩く者の足音や話し声が薄い壁越しに漏れ聞こえてくる。今もまた、静かだが確実に歩を進める足音が、部屋の中に響いていた。
 ともすれば聞き逃してしまいそうなほど僅かな音量ではあったものの、一度気付いてしまえば無視する事は出来ず、また少しずつ大きくなる音量は、足音の主がこちらへ近付いてきているのだと伝えていた。

 衛司は口を掌で覆った。がちがちと奥歯を噛み鳴らす音が、足音の主を誘い寄せるような気がして。
 それを考え過ぎと笑い飛ばす事など、およそ不可能だった。今の彼はどれだけ突拍子もない発想であろうと、それが自分に不利益なものであるのなら、否定する事が出来なくなっている。完全に被害妄想の虜となっていた。
 足音は刻一刻と近付いてくる。震える身体を押さえ付け、喉元までせり上がってくる悲鳴を必死に飲み下して、少年は足音が通り過ぎるのを必死に待つ。

 早く、早く、早く。
 早く、行ってしまえ……!

「…………っ!」

 しかし衛司の望みとは裏腹に、足音はぴたりと歩みを止めた。どこで立ち止まっているのかはすぐに知れた――この部屋の扉、そのすぐ傍だ。
 そして次の瞬間、がちゃりとドアノブが捻られる。部屋の主が居ない以上、勿論鍵はかけられている。そして『鍵を開ける』というアクションを挟まずにドアノブを捻ったという事は、今、扉の前に居るのがこの部屋の住人でないと言外に告げている。

 がちゃ、がちゃ、がちゃ――がちゃがちゃがちゃがちゃがちゃがちゃがちゃがちゃがちゃがちゃがちゃがちゃ。

 来訪者は諦めない。鍵がかかっている事は一回目にドアノブを捻った時点で判っているだろうに、しかし偏執的なまでの諦めの悪さで、延々とドアノブを捻り続ける。
 嫌な金属音は途切れる事なく部屋の中に響き、その音の一つ一つが確実に衛司を追い詰めていく。

 がちゃがちゃがちゃがちゃがちゃがちゃがちゃがちゃがちゃがちゃがちゃがちゃがちゃ――ぼきん。

 やがて何かが折れ砕ける凄惨な音を最後に、金属音は停止して。
 ぎぃ、と神経をこそぎ取るような軋音。そしてゆっくりと、関節の外れた顎が如くにだらしなく、鉄扉が内側へと開いていって。

「! あ――あ……!?」

 そうして開いた扉の向こうに、一人の男が立っている。
 インバネスコートに鹿撃ち帽。どこぞの探偵小説さながらの出で立ちで佇むその男を、衛司は知らない。だが男の方は衛司の事を見知っているらしく、温度のない視線で衛司を一瞥すると、躊躇無く部屋へと踏み入ってきた。

「見つけましたよ、結城衛司くん」

 声音はあくまで穏やかで、その表情も柔和とまでは言えないものの、険のない落ち着いたもの。
 これまで衛司の前に現れたオルフェノク達――の人間態――はどれも、獲物を見つけた喜びが故であろうか、程度の差こそあれ興奮と昂揚の入り混じった、狂喜の表情を少年へと向けてきていた。恐らくは目の前の男もその同類で、衛司を狙いこの場に現れたのだろうが、しかし男の凪いだ表情はそれまでのオルフェノク達とまるで対極。
 必然、少年はその表情に違和感を覚え……違和感はすぐに警戒となって、少年の思考を上塗っていく。

「だ――誰だよ、あんた……!」
「これは失礼。私、エルロック・シャルムと申します。とある方からの遣いで、貴方を迎えに参りました」
「とある方……? 迎え……!?」
「はい。この場で名を明かす事は出来ませんが、貴方とお会いする時を楽しみにしておられます。さあ、私と一緒に参りましょう」

 静かな声で、エルロックと名乗った男は衛司へと向けて手を差し伸べた。それは疑いなく真摯そのものな態度であり、傍から見る限り警戒に値するところなど何一つありはしなかった。
 だがそれでも、衛司は差し出された手を取る事はせず――否、取る事は出来ず――

「う――あ、ぁああああああっ!」

 瞬間、衛司は本性たる雀蜂の姿を顕わに、エルロックの手を振り払った。病み上がりとは思えぬ俊敏な動きでその場を飛び退き、男と距離を取る。
 憎悪と殺意に塗れた、視線だけで射殺さんばかりの眼差し。常人であればそれだけで心臓を止められかねないそれを正面から浴びせられて、エルロックは酷く物憂げな――彼の側からすれば無理からぬ事だろう――調子でため息をつき、鹿撃ち帽を脱いで放り捨てた。それは彼もまた、思考を臨戦態勢へと切り替えた証であった。

「大人しく付いてくる気はない、という事ですか」

 エルロックの姿がぐにゃりと歪む。いっそ古典的とすら言える男の探偵姿が、鰻を模した異形へと変貌する。
 彼の役目はあくまで少年の身柄を確保する事。交渉に応じるつもりがないというのなら、実力行使を躊躇う理由がない。そうしてイールオルフェノクの本性を晒したエルロック・シャルムが、ホーネットオルフェノクへじりじりと間合いを詰めていく。

 雀蜂は飛針を撃ち出す左腕を敵へと向けている。動きあらば即座に“蜂の巣”にするつもりで。対する鰻もまた、体表でばちりと火花を迸らせた。その身が生み出す数万ボルトの電圧は、エルロックの精神状態を表すかのように、彼の周囲で不安定に弾けている。
 一髪千鈞の睨み合い。剃刀の刃の上で成り立つ均衡は、すぐさま終わりを迎えた。
 雀蜂の特性は文字通りの一撃必殺、先手を取る事が即ち有利。対して鰻の特性は敵の攻撃をやり過ごしてのカウンターに長じている。仕掛ける側と受ける側が明確に分かれている以上、睨み合いが続く道理はなかった。

 雀蜂の左腕が唸りを上げ、機銃の如き連射速度で飛針が奔る。横殴りの暴風が勘違い和風テイストに彩られた部屋を蹂躙し、室内の家具調度が次々と飛針に貫かれ、抉られ、砕かれていく。
“価値”を持つ物体が“無価値”な残骸へと変えられていく。その光景に、ふと衛司は既視感を覚えた。己の飛針が視界にあるモノ全てを粉々に抉り砕いていく、その光景――それは、そう、かつて己が人外へと堕ちたその日に目にした光景。衛司自身が作り出した光景。
 激情のままに飛針を撒き散らして、目に付くモノ全てを……そう、人間も物体も区別無く、片っ端から破片と肉片の混合物へと変えていった、あの時の光景だ。

〖~~~~っ……!〗

 それを思い出した瞬間、込み上げて来る悪寒に、衛司は思わず身を折った。人間の姿であれば遠慮なく胃の中身を吐き戻していただろう。尤も碌に食事を取らない彼だ、吐き出されるのは胃液ばかりというのが関の山だろうが。
 しかしオルフェノクの姿であっても、それは充分に致命的だった。意識を上塗った悪寒は、彼に殺意も戦意も警戒も緊張も、僅か一瞬だけとは言え忘れさせたのだ。それはつまり、敵の眼前で隙を晒したという意味に他ならなかった。
 たん、と床を蹴る音。軽く響くその音が雀蜂の耳朶を打った瞬間には、鰻は既に雀蜂の懐に入り込んでいて。

〖その迂闊、拾わせて頂きましょう……!〗

 ばちりと、火花が散った。





◆      ◆







「一佐。配置、完了しました」
「御苦労」

 結城衛司が目を覚ました一室から、距離にして約一キロメートル。半端に宅地開発が進んだ、真新しい建物と古ぼけた建物とが混在する街並みの一角に、一台の車が身を潜めるように停車していた。
 二軸四輪の装輪装甲車。一見して軍事組織の所有するものと知れる没個性な意匠は、印象通りに時空管理局所有の車両。一般の陸士部隊にも配備されている指揮通信車であり、ミッドチルダにおいてはこと珍しいものではない。
 そこに不自然な点や目を惹く点があるとするのなら、それは騒動とは無縁な、平穏そのものの街中に指揮通信車がただ一台だけで停車している事であり、その指揮通信車に見慣れぬ白と青の制服――陸士部隊のそれではない、本局のものだ――を着込んだ男が乗り込んだ、という事であろう。

 指揮通信車の中には男が一人。つるりと剃り上げた禿頭にティアドロップのサングラス。いっそ犯罪組織……いや、より直接的に『裏社会』の人間と言っても通る強面の風貌ではあったが、今しがた車に乗り込んできた男と同様、彼もまた本局の制服を纏っている。
 襟元には一佐の階級章。それらのミスマッチが僅かに彼の外見に滑稽さを生み出し、威圧感を軽減させていた。

 禿頭の男は部下からの報告に短く応えると、手元のコンソールを操作。眼前に一枚のウィンドウを表示させた。
 画面に映し出されているのは一棟のアパート。開発の波に乗り遅れ、恐らくはこれから先もそうなるであろう、時代の節目を幾つも跨いだと知れる骨董品のようなアパートだった。

「対象は」
「アパート三階の一室に連れ込まれたまま、出て来ません。観測班からの報告では布団の上に寝かされていると。対象以外の人影は確認出来ておりません」
「仕掛けるには絶好、か。そう時間に余裕がある訳でもない……ふん」

 禿頭の男が独り言のように呟き、鼻を鳴らした瞬間、がりっ、と耳障りなノイズが響く。次いで聞こえてきたのは、盗聴を警戒した防護処理によって酷く罅割れた、それでも男性のものと知れる声だった。

『一佐。対象の部屋に男が一人、向かっています』
「男? ――特徴は」
『鹿撃ち帽にインバネスコート……体格は中肉中背といったところです。ここからでは帽子に隠れて顔が窺えませんので、年齢までは』
「ふん。鹿撃ち帽にインバネスコートか。何かこだわりでもあるのか、それとも――」
『映像、送ります』

 程無く、禿頭の男の前にウィンドウが更にもう一枚展開された。
 先に展開していたウィンドウはアパートの外面を映し出していたが、新しく展開されたそれはアパートの内側、三階フロアの廊下を映し出している。観測班の魔導師が操作するサーチャーからの映像。天井の蛍光灯が切れかけ、ちかちかと明滅する照明のせいで内装の安っぽさが一層煽られる廊下の映像に、動くものが一つ。

 鹿撃ち帽にインバネスコート。顔こそ窺えないが、体格から男性である事が窺える。
 どこぞの探偵小説さながらの出で立ち。その姿を確認し、禿頭の男がにやりと口元に笑みを刻んだ。素早くコンソールを操作し、アパートの外面を映していたウィンドウを切り替える。映し出されたのはどこかの監視カメラと思しき、やや不鮮明な映像。そこにもまた、鹿撃ち帽にインバネスコートの男が佇んでいた。
 無論、こちらはリアルタイムの映像ではない。昨夜、先端技術医療センターで撮られたもの。それと中継映像とを見比べ、口元の笑みをそのままに、禿頭の男は頷いてみせた。

「“当たり”のようだな。医療センターに現れた男だ」
「いかがなさいますか、一佐」
「各員に通達。しばらくは手を出すな――監視だけだ。状況を注視しろ。上手くいけばオルフェノクのサンプルがもう一体手に入る」

 昨夜の映像を映し出すウィンドウの中では、少年の護衛に就いていた少女達の目の前で、探偵姿の男がその姿を異形の――鰻を模したと知れる――怪物へと変化させていた。
 そう、彼等は知っている。オルフェノクには人間に擬態する能力がある事を、既に事実として掴んでいる。なれば処方を整えるのは難しい事ではなく、ヒトの姿をしていてもあくまで化物と割り切る事で、容赦も躊躇も放棄出来る。『自分達とは違う』モノに対して人間がどれほど残虐になれるか、説明の要はないだろう。
 とは言え今回に限っては、彼等の処方はそう暴力的なものでもないのだが。

「初仕事だ、手柄は多ければ多いほど良い――ふん、始まったか」

 中継映像に動きが生じる。古ぼけた安アパートの一室が、突如として轟音と共に火を噴いた。言うまでもなく爆発した一室とは監視対象が眠っていた部屋であり、探偵姿の男が入っていった一室。
 次瞬、朦々と黒煙を噴き上げ、火の粉を放出する窓から、何かが飛び出してくる。人間と同サイズの、人間のような形をした何か。それが何であるのかと考えるよりも先に、その姿をはっきりと見て取る事が出来た。雀蜂のオルフェノクと、鰻のオルフェノク。
 二体のオルフェノクは三階の高さなどものともせずに着地。そうして着地と同時に彼等は戦闘を再開する。恐らくは部屋の爆発も、彼等が戦った事によって生じたものだろう。どうしてオルフェノク同士が争っているのかは定かではないが、状況としては非常に好都合。

「逃がすなよ。距離を取って監視を続けろ」

 禿頭の男の指示には、隠しようも無い高揚が滲んでいた。





◆      ◆







 実際、それは偶然が重なっただけとしか言いようがなかった。
 衛司が――ホーネットオルフェノクが出鱈目に撃ち放った飛針の一本が、恐らくは台所に飛び込み、ガス供給管を貫いたのだろう。
 魔導文明が発達したこの世界だ、恐らくは地球における化石燃料の類とはまた異なる物なのだろうが、それが引火性の気体である事は間違いなかったらしい。それがイールオルフェノクの発生させた電撃を火種として、爆発した。

 互いにオルフェノク、爆発そのものに傷を負うほど柔ではなかったが、黒煙と炎熱は彼等の知覚をことごとく塞いでしまう。
 視界も感覚も効かない状況下で戦うつもりは衛司にはなく、それは相手も同じだったのか、部屋から飛び出すタイミングは雀蜂と電気鰻、二匹ともに同時だった。

〖くっ……!〗
〖遅い!〗

 着地のタイミングも同時――だが攻撃態勢に入ったのは、イールオルフェノクが一歩早かった。
 路面を滑るような動きで鰻は雀蜂に肉迫、懐に入った瞬間には、高速の打拳が雀蜂の胸部に連続して三発叩き込まれる。如何なる技法か、オルフェノクの強固な外殻にはさしたる損傷も無いのに、その威力と衝撃は確実に雀蜂の内臓を抉っていた。

 しかし雀蜂も、ただ殴られてはいない。敵の拳が届く位置という事は、即ち自分の拳が届く位置。右拳が装甲に鎧われ、猛毒に塗れた衝角がそこから伸びる。ひとたび穿てば万物を殺し尽くす毒針、結城衛司はそれに、絶対的な信を置いている。
 先端が掠っただけでも文字通りに命取り。だが驚くべき事に、イールオルフェノクはその衝角に対し、自分から距離を詰めた。刺してくれと言わんばかりの行動に衛司の意識が一瞬硬直し、その瞬間、鰻の左腕が雀蜂の右腕に絡みつく。
 しゅるん、と音を立てて鰻の腕は雀蜂の右腕を滑り、次の瞬間、その腕を捻り上げた。もう少し力を込めるだけで肩と肘の関節が破壊されてしまうだろう。そうと悟った瞬間に雀蜂は跳躍。捻られる方向に中空で錐揉み回転、鰻の腕を振り払った。
 這い蹲るような姿勢で着地したのも束の間、上方からの踵落としが雀蜂の後頭部を痛打。顔面が地面にめり込み、路面のアスファルトが砕け割れる。

〖どうしました! この程度ではないでしょう――こんなものではないでしょう!〗 

 ともすれば叱咤とも取れる言葉を放てば、それに呼応するかの如く、雀蜂の左腕がびくんと跳ね上がった。その掌が鰻に向けられたかと思えば、前腕の銃身から飛針が撃ち放たれる。それを牽制に雀蜂は身を起こし、後ろへと飛び退いて距離を取る。
 射掛けられる飛針の嵐。だがそれは実際、イールオルフェノクにとって何ら脅威に値しない。事実、鰻は何ら臆する事もなく、飛針の弾幕へと踏み入っていく。

〖このような、小細工で――!〗

 ぬるりするりと体表を滑り、飛針はただの一本も標的に突き刺さる事がない。表情無きオルフェノクではあるが、それでも雀蜂の放つ気配が、驚愕を伝えていた。
 たちまちの内に雀蜂を間合いに捉えた鰻が、高速で両の腕を、両の拳を奔らせる。打拳が次々と雀蜂の急所を打ち据え、その身体をよろめかせた。

〖思い出しなさい、結城衛司君。バイソンオルフェノクを殺した時を。ジャガーオルフェノクを殺した時を。コングオルフェノクを倒した時を。あの時の君は純粋だった――オルフェノクとして、とてもとても純粋だった!〗

 聞く耳持たぬと言わんばかりに騎兵槍が雀蜂の手の中に形成され、鰻の心臓を狙ってその先端が加速する。雷を思わせる速度で突き出されたそれは、しかし先の飛針と同様、イールオルフェノクの体表に滑ってあらぬ方向へと逸らされた。
 攻撃失敗直後の無防備な隙。その好機を逃すはずもなく、槍の勢いに引きずられ前方につんのめった雀蜂の背中へ鰻の肘撃ちが叩き込まれた。再び路面に這わされる雀蜂だったが、すぐさま横に転がる事で敵の間合いを脱し、身を起こす。

〖チューリップオルフェノクを殺した時の心情を思い出しなさい、セパルチュラワーム・ビリディスを追い詰めた時の感覚を取り戻しなさい! 既に君はオルフェノクとして完成している! 後はそれを自覚するだけで良いのですよ!〗

 しかし鰻は雀蜂を逃がさない。間合いから逃れた次の瞬間にはもう間合いを詰めている。蹴撃が雀蜂の顎を蹴り上げ、宙を舞った雀蜂は受身の一つも取れぬまま路面に叩き付けられた。
 脳が揺らされ、神経が断線する。路面に仰臥したまま動けない雀蜂に、鰻が一歩一歩、ゆっくりと歩み寄ってくる。

〖今の君は見るに堪えない。オルフェノクにも人間にも踏み出しきれず、彼岸と此岸をふらふらと漂っているだけの塵芥ではありませんか。その様な中途半端を誰に許容しろと言うのです。誰に受け入れて貰おうと言うのです!〗

 そう、決めなければならない。もうどっちつかずではいられない。ここが分岐点で、分水嶺。
 人間として在るのか、オルフェノクとして生きるのか。

 ……否、それは考えるまでもない事だ。
 結城衛司は最早人間ではない。その肉体は既に人外のそれと化している。残るは心の在り様だけだが、それとて多くの人間を、多くのオルフェノクを無惨に殺してきているのだから、“人でなし”以外の何者とも評しようがない。

 故に。決めなければならない、と言うのは正確では無く。より正確を期するなら、それは『諦めなければならない』と言うべきなのだ。
 人間として生きる事を――諦めなければならない。

〖機動六課――でしたか〗

 鰻が忌々しげにその名を口にした瞬間――どくんと、雀蜂の心臓が跳ねた。

〖察するに――『人間もそう捨てたものじゃない』とでも思っているのではありませんか? 機動六課の人達は君に良くしてくれたのでしょう? 優しくしてくれたのでしょう? それは良いでしょう。それは事実として認めましょう。しかしその優しさが、その温かさが、人間生物に共通のものと考えているのではありませんか?〗

 否定は出来ない。

〖これだけ温かくて、優しいイキモノなら――そう捨てたものじゃない・・・・・・・・・・・と、考えてはいませんか?〗

 否定が、出来ない。

 機動六課で出逢った人々は、皆、優しかった。次元漂流者だからという同情ではない、怪物に襲われる少年だからという哀れみでもない。結城衛司個人に対して向き合ってくれたのだ。
 その優しさや温かさが鬱陶しく思える時もあったけれど、それ以上に誰かからの厚意は嬉しくて、だから機動六課は結城衛司にとって居心地の良い場所だった。
 憎悪が薄れていたと言われれば、それはどうしても否定出来ない。衛司の心に刻まれていた人間への憎悪が、機動六課の人々に共通する善性に触れる事で上塗りされ、薄らいでいたのだと。

〖勘違いですよ、結城衛司君。それはどうしようもない勘違いです。間違いではありませんが勘違い――この意味が、解りますね?〗

 衛司は応えない。反応はなく、回答もない。

〖いえ、答えなくとも結構。君は理解しているはずです。そうでなければこんなところには居ない。目を覚ましたならその足で機動六課へと戻れば良かった。道が判らない? なら誰かに訊けば良い。路銀が無いと言うのなら近隣の陸士部隊にでも駆け込めば良い、六課まで送り届けてくれるでしょう。それらの手段を一切取らず、あの部屋でただ震えていたのは何故です?
 解っていたからでしょう。彼等の厚情はあくまで人間に向けるものであって、オルフェノクである君に向けられていたものではないと。その厚情を真に受けて人間への憎悪を薄れさせていた自分の滑稽さを、君自身が解っていたからでしょう!〗

 脳裏を過ぎるのは六課の面々。誰も彼もが優しく、温かく、結城衛司を受け入れてくれた。

 高町なのはの顔が過ぎる。
 フェイト・T・ハラオウンの顔が過ぎる。
 八神はやての顔が過ぎる。
 シグナムの顔が、ヴィータの顔が、シャマルの顔が、ザフィーラの顔が、リインフォースⅡの顔が。
 アイナ・トライトン、
 高町ヴィヴィオ、
 ヴァイス・グランセニック、
 グリフィス・ロウラン、
 シャリオ・フィニーノ、
 アルト・クラエッタ、
 ルキノ・リリエ――

 次々と脳裏に浮かび、消えていく彼等の顔は、まるで走馬灯を見ているようだ。
 死に際には過去の記憶が走馬灯の如く脳裏に浮かぶと言うが、今、衛司の脳裏に映し出されているのも、或いはそれと同じものかもしれない。結城衛司の中に僅か残った“人間”がここで終結すると言うのなら、それは存在として死ぬのと同義。
 そうして走馬灯は終わりに近付く。少年を少年として受け入れてくれた人達の羅列が終わりに近付く。残ったのは結城衛司と最も近しかった少年少女達。

 ティアナ・ランスターの顔が過ぎる。
 スバル・ナカジマの顔が過ぎる。
 エリオ・モンディアルの顔が過ぎる。
 キャロ・ル・ルシエの顔が過ぎる。



 そして『           』の顔が過ぎって、



 今はもう遠いあの笑顔を、自分自身で真っ黒に塗り潰して。



〖うるさい〗



 瞬間、空気が変わった。
 イールオルフェノクの口上によって炙られ、加熱していた空気が、少年のただ一言でばっさりと温度を切り取られた。
 ただ一言、たった一言。だがその言葉は絶対零度の冷気を孕み、一帯の空気を凝結させる。ぞくりとイールオルフェノクが肌を粟立てた事に、当の少年は果たして気付いているか。

〖解りきった事をべらべらと――うるさいんだ、あんたは〗

 ゆらりと雀蜂が立ち上がる。その様はまるで立ち昇る陽炎の如くに。夢と現の狭間に在るような、酷く現実感に欠ける挙動で。
 雀蜂の複眼に光は無い。正面に立つ敵の姿を認識しているのかどうかすら曖昧だ。だがその奥底に、凶悪な殺意が熾火のように燃えている。
 イールオルフェノク個人に向けたものでありながら、しかしその実、目に映る全てのものへと向けられた殺意。誰も彼もを区別無く、ただ生きているというだけで存在を許さない、不寛容の極北。

〖ああ、そうさ。僕はオルフェノクだ。どんなに目を背けても、もうオルフェノクでしかないんだ。全部解ってたんだよ。あの人達は僕を人間と思ってるから優しくしてくれて、僕はそれに甘えて乗っかって……結局そのせいで、もうあの人達に合わせる顔もなくなってさ〗

 けどな、と雀蜂が言葉を継ぐ。
 熾火の殺意が劫火となって、眼前の敵を灼き尽くす。

〖あんたには関係の無い事だろうが。僕がもう人間じゃなくても。オルフェノクとして生きるしかなくても。それは僕だけの問題で――あんたが! あんたらが! 首ィ突っ込む事じゃないんだよ!〗

 そう、関係無いのだ。例え少年をこの世界に連れてきたのが彼等であっても。少年の命を狙い、何人もの刺客を送り込んできたとしても。
 少年は決断した。諦めた。オルフェノクとして生きる事を決断し、人間としての自身が積み上げてきた一切を諦めて、切り捨てた。それは結城衛司という“一個”が自身の意思で選択し決定した事であって、そこに他人は、他のオルフェノクは何の関係も無い。
 切っ掛けであり、発端であり、主因であっても……それだけだ。
 何の権利があって――僕の中に、踏み込んでくるんだ。

〖帰れ! 帰ってくれよ! あんたと話す事なんか無いし、あんたに付いていく気なんか無いんだ!〗
〖……出来ないと、言ったら?〗
〖言えるものなら――言ってみろッ!〗

 撃鉄が落ちる。
 結城衛司を辛うじて人間に留めていた何かが、奇怪な音を立てて剥がれ落ちていく。その向こうに覗いているのは、酷く歪で醜く歪んだ、雀蜂の本能。

 それは今まで、幾度と無く行われてきた事。バイソンオルフェノクと戦った時も、コングオルフェノクと戦った時も、そうして彼は裡に眠る殺傷本能を引きずり出す事で勝利を収めてきた。
 だがそれは常に、生存を望む欲求がそうさせたというだけの事であって、自身の意思で自身の身体を本能に委ねた事など、これまでにただ一度として無かった。

 だから今、自発的にそれを行ったという事は――彼が後戻りという選択肢を放棄した事を意味している。
 べきべきと変形する外殻。より鋭角的に、より攻撃的に。総身に鋭い棘を纏ったその姿は、最早雀蜂と呼ぶのもおこがましい、まさしく怪物としか評しようのない異形であった。
 激情態。オルフェノクという生物が到達し得る、一つの極み。
 その方向が正であれ負であれ、極まったものにはある種の風格が漂う。禍々しく変貌した雀蜂の総身から放射されているのも、その一種と言えた。

〖――素晴らしい〗

 ぽつりとイールオルフェノクが零した、次の瞬間――彼の身体は路面に叩きつけられていた。
 総身がアスファルトに打ち付けられ、体内の空気が根こそぎ絞り出される。衝撃が彼の内臓を容赦なく打ちのめす。なまじ攻撃を受け流す外皮を持っているだけに衝撃への耐性は低く、ただ一撃で、イールオルフェノクの身体は悲鳴を上げていた。

 無論、それは雀蜂には判らぬ事であり、斟酌する事でもない。彼はただ敵に接近し、上方から腕を振り下ろしただけだ。
 拳ではない、腕そのものを鞭のように撓らせて叩きつける、術も技もない原始的で野蛮な一撃。本来であれば鰻の外皮に滑って逸れるだけの攻撃を、彼は確信を持って繰り出していた。事実、その確信通りに彼は鰻を地に叩き伏せている。過信でない事は証明されている。

 何の事はない。それは確信や過信などという言葉を使う必要すらない、理の当然であった。
 確かに鰻の外皮はあらゆる攻撃を滑らせ逸らす。だがそれとて限界はあるのだ。質量、速度、威力。攻撃に内包されるその全てに捌ける限界値があり、ホーネットオルフェノク激情態の攻撃が、その限界値を超えていただけの事。
 弾丸は逸らせる。拳も、剣撃も。だが津波や土石流といった自然災害までをも、滑らせ逸らす事は出来ない――激情態を解き放った雀蜂の攻撃は、それら災害に匹敵するレベルの脅威であった。

〖……はっ〗

 思わず漏れた低い笑い声は、紛う事なく歓喜のそれだ。
 力を振るう事。誰かを傷付ける事。人間の良識に抑圧されてきた、オルフェノク本来の衝動を存分に振るえる事。それが歓喜でなくて、何と言う。

 半ば地面にめり込んだ状態のイールオルフェノク、その背中を、雀蜂は容赦無く踏みつける。否、踏み潰す。一度ではない、二度、三度と連続して、虫けらでも踏み潰すように虫けらが敵を踏み潰す。
 なすがままに踏みつけられ、その身を地面に埋め込まれていくイールオルフェノクだったが、雀蜂の攻撃はそれに留まらなかった。完全に地面――砕け割れたアスファルトから覗く大地――に埋まった鰻を、その頭部を鷲掴みにする事で引きずり出す。
 だらりと四肢を投げ出したイールオルフェノクの姿は死体を彷彿とさせたが、しかしオルフェノクの死に必ず付随する蒼炎は見られない。故に鰻は未だ生きており、雀蜂は生きている相手を殺し尽くすまで止まらない。

 がづん、と掴んだ頭部を近くの壁に打ちつける。人間であれば鼻が潰れていただろう。戦意を喪失させるだけならば充分、だが雀蜂の目的があくまで殺人に――それに伴う破壊にある以上、それだけで済むはずがない。
 恐るべき事に、雀蜂は敵の顔を壁に押し付けた状態で、そのまま横方向へ走り始めたのだ。壁で相手の顔面を摩り下ろしている。いかにオルフェノクとは言っても耐えられるものではない、壁と鰻の顔面とで激しく火花が散り、びくんびくんと鰻の四肢が痙攣する。

〖がっ……ぎ……ぎゃぎっ……!〗

 火花に混じる苦悶の呻き。無論、雀蜂がそれに頓着する事もない。
 だが次瞬、雀蜂はやおら鰻の後頭部から手を離し、身を翻して跳躍。いっそ優雅とも言える挙動で地へと降り立てば、それと同時、目も眩まんばかりの雷光が地から天へと逆様に迸る。
 イールオルフェノクがその身に宿す電気鰻の特質。猛り狂う雷の向こう側に、立ち上がるヒトガタが見える。どれだけのダメージが刻み込まれたのか如実に見て取れる、酷くよろめきながらの佇立であったが、そうであるからこそ、未だ衰えぬ敵の戦意が窺えた。

〖そうです……それで良い、結城衛司君。楽しいでしょう? 嬉しいでしょう? オルフェノクというのは――気分が良いものでしょう〗
〖うるっさいなあ――まだ、喋れるんだ〗

 既に会話は噛み合わない。
 この期に及んで尚、イールオルフェノクはホーネットオルフェノクへの勧誘を諦めておらず、対してホーネットオルフェノクはイールオルフェノクをただ排除すべき対象としか認識していない。壊れたラジオと同列だ、耳障りなノイズを撒き散らしているのだから、電源ごと粉砕する他に処方がない。
 それが容易い事とは言わないが、それでも、困難を感じていないのは確かだった。

〖死ねよ、お前。もういい加減、死んでしまえっ!〗
〖結構! ならば断ち切ってご覧なさい! それこそオルフェノクとして正しい在り方と、私の命を奪って学ぶが良いでしょう!〗

 是非も無し。
 両の手に騎兵槍を握り締め、雀蜂は鰻に襲いかかる。鰻もまた電流火花を総身に弾けさせ、雀蜂を迎撃するべく構えを取った。

 雀蜂は鰻しか見ておらず、
 鰻は雀蜂しか見ていない。

 他に気を取られる余裕はない。そも、オルフェノク二匹の殺し合いに割って入れるような存在など、そう滅多に居るものではない。それが今、この場に現れるなどという御都合主義を、どうして想像出来ようか。
 彼等が互いの敵以外を意識から締め出すのは至極当然で、故に彼等は、その御都合主義への反応も、対応も、それを実行するまでに一瞬の時差を生んでしまった。

〖!?〗

 不意に襲ってきた横合いからの衝撃が、今にもイールオルフェノクに襲い掛からんとしたホーネットオルフェノクの身体を弾き飛ばした。
 それが全く想定外の事象だったせいか、雀蜂はなすがまま衝撃に弾かれ、地面を転がる。体勢を立て直すまでの一瞬で、彼は自分の身に何が起こったのかを把握していた――横合いから突っ込んできた何者か・・・が、自分の腰に体当たりを喰らわせたのだ。

 しかし、一体誰が。

 オルフェノク同士の殺し合いに割って入った馬鹿者の姿を視界に収めようと、雀蜂が顔を上げる。と同時に身体は騎兵槍を構えていた。闖入者の誰何など元より思考になく、ただその心臓を抉り貫く為に、彼は身体を駆動させる。
 だが。


 ――瞬間、時間が止まった。


 無論止まったのは雀蜂に……結城衛司にとっての相対的時間であって、絶対的な時間は何一つ変動してはいない。だが、だからこそと言うべきか、少年は自身の時間が止まった事を痛烈に意識させられる事となった。
 騎兵槍を取り落とす。のみならず、雀蜂の姿も消失する。オルフェノクとしての異形が消えて失せる。そこに残るのは、どこにでも居るただの少年。ホーネットオルフェノクではない、ただの結城衛司と成り下がった少年が、一歩、気圧されるように後ずさった。
 瞠目する少年。その目に映るのは、紫がかった藍色の髪。―― 一人の、少女の姿。

「ギンガ……さん」

 それは切り捨てたはずの昨日。
 塗り潰したはずの思い出。
 つい先程固めたばかりの決意が、オルフェノクとしての自身を肯定するという決断が、音を立てて罅割れていく。

「衛司くん――やっと、見つけた」

 安堵のような、喜悦のような。
 どうにも判然としない、複数の感情が入り混じるギンガ・ナカジマの表情は――少なくとも結城衛司にとっては、最早悪夢でしかなかった。





◆      ◆







 ティアナとスバル、そしてギンガがミッドチルダ東部の地方都市へ辿り着いた頃には、既に日は大きく西の空に傾いていた。
 出来る事なら、夜になる前に衛司の居所を掴んでおきたいというのがティアナの本音だった――別段、大した意味や理由があっての事ではない。言ってしまえば漠然とした予感からの事。

 どこの次元世界でもほぼ共通の認識として、夜とは人外、物の怪、魑魅魍魎が跋扈する時間帯。現状のミッドチルダではそこにオルフェノクも含まれている。彼等が人外である事は論を俟たず、その生態が判然としていないのだから、それも無理からぬ事。
 ティアナもまた例外ではない。直に訪れるであろう夜闇に紛れ、あの少年が再び姿を晦ましてしまうのではないかと、そんな予感があったのだ。

 これが昨日までの衛司であったなら、或いはその心配もなかったかもしれない。だが今の彼はその本性を他人に知られてしまっている。秘密を暴かれてしまっている。
 彼は最早、オルフェノクの本性を隠そうとはしないだろう。その本能に則ってその能力を行使し、怪物の住処たる夜闇へ消えていく。そうなればティアナ達に追う術はない、陽の当たる世界に生きる彼女達には、夜闇を進む術がない。
 だから、夜までに捕まえておきたかった。出来る限り早くに、あの少年を取り戻しておきたかったのだ。

「まったく、あの馬鹿ときたら……!」

 夕暮れの街を走り回りながら、ティアナは毒づく。尤もそれは怒りや苛立ちではなく、呆れが表立った呟言であったのだが。
 彼が逃げ出した理由は、概ね想像がつく。大方、自分の正体が知れれば、人外生物である事を理由に迫害されるとでも思ったのだろう。その恐怖は確かに理解出来なくもない……いや、ティアナだからこそ理解出来る面も、少なからずある。

 もう数ヶ月も前の事になるか。ティアナ達、機動六課フォワード陣が初めてオルフェノクと遭遇した時。その時に出遭ったオルフェノクこそ、結城衛司の本来の姿であったのだ。
 そうと知らず彼女達は衛司を、雀蜂を追い回し、挙句重傷を負わせている。オルフェノクとは総じてこのように遇されるものと彼が考えたとしても、何らおかしくはない。
 省みれば、六課に来た当初の彼が、ああもティアナ達フォワード陣を避けていたのは、その一件があったからこそだろう。自分を殺そうとした相手と――相手の側には自覚がないとは言え――すぐ近くで一緒に暮らしていて、平然としていられる方がおかしい。

「……いやでも、黙っていたやつが一番悪いでしょ」

 そう、悪いのは衛司だ。自己弁護ではない、ごく客観的な視点から見て、非は結城衛司の側にある。
 言い出せなかった心情は理解出来るが、被害に遭った事実を隠して被害者面されても挨拶に困る……まあその辺りは衛司も解っていたのだろう、だから彼はただ、ティアナ達を避けるという処方しか出来なかったのだ。それがどうしようもなく下手くそだったというだけで。

「ティアー!」
「ティアナ!」
「スバル、ギンガさん……そっちは!?」

 手分けして街中を探し回り、聞き込みを行っていたティアナだったが、日が完全に落ちる前に一度集まろうという念話に従って集合場所へと赴く。
 丁度スバルやギンガも集合場所に辿り着いたところであり、その表情を見れば、問うまでもなく聞き込みも捜査も芳しい結果を上げていない事が窺えた。

「だめ。目撃者とかもぜんぜんいないよ」
「やっぱりか……まあ目撃証言があったのも明け方だっていうし、当然と言えば当然なんだけど……」

 そも、その目撃証言とて、本当に結城衛司を見たというものであるのか定かではない。患者衣を着た少年の姿が目撃されたというだけで、それが衛司本人であるのかどうかは不明なのだ。
 この街に赴いて、真っ先にティアナが行ったのはそれを証言した人物への聞き込みだったのだが、結局それが衛司であるという確証は得られなかった。藁にも縋る気持ちで周辺の聞き込みを続けていたものの、そのことごとくが空振りに終わり、焦りだけを募らせていく。

「……もう少し、探してみましょう」
「ギンガさん……」

 だがティアナの焦りなど、ギンガのそれに比べればまるで取るに足りないものだ――平静を装いながらも、まるで装いきれていないその横顔が、ティアナにそれを悟らせる。

 ……あの少年は、本当に自分勝手だ。改めて、ティアナはそう思う。
 秘密があるのは仕方ない。それを話せなかったのも理解出来る。だが衛司の方だって、秘密が望まぬ形で明るみに出る事を、今の様な状況になる事を、容易に予測出来たはずなのだ。
 ギンガがこんな顔になる事を――予想出来たはずなのだ。
 自分だけの不幸に浸かって、他人の事を見ていない。ギンガの事を見ていない。その無神経さが、どうしてもティアナには許せない。
 いずれ見つけ出したら一発……いや十発、いやいや百発くらいひっぱたいてやる。そう決める。

 だがそれも、衛司を見つけ出してからの事。
 今はどうやってあの少年を探し出すかが問題で、とりあえず、もう少しこの辺を探してみようというギンガの判断は間違いではない。他に手掛かりがないのだ、虱潰しにこの辺りを探すしか、彼女達には出来ないのである。
 大きく頷いて、再度散開しようとした、その時。

「!」
「わっ!?」

 不意に轟いた爆発音に、ティアナとスバル、ギンガ、そして周辺を歩く人々が振り返る。何かの事故だろうか、数百メートルほど離れた区画で爆発が起こったらしい。火の粉が混じった黒煙が夕闇の空へと立ち昇るのが見て取れる。
 思わず、少女達は顔を見合わせた。その爆発が何を意味しているのか、彼女達は直感的にそれを悟って、次の瞬間には一斉に走り出していた。

「スバル! ギンガさん!」
「うん!」
「ええ!」

 デバイスを展開し、バリアジャケットを纏ったスバルとギンガが、ほぼ同時にウィングロードを展開する。空色と紫色に輝く光帯が、爆発に驚いて立ち止まり、或いは野次馬根性で爆発の方向へと向かい始めた通行人の頭上を飛び越しながら伸びていく。
 ティアナもまたバリアジャケットを展開し、クロスミラージュをワンハンドモードで起動。空いた片手をスバルに引っ張られながら、爆発の現場へと急行する。

「ギン姉、先行って! あたしとティアもすぐに行くから!」
「スバル……うん、ありがと!」

 加速力や最高時速の面では、スバルのマッハキャリバーもギンガのブリッツキャリバーもそう大差はない。
 だが今のスバルはティアナを引っ張っている、その分、加速や最高時速への到達が遅れるのは必然。足並み揃えて現場に向かう余裕がない以上、ギンガを先行させようというスバルの判断は、決して間違っていない。

 ギンガも妹の判断が正当である事を承知しているのだろう、礼を一つ残して、一気に加速していく。
 やがて進行方向、爆発の起こった建物から程近い区画で、更なる轟音が鳴り響いた。百の落雷を束ねたような、空気と鼓膜を諸共に劈く爆音。
 見上げれば、裏路地と思しきどこかから稲光が頭上の空へと駆け上がっていく様が目に入る。物理法則を無視した雷に、ティアナ・ランスターは憶えがあった。

「あの時のオルフェノク……! あいつも来てるのね」

 鹿撃ち帽にインバネスコート、古い推理小説に出てくる探偵の様な出で立ちをした、鰻のオルフェノク。ティアナ達をまんまと出し抜き、衛司の確保にあと一歩とまで迫った彼が此処に来ていると、ティアナは確信していた。
 恐らくは、既に衛司と接触している事だろう。先の爆発、そして今の逆しまな稲光は、きっと衛司とあの男との戦闘によるもの。オルフェノク二体が戦闘状態に入っているというのなら、この程度の現象は、その余波として納得出来る。
 衛司は此処に居る。すぐ近くに居る。ティアナはそれを確信していた。

「スバル、そこ! その建物に入って!」
「え、でも、ギン姉は――」
「いいから!」

 元よりティアナの指揮に是非を問うスバルではない、疑義を呈しつつも身体はそれに従う。
 ギンガが飛び込んでいった路地の手前、古い雑居ビルの中へと、二人は飛び込んで――ウィングロードを縦横無尽に展開し、一気に屋上まで駆け上がった。

「次は!?」
「そのまま真っ直ぐ! 上から行くわよ!」

 実際、その指示の後半部分は必要無かった。指示を仰いだ時点でスバルはティアナが次に言ってくる事を予測しており、真っ直ぐとティアナが口にした時には既にウィングロードを直角に折り曲げて、ギンガが飛び込んでいった路地へと上方から突っ込んでいたのである。
 遊園地の絶叫マシンさながらの――無論、安全ベルトなど有りはしない――急斜角は、路地で繰り広げられている状況を真正面から彼女達に捉えさせた。
 そこに居るのは予想通りに雀蜂のオルフェノク、鰻のオルフェノク、そしてギンガ・ナカジマの、二匹と一人。ギンガが雀蜂にタックルをかまして弾き飛ばし、唐突に邪魔が入った状況に硬直していた鰻が、闖入者を排除せんと動き出した、まさにその瞬間であった。

「シュートっ!」

 すぐさまティアナは魔力弾を生成、即座に撃ち出す。狙いは鰻の眼前、動きを縫う為の弾丸だ。果たしてそれは見事功を奏し、頭上から鼻先を掠めて地を穿つ弾丸に、鰻が思わずたじろいだ。
 その隙にティアナとスバルは鰻の前に降り立つ。ギンガと雀蜂を背に、彼女と彼を守るようにして立ち塞がる。

 ちらりと横目で背後を窺えば、そこにはもう雀蜂はいなかった。そこに居るのはただの人間、ティアナ達が……いや、ギンガが捜し求め駆けずり回っていた“理由”である、一人の少年だった。
 何かを言おうとして、止める。この少年に最初に声をかける役は、ティアナ・ランスターのものでは無い。勿論スバル・ナカジマのものでも無くて、更なる闖入者に憤っていると知れる鰻のものでもなく。

「衛司くん――やっと、見つけた」

 ギンガ・ナカジマの他に、相応しい者は居ない。
 だがギンガの言葉に、衛司の反応は異常だった。目を見開き、歯を食い縛り、総身をがたがたと震わせ――恐怖を堪えるかのように、悪夢を見た後のように、慄いている。
 何故、そんな目でギンガを見ているのか。浮かんだ疑問は、しかしすぐに答えが出た。
 先端技術医療センターにおける戦闘で、彼の正体が暴かれる切っ掛けとなったのが他ならぬギンガであり、そしてギンガに正体が知られたと悟った時、彼が見せた反応を思い返せば、今の反応もむしろ当然と言えた。

 ざり、と少年が後ずさる。逃げようとしている。だがそれを留める事は、ティアナには出来なかった。
 そも、何と言って引き止めれば良いのか。つい先程まではぶん殴ってでも連れ帰ると息巻いていたティアナだったが、いざ少年を前にした今、彼のあまりにも――怪物らしからぬ――弱々しさを目の当たりにして、暴力に訴えるという選択肢は完全に頭から抜け落ちていた。

「――逃げるんですか」

 その時。低く抑えた声が、静かな言葉が、今にも踵を返し逃走に入らんとしていた結城衛司の足を止めた。
 言うまでもなくそれはギンガの言葉。安堵のような、喜悦のような、泣き笑いにも似た表情はもう、どこにも無い。
 決然と少年を睨み据え、仁王立ちになって少年の進路を阻んでいる。

「逃げ……違う、僕は、ぼく、は」
「そうやって! 嫌な事から、面白くない事から、望ましくない事から、このわたしから――逃げるんですか! 衛司くん!」

 ギンガの激昂に、衛司は思わずびくりと身を震わせて――顔を見られたくないと言わんばかりに、或いはギンガの顔を見たくないと主張するかのように、両手で顔を覆った。
 いや、覆うと言うよりはむしろ、押さえ付けていると言うべきか。十指の先は顔に、頭に食い込んでおり、己の頭を握り潰そうとしているかのようだ。
 指の隙間から見える眼球はぎょろぎょろと忙しなく動き回っていて、がちがちと歯を噛み鳴らす音がここまで聞こえてくる。

 ギンガの言葉は間違いなく衛司に届いている。だが、だからこそ、それは彼にとって糾弾の言葉でしかなかった。罪人に下される判決でしかなく、咎人へ投げつけられる罵言でしかなかった。
 そうではない。ギンガが言いたいのは、望む反応は、それではない。彼女の言葉は決して間違ってはいなかったが、少年へのアプローチという目的からすれば、それは明らかに失敗だった。

 だから、ギンガは言葉を止めた。
 どうすれば良いのか、何を言えば良いのか、もう一度考え直すように瞑目する。しかしそれも僅かに一瞬、目を見開いた彼女は、すうっと大きく息を吸い込んで――

「えっと、その、…………この、へ、へ、へたれ!」

 ぴたりと。
 衛司の震えが――止まった。

「へたれ、負け犬、根性なし! だ、駄目キャラ、腰抜け、臆病者、甘ったれ、……えっと、えぇっと……!」
「……………………」

 少年は何も言わない。
 代わりという訳でもないが、ティアナとスバルが、同時に吹き出した。まさかそう出るとは。ギンガの判断に納得して、けれど顔を真っ赤にし慣れない罵倒を必死になって紡ぎ出すギンガの姿に、場違いながらも思わず吹いてしまったのだ。

 予想外ではあるが、成程効果的だろう。ティアナでもなくスバルでもなく、ギンガが言うからこそという面はあるだろうが、その効果はまさしく覿面。
 他人の悪口なんか言った事もないだろう少女が、少年の為に無理矢理罵詈雑言を捻り出す。だがそれも直にネタ切れ、程無く言葉に詰まってしまったが、そこまでで充分と考えたか、彼女は改めて眦を決し、少年に向き直った。

「く、悔しかったら――かかってきなさい! 黙らせてみなさい! 出来るものなら、ですけど!」
「……上等だ」

 少年はもう震えていない。怯えてもいない。
 顔を覆う手をゆるりと下ろして――ぐしゃぐしゃに崩れた表情を怒りという感情に統一して、彼は本性を顕す。どこにでも居そうな、ごく平凡な少年の姿が一瞬にして『灰色の怪物』へと変貌し、異形の雀蜂が現出する。
 激情態でこそないものの、人間一人を殺すには充分過ぎる、暴力の塊に。
 そうして衛司は、ホーネットオルフェノクはギンガへと一歩踏み出して。

〖黙らせてやるよ! ギンガ・ナカジマぁっ!〗
「出来るものならと言ったでしょう――出来っこないですけどね! 今の衛司くんなんかにはっ!」

 二歩目で少女を間合いに捉え、猛速の拳を突き出した。
 迎撃に奔る左腕の鋼拳。高速で回転する歯車が雀蜂の拳を逸らし、体勢を崩したところにギンガは遠慮のない蹴撃を叩き込む。砲弾よろしく緩い放物線を描いて吹っ飛んでいく雀蜂、だが地面に叩きつけられるよりも早く彼は中空で体勢を立て直し、無事に着地した。
 だがそれでお終いなはずもない。雀蜂が着地すると同時、今度はギンガが雀蜂へと距離を詰めていく。

〖な――ま、待ちなさい! 何を勝手な事を――〗

 当然、役割を奪われた形となるイールオルフェノクが、それに黙っているはずもなかったが。
 その機先を制して足元に弾丸が撃ち込まれれば、それを無視する事も出来ない。

「勝手はそっち。悪いけど、あいつと“お話”するのはこっちが――じゃないわね、ギンガさんが先約なの。割り込みはマナー違反よ、オルフェノク」
「ギン姉の邪魔はさせないよ。衛司くんはあたしたちと一緒に、六課に帰るんだ!」

 ぎ、と鰻の歯軋りが聞こえてくる――歯どころか口すらどこにあるのか判らない面貌のオルフェノクだから、それは少しばかり違和感を伴うものであったのだが。

 ともあれ、イールオルフェノクは目的達成の為には、まず目の前の少女達を排除しなければならないと理解したらしい。遠ざかっていく雀蜂から、ティアナとスバルの二人へと意識を切り替えたのが見て取れる。
 無論、ティアナとスバルにとっては、願ったりの展開である。ギンガと衛司が“対話”する為の時間稼ぎは元より、二人ともに敗北を敗北のまま放置出来るような性格では無く、この展開は先端技術医療センターでの屈辱を晴らす絶好の機会であるのだから。

〖結構。ならば実力でもって押し通るまでです! 今度は手加減致しません、見逃しも致しません! 障害と見做し排除させて頂きます!〗
「手加減しないのは、こっちも同じ!」
「前と同じと思ってたら、痛い目みるわよっ!」

 瞬間、既にティアナの周囲に形成され、射出の時を待っていた魔力弾が、一斉にイールオルフェノクに向かい加速した。
 ティアナ・ランスターの十八番、誘導射撃魔法クロスファイアシュート。橙の魔弾が十五発、前後左右に上下を加え、三百六十度あらゆる方向からイールオルフェノクに襲いかかる。

 だがそれに対して、鰻は何一つ防御行動を取らなかった。その身に備えた特質、万物を滑らせ逸らす皮膚。それ一つだけで魔力弾の全てを捌ききる目算なのは明らかだった。
 実際、それで充分なのだ。ティアナの魔力弾は確かに数が多く、その一発一発が硬度・速度共に一級品。平凡なオルフェノクであればそれなりの脅威であるのだろうが、しかしイールオルフェノクの皮膚はそういった“点”の攻撃にこそ効果を発揮する。
 これを破ろうと言うのなら、それこそホーネットオルフェノク激情態のように、圧倒的なまでの暴力が必要となる。だがティアナの弾丸にそこまでの威力は望めない。魔導師としては確かに一流であったが、それ故、常識を逸脱する程の威力は持ち合わせてはいないのだ。

 だが、それで構わない。ティアナの狙いは自身による敵の制圧にないからだ。
 ティアナの仕事は――別にある。

〖!〗

 がががががん、と連続して魔力弾が地面を穿つ。僅かに遅れてくぐもった爆発音。更に一拍遅れてイールオルフェノクが体勢を崩した。路面に撃ち込まれた魔力弾がアスファルトの下で炸裂、急激に陥没・隆起した足場が体勢を崩させたのである。
 ただ立っているだけならまだしも、突然変動する足場へ即座に、かつ疾走中に対応出来る者などそうは居ない。走る勢いも相俟って、イールオルフェノクは倒れ込むように地面に手をつき、そしてその隙を見逃す事なく、スバル・ナカジマが突貫する。

「やぁああああああっ!」

 咆哮と歯車が空気を引き裂き、圧縮された魔力が彼女の右拳で唸りを上げる。
 先手を奪われたイールオルフェノクは慌てて体勢を立て直すが、それでも、彼にはまだ余裕が窺えた。

 ティアナの魔力弾同様、スバルの攻撃もまた通じない。それは先端技術医療センターでの戦闘で証明されている。イールオルフェノクの基本戦術にして必勝パターン、敵の拳を皮膚で滑らせ、カウンターの打撃を叩き込む――今回も変わらず、彼はそれを遂行するつもりでいる。
 ティアナの顔に浮かんだ笑み、敵が自身の策に嵌まったと確信する笑みを、彼は見逃していた。

「はぁっ!」
〖甘い!〗

 螺子のように腰の回転を使い、弧を描いて迫る一撃を鰻は肩口に当てる事で受け――そして予想通り、それは鰻の皮膚に滑って逸れる。腕に引っ張られる様にしてスバルは体勢を崩し、そこを狙い済ましてイールオルフェノクのカウンターが、

〖――ぐほぁっ!?〗

 カウンターが、放たれなかった。
 口元から赤黒い体液を吐き散らし、イールオルフェノクはその場に蹲る。盛大に咳き込みながら顔を上げた彼の表情は、相変わらず怪物然とした無機質なものではあったが、その視線が混乱と疑問をありありと表していた。

「スバルっ!」
「うん!」

 無論、それに一々答えてやる程、ティアナは親切な人間ではない。少なくとも、目の前に敵を置いた状況下で詰めを誤る間抜けではなかった。
 ティアナの指示に呼応し、スバルが再度イールオルフェノクへ襲いかかる。未だ思考は混乱したままだろう、しかしそれでも、迫るスバルを脅威と認識したか、よろめきながら鰻は立ち上がり、構えを取った。

 繰り出される蹴撃。人間相手なら首から上を刈り取られているであろう猛速の蹴りが、鰻の側頭部を目掛けて奔る。普段ならば碌に防御もしない鰻であるが、やはり先の一撃が尾を引いているのだろう、咄嗟にしゃがみこむ事でそれを回避する。
 だがそれによって、彼は反撃の機を逸した。攻撃を滑らせる皮膚に頼っていた弊害か、慣れない回避行動が、彼の挙動を大きく縛ってしまったのだ。
 故に、続く攻撃を、彼は躱す事が出来ず。

〖がふぅっ!?〗

 腹腔から空気を絞り出すような悲鳴を上げて、イールオルフェノクは吹っ飛ばされる。碌に受身も取らず、地面に叩きつけられたところを見れば、甚大なダメージを負った事はすぐに知れた。
 スバルはそれ以上追撃せず、その場に留まった。元より彼女達の目的はオルフェノクの殺害・排除にない。究極的にはギンガと衛司の対話が終わるまでの時間稼ぎが出来れば良いのだから、無闇に突っ込む愚は犯さない。

「……調子は?」
「だいじょーぶ。問題ないよ」

 そう、と短く応えて、ティアナはちらりとスバルを――スバルの右腕に装備されたリボルバーナックルを見遣る。
 ……イールオルフェノクの体表、攻撃を滑らせ逸らす皮膚。先端技術医療センターの戦闘でそれに苦杯を喫して以降、ティアナはそれへの対処を考え続けてきた。

 生半な攻撃は逸らされる。対抗するとすれば、高町なのはの砲撃など問答無用の大威力砲撃……つまり点では無く面の攻撃か、点であっても圧倒的な破壊力を持つ一撃。
 だがティアナには、どうやってもそれは生み出しようがない。彼女の使える砲撃魔法で敵の防御を抜けるかどうか、はっきり言ってしまえば自信がなかった。
 スバルの砲撃なら或いは。そう思ったものの、鰻の皮膚がどこまでの威力を逸らせるのか不透明な以上、それが通じない場合の策は用意しなければならない。

 そうしてティアナが出した結論は――スバルの身に備わった特殊能力、戦闘機人としての先天固有技能、『振動破砕』の応用であった。
 『振動破砕』によって作り出したエネルギーを拳に圧縮、それを叩き込むスバルの必殺技、振動拳。これならば、例え滑って逸れたとしても、拳に纏った振動エネルギーが敵の体内に浸透し、ダメージを与える事が出来るのではないか。そう考えたのである。
 それも、滑り易い“拳”では無く、より敵の体表に密着する“掌”だったなら。“殴る”ではなく“叩く”であるのなら、衝撃はより浸透しやすくなるはず。言うなれば振動拳ならぬ振動びんた。
 その読みが的を得ていたかどうかは――結果が証明している。

〖ぐぅう……や、やってくれますね、人間風情が……!〗
「そうやって、相手を見下すからそうなるのよ。オルフェノクの欠点よね――足元を見なくなるから、足を掬われる」

 それはきっと、あの少年にも言える事なのだろうが。

〖何故邪魔をするのです。彼はオルフェノクだ。我々の同族なのですよ。生きる世界が違う、生きる場所が違う……彼の為を思うならば、彼のより自然な在り方を考えるならば、彼は私と共に来るべきと――〗
「……それ、衛司くんがそう言ったの?」

 不意に横合いから口を挟んだスバルに、ティアナは思わず敵から視線を切って、彼女の顔を見詰めた。
 スバルもギンガも、会話の時は常に相手の目を見て話す。今も同じだ。誤魔化しや韜晦を許さない真っ直ぐな視線が、イールオルフェノクを真正面から見据えている。

「衛司くんが考えて、衛司くんが決めたのなら、それはしかたないって思うけど――あなたの言ってる事、『衛司くんがどうしたいのか』をぜんぜん考えてないよ」
〖……彼の、意思など〗
「あたしは衛司くんに帰ってきてほしい。戻ってきてほしいし、今年の四月までしかないけれど、また一緒に六課で過ごしたい。けどそれはあたしのわがままだよ。あたしのわがままで、衛司くんを連れ帰るんだ。衛司くんの為だとか、そっちの方が自然だとか、そんな言い訳はしないし、したくない」
〖い、言い訳だと……!?〗

 ティアナ・ランスターの中での定義。
 洒落で済ませられる範囲のエゴイズムを『魅力』と言い、それが許容される度合いを『人徳』と言う。
 スバルはどちらも持っている。ギンガにしてもそうだ。だから彼女達の回りには人が集まって、ティアナもその一人であり、結城衛司もその一人であったはず。
 少しだけティアナは目を伏せて、そうして改めて、敵を見据え口を開いた。

「そうね。スバルの言う通りだわ――あんたのそれは、ただの言い訳。てか、嫌なら力尽くでも拉致ってくって姿勢の癖に、なんでそれを正当化しようとするわけ? そうするのがあいつの幸せみたいな言い方するわけ? オルフェノクには“みっともない”って考えがないの?」

 挑発的な言であったが――事実、それは挑発以外の何物でもなかったのだが――しかし紛れもない、ティアナの本音であった。
 それだけ、彼女は苛立っていたのである。目の前のオルフェノクに。あの少年に。
 果たしてティアナの挑発に、イールオルフェノクはいとも容易く激昂した。オルフェノクの優位性を盲信するが故に、それを否定されて、黙ってはいられなかったのだろう。

〖連れ帰ったところで結果は見えている! 人間とオルフェノクは既に別種の生物だ! このまま貴方達と共に居たところで、いずれ破綻は避けられない!〗
「もしそうだったとしても! それはあたしと、ティアと、ギン姉と、エリオとキャロと六課の皆と――衛司くんとで決める事だよ! 最初っから『どうせ駄目だ』なんて考えで、友達になんかなれるもんか!」
〖もう良い――もう結構! 貴方がたとは言葉が通じない!〗

 そうして鰻は会話を打ち切った。ばちりと火花が彼の周囲で散る。猛る戦意がそのまま具現化されたかのようで、必然、ティアナ達も身構える。
 恐らくは電撃。先日の戦闘でティアナ達を戦闘不能に追い込んだそれを、今度は戦闘不能どころではない、必殺の威力を以って放つつもりだろう。対策は用意してあるものの、過信は出来ない。相手の最大電力がどれほどであるのかが判らないのなら、尚更。

「スバル、解ってるわね」
「うん。先行くね――あとをお願い、ティア!」

 雷を落とされるまで、安穏と待っているつもりは毛頭無く。
 飛び出したスバルのその背を睨みながら、ティアナもまた、“策”の為に行動を開始する。

〖丸焦げにして差し上げましょう! 戯言を並べる、その舌根ごと!〗

 火花が束ねられていく。夕暮れの薄闇を反転させる雷光は、迫るスバルに向かってまさしく雷速で降り注いだ。
 瞬きにも満たない一瞬に、雷はスバルの姿を包みこむ。その瞬間、イールオルフェノクが勝利を確信した事を、ティアナは察知していた。石膏像のように表情の変わらないオルフェノクの顔が、それでも確かに喜悦に歪んだと見て取ったのだ。
 その反応こそ、ティアナ・ランスターが待っていたもので――故にこの瞬間、ティアナ達の勝利が確定する。

〖!?〗
ぃいやぁっ!

 スバルを飲みこみ、次はその後方のティアナをも薙ぎ払わんとする雷光。だがそれが、斬り付ける様な裂帛と共に弾き散らされる。
 その中心に居たのは、言うまでもなくスバル・ナカジマ。バリアジャケットのところどころが焼け焦げ、白を基調としたそれを斑に染めているものの、五体満足に健在な彼女の姿だった。
 特筆すべきは、その両足首に橙色の紐が絡み付いている事。その紐の一端が、直下の路面に打ち込まれている事。スバルを路面に縛り付けるかのようなその光紐の意味を、鰻はすぐに悟ったのだろう、愕然とティアナへ視線を向けてくる。

 イールオルフェノクの電撃攻撃に対して、ティアナは幾つかの防御策を用意していた。バリアジャケットの耐電性能強化は言うに及ばず、バリア系防御魔法の同時展開、更にはバインドによる電気の拡散――つまりは“アース”を繋げる事。
 オルフェノクの能力で発生したものとは言え、電気は電気。流れ易い方に流れるのは道理で、耐電性能を高めたバリアジャケットよりも、通電し易く調整したバインドを伝い地面に流れる方が、遥かに容易い。

 つまるところ、イールオルフェノクは相手に手の内を見せ過ぎたのだ。自分の手札を晒し過ぎたのだ。
 攻撃を滑らせる皮膚も。
 脅威足り得る電撃も。
 それを伏せておくからこそ、有効に作用するというのに。
 逆説。それを相手に、ティアナ・ランスターに見せてしまった以上――自分の手札を相手に見せて、その上で再戦の機会を与えてしまった以上、彼の敗北は既に決定していたのだと言える。

「これで終わり――衛司くんは、返して貰うよ!」

 そうしてスバルの掌が、イールオルフェノクの胴体へと押し当てられ、突き飛ばし。
 練り上げられ圧縮された振動エネルギーが、鰻の身体を内側から粉砕し、更には紙屑の如くに吹き飛ばす。
 半端な当たりでもかつて雀蜂に甚大なダメージを与えた一撃、それを真正面から喰らって耐えられる程……電気鰻は、剛くない。
 イールオルフェノクは路面に大の字になって仰臥し、やがてその姿を鰻を模した怪物から、探偵装の人間へと変化させた。

「あ、戻った」
「戻った……って言っていいのかしらね。どっちが本体なんだかわかりゃしない……気をつけなさいよ」

 恐る恐る、イールオルフェノク――いや、人間態に戻っているのだから、エルロック・シャルムと呼ぶべきか――へと近付くスバルに警戒を促し、ティアナもまた、動かない鰻へ向けて歩を進めた。
 曖昧で根拠に欠ける直感だが、結城衛司が人間態においてはごく普通の少年であった以上、目の前の男もあくまで人間の範疇に在るという推測は、決して的外れなものではないはずだ。スバルの一撃をまともに喰らって無事でいられるとも思えない。
 だから。

「――!?」

 その瞬間、ティアナの、そしてスバルの足を止めさせたのは、全く予期しない要因からの事であって――





◆      ◆







 眼前を死が掠めていく。

 雀蜂の暴力は人間に耐えられるレベルを遥かに超えている。一撃でも喰らえば首から上が木っ端微塵に吹っ飛ぶだろう。バリアジャケットの防御など無いに等しく、シールドやバリアなどの防御魔法を展開したところで、結末を一秒かそこら遅らせるだけの事。
 掛け値無しに命懸けの綱渡り。だがそれを、ギンガ・ナカジマは既に五分以上に渡ってこなし続けていた。そしてまだ当分は続けられるだろうと、頭の片隅で冷静に計算していた。
 理由は単純。雀蜂の攻撃は確かに脅威であるけれど、雀蜂そのものは何ら脅威ではないからだ。

 攻撃。回避。防御。それら全てに不可解な空白が生じている。
 それはある意味、躊躇と言い換えられる事でもあった。攻撃するのを躊躇して、回避するのを躊躇して、防御するのを躊躇する。だから、どれだけ強力な攻撃でも躱すのは雑作も無いし、目にも止まらぬ速さであっても捉えるのは難しくなく、鉄壁の装甲を持っていてもその内側に衝撃を通すのは容易だった。
 そうしてギンガは雀蜂を圧倒している。たかが人間が、オルフェノクを圧倒している。
 殴り、蹴り、打ち据え、叩きのめし――幾度と無く、雀蜂を地に伏せさせる。

「…………っ!」

 けれどそれは、どうしようもなく不快な感覚を、ギンガに与え続ける事でもあって。
 思い出すのは『JS事件』の記憶。敵に操られ、スバルと戦った時の事。実の妹を殴りつけたあの感触が、今もまだ、ギンガの拳には残っていて――雀蜂を殴る感触は、間違えようもなく、それと瓜二つだった。
 あの時のスバルも、きっとこんな気持ちだったのだろう。一発殴る度、応分にギンガの胸を抉っていく痛みは、絶対に錯覚などではない。
 雀蜂は果たして気付いているか。一見して容赦無く自身を殴り飛ばすギンガの瞳に、今にも零れ落ちそうなほど、涙が溜まっているその事実に。

〖はっ、はっ、はっ、ぐぅ――ぅううぁああっ!〗

 荒い息を無理矢理押さえつけ、雀蜂が再度、ギンガへ襲いかかる。
 だが、結果はこれまでとまるで同じ。繰り出した拳はあっさりと回避され、カウンターの鋼拳が雀蜂の顔面を容赦無く殴りつける。

 先日のミッドチルダ総合医療センターにおける戦闘では、雀蜂がギンガを圧倒していた。いや、ギンガのみならず、機動六課スターズ分隊との四対一という圧倒的不利な状況下で圧倒していたのだ。
 それが今では見る影もない。歯車が噛み合っていないと言うべきか。意識と思考、反射と挙動、その全てがちぐはぐで、威力こそあれどその動きは完全に精彩を欠いている。
 立ち上がっては殴り飛ばされるを繰り返す雀蜂の姿は、いっそ哀れとすら言えた。

「まだ、やる気ですか」
〖………………〗
「解っているでしょう。衛司くんはわたしには勝てません。何度立っても、何度やっても」

 もう何度目になるだろうか、よろめきながらも立ち上がる雀蜂に、ギンガは毅然と言い放つ。
 ただ実際、それは嘘……とは言わずとも、真実からはかけ離れている。本来であれば、ギンガが雀蜂に勝てる道理は無い。身体性能が桁違いなのだ、以前の戦闘こそが順当な結果であり、現状こそが有り得ないものである。

 だが一方で、その言葉が間違いで無いのも事実だった。少なくとも、今、この場においては。
 どれほど高性能な機体――それが自動車であれ戦闘機であれ――があろうと、それを駆るのが子供では何ら性能を引き出せない。今の雀蜂はまさにその仮定と同じで、破綻寸前の精神が高性能な肉体を無闇に振り回しているだけと言えた。
 そんな相手に後れを取る、ギンガ・ナカジマでは無い。

〖うる、さい……!〗

 しかし雀蜂はそれを認めない。怒りと絶望と恐怖と憎悪が入り混じって混沌を為す思考は、それを認める事が出来ない。

〖みんな、みんな殺す……! どいつもこいつも! 誰も彼も! 僕に近付いてくる奴は、みんな殺してやる……あんたもだ! ギンガ・ナカジマ!〗
「……それが、衛司くんの“やりたい事”なんですか」

 違う。
 それだけは、絶対に、違う。
 衛司のその言葉が真実だとするのなら――ギンガの記憶にある結城衛司は、その全てが嘘だった事になる。
 問いという体裁ではあったものの、ギンガの中では、それは既に否定されている事であった。 

「そんな事が! 衛司くんの望んでいた事なんですか!」
〖うるさいっ! 黙れよ、あんたに何が解るんだよ! いつもいつも知ったような事言って! 解ったような顔をして! 上から目線で哀れむのがそんなに楽しいかよ! 勝手に他人を『弱いもの』って括るのが、それを保護するのがそんなに面白いかよ! 僕はあんたの友達でも仲間でも家族でもないんだ! 馴れ馴れしく寄ってくんじゃねえよ、人間・・!〗

 故に。問いならぬ問いを向けられて、結城衛司は爆ぜた。

〖いつもいつも――いつだって、むかついてたんだ! 優しくされる事も! 親切にされる事も! 無神経なんだよ、放っといてくれよ! 近付いてほしくないんだよッ!〗

 その言葉の――結城衛司の真意は、ギンガ・ナカジマには判らない。それが彼の偽りない本音であるのかどうか、どうあっても知る事は出来ない。
 今のギンガに判るのは、衛司が泣いているという事だけ。その涙を取り繕おうとして、見栄を張ろうとして、周囲に“攻撃的な自分”をアピールしているだけ。

 ただの子供だ。どこにでも居る、普通の、ただの男の子。
 だからこそ。今の雀蜂はどうしようもなく哀れで、弱々しいイキモノにしか見えなかった。



〖僕は! あんたみたいな・・・・・・・善い人・・・”――大っ嫌いだ・・・・・!〗



 ギンガは、何も言わない。
 疑問の余地など欠片もないほど、明確に拒絶を突きつけられて――無言のまま、彼女は雀蜂へと歩み寄った。
 この戦闘が始まってから、初めてギンガから間合いを詰める。言いたい事を言い切った雀蜂は迎撃行動の一つも見せず、ただ近付いてくる彼女を睨みつける。

 そうして彼女は一足一撃の間合いにまで雀蜂に近付いて、……雀蜂の横っ面を、盛大に殴り飛ばした。

〖がっ……!〗

 路面に叩きつけられた瞬間、遂に限界を超えたのか、雀蜂の姿が消失する。
 異形の体躯が収縮するように消え失せて、その場に残るのは一人の少年。魔法も使えなければ武術の心得もない、人間生物の中で明らかに『弱者』に分類される彼は、しかし敵意に満ちた視線でギンガを睨み続けている。
 彼は最早、立ち上がる事すらままならない。蹲ってギンガを見上げるのが精々だ。だからそれは虚勢以外の何物でもなく、再び歩み寄るギンガを阻む事など出来ようはずもない。
 そうしてギンガは少年の眼前へと立って――膝をつき、少年と視線の高さを合わせ。



 次の瞬間、少年の身体を半ば引っ手繰るようにして、抱き寄せた。



「な……っ、……!? なに、を」
「衛司くん」

 突然の抱擁は、衛司の意識と思考を完全にパンクさせたらしい。問いは言葉にならず、ギンガを振り解こうとする動きすら、彼は忘れた。
 そんな少年に、ギンガは静かに語りかける。
 この時を逃せば、もう彼と語り合う機会はない。そしてこの抱擁を解けば、もう、彼はギンガの言葉を聞いてはくれないだろう。

「確かにわたしは衛司くんの友達でも仲間でも家族でもありません――けど、そうなりたいって、思ってます」

 今までは、違った。ギンガ・ナカジマと結城衛司は、友達でも仲間でも家族でもなかった。
 友達と言うには曖昧で、
 仲間と言うにはあやふやで、
 家族と言うには遠すぎる、そんな関係。
 それでもいいと思っていたのは事実だ。衛司が一定の線を引いて他者と接している以上、それはギンガにはどうしようも出来ない事と、そう割り切っていた。どうしようも出来ないのなら、せめてあるがままに受け入れようと、そう考えていた。

 けれどそれは、結局ただの妥協で――何もしない言い訳で。
 いつぞや衛司に『無理に秘密を明かす事はない』と言ったけれど……今にして思えば、それはやはり、ある種の無責任さが否めない。そのせいでこの状況に、こんな状態に陥ってしまったのだから、尚更だ。

 だから。これがもう、最後のチャンス。期せずして手に入った好機。
 衛司は本音を語った。ならば次は、ギンガが本音を語る番。
 偽りなき本当のギンガ・ナカジマで、結城衛司に向き合う番。

「わたしじゃ、なれませんか? 衛司くんの友達に。仲間に。……か、家族はちょっと、気が早いかなあって気はしますけど」

 衛司が目を見開く。言葉もなく、身じろぎもしない彼の、それが唯一の反応だった。
 言うべきは言った。後は衛司の問題だ――彼の痩せ細った身体を抱き締めながら、ギンガは静かに、少年の言葉を待つ。

「…………無理ですよ、そんなの」

 やがて。搾り出すように、ぽつりと衛司は呟いた。

「だって、ギンガさんは人間で――僕は、オルフェノクだ」

 声音に込められていたのは底無しの絶望。どう足掻いても覆しようのない、無慈悲な現実を知るからこその声。
灰色の怪物オルフェノク』。ミッドチルダに暗躍する狂気の魔獣。結城衛司はその中の一匹で、そうであるが故の必然として、他者の――人間に限らず、同胞たるオルフェノクも含め――殺傷を前提とし、存在している。

 実際、彼が同族をその手にかけるところを、ギンガも目にした事があった。騎兵槍に胴を貫かれ、無惨に絶命したジャガーオルフェノクの姿は、今でもまだ、ギンガの脳裏に焼きついている。
 彼が手にかけたのが、ジャガーオルフェノク一匹とは思わない。他にも多数のオルフェノクが彼によって殺されていて……恐らくはオルフェノクだけでなく、少なからぬ数の人間もまた、彼の手にかかり殺されているのだろう。

 人殺しという最大級の罪悪を犯しておいて、友達や仲間……まして、家族なんかになれる訳がない。
 友達になりたい、仲間になりたいというギンガの言葉を否定したのは、きっとそんな思考が故の事。

「もう、嫌だ」

 奈落よりもなお虚ろな瞳で、少年が呟く。
 もう嫌だ、もう嫌だ、もう嫌だ。同じ言葉を何度も何度も繰り返し、繰り返す都度にその言葉は温度を上げて、熱を高めていって、やがて――

「もう嫌だ、こんなカラダ嫌だ、人殺しも嫌だ、オルフェノクなんかもう嫌だ!」

 ――やがて、心の奥底に閉じ込めていた“本音”を炙り出す。



人間に・・・――戻りたいよぉ・・・・・・……!」



 それは血を吐くような、心底からの慟哭。
 ギンガが遂に目の当たりにした、『結城衛司』の本質。

 ……きっと、彼は生まれついての化物ではないのだろう。普通の人間、何の変哲もない人間として生きていた時期があったはず。
 彼の不幸は『普通』と『異常』の落差を知ってしまった事。端から異常の側に居たのならば気付かない、つまりギンガにはどうしても理解出来ないその落差が、彼の心を軋ませて、歪ませている。

「……ねえ、衛司くん」

 呼びかけながら、ギンガはバリアジャケットを解除した。リボルバーナックルもブリッツキャリバーも待機形態に戻って、ギンガは普段着用している陸士部隊の制服姿へと立ち戻る。
 バリアジャケットという“鎧”を解いた事で、抱き締めている衛司の体温や呼吸、鼓動がより明確に伝わる。それはきっと衛司の側も同じだろう。衛司にもまた、ギンガの体温が、呼吸が、鼓動が伝わっているはずだ。

「判りますか? わたしの体温。呼吸、鼓動。衛司くんに、伝わりますか?」
「………………」
「でも――偽物なんです、これ。もちろん、全部が全部じゃありませんけど」
「偽、物……?」

 こくりと頷く。
 そう、偽物。それは全て人造のものであり、天然自然の理とはかけ離れたところで生み出され……否、造り出されたもの。

「戦闘機人って、言うんです。生まれつき機械を身体に組み込んで“造られた”イキモノ。わたしとスバルはこの戦闘機人で――厳密に定義するのなら、人間じゃありません」

 衛司が息を呑む。何かを呟こうとした唇が、痙攣するように震える。
 戦闘機人とオルフェノク。言うまでもなくそれは全くの別物だ。オルフェノクはどれほど異形で人外であっても歴とした生物で、戦闘機人は機械との融合を目的として造られたモノである以上、それを一概に同一視は出来ない。

 だが結局のところ、この二つは一つの言葉で括る事が出来るのだ。
 即ち『人間ではない』。

 人間というものの定義をどこに置くか、これは人によって様々だろう。
 例えばギンガ・ナカジマはそれを『母親の胎から産み落とされる事』と定義する。であるならば戦闘機人は確かに人間の範疇外で、人間から人外へと変質したオルフェノクもまた然り。

「さっき衛司くん、『何が解る』って言いましたよね。ぜーんぜん解りません。衛司くん、何も教えてくれないんですもの」

 同情を引く気はない。戦闘機人である事、人外である事を明かして、『同類なんだから仲良くしよう』だなどと、そんな図々しい思考はギンガの中にない。

「だから――教えてください。衛司くんの事。わたしも、わたしの事を教えますから。友達になれないか、仲間になれないか……決めるのはそれからでも、遅くないでしょう?」

 つまりこれは、ただの交渉だ。自分の秘密を明かす事と引き換えに、相手に秘密を公開させる。
 無論、ギンガはそこまで計算して自身の秘密を口にした訳ではない。ただそうしなければ相手の心は開けないと、そんな予感めいた確信からの事。

「……僕、は」

 果たしてギンガの言葉に、衛司は何かを応えようとして。



「そこまでだ」



 不意に強烈な光芒が、ギンガと衛司、二人の目を眩ませた。
 既に日は落ち、夕暮れの茜色もその大半が空から消え失せている。二人の居る路地裏は酷く薄暗く、薄闇に慣れきった彼女達の目には、光芒が車のヘッドライトによるものとすぐには判別出来なかった。

 白光に眩んだ視界の中、ギンガは車から複数の人間が降りてくるのに気付いていた。車から降り展開するまでの素早く精悍な動作は、逆光の向こう側であっても苛烈な訓練によって培われたものと見て取れる。
 その服装が肩や胸に装甲の施された武装隊員のものであると気付くまでに時間はかからず、そしてギンガがそれに気付いた瞬間、彼等は一斉にデバイスをギンガへと――否、ギンガが抱いたままの衛司へと、銃口よろしく突き付ける。

「ギンガ・ナカジマ陸曹だな?」

 やがて、一人の男が光芒の中へと歩み出てきた。青と白を基調とした、ミッドチルダで見かける事は稀な管理局本局の制服。つるりと剃り上げた禿頭が威圧感を与え、自らの視線を隠し他人の視線を遮断するティアドロップのサングラスが、その威圧感を倍増させる。
 照合するまでもなく、名前と階級を把握されている。その事実に警戒感を煽られながらも、ギンガは黙って頷いた。
 ただ、男の側は元より返答を期待していなかったのだろう。ギンガの頷きとほぼ同じタイミングで、彼は言葉を続ける。

「我々は時空管理局未確認生命体専任対策部隊S.A.U.L。俺は部隊長の高村勢十郎だ」
「S.A.U.L……!?」
「質問及び反言は受け付けない。本日12:00を以ってオルフェノク問題に関する全権は機動六課から我々S.A.U.Lに移行された。以後、オルフェノクに関する決定権の全ては我々にある」

 冷徹そのものの口調で、ただ事実だけを禿頭の男――高村は口にする。

「それと、一つ事実誤認がある。戦闘機人は人間だ。認識を訂正したまえ」
「……!?」

 態度や口調からはかけ離れた、ともすれば人道的とすら言える高村の言葉に、思わずギンガが息を呑む。
 オルフェノク問題の専任部隊、その部隊長ともなれば、真っ当な人間とは言えない存在――戦闘機人やクローン、使い魔など――は人間と認めない、そう言ってくるものと思っていた。無論それがギンガの勝手な憶測である事は否定出来ないが、高村の態度や口調は、彼がそういった偏見を持っていると思わせるに充分だったのだ。

 だが続く高村の言葉は、彼が偏見を持ってはいない事を証明するものでありながら、しかし人道などとはまるでかけ離れた観点から来ていると証明するものであった。

「時空管理局、及びミッドチルダ行政府は戦闘機人を人間として扱うという公式見解を既に表明している。対して、オルフェノクに関する公式見解は未だ発表されていない。故に現時点で、オルフェノクは人間ではないし、人間としての扱いを受けられない」

 つまり、この男は自身の意見を持っていない。
 ただ、管理局が『そういう見解だから』、自分はそれに従っていると言っているに過ぎない。
 そして管理局が公式見解を示していない以上――使い魔などと同じく、人間のように扱うというのはあくまで『慣例』でしかない――そこに配慮も加減も……同情すら、差し挟む余地はなく。

「通告する、ギンガ・ナカジマ陸曹」

 高村がサングラスを外す。顕わになったその瞳は――戦闘機人のギンガ以上に――機械然としていて、人間としての温情はそこに欠片も窺えない。
 向けられるだけで体温が下がるような、温度の無い視線。その視線をギンガに固定したまま、つまりギンガ以外には一瞥もくれる事なく、高村はギンガの腕の中に居る少年を指し示す。

「“そこ”の“それ”を、我々に引き渡せ」

 あくまで、『結城衛司』の名を呼ぶ事はなく。
 まるでモノを扱うような調子で、高村勢十郎はそう言い放った。





◆      ◆





第拾伍話/甲/了





◆      ◆







後書き:

 という訳で、第拾伍話甲でした。お付き合いありがとうございました。

 前回投稿が去年の十一月なので、ざっと三ヶ月ぶり。月一回の更新が本作の数少ない売りだったのに、それすら無くなっちゃった。……これで感想が来なくなったら、もう笑うに笑えない……
 別サイトで三次小説とか、クリスマスSSとか書いていたせいなんですが。待っていて下さった方(いるのか?)には失礼しました。今後、更新が遅れそうな時には予め通知致しますので。

 山場と言うか、やっと書きたいところ、書くべきと決めていたところに入ってきた感じです。
 ただまあ、ぶっちゃけ今回書いてて、主人公にむかついたり。お前今まで散々世話になってきた人にその暴言は何だ! とw
 ギンガ……と言うか原作キャラにしこたまぶん殴られる主人公が書きたかった訳で、その意味じゃまあ暴言も当然なんですが。

 ちなみに最後で出てきた『時空管理局未確認生命体専任対策部隊S.A.U.L』。もう判る人には一発で判るネタですが、『仮面ライダーアギト』における警視庁内の対アンノウン組織の名前です(ただしこちらは未確認生命体対策班の略称ですが)。
 なんで管理局がその名前使ってんの? って疑問は次回。……いや、簡単に推測がつくんでしょうけど。

 あと、前々回の後書きで『なのは&ヴィータVS伽爛は次々回』と言っていたんですが、すみません、それも次回に。
 実はそのシーン自体は書き上がってるんですが、後から見ると、そこだけ妙に浮いていて。変に回想挟むよりは『主人公とギンガ・スバル・ティアナと鰻』だけの構図にした方が纏まりが良くなるかなと、書き上げてから丸ごとカット。次回こそ必ず。

 それでは次回で。よろしければ、またお付き合いください。




[7903] 第拾陸話
Name: 透水◆44d72913 ID:35af097c
Date: 2023/12/29 20:56

「ギンガ・ナカジマ陸曹。“そこ”の“それ”を、我々に引き渡せ」

 要求するその声には感情がなく温度もなく、言外に『従わぬのなら実力行使も辞さない』と告げている。
 高村勢十郎と名乗った男の後ろには、デバイスを構え臨戦態勢で待機する魔導師の小隊。ギンガが拒否などしようものなら即座に行動を起こすべく、彼女の一挙一動、そしてギンガが背後に庇う少年の一挙一動を注視している。

 言うまでもなく、それはギンガにとって、受け入れる事の出来ない要求であった。単に背後の少年、結城衛司がギンガの知己であるというだけではない。人をモノの如く扱う言葉に反感を抱いたからというのが大きい。
 管理局はまだオルフェノクを人と認める“公式見解”を表明していない――ただそれだけの理由で、この男は雀蜂を、少年を『人ではない』と言い切った。
 ギンガならずとも、反感を抱くのは当然だ。

「どうした。沈黙は抵抗と看做すぞ。こちらとしても六課と無用な波風は立てたくはない。……繰り返す、そこの化物を引き渡せ」
「ば、化物って……! 衛司くんは――!」
「化物でなければ有害鳥獣だ。ペット感覚で連れ回されては困る。如何なる理由があろうとも、人間の居住区域に猛獣が入り込む事態は看過出来ん――違うか、ギンガ・ナカジマ“陸曹”?」

 陸曹の部分を強調して、高村は言う。
 その強調が何を意味しているか、ギンガも解っていた。時空管理局に属する者として、何が正しいのかを突き付けている。感情で正論を覆すなと、そう言われているのだ。
 反論出来ずにギンガが言葉を詰まらせた瞬間、彼女の肩に手が置かれた。ギンガを制止するかのような、或いはギンガを押し退けるような。
 誰のものかは考えるまでもない。しかし振り向いたギンガは、そこで予想外の驚きを覚える事になる。

 服の袖で目元を拭い、少年が顔を上げた。泣き腫らして真っ赤に充血した目は、だが毅然と目の前の男達を見据えている。
 そこに迷いは見られない。怯えも慄きも窺えない。ギンガが驚いたのはまさにそこだ、つい今し方まで無様に泣き喚いていた少年の表情が、僅か数秒で別人と見紛う程に変化していた事実。

「衛司、くん……?」

 ギンガの呼びかけに少年は応えず、彼女に一瞥と苦笑染みた微笑を向けて、立ち上がる。
 そうして彼は一歩、二歩と前に出て、真正面から高村率いるS.A.U.Lの魔導師達に相対した。

「ほう。殊勝だな、オルフェノク。そのままだ。そのまま――抵抗するなよ」

 高村が顎をしゃくると、背後に控えていた魔導師達の中から二人が歩み出て、衛司に近付いていく。無論、後方では残る魔導師達が少年へと照準を定めており、それを理解しているのだろう、衛司は身じろぎもしない。
 がしゃん、と重々しい金属音。少年の細い手首に、鉄塊とすら表現し得る無骨な手錠……否、手枷が嵌められた音。

 少年が引っ立てられていく。さながら逮捕された直後の犯罪者のように。その扱いに抗議しようとギンガが腰を浮かせた瞬間、犯罪者扱いを受けている当人の衛司が、それを制した。言葉では無く、視線によって。
 射竦められたようにギンガは動きを止め、そうしている間にも少年はギンガから引き離されて、やがて後方に停めてあった数台の車、その中の一台に押し込まれて、姿すらも見えなくなった。

「では失礼する。六課の部隊長に、宜しく伝えておいてくれ」

 言って、高村も踵を返す。背後に控えていた魔導師達も、警戒態勢は解かぬまま、高村に付き従って背後の車両へと移動を開始した。
 誰もギンガに一瞥すらくれない。彼等がこの場に現れたのは、あくまでオルフェノクを確保・拘束する為だ。ただの人間に用は無いと言わんばかりの冷淡な対応は、ギンガに言いようのない悔しさを覚えさせた。
 高村、そして部下の魔導師達を乗せ、車が発進する。見る間に遠ざかっていくテールランプは、すぐに夕暮れの薄闇に溶けて消え失せた。

「衛司くん――」

 呟く声に、応える者はなく。
 ギンガの脳裏に焼きついて離れない、あの眼差し。つい数分前の彼からは想像も出来ない、あの視線。
 その意味を、ギンガは過たず理解していた。幾多の修羅場を潜り、鉄火場を乗り越えてきた魔導師であるギンガ・ナカジマにはある意味で見慣れたものであり、理解するまでに時間は要らなかった。



 あれは。
 ――覚悟を、決めた目だ。





◆      ◆





異形の花々/第拾陸話





◆      ◆







 時空管理局未確認生命体専任対策部隊――“S.A.U.L”という頭字語で略称とされている――ミッドチルダで続発する『灰色の怪物』、オルフェノクに対する調査・対処機関として設立された、本局航空武装隊に連なる特殊部隊である。
 尤も建前上はオルフェノクに限らず、あらゆる“未確認”生物への対処が彼等の役目であるのだが。

 立ち位置としてはレリック問題の専任部隊として設立された機動六課に近い。六課がレリック問題を専門に扱う様に、S.A.U.Lはオルフェノクに関する問題を専門に扱う。
 特異な、或いは複雑な事情が絡む問題に対処する専任部隊。その有用性は六課が既に証明しており、それ故か二匹目の泥鰌であるS.A.U.Lには、六課発足時と比べても相当の優遇がそこかしこに見られる。
 設備や装備、人員は元より、隊舎の立地条件に至るまで。部隊の本部を本局に置きながら、支部としてミッドチルダ中央区画、首都クラナガンに程近い場所に隊舎を構えているのもその一つ。

「交通の便がええところに隊舎があるっちゅうんは、ちょう羨ましくもあるなあ」
「確かに。六課隊舎の一番の難点は、移動に時間がかかるという事ですからね」

 とは言え、ミッドの何処で起こるか判らないレリック事件に対処するのが六課の任務であり、隊舎がどこにあっても大した違いはないのだが。
 それでも日常において交通の便が悪いというのは何かと不都合なものであり、特に六課発足後しばらくは地上本部に通い詰めだったはやてにしてみれば、地上本部と目と鼻の先にあるS.A.U.Lミッドチルダ支部は少なからず羨ましいものがある。
 さておき。結城衛司がS.A.U.Lによって拘束されてから二日が経ったこの日、八神はやてとグリフィス・ロウランの二人は、S.A.U.Lミッドチルダ支部へと赴いていた。

「お待ちしておりました」

 駐車場に車を停め、隊舎へと這入ったはやてとグリフィスの前に現れたのは、本局の制服を纏った一人の男。
 はやてと比しても尚背の低い、その癖服の上からでも見て取れるほど不自然なまでに発達した筋肉で身を鎧った、頑強な岩のような印象を与える男だった。
 恐らくは魔導師か騎士か、前線での戦闘を主とする役職なのだろう。はやてとグリフィスへ向けてくる視線は鋭く研がれた刃を髣髴とさせる。
 無論はやてもグリフィスも、そんな視線に臆するほど胆の小さい人間ではなかったが。

「……機動六課部隊長、八神はやてや」
「同部隊長補佐、グリフィス・ロウラン准尉です。S.A.U.L支部長、高村勢十郎一佐と面会のお約束を頂いているのですが」

 丁寧と言うよりは慇懃と言うべき彼女達の挨拶に、岩のような男は愛想笑い一つ浮かべる事なく頷いた。

「承っております。ただ一佐は只今別件で手が離せない状態にありまして、十分ほど応接室でお待ち頂きたいとの事です」
「別件……?」

 はやてが不快に眉を顰める。アポイントはきっちりと取ってあるのだから、向こうも予定を空けておくのが筋だろう。アポイントメントとはそういうものだ。
 もしくは、はやてとの約束よりも優先しなければならない何かが、急に舞い込んできたという事か。設立されて間もない部隊だ、雑事は幾らでも涌いてくる。はやても少し前は同じ様な立場だったから良く解る。

 ともあれ、勘繰ったところで答えは出ない。少なくとも今この場においては、考えるだけ無駄な事。
 ならば先に、こちらも用事を済ませてしまおう。

「なら先に、衛司くんと会わせて貰えんやろか。こっちも暇やない。時間を無駄にするよりは、そっちの方がお互いに得やろ? ――面会そのものは、ハナシ通っとるはずやけど」
「……少々、お待ちください」

 言って、男は目を閉じた――恐らくは念話で連絡を取っているのだろう。
 程無く彼は閉じた目を再度開き、じろりとねめつけるようにはやてとグリフィスを一瞥してから、口を開いた。

「結構です。許可が下りました。どうぞこちらへ」

 はやて達の反応を窺おうともせず、男は踵を返して歩き出す。
 なんでこんなコミュニケーション能力に欠陥ある奴を案内に使ってるんだ、と呆れるものの、それは言っても詮無い事。二人は先導に従い歩き出す。

 S.A.U.Lミッド支部の隊舎は六課と比べてやや手狭ではあるが、どうやらそれは地上に露出している部分だけの事らしい。通路の突き当たりには一台のエレベーターが設置されており、乗り込んだはやてとグリフィス、そして岩男は一気にエレベーターで地下へと――地下十三階へと下ろされた。
 扉が開く。地下フロアの冷気が一気にエレベーターの中へと流れ込んできて、それに押し出されるように、はやてとグリフィスは外へ出る。

「なんや――ここ」

 エレベーターホールに相当するものはなく、扉の目の前には一本の通路があるばかり。両側の壁は強化アクリルと思しき透明な建材(無論、強度面において通常の強化アクリルとは比べ物にならないものを使っているのだろうが)で、壁の向こうはベッドや机、便器といった最低限の家具調度が設置された個室になっている。
 まるで――否、“まるで”どころではない。
 ここは、牢獄だ。

「こちらです」

 男は相変わらずはやての反応を窺おうともせず、すたすたと先を歩いていく。嫌な予感を噛み殺しながら、はやてとグリフィスはそれに続いた。
 通路の突き当たりはT字路状に分かれており、右に曲がって更に真っ直ぐ。やがて再びT字路に突き当たり、また右折。それをもう一度繰り返し、ぐるりとフロアの外周に沿って歩いていくと、漸くT字路ではない行き止まりに辿り着いた。
 壁に沿ってずらりと並ぶ独房の最奥。覗くまでもなく無人と知れる牢獄が並ぶ中に、一つだけ、鋼鉄製のシャッターに覆われた一室がある。それこそが目指す独房であると、はやては気付いていた。

「面会時間は五分間です。また会話の内容は全て記録させて頂きます、ご了承ください」
「ええから、早うシャッター開けてや」

 焦りか苛立ちか、語調の荒くなるはやてにさしたる反応も示さず、男は壁に備え付けられた端末を操作する。重たい駆動音と共に少しずつシャッターが上へと引き上げられていって、その向こうに強化アクリルの壁が顔を出す。
 そして。

「っ――!」
「衛司、くん……!?」

 はやてが息を呑む。グリフィスが思わず少年の名を口にする。
 透明な壁の更に向こう側、部屋の中央に置かれた椅子の上に、結城衛司は居た――ただしその姿は、およそはやての想像からかけ離れたものであったのだが。

 総身を締め上げる拘束衣。その上から黒い革製のベルトが全身を縛り上げている。両足もまた拘束衣に包まれ、歩く事もままならない少年の姿はまるで芋虫のようだ。
 更に口には口枷が嵌められ、垂れ流しの涎が襟元を黒々と濡らしている。のみならず首には金属製のチョーカー。それらは無論SM趣味の類ではなく、口枷は単に舌を噛んで死ぬ事を防ぐ為であり、首輪は身動きを封じる為の仕掛けという、酷く実際的な理由からの事だった。

 眠っているのか、衛司は目を閉じたまま身じろぎもしない。物音も聞こえていないのだろう、はやてやグリフィスに反応するそぶりすら見せなかった。

「なんや――なんやこれ! こんなん、まるで犯罪者やないか!」

 こんな独房に入れられているくらいだ、真っ当な扱いは受けていないものと予想はしていた。
 しかしそれでも、この扱いはあんまりではないか。犯罪者はおろか、人間として扱われているかどうかも怪しい。

「自分は一佐の指示に従っているに過ぎません。ご意見は直接一佐に仰って頂けるよう願います。……音声を繋ぎます。先も言った通り、会話は五分のみです」

 だが噛み付くはやてを男は冷然とあしらって、端末を操作する。ざり、と壁の横に備えられたスピーカーからノイズが漏れ出して、それが通話可能な状態になった事の合図だった。
 かしゃんと音を立てて衛司の口枷が外れ、床へと落ちる。だが衛司は俯いたまま顔を上げようとしない。

「衛司くん! ――衛司くん、聞こえとるか!?」

 はやての呼びかけにも、まるで無反応。吐息が漏れ聞こえてくる事から察するに、単に意識が無い状態のようだが。
 と、その時――男が再度端末を操作し。

「ぎゃうっ!?」

 ばちっ、というスパーク音が響いたかと思えば、拘束衣を着せられ、椅子に縛り付けられた衛司が、それでも悲鳴を上げて身を仰け反らせた。

「! な、なんて事を……!」

 真っ先に察したのはグリフィスだった。魔導師の素養を持ち合わせない彼だからこそ、直接的に魔法を使わない技術に造詣が深かった。

 衛司の首に嵌められた金属製のチョーカー、恐らくはこの首輪から電流が流れる仕掛けになっているのだろう。殺さない程度の苦痛を与える事で抵抗する意思を失わせ、またこちらの指示・命令に従わせる事の出来る、倫理面に目を瞑れば非常に効果的な小道具と言える。
 そして彼等S.A.U.Lにとって、結城衛司は倫理の外側に居る存在だ。どれほど非人道的な扱いをしようとも構わない――彼は人間ではないのだから。

 グリフィスが男を睨み付けるも、男はどこ吹く風で腕時計に視線を落としている。唇が蠢いているところを見れば何かを呟いているらしい。恐らくは時間のカウント、面会を許した五分間、三百秒を律儀に数えているのだろう。
 時間が無い。グリフィスの目配せにはやては頷いて、乱暴にアクリルの壁を叩いた。激しく咳き込んでいた衛司が、その音に顔を上げる。

「――あれ。八神、さん?」
「……はは。元気そうやな」

 どこか緊張感に欠ける衛司の反応に、はやては拍子抜けすると同時に安堵していた。
 精神的に追い詰められているようには見えない……あくまで、“そう見えない”というだけの事であるが。目や口の端に殴られた跡と思しき痣が幾つも見えて、ごく普通の態度である事が逆に不自然だった。

 乱暴な起こされ方をしたせいで頭が働いていないのか、衛司は周囲を見回して、そこで漸く、今の自分が置かれた状況を思い出したらしい。暢気というか緊張感が無いというか。
 そんな少年にはやては困ったように微笑んで、口を開く。

「オルフェノクやったんか、衛司くん」
「……すみません。騙すつもりは、無かったんです」
「ん。知っとる。……まあ、言えへんよなあ――自分が人間と違います、なんて」
「………………」

 勿論、八神はやてに少年を責めるつもりは皆無だった。元より、言えない何かを抱えているのを承知で、はやては衛司を六課に誘ったのだ。むしろ衛司が謝る方が筋違い。今の彼は、ただ人外である事を理由に迫害される、哀れな雀蜂に過ぎないのだから。
 だがそれも、一つだけ。もう一つだけ確認してから、初めて言える事で。

「時間ないから、手短に訊くで。衛司くん……衛司くんは、人を殺した事があるんか?」
「人を――」
「ああ、ちょう違うな。人殺しした言うんは、もう知っとる。ギンガが教えてくれた。……衛司くんは、それを少しでも悔やんどるか?」

 時空管理局の基本方針は人命尊重。犯罪や災害に苦しめられる人々を救うのは元より、どんな非道な犯罪者であっても“生かして捕らえる”を前提とする程に。
 故に、殺人を犯した者に対して、管理局は酷く厳しい。どこまで逃げても必ず追い詰め、捕らえ、法の下に裁かせる。その断固とした姿勢は管理局創立から一貫して変わってはいない。

 しかし一方で、犯した罪を悔やみ、罪を償う意思を持つ者に寛容なのもまた事実なのだ。フェイト・T・ハラオウンやヴォルケンリッターの例を紐解くまでもなく、はやてはそれを知っている。

 だから、訊かなければならない。結城衛司は自身の犯した殺人行為を罪と思っているか。償おうという意思はあるのか。
 例え人外存在のオルフェノクであったとしても、人として在り、人の法に従おうとするのなら、人として遇するべきである。魔導プログラムとしてのヴォルケンリッターや融合騎を“家族”とするはやてにとって、それは忽せに出来ない信念であった。

「悔やんで、ですか……すみません、良く――解らないです。僕はずっと、殺そうと思って殺してきた訳ですから。殺したくないのに殺した人も、間違えて殺してしまった人も、一人もいません」
「…………」
「けど、被害者面する気はありません。他人事って顔する気も。僕が殺したんです。僕が、僕の都合で、僕の身勝手で。それだけは絶対、忘れちゃいけないって――そう、思ってます」
「そっか」

 それは決して、はやての望む答えではない。贖罪の意思を明確に伝える言葉ではない。
 ただ、充分な答えではあった。八神はやてが動く理由として、充分な。 

「少し待っとき、衛司くん。必ずここから助け出したる。必ず六課に戻れるようにしたるから――ちょっとだけ、待っててや」
「六課に……」

 だが、はやての言葉に何故か、衛司は迷うような戸惑うような、曰く言い難い複雑な表情を浮かべるばかりで。

「……? どないしたん?」
「いえ。その――別に、急がなくてもいいです。てか、無理してここから出して貰わなくてもいいって言うか……」
「は……? 何やそれ、こんな扱いでええ言うんか!? こんな、人間扱いされてへんのに――!」
「いやその、このままで良いって意味じゃないですけど、ほら、変に無理を通すと余計な迷惑かけちゃいますし、八神さんも忙しいでしょうし」
「せやけど――」
「部隊長、少し失礼」

 尚も食い下がるはやてだったが、それを遮る様にして、グリフィスが割り込んだ。

「衛司くん。君は、六課に戻りたくはないのかい?」
「そういう訳じゃ……ないです。出来るなら、また六課で働かせてほしいと思ってます。けど」
「けれど――“オルフェノクの自分が居ると、迷惑になる”?」
「…………そういう訳でも、ないんです。何て言うのか――ちょっと、やりたい事が出来ちゃって」

 そうですか、とグリフィスは引き下がった。無論納得はしていない、ただこれ以上の問答は意味が無いと、そう判断しての事だった。
 彼の言う“やりたい事”は、六課に居る状態では出来ない事。これは間違いない。だがその詳細について語るつもりはないのだろう。だからこそ迂遠な表現で、この地下牢からの救出を拒んでいるのだ。

「あの、八神さん。その代わりって訳じゃないんですけど―― 一つ、お願いして良いですか」
「! なんや、何でも言うてええよ。必ず叶えたる」

 や、そこまで大層なお願いじゃないです――と、はやての剣幕にむしろ衛司が困惑して。

「伝言を。六課の皆に、伝言をお願いしたいんです」





◆      ◆







「しかし、俄かには信じられんな。お前と高町が二人がかりでそのざまとは」
「うっせーな。油断したんだよ、油断。次こそはあのゴキブリ野郎、ぼこぼこにしてやる」

 シグナムの言葉にそう返すヴィータだったが、それが虚勢以外の何物でもない事は、誰に説明されずとも瞭然だった。
 機動六課隊長室。主である八神はやてが不在のこの部屋で、今、三人の女性が顔を突き合わせている。S.A.U.Lミッドチルダ支部へと赴いたはやてからの連絡を待つ彼女達の表情はどれも重く険しく、雑談に興じる余裕など欠片も無いと知れる。
 ヴィータの虚勢をシグナムは黙って聞き流し、「お前は大丈夫か」と残る一人の女性――高町なのはへと視線を転じた。

「あ、はい。大丈夫です。ちょっと切っただけですし……」
「頭の怪我は何があるか判らん。暫くは安静にしていろ」

 ややつっけんどんな口調で、どこか不器用な感じではあったが、それでもその言葉がシグナムからの気遣いである事に変わりはなく。なのははぺこりと頭を下げて応じる。
 そう、今のなのはは手負いであった。と言っても右肩を脱臼し、腕を吊った状態のヴィータに比べればまだ軽傷、額に絆創膏を張った程度。顔の怪我ではあるが、幸いにも傷跡が残る事はないらしい。そこはシャマルが保証してくれた。
 だが問題は『高町なのはが傷を負った』という事実。それは逆説、彼女に傷を負わせた者が居るという事で、エース・オブ・エースとまで謳われる彼女を戦闘において圧倒した何者かの存在は、決して無視出来るものではない。

「……強かったのか?」

 シグナムの問いは主語を抜いた、酷く曖昧なものだったが――彼女が何を訊きたいのか、なのはは過たず理解していて。

「――はい」

 故に。声に苦渋を混じらせていても、即答する事に躊躇いはなかった。
 詳しく聞かせろ、とシグナムが視線で促してくる。自他共に認める戦闘道楽の彼女、なのはとヴィータの二人を同時に相手取って、尚彼女達を一蹴したという怪物に興味を覚えないはずもない。
 ただしそれが単なる興味本位では無く、脅威に対する備えとしてである事もまた、明白であった。

「あ――えっと、その」

 だが、何故かそこで、なのはは言い淀んだ。言い辛そうと言うよりかは、どこか恥ずかしげに目を伏せる。
 見ればそれはヴィータも同様で、当然、シグナムは困惑に眉を寄せる。ヴィータはともかく、なのはは敗北を恥として隠そうとする性質でも無いだろう。部下に対しては面子というものもあるだろうが、十年来の付き合いであるシグナム相手にまで見栄を張る意味がない。
 ならばそれは、“敗北した”という事実以外に理由があるのだろうか?
 シグナムのそんな予想を肯定するかのように、なのははこほんと一つ咳払いを置いて――やがて、ぽつぽつと語り始めた。

 二日前の夜、先端技術医療センターにおいて、高町なのはとヴィータが遭遇した悪夢を。
 抉り出すようにして、語り始めた。







 身の丈二メートルを超える巨漢が怪物へと姿を変えた。既にそれだけで驚愕は充分、しかし目の前の現実はすぐさまその驚きを上塗っていく。

 ゴキブリの特質を備えたオルフェノク、コックローチオルフェノクの手元に、じわりと毒々しい赤色が滲む。空間そのものが出血するかのような、ある意味で怪奇現象とも思えるそれは、コックローチオルフェノク固有の魔力光がそこで収束を始めた証。
 黒ずんだ血液を思わせる赤黒色の魔力光は、なのはに一つの事実を確信させた。この怪物が、結城衛司を拉致した転移魔法の使い手であると。

 そして怪物はその巨躯をどこか可愛らしくぴょいんと跳躍させ、地面に両手両足をつく姿勢……四つん這いの姿勢で着地した。何の意味があるのかと思える様な挙動であったが、ある意味これが正当だ。
 そも、昆虫は二足歩行などしない。だからコックローチオルフェノクもまた、その通りで。

「ひっ!? い、にゃぁあああああああああっ!?」
「わ、ぁ、あああああああああああっ!?」

 かさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさっ――と、四つん這いのコックローチオルフェノクが地面を舐めるかの如く、だが恐るべき速度を伴って、なのは達へと文字通り這い寄ってくる。
 百戦錬磨の魔導師二人が面白いようにうろたえて、迫る怪物へと向けて魔力弾を撃ち放つ。アクセルシューターとシュワルベフリーゲンが残光を引いて乱舞する。だが当たらない。まるで命中する気配がない。壁や天井をすら足場として這い回る、その縦横無尽な機動を捉える事が出来ていない。

〖うふふふふふふはははははははは! ほぉらほら、ぼけっとしてると食ぁべちゃうわよぅ!?〗

 床を、壁を、そして天井を這って、奇怪極まりない動きで怪物は迫ってくる。そうして一瞬で間合いを詰めた怪物は、天井を蹴り、上方から標的へと襲い掛かった。
 掌に溜めた魔力光が暴風と化す。魔力運用による衝撃波。いつぞやキャロ・ル・ルシエを襲った、しかし加減の為されていないが故に威力は桁違いのそれが、なのは達へと容赦無く浴びせられる。

「っ!」
「らぁっ!」

 だがそれを、彼女達はあっさりと捌ききった。バリアや角度をつけたシールドで受け流した瞬間には、既に反撃行動は始まっている。なのはのアクセルシューターが、ヴィータのテートリヒ・シュラークが、それぞれコックローチオルフェノクの急所へと向けて疾走する。
 手数と威力を見事に両立させた同時攻撃。差し当たって、怪物はヴィータの攻撃を先に処するべき対象と定めたらしい。
 振り抜かれる鉄槌を、驚くべき事に、怪物は片手で受け止めた。いや厳密には、片手だけしか使えなかったと言うべきだろう。残る片手は迫る魔力弾への対処として残しておかねばならないのだから。

〖ふんぬっ……!〗

 鉄槌を受け止める右掌に火花が散る。受け止めきれなかった衝撃が周囲の空間を軋ませる。
 めしりと足裏が床面にめり込む。強烈な衝撃は今にも怪物を押し潰さんばかりで、しかしその状態にありながら、コックローチオルフェノクは迫る魔力弾へと向けて翳した。
 放たれるのは先と同様の衝撃波。それに巻き込まれた魔力弾が次々と爆発し、結界に切り取られた病院の廊下を照らし出す。

 と、不意にヴィータが鉄槌を引き、のみならず自身もその場を飛び退いた。シューターとの同時攻撃が失敗した以上、ここに留まるのは却って危険。そういう判断と、そしてもう一つ。
 自分があの位置に居たのでは――なのはが、本気で撃てない。

〖!〗
「レイジングハート!」
【Sacred Cluster.】

 怪物が気付いた時には、既に遅い。
 高町なのはは判っていた。アクセルシューターは阻まれる。ヴィータの攻撃も防がれる。いかなる手段を以ってするのかはさておき、それは容易に予想出来る事。
 故に彼女はシューターの弾幕とヴィータの近接攻撃に紛れ、怪物の側面へと回り込んでいた。横の病室へと飛び込み、壁越しに敵を狙い撃てるポジションへ。射線上からヴィータが退避した事で、最早躊躇すべき要素は何もない。

 放たれるのは拡散射撃魔法セイクリッドクラスター。放たれた大型魔力弾は壁をぶち抜いた時点で爆散、散弾の如き小型魔力弾がコックローチオルフェノクの総身を容赦なく打ち据えた。
 あのタイミングでは防御もままならなかったはず、灰色の巨体がぐらりとよろめいたところを見れば、効果有りと判断しても良いだろう。

「…………!?」

 ぱきん、と乾いたスナップ音。よろめいたコックローチオルフェノクが指を鳴らしたのだが、その意図が掴めず、なのはが怪訝に眉を寄せる。
 だがその意味を、すぐさま彼女は知る事になった。ずんと建物を揺るがす振動。不意の強震になのは達が態勢を崩した瞬間、床を、壁を、天井をぶち抜いて何かが飛び出してくる。

 それは烏賊か蛸といった海洋生物を思わせる、ぬめってうねくる奇怪な触手であった。
 召喚魔法の使い手は転移魔法にも長ける――逆もまた真なり。転移魔法の使い手が召喚魔法を習得しているとしても、驚くには値しない。
 目の前の怪物が以前に衛司を攫った転移魔法の使い手と知れていたのだから、これくらいは予想出来て然るべきだったのだ。言っても後の祭りだが。

「ひゃっ!? や、にゃぁあああああっ!?」
「わ、わぁあっ!? き、き、気持ち悪ぃい!」

 回避も防御もおよそ不可能だった。圧倒的な質量は防御で耐え切れるものではなく、狭い廊下にそれだけの質量が涌いてきたのだから、避ける隙間も無い。
 あっという間になのはとヴィータは触手に絡め取られ、中空に固定されてしまう。なのははまだしも、ヴィータなどはほぼ逆さ吊りな状態だ。スカートがめくれ割と見えてはいけないところまで見えてしまって映像が無いのがもう本当に申し訳ない。

〖あーははは。ひっかかったひっかかった。イイ感じだわ、素敵だわぁ。やっぱり魔法少女と言えば触手よねぇ。『ごらんの有様だよ!』ってゆーの? ま、『少女』ってゆーにはちょぉっと年齢的にぎりぎりだけど、そこは心とおつむが少女だからって事で〗
「…………っ!」
〖ああ、先に言っておくけど。触手プレイっつってもそこまでえっちな展開にはなんないから、安心してくれて良いわ。ほら、一応全年齢向けのとらハ板に投稿してる訳だし? あまり描写が生々しいとXXX板に移れって言われちゃうからさ、作者的にそれはあまりよろしくないみたいで〗
「はい?」

 何を言っているのかさっぱり解らない。
 が。この状況はまずい、それだけは解る。
 触手に絡め取られた際、二人はそれぞれデバイスを取り落としていた。幸いにして二人とも熟練の魔導師、バリアジャケットまで解除される事はなかったが、規格外の化物を相手に得物を手放す事態がどれだけ致命的であるか、二人は過たず理解していた。
 ただ、当面最も重大なのは、デバイスを手放した事よりも――

「ひゃんっ!? や、そこ、だめ――!」
「へ、変なとこ触るな――わひゃぁっ!?」

 ぬるぬるうねうねと身体を這い回っていく(一部は服の中にまで入り込んでくる)触手の不気味な感触に、なのはとヴィータもさすがに耐え切れず声を上げる。
 痛みには耐えられる。だがこのむず痒いような気持ち良いような、快とも不快ともつかぬ奇怪な感覚は、彼女達にとってどう耐えれば良いものか判らないまったく未知の領域であった。

〖はーいこっち向いてー。うふん、そうそう、その顔グッドよグッド。もーちょい色っぽく……おーけーおーけー、そんなカンジ〗
「ちょ、なに、なに撮ってるんですか!?」
「か、勝手に、ひゃいぅ、撮ってんじゃ、うひゃんっ、ねぇ――!」

 触手に絡まれて悲鳴だか嬌声だか判らない声を上げるなのはとヴィータを、事もあろうに携帯電話(と思しき通信機器)で撮影(たぶん動画だ)している化物が一匹。

〖うふふ、これマジで売れそうねぇ。『エース・オブ・エース触手緊縛陵辱』なんつって。有名人の裏ビデオっていつの時代も需要あるもんだしねえ〗
「それ犯罪! 犯罪ですってば――にゃ、ひゃぁああっ!?」

 抗議の声も届かない――いや、届いたところで、それを聞き入れてくれるかどうかは甚だ怪しいものだったが。
 ともあれコックローチオルフェノクは携帯電話をぱたんと折り畳むと、ひょいと背後へ放り投げた。中空に展開された魔法陣に吸い込まれたところを見るに、どこかへ転送してしまったのだろう。

〖ま、アタシとしちゃほんとーは衛司ちゃんにヤるつもりだったんだけどね、触手プレイ。衛司ちゃんならえろえろにしても文句出ないだろーし。むしろ喜ばれるし? アタシ的にはあの赤くて跳ねた髪の男の子も一緒にヤれると良かったんだけど、そこまで言っちゃうと贅沢かしらねー〗
「え、衛司くんだけじゃなくて――エリオも狙ってたの!?」

 可愛い部下の貞操が知らない内に危機だった。

〖さて、っと。そろそろ向こうもカタがついた頃かしら……衛司ちゃんは抵抗出来るコンディションじゃないだろーし、連れて行く分にはそう手間もかかんないわよね〗
「……? 連れて行く……!?」

 慮外の言葉に、思わずなのはが反応し――うん? とその反応を受けて、コックローチオルフェノクが可愛らしく(いや実際のところは全然可愛らしくもないのだが)首を傾げた。

「殺すつもりじゃ――なかったの」
〖うん? ああ。あーあーあーあー。そーよねえ、そー思うわよねえ。今までが今までだものねえ。うん、結論から言っちゃうと、今回のアタシ達に衛司ちゃんを殺すつもりはないわ。逆よ逆。迎えに来たのよ〗
「む、迎えにって……」
〖言ったまんまの見たまんま。刺客を放って殺したり殺されたり、ってステージはもうお終いなの。で、見事生き残った衛司ちゃんに、ご褒美としてアタシ達のお家へご招待。って寸法ね〗

 この怪物の言がとりあえず全て本当だとして、そこに嘘が無かったとして、しかしその内容はおよそ許容出来ない程の図々しさに満ち溢れたものだった。自分達の都合しか考えていない。
 まして、その為に衛司を病に侵したと言うのなら、最早どんな理由があろうと、この怪物に衛司を引き渡す訳にはいかない。

〖ま、具体的に何処に連れてってどんなおもてなし、ってのはここじゃ言えないんだけど。つーかアナタ達にゃ関係無い事だしね。あとほら、トモダチのプライベートに関わってきちゃうから? 仁義とか友情とかは大事にしなきゃ駄目よねえ〗
「トモダチ……!? 貴方の?」
〖そ。今までに出てきたオルフェノクの誰かが言わなかった? 『結城衛司を殺せば報酬が手に入る』みたいな事。それ主催してんのがアタシのトモダチなのよ。まーアタシが出張ってきた時点でゲーム終了なんだけどね。ちょい不公平でアタシとしてもどーかなーと思ったりするんだけど、ほらアタシ、友情に厚いキャラで売ってるからさ。トモダチにお願いされたら断れないのよねえ〗

 ごくあっさりと語られたそれは、しかしなのはに……否、時空管理局にとって、聞き逃す事の出来ない重大情報であった。
 様々な者の口から、存在だけが断片的に語られるオルフェノクのコミュニティ。この怪物、コックローチオルフェノクの言を信じるなら、彼はそのコミュニティの中心に居る人物と繋がっている。
 或いは彼もまた、コミュニティの中核に携わっているのかもしれない。だとするなら、ここで彼を確保する事で、謎に包まれたオルフェノクの生態や勢力を解き明かす事が出来るかも――

「ひゃわぁ!?」

 とは言え、触手に絡み付かれた状態では、そんな思考もままならず。
 実際のところ、触手から脱出する術はあるのだ。年齢に不釣合いとも言える程に高町なのはは百戦錬磨、修めた数々の魔法はいかなる状況にも対処出来るだけの柔軟性を彼女に備えさせている。だがどんな魔法も機を逸すれば効果は半減、今触手から逃れたところで即座に再拘束されるのは明白だ。

 一瞬でいい。ごく僅かな時間だけでも、怪物の注意がよそに向いてくれれば。
 どこかに隙を見出せないかと、必死になのははコックローチオルフェノクを睨みつける。

 と、その時、不意に場違いなほど軽薄なメロディが一帯に響き渡った。古い怪獣映画のテーマソング。聞き覚えのあるそれは怪物の懐から聞こえてくる。
 正確には、怪物が取り出した携帯電話――先になのはとヴィータの痴態(?)を撮影したものとは別の――から。通話ボタンを押した瞬間に止まったところを見れば、どうやら着メロだったらしい。

〖はいもしもし、アタシよぅ。そっち終わった? え? ちょっと、何やってんのよぅ。……え? アルノちゃんが? あらまあ、そりゃ予想外ねえ。ん、りょーかいりょーかい。すぐそっちに戻るから〗

 明後日の方向を向いて通話を始めるコックローチオルフェノク――それはどこからどう見ても、紛う事無き“隙”であり。
 怪物を挟んで向こう、同じく触手に絡まれているヴィータと一瞬だけ、視線を交錯させる。念話すら必要ない、それだけで互いに何をするべきか通じ合う。

「っ! ――レイジングハート!」
【All right.――Drive ignition.】

 裂帛と共に気合を込めれば、なのはの纏う白いバリアジャケットの上着が一瞬にして炸裂。周囲の触手を弾き飛ばす。
 バリアジャケットの緊急防御機能、リアクターパージ。本来は防ぎきれないダメージを受けた際、自らバリアジャケットを爆破してダメージを相殺する為に使われる魔法であるが、それをなのはは緊急脱出の手段として転用した。
 爆発の規模はそう大きくない。触手の戒めを僅かに緩める程度であるが、しかしそれで充分。拘束が緩んだ瞬間、待機形態に戻っていたデバイスを素早く掴んで再起動、なのはは一気に拘束から脱出する。

〖あら。抜けちゃった?〗

 暢気な言葉に取り合わず、なのははレイジングハートを構える――既にその先端には、桜色の魔力光が収束し。

「ディバイン――バスターっ!!

 撃発音声と共に、それが奔流となって解き放たれる。
 これぞ砲撃魔導師高町なのはの真骨頂。文字通りに彼女の主砲、ディバインバスターの閃光が、一帯に敷き詰められた薄闇を一片と残さず反転させていく。

 だがそれでも、やはり怪物は埒外だった。いや、埒外であるが故にそれは怪物なのだと言うべきだろうか。
 埒外、既知外、常識圏外。桜色の濁流を真正面から浴びせられて、それでもコックローチオルフェノクは倒れなかった。抱え込むように両腕を広げ、ディバインバスターの威力をその全身で受け止めている。

 ただし。それはある意味、予想出来て然るべき事で。
 目の前のオルフェノクが正真に怪物であるのなら、きっとそれくらいはやってくるだろうと、容易に想像出来る事――だからこそ、駄目押しの一撃が必要となる。

おぉおおおおおおおらぁあっ!!

 咆哮と共に、ヴィータが再度コックローチオルフェノクの間合いへと飛び込んでいく。
 彼女もまた、なのはと同様に上着を脱いだ状態。リアクターパージ(と同様の魔法)によって騎士甲冑を炸裂させ、その拍子に触手から抜け出したのだ。
 グラーフアイゼン・ラケーテンフォルムの魔力噴射が、彼女に更なる加速を与える。自身を軸として回転しつつ迫る姿は、さながら人型、人間サイズのねずみ花火。

 怪物もヴィータの接近に気付いている。だが逃げられない。ディバインバスターを捌くだけで精一杯、そして彼が遂に桜色の魔力光を弾き飛ばした瞬間には、最早回避や防御を行う余裕など――時間的にも体勢的にも――どこにも残っていなかった。
 鉄槌が叩き込まれる。怪物のどてっ腹、強固な外殻で身を鎧う昆虫の絶対急所。ラケーテンフォルムのスパイクが、コックローチオルフェノクの腹を容赦無く抉っていく。

〖ぐ、ふ、ううううう――〗

 手応えがあった。怪物はその身をくの字に折り、顎を突き出す様にして、内臓から空気を絞り出される。
 確実なタイミングで、ヴィータの出来る最高を叩き込んだのだ。これで決着と彼女が確信したところで、誰に責められる事も無く。
 だから次の瞬間、

〖ううううう――ふンはぁっ!!

 まるでゴム塊を殴ったかのようにグラーフアイゼンが弾き出され、その勢いにヴィータが身体ごと弾き飛ばされたところで、そこにヴィータの非を認める事は出来ないだろう。

「がっ!?」

 ごぎん、と嫌な音が身体の中に響き――次いでヴィータの右肩を強烈な痛みが襲う。それが右肩関節の脱臼によるものと気付いた時には、彼女の身体は床にしたたか叩き付けられていた。

 どれだけ埒外か。恐るべき事に、コックローチオルフェノクはその腹筋だけでヴィータのラケーテンハンマーを撥ね返したのだ。術も何もあったものではない、問答無用の力技。
 結果、攻撃の威力は大半がヴィータに逆流、デバイスを握る右腕、その基点である右肩に衝撃が集中したのである。脱臼だけで済んだのは、逆に幸運と言うべきか。右腕が肩口からもぎ取れていてもおかしくはなかったのだから。

〖げーほげほげほ! ぐぇっほ! おぇっぷ。うげー〗

 尤も、その威力の何割かはやはり通っているようで、怪物もまた腹を押さえて咳き込んでいたのだが。……それでも声音からはまだ充分に余裕がある事が窺える、ダメージを与えたとはとても言えそうにない。

「ヴィータちゃん!」

 今の自分達に出来る最高の奇襲。それが失敗に終わった事を察するよりも、親友への心配が先に立つ。
 それは高町なのはの甘さが故で、人間としては美徳であっても、今この場においてはただの失策。

「っ……!」

 ヴィータへと意識を向けたその瞬間、がつん、と強烈な衝撃が、なのはの額を打ち据えた。
 脳髄が頭蓋の内側に衝突し、機能を一時的に、しかし致命的に低下させる。バリアジャケットの防御など有って無きに等しい、回転し輪郭を失う視界の中でなのはが見たのは、中空から突き出した灰色の前腕。
 ぴんと伸ばされた中指と親指、畳まれた残る三本の指。俗に言う“でこぴん”が自身の額を弾いたのだと、身体の制御を失った脳が判断する。 
 見れば、コックローチオルフェノクの左腕が肘の辺りから消失している。その断面に魔法陣が展開されているところを見れば、空間接続型の特殊転移魔法、シャマルの使う『旅の鏡』と同系統の魔法と知れた。

「なのはっ!」

 ヴィータの叫びがやけに遠い。
 脳震盪は意識を失う程に重篤なものではなかったが、どうと倒れこんだなのはは起き上がる事が出来ない。
 思考のまとまらない意識は酩酊状態のそれに似ていて、それでも何とか眼球を巡らせてみれば、のそりと立ち上がった怪物の巨体が視界に入る。

 右肩を押さえて蹲るヴィータと、だらしなく床に仰臥する自分――そして何事もなかったかのように佇む怪物。どこからどう見てもそれは決着の図であり、なのはとヴィータが敗北した図であった。

〖……速度もタイミングも完璧だったわ。けど惜しかったのは、それに威力が乗ってなかった事ね。限定処置のかけられた状態じゃ、これが目一杯なんだろうけど――残念、それじゃアタシは殺せないし、倒せない〗

 鉄槌の直撃を食らった腹をさも大した事無いと言わんばかりにぽんぽん叩いて、怪物は笑う。
 石膏像の如く表情の変わらないその顔で、高町なのはとヴィータを嘲笑う。

〖まあ、敢闘賞ってところかしら。アタシもちょい用事が出来ちゃったし、続きは次回って事で〗
「……逃げんのかよ」
見逃してあげる・・・・・・・って言ってんのよ、お嬢ちゃん〗

 外れた肩を無理矢理嵌めて、それでも痛みに顔を引き攣らせつつ敵を睨みつけるヴィータへ、コックローチオルフェノクは事も無げに言い放った。
 見逃してやる。明らかに相手を見下したその言葉を、ヴィータは否定する事が出来なかった。今の自分達が出来る最高を真正面から跳ね返された、その事実をヴィータは受け入れている。
 であるのならば、傲慢とすら言える怪物の言葉も、目を背けられない現実として受け入れるしか他になかった。
 加えて。

〖ちょっとぉ。まだやってんのー? アタシそろそろ疲れたんだけど〗
〖そっち終わったんでしょぉ? 結界当番代わってよぉ〗
〖暇なんだけどー。ねぇ、アタシまだ待機してなきゃ駄目?〗

 不意に近くの病室の扉が開き、廊下の窓ががらりと開いて、更には天井の一部が切り取られたように落下して――戦場になっていた一帯のそこかしこから、怪物が次々と顔を出す。
 それらは全て、たった今までなのはとヴィータが戦っていたコックローチオルフェノクと同一の姿形で、傍からでも判る程に充溢する魔力を感じ取れば、その実力すらも同一であると知れた。

 至るところから這い出てはぞろぞろと集まってくるコックローチオルフェノク達。その数十一。ゴキブリは一匹見たら三十匹居ると思え、などと良く言われるが、まさしく格言通り。
 ただ一匹でも手に負えない怪物が、高町なのはとヴィータの二人がかりでも倒しきれない怪物が、十一匹。
 それは充分に、絶望と言える数だった。

〖それじゃ、お疲れ様でした〗

 ただ幸いと言うべきか、それらの怪物達はなのはとヴィータなど――既に蹴散らした相手の事など――最早眼中に無いらしく。
 涌いて出てきた十一匹と、元よりこの場に居た一匹。計十二匹のコックローチオルフェノク達が、声を揃えてそう言って。
 ぞろぞろと出てきた彼等は、ぞろぞろとその場を立ち去っていった。出てきた扉や窓、天井の穴から戻っていく様は拍子抜けする程に呆気なく、それでいてどこか滑稽なもので。
 だがその呆気なさ、滑稽さこそが、敗北し、しかも見逃されたという屈辱を、より一層煽り立てるものだった。

「……ヴィータちゃん、大丈夫?」
「……ああ。おめーこそ、頭、大丈夫か?」

 聞きようによっては割と失礼な言葉も、自分を心配してくれてるからこそ。
 普段ならば胸の奥が暖かくなるその気遣いも、敗北のショックに混沌とする頭では、胸焼けの感触にも似た心地悪さに思えてしまう。
 かつてここまで一方的な敗北は経験にない。いつぞやの六課隊舎壊滅とはまた違う、純粋に戦闘において遅れを取ったという事実。届かなかったというだけならまだしも、いとも簡単にあしらわれ、弄ばれたのだから、慰めになる要素など一つも無い。

 勝てない――今のままでは。
 でこぴんを喰らった額にじわりと血が滲み、なのはの顔に一筋の赤い線を描いていった。



 この数分後、なのはとヴィータはギンガ、スバル、ティアナと合流。
 ギンガ達の前にもオルフェノクが現れ、戦闘に這入った事。その中で明らかになった結城衛司の正体。そして乱入してきた謎の生物が、少年を連れ去った顛末を知る事となる。
 そして――



◆      ◆





 ――そして、現在。
 戦闘の子細を語り終え、改めてとんでもない辱めを(主に触手とか触手とか触手とかそれを撮影された事とか)受けたのだと思い返して赤面するなのはに、シグナムは大きくため息をついて応えた。

「良いようにあしらわれたという事か。……済まんな。お前たちともあろう者が不甲斐ないと思っていたが――相手がそこまでの手練れであるのなら、無理もないか」
「見た目はふざけてたけどよ――いや、中身もふざけてたんだけどよ。……ありゃ、正真正銘のばけもんだ」

 そう吐き捨てるヴィータだったが、無論、化物という比喩は『オルフェノクだから』という意味ではない。
『灰色の怪物』はどれも総じて化物、文字通りに怪物の類だ。人間を襲う物の怪である。結城衛司とて例外ではなく、人畜無害な顔をして、多くの人間やオルフェノクを殺害しているという。

 だが中でも、あのゴキブリのオルフェノクは間違いなく別格だった。
 これまでに幾度かオルフェノクと渡り合ってきたなのはやヴィータだからこそその格差が解り、シグナムもまた同じく、話を聞かされただけでその脅威を読み取っていた。

「解除申請……通るかな」
「どうだろうな。既に我々はオルフェノク問題から外された――今後はオルフェノクが現れても、出撃要請が入らん。戦う機会が無いのでは、限定解除も何もないだろう」

 一昨日を以って、ミッドチルダにおけるオルフェノク問題は機動六課から本局の対オルフェノク専任機関――時空管理局未確認生命体専任対策部隊S.A.U.Lに、その権限の全てが移譲された。
 つまり今の六課は既に部外者。戦闘に参加する事さえ許されず、まして限定解除など許可される訳もない。
 解除申請の回数そのものはまだ残されているものの、それは乱用乱発出来るほどに多いものではなく、『無関係の戦闘に首を突っ込む為』に限定を解除するなど以ての外だ。
 そして、それ以前に。

「限定解除を行って――それで、勝てるのかだ」

 そう、問題はそこだ。
 もし限定解除を行い、なのはやヴィータ、シグナムといった、魔力に制限のかけられている者達が本来の実力を発揮したとして。
 それで果たして、あの怪物を打倒し得るのか。
 一度の敗北が過度に彼女達を慎重に、もしくは臆病にさせている面は否めないが――それを差し引いたとしても、あの怪物は圧倒的だったのだ。

「勝たなきゃいけねーんだよ……勝って、あの動画データを取り返すか、消去しねーと……!」
「あうう……」
「……あ、ああ。そうだったな。それもあるか」

 それもあると言うか、実際、なのはとヴィータにとってはかなり切実な問題だった。
 触手に絡みつかれるスターズ分隊隊長と副隊長の痴態。怪物が撮影していたあの動画が流出などしようものなら(当然ながら、ミッドにもその手のネットワークや動画投稿サイトは存在し、一般人が見る事も出来る)、なのはとヴィータの名誉とか尊厳とかその他諸々の大事なものが根こそぎ吹っ飛ぶ。
 最悪、管理局で仕事を続けられなくなるだろう。そう考えると、実は今こそが、管理局に入ってから最大の危機であるのかもしれない。

「はやてちゃん――大丈夫かな」
「うーん……」
「どうだろうな……主はやての事だ、ただでは帰ってこんとは思うが」

 今、機動六課部隊長八神はやては、S.A.U.Lミッドチルダ支部へと赴いている。
 本来、機動六課は今年四月――既に年を跨いで、暦は新暦76年となっている――の解散まで、オルフェノク問題に携わる事となっていた。それが先日、唐突にS.A.U.Lへと権限が移譲されてしまったのである。
 あまりにも突然で、最早移譲と言うよりは簒奪に近い。加えてその際、彼等は一方的に結城衛司の身柄を拘束し、S.A.U.Lミッド支部へと連れていってしまった。

 元々六課がオルフェノク問題に携わるのは、専任機関が発足するまでの場繋ぎであった。発足が前倒しとなれば、権限の移譲が前倒しになるのも当然。
 だが六課側の都合も考えない一方的な権限移譲はとても看過出来るものではなく、故にはやてが直々に抗議に出向いているのだが――その抗議が何らかの成果をもたらすかと言えば、悲観的な見方しか出来そうにない。

「せめて、衛司くんだけでも連れ戻せれば良いんだけど……」

 とは言うものの、実際、衛司がそれを望むかどうかは、なのはにもヴィータにも、無論シグナムにも判らない事。
 オルフェノクの正体を暴かれた少年が、平気な顔をして六課に戻ってくるかどうか。彼はそこまで厚顔か。
 無論、なのは達六課の面々に、彼を人外と蔑む者など居ないのだが――

「ま、そりゃやっぱり衛司次第だろ。ギンガが何か言ったみてーだし――結局、はやてが連中から衛司取り返せるかどうかだろ」

 ギンガと衛司が盛大な喧嘩をやらかしたらしいとは、ヴィータも伝え聞いている。それが一体どんな結果を彼等にもたらしたのかは知る由もないが、ギンガをはじめとする六課の面々が彼の“秘密”をどう思うかは、確かに伝わっているはずだ。
 これからどうするのかは、衛司自身が決める事。しかし彼がどういう選択をするにしても、それが実現出来るかどうかはまた、別の問題で。
 もし彼が、六課に戻る事を望むと言うのなら。それはもう、結城衛司個人に出来る事の範疇を超えている。……だからこそ、八神はやてが動くしかないのだ。

「待つしかないのは歯痒いものだが――今は、信じて待つしかないか」

 ため息混じりにシグナムが呟いた言葉はどうしようもなく正論で、否定しようがなかった。





◆      ◆







「はい、それでは承りました。ご注文の品は明後日にでも納入させて頂きますわ」
『感謝する。貴殿の協力無くば、こうも早期に部隊を立ち上げられなかった』

 スマートブレイン本社、社長室――社屋の豪壮さとは裏腹に、必要最低限の装飾しか施されていないその簡素な執務室で、結城真樹菜が何者かと通信を行っている。
 ウィンドウに映し出されているのは本局の制服を纏った禿頭の男。視線を隠すティアドロップのサングラスが嫌な方向に似合っていて、“その筋”の人と評したところで違和感を覚える者は居ないだろう。
 尤も、『外見に気圧される』などと言うメンタリティ、生憎真樹菜はこれっぽっちも持ち合わせていない。付言するならば男は真樹菜の、スマートブレインの顧客であり、例え気圧されていたとしても、内心を態度に反映させる事は慎まなければならなかった。

「そういえば、面白い噂を耳にしたのですけれど。何でもそちらで、オルフェノクを二匹ほど捕まえたとか――」
『……耳が早いな。どこから聞きつけたのか詮索はしないが……ああ、事実だ。雀蜂のオルフェノクと鰻のオルフェノクを確保した。一両日中にも本局に移送して、徹底的に調べ上げる予定だ。技術部の連中が早く持って来いと煩くて堪らん』
「そうですか。これでオルフェノク対策が一層進みますわね――ふふ、まあ、あれが本格的に配備されれば、オルフェノクも敵じゃないのでしょうけれど」
『楽観は出来ん。何が起こるか判らんからな。……失礼、客を待たせている。例の件、宜しく頼む』
「はい、かしこまりました。またご連絡させて頂きますわ、高村さん」

 そうして通信は切られ、机上に展開されていたウィンドウも閉じられる。ふうと真樹菜は一つため息をついて、視線を横方向へと移動させた。
 部屋の片隅、ソファーやテーブルが置かれた簡易な応接スペース。そこに一人の男が、それはもう遠慮のない態度でふんぞり返っている。

 いや、それを果たして“男”と言って良いものか。座っている状態でも圧倒的な威圧感を放つ巨躯を水商売よろしくのドレスで飾り、べたべたと塗りたくられた化粧品の匂いをぷんぷんと放散しているその姿は、“オカマ”という言葉から連想されるイメージをそのまま形にしたかの様だ。
 臥駿河伽爛――コックローチオルフェノク。結城真樹菜の親友は相変わらずの傍若無人さで、仕事をしている真樹菜の横でくつろぎまくっていた。具体的に言えばポテトチップス齧りつつ漫画読んで笑い転げていた。

「あ、オハナシ終わった?」
「ええ、お待たせしました」
「今のなに? S.A.U.Lって確か、管理局のオルフェノク問題専任部隊よね?」
「はい。まあざっくり説明しちゃうと、スマートブレインはその部隊にちょっと援助させて頂いてるんです。武器や装備の調達で、ね。先日注文を頂いた品が手に入ったので、いつ頃届くかという連絡ですわ」
「援助……ああ、成程ね。前にそんな話したっけ。……してなかったっけ?」

 結城真樹菜がオルフェノクであり、スマートブレインがオルフェノクの集団である以上、S.A.U.Lへの援助は利敵行為でしかない。或いは自殺行為と言うべきか。真樹菜からの援助はそのまま、オルフェノクに対する迫害の刃として振るわれるのだから。
 だが真樹菜には真樹菜の目的があり、目指すところがあり……その為に、人間勢力にはある程度、オルフェノクと渡り合うだけの力を持って貰わなければならない。ただオルフェノクに蹂躙されるだけの、弱々しい生き物のままでは困るのだ。

 ただし、それは本当に、結城真樹菜個人の――強いて言うなら、彼女と志を同じくする若干名の――思惑でしかなく。
 事情は知っていても思惑までも知らぬ、また事情すら知らぬ大多数にしてみれば、何を考えているのかと首を傾げる行為でしかなかった。

「けれど、少々予定外でしたわね……まさか彼等が衛司を捕まえてしまうなんて」
「思ったより有能だったのねえ。いや、抜け目無いって言った方が良いのかしら?」
「まあ、仕方ない事です。ある程度はアンコントローラブルにしておかないと、繋がりを勘繰る人も出るでしょうし。そもそもが『人間にオルフェノクと対抗出来る手段を持たせる』って狙いで作らせた部隊ですからね。余計な事をしてくれるのは、まあ見方を変えれば、想定通りのお仕事をしてくれてるって事で」
「アルノちゃんが余計な事をしなければ、連中が出張ってくる事もなかったんだけどねえ……ごめんね、真樹菜ちゃん。アタシのツレが迷惑かけたわ」
「いえいえ。アルノルトさんにはきつーい“お仕置き”をさせて頂いてますから。伽爛さんが気に病む事ではありませんわ」

 おっかないわねえ、と伽爛は肩を竦め、ふと思い出したように懐から携帯電話を取り出した。それを真樹菜へと放り投げる。

「? なんですの、これ?」
「んー? いやねぇ、この前の戦闘で撮ってみたんだけど。面白動画。Youtubeにでも流してみよっかなーって思って。先に真樹菜ちゃんにも見せてあげる」

 明らかに何か企んでいると知れる邪悪な笑み。伽爛とはそれなりに長い付き合いだ、碌でもない事を考えていればすぐに判る。
 どうせスナッフ・ビデオか黒魔術の儀式とか、その類だろう。伽爛はその類の、常人ならば直視に堪えない映像を好んで集めている。それを不意打ち気味に見せられる事も何度かあったから、こうして再生開始のタイミングを預けられた今は、何が映し出されても驚く事はない。
 ……と、そう思っていたのだが。

『ひゃっ!? や、にゃぁあああああっ!?』
『わ、わぁあっ!? き、き、気持ち悪ぃい!』

 社長室に響く悲鳴と嬌声。
 予想を斜め上にぶち抜く卑猥な叫びに、思わず真樹菜が噴き出した。

「な、伽爛さん、これ何ですの!?」
「面白動画。『エース・オブ・エース触手緊縛陵辱』なんつって」

 機動六課の辣腕魔導師がぬるぬるうねうねと触手に絡まれて喘いでいる(?)様に、真樹菜は呆れたような顔をしつつもそれに見入っていたが――やがて、何か思いついたかのような顔で、どこか邪悪に微笑んだ。

「伽爛さん。この動画、私に下さいませんか?」
「うん? 欲しいの?」
「ええ。使い方次第では面白い事になりそうですし――正直、ネットに流してしまうのは、少し勿体無いです」

 何に使うのか、さすがにそこまで具体的なプランが出来ている訳ではなかったが。
 ともあれ伽爛はあっさりと真樹菜の頼みを聞き入れ、「別にいいわよ」と頷いた。

「さて、っと。じゃあそろそろ行こうかしら。白華とラズロちゃんも連れてくけど、良いわよね?」
「ええ。くれぐれもお気をつけて――ああ、そうだ。伽爛さん」
「ん?」

 部屋を出て行こうとした伽爛を呼び止め、真樹菜は机の中から一枚のカードを取り出して、伽爛目掛けて投げつけた。
 手裏剣の如く回転して迫るカードを、伽爛は事も無げに人差し指と中指で挟みとってみせる。見ればカードはただの紙切れではなく、電子ロックの類を解除する為のカードキーだった。

「何コレ?」
「レールウェイ・クラナガン駅のロッカーの鍵です――ほら、伽爛さん、面が割れちゃいましたから。ロッカーの中にちょっとした変装用の小道具が入ってます、使って下さいな。私物で申し訳無いのですけれど」
「ふうん……ま、いいわ。借りとくわね」

 やろうと思えば伽爛は変身魔法の類で姿を変える事も出来るのだが、折角の厚意を無碍にするのもまた彼の趣味ではないのだろう、礼を言って社長室を出て行った。
 圧倒的な威圧感を誇る巨体はただ居るだけで圧迫感を伴っていて、彼の居なくなった部屋は酷く広く、寂しく思える。
 とは言え、それも直に埋められる空虚であって。いずれ戻ってくるであろう彼が携えているはずの“成果”を思えば、我慢出来ない寂しさではなかった。





◆      ◆







『ちゅーか、衛司よ。お前、結構諦めがいいよな』

 そう言えば――いつだったか、そんな事を言われたのだったか。
 父を、母を、姉を殺され、自身も人外へと堕ちたあの惨劇から数日。住人の大半を失い、酷く寒々しい空間に成り果てた結城家のリビングに我が物顔で乗り込んできた“蛇”が、朝食のトーストをこれまた遠慮なく齧りながら、少年に向けてそう問い質したのである。

 一応注釈を入れておけば、一人生き残った結城家本来の住人、結城衛司に“蛇”を厭う気持ちは皆無であった。
 突如として失った家族。崩壊した環境。そのストレスはたかが十二の子供が背負うにはあまりに過酷で、それを分かち合うかのように傍に居てくれる相手を蔑ろに出来るほど、少年は強くなかったのだ。

 実際、“蛇”が齧っているトーストをはじめとして、彼の朝食は全て衛司が作ったものだ。
 衛司自身は食欲も無ければ空腹も感じない、そういう体質である。自分が口にする訳でもない食事にこれほど手をかける理由は、主従関係によるものか、そうでなければ家族愛や友愛からくるものであろう。
 この場合は、後者であった。

『諦め……ですか?』
『いや、なんちゅーの? 俺様もそうだったんだけどよ……オルフェノクになったばっかってよ、やっぱ解んなくなるもんだろ。自分がどう生きてきゃいいかって。ばけもんになっちまったんだぜ? ほいほい受け入れられるかっつーの』

 そう考えりゃ、“あいつ”は凄かったよなぁ――と、“蛇”は懐かしそうに、それでいてどこか誇らしげに、そう呟いた。
 道を違えたとは言え、その凄い男と友であった事を今も誇りに思っている。“蛇”の表情は彼の内心を明確に伝えていて、自然、向かい合う衛司も釣られるように口の端を緩めた。
 それが自嘲の表情に見えてしまうと、少年は気付いていなかった。

『“あいつ”はよ。最初っから……ま、俺様と会った時からっちゅー意味だけどよ、まあ最初っからぶれてなかったよ。オルフェノクだけど、人間の味方として人間を守るってな』
『人間を、守る……“衛る”、ですか』

 朧な記憶の中で、いつか言われた事を思い出す。誰かを衛れる男になってほしい。少年の名にはそんな願いが込められているのだと。
 それは無理だ、と衛司は笑った。今の衛司には、人間というものが解らない。衛るに値する存在なのかどうかが酷く疑わしい。己の父を、母を、姉を奪った連中が、その同族が、衛られるだけの価値ある上等な存在なのか……是とも否とも、確信が持てない。
 衛司の内心を察する事もなく、“蛇”は続けた。

『けどよ、そりゃやっぱり迷ってたっちゅーか、諦めがつかなかったからだと思うワケよ、俺様としては。人間を諦めきれねえから、人間の味方になろうってな。……お前、そーゆーのねえだろ?』
『………………』

 衛司は、黙った。
“蛇”の言葉が、妙に断言的だったからというのもあるだろう。加えてその時の衛司は、彼の言葉に反駁するだけの何かを持ち合わせていなかったのだ。

 自分が人間である証。“蛇”の言う“あいつ”は、人間を守る、人間の味方である事で、その証を立てようと考えたのだろう。
 対して衛司は、怪物には出来ない殺し方を。怪物としての殺戮ではなく、人間としての殺人を行う事で証にしようとした。それが人道を外れた鬼畜の所業であると気付いたのは、全てが終わった後。血と肉片に塗れた己の手を直視した瞬間だった。

 結城衛司は致命的に間違えた。最初の最初に、取り返しのつかない間違いを犯した。最早自分が人間であると、人間で在り続けたいと望むのはおこがましいと、そういう思考に至ってしまった。そもそも彼が人間の価値に疑念を抱いているのだから、人外に堕ちる事を厭う気持ちが湧いてこようはずもない。
 それを諦めていると言われれば――成程、頷く以外にない。

『な、衛司。もうちょい見苦しくてもいいんじゃね? ちゅーか諦め早すぎだっつーの。もうちょいこう、なんだ、足掻け。他の奴から見りゃみっともねえ事でも、簡単に諦めるお利口さんよりゃましだと思うぜ?』



 回想から現実へと、衛司は意識を浮上させる。

「『諦めがいい』……か。直也さんも気軽に言ってくれたよ、本当」

 本当は未練たらたらで、誰よりも執着していて。
 そうでなければ、『人間に戻りたい』などと言うものか。
 今なら解る。ギンガ・ナカジマの前で吐露したものこそが、結城衛司の本音なのだと。
 それを理解するまでに、随分と無駄な時間を費やしてしまった。そこだけは、悔いるべきなのかもしれない。

「まあ、時間を無駄にしたのは僕だけじゃない――はは。慰めにもならないな、こんなの」

 口枷の内側で紡がれた呟言は当然のように言語の態を為しておらず、もしそれを耳にする者が居たとしても、単なる呻き声としか聞こえない。
 二日間――四十八時間。
 拘束衣を着せられ、部屋の中央に置かれた椅子に座らされ、身動き一つ取れないままに、地下十三階の独房に四十八時間。

 無論その間、幾度と無くS.A.U.Lの人間が訪れては、衛司を尋問していった。人権を保障されぬオルフェノク、どう扱おうと文句も出ないのだろう、尋問はまるで拷問染みて高圧的だった。八神はやてが推察した通り、殴られ、蹴倒され、理不尽な暴力を振るわれた事も、一度や二度ではない。
 しかしどれだけ殴られようとも、衛司が口を開く事はなかった――いや、そもそも彼は他のオルフェノクに関して、何も知らないのだ。何を訊かれても答えられるはずがない。

「…………」

 不意に聞こえた音に、衛司は顔を上げた。重たい音を立てて、鉄製のシャッターが開いていく。つい先程はやてが面会を終えて立ち去った事を考えれば、彼女が戻ってきた可能性は低いだろう。
 ならば尋問の時間か。今日はいったいどんな目に遭わされるのかと、衛司は身を強張らせるが、しかしシャッターの向こうから現れた慮外の人影に、少年の警戒はすぐに解かれた。

 そこに居たのは一人の男。上半身を剥き出しに、上着と思しき布切れは腰に巻きつけている。下半身の服も歩ける程度に引き裂かれ、ほぼ半裸の姿ではあるが、彼の纏うそれが衛司と同様の拘束衣であるのは一目で判った。
 男の顔には見覚えがある。いつぞやの探偵姿ではない為か、思い出すのに少し時間がかかったが。誰かが来るとは思っていたし、それが彼である可能性は高いと踏んでいたが、男の格好ばかりはさすがに衛司の慮外であった。

「お待たせしました、結城衛司君。お迎えに上がりました」

 そう言って、男は――イールオルフェノクの人間態、エルロック・シャルムは扉を開錠。独房の中へと這入ってくる。
 口枷を外され、けほ、と一つ咳き込んで、衛司はエルロックの顔を見上げた。

「貴方も、捕まっていたんですか」
「ええ。機動六課の魔導師に負けてしまいまして――気付けばここに。拘束衣の解除に手間取ってしまって、お迎えに上がるのが遅れてしまいました。申し訳ございません」
「……いえ。助けに来てくれただけで有難いですよ」

 言葉を交わしながらも、エルロックは衛司の拘束衣や革のベルトを引き千切っていく。さすがオルフェノク、人間のままでも力持ち――と思ったのを見透かしたのか、エルロックは苦笑してかぶりを振った。
 種はこれです、と彼は左手の親指と人差し指を衛司に示してみせる。瞬間、二本の指の間に火花が走り、ばちばちばち、と連続してスパーク音が鳴った。
 スタンガンの先端部分で起こる現象に類似したそれに、衛司が納得した顔で頷く。引き千切ったと言うよりは、その火花で焼き切ったと言う感じだろうか。

「そうか……貴方は、電気鰻だから」
「はい。一部のオルフェノクは、人間の姿でもある程度の特殊能力が使えます。まあ才能や訓練次第なのですが……君もオリジナルのオルフェノクですから、訓練さえすれば、何かしら出来るようになると思いますよ」
「は――そっか。そういう事もあるんだ……本当、僕は何も知らないなあ……」

 衛司は笑った。どこか疲れたような、呆れたような、自嘲的な笑み。齢十四の少年にはまったく似つかわしくない、そんな笑みだった。

「さて、結城衛司くん」

 やがて少年の拘束を解き終えて――首に嵌められた鉄輪だけは、未だ残されていたけれど――エルロックは衛司に呼びかける。 

「知っておられるかと思いますが、此処は地下十三階です。私一人ではさすがに脱出も心許ない。君とて、ここで人間どものモルモットにされるつもりはないでしょう? せめて此処を脱出するまでは一時休戦という事にして、互いに協力し合うというのはいかがですか?」

 エルロックの提案はごく自然なもので、この場を逃れる事を考えるならば、現状取り得る最善と思える。
 だが男の提案に、衛司はゆるりと首を横に振って――「必要ないです」と呟いた。

「必要ない……? それはつまり、君は一人でもここを脱出する算段があると?」
「あ、いえ、そうじゃなくて。一時休戦、ってとこです」

 ますます怪訝な顔を見せるエルロックに、衛司は割合平然とした口調で、ただしその眼差しに決然とした色を滲ませて、言い放った。



「連れて行ってください。僕を、貴方達オルフェノクのところへ」



「…………!?」

 エルロックが瞠目する。
 無理も無い。二日前はあれほど明確に、敵意を以って拒絶していたというのに。心変わりにしてもあまりに真逆の転換だ、不可解と思わない方がおかしい。

 確かにエルロックは結城衛司を“連れ帰る”事を任務としていた。衛司が自分から付いて来るというのなら、“一時”休戦と期間を区切る必要もない。
 ただ、その真意が不明のままでは、好都合と言う事も出来ない。まさか衛司が言葉巧みに信を得て、脱出した直後に裏切るとも思えない――そういった駆け引きから、この少年は縁遠いところに居る。
 けれどもそれを警戒せざるを得ない程に、衛司の変心は唐突で、信憑性に乏しいものだった。

「是非もありませんが――しかし一体、どういう風の吹き回しでしょう? 今までの君を見る限り、私としては、その言葉を素直に受け取るのは難しい」
「ですよね。そりゃそうです……逆の立場なら、僕だってそう思う」

 エルロックの顔には、怪訝と不審が入り混じった微妙な表情が浮かんでいる。無理もあるまい。衛司の言葉に信を置けない事に加え、二日前の衛司と今の衛司とでは、発する空気、纏う雰囲気がまるで別人なのだ。
 二日前の衛司なら、エルロックの顔を見ただけで襲い掛かっていただろう。拘束衣を着せられていた状態だからそれは叶わずとも、殺意を込めて睨み付けるくらいはしていたはずだ。

 だが今の衛司には敵意も殺意も、何もない。エルロックが性懲りもなく衛司を連れ去ろうとこの場に現れた事を、さも当然のような顔をして受け入れている。
 怪訝を通り過ぎ、疑念に近い色を帯び始めるエルロックの表情を一瞥して、衛司はさもどうでもよさげに、ぽつりと呟いた。

「喧嘩――しちゃったんですよ」
「…………は?」
「知らなくてもいいと思ってたんですけど。どうせ理解出来ないんだし、理解して貰えないんだし、知る事も伝える事も必要無いって思ってたんですけどね――それ、やっぱり良くなかったんです」

 そうして結城衛司は、“彼女”を傷つけた。
 無知と不理解、そしてそれを肯定する怠惰が、少年に図々しい被害者意識を生んで――それが、ギンガ・ナカジマを傷つけたのだ。
 二日前のあの時、衛司はギンガにしこたまぶん殴られ、どつき倒された。今なら判る、あれは当然の応報だった。ギンガを傷つけた衛司へ、下るべくして下った天罰だ。

「『人間には解らない』なんてさ。勝手に決め付けて、壁作って……その壁に隠れて、他人の事なんて見ようともしてなかった」

 戦闘機人。人の身体に機械を埋め込んで“造られた”、人に似て否なる生命体。それこそが、ギンガ・ナカジマの正体。
 衛司は知らなかった。知ろうともしなかった。そして知りもしない癖に、彼女を“自分とは違う”と決め付けて、目を背けた。

「その癖、僕は自分の事も知らなくて……あの人に教えられた事だけで充分みたいに思って。本当は、もっと色んな事を知らなくちゃいけなかったのに。そりゃ殴られますよ、ぼこられて当然ですよ。そんな傲慢、ぶん殴って直すしか、他にない」
「…………」
「本当、嫌になる」

 ぎり、と奥歯を噛み締めて、衛司は吐き捨てる。

「無知なのは、もう嫌だ――無知なままでいたら、駄目なんだ」

 友達になれないかと、ギンガは訊いた。友達に、仲間に、家族になれないのかと。答えはまだ出ていない。自分が何者であるのかすら、本当の意味で解っていない結城衛司には、ギンガの問いに対する答えが出せないのだ。
 知らなければいけない。識らなければいけない。自分の事。自分以外の事。知り得る限りの全てを知ってこそ、彼は何かを決められる。自分が何者であるのか、何者でありたいのかを選択出来る。

 機動六課の――ギンガ・ナカジマの友達で、仲間で、家族である事が出来るのか。
 その問いに、答えを出す事が出来る。

「だから、連れて行ってください。僕はオルフェノクを学びたい。オルフェノクとしての僕がどう在るべきか、それを知りたい」

 衛司は解っている。それは矛盾であると。
 彼女達の友達で、仲間で、家族である自分となる為に、彼女達と敵対する側に走る矛盾。
 裏切りであって、背信であって、今まで受けた幾多の善意と数多の厚意を踏み躙る真似で……それでも。

「無知な僕を、終わらせたい」

 それでも。利口ぶった諦観より、見苦しくても間違えても、足掻く方がましだと気付いたのだから。
 理解するまでに二年もの月日を擁したものの、少年は今ようやく、“蛇”の言葉の意味を理解出来たのだから。

「是非もありません――あのお方もお喜びになられるでしょう。さて、少し動かないでください」

 エルロックの口にした『あのお方』という言葉にふと疑問を抱きつつも、衛司は彼の言う通り、その場に静止する。
 男は衛司の首筋に手を伸ばしたかと思うと、彼の首に嵌められた首輪を慎重に撫でていく。電流を流す事で対象の動きを束縛する鋼鉄の首輪。この二日というもの、何かにつけて電撃を浴びせられたものだから、首輪の圧迫感も最早気にならなくなってしまっている。

「首輪――外せるんですか?」
「ええ。少しばかりこつが要りますが。失敗すると爆発します、動かないでください」

 肝の冷えるような事をさらりと口にするエルロックの首は綺麗なもので、無骨な首輪は既に取り外されている。
 ばちりと火花が散る音を響かせたところから察するに、回路をスパークさせる事で首輪の機能を停止させ、解除するのだろう。
 こつが要る、という言葉の通り、作業は遅々として進まない。エルロックが必死にやっているのは解るのだが、一つ間違えれば首輪が爆発し、死を免れない状況に置かれた衛司としては、どうにも落ち着かない。

「ふむ。さすが我が社の製品、一筋縄ではいきませんな」
「? 『我が社』……?」

 エルロックの呟いた独り言を耳聡く拾った衛司だったが、しかしそれを問い質すよりも先に、彼の耳は更なる奇妙な音を捉えていた。

 ――がちゃり。
 ――がちゃり。がちゃり。がちゃり。

 金属が硬質な床に押し当てられる事で生じるそれは、確認するまでも無く何者かの足音。この地下階層を闊歩する者となれば、それはS.A.U.Lの手の者以外には有り得ない。
 エルロックが手を止めて、警戒に張り詰めた顔で独房の外へ出る。その面貌には戦闘態へ変化する前兆、奇怪な紋様が浮かんでいた。
 ただ。独房から外に出た時点では、彼はまだ人間態のままであり――すぐさま戦闘態へと変化するつもりであったとしても、やはりそれは相手を人間と侮った、迂闊な行動と言う他なかった。

「ぐぁっ……!?」

 轟音が響く。
 瞬間、エルロックが何かに突き飛ばされたかの様に後方へと弾かれた。
 びちゃん、と生々しい水音。音の正体はすぐに知れた。エルロックの右腿におぞましい程の大穴が穿たれ、そこから噴出した血が床と壁に飛散したのだ。

「シャルムさん!?」

 思わず衛司はエルロックの名を呼び、彼へと駆け寄る。
 人間態のまま独房の外に出たエルロックを迂闊と言うのなら、衛司は輪をかけて迂闊であっただろう。エルロックの異変は明らかに何者かの攻撃によるもので、独房を出れば自身もまた攻撃に晒されると、彼は理解していなかった。
 だが幸いと言うべきか、独房を出た衛司を襲う者は居なかった。エルロックに駆け寄った少年が、凶手の姿を捉えようと射線を辿り視線を向けても、その隙を衝かれる事はなかった。

「なん……だ、……!?」

 倒れ伏すエルロックの更に向こう。地下十三階フロアの通路、その突き当たりから、こちらへと向けて歩いてくる人影が在る。
 人影。そう表現したものの、果たしてそれは正確であったか。
 総身を鎧う鋼鉄の甲冑。不要な装飾が極限まで削ぎ落とされ、鈍い銀の光沢を放つ無骨な装甲は、ただ実用性のみを追求して作られたと知れる。
 人の形をした何か、という意味でなら、『人影』という言葉は確かに間違っていないのだが――今、目の前に居る何かがただの人間でない事は、瞭然だった。

「『V-1』……もう……実用段階に……!?」
「ぶ、V-1……!?」

 苦痛に顔を歪めながら、エルロックがその名を口にして……事態が飲み込めない衛司が、阿呆のように繰り返す。
 V-1と呼ばれた甲冑は――それを装着している何者かは――衛司達へと向けて銃を構えている。冗談のように巨大な拳銃の銃口からは薄っすらと立ち昇る白煙。それは硝煙か、はたまた圧搾魔力の残滓であるのか。

 この甲冑の正体は判らない。衛司の知識の中にはない。今の衛司に判るのは、この甲冑が脱走者である衛司とエルロックを捕らえるべくこの場に現れたという事。
 そして、もう一つ判るのは――少なくともこの甲冑を差し向けた何者かは、衛司とエルロックを決して過小評価していないという事だ。

「……くそ。だからって、それは過大評価だろうよ……!」

 そう、V-1を纏っているのは一人ではなかった。エルロックを撃った一人の後ろにもう二人、同様にV-1を纏った何者かが続いている。
 後方二人のV-1もまた、大型拳銃の銃口を衛司、そしてエルロックへと向ける。
 真正面から照準を据えられた少年が、張り詰める緊張に、知らず冷たい汗を滴らせた。





◆      ◆







 エレベーターで地上一階へと戻る間、はやての脳内では延々と先の会話が繰り返されていた。
 伝言を頼む。結城衛司は八神はやてへとそう依頼し、はやてはそれを請け負った。それは良い、そこまでなら良い――ただし問題は、衛司が頼む言伝の、その内容だった。

『「ありがとう」と「ごめんなさい」――って、そう伝えてもらえますか』

 それではまるで、遺言ではないか。
 当然、はやてはすぐさま衛司にそう問い質した。死ぬつもりがあるようには見えなかったが、この状況下で聞くにはどうしても裏を疑う言葉であったのだ。
 はやての言葉に、衛司はゆっくりとかぶりを振った。乾いた諦観の微笑はむしろ肯定とすら見えたのだが、それでも、彼は行動として否定を行ったのだ。

『死ぬつもりは無いです――死ぬのは、やっぱり怖いから。一回死ぬだけで充分だし、何回死んでも、たぶん慣れる事はないです。……慣れたく、ないです』

 オルフェノクの生態、怪物が如何にして誕生するのかを知らぬはやてにしてみれば、衛司の言葉は全く理解の及ばないものであったのだが。
 ともあれ、衛司に死ぬつもりがない事は確かだった。やりたい事があると彼は言い、それが何であるのかは不明だが、どうあれそれは命あっての事だ。死者には何も出来ない――衛司は十全に理解している。

 そこで面会は終わった。予定の五分が終わり、シャッターが下ろされて衛司は再び隔絶され、はやてとグリフィスは地下十三階フロアからも追い出された。
 そうして地上へと戻った二人は、案内役の男に先導されて、S.A.U.Lミッドチルダ支部の隊舎内に在る支部長執務室へと通された。

「失礼します。古代遺物管理部、機動六課部隊長の八神はやてです」
「同じく、同部隊長補佐、グリフィス・ロウランです」

 支部長執務室は酷く殺風景な部屋だった。どこぞの商社のオフィスの方がまだ飾り立てられていると思えるほど、何もない。
 室内にある家具調度は執務机が一つきり。戸棚や本棚の類は何もない。その癖やたらと面積ばかり広い部屋で、余計に殺風景な感じが際立っている。
 そんな室内には男が一人。つるりと剃り上げた禿頭にティアドロップのサングラス。威圧と言うよりはいっそ恫喝、そんな雰囲気を漂わせた男――S.A.U.Lミッドチルダ支部長、高村勢十郎。

「ああ。俺がS.A.U.L支部長、高村勢十郎だ。わざわざご足労頂き、感謝している」

 声には皮肉も嫌味もなく、ただ原稿を読み上げているかのような無機質さと、ぞんざいさが同居していた。
 声音だけで解る、この男ははやてとグリフィスに何の興味も抱いていない。疎んでもいなければ邪魔だとすら思っていないのだ。居ても居なくても同じ事と言わんばかりの淡白な反応である。

「……S.A.U.Lの発足は、もう少し先の話と思うてましたけど」
「お偉方にも都合があるという事だ。いつミッド以外にオルフェノクが発生するか判らん、なるべく早い時期に対オルフェノク戦術を構築しておく必要がある――その方向で意見が一致したと聞いている」

 高村の言葉と対称的に、はやての言葉は刺々しさに満ちていたが、それを受けて尚、高村の声音には何ら変化が無かった。

「六課に無用の負担を強いている状況も好ましくない。『奇跡の部隊』を下らない雑用に使い潰す気は無いという事だ」
「下らない、やて……?」
「どうした。何か言いたい事があるか」
「……いえ。何でもありません」

 言いたい事は山のようにあるが、それを感情のままに口にする事は出来ない。少なくともはやてが機動六課の部隊長である以上、彼女は言動を慎まなければならない立場にあった。

「有害鳥獣の駆除など他所に任せて、貴様等は精々管理局のイメージアップに貢献するがいい。『JS事件』で貴様等は充分に働いた。もう楽をしても良い頃だ」
「……生憎、損な性分なもんで。面倒事を背負い込む性質なんです」
「そうか。だが俺達も上から命じられてこの仕事をしている。面倒事とは言え、おいそれと貴様等に譲ってやる訳にもいかんな」

 しかし――と、そこで高村は間を置いた。

「貴様等が来てくれたのは僥倖だった。近々そちらに問い合わせるつもりだったのだがな、手間が省ける。幾つか訊きたい事があるが、答えて貰えるか。八神二佐、ロウラン准尉」
「……何でしょうか、高村一佐」
「知っての通り、初めて“生きたまま”捕獲したサンプルだ。何せオルフェノクは死亡すると同時に灰化するものだからな、迂闊に解剖も出来ん。故にこいつらを殺さないよう調べるしかないのだが、どうにも反応が悪い。後々の事を考えれば自白剤も使えん、壊れられると困る……そこで質問だ、八神二佐。貴様等はどうやってあの生物を手懐けたのだ?」
「“手懐けた”やて……!?」
「蜂の方のオルフェノクが六課に潜伏していた際、六課隊員とある程度のコミュニケーションを取っていた事は知っている。餌の与え方に秘密があるのか? 飼育場の広さが関係あるのか? それとも雌のオルフェノクをあてがっていたのか?」
「あ、あんた――」
「なにぶん、我々にはオルフェノクを“飼育”するノウハウが無いものでな。苦労している。一つコツのようなものを教えてくれると助かるのだが――どうだ、八神二佐」

 高村からの質問にどう答えたものか。はやては数秒、脳髄をフル回転にして思考し――やがて、ふふんと意味ありげに笑んで、顎を上げ胸を張り、いかにも尊大な態度を取ってみせる。
 上官に対して明らかに礼を失した態度であるのだが、それを一々指摘したり、不快と思うメンタリティ、目の前のハゲは持っていないだろう。そう踏んだ。

「ほな、教えたります――オルフェノクと馴染みになるのに大事なもん。……“愛”です」
「愛?」
「そーです。愛情たっぷりに接したれば、どんなイキモノでも心開いてくれます―― 一佐、S.A.U.Lにはちょう、愛が足りんのとちゃいますか? そんなんやったらだーれも、何も言うてくれません」
「ふむ。愛か。それは盲点だったな――参考になった」

 空々しく高村が頷いたその時、不意に机上の端末が電子音を響かせた。誰かからの通信が入った事を示す音。高村はすぐさま端末を操作して、眼前にウィンドウを表示させる。

「何だ」
『失礼致します。想定状況27、ケースDです』
「そうか。V-1の投入を許可する。殺傷設定で良い、脚の一本ももいでやれ。変に反抗的なままでは今後に差し支える――きっちりと調教しろ」
『了解』

 ぶつりとウィンドウが閉じられ、だがそれと入れ替わる様に新たなウィンドウが表示される。高村の眼前だけではなく、はやてとグリフィスの前にも。

 映し出されたのは、つい先程はやて達が訪れていた地下十三階の独房。だがそこには驚くべき変化があった。独房の中には衛司のみならずもう一人の男が存在し、拘束衣に締め上げられていたはずの衛司は自身の足で立ち上がっていたのだ。
 ずたずたに引き裂かれた拘束衣を見れば、それが正規の手段で解かれたものでないと判る。同様にぼろきれとなった拘束衣を腰蓑よろしく巻きつけているもう一人が、手段は不明だが、衛司の拘束を解いたのだろう。恐らくは衛司と同時に捕まった、電気鰻のオルフェノクか。
 衛司とは別の牢獄に隔離されているはずの彼が、どうして衛司と共に居るのか。何故衛司は、その男と言葉を交わしているのか。幾つもの疑問が一瞬ではやての脳内を駆け巡り、それらが化学反応を起こして融合すれば、彼女の思考は更にその先に行き着いた。

「……まさか」

 結城衛司は機動六課を、人間を見限って、オルフェノクの側に走ったという事なのか?
 否定する材料はない。彼が地下の牢獄でどんな扱いを受けていたか考えれば、むしろそれが正当だ。

 はやての救出を拒み、しかしオルフェノクの救けを受け入れた事実。
 『やりたい事がある』という、あの言葉。
 『ありがとう』と『ごめんなさい』……あの言伝は、裏切りに対する謝罪でしかなかったと、そういう事なのだろうか。

「いや――それでも」

 それでも、衛司にしてみればこれが最善なのではという思いが、はやてには拭いきれない。
 例えここで衛司を六課に連れ戻す事が出来たとしても、オルフェノク問題の全権がS.A.U.Lに移譲された今、六課がどこまで衛司を庇えるかは不透明。ならばいっそと考えるのは、決して間違いではないだろう。

「! ――高村一佐、あれは……!?」

 はやてが逡巡に思考を費やしていたせいか、“それ”に――画面が切り替わり、独房前面の通路を映し出した瞬間、そこに映り込んだ見慣れない何かに気付いたのは、グリフィスが最も早かった。
 言うなればそれは、最先端技術が造り上げた鋼鉄の芸術だった。人型を形作る鋼の装甲。不気味なまでの光沢を放つ甲冑が、合わせて三体。
 その内の一体がゆっくりと腕を掲げ、手にした大型拳銃の銃口を前方へと向ける。独房から無防備に飛び出してきた男を見るや否や、彼は引鉄を引いた。轟音と共に撃ち出された弾丸が男の右腿を貫通し、衝撃だけで男の身体を紙屑のように背後へと吹き飛ばす。

「なっ……!? なんて事を……!」

 見ての通りの対物設定、殺傷設定。時空管理局における原則、非殺傷設定の徹底を根底から覆す暴挙。
 はやてが絶句し、グリフィスは食ってかからんばかりに高村を睨み付け、声を荒げる。

「あれは――あれは何ですか、高村一佐! S.A.U.Lは一体、何を作って――!」
「『V-1システム』」

 常に平坦を維持してきた高村の声に、この時、初めて感情らしきものが宿った。高揚、興奮、その類の感情。それは或いは、買ったばかりの玩具を自慢する子供と同種のものであったのかもしれない。

「八神二佐。貴様は確か、第97管理外世界『地球』、それも日本地区の出身だったな。ならば十五年ほど前の、『未確認生命体事件』は知っているだろう」
「未確認――生命体」

 さすがに当時のはやては四つか五つ、記憶や経験として憶えてはいないが、基本的な知識は持っている。

 地球の暦で西暦2000年。突如として現れた謎の生命体が、関東地区を中心として次々と人間を殺害していくという事件が起こった。
 既存の犯罪行為とは全く異質なこの事件に警察は翻弄され、未確認生命体が集団である事、彼等が“ゲーム”として殺戮を繰り返している事を突き止めるものの、対処は遅れに遅れた。
 最終的に警察は民間協力者の助力と、未確認生命体の体組織を解析する事で開発した特殊拳銃弾を切り札に、未確認生命体を根絶する事に成功するものの――しかし。

「当然、警察上層部はこう考えた。『また何時、同様の事件が起きるとも限らない』とな。そうして日本警察は秘密裏に警視庁未確認生命体対策班――通称『S.A.U.L』を設立。同種の脅威に対抗し得る兵器の開発に着手した」
「S.A.U.L……それって」
「ああ。“時空管理局未確認生命体専任対策部隊”S.A.U.Lの略称はそこから拝借している。無論、無断でだがな――向こうが著作権を主張してくるなら、話は別だが」

 高村の声からは再び感情が抜け落ちて、そのせいか、冗談めかした物言いは酷く嫌味な色を帯びていた。

「『V-1システム』。『未確認生命体事件』より二年後に起こった、とある事件において開発された代物だ。俺の叔父が機械工学の権威で、これの開発を主導していた。……結局、理由は知らんが、開発は途中で中断。計画も破棄された。叔父はそれから五年ほどして死に、遺品の中に残されていた設計図と基礎理論を俺が本局に持ち込んで、技術部に開発させた。それがあれだ」
「……あれ、質量兵器と違うんですか。管理局法に違反して――」
「法には触れていない。書類上、あれは救助隊の着用する耐火服と同じ扱いだ。また携行兵装はデバイスとして登録してある――少し前の法改正で、拳銃程度の火器ならデバイスとして登録出来るようになったのは、貴様も知っているだろう」

 時空管理局は建前上、魔導師偏重主義を否定してはいるものの、実際の武装隊や捜査官の大半が魔導師で占められているのもまた事実。
 質量兵器を禁じている以上必然的な流れと言えるのだが、しかしそこに非魔導師の自衛を蔑ろにする意図は無く、拳銃などの個人携行が可能な火器を“非魔導師のデバイス”として持たせる程度の配慮は行っている。
 また、防災担当の部署においては、火災などの現場に赴く際、局員に専用の耐火服を着用させている。バリアジャケットの耐熱機能も万能ではない、また耐熱機能を強化すればバリアジャケットを構成・維持する為の魔力もかさんでいく。耐火服の着用は至極当然。

 高村はそこに目を付けた。V-1システムは試作の新型耐火服、携行兵装は非魔導師用デバイスとして、それぞれ登録されている。実際はどうあれ、組織において書類に不備が無いのなら、それは紛う事なく正当な“装備”なのだ。

「せやかて、あんなん――」

 画面内では衛司もまた独房から飛び出して、脚を撃たれた男へ駆け寄った。出血と激痛に顔を歪める男へ呼びかけて、反応が無いと見て取るや、少年は彼を庇うかのように前へ出る。
 迫る鋼鉄の甲冑を睨み付けた瞬間、少年の面貌に奇怪な紋様が浮かび上がり、瞳が本来の色彩を失って、人骨の如く灰色に染まる。オルフェノクが人間への擬態を止め、戦闘形態へと変化する兆候。
 だが。

『ぐぁぎっ!?』

 ばちっ、と耳を劈くスパーク音が響いたかと思うと、少年は身を仰け反らせて床へ倒れこんだ。更に二度、三度とスパークは続いて、その度に少年は短い悲鳴を上げつつ床を転がった。
 衛司の首に嵌められた、電気ショックを与える首輪。それが本来の機能を存分に発揮し、少年を蹂躙しているのである。

「オルフェノクについて、この二日で判った事はごく僅かだ。雀蜂も電気鰻も口が堅いものでな、大した情報も得られないし、ここでは満足な実験も出来ん」

 床に突っ伏す少年を、路傍の石を見下ろすが如くに一瞥して――高村は、淡々と語り始めた。

「だが、幾つか面白い事も判った。知っての通りオルフェノクは人間に擬態しているのだが、そこから怪物に戻る際には顔面に特有の紋様が浮かび上がる。この時に強烈な衝撃を与えてやれば、オルフェノクは怪物に戻れなくなる。人間に擬態している時は人間並みの能力しか持っていないからな。制圧はそう難しくない」

 三機のV-1は腿部分に収納されていた棒状のパーツを手にしたかと思うと、それをひゅんと振り薙いだ。瞬間、軽い金属音と共に棒状部品は伸長。どうやら警棒の類だったらしい。
 高村の言葉を実証するかのように、V-1の一体が衛司の髪を掴んで引きずり起こす。何をするのかと思いきや、彼は躊躇無く、手にした警棒で少年の顔面を殴打した。
 画面の中から、衛司の悲鳴が聞こえてくる。
 どうと倒れ込んだ衛司の背に、もう一体のV-1が更に警棒を振り下ろした。一度だけではない。繰り返し繰り返し彼等は鉄棒を少年に打ち付けて、のみならず拳や足で殴る蹴る。四肢も鋼鉄の甲冑に鎧われているのだから、それは警棒での殴打と何ら変わらない。

 悪辣なのは、殴りつける箇所が全て急所を外れている事だ――頭部は元より、背骨や心臓、肺といった、“後遺症の残る部分”を意図的に避けている。
 それは衛司の身を慮っての事ではなく、より苦痛を長引かせる為であると、はやては瞬時に理解した。

「何を――何してんねん! 止めさせえや! こんなん許される訳ないやろが!」
「捕獲したオルフェノクの処遇は全て我々S.A.U.Lに一任されている。止めさせたいのなら、然るべき手順を踏んで、文書で要請しろ」
「な……!」
「高村一佐。しかしこれは到底容認出来ません。この虐待に、一体どういう意味があると言うのですか!」

 あまりの激昂に言葉を失ったはやてに代わり、グリフィスが割って入る。

「意味はある。二度と逃亡など考えんように調教している、それだけの事だ。抵抗の意思を挫くには行動の失敗と肉体的苦痛を組み合わせるのが最適だからな。効率の良い方法を取っているだけだが、何か問題があるか?」

 無論、高村の言葉は問いという体裁を取っていても、問いなどであるはずがなく――またグリフィスがどう答えようと、それを聞き入れるつもりがないのは明白だった。
 グリフィスも口を噤んだのを見て、高村は通信用ウィンドウを展開。中継映像内のV-1へと呼びかける。

「また逃げられると面倒だ、脚の腱を切っておけ。喋る口だけ残れば良い」
『了解』

 少し離れたところで暴行を観戦していた――脚を撃ち抜いた男への警戒として待機していた――残る一機のV-1が、高村の指示に従い歩き出す。

「あかん……逃げ、逃げるんや、はよ逃げえ! ――衛司くん!」
「高村一佐! 止めさせてください、これは幾らなんでもやり過ぎだ!」
「断る。これ以上の干渉は妨害行為として本部に伝える事になるが、構わんのか」
「…………っ!」
「衛司くんっ!」

 数秒後の未来を想像し顔色を失ったはやてが必死に呼びかけるが、無論、その言葉が少年へと届く事はなく。
 既に衛司は意識があるのかどうかすら判然としない。散々殴りつけられたせいか顔は無惨に腫れ上がって、ぐったりと力無く項垂れている。
 V-1の手には鉈を思わせる大振りなナイフ。一機が衛司の身体を押さえつけ、もう一機が用心の為に銃口を突きつけ、そして残る一機が衛司の足首、アキレス腱を狙って、ナイフを振り下ろし――

「!?」

 ――瞬間、画面が不意にぐにゃりと歪んだかと思うと、一瞬で砂嵐の如きノイズ画面へと変化した。

「何だ……? 何が起こった?」

 眉を顰める高村だったが、はやてとグリフィスよりも驚きの値は大きかっただろう。部下へと呼びかける声こそ冷静であったものの、それが取り繕った平静であるのは明白だった。
 数分ほどで画面は復調し、先と同様、一階の廊下を映し出す。
 ――だが。

「なっ……!?」

 今度こそ。正真正銘の驚愕が、彼等を襲った。
 そこに映し出されていたのは、三機のV-1だけ――結城衛司も、鰻のオルフェノクである男も、どこにも居ない。
 そしてV-1の方はと言えば、三機が三機とも、およそ尋常な有様ではなかった。

 一機はハンマーでも叩きつけられたかの様に、胸部装甲を粉砕され。
 一機は両肘両膝の関節がおよそ有り得ない方向にねじれ。
 一機は外傷こそ無いものの、床に仰臥し、びくんびくんと奇怪に痙攣している。

 何か、想像を絶する恐るべき何かが起こったのだと――はやてが、グリフィスが、高村が瞬時に悟った。

「……面倒な」

 相変わらず平坦に、しかし隠し切れない怒りと苛立ちを含ませて、高村はそう呟き……通信用ウィンドウを展開、矢継ぎ早に部下へと指示を下す。
 V-1の回収。装着者の救護。また逃亡したオルフェノクの追跡と、映像が途切れた数分間に何が起こったのかの調査。それらの指示をBGMの如くに聞き流しながら、はやては一人、安堵の意味も込めて大きく息を吐き出した。

 何が起こったのかは判らない。だが推測は出来るし、状況を見ればほぼ間違いない。衛司や電気鰻とはまた別のオルフェノク、或いはそれに組する何者かが、ぎりぎりのところで衛司を救出し、連れて行ったのだ。
 機動六課部隊長として、時空管理局の一員としては無論、憂慮すべき事態である。けれど八神はやて個人の本音を言うのなら、歓迎は出来ないまでも、これで良かったのだという気持ちが大半を占めていた。

「ま、無事や言うんなら、それでええんやけどな――早う戻ってこんと、皆に愛想尽かされるで?」

 やりたい事が出来た。地下の牢獄で聞いた少年の言葉を脳裏に再生させながら、はやては一人、誰にも聞こえないように呟いた。



 かくて新暦76年のこの日。結城衛司と機動六課との関わりは一つの終わりを迎え、少年は自らの足で暗闇へと踏み入る事となる。
 少年が暗闇の底で何を見るのか。誰と出会うのか。それは最早、八神はやてには知る由のない事であり――彼女に限らず、機動六課に属する者のほぼ全てに、最早関わりのない事であった。





◆      ◆





第拾陸話/了





◆      ◆







 ……。
 …………。
 ………………。

 実際のところ今回の話に関してはここで終わらせるのが最も美しく切りの良い形であり、故にここから先は単なる余談に過ぎない。



 先述したように、結城衛司とエルロック・シャルムがS.A.U.Lの開発した対オルフェノク用装備『V-1システム』に追い詰められる様は、S.A.U.L支部長室において八神はやてやグリフィス・ロウラン、高村勢十郎に中継されていた。
 ただし彼等はその全てを見届けた訳ではない。数分間に渡って中継映像は途絶し、そして映像が復旧した時には、状況は既に終わっていた。三機のV-1は全機が無力化され、結城衛司とエルロック・シャルムはその場から姿を消していた。

 つまり、はやて達は結果を目にしてはいるものの、結末を目にした訳ではない――結末を目にしたのは、現場に居合わせた結城衛司とエルロック・シャルムの二人だけ。
 より正確に言うのなら、出血多量で意識を失っていたエルロックを除き、衛司一人だけが、それを目の当たりにしていたのである。



 足の腱を切り付けるべく振り下ろされるナイフを、衛司は視界の端で捉えていた。
 直前に散々殴打されたせいか意識は朦朧とし、痛みはどこかむず痒いような感覚に変質して、少年の総身を這い回っている。
 頭の中で誰かが逃げろと叫んでいるが、それに応えるだけの思考も挙動も、今の衛司からは失われていた。尤も彼が万全であったところで、身体を押さえつけるV-1を振り解くのは容易ではなかっただろうが。
 
「“全員、動くな”」

 底冷えのするような声が一帯に響いたのは、その時だった。
 ぎしり、とV-1の腕が止まる。衛司を押さえつける一機も、やや離れたところで警戒の為に銃口を向けていた一機も、揃って文字通りに“停止”した。
 無論それは、衛司も例外ではない。首から下が失くなってしまったかのようだ。明らかに常識外の事象、茫洋としていた意識が、露骨なまでの異変によって急激に鮮明さを取り戻していく。

 そして――それすら、これから起こる事の発端に過ぎず。
 周囲の光景が急激に色を失っていく。世界そのものが塗り替えられていくこれは、『結界魔法』なる技法が行使された事の証。

 やがて静かに、しかし確実に、硬質な音が響き始める。少しずつ音量を増していくそれが足音、しかも複数――恐らくは三人程度――であると、誰もが説明の要無く理解していた。
 幸運だったのは、挙動を封じられた衛司の視線が向く方向から、その足音が聞こえてくるという事。衛司に集中していた三機のV-1は振り向く事すら出来ぬまま、何が起こっているのかを把握する事すら出来ぬまま、最後を迎える事になる。

「……あれ、は」

 現れたのは三人の男女。男が二人に、女が一人。

 一人は身の丈二メートルを超える巨漢だった。ボディビルダーも顔負けの筋肉で固められた体躯と、化粧品をべたべたと塗りたくった顔面が、思わず目を背けたくなる程のおぞましさを生み出している。
 一人は金髪碧眼の女性。年の頃は二十代半ばから後半というところだろうか、シグナムやフェイトにすら匹敵する(或いは凌駕する)グラビアアイドル顔負けのスタイルが着衣の上からでも見て取れる。
 一人は先の巨漢ほどではないものの、これも長身の男。ただしそのシルエットは酷く細長く、ひょろりと長い手足は一見しただけでバランスの悪さが判る。青白い顔色と相俟って、幽鬼のような印象を与える男だった。

 不可解なのは三人が三人ともに、奇妙奇天烈な格好をしている事だ。フリルやリボンでごてごてと飾られ、その癖ゴスロリの類と違って活動的なデザイン。
 まるで女児向けアニメ――『魔女っ娘』や『魔法少女』と言われる類の――に出てくるヒロインのような服装なのだが、それを纏っているのが巨漢と妙齢の女と痩躯の男性であるのだから、もう何かの悪ふざけとしか思えない。
 と言うか、悪ふざけ以外の選択肢があってほしくない。

「そぉ――れ♪」

 巨漢がくねっと腰を蠢かせて言い放つと、彼の掌から音を立てて光の紐が伸び、身動きの取れないV-1達の首へと絡みつく。そして次瞬、一気に光紐が引っ張られた事で、彼等は宙を舞いながら三人の闖入者へと引き寄せられた。

 一機は巨漢のところへ。落下してくるV-1の胸板へ裏拳を叩き込み、弾き飛ばす。胸部装甲を粉砕され、恐らくは胸骨、肺臓、背骨までも諸共に粉砕されて、彼は直線上の壁へと叩きつけられた。
 一機は金髪の女のところへ。落下してくるV-1へ向けて彼女はぼそりと「“ねじれろ”」と言い放った。瞬間、彼は中空で突如として身体を捻り始め、両肘両膝の関節を砕いて、全身で『卍』を描くようにして落着した。
 そして一機は痩身長躯の男のところへ。他の二人と違い、彼は落下してくるV-1へさしたるアクションを起こさなかった。強いて言うなら、すれ違い様に軽く装甲の表面を撫でただけ。ただそれだけなのに、床に落着したV-1はびくんびくんと激しく痙攣、声にならない悲鳴を上げて悶絶する。

 どれもこれも、およそまともな事象ではない――条理常識の範疇では起こり得ない現象だ。

「あ――あんた達、は――!」

 挙動を封じられていても、喋る事までは封じられてはいなかったらしい。
 思わず漏れた衛司の言葉を、彼等は耳聡く聞きつけて。「ふふん」と不敵な笑みを向けて、衛司へと向き直る。



「筋肉に咲く一輪の花! キュアマッスル!」
「中華風に揺れる一輪の花! キュアチャイナ!」
「お、お、おクスリ浴びる一輪の花なななな、キュアジャンキー……!」



「我等! ハートクラッシュ・プリキュアっ!!」





「……………………………………………………………」

 誰だよ。





◆      ◆







後書き:

 次回から異形の花々は仮面ライダークロスからプリキュアクロスになります。ご了承ください。

 まあ冗談はさておき、第拾陸話でした。お付き合いありがとうございました。
 ちょっと切りが悪い感もあるんですが、今回のエピソードはここでお終いです。主人公が六課を離反するまで、という事で。
 原作キャラに失望して(または裏切られて)敵に回る、って方が盛り上がるかなとは思ったんですけど、自分がそれやっても単なるアンチかヘイトにしかならないので、自分から外に出て行く感じで。
 まあ作中でも言っている通り矛盾というか、恩義に後ろ足で砂かけるような真似って気もするんですけど。

 やっとなのは&ヴィータVS伽爛が書けました。書きたい事を後回しにするとストレスが溜まるというか、早く書きたくていらいらするんですよね。けど先書いちゃうとそこで満足して続き書く気が無くなっちゃって。
 内容的には悪ノリ以外の何物でも無いんですが。なのはやヴィータが好きな人に喧嘩売ってる感じだし。触手とかなるべくえろい感じがしないようにしてみたんですけど、これ大丈夫なんだろうか。

 ライダーもろくすっぽ出てないのにV-1登場。最初はG3MILDにしよーかなとか考えてたんですが、G3も出てないのにMILDだけぽんと出すのも違和感あるし、何より小沢さんとの関連が全然思いつかなかったので却下。
 あとV-1ならちょい可哀想な扱いでも良心が痛まないかなと。ライダーの登場を溜めてる分、少ない見せ場でも格好良くというのが基本方針なので。



 それでは今回はこの辺で。よろしければ、またお付き合いください。



[7903] 第拾漆話
Name: 透水◆44d72913 ID:35af097c
Date: 2023/12/29 20:57

 遠く遠く、遥か彼方まで終わりなく続く次元空間。
 人間の暮らす世界からは文字通り次元を隔てて存在する極彩色の海を、いま一つの黒禍が汚していた。

 轟と唸りを上げて次元空間を遊弋する、漆黒の戦艦。時空管理局の保有するそれとは明らかに異なる禍々しい外観は、その内に膨大な災厄を詰め込んでいる。
 一度その災厄が解き放たれれば、世界の一つや二つ、瞬きする程の間に滅ぼせるだろう。事実この黒禍はそうして、幾つもの世界を地獄へと変貌させてきた。いわばこの黒禍こそが災厄そのもの。触れる事すら禁忌とするべき悪夢の具現。

 ただ今はまだ、この戦艦の正体を……その脅威を知る者はなく。
 本来であれば、無知とは責められるべき事である。だが想定される全て、或いは想定すら及ばない全てに対して予め知識を得ておくなど、非現実的な空想、無責任な外野からの戯言だ。
 まして無知の対価を命で支払うとなれば、最早それを責められる者は何処にも居ない。

 そう。この日、突如としてセンサーに感知された漆黒の戦艦を、目視距離にまで捕捉した次元航行艦『バルサザール』の迂闊な行動――正体不明の存在に近付くという――は、つまるところ黒禍の脅威を知らぬが故の事であり。
 それを責められる者は、誰一人居なかったのである。

「……大きいな。おい、照合は終わったか?」

 次元航行艦バルサザール。
 時空管理局本局、次元航行部隊に所属するL級次元航行艦である。

 かの『アースラ』と同時期に就航した老朽艦ではあるものの、アースラのように前線で危険度の高い任務に就く事は稀だったせいか、未だに現役として運用されている。
 さすがに老朽化は激しく、もう一年か二年もすれば寧艦という見方が専らではあるが、長期に亘り地味な二線級の任務を着実にこなしてきたこの艦へ乗組員達は少なからぬ愛着を持っており、今日の哨戒任務を厭う者も居ない。
 手柄や称賛とは縁遠い仕事へ真面目に取り組めるというのは、間違いなく美徳であるはずなのだが――この日ばかりはそれが仇となる事を、まだ、彼等は知らない。

「駄目です。本局のデータベースには一致するものがありません」

 ブリッジクルーの一人が後方の艦長席を振り返り、そこに座る艦長へ報告する。
 バルサザールの艦橋正面に据えられたモニターには、次元空間を直進する黒禍の威容が映し出されている。
 近距離から見れば、それが只の艦船でない事は明らかだった。管理局や各管理世界の保有する艦船製造技術からは明らかにかけ離れた、有機的にして無機質な、生物と機械の融合を思わせる外観。
 もしかすればロストロギアの類かもしれないが、ここまで大きい物は他に例が無い。強いて言うなら先頃ミッドで確認されたという古代ベルカの遺産、『聖王のゆりかご』くらいだろう。

「ふむ……やむを得んな。無限書庫に依頼しよう。外観や熱反応など、出来る限りのデータを集めておけ。向こうの手間が少しでも省けるようにな。それとあのでかぶつの進路を割り出せ。進路上にある管理世界へ注意勧告を出さねばならん」

 艦長が指示を下す。バルサザールの任務はあくまで偵察と哨戒。危険を伴う接触は任務の内に入っておらず、功を焦って独断行動を起こす者も居ない。
 このまま安全な距離を保って戦艦の監視を続け、無限書庫からの情報を元に装備を整えた部隊と交代する。それが普段と変わらぬバルサザールの任務であり、今日もまたそれを遂行するだけだったのだが――しかし。

「艦長! 対象に動きが!」

 悲鳴の様な報告が、その時バルサザールの艦橋に響き渡った。
 漆黒の戦艦、その艦体表面が蠕動する様に歪む。歪みはやがて黒々とした孔へと変化し、それを見た瞬間、艦長の総身を怖気が駆け抜けた。
 剣の切っ先を突きつけられたような。拳銃の銃口を押し当てられたような。命の危険を直前に置いた時に覚える、全身が総毛立つ様な感覚。

「緊急回――」

 咄嗟に艦長は叫んだが、それは最後まで彼の喉から出て行く事はなかった。最後まで聞き届けた者も居なかった。

 漆黒の戦艦から放たれた一発の“砲弾”が、バルサザールのブリッジを直撃。艦の中枢を狙い済ましたかのように吹き飛ばして、続く二発目、三発目の砲弾もまた次々とバルサザールの艦体に突き刺さる。
 最早ダメージコントロールなどというレベルではなかった。そもそもそれを指示するべきブリッジが真っ先に潰されていた。四発目が着弾した時点で既にバルサザールは原型を留めておらず、爆発の衝撃は艦体をねじれるようにして崩壊させていく。

 艦長をはじめ、砲撃によって即死出来た者はまだ幸せだっただろう。運悪く即死出来なかった者達の阿鼻叫喚、それに被さる誘爆の轟音をBGMに、次元航行艦バルサザールは極彩色の海へと沈んでいった。
 黒禍は泳ぎ去っていく。つい今し方沈めた艦の事など、元より眼中に無いと言うかのように。
 やがてその姿は次元空間の極彩色を穿つ孔へと吸い込まれ、通常空間へと飛び出していった。向かう先に一つ、青く輝く星を置いて。



 惨劇の一部始終を、傍観者達はただ黙して見届けた。
 白煙の敷き詰められた床。漆黒に塗り込められた天井。明滅する光球。無造作に配置された奇怪な形状の岩。それらが一体となって作り出される光景は、尋常の感覚では理解しきれぬ邪教の祭壇だ。

 中空に映し出される映像は、漆黒の戦艦が次元航行艦バルサザールを轟沈せしめるその瞬間。それを見上げるのは色褪せた白いフードを被る、三人の男女であった。
 男女とは言うものの、彼等の姿……フードから覗く面貌はおよそ人間のそれからかけ離れている。朽ちた浮木の如き肌の老人、翡翠の原石を思わせる膚の男、漆の肌艶と右半面に紋様の如き痣を刻んだ女。

 暗黒結社ゴルゴムが最高幹部、三神官。
 ダロム、バラオム、ビシュムの三人が、中空の映像を見て三様に笑みを浮かべる。

「ふははははは。愚か者どもめ、迂闊に近付くからよ」
「あれは私達ゴルゴムとて、かつて痛打を受けた存在――愚かな人間が、どうして触れる事が出来ましょう」

 バラオムとビシュムの嘲笑が地下空間に響く。
 そう、彼等は知っていた。たった今、バルサザールを事も無げに次元空間の藻屑と化さしめた、黒艦の正体を。
 だが態度ほどに、彼等に余裕がある訳ではない。黒艦の正体を知っているという事は、その脅威を過たず理解しているという事でもある。知識ではなく経験によって。

 ゴルゴムの長い歴史の中で、彼等が喫した敗北は僅かに三つ。『世紀王の反乱』。『闇の書の暴走』。そして残る一つが、あの黒艦によってもたらされたものだ。
 かつて侵略を進めていた世界が、あの黒艦によって滅ぼされた。生ある物の何もかもが食い尽くされ――それはまさしく文字通りに――死に絶えれば、最早侵略も征服もあったものではなかった。

「機械獣母艦フォッグ・マザー! 此度はミッドチルダを喰らいにやって来よったわ!」

 中空に映し出される漆黒の戦艦――機械獣母艦フォッグ・マザーを睨み付け、大神官ダロムは忌々しげに吐き捨てた。





◆      ◆





異形の花々/第拾漆話





◆      ◆







『あ、おかえりなさい』

 早朝の訓練を終え、六課隊舎に戻ったところで、不意に聞こえてきたそんな言葉に、ギンガは思わず顔を上げた。
 つい二週間ほど前までは、早朝訓練から戻った彼女達を、隊舎前の掃除をしている少年が出迎えるのが常だった。身の丈ほどもある箒を鼻歌混じりに操りながら、戻ってきたギンガ達を労いの言葉と微笑で迎えてくれた。
 魔導師として前線に出るのが役割のギンガ達と、六課隊舎内で雑用をこなしている少年とでは、同じ六課とは言っても勤務場所も内容も違う。顔を合わせる機会もそう多くはない。だからこそ、朝のこの一時だけは、少年と確実に触れ合える貴重な時間であった。

 けれどもう、その言葉がギンガを迎える事は二度となく。
 だから聞こえてきた言葉がただの錯覚と悟るまで、そう時間はかからなかった。

「……そうよね。もう、居ないんだもんね」
「ん? 何か言った、ギン姉?」

 独り言を聞き取ったスバルが、怪訝な顔で訊いてくる。それに「何でもないわ」と返して、ギンガは先を急いだ。
 ……そう、何でもないのだ。スバルに言ったのは、別に嘘でも強がりでもない。

 少年がはやてに託した言伝は、ギンガも勿論伝え聞いている。感謝と謝罪。その後に少年が、同族たるオルフェノクと共に姿を消したとなれば、そこに込められた意図を察するのはそう難しい事ではなかった。
 彼は自ら決めて、自ら歩き出した。それが最早庇護を得られなくなった現状に後押しされたものだとしても、自身の意思で歩き出す事は間違いではあるまい。それを間違いと言えるのは、彼が過ちを犯した時……つまりは“終わった後”に無責任な第三者の位置に居る者だけだ。

 そう理解しているからこそ、ギンガはもう、衛司を捜そうとは思わない。六課に連れ帰ろうとも思わない。今はただ、遠くより少年の無事を祈り、せめて前途に幸あれと願うばかりである。
 ただ、それでも。

「衛司くん、ちゃんとご飯食べているのかしら……」

 もう保護者さながらに少年へ注意する事も出来ない。その現状に一抹の寂しさを覚えるのは、彼と最も近しかったギンガならば無理からぬ事であっただろう。

「あ、おかえりー」

 と。隊舎のロビーに這入ったところで、ふと横合いからそんな言葉が投げかけられた。
 今度は錯覚ではない。振り向いてみれば、そこに居たのは六課通信士のアルト・クラエッタと、ルキノ・リリエの二人。

 何をしているのかと思えば、二人はロビーに置かれたTVに見入っていたのだ。どこの世界でもお馴染みの、朝のワイドショー。
『JS事件』の直後は事件報道一色だったワイドショーも、流石に飽きてきたのか、ここ最近はやれ芸能人の熱愛発覚だの政治家が税金を無駄遣いしているだのと、事件前と同様の毒にも薬にもならない報道を垂れ流している。
 今日もまたその類だろうと、アルト達の肩越しにTVを覗き込んだギンガは、画面内のコメンテーターがやけに神妙な顔で何やら語っている事に気がついた。

『――ですから、このままの軌道を保つと、隕石は明日の午後にはミッドチルダに――』
「ねえアルト。これ、何のニュース?」

 よくよく見れば、神妙な顔をしているのはコメンテーターばかりではない。スタジオに居る者は総じて同様の表情を浮かべており、妙に切羽詰った雰囲気を醸し出している。
 穏やかな朝に似つかわしくない緊迫感を不審に思って、ギンガはアルトに問い質した。

「あれ、知らないんですか? これですよう」

 そう言ってアルトが差し出したのは、ロビーに常備されているその日の新聞。受け取って開いてみれば(背後からスバルやティアナ、エリオとキャロも覗き込む)、そこには『ミッドチルダに隕石接近』の見出しがでかでかと一面トップで踊っていた。

「昨日いきなり観測されたらしいんです。何でも、有り得ないくらいいきなり出てきたみたいで。今からじゃ対策が間に合わないって大騒ぎなんですよ」

 一般レベルに降りてくる情報でも、事態が相当の危険域にあると知れる――やや早口なルキノの口調が、それを裏付けているかのようだった。
 尤も、単に報道管制が間に合っていないだけかもしれないが。隕石が唐突に現れたというのが事実ならば、今頃管理局地上本部もミッドチルダ行政府も大わらわだろう。

「落ちないといいんだけどねー」

 とは言え、一管理局員であるギンガ達に出来る事など、そうあるものでもなく。
 どこか暢気なアルトの呟きは、その場に居る全員の共通認識であった――つまるところ、誰もがそれを対岸の火事と思っていたのである。
 この時点では、まだ。





◆      ◆







 だが当事者は既に動いている。
 一管理局員ではなく、一個艦隊を預かる提督としてのクロノ・ハラオウンは、恐らくは時空管理局の中で最も早く、この一件の当事者となった者であった。

「やはり、隕石ではないのか?」
『そう。あれは隕石じゃない――実物を見てないから断言は避けるけど、ほぼ間違いなく、第一級危険指定ロストロギア「フォッグ・マザー」と見ていいね』

 XV級大型次元航行船『クラウディア』艦橋。
 ここ最近でようやく馴染んできた艦長席に腰を下ろしながら、クロノは無限書庫司書長ユーノ・スクライアと通信にて言葉を交わしていた。

 ……先日の次元航行艦バルサザールの轟沈は、すぐさま本局へと伝えられた。
 幸いな事にバルサザールの轟沈海域から程近いところを別の艦が航行中であり、異変を感知した彼等が現場に急行した時には、未だバルサザールの残骸が次元空間の荒波に押し流される事もなく漂っていたのである。
 何が起こったのか判らぬまま周辺一帯の調査を開始した彼等だったが、すぐさまそれが、何者かによってもたらされた破壊であると気付いた。現場から五百メートルと離れていない海域で、次元交錯線の異常なまでの歪みが観測されたのである。

 通常空間と次元空間は言うまでもなく次元の壁によって隔絶されている。次元交錯線が歪んでいるという事はその隔絶が一時的にしろ破られた事を意味し、何者かがバルサザールを蹴散らした後、通常空間へと逃げ去ったのは明らかだった。
 次元交錯線の歪みを調べれば、何者かが逃げ去った先が第一管理世界ミッドチルダの存在する世界である事はすぐに知れた。そうしてミッドチルダに問い合わせれば、ほぼ同時刻、突如として現れた隕石がミッドを直撃するコースを進んでいると判明していたのだ。

「ただの隕石が次元空間を出入り出来るはずがない……まして次元航行艦を撃沈するなんて真似、出来るはずがないと思っていたが」
『言いたくないけど、クロノの判断は正しかったと思うよ。あと半日でもこっちに情報捜索依頼を出すのが遅れていたら、間に合わなかった』

 バルサザールの轟沈を知ってからの、クロノの動きは早かった。彼は自身の権限をもって、ミッドの観測機関――管理局に属する公的機関のみならず、民間のものも含めて――に片っ端から協力を依頼。ミッドに迫る隕石の情報を逐一無限書庫に送り続けたのである。
 悠長に様子見をしていては間に合わない。エリート街道を歩みながらも、現場での経験を豊富に積み重ねる事で培った直感がそう囁き、彼に迅速な行動を促した。
 果たしてそれは見事功を奏し、隕石がミッド軌道上に到達するまで残り十五分弱というぎりぎりのタイミングで、無限書庫での検索結果が間に合った。

『機械獣母艦フォッグ・マザー。元々はある次元世界に生息する生命体……「ハニビー」と呼ばれる昆虫類だったらしい。地球で言うミツバチみたいな生態の昆虫だったようだね。
 この世界には人間に相当する生命体も存在していたんだけど、種族間抗争から無秩序な核実験を繰り返していたんだ。結果、ハニビーは核実験の影響で生態が変化、高い知性を有する獣昆虫「フォッグ」に進化した。
 フォッグが誕生した時点で、その世界の環境はほぼ壊滅状態、人類も大半が死に絶えていた。彼等フォッグはその世界から脱出を図る為に遺されていた機械と融合、機械獣母艦となった――という経緯さ』
「……第一級危険指定ロストロギア、と言ったな。その危険性というのは?」
『さっきも言った様に、フォッグはそもそも昆虫型の生命体だ。基本的には卵生で……およそ千年に一度、“大孵化”といって大量の卵が孵るんだよ。
 問題はこの大孵化で、孵化した直後の幼虫は手当たり次第に周囲の動物を喰らうんだ。その世界固有の生態系なんかお構いなしさ。惑星一つ丸ごと食い尽くす勢いで、大量絶滅を引き起こす。異世界製の禁忌兵器フェアレーターと言っても良いね。
 これによって滅んだ世界が、確認出来るだけでも六つ。ただまあ、中には管理局成立前のあやふやな記録もあるし、フォッグ・マザーそのものが単体では無く複数存在しているらしいから、一個体あたりの危険度というのもちょっと曖昧なんだけどね』

 あくまで推測であるが、フォッグ・マザーは最低でも四個体が存在しているらしい。今回ミッドに迫っているのはその中の一体であり、何を目的にミッドを目指しているのかは明白だった。暴食の機械獣は、次の餌場にミッドチルダを選んだのだ。

「一個体だけでも充分な脅威だろう。間違ってもミッドに落とす訳にはいかない……第一級危険指定というのは却って好都合だな。遠慮なく吹っ飛ばしてやれる」

 滅びた古代文明の遺産、ロストロギアに対する時空管理局の基本方針は『回収』である。
 如何に危険なロストロギアであっても、それは結局のところ道具に過ぎない。道具そのものに善悪の概念はなく、使う側の意思一つでどうにでも転ぶものなのだ。良識ある者より悪意ある者の手にそういった道具が渡る傾向にあるのは、皮肉と言うほかないが。
 かの『闇の書』であっても、分類自体は第一級“捜索”指定ロストロギアという事を鑑みれば、時空管理局が亡き文明とその遺産に敬意を払っている一面が窺えよう。

 ……だが。世の何事にも例外があるように、管理局のロストロギアに対する姿勢にもまた、例外が存在する。
 第一級“危険”指定ロストロギア。回収が極めて困難であり、単体で次元災害を引き起こす危険性を認められたごく一部のロストロギアが、そう分類されている。
 これに対してはさすがの時空管理局も『破壊』ないし『排除』を基本とし、機械獣母艦フォッグ・マザーをこれに分類している事実は、管理局がフォッグの脅威を過たず理解しているという証左でもあった。

『資料では、フォッグ・マザーにバリアやシールドといった障壁機能は存在しない。艦隊の一斉砲撃で破壊出来るはずだよ』
「そうか。さすがに、アルカンシェルの使用許可は間に合わなかったからな……それもそれで、好都合だ」

 話している内にも時は過ぎ、刻一刻とフォッグ・マザーはミッドチルダへ迫っている。
 既にミッドチルダ軌道上には次元航行部隊の艦隊が展開され、標的の到着を待ち受けていた。ミッドを背に負った水際の迎撃であるが、時間的余裕の無い中で先回りしようと考えれば、これが精一杯であった。

 チャンスは一回きり。通常の隕石と同様、フォッグは第二宇宙速度……時速にして四万キロという途轍もない高速で迫ってくる。初撃での破壊が失敗すれば、艦隊の横を通り過ぎてミッドへと落ちていくだろう。
 失敗は許されない。艦隊を預かる身として、クロノは出来得る限りの万全を期さなければならなかった。

「そろそろ奴が射程に入る。通信を切るぞ。――今回は助かった、ユーノ」
『礼の言葉は有難いんだけどね。出来るなら言葉じゃなくて、何か実のあるもので返してくれないかな。例えば次から資料請求はもっと期日に余裕を持たせるとかさ』
「ふっ……そうだな、考えておく」
『考えなくてもいいから実行して。それじゃ、武運を祈るよ』

 そう言って通信は切られ、クロノは一つ苦笑と共にため息を漏らして、顔を上げた。
 オペレーターが落ち着いた声で報告を上げてくる。各砲塔、発射準備完了。フォッグが射程に入るまで、あと240秒――。

 凄まじいまでの衝撃がクラウディア艦橋を揺るがしたのは、その時だった。
 艦橋の照明が一気にレッドランプに切り替わり、耳を劈く警報音が響き渡る。何があった、とクロノが声を荒げると同時、更なる衝撃。

 地震? 有り得ない。宇宙空間だ。デブリの類が衝突したのかとも思ったが、そもそもクラウディアは艦体をフィールドで覆っている。余程巨大なデブリでない限り、ここまで揺れる事は有り得ない。
 そも、これがただの揺れでない事は明らかだった。……これは、爆発だ。それも艦内部からの。

「第二動力炉で爆発! 一番から三番砲塔へのラインが断線しています!」
「第四ブロックで火災発生! 自動消火システム、作動していません!」

 矢継ぎ早に被害報告が上がってくる。オペレーターの悲鳴じみた声で読み上げられるそれは、先の衝撃がクロノの予想以上に深刻な事態をもたらしていると告げるものだった。

「第二動力炉の電源を落とせ! 一、二、三番砲塔も停止させろ! 第四ブロックは隔壁で閉鎖、それからエア・ロックを解除だ! 今は火さえ消えればいい!」

 クロノの指示もまた怒号のようで、しかしそれが半ば恐慌状態に陥っていたオペレーター達にある程度冷静な思考を取り戻させたのか、彼等はクロノの指示を各所に通達し始める。
 旗艦の異変を僚艦も察した様子で、何があったと問う通信が次々と送られてくる。だがそれにクラウディア側が答えるよりも先に、通信は一方的に切断されていった。クラウディアと同様の異変が起こっていると悟るのは、そう難しい事ではなかった。

「動力炉の映像、出します!」

 クラウディアの専属オペレーターは低ランクではあるが魔導師としての資格を持っており、咄嗟に飛ばしたサーチャーを爆発現場の第二動力炉へと向かわせていた。
 クロノの眼前に通信用の魔法陣が展開される。爆発現場の中継映像を目の当たりにしたクロノは、その光景に思わず息を呑み――呆然と呟いていた。

「なんだ、これは……!?」

 床も壁も天井も残らず黒焦げになって破損している動力炉であったが、それだけならばまだ常識の範疇。問題は壁や床を伝うようにして張り巡らされた白い糸と、ところどころに点在する白い塊だ。
 白い糸を編んで組んだと思しき塊は、大きさ・形状ともにラグビーボールのそれに近い。一体何かと訝るクロノだったが、ふと彼の頭に閃いたのは、昆虫の繭のようだという感想だった。

 と、映像の中から複数の足音が聞こえてくる。爆発に巻き込まれた者を助けるべく、他の乗組員が現場に到着したのだ。
 だが。

『ふははははは――ふはははははははははは』
「…………!?」

 唐突に響く笑い声に、現場に駆けつけた乗組員達、そしてそれを中継されるクロノが、揃って困惑に眉を顰める。
 次の瞬間、物陰からゆらりと涌き出でる人影を見て取り、身構えた彼等だったが、その動きが今度は困惑に倍する驚愕によって押し留められた。

 現れた人影は二人分。だがその両方ともに、およそ尋常な姿形ではなかった。一人は色褪せた白いローブを纏う、翡翠の原石が如き硬質な肌を持つ男。そしてもう一人は、最早“一人”と言うよりは“一匹”と数えるのが相応しい、異形の怪物であった。
 総身に棘と繊毛を生やした緑色の皮膚。オルフェノクのそれとは明らかに違う、生物的な質感に溢れたそれは、どこか昆虫の幼虫を思わせる。

『う――うわぁあああっ!?』

 今回のクラウディアの任務はあくまでフォッグ・マザーの破壊であり、武装隊……つまりは戦闘を本職とする魔導師達は乗船していない。
 だが乗組員の中に魔導師が皆無という訳でもなく、自衛に必要な程度の攻撃魔法を修めた者も中には居て、その中の一人がいま怪物と至近で相対した事により、恐慌状態のまま一発の魔力弾を撃ち放った。
 ……いや、撃ち放とうとした、と言うべきだろう。指先に魔力を収束させ、それが弾丸の形を為した瞬間、足元の繭が突然爆発。彼と、彼の近くに居た仲間達を吹き飛ばしてしまったのだから。

『馬鹿め。イラガ怪人の繭はあらゆるエネルギーに反応して爆発する。熱エネルギー、電気エネルギー……貴様等魔導師の魔力エネルギーとて、例外ではないわ』

 緑膚の男が嘲笑する。
 成程これが、クラウディアを襲った衝撃の正体なのだろう。エネルギーに反応して爆発する性質を持つ繭。次元航行艦の動力炉ともなれば莫大なエネルギーが発生する、むしろ被害がこの程度で済んだだけ幸運だったと思う他ない。
 爆発を恐れ手が出せない乗組員へ、異形の怪物――イラガ怪人が奇怪な唸り声を漏らしながらにじり寄ってくる。だがそれは緑膚の男に制止された。情けや哀れみからでない事は明白、事実、身を竦ませる乗組員達を見る男の目には、侮蔑の色しか映っていない。

『時空管理局の者共よ、聞くがいい! これは挨拶代わりだ。我等ゴルゴムに歯向かう者、邪魔をする者は、誰であろうと容赦はせん!』
「ゴルゴム……!」

 暗黒結社ゴルゴム――かつて幾多の次元世界で猛威を揮った邪教集団。
 数十年の沈黙を破り、彼等が活動を再開したとは伝え聞いていた。本局に押し入り、ロストロギアを強奪していった顛末も。

 だが何故、このタイミングで、この場所に現れるのか。単なる宣戦布告だというのなら、もっと相応しい場所、相応しい時が幾らでもある。それこそ、数ヶ月前に本局を襲撃した時でも充分だったはずだ。
 クロノの思考が答えのない袋小路に落ち込もうとしたその時、不意に天啓の如く答えが彼の脳裏に閃いた。と同時、画面内の緑膚の男が踵を返して、配下の怪人へと呼びかける。

『往くぞ、イラガ怪人よ。――フォッグ・マザーは我等ゴルゴムが頂く。余計な手出しをするならば、この程度では済まさんぞ!』

 やはり、ゴルゴムの狙いは機械獣母艦フォッグ・マザー。
 彼等が如何なる理由でフォッグ・マザーを狙っているのかは不明だが、どんな理由からにしろ、フォッグを破壊しようとする次元航行部隊は邪魔者以外の何物でもない。攻撃は至極当然で、そしてそれが達成されたという事は――

「……! しまった……!」

 クラウディアの艦橋が暗転する――ただし、一瞬だけ。艦の横を通り抜けるフォッグ・マザーの巨体が、艦橋に差し込む太陽の光を遮ったのである。
 もう止める事は出来ない。今から艦を反転させても間に合わない。既にフォッグ・マザーはミッドの大気圏に突入し、漆黒の艦体を断熱圧縮で真っ赤に燃やしている。
 一秒ごとに遠ざかり、芥子粒のように小さくなっていく標的を捉える曲芸めいた砲撃は、傷ついたクラウディアではおよそ不可能な芸当だった。

 気付けばいつの間にか、ゴルゴムを名乗った者達も姿を消していた。目的を達したからとは言え、その鮮やかな引き際はある意味で称賛に値しよう。
 しかし無論、クロノは彼等を讃える口など持ってはおらず、ただ怒りと憤りに椅子の肘掛けへ拳を打ちつけるしか出来なかった。

「……作戦は失敗だ。各艦、被害状況を報告しろ――応急処置が済み次第、本局へと帰還する」



 新暦76年。前年に起こった『JS事件』の惨禍も癒えやらぬ中、後に『フォッグ事件』と呼ばれる一連の事件は、こうして幕を開けた。
 本局精鋭たる次元航行部隊を投入してのフォッグ・マザー迎撃は失敗に終わり、暴食の黒禍はミッドチルダの大地へ墜ちて行く。
 惨劇の舞台は地上へと移り――そして次なる幕が開く。





◆      ◆







【機械獣母艦フォッグ・マザー――まさかミッドチルダに落ちてくるとはな】
【落ちたのはミッド西部の山岳地帯か。海中に没するよりは好都合ではあるがな……とは言えあの一帯の険しさは、踏み入るには些か面倒よの】
【厄介なところに落ちてくれたものよ。この事態に貴様はどう動くつもりだ? 結城真樹菜】

 照明が落とされ、窓から差し込む僅かな陽光を光源とした室内は、どこか廃墟を思わせる寒々しさに満ちている。
 無論そこは廃墟などではなく、クラナガンの一等地に居を構えるスマートブレイン本社ビルの一室だ。『謁見の間』と皮肉混じりに呼ばれる一室。社長である結城真樹菜、そしてその秘書的立場であるスマートレディ以外は何人も立ち入りを禁じられている、スマートブレインの最奥にしてブラックボックス。

 真樹菜は部屋の中央、ぽつりと置かれた一脚の椅子に腰掛けている。少し離れたところではスマートレディが(珍しく)静かに佇んでいて、部屋に居るのは彼女達二人だけ。
 だが室内に響くのは野太い男の声ばかりだった。それが真樹菜の周囲を旋回する立体映像から発されている――映像の“向こう側”に居る者の言葉と察するのは、そう難しい事ではない。

「別段、どうとも――今のところ、これといって行動を起こすつもりは御座いません。無闇に首を突っ込んだところで、さして利があるとも思えませんので」

 立体映像とは言うものの、真樹菜の周囲を旋回するそれは酷く奇妙な形状の映像であった。少なくとも実在する何かをそのまま投影したものではない。一見すれば浮遊する生首なのだが(それもそれで大概ではあるけれど)、しかしその外形がどうにもおかしい。
 あえて表現するのなら、人間の顔面を箱の内側に貼り付け、それを外から眺めたような。前衛芸術の様な不条理感に溢れた造形の立体映像が、恐るべき事に三つ、真樹菜の周囲をぐるぐると回っているのである。
 実際、何を考えてこんな映像を使っているのか、真樹菜にはまったく理解の外であった。内心では呆れ返っていたのだが、さすがにそこは社会人、正直な感想を述べる事もない。ただ問われた事に淡々と答えるだけである。

「むしろ私どもの出番はフォッグを退けた後でしょう。第一級危険指定ロストロギアが相手となれば、地上本部も相応の被害を免れないでしょうから。故レジアス閣下の言ではありませんが、地上を守る戦力を求める声も高まってくるはず――我々が付け入るとするのなら、そここそが最良かと」
【ふむ】

 旋回する箱顔の中の一つが、納得するかのように頷いた。

「無論、ただ座して見ているつもりも御座いません。既に情報収集の為、数名を現地に向かわせています。ご報告は後ほど」
【良かろう。フォッグの件、貴様に一任しよう――ところで、結城真樹菜よ】

 立体映像からの声が、その時、やおら声質を変じた。威圧感を持ちながらも穏やかだった声音が、糾弾するかの如くに冷徹な色を帯びたのである。
 真樹菜がぴくりと僅かに目尻を反応させたのは、何を言われるのかに凡その予想がついていた為だ。弁明を面倒と思う彼女の内心が僅かに顔の表情に反映されたのだが、幸いにも立体映像の向こうに居る連中はそれに気付く事はなかった。

【S.A.U.Lの件、あれは一体どういう事だ? 貴様が我等に提出した“計画”には、あのような事は何も書かれていなかった】
「さて――あれとかあの様なとか申されましても、何の事か私にはさっぱり」
【とぼけるな。時空管理局未確認生命体対策班S.A.U.L……これの設立そのものは、確かに想定されていた事だ】
【だが貴様はそれに介入し、設立を前倒しにしたばかりか、戦力の拡充にまで協力している】
【人間どもにむざむざオルフェノクへ抗する術を手に入れさせるとは――何のつもりだ、結城真樹菜よ】

 予想通りの詰問に、真樹菜は薄っすらと余裕めいた笑みを浮かべ――実際のところ、それは余裕ではなく、侮蔑に近い感情からくる表情だったのだが――「ご心配には及びません」と、不敵に言い放った。

「ご懸念を抱かれるのも当然かと思いますが、ご安心下さい、あくまで演出の一環です。折角立ち上げた対オルフェノク専任機関が、実際はまるで我々に太刀打ち出来ないとなれば、その存在意義に疑問を呈されてしまうでしょう――第三者視点から見て『対等』に見えなければいけません。S.A.U.Lへの援助は『対等』を演出する為の仕込みと考えて頂ければ」

 無論、全くの嘘という訳ではないが、それは真樹菜の真意からは程遠い。しかしその詭弁に一理あるのもまた確かで、少なくともある程度筋が通っていると思わせるには充分な説得力を備えていた。
 無言のまま、三つの箱顔は真樹菜の周囲を旋回し続ける。糾弾に対する真樹菜の言葉から、彼女の真意を探ろうとしているのだろう。彼等がそれを無駄と悟るまでの数分間、真樹菜はただ黙して箱顔達からの視線を浴び続けていた。

【……良かろう。今回は不問としておく】
【だが忘れるな、結城真樹菜よ】
【貴様の成すべきはオルフェノクの為の世界を作る事だ――その為に我々は、貴様にスマートブレインを任せている】
「理解しております。我等オルフェノクの楽園、この結城真樹菜が作り上げてみせましょう」

 宣誓するかのように真樹菜がそう言い放てば、とりあえずはそれに納得したのか、立体映像は音も無く消失した。
 部屋の照明が点けられ、純白で統一された壁や床が本来の色を取り戻す。照明を落とされていた先程までが廃墟染みているとするのなら、今の室内はどこか作り物めいた現実感の無さを意識させた。
 かつん、と高い足音。部屋の片隅で真樹菜と立体映像との会談を眺めていたスマートレディが、室内中央の椅子に腰掛ける真樹菜へと近付いてくる。

「はーい、お疲れ様でした」
「ああ。ごめんなさいね、レディ。退屈だったでしょう?」
「いえいえ、ぜーんぜん、そんな事ないですよう? けど気をつけてくださいねー。あのヒト達のご機嫌損ねちゃうとぉ、たーいへんな事になっちゃいますよう?」

 でしょうね、と真樹菜は曖昧な笑みを浮かべて呟いた。
 スマートブレイン社長という真樹菜の地位は、決して飾り物ではない。だがそれは、あくまで“彼等”の意思、思惑から外れなければの話だ。
 もし真樹菜が“彼等”の従順な駒でなくなれば。もしくは“彼等”が真樹菜の利用価値を見切ってしまえば。その時に派遣されてくるのが誰か、言われるまでもなく理解している。

「わたし、今の社長さんが好きですから――変な事は考えないでくださいね? 社長さんを始末するの、あまり気が進まないですから♪」

 どこまでも明るく緊張感のない、自らの立場を隠そうともしないスマートレディの剣呑な言葉に、真樹菜は知らず、肩を竦めていた。





◆      ◆







 フォッグ・マザーがミッドチルダ西部の山岳地帯に落着した時点で、第一級危険指定ロストロギアへ対処する役回りは本局から地上本部へと移された。
 本局と地上本部、海と陸の確執は『JS事件』を経た今も尚――多少融和路線に舵を切ったとは言え――色濃く残り、地上の事件は我等の管轄とばかりに本局の介入を拒んだのである。

 尤も、それが些か現実を見ない判断である事は確かだった。
 地上本部が保有する戦力に、フォッグ・マザーを破壊し得る兵器は存在していない。そもそもが『治安維持』、換言すれば対人制圧を主任務とする地上本部に、過剰な破壊力を持つ兵器は不要という風潮もあったのだ。

 強いて言うなら、故レジアス中将が開発を推し進めていた試作兵器『アインヘリアル』であれば、フォッグへの対処も可能だっただろう。
 しかし試作・先行配備されたそれらは『JS事件』において破壊され、また計画の推進者であったレジアス中将が事件中に命を落としていた為、計画は頓挫。例え今から開発を再開したところで、その前にミッドの全生物がフォッグの餌食となるのは、火を見るより明らかだった。
 手段もないまま面子だけに拘る地上本部を腐敗していると見るのは簡単だが、その混乱はむしろ、『JS事件』の惨禍が未だ尾を引いているが故で。今は亡きレジアス・ゲイズの手腕を、今更に再評価させるだけであった。

 ともあれ。取り得る手段はないにしろ、ただ手をこまねいている程に地上本部は無能ではなく。
 ミッドチルダ西部に存在する各陸士部隊へ偵察の名目で出動命令が下ったのは、フォッグ落着から僅か三時間後――ゲンヤ・ナカジマ率いる陸士108部隊もまた、その中の一隊として機械獣母艦フォッグ・マザーへと近付いていた。

「おおう、予想以上にでけぇもんだな、ありゃぁ。あんなもんが空から落っこちてきたんじゃ、そりゃお偉方ものんびりとしちゃァいられねぇか」

 陸士108部隊所有の指揮通信車、その車内で、斥候の魔導師が中継する映像を見たゲンヤが、感心と呆れが入り混じった表情でそう呟く。
 映し出される映像には天を衝くかの如き威容。屹立する大岩……否、最早漆黒の山脈とでも言うべきフォッグの巨体は、眼下に広がる森林とも、頭上に広がる蒼穹からも酷く浮いていて、なるほど侵略者の姿に相応しい。

 とは言え。目に映るその光景は、ある意味でフォッグのお陰で保たれているものでもあった。
 これだけの質量が地表に落下したとあれば、本来なら巨大なクレーターが生じていただろう。落着の衝撃は莫大な粉塵を空に巻き上げ、陽光を遮って、『核の冬』と同等の惨禍をもたらしていたはずだ。
 そうならなかったのはフォッグが落着寸前に減速を行った為であり、彼等にしてみれば餌場を守る為の配慮でしかなかったのだろうが、それによって景観が保たれているのもまた事実だった。

「どうされますか、部隊長? 上からは何と?」
「上の連中はどこもかしこもてんてこまいだよ。出来る事とやらにゃならん事の区別がついてねぇ。とりあえず情報集めようって次から次に偵察部隊を送り込んできやがる……頭数ばっか増やしても、面倒が増えるだけってのによ」

 苛立たしげにゲンヤは煙草を取り出して、一本に火をつける。
 ゲンヤを苛立たせているのは、続々とこの一帯に参集する“頭数”の中に、自分達も含まれている事だった。船頭多くして船山に登るの故事ではないが、命令系統も曖昧な中で人数ばかり増やしたところで効率が良くなる訳もない。

 何より馬鹿馬鹿しいのは、ゲンヤは命令によって船頭役を務めさせられているという事だ。船を山に登らせる事が目的でもあるまいに、茶番を演じさせられている気分で、どうにも面白くない。
 ただ、それで任務に手を抜くような事もない――機械獣母艦フォッグ・マザーの脅威は、中継映像越しの外観からでも容易に読み取れる。怠慢が許される相手ではないと、ゲンヤは直感的に理解していた。

「しかし……ちと、静か過ぎるな。何か企んでやがるのかね」
「部隊長。221部隊から通信が入っていますが――」
「おう、こっちに回してくれ」

 フォッグ・マザーはミッド西部の山岳地帯に落下したきり、動きを見せていない。
 与えられた情報では、フォッグ・マザーは内部で孵った幼獣達を一斉に解き放ち、その世界のあらゆる生物を食い尽くすという話だったのだが、今のところそれらしい動きは観測されていなかった。

 これ幸いと、ゲンヤは部下にフォッグの監視を命じながら、自身は周辺一帯に集まった陸士部隊へと片っ端から連絡を取っていた。
 陸士108部隊もそうだが、フォッグの偵察・監視任務に駆り出された陸士部隊の大半は、同内容の任務に従事する他部隊がどれだけ居るのかも判らない状況に置かれていた。いざ現地に到着してみればそこは同胞がひしめき合っていて、隣の部隊に話を聞けば彼等も自分達と同じ任務を与えられていると、そこで初めて知るような有様だったのである。

 見かねたゲンヤは本来の任務である偵察には数名のみを使い、残る隊員達を周囲に展開する陸士部隊に派遣して(さすがに敵の至近で広域回線を使う事は出来なかった)、情報の共有と展開位置の確認を呼びかけた。
 結果として、現在の陸士108部隊はフォッグの監視・偵察に従事する部隊の情報集積所となっていた。否、次々と寄せられる情報を処理しつつ、次の行動を“提案”して――“指揮”する権限はゲンヤには与えられていない――動かすようにまでなっていたのだから、それはもう即席の司令部と言った方が適切だろう。

「連絡が途絶えた……!?」
『ああ。ウチの偵察班と連絡がつかん。定時連絡もないし、こちらからの呼びかけにも応答しないんだ』
「解った。おい、221の近くに居るのはどこの部隊だ?」

 ゲンヤの問いかけに、部下からはすぐに「119です」と答えがあった。
 すぐさまゲンヤは陸士119部隊へ連絡を取り、221部隊偵察班の様子を見てくれと依頼するが、しかしウィンドウに映る陸士119部隊の部隊長は焦燥を顕わにした顔でかぶりを振った。

『済まない、こっちも今、隊員の何人かと連絡が取れなくなっている。状況が判り次第、221の様子を見てこよう』
「…………!」

 直感的に、ゲンヤは異変を察知した。
 部下に命じ、フォッグの落着点を中心とした一帯の地図をウィンドウに表示させる。さして精度の高いマップでは無い、大雑把な地形が把握出来る程度のそれには、幾つもの光点が点灯していた。近隣に展開する陸士部隊の配置を意味する光点。

 221と119が展開しているのはフォッグから北東に1km前後。その周辺に展開している他部隊へ連絡を取ってみれば、どの部隊も隊員達の行方不明、連絡途絶が相次いでいた。いやそれだけではなく、こちらからの通信にさえ答えない部隊も少なくない。
 異変は既に、近隣の陸士部隊を蝕み始めている――そう、それはゲンヤの108部隊も、例外ではなく。

「ぶ、部隊長ッ!」

 部下の一人が血相を変えて指揮車の中へと飛び込んでくる。その背後から聞こえる悲鳴と怒号、そして絶叫。かの『JS事件』をも潜り抜けた歴戦の兵、陸士108部隊隊員をして恐慌状態に陥らせるとなれば、それは最早異変どころではない異常事態。
 指揮車の外へと飛び出したゲンヤだったが、指揮車の外に広がっていたのは、目を疑うような光景だった。

 そこに蜘蛛が居た。
 いや、それを蜘蛛と言うと語弊が生じるだろう。ヒトの如くに四肢を持った蜘蛛とでも言うべきか。同じ異形であっても、石膏像めいた調和のあるオルフェノクとは明らかに違う。生々しいまでに生物的な人型の蜘蛛が、総勢四匹――それが陸士108部隊の隊員達を襲っている。

「こいつら、まさか――」

 ゲンヤの言葉は、最後まで紡がれる事はなかった。
 しゅるん、とゲンヤの首に白い糸が絡まったかと思うと、次の瞬間、それが一気に引っ張り上げられたのだ。
 眼球を巡らせて上へと視線を向ければ、指揮車の上に居る一匹の人型蜘蛛が目に入る。その口から吐き出された白紐のような糸がゲンヤの首に絡まり、絞首刑よろしくゲンヤを吊り上げているのである。
 蜘蛛の糸は尋常ならざる力で、ぎりぎりとゲンヤの首を締め上げている。必死にもがくゲンヤだったが、糸は千切れるどころか伸びもせず、逆に足掻くほど締め付ける力を増してくる。

「ホホホホホホ――管理局員とは言っても、たかが人間。クモ怪人の前には手も足も出ますまい」

 どこからか、哄笑が聞こえてくる。
 意識すら危うくなり始めたゲンヤの目に、中空から滲み出るようにして現出する人影が映り込む。色褪せた白いローブを羽織った女。まるで漆を塗ったかのような肌の光沢と、右半面を彩る紋様のような痣が、彼女が只人の範疇にない事を告げている。

「バラオムの忠告を無視し、フォッグ・マザーに不浄な手で触れようとする愚かな人間ども。これは我等ゴルゴムによる誅戮と心得よ」
「ゴルゴム、だと……!?」

 暗黒結社ゴルゴムの名を、ゲンヤは当然知っていた。それが本局次元航行部隊によるフォッグ・マザー迎撃を妨害した事も伝えられていた。
 なれば必然、この場にゴルゴムが現れる事も予想出来て然るべき。事実ゲンヤはそれを考慮し、フォッグの監視に加え、不審な動きをする者はいないかと、監視を広く取るように指示していた。

 ゲンヤに落ち度があったとするのなら、ゴルゴムの思考を常識の範疇で考えた事。ゴルゴムの狙いはあくまでフォッグのみであり、フォッグの確保を優先して行動するはずと。
 フォッグも管理局も諸共に敵視し、見境無く攻撃を仕掛けてくるという可能性を見落としてしまった事こそが、ゲンヤの失策だったのである。

「さあクモ怪人よ、一気に絞め殺してしまいなさい」

 頬痣の女が命じれば、ゲンヤの首を締め上げる糸が一気に力を増した。
 絞め殺すどころか、首から千切れてしまいそうな。血流が寸断され、意識が急速に暗転していく。

「ぎん……が、す、ばる……!」

 奈落へと転がり落ちていく意識の中で、ふと脳裏を過ぎる娘達の顔も、薄れてぼやけて溶暗していって――





◆      ◆







 機動六課に出動命令が下った時点で、地上本部は最早状況を推し量る事すら出来なくなっていたと言える。
 フォッグ・マザー落着地点周辺に、ゴルゴム出現――その一報が入った直後、現地の陸士部隊と連絡が取れなくなったのだ。
 偵察と監視を命じられて現地に向かった陸士部隊は二十を超えるが、いずれも応答を絶っている。通常の通信手段のみならず、念話による通信さえも遮断されていて、そこに何者かの意図を見出すのは難しくなかった。

 ゴルゴムの仕業。それは誰に説明されるまでも無く明白だったが、しかしフォッグ・マザー攻略の為に戦力の編成を急ぐ地上本部に、ゴルゴムに対処する為の戦力までをも捻出する余裕はなく。
 本局所属でありながら地上に拠点を置く機動六課へ出動が命じられたのは、ある意味で必然的な流れとも言えた。

「――そんな訳だから、今回のわたし達の任務は現地の状況調査、及び陸士部隊の救出。戦闘が予想されるから、全員、気を引き締めて」

 ミッド西部へと向かうヘリの中で、高町なのはは部下にそう告げた。
 ヘリの中にはなのはを初めとして、スターズ分隊、ライトニング分隊が、隊長や副隊長も含め勢揃いしている。
 いつぞや、拉致された少年を救出に向かった時以来のオールスター。だがあの時がちょっとした事情から、どこか緊張感に欠けていたのに対し、今の機内は一分一秒ごとに高まる緊張感で張り詰めている。
 やがてその緊張感に耐えられなくなったのか、スバルが手を挙げて、なのはに呼びかけた。

「あ、あのっ! なのはさん!」
「どうしたの、スバル?」
「その、お父さん――108部隊は、無事なんでしょうか?」

 スバルの問いに、なのはは硬い表情でゆっくりとかぶりを振った。

「……108部隊とは今、連絡が取れない状況だよ……周辺一帯に通信遮断型の結界が張られているみたいで、状況が掴めないんだ」
「そんな――」

 絶句したスバルの肩を、その時、横合いから抱き寄せる者があった。
 言うまでもなくティアナ・ランスター。スバルとは対称的に、内心の焦燥と動揺を押し殺した能面のような顔で、それでもはっきりと彼女は希望を口にする。

「それを調べに行くのが、あたし達の仕事よ――大丈夫。あんたのお父さん達なら、きっと持ち堪えるわ。あたし達が着くまで、きっと」
「………………うん」

 心配と不安に押し潰されそうになってはいるものの、それでも相棒からの励ましはそれなりに効果があったようで、スバルは言葉少なに頷いた。 
 スバルはティアナに任せておけば大丈夫だろう。問題は――と、なのはは視線をギンガへと転じる。

 目を閉じたギンガの顔は、ティアナに負けず劣らずの無表情。だが心中穏やかにない事は、膝の上でぐっと握り締められた両拳を見れば瞭然だ。
 当然と言えば当然か。ギンガは陸士108部隊から機動六課に出向している状態だ、元の所属部隊、仲間達が丸ごと安否不明の現状で、落ち着いていられるはずもない。
 一見すればそうと見えない程の自若ぶりであったが、それが見せ掛けだけのものであると、なのはは悟っていた。

「ギンガ――」

 ギンガの向かいに座るフェイトが、恐る恐るといった感じに呼びかける。
 しかし呼びかけたは良いが、何と言って良いものか判らずに、結局彼女は押し黙ってしまい――そんなフェイトを見て、当のギンガが励ますかのように微笑んでみせた。

「大丈夫です、フェイトさん。ティアナの言う事じゃありませんけど……皆、しぶといですから。きっと無事です」

 フェイトに向けた言葉と思しきそれが、実際はギンガ自身へ向けた気休めだと気付かない者は、生憎、この場には誰一人居なかった。
 そこから先、口を開く者は居なかった。誰もが焦燥感に押し潰されそうになって、現場に到着するまでの一分一秒が十倍の鈍さで進むような感覚に捉われていた。
 だが幸いと言うべきか、重苦しい沈黙と、暗鬱な空気は然程長く続きはせず。

「なのはさん!」
「! ――どうしたの、ヴァイス君!?」

 操縦席のヴァイス・グランセニックが唐突に声を張り上げ、後部のキャビンを覗き込む。
 慌てた様子ではあるが、切羽詰った感のないヴァイスの声に僅かな期待を抱きながらなのはが応えれば、ヴァイスはにっと口の端を吊り上げて、彼女に笑みを向けた。

「今、ロングアーチから連絡があって――108部隊と連絡が取れたそうです! 全員無事だと!」

 キャビンに居る全員が反射的に顔を上げ、操縦席のヴァイスを注視する。その視線には喜びと驚き、しかしそれ以上に『まさか』という思いがあった。
 都合の良い言葉を鵜呑みにすれば、それが嘘と知った時の落胆はより大きくなる。当然の防衛本能が、彼女達を普段よりも少しだけ疑い深くしていた。
 しかし勿論、ヴァイスにそんな嘘を吐く理由はない。どこか疑いの混じった視線を受けて、彼はもう一度「全員無事っすよ! 無・事!」と繰り返す。

「良かった……良かった、よぉ……!」
「そーね。……とりあえずスバル、あたしの服に鼻水つけんのやめてくんない?」

 ぼろぼろと涙を流して縋り付いてくるスバルを、ティアナが複雑な顔で引き剥がす。
 張り詰めていた空気と一同の表情が少しだけ和らぎ、それが彼女達のモチベーションを高めていく。
 常人ならば安堵がそのまま脱力に変じそうなものだが、少なくとも今の機動六課にしてみれば、それは個人的な不安に気を取られる心配がなくなったという意味で、戦意高揚へと繋がるものであった。

「合流地点に向かいますぜ! 全開で飛ばしますんで、掴まっていてくださいよ!」
「うん、お願い!」

 なのはが応えると同時、ヘリは大きく旋回して――陸士108部隊、そしてそれに追随する陸士部隊との合流地点に向けて、一気に速度を上げていった。





◆      ◆







 機動六課がロングアーチからの連絡を受け取った瞬間から、僅かに時間は遡る。



 不意に雷鳴の如く轟いた排気音と駆動音が、ゲンヤの意識をあと一歩のところで繋ぎ止めた。
 とは言えクモ怪人の糸は変わらずゲンヤの首を締め上げていて、繋ぎ止められた意識もあと一秒と保たず暗闇に没するはずだったのだが、しかしその一秒こそが彼を救ったのである。
 何処からか飛来した光弾がクモ怪人の糸を撃ち抜き、切断する。唐突に荷重を失ったクモ怪人が後ろによろめくようにして態勢を崩し、そこに更なる光弾の連射が殺到。怪物は総身から火花を散らして、指揮車の上から転がり落ちた。

「がっ……げほっ! な、何だぁ……!?」

 激しく咳き込んで酸素を取り込みつつも、ゲンヤの目は何が起こったのかを把握するべく四方に視線を散らしていた。陸士108部隊隊員を襲うクモ怪人の姿、それを指揮する頬痣の女の姿が目に入る。
 排気音と駆動音はますます高らかに鳴り響いていた。何らかの駆動機械が近付いている事の証。誰もがその正体を捜して、視線を右往左往させている。
 音の正体を見て取ったのは、ゲンヤが最も早かった。彼方から猛然と近付いてくる一台のサイドカー。そして他の面々がゲンヤの視線からサイドカーの存在に気付いた時には、ゲンヤはサイドカーを駆る者、側車に座る者の風体までをも視認していた。

 まず目を惹くのは、頭部全体を覆う、フルフェイスヘルメットのような仮面。サイドカーを運転する者と、側車に座る者とで微妙に意匠が違う。前者が『Χ』を模した、後者が天地逆の『Δ』を模した意匠。
 仮面である以上、それは当然の如くに着装者の表情を覆い隠し――無機質な戦意だけが、見る者の知覚を刺激する。
 首から下もまた常識外の装い。総身を覆う漆黒のスーツ。胸部や肩部を鎧う装甲。体表を走る黄と白のラインが、スーツの漆黒と陰陽の如く相克する。
 明らかに魔導師のバリアジャケットとは異なる、騎士の騎士甲冑ともまた違う。埒外の科学技術が結晶したそれは、異形に抗する為に作り上げられた、珠玉の戦装束であった。

「くっ!」

 サイドカーは頬痣の女へと向けて突撃、轢き殺さんばかりの速度で迫るそれを、頬痣の女は当然ながら回避せざるを得ない。
 瞬間、『Χ』は絶妙のハンドリングでサイドカーをスピンさせた。側車が遠心力に振り回され、そこに座っていた『Δ』が側車の外へと放り出されて宙を舞う。

 いや、『Δ』は自ら側車を飛び出したのか。中空で姿勢を制御し、手にした銃型兵装の照準を構える一連の動きは、偶然を利用した動きとは明らかに異なる、計算され尽くした挙動である。
 先にゲンヤを間一髪で救ったように、『Δ』の放った光弾は陸士108部隊隊員に迫るクモ怪人達を次々と直撃する。炸裂する光弾が怪物達を弾き飛ばし、隊員達がクモ怪人の攻撃圏内から脱する時間を作り出した。
 そうして『Δ』が降り立ったのはゲンヤの眼前。ゲンヤを庇うかのように彼へ背を向けて、十メートル弱の距離に佇む頬痣の女に相対する。

「お――お前さん、いったい……」
「部隊長。皆を連れて、ここを離れてください。――早く!」
「! その声……!?」

 背を向けたままの『Δ』から放たれた言葉に、その内容もさることながらその声音に、ゲンヤが予想外の驚きを覚えて瞠目する。

「お前、ラッドか……!?」

 ラッド・カルタス二等陸尉――陸士108部隊所属の管理局員であり、ゲンヤ・ナカジマが腹心として信を置いていた男。
 だが彼は数ヶ月前から行方知れずとなっている。顛末を見届けた部下の話では、謎の女が彼の行動の自由を奪い、連れ去ってしまったとの事。何らかの事件に巻き込まれたのは明白だった。

 この数ヶ月、108部隊を初めとする地上部隊がラッドの捜索に当たっていたが、彼の消息は絶えたまま、手掛かり一つ掴む事は出来なかった。生存すら絶望視されていたのが実際のところだった。
 その彼が何故いま、こうして仮面と装甲の戦装束に身を包み、自分の前に立っているのか――ゲンヤには全く理解が及ばない。ラッドの身に何が起こって現状に至るのか、それを推察する事すら出来ない。

「急いでくださいよ。自分も、そう長いこと時間を稼いでいられません」

 慮外の展開に目を白黒させるゲンヤにそう言い置いて、『Δ』……ラッド・カルタスが前に出る。
 頬痣の女とクモ怪人を牽制する位置で停止していたサイドカーの横を通り過ぎれば、『Χ』がサイドカーを降りて、ラッドの横に並び立った。『Δ』の橙に光る複眼と、『Χ』の紫に輝く複眼が、それぞれにゴルゴムの怪人達を睨み据える。

 彼等を脅威と認識したのか、クモ怪人達の優先順位が108部隊隊員から、仮面の男二人へと切り替わる。四体のクモ怪人がじりじりと横へ移動して、『Δ』と『Χ』を包囲する陣形を取った。
 その隙に、108の隊員達が指揮車に集結する。ゲンヤの目配せ一つで、彼等は指示を待たずに撤退の準備を開始した。指揮車を含め、停めてあった車に次々と乗り込んで、エンジンを起動させていく。 

「! クモ怪人達よ、奴等を逃してはなりません! 我等ゴルゴムの恐ろしさを知らしめる贄として――」

 頬痣の女が指示を飛ばすのは、しかし僅かに遅かった。少なくともそれは、クモ怪人が仮面の男達を包囲する前に下されなければならなかった。
 唐突な指示に、クモ怪人達が意識を再度108部隊へと戻す。だがそれは換言すれば、『Δ』と『Χ』の前で隙を晒す事に他ならない。瞬間、二人がそれぞれに抜き払った銃型兵装が火を噴いて、光弾がクモ怪人を四体同時に穿ち抜く。

「し、しまった……!」

 ばたばたと倒れこむクモ怪人。頬痣の女がここで漸く、自身の迂闊な指示がそれを招いたと理解する。
 そして迂闊と言うのなら、目の前の状況に動揺し、動きを止めてしまった事もまた、その通りで。
 『Δ』と『Χ』が同時に頬痣の女へと照準を据え、躊躇無く引鉄に力を込める。奔る光弾が女のローブを浅く掠め、それだけで光弾の速度と熱量は布地を易々と引き裂いた。

「……っ! いいでしょう、今日はここまでにしておきます……! クモ怪人達! 奴等を始末しておきなさい!」

 憎憎しげに『Δ』と『Χ』を睨みつけ、だが次の瞬間、頬痣の女はローブを翻し、空間に溶けるようにして、その場から姿を消した。
 追うべきかと『Χ』が前に出るが、残されたクモ怪人達が、先のダメージも抜けきっていないと知れる足取りで彼の前に立ち塞がる。
 いっそ哀れとすら見える怪人達の有様に、ラッドの足が止まった。憐憫か、或いは躊躇か。だが一方の『Χ』にはそんな感傷は欠片もないと見えて、彼は迫る怪人達を容赦なく迎撃――否、蹂躙する。

 迫るクモ怪人の一体が鉄拳と蹴撃を叩き込まれ、ぐらりと身体をよろめかせる。端から被弾は覚悟の上か、必死に敵へ組み付こうと前進するも、銃口を押し当てられ零距離からの光弾連射を浴びせられれば、さしもの怪人も血と肉片を撒き散らして吹き飛ばされた。
 瞬間、するりと『Χ』の首に絡まる白い糸。決死の覚悟で掴みかかった同胞を囮とし、『Χ』の背後に回った一匹のクモ怪人が、仇討ちとばかりに糸を吐きかける。
 常人であれば骨まで容易にへし折れる白糸の緊縛。そこに加えて、残る二匹のクモ怪人が同様に糸を吐きかけるとなれば、拘束は最早磐石である。

「おい、まずいんじゃねぇか、ありゃあ……!?」

 つい先程、クモ怪人の糸に絞め殺されそうになったゲンヤが、『Χ』の危機に思わず声を上げる。
 しかし生憎、この程度は仮面の男にとって危機ではない。常人ならば五体を引き千切られる緊縛も、特殊流体エネルギーを血潮とする強化装甲服を纏った今、何ら脅威に値するものではない。

 無雑作に蜘蛛の糸を掴み、ぐいと一気に腕を引き込む。人間を凌駕する桁外れの膂力が三匹のクモ怪人を纏めて引き寄せ、『Χ』の足元へと這いつくばらせた。
 怪人達が立ち上がり、顔を上げるまでの一刹那に奔った光弾が、三匹のうち二匹の頭部を正確に撃ち抜く。如何に人外の怪物と言えども、脳髄を抉られて生きていられる道理が無い。立ち上がったばかりの彼等が膝からくず折れ、再度地面に突っ伏した。
 無論、もう二度と立ち上がる事はない――その身体がどこからか染み出る炎に包まれ、極彩色の火花を散らして爆発する様を見れば、ここからの逆転が有り得るはずもない。

【Ready.】

 頭を撃ち抜かれて即死した二匹ではあったが、最後まで生き残った一匹の末路を思えば、それはいっそ幸福な死に様と言えただろう。
『Χ』がベルトのバックルから何やら部品を取り外し、それを銃型兵装に装填。瞬間、電子音声と共にグリップ下部から光が伸びて、瞬時に刀身となって形成された。
 蝿の羽音を思わせる不気味な駆動音を呻らせ、流動するエネルギーで金色に輝くその刀身が、高々と掲げられたかと思うと一気に突き下ろされる。

 ぞぶり。不気味な音を立てて、刀身がクモ怪人の胸に突き刺さる。串刺しにされたクモ怪人の姿はいっそ昆虫標本を思わせるが、彼にとっての悪夢は、むしろここからだった。
 肉を焼く音。刃を突き立てられた胸から立ち昇る白煙。もぞもぞと四肢を蠢かしていた怪物が、やおら苦しみ方を変えて暴れ出す。

 誰が知ろう。蜘蛛を串刺しにする刃が高熱を帯びている事を――本来それは切断ではなく、高熱による溶断を目的とした武装である事を。
 鋼鉄をも容易く灼き斬る刃を直接体内に突き入れられたクモ怪人が、一体どれほどの苦痛を味わっているのか、当事者以外の誰が理解出来るだろう。

 断末魔の苦痛にもがき苦しんでいたクモ怪人が、やがて糸の切れた人形のように動きを止める。ずるりと刀身を引き抜けば、先の二匹と同様にその身体は炎に包まれて、数秒の後に爆散して果てた。

「ひっ……!」

 陸士108部隊の誰かが、短く悲鳴を上げた。
 爆ぜる火の粉と立ち昇る黒煙。その只中に佇んで、煌と紫の眼光を輝かせる『Χ』の姿は、悪鬼羅刹にも等しきおぞましさを纏っている。108部隊隊員の反応も、無理からぬ事と言えよう。

「よし――おい、逃げるぞラッド! お前も来い!」

 撤退の準備は完了した。指揮車運転席の窓から身を乗り出して、ゲンヤが声を張り上げる。
 ゴルゴムの怪人を一掃した今こそが撤退の好機。このままここに留まれば、いつまた怪人がやってくるか判らない。
 充分な装備を整えた状態ならいざ知らず、今の状態でゴルゴムと渡り合うのは自殺行為だ。ゲンヤ・ナカジマは自殺願望とは縁遠く、また自身の破滅に部下を付き合わせる程に、無能でもなかった。

 ゲンヤの呼びかけに、ラッドは逡巡するかのように僅かな間を置いた後、踵を返して指揮車へと歩み寄ってくる。未だ黒煙の中に佇んでいる『Χ』へ呼びかける事も、何らかの所作で誘う事もしなかった。
 置き去りにするようなあっさりとしたラッドの足取りに、ふとゲンヤの眉が寄る。――あいつら、仲間じゃないのか?
 そんな疑問がゲンヤの脳裏に兆した瞬間、ラッドが突然走り出した。まさかゲンヤの疑問に反応した訳でもあるまい、何だいきなりと呟いて駆け寄ってくるラッドを注視したその時、不意に指揮車のフロントガラスが砕け割れた。

「うぉおっ!?」

 飛散するガラスの破片に、思わず両腕で顔を覆うゲンヤだったが、その腕にするりと白い糸が絡みつく。更に次瞬、ずるりと這うようにして、何か人型の物体が指揮車の運転席へと這入り込んできた。
 それは先刻、ゲンヤを首吊りに追い込んだクモ怪人。『Δ』の放った光弾に撃ち抜かれ、指揮車の車上から撃ち落とされていたものの、絶命には至っていなかったらしい。

 仲間が惨殺されている中、一人身を潜め、当初の獲物であるゲンヤをしつこく狙っていたのだろう。頑固に初志貫徹を目論んでいるのか、或いは部隊の指揮官がゲンヤと悟り、頭から潰そうと向かってきているのか。
 どうあれ自身の命と引き換えにゲンヤの首を獲る算段なのは明らかで、人外の怪物が生還を度外視した死兵となって迫るのだ、そうそう容易く振り解けるものではない。

「ぶ、部隊長っ!」

 助手席に座っていた部下が咄嗟にクモ怪人へと掴みかかり、ゲンヤから引き離そうと奮闘するも、どだい人間の膂力では敵うはずもなく、あっさり弾かれて車外に放り出される。
 だが彼が地面に落ちるより僅かに早く、『Δ』――ラッド・カルタスが間に合った。
 放り出された隊員を受け止め、その身体を地面に横たえて、改めてラッドはゲンヤに組み付くクモ怪人へと飛び掛る。敵の首を背後から鷲掴みにし、無理矢理引き剥がすようにして、ラッドはクモ怪人を車外へと引きずり出した。

「あだっ! ――おいラッド、もうちっと丁寧にやってくれや……!」
「す、すみません、部隊長」

 クモ怪人の糸に腕を絡めとられていたものだから、ゲンヤも諸共に車外へと引きずり出される。ただしこちらは間一髪でラッドがゲンヤの後襟を掴み、糸を断ち切っていた為に、地面に叩きつけられる事はなかったが。
 よろよろと立ち上がるクモ怪人。その眼前に、ラッドが立ちはだかる。『Χ』の様に問答無用で殺しにかかる事はなく、それでも決して逃がさないという意思を明確に表す足運びで、彼は怪物の進路に立ち塞がった。

「お前達には同情しないでもない――部下を捨て駒にする上官を持った事、不憫とは思う。捨て駒になれという命令であっても、それに従わなければならない事……ああ、これにも同情しよう。まったく酷い話だ、酷い上官だ、酷い命令だ」

 ゆるりとかぶりを振りながら呟くラッドの言葉は、心底からの本音であった。一片の偽りも無く、彼はクモ怪人に同情し、部下を捨て駒とした頬痣の女に憤っていた。
 自分達は上官に恵まれている。それは陸士108部隊隊員の総意であり、同部隊の高い士気、強固な結束はそこに起因している。
 上に立つ者の人徳、人柄、人間的魅力。組織や集団を維持し、事に当たる上で最も必要なものが、陸士108部隊には紛れもなく存在していて――構成員を捨て駒として浪費するゴルゴムにはそれがない。

 だからこそ、ラッドはクモ怪人に同情する。それは同情と言うよりは、むしろ憐憫に近い感情であったのだが、どちらにしろそれは同じ事。
 しかし当然、それを理由に見逃すなど、選択肢としては有り得ない。

「ただし――同情はするが、容赦はしない。お前達がどれほど上官に恵まれていなくても、残酷な命令を出されていたとしても、だ。他人を傷つける事を是とするのなら、見逃す訳にはいかないな!」

 語気を強めて言い放てば、クモ怪人は覚悟を決めたか、奇怪な唸り声を咆哮へと変えてラッドへ飛び掛ってきた。
『Δ』に敵わないのはこれまでの戦いで思い知らされているはずであろうが、窮鼠猫を噛むの心境であるのだろう、一命を賭せばせめて相打ちに持ち込めると考えたのか。
 その甘く温い目算を糺してやる義理は、ラッドにはない。彼のするべきはただ一つ、誤算の対価を支払わせる事だけである。

「チェック!」
【Exceed Charge.】

 ラッドが右腰の銃型兵装を抜き払い、バックルから抜き取ったパーツを装填する。銃身が伸長し、音声入力の起動キーを受信した各種装備がそれに反応。ベルトを起点に、スーツの体表を走る白のラインを伝って光点が移動、銃型兵装へと送り込まれる。
 次瞬、銃口から光の針が撃ち出される。クモ怪人へと向けて加速する光針は、標的の直前で傘の如く展開、白色に輝く巨大な三角錐へと変化した。
 暴と颶風が吹き荒れる。突如として空間を占拠した三角錐が空気を引き裂き、即席の乱気流を生み出しているのだ。その只中に囚われたクモ怪人は挙動を奪われ、即ち回避と防御の選択肢を奪われる。

 ラッドが走り出す。乱気流の中心、クモ怪人に切っ先を向けて浮遊する光錐へと向けて。地を蹴って高々と跳躍、空中で一回転すると、眼下の光錐へ身体ごと蹴りこんでいく。
 クモ怪人の体表に触れるか触れないかというところで静止していた光錐が、ラッドの突撃によって、遂に標的の外皮を突き破った。
 同時に始まった高速回転がクモ怪人の肉と内臓を容赦なく掻き回して抉り抜き、そして『Δ』の姿がクモ怪人の後方に現出すれば、怪人の身体はゆっくりと倒れこみ――爆発の中に消え去った。
 爆煙の中に薄っすら浮かび上がるΔの一字。それも程なく、黒煙もろとも風に攫われて消え失せる。

「……く、ぐ……!」

 右腰のホルスターに戻した銃型兵装から、銃把部分を取り外す。白光が一つ激しく瞬いて、次の瞬間、ラッドの身体を包む黒いスーツと頭部を覆う仮面は消失していた。骨組みのように残っていた白色のラインも、ラッドの腰に巻かれたベルトへと引き戻されていく。

 陸士部隊の制服姿へと戻ったラッドだったが、そこで彼は膝をついて蹲ってしまった。見れば彼の目は酷く血走って、額に脂汗が浮いている。ぎりと歯を食い縛り、腕を小刻みに震わせながらも強く拳を握り締める彼の姿は、何かの苦痛に耐えているか……或いは何かの衝動を必死で抑え込んでいるように見受けられる。
 慌てた様子で『Χ』が駆け寄り、ラッドに手を差し伸べるが、しかしラッドはその手を乱暴に払いのけた。

「……?」

 先の疑問が、ゲンヤの脳裏で再び涌き上がってくる。明らかにラッドと『Χ』との間には何らかの確執がある……単純に“仲間”と言える関係には見えない。
 ともあれ詳細を知らぬのだから、内心の疑念は解決するはずもない。それよりも今は此処を離れる事こそが先決、ゲンヤは『Χ』の代わりにラッドに肩を貸して、彼を立ち上がらせた。

「すみません」
「気にすんな、こっちァ命助けてもらってんだ。……なあラッドよ、さっきのありゃあ――そのベルトのおかげか?」

 未だラッドの腰に巻かれたままの、金属部品がごてごてと備え付けられた重装のベルト。およそ服飾品の類からは逸脱したそれを指し示してゲンヤが質せば、ラッドは黙して頷いた。

「『デルタギア』と呼んでいます。あっちの彼が使っているのが『カイザギア』。特殊強化服着装システム、とでも言うんでしょうか」
「お前、何でそんなもん――」
「言えません。口外しない事を条件に、こいつを持ち出す許可を貰ってるもので」

 そこでゲンヤはちらと後ろを振り向き、周辺を警戒するかのように辺りを見回す『Χ』を見遣った。

「って事ァ、あいつはそのお目付け役ってか? 余計な事言ったら口封じに入る……とか?」

 ベタだなおい、とゲンヤは苦笑する。ただそれなりに筋の通った推論なのも確かだった。ラッドの『Χ』に対する態度を見ていれば、相手に良い感情を抱いていない事はすぐに知れたし、余計な事を喋らせない為の監視役と考えれば、あの邪険な態度も頷ける。
 だがゲンヤの言葉に、ラッドはゆっくりとかぶりを振って、その推論を否定した。

「いえ――彼はただ単に、自分を手伝いに来てくれただけです。一時的な協力者とでも言いますか……少なくとも彼に関しては、そう危険視しなくても良いはずです」
「の割にゃ、随分と邪険にしてるじゃねえか」
「あまり、良い感情を抱ける相手でもないもので」

 そうかい、とゲンヤは詮索を打ち切った。
 代わりに彼の意識は、ラッドの腰に巻かれたベルト――デルタギアに集中する。

 ラッドの不調は、明らかにこのベルトが原因だ。一見してゲンヤとも普通に会話しているように見えるが、その実、相当な無理をしている事はすぐに知れた。
 無理にでも取り上げるべきだろうか。だがこれがあったからこそ、ゴルゴム怪人を撃退出来たのもまた事実。ラッドの身体を気遣う一方で、彼と彼の装備に頼らざるを得ない現状を、指揮官たるゲンヤは冷静に推し量り――今はこのままにしておくしかないと、業腹ながらそう結論付ける。

「ふん。まあ、仕方ねえか。……おい、そっちの――カイザだったか!? お前も来い、ここ離れっぞ!」

 大声で呼びかければ、『Χ』はさも慮外と言わんばかりに――勿論、仮面の下でどんな表情をしているのかは判らないけれど――ゲンヤに向き直って、しかし躊躇するかのように僅かに顔を伏せた。何を躊躇っているのかは判らない。
 それでも意を決したのか、やがて彼は静かにゲンヤへと歩み寄ってくる。

 歩きながら『Χ』の手はベルトのバックルに伸び、そこから部品を取り外した。先に銃型兵装に装填した部品と異なり、バックルを丸ごと抜き取る形で取り外したそれは、閉じた状態の携帯電話を思わせた。
 携帯電話を操作すると、ラッドが変身を解除した時と同様、強い光が『Χ』の姿を覆い隠して、彼の総身を覆うスーツと仮面が消失する。体表のラインもベルトに引き戻されて、着装者の姿がここで初めて顕わとなった。

「……ん?」

 着装者の姿を見た瞬間、ゲンヤが怪訝そうに眉を顰める。どこかで見たような顔。それがどこであったのか記憶を辿れば、すぐにその正体に行き当たる。
 対して着装者はゲンヤの顔に見覚えが無いらしく、何やら思い出している様子のゲンヤに怪訝な顔。やがてゲンヤが「おお」と一つ手を叩けば、怪訝な顔のままで更に首を傾げた。

「お前、確か――」





◆      ◆







『謁見の間』を出た真樹菜がその足で向かったのは、普段の執務を行う社長室ではなく、スマートブレイン本社ビルの地下階層に存在する一室であった。
 多国籍ならぬ多世界籍企業スマートブレイン。それは決して、内実を覆う隠れ蓑というばかりではない。そこで働く者達の大半が人外生命であるとは言え、実際に企業活動を行っている以上はそれもまたスマートブレインの一側面であって、端的に言うならば地表部分の社屋はほぼ全てがその為に使われている。

 故に。スマートブレイン本来の目的は、主に地下階層へ設けられたセクションにおいて進められているのが実態だ。
 逆説、ここを訪れる者は総じてスマートブレインの暗部に少なからず関わっているという事であり――ここを訪れるという事は、それに関連する何がしかの目的があっての事と言える。
 この日の真樹菜もまた、例外ではない。

「あら、白華さん」
「ん? ……ああ。おハナシは終わったアルか? お疲れ様ヨ」

 足早に通路を歩く真樹菜が、ふと通路の側壁にもたれかかり、憚りなく煙草の煙を燻らせていた一人の女に目を留めて、話しかける。
 目を奪われるような眩い金髪の白人女性。だが妙に訛った口調と、総身を包む藍色のチャイナドレスが、その印象を酷くちぐはぐなものにしている。
 ラッキークローバーが一葉、白華・ヘイデンスタム。結城真樹菜の友人である彼女は、呼びかけられて初めて近付いてきた誰かに気付いたらしく、吸いかけの煙草を床に落とすと靴の底でねじり消して、真樹菜へと向き直った。

「どうされました? ぼうっとしておられますけれど」
「別に、大した事じゃないネ。……ああ、そうそう。あのガキとあの男、フォッグの調査に出たヨ。言われた通りにカイザギアとデルタギア渡しといたアルけど……本当に良かったアルか?」
「良かった……とは?」
「そのまま逃げちまうかもしれない、って事ヨ。中身はともかく、ベルトを持ち逃げされたら後々面倒になると思うネ」
「ああ――」

 白華の懸念は尤もだ。しかし無論、真樹菜がそれを考えていなかったはずもなく、むしろ我が意を得たりと言わんばかりに、彼女は薄っすら微笑んだ。

「大丈夫ですよ。あの子はちゃんと戻ってきます。もう一人……ラッド・カルタスさんはどうか判りませんけれど、その場合でもちゃんとデルタギアは回収する手筈になってますから」
「何でそこまで信用出来るのか、私にはとんと理解出来ないアル」
「ふふ。そうでしょうね――まあ、その辺は私とあの子だけが解り合える事でしょうし。理解出来ないのは当然ですよ」

 それよりも、と真樹菜は白華の横にある扉を指し示す。
 白華がもたれかかっていた壁のすぐ横には一枚の鉄扉があり、専用のパスコードを入力する為の端末が備え付けられたそれは、他の部屋と比して一段と厳重な警備が敷かれている事を窺わせる。
 真樹菜が地下階層にまで赴いた理由は、この鉄扉の向こうにある。それは白華も理解していると見えて、一つ頷いて、新たな煙草に火を点した。

「ノリノリで仕事してるヨ。正直付き合いきれないネ、こっちまでアテられそうだったから部屋出てきたアル」
「そうですか。ふふ、それは重畳」

 端末にパスを入力、外観の重厚さからは些か拍子抜けするほど軽快に開いた鉄扉を潜って、真樹菜は室内へと這入った。
 瞬間、真樹菜の視界を占拠する膨大な情報。中空に展開される無数のウィンドウが、そう広くない部屋の中をびっしりと埋め尽くしているのだ。

 ウィンドウそのものに実体はない。それでも何となくぶつからないように頭を下げて前へと進めば、部屋の中央に居る一人の男が目に入った。長身痩躯の立ち姿。普段は酷い猫背の男が、今日に限って背筋をしゃんと伸ばして立っている。
 白華・ヘイデンスタムと同じくラッキークローバーの一葉、ラズロ・ゴールドマンは、部屋に入ってきた真樹菜に気付く事もなく作業に没頭していた。

「うふふふふひゃらはははははははひははははは。あああぐるぐる回って兎が月と火星と太陽でこんがり煮えてジューシーだからお刺身ぃいいいいい。真っ黒な階段がずぶずぶとろけるよぬるぬる固まるよマンションが丸ごとプリンになって血まみれだよ、キャベツが空を飛んで破裂しながらレタスになるからジャガイモだって水着を着るのさふんどしだ、べとべとの牛が燃えて凍るとお好み焼きだってオーブンレンジも知ってるけれど包丁は知らないのさあひゃらはははははははははははははは」
「……………………」

 今日はまた一層、頭の飛び具合が甚だしい。
 直立しながらゆらゆらと全身を蠢かせてコンソールを操作するその様は、海底で揺れる海草を彷彿とさせる。伽爛の艶かしくくねった動きとはまた別ベクトルの気持ち悪さだ。
 コンソールを叩く手が、時折思い出した様に傍らのワゴンへと伸び、そこに置かれた大皿から豆状の何かを掴み取って口へと運ぶ。ぼりぼりと音を立てて咀嚼されるそれが非合法の薬物錠剤であると、真樹菜は知っていた。

「ラズロさん――ラズロさん?」
「くくく狂わせ屋の脳波変調機で頭くるくるこねこねぐっちゃぐちゃ。遊星より愛をこめてこんにちはだからSRIが怪奇をあばいてノストラダムスの大予言に一筆奏上だよね、吸水性ポリマーに狂鬼人間をくるんでギエロン星獣に召し上がれって駄目駄目それはスペル星人の罠だからぁああああ」
「……駄目ですね、これは」

 普段からいまいち言葉の通じないヤク中であるが、今日はもう完全に聞こえていない様子で、良く聞けばかなり危険な事を口走っている。
 仕方なく、真樹菜はラズロとのコミュニケーションを諦めて、周囲に展開されるウィンドウへ視線を移した。
 室内を埋め尽くす無数のウィンドウは、どれ一つとして、フォッグに関連する情報を映し出していない。まあ当然と言えば当然だ、ラズロの“情報収集”はフォッグがミッドに落着するよりも以前から始められていたのだから。

 視線を巡らせ、ウィンドウに表示される内容を次々と確認していく真樹菜だったが、その表情はどうにも晴れない。求める情報は見つかっていない。
 元より砂漠で砂金を探すような、手がかりすら無い漠然とした探索であったのだから、それも予想の内ではあったのだが――落胆するのもまた、無理からぬ事。

「……で、真樹菜は一体なにを探してるアルか?」

 いつの間にか部屋に入り込み、真樹菜の後ろに佇んでいた白華が、耳に息を吹きかけるような至近距離からそう訊いて来る。

「白華さん、『怪魔界』というのはご存知ですか?」

 広大な次元空間には無数の次元世界が存在し、実際のところ、時空管理局が把握している世界はそのごく一部に過ぎない。
 管理世界、管理外世界、無人世界、観測指定世界……それら全てを合わせたとしても、全ての次元世界の四割にも満たないのではないか。それが次元世界学における、現時点での常識である。

 怪魔界はそんな、管理局が把握していない次元世界の一つだった。区分においては管理外世界に属するのだが、それは単に管理局の秩序を受け入れるかどうか、その交渉すら始まっていなかったというだけの事。次元航行技術を保有する怪魔界は、時空管理局の理念に照らし合わせれば、まず無視出来る存在ではなかった。
 ただ――もし交渉が始まったところで、それが難航するであろう事は、容易に予測出来たのだが。

「怪魔界? あー、そういや昔どっかで聞いたよーな気がするネ。確か、別の管理外世界に侵略仕掛けたっつー世界だったようナ……」

 他の次元世界を我が物とするべく、軍事力を以って侵攻を行う――時空管理局が怪魔界の存在を察知したのは、それが契機となっての事だった。
 第97管理外世界、『地球』。怪魔界が狙ったのは、当時既に管理局が存在を認知していたこの世界。

 管理外世界による、他の管理外世界への侵略。この前代未聞の事態に、時空管理局は真っ二つに割れた。管理外世界へは原則不干渉という立場を固持すべきという意見と、例え管理外世界であっても他世界への侵略を許すべきではないという意見。
 議論は平行線を辿り、如何なる処方で臨むのかを決められぬまま、時間だけが無意味に過ぎていった。

 結論を先に述べるなら、怪魔界の侵略に対し、管理局は一切の介入を行わなかった。
 行う必要がなくなった、と言うべきか。ある日突然、唐突としか言いようのない脈絡の無さで、怪魔界の侵略は終結したのだ。――怪魔界の消失という結末で。
 当時の資料では、怪魔界は地球の一国を地球侵略の前線基地とするべく、先遣隊を派遣し侵攻を行っていたのだが――その最中、突如として先遣隊は壊滅、のみならず怪魔界そのものも消え失せたという。

「なんで消えちゃったアルかねー」
「さあ……未だに諸説紛々ですけれど。一番信憑性が高いのが、怪魔界の統一国家『クライシス帝国』の皇帝が何かをやらかした、って説ですね。まあ何をやったのか、というのがすっぽり抜けたトンデモ説なんですが」

 それが最も信憑性が高いと言われる事からも判るよう、怪魔界の消失は一種のオカルトとして扱われているのが現状である。 
 怪魔界が滅亡したというのなら、まだ話は単純だった。地球へ侵攻していたはずの怪魔界が滅びるという皮肉はあっても、そこに謎は無かったのだ。在るべき場所から消え失せて、存在を感知出来なくなってしまったからこそ、それは不可解として語り継がれている。

「恐らくは次元断層か何かで、世界が丸ごと“向こう側”へ落ちてしまったんでしょうね――アルハザードと一緒です。もしかしたらまだ現存しているのかもしれないけれど、そこに行く事も見る事も、もう出来ない……そんな世界」
「はぁん。……ん? じゃ何で真樹菜は、その怪魔界を探してるアルか? 行けない見れない関われない世界ネ、探すだけ無駄ヨ」

 白華の指摘は至極尤もで、ただそれは真樹菜も予想の内だったのか、懐から一葉の写真を取り出して、白華に差し出した。

「わざわざ写真持ち歩いていたアルか。暇人ネ……何アルかコレ? 腕? ロボ?」

 写真に写っていたのは鉄板と鉄骨と配線の混合物……要するに機械の塊。しかしその形状は確かに人間の腕に酷似していて、それでも戦闘機人とは異なり無機物のみで構成されたそれは、見も蓋もない『ロボ』という感想がなるほど良く似合う。

「クライシス帝国製機械兵器、『怪魔ロボット』の腕ですね。どうしてこんな有様になっているのかは不明ですけれど……問題はこれ、今から一年ほど前に、とある管理世界に落ちてきたものなんですよ」
「一年前? あれ、怪魔界が消えたのって二十年前だったアルな?」
「ええ。二十年前に滅びたはずの世界で作られたものが、一年前に落ちて来たんですよ。文字通りに空からぽろっと。しかも落ちて来たのはこれだけじゃありません、色んな世界の色んな場所で、怪魔界の残滓が降ってきているんです。……これ、何を意味すると思います?」
「んー……」
「私の答えはこうです――怪魔界はすぐ近くにある・・・・・・・・・・・。行けない見れない関われない、けれど何かの拍子にちょっとだけ繋がってしまう、そんな近くに」
「……ふん。だから、その“何かの拍子”をこうして探して――もとい、探させてるという訳アルか」

 まあ、そんなところですと頷いて、真樹菜は改めて中空を占拠するウィンドウを見遣った。幾多もの世界で確認された、怪魔界の残滓に関する情報を、片っ端から頭の中に叩き込んでいく。
 “何かの拍子”を探す。それをより正確に言い表すのなら、“何かの拍子”の発生条件を探すという事。
 世の事象は総じて必然から成っている。何かが起こるという事は、それが起こるだけの条件が満たされたという事に他ならない。怪魔界へと繋がる道もまた然り。
 発生条件さえ確認出来れば、それを人工的に再現する事も決して不可能ではないはず。怪魔界への道を作る方法を確立出来るはずだ。

「しかし真樹菜、何でそこまでして怪魔界に行きたいネ? バカンスにしちゃ、ちょい遠出過ぎると思うアルよ」
「まさか。別に、怪魔界に行きたい訳じゃありません――怪魔界の“あるモノ”が欲しいんですよ。怪魔界にならきっとある……いえ、ないとおかしいモノですね。まあ、アルハザード探すよりは手近なんじゃないですか?」

 結城真樹菜には確信があった。怪魔界へ通じる道は、いずれ必ず自らの前に現れると。こと策略と権謀において他の追随を許さぬ真樹菜であるが、一方で論理に拠らぬ直感を蔑ろにする訳でもなく、予感や虫の知らせといった感覚を大事にもしている。
 その意味で、彼女にとって予感と確信は同義であり、確信を抱いた事柄をことごとく実現させてきた彼女には、怪魔界への侵入は最早決定事項と言えた。

「――まあ、今は今で、先に対処しなければいけない事が山積みなのですけれど」
「そうアル。とりあえずはフォッグとゴルゴムをどうするかネ。どいつもこいつも厄介ヨ」
「そうですね……いざとなれば、『帝王のベルト』を投入する事になるかもしれません。或いはトルーパー部隊を幾らか動員するか……どちらにしろ、当面は様子見ですね。我々が表に出るのは、出来る限り避けたい事態ですから」

 どういう処方でフォッグに関わるのか、真樹菜にもまだ明確なプランがある訳ではない。様子見という判断は、次の一手を打つまでの時間を稼ぐ為のものでもあった。
 ただ、どう動くにしろ、判断材料となる情報は必須で――斥候として現地に送った人員が、どれだけ有用な情報を持ち帰れるか、それ次第でもある。

「……そう考えると、あの子に任せたのは人選ミスだったかしら」

 情報収集のいろはも知らない“彼”に斥候役を任せたのは、今にして考えれば明らかに失策で。
 その場のノリって怖いですねえ、と呟く真樹菜の顔には、妙に楽しげな笑みが浮かんでいた。





◆      ◆







 フォッグ周辺に展開する部隊は、ポイントD-24に集結されたし――陸士108部隊の発した号令によって、指定された地点には続々とゴルゴムの襲撃を逃れた部隊が集まってきていた。
 見方によっては任務放棄、敵前逃亡にも等しい行為ではあるが、実際問題、フォッグ・マザーの監視という本来の任務を果たせる部隊は、この時点でほぼ皆無だったのだ。
 ゴルゴムによって地上本部との通信が遮断された状態では指示を仰ぐ事も出来ず、最終的には108部隊長ゲンヤ・ナカジマの『総ての責任は俺が取る』という言葉によって、彼等は撤退を開始した。
 
 フォッグの落着地点からやや離れた、何らかの開発が行われるであろう工事現場。木々が切り倒され、地面が均された時点で工員が退避したそこが、108部隊の指定した集結ポイントだった。
 各部隊の指揮車と野戦用テントが立ち並び、九死に一生を得た者達がそこかしこに腰を下ろして脱力している様はさながら野戦病院の様相で、そんな中を小奇麗なままで歩くギンガ達は明らかに周囲の光景から乖離している。
 尤もそれを気に留める者もまた居らず、加えてギンガとスバルを初めとしたフォワード陣は一様に焦りと不安を顕わにしていたから、場違いと言うほど周囲の雰囲気にそぐわない訳ではない。

 陸士108部隊の指揮車へと向かっているのは、ギンガとスバル、ティアナ、エリオにキャロ、おまけにフリードの、五人と一匹だけ。ヴァイスはヘリに残って現地の仔細な状況を六課司令部へと伝えており、隊長陣は持ち前の空戦能力を活かし、未だ連絡のつかない各部隊の救援へと当たっている。
 フォワード陣には108部隊の指揮下に入るよう、指示が下されていた。空中を移動する能力や手段があるとは言え、彼等は陸戦魔導師だ。なのは達空戦魔導師と同様の運用は出来ず、また状況を考えれば、フォワード陣に足並み揃えて動く訳にもいかない。

 ただ、彼女達はその指示の真意に概ね気付いていた。結局のところそれは、ギンガとスバルへの配慮……ゲンヤを案ずる気持ちへ配慮したのだ。
 公私混同のようにも思えるが、隊員のメンタルを軽視するやり方は機動六課の(と言うよりは、隊長陣の)望むところではなく、またフォワード陣の実力は『JS事件』において証明済みであり、隊員の大半が負傷した108部隊への戦力補填と考えれば、決して無意味な指示ではなかった。

「あ、あれだ!」

 やがて先頭を歩くスバルが、陸士108部隊の指揮車と、その傍らに設置された野戦テントを見付け出す。早足の歩みが駆け足となって、まずスバルが、次いでギンガが、僅かに遅れて残る三人が走り出した。
 指揮車付近に座り込む108部隊の隊員達が、ギンガに気付いて立ち上がった。挨拶もそこそこにテントの幕をはぐれば、そこには上半身裸になって診察を受けるゲンヤの姿。

「お、おう……どうした? お前ら。んな血相変えてよ」

 テントに飛び込んできたスバルとギンガの勢いに面食らったのか、目を瞬かせてゲンヤが質してくる。

「お父さん! だいじょうぶ!? 怪我してな……それ、その首!」

 わっとゲンヤに詰め寄ったスバルが、矢継ぎ早に質問を繰り出して、その答えが返るよりも早くゲンヤの異状を察知する。
 ゲンヤの首には黒々とした痣が刻まれており、ちょうど喉仏のあたりからぐるりと線状に首を周回する痣は首吊りの痕跡めいていて、見た目以上の痛々しさを見る者に感じさせた。

「大丈夫だ、ちっと吊り上げられただけだからよ――ったく、なんてツラしてんだ、お前。ギンガもだ」
「なんてツラ、じゃありません! 心配したんですよ!」
「お、おぅ。悪かった」

 茶化すような口調の言葉にギンガが声を荒げて言い返せば、その剣幕にさすがのゲンヤもたじろいで謝った。
 医務官と思しき管理局員がぽんとゲンヤの肩を叩き、もう上着を着ていいですよと告げる。ゲンヤが部下から渡された上着に袖を通している間、医務官はギンガ達に彼の容態を説明した。……ゲンヤの怪我は首の痣くらいで、後は掠り傷が幾らかとの事。
 ほっと息を吐いたギンガ達だったが、そこでふと、「ん?」とティアナが疑問を抱く。

「あの、ナカジマ三佐。少しお訊ねして宜しいでしょうか」
「あん?」
「ゴルゴムに襲われたというのはお聞きしたのですが、その、どうやって……」

 どうやって逃げ延びられたのか。それを上手くオブラートに包む事が出来ず、ティアナは口ごもった。
 ゴルゴム怪人の脅威に対し、熟練の魔導師を擁する訳でもない陸士108部隊が、どうして死者を出さず逃げ延びる事が出来たのか。当然の疑問ではあるが、しかしそれを言葉にすれば他部隊の過小評価、ひいては罵倒に繋がりかねない。ティアナもさすがに自重する。
 ただ彼女の言いたい事は概ね伝わったのだろう、ゲンヤは合点いったとばかりにぽんと膝を叩いて頷いた。

「ああ、まあそうだろうな。確かに、俺らだけじゃあ逃げられなかっただろうよ。助っ人が来てくれてな」
「助っ人……?」

 流れから察するに、管理局の他部隊という感じではない。だが民間人にはこの一帯から退避するよう指示が出されているし、そもそも怪人を相手取るだけの実力を持った魔導師や騎士がそう都合良く近くに居るとも思えない。
 首を傾げるティアナから、ゲンヤはギンガへと視線を移し、

「何だっけ、ギンガよ。ちっと前に、お前が拾ってきた坊主いるだろ?」
「坊主?」
「おう。次元漂流者の――あり、名前なんつったか」

『拾った』『坊主』『次元漂流者』――確かに、心当たりがある。と言うか、それではもう特定したも同然だ。次元漂流者などごく稀にしか発生しない上、これまでにギンガが出会った漂流者と言えば、ただ一人しか居ないのだから。
 しかし、まさか彼がという思いが、その心当たりを否定する。こんな危険な場所にのこのこ顔を出すほど、あの少年は愚かでは……

「……いや。まさかまた、何かに巻き込まれてるんじゃ――」

 とにかくろくでもない目にばかり遭わされていた彼のこと、案外今度も何かに巻き込まれて動かされているのではないか、そんな思考を否定出来ない。
 嫌な予感にギンガが顔を顰めたその時、不意に低く重い排気音がテントの中に聞こえてきた。恐らくは大型バイクのものだろう。

 排気音はやがてテントのすぐ近くで停止し、バイクを降りたと思しき音、ぱたぱたと小走りに近付いてくる音がそれに替わって聞こえ始める。
 自然、テントの中に居る者達の視線は入り口の幕に集中し――そして。

「ゲンヤさん! 221の人達、見つけてきました! 怪我はしてるけど全員無事――あれ?」

 ばさりと勢い良く幕をはぐって顔を出した少年が、テント内に居る面々の顔を確認して、素っ頓狂な声を上げる。
 うすうす予想はしていたものの、それが見事に的中してしまった少女達は、声もなく少年の顔を見つめるのみ。
 少年は(当然と言えば当然だが)二週間前に別れた時と殆ど変化がない。妙に似合わない、白い詰襟の学生服を着用しているが――黒髪黒目、そこそこ端整ではあるが平凡で普通な顔立ちは相変わらず。強いて言うなら以前よりも幾らか顔色が良く見えるくらいか。
 さておき。

「衛司、くん?」

 今更のように名を呼ばれ。
 しかしそれに気の利いた答えを返す事も出来ず、結城衛司はただ、呆けた顔を晒していた。





◆      ◆







「バラオム、ビシュム、共に役目を果たしておるようだな」

 暗闇の底で一人、大神官ダロムは満足げに呟いた。
 状況は全て彼等ゴルゴムの意図するままに動いている。フォッグ・マザーはミッドに落ち、フォッグ周辺の管理局も排除出来た。並行して次の“仕込み”も進んでいる、遠からずそれも完了するだろう。
 強いて言うなら、フォッグ側に何の動きもない事がやや気になるところか。懸念材料と言えばその通りだが、生憎、ゴルゴムはそれに対しても布石を打っている。

「……ふむ。傷は癒えたか。思ったより時間がかかったものよ」

 ダロムの眼前には、古井戸を思わせる小さなプール。床面が直接隆起したような、絡み合って組み上がったケーブルがプール状の窪みを形成したような、とかく異形で異常な造形の水場。
 ただしそれに湛えられているのは水ではなく、緑黄色に発光する不気味な粘液だ。ぼんやりと明滅するそれはゆらゆらと水面を揺らめかせて、底に潜む何者かの存在を主張している。

 そしてプールを覗き込むダロムの掌には、一枚の布。丁寧に折り畳まれたそれを開けば、中に包まれていたものが顕わになる。
 それは宝玉だった。翡翠色に輝く、しかし宝石と言うにはあまりに怪しい光沢を放つ、一個の真球。
 暗黒結社ゴルゴムの至宝、キングストーン――かつて世紀王シャドームーンに与えられ、紆余曲折の果てにゴルゴムの元へと戻った、『月の石』。

「さあ、これを貴様に預けてやろう――貴様に扱う事は出来んだろうが、なに、今の貴様ならば、少しくらいのお零れで充分であろうよ」

 言って、ダロムはキングストーンをプールの中へと沈めた。
 秘石の中には膨大なエネルギーが詰まっている。いっそキングストーンそのものがエネルギーの塊と言って良いが、しかしそれを扱う事が出来るのは世紀王、そして創世王としてその身を造り変えられた者だけだ。
 只の人間には単なる宝玉と変わりなく、プールの底に潜む何者かであっても、それは変わらない。

 だが水底の“彼”は、只の人間とは一線を画する生命だ。既存の生命体全てを超越する為に作り出された存在だ。扱う事は出来ずとも、漏れて染み出す僅かな力を得るだけならば、決して不可能ではない。
 さながら舌の上で飴玉を舐め溶かすが如く、“彼”はキングストーンから滲み出る力を取り込んでいく。繋ぎ合わせた身体に力を通わせていく。思考が明確になり、意識が昂揚していく。
 さあ――復活の時だ。

〖あははっ! あはははははははははははははははは!〗

 澄んだボーイソプラノの笑い声が、暗黒結社ゴルゴムの根城たる暗闇の底で朗々と響き渡る。
 同時にごぼりとプールの水面が隆起し、間欠泉よろしく一気に噴き上がった。飛沫はプールの傍らに佇むダロムにまで容赦なく降りかかり、しかしダロムはそれを避けようともしない。
 朽ちた白木を思わせるダロムの顔には、明らかに喜悦と見て取れる表情が浮かんでおり――その視線はプールの底から浮上してきた“それ”に釘付けだった。

 子供の上半身を埋め込んだ円盤……あえて言葉で表すならば、そういった表現しか出来ないだろう。子供と言っても、容貌は人間のそれとは明らかに異なっている。真紅に染まった眼球と緑色の膚。ことに肌は内臓の様に血管が浮いてぬめ光り、ただ異様というだけでなく、見る者に生理的な嫌悪感を抱かせる。
 ただ、その姿も長くは続かなかった。円盤は液体金属の如く溶解し、球体状に変化したかと思うと、プールの傍らへと流れ落ちて、そこで更なる異形へと変化する。

 生物のような機械のような、ぬめりと金属の光沢を併せ持った皮膚。
 蟲のような獣のような、無機質でありながら獰猛な印象を与える面貌。

 先の姿が嫌悪感を抱かせるものであるのなら、今の姿は恐怖の具現だった。人間が本能的に恐れる“怪物”の概念が、形を伴って現出するに等しかった。
 ぎしりと怪物は首を巡らせて、周囲を睥睨し――澄んだボーイソプラノの声で、ダロムへと問い質す。

〖おなかすいた。ねえ、ごはんはないの?〗
「ふはは。食わせてやろう、好きなだけな。貴様の空腹、存分に満たしてやるぞ――のう、ドラスよ」

 大神官ダロムの言葉に、嬉しそうに二、三度頷いて。
 付いて来いとばかりに踵を返して歩き出すダロムの背を追い、ネオ生命体ドラスもまた、餌場へと向けて歩き出した。



 フォッグ・マザーの襲来。
 暗黒結社ゴルゴムの再動。
 ネオ生命体ドラスの復活。

 ミッドチルダを襲う未曾有の危機。その中核を為す要素が全て出揃った事を、この時点ではまだ、誰も知らない――。





◆      ◆





第拾漆話/了





◆      ◆







後書き:

 という訳で、第拾漆話でした。お付き合いありがとうございました。

 本作でやりたいと思っている展開は幾つかあるんですが、今話からの展開は本作書き始めた頃からやろうやろうと思っていたネタでして。こう言うとアレですが、ここまでの話は今話以降の前振りです。こっから本番入ります。
 ……前振りに二年かかっちゃったのは、本当に誤算でしたけどw

 本作読んでくださってるのはコアな仮面ライダーファンでしょうから、今更説明するまでもないんですけど。今話から登場のフォッグ・マザー、『仮面ライダーJ』に出てきた敵です。
 ドラスと違ってディケイドに出てこないから(配下の怪人は出ましたけど)、相当マイナーな敵かも。真・仮面ライダーの敵ほどじゃないでしょうが。
 ちなみに作中でユーノが言ってるのは、仮面ライダーJの小説版からの設定です(『滅びた次元世界の~』というくだりは本作のこじつけですが)。ただし作者が小説持ってないので、HERO SAGAに転載された部分からの引用です。
 ただしこれもユーノが言った通り、原作に出てきたフォッグ・マザーと、本作のフォッグ・マザーは別個体という扱いです。さすがにドラスに続いて『実は死んでなかった!』は無理あるかなとw

 ゴルゴム、ドラス、フォッグ、クライシス帝国(真樹菜の発言だけですが)と、特定の時期に偏った敵ラインナップになってます。
 作者が天邪鬼なもので、『平成ライダーの敵は他の二次書いてる人が出してるよね』『昭和ライダーの敵は仮面ライダーSPIRITSで結構出てるよね』という感じで、その間の敵を引っ張り出してきたと。
 マイナーすぎて読者置き去りな面もあるんですが、どうぞご了承ください。

 それでは次回で。よろしければ、またお付き合いください。



[7903] 第拾捌話
Name: 透水◆44d72913 ID:35af097c
Date: 2023/12/29 20:58

 目を覚ました瞬間、結城衛司の眼球は暴力的な単色に蹂躙された。

 睡眠の暗闇から浮上したばかりの彼が目にしたのは、自然界にはおよそ有り得ない純白の天井。突き刺すように刺々しい白に、思わず掌で顔を覆う。
 そうしてから上体を起こせば、白いのは天井ばかりではなく、この部屋全体がそうなのだと気付く。天井も、壁も、床も。距離感を見失いそうな白色空間の中央に、一つぽつんと置かれたキングサイズのベッド。……そして、そこに寝かされた自分。

 現実感に乏しい光景はむしろ夢の中より夢のようで、その只中に放置された自分を場違いな異物に感じさせる。純白の調和を乱す染み汚れ。誰に責められた訳でもないというのに、酷く居心地が悪い。

「何で……なんなんだ、ここ――あ痛っ!?」

 胡乱な思考のまま周囲を見回して、混乱が思わず口をついたその時、ずきりと鋭い痛みが衛司の脳髄を刺した。

「~~~っ、痛ってぇ……そうだ、確か、プリキュアがどうとか……」

 思い出したくもない記憶が、頭蓋を苛む疼痛によって引きずり出される。
 S.A.U.Lミッドチルダ支部に囚われていた衛司の前に現れた、奇怪な風貌の三人組。良く解らない(解った時点で何か大切なものを失う気がする)名乗りを上げた彼等のうち、言いようのない既視感を覚えさせる巨漢――確か、キュアマッスルとか名乗っていたか――が前へと踏み出して、衛司へと歩み寄ってきた。
 巨漢の手にはハートを模した、それこそ女児向けの玩具を思わせる短い杖が握られている。衛司の眼前にまで歩み寄った巨漢は、それを高々と掲げ上げて――

『……あの?』
『ごめんねぇ衛司ちゃん。ちょぉっと痛いわよう――プリキュア! ハートフル・頭蓋クラッシュ!!
『ぎゃうっ!?』

 ――容赦なく、振り下ろした。
 躱す事など出来ようはずもなく、凄まじいばかりの衝撃が衛司の頭に叩き付けられ、のみならずその勢いで顔面が床に正面衝突。最早痛いなどというレベルではなかった。衛司の意識は一瞬で刈り取られた。
 そうして気付けばこの状況。あのオカマ達に運び込まれたのだと考えて間違いあるまい。これまで幾度と無く拉致略取の憂き目に遭ってきた衛司であるが、ここまで暴力的に拐された憶えはかつてない。
 あとハートフルなのに頭蓋クラッシュって何だ。脳天かち割りじゃないか。

「くそ、思い出した……何がプリキュアだ、あのオカマ――」
「呼んだ?」

 不意に横合いから飛んできた野太い声が、ぞくりと衛司の肌を粟立たせた。
 嫌な汗が頬を伝う。反して喉からは水分が失われてからからに。何かの間違いであってくれと祈りながら横を振り向けば、果たして祈りは痛烈に裏切られた。

「はぁい」
「……………………っ!」



 すぐ横に、オカマが寝転がっていた。



いぃやぎゃぁあああああああっ!?

 オカマとは初対面ではない。いつぞや、そう、ギンガと共に機動六課に向かう最中で会った相手だと、思考の片隅で理解する。
 だが何故、そのオカマと同衾している? いつから此処に居た? そういやぱんつ一丁にされてるけどまさか寝ている間に何かされたのか?

 諸々の思考に意識を攪拌され、その中で唯一出来る事と言えば、悲鳴を上げて後ずさるだけ――しかしキングサイズのベッドと言えど広さは無限ではない、当然のように衛司はベッドから転がり落ちて、痛む頭を再度床に打ち付ける事になった。
 悶絶出来れば楽だっただろう。だが彼にはそんな余裕すら許されなかった。ベッドから落ちた彼は、そこに更なるおぞましい何かを見出したのだ。

「うふふふふふふふふふ。やあこんにちははじめましてお久しぶりですさようなら。さあ一緒にムーンライト伝説を作ろうよハートが万華鏡でミラクルロマンスだようふふふふふふふふふ」

 ずるり、とベッドの下から這い出してくる一人の男。都市伝説の斧男さながらに現れた彼が、逃げようとする衛司の足首を掴んで引きずり寄せる。骨と皮しか無いような痩せぎすの身体からは想像も出来ない握力と膂力。衛司も割と死に物狂いで逃げようとしているのだが、まるで振り解けない。
 オカマと同様、この男もどこかで会った憶えがあるのだが、今はただ嫌悪と恐怖が先に立ってそれどころではなかった。

「放せ! 放せー! はーなーせー!
「うふふふふふふふふふふ」

 本気で顔を蹴ってもまるで堪えない。痛覚とか麻痺してるのかもしれない。

「っの――放せって、言ってるだろ!」

 ざわり、と衛司の面貌に浮かび上がる紋様。そして次の瞬間、少年の体躯は空間が沸騰するかのようなエフェクトに包まれ、異形の雀蜂へと変貌する。
 足首を掴む手を振り払って、雀蜂は大きく飛び退いた。その手には既に騎兵槍が握られ、威嚇するかのように切っ先を突き出している。

 オルフェノクとしての戦闘形態を取った少年に、男と、そしてオカマもまた呼応して変化した。男は蝿の意匠を、オカマはゴキブリの意匠をそれぞれ備えたオルフェノクへと。
 彼等もまたオルフェノクであったと知り、雀蜂は僅かに身を強張らせたが――瞬時により警戒を増して、眼前の敵を睨み据えた。

「まったく、何をしているネ、お前タチ。――とりあえず、“動くな”

 一触即発の空気に投げ込まれる爆薬。ただしこの場合、爆薬は周囲の空気を吹き飛ばし、燃焼に必要なだけの酸素を奪うものとして機能した。
 呆れたような口調と共に呟かれた言葉。不思議なほど明朗に通るその声が三匹の蟲の耳朶を打ち、彼等の動きから随意を奪い取る。
 ただ人間よりも遥かに広い視界を有する雀蜂の複眼構造は、身動きの取れない状態にあっても、部屋の片隅に佇む何者かの姿を見て取った。翠緑のチャイナドレスを纏った、金髪の白人女性。オカマと男の顔にはどこか見覚えがあったものの、彼女にはそれがなく、初対面である事はすぐに知れた。

〖…………っ!? な、何だよ、これ……!?〗
「あーあーあーあー、別に気にしなくても良いネ。大人しくして貰うだけヨ。喧嘩とか殺し合いとか、正直困るアル――今のお前じゃどうせ勝てないヨ、結城衛司」

 客観的な事実ではあるのだろうが、言い方のせいか声音のせいか、酷く侮辱的に聞こえる台詞を口にしながら女は近付いてくる。雀蜂の手から得物を取り上げ、それをぽいと放り投げれば、がつっ、と硬い音を立てて騎兵槍は床に突き立った。
 得物を奪われても、衛司には何の抵抗も出来ない。女の術は生物の脳髄に作用する、オルフェノクとて生物である以上それは覆せず、せめて目一杯の敵意を込めて睨みつけるのが精々だった。
 しかし衛司の視線を、女は涼風の如く受け流して――軽く顎をしゃくって、壁の一角に注意を向けるよう促した。

〖…………?〗

 女の意図を掴めないまま、衛司は促される通りに壁の一角へと視線を転じ。
 そして次の瞬間、純白に染まった壁が矩形にくり抜かれる。恐らくはそこが、この部屋に出入りする為の扉なのだろう。壁と扉との間にあるはずの境がまるで判らなかったせいか、壁が突然消失したかのように感じられた。

「ああ。目が覚めたのね、衛司」

 廊下には照明の類がないのか、扉の向こうは黒々とした闇が続いている。その闇から届く声と、それが紡いだ己の名を耳にした瞬間、遂に結城衛司の思考は許容外の驚愕によって飽和した。
 かつん――高いヒールの音と共に、声の主が室内へと踏み入ってくる。
 廊下の薄闇に溶暗していたシルエットが、純白で染め上げられた室内に入り込む事で形を為す。
 衛司は声を失った。瞬きを忘れた。此処が何処であるのかを失念し、自分が人間でない事も忘却した。

 脛裏にまで届こうかという、長い長い黒髪。――二年前よりも更に長く、美しくなっている。
 陶磁器を思わせる、透き通る様な白磁の肌。――二年前よりも艶を増して、しかし女性らしい柔らかさを備えている。
 日本人形の如くに薄い肉付きの、細くたおやかな身体。――二年前よりも幾らか背は伸びたが、胸回りのボリュームはまったく増えていない。

 何もかもが二年前のままで、何もかもが二年間の年月に変化を見せている。
 既視感と違和感の二律背反。ぐちゃぐちゃに掻き混ぜられる思考は、目の前の光景が現実なのか、それとも曖昧な幻なのか、それすらも判断出来ないほどに機能を低下させている。

〖なんで――死んだ、はずじゃ〗

 搾り出すように呟いたその言葉を、“彼女”は悠然とした微笑で否定する。

「死んだはず、ね……そう。その通り。けれどそれはお前も同じでしょう? 死んだ癖に、殺された癖に、当然のような顔をしてこの世を歩き回っている。そんなお前が、どうして私の生存を否定出来るの?」
〖…………っ。じゃあ――姉さんも〗

 その先は問うまでもなかった。自分と同じ事が“彼女”にも起こったのだと、何故最初からその可能性に思い至らなかったのか、衛司自身にも不思議に思えた。
“彼女”はくすりと笑って、衛司達と同様に、人外の本性……毒蛾の姿を顕わにする。チャイナドレスの女もまた人間の姿を止め、蝉の姿に立ち戻った。室内には最早人間の姿をした者は誰一人居らず、五匹の怪物が顔を突きあわせる異様な光景が、そこに顕現していた。
 毒蛾が雀蜂に歩み寄る。その頬を優しく撫で、静かな声音で、彼女は弟へと呼びかけた。

〖久しぶりね、衛司。また会えて、嬉しいわ〗

 モスオルフェノク――結城真樹菜の言葉に嘘はない。
 理屈ではなく、論理でもなく、ただの直感。姉弟の血縁に由来するその直感で、結城衛司は理解した。





◆      ◆





異形の花々/第拾捌話





◆      ◆







「いいですか、衛司くん。衛司くんの立場からすると、管理局のわたし達と迂闊に顔を合わせられないというのは解ります。衛司くんは優しいから、六課に来たら皆に迷惑がかかるとも考えたんでしょう? けどそれならそれで、電話の一つ、手紙の一つもくれても良かったんじゃありませんか? この二週間、六課の皆がどれだけ心配したと思ってるんですか。それに、その、わ、わたしだって別に気にならなかった訳じゃないんですよ? ……聞いてますか?」

 二週間前の姉との再会が予想外であったのなら、今日の再会はある意味想定内。
 オルフェノクは総じて正体不明の怪物として認知されているが、その中で結城衛司はほぼ唯一、管理局に身元と面が割れている。当然ながらミッドの街中をほいほいとうろつく事も出来ず、スマートブレインの用意した隠れ家に篭もりながら、衛司はこの二週間を過ごしていた。
 外出と言えば家とスマートブレイン本社を往復するだけ。時には一歩も外へ出ない日すらある、軟禁と言っても遜色ない日々。しかし考えてみればそれは六課に居た頃と大差なく、元より衛司には文句を言う口も無かった。オルフェノクの自分が人前に出れば余計な諍いを生むと、自嘲とは全く別の次元で、そう弁えていたからだ。

 故にこの日、ミッドに落下した機械獣母艦フォッグ・マザーの動向を探るべく偵察に赴いた際も、管理局と何がしかの悶着が起こるものと、彼は予想していた。
 果たして到着した現地では暗黒結社ゴルゴムを名乗る者達と管理局との戦闘が勃発しており、咄嗟に劣勢の管理局に組した衛司は、そのまま彼等を護衛する形で撤退を援護。想定とはやや異なる形ではあるものの、予想通りにややこしい事態に巻き込まれる事となった。

 問題は撤退を終えた後。衛司が咄嗟に助けた部隊の隊長から――何故か彼は、衛司に面識がある様子だったが――近隣で安否不明となった部隊の救援を依頼されたのだ。
 モルモット扱いされた身としては、管理局にあまり快い感情を抱く事も出来なかったのだが、散々世話になった機動六課もまた管理局の一部隊であり、加えてこの偵察任務に同行する“もう一人”に対してスマートブレインが何をしたのかを考えれば、依頼を無下に断る事も出来なかった。

 そうして近隣部隊の救援を行い、集結地点へと戻ってみれば、そこには懐かしき機動六課の面々が待っていた。
 これだけの事態、機動六課が出て来る事は容易に予想出来たのだが、再会のタイミングは想定していた中でおよそ最悪のものだった。

「失敗したなあ……あの時にさっさと帰ってりゃ良かった……」
「何か言いましたか?」

 じろりと睨みつけるギンガの視線が恐ろしい。
 元よりギンガに頭の上がらぬ衛司であったが、先日の大喧嘩に加え、勝手に彼女の前から姿を消した疚しさのせいか、どうにも逆らえない。とは言えそれに不快感を覚えている訳でもなく、むしろ六課に居た頃の日々が少年の脳裏に去来して、彼の頬を僅かに緩ませる。

「んなケンケン言わなくてもいいじゃねえか、ギンガ。坊主だって反省してんだから。な?」
「お父さんは黙っててください。ちゃんと言わないと、衛司くんは解んないんです」
「……おーう。…………まったくよ。坊主のお母んか、お前は」

 助け舟はあっさりと撃沈された。
 ぶつぶつと愚痴を零しながらゲンヤは離れていく。……先に顔を合わせた際、ゲンヤが衛司に見覚えがある様子だったのは、ギンガからの繋がりで顔を見知っていたという事らしい。勿論衛司の方にゲンヤとの面識はなく、偶々助けた陸士部隊がギンガの古巣で、部隊長がギンガの父親というのは、些か出来すぎな偶然のようにも思える。
 ゲンヤの独り言を聞き咎め、「誰がお母さんですか誰が」と詰め寄ってギンガもまた離れていくが、それと入れ替わるように近付いてきたスバルとティアナが、ぽんと衛司の肩を叩く。

「でも駄目だよ? 衛司くん。ちゃんとギン姉に謝んないとさ。ギン姉、けっこう気にしてたんだから」
「……はい。それは、勿論」

 めっ、とでも言いたげに指を一本立てて糾すスバルに、衛司は複雑な表情で頷いた。 
 客観的に見れば、衛司の行動は人間を見限り、同胞たる怪物の側へ走ったものと言って良い。その少年をずっと気にかけ、身を案じていたギンガのお人好しに呆れる気持ちもある。だがそれでも、誰かから向けられる心の動きは嬉しいもので、スバルの言葉を余計なお世話と突っぱねる事は、衛司には出来なかった。
 そも、衛司が他人の善良を愚かと哂える男であったのなら――他人の善良に息苦しさこそ覚えるものの――彼女達との関係などとうの昔に破綻していただろう。

「でも、ま、元気そうで安心したわ。六課に居た頃より顔色も良いし。まともな生活してたみたいね」
「まとも……なのかな。引きこもりみたいな暮らしでしたけど」
「六課に居たって似たようなもんだったでしょ」
「言われてみれば、確かに」

 ティアナの言にそう頷いてみるものの、六課隊舎から外出しないとは言え雑用に明け暮れていたあの頃と、日がな一日部屋に閉じこもって資料を読み漁る現在とを一緒には出来まい。
 ただ、その差異を一々説明したところで意味もない――逆に、『今は何をしているのか?』という質問を招きかねない。少なくとも今はあまり立ち入った事を訊かれたくはない、答える事も出来ないのだ。藪を突かないよう、言動には注意を払っていた。

「ねー衛司くん。今までどこで何やってたの? てか何しにここまで来たの?」
「ちょっとは遠慮しなさいよ、スバル。……でも確かに気になるわね。引きこもりって言ってたけど、あんた、どこに引きこもってたのよ? ミッドに伝手なんか無いでしょ? お金も無いだろうし、家買ったり借りたりなんて……」

 が。少年のそんな小賢しい目算など、あっさり台無しにされるのが世の常で。
 あっさりとスバルは中核を抉る質問を投げかけて、ティアナもまたそれに追従する。これが見ず知らずの初対面に対してであれば彼女達ももう少し慎重だったのだろうが、なまじ知り合いであるせいか遠慮が無い。
 気付けばいつの間にかエリオとキャロ、ついでにフリードまで近付いていて、興味津々といった風情で衛司に視線を向けている。

「えーと……それは、その、色い」
「まさか『色々と』なんて言って誤魔化さないわよね?」

 先回りされた。

「ちょっと、調べ物と……勉強です。すいません、これ以上は」
「あっそ。まあいいわ、どうせ答えてくれるとも思ってなかったし」

 肩を竦めて言うティアナに衛司が苦笑で応えたその時、「あ、すいません」と横合いから声をかけてくる者が居た。
 見ればそれは陸士108部隊の隊員で、ゲンヤを呼びに来たのだろうと(ちなみにゲンヤは未だギンガに何やら詰問されている)思いきや、彼は予想外の質問を衛司達に投げかけてきた。

「カルタス二尉、見かけませんでしたか?」
「カルタス二尉ですか? いえ、見てませんけど……ん?」

 問いに答えたスバルが、ふと気付いて首を傾げる。陸士108部隊所属、ラッド・カルタス二尉――彼は確か数ヶ月前、何者かによって拉致されたという話ではなかったか?
 それはスバルだけでなく他の三人にも共通の感想だったようで、皆が揃って怪訝な表情を浮かべている。彼がつい先程、謎のベルトを手に戻ってきた顛末をまだ彼女達は知らないのだから、無理もない反応と言えよう。

 だがその中でただ一人、結城衛司だけは別の反応を見せていた。
 何か、恐らくは彼にとってあまり歓迎出来ない事態が起こっていると知れる、苦い表情。その表情の真意を質されるよりも早く、彼は踵を返し、スバル達から離れていく。

「あ、衛司くん!? まだ話は――」
「すいません、ギンガさん。のんびりお喋りしてられなくなりました――ちょっと失礼します」

 立ち去ろうとする衛司に気付き、ギンガが駆け寄ってくるが、少年はそれを軽く手で制した。
 そして次の瞬間、衛司の姿が沸騰する水面が如きエフェクトに包まれたかと思うと、異形の雀蜂へと変化する。
 かつてあれだけ忌避していた正体の露見に、今の衛司はまるで躊躇しなかった。オルフェノクである事を名実共に受け入れ、心境の変化を終わらせた彼には、もう自らの異形を厭う気持ちなど微塵も無かった。
 むしろオルフェノクへの変異を目の当たりにしたギンガ達の方が、怪物の唐突な出現に身を強張らせた。

〖まだ近くにゴルゴムの連中が居るかもしれないんで、気をつけてくださいね〗

 べきべきごきごきと奇怪な音を立てて、雀蜂の外殻が変化していく。装甲は空気抵抗を和らげる流線形へ、背部には昆虫の如き翅が形成される。
 ホーネットオルフェノク飛翔態。空中・高機動戦闘へ特化した、ホーネットオルフェノクの第二形態である。
 ギンガ達へ注意を促す言葉を言い置いて、衛司はだんと地面を蹴った。同時に羽音を撒き散らし振動する翅が、彼の身体を中空へと押し上げる。天高く舞い上がった雀蜂は、瞬時に弾丸の如く加速して、ギンガ達の視界から消え去っていった。





◆      ◆







 デルタギア――スマートブレインによって造り出された三本のベルト、ライダーズギアの中でも最初期に開発されたそれは、後発のものには受け継がれなかった特徴的な機能を幾つか有している。
 その一つが、起動状態のスーツ胸部に配される闘争本能活性化装置『デモンズ・スレート』。これによって発生する電気信号デモンズ・イデアは着装者の脳髄に作用、ガンマ脳波の周波数を強制的に引き上げる。
 結果、起こるのは人格の豹変だ。元より人間の脳は精密なバランスで成り立っている、これに干渉すれば歪みが出るのは自明の理。デルタギアを使った者はデモンズ・イデアに脳髄を蝕まれ、好戦的な性格とデルタギアへの執着を植え付けられる。

 例外があるとすれば、それは着装者が人外である場合。オルフェノクの持つ“力”はデモンズ・イデアを跳ね除ける。デルタギアを純粋に戦力として運用する事が出来る。
 しかし力持たぬ只の人間にそれは望むべくもなく、一度でも使えば、そして使えば使うほど、悪魔の囁きに身体を乗っ取られていく。
 少なくとも。ラッド・カルタスは只の人間であり、例外の範疇に居る者ではなかった。

「ぐ――ぬ、ぐぅっ……!」

 がづん、と頭を大木の幹に打ち付ける。額が切れ、じわりと滲んだ血が雫となって顔を伝い落ちる。
 ゴルゴムの襲撃から逃れた陸士部隊が集結する、フォッグ落着地点からやや離れた工事現場。そこから更に百メートルほど離れた山中、獣道すらない深い森の中に、ラッドの姿はあった。

 目の下にくっきりと刻まれた隈。げっそりとこけた頬。髭も当たらず髪も整えぬその風体は、いっそ浮浪者のそれと比しても尚、うらぶれた印象が否めない。だがそれも無理からぬ事だろう。今のラッドには、身形に頓着する余裕など欠片も無いのだから。
 頭の中でがなり立てる声がある。胸の内から湧き上がってくる衝動がある。それを押さえ込むのに精一杯、気付け代わりに頭を樹木に打ちつけてみても、衝動はまるで薄れはしない。

 デルタを使え。
 デルタで戦え。
 暴虐の快楽を今一度貪れ。
 鏖殺の悦楽にその身を浸せ。 

「……黙れ……!」

 ラッド・カルタスには矜持がある。時空管理局の一員である矜持、そして組織の一員として負った、人々を守り社会を護る役目への矜持。
 得体の知れないベルトを使い、快楽と悦楽を得る為の戦いなどは、その矜持に真っ向から反するものだ。断じて屈する事は出来ない。

 ただ快楽も悦楽も、また一方で彼の真実だ。デモンズ・イデアはラッドの中にあるそれを増幅させているに過ぎない。ラッド・カルタスという男が持つある種の鬱屈こそが、込み上げる衝動の根源でもある。
 元よりラッドに魔導師としての資質は無い。犯罪者と相対する職業だ、相応に鍛錬を積んではいるものの、戦闘は彼の役割では無い。だがそれを心底から是と出来ないのが、ラッドという男でもあった。
 戦いは戦える者に任せれば良い。自分には自分にしか出来ない事を。そう理解して、後輩や新人にもそう促すものの、己より若い者――特に彼の属する部隊に、まだ十代の少女が居た事も大きい――を矢面に立たせて何も感じないほど、彼は己の職分を完全に割り切ってはいなかった。

 そこに、デモンズ・イデアが付け入った。
 デルタギアを使えば戦える。荒事に及んで誰かの背に隠れるような、無様な真似をしなくて済む。なるほど確かにそれは魅力的で、故に今のラッドは衝動を押し殺す事は出来ても、衝動を駆逐する事が出来ない。

「それでも……俺は……!」

 ラッドの指先で爆ぜる紅い火花。彼の体内に残留するデルタの力は、紅の電撃となって掴んだ樹木を焼き裂いていく。
 焦げ爆ぜた樹皮を荒々しい手つきで毟り取って投げ捨てた、その時。

「! 誰だ……!」

 不意にがさりと藪が鳴り、反射的に振り向いたラッドが恫喝のように誰何を放つ。
 果たして現れたのは、一人の少年だった。黒髪黒目、端整ではあるがどこか平凡な顔立ち。良く見知ったと言うほどの仲ではないが、その顔を忘れない程度には面識のある相手――彼と共にこの地へ赴いたのだから、忘れようはずもない。
 そして少年の姿を目にした瞬間、ラッドの中で何かが崩れた。必死に押さえ込んでいた暴力衝動が、堤防を破る濁流が如くに溢れ出て、彼の思考を占拠した。
 だがそれは、快楽と悦楽ではなく、憎悪の色に染まりきったものだった。

「……あ、が、ぅあ」
「カルタスさん――」
「ぐぅ――ぅうぁあああああっ!」

 ラッド・カルタスを拉致し、実験動物の如く扱い、彼に暴力衝動を植え付けた者達。少年自身はラッドが受けた仕打ちに殆ど関与していないものの、しかし少年が“彼等”の側に立つ以上、憎悪の矛先を向ける相手としては充分過ぎる。

 少年へと飛び掛り、その頬を殴りつける。魔導師の資質を持たないとは言え屈強な男の打拳は矮躯の少年を軽々と吹き飛ばし、地面に叩き付けた。
 躱そうとも防ごうともせず、ただ無防備に殴打を受けた少年は、それでも無抵抗という訳ではなかった。口の中を切ったのか、べっ、と血唾を吐き捨てながら立ち上がり、ラッドを睨みつける。殴り返す訳でもなく、道理を諭す訳でもなく、ラッドにとっては酷く目障りな視線で糺す事だけが、少年の抵抗。
 続けざまに頬を拳に打ち据えられても、少年はラッドから目を逸らそうとしない。殴られても殴られても、一歩も退かず睨みつける少年の瞳が、一層ラッドを刺激する。

「デルタ……を、寄越せ……! デルタを!」

 少年の胸倉を掴み上げ、遂にラッドは、押し殺していた衝動を口から迸らせていた。
 先刻の戦闘が終わった時点で、ラッドは少年にデルタギアを取り上げられていた。この場におけるデルタギア、そしてもう一つのライダーズギアの所持権が少年にある以上、それは当然の事。
 だが今、憎悪の念によって暴力衝動が溢れ出したラッドには、最早前後の見境も無い。確かなのは自身の手にデルタギアが無いという事実だけ。そして目の前の少年は自分からデルタギアを奪った相手で、デルタの力で報復すべき者達の仲間で――

「っ!」

 鼻面に拳を叩き込まれ、噴出する鼻血で顔面を真っ赤に染めた少年が、その時ぐいと顔を突き出してラッドの額に己の額を叩き付けた。
 炯と輝く黒瞳の眼光。語る言葉など持たぬとばかりに、零距離の視線が少年の意思を代弁する。
 デルタギアは渡さない。
 今の貴方には、渡さない――

「…………っ、く――ぐぅうっ!」

 投げ捨てるように少年の胸倉から手を離し、その場に蹲って、がづんと地面を殴りつける。胸中の憎悪を拳に乗せて地面へと放出する。
 肺の中の空気を総て入れ替えるような、深い深い深呼吸。一呼吸ごとに頭が冷え、憎悪によって真っ黒に染まった思考が本来の色を取り戻していく。

「……すみません、カルタスさん。やっぱり――貴方を、連れてくるべきじゃなかった」

 ラッドの思考が常時の冷静さを取り戻したその時、漸く少年は口を開いた。
 流れ出る鼻血を拭いながら、少年が最初に口にしたのは、謝罪の言葉。ラッド・カルタスを狂わせた実験に対してではなく、彼をこの場に連れてきた事に対して、少年は頭を下げた。

「少し考えれば、判った筈なんだ……デルタギアを使う事になるって。折角、デルタの禁断症状も抜けてきたところだったのに――」
「いや。それは違う、衛司くん。此処へ連れて行けと言ったのは俺自身だ。君が謝る事じゃない。……それに、君がいなければ俺はまだ実験動物のままだった。感謝する筋はあっても、謝られる筋はないさ」

 そう。今のラッドはもう、実験動物ではない。
 一週間ほど前。連日続けられていた人体実験が、突如として中止された。詳細はラッド自身にも判っていないが、どうやら少年が何やら手を回して止めさせたらしい――誰に訊く事も出来ず、少年が曖昧に語ったところからの推察であるが。
 ラッキークローバーと呼ばれる組織の幹部。少年はその中の一人で、彼の権限を使えば、実験体の解放など造作も無いのだろう。

 いずれデルタの力が身体から抜け切ったところで――脳髄を蝕むデモンズ・イデアの影響が消え去ったところで――元の生活に戻すと少年は請け負った。
 ただし拉致されて以降の記憶は消去させて貰うと言うあたり、やはり少年は“組織側”の立場なのだと知れたが、少なくとも彼が非道な実験を是としないだけの良心を持ち合わせている事だけは、ラッドにも充分理解出来た。
 心を許せる相手ではなく、かと言って単純に憎める相手でもない。少年に抱く複雑な感情を、一言で言い表すのは難しい。

「デルタの力があったから、俺は部隊長達を助けられた。それも事実だ。……謝るのは俺の方さ。乱暴なことをして、悪かった」

 ラッドの言葉に、少年はそれでも何かを言いたそうに口篭ったが、結局何も言わず、ただ静かに頷いた。

「それで――これから、どうする? まだ帰る気は無いんだろう?」
「え、あ、ええっと。まあ、フォッグの調査とかぜんぜん出来てないっすからね。人助けばっかりしてて……別に人助けは悪い事じゃないんすけど」

 そも、彼等が此処を訪れたのは、機械獣母艦フォッグ・マザーの調査を行う為である。当初の目的は一向に果たせず、飛び入りの人命救助に明け暮れていたのだが、さすがにこの辺りが本筋に戻る頃合だろう。
 管理局陸士部隊に与えられた任務は、あくまでフォッグの監視。監視と言えば聞こえは良いが、実際のところ、それはただ遠巻きに眺めていれば良いという程度の、重要性が低い任務である。上層部がフォッグへの対処を決定するまでの間、何もせず放置していた訳ではないと釈明する為の、いわば面目を保つ為だけの任務と言っても良い。

 反して、少年の目的はより具体的に、先を見据えたものだった。フォッグ攻略の糸口を見つける為の偵察行動――字面が意味するところは曖昧だが、それは解釈の幅が広いという事でもあって、調査を名目にある程度の工作活動を許可されてもいる。
 ただ何をするにしろ、今の彼等はまだ何もしていない。何らかの行動を起こして目立った成果を得られないのならばともかく、さすがに何もしないで何も無かったと報告するのでは単なるサボタージュである。ラッドも少年も、そこまで面の皮は厚くなかった。

「とりあえず、サイドバッシャー呼び出して――うん?」

 ポケットから携帯電話を取り出し、リボルバー式のそれを展開したところで、ふと少年はそれに気付いた。
 僅かに遅れてラッドも気付く。いつの間にか周囲には白い霧が立ち篭め、五メートル先も見えない程に濃密なそれが視界を塞いでいる。
 近くに湖や沼も無く、ここ数日間は雲一つ無い快晴が続き空気は乾燥している。霧が発生する条件は何一つ揃っていない……にも関わらずの、この濃霧。異変の類であるのは明白だった。
 少年とラッドの表情が強張っていく。警戒が集中を促し、事態に即応するべく身構える。

「――後ろだッ!」
「!?」

 やおら声を張り上げたラッドに、少年が素早く振り向くも――それは一刹那間に合わず、彼の身体は突然の衝撃に軽々と吹き飛ばされ、宙を舞った挙句に近くの大樹へ背中から激突した。恐らくは最初の衝撃で既に意識を刈り取られていたのだろう、であるならば人間もオルフェノクも最早変わりなく、少年は受身も取らずに地面へ落下する。
 そして少年が立っていた場所には、一人の男が佇んでいた。口髭を蓄えた壮年の男。一見して温和な雰囲気を漂わせたその立ち姿は、しかし両の袖口から先に覗く、蜥蜴の如く鱗に覆われた巨大な拳によって印象を裏切っている。
 オルフェノクではない。ゴルゴムでもない。それでいて、全く別種の人外生命……“怪人”である事は、明白だった。

「何者だ、貴様っ!」

 問い質すラッドの言葉を涼風の如く受け流し、“蜥蜴男”はにやりと、嘲りを含んだ微笑を返してくる。
 その表情だけで、目の前の男を敵と判断するには充分だった。紅色の火花がラッドの闘争心に呼応して爆ぜ、と同時にラッドは“蜥蜴男”へと向けて飛び出した。
 魔法に適性のない彼ではあったが、だがデルタの力に犯される事で手に入れた放電能力は、対生物においては充分な効果を発揮しよう。
 が――紅雷が標的を穿つ、それよりも先に。

「う――お、おおっ!?」

 “蜥蜴男”へ向けて飛び掛ったラッドを襲う、奇妙な浮遊感。それは感覚だけの事ではなく、事実として彼は宙を舞っている。
 浮遊感の正体はすぐに知れた。濃霧の中から飛び出してきた一人の女が、攻撃行動に入ったラッドを横合いから掻っ攫って飛翔したのだ。“蜥蜴男”だけに注意を取られていたが故の失態。その代償を、彼はすぐさま取り立てられる。

 飛翔するとは言っても太い樹木が密生する森の中、すぐにラッドの身体は一本の木に叩きつけられる。加速の限りに激突させられた衝撃は甚大なものだった。骨が軋み血流が逆流する、内臓の中の空気が根こそぎに搾り出される。
 一方の女は獲物が樹木に激突した時点で手を離しており、優雅な機動で反転して、“蜥蜴男”の傍らへ舞い降りた。

「ぐ、ぐぅ……っ!」

 歯を食い縛って激痛に耐えるラッドだったが、喉の奥からせり上がってくる鉄錆味の液体は、歯の間を染み出るようにして地面へと滴り落ちる。
 強烈な衝撃が内臓をも負傷させたのだと理解した時には、“蜥蜴男”は彼のすぐ近くにまで歩み寄っていた。鱗に覆われた、人間の拳の五倍はあろうかという蜥蜴の拳を高々と掲げ、そして振り下ろす。
 更なる衝撃に後ろ首を打ち据えられ、ラッド・カルタスの意識は電源を切られたTV画面の如く、ぶつりと暗転した。





◆      ◆







〖ガライ――我が王子ガライよ〗
「ここに居ります、マザー」

 赤黒くぬめくり、脈動し蠕動する壁。遠吠えの如くこだまする鼓動音。そこかしこから噴出する蒸気。
 此処こそは機械獣母艦フォッグ・マザーの胎内。巨艦の中枢に位置する大空洞。
 生物の体内……胎内を思わせる情景に涼やかな声が響き、それに応える声がある。歩み出るのは白い詰襟を纏った一人の男。総身から漂わせる剣呑にして剽悍な雰囲気は、どこか毒蛇を思わせる。

〖ガライよ。生贄はまだ、届かないのですか?〗
「申し訳ありません、マザー。ただいま、アギトとズーが探索に出向いております。いま暫くのご猶予を」

 ガライと呼ばれた男が傅く先には、壁と一体化した奇怪なオブジェ。空洞内に響く声はオブジェの上部、人の顔を模した――しかし人面と称するにはあまりに禍々しい――レリーフから発されている。
 フォッグは組織ではない。フォッグ・マザーという“母”から生まれた血族のコミュニティだ。その絆は何よりも強く堅く、母が何を求め何を言いたいのかを、僅かな遣り取りだけで過たず理解する事が出来る。

〖急ぎなさい。祈りの儀も終わった今、大孵化はもう目前。余計な邪魔が入る前に、生贄を我が身に捧げるのです〗
「お言葉ですがマザー。この星の人間など所詮は脆きイキモノ、何を恐れる事がありましょう。既にガライとズーがこの星の人間と接触したものの、容易く蹴散らしたとの報せを受けております。どうぞお心安らかに、二人の帰りをお待ち下さい」

 ガライの言葉は、決して過信からの大言壮語ではない。冷静に彼我の戦力を推し量れば、人類がフォッグに勝てる道理など有りはしないのだ。
 それでもマザーの表情は晴れない。フォッグの仔としてガライは数百年の時を生きているが、仔より親が長く歳月を重ねているのは生物の定めであって、ガライとマザーもまた例外ではない。若輩のガライには判らぬ不安を感じる事もあるのだろう。

「解りました、マザー。この私も参りましょう――生贄を捕らえるついでに、フォッグの周囲をうろつく鼠どもも駆逐してご覧に入れます」

 言って、男は立ち上がった。そのまま踵を返して立ち去る足取りには、一切の躊躇が無かった。
 王子と称される彼こそは、フォッグ最強の戦士である。その比類なき実力に裏打ちされた絶対の自信は、マザーの懸念する戦場へ赴くに及んでも、彼の足を鈍らせる事はない。

〖ガライ、アギト、ズー……忘れてはなりませんよ。慮外の事は起こるもの――脆き種族の中にも、我等をすら滅ぼす“毒”が潜んでいるやもしれません〗

 ガライが立ち去った後の大空洞に、マザーの声だけが朗々と響く。
 我が子の身を案ずるその言葉、その声音は、ヒトと相容れぬ異形の種族でありながら、母の情を窺わせるものだった――それが人族の感覚で理解出来るものであるかは、また別の話だが。





◆      ◆







 機動六課フォワード陣が陸士108部隊を中心とした陸士部隊の集結点に辿り着いたその頃、シグナムとフェイトはフォッグ周辺に展開する陸士部隊の救援に飛び回っていた。
 連絡の取れない陸士部隊はまずゴルゴムの襲撃に遭ったものと見て良いだろう。悪い予測というものは得てして的中するもので、なのはとヴィータのスターズ分隊と別れ行動していたシグナム達は、程なく戦闘が行われたと思しき現場を発見する。
 いや、戦闘と呼べるほどのものすら起こらなかったのだろう。起こったのは一方的な虐殺と破壊だ。累々と転がる屍、炎上する指揮車、薙ぎ倒された木々。ここでどれだけの暴虐が吹き荒れたのか、想像するのは難しくない。

「くっ……ゴルゴム共め……!」
「生存者は――」

 周囲を見回すフェイトだったが、生き残りを見逃すほど甘い相手でもないのだろう、ゴルゴムの攻撃は執拗を極めていて、生存者はおろか人間の形を留めたままの死体すら見当たらない有様である。
 一縷の望みすら断ち切られるまでにそう時間はかからず、沈鬱な表情を噛み殺して、二人は飛び立とうとするが――そこでシグナムが何かに気付いて、足を止める。

「どうかしましたか、シグナム?」
「いや……すまんテスタロッサ、少し待ってくれ。何か――」

 違和感と言うよりは既視感が、彼女を此処に留めさせる。
 思案顔で周囲を睥睨するシグナムを、フェイトは怪訝そうに見ていたが、相手の妨げとなってはなるまいという配慮か、口を挟む事はしなかった。果たしてそれが幸いしたのか、程なくシグナムはその場に蹲ると、掌で地面の土を掻き分け始める。
 ますます怪訝な顔を見せるフェイトを横目に、シグナムは何かを見つけたのか、仲間達の前でも滅多に見せないような厳しい顔で、一つ舌を打った。

「シグナム?」
「何という事を考えるのだ、ゴルゴム……!」

 さすがにここまでくれば、黙って見守るという訳にもいかない。フェイトがシグナムに駆け寄り、それを受けてシグナムも立ち上がる。
 彼女の掌には掻き分けた土砂が残っており、暫くそれに視線を落としていたが、やがて吐き捨てる様に呟いて、土くれを地面に投げ捨てた。

「土に呪的処理が施された血液が染み込んでいる……ゴルゴムが好んで使う、儀式魔法の手順の一つだ」
「儀式魔法……!?」
「ああ。ゴルゴムの使う魔法は科学技術の延長に近いミッド式やベルカ式とは違って、オカルト……呪術寄りの代物でな。生贄や呪法を儀式の一環として組み込んでくる――今回は、それに陸士部隊の者達を使ったのだろうな」

 そうして改めて周囲を見回してみれば、一部隊の被害にしては明らかに骸の数が多い。恐らくはどこか別の場所で殺した死体までをも運んできたのだろう。
 シグナム達ヴォルケンリッターは幾百年の記憶と経験を積み重ねているが、それでもゴルゴムに関する記憶は殆ど残されていない。失われたのか封じられたのかは定かではないが、恐らくはゴルゴムと関わった四百年前の結末が、彼女達から当時の記憶を奪ったのだ。

 にも関わらず眼前の惨状をゴルゴムの仕業と断定出来たのは、先日の本局におけるヴィータとゴルゴム三神官の遭遇が理由である。ゴルゴムの記憶は甦らぬものの、その脅威だけはおぼろげながら取り戻した彼女達は、無限書庫司書長の協力を得て、残存するゴルゴムの資料を片っ端から読み漁っていた。
 そう遠くない未来、自分達は必ずゴルゴムと接敵する。その予感は果たして的中し――しかし犠牲者が出る事を防げなかったのだから、それも無意味だったのか。
 いや。

「でも、まだ儀式魔法は完成してはいないんでしょう?」

 フェイトの問いに、シグナムは頷いた。ゴルゴムが何を目論んでいるのかは未だ不明で、この儀式魔法がどういった効果を発現させるものなのかも定かではないが、それがまだ起動していない事は確かだ。
 であるならば、シグナム達にも機はあるという事。暗黒結社の目論見を阻止するだけの猶予が、自分達には残されている……その事実は、虐殺の爪痕に萎えていた心を奮い立たせるには充分だった。

「呪術寄りとは言ったが、ゴルゴムの魔法はベルカ式のものと系統的には同じだ。魔法陣も三角形になる……ここが頂点の一つとするなら、あと二点、同じ様に“血の刻印”を穿つ必要がある」

 逆に言えば、それを阻む事が出来れば、ゴルゴムの計画は頓挫する。
 残る二つの刻印地点は不明だが、ゴルゴムの狙いが機械獣母艦フォッグ・マザーである事は既に判明している。ならばフォッグの落着点を中心に正三角形を描く魔法陣をイメージすれば、刻印地点も凡その想像はつく。

「なのは達に連絡を――手分けして、そのポイントを押さえないと」
「ああ、任せる」

 集中するかのように目を閉じて、フェイトは念話で別行動を取るなのはとヴィータへ呼びかける。通常通信が遮断されているのは陸士部隊の救援として出動した時点で判っていた。となれば当然、普段は使用頻度の低い念話通信の出番である。
 が、何か思わしくない事があったのか、目を閉じたフェイトの眉根が寄る。やがて目を開けたフェイトの顔は、予想外の事態が起こっていると知れる、困惑に満ちたものだった。

「どうした?」
「それが――念話が繋がらなくて」

 嫌な予感が、シグナムの胸中で一気に膨れ上がった。自身もまた念話でなのはとヴィータ、加えてロングアーチやフォワード陣にも呼びかけてみるが、どれ一つとして応答は無い。つい先程、十分ほど前までは、念話はごく自然に繋がっていたというのに。
 そも、念話とは魔法の一環であり、念波の波長や強度は個々人でかなりの差異が出る。通常通信のように妨害電波で通信阻害、とはいかないのが常識で、念話が通じない状況となれば高濃度のAMF状況下ぐらいしか有り得ない。
 だが念話以外の魔法が支障なく使えている時点でそれは有り得ないし、そも、AMF状況下であればシグナム達にもそれと判る。

 考えられる可能性は二つ。一つは念話を送った相手が、それに応える事が出来ない状態にあるという可能性。
 そしてもう一つ――可能性としてはこちらの方が遥かに高い。

「念話だけを狙って阻害出来る連中が、近くに居るという事か――」
「その通り」

 声が二人の耳朶を打ったのと、二人の総身を怖気が駆け抜けたのは、果たしてどちらが速かったか。
 咄嗟に振り向いたシグナムとフェイトが目にしたのは、樹間に翻る色褪せた白のローブ。亡霊さながらに揺らめくそれから覗く、朽ちた白木の如き肌の面貌は、彼を条理外の住人と判断させるに充分なもの。

「紅の鉄騎が現界しておるとなれば、貴様も当然という訳か。忌まわしき闇の書に縛られた戦騎どもよ。いや、今は管理局の狗に成り下がったという話だったか。――久しいな烈火の将。とは言え貴様も紅の鉄騎と同様、この面貌に見覚えは無いとぬかすだろうがな」

 朽肌の老人はフェイトの事など眼中に無いかのように、滔々と口上を垂れ流している。その非礼を糾す口は、生憎シグナムもフェイトも持ち合わせていなかった。老人が無差別に周囲へ発する威圧感に抗するだけで精一杯だったのだ。
 シグナムもフェイトも、これまで幾多の敵と相対してきた歴戦の魔導師であり騎士であるが、こと闘争に臨んで寒気を感じた事は、これが初めてだった。それこそ亡霊や物の怪を前にした時のような、言葉で表現する事の難しい戦慄が、彼女達の身体を縛り上げていた。

「貴様等もフォッグを狙って現れたという事か? だが残念だったな、遅きに失したぞ烈火の将。既に“刻印”はもう一点に打ち込まれた……残る一点の刻印が成立すれば、儀式魔法は発動する!」

 しかし老人の言葉が、計らずも二人の呪縛を解いた。老人の言葉が意味するところと、言外に示す事を悟れば、彼女達の意識は戦慄を一瞬のうちに追い払った。

「貴様、ゴルゴムの!」
「そうとも。今更ながら名乗るとしよう――我が名は大神官ダロム。創世王様に仕える暗黒神官の一人よ」

 声を荒げるシグナムにまるで動じる事も無く、朽肌の老人――大神官ダロムは悠然と応じた。

「貴方は――貴方達ゴルゴムは、何をするつもりですか!? 儀式魔法を使ってまで!」

 強い語調で問い質すフェイトを、今度はダロムも無視はしなかった。侮蔑の混じった視線を漸くフェイトにも向け、吠え立てる家畜へ言い放つような鷹揚さで、彼女の問いに答える。
 果たしてその回答は、フェイトの、そしてシグナムの予想を遥かに上回るものだった。

「この儀式魔法はそう小難しいものではない――貴様等の言う転移魔法と同義のものよ。ただし物体そのものを送る魔法ではなく、二点の空間を繋げる事で移動を行うものだがな」
「空間を、繋げる……?」
「然様。我等ゴルゴムの本拠たる暗黒空間……貴様等の言葉で言えば、虚数空間か。そこに繋がる“門”を開くのよ」

 一秒。
 およそ一秒もの間、シグナムとフェイトはその言葉の意味を理解出来なかった。それほどまでに、ダロムの言葉は予想を超えて途方も無いものだった。

「あ、貴方は……ミッドで次元断層を起こそうというんですか!?」

 虚数空間と通常空間を繋ぐ。転移魔法と同義、或いはその応用とは言うものの、実質的にそれは次元の境界を断ち切る事に等しい。
 単なる次元震であっても、それが起こった近隣の世界には地震や津波といった災害が発生する。ましてそれが次元断層、しかも通常空間で発生するとなれば、確実に惑星の重力と自転に影響を及ぼす。更には地軸が傾き、気象変動をも誘発するだろう。
 それが意味するところは、ミッドチルダの滅亡だ。

「然り。空間を捻り、歪ませ、破断させる事で虚数空間への門とする。虚数空間は我等の領域、そこにフォッグを落とせば、最早手に入れたも同然よ。ついでにミッドチルダが滅んでくれるというなら儲けたものよのう。人間どもは少しばかり増えすぎておる……ここらで少し間引いておけば、後々の面倒も減るというものだ」

 この時点で、最早問答は無用だった。次元災害を引き起こそうと目論む者に、これ以上語る舌も聞く耳も不要だった。
 ダロムの宣言を受けて、シグナムが、フェイトがそれぞれ得物を構え直す。次元より全次元世界において指名手配となっている男だ、世界を破滅させる悪巧みを抱えているというのなら、躊躇する余地などありはしない。

 だがダロムもまた、シグナム達の機先を制するかのように動きを見せた。ゆらりと腕を持ち上げたかと思うと、その袖口から何かが飛び出してくる。
 見ればそれは一個の金属球で、どの様な原理か液体金属を球状に整形しているらしく、ふよふよと不確かに表面を波打たせながら、シグナム達とダロムとの間に割り込んでくる。
 このタイミングで出すからには、この金属球にも何らかの意味がある。警戒に身を強張らせる二人の目の前で、果たして金属球は変化を開始した。

「! 貴様は!」

 どろりと融解して地面に滴り落ちた金属球は、明らかに球体時よりも多い体積を地面に広げたかと思うと、次の瞬間には更にそこから隆起して、一つのカタチを作り上げる。
 強いて既存の何かに喩えるならば、それは人間以外には有り得ない。だが人と呼ぶにはあまりに奇怪なその異形。人と同じ様に四肢を備え、二本の脚で直立しているというだけで、より正確にそれを表すのなら、『怪物』以外の言葉はない。
 そしてシグナムは、その怪物の姿に見覚えがあった。つい数ヶ月前に相対した時の戦慄を、彼女の身体はまだ忘れてはいなかった。

「まさか、ゴルゴムに拾われていたとはな――ばらばらにした程度では足りなかったか」
〖――うふふ〗

 笑い声はどこか童子染みた甲高さで、怪物然とした風貌に全くそぐっていない。だがそのミスマッチこそが却って見る者の恐怖を煽り、既に一度相対したシグナムでさえも、湧き上がる戦慄に身体が冷えていく。

〖ひさしぶり、おねえちゃん。また、ぼくとあそんでくれるの?〗

 いつぞやの掠れて濁ったぶつ切りとは違う、流暢な言葉遣い。それだけで今の怪物が万全であると判断するには充分だった。
 先日の勝利は、怪物の不調に付け入る事で辛うじてもぎ取ったもの。しかしそれですら、死と紙一重の領域にまで踏み込んで、漸く得られたものなのだ。
 万全となった怪物を相手に、未だリミッターによって魔力を抑制された自分達が太刀打ち出来るものか――シグナムの脳髄は冷徹に見立てを済ませていた。答えは“否”だ。
 だがそれでも、退く訳にはいかない。ゴルゴムの企みを叩き潰そうと思うなら、今、大幹部たる三神官が一人ダロムを目前に置いたこの時以上の機など有り得まい。

「テスタロッサ」
「はい。解ってます、シグナム。今しかありません」

 レヴァンテインが鞘から抜き払われる。
 バルディッシュ・アサルトがハーケンフォームへと変形する。
 得物をそれぞれに構え、シグナムとフェイトが僅かに身を沈ませた。突撃行動に入る直前の“溜め”、引き絞られる矢弓の如きその挙動。

「いくぞドラス! 二度と化けて出ぬよう、今度こそ念入りに引導を渡してやる!」
〖あははっ! うん、あそぼうよ、おねえちゃん! こんどはぼくが、おねえちゃんを――〗

 聞く耳を持たぬとばかりに、二人は飛び出した。
 撃ち放たれた鏃の如く、炎の魔剣と閃光の戦斧、二つの切っ先がネオ生命体ドラスへと迫る――





◆      ◆







 機動六課フォワード陣のフルバック・ポジションを預かるキャロ・ル・ルシエは、後衛の嗜みとしてある程度の治癒魔法を習得している。
 とは言え本職の医務官や治癒魔導師と比べればまだまだ発展途上の技能であって、今も六課医務官シャマルに師事してはいるものの、彼女の技量には遠く及ばない。

 だがゴルゴムの襲撃から逃れてきた陸士部隊は負傷者を大量に抱え、治癒魔法の使い手が絶対的に不足している状況では、未熟だからと行使を躊躇ってもいられない。
 まして未熟と思っているのはキャロだけで、風の癒し手直伝の治癒魔法は充分以上に実用に足るものなのだから、必然的に彼女は救護班として陸士部隊の集結ポイントを駆けずり回る羽目になった。

「ふう……これで大丈夫だと思います。後は患部を冷やして、なるべく安静にしててください」
「おお。ありがとよ嬢ちゃん、随分楽になったぜ」

 この陸士隊員が負った怪我は右足首の捻挫。ゴルゴム怪人から逃げる際に、足を捻ってしまったらしい。たかが捻挫なら、キャロの治癒魔法でも充分に治療が可能だ。
 キャロの修めた治癒魔法はそう高度なものではなく、魔力消費もさして大きくはなかったが、それでも連続で行使していれば疲れも溜まる。
 勿論、それで弱音を吐くキャロではい。何しろ怪我人は吐いて捨てるほど居るのだ。自分の疲労などに構っている余裕はなく、元よりこう忙しくては、それを意識する暇もない。

「危なかったよなあ。お前が『戻れたら、うちのカミさんの飯、食べに来いよ』とか言い出した日にゃもう駄目だと思ったぜ」
「お前こそ、『明日、娘の誕生日なんだ』とか言ってたじゃねえか」
「あの、それって大丈夫なんですか……?」

『言ってはいけない』台詞を乱発しているようにしか思えないが。

「ま、死んじまった奴等は気の毒だったけどよ。俺達ゃ嬢ちゃんのおかげで、元気に家に帰れるな」
「ああ。まだ若ぇのに、いい腕してる。ありがとな、嬢ちゃん。嬢ちゃんもカミさんの飯食べに来てくれていいぜ」
「おう、うちの娘にも会ってやってくれや。今年で三つになんだけどよ、可愛いんだコレが」
「え、ええっと……はい、ありがとうございます?」

 疑問形のように語尾が上がってしまって、微妙に気恥ずかしい思いを味わうキャロだった。
 ともあれお喋りしている時間もない。額の汗を軽く拭って、次の患者を診るべくキャロは立ち上がり、その場を離れる。

「キャロ、大丈夫かい? さっきからずっと治癒魔法を使いっぱなしだけど……」

 心配そうに声をかけてくるエリオの腕にはフリードが抱えられ、普段はキャロの頭上を浮遊している飛竜も、主の邪魔になってはならじと少年の腕の中で大人しくしている。
 装備の運搬などの力仕事を頼まれているギンガやスバル、ゲンヤと今後の打ち合わせをしているティアナと違い、年齢に見合った膂力しかないエリオは出来る事がそう多くない。キャロの補佐として彼女の後ろについて回っているものの、自分がいまいち役に立ってない感があるのだろう、表情からでももどかしさが見て取れる。

「うん、ちょっと疲れてきちゃった。でもまだだいじょうぶ。怪我をした人はまだまだいるんだから」

 他の者に訊かれれば『問題ない』と答えただろう。けれども他ならぬエリオの問いであれば、キャロの答えも少なからず本音が混じったものになった。
 それでも、今が弱音を吐いていられる状況でない事を、キャロは充分に弁えている。それはエリオも同様で、疲れているとは言うもののまだ大丈夫とも言われてしまえば、無理に休ませる事は出来なかった。

「おうい、そこのちびっこいの二人!」

 と、そこに108部隊の隊員が二人に呼びかけてくる。以前に108部隊と共同で任務に当たった際に、見知った男だった。

「はい! 次の患者さんですか!?」
「いや、違う違う。お前さん方、さっきから働き通しだろ。少し休めって、ウチの隊長がよ」

 108部隊隊員の言葉に、「え、でも……」とキャロが困惑する。
 現在のフォワード陣には108の指揮下に入れという命令が下されている以上、ゲンヤからの指示に従う義務がある。だがそれでも、まだ負傷者も多数残っているのだ。ここで自分だけ休むなど、キャロの気性からは受け入れ難い事だった。
 が、異を唱えようとした寸前、キャロの手を誰かが掴む。確認するまでもなくそれは瞭然で、「わかりました! じゃ、僕たちは少し休ませてもらいます!」と答えたエリオが、キャロを引っ張るようにしてずんずんと108隊員から引き離していく。

「ちょ、ちょっと、エリオくん……!」
「駄目だよキャロ。休める時に休んでおかなくちゃ――この先何が起こるか判らないんだから、さ」
「……うー」

 エリオの言葉はまったく正論で、そうと解っているからこそ、キャロは抵抗せず、手を引かれるままにエリオの後を付いていく。
 普段は控え目なエリオにしては随分と強引だったが、それだけキャロの身を案じているという事だろう。まあ、そんな強引なエリオも、決して嫌いではない。

 陸士部隊の集結点として使われている此処は建設途中の工事現場であり、こんな辺鄙な山間に何を建てるつもりなのかは定かではないが、相当数の重機が運び込まれている。
 作業員が軒並み退避した今では重機を扱う者も居らず、忘れ去られたかのように放置されたそれらの中から適当な一台の陰を選んで、二人は腰を下ろした。

「ちょっと、飲み物か何か貰ってくるね。キャロはここで待ってて」

 そう言ってエリオはフリードをキャロに預け渡し、その場を離れていく。
 普段のキャロならばエリオに使いっ走りをさせたりはしないのだが、どうせそれを言ったところで先と同じように『休める時には』と返されるだろう。加えて腰を下ろして落ち着けば、思っていたよりも疲労が溜まっていると気付く。ここは大人しくエリオに甘えておくべきか。
 久方ぶりに主の腕の中に戻ったフリードが、キャロを案じているのか、舌先でぺろりと少女の頬を撫でる。くすぐったさに微苦笑を漏らしながら、ふとキャロはエリオの走り去った方向へと視線を遣った。

「エリオくん、早く戻ってこないかなあ……」

 別段、さっさと飲み物を持ってこいという意味ではない。さすがにそこまで図々しい少女ではない――その呟きを聞き咎めた者がいないのだから、無用な注釈ではあるが。
 六課発足以降、こと任務に及んでは大抵、キャロはエリオと共に行動している。傍らにエリオが居る事が当然のようになっていて、それが通らぬ今のような状態が妙に居心地悪く、妙に不安を覚える。
 それだけキャロの中でエリオの存在は大きく、ともすれば依存とさえ言える程。尤も今彼女が覚えている不安は、最前線から離れた安全地帯とは言え、戦地において独りになったからこそという側面も強い。ほんの少し弱気が入り込むのもある意味自然で、最も親しい少年を心の頼りにするのも、決して有り得ない事ではない。

「……エリオくん……」
「なに?」

 ふと漏らした呟きに応える声。「ひゃうっ!?」と逆にキャロが奇声を上げて、大仰に頭上を振り仰ぐ。
 見ればそこには、缶ジュースを手にしたエリオの姿。作業員用に設置されていた自動販売機がまだ生きていたらしい。
 全速力で戻ってきたのだろう、エリオの息は荒く、肩を上下させている。加えて戻ってきたそこにキャロの大袈裟な反応だ、目を白黒させてエリオは少女を見遣っている。

「ど、どうしたの、キャロ?」
「あ、ううん、なんでもない! えっと、えーっと、ほら、衛司さんってガリューと気が合うんじゃないかなってフリードと話してて! 蟲繋がりだし! ね、フリード?」

 主の無茶振りに、それでもフリードは「きゅくるー?」と肯定とも否定とも取れぬ嘶きで応えた。

「蟲って……まあ、確かに衛司さんは雀蜂のオルフェノクだけどさ」

 雀蜂の攻撃性を考えれば、そうそう気安く心を許してはくれないだろう――いや、あの少年の人畜無害な人格を考えれば、割とすぐに打ち解けるのかもしれない。
 難しい顔で首を傾げるエリオから飲み物を受け取って、彼が自分の傍らに腰を下ろすのを待ち、プルトップを開ける。キャロが好きな清涼飲料水。何も言わなくても好みに合わせたものを持ってきてくれるあたり、エリオ・モンディアルはキャロ・ル・ルシエをよく理解している。
 それが妙に嬉しくて、胸の奥が温かくなる。

「……うん?」

 ふと、エリオが何かに気付いたかのように声を上げた――何に気付いたのかは、キャロもすぐに悟った。
 いつの間にか一帯には濃い霧が立ち込め、数メートル先の見通しも効かない状態となっている。つい先程までの晴天が嘘のような鉛色の曇天と合わせれば、あまりに急激な変化に不審すら覚える。山の天気は変わり易いとは言うが、これはさすがに度を越している。
 そして異変に気付いた次の瞬間、視界の端を赤い色が掠めていく。咄嗟に振り向いてみれば、それは風に靡く赤い布。端も見えぬほど巨大な赤布は壁の如く視界いっぱいに広がって、更には一枚きりではなく、二人を挟むように彼等の左右に展開している。

「キャロ、僕から離れないで!」
「う、うん!」

 すぐさま臨戦態勢に入った二人だったが、しかしその緊張はすぐさま解かれる事になる。
 視界を囲う赤い布の先に、一人の女性が姿を現したのだ。陸士部隊の制服を纏った金髪の女。よもやキャロとエリオが見間違えるはずもない、それはフェイト・T・ハラオウンの姿だった。

「え――フェイトさん? どうして?」

 フェイトは今、シグナムと共に近辺の陸士部隊を回収する為、フォワード陣とは別行動を取っているはず。それが終わったのならば連絡が来るだろう、それをせず、しかも一人で此処へ現れるのは、些か不自然と言える。
 怪訝に思いつつ、それでも現れたフェイトの姿に安堵して、キャロは歩み寄るが――その時。

「っ! キャロ、そいつに近付くなッ!!」

 やおら声を張り上げたエリオへ振り向き、そして再度フェイトに視線を戻した時には、そこには既にフェイトの姿はなかった。
 否、元よりフェイトの姿などどこにもなかった。そこに居たのはフェイトではない、まったく見知らぬ女の姿。
 フェイトの柔和な微笑みに共通するものなど欠片も無い、路傍の石を眺めるが如くの冷徹な瞳が、いつの間にかキャロのすぐ近くにまで忍び寄り、至近距離から彼女を見下ろしている。
 そして。

「ひっ――!」

 そして更に次の瞬間、女の姿は異形の怪物へと変化していた。生々しい質感の皮膚に覆われたその姿は、石膏像めいたオルフェノクのシルエットとは明らかに異なって、生理的な嫌悪感を否応なしに励起する。
 ミッドチルダに生息するどの生物とも似つかぬ女の姿ではあるが、それでも強いて似た生き物を探すとするなら、それは蜂。結城衛司の本性たる雀蜂とはまた別のベクトルで、女の姿は蜂を思わせる意匠を備えていた。
 短い悲鳴と共にキャロが息を呑み、その隙を逃さず、“蜂女”はキャロの両腕を鷲掴みに拘束する。次瞬、ふわりとその身体が重力の縛りを無視したかのように飛翔し、蜂女に掴まれたキャロもまた、否応なしに宙へと引き上げられる。

「キャロっ! くそ――キャロを離せっ!」

 叫ぶエリオの手の中で、瞬時に愛槍ストラーダが展開。がんと一発カートリッジをロードして第二形態へと変形し、構築されたノズルから魔力を噴射して、推力を頼みに彼もまた中空へと舞い上がる。

「キャロぉっ!」
「エリオくんっ!」

 腕を掴まれた状態では手を伸ばすこともままならないが、せめて声だけでも追い縋る彼の助けになればと、声の限りにキャロはエリオの名を叫ぶ。果たしてそれは確かにエリオの助けになった様で、ストラーダの魔力噴射が一層力を増し、彼の速度を上げていく。
 だがその時、上昇するキャロと蜂女にすれ違う形で、何かが彼女達の横を通り過ぎた。重力加速に倍する速度で落下するそれが、キャロを追うエリオを正面から迎え撃つ。

「!? ――くぅっ!」

 落下してきたのは人だった。口髭を蓄えた初老の男。どうしてそれが上空から落下してくるのか理解出来ないながらも、エリオの身体は思考の判断を待たず対処に入っていた。ストラーダの魔力噴射を中断、槍を横に構えて、落ちてくる男が繰り出す一撃を受け止める。
 何の変哲も無い、ただ掲げた腕を振り下ろすだけの単純な一撃。腕を鈍器の如く扱う無雑作な攻撃は、しかし受け止めたストラーダをめきりとおぞましく軋ませた。見開かれたエリオの瞳は、一撃の威力と、男の手首から先が鱗に覆われた――まるで蜥蜴のような――巨拳であった事への驚きを、ありありと表していた。
 “蜥蜴男”の一撃は少年一人が空へ飛び上がるだけの勢いを完全に相殺し、のみならず衝撃で彼の身体を地上へと叩き落とす。真っ逆様に地上へと落下し、砲撃音よろしくの轟音と共に、エリオは大地に落着した。

「エリオくんっ! この、離して! 離してくださいっ!」

 無我夢中で暴れてみるものの、蜂女の拘束はキャロの筋力では到底振り解けるものではない。
 粋の良い獲物に喜びを隠せないのか、蜂女の顔が嬉しそうに歪む。弱者を甚振る事で喜悦とする、人間生物と何ら変わらぬ嗜虐の笑み。覆しようのない存在格差を見せ付けられ、キャロが悔しさに奥歯を噛み締めた――その時。

《キャロ、動かないで!》

 不意に脳内に響く、聞き慣れた声。誰何よりも先んじてキャロの身体は指示に従い、無駄な抵抗を中断する。
 瞬間、強烈な衝撃がキャロを――そして、キャロを捉える蜂女を揺るがした。取り分け蜂女の衝撃はキャロの比ではなかっただろう。同じように不意を打たれたとは言っても、キャロのそれはあくまで余波。衝撃の正体が蜂女の脇腹に叩き込まれた拳撃であるのだから、比較になるはずがない。

「スバルさんっ!?」
「キャロ、こっち!」

 一体いつの間に接近したのか、スバル・ナカジマはそう言い放って、鋼拳に鎧われていない左手を伸ばす。反射的にキャロはその手を掴み、ぐいと引っ張られて、スバルの腕の中に収まった。

「いいよ、ティア!」
「了解っ! あんたはさっさと行きなさい!」

 そしてスバルが中空に向けて呼びかければ、何も無かったはずの空間から突如として、ティアナ・ランスターが現れる。
 幻術魔法でスバル諸共自分の姿を消し、撃ち込むチャンスを狙っていたのだろう。逆説、姿を現したという事は、好機の到来と激発の準備、その両方が整ったと告げるに等しい。彼女の周囲に形成される魔力弾が、それを証明している。

「クロスファイア――シュートっ!!」

 蜂女へと殺到する橙色の魔力弾。一発の外れ弾も出す事なく、弾丸はその全てが蜂女の総身を打ち据える。
 横殴りの暴風にも似た弾幕を無防備のところに浴びせられては、さすがの怪人も空中に留まる事は出来なかった。真っ逆様に地上へと墜落していく蜂女。ただし地面に激突する寸前に彼女は身を翻し、ふわりと音も無く着地してみせる。

 一方のキャロとスバル、そしてティアナも、ウィングロードを伝って地上へと戻った。蜂女の隣に蜥蜴男が合流すると同時、ギンガと、そしてエリオがこちらに合流する。蜥蜴男の一撃で大地に叩き付けられたと見えたエリオだが、間一髪、ギンガの助けが間に合ったらしい。
 エリオの無事を喜ぶ気持ちは勿論あったが、今は何よりも、目の前の怪人達こそが重要だった。可愛らしい顔立ちに似合わぬ険しい眼差しで眼前の敵を睨みつけ、キャロ・ル・ルシエは身構える。それはキャロ一人に限った事ではなく、フォワード陣全てに共通の所作だった。

「失態だな、ズー。あの娘、贄としては上々であったというのに」
「済まない。だが時間の問題だ。あの程度の脆きイキモノ、縊るのにそう時間はかかるまい」
「そうさな。邪魔な他の四匹を壊せば、邪魔も入らぬか」

 蜥蜴男と蜂女が言葉を交わす――怪物然とした姿の印象に反して人語を操る驚きもさる事ながら、その言葉に含まれた聞き捨てならぬ単語に、フォワード陣全員が慄然となった。

 贄。恐らくは、生贄という意味。
 現地に赴いた陸士部隊、そして機動六課には、既に相手の情報が開示されていた。ミッドチルダに落ちてきた機械獣母艦が何を目的としているのか、それを達成する為に何をするのかを、彼女達は知らされていたのである。
 目的は繁殖。生贄を捧げることで孵る幼獣達に餌を与える事。突き詰めれば彼等の目的はそれだけで、なればこの近辺で生贄を探す者達の素性など、質すまでもなく歴然であった。

「貴方達――フォッグの!?」

 代表するかのようにそう呟くギンガへ、蜂女と蜥蜴男は侮蔑も顕わな冷笑で応じた。言葉で応えるよりも尚それは雄弁な肯定で、同時に挑発としても機能するのだから、品位を無視すれば賢い処方と言えた。

「あの、ティアさん。あいつら――」
「ええ。生贄を調達に来たって言ったわね――って事は」

 一同の視線がキャロへと集中する。生贄を捜し求める彼等フォッグが、一体誰を連れ去ろうとしていたのか、それを思い出しながら。

「……え、わ、わたし? わたし、生贄ですか?」
「多分ね」

 フォッグが生贄を選ぶ基準は判然としないが、偏見だけで物を言うならば、『竜召喚士の少女』はなるほど生贄として捧げるに相応しく思える。
 無論、それを良しとする機動六課フォワード陣ではない。ただこの展開が好都合であるのは否定出来なかった。フォッグの狙いがキャロであるのなら、無関係の人間が巻き添えになる心配も、それを護る為に労力を割く必要もない。

「……来るわよ。全員、気を引き締めて」

 蜥蜴男が一歩、フォワード陣へと歩み出る。その瞳が縦に瞳孔の裂けた、爬虫類を思わせるものへと変化して――そして次の瞬間、男の姿は老人のそれから、巨大な蜥蜴へと変貌していた。
 まだ人間の面影を残す蜂女の姿と異なり、四つん這いの姿勢を取る蜥蜴の姿は、おぞましさには欠けるものの威圧感は桁違い。猛獣を眼前に置いているに等しいのだから、それも当然。
 一帯を覆う霧が、その時突如として消え去った。この濃霧が、彼等が標的へ忍び寄る為に発生させていたものであるのなら、それが失敗した時点で既に無用の代物。薄くぼやけた蜂女と蜥蜴男の輪郭が、これではっきりと見て取れる。
 だが――

「まずいっ!」

 真っ先に気付いたのはティアナだった。
 此処は陸士部隊の集結ポイント。ゴルゴムの襲撃から命からがら逃げ延びてきた者達が集う場所。つい数時間前の惨劇を忘れた者など誰一人としていない。
 視界を覆っていた霧が晴れてしまえば、フォッグの姿は必然的に露見する――そうして事実、悲鳴が上がった。近くに居合わせた管理局員が、蜂女と蜥蜴男の姿を目にしたのだ。

 一般局員にしてみれば、ゴルゴム怪人もフォッグ怪人も区別はつくまい。オルフェノクの様に無機質な外観であるならまだしも、生物的な生々しさを備える異形は一括りにされてしまう。
 精神的に追い詰められた人間達にとって、恐慌状態ほど伝播し易いものはない。悲鳴を上げ、我先にと逃げ出していく。
 恐慌の度合いはフォッグを直接目にした者より、何に追われるのか解らないまま逃げ出した者の方が大きかった。人間生物特有の想像力が、脅威をより一層脳内で膨らませ、それに彼等は踊らされた。

「――騒がしい」

 蜂女がゆるりと掌を翳す。次瞬、そこから撃ち放たれた鋭い針が、逃げる管理局員達の背に次々と突き刺さった。心臓や肺を抉り貫かれた彼等はあっさりと地面に倒れ伏し、弱々しく痙攣を繰り返すものの、穿たれた時点で最早手遅れというのは誰の目にも明らかだった。

 更に、どん、と炸薬が爆ぜるような音が響く。気付けばフォワード陣の眼前から蜥蜴男の姿が消えていた。逃走者達の進路上に現れたのを見れば、強烈な突進力で背後から追い抜き、追い越したのだと知れた。
 蜥蜴男が尻尾を振り回す。丸太を思わせる太さのそれが一閃されれば、軌道上に居た者達は枯葉の如く吹き飛ばされ、ぐしゃぐしゃにひしゃげて地面に転がる。

 フォワード陣の面々が、その光景に息を呑む。中でもキャロの受けた衝撃は一際だった。頭が真っ白になったかと思うと、猛烈な灼熱が脳髄の奥底から湧き出てきて、彼女の思考を真っ赤に染め上げる。 

「あ――あ、あ……いやぁああああああっ!!」

 人の生き死にを目にするのが、これが初めてという訳ではない。過日の『JS事件』では文字通りの戦地に飛び込んで、その上で彼女は生還している。
 だが今は、少しばかり事情が違った。蜂女に抉られた管理局員の中に、蜥蜴男に弾き散らされた者達の中に、つい先程、キャロが治療したばかりの患者が居たのだ。
 妻の料理を楽しみにして。娘の笑顔を楽しみにして。九死に一生を拾い、待つ家族に思いを馳せていたはずの彼等が、何の不運か、ここで命を落とした。否、殺された。“奴等”の身勝手な、人の命を無価値と断ずる価値観によって。

「! キャロ、待っ……フリード!?」

 キャロを抑えようとしたエリオだったが、背後で急激に膨れ上がる質量と魔力が、その足を止めた。
 飛竜フリードリヒ――キャロに付き従う竜が、主の感情の揺らぎに呼応して、翼長十メートルに達する巨体を半ば暴走状態で顕現させている。

 召喚竜の制御は非常に精密な作業である。かつてのキャロはこれを為し得なかったが故に疎まれた。そして今、怒りと憎悪に滾るキャロに竜の制御は望むべくもなく、ただ憤怒だけがフリードリヒに流れ込んで、飛竜の暴走を加速させる。
 轟と吐き出される灼熱火炎。標的とされた蜂女はあっさりとそれを回避し、炎は射線上に停まっていた重機を直撃する。燃料か動力部かに引火したか、次の瞬間に重機は大爆発を引き起こし、一帯に炎と衝撃波と大音響を撒き散らす。

「きゃ、キャロ! ちょっと!」
「キャロ、落ち着いて! キャロってばー!」
「キャロちゃん! 駄目、冷静に――」

 ティアナの、スバルの、ギンガの言葉も届かない。
 融解した銑鉄の如く煮え滾る意識の中で、明確に形を保つ感情は、ただ一つ。

 許せない。
 許せない。
 許せない!





◆      ◆







 知るべき事は山のようにある。
 オルフェノクとは何なのか。どうして生まれ、何の為に存在するのか。その生態、繁殖方法、個体能力……真樹菜から貸し出された資料は膨大で、二週間の時間を費やして尚、一向に終わりは見えない。

 それは哲学でしばしば取り上げられる『我々は何処から来て、何処へ行くのか』という問いに答えを求めるような、ある種の空しさを孕んだ探求行為。それを結城衛司は黙々と続けていた。その為に機動六課を離れ、人間社会を離れたのだから、是非も無い。
 ミッドで流通する電子書籍の扱いにいまいち心得の無い衛司のこと、資料は全て紙媒体で与えてもらったもの。ファイリングされ、積み上げられた資料の山に半ば埋もれながら、衛司はその日も、一人資料に目を通していた。

「……うん?」

 耳朶を打つ間の抜けた音にふと気付いて、衛司は顔を上げた。それがドアチャイムの音と悟った瞬間、もう一つ、ぴんぽーんと同じ音が鳴る。
 地球を遠く隔てた異世界であっても、ドアチャイムの音というものは大差ないらしい。そう言えば信号の色とかも日本と同じだったっけ、と益体も無い事を考えながら、衛司は玄関に赴いて、ドアを開けた。

 真樹菜が自宅として使う、ミッドではそれなりに高級な分譲マンションの一室。当然ながらインターホンやその他セキュリティに関しては万全の設備を誇っているが、衛司はそれに触れようともせず扉を開いた。誰が訪れたのかはおおよそ想像がついていたからだ。
 果たして予想通り、開いた鉄扉の向こうには、筋肉の塊が悠然と佇んでいた。

「はーあーい衛司ちゃん! 元気ぃ? 真樹菜ちゃんもう帰ってきたかしら? 煮物ちょぉっと作りすぎちゃったから、お裾分けに来たんだけどー」
「……どうも、伽爛さん」

 近所迷惑なくらいに大音量の胴間声に眉を顰めながらも、それでも挨拶だけはしっかりと、衛司は目の前の巨漢――臥駿河伽爛に頭を下げる。

「姉さんはまだ仕事ですよ。良ければ、上がってください」
「あらそう? そんじゃ、お邪魔するわね」

 元より上がりこむつもりでいたのだろう、伽爛はあっさりと衛司の誘いに応じて、室内へと足を踏み入れる。
 ……姉との再会を果たして以降、衛司は真樹菜の家に転がり込む形で日常生活を送っていた。
 二年前に別れて以降、姉がどう生きて、どう暮らしていたのか知るだけでも彼は少なからぬ驚きを覚えたものだが、中でも最大の驚愕は、このオカマが隣の部屋に住んでいた事だった。

 この二週間、伽爛はほぼ毎日のように、何かと理由をつけては結城家に上がりこんでいる。家の主である真樹菜が喜んで迎え入れているのだから、居候である衛司に異を唱える口も無い。
 来る度に何かとちょっかいを出してくるのには辟易していたが、それも概ね、我慢の範疇を超えるものではなかった。

「で、煮物でしたっけ」
「そ。はいコレ、よろしくねん」

 伽爛が小脇に抱えていた鍋を受け取って、台所へと持っていく。見た目に反して伽爛は妙に料理が上手い(本人曰く、『淑女の嗜み』とか何とか)。勿論、食事の楽しみを知らぬ衛司は伽爛の料理を口にした事はなく、真樹菜の感想を鵜呑みにしているだけだが。

「そっかー。真樹菜ちゃんいないのかー。せっかく真樹菜ちゃんに頼まれたもん手に入ったから、持ってきたのに」
「頼まれたもの? 何頼んだんですか、姉さん」
「これこれ」

 そう言って伽爛が懐から取り出したのは、一冊の本。ひょいと放り投げられたそれを受け取って、表紙に目を落としてみれば、衛司は何とコメントして良いものやら判らずに顔を引き攣らせた。
『サルでも出来るバストアップ体操・これで貴方もGカップ』。

「…………まだ諦めてなかったのか、姉さん……」
「涙ぐましい努力よねえ。全っっっ然実を結んでないのが泣けるけど」

 数年前、まだ地球で家族と共に暮らしていた頃から真樹菜はこの手の本を片っ端から取り寄せては実践していたのだが、残念な事に、成果はこれっぽっちも出ていなかった。どうやらミッドに居を移してからも、彼女の努力……もとい徒労は続いていたらしい。
 勧められもしないのにリビングの椅子へ腰を下ろした伽爛が、にやりと意地悪げな笑みを浮かべて訊いて来る。

「衛司ちゃんはどお? やっぱりおっぱい大きい娘の方が好みかしら?」
「……別に。胸なんか、どうでも――」
「ああ、ギンガちゃんとかいーいおっぱいしてたわよねえ。やっぱおっきい方がオトコノコは嬉しいものよねー」
「な、なんでそこでギンガさんが出て来るんですか……!」
「六課に居る間は辛かったでしょ? 女の子いーっぱいな職場で。衛司ちゃんもお年頃なんだし、毎晩悶々として眠れなかったんじゃない?」
「大きなお世話ですよ! てかもう、そんな下らない話しにきたんなら帰ってくださいよ、僕は忙しいんですから!」
「忙しい?」

 そこで伽爛は漸く、テーブルの上に積み上げられた資料の山を意識したらしい。ファイルの一つを取り上げ、ぱらぱらとめくって中身を検める。

「ああ――成程。お勉強してたってワケね。で、どう? 進み具合は」

 未だにやにやとした笑いは伽爛の顔に貼りついているものの、どうと訊かれてそれを無視出来るほど、衛司と伽爛の関係は険悪でも、冷え切ってもいない。
 それに――考えてみれば、これは良い機会でもある。真樹菜がこの場に居ない今だからこそ、話せる事もある。
 衛司もまた椅子を引いて、伽爛と向かい合う形で腰を下ろした。

「……全然進んでませんよ。知れば知るほど――底無しです」
「そう。そうよねえ、そう簡単に何もかも判っちゃうなら、誰も苦労しないものね」

 その言葉はどこか伽爛らしからぬ自嘲的な響きを伴って、衛司の胸中に不可解な違和感を生じさせたが、少年はそれをひとまず棚上げにした。

「苦労……ああ、うん。確かに苦労してます。面倒臭くて堪らない――僕、甘やかされて育ったゆとりっ子だから。そういうの、あまり好きじゃないんですよ」

 伽爛の言葉が自嘲的であるのなら、衛司の言葉は自虐的。ただしそれが本音であるのも事実だった。辛い鍛錬や苦痛を伴う克己に、少年はどうにも価値を見出せない。
 それは或いは、努力に相応の結果を求める――努力したからには報われて当然、そうでない努力はしたくないという類の――思考がある故か。であるならば確かにそれは現代人特有のドライな感覚で、衛司の言う『ゆとりっ子』というのは、図らずも的を射ていると言えた。

「ふうん。そーゆートコは衛司ちゃんもオリ主よねえ。苦労しないでチカラもらいます! 努力とかキライです! って感じ?」
「は? おり……?」
「あー、ごめんごめん。気にしないでいいわ。で、うん。続き続き」

 伽爛の半畳に怪訝な顔を見せながらも、衛司は言葉を続ける。何の話をしていたのか思い出すまでに、数秒の時間を必要とした。

「ええっと……まあ、そんな訳で。知りたい事をさくっと教えてくれる人がいたら、嬉しいんですけどね」
「ふうん? つまりアレかしら。衛司ちゃんは、このアタシに何か訊きたい事があるってコト?」

 遠回しな言い方に却って興味をそそられたか、伽爛がずいと身を乗り出して質してくる。顔に浮かぶ笑みはにやついたものから獣を思わせる獰猛なそれへと変質し、倍増しになった威圧感は、下らぬ問いならば相応の代償を取り立てると、そう言外に語っている。

「……そのファイル」

 伽爛が手にしたファイルを指し示して、衛司は言う。

「全然進んでないとは言いましたけど――何も判ってない訳じゃないんですよ。少なくとも、今、ここにあるだけの……読み終えた資料の分だけは、前に進んでます。使徒再生のメカニズムとか、飛翔態や激情態が発現する要因とか――」

 そこで衛司は言葉を区切って、次の言葉までに僅かな間を置いた。別段、何らかの演出というつもりはなく、口にしようとする事実を彼がまだ自分の中で消化しきれていないと、それだけの事だった。

「――オルフェノクはそう長生き出来ないって事も、判りましたよ」

 人間と同サイズの生物として、オルフェノクの寿命は極端に短い。少なくとも人間と比べれば、その差は歴然だ。
 ある程度の個体差はあるものの、長くても十年から十五年。二十年以上を生きる事はまず不可能と、資料には冷徹に、そう記載されていた。

 かつて衛司にオルフェノクについて教えた“蛇”は、寿命に関しては何も言っていなかった。
 彼自身が寿命に関して知らなかったのか、それとも衛司を慮って、あえてそれを伝えなかったのか――彼の性格を考えれば恐らく後者だろう。今更確認したところで、さして意味がある事でもないだろうが。

 そして。逃れ得ぬ死を免れる為には、オルフェノクの王――アークオルフェノクから“力”を分け与え、完全に人間と決別するより他に無い。だが王は過日の戦いで深い眠りにつき、未だ目覚めてはいないのだ。
 資料の中には王の現状と、それを目覚めさせる為の研究について触れられていた。また、王に頼らずとも肉体の崩壊を防ぐ研究についても。……そのどちらにおいても、芳しい結果は出ていない。

「寿命が短いってのは、そりゃ確かにショックですけど……けれどそれなら、姉さんは僕よりももっと、残り時間が少ないはずなんですよね」

 真樹菜と同居を始めて程なく知った事だが、衛司の予想に反して、真樹菜は二年前の事件でオルフェノクになった訳ではなかった。
 彼女が人外と化したのは今から十年前。僅か九歳の娘が、その明晰過ぎる頭脳の為に世の全てから興味を失い、抛り捨てるように命を絶った。そうして彼女は、異形の毒蛾となったのだ。
 であるならば、真樹菜に残された時間はそう多くない――オルフェノクに成ってから十年強という見立てが正しいなら、彼女の寿命は長くても、あと数年というところ。

「だから、余計に気になるっていうか――ねえ、伽爛さん。姉さんはいったい、何をしようとしてるんですか? 僕は姉さんの計画の中で、どういう役割を与えられているんですか?」

 結城真樹菜は何かを目論んでいる。その詳細は不明だが、恐らくは、自身の延命を視野に入れた計画ではないだろう。元より命を大事にする女なら、彼女はそもそもオルフェノクになってはいない。
 衛司がミッドチルダに連れて来られたのも、幾度となくその命を刺客に狙われたのも、全ては真樹菜の計画の一環。そうと知ってしまえば、それから目を逸らしたままでいる事は、衛司には出来なかった。

「ふうん。それが衛司ちゃんの訊きたい事か――けどそれ、直接真樹菜ちゃんに訊いた方が早いんじゃない?」
「訊きましたよ、とうの昔に。あっさりはぐらかされましたけどね。『そのうち教えてあげる』だそうで」

 無用な嘘を好まない真樹菜の事、いずれ教えると言ったのなら、そう遠くない内に衛司にも伝えられるだろう。
 だが待てない。自分一人蚊帳の外で、都合の良いように使われるのは我慢ならない。己に与えられた役割を知れば、それに順ずる事も出来るだろう。曖昧な放置を拒む気性は、蜂の習性にも似ている。

「そっか。けど真樹菜ちゃんが黙ってるのに、アタシがぺらぺら喋っちゃうのもアレよねえ――ふむん」

 腕を組み、天井を見上げて暫く唸っていた伽爛だが、やがて意を決したかの様に衛司へと向き直ると、「ちょっとごめん、これ片付けてくんない?」と、テーブルの上のファイルを指し示す。
 意図を読めないまま、指示に従いファイルを余所へとどかすと、伽爛はテーブルの天板に掌を置いた。いっぱいに広げられた五指に力が篭もった瞬間、掌を中心にミッド式の魔法陣が展開する。
 血液を思わせる赤褐色の魔力光が作り出す円陣に、衛司が目を奪われたその時――不意に魔法陣が光を強め、そうして次の瞬間、いつの間にか上向けられた伽爛の掌には、一個のアタッシュケースが載せられていた。

「それは――」

 衛司の反応を待たず伽爛は鍵を開け、アタッシュケースの蓋を開く。それからくるりと百八十度回転させて、ケースの中を衛司へと見せ付けた。

 そこに収められていたのは、一本のベルト。ただし服飾品の類とはとても思えない、バックル部や側腰部に金属部品がごてごてと配されたそのシルエットは、何がしかの機械装置であると窺える。
 そしてベルトの周りには、携帯電話、デジタルカメラ、双眼鏡などの機器が収められている。中でも異彩を放っているのが、製図用の定規にも似た一台の機器だ。他の機器が既存の家電機器であるのに対し、これだけはどう見ても平和利用の難しい……つまるところの“武器”であると、一見しただけで知れた。
 であるのなら、他の機器も家電品の体裁は文字通りの見せ掛けで、内実は危険極まりない武器兵装の類なのだと察しもつく。

 アタッシュケース内に整然と収められたそれらは、どれも全て見覚えがある。どこで見たのかと記憶を辿った衛司は、すぐに答えに辿り着いた。一度目はミッドチルダ総合医療センターでの戦闘で。二度目は入浴中に拉致され、放り出されたクラナガンの街で。
 ホーネットオルフェノクを一蹴し、ネオ生命体ドラスを退けた仮面の男――彼が身につけていたベルトであり、扱っていた装備品だ。

「ラズロちゃんが今、別のお仕事で手が離せなくって――アタシが預かってたんだけどね。ちょうどいいから、衛司ちゃんに貸してあげるわ」
「貸してって――けど、これ」
「使い方は判るでしょ? まーわかんなかったらケータイん中にマニュアル入ってるハズだから。後でテキトーに読んどいて頂戴な」

 そう言われたところで、すぐに納得は出来ない。何故これを自分に貸し与えるのか、何一つ理解出来るところがない。
 伽爛へ向けた問いの答えとも、到底思えない――衛司の視線から疑問を読み取ったか、伽爛はにやりと邪悪な笑みを浮かべてみせた。

「それを使ってもいいし、使わなくてもいい。どんな卑怯な手段を使っても、どれだけ正々堂々としても構わない――衛司ちゃん。このアタシを、殺してごらんなさい」
「…………っ!?」
「アタシの能力は知ってるわね? 個体の増殖、総体の複製。増殖限界は百八人……その全員を殺せとは言わないわ。一人だけでいい。このアタシを百八分の一回でも殺す事が出来たなら、その時は衛司ちゃんの訊きたい事、知りたい事、ぜーんぶ教えてあげる。アタシが知ってる限り総ての事を、一片の嘘偽り無く、何もかも正直に、ね。悪い条件じゃ、ないでしょう?」

 言葉が出ない。
 よりにもよって――その条件。

「僕に――人を殺せって言うんですか」
「んー。ま、殺せってのはちょい極端だったかしら。アタシに勝てる程度にまで強くなってくれれば良いわ。別に殺さなくても、アタシに負けを認めさせられたら合格ってコト。どう、判り易いでしょ?」

 その難度については、今更説明の要は無い。殺さずして相手の戦意を折る……まして臥駿河伽爛、コックローチオルフェノクを相手に、それがどれほどの困難であるか。
 だからこその『殺せ』という言葉だった。つまりは衛司に合わせてハードルを下げたが故の、その言葉だったのだ。

「……っ、けど」
「人を殺すのは嫌。他人と戦うのも嫌い。ううん、誰かと競い合うコトだって、本当は好みじゃない――そうよねえ。十四年も、そうやって生きてきたんだもんね」

 けど、それなら――
 伽爛の瞳が、その時、衛司の瞳を真正面から捉えた。
 猛禽の爪が如くにがっちりと視線を捕まえられ、目を逸らす事すら出来ず、衛司は巨漢の次の言葉を拝聴させられる。



「――どうして衛司ちゃんは、笑っているのかしら?」
「え」



 言われて、愕然と衛司は自分の顔に触れた。更に伽爛がどこからか手鏡を取り出して、衛司に己の顔を見せ付ける。
 吊り上った口の端。
 上がった眉。
 見開かれた瞳。
 狂気と歓喜の絶妙なブレンドが作り出す、その表情――見るも無惨に歪んではいたが、それはどう見ても、笑顔以外の何物でもなかった。

「別に、何の関係も無い人を殺せって言ってる訳じゃないの。アタシの口を割らせたかったら、力尽くで来いって言ってるだけよ。殺す気でかかってこないと、殺すつもりで戦わないと、絶対に届きっこないわよう?」
「――は」

 喉の奥から、笑声が漏れる。
 殺してみろと言われた。殺人を許された。今まで厭い目を背け逃げ続けてきた行為を、もう取り返しがつかない程に犯し積み重ねてきた罪悪を、生まれて初めて、彼は誰かから望まれた。
 こみ上げてくる笑いは、転げ落ち流されてきた先で、今更のようにそれを必要とされた皮肉に対して。
 そして、せめて人間らしく在ろうと引いていた最後の一線が、曖昧に薄れて消えた呆気無さに対してだった。

「は、ははは……あはははははは。あはははははははははは!」

 凄惨に。
 ただ凄惨に、結城衛司は笑った――その姿は人間の、少年のものでありながら、いま彼は誰よりも怪物だった。雀蜂の本性をその身に秘めた、人外の殺人昆虫だった。 
 いいだろう、ならば殺そう。雀蜂の針で貴方を刺し殺そう、雀蜂の毒で貴方を灼き殺そう。結城衛司の持つ全てを使って、臥駿河伽爛を虐殺しよう。貴方自身がそれを許すなら、もう躊躇う理由なんかどこにも無い。

「いいですよ、解りましたよ――ぐうの音も出ないほどぼこぼこのこてんぱんに叩きのめしてやるよ、臥駿河伽爛!」
「うふふ、ええ上等。せいぜい血反吐を吐きながら無様に惨めにみっともなく強くなりなさいな――結城衛司」







「……とか何とか言った癖して、現実はこのていたらく」

 呆れ調子の独り言は木々のざわめきにかき消され、誰の耳にも届く事無く霧散する。
 回想を終え、意識を取り戻せばそこは森の中。陸士部隊の集結点から程近い、獣道すら無い鬱蒼とした森林。

 断絶した記憶を辿る。余計な仕事を切り上げ、フォッグの調査に戻ろうとしたその時、不意に現れた男――蜥蜴の如き異形の巨腕を備えた男――に一撃で意識を刈られたのだと、記憶の断絶点からあたりをつける。
 藪に埋もれるようにして仰臥しながら、眼球だけを巡らせて周囲を窺う。……どうやら蜥蜴男は、既にこの場を離れた後らしい。
 立ち上がるのはまだ少し辛い。腹と背中をじくじくと苛む疼痛は、少年の五体を鈍く麻痺させている。ただ内臓破裂や脊髄損傷といった重傷ではない、後遺症が残る類の負傷ではない。負傷の程度を推し量れる程度には、思考も落ち着いている。

「ああ、目が覚めたか、衛司くん。……気分はどうだい?」
「最悪です。――ラッドさんも、ご機嫌よろしくって感じじゃないですね」

 まったくだ、とラッド・カルタスは自嘲的に笑った。
 大の字になって仰臥する衛司に対し、ラッドは近くの大木にもたれかかり、四肢を投げ出して座り込んでいる。その口元や襟元が赤黒く汚れているところを見れば、彼もまた無事ではないと知れた。

「あいつら、何だったんですかね」
「さあな。恐らくはゴルゴムか……或いはフォッグの怪人、そのどちらかだろうさ」

 ラッドの言葉はどこかなげやりなもので、碌な抵抗も出来ずに一蹴された自身の不甲斐なさを嘲笑っているかのようだった。
 その心境は解らなくもない。衛司もまた、似たような心境であったからだ。
 いくら不意を打たれたとは言え、こうも簡単に気絶させられるようでは、あのオカマには到底及ぶまい。蜥蜴男がとどめを刺さずに立ち去ったのは純然たる僥倖で、もし彼にもう少しだけの慎重さがあったのなら、衛司は伽爛に挑む事なく終わっていた。
 自身の強運、或いは悪運に感謝すべきか辟易すべきか、どうにも判然としない気分のまま、ふうと衛司は一つ、仕切り直しのように大きく息を吐いた。

「立てるかい?」
「何とか。ラッドさんは?」
「こっちも何とか。……じゃ、そろそろ行こうか」

 よろめきながら、樹の幹に掴まりながら、ラッドが立ち上がる。
 衛司もまた、未だ復調しきらない身体を半ば無理矢理に駆動させて、起き上がった。

「さすがに、こうもやられっぱなしでは面子が立たん――黙って引き下がるほど、俺は人間が出来ちゃいない。君はどうだ?」
「激しく同感っす。……ほら、雀蜂って喧嘩っ早い生き物ですから。下手に突っつくと却って危険なんですよ――それを、教えてやらないと」

 いずれ来る、あまりにも強大な敵との大一番。
 その時までに、結城衛司は強くならねばならない。成長しなければいけない。
 ならば今、この時こそ、彼が更なる階梯へと進む絶好の機会であった――これまでの人生、大抵の場合において間の悪い衛司には珍しく、彼自身がそれを理解していた。





◆      ◆







 紅蓮の炎が渦を巻いて荒れ狂う。
 山一つを燃やし尽くさんばかりの火勢は瞬く間に延焼範囲を広げ、一帯を炎の海に沈めている。
 その中心で天を仰ぎ、慟哭するかの如く咆哮を轟かせる飛竜。主の哀しみと怒りが、今の彼を突き動かす衝動だった。主を哀しませる者、主を怒らせる者、その全てを灰燼に帰すべく、飛竜フリードリヒは荒れ狂っていた。

「このままじゃ……!」

 防御魔法シェルバリアを張って火炎と熱風を遮るものの、それとていつまでも保ちはしない。外に炎熱、内に焦燥と二重に焼かれながら、ギンガは呟いた。
 ちらと背後に意識を向ければ、そこには自身を掻き抱くようにして蹲るキャロと、その両肩を掴んで必死に呼びかけるエリオの姿。
 荒れ狂う飛竜は既に主の制御下になく、蜥蜴男と蜂女をこそ標的にしているものの、周囲の被害を省みない大火力は主であるキャロまでをも危険に晒している。咄嗟にギンガがキャロの防護に入り、スバルとティアナに陸士部隊の避難を任せたのだが、それによって彼女達は『現状維持』以上の方策を取れなくなった。

「キャロ、落ち着いて! キャロ!」
「だめ……だめ、エリオくん……あの人たち、これで帰れるって言ってたのに……! わたし、わたしの治癒魔法で助かったって、そう言ってくれたのに……!」

 エリオの言葉はキャロの耳に届いているようで届いておらず、会話はまるで噛み合わない。
 現状を打開する方法は最早一つ、エリオによるキャロの説得しかないのだが、当のキャロが他人の言葉を聞き入れる精神状態にない。

 一方のフォッグ怪人、蜥蜴男と蜂女は燃え盛る火炎をまるで意に介さず、悠然と佇んでいる。鋼鉄すら融解する超高熱の只中で、平然とした有様を保っている。異界の人外生命は『焼かれれば死ぬ』という常識すら通用しないのか。
 不意に、蜥蜴男が大きく身を仰け反らせた。苦悶では無い。急激に膨れ上がる胸部が、一気に息を吸い込んでいるのだと告げている。炎に炙られた高熱の大気をものともせずに。

「! いけないっ!」

 直感が危険の到来を予知し、反射的にギンガは、シェルバリアの上から更にディフェンサーを展開。二重構造のバリアで自分達の周りを完全に隔絶する。
 蜥蜴男が行動を開始したのは、その次の瞬間だった。

「                           ッ!!」

 吸い込んだ大気を肺腑で急激に圧縮、咆哮として一気に解き放つ――それは最早、音と言うには生易しい、物理的破壊力を伴った衝撃波だった。
 衝撃波は周囲で燃え盛る炎を一瞬で吹き散らし、ギンガのバリアを叩き据えた。ディフェンサーが砕き割られ、その内側のシェルバリアにも大きな亀裂が穿たれる。もし障壁もバリアジャケットも無い生身でこれを浴びたなら、鼓膜を破られるどころでは済まなかっただろう。脳髄が頭蓋の内側で攪拌され、液状化してもおかしくない。
 そして間一髪防御が間に合ったギンガ達に比べ、フリードは衝撃波の影響をほぼ完全な形で受ける事となった。さすがに人間とはサイズが違う、即死に至らしめられる事はなかったものの、ぐらりとその巨体がよろめいて地面へと倒れこむ。

「フリード! フリードっ! いやぁあああっ!」
「キャロっ!」

 フリードに駆け寄ろうとするキャロを、エリオが後ろから抱き留める。それは間違いなく状況を見据えた、冷静な判断だった。邪魔な火炎を吹き散らし、飛竜を沈黙させた怪人達が、再びキャロを捕らえんと歩み寄ってきているのだから。

「止まりなさい! 武装を解除して、大人しくこちらの指示に――」

 声を荒げてギンガが呼びかけるが、それが空しい行いであると、彼女自身が理解していた。そんな言葉で止まるような相手ではないと、思考を超えた本能の段階で彼女は確信していた。
 最早取るべきは、実力によって蜥蜴男と蜂女を打倒するのみ。だがそれが可能なのか。エリオはキャロを抑えて貰う必要があり、スバルとティアナは局員の避難を手伝っている。隊長陣が異変に気付いて戻ってくるにも、もう少しかかるだろう。
 つまり、ギンガ・ナカジマたった一人で、フォッグ怪人二体を相手取らなければならない状況――

「けど、逃げる訳にはいかない……!」

 そう、逃げる事は出来ない。ギンガがギンガである限り、断じてそれは出来ない。
 握り締める左の鋼拳、その握力が、酷く頼りない。不退転の覚悟とは裏腹に、ギンガの身体は目の前の脅威を敏感に感じ取っていた。

「……? あれは――」

 その時、ふとギンガの目に妙なものが映り込んだ。
 迫るフォッグ怪人の更に後方。炎こそ消えたものの、まだぶすぶすと立ち昇る黒煙に燻された景色の中に、歩いてくる人影が二つ。
 少年と青年。誰かに殴られたか、少年はその顔の至るところに青痣を作り、青年も青年で口元を赤黒く汚している。二人共に歩き方はどこかぎこちなく、決して軽くない負傷を抱えている事はすぐに知れた。

「衛司くん――それに、カルタス二尉?」

 先程から姿を消していた彼等が、何を思ったか、重傷の身をおしてこの場に近付いてくる――





 進む先にはフォッグの怪人、蜥蜴男と蜂女。
 更にその向こうには、ギンガとエリオ、キャロの姿が見える。
 状況はいまいち判然としないものの、ギンガ達が窮地に陥っている事は何となく察しがついた。ぎりぎりで間に合った――と言うには、業火に焼き払われた周囲の惨状があまりに生々しかったが。

 後ろから追いかけてくる排気音が、衛司とラッドの横を通り過ぎ、その前方で停止する。スマートブレインモーターズ製、可変型バリアブルビークル『サイドバッシャー』。
 ご苦労、と言いたげに衛司はぽんと車体を叩き、側車からアタッシュケースを取り出した。スマートブレインのロゴが刻まれたそれは、ずしりと現実の重みを少年の掌に伝えてくる。

「衛司くん」
「…………」

 ラッドが、手を差し出してくる――何を要求しているのかは、今更問うまでもない。
 数秒の逡巡。交錯する視線。やがて衛司は何かを諦めたかのように一つため息をついて、側車からもう一つアタッシュケースを取り出し、ラッドに預け渡した。
 鍵を開き、蓋を開ける。収められたベルトを腰へと巻いて、懐から取り出した携帯電話を開く。
 ラッドもまたベルトを取り出し、腰へと装着。衛司とは異なり、拳銃のグリップにも似た機器を顔の横にまで掲げ上げる。

「衛司くん、カルタス二尉! それは――」

 ギンガが何かに気付いて、声を上げた。彼女が何に気付いたのか、少年と青年は知る由も無く……故に、彼等の行動が妨げられる事も無く。
 ――9。
 ――1。
 ――3。
 携帯電話のテンキーを押し込んで、コードを入力。最後にEnterキーを押せば、準備は全て完了する。

【Standing by.】

 無機質な電子音声が耳朶を打つ。
 ターン式の携帯電話を折り畳み、眼前にまで掲げ上げて――ふと少年の脳裏を、場違いな不安が過ぎる。
 目の前の敵にではない。このベルトを使う事で、使い続ける事で、自分が今の自分から変質していくのではないか。自分が自分でなくなるのではないか。そんな不安。

 いや、それはただの杞憂……勘違いとすら言える、無用な不安に過ぎない。少年が使うベルトにはデモンズ・スレートや、それに類する装置は搭載されていない。どれだけ使おうが、少年がオルフェノクである限りは、身体にも精神にも影響を及ぼす事はない。
 そう、何ら問題は無い。不安を覚える要素など何一つないと、少年は軽くかぶりを振って、不安の芽を振り払う。

 不安を覚えては届かない。迷いを抱えては勝つ事など叶わない。遥か彼方に在るあの男……もとい、あのオカマを打倒しようと思うなら、弱さに繋がる不安や迷いは切り捨てて当然。
 そして――今はただ、前へ進むより他に、処方は無い。



「変身っ!」
【Conplete.】



「変身!」
【Standing by――Complete.】



 携帯電話がベルトのバックル部へと装填される。
 銃把状の機器がベルトの側腰部へと装填される。

 電子音声が響き、変身システムが起動。着装者の身体表面に沿ってエネルギー流動経路『フォトンストリーム』を形成。そして次瞬、ミッドの衛星軌道上に待機する人工衛星『イーグルサット』から電送されてきたスーツが彼等の姿を覆って、変身が完了する。

 煌と光る紫の眼光。総身を走る黄色のライン。
 炯と輝く橙の眼光。総身を走る白銀のライン。

 結城衛司がカイザの力を――ラッド・カルタスがデルタの力をそれぞれ手にして、いま再び、フォッグ怪人へと挑みかかる。

「…………!」
「…………!?」

 蜥蜴男と蜂女が振り返る。怪物然としたその面貌から表情は読み取れないものの、彼等の所作からは驚きがありありと窺えた。
 怪人達の驚愕を、カイザとデルタは見逃さない。それぞれに得物を構えて、二人は一気に、敵との間合いを詰めていく。

【Ready.】
【Burst mode.】

 閃く光刃、奔る光弾。大気を切り裂き、空気を引き裂き、最新技術の暴力機巧が――遂に、異星からの侵略者を捉えた。





◆      ◆





第拾捌話/了





◆      ◆







後書き:

 という訳で、第拾捌話でした。お付き合いありがとうございました。

 散々迷ったんですけど、結局主人公はカイザになりました。まあ装着者がころころ変わるのが555のお約束なので、そのうち取り上げられるか死ぬかするでしょうけど。
 で。主人公を変身させるに当たって、すっかり忘れていた事がひとつ。こいつ別に変身しなくてもいいじゃん、とw
 ライダーに限った事じゃないんですけど、変身するからには必然性が欲しいなーと思ってしまって。『力が欲しい』とか『主人公しか変身出来ない』とか。
 その点、うちの主人公って動機が弱くて。力って意味ならオルフェノクで充分だし、衛司じゃないと出来ない事ってのがいまいち考え付かないし。
 そんな訳で、伽爛という目標を用意して、そこに辿り着くまでの一手段って事で変身させてみました。なんか凄い利己的な動機になっちゃったんですが、いきなり愛と正義に目覚めるよりいいかと思ったり。


 ……あれ? よく考えてみれば、これ別に、主人公を無理して変身させる必要なかったんじゃ……まあいいかw


 それでは次回で。よろしければ、またお付き合いください。



[7903] 第拾玖話(前編)
Name: 透水◆44d72913 ID:35af097c
Date: 2023/12/29 20:59
 ――……い……ろよ……ム……!

 泥の底に沈む意識が、彼方からの呼びかけによって浮上を開始する。
 呼びかける声は酷く聞き慣れたもので、それが誰のものかと訝るよりも、ただ安堵が先に立った。心配など不要と解っていても、“家族”の身を案ずる気持ちを完全に捨て去る事など出来ない。信頼と心配は決して相反する感情ではないのだ。
 ……埒も無い思考が涌いて出ると同時、シグナムの意識は覚醒状態へと戻った。呼びかける声が誰のものであるのか理解し、瞼を開ければ、相手の顔が視界の中心を占有していた。

「おい、起きろよ、シグナム!」
「ヴィータ……か?」

 別行動を取っていたはずのヴィータが、いつの間にかシグナムの傍らに居た。
 意識は未だ泥がへばりついたかのように朦朧としているものの、滅多に見せぬ狼狽したヴィータの顔を見れば、自分が今どの様な有様になっているのか、容易に想像がついた。

 事実、今のシグナムは酷い状態だった。全身に刻まれた傷、総身を汚す血と泥、襤褸布の様に成り果てた騎士甲冑。どこの敗残兵でもここまで哀れな姿になりはしないだろう、そう思わせるほど、今のシグナムはぼろぼろだった。
 身体を起こすのも難儀ではあったが、ヴィータの助けを借りて何とか上体だけでも起こせば、未だ意識を失ったままのフェイトと、その傍らに付き添うなのはの姿が目に入る。
 フェイトもまたシグナムに負けず劣らずの有様であり、視線を巡らせて周囲を見遣れば、薙ぎ倒された木々と掘り返された地面という、酸鼻極まりない光景が広がっていた。

「念話送っても応答ねーから、変だと思って合流しようとしたんだけどよ……いきなりすげー爆発があって、急いで来てみたらお前とフェイトがぶっ倒れてたんだ。……何があったんだよ?」

 爆発?
 一瞬、ヴィータが何を言っているのかが判らなかった――そも、自分とフェイトがどうしてこんな有様になっているのかさえ、シグナムはすぐに思い出せなかった。
 だが、一度“思い出そう”と試みれば、一瞬にして記憶はシグナムの脳内に流れ込んできた。何が起こったのか、何があったのか。記憶に付随する膨大な恐怖と戦慄が、一瞬で彼女の思考を飽和させる。

「くっ……!」
「シグナム!?」
「だ、大丈夫だ……ヴィータ。お前達が来た時、他に誰か居たか?」
「え? いや、お前とフェイトだけだ。他には誰も――」

 ぎり、と奥歯を噛み締める。それは悔しさと焦り、二つの感情からくる挙措だった。

「……ドラスだ。ネオ生命体ドラス――あれが、ゴルゴムの大神官と共に現れた」
「ドラス? お前が暫く前に海上隔離施設で戦ったっていう、あいつの事か?」
「ああ。凄まじい力だった……私とテスタロッサが二人がかりで、まるで相手にならなかった」

 かつて戦ったドラスの比ではない――それは小手先の戦術や術技などでは覆しようのない、圧倒的な戦力差だった。
 元より今日のドラスが万全である事は判っていたものの、いざ戦闘に入れば想像以上に差は絶大で、まるで相手にならなかったというシグナムの言葉は、むしろまだ控えめな表現ですらあった。

 それでもシグナムとフェイトが生き残っているのは、ひとえにドラスの気紛れによるものだ。
 シグナムとフェイトの猛攻をいとも容易くあしらい、周囲の風景もろとも破壊光線によって二人を吹き飛ばしたドラスは、いざ止めを刺そうという段になってやおら踵を返した。何かを見つけたような、何かに気付いたような、とにかくシグナムよりも遥かに優先される何かを感知して、怪物はその場を立ち去った。
 ドラスをけしかけたゴルゴム三神官の一人、ダロムもまた、ドラスを追ってその場を去り――シグナムが憶えているのは、そこまでだ。緊張の糸が切れた事で意識を失ってしまったのだろう。

「嘘だろ……? お前ら二人でかかって、手も足も出なかったってのかよ」
「業腹だが、事実だ。……いや、お喋りをしている時間は無いな。急がねば――」

 言って、シグナムはレヴァンテインを杖代わりに立ち上がる。それだけで全身が軋みを上げ、ヴィータが制止してくるが、それを聞き入れられる状況ではなのだ。

「時間が無い。ゴルゴムの連中、恐ろしい事を企んでいる……この辺り一帯を虚数空間と繋げる気だ。儀式魔法の準備も進んでいる――何としても止めなければならん」

 ヴィータと、そしてなのはの顔が驚愕に染まる。惑星の地表で虚数空間との接点を作る、それは即ち人工的に次元震、次元断層を生み出す事に他ならない。敵の目的――或いはその為の過程――が惑星の滅亡にあると知って、二人もさすがに驚きを隠せない。

「うん……時間が無いんだ。こんなところで、寝ていられないよ」
「フェイトちゃん!」

 いつから目を覚ましていたのか、フェイトもまた上体を起こして、シグナムに追従する。
 そう、時間が無い。儀式魔法の準備は八割方整っていると見て良いだろう。ベルカ式と同様に三角形を描く魔法陣、その頂点二つは既に押さえられている。残る一つの頂点で“血の刻印”を刻まれれば儀式魔法は発動する、そうなれば最早手を出す事は叶うまい。

 敗北を屈辱と思うよりも先に、やらねばならない事がある。重傷の身体に鞭打ってでも、彼女達は立たねばならないし、飛ばねばならない。
 なのはやヴィータもそれを充分に理解していて、だからこそ、シグナムとフェイトを休ませようとはしなかった。……とは言え。

「わたしとヴィータちゃんが先行します。……多分、そっちの方が速いですから」
「だな。怪我人に足並み揃えてる余裕はねえ――悪ぃが、先行くぜ」
「ああ、そうしてくれ。こちらも出来る限り急いで向かう」
「ごめんね。気をつけて、なのは、ヴィータ」

 フェイトの言葉に同時に頷き、なのはとヴィータが舞い上がる。
 あっという間に彼方へ飛び去っていく仲間達を見送って、自らもまた飛翔しようとするシグナムだったが、しかしがくりと膝から力が抜けてその場にへたり込んでしまった。

「シグナム!」
「くっ……何てざまだ……! この大事な時に立てんとは……!」

 悔しさに奥歯を噛み締め、拳で地面を打ち据える。
 急いで向かうとは言ったものの、彼女は既に理解していた。――自分達は既に、この戦いからは脱落しているのだと。



 ただ、それはある意味では幸いと言えたのかもしれない。
 この時点での脱落によって、彼女はこれより先に待ち受ける惨劇を目の当たりにせずとも済んだのだから。





◆      ◆





異形の花々/第拾玖話





◆      ◆







 フォッグ怪人へと襲い掛かったカイザとデルタ――衛司とラッドがまず図ったのは、蜥蜴男と蜂女、この二匹の分断だった。

 衛司とラッドは突き詰めればただの他人、仲間でも友達でも、同志でもない。戦闘において連携など端から望むべくもなく、互いに足を引っ張り合う結果になるのは火を見るより明らか。
 ならば敵を分断し、一対一の構図を二つ作り出す方にこそ勝機がある。
 デルタの腰から抜き払われた銃型機器『デルタムーバー』の光弾が、蜥蜴男と蜂女の足元へと撃ち込まれる。咄嗟に横へ跳んで回避する二匹を、追撃の光弾が更に引き離す。

「――はぁあっ!」

 着地の際に生じる一瞬の隙。それを逃さず、蜥蜴男へ向かい衛司が走る。
 この一撃で致命傷などと、そこまで図々しい事は考えない。だが腕の一本、脚の一本でも切り落とす。敵の戦力を削ぐ事を目的とした一撃、それはなまじ急所を狙うよりも効果的であるはずと。
 一閃する刃は、しかし咄嗟に蜥蜴男が身を引いた事で、狙いの四肢を逸れる。だが完全に躱しきる事も出来ず、代わりに丸太の様な尻尾に深々と食い込んで、帯びる高熱でその肉を焼いた。

〖――!!〗

 フリードの放射火炎すら凌いでのけた外皮も、高熱を直接肉に突き入れられれば、何の役にも立ちはしない。
 内側から肉を焼かれる激痛に、蜥蜴男が声にならぬ悲鳴を上げる。
 およそ人語の態を成さぬ絶叫。断末魔にも似たその叫びを耳にして、仮面の下で少年が口の端を吊り上げた。鋼に覆われて外には見えぬその表情は、邪悪、醜悪、それらの形容がぴたりと嵌る、十四の少年にしてはあまりにおぞましい笑みだった。

「! こいつっ……!」

 ぶちぶちぶちっ――と、肉を千切る音が響く。驚くべき事に蜥蜴男は自ら尻尾を引き千切り、熱刃の刺突から逃れたのだ。
 驚愕は更に続く。敵の斬撃圏内の一歩外で足を止めた蜥蜴男は瞬時に断面から尻尾を再生、大きく身を翻したかと思うと、遠心力を乗せた尻尾の一撃をカイザへと叩き付ける。
 予想外の反撃に迎撃も回避も間に合わず、辛うじて防御の態勢こそ間に合ったものの、カイザの身体はその衝撃に弾き飛ばされた。

 攻撃を防いだ腕がみしりと軋む。さすがにフォッグ怪人、ただの一撃が尋常ならざる威力。
 中空で姿勢を整え、更にばんと一度地面を叩いて反動を得る事で、着地に成功。すぐさまブレイガンの銃口を敵へと向けて、敵の追撃を牽制する。
 と、衛司の目は視界の端に、紫がかった藍色の光を捉えた。飛ばされた方向が偶然、ギンガとエリオ、キャロが居る場所に近かったらしい。防御魔法を展開したまま戦いを見守っていたギンガの姿が、衛司のすぐ横にあった。

「衛司くん――」
「ギンガさん、そこから動かないで。……危ないですから」

 言外に戦力外と告げる自分の言葉が、思った以上に冷たく固い声音である事に、当の衛司が驚いていた。
 無論、ギンガ達に衛司の内心など量れようはずもなく、プライドに障ったか僅かに表情を強張らせる。その顔にちくりと胸を刺されながら、ふと後ろを振り向いた衛司は、そこに予想外のものを見た。

「キャロちゃん……?」

 キャロ・ル・ルシエ。エリオに抱き留められるような態勢の少女――彼女が浮かべる表情に、衛司は少なからぬ驚きを覚えた。
 衛司の記憶では、常に朗らかな笑みを浮かべる少女という認識しかなかった。それが今は、憎しみと怒りに顔を歪めて、フォッグ怪人を睨みつけている。
 およそキャロらしからぬ表情の、その理由を衛司は知る由もない。だが衛司の目から見て、それは酷く痛ましい表情だった。少女にはあまりに似合わない、あまりにそぐわない顔だった。
 少女の表情に妙な既視感を覚えて、程無く、その感覚の正体に思い至る。

 ああ――成程。
 二年前の僕も、こんな顔をしていたのか。

「……オルフェノクみたいな顔をしているね」
「え――?」

 予想外の言葉に、一瞬、キャロの顔から険が消える。
 怒り。憎しみ。それら負の感情を満面に顕したその表情を、少年はまるで怪物のようと評した。
 ただの人間に言われるのならまだしも、怪物そのものである衛司の口から言われれば、それは何よりも痛烈な罵倒であり、侮辱となる――そうと理解した瞬間、キャロの眼差しは再び煮え滾るような熱を帯びて、今度は衛司にも向けられる。

「ちょっと、衛司さん……! それは――」
「悪い、エリオくん。二人をよろしく」

 キャロの代わりとばかりに噛み付くエリオを冷淡にあしらって、衛司は再び蜥蜴男との距離を詰めていく。
 蜥蜴男の側も衛司を敵性体と認識したか、自らカイザへと向かってきていた。四つん這いの姿勢でありながら挙動は俊敏、その足捌きはカイザの間合いに入るなり更に精妙の度を増して、敵の死角へと滑り込んでいく。

 だん、と地を蹴って、蜥蜴男が飛び掛った。瞬間、衛司は上体を捻り、ブレイガンの銃口を敵へと向ける。狙い済ました光弾の連射が、突貫する蜥蜴男へと殺到する。
 だが光弾はことごとく蜥蜴男の外皮に弾かれ、周囲の地面を穿つのみ。標的の外皮強度を、衛司は見誤っていたのだ。
 戦慄と驚愕が衛司の挙動を僅かに鈍らせ、空白の一瞬に、蜥蜴男はカイザの眼前へと踏み込んでいた。大きく裂けた口が、敵を丸呑みにせんと広がって――半歩だけ身を引いたカイザの左腕を、がぶりと上顎と下顎で挟みこむ。

「ぐぅっ……!」

 装甲と強化繊維に覆われた腕が、しかし人外の咬力にめきめきと軋みを上げる。食い千切られると言うよりは圧搾される感覚に、衛司の口から思わず呻き声が漏れた。
 しかも蜥蜴男の攻撃は、ただ噛み付くだけに留まらない。カイザの腕に噛み付いたまま、蜥蜴男はぶんと首を振った。人間一人と強化服を合わせた重量がまるで紙切れの如く振り回され、大きく弧を描いて地面に叩きつけられる。
 蜥蜴男にしてみれば絶好の好機。何度も何度も何度も何度も、蜥蜴男はカイザの身体を振り回し引きずり回し、幾度と無く地面に叩き付ける。

「こ――んの、野郎っ!」

 上腕の半ばほどから飲み込まれた左腕。もう感覚がなくなりかけてきた腕が、蜥蜴男の口内で何かに触れた。ぬるりと蠢くそれは蜥蜴男の舌。咄嗟に衛司は舌を掴み、渾身の力で握り締める。
 舌という器官は感覚神経の塊だ。そこに圧力を加えられれば、どんな生物であっても一瞬動きを止める。フォッグ怪人である蜥蜴男もまた例外ではなく、びくりと一度痙攣して、その身を硬直させた。
 蜥蜴の咬力が僅かに緩む。その機を逃さず、衛司は一気に腕を引き抜いた――蜥蜴男の舌を、掴んだまま。
 びづん、と嫌な音が響く。その手に掴む赤黒い肉塊は、埒外の膂力が千切り取った舌肉。蜥蜴男の漏らす猛々しい唸り声が、悲鳴染みた絶叫へと切り替わる。

「……ふん。みっともない悲鳴だね、蜥蜴男」

 びくびくと痙攣する舌肉を投げ捨て、せせら笑うような言葉を投げつけて、衛司は悶え苦しむ蜥蜴男を殴りつけた。一発だけではない、二発、三発と、拳は止まるところを知らず怪人を殴打する。
 殴りつけた拳が、踏み込む足が、いやカイザの総身が、蜥蜴の口から溢れる鮮血に塗れて赤黒く汚れていく。

 蜥蜴男は戦意を失ったか、身を丸めて完全な防御体勢。蜥蜴と言うよりはアルマジロだな、と暢気な感想を抱きつつも、衛司はブレイガンの銃口を敵へと押し当て、引鉄を引く。
 この至近距離、光弾は弾かれる事無く蜥蜴男の外皮を貫いて――噴水の様に鮮血を噴き上げ、カイザの姿をより一層血肉で汚した。 





◆      ◆







「…………ひどい……!」

 眼前で繰り広げられる凄惨な光景に、ギンガが思わずそう漏らす。
 ギンガが衛司の戦う姿を見るのは、これが三度目。一度目はミッドチルダ総合医療センターで、二度目は衛司の正体が知れた時の大喧嘩。ただそのどちらもギンガは衛司と直接相対する立場に居た訳で、第三者として彼の戦いを見守るのは、これが初めての事と言えた。
 人畜無害な少年。オルフェノクという本性を知った後でも、ギンガが衛司に抱く印象がそれと大差ないものであったのは否定出来ない。ギンガ達を庇うかのようにフォッグ怪人との戦闘に入った時も、衛司が果たして戦えるのかどうか訝る気持ちさえあった。

 それが今は――嫌悪感に、吐き気すら覚えている。
 戦意を失った敵を、何度も何度も打ち据えるその姿。血肉に塗れてなお殴る手を止めないカイザの姿は、ギンガの倫理ではとても許容出来ないおぞましさに満ちていた。……それが親しい少年の行為であるから、尚の事。

「ひ、酷すぎますよ、あんなの……! フォッグの怪人が相手だって言っても……!」

 エリオもまた、ギンガと同様の嫌悪を覚えていたらしく、青褪めた顔で呟いた。例え怨敵を相手としても礼節を重んじるのがベルカの騎士道。槍騎士を目指す少年にとっては、衛司の凄惨な戦いぶりはギンガ以上に受け入れ難いものであっただろう。 
 だが。

「……ひどくなんか、ない」
「キャロ?」
「ひどくなんか、ないよ」

 ぼそりと、キャロが呟いた。
 俯きがちに衛司と、衛司に傷つけられる蜥蜴男を睨みつけて――少女は呪詛の如く、静かに、かつ熱を孕んだ声で呟く。

「衛司さんも、蜥蜴の人も……ああなって、当然だもの」

 陸士部隊の人達を傷つけたのだ、蜥蜴男には当然の応報だ。
 衛司はオルフェノクだから、あの凄惨な戦いぶりも当然。
 そしてキャロには、衛司のような戦い方は出来ない。あそこまで残虐にはなれない。なれば逆説、キャロ・ル・ルシエは、オルフェノクからは縁遠いはず。

 オルフェノクのような顔をしている――衛司が漏らした一言が、いまキャロの中で酷く重い。断じて認める訳にはいかない、認めたくない。
 衛司個人は別に嫌いではない。オルフェノクを見下したり差別する気持ちも無い。だがそれでも、人を襲い、闘争を快なりと悦ぶ怪物どもと同列に並べられるのは、我慢ならない。
 ……キャロのそんな思考は、傍で見守るギンガやエリオの目からしても瞭然だった。唇を噛んで怪人と仮面の男を睨みつける少女の表情から、その内心を推し量るのは、まったく容易い事だった。

「…………。――何を……!?」

 視線を衛司へと戻せば、彼は蜥蜴男への銃撃を中断し、敵の頭部を掴んで身体を引き起こすところだった。
 銃型兵装の銃把下部から伸びる刃が、鈍い駆動音を立てて輝く。衛司の意図は明らかだった。もう完全に戦意を失った蜥蜴男の首を、止めとばかりに斬り落とす気だ。

「――っ!」

 思わず、ギンガは飛び出していた。
 ブリッツキャリバーの最高速が瞬時に衛司との距離を詰め、今にも振り下ろされんとするカイザの腕を掴む。

「……放してくださいよ、ギンガさん。これじゃ、殺せない」
「駄目……駄目です、衛司くん! こんなやり方、こんな戦い方……! 衛司くんらしくありません!」

 ギンガの制止を聞き入れた訳ではないだろうが、彼女に掴まれた衛司の手が、得物を掴んだままゆっくりと下げられる。同時に反対側の手も、蜥蜴男の頭を離し、怪物の身体を地面へと落とした。
 衛司の反応に安堵するギンガだったが、次の瞬間、その安堵はあっさりと吹き飛ばされる。
 結城衛司の面貌を覆う鉄仮面。紫に輝く複眼の向こう側から、少年の視線を感じ取ったのだ。……苛立ちに塗れた、相手を邪魔者と批難する視線。ある意味では、それこそ“衛司らしくない”視線であった。

「僕らしくない――か。じゃあギンガさん、僕らしい戦い方って、なんですか」
「え……?」
「お綺麗に、お行儀良く、黙々と戦えば、それが僕らしいんですか。……そんな戦い方、一度もした事がないのに」

 言葉こそギンガの無知を責めるかのような調子だったものの、それは酷く、自嘲的な声音で満ちていた。
 魔導師のように非殺傷の魔法を使う事も出来ず、ただ凄惨なだけの殺し合いしか演じられぬ己への嘲り。翻ってそれは、殺す事なく敵を御せる魔導師への羨望が含まれてもいる。 
 衛司にとっては、これが“普通”であり“当然”なのだ。それを共有出来ない者が、どうして彼の戦いぶりを、彼らしくないと言えるだろう。
 ――だが。

「そうじゃない……そうじゃありません! 衛司くん、優しい人じゃないですか! そんな衛司くんが、どうしてこんな、酷い戦い方を――」
「……優しい?」

 いかにも慮外な事を聞いたと言わんばかりに、衛司が鸚鵡返しにそう口にする。

 他人の目に己がどう映っているのか、人間誰しも、それを知りたがるものだ。
 だが他人からの評価が自身の想像から完全にかけ離れていた時、人はそれをすぐには許容出来ない、理解出来ない。
 この時の衛司もまた、その通りであったのだろう。ギンガからの『優しい人』なる評価をいったいどう受け止めれば良いものか、内心で困っているのが仮面越しにも見て取れる。

「違う」

 それでもやがて、少年は言葉を搾り出す。――ギンガからの評価を、否定する。

「違うよ、ギンガさん。僕は――」

 が、その言葉は不意に途切れた。何かに気付いたかのように、彼の言葉と挙動は急停止した。
 そして次瞬、カイザは猛然と前へ踏み込んで――ギンガの身体を、突進の勢いそのままに突き飛ばす。
 バリアジャケットを展開したままだったのが幸いした。ギンガを突き飛ばす勢いも、大きく弾かれて地面に叩きつけられる衝撃も、その大部分が緩和された。
 ただギンガの思考は混乱の極みだった。いきなり何をするのか。て言うか突き飛ばした時に妙なところ触らなかったか。
 衛司の暴挙を糾そうと、素早く体勢を整えた、その時。

 ギンガの耳を強烈な衝撃が襲った。それは周辺の大気を丸ごと弾き散らすかのような、猛烈な爆音だった。
 同時に、衛司の身体が見えない何かに吹き飛ばされて宙を舞う。受け身も取らずに地面に叩き付けられ、二度三度と転がった挙句、大の字になって仰臥する仮面の少年。

「…………っ!?」

 爆音の正体は一目瞭然。
 舌を引き抜かれ、総身を零距離の銃撃に引き裂かれた蜥蜴男が、やおら立ち上がって声の限りに咆哮を轟かせたのだ。
 フリードを昏倒させ、周囲の火災を一瞬で吹き散らした爆裂の咆哮。ただし先の一声が野放図に声を爆裂させたのに対し、今度のそれはある程度の指向性を持たせて放たれた。最早それは音と言うよりは、集束された衝撃波であった。
 狙いは言うまでもなくカイザただ一人であり、幸いと言うべきか、ギンガの被害は軽い耳鳴り程度。……だからこそ、衛司の被害がどれだけ甚大であるか、想像するのは容易かった。

「ぎ……ぐ、ぎぎ」

 蜥蜴男の狙いはこれだった。文字通りに肉を斬らせ、罵倒に耐えて、反撃の機を窺っていた。……その隙が、ギンガが介入する事で生まれたのは、皮肉と言う他ないが。
 立ち上がれぬ衛司へと向けて、蜥蜴男が飛び掛る。蜥蜴の持つイメージとはかけ離れた、軽やかな跳躍。着地点は無論カイザの上、ずしんとその重量が重力加速と合わせて、衛司の身体に圧し掛かる。
 馬乗りになった蜥蜴男は、間髪入れずに殴打を開始した。先の意趣返しと言わんばかりの、拳の弾幕。

「は――離れなさいっ!」

 さすがに、これを看過出来るギンガではなかった。
 咄嗟に叫んで飛び出せば、ぎろりと蜥蜴男の視線がギンガを捉える。爬虫類特有の、温度の無い視線に嫌な寒気を覚えるものの、その程度では彼女の足は止まらない。

【Exceed Charge.】

 だが。ギンガが蜥蜴男を間合いに捉えるよりも一瞬早く、無機質な電子音声が彼女の耳朶を打った。
 次いでばしん、と電撃が爆ぜる様な音。カイザに馬乗りとなっていた蜥蜴男が、何かに縛り上げられたように挙動を凍らせる。
 体表に走る光の縛鎖。腹に押し当てられた銃型兵装の銃口。それがカイザの――衛司の仕掛けた何かである事は、最早疑いようがなかった。

「――らぁあっ!」

 血に塗れた、くぐもった咆哮。
 蜥蜴男の身体が蹴り上げられ、硬直した態勢のまま宙に浮く。

 カイザが身体を跳ね起こし、蜥蜴男を追って跳躍する。ブレードを構え、眼前に発生する『Χ』字の光錐に身体ごと飛び込んで、彼の身体は消失し――次瞬、蜥蜴男よりも更に上方で実体化する。
 中空に、爆炎の華が咲いた。
 木っ端微塵に爆散した蜥蜴男の破片が、ばらばらと雨のように降り注ぐ。中空で一回転し、体勢を整えたカイザもまた、静かに地へと降り立った。

 しかし着地した次の瞬間、カイザは膝を折って蹲った。明滅する光と共に強化服が消失し、骨組みのようなラインも、ベルトに引き戻されていく。

「げはっ! が、ごふっ……! ~~~~っ……!」
「衛司くんっ!?」

 激しく咳き込む衛司。口から滴る鮮血が、足元の地面を赤黒く濡らしていく。
 蜥蜴男の放った衝撃波が、強化服越しにも衛司の内臓に甚大なダメージを残していたのだろう。さすがはフォッグ怪人と讃えるべきか。

「動かないでください。今、治癒魔法をかけますから。……ごめんなさい、わたしのせいで」
「別に、ギンガさんのせいじゃ――そんな事、より、も」

 前線で戦う都合から、ギンガも多少の治癒魔法は嗜んでいる。負傷の度合いからすれば治癒どころか、多少の痛み止め程度にしかなるまいが。
 しかしそれよりも優先すべき事があると、少年は顔を上げた。その視線は彼方、未だ戦闘が続き、立ち込める土煙に覆われた一角へと向けられている。

「カルタスさんは、まだ戦ってるんですか」





◆      ◆







 実際のところ、現状のミッドチルダで、ラッド・カルタス以上にデルタギアを使いこなせる人間はまず居ない。
 勿論、それはデモンズ・イデアの禁断症状を度外視しての話だ。だがその前提があるならば、恐らくはオルフェノクであっても、彼ほどにデルタギアの……特殊装甲強化服の扱いに長けた者は居ないだろう。
 才能があったと言うしかない。才覚を持ち合わせていると言う他ない。デルタギアへの適性という最大の条件をクリアしていない彼が、デルタの運用において誰よりも長じているというのは、何とも皮肉な事実であった。
 だからこそ。フォッグ怪人・蜂女と相対する今も、彼は一歩も退かず真っ向勝負を演じられていた。

「……奴め、どういうつもりだ……?」

 ただ――一見して“良い勝負”なのは、蜂女の側に理由があるとも言える。
 蜥蜴男と分断し、一対一の戦闘に持ち込んだは良いものの、蜂女は散発的に飛針を射掛けてくるだけで、一向に仕掛けてこようとしない。その癖、ラッドの側から間合いを詰めようとすれば応分に退いて、一定の距離を保っている。
 時間稼ぎ……? 否、それも考え辛い。時間稼ぎというのは、時間の経過で敵戦力の低下か、或いは自軍に援護が見込めるからこそ有効な方策だ。そのどちらも、今、この場では望むべくもない。

〖――。……、……〗
「……!? なんだ……!?」

 不意に、ぴたりと蜂女が動きを止めた。
 同時にラッドの中で湧き上がる、言いようのない悪寒。――仕掛けてくる、それだけがはっきりと解った。
 ラッドの予測を裏切らず、蜂女はたんと地面を蹴ったかと思うと、瞬時に加速。ラッドへの距離を詰めてくる。

「っ!」

 腹部に強烈な衝撃――すれ違いざまに何らかの攻撃が加えられたらしいとは、ラッドも推察出来た。
 痛みに身を折るより、反撃の態勢を取った事は賞賛されるべきか。駆け抜けていった蜂女の背中へデルタムーバーを向け、バーストモードの三連射。

 ――当たらない。幾らフォッグ怪人とは言え、背中に目玉が付いている訳でもないのに、背後から撃ったはずの光弾はするりするりと躱される。その不可思議に瞠目した瞬間、蜂女の放った飛針がデルタの胸部で炸裂、激しく火花を散らした。
 こちらの攻撃は躱される。あちらの攻撃は当てられる。理不尽とも思える敵の反応に、ラッドは先刻まで蜂女が取っていた、消極的な戦法の意味を悟る。

「観察していたと――そういう事かっ……!」

 デルタの、ラッドの一挙一動を観察し、彼に出来る事、出来ない事を把握する。怪物然とした外見からは想像も出来ない慎重さ、周到さは、蜂と言うよりも罠を張って待ち受ける蜘蛛を彷彿とさせた。
 完全に絡め取られた――そう理解していても、ラッドの処方は引鉄を引く以外に有り得ない。光弾の連射は全て蜂女へ殺到するものの、そのことごとくが紙一重で回避される。

 優雅なまでの回避機動を保ったまま、蜂女はデルタに肉薄。せめて一撃と振り薙がれたデルタの腕をあっさりと回避し、カウンター気味の掌底打を腹部に叩き込んだ。
 如何なる身体運用の賜物か、ただの掌打はデルタの身体を軽々と吹き飛ばした。ずしりと内臓に重圧を感じる。強化服を通して、衝撃を体内に伝える技法……怪人にしては随分技巧派だと、ラッドは唇を噛む。

「当たらんし、防げん……フラストレーションが溜まるものだな、これは――ぐぉっ!」

 そう愚痴った直後、更なる衝撃がラッドを襲う。
 一撃で仕留めるつもりはないのだろう、執拗なまでに徹底した一撃離脱の繰り返し。
 成程、これが実戦か。デルタとなって初めて経験する“苦戦”に、知らず、ラッドは笑みを浮かべていた。
 鼓動が早くなる。反して思考は清々と冴えていく。デモンズ・イデアに闘争本能を刺激されながら、尚も冷静な思考を維持出来る……これこそ、ラッド・カルタスをデルタの使い手として突出させる要因であった。

【Ready.】

 バックルからミッションメモリーを抜き取り、デルタムーバーに装填。銃身が伸長し、ポインターモードへシステムが切り替わる。

「少しばかり、荒っぽくいかせてもらう――悪く思うな、蜂女!」
【Exceed Charge.】

 体表のフォトンストリームを伝って、圧縮されたフォトンブラッドがデルタムーバーへと注入される。
 撃ち出される光針。数秒の間中空を奔ったそれが傘の如く展開、三角錐状へ変形する。だが問題は、それが蜂女とはまるで関係ない、明後日の方向へ放たれた事。

「チェック!」
【Exceed Charge.】

 そして展開した光錐をそのままに、ラッドは再度デルタムーバーから光針を放ち、新たな光錐を展開させる。これもまた蜂女からはかけ離れた方向。意図の掴めぬ奇行に警戒を促されたか、蜂女が動きを止めた。
 仮面の下でほくそ笑む。狙った通りのリアクション――蜂女は予想だにしていないだろう、罠にかかった獲物が、罠の底で反撃の罠を仕掛けている事など。

【Exceed Charge.】
【Exceed Charge.】
【Exceed Charge.】

 次々と展開していく光錐。総数五つの光錐が、ラッドの前方に陣を描く。
 何かを仕掛けてきている。蜂女も気付いたのだろう、それが脅威となる前に敵を叩くという腹か、一気に距離を詰めてくる。

「それが、最後の一手だ」

 蜂女の動きが――止まる。否、固まる。
 ぎしりと何かに絡め取られ、攻撃態勢のままで不自然に硬直する。
 それは突風にも似た強烈な乱気流だった。吹き荒れる颶風が、いま蜂女の総身を縛り上げていた。

 デルタの必殺技『ルシファーズハンマー』発動プロセスの第一段階。まず光錐を標的の眼前に撃ち込む事で、引き裂いた空気が生み出す即席の乱気流が敵の挙動を縛る。
 ラッドが仕掛けたのも原理的にはそれと同様だった。正面から光錐を撃っても躱されるなら、複数の光錐の重ね合わせによる広域の乱気流で、敵の動きを縛るという目論み。
 果たしてそれは見事成功。ラッドの正面、光錐の配置によって気流の勢いが最も強くなる一点に蜂女は捕えられ、防御も回避も出来ぬ状態に追い込まれている。

「喰らえっ……!」

 標的に放たれる、無慈悲の光弾。
 デルタムーバーの連続射撃限界、十二発の光弾が、一つの過ちもなく蜂女を撃ち貫く。
 血煙すら気流に吹き流され、ただ貫通銃創だけを穿たれた蜂女が、がくりと力なく崩れ落ちた。光錐が霧散し、気流が消失して、その死体が無造作に地面へと落下する。

 大きく息を吐く――戦闘が終わった事で、今更のようにラッドの身体はダメージを思い出した。全身に疼痛を覚え、気を抜くと思わず膝をついてしまいそうになる。
 と。そこでラッドの耳は、近付いてくる駆動音を捉えた。顔を上げれば、藍紫に輝く光の帯がこちらに向けて伸びてくる様が目に入る。ギンガの展開したウイングロードであると、すぐに知れた。

「カルタス二尉っ!」
「ギンガか。……その分だと、衛司くんの方も片付いたらしいね」
「あ、はい。――その、二尉……ですよね?」
「うん?」

 いまいち意図の読めないギンガの質問に、ラッドは直接答える代わり、変身を解いた。ラッド・カルタスの姿が露わになって、ギンガの前に晒される。

「見ての通りだよ。心配かけてしまったみたいだな、すまない」
「い、いえ! なんて言うか、二尉が戦ってるというのが、その……」
「――ああ、そういう事か」

 言い淀むギンガの姿に、ラッドは彼女が何を言いたいのかを悟る。
 ギンガの認識では、ラッドは後方支援を行う非魔導師でしかないのだろう。怪人と一対一で戦い、それを打倒する男は、そのイメージからかけ離れている。俄かに信じられなくても無理はない。

「大丈夫だよ、ギンガ。俺は戦える。それより、衛司くんはどうなった? 蜥蜴の方は片付いたかい?」
「は、はい! けれど酷い怪我で……いえ、わたしのせいでもあるんですけど――今はエリオくんとキャロちゃんにお願いしてます」
「そうか。じゃあ早いところ彼等と合流しよう。フォッグの怪人が現れたとなれば、ここも安全じゃない。陸士部隊の皆も気になるからね」

 ラッドの指示にギンガは頷いて、再びウイングロードを展開。ラッドへと手を差し伸べる。
 その手をラッドが取った瞬間、ブリッツキャリバーが唸りを上げて急加速。男の身体を凧のように引っ張って、元来た方向へと走り去っていった。





 打ち捨てられた蜂女の死骸――否、実際のところ、蜂女はまだ絶命してはいなかった。
 とは言えそれも時間の問題。デルタの放った光弾はことごとく急所を撃ち抜いている。即死に至らなかったというだけで、彼女の末路に変わりはない。
 残されたほんの僅かな時間。それを、彼女は帰還へと費やした。ずるずると地面を這いずって、フォッグ・マザーへと戻っていく。辿り着くまで保つ命ではないと知りながらも、せめて母の懐に少しでも近い場所で。
 だが。そんなささやかな望みさえ、冷徹に摘み取られる事となる。

〖…………!?〗

 ぎちりと、肉と金属が擦れ合うような音。それが足音であると気付くまでに、数秒の時間を要した。
 眼前に何かが佇んでいる。途切れかける思考、朦朧とする意識で頭上を見上げた蜂女は、そこにフォッグ怪人に比肩する異形の風体を見た。

 生物のような機械のような、ぬめりと金属の光沢を併せ持った皮膚。
 蟲のような獣のような、無機質でありながら獰猛な印象を与える面貌。

 それがネオ生命体ドラスと呼ばれる存在であると、彼女は終ぞ知る事はなかった。

〖みつけた。きみ、おいしそうだね〗

 怪物然とした外見からは想像もつかない、童子のような甲高い声。
 ドラスが伏した蜂女を掴み上げ、視線の高さにまで引き上げる。光を失いかけた蜂女の目を覗き込むドラスの瞳は、硝子球のようでいて不思議な眼光を宿していた。

〖いただきまあす〗

 開花する花弁の如く、ドラスの胸が割り開かれる。剥き出しになった胸部の奥で亡と輝く緑色の光。じわりと空間に滲出してくるそれが、吊り下げられる蜂女へと伸びて、その身体を包んでいく。
 やがて満遍なく光は彼女を覆った。すると蜂女の輪郭が少しずつ薄れてぼやけて、光の中へと溶けていく。
 消化されている、喰われている。つまりこの光は胃酸であり消化液。対象を消化吸収する為に分泌されるもの。

 気付いた時には遅かった。元より瀕死のその身体、どのタイミングで気付いても抵抗は出来なかっただろうが、捕食される恐怖――生物に共通の恐怖を自覚した瞬間には、最早彼女の身体は実体を失っていた。
 蜂女の身体を溶かし尽くした光が、ドラスの胸に引き戻される。捕えた獲物の体液を啜る蜘蛛のように、光に分解した獲物を胸部で嚥下する。それこそが、ネオ生命体ドラスの“食事”であった。

〖…………あれえ?〗

 が――捕食を終えたドラスが、外見にそぐわぬ可愛らしさで小首を傾げる。
 これは違う。予想していた味と違う。飴玉を舐めたら魚の味がしたようなものだ、その違和感がネオ生命体に首を傾げさせる。
 ……不味い。それも吐き戻すほど強烈な不味さではなく、何とか飲み込めなくもないという、どうにも中途半端な不味さ。
 当然、そんなもので腹が膨れるはずもなく――

〖おいしいものがたべたいなあ――おいしいもの、どこかなあ〗

 満たされれば贅を覚える。
 生存に直結しない捕食は快楽の追求に過ぎない。
『美食』を覚え、快楽の何たるかを知って、ネオ生命体はまた一つ、人間へと近付いた。



 ふわりと異形が宙に浮く。重力の縛りを忘れ、ドラスは渉猟を再開した。
 彼方に獲物の匂いを感じる。あれは、そう、いつか食べ損ねた何かの匂い――





◆      ◆







 実際問題、キャロやエリオ、ギンガ達がフォッグ怪人を打倒出来るかと問われれば、キャロは否と答えるより他にない。
 善戦は出来るかもしれない。食い下がる事は出来るかもしれない。日頃の苛烈な訓練と、『JS事件』を潜り抜けた経験は、その程度の自負をフォワード陣に許している。

 だがやはり地力が違う、生物としての格が違う。蜥蜴男と蜂女、彼等を相手に勝利するビジョンが、キャロ・ル・ルシエには浮かばない。
 半ば暴走状態の、換言すれば一切の加減が為されていない状態のフリードが放った業火の中で、なお悠然と佇んでいたのだ。それだけで敵の実力は概ね測れる。自分達が勝てる相手かどうか、凡その推察も出来る。
 故に。蜥蜴男の戦いを終え、エリオに支えられるようにして戻ってきた衛司の姿は、キャロにとってはさして予想外なものではなかった。

「大丈夫ですか、衛司さん……?」
「なんとか、ね。ごめん、手間取らせちゃって」

 げほ、と咳き込みながらエリオに応える衛司の声は、言葉とは裏腹に弱々しい。浮かべる苦笑も痛みのせいか、どこか引き攣って見える。
 蜥蜴男を打倒した代償――集束された衝撃波によって全身に、とりわけ内臓に甚大なダメージを被っている。咳き込む度に口元から鮮血を滴らせる様を見れば、負傷の度合いがどれほどのものであるかはすぐに知れた。

「キャロ、治癒魔法を……!」
「う、うん」

 さすがに限界か、その場に座り込んでしまった衛司へとキャロは駆け寄って、彼へと掌を翳す。
 だが、掌の先に発現するはずの魔法陣が、一向に現れない。治癒魔法が発動していない。

「キャロ?」

 不審に思ったエリオが、怪訝な顔で覗き込んでくる。
 魔法が発動しない理由は、キャロにも解っている――自分の事だ、誰よりも良く解っている。
 衛司に言われた事が、まだキャロの中で、消化しきれずに残っているのだ。受け流す事も受け入れる事も出来ないままで、魔法など使えるはずがない。
 オルフェノクのような顔をしている。当のオルフェノクから言われたその一言が、キャロの手を止めさせる。

「……いいよ。僕は、大丈夫だから」

 数秒の沈黙。やがて翳されたままの掌を、衛司の手が静かに押し退けた。
 俯いて衛司を見ようともしないキャロを、少年は咎めようとしなかった。そも、咎める権利など彼に有りはしないのだから、それは当然の事。だが言葉一つ、一瞥すらくれようとしない彼の態度は、本人の自覚はどうあれ無言の批難でしかなかった。
 そんな態度を見せられれば、キャロとて意固地になって当然。口をへの字に結んで少女はそっぽを向き、重い空気に居た堪れないエリオがおろおろと二人の間で視線を往復させる。

 やがてそんな空気に割って入るように、何処かから車輪の音が響いてくる。顔を上げればウイングロード上を滑走するギンガと、それに捕まり引っ張られてくるラッドの姿が目に入った。どうやら蜂女との戦いも、無事に終わったらしい。
 ラッドの顔は痣だらけで、恐らくは服の下も同じような有様と窺えたが、ウイングロードを降りて歩み寄ってくる足取りを見ればさして重篤な怪我ではないと知れた。

「キャロちゃん、今いい? カルタス二尉に治癒魔法を――どうかしたの?」

 駆け寄ってくるギンガが、キャロと衛司の間にある重苦しい雰囲気に気付いて、怪訝に目を瞬かせる。

「何でもありませんよ」
「何でもないです」

 言い返すそんな時ばかり気が合って、もう処置なしとばかりに肩を落とすエリオの仕草だけが、何があったのかを雄弁に語っていた。 

「もう。何してるんですか、二人とも――ん?」

 呆れたように声を上げるギンガが、ふと何かに気付いて空を見上げる。
 同時に、ぽつ、とキャロの頬を水滴が打った。雨だろうかとギンガ同様に空を見上げてみるが、そこには薄くたなびく雲はあるものの、概ねにおいて晴れ渡った蒼穹が広がるばかり。
 何の気なしにキャロは頬を指で拭って、その指先に違和感を覚え――

「ひっ……!?」

 短い悲鳴。
 頬についた水滴を拭ったその指先が、真っ赤に染まっていた。更にその手に、ぽつ、ぽつと赤黒い水滴が落ちていく。
 今度は恐慌によって再度空を見上げたキャロの頬に、赤い水滴がまた一つ。……否、もう数えるまでもなかった。次の瞬間にはざあと真紅の雨粒が、スコールのように降り注いだのだから。

「こ、これ――これって――」
「血の雨……!?」

 呆然と呟くエリオ。
 愕然と呟くラッド。
 ぬるりと肌を伝っていく血液の感触はまるで蛞蝓に這われているかのようで、言いようのない不快感を覚えさせる。むわりと鼻を突く生臭い血臭は、それだけで肺の内側を腐らせ、爛れさせていくかのようだ。
 何もかもが血色に染まるその光景は、ホラー映画などとは比べ物にならないほどにおぞましく。
 誰もが悲鳴を忘れた。非現実的な異常現象に、恐怖を抱く事すら忘れていた。視覚、嗅覚、触覚を蹂躙する血の雨に、少年少女達は絶句したまま立ち尽くすより他になく――そして。

「…………ッ!」

 びちゃん、と血溜まりを踏みしめる足音。 
 鮮血のスコールが赤く覆う景色の中を、悠然と歩み寄ってくる異形の人影。
 その姿を知っている。その脅威を覚えている。冷たい汗が、キャロの背筋を凍らせる。
 やがて不意に、雨はあがった。鮮血のエフェクトが取り払われ、明瞭になった視界の中で、少女の目ははっきりと怪物の姿を認識する。

「…………ドラス」
〖あははっ! みつけた! みーつけた!〗

 嬉しそうに、宝物を見つけた子供のように嬉しそうに、怪物――ネオ生命体ドラスが声を上げる。
 後腰から伸びる尻尾が何度も地面を叩く。威嚇ではないだろう。ただ純粋に、犬のそれと同様、怪物の喜悦を顕しているのだ。
 何を『見つけた』のか、誰もが理解していた。確認するまでもなく、“標的”は立ち上がって、怪物と正面から相対していた。

〖うん。このまえよりもおいしそう。たべたいなあ、たべてみたいなあ――きっと、きみはおいしいだろうなあ――〗
「……ふうん。胃袋キャラに鞍替えしたんだ、お前。――元からだっけ?」

 比喩か直言か、標的を指して食材の如く評する怪物へ、少年が――結城衛司が挑発的に鼻で笑って応える。
 一歩二歩、衛司がドラスへと歩み寄る。だがその足取りは酷く頼りない。挙措の一つ一つに、微妙な歪みが残っている。
 蜥蜴男から受けたダメージは、たかが数分の休息で回復するようなものではない……彼が戦えるコンディションにないのは、傍目にも明らかだった。 

「え、衛司さん!」

 少年を止めようと前へ踏み出したエリオを、その時耳障りなノイズが制した。鼓膜を引っ掻くような砂嵐が響き、やがてそれに混じって、人の声が聞こえ始める。

『……な……聞こえ……応答……』
「この声――なのはさん!?」

 彼が握る愛槍ストラーダから発されるそれは、キャロのケリュケイオン、ギンガのブリッツキャリバーからも同様に鳴り響いて、魔法使い達に呼びかけている。
 通信妨害の影響か、展開されるウィンドウは砂嵐しか映らないものの、音声だけは程なく明瞭に聞こえ始めた。

「なのはさん、ギンガです! エリオくんとキャロちゃんも一緒です!」
『ギンガ!? 良かった、無事みたいだね。――これから指定するポイントに集合して! 大至急だよ!』
「え、けれど……!」

 ちらとギンガが衛司を、そして衛司と睨み合うドラスを見遣る。困惑した表情は、彼を放置してこの場を離れるべきか、逡巡しているからだと知れた。

「行ってください、ギンガさん。エリオくんも、キャロちゃんも。……こいつ、僕にだけ用があるみたいですし」
「そうだな。行くべきだ、ギンガ。今の血の雨……あの化物の仕業とは思えん。恐らくはゴルゴムの仕業だ。放置しておく訳にはいかんだろう。――なに、心配は要らないさ。俺が残る」

 ぽんと衛司の頭を叩いてラッドがそう言えば、ギンガもそれ以上食い下がる事は出来なかった。不安はあるが、今の彼女には優先される事が他にある。
 気をつけて、と言い残し、ギンガがウイングロードを展開した。彼方へ向けて伸びていく光の帯に乗って、エリオとキャロに手を差し伸べる。
 フリードは普段の“ちび竜”の姿に戻ってはいるものの、未だ昏倒したまま。移動手段としては使えそうにない。ウイングロードの上を一直線に走っていった方が早いだろう。
 まずエリオが光帯に乗って、次いでキャロにもギンガは手を伸ばし――しかし、キャロはその手を取らなかった。少女の視線は、ドラスと睨み合う衛司にだけ注がれていた。
 やがてぽつりと、少年の背中に向けて、彼女は問いを放つ。

「……衛司さん。わたしは、オルフェノクと同じですか」
「は?」
「オルフェノクみたいって――そう、言いましたよね。それって、あの人達を……フォッグを憎いって思ったからですか」

 憎しみを満面に表して、敵を睨みつける表情。それを指して、衛司はオルフェノクのようだと評した。
 しかし、だとするのなら、キャロにはどうしても納得がいかない。憎しみも、怒りも、人として当然の感情だろう。どんな聖人であっても抱える感情だろう。
 それを表に現して、それを怪物のようだと言われるなんて――

「憎いって思っちゃいけないんですか? 誰かを傷つけて平気な顔をしているあの人達を、許せって言うんですか!?」

 ――そんなの、理不尽すぎるじゃないか。
 果たしてキャロの詰問に、衛司は渋い顔をして――その直前、一瞬だけ、哀しそうな顔を見せたのは気のせいだっただろうか――ゆるりとかぶりを振った。

「誰かを嫌ったりとか、さ。憎いって思ったり、許せないって思ったり……いいんじゃないかな。人間だしさ、そういう感情は誰にだってあるよ」
「……?」

 予想外の肯定に、曖昧にはぐらかそうという意図を感じ取ったのか、キャロの眼差しが険を増す。

「けどやっぱり、それは怪物の領分だよ。憎悪を肯定する人間は、もう人間じゃない。――自分のいちばん醜いところを『仕方ない』とか『当然だ』って肯定する人間は、そのうち、自分が人間じゃなくなっても……人間を踏み外した時も、同じ様に『仕方ない』や『当然だ』で済ませるんだ」

 この少年にしては、妙に明瞭な断定。反論の余地を許さない、異論を受け入れないという意思が滲み出る言葉だった。

「キャロちゃんは……エリオくんも、ギンガさんも、スバルさんやティアナさんも、みんなそうだ――誰かの為に戦ってるんだろ。誰かを衛る為に、さ」

 その言葉の裏にある、焼き付く様な羨望にキャロが気付けたのは、果たして少女の純朴さだけが理由であっただろうか。
 ただ彼女は、その羨望がどういうものであるのか……何に対する羨みであるのかまでには至らなかった。

 衛る力を持つ者への羨みでは無く。
 衛るべき対象、衛りたいと思う対象が居る事への羨望。

 そも、人間とオルフェノク、双方へ同等に失望を抱く者の羨望など、どだい理解出来るはずもなかったのだが。

「だったら、僕みたいな在り方は止めてくれ。出来の悪い再現VTR見せられてるみたいなんだ――その先でどうなるのか簡単に予想出来て、気分が悪いんだよ」

 吐き捨てるような衛司の言葉はどこまでも自分本位の自己中心的で、キャロへの配慮などどこにも見当たらない。
 その図々しさに怒りを覚えるのが、普通の反応だろう。事実、キャロも何かを言い返そうと口を開いた。……だが結局、彼女の口からは何の言葉もなく、差し出されたギンガの手を取って、ウイングロードへと乗った。
 もう言う事はないとばかりに、少年は無言の相対に戻っている。その背中へ最後に一瞥をくれて、少女は走り出した。





◆      ◆







「憎悪を肯定する事が、人外の条件――か。だとしたら君はどうなんだい、衛司くん?」
「……黙秘します」

 言いたくないからではなく、言うまでも無いからこその黙秘。
 加えて、少なからぬ自己嫌悪もあった。何を偉そうに、という思いがどうしても拭えない。相手がキャロであろうと誰であろうと、“経験者”面して物を言えるほど、結城衛司は大層な人間……もとい、大層な人外であったか?

「切り換えろよ。余計な事考えて、勝てる相手じゃないぞ」
「解ってますよ」

 苦笑を浮かべながら、ラッドが頭をぽんと叩いてくる。その手を鬱陶しそうに払って、ふんと一つ鼻を鳴らす。
 ともあれ、ギンガ、エリオ、キャロの三人が走り去った今、この場に残るのは衛司とラッド、そしてドラスの二匹と一人。
 遠ざかっていく少女達の後姿が遂に視界から消え去ったそのタイミングで、ドラスが小首を傾げながら、口を開く。

〖おはなし、おわった?〗
「へ? ……なんだ、待っててくれたのか。意外といい奴だな、お前」

 予想外のドラスの言葉に、数秒、衛司はぽかんと口を開けて――可笑しそうに笑みを零す。怪物然とした風貌に反して、思ったよりも人間臭い。そのギャップが妙に面白い。
 勿論、衛司とドラスは文字通りに喰うか喰われるかの関係だ。楽しいお喋りなど元より望むべくもなく、少年の手には既に『9』『1』『3』の変身コードを入力されたカイザフォンが握られている。
 ――ラッドさんの言う通りだな。頭を切り換えろ……余計な事を考えながら、勝てる相手じゃない。

「変身」
【Complete.】

 少年の姿が強化服に鎧われ、面貌を鉄の仮面が覆う。紫の眼光を標的へと向けて、カイザがブレイガンの刃を翳し、戦闘態勢に入った。

「援護、お願いします」
「ああ、任せろ」

 ラッドもまたデルタのシステムを起動。瞬時に変身を完了し、デルタムーバーの照準をドラスに据えて身構える。
 先のフォッグ怪人との戦いとはまた違う。連携が不得手などと言っていられる状況でもない、数の有利を生かして押し切る事こそが最良。
 張り詰める空気が沈黙をもたらす。衛司とラッドの視線はドラスに注がれ、敵の一挙一動を見逃すまいと凝視する。……まるで断頭台の刃だ。静止していても次の瞬間には、敵の首を叩き落すべく降ってくる――そんな感覚がある。

 ネオ生命体ドラスとの対峙は、これで二度目。
 前回の戦いでは、その存在格差に圧倒され、ただ逃げ回るだけしか出来なかったが――オルフェノクとしての殺傷本能を御し、カイザギアを手に入れ、多少なり戦闘経験を積んだ今ならば。
 こいつくらい簡単に突破出来るようでなければ、臥駿河伽爛には到底届くまい。つまり目の前の怪物は、自身の戦力を測る試金石。
 ブレイガンの銃把を握る手に、知らず、力が篭もる。

「!」

 最初に動いたのは衛司だった。ドラスの肩口、高出力の光線を発するレンズ状の器官。その周囲の皮膚が痙攣するかの如く僅かに蠢いたのを、攻撃の前兆と見て取った。
 果たして次瞬、飛び出したカイザを迎え撃つ軌道で光線は放たれる。だが来ると判っているものをわざわざその身に受けるほど、衛司は愚かではない。翻る右腕。ブレイガンの刃が光線を弾き落とし、あらぬ方向で爆裂させる。
 二発、三発と放たれる追撃の光線も、同様に刃が弾き散らした。速射型の光線では止められないと判断したか、ドラスが僅かに身を強張らせる。右肩に光が集まり始めたところを見れば、次手は集束貫通型の光線であると知れた。

「カルタスさん!」
「応ッ!」

 瞬間、ドラスを襲う横殴りの暴風。――否、デルタムーバーの光弾。
 ドラスの側面に回り込んでいたラッドが、ドラスが光線集束に意識を使う一瞬に連続射撃を放ったのである。
 ぐらりとよろめく標的の懐へ、衛司が一気に飛び込んで、逆袈裟に斬り上げた。ドラスの胸部で激しい火花が散り、返す刀でもう一度斬り付ける。
 だがドラスも黙って斬られてはいない。ブレイガンの刃を無造作に掴み、追撃を封じる。高熱を帯びた刃が掌を焼くも、怪物はそれにまるで頓着しない。

〖つかまえた。にがさないぞう〗
「――ああ、そうかよ!」

 カイザギアによって引き上げられた衛司の膂力と、ネオ生命体の膂力。その力を単純に比べれば――衛司の予想だが――概ね互角というところ。
 だが問題は、カイザギアを使う衛司が万全ではないという事だ。蜥蜴男の攻撃の後遺症、集束衝撃波によって痛めつけられた内臓。腹に力が入らず、なれば当然、腕に力が入るはずもなく。

 それでも衛司はまだ冷静だった。力比べでは勝てないと理解していた。ブレイガンのミッションメモリーを抜き取り、銃把下部のブレードを消失させる。力を込める対象が突然消失し、体勢を崩すドラスの鼻面へ、光弾の連射が撃ち込まれた。
 至近距離からの銃撃、それも急所が集中する顔面だ。只で済むはずがない。
 その観測は、しかしドラスからしてみれば、単なる楽観に過ぎなかったらしい。一瞬だけ動きは止まったものの、すぐさま怪物は手を伸ばし、カイザの首を鷲掴みに掴み上げる。

〖こんどこそ、つかまえた〗

 掴まれた首、頚骨が、埒外の握力にごきりと嫌な音を鳴らす。更に次の瞬間、衛司の視界は回転していた。怪物の桁違いな膂力で振り回されたのだと気付いた時には、彼の身体は地面に強か叩きつけられていた。
 衝撃に血液が逆流する。先の蜥蜴男の時といい、今日はよくよく地面に転がされる。そんな場違いな感想を抱くと同時、未だ少年の首を掴んだままの腕が掲げられ、衛司は宙吊りに引き上げられた。
 カイザの眼前にドラスの顔。鼻先をくっつけるかのような至近距離で、ドラスがカイザの仮面を覗き込む。

〖もうおしまい? もっとあそぼうよ。いっぱいあそんでくれたほうが、おなかがすいておいしくなるよ〗
「……知らないよ、ばーか」

 毒づいた瞬間、衛司の腹に拳が叩き込まれる。言葉の内容ではなく、喋れるほどの余裕があるなら遠慮は要らないだろうと、そういう拳撃だった。
 ただでさえ蜥蜴男の攻撃で傷めていた内臓に、更なる衝撃を加えられ、せり上がった血反吐が仮面の内側にぶち撒けられる。呼吸もままならないほどの苦痛に、衛司の身体から一気に力が抜けた。
 ドラスにしてみれば、軽く小突いた程度なのだろう。予想外の効果に、怪物は首を傾げ――その隙を逃さず飛び掛ったデルタの蹴りが、少年と怪物とを引き離す。

「大丈夫か!」
「だっ……い、じょうぶ、です……!」

 問いかけながらもラッドはデルタムーバーを連射、立ち上がろうとするドラスに容赦なく光弾を撃ち込んでいく。
 大丈夫とは応えたものの、実際、それは虚勢にも程がある、単なる強がりでしかなかった。手足に力が入らない。内臓が総て溶け崩れたかのように気持ち悪い。次から次と零れる血反吐が仮面の隙間から漏れ出して、あたかもカイザそのものが血を吐いているかのようだ。

 ラッドもそれが虚勢であると見抜いたのだろう。だがそれを糺す余裕は彼にもなかった。
 光弾をものともせずに歩み寄ってくるドラスを前にしては、大人しく寝ておけなどと言えるはずもなかったのだ。

「ちっ……さすがに頑丈だな」
「か、るたす、さん……!」
「黙っていろ。喋らなくていい――俺の話だけ聞いておけ。いいか、衛司くん。俺が突っ込んで隙を作る、そこにでかいのを叩き込め」
「……! でも、それ、じゃ」

 それでは、ラッドの命が保障出来ない――衛司が言うべきは、そういう言葉であった。
 だが違った。衛司の口からはラッドの身を案ずる言葉はおろか、彼の策を了承する言葉すら出ていかなかった。
 その時の衛司にあったのは、理由の判らない違和感だった。ラッドを犠牲に勝利を得る、ただそれにのみ違和感を覚えていて、ラッドの安否などは二の次でしかなかった。
 当のラッド・カルタスは、それに気付いていない。

「勝つにはそれしかない。――俺の心配は要らん。いいな、外すなよ!」

 衛司の意思を問う事なく、ラッドはデルタムーバーを腰に戻し、二つの拳でドラスへ殴りかかった。
 徒手空拳と言えど、デルタを纏った今ならただの拳もトン単位の破壊力を持つ凶器となる。ましてラッドは衛司と違い、管理局において戦闘訓練を受けた本職だ。

「おォ!」

 鋭い拳撃がドラスの顔面を捉える。拳を振り抜いた勢いで身体を捻り、その反動を利用したボディブローを腹部に叩き込む。
 ドラスの身体がくの字に折れ、更なる一撃をと振り被った瞬間、彼は横合いからの強烈な衝撃に弾き飛ばされた。ラッドの死角を回り込むように伸びていたドラスの尻尾が、デルタに痛烈な一撃を叩き込んだのだ。
 紙屑のように吹き飛ぶラッドの身体。それが、衛司には酷く鈍く思えた。まるでスローモーションのVTR。音も動きも全てが引き伸ばされた中で、酷く嘘臭い誰かの声が、衛司を煽る。

 何をしている。
 早く往け。
 あの人が命懸けで作った勝機を、無駄にする気か――!

「お――おぉああああああああっ!!
【Exceed Charge.】

 咆哮か喊声かもう判然としない叫び声を上げながら、衛司がドラスに向けて突っ込んでいく。
 左拳には拳撃用兵装『カイザショット』が装備され、ミッションメモリーを装填されたそれが、フォトンブラッドのチャージを終えて唸りを上げる。
 ドラスの迎撃は間に合わない。回避行動も間に合わない。防御は辛うじて間に合うだろうが、しかし何故か、ドラスは防御を行おうとはしなかった。無防備な体勢で、自身の腹へと吸い込まれるカイザの拳を眺めていた。

 グランインパクト。カイザショットを使用して放つ、カイザに登録されたコンバット・パターンの一つ。
 標的を貫通した衝撃が、ドラスの背後に『Χ』字状の光を浮かび上がらせる。
 殺った。確実な手応えに、衛司が必殺を確信した、その時。

〖いたいなあ。ひどいなあ。――らんぼうものは、こうしてやる〗

 絶望が頭上から降ってくる――まずは声。次いで、強烈な衝撃。

「が……!」

 振り上げた腕を、ただ振り下ろしただけ。だがそれも、怪物の膂力で行えば、致命的な一打と化す。
 地面に叩き伏せられる。衝撃で変身が解除される。生身を剥き出しにした衛司が、無防備な背中を敵前に晒す。
 何故? 効いていない? 失敗した? 当たったはずなのに?
 ぐるぐると頭の中で疑問が回る。ダメージが思考の性能を低下させ、有り得ない現実の許容に無為な時間を費やす。

 衛司は知らない。
 彼が一度目の相対とは別人であるのと同様、ドラスもまた、以前とは別物である事に。
 崩壊寸前のあの時とは違う、今のドラスは万全の絶好調。だがそれがかつてと比してどれほどの違いなのか、そこが判らなかった――彼の敗因を挙げるとしたら、それ以外にはなかった。

 ドラスが身を屈め、伏した衛司の頭を掴み上げた。ドラスにしてみればごく軽い力で摘み上げたつもりなのだろうが、それだけで、衛司の頭蓋はめきめきと嫌な音を立てる。

〖しずかになったね。もうおしまい?〗
「…………」
〖おしまいかな。それじゃ、そろそろいただきまあす〗

 怪物の胸部が割り開かれる。ぐったりと動かない衛司に、怪物の胸腔から染み出た緑色の光がにじり寄る。
 体勢を立て直したラッドが、衛司の名を叫びながら再度突撃に入った。だが遅い。彼が何をしようとも、それより早く光は少年の身体を喰い尽くすだろう。加えて機銃のような光線の速射がデルタの足を止めさせる。近付く事すら、許さない。
 光が衛司に触れた。じわじわと彼の身体を包んでいくそれを視界の端で眺めながら、泡沫のように浮かんでは消える思考に少年は身を任せる。

 ちくしょう。
 勝てなかった。
 ギンガさんやエリオくん、キャロちゃんに偉そうな事言っておいて。
 カルタスさんを捨て駒にして得たチャンスを、無駄にして。
 それでも、勝てなかった。
 こんなざまで――伽爛さんに、挑めるはずもない。
 だったらもう、ここで終わってしまった方が、無様を晒さずに済むというものか。  

 ………………。

 終わる。
 喰われる。
 食べられる。
 消化される。
 溶かされる。
 それが、意味するものは。

「……………………死ぬ?」

 死ぬ。
 死ぬ。
 無くなる。
 消える。
 落ちる。
 堕ちる。

 どこに?
 
 ……嫌だ。
 ……死ぬのは、嫌だ。

 もう、死ぬのは、嫌だ――!



「あ――あ、」〖………………うぅぁああああああああああああああああああああああああ――――――っ!!



 ぞぶり。
 割り開かれたドラスの胸部に、一振りの槍が突き立つ。
 鋭く尖った円錐は、殺意が具現した騎兵槍。

 ドラスの腕を振り払うのは少年ではなく、異形の雀蜂。串刺しになったドラスを蹴り剥がし、その反動でホーネットオルフェノクが敵の間合いを脱出する。
 中空で一回転し、猫のように着地。そして次瞬、弾かれたように雀蜂は突撃を敢行、離した間合いを再び詰める。握り込まれた右拳がドラスの顔面を捉え、ネオ生命体の身体を大きくよろめかせる。

〖…………!〗

 殴りつける拳の感触が、雀蜂の脳内で何かを弾けさせた。
 彼の胸を満たすのは、そう、“懐かしい”という気持ち。
 ああ――そうだ、そうだった。
 すっかり忘れていた、完全に抜け落ちていた。
 結城衛司はそもそも、ここから始まったのだ。
 死への恐怖と、死からの逃避。

 死にさえしなければ、怪人でもいいと。
 オルフェノクになるとは、そういう事。
 それを忘れて人間に戻りたいだの、僕のような在り方は止めろだの――馬鹿だろ、お前?

 本題に戻ろう。
 本懐に還ろう。
 結城衛司が戦うのは、常にただ一つきりの理由だったはずだ。
 つまり、『死にたくない』。
 逃げられない、避けられない。なら戦って、殺して、そうして生き残る。
 その為に、オルフェノクなんて馬鹿馬鹿しい存在に成り果てたのだろう?

 そう。目指すべきは、勝利ではなく、生存。
 どんなにみっともなくても、無様でも、格好悪くても――例え敗北したとしても、生き残りさえすれば良い。なまじオルフェノクとしての自覚を得たが故に忘れていた、雀蜂のスタンス。
 思えば雀蜂の殺傷本能とて、『殺さなければ生き残れない』という強迫観念に根ざしたものではなかったか。
 そこを履き違えたままで、元より“勝てる”はずもなかったのだ。

〖危なかったぁ……こんな中途半端なままで伽爛さんと戦ってたら、間違いなくぼろ負けしてたな〗

 その意味では、ドラスに礼を言うべきなのかもしれない。
 フォッグ怪人やゴルゴム怪人との戦いでは、気付く事が出来なかった。
 ネオ生命体ドラスがあまりにも圧倒的だったからこそ――気付く事が出来た。
 強くなるという思いこそ不純。誰かを護るためなどとは不粋。
 最優先すべきは、ただ生き残るという欲求のみ。
 だったら――

〖!〗
〖あははっ!〗

 よろめくドラスが瞬時に体勢を立て直し、お返しとばかりに雀蜂の顔面を殴りつけた。まるで戯れる童子の様な笑い声と共に繰り出された拳は、強烈な衝撃で雀蜂の頭蓋と脳髄を軋ませる。
 それでも反射的に、雀蜂の更なる拳撃がドラスを殴り飛ばす。だがその瞬間、ドラスの拳もまた雀蜂を捉えていた。双方が同時にたたらを踏み、そして同時に次の攻撃態勢に入る。
 足を止めて、拳撃の交換。見るもおぞましい凄絶な相撃ちの繰り返し。

 ……しかしその均衡も、長くは保たない。やがてドラスの拳が雀蜂を大きく弾き飛ばし、雀蜂は尻餅をつくような姿勢で倒れ込む。
 当然、ドラスは体勢を崩した敵を仕留めにかかるものの、そこに放たれた左腕の飛針がカウンターとなってドラスを抉った。思わずドラスが足を止め、その隙に雀蜂が飛び退いて距離を作る。
 だがそこが限界だったのか、ホーネットオルフェノクはがくりと崩れ落ちて、次の瞬間には少年の姿へと立ち戻っていた。

「ま、まだまだ……っ!」

 戦意が満ちるぎらついた瞳で、少年はドラスを睨みつける。その手には既にスタートアップコードが再入力されたカイザフォン。

「変身っ!」
【Complete.】

 トランスジェネレーターを装填されたカイザドライバーがシステムを起動させ、少年の総身を強化装甲服で鎧っていく。
 ブレイガンの銃把下部に刃が形成され、衛司の戦意に呼応して熱量を上げていくそれが、一振りごとに重い唸りを響かせる。

「まだ終わらないぞ、まだ戦える、まだ生きてる――だから死ねよ、ドラスっ!」

 少年が、雀蜂が、カイザが吼える。
 血に塗れた咆哮は既に錯乱の域で、少年から正気が失われていると判断するに充分なもの。――だがそれ故に、“踏み外した”結城衛司には相応しく。

〖うん! もっとあそぼう! もっともっともっともっと、たのしいことしよう!〗

 少年の咆哮が血に塗れているのなら、ドラスのそれは喜悦に塗れて。
 濁り淀んだ少年の狂気。
 澄んで煌く怪物の正気。
 彼等は気付かない。いま相対する眼前の敵が、自身と真逆の在り方を体現する存在……そう、“宿敵”であるのだと。





◆      ◆







「……その、キャロ? 大丈夫?」
「え? わたしはだいじょうぶだよ、エリオくん。――どうしたの?」

 案ずる相手から逆に問い返され、「な、何でもないよ」とエリオは曖昧な笑みを浮かべてお茶を濁した。
 キャロに合わせているとは言え、割と全力疾走の最中だ。気軽にお喋り出来るほど彼の心肺機能は強靭ではない……まあ、今後の鍛錬次第でもあるのだろうが。その意味からも、実のない会話に興じる余裕は無かった。
 とは言え、すぐ横を走る少女を案ずる気持ちに偽りはなく。
 雀蜂の少年から向けられた言葉を、脳内で悶々と反芻しては考え込んでいるキャロを、自分には関係のない事と割り切る事は出来なかった。彼女がかけがえのないパートナーであるという事を差し引いても。

(衛司さんは――どうして、あんな事を言ったんだろう?) 

 衛司は明らかに変わった。人外としての観点から、怪人としての意見を述べる事に躊躇がなくなった。
 エリオとて、真っ当な人間と言うには些か偽り有りの出生な身の上だ。だがそれでも、彼には人間としての矜持がある。常人と異なる出生を引け目に感じる事はあっても、それで自身を“人間以外の立場”に置こうとは思わない。そもそもそういった発想がない。
 それはエリオに限らず、フェイトもそうだし、スバルや、今エリオの前を走るギンガもそうだろう。皆が皆、自身が人間である事を誇りに思い、何者であるかと問われれば躊躇無く人間と答えられる。

 ……だから、エリオ・モンディアルには解らない。結城衛司が解らない。
 生まれつきの人外ではない衛司が、かつてはエリオよりも遥かに尋常な人間であったはずの衛司が、どうして人外である事を、怪人である事を是と出来るのだろう。

(それに――)

 そのくせ、彼は人外である自分を誇ってはいないように思えた。ただ人外である事を弁えているというだけ。
『僕みたいな在り方は止めてくれ』――あの言葉の裏にあった羨望を、エリオもまた感じ取っていた。
 羨望とはつまり、ああなりたい、あのように在りたいと、そういう気持ち。怪人である事を肯定し、その立場から踏み出そうとしない衛司には、あまりにそぐわない。
 “ああなりたい”のに“このままで良い”。
 その矛盾が、どうしてもエリオには飲み下せない。

 ……訊いておくべきだったのかもしれない。
 貴方はもう、人間である事を諦めたんですか――と。

「見えた! あれは――!?」

 先頭を走るギンガが、進路上の景色に発生する異変を見て取った。
 鬱蒼と茂る森林の一点から次々と屹立する桜色の光柱。そしてその中心に、一際太い空色の光柱が直立する。それは恐らく、高町なのはと、スバル・ナカジマがそれぞれ放ったディバインバスターの光。
 戦闘が起こっているのは明らかで、現地に近付くほどに密度を増す危険な空気は、既に状況がかなりの危険域に入っている事を告げている。

「急ぎましょう、ギンガさん、キャロ! 間に合わなくなる――!」

 焦燥が少年と少女を突き動かす。
 もっと早く、一刻も早く。
 余計な事を考える余裕など、もうどこにも無くなった。



 状況は熟考を許さない。
 ミッドチルダ滅亡まで、残された時間はあと僅か。





◆      ◆







後書き:

 まず最初にごめんなさい。第拾玖話、これが前半分になります。
 基本的にいつも『○○話ではこれをやろう』『前話(これまでの話)で出したこれを回収しておこう』というのを考えてから書いてるんですが、今回はちょっとこれの配分を間違えて。
 どう頑張っても100kb以上になってしまうので、幾らなんでも一本でそれはやりすぎだろと思った結果、二分割しました。
 はっきり構成のミスです。ただでさえ三話で1エピソードという体裁のせいで(あと文章的にも)冗長になり易いんだから、こういうのは気をつけていたんですが……

 とりあえず今回は『主人公のSEKKYO』と『ライダーに変身しても中身は怪人』というところだけ。あとドラス本格登場。
 シグナム&フェイトVSドラスの戦闘が丸々キング・クリムゾンしちゃったんですが、さすがにこれ以上戦闘シーンの増加は無理があるという事で。シグナムとフェイトのファンにはごめんなさい。

 一応、後編の方も(この後書き書いてる時点で)八割方書きあがってるので、そう遠くない内に投稿できると思います。

 それでは後編で。よろしければ、またお付き合いください。



[7903] 第拾玖話(後編)
Name: 透水◆44d72913 ID:35af097c
Date: 2023/12/29 21:00
「ぺぺっ……うぇえ、気持ち悪い。血だらけだよぉ」
「今日ほどバリアジャケットで良かったと思った事はないわね……ああもう、帰ったらシャワーに直行よ」

 高町なのはからの通信は勿論、ギンガ達と別行動を取っていたスバルとティアナにも届いていた。
 ゲンヤ達陸士部隊を安全地帯へと避難させ、指定された合流地点へと向かう彼女達だったが、その顔は揃って不機嫌と嫌悪感に塗れている。
 周辺一帯に降った血の雨を、彼女達もまた浴びていたのだ。それが人血である事――誰の血であるのかも、概ね想像はついた。その上でごく平静に近いテンションを維持していられるのは、『JS事件』の鉄火場を潜り抜けた経験によるところが大きかった。

 だが怒りは確かにある。腹の底、胸の内で圧縮されたそれは、直に来るゴルゴムとの戦いで炸裂する事だろう。
 そうと思わなければ、とても耐えられたものではない。文字通りに流された血の分だけ、誰かの命が踏み躙られたのだから。

「スバル! ティアナ!」
「あ――なのはさん! ヴィータ副隊長!」

 頭上から降ってきた声に顔を上げれば、そこには上空から降りてくるなのはとヴィータの姿。
 スバル達の眼前に降り立った二人は血に塗れた部下の姿にぎょっとした顔を見せるものの、すぐにその血が何であるかに気付いたか、安堵へと面持ちを変化させて、更に険しい顔へと切り替えた。

「……間違いねーな。連中、ここで始める気だ」

 詳細を知らされていないスバルとティアナではあったが、ヴィータの独り言のような言葉は、彼女達が抱いていた幾つかの疑問を解決させるには充分だった。
 先の血雨がゴルゴムの仕業である事。またそれが何らかの意図、目的を持って行われたという事。そして先程下された緊急集合の命令と合わせ、ゴルゴムの企みを阻止するには、時間がそう残されていない事。

 その推測を読み取ったのか、なのはが敵の目的を伝える。ゴルゴムはミッドの地表で次元断層を生み出す……つまりは次元震を発生させるつもりでいると。
 厳密にはそれは過程であり、そうして生まれた次元空間との接点から、フォッグ・マザーを虚数空間に突き落とす事こそが最終目的であるのだが、そこに関しての説明は省かれた。それが結果であろうと過程であろうと、阻まなければいけない事に変わりはないのだから。

「じ、次元震ですか……!?」
「うん。言うまでもないけど、そんな事になったらミッドチルダは滅亡だよ。今からじゃ本局も陸士部隊の増援も間に合わない……わたし達だけでやるしかない。みんな、気合を入れて」

 言われるまでもないとばかりに、スバルが、ティアナが、そしてヴィータが力強く頷く。

「そうだ。なのはさん、ギン姉たちは……?」
「ギンガ? うん、こっちに向かってるはずだよ。合流するのを待ってる余裕はないから、わたし達だけでも先行しよう」

 はい! と威勢良くスバルが応じた、その時だった。
 がさりと近くの藪が鳴る。その音に反応し、魔導師達は瞬時に臨戦態勢に入った。
 ゴルゴムが儀式魔法の基点としている――と推測される――地点までは、ここから直線距離で一キロほど。とすれば、ここは既に彼等の領域と見て良いだろう。

 そうして予想を裏切らず、藪の中から這い出てくる異形の怪物。人間と等身大の体躯に蜘蛛の意匠を備えたその姿は、ゴルゴムの尖兵、クモ怪人のものだった。
 次々と現れては進路を塞ぐ怪人の群れは、逆説、その向こう側に“触れられたくないもの”を隠していると告げるに等しい。
 となれば――機動六課スターズ分隊の取り得る処方は、ただ一つ。

「いくぞおめーら! 根性見せろよっ!」

 ヴィータの激が、戦闘開始の合図となって。
 桜色と橙色の弾丸が乱れ飛び、車輪と鋼拳が唸りを上げ、そして鉄槌が振り回されて、少女達がクモ怪人を蹴散らしていく――





◆      ◆







 ゴルゴムが儀式魔法を起動させる最後の基点として選んだのは、陸士部隊が集結していた工事現場からおよそ二キロほど北方に位置する、深い森の中にひっそりと涌いて出る小さな泉だった。
 誰に知られる事もなく滾々と清水を湧かせる泉は、もう少し人里に近ければ登山者達にとって絶好の観光スポットとして親しまれていただろう。だが生憎踏み入る事がイコールで遭難を意味するような険しい山の奥地ともなれば訪れる者も滅多になく、数年に一度、怪談のように人々の口の端に上るばかりの、ほぼ忘れ去られたに等しい場所だった。
 普段は鳥の鳴き声と風の音が包むばかりのその場所が、しかしこの日は妙に騒々しい。枯れ木と枯葉を踏みしめる足音が、森の調律を著しく乱す雑音となって奏でられる。

 やがて泉のほとりに現れたのは、色褪せた白のローブを纏った、一人の男。
 翡翠の原石を思わせる硬質な膚をフードの奥に覗かせる彼こそは、暗黒結社ゴルゴムの最高幹部、大神官バラオム。

 ミッドチルダ軌道上にて時空管理局次元航行艦隊のフォッグ・マザー破壊作戦を阻んだ彼が、別行動を取っていた仲間と合流する為に申し合わせていた地点こそ、この泉だった。
 そして彼に先んじて、泉の淵にはバラオム同様に白いローブを纏った男が佇んでいた。両の掌を泉の水面に翳し、ぶつぶつと何かを呟いている。その呟きに呼応するかのように、泉の水はぼんやりと紅に発光して、ゆるやかに明滅を繰り返していた。

「ご苦労だったな、バラオム」

 やがて振り向きもせぬまま、大神官ダロムはバラオムに向けて呼びかける。
 皺嗄れた声はどこか上擦っているようにも聞こえて、朽木の如き膚の面貌が笑みに歪んでいる事を、背後からでも容易に窺わせる。

「そちらも順調のようで何よりだ。ビシュムはどうした?」
「今、こちらに向かっておる。直に合流するだろう」
「いえ、もう着いております」

 硬質ながらも奇妙な艶やかさを持った声が、バラオム達の頭上から降ってくる。
 見上げれば、そこにもまた色褪せた白いローブの姿。ゆらゆらと虚空に揺らめくそれはまるで亡霊のようで、やがてふわりと音も無く地面に降り立ってからも、その印象を薄れさせない。
 フードの奥に覗くのは、漆を塗ったかのような光沢を放つ膚と、右半面に刻まれた紋様。
 ダロムとは対照的に忌々しげな表情を浮かべて、大神官ビシュムはダロムとバラオムに歩み寄ってくる。

「どうした、ビシュムよ。首尾悪しきことでもあったか」
「……ええ。連れて行った怪人達を、軒並み失ってしまいました」

 ほう、とダロムが声を上げる。バラオムも無言ではあるが、見開かれた瞳は内心の驚きを表していた。

 今回の策において、ビシュムの役回りはフォッグ近隣をうろつく管理局陸士部隊の排除。戦力として数体のクモ怪人を従えていたが、実際、それは過剰とも……或いは臆病とも言える程に慎重な選択と、ダロムとバラオムはそう見ていた。
 何人いようと相手はたかが人間、怪人など一体いれば事足りる。事実、ダロムもバラオムも、供回りの怪人は一体きりであった。
 それが軒並み失われたとなれば、驚かぬ方がおかしい。それは最早、ビシュムの采配が云々という問題ではない――想定外の実力者が、管理局に与して介入してきたとしか思えない。

「突然現れた、鉄仮面の男たちが……私のローブも、この通りです」

 見ればビシュムのローブは一部が焼き切られたかのように引き裂かれ、無惨な有様を晒している。
 だがダロムとバラオムの驚きは、ビシュムのローブよりもむしろ彼女の言にあった。彼等ゴルゴムにとっては決して聞き逃せない単語が、今の一言には混じっていたのだ。

「仮面と――仮面・・と言うたか、ビシュムよ」

 ビシュムの首肯に、彼等はますますその異貌を驚きと困惑に歪めた。

「まさか、あの男・・・か……!?」
「馬鹿な。奴は地球に居るはず……ミッドチルダに現れる理由がない!」

 大神官が恐れるのは、かつて第97管理外世界におけるゴルゴムの侵略を、ただ一人で頓挫せしめた男。
“奴”によってゴルゴムが被った被害は甚大だった。盟主たる創世王を失い、その座を継ぐべき世紀王すら失い、挙句彼等三神官も敗れて、実に二十年以上もの月日を肉体の再生に費やす事となった。
 元はと言えばその男もゴルゴムの一員。世紀王となるべく宿命付けられた男。その男がゴルゴムを離反し、敵対する際に名乗った名を、『仮面』という単語は如実に連想させる。

 ……だが狼狽するダロムとバラオムに、ビシュムはゆるりとかぶりを振って否定の意を示した。

「いえ、あの男とはまったく別の出で立ちでした。二人組だったのですが、そのどちらも機械を纏っているような……機械を被っているような、そんな印象を受けましたわ」
「ふむ」
「加えて言うなら、あの男とはまったく異質な気配を纏っておりました。これは二人のうち、片方で特に顕著だったのですが、より獣性が強い――我等ゴルゴムの怪人に近い気配が」

 その言葉に、ダロムとバラオムがとりあえずの落ち着きを取り戻す。
 勿論、“奴”でないからと安心できるものではない。ビシュムはその場にクモ怪人四体を残して撤退してきたらしいが、その後の呼びかけに反応がないあたり、既に殺害されていると見て良いだろう。怪人を四体まとめて屠り去るとなれば、それは充分に脅威と見做すべき対象だ。
 だが、それでも彼等の楽観は崩れない。大幹部である三神官の戦闘能力そのものが、凡百の怪人からは逸脱した域にあるからだ。ビシュムの目撃した仮面の男達に限らず、ここへ向かっていると思しき管理局の戦闘部隊に対しても、その優位は変わる事はない。

「まあ、よかろう。どうやらそやつらの目的、管理局のそれとはやや異なっておるようだ――この場に現れるまでは、放置しておいても構わぬか」
「いざとなれば、ドラスをこの場に召喚すれば良かろう。キングストーンを預けておるのだ、精々働いてもらわねばな」

 バラオムのその言葉に、ふとビシュムは周囲を見回した。

「そういえば、そのドラスは? 姿が見えぬようですが」
「あやつなら『腹が減った』とぬかしおるのでな。餌を探しに行った。どこぞでオルフェノクなり、フォッグの眷属なりを喰ろうておるだろうよ」

 現状、ドラスの生命維持に『食事』または『栄養摂取』に類する行為は不要である。ドラスの腹に収められたキングストーンが全てを賄っているのだ。
 秘石から漏れる僅かなエネルギーだけで身体を維持する燃費の良さに感心するべきか、或いは漏出するエネルギーで怪人一匹を動かし得るほど、キングストーン内に収められた力は質の高いものなのか。
 故に、ドラスにとって食事とはあくまで趣味、快楽を求めての行動に過ぎない。無垢な怪物は美食を覚え、より美味いものを、より多くの快悦を求めて渉猟に励んでいる。

「“怪人喰い”か。ネオ生命体も、妙な方向に目覚めたものよ」

 ドラスが求める“美味い”餌――只の人間には目もくれない、ネオ生命体が求める餌とは人外の生命、即ち“怪人”。
 考えてみれば、ある意味納得のいく話だ。ドラスが貪るのは餌の血肉ではなく、生命エネルギー。肉体全てをエネルギーへと変換し、それを啜るのだから、内包するエネルギーの量・質ともに人間を超越する怪人へ惹かれるのは自明の理。
 幸いと言うべきか、ゴルゴム怪人はドラスの口に合わなかったらしい。数匹の怪人が餌とされただけで、それより後には見向きもされなくなった。ゴルゴム怪人の中でもそれぞれ味に違いや差はあるらしいが、総じてドラスには満足いくものではなかったらしい。

「しかし、宜しいのですか? 万が一、ドラスがキングストーンを失うような事態になれば……」

 ビシュムの懸念は尤もだ。彼等ゴルゴムとて、慈善や優しさから、至宝たるキングストーンをドラスに与えた訳ではない。
 端的に言ってしまえば、それはドラスをキングストーンの器にする為だ。人格的な、人間的な“器”ではなく、あくまでただ器物としての“器”。

 秘石から漏出するエネルギーがドラスの糧になる――それは言い換えれば、キングストーンそのものに微細な傷が残っている事を意味する。自己修復機能を持つキングストーンではあるが、以前の戦いで刻まれた傷は未だ直りきっていないのだ。
 世紀王の核とするには、もしくは創世王に捧げるには、完全な形のキングストーンである事が絶対条件。そしてゴルゴムが考える、完全修復まで保存するに最も相応しい場所こそが、ドラスの腹だった。

「なあに、心配は要らん。ドラスを相手に出来る者など、そうは居るまい。案ずるだけ時間の無駄よ」

 ドラスと戦って無事に済むはずがない――どころか、そもそも戦いが成立しない。ネオ生命体の戦力はそれほどまでに桁が違う。全幅の信頼と言うほど綺麗なものではないが、少なくともそれに近い信用を、ゴルゴムはドラスに抱いている。

「……さて。これで術式は完了だ」

 会話の間も泉に手を翳し、呪文の詠唱を続けていたダロムが、漸く踵を返してバラオムとビシュムに向き直る。
 泉の水は最早見間違えようのない程に紅く染まり、煌々と真紅の光を放っていた。
 儀式魔法の準備は全て整った。三角形の魔法陣、その頂点全てを呪的処理を施した血の雨で浸し、周辺の魔力素をゴルゴム寄りに汚染・調整する。そうして泉の水を魔術薬液として変質させれば、地下水脈を伝って他二つの頂点が反応、ゴルゴムの魔法陣が起動するという仕掛けだ。

 遠方の二点が反応するまでにはまだもう暫くの時間を必要とする。概算で、あと十五分ほど。恐らくは日没とほぼ同時のはず。
 その十五分、この泉を守りきれば――ゴルゴムの勝利は、確定する。フォッグ・マザーを虚数空間に陥れ、惑星ミッドチルダを壊滅に追い込む事が出来る。
 だが――

「……来たか」

 朽ちた膚に笑みを刻んで、ダロムがぽつりと呟く。
 遠雷の如く彼方に響く爆発音、炸裂音、破砕音――つまりは、戦闘の音。
 夕暮れの薄闇に包まれる森の樹間に、時折閃く魔力の光。
 恐らくは、先にドラスが一蹴した者達の仲間。今、この一帯でゴルゴムが何をしようとしているのか、それを理解しているのは……故に妨害に現れるのは、奴等しか居ない。

「ふん。だがこの周囲には、既にイラガ怪人が繭の結界を作り上げている――そう易々と突破は出来んぞ」

 お手並み拝見といこう。
 バラオムが自信満々にそう呟くと同時、一際大きな爆音が黄昏時の森に轟いた。





◆      ◆







 ゴルゴム怪人。
 無限書庫に残る文献によれば、それは人間に動植物の能力を移植した生物であり、極めて長い寿命や、高い身体能力を持つ、ゴルゴムが有する主戦力だと言う。
 つまり彼等は元々が人間であり、それ故の高い知能を怪物化した今でも有している。否、ゴルゴムへと魂を売った後となっては、その悪辣さはより一層研ぎ澄まされて、そして他人に向ける事を厭わない。

 それはゴルゴムが育てた悪意であったか。それとも人間生物が本来的に持ち合わせる、同族を陥れ餌食とする本能が表に出ただけの事なのか。
 その判断は、誰にも出来ない。そう、ゴルゴム三神官であっても――未だ人の域に留まる、少女達であっても。



「! ――みんな、止まって!」

 やおら張り上げられたなのはの声に、スバル、ティアナ、そしてヴィータが急停止する。

「ど、どうしたんですか、なのはさん!?」

 スバルの問いを掌で制して、なのはは魔力弾を一発、進路に向けて放つ。数秒間中空を直進した魔力弾は、やがてぱん、という軽い音と共に破裂、周辺に光を撒き散らした。
 夕刻に差し掛かり、視界の悪くなる一方の森が、いま一時だけ真昼の明るさを取り戻す。淡い桜色の光に照り返された森の中は、しかし尋常の森林と異なり、不可解な異物に侵食されていた。

「これは……!」
「糸――それに、繭……か?」

 ティアナとヴィータが、眼前の光景に混じる異物を見て取り、怪訝に眉を寄せた。
 眼前の木々はその大半が白い紐糸に絡め取られ、また所々にその白糸が寄り集まって編まれた楕円の球体が張り付いている。
 次元航行艦隊から情報を提供されている彼女達には、それは既知の物。ミッド軌道上でのフォッグ迎撃作戦を失敗に追い込んだ、一匹のゴルゴム怪人が持つ特殊能力。
 あらゆるエネルギーに反応し、爆発を引き起こす繭……クラウディアの動力炉に大発生したそれと、スターズの眼前を埋め尽くすそれは、全く同一の代物だった。

「ちっ……空飛んでいけりゃあ、こんなの無視できるってのによ……!」

 苛立ちを隠そうともせず、ヴィータがそう呟いて奥歯を軋らせる。
 なのはやヴィータといった空戦魔導師であれば、上空から一気に敵拠点まで突破するのが本来の戦術だ。遮蔽物・障害物のない空中を往く利点は、デメリットを差し引いても余りある。
 その戦術が封じられているのは、周辺一帯に幻惑魔法が敷かれている為だ。さして高度な幻術ではなく、恐らくは『上空からの視線を撹乱する』という効果しか持たないのだろうが、そのシンプルさ故に効果は絶大だった。
 事実、なのはとヴィータは数十分に渡り上空からの偵察を行ったものの、終ぞゴルゴムを発見出来なかったのだ。

「まるで地雷ですね。処理するのに時間がかかりそう」
「うん。ティアナ、遠くから魔力弾で一発ずつ壊していこう。ヴィータ副隊長とスバルはバリアで爆風を防いで。フォーメーションを組んで前進するよ」

 了解、と三人が声を揃え、ティアナがなのはの横に、スバルがその前に、そしてヴィータが最後尾に陣取った。

「アクセルシューター!」
「クロスファイア――シュート!」

 放たれる桜色と橙色の魔力弾、その一発一発が過たず繭を貫く。
 次瞬、エネルギーに反応した繭が爆発を起こした。魔力弾が撃ち抜いたのは視界内に在る繭の四割というところだったが、爆発の熱エネルギーは連鎖的に残る繭にも反応を促し、爆発の規模を膨らませていく。

 しかし爆風が到達するよりも早く、打ち合わせていた通りにスバルとヴィータが防御魔法を展開した。バリア系防御魔法プロテクションとパンツァーヒンダネスの二枚重ねが、高熱と爆風を完全に遮断する。
 ほんの僅かにぬるまった風が少女達の頬を撫でた時には、目の前の光景は空爆後の惨状にも等しい、無惨な有様と化していた。
 折れて焼け焦げ、崩れ落ちた木々の姿に、スバルが申し訳なさそうにその表情を萎れさせる。

「うう、心が痛むなあ。自然破壊だよ」
「んな事言ってる場合じゃねーだろ。おら、次行くぞ」
「はいっ!」

 次弾発射の為には、一度バリアを解除する必要がある。ヴィータとタイミングを合わせて魔法を解除、なのはとティアナが弾丸を射出した直後に、再度魔法を展開する。無駄に魔力消費の大きい連続行使であるが、今はこれ以外にないのも事実。
 牛歩の如くのろのろとした前進。一刻を争う状況での遅滞は焦りを一層募らせる。それでも集中が乱れないのはさすがと言えよう、繭を貫く魔力弾の精度も、爆発を遮断する障壁の強度も、その一切にぶれがない。

 発射と防御を何度繰り返しただろうか、やがてなのはが最初に、僅かに遅れてティアナが、続いてヴィータとスバルが感知した。どことなく不快な感覚を与える魔力が、進む先から流れてくる。
 儀式魔法の基点まではそう遠くない――四人の胸中に光明が指した、その時だった。

「あうっ!?」
「ティアナ!?」

 ばちっ、と何かを弾くような音が響いた直後、ティアナが短い悲鳴と共に、右腕を押さえて蹲った。
 見れば彼女の右腕からは鮮血が滴っている。出血は割と酷い、そもバリアジャケットの防御を抜いて傷を負わせているのだから、相応の威力がある。傷が深くなるのも当然か。
 すぐさまスバルとヴィータが周囲の警戒に入った。何者かが狙撃してくる――森の中というロケーションは当然ながら遮蔽物だらけだ、身を隠して攻撃するには絶好の環境と言える。

「どう、痛む?」
「す、少し」

 周囲の警戒をスバルとヴィータに任せ、なのははティアナの治療に入った。傷は上腕の肉を少し抉られた程度で、弾丸と思しきものも傷口には残っていない。
 射手がゴルゴム怪人とすれば毒の類を疑わざるを得ないが、幸いにもティアナの様子を見る限り、それは考慮しないでも良さそうだ。
 足を止めたところで集中砲火、というのが待ち伏せのセオリー。スバルとヴィータもそれを警戒し、知覚を張り巡らせると同時に防御魔法を展開している。

「! 下だっ!」

 ヴィータが声を上げるよりも早く、残る三人は行動に入っていた。
 スターズがその場から飛び退いた瞬間、彼女達の足元、血の雨にぬかるんだ地面から何かが飛び出してくる。枝や幹を足場に跳ね回るそれは、やがてスバル達の進路を阻むかのように、彼女達の眼前に着地した。
 棘と毛に覆われた、緑色の体躯。まるで蛾の幼虫を思わせるその姿は、クラウディアの監視カメラに残された映像のものとぴたり一致する。
 ゴルゴムの尖兵、イラガ怪人。

「出やがったな、ゴルゴム!」

 鉄槌を振り翳して、ヴィータが吼える――だがそれに対し、イラガ怪人は弄うように小首を傾げるだけだった。
 無論、それで激昂するほどヴィータも子供ではない。戦闘経験だけならばこの場に居る誰よりも積み重ねている。だからこそ、不意に一つ身震いして動きを止めたイラガ怪人の挙措が、攻撃の事前動作であると判断出来た。 
 イラガ怪人の棘が火花を上げて切り離され、弾丸の如く加速してスターズへと殺到する。ティアナを撃った弾丸の正体は恐らくこれか。咄嗟に前に出たスバルが障壁を展開、そのことごとくを弾き落とすも、その時には既に敵は地中へ潜っていた。

「ああっ! 逃げられちゃった!」
「いや、逃げてねえ。また仕掛けてくるはずだ」

 ヴィータとスバルが周囲を警戒し、集中を高めていく横で、なのははティアナの治療を終え――出血を止めた、という程度のものだが――翳していた掌を下ろし、傷口を手持ちの包帯で縛った。

「よし、これで……まだ痛む、ティアナ?」
「だ、大丈夫です」

 治癒魔法とは言っても即座に傷が完治する訳ではない。ティアナの負傷は治療を終えた後でも決して軽いものではなかったが、プライドの高い彼女はごく自然に痩せ我慢を押し通す。

「……で、どうする? このままじゃ時間切れだぞ。つか、あいつを突破しても、まだゴルゴムの幹部が残ってんだ――余計な時間はかけられねえ」
「そうだね――どこに居るのかさえ、判れば……!」

 遠近双方に対応出来るバランスの良さが、機動六課スターズ分隊の売りである。今、こうして不本意な膠着状態に追い込まれているのは、こちらがイラガ怪人の位置を捕捉していないというだけの事に過ぎない。
 相手がどこに居るのかさえ判れば、魔力砲撃なり打撃なり、幾らでも叩き込んでやれるというのに――

「……あの、なのはさん。ヴィータ副隊長」
「うん?」
「なんだよ」

 警戒を切らさないまま、なのはとヴィータがほぼ同時にティアナの呼びかけに反応する。
 勿論、ティアナもまた警戒と緊張を緩めない。薄闇に身を隠すイラガ怪人の気配を探りながら、彼女は“それ”を口にした。

「一つ、わたしに考えがあるんです」





◆      ◆







 イラガ怪人の持つ特殊能力は言うまでもなくエネルギーに反応して爆発する繭の生成であるが、実際のところ、イラガ怪人はそれしか出来ないと言っても過言ではない。
 ゴルゴム怪人としては例外的と言える程に直接戦闘は不得手であり、死角からティアナを狙撃したにも関わらず仕留める事も、どころか重傷を負わせられなかった事からも、それは窺えよう。

 故に。そのイラガ怪人がこうして前線に出て来る事そのものが、ある意味でイレギュラーな事態であり。
 知らなかった事とは言え、機動六課スターズ分隊の採った――ティアナ・ランスターが上申した――策は、まさしくそのイレギュラーを衝いたものだった。

「おぉらぁあああっ!」
「シュートっ!」

 喊声と共に樹間を乱舞するのは、鉄槌によって撃ち出され、魔力によって加速する小さな鉄球。ヴィータの使う中距離誘導射撃魔法、シュワルベフリーゲン。更に橙に光る魔力弾、ティアナのクロスファイアシュートが鉄球の軌跡を追って飛翔する。
 大した狙いもつけずに放たれたはずの鉄球と魔力弾は、しかし吸い込まれるかのようにイラガ怪人の繭を直撃、次々と爆発を引き起こした。爆風が誘爆を引き起こし、一帯が爆炎と爆煙の坩堝と化していく。
 スターズの方はスバルの張った障壁で何とか無事を保っているものの、爆熱に直接晒されるイラガ怪人は堪ったものではない。自身の仕掛けた爆弾で被害を浴びる間抜けさこそ、彼にとってこの状況が本来想定されていないものである証左か。

 必然、イラガ怪人の逃げ場は地中しかなく――先にそうしたように――だがそれこそが、敵を地中に追い込む事こそが、ティアナの組んだ策の要だった。

「今です、なのはさん!」
「うん! いくよ、レイジングハート!」
【All right.】

 なのはの纏うバリアジャケットが、主の声に応えて姿を変える。更にはデバイスたるレイジングハートそのものも槍の如くに変形して、がんと一発カートリッジをロードする。
 高町なのはの“戦闘形態”、エクシードモード。
 ひゅんとレイジングハートが一旋し、その先端が地面へと向けられる。次の瞬間、なのはは躊躇なく先端を地面に突き刺した。より正確には、地面に空いていた穴へと突き入れた。
 先にイラガ怪人が地中へ逃亡した時に穿った穴――網目状に形成される地下通路の、その入口。

「ディバイン――」

 集束する桜色の光。
 圧縮された魔力を解き放つのは、もう幾度となく紡がれてきた撃発音声。

バスタ――――っ!!

 ずん、と一帯の地面が、膨大な魔力の奔流に揺れ動いた。
 放たれた桜色の極光は濁流となって、イラガ怪人の通り抜けた穴を隅々まで蹂躙していく。
 やがて飽和した魔力がそこかしこから噴出して、桜色の光柱を屹立させる。――その中の一つに、イラガ怪人は居た。光の濁流に押し出され、空中高くまで舞い上げられたのだ。

 だがこの時点では、まだイラガ怪人は健在だった。細かく枝分かれした地下通路は、その支流の分だけディバインバスターの威力を削いでおり、ゴルゴム怪人の耐久力ならば決して耐え切れないものではなかった。
 しかし。

「いったわよ、スバルっ!」
「オッケー、ティア!」

『空を飛ぶ』機能を持たないイラガ怪人が、必然として重力に引かれ落下して。
 そしてその落下地点に、スターズ分隊・フロントアタッカーは待機する。――最後の一撃を撃ち込む役割を負って。
 鋼拳の歯車が魔力を引き込んで回転し、空色の光が魔力スフィアを形成して激発の瞬間を待ち受ける。

「ディバイぃぃぃぃぃぃぃン――バスタぁああああああああああああっ!!

 拳がスフィア諸共、イラガ怪人の腹に叩き込まれ。
 そして次瞬、圧倒的な魔力の奔流――本家本元に勝るとも劣らぬ威力の――が、落ちてきたばかりの標的を再び上空へと打ち上げる。
 威力が分散されていたとは言え、なのはのディバインバスターに耐え切ったイラガ怪人も、さすがにこれを耐え凌ぐ事は出来なかった。

「よっしゃ! 繭が消えたぞ!」

 見ればヴィータの言う通り、周辺一帯にまだ残っていたイラガ怪人の繭が、主の戦闘不能に反応して煙のように消え失せている。
 最早彼女達を阻むものはなく、後はゴルゴムが儀式魔法を執り行っている地点にまで一直線――とスターズ分隊がそれぞれ意識を切り換えた時、ティアナが真っ先にそれに気付いた。

「なのはさん! あれ、あっちの奥に……!」

 ティアナが指し示す方向。木々の隙間に垣間見える、彼方の光景。
 日が暮れかけ、夕闇が夜闇に変じ始める時間帯というのが幸いした。ティアナが示す先で、ぼんやりと赤い光が蝋燭の炎のように揺らめいているのが判る。ともすれば見逃してしまいそうなほど僅かな光量のそれは、この時間帯だからこそ見て取れた。
 いつの間にか、もうそれだけの距離にまで近付いていたらしい――四人は一瞬だけ目配せを交し合うと、一気に光の方向へと駆け出した。



「現れたか、時空管理局」



 辿り着いたそこは、まるで魔女の釜の底。
 赤々と光を放つ泉からは膨大な魔力が噴き上がり、陽炎のように周辺の風景を歪めている。
 そして泉の前に佇む、三人の男女の姿。説明など要らなかった、紹介されるまでもなかった。色褪せたローブの、そのフードから覗く異形の面貌を見れば、それが自身の敵だという事はすぐに知れた。
 暗黒結社ゴルゴムの最高幹部、三神官。

「こちらは時空管理局本局所属、古代遺物管理部機動六課です。――貴方達を治安撹乱の現行犯として拘束します。武装を解除し、こちらの指示に従ってください」

 略式ではあるが形式に則り、なのはがゴルゴム三神官に向けて言い放つ。
 本来、ロストロギアの回収が主な任務である古代遺物管理部に、犯罪者の逮捕権は持たされていない。しかし相手が明らかに違法行為の現行犯であるならば話は別だ。無許可の儀式魔法というだけで身柄を拘束するには充分、加えてその為に管理局員への殺傷を行っている。なのは達が介入するには充分な理由と言える。

 だが当然と言うべきか、なのはの言葉を受けて尚、三神官はそれぞれの異貌に三様の嘲笑を浮かべるだけだった。

「ふははははは。状況が見えておらぬようだな、貴様等は」
「既に儀式魔法は完了しました。最早貴方たちが何をしようと、止められはしない」
「発動まで残りは十分! そら、遊んでやるぞ魔法使いどもよ! この六百秒、己が無力を噛み締めるがいい!」

 バラオムが、ビシュムが、ダロムが言い放ち――そして次の瞬間、頭上から次々とクモ怪人が落ちてくる。
 先に蹴散らした群れ以外にも、まだこれだけの数が残っていたらしい。

「あと、十分……!? そんな――」
「まだだ! まだ終わりじゃねー、あの泉だ! あれを吹っ飛ばせば、まだ儀式魔法は止められる!」

 そう、まだ終わりではない。
 何の根拠もない勘であるが、紅く滾る泉がこの儀式魔法において重要な位置を占めているのはまず間違いない。
 であるならば、それを魔法として成立しなくなる程に弾き散らせば――吹き飛ばせば、魔法の発動が中断されるのは自明の理だ。規模の大きさ故に術式や魔力流動の精密さを要求される儀式魔法なら、尚更である。

《――みんな、良く聞いて》

 結論に辿り着いたのは、なのはが一番早かった。
 口頭ではなく念話での伝達が意味するものを悟って、残る三人もなのはと同様の結論に辿り着く。
 泉の水を根こそぎ吹き飛ばすとなれば、それこそ周辺地形を丸ごと抉り取るだけの威力が必要とされ、結果として彼女達の取り得る選択肢は非常に限られてくる。否、それはもう、ただ一つきりと言っても良い。

《時間を、稼いでくれるかな。魔力散布の前準備が出来てないから、どうしても集束に時間がかかっちゃうんだ》

 即ち。超大出力の、集束型砲撃魔法。
 高町なのはのスターライトブレイカーをおいて、他には無い――!

《へっ。任せろ、一時間でも二時間でも稼いでやるよ》
《いやあの、ヴィータ副隊長。十分後には儀式魔法が発動しちゃうんですけど……》
《う、うっせーな! 今のは言葉のあやだ!》

 素でやらかしたのか、それとも本当に単なる言葉の綾か。念話に乗って流れてくるヴィータの感情から量るに、どうやら前者のようではあるが。

「ったく。揚げ足とってねーで、集中しろ集中! ――来るぞっ!」

 儀式魔法の発動まで……ミッドチルダ滅亡まで、あと十分。
 その十分を、ただ無為に費やすつもりは無いのだろう。眼前に立つ者を根こそぎに薙ぎ払う、それこそがゴルゴムの流儀であるのなら、スターズを見逃す道理がない。

 殺到するクモ怪人。ゆらりと踏み出す三神官。
 スバルとヴィータが飛び出した。ティアナが魔力弾を形成、迫る敵へと撃ち出した。
 そしてなのはがレイジングハートを構え、周辺魔力の集束に入る。



 六百秒後の終滅に向けて、全てが転がり落ちていく。





◆      ◆







 完成に近付くゴルゴムの儀式魔法は世界の理すら歪め、魔法陣の基点を中心とした一帯は異界を彷彿とさせる邪悪な気配に満ちていた。
 先に進むほどに邪気は密度を増して、ギンガ、エリオ、キャロの総身にぬめるように纏わりついてくる。とりわけ竜召喚士の感受性はその影響を強く受けて、腐臭を思わせる汚染された空気に吐き気すらもよおしていた。

「だ、大丈夫、キャロ?」
「う――うん、だいじょうぶ、だいじょうぶだよ」

 とは言うものの、それが単なる強がりである事は、真っ青になったキャロの顔色を見れば一目瞭然。
 ただ、単純に強がりと言うには、キャロ自身が戸惑っていた。無理もない。恐怖に身が竦む経験はあっても、嫌悪に身体が冷えていく経験など、彼女にはこれまで皆無だったのだから。
 そして遂に、キャロの足が止まった。これ以上進めない、進みたくない。勇気や根性といったレベルではなく、本能に根ざした忌避感。『JS事件』の時とは根本的に異なる、腐った汚泥に頭から突っ込んでいく様な感覚に、少女は遂に耐え切れなくなった。

「キャロ!?」
「キャロちゃん!?」

 エリオもまた立ち止まり、どころか前方を行くギンガもまた足を止める。
 二人もまた、キャロと同様の感覚を覚えているものの、キャロに比べればまだ軽微なものだった。エリオとギンガが鈍感という訳ではなく、キャロが鋭敏過ぎるだけ。
 持って生まれた天賦の才――竜と心を通わせる、無垢にして純粋な感受性――本来であれば長所であり利点であるはずのそれが、今、他ならぬキャロを苦しめているのは、皮肉としか言いようがなかった。

「う、ううう」

 気持ち悪い。
 気持ち悪い。
 こうして突っ立っているだけでも、粘つく様な瘴気で内臓が爛れ落ちていくようだ。

 思わず膝をついてしまいそうになったその時、キャロの手を何か暖かいものが包み込んだ。
 瞑っていた目を見開けば、そこにはすぐ近くにエリオ・モンディアルの顔。彼の瞳が、真正面からキャロを覗き込んでいる。

「……エリオ、くん?」

 掌から伝わる、エリオの体温。汚泥の様にへばりつく空気の中で、彼に握られた掌だけが明瞭な感覚を保っている。

「心配しないで、キャロ――キャロは、僕が守るから」

 だからキャロも、僕に力を貸して。――その言葉が、キャロの総身を包む怖気をほんの少しだけ取り払う。

 キャロ・ル・ルシエはエリオ・モンディアルを信頼している。恐らくは、エリオがキャロを信頼する以上に。
 彼からの励ましも、今に限らずこれまで何度も耳にした言葉だ。六課発足からの苛烈な教導、そしてかの『JS事件』、それらを乗り越えられたのはエリオの言葉があったから……そう言ってしまって、何ら間違いはない。

 だがそれでも、何度聞いたとしても、少年の言葉に安堵する自分、勇気付けられる自分が居る。聞き飽きる事など有り得ない。
 いつだって今だって――心が、奮い立つ。

「うん……うん。ごめん、エリオくん。いこう!」

 もう怯まない。
 もう怯えない。
 決然と顔を上げて声を上げれば、エリオは力強く頷いて――僅かに遅れて、前方のギンガもどこか嬉しそうに頷いた。

「! ――二人とも、降りてっ!」

 ギンガが声を荒げたのは、次の瞬間だった。
 眼下の森から、何かが飛び出して――跳び上がってくる。
 森の直上に張られた幻惑魔法を、ギンガ達は既に伝えられている。故にそれに干渉されないぎりぎりの高度、樹木の先端を掠めるような高さにウイングロードは展開されていたのだが、それが逆に仇となった。木々の枝葉に身を隠していた何者かが、接近する魔導師三人が足を止めた瞬間を好機と睨んで襲い掛かったのである。

 間一髪、三人はウイングロードから飛び降り、難を逃れた。襲撃者の姿を仔細に見て取る事は出来なかったが、それが人間離れしたシルエットである事は確認出来た。恐らくはゴルゴムの怪人だろう。
 飛行魔法の類を持たない三人ではあったが、ギンガは持ち前の身体能力とブリッツキャリバーの衝撃吸収能力によって、高所からの落下とは思えぬ見事な着地をやってのけた。一方のエリオとキャロも、ストラーダの魔力噴射でブレーキをかけ、乱暴ながらも安全な着地を成功させる。

 キャロの腕に抱かれたまま、未だ目を覚まさぬフリードが、着地の衝撃を受けて呻くように嘶く――瞬間、奇襲に失敗した襲撃者達が、三人を追って落ちてきた。やはりゴルゴム怪人。人型の蜘蛛とでも言うべきその姿を見れば、疑いようがない。

「……どうやら、目的地はすぐそこだったみたいですね」

 夕暮れ時のせいか光量に乏しく、見通しの悪い森の中を見回したギンガが、僅かばかりの安堵を込めてそう呟く。
 薄闇の中で閃く四色の光。桜色、赤色、橙色、空色――先行したスターズ分隊、その隊員たちが放つ魔力の光。
 と、三人を取り囲むクモ怪人達が、その時一斉に襲いかかった。再度の攻撃は奇襲でも何でもない、ただ数の有利を頼みにした同時攻撃。

「はぁっ!」
「やぁっ!」

 だが年若いとは言っても、数多の鉄火場を潜り抜けた彼等に、策もない攻撃が通じるはずもなく。
 ギンガの拳撃と蹴撃、エリオの槍閃が一息に四体のクモ怪人を吹き飛ばす。包囲を脱して飛び出せば、程なく彼女達はスターズとの合流に成功した。

「スバル、ティアナ!」
「ギン姉!」
「ギンガさん!」

 ギンガの呼びかけに、スバルとティアナが反応し。 

「おめーら、無事だったか!」
「ヴィータ副隊長!」
「はい! だいじょうぶです!」 

 そしてヴィータの声に、エリオとキャロが応える。

「なのはさんは……!」
「なのはは集束中だ。一発でかいのであの泉をぶっ飛ばす――それまであいつらを近づけんな」

 桜色の光を集め束ねていくなのはの顔は、ギンガ達の合流に気付いているのかいないのか、全意識・全神経を動員した集中の最中と窺える、険しく精悍なものだった。
 ゴルゴムの儀式魔法、その発動準備によって汚染された周辺の魔力を集束するのは、百戦錬磨の高町なのはと言えども容易な事では無いのだろう。いつぞや見たスターライトに比べ、魔力の集束が明らかに鈍い。

「何か企んでいるな。――いや、何をするつもりかは概ね読めるか」
「だが実らぬ。今ここで、我等が阻むのだからな」
「そう、何をしようと無駄なこと。大人しく終滅を享受すれば、苦しむ事もありません」

 降って来た声に、全員が揃って頭上を見上げた。そこには中空に翻る白のローブ。気配を感じて振り向けば、背後、側面にも同様に白いローブと、フードの奥に除く異貌が視界に入る。
 いつの間にかすぐ近くにまで忍び寄ってきたゴルゴム三神官が、合流した機動六課を包囲していた。

「さあ終わりだ! やるぞダロム、ビシュム!」

 きん、と硬質な音が響き、バラオムの両掌に翠緑の硬板が作り出される。圧縮魔力を物質化させたと思しきそれは、ダロム、ビシュムの掌にも同様に生み出され、三神官が同時にそれを六課魔導師へと投げつけた。
 硬板は瞬時に巨大化、それぞれを四囲の壁、そして蓋として、少女達を閉じ込める。外界との接触を完全に隔絶する檻。生半な事で脱け出せるものではない、その強度は傍目にも見て取れる。

「舐めんな! こんなもん、一発でぶっ壊してやるっ!」

 障壁破壊は十八番、ヴィータがアイゼンを振り被って飛び出すが、

「遅いわ!」

 三神官の両掌から放たれる稲妻が、檻の壁に吸い込まれる方が早い。
 三方からの稲妻は、檻の内側へと浸透した瞬間、それぞれの稲妻と反応して激しくスパーク――壁に切り取られた空間を、火花と衝撃で埋め尽くす。

「きゃあぁあああああっ!?」
「わぁあああああああっ!!」

 バリアジャケットの防御があって尚、総身に絡みつく電流衝撃は、魔導師達に苦悶の叫びを上げさせた。
 指一本動かすのもままならず、完全に閉じ込められた状態では、安全圏へ逃れる事すら叶わない。

「う、う、うぅう……!」
「きゃ、キャロ……っ!」

 とりわけ、年齢相応の体格しかないキャロとエリオにとっては、他の者達よりも早くダメージが深刻なレベルに達する。
 エリオの呼びかけに反応しようとするも、キャロの声は喉まで出掛けたところで形を崩し、ただの呻き声としか発声されない。

 痛い。苦しい。視界が激しい火花で焼きつきを起こし、肉体的苦痛が意識と思考を攪拌する。
 負けたくない――未だ折れぬ戦意だけは見事と言えたが、それもそう遠からず折れ果てる。それはキャロに限らず、檻の中で責苦を味わう者全てに共通のこと。

 ……猛獣を思わせる唸り声が魔導師達の耳朶を打ったのは、その時だった。

「フリード……!」

 フォッグ怪人・蜥蜴男の咆哮衝撃波によって昏倒していたはずのフリードが、いつの間にか目を覚まし、キャロの腕の中で猛っている。
 唸り声はいつしか飛竜本来の咆哮と化し、電流の弾ける音を凌駕して響き渡る。ふわりとキャロの手から離れ飛翔したフリードは、次の瞬間、光に包まれてその質量を増大させた。

 主の危機を察知した飛竜が、キャロの指示も呪文も待たず、己が身一つで竜魂召喚を成し遂げる。それは先刻、キャロの感情に呼応して発生した暴走と似て非なるものだった。自身の本領を主たるキャロに委ねていた飛竜が、自らの意思で真の姿を解放したのだ。
 そして放たれる炎熱砲撃ブラストレイ。極大の火炎弾が、一発でゴルゴムの檻に罅を穿ち、二発でそれを粉々に打ち砕く。猛烈な爆風が黒煙を撒き散らし、一帯の視界が完全に塞がれる。

「むうっ!?」
「なんと……! あれは、アルザスの飛竜か!? あんなものを隠し持っていたとは……!」
「――! 二人とも、そこからっ!」

 バラオムとダロムの驚愕は、しかし続くビシュムの叫びに断ち切られた。
 そこから離れろ――ビシュムの言いたかったであろう言葉は、しかし二人には届かなかった。煙幕状に広がった黒煙の中から飛び出してきたスバルとギンガ……ナカジマ姉妹が同時に放った鋼拳の一撃に、彼等は大きく弾き飛ばされていたのだから。
 そしてビシュムも、また。

「おぉおおおらぁああああああっ!」
「――!」

 ぶぉん、と怖気を振るうほどに威嚇的な風切り音。
 ナカジマ姉妹から一拍遅れて飛び出してきたヴィータが、ギガントフォルムへと変形したグラーフアイゼンをぶん回す。周囲の木々を薙ぎ倒し粉砕して迫るそれは、軌道上にビシュムを捉え――狙い過たず、標的を吹き飛ばした。

「ぐっ……!」
「に、人間が!」
「この程度で、我等が倒せると――!」

 だがさすがはゴルゴム三神官。完全な不意打ちで叩き込んだはずの一撃を、まるでものともしていない。
 しかし充分だった。彼女達はこの時点で、己の役割を完全に果たしたのだ。

 風が吹く。調和なき暴風のようでありながら違う、揺るがぬ意思を乗せて吹き荒れる颶風。立ち込める黒煙を吹き払ったその後に、輝く桜色が燦然と光を放つ。
 時間は稼ぎ終わった。魔力の集束は完遂された。後はただ、それを解き放つのみ――!

「みんな、射線から退避して! 大きいの、いくよっ!」

 三神官が敵の意図に気付き、飛び出そうとする――だが、もう遅い。
 魔導師達がなのはの前方から退避し、遮るもののなくなった眼前には、ぼんやりと赤く明滅を繰り返す泉があるばかり。
 夕闇すら反転させる桜色の極光の前では、泉の光など熾火のようなもの。そのあまりの眩さに、燻る炎はただかき消されるだけ。

「スターライト――」

 そして。
 遂に撃発音声は紡がれ、束ねられた魔力は指向性を伴って溢れ出す。



「――ブレイカぁああああああああああっ!!



 瞬間、視界の全ては光に満たされた。
 膨大な魔力が、莫大な魔力が、巨大な魔力が作り出す光の奔流。それは最早、ある種の災害にすら匹敵する暴威だった。

 木々が吹き飛ばされる。地面が抉り取られる。岩壁が消し飛ばされる。目も開けていられない程の光の中で何が行われているのかは、耳を聾さんばかりの破壊音が教えてくれる。
 やがて光は少しずつ薄れ、程なく完全に消えて失せた。夕闇が一帯に戻ってくるものの、あまりにも強烈な光を至近距離で目視してしまった少女達は、暗順応に少しばかりの時間を必要とした。

 そして。

「………………え?」

 愕然と呟いたのは、いったい誰だったろうか。
 砲手である高町なのはを基点として、扇型に削り取られた大地。木々も草も土も岩も等価に薙ぎ払われた、スターライトブレイカーの痕跡。
 その中で、ゴルゴムが儀式魔法の基点として水質を作り変えた泉。それだけは、無事に――無傷と言っても良い程に――残っていた。砲撃魔法発射前と何ら変わらず、赤く明滅する水を湛えていた。
 理由を問う必要はない。それは何よりも明確に、彼女達の眼前に在ったからだ。



 泉を守るかの様に立ち塞がる、異形の体躯。
 極光に総身を焼かれ、白煙を噴き上げながらも、四肢五体はなお健在。
 そこに佇むネオ生命体ドラスの姿を見れば、それがスターライトブレイカーを阻んでのけたのだと、誰もが否応無しに納得させられた。



「そんな……そんな、どうして!?」

 おかしい。
 おかしい。
 こんな事は、有り得ない。
 だって奴は今、結城衛司とラッド・カルタスが、命懸けで抑えている筈なのに――!

〖ああ、びっくりした。いきなりひどいや。ちょっとだけ、いたかったぞ〗

 童子のような声は先にキャロやエリオ、ギンガが聞いたものと同一で――つまり、それが彼女達の知るドラスであるという、何よりの証拠であった。

「そ、それじゃ――それじゃ、衛司さんとカルタスさんは!?」

 近辺に二人の姿はない。既に殺されたか、喰われたか。
 しかしそれを糺す余裕はなかった。ドラスの右肩、レンズ状の器官が瞬いたかと思った次の瞬間には、そこから放たれた光線と――それによって引き起こされた爆発が、機動六課の魔導師達を一挙に吹き飛ばしていたからだ。

 碌に受け身も取れぬまま、少女達は地面に叩きつけられる。爆風の衝撃に身体が軋み、立ち上がる事も、身体を起こす事さえ覚束ない。
 ……いや、立てないのは果たしてそれだけが理由か。完璧なタイミングを制して放たれた筈の切り札が、結果から見れば完全な失敗に終わった事実が、彼女達の闘志に罅を入れたが故ではなかったか。

「ほほほほほほ。残念でしたね、人間どもよ」
「ご苦労だった、ドラス」
「召喚が間に合うかどうかは賭けであったが――ふむ。どうやら、我等の勝ちのようだな」

 ゆらゆらと陽炎か蜃気楼のように、ドラスの元へと三神官が集結する。
 万策尽きた――時間は最早無いに等しく、手段は軒並み封殺された。
 泉の水はますます赤色を増し、夕闇の中で赤光を噴き上げる様は、まるで活火山の火口を思わせる。これを吹き飛ばす術は無く、よしんば持ち合わせていたとしても、目の前のゴルゴム三神官とネオ生命体からの妨害を躱して放てるとは思えない。

「……それでも」

 ……ただそれでも、誰一人諦めてはいなかった。立てない身体に鞭打って、魔導師達は立ち上がる。
 最後の一分一秒まで望みは捨てず、例え指一本でも動く限りは抵抗すると、その眼差しが語っている。
 不屈の戦意は、決して高町なのはの専売特許ではない――彼女と轡を並べて戦う者、彼女の教導を受けた者、それら全てに相通ずるものだった。

「諦めが悪いな、魔導師ども」

 バラオムからのそんな嘲笑にもまるで怯まず、少女達は前へ出る。残り少ない体力と魔力をかき集め、せめて最後の一矢をと。
 その中で一人、キャロだけは敵に向かい合ってはいなかった。倒れ伏すフリードに這い寄るように近付いて、容態を確認する。
 キャロの力を借りぬ竜魂召喚、その反動だろう。檻を粉砕した火炎弾で、既にフリードは限界を超えていた。息こそあるものの再度昏倒し、舌を突き出しながら弱々しい呼気を漏らしている。

「やれ、ドラスよ。皆殺しにしてこい」
〖んー? うーん。めんどうだなあ――うん、でも、いいや。さいごにもうすこしだけあそべるみたいだし〗

 ざり、とドラスが一歩前に踏み出してくる。
 他のゴルゴム怪人の比では無い重圧。ただ相対しているだけだというのに、虐殺されるビジョンが浮かぶ。
 闘志は萎えない。だが誰もが、自分達の末路を予想した。ここで果てる自分の姿を、生物として当然持ち合わせる本能が想像させた。

「…………。…………!?」

 その時、天啓のように、キャロの脳裏である仮定が閃いた。
 召喚した、と三神官は言った。スターライトブレイカーを阻む為の、ネオ生命体ドラスの緊急召喚。間に合うかどうかは賭けだった、と。
 だとするならそれは、ドラスの都合を考慮しない強制召喚。あの状況で、ドラスに召喚に応じるか否かを問う余裕などなかったはずだ。
 例えドラスが戦闘中であったとしても――それを無視して、連れて来たというのなら。

「…………っ!」

 判断に先んじて、キャロの身体は行動に移っていた。
 両掌に嵌められたグローブ、ブーストデバイス・ケリュケイオンに魔力を送り込む。手の甲に光る宝玉が、魔法の行使に際して明滅する。
 キャロの足元に魔法陣が展開――更に、睨み合うゴルゴムと機動六課の中間点に、もう一つの魔法陣が展開される。ミッド式と似て非なる、正方形の魔法陣。

 キャロ・ル・ルシエは知っている。高い技量を持つ召喚士は、転移・転送魔法にも秀でる事を。事実、彼女の親友ルーテシア・アルピーノは、かつて敵として相対した頃にそれを駆使していたのだ。
 であるならば、自分も。
 ルーテシアと同等の技量などと自惚れてはいないが、それでも、ただ一人を転移させるだけなら――

「彼方より、此方へ!」

 足元の魔法陣が、そして前方の魔法陣が、キャロの声に呼応して光を放つ。



黒き仮面の騎士を・・・・・・・・我が元へ・・・・!」



 桃色の光が間欠泉の如く噴き上がり、ドラスの視界を覆い尽くす。異なる二点の空間が条理を捻じ曲げられて接続され、歪んだ気流が疾風となって吹き荒れる。
 眼前で起こる怪現象に、ネオ生命体が一瞬、ほんの一瞬だけ怯んだ。
 取るに足りない僅かな時間。だがそれこそが致命的。状況を引っ繰り返し、天秤を覆す唯一にして最大の要因。
 何故なら。

「死――」

 天敵たる魔蟲は、既にそこに居たのだから。 

「――ィいいいぃねぇぇえええええええあっ!!」  

 飛び出してくるのは仮面の男。黒の鎧に黄のラインを輝かせ、『Χ』の文字を刻んだ紫の眼光が、灼熱の殺意に煮えて標的の姿を捉える。
 焼き斬る熱刃を振り翳し、結城衛司がドラスへと襲い掛かった。





◆      ◆







 僅かに時間は遡る。

「おぉおおおおおぁあああっ!」
〖あははははははははははっ!〗

 咆哮と笑声が交錯し、刃と拳が相手の急所を目掛けて奔る。
 一進一退の攻防は、しかしそれだけで一種の奇跡。たかがオルフェノクが――旧時代で旧世代の生物が、新機軸の生命体たるドラスに拮抗する事など、本来有り得ぬ事象である。
 科学技術の結晶カイザギア。殺人昆虫の闘争技術。そして結城衛司の生存本能が積み重なり折り重なって、遂に少年はネオ生命体に比肩する。“戦闘”が成立し、“殺し合い”が発生する。

「――っ!」
〖あははっ! そぉれ!〗

 掬い上げる様なボディブローが、強化服越しに少年の腹筋を抉り込んだ。
 ごぼ、と血反吐がせり上がって呼吸を妨げる。がくりと膝から力が抜け、意識が刹那、寸断される。

 ――そう、拮抗するだけだ。実力と戦力の比肩も、そう長くは続かない。少しずつ、だが確かに、衛司はドラスに押され始めていた。
 エクシードチャージの連続使用によるフォトンブラッドの減少。ダメージの蓄積による肉体駆動の精度低下。生存本能だけは変わらず、いや窮地に立つほど膨れ上がっていくものの、肉体と装備の両面がそれについていけない。
 限界という意味では、彼はとうに限界を越えていた。

「……っ、く」

 ぐらりと体勢が崩れたところに叩き込まれる、竜巻のような横殴りの拳。
 吹き飛ばされながらも空中で体勢を整え、着地と同時に反撃に移る――そのつもりだった。

 だが着地の瞬間、体重を支えるはずの脚から力が抜け、全身を使った土下座の如き姿勢での着地を余儀なくされる。既に着地の衝撃にも耐えられぬ程、彼の身体は傷んでいたのだ。
 出血は酷く、打撲は数え切れず、骨折は一箇所や二箇所どころではない。本来ならば戦闘不能……否、生きて、意識を保っていられるのが不思議なレベルの負傷である。

 故に均衡は崩れる。一撃ごとの攻守交替が中断される。それを逃すドラスではなく、そこから更に覆せるだけの切り札を、衛司は持っていない。
 だが、それでも。

【Exceed Charge.】

 それでも――結城衛司は、一人で戦っている訳ではない。
 いや、実際のところ忘れていた。戦いに没頭するあまり、殺し合いに耽溺するあまりに、彼の存在を意識の外へ締め出していた。
 だからドラスの背後に突如として光錐が発現し、乱気流がネオ生命体を縛り上げても、彼がそれを現実の光景と認識するまでに、数秒の時間を必要とした。

「カルタスさんっ!?」
おおおおおおおっ!

 空中で一回転し、身体ごと光錐へ蹴り込んでくるのは、デルタへと変身したラッド・カルタス。先にドラスの一撃を叩き込まれ、意識を断たれていたはずの彼が、いま再び立ち上がってドラスの背後から攻撃を仕掛けたのだ。
 ネオ生命体を抉る、デルタギアの必殺兵装ルシファーズハンマー。ドラスの身体に突き刺さった光錐が回転し、標的の肉を、骨を、内臓を粉微塵にして攪拌する。

〖い――たい――なぁあっ!〗

 初めて、ドラスが声を荒げた。
 ドラスにしてみれば、以前に同様の攻撃を喰らった経験もあり――ラッキークローバーの一人ラズロが変身したカイザに、ゴルドスマッシュを叩き込まれた――その記憶が、苦痛と言うよりは不快の域で彼の我慢を超えたのだろう。
 これまで敵の攻撃に対し回避も防御も行わなかったドラスが、この時ばかりは身をよじって逃れようと試みる。

 だが光錐は完全に標的の身体に食い込んでおり、どれほど動いても外れはしない。そうと理解したのか、ドラスは尻尾を大きく振り上げ、蝿でも叩き落すかの如く無造作に、光錐へ一撃を喰らわせた。
 ばきん、と光錐が砕け割れ、デルタもまた地面に叩きつけられる。

〖このっ! このっ! このっ!〗

 そして倒れ伏すラッドの背を、ドラスは執拗に踏みつけた。見る間にデルタが地面へとめり込んでいき、びくんと一度大きく痙攣したかと思うと、動きを止める。

「――どこ見てんだ、ドラスっ!」
【Exceed Charge.】

 ドラスがラッドへと意識を向けたのは、時間にして僅か数秒ほどの事。だがその数秒は、衛司が体勢を整えるには充分な時間だった。
 叫ぶと同時、衛司はドラスへ向けて足を突き出した。次瞬、足首に装備されたカイザポインターから光針が奔る。振り向いたドラスの眼前で光針は光錐へと変形し、再び発生する乱気流で標的の挙動を縛り上げる。
 跳躍。回転。そして身体ごと、光錐へ向けてカイザが蹴り込んでいく。ドラスは動かない、動けない。躱す事も防ぐ事も叶わない――

 ――殺った。

「!?」

 だがその確信が、一瞬の間に崩される。
 驚くべき事に、ゴルドスマッシュが直撃する刹那、ドラスは雲か霞の様に消え失せたのだ。まるで元からその場には誰も居なかったかのように。
 標的を失った一撃は徒に大地を抉るだけ。地に降り立った衛司は、すぐさま身を翻してその場を離れた。これまでそんな素振りは全く見せなかったものの、ドラスが瞬間移動か何かで回避したとするなら、当然、反撃が来るものと予想して。

 ……何も無い。これまでの死闘が嘘の様な静けさが、衛司の周囲を満たしている。
 一分、二分、静寂は一向に破られる気配もなく、徐々に少年の胸中に、意識的に排除していた可能性が現実味を帯びて舞い戻ってくる。

 逃げた?
 勝てないと悟って、殺されると解って、逃げ出した……?

 それは何の根拠も無い楽観。だが楽観とは、その仮定に一定の魅力があって初めて成立する。そうあってほしいという願望こそが楽観を形成する。

「ふざけるな――ふざけるな! 出て来い! 出て来い、ドラぁああああああス!!」

 その点、衛司にとって『ドラスが逃げた』などという仮説は、何の魅力もないものだった。
 今ここで逃したとしても、いずれ再び奴は自分の前に現れる。生き延びたいと思うなら、死にたくないと思うなら、ネオ生命体ドラスは何としてもこの場で殺さなければならない。

「逃がすものか……殺してやる――絶対、殺してやる……!」

 既に少年の思考は殺意の熱に灼き切れていた。前後の見境はなく、自分がどうして戦っていたのか、何故この場に居るのかさえ意中にない。
 ただドラスを殺さなければならない、殺しておかないといけない、殺したいという一念だけが、彼を突き動かしていた。

 うわ言のようにぶつぶつと呟きながら、衛司はドライバーからカイザフォンを抜き取って、サイドバッシャーの呼出コードを入力した。
 例え魔法ないしそれに準ずる手段を以っての転移であっても、出現地点がミッド上である限り、人工衛星イーグルサットがすぐに捕捉する。
 だが衛司に空間転移の手段はなく、現地に急行しようと思うなら、サイドバッシャーを初めとした各種ビークルを使うのが当然の処方である。
 サイドバッシャーが到着するのが早いか、それともドラスの出現をイーグルサットが感知するのが早いか――

「……!」

 瞬間、カイザが直下から照らし出された。視線を足元に向けてみれば、彼の直下の地面に桃色に輝く魔法陣が展開されている。
 その現象に、衛司は覚えがあった。魔力光の色こそ違うものの、それはかつて二度、結城衛司を死地へと誘った転移魔法の魔法陣。誰かが己を招いているのだと、熱暴走に煮える脳髄が最後の冷静さでそう判断する。

 ――彼方より、此方へ――

 声が聞こえる。
 これは一体、誰の声だったか。

 ――黒き仮面の騎士を、我が元へ――

 誘っている。誘われている。そう直感した衛司は、既に確信を得ていた。この誘いの先に、逃げ去ったドラスが居ると。
 拒む理由はない。足元の魔法陣が光を強めていき、それが視界いっぱいに広がって景色を満たした瞬間、彼の身体は物理法則を超越して、異なる二点間を移動していた。

 浮遊とも落下ともつかぬ感覚に身を任せ、やがて靴裏が此処ではない何処かの地面を踏んだ瞬間、彼は飛び出していた。背後に機動六課の魔導師達が横たわっている事に、気付きもせず。
 ――居た。何かに削り取られ、吹き飛ばされた後の風景の中に、総身から白煙を噴き上げながらも佇立するドラスの姿を、衛司は見て取った。
 口の端が吊り上がる。仮面の下に満面の喜悦を湛えて、結城衛司は再び、ネオ生命体ドラスへと襲い掛かる。

「死――ィいいいぃねぇぇえええええええあっ!!

 ブレイガンの刃が翻り、袈裟懸けに標的を斬り付ける。返す刀でもう一斬。
 激しく火花を散らしてよろめいたドラスではあったが、反撃に転じるまでに時間はかからない。右肩のレンズ状器官が煌いたかと思うと光線が放たれ、カイザの肩部装甲を掠めて、後方の木々を薙ぎ倒す。
 その一合によって、少年は自身の優位を確信した。理由は判らないが、ドラスの動きが確実に鈍っている。つい先程までのドラスなら二度も斬り付けられはしなかっただろうし、反撃も確実に当ててきたはず。

 衛司には知る由もない事であったが、高町なのはが放ったスターライトブレイカーは、確かにドラスへダメージを刻み込んでいたのだ。
 人間のような痛覚を持たない――痛苦の概念がそもそも人間と異なる――ネオ生命体である為に平然としているものの、ドラスもまた、限界ぎりぎりの状況へ追い込まれていたのである。

「おぉおっ!」

 ブレイガンの連続射撃――狙うは一点、ドラスの右膝関節。

〖わ、わ、わわ〗

 ネオ生命体と言えども身体形状は人間と同一、脚を破壊されては立っていられない。がくりとドラスが膝をつき、大きく体勢を崩す。
 跳躍――緩い放物線を描いて、カイザが敵へと飛び掛る。落着点が即ちドラスの直上、重力加速と自身の質量を頼みに、衛司はドラスに圧し掛かり、見事マウントポジションを取った。
 刃が振り上げられ、そして振り下ろされる。狙うはドラスの首一つ。生命体である以上、斬首と致命は同義で等価、例外など有り得ない。

「う、ぉ、おおおおおおっ……!」
〖う、うう、うううううう……!〗

 無論、ドラスもただ殺されはしない。刀身を掴み、必死の抵抗を試みる。
 弱ったとは言えやはりネオ生命体、膂力においては未だ人間のそれを凌駕する。少しずつではあるが、ブレイガンの刀身が押し戻されていく。

【Exceed Charge.】

 それは元より承知の上。簡単に首を斬られてくれるなど、そんな虫の良い見通し、衛司は持っていない。
 圧縮されたフォトンブラッドが、体表のラインを通ってブレイガンへと送り込まれる。ブレードの熱量が一気に上昇し、刀身を掴むドラスの手から、じゅう、と肉の焼けるおぞましい音が上がる。
 更に。

【Exceed Charge.】
【Exceed Charge.】
【Exceed Charge.】

 あろう事か、衛司は連続してエクシードチャージを発動させた。機器の耐久限界を無視した暴挙に、ブレイガンが火花を散らす。
 刀身を形成するソルグラスの耐熱限界と、ドラスの外皮が有する耐熱限界――刀身が溶けるか、ドラスの手が焼き斬られるかの根比べ。



「――死ね・・



 全霊を込めた根比べにそぐわぬ冷え切った声音が、その時仮面の内側から漏れ出した。

「死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね――死ねよ、お前」
〖ひ――い……!?〗

 恐怖はただ一人、ドラスだけのもの。
 敵意を向けられた事はあった。殺意を浴びせられた事もあった。だが眼前で死を囁かれた経験などドラスには皆無で、そのあまりのおぞましさに、遂にネオ生命体のメンタルは屈した。

 そして――目の前の敵に恐怖を覚えた瞬間が、彼にとって終わりと同義。
 刀身を掴む手が、ブレードの熱によって遂に溶断される。ずるりと掌を真っ二つにした刃はそのままドラスの首に食い込んで、掌と同様に彼の頭と胴とを切り離した。

「はあっ、はあっ、は――ふ、うう」

 哀れな怪物の首を刎ねて、そして漸く、衛司の思考に冷静さが戻ってくる。脳髄を焼く殺意の熱が急速に取り払われて、そうして残った思考が覚えたのは、言いようのない空虚感だった。

 もし衛司が、殺傷殺害に快楽を見出す殺人鬼であったのなら、その手応えが消えるまでの時間を恍惚として過ごしただろう。
 だが生存本能に起因する殺人欲求など、満たされたところで快悦とは程遠い。『生き延びたい』一心で『殺そう』としたのだから、いざ殺害に成功したとしても、そこにはただ生き延びた結城衛司が残るだけなのだ。

 つまり、『失わない』だけ。
 快楽とは総じて『得られる』事で覚えるもの――結城衛司には、どうあっても無縁のものだ。

「え――衛司――くん」

 ふと名を呼ばれ、振り向いた衛司が目にしたのは、満身創痍といった態で地面に転がる機動六課の魔導師達の姿だった。
 その時初めて、衛司はこの場に彼女達が居る事に気付き、怯えと嫌悪が入り混じった彼女達の表情から、たった今、自身が繰り広げた惨劇を余すところなく見られていたと理解した。

「ギンガさん……皆、どうして……?」

 呆然と呟いて彼女達に歩み寄る衛司だったが、その歩みがふと止まる。
 振り向いた衛司が見たのは、ドラスの骸に寄り添って蹲る三神官の姿。

「おお……なんと、なんということだ……!」
「許せぬ。断じて許す訳にはいかぬ――小僧っ! 貴様は死罪だ、その命を以って償ってもらうぞ!」
「いいえ足りませぬ。生きたまま八つ裂きにして、虚数空間へばら撒いてくれましょう!」

 憎悪と憤怒を双眸に宿し、三神官が衛司を睨みつける。
 ――上等だ。お前らも、ドラスの後を追わせてやる。
 よろめきながらブレイガンを構え直す。立っていられるのが既に奇跡、意識を保っていられるのがどう見ても不可思議。にも関わらず、結城衛司は戦意を露わに、ゴルゴム三神官に相対する。

「衛司くんっ!」

 今にも敵へ飛びかかろうとする衛司の背に、高町なのはが叫ぶように呼びかけた。
 敵を前にして振り向く迂闊はしなかったものの、ぴくりと震える肩が、呼びかけが届いていると示している。

「泉を――泉を壊して!」

 泉……?
 見れば確かに、三神官の後方に小さな泉――活火山の火口の如く赤い光を噴き上げる泉がある。魔導師ならぬ衛司には判らない、その泉を基点として、瘴気の如く汚染された魔力が渦巻いていると。

 時間が無い。切羽詰ったなのはの声音は、事情を知らぬ衛司をして警戒を促された。
 だが問題は、衛司の……カイザの持つ武器兵装が、どれも対人用のものである事だ。殺傷力の高さはさておき、対物破壊能力はそう高くはない。小さいとは言え、泉を一つ吹き飛ばす程となると難しい。

 しかし次の瞬間、鳴り響く駆動音と排気音が、その憂いを取り払った。音の聞こえる方向へ振り向けば、此方へ向かってくる一台のサイドカーが目に入る。
 スマートブレイン製ヴァリアブルビークル、サイドバッシャー。転移の直前、衛司が呼び出していたそれが、突如別地点に出現した主の反応を追ってこの場へ現れたのだ。

「はっ! いいタイミングだね!」

 跳躍したカイザがビークルに乗り込み、次瞬、巡航形態ビークルモードから戦闘形態バトルモードへとサイドバッシャーは変形、二足歩行の恐竜を思わせる形態へと変化した。
 カイザには面制圧を可能とする対物火器は装備されていないものの、サイドバッシャーの装備はその欠点を補うべく設計されている。“左手”に装備された六連装ミサイルポッド・エグザップバスターの一斉射撃ならば、あの程度の泉、丸ごと吹き飛ばしてお釣りが来よう。
 三神官が狼狽する。カイザが何をするつもりなのか、何が出来るのか、それを悟ったが故に。飛び出す彼等ではあったが、その妨害が相手へと届くよりも、衛司が発射ボタンを押す方が早い。

「吹っ飛――べっ!?」

 だが。衛司が発射ボタンを押し、それを受けたサイドバッシャーが、砲口からミサイルを撃ち出す刹那。
 何処かから飛来した一条の光線がサイドバッシャーを射抜き――ミサイル、動力部、その他火器類を纏めて誘爆させた。

「ぐぁっ!?」

 爆風は三神官、そして六課魔導師達のところにまで届いたが、やはり最も被害を浴びたのは衛司であった。
 爆心直近に居た彼は当然のように爆発に巻き込まれ、爆風に弾き飛ばされて地面に叩きつけられる。落着の際の悲鳴、そして仰臥しながらの痙攣で生きていると知れるものの、立ち上がる事はまず不可能だと、誰の目にも明らかであった。

「ぐぁ……あ、う」

 打ちどころが良かったのか悪かったのか、衛司の意識は断たれていなかった。いっそ気絶出来れば楽だったものを、彼は不思議なほど明瞭な意識で、全身の痛苦を味わう事となった。
 ごろりと転がるだけで、身体中が捻じ切れそうになる。だがその痛みを押し殺してでも、確認しなければいけない事があった。サイドバッシャーを撃ち抜いたあの光線、あれが一体どこから放たれたものなのか――

「…………!?」

 恐らく、それがこの日一番の驚愕であっただろう。
 驚愕は衛司だけでは無く、六課の面々、そしてゴルゴム三神官にまで共通のものだった。誰もが言葉を忘れ、目の前で起こっている有り得ない怪事に、視線を釘付けにされている。
 当然と言えば当然の反応だ。――首から上を失いながら、尚も平然と立ち上がり、仁王立ちに佇むドラスを目にすれば。

「ど、どうして――どうして!?」

 悲鳴の様な声を上げたのがスバルだと、声から数秒遅れて、衛司は理解した。脳髄の処理能力はそれほどまでに落ちていた。
 しかし驚愕はそれだけでは終わらなかった。佇立するドラスの、その身体の至るところからじわりと水銀のような液体が染み出てくる。液体は瞬く間にドラスの全身を包み込み、やがて体表を鎧の如く覆って固着する。

 銀色の甲冑――最初にイメージしたのは、それだった。
 金属の光沢に輝く体表は、皮膚と言うよりは確かに鎧甲冑の表面に近い。身体各部に点在するビスのような意匠も、金属的なイメージを増幅させている。

 カイザに斬り落とされたはずの頭部も、いつの間にか再生していた。首から下が大きく印象を変えたのに対して、頭部はそれほど大きな変更は見られない。
 だが昆虫を思わせる赤紫の瞳が、鬼火のような光を湛えた緑色へと変化していた。変化らしい変化と言えばその程度だが、見る者にはそれが何よりも顕著な変化と思えた。

 がちゃり。金属音と共に、ドラスが一歩前に出る。その足音に硬直を払われたのか、三神官が呆然と言葉を漏らす。

「そ、その姿は……」
「まさか、まさか――」
「………………『シャドームーン』……!?」

 衛司は知らない。機動六課の魔導師達も、知る由もない。
 ドラスの変質は、その体内に封入されていたゴルゴムの至宝、キングストーンによるもの。“器”を死なせぬよう、内部に残されていたかつての世紀王の記録・・・・・・・・・・を元に、キングストーンがドラスの身体を修復したのだ。

 それは紛れもなく、“奇跡”と呼ばれる類の事象だった。幾つもの偶然の積み重ねが発生させた、天文学的な低確率で引き起こされる必然だった。
 強いてその奇跡に理由を見出すとするのなら、それは現在の時間帯。既に日は落ち、空にはミッドチルダ特有の、二つの月が煌々と輝いている。
 ドラスの腹に納められた翠のキングストーン、その真名は『月の石』。その名に恥じる事なく、冴える月光によって急激に活性化した秘石は、死者蘇生に限りなく近い奇跡をすら易々と成し遂げてみせた。

 ……とは言え。そんな事象の裏側は、どうあっても彼等の知るところではなく。
 故に目の前で起こった現実は、ただシンプルな表現でのみ、彼等の認識に記録される事となった。



 即ち――『その時、不思議な事が起こった』のだと。





◆      ◆







 再生したドラスの姿に目を奪われていた六課の面々であったが、程無く更なる驚愕が、彼女達を打ちのめす事になる。
 削り取られ薙ぎ払われた景観の中に、ただ一つ残る小さな泉。赤光を噴き上げる様は活火山の火口の如くであり、そしてその比喩を実践するかのように、泉は遂に赫と強い光を放ち始めた。

「来たぞ――遂に、この時が!」
「残念だったな管理局の狗ども! 儀式魔法は完遂された!」
「もう止まらぬ! ミッドチルダは滅び、フォッグ・マザーは我等ゴルゴムの手に落ちる! せいぜい冥府で歯を軋れ、地獄の底よりゴルゴム帝国の隆盛を見届けるがいい!」

 高らかに吼える三神官――勝利を確信し、快哉を叫ぶ彼等を止められる者は、もう誰も居なかった。
 空気が軋む。大地が震える。空間そのものが、ミキサーの中に放り込まれた様な大振動に巻き込まれていく。
 終末の光景だった。惑星ミッドチルダの断末魔を、今この場に居る誰もが目撃した。
 だが――

「……立てる、ヴィータちゃん?」
「へっ。誰に向かって言ってんだよ」
「ほらスバル、行くわよ」
「うん、ティア」
「キャロ、まだ――大丈夫だよね?」
「だいじょうぶ。エリオくんが、居てくれるなら」

 誰もが諦めていなかった。誰もが屈していなかった。
 圧倒的な絶望を前に、機動六課は立ち上がる――それぞれに声を掛け合い、肩を貸し合い助け合って、最後の一分一秒まで抵抗を続けようと。
 そんな彼女達を、ゴルゴム三神官が嘲笑う。晩節を汚す愚か者と。運命を受け入れぬその在り方は、高みから見下ろす者にとっては、さぞや滑稽に映るのだろう。

「滑稽でも、いいんです」

 高町なのはが立ち、ヴィータが立ち、ティアナ・ランスターが立ち、スバル・ナカジマが立ち、エリオ・モンディアルが立ち、キャロ・ル・ルシエが立ち――そして当然、ギンガ・ナカジマが立ち上がる。
 ぎしりと鋼拳の歯車が軋みを上げ、錆び付いたかの様にぎこちない回転は、損傷が引き起こす致命的な機能低下の顕れ。
 それでも構わないと、ギンガは頬に笑みさえ浮かべながら、敵からの評価を肯定した。

「みっともなくても、無様でも、格好悪くても――やるべき事が、ありますから」

 利口ぶって諦めたツケは、結局のところ、身を守る術のない人々が払うのだ。命という代価によって。
 それは許せない。それだけは見過ごせない。そも、何の為に自分達が此処に居るのかを考えれば、ここで諦めるなどという選択肢が有るはずがない。

「ふん。だが、そのざまで何が出来る。どいつもこいつも半死人のような面をしておるわ――ドラス!」
〖……………………〗

 ダロムの声に反応し、銀色の甲冑を纏ったドラスが、六課魔導師の前へと歩み出る。

「殺してしまえ。消し炭一つ、残すでないぞ」
〖………………うん〗

 もし少女達にもう少しだけ余裕があったのなら、ドラスの異変――外面ではなく、内面の――に気付いただろう。つい先程まであった、子供のよう快活さが、声音から完全に消え失せている事に。
 だが彼女達にも、彼女達を取り巻く状況にも、何一つ余裕はなかった。怪物の異変は、誰に気付かれる事もなく見逃された。

 そして魔導師達は飛び出した。最早魔力も体力も尽きかけ、出来る事と言えば特攻に近い突撃しかなかったが、それでも最後の力を振り絞った攻撃は脅威であったのか、三神官もまた前に出る。最後の悪あがきを蹂躙するべく、迎撃に入る。
 ――踏み出した三神官の背後で異変が起こったのは、次の瞬間だった。

「!?」

 斬、と大地が切り裂かれる音。
 振り向いた三神官の表情が、驚愕に凍る。
 儀式魔法の基点となるべき泉が、真っ二つに断ち割られていたのだ――地割れの如き深い亀裂、否、斬撃痕が、泉があった場所に穿たれていた。

 数分前ならいざ知らず、儀式魔法が起動を始めたこの瞬間は、実際のところタイミングとしては最悪だった。膨大な魔力が制御を失って荒れ狂い、魔法陣の術式を掻き回しへし砕いて、それが更なる暴走を誘発する。
 地面に次々と亀裂が穿たれ、捲れあがって、鋭利な岩塊が次々と隆起する。空間そのものにも亀裂が生じ、“向こう側”との気圧差が乱気流を作り出して竜巻の如き暴風を生み、岩塊を次々と地面から引き剥がして舞い上げた。

「ば、ば、馬鹿な!?」
「何だこれは―― 一体どういう事だ!」

 三神官の悲鳴染みた絶叫が響く中で、ただ一人、ギンガ・ナカジマだけが、その現象の根源を目にしていた。
 彼女が見上げる先、暴風の荒れ狂う中空に、一匹の怪物が佇んでいる。

 総身に蛇の意匠を備えた、ゴルゴムとも、オルフェノクとも異なる“怪人”。先にカイザとデルタが倒した蜥蜴男と蜂女、あの二体に通じる意匠から、それがフォッグ怪人の一体である事は容易に推察出来た。
 蛇男――いや、より正確に、コブラ男とでも言うべきか――の手には一振りの剣。刀身を眩く発光させたその剣が、泉を周辺地形もろとも真っ二つに断ち割ったのだと、直感的にギンガは悟る。

 そしてコブラ男は光剣を仕舞いこむと、次の瞬間にはその姿を変えていた。釦の光る白い詰襟を纏った、ごく普通の若い男。
 男は眼下の惨状を一瞥したかと思うと、何も言う事なく踵を返した。呼び止めようとギンガが口を開いた瞬間、暴風の勢いが一気に強まる。呼吸すらままならぬ程の強烈な爆風に、ギンガの声は吹き散らされた。

《みんな、何かに捕まって――いや、手を繋いで!》

 頭の中に響く、なのはからの声。
 指示に従って、少女達は咄嗟に、近くに居た者と手を繋ぐ。なのはとティアナ、スバルとヴィータ、そしてギンガとエリオとキャロの三組。

 ばきん、と何かが破断する音が響く。空間に生じた無数の亀裂が広がり、それぞれの裂け目が繋がってより巨大な亀裂と化し、奈落へ繋がるクレバスと化している。
 耐えろ、おめーら――ヴィータのそんな声が聞こえたような気がするが、誰もそれに反応出来なかった。返事を返せなかった。言われるまでもなく、彼女達は精一杯、全力で耐えていたのだから。

「…………っ!」

 エリオの手を握り――エリオはキャロの手を握って――暴風に耐えるギンガの耳朶を、その時不思議なほど明瞭に聞こえる足音が打った。
 顔を上げて前を見れば、そこにはドラスが佇んでいる。荒れ狂う暴風をまるで意に介していない、爆風の影響を全く受けていない。物理法則の埒外に、ドラスは居た。

 ドラスの右肩、総身が鎧に覆われた後もなお残るレンズ状器官に、光が集まる。何をするつもりなのかは瞭然だった。殺せ、という三神官からの命令を、ネオ生命体は忠実に実行しようとしているのだ。
 防ぐ事も躱す事も不可能だった。現状維持が精一杯、僅かな身じろぎでもエリオとキャロを巻き込んで吹き飛ばされる。だがこのままの状態でいてもドラスに撃ち殺されるだけ。完全な手詰まりだった。

「ギンガさん! 手、手を離してください! 僕達の事はいいですから!」
「このままじゃ、ギンガさんも――!」

 エリオとキャロの叫びを、あえてギンガは黙殺した。確かに二人を見捨てれば、或いはギンガ一人なら助かるかもしれない。このままでは三人揃って死ぬのだから、数だけで見れば、その方が賢い選択だ。
 だが当然、そんな選択を良しとするギンガではない。我が身可愛さに仲間を捨てるなど、どう間違っても有り得ない。

「!」
〖!?〗

 肩口に集束する光が、いよいよ標的に向けて放たれようとする、その一瞬――その一瞬に、乱入してくる者が居た。
 いつの間にかドラスの背後に忍び寄った衛司カイザが、攻撃直前に生じる一瞬の隙を衝いて斬りかかったのだ。
 斬閃の軌道は地と並行の横薙ぎ、狙うはドラスの首ただ一つ。もう一度その首斬り落としてやると、そういう意思が篭もった一閃。

「え……!?」

 ぱきん、と妙に軽い音が響いた。
 ブレイガンの斬閃が見事ドラスの首を捉えた瞬間、ソルグラスの刀身が粉々に砕け散った。ドラスの体表、銀甲冑には傷一つ付きはしなかった。

 それでも攻撃の威力だけは通ったと見えて、ドラスの体勢がほんの僅かに崩れる。今にも放たれようとしていたレーザーの軌跡がずれて、ギンガの胸を貫くはずの光線は、彼女の足元に突き刺さり小爆発を引き起こすに留まった。
 しかしそれを、果たして幸運と言って良いものか。足場を崩された事で、ギンガは荒れ狂う暴風に抗う術を失った。風に絡め取られたと思った瞬間には、彼女はエリオとキャロ諸共中空に舞い上げられて、上下左右も判らぬ乱気流の只中へ放り込まれていた。

「ぎ――ギン姉ぇええっ!」
「エリオ! キャロっ!」

 スバルの、そしてティアナの叫びが響く――だがそれも、すぐに暴風の爆音に掻き消された。





◆      ◆







「っ!」

 背後からの奇襲が失敗した時点で、衛司に勝機は失くなったと言って良い。
 鉄骨をも灼き斬る熱量、目にも留まらぬ速度。その二つを兼ね備えた一撃は紛う事無く必殺で、それをただ装甲強度だけで防ぎきられた瞬間、結城衛司の命運は尽きたのだ。

 だが少年は愚かだった。自身の敗北が解らぬ程に愚かだった。
 刃が砕け散り、地面に這いつくばる羽目になっても、彼の脳髄は即座に次の攻撃に向かって思考を開始していた。

 そして少年は、救いようのない愚か者だった。
 次手を撃ち込むまでの時間稼ぎとして銃口を向けたその瞬間、彼は視界の端に、暴風に絡め取られて吹き飛ばされるギンガ、エリオ、キャロの三人を目撃し、彼女達の姿を意識に入れてしまった。
 殺意の一念に凝り固まり、攻撃行動に一本化されていた思考が、その時余分な、“人間としての”思考を思い出してしまった。

「…………っ!」

 選択肢は二つ。
 今ここでギンガ達を見捨て、無防備な体勢のドラスに一撃を加えるか。
 それともギンガ達を助ける為に、千載一遇の好機を逃すのか。

「くっ――」

 逡巡は一秒に満たなかっただろう。しかしその一秒に、少年の脳内ではこれまでの人生で最も濃密な思考と選択が展開された。
 助けるのか、見捨てるか。
 怪物としての結城衛司は――見捨てるべきと判断する。好機を逃せないという理由もさる事ながら、己が結局“殺すだけ”のイキモノという事を弁えて。殺害殺傷が大前提、それを蔑ろにして人命救助など、それこそ嘘臭い。
 そして、少年の中に僅か残る、人間としての結城衛司は。

「――う、うう」

 ギンガさん。
 エリオくん。
 キャロちゃん。

 見捨てる/駄目/関係ない/助け/オルフェノクだから/それでも/殺す事が/無視できない/殺すだけが/僕は/まず殺せ/ギンガさんが/先に殺せ/エリオくんが/全部殺せ/キャロちゃんが/殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ/ギンガさんを/殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ/ギンガさんが/ギンガさんに/ギンガさんだ/ギンガさんは/


 ここで自分ぼくが見捨てれば。
 彼女ギンガさんはきっと、ここで死ぬ。


くっ――そぉおおおおおおおおおっ!!
 
 少年は愚かだった。
 少年は救いようのない愚か者だった。
 そして少年は、極めつけの愚物であった――人外である事を受け入れ、人外として振舞ってきたはずの己を、彼はその時裏切った。





◆      ◆







くっ――そぉおおおおおおおおおっ!!

 咆哮と共に地を蹴って、カイザが跳躍する――ただしそれはドラスからは真逆の方向、眼前の敵に背を向けた、敵前逃亡とも取れる行動だった。
 濁流の中の木っ端が如く暴風に吹き飛ばされるギンガの目にも、その“有り得ない”行動は映っていて、だからこそ彼女は目を疑った。殺意だけに衝き動かされていた彼が、どうして敵から逃げるような真似をするのか、まるで理解の外だった。
 まさかそれが自分達を助ける為の行動であると、彼女は予想だにしていなかったのだ。

「――ギンガさんっ!」

 それでも、名を呼び、手を伸ばしてくる彼を見れば、その意図を量るのは難しくなく。

「手ぇ、伸ばして――!」
「――はいっ!」

 伸ばされた腕の、まず指が絡み合い――そして引き寄せた掌を、どちらからともなく、がっちりと握り合う。
 掌から伝わる確かな感触。どこか遠くに感じられた結城衛司が、今、この手の先に間違いなく居る。その実感が、場所と状況を弁えず、ギンガの頬を緩ませる。

「!」

 だがその時、しゅるん、と衛司の首に何かが絡みついた。荒縄程度の太さがある、紐状の何か。それを辿ってみれば、十数メートル先にドラスの姿があった。怪物の腕から伸びる鞭状器官が、獲物である衛司を捕縛しているのだ。
 ネオ生命体は事ここに至ってなお、獲物を逃すつもりはないらしい。

「しつこいな! いい加減にしろよ、お前――!」
〖きみに、いわれたく、ないよ〗

 衛司がブレイガンを構え、ドラスの右肩に光が集まる。
 だが次の瞬間、暴風の勢いが更に強まった。空間の亀裂が一段と径を広げ、ありとあらゆる物を異空間へと吸い上げ放り出していく。
 最早狙いも何も付けられたものではない。四肢がばらばらに引き千切られそうな感覚の中で戦闘を続行する事は、衛司にも、ドラスにも不可能だった。
 呼吸も出来ない。身動きも取れない。全身をねじ切られそうな衝撃が、ギンガを、エリオを、キャロを、そして衛司を襲って――



 ぶつりと意識が途切れた。





◆      ◆







 その日、ミッドチルダ西部の山岳地帯で、中規模の――それでも惑星地表で発生すれば深刻な被害をもたらすレベルの――次元震が計測された。
 震源が近隣に人の住まぬ山岳地帯であった為、次元震に伴う大規模地震による被害はそう大きくなかったものの、ミッド周辺の次元空間に複数の次元断層が発生。一時的に他世界との連絡が不通となり、また次元間航路がほぼ完全に断絶。周辺世界との往来を途絶えさせ、第1管理世界ミッドチルダは封鎖状態に追い込まれた。

 時空管理局地上本部の置かれるミッドチルダが他世界と隔絶される事態は、当然の如く周辺の次元世界にも多大な影響を及ぼした。本局にはミッドの状況を問い合わせる通信が殺到し、各管理世界の地上部隊も状況の把握に忙殺された。
 ミッドへの輸出入、人員往来が途絶えた事による経済損失は天文学的な規模に上り、各次元世界はこれに対する特別立法の制定を余儀なくされた。一部世界では行政府の対応の遅さを理由に大規模デモが行われ、治安が急速に悪化するところさえあった。

 これら一連の事態の原因が、先立ってミッドへと落下した第一級災害指定ロストロギア、機械獣母艦フォッグ・マザー――そして次元震発生直前にミッドで確認された暗黒結社ゴルゴムによるものと見る向きは本局や各世界の地上部隊に共通であったが、確たる証拠を得る術もなく、彼等は現状への対処に集中するという名目で原因究明を先送りとした。
 そして。





◆      ◆







「……ん……」

 意識を取り戻した高町なのはが最初に目にしたのは、染み一つない純白の天井。
 天井がある、というだけでそこが屋内であると知れ、次いで認識した消毒液の匂いは、そこが病院の中であると推察させる。

 果たしてその推察は的を射ており、上体を起こしたなのはが目にしたのは、整然と並べられたベッドと、その脇に揃えられた医療機器。
 部屋の中にある六つのベッドには、なのはの横たわっていた一床を除いて誰も居ない。だが乱れたシーツを見る限り、つい先程までそこに誰かが眠っていたのだと判断出来る。どうやら住人が揃って席を外したタイミングで、自分は目覚めてしまったようだ。

「あ、なのはさん!」
「シャーリー……?」

 その時、病室の扉が開いて、シャリオ・フィニーノが顔を出した。いつの間にか目覚めていたなのはに驚いた顔を見せながら、彼女は足早に近付いてくる。

「シャーリー、ここは……?」
「聖王医療院です! あれからすぐに、皆、ここに運び込まれて……」
「そっか――皆、無事だったんだ」

 ほっと安堵の吐息と共に呟いたその言葉に、一瞬、シャーリーの顔が曇る。
 だがその一瞬をなのはは見逃し、ただ仲間達の無事を喜んで――はたと気付く。
 あれから事態はどうなったのか。ゴルゴムは。フォッグは。儀式魔法が不完全な形で起動した事による被害はどれほどのものだったのか。
 事態の中心に居た自分がこうして無事でいる以上、自身の予想よりも状況は良いものと考えられるが、そんな楽観を良しと出来るほどなのはは楽天的な性格をしていない。

「えっと……そうだ、なのはさんも来てください。私が説明するより早いと思います」
「来てって……え、どこに?」

 幸いにも負傷の類は精々が打撲傷で、傷の数はともかく度合いとしてはそう深くはない。
 ただずっしりと疲労疲弊が身体の芯に残っている。恐らくはゴルゴムによって汚染された魔力を無理矢理に集束し、スターライトを放った反動だろう。限界を超えた駆動を余儀なくされ、リンカーコアが消耗しているのだ。

 とは言え、出歩けないという程のものでないのは確かだった。ベッドから降りるとずしりと身体を重く感じ、ついふらついてしまったものの、すぐにいつもの毅然とした立ち姿を取り戻す。
 ベッドを降りたなのはに改めて視線で問われ、シャーリーは一つ頷いて、彼女の問いに答えた。

「ロビーの方に。皆も、そっちに行ってます」





 聖王医療院は聖王教会の援助によって運営されている医療施設であるが、それ自体は他の病院や医療施設とそう大差あるものではなく、ロビーにはベンチや各種飲料の自動販売機、それにTVなどが設置され、入院患者の憩いの場として開放されている。
 ただこの日に限っては、ロビーはおよそ憩いの場には相応しくない、陰鬱かつ緊迫した空気に満たされていた。そこに居る者の殆どが食い入るようにTV画面を注視している様を見れば、そこに映し出されているものがこの空気の源と、容易に推察する事が出来た。

「! なのはさん!」

 なのはに気付き、ティアナが駆け寄ってくる――ヴィータとシグナムもまたなのはに気付いて、視線を向けてくる――に軽く笑みを向けて応え、なのはもまたTVに近寄って、映し出される内容に目と耳を傾ける。
 放映されているのは特別報道番組。どこかからの中継映像が画面の大半を占め、画面下部に切られたワイプ内にはスタジオ出演者達が表示されている。
 スタジオで中継映像を見る者達と、病院ロビーでTV画面を目にする者達は、誰も皆同様の表情を浮かべていた。畏怖と驚愕、それらの感情が等価に入り混じった表情。

『えー、ご覧の通り、“壁”の向こうは何も見えません! サーチャーや無人偵察機なども侵入出来ない模様です! 先程地上部隊の飛ばした無人機が、侵入地点から数十キロ離れたところで発見されたという情報も入っています!』

 リポーターからの報告も耳に入らない。聞こえてはいるのだが、映し出される映像を理解する事に精一杯の思考は、それ以外の認識を遮断している。
 中継されているのはどこかの山間と思しき森林地帯。だが異様なのは、その森林がある一点―― 一線を境に切り取られている事だ。鉛色のカーテンというのか、微妙に表面を揺らめかせているそれが、景色を断絶させている。

「……フォッグ近辺の映像だよ。フォッグの周辺五キロ圏内が、あんな感じに空間の揺らぎで閉ざされてんだ」

 視線はTVに固定したまま、ヴィータがぽつりと呟いた。

「空間の――」

 それはきっと、次元震の爪痕。引き裂かれた空間が未だ復元しきらず、次元境界を曖昧にしたまま現象しているのだ。
 事例自体は、これまで幾つかの次元世界で確認されている。だがこれほど大規模なものが、それもミッドチルダの地表で発生したのは、これが初めてのこと。

 その原因を、なのはは知っている。極論するのならなのは達機動六課こそがその原因――自分達がゴルゴムの企みを阻止出来ていれば、こんな事にはならなかった。見当外れな自責ではあったが、事実だけを論ずるのなら、それは決して間違いではない。
 下唇を噛んでTV画面を睨みつけるなのはへ、どこか独り言の様な調子で、シグナムが語りかける。 

「先程、主はやてと連絡が取れた。地上本部は今、大混乱だそうだ。ミッド周辺の次元空間が不通状態で、本局などとも連絡が取れんらしい」
「…………!」

 驚きと共に、どこか納得する気持ちもあった。あれだけの大災害が起きたのだから、次元空間に影響が出ない方がおかしい。
 空間が裂け、地面が隆起して砕かれていくあの光景が脳裏を過ぎって、ぶるりとなのはの身を震わせる。

「揺らぎの向こう側は完全に隔絶されていて、フォッグがどうなっているのかは全く判らん。主はやての話では、次元境界が安定し、揺らぎが消失するまでに十数日というところらしいが――」
「十五日だ」

 シグナムの言葉を訂正しながら、ヴィータがその後を引き取る。

「あたしらに残された時間は十五日――それまでに、こっちも戦力を立て直さなきゃなんねー。揺らぎが消えたら、今度こそフォッグとガチでやり合う事になっからな。……それに、ゴルゴムともだ」

 フォッグは未だ健在であり、ゴルゴムも策略が失敗したというだけで、目立った損害はまず皆無。 
 熾烈を極めた戦いが、結局は問題を先送りしただけという事に思うところが無いでもない。だがそれにも増して、“次こそは”という思いがなのはの中に在る。準備を整え、覚悟を決め、改めて邪悪と相対する瞬間に思いを馳せる。
 猶予はたったの十五日。決して長い時間ではない。まずは傷を癒し、体調を万全に戻すところから始めなければ――猶予期間の十五日をどう過ごすか、なのはの思考は早速算段を立て始める。

 と。その時、ロビーへとやってきた人影を、なのはは見咎めた。ぼんやりと定まらない足取りで近付いてくるフェイト・T・ハラオウンの姿に首を傾げつつ、彼女へと近付く。
 悄然とうなだれていたフェイトだったが、なのはの姿を認めた瞬間、ぽろぽろと涙を零して――なのはへと縋りついてくる。

「――!? フェイト、ちゃん?」
「なのは……え、エリオが、キャロも……!」

 泣きじゃくりながらその名をフェイトが口にした瞬間、なのはは漸くそれに気付いて、今更の様にロビー内を見回した。
 居ない。足りない。先にシャーリーが『皆はロビーに行っている』と言ったにも関わらず、今この場に居る人数が明らかに足りない。
 ヴィータが居て、シグナムが居て、ティアナが居て、フェイトが居て。
 先程姿が見えなかったスバルも、今はこの場に居て、なのはに泣きつくフェイトと同様、ティアナに縋り付いている。……それで全てだ。この場に居る六課の人間はそれで全てで、事実を悟る為の材料も、それで全てだった。
 三人。強いて言うなら、それに加えること一匹。――それだけの人数が、今、この場に欠けている。

「シグナム、さん――」
「……ああ。お前の想像通りだ。エリオ、キャロ、ギンガ……あの三人が見つからん。あの場に居たらしい衛司も含めて――行方不明だ」

 どうして気付かなかったのか、何故忘れていたのか。
 シグナムから冷徹に――それでも内心の苦渋を押し殺そうとして、殺しきれぬと知れる声音ではあった――事実を告げられ、なのはは愕然と、その場に立ち尽くすしかなかった。





◆      ◆







◆      ◆







 随分と遠くまで流された気がする。
 潮流に乗る木片のように、浮いて漂い揺蕩いながら、流れに乗って此処へと至る。
 そんな自分を第三者のような視点で眺めて、はたと衛司は思い出した。流されている場合ではない。起きなければ、戦わなければ。――殺さなければ、殺される。
“生き残る”という唯一にして至上の命題を、こんな形で捨て去る訳にはいかない。まずは己を把握しろ。負傷の度合い、体力の残量、手持ちの武器は何が残っているのか。自身のコンディションを余すところなく把握しろ。
 総身の神経を総動員。指先から内臓に至るまで、その隅々に知覚を伸ばして――

「――って、寒っ!?」 

 がばりと身を起こすと、ばさばさと音を立てて、身体の上に積もっていた雪が落ちていく。
 雪――そう、雪だ。真っ白な雪が視界いっぱいに降り積もって、見える景色を白く染め上げている。
 無論気温は零下を割って、一呼吸ごとに呼気が白く凍りつく。きんと肌を刺す冷気はミッドチルダのそれよりも容赦が無く、結城衛司の身体に馴染んだもの。
 深々と降り続ける雪のせいで、周囲の風景は判然としない。よろめきながらも立ち上がって周囲を見回せば、すぐ近くに横たわる、見慣れた少女の……少女達の姿が目に入った。

「! ギンガさん! エリオくん、キャロちゃん!」

 慌てて駆け寄ろうとして、ずきりと痛みに脇腹を刺され――折れた肋骨が、急激な運動に悲鳴を上げたのだ――衛司は思わず顔を顰めてうずくまる。
 這いずるようにして近付けば、少女達が呼吸を続けている事は確認出来た。どうやら意識を失っているだけらしい。
 三人のデバイスは起動したままで、バリアジャケットも未だ彼女達を包んでいる。記憶が正しければこの防護服はフィールド系防御魔法の応用で作られており、ある程度の耐熱耐寒機能を備えているはず。すぐに凍死する事はないだろう。

 とは言え、いつまでもこの場に居る訳にもいかない。零下の屋外に放置されてはいかに魔導師と言えども長くは保たない、まして生身が剥き出しの衛司は言わずもがな。
 ここが何処かはひとまず置いて、近くに人家……最低でも暖を取れる場所がないかと、改めて周囲を見回した、その時。

「……!? ここって――」

 深々と降り続けていた雪はその勢いを減じ、周囲の風景がはっきりと見て取れる。
 そこは市街地のど真ん中。林立する高層ビル、その一棟の屋上。
 ふらつく足取りで屋上の縁にまで進み、地上の風景を見下ろした瞬間、もしやという思いは確信に変わった。
 碁盤目状に立ち並ぶビル群の中央を貫くようにして横切る広場空間と、その果てに佇立する、オレンジ色にライトアップされた鉄塔を見れば、いま自分達が何処に居るのかは歴然だった。

 『大通公園』と『テレビ塔』。
 そのどちらも結城衛司には馴染み深いものであり、見慣れたものであった。十四年の人生の大半において、ごく身近にあったものだった。

「嘘だろ――里帰り、しちゃったのかよ」

 そこは結城衛司の生まれ故郷。
 第97管理外世界、現地惑星名称『地球』――その中の一国、その中の一都市。



 北海道、札幌市。





◆      ◆





第拾玖話/了





◆      ◆







後書き:

 という訳で、第拾玖話でした。お付き合いありがとうございました。

 今回でフォッグ&ゴルゴム戦は一区切り。これだけ泥仕合やって“続く”かよ! と思われるかもしれませんが、ご容赦ください。
 『現時点での六課&主人公じゃ泥仕合が精一杯』ってことで。+αになるものを次回から。

 ちょい怖いのが今回のドラスの扱い。前々から温めていた『そのときふしぎなことが(ry』ネタをやっと出せたんですが、ファンの皆様に怒られそう。
 そしてそれ以上に怖いのがフォッグ怪人ガライ(コブラ男)の扱い。台詞無しとか書いてて酷いと思ったり。でもここで変に自己主張するガライもイメージし辛くて。
 “二次創作だから許されること”のラインが最近自分の中で曖昧になってきてるような。うーん……

 ちなみに主人公の出身地はかなり初期にちょろっと出しただけなので、ぜったい忘れられてるだろーなーと思ったり。
 別に沖縄でも東京でも竹島でも尖閣諸島でも良かったんですが、作者が北海道在住なので、描写が楽だから主人公も道産子になりましたw

 それでは次回で。よろしければ、またお付き合いください。



[7903] 第弐拾話
Name: 透水◆44d72913 ID:35af097c
Date: 2023/12/29 21:01

 北海道、夕張市。
 かつては炭鉱の町として栄え、その後には観光と映画の町として名を売ったそこも、今は過ぎ去った時間の流れに半ば忘れ去られた場所だ。
 二〇〇七年に市の財政が破綻してから後は訪れる者もめっきり減って、今や夕張の名が人々の口に上がるのは、財政再建に取り組む団体の一例として挙げられる場合が専らである。市の職員や市民が一体となって財政再建、夕張再興に向けて努力しているものの、やはり往年と比べて寂れた感は否めない。

 その日、夕張を訪れた“彼”が町を見て抱いた感想も、あまりポジティブとは言えないものだった。
 尤も、彼が前に夕張を訪れてから、もう二十年以上……いや、三十年近くが経っている。変化は否応無く風景に入り込んでいて、ノスタルジーに浸るにはやや当時の面影が足りなさ過ぎる。

 それでもところどころに往年の風景は残っていて、やがて辿り着いたテーマパークは、ほぼ当時のままの姿を保っていた。
 かつて夕張が観光地として売り出していた頃、夕張炭鉱の跡地を利用して作られたテーマパーク。炭鉱産業の歴史を学ぶ事の出来る此処は資料的価値が高いとして、夕張市の財政破綻後も運営が続けられている。
 ただ当時は遊園地的なアトラクションも併設されていたのだが、さすがにそちらは全て解体・撤去されており、面影を見るどころか閉鎖されて立ち入る事すら叶わない。微妙に片手落ちな気分だった。

「まあ、仕方ないか。三十年も経つんだもんな」

 そもそも、ノスタルジーと言える程の感情は、“彼”には薄い。夕張は“彼”の故郷という訳でも、幼少期を過ごした地という訳でもないのだ。
 “彼”が夕張を訪れたのは、僅かに二度。今日を入れても三度目の事。
 一度目は高校の同級生の結婚式に参加する為。このテーマパークを訪れたのも、同級生がここで結婚式を挙げたが故に。
 そして、もう一度は――

「…………」

 ふるりと首を振って、失意に落ち込みかける思考を常態へと引き戻す。
 元より此処を、夕張を訪れたのは、ただ近くを通りがかったというだけの事。当ても無く流離っている彼が、ふと懐かしさに足を向けたというだけ。
 そう。苛烈な戦いであったとしても、あの時の思い出は、今もこの夕張の空の下にあるのだと――それを、確かめる為に。

「…………?」

 行こう。昔を懐かしむのは、もう終わりだ。
 そう思って踵を返した“彼”が、ふと何かに気付いて足を止める。

 振り向いてはみるものの、しかしそこには何も、別段変わったものはない。つい数秒前に見ていた風景と同じ景色だけがそこに在る。
 内心で首を傾げた瞬間、今度はより明確に、しかし正体の知れぬ不可視の何かが、“彼”の知覚を叩いた。恐らくは“彼”にしか感知出来ない、余人には変化があったとすら気付かせない、個人の第六感にのみ訴えかける何か。

 だからこそ――“彼”の反応は、覿面だった。
 愕然とした表情で空を見上げ、それが発せられたと思しき彼方を見遣る。

 無論、見遣る先には何もない。数秒前と何ら変わらぬ光景だけがそこにある。“彼”の持つ、常人を遥かに超える視力であっても、そこに何らかの異変は見て取れない。元より不可視の刺激であったのだから、それも当然と言えるのだが。 
 だが決して錯覚ではなかった。それだけは断言出来る――かつての戦いで幾度となく覚えた感覚と、いま“彼”が覚えたそれは、本質的に同一のもの。それもまた、断言出来る。

「これは……『信彦』?」

 呟くその名に、応える者はない。
 それでも、“彼”は動き出した。今はもう居ないはずの親友を、その存在を、彼方に感じる。あらゆる論理を超越した確信を抱きながらも、常識と理性がその確信を疑い、どちらが正しいのかを知る為には、最早この目で正体を確かめるより他になかった。

 バイクに跨り走り出す。真冬の北海道、路面は押し固められた雪で真っ白なアイスバーンではあるが、無茶な速度を出さなければ冬場のツーリングは決して不可能ではない。
 普段は急ぐ理由もない為にのんびりと北海道各地を巡っていた“彼”だったが、この日ばかりは逸る気持ちが危険と知りつつも速度を上げさせる。

 目指す先は――北海道、札幌市。





◆      ◆





異形の花々/第弐拾話





◆      ◆







 ここが地球、それも自分の故郷である北海道札幌市と判った時点で、衛司は迷わず“帰宅”を選択した。
 零下の屋外をうろついていてはあっという間に凍死してしまう。至急どこかの屋内に逃げ込む必要があったのだが、時刻は既に夜の十一時を回っており、飲食店等は大半が既にその日の営業を終えていた。
 元より意識不明の三人を連れて這入る訳にもいかず、ましてエリオやキャロはともかく、ギンガなどは明らかにコスプレとしか思われない格好をしている訳で、人目に触れさせるのは危険という判断もあった。

 幸い、衛司が目を覚ましたビル屋上から、結城家まではそう遠くなかった。と言っても車で十五分はかかる距離だったのだが、そこは衛司もオルフェノク、人間態から戦闘態、更に飛翔態へと変化すれば、三人を抱えて飛ぶ事は造作もなかった。
 ……折れた骨や傷めた内臓が、酷く軋みはしたのだが。

〖重っ……!? ギンガさん、何で出来てんだ……!?〗

 エリオとキャロはまあ見た目通りの体重なのだが、ギンガだけやたらと重い。見た目は普通なのにこの重さはどういう事だ。実は相当なデブ……もとい、ふくよかな人なのか。
 実際のところはリボルバーナックルとブリッツキャリバーの重さが大半なのだが、さすがにそこまでは知識が無く(デバイスについては素人同然の衛司である)、ともあれ本人が聞けば真っ赤になって怒りそうな台詞を吐きつつ、衛司は自分の家……十階建て分譲マンション、その七階の一室へと辿り着いた。

 久しぶりに帰ってきた家は数ヶ月間の放置を思わせぬほど清潔に保たれ、流石に埃っぽい感じはするものの、水回りからの異臭などは殆ど感じられない。好都合と言えば好都合だったが、予想外の状態に些か面食らう。

「あ……そっか、姉さんが言ってたっけ」

 衛司を拉致しミッドへと連れ去ってから程なく、真樹菜はこの家に一度戻ってきていたらしい。衛司の通う学校に(勝手に)休学届を出し、家を掃除して、長期間の住人不在を見越して家の中を整頓したのだと、そう言っていた。
 いずれ衛司は地球とミッドを往復しながら、真樹菜の“計画”に携わってもらう予定らしい。“計画”とやらの詳細は話してくれなかったが、その為に、この家にはまだ利用価値があるとの事。

 何にしろ、すぐに家が使える状態だったのはありがたい。三人をリビングまで運んで、衛司も人間態に戻る。
 まずは布団を敷くべきか――いや、その前に。

「え……っと、ブリッツキャリバー? と、ストラーダと……ケリュケイオンだったっけ。バリアジャケット解除してくれ。そのままじゃ寝かせられないよ」
【……Got ya.】

 数秒の逡巡の後、ブリッツキャリバーが他の二機を代表するようにそう応えて、ギンガ達のバリアジャケットを解除した。
 父母の寝室と姉の部屋――両方とも頭に『元』とつくが――それぞれに寝床の仕度を整えて、ギンガ達をそこに寝かせる。ギンガとキャロを両親の部屋に、エリオを姉の部屋に。
 防護服を解除したとは言っても陸士部隊の制服姿だ、寝苦しいかとは思ったが、さすがに寝ている間に服を脱がせるのは憚られた(意気地と度胸がなかった、と言うべきかもしれないが)。

 二年間使っていなかったベッドを、こんな形でまた使う事になるとは思わなかった。複雑な気分でリビングに戻り、ソファーに腰を下ろす。
 ……複雑な気分と言うのなら、むしろ予想外の形で帰郷した現実に対してか。現状の認識と対処だけで精一杯だった思考が、漸く、状況の分析に回せるだけの余裕を取り戻す。

「……なんで、地球に戻ってきちゃったんだ? そんな簡単に帰れるもんじゃないって前に言ってたよな、ギンガさん」

 次元空間における“距離”の概念は実空間におけるそれとはやや異なるが、それでも地球とミッドチルダはそう近い距離にはない。
 以前にギンガから聞いた話では、地球に戻る為の手段は次元航行艦に乗り込むか、本局を経由する転送ポートで送ってもらうかの二通り。
 言うまでもなく今回は、そのどちらとも違う――そも、気付いたら地球に居たという時点で、この帰郷に衛司の意思は無い。

 ……あの時、空間に穿たれた亀裂。前後の記憶は飛んでいるものの、自分達はそれに吸い込まれたのだろう。奈落に等しきその孔が繋がる先、そこへ自分達は押し流された。吹き飛ばされた。
 結果として、流れ着いた先が地球だったというだけ。言ってしまえば単なる偶然。

「偶然……偶然、ね」

 否。
 それは偶然ではない、成るべくして成った事柄の積み重ね。

 衛司は憶えている。あの時、空間の亀裂に呑み込まれた直後、自分の身体は急激に引っ張られた。巨大な手に掴まれ引き寄せられる様な、有無を言わさぬ吸引。
 “どうして”地球に戻れたのか――それは誰かが、彼等を地球に引き寄せたから。
 だが、誰かとは一体誰なのか。あの荒れ狂う暴風と衝撃の中、一体誰が、吹き飛ばされる少年少女四人を纏めて引き寄せるというのだ?

「……ん? いや、これ違うな――なんだろ、何かがズレてるような……」

 何かを勘違いしている気がしてならないが、何を勘違いしているのかが判らない。
 薄紙一枚向こうに書かれた文字を読み取ろうとしているようで、どうにも名状し難いもどかしさがある。

「ああくそ、苛々する。こういうのは嫌いだな、もう少しはっきりしてほしい――っ、痛……!」

 苛立ちに髪を掻き毟ったその時、ずきんと痛みに脇腹を刺されて、衛司は顔を顰めた。
 折れた肋骨が疼くように痛む。一つ痛みを自覚してしまえば、次々と身体中が痛み始めて、自分が満身創痍である事を今更ながら思い出させた。
 実際、今の衛司は即入院レベルの負傷を抱えている。骨折や打撲は言うまでもなく、内臓へのダメージも大きい。げほ、と咳き込むだけで口の中に鉄錆の味が広がる有様だ。

「……くそ。ドラスの野郎、少しは加減しろよな……」

 この世界に放り出されて以降、姿の見えないネオ生命体にそう毒づいて、衛司はソファーの背もたれに深く身を預ける。
 寝よう。寝て起きれば、コンディションも少しはましになっているはずだ。そうと決めた途端、急激な眠気が衛司の意識を暗転させていく。今まで意識していなかっただけで、やはり少年の身体は疲弊の極みにあったのだ。
 自分の部屋に戻るのも、立ち上がる事さえもう面倒臭い。後の事は起きた後で考えればいい。衛司はごろりとソファーの上に横たわると、そのまま泥のような眠りに落ちていった。





◆      ◆







 札幌の街から車で約一時間。札幌市の外れ、隣接する小樽市との境界から程近い場所に、小樽ドリームビーチと呼ばれる海水浴場がある。
 真冬の今は訪れる者も無く、まして時刻が深夜という事もあって、見渡す限りの一帯は無人のまま、波の音だけが物悲しく響いている。

 ――いや。丑三つ時に差し掛かろうかというその時間、不意に海中から姿を現すモノがあった。
 無論、それは漁師や、まして海水浴客などでは有り得ない。いや、そもそも人間ですらなかった。ヒトと同じ様に四肢を持ってこそいるものの、それは明らかに人外の怪物であった。

〖…………?〗

 ネオ生命体ドラスは、無言のまま首を傾げた。ここはどこだろう。ミッドチルダとは思えない……外気温から判断する限り、少なくともつい先程まで戦っていた場所とは明らかに異なる。そもそも深い森の中にいたはずなのに、どうして海岸にいるのか。
 だが彼が不審に思ったのは、記憶と現在の齟齬と言うよりむしろ、胸の内から湧き上がる不思議な感情だった。それはドラスにとって未知のもので、故に人間はそれを『懐かしさ』と呼ぶ事も、彼は知らなかった。
 未知の感情に困惑しながらも、ドラスは波打ち際から、砂浜へと上がる。ぐるりと周囲を見回してみたが、やはり風景は見慣れない、見覚えの無いものだ。

〖…………!〗

 しかしその時、彼は予想外のものを目にした。
 自分の前方で、白い靄のようなものが蟠っている。……人のように、ドラスには見えた。ドラスに背を向け、どこか遠くを眺める、一人の男。
 それが誰であるのか、ドラスは知っていた。名前や個人情報ではなく、その男がドラスにとってどういう存在であるのかを。
 ドラスの胸に兆す、『懐かしさ』という感情も――或いは、彼の。

〖おにいちゃん〗

 呼びかけると同時、男の姿は消失した。さながら幽霊のような曖昧さであったが、そも、ドラスの知識には『幽霊』という存在、ないし概念に関する情報がない。幽霊であろうと妖怪であろうと、ドラスにとってはさしたる問題ではない。
 だから今、ドラスにとっての問題は――男が何を見ていたのか、だ。

〖……? 向こう? 向こうに、いる……?〗

 男の見ていた景色の先に――何かが居る。或いは、誰かが居る。
 答えに辿り着いたのは、ただ直感故の事だった。感覚的にドラスは、正解を導き出していた。

〖――ともだち? ともだちが、いるの?〗

『おにいちゃん』の友達が、この先に。
 会ってみたい。見てみたい。それは果たして、どんなモノなのか。――その『会いたい』と思う気持ちが果たして自分の中から湧き出たものなのか、それを省みる思考はどこにもなく。
 ドラスは歩き出した。ふらふらと頼りなく、けれど確かな足取りで。





◆      ◆







『         』

 誰かに、呼ばれた気がした。
 遠い遠い何処かから、誰かが自分を呼んでいる。
 姿は見えない――と言うよりは、何も見えない。周囲に広がるのはただ真っ白なだけの空間。天地の区別もない、屋外なのか屋内なのかも判らぬ場所。
 一体いつから、どうしてここに居るのか。それらの疑問を覚えるよりも早く、キャロ・ル・ルシエは己を呼ぶ誰かの声を聞き取った。

『         』

 また、呼ばれた。
 言葉による呼びかけではない。念話とはまた違ったベクトルで頭の中に響くのは、どうか気付いてほしい、応えてほしいという誰かの意思。
 思念そのものが指向性を帯びて、キャロへと伝わってくる……名前を呼ばれた訳ではない、だが間違いなく、キャロという個人を認識して向けられる思念。

「あ、あのっ! 誰ですか!? わたしを呼ぶの、誰ですか!?」

 ただ、当のキャロは、思念の呼びかけに思念で応える術を持たない。
 問いかけは言葉に拠るしかなかったが、眼前に広がる白無地の空間に、ただ吸い込まれていくばかり。
 向けられる思念に混じる落胆を、キャロは敏感に感じ取る――そうして視界は暗転し始めた。
 呼びかけが遠ざかっていくのを感じる。向こうから送られてくる思念が弱まっているだけではない、受信するキャロのチャンネルが閉じようとしているのだ。そこで漸く、キャロはこれが夢の中である事を悟った。
 邂逅は叶わず、この機会は無為に終わる。だが最後に送られてきた強い思念が、キャロの脳に焼きついた。漠然としていた呼びかけが、一瞬だけ読み取れる言葉として形を成す。



『緑の大地を。咲き誇る花々を、生い茂る草木を。そしてそこに根付く生命を』
『遠い彼方の同胞を。大自然を調律する精霊たちを』

『どうか、守ってくれ――その為の力を、君に預けたい』



「――ふぁ」

 目が覚めた時、キャロの目に映ったのは、見慣れぬ天井。
 カーテン越しに窓から差し込む陽光は、既に時刻が朝方であると告げている。

「なんだろ――いまの、夢……?」

 ぼんやりと霞のかかる意識のまま、つい先程まで見ていた夢を思い出そうとするものの、掌から零れる水のように、記憶の糸は途切れていく。
 夢など所詮そんなもの。そう解ってはいるのだが、やはりどうにも気になってしまう。――とても大事なことを、伝えられた気がするのに。

 ともあれキャロはむくりと上体を起こし、周囲を見回してみた。
 そう広くない部屋の中には本棚と机、そして自分が眠っていたダブルサイズのベッドがあるばかり。殺風景と言うよりは、無用な装飾を省いた結果と見るべきか。この部屋が単なる寝室としてのみ使われていたのが窺える。

 視線を隣に向ければ、すぐ横にギンガが横たわっている。すやすやと静かな寝息を立てているところを見れば、ただ眠っているだけというのはすぐに知れた。
 室内にはギンガと自分の二人だけ。それもただ寝かされているだけで、拘束などは一切されていない。

「え……っと、え? ええ?」

 どこですか、ここ?
 見たところどこかの民家のようだが、当然、室内の風景にはまるで見覚えがない。

「ギンガさん、ギンガさん」

 とりあえず、ギンガを起こそう。意味不明な現状に悩むのが自分一人というのはちょっと寂しいし不安だし。
 肩に手を置いてゆさゆさと揺さぶってみるが、ギンガは「うーん」と唸るだけで、目を覚ます様子がない。

「ん……いらないわ、スバル……最近あまり運動してないから……お腹回りにお肉が……すう」
「ギンガさあん」

 なんか妙にリアルな夢を見ているらしい(夢の中なんだから好き放題食べれば良いのにとか思ったり)ギンガを更に揺さぶって、キャロは呼びかける――程無くギンガが目を開けて、むくりと上体を起こした。

「ん……あれ、キャロちゃん……? ……うん? ここ、どこ?」
「わ、わかりません。わたしも気がついたらここに……」

 これが一見して病院や管理局の施設と判る場所なら、ここまで混乱しなかっただろうが、明らかに民家の一室というのが状況の把握を妨げている。
 ゴルゴムと戦っていたのは奥深い山中。近くに民家の類など一切無く、無論住んでいる者も居ない。『倒れていた少女達を近隣住人が発見、自宅に連れ込んで介抱していた』的なシチュエーションはやや考え辛い。
 首を傾げつつ周囲を見回していたギンガだったが、ふと思い出したように懐に手を差し入れる。ぎしりと強張るその表情は、在るべき物がポケットの中に無いが故。

「……ブリッツキャリバーが抜かれてる――誰かが持っていった、って事かしら」
「わ、わたしのケリュケイオンもありません……!」
「その割に拘束も監禁も無し、か。中途半端っていうか……ううん、それは後で考えれば良いわね。行きましょう、キャロちゃん。何かあったら、援護をお願いね」
「はいっ!」

 恐る恐るベッドから降りて、二人は部屋の扉へと歩み寄る。扉の向こうに人の気配は無い。音を立てぬよう扉を開けて、外へ出る。
 見る限り、マンションかアパートの一室だろうか。当初の印象通り、やはりここは一般の民家であるらしい。
 リビングに入ってみるが、しんと静まり返ったそこには誰も居ない。
 いや。

「ソファーが生温かい――ついさっきまで、誰かがここに座ってたって事ね」

 ソファーを軽く撫でたギンガが、そこに残る体温を感じ取って呟いた。
 住人が居るのは間違いない。今は家を出ているのか、それとも――と思索に入りかけたギンガの耳が、その時水音を捉えた。僅かに遅れてキャロも気付く。

 水音の正体は恐らくシャワーだろう。音を辿って向かった彼女達は、すぐにバスルームを見付けた。水音はそこからで、扉にはめ込まれた磨りガラスの向こうに人の姿が窺える。
 入浴中とあれば、武器の類は身に付けていないだろう。相手が魔導師なら徒手空拳と言えども油断は出来ないが、そこはこちらも魔法使い、数的には有利にいる。
 軽く目配せを送ってくるギンガに、キャロも首肯で応え――いざ突入しようとギンガが身構えた瞬間、不意にシャワーの音が途絶え、がちゃりとバスルームの扉が開いた。



「わ、わぁあっ!? キャロ、ギンガさん!? 何してるんですか!?」



「……あれ、エリオくん?」

 バスルームから出てきたのは、(入浴中だったのだから当然だが)全裸のエリオ・モンディアル。
 完全に予想外――と言うより、予想すらしていなかった彼の登場に、キャロとギンガが顔を見合わせて脱力した瞬間、玄関の扉が開く音が彼女達の耳に届いた。

「ただいまー。うう寒、久しぶりだと堪えるなあ、こっちの寒さ」

 その暢気な声の主が誰であるか、確認するまでもなく彼女達は悟る。だがそれが『外から戻ってきた』という事実は、また別の意味合いを持っていた。
 行ってみよう。
 目配せの一つも無く同じ結論に至って、キャロとギンガは同時に駆け出した。
 戻ってきたのが確かに結城衛司であるのなら、彼が最も詳しく事情を知っているはずだ。

「な、なんなんだよう……」

 見るだけ見られて放置されたエリオの嘆きだけが、その場に残された。





◆      ◆







「地球……!? ここがですか!?」
「です。地球の日本国、北海道地方の札幌市。あ、ここ僕の家です」

 冷蔵庫の中がほぼ空っぽだった為、近くのベーカリーで買い込んできたパンをずらりと卓に並べた朝食の席。
 キッチンで何やら作業をこなしつつ、さらりと衛司が口にした一言に、ギンガ達三人が揃って驚愕する。
 第97管理外世界、現地惑星名称『地球』。機動六課部隊長八神はやて、スターズ分隊隊長高町なのはの出身世界。エリオとキャロは少し前の休暇の際、フェイトと共に訪れた世界であるが、ギンガが訪れたのはこれが初めての事。

「どうして、地球に……!?」
「さあ。僕が聞きたいですよ、それ」

 言って、少年は盆にマグカップを人数分載せて、リビングへと戻ってくる。

「すんません、コーヒーなんて淹れるの久しぶりなもんで。不味かったらごめんなさい」
「あ――ううん。いただきますね。……………うぇ」

 にっこり笑って、衛司の淹れたコーヒーに口を付けるギンガだったが、次の瞬間彼女は露骨に顔を顰めた。エリオとキャロも、同様に。
 何ですかこれ。泥水? どぶ泥をお湯で溶いた感じ? 地球のコーヒーってこういう味なの? いやでも地球出身のなのはさん達は普通にミッドのコーヒー飲んでたのに――
 コーヒーカップに口を付けたまま硬直するギンガの向かいに衛司も腰を下ろし、大儀そうにソファーに身を預ける。

 良く見れば、いや良く見るまでもなく、衛司はぼろぼろの状態だった。顔や首、袖口から先と、見える部分の肌にはどこも青黒い痣が出来ている。どこかおかしい呼吸は、痛みを堪えているが故のものと見て取れた。
 恐らくは、ネオ生命体との戦いの代償。だが少年は、それをギンガ達に悟られまいとして、平然とした顔を装っている。傍から見てもまるで隠しきれてはいなかったが、今それを追及しても貝のように口を閉ざすだろう。いい加減、少年の反応も読めてくる。
 ならば追求も治療も後回しだ。――それよりも先に考えるべき事が、今の彼女にはある。

「それにしても、地球だなんて……」

 俄かには信じられない話ではあったが、状況証拠があまりにも揃いすぎている。
 窓から外の風景を軽く眺めてみたが、街並みはともかくとして、商店の看板や道路標識の類がどれもミッドのものとは全然違う。いやそれ以前に、『結城衛司の自宅』が存在している以上、少なくともここが衛司の故郷であるのは疑いようがない。

「次元漂流者……」
「はい?」
「あ、いえ。――今のわたし達、まるで次元漂流者だなって、そう思って」

 次元漂流者――ごく稀に自然現象として発生する空間の歪みや次元の裂け目に飲み込まれ、他の次元世界へと放り出されてしまった者を指す言葉。
 時空管理局の仕事の一つにこの次元漂流者の保護があり、元を辿れば衛司も、その実体はさておき、次元漂流者として扱われていた。

 そしてこの次元漂流者は、ミッドチルダだけで発生するものではない。
 第一管理世界として管理局地上本部が置かれるミッドチルダでは、比較的次元漂流者が保護されやすいというだけで、逆にミッド人が他の次元世界に放り出される事もままあるのだ。今のギンガ達のように。
 今のギンガ達が置かれた状況は、“まるで”ではなく“まさしく”次元漂流者そのものである。そしてそれを保護したのが他ならぬ衛司となれば、その立場の逆転っぷりに、ギンガでなくとも苦笑が漏れよう。

「問題は、どうやってミッドに帰るかですよね。――ギンガさん達もそうでしょうけど、僕も向こうでやる事出来ちゃったから。実家でのんびりって訳にゃいかないです」
「やる事……」

 事も無げに口にした少年の言葉に、ふと引っかかるものを覚えて、ギンガが鸚鵡返しにそれを繰り返す。
 当然、それは当の衛司にも聞こえていて、「どうかしました?」と訊いて来る。
 一瞬、ギンガは迷った。彼にも彼の事情がある。だがこの胸の引っかかりを問い質そうとすれば、どうしてもその事情に踏み込まざるを得ない。

「ねえ、衛司くん。その『やる事』と言うのは、わたし達のところに――機動六課に居たままでは、出来ない事ですか?」
「……。はい、残念ですけど」
「つまり――六課に戻ってくるつもりはない?」
「そうなりますね。詳しい事は言えませんけど、もう、戻る気はありません」

 淡々とした口調でありながら、あまりにも明確な断言。
 彼は六課に未練を残していない。友誼だけを至上とはしていないそのスタンスが、彼の物腰からは充分に感じ取れる。
 そんな彼の姿勢を当然と思いつつも、やはり寂しさを覚えてしまうのは、ギンガが六課で最も彼に近かったからだろうか。 

「――あ、あのっ!」

 重くなりかけた雰囲気を払拭するように、その時エリオが声を上げた。

「み、ミッドに帰る方法なんですけど――」
「あ、そうそう。何かアイデアある?」
「はい。海鳴の転送ポートが使えないかな、って」

 地球から他の次元世界、或いは次元空間に浮かぶ本局へ向かうには、転送ポートを使った転移が現時点では唯一の方法である。
 そしてエリオ達が知る地球側転送ポートは、海鳴市に存在する数基のみ。
 エリオが言うには、『いぎりす』なる地域にも管理局の元提督が住まう関係上、転送ポートがあるらしいが、そちらと海鳴、どっちが近いのかは概ね想像がつく。

「んー……その海鳴市って、どこにあるの?」
「え?」

 何気なく発された衛司からの問いに、エリオの表情が凍った。
 どこ、と言われても。……日本のどこか、としか言いようがない。
 硬直するエリオに苦笑して、衛司は席を立った。リビングを出て行ったかと思うと、程無く板状の電子機器を抱えて戻ってくる。
 ノートPC、というらしい。先端技術の度合いで言うならミッドも地球も大差ないらしいが、こういった一般に浸透しているレベルの機械技術は、やはりミッドの方が幾らか優れている様だ。

「本州の方かー……飛行機と、あと新幹線かな。お金おろしてこないと……」

 検索を終えて「幾らになるのかなあ」と頭を抱える衛司。四人分の飛行機と新幹線、その他諸々の旅費。安くはつかないだろう。
 ただそれも仕方ないと割り切ったか、やがてノートPCをぱたんと閉じて、少年はギンガ達に向き直った。

「まあ、海鳴まで行くのは何とかなりそうですけど。その、転送ポート? それって、ギンガさん達で勝手に使えるもんなんですか?」
「あ、いえ――本局の方に使用許可を申請する必要があります。許可と言ってもほとんど形だけで、誰がいつポートを使ったかの確認みたいなものですが」
「はあ。でも、どうやって申請するんですか? 本局の方とは連絡が取れないみたいですけど」
「……え? 連絡が取れない、って――」

 そこでギンガは言葉を切って、エリオとキャロに視線を向ける。キャロがエリオに視線を向けていたので、自然、ギンガの視線もエリオのみに集中した。
 エリオは既にそれを知っていたらしく、右手首に巻かれた腕時計を示してみせる。エリオのデバイス、ストラーダの待機形態。
 この形態でも通信機や予定表の閲覧などの機能は使用出来るのだが、エリオ曰く、先程から本局やミッドに通信を送っているものの、一向に繋がらないのだとか。

「多分、空間が無理矢理ねじ切られた・・・・・・影響だと思います。負荷の反動って言うのかな。そのせいで周辺の次元空間が荒れて、通信が出来ないんじゃないかと」
「……随分詳しくなったんですね、衛司くん」
「これでも勉強したんですよ。受け売りの付け焼き刃ですけどね」

 まあ、衛司の知識量はともかくとしても、本局と連絡が取れないのは事実。
 転送ポートは本局、ないし同様の設備を積み込んだ次元航行艦の側からしか起動出来ない。管理外世界である地球の側には、転送装置にアクセスする機能自体が設置出来ない。
 つまるところ、彼等は今、地球に閉じ込められたも同然であった。

「その……」
「うん?」

 それまで沈黙を通してきたキャロが、おずおずと――どこか衛司の顔色を窺うように――口を開いた。

「海鳴にはフェイトさんのご実家がありますし、リンディさんや、エイミィさんがいらっしゃると思うんです。事情を話せば、何とかしてくれるんじゃないでしょうか……?」
「そっか――そうだよ、キャロ! 海鳴になら、リンディさんも、エイミィさんも、たぶんアルフもいる! なんとかなる!」

 見えてきた一筋の光明に、エリオがテンションを上げて拳を握る。
 ギンガにも否やはなかった。それ以外に取るべき処方もない。ちらと横を見れば、衛司も納得したかのように頷いている。
 とは言え彼に関してはリンディやエイミィとの面識はなく、どころか名前も知らないだろうから、その場の雰囲気に合わせているだけなのだろうが。

「じゃ、決まりですね。海鳴市に向かうって事で。それでいいですよね、衛司くん?」
「はい。――あ、すいません、一つだけ」

 そこで衛司は一度言葉を切って、少しだけ、ほんの少しだけ逡巡するように目を伏せた。

「出発は明日にしてくれませんか? 今日はちょっと、行っておきたいところがあるんで」





◆      ◆







 衛司の願いは聞き入れられた――と言うより、飛行機や新幹線のチケットを購入する為には衛司に頼らざるを得ず、そも路銀からして衛司の懐に依存するしかない彼女達に(日本円の持ち合わせも通貨両替の伝手もない)、そもそも拒否する権利などなかったのだが。
 出立は明日。飛行機と新幹線は両方予約を完了して、後は明日、空港で搭乗手続きを済ませるだけ。

 ただ困った事に、そうなると今日一日、ギンガ達にはやる事が無い。
 言葉は通じれど文字が読めない異郷の地となれば暇潰しの手段も乏しく、彼女達はただ暇を持て余して時間を浪費するより他に道はなかった……かと言うと、別段そんな事はなく。
 むしろ彼女達は嬉々として動き始めた。一宿一飯の恩義という訳ではないが、世話になった礼として、家内の掃除を始めたのである。
 長期間の放置を見越して片付けられていたとは言え、数ヶ月も住人が不在とあれば埃も溜まる。掃除のし甲斐があるという程でもないが、時間を潰すにはもってこいだ。

「しかし衛司くん、どこに行ったのかしら? エリオくん連れて」

 ギンガ達が掃除を始めるよりも前に、衛司は家を出ている。行っておきたいところがある、と言った時にはてっきりギンガ達も一緒に行くものだと思っていたが、一人だけで行かせてほしいと少年は譲らなかった。
 ついてくるなと言われれば(そこまできつい表現は使ってなかったが)無理に同行する事も出来なかったが、しかし少年の故郷とは言え、今の状況で単独行動はあまり勧められない。そう食い下がるギンガに、衛司も渋々『一人だけなら』と受け入れた。
 では誰がついていくか――これに関してはすぐに決まった。衛司が、『じゃエリオくん、ついてきて』と指名したのだ。

「気になるなあ……変なところに行ってなければいいんだけど」

 男の子二人で外出して、どこかいかがわしい場所にでも行くんじゃないだろうか――不安と言うより単なる邪推に近いが、どうしてもそんな考えが頭から離れない。
 まあ、その辺りは考えても仕方がないだろう。衛司もあれで割と分別のある方だ。たぶん。
 問題は置いてけぼりにされたギンガ(とキャロ)の方で、主が不在の間にこっそり部屋に入って掃除しちゃおう、などという発想が出て来たのは、恐らくそれと無関係ではあるまい。

「お邪魔しまーす……」

 ゆっくりと扉を開けて、部屋へと入る。
 意外と小物の多い、雑然とした部屋だった。物が多いせいか余計に散らかって見える。漫画本や小説などが本棚に溢れ、プラモデルの箱が部屋の隅に無造作に積み上げられている。
 ギンガや六課の女性職員が、隊舎の自室を簡素ながらも様々に装飾しているのと比べれば、その違いは歴然だった。年頃の男の子の部屋というのは、どこもこんなものなのだろうか。
 ……考えてみれば、男性の部屋に入るのはこれが初めてだ。何だか、何というか、こう、部屋のそこかしこから伝わってくる“衛司の痕跡”のせいで、どうにも落ち着かない。

「いや、初めて入る男の子の部屋で落ち着いてたら、わたし女として終わってるわよね」

 だからこれが普通なんだ、うん。
 そんな感じに自分を納得させて、ギンガは掃除を開始する。と言っても出来る事はそう多くない、あちらの物をこちらに寄せて、こちらの物をあちらにどかして、という程度。
 雑然と本が突っ込まれていた本棚を整頓し、最後に軽く掃除機をかける――が、掃除機のヘッド部分がベッドの下に入ったところで、ごつん、と何かにぶつかった。

「?」

 何だろう、と思ってベッドの下に手を突っ込んでみる。どうやら紙で出来た箱のようだ。またプラモデルか何かだろうか。
 引っ張り出してみたればそれはプラモデルではなく、無地の段ボール箱。何でしょうこれ? と首を傾げたところで、唐突にギンガはそれの中身に思い至った。
 よもやこれは年頃の男の子が例外なく隠し持っているというアレではないだろうか。ベッドの下に隠してあるとかもうベタすぎて確かめるまでもない気がするが。

「ど、ど、どうすればいいのこれ……!? えっと、つ、机の上!? 机の上に積んでおくんだったかしら!?」

 いや。
 いやいや。
 ちょっと待って、落ち着いて。

 そもそもこれが本当にアレであると決まった訳でもなし、一応確認しておくべきですよね。でももしアレだったらちょっと触りたくないです女の子的に。ああでも実際どういうものなのか一度は確認しておくべきかもしれないし――
 脳内で思考をぐるぐる巡らせながら、結局ギンガは好奇心に勝てなかった。震える手で箱を開け、中身――予想通りと言うべきか、それは雑誌と思しき紙の束――を一冊、手にとって。

「…………え゛」

 恐る恐る視線を落として、本の表面を確認する――日本語を読めないギンガには、本のタイトルは読み取れない。だが表紙に載った写真を見れば、その内容は概ね想像がついた。
 それはギンガの予想をばっさり裏切って、でっぷり太った裸の男が二人、くんずほぐれつ抱き合っている写真だった。ページをめくってみれば至るところに肉、肉、肉。どれもこれも全てが男性、一般的なそれ系の本の様な女性の裸など、どこにもこれっぽっちも載っていない。

 ……裸はまあ良いとしよう。年頃の男の子が裸に興味ありませんなんて言われた方が、逆に怪しいというものだ。
 けれど男って! 男同士って!
 しかも太っちょ! それもぽっちゃり系とかそんな半端な太り方じゃない、丸々肥えた見事な肉の塊!

「え、衛司くんってまさか、太った人が好み……!?」

 思い返してみれば、衛司は普段から碌に飯も食べないせいでがりがりに痩せている。骨と皮一歩手前だ。
 自分にないものを他者に求めるのが人の性。衛司の場合はそれが肉という事か。そのむちむちでぷにぷになふくよかさの前では、性別など些細な事なのか。

「なんだろう、なんかすごい納得いかない……!」 

 ギンガ・ナカジマはこれでも乙女である。運動量が少なければ食事を減らす、寝る前の間食など以ての外で、最大の敵は体重計。
 そこまでして頑張ってきたのに、その努力を根底から否定されたような――いや別に、ギンガのダイエットと衛司の嗜好に因果関係は無いのだけれど。
 まあそれはさておきこの本については後で断固問い詰めよう。他人の好みをどうこう言う気はないが、さすがにこれはアブノーマルすぎるし。矯正する必要があるかもしれない。いや矯正しないとまずいわよこれ。

「ぎ、ギンガさんっ!」
「ひゃいっ!?」

 と。ばたばたと騒々しい足音が響いて、キャロが衛司の部屋に飛び込んできた。
 咄嗟に本を箱の中に突っ込んで、それを背中で隠すようにギンガは振り向く。ちょっとキャロには見せられない。単なるいやらしい本ならともかく、あんなアブノーマルは間違いなく教育によろしくない。フェイトさんに怒られる。

「どどどどうしたのキャロちゃん!? 何かあった!?」
「何か――は、はい! て、テレビで……!」

 ギンガの不審な動きを一顧だにしないキャロの剣幕に、割と深刻な事態が起こっているものとギンガも理解する。
 急いでリビングに戻ってみれば、つけっぱなしのTVが臨時ニュースを映し出していた。ススキノの街に怪物が現れた、と。
 発破解体でも行われたかのように崩れ落ちたビルと、地面に空いた巨大な孔――焼け爛れた孔の縁を見れば、それが凄まじい高熱によってアスファルトを溶かしたが故のものと知れた――が、ヘリからの空撮で捉えられている。

 そして画面は中継からスタジオへと戻った。ワイプが切られ、スタジオアナウンサーの肩越しに映し出されるのは、中継ではなく監視カメラのそれから転用した映像。
 市街各所に仕掛けられた防犯用の固定カメラが偶然捉えた、この惨状の原因と見られる怪物。それは灰色に塗られた人型の雀蜂だった。映像はやや不鮮明なものだったが、あのシルエットを見間違うギンガではない。

「どうして……!? いったい、何が……!?」

 状況を掴めず混乱するギンガの脳裏に、その時、不意に聞き慣れた声が響いた。

《ギンガさん! キャロ!》

 それは衛司と一緒に家を出た筈の、妙に切羽詰ったエリオの声。

《エリオくん!? 今、どこにいるの!?》
《す、ススキノってところです! 大変です、衛司さんが――!》





◆      ◆







 札幌市の中心部、JR札幌駅を南口から正面方向へ直進すれば、やがて大通公園を経て日本有数の歓楽街、ススキノへと辿り着く。
 飲食店や風俗店、ホテル、娯楽施設が入り混じって作り出されるその混沌とした景観は、昼間であってもそれなりの賑やかさを保っているものだが、その中にぽつりと雑踏から切り離されて佇む建築物があった。
 廃墟も同然に寂れきったそこは、かつてはシティホテルとして使われていた建物。錠が下ろされた扉の前には侵入者を防ぐ為の、役割にしては安っぽいプラスチックの鎖。『立入禁止』と記された札も半ば取れかけて、半端にぶら下がっている。進入禁止が実質ただの建前と、誰の目にも明らかであった。

 とは言え現実として、中に這入ろうと思う者はまずいない。
 ススキノは繁華街という性質上、社会常識から外れた者(要するに不良と呼ばれる類の)が溜まり場とするような場所も少なからず存在するが、そんな彼等とてこの建物には近寄らない。二年前にそこで何が起こったのかを知っていれば、踏み荒らそうなどとはまず考えない。
 ――とある極左組織が、最上階レストランの客や従業員を人質にとって起こした篭城事件。結果としてそれは一人を除き人質・犯人グループ全員の死亡という形で幕を閉じたのだが、やがて現場検証の末に明らかとなった虐殺の事実は日本中を震撼させ、事件を日本犯罪史上に残る汚点として記録すると共に、事件現場を不可侵とする風潮をススキノの街に残した。
 歓楽街のど真ん中という最高の立地条件でありながら、事件後二年が経とうというのに手付かずのまま放置されている事からも、事件が街にもたらした影響の大きさが窺えよう。

「形はどうあれ、これもこれで“傷”なんだろうね。誰も彼もが直視しようとしないから、いつまで経っても治らないままだ。……まあ、僕が言えた義理じゃないんだけど」
「はあ」

 そんなシティホテル――“元”シティホテルであった廃ビルの最上階に、二人の少年の姿がある。
 結城衛司と、エリオ・モンディアル。
 訳も解らぬまま衛司に同行する事となったエリオが、花屋と本屋、コンビニに立ち寄った挙句に辿り着いた終着が、この廃ビルであった。

「え、衛司さん……ここって」

 エリオが戸惑うのも無理は無い。
 廃ビルにこっそり忍び込む(こっそりと言う割に、裏口の扉を壊して侵入する大胆さだった)だけでも不可解なのに、やってきた最上階は下階に輪をかけた荒れようなのだ。
 崩れた壁、抉られた床。そして至るところに飛び散った血痕。かつてここで繰り広げられた惨劇を垣間見て、身震いするようなおぞましさを覚えてしまう。

「うん。ちょっと待ってて。先にやる事だけ済ませちゃうからさ」

 言って、衛司はフロアの中央でしゃがみこむと、床に花束と雑誌を置き、空き缶に線香――異邦人のエリオには、それが何なのかは解らなかったが――を立てて、火をつける。そうしてから彼は掌を合わせ、目を閉じた。
 地球の作法は知識のないエリオであったが、花や本を供えるところから、それが死者に対する哀悼を表する為の行動であるとは察しがついた。ミッド人が墓地で行うそれと同じものだと。

「まあ、真似事だよ。僕が人間だったなら、こうするだろうって事で。そもそも僕にこんな事する資格もないんだけどさ」
「…………?」

 やがて目を開け、立ち上がった衛司が口にしたのは、意味も意図もどうにも掴めない一言。
 さっきも同じような事を言っていた。『僕の言えた義理じゃない』『こんな事する資格もない』……その言葉の真意を質そうとして、しかし何を言って良いのか判らず、結局エリオはどうでもいい質問を衛司へと向ける事になった。

「あの、衛司さん。えっと、そ、その本なんですけど……」
「うん? ああ、これ?」

 少年は花束の横に置かれていた雑誌を取り上げて、エリオに示す。
 丸々と太った裸の男が表紙の雑誌。どうにもいかがわしい本に思えて仕方がない……というのが衛司にも伝わったのだろう、彼は苦笑して、ぱんと表紙を叩いた。

「『相撲』って言ってね。この国の格闘技なんだ。これはそれの専門雑誌――別に怪しい本じゃないよ。父さんが凄い相撲ファンだったんだ。相撲中継のある日は欠かさず見てたから、お供え物にね」

 あれ、そう言えば父さんが買ってた相撲雑誌どこ置いたっけ? 僕の部屋だったか? とぶつぶつ呟きながら、衛司は相撲雑誌を元の場所に戻す。

「衛司さんのお父さん――ここで、亡くなられたんですか?」
「うん。ここで死んだ。父さんと母さんと……姉さんは違うか、……それに、僕が。僕だけは、こんなざまで生き返っちゃったけど」
「え――」

 衛司が……ここで、死んだ? 生き返った?
 それは一体、どういう意味だ?

「言葉通りだよ。背中から心臓撃ち抜かれて、殺された。……オルフェノクってのは皆、一度死ぬ事で怪物として覚醒するんだ。僕の場合は二年前。ここで殺された事で、僕は、オルフェノクになった」

 淡々と語る衛司だったが、聞かされる側のエリオにしてみれば、それは驚愕すべき言葉の連続だった。
『灰色の怪物』オルフェノクの発生。未だミッドでは誰も知らないそれを唐突に聞かされて、少年の頭はぐちゃぐちゃに掻き乱される。

「ずっと、ここには来てなかったんだけどね。家から目と鼻の先なのに、怖くて近寄れなかった。……ここに来たら、どうしても向き合わなきゃいけないから。僕の身体とか、僕がここでやった事とか。
 でも、やっと踏ん切りがついたって言うか、吹っ切れたって言うか……うん。謝る事は出来ないし、許してもらおうとも思わないけど、僕が何で、誰であるのかは、はっきり言える様になったから」

 だから、ここに来た。
 そう口にする衛司の顔は、どこか晴れやかで――ここが大量虐殺の現場である事を、一瞬、忘れさせる。

「『僕が何で、誰であるのか』……」

 衛司の言葉を鸚鵡返しに、エリオが呟く。
 普通の人間なら、考えもしないような問い。だが、だからこそ、エリオにとってそれは無視出来ない問いであった。

「エリオくん。『人間』の定義って、何だと思う?」

 不意に向けられたその質問に、エリオは即答出来ない。
 口篭るエリオに苦笑を漏らして、衛司は先を続ける。

「本人が居ないところで話題にするのもちょっと申し訳ない気がするんだけどさ、例えばギンガさんは『人間』だと思う。生まれとか身体とかがちょっと人間離れしてはいるけれど、ギンガさん本人が、自分は人間だって決めている。自覚している。――だからギンガさんは『人間』なんだ。人間で在ろうとする人が、『人間』以外であるはずがない」

 つまり結城衛司の言う『人間』の定義とは、至極単純な、自分が人間であるという自覚。

 普通なら、それは自覚するまでもなく、前提として踏まえている事だ。
 だがギンガやスバル、或いはエリオやフェイトのような、常識の埒外で産み落とされた生命は、その前提を踏まえる事がまず出来ない。ヒトならぬ出生方法に起因する“自分は普通の人間とは違う”という思いは、きっと彼女達を常に苛んでいたに違いない。

 だから彼女達は自覚する。己の意思で、意識的に、明確に。自分が人間である事を、疑いなく確信する。
 周囲の人々の支えあってこそ得られるものではあるが、その自覚、その確信こそが、人間を『人間』たらしめている――少年の言葉の意は、つまりそういう事で。
 そして。

「逆の事も言える。自分は人間だって思う者が『人間』であるのなら――自分を人間と思わない奴は、当然、『人間』じゃない」
「じゃあ、衛司さんは」
「うん。だから、僕はオルフェノクなんだ。……ああ、勘違いはしないでほしい。別に自虐や自棄で自分を人外扱いしてる訳じゃない。僕が僕の意思で、僕の為に選んだんだ。怖がって貰う分には構わないけれど、同情とか哀れみとかは、ちょっと筋違いかな」

 ……機動六課の面々は、既にギンガから聞かされている。衛司が『人間に戻りたい』と言っていた事を。怪物の身体を疎んで泣いていた事を。
 その彼が、今はもう怪物としての己を受け入れている。それが自虐や自棄以外の理由からであるのなら、きっと他人のどんな言葉も、彼の翻意は促せまい。
 そうと解ってしまえば、エリオにもう、言うべき言葉は何一つ無かった。

「ま、この定義も、実際めちゃくちゃ曖昧なんだけどね。それに世の中『人間』って自覚を持ちながら“踏み外す”人も少なくないし。そういう人はまじで困る。人間の癖に人外みたいな真似されると、僕達みたいなのは立場がないよ」
「踏み外す……」

 衛司のその言葉に、ふと、エリオは思い出す。
 フォッグ怪人との戦いを終えた直後、現れたドラスに背を向ける形でなのはの下へ向かおうとしたあの時、衛司はキャロに『憎悪を肯定する人間は、もう人間じゃない』――そう言ったのだったか。
 今にして思えば、あの時のキャロは、確かに人の領分を踏み外そうとしていた。
 衛司は――それを止めようとしていたのか。
 それがキャロを想っての事なのか、それとも自身の立場を守ろうとしたが故か、そこは定かでは無いけれど。

「それに――うん、格好の良い事言ってはみたんだけどさ。やっぱり僕は中途半端だ。どうにも人間だった頃の癖が抜けない……咄嗟の状況になると、人間みたいな思考で動いちゃったりね」

 自虐や自棄はない、そう言った衛司だったが、その言葉だけはどうにも自嘲的な声音であった。

「……じゃあ。あの時の衛司さんは、どっちの・・・・衛司さんだったんですか……?」

 あの時――起動したゴルゴムの儀式魔法が何者かによって破壊され、引き裂かれた空間が何もかもを飲み込もうとした、あの時。
 衝撃のせいか断片的な記憶でしかなかったが、それでもエリオは憶えていた。空間の裂け目に飲み込まれようとしたエリオ達を、衛司が助けようとした事を。
 目の前で隙を晒すドラスを放置し、少女達の救出に向かったあの時の衛司は、果たして怪物と人間、どちらの思考で動いていたのだろうか。

「さあ。自分でも、良く解らない。……言ったろ? 中途半端なんだ、僕は」

 その言葉は酷く嘘臭く、韜晦であるとすぐに知れた。
 それを糾す言葉を口にしようとして、止める。意味がないし、資格もないと解ったからだ。
 彼の中途半端を糾せる者が居るとすれば、それはきっと衛司と同じ場所に居て――衛司よりも更に先へと進んだ者だけ。

 かつて人であり、今は人でなく。
 人外としてのメンタルと、人間の思考の二律背反を経験した者。

 そんな都合の良い存在、居る訳がない――エリオの諦観は、ごく真っ当な常識を持っていれば当然のものと言えた。





◆      ◆







 廃ビルから出ると、真冬の冷気が容赦なくエリオと衛司の肌を刺した。
 白い息を吐きながら通りに出れば、すぐに雑踏が二人を迎え入れて埋没させる。雪こそ降っていないが気温は零下、行き交う人々も自然足を速めて、それぞれの目的地へと急いでいく。エリオと衛司も例外ではなく。

「寒くない、エリオくん?」
「だ、だいじょうぶです」

 衛司の言葉にそう応えながらも、きんと張り詰めるような冷たい空気に、エリオはぶるりと身を震わせる。
 今のエリオは衛司のコートを借りて着てはいるのだが、体格差もあってだぼだぼのぶかぶか。隙間から風が吹き込んできて、防寒具としては些か心許ない。
 ミッドの冬も寒くはあったが、やはり雪国のそれは段違いだ。早いところ屋内に入らないと凍死する。
 そんな気持ちがエリオを早足にさせて、先を急がせるのだが――そのせいで、やおら立ち止まった衛司の背に、彼は顔を突っ込むようにぶつかる羽目になった。

「わぷっ!? え、衛司さん?」
「あ、ごめん。――エリオくん、悪いけど先に帰っててくれるかな。道はストラーダが記録してると思うから」
「え?」

 そこで初めて、エリオは周囲の喧騒が、つい先刻までと質を違えている事に気付いた。
 どこにでもある、ミッドの街中と大差ない雑踏が、今は困惑の混じったざわめきに満たされている。意味不明な、理解不能な何かを目の当たりにして、あれは何かと訝る声。

 まるで空飛ぶ円盤を目にした時のような。
 もしくは幽霊が眼前に現れた時のような。

 そんなざわめきを奇異に思いながら、エリオは衛司の陰から横に進み出て、前方へと視線を向ける。――そうして彼は、ざわめきが何に起因するものなのかを知った。

「ど――」

 ぎちり、と肉と機械の擦れ合うような足音を響かせて。
 行き交う人々の雑踏に、さも当然のような顔で紛れ込んで。
 けれどもその存在感だけは隠しようがなく、周囲の視線と注目を存分に浴びながら――ネオ生命体ドラスが、こちらへと歩み寄ってくる。 

「どうして……どうして、ドラスがここに……!?」

 見間違えるはずもない。怪物が総身から発する、押し潰されそうなこの重圧。それだけで眼前の怪物が、エリオの知るネオ生命体と悟るには充分だった。
 ただ不思議なのは、ドラスの姿が以前と変わりない事だ。先の戦いで首を斬り離され、後に復活した時に纏っていた銀の甲冑が、今のドラスにはどこにも見当たらない。

「さあ。でも、まあ、そろそろ来るだろうとは思っていたよ。中途半端で終わってたからね。……いいから、エリオくんは先に帰って」 
「さ、先に帰れって……そんなこと、出来ませんよ! 僕も一緒に――」
「いいから、帰って」

 エリオの言葉をばっさりと切り捨てて、衛司は前に出る。その腰には既にベルトが巻かれ、手にした携帯電話にはスタートアップコード『913』が入力済み。
 敵意も顕わにドラスを睨み据える衛司へ対して、しかしドラスに反応は見られない。周囲の人混みを意に介する様子も、攻撃行動の一つすら見せる事なく、ただ黙々と足を運んでいるだけ。
 その不自然にエリオが眉を寄せた時、衛司が歩み寄るネオ生命体へと呼びかける。

「今日は随分と大人しいね、ドラス。お散歩かい?」
〖…………〗

 む、と衛司が顔を顰めた――それは呼びかけを黙殺された事に対してではなく、ドラスが相手に“無反応”という反応を返した事への不審。
 以前までのドラスには、お喋り、つまりは会話という行為を愉しんでいる節があった。外見を考慮しなければ、どこか人懐こい人格をしているとすら言えたのだ。ただし善悪の判断がつかない以上、それは単なる脅威でしかなかったのだが。
 そのドラスが無言黙殺を貫いているという時点で、それは明らかに異変であり、少年が警戒の度合いを一つ上げる要因となった。

「――変身」
【Complete.】

 低く呟いて、衛司は携帯電話をベルトのバックル部に装填した。ベルトから伸びる黄のラインが骨組みの如く少年の身体を囲い、その姿を――

「あれ?」

 ――その姿を、変化させない。
 ラインの骨組みは確かに衛司の体格に沿う形で彼を囲っているのだが、それに続いて行われるはずの、装甲と強化服、仮面の装着が行われない。

「え? あれ? え?」

 目の前のドラスと、己が腰のベルトとの間で視線を上下させる。いつまで経っても変身は完了せず、しかし不具合が起これば強制停止するはずのシステムは平常通りに起動したまま。
 携帯電話を抜き取って、手動でシステムを停止。もう一度スタートアップコードを入力して、再度システムを起動させる。

「変身!」
【Complete.】

 ……………………。
 やはり変身出来ない。

「変身!」
【Complete.】

 ……………………。

「変身!」
【Complete.】

 ……………………。

「変身変身変身変身へんしーん!」
【Complete.Complete.Complete.Complete.Complete.】

 ……………………。
 ……………………。
 ……………………。

「なんで!? どうして変身出来ないんだよ!?」 

 何度やっても変身出来ない。システムは問題なく起動しているのに、何故かそれが完了されない。
 手間取っている間にもドラスは近寄ってきて、既に衛司は間合いの中。気付いた時にはドラスは目の前で、回避も防御ももう間に合わず。

「…………っ!」

 だが。
 ドラスはあっさりと衛司の横を通り過ぎたかと思うと、そのまま少年に一瞥もくれる事なく、彼から離れていく。
 予想外の肩透かし。てっきりドラスがこの場に現れたのは、衛司を追っての事だと思っていた。衛司もエリオも、その認識に関しては共通だった。
 すたすたと歩み去っていくドラスの背を、二人は呆然と見送って――不意にドラスが足を止めても、すぐには反応出来なかった。

〖あ、そうだ〗

 ドラスはくるりと振り向いて、

〖きみはじゃまだな。しんじゃえ〗

 瞬間、背筋を凍らせる猛烈な怖気に突き動かされ、エリオはその場を飛び退いていた。衛司もまた同様に。
 次瞬、凄まじい高熱がエリオの眼前で大気を灼き切った。ドラスの放った怪光線が横薙ぎに路面を薙ぎ払ったのだ――そして光線の超高熱は路面に積もっていた雪と反応し、小規模ながらも凄まじい水蒸気爆発を引き起こす。

「っ!」
「わぁあっ!?」

 ごろごろと路面を転がる衛司とエリオ。だが彼等もそれなりに修羅場鉄火場を潜り抜けてきた猛者である、すぐさま体勢を立て直して立ち上がる。
 現れた怪物を困惑の目で眺めていた群集が、爆発によって遂に恐怖を覚え、蜘蛛の子を散らすように逃げ出していく。その場に少年を二人、置き去りにして。

「エリオくん、無事か!?」
「は、はい! それよりも衛司さん、そのベルト……」
「うん。使えないね。壊しちゃったかな――けっこう無茶な使い方したから」

 言いながら衛司はベルトを外して、エリオに投げ寄越してくる。
 その行動には二つの意味があった。己はベルトが無くとも戦えるという意思表示と、ベルトを持ってここから離れろという意思表示。

 つまり衛司は未だ、エリオを戦闘に巻き込むつもりがないのだ。それがエリオの身を案じるが故ではなく、単に足手纏いを遠ざけようとしているだけと、エリオは理解していた。
 こと正面切っての戦闘となれば、エリオの実力では足手纏いにしかならない。いつぞや海上隔離施設で相手取った時のドラスとは違うのだ。業腹だが、目の前の怪物はもうエリオの手に負える相手ではない。

〖にげちゃだめだよ。さっさとしんでよ〗
「お断りだよ。死ぬのはお前だ――そうだ、お前が死ね!」

 ざわりと衛司の顔に紋様が浮かび上がり、眼球が瞳の黒を失って灰色に濁る。そして次瞬には空間が沸騰するようなエフェクトと共に、衛司の姿が異形の雀蜂へと変化した。
 総身から放射される強烈な殺意。ドラスへと向けられたもののほんの余波ではあるが、傍らのエリオは呼吸を阻害されているような感覚に陥る。

 この殺意。
 この殺気。
 こんなの――人間に放てるものじゃない。

〖おぉっ!〗

 裂帛と共に、ホーネットオルフェノクが敵へと向けて飛び出した。踏み足が積雪に凍った路面を踏み砕き、飛翔態へと変化した雀蜂が一瞬で敵との間合いを詰める。
 振り翳される騎兵槍。疾駆する切っ先が、ドラスの額を目掛けて奔る。
 同じ槍遣いのエリオから見れば、そこには何の術も技もない。自慢するつもりはないが、まだ自分の方が洗練された槍技とすら言える。
 だが速度の一点において雀蜂の槍撃はエリオのそれを遥かに凌いでおり、常人ならば掠めるだけでもごそりと肉体を抉り取られる、それだけの威力を持った一撃であった。

〖っ!〗
〖あたらないよ〗

 だがその槍撃を、ドラスは事も無げに槍を掴み取る事で防ぎきる。衛司も力を込めているのだろうが、槍はまるで微動だにせず、根が生えたように固定されている。
 次の瞬間、ぶんとドラスが槍を、その柄を掴む雀蜂の身体ごと振り回した。遠心力によって衛司の手が柄から離れ、身体が吹き飛ばされて、近くのビルへと窓枠を破る形で飛び込んでいく。
 そこはつい先程、エリオと衛司が訪れた廃ビルだった。あそこなら巻き込まれる人はいない、とエリオが僅かに安堵したのも束の間、ドラスの追撃がその安堵を打ち砕く。

〖しんじゃえ〗

 廃ビル内の衛司に向けて放たれるのは、速射砲のような光線の連射。
 抉り取られ削り取られるビルの外壁が濛々と粉塵を巻き上げ、雀蜂の姿を覆い隠すが、ドラスはまるで頓着する様子もない。むしろ粉塵が密度を増すほどに、速射光線の弾幕もまた密度を増していく。

 そして不意に弾幕が中断したかと思えば、次瞬、集束した巨大レーザーがビルを貫通した。ビルを貫いたままレーザーは角度を変え、さながら電動糸鋸に裁断される木材の如く、鉄筋コンクリートのビルを切断し始める。
 程無くごごん、と奇怪な音が周囲に響き、ずたずたに引き裂かれたビルが崩壊を始めた。轟音と共に崩れ落ちるビルの瓦礫が路面に突き刺さり、粉塵と積もった粉雪を攪拌して巻き上げる。

「え――衛司さんっ!」

 崩壊するビルから衛司が脱出した様子はなかった。つまり雀蜂は哀れ瓦礫の仲間入り。いかにオルフェノクと言えど、ビル一棟ぶんの質量の下敷きとなって、生きていられるはずがない。
 薄れていく粉塵の向こう側に、立ち去ろうとするドラスの後ろ姿が見える。それを追おうとは、往く手を阻もうとは思えなかった。今はとにかく、衛司の安否だけが気がかりだった。
 今はただ瓦礫だけが積み重なったビル跡地へと、エリオは走り出して――

「!」

 総身を駆け抜ける猛烈な悪寒に、足を止めた。
 振り向けば、立ち去ったと思っていたドラスもまた足を止め、ぼんやりと足元に視線を落としている。

〖……あれ。まだ、いきてるな〗

 ぼそりとそう呟いたかと思うと、不意にドラスの直下、足裏の路面がどろりと溶け出した。押し固められた路面の雪が溶け、その下のアスファルトも溶解して、ドラスの身体が地面の下へと降りていく。
 やがて路面に巨大な孔を穿ち、ネオ生命体は完全に地面の下へと姿を消した。呆然と地面の孔に歩み寄り、溶け爛れた孔の端を眺めるエリオだったが、ふと彼はドラスが呟いた一言を思い出す。
 まだ生きている。確かドラスはそう言っていた。ならば今助けに行けば、まだ望みはあるはずだ。

《ギンガさん! キャロ!》

 ただエリオは慎重だった。少なくとも一人で先走って衛司の救出に向かうほど、迂闊では無かった。
 念話でギンガとキャロに連絡を取る――衛司の家で待つ彼女達は、すぐにエリオの呼びかけに応えてきた。

《エリオくん!? 今、どこにいるの!?》
《す、ススキノってところです! 大変です、衛司さんが!》

 衛司がまだ生きているとしても、ビルの崩壊に巻き込まれたのだ、無傷であるとは思えない。
 焦る気持ちが言葉を詰まらせる。落ち着け。落ち着いて、状況を報告するんだ。

《ドラスが現れたんです! え、衛司さんがビルの下敷きになって……! 今、ドラスが止めを刺しに――!》

 落ち着け――だがそう自分に言い聞かせる程に、エリオの言は支離滅裂になっていく。
 だがそれでもエリオの言いたい事を察してくれたのか、思念に乗ってギンガとキャロが息を呑むのが判った。状況がどれほど切羽詰っているのかも、理解してくれた筈だ。

《すぐにそっちに向かいます! エリオくんは無理をしないで、人目につかない場所で待っていてください!》

 そうして念話通信は切られた。人気の無くなった街に、エリオは一人取り残される。
 人目につかない場所に居ろ。ギンガの指示は適切だった。今のエリオ達は合法的な手段で――加えて、現地住人に説明の出来る方法で――この世界に入り込んだ訳ではない。警察その他と接触すれば厄介な事になるし、下手をすれば管理外世界に魔法技術を漏らしてしまう事になりかねない。
 だが――

「無理をしないで、って……そんなこと言ってられないです、ギンガさん……!」

 余裕はない。
 今、衛司を助けられるのは、それが出来る状況に居るのは、エリオ・モンディアルただ一人だけなのだから。
 衛司から預けられたベルト……カイザドライバーが、力の篭もるエリオの手に握り締められて、ぎしりと軋音を上げた。





◆      ◆







 日本各地の大都市と比較して、札幌市街は地下通路や地下街が発達している。
 市内を走る三本の地下鉄路線が交差し、乗換駅が置かれている事に加え、零下に達する冬季の気温や多量の降雪が、常に環境を一定に保てる地下街の発達を促した。
 実際、JR札幌駅からススキノに至る区域は、ほぼ丸ごと地下空間が開発されていると言って良い。地下街に降りる為の階段が街のそこかしこに見受けられ、百貨店などは一階フロアや地下階フロアが地下街や地下鉄駅の構内に直結している。

 衛司にとって幸運だったのは、崩壊した廃ビルもまた、市営地下鉄の駅構内と繋がっていた事。
 かつてシティホテルとして営業していた頃の名残。地下鉄の利用者をスムーズに宿泊させられるよう、一階エントランスに地下へと降りるエスカレーターが設置されていた。衛司はそれを知っていた――かつて宿泊客として、それを使った事があったから。
 崩れていくビルの中で、衛司はあえて騎兵槍を下方へ向け、下階へと向けて突撃。一階に降り立った瞬間に横っ飛びでエスカレーターシャフトへと飛び込み、地下通路へ逃れようと試みたのである。

「う……っぐ、痛……生きてる? まだ、生きてる……」

 だが僅かに時間が足りなかった。地下通路へ飛び出る寸前、天井から崩れてきた瓦礫が雀蜂を生き埋めにせんと降り注いだ。
 ……幸い、瓦礫の下敷きになる末路は避けられたらしい。瓦礫や鉄骨が上手い具合に支え合って、人ひとり分程度のスペースを作っている――気付いた時には、衛司はそのスペースに入り込んでいた。

「っ、は。ははっ……なんだ。ついてるなあ、今日の僕は」

 日頃の行いかな――と言ってみるが、それなら無惨に死ぬ展開の方が近いだろう。暴虐殺戮の悪行三昧を繰り広げて、何が日頃の行いか。
 それに、本当に幸運だと言うのなら、そもそもこんな目に遭っていない。精々が“不幸中の幸い”――そして残念ながら、それを噛み締めている暇もない。

「ドラスが……来る」

 うつ伏せの体勢であるせいか、地下通路を進む何者かの気配が床を伝って感じ取れる。奴はそう遠くない……そして一歩ずつ、こちらに近付いてくる。それが判る。
 目の前にはエスカレーターシャフトと地下通路を隔てる扉。扉と言っても単なる大きなベニヤ板、ビルが閉鎖された際に部外者の立入を防ぐ目的で設置されたもの。これ一枚隔てた先には地下通路、言ってしまえばゴールテープのようなものだ。
 粉砕するのは造作もないが、必然、その破壊音はドラスに届くだろう。衛司を探して地下街をうろつくネオ生命体に、己の位置を報せるようなものだろう。

 ……衛司の脳髄は、冷徹に判断を下していた。勝ち目はない。どう足掻いても、ドラスには勝てない。渾身の一撃が無造作に掴み取られた時点で、衛司の身体は理解していたのだ。
 ミッドチルダでの戦いで負った傷はまるで癒えておらず、内臓と肋骨の損傷は雀蜂の一撃から威力を奪っていた。
 更にドラスも、あの時より格段に強くなっている。恐らくは死の淵から舞い戻った事で限界を越え、力が底上げされたのだろう。攻撃が防がれたのも、ある意味で当然の結果と言える。

「解ってる――解ってるんだ、そんな事……でも、それでも――」

 このままここで倒れ伏していても、待つのは確実な死。
 死にたくない。結城衛司は死にたくない。抗うしかない、戦うしかない。一縷の望みに縋って、殺されるより先に殺すしか、彼に取り得る処方はない。
 ずるりと身を這いずらせ、ベニヤ板の扉に縋りつくようにして、彼は身を起こし――

「……………………え?」

 ふと、脚に違和感を覚える。左脚に力が入らない。感覚が鈍い……いや、感覚が無い。
 ごろりと身体を転がし、上体を起こして、脚へと視線を向ける。違和感の正体は一目で知れた。碌な明かりが無い中でも、その有様は衛司の目にはっきりと見て取れる。
 膝からやや下、脛の真ん中あたりで――結城衛司の左脚が、消失していた。

「くっ、あ――ああああああああああっ!?

 恐らくは瓦礫に押し潰されたのだろう。痛みこそ薄いが――あまりの重傷に、脳が痛覚を遮断したのか――脚が失くなったという事実が、衛司を恐怖と混乱に突き落とす。
 オルフェノクとしての姿と力がなければ、結城衛司はただの少年である。脚が千切れ落ちて平然としていられるほど強くはない。
『ついてる』、『幸運』、『不幸中の幸い』――どれもこれも、この事実の前振りだったという事か。

「!」

 そして、彼を襲う窮地は終わらない。
 背を預けるベニヤ板から、突如として腕が生える。……否、それは板の向こうに居る何者かが、衛司を目掛けて腕を伸ばしてきたのだ。
 伸びた腕が肘から曲がって、衛司の首をかき抱くように締め上げる。そのままぐいと引き寄せられれば、衛司の身体はベニヤ板をぶち抜いて、地下通路へと引きずり出された。

「ドラスっ……!」
〖みつけた〗

 バックチョークの如く衛司を背後から締め上げるのは、言うまでもなくネオ生命体ドラスだった。

「あ、ぅあ、あぎっ……!」

 一般的に頚動脈を締められれば数秒で意識を失い、苦痛は殆どないとされる。だがこの場合のドラスは、腕の太さが故か、ただ衛司の気管と喉部を締め上げ、呼吸を断絶させるに留まった。
 とは言え衛司にしてみれば、まだ締め落としてくれた方が安楽だっただろう。喉は立派な人体急所の一つ、そこを圧迫された時の苦痛は筆舌に尽くし難い。衛司も必死に抵抗するものの、それは精々首を締め上げる腕を引っ掻くぐらいの事で、しかし拘束と圧迫はまるで緩む気配がない。

 ばりっ、と嫌な音が響く。
 ドラスの腕を引っ掻く爪が、あまりの負荷に剥がれ落ちたのだ――それでも指は止まらない。血まみれの指に引っ掻かれ、ドラスの腕が赤く汚れていく。

〖きたないなあ。ぼくはこれから、おにいちゃんのともだちにあいにいくのに。よごさないでよ〗
「……お、にい、ちゃ……?」

 なんだ、それは。
 ドラスに、“兄”がいるというのか? それとも兄のように慕う誰か?
 問い質そうとするも、もう声が出ない。意識が断線し、視界が暗く落ち淀んでいく。

 ――反して身体の底から、意識の奥底から、声が響いてくる。もう幾度と無く聞いた、雀蜂の叫び声。
 殺される前に殺せ。生き残る為に殺せ。それがオルフェノクの持つ、闘争本能の根幹。ならばこの時、この瞬間こそが、彼の戦意を最も増幅増大させるシチュエーションで――

わぁあああああああああああっ!!

 だが次の瞬間、地下通路に響いた叫び声と、ずんとドラスを揺らす衝撃が、雀蜂の発現を妨げた。
 ぽいと衛司を放り捨て、ドラスが振り向く。そこに居たのは槍を構えた赤髪の少年――エリオ・モンディアル。
 槍を短く持っているところから見るに、恐らくは背後から飛び掛り、ドラスを斬りつけたのだろう。衛司とドラスがほぼ密着状態にある以上、突撃よりも斬撃の方が確かに相応しい。少年の判断は適切だった。

〖うるさいな。じゃまだよ、おまえ〗

 言って、ドラスは横薙ぎに腕を振る。蝿でも叩き落すかのように無造作なそれを掻い潜って、エリオはドラスの懐に潜り込んだ。
 上体を捻り、全身を一本の螺子とするかの様な旋回運動。最小限の動きで遠心力を得た槍の穂先が、ドラスの腹に叩き込まれる。
 しかし斬れない。ネオ生命体の外皮強度は、エリオが繰り出す一撃の威力を大きく上回っている。
 ――構わない。元よりエリオの狙いは、ドラスを“斬る”事にはなかった。

紫電! 一閃っ!!

 ばちっ――とドラスの腹とストラーダとの間で火花が散り、次瞬、強烈な爆発がドラスを大きく弾き飛ばした。
 紫電一閃。エリオがシグナムから伝授された、高密度魔力付与攻撃の総称。
 かつての『JS事件』においては、変則的に拳へ魔力を纏わせて放った攻撃だが、本来はこうして得物を使って放つ攻撃だ。シグナムは炎に、エリオは電撃に変換した魔力を付与して放つ――その威力は見ての通り。まだ未熟なエリオの一撃であっても、ドラスを弾く程度は雑作もない。

「衛司さん!」

 敵を間合いの外に弾き出したエリオが、衛司の名を呼んで駆け寄ってくる。
 息も絶え絶えな衛司であったが、それでもエリオを睨みつけ、掠れる声で「馬鹿……!」と毒づいた。

「なんで、来たんだ……! 帰ってって、言った、のに……!」
「そんなの――そんなの、僕が人間だからですよ! それ以外に、理由なんか――!」

 はは、と衛司は力なく笑った。
 『人間だから』。そう言われてしまえば、もう衛司に言える事はなかった。

「そんな事より、早くここから離れましょう! 衛司さんのその怪我も……キャロなら、何とか出来るはずですから!」
「……ん。そうだね、そうしよう……  ――っ!」

 身を起こした瞬間、衛司はエリオの身体を突き飛ばしていた。力任せに突き飛ばせばやはり体格の差か、エリオの矮躯はあっさりと弾かれる。
 何をするんですか、とでも言いたげにエリオが顔を上げるが、その反応を衛司は見る事が出来なかった。――暗闇から飛来した、細く細く絞り込まれた一条の光線に、左肩を貫かれていたからだ。

「があっ!」
「衛司さんっ!」

 どうと倒れ込む衛司に駆け寄ろうとしたエリオだったが、その鼻先を光線が掠めた事で、彼は反射的に身を竦ませ、駆け寄る機を逸した。
 一方の衛司は、左脚と左肩からの出血のせいか、いよいよ意識を保てなくなっていた。視界が暗い。酷く寒い。泥のような眠気が、意識の端から思考を侵食してくる。

「……! エリオ、くん……!?」

 だがそれも、エリオの姿を視界に収めた瞬間、一瞬で吹き飛んだ。
 衛司が預けたカイザドライバー。駅伝のタスキよろしく肩から提げていたそれを、エリオは自らの腰に装着したのだ。未だバックル部に装填されたままのカイザフォンを抜き取り、スタートアップコードを入力して、顔の前に翳す。
 何をするつもりなのかは明白だった。エリオは自らがカイザに変身するつもりなのだ。カイザの力と魔導師の力、その双方を兼ね備える事が出来たなら、きっとドラスに対抗出来るはずと。

「駄目……だ、やめろ……やめろ……っ!」

 衛司は知っている。オルフェノクの素養を持たない者がカイザの力を使った時、その後に何が起こるのかを。
 カイザドライバーは謎の機能不全を起こしていたが、システム自体は起動していた事から――それが完了しないというだけで――“副作用”は確実に、エリオの身体を滅ぼすだろう。
 だが止められない。掠れる声ではエリオの耳に届かない。いや、届いたとしても、それはきっとエリオの意思を挫けない。

「変身っ!」
やめろぉおおおおおおおおっ!!





◆      ◆







“彼”がススキノへと辿り着いた時には、街は警察による封鎖と避難誘導に騒然としているところだった。
 逃げ出す人々を捕まえて聞いてみれば、突如として現れた怪物が、別の怪物へ攻撃を仕掛け――挙句、今は使われていなかった廃ビルが、その戦闘に巻き込まれる形で倒壊したのだという。
 人々の流れに逆らいながら現場へ向かってみれば、成程確かに、ビルが一棟、まるで何かに切り刻まれたかのように崩れ落ちている。人為でも災害でもない何かが、戯れ程度に蹂躙した痕跡なのだと、“彼”は気付いていた。

「なんて事を……!」

 義憤に拳を握り込み、低く呟いた“彼”だったが、その時奇妙な感覚が“彼”の知覚に反応した。
 眼前の惨状から伝わってくる、悪意にも似た何か。厳密に言うならそれは残滓で、何者かの放った悪意、戦意、それに類する諸々の残留物。
 無論、それは物質として現存するものではない。気やオーラといった超常の域にある存在であり、一般に『気配』と呼ばれるような、曖昧で不確かな概念。
 だが“彼”の知覚はそれを確かに捉えていた。人ならざる“彼”の超感覚が、実在しない思念の残滓を感知したのだ。

「これは、クライシス……!? いや――」

 思念の残滓は、“彼”にとって不思議な懐かしさを伴うものだった。もう二十年以上前、幾度となく感じ取ったものと、それは酷似していた。
 当時の“彼”は、人界を蝕む巨悪を敵に回して戦っていた。しかし人間離れしていても結局は一個人、そんな“彼”が巨悪に対抗出来たのは、この思念の残滓を読む力があればこそ。
 闇に蠢く者達が残していく、悪意の残滓。一見して何の関係もないと思える物事に、悪の気配を感じ取る事で、“彼”は敵の計画をことごとく潰してきたのである。
 そしてそれは、今、この時にも変わる事はなく。

「まさか――ゴルゴムの仕業・・・・・・・か!」

 どうして二十年以上経った今、その気配を感じるのかは定かではない。
 それでも一度感知した以上、それを放っておく事は、“彼”には出来なかった――加えて、先日察知した感覚の事もある。今は亡き友の、在るはずがない気配を辿って、“彼”はここに来たのだ。
 友の気配。敵の気配。あの頃の“彼”にとって、それは同義のもの。だからこそ、この気配を残した者の先に何かがあると、そう確信していた。

「! あれは……」

 ふと“彼”は視界の端に、二人の少女の姿を見て取った。藍紫色の髪の少女と、それより幾らか年下の、桃髪の少女。
 警察によって避難が進められているとは言え、誘導に当たる人間の数が絶対的に足りておらず、避難を拒む者や野次馬の類もまだこの場には残っている。
 実際“彼”も傍から見れば同じようなものだ。少女達もその類だとすれば別段不自然はないのだが、しかし彼女達の様子を見るに、避難を嫌がって逃げているようにも、事態を面白がって残る野次馬にも見えない。どうにも気になって後を追ってみる。

「ギンガさん、こっちです! ストラーダの反応が、こっちの方から……!」
「ええ、行くわよ!」

 迷いの無い足取りで、少女達は街の中心部へと向かっていく。
 それに比例して、“彼”の感じ取る気配はますます濃密になっていった。間違いない、この先に何かが――何者かが居る。
 少女達を止めるべきか。ここは危ない、逃げるんだと伝えてやるべきか。しかし脅威の正体も判らぬ現状、その制止が受け入れられるとも思えない。

「――あ!? あれっ!?」

 下手に逡巡したのが、まずかった。
 どこかの建物に入ったか、或いは地下街へと降りたのか、目を離した一瞬の隙に、少女達はいつの間にか“彼”の視界から消えていた。

「くっ……! どういう事なんだ――お前が呼んでいるのか、信彦・・……!?」

 男の問いに、応える者はなく。
 ただ、“彼”はまだ冷静だった。積み重ねた経験が、思考から焦燥を切り離していた。
 少女達の向かう先が同じであるのなら、まだ制止は間に合うはず。ならば己の進む先は、気配がより濃密に残留する方向。

 ――何があるか判らない、足は用意しておいた方が良いな。そう判断して、“彼”は踵を返す。崩壊した廃ビル近くの路肩に停めたバイクを、回収する為に。
 それによって生じるタイムラグが、果たしてこれからの展開にどれだけの影響を及ぼすのか――それに関しては、どうあっても知りようがなかったが。 





◆      ◆







やめろぉおおおおおおおおっ!!

 衛司の絶叫が地下通路に響いた、その時だった。

〖!〗

 不意に発生した藍色の光輪が、ドラスの身体を縛り上げる。
 拘束魔法リングバインド――バインド系拘束魔法の中でも基本的な魔法。
 エリオの行使したものではない。今にも装填されるところだったカイザフォン、それを持つ手が驚きに止まったところを見れば、それが判る。
 そして聞こえてくる車輪の音。薄闇に包まれた地下通路の彼方から、二人の少女が一直線に此方へと向かってくる。

「ギンガ、さん……!」
「キャロ!」

 ブリッツキャリバーの加速を全開に突撃するギンガと、その首にしがみつくキャロ。二人の眼差しには恐れも怯えもない。相手がミッドで苦渋を舐めさせられたネオ生命体であると認識しても、尚。
 友の窮地を救う為なら、自身の恐怖など棚上げに出来る。少女達の精神構造は確かに美徳で、しかし同時に愚かとも言える。

「キャロちゃん!」
「はい!」

 合図と共にキャロはギンガの首から手を離し、高速突撃から離脱する。走行中の車両から飛び降りるようなものだったが、そこはキャロも馬鹿ではない、着地寸前にホールディングネットを展開し、ぼよんとそれに衝撃を吸収させてから、床へと降り立った。
 一方のギンガはキャロという重荷が離れた事で、更に加速を増してドラスへと突っ込んでいく。リボルバーナックルのスピナーが魔力を引き込み、圧搾して回転を上げていく。

「はぁっ!」
〖わあ〗

 攻撃を繰り出す寸前、ギンガは車輪の直下に藍色の光帯を発生させていた。眼前での急激な方向転換は強引ながらもドラスに隙を作り出し、その隙を見逃す事なく、ギンガの拳が打ち下ろされる。
 しかしドラスも甘くはない。隙を衝かれたところで、反応反射は人間のそれを上回る。打ち下ろしの左拳はあっさりと弾かれた。
 だが更に次瞬、ドラスの顎が跳ね上がる。弾かれた左拳が瞬時に軌道を変え、下方から標的を打ち抜いたのだ。
 シューティングアーツの基本コンビネーション、ストームトゥース――こと戦闘における駆け引き、技の練度においては、ギンガは機動六課フォワード陣でもトップクラスの実力を有する。それはネオ生命体を相手取っても、充分に通用するレベルであった。
 だが。

「くっ……!」

 顎をかち上げられたというのに、ドラスは何ら効いた様子もなく、大振りなパンチを振り回してくる。
 やはり耐久度は桁違い。一発や二発の打撃では倒れてくれない。高町なのはのスターライトブレイカーを受けてなお直立していたのだ、既に実証されていた事ではあるが、改めてそれを見せ付けられればやはり戦慄せざるを得ない。

「けど、退く訳にはいかない……!」

 ギンガの後ろには衛司が居る、エリオが居る。己の背に友と仲間の安否がかかっているのだ。ギンガとて先日の戦闘のダメージが未だ抜け切ってはいなかったが、それを言い訳に出来る状況ではない。
 ……ただ、ギンガは衛司を見ていなかった。廃ビル崩落の衝撃で照明が落ち、非常灯だけがほぼ唯一の光源となった薄暗い地下空間では、今の衛司がどんな有様となっているのかをはっきりと見て取れなかったのだ。
 客観的な視点からすれば、それは幸いであったのだろう。もしギンガが衛司の状態を認識していれば、きっと彼女は戦闘に集中出来なかっただろうから。





「衛司さんっ!」

 ドラスの注意をギンガが引き付けている間に、こっそりとキャロが衛司の元へと近付いてくる。
 駆け寄ってくるその足取りには迷いも躊躇いもない。先日の対フォッグ怪人戦で、深手を負った衛司の治療を躊躇した時のキャロとは、明らかに違う。
 いったい何が、キャロにとって転換点となったのかは知る由もないが――ドラスの眼前に衛司を召喚したあの時には、既にそうだったか――ともあれ衛司への蟠りを、今この時だけでも棚上げにしているのは確かなようで。

「ひっ……!?」

 千切れ落ちた左脚、撃ち抜かれた左肩、爪の剥がれ落ちた十指。瀕死の重傷と言うにもまだ生温い衛司の惨状を見て、キャロが息を呑む。

「ひ、酷い……! こんなの、わたしじゃ――」
「ぼ、ぼくは、いいから……いいから、キャロちゃん。エリオくんから、ベルトを取り上げて……!」
「でも、衛司さんの方が!」
「いいから! エリオくんにあれを使わせるな! ――死ぬんだぞ・・・・・!」

 声を荒げてそう告げれば、キャロは数秒、それでも睨みつけるように衛司から視線を離さず――やがて踵を返して、エリオの下へと駆け出していった。

 ギンガの戦いを呆然と見ていたエリオだったが、程無く我に返ったように、カイザフォンへ再度スタートアップコードを入力する。待機状態で放置してしまった為、自動的にシステムが終了していたのだ。
 そこにキャロが間に合った。エリオの腕にしがみつくようにして、彼の変身を制止する。何をするのかと抗議の声を上げるも、キャロに耳元で何事か囁かれて、エリオは愕然と衛司へ視線を向けてきた。
 知ったのだろう。変身すれば死ぬと。オルフェノクだからこそ、そのベルトの反動に耐えられるのだと。

「! 危ないっ……!」

 キャロにその事実を告げられて、エリオの脳髄がそれを理解するまでのタイムラグ――その空白を、ドラスは見逃さなかった。
 纏わりつくギンガに業を煮やしたか、散弾銃のような拡散光線がギンガへと向けて放たれる。ギンガは素早く防御障壁を発生させ、それを凌ぐものの、散弾の中の一発が流れ弾としてエリオ達の頭上を直撃した。
 天井が崩れ、咄嗟にエリオはキャロを抱いてその場を逃れるが、着地したその瞬間にもう一発の流れ弾が彼等へと飛来する。

「っ!」
「キャロっ!」

 このままでは、流れ弾はキャロを直撃する――そう悟ったエリオはキャロを抱いたまま、独楽の如くその場で半回転。迫る光線の軌道上に、己の背を晒した。
 どん、と炸裂音が響く。
 拡散弾であった事が幸いしたか、一発あたりの威力はそう高くない。爆発はバリアジャケットの背を爆ぜさせた程度で、剥き出しになった背中には多少の火傷が見受けられるものの、致命傷は負っていないと知れる。
 だが爆発の衝撃はエリオの意識を刈り取り、キャロに覆い被さるようにして、エリオはその場に倒れこんだ。

「エリオくん……エリオくんっ! いやぁあああっ!」

 庇われたキャロの絶叫が、地下通路に響き渡る。

「エリオくん!? ――きゃあっ!?」

 そしてエリオに気を取られた一瞬に、ドラスはギンガとの距離を詰め――ぶんと腕を振って、ギンガの身体を薙ぎ払う。
 防御魔法の行使も、リボルバーナックルの防御も間に合わなかった。弾き飛ばされたギンガは側面の壁に強か叩き付けられ、がらがらと壁面を砕いて床へと落ちる。
 意識を失ったか、彼女はぴくりともしない。ぐったりと床に倒れこんで、無防備な姿を晒している。

「ぎ――ギンガ、さ……!」

 倒れ伏すギンガとエリオの姿に、衛司は言葉を失った。意識を真っ白に漂白され、次いでそれを炎に焼き焦がされた。
 がきん、と脳内で撃鉄が落ちる。ざわりと顔面に紋様が浮かび、その姿が人間からオルフェノクへと変異していく。

〖お前っ……! おぉおおおおおおまぇえええええええええっ!!

 オルフェノクの戦闘態になったからと言って、傷が癒える訳ではない。左脚は変わらず失われているし、左肩には光線の貫通した傷が残っている。
 だがその傷すら、今の衛司の意中にない。残った右足をカタパルトに、ドラスへ向けて飛び出せば、雀蜂は飛翔態となって空中で加速する。
 瞬時に間合いを詰めた雀蜂に、ドラスは対応しきれない。その顔面に雀蜂の拳が叩き込まれ、ドラスを大きくよろめかせる。

〖お前、お前、お前がぁああああああっ!〗
〖……!〗

 そして無論、ただ一発きりで、雀蜂が満足するはずもなく。
 感情のままに、ホーネットオルフェノクはドラスを何度も打ち据える。超高速の猛撃連打は反撃の暇も許さず、ネオ生命体の総身を容赦なく殴りつける。
 一体何発の拳が叩き込まれただろうか、やがて遂に、ドラスの膝ががくりと落ちた。その好機を、雀蜂は見逃さない。
 雀蜂の拳から衝角が伸びる。万物戮殺の猛毒に塗れた、ホーネットオルフェノクの毒針。

〖死ねやぁあああああっ!〗

 殺意の咆哮を伴って、毒針が奔る。
 だが――その先端がネオ生命体の胸に触れる寸前、素早く伸びたドラスの手が、雀蜂の右手首を掴んだ。先に騎兵槍の一撃を防いだ時と同様に、ドラスに掴まれた腕はびくともしない。
 刺突攻撃に特化する雀蜂の攻撃は、そうであるが故に読まれ易い。得物を使おうと肉弾だろうと、切り札が全て一種の攻撃方法であるのだから、防ぐ事は決して難しくないのだ。

〖よくもやったな〗

 えい、とどこか可愛らしい掛け声と共に、雀蜂の右腕が捻り上げられる。
 ネオ生命体の膂力でそれを行われれば、いかにオルフェノクと言えども耐えられるものではない。ごぎ、ぼぎん、と嫌な音が響いて、衛司の右腕が肘のあたりからへし折られる。

〖がっ――!〗
〖おかえしだ。とう〗

 ひゅん、と何かが風を切る音がした。
 次の瞬間、がづん、と何かが額を打ち据えた。
 そして更に次の瞬間、衛司は背中を思い切り叩かれた。いや違う。壁と思しき何かに、思い切り己は叩きつけられたのだ。
 当事者である衛司には、判らない――感覚と認識がところどころで途切れている。ドラスの拳を額に叩き込まれ、盛大に吹っ飛ばされた挙句、地下通路の突き当たりに叩きつけられたのだと、彼は理解していない。

「ぐっ……あ、が」

 それでも、自分が戦闘不能に……今度こそ間違いなく戦闘不能に追い込まれた事だけは、過たず理解していて。
 戦闘態が解除され、殴りつけられた額から、今更のように血が噴き出る。ぼとぼとと音を立てて落ちる血と、左脚の断裂面から滲み出る血が、それぞれ地下通路の床を濡らしていく。

「ちく、しょう」

 その呟きはもう殆ど言葉にならず、口の中だけで薄れて消えた。
 ドラスが近付いてくる。だがもう衛司は動けない。人間態は言うに及ばず、オルフェノクの姿であっても一蹴されたのだ。彼の根幹たる『殺される前に殺す』は、もう完全に破綻している。
 もう、殺されるしかない。――しかし衛司の生への執着は、尚も健在だった。折れた右腕を掲げ、弱々しく拳を握って、最後の瞬間まで抵抗の意思を示す。

「……!」

 その時。ぴちゃりと血溜まりに何かが踏み入る水音と共に、衛司の身体を何か、温かくて柔らかいものが包んだ。
 額からの出血が目に入り、視界は極度に悪化している。それでも必死に瞼を開き、己を包む何かを視認して、衛司は息を呑んだ。

「ギンガ、さん」

 意識を失ったと思っていたギンガ・ナカジマが、いつの間にか衛司のすぐ傍に居て――少年の身体を、その身で庇うかのように抱き締めている。

〖じゃまだよ。どいてよ〗

 ドラスの言葉に応えるのは言葉ではなく、ただ真っ直ぐなばかりの眼差し。
 一歩も退かない、一歩も譲らない。そういう意思が存分に込められた視線だけが、ネオ生命体ドラスを迎撃する。

「ギンガさん……はなれて……こいつ、僕だけ……」
「嫌です」

 衛司の言葉すら、彼女はまるで聞き入れない。

「衛司くんを見捨てて、わたし達だけ逃げ出して、生き残って――そんなの、我慢できるわけないじゃないですか」

 だから、離れません。
 そう言って彼女は、衛司を抱く腕にいっそう力を込めた。

「…………っ、」

 ――悔しい。
 悔しい、悔しい、悔しい。
 久方ぶりに覚える感情だった。人外に堕ちてからこっち、究極的に言えば己の命以外に執着を持たなかった少年は、いま久しぶりに“悔しさ”を思い出した。

 力が無いのが、悔しい。
 戦えないのが、悔しい。

 『死にたくない』ではなく『死なせたくない』、心の底からそう思える人が居るというのに――それが叶えられないのが本当に悔しくて、悔しくて、泣きそうになる。

「……けて」

 いや――事実、少年は泣いていた。
 目の端からぽろりと涙の粒ひとつ。額からの出血と混じって赤く染まったそれが、頬を伝って顎へと落ちる。

「…すけて」

 呟く言葉は誰の耳にも届かない。
 けれど、それでも……無為と解っていても、もうその言葉以外に、衛司に縋れるものはなかった。

「たすけて」



「だれか、たすけて」



 それは、結城衛司が生まれて初めて言う言葉。
 かつてオルフェノクになった時にさえ、両親と己が殺された時にさえ、口にしなかった言葉。
 どれほどの窮地に立たされようと、己を救う為には決して言おうとしなかったその言葉を――いま初めて、衛司は口にする。



 誰か。
 誰でもいい、誰か!
 誰か――ギンガさんを、エリオくんを、キャロちゃんを、助けて!



〖!〗
「!?」
「……?」

 地下空間にそぐわぬ大音響が轟いたのは、その時だった。
 駆動音と排気音。地下の四囲に反響して音量を増すそれに、さすがのドラスも反応する。
 照明が破壊され、非常灯の明かりだけがほぼ唯一の光源となった、薄暗い地下通路。その薄闇を切り裂く一条の光芒は、バイクのヘッドライトのものと知れる。

「誰……!?」

 バイクは一直線にこちらへ向かってくる。佇む怪物も、うずくまる重傷者にも、まるで怯む様子を見せず。
 進む軌道上にはドラスの身体。体当たりすら辞さぬと言わんばかりの速度は、見る間に彼我の距離を詰めていく。
 ドラスにしてみれば、たかがバイクの一台や二台がぶち当たったところで何の脅威でもない。す、と腕を掲げて、迫るバイクを待ち受ける。
 やがて強烈な衝撃音と共に、バイクがドラスへと――翳されたドラスの掌へと衝突する。激突の衝撃にカウル部分がぐしゃりとひしゃげ、のみならず車体の前半分を粉砕して、バイクはあっさりとスクラップへ成り果てた。

「トァっ!」

 だが激突の瞬間、バイクに跨っていた男――声や体格から察するに、男性と見るべきだ――はバイクを踏み台にドラスの頭上を飛び越え、衛司達の眼前へと着地していた。

「君たち、大丈夫か!?」

 フルフェイスのヘルメットを脱ぎ捨て、精悍な顔立ちを顕わにした男が、衛司達へと訊いてくる。
 衛司は応えられない。反応を返す事すら、もう出来ない。
 男もまた、衛司の状態を見て取ったのだろう。彼等が、少なくとも少年の方は自力で逃げる事も出来ないと悟ったようで、ギンガに視線で『彼を頼む』と伝えると、決然とドラスへ向けて振り返る。

「……許さん!」

 そう言い放った瞬間――空気が変わった。
 男の戦意が伝播したかのように、一帯が一気に張り詰める。
 それは何かが起こる前兆だった。人知では計り知れぬ何かがこれから現象すると、誰もが認知し、理解した。
 そして。



「変……身!」



 高らかに男がそう叫び、そして次の瞬間、強烈な光が地下空間の薄闇を反転させる。
 男の腰に突如として現れた、金属製のベルト。そこから放たれる極光が、衛司の、ギンガの、そしてドラスの視界を塗り潰す。

 程無く光は薄れて消え、そこに残る男の姿が顕わとなった。……つい数秒前の、人間の姿は、既にそこにはない。
 そこに在るのは一つの異形。だがオルフェノクとも、ネオ生命体とも違う、異形ながらも禍々しさとはかけ離れたその立ち姿に、思わず少年が息を呑む。

 暗闇を取り込んだかの如き、黒いボディ。
 炎を宿した様に赫と煌く、真っ赤な眼。
 閃く稲妻にして――愛の戦士。
 その男の、名は。

「俺は太陽の子!」



仮面ライダー! BLACK! R・X!!



「かめん……らいだー」

 呆然と、衛司が呟く。
 それは巨悪に立ち向かう戦士の名。
 それは人類の自由と平和を守る者。



 その日――少年は遂に、『仮面ライダー』を知った。





◆      ◆





第弐拾話/了





◆      ◆







後書き:

 という訳で、第弐拾話でした。お付き合いありがとうございました。

 投稿開始から二年とちょっと、やっと仮面ライダー出せました。
 ライダー出す前に世界観とかオリキャラの立ち位置とか明確にしておこう、と決めていたのは良いんですけど、そのせいで出すタイミングが大幅にずれこんでしまって。
 まあ二十話って切りの良い話数で出せたので、そこは不幸中の幸いでした。

 作中で最初に出す(主人公たちと接触する)ライダーはRXにする、ってのも投稿開始時点で決まってて。
 世代的にはRXよりZOやJの方が近いんですけど、レンタルビデオとかで一番触れる機会が多かったのがRXなんですよね。てつをさんは今でも私のヒーローです。あと霞のジョーも大好きです。
 ちなみに、今回初めて作中で『仮面ライダー』の名前出してます(幕間で一度だけ出ましたけど)。ここで初出にするために色々と言い回しを工夫して。前話までのカイザ&デルタがそのせいで実は結構書き辛かったw

 次回から海鳴に向かって弥次喜多道中開始。あの人とかこの人とかに掠ったり出くわしたり。
 次に登場するライダーももう決まってたり。753……げふんげふん。

 あと、前書きで『ライダーの登場は終盤だよ!』と明言している通り、とりあえず本作はあと十話でお終いです。全三十話予定。
 ただし一話が前後編になったりもするので、あと十回の投稿でお終いって意味でもありませんが。

 それでは次回で。
 投稿がかなり遅れるかと思いますが、よろしければまたお付き合いください。




[7903] 第弐拾壱話
Name: 透水◆44d72913 ID:8005d57f
Date: 2023/12/29 21:02


 『仮面ライダー』。
 実のところ、結城衛司がその名を耳にした――或いは目にしたのは、これが初めての事ではない。

 数年前にベストセラーとなった、一冊の本。出版不況と言われる中で2000万部という驚異的な売り上げを達成したその本は、衛司が通っていた中学校の図書室にも所蔵されていた。
 白井虎太郎著『仮面ライダーという名の仮面』。
 そこで語られるのは、都市伝説の一つとして伝えられる『仮面ライダー』の正体。そして十年ほど前に起こったとある事件と、彼等『仮面ライダー』の関わり。
 識者を自称する者達からは一笑に付された一冊ではあるが、その売り上げが語る通り、人々の話題を攫った事は間違いなく。

 ……ただ、衛司はその本を実際に読んではいない。図書室で見かけて、『ああ、あの本か』と暫く前に話題となった事を思い出しただけだ。
 『仮面ライダー』とは何か、という基本的な知識すら、彼は持ち合わせていない。その姿を実際に目の当たりにしたのも、これが初めて。
 だから今、眼前でネオ生命体ドラスに立ち向かう漆黒の戦士が、『仮面ライダーという名の仮面』にて語られる『仮面ライダー』と同一の存在であるのか、或いは全くの別物なのか、それは判別出来ない。

 それでも。一つだけ、解る事がある。
 もう大丈夫だ、と。
 漆黒の背中から伝わる意思。有無を言わさぬその説得力に、知らず衛司は安堵していた。





◆      ◆





異形の花々/第弐拾壱話





◆      ◆







 非常灯の明かりだけが光源の薄闇を、幾本もの光条が切り裂いていく。
 ネオ生命体ドラスが放つ分子破壊光線『マリキュレイザー』の無差別乱射。対複数の拡散レーザーは地下街の壁を、床を、天井を容赦なく粉砕して、標的へと迫る。

 だが男は動かない、動じない。彼の後ろには傷ついた少年と、それを庇うように抱き締める少女がいる。ここで彼が逃げれば、光線は少年と少女を直撃するだろう。ドラスにしてみれば、どちらに中ろうと構わないのだ。
 怪人の目算を、無論、男も判っていた。彼は悪へと向かう爪と牙。だが同時に、人々を守る盾でもある。だからこそ、仮面ライダーBLACK RXに、ここで退くという選択肢はなかった。

「――っ!」

 RXが腕を広げる。
 瞬間、RXのベルトが強烈な輝きを放った。先に彼が変身した際の白光とはまた違う、炎を思わせる燈色の光。
 その眩さに思わず少女が目を伏せて、そして次の瞬間、凄まじい音が地下街に鳴り響く。電動鋸で鉄塊を切り付けたような金属音と、重く響く爆発音が綯い交ぜになった音。
 熱風が少女の肌を撫で、しかし一瞬で駆け抜けていく。そうして恐る恐る顔を上げた彼女が見たのは、数秒前とは全く異なる、男の背中だった。
 黒と深緑の体表が、いつの間にか黒と橙の色彩へと変化している。軟質樹脂にも似た、筋肉のしなやかさを窺わせる質感の背中が、今は金属の鎧を着込んだかのように硬く見えて……そして、鋼の光沢を放っていた。

〖……!?〗

 先の音の正体は、マリキュレイザーが胸部の装甲に弾かれた音。尋常ならざる装甲強度は、破壊光線の威力を完全に殺してのけた。
 ネオ生命体も困惑を隠しきれない。驚きと戸惑いが、空気を伝わって少女にまで届く。

「俺は炎の王子! R・X! ロボライダー!」

 RXの――ロボライダーが名乗り上げる声は、しかし逆にドラスの困惑を払ったらしい。
 ネオ生命体が僅かに身体を硬直させる。次の攻撃が生む反動を御する為に、総身に力を込めたのだと知れる。

 果たして次瞬、ドラスから放たれたのは、機関銃の如き光線の速射だった。どこに中ろうとも構わなかった先の乱射と違い、標的を絞った集中弾幕。
 無論、それをロボライダーは躱さない。殊更防御もしなかった。ただ右手を下ろし、腿の横へと持っていく。動きと言えばそれくらいで、しかしそれは回避でも防御でもなく、攻撃の為の動きだった。

「――ボルテックシューター!」

 ロボライダーの手に光が収束したかと思うと、次の瞬間、その手の中に一挺の拳銃が握られていた。
 殺到するレーザーの弾幕。胴、肩、そして頭部に次々と直撃しながら、ロボライダーは微塵も揺るがない。鋼鉄すら貫通する破壊光線が、さながら水鉄砲のように弾かれる。
 総身を穿つ弾幕の中、ゆるりとロボライダーが右手を掲げ、手にした銃をドラスへと突き付ける。銃口から奔った光弾は弾幕を遡る様にドラスへと到達、その胸部で激しい爆発を引き起こした。

〖ぐ、う――よくも、やったな……! …………!?〗

 爆発によろめきながらも、ドラスはすぐさま態勢を立て直し、再びロボライダーを睨み据える。
 だが、そこにロボライダーは居なかった。ドラスの正面には倒れ伏す少年と少女が居るばかり。彼等を守る様に立ち塞がっていた男が、いつの間にか姿を消している。

 慌てて敵の姿を探すドラスだったが、びしゃん、とその顔を水が叩いた。
 水道管でも破裂したのだろうか? 否、水道管を傷つけたのなら、もっと噴水のように水が出てくるはずだ。ならばこの水は一体?
 顔面を水で打たれた事。その水の出所に思考が向いてしまった事。それが、戦闘に臨んでいるにも関わらず、ドラスの意識に隙を生んだ。水が一気にドラスの足元に集結して蟠り、そして一つのカタチへ変化していく決定的瞬間を、ドラスは見逃した。

〖っ! おまえ……!〗
「トゥアっ!」

 流動する水が形作るのは四肢持つ人型。次の瞬間、それは確かな実体となった。
 蒼と銀に身を彩る戦士が、左腰から抜き払った長剣でドラスを斬り付ける。激しい火花を散らして、ネオ生命体は大きく仰け反った。

「怒りの王子! RX、バイオライダー!」
<っく……う、――やぁっ!>

 ダメージは深く、立っているだけでもがくがくと奇怪な震えを見せるドラスだったが、それでも攻撃の意思は未だ健在。
 裂帛と共に空気を裂いて、ドラスの尻尾が振り回される。無論、その軌道上にはバイオライダーの身体。破壊光線での攻撃ばかりが目立つドラスの戦闘であるが、こと肉弾戦においても、その戦力は比類ない。

 が――その尻尾は見事に空を切った。標的たるバイオライダーは、コンマ数秒の差でその場を逃れていたのだ。その身体が一瞬で液状化し、振り回される尻尾を掠めるように躱して、ドラスの間合いを脱していたのである。
 蒼く輝くゲル状物質が、地下街の天井を伝って少女の眼前へと滴り落ちる。それがバイオライダーの姿を取り戻し、更にその姿が白光に包まれて、元の黒い戦士――BLACK RXへと立ち戻る。

〖おまえ……おまえ……っ!!〗

 憎々しげに呟くドラスの右肩で、急激に光が収束していく。渾身の力を込めての全力砲撃、その予兆。

「――リボルケイン!」

 その全力に、RXも応じる覚悟を決める。
 ベルトのバックルに手を伸ばす。瞬間、男の手には剣の柄と思しき何かが握られていた。そして柄を基点に、バックルから――RXの身体から、その刀身が引き抜かれる。
 それは眩く輝く光の剣。刃のついていない、剣と言うよりはむしろ棒か杖のようにも思えるが、そもそもそれは“斬る”ための剣ではない。その用途を考えれば、これこそが適正な形状だ。

 RXが光剣を抜くと同時、遂にドラスが収束砲を撃ち放った。ただ垂れ流すだけの砲撃ではない、極限にまで威力を圧縮した、細い光条。
 その光条の軌道上、RXの心臓の直前に、光剣が翳される。まさかそれで、ドラスの破壊光線を受け止めようというのか。有り得ない、あまりにも無謀だ。

 だが――その無謀を実現せしめるからこそ、彼は『仮面ライダー』。
 マリキュレイザーの収束砲が、光子剣リボルケインの刀身を直撃する。その衝撃にRXが僅かに後ずさるが、しかしそれでも、光線はリボルケインによって完全に受け止められていた。
 むしろ刀身に吸収蓄積されているようでもあり、RXの背後にいる少年と少女のところへは、その威力の一片たりと届いていない。

「トァっ!」

 そしてRXがぶんとリボルケインを振り薙げば、刀身に受け止められ蓄積されたマリキュレイザーが、水滴のように飛び散った。礫状に四散するそれにもまだエネルギーは残っていたと見えて、周囲の壁や床に接触すると同時に爆発、衝撃と共に地下街を照らし出す。

〖……!〗

 渾身の一撃を捌かれた。その事実が、ドラスの闘志へ罅を入れる。
 それは必然、ネオ生命体に明確な――致命的な隙を生み出した。

 RXが飛び出す。強靭な脚力が一瞬で敵との間合いを詰め、突き出されたリボルケインがドラスの腹を串刺しに貫いた。
 仮面ライダーBLACK RXが持つ数々の技の中でも、最大の破壊力を持つ必殺攻撃『リボルクラッシュ』――破壊エネルギーの奔流がドラスへと流れ込み、その身体を内側から破壊して、それでもなお余りあるエネルギーがドラスの背から火花となって噴出する。
 致命の急所を穿つ、確実な手応え。数多くの怪人を屠ってきたRXが、その手応えに勝利を確信する。

 だが。

「……!?」

 どろり――と。
 リボルケインを突き立てられた腹から、更に眼窩から、口から、皮膚の隙間から。ドラスのあらゆる部分から、金属の光沢を持った銀色の液体が滲み出てくる。

 そして次瞬、液体に塗れた腕が、リボルケインを握るRXの腕、その手首を掴んだ。ダメージを微塵も窺わせない万力のような握力に、みしりとRXの手首から嫌な音が鳴る。
 しかしRXを真に驚愕させたのは、ドラスの握力ではなかった。ドラスの身体から滲み出し、その体表で装甲の如く固着した銀色の液体。それが作り出す、メカニカルなシルエット。

「『シャドームーン』……!?」

 この時、彼はようやく悟った。夕張で感じ取った、懐かしい気配。それに導かれて彼はここへ、札幌へとやってきた。
 しかし札幌へと辿り着いた時、その気配は既になく――ゴルゴムと思しき怪人の気配が、それに替わっていた。
 不自然には思っていた。だが事態は急を要し、少年少女がドラスに襲われている様を見れば放っておく事もできず、ひとまずその不自然を棚上げにしていたのだ。

 棚上げにしたはずのそれが、今、目の前に。
 かつて戦った相手。兄弟の如く育った親友のなれの果て。残酷な結末で別れた宿敵。――世紀王シャドームーンの意匠が、ドラスに備わっている。

〖…………〗
「ぐっ……!」

 ドラスの手が、掴んだRXの手首ごとリボルケインを引き抜いていく。RXも全力で突き入れているものの、先程までとは桁違いの膂力が、それを許さない。

〖――こ うた ろ〗
「…………っ!?」

 ドラスの声ではない。ドラスの声帯機関を使って放たれた声ではあるが、それはドラスの甲高い、童子めいた声とは全く異なる、低い男の声。
 RXの思考が、混乱によって遂に飽和する。リボルケインを突き込む力が一瞬抜けて、どんとドラスに突き飛ばされるように、RXはその場を弾かれた。

「シャドームーン――いや、信彦……信彦なのか!? 俺だ、光太ろ――」
〖ちがう〗

 弾かれてもすぐさま顔を上げ、ドラスに――ドラスの“内側”に居るモノに――呼びかけるが、しかしそれはドラスによって断ち切られた。

〖ちがう。ちがう、ちがう……ちがう! おまえなんかしらない、おにいちゃんはおまえなんかしらない……! おにいちゃんは、ぼくだけしかしらないんだ……!〗
「何を……!?」

 元通りの甲高い声で、ドラスはRXの言葉を否定する。
 ただ、その意味はどうにも理解の難しいものだった。何を否定しているのか、RXの側からは読み取れない。彼に解るのは、ドラスにとって譲れないところに己は踏み込んでしまったのだと、それだけだ。
 当然、更なる追求をRXは口にしようとして、しかし瞬間、RXを制するようにドラスは掌を翳す。そこから放たれた緑色の怪光線が、RXの足までも止めた。

「……! これは、シャドームーンの……!」

 ドラスは敵を遠ざけようとしたのだろうが、しかしその怪光線は、RXにより一層の確信を抱かせた。
 あれはかつての戦いの中で、シャドームーンが使っていた技だ。仮面ライダーBLACKを、そしてRXを幾度と無く苦戦させた破壊光線。
 怪光線の一端が天井へと触れ、爆発を引き起こす。先のマリキュレイザーの乱射で崩れかかっていたのだろう、爆発はそう規模の大きいものではなかったが、がらがらと天井が崩れ落ちる。瓦礫と粉塵が視界を塞ぎ、ドラスの姿を見失わせた。

「くっ……信彦――!」

 呼びかけに応える声はない。
 粉塵と瓦礫の向こうで、気配が消失したのが判る。果たして十数秒後、粉塵が収まり視界が元の状態を取り戻した時には、既にドラスの姿は影も形もなかった。

「――衛司くん、衛司くんっ! しっかりして!」
「!」

 まだ遠くには行っていないはず、逃げたドラスを追うべきか。そう考えたRXの耳に、その時、悲痛な声が届いた。
 振り向けば、先にRXが庇った少年と少女の姿。少年は瀕死の重傷を負っていて、大量の出血のためか、既に意識を失っている。少女の呼びかけに、全く応える様子がない。

 どんな医学の素人も、今の少年を見れば、それが致命傷……或いはそれと同義の重傷と解るだろう。脛の半ばから千切れ落ちた左脚、風穴の穿たれた左肩。床に広がる血溜まりは、致死量の出血である事を如実に物語っている。
 これを放置してドラスを追うほど、RXは戦いに耽溺してはいなかった。

「君、しっかりするんだ! 君!」
「…………」

 RXの呼びかけにも、当然、少年は応えない。
 一刻も早く、病院へ連れていかねば。だが直感が『それでは遅い』と囁く。病院に辿り着く頃には、彼は完全に絶命している事だろう。
 どうする。どうすればいい。どうすれば――

「衛司っ……くん……!」

 少女がぼろぼろと涙を零す。彼女はもう解っているのだ、少年が助からないと。命尽きようとする少年に、自分が出来る事は何も無いのだと。
 しかしその涙が、RXに一つの決断を促した。
 RXの姿が蒼く輝き、次瞬、バイオライダーへと変身を遂げる。更にバイオライダーは身体をゲル状へと変化させたかと思うと、少年の身体へ滲み込むように入り込んでいった。

「……!? あ、貴方、何を……!?」

 予想外の行動に、少女は泣く事も忘れて声を上げる。
 ただし、バイオライダーはそれに応えない。一刻の猶予もないのだ、お喋りに時間を使ってはいられない。
 程無く、少年の身体からバイオライダーの変異したゲル状物質が飛び出してくる。少年の傍らで人型を取り戻し、そしてRXの姿へと立ち戻った。

「! 衛司、くん……!?」

 少女が一瞬だけ困惑に表情を強張らせ、しかし徐々に、それが喜びによって解けていく。
 つい先程までは息もしていなかった彼が、今は弱々しいながらも、確かに呼吸を行っている。左脚や左肩からの出血も、完全に止まっていた。

 バイオライダーが持つ特殊能力の一つ、細胞融合。ゲル化させた自身の身体を細胞レベルにまで分解し、他者の細胞と一体化する能力だ。
 通常の人間に常人を超えた身体能力を持たせる事も出来る能力だが、しかしそれは『他人の身体を乗っ取る』事に他ならず、故にRXはこれを“禁じ手”としている。

 だが今は少年の命を救うため、やむなくその封印を解いた。少年の身体と一時的に融合し、傷口を内側から強引に“閉じて”、“塞いだ”のである。
 無論、それはあくまで応急処置。病院で適切な治療をしなければ、怪我が癒える事はない。
 変身を解除し、人間態へと戻ったRXが、少年を抱き上げて立ち上がる。

「急ぐんだ! 一刻も早く、彼を病院へ!」
「あ……貴方は、一体……!?」

 呆然と少女が問いかける。
 今の状況を考えれば、それに答える時間も惜しい。だが彼は少女からの問いを無視はしなかった。
 見知らぬ相手から、理由も判らぬままに守られる――そんな都合の良い善意は、むしろ相手を戸惑わせるだけ。
 彼はそれを良く知っていて、だからこそ、せめて問われた事には誠実であろうと決めていた。

「俺の名前は南光太郎。またの名を、仮面ライダーBLACK RX――さあ、話は後だ!」





◆      ◆







 南光太郎が少年を――結城衛司という少年の名を、その途中で知った――運び込んだのは、札幌市街の外れにある、個人経営の小さな病院だった。
 瀕死の重傷を負った衛司であるが、バイオライダーの応急処置が功を奏したか、未だ意識不明なものの一命を取り留めている。勿論、少年の仲間である少女達もそれぞれ治療を受けて、今は衛司の病室に集まっていた。
 既に手術から丸一日。そろそろ、少年が目を覚ます頃合いである。

「これと……そうだな、これにしておくか」

 そんな中、光太郎は一人病室を出て、ロビーの自動販売機で人数分の飲み物を買いこんでいた。
 好き嫌いもあるだろうから、四本それぞれ別の飲み物を。がこんと音を立てて取り出し口に落ちてきたペットボトルを取り上げて、衛司の病室へと足を向ける。

 衛司の容態が落ち着くまでは事情を訊く事を先延ばしにしてきたが、もうそろそろ構わないだろう。何より光太郎自身、もう我慢出来そうにない。
 シャドームーンに酷似した怪人の姿。その口から洩れた親友の声。それらは一体、何を意味するのか。彼等は何かしらの事情を知っているはずだ。

「――おっ。南ちゃん、こっちに居たの」

 と。
 不意に背後から親しげに呼びかけられて、光太郎は振り向いた。
 そこに居たのは、白衣を着た一人の男。白衣を着ているからには医者であるのは間違いない。だが妙に筋肉質な身体と、蓄えた髭が、白衣の持つ『医者』というイメージを塗り潰している。むしろ格闘家のそれを思わせる雰囲気だ。

「ああ、伊達くん。済まない、無理を言って」
「ん? あぁ、気にしない気にしない。これも俺の“お仕事”だからさ」

 男の名は伊達明。南光太郎の友人であり、そして彼こそが、結城衛司の手術を受け持った医師である。

「伊達くんは休暇中なんだろう? それを呼び付けて仕事してもらったんだ、一言くらい謝るのが当然さ」
「真面目っつーか、いい奴だねぇ、南ちゃんは。そーゆートコ、嫌いじゃないけど。……まあ、おでんでも食いに行こーかって約束が先延ばしになっちゃったのは、残念か」

 光太郎と伊達が知り合ったのは今から一年ほど前、中東のとある国でのこと。ちょっとした事件で顔を合わせ、同じ日本人であること、また二人にある“共通の話題”が、彼等をすぐに意気投合させた。
 しばらくして光太郎はその国を離れ、日本に戻ってきたのだが、伊達はまだそこに留まっていた。その国は全体的な医療水準が低く、医師のいない村や町が少なからずあって、伊達に限らず医師は引く手数多の状態であったのだ。

 そうして先日、伊達は久しぶりに長期の休暇を取って帰国。休暇とは言っても実際は医療品などの援助を取り付けるための一時帰国だったのだが、それでも多少は時間に余裕もあり、明日にでもメシ食いにいこうと、光太郎と約束していた。
 光太郎が北海道にいると聞き、伊達もまた北海道は札幌へとやってきたのだが、ちょうど札幌へと着いたところで光太郎から連絡が入り、急遽近くの病院――伊達の知人が経営している個人病院――を手配し、自身も駆けつけて、今に至る。

「ま、仕事っつっても、俺のやることは殆どなかったのよ。南ちゃんが上手いこと傷口塞いどいてくれたから、後は縫い合わせるだけだったしね」
「そりゃ良かった。……本当は、あまり気の進まないことだったんだけどな」
「細胞融合だっけ? 俺の立場から言わせてもらうとさ、そーゆーの、あまり気にする必要はないと思うんだけどなぁ。南ちゃんの気持ちも解るけどさ、怪我も病気も、治ってなんぼでしょ。『こうすれば早く治る』『これを使えばキレイに治る』ってのが判ってんならさ、それを使わない理由はないと思うんだよね」
「……伊達くんらしいな」

 確かに医者という視点から見れば、光太郎の持つ能力は有用なものだろう。勿論それは『副作用や障害が残らなければ』……或いは『人道倫理に反する手段でなければ』という前提あっての事だろうが、伊達のぶれなさに、思わず光太郎も苦笑を漏らす。

 ……ちなみに。実際のところ、光太郎と伊達の間には一回り以上の年齢差がある。光太郎の方が伊達よりもかなり年上だ。
 ただ外見だけを見れば、年齢差はむしろ逆である。光太郎は二十代半ばというところだが、伊達は明らかに三十路に見える。
 光太郎の身体はとある事情によって老化がほぼ停止し、十数年前から、外見は殆ど変化していない。それは伊達も知っていて、知った上で、彼等は対等の友人に……『南ちゃん』『伊達くん』と呼び合う仲になっていた。

「あのお兄ちゃん、南ちゃんの知り合い? 酷い怪我してたけど。フツーなら半年は入院してもらうトコよ?」
「知り合い、って言って良いのかな……怪人に襲われてたから、つい助けたんだけど」

 とは言え。いま振り返ってみれば、『襲われてた』という表現は果たして適切かどうか。
 見た目は確かにただの少年。だが傷の応急処置のため、彼の体内に這入った時、光太郎は奇妙な違和感を覚えたのだ。
 何が違うと訊かれれば、はっきりとは言えない――細胞融合自体、殆ど使った事がない能力だ。他の人間と比べて違うという訳でもない。
 ただ、何かが違うという事だけは間違いなく。その目に見えぬ違和感を前提にして考えれば、少年と怪人との関係もどこか怪しく思えてくる。

「細胞融合で傷自体は殆ど塞がってたから、一週間もすれば退院出来るんじゃねえかな」
「そうか。良かったよ」
「――けどさ」

 そこで伊達は不意に声のトーンを落とし、難しい顔で頭を掻いた。

「脚だけは、ちょっと俺じゃどうしようもないわ。せめて千切れた脚があればな――何とか繋ぐことも出来たんだけど」

 医師としての伊達の腕前は、光太郎も知っている。碌に医薬品もない戦地で数々の患者を救ってきたのだ、半端な腕で出来る事ではない。
 だが如何に名医でも、失った四肢を作り出すというのはその能力の範疇外。
 脚を失う、腕を失う……戦地においては珍しくもない後遺症だが、それ故に、伊達はそうなる事の辛さを良く知っていた。

「……義足なら一つ、心当たりがあるんだ。連絡を取ってみるよ」
「そ。だったら、そっちは南ちゃんに任せるかね。――そんじゃ! 俺はちょっと、院長と話があるから」

 ぽんと光太郎の肩を叩いて、伊達は離れていく。 
 それを見送ろうとして、ふと光太郎は、伊達の背に話しかけていた。

「そういえば、伊達くん。――どれくらい貯まった?」

 光太郎の言葉に、伊達が足を止める。肩越しに振り向いた彼の顔には不敵な笑み。そうして彼はぴっ、と指を一本立てて、

「今んところ、やっと“こんだけ”かな。出来るなら、もー少し稼ぎたいところなんだけど」
「そうかい。頑張ってくれよ」
「おう、あんがと」

 今度こそ、伊達は離れていく。そして光太郎もまた、病室へと向けて歩き出した。
 以前に聞いた話では、伊達はとある目的のために金を貯めているらしい。少し前は“生きるために”稼いでいたが、その心配がなくなった今は、純粋に“夢のために”稼ぐことが出来るようになったのだとか。

 その目的の詳しいところは聞いていない――伊達自身、それを吹聴するような性格ではない――が、どうも何やら、学校を作ろうとしているらしい。
 命拾うための金は稼いだから、次は夢のために金を稼ぐ。酒の席で伊達はそう語っていて、それを光太郎はまだ覚えていた。

「さて、と」

 そうして今度こそ、光太郎は衛司の病室へと向かう。階段を上がって二階、ナースステーションのすぐ目の前にある病室。

「いいかな? ――入るよ」

 個室ではなく、二人用の病室。だが今は衛司しか入院しておらず、実質彼の個室と変わりない。
 扉は開け放されていて、軽くノックをしながら、光太郎は病室を覗き込む。
 病室の中にはベッドに寝かされた衛司と、ベッドの周囲に椅子を用意して座る三人の少年少女。三人とも不安げな顔で衛司を見詰めていたが、ノックの音に気付いて藍髪の少女が立ち上がる。
 それを手で制して、光太郎は病室に入った。手にしたペットボトルを少女に渡して、自身もベッドに歩み寄る。まだ麻酔が効いているらしく、衛司が目覚める気配はない。

「あ、あの!」
「――? どうかしたかい?」
「その、衛司くんは、大丈夫なんですか……!?」

 藍髪の少女の問いに、光太郎は微笑を浮かべて頷いた。それだけで彼女達には充分伝わったらしく、不安げな顔が一気に安堵へ入れ替わる。
 まあ、それも左脚の事を除けばの話ではあるが。命には別条無いというだけの事で、決して先行き明るい話ではない。勿論、それをわざわざ伝えて、彼女達の安堵を台無しにするつもりもないが。

「ところで、君達は一体何者なんだい? どうしてあの怪人に襲われていたんだ?」

 今度は光太郎が問う番だった。窮地を助けたのだから、光太郎にはそれを問う権利がある。
 だがその問いに、少女達は揃って目を伏せるだけだった。それが事情を言えないが故の反応なのか、それとも言うべき事情を自分達でさえ把握していないためなのか、光太郎の側からはいまいち判断がつかない。

「うーん……じゃ、名前くらいは教えてくれるかな。俺は南光太郎。――って、これは前に言ったか」

 フランクな物言いと、屈託の無い笑顔は、少なくとも彼女達の緊張を和らげる程度には効き目があったらしい。三人が笑みを見せて、それぞれに己の名を名乗る。

「ギンガ・ナカジマです」
「エリオ・モンディアルです!」
「きゃ、キャロ・ル・ルシエです」
「……うん? 三人とも、外国の人……かな?」

 顔立ちはさておき、髪の色から、あまり日本人のようにも思えなかったが――藍髪はともかく、赤髪や桃髪というのはやや奇矯に思えるし、染髪したようにも見えない――名前を聞いた事で、やはり日本人では無いと確信する。
 ナカジマという姓は日本的だが、姓を名の後に言うところからすれば、これも日系というだけで日本人ではないのだろう。
 ただ、光太郎の言葉に、再び少女達は押し黙ってしまった。黙ると言うよりは、何をどう説明すれば良いのか解らない、という感じか。三人が三人とも、上手い説明を探してぐるぐる考え込んでいる。

「……その人達は、この世界の人間じゃないんですよ。異世界『ミッドチルダ』の人間で――治安維持組織『時空管理局』に所属してるんです」

 守秘義務ってのがあるんですよね、と。
 突如、横合いからそんな言葉が割り込んできて――光太郎達が驚くと同時、よっこいしょ、と親父臭い声がそれに続く。

「衛司くん!」
「あ痛たたた……キツいなあ、これ」

 ま、生きてるだけ儲け物か。
 そう言って、ベッドの上で上体を起こした少年は、こきこきと首を鳴らしてみせた。

「君は……」
「……ども。おかげで、助かりました」
「いや、いいんだ――君が無事で良かった」

 あの時は意識がないものと思っていたが、少年は光太郎に命を救われたと理解しているらしく、光太郎と目を合わせるとぺこりと一礼する。
 一方で、無事で良かったと言った光太郎だったが、その視線はどうしても彼の足元へと向かってしまった。シーツの上からでもはっきりと判る。少年の脚は、明らかに右と左で長さが違っている。
 このざまで――果たして無事と言って良いものか。

「衛司くん、その――時空管理局のことは……」
「ごめんなさい、ギンガさん。……でも、隠しておく訳にもいかないし。僕達だけじゃ、正直、難しい」

 そう言う衛司の顔には、拭いきれない苦渋が浮かんでいた。
 きっと彼は、自分達だけで何とかしようと――何とか出来ると思っていたのだろう。彼の言った『異世界』という言葉が本当だとすれば、恐らくその世界に帰るつもりでいたのだ。

 だが、それは難しいと知ってしまった。彼等の前には巨大な障害が、強大な敵が立ち塞がっている。今の自分ではそれに太刀打ち出来ないと、彼は身を持って……脚一本を代償に、理解させられた。
 だからこそ、彼は信条を曲げようとしている。つまらない意地を捨てようとしていて、しかしギンガ達にとってそれはあまり歓迎出来ない事態なのだと、そう知れた。

「僕は管理局の人間じゃありませんから。いざって時は、僕が勝手にべらべら喋ったとでも報告してください」

 ギンガも解っているのだろう。渋々という感じではあったが、衛司の言葉に頷いた。
 ……とは言え、いざという時が来たとしても、きっと彼女は衛司が勝手にやったなどと報告はしないだろう。会って間もない光太郎でも、それは察する事が出来た。

「すいません、お待たせしました。えっと――」
「ああ、俺は南光太郎。君は……結城衛司くんで、良かったかな」
「はい」
「……君は、日本人なのかい? いや、地球人と言うべきなのかな……」
「日本人です。ちょっと前に、ミッドチルダへ連れていかれて……半分事故みたいにこっち戻ってきちゃったんですけど、向こうにまだやり残したことあるんで――戻らないと、いけないんです」
「……?」

 無論、衛司の話を全て信じたという訳ではない。だがここで光太郎が内心首を傾げたのは、少年の態度が妙に冷めていたせいだった。
 戻らないといけない。そう口にする割には、戻りたいという熱意も、或いは使命感も、そういうものがまるで感じられなかった。『出勤するためには電車に乗らなければいけない』、その程度の認識に思える。
 それが、妙な違和感だった。 

「……しかし、異世界か。ミッドチルダ……初めて聞く名前だな」

 異世界――という事そのものに関して、光太郎は疑っていなかった。それは彼にとって、既に知っていることだったからだ。

 もう二十年以上も昔、地球を襲った未曾有の危機……異次元世界『怪魔界』からの侵略。
 彼はそれと戦った。仲間達と共に、“帝国”からの侵略に敢然と立ち向かった。結果として戦いは彼等の勝利に終わったものの、しかしそれは彼にとって極めて苦い勝利でもあった。
 恩人を失い、そして敵にも少なからぬ犠牲を――滅亡に追い込んだと言っても過言ではないほどの犠牲を強いてしまった。

 無論、彼が直接的に敵を滅ぼした訳ではない。地球を守るため、敵の首魁を討ち取ったのだが、その際に生じた爆発によって地球と怪魔界の繋がりが断たれ、地球の側からはどうあっても接触できなくなってしまったのだ。
 或いはあの爆発で、怪魔界そのものが崩壊してしまったのかもしれない。そうでなかったとしても、緩やかに滅亡へ向かっていた怪魔界は民を地球へ移住させるしか術がなく、それが不可能となれば、最早滅亡以外に道はなかっただろう。
 光太郎が滅ぼしたと言われれば、否定は出来ない。 

「……何か、俺に手伝える事はあるかな」

 だから、という訳ではない。これは決して贖罪ではない。
 けれど――今、異世界からの来訪者に手を貸さんとする南光太郎が、怪魔界の事を考えていなかったと言えば、嘘になる。

「じゃあ、南さん。お願いがあります――ギンガさん達を、海鳴まで連れていってもらえませんか」
「衛司くん!?」

 光太郎からの申し出に、少年は躊躇うことなく頼みごとを口にした。
 それに応えたのは光太郎ではなく、傍らのギンガだった。声こそ上げないものの、エリオとキャロも、驚いたように衛司を見詰めている。

「海鳴? ……ああ、確か神奈川の方の――」
「あれ、神奈川でしたっけ? まあ、知ってるんなら丁度いいです。そこに、エリオくんとキャロちゃんの知り合いがいるらしくて。その人を頼ろうかなって思ってたんですが」

 衛司は淡々と話を進めていく。……だが無論、それは衛司自身をここに置いていくという前提あってこそ。だからこそ、道中の案内を光太郎に頼んでいる。

「え、衛司くん! なに言ってるんですか! 衛司くん一人ここに置いてなんて、そんな――!」
「そ、そうですよ! 衛司さんの怪我が治ってからでもいいじゃないですか!」
「衛司さんを見捨てていくなんで、できません……!」

 当然、ギンガ達は黙っていなかった。口を揃えて反対し、衛司に翻意を促す。
 光太郎としても、大筋においてはギンガ達と同じ気持ちだった。自分は良いから先に行け、という類の自己犠牲は、傍から見ているとあまり気分の良いものではない。自己陶酔が混じっていないだけ、まだましとも言えたが。

「いやほら、僕はこの脚ですし。傷塞がっても脚生えてきませんし。皆の邪魔になるから……あはは、脚がないのに足引っ張るって、なんか洒落が利いてますよね」

 普段言わないようなギャグも、今の状況ではただ滑るばかり。それでギンガ達が引き下がる訳もない。
 不満ありますとばかりにじっと見つめられれば、衛司は一つため息をついて、視線を真剣なものへと切り替えた。

「……今は、ミッドに戻る事が先決じゃないんですか」
「それは――そう、ですけど」
「戻れるかどうかも判らないんですから、手段っていうか方法っていうか、とにかく“戻り方”を探さないと。僕が治るのを待って、時間を無駄にしている余裕はないでしょう」

 衛司の言うことは、確かに正論ではある。ただしギンガ達がそれを受け入れられるかは、また別の話――それは、感情の問題だ。

「僕だって、別に諦めた訳じゃありません。……傷が治ったら、追いかけます。ここは日本ですし、何とでもなりますよ」

 だから、先に行ってください。
 衛司はそう言って、そしてそれ以上、何も言おうとはしなかった。言い訳じみた事は、詭弁めいた事は、もう何一つ。
 論理には納得している。それは覆す余地のない、正しい考え方なのだから。だが感情的にはやはり納得出来ないのだろう、ギンガ達は三人が三人とも、口を真一文字に結んで、黙り込んでいる。
 それでも。

「……解りました。先に、行ってますね」

 やがてギンガが、静かにそう言い放って。

「けれど、先に行くだけです。先に行って、ミッドチルダへ戻る方法を探しておきますから。……皆でいっしょに、ミッドチルダに戻りましょう」

 衛司は黙って頷いた。どこか満足げに、けれどもどこか寂しそうに。
 少年と少女の関係。それを光太郎は知らない。ただし、二人が単なる友人や、知り合いで無い事だけは……恋愛関係ですらない、もっと複雑な関係にある事だけは、今のやり取りから読み取れた。



 或いはそれは。
 戦う事を運命付けられた、南光太郎と秋月信彦の関係に似ていたのかもしれない。



 そうして最後に、ギンガは笑って――ただしそれは、何故か泣きそうな顔にも見えた――こう、衛司に言った。

「海鳴で、待ってますから」 





◆      ◆







 そこは札幌の街から遠く離れた、それでも地域としては札幌市に属する片田舎の町だった。
 北海道の各地に点在する村はその大半が過疎化と住民の高齢化という問題に直面しているが、この町もまた同様の問題を抱えていた。つい先日も小学校が一つ閉校となり、若年層の流出はいよいよ深刻になろうとしていた。
 とは言え他の地域に比べれば、その町はまだ札幌市の一部という事で、問題の程度としてはまだ軽い方だと言えた。……むしろ喫緊の問題は、住民数の減少に伴うかの様に増え始めた、ごみの不法投棄である。

 車や家電と言った、処理に金や手間がかかる物品が町の三方を囲む山々に無断で棄てられていくのだ。環境や生態系への悪影響は言うまでもなく、町の住民は持ち回りで警備を行っていたが、それを嘲笑うかのように不法投棄は増え続けていた。
 ただ今回の“事件”において、不法投棄それ自体はさして重要という訳ではなく。
 住民の少なさが、周囲の山に人目の届かぬ真空地帯を生み……不法投棄されたごみが、その真空地帯で“彼”の餌となったと、それだけの事だった。

〖………………〗

 ネオ生命体ドラスがその山へと流れ着いたのは、極めて幸運な偶然だった。
 季節は冬の終わりで、山の大半はまだ雪に覆われている。鹿や熊といった野生動物も殆どおらず、彼は人目につかないその場所で、傷を癒やすつもりでいた。
 幸い、彼の身体を構築するために必要な金属類は、すぐ近くにあった廃棄家電の山で調達出来る。構築のために必要なエネルギーは、彼の身体に埋め込まれた秘石……キングストーンから供給されるため、完全なコンディションに戻るにはただ時間さえあれば良い。

〖………………〗

 だが、ドラスの中で何かが声を上げる。
 既存の生物全てを凌駕するモノとして作り出された、ネオ生命体の矜持。だが先日、彼は自分より劣るはずの“旧世代”に後れを取った。
 ミッドチルダで敗北を喫した時、彼は崩壊寸前で、全盛の半分以下の力しか出せなかった。しかし今回は違う、ゴルゴムによって改修され、キングストーンを移植されて、かつての全盛期を更に上回る性能を持っていた。
 にも関わらず――彼は、敗北したのだ。
 撃たれ、斬られ、貫かれて、命からがら逃げ出した。

〖………………〗

 仮面ライダー。確か、そう名乗っていたか。
 その名前に、何故か、懐かしさを覚える。ドラスの記憶ではなく、ドラスの中にいる“誰か”が、懐かしさを覚えている。
 ただ、懐かしさよりも先に立つのは、敗北への悔しさと怒り。
 このままでは済まさない。このままでは終わらない。ネオ生命体の矜持にかけて、あの旧世代だけは生かしておかない。
 ならば。

〖………………〗

 ずる、とドラスの身体を食い破るようにして、何かが這い出てくる。
 それは蜘蛛と蝙蝠。一匹や二匹ではない、次々と這い出てくるそれらは、数にして三十を超える。
 実在の蜘蛛や蝙蝠と大差ない大きさだったそれら蜘蛛と蝙蝠は、しかし見る間に、めきめきと嫌な音を立てて巨大化を始めた。

 やがて完成したのは、女性的な意匠を含んだ蜘蛛の怪人と、男性的な意匠を含んだ蝙蝠の怪人。その数合わせて三十七体――その三十七体が、一糸乱れぬ統率でドラスの膝下に跪いた。
 数秒ほどそうしていたかと思うと、怪人達は踵を返し、めいめいにその場を立ち去っていく。
 傷を癒やす間、そして更なる進化を遂げる間、ドラスはここを動けない。故に蜘蛛と蝙蝠はドラスの手足となり、敵の動向を見張り、そしてドラスが進化する為の供物を調達するのだ。

 程無く蜘蛛と蝙蝠はドラスの視界から姿を消し、周囲には再び、冬山の静寂が戻ってくる。日も西の空に沈んで、夜闇が徐々にその場を覆い始めていた。

〖………………〗

 後はただ時が過ぎるのを待つのみ。一度思考を切り、自動修復に身を委ねようとしたドラスだったが。

〖…………、……っ!〗

 その時、彼は弾かれた様に顔を上げた。ドラスの動作は全体的に緩慢なものだが、この時ばかりはその例外であった。
 いつの間にか、彼のすぐ目の前に、一人の男が佇んでいる。二十代半ばの、若い男。いつぞや海岸で目にした男と同一人物に思える……あの時よりも更にはっきりと、明瞭な姿を形作っている。
 男が近付く音の一切を、ドラスが感知出来なかった。雪を踏みしめる音も、この深閑とした山奥では随分大きく聞こえるはずなのに。
 しかしその不可解さを訝る思考を、或いは男の実在を疑う思考を、ドラスは持っていなかった。彼にしてみれば、男がここに居る事――自分の前に居る事。それだけで良かったのだから。

〖おにいちゃん〗
『………………』

 ドラスの呼びかけに、男はにっこりと微笑んだ。童子へと向ける柔らかな笑み……それ故に、怪人へ向けるものとしてはあまりにもそぐわない表情。
 ただ一瞬の後、男の姿はふっと掻き消えた。まるで靄か霞が人の形を為していたような、それが崩れたような。海岸で目にした時と変わらぬ、酷くあっさりとした消失だった。
 突然の消失に、ドラスはうろたえない。彼は解っていたからだ。男は決して、自分から離れる事はないと。自身の腹に埋め込まれた秘石、それがある限り、男はずっと自分と共に在るのだと。

 ……ふと、ドラスは思い出した。あの時、札幌市の地下街で喫した敗北、その寸前。
『信彦』――仮面ライダーは、そう言っていたのだったか。
 自分の中に居る男の名前。ドラスはそれを、初めて知った。

〖………………〗

 意識が暗転していく。ドラスの身体が、傷を癒やすべく休眠状態へ入ろうとしている。
 薄れる思考の中でドラスが最後に抱いていたのは、怒りや悔しさに似た、或いはそれらが綯い交ぜになった感情……ドラス自身はそうと認識していない事だが、つまりは“嫉妬”であった。
 仮面ライダーは、ドラスよりも『信彦』の事を知っている。それが酷く羨ましくて、酷く妬ましい。
 目が覚めたら、倒しに行こう。殺してしまおう、消してしまおう。

 おにいちゃんのことをしっているのは――ぼくだけでいい。



 おやすみなさい。





◆      ◆







 北海道最大級の空港、新千歳空港から飛行機に乗って東京へ。そこから新幹線と電車を乗り継いで、海鳴へと向かう――それが当初、衛司が立てていたプランであり、ギンガ達の案内を引き受けた光太郎もそれに倣った。
 エリオが言うには、日本……と言うより地球の技術レベルは、ミッドチルダの片田舎と同程度らしい。ただしそれはミッドと海鳴市を比較しての事であり、札幌市街や新千歳空港を見た彼等はまた違った感想を抱いたようだ。
 きょろきょろと空港内を見回すエリオとキャロは、まあ見た目的に可愛らしくはあったのだが、明らかに余所者と言った風情で周囲から浮いていた。
 旅行者のようにも見えるが、上京してきたばかりの田舎者にも見える。魔導文明の総本山からやってきた彼等がそう見えてしまうのは、どこか皮肉な感じもあった。

「お待たせ。手続きを済ませてきたよ――搭乗開始まではあと一時間くらいあるから、何か食べて待ってようか。……うん? ギンガくん?」

 搭乗手続きを済ませ、光太郎はエントランスの窓際で待っていた三人と合流する。
 エリオとキャロは搭乗券を受け取るが、ギンガはぼうっと窓から滑走路を眺めたまま、光太郎の言葉も聞こえていない様子だった。
 苦笑しながらギンガへと近付き、ぽんと肩を叩く。そこでギンガははっと我に返ったようで、「は、はいっ!?」と余裕のないリアクションを返してくる。

「はい、搭乗券。飛行機に乗る時はこれが必要だから、失くさないでくれ」
「あ――はい。ありがとうございます」
「……衛司くんの事を、考えていたのかい?」

 図星を突かれたのか、ギンガは僅かに身じろぎした後、ややあってから静かに頷いた。

「そうか。――君は、本当に衛司くんの事を大切に思っているんだな」

 その方向性は、一般的にイメージされるそれとは随分かけ離れているようではあるが。
 ただ言い方がまずかったのかもしれない、光太郎の言葉に、ギンガは顔を赤らめた。そういう関係じゃありません、という否定がやけに小さい声だったあたり、案外間違ってはいなかったのかもしれないが。
 ……しかし。

「彼の方は――どう思っているんだろうな」
「? 光太郎さん、何か言いました?」

 ぽつりと洩れた独り言を聞き取ったらしく、怪訝そうな顔をしたキャロがそう訊いてくる。
 何でもないよ、と応える光太郎だったが――それは半分本当で、半分が嘘だった。光太郎の意識はつい数時間前、結城衛司の病室で交わした会話を回想し始めていた。







 海鳴市に向かうため、衛司はインターネットで飛行機と新幹線のチケットを取っていたのだが、残念ながらそれは使えなくなった。
 札幌の街でドラスと戦ったあの日。チケットの日付はその翌日で、しかし当の衛司が意識不明の状態にあったため、予約は流れてしまったのである。
 そんな訳で光太郎は改めてチケットを予約し直し、出立は衛司が目を覚ました次の日となった。動くのなら早い方が良い、と衛司が言った事もあるし、主が居ない家に居座るのはいささか心苦しい、というギンガ達の心情もあった。

「――あれ、南さん?」
「やあ、衛司くん。怪我の具合はどうだい?」

 そうして出発当日、光太郎は一人、衛司の病室を訪れていた。
 ギンガ達には『ちょっと必要なものがあるので買ってくる』と伝えている。嘘を吐くのは本意ではなかったが、衛司のところに行くと言えば、彼女達も一緒に行くと言い出しかねない。
 出来る事なら、これからの話は自分と衛司、二人だけで話したかった。ごく個人的で、同席を断るのは気が引ける、そんな話だから。

「おかげさまで。明日にはベッドから降りられそうです」
「そうか。何よりだな」
「……それで、何かあったんですか?」

 ギンガ達を伴わず、光太郎一人で病室に来た意図を、衛司は測りかねている様子だった。つい数日前に初めて会った相手だ、見舞いに来る事はまあ解らないでもないが、ギンガ達を伴わず一人で来るとなれば、話は違う。
 光太郎の方も、衛司の困惑に気付いていた。自分と彼との間には、そこまで深い関係はない――今はまだ、と言えるかどうかはさておき。
 だから光太郎は、極めて率直に、単刀直入に話を切り出した。

「衛司くん。君は……人間じゃないのか・・・・・・・・?」

 光太郎の問いに、少年は目を瞬かせた。
 その反応に、光太郎は確信を抱く。衛司の見せた反応は『訳のわからない事を言い出した』相手へ向けるものではなく、『どうしてそれに気付いたのか』という驚きの色が濃いものだった。

 光太郎がそれに気付いたのは、地下街で衛司の身体に“入った”時だ。
 バイオライダーの細胞融合能力を使い、衛司の傷を塞いだ時、彼は言いようのない違和感を抱いた。細胞融合を行った経験は数える程しかないが、その僅かな経験と比して、何かが明らかに違っていたのだ。

「はい。えーと……『オルフェノク』って言って、判りますか?」

 衛司はあっさりと、己が人外である事を認めた。元より隠すつもりもなかった、ただ訊かれないから言わなかった。彼にとってはその程度の事だったらしい。

「オルフェノク……! 君が……!?」

 オルフェノク――その名を、その存在を、光太郎は知っていた。
 より厳密に言うのなら、それを知っているのは南光太郎ではなく、仮面ライダーBLACK RXとしての彼だ。

 世界を旅する最中、数度、彼はオルフェノクと戦った経験があった。その詳細までは知らないものの、それは“人を襲う怪人”の一種であると、彼は認識していた。事実、そうであるからこそ、仮面ライダーはオルフェノクと戦ったのだから。
『先輩』の話では、今から十年ほど前に、日本を中心としてオルフェノクの大量発生があったらしい。光太郎が海外……確かアメリカの地方都市だったか、そこでオルフェノクと戦ったのも、概ねその辺りの時期だ。

 幸い、『後輩』の活躍によって――これも伝聞に過ぎないが――オルフェノクの騒動は鎮静化し、ここ数年はオルフェノクの名前を耳にする事はなかった。
 もしかしたら、既に滅んでしまったのかもしれない。そう思っていたからこそ、今、目の前の少年がオルフェノクであるという事実に、驚きを隠せない。

「これで、信用してもらえます?」
「…………っ!」

 ざわ、と少年の顔に浮かぶ、奇怪な文様。それは百の言葉よりも雄弁に、少年が人外である事を語っていた。

「そうか……だが、君は」
「? 僕が、どうかしました?」
「いや……いいんだ。すまない」

 例えオルフェノクであったとしても、君はきっと、人を襲ったりはしないだろう。――そう言おうとした光太郎だったが、しかし彼は結局、それを口にする事は出来なかった。
 ギンガ達と一緒に居た時の衛司はごく普通の少年に見えて、とても人を襲う怪物とは思えなかった。だが今、こうして少年と一対一で向かい合っていると、どこか不安な気持ちにさせられる。
 どろりと濁った黒い瞳。底無しの暗闇を思わせるそれは、南光太郎がこれまでに戦ってきた者達に極めて近しく思える。邪悪と言うよりは、そう、人類にとっての『脅威』と言うべきか。

「あの。僕も、一つ訊いていいですか?」
「あ……ああ。なんだい、衛司くん」

 正直なところ、少年からの問いは光太郎にとって慮外なものだった。彼が質問してくるという事自体が、光太郎には全く予想の外だったのだ。
 そして。続く少年の問いかけは、光太郎に更なる驚きと、困惑をもたらす事になる。



「南さん。『仮面ライダー』って、何ですか」



 その問いに、南光太郎は確かに答えを持っている。南光太郎だからこそ、その問いに答えられる。
 それは人類を守る爪と牙。
 世に現れる邪悪へ立ち向かう剣。
『力無き人々を守る』――ただそれだけを不変の正義として戦う、異形の戦士。
 だが、結城衛司はそんな答えを求めていないのだろう。彼が訊きたいのは『仮面ライダーの定義』では無く、むしろ――

「仮面ライダーになれば、強くなれるんですか? そもそも強いから、仮面ライダーになれたんですか? 僕も仮面ライダーになれば、ドラスと戦えますか?」

 彼にとって、仮面ライダーとはただ純粋な“強者”でしかないのだろう。そこに秘められた哀しみも、どれほどの決意を持ってライダーになったのかも、衛司の眼中にはないのだ。
 光太郎には……それが酷く悲しくて、辛い。
 十四の少年が、どうしてここまで歪む事が出来るのか。オルフェノクだからというだけではとても説明がつかない、かと言って生まれついての歪みとも思えない。
 きっと彼を取り巻く環境の何もかもが、よってたかって彼を追い込んだのだ。恐らくはギンガ達の存在さえも、衛司にとってはほんの僅かな救いでしか……或いは、救いにさえならなかったのだろう。

「衛司くん。どうして、君は強くなりたいんだ?」
「……弱いのが、嫌なんですよ」

 衛司の質問に答えず、逆に光太郎の側が問いを発する。その非礼に衛司は気を悪くした様子もなく、あっさりと光太郎からの問いに答えた。

「弱いから奪われて、殺されて……今だってそうです。弱かったから、僕は今、このざまだ」

 失くした足を見下ろして、少年は自嘲的に笑った。

「力が要るんですよ。殺されたくないし、奪われたくないから。ドラスを倒すのも、フォッグと戦うのも、あのオカマに口を割らせるのだって、力が無いと出来ないんだ……!」

 殺されないために。
 奪われないために。
 力が無ければ、何一つ適わない。
 あまりにもシンプルで、疑う余地の無い真理。
 生存本能に根ざした、力の論理を是とする思考。

「それは――それは違うぞ、衛司くん」

 そう。それは、南光太郎にとって決して認める訳にはいかない考え方だ。
 それはただ単に、弱さに追い立てられているだけ。強さの表層を追っているだけだ。『仮面ライダー』が有するものは、そんな上辺だけの力ではない。そんなものを求める限り、彼は仮面ライダーには決してなれない。

「君が求めているのは、本当の強さじゃない。本当の強さっていうのは、戦う力じゃないんだ。心の強さが大事なんだ」
「心の、強さ――」
「ああ。『勇気』と、『愛』だ。これを持つ者が、本当に強い男……心の強い男だって、俺はそう思っている」

 世の理不尽に直面しても、跋扈する悪に相対しても、決して折れず、屈しない心。それを『勇気』と呼び。
 誰かを慈しみ、誰かを守りたいと思う心。自分ではなく他人を思いやる気持ち。それを『愛』と呼ぶ。
 今の世の中では、そのどちらもある種の気恥ずかしさを持って語られる言葉だ。だが南光太郎は、それを何の衒いもなく口にする。だからこそ彼は仮面ライダーであり、『勇気』と『愛』を兼ね備える者こそ仮面ライダーに相応しいと、そう言えるのだ。
 ただ。

「……そん、な」

 光太郎の言葉に、少年は呆然と……どこか泣きそうな顔で俯いた。
 乾いた唇が蠢いて、何かを呟く。発声を伴わないそれを、光太郎はもちろん聞き取ることは出来なかったけれど――しかし何を言ったのかは、唇の動きで読み取る事が出来た。



 それじゃあ僕は。
 『仮面ライダー』には、なれないのか。



 結城衛司は、そう言っていたのだ。
 何かが欠けているが故に。何かを失っているが故に。だから彼は、どうあっても求めるモノに成る事は出来ない。
 それを否定する事は――どうでもいい様な気休めを言う事は――光太郎には、出来なかった。







 北海道・新千歳空港から東京・羽田空港までは、空路でおよそ一時間。この日のフライトも概ねそれと大差ない時間で完了し、光太郎とギンガ、エリオ、キャロの四名は東京へと降り立った。

「わあ……」
「札幌も凄かったけど、こっちはもっと凄いね……」

 さすがに日本の首都、そこに集まる人と物資の玄関口ともあって、羽田空港は新千歳空港のそれより更に混み合って、人でごった返している。
 その様はミッドチルダの首都クラナガンとも大差ないのか、エリオとキャロの二人は感嘆の声を漏らしている。新千歳空港ではぼうっとしていたギンガもほぼ同様だ。
 海鳴市へ行くには、ここから東京駅へ向かい、新幹線に乗る必要がある。羽田空港と東京駅はモノレールで繋がっていて、まずはモノレールの切符を買うため切符売り場へ足を向けた光太郎だったが、

「――ん……!?」

 その足が、不意に総身を走った違和感によって止められる。
 唐突に立ち止まった光太郎を不思議に思ったのだろう、ギンガ達が怪訝そうな顔で近付いてくるが、彼女達もすぐにそれに気付いた。
 何かが違う。――いや、正確に言うのなら、何かが違い始めている。空港内の雑踏が、一秒前まで見ていたものとはまるで異質だ。
 そして彼女達が違和感に気付いた瞬間、違和感は異変と化して、四人を一瞬にして包み込んだ。

「なっ――!?」
「これは――結界魔法……!?」

 視界が塗り替えられていく。雑踏に満たされた空港内の風景が、無惨に崩れた石柱がそこかしこに転がる、廃墟の如き空間へ。
 結界魔法と、ギンガは言った。それは半分は正しく、もう半分は正しくない。結界である事は確かだが、それはギンガ達の知る魔法技術によって構築されたものではない。
 しかしこれが結界であるのなら、それを作り出したのは何者か。その答えは目の前にあった。石柱に絡まる蜘蛛の巣が、結界作成者の正体を無言のままに告げていた。

「! 危ないっ!」

 咄嗟に光太郎はギンガ達三人を抱き寄せるように、その身で庇う。瞬間、彼の周囲で激しい火花が散った。
 攻撃されたのだ――そう認識するのと、敵が姿を現すのは、ほぼ同時。

 それは蜘蛛だった。そして、女性だった。人間サイズの巨大な蜘蛛に、骨と皮ばかりに痩せ細った女の上体が乗っている。
 病的なまでに白い肌には欲情など抱けようはずもない。まして女の顔は耳元まで頬が裂け、更に下顎が真っ二つに裂けている。その容貌は女性と呼ぶのも憚られる、醜悪なデザインであった。
 その姿を目にした瞬間、ギンガと、そしてキャロが息を呑むのが判った。光太郎とて嫌悪感を抱いている、女の子であればそれは一際だろう。

「ドラスの手下か……!」

 直感的に、光太郎はそう呟いていた。今、このタイミングで襲撃をかけてくる相手は、それ以外に考え付かなかった。
 果たしてドラスの眷属『クモ女』は甲高い呻き声を上げたかと思うと、がぱっと音を立てて顎を開き、蒸気の如く白い気体を噴出する。
 それは“糸”だった。蒸気は空中で綿菓子のように変化し、光太郎の身体に絡まった瞬間、猛烈な勢いで締め上げてくる。常人であれば骨をへし砕かれているほどの圧力。改造人間である光太郎も、思わず表情を歪ませる。

「わあっ!?」
「きゃあっ!!」

 だが、それが不味かった。敵の攻撃に気を取られた瞬間、背後から聞こえた叫び声。エリオとキャロの身に、何かが起こったのだ。
 しかし振り向いてみれば、そこにはギンガがいるばかり。――そう、叫び声を上げたはずのエリオとキャロが、どこにもいない。この空間の外へ放り出されたのだと知れた。

「こ、光太郎さん! エリオくんと、キャロちゃんが――!」
「……くっ!」

 この時初めて、光太郎は敵の意図を悟った。クモ女の目的は自分達の分断。光太郎とギンガをこちらに残したのは、二人程度なら自分だけで始末できるという自信の顕れか。
 無論、エリオとキャロの方にも敵が向かっているだろう。だからこその分断だ。一刻も早く蜘蛛女を倒し、二人と合流しなければ。
 そうと決断すれば、意識の切り替えは早かった。ぐっと身体に力を込め、絡みつく蜘蛛の糸を引き千切る。ギンガもまた同様の結論に達したのだろう、覚悟を決めた顔で、光太郎の横に並び立つ。

「変――身ッ!」
「ブリッツキャリバー! セット・アップ!」

 暗く淀んだ異空間を切り裂く、二つの光。
 光は一瞬だけ周囲を照らし出したかと思うと、すぐに消えて失せた。しかし光が去ったその後に、男と少女はもういない。

 そこにいたのは、二人の戦士。
 仮面ライダーBLACK RXと、陸戦魔導師としてのギンガ・ナカジマ。

 ちらりと、RXは傍らのギンガを見遣った。先程までの制服姿とはまるで異なる、戦闘行動を前提とした姿。
 特に目を引くのは左手の鋼拳と両脚のローラーブーツだろう――独特な装いではあるが、確かに『戦装束』と見て取れる。

「それが――魔法、か」
「はい。私のデバイス、『ブリッツキャリバー』と、『リボルバーナックル』です」 

 RXは黙って頷いた。どこか残念そうにも、満足げにも見える仕草だった。
 女性に、それも少女と言うべき年齢の彼女に戦わせる事を厭う気持ちはある。だがRXと共に戦った者達の中には女性も確かにいて、それに助けられた事も数知れない……その経験から、彼は知っていた。

 守りたいものがあるのなら。
 戦う理由があるのなら。
 性別は、それを阻む壁にも、足枷にもならない。

「いくぞ、ギンガくん!」
「はい!」





◆      ◆







 時間は僅かに遡る。
 南光太郎が去った後、再び静寂に満たされた病室で、衛司はベッドに横たわり、ぼんやりと天井を眺めていた。
 左脚を失った今、彼はベッドから降りるだけでも難儀する身の上だ。一人でトイレに行く事さえままならない。幸い、膝関節は無事に残っているから、性能の良い義足があれば最低限のリハビリで歩けるようになるらしいが。
 ただ、脚があろうとなかろうと、今の彼は動き回ろうという発想がそもそもなかった。南光太郎に言われた言葉がずしりと頭の中に残って、何かをしようという気持ちを完全に圧迫していた。

「『勇気』と『愛』……か」

 南光太郎が口にした、仮面ライダーになるための――本当の強さを手に入れるための要件。
 結城衛司は、そのどちらも持っていない。端から持っていなかったのか、それともどこかに落としてしまったのかは、もう解らないけれど。

「……くそ」

 ぼすん、と枕を殴りつける。何の生産性もない、ただの八つ当たり。

 いつも流されるままに戦ってきた。そこに敵がいるから戦って、命を狙われるから返り討ちにして。機動六課を離れ、姉の下に身を寄せてからも、姉に言われるがまま戦地に赴いていた。
 世の理不尽や跋扈する悪に、“折れる”“屈する”という以前の話だ。己の意思で、何かに立ち向かった事など、これまでに皆無。

 誰かを守ろうとする気持ちも薄い。守ろうと思う事自体、ある種の積極性を有しているから、衛司が持っていないのは当然と言えるが。
 ――人間は、衛るに値するイキモノか。
 彼が他人……要するに『自分と関わりの薄い人間』に対し淡泊なのは、頭から離れないその疑問が原因だ。
 オルフェノクへの幻想を失っても、人間への失望はまだ衛司の中にこびりついて、離れない。

 恨みや憎しみといった感情はとりあえず持っていないし、ギンガをはじめとして、六課に居た人間達は総じて“好き”と言って良い。無論、恋愛感情とは異なる次元でだ。
 ミッドに落ちてきたフォッグの調査に赴いた時、陸士108部隊を助けたのも、それがギンガの古巣という話を聞いていたし、同行していたラッド・カルタスの仲間であったから。……そうでなければ、見捨てていたかもしれない。いや、その可能性の方が高いだろう。

 つまるところ、彼は人間への関心を失っている。
 自分の知らないところで、誰がどうなっても構わない。関係無い。――『人間』という総体に対して、もうそんな気持ちしか持つ事が出来ない。
 オルフェノクである自分を受け入れたその時から、『勇気』も『愛』も、彼には無縁のものとなってしまった。今の彼はただ己の生存だけを追い求める、けだものと大差ない存在だ。本来なら、強さを求めること自体がおかしな話でもある。

 強くなるという思いこそ不純。
 誰かを護るためなどとは不粋。

 それが雀蜂としての衛司のスタンスで、突き詰めればそれは、例え敗北したとしても、生き残りさえすれば良いという意味でもある。敗北や蒐奪が死に直結する状況だからこそ、それを回避する手段として、彼は力を……『仮面ライダー』を求めたに過ぎない。
 南光太郎は、きっとその辺を見透かしていたのだろう。

「仮面ライダーは無理、か……いーよもう、さっさとミッドに帰ってプリキュアにでもなろう」

 伽爛に頼めば、二つ返事でハートクラッシュプリキュアに入れてくれるだろう。いっそ真樹菜も巻き込んで『押忍! プリキュア5』にしてやろうか。
 布団をかぶりながらそんな独り言を呟いた、その時だった。

「なに? お兄ちゃん、プリキュアになりたいの?」

 不意にがらりと病室の扉が開き、思わず衛司が上体を起こすと同時、白衣を着た男が顔を出す。確か伊達明、と名乗っていたのだったか。衛司の手術を担当した医者だ。
 独り言を聞かれていた気恥ずかしさから衛司は顔を赤らめるが、そんな少年の反応に構わず、伊達はずかずかと病室の中へ踏み入ってきた。

「あ、いや、その……」
「はいはい、ちょっと悪いね。傷見せてもらうから」

 ばさりと布団をはぐって、伊達は衛司の左脚を検める。そこで初めて、衛司は伊達が検診に来たのだと気付いた。
 脛の半ばほどから千切れ落ちた脚を改めて目の当たりにした衛司が、何かを堪えるように顔を歪ませた。脚を検査する伊達の手つきがどこか乱暴だった事とは、きっと関係無く。

「おっ、傷は殆ど塞がったみたいね。南ちゃんのおかげかな」
「はあ……」
「良かったじゃないか。えーと、結城くんだっけか。知り合いと名前が同じなもんでさ、苗字の方で呼ばせてもらうけど、いいかい?」
「へ? あ、はい」

 個人的には名前で呼ばれる方が好みなのだが、別にそこまでこだわりがある訳でもない。六課の中にも『結城』と衛司を姓で呼ぶ者もいた。

「この分なら、もうちょっと早く……今週中には退院できるかな」
「……そう、ですか」
「あれっ? なんだ、嬉しくないの? 結城ちゃん、病院食が口に合うタイプ?」

 どんなタイプだ。
 ……少なくとも、衛司は違うのだが。先程出された食事にも殆ど口をつけていない。ギンガが傍にいれば、その圧力で無理にでも飯を詰め込むのだけれど。
 それと僅か数行で『結城くん』から『結城ちゃん』に呼び方が変化しているのだが、まあ、その辺は別に良いか。馴れ馴れしい男ではあるが、その馴れ馴れしさが不思議と不快ではない。こういうのを指して『人徳』と言う。

「ほら、これあげるから、元気出す! っつっても、昔作ったやつの余りもんなんだけどな。悪いね」
「あ、いえ……その、どうも」

 いまいち浮かない顔の衛司に、伊達は手にした紙袋から、折り畳んだ布を取り出して渡してくる。それは一着のシャツだった。開いてみれば背中にでかでかと『伊達組』と書かれている。
 胸の方にはコインかメダルのような絵と、『KAMEN RIDER 1000th』の字。どういうセンスなんだこれ。
『KAMEN RIDER』は仮面ライダーの事として……1000thって何だろう。仮面ライダーって千人もいるのか?
 仮面ライダーになれない、と言われたばかりの衛司には微妙に皮肉な柄だ。もちろん、伊達は純粋に親切でくれたのだろうけれど。妙に人懐こい笑みは、何かしらの裏があるようには思えない。

「ほら、結城ちゃんのお友達でさ、赤い髪のオトコノコと、ピンクの髪したオンナノコいただろ? それと紫っぽい髪したおねーちゃん。あの三人にもあげたんだけど、いまいち反応良くなくってさぁ。何だっけ、みっどちるだ? そこの人にはウケが良くねーのかなって思ってさ、その点、結城ちゃんなら解ってくれると思うのよ。いいだろ!? このシャツ」
「えーと……」

 ごめんなさい、僕にもわかりません。
 と言えないあたり、ヘタレ呼ばわりされても仕方がない。

「ま、気ぃ向いたら着ちゃってよ。それよりその脚、どうしよっか。そのまんまじゃ退院できないよな。南ちゃんは義足の当てがあるっつってたけど……ほら、リハビリとかもあるからさ。退院までにって言うより、なるべく早く来てくれた方が良いんだけどね」
「そうですね――ああ、そっか。リハビリとか、あるんでしたっけ」
「うん? なんか他人事みたいだねえ、良くないよ? 結城ちゃーん、自分の事なんだからさ、深刻になる必要はないけどもっと真剣に考えなきゃ」

 伊達がそう窘めてくる。……確かに言われた通り、衛司にとっては他人事のような感じがある。当事者であるという実感が抱けない。
 と。

「……失礼、いいかな?」

 伊達が入ってきた時のまま、病室の扉は開け放されていた。その扉を、それでも一応の礼儀としてノックする者がいる。音に気付いた衛司、そして伊達が扉の方へと視線を向ければ、そこには一人の男がいた。

 年の頃は三十過ぎというところか。かっちりとした青色のスーツを着こなしていて、その姿は伊達よりもよほど医者か、或いは科学者のように見える。
 男の手には金属製のアタッシュケース。いかにも重要物を運んでますと言わんばかりの重厚な作りだが、むしろ目に付くのは、そのケースを持つ右手の方だった――袖口から先を覆い隠す、黒い革の手袋。

 その姿を見た瞬間、衛司は息を呑んだ。見知らぬ男などではない。その姿、その顔は、もう随分とおぼろげになってはいるが、衛司の記憶の中に今も残っている。
 ただ――記憶の中の“彼”と目の前の男はあまりにも“そのまま”で、それがやはり不自然だった。もう十年近い時が流れているのに、時間の経過をまるで感じさせない。

「ん? なに、知り合い? お見舞いの人?」
「ええ……はい」

 怪訝そうな伊達に、衛司が思わず頷いて。
 それを合図に、男は病室へと踏み入ってきた。衛司の記憶そのままの、柔らかな微笑を浮かべて。
 どうしてここに居るのか、ここに来たのか。それらの問いも疑問も、衛司の頭からは吹き飛んでいた。少し考えれば、彼こそが光太郎の言っていた『義足の当て』であると気付けただろうが、それすら出来なかった。
 予想外の再会に――少年は心底、驚きを覚えていたのだ。

「久しぶりだ、衛司くん。元気だったかい?」
「……どうも、丈二おじさん。見ての通り、あまり元気じゃないです」

 失った左脚を指しての、どこか自嘲的な物言いに。
 『丈二おじさん』――結城丈二は、困ったように笑ってみせた。





◆      ◆







「わっ!」
「きゃっ!」

 その瞬間に何が起こったのか、エリオは理解していない。キャロもそうだろう。
 事実として言えるのは、自分達二人だけが放り出されたという事。あの石柱立ち並ぶ異空間から、恐らくは現実世界へ。硬い地面へ叩きつけられて、思わず二人揃って悲鳴が漏れる。
 怪我はないかと互いに身体を気遣いつつ、立ち上がる……そして周囲を見回して、二人は困惑した。途方に暮れた、と言うべきかもしれないが。
 異空間から弾き出された二人が居たのは、数分前まで自分達の居た空港ではなかった。異世界の事ゆえ明言は出来ないが、それは閑静な住宅街のように思えた――空港内の雑踏など、どこにも見受けられない。

「こ、ここ、どこ……?」

 呆然と、キャロが呟く。言葉にこそ出さないが、エリオもまったく同じ心境だった。
 周囲にギンガや、光太郎の姿は見えない。未だあの異空間で戦っているのだろう。つまり今、ここに居るのはエリオとキャロの二人だけだ――それぞれ別々の場所に放り出されるよりはましだが、二人一緒なら大丈夫とも言えない。
 現在地も判らなければ方角も判らない、標識だって読めないのだ。どこに向かえば良いのか、全く判断がつかない。今更ながらここが異世界、それも管理外世界である事を痛感させられる。

「……うん。僕が、しっかりしないと……」

 それでも、やはり二人という事は幸いだった。実際はともかく、心情的には確かにプラスに働いた。
 衛司も光太郎も、ギンガもいない今、キャロを守れるのは自分だけ。騎士として日々研鑽を積み重ねる少年は、逆にこの状況において、自らを奮い立たせる事が出来た。
 それは或いは、結城衛司には決して出来ない思考と言えた。守るべき誰かが明確であるのなら、それをモチベーションへと直結出来る。その思考形態は紛れもなく、エリオ・モンディアルという騎士の強みである。

「キャロ。とにかくまずは、落ち着ける場所を探して――」
「あっ! エリオくん、あれ!」

 精一杯の『頼もしさ』を繕ってキャロに向き直ったエリオだったが、彼がこれからの指針を言い終えるよりも早く、キャロが何かを見つけて声を上げる。
 キャロの指し示す先には横断歩道。歩行者用の青信号がちかちかと点滅する中、一人の中年男性がそこで這いつくばるように身を屈めている。
 男の手には破れた紙袋。そして周囲の道路には、破れた紙袋から零れ落ちたオレンジが点々と転がっていた。男の中途半端な姿勢はこのオレンジを拾おうとして、しかし紙袋からこれ以上落とさないようにしているが故のものと知れる。

「キャロ、行こう!」
「うん!」

 周囲に転がるオレンジを拾い上げ、二人は男の下へと駆け寄った。男の方も自分の近くに落ちたオレンジを全て回収し、幸いにも信号が赤になるより早く、歩道へと戻る事が出来た。

「ありがとうね、助かった。もうどうしようかと思っちゃった」
「いえ、全部拾えて良かったです!」

 派手な柄の服を着ているせいか、男からは妙にひょろりとした感じを受けて、喋り方がその印象を一層助長している。
 見る限り、あまり悪い人間には感じない。エリオもキャロも仕事柄、“悪い人”には敏感な方だ。まあ親切を受けた相手に危害を加えるような下種はそうそういないだろうが、それでも男が本質的に善良なのだと解る。

「……けど二人とも、こんな時間にどうしたの? 学校は?」

 あう、と二人そろって言葉に詰まる。
 地球の暦においては、今日は平日。衛司から以前に聞いた話では、日本の子供は学校に通う事が義務付けられているという。エリオ達の年代なら今の時間はまだ学校にいるのが普通で、だから男の質問は、至極当然のものだった。
 勿論、エリオとキャロもその辺りを全く考えていない訳ではなかったが……海鳴までは衛司や光太郎が同行するし、彼等がいれば適当に誤魔化してくれるだろうという考えもあった。
 それが見事、裏目に出たという訳である。

「え、えっと、僕達は……」
「その、ええっと……」

 しどろもどろになる二人に、男は胡乱な眼差しを向けてくるが――それでも不審を抱いたという程ではないらしく、程無く「うーん」と眉根を寄せた。

「何かワケアリっぽいねえ。……うん。二人とも、ちょっとついておいで。すぐそこだから」

 言って、男は二人を手招きしたまま歩き出す。
 悪意はなさそうだが、しかしそうほいほいとついていって良いものか。顔を見合わせるエリオとキャロだったが、しかし他に道もなく、やむなく二人は誘われるまま、男の後をついていく事にした。

 男が言った通り、彼の目的地はすぐそこだった。先の横断歩道からは歩いて三分とかかっていないだろう。見る限り喫茶店だろうか、小洒落た感じというのか、落ち着いた雰囲気のある店だった。
 看板と思しきプレートには『cafe mald`amour』と書かれているが、無論、エリオとキャロには解らない。英語が読めないのだと思ったのだろう(実際は日本語すら読めないのだが)、男は「マル・ダムールって読むの」と教えてくれた。

「あ、マスター! 遅い! どこで油売って――ん? なに、その子たち?」

 時間帯のせいか店の中はがらがらで、カウンターに一人の女性が座っているだけだった。その女性も客ではなく店番か何かだったのだろう、入ってきた男に文句を言いかけて――その途中で、男の後ろに居るエリオとキャロに気付く。

「ちょっとそこでね。困ってるトコを助けてくれたの――ああ、まだ名前も聞いてなかったっけ」

 男は木戸明と名乗った。皆からはマスターと呼ばれてるから、そう呼んでくれとも付け加えて。
 名乗られてしまった以上、エリオ達も名乗らない訳にはいかない。このシチュエーションで「匿名希望でお願いします」と言えるだけの度胸はなかった。

「え、エリオ・モンディアルです」
「キャロ・ル・ルシエです」
「……ん? 二人とも、外人? 髪の毛もあまり見ない色してるし……けど、それにしちゃ日本語上手ね。育ちはこっち?」

 ああやっぱり、とどこか納得した顔のマスターに対し、女の方は割と遠慮なしにじろじろ見ながら訊いてくる。ええまあと曖昧に誤魔化しても「ふうん」と頷くあたり、そこまで興味を抱いているという訳ではなさそうだが。

「ところでめぐちゃん、ダンナさんは? まだ迎えに来てないの?」
「はっ! あんなヤツ、迎えになんか来ませんー。どーせあたしより仕事の方が大事なんだろうし。迎えに来たとしても帰ってなんてやんないんだから」

 マスターの言葉に、女は忌々しげ(?)にそう吐き捨てた。
 目を瞬かせる二人に、マスターが苦笑しながらフォローを入れてくる――どうやら彼女、夫と喧嘩して家出中らしい。マスターとは旧知の間柄で、少し前からマスターの店舗兼自宅のここへ転がり込んでいるのだとか。

「一年に一回はケンカして、二年に一回は別れるって話するんだもんね」
「今回で最後だと思いますけど! 今度という今度は、ぜっっったい離婚してやるんだから!」

 よほど旦那に怒りやら苛立ちやらが溜まっているらしい。どこかから取り出した離婚届をひらひらと振り回し、女は機嫌悪く吼えている。
 とは言え、関係無い他人にまで八つ当たりするほど、分別のない人間ではなかったようだ。圧倒されたというかちょっと引き気味なエリオとキャロを見て、ばつの悪そうな顔で「ごめんごめん」と女は謝った。

「ごめんねー、脅かすつもりじゃなかったのよ。……えっと、エリオくんと、キャロちゃん? あたしは名護――じゃなくて、麻生恵! あ・そ・う、めぐみだから! 麻生恵! よろしくね!」

 選挙演説さながら、念を押すように三度も己の名を名乗り。
 麻生恵はやや強引に、けれど親愛のつもりなのだろう、エリオとキャロの頭を乱暴に――髪をぐしゃぐしゃにするような感じで――撫でた。
 悪い人たちじゃないみたいだね。念話でそうキャロに語りかければ、すぐに同意の言葉がエリオの脳内に響いた。

 ……ただ。
 異邦の地に二人だけで放り出された不安も、念話に乗って流れてきたのだけれど。





◆      ◆




第弐拾壱話/了





◆      ◆







後書き:

 という訳で、第弐拾壱話でした。お付き合いありがとうございました。
 
 てつを無双を期待しておられた皆様には申し訳ないのですが、見ての通り、無双はちょっと控え目に。今後ドラス関連でお話引っ張る予定なので、この時点でドラス倒されちゃ困るもので。
 まあRXも初回の戦闘では割と怪人取り逃がしてたりするので、これくらいなら許容範囲かなとは思うのですが。
 ちなみにバイオライダーの細胞融合とか、原作でも一回しかやった事ない技を出してたりするのですが、マイナー過ぎて伝わるだろうかとこっちも不安。

 伊達さんに関してはもう本当にその場のノリというか、『あれ? ここに伊達さん絡ませられるんじゃね?』と思い付いて、急遽出演。光太郎との関係も悪ノリの一環で。
 ただしMOVIE大戦MEGAMAXでプロトバースは壊されているという設定なので(スーパーヒーロー大戦は考慮してません)、本作においては変身の予定はありません。ご了承ください。
 一応、以前に感想掲示板でもちょっと触れましたが、RXに続いて出演予定の原作ライダーは某753で。次回あたりに出てくる予定。
 次回投稿はちょっと早めに。ただそれ以降は、また更新停止になってしまうかも。

 それでは次回で。よろしければ、またお付き合いください。



[7903] 第弐拾弐話
Name: 透水◆44d72913 ID:8005d57f
Date: 2023/12/29 21:02
 結局その日、エリオとキャロはマスターの好意に甘える形で、『マル・ダムール』の店舗二階――マスターの住居へと泊まらせてもらうことになった。
 少しばかりの休息ならまだしも、宿を借りるとなればさすがの二人も遠慮したのだが、既に先客の居候がいるのだから一人も二人も三人も変わらないと言われれば、口を噤まざるを得なかったのだ。
 加えて――

『なに? あたしの家には泊まれないっての? 泊まりたくないの?』
『あのねめぐちゃん。ここボクの家なんだけど』

 マスターはさておき、恵にそう凄まれれば、ちょっとNOとは言えなかった。

 まあ、エリオ達にしてみれば、本当にありがたい申し出ではあったのだ。ギンガや光太郎と逸れ、今の自分達がどこに居るのかも判らず、海鳴に向かう術も路銀も持ち合わせていない状況。最悪とまでは言わないが、極めてそれに近い八方塞がりである。
 最も現実的、かつ優先されるのは、ギンガ達との合流だ。しかし先程からギンガに念話で呼びかけているものの、全く応答がない。ストラーダやケリュケイオンの通信機能も同様。ほぼ半日の間呼びかけを続け、日が暮れても尚、それは変わらず。

 考えられるのは、念話や通信機能が届かなくなる程に距離が離れている可能性。
 そしてもう一つ――彼等は未だ、あの異空間に囚われているという可能性だ。

 もし後者であるのなら、彼等の安否さえも怪しくなってくる。ギンガに加え、仮面ライダー・南光太郎も一緒にいるのだから、まず大丈夫だとは思うのだが……やはり、一抹の不安が拭えない。
 それでも、二人の意見はすぐに一致した。軽挙を慎み、ギンガ達と連絡が取れるまで待機する。自分達が未熟であることを弁えるからこそ彼等は慎重で、ある意味その慎重さが、今夜の宿を得るという幸運を呼び寄せたのだとも言える。

「じゃ、この部屋使ってね。今お布団持ってくるから」
「すいません、何から何まで……」
「いいのいいの。……けど、ほんとにいいの? お部屋一緒で」
「はい。エリオくんと一緒の方が、安心するので」

『マル・ダムール』二階の住居スペースは確かに余裕があるとは言えないが、それでももう一室くらいは空いている。エリオとキャロそれぞれに部屋を宛がおうとしたのだが、それをキャロが固辞したのだ。一緒の部屋で良いと。
 勿論、「いやさすがにちょっと待って」とエリオも言いかけた。十歳とは言え男女が同じ部屋で寝るとか色々とまずい。六課の寮だってエリオとキャロは別室なのに。

 ……そう言いかけたのだが、言おうとしたのだが、結局言えなかった。小声で『今後のこととか話し合おう』と言われてしまえば、頷く以外に道は無かった。
 内緒話なら念話で良いし、それなら部屋を別にしても大差ないのだが、やはり先の見えない状況で魔力の無駄遣いは避けたい。念話だって多少の魔力を消費するのだ。キャロの言うことは実に正論で、反論は難しかった。

 ……いや、まあ、少なくとも屁理屈つけてまで別室にしてもらおうというつもりは無かったのだけれど。

「こういうところ、キャロは解ってないんだもんなあ……」
「? エリオくん、何か言った?」

 なんでもない、とエリオは慌てて繕った――キャロは小首を傾げているけれど、その後ろでマスターが意味深な笑い方してるのが気になった。

「甘酸っぱいね。青春だね。……じゃ、お布団持ってくるから、ちょっと待っててね」

 そう言って、マスターは去っていく。……と、それと入れ替わる様にして、階下からぱたぱたと二階へ上がってくる足音。自然と二人はそちらに視線を向けて、そして程無く、階段から麻生恵が顔を出した。

「あ、いたいた。やっほー」

 屈託の無い笑みと共に、恵はエリオとキャロへと歩み寄ってくる。
 ぺこりと頭を下げた二人に、「はいこれ」と恵が何かを……折り畳まれた服と思しき布を差し出してきた。

「二人とも、寝間着とか持ってないでしょ? これ、あたしの旦那……じゃなくて、ウチの馬鹿が昔作ったやつなんだけど。お風呂上がったらこれ着て寝なさいね」
「あ、ありがとうございます。……えっと、これ、シャツですか?」

 エリオは服を受け取って、畳まれていたそれを広げてみせる。確かにそれはTシャツで、青い布地にでかでかと『753』の数字が記されている。背中の模様(仮面、だろうか?)に比べれば、数字だけというのは何とも捻りがないような。
 ちなみにキャロの方は白いTシャツ。ただし柄は全く一緒で、青と白が反転しただけ。
 この『753』、何か意味があるのだろうか。ただ、そこには触れないで訊かないで質問しないで言いたくないから、と言わんばかりのオーラを全身から発している恵を見れば、それを訊くのは憚られた。





 そうして二人は『マル・ダムール』の店舗で夕食をご馳走になり、風呂まで頂いて、床についた。
 明かりを消して布団に潜れば、改めてこんな親切にしてもらって(しかもほぼ見ず知らずの人に)いいのだろうかという気分になってくる。しかも彼等はエリオ達に事情を訊こうともしないのだ。身元も知れない子供を家に上げ、飯を食わせ、寝床まで用意する……親切が行き過ぎていて、何かしらの罠を疑ってしまうくらいだ。
 真っ暗な天井を眺めながら、そんなことを考えていたエリオだったが――ふと隣から「エリオくん」と呼びかけられて、視線を向ける。目はだいぶ暗順応したようで、布団から半分だけ顔を出したキャロの姿が見えた。

「いい人たちだね。マスターさんも、恵さんも」
「……そうだね。事情も訊かないで、こんなに良くしてくれて……こっちの人って、みんなこんなに親切なのかな」

 そうは言うものの、恐らくはマスターや恵が特に優しいのだろうと、エリオも解っていた。
 エリオもキャロも、無条件に人間の善性を信じられるほど満たされた人生を送ってきた訳ではない。むしろ逆だ。裏切られ、棄てられ、見下され、モノの様に扱われ……けれどその果てで、彼等は幸運にもフェイト・T・ハラオウンに巡り合えた。
 彼女がいたからこそ、二人は人間の善性を感じ取れるのだ。そう言ってしまっても、決して過言ではない。

「あのさ、キャロ」
「? なあに?」
「ミッドに戻ったら、フェイトさんを連れて、もう一回ここに来よう。マスターさんや恵さんを、フェイトさんに紹介したいし――フェイトさんを、二人に紹介したいんだ」
「うん。……出来るなら、フリードも一緒だと嬉しいな」
「もちろん」

 果たして自分達はミッドに戻れるのか。
 フォッグとゴルゴムに襲われたミッドチルダが、果たして今も存在しているのか。
 フェイトは元より、機動六課の面々は無事でいるのか――不安の種は、どうしても尽きないけれど。





◆      ◆





異形の花々/第弐拾弐話





◆      ◆







「……うん?」

 エリオが目を覚ました時、何故か妙な違和感を覚えていた。何かが違うと言うか、何か落ち着かない感覚。……強いて言うなら、かつて“施設”に居た頃、カメラ越しに監視されていた感覚に近い。
 見ていた夢のせいだろうか。どんな夢を見たのかは憶えていないけれど、そんな悪い夢ではなかったと思うのだが。
 カーテンを透かすように窓から光が差し込んでいて、既に日が昇っているのだと知れた。耳を澄ませば、もうマスターか恵は起きているらしく、何やら物音も聞こえてくる。居候の身でいつまでも惰眠を貪るのは良くないかな、という思考から、エリオはそっと布団を出た。

「んにゅ……うー」
「…………」

 布団を出たところで、隣で眠るキャロの姿が目に入る。

 ……意外と寝相が悪いんだなあ、キャロ。

 目のやり場に困る、という程では無いのだが、掛け布団を蹴飛ばしてしまっている。エリオはそうでもなかったが、キャロには暑かったのかもしれない。出身のアルザスは雪の多い地方だったと言うし、寒さに強くても暑さには弱いのだろうか。
 それでも掛け布団なしでは風邪を引きかねない、そっとエリオはキャロに布団を掛けようとして――

「ん……? あれ、エリオくん?」

 ――そこで、少女は目を覚ました。
 エリオは布団を掛けようとしただけなのだが、傍目には……ついでに見る角度によっては、キャロに覆いかぶさろうとしている様に見えなくもない。或いはもっと直接的に、そう、寝込みを襲っているかのように。

「あ、あの、キャロ? これは、その、そう、布団を――」
「んー……おはよう、エリオくん。あ、お布団掛けてくれようとしたんだ。ありがとう」

 ……何も誤解してくれないというのも、それはそれで寂しいような。
 ともあれ目を覚ましたキャロは、しかしまだ意識がはっきりしないらしく、ふらふらと頭を振っている。

「うーん……ね、エリオくん。ヘンな夢見なかった?」
「変な夢……? いや、僕は別に――キャロ、おかしな夢って、どんな?」
「ちゃんと憶えてるわけじゃないんだけど、なんか、呼ばれてるみたいなの。『守って』とか『預けたい』とか、ところどころしか聞き取れなくて」

 キャロが言うには、地球へ来てからの数日、毎晩のように同じ夢を見ているらしい。その全てが断片的で曖昧な、どこかの誰かに呼びかけられる夢。
 無論、エリオはそんな夢を見ていない。起きた時に妙な違和感はあったけれど、キャロの言う夢とはまた別の話だと感じる。

 気のせいだよ、疲れてるのかもしれないね。そう言えれば良いのだが、竜召喚師のキャロが見る『変な夢』をただの気のせいを切り捨てるのも、また不安ではあった。
 竜の召喚や使役は、他の魔法と比較してもメンタル面に拠る部分が大きいのだ。更に言ってしまえば、どこか精神的というか、オカルト寄りな面もある。『魔力素を使用したエネルギー制御技術』としての魔法からはやや外れている――それ故に、たかが夢と軽視する事も出来ない。

「うん。あまり気にしてもしょーがないよね。行こう、エリオくん」

 ただ、まあ。当のキャロは、あまり深刻に考えてはいない様子で。
 だとしたら、自分が思い煩っていても仕方がない。エリオはひとまず、夢に関する思考を棚上げにした。
 二人で階段を下り、開店前の『マル・ダムール』へと顔を出す。階段を下りる前から良い匂いがしていたが、ちょうど朝食の支度が出来たところらしく、店内の一席にはあれこれと料理が並べられていた。

「あら、おはよう。いま起こしに行こうと思ってたんだけど」
「おはようございます!」
「おはようございます」

 下りてきたエリオとキャロに気付いて、マスターが声をかけてくる。ぺこりと頭を下げて、二人も挨拶を返した。

「おっ。起きてきたわね、よしよし。いつまでも寝てたら蹴り起こしてやろうと思ってたんだけど」

 カウンターから出てきた恵が、そんな事を言ってくる――たぶん冗談だとは思うのだが、彼女なら割とやりそうで怖い。
 そんな感じに全員集合、四人が『マル・ダムール』の一席に腰を下ろして、朝食の時間である。

「日本食に馴染みがあるかどうかわかんないから、洋風の朝ごはんにしてみたんだけど。どう?」
「おいしいです! とっても!」
「このオムレツ、おいしい……! どうやって作ってるんですか?」

 ……確かにエリオとキャロは日本人ではない、どころか地球人ですらないのだが、しかし六課の食堂では多少なり日本食も出されていて(部隊長が地球出身の日本人である事が大きい)、マスターの気遣いは無用とは言わずともあまり意味がないものだったりする。
 ただ。今日の朝食に対しての感想は決してその気遣いからのお愛想ではなく、純粋に彼等の本音であった。六課食堂の料理に勝るとも劣らない。
 ちなみに今日の朝食はマスターと恵の合作らしい。と言っても恵が作ったのはサラダくらいで、合作と言うと言うとやや大袈裟な感もあるのだが。

「めぐちゃんもお料理上手くなってきたよねえ。昔はもっと酷かったけど」
「でしょ!? なのにあいつときたら、『もっと努力しなさい』とか『料理を作るのは女の務めだ』とか、何様だっつーのって感じよ。この前だってあたしが一日がかりで作った料理に文句垂れてさあ」

 ……どうやら夫婦喧嘩の発端は、恵の料理を夫が酷評したせいらしい。
 まだ一日足らずの付き合いだが、恵の気の強さは充分に解ったし、横柄な物言いに反発する様も容易に想像出来た。

「いい、キャロちゃん!? 結婚する時はほんっっっっっっと良く相手を見なさいね! その場のノリみたいなので結婚したら一生後悔するんだからね!」
「は、はい……」

 気圧されたように、キャロはそう頷いたのだけれど。
 むしろこの場合、エリオの方がリアクションに困るのだった――こういう話題に、果たしてどういう顔をすれば良いのやら。





◆      ◆







 とりあえず今日もギンガへの呼びかけは継続するつもりでいるが、そこで一つ問題が生じた。いや、厳密には問題以前の話ではあるのだが。
 現状、ギンガとの通信手段は念話に限られる。デバイスを使っての通信は現地住民の注目を引きかねないため、なるべく控えなければならないのだ。

 しかしこれは、傍目にはただぼうっと座っているようにしか見えないのである。いい若いもんが昼間っから喫茶店の一席でだらだらと時間を潰している、という構図にしか見えず……それに黙っていられない人間が、少なくともこの時の『マル・ダムール』には一人いて。

「ちょーっと! あんたたち! 何!? なんで昼間っからぼーっとしてんの!? その齢でもう余生過ごしてんの!?」

 とまあ、そんな感じで。

「ほら、出かけるわよ! こんなところでだらだらしてたら余計老けるわ!」
「『こんなところ』って随分だね、恵ちゃん……」

 マスターのそんなぼやきは、残念ながら完全に黙殺されて。
 そうして二人は半ば無理矢理、恵に外へと連れ出された。恵はどこへ行くか予め決めていたらしく、足取りには迷いがない。

 店のすぐ前からバスに乗り、街中へ入ったところで降りる。――そこにあったのは、つい先日オープンしたという、大型のショッピングモールだった。クラナガンにも似たような施設はあるが(いつぞや攫われた衛司を助けに行った事がある)、それと比べても遜色無い規模。
 平日の午前中、開店時刻からまだそれほど経っていないこともあって、モール内は全体的に空いていた。大小様々な専門店が軒を連ねる中、まず恵が向かったのは子供服の専門店。

「あの、恵さん、ここ――」
「はいストップ。エリオくん、ちょっとここで待つ! 女の子の方が優先だからね――女は選ぶのに時間かかるんだから。ってコトで、はいキャロちゃん、まずこれからいってみて」
「え? え? あの、これ……」

 エリオの問いにもキャロの戸惑いにも棚上げにして、恵は店の中から見繕った服を何着かキャロに持たせて、試着室に放り込んだ。

「あんたたち、それ制服でしょ? 学校のにしちゃ、なんか洒落っ気が薄いけど……なーんか重たいカンジがするのよね。もうちょっと子供らしい格好した方が可愛いんだから」
「はあ」

 確かに、今のエリオとキャロは管理局の制服姿である。それも地味な色合いの陸士用制服。任務中にこちらへ飛ばされたものだから着替える暇もなく、服を買いに行く余裕もなかった。

 ついでに言うなら、キャロはともかくエリオはそれほど自分の服に頓着しない性格だ。人前に出ても恥ずかしくない格好であればなんでもいい、と考えてしまう。この辺、エリオも男ということか。
 フェイトあたりは何かとお洒落させたいようだが、彼女の性格上、あまりあれを着ろこれを着ろとは言ってこない。むしろシャーリーの方が――フェイトの副官であるためか、顔を合わせる機会は割と多かった――着せ替え人形よろしく、エリオに色んな服を着せていたような気がする。

 ……何となくだが。今の恵からは、あの時のシャーリーと似た感じがする。故にこれから何が起こるか、何をさせられるかが、だいたい予想出来た。
 逃げられないかなあ。
 そんな思考も脳裏を過ぎるが――今ここで逃げ出すのは恩義に後ろ足で砂をかけていくようで、さすがに心苦しい。

「あ、あのー……恵さん」
「着替えた? え、まだ? ちょっと何やってんの、もー、しょーがないわね」

 試着室のカーテンから、ひょこっとキャロが顔を出す。どうやら着るのが面倒な服だったらしい。助けを求められ、恵は呆れ顔で、しかし嬉しそうに試着室へと入っていった。

『えーとこれ……あれ? 何よもう、これ逆じゃない。ほら脱いで脱いで。すぽーんといっちゃいなさいよ。ほらそれもこれも、早く脱ぐ!』
『ひゃ、じ、自分でできますからあ! や、だめ、そこ触っちゃ……ひゃんっ!?』

 何やってるんだろうあの二人。
 試着室の中からカーテン越しに変な声と、どたんばたんという物音が聞こえてくる。なまじ他の客が少ないせいで、店員の怪訝な視線が痛い。
 ――と。

「……ん?」

 ふと、エリオは後ろを振り向いた。
 妙な視線を感じたのだ。店員のものではない。もっと冷たく、かつ粘つくような、嫌な視線。
 見られている。それが判る。……いや、逆か。『お前を見ているぞ』と暗に伝える、そんな視線だった。

「あれ? 消えた……?」
【周囲百メートル圏内に、不審者と思しき人物は確認出来ません】

 だがそれも、すぐに消えて失せた。ストラーダからの報告も、視線の消失を裏付ける。
 気のせいだと言われれば頷いてしまいそうな――或いは、本当に気のせいだったのかもしれない。
 そも、エリオは魔法を使えること以外は、肉体的にほぼ普通の人間だ。シグナムのように剣の達人というのならいざ知らず、視線を感じ取るなどという芸当が簡単に出来るはずもない。
 そう結論付けると同時、音を立てて試着室のカーテンが引かれ、着替えたキャロが……その後ろから恵が、姿を現した。

「じゃーん、お待たせ。どう?」
「あ、エリオくん……! その、どう……かな」

 陸士制服から一転、キャロの格好は齢相応の、実に女の子らしい格好だった。
 派手でなく、地味でもなく。エリオには女性用の服はいまいち判らない、ブラウスとワイシャツの区別もつかないくらいだ。
 だから一見しての感想は、ただ感嘆だけだった。心底からの本音で、キャロに似合っていると感じる。
 キャロの私服姿を見るのは、無論、これが初めてではない。それでも今までに着ていたどの服よりも、キャロの良さを引き出しているように思える。それは逆説、服をチョイスした恵のセンスの良さを証明していた。

「う、うん! 可愛いよ、すごく! 似合ってる!」
「え、えへへ……ありがと」

 あまり気の効いた賛辞も言えなかったが、それでもキャロには嬉しかったと見えて、はにかんだように彼女は笑う。

「エリオくん、見所あるわねー。ちゃんと女の子褒められるって大事よ? どっかのバカみたいに褒め言葉の一つも言えないようじゃ、この先やってけないからね」
「はあ」

 生返事しか出来ないエリオだった。この先ってどの先ですか。
 さて、と一息入れて、恵がつかつかとエリオへ歩み寄ってくる――どうかしたんですか、と言うよりも早く、彼女はエリオの身体を抱え上げた。そのままキャロと入れ替わりで試着室へ連行され、ぽいと放り出される。
 キャロが終わったのだから、今度はエリオの番なのだ。どうしてだろう、それをすっかり失念していた。

「はい脱いで脱いで! 着てみたいの……じゃなくて着せてみたいのいっぱいあるんだから、ぐずぐずしない!」
「ちょ、待っ、じ、自分で脱ぎますって! ちょっと待ってください――!」





◆      ◆







 平日の午前中という時間帯であっても、『マル・ダムール』には近所の奥様方がお喋りや暇潰しのためにやってくる。特に今の季節は外での井戸端会議はさすがに寒く、子供を幼稚園に預けた母親達がその足で訪れることも少なくない。
 だが不思議なことに、今日はそんな母親御一行様の御来店もなく、それ故店の中はがらがらで、マスターこと木戸明は実に暇な時間を過ごしていた。
 元より“知る人ぞ知る”といった感じの店であるが、ここまでお客が来ない日は珍しい。まあ偶にはこんな日もあるだろう、とあまり気にもしていなかったが。もう三十年近くこの店をやっているのだ、今更この程度でうろたえない。

 ――と。

「ん?」

 ばたばたばたばたっ――と、忙しない足音。
 木戸が顔を上げると同時、まさしく“飛び込んでくる”と表現できる勢いで、一人の男が店の中へと駆け込んでくる。
 言うまでもなく、それは木戸の顔見知り。『マル・ダムール』のお得意様だ。
 普段はちょっと横柄なくらいにクールな男なのだが、今は随分と焦っている。……いや、正確に言うのなら、焦っている自分を必死に押し隠そうとして、けれど全然隠せていない。そんな感じ。
 個人的にはもう少し早く来るものだと思っていたが。まあ仕事もあったのだろう、なんだかんだで真面目な男だから、私事の為に自分の仕事放り出すような真似はするまい。そういうところに恵が不満を募らせていたのも、否定できない事実だけれど。

「マスター!」
「あ、来たんだ。遅かったね」
「あいつは!? ここにいるんでしょう!?」
「めぐちゃんだったら、買い物に行ったよ。ほら、ちょっと前にオープンしたモール。そのうち帰ってくると思うから、座って待ってたら?」

 こうしてみると、客足が少ないのは不幸中の幸いだったのかもしれない。店にやってきたこの男と恵が顔を合わせれば、割と洒落にならない口論が勃発するのだろうから。
 割と長い付き合いだから今更迷惑とも思わないが(そもそも口論にしろ喧嘩にしろ、これが初めてのことでもない)、一般的に見れば紛れもない営業妨害だ。下手に他の客が居ようものなら軒並み逃げてしまうだろう。これから来るだろう客も店の前で回れ右か。
 今日はもう臨時休業にしちゃおうか、そんな気分にすらなってくる。

「ほら、コーヒーでも飲んで。ちょっとアタマ冷やしておいた方がいいんじゃない? …………あれ?」

 そう言ってカウンター席へカップを差し出す木戸だったが――あいにく、その時にはもう、店の中には誰も居なかった。 
 扉につけられた鈴が、からんからんと空しく鳴っているばかりだった。





◆      ◆







 恵の着せ替え人形(?)にさせられている間にも時間は過ぎて、いつの間にやら時刻はお昼時。
 ショッピングモール内には当然ながら様々な飲食店が寄り集まったレストラン街も設えられていて、エリオとキャロを連れた恵が入ったのは、中でも最大の規模を誇るビュッフェタイプのレストランだった。
 ちなみに。

『そろそろお昼ね。二人とも、お昼なに食べたい? 何でも言っていいわよ。おねーさんが奢ってあげる』
『そ、そんな! そこまでご迷惑かけられません!』
『いいからいいから。何にするの?』
『え、でも、そんな……』
『あーのーね。あたしが「奢る」って言ってんの。「食べない」って選択肢は無いって理解しなさい。いい?』
『は、はい……けど、僕達、こっちのお料理とか良く判らないですし』
『あ、そっか。二人ともこっちの人間じゃないんだっけ。日本語上手いから、つい外人ってコト忘れちゃうわねー。それじゃ、そこの店にしましょっか。色々種類があるからお得だし。味もそこまで悪くないって聞くしね』

 ――以上、三人がこのレストランに入るまでの流れ(抜粋)である。
 昼時とは言えやはり平日、店内はそこそこ客が入っていたものの待たされる程ではなく、三人はすぐに席へと案内された。料理の置かれているコーナーからさほど遠くない、結構良い席だ。

「さ、食べるわよー。ほらあんた達も、好きな料理持ってらっしゃい」

 そう言って、恵はさっそく席を立った。
 ビュッフェ形式の店はミッドにもある。手順やルール、マナーなどはほぼ同じと考えて良いだろう。割と大食漢のエリオにしてみれば、食べ放題なビュッフェというのはありがたくもある。

「行こう、エリオくん?」
「あ――ごめん、キャロ。僕、先にちょっと、トイレに行ってくるよ」

 実は尿意がちょっと危険域。言おう言おうと思っていたのだが、なんだかんだで言いそびれて、今まで行けなかったのである。
 うん、わかったとキャロは頷いて、恵の後に続くように料理の置かれた一角へと歩いていった。そんな二人に背を向けて、エリオはレストランを出る。

 朝食はしっかり食べてきたけれど、やはり育ち盛りの食べ盛り、尿意を覚えていても食欲は忘れない。早く昼食を食べたくて、自然、エリオの足は速くなる。
 レストラン街のトイレは各店舗に一つずつではなく、店を出て少し歩いた先、レストラン街の出口近くにある。だがエリオはそれを見過ごして、そのままレストラン街を出てしまった。
 別に焦っていた訳ではなく、ビュッフェの店員にレストランまでの道を訊いたのだが、これが間違っていたのが原因だった。

「あれ?」

 とは言え数分も歩けば、自分が道を間違っている事に気付く。
 しばらくモール内をぐるぐると歩き回るエリオだったが、幸いにも尿意が限界を迎える前に別のトイレを見つけ、そこで用を足す事が出来た

 問題はトイレを出た後。レストランまでの帰り道が判らなくなっていたのだ――そもそも自分がどこをどう歩いてこのトイレに辿り着いたのか、そこからして解らない。
 モール内を適当にうろうろ歩き回ってみるが、当然ながら、レストラン街は見当たらない。せめて標識や案内板が読めれば良かったのだが、日本語が話せても読めないエリオにはそれも難しい。

 そう言えば、六課に居た頃の衛司はミッド語を頑張って覚えていたが……今ならば、その気持ちも何となく解る。現在位置が判らないというのは結構な不安を伴うもので、標識や案内板が読めるだけでその不安はかなり払拭出来るのだと、今更ながらエリオはそう知った。
 誰かに道を訊いた方が早いだろうか。そう思って、周囲を見回したエリオだったが――その時。

「君、どうかしたのか? 道に迷ったのか?」

 一人の男が、エリオにそう声をかけてきた。
 精悍な雰囲気を漂わせた男だった。ただどうもその精悍さが行き過ぎて、どこか高圧的な態度にも感じる。厳しさと容赦のなさが同時に窺えて、正直なところあまりお近付きになりたくない類の人間なのだが、それでも親切心から話しかけてきた事も伝わるのだ。無下には出来なかった。

「あ、えっと、はい。ビュッフェレストランに行きたいんですけど……」
「ビュッフェレストランか。解った、私が案内しよう。ついてきなさい」

 物凄い話の早い人だった。エリオの意見など端から聞く気がないように思える。
 地球に来てからこっち、あれやこれやと現地住民に親切にしてもらってばかりのエリオだったが、ここまで強引な人はさすがにいなかった。申し訳ない気持ちを通り越し、逆に警戒心が涌いてくる。

「いや、あの、僕なら大丈夫ですから……!」
「遠慮する事はない。子供を導くのは大人の仕事だ。私に任せなさい」

『にべもない』とはまさにこのこと。
 男はすたすたと歩いていって、どうしたものかとエリオは少しだけ迷ったが、結局その後をついていくことにした。強引ではあるが、悪い人間にも思えなかったのだ。いや正直なところ滅茶苦茶不安ではあるのだけれど。
 フェイトさん、僕はこの人についていって大丈夫なんでしょうか。

「…………?」
「? あ、あの。僕が何か……?」

 ところが。
 ふと男は足を止め、振り向いたかと思うと、そのままじっとエリオの顔を見詰めてくる。怪訝そうな顔……と言うには眉間に皺が寄り過ぎだ。それはむしろ、警戒していると言う方が近いかもしれない。
 ただそれは『エリオを警戒している』という訳ではないらしく、男は辺りをぐるりと見回して、やがてゆるりとかぶりを振った。そのリアクションの意味はいまいち把握出来なかったが、ひとまず警戒を棚上げにしたのだろうと、想像がついた。

「……いや、なんでもない。忘れなさい、君が気にすることではない」

 そう言って、男は再び歩みを再開する。エリオも慌てて、その後を追って歩き出した。
 男の言葉に嘘はなかったようで、歩くにつれて周囲の風景が見覚えのあるものへと変わっていく。五分も歩けば、もう案内無しでもビュッフェレストランに戻れそうなところにまで辿り着いていた。

「あ、エリオくん!」

 やがて二人はレストラン街に入り、するとすぐに、道の先からエリオを呼ぶ声が聞こえた。見ればビュッフェレストランの前にキャロが佇んで、エリオへと向けて手を振っている。なかなか帰ってこないエリオを心配して、店の前で待っていたのだろう。

「キャロ! 良かった、戻ってこれた……」
「ご家族か。ならばもう私は必要ないな。次は迷ったりしないように気を付けなさい」
「はい。その、ありがとうございました」
「うむ。その感謝の気持ちを、常に忘れないようにしなさい。では私は――む?」

 その場を立ち去ろうとする男だったが、しかしその途中で彼は足を止めた。その視線はエリオの頭上を通り越し、レストランの入口に佇むキャロへ――いや、更にその先へと向けられている。

「あ、エリオくん帰ってきた? ほら、だから心配要らないって言ったでしょー? オトコノコなんだから、一人でトイレくらい……ん? ――げっ!」

 男が何を見ているのか。その答えは、すぐに知れた。
 レストランの中から、恵がひょいと顔を出す。暢気と言うか大らかと言うか、彼女はさほど心配していなかったようだが、しかし直後、何かまずいものでも見たかのように顔を強張らせ、そのまま店の中へと引っ込んでしまった。
 そして男もそれを追い、店の中へと踏み込んでいく。

「え、エリオくん? あの人……?」
「う、うん。僕をレストランまで案内してくれたんだけど……恵さんの、知り合いなのかな……?」

 知り合いとしても、恵の反応や男の表情は、あまり穏やかな雰囲気とは思えなかったが。
 嫌な予感を覚えながら、二人は店の中へと入る――恵と男はすぐに見つかった。いかにも不満です怒ってます貴方とは話したくありませんとばかりにそっぽを向いた恵と、その対面の席に座って睨みつける男。
 見るからに険悪な雰囲気を発散している二人を見た時、ようやくエリオは思い至った。恐らくは、キャロもほぼ同時にそこへ至っていただろう。

 何と言うか、随分と御都合主義な偶然にも思えるが――この男が。
 エリオをレストランまで連れてきてくれた彼こそが、いま“麻生”恵と絶賛大喧嘩中だという、恵の夫ではないのかと。





◆      ◆







 果たしてエリオの考えは見事的を射ていて、男は確かに恵の夫――恵に言わせれば“元”旦那――だった。
 名護啓介。それが彼の名前。名前はさておき、自己紹介の後に自分から『憶えておきなさい』と言う人間を、エリオは初めて見た。
 ともあれエリオとキャロも自分の名を名乗り、そうしてようやく、話が本題へと戻ってくる。
 切り出したのは、名護の方からだった。名護の隣に座るエリオ、恵の隣に座るキャロを順繰りに指差し、恵に問いかける。

「言いたい事は山ほどあるが……この子達はいったい何だ。君の子供か」
「そんな訳ないでしょ!? この子達幾つに見えんの!? っつーかあたしの生んだ子だったら、あんたと結婚した時にはもう生んでるわよ! ――親戚よ、親戚! あたしの母親の腹違いの双子の妹の隣に住んでるおねーさんの上司の子!」

 それ親戚って言わない。

「親戚? 外国人の親戚が居るなど、私は聞いた憶えがないが」
「なんで一々言わなきゃいけないのよ」
「当たり前だろう。夫は妻の事を全て把握してなければならない。それが夫というものだ」
「そーゆーところがうっとーしいって言ってんのよ!」

 あっという間にヒートアップした。まあ怒っているのは恵だけで、名護は相変わらずクール(?)なままだったが。
 恵の張り上げた大声に、他の客や店員が驚いた顔で視線を向けてくる――このままでは遠からず、店から追い出されてしまうだろう。

「あ、あ、あの! ちょっと、落ち着いて……!」
「喧嘩しちゃダメです! れーせーに、話し合いましょう?」

 慌ててエリオとキャロが制止に入ると、人前である事を思い出したのか、恵は口を尖らせながらも黙り込んだ。ただし噛みつくような視線を名護へ向けているのは、相変わらずだったが。
 ほっと一息。と同時に、どうして自分はここにいるんだろうという気分になってくる。地球にまでやってきて(不慮の事故に近い経緯だったが)、どうして自分はよその家の夫婦喧嘩に巻き込まれているんだろう?
 この状況における存在意義に悩むエリオを置き去りに、多少トーンダウンしたとは言え、恵と名護の口論は続いていた。

「どうして出て行ったりしたんだ。理由を言いなさい」
「理由ぅう? それをあたしに訊くワケ? ちょっと名護くん、それあたしに訊いちゃうワケ?」
「今は君も『名護くん』だろう。今更他人行儀な呼び方は止めなさい」
「あいにく、もう名護って苗字からはおさらばすることにしたの。はいこれ、ちょーど良いから判押しちゃってくれる?」

 そう言って恵が鞄から取り出したのは、一枚の紙切れ。何が書いてあるのかは判らない……エリオとキャロは、日本語が読めない。
 ただこのタイミングで出す書類だ、内容が判らずとも想像はつく。実際それは二人が想像した通り、離婚届だった。しかも既に恵の名前は記入されていて、判子も押してある。後は名護がサインして判を押せば、晴れて離婚は成立だ。

「馬鹿な事を言ってるんじゃない。くだらない冗談は止めなさい」

 が。当然と言うべきか、名護はあっさりと離婚届を引き裂いた。

「もう一枚あるわよ」

 それを見越していたのだろう。恵はあっさりと離婚届をもう一枚取り出して、改めて名護に突き付ける。
 これにはさすがの名護も黙った。冗談ではない、と伝わったのだろう。表情こそ先程までと大して変わらないが、眉間のしわが増えているのが見て取れる。

「――理由を」

 低く抑えた声で、名護が問う。
 怒りを堪えているのが傍目にも丸判りで、しかしそれは恵の側からは逆ギレとしか見えないのだろう、彼女もまた怒りのボルテージを高めていくのが判る。
 一触即発だ。思わずエリオとキャロが、顔を見合わせた。

「理由を言いなさい。私のどこに不満があると言うのか、四百字以内でまとめなさい」
「あっそ。じゃあ言ってあげるわよ――いい加減うんざりなの。結婚する前にも言ったわよね? あんたは本質的にエゴイストで、いつも上から目線で細かいことにいちいちうるさい空気の読めない朴念仁だから! もー限界、やってらんない! あたしはあんたの部下でも手下でも生徒でも信者でもないの! どう、これで気が済んだ!?」

 まずい、これじゃ大噴火だ。
 レストラン中の視線が、再びこの席に集中する。いやそれだけではない、さすがに店員も放置しておけないと考えたのだろう、こちらへと足早に歩み寄ってきていた。
 エリオとキャロが一瞬だけ目配せを交わす。次瞬、キャロが「ご、ごめんなさい! ちょっとこっちに!」と、恵の手を引いて、強引にレストランから連れ出した。
 名護が追っていく様なら止めなければ、と身構えていたエリオだが、幸いにも名護は席を立たず、顔をしかめたまま俯いていた。





「……あの、落ち着きました?」
「あー、うん。ごめんね、つまんない喧嘩見せちゃって」

 モール内のレストラン街を出たすぐ近く、自動販売機が置かれた一角。高齢の利用者への配慮としてモール内にはそこかしこにベンチや椅子などが用意されているが、その中の一つにキャロと恵は腰を下ろしていた。
 半ば無理矢理にビュッフェレストランから連れ出したのだ、怒鳴りつけられることも覚悟していたが、思っていたよりも恵は冷静だった。
 とは言え気軽にお喋りが出来る雰囲気でもなく、恐る恐る、キャロは恵に話しかける。

「その……恵さん、本当にいいんですか?」
「いいって――何が」
「旦那さん……じゃなくて、えっと、名護さんです。言い方はちょっと厳しかったですけど、恵さんを迎えに来てくれたのは確かですし……」
「そうね。けど駄目、あたしの方がもう駄目。あいつとはやってらんない。さっきも言ったけど、もううんざりなの」

 先に名護へ向けた時ほど激しい口調ではないものの、だからこそ恵の言葉が本音であると伝わる。それを覆すのが容易ではないことも。
 この一件……名護家の夫婦喧嘩において、キャロはあくまで部外者だ。無関係の人間である。よその家の夫婦喧嘩に巻き込まれることさえ、そもそも何かがおかしいのだ。
 それでも。

「……そういうのは、いやです」

 それでも――彼と彼女を放置していくのは、嫌だった。
 わたしには関係ないと背を向ける。キャロ・ル・ルシエには、そんなことは出来なかった。
 説得しよう、仲直りさせようなどと、そんな大それたことは考えない。そこまで行けばお節介を通り越して、ただ厚顔なだけだ。
 だから、彼女に出来るのは――

「あの、恵さん。……どうして、家出しちゃったんですか?」
「……なによー。キャロちゃんもそれ訊くの? そんな気になる?」

 そう訊き返されてしまえば、キャロは顔を赤らめて黙り込むしかなかった。

 ただ、気になっているのは本当だ。ただ離婚したいのなら、名護が帰ってくるまで待って、その場で離婚届を突き付ければ良い。それをせず家を出たということは、名護が追ってくるのを期待していたとは言えないだろうか? 追ってきてほしいと、そう思っていたからこその行動ではないだろうか?
 そうでないとしたら――そこに、何か特別な理由があるのではないか。
 仲直りさせるつもりはないけれど、恵の話を、恵の愚痴を聞く事くらいなら、自分にも。

「なんてゆーか、うらやましかったのかもね。名護くんのことが」
「うらやましい……ですか?」

 特別な理由、という訳ではなさそうだが……予想していなかった答えが、返ってきた。

「あたしさ。結婚するまでは、名護くんと一緒に働いてたのよ。いや、モデルとかもやってたんだけどね。『素晴らしき青空の会』ってとこに入ってて……結婚してしばらくした後、そこを辞めたのよ」

 恵が言うには、この『素晴らしき青空の会』での仕事は割と危険なものであるらしい。恵自身は結婚しても続けていくつもりでいたのだが、出来るなら家庭に入ってほしいというのが名護の希望だった。
 結婚式当日に起こった事件――『奴等』の襲来と、恵は言った――のため、引退は先延ばしになったらしいのだが、それでも一年ほど後には事件も収束。青空の会は活動の規模を縮小し、それを機に、恵は青空の会を引退し、名護の希望通り家庭に入った。

 かつて恵が青空の会に入ったのは、どうしても成し遂げたいことがあったからだという。だがそれも、名護と結婚する少し前に達成されてしまい、彼女のモチベーションは下がりかけていた。それが彼女に引退を選ばせた。
 モデルの仕事はその後も続けていたらしいが、実質的には専業主婦となったのだ――しかし。

「なんか、胸にぽっかり穴が空いたみたいなのよね。主婦業も別に悪いもんじゃないし、そんな暇って訳じゃないし……けど、なんか満たされなくて。何か足りてないって、そういう感じがすんの」

 一方で――名護は、酷く充実しているように見えたという。
 青空の会の要職に就き、全国を飛び回って、家にもあまり帰らない。結婚する前の方が頻繁に顔を合わせていたくらいだ。
 胸の空虚は、いつしか鬱屈に変じ始めていた。自分がそう望んだとは言え、どこか置き去りにされたような気分だった。

「ご飯にけちつけられた事なんて、口実だったのかもしんない。上から目線とか、自分だけ正しいって態度とか……そんなの、あたしと結婚する前からなのにね」

 手料理を批判されたことに腹を立てたのは本当だ。いきなり帰ってきて、『飯が不味い』とか何様だ。あたしはあんたお抱えの料理人でも家政婦でもないわよ――
 けれど、それは不満の積み重ねあってこその爆発だった。そうでなければ、『はいはい悪かったわね』で済ませていたのだろうから。
 家出先に『マル・ダムール』を選んだのも、そこくらいしか頼れる場所がなかったのは確かだが、家出先として名護がイメージし易い場所だったから……かもしれない。

「それじゃ……それじゃ、もういいじゃないですか。名護さんは迎えに来てくれたんですから、もう帰ってあげても――」
「駄目。そりゃ確かに、名護くんがうらやましいって言ったけどさ……別に嘘じゃないのよ、さっき名護くんに言ったのも。自分に尽くして当然みたいなツラされるの、もう我慢できないの」

 終わってんのよ、あたしと名護くんは。
 きっぱりとそう言った恵の顔は、けれどもどこか寂しそうで――





《――って言ってるんだけど、どうしよう》

 どうしようと言われても。
 キャロと恵の会話は、念話によってレストランに残るエリオへと伝えられていた。もちろん生中継という訳ではなく、キャロの中である程度噛み砕かれた“情報”として伝わっているのだが。

 恵を連れ出したキャロに比べれば、エリオの置かれた状況はまさしく針のむしろだった。何せ腕を組んでむすっと黙り込んだ男が、すぐ隣にいるのだ。直接的な同僚(つまり整備班や交替部隊以外)の大半が女性という環境に居たせいか、はたまた十歳という年齢のせいか、今のような状況にどう対処して良いものやら、エリオには見当もつかない。
 とは言え、この状況で何もしないという訳にもいかず。

「あ、あのう」
「何だね」
「め、恵さんのことなんですけど……」
「君には関係ない。大人の話に興味を持つのは止めなさい」

 ……取り付く島もない。
 恐る恐る話しかけてみたエリオだったが、ぴしゃりと切って捨てられた。
 悪い人ではない、というのは間違いないのだろうが――ただ今は、それが逆に厄介だった。人当たりの良くない善人というものは、エリオの人生の中で触れる機会の乏しい人種だったから。
 いっそ判り易く下種で外道な人間ならば、人当たりの悪さもそういう人だと割り切ることが出来たのに。
 ――とは言え。

《エリオくん……?》
《うん、解ってる。恵さんの事はお願い――名護さんのことは、僕に任せて》

 こちらの状況が伝わるのだろうか。不安そうなキャロの声が頭の中に響いて、しかしエリオはそれに、静かながらも断固とした意思に満ちた声で応える。
 一度撥ね退けられたくらいで、素直に引き下がるつもりも無い。エリオ・モンディアルは引きどころを判っていて、だからこそ、今この場で引くつもりはなかった。

「あの、名護さん。――恵さんと話す時間が、足りないんじゃないでしょうか」
「…………っ!」

 地雷踏んだ。踏み抜いた。
 名護からの視線が一気に鋭さを増して、それはもう『睨みつける』と言っても過言ではないレベル。普通の子供なら何も言われずとも、その視線だけで泣き出しそうだ。
 だが、エリオは普通の子供ではなかった。いや普通の子供であることは確かだが、しかし同年代の子供とは比べ物にならぬ程の修羅場鉄火場を潜ってきている。今更視線一つで泣き出す程、やわではない。

 ……ただ、名護もまた、普通の大人ではないようで。
 泣き出しこそしなかったが、嫌な汗がエリオの総身から噴き出していた。意識や思考はともかく、彼の身体は確かに威圧されていた。

「エリオくん、と言ったね。私は『大人の話に興味を持つのは止めなさい』と言ったはずだが。同じことを二度言わせるものじゃない」
「そ、そうですけど……それでも、です。名護さんは、恵さんと話すのが足りてないと思うんです……!」

 これ以上無いほど明確に拒絶されながら、それでも臆することなく向かってくるエリオに、名護も少しだけ話を聞こうという気になったらしい。拒む空気は相変わらずだが、黙ってエリオの言葉を待っている。

「その、僕もそうだったんですけど……どんなに近くにいても、いや、近くにいるからこそかもしれないんですが……ちゃんと話をしないと、気持ちってすれ違うと思うんです。
 相手のこと、解ってるつもりで解ってなかったりとか……お互いに気を使って、距離が遠くなっちゃったりとか」

 思い出すのは、六課が発足してしばらく後のこと。確か、ルーテシアと初めて遭遇した戦闘から、少し後くらいの話だ。

 エリオとキャロの距離は、以前よりもぐっと近付いたのだが――二人の保護者であるはずのフェイトと、どこかすれ違って、距離が遠くなってしまった感があった。
 エリオ達はフェイトに心配をかけぬように、またフェイトの迷惑にならぬように、不必要に親しくしないよう、甘えないよう心がけていたのだが……フェイトからすれば、色々と我慢して、無理をしているのではないかと、そう見えたらしい。或いは自分に至らぬところがあるからではないかと、そう自責の念を抱いたという。

 ――『心配性』と『気遣い過ぎ』。それもお互いに。

 そんな三人を、フェイトの使い魔・アルフは、さらりと一言で評した。フェイトとのすれ違いに悩んだエリオとキャロがアルフに相談を持ちかけたのだが、彼女はごくあっさりと、今の自分達の状況を、そうなった原因を言い当ててみせた。
 そしてアルフは、その解決方法まで教えてくれた。……聞いてしまえば何ということもない、だからこそうっかり見逃してしまうことではあったのだが。

「ちゃんと話し合わないと、相手のことって解らないから……家族だって、夫婦だって、それは同じだと思うんです。ううん、むしろ家族や夫婦だから、近い関係だから、言わなくても解ってくれるって甘えが出て……」

 そう、話し合うことだ。
 互いに思っていることを、感じていることを、率直に、正直に。
 思い返せば――キャロと家族になれたのも、パートナーになれたのも、二人でたくさん話をしたからだ。
 最初は余所余所しかった自分達を、スバルやティアナが後押ししてくれた。コミュニケーションは大事だと、そう言ってくれた。

 更に言えば――いつぞやティアナが“失敗”したのも、自分一人で溜め込み過ぎたからだ。
 以前から抱えていたコンプレックスや、教導によって強くなっている実感の乏しさを吐き出すことが出来なかった。それが模擬戦での失敗を招いたのだと、いま振り返ればそう感じる。

「生意気かもしれませんけど、そういうの、自分じゃ気付かないことも多くて……僕もそうだったし、僕の知り合いも」

 例えば、結城衛司は。オルフェノクである彼は六課に居た頃、自身の正体を誰にも話すことはしなかった。
 彼には彼なりの事情があり、エリオ達のそれと同一視は出来ない。ただ衛司の正体を初めて知った時、エリオはこう思ったのだ。

 話してくれれば良かったのに、と。
 そして同時に、どうして気付いてあげられなかったんだ、と。

 彼が六課を離れることになったのは、六課からいなくなってしまったのは、やはり話す時間が足りなかったからだと……話すべきことを話さなかったからだと。今もエリオの胸には、そんな思いがある。

「……………………」

 名護は何も言わない。腕を組み、しかめっ面のまま、しかしエリオの話を妨げることもなく、黙って耳を傾けている。
 エリオの思いは、果たして伝わっているのだろうか。傍目には、それはいまいち判らない。

「……あの、名護さん。一つだけ―― 一つだけ、聞かせてほしいんです」

 その言葉に、名護は僅かに身じろぎしてみせた。無言のままではあるが、それは言外に、言ってみろと促しているように思えた。
 一つ頷いて、エリオは続ける。名護啓介と麻生恵の現在、その根幹を抉るような問いを。

「名護さんは――」





 嘘偽りなく、キャロは恵に感謝している。恩義を感じている。また加えて、竹を割ったような恵の性格には文句無しに好感を抱いている。
 ただ。だからと言って、恵の言葉に全面的に賛同するかと言えば、これは否だ。それはそれ、これはこれ。好きだから、仲が良いからというだけの理由で、意見や主張、足並みを揃えることはしない。
『JS事件』におけるルーテシアとの関係も然り、そして今の恵との関係も、また然りだ。

「……あの、恵さん」
「なーに?」
「え、えっと……別に名護さんを庇うわけじゃないんですけど、ちょっと思ったことがあって……」

 きょとんとした顔で、恵は首を傾げる。
 これ言っちゃっていいんだろうか、という思いにちくりと胸を刺されながら、それでもキャロは言葉を続けた。これを口にすることはきっと必要なのだと、そう自分に言い聞かせながら。

「名護さんは、恵さんを信頼してるんじゃないでしょうか」
「……は? 信頼? あいつが、あたしを?」

 憮然とした顔で、恵が訊き返してくる。それにキャロが頷くと、彼女はますます憮然とした顔になった。

「恵さんがお家で待っていてくれるから、家を空けられる……お仕事に行けるんじゃないかなって、そう思うんです。名護さんのお仕事は良く知りませんけど、きっと大変な仕事だと思いますし……」

 名護の纏っている雰囲気だけで、それは窺い知れる。彼はきっと、ただのサラリーマンではない――時空管理局の捜査官などと同じく、鉄火場に身を置く人間だ。
 かつてはレリック関連事件の、少し前まではオルフェノク問題の即応部隊『機動六課』に所属するキャロもまた、その実力や経験はさておき、名護と同種の人間である。年齢にそぐわぬ荒事を幾度となくこなしてきた身である。
 だからこそ、彼女は知っていた。支えてくれる者の重要さ、大切さを。

「お家で誰かが待っていてくれると、すごく嬉しいんです。くたくたに疲れても、へとへとで歩けなくなっても……『おかえり』って言ってくれる人がいると、それだけで嬉しくなって」

 実際――キャロ自身も、そうだ。
 スプールスの鳥獣保護隊に居た時も、六課に居る今も。帰る場所のあることが、とても嬉しい。
 或いはそれは、帰るべき故郷から追い出された過去を持つ、彼女だからこその心情なのかもしれない。もうどこにも帰る場所の無い、流浪の根無し草であった過去が、そう思わせているのかもしれない。

「なんて言うんでしょう……背中を守ってくれてる、って感じなんです。だから次の日も、わたし、また元気にお仕事に行けて」

 そしてそれは――家のことに限らない。
 フルバックというポジションのキャロは、基本的に前線へ出ることはない。後方支援が主な役目で、彼女が言うところの『背中を守る』役割だ。

 背中を守って、背中を守られて。だから解る。
 背中を守ってくれることが、嬉しい。
 背中を預けてくれることも、嬉しい。

 自分の後ろを任せるには、その相手に信頼あってこそ。キャロに背中を預け、キャロが背中を守ってもらうのは、彼女が相手を信頼し、また信頼されていることの証左に他ならない。

「名護くんはあたしを信頼してるから、勝手なこと言ってるっての?」
「は、はい」
「なーんかねー……それって、要は相手に甘えてるってことになんない? 好き勝手言って相手に甘えて、それで『君を信頼してるから』って言われてもねー……」

 そう言われると、言葉に詰まる。
 確かに虫の良い話だ。信頼してるから何しても良いなどというのは、恵の言う通り、ただの甘えに他ならない。

「……きっと、甘え方が解らないんだと思います」
「は?」
「名護さんって、自分にも他人にも厳しい人だから……他人に甘える、他人に任せるってことの加減が、良く解ってないんじゃないかって」

 キャロが名護と顔を合わせていたのは、五分に満たない僅かな時間。その彼女が、名護のことをさも知ったかのように語るのは、幾ら何でも不自然と言える。
 ただ、キャロは決して適当な事を言ってはいない。直感的にそう思った、そう感じたのだ。普通の人間が言えば失笑ものだが、しかし竜召喚師の彼女が――言葉すら通じない異種族と心通わせる彼女が言えば、そこには不思議な説得力が付随する。

 事実、恵は黙り込んだ。自身の記憶と照らし合わせ、成程確かにその通りだと思っているのだろう。
 そして畳みかけるように、キャロは一つの問いを恵に向ける。今だから、今しか訊けない、そんな問い。

「恵さんは――」





 エリオが名護へと問いかける。

「名護さんは――」

 キャロが恵へと問いかける。

「恵さんは――」

 それは、無駄にこじれたこの夫婦喧嘩、その解決に際して最も重要となる問いだった。 



「――恵さんのことが、嫌いになったんですか?」
「――名護さんのことを、もう好きじゃないんですか?」





◆      ◆







 キャロ・ル・ルシエと麻生恵がビュッフェレストランへと戻ってきたのは、彼女達がレストランを飛び出してから、おおよそ四十分ほど後のことだった。
 仏頂面ではあるものの、それでも恵は名護の対面へと腰を下ろす。キャロがその横に。
 キャロの視線と表情から窺うに、向こうも何かしらの折り合いを付けてきた様子だが、しかし恵は何も言わず、ぶすっとした顔で黙り込んでいる。一方の名護もまた、自分から話を切り出すでもなく、そっぽを向いたままの恵の横顔を見つめていた。

 重い沈黙が戻ってくる。先程に比べればまだましではあるのだが、いたたまれないことには変わりない。
 エリオは名護に、キャロは恵に、それぞれ『お話を始めましょうよ』的な視線を送っているのだが、二人は一向に動かない。
 それでも、やがて。

「――晩ご飯」

 ぽつりと恵が呟き、それに名護がぴくりと眦を反応させた。

「今日の晩ご飯、何がいい?」
「……君の食べたいもので構わない。好きなものを作りなさい」
「あんたの食べたいものを作りたい、って言ってんの」

 恵の言葉に、名護はしばし思案するかの様に目を伏せて。

「……ならば、オムライスを」

 ちょっとだけ、意外だった。
 オムライスという料理は、以前にフェイトが六課食堂の厨房を借りて作ってくれたことがある。故にエリオとキャロはその料理を知っていたが、しかしあの料理はどこか可愛らしさが窺えて、どことなく名護のイメージにそぐわない印象があったのだ。

「名護さん――オムライス、好きなんですか?」
「……ああ。マスターが、恵に教えてくれた料理だ」

 エリオの問いに答えるその言葉は、何故か、どこか気恥ずかしげに聞こえた。顔に浮かぶ渋面も、どこか繕ったもののように見える。
 それが気に入ったのか、恵は笑ってみせた。昨日から何度となく彼女が見せた――名護と再会して以降は仏頂面ばかりだった――ちょっと悪戯っぽい、子供のような茶目っ気に溢れた笑みだった。

「昔ね。あたしのお母さんが、付き合ってた男の人に作ってあげたんだって。結局、その人とは駄目になっちゃったらしいんだけど……マスターがね、その時のレシピ残してくれてたの。それ教わったんだ」
「……それが、食べたい」
「おっけー。作ってあげる」

 仲直りと言うにはまだ少しばかり緊張感があり過ぎるが、それでも、この二人にもう心配はいらないだろう。後は彼と彼女が、自分達だけで解決していくはずだ。
 一応ではあるが、一件落着。エリオとキャロが顔を見合わせ、ほっと安堵の吐息を漏らした――その時。

《エリオくん! キャロちゃん!》
「――っ!」
「ギンガさん……!?」

 不意に、頭の中に声が響いた。昨日からずっと待ち望んでいた、ギンガ・ナカジマの声。
 無事だったのか――思わずエリオとキャロは立ち上がり、その唐突さと剣幕に、恵と名護が揃って目を丸くする。

「っ!? 何、どーしたの!?」
「あ、いえ……!」
「ちょ、ちょっと、失礼します! 行こ、エリオくん!」

 思念だけで会話するという性質上、念話魔法は内緒話にはもってこいだ。魔導師が基本として備えるマルチタスクと組み合わせれば、通常会話と念話の同時進行も可能となる。
 ただそれを行うには、さすがにエリオとキャロは若過ぎた。ギンガの無事を知って、どうしても顔が喜悦に綻んでしまう。何があった訳でもないのににやにやしているのは、さすがに不審に思われるだろう。
 さておき二人はレストランから外に出ると、人の少ない通路へ入り、ギンガからの呼びかけに応答する。

《ギンガさん、僕です! エリオです!》
《キャロです! わたしも無事です!》
《良かった……! 今、どこにいるの? こっちは……えっと、光太郎さん? ここはどの辺りですか?》

 さすがに光太郎は念話に加われないようだが、ギンガが何やら訊ねている辺り、彼もまた無事でいるようだ。
 ギンガが念話で現在地を伝えてくる。ただ、土地勘の無い二人にはそれがどこなのかは判らない。恵に訊けばそこまで辿り着く為のルートも判るだろうか。

 エリオの方も、自分達の現在の状況を伝えた。身体に負傷、及びデバイスに不調が無いこと。現在地などが不明な中、現地住民の保護を受けられたこと。さすがに夫婦喧嘩に巻き込まれたことまでは伝えなかったが。
 ギンガと光太郎はこれから東京駅に戻り、再び海鳴に向かうとのこと。二人も東京駅、或いは東京から海鳴へ向かう路線にある駅のどこかへ向かってほしいと、ギンガは言った。そこで合流しようと。

《わかりました! それじゃ、どこで合流できるか判ったら、また連絡します!》
《うん。二人とも、くれぐれも気を付けてね。どこでまた敵が出てくるか、判らないから》

 東京駅で襲ってきた“蜘蛛女”に関しては、概ねポジティブな方向に解決したようだが――ドラスの手先がそれ一体とは限らない。きっと他にも刺客が指し向けられているだろう。
 警戒は充分に。改めてそれを自覚して、エリオは頷いた。
 そして、念話は途切れた。キャロと一つ視線を交わして、どちらからともなく頷き合う。方針は決まった。後は一刻も早く、ギンガ達と合流するだけだ。

 とは言え、恵や名護に何も言わず立ち去ることは出来ない。さすがにそれは礼儀知らずが過ぎる。それに東京駅へ向かう道筋なども訊かなければならない。二人は急いでレストランへと戻った。

「……。そっか、行かなきゃなんないか」

 レストランへと戻ったエリオとキャロを見た瞬間――まだ何も説明していないのに、恵は全てを悟ったような顔で頷いた。名護もまた、無言のまま同様に。
 どうして判ったのかなどと、そんな野暮なことは訊かなかった。顔を見れば判るのだろう。纏う雰囲気で知れるのだろう。
 だからエリオはただ毅然とした顔で、恵の言葉に頷いた。……それだけで、充分だった。





◆      ◆







「――いい? このバスに乗っていけば、終点のバス停がちょうど駅だから。ちゃんと駅前ってアナウンスされるから、聞き逃さないようにね」
「はい!」

 結局――恵が調べてくれたところによれば、ここから東京駅へ向かうより、東京‐海鳴間の路線にある駅へ直接向かった方が早いと判った。
 そうしてエリオとキャロ、恵、そして名護は、ショッピングモールから歩いて十数分のところにあるバスターミナルを訪れていた。ここから出るバスに乗って、合流場所となる駅へと向かうのだ。

「あとこれ、バスの中とか、電車の中で食べなさい。『ギンガさん』だっけ? その人にも食べさせてあげなさいね」
「こんなに……! あの、恵さん」
「いーから、受け取っておきなさい。人間、親切にしてもらえる内が花なんだから」

 恵が渡してきたのは、売店で買い込んだ大量のお菓子や弁当。さすがに量が多いせいか躊躇うキャロだったが、結局押し切られて、それを受け取った。
 彼女と接した時間は昨日と今日、合わせても一日に満たないが、この強引さは至るところで触れてきた。いざ別れの時となった今も垣間見えたそれに、どこか名残惜しい気持ち、寂しく思う気持ちを抱く。

「恵さん。色々と、ありがとうございました」
「本当に、ありがとうございました……マスターさんにも、よろしく伝えてください。ちゃんとお別れもできなくて、ごめんなさいって」
「うん。あんた達が何やってんのかは知らないけどさ――身体には、くれぐれも気ぃつけんのよ。危ないこととか、なるべくしないようにしなさいね。……ほら“啓介”も、なんか言ってあげなさいよ」

 いつの間にか、名護の呼び方が『名護くん』から『啓介』に変わっている。いや、それは変わったのではなく、戻ったと言うべきなのか。
 恵に促され、名護が二人の前に立った――ただ、何を言えばいいのか判らないのか、難しい顔で黙っている。
 表情だけなら不機嫌な渋面にも見えるが、普段の気難しさとギャップがあるせいか、妙に可笑しさを誘う顔になっている。

「あの」

 助け舟という訳ではないが、先に口を開いたのは、エリオの方だった。

「このTシャツ、恵さんに貰ったんですけど……これ、名護さんが作ったんですよね?」

 今の二人は管理局の陸士制服ではなく、恵に買ってもらった、齢相応の格好をしている。無論、陸士制服を捨てて行く訳ではなく、店で貰った紙袋に一式詰め込んでいた。
 その紙袋から、エリオは一枚のTシャツを取り出して、広げて見せる。胸元に『753』の数字がプリントされた、青いTシャツ。昨日の夜、寝間着代わりにと恵から貰ったTシャツだった。

「あ、ああ」
「――大事にします。その、いろいろ生意気なこと言って、すいませんでした」

 そう言ってエリオとキャロが頭を下げれば、ようやく名護は不器用ながらも笑みを浮かべてみせた。

「……ああ、そうだな。常に私の名を胸に抱き、正義を行いなさい」

 そして。

「色々と、済まなかった。ありがとう」

 決して大きな声ではなく、バスターミナルの喧騒に紛れてしまいそうではあったけれど、確かに名護は礼の言葉を口にした。
 ……気付けばバスの発車時刻はもうじきで、乗車を促すアナウンスがターミナルの中に響く。エリオとキャロは最後にもう一度頭を下げ、バスへと乗り込んだ。車内は後方の座席が空いていて、二人は一番後ろの席へと腰を下ろす。
 バス後部の窓からは見送る恵と名護の姿が見える。窓に貼り付く様にして手を振るエリオとキャロに、恵達が気付くと同時――車体中央と前部の扉が閉まり、バスがゆっくりと発進した。

 ぶんぶんと千切れんばかりに手を振る恵の姿が、満足そうに微笑む名護の姿が、見る間に遠ざかっていく。やがて車が角を折れ、彼等の姿が完全に見えなくなったところで、エリオ達は窓から離れた。

「いい人達だったね。本当、最後まで、親切にしてくれて……」
「うん。……ちょっと、寂しい、かな」

 解っている。今の自分達には、やらなければならないことがあると。果たさなければならない務めがあると。
 そして本来は、今もまだその務めの最中。だから彼等との出会いは、本当にただの偶然で、幸運。

「キャロ。昨日の夜に言ったこと、憶えてる?」
「うん。憶えてる。ぜったい、忘れない」

 無事、ミッドチルダに戻ることが出来たなら。
 フォッグを倒し、ゴルゴムを倒し、全てを無事に終えることが出来たなら。
 きっとまた、地球に来よう。恵や名護、マスターに、もう一度会いに来よう。
 エリオとキャロは、そう決めた。それが今、再び戦場へ向かおうとする少年少女の、何よりも重要なモチベーションになろうとしていた。

「頑張ろうね、エリオくん」
「頑張ろう、キャロ」

 こつんと、小さな拳を打ち合わせて。
 誓い新たな二人を乗せて、バスは一路、ギンガ達との合流地点へと向かう――





 走り去っていくバスが角を折れ、その後ろ姿さえ見えなくなっても、恵と名護はしばらくの間その場に佇んでいた。
 何となく、そうしていたかったのだ。胸の中にある寂しさが薄れるまで、恵はそこを動きたくなかった。それに名護が付き合ってくれたことが、意外と言えば意外だったけれど。

「……行っちゃった、か」

 それでもやがて、ぽつりと恵は呟いた。
 大きく息を吐いて、それを合図に、意識を切り替える。出会いに別れは付き物だ。かつて青空の会において戦士であった彼女は、それを他の者よりも良く知っている。
 互いに生きているのなら、また会うこともあるだろう。そのポジティブな思考が、麻生……否、名護恵を魅力的な人物として彩るのだ。

「……っ!」
「ん?」

 そんじゃ帰ろっか、と恵が言いかけたその時、不意に名護が何かに気付いたかのように上を向く。とは言えそこにあるのはバスターミナルの天井くらいだ。何を見ているのか見当もつかず、恵は首を傾げた。

「恵、先に『マル・ダムール』へ戻っていなさい。私は少し、用事が出来た」
「……なに? 何か、ヤバめな話?」

 今の名護は戦地へ赴く時と同様の、剣呑な気配を纏っている。現場から遠ざかっていた恵には、それが随分と久しいものに感じられた。
 恵の問いに、しかし名護はゆるりとかぶりを振った。否定の仕草ではあるが、その実、肯定半分の否定半分というところ。
 荒事になるのは確かだが、それほど危険ではないだろう――意訳すれば、そんな感じか。その微妙な曖昧さが遺漏なく伝わるあたり、恵と名護が深いところで通じ合っている事が窺える。

「あたしも行こっか?」
「いや、必要ない。君は夕食の準備をしていればいい――夕食が出来上がる頃には、帰る」
「あっそ。じゃ、そーするわね。さっさと帰ってきなさいよ」

 はたして、その言葉を最後まで聞いていたのだろうか。
 気付いた時には、既に名護の姿はその場になかった。――大した事ではないという割には、随分と急いでいるようだ。或いは、よほど張りきっているということか。
 恵もまた歩き出す。さっさと『マル・ダムール』に戻って、夕食の支度をするとしよう。マスターにも事情を話しておかなければ。エリオとキャロが発ったことと……それに、自分達のことを。
 あーあ、面倒臭い。そう呟く恵の顔には、晴れやかな笑みが浮かんでいた。





◆      ◆







 ターミナルから出発した一台のバスを、頭上から観察する影がある。
 市街地の中心部に位置するバスターミナルは、その周辺を高層ビルに囲まれていて、影はその中の一棟……一際高いビルの屋上から、走り去るバスに視線を向けていた。

 無論、影が見ているのはバスそのものではなく、それに乗り込んだ客の方。異世界からの来訪者である少年と少女を観察、否、監視していたのだ。
 故に、離れていくバスをただ見送りはしない。影はゆらりと実体を得て、そのカタチを現出させる。
 それを一言で表すなら、人の形をした蝙蝠だった。元より蝙蝠という生物には不気味なイメージが付き纏うが、人間蝙蝠の姿はむしろ、剥き出しの筋肉繊維や骨格のせいか、醜悪という印象が先に立つ。

 その人間蝙蝠に、個体としての名前はない。ただ種別として『コウモリ男』と呼ばれるのみだ。ネオ生命体ドラスがその身から生み出した、眷属の一体。
 コウモリ男はずっと監視していた。クモ女の結界から少年と少女が放り出されてから、一刻も離れる事なく。
 あの少年と少女は、ドラスにとって脅威となる存在『仮面ライダー』へ繋がっている――つまりは仮面ライダーの所在を掴むための餌で、囮だ。少年と少女そのものは、脅威の度合いとしてはやや低い。いずれ傷を癒やし復活したドラスが仮面ライダーを縊り殺した後、戯れ程度に惨殺するだろう。

 今はただ、付かず離れずの距離を保ちつつ、その動向を見張るだけで良い。少年の方は勘が良いのか、コウモリ男の視線に気付いている様子も見られたが、恐らく確信は得ていないだろうし、どこから見ているのかを掴む事も出来ないだろう。
 全て順調だ。醜悪な顔面を笑みの形に歪ませ、バスを追跡するべく、コウモリ男が羽を広げる。
 その時だった。

「貴様か。あの子達をじろじろと見ていたのは」
〖!?〗

 不意に背後から声をかけられ、コウモリ男は振り向いた。
 異形の怪人への恐れは感じられない。その声音はコウモリ男を糾弾するかのようだった。果たして振り向いたコウモリ男が見たのは、猟犬の如く剽悍な顔つきの、一人の男。

「ファンガイア……では、ないな。名乗りなさい。今の私は、どんな相手でも寛容に――」

 戯言に付き合っている暇は無いとばかりに、コウモリ男は喉から超音波の咆哮を迸らせた。強烈な高周波が周辺の物体に干渉し、男の周囲で激しい火花を散らす。
 コウモリ男にしてみれば威嚇と目晦ましという程度。これで戦意を失わせ、逃げ出したところを背後から引き裂くつもりだった。だが予想外だったのは、男に全く怯んだ様子がない事。逆に戦意を昂らせ、コウモリ男を睨み据えている。

「話す舌も持たない、ということか。ならば“俺”の名前だけを刻みこむがいい。――地獄の如き暗闇の中であろうとも、太陽の如く輝く、この名護啓介の名を……!」

 そう言い放った男の手には、一本のベルト。ひゅんと振り回すようにそれを腰に巻き、更に男は懐に手を差し入れたかと思うと、電子機器と思しき鉄塊を掴み出す。
 コウモリ男はその時、初めて目の前の男から……名護啓介と名乗った男から、脅威を感じ取った。ただの人間ではない。生物種としては人間でありながら、この男は自分達に匹敵する爪を、牙を持っている。
 右手に掴んだ電子機器と、左の掌が打ち合わされる。電子機器が“着装者”の身体情報を解析し、適格者か否かを判断――無論、もう幾度となくこれを使用してきた名護啓介が、今更不適格であるはずもない。

【レ・ディ・イ】
「――変身!」
【フィ・ス・ト・オ・ン】

 発音一つ一つがぶつ切りの、極めて特異な電子音声。それが起動を告げる合図。
 握り込まれた電子機器が、ベルトのバックルと合体。次瞬、そこから金色に輝く十字の光が射出され、それを基点として、光の甲冑が形成されていく。
 やがて甲冑が全身像を顕わにすると同時、急激に引き戻されたそれが男の姿に重なった――光は実体となり、男の総身を覆う鎧となって顕現する。

 対異種生命体用強化装甲服『ライダーシステム』が一体。
 開発コード『IXA/Intercept X Attacker』。
 2015年現在の仕様、『Ver.XⅢ』。



 通称――『仮面ライダーイクサ』! 



「イクサ、爆現……!」

 コウモリ男へ向け、名護啓介が高らかに言い放った瞬間。
 頭部ヘルメットの顔面部を覆う十字状の装甲が展開、深紅の複眼を覗かせた――同時に放出された熱波が、先の意趣返しとばかりにコウモリ男の周囲で火花を爆ぜさせた。





 一時に比べ――ファンガイアとの戦いが最も激しかった2008年当時に比べ、名護啓介がイクサを装着する機会は随分と減った。イクサが必要とされる局面そのものが減少したのだから、必然とも言える。
 ファンガイアとの長きに亘る戦いが予想外の平和的決着で終結し、続くネオ・ファンガイアとの戦いも終わった今、戦うべき相手がいなくなったのだ。勿論、完全にイクサが無用となった訳では無く、散発的に現れる怪人――『ヤミー』や『ファントム』というコードで呼ばれている――との戦いに使用されてはいるが。

 かつては頻繁に行われていたイクサのアップデートも、この数年でたった二度。それもマイナーチェンジに近いもので、性能アップと言える程ではない。
 ただそれは、決して“イクサという戦力”を錆びつかせた訳ではなく――

「!」

 コウモリ男が羽を広げ、イクサへと向けて突っ込んでくる。瞬時に加速し、全身の質量を威力とする肉弾攻撃。
 名護はそれを、正面から受け止めた。四肢に内蔵されたアクチュエーターが強い負荷に軋みを上げ、小さく火花を散らす。コンクリートの床を削り取るようにイクサが後退するが、それも数メートルのこと。やがてイクサの膂力とコウモリ男の威力が拮抗し、双方が動きを止める。

「むんっ!」

 膠着状態を嫌い、コウモリ男がイクサから離れようとした一瞬。初撃と次撃の間に生じる、ほんの僅かな意識の空白――それを、イクサが衝いた。
 コウモリ男の首を掴み、そのまま弧を描くように投げつけ、地面へと叩きつける。強烈な衝撃にコウモリ男が悶絶し、その隙にイクサはその場を飛び退いて、敵との間合いを取り直した。

 久方ぶりの戦いに臨んで、しかし名護啓介の勘は全く衰えていない。……彼は常に臨戦態勢にあった。幾多もの戦いを潜り抜けた彼は、常に意識を研ぎ澄ませて、再び戦いに臨む時を待っていたのだ。
 イクサの正装着者であるという自覚が、彼に怠惰を許さず。
 しかしその一方で『遊び心』も忘れず、心の余裕を維持している。
 強化服システムとしてのイクサは確かに、それほどの強化を果たしていないものの――戦士としての仮面ライダーイクサは、かつての戦いよりも尚、その強さを増している。

〖……! ……ッ、…………!!〗

 息も絶え絶えという風情で立ち上がったコウモリ男が、甲高い奇声を喚き散らしながらイクサへと向き直る。
 だが次に仕掛けたのは、イクサの方だった。専用武器イクサカリバー・ガンモードの銃撃が、コウモリ男を容赦なく打ち据える。純銀粒子を含んだエネルギー弾は対ファンガイアにおいて絶大な威力を発揮するが、圧縮されたエネルギーと射出時の弾速が作り出す威力は、ファンガイア以外の標的にも充分な脅威として通用する。

 事実コウモリ男は、イクサカリバーの一斉射撃にたたらを踏んだ。総身から滴る体液が満身創痍と伝えている。
 それでも戦意衰えず、イクサを睨みつけていたコウモリ男だったが――不意に彼は身を翻すと、その場から走って逃げ出した。

「! 待て!」

 よもやこのタイミングで逃げるとは思っておらず、結果、名護の追撃は僅かに遅れた。
 名護が出てきた扉から、コウモリ男がビルの中へと逃げ込む。百貨店やショッピングモールに比べればこのオフィスビルは人が少ないが、それでも全くの無人という訳ではない。被害が出る前に仕留めなければ――

「っ!」
「きゃっ!? ちょ、ちょっと、なに!?」

 だがコウモリ男を追って屋内に飛び込んだ途端、そこにいた女性と危うく衝突しかけて、名護は足を止めた。
 そこにいたのは彼の妻、名護恵。バスターミナルで別れたはずの彼女が、何故かここにいる。

「恵……!? 何をしている、先に店に戻ってろと言ったはずだ」
「そ、そうだけどさ。ほら、やっぱり名護くんだけじゃ不安じゃない。あんたにはあたしが必要でしょ」
「…………」

 無言で恵を見つめると、彼女は居心地悪そうに身じろぎした。

「な、なによう」
「……いや、なんでもない。それよりも奴だ。一刻も早く見つけ出して倒さなければ。俺はこの階を探す。君は一つ下の階を探しなさい」

 言って、名護は恵に背を向けた。センサーの知覚範囲を拡大、熱源感知機能も併用し、敵の捜索を開始する。
 一方の恵は名護の指示に頷いたものの、その場を動こうとしなかった。むしろ逆に、そろりそろりと背後からイクサへ忍び寄っていく。

 ……いや、それは既に、名護恵ではなかった。名護恵ではなく麻生恵である――というレトリックを使うまでも無く、それはもう人間ですらなかった。肘から先が黒々とした異形の腕へと変化し、五指の鋭い爪を刃物の如く揃えて、イクサの首筋へと切っ先を向ける。
 全身を覆う強化服の隙間、ヘルメットと胴鎧の間に覗く絶対急所、延髄。
 にぃいいい、と恵が口元を歪める。口の端を限界まで吊り上げた顔は、最早笑顔と呼ぶにはおぞまし過ぎる何かだ。

 否、もう恵と呼ぶことすら正しくない。コウモリ男が自身の特殊能力を使い、恵に化けているに過ぎない。少年と少女を監視していた怪人は、二人を連れ回していた女もまた視界に収めていた。
 今のコウモリ男ならば、名護恵の物言い、動作の癖を、完全に読み取り再現出来る。事実イクサはそれに気付いていない。コウモリ男の化けた恵を完全に信用して、無防備な背中を晒している――

「甘い」

 斬、と刃が肉を、そして骨を断ち切った。
 呆然とした顔の恵――コウモリ男の眼前で、断ち落とされた異形の腕がぼとりと落ちる。
 噴き出す鮮血が床に、壁に、そして天井に飛び散る。だがその血の色は本来在るべき真紅ではなく、重油の如き暗褐色。目を覆う凄惨な光景が、その色彩のせいで現実感に乏しく見える。

「な、な、なんで……名護くん、なんでよ!?」
「……まだ言うのか。救いようがない愚か者だ、貴様は」

 そう、名護は騙されてなどいなかった。彼はとうに、コウモリ男の擬態を見抜いていたのだ。
 そして振り向きざまに奔ったイクサカリバー・カリバーモードの斬閃が、コウモリ男の腕を断ち落とした。言ってしまえばそれだけの事で、それを信じられないのは、コウモリ男ただ一人。

「教えてやろう。恵はもう、俺のことを『名護くん』などと呼ばない――どこから見ていたのか知らないが、最後まで見ているべきだったな」

 ただ。もしこの戦いが、ショッピングモールで恵と会う前だったなら。
 或いは、あの少年と少女がその場に居合わせなかったなら。
 この結果には、なっていない。

「憶えておけ。貴様を倒すのはこの俺だが――貴様は、あの子達・・・・に負けたんだ」

 同時にイクサの拳がコウモリ男の腹部へ叩き込まれ、その身体を再びビルの屋上へ弾き出した。
 悠然と敵へ歩み寄るイクサが、ベルト右腰部のスロットからパーツを一つ抜き取った。金色に輝くそれは、仮面ライダーイクサに登録されたコンバット・パターンを起動させる鍵笛――中でも“決め技”として多用される一つ、カリバーフエッスル。

【イ・ク・サ・カ・リ・バ・ー・ラ・イ・ズ・アッ・プ】

 カリバーフエッスルをベルトのバックル部、フエッスルリーダーへ装填。ぶつ切りの電子音声が響き、ベルトを基点にエネルギーの奔流がイクサカリバーへと流れ込んで、その刀身を光が包む。
 更に放出された余剰エネルギーが、イクサの背で炎の如く光を放った。円を描いて輝くそれは、さながら燃え盛る日輪の如く。

〖――――っ!!〗

 必死に立ち上がり、イクサに相対していたコウモリ男が、この時遂に逃亡を開始した。身を隠して仕切り直すという判断ゆえの逃走ではない、完全に勝ち目が無いと理解し、戦意を失い、戦闘を放棄しての逃亡だった。
 だが遅い。致命的に遅い。既にイクサは刃を振り上げ、必殺の一撃を繰り出す体勢に入っている。だからコウモリ男の逃亡はただ、正面から斬られるか、背後から斬られるかの違いでしかなかった。



「その命――神に、返しなさい!」



 紡がれる死刑宣告と、渾身の斬撃。二つ合わせて断罪執行。
 繰り出されたのは、仮面ライダーイクサ最強のコンバット・パターン――『イクサ・ジャッジメント』。
 真っ二つに斬り捨てられたコウモリ男が、次瞬、木端微塵に爆散する。爆炎と爆煙が屋上を埋め尽くし、しかしすぐに強い風に吹き払われた。そこに残るのは仮面ライダーイクサただ一人。そして変身が解除され、名護啓介が姿を現す。

「…………」

 変身ツール・イクサナックルを懐へ仕舞い込み、名護はふと、先のコウモリ男と同じく、バスが走り去った方角へと視線を遣った。
 先のバスターミナルでは、ありがとうという言葉と共に二人を見送った名護だったが――彼の胸には、棘のように気掛かりが残っていた。

 エリオ・モンディアル。キャロ・ル・ルシエ。異国からやってきたというあの少年少女は、きっと何か、尋常ならざる事情でここへやってきたのだろう。そして恐らく、その“事情”は未だ解決していない。
 もう少し手を貸すべきだったか、とも思う。彼等を監視していた怪人は倒したが、怪人に見張られていたというだけで、彼等が危険な状況に足を踏み込んでいると知れる。見所があると感じた人材に対して、名護啓介は意外と面倒見の良い男だった。
 ただ――

「……いや、必要無いな」

 薄く笑んで、名護は一人頷いた。
 そう、必要無いのだ。誰かを頼らず、自分達で何とかしようとするのなら、それでいい。
 悩みも迷いも、危機も苦難も、結局のところ乗り越えるのは自分なのだから。助けを求めてくるのならまだしも、過度の干渉は妨げにしかならない。

 名護は知っている。人間とファンガイアとの間で揺れていた“彼”の事を。
“彼”もまた様々な出会いや別れ、そして激しい戦いの末、最後には自分の力でそれら全てを乗り越えた。
 エリオとキャロも――きっと、“彼”のように。

「一度くらいは、俺が特訓してやっても良かったか……それは、次の機会だな」

 しかし果たして、その機会は訪れるのか。
 少年少女の事情を何一つ知らぬ名護ではあったが、それでも漠然と、彼は気付いていた――いつか再会を果たすためには、越えるべき障害があまりに多い。





◆      ◆





第弐拾弐話/了





◆      ◆







後悔:

 エリオとキャロにイクササイズ踊らせたかった……!
 まあ、それは置いといて。



後書き:

 という訳で、第弐拾弐話でした。お付き合いありがとうございました。

 かねてからの予告(?)通り、753出演回でした。書きたい書きたいと思ってたので、やっと書けて大満足。中身が釣り合ってるかどうかは置いといてw
 名護夫妻は互いの性格的に『いつまでも仲睦まじい夫婦』よりは『頻繁に喧嘩⇒仲直りを繰り返してる夫婦』な感じかなと思ってこういう形にしてみたんですが、やっぱり夫婦喧嘩とか嫌われるでしょうか。
 恵はかなり面倒見の良い女性なので、エリオやキャロとの絡みは凄い書き易かったんですがw

 ちなみに残念ながら、イクサは今回限りです。光太郎とかはまだしも、名護さんって子供が戦うのを絶対認めてくれないイメージがあるのです。エリオ達と共闘させないのもその辺りが理由で。
 本作に出てくる仮面ライダーは基本的に原作終了後、『2015年前後の仮面ライダー』なので、リリなの側のキャラを導く役割が多くなってしまうんですよね。変化をつける意味でもこういう形にしてみたんですが、ちょっと皆様の反応が不安だったり。

 ギンガと光太郎がどうやって戻ってきたのかは次回で。あと衛司に関しては次々回で。よろしければ、またお付き合いください。




[7903] 第弐拾参話(前編)
Name: 透水◆44d72913 ID:c5d35e7f
Date: 2023/12/29 21:10

 自分が強い、と自惚れた事などなかった。

 ギンガ・ナカジマの技量は誰もが認めるところである。ランクこそ未だ陸戦Aであるものの、実質的にはAA、状況によってはそれ以上の戦闘能力を持つ――以前、高町なのはがそう語っていた事を、スバル経由でギンガ自身も聞いていた。
 とは言え、それで増長するようなギンガでもない。性格的にもそうだが、それ以前の問題として、その才能や能力に反比例するかのように、ギンガには誇るべき戦績がないのだ。

 彼女は捜査官である。誰に勝ったの、幾つ負けたのと、そもそも戦績を比べるのもお門違い。
 そうと解っていながらも、洗脳され妹たちの敵に回った『JS事件』の顛末、そして六課に再出向となってからの対怪人戦を思い返せば、不甲斐ない結果ばかりが並んでいるのも事実。
 無論、ギンガは敗北に腐らない。悔しい思いを腹に収め、力が及ばなかったとして、また鍛練に励むだけの事である。

 ただ――今の自分に迷いがあることを、ギンガは否定できない。

 今のままの自分でいいのか。
 勝利に拘泥しない自分でいいのか。
 そんな迷いを、ギンガは振り払えない。

 ミッドチルダに跋扈する、謎の怪人達。オルフェノク、ネオ生命体、そしてゴルゴム怪人。本能にも等しい悪意と敵意をもって襲いかかる怪人達を退けるには、ギンガの力量は残念ながら不足している。必要な域に達していない。
 鍛練は続ける。だが一朝一夕に強くなれるのなら誰も苦労はしない、それが怪人を相手取って打倒出来る程となれば尚更だ。

 それでも。戦闘に臨む自身のスタンスを変えること、もっと勝利に貪欲となる事は、今からでも出来るはず。決して難しい事ではないはずだ。
『負ければ死ぬ』。『敗北すれば殺される』。故に『殺してでも勝利する』。そのスタンスで敵と相対する結城衛司を間近に見るからこそ、どういう姿勢で戦闘に臨むのかは重要なことだと、ギンガも解っていた。……それが“迷い”となってしまうのは、ギンガ自身が今までの自分を誤りだと思えないからだ。価値ある敗北を是とする思考を、間違いだと感じられないからだ。

 だから、迷う。
 どういう自分であれば良いのか。どういう自分ならこの戦いに勝ち抜いて、生き残っていけるのか。
 その答えを、まだ、ギンガ・ナカジマは見出せていない――





◆      ◆





異形の花々/第弐拾参話





◆      ◆







 敵の攻め手は極めてシンプルなものだった。
 先端に鋭い爪が備わった脚部での刺突と、尾部先端から放出する粘着糸。そのどちらも躱す事は容易く――前者はそのサイズ故に攻撃軌道が単純で、後者は攻撃前に“溜め”の動きを要するためだ――結果としてギンガ、そしてRX共に、未だ直撃を許してはいなかった。

 ただ一方で、ギンガ達もまた、敵に有効打を与えられていない。敵の体躯は四メートル弱、それに見合って間合いも広い。近接戦闘を主体とするギンガは敵の懐に飛び込む必要があり、暴風のように繰り出される敵の攻撃は、それを易々と許してはくれない。
 この怪空間において、ネオ生命体の眷族と思しき怪人・クモ女との戦闘が始まってから、既に十分以上が経過している。空間から弾き出されたエリオとキャロの安否も気掛かりで、半ば膠着状態の現状に、ギンガは少なからず焦れてきていた。

「ッ……!」

 その焦りが、一瞬の隙を生む。
 ブリッツキャリバーの車輪の一つに粘着糸が絡み、ギンガの動きが僅かに乱れた。冷静であれば避けられたはずのミス。ミスと言うにはささやか過ぎるそれは、しかし最悪のタイミングで発生した。迫る爪撃を回避しようとする、その初動を阻害した。

 躱しきれない。そうと判断した時点で、ギンガは思考を回避から防御へと切り替えた。迫る敵爪に自身の掌を翳す――瞬間、掌の先に防御魔法トライシールドが展開される。がきん、という金属音が響き、激しい火花を散らして、クモ女の爪は獲物に届く寸前で停止した。

「――!?」

 否。
 止めていない――止めきれていない。

 トライシールドを構成する魔法陣に、びきりと亀裂が穿たれる。亀裂は見る間に広がって、シールドを維持できなくなっていく。防御は即ち悪手だった。己の力量で止めきれる攻撃か、その見極めを誤った。
 砕き割られたシールドが実体を失うよりも早く、クモ女の爪が突き込まれる。その軌道上にあるのはギンガの心臓。せめてバリアジャケットに魔力を注ぎ込み、防御力を増そうと試みるも、それより早く爪はギンガの胸に到達し――

「トァっ!」

 裂帛が響き、クモ女の爪が――その脚が、半ばほどから斬り飛ばされた。
 横合いから飛び込んだRX、いやバイオライダーが、手にした長剣バイオブレードでクモ女の脚部を断ち斬ったのだ。更に返す刀でもう一本、近くにあった脚をぶった斬る。
 悲鳴のような甲高い叫びを上げて、クモ女ががくりと体勢を崩す。窮地を救われたギンガだったが、礼の言葉を口に上すよりも先に、彼女は次の行動に移っていた。

 切断された脚から体液を迸らせ、クモ女が振り向くが、既にギンガは敵を己の間合いに捉えていた。リボルバーナックルの歯車が回転し、ウイングロードを駆けるギンガの拳に魔力を圧縮していく。
 暗闇に閉ざされた異空間に、落雷の如く轟く打撃音。クモ女の横っ面にギンガの拳がめり込んで、その巨体を大きくよろめかせた。

「…………っ!」

 よろめかせた“だけ”だ。
 確かにダメージは通っているし、それは決して軽いものではない。しかしギンガが撃てるベストショットを耐え切られたのも、また事実。魔力の圧縮と打撃のタイミング、共にこれ以上は望めない程の一撃であったはずなのに。

「リボルケイン!」

 それでもギンガの一撃は、決して無駄ではなかった。クモ女に致命の隙を生じさせた。
 動きを止めたクモ女の腹へ、RXの作り出した剣状のスティック『リボルケイン』が突き立てられる。リボルケインを伝ってクモ女の体内に破壊エネルギーが流し込まれ、膨大なエネルギーの奔流が怪人の背から溢れ出し、激しく火花を迸らせる。

 やがてRXがリボルケインを引き抜いて、その場を飛び退いた。着地した先で反転し、怪人に背を向けながら大きく得物を振り上げる。剣先で『R』を描くが如く振り抜いて、残心の姿勢を決めれば、それと同時にクモ女が火花を撒き散らしながら崩れ落ちた。
 そして、爆発。
 炎と爆煙、光の粒子を撒き散らし、クモ女の巨体が爆散・消滅する。仮面ライダーBLACK RXの必殺戦技『リボルクラッシュ』の威力を――地下通路でネオ生命体ドラスに放った時は結果的に不発に終わっている――目の当たりにして、ギンガは思わず息を呑んだ。

「大丈夫かい、ギンガちゃん」

 変身を解いたRX――南光太郎が歩み寄ってくる。
 ギンガもまたバリアジャケットを解除、光太郎の問い掛けに頷いて応えた。
 ぱりん、と薄い硝子が割れ砕けるような音。と同時、闇空と石柱に閉ざされていた異空間が消失していく。空間の主であったクモ女が倒されたためだろう。
 だが戻ってきた通常空間は、異空間に呑まれる前に居た空港の中ではなく、何処とも知れぬ裏路地だった。

「ここは……参ったな、変なところに出ちゃったみたいだ」
「光太郎さんも……知らない場所なんですか?」
「うーん。日本なのは確かだと思うんだけど」

 言いながら、光太郎は裏路地を出て行く。ギンガもそれに続いた。
 どうやらこの裏路地は市街地のど真ん中、ビルとビルの隙間であったらしい。街の様子を見た光太郎が「ああ」と声を上げる――標識や看板などから、大まかな位置を掴んだようだ。

「新宿みたいだ。空港からはけっこう離れてるけど……うん。海鳴までは空港から行くのと大差無いな」
「そ、そうですか。――そうだ。エリオくんとキャロちゃんは……!」

 戦闘に集中するため押し退けられていた事柄が、思考の中心へと戻って来る。
 すぐさまギンガは念話を飛ばし、エリオとキャロへ連絡を取った。それが繋がるまでの数秒間は焦燥に身を焼かれる気分だったが、幸いなことに彼女の不安は全くの杞憂に終わった。念話は程なく繋がり、僅かなやり取りだけですぐに二人の無事は判ったからだ。

 ただ二人は今、ギンガ達の居る場所から随分離れたところに居るらしい。彼等もまた、クモ女の亜空間から外に出る際、座標を、恐らくは時間軸もずらされて・・・・・落ちたようだ。
 光太郎に確認してみると、合流するには互いに交通機関を幾つか乗り継がなければならないとの事だった。光太郎が同行しているギンガはともかく、全く土地勘の無いエリオ達には難しい道のりになるだろう。

「――じゃあ、いっそ海鳴で合流するのはどうかな。エリオくん達が居る場所からは特急一本で海鳴の近くまで行けるはずだ。そこまで来れれば、後は俺が迎えに行ける」

 合流の難しさに頭を悩ませるギンガに、光太郎がそう提案してきた。少なくとも合流してから揃って海鳴に向かうよりは楽な道程のようで、であればギンガに否やは無かったが、しかし一つ問題があった。
 エリオとキャロは地球の、日本での通貨を持っていないのだ――まさかこんな形で別行動になるとは思っていなかったため、二人にはお金を渡していなかった。路銀が無ければ、光太郎の提案も絵に描いた餅である。

「……え、大丈夫? お金貸してくれる人がいる?」

 ただ予想外にも、その問題はあっさり解決した。
 聞けばエリオとキャロは通常空間に放り出されてから、とある親切な方の世話になっていたらしい。その人が『お金が必要なんでしょ? おっけー、おねーさんが貸してあげる。なーに遠慮してんの、子供なんだから、こういう時は素直に人の厚意を受け取んなさい』と言ってくれているのだとか。

 念話に混じって伝わる感情から、少しばかりの戸惑いと多大な感謝の気持ちが伝わってくる。出来ることならギンガも直接礼を言いたかったが、魔法の資質が無い人間に念話は繋げない。
 仕方なくギンガからの礼をエリオに言付け、海鳴で合流するまでの手筈を二、三打ち合わせて、ギンガは念話を終了した。

「終わったかい? じゃあ行こう。俺達はまず近くの駅から……うん? ギンガちゃん、どうかしたのかい?」
「え? ああいえ、な、なんでも無いんです。行きましょう、光太郎さん」

 怪訝そうな顔の光太郎を急き立てる様にして、ギンガは歩き出す。
 念話を切る間際、キャロから問われた。何かあったんですか、大丈夫ですかと。
 エリオの感情が念話に乗って伝わってきたように、ギンガの感情もまた、二人に伝わってしまったらしい。ましてそれが念話越しの二人だけではなく、光太郎にまで見透かされるあたり、余程露骨に表に出ているようだ。

 ……ギンガの胸にあったのは、悔しさだ。
 ドラスとの戦いでも、蜘蛛女との戦いでも――いや、ミッドでのフォッグやゴルゴムとの戦いでも、自分は何の役にも立てていない。
 ギンガ・ナカジマが力を得た理由も、鍛練を重ねる動機も、ひとえに彼女の優しさ故だ。人を守るために強くなると、力を振るうと決めている。だから彼女は力に溺れたりはせず、しかし今だけは、自身の半端な強さが悔しかった。

 ――これじゃ、衛司くんも守れない。

 深い傷を負ったあの少年は、しかしすぐに……きっと完治を待たずして、戦いの場に戻って来るだろう。その時彼を守るのは自分だと――雀蜂が自身の殺傷本能を押し殺してまで、ギンガ達を助けたように――ギンガはそう決めていた。
 だが。今の自分に、それが出来るだろうか。
 焦りと無力感は不安という黒い雲になって、ギンガの心にほんの僅か、暗い影を落としていた。





◆      ◆







 幸いにもその後、ギンガと光太郎は敵の襲撃を受ける事なく、公共交通機関を利用した半日ばかりの移動の末、無事海鳴市へと辿り着いた。
 遠ざかっていく高速バスの背を眺めながら、光太郎が大きく伸びをする。身体のあちこちからぽきぽきと小気味良い音が鳴ったが、改造人間のそれは果たして大丈夫な音なのかと(生体部分からの音なのか機械化箇所の異音なのか判らない)密かに思うギンガだった。

「やあ、やっと着いたな。バスに乗るのなんか久しぶりだから、ちょっと疲れたよ」
「すみません、わたし達の為に」
「ん? ああいや、そんなつもりじゃないんだ。普段はバイクばかり乗ってるからね、バスや電車は乗り慣れないってだけさ」

 と光太郎は言うものの、彼のバイクが失われたことについてギンガは無関係とも言えない訳で、ちょっと心苦しい気持ちもある。
 もっとも実際にバイクを破壊したのはネオ生命体であって、その意味ではギンガが気に病むことも無いのかもしれない。
 ……まあ、「そうですねわたし関係ないですね!」と言える面の皮の厚さは、あいにくギンガには無縁だったが。

「でも、お気に入りのバイクだったんでしょう? わたし、バイクのことは良く解りませんけど、バイク乗る人って凄くこだわりがあるって……」

 機動六課ではヴァイス・グランセニックが筆頭と言えるし、ギンガの古巣である陸士部隊でも何人かがそうだったのだが、バイク乗りはとにかくこだわりが強いものだ。
 とは言えそれはギンガの周りのバイク乗り達が偶然そうであったというだけで、決して一般的という訳でもないのだが、とにかくギンガにとっては『バイク乗りにとってのバイク=宝物』という認識が普通だった。

「ん……そうだね、大事に乗ってたよ」

 事実、そう口にする光太郎の声音や表情からも、愛車を失ったのが痛恨事だと知れる。

「まあでも、俺の一番の相棒は別にいるからさ。だからギンガちゃんも、ほんと、あまり気にしないでくれよ」
「はあ……」

 そう言ってくれるのは嬉しいのだが、しかし弁償しますとも言えないギンガには(エリオ達同様、彼女も地球では文無しである)、光太郎の厚意を有り難く受け取る以外にない。
 ……僅かな後ろめたさのせいか、ちょっとだけ気になったことを、ギンガは訊けなかった――『相棒』と口にする光太郎が、どこか誇らしげな顔をしていた理由を。

「それより、これからどうしようか。エリオくん達が到着するまで、まだ時間があるな」
「そう……ですね。わたしはこの町は初めてなので、どこか二人を待っていられる場所は……」

 エリオ達が降りる予定の駅の近くで待っておこうか。そちらの方がすぐ合流出来るはずだ。しかしその駅は果たしてどっちの方向だろう――ぐるりと周囲を見回したギンガの目が、木立の隙間の向こうで煌めく何かを見付けた。
 海である。凪いだ水面が鏡のように陽光を反射し、きらきらと輝いている。
 ギンガと光太郎が降りたバス停は、海鳴市民の憩いの場、海鳴臨海公園のすぐ近くだった。真冬の海から聞こえてくる潮騒の音と、季節柄少し薄い潮の香りに引かれ、知らず、ギンガはそちらへと一歩踏み出していた。

「ああ、海か。いいな、俺もしばらく海なんか見てなかった――行ってみようか、ギンガちゃん」
「え――あ、はい。いいですか」

 もちろん、という光太郎の言葉を嬉しく思いながら、ギンガは臨海公園へと向かって歩き出した。
 ……別段、ギンガは海が大好きという訳でもない。海を見ても広いな大きいなと思う程度だ。だからこの日、臨海公園へ足を向けた理由を聞かれたとしても、『何となく』以上の答えは返せない。
 しかしいざ間近で海を眺めれば、例え異郷の海であったとしても、やはり何かしら感じるものがあった。

「うーん、少し冷えるかな。何か温かいものでも買ってくるよ。ちょっとここで待っててくれ」

 季節は冬。今日は全国的に晴天に恵まれてはいるのだが、気温自体はそこまで上がらず、ましてここ臨海公園は海風が吹き付けてくるせいか、だいぶ肌寒い。
 ギンガが遠慮の言葉を口にするより早く、光太郎はその場を離れていった。来る途中にコンビニがあったから、恐らくそこへ向かったのだろう。
 一人残されたギンガはしばし立ち尽くし、ただそれも意味がないと気付いて、やがて近くにあったベンチへすとんと腰を下ろした。

「……ふう」

 降って湧いたように生じた暇な時間。持て余す、というのが正直なところだった。出来る事が無いと言うより、何をしても半端で終わってしまうような、使い道に困る短い空き時間。
 ……半端で終わる。何の気なしにふと頭を過ぎった表現だが、改めて考えてみれば、これ以上無い程にギンガ・ナカジマの現状を表しているように思えた。

 何も出来ない。
 何も出来ていない。
 己が異邦人である事を考慮しても、何の役にも立っていない。路銀も道行きも……何より戦いにおいても、衛司や光太郎に頼り甘えるばかりの、中途半端な宙ぶらりん。

 そう自覚してしまえば。ただ座っている事が、我慢出来なくもなる。

「――ふっ!」

 気付けばギンガはベンチを離れ、身体を動かしていた。拳を突き出し、脚を振り上げ、挙動一つ一つを確かめるように、空を打つ。
 シューティングアーツの“型”の反復練習。ギンガにとっては日常の訓練である。だがその訓練に、今はまるで没頭出来ない。
 理由は解っている。ギンガの中の何かが、自分の訓練を疑っているからだ。

「けど――それでも……!」

 正しい打撃、確かな一撃。
『刹那の隙に、必倒の一撃を叩き込む』。かつて母から伝えられた、シューティングアーツ、ひいては打撃系魔導師の基本姿勢。これを突き詰めた先では、出力、射程、速度、防御能力、そして彼我の実力差――その全てが無為となる。

 恐らくギンガ・ナカジマは、その理想形に極めて近い位置に居る。
 妹と比べ、一撃の威力は欠けるかもしれない。だが急所を穿つ攻撃の正確さ、精妙さは、決して劣っていない。それが自惚れでない事は、仲間達の誰もが知っている。

 だが。その正確な打撃が、怪人との戦いで、何の役に立った?
 先の戦い、異空間でのクモ女との戦いで、絶妙のタイミングを制し放たれたギンガの一撃は、敵を仕留めるに至らなかった。非殺傷設定であったとしても、昏倒にすら追い込めなかったのだ。
 その時、痛感した。……自分は、戦力足り得ない。

「私は――」

 ミッドチルダに戻るまでに予想される、ネオ生命体との戦い。そしてミッドチルダで待っているであろう、フォッグ及びゴルゴムとの戦い。
 そのどちらにおいても、今のギンガ・ナカジマでは、役立たずだ。

 相手が人間であるならば、人体構造に基く身体急所を知悉している。しかし怪人は、例え同じ人型生物であったとしても、構造も急所も、それ以前に身体強度においても、全くの別物なのだ。
 故に、対怪人のアプローチは、対人間とは全く異なるものにならざるを得ず。

 しかし、そうであるならば。……自分は一体、どうすれば良いのだろう。
 今まで通りの鍛錬を続けて、果たして怪人に勝てるのか。
 いや違う、問うべきはこうだ――今まで通りの鍛錬で、果たして間に合うのか、だ。

 ギンガの戦う術はシューティングアーツ。捨てる気も転向する気もない。
 しかしシューティングアーツの技を『怪人に通用する領域』にまで研ぎ澄ますために、あとどれくらい時間があれば良い?

「――私はっ……!」

 だから、焦る。
 力を必要とする時は間近に迫っている。なのに、それに間に合う自分はまるでイメージ出来ない。
 逆に。半端な力量で死地に臨んで、挙句足手纏いになる己が……誰も守れない自分の姿が、ありありと想像出来る。
 絶望的な未来図を吹き払うように、ギンガは拳を、脚を、更に加速させて――



 ――ぱぁんっ!



「え? ――あ、ご、ごめんなさいっ!」

 身体を動かしながらも思考に没頭していたせいか、前方に現れた人影に、ギンガは気付けなかった。
 繰り出した左拳が相手の掌を叩き、乾いた打撃音が周囲に響く。

 次瞬、その意味を理解して、ギンガは蒼白となった。第三者の接近に気付かなかったばかりか、拳を当ててしまった。拳士としてあるまじき失態……というか普通に暴行傷害である。ミッドチルダならば管理局員の不祥事として新聞沙汰になりかねない。
 反射的に謝ったギンガだったが、頭を下げたその時、別の意味の驚きに目を瞠った。無意識の内に放った一撃、つまりは手加減など一切為されていない一撃を、“受け止められた”のだ。

 思わず顔を上げたギンガが見たのは、二十代後半……或いは三十になって間もない年頃の、一人の男。

「…………!」

 その立ち姿を一目見ただけで、驚きは納得に変わった。
 隙が無い。ただ佇んでいるだけなのに、まるで巨木のような安定感がある。筋肉の付き方、重心の置き方……何かしらの武術を修め、それを極めた人間にしか出来ない佇まいであった。

「迷いのある拳だ。失礼かとは思ったんだが、確かめさせてもらったよ」
「あ、そ、その……すみません」
「いや、謝られることじゃない。ただちょっと気になったんだ。君のような女の子が、拳に迷うなんて珍しいからね……ああ、今はこういう言い方をするとセクハラになるのかな。古い人間なんだ、気を悪くしたらすまない」
「い、いえ、気にしてませんから」

 古い人間……見た目の割に、高齢の人なのだろうか。
 高町なのはの母やフェイト・T・ハラオウンの義母は実年齢に見合わぬ若々しさだというが、或いはそれと同じ人種なのかもしれない。
 さておき、意図せずとは言え拳を当ててしまったばつの悪さに恐縮するギンガをじっと見詰めて、「ふむ」と男は頷いた。

「迷いと言うよりは……焦り、なのかな。一刻も早く強くなりたいのに、今のままで強くなれるのか、そこに確信が持てない」
「そんなこと……いえ、――はい。判っちゃいますか」
「拳士の拳は、何よりも雄弁なものさ。その焦りは、俺にも憶えがあるよ……俺の時は、師匠が正してくれたけれど。君の師匠は? 指導してくれないのかい?」

 男に悪気は無い。そう解っているから、思わず口を噤んでしまう。
 ギンガの師は母、クイント・ナカジマだ。今は亡き彼女から、ギンガは戦う術を、シューティングアーツを教わった。拳士としての技も、心構えも。

 もし母が生きていたら、今の自分に何と言ってくれただろう。何を示してくれただろう。或いは彼女の夭折によって、伝授されなかったシューティングアーツの秘奥……それこそ、今の自分が求めるものではないだろうか。
 そう考える事自体が焦りの顕れ、弱気の顕れであると、自覚しているのに。
 思考はどうしても、そこに行き着く。

「……君は、」
「おおい、ギンガちゃん。飲み物なにが良いかな? 好きな方を選んで――あれ? ……沖さん?」
「光太郎くん……?」

 黙り込むギンガにある程度の事情を察したのか、男は俯く少女に声をかけようとして――しかしその寸前、戻ってきた光太郎の声が割り込んだ。
 思わず顔を上げたギンガが呼びかけに応えるよりも早く、光太郎が男の存在に気付く。怪訝そうな顔で駆け寄る光太郎が「ご無沙汰しています、沖さん」と挨拶しているところを見るに、どうやら光太郎と男は対等の友人と言うより、緩めの上下関係……学校か職場の先輩後輩に近い関係であるらしい。

「光太郎さん、お知り合いなんですか?」
「ああ、俺の先輩なんだ。……その、学校の、って訳じゃないんだけど」

 先輩後輩、という印象は間違っていなかったらしい。ただ少し言葉を濁してはいるが、“学校の先輩”ではない、という点は気にかかった。言い方から察するに、職場の先輩という訳でもないだろう。
 ということは、つまり。

「じゃあ、貴方も・・・……!」

『仮面ライダー』の、一人なのか。
 言外の問いに、男は薄く笑んで頷いた。

「赤心少林拳、沖一也だ。よろしく」
「あ――しゅ、シューティングアーツ、ギンガ・ナカジマです。よろしくお願いします」

 流派の名乗りと共に改めて差し出された掌を、ギンガは握る。
 先に拳を受け止められた時と同様、僅かな接触でもその練度が伝わってくる。恐らく拳士としての実力は、ギンガはおろかクイントをも上回るだろう。

 武術家は時に、僅かな挙動、僅かな気配だけで彼我の実力差を測り、イメージでの攻防を繰り広げる。だが今、男……沖一也のどこにどう打ち込んだとしても、攻撃が通る未来図は見えない。不意を打っても、魔法を使ったとしても、何も変わらず。
 赤心少林拳なる流派に聞き覚えはなかったが――ミッドチルダに地球式武術の道場は幾つか存在しているが、どれも空手や柔道といった地球において特にメジャーな格闘技ばかりだ――その熟練たる沖一也を見るに、知名度など何の測りにもならぬ必殺拳法であろう事は、容易に察しがついた。

「けど沖さん、どうしてこんなところに? ――もしかして」
「ああ。結城さんに呼ばれたんだ。俺だけじゃない、他の皆もじき、此処に来る」
「ユウキさん……?」
「ん、ああ。俺達の仲間さ」

 衛司と同じ姓。地球ではそれほど珍しい名前ではないらしい(以前に衛司がそんなことを言っていた気がする)が、このタイミングで出てくるその名前に、偶然とは言い切れない何かを感じる。
 実際、それは偶然などではなかったのだが……その辺りの事情をギンガが知るのは、もう少し先の話だ。

「真くんや勝くん、耕司くんはどうも連絡が付かないらしいが――俺は偶々近くに居たから、一番乗りだ。……大きな戦いがあるんだろう。事情は君の方が詳しいかな、光太郎くん」

 ちらりと視線をギンガに向けて、一也が言う。
 光太郎も真剣な顔で頷いた。仮面ライダーが一つ所に揃うとなれば、それは“世界の危機が此処で起こる”と同義である。その重大さを知ればこそ光太郎の顔に余裕は薄く、知らぬギンガもまた、戦いの予感を覚えていた。
 もっとも。その予感はやはり、自身の非力への焦りを掻き立てるばかりだったのだが。

「ふむ。……少し早く来過ぎたかと思っていたんだが……かえって好都合だったかもしれないな、これは」

 独語と共に、数秒ほどの思考。やがて何か本人にしか判らない納得に至ったらしく、一也が光太郎に向き直った。

「光太郎くん。少しの間、彼女を俺に預からせてくれないか?」
「え……!?」
「ギンガくん、だったね。俺も拳士だ。君の焦りに、俺が手を貸せることもあるだろう――どうかな。俺と来ないか」

 思いがけない申し出に声を上げたのは光太郎だったが、ギンガも同じ気分だった。
 この状況で彼が口にした「預かる」という言葉の意味を、よもや間違えるはずもない。
 目を丸くするギンガへと視線を移し、一也は本人へと誘いを向ける。その眼差しに洒落や冗談の色は欠片も無く、彼女の意思を問うている。

 もっと強くなる気はあるか。
 俺の修行を、受けてみる気はないか。

 ギンガの答えは、問われる前から決まっていた。

「お願いします! ――強く、なりたいんです!」

 守るために。
 負けないために。
 強くなる理由を、ギンガ・ナカジマは見失っていない。だからこそ己の無力に焦りを覚え、故に誘いへ即答出来る。
 そして、その答えに――良い答えだ、と満足気な笑みを浮かべて、一也は頷いた。





◆      ◆







 エリオとキャロの迎えを光太郎に頼み、ギンガは一也に連れられ、修行地へと赴いた。
 海鳴市から県境を一つ二つ跨いだ、関東地方某県の山中――そこにある、赤心寺の隠れ寺。かつて一也も一敗地に塗れた折、その寺に籠り、己を鍛え直したという。
 道なき山道、獣道を進む事暫し。慣れもあるのだろうが、険しい道を一也は涼しい顔で上っていって、ギンガはついていくのが精一杯。とは言え彼女も素人ではない。一也の姿を見失う事も引き離される事もなく追っていけるのは流石と言えた。

 やがて鬱蒼と生い茂る木立の彼方に、件の隠れ寺と思しき建築物が見えてくる。ようやく到着かとギンガは内心安堵して、
 その時だった。

「…………」
「? 沖さん?」

 ふと一也が足を止め、その背を追うギンガも同じく足を止める。
 何かあったのかと一也の名を呼ぶが、一也がそれに応えるよりも早く、左右の茂みから飛び出してくるものがあった。
 狐狸の類か、物の怪か。否、それはまだ年若い、一組の男女だった。
 二人とも、年の頃はギンガより二つ三つ年上というところ。確か功夫着と言ったか、武術の修練の際に着用する衣服を纏っている。男の方が一也の、女の方がギンガの前にそれぞれ降り立って、彼等は誰何も無くギンガ達へと襲い掛かってきた。

「――ホァチャッ! ホォォォ……ァアアチャァッ!!」

 斬りつけるが如き甲高い怪鳥音を喉から迸らせ、男が仕掛ける。
 四肢を廻し、弧と円を描く動きから繰り出される、目にも留まらぬ連撃。掌打、手刀、肘、膝、足刀。全てが人体急所を的確に狙い、しかしその全てが、一也の防御に打ち落とされる。

 傍目には一也が防戦一方の様相だが、多少なりと武の心得が有れば、一也は未だ攻撃に転じていないだけで、敵の攻め手を捌きつつ“見”に徹しているのだと見て取れる。
 ただ男の攻撃が苛烈であることも確かで、攻勢のまま一也の防御を削り切る可能性も、まだ否定できない。

「余所見はしない方が良いわね」

 ギンガの意識が一也と謎の男との攻防に向いた一瞬、女が一気に間合いを詰め、ギンガへと拳を打ち込んできた。
 その攻撃は男と比べ、どこか直線的。しかし動きの端々や攻撃の繋ぎ方に同種の基礎が窺えて、彼等が同門であることはすぐに判った。
 無論、ギンガも無抵抗ではない。女の攻撃、頭部を狙う右拳を横から弾いて逸らし、続く左拳を身体の発条を活かして受け止める。ここから敵の腕を引き込み、カウンターの蹴撃を――

「疾ッ!」
「……!?」

 受け止めたはずの拳が、今一度の衝撃を突き込んできた。
 腕を畳みつつ踏み込んだ女が、踏み締めた地からの反動を足腰の回転で力と変え、ほぼ零距離の間合いから再度の打撃を繰り出したのだ。無寸勁と呼ばれる、密着状態から放たれる打撃法であった。

 その威力、その精度に内心舌を巻きつつも、ギンガは冷静だった。既に彼女の意識は戦闘時のものに切り替わっている。時空管理局の捜査官として幾つもの鉄火場を潜った身だ、不意打ちの一つや二つに動揺するほど初心ではない。
 無寸勁の衝撃に敢えて逆らわず、その場を大きく飛び退く。管理外世界の住人が相手であるためバリアジャケットは展開せず、しかし魔力の流動だけは強めて身体能力を底上げし、相手へと向かい身構えた。

「へえ――」
「行きます」

 今度は、ギンガの番。
 離れた間合いを再び詰めて、女へと左拳の一撃を、続く連撃を打ち込んでいく。
 攻撃魔法は使わない。先の一合で、相手の技量は自分よりやや上と解っていたが、だからこそこの世界の住人にとって隠し札となる『魔法』を軽々に見せることは出来ない。
 故に。ここで頼みにするべきは、ギンガが練り上げたシューティングアーツの技だけだ。

「……っ! 意外とやる――」
「哈ッ!」

 一気呵成に、ギンガが攻め立てる。
 初見の、見慣れぬ武術への対処に、女はコンマ数秒の思考を費やさざるを得ない。もっともそれはギンガも同じで、であるからこそ防御に回る不利を、相手に押し付けるのが最良。攻撃は最大の防御。ある意味使い古された言い回しは、確かに真なのだ。
 だが女は徐々に、ギンガの攻め手に対応しつつあった。技を、動きを見切られる前に、決着を付けなければならない。ギンガの攻勢が一段と加速して――その時だった。



「ォォォォアチャァッッッ!!」
「噴! ――トァアアアッ!!」



 響き渡る裂帛の気合。炸裂する轟音。
 刹那、ギンガと女は打ち合いを中断し、それぞれ後方へと飛び退いた―― 一瞬前まで彼女達の居た空間に、半ばほどから真っ二つに圧し折られた樹木が倒れ込んでくる。

 樹のあった方向へと視線を向ければ、地に残った根元と、それを挟んで拳を突き付け合う一也と男の姿。
 太い樹の向こうへ身を隠した相手に、互いに幹を貫通する大技を繰り出したのだと……幹の中心で衝突した技の威力が、巨木を爪楊枝が如くに圧し折ったのだと、そう知れた。

「また腕を上げたな、流星くん」
「今日こそはと思っていたんですけどね。まだまだです」

 ふ、と互いの顔に笑みが浮かぶ。同時に構えを解いて、張り詰めた空気が途端に緩んだ。

「え? …………え?」
「ごめんね、いきなり。――結構やるわね、貴方。赤心少林拳の門弟ではないみたいだけど……どこの流派?」

 ついていけないのはギンガである。謎の襲撃者は何やら一也の知り合いな様子で、数秒前まで向かい合っていた女はやけにフレンドリーに話しかけてくる。

「ああ、すまない、ギンガくん。彼等は俺の友人なんだ。赤心少林拳の分派で、星心大輪拳という流派の門弟でね。今回の修行の手伝いをお願いしたんだ」
「はあ……あ、えっと、ギンガ・ナカジマです。お世話になります」

 呆けた顔を慌てて引き締め、一也の友人だという二人へ礼儀正しく頭を下げる。
 いきなり襲われたギンガではあるが、別に遺恨は残っていない。むしろ実力ある拳士と手合わせの機会が得られた事は僥倖と思うし、これから始まる修行のために来てくれたというのなら、こちらが礼儀を払うべき相手である。

 一方で、二人の側はやや悪趣味な“挨拶”だと自覚していたのだろう(一也だけならともかく、同行していただけのギンガにまで仕掛けたのはさすがにやり過ぎと今更ながら思ったようだ)、ギンガの純朴な反応に戸惑ったように顔を見合わせて苦笑する。
 そうして男の方が歩み出て、ギンガへと手を差し出してきた。

「朔田流星だ。よろしく」
「インガ・ブリンクよ。よろしくね」

 男――流星、そして女――インガと、それぞれ握手を交わし。
 握った手から伝わる、彼等の実力。それだけの手練れを招集して行われる、これからの修行。ぶるりと身が震えたのは、恐れか、それとも武者震いだろうか。





 赤心少林拳の源流は、古代中国発祥の武術とされている。
 二十世紀初頭、戦火の暗雲が世界を覆わんとしていた頃。この武術を修めた一人の拳士が大陸より日本に渡り、関東地方は秩父連山での山籠もりの末に、一つの流派を開くに至った。これが、今で言う『赤心少林拳』である。

 一方、源流となった武術はその後も中国奥地で伝承され続けた。
 本来的に俗世と関わらぬ秘拳でありながらも、後に大陸に吹き荒れた戦乱――日中戦争、国共内戦――においては、門下の拳士達が民を守るため戦ったという。

 だが戦乱の果て、ようやく訪れた平和の先で、彼等は未曽有の災厄に見舞われた。
 戦乱を収め、大陸唯一の国家機関となった中国共産党の政治闘争。これに端を発する改革運動……文化大革命である。

 改革の名の下に、思想、宗教、風俗、習慣、あらゆる文化が弾圧され、迫害され、破壊された。
 濁流の如き世の流れに、中国武術の各流派も無縁ではいられず――中国武術は伝統的に道教や仏教といった宗教と関わりが深く、それが災いした面もあった――多くの武術家や武術の門派が大陸を離れ、華僑と呼ばれる海外在住の同胞を頼りに、台湾やシンガポール、そして日本へと逃れた。

 結果、広い大陸では出会う事のなかった諸門派が、逃れた先の異国で接触する事態も多発した。それは門派同士の抗争を生む事もあれば、技術交流によって武術としての洗練・発展に繋がる事もあった。
 時には門派の統合や吸収も起こり、特に日本においてはこの傾向が強く、やがて統合を繰り返す諸門派は赤心少林拳の源流武術を中核として、新たな門派『星心大輪拳』として完成を見る。

 そして星心大輪拳の成立に際しては、日本での先達たる赤心少林拳が様々な面で協力・援助を行った。
 二門派の友好関係はそこから始まり、後に赤心少林拳が『ドグマ帝国』と呼ばれるテロ組織との抗争で壊滅した後には、遺された寺院や土地の権利、秘伝書などの管理を星心大輪拳が請け負ったのだという。

 今回の修行地として訪れたこの隠れ寺も、星心大輪拳の門弟が普段の維持・管理を行っているのだと、インガ・ブリンクはそうギンガに教えてくれた。

「本来は赤心少林拳の継承者の沖さんに、全てお返しするべきなんだけどね。本人の希望で、星心大輪拳わたしたちがまだ預かってるの。いつか沖さんが弟子を取って、赤心少林拳を継承させたら、その時にお返しするって――てっきり、貴方がそうだと思っていたんだけど」
「……ごめんなさい。わたしは、別の流派で……」
「ああ、責めてる訳じゃないのよ? ごめんね、言い方が悪かったわ。とにかくそういう経緯があるってだけ。――さて、着替えは終わった? 下着、私のしか無いんだけど。キツくない?」
「だ、大丈夫です。……その、ちょっと、大きいくらいで」

 赤心少林拳ゆかりの隠れ寺に到着して後。沖一也はまず、ギンガに着替えを命じた――ギンガの服装は時空管理局の制服姿で、捜査官が着るものだからそれなり以上に動きやすい服ではあるのだが、やはり修行や稽古に向いた服ではない。
 一也が流星に連絡を取った際、女性用の稽古着を一着用意してくれと頼んでいたらしいのだが……一也も流星も、やはりそこは男ということで、下着やら何やらというところには無頓着。そもそも稽古着を“一着”用意してという時点で着替えとか何も考えていない。

 で。たまたま居合わせた(流星の休暇にくっついてきたらしい)インガがその辺りに気を回して、諸々用意してくれたのだとか。気の利かない男どもが揃ってばつの悪い顔をしていたのは余談である。
 なので、まあ、渡されたスポブラがちょっと緩いような気もするのは、我慢するべきか。

「ああ、来たか。準備は良いかい?」
「はい。よろしくお願いします!」

 寺の境内に出ると、こちらも空手着に着替えた一也が待っていた。少し離れたところに流星が佇み、インガもそちらに合流して、邪魔にならないよう見守っている。

「良し。じゃあ、まず、少しだけ組み手をしてみよう。……『魔法』が使えるんだったね。何を使っても構わない。本気で来てくれ」
「え、でも……」
「大丈夫だ。気にしないで――かかってこい」

 そう言って、一也は身構えた。
 ギンガが魔法を使えるという事は、光太郎から予め聞かされていたのだろう。その上で、魔法を使っての戦闘を要求している。
 相手を侮っている訳ではないと、すぐに判った。構えた一也には一分の隙も無く、例えギンガが何を繰り出そうと応じてのける腹でいる事は……それが可能である事は、一目で知れた。

「ブリッツキャリバー」
【了解】

 待機状態のブリッツキャリバーが主の意思に応じ、左拳にリボルバーナックルを、両足にローラーブーツを展開する。スピナーが回転を始め、魔力の圧縮を開始した。
 視界の端で、流星とインガが驚きに目を見開いているのが判る。どうやら彼等は魔法について、ひいてはギンガの素性についても、あまり知らされていなかったらしい。説明するのは後だ。今は目の前の拳士に、全神経を集中させなければ――

「いきます……!」

 魔力を推力へと変換、靴裏の車輪が地を噛んで加速を始め、ギンガの身体を一瞬で最高速へと誘い――そしてほぼ同時に、一也が踏み込んだ。
 直線加速で敵との間合いを詰め、一気呵成のコンビネーションで敵を仕留めるのがギンガ・ナカジマの基本スタイル。彼我の間合いを完璧に把握する距離感覚が為せる技。

 故に一也の対応、“待たずに踏み込む”は、ある意味での最適解だった。
 加速に乗る前に――距離を詰められる前に――間合いの調節の、主導権を奪う。

 だがギンガも、相手のそういった対応を考えていなかった訳ではない。そうした処方の相手が、これまで居なかった訳でもない。ブリッツキャリバーの車輪が回転速度を上げ、ギンガを更に加速させる。
 狙うべきは連撃ではなく、必倒の一撃。ギンガ・ナカジマの渾身を、相手の体勢が整う前に叩き込む。

「…………っ!」

 一也はそれを誘っていたのだと――連撃という選択肢を潰したのはそのためだと――繰り出す拳が相手へ届くコンマ数秒の間に、ギンガは気付いた。
 ギンガを待ち受けるのは、花を包み込むような、独特の構え。吸い込まれるように繰り出された鋼拳が、次瞬、高圧電流の炸裂めいた音と共に捌かれ、弾かれる。

 渾身の一撃を受け止められたのなら、或いは躱されたのなら、まだやりようはあっただろう。だが捌き、弾いて、勢いを逸らす一也の防御技法は、ギンガの対処を一手遅らせた。
 急ブレーキをかけた車輪が負荷に軋む。地面を殴りつけることで強引に速度を落とし、ギンガは再び一也へと向き直り、再加速に入ろうとして――

「ィィヤァアッ!!」

 眼前に突き出された拳に、決着を悟った。
 拳圧がぶわりとギンガの前髪を巻き上げる。眉間より僅か一センチ先で停止した、寸止めの拳。にも拘らず、ギンガは首から上が吹き飛ばされたかのような感覚を覚えていた。
 武装もしていない生身の人間を相手に魔法を使い、全力で打ち込み、しかしそれをいとも容易く捌かれ、必殺必至の一撃を打ち込まれた。真剣勝負であればどうなっていたか、考えるまでもない。
 言い訳の余地など欠片も無い、完敗であった。

「……ありがとう、ございました」
「うん。――良く解った、ギンガくん」

 今の僅かな手合わせで、一体何が解ったというのか。ギンガの弱さか、不甲斐なさか。
 問い質したい気持ちをぐっと堪え、直立不動で次の言葉を待つギンガに「そう固くならなくても良いさ」と苦笑気味に一也が言う。そうして彼はつい先程までギンガが着替えていた寺の本堂を指し示し、そこで修行を行う旨を告げた。

「――さて。それではこれから、君に赤心少林拳の極意を伝えよう」
「極意……!」
「勿論、赤心少林拳の修行を積んでいない君に、いきなり『技』を伝授は出来ない。赤心少林拳の技は赤心少林拳を扱うための身体を作って、初めて使えるものだ。君の武術、シューティングアーツもそうだろう?」

 頷く。
 基礎鍛錬の重要度とは、即ちそこにある。各々の武術によって使い手に何を要求するのかは異なり、そして武術の技とはそれを行使するための土台、即ち肉体あってのものだ。
 強靭な足腰、鋭い反射神経などはどんな武術においても重視されるが、やはり奥義や秘伝といった技の修得には、その武術を使うことを前提として、相応に仕上がった身体が必要とされる。
 今ギンガが赤心少林拳の技を学んだとしても、或いは一也にシューティングアーツの技を伝えたとしても、それは中途半端なものにしかならないだろう。

 故に。伝えるのは『奥義』ではなく、『極意』。
 赤心少林拳の“在り方”の、その真髄。
 それこそが、ギンガ・ナカジマを更なる高みへ進ませるはずと。

「ギンガくん。座禅は出来るかい?」
「は――はい。以前に、父から教わりました」
「うん。じゃあ、そこで座禅を組んでみてくれ。……ああ、デバイス――だったかな。それは、うん、インガくんに」

 言われるがまま、ギンガはその場に腰を下ろした。近付いてきたインガにブリッツキャリバーを預けて(相棒を手放す事に不安はあったが、ギンガはそれをぐっと呑み込んだ)、座禅を組む。
 流星が蝋燭と燭台を用意し、炎の揺らめきに横顔を照らされた一也が、一つ頷いて言葉を続けた。

「じゃあ、ギンガくん。最初の修行だ」
「はい」

 何を命じられるのか。どれほどの苦行なのか。不安に思う気持ちは勿論あるが、それに増してギンガの胸には、強い決意があった。
 強くなれるのなら、どれほど辛い修行にでも耐えてみせる。皆を守れる自分になるために。
 腹の底で固めたギンガの覚悟は、しかし次の一也の言葉に突き崩された。

「何もしてはいけない」
「…………はい?」
「これから、俺が良しと言うまでだ。一切の稽古を禁ずる。型稽古。筋トレ。走り込み。全てだ」
「え――え、えええ? す、全てですか? 何もしてはいけない?」
「そうだ。座禅だけだ。食事などの世話はインガくんに頼んである。君は修行に集中するんだ」
「集中って……」

 身体を動かすことは禁止。ただ座禅を組むだけ? それが修行? それに集中しろと?
 そう問い質すギンガの視線に答えず、一也が踵を返す。そのまま本堂から出て行こうとする彼の背に、思わずギンガは呼びかけて――
 ふと一也が足を止め、肩越しにギンガへ振り返る。

「赤心少林拳の極意は、『気に転ずる』ということ。大気を身体の隅々にまで染み透らせ、自らの肉体を大気と化すことだ」
「え――」
「まずは、冷気の中に身体を置くことから始める。冷たい大気で、身を清める……俺の修行は、そこからだ」

 驚くほどの気安さで、さらりと極意は伝えられた。
 思わず座禅を解き、立ち上がりかけたギンガが、その言葉に……それが意味するものに気付いて、動きを止める。
 彼女も拳士だ。各流派において『極意』とされるものがどれほどの重みを持つか、今更説明されるまでもなく理解している。――だからこそ、その『極意』をこうして気安い口調で伝える、一也の意図を悟った。

 つまるところ、言葉だけで伝わるものではないのだ。
 それを実感し、体得するためには、言葉以上のものが要るのだと。





◆      ◆







「もう少し教えてあげなくて良いんですか、沖さん」

 明日の朝、またここに来る――ギンガにそう言い置いて、一也と流星は寺を離れた。
 道とも呼べぬような獣道を歩く中、ふと流星がそう問いかけてくる。

「必要ないさ。言葉で通じるものじゃない」

 赤心少林拳の極意を、それこそ一也は何度となく師から伝えられていた。
 変身の呼吸を掴むため、赤心寺で修行を重ねた時も。一敗地に塗れ、隠し寺での山籠もりを行った時も。師は常に、沖一也へと伝えてくれていたのだ。

 だが、それはやはり言葉でしかなく、知識にしかならない。いつだって一也が極意を真に体得したのは、己を限界にまで追い込む荒行の果てだった。
 そしてギンガも、今の自分にはその荒行が必要だと悟ったのだろう。稽古を禁ずるとだけ言い残し、去ろうとする一也を困惑しつつも引き止めなかったのは、そう理解していたから。

「じゃあ、沖さん――ギンガくんにも、『梅花』の技を?」
「いいや」

 続く流星の問いに、一也はかぶりを振った。

「赤心少林拳の極意は、決して一つの“型”に囚われるものじゃない。俺はここで、『梅花』を掴んだが――ギンガくんが俺と同じものを見出すかどうかは判らない」

 己が身を大気と化すのが、赤心少林拳の極意。
 そして大気が世界に遍く満ち、人に、獣に、鳥に虫に草花に、全てに必須のものである以上、即ちその極意はどこにでも存在し得ると言える。

 かつて一也が荒行の果てに、冷気の中に咲く『梅花』を見出したのと同じように。
 今はギンガが荒行の果てに、大気の中から何かを見出し、己のものとするしかない。

 一也や流星、インガに出来るのは、その手助けだけ。今の彼女に適した“行”を――かつての一也のように肉体を苛め抜くものではなく、より精神を追い込む形の――課すことだけなのだ。

「だから、座禅ですか。……それで、勝てますか?」

 誰に。もしくは、何に。問いの主語は省かれていたが、それは言うまでもない事。
『怪人』の脅威を、朔田流星は知っている。知識だけではなく、実感を伴って。

 如何なる修行を積もうと、生身でそれに対抗することは極めて困難。高校卒業後の彼はインターポールの捜査官……重大・特殊犯罪の捜査に専門知識を提供する特殊チームの一員として活動しているが、それは朔田流星が怪人の脅威を肌で知り、そしてそれに対抗する術についての専門知識と『実行手段』を持つが故の抜擢だ。

 当然。その『手段』は一朝一夕に手に入るものでなく、だからこそギンガは悩み――そして流星の問いは、誰もが抱くであろう疑念だった。

「ああ。彼女なら、きっと出来る」

 確信を持って、一也は答えた。
 無論、それは誰もがという訳ではない。ギンガ・ナカジマだからこそだ。そこらへんの素人を連れてきて同じ修行をさせたところで、何の意味も持たない。

「彼女の拳には、充分な力があるよ。……今は本人が、その力を信じ切れていないみたいだけど」

 思い出すのは、海鳴臨海公園で初めて会った際に受け止めた、彼女の拳。
 迷いを振り払おうと、必死な拳だった。ギンガにとっては容易く受け止められたように思えただろうが、その実、彼女の拳の威力に、一也は少なからぬ驚きを覚えていたのだ。

 見た目はただの少女。穏やかな気質が傍目にも伝わる彼女が、これほどの拳打を放つとは。沖一也が同じくらいの齢の頃、果たしてギンガと同等の域に達していたか?
 そのギンガが、己の非力を嘆いていると知った時―― 一也が思い出したのは、今は亡き師……赤心少林拳最高師範・玄海老師と、彼が手を貸してくれた、かつての戦いだった。

「タチバナさんがM-BUSに残した記録で、見た事があります。『空飛ぶ火の車』……でしたか」
「ああ、その時のことだ。俺も実際に見た訳じゃない、後から親父さんや弁慶に聞いた話だが……驚いたよ。生身の人間が、素手で怪人を倒したというんだから」

 今から、もう三十年以上も昔の話になる。
 古代中国の超兵器『空飛ぶ火の車』を巡る、ドグマ帝国との一大決戦。

 赤心少林拳の門弟達、更には一也の先輩に当たる仮面ライダー達も参戦したその戦いにおいて、超兵器の制御装置を起動させる“鍵”を守るため、玄海老師は単身ドグマの怪人に立ち向かった。
 相手はドグマの最精鋭、地獄谷五人衆の一角・ストロングベア。別行動を取っていた一也は救援に向かえず、他の門弟も各々ドグマ戦闘員と戦っていたため加勢が叶わず、しかしその状況で、玄海老師は見事敵を討ち取った。

 その事実を後から知り、驚く一也に、玄海老師は朗らかに笑いながらこう言ったのだ。

『なあに、打つべきところに打ち込んだだけの事じゃよ』

 この世に存在する天地万物、あらゆるモノには、致命に通じる絶対急所が存在する。そこを捉え、適確に打ち込むことが出来たなら……例え老骨の拳であろうと、幼子の掌であろうと、大鯨の絶命も巨岩の粉砕も可能であると。
 だが相手は改造人間。厚い装甲の奥、強靭な人工筋肉の隙間から体内に威力を通すとなれば、それは針の穴よりも更に細く小さな一点を、最適な時機と角度で穿つ必要がある。その見極めは未だ沖一也にも叶わぬ領域で、玄海老師の他に、それを成し得た者を知らない。
 しかし。

「ギンガくんになら出来る。俺はそう思う」
「沖さんが言うのなら、俺も信じますけど……根拠はあるんですか?」
「無いよ。俺の勘さ」

 勘ですか、と苦笑する流星だった。一也も照れ臭そうな笑いで応じた。
 実際、それ以外には説明のしようが無いのだ。勘と言うより、直感と言うべきかもしれないが。

 拳を合わせた事で解る、拳士の適性。そこから沖一也は、ギンガ・ナカジマにいま何が出来るのか、そしてこれから何が出来るようになるのかを読み取った。だから彼女に課した修行は決して間違っていないし、それを成し遂げた時、彼女が到達するであろう境地も朧気に見えている。
 ただ、問題は。

「修得に、どれだけ時間がかかるか――ですね」
「ああ。だから、君たちに協力を頼んだんだ」

 思考を先回りする流星の言葉に、一也は頷く。
 一朝一夕に辿り着ける境地では無い。肉体ではなく、精神を追い込む荒行であるが故に、その修得と体得にかかる時間は、傍からは計算が難しい。
 下手をすれば、間に合わない。もしそうなった場合、一也は彼女の代わりに、彼女の挑むべき戦いを請け負うつもりではいるが、それをギンガが望まない事も解っている。

 だから、今、沖一也に出来る事は。
 ギンガ・ナカジマの修行に、彼女の集中に、余計な邪魔を挟ませない事。

「! ……来ましたね」
「ああ」

 一也と流星が、足を止める。
 次瞬。ざざざざっ! と樹上の枝葉を揺らしながら、何かが彼等の前に降りてくる。夕暮れの山道、その薄闇に紛れる暗褐色の体躯は、人と蝙蝠が混じり合った奇怪なシルエットだった。
 それがネオ生命体と呼ばれる勢力に属する怪人、コウモリ男であると、一也は知っていた。怪人の一派がギンガやその仲間を狙っていると、光太郎から聞かされていたからだ。

 先立って光太郎やギンガと交戦したクモ女は異空間を作り出し、そこに敵を取り込んで襲い掛かったというが、それだけの大技を可能とする個体がそう多く居るとは思えない。異空間の展開・維持はかなりのエネルギーを必要とするはずだ。
 また、異空間に引きずり込んだという事は、敵は大っぴらにギンガ達を襲うことを避けているとも取れる。であるならば、人里離れた山中での修行というのは、敵にとっては襲撃の好機と言えるはず。

 一也の読みは見事当を得て、恐らく本命のギンガよりも先に周囲の邪魔者を始末しておこうと――それが襲撃に完璧を期するためか、仲間の骸を見せつける嗜虐のためかは不明だが――考えたのか、コウモリ男はまず一也達の前に姿を現した。
 好都合である。ギンガを直接狙ってきた場合に備え、インガを近くに待機させているが(無論、第一の目的はギンガの世話役だ)、直接こちらを狙ってきてくれた方が、遥かに手間がかからない。
 ギンガに雑音は聞かせたくない。さっさと済ませよう――と、一也は一歩前に出て。

「流星くん?」

 それを、流星に制止された。

「長丁場になる可能性もあります。M-BUSでもある程度メンテナンスは出来ますが、無理はしない方が良いでしょう。……ここは、俺が」

 惑星開発用改造人間Sー1。その名は改造人間単体を指すナンバーであると同時に、用途に応じた腕部換装型特殊装備、中長距離高速移動用乗機、機体維持・修復用調整機器を一つのパッケージとするシステムの総称でもある。
 このシステムの特徴、或いは先進性は、メンテナンスとバックアップを外部機器に依存する代わりに、改造人間本体の高性能化を追及する点にあった。

 一也に代わって流星が前に出たのは、その特徴に起因する“弱点”を懸念したためだ。
 ロールアウトから数十年の歳月が経ち、その間にシステムは幾度となくアップデートが施されているものの、しかしそもそもの前提として、S-1は『単体で』『長期間の運用を』想定した機体ではない。
 S-1自体は無補給で一か月以上の連続宇宙活動が可能だが、それは外部(宇宙船ないし基地が想定されている)からのコンディションチェックとバックアップ、作業前後のメンテナンスを前提としている。

 工業製品に総じて通じる、適切なメンテナンスが施されない状況でのパフォーマンスの低下。沖一也の弱点ではなく、サイボーグS-1の弱点である。
 戦闘行動という本来的にイレギュラーな運用。調整機器は近場に無く、期間もギンガの修行が成るまで……つまりは明確な終わりが見えない状況。S-1の弱点が露呈する可能性は、否定出来ない。

「じゃあ、任せよう」
「はい」

 一方で。S-1の開発思想は、後年の科学者・研究者にも少なからぬ影響を与えていた。
 元より宇宙開発は個人・単体で行うものではない。改造人間の運用にも補佐にも多くのスタッフが動員される関係上、外部機器に機体調整を依存するというデメリットは実質的に極めて小さいものと言える。
 実際、改造人間技術が倫理的・人道的問題から下火となり、代わりに装着型宇宙服が宇宙開発の主流となった後年においても、そこにS-1の影響――外部装備との連動を前提とする開発思想――は、少なからず残った。

 例えば、今。
 コウモリ男と相対する朔田流星が手にした機器……変身制御用小型携帯コンソール『メテオドライバー』。
 メンテナンスのみならず、変身用エネルギーの供給、システム演算の補助をも外部機器に行わせるという点で、実質的なS-1の後継機と呼べる機体であった。

「M-BUS、変身認証だ」
【METEOR! ――Ready?】

 流星がメテオドライバーを腰に当てる。ベルトが伸長し、胴を回ったそれがドライバーを彼の身体に固定した。
 機器上部のトリガーをスライドさせる。電子音声と共に、軌道上に待機する人工衛星M-BUSとの接続回路が起動。M-BUSが変形すると共に、変身システムが待機状態に移行する。

 大きく腕を廻し、身構えた流星が、コウモリ男を睨み据えた。その立ち姿から発する威圧感は刀の柄に手をかける剣客さながらで、眼光にさえ刃の鋭さが乗っている。
 事実、コウモリ男は明らかに怯んだ。踏み込む事に躊躇した。
 その躊躇が、己から勝利の目を奪うのだと気付かずに。

「変身!」

 勢い良く振り下ろされた腕が、ドライバー側面の球状レバーを叩く――変身シークエンスが開始。
 M-BUSから照射された変身用エネルギー・コズミックエナジーが、彼の体表で実体化。朔田流星の身体を装甲強化服が鎧う。
 更に余剰エネルギーが彼の身体を球状に包み、次瞬、砲弾の如く加速した彼がコウモリ男を弾き飛ばして、怪人の背後に降り立った。

 星図の如き紋様が煌く、黒い体躯。
 流星を模して蒼く輝く、鋼の仮面。

 ゆらりと立ち上がった仮面の拳士が、鼻を擦るような仕草と共に名乗りを上げる。



「『仮面ライダーメテオ』――お前の運命さだめは、俺が決める」



 その言葉、宣戦布告にして、処刑宣告。
 己が末路を悟ったコウモリ男が、半ば恐慌に駆られ、仮面ライダーメテオへと襲い掛かる――





◆      ◆







後書き:

 ……は、後編にまとめて。



[7903] 第弐拾参話(後編)
Name: 透水◆44d72913 ID:c5d35e7f
Date: 2023/12/29 21:12
 ギンガが修行を始めて、五日が経った。
 驚く程に、実りの無い五日間であった。
 
 朝。日の出と共に目を覚まし、隣で寝ていたインガと一緒に寝床を片付け、顔を洗う。
 その辺りのタイミングで、一也がやってくる。一也だけだ。流星はこの五日間、姿を見せていない……何か別の役割があるらしい。

 挨拶を交わして、寺の境内で日に一度だけの手合わせを行う。ギンガの打ち込みを一也が捌いて、そこに寸止めの一撃を打ち込まれて、終了。五日間、五回の手合わせ、全て同じ結果である。
 そうして、一也は寺を後にする。感想も、アドバイスも、何も無い。残されたギンガはインガと朝食を済ませ、本堂で座禅を組む。昼食、夕食の際にインガが声をかけるまで、ずっと座禅を組み続ける。

 五日間、その繰り返し。
 そして六日目の朝、遂にギンガは耐えきれなくなった。

「沖さんっ!」

 六回目の手合わせも、予定調和のようにギンガは敗北した――「じゃあ、また明日」と言い置いて寺を去ろうとする一也を、ギンガは思わず呼び止めていた。

「何かな」
「これで――こんなことで、私はっ……!」

 強くなれるのか。
 強くなっているのか。
 やっている事と言えば、ただ座り込んでいるだけなのに。

 懇切丁寧な説明が無いのは、まだ理解出来る。だがその修行方法がただ座禅のみというのは、果たして適切なのか。そんな疑問が、もう無視出来ないところまで膨れ上がっている。
 自ら一也の修行を望んだ以上、その方法、その方針を非難は出来ない。師を信じ、与えられる課題に取り組む。それが筋と解っているものの、しかし一向に得られぬ成長の実感、無為の繰り返しとしか思えぬ数日間が、不満となってギンガの口を衝こうとしていた。

「ギンガくん。何か、見えたものはあるか?」
「え……?」

 慮外の問いに、ギンガは言葉を詰まらせる。
 見えたもの? ――あるはずがない。この五日間、本堂に籠って座禅を組んでいただけなのだから。見えるものと言えば瞼の裏か本堂の壁くらいのものだ。
 だが反射的に、或いは感情的にそう答えてしまうよりも早く、彼女は問いの意味合いを察する事が出来た。物理的な『目撃』を問われている訳ではない。それはもっと精神的な、『気付き』や『認識』を感じたかと、そう問われているのだと。

 だから、何も言えなかった。
 何も見えていない、何も気付けていないと言う事は、己の無能を晒すようで。
 そうでなければ、貴方の指導、修行法が悪いのだと、逆切れめいた事を言うかのようで。

「……そうか」

 納得とも失望とも取れぬ調子で一つ頷き、一也は今度こそ、境内を立ち去っていった。
 独り、ギンガはその場に取り残される。……ただ、彼女は理解していた。

 あの問いは、一也からの助け舟。本来は言うべきではない、言わずともギンガが悟らなければならない事を、彼は敢えて口に出したのだ。
 座禅を行う事で。集中し、己の内面を覗き込む事で。何か、見えてくるものがあるはずと。

 今は、座禅しかない。一也を、師を信じるしかない。改めて自分に言い聞かせる――それに納得していない自分が居る事も、解っていたけれど。
 ふと見上げた空は、今にも泣き出しそうな、鉛色の曇天だった。





「お昼だけど。食べられる?」

 その日も本堂で座禅を組み続けるギンガに、インガが声をかけてきた。
 日がな一日座禅を組んでいるものだから、時間の感覚がなくなってくる。インガのお陰で辛うじて今が昼時だと判るが、彼女が居なければそれこそ日が暮れても気付かないかもしれない。
 それほど没頭しているのに、何一つ結果が出ていない事がもどかしい。

「あ……はい。いただきます」
「そ。じゃ、こっちに運んでくるわね」

 そう言ってインガは本堂を去り、程無く昼食の載った膳を持って戻ってきた。
 昼食と言っても、インガの手作りという訳ではない。軍用の携帯糧食(インガ曰く『前の職場』の伝手で分けて貰ったものらしい)に幾らか手を加えた程度のもので、カロリー面はともかくとしても、味は正直いまいちだった。六課の食堂が恋しくなる。

 元来の性格か、或いはそういう躾を受けてきたのか、インガは黙々と食事を口に運んでいる。ギンガも任務中はそうするが、平時においては家族や仲間とお喋りしながら食べる方だから、どこか寂しく思えてしまう。二人でご飯を食べているのではなく、一人と一人が各々食事を摂っているだけ、という感じだ。
 ただ。今日は少しだけ、そこに違いがあって。

「何か言いたそうな顔ね」

 不意に食事を中断し、箸を置いたインガが、ギンガへと話しかけてくる。
 意外ではあったが、好都合であるのも確かだった。

「えっと、その……これで良いのかなって、そう思っちゃって」
「ああ、修行? そうね、ただ座禅を組むだけって……ねえ?」

 愚痴のようなギンガの言葉を、インガは否定しなかった。
 インガ・ブリンクという女の善良さ、気立ての良さに、この五日間で何度となく触れてきた。
 顔を合わせるのは食事の時と、布団を敷いて眠る時だけ。年頃の娘が二人揃っているのに、ガールズトークの一つもない。それが自分を修行に集中させるために、あえてそうしているのだと、ギンガも解っていた。

 実際、炊事洗濯をほぼ全て任せているというのに、インガの生活音で気が散る、集中出来なくなるという事は全くなかった。インガの手際の良さが窺えると同時に、彼女がどれほどギンガを気遣い、集中出来る環境を維持してくれているのか、雑音が無いからこそ伝わってくる。
 だからこそ。実感の出ない修行に焦りを覚え、またこの日、唐突に始まった雑談めいた会話に……同性・同年代ゆえの距離の近さに、つい気を緩めてしまった。

「五日間、練習も稽古も、何もしていないから……拳の作り方も、打ち方も、もう忘れちゃってるんじゃないかって。不安で」
「そうよね。私達にとって、トレーニングは日常だから。何も積み重ねる事が出来ないってのは、不安になるものね」
「不安――はい。そうですね……不安、です」

 この五日間、いやそれよりも前から、ギンガの中にある本音だった。
 不安を振り払おうとして、それがきっかけで一也と知り合い、こうして山中の隠れ寺に籠って修行を始めたのに――不安は一向に晴れず、どころか日常の稽古さえ禁じられて、より一層募っていった。
 
「こんなことしてて良いのかって――ただ座り込んでるだけで強くなれるなら、誰も苦労しないじゃないかって」
「…………」
「インガさん、インガさんは『仮面ライダー』じゃないんですよね? インガさんは、怪人と戦えるんですか? もしそうなら、インガさんも座禅を組んだんですか? 座禅ってそんなに凄いんですか? 焦ってるって解ってます、冷静になれてないって事も解ってます……! でも、私、のんびりできません……! 間に合わないんじゃ、意味が無いんです……!」

 一度口を衝いたら、言葉になったら、止まらなかった。
 浪費した五日間。その間に仲間達からの連絡は無く、エリオやキャロが光太郎と合流した事は一也から聞かされたが、その後の二人は大丈夫だろうか。修行の邪魔になってはいけないと念話での通信も絶っているが、それが心配の種にもなっている。
 ミッドチルダとの通信は回復の見通しも無く、向こうの状況も未だ掴めぬまま。フォッグの侵攻、ゴルゴムの暗躍に、果たして対抗出来ているか。スバルは、ゲンヤは、仲間達は、無事でいるだろうか。

 何より。脚を失ったあの少年は――結城衛司は、どうしているのか。

 義足の伝手はあると言っていた。今頃はもう、歩けるようになっているだろうか。
 ……それは決して歓迎すべき事とは言えない。彼が立ち上がるという事は、再び戦いの中に踏み入っていく事と同義だから。
 きっと彼は逃げられないし、逃げる事もしない。そうして次は腕を、目玉を、内臓を失って、奪われて、それでも死ねず、戦い続ける。戦わされ続ける。そう望まれて、そう呪われている。

 だから。ギンガ・ナカジマは、一刻も早く、強くならなければいけない。
 結城衛司を守ろうと思うのなら。雀蜂が向かう死地に付き合おうと思うのなら。怪人と戦う力、怪人を制する力が、どうしても必要なのだ。

「……ん」

 ひとしきり吐き出された少女の本音を、インガは黙って受け止めて。
 やがて静かに、口を開いた。

「当たり前の事だけど――沖さんの指導方針に、私が口を出す事はないわ。沖さんには沖さんの考えがあるんだろうし」
「え。あ、はい。それは、もちろん」

 インガの静かな声音に、ギンガも少しだけ冷静になる。
 別にギンガも、修行方法への疑念はともかくとして、考え無しだなんだと一也の陰口を叩こうなどというつもりはこれっぽっちも無い。
 不満をただ聞いてくれるだけで良いのだ。鬱屈した者にとっては、それだけで充分な救いとなる。なのに対面の女拳士は、その先にまで付き合ってくれている。

「沖さん、毎朝来るわよね。手合わせの前とか後に、何か言ってた?」
「ええと……今朝ですけど。『見えたものはあるか』って……」
「そう。じゃあ、そういうことなんでしょ」

 意味の解らない問い掛けだと思っていたが、インガには理解出来るのだろうか。地球の拳士にとっては常識の範疇なのだろうか。
 疑問に溢れたギンガの視線に、インガは「うーん」と、どう伝えたものか困ってるような感じで唸った。

「これ、私が言っちゃって良いのか判らないけど……そういう言い方をするって事は、二つ理由が考えられるわね。“見えていたものが見えなくなってる”か――」

“見えるという事に、気付いていない”か。
 インガの言葉が、特に後者が、不思議なほど耳に残る。

「気付いて、いない……」
「貴方に何が見えていて、何が見えていないのか、私には判らないけど。きっと誰にも判らない事よね。その人の視界は、その人だけのものだから」

 視点。知識。能力。立場。つまりは“前提”が違うのだ。『私が見えるから貴方も見えるはず』などという事は有り得ない。その逆も然り。
 だからギンガの修行について、インガには何もアドバイスが出来ない。インガに見えているものがギンガの見るべきものとは限らないし、インガの“見え方”は結局彼女の感覚で、それを他者に伝えれば、かえって自身の感覚を見失いかねない。

「何が見えるようになれば……見えていれば良いんでしょうか」
「それこそ、貴方にしか判らない事よ。だから沖さんも何も言わないんでしょう。……けど、多分」
「多分?」
「必要なのは、“見える”事じゃなくて――“見えている”っていう理解とか、認識とか、そういうものなのかもしれないわね」
「理解が、強さに必要ですか」
「無理解が強さを抑える。そう思うわ」

 無理解。不認識。どれも、己の実力を引き出す妨げとなる要素。
 それはかつて、流星やその仲間達と敵対したインガや、更には独り戦っていた頃の流星にも言える事。一つの目的、一つの手段にのみ拘泥し、理解や認識を放棄して、かえって心の余裕を失い、実力に枷を掛けてしまった。そのために取り返しのつかない事態を招きかけた事さえある……幸い、仲間達の存在と尽力が、その事態を阻んでくれたが。

 とは言え、インガや流星の事情を知らないギンガにしてみれば、なんとなく実感の籠った言葉だなあという印象しかなく。
 けれど、それでも。

「結局、“己を知れ”って事じゃないかしらね――座禅は、そのための手段。突き詰めれば、座禅で無くても良いのかもしれないわ」

 続く、その言葉に。
 何かが、何処かに、嵌まったような気がして――





 日が暮れてしばらくした頃、雨が降り始めた。
 雨足は決して強くないが、打たれた者の肌や服へ静かに水を含ませる、地上を冷たく濡らす冬の雨。
 静寂を僅かに乱す雨音の中。ぼんやり灯る蝋燭の前で、ギンガは座禅を続けていた。

 昼時にインガが言っていた通り、座禅である必要はないのかもしれない。しかし他にどういうやり方があるのかも判らず、座禅に拒否感がある訳でもないから、一也に指示された通りに……つまりは今まで通りに、座禅を組んでいる。
 ただ。その心持ちは、今までと少しばかり異なっている。インガとの問答が、少しだけ、座禅へのスタンスを変えさせた。

 己を知る事。自分自身を、理解する事。それが座禅の目的。
 今はただ、自分と向き合うのみ……重要なのは、そこで何が見えるか。“見る”事が全てだ。見えたモノの使い方など、後で考えれば良い。今のギンガには雑念でしかない。

 そう、雑念。
 集中を妨げる、余分である。

 そして余分と言うのなら、全てがそうだ。視覚も。聴覚も。触覚も。嗅覚も。味覚も。どれも思考行動には必要ない。
 一つ一つ、感覚を断っていく。そうすると却って、知覚が広がるように感じた。自分と自分以外の境が曖昧になってくる。服も身体も大気へと溶けて消えて、物を考える脳髄だけが、本堂の中に浮いているようにさえ感じられた。

 没入していく。
 ギンガ・ナカジマの内側へと、ギンガ・ナカジマが沈み込んでいく。



 力が欲しいと、そう思った。
 高町なのはのような。フェイト・T・ハラオウンのような。八神はやてのような。
 ギンガ・ナカジマが求める力は、六課隊長陣が有するレベルの戦力だ。目指す先であり、しかし同時に、最低限の基準でもあった。
 彼女達ほどの力があれば、怪人にも遅れは取らない。打倒も不可能ではない。
 だが。なまじその高みを、その領域を間近で見るが故に、己がそこに至るまでの道程を……その遠さを、痛感させられる。
 力が欲しいのに、届かない。
 今はそれが、酷く悔しい。



 力が無い事を、もどかしく思った。
 スバル・ナカジマが持つ、振動破砕の能力。或いは新しく出来た妹達が持つ、戦闘機人としての固有スキル。時に戦局打開の切り札ともなる、そういった特殊能力を、ギンガは持っていない。
 本局所属技術官、マリエル・アテンザが推測するに――端的に言えば、性能検証機。
 特殊能力を持たない戦闘機人が、どれだけの性能を発揮出来るのか。固有スキルの搭載が、機体性能にどれほど干渉するのか。つまるところ戦闘機人タイプゼロ・ファーストの製造目的は、後発の戦闘機人の基準となる“物差し”だ。
 力が無いのは、そのように造られたから。
 今はそれが、酷く悔しい。


 
 力とは何かと、ふと思った。
 腕力。暴力。戦闘能力。敵を、障害を、打倒するためのもの。……ただ、それは、そんなに狭い概念だろうか。或いはそれほど幅広い概念だろうか。

 例えば―― 一撃で岩をも砕く拳は、成程“力”と言って良いだろう。
 だが、例えば――長年に亘って滴り落ち、やがて岩を穿つ水滴は、果たして“力”と呼べるだろうか。岩を損壊させるという点においては、同じ事なのに。
 ……いや。それも確かに、“力”なのだろう。“力”を『破壊』として現象させる、そのプロセスが異なるだけで。

 プロセス。
 こうすれば、こうなる。そういう流れ。

 例えば。鉄拳が持つ“力”。水滴が持つ“力”。あまねく万物に“力”は既に存在していて、それが適切な流れによって引き出され、導かれ、対象に届く事で、『破壊』を始めとする現象となる――その考え方が、真だとするなら。
 力が欲しいと思う事も。力が無いと嘆く事も。焦りも悔しさも、無意味なもの。流れを淀ませる澱でしかない。

「……………………」

 ふとギンガの意識が、上へと……空へと向いた。
 しとしとと降り続く雨。無数の雨粒は、無秩序にただ落ちてくるだけか。
 違う。雨粒もまた、流れに乗っている。本堂の屋根に落ちる事も、弾けて細かな水滴になる事も、屋根を伝って地へと落ちる事も、全て流れのままに。流れが導く先に。

 その中で。
 一粒の水滴が、屋根の隙間に染み入った。

 百年近く前に建てられた、古い建物。経年劣化の必然として生じた小さな亀裂。
 そこから染み込んだ雨粒は瓦の裏を滑り、野地板の罅を抜け、垂木と梁を伝い、再び雫となって、本堂の床へ。
 そこで座禅を組む、ギンガの横へと――

「…………っ!」

 落ちてきた水滴が、ぴしゃん、とギンガの掌を打った。
 その時初めて、ギンガは自分が雨粒の行方を把握していた事に――落ちてくる雨粒を受け止めるように、掌を差し出していた事に気付いた。

「……こういう、こと、なの」

 見開いたその瞳の色は、本来あるべき翠緑では無かった。ぼんやりと輝く、黄金色の瞳。――戦闘機人の瞳。
 知らず起動していた、戦闘機人の機能。周囲の情報を知覚し、解析する能力。初期型であり、試作品であり、検証機であるが故に持たされた情報収集・情報処理能力が……本来、専用の機器・機材との接続によって起動するはずの機能が、落ちてくる雨粒を感知し、自身の身体を反応させたのである。

 ……“目が開いた”感覚があった。
 自転車の乗り方を覚えるように。文字の読み書きを覚えるように。それまで出来なかった事が、ある日を境に出来るようになる。そして出来るようになった事を自覚すれば、もう忘れない。同じ事をいつでも、何度でも出来るようになる。

 認識が、切り替わるのだ。
 出来なかった自分から、出来るようになった自分へ。

 例えば、今のギンガなら。機械の身体を、その機能を、己の精神によって掌握する――それが出来る自分が、ギンガには見えている。認識している。
 そう。それはかつて沖一也が、サイボーグS-1の機能を掌握し、『仮面ライダー』となった時のように。

「雨――樹――インガさん――」

 知覚が広がる。
 戦闘機人の身体に搭載されたセンサーやレーダーと、ギンガ・ナカジマという人間の意識が有機的に連動して、周囲の状況を皮膚感覚として把握していく。

 降り続く雨粒の一つ一つを、雨に打たれて揺れる木々の葉一枚一枚を、本堂の外に佇むインガを、その全てを捉え……それらが如何なる“流れ”に乗って其処に在るのか、その“流れ”が何処に行き着くかも、今のギンガには“見えて”いた。
 そして。

「……! 居る……!」

 寺の周囲に広がる森、その樹上に。幹の陰に。藪の中に。
 悪意を持って潜み、殺意を持って迫る何かを、広がる知覚が感知する。
 それが何者であるかを、ギンガは知らない。しかしそれが敵である事を、ギンガは察知していて――次瞬、彼女は立ち上がり、どこか覚束ない足取りで歩き出していた。





◆      ◆







【Saturn・ready! ――OK! Saturn!】

 仮面ライダーメテオの右腕で、ガントレット型トランスレーション・ユニット『メテオギャラクシー』が吼える。
 ガントレットに備えられた三つのレバーの内、右側のものを押し上げる――充填されたコズミックエナジーが指向性を与えられ、センサー部分での指紋認証によって発動。メテオの拳撃と共に撃ち出された無数の斬撃輪が、空気を引き裂いてコウモリ男へと殺到する。
 木々の陰へと身を隠して逃れようとするコウモリ男だが、それはメテオの予測の内で。

【Jupiter・ready! ――OK! Jupiter!】

 斬撃輪の軌道によって限定された、コウモリ男の逃走ルート。先読みは容易く、木々の隙間を縫うメテオの歩法は、一瞬にして敵との間合いを零にする。
 右拳を包むように形成されたエネルギーの巨球が、アッパーカットの軌道でコウモリ男を直撃。怪人の身体を天高く打ち上げた。

 だがコウモリ男にとっては、空中こそが本来のフィールド。腕と一体化した皮膜の翼を開き、吹き飛ばされる勢いを殺す。
 今度は己のターンだ。上空からの急降下攻撃を繰り出さんと、眼下の敵を睨み据え――

【METEOR! ――Limit Break!】
「ゥウウウウゥゥゥ…………ァアチャァアアアアアッ!!」

 己が致命的なミスを犯したと気付いた時、コウモリ男の命運は尽きていた。
 空中で体勢を立て直す一瞬。空中から標的に照準を合わせる一瞬。合わせて二瞬の硬直。度し難い隙であり、その隙を、仮面ライダーメテオは見逃さない。

 一足の跳躍で、メテオの姿はコウモリ男と同じ高度にあった。ベルト中央、天球儀の如きパーツが回転し、蓄積されたコズミックエナジーを一気に解放。ベルトから七色の輝きが放出され、更に青白い光が左脚を覆って、弧を描いて繰り出す回し蹴りに必殺の威力が宿る。
 仮面ライダーメテオの必殺戦技『メテオトルネード』を撃ち込まれたコウモリ男が、地上へと叩き落され――メテオの着地と同時、爆散して果てた。

「……ふう。――沖さん、こっちは終わりました」
『ああ。今、周辺の索敵をやっている……ひとまず、敵の姿は見えないな。少し休んでいてくれ』

 変身を解除した流星が、メテオスイッチへと向けて話しかける。通信機能が内蔵されたスイッチから、一也の声が返ってきた――と、同時。
 ふと見上げた空を、何かが高速で横切っていく。夜の雨天だ、はっきりと視認する事は出来なかったが、それがサイボーグS-1の特殊装備・小型偵察ロケット『レーダーアイ』である事はすぐに判った。

 ギンガの修行が始まってから、今日で六日目。その六日間に戦い、そして倒したコウモリ怪人は、これで十四体目。流星個人のスコアであり、別行動を取る一也が倒した分も含めれば、山に入り込んだ怪人の数はその倍以上になる。
 それだけの数が、一度に山へ侵入したとも考え難い。襲撃が散発的であり、単体での行動であるから、尚更だ。恐らく全国各地に散っている同族が、この山へ到着する端から攻撃を仕掛けてきているのだろう。

 ただ。その予想を口にした一也自身が、あまり納得していない様子だった事は気になったのだが。

「そうだよな……どう考えても、戦力が揃うのを待ってから仕掛けた方が良い――消耗戦を狙っている……? いや、話を聞く限りだと、消耗戦は向こうの方が避けたいはず……」

 賢吾なら、何か判るだろうか。
 高校時代、同じ部活に属していた友人の顔を思い出す。情報分析に秀でたあの友人ならば、限られた情報からでも敵の目論見を看破してくれるかもしれない。
 ……もっとも当の彼は今、大学でコズミックエナジーの研究チームを立ち上げて、多忙な毎日を過ごしているらしい。邪魔をする訳にもいかない。

『――流星! 聞こえる!?』

 不意にメテオスイッチから響いた声が、流星の思索を断ち切った。

「インガ? ……どうした、何があった!?」
『敵よ! 寺の全周から、同時に――数が多くて――きゃぁっ!?』

 悲鳴に続いて炸裂音が響き、そして通信は途絶えた。
 数が多い、と言っていた。恐らく一匹や二匹ではない、相当な数が、赤心寺の隠れ寺を襲っている。『戦力が揃うのを待った方が良い』という流星の予測は、ある意味で的を射ていたのだ。
「くそっ!」と毒づいて、流星は寺へと向かい走り出した。インガも相当な手練れではあるが、相手は怪人。力不足は否めないはず。

 ……ただ。不安と心配に逸る流星の思考は、一つの疑問点を見落とした。
 先程の、一也のからの通信。敵の姿は確認出来なかったと、彼は確かにそう言った。
 軽く山一つを範囲に収め、そこに在る木々の枝葉一枚一枚までも判別する、偵察衛星をも凌駕する索敵能力。それを逃れて、多数の怪人が隠れ寺を襲った。そんな事が、果たして有り得るのか?





 結論から言えば、“有り得た”。
 ただしそれは、流星の予想とは少しばかり異なる形でもあったのだが。

「くっ……!」

 弾かれた通信機を横目で一瞥し、インガは横っ飛びにその場を逃れる。次瞬、彼女の居た地点で激しい火花が散った。コウモリ男が口腔から放つ、収束された超音波の砲撃である。
 寺を包囲する、コウモリ男の群れ。ざっと見ただけでも三十体は居る。この六日間で流星や一也が倒した数とほぼ同数が、今インガを、そして本堂の中のギンガを取り囲んでいた。

「あいつ……そう、あれが元締めってコトね」

 インガの視線の先には、仲間達に守られるかのように、一歩引いた位置に居るコウモリ男。
 他の個体よりも、倍近く体格が大きい。それは集団を束ねるボスである事に加え、集団そのものの、文字通り母体であるが故。
 ぼご、と肉の膨れ上がる音。大型コウモリ男の背中が隆起し、そこからずるりと、新たなコウモリ男が這い出してくる。恐らくはこの場に居るコウモリ男、そしてこれまで倒されたコウモリ男は、全てこの大型個体から産み出されたものなのだ。

 以前、ギンガや光太郎を異空間に捉えたクモ女が、同型個体の最上位であるならば。
 今、同族を次々と産み出す大型個体が、コウモリ男の最上位。ネオ生命体の根源、ドラスに最も近い位置に居る個体。

 恐らくこの最上位個体、かなり前にこの山に入り込んでいたのだ。そうして次々と部下を産み出し、断続的に流星や一也と戦わせて、彼等の疲弊を狙ったのだろう。その一方で戦力を蓄積し、今、大挙してこの寺へと押し寄せたのだ。
 ……ただ、疑問は残る。これだけの数が山中に潜み、寺へと向かい動いている事に、一也や流星が気付かなかったのか?

「痛ッ……!」

 その答えが、背後から。
 インガの間合いに文字通り飛び込んできたコウモリ男の一撃が、インガの服の袖を裂く。
 背後からの攻撃というだけではない。その気配を、攻撃される一瞬前まで掴む事が出来なかった。それはインガを襲った個体だけではなく、他のコウモリ男も同様――視界に入っているのに、姿は見えているのに、その気配がやたらと薄い。

「……! そういうこと、超音波の――」

 推測の材料に乏しい状況でありながら、それでもインガの頭脳と知識は、すぐさま一つの仮説を導き出した。
 コウモリ男が発する超音波。本来は反響定位によって障害物を察知する機能だが、怪人達はこれを応用し、仲間が発する物音に逆位相の音波をぶつけて、音を……自分達の気配を打ち消しているのだ。
 数を揃えたからこそ可能な、一定範囲内のアクティブノイズコントロール。恐らくはS-1のレーダーから逃れたのも、この能力だろう。

 幸い、流星との通信は繋がった。詳細を伝える事は出来なかったが、もうこちらに向かってきているはずだ。
 後はインガがここを凌ぐか、それともギンガを連れて突破するか。……そのどちらも、容易い話ではなかったが。

 ――からり。

「!? ギンガ……!?」

 背後で、本堂の扉が開く音。
 振り向いたインガが見たのは、無防備にも本堂から出て来たギンガの姿だった。
 ただ、明らかに様子がおかしい。寺を取り囲むコウモリ男の群れに、まるで驚いていない感じで、ぼうっと佇んでいる。
 何より、妙な違和感があった。……違和感の原因は彼女の瞳にあると気付くまで、少しばかりの時間がかかった。
 翡翠のような翠緑の瞳が――ぼんやりと輝く、黄金の瞳に。

「……………………」

 本堂から、ギンガが歩み出てくる。雨に濡れた石畳の上に、裸足のまま。
 戻れ、とは言えなかった。逃げろ、とも言えなかった。インガは言葉を忘れた。
 だがインガの心情を、怪人達は斟酌しない。一匹の怪人が上空から急降下、鋭い爪をギンガの脳天目掛けて突き落とす。ノイズコントロールによる気配の相殺、繰り出す攻撃はほぼ無音。常人でなくとも致命必至の一撃。

 それを。ギンガ・ナカジマは、いとも容易く回避した。

 まるで見えているかのように、見えない角度からの攻撃を。僅かに身を傾け、己の鼻先を掠めさせるようにして。
 必然、コウモリ男の攻撃は、足元の石畳に突き刺さる。粉々に砕ける石畳の破片が、敵の視界をほんの一瞬塞いで――ギンガが身を低く沈める瞬間を、逃させた。

「――ふっ!」

 短い裂帛と共に、ギンガの拳が奔る。
 デバイスも魔法も展開しない、生身の左拳が、コウモリ男の胸部に打ち込まれ――打たれた怪人は弾かれるでもなく、その場にぐらりと倒れ込んで――そしてそれきり、コウモリ男は動かなくなった。
 僅かに痙攣している……生きてこそいるものの、立ち上がらない。立ち上がれない。曲りなりにも“怪人”が、完全にノックアウトされている。

「え……!?」

 驚いたのは、傍で見ていたインガの方。仲間を一撃で無力化された、コウモリ男達の方だった。
 ただ一打、たった一発。紛う事なき一撃必倒。

 それを受け入れられないのは、やはり怪人達の側だった。仲間の仇とばかりに、群れの中から三体のコウモリ男がギンガへと飛び掛かる。爪による刺突で、翼による打撃で、収束超音波の砲撃で、ギンガを殺すべく襲い掛かる。
 だがその全てが、狙う獲物に届かない。爪が捌かれ、翼がいなされ、砲撃が躱されて、生まれた隙を縫う反撃の打拳が、一発ずつコウモリ男達へ打ち込まれる。そしてそれが致命打となる。

 その動き――さながら、流水。
 流れに身を任せ、流れそのものとなって、その流れに攻撃と防御を織り成していく。

「インガっ!」
「流星……!」

 そこで漸く、流星が――仮面ライダーメテオが戦域に到着した。
 包囲の一角を突き破り、コウモリ男達を蹴散らして、インガの隣に着地する。流星もギンガの様子に違和感を覚えたようで、説明を求めるようにちらりとインガに視線を向けた。

「わからない……けど、多分これが、沖さんの……!」
「『打つべきところに打つ』――出来ているのか、彼女に……!」
 
 沖一也は、ここまで見えていたというのか。ギンガ・ナカジマが、この域にまで達すると。
 
「だが、数が違いすぎる! やれるな、インガ……!」
「当たり前でしょ。私は良いから、彼女のフォローを!」

 朔田流星と同じく、インガ・ブリンクも星心大輪拳の超熟練。怪人とは言え雑兵相手に後れは取らない。
 三十体以上ものコウモリ男が、みるみるうちに数を減らしていく。複数体が互いの物音や気配を打ち消し合うノイズコントロールも、数が減るごとに効果を減じていく。
 敵の数が十体を切った時点で、既に勝敗は決していた。――はずだった。

「! 流星、上っ!」

 インガがそれに気付けたのは、全くの偶然。完全な幸運だった。
 メテオの頭上で、陽炎めいた空間の歪みが生じる。そこに何かが居る、と気付いて声を張り上げ、応じたメテオがその場を飛び退いた次の瞬間、足元の石畳が轟音と共に砕かれた。

「なんだ……!? ――っ、奴か!」

 周囲を見回した流星が、先の攻撃の正体を察した。
 コウモリ男の最上位個体。今、この場に集結する怪人達の頭目たる大型個体が、いつの間にか姿を消している。
 逃げ出した訳ではあるまい。文字通りに姿を消して、透明となって、流星の死角から襲い掛かってきたのだ。

 ……流星やインガは知らぬ事であったが、コウモリ男は他の生物への擬態能力を持つ。雑兵たる分裂体ですらも有するこの能力を、最上位個体はより幅広く、戦略的・戦術的に応用する事が出来た。
 生物ではなく周囲の風景に擬態し、更に生き残った分裂体からの援護を受けて、疑似的な透明化能力を得たのである。

「まずいな――奴の動きが掴めない。センサーの感度を上げるか……!?」
「止まってる時なら良いんだけど、動き回られると……!」

 先に周囲の分裂体を仕留め、ノイズコントロールを断つべきか。だがそれは大型コウモリ男も解っているだろう、迂闊に動けば背後を刺される。
 冷静な判断が、却って動きを縛る。無論、止まっているのは動きだけだ。局面を如何に打開するか、流星とインガの脳髄はフル回転で思考している。
 ――だから。あまりにも無防備に踏み出すギンガが、全くの考え無しに見えて。

「ギンガくん!?」
「ギンガ!? 何してんの、死ぬ気っ!?」

 流星とインガの声も、届いていない――いや。そもそも寺の本堂から外へ出てきて以降、彼女にまともな意識があったかどうか。

 今のギンガは、ある種のトランス状態にあった。開いた目が、流れ込む膨大な情報の処理に追われる脳髄が、思考行動を一時的に麻痺させている。
 ただ、敵を打倒する事。それのみを成す機構として、一挙一動が振るわれる。

 で、あるが故に。この場、この状況において、ギンガ・ナカジマこそが最も的確に、敵に対処出来る人材であった。

「!」

 す、とギンガの身体が、右へと泳ぐ。敵からの攻撃を回避したのだと、インガはすぐに察した。
 見えているのだ。捉えているのだ。インガには見て取れない、流星ですらメテオのシステム補助を受けて漸く察知出来る大型コウモリ男の姿を、その攻撃を、完全に把握している。

 戦闘機人の機能。拳士としての経験。少女の勘。それらが見出す、攻防の流れ。
 その流れの淀みにこそ敵は居て、そこから生じる流れの歪みこそが敵の攻撃。

 だが。それでもやはり、敵の姿が見えぬ以上は防戦一方。どこから打ち込んでくるかは判っても、どこに打ち込めば良いのかが判らないのだろう。そこに援護の余地有りと、流星とインガが目配せを交わして――



チェ――――ンジ・冷熱ハンド! 超低温冷凍ガス!



 冬の夜気よりも更に鋭い冷気が、その時一陣の風と共に吹き抜けた。
 未だ降り続く小糠雨が瞬時に凍結し、白い霧となって一帯に敷き詰められる。
 冷気の源は、寺の本堂――その、屋根の上。
 そこに佇む銀黒の戦士の、緑に輝く左腕から。

「沖さん!」

 流星の呼びかけに、沖一也は応えない。変身を解除し、屋根の上に仁王立ちで、ギンガを見据えている。その佇まいが、これ以上の加勢はしないと――彼女の修行の成果を見定めるのだと、言外に告げていた。

 ぱき、と乾いた音が響く。と同時、ギンガの眼前に、彼女より一回り以上も大きな何かが姿を現した。コウモリ男の最上位個体である。
 一也が放った冷気が体表の水分を凝結させ、周囲への擬態を封じたのだ。また凍結に伴って発生する音にノイズコントロールが追いつかず、姿も、音も、最早何一つ隠れてはいない。

 つまりこの時点で、コウモリ男の勝ち目はほぼ潰えて。
 そして次の瞬間に、コウモリ男は翼を広げて飛び去った。

「まずい! サターンで撃ち落とせるか……!?」

 恥も外聞もない、仲間の分裂体すら見捨てての逃亡である。よもや逃げを打つと思っていなかったために、流星の対処は僅かに遅れた。
 流星も、インガも、遠い間合いへの攻撃手段に乏しい――まして敵が逃げるのは、夜闇の空である。狙って撃って、それを当てるとなれば、曲芸めいた……或いは魔法のような狙撃能力が必要となる。

 そう、魔法のような・・・・・・
 だから。インガがそれに気付くのは、ある意味で必然だった。

「ギンガ! これっ!」

 懐から取り出したのは、紫色のクリスタル――六日前、修行が始まる前にギンガから預かった、彼女の相棒。
 少女の名を呼んで投げつければ、彼女は視線を向ける事も無く、あっさりとそれをキャッチして。

「ギンガくん!」

 夜の闇を震わせる、重く響く声。本堂の屋根の上から、沖一也がギンガ・ナカジマを呼ぶ声。

「『打つべきところに打つ』! 君の意思で打つんだ・・・・・・・・・!」

 未だぼんやりとしたままのギンガの瞳に、その時、確かに焦点が戻った。
 金色の輝きはそのままに、やるべき事を明確に見定めた瞳。強い意思を宿した瞳であった。

「ブリッツキャリバー! セットアップ!」
【At last! Stand by ready――Set up.】

 変身は刹那。クリスタルから放たれた光が少女を包み、その中で車輪と鋼拳、戦装束が彼女の身体を鎧って、ギンガ・ナカジマが戦闘態勢へと移行する。
 ギンガの足元で光の帯が生成され、夜闇の空へと伸びていく。車輪が唸りをあげて光帯を噛み、次瞬、爆発的な加速を生んで少女を空へと走らせた。

 向かう先には、逃走する大型コウモリ男の背中。――否、ギンガはあっさりとその背を追い越して、空中で急旋回。逃げる敵の進路を塞ぎ、更に敵へと向かって再加速。
 背中を襲うような卑劣はしない。真正面からの打倒こそ、彼女の狙い。

 ただ、大型コウモリ男の目には、それが無謀な突貫に見えたのだろう。無策で敵の間合いに飛び込んでくる、馬鹿な獲物と見えたのだろう。
 しかしギンガから逃げるでも避けるでもなく、収束超音波の砲撃で迎え撃つという半端な対処は、怪人が最早判断力も冷静さも失っていると暴露するも同然だった。
 そんな雑把な迎撃に、今更当たるギンガではなく――軽く身を傾げるだけで超音波を回避して、彼女は己の間合いに敵を捉える。

 彼女の目には、見えている。
 風が、雨が、光が、音が、全ての流れが指し示す、己が打つべき絶対急所。
 即ち。少女の拳は、落ちるべきところへ導かれる、雨滴の如く――!

はぁあああああ――ぁああああああっ!!

 裂帛。咆哮。少女の喉から迸る雄叫びと共に、左の鋼拳が歯車を唸らせ、魔力を圧縮する。
 敵へと叩き込むその一撃は、近接打撃魔法ナックルバンカー。ブリッツキャリバーの加速力と、敵の迎撃の隙間を縫う交差法が、怪人胸部の深奥でその威力を炸裂させ――標的を、撃墜する。
 山林の木々を粉砕し、地面を抉って落着するその様は、星の重力に捕まった隕石の如く。

「…………うむ」

 笑みと共に、一也が満足気に頷いた。
 コウモリ男は動かない。動けない。先にギンガにやられた分裂体のように、いやそれ以上に徹底的で決定的に無力化されている。死んでいないのはギンガが使う魔法が非殺傷設定であると、それだけの理由でしかなかった。

 ウイングロードを解除し、ギンガが地に降り立つ。しばし残心の姿勢のままでいたが、やがて大型コウモリ男の無力化に伴い、周囲の分裂体が溶けるように消滅した事で、ようやく構えを解いた。
 そこでようやく、己が怪人を撃破した事に気付いたのだろう。ギンガは呆けたような顔で、しばしリボルバーナックルを見詰めていたが――金の瞳も、今は普段の翠緑に戻っている――屋根の上から下りて、こちらに歩み寄ってくる一也の姿を見ると同時、その表情に再び集中を宿した。

 彼女の戦いは、まだ、終わっていない。
 ……否。
 ここからが、本番だ。





◆      ◆







「構えろ、ギンガくん」
「はいっ!」

 短くそう言って。一也は赤心少林拳の構えを取り、ギンガに相対する。
 修行中の手合わせとは全く異なる、戦意と闘志の充満に、一帯の空気が張り詰める。傍で見ているインガと流星も思わず息を呑み、これから何が行われるのか、それを察した。

 謂わば、卒業試験。
 ギンガ・ナカジマが修行の果てに掴んだものを、見定めようとしている。

「……あ、あのっ!」
「なんだ」
「沖さんも、本気で……全力でお願いします!」

 言葉だけ切り取れば、いささか思い上がった発言である。沖一也ほどの拳士に対し、『手を抜くな』『私にはそれだけの強さが、価値がある』と言っているに等しい。
 ただ、その言葉の真意を、一也は過たず理解した。これから彼女が向かう戦いは、そこでの敵を相手取るには、本気で全力の沖一也に比肩する戦力を要求される。手加減の上で与えられた免状など、ギンガには不要なのだ。
 だから。「解った」と一也は短く応え――その構えを、僅かに変えた。

「…………っ!」

『総毛立つ』とは、まさにこの事。
 全身の神経に冷気を流し込まれたような感覚を、相対するギンガ、見守る流星とインガ、その全員が覚えていた。
 彼女たちの身体が、脳髄からの命令より先に警報を発しているのだ。目の前の男が、ただ一人の拳士が、絶対的な脅威であると。



「変、身…………!!」



 武術の“型”を思わせる動きと共に、男の身体の内側で“スイッチ”が入っていく。
 臍下丹田を守護まもるが如くに現出したベルトが、中央部分を左右に割って展開し――そこから放出された光が彼の身体を覆った瞬間、沖一也の姿は人ならざるモノへと変貌していた。

 黒の体躯、銀の装甲。蜂を思わせる、吊り上がった紅の複眼。先にギンガを援護した時の緑腕とは異なる、紐状部品フリンジが備わる銀の腕。
 惑星開発用改造人間の作業運用形態にして、赤心少林拳の拳士・沖一也の戦闘形態。
 その名は。



「仮面ライダー――――スーパー1!」



 戦場において名乗りを上げる不合理は、相手を対等と……打倒に値する敵と見做せばこそ。
 雑兵の群れには名乗らない。雑魚を蹴散らすだけなら名乗らない。遥か格上の拳士が名乗りを上げ、己と相対するその意味を、ギンガ・ナカジマは過たず理解していて。

「ギンガ・ナカジマ、参りますっ!」

 少女の言葉が、開戦のゴング。
 瞬間、スーパー1が跳躍した。一瞬でギンガの間合いを脱し、遥か上空へと。
 小技の応酬に意味は無い。今のギンガ相手に、戦力を測る愚は犯さない。そうと悟るが故に、沖一也は初撃に最大威力の一撃を選択した。

「沖さん……!? それは流石に――!」

 流星の驚きは、これから繰り出す一撃の威力を知ればこそ。
 雲と雨に閉ざされ、星も月も無い暗闇の夜空に、真円を描く月面宙返りムーンサルト
 サイボーグS-1の重力調節機能を応用。全身を使う円運動によって威力を高め、赤心少林拳の型で精神を集中させて、己が身体ごと蹴り込む仮面ライダースーパー1の必殺絶技。

スーパーライダー――――月面――――キィィィィ――ック!!

 発動から着弾までは、雲耀に等しき一瞬。
 だがその一瞬を、ギンガ・ナカジマは確かに捉えていた。
 万物の流れが指し示す、月面キックの着弾地点。その威力範囲の半歩外、反撃のための間合いが重なる極小点に、己の身を滑り込ませる。そこで待ち受ける。

「!?」

 ギンガの見極めは、僅かに甘かった。或いはスーパー1の必殺絶技が、ギンガの見極めを僅かに上回った。
 月面キックはギンガの身体ではなく、その眼前の石畳へと着弾。凄まじい威力が路面を砕き、クレーター状に地面を穿つ。生じた爆風が雨と空気を弾いて、咄嗟にインガを庇って前に出たメテオの装甲を叩いた。
 衝撃はギンガの足場を崩し、舞い上がる岩塊が彼女の視界を奪う。強制的に作り出された死角の中で――つまるところ、月面キックは次撃に繋げるための布石に過ぎず――スーパー1は本命の攻撃を繰り出さんとしていた。

赤心拳・諸手打ち!

 スーパー1の両腕が弧を描いて振るわれる。狙いはギンガの両側頭部、人体急所の蟀谷こめかみ
 赤心拳・諸手打ち――両の手刀で同時に蟀谷を打ち、左右からの衝撃が頭部中央でぶつかり合うことで、頭蓋と脳を破壊せしめる赤心少林拳の打技である。

 無論、沖一也にギンガを殺すつもりはない。絶妙に打点をずらし、殺傷ではなく戦闘不能に追い込む事が狙いである。それでも常人ならば三日は目を覚まさず、三半規管付近への強打により、一月は平衡感覚が狂ってまともに歩く事も出来なくなるだろう。
 そうなれば必然、ギンガはこれからの戦いに参戦出来なくなる。だがこの一撃をまともに喰らうようならば、今後の戦いについてはいけまい。スーパー1の繰り出す一打は、ある意味で彼の温情でもあった。

「…………っ!?」

 刹那を争う攻防の中、一也の胸中に僅かな困惑が兆す。
 ギンガ・ナカジマに、身を守る気配が無い。敵手が死角の中から仕掛けてくる事は百も承知であろうに、金色の瞳を輝かせたまま、敵の攻撃に対応する気配を見せないのだ。
 既に、カウンターが取れる間合いではない――今からギンガが何をしようと、スーパー1の諸手打ちが彼女の頭部を強打する――逆説、スーパー1もまた、攻撃を繰り出すより他に処方がない――

 激しい金属音が、一帯に響いた。
 鋼と鋼を打ち合わせるが如き、耳を劈く金属音。

 鋼で編まれたスーパー1の腕が、ギンガの両側頭部に展開された光陣を叩いた音であった。
 近接防御魔法トライシールド。魔法陣そのものを防御壁とする、打撃系魔導師の基本スキル。

 ギンガ・ナカジマが……正確には彼女の相棒、ブリッツキャリバーが自動で展開するそれは倍の厚みを持つ鉄板よりもなお硬く、だがその防御魔法を持ってしても、スーパー1の攻撃を止めるに至らない。
 シールドはあっさりと砕かれ、そして両の手刀が、遂にギンガを打ち据え――る、その寸前。
 少女の皮膚に触れるか触れないかのところで、停止した。

「……………………」
「……………………」

 無言。改造人間と魔導師の少女が、ただ黙して睨み合う。
 スーパー1の両手刀が、ギンガの蟀谷の寸前で。
 そしてギンガの鋼拳が、スーパー1の鳩尾の寸前で……サイボーグS-1の急所、動力源たる小型原子炉の真上で、停止していた。

 無論、スーパー1はそのまま諸手打ちを決める事が出来る。
 だがそれと同時、ギンガの打ち込みはスーパー1の体内に直接威力と衝撃を通し、原子炉を砕くだろう。人工筋肉も超合金の骨格も防御にならないという事は、先の大型コウモリ男を墜とした一撃からも明らかだ。

 つまり――引き分けである。

「…………見事だ」

 口を衝いた賞賛は、紛れもなく沖一也の本音。
 相手の急所を見抜く眼力も。防御を相棒に委ね、一撃必倒に専心するその胆力も。全てが拳士として、究極の域にあった。

 やがてスーパー1とギンガは、どちらからともなく構えを解いて向かい合う。スーパー1は変身を解除し、ギンガの瞳も翠緑に戻る。そこでようやく集中が解けたのか、全力疾走した後のような荒い息と呆けた表情で、ギンガは一也を見た。
 その視線を受けて、一也はゆっくりと頷き――そうしてようやく、ギンガに実感が伴ったのだろう。込み上げる喜びが彼女を破顔させ、小さくも確かなガッツポーズを作ってみせた。

「ギンガ! やったじゃない、すごかったわよ!」
「いんが、さん? ――はい、ありがとうございます!」

 飛びつくような勢いで駆け寄ってきたインガに、晴れやかな笑顔でギンガが応える。
 一方で、一也のところには流星が近付いてきた。彼も戦いを終えた後ながら、その表情には戦意が漲っている。
 ギンガの戦いが、彼にも刺激を与えたのだろう。強い者に会った時、強い者が戦う様を見た時に、負けてならじと戦意を燃やす……拳士として、正しい資質だ。

「お疲れ様でした、沖さん」
「ああ、ありがとう。君にも、苦労をかけた」
「いえ。凄いですね、彼女は。一週間で、こうも伸びるなんて。……大丈夫なんでしょうか」

 賞賛の言葉には、ごく短期の修行で遥かに強くなった事……予想を遥かに上回る結果への呆れや羨望、そして心配が、幾らか含まれていて。
 ギンガの成長が本質的には邪道であり、それをもたらした修行が外法である事を、流星は解っている。無論、一也もだ。
 日々の鍛錬の蓄積こそが、拳士としての成長の本道。眠っている資質の獲得も、その過程で為されるべき事なのだ。今回のように無理矢理叩き起こすようなやり方が、正しくあるはずもない。

「そうだな。俺もそこは悔やんでいる。……だが、大丈夫さ。彼女なら、上手く使えるだろう」

 ギンガ・ナカジマの中にある、正しい資質。拳士として、人としての。
 その資質の下で使うのなら、きっと彼女は、力を誤るまい――沖一也には、そんな確信があった。

「それと、沖さん。アレなんですが」
「ん?」

 流星が指し示す先には、完全にノックアウトされた大型コウモリ男の姿。
 分裂体はほぼ全てが消滅しているが、大元とも言える最上位個体は未だ残っている。とは言えギンガの一撃で既に戦闘不能、人間で言うならば気脈や経絡の類が滅茶苦茶に粉砕されて、恐らく二度と人を襲うだけの力は出せないだろう。

「先程、インターポール本部に連絡しました。連携している研究機関に運んで、そこで調べようと思います。俺とインガも、そっちに向かいます」
「そうか。くれぐれも気を付けてくれ。……ああ、ヘリか何かが来るのかい?」
「? はい。もうこっちに向かってます。三十分ほどで到着するかと」
「仕事が早いな……俺とギンガくんも、一緒に行こう。あと二人、乗れるかな」

 この時間から、或いは夜が明けてから山を下りるより、ヘリに同乗して研究機関へと向かい、そこから海鳴市へ戻った方が早い。
 こちらに向かっているのは貨物運搬用の大型ヘリ。あと二人くらい乗員が増えても問題は無いはずという流星の返答を受けて、一也はギンガ達へと向き直る。
 今から来るヘリに乗って、此処を離れると伝えようとして――

 きゅくるるる。

 小さいながらもはっきり聞こえる、可愛らしい腹の虫に、思わず言葉を失った。

「あ……あのっ! その、えっと、ごめんなさい……」

 腹の虫の飼い主が誰であるか、問われる前に申告された。
 まあ、真っ赤になったギンガの顔を見れば、何も言わずとも判っただろうけれど。

 ぷっ、とインガが吹き出して、
 くっ、と流星が低く笑って、
 ふっ、と一也が笑いを噛み殺して。

 それでも彼等は耐えきれず、やがて大きな笑い声が、隠し寺の境内に唱和した。ギンガはますます顔を赤らめた。

「はは――あははっ! ごめんね、あれっぽっちじゃ足りなかったわよね――」
「い、いえっ! そうじゃないんです、安心したらつい――インガさんっ!」

 この六日間、健康を損なわない最低限の食事だけで、後は修行に専念していたのだ。
 修行中は空腹が気にならないレベルで集中していたが、それが終わった今、ギンガの身体は普段通りの食事を欲しているのだろう。
 ちらりと、傍らの流星に視線を送る。流星は小声で「研究施設の近くに、美味い焼肉屋がありますよ」と教えてくれた。

「ギンガくん。身体を作る事も修行の一つだ――飯を食べにいくぞ。流星くん、インガくんも。俺が奢ろう」

 はいっ! と。
 若者達の元気な声が、先の笑い声よりも大きく唱和した。





 そして沖一也は後悔した。

「えっと……タン塩、カルビ、ハラミ、特上骨付きカルビ、レバ刺し、センマイ刺し、特上ハツ、ビビンバ、クッパ、わかめサラダ、激辛キムチ、サンチュでサンキューでお願いします。あ、ぜんぶ四人前で……いえ、五人前で」
「え……っと、ぎ、ギンガ、だいじょうぶ? もう二十人分くらいは食べてるけど……」
「はい、大丈夫です。美味しいですね、ここのお店」

 こんもり積まれた肉の山。それ以上に高く積まれた皿の山。腹具合を気遣うインガの言葉に、にこにこ笑顔でギンガは応えた。

 無論、普段のギンガ・ナカジマは、もう少し遠慮がちで慎み深い娘である。……であるのだが、修行達成の喜びと、山籠もり中の味気ない食事への反動が、ちょっとだけ彼女のブレーキを緩めていた。
 そして残念な事に、沖一也はそんな彼女にブレーキをかけられない。たんと食べろ、俺の奢りだ、食べる事も修行だぞ身体作りだぞ――と、そんな調子の良い事を言ってしまったばっかりに。

 夜は焼肉っしょ! とばかりに意気揚々と入店したのが、遥か昔の事に感じる。

「……その、沖さん。お財布の中、大丈夫ですか……? 良ければ俺も少し出しますけど……」
「い、いや、大丈夫だ。気にしないで、ほら、君も食べると良い。うん」

 食べ放題の店にすれば良かった。と思った時には遅かった。……いや、彼女の食べっぷりは食べ放題の店でも追い出されるレベルだろう。出禁にされてもおかしくない。
 器ごと持って飲み干した野菜スープが、やけにしょっぱい気がしたのは何故だろうか。



 しばらく後、沖一也の仲間達は『異世界から来た人に飯を奢る時は気を付けて』という通信を受け取った。
 意味の解らない通信に――普段、雑談や無駄話を振ってこない真面目な男からの通信に――仲間達は揃って首を傾げるのだった。





◆      ◆







「ん。『キャロ』と『エリオ』、お前たちか?」

 その日はもう夜も更け、そろそろ寝ようかと布団の敷かれた部屋に戻った時だった。
 こつこつ、と窓の外から音がして、エリオとキャロはそちらを見る。……見て、仰天する。

 窓の外に、一人の男が居たからだ。
 真冬だというのに、肌を大きく露出させた服――温暖湿潤な亜熱帯気候域に暮らす原住民を思わせる――を着た、若い男。上方から垂らしたロープを掴んでぶら下がって、窓の外から二人へ呼びかけている。

 ただ、問題は。
 その窓が高層マンションの上層階、地上から数十メートルの高さにあるという点で。

「は……はい。あの、貴方は……?」

 キャロを庇うように背後に回し、警戒感に満ちた視線で――すぐにでもストラーダを起動出来るように身構えて――エリオは、蛮族めいた男に問う。
 果たしてその問いに男は答えず、嬉しそうに破顔した。まるで子供のような笑みだった。

「よかった、会えた! お前たち待ってる人いる、オレといっしょに来る!」
「い、いっしょにって……その、貴方、誰ですか……!?」
「? コータローから、聞いてないか?」

『コータロー』――南光太郎?
 光太郎の知り合いで、エリオ達の事を知っている……ある程度の事情を聞かされているという事は、つまり、彼も。



「オレ、『アマゾン』! キャロとエリオ、お前たち、迎えにきた!」





◆      ◆





第弐拾参話/了





◆      ◆







後書き:

 あれ、十年経ってる!?
 という訳で?第弐拾参話でした。お付き合いありがとうございました。

 忘れてた訳でも放り投げた訳でもないんですが、進学したり卒業したり就職したり鬱になったり入院したり異世界転生に失敗したりしてるうちに、さっぱり小説が書けなくなってしまって。
 幸い、知り合いの同人サークルにお誘い頂いて、小説を書く習慣は何とか残せたんですが。それでも年に短編小説一本書くのが精一杯という感じで。

 まあ十年も放置してたら皆忘れてるよねーと思ってたところに、今年になって感想がついてた事に気付きまして。奇特な方も居るものだと思いながら、ちょっと頑張って新話投稿と。本作のベースの555も二十周年でリゲインドやるみたいなので、タイミングは良かったかも。
 皆様もエタった作品に諦めず感想書いてあげてくださいね。作者さんが生きていれば復活の目はあります。ソースは私。
 あとついでに既投稿分を諸々修正。当時は余白恐怖症で文字数稼ぎ結構やってたので、今見るとちょっとテンポが悪いかなーという部分をちょいちょい直してます。お時間に余裕があれば最初から見返してあげてください。

 今回はギンガのパワーアップ編で。これからゴルゴムとフォッグの幹部勢と戦うってところで、ちょっとギンガが力不足かなーと。というか地球編にギンガとエリオとキャロ連れてきたのはそこらへんのテコ入れです。
 とは言え単純にライダーの技術やらガジェットやらでデバイス強化するみたいなのは面白くないなあと考えた挙句、赤心少林拳を絡めて新能力開眼の方向にしてみました。作中でも触れてますが、玄海老師のやってた事が出来るように! というのがコンセプト。
 まあ老師は技10でやってるところを、ギンガは技7:力3くらいでイメージしてます。老師すげー。
 あと赤心少林拳と星心大輪拳の関係は100%捏造です。信用しないでください。
 加えて星心大輪拳成立の過程は漫画『闇狩り師 キマイラ天龍変』が元ネタです。面白い漫画なのでオススメです。

 ラストに強くてハダカの人出てますけど、次回はちょっと別の話です。
 脚ぶった切られた主人公の話を少し進めてから、エリキャロのパワーアップ話をやろうかなと。

 それでは次回で。いつになるか判りませんが、よろしければまたお付き合いください。  



[7903] 怪人図鑑
Name: 透水◆44d72913 ID:35af097c
Date: 2023/12/29 21:03
 こちらでは、本作に出てきた怪人その他のデータを公開。
 興味無い、という方は読まずとも結構です。
 こちらも設定資料集と同様、話数を重ねるごとに増えていきます。気になる方はちょこちょこ覗いても良いかも(笑
 ちなみにオルフェノクは基本、本作オリジナルのモチーフです。それ以外の怪人は原作準拠の予定となっております。



◎ホーネットオルフェノク
 結城衛司が変化する、雀蜂の特質を備えたオルフェノク。
 使徒再生では無く、自然死からの復活を遂げたオリジナルのオルフェノクである為、能力自体は総じて高め。
 左前腕部に圧縮空気によって針を飛ばすニードルガン、右拳に刺突用衝角を装備。ニードルガン、衝角共に平時は前腕部に格納されており、使用時に変形して露出。またこれらとは別に、オルフェノク特有の手持ち武器として大型の騎兵槍を作り出す事が可能。
 衝角表面からは毒液が滲出、これによって使徒再生を行う(毒そのものに使徒再生能力がある為、極端な話、爪楊枝にこの毒を塗って刺すだけでも使徒再生が可能となる)。

※本作の主人公、結城衛司の変化するオルフェノクです。オルフェノクのモチーフは他にも幾つか候補があったのですが(昆虫ではカミキリムシやテントウムシ、それ以外では鴉や梟などの鳥類)、主人公という事で出番が多くなる為、元の動物の特徴が分かり易い方が良いという理由から、蜂になりました。
 今後少しずつパワーアップしていったりいかなかったりするので、長い目で見て頂ければと思います。



◎ホーネットオルフェノク飛翔態/ホーネットオルフェノク激情態
 ホーネットオルフェノクの強化形態。感情の昂ぶりによって発現するが、それ故に衛司の意思による発現は(今のところ)不可能。
 飛翔態では背面に二対四枚の翅を形成、外殻も空気抵抗を減らす様に多少変形する。速度に特化した形態であり、瞬発的に亜音速にまで達する事が出来るが、魔導師の飛行と比して持続時間・航続距離は短め。
 激情態では全身の外殻から鋭利な棘状の突起を形成、より威嚇的なシルエットへと変貌する。同時に左腕のニードルガンは尺骨側に一本だけだった銃身が前腕をぐるりと囲む様に六連装のそれへと強化、衝角も三割ほど伸長する。また背部には飛翔態同様に翅が形成されている為、飛行も可能。
 なお、激情態・飛翔態共に、浮遊・飛行の際にはかなりの音量の羽音を発生させてしまう為、魔導師の飛行と違ってすぐに存在を察知されてしまう欠点がある。

※ホーネットオルフェノクの強化形態です。当初は段階的に飛翔態→激情態という感じにパワーアップさせていく予定だったのですが、ちょっと方針を変更して、早々に晒す事にしました。
 第6話の時点ではまだ自由にこの形態にはなれなかったのですが、第九話の戦闘で飛翔態への変化を覚えました。次は激情態なんですが、少し時間がかかりそう。
 ちなみに第5話の後書きでも書いた通り、イメージモチーフは『爆竜戦隊アバレンジャー』のアバレキラー(アバレモード)。肩や体側から細い棘が突き出ているイメージですね。威嚇的な外見ってどんな感じだろう、と考えると、あれに行き着きました。



◎コックローチオルフェノク
 ゴキブリの特質を備えたオルフェノク。通常のオルフェノクと異なり、油を塗った様な光沢を持つ外殻が特徴。
 ラッキークローバーの一人、臥駿河伽爛が変化する。オリジナルのオルフェノクであり、現存するオルフェノクの中でも最上位に位置する能力を誇る。
 固有武装は薄い板。鋼鉄以上の強度でありながらゴム並みの展性を備えており、様々な形状に変形が可能。これを端から丸めて棒状にし、打撃兵器として用いる事が多い。
 また他のオルフェノクに類を見ない特殊能力として、個体の増殖が挙げられる。全く同一の個体を同時に複数存在させられる能力であり、一体を分裂させている訳では無い為、能力の低下などは起こらない。最大四十四体にまで増殖が可能であり、本体と呼べる様なものは存在しない為、一体でも残れば再び増殖する(増殖した全てが本体と言える)。増殖と統合も自在。
 ただし増殖した個体が倒された場合、次の増殖(倒された分の補充)には多少の時間を要する。倒された数に比例してこの時間は伸びていく為、欠けた戦力をすぐさま補充するという事は出来ない。
 本編開始以前に地球へと赴き、三原修二からデルタギアを奪い取った。

※先にお断りしておくと、こいつが本作における『最強キャラ』です。
 本作には何人かオリキャラが登場しますが、衛司の様なレギュラーや一話限りの使い捨てキャラを全て含めた上で、こいつが最も強いキャラになります。ただしあくまでオリキャラの中では、という事であり、原作キャラよりも強いと明確に定めてはいません。
 先にある程度上限を定めてしまう事で、オリキャラを出す事によって起こり易い“強さのインフレ”を回避しようという目論見です。ただし下手に主人公や格好良いキャラでそれをやると、単なる『俺Tueeeeee!』に見えてしまうので、あえてネタキャラであるオカマをこの位置に持ってきました。
 強さの上限であり、しかも変化する元があのオカマなので、あまり頻繁に出すと話が崩壊してしまうのですが、要所要所で上手く使っていきたいところです。



◎シカーダオルフェノク
 蝉の特質を備えたオルフェノク。
 ラッキークローバーの一人、白華・ヘイデンスタムが変化する。コックローチオルフェノク同様、現存するオルフェノクの中では最上位に位置する実力者。
 固有武装は持たないものの、針状に伸びた口を突き刺す事で使徒再生が可能。
 また固有の能力として、“声”による催眠能力が挙げられる。自分の声を聞かせる事で対象の動きを操る事が可能であり、また同時に複数の対象を操作する事も可能。ただし意識、思考までを操る事は出来ず、あくまで挙動を操るに留まる。加えて指示はある程度具体的なものである事が要求される。
 この催眠能力は人間態のままでも行使が可能。
 
※伽爛が直接戦闘に長けたキャラクターなので、こちらは絡め手というか、トリッキーな戦闘が出来るキャラに仕立ててみました。
 他の人間を操って戦わせる、という、悪役としては割とありがちな能力なんですが、戦闘以外のところで結構使い勝手が良いので採用。ただその分、彼女が前線に出て来る事が少なくなりそうなので、この辺のフォローをどうしようかと考えているところです。



◎モスオルフェノク
 蛾の特質を備えたオルフェノク。変化すると背部に巨大な翅が形成され、そのまま飛行が可能(他のオルフェノクの様に、『飛翔態』への変化を必要としない)。
 スマートブレイン現社長、結城真樹菜が変化する。ラッキークローバーと同等の実力を持つ、オリジナルのオルフェノク。
 固有武装は扇。これによって突風を発生させる他、骨組み部分に仕込まれた刃物を射出する事で使徒再生が可能。

※本作でのラッキークローバーは全員昆虫モチーフのオルフェノクにしようと最初から決めていたんですが、その流れで真樹菜は蛾に。ただしこれを決めたのは割と後になってからで、投稿を始めた時点ではまだ確定してませんでした。
 現在では特殊能力とかも概ね決まってるんですが、社長というポジション上、なかなか前線に出て来ないので描写出来ないのが悩みの種。もう暫くお待ちください。



◎フライオルフェノク
 蠅の特質を備えたオルフェノク。
 ラッキークローバーの一人、ラズロ・ゴールドマンが変化する。コックローチオルフェノクと異なり直接戦闘はそれほど得手ではないが、能力の殺傷力・殺傷範囲の広さからラッキークローバーに選ばれている。
 固有武装は手袋。ここから放出する不可視の粒子を標的の体内に吸引させることで、対象の免疫機能を暴走させる(重病の症状を発生させる)ことが出来る。
 能力自体はラズロの意思で自在に解除が可能だが、当のラズロが薬物中毒で常に人事不省の状態にあるため、一度発動させれば滅多なことでは解除しない。

※恐らく本作で最も初見殺しの能力です。作中の展開から逆算して設定したのですが、使い勝手の悪さで出番はあまり多くなさそう。
 キャラ的には伽爛に次いでお気に入りなのですが。ヤク中怪人とかヤク中ライダーとかTV放送できない倒錯しまくった感じが好きです。とはいえベルトはもう彼の手元に無いので、ラズロがライダーに変身することはもう無いかも。



◎バイソンオルフェノク
 第壱話、第参話に登場。
 野牛の特質を備えたオルフェノク。他のオルフェノクを凌駕する強固な外皮と、その下の肥大した筋肉によって逆三角形を描くシルエットが特徴。
 その脚力を活かした突進が主な攻撃方法。頭部に装備された一対の角は使徒再生能力を持つ。これ以外にも一挺の手斧を武器として作り出す事が出来るのだが、作中では未使用。
 第壱話でシグナムを含む陸士部隊と対戦、陸士部隊の大半に重傷を負わせるも、シグナムに片方の角を叩き折られ退散。その数日後、白華=ヘイデンスタムの能力によって錯乱状態へと追い込まれ、クラナガンの街中に出現。偶然居合わせた衛司=ホーネットオルフェノクと戦い、殺害された。

※牛モチーフのオルフェノクは原作TVシリーズにオックスオルフェノクとして出ているのですが、個人的に何となく物足りなかった為(パンチ振り回すだけでしたから)、もう少し凶暴な、闘牛とかに使われる獰猛な牛のイメージで、バイソンオルフェノクとして出してみました。



◎キャットフィッシュオルフェノク
 第壱話に登場。ただし名称のみ。
 ナマズの特質を備えたオルフェノク。オルフェノクらしからぬ、ぬるっとした外観が特徴。
 長い髭を敵の口から刺し入れ、使徒再生を行う。ただしオルフェノクとしては相当な格下(いわゆる『下の下』か『それ以下』)。気に入らない相手を殺す為だけにオルフェノクの力を使っていた。
 本編開始より以前にシグナムと戦い、敗北して死亡。作中ではレヴァンテインの台詞にのみ登場している。ちなみにレヴァンテインはこれを“鯰男”と評しているが、実は女性のオルフェノクである(外観上、女性を思わせるパーツが無かった為、そう判断したものと思われる)。

※実は本作におけるオルフェノク第一号はこいつでした。本作のプロローグというか、パイロット版みたいな感じで。レヴァンテインの台詞はその名残です。
 ミッドのアイドルの追っかけをしている女性だったのですが、そのアイドルが不祥事を起こして逮捕され、それに逆上して(私の○○君を逮捕するなんて許せない!的な)アイドルの収監されている刑務所を襲撃。丁度、別任務で近くに来ていたシグナムに倒される……という筋書きだったのですが、あまりにも本筋から離れていたので、パイロット版としてはいまいちかと思い、ボツになりました。
 今にして思えば、リアルの方でこれにそっくりなネタがつい最近起こったので、ボツにして正解だったのかも。……まさか読みたいなんて人はいませんよね?
 ただ身内受けがやたら良いキャラだったので、供養の意味も込めてここで設定の一部を公開。作者のお遊びというか自己満足の一つとして、流して頂ければ幸いです。



◎ジャガーオルフェノク/ジャガーオルフェノク疾走態
 第肆話~第伍話に登場。
 ジャガーの特質を備えたオルフェノク。
 その脚力を活かした高速戦闘を得意とする。爪と牙に使徒再生能力を保有。また特有の能力として、掌に衝撃吸収機能を持つ肉球を備える。
 また疾走態への変化も可能。二足歩行から四足獣形態へと変形し、高機動戦闘に特化する。ただし彼は使徒再生によって生まれたオルフェノクである為、オリジナルのそれに比べて能力の上昇率は低め。
 クラナガン医療センターに入院していた結城衛司を襲撃するも、居合わせたギンガ=ナカジマ、そして駆けつけた機動六課スターズ分隊に阻まれる。四人を相手に善戦するも敗北、しかし最後の力を振り絞りなのはへと襲いかかるが、ホーネットオルフェノクの騎兵槍に身体を貫かれ死亡した。

※初登場回では怪我人の衛司を散々いたぶって楽しむ、小物というか単なるチンピラでした。この時点ではもう噛ませ犬的な扱いで、ギンガにあっさりやられてしまう予定だったのですが、さすがにそれだとすぐ戦闘が終わってしまうと少し描写を増やした結果、『雑魚の癖にそこそこ強い』と訳の分からないキャラに。
 本作では大概、元が格好良いモチーフのオルフェノクは扱いが微妙になってしまう傾向があるのですが、その意味では結構恵まれているのかも。



◎コングオルフェノク
 第肆話、第伍話、第陸話に登場。
 ゴリラの特質を備えたオルフェノク。
 巨大な腕を生かしたパワーファイトが得意。掌の皮膚に使徒再生機能を持ち、掌打の様に対象の心臓を外部から圧迫し、衝撃を通す事で使徒再生を行う。
 固有武装として無反動砲に似た火器を生成する。これはモチーフとなった無反動砲と違い、多少の連射が可能。また砲身にかなりの強度がある為、即席の打突武器としても機能する。
 ジャガーオルフェノクを囮に衛司へと近づくが、暴走状態に陥った衛司と戦闘になり、左腕をもぎ取られた挙句無反動砲を自爆させられる。最終的にはそのダメージによって錯乱、クラナガン医療センターの屋上から六課スターズ分隊を爆撃するも、エリオの突撃によって屋上から叩き落とされ、落下の途中に仮面ライダーカイザのカイザスラッシュを喰らい爆死した。

※本作では初の『ライダーに倒された怪人』です。ジャガーオルフェノクが『ただのチンピラ』から『そこそこ強い雑魚』になってしまったのとは逆に、こちらはそれほど当初の予定から外れない描写が出来ました。ただ真樹菜の格付けとしては大して実力者でもなかったり。
 掌の内側の使徒再生機能、というのはぶっちゃけ後付けです。作中では衛司と戦うだけの役割であり、使徒再生機能に関しては何も考えていなかったので、怪人図鑑収録にあたり追加しました。イメージとしては『ドラゴンボール』の人造人間19号・20号の手ですね。どの道作中では使わないままやられてしまったのですが。



◎ピルバグオルフェノク
 第捌話~第玖話に登場。
 団子虫の特質を備えたオルフェノク。背負った甲殻の中に四肢を折り畳んでの体当たりを得意とする。
 人間の様な四肢の他に、胴体側部に数本の細い脚を有する。この脚の先端を突き刺す事で使徒再生が可能(作中未使用)。
 チューリップオルフェノクとは恋人同士であり、共に結城衛司を殺そうと襲いかかるが、急行した機動六課フォワード陣により失敗。直後、突如乱入してきた仮面ライダーデルタの姿に恐怖し、その場から逃走を図るものの、背後からルシファーズハンマーの直撃を受け、殺害された。
 なお結城衛司を襲った際、その場に居合わせた人間達を無差別に殺害。後にチューリップオルフェノクが衛司に殺される原因となった。

※こいつとチューリップオルフェノクは、もう本当に即興も即興、『バカップル』というところだけ先に決めて、モチーフとか戦い方とかは全部後付けです。
 『とりあえず、殺されても心が痛まないキャラ』で考えていたのですが、結果的に割と悲惨な死に方してしまったので、ちょっとだけ気の毒だったり。



◎チューリップオルフェノク
 第捌話~第九話に登場。
 チューリップの特質を備えたオルフェノク。オルフェノクの中でも実力は最底辺であり、戦闘には向いていない。
 先端に球根状の錘がついた長柄武器によって使徒再生を行う。また、四肢を体内に収納し、頭部の花弁を落とす事で球根形態へと変形が可能。ただしその際は一切の攻撃が出来ず、防御力も大して上がらず、転がる以外に移動方法が無い為、実際には全く役に立たない形態である。
 ピルバグオルフェノクとは恋人同士である、共に結城衛司を殺そうと襲いかかるが、急行した機動六課フォワード陣により失敗。直後、乱入してきた仮面ライダーデルタに踏み潰されて意識を失い、その後機動六課とデルタとの戦闘に紛れて逃げ出すが、結城衛司/ホーネットオルフェノクと遭遇。命乞いによって一度は見逃して貰うも、それを蔑ろにして背後から襲いかかった為、殺害された。

※上記の通り、即興のオルフェノクです。ただこちらはピルバグオルフェノクよりも死亡に至るまでの過程が濃く描けたので、そこそこお気に入り。
 本当は衛司に殺害される役はピルバグオルフェノクの方だったんですが、『泣いて命乞いする』なら男性より女性の方がしっくりくるかな、と変更しました。
 


◎ファルコンオルフェノク
 第拾壱話に登場。
 隼の特質を備えたオルフェノク。作中では閉鎖空間での戦闘のため披露しなかったが、飛翔体への覚醒も果たしており、実力的にはスマートブレイン所属のオルフェノクの中でも上位。
 足の爪に使徒再生の能力を有し、高速での接近から敵を引き裂く戦法が得意。
 海上隔離施設の保守管理を請け負う業者が変化するが、施設を強襲したドラスと遭遇・戦闘。実力を発揮しきれない閉鎖空間での戦闘と、そもそものドラスとの実力差から瞬殺される。その死体はドラスに喰われ消滅したため、世間的には失踪した扱いに。

※ジャガーの項で触れた『格好良いモチーフの敵は扱いが微妙になる』の典型例。ぶっちゃけ出オチ要員です。
 とは言え彼がドラスに喰われた事が後々主人公との因縁に繋がってくる(美味しい餌、的な)ので、ポジションとしては割と重要だったり。

 

◎ロブスターオルフェノク(原作元:仮面ライダー555)
 海老の特質を備えたオルフェノク。両腕のグローブ状の手甲、及びフェンシングフォイルに似た細身の剣が主武器。
 地球で覚醒したオリジナルのオルフェノクであり、オルフェノクの王(アークオルフェノク)から力を分け与えられた結果、不死の肉体を得る。しかしその代償として、人間態である『影山冴子』の姿には戻れなくなってしまった。
 現在はスマートブレインミッドチルダ本社ビルの地下にある施設で、アークオルフェノクの復活を待っている。

※数少ない原作登場オルフェノク。原作TVシリーズにおけるラッキークローバーの一人です。本作では王様と一緒にミッドに移住(?)。
 本作では結城真樹菜に王様を復活させる手段を探してもらいながら、本人は地底で王様を眺めて過ごすニートもびっくりなひきこもりに。今後再登場の予定はあるのですが、見せ場があるかどうかはまだ未定となっております。……ファンの方、もう少し待っててください。



◎アークオルフェノク(原作元:仮面ライダー555)
 オルフェノクの『王』。全てのオルフェノクの根源にして頂点に位置する存在。オルフェノクに己の力を与える事で不死の存在へと変質させる事が出来るが、意に沿わぬオルフェノクは餌として捕食してしまう。
 王を殺す事で全てのオルフェノクが死に絶えると言われているが、詳細は不明。
 現在は十年ほど前の戦いで負った傷により、スマートブレイン社の地下施設で深い眠りについている。

※ロブスターと同様、原作登場オルフェノクです。
 本作では原作最終話と同様、水槽に浸かった状態ですが、寝床自体は流星塾跡からミッドチルダに移されています。
 原作終了から本作開始までには十年ちょっと時間が開いているのですが、当然ながら、十年間ずっと寝たままです。この王様の復活に関連する策謀が、本作におけるスマートブレインの動きを読み解くヒントになる様なならない様な。



◎ゴルゴム三神官(原作元:仮面ライダーBLACK)
 暗黒結社ゴルゴムの組織運営を司る大幹部。白いローブを羽織った人間の姿だが、フードから覗く顔面はやや人間からかけ離れている。
 天、海、地の石と呼ばれる鉱物に蓄えられたエネルギーを動力源としている。またこのエネルギーは魔力とは異なるものである為(戦闘機人のISに似ているが、これともやや異なる)、虚数空間、またはAMFの影響下にあっても活動が可能。
 それぞれ三葉虫、スミロドン(サーベルタイガー)、翼竜の力を持つ怪人態へ変化する。
 かつて地球での戦いの折、敗北して爆死したのだが、部下によって遺体が回収され、復元された。
 ちなみにゴルゴムは建前上は単なる宗教団体であるのだが、その前歴から管理局においては広域次元犯罪組織と同様に扱われている為、彼等も非公式ながら次元犯罪者と同様に見做されている。

※原作45話、46話、49話でそれぞれ死亡しているのですが、本作ではその遺体がこっそり回収され、修復されたという設定で登場です(詳しくは設定資料集、ゴルゴムの項をご確認ください)。もう爆発四散し肉片レベルでばらばらだったので、修復・再構築に二十年以上かかってます。
 基本的に能力自体は原作準拠なのですが、本作では魔導師の能力との兼ね合いから、原作よりも強いんじゃないか? 的な描写も多くなるかと。幹部怪人の補正という事でご了承ください。



・侍女怪人マーラ/侍女怪人カーラ(原作元:仮面ライダーBLACK)
 暗黒結社ゴルゴムの次期頭首が生み出した怪人。基本、前線に出る事は無く、世紀王と呼ばれる次期頭首(候補)に付き従い、身の回りの雑事を請け負う。
 二十年以上前に地球でゴルゴムが壊滅した際、本拠地の爆発によって発生した次元断層に巻き込まれ、瓦礫ごと虚数空間に落下。致命傷を負うも、三神官復活の手筈を整えた後に絶命した。

※本作におけるゴルゴム三神官復活の原因です。
 原作最終話、ゴルゴム神殿の崩壊と共に瓦礫に押し潰され絶命、というのが公式設定なのですが、本作では上記の様に次元断層に巻き込まれて虚数空間に落ち、三神官を復活させる準備を終わらせるまでは生きていたという設定になっております。
 作中では“彼女”という呼ばれ方のみで、名前自体はバラオムの台詞の中にしか出てこないのですが、一応こちらで紹介。



◎イラガ怪人(原作元:仮面ライダーBLACK)
 第拾漆話・第拾玖話に登場。イラガの特性を備える怪人。様々なエネルギーを吸収し、爆発する繭を生成する。また全身の棘はミサイルのように射出する事が可能。
 フォッグ迎撃作戦に向かうクラウディアに忍び込み、動力炉に繭を仕掛ける事で艦に甚大なダメージを与えた。
 後にゴルゴムのフォッグ回収作戦にも投入。儀式魔法が行われる泉の周辺に繭を仕掛け、スターズ分隊を迎え撃つ。最後は地下に逃げ込んだところをなのはのディバインバスターでぶっ飛ばされた。

※爆発する繭という特殊能力を持つ事に加え、原作のイラガ怪人が出てくるエピソード(第27話『火を噴く危険道路』)がお気に入りのため採用。
 作中ではやられ役でしたが(まあ原作でも一エピソードに出てくるだけの怪人でしたし)、ゴルゴムの厄介さが出せたかなーと個人的には満足してます。

 
 
◎クモ怪人(原作元:仮面ライダーBLACK)
 第拾漆話から登場。クモの特性を備える怪人。常に集団で行動し、三神官の命令によって動く。
 ゴルゴムのフォッグ回収作戦に投入され、周辺の陸士部隊を襲った。なお陸士108部隊を襲撃した集団は仮面ライダーカイザと仮面ライダーデルタによって撃破されている。
 またそれ以外に儀式魔法が行われる泉の周囲にも配備され、スターズ分隊の進行を妨害する。

※展開の都合で、敵にも何か戦闘員的なポジションの怪人が欲しいなーということで採用。ゴルゴムもフォッグも戦闘員が居ないので、複数出てくるこの怪人は貴重なのです。
 まあイラガ怪人と同様のやられ役なんですが、108部隊を襲うあたりはイメージ通りに書けたかなと思ってたり。



◎セパルチュラワーム・ビリディス(原作元:仮面ライダーカブト?)
 第拾壱話から登場。シデムシに似た姿を持つネイティブ・ワーム。左半身に甲冑を着込んだ様なシルエットと、盾の様に巨大な左腕、鉤爪状の右腕が特徴。ワームの一種である為人間への擬態能力と、時間流操作能力『クロックアップ』を保有している。
 アルノルト・アダルベルトという人間に擬態し、現在はクラナガンの繁華街にあるレンタルビデオ店(映像記録媒体を貸し出す店)に勤務。ただし店自体が裏通りにあり、置いてある映像媒体も一般に出回らないアングラなものが大半な為に客はそう多くなく、仕事中は専ら第97管理外世界の映画を観賞して過ごしている。
 宿敵(と一方的に認識している)臥駿河伽爛の依頼を受け、結城衛司・ホーネットオルフェノクの抹殺に乗り出す。クロックアップを駆使してホーネットオルフェノクを追い詰めるものの、毒液を気化させ吸引させるという敵の策に嵌って敗北。止めを刺される寸前、乱入してきたドラスによって瓦礫の下敷きとなるが、伽爛に救助され入院。
 後に、入院先の病院に担ぎ込まれてきた衛司を連れて逃走。フライオルフェノクの能力に侵された彼との再戦を果たすため、擬態能力を使いスマートブレインに忍び込むが……?

※本作では初のワーム種怪人。ただしネイティブ・ワームの一人です。なので厳密にはカブトが原作ではなかったり。
 原作ではサソード初登場回であっさりやられてしまったワームなんですけど、なんとなくシルエットがお気に入りだったんです。ただし原作とは異なり、原作で黄色だった体表が深緑色になっています。後は基本的に同じですが。
 このキャラは怪人態より人間態の方がメインになるキャラなので(まあラッキークローバーからしてそうですが)、戦い方は特殊能力に頼らない、力押しで何とかなる怪人にしようという事で、このワームになったという経緯もあります。
  


◎ネオ生命体ドラス(原作元:仮面ライダーZO)
 第拾話から登場。望月博士によって作り出された“完全生物”。右肩のレンズ状器官から照射する光線マリキュレイザー、伸縮自在の尻尾、左腕に内蔵される鞭状器官、右前腕部の射出など、多くの武器(ないし武器に転用される器官)を全身に備えている。その破壊力は脅威的で、一般的な魔導師の防御魔法では到底防ぐ事は出来ない。
 通常は歪な球状の物体であるが、金属を取りこんで身体を構成する事が可能。また生物を体内に取りこむ事も可能であり、これによってエネルギーの総量を強化する事が出来る(通常の生物で言う“食事”に相当する)。
 本編開始より十五年以上前、とある事件において試作型ネオ生命体により破壊される。その後拠点の崩壊と共に死滅したと思われていたが、創造主たる望月博士と親交があったスカリエッティにより回収された。ただしスカリエッティは友人の研究を簒奪するつもりが無かった為、培養器の中に安置されている状態で半ば放置されていた。
 その後、スカリエッティの逮捕によりアジト深部に取り残されていたものの、地震による崩落で培養器が破損。身体を維持する培養液が漏出してしまい、生命維持に支障をきたした為、新たに培養液を用意させるべく、廃棄ガジェットを材料に身体を構成。スカリエッティに繋がる手掛かりとして海上隔離施設に収監中のチンクを狙うも(尚この際、オルフェノクを一体捕食している)、居合わせたシグナム・エリオ・キャロによって阻止され大破。
 後に地上本部で解析する為に移送中、再起動。近隣で戦闘中の衛司を襲撃するが、介入してきたカイザのゴルドスマッシュで再度大破。しかしその残骸は突如現れたゴルゴムによって回収され、キングストーンを保管する器とされた上で、フォッグ回収作戦に投入される。

※ライダーシリーズで一番好きな怪人です。作者、世代的にはRX放映終了後なので、初めてまともに見た(記憶に残る)ライダーがZOだったんですよね。
 その為ライダークロス、『魔法少女VS怪人』の構図を考えた時、真っ先にこいつを出そうと決めました。……ただしドラスだけだと『怪人が出たぞ! やっつけよう!』と六課VSドラスをやるだけで話が終わりそうなので、もう少しストーリー性のある話にする為、メインはオルフェノクになったのですが。
 出した当初は『こんなマイナー怪人誰も知らないよな』と思ってたんですが、直後にディケイド映画でドラスが大活躍してくれたので、一気に知名度が上昇。ディケイドは設定やら描写の破綻が目に付いてあまり好みじゃないんですが、ドラス関連については感謝してますw
 今後、かなり重要なポジションに付く予定。その上で、『実の親にも否定された存在』的な悲哀も持ってるキャラなので、何か救いになる描写が欲しいかなと思ってます。


◎クモ女(原作元:仮面ライダーZO)
◎コウモリ男(原作元:仮面ライダーZO)
 ドラスが産み出す眷属。トラブルによって地球に放り出され、仮面ライダーとの戦闘によって深い傷を負ったドラスが、自己修復を行うためのエネルギーを回収するため作り出した。
 クモ女・コウモリ男ともに、ドラスの身体から直接生み出された上位個体と、その上位個体から分裂した下位個体が存在する。
 ドラスが修復を行っている間、エネルギーの回収・魔導師や仮面ライダーの監視(或いは襲撃)を行うべく暗躍している。

※地球編でのメイン敵。主人公やギンガ・エリキャロを別行動させる→それぞれが仮面ライダーと出会う、みたいな構図にするために採用。
 そのせいで原作よりもかなり数が多くなっているのですが、その辺はキングストーン入りドラス(=原作より強化されてる)だからって事で一つ。



◎宇宙機械獣母艦フォッグ・マザー(原作元:仮面ライダーJ)
 第拾漆話から登場。宇宙を旅する怪人集団『フォッグ』の母艦にして生みの親。
 かつてはとある次元世界に生息していた昆虫型生命体だったが、その世界での文明が起こした核実験・核戦争により変質、進化。高い知性と獰猛さを併せ持つ怪人集団へと変化した。
 千年に一度、胎内に抱えた無数の卵を孵化させる『大孵化』を迎える特性があり、この際に周囲の生命体を無差別に捕食する習性がある。これは惑星単位での大絶滅に至る程であり、管理局が把握しているだけでも六つの次元世界がフォッグの餌食となった。
 作中ではミッドチルダへと襲来、ゴルゴムの援護もあってミッド西部の山岳地帯に落着。調査のため送り込まれた管理局やスマートブレインの戦力を襲いつつ、大孵化の生贄としてキャロを狙う。

※劇場版一本だけの敵なのに、たぶん仮面ライダーシリーズで一番規模のデカい敵。デザインも含めお気に入りなので本作でも敵に採用。
 ただし作中や後書きでも触れた通り、これ自体は原作に出て来たものとは別個体です。最低でも四個体が存在している設定(うち一体が地球に、一体が本作に)。
 巨大で強大な敵をどう攻略するか、という点で怪獣映画(特に平成VSシリーズのゴジラ)のリスペクトという面があります。これでライダー要素とリリなの要素を上手く繋げていければなーと。
 ちなみに本作、こいつがミッドにやってくるかどうかで分岐します。エイプリルフールの時に本作版パラダイス・ロストやりましたが、こいつが来ないとパラロスルートに入る感じで。



◎ガライ/コブラ男(原作元:仮面ライダーJ)
◎アギト/トカゲ男(原作元:仮面ライダーJ)
◎ズー/ハチ女(原作元:仮面ライダーJ)
 フォッグの幹部怪人。大孵化のために必要な儀式を取り仕切る。
 アギトとズーは生贄を確保するため艦外に現れ、その際に衛司やラッドと遭遇。戯れ程度に痛めつけて放置したのだが、これの報復に現れた彼等と再度交戦。二人が変身したカイザ・デルタとの戦闘の末、撃破された。
 ガライはゴルゴムの儀式魔法を阻止するべく出現。儀式の強制中断によって極小規模の次元震が発生、衛司やギンガ達が地球に放り出される原因となった。

※フォッグ攻略の前座(?)として使ってしまったので、ちょっともったいなかったかなーと思わなくもない怪人達です。
 ガライに関しては今後フォッグ攻略本番でメイン敵になる予定。原作ではこいつマザーより強くね? と思う程の強力怪人なので、上手く使っていきたいところです。








 現在ではこんなところです。





[7903] 設定資料集
Name: 透水◆44d72913 ID:35af097c
Date: 2023/12/29 21:08


 こちらでは仮面ライダーシリーズに登場した諸設定のうち、本作において変更が加えられているものや、本編で語る予定の無い裏設定について解説していこうと思います。
 今後、話が進むにつれて増えていきますので、興味のある方は覗いてみてください。




【スマートブレイン】(原作元:仮面ライダー555)
 本作でのスマートブレインは、ミッドチルダに本拠を置く、多国籍ならぬ多世界籍企業として登場させています。
 第壱話の通り、地球でのスマートブレインは既に倒産。ただし地球以外の世界に移転しており、その規模は更に巨大化しているという設定です。
 原作の仮面ライダー555(TVシリーズ)最終話において倒産を思わせる描写があったのですが、本作ではこれを他の次元世界への移転作業中と解釈。つまり本作は原作終了後の話であり、地球には555の主人公達が普通に暮らしている事になります。……本作には出てきませんけど。
 ちなみに現在の社長は結城真樹菜(オリキャラ)。何故こいつが社長やってんだ、という経緯もおいおい書いていきます。



【オルフェノク】(原作元:仮面ライダー555)
 基本、原作に準拠しています。オリジナルとそれ以外の存在、使徒再生など。
 ただし本作ではミッドチルダの人間もオルフェノクとして覚醒しており、かなり広域に亘って存在が確認されております。数はそんな多くないですが。
 戦闘能力に関してはやや原作より補正が入っており、『オルフェノク>一般的な魔導師』という感じです。
 また本作では、死亡後に復活するオリジナルのオルフェノクに関し、死因がかなり猟奇的になってる事(射殺・首吊り・爆死)がございます。ご了承ください。



【スマートレディ】(原作元:仮面ライダー555)
 こちらも原作準拠(というかアフター)。TVシリーズ最終話の後、スマートブレインごとミッドに移っています。
 本作では社長秘書の様な仕事もしていますが、基本はTVシリーズ同様、CMなどのスポークスウーマンと、新人オルフェノクのお世話をしています。
 あのくそウザい喋り方は未だ健在(笑)。



【仮面ライダーカイザ】(原作元:仮面ライダー555)
 原作TVシリーズ最終話で破壊されてしまったのですが、その後残骸がスマートブレインによって回収され、ミッドチルダで修復を受けたという設定にしております。なので厳密には原作準拠ではありませんが、性能や装備などは原作と同じものです。
 第参話後書きでも触れたのですが『ライダーが出ないので敬遠してました』な感想を多く頂き、これはまずいその内飽きられるんじゃないかという危機感から、予定を前倒しにしてライダーを登場させた次第です。
 本作中の変身者はラッキークローバーのラズロ・ゴールドマン→結城衛司。ただしカイザに限らず、555系のライダーは装着者が頻繁に入れ替わる傾向にありますので、今後ずっと主人公が変身するかどうかはまだ未定です。

 

【サイドバッシャー】(原作元:仮面ライダー555)
 原作では仮面ライダーカイザの専用バイク(サイドカー)。設定上はヴァリアブルビークルと呼ばれる乗物ですが。
 カイザ同様、その性能や機能はほぼTVシリーズと同様であり、故にミッドチルダでは立派な質量兵器違反の代物です。バルカンはともかく(フォトンブラッドで精製した弾丸らしいので)、ミサイルはもう完璧にアウトですね。
 作中で触れた通り、面制圧の出来る兵装に乏しいカイザの補完という側面もあります。どうしても仮面ライダーは対人戦闘メインになるので、対物破壊が出来る戦力は重要かなと。



【仮面ライダーデルタ】(原作元:仮面ライダー555)
 本作の時系列は原作555のおよそ十年後にあたるのですが、その後十年間は原作通り三原修二がデルタギア持っており、幕間で伽爛にデルタギア奪われてミッドチルダに持ち込まれたという設定にしています。
 その為、スペックそのものは原作とまったく変化ありません。ただしミッドの軌道上に浮かぶ人工衛星イーグルサット(地球にあるものと同型)に対応する為のアップデートは施されています。設定上、555系のライダーはこの人工衛星があって初めて変身出来るらしいので、本作でもそれを踏襲しています。
 作中では洗脳を施されたラッド・カルタスが変身。ただしラッドは普通の人間なので、後々デルタの後遺症とか出て来るかも。



【オートバジン】(原作元:仮面ライダー555)
 本来はファイズの駆るバイクなのですが、カイザと同様、残骸がミッドに移転したスマートブレインに回収されて修復された形で登場しています。
 作中ではサイドバッシャーがメンテナンス中の為、代わりにカイザが使用。戦闘区域から主人公を連れ去る用途に使用されました。
 『命令されれば黙々と従う』『どんな扱いされても文句言わない』なところで微妙な可愛さがあり、作者もお気に入りなんですが、ファイズがいないのにバジンだけ出すのは物足りない、という気持ちがあるので、総じて出番は少なめです。



【ラッキークローバー】(原作元:仮面ライダー555)
 555からの設定とは言うものの、実際にはほぼオリジナルです。名前だけを借用した感じですね。
 オルフェノクの中でも『上の上』な実力者の四人組、というところは原作通りですが、本作ではオリキャラの集団です。
 身長二メートルを超えるマッチョなオカマ、怪しい中国風訛りにチャイナドレスの白人女性、ヤク中で常にトリップしている若い男の三人。当然、三人とも(オリジナルの)オルフェノクです。正体を現すのはもう少し先で。
 現在、残る一人に結城衛司を据えようと画策中。こんなイロモノ集団に加わったら、主人公であってもネタキャラ化するのではないかと正直不安です。
 


【キングストーン】(原作元:仮面ライダーBLACK、BLACK RX)
 言わずと知れた世紀王の証。本作ではロストロギア扱いです。
 本作で出てくるのはシャドームーンに移植されていた『月の石』。作中で緑色をしているのは、シャドームーンのベルトの色から。
 作中で真樹菜が「出土した~」と言っているのは、『RX』にて死亡したシャドームーンこと秋月信彦を埋葬した場所が、後にスマートブレインによって開発されたという話です。人骨と一緒に出てきたロストロギア……管理局も、よくそんなもん預かる気になったな(笑)。
 ちなみに、上記のシャドームーン死亡の際、キングストーンはRXによって破壊されているのですが、本作では自己修復によって元の形を取り戻したという設定です。



【ゴルゴム】(原作元:仮面ライダーBLACK)
 本作では悪名高い宗教団体として管理局に認知されています。マンソン・ファミリーや人民寺院みたいなもんですね。これに絡んで、キングストーンがロストロギア扱いされている訳です。
 原作TVシリーズ終了後、回収されていた遺体が天・海・地の石のエネルギーによって再生され、復活したという設定で登場させてみました。また、天・海・地の石も、シャドームーン復活後、次代の三神官に引き継ぐ為にエネルギーが充填されていたという設定にしております。
 更に原作最終話において、ゴルゴム神殿の崩壊の際に超小規模な次元断層が起こり、虚数空間に落ちていたという設定です。てつをさんとか管理局とかに見つからなかったのはその辺が理由との事でどうか一つ。
 ちなみに原作では五万年周期で代替わりしている、相当長いスパンで世代交代している組織なのですが、本作ではなるべくその辺には触れない方向です。リリなの世界はどれもごく近年の事しか年表に無い(“古代”という割にベルカの滅亡が数百年前。地球史だったらいいとこ中世から近世)ため、五万年という数字を出すとえらく差が出来てしまうので。
 今後、あまり出番は多くないのですが、色々と暗躍させてみようと思います。



【ネオ生命体】(原作元:仮面ライダーZO)
 仮面ライダーZOの作中における敵怪人(ドラス、クモ女、コウモリ男)の総称です。シリーズの中でもかなりマイナーな敵なんですが(ただし最近はディケイド完結編への登場で知名度が上がってます)、あえて今回登場させてみました。
 本作ではネオ生命体を作った望月博士とスカリエッティとの間に親交があり、望月博士の死後(彼の死亡する顛末がZO本編であると言えます)、その研究成果をスカリエッティが手に入れたという設定です。
 ただしスカリエッティに友人の研究を横取りする気が無かった為、ZOとの戦闘で負った損傷は修復されていません。全体的にZO本編より知能が低下している感がありますが、崩壊寸前の状態にある為とご理解ください。
 作者のお気に入りである事に加え、体系だった組織を用意せずとも戦力を整えられるという点でかなり重宝する怪人なので、後半になるほど出番が増えていくと思います。多分。 



【宇宙機械獣母艦フォッグ・マザー】(原作元:仮面ライダーJ)
 仮面ライダーJの作中における敵怪人です。ただし本作では地球にやってきたものとは別個体という扱いで。原作で実は死んでなかった! はゴルゴムやネオ生命体でやったので、ちょっと変化つける感じで。
 ガライやアギト、ズーといった怪人も原作と同様(の別個体)ですが、これはフォッグ自体の生態としてそういうものと。女王蜂が生まれた時からそう育てられるように、コブラ・トカゲ・ハチ種の怪人が幹部として扱われるみたいな感じですね。
 かなり規模のデカい敵なので、管理局は総掛かりで対抗する事になるし、ゴルゴムやスマートブレインの思惑が絡んでくるので本作の長大化の原因です。私が生きてるうちに完結すんのかコレ。



【ワーム】(原作元:仮面ライダーカブト)
【ファンガイア】(原作元:仮面ライダーキバ)
 現時点では個別に語る事が無いので、ここで纏めて。
 両方とも、原作終了後なので人類との共存な方向に進んでいます。ただし中にはこの融和路線が気に入らない者もおり、そういった連中がミッドチルダに流入しているという設定です。勿論、中には人類と共存する事に異を唱えず、単に仕事の都合などでミッドに来た者も少なからず居る訳ですが。
 基本的にはスマートブレインがオルフェノクを束ね、それ以外の怪人は伽爛との繋がり(ただし友人や仕事仲間としての)を持っているという形で本編に出て来る予定です。
 


【仮面ライダー】
 地球編からようやく本格登場。第弐拾参話時点でRX・イクサ・スーパー1・メテオが出演。
 本作、基本的には特撮版からの流れになってます。なのでZXとかは『仮面ライダーSPIRITS』ではなく『10号誕生! 仮面ライダー全員集合!!』が起こった設定。
 ただしビジュアル的には漫画寄り。改造人間なので老化しない(老化がかなり遅い)的な設定です。ライダーマンもプルトンロケット自爆の際に瀕死の重傷→改造手術、というHERO SAGA設定で。
 イクサやメテオは2015年時点での彼等という設定。なのでネオ・ファンガイアとの戦いは終わってるし、高校卒業後にインターポールに就職して間もない頃です。
 平成ライダーはメインよりもサブライダーが主に出てくるかと。メインの方は色んな人が書いてるので、ちょっとズラしていく感じですね。現時点での構想ではイクサとメテオ以外に、『かーなーり、強い!』人と『誰か俺を笑ったか……?』な人が出てくるかと。ただし当分後の話です。



【ハートクラッシュプリキュア】
「筋肉に咲く一輪の花! キュアマッスル!」
「中華風に揺れる一輪の花! キュアチャイナ!」
「お、お、おクスリ浴びる一輪の花ななななな、キュアジャンキー……!」
「………………も、猛毒が冴える一輪の花、キュアポイズン……」

『我等! ハートクラッシュ・プリキュアっ!!』

 この世界のニチアサはどうなっているんだ。








 現在ではこんなところです。




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