<このWebサイトはアフィリエイト広告を使用しています。> SS投稿掲示板

SS投稿掲示板


[広告]


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

[7713] 東方エロゲ地霊殿(オリ主->東方地霊殿)
Name: へたれっぽいG◆eaa9c481 ID:5325b763
Date: 2011/03/24 01:09
 この作品の構成要素は

・中二病
・オリ主
・エロゲ
・パクリ
・独自解釈
・キャラ崩壊
・オリジナル要素
・コジマ粒子
・**先生ごめんなさい

 以上によってできています。どれか一つにでも(嫌な予感が)ティン!ときた方はブラウザの戻るからバックしてください。
 また、タイトル表記が本編と一切関係ないことが多々ありますが、作者は責任をとりません。「面倒なことになった...」状態になったらやめます。

前書きは以上です、では...

興< しっぽりしていってね!! >干


5/20
 一週間だけその他掲示板に移行します。ご迷惑おかけします...

5/26
 チラシの裏に戻りました。その他掲示板の方々、チラ裏の方々、ご迷惑をおかけしました...

7/5
 ご意見によりキャラの名前にふりがなを振りました。修正が必要だ……

2009/8/26
 感想の意見を契機にその他版への完全移行を決意しました。詳しくは感想にて。ご迷惑おかけします。

2010/8/13
 注意要項に「オリジナル要素」を追加しました。=地雷要素追加。

2010/11/10
 pixiv小説機能にも投稿を始めました。まだ試験的で一章までですが、違法・違反であればお知らせください。
 なお、これに伴いプロローグ~九話を若干修正いたしました。

2010/11/28
 編集ミスって上げてしまいました、申し訳ありません。

2010/12/24
 前回からなのですが、卒論とのバトルファイトでこっちにまだ手を出せません。一月中旬に復帰予定とします。永くお待ちの方、本当に申し訳ありません。

2011/1/28
 再起動しました。時間をかけてしまいすいませんでした。

2011/2/14
 レイアウトを一部変更。NGシーンを統合しました。



[7713] プロローグ――乙<まるでファルスだ
Name: へたれっぽいG◆eaa9c481 ID:5325b763
Date: 2011/02/14 14:09
 高校からの帰り道、運良く急行に乗り込み、駅を出て馴染みのコンビニにいって週刊誌の立ち読みを終えて帰路を歩く。辺りは薄暗く、少し早いぐらいの肌寒い風がシャツを通り抜け触覚を刺激してきた。

「さぶ……」

 少々問題はあり変則的な部分もあるが世間一般では平凡といえる人生を送っている16歳男子高校生・中邦縁(なかぐに えにし)は寒さに身震いし、早く我が家で布団にくるまろうと足を速めかけ、通り道にある空き地に何かがあるのに気づいてしまった。
 一見何の変哲もない、しいていえば某青狸が出てくるアニメのロケ地としてそのまま使えそうな空き地。しかしその中央に浮かぶ、まるでテレビのノイズのような、物理法則と三次元を無視した縦線が一本、ちょうど人一人が通れそうな高さの位置にぽつねんと在った。

「………まさか放課後にやっていた『ドキッ☆ギリギリ時期ハズレの怪談大会~ぽろりはないよ~』が今更効果を現すとは」

 芝居がかった冷淡な声とは裏腹に心中に驚愕と好奇心を震わせながら謎の縦線に近づき、この怪現象に思い当たること思い出そうとしている縁。度胸があるのか神経が太いのか恐怖心が欠如しているのか判断に困る図である。
 とりあえず近場に落ちていた小枝を拾って、その縦線――近くで観ると両端にリボンにもファスナーにも見えるものがついていた――をつついてみた。たわんだ。それだけである。

「害はなさそうだな」
「あら、あるわよ」

 唐突に、背後からの声。それも妙齢の、という形容がつきそうな。振り返りその主を確認する。
 奇妙な女性だった。腰より長い金髪がありながらその顔立ちは日本人のそれであり――それも絶世の、という言葉がつく――服装は治安維持国家日本では目立つ派手な紫を基調とするナイトドレスを改造したようなもの。黄昏を遮る日傘をさすその姿は、明治初期の貴婦人という言葉がもっとも近いだろう。

「誰……ですか、あなたは?」

 口から発したものは震えていた。何故か。それはこの女性が存在しているだけで空気が独特の重さを持ってしまっているかのような息苦しさを感じているからだ。

「そうね。近い表現なら……古い友人に会いに来た観光客、てとこかしら」

子供をからかうような調子で口元を歪めた女性は、不意に何かに気づいたように縁の顔を見つめた。

「な、なんです、か?」

 美人に見つめられるということに耐性がない縁はしどろもどろに尋ねるが、女性は無言。
 たっぷり十秒経ってから、眉を顰めて口を開く。

「あなた……中邦犹嗣(なおつぐ)の血縁者?」
「い、一応息子ですけど……父の知り合いですか?」

 父親の名前を出され聞き返した縁だが、女性は答えない。ただ口元をいつの間にか取り出した扇で隠し、何か考える素振りをしているだけだ。
 だがそれもすぐに終わると、悪戯を思いついた子どもという表現が一番似合いそうな笑みを浮かべて、扇を閉じた。世界は夕焼けの光を徐々に失い、月が金色に輝き始めている。

「突然だけど、アナタにはこの世界からいなくなってもらうわ」
「はっ?」

 間抜けな声が縁の口から漏れた。その直後、目の前の女性は傘を畳み、ステッキのように手の中で翻すと先端を縁の体に押し付けた。いや、突いたのだ。

「ぐげっ!?」

 ちょうど鳩尾を突かれ呼吸が出来なくなり、押されるままにたたらを踏んで後退する。不意に、尻と股の間に何かが当たる感覚。そのままバランスを崩し、後ろへと倒れ込んでしまう。

「うわっわっ」

 人間に備わる条件反射によって右手を突き出し、持ち前のタフさと悪運とが何かを掴み、体の自由落下を阻止する。
 一体何に掴まったのかといつも手袋をしている手の方に目をやれば、そこには闇色に染まる茜空と、およそ視覚というものが破壊されそうな極彩色、それに浮かぶオカルト本にでも出てきそうな目玉が幾百幾千幾万幾億・大小さまざまと浮かんでいた。
 自分の右手はその境界を捕らえていた。唾を呑み込み、力を込めると意識する。変なものは無視、今は生存本能に身を任せる。

「な、に、しやがる…」
「あら、口が悪いのね」

 そう言って空を遮るように顔を出した女性は、出会った当初から張り付けていた底の見えぬ笑みを微かな驚きに歪めた。

「……ふぅん、私のスキマを掴めるなんて……面白いじゃない」

 ますますこのままにしてはおけないわ、女性はそう言葉を洩らすと、磨き抜かれた大理石に似た艶を持つ手が縁の手へと伸び、猫が小動物と戯れるように顔を喜悦に染め、境界/スキマに縋る指の一本一本をはずしていく。

「くそ、いきなりなんなんだ……うわっ!?」

 三本目の指が外され、親指と人差し指のみでこの異常な空間の宙にぶら下がる態勢となる。女性は指の感触に怪訝に眉をひそめながらも、残りの指を外す作業を行い、理不尽に対して不満と怒りを噴出しようとする縁に向かって、謳うように言葉を紡いだ。

「今更だけど言っておくわ。私の名前は八雲紫(やくも ゆかり)、この世界に戻りたかったら、私を探してみせなさい」

 そして最後に、ある言葉を加えて。

「盗人の息子よ」
「んがっ…!」

 左手がそれから離れると同時に、体が重量と同質の引力に引きずられ、落下を開始。あのスキマを阻むものがいなくなったことにより今まで停止していた閉鎖という機能に移っていた。
 そして閉じていく自らの世界の光景の中で、扇で口元を隠した女性が嘲笑(わら)っているように見えた。

「こんの………覚えてろよ糞ババァ!!」

 思春期の少年特有のインファンスな意地が、なけなしの虚勢という形をとって彼を吠えさせ、中指を立てた。
 世界に、ひび割れたような音が響いた。その刹那の後、縁を囲むように白い亀裂が幾つも現れ、まるでネズミの大群がタイミングを計って飛び出してこようとする前兆に似た悪寒が走った。類似するものをあげるならば、他人の心の地雷を踏んだような。
 それが、起爆。

『飛行虫ネスト(弱)』
「へっ?」

 どこからかあの女性、八雲紫のものが響くのとほぼ同時に、白の亀裂から、無尽蔵とも言うべき光虫の群れが出現し縁に向かって殺到した。

「うっぎゃああぁぁ!?」

 身動きのとれない縁は虫の群れにフルボッコにされつつ、途中で「ピチューン」などという空耳を聞きながら、空間の狭間へと落ちていった。

「あらいい音…まぁ死にはしないでしょうね」

 そして残った女はいかなる異能か、その空間の裂け目・スキマを指で撫でるように虚空を滑らせるだけで消し、これから起こるであろう、又は起こるかもしれないことに期待を膨らませ頬を緩めた。同時にその頭では、空間の切れ目にして境界そのものでもある、いうなれば概念という物質でもエネルギーでもない存在であるスキマを掴んでいた手のことを、幾何学を超える思考を持って考えていた。
 そういえば、普通の人間より硬く、重く、何より生気というものを感じられず、自分の存在に近く遠いものを感じたのだが、判断材料は少ない。

「とにかくもう一度犹嗣に会わないといけないわね…ま、今度は人質もいるんだし何とかアレの…?」

 不意の紫の頭に何かが掠める。それは喉に小骨が引っ掛かったことに似た、無視するにも無視できない小さなことだった。形のよい眉根がひそまり、幼年にも老年にも似て、それらを超えたベクトルに位置する、齢を決して推し量ることなどできない雰囲気を放つ紫の顔が若干不機嫌なものへと変わる。例えるならば、作っていた物が想像と少々違っていたものになってしまった子どものよう。

「…そっちにいってしまったのね。ネストをちょっと撃ち過ぎたかしら」

 そうして、溜息を一つ。

「暇つぶしが減ったわね」

 それだけだった。もう面倒くさくてどうでもよくなってしまった彼女は、再び手を翻すと、一瞬にしてスキマが現れ、本来の主のためにその大きな口を開いた。それに体を入れると、八雲紫は一つ欠伸をして、スキマの中へと潜り、どことも知れぬ空間へと消えていった。追うようにスキマもこの現実世界から消え去り、そして空地は元の風景へと戻った。ただ、此方から消失した人と、人ならぬ存在の足音を残し、夜の幕を下ろすだけ。




 さながらお椀にくり抜かれたように地下に広がる空間があった。高さは高層ビルより高く、直径は計り知れない。形容するならば、地下世界の盆地といえるだろう。そこにはまるで古き日本の都・城下・下町をそのまま持ってきたような町並みが広がり、提灯に灯った光が、本来ならば光の届かぬこの世界、旧都と呼ばれる封じられた地下都市を柔らかな色合いで照らしていた。
 どういうわけか樹木が生息してるので秋の月日に身を任せたように、深緑から紅葉へと変わろうとする葉が町の通りを色づけし、町には活気があり、人々――いや、人型をした別種の生命体・エネルギー体である彼らは皆、夕時に特有の様々な声が響いている。
 その道をいく二人の少女がいる。顔立ちから年齢を計るならば、両者とも十代半ばというところだろう。
 一人は腰まで伸び癖毛だらけの黒髪に、白のブラウスに似た上着とライトグリーンのスカートを纏い、そして人にはあらざる黒い翼を背から生やしていた。名を霊烏路空(れいうじ うつほ)という。
 もう一人は鮮やかな赤髪を二つの三つ編みし、猫の耳を人間のそれとはまた別に生やす、深緑の洋服を着る見るからに活発そうな少女。名を火焔猫燐(かえんびょう りん)という。

「うーん、こうして町に来るのも久しぶり~」

 体を気持ちよさそうに伸ばしている空に、燐も「そうだね~」と尻尾と買い物篭をプラプラ揺らしながら肯定する。
 日頃、主の命令というより仕事でここよりも更に深い旧灼熱地獄跡にいるものだから、喧騒の熱気というもの忘れがちになる2人にとって、こうした機会はいい気分転換になるのだ。
 今回は週一回の買い出しだ。彼女たちの住む家・地霊殿はこの旧繁華街から中央に建っているが、地理的に交通の便がいいというわけではない。それに空と燐を筆頭にペットの数も多く――彼女たちは人体構造に近いなりをしているが地霊殿の主のペットなのだ――一度に多くの食材を買わなければ食卓が回らないのである。

「とりあえず魚屋から回ろうか、主にあたいのために」
「そしたらまた魚ばっかになってさとり様に怒られるよ」
「あっはっは、気にしなーい気にしなーい。この前は失敗したけど今度は説得してみせるって~、死体運びのお燐ちゃんに二度の失敗はないのだよ!」
「ふ~ん、そういってこの前も勝手に死体入れて怒られたのは……うにゅ?」

 流し目になって空が揚げ足をとろうと、燐の失敗談を思い出そうとして上を見上げた時だ。
 この地底世界にも、誰か・何かの力が働いているのか天候は存在する。今日は雲がある程度に晴れ、とある橋姫が見守る地上への道兼動物たちや町の外に家を持つ妖怪たちが住む斜めに伸びる縦穴・地獄の深道が、いつも通りポッカリと空いているのが見えた。
 それと地面の間の虚空に何かがある。それほどの高さではない、幼い妖怪が練習で飛ぶ程度、家の屋根より少し上というほど。形を言葉にしてみるならば『線』だ。それはいかなる力が働いているのか、徐々に楕円形へと形を変え、極彩色の内側をさらけ出した。
 そこから何かが出てきた。いや、吐き出されたというべきか。空の頭にはそれが「ペッ」といっているように見えた。そして吐き出されたものは自分たちとそう大して変わらぬ人型だ。妖怪の類にしては臭いが違うし、妖気も感じられない。
 その奇妙なものは空を飛べないのか真っ直ぐ地面へと落ちてきて――見上げていた空に直撃した。

「うにゅっ!」
「おくうーっ!」

 ドスンと弾幕にも負けず響く音に地面が揺れ、周囲の妖怪・地霊たちが「なんだなんだ」と隠しもせぬ野次馬根性を出して顔を向けた。
 燐は篭を持ったまま目を回す親友と、突如上から飛来し親友に覆い被さる存在を目視した。
 まず、雄である。うつ伏せに倒れているが、横に顔を向けているので確認できた。服は見たことがあるようなないような紺色の上着とズボン、白い下着で何があったのかどこもボロボロである。肩から鞄らしきものを引っ掛けており、右手は地面に投げだし、左手はあろうことか空の胸部へと伸び、実は自分よりもあるのではないか?と密かにいつも燐が考えている胸を鷲掴みにしていた。幸いかどうか不明だが、衝撃によって倒れ頭の打ち所の悪かった空も、謎の珍入者も共に目を回して気絶している。

「……コレ、どっちから起こしたほうがいいんだろう?」

 どっちを起こしても面倒なことになりそうだった。化け猫故に頭の脳容量が多いとは言えない燐にはその判断がつかず、結局野次馬にたかられていると更に面倒なことになりそうだったので、二人を連れ帰ることにした。その時、友人の空は自分で抱えるとして、もう一人のこの雄の方はどうするか考え、結局持ってきていた紐で縛って引きずることにした。匂いから、どうしてこんなところにいるかはわからないが、種族の特定はできている。
 それでも、妖怪だろうと人間だろうと女の敵にはこれぐらいがちょうどいいのだ、と燐は思った。


 :後書き:
 所詮は獣の作者です、東方のEasyシューター兼にわかです。
  PINK BOX へ ようこそ!  /
 追記:4/9、お燐の一人称修正。じょ、冗談じゃ…
    4/14 あとがきを修正。ご迷惑かけ申し訳ありませんでした。
    8/6 今更見にくいことに気づき修正。夢なら醒め……



[7713] 第一話――乙<何をちんたらやっている
Name: へたれっぽいG◆eaa9c481 ID:1ed40036
Date: 2011/02/14 14:10
 夢の中にいるという自覚があった。そこでは縁は五歳の小さな幼子であり、世界の全てがただただ巨大な壁と同様のものでしかなかった。そんな縁の視線に合わせるように屈んだのは、今まで彼に大きな影を落としていた彼の父親だった。若白髪の頭髪は夢の中でさえなおその存在感を表し、一児の親にしては若い年代といえた父の皺の多い顔を隠していた。
 タコや火傷が目立つ両手が幼い縁の手を取った。縁の左腕はそれに従い持ち上がる柔らかな手。だが右腕は重く、およそ幼い子の腕とは思えぬほどに堅く、そして冷たかった。

「縁……よく聞いてくれ」

 父の声が木霊する。幼い縁は何も悟れぬ瞳で頷いた。

「お前の新しい右腕を嫌いにならないでくれないか……そこには父さんの昔が詰まった、父さんの恩人がいるんだ……だからきっと、縁に嫌われると、その方もきっと悲しんで、縁を嫌いになってしまうかもしれない……わかるかい?」

 本当はよくわかっていなかった。きっと、父親自身よくわかって喋っていたことではなかったのだろう。縁はぎこちなく右手を開閉し、他の子供たちや大人とはまるで違う手のひらを見つめた。泣きたくなった、だけど父親の恩人に嫌われたくないという思いが、泣くのを、悲しく、嫌いになってしまうかもしれない契機を押し止めた。
 そんな縁を見て、父親は、中邦犹嗣ははにかみを浮かべた。それはただのはにかみではなく、色々な感情がごちゃまぜになって、どれを出せば分からない子供の、自分とそうさして変わらぬ人の顔だと、幼心に縁は感じ取っていた。

「……ありがとう、縁……きっとそんな縁のことも、父さんの恩人は好きになってくれるよ」

 その言葉と、父親の顔は、小さかった縁の心に焼き付き、未だ消えることはなかった。


 第一話『未知との遭遇』


 横たわった体に軽めの重りが乗っている。それが目を開かぬ故の暗闇の中で覚醒した縁が感じた最初のことだった。夢の内容も、どうしてこんな風に体が眠った状態に陥っていたのが上手く繋がらない。ただわかるのは、体の節々に感じる痛みと、腹のあたりにある重み。
 ゆっくりと目を開く。
 最初に見たのは、薄い紫の蛍光灯のようなもの。そして汚れもわずかに得る程度の天井。お決まりのセリフを吐くのは少し癪な気がして、そのまま腹の方へと目を移す。
 そこには女の子がいた。パッチリとした目と、色素の薄い髪が特徴的な幼く可愛い少女だ。

「……知らない美少女だ」

 結局お決まりのセリフの変則型を言うしかなくなった。
 呆気にとられた顔の縁に、謎の少女は縁と同じような表情を作って小首を傾げてると、次に探偵ごっこをやる子供がそれらしい思案をするような顔をし、不意に顔に花を咲かせた。見た目の年相応に、そして明るく奇麗で、何も知らぬ無垢な笑顔だった。

「おはよう!」
「え、お、おはようっ」

 あまりに元気な声に、戸惑いながらも挨拶を返す。改めて少女の見直す、黄色というよりクリーム色に近いブラウスのような上着と若草色のミニスカート、室内のはずなのに黒い帽子を被ったままで、背中から胸元までグルリと囲むような大きな黒いリングをどうやってかは知らないがつけている。左胸の辺りでまるで閉じた目のような黒い丸ぽっちがあるが、何かしらのアクセサリーなのだろう。どこか不思議な、良い意味で天然な雰囲気を放っている少女には似合いのものだと思った。
 そこまで考えて、彼女の薄いブルーの目が、新しい玩具か何かを見つけたそれと、同じ輝きを宿しているのに気づいた。ちょうど馬乗りの状態になっていて見上げる形であるから、その輝きが余計にキラキラ光っているように感じる。

「ねっねっ、アナタ人間でしょ! どうやってここまで来たの? 能力? それとも何かすっごーい発明!?」
「いや、そんな一辺に言われても、というか状況の説明の聞きたいのは俺の方だから」
「状況の説明? ああ、自己紹介のこと、ごめんね遅れて。わたしは古明地(こめいじ)こいし、よろしくね」
「んーあー……OKこいし、中邦縁だ。こんな体勢で悪いがよろしく」
「うん! それじゃあ終わったね。なら早速!」
「いやいやいやまてまてまて、何の説明もされてねーぞ!」
「えー、ケチー」

 口をすぼめて見るからに拗ねる少女・こいし。そう言われても状況を何とか知りたいと思う縁は、何とか体を動かせないかと力を入れてみる。所々打ち身、切り傷に特有の痛みを感じはするが動けないほどでもなく、難なく上半身を持ち上げて見せた。その拍子に「わわっ」と小さな悲鳴をあげてバランスが崩れてベッドの横に倒れそうになるこいしを、反射的に右腕を持ち上げて支えた。
 掛け布団をめくりあげて彼女を支えたそれは、只人には在らざる鋼鉄の輝きを持っていた。

「わっ、なぁにそれ?」
「あ、あー……やっぱそう思うよなぁ」

 再び目を輝かせ、もの珍しげに縁の右腕に手を伸ばしペタペタと触るこいし。そんな彼女に縁は慣れているのか、半ば諦めの境地に入った男に似た顔をする。驚くことがあるとすれば、日常生活ではいつもつけていたはずの手袋がなくなってこの右腕――幼少のころから改良され、色彩も変わってしまった義手がむき出しであったことだろう。

「義手って知ってるか?」
「う~ん……知らない。元からこういう手なの? 他はふつーの人間の体なのに」
「いや、違うよ。ちょっと小さいころ、まぁこいしよりちっさなころだな、その時に色々あって右腕がなくなっちまってな。それ以来、代わりに機械で造ったコイツをつけて、右腕の代わりをしてもらってんだよ」
「? ふ~ん、変なの~。きかいって何かわからないけど、おかしいね。人間が自分とは別のものをくっつけちゃ、もう人間じゃないのに」
「失敬な、俺は人間だ。そういうこいしだって人間だろ?」
「む~、そっちこそしっけい~。わたしは『さとり』っていう立派な妖怪だよ! それに絶対縁ちゃんより年上だから」

 妖怪? 何かの遊びだろうか、とこの頬を膨らませている少女を見て思った。だが、やっぱり違うだろうな、年上とか言ってるし。
 そう勝手な自己完結を行いながら、今更自分のいるこの部屋を見まわす。色彩は薄い紫を多様しており、家具はテレビやカタログで見るような高級西洋家具を思わせる細かな造りのもので揃えられている。自分が眠っていたベッドに、机、椅子、窓、ドア、取りつけ式のハンガー、箪笥と人一人が生活するには十分なものだ。惜しむらくは現代人にとって必要不可欠なテレビかラジオがないことだろう。
 そして、間違っても知っている人物の部屋ではない。正しくあのセリフの通り、知らない天井のある場所であった。

「む~縁ちゃん、こっち向く」
「えっ?」

 縁がそっぽを向いているようにこいしは見えたのか、その顔を体躯に見合わぬ力でもって両手で掴むと、ぐりんと自分の顔と真正面に向け、端正な顔を互いの息が届く位置にまで近づけた。

「せっかく私がお話ししようと思ってるのに、そーゆーことはレディの心を傷つけるんだよっ」
「……そりゃ悪かった。だけどな、哀しいことにこいしは俺の基準から言えばレディじゃないんだ。レディっていうのは、こう、ボンッキュッボンッ、てなってる女性を言うんだ」
「そうなの? それってどんな風なの?」

 その問いに答えるべく、こいしの両手から離れ、距離を置いた位置から少女の体を見、そして両手で死語とも言える言葉を一つずつ再現するデリカシーのない無神経な男が一人。
 こいしもそれに合わせ、自分の体を見下ろしてから「ボンッキュッボンッ……」と小さく呟く。小さな両手を胸に置き、そしてその平坦さと、縁がジェスチャーで現したサイズを比較し、理想と現実の挟間にある空間に手をスカスカと行き来させる。

「ボンッキュッボン……」
「……ま、まぁこれからだって。こいしぐらいの子だったらそれぐらいそれぐらい、これからまだ大きくなるって」
「む~~~……」
「いや、そんなに睨まれても」

 目に見えて落ち込んだと思ったら一転、上目づかいに縁を睨んでくるこいしに、果てどうしようかと苦笑いを浮かべながら考える。ちょうどその時、部屋に一つだけのドアを、丁寧に、コンコンと二度叩く音が部屋に響いた。

「……失礼しますよ」

 そして次に聞こえた、幼くもどこか年老いたように聞こえる声に、不可解さと現状からの脱却からくる安堵が同時に浮かび、次いで、果たしてどんな人が来るのかという単純な疑問と、今の現状がまったくわかっていなかったという現実的な疑問が一気に襲いかかり、彼の顔に呆けたような顔として現れた。
 ドアから現れたのは、こいしとよく似た、そしていくつか年上に見える少女だった。帽子の有無、髪の癖と長さ、髪と服の色と差異、胸元のアクセサリーの目が開いていること、それらがこいしと似ているが、こいしと決定的に違うのは、冷たさを感じる顔つきと、物静かな雰囲気だった。こいしが外で活発に動き回るタイプなら、この少女は部屋の中で静かに読書しているのがとてもよく似合っていた。

「……言い得て妙ですね、その例えは」
「ん、俺何か言った……言いましたか?」

 雰囲気のせいで思わず敬語に直した縁の心中には、この紫の少女の言葉の意味がわからなかった。疑問符を顔に浮かべる縁を一瞥し、紫の少女はこいしに目を向けた。その時一瞬、彼女の顔に陰りのようなものが走ったが、縁は気づかなかった。

「あ、お姉ちゃん」
「こいし、いつ帰ってきてたの? それと、その人はお客様なんだから遊んでもらうのは後にしなさい」
「む~、もう縁ちゃんはお客様じゃなくて、私の友達だよ。だから、さっきからずっと……」
「……こいし、今日の晩ご飯のおかず、減らすわよ?」
「はうっ!? ご、ごめん縁ちゃんまた後でね」

 姉と呼んだ女性の一睨みと魔法のような言葉によって、そそくさと部屋から退散していったこいし。振り向きざまに縁を望んだ顔は、正しく年相応の少女の明るさであり、次の機会が必ず訪れてくるようなことを確信という錯覚をおこさせるものだった。

「それにしても、縁ちゃんはないだろう縁ちゃんは……」
「そうなのですか? なら私は中邦さんと呼ばせてもらいます」
「ん、あ、ああ、ちょっとむず痒いけどいいぜ」

 まるでこっちのことを知っているような口ぶりであった。そのために少々どもって砕けた言葉になってしまったが、手近な椅子を寄せて座った少女は別段気にしてないのか表情を変えず、値踏みをするかのようにじっと縁のことを見つめながら口を動かした。

「申し遅れました。私はこの館の主で古明地さとりと言います。名前から察してもらえると思いますが、こいしの姉です。先ほどは妹が失礼いたしました」
「あ、ああ、別に気にしちゃいないよ。それと……」
「『誰が助けてくれたか』ですね、それなら気絶している貴方を、私のペット達が見つけてこの屋敷に運んできたんですよ。ああ、妹のこいしと紛らわしくなるので、さとりと呼んでもらって結構です。言い難いのでしたら、敬語でなくても結構ですよ」
「? ならお言葉に甘えて……」

 また、先ほどのように、予めわかったような話しぶりだった。本当はただこちらが言いたいことを予測しているだけの気配りなのかもしれないが、そこに気配りにあるような配慮、と呼べるような声色はなかった。ただ淡々と事実を、それこそこちらの心の内の言葉を口に出しているような。
 その疑問を眉をひそめるという表情の形で顔に出しながら、会話を続けていく。

「……じゃあさとり、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

 そして疑問を言葉にしようとした時、不意に注視してしまったさとりの胸のアクセサリーの瞳が、ギョロリと動いた風に見えた。いや違う、正しく動き、縁を観たのだ。さとりの目が、すっと細くなる。

「『ここがどこか? 私たちは何者なのか? なぜアクセサリーが動いたのか?』……今のあなたの主だった疑問はこれだけですね。答え易いものからお答えしましょう」

 朗々と少女さとりは縁が心の内に持っていた疑問を読み上げていった。縁はこの少女が、人間の姿にしか見えないこの少女が、まったく別の何かに見えた。それには一種の恐怖が入り込んでおり、忌諱への種の一つでもあった。
 緊張のためか唾を飲み込む縁に、さとりは表情を一瞬変えたが、すぐに無表情に近いそれへと戻し、言葉を続けた。

「『なぜ心の中の疑問を知っているのか?』それの答えは、まずは私たち自身の正体を教えた方がいいですね……簡単に言ってしまえば、私たちは人間ではありません」
「人間じゃない? なら一体何なんだ?」

 縁の頭に、過去の映像が急速に浮かび上がり、そして弾けて消えた。それは何年も前のこと、決して忘れえぬ、そして忘れてはならぬと言われた出来事であって、この場で、今、さとりが言おうとしていることとは無関係のように思えた。だが、その考えは間違いであった。

「私たちは妖怪です。そしてこいしと私は、妖怪『覚』…他者の心を読む妖怪です」
「妖怪? こいしも『さとり』っていう妖怪だって言っていたけど、それはあの子のお遊びじゃないのか? というかさとりの名前そのままだし」
「……どうやら、貴方は『昔、妖怪にあっているようですね?』 低級のもののようですが」
「!? どうしてそれを……いや、これが心を読んだ……っていうのか?」

 半信半疑と顔に書きながら尋ねた縁の言葉に、さとりは頷きで返した。
 さとりが言い当てたように、縁は昔、世間一般に『怪物』と言われているような存在に遭遇したことがある。その時はとある二人組に、当時の友達と一緒に助けてもらったが、自分たちを襲ってきたのは正しく怪物と言えるような姿形をした妖怪だった。そもそもそれが妖怪だったというのは、自分たちを助けてくれた二人組と友達が教えてくれたのだが、今は関係ないだろう。
 同時に、先ほどさとりが入ってきた直後のことを思い出す。果たして自分は彼女に名前を教えたのか、という単純であり重要なことを。縁、と下の名前で呼ぶならこいしがそう呼んでいたから少しは納得できる。
 だが直後に彼女は教えてはいない姓の方で縁を呼んだのだ。あの瞬間にはまだこいしとのやり取りで落ち着かずそのまま見逃してしまったが、疑問に思わなければいけなかった事だったのだ。
 ならばそのことこそが彼女の『心を読む』という不可思議な力の証明になる。
 その縁の心中での推測を『読んだ』のか、さとりはコクリと頷いた。

「そうですね、確かにあの瞬間貴方の心を読んで名前を確認しました。ですけど、その前に貴方の持ち物であったあの妙なカゴの中に入っていた小さな本に貴方のものらしき名前が書いてあったのも事実です。確か『せいとてちょう』という題でしたが……」
「生徒手帳……あ、ああ。確かにそれには書いてるな。身分証明書みたいなもんだし」

 意外なところから自分の所有物の話が出てきて、しかしサスペンスやミステリー系のドラマや映画にはよくある展開に肩の力が抜け、力なく、どこか安堵して苦笑を浮かべる。そして何となく、おぼつか無い口ぶりで『生徒手帳』と発音するさとりが、先ほどまで思っていたような、何処か不気味な恐怖を感じる存在には思えなくなってしまった。恐ろしい妖怪など論外だ。
 さとりの無表情に近いそれが、眉が顰めたことで不機嫌なものに変わった。

「一応言っておきますが、あの本……手帳に書かれていた漢字はこの幻想郷で使われているものとは少し違ったんです、だから発音の違いも違うのは当然なんですよ?」
「……なんか」
「『ただの言い訳に聞こえる』、そう思うなら、お腹が空いているだろう貴方の夕食はなしにしましょうか」
「え、いやそれは別に……」

 ぐーきゅるる、と間の抜けた音が縁の腹から空気を読んで鳴り響いた。

「……すんません調子こきました、何か食わせてください」
「初対面の相手に食事を要求するのはマナー違反かとも思いますが……まぁいいでしょう、なら食事を取りながらでも話の続きをしましょう」

 軽いため息を吐いてさとりは腰を持ち上げると、部屋に備えられた西洋風の箪笥を開け、群青色を基調とした上下一式を取り出し、縁の腰元へと置いた。

「男物というわけではないですが、サイズ的にはそれしかないので我慢してください。私は部屋の前で待っていますので」
「ああ、ありがとな」

 多少馴れ馴れしくではあるが、しっかりと感謝の言葉を、さとりの顔を見ながら頭を下げた縁に、妖怪と名乗った人型は「いえ……」と胡乱気な眼つきを変えずに受け取り、部屋を出ていった。
 残された縁は早速起き上がろうと布団を捲り、そこで初めて自分が下着のみの状態であったことに気づいた。

「……誰かに脱がされたのか」

 まさかさとりが脱がしたのでは、と根拠のないことを考えながらさとりが出してくれた服を着こむ。作務衣に似たそれはよく店で見る様な色や素材ではなく、それこそ天然のものを使い、職人が丁寧に作り込んだ意匠すら感じられるものだった。シンプルなデザインで、群青の所々に薄い色の紅葉の刺繍が縫われている。

「確かにちょっと男物って感じはしないな……けど人のものだし文句なんて言えないよなぁ」

 そんな当然のことを思惟に浮かばせて、溜息と共にすぐの除去。ついで、今まで来ていたはずの学生服はどうしたのか、又はどうなったかという疑問が浮かび、直ぐにそれを確かめようと部屋のドアを開いた。そこには文庫本らしきものを片手に、壁に凭れて待つさとりがいた。
 縁が出てきたことにすぐ気付いてさとりは本を閉じる。本のタイトルは昔の漢字で書かれていて『~~教授伝奇考』という文字がかろうじてわかっただけだ。

「貴方の服なら今は乾かしている最中ですよ」
「……何となく想像はついてたけど、やっぱり心を読んでたか」
「それが私の能力ですので、あと……」

 さとりの視線に冷たいものが混じった。

「脱がせたのは私じゃないですよ……いやらしい」

 そうしてクルリと背を向け「こちらです」と先を歩き始めたさとり。そしてそこに立ったままの縁はと言うと。

「……いやらしいって何がさ」

 と、一人呟き、遅れないようにと後に続いた。



 どこか居心地の悪い臭いがする屋敷全体の内装もまた、やはりあの部屋と同じように薄紫を中心とした、何処か怪しげで、閉鎖的な雰囲気をしていた。違うとすれば、廊下や一部の部屋(たまたまドアが開いている部屋を覗きこんで見た)の床はその紫と白のチェッカーボード模様であり、そして時々に如何な素材で造られているのか、ステンドグラスが一部に嵌めこまれていた。ステンドグラスは天井や壁にも多くはめ込まれており、それから差し込む光が唯一、この屋敷の温かな光とも思えた。
 そしてもう一つ気になるのが、動物や、見たこともない生物たちが各々が自由な場所を占拠し闊歩していることだろう。縁がこのことをさとりに聞こうとすると、常にそれよりも早く彼女の口が開き、彼ら彼女らは自分のペットだ、と告げた。その中には彼女と同じ妖怪もいるらしい。一匹一匹にしっかりとした名がついていることも教えてもらった。
 いまだ夢の中か狐に騙されているような気分の中、それ故に冷静に動ける思考で持って、人面犬が横を通り過ぎたところでようやく縁は、ここがどこなのかという疑問にぶつかった。そしてそこに浮かぶのは、さとりがふと漏らした一つの単語。
 幻想郷。
 漢字に表せば『幻想の郷』、日本であるのは漢字の読み方やさとりやこいしが使う日本語からわかるが、さとりは生徒手帳の文字が分かりづらいとも述べていた。矛盾しているが、何か繋がりすら見える二点。そのことに頭を捻ってうんうんと唸っていると、さとりが他の部屋よりも大きなドアの前で立ち止まった。
 
「ここが広間兼の食道です、ここで先ほどから貴方が考えていることにもお答えしますよ」
「あー、そうか、頼む。というか会話いらずだなその心を読むってのは」

 ふいに思い出した、一昔前のドラマにあった人に心を読まれる人間の話と自分の今の境遇のことが重なって、自分で勝手に苦笑を浮かべてしまった。その内面を読んで、そしてあっさりとした感想とも言える言葉を聞いて、さとりはただ呆れた。失笑も込められている。

「ふふ、そうですね……どらま、というのはわからないですが、その男と今の貴方は丁度同じですね」
「だろ?」
「けど安心してください、貴方の心を読めるのはこの館には私一人しかいませんから」
「……?」

 その言葉に疑問を持った。さとりは心を読む妖怪であると聞いた。だが妹であるこいしは読めないのか、と。その言葉を心の中に思い浮かべたが、さとりは答えず、如何にも重たげな木製のドアを開けた。
 ドアの先にはそれこそ何処か西洋の大屋敷にしかないような広間があり、右側にはソファーや本棚が並び、左横の方に食卓と思わしき大きな円形のテーブルと他の家具と合わせて細かな彫刻が彫られた椅子があった。そのすぐそばにはまた別のドアがあり、キッチンに繋がるのだろうと縁は思った。そう思ったのは、手前の方に上下開閉式らしい窓があり、そこから忙しなく動く人影が見えたからだ。
 
「櫓!」
「橋!」
「うー、箒!」

 そしてその間にあるカーペットの上に座ってあや取りをしている三人の少女。櫓を組んだのは先ほど縁の上に乗っていたこいし、残りの二人は、それぞれが特徴的で、縁が友人に借りて見せてもらった本にしか出てこないような、動物の一部分をそれぞれに対応する部位にくっつけていた。橋を作ったのは赤い髪に猫の耳と尻尾を、不出来な箒をすぐに崩壊させてしまって涙目になっている方は、黒髪に黒い翼を生やした、両方とも美少女という形容が似合う少女であった。
 その内の一人、赤い髪の少女が、部屋に入ってきた主人と闖入者の存在に気づき、こちらを向く。そして縁の姿をその目に捉え認識すると、カッと目を見開きあや取りの紐を結んだままの指を振り上げ、縁を指差した。

「出たな女の敵、おっぱいハンター!!」
「……はいッ!?」

 唐突に少女が叫んだ不穏な言葉に、それが自分だと認識するまで数秒の時を置いて、そして理解するな否や不当な称号に対し疑問の叫びを上げざるを得なかった。

「ちょっと待てやそこの猫娘!? 俺がいつそんな訳のわからんハンターになってんだ!? せめてジョーンズ先生っぽいものにしろ!」
「そっちこそジョーンズ先生って何さ、それにあたいは純然たる事実を言って…」
「あ、縁ちゃんだ!」

 猫耳少女との詰り合いが勃発しそうなところで、縁の存在にやっと気づいたこいしが飛び上がり、そのまま宙を浮遊しながら縁の元へと一目散に突っ込んできた。口論開始のために意識が猫耳少女に向いていた上、即座にこいしの声に気づきその、人が宙に浮く、などという常識の範囲外のことを目撃してしまって思考が止まってしまった縁が、その突撃を止め、踏ん張れる道理などなかった。
「ぐえっ」と潰されるカエルのような声をあげてそのまま後ろに倒れこむ縁と、そのまま抱きついて「きゃー」と楽しそうに倒れるこいし。

「さっきぶり縁ちゃん! 私は一億年ぶり? とにかくまた会ったね!」
「あ、ああ……そうだけど、とりあえずどいてくれ……い、息が……」
「こ、こいし様~、隣、隣~」
「こいし様、そいつから早く離れたほうがいいですよー」
「えっ? あ、お姉ちゃん」

 後ろの二人に言われて顔を上げ、初めて気づいたとでもいうような、キョトンとした表情で自分の姉を見上げるこいし。さとりはそんなこいしの対応に慣れているのか、軽く溜息をつくだけだった。

「こいし、中邦さんが苦しそうだから離れて。それにもうご飯も来るから席について。おくうとお燐もですよ」
「は~い」

 多少叱られながらも、そのまま楽しそうに縁から離れて彼女の手をとった二人の少女と共に食卓の席へと座るこいしを、さとりはじっと見つめ、そして倒れた拍子に背中を打ったのか、背中をさすって立ち上がる縁を振り返った。

「てて……ん、どうした?」
「いえ……ただ、そういう気は持ってないので、少し安心しただけです」
「ちょっと待て、今何か不穏なことを言わなかったか!?」
「食事にしましょう」
「無視すんな!」

 縁の社会的な立ち位置に関係するだろう叫びを無視して食卓の上座へと座るさとり。そして無視され、渋々と下座へと座る縁。いくつかまだ空いている席があるが、これで十分なのか、さとりがシェフを呼ぶ合図として両手を叩いた。
 キッチンへと扉が開き、そこから白いカモメが現れた。そのカモメは両足で地面に立つことなく、何の超常的な力が働いているのか、支えもなく浮かんでいた。しかも両の翼は手のように水平に広がり、料理が乗ったお盆を持っている。

「……浮いてる? つーかさっきこいしも浮いてたよな、助走とかもなかったからジャンプってわけでもないし……」
「? どうしてそんな変なこと言ってるの、妖怪が空を飛ぶなんて普通だけど?」

 縁の心からこぼれ出たつぶやきを拾ったのは、羽を生やした方の少女だった。まるで常識を尋ねられたような、当たり前だというような声音と表情である。

「なぁ、妖怪ってみんな飛べるのか? こいしも、お前も、猫娘も、それにさとりも」
「猫娘なんて面白くもない名前でいうな! あたいの名前は火焔猫燐だ」
「そうだね、みんな飛べるよ。あ、私は霊烏路空、たぶんよろしく~」
「で、そっちの名前は何?」
「え、ああ。中邦縁、一応、人間だ」
「それなら知ってるよ、匂いでわかるし」

 目を吊り上げいかにも警戒していると雰囲気でわかる燐、こいしと似てしかし非なる笑顔で応じる空。素朴でかつ重要かと思われる質問から自己紹介に移ってしまい、改めて自分が夢の中にいるような、浮遊感に似た不可抗力のただ中にいるような気がした。
 だから、今日初めて頬を抓った。痛かった。

「……残念ですが、夢ではありませんよ」

 そして、心を読んださとり。
 テーブルにはいつの間にか料理が並び、魚と野菜を中心とした品ぞろえが揃っていた。特に魚は単純な塩焼きであるが、予め皿の端に盛られた大根卸しと、その皮の油が焼けた香ばしい匂いと色とが視覚と嗅覚から味覚を刺激する。

「それでは、縁さん……食事と、説明を始めましょう。その前に……」

 さとりは縁を見ながら、燐が縁を睨みながら、空とこいしが並べられた食事に目を奪われながら、そして縁はこの不可思議な世界に訪れたことを、味覚という感覚を通して現実という世界に着地しながら、その言葉を聞いた。

「ようこそ、幻想郷へ」

 それは、歓迎の言葉であり、縁が非日常の世界へと踏み込んだことへの、呪詛であり祝福であった。



 :あとがき:

 このへたな文とロクにない構成力…これがコジマ粒子と霊力の足りない人間の末路か…
 イージーシューターにつきこいしちゃんに会えてないので口調や性格がおかしいですが、見逃してください。え、ダメ? おい、マジかよ、夢なら醒め…



[7713] 第二話――穴<脆すぎますね、この文は
Name: へたれっぽいG◆eaa9c481 ID:f33d8d16
Date: 2011/02/14 14:10
 朝の学校は喧噪に包まれている。いや、自分自身もその内の一つ、ホームルーム前の恒例ともいえる生徒たちの挨拶と能天気な会話の中で、縁は友人の席の机に座って、よくつるむ面子と他愛もない話をしているはずだった。自分の席は、両横が女子のものであるが故に居心地が悪く、男友達と話すときは常に向こうの席に移動していた。
 チャイムと同時に、いつも咥え煙草をしている万年不良教師が入ってきた。時間には厳しいことに定評がある担任教師の登場に、クラスメートたちはすぐさま指定の場所へと戻っていく。縁もその波に乗り、またいつもの席へと戻ろうとしたその矢先、担任教師が口を開いた。

「おい、お前誰だ?」

 我が耳を疑い、縁は脚を止めて教師の顔を見た。眉をひそめ、まるで絵画の中に異物でも紛れ込んでいるのを見つけたような表情が、あからさまに判る不審者だと訴えている目が、縁を捉えている。教師の目に映る縁の姿は、至って普通で、ただ突然の出来事に茫然としていた。そして瞳という鏡を通して、縁の背後に映る、クラスメート、友達、悪友、それらの目や顔すらも、全て縁に向かっていた。

「誰だ?」
「他のクラスの奴か?」
「つーか邪魔じゃない、センセー早く追い出してよー」

 次々に起こるのは縁の存在を否定する言葉の波。連鎖爆発にも似た悪意なき声の数々に、縁はたまらず後退していた。

「なぁお前ら何言ってんだよ、いつも一緒にいたじゃないか、それとも新手のドッキリか!?」
「はぁ? 何変なこといってんの、バカじゃない」
「アンタのことなんて誰も知りませんよー?」

 ただの印象の言葉は、次第に嘲笑へ、そして排斥へと変わり、縁を教室の端へと追いやっていた。その視線は見知らぬ他人を見るそれ。震えぬはずの右腕が、幻痛のように恐怖を感じて震えている。また一歩、縁は後ろへと下がった。
 その瞬間、足場は崩れ、同時に教室という彼の居た世界は崩壊し、真っ暗闇の虚空へと落ちた。その闇からは無数の目が開き、忘れられ、堕ちていく縁を喜悦の笑みで見送っていた。
 そのまま落ちていく縁。だが不意に、誰かの手が差し伸べられた。これ以上落ちるのは嫌だ、その思いだけを縁は右腕に込め、冷たい右腕を伸ばし、どこからか伸ばされた手をとろうとした。
 ゴツゴツとした大きな手を、右手が掴んだ。その途端、義手の留め金と装置が外れ、縁は仮初の右腕を失って、止まることなく落ちていく。
 闇に呑まれる瞬間、右腕を持ち去った手の主が見えた。その相手すら、縁を他者の如く、冷たく見下ろしていた。

「親父ッ……!?」

 息が、身体が、魂が、闇に包まれ、なくなる。
 そして覚醒する意識は縁を闇の淵から連れ戻し、落下する力は上半身のバネを動かす力へと変えられ、汗だくの体を掛け布団の下から持ち上げた。息が上手くできない、肩で呼吸を整え、空っぽの頭の中に自己のイメージを再形成する。魂が肉体という器に戻ってくるような、そう表現すべき充足感が体を血流という形で廻り、深い息を吐く。存在しない右腕にすらその感触はあり、むしろ右腕にこそそれが集中しているような気がした。
 右手のひらを顔の前まで持っていく。いつもと変わらぬ金属の艶。実の父親から贈られた失った肉体の代わり。そこに映るのは自分自身の顔。その顔すら、今はゆらゆらと消えてしまいそうだ。

「くそっ……あんなこと聞いただけなのに……なっさけねぇ!」

 自分への叱咤を込めて、右腕で拳を作り、額を殴った。

「アタッ!?」

 そして自分でも思う以上に力を入れていたのと、特別性の義手故の堅さ故に、縁は夢も見ぬ二度目の眠りへと落ちていった。


 第二話『敵は妖怪・地霊編』


「っ~~~……朝、か」

 自分で自分を殴った状態のまま二度寝していた縁は、むっくりと起き上がった。窓の外を見れば、昨日から変わらぬ地下の天井と、不可思議な朝の明るさ。そして部屋の中も、最初に起きた場所と変わらない。縁は一人溜息をつきながら、再び義手を見た。寝るときすらもこれを付けていろ言ったのは縁の父であり、縁自身もそれがすっかり慣れ、特に違和感も感じていない。
 深夜とは違い、今度は自分の像は消えなかった。
 溜息を吐く。

「……やっぱ、現実なんだよな」

 そしてまた窓の外の世界を見た。これから自分が生きていくしかない、この異郷の里を。

「『忘れ去られたモノたちの楽園』……か」

 思い出すのは淡々と事実を話すさとりと、嘘のない事実と現実。フラッシュバックするのはその概要だけであるが、それだけで体と思考の動きを止め、意識に埋没するには充分だった。


 この幻想郷は忘れられたモノたちの楽園……貴方の居た世界において、消えて、幻想となったものや場所が集まる世界です。結界という壁で隔離された箱庭、そう頭の中で思い浮かべてもらえれば結構です。だから貴方のいた世界のことを外と呼びますし、貴方のように外から迷い込んできた人のことを外来人といいます。そして外の世界では既にいないと言われている存在……私たちのような妖怪と呼ばれるものなどが数多くいます。
 『けど別に誰かに忘れられたわけではない』、そうですね。貴方の場合はイレギュラー……時々そうやって、幻想郷と外を隔てる境界が揺らいだり、またはまったく別の理由でこちらに来る存在がいると聞いたことがあります。何分この地下世界には外のものらしい道具が流れてきたりしますが、人間は初めてでして……。
 ああ、忘れていましたが、貴方がいるのは旧地獄の私の屋敷、地霊殿です。旧地獄というのは過去に地獄であった場所を妖怪たちが住処とした……まぁ貴方の心象の言葉で言えば『地下都市』と思ってもらえればいいです、何せ幻想郷の地下にあるのですから。
 それと……貴方が外の世界へと戻る方法は、正直にいって、ここにはありません。それこそ貴方を落としたという妖怪なら……お燐、おくう、中邦さんが暴れないよう抑えて。フレッチャー、水を。
 ……落ち着きましたか? ……どういたしまして。
 話しを戻しますが、貴方の場合は、変則的ながら妖怪に攫われた、という形ですね。それも貴方は、恐らく空間そのものに干渉することができる存在と出会ったのでしょう。八雲紫、聞き覚えはありますが……え、『帰る方法は地上にあるのか?』
 そのことも正直にいいましょう。仮に地上に確かな帰還のための手段が存在したとしても、ただの人間がここから地上を目指すのはまず不可能です。地上へと通じるのは旧地獄繁華街頂上にある縦穴、地獄の深道ですが……想像できますか、どこまでも続く縦穴を両手両足だけで上り続け、かつ貴方が過去に出会った妖怪のような言葉も通じない低級で獰猛な相手が何十匹もいる場所をいくことを。貴方の中の言葉でいうならば、『両手両足を縛られた状態で凶暴な肉食獣の檻へと投げ込まれた』というものです。
 ……ご理解いただき、感謝します。
 まあとにかく、しばらくは家にいてもらって結構です。身の安全と世話は自分で、それに家の仕事の方も多少はやってもらいますが……その間に、色々と考え、心の整理してもらうのもいいでしょう。
 ああ、そうそう。妖怪は一応人食をするのもいますので、この屋敷の私のペットたちには、貴方は食べないように言っておきますね。そうでもしないと、私の知らないところで食べられてそうですからね……こいし、特に貴方は気を付けるのよ?
 まぁとにかく……改めていいましょう。
 ようこそ、幻想郷へ。
 

 思い出しただけのさとりの言葉はこれだけだ。少なくとも、しばらくはこの家で縁が世話になるのは確かで、その間に自分自身で踏ん切りをつけてこのわけのわからない世界に住むか、はたまた別の方法を考えて地上へいき、何かしらの手段を探して元の世界へと帰るか。
 大まかなことはこの二つだ。前者も後者も容易ではないだろう、特に後者に関しては何も突破口は存在しない、と言われている。
 縁の中にはあの説明の時、彼女たちの誰かに自分を地上まで案内してもらえばいいのではないか、と言葉にして思惟した。だがそれを、心が読めるはずのさとりが口にしなかった。気づかなかったか、それともわざと無視されたか。圧倒的に後者であろう、彼女は縁の心の言葉に逐一反応していた節がある。そこから考えるに、まずそこまでする義理がないか、はたまた地上へといけないわけがあるか。漠然ながら二つの理由が提示され、どちらともとれ、またどちらとも違い、どちらともであるとも考えてしまう。
 八方塞がり。この言葉が今の縁にピッタリだった。

「あー、くそ。まったくわかんねぇ。とにかく飯食わせてもらって、そっから後は仕事教えてもらいながら考えるか」

 無駄なことはしょうがないと一旦切り捨てて、もやもやと縋りつくマイナスと停滞の思考を振り払うように、勢いよくベッドから起き上がった。
 部屋は最初に起きたあの部屋で、僅か一晩寝かせてもらって変わったことがあるとすれば、自分の私物である学生カバンと、洗濯機でも使ったとしか思えない速さで洗われそれなりに綺麗になった学生服である。ブレザーとYシャツ、ズボンといった現代の典型的な学生の服一式、それとカバンに入っていたノートと教科書、それと幾つかの私物のみが縁が外から持ち込めた物であった。同時にそれは、縁にとって思い出の品となり、縁をこの世界と元の世界との挟間に置く楔でもあった。
 もらった服ではなく、ブレザーとシャツに袖を通す。こうすれば、自分がここの住人ではないと認識できる気がした。いつもはつけない、内ポケットに放り込んでいたバッジをつけ、着替えを終了。多少ほつれたり汚れてもいるが、入学当時の中邦縁の姿がそこにはあった。
 ただし入学式というイニシエーションすらなく、放り込まれたのはより過酷な、人間は自分しかいないという異世界。二日三日前の自分ならこんな話を聞けば笑っていただろう。だがいざその状況になると、バッジをつける、などという小さなことにも己の存在を傾けようとする焦りと不安がでてくる。
 その不安が全身を支配する直前、縁は両手で顔を叩いていた。右腕で叩いた頬が特に痛い。だがその分、目は覚めた。バッジを毟るように取り、元の内ポケットへと戻す。今度こそ、準備万端だった。

「うし……いくか」

 そして、非日常へと足を踏み出す。まずは、腹ごしらえからだ。



「はい、どうぞ」

 昨日の残りらしき和食一式――汁物、ご飯、焼き魚――を名も聞いていない白いカモメから朝食として貰い、それをかき込むように食べてから、丁度よく広間へと現れたさとりに渡されたのは箒だった。あや取りの箒ではない、ましてや縁のいた世界の学校にもそうはない、竹の繊維を一本ずつ巻いて軟性を持たせた、手造りとも言えるものだった。それと一緒に、雑巾の代わりと言いたげな布の切れ端もいくつかが脇に置かれた水入りのバケツの上にかけられ、ちり取りもバケツのセットとなっている。

「……えーと、言わなくても理解するけど、掃除?」
「はい、掃除です。何分我が家は広い上に、自分の抜け毛の始末もできない子が時々いますから汚れ易いのです。一応この前までは清掃を任せていたペットもいましたが……この前酔った勢いで鬼に喧嘩を売ってしばらく再起不能になってしまいましたので」
「……ペットが酔うって、そんな酒でも飲んだみたいな」
「いえ、どうやら好きな妖怪に告白して即答で断られたみたいです。その勢いで……おまけに掃除の腕も悪いから、フラれても仕方ないと言えば仕方ないのですけど」

 名も顔も知らぬそのペットの妖怪に対し、縁は何故か左手で敬礼をしたい気持になっていた。この話を聞けばただ苦笑いを浮かべただけだろうに、エピソードを聞いただけで心の汗がにじみ出そうになってしまった。もし上を見上げれば、空もないのに青空が広がってそうだ。
 さとりは面倒だというように肩をすくめると、説明を再開した。

「とりあえず、他にも清掃をさせているペットはいますので、貴方は主に廊下を中心にやってください。屋敷の地図はないので、間取りは自力で覚えてください」
「いやに待遇の悪い状況……いや、なんでもない」
「『心を読まれているのだから、ちょっとした不満ぐらい目を瞑って欲しい』……私との会話に慣れてきましたね」
「そりゃ、わかりやすいからな」

 バケツを受け取りながら、軽く答える縁。その言葉と、縁の浮かべる苦笑と、言葉の意味と同一の意味を持った心の内に、さとりは眉を顰めて、若干の不満を覚えた。いや、嫌悪にすらその不満は似ていて、同時に既知外のそれに遭遇した不可解さにも似ていた。
 それを顔を振るという行為で頭の中から消す。気のせいだと、こういうものもいると考える。

「ん、どうした?」
「……いえ、それよりも食事に関してですが、これからは自分で作っていただけますか。食材に関してはこちらで出しますが」
「え、どうしてだ? それに勝手に台所使っていいのか?」
「主に毎日食事をするのはあまり知性がない妖怪や幼い妖怪、ただの動物だけで、私たちのようにある程度の妖怪になると食事は道楽であり、決して必要なものではないのです。だから週に数回しか食べないので、人間である縁さんの分は自分で調達、または作ってもらうという形になります。ああ、台所の使用に関しては、フレッチャー……白いカモメに言っていただければ結構です」
「ん、わかった……けどあのカモメ、喋れるのか?」

 縁の記憶の中では、まだ二度しか会っていないが、あのカモメが人の言葉を喋るのを見たことがなかった。むしろ人型でない以上、やはり喋ることができないのか。あのまま喋るとしたら、どう口を動かすのか。
 頭の中でカモメの料理長の口調が浮かんでは消えていく様を読んださとりは、これまた可笑しいと思いながらも理解の薄い人間へと説明する。

「彼は面倒が苦手なんですよ……貴方はまだ、彼に話すことが面倒ではないと認められていないのでしょう」
「あー、つまりちゃんと話すの大分先ってことか」
「そうですね、彼に認められるのは並大抵ではないので……」

 過去か現在に思いを馳せているのか、件の鳥がいる台所の扉へと目を向けるさとり。縁もそれに倣ってそちらを見、昼食や夕食の交渉をそんな堅物相手にどうするかを考え、そしてまた一つ考えることが増えたことに頭を抱えたくなった。
 永住か帰還かの問題と違って小規模だが、人間である縁には最重要でもある要件の一つである。まかり間違って相手を怒らせ台所を借りれなくなったら、それこそ不味い。
 悩み事の多い縁に対し、さとりは一つ溜息を零す。コロコロと考えと表情が変わる人間だ、と。

「……とにかく、考えは動いてる間にもできるのですから、今は掃除を頑張ってくれませんか?」
「あ、悪ぃ」

 さとりに言われようやく意識を掃除のことに戻し、踵を返したさとりと一緒に部屋を出る。そして改めて廊下を見まわした。見るだけで挫けたくなった。
 
「……床は箒で掃くだけで結構ですので、がんばってください」
「わかりました、やりますよ。助けてもらった恩もあるし」

 心のこもっていない応援とも労いともとれる言葉を、僅かに真摯さのあるやる気を削がれた声音で返し、まずは箒とちり取りをメインとして装備する。雑巾もどきは途中にある机や調度品用に備え、しっかりと絞ってちり取りと一緒に持つ。準備を終えたら、廊下の両脇の隅から箒を振るう。手造りらしきその箒の威力は遺憾なく発揮され、一振りで埃と何かの毛が表へと出てきた。

「おお、よく取れる」
「職人の手で造られたものですからね。それでは、私はこれで」
「ああっっとと、飛び過ぎたッ」

 生返事の途中で埃を飛ばし過ぎ慌てる縁の姿に、これなら安心と、内心安堵してこの場からさるさとり。縁は学校の時よりも遙かにやり易い掃き掃除に夢中になってそれに気づいていなかった。



 廊下の角を曲がって縁の姿が見えなくなったことで、さとりはゆっくりと歩きながら、中邦縁という、地下において非常に稀有な存在・人間のことを考えた。それは彼の立ち位置であり、またそれによる地霊殿そのものの見られ方だ。
 地霊殿は、縁にはまだ話していないが、灼熱地獄跡の上に造られた蓋である。調節弁といってもいい。つまり地霊殿に住むモノには灼熱地獄跡を所有地として認める権利があると同時に、異常が発生した場合他の妖怪、ひいては幻想郷に悪影響が出ないようにする義務が生ずる。それは即ち、その異常が発生しないよう灼熱地獄を見張る、その場所に留まり続けなければならない。義務に束縛されるということだ。
 さとりが地霊殿に住むのは、乱ちき騒ぎが大好きな地底の妖怪たちとは違って静寂を好むという性質もあるが、そのもっともな原因は、隔離である。
 彼女の『心を読む程度の能力』は他者に恐れを抱かせる。心を読まれるというのは、弱みを知られ、そして己が秘匿するものを容赦なくさらけ出されるということだ。故に妖怪『覚』は他の大多数の妖怪からは忌避の対象であり、または迫害の対象ともなった。それはこの地底都市、様々な理由から地上には住めなくなった妖怪たちの間でも変わることはなかった。
 そして心を読まれる危険性を下げるために、さとりとこいしは、地霊殿という檻の中に閉じ込められた。
 さとりはそのことに関してはむしろ進んで住むようにし、このことを受け入れていると自覚はしているが、こいしのことはわからない。昔ならいざ知らず、もう、わからない。だからそのことについて考えるのは止め、心を読まれなければ意思疎通も難しい動物たちとペット共にただ平穏に暮らせればよかったと思っている。
 そこに現れたのが、地底にはまず来ないと言われる人間。それも外来人。
 お祭り騒ぎと厄介事、面白そうなことが大好きな妖怪たちのことだから、その存在は既に地底中に知れ渡っているだろう。ならばその後、好奇心が強いものはどうするか。十中八九、この地霊殿を訪れるだろう。さとりを警戒するものは忍び込むかもしれない。どちらにしろ、彼を切っ掛けに地底の妖怪たちとイザコザが起きる可能性が高いのは確かだ。
 それを考えるならば、中邦縁の存在は、さとりの良心を持ってしても邪魔でしかない。故に彼に会った当初は、ここのことを教え一晩泊めた後、無謀な地上への道を危険性を言わずに教えて地霊殿から出すつもりでいた。
 だがしかし、さとりの声は彼がここに住めるよう取り計らっていた。もしかしたら数日中にはいなくなるかもしれないが、考えを纏める猶予ぐらいの間は居てもいいと言ったのは確かだった。

「……期待している。私が、人間に?」

 何にとは思わない。彼と話している時の自分の心を思考しつつ、思いだすのは、一瞬恐れ、一瞬驚き、そして恐れを徐々になくしていった縁の苦笑。それははにかみにも似ていて、それを見て読んださとりの顔は無自覚の内に不機嫌なそれに、言葉は言い訳がましいものへとなっていた。人間は妖怪を恐れるものだ、ましてやそれが心を読む相手となると、恐怖どころではないはずだ。
 さとりはそっと首筋に触れた。昔、人間に石を投げられ、当たってしまった箇所である。

「……意味がないですね、こんなこと」

 痛みはない。同じような痛みが全身に浴びたこともあるからだ。だからもう痛くはない。心を読むのは、ただの手段であり、妖怪としての存在理由だ。
 さとりの歩調は速まっていた。過去という痛みと今の恐れを地霊殿という蓋に置き去りにするように。
 妖怪『覚』は心は読めるが、その本人の心は誰も読もうとしない。己自身でさえ。



「アイムシンカーとぅ~とぅとぅ~とぅとぅ~」

 二叉の尻尾の犬と青い鳥が通るのを目に映しながらも、うろ覚えの歌詞を思い出しつつ縁は調度品である瓶を奇麗な布で拭いていく。美しい朱色のガラス細工は見た目からして割れやすく、力を込めすぎないよう注意しながら右手で拭き、左手でしっかりと抑える。最後の取っ手の部分を拭き終えて、縁は額ににじみ出た汗を、溜息と一緒に拭った。ちなみに汗は疲れもあるが、掃除をしながら地霊殿を歩いている時に出会うさとりのペット、変な動物たちに驚き、そして時々見つかる赤いシミを発見するたびに流していたせいもある。さすがにもう慣れてはきていたが。
 気を取り直し腰を折って、布を傍に置いておいたバケツの水に浸し、汚れを取って絞ってから、クルリとまだ綺麗な部分を表に出すよう二つにたたむ。そうして立ち上がり、今まで自分が通った道を振り返る。
 
「これで一階は終わった……かな?」

 呟きながら、自分が歩きながら見てきたこの屋敷、地霊殿の内装を思い出す。大まかに言えば地霊殿は四角の形をしており、内側に中庭を擁した、西洋建築の見本とでもいうようなものであった。礼拝堂にも似た大きなエントランスの他に、中庭を囲む二つのロッジア、そしてそこから見えた、中庭の中央にある三角錐型のガラスのオブジェ。その下に空洞が見えたから、出入口か蓋であるかもしれない。妖怪が空を飛べるということを知った今なら、出入口という用途も否定する気が起きない。
 そこまで思いだして、縁はやっと、本来自分が考えるべきことを思い出した。

「しまったあ、帰ることとかどうとか忘れてたあっ!?」
「わあ!?」
「はいっ?!」
 
 自分の痴態とも言うべきオーバーな叫び声とは違う、二つの少女の喚き声。それに気づき、声の方向、廊下の角の向こうに目を向ける。その途端、赤い影と黒い影がそこから飛び出した。

「いきなり叫んでビックリするじゃない人間!」
「まったくヒドイよ、人間っ」

 昨晩と同じく縁を指さした燐と空である。燐の傍にはデパートにでも置いてあるようなカゴと台車を合体させたような奇妙な押し車があった。それの所々には黒いシミができている。それが妙に気になった。

「いや、そこにいるなんて普通気づくはずないだろ……」
「あっそ。ま、そうよね。人間には気配でわかるっていう感覚がないんだものね」
「それよりも、人間は何やってたの?」

 ずいっと顔を出して、縁の持っている掃除道具一式を見つめる空。

「見りゃわかるだろ、掃除だよ掃除。さとりから居候代として仕事しろってさ」
「へえ、アンタも仕事を任されたんだ。ま、掃除っていっても土尾のしばらくの代わりってとこね」
「そうだよね~。土尾って確か……どうしたんだっけ?」
「もう忘れたのおくう。相変わらず鳥頭ねえ、⑨なんだから」
「⑨って言わないでよ!」

 空の喚き声を合図にじゃれあい始める二人に、縁は「何しにきたんだこいつらは」と二人に聞こえぬよう呟いた。見目麗しい少女たちが目の前の縁の存在を忘れて追いかけっこを始めたので、仕方なく仕事に戻ろうとした。その時、二人の声とはまた違う、むしろ声ではないただの音が、縁の腹から響いた。
 その途端、縁の身体は今まで忘れていたかのように空腹感を主張し始め、仕事をするという力と気力を勢いよく削いでいく。

「もうそんな時間かよ……」

 時計も太陽もないので時間の確認ができないのが文明人として生まれ育ってきた縁には辛いところであった。一旦作業を中止する、と頭の中で切り換えて、ゴミの溜ったちり取りと箒、それと中の水が濁ったバケツを持って、結果として一周して近くにある食道へと歩を進めた。
 追いかけっこをしていた二人は縁の様子と、腹の減った生物特有の音に聞きつけて、ひょっこりと彼の両脇から顔を出した。

「あれ、アンタもうお腹すいたの?」
「俺は人間だから一日に最低二食食わなきゃいけないんだよ」
「あ、そっか。人間ってそうだったんだよね。面倒だよね」

 二人して縁の腹がなっている原因、彼女らから見れば、遙かに悪い人間の消費効率を思い出して、ポンと掌に拳の槌を軽く落とした。存外、似たもの同士なのかもしれないと、縁は二人の間抜けに見える顔を見て思った。その間にも、縁の腹は食糧を求めてぐぅぐぅと鳴っている。
 それとは別に、今度は別の場所からくぅと小さな音がした。三人が動きを止めて、その音の発生源、空の一部へと目を向けた。

「……もらい減りしちゃった」
「勝手な造語を作るのかこの⑨な鳥娘は」
「⑨な鳥娘じゃない、霊烏路空って名前! 呼びにくかったらおくう!」
「造語なんて日常茶飯事よ、主に言葉のうろ覚えのせいで」
「お燐まで!?」

 結局、小腹が減ってしまった空の分も求めて、広間兼食堂を通り、台所の戸を開ける。掃除道具と燐の台車は広間のドアの前に置いてきてある。
 台所の広さは縁に宛がわれた部屋よりは一回り大きい程度で、縁のいた外の世界のような冷蔵庫や電子レンジといったものはなく、土で練って持ってきた思われる窯や、コンロらしき三角台が乗っている台もある。部屋の中にはどこからか炎が燃えている時に聞こえる、あの掠れるような空気の叫び声が充満していた。それに足元には、何やら不可思議な戸のようなもの。記憶に近いものがあるとすれば、床下内蔵式の冷蔵庫である。

「正直勝手に入っていいのかここ?」
「んーフレッチャーは確かに気難しいけど、そこまで神経質じゃないから大丈夫よ」
「そーそー、それになんだかんだ言ってペットみんなのご飯は全部作ってくれるしね」
「へー……で、その本人、いや本鳥(?)様はどちらだ?」

 一通り台所を見て回るが人気はない。屋敷の中にあれだけいた動物のような妖怪たちの姿もなく、ましてや今朝見た白いカモメという分かりやすい姿形のものはどこにもいなかった。

「そういやこの変な音って何だ? 火が燃えてるみたいだけど……」

 そのまま探し続けるのもつまらないと思い、屋敷の住人にこの掠れた音の正体を尋ねる。それに応えたのは、宙に浮いて食材を探す空である。そのまま中空で反転して、両足の下から覗きこむという、自分の服装をまったく考えない体勢で彼へと向いた。

「あ、それはここが灼熱地獄の熱をそのまま引っ張ってきて、釜戸とかの火に使ってるからなの」
「灼熱地獄の火? そういやこの地下都市って旧地獄って名前だよな? なら昔、ここって地獄だったのか?」
「そうだよ。だから今じゃ罪人なんて落とされないし、あるのは死体か怨霊だけなんだよね」

 そういって世間話のように明るく話して、燐が台所の棚を粗探しするのを手伝うために部屋の端へと向かった空。縁は動かない。よく考えれば、ここが一体どんな場所か、旧地獄の地下都市とはどういうものかも教えられてなかったのだ。
 昨晩のさとりの言葉から、この地霊殿以外にも妖怪たちが棲んでいる場所、それも街のような形で集まるコロニーの存在が読みとれたのだ。どのような名称かは忘れたが、少なくとも地霊殿にいるさとりたちよりは多いだろう。
 そこに行けば、この場所のことを、あわよくば安全に地上へ行く方法を見つけられるかもしれない。
 儚くも希望が見えてきた。そのことに顔を綻ばせた直後、縁の右腕が一瞬、鈍った。それは右腕を体から切り離すこととは違う、神経をそのまま引き伸ばされ千切られるようにも似た、感じることのない激痛と表すべき、刹那の出来事。激痛は変化への痛みであり、偽物の右腕は変化により縁の意識のコントロールから離れ、右側面から心臓を守るように掲げられる。
 ゴッ、と鈍い音と共に、何かが現れていた。それは白い翼の左翼を突き出し、縁の心臓を狙うコースへと尖っていて金属の義手に遮られていた。また右翼は喉元へと突きつけられ、黄色いクチバシと、青の眼光が縁の瞳を見据える。その間、縁の体は右腕を除きまったく動いていない、いや動けずにあった。
 
「あ、フレッチャー」

 物音に気付き燐が縁へと顔を向け、そして縁の命を後僅かで刈りとろうとした白いカモメの名を言った。燐の言葉に釣られて空が「うにゅっ?」とそちらを向いた時には、フレッチャー・B・Sの剣の翼は収められ、何もないところから現れ落下してきた巨大な魚を器用に羽を折り曲げキャッチした。
 青い瞳が縁から離れた瞬間、全身の毛穴が開き、脂汗が溢れだした。右腕の制御が戻ったのにも気づかず、その場でたたらを踏む。呼吸が早まり、心臓が過剰な運動を起こしている。まるで全力でフルマラソンをした後にも似た、身体の異常な疲労と興奮がない交ぜとなった状態。倒れてしまいたいという欲求があったが、それを神経が受け取るより早く自意識が再起動し、左手で胸元を握りしめながら、突然現れたカモメを睨む。

「……いきなり、やってくれるじゃねえか」

 悪態と挑発を混ぜた言葉に、フレッチャーは無反応。そのまままな板のある場所まで浮遊し、その上に魚を置いて、じっとその魚を見下ろしていた。

「……くそ、何か言うことないのかよ」
「あー、無駄よ人間。フレッチャーって何考えてるかさとり様にしかわかんないし、話せるのに何も言わないから行動も不明なのよ」
「だから基本的にフレッチャーに返答を求めるのって無理なんだよね。力も強いし」

 無口なカモメの代わりに答えた二人に目も向けず、縁はひたすらフレッチャーを睨み続ける。
 さとりからも既に喋らないヤツだと聞いていたが、突然現れて襲われる道理などない。何よりも人の意識を呑みこむような気を、縁の頭の中で殺気と評したいそれをぶつけられる理由はない。そのはずである。
 そのまま数秒の沈黙ののち、人型妖怪二匹が重い空気に耐え切れず身体をモゾモゾと動かし始めた時、カモメが縁に振り返った。その長い口が動く。人間の男のような声が空気を震わせる。

「キサマはオレの神聖な領域に許可なく入っただろう?」
「はっ……? い、いやそれはあんたがいなかったから」
「それでも、だ。以後俺の返事がない限り、この場に入るな。いいか、オレは面倒が嫌いなんだ」

 そして再び頭が魚へと向いた時、その姿と魚が瞬きの暇すらなくかき消えた。最初からその場にいなかったような、例えるならば突然あるものが消えてしまう編集を施された映像のようだ。

「んなっ!?」

 驚愕をそのまま言葉にし目を見開く縁。その後ろでは、少々驚いた程度の二人の姿。

「……あたい、アイツが喋るのなんて数年ぶりに見たよ」
「………私も。何年前か忘れちゃったけど」

 訂正、その心中は今日一番の驚愕に満ちていた。
 
「な、なあ何でアイツ消えたんだ!? ワープか、テレポートか? それとも何か……」
「なんでこいし様みたいな聞き方になってるの。アイツには『ありとあらゆる場所を飛べる程度の能力』って力があるのよ」
「『ありとあらゆる場所を飛べる程度の能力』? さとりみたいな心を読む能力とかと同じものか?」
「うにゅ、そうだね。能力は同時に妖怪の在り様を示すものだから、皆持ってるよ」
「ま、あたいたちの能力は別に教える気はないけどね~」
「いや、別に知りたいわけじゃないから」
「そこは知りたいっていうのが常識でしょうが!」
「どこの常識だどこの!」
「お燐、私もそんなの知らないよ……?」
「ノン!?」

 結局、縁はこの二人に絡まれている間、色々と考えなくてはならないことも、食事を作って食べることもままならなかった。さとりが途中で現れ、二人を仕事場に行かせなければ縁はグダグダなエンドレスのボケと突っ込みの渦の中で力尽きていただろう。
 そして小腹が空いて夕食を強請った空のために、再び夕食が賄われたのは、幻想郷二日目の時点で一番の幸運だったといえた。
 ただし出された刺身には、なぜか縁のものにだけ小骨が大量に残っていた。




 あとがき

 またグダグダです、先になかなか進みません、我ながら死ねばいいのに。そしてお燐とおくうの口調とキャラ付けが安定しません。ボスケテ。後フレッチャーはただのネタです…元ネタわかった方、ごめんなさいorz(カモメ、という方の意味で)
 
  どうでもいいヤツのみのキャラ紹介(オリのみ)

 フレッチャー・B・S
 白いカモメ。地霊殿の料理長を務める謎の存在。概して妖怪ではなく、本人は『自由という無限の思想であり、また<偉大なカモメ>の化身』と言っている。移動手段は浮遊または飛行。料理に行き詰まり考え事をするときのみ地面に足をつける。基本的には無口で、喋るとしても「俺は面倒が嫌いなんだ」と言って締めくくる。
 『ありとあらゆる場所を飛べる程度の能力』を持つ。文字通り、あらゆる場所を飛べる能力。大空だろうが地面だろうが海の中だろうが宇宙空間だろうが位相空間のズレだろうがどこだって飛べる、ある意味チート能力。



[7713] 第三話――古<所詮中二病だ、刺激的にいこうぜ
Name: へたれっぽいG◆eaa9c481 ID:f33d8d16
Date: 2011/02/14 14:10
 二度目の腹を貫く衝撃に、縁の意識が霧散しかける。そのまま後ろへ千鳥足で後退し、三歩目で意識を回復、基本の構えの形をとって、前へ飛び出す。左腕を構える、相手は縁に対し嘲笑を向け、何も備えはしない。
 先ほどから何度も見る、そして今持って自分の周囲を覆うこの胸糞が悪くなる笑みと空気を振り払うかのように、左腕のストレートを放つ、と見せかけ前へと突き出した右足を軸に回転、相手の側面に回りこみ足払いをかける。
 相手が初めて焦った声を上げ、体勢を崩した敵目掛けてお返しとばかりに拳を叩き込む。鈍い音、鈍い衝撃。分厚い鉄に軟性を持たせたものを殴った、そう解釈すべき手ごたえ。一瞬の思考の怯みの内に、相手は、妖怪は地に足をつけ、自分の胸部へと突き刺さる縁の左腕を掴み、そのまま地面へと叩きつける。体勢を崩すや相手の力を利用するなどという技術などない、力任せの投げ。受け身を取る暇もなかった。

「が……っ!」

 衝撃が息と唾液をまき散らす。直後に骨すら軋ます痛みが全身を駆け巡るより早く、片足を掴まれ、投げやりのように振りかぶられる。その加重だけで頭の血が移動し、意識が再び消えかける。

「ほうら、まだまだ!」

 それで終わりでなく、虎の模様を施された衣服を纏う妖怪が、縁を石ころのように近くのゴミ置場へと投げ込んだ。酒瓶や瓢箪、使われなくなった宴会道具や保存用の木箱を積み込まれた場所は縁という砲丸を叩き込まれたことによって周囲に散らばり、そして残ったものは崩れたバランスと重力に従い落下し、割れた瓶の破片で無数の切り傷を作った縁の体へと落ちた。

「おいおい小僧、さっきまでの威勢はどうしたんだよっ」
「そんなこと言ってりゃあの薄気味悪い妖怪が飛んでくるぞ」
「おー怖い怖い、十一君、テキトーにしとけー」
「……へ、わかってるよ、手加減が難しいだけだ」
「はは、違いねぇ」

 周囲の取り巻きや野次馬からの野次と、たった今縁を投げ飛ばした相手が発する舐め腐りきった言葉。朦朧とする意識の中でそれを聞いた縁は、怒りという感情を燃料を燃やし身体を起き上がらせた。それと同時に、何故、どうしてこのような状況になったのか、心臓にほど近い冷静な心の片隅で思いだしていた。


第三話『他が闘争』

 
 幻想郷、正確には地霊殿にきて数日。縁は元の世界でもよくあった一人きりの遅い朝食でお握りに食いつきながら、この屋敷の外、地底都市のことを考えていた。屋敷の人語を解する少数の妖怪たちの言によれば、そこにいるのは大半が人型の妖怪であり、それらが切り盛りしている店もあるらしい。その大半の情報が、ここ数日縁が掃除をしている間に現れるおくうとお燐のものであるから、信頼性は縁の中で五分五分であった。少なくとも、危険度に関しては未知数である。

「……けど現状が止まったままじゃ、帰れるものも帰れないしなぁ」

 不安はある。しかし、もしかしたらそこには帰還のための情報があるかもしれない。同年代でも比較的前向きである縁は、異邦人という自身の立場から来る焦りと違和感も相まって、自ら虎穴へと入ることを決めた。
 そうと決まれば話は早い、と一口サイズまでなくなっていたお握りを口に放り込む。
 
「基本は全部自分でやれって言われてるしっ……と」

 朝食分のお握りを食べ終えて、残りはフレッチャーが無言で渡してくれた笹の葉に包み、そこから更に清潔な布で包んで紐で括り、最後にズボンのベルトに括りつける。こうすればいつでも昼食を持ち歩くことができる。子ども時代に教えられたちょっとした知恵が、このような状況で蘇った成果だった。

「まったくもってあの二人には感謝だよなぁ……」

 頭の中でいつでも陽気だった恩人たちを思い出しながら顔を綻ばせる。その縁の背後から近づいたのは、彼の背丈の半分と少しほどしかない小さな影。

「ん~~、何これ、いい匂いがする?」
「え、あ、こいしか」

 いつの間にか広間に入ってきていた屋敷の主の妹は、縁が今し方つけたばかりの即席ランチバッグを興味深げに見つめていた。鼻をくんくんとヒクつかせてる様子がまるで子犬のようである。

「ねぇ縁ちゃん、これって何?」
「ああ、こいつか。一応俺の昼飯なんだけど……まいっか」

 こいしの催促の視線に負けて、いそいそとランチバッグから入れたばかりのお握りの一つを取り出し、笹の葉のカバーをとる。表面にゴマ醤油を塗って焼いて、その上を更にフレッチャーがどこからか調達してきたノリを巻いてある。香ばしく食欲を誘う匂いを直に嗅ぎ、こいしの喉がこくりと鳴った。

「いただきますっ」
「ああ、どうぞってちょっとまてゐ!」

 そのまま口を開いて縁の手ごとお握りを食べようとしたこいしをさっと後ろに下がって避ける縁。かちんとこいしの歯が自分の歯にぶつかった。

「あ、ひどいよ縁ちゃんっ」
「やるとは言ってないぞやるとは。というかこいしの飯作るのはフレッチャーとかの役目だろ」
「私は今お腹が空いたの! それにそれすっごくおいしそうなんだもん!!」

 そう言うこいしの目は焼きお握りにロックオンされていた。もし今犬のように「よし」と言ったならば「狙い食うぜ!」と言わんばかり小さな口を一杯に開けて、縁の手ごとお握りに齧り付くことだろう。縁はまだ知らないが、もしそんなことになっていたら、彼の生身の方の手はすっかりなくなっていたはずだ。

「うー、ごーはーんー!」

 飛べることも忘れてピョンピョンと跳ねて縁が持ち上げたお握りをとろうとするこいしと、彼女から昼食を死守しながらあることを考える縁。それの承諾される可能性を考え、一種賭けであることをも視野に入れながら、こいしの頭にポンとお握りを持っていない方の手を置いた。
 「わふっ」と跳ねる直前のタイミングで置いてしまったせいか、帽子が前へと傾いてしまった。

「もう、何するの縁ちゃん!」
「ああ、悪ぃ悪ぃ」
 
 帽子を直すこいしに縁は「やっぱり妖怪には見えないよな」と彼女の笑みを見ながら小さく呟く。それはある意味、仕方のない反応とも言えた。
 
「なぁこいし、これは別にあげてもいいけどちょっと……」
「え、ほんとッ!? それじゃいただきます!」

 言うが早いか、むしろ行動をした後に言ったというべきか、縁の手からお握りの姿は掻き消え、その姿はこいしの口の中に一部がとられたものとなって、彼女の手の中に移っていた。香ばしい匂いが空気に溶けるように、こいしの頬も綻んだ。

「ん~おいし~」
「お、マジか。そりゃちょっと嬉しいな。だからちょっと俺の話を……」
「縁ちゃん、ご飯を食べてる時は喋っちゃだめなんだよ」

 自分よりも年下に見える少女に正論を説かれた。仕方なく彼女が食べ終わるまで待ちながら、彼女と同じ視線になるまで膝を屈めて、瞼を閉じた瞳の不思議なアクセサリーをつける少女がお握りを食べる姿を鑑賞することにした。
 本当においしそうに食べている。見た目相応の笑顔。だけども、不意に違和感も覚えることもある。
 こいしは屋敷の中のどこかにいて、何所からともなく現れる、正しく神出鬼没の存在であり、いつも笑顔を浮かべていた。そして常に陽気であり、時にそのままの顔で物騒なことを言うこともあるから、縁も冗談だと思いながら冷や汗が滲んだこともあった。
 だからこそ、悩んだり怒ったりする表情を彼女が浮かべるのを見たこともなく、また想像もできない。しかしそれとは別に、こいしを見ていると不思議な、としか言いようのない違和感を覚えるのだ。例えるならば、だまし絵を注視している時の感覚。
 けどまだ会って数日だから何でもわかるわけないし、最初だけかもしれないよな。そう縁は心中で自己弁護。
 そんなことを考えていると、こいしは自分の指に残っていた米粒をペロリと舐めとり、お握りを退治し終わっていた。
 
「おいしかった~、縁ちゃん、おかわり!」

 そして新たな食事を要求してきた。

「早! そしてまだ食べるのか!?」
「客人のものは主人のもの、これ幻想郷の常識!」
「果てしなく間違っている気がするのは俺の気のせいかっ?」

 どう考えても間違っている常識を引っさげて残り少ない縁の昼食を催促するこいしに、何とか先ほど考えたことを切り出せないかと思惟する。しかし良い案が浮かばない。こうなれば当たって砕けろ、とそのままの言葉を声に出した。

「じゃ、じゃあさこういうのはどうだ? 街に出て一緒に飯を食べにいくってのは?」
「……街? もしかして、旧都の繁華街?」

 ぴたり、とこいしの動きが止まる。食いついた、と心中で意気込む縁。

「ああ、俺はまだ行ったことがないから興味があるんだ。けどさすがに一人で行くのはキツイかなー、て思ってさ……だから案内してほしいんだよ」
「ふへー……んー、いいよ、それなら。けどご飯が最優先だよ?」
「あ、ああ。じゃあまずはさとりに掃除一日抜けていいか聞いてくるな! 玄関で待ってて……」
「あ、私も行くよ。もし縁ちゃんが嘘ついてたらお握りごと肝臓食べちゃうからね」
「……冗談であることを祈りつつ、わかった」

 嫌に生々しい表現を使われ、思わずモノローグ的な言い回しをしてしまった。なまじ、妖怪の知識と思いこみを中途半端に持っている故に、嫌でグロテクスで妙な想像が頭の中に鎌首をもたげていた。そんな縁についていきながら、こいしは彼の腰についた布を微妙に涎を垂らしながら見つめているのであった。




 ここ数日ずっと掃除をしていたことで縁はこの地霊殿の内装を大体は把握しており、また主要な人物はこいしを除けばどこにいるかも見当がついていた。さとりの自室は最上階にある、縁の使う客間を二つ繋ぎ合せた程度の部屋だ。部屋のプレートには縁には読めない言葉が刻印されており、恐らくは何かの名前であろうと推測できる。

「中邦さんですね、どうぞ」

 ノックをする前に部屋の中から声がかかった。それでも縁は「ああ」と一声かけてから戸を開ける。
 縁が初めて入るその部屋は、本棚と繋がった机、窓際のヘリに置かれた植木鉢と花と盆栽、何より特徴的なのは天井に巨大なステンドガラスがはめ込まれていることだ。そこには紫と白で人間のような形のものが描かれている。はっきり言えることは、それは地霊殿にいる妖怪ではないということだろう。
 さとりはその机の前に置かれた椅子に腰かけ、つけていた眼鏡と本を置いて、ゆっくりと縁とこいしへと向いた。その時、再び眉をしかめた。それを今度は縁は見た。
 無意識のうちに両者を見比べる。こいしは変わらぬ笑みを称えて、さとりは既に表情を元のものに戻していた。気のせいか、と縁は思い込むことにして早速労働者としての欲求を切り出すことにした。

「なぁさとり」
「『街へ行ってみてもいいか?』ですね……ダメです」
「え、どうしてだ?」

 心を読まれて先に言われることはわかっていた。しかし、その返答にどう応えられるかはまた別の話である。間抜けな顔になった縁に、さとりは常の表情を、先とはまた別の、不機嫌な色を滲ませた

「前に言ったはずですよ、妖怪は人食のものも多く、また私の言葉が届くのもこの屋敷の中だけだと」
「それか、それならわかってるさ。俺だって、この屋敷の中にいる動物(?)たち見てればわかるさ」

 時々獲物を見る目で見てくる奴もいるし。その時のことを思い出して、心中で愚痴て、あらぬ方向を向いて乾いた笑い声を吐き出す縁に、こいしは何が何だかわからず顔に疑問符を浮かべ、心を読んださとりは納得しただけだった。

「あーっとにかく! そのことに関しちゃ、こいしも一緒にいくっていうから大丈夫のはずだ! 他の妖怪だって、人間が別の妖怪と一緒にいりゃ少しは襲おうとは思わないはずだ」

 縁の考えとはこうだった。単独で街に向かうことを最初は考えていたが、しかしさとりが忠告したように過去に会ったような怪物の如き妖怪がいないとは言い切れない。気合で頑張るとも考えたが、一晩寝て思い出したら、今の自分でもあの妖怪に勝てるかわからないので却下した。
 ならば、とこの屋敷の誰かに案内と、あわよくば護衛のようなものを頼みたかったのだ。同じ妖怪相手が傍にいるならばそうは手を出さないと、安直で高をくくった考えだった。
 しかし同時に、妖怪と地霊殿の本質を知らなければ悪くはないものでもある。無論それを縁は知らない、ただもうこれしか浮かばなかっただけだ。
 そこで最初頭に浮かんで出てきたのはおくうとお燐であったが、二人に聞いたところ「昼間は仕事があるから無理」と断られている。その割にはこちらに来てからよく一緒にいるので、縁は仕事など実はないのではないかと疑っている。
 次にさとりであったが、結果は今の応答から想像できる。
 そして最後のこいしであったが、状況をうまく利用して何とか誘うことができた。
 ちなみにフレッチャーにも協力を求めてみたが「俺は面倒が嫌いなんだ」と一蹴。おまけに腐った魚を出してきたものだから「こいつ……死に腐れ」と本気の喧嘩五秒前までいってしまったところだ。
 その縁の考えを読んださとりは、三つ目の瞳を瞬かせながら、そして対の瞳を閉じて、ゆっくりと顔を横へと振った。

「……それではダメなんですよ、縁さん」
「だから、何がダメなんだ?」
「それは……」
「もーお姉ちゃん別にいいでしょ、わたしが一緒にいきたいんだから」
「っ、こいし。けどそれじゃあ……」
「む、お姉ちゃん、そういうこと言うの? それじゃ勝負して話決める?」

 突然話に割り込み、そして剣呑な雰囲気すら部屋に発生させたまま笑顔であり続けるこいしと、彼女を睨みつけるさとり。二人の突然の物騒な問答に縁はわけも分からず両者を見比べた。

「お、おい。どうしたんだよ? それにこいし、お前……」
「……わかりました。ですがこいし、そこまでいったならば、貴女が中邦さんの面倒を見てくださいね」
「さすがお姉ちゃんだね! 大丈夫大丈夫、きっと大丈夫っ」

 縁の心配を余所に見えぬ攻防は決したらしく、さとりが引き下がりこいしが胸を張って縁を見上げた。不意に縁は、またあの違和感をこいしの中に見た。だがそれも彼女が縁の右腕をとったことで、頭の中から消えてしまった。

「さっ、縁ちゃん。早くご飯食べに行こっ!」
「え、ちょっ、こいし!」

 そのまま手を引っ張って部屋から出ようとするこいし、見た目自分よりも年下な少女に引っ張られる縁。絵にしてみれば変な塊である。それを見ているさとりの瞳には、哀れな人間の姿と、度し難い妹の姿が映った。
 
「中邦さん」
「ん、あ、さとり。何か知らないけど、許可くれてありが……」
「……できる限り、その子の傍にいないほうがいいですよ」
「えっ?」
「そうでないと……」

 その小さな呟きを聞き終えた直前、彼はこいしによって部屋から出され、戸が一人でに閉まって彼女の姿を見えなくなっていた。
 言葉の全てを理解していない縁は何気なく、自分を引っ張る少女を見た。違和感は徐々に大きくなってはいったが、やはりただの女の子にしか見えなかった。



 霊烏路空と火焔猫燐はここ最近ずっと自分たちの仕事を他の妖怪に押しつけて、地底世界に突然降ってきて、しかも地霊殿に住みついてしまった人間を監視していた。目的は、主人であるさとりやこいし、そして他の妖怪たちに害がないか探るためである。
 そして今日もまた仕事を適当に切り上げ押し付け、あの妙に主人が気にかけている人間の男を探して屋敷内を闊歩していた。

「んーいないねぇ」
「まったく面倒なんだから……」
「というか何で私たちってこんなこと始めたんだっけ?」
「それはおくうが『何所の馬の骨……もとい人間の骨なんて信用できない』って言ったからじゃなかった?」
「何か言い方が私じゃなくてお燐っぽいよ。だから言いだしっぺはお燐ね」
「そんなことでアタイのせいにするかこの鳥頭は~!」
「うにゅぅぅッロープ、ロープぅ!」

 三階二階と見て回って階段を下る二人は、探している相手が見つからずじゃれあいを始めてしまった。そのままお燐がおくうに対してチョークスリーパーからの変則寝技に持ち込もうとした時、視界の端に見覚えのある影が映った。
 パッと技を解き、廊下の影へと空の首根っこを掴み上げて身を隠し、その二つの人物へと目をやる。

「な、何をするだー…ってどうしたのお燐?」
「しっ! ……ほらあそこ、アレって人間とこいし様よね?」
「……うん、そうだね。人間は掃除道具も持っていないみたいだし、どうしたんだろ?」

 丁度反対側の階段から降りてきたと思われる縁とこいしの姿を、廊下の縁から顔だけを出して確認する二人。こいしはいつもの通り笑みを浮かべていて、また縁の方も和やかな顔をしている。そして二人はお燐たちが驚くことに、手を繋いでいた。正確にはこいしが縁を引っ張っているだけなのだが、彼女たちが知るはずもない。

「あ、あいつー、こいし様の手をとってるわよ! これは噂に聞くタラシってやつね!」
「こ、こいし様~もしかして人間に……」
「ちょっと待っておくう! さすがにそれはないわ! だってあのこいし様だよ、人間に興味を持っても、特別な感情を持つはずがないわっ!」
「う、うにゅ……そうだけど、何か危ない気がする」

 何かしらの関係ができていたのではないかと危惧し、自分から否定する燐と、二人の様子を伺いながら可笑しな方向に思考が広がっていく空。燐もそれに釣られて、改めてこいしと縁を見る。
 相変わらず苦笑とも柔らかともとれる中途半端な笑みを浮かべているだけの縁だが、ある思考に取り付かれようとしている彼女たちには縁の内面がこう語っているように思えた。

『くっくっくっ……こいつはいい幼女だ……こいつは俺のものだ、俺だけのものだ!』

「……おくう、こいし様が危なくなったらすぐ出るわよ」
「わかってるよお燐。後は現行犯でとっ捕まえるだけだね」
「そういうこと。あ、玄関に行った、追うわ……ってもう出てた!?」
「お燐、早く!」
「勝手に前に出ないでよおくう!」

 おっぱいハンターの疑惑をそのままに残している彼女たちの脳内では、縁は性的な意味での危険人物であった。
 そしてそれ故に、こいしがいつどこぞのハッテン場に連れ込まれぬよう見張るため、彼らの後を追って外へと出るのであった。
 無論、縁にはロリコンの気はない。はずである。
 


 隣を通り過ぎた人型は、頭から昆虫の羽根を生やしていた。いい加減そういうものに慣れてきていた縁ではあったが、そんな人間にあるまじき器官を持つ人外がたむろする街中を行くのは、驚きと感心の連続であった。地霊殿には人型の妖怪は少なかったから、真逆、こういった人型だらけの状況になるとまた別の印象を持つ。それは街並みを見るのも同じであった。時代小説か時代劇から切り取ってきたような、残り少なくなった柳の葉が垂れる、中世の日本を思わす家々の造りと街路。
 昼の存在しえないはずの光に照らされて、縁とこいしが並んで歩く、出店が立ち並ぶ道は妖怪たちの陽気さで一杯であった。ある意味、彼ら自身が日の光の代わりをしているのかもしれない。

「妖怪ってこんなにいるんだなぁ……」
「ふん、ほうはほっ!」
「……とりあえず食べ終わってから喋ってくれ」

 少し前を歩くこいしの口の中には行く先々の出店で買った食べ物が詰まっていた。彼女はリスのように頬一杯になるまで詰め込んだお昼ご飯を、口の中でむぐむぐと噛んで小さくしていき、最後には「んっ!」の一声と共に喉へと押し込んだ。その様子がおかしてく、ついつい頬を緩めてしまう。

「? どうしたの?」
「い、いや何でもない! それよりさ、ここら辺で何かこの地底に詳しいやつって知ってるか?」
「ん~わたしはあんまり他の妖怪とは話さないから、知らないよ」
「そ、そっか……」

 こいしに当たり障りない返事をしながらも、心中では落胆していた。しかしある意味予想できていたこと、元々「知っていれば儲けもの」というレベルであったので、気落ちするというほどではなかった。他の妖怪と話すこいしの姿は、なぜか頭の中にはあまり浮かばなかったからだ。むしろ今は、こいしと一緒に歩きながら、街の地理を知っておくべきだろうと自分を納得させ、辺りを見回す。
 その時、こちらを見ていた妖怪の一匹と目があった。すぐに目を逸らし、早足でそそくさと人波に紛れてしまった馬の頭の妖怪が、妙に気になってしまい、同じような相手がいないか目線を走らせる。すると、馬頭の妖怪ではなく、縁たち二人をちらちらとみている妖怪たちが目に入った。
 感じ悪いな、と思う反面、嫌な予感が心中からわき出るのを感じて彼らに声をかけようとした時、ひょこりとこいしが顔を覗き込んできた。
 
「どうしたの縁ちゃん?」
「ん、あ、いやさ……なんでもない」
「ふーん、もしかして「なんでもない」が口癖なの?」
「違うっつーの」

 軽口を返しながら、先ほどの妖怪たちの姿を探したが、もう妖怪の波に妨げられて見えなくなってしまった。
 そんな縁を見ながらも、何にも気づいていないのか、はたまたフリをしているのか、我関せずという態度でマイペースに次の団子屋へと足を伸ばすこいし。

「お団子五本ちょうだい!」
「いらっしゃい嬢ちゃん、五本でいいんじゃな?」
「うん!」

 店主から団子を受け取るこいしに目を向けながら、やはり気がつけば先ほどの連中が気になってしまい、目を泳がせて姿を探してしまう。その縁の様子が気になったのか、こいしにおまけの六本目を団子をあげた店主が怪訝な顔を浮かべた。

「ん、どうしたんじゃ兄ちゃん? ここらじゃ見ない顔だけど、そんなにここが珍しいか?」
「あ、いや……まあな、何分初めて見る様なものばっかだからな」
「なんだ、まるで地上からでも来たみたいな言い方……いやぁまて?」

 そこで初めて、店主は異様に長い耳たぶを引っ張りながら縁を注視する。その虫眼鏡を見る科学者のような眼力に思わず仰け反ってしまい、何か大事でもあるのかと疑ってしまう。

「な、なんだよ」
「兄ちゃん……まさか妖怪じゃないのかい?」
「あ、ああ……そうだけど」
「ふむ、ならこれは……もしかしてあんた、人間かい?」
「あ、ああ」

 素直に答えてから、心中で自分に対し舌打ちを打った。さとりの口ぶりから、そしてここ数日の経験から、ここでは人間が圧倒的に不利であるという状況だということを伺い知っているのだから、態々そのようなことを言って自分からその状況に入ろうとしてはいけないのだ。
 高速回転する縁の思考を余所に、店主は本人の気も知らず頭のてっ辺からつま先までを流しみると、次には出店から出てきて縁の体、ではなく学生服を物珍しそうに触り始めた。こいしもそれに倣う様にぺたぺたと触ってくる。

「い、いきなり何すんだっ!」
「いやなに、外の人間ってのはおかしなものを着ていると思ってな、こうついつい……」
「俺からすりゃあんたらの服だって大分変……ってなんで俺が元の、いや外の人間って知ってるんだっ」
「そういえばわたし縁ちゃんにペタペタ触ったことなかった気がして……」
「いやこいしはいいんだよ、というか理由がわけわからんからじっと触っててくれ」

 一瞬こいしの介入で混乱した縁の喚き声に、店主はにやりと口元を歪めた。これまた異様に長い後頭部と相まって、今まで見た中でもっとも物語の中に出てくるような『妖怪』染みていると縁は感じ、しかし同時に近所に住む老人のような親しみがこもっているいるとも感じられた。口調がそう思わせているのかもしれない。

「なに、最近どこからか現れた人間が地霊殿に住んでるってウワサがあっての。そいつがどんな奴なのか気になるのが妖怪ってやつなのじゃ。ここには人間は住んでないしのう」
「野次馬根性って言わないか、それ?」
「そりゃ勝手に人間が好奇心という言葉を区分しただけじゃ。妖怪にとっては野次馬根性だろうと好奇心は好奇心じゃ」
「……ここの奴らはいちいち難しい言い回しをするのが趣味なのか?」
「難しいと思うのはお前が若いからじゃよ」

 むう、と黙る縁から手を放し、店主はにかりと笑った。だがすぐに表情を平常のそれへと戻し、縁から視線を外しちらりと横を見た。縁もそれに釣られて視線を追い、こいしは残った団子を貪りはじめた。
 視界に映るのはこちらを覗き見る妖怪たち。その数は先ほどよりも増えているような気がしてならなかった。

「ふむ、やはりどいつも気になってしょうがないようじゃな」
「……話すなら話すで早くきてくれればいいのにさ」
「そりゃ無理じゃろう。何故ならその子が、古明地だからの」
「? なんだそりゃ、そりゃ同じ妖怪かもしれないけど、話しかけるぐらいはするだろ」

 縁としてはむしろそうでないと困った。こいしについてきてもらったのはあくまで食べられない/襲われないためであり、他の妖怪を遠ざける気は一切ない。積極的に話をして、この街の、地底の情報を得ようと思っていたのだ。だが先ほどから話しかけられることはなく、こちらから話しかけようにもこいしのマイペースな行動もあって、地霊殿を出てからこうやって他の妖怪と話すのはこれが初めてだった。
 だからこそ、店主の言葉に率直な疑問を返した。話しかけられない理由が、こいしにあるかもしれないということに。当の本人は能力をフルに使って、出店の裏に回り勝手に団子の予備を食べていた。

「ありゃま、兄ちゃんは地霊殿に住んでるのに知らないのかい? 妖怪『覚』は勝手に心を読むってことを」
「ああ、そのことか。それならもう慣れたから気にしてないし、平気だよ」
「……なんじゃと?」
「だから、慣れたって。むしろあんた達だってそういうこと知っているんだから、俺よりよっぽど慣れてたりするんじゃないか?」

 人間とは違ってさとり達と同じ妖怪だし。それを付け加えて苦笑いをしようとした時、隣の妖怪が信じられないものでも見たかのように縁を凝視しているのに気づいた。なぜそんな顔をしているのか、縁には最初、見当がつかなかった。

「……お前さん、本当に人間かの? 普通、ワシらより人間の方がよっぽど心が弱いから、心を知られることを毛嫌いするはずなのじゃが」
「……あのなぁ、そこまで気にすることじゃないと思うけどな。そりゃ確かに最初聞いた時驚いたし、怖いって思ったさ。けどさ、ここ数日ずっと話したりしてるとさ、逆に会話がスムーズに進みやすくって楽なのに気づいたんだよ」
「そりゃ本当かの?」
「……い、いちおー」

 本当は、さとりが普通の女の子にしか思えなくて別に気にならなくなった。などとは言える状況ではないと感じ、あとから思った感想を言葉にして提出する形をとることにした。縁はちらりとこいしを見た。口元に餡子がついたまま次の団子を食べている。どうやら、この話は聞こえていなかったようだ。
 そう思ってほっとしかけた時、やっと縁は、こいしのやっていることに気づいた。

「っておいぃこいし! 何勝手に人の店の品物食ってるんだよ!?」
「あ、縁ちゃんも食べる?」
「ちっがーむがっ!?」

 問答無用で口に大福を詰め込まれ、言葉を封じられた。

「もう、縁ちゃんにはフリーダムが足りないんだよ。後、わたし団子以外が欲しいから先に行くねっ」
「もが……いやそれじゃ一緒にきた……ってもういねぇし!?」

 口の中のものをもごもごと処理している隙にいなくなってしまった同行者に、縁は自分の目を疑った。一体どこだと目を巡らすが、見つけた時には既に距離は離れ、すぐに他の妖怪の陰に隠れ、見えなくなってしまった。
 フリーダムが足りないけど、フリーダムすぎるのはどうなのかと溜息を吐く縁の横で、店主が顎を擦りながら先ほどまでこいしが居た屋台の裏を見ていた。

「……今のがあの子の能力かの。いや、聞いてたのとは随分違うから驚いたわい。全然気づかなかったわ」
「ん、能力?」

 ぽつりと店主の口から出た言葉に、オウム返しをする縁。こいしの能力がさとりと同じだと思っていた故に、その発言からこいしの能力が別物であるという可能性が出たことで、急な情報の処理に思考が一時ストップしてしまったからだ。
 縁の阿呆のような顔に店主は呆れた顔になって、しかし律儀に何も知らない人間に話を続けた。

「何じゃ、教えられてなかったのか? 聞いた話じゃ、古明地の妹の方は心を読めなくなった代わりに、無意識を操る術を手に入れたとな」
「無意識? それってあれか、考えてるのとは別のこと、何も考えてないってことか?」
「そりゃちょっと違うぜ、人間」

 真横からの突然割って入ってきた声に、そちらを向く。縁よりも年上か、はたまた同年代か、そんな空気を纏う虎柄の上着を羽織った青年が、過去に何度も縁の前に現れた嫌みたらしいものを含んだ笑みを浮かべて、歩み寄ってきていた。身長は同年代の平均よりも若干高い縁よりも一回り大きい。上着から覘く下着には『十一』という数字の書かれた札が貼ってあった。

「無意識ってのは、本質であり同時に虚構そのものさ。そして意識そのものが虚構であるのだから、それを観測するはずの無意識を操るってのはエゲツのない、同じ妖怪から見ても気味の悪い奴なんだよ」
「……そうかい。で、いきなりわけわかんねぇ言葉で入ってきたアンタは? 一応、人の恩人に対して喧嘩売ってるってのはわかるぜ?」
「林皇十一(りんおう といち)、人間相手にわかりやすく言ってしまえば、ただの妖怪さ」

 十一と名乗った妖怪は縁の最後の売り言葉を無視して二人の横を通ると、店から一つ団子を勝手に取ると口の中へと放った。その動きには華があり、どことなく映画に出てくる遊び人の空気を感じさせた。
 しかし縁を見るとき、いやその後ろのものへと向ける時にだけその空気は霧散し、悪意の籠る挑発的な笑みを向けてくる。

「李平のおっさん、こんな奴がいたなら真っ先にオレに教えてくれたってよかったじゃねぇか。後、この団子はつけといてくれ」
「ふん、ワシだって今さっき会ったばっかじゃい。後いい加減ツケの代金を払え」
「相変わらずツレねぇなぁ……ま、できればそこの人間様は、ここのおっさんや、地霊殿の偉そうで薄汚ねぇ奴らとは違って少しは心が広いと嬉しいんだけどな」
「……てめぇほど心を広くはもてそうにねぇから、期待はもってくれるなよ?」
「おお、怖い怖い」

 肩を竦める十一のふざけた言動に、縁の心中は煮えかえるのと、それを抑えつけようとする二つの感情が同時に沸いていた。
 煮えかえるのは、自分が接してきた恩人であり居候先の住人たちに対して隠す気のない悪意を好き勝手言われていることに対する怒り。抑えつけるのは、ここで暴れて地霊殿の住人たち、そして一緒にきているこいしに何か迷惑がかかるかもしれない懸念と、過去にあった妖怪と同程度以上かわからないこの男の強さを計るという臆病とも慎重ともとれる理性。
 比率としては抑える側の方が強い。しかしそれでも、縁の目の前の妖怪に対する感情は態度と口調に出てしまっていた。

「まあいいか。それで聞くけど、お前の名前は? あと何で態々こんな地底くんだりまで来たんだい?」
「中邦縁だよ、それに好きで来たわけじゃねぇ」
「へぇ……そりゃどういうことだ?」
「てめぇに言う義理があるか?」
「へっ、言うじゃねぇか。まぁまだ安い挑発だ、お互いにな」

 人をおちょくる態度を隠さず、虎に似た妖怪はあざ笑う。縁の左の拳が無意識に握りしめられていた。これ以上何か言われたら、後先考えずに行動をしてしまいそうだった。

「おっさん、悪ぃ。俺もメシ、ツケといてくれ」
「む、なんじゃ。人間が、しかも初めて使う店でツケにするというのか?」
「こいし……連れをつれてきたら直ぐに払ってもらうからよ。それじゃ……」

 店主にはそれだけいって、こいしの姿を探すべく足を踏み出す。店主は縁を一瞥した後、ちらりと十一の方を見て、そして溜息をついた。十一の顔と、彼の口臭と体臭に混じるある匂い、そして周囲にいるものたちに気づいたからだ。そして心中で縁に対しご愁傷様、と言葉だけを送った。
 当の本人はそれを知るよしもなく、二人に対し背を向ける。

「何だお前、あの屋敷のヒモなのか?」

 足速く立ち去ろうとする縁の背中に声がかかる。人のことをただの動物程度にしか思わないような、軽い口調。

「……なんだ、悪いか?」

 挑発的な笑みを作れるぐらいには、我慢できた。これならまだ、自分自身のことだから。

「ああ、ならさっさとあそこを出ることをお勧めするぜ。聞いてた感じ、連れってのは地霊殿の、しかもブッ壊れてる方のだろ? どうせお前のこと何か忘れてどっかいっちまってるさ」
「……誰が、ブッ壊れてる、だって?」
「そりゃお前、てめぇの連れ、古明地こいしさ。無意識ってのは虚構だからな。意識っていう主導権がなけりゃ、そいつはただのカラクリ人形や畜生とおんなじぐらいのことしか考えられねぇってこった」

 ケラケラ、ケラケラ。明らかに挑発とわかる笑い声。いや、嗤い。耳をすませば、周囲からも同じような、心がザラつくような声が聞こえてくる。ケラケラ、ケラケラと。今度は右手が拳を作り軋んでいた。
 横眼で見れば、十一のほくそ笑む顔。最高に苛立った。例え挑発とわかっていても、恩人の一人をいわれなき言葉で中傷されるのを黙って聞いていれるほど、縁はまだ大人ではなかった。歯がガチガチとぶつかって鳴る。そのままに、冷たい熱気が籠った声を発する。

「……誰が、犬畜生だって?」
「なんだ、聞こえなかったか? テメェの、連れの、古明地こいしっていう、薄気味悪いガキさ」

 限界は、それで越えた。

「……訂正しな」
「んんっ? 今なんていった?」
「訂正しなって言ってんだよ、このクソ妖怪!!」

 声と同調する怒りによって熱せられた思考はすぐに体へと命令を下す。身体を反転させ、振り向きざまに左を構える。同時に踏み出し、離れていた相手との距離を縮める。狙いは鳩尾、人型であるならば弱点は変わらないはず。単純な考え、しかしそれで十分だった。
 だが。

「ほうらよ!」
「っあ」

 挑発をした相手が、縁の動きを読んで、先に蹴りを叩き込んできたのであれば、縁の狙いなど毛頭かなう筈がなかった。腹を蹴り抜いた力そのままに妖怪の雑踏の中へと吹き飛ぶ縁。一瞬にして白濁と化した思考とは別に、体に染み込まれた感覚が、体に受け身を取らせる。
 妖怪たちは突然吹き飛んできた縁を見て驚いたが、ゆらりと立ち上がる縁と、彼が睨みつける十一の存在に気づくと、直ぐに状況を把握し彼らを囲うよう我知らず円の形をとった。
 そしてそれぞれが好き勝手に。

「おお、喧嘩だ喧嘩! 久々じゃねぇか!」
「一人は林皇のとこの若いのと……もう一人は?」
「誰だっていーじゃねぇか。それよりどっちが勝つと思う?」
「よーしやれやれぇ!」

 などと、縁当人の気も知らず、野次馬たちはすぐさま逃走を阻む壁と化してまくし立てた。先ほどまで街を包んでいた活気が、ここを中心に一気に集まってきたような熱気に、縁の肌がちりちりと粟立つ。ふざけるな、縁は叫びたかった。
 ふざけるな。誰がお前らの見世物になんかなるか。俺はただ、目の前のムカツク野郎をブン殴るだけだ。
 子供のものに似た身勝手な、そして人間でありうる決意だけを拳に込め、構えを取る。何かと右腕のせいで上級生や不良に絡まれた結果、いつの間にか教えられていたものとは変わってしまった、縁の戦闘スタイル。両腕と体を直線になるよう斜めに構え、右腕を下げ、左腕をあげる。こうやって今までは、一人一人を確実に潰す戦い方をしてきた。
 その全てを、実力も未知数の相手にぶつける。蹴られた力から計るなら、今までの中でも最大レベル。伊達に妖怪ではないと、縁は痛みとして相手の力量が上であることを理解した。

「ほら、どうした? せっかく周りもあったまってきたんだ、さっさと来たらどうだ?」

 対面する喧嘩の相手が、明らかに縁を舐め切って両手を広げる。その舞台俳優のような所作に周囲の円の壁から歓声が上がり、次いで縁に対し「早く行け!」と無責任な言葉を投げつけてくる。
 周りの妖怪は十一の味方だった。対して縁には仲間はない。こいしやさとり、そして地霊殿の住人たちは恩人や同じ家に住まわせてもらっている同士や知人であるが、しかし縁のことを理解する友や仲間ではない。故にこの瞬間、縁は自分が孤独であることを認識した。
 それを、孤独と知った感覚をも怒りと、力に変えて、叫ぶ。
 
「そこまでいうなら……後悔するなよ!!」

 地面を蹴り、真直ぐに眼前の敵へと立ち向かった。勢いそのままに繰り出した左の拳を軽々と受け止められ、その止まった瞬間に反対、右の足で蹴りを叩き込む。これも止められ、逆に縁の体が左腕を起点に捻られ、あろうことか宙で回転し、顔面から地面へと叩きつけられた。
 
「どうした、訂正するんじゃなかったか? それに何を訂正するんだよ、ええ!?」

 倒れ伏す縁の上から、十一の足が落ちてくる。真横へ転がって避け、右腕をバネとして跳ね起きる。唇を切ったのか、口中に血に特有の鉄の味が広がっている。せっかくの学生服も今のでかなり汚れてしまった。それでも、脚と手と叫びは止まらない。

「あいつを! あいつらを! 薄汚ねぇって言ったことだ!!」

 そして再び、突貫する。何度でも、勝機を見つけ出すまで。




 その女傑は今日も日がな一日、気のおけない仲間と共に酒を呑んで宴会をし、そして寝ようと考えていた。寝転がったまま杯を傾け、血と同じ程重要な酒を身体へと補給しようとしたところ、外を見ていた誰かがそれに気づいた。

「お、こりゃ珍しい。拳の喧嘩だぜ」
「あん、拳ぃ? 弾幕じゃないのかい?」

 女傑は怪訝なものを隠さず友へと問い返した。
 幻想郷の喧嘩と言えば、今現在は弾幕という各々が持つエネルギーを様々な形の弾へと変換したものを撃ちあい相手と美しさと根性を競い合う『スペルカードルール』というのがもっぱらであるが、昔ながらの体と体をぶつけ合う肉弾戦の喧嘩は『スペルカードルール』、又の名を『弾幕ごっこ』のせいで見る機会は激減していた。無論、『スペルカードルール』に肉弾戦がないわけではないが、それは近接格闘戦、相手へ弾幕を確実に決めるためのフェイントや布石であることが殆どであり、それが決め手となることは滅多になかった。
 とにかく、身体をぶつけ合う喧嘩は最近では地底でも珍しいものであり、一角の女傑は飲み仲間の視線の先を興味のままに追って、人間にはありえない視力を持って、その喧嘩を見つけた。二人の男が交錯、いや一人がもう一人に殴られ蹴られ投げ飛ばされるたびに、周囲のギャラリーから歓声が上がっていた。
 一人は昔からの友人の息子だった。何かと問題を起こすと言われる困った奴で、しかも思いこみが激しい上に短気で喧嘩っ早いという若々しさに溢れた面を持つ、女傑としては一部を除き好ましいと思える性質を持っている妖怪だ。だがどうにも遠目から見ている限り、いつもの雰囲気とは違う。まるで弱者を弄っているように見え、思わず顔を顰めた。
 もう一人は顔も知らない、傷と汚れだらけの少年であった。いや、少年と青年と中間というべきだろう。どうやら周囲の反応から見るに、彼こそがあの野次馬たちの目当てであるらしい。何度も若虎の妖怪に投げられ、殴られ、地べたに叩きつけられ、それでも諦めるということを知らず立ち上がっている。
 ふいにその顔が見え、瞳の色が覗いた。女傑の背筋が粟立った。それは久しく見なかった意志を灯した、ある種族の特定のものしか持たぬ目であったからだ。

「見ない顔だねぇ。もしかしてアレがウワサの……おや、出かけるのか?」
「ああ、あんな目を見ちゃ、どうにも落ち着いてられなくてね」
「鬼の悪い癖だな」
「ふふ、違いないよ」

 それだけ言い残して、女傑は窓から飛び立ち、一直線に喧嘩の舞台へと、その特等席を取りにでかけた。勿論、見物の肴となる酒も忘れない。煮えたぎる人間の曇りない怒りに応じて、酒もまた美味くなるのだ。
 
 それと時を同じくして、伝播する下町の華の熱に気づいたものが数人。
 その内二人は、いつもの通り街中をぶらつき、行きつけの店に何か新しいものが入ってきたかを確認するために、華が咲く場所とはそう離れていない裏道を歩いていた。正確には、歩いている一人に、もう一人が自分の居座るもの、風呂場などで使われるものより一回りは大きな桶を持ってもらっているという形だった。
 その桶にすっぽり入り込んでいるファンタジー小説における小人のような体躯の少女は、頭上を通り過ぎる無数の影と、表通りから急に聞こえてきた妖怪たちの歓声に気づいた。桶を頭の後ろに組んだ手で持つ小麦色の髪の少女もまたそれに気づいた。
 そして、特に重要な用事がないことと、妖怪たちを炊きつけるものが何なのかに興味が鎌首をもたげ、他の妖怪たちと同様、空を飛んでその場へと向かった。

 更に一人の少女は、常に顔に貼り付けている物憂げな、はたまた気だるげな、とも取れる表情をそのままに、久方ぶりに街へと降りようとしていた。いつもは『地獄の深道』の番人をしていて退屈であるが、たまにはサボるかと思い立って降りてきた次第である。
 そして街の上空から気づく、可笑しなところ。ある場所に妖怪たちが集まって、何かを観戦しているのだった。これは一体どういうことだ、と思いながらそちらに近づいていく。その時、すぐ横を通り過ぎた妖怪たちの顔、そして何かを見ている妖怪たちがみな、何かに浮かされたように活気だっていた。
 それを見ていて、ついつい彼女は、いつもの顔を常よりもより険しく、しかし諦観の色と合わせて、言葉を吐き出すのだった。

「妬ましいわね……」


 それらとはまったく無関係だと言いたげに、沈黙を保つ家があった。路地裏にある大きな、しかしどこかちぐはぐで歪なものを感じさせる家。そこに住む一人の少女は、珍しく家まで響いてきた怒声と歓声に辟易し、自らの能力でそれらの外部音声というものが入り込んでくるのを根こそぎ“禁止”した。
 
「はぁ、まったく嫌になる……これだから他のやつっていうのは嫌いだ」

 そして赤い服と髪をした少女は、自分の力を制御する帽子/皿を深く被りなおすと、改めて途中で休憩していた作業へと戻るのだった。


 霊烏路空は今、自分がどのように行動をとればいいかわからず、混乱していた。
 街へと出かけた二人を追ってバレないようにお燐と一緒に見張っていたのはいい。その折に、それぞれの格好はもし見つかった時にもすぐにバレないよう変装し、空の方がリボンの結え方を変えポニーテールにし、燐は二つのお下げを一つの三つあみに結い直し眼鏡をかけている、という簡単な変装をした。それが楽しかったのもいい。妖怪としての外観はさほど変わっていないので、意味がほとんどなかったのには無自覚だったが。
 途中までは、人間がこいしに振り回され、自分の目的を達せられずただ引っ張り回されているという形だったので、二人としてはそれを見ているのは、人間の反応が面白く笑いの種になってくれたので楽しかった。そしてある一つの出店で二人が留まり、こいしの方が一人離れてしまってから、どっちがこいしを追いかけるか、どっちが人間を見張るかで少しもめ、空が、燐が隠していた大福を勝手に食べたことを自らの自爆で晒し、結果空が残ることとなった。
 意気消沈しながら、お燐が行った後は気を取り直して見張りをすべく物陰から顔を出すと、知りあいの、それも嫌いな部類に入る相手が現れたことを見て、顔を顰めた。
 そいつは何かと彼女たちの主を、そして住む場所をからかう嫌な奴だったからだ。空も人間ほどではないが、自分の生きる場所を種に嘲笑われ、身勝手な悪意をぶつけられるのは嫌いだった。理由とてバカとよく言われる空も見当がつくが、だからこそ余計に嫌いだった。
 そして始まった、いつもよりも露骨な、家族の住む場所を、そして空の家族そのものをおちょくるような講談。常ならばもう少し包んだ、はたまた機嫌が良ければただの世間話でもする相手なのに、今日に限って最悪に不機嫌なようだ。剣呑になっていく彼らの雰囲気に、そして最後に行ったこいしへの蔑みの言葉に、空は小さな堪忍袋の緒が切れて飛び出しそうになった瞬間、そして叫びが聞こえた。
 
「訂正しなって言ってんだよ、このクソ妖怪!!」

 叫んだのは、数日前に突然空たちの前に現れた、あの人間だった。彼の顔には、きっと空のものと同じか、はたまた違う怒りの感情が浮き上がっており、あの嫌いな奴相手に猪突をかけていた。人間と妖怪の力の差のことを、彼が理解しているか、知っているかなど、空にはわからなかった。だからこそ、今度は彼を助けるべく、飛びだそうとした。
 どうして助けようとするか、怪しんでいた相手を。空にとって理由は単純明快、自分の主たちのために彼が怒ってくれたからだ。それ以外に理由はない。他にあるとすれば、丸腰の人間では妖怪に勝てる道理はないと妖怪の常識として知っているからだ。
 スペルカードを懐から出す。後は宣言を行うのみ。そこまで来て、空は地面に転がる縁を見て、そして叫ぼうとして、彼の目を見た。喉まででかかっていた言葉が、ふいに霧散した。空の行動の全てが、その眼を見た瞬間に止まっていた。
 その目の色を空は見たことがなかった。地獄鴉の空にとって、人間の目とは死んだ人間か亡霊となった人間のものであり、生きた人間の目とは稀少で会った。そしてその表情も。地獄に落ち、うず高く積ったあの死体たちの墜落し埋没した目とは違う。ただ真直ぐに前を向き、上を見上げ、そこへ挑む者の目。空はそういう目を見たのは初めてだった。
 だから、どうすればいいかわからなくなって、身動きがとれなくなっていた。あれが空の知る普通の人間なら、怒ってくれたことに対する感謝の気持ちとして助けはするが、それだけだった。特に注意をする必要もないと感じただろう。よくても、良い奴かな、と思うぐらい。だが、こんな目をした相手は、助けたほうがいいのかわからなかった。もしかしたら、何とか出来てしまうかもしれない。そんなあり得ないことが、単純な空の頭の中にふわりと浮かんでしまったのだ。
 だから、投げ飛ばされゴミ置場へと突っ込んだ縁を見た時、それが錯覚であることを意識しようとした。
 ああ、やっぱりだめだ。人間って弱いんだから、妖怪の私が助けてあげないと。
 そうして妖怪たちの作った等身大の柵を抜け、彼を助け起こそうとした。後はもう私がやる、だから人間はそこまでだ。
 その空の目の前で、身体に落ちてきたゴミの数々を払い落しながら、人間はまた立ち上がった。
 額と鼻から血が出ていた。頬は叩かれたせいで赤く腫れていた。服もまた、涎と血と土がぐちゃぐちゃに合わさって混沌とした色合いとなっていた。そして息は荒く、もうあまり力がないのか、猫背になっていた。それでも尚、人間は前を見て、構えた。
 それを見た瞬間、空の呟いていた。

「がんばれ……」

 自分の口から発せられた声を聞いて、空はどうして自分がそんなことを言ったのかわからなかった。だけど、それを伝えたい。その気持ちが彼女の内から湧きあがり、腹の奥から飛び出しそうになった。いや、飛びだした。

「がんばれ、縁ぃ!!」

 その叫びは、周囲の怒号のような喧騒にかき消され、彼に届いたかわからなかった。それでも構わない、と空は思いながら、初めて名前を呼んだ相手を見守ることにした。彼女の思いこみが、現実になると無意識に信じて。




 誰かが自分の名前を読んだ気がした。それでもその誰かに振り返ることはせず、縁は目の前の敵を睨む。十一は見るからに再び立ち上がった縁を見て、余裕を称えるそれを不機嫌なものへと変えた。それが何故かはわからない。今重要なのは、勝機をもぎ取ること。
 また前へと出る。相手が来ないのならひたすら攻めるのみ。愚の骨頂。だが攻め手は変える。そう思っていた瞬間、縁はいつの間にか横殴りに吹き飛ばされ、地面へと転がっていた。顔を十一に向ければ、右足が宙にあった。蹴られたのだ、と縁は理解すると、反応できなかった、と驚愕した。
 だが体は、もはや本人の意思とはまったく別のものであるように動き、縁に思考すらもそれに追従するように働く。立ち上がりながら思考するのは、相手が今までと違い、本気を出してきたこと。もしかしたらまだ全力ではないのかもしれない。だが、細まった十一の目から感じる気迫が、勝機は更に少なくなったを縁に伝えていた。

「……ムカつくなぁ」

 不機嫌な色を隠さずに十一が喋るのを、何度目かわからない構えをとる縁は黙って聞いていた。

「てめぇ、なめてるのか? このオレ様が気づかないと思ってるのか……何で右腕を攻撃に使わねえ」

 叫びと同時に、十一が突っ込んでくる。相手からの初めての攻め。速い、肉食獣の如き動き。いやそのもの。縁の目はそれに最初だけ反応する、だが体は間に合わない。
 防御をとる暇もなくタックルを食らう。衝撃が貫通し、身体の内側、胸部付近から何かに罅が走る音がした。コンクリートが地震によって亀裂が入る音に似たそれは、そのまま倒れ込んだ縁に、体の内側から痛みを奔らせた。呼吸ができない、だがまだ動ける。呼吸を試みながら、ふらふらと立ちあがる。視界が白濁としていき、周囲の音も段々と聞こえなくなってきた。ここまで痛めつけられるのは久し振りだった。
 左手で胸に触れる。アバラが数本、イカレていた。もう何度も動けない。
 前を向く。妖怪がいた。倒す相手、喧嘩の相手。そして恩人を言葉で傷つけようとした相手。

「答えろ!!」

 十一が激昂をそのまま体現したような顔で聞いてきて、縁はやっと、何を問われたのかを思い出した。そしてそれに応えるぐらいなら、まだできた。

「……使ったら、ダメなんだよ」
「あ?」
「……そういう、約束なんだよ。こいつは、ただの人間が持つには……危険で、例えどんな相手……だろうと必要以上に傷つけちまう、可能性がある……だから喧嘩では使うな……そう言われたんだよ……」

 約束をしたのは誰だか、今は思い出せなかった。それでもこの右腕を、鋼鉄の義手をただの喧嘩に使うのは危険だというのを縁も知っていた。それを守らなかったことで、縁は相手に必要以上の怪我をさせてしまったこともあったからだ。
 だから、使わない。使うとしても刃物避けか、体のバランスを保つ、体勢を直す時だけ。
 十一は黙ってきいていた。しかしそれは怒りを一旦閉じ込め、内でより活性化させ、より凶暴化させて立ち上らせるための一時の蓋でしかなかった。

「………くだらねぇ」
「なに?」
「くだらねぇっていってんだよ! その約束をしたのは人間で、そいつの言っている相手ってのも人間だろうが! だけどオレ達は妖怪だ、ヤワじゃねえ。そんなものを持った相手と戦うほうが丁度いいんだよ!」

 十一が構える。初めての構え、右腕を後ろに、左腕を突き出し、一目で次の一撃が突きだとわかる。だが先ほどの速さを考えると、縁にそれを止めることも、そして避けることもできない。
 唐突に、十一の右腕の爪先が光を帯びる。それを見た途端に、縁の全身に、かつての、幼い頃に遭遇した妖怪と相対した時の感覚がよみがえる。DNA螺旋に刻まれた本能が身体に警告を鳴らし、逆に過剰となった警戒作用のせいで情報負荷がかかり過ぎ、体がまったく動けなくなる。
 絶対的・根源的恐怖からくる悪寒。
 縁の右腕は震えない。火照る身体とは別に、冷たいままだ。

「オレの『鋭さを変える程度の能力』は、例えどんなものだろうと切り裂く。テメェも例外じゃねぇ、死にたくなかった、その右腕を、テメェの全てを、人間の人間らしくないところを見せてみせろ!」

 発破をかけるような言葉がエネルギーとなって縁の身体を貫き、恐怖の思考が麻痺する。それは逃避にも似た作用であり、それ故に縁の思考は急速にクリアとなっていく。それは身体へも広がっていき、痛みが動けるほどには収え、縁の姿勢を十一の構えに対して最適化していく。
 構えを変える。呼吸は徐々に安定、体は後一撃のみ放てる。右腕と左腕の前後を交換、しかし距離は近く、脚も広げない。空手の構えに似た状態。準備はそれで整った。

「……二つ、言っておく」
「なんだ、遺言か?」
「……一つは、右腕を使う踏ん切りがついたことへのちょっとした感謝だ。ありがと、そして後悔するなよ」
「気味の悪い人間だな……まぁ、どういたしましてだ」
「二つ目は……俺は人間だ。例え右腕が機械だろうと、人間らしくない部分も含めて、俺は俺っていう人間だ……それを思い知らせてやる」
「はっ、減らず口を……」
「最後に……さっさとかかってこいこのドラ猫野郎。ぶっ倒してやるからよ」

 その言葉を最後に、縁は黙った。十一は呆気にとられたように目をぱちくりとさせると、やがて元の獰猛な笑みへと変わり、喜悦に顔を歪ませ、瞳は縁のみを捉えた。縁もまた、十一の姿のみに集中する。彼らのそれに当てられたのか、周囲の妖怪たちもまた鳴りを潜め、二人の動き出すその瞬間を固唾を呑んで見守る。
 縁の意識はハッキリとしていた。視界には、相手の顔。構え。手。覇気。その間には何もない。音すら、空気すら。
 だが、自分には何かがいた。右腕に何かがいた。目を向けず、意識の欠片だけをそちらに向ける。何かが繋がった、いや繋がっていた物が、より明確に見えたというべきか。奇妙な感覚が縁を襲う。右腕を中心に、周囲を満たす何かが、カラッポであり満ちる何かが変わろうとしていくというパラドックス。それを当然のことだと、今の縁は認識した。
 カラッポで満ちた世界は自分と繋がり、右腕は自分の脳と繋がり、脳は相手と繋がり、その挟間と繋がる。全てが繋がる。一直線ではない、クモの巣のように整ったものでもない。糸の、繋がりのネットワークが、縁と右腕に繋がっていた。
 その糸の一つが、ピンを立てた。
 十一が動いた。人間の知覚ではほとんど反応することのできない初速。右腕は、空気を切り裂く、雷光の如く。
 縁が動いた。十一よりも遙かに遅い動きで、左腕を少し下げ、斜めに押し上げる。右腕はただ前へと突き出す。できるだけ早く、丸めた自分の体の全てを込めるように。

 一秒。

 その間に全てが決した。
 十一の右腕の一撃は、縁の左腕に外へと逸らされる形となって、縁の左腕を僅かに切り裂くに留まり、対して縁の右腕は十一の鳩尾を打ち抜いていた。堅固なものとはそれだけで凶器であり、また相対的な加速運動エネルギーによって威力を高められたそれは人間相手であれば肉の体さえ貫くものであり、妖怪にさえ通用するものだった。
 十一が呻き声すら出さず、崩れ落ちた。
 縁は、彼の体も支えることもできず、そのままの体勢で固まっていた。
 その後の数秒間、沈黙が続いていた。だがその直後に、地底中が震える様な大歓声が響き渡った。
 人間が、妖怪に拳のぶつけ合いで勝った。それは妖怪たちにとって本来は脅威すべきことである。だがここは幻想郷の、しかも地上の〝真〟妖怪とは違って、意味嫌われたりそりが合わなくなって地底に住みついた変わりモノ達。彼らにとって、このような起こり得ないことこそ、面白いことそのものだった。
 気の良くした妖怪の一人が勝利者へと駆け寄ろうとした。だがそれよりも速く飛び出す影が一つ。
 縁が、無意識のままに振り返った。その瞬間、その影は縁へと飛び付いた。

「縁っ!」

 空の激情のままの飛びつきに、縁は一切反応できず、そのまま倒れ込んだ。
 もはや先の一撃で肉体、精神ともに限界にきていた。だからか、少女一人の体重を支えられる気力も根性もないのは自明の理であった。
 薄ぼやける視界と聴覚の中、自分に乗っかる空の顔が見えた。
 泣いている。その理由は、縁はわからない。考える力が、ない。

「え、縁!? だ、誰か、この人間を……っ!」
「おう、こりゃ大変だねぇ……どれちょいと毒でも」
「だ、ダメですよヤマメさん! そんなことしたらこの人間死んじゃいますよ!」
「もう、冗談だってば」
「冗談いってる場合じゃないのぉ! 誰かーっ」
「なら、ウチに運ぼうじゃないか。あそこなら人間にも使える薬はまだあったはずだからねぇ」
「え、あ、あなたは……誰でしたっけ?」
「あーあー、今はそんなこといいんだよ。とりあえず、そこのも一緒に運ぶよ」

 最後にそんな会話を聞きながら、縁は意識を閉ざし、夢も見ぬはずの眠りについた。


 あとがき

 深夜の中二病に身を任せた結果がこれだよ!! とりあえず突っ込みどころ満載にしてみたけど、妖怪だってコミュニティ内で生活しているんだからこういう奴らだっているだろうと予想。
 弾幕戦これよりひどいことになるでしょうけど…そこまでたどり着けるかなぁ…



[7713] 第四話――≧<言葉は不要か…
Name: へたれっぽいG◆eaa9c481 ID:f33d8d16
Date: 2011/02/14 14:11
 やぁ、おはよう

 どこともしれない場所、形容や比喩という言葉とは無縁の場所で、縁はそれに話し掛けられた。形は三本脚が生えたアメーバ、そうとしか言えない。カタツムリのように突き出た五つの目も特徴的だ。だが肝心の口がない。それでも喋っていた。

 こうして会うのも久しぶりだね
「そうなのか?」
 ああ。これで三度目だ。初めて繋がった時、キミが初めて妖怪に会った時、そして今

 縁はそう言われて、記憶を必死に掘り起こそうとした。しかし彼のことは、そもそも彼と呼ぶべきはわからないが、とにかく覚えがなかった。

 それは当然さ。これは夢だからね、起きたら忘れてしまうのさ
「なんだ、また心を読まれたのか?」
 さとりみたいに、かい。それは違う。私も、僕も、キミも、ただ単純に繋がっているだけさ
「余計わからないよ」
 まぁ、そうだろうね。ああ、そろそろ起きないと、キミの傍にいる子が心配するよ
「えっ、誰だよそれ?」
 気になるなら起きればいい。それじゃあまた。覚えていればだけど
「あっ、おい!」

 不思議な生物は周囲に溶けていった。縁が手を伸ばした時にはもういなくなって、そして縁もまた、その場所に溶けていった。



第四話『アンダーグラウンドの空に』



 はっきりとしない意識のまま浮上していき、縁は通算にして何度目かはわからない、不自然なほど静かな、まったく知らない場所で寝ているという状況に出くわした。やはりあの台詞を言いたくなるのは、あのアニメを見た世代共通の病気みたいなものだろうとぼんやりと考えていると、何かが灯りと視界を遮った。
 最初はそれが何かはわからなかったが、薄ぼんやりとした視野がだんだんと正常に機能し始めると、それは一人の知り合いの姿をとった。霊烏路空、同じ屋根の下の同居人。何故彼女がいるんだ、と疑問を感じた瞬間に、縁は彼女の眼尻に何かが光るのが見えた。それが何かと察するより速く、彼女の口が開いた。

「バカ----!!」

 超音波と同等の喚き声が縁の起きぬけの脳を揺さぶり、更にはいつの間にか振り上げられていた拳が縁の腹へと落ちた。避ける術などない縁はそれに直撃し、今度こそ眠りとは違う眠り、別名永眠につこうとした。体中がその一撃で痙攣し、半開きとなった口からは白っぽいモヤのようなものがぷかりと今正に抜け出ていようとしている。

「え、あ、あれぇ!? お、起きたのにまた寝てるの!? ちょっと起きてよ縁ぃ!」

 再度空の一撃が縁の腹に決まり、今度は白いモヤが口の中へと引っ込み、その衝撃で縁は覚醒した。そして腹を押えながら小脇から顔を出す形であった空へと顔を向け、深呼吸をしてから、叫ぶ。

「殺す気かぁぁぁぁ!!」
「うにゅぅ!?」

 自分の鼓膜すら壊しかねない声量をぶつけられた空は大げさに仰け反って耳を抑えた。対して縁は叫んだ直後に全身に奔った激痛に悶えていた。縁の今の姿は地霊殿で初めて起きた時よりも酷く、右手を除いた全身に包帯やガーゼ、特に胸部と左腕は肌の色が僅かしかなかった。
 その自分の情けない姿を悶えながら確認した縁は、少し落ち着いてから、今さっき思い浮かんだ疑問をそのまま口にした。

「ふぅ……で、何でお前がここにいるんだ?」
「うぅう~……え、え~と……縁を看病する人がいなくて、今こいし様とお燐が来たからこの家の人が対応してて、それで私だけが縁のとこに」
「いや、そうじゃなくて。お前が、どうして、地霊殿の外にいる俺のとこにいるかって話」
「それはおっぱいハンターでロリコンの縁がこいし様を路地裏に連れ込まないかお燐と一緒に見張……あっ」
「……OKOK、お前ら二人が日頃俺のことをどう見てるかよーくわかったぞこんちくしょう」

 しかもロリコンなんてわけわからん称号まで付け足しやがって、とそこまで一息で吐き出して、縁は「お燐~ごめん~」とこの場にいない少女に謝る空から視線をはずし、溜息をついて、左手を開閉しようとする。それだけの動作で痛みが走る。久々に、そして縁の経験したものの中でもかなり手ひどい部類に入る今回の喧嘩は、それに比例して酷使したからか、罅の一つや二つ、喧嘩の最中には気づかなかったが、入っていることがわかる。
 しばらく左手は使えないな、と縁は考え、今度は右腕に目をやる。使えばほとんどの喧嘩で勝ってしまう、ただの喧嘩相手には決して使えない右腕。縁自身、そのことを理解し、使わないと約束していた。それをしたのはいつだったか、相手が誰だったか、わからない。それでもその通りだと思う。
 人間工学及び最新のアクチュエーター技術、並びに弾性と剛性を、父親の願いとちょっとした小遣い、そしてよりよき義肢を待つ人のため、タイミングさえ図ればマグナム弾ですら防ぐことができる合金をも採用している、実証実験用の義手でもあるのだ。そう聞いている。そのために動かす方もそれなりの体力が必要であり、縁は小さいころから義手を使っているため、体は義手を動かせ、喧嘩に勝てる程度には鍛えていた。
 左腕と違い易々と動く右腕には、それを証明するように、汚れてはいたが、傷もへこみもない。壊れてはいないか、と安堵する。簡単なメンテナンスもできるかわからないこの状況では、壊れては直せる保障はないからだ。
 掲げた腕にそっと、男の縁よりも小さな両手が被せられた。見上げれば、空の、心配だ、と言外の語る顔。

「縁って、バカでスゴイね……」
「貶してるのか褒めてるのかどっちかにしろ」

 急に勢いを落とされてがくっと頭を落とす空。しかしすかさず頭を持ち上げ、小さな口を大きく開いた。

「うにゅうっ、褒めてるの! ……妖怪に殴り合いで勝っちゃうなんて、ずぅっと昔ならわかるけど、今じゃ考えられないもん」
「……昔ってどれくらいだよ」
「そんなの覚えてないよ、とにかく昔。勝てたのは、この変な腕のおかげかもしれないけど、それでもすごいよ」
「まぁ、そうだな。正直に言っちゃ義手を使うまで、戦ってて勝てる気なんてどんどんなくなってたよ」
「え、そうなの?」
「まぁな」

 小首を傾げる空。彼女の目から見ていたあの時の縁は、そのように考えてるなどまったく思えなかったからだ。
 縁は首を振り、右腕を空の手から離す。そうして、拳を作り、開き、五指が動くかを確認し、手のひらを見下ろした。

「人間の形してるから余計、すっげぇ強い奴を相手してる気分だった……けどな……」

 そこまでいって一度、何とか立ち上がれないかと体に力を入れてみる。しかし途端に、叫んだときと同じように全身、取り分け骨にヒビか何かが入ったと思われる左手と胸部を中心として痛みが起き、力が抜けて、再び布団の上へと倒れてしまった。

「っつ~、これじゃちょっと……」
「あ、えと。手伝おうか?」
「お、マジか?」

 言葉の通り、空は縁の背中に手を回すと、そのまま上半身を持ち上げようとした。

「えっと、これで……そぉいっ!」

 そして自分が妖怪だというのを忘れて過剰に力を入れてしまい、謎の掛声と共に縁の体の状態など無視して無理やり起き上がらせた。その結果が。

「全身から、激痛が逆流する……!」

 謎の前置きの直後の、外まで響く縁の悲鳴であった。
 
「おい、今の悲鳴は……ありゃ?」
「一体どうし……なにこれ、ふざけてるの?」
「わっ、縁ちゃんが妖怪よりひどいことになってる」

 ヘタな妖怪でも出せない声域の悲鳴を聞きつけ、障子を壊す勢いで開けて現れた女性と、その後ろから顔を出す燐とこいしが見たのは、白目のまま布団の上で陸に上げられた魚のように頭と踵を使って弓なりになったり倒れたりするという奇妙な痙攣をする人間と、それにどう対応すればいいかわからずおろおろとしている地獄鴉であった。
 突如現れた三人はその様子をしばらく茫然と見た後、先頭にいる角の生えた女性のみがすたすたと縁の傍まで歩いてその横に座るとと、空の呼ぶ声を敢えて無視して、仰け反る縁の腹へと掌を置く。そして一度深く息を吸い、ゆっくりと吐きだす。
 直後、女性の目が光った。

「喝!!」
「ぬふぅッ!?」

 掌を腹、正確には丹田に落とし、そのまま縁を布団に押し付ける。縁はほぼイキかけたかのような喚き声をあげると、白目から元のそれへとぱちりと戻り、数度瞬かせてから辺りを見渡した。
 痙攣の間の記憶は縁にはなく、いつの間にか現れていた燐とこいし、そして見知らぬ女性の姿に目を見張った。
 金褐色とでもいうべき色合いの髪に、この幻想郷に住む妖怪の証とも言うような見事な朱色の一角を頭から生やして、しかも星マークをつけていた。手首には鎖の切れた手枷のようなものがついているが、本人はそれに気にした風はなく、むしろファッションのようにも見える。だがそれらよりもついつい目がいってしまったのは、無地の白い衣服の下を押し上げる、倒れた体勢からでもよくわかる自己主張の激しい母性の塊である。ごくり、と縁は飲み込んだ。男の性である。幸いそれはこの場にいる誰にも気づかれることはなかった。

「ようやく目が覚めたみたいだね」

 女性から話しかけられたことで、縁はようやく視線を一部の箇所からはずし、慌てて初対面の女性の顔を見る。美人、というのはこういう女性を言うのだろうと、縁は心中で率直な感想を落とした。

「外の人間ってのは起きる前に一度あんな痴態をするのかい?」
「……ち、痴態? それはよくわかんねぇけど、変になったっていうなら、そりゃそこの⑨のせいだ」
「う、うにゅぅ……」

 縁の非難を帯びた目線を受けて空が視線をあらぬ方向へと向けるのを見て、その場に後から来たもの全員は事情は察したと言いたげに「ははぁ」と呟いた。その中でも燐のものは溜息そのものといってもよく、疲れたとでもいいたげに肩を落とした。

「鳥頭のおくう一人で看病させてたんだから何か起きると思ってたけど…アンタも難儀ねぇ」
「空なら仕方ない、⑨だし」
「⑨だからね」
「縁の⑨! ⑨っていった方が⑨なんだもん! それにこいし様も同意しないでくださいっ!?」
「あんたら面白いねぇ……」

 すぐさま始まった空いじりという名の簡単コントを眺めながら率直な言葉を紡いだ女性に、縁はやっとその人物がどんな存在なのかを、そして今の状況がどうなっているかを知りたいがために、彼女へと目を向けた。空たちの方は、もはや縁などそっちのけで姦しいじゃれ合いを続けていた。
 角つきの女性も縁の視線に気づいたのか、にやりと笑って、縁を見下ろす。

「とりあえず、初めましてってところね。私は星熊勇儀(ほしぐま ゆうぎ)、山の四天王……っていってもわからないだろうから、ただ単に鬼っていう種族と考えてくれればいいわ」

 そう言われて、縁はすぐにおとぎ話に出てくるような鬼の姿を思い浮かべ、次いで目の前の女性、勇儀の姿と照らし合わせた。想像のものとは大分違っていた。しいて言えば角だけが、鬼らしい箇所と思えた。兎にも角にも、今まで出会った妖怪の中で、もっとも分かりやすく受け入れやすいものであるのは間違いなかった。

「……地獄鴉とかよりよっぽど分かりやすくて助か……りますよ。ああ、俺のことは」
「中邦縁でしょ、そこの三人から聞いたよ。それに堅苦しいのは嫌だから、言いやすい言葉でいいよ」
「それじゃ遠慮なく……俺があのムカツク野郎相手に喧嘩してたのは間違いないよな? あの後どうなったんだ?」
「ん、やっぱり気になるかい? まぁ勝ち負けって点なら、中邦の勝ちだよ。地底中の妖怪妖精怨霊がそれを保障するよ」
「けどわたしは見てないよ~……見たかったなぁ」

 ひょこりと縁の上に跨ったこいしが小さな頬を膨らませて話しに入ってきた。その横に座った燐も「アタイもアタイも」とこいしに同調して自分のことを指さしている。むしろ縁にとって、その直前に勇儀が言った、まるで地底中のモノが喧嘩を見ていたような言い方に引っかかりを覚えた。
 縁も喧嘩が始まった直後はそれなりに妖怪が集まってきていることはわかっていた。しかしそれが、地底中というところまで考えが及ばないのである。

「こいしとお燐が見てないのは、まぁ、別にいいけどさ……そんなに妖怪とかが集まってたのか?」
「そりゃあね。アンタが思っている以上に、この地底では人間の存在は珍しいんだよ。しかもそれが妖怪と人間との殴り合いっていうなら、一種のお祭り騒ぎさ」

 お祭り騒ぎと来たか、心中で言葉という溜息を吐き出しながら、包帯を巻かれた左手の代わりに、少し汚れただけの右手で顔を隠す。どことなく嫌な予感がしたが、それが一体何故かはわからなかった。こうして会話という頭を使う行為をしているが、未だボンヤリとしている箇所もあるのだろう。
 その予感を捨て置き、右腕をどけ部屋の天井を見渡しながら疑問を吐き出した。
 
「それでさ……すっごい今更だけど、ここどこだ?」
「私の家。今は他の妖怪は同居人だっていうこの子たち以外は入れないようにしてるけど……ちなみに家の周り、いや繁華街はすごいことになってるよ?」

 男らしい笑み、不敵さを称えた歪みをそのままに勇儀は立ち上がると、部屋の襖障子の一つに手をかけ、一息で開け放った。途端、熱気そのものとも言える騒々しい喧噪が部屋へと飛び込んできて、反応の遅れた縁とその他複数の耳を縦横無尽に震わした。

「うおぉぉ……急に音がぁ……」
「う、うにゅぅぅ……」
「み、耳がぁ……」
「あ、頭がぐわんぐわん~……」

 訂正、勇儀以外の全員が耳を抑えて悶えていた。そのヤワで、しかし愛嬌すら感じる喜劇の一幕のような様子に今度は苦笑を浮かべた勇儀は振り返り、そのまま開けた障子へと体を預けた。

「言ったでしょ、お祭り騒ぎだって。ああ、これは地底に住んでる河童の友人に作ってもらった、外の音を完全に遮断する特別製なのさ。ま、驚いて欲しいのはこんなことじゃないんだけどね」
「も、もう何があっても、驚かねぇぞ俺……」

 どう考えても防音ガラスだろうと心中で吐き出して、縁はすぐに復活した聴覚に頼り、五月蠅いだけかと思えた外の声に耳を傾けた。すると聞こえてきたのは、怒声でありながらも陽気さを感じさせる、太鼓の音にも似た腹を震わす心地のよい音。実際、祭りの時にでも聞いたことがある大太鼓の音が響いていた。
 お祭り騒ぎ、正しくそうとでもいうしかない言葉が、この熱気と声たちの正体だった。身体を横たえている縁には障子の向こう側の景色は見えず、心躍る音だけしか聞こえない。
 今度は右腕を使って起き上がる。こいしは一度経験したから、今度はうまくバランスをとって倒れることはなかった。

「手伝う?」
「いいよ別に、また逆流するなんてゴメンだからな」
「さりげなくヒドイよ縁!」

 空をつっけんどんに阻んで、右腕を使って起き上がる。最後の最後の一撃、互いの相対速度を使ったカウンターで何か異常が出たかもしれないと心配になったが、縁の心配などどこ吹く風、義手は縁の意志に答え、力強く身体を持ち上げた。
 そうして高くなった視点でわかるのが、部屋の内装だった。障子があるというので薄々予感はしていたが、純和風の部屋。家具もまたそれに見合うよう、それこそ博物館でしか見たことがないものが置かれ、現代人の縁には用途が想像できないものもあった。
 その中で年季の入った畳の上に敷かれた布団に縁はいて、勇儀が開けた障子の向こうの景色から、現在地が彼女の家の二階か、はたまたそれより高い場所であることが分かった。
 そしてここから見える景色は縁とこいしが出歩いていた時とは比較にならなかった。
 夜、とでも呼ぶべき闇が閉じられた天上からマリンスノーのように降りてきているのにも関わらず、その底には色とりどり・姿形様々な提灯によって照らし出された繁華街の姿があった。そしてそこを行きかうのは、昼間とは比べ物にならないほどの妖怪たちの姿に、開店した店の客寄せコール。それを見守るように、提灯の影を彩る柳がどこからか吹く涼風に揺られていた。
 外の世界の夜の都心とは違う、もう一つの人工の灯りたち。それらが織りなす幻想に縁の心は奪われ、ポカンと口を半開きにしたままだった。
 
「……すげえな、これが本来の地底都市の姿なのか?」
「まぁね。妖怪ってのは基本夜行性の輩が多いからね。最近じゃ、そこの地霊殿の連中みたいに昼型も多いけど、この旧地獄後全体から見れば夜型の方がまだ多い。だから、この街の本来の姿をっていうなら、間違いなく夜のこの時だね」
「そっか……ん、夜?」
  
 そこで縁は、自分が喧嘩を始める寸前までの時間を思い出した。多少遅いが朝の時間にこいしと街に来て、買い食いをしていた。その時の空はお椀型に囲まれた土色のドームがのっぺり広がっていたが、不思議と明るく、やはり何かしらの原理で朝か昼かとわかるようになって。
 
「って、あー! 俺どれぐらい寝てたんだって痛たぁぁぁっ!?」
「いきなりそんなオーバーに動くんじゃないよ、古明地の妹さんも驚いてそこの地獄鴉に倒れ込んでるよ」

 左腕を持ち上げようとして途端に感じた痛みに震えている縁に、勇儀がいったように、縁の横から転んで燐に倒れ込んでしまったこいしが、恨みがましい視線をぶつけていた。右手で謝る形で「悪ぃ、こいし」と簡単に謝罪をしてから、再び勇儀へと向く。

「つ~……それで、俺ってどれぐらい寝てたんだ?」
「半日ってどころだね。むしろあんだけ妖怪に揉まれたってのに、よくそれだけで済んだって、関心するよ」

 呆れと感心が混じる勇儀の率直な言葉に、縁も心中同意する。完全に立ち上がるにはまだ全身に力が戻らず、骨への罅の他に、打ち身や擦り傷とて地底に来た時とは比較にならないだろう。少なくとも自分一人で立ち上がるという点では、まだしばらくかかりそうだった。
 今日中に帰れるかな、と縁はぼんやりと考えながら、溜息を吐きだす。

「それらしいことなら、空にも言われたよ」
「そ、そうだよ……とにかくもう、今度からはやめといた方がいいよ。じゃないと縁がもたないもん」

 縁の体を見ながら気遣う言葉を向ける空に、向けられる当人も、昼まで共に行動をしていた燐も、不思議なものでも見る目で彼女を見た。縁はその気遣いが多少こそばゆいせいもあるが、しかし燐は違った。親友への懐疑の念が彼女の中に浮かんでいた。
 だがその二人の思惑を遮る声を、その雰囲気など関係ないと言わんばかりのこいしが上げた。

「わたしは見てないからまたやって欲しいな~」
「……あたいはどっちでもいいよ。むしろ、どうしてアンタが喧嘩なんてしたか気になるんだけど」
「そうそう、それも気になるし」

 好都合だと心中で嘯く燐の言葉に、如何にも神妙だという顔を作って顔を上下させこいしも賛同した。燐としては、それこそが縁に対しての空の話し方が変わった理由だと考えたからだ。

「何だ、聞いてないのかいそこの二人は」

 関係者だと踏んでいた二人が教えてほしいというのに疑問を覚えた勇儀が心のままに問うと、燐が肩をすくめてそれに応えた。

「あたいたちが聞いたのは人間があの林皇のとこのムカツク奴と喧嘩したってことと、そいつに勝ったこと。どうして喧嘩したのかは聞いてはないですね」
「だから、教えて。ね、縁ちゃん?」

 燐に続いて再び縁の体に跨ったこいしが縁へと問うと、「ふぅん」と息をついた勇儀もまた、彼女たち二人の言葉を引き継いだ。

「私も聞きたいね、そりゃ。林皇のとこの子倅とアンタがどうして喧嘩なんてしたのか」
「んー、別にいいけどさぁ……そんなに面白いもんでもないぞ?」
「あ、縁。どうせならさっきの続きも教えてほしいな」

 そう空に言われて、縁は先ほど二人きりの時に言っていた言葉が有耶無耶のままであったことを思い出した。適当に答えたらいいかな、とそれらしいことを考えながら、しかしあの時思っていたことを必死に思い出しつつ、話し始めた。

「簡単に言っちゃうとさ、あいつがいきなり地霊殿の皆のことを嫌な風に言ってきたのよ」
「ふーん、どんな風に?」
「言えるかよ、んなこと。言いたくねぇよ……とにかく、そうやってあからさまに喧嘩売ってきてたから、買っただけだよ。で、何とかマグレを引っ張りだしてぶっ倒した。そんだけだよ」
「む~、全然説明できてないよ縁ちゃん。それにすっごい怪我してるし」
「喧嘩に怪我は付き物だって」
「それにしては大怪我よね。どんなマグレだったのよ」
「……相手が突っ込んできたから、それにカウンター合わせて右手をぶち込んでやった。それだけだよ」
「へぇ…怖くなかったのかい? 私も見てたけど、そん時アンタはもうボロボロじゃなかったか。よくそんな状況でマグレに全部賭けられる勇気があったねぇ」

 こいしと燐の揚げ足取りも軽く避けたところに、勇儀がいつの間にか、どこからか取りだした杯を傾けながらその時の状況を、空も気になっていた問いをも含めて尋ねてきた。それに縁は、どうしてその時、そうすることが出来たのか、思い出せなかった。
 いや、覚えてはいる。だが覚えているのは、あの不可思議な糸のことだった。それがあったから、というのは理由にならない気がして、あの時の自分のただの怒りの感情をなんとか言葉にしようとした。
 すると、それはするりと縁の心中から零れ落ちて、彼の口を勝手に使って話し始めた。

「そりゃ、ヤケクソだったからさ。ただ……」

 縁は自分の右手を見た。そして拳の形を作り、自分の胸を叩く。

「何度も地面に顔を着くたびに嫌になって、もう何度もやめようって考えた。けどな、俺の全部が地面にぶっ倒れるその前に、せめて一発だけでも、アイツの度肝を抜いてやれって思ってたのさ。そうじゃないと、お前らに対する俺の気持ちを裏切っちまう……よくわかんねぇけどそんな気がしたのさ」

 縁はそう言って、自分の感情を言葉へと置き換えることに成功した。だがそれでも全てではない、そんな気もした。
 そして縁の言葉に対し、他の三人が黙っているのに対し、こいしは思惟を深めるためか口元に人差し指を添えたまま上を向いていると、不意に口を開いた。

「それって、人間の得意な自己満足ってこと?」

 何気ない言葉だった。ただそれだけで全ての感情を括ってしまう言葉。人間という記号化された感情を持つ故に、縁は不意に胸にぽっかりと穴が空いた気がした。こいしは相も変わらず笑っている。無意識に、無自覚に。
 その顔を見て、常に変わらない少女の表面に張り付いた表情を見ていて、ふと縁は彼女のことが、その見た目よりも遙かに小さく見えてしまった。それがなぜかはわからない、ただ以前から感じる違和感は、これに近いと思えた。そう思った直後に、胸の穴が徐々に小さくなり、そしてまた別の穴が開いた気がした。いや、元々空いていた穴に気づいた、というべきだった。
 穴に一度気づくと、言葉はそこから漏れ出していた。自然と、口が滑る。

「……あー、かもしんない。けどさ、それでもいいさ。そうすれば、お前らを裏切らないで済んだって思えるからよ」

 そうして、何故か笑いたくなって、縁はその衝動に従うまま、笑ってしまった。声も出さず、顔をくしゃくしゃに歪めただけの顔。その自分で情けないなと考えながら、こいしの頭を機械の腕で帽子越しに撫でた。気恥かしさのせいか、少々力任せに。
 こいしは最初、それに気づかないというように、笑みを称えたままだった。だがふいに伸びた手が自分の頭の上に乗せられた義手に気づくと、その腕を擦り始めた。そして変化は徐々に起き始めた。

「え、あ……う? 縁、ちゃん……?」

 笑みのまま固まったこいしの顔に、僅かに赤みが帯び始めた。直後に、彼女の笑みの形が、崩れ始めた。表面上だけなら、遠目に見ていれば変わったとわからない。だが直に見れば、その空気が、笑みが生み出す彼女特有の、自分自身の内側から漏れ出すものをそのまま吐露しているような雰囲気という膜が、形を歪ませていた。
 
「お、おい、こいし……?」

 その反応には撫でるということをやってしまった縁本人が戸惑ってしまい、どう声をかければいいかわからず、ただ名前で呼びかけるだけだった。その途端、こいしの体がぴくりと震え、ハエでも払うかのような勢いで縁の右手を頭の上から落とした。
 それには驚き、目を見開く縁。こいしは顔を俯かせて、笑みを張りつかせていた顔が見えなくなっていた。
 
「あ、わ、悪ぃ。こうするの……」
「……先に帰るね」

 早とちりに縁がこいしの頭を撫でたことが原因だと言うより先にこいしはふわりと浮かび、そのまますいっと窓辺から外へと飛び出していってしまった。如何にも彼女が好きそうな眼下のお祭り騒ぎにも目もくれず、真直ぐに屋敷への道を飛んでいく。右手をちゅうぶらりんの状態のまま茫然としていた縁は、朝の彼女がした応答との違いに心中戸惑いを隠せなかった。
 杯を持ったまま同じくぽかんとしていた勇儀は、しばらくこいしの飛んでいった軌跡を目で追って、次いで縁へと目を向けた。

「おいおい、どうしたんだいあの子は? 何かやっちゃったのかい?」
「……いや、俺もわけがわかんねぇよ。朝も同じように撫でてた時だって、普通に返されただけだし…正直、何か悪いことしちまったなら謝りたいよ」

 縁はそういって空と燐を見る。二人は今までの自体に呆気にとられていたのか魂でも失くしたように口を半開きにしていた。しかし視線に気づいたのか、燐がはっと顔を引き締め直そうとするが、その顔には困惑の色が深かった。そのままの、だが確かな警戒の色も込めて縁を睨む。

「……人間、こいし様に何をしたのっ?」
「い、いや俺もわかんないって言ったろ。むしろお前たちの方が、何か知ってるんじゃないか?」
「……あたいたちだって、わかんないよ。あのこいし様が、無意識でしか動かなくなってしまったこいし様が、あんな感情があるようなことをするなんて……見当もつかない」
「おくうもか?」
「う、うん。私たちも地底に来てからのこいし様しか知らないから……さとり様や、さとり様がこいし様につけたあの三匹なら何か知ってるかもしれないけど……」
「あの三匹?」

 正気に戻り、しかし困惑の色のみを浮かべる空が零した、こいしの傍にいるだろう新たな影に疑問の声を上げる。昼間までずっとこいしと行動を共にしていたが、それらしい影など見たことがなかったからだ。

「ああ、確かにいたわね。名前は忘れちゃったけど、何時もこいし様の傍にいたアイツら」
「俺はまだ会ったことないけど、人型なのか?」
「ううん、違うよ。けど可笑しな三匹ってのは、覚えてる」

 そこまで言って、二人は黙ってしまった。縁は、この二人とて、あの地霊殿の住人全てを完全に把握していないことにかすかな驚きを覚えた。それだけ、さとりのいうペットの数が多いのだろうと想像でき、もしかしたら今回のことで何か知ってるかもしれないものがいるかもしれない、と希望も持てた。
 無自覚のうちに悪いことをしてしまうのが、恐ろしいと思う一方で、不可抗力でもと考える。ただその後をどうするか。そのことで縁は一度忘れられぬことがあり、後悔と懺悔を持ち合わせていた。だから、こいしに本当に悪いことをしてしまったなら謝りたいと、心の底から思っていた。

「……話はまとまったかい? まぁ後はあんた達の家でやっておくれ、ここは元々怪我人と話し合う場所じゃないからね」

 縁の思考を止め、この場の空気を切り替える様な張りのある声で勇儀が場を締めくくる。燐と空も、多少不満気ながら、それに頷いた。

「それで、アンタはどうするんだい? 私としちゃ、そろそろアンタに会いたいって奴をここに連れてきたいんだけど」
「会いたい奴? そいつのこと、もしかしてずっと待たしちまってたのか?」
「いんや、たぶんこの近くで飲んでるだろうから、待ってるのは大丈夫だろうね。ただ、会って言いたいことがあるってのは、本当だよ」

 燐や空と話すこと、それにこいしもできれば追いかけたいという心境でもあったが、しかし身体が自由に動かないことと、世話のために家の一室を貸してくれた勇儀にもまた不義理になると思い、縁は了承しようとし、一度二人を見た。このまま会ってもいいか、と確認のためである。
 それに気づき、燐は肩をすくめ、空も気難しい顔つきながら頷いた。

「……今更こいし様を追っても、ぜったいに見つからないからやめとくよ」
「それに縁を一人にしてこれ以上酷いことになったら、、さとり様に怒られそうだからね」
「あー、悪い、二人とも」
「悪いと思うなら、ちゃんと帰ったらこいし様に謝りなさいよ」
「ああ、そうする」

 ちゃんと動けるようになってこいしを探せるようになったらな。そう続けて、視線を勇儀に戻した。鬼と名乗った女性は、うん、と口元を緩ませて頷くと、開かれた障子から顔を出し、眼下をぐるりと見渡した。そして目的の人物を見つけたのか快活な表情を浮かべ、叫ぶ。

「うぉーい十一の坊主ー! あの人間が起きたぞー!!」
「「「んっなぁ!?」」」

 勇儀の呼んだ名前は、縁の喧嘩相手であり、かつ燐と空が距離をとっていた妖怪の名前だった。たまらず、今までの重い空気など外部取りつけ式超音速ブースターの速度で霧散する喚き声をあげてしまった三人。そして勇儀の張りのある声のおかげで、その声すらかき消すような歓声が繁華街から一気に沸き上がった。
 たまらず耳を塞ぐ三人に、大口を開けて笑う勇儀。
 そして暴徒よりも激しい声をあげる酔っ払いたちの中から、一つの影が飛び出してくる。人間のサイズでありながら、さながら猫のようにしなやかに家宅の屋根を飛び移り、するりと部屋と入り込んできた。

「よう、起きたかニンゲン」

 陽気な声で、怪我らしい怪我など見えない林皇十一が、片手を上げて親友に対するような挨拶をしてきた。

「……お前が俺に会いたいってのかよ」
「なんだ、不満か?」
「あったり前だ」

 刺々しく返す縁に、十一は不満げな顔を見せる。その向かい側では、地霊殿のペット二人組があからさまに警戒し、彼を呼び寄せた勇儀は街に多少静まるように叫んでから障子を閉め、二人の元喧嘩相手の意地の悪い笑みを作り盃を呷りながら眺めていた。

「で、何の用だよ」

 憮然とした態度のまま十一を見、すぐに本題へと入る縁。それに対して、十一は最初苦笑いを浮かべると、縁の隣りに正座し、そして縁と、その後ろの二人を見渡して、頭を下げた。

「すまなかった」

 三つ指をついた見事な土下座である。
 突然の、静かに響いたその言葉に、縁も、空も、燐も、ぽかんと口を開けて、茫然とした。その三人の姿に、十一の後ろで勇儀が腹を抱えて、しかし声を出さないように笑っていた。

「オレはアイツらの口車に乗せられたとか、酒に呑まれた状態だとか、そういうのを言い訳にはしねぇ。だからただ、頭だけは下げさせてもらう」
「……アイツら? それに酒?」

 言い訳はしないといいながらも、それらしい単語をちらちらと言う十一に対し、しかしその理由に何かしらの原因があったのかと疑問を浮かべる三人。その疑問を察し、土下座をする十一の代わりに答えたのは、笑いを何とか収めることに成功した勇儀だった。それでもまだ肩で息をしていたが。

「あふぅ……ああ、そりゃちょっと事情があってね。ま、くだらない連中の、しょーもない企みだったんだけどねぇ」

 そうして勇儀は、簡潔に事の顛末を話し始めた。

 昔から地霊殿、特に古明地姉妹を快く思わない妖怪たちはいた。それが今朝、古明地の妹が連れてきた人間を見て、そしてその人間にくっつくこいしを見て、酷い目に合わせてやろうと考えたのである。しかしそれを自分たちで実行するならすぐに足がつき、姉が復讐をしにくるかもしれない。
 そこで白羽の矢が立てられたのは、丁度家の妹と喧嘩し、負けて酒をかっ食らっていた十一であった。十一ならば日頃から、彼らほどではないにしろ、地霊殿のことをあまりよく思っていないのは知られていたので、仮に事を起こしてもそれは直接手を下した十一だけに目を向けられるだろう。そう考えていたのだ。
 そしてとある出店にて酒の催促をしていた十一に代表者数名が酒を奢り、口車に乗せ、けしかけた。
 喧嘩が始まりすぐに妖怪たちが輪を作り人間が逃げ出せないようにしたのも、彼らの仕業だった。

 それだけのことを酒を飲みながら説明した勇儀。そしてそれを聞いていた縁は、今すぐにでもそいつらを見つけ出し、問答無用で右腕で殴りたい衝動に駆られていた。その怒りは地霊殿の住人である空と燐にも伝わったらしく、拳を震わせていた。
 その様子を見ていて、勇儀は鼻で笑う。

「安心しな。もうそいつらなら見つけ出して、素っ裸に向いてちょちょいと揉んでやったから」
「……素っ裸ってとこにちょっと疑問があるが、具体的には」
「街の反対側にある橋に逆さまに括りつけただけさ。勿論、ふんどしなんてさせないよ」

 その時のことを思い出したのか、今度は豪快に笑い声を上げ、自分の膝を何度も叩いた。しかし縁はその風景を思い浮かべると、男として何か大切なものを失いそうな光景に、意気消沈してしまった。なぜか浮かんだ妖怪はあの一度だけ横を通り過ぎた馬面の妖怪であった。心中、被害者であるにも関わらず、南無、と唱えてしまう。
 そして改めて十一に視線を戻した。相変わらず頭を下げたままだった。
 こうやって頭を素直に下げてくれる奴は、実は悪い奴ではないのかもしれない。正直に縁は考え、さてどうやって声をかけたらいいか悩んでしまった。全力の喧嘩は中学で卒業しているし、喧嘩相手がこうやって頭を下げてくれるなど滅多になく、土下座などましてや皆無だった。命乞いでそういうことはあったが、それは論外である。
 頭を抱え始めた縁に、勇儀はにやりと笑って懐に手を伸ばし、陶器の徳利と猪口を取り出した。徳利は一つ、猪口は四つ。その内一つを縁へと投げる。それに気づいた縁は、右手で何とか掴む。続けて残りの猪口と徳利をそれぞれ手の空いている燐と空へと投げ、二人は慌てながらそれをとった。
 三人で顔を寄せて、徳利の蓋をあける。むわりと日本酒特有の匂いが三人の鼻孔をくすぐり、液体が中で揺れる音が聞こえる。
 それだけで、縁は勇儀が何をさせたいかを理解した。時代劇かよ、と心中で愚痴る。

「悪い、空、お燐。ちょっと手伝ってくれ」
「ん……まぁいいわ」
「うにゅ、わかった」

 二人も勇儀が、そして縁が何をするのかを、そして十一が決して悪党ではないことを察して、他の問題は一時置いておき、縁のことを手伝うことにした。
 
「えーと、十一だよな? ちょっと起きてくれ」

 縁の言葉に、十一が厳めしい顔つきのまま体を持ち上げた。縁は自分の持っていた猪口を十一へと渡し、そして新たな猪口を空から貰う。そして二人の猪口に、燐が徳利を傾けて酒を注ぐ。そのことを驚きながら見つめる十一に、縁は勇儀に嵌められたような気がして溜息をつきながら、脱力した笑みを浮かべた。
 それに気づく十一もまた、その場の空気と、そして縁が十一のことを何とか許そうとしていることを察した。そして、縁と同じような笑みを浮かべた。二人は無意識に息を揃えて、猪口をぶつけて鳴らした。

「全部は許さねーからな」
「わかった、けどちゃんと返すさ。その右手の重さ分は」
「言うなお前も。安い挑発か?」
「お互い様だろ」

 それだけ言って、二人はぐいと酒を呷った。
 一応、縁とて一週間前まではれっきとした高校生。未成年ではあるが親や教師にバレない程度に、クラスの悪友たちと共に大人の証と勝手に思い込んでいる酒は飲んでいた。そのためある程度は酒に対しては耐性があり、むせることなく飲み干すことができた。
 ふぅ、と二人は息をつき、互いの目を見た。気が合いそうだ。目くばせで、互いに共通するその気持ちが理解できた気がした。

「んーとさ、二人だけの男臭い空気ってもう壊していいよね?」
「アタイたちも飲みたいんだけど」

 そして空気をわざと読まず猪口を掲げ発言する二人に思わずズッコケそうになる縁と十一。そして笑う勇儀。
 
「あのなーお前らは、もう少しぐらい折角作った空気を…」
「居候のくせに生意気言ってるんじゃないわよ人間。アタイたちだって酒は飲みたいんだから」
「それに、今まで縁を看病してたの私だから、強く言えないはずだよね」
「ぐ……」

 ぐうの音の「ぐ」まで出て、縁は沈黙した。そんな縁に十一は声を上げて笑い、勇儀は笑いながらも、障子に手をかけた。

「さって、一段落ついたみたいだし……野郎どもぉ!!」

 叫びと共に障子を開け放つ。途端に響き渡るのは、家中を震わすような「おうっ!」という大声。その応答に満足しつつ、勇儀は足を突き出し、その杯を閉じられた天に掲げながら、宣言した。

「新たな住人を歓迎するため、飲み明かすぞーー!!!」
『オオォォォッ!!!』

 雄たけびのような反応に、縁は全身の傷が痛むのを感じつつ、しかし悪くはないと、外の妖怪たちと同じくすっかりお祭り気分になった燐と空を見つつ、十一から新たについでもらった酒をぐいと飲んだ。その顔は既に赤みを帯びていたが、しかしその頭の片隅では、あのこいしのことと、そしてこれからの生活の変わり様に、思いを馳せていた。 

「ところでおくう、何であの人間のこと名前で呼んでるの?」
「う~んと……呼んでもいいかなって思ったの。それだけ」
「ふ~ん……」

 そんな会話が後ろでされていたかもしれないが、縁が気づくことは一切なく、すぐに他の音にまぎれて消えてしまった。



 そして翌日の朝。二日酔いの体となり、怪我も相まって碌に歩けなず空と燐に肩を貸してもらい、空を飛んで地霊殿へと帰った縁たちを待っていたのは。

「あなた方には山ほど説教があります。理由はおわかりですね?」

 殺意の波動に目覚めているかのようなオーラを纏い、腕を組んで仁王立ちをしている地霊殿の主であった。
 



 あとがき

 ニコポとナデポは今までやったことなかったからしたかった、反省は(ry
 今回は難産も難産、二話よりキャラ崩壊などが酷い仕様でお送りしました。ニコ動とかの某氏などが妬まし…ちょ、コジマとっつきだけは勘b(ガキョン アッー



[7713] 第五話――少佐<言葉を飾ることに、意味はない
Name: へたれっぽいG◆eaa9c481 ID:f33d8d16
Date: 2011/02/14 14:11
 旧地獄繁華街の今では妖怪たちにも忘れられた、下等な動物たちがたむろする路地裏。そこの陰に蹲る人型の影が一つ。
 古明地こいし。その顔には常の笑顔はなく、代わりに無表情の幼子と同じものが張り付いていた。
 閉じた三番目の目が震えていた。彼女の体をそこから延びる太いロープのようなものでグルリと囲むアクセサリだと思われた瞳を、こいしは左の手で抑えつける。右の手は目の前に飛んできた虫を捕まえ、その足の一本一本、羽根の一枚一枚を職人が作品を削るように丁寧に毟り取っていく。両の眼は解体され部品にしていく虫を中心に据えながらも、まったく別の場所を見ていた。
 無意識の瞳が虚空に想像するのは、あの人間の顔。人間のものではない腕をつけた人間もどき。何でもない当然のことを言ったのに、その返答の際には、よくわからない硬い腕で頭を触られ、よくある笑みが一緒だった。いやもしかしたら違ったのかもしれない。まるでこちらのことが分かっているとでも言いたげ、それも違う。だけれども、不変であるはずの心がざわつく顔。その表情を明確に思い出そうとした瞬間、右手は胴体だけとなった虫を握りつぶした。
 あの人間もどきの笑みだけなら、あれが来てから何度も見ている。頭も何かの拍子に触られている。ではどうしてあの時だけ、と無意識の中に思考を生みだして、しかし右手は意識もなく新たな獲物を捉え、解体を始める。今度は鼠だった。尾から始まり、突起物を中心に取り除く。赤や黄色の液体が出ようとも構わず、妖怪の持つ人間とは根本的に桁の違う力ではずしていった。
 わからないのなら、いっそ殺してしまうか。こいしはその考えに至って、やっと笑みを取り戻した。むしろ今まで彼を殺すという考えを持たなかったことに疑問すら覚えるほど、単純明快だった。
 死とは無意識を操るこいしにとって、相手を理解するもっともてっとり早い手段であった。そうすれば、相手はもう何も考えない、無意識の塊である。正確には無意識すらもなくなる直前の状態だが、故に消え去る前の無意識をこいしが操り、自分に取り込む。そうして相手のことを自分として理解するのだ。
 そうと決まれば、殺そう。なるべく奇麗に。あの腕だけを切り取り、脳と目玉は後で食べられるよう取り除き、それ以外は両の手でひたすら殴り潰し、骨と肉の区別がなくなるほど細切れにし、あの灼熱地獄で最後に焼くのだ。想像を膨らませるだけでこいしの心が常のものに戻り、喜びの無意識が現れてくる。
 右手をそのまま口元まで持っていき、首を爪で切断された鼠を口内へと運ぶ。租借、味など気にはしない、ただその命を、無意識を得ようと思えばいい。
 左手は、口を動かしているうちに、自然と第三の目から離れた。
 その瞬間、閉じられていた目の瞼が震え、誰かの笑顔が浮かび上がった。同時に起きたのは、口内にあったものから突然に無数のウジ虫が湧いて身体の中へと潜り込もうとする、おぞましい感覚。反射の領域で、鼠だったものを吐き出した。虫など湧いていない、内臓が噛み砕いた時にはみ出ているだけ。
 
「あ、う……ど……ぅ、して?」

 こいしはまた、自ら閉じたはずの目を力一杯握った。もう二度と開かぬように。そうすればもう余計なものは何も見ることも感じることもないだろうから。
 そうして彼女はまた無意識へと飛翔/墜落していく。かつての自分も、無意識のルーツも、記憶も、その両手の内にある閉じた瞳に封じ込めて。



第五話『三獣士』



「うっわ、こんなものまで入れてたのか……」

 すっかり忘れてた、と心中で続けてから、縁は自分の腹の上に置いた学生カバンから出てきた万能ナイフを手の中でくるりと遊ばせた。借りた上着だけの上半身を起こし、ベッドの上にはカバンから取り出した私物の数々が転がっている。
 教科書やノートはそもそも学校の机の上に置きっぱなしでありそこまで数はないが、私物に関しては、縁自身もいつ入れたかよくわからないものまで入っていた。むしろ、縁が自分が絶対に持っていないと確信できる代物まである。

「ん~……縁~これなんて読むの?」
「そっちの元の言葉はわからね、だから下の日本語読め……というかそれアイツが勝手にぶちこんだ本じゃねぇか」

 ベッドの横に座る空が持つ「小惑星に立つ王子様」が表紙の本を見、それがカバンに入った経緯を推察して溜息をつく。空がその本を開き内容に眉を顰める傍ら、隣に座る燐がこれまた縁のカバンから出てきた『月刊少年トーラス』を黙々と読んでいた。ページの開き具合から読者人気ナンバーワンの『コードオルカ~逆流の水没王子~』に没頭しているのだろう。個人的には『とっつき!』もお勧めだなぁ、と心の隅で思いながら、縁はまた暇潰しの荷物整理を再開した。
 縁の傷の治りは第二次成長期での喧嘩の経験からくる傷の頻度・度合と回復力から平均よりも早いといえた。それでも骨にヒビが入ったとなれば、動けるようになるまで早くて三週間、ヘタをすれば一月以上はかかってしまうはずだ。しかし四日たった現在、もはや左腕や起きる時に走る痛みを除けば、かなり動けるようになっていた。殴られ蹴られ地面を転がった時の擦り傷や打ち身などは二日たった時点でなくなっていた。

「対処が速かったのもありますが、やはり庭常(にわとこ)を基本にした煎汁の塗り薬のおかげでしょう」

 というのは怪我人兼酔っ払い相手に地獄の閻魔様もかくやという説教を終えたさとりの談。空から聞けば、それらはあの鬼・勇儀と途中まで同伴していた二人組のおかげらしく、会って礼をしなくちゃいけないな、と縁は心中で新たにできてしまった予定に溜息をついた。ちなみに食事は普通は中々怪我が治らない人間の事情を察したのか、さとりの命令でフレッチャーが作ってくれていた。
 
「ところでお前ら、仕事はいいのか仕事は。この前さとりに言われたばっかじゃないか」
「看病だからいいんだよ、言ってなかったっけ?」

 ふと思ったことを聞いてみれば、空が本から顔を上げて小首を傾げて聞き返す。特に意識しないで聞いたことなので、縁も「ふーん」と軽く答えた。その軽いやりとりを流していた燐が、そこで何か思い出したというように声を上げ、膝に雑誌を置いた。一瞬でよくはわからないが、ドッグイヤーをしていた辺り、また読むのだろう。

「そういえば人間、こいし様はここに来た?」
「……いや、来てないな」

 ほんの数秒前とは打って変わって、少なくない真剣みを含んだ声を出す燐に、縁は首を振って答えた。そしてそっちは、と視線で問い返すと、燐は肩を竦めて、空は肩を落として顔を若干俯かせた。
 あの夜以来、縁たちは、正確には自由に動ける空と燐はこいしとは会うことは叶わなかった。会う理由は勿論、こいしの様子が気になるからだ。およそこいしらしくはない態度、数日という非常に短い付き合いである縁でも可笑しいと感じられる雰囲気の変化。そして何より縁の頭にこびり付いているのは、古明地こいしの、無機質な笑顔。それとも、感情的なひび割れというべきか。
 地底からの、そして元の世界への帰還についてを忘れているわけではない。だが一度頭の中に巣くった問題、いや言語化できない負の感情を帯びた好奇心はその決意を一度思考の隅に封印し、行動の優先順位をたった一人の妖怪に持ち上げていた。

「そういえば、あいつには何か専属のペット……みたいな連中がいるんじゃなかったか? そいつらには?」
「うにゅぅ……そっちもだめ。無意識のこいし様もだけど、あの三匹も全然見つからないの。まるで避けられてるみたい……」
「他の奴らに聞いたら、頻繁に屋敷の外に出てるって聞くし……さとり様のところにも現れないみたい」
「そのさとり本人は?」
「…………教えられないって」
「……? 八方塞がりってとこか」

 数秒の沈黙の後に語った燐のどこかよそよそしい態度に疑問の鎌首をもたげながら、縁は進展のない現状に「くっそ」と悪態をついた。空も燐もそれを理解して渋面を作ると、それをすぐに忘れようとそれぞれが今現在興味を持つものへと戻った。燐だけが未だ硬い表情のままだったが、縁もそれに倣い意識を変えようとして、がしがしと後頭部を掻いた。
 この二人が縁に張り付いているのは、空が漏らした通りで、あの時はこいしだけだったが、他の屋敷の妖怪やペットたちに害がないか見張っているだけなのではないか、と推測できた。しかしそれでもこうやって話し相手になってくれている辺り、そこまでの他意はないだろうとも好意的に思ってしまう。人間である縁にとって、会話とは飢えるものだから、正直に言えば助かっていた。
 不意に窓の外を見上げる。天井、繰り抜かれたお椀がある。そこにはあの光り輝くものはなかった。地上には常にあったあの光、人類が焦がれ続けた光が。

「太陽が恋しいぜぇ…………?」

 夢想する日の光を視界に透過しようとした時、不意に天井近く、遠くだが天へと続くだろう縦穴のすぐそばで、何かが光ったのが見えた。思わず身を乗り出してそこを注視する縁と、何事かと縁を見、ついで窓を覗き込む空と燐。
 初めは幻かと思っていたそれは見間違いではなく、縁が目を凝らす間にも次々と光は瞬き続けた。色彩も様々であり、遠目からでは花火が次々と咲き乱れる光景に似ていた。いい加減幻想郷というもの特有の不思議さに慣れてきたはずの縁も、また新たに視界に現れた未知の現象に興味を引かれた。

「なぁ、あれってなんだ? 真昼間から花火でもしてるのか?」
「アレは弾幕だよ。それと花火って何?」
「おくう、花火は人間が作るでっかい花って前にさとり様が教えてくれたじゃない……それにしても、人間って弾幕のこと知らなかったの?」
「ああ。さっぱりわからねぇよ。少なくとも、元……外の世界の奴とは違う気がする」

 縁が弾幕と聞いてすぐに思い出したのは、それこそ戦争映画やドキュメンタリー、果てはアニメに出てくる銃火器を用いた、総じて、敵を近づけさせず、かつ殺すための弾の壁だった。
 そのせいか、縁は彼女たちの口から出た言葉に、内心寒気と恐ろしさ、そして度を越した呆れを感じていた。ただでさえ、人間と妖怪の差は歴然と言われている。それは数日前の喧嘩で、例えあの時はマグレで勝てたとしても、本来は勝てない存在だと理解すべきものだったのだ。その差があるのに加えて、離れた位置からの攻撃手段など、反則もいいとこであった。
 
「ふ~ん。外の世界のはわからないけど、こっちではスペルカードルールのおかげで、揉め事の解決に使われてるなぁ」
「スペルカードルール? また何か、わかりやすそうでよくわからない単語が出てきたな……」
「まったく面倒くさいなぁ……いい? まず弾幕ってのはね」

 フレッチャーのような口調で溜息をついてから、少々顔が柔らかくなった燐は手のひらを上にして胸元まで掲げ、握りしめる。そして次に開いた時、そこには青い炎が生まれていた。これには縁も身体の痛みも忘れて目を剥いた。

「うお、何だそれ! 手品か!?」
「何変なこと言ってるの、これが弾幕よ……ま、その弾の一つだけど」

 そう言っている間にも彼女の手の平で踊る人魂にも似たそれは、細胞分裂のように数を増やし、ゆっくりと燐の周りを回り始める。そして燐が指揮者がタクトを振るように手首を翻すと、鬼火たちは動きを止め、まったく違う軌道を描きはじめた。一連の動きに、さながら漫画の中のような光景に、縁の心中にはこれまでとはまた違った感動が押し寄せた。

「すげぇ……魔法みたいだな」
「魔法なら普通にあるよ?」
「え、ほんとか?!」
「うん、けど使える奴は地下にはいないけど」

 縁の一度込み上がった男の子特有の感情を無碍にも落として、おもむろに懐からおよそ地底旧繁華街の町並みとは不似合いな、縁のいた世界にありそうな模様と形をしたカードを取り出す空。模様は外枠に関しては無数の線が重なっているだけのように見えるが、それは間違いであり、幾何学的な数字や縁では読めないような古い文字によって描かれた文の羅列であった。それは模様の内側に関してもそうであり、中央にそれとは違う大きな文字で言葉が書いてあるだけだった。残念だが、縁にはそれを読むことができなかった。
 
「それは?」
「これがスペルカード。う~ん……弾幕と一緒に使うもの、かな?」
「へぇ……投げつけたりとか?」

 自分で言った言葉を即座に想像してみた。ダーツのような鋭さでカードを投げ合う空や燐たち。カード本来の切れ味もあり、中々危険な光景が縁の脳内に浮かび上がっていた。
 その根拠のない想像に「うわぁ……」と顔を青ざめる縁に対して、燐は「何変なこと考えてるの、ばっかじゃない」とトゲの混じった言葉を返しながら、空と同じようにカードを取り出しベッドの小脇に置いた。顔をムっと顰めさせながらも縁はそのカードをとってみた。
 空のものと似た、しかし彩色や言葉の羅列の配置が違うなど、他にも様々な違いが列挙できる。しいていうならば、その羅列が少し離して見れば、先ほど燐の手の中にあった炎に見えるということだった。だが一番気になるのは、スペルカードを手に取った瞬間から感じる、奇妙なダルさ。筋肉痛や風邪などといった酷いものではない、カードを持つ左手から徐々に重しをつけられているような奇妙な気分であった。

「ものを投げるならそれはただの弾幕よ。スペルカードっていうのは、それぞれの得意な弾幕とか大技を形として残しているものよ」
「……必殺技みたいなものか?」
「意味はよくわからないけど、たぶんそれ」

 縁の持っていたカードを引ったくって、燐はそのカードを仕舞った。

「で、スペルカードルールっていうのは、弾幕とスペルカードを使った決闘。相手のスペルカードを全部ノすか、スペルカードに溜ったエネルギーが全部放出されて使用不可になるか、戦闘不能になったら負けってとこ……あとは確か、美しく、だっけ?」
「う、美しく……?」
「ん~と…弾幕は精神がそのまま力になる、だから弾幕勝負は心の美しさの戦い……だったっけ? たしかそんな理由だった気がするわ」
「うわぁ……お燐、さとり様みたい。小皺とかありそう」
「なんだとー!! だったらアンタも少しは覚えときなさいこの⑨鳥~!」
「うにゅぅぅぅ!! 二度ネタはだめぇぇ」

 余計なひと言で燐からグリグリとウメボシで固められた空を尻目に、縁は未だ窓の外で続けられている花火の輝き、いやスペルカード・バトルを見上げた。その弾幕の色は最初に見た時とは変わり、緑の丸い弾から次々と黄色のものがその軌跡に残されていた。金魚のフン、と縁が不謹慎なことを考えていると、突如それはまた別の方向、緑色の弾の進行方向から放たれた弾幕に打ち消された。
 それを見ていて、果たして自分もできるか、と興奮気味に思考が回り始め、先ほど燐が出したような人魂に似た弾を脳裏に浮かべ左手に現れるのを力強く念ずる。気分は今でも時々やってしまう、某龍玉の必殺技であった。だがそれと決定的に違うのは、念じていればもしかしたら、本当に魔法のような力が出るかもしれない、という希望的観測が小学生のような心境で存在していることだ。

「ぬぬぬぬぅぅ……はあぁぁぁぁぁ……どぉぉぉりゃぁぁぁぁ……だっしゃーー……」

 必要以上の力で目を瞑り左手に力を集中し、何かしらそれっぽい掛け声をあげてみる。気分は小学生のころにやっていたかめ○め波と同じ、ただそれのみを思う純粋にして強い気持ち。男の子というロマンチストな生物の夢、それの実現のためにひたすら込める。
 しかしそれも長続きはしない。ただでさえ傷を負ったままなのだ、ぷはっと息を吐いて全身から力を抜く。額にはいつの間にか汗が滲みだしていて、慌てて拭った。そして、今までじゃれ合っていたと思いこんでいた空と燐が、まるで気味の悪いものでも見るように縁を見つめていることに気づいた。
 何故か冷や汗が流れ始めた縁。即座に、これが正常なものであることを伝えるべく口を開く。

「い、いやな、何かすごそうだから俺も弾幕出せないかなぁって試してただけなんだ。それでさっきの声はそれをより出しやすくするための外に伝わる技法で……」
「うにゅ、さすがにそれは嘘だよね」

 なぜバレたし、とどうしようもないことを心中で吐き出した縁に、空の代わりに燐があからさまに呆れと蔑みを織り交ぜた目を向けた。

「アンタみたいにこっち来たばっかの人間がそう簡単に弾幕なんて出せるわけないでしょ。⑨じゃないっ」
「んな、男のロマンを⑨呼ばわりするか、この猫娘は!」
「意味がわからなくて無駄に汗臭い行動は⑨でいいじゃない、この変態ロリコンおっぱいハンター」
「だから、んな言いがかりな称号を……」

 いつかのような応酬そのまま、即座に不名誉を押し返そうとした瞬間、それは聞こえてきた。

「変態で」「ロリコンで」「おっぱい狂いは」
『紳士の証!』

 部屋中に突然響いたその声に、縁の言葉は遮られ、そして縁がその旨を言ったのかと疑いと軽蔑の眼を向ける空と燐。しかし二人は、すぐに縁を背後にある窓を見、口をポカンと開けた。何事かと縁も背後を振り返り、絶句した。
 いつの間にか窓の外に現れた三つの影。どのような力が働いているか縁にはわからないがとにかく空中浮遊していること、そして人とは言えない、まるで四足動物が無理やり二足歩行をしているような姿形から、妖怪またはそれに準ずるものであることが伺える。だが何よりも気になるのは、三匹が三匹とも誇らしげに腕組みをし、そしてそれぞれ色が異なるフンドシ一丁を巻き、どう見ても女性のものとしか思えない三角の布を頭に被っていたからである。
 縁たちの心はさとりが読まなくても普遍的な意味で理解し合えた。変態がいる、と。

『とおっ!』
「のわっ!」
「うにゅっ!?」
「にゃ、にゃに!?」

 一昔前の特撮ヒーロー物のような掛け声と共に窓へと突っ込む三匹。絶句し呆けていた燐と空はそれに反応し、身体を強張らせた。縁もまたこれから起こるであろうガラスの破壊という事象に身体を守りに移すが、その際殆ど無意識の状態で体を捻り、右腕を上半身と一直線になるよう掲げ、下半身は右足を僅かに上げて盾にすることで、偶然の結果として縁が二人を飛び散るはずのガラス片から守る形となる。

「……?」

 だがそれも、予想された衝撃が来なければ道化(ファルス)そのものだ。縁たちが一瞬目を閉じて数秒の時間の合間に、窓という物理的な壁を文字通りすり抜けた影達は燐たちの横を通り抜けていた。それに遅れて気づいて六対の目が各々向かうと、ドアの前に着地しているはずの三つの影の内一つ、黒いフンドシがドアにめり込んでいた。しかも頭からである。そしてそれを引っこ抜こうとする青と茶と白の三色をバランスよく配色したフンドシと、黄色という誤解されかねない色のフンドシが気張っていた。

「……なにこれ、ふざけてるの?」
「……面妖な、変態紳士どもめ」
「二人とも何いってるの!?」

 あんまりな状況に不思議な、しかし現状をよく表してしまう言葉を吐露してしまった二人に怯える空。コントにもならない三人の掛け合いの間に、黒フンドシの頭は扉から抜け出しており、何事もなかったように仁王立ちで並んで腕を組んでいた。
 三匹の背は燐の腰程度までしかなく、まさに動物といった体つきや体毛を生やしている。外の世界の基準でいうならば、ただの奇妙な動物という評価が下される容姿だった。フンドシと頭に被る三角形の布地がなければだが。

「ナカグニエニシという随分と調子のよさそうな人間はそこのきみかい?」

 その内の一匹、先ほどまで頭が扉と合体していた黒フンドシが一歩前へ出て、ベッドに座る縁へと声をかける。先ほどのギャグとしか言いようがない状況を見たせいか、嫌味と捉えられる言葉づかいをスルーして素直に答えた。

「そうだけど……で、そっちは何だ? どう見ても変態にしか見えな……」
『よくぞ聞いてくれたぁ! 我々はっ!』

 また縁の言葉を遮り、三匹は突如同時に声を張り上げ、ポーズを取った。それこそ戦隊物のような、意味がよくわからないポーズである。
 
「ブラック・カドル!!」

 羊に似た顔つきの黒フンドシが両手をワイの字に掲げ、片腿をあげるというグリコの絵柄そのままのポーズをとりながら叫び。

「イエロー・カニス!!」

 犬の顔をした黄色フンドシが右足を上げ、腰を低くし、まるで右手に箱のようなものが乗っているというように右手を掲げ左手を腰につけたポーズをとって続き。

「ブルー・ダン!!」

 黄色とはまた違った犬の顔つきをした青茶フンドシが、両手を八の字に構え、腰を落とした姿勢で締めた。

『三匹合わせて、こいし様親衛隊コジマンジャー!!』

 そして、まさしくそれそのものだという合わせ声が部屋を突き抜け屋敷中を震わせた。ちなみに爆発音の幻聴は縁の中でしか起きなかった。

「……え、えーと……つまり、こいし様のお付きのペットだよね?」

 沈黙が今にも降りようとする中、何とか声を振り絞って空が未だにポーズをとったままの三匹へと尋ねる。その内一匹、黒フンドシのカドルがポーズを解除して再び腕組みの状態へとなって空へと目を向けた。
 突然の出現とキチガイな奇態に対し一瞬にして恐怖感情を植え込まれた空が、それだけで体を震わせた。

「その通り。僕等はさとり様の命でこいし様の御側付きになったペット。おかげでこいし様についてなら、知らないものはあんまりない」
「……それ本当か?」

 空と殆ど変らない理由で戸惑っていた縁が口を開くと、今度は黄色フンドシ、カニスと名乗った妖怪がポーズを止めた。その顔には、動物のもので縁にはよくわからないが、根拠のない自信の様なものが浮かんでいると張り付いていると見えた。

「信じてくれてもいいぜ、何せオレたち、サイキョウだからな~」
「さ、最強?」
「もちろんだ。俺達は逃げ足に関しては間違いなく最速だからな」

 今度は青茶のダンが応答し、自らの足を軽く叩いた。こちらにもカニスと同じような自信が、しかしカニスよりも幾分か小さなものものであるような気がした。 逃げ足かよ、というツッコミをしたら負けかなと思い、縁はそれを唾と一緒に呑み込んだ。
 それでようやく、突然現れた三匹に対し何とか平常心へと戻っていった縁は、チラと空と燐は見た。空は相変わらず涙目になって怯えているだけだが、燐は縁の考えていることと同じことを考えていたかはたまた察したか、視線に対し横目で返し、こくりと頷いた。
 即ち、どうして彼らがここに、今になって、現れたか、ということである。それを縁は直接ぶつけることにした。

「……で、アンタらがこいしのお付きってのはよーくわかった。けど、どうしていきなり現れたんだ? 空から聞いた話じゃ、俺たちのこと避けてるって聞いたんだが」

 正確には燐と空の二人だけであり、かつ避けられているかもしれないという億足であったが、敢えて縁は自分もその中に加えた上で断定の形として尋ねた。打算的な部分もなくはない。それに対し、三匹はまったく同時に人差し指を振り、手品師のような不敵な態度を取る。

「それは単純な話、オレたちがこいし様を探していたからだ」
「こいし様の性格と能力上、どうしても俺達は後手に回ってしまいすぐに見失ってしまう。だからはぐれてしまった場合は、他のことを全て考えずにただこいし様のことを考えるようにしているのさ」
「だからこそ、僕等がキミたちを避けていたと誤解されても仕方のないことだよ」
「……つまりこいしを探してる間、他の奴は眼中にいれないってことか?」
『Exactly!』
「さとりとかでも?」
『YesYesYes!』

 どこかで見たことのあるようなポーズで肯定する三匹に、それならさ、と縁は一拍を置いてさらに続ける。

「俺たちに会いに来るだけの余裕があるってことは、こいしと会えたってことだよな?」
「??? 縁ぃ、どういうこと?」

 突然の縁の言葉に最初に眉を顰めたのは空だった。それは単純に縁の言葉をうまく理解できないことから生じるものであったが、その意味をすぐに察した燐のそれはまた複雑なものであり、三匹に至っては仰け反って驚いていた。

「ん、あー。つまりさ、こいつらはこいしのお付きだろ。ならこいしと会えたなら傍にいて遊んだりしてても可笑しくないわけだよ……それが何でか俺たちに会いに来た。もしかしたら、こいしの傍にいられない理由があるか、はたまたこいしに何かがあってその何かの理由を俺たちに聞きに来たか……」
「……え、えーと、ようするに……この前のことの後に、こいし様に何かが起きて、それを聞きたくてこの変態たちが来たってこと?」
『変態ではない! 変態という名の紳士だ!!』
「うっさいわよアンタたち!! もう少し静かにできないの!」

 ようやく縁の意図を理解しかけた空の頭から、折角まとまった思考を吹き飛ばしかねないほどの大音量で叫ぶ三匹に燐の怒鳴り声が響く。空も、ここ最近に同じような経験があるからか、物事を忘れやすい性質であろうとも、身体が勝手に耳を塞いで最低限の防御をしていた。それでもタイミングが僅かに遅かったのか、目を回している。

「さっきから脱線しまくりじゃねぇかよ……結局どうなんだよ?」
「いや、テメーの考えは正しいぜ」
「そしてその憶測は、両方とも正解だ」
「だからこそ、僕達コジマンジャーはあの時こいし様に、キミたち三人の誰かが何をしたのかを知りたいんだ」

 そう言われても、縁たちもその具体的な例がぱっと浮かばなかった。それがわからないからこそその原因や因果関係となり得ることを知っていそうな彼らを探していたのだから、彼らの言葉は丁度よいものでもあったし、直ぐには答えられるものでもなかった。
 腕を組み悩む縁と空とは別に、燐はすぐに思いついたことを、疑問という形で返した。

「ちょっと待ってよ、その前にアンタ達はこいし様に会ったんでしょ? 一体こいし様はどうしてるのよ?」
『………間食をよくするようになっただけだ!』
「いや今明らかに間があったのを叫び声で紛らわそうとしたよな?」
『気のせいだ!!』
「だから、いちいち声が大きいのよ!!」

 先ほどから大声に大声で返し続けていた結果、肩で呼吸をするほどに体力を消耗してしまった燐。「もうやだこの汚染患者」と小声で呟いていたが、それを聞こえたものは幸か不幸かいなかった。縁も一度深い溜息を吐いて、気を取り直してまたあの三匹に向きなおる。

「とりあえず、こいしは元気ってことなのか?」
「ああ、そうなるね……無意識にとって常が元気でもあるから、そんなの関係ないかもしれないけど」
「……妙に引っかかる言い方だな?」
「い、いやぁそそそりゃないぜ? それよりも、いい加減そっちがこいし様に何をしたのか教えてくれないか?」
「何っつっても……なぁ……」
「うにゅう……縁がこいし様の頭をなでただけだよね?」

 縁の賛同を求める様な空が何とか記憶に留まっていた記憶映像を思い出して言葉にする。だがそれを聞いた直後、今までの三匹が醸し出していた、道化が主役の喜劇的な雰囲気が揺れた。
 それは肉体にも影響を与え、ぴくりという震えに代わり、すぐに縁たちに背を向け何事かを小声で相談し始めた。その声は燐にも聞こえないほど、それでいて十数秒で終わりを告げて縁たちへ顔を向け、仁王立ちの構えをとった。

「厳重な審議の結果、こいし様はただの人間に一方的に触られてむしゃくしゃしているだけだと判明した。よって我々はそのストレスを解消するためこの場から引かせてもらう」
「どこが厳重な審議だ、どこが。それに……」

 もう何度目になるかわからないツッコミを縁が入れようと思った途端、三匹が一斉に後ろへと跳んだ。扉にぶつかる、と縁が思った瞬間、三匹はまるでそこに何も存在しないかのように、扉という障害物を通り抜けていた。その光景は、水面に物が落ちる時に似ていて、何処か不気味であり滑稽なものであった。
 その光景に呆ける三人。その中で、燐がこの場の言葉を的確に表すひと言を漏らす。

「……逃げられた?」
「……っておいマジかよ!?」
  
 その言葉によって意識の再起動に成功した縁は、痛む体に鞭打って立ち上がると、すぐにドアの前まで行き開け放つ。そして辺りを見渡し消えたはずの三匹の姿を探した。
 それはすぐに見つかった。廊下の角の直前に三匹の姿が浮かんでおり、曲がったところで再び姿が見えなくなる。
 あからさまに分りやすい反応に態度。アレが素なのか計算したのかは縁にはわからないが、しかし何かを知っているのは確かだった。体のコンディションは、無理に動かなければ大丈夫だ、と言っている。

「なろ……とっ捕まえてやる!」
「お、追いかけるの!?」
「当たり前だ、先行くぞ!」

 部屋の中から聞こえた空の声に即座に答え、修復中の骨に可能な限り負荷がかからないよう注意しながら早足で歩く。あの先は階段とエントランスがある、こいしの居場所が縁たちに分からない以上、どちらに行っても可笑しくはなかった。
 歩きはじめた縁の横に、浮遊してすぐに追いついた燐と空がつく。

「まったく、何でアンタの方がそんな真剣なのよっ」

 若干の呆れと苛立ち、そして大きな疑問を乗せて燐が声を発する。独白にも似たそれはしっかりと縁の鼓膜を震わし、律儀に反応できる言葉が縁の内側からぽろりと落ちた。

「気になるからだよ、こいしのことがさ」
「………ふ~~ん」

 空の顔に、一瞬、影にも似た薄暗い感情がよぎった。それはしかし、縁も燐も地霊殿の他の妖怪たち、そして何よりも空本人でさえ気づかないものだった。
 そうこうしているうちに角を曲がり、エントランスと上の階へと続く階段、そしてさらに先の廊下が視界に入った。しかし、肝心のフンドシ三匹の姿はどこにも見当たらない。
 
「別れたほうがいいなこりゃ」
「同感、あたいは上に行ってみるよ。空はどうする?」
「ん……それじゃあ外に」
「わかった、んじゃ後で俺の部屋集合でいいか?」

 二人はすぐに頷き、それぞれがそれぞれの場所にすぐに飛んでいった。縁もまた身体に気遣いながら歩きはじめ、そのまま真直ぐに進み、次の廊下の角を曲がった。
 古明地こいしが、そこにいた。ただ何気なく歩いている。歩調に澱みはない。自分の部屋へと向かっているのか。

「……こいし?」

 ほんの少しばかり驚いたが、すぐに都合がいいと思い彼女へと声をかけた。
 こいしが振り返る。碧眼が縁を視界に映した。その瞬間、縁の全身の細胞が一瞬に沸騰し、悲鳴を上げた。空腹の肉食獣に睨まれた昆虫、そう自分の立ち位置を冷静に認識する縁の思考の一部が、自然と、居候先の妹相手に構えを取らせていた。喉がすぐに乾いた、目を離した瞬間に自分が消されてしまう錯覚すら覚える。
 それほどまでに、そのこいしの瞳には、何も映っていなかった。縁の名を呼んでいたはずの彼女の眼には、縁というものが存在していないようであった。ただ、オブジェクトを見ている。たったそれだけ。

「っ……こいし!」

 絞り出した声の意図は、叫んだ縁自身にもわからなかった。だがそれがこいしへと届いた瞬間、瞳に縁が映し出され、異常な空気が鳴りを潜めた。

「……あれ、縁ちゃんどうしたの? 変な格好して?」

 そうして喋った言葉はあまりに普段の彼女であり、縁は急に全身から力が抜ける思いがした。今日一番の溜息を吐き、既に構えから解いていた右手を後頭部にやって、何とか笑みを作ろうとした。

「いや……何でもねぇ……それよりどうしたんだ、こんなところで」
「え、わたし? ん~……どうしてだろ?」

 そういって彼女は頬に手を当て思惟を始めた。常にある楽しげな表情を浮かべながら。
 今のは自分の見間違いだったのか、と縁は自答する。だがその答えは、左手のひらにいつの間にか滲み出ていた汗が教えてくれた。しかし今起きたこと、今のはなんだったのかと聞くのを縁は躊躇した。何故か、彼女がそれを答えられないのではないか、という気がしたのだ。直感に近い。同時に、藪蛇の未然防止でもある。
 だから今は、本来のことを尋ねることにした。
 
「なぁこいし。この前の……あー、勇儀の家でのこと覚えてるか?」
「? ん、何だっけ?」
「いや、ほら、二人で外に出かけただろ。その夜の……」
「あれ、わたしって、縁ちゃんと一緒にどこか遊びにいったことあったっけ?」
「……えっ?」

 我が耳を疑い、次いでこいしの目を見た。相変わらずの笑みに、困惑がない交ぜとなっていた。

「い、いやだからさ、この前の……」
 
 言いながら、可笑しいと感じなければいけなかったのだ、と縁は思惟する。何故ならあの夜、こいしの表情には変化が起き、そしてあの三匹の態度からこいしに何かがあったのが間違いないはずなのだ。だが今の彼女は、最初に見たあの異常な状態を引っ込めた後は、まるでいつも通りだった。そう、いつも通り。変化が起きていない。
 
「ねぇ縁ちゃん、何かあったの? そもそも縁ちゃんっていつからここにいるんだっけ? 一か月前? 半年前? 三日前? 一年前? それとも……あの日から?」

 ただ純粋に疑問だけを浮かべて、無意識の少女は縁に尋ねた。何事もなかったように。
 縁が唾を飲み込むのと同じくして、こいしの第三の目が震えていた。





 屋敷のどこからか突然現れた一つの心に、さとりはどこか懐かしさを感じながら、次いで沸き上がった恐れと憐れみに己の目を握った。体外にある第三の目。妖怪『覚』の持つ、他者の心を読み取る目。その眼が今、実に数百年ぶりに感知した、ある心と、その眼の前にいる人間の姿を映し出す。

「………哀れな子」

 言って、さとりは自分が酷く自虐的な言葉を言っていることに気づいた。そして嘲笑う、自分自身を、古明地家のレゾンテートルを、妖怪『覚』の宿命となれの果てを。
 その時、扉の前に誰かが立っているのがわかった。さとりはその妖怪がノックをするよりも早く声をかける。

「入ってきなさい、お燐」

 扉が開く。三匹の妖怪を追いかけていたはずの燐が、釈然としない、浮かない表情でさとりの部屋へと招かれた。その心の色が涙と同じ色をしていることにさとりは気づいたが、しかし何も云わず、言葉だけを抽出する。

「『あの三匹はどうして事情を知っているんですか』……そうですね、実を言うと、それは私にもわかりません。てっきりあの時のことは、私とフレッチャーぐらいしか覚えていないと思っていましたから」
「……その、あの時のことって何ですか? あの人間ならわかりますけど、何も空にまで無理に隠そうとしなくても……」
「『そしてアタイもまだ何も教えられていない』。そう、そうなのです。だけど今は何も言わず、指示を聞いてくれればいいの。中邦さんはいずれここを去ってもらう人間であり、そしてこいしの心に半分土足で踏み込んでしまった。だからこそ、教えられないのです……人間と妖怪では、寿命も違えば、在り方も違うのですから」

 そうして、さとりは思い出す。幻想郷の、地上の、こいしの目が未だ閉じていなかった過去を。その過去が、突然ある場面から暗転し、今のこいしがぽつりと闇の中で立っている。笑みを浮かべている、それしか知らず、ただ無意識という一つのベクトルに傾けられた感情のままに。背後にうっすらとちらつくのは、過去という亡者。妖怪『覚』の不可抗力であり、数多の人間の形。それがない混ぜとなる前に、その陰欝とした思考を中断し、畏怖の色を称えた目をする燐へと向ける。

「おくうにも教えない理由は……あの子は、中邦さんに近づきすぎている……だから教えず、あのことを言いません。きっと今のおくうは、中邦さんにそのことを伝えてしまう」
「……ええ、そうですね。あたいも、心底そう思いますよ」

 燐は笑おうとしたのだろう。だが、その顔は妖怪にしてはあまりに複雑で、ただ見るだけならば恐怖と笑みが合わさり、ひきつっただけのものにしか見えなかったろう。

「……それは貴女もですよ、お燐」
「……あたいが?」
「そう。だけど、まだおくうよりは遠い。だから貴女に頼んだの」

 そうしてさとりは、自分のペットに、自分を畏怖するペットに、そっと言葉を伝えた。

「もしもの時は、あの人間を殺して、と」





 割とどうでもいい設定とかオリキャラの紹介:

林皇十一(りんおう といち):
 林皇家の十二人兄姉の第十一子、三男に当たる比較的若い妖怪。性格は嫌いなものは嫌いで苦手だが、一度受け入れたものには竹を割ったような快活さで触れる好青年な一面も持つ。また地底の妖怪らしく(むしろ妖怪としての面が強く)、お祭り好きで喧嘩早い。双子の妹とはよく喧嘩をするが、弾幕及び肉弾戦双方で勝率はあまり高くない。だからといって人間相手には決して引けを取らない、むしろまず負けることはない身体能力を持っている。
 『鋭さを変える程度の能力』は基本は爪や牙にのみ応用される、文字通り鋭さそのものを変える力。切れ味のいい刀をなまくら程度したり、集中して本気を出せば単分子刃と同じ領域までの鋭さまで変えられる。だが弾幕戦ではあまり意味のない能力でもあるので、昨今の弾幕勝負では弾幕のパターン作りに余念がない。しかし苦手である。
 元ネタは漫画『宗像教授伝奇考』のエピソード、『縄文の虎』より。



『月刊少年トーラス』:
 少年から社会人まで幅広く支持されている男性向けコミック誌。販売しているのは株式会社レイヤード。英集社にて問題を起こし退社した英集社・東北と倒産したアリアビット及びメディアナードの生き残りが、宙学館の支援を受けて設立した新興出版社である。
 現在の連載作品は。
  コードオルカ~逆流の水没王子~
  とっつき!
  まもってエイ・プール
  AMIDAといっしょ
  イナズマゲイヴン
  荒川ロストグラウンド
  ハチミツとディソーダー
  魔方陣ソルディオス
 以上の八作品である。この内「まもってエイ・プール」と「ハチミツとディソーダー」「コードオルカ~逆流の水没王子~」は一度アニメ化し、来期には「とっつき!」も地上波で放送される予定である。ちなみに「とっつき!」とは入学したての女子高生四人が廃部寸前の『とっつき部』に入部しその中での青春を描くハートフル学園とっつき漫画である。登場人物は主にキサラギ唯、ムラクモ澪、ナービス律、アルゼブラ紬の四人である。



  あとがき:

興<遅かったじゃないか…

 と言われかねない更新速度ですんませんorz ギャルゲーのアニメなどにある個別のルートの時系列的な踏破でいいますと、こいし編がスタートしました。相変わらず更新速度に比べて量も質も悪いですが…所詮は二流(SS作家)ということか…
 掲載する板に関しては、ちょっと今回のネタの件もあり、やはりチラ裏での連載にします。むしろそろそろ東方しか知らない人向けのACネタ紹介はやっておいたほうがいいのでしょうか…その逆もまたしかりということで。
 ああ、嫁の天子のフラットな胸にダイブインしたい……




[7713] 第六話――婆<いい度胸だ…投稿が終わったら覚悟しておけ
Name: へたれっぽいG◆eaa9c481 ID:f33d8d16
Date: 2011/02/14 14:11
 こいしは縁を見つめていた。彼が果たして何時、どこから来たのか。今この瞬間、彼女の頭からその記憶が消失し、考えもしない疑問だけが彼女の内側にあった。それが縁という異邦人を見つめ問いをかける、という行動に繋がっていた。
 同時に巻き起こるのは、縁の顔の変化。こいしの瞳に映っているのは、今すぐにでも縁のものである顔というパーツを奪おうとしている、人間らしきものの顔だった。侵食するように縁の顔を奪っていくそれに。さながら抗体が働いているとでもいうべき動きで元の顔へと変化する縁の顔。昆虫の擬態か変態にも似た奇妙な光景。こいしの目の中で、鮮やかに、そして生々しい色の変化とともに、縁を乗っ取ろうとする人間がこいしへと、何かの表情を向けようとしていた。
 そのことなど実際に見つめられている縁は露知らず、ただ目の前の少女に対する違和感と、背筋を下から上へと這い寄った悪寒を必死に抑え込みながら、なぜ彼女が先日のことを覚えていないのか、そして問われた言葉の意図を懸命に計っていた。
 不自然なほどにいつも通りのこいし。果たして妖怪というものが明確にどこまで人間と線引きできているのか未だよく分かっていない縁は、ただこいしを擬人的に考え、そこからなぜ今の問いが現れたのかを推測するしかなかった。しかしその推測・仮設すら、何も浮かばない。

「縁ちゃん……あなたって、だれ?」

 不意にこいしが縁へと、彼女にとって素朴な疑問を投げかけてきた。様々な感情が一時入り混じっていた縁は思わず体を震わせ、自分の中の疑問を見失いかけた。意志と意地によってそれを引き止め、今は彼女の言葉に答えようとする。できるだけ、笑みを、いつもこいしと接する表情を作って。

「…何言ってんだよ、俺は…」

 そして自分の名前を告げようとした時だった。こいしがすっと両手を掲げた。縁を見る瞳には、縁が映っていた。だがそれは清水の水面に汚濁を流し込むように濁っていき、縁の姿も、こいしそのものをも覆い隠していく。
 縁の中に沸き上がっていた悪寒・人間の動物的直観が危険だと、逃げろと叫び始めた。だが中邦縁の表層を構成する理性はそれを原因不明だと言い、この場に止まれと命令を下す。
 こいしが、一歩を踏み出した。その両手が縁の顔へと伸びていこうとした時。

『こいし様、お食事はいかがですか?』

 突如聞こえた声。こいしの動きが止まり、縁はそれを確認してから、声の主たちがどこにいるかと目を巡らす。その直後、わずかに距離の開いていた縁とこいしの間の床から、舞台装置のように飛び出してくる三匹の妖怪。相も変わらず三角の布を被っている半人型のカドル・カニス・ダンが、恭しく礼の形をとって、こいしへと手を伸ばしていた。
 床には鮮やかなガラスが嵌めこまれているだけだが、そこには彼らが通れるほどの穴はない。先ほどの壁抜けのことと照らし合わせて、これが彼らの能力かと縁が心中で推理していると、こいしがゆっくりと目の前の三匹に目を向けた。対の瞳は変わらず濁っているが、しかし徐々に光が差し始めている。しかしそれは、今度は光という色を流されているだけかもしれない。何故か縁は、そんな穿ったような考えをしてしまった。

「コジマンジャー……どうしたの?」
「はい、町の南に何でも新しい焼そば屋が出来たと聞きましたので、是非にと……」
「焼きそば!? わかった、すぐにいこっ」

 空いていた両手をポンと重ねて、笑顔へと変わったこいしの顔。三匹を代表して情報を告げたカドルを除き、カニスとダンがちらりと縁へ流し目をよこす。責めている、と一目でわかってしまうそれに、なぜそんな目を向けられたのか、戸惑いと理不尽に対する怒りが半々、縁の中に芽生える。

「それじゃ、またね~」

 こいしは、何事もなかったように、笑顔のまま縁の横を通り過ぎて玄関まで走っていった。それを踵を返して三匹が追おうとする。呆気に取られていた縁も、すぐに正気に戻って、とにかくこいしを追おうとした。だが振り向いた先には、黄色と青のフンドシが仁王立ちしていた。縁はそれを見て、意図は読めずこいしを追えなくなったが、しかし丁度いいとも考えた。

「で、何だよお前ら?」
「……こいし様にこれ以上近づかないほうがいいぜ」
「じゃなきゃ今度こそ、命がないぜ?」

 分り易い警告に眉を顰める、次いで、先ほどからまるで分らない状況のせいで積り溜まっていていた苛立ちが声となって外へと出た。

「なら理由を教えやがれ。こちとらさっきから話が見えないんだ」
「……知りたいのか? アンタはそう思ってるのか……思ってるんだな」
「あったり前だ。そうじゃねぇと俺の後味が悪いし……もしこいしが困ってるようなことだったら、何とかしたいと思うだろが」
「へっ、吠えるな人間。こっちはこいし様のために、ついでにお前のために言ってるのによ」

 黄色フンドシの嘲るような口上に縁は奥歯を噛みしめた。見下されてる、そう理解していて「はいそうですか」と大人しくできるほど、縁は人間として出来ていない。二匹を逆に見下ろす体勢で、腹からくみ出すように声を出す。

「そんなん知るか、それはテメェらの理屈だろうがっ。こっちはただ、理由が知りたいだけだ。その後どうするかは、テメェらの知ったこっちゃねぇだろ」

 まさしく吠えるとはこのことだろう。縁自身、考えず、心という幻想の底から浮き上がった言葉をそのまま言霊へと置き換えて世界へと変換しただけだ。恥ずかしいという気は今はない。後はただ二匹の反応を待つだけだった。
 そして二匹のフンドシは目を丸くして組んでいた両腕を僅かに解いていた。だがすぐに顔を見合わせ、頷き合い、縁へと背を向けた。二匹の次の行動を簡単に予想できた縁はすぐに手を伸ばした。

「おい、まっ……」
「次会う時には弾幕の一発でも覚えていたほうがいいぜ」
「ま、それまで話はお預けだな……アバヨ、死ぬ覚悟だけはしとけよ!」

 不吉な言葉を締めくくりに、二匹は背から燐に見せてもらったような、そして縁が元の世界で見たジェット戦闘機のアフターバーナーのような光を噴き出しながら、先へ行く主たちと合流するために飛んでいった。見た目に違わぬ轟音の後、一人残された縁は、手持無沙汰になった手を自分の前まで持ってきて、開閉する。

「結局、わけわかんねーまんまじゃねぇか……」

 独り言を絞りだして、右腕を一際強く握りしめる。そうイメージする。金属の義手はギシリと音を立て、縁の見えぬ閉じられた手の闇の中で、淡い光を灯していた。



第六話『地獄繁華街で昼食を』
 


「うにゅ、それで結局何もわからなかったんだ」
「ああ……たく、意味がわかんねーよ」

 隣を歩き小首を傾げた空の言葉に縁は後頭部に両手を回して憮然と答えた。二人はそれなりに大きい声を出しているが、しかし周りが自然と出す音と比べると、すぐに周囲へと溶け込んでしまうようなものだった。二人が歩くのは旧地獄繁華街。縁が大怪我を負ってから五日、あの自称紳士の三匹との邂逅から既に一日が経っていた。
 その間、こいしは勿論、あの三匹とも会っていない。異常な早さだが、ほぼ完治した縁は掃除を終えて、情報収集と気晴らしを兼ねて外へと出てきたという次第だった。屋敷の中では、あれ以降、こいしの姿も、フンドシがトレードマークの三匹も見かけられていない、と空と燐が語っていた。それを教えてくれたとき、燐の顔が、どこか無理をしているように見えたのが、妙に印象に残った。
 一旦その時のことを思い出して、今は別のことを考えなければと頭の中からそのことを追い出し、一人で来ようとしていたのにいつの間にか付いてきていた空へと顔を向けた。
 
「で、何でお前は付いてきたんだよ」
「んーと…………お燐が、えーと……忘れちゃった」
「そこで忘れるのかよ!?」
「私、鳥頭だから」
「妖怪だからってそこまで鳥っぽいのかよ!」
「当たり前じゃないか、オレ達妖怪ってのはそういうものなんだぜ?」

 唐突に聞き覚えのある声が真横からかかる。つい先日、知ったばかりの声だ。空と共にそちらへ目を向けると、片手を敬礼のような形にして「よっ」と軽く挨拶をしてくる林皇十一の姿があった。空の顔に若干の警戒の色が滲む。それに気づかず、縁もまた手を上げて応えた。

「妖怪ってのは何かしらの具象や権現だったんだ……ってのは人間側の言い方だが、あながち間違ってもないんだよ。そういう意味じゃ、オレやそこの地獄鴉は動物……いや妖怪っぽいっていうんだ」
「出会い頭に小難しいことを言うのはお前んちの家訓か何かか?」
「会うたびにそういう会話してるからオレは乗ってやってるだけだよ」
「まだ二回目じゃねーか」
「まあな、まだ偶然で済ませられる段階だな」

 そこで二人はにやりと笑い合った。空は十一に対しての警戒を忘れてその光景を不思議に思い首を傾げるが、そのことなど関係ないとばかりに二人の青年は微笑を称えたまま歩きだした。まるで何年も親友をやっているような自然な動きに、空は一瞬呆けてしまった後、慌てて後を追いかける。いつも地霊殿のことを乏しめていた十一への警戒を再び頭に置いて。

「で、今日はどうしたんだ? 遊びにきたのか?」
「ま、そんなとこ……この前は色々あってじっくり話を聞けなかったからな、とりあえずあの穴のことと…」

 そういって、縁は頭上を見上げ、常に縁を見下ろしているような地底の蓋の穴、『地獄の深道』を睨む。それも一瞬、すぐに視線を落とし、街並へと移す。

「ここから無事に地上にいく方法……けど今は、こいしを探すことだな」
「あん、何だよ、もう帰ろうってのか?」
「あったり前だ、俺は元々向こうの人間なんだ。バカするダチもいたし生活もある、学校だってマズいかもしれないからな」

 学校、といった時点で、縁はふと自分はもういくつの授業を無断欠席してしまったのか、そして自分はもうどれほどこちらにいるのかを考えてしまった。少なくともそろそろ二週間はいるかもしれない。
 その間の、自分がいないあの世界、中邦縁がただ何気なく暮らしていた/自分自身を組み込んでいたシステム/日常を夢想し、不意に喪失感のようなものと、今更とでもいうべき郷愁、最後に帰らなければという帰巣本能染みた使命感と意志が身体中を廻り、行き着いた先には、幻想郷について聞いた日に見たあの夢、夢の中に現れた、縁という人間を忘却してしまった者達の目だった。
 ぞわり、と全身の血液が冷える錯覚。縁は慌ててその想像を意識の外へと追いやろうと頭を振った。その様子に隣りに追いついた空が首を傾げ、縁の顔を覗き込んだ。

「どしたの? 顔が青白くなってるけど……」
「いや……なんでもねぇ」
「ふ~~ん」

 そういって、空は手のひらを縁の額に押し付け、次いでそれを自分の額につけた。

「熱なんてねーよ」
「ううん、違うよ。死体っぽくなってるから熱が無いかなーて」
「勝手に人のこと殺すな⑨通り越してアホ鳥!」
「⑨じゃないしアホじゃないもん! ただちょっと忘れっぽいだけだよ!」
「そことは違うわボケ!」
「今度はボケって言ったー!」
「……おいおい、お前ら本当に妖怪と人間かよ。いくらなんでも仲が良すぎやしないか?」

 言い合いという名のじゃれ合いを始めた二人に、十一が肩をすくめ思ったままの言葉を口にした。それに疑問を、先ほどまでの嫌な想像を空の頬を引っ張るという形で消していた縁が、憮然としたままの顔で振り返る。

「何だよ、何か可笑しいってのか?」
「当然だ、何だその頬を引っ張るっていう如何にも子供同士がやりそうなじゃれ合いは? 一応妖怪ってのは人間から畏れられるもんなんだぜ?」
「うっせ、俺はまだ怖いって思ってるとこはあるぜ。けどな、妖怪だ何だっていってもコイツは空っていう女の子じゃないか」
「ほんにゃだっておひょうひゃらへをはらせー!」

 頬を引っ張られたまま喋る空の言葉の解読はできそうになかった。
 縁はとりあえず「おお、怖い怖い」といいながら更に動きを加え、まだよくて二週間しか共にいない少女をイジるのを止めない。金属の義手の力をセーブしながら行うそれは技術の無駄使いという他ないだろう。空はされるがままで涙目になりながら、ようやく反撃の手段を思いつき実行する。空の両手は一瞬にして縁の両頬に伸びると、一気に摘んで伸ばした。

「はひしやはる!?」
「ほかへしはよ!」
「ひゃひゅろかほらー!?」

 そのまま隣りに十一がいるのと往来であるのを忘れて互いの頬を引っ張りあう一人の人間と一匹の妖怪。子供ではなく低次元としか言いようがない争いに、通りを歩く妖怪や精霊が何だ何だと顔を向けてくる。先ほどの縁の言葉もあり、十一はしばらくぽかんと口を開けてひたすらに相手の頬をこねくり回す二人を見ているだけだったが、しかし突然に、溜めた空気が口から漏らすのと同時に破顔した。

「「あっははははははっっ」」

 突然笑い出した十一に縁と空が互いの頬を限界まで引っ張り合ったまま顔を向けるが、しかしその顔が珍妙なせいか笑いの度は更に増す。疑問符を頭の上に浮かべる二人に、十一は一しきり笑った後、いつの間にか出てきた涙を拭きながら、一息吐いた。

「そうだな、そうじゃなきゃオレ様が負けた意味がねぇ」
「ああ、そうだね。人間にもこういう奴がいなくちゃ面白くないよ」
「まったく……ん?」

 そこで十一は横から聞こえた声にようやく気づき、縁と空もいい加減互いの頬を抓るのを止め、最後に勢いよく離してから、赤くなった頬を抑えながら突如として現れたその人物を見つめた。
 小麦色の髪をリボンでポニーテールに括った女性だ。縁よりも2、3歳年上に見える外見に、縁から見て奇抜で幻想郷では溶け込んだ黒の無地のインナーを基調に、茶色でノースリーブのウエストコートと膨らんだスカートをメインとした服装。右手には大きな桶を持ち、快活さを前面に出す顔立ちには一しきり笑った後のもの特有の喜悦が浮かんでいる。
 縁は初めて会う人物に、説明を求めて空を見る。空も困ったような顔をし、しかし口元に手を当てて必死に思い出しながら説明しようとした。

「えぇっと……縁が倒れた時に薬を塗ってくれた人。名前は……」
「ああ、それはいってなかったわね。黒谷(くろだに)ヤマメよ。よろしく、地霊殿の地獄鴉と迷い子さん」

 それと、と繋げて女性・ヤマメは手に持っていた桶を縁たちの前に持ち上げる。縁と空は差し出されたそれの中を覗きこもうとした瞬間、桶が独りでに動き、その底の角が縁の顎を打ち上げた。「ぬほっ!?」と奇妙な声を上げて踏鞴を踏む縁に、桶の中にいた何者かが、ひょこりと顔を出して見つめる。顎をさすりながら縁はすぐに声を上げようとした瞬間、その顔は再び桶の中へと入ってしまった。
 その仕草に毒気を抜かされ、目をぱちくりとしながら目線を苦笑するヤマメに向ける。

「いや、悪いね。この子、キスメって言うんだけど、初対面相手には人見知りしやすくてね……」
「あ、あふ……ご、ごめんなさい……」

 か細い声と一緒に、再び顔が、今度はゆっくりと現れた。髪を頭の上の両端で結った、小さな見た目と相まって可愛らしい少女だ。問題は、その少女が、赤ん坊と同じ、ヘタをすればそれより小さな背丈しかないことだった。様々な妖怪や動物をこの幻想郷で見てきた縁も、まさかこのような体躯のものがいるというのは初めてで驚きを禁じえなかった。しかし、と街をちらりと見てみると、ちらほらとそれと似たようなものがふわふわと浮かんでいるのが見え、気づかなかっただけかと思い直す。
 そうしてキスメへと向き直り、また桶の中に戻ってしまうのを見て頭を掻き、縁はバツが悪いという顔でそっぽを向いた。

「あ~……悪かったな、突然中覗こうとして……」
「あ、い、いいんです……ヤマメさんにも言われますが、人見知りを直せないあたしが悪いんですから……」
「けどなぁ……」
「「あ~あ~、不毛になるとこちょっといいかい?」」

 顔を羞恥で真っ赤にするキスメを見て声を上げたのは十一とヤマメの二人だった。空は物珍しそうにキスメを縁の横から見ているだけで何もしていない。
 十一とヤマメは互いの顔を見てから、言いたいことがすぐに伝わり、ヤマメが最初に話を続ける。

「とりあえずこんなとこで話としけ込んじゃ悪いでしょ、どっか移動しない?」
「それなら西町の団子屋にでもいかないか? あそこならオレやヤマメさんの行きつけだしな」
「ん、別にいいぜ……というか十一、黒谷さんと知りあいなのか?」
「ああ、私はこの地底じゃ顔が広いからね……そこら辺は向こうについてから話そうじゃないか。ついでに、あんたについても、ね」

 十一の代わりに答えたヤマメはおもむろに縁にウインクした。さながら女優のように妙に様になっているのが魅力的で、縁は我知らず顔を赤くした。それに気づいた空が、なぜか顔を不機嫌にし、肘で縁の腹を突いた。

「な、なにすんだよ」
「ふん、私も知らないもん」
「なんじゃそりゃ」

 空はぷりぷりと縁の先を歩きながら、自分のその小さく現れた感情に心中で疑問符を浮かべ、しかし三歩歩きだしたところで忘れてしまった。



 一団が移動を始めた時、一匹の黒猫がその後を追っていた。リボンを耳元につけ二股の尻尾を持った、地霊殿になら何匹か居そうな猫であった。しかしそれは仮の姿であり、その中身は能力でもないただの力とあやかしの術によって変化した火焔猫燐であった。適当に空に言い訳をまくし立てて彼女一人で縁の傍につけ、そして縁は未だこの姿を知らないことを見越してずっと張り付いていたのだ。
 理由は昨日、いや正確には縁が喧嘩をして帰ってきた日の夜更け。自分だけが呼び出され、そして縁に張り付き、場合によっては殺すよう言われた。空には言ってもよい、だが薦めはしない。さとりの能力からはずれた場所で燐は心中でその言葉を卑怯だと罵った。
 何が時と場合か、その判断は一体どこにあるのか。殺すならとっくに殺しているし、今は何だかんだで生かしたいと思っているから生かしている。旧灼熱地獄の炎にくべる気も起きない。何よりも、燐の親友である空が縁を気に掛け始めている。そのような時に縁を殺せば、間違いなく空は怒るだろう。空は物事を忘れやすい性質とは言われているが、それでも付き合いを深めた相手のことはそうそう忘れないのを、燐は知っている。バカ故に、知らず知らずの内に深入りをし易いということもだ。
 だから燐の現時点の判断では、縁は殺さない。空と本気の喧嘩などしたくないからだ。しかし言われた通り、こいしとの間で『何かが』起きれば話は別だが。

「それにしても……変なおくうね、どうしたんだろ?」

 考え事を今の事へと戻し、先ほどのやりとり、顔を赤くした縁の小脇をつつくという空や、その前の互いの頬を引っ張りあうなどという傍から見ててバカそのものの二人に内心辟易しながら、疑問の形を心の中で分解していく。少なくとも、永い付き合いの中で燐はあの親友のあの珍妙な行動を見たことがなく、空が縁を気に入っているからといって説明や推測もできなかった。よくても、何だか近くに居すぎだ、と思うぐらいだ。よく考えれば分解するほどの疑問すらない。

「まったく、面倒くさいなぁ」
「ならやめちまえばいいじゃないか」
「うにゃあッ!?」

 毛と猫耳を立てて後ろを振り向いた燐の目の前には、片手を上げて「いよっ、火車猫」と気さくに挨拶をしてくる星熊勇儀がいた。相も変わらずもう片方の手には酒の入った盃を持って、如何にも酒臭いという形容が似合う雰囲気であるが、しかし一目で燐の正体を看破する辺り、伊達や酔狂で鬼をやっているわけではないと、燐は心中で零す。呼吸を整え常のペースを自分の中に呼び出し、邪魔者を見上げた。

「い、いや~勇儀様じゃないですか、どうしたんですか?」
「何、可笑しな猫が最近地底に住んでる人間の後を追っかけまわしてるのがおかしくてね。ついつい追いかけちまったのさ」
「あっはは、そりゃ確かに。ですけどこっちは、まぁ仕事なので」
「ふ~~ん……嘘ってわけじゃないか」

 顎を擦り意図の読めぬ表情をする鬼の姿に燐は冷や汗と一緒に舌打ちをしたくなっていた。鬼というのは概して嘘が嫌いである。数年前まで地底に住んでいたもう一人の鬼もまた、目の前にいる勇儀同様嘘が嫌いだった。だから燐は嘘ではない、ただ言葉の足りぬことを言ったのだ。

「けど、後ろめたいことはしてるみたいだね?」

 そして何気なく放たれた勇儀の言葉に、いつもの陽気さを取り戻そうとしていた燐は言葉を詰まらせる。燐は確かに後ろめたさを感じているからこそ、わざわざ変化という手段と、親友の空と離れているという行為をとっているのだから。その後ろめたさを感じる相手は親友だけであるが。

「図星みたいだね。ま、理由はわからんけどね」

 勇儀は視線を、西区へと向かう一団、特にその中に一人だけ紛れ込んでいる人間へと向けた。そしてしたり顔を向ける勇儀をもはや無視し、後を追うことに専念し始めた燐。それに対し勇儀は肩をすくめて酒を一口飲んだ。そしてそのまま燐の後を追い始める。

「……何で付いてきてるんですか?」
「そりゃ面白そうだからだよ。私だってあの新入りに関しては興味があるからね」
「それでも、勇儀様は別に隠れる必要はないですよね?」
「あらら、随分な口をきくねぇ……いや、そっちの方が地かい?」
「ノーコメントで」

 辛辣だな、と酒を飲む勇儀をもう意識しないようにして燐は追跡を再開した。途中何度かバレそうになり肝を冷やされる場面があったが、勇儀もただ楽しげについてくるだけで余計なことは言わず、特に問題もなく一団は西区の団子屋に到着、暖簾を潜って中へと入っていってしまった。
 自分もあの中へ入るか否か、似合わぬ仏頂面で思案する燐を見ていた勇儀は辺りを見渡し、ある店を見つけるとにやりと笑った。そして燐の首根っこを唐突に勇儀は掴み上げのっしのっしと歩き出す。

「にゃっ、何するんですか!?」
「何、そっちの店に入るだけさ」

 当然のごとく反抗する燐は鬼の力を無駄に使われ抑えられ、燐はすぐに諦めて途中からは自分から浮かぶという捻くれた反抗をしながら、勇儀の目で示した、縁たちが入った店の真正面にある居酒屋に入った。入る前には解放されると、店の中は典型的な座敷式、上がる必要があると思い、変化を解いて人型へと戻る。そのような変化というものには流石に見慣れているのか、店員や他の客たちは特に驚いてはいなかった。
 おもむろに選んだ席に勇儀が腰を下ろし、燐もそれに続く。ペースを握られたな、と心中で唱えていると、店員が近づいてきた。

「いかがいたしますか?」
「『雷電削り』とねぎま五本、そっちにはねぎまだけ」
「ハラショー!!(かしこまりました)」

 奇妙な掛け声をあげて厨房へといく店員。厨房からも時々「ハラショー!」やら「ハラショォォォォ!!」などといった無駄に野太い大声が聞こえたりするが、何かの合図なのだろうと、今は余計なことに気を使いたくないほどささくれ立っている燐はそう結論を付けておいた。そのままの目で、杯の中の酒を一気に飲み干した勇儀を横目で見る。目に宿るのは、疑惑のみだ。
 
「で、何でこんな協力するような真似をするんですか?」
「言ったろう、面白そうだからさ。それと……勘、かな?」
「勘?」
「そ、嫌なことが起こりそうなのと、すごく面白いことが起こりそうなこと、その両方さ」

 そういって勇儀は、赤い前掛けの店員が運んできた徳利『雷電削り』の蓋を開け、そのままぐいと口へ運んだ。相も変わらず豪快だなぁ、と何所か素直に感想を抱きながら、燐はあちらの店の席で談笑する縁たちへと目を向け、自分の、不服ともなんとも言い難い仕事を続けるのだった。




「へぇ、じゃあ地上を目指してるんだね」
 
 ある程度話しをし、注文した団子を食べながら尋ねるヤマメに、縁も口の中に含んでいた団子を呑みこんでから「ああ」と答える。他の三人もそれぞれが勝手に注文したゴマやみたらし、三色団子の味を楽しんでいた。串を持つ部分には小さく何かが彫られており、目を凝らしてみればドウマンが見てとれる。しかしそのような知識のない縁にとって、それはただ凝った彫りものだな、と単純な感想を抱くだけだった。

「まぁな、今はこいしのこともあるけど、いつかはここを出て元の世界に帰るつもりだよ」
「何よ、別にこっちに永住してもいいじゃない? 住めば都って言葉は知ってる?」

 楽しくなりそうだしね、と気さくな笑みを向けてくるヤマメに、そんな顔を向けられたらそれも悪くないかな、と縁は思いながら、しかし心の中ではその言葉を受け入れながらも否定し、言葉へと変えた。言葉使いはヤマメの雰囲気もあるのか、いつの間にか縁は砕けたものになっていた。

「そりゃぁな。確かに居心地はいいし話してみりゃ妖怪だっていい奴がいるってわかったし……けどやっぱ、帰れるなら帰りたいんだよ……なまじ、人の都合みたいなので連れてこられたなら尚更な」
「つ、連れてこられたん、でででひゅか?」
「キスメ、そんな無理に言わなくてもいいんだよ……まぁそれは別として。連れてこられたって、あんたの世界から幻想郷にってこと?」
「お、そうなのか?」

 好奇の目を向けてくる妖怪三人に、団子をそろそろ美味しくなってきた温かな緑茶と一緒に喉に飲み込んだ縁は、何か手がかりがわかるかもしれないと、隠し事はなしで喋ろうと考え話し出した。

「何てゆーかな……俺は家への帰り道に会った金髪バ…の女性に、何かわけのわからない内に幻想郷に落とされてな。そいつの名前は八雲紫っていうらしいんだが……何か知ってるか?」
「んー、オレは知らないな」
「あ、あたしも……です」

 名前にも見当がつかないと首を振る十一とキスメに我知らず落胆のため息を吐いた縁だが、しかし一人だけ答えず、しかめ面になって団子のついていない串を歯で噛んで上下させるヤマメに、まさかと思い声をかけようとした。だがそれよりも一拍早く、ヤマメの口が開く。

「……名前とウワサ、それに姿なら見たことがあるよ」
「な、本当か?!」
「ああ、けど私も大分昔だからそこまで覚えちゃいないけどね……それでも聞く?」

 当然とばかりに縁は頷く。それまで縁の隣りで食べてばかりで話しに参加してなかった空も耳を傾け、十一とキスメも顔を寄せた。「んー」と頭に手を置いて話しのものを思い出しながら、ゆっくりと喋り始める。

「八雲紫ってのは、確か妖怪の賢者って言われてるやつだよ。それでスキマっていう境界……わかりやすく言えばものとものとの境目を操る能力を持った、幻想郷でも最強の一角を担う、胡散臭いスキマ妖怪……そうとしかいいようがないわね。私自身あまり知らないから」
「妖怪の賢者? つまりとてつもなく偉いってことか……最強の一角って言われてるんだし」
「ええ、何でも今幻想郷を覆っている博麗大結界は八雲紫の案だって聞いたことがあるしね」
「へぇ……というか結界ってのにも名前があったんだな」

 そんな軽口をついてから、縁は今言ってもらったことを頭の中に入れ、同時に何故そのような存在が自分や、そして自分の父親の名前を知っていたのかを考えようとした。ヒントがあるとすれば、謎の穴、恐らくアレがスキマと呼ばれるものだろうけど、そこに落とされる間際に言われた、盗人という言葉だけであろう。
 縁は父親の過去をあまり知らないが、少なくとも知っている限りでは父・犹嗣が盗人などという犯罪者のような言葉で罵られるようなことはなかったはずだ。何より中邦犹嗣は盗人ではなく医学者兼科学者であり、父の性格を知る縁は父親が表立った犯罪を起こしているとは到底思えなかった。

「あーくそ、またわからねぇだけじゃねぇか」
「ふーん、何がだい?」
「いや、その八雲紫ってやつがさ、何かウチの親父のことを知ってるみたいだったからよ……もしかしたら、親父ってこっちの世界のことを結構知ってるんじゃないか?」
「外の人間がこっちのことを? そりゃないだろ、基本的に外の人間はこっちに来れないし、向こうにもここ(幻想郷)のことは全然知られてないってのが定説だしな」
「そっか……けど何か気になるなぁ」

 腕を組んで憮然とした、納得のいかない顔で考え始めてしまった縁に、空がこくりと団子を呑みこんで、思うままの言葉を紡いだ。

「うにゅ……けど今考えても、全然見当違いのことになって意味がないんじゃないかな? それに縁の聞きたいことってホントは違うことでしょ?」
「んなっ……」

 空の言うとおり、確かにこれ以上考えても栓ないことだった。むしろ今の目的は、どうして幻想郷に連れてこられたではなく、どうやって幻想郷を、現時点では地上に行くかであった。
 だが。

「普段⑨なお前に言われると何かむかつくなぁこんにゃろぉ」
「ふにゅぅぅふぉふぉをつへるは~!」

 先程のように空に柔らかな頬を抓る縁。相手が女の子であろうと関係なしであった。

「まぁまぁ、じゃれ合うのはいいけど、今は違うこと聞きたいんでしょう」
「ん……まぁ、そうだがばっ!?」
「ふんっ!」

 手を頬から離した途端に繰り出された空の頭突きを直撃し、そのまま頭を抱えて静かに悶える。空はすぐにそっぽを向いたが、額を赤くし、眼尻には涙が溜まっていた。空が想像していたよりも、縁の頭は固かったようだ。
「やろ~」と息を吐き出しながら空を睨みつける縁だったが、しかし二人のやりとりに苦笑していたヤマメたちのことを気にして、「ふんっ」と子供のような怒気を無理やり発散させた。その仕草にまたまた苦く笑う三人。だがその中でヤマメは笑うのをそうそうに止め、話の流れを戻すことにした。

「で、聞きたいことってのはなんだったんだい?」
「ん、ああ……さっき地上にいくって話したろ。けど空も飛べない俺じゃあ『地獄の深道』にはすぐにいけないだろうし、登っいくにしても危険って言われてるからさ。だから人間でも行けて、かつ安全に地上にいける方法や場所はないかなって」
「ないね」「な、ないです」「ねーな」

 即答の上に三人全員が否定だった。体全体で溜息をつく縁。三人寄らば文殊の知恵、とまではいかないが何か知っているのではないかと期待もしていたので、落胆を隠しきれなかった。さすがに全否定された縁が哀れなのか、ちらりと縁を盗み見る空。しかし唐突に素朴な疑問が浮かび上がり、すぐにそれを縁へと尋ねることにした。

「そういえば、縁って自分で飛んでいこうって思わなかったの?」

 空のそのような発言に縁は目を丸くし、ついですぐに呆れの溜息を吐いた。

「いや、ただの人間がお前らみたいに空飛べるわけねーだろ」

 そうして、日が東から昇るように至極当然の回答を空に返すと、再び違う方向から声が上がった。

「何言ってんの、人間だって飛ぼうと思えりゃ飛べるわよ」
「………はいっ?」
「あら、何だいその疑惑に満ちた目は。私が言ってることはこっちの常識だよ」
「え……こっちの人間って、空飛べるの?」
「昔はそれなりに居たさ、今は知らないけどね」

 何分地底には人間はいなかったしねー、とヤマメが新しい団子を注文しながら言う。そのヤマメに対し半信半疑の目を向け、次いで他の三人へと視線を移していく。三人が三人とも団子を食べながら、「何を当然のことを」といった顔で縁を見ていた。ただでさえ幻想郷という不可思議な世界にきているせいか、本当にできるかもしれないと縁は思いはじめていた。
 もしかしたら、いけるのか。そう考え始めたら既に身体は動き、店の外へと出ていた。
 見上げるのは土色の空。蒼穹に繋がる縦穴。修験者のような気持ちとなって目を閉じ、自分が空を飛ぶというイメージを抱こうとした。意味もなく足に力が入る。背伸びをしているようだ。そのまま地面から跳び上がれば宙に浮かべるか。そこまでいこうとした時、後ろから声がかかった。

「……何してるの?」
「そ、空を飛ぼうと、してんだよ……」
「シャチホコみたいだよ」

 店から顔を出した空の何気ない一言で、力んでいた身体が一気に弛緩してずっこけた。

「というかそんな力入れちゃ飛べねぇだろ」
「むしろ飛ぶのってそんな難しいかい?」

 同じく顔を出した黄色と茶色の妖怪二人からの悪意のない言葉に、縁はまた立ち上がるのを阻止された。

「く、くっそぉ……言いたい放題言いやがって……弾幕と一緒にぜってー覚えてやる!」
「ん、何だよ縁。弾幕も使えないのか?」
「ああ……この前教えてもらったばっかだよ。何度かやってみたけど出せなかったけどな」

 ズボンについた土埃をはたき落としながら立ち上がる縁は、昨日から何度かやっている、左手を胸の前に掲げてそこに力を集中するイメージを持とうとした。しかし以前、何も起きなかった。そのことにはぁ、と溜息を吐く人間に、空が疑問符を頭の中に浮かべ、縁の右手を見た。

「ねぇ、縁。それ右手でやってみなかったの?」
「あっ」

 言われて初めて気づいた縁は、しかし手を変えただけで意味があるのかと疑問を持つ。だが、と機械の腕を見下ろし、ゆっくりと胸の前へと持ってくる。自然と目を閉じ、右腕に力を込める、というイメージを持つ。
 右手の中に電子回路に沿うような光が奔るのを、縁はイメージの中に見た。それは左手の時とは決定的に違う、何かの符牒。呼吸をするたびに、その光は強まり、回路の道筋は植物の根のように拡がっていく。その小川の流れを手のひらに収束されるイメージを、無意識に抱く。光たちは素直にそれに従い手のひらに集まっていく。だがこのままでは、ただ溢れ出すだけ。さらに固着するイメージ。球体、三角形、弾丸、槍、ナイフ、剣、矢じり。思いつくもの全てを思うが、しかしどれもが違う、と本能のようなものが言ってくる。するとそれは、一つの言葉を紡ぐ。
 腕だ。もう一つの腕。
 言われた通り、手のひらではなく、右腕の真横に溢れだそうとした力をかい離させ、新しい腕のイメージに固着していく。声の示すとおり、人間にしては大きすぎる、そして細いもの。
 目を開いた。そこには、右腕に覆いかぶさるように現れた、藍色のの靄で出来た腕。縁の義手よりも若干大きく、指は人間と同じ五本。爪は曲がって尖り爬虫類を思わせた。右腕ではなく、その手を開閉する、というイメージを抱く。イメージの通り、新たな手は動く。その手の平の中央をよく見ようとすれば、渦のようなものが見てとれた。

「へぇ……随分と面白い形じゃない」

 傍から見ていたヤマメが感心を抱いて、縁の出した弾幕らしき異形の手を見た。空とキスメはぽかんとしままそれを見ているだけだが、十一は一人傍によってそれに指を近づける。特におかしな現象もなく、十一は縁の新しい手に触れた。それこそが可笑しい現象であり、靄であるそれは縁の右手と同等以上に堅かった。

「……これまた可笑しいのが出たなぁ」
「……俺が一番驚いてるよ」

 十一の声にも縁は予想外の感動と達成感のせいか半ば上の空で応え、今度は右腕と一緒に上下させる。右腕に追従する動きは、縁にとって右腕の延長にも思え、扱いにはさほど時間が掛らないかも、と鬼が笑うような推測をした。だがしかしそれを見ていると、想像していた弾幕とは全然違うな、という感想が出てくる。

「ねぇ縁、私も触って見ていい?」
「ん、ああ別に構いやしないぞ」

 空が近づき縁の手に触れようとした。その時だった。空の横から現れた一つの影が、たまたま視界に収めた縁を除き、誰にも気づかれぬまま、縁の右腕に現れた実体を持つ幻影に触れた。

「変な弾幕」
「……こいし?」
「けど、これで……また、遊べるね。    」

 古明地こいし。目を光に濁らせた、無意識の妖怪少女が、笑っていた。嬉しそうに。血の混じった涙を流して。
 そして、縁は唐突に、何の予告もなくこいしの手の中に現れた光に殴られ、吹き飛ばされた。



 カドルは知っている。古明地こいしが忘れた/消そうとした/封じた昔を。
 ダンは覚えている。こいしの瞳が閉じようとした切欠を。
 カニスは理解している気でいる。無意識を手に入れた古明地こいしが、あの日よりも前に退行し、止まっているのを。
 体中を穴だらけにされ、フンドシと頭の三角布をボロ切れにされ、妖怪もあまり通らない道でゴミの山のように倒れ伏す彼らは、願っている。自分たちがこうなった理由を。ああなってしまったこいしを支え続けるのが自分たちの役割だと。
 だがしかし、と妖怪であるが故にそう簡単に死なぬ身体で血反吐を吐いた三匹は思う。
 だがしかし、救えるわれることはあるのだろうか。主人は、古明地こいしがいつか歩き出す日はくるのだろうか。本来の妖怪の姿に戻って、この幻想の世界を、無意識と意識を超越して、楽しげに笑う日はくるのだろうか。自分たちはその時を見ることができるのだろうか。
 三匹がその想いを強く考えてしまったのは、あの外来人がきてからだった。
 妖怪『覚』の恐怖を僅か数日で乗り越え、若輩とは言え妖怪を殴り倒し、地霊殿の一員になろうとしていた人間の男。中邦縁という名前の人間。
 密かにこいしと人間が出会った時より、自分たちの意思で人間を監視していた三匹は、時々彼が見せる表情に期待と嫉妬と危惧を覚えていた。期待は、こいしがそれに触れることによる、情動や感情を理解していくというもの。嫉妬は、ひょっこりと現れた人間がこいしに感情や意識を取り戻させるかもしれないというもの。危惧は、はにかみを浮かべる人間の姿が、こいしにあの時を思い出させるかもしれないというもの。
 そして今、危惧が幻想のリアルとして具現化しつつある。いや、既にしているかもしれない。カニスとダンの油断からぽろりと零してしまった言葉/名前が切欠となってしまったかもしれない。ただでさえ不安定な状況が続いていたのだ。ヘタをすれば、無意識という結界が崩壊しあの記憶が逆流してくるかもしれない。手遅れかもしれない、だがそれだけはいけない。
 三匹は体を修復しながら浮かび上がった。
 こいしを止めなければ。あの哀れな妖怪の少女を宥めなければ。そのために生きてきたのだ。
 
 彼らの耳に、街の西側から、数多の爆発音が響くのが、聞こえた。

 

 あとがき

干<てこずってるようだな

 そんな日常の私です。時間がないです、チクショウメェェー!!(総統閣下風
 空がそろそろ餅を焼きはじめましたが、まだまだ焼いて欲しい方はどうぞ餅を持ち寄ってください。そして作者も想定外のラストの展開。おっかしいなぁ、もう少し先延ばしのはずだったのに……
 次回は初弾幕戦の予定です。後、できれば『こいし編』ラスト……やっとバトルシーンという楽な部分に入れます……長かったぁ…orz
 



[7713] 第七話――聖人<今この瞬間は……小さな存在こそが全てだ!
Name: へたれっぽいG◆eaa9c481 ID:f33d8d16
Date: 2011/02/14 14:12
 古明地こいしが映す世界は目まぐるしく変わっていた。赤から青へ、黄から紫へ、妖怪から植物へ、人間から化け物へ、闇から光へ、青空から地底へ。流転という言葉では言い表せない、それはただの極彩色に近かった。いや、知性を持ってしまった生命全てが持ちうる意識と無意識、その二つが不完全に衝突してしまっている。彼女の内部を覗けるものがいれば、そう評するだろう。
 それほどまでに現在のこいしは、意識と無意識、過去と現在が交錯し、マインド・フラッシュバックとでもいうべき支離滅裂の状態に陥っていた。無意識だけならば、彼女はただ無意識という分裂的ではあるが統一された感情/本性に支配され、ある種の一貫性を持ちえただろう。
 それが崩壊しようとしていた。こいし自身すら理解できない、理解しようとしないものによって。
 そしてこいしはそれを認識の外側に置いて、極彩の景色の中で意志と人型を持ちうるものたちをぐるりと見渡し、目玉を見開き、今自分が殴るように吹き飛ばしてしまった人間を見た。
 違う、人間か? 人間ではない。違う、あれは彼だ。カレなのか。いいや、カレかもしれない。いいや、彼だ。
 こいしが見つめる中、彼/カレは信じられないものでもみるようにこいしを見ている。その右腕には出来たばかりの弾幕もどき。だがこれで約束は果たせる。約束などいつしたか。いいや、した。あの過去に、現在に、イマに。封鎖された昔に。
 混濁するこいしの表層は、彼女の顔に笑みを作らせた。童女の純粋無垢な笑み。ケタケタと笑い、歯をむき出した笑み。
 不意に真横から声がかかった。男だ、彼/カレとさして変わらぬ男。違う、それは殺さなければ、殺戮しなければいけないものだ。その声がどこからか聞こえると、こいしはまた周囲を大袈裟に首を振り回しながら見、帽子を何処かへ落ちるのも構わず、殺さなければいけないものたちを見た。殺さなければいけないものは、ここにある全部だった。その体には目玉があり、裂けた口があり、こいしを指さし嘲笑い、今にも襲いかかってくる。

 みんながみんな、わたしを辱めようと、殺そうとしている。

 だから、先に殺さなくちゃ。
 
 そうしないと、また。
 
 こいしがそう考えるのと、こいしの瞳の世界が変わるたびに、胸の第三の目が、ただ震えていた。
 


第七話『妖怪たちのウォーゲーム』



「な……んだよ、こいし……」

 薬屋の戸口を突き破って転ぶ縁は、霧散する第三の腕をそのままに、突然現れ自分を、縁にとっては不可思議な力で吹き飛ばしたこいしを、根本を疑問とする感情の目で見つめた。そのこいしは虚ろに周囲を見渡し、ピタリと止まったかと思うと、その姿からは想像もできないような、不気味な笑い声をあげる。
 哄笑ともとれるそれは街全体に響くようであり、道行く妖怪たちの足を止めてしまった。そして誰も彼もが周囲の者達と話し合い、こいしへと指をさす。それに不快感と悪寒を感じ、すぐさまそこから這い上がり道へと出ようとした時、十一が意を決して彼女へと声をかけた。

「……おい、お前どうしたんだ、あっ? お気に入りの人間を自分で傷つけてどうすんだよ?」

 十一の声には罵倒のものが含まれていたのを感じたのか、こいしの目がぐるりと回り十一へと向けられた。そこに同じ妖怪であろうと不気味なものを感じたのか、体を仰け反らせる十一。しばらくそのままでいると、再び周囲を見渡すこいし。その際、体全体を捻るように動かしていたのか、帽子が零れ落ち、風にさらわれてしまった。
 そのままこいしは、また俯いた。距離があってわからないが、何かを呟いているのが聞こえる。
 
「こ、こいし、様……?」

 並々ならぬこいしの異常な気配を感じたのか、空が彼女の名を呼んだ。その瞬間、こいしは体を大きく仰け反らせ、逆さまの体勢で空を見た。びくりと震える空。その姿を見て、こいしは笑った。右手に、昨日見せてもらったもの、スペルカードを持って。

「あはっ」

 無邪気に、無意識のままに微笑み、こいしの可憐な口が一つの言葉を紡いだ。

 本能「イドの解放」

 途端、彼女の体から巨大な桃色の物体、硬質の質感を持ったハートマークが吐き出され、周囲のものというものへと殺到した。
 無差別爆撃、それに反応できたのは彼女を囲っていたヤマメ、十一、空の三人他少数であり、キスメはヤマメが抱え持つことで難を逃れたが、それ以外の反応できなかった妖怪たちが突然のハート型エネルギー弾/弾幕に反応できず、為す術もなく被弾し、あるものは吹き飛ばされ、あるものは崩れ落ちた。こいしの放った弾幕は勢いそのままに建物へと襲いかかり、木製の柱や看板、丈夫な粘土で固められた瓦を縦横無尽に破壊していく。
 突然のこいしの変化に、頭が現状を理解できず呆けてしまった縁にも、その内のいくつかのハートが容赦なく迫ってくる。それに気づいたとき縁は我に返り、咄嗟に右腕を掲げて直撃を防ごうとした。途端、嫌な予感、背筋を撫でる寒気が、死の予感を感じさせるあの氷の気配が縁の感覚を支配する。
 ハートの軌道が、縁の目の前でぐにゃりと曲がった。そして行く先は、縁の頭上、右腕を迂回しての直撃コース。この二つ。どちらにしても直撃、間接的な行動制限は間違いなかった。
 
「どぅらぁ!」

 そしてハートが縁に当たる寸前、頭上から一つのハートを破壊しながら、十一が飛び蹴りの姿勢で落下してきた。その衝撃で縁を狙う弾幕は吹き飛び、あらぬ方向へと飛んでいく。当然、瓦礫も一緒に落ちてくるが、それは右腕を頭上に掲げて難を逃れる。

「十一っ!」
「たっく、何だってんだよ!? おい縁、こりゃどういうことだ?」
「俺の方が聞きたいんだよ……くそっ」

 悪態を吐きながら立ち上がり、縁はこいしを見ようとした。破壊した建造物の木片が散らばる街路の中心で、くるりくるりと踊り笑い続ける少女はその周囲をダンサーのように回るハートの弾幕に隠れ、途切れ途切れにしか見えない。

「こいしっ!」

 叫び、縁が戸口を出て道の上に出た、その時を同じくしてこいしの体がふわりと浮かんだ。飛ぶ気か、と縁が考えた瞬間、まるで兵隊のようにハートの壁が左右に開き、そこからこいしが、縁を真正面に捉える。光の色すらなく、ブルーの瞳には単純な色ではなく、数多の感情、無意識、自我が混じり合い、極彩を彩っている。
 その気味の悪さに体が怖じ気づきそうになるのを、歯をくいしばって耐える。そうしなければ、こいしとは話せない。錯覚の直観を信じ、もう一度彼女へと言葉を投げかける。

「一体どうしたんだよこいし! いきなり人のことを殴るなんて、どうしちまったんだ!?」
「わたしはそうしたかったんだよ? けどいままで、セイジロウは弾幕を使えなかったでしょう。でもこうして縁ちゃんが弾幕を使えるようになったんだ……だから、あの時できなかった遊びの続きを……」
「……なにを言ってんだよこいし! いい加減目ぇ覚ませ!」
「けど……違う、わたしじゃない! ああ……ダメだ、遊べるんだ……」

 話しをしている間にも、こいしの瞳は、こいしの表情は変わり続ける。表情と一緒に変わるのは、彼女の口調や話の中身。ここではないどこかに話す時もあれば、縁を見て話す時もある。支離滅裂、とは今のこいしの状態を指すのだろうと、混乱する縁の呑気な冷静な部分は考えていた。
 しかしその間にもこいしは高度を上げ、屋根よりも一段上の位置まで飛んでいく。その時、こいしの胸にあるあの瞳のアクセサリーもどきが独りでに震えているのを縁は見た。そこに目を向けた瞬間、こいしの動きが止まった。顔を覆っていた両手をゆっくりと離し、そのまままた、仰け反りながら笑い始める。
 そして、ぐりんと前へと体を傾け、一言、零した。

「……いなくなっちゃえ」

 ぐるりぐるりと回っていたハートの軍団がピタリと動きを止め、そしてこいしの号令と共に全方位にその先端を向けた。来るっ、と戦闘本能とでもいうべき縁の勘が飛び道具に対し右腕を構えさせる。

「バカッ、弾幕を使えっ!」

 背後からの十一の大声と同時に、ハートの弾幕は再度射出される。それと共に、縁は先ほど自分が掴んだ感覚を再度右腕に流し込む。一度捉えたそれは先よりもスムーズに、そして早く、鋼の右腕を守る不可思議な鎧が顕現する。
 ビジョン(幻影)とでもいうべき霞・靄(もや)の右腕より一回り大きな手。それをどうすればいいか、というのはむしろ、喧嘩で相手が飛び道具、物を投げてきた時に対処したものと同じだと考えればいいと、縁は目の前に迫る濃厚な死の気配の具現に対し決断する。
 右腕を、第三の腕を振りかぶる。拳を作り、真正面から襲いかかるハートを相手に、感じる力の流れを込め、打ち込む。

「うぉらぁぁ!!」

 まるで腕が伸びたような、射程の長いアッパー。たったひとつのハートを多少の抵抗の後に、第三の腕で持って打ち上げる。いける、と思った瞬間には、殴り飛ばしたハートの背後にまた新たな弾幕が飛来してくる。
 息を吐く間もなくそのまま体を捻り、強引に腕をハンマーのように打ち下ろした。第三の腕が追従し、ハートを叩き落とし、地面へとめり込ませる。その更に背後、加えて真横からもハートが迫ってくる。いくら弾幕を弾けると判明したのはいいが、腕一本では、弾幕の数が多すぎて対処が間に合わないのだ。
 
「こなクソォ!」

 捻った体勢のまま、地面へと転がり込む。数秒前に縁が立っていた場所に三発のハートが着弾し地面を抉るのを見て、縁は自分が当たった場合はどうなるかと不吉な想像を抱いて冷や汗をかき、すぐにもう一度転がり、勢いと共に立ち上がる。見上げれば、再び笑い始めたこいしの姿と、そして弧を描きながら迫ってくるハートの群れだった。
 避けられない、悟って、第三の腕を盾に耐えきろうとした時だった。

「伏せろっ」
「伏せて!」
「キスメっ!」

 三方向から聞こえた呼び声、叫び声に反応し、咄嗟に身を屈める。直後に、縁の真後ろからブーメラン、とでもいうべき身の丈ほどもある巨大なくの字型の弾がぐるぐると回りながら縁に迫るハートを押し止める。
 縁がそちらを見ると、十一が新たに生成したブーメラン型弾幕を担ぎ、自分に向かってきていた弾幕をせき止めていた。その隙に縁の斜め上に飛んできた空が、その手にスペルカードを持って、高々に放り投げた。

「いっけぇ、『爆符「メガフレア」』!!」

 縁は知らないが、空の現在持ちうる中で最大火力というべき力がスペルカードから解放される。灼熱地獄の焔を凝縮し、数多の弾へと変換してそれを前方へ一気にバラまくという、単純で力押しそのもののスペル。それ故に力と勢いだけなら勝り、こいしの操るハートの群れを呑みこみ、縁の前で押し止められていた弾幕ごと焼きつくした。それに飽き足らず、爆炎はこいしにすら殺到する。たまらず縁は空を睨むように見上げたが、しかしその顔に切羽詰ったものが浮かんでいるのを見、こいしへと向きなおる。そこで縁は気づいた。
 こいしは笑っているのだ。その圧倒的数の焔の弾幕を前に、弧を描き迫るブーメランを見て、そして頭上にいる小さな影に気づきながら。そして、動きだす。

「おくうー、これじゃあダメだ・よぉー!」

 喚き声と共にこいしが取り出したの、新たなカード。

「もう二枚目!? キスメ、離れて!」
「……きえちゃえよ……『表象「夢枕にご先祖総立ち」』」

 どこからか聞こえたヤマメの声と同時に、暗く重い声でこいしがスペルの名を叫ぶ/宣言。直後に残っていたハートは力を失ったように地面へと落ちていくが、しかし新たにこいしの周囲から現れたのは、左右に十本ずつ、合計二十本からなる、巨大な針の群だ。一本一本が縁の胴体より太く、そして柱のように長い。
 ふざけた名前だ、と縁は叫びたかったが、しかし一瞬の空白の間をおいて間断を持って放たれた二十の槍が、爆炎を撒き散らす空の放った焔の弾たちを貫いていくのを見て、すぐさまそれがこちらに向かっているのに気づき、その進行方向から避けようと身体を動かす。
 真横を二本の針が通過する。そこで避けたと安心してしまい、こいしを見た。その頭上には見覚えのある桶が浮いているのに気づき、そしてそれがキスメだとわかった瞬間、桶がジェットコースターのような急加速で持って落下を始めた。こいし目指して。
 だがこいしはそれに気づいていた。ぐりり、と首が真上を向き、桶を仰ぐ。直後にこいしから全方位に散らばる円形の弾、そして真直ぐに桶を狙う弾が同時に放たれた。

「キスメっ!」
「縁、後ろっ!」

 迫る危機を伝えた時、同時に自らが危機を伝えられた。背後を振り返る。針が、直前まで迫ってきていた。

「う、おぉぉぉ!?」

 その刹那、縁が右腕を構え、第三の腕を出し、身を捩れたのは奇跡というべきだったろう。第三の腕を貫通し、それによって若干逸らされながらも右腕を擦り、長大な針は縁の耳元を通り過ぎた。耳は風圧で傷つき、腕型の弾幕は手首から上が切り離され消えていき、滅多なことでは傷つかない右腕には黒い焦げ跡ができていた。もし縁が出したばかりの弾幕がなければ、右腕は破壊され顔を針が串刺しにしていただろう。
 その絶命の想像を振り払うように体をこいしへと向け、脚を踏み直す。キスメが入っているはずの桶の姿は見えなかったが、代わりに空がこいしの周囲を飛翔し、こいしの元へと戻ろうとしながら周囲のものを貫く針を両翼を羽ばたかせながら避けていた。その間断の間に、更にこいしは牽制のための全方位弾と、空へ一直線に飛んでいく弾を連射する。
 笑い続けるこいしが危機迫るものを持ちながらどこか困惑した表情を隠せない空に目を向けているその時を狙って、いつの間にか飛び上がっていたのか、十一がこいしの遙か上空に現れる。ブーメランを無造作に掴む右手とは逆に、左手にはこいしや空と同じ、スペルカード。

 狩猟「スリーサイドブーメラン」

 叫びと共にカードとブーメランが輝きを帯び、十一はそのブーメランを大きく振りかぶり、投擲。こいし目掛けて一直線に投げられたはずのそれは、その途中に分解、いや分裂していき、パズルのピースのように細かなブーメランになって広がりながら、点から面の脅威となって降り注ぐ。
 こいしはそれに気づき、右腕を薙ぐ。それだけで、こいしの腕の軌跡に花弁のように広がる弾幕が出現し、十一の放ったスペルカードの弾幕を迎撃、面の中に穴を作り、余裕を持って、ほとんどその場から動かず避けて見せた。
 こいしの目が離れたその一瞬の隙をついて、空が左手に作りだした黄色の弾、バスケットボールサイズの弾幕を放とうと構えをとる。しかしそれにも、振り向き際にこいしが腕を薙ぎ、生じた弾幕に出鼻を挫かれ、回避に専念させられる。
 その一連の流れ、戦いはまさしく幻想の果てにしかないものであった。もし縁が何も知らず、関係もないただの人間であったなら、もしこのような異常事態でなければ、ただそれがすごいと、自分もやってみたいと、羨み憧れ、感動に震えていただけだろう。
 だが、今の縁はただ握りしめた拳を震わせるだけの、中途半端な弾幕もどきしか出したことがなく、何よりも空を飛べない、矮小で無力な人間だった。
 
「くそ……いったい何が、どうなってんだよ!」
「それはあたいが聞きたいね」
 
 無力感と苛立ちからたまらず吠えた縁に、横から声がかかる。声の主に縁が振り返るよりも早く、縁の体が青い鬼火のような光弾/弾幕に殴り倒される。呼吸をする暇もなく地面を転がり、体に力を入れよとして仰向けになった瞬間、声の主が縁に跨り、鋭く伸びた爪を刃のように揃え、喉元へと突き立てた。皮膚をわずかに裂き、爪に血が付着する。それすら気にせず、火焔猫燐は縁を憤怒の表情で睨みつける。
 初めて露となった燐の怒りに、縁は何故彼女ここにいるのかという疑問と一緒にごくりと唾を飲み込んだ。青い鬼火が被弾した肩がひりひりと痛んだが、しかしそれを気にする余裕を、燐の眼光と声音は与えてくれない。

「改めて聞くよ……一体何がどうして、こいし様がああなったのさ?」

 言葉と共に、燐の手に力がこもるのを感じた。

「っ……俺だって、それが知りたいんだよ」
「しらばっくれないで、じゃあなんでこいし様はあんな見境を失くして……にゃあ!?」

 唐突に燐の身体が浮かびあがり、そのままじたばっと宙で暴れながら縁の横へと立たされた。不意に消えた重みと首元の圧力に体と意識がついていかず何度か深く呼吸をしながら前を見ると、先日会った時と同じく、酒の注がれた杯を持った勇儀が若干の呆れを、自分が縁の横へとどけた燐へと浮かべていた。

「おいおい、聞くにも順序があるし、あんたもさっきのやり取りを見てただろう?」
「っ……ですけど!」
「ああ、わかってるよわかってる。だからまずその爪を引っ込めな。私が話すんだからね」

 そこまでいって、勇儀は縁へと向き直った。一見、先日のような男らしいと言える笑みを浮かべているように見える。だがその眼は笑みの形を作っておらず、さながら鬼の目をそのまま写し取ったようなもの。いや、正しく星熊勇儀は鬼なのである。
 その目に見つめられ、縁は我知らず冷や汗を背中に流す。だがそれだけでは、と腐っていた自分を奮い立たせ、体を持ち上げた。それを見ていた勇儀は、背後の弾幕の応酬の音を気にする素振りも見せず、ゆっくりと口を開いた。

「悪いと思ってはないけど、あんたがあの団子屋にいた時からずっとそこの猫と一緒に観察させてもらってたよ」

 前置きを置いて、勇儀は杯を傾けた。一口酒を飲むと、酒気を帯びた吐息が縁の顔を撫でる。抑えている怒りをそのまま息にしているようだ、と縁はどこかで印象的に思った。

「だから、あんたが古明地の妹さんにいきなり弾幕ぶつけられたってのは知ってる……けどね、今ああなっているってことは何かあったんじゃないか、って流石の私でも勘ぐりたくなるんだよ」
「だからよ、俺だってそれを知りたいって言ってるじゃないか!」

 無意識に語気を強めてしまった縁に対し、勇儀はその眼をじっと見つめた。縁もまた、意地になって睨み返す。

「嘘は言ってないみたいだね」

 先に視線をはずした勇儀は呟くと、ゆっくりと周囲の惨状を見渡し、溜息をついた。無残に破壊された建造物、突き刺さったままのハートの弾幕、倒れ伏す妖怪や妖精たち。遠巻きに突然始まった弾幕合戦を、喜びではなく困惑の色を携えて見る妖怪たち。そして最後に、未だ二人の妖怪を相手に笑いながら/嗤いながら決して美しいとは言えない弾幕を撃ち続けるこいしを見上げ、杯を持った手とは別に、巨大な大玉を作り出す。見るものが見れば、それは高純度で圧縮された妖力の塊であることに気づくだろう。

「……なら、あの子に落とし前をつけさせなきゃだめだね」
「っ! ちょっと待ってください勇義様! それは一体……」
「言ったままの意味さ。弾幕勝負は大いに結構、けどさすがにここまでされちゃ、決闘といっても目に余るからね……むしろ率先して壊しているっていうなら、お灸を据えてやらなきゃならない」
「待ってくれよ勇儀! こいしにはそんな気は……」

 切羽詰った声で勇儀へと言い募る燐に押されるように、彼女へと言葉をぶつける。だが、ゆるりと勇儀が縁へと顔を向けると、襟元を掴み上げ、額の角をぶつける勢いで顔面へ引き寄せた。鬼の顔には壮絶な笑みが造られている。

「へぇ、ないって言うのかい? 本当に? けどね、あったにしろなかったにしろ、こうして黙ってやられたままじゃ、地底に住む鬼としては、スジが通らないんだよ……それとも何だい、アンタは自分を殺そうとしたガキをお咎めなしに放置しとけっていうのかい?」
「違うっ! そういう意味じゃ……」
「ならばその違いを言ってもらおうか! それすら言えないなら、ただ妖怪に殴り合いで勝っただけの外来人は黙っていてもらおうっ!!」

 鼓膜がやぶれんばかりの叫び声と共に、勇儀は縁を乱暴に離した。その顔には笑みと苛立ちが混ざりあい、奇妙な表情が出来上がっている。それは失望か落胆か、はたまた現在起きているこの予想外の戦いの被害に対して心を痛めているのか、しかし鬼としての強者の振る舞いに対する焦がれが笑みを作らせているのか。それは勇儀自身もわからぬことであろう。
 そのまま地面へと転がった縁に背を向け飛び立ち、弾幕の中へと飛び込んでいった勇儀を見、燐はゆっくりと眼下の人間を見下ろした。その燐を、縁は見返す。

「……何だよ」
「無様ね、て思っただけ」
「そう思ってるなら、空の援護にでも向かえよ」
「そうね、その方がいいわね。けど、あの勇儀様が行ったんだから、もう必要もないでしょう……それにもうすぐ、さっき吹き飛ばされた桶の奴を回収しに行った土蜘蛛も戻ってくるから、これ以上増えたって意味がないの」
「蜘蛛って……もしかして黒谷さんのことか? けど……」
「それよりも」

 振り払うような声で叫んだ燐の手の中で光が舞う。それらは先日見せてもらった人魂の形を取って縁を包囲し、旋回を始める。燐の目は薄く細められ、触れる人魂によって動きを封じられた縁は、その薄ら寒さを感じる目を見ていることしかできなかった。

「……あたいはいい加減、言われたことをやりたいの」
「言われたこと?」
「そう……こいし様に何かあった場合、あんたを殺せって、ね」
「っ!? おい、一体どういうことだよそれはっ!」
「あたいだって知らないわよ! けどね、あんたとのやり取りのせいで、こいし様があんなに可笑しくなったのは間違いないでしょう。だから今、あんたを殺すことに戸惑いはないわ……」

 再び燐の爪が並びたてられ、縁の首へとかかる。縁は何も言い返せず、ただその首元の爪を見ることしかできなかった。
 縁の心中では、確かにこいしのあの狂っている様が自分のせいなのかと思っている部分があり、そして結果としてこの惨事が起きているのかと思うと、どうしても弱気になってしまうのだ。
 加えて、勇儀に責められたのが効いているせいもあるだろう。何よりもまず、こいしがどうしてああなったのか、そして自分はどうしたらいいのか、何ができるのかという袋小路の思考が、弱気に拍車をかけてしまっていた。ただこいしを倒すためではないけない、そうは感じているが、むしろこいしを倒すことができるのか、と臆病な虫がうそぶく。
 らしくない、と爪に映る自分の顔を見ながら、縁は己のことを罵り、歯を食いしばる。だがそのせいで、体は動かない。右腕は弾幕が針に貫かれた時から、思う様に動いてくれない。
 心中を察したのか、燐はゆっくりと爪を、腕を振り上げた。

「まぁ、今ままでの付き合いもあるし、苦しまないように殺して……」
「縁ちゃん、どうしたのこんなところで?」

 不意に影が、声が燐の背後から落ちてくる。即座にそちらを振り返る二人。だが既にそこには発生しただけの弾幕と、それを木の葉が風に遊ぶように回避する三人の妖怪の姿だけがあり、弾幕の主は縁の横に、無意識を操る力を思うがままに行使して、縁の首にかかった爪を見ていた。

「お燐も、何をしてるのかな?」

 そして、燐の伸ばされた手を掴み、そのまま放り投げた。妖怪同士の地力の差は、体格の面からも確実に燐の方が上である。だがそれを何でもないように投げたこいしは、己の『無意識を操る程度の能力』によって、燐の反射行動を誘導、自らの体も『投げる』という行動を無意識下に落とし込むことで身体がスムーズに動ける最適な運動を果たしていたのである。
 言うならば、達人が修練の果てに上り詰めるべき無我の境地ともいえる行動を、こいしという妖怪は軽々とやってのけて見せたのである。
 しかしそれを、傍で見ていた縁も、そして上空へ投げられた燐も知る由もない。燐はネコ科特有の姿勢制御で空中で静止、そのまま浮遊し、追撃をやりかねないこいしに対して反撃のスペルカードを取り出す。だがしかし、燐の想像とは違い、こいしは何もしてこずにただ縁のとなりで、縁の顔に手をかけていた。

「ねぇ、セイジロウ……わたしね、あなたを殺したくて殺したくてたまらないの」

 どうしてかわかる。こいしの手がゆっくりと下り、縁の首にかかる。縁はそのこいしに対し、どう対応すればいいか分からず、戸惑いの表情のままその言葉を聞き、呆けたように問いの言葉を呟いた。

「セイジロウ……?」
「そうだよ、縁ちゃん。あなたがセイジロウになりそうなの。だからその前に、わたしがセイジロウを殺すの……そうすれば、縁ちゃんもわたしの中に居られるから」
「なに、をっ……!」

 こいしの両手が縁の首を掴み、締め付ける。万力とはこのこと、縁は両手を使ってこいしの手を離そうとするが、ビクともせず、逆に力は強くなっていく一方。首の骨が軋みを上げ始め、呼吸が一切できなくなっていく。赤くなる縁の顔。それをじっと見ているこいし。その時、こいしの胸にある目から何かが零れ落ちたのを、縁は見た。
 それが何かを確認する直前、縁の意識が消えかける。

「ああ、もう! 『猫符「キャットウォーク」』!!」

 その数秒前に、燐がスペルカード宣言。同時に燐の体が二股の黒猫へと変化し、こいし目掛けて虚空を大地と同じ要領で踏みこむ。踏み込むたびに環状に配置された小粒の弾幕が出現し、三歩目で、四秒でこいしと縁の間に割って入り、弾幕を発射する。
 こいしがそれをひらりと避けながら後退、縁はその場に倒れて結果的に弾幕を浴びずに済み、猫の姿になった燐を見上げる。

「お、お燐、か……?」
「ええそうよ! けど今はそんなこといいでしょ! 何で助けった質問なら、こいし様にあんたを殺させちゃだめだって思ったからよ!」

 信じられない、と二重の意味を込めた目で燐を見る縁に、燐は猫の姿のままふんと鼻を鳴らす。その間にもこいしと今まで戦っていた三人が縁の上空に来て、顔を俯かせるこいしを警戒し、構えを取っている。

「なし崩し的に戦っちゃってるけど……さとり様に怒られないかなぁ」
「おいおい、そんなこと気にしてるのかいアンタ? 今更気にしちゃいけないよ」
「そうそう、主人の行いを正すのは家臣の勤めって言うじゃねーか」
「あたいたちは家臣じゃないわよっ」

 警戒体勢のまま軽口をたたき合う四人に対し、こいしはゆっくりと顔を上げ、四人を仰ぎ見た。そして最後に、何かを思い出そうとしているのか、左手で頭を抱えながら地面から起き上がろうとする縁を見て、おもむろに三枚目のスペルカードを取り出した。

「っ、させない!」

 空が単純特有の本能的行動により、急加速で持って出鼻を挫くためこいしに接近する。だがそれを、こいしは片手を上げて、弾幕で遮る。赤の強いピンク色の球状の弾幕の嵐。それに逆に出鼻をくじかれる形で回避に移った空に、今度こそこいしはスペルカードを発動する。

「やっぱり、そうするんだ………『抑制「スーパーエゴ」』」
 
 縁の体に電流が走った。危機を告げる冷気を帯びた電流。神経が反応、身体を倒す。その頭上を、先ほどまでそこら中の地面に落ち、ピンク色が掛かっていたハートの弾幕が、その色を薄緑に変えて一斉にこいしへと戻り始めていた。スピードは先と同じ、だが完全に虚を突かれた形となり、妖怪たちの反応が遅れた。特に前方からくる弾幕に押されていた空は、そのハートの軌道に重なってしまう。

「あうッ!」

 そして、直撃。更に連鎖的に三つのハートが空を襲い、勢いそのままに地面へと落下していく。

「おくうってきゃあっ!?」

 更に、空をやられたのを見て動きを止めてしまった燐に、絶好の機会とばかりに真上から降り注いだハートの雨が襲いかかる。それをボロボロになって何とか抜け切ったタイミングを、横から更に止めとばかりに動いたハートに押され、半壊した民家へと突き飛ばされた。

「ちぃっ!」
「こんのぉっ!」

 鬼というある種戦いの種族である勇儀と、普段から戦い慣れていることで不意うちに慣れていた十一は、時に弾幕で押し返し、『スーパーエゴ』のハートたちをブーメランで弾き、そして回避していた。だがそれで精いっぱいなのか、こいし本人へ弾幕の返礼を出来ないでいた。
 そして縁は、再び取り残された。十一と空がやられた時は怒りの声が出そうになった。いや、常の自分なら出ていただろう。だが今縁は、地面から体を僅かに持ち上げ、ハートの弾幕が吹き荒れる中、ただこいしを見ていた。一つの疑問を持って。

「……なんであいつ、泣いてるんだ?」

 それは先ほどの、首の骨を折られそうに、窒息死させられる直前に見た光景を思い出した時に、ただ単純な疑問だった。目から出る雫を涙とみるなら、間違いなくあれは涙であろう。
 縁はあれが、今までのさとりとの会話や彼女の能力から、あの目が心を見る目ではないかと疑い始めていた。心を覗くための第三の目。さとりは開き、こいしは閉じているもの。つまり、こいしは心を見れない。そう考えるならば、最初に目覚めた後、さとりに言われた「屋敷には心を覗けるものは一人しかいない」という言葉も納得できた。
 ではどうして閉じているのだろう、という場違いな考えが、唐突に降って湧いてきた。あまりにも突然で縁自身どう処理すればいいかわからない疑問。だからか、弱気も忘れて、こいしを、弾幕の陰になってよく見えない少女を見つめる。それしかできなかった。だがしかし、その一瞬一瞬の間に見る妖怪の少女は、顔を俯かせていた。
 声をかけよう、という気持ちがわいてくる。命知らず、という言葉が脳裏を掠め、言葉をねじ伏せようとする自分がいた。

「そこな人間」

 だがその心中の闘争は中途半端な形で休戦にされ、縁は声の聞こえた下を見下ろそうとした。その瞬間、自分の足場がぐにゃりと歪み、縁の体がすとんと落ちた。

「どわっ!?」
「大人しくしてくれ……再生中の傷に響くんだ」

 縁の視界は、透き通った茶色と黒色で埋め尽くされていた。だが同時に、目の前に影が現れ、それが昨日会ったばかりの三匹の一匹だと理解すると、すぐに現状より、その体に目がいった。傷だらけなのだ。出血し衣類のようなものも全て切り裂かれぼろぼろになり、肩で息をしているのが一目で分かる。

「おい、どうしたんだよそれはっ!?」
「……先に今自分がどうなってるか聞くのが先じゃないか? まぁいい、これはこいし様にやられただけだ」
「あいつは自分のペットも傷つけるのか?!」
「遊びはするさ……傷をしたこともある。だが、今は特別だよ」

 そうして彼方、なぜか水中で浮いているような状態のこの場所で、カドルはこいしのいる方向を振り返った。その姿と言動に、その傷があのこいしと何らかの関わりがあること、そして確実にこいしに何かが起きたのを知っていることを、縁に確信させた。
 その疑問を発する前に、カドルは口を開く。

「今いるこの場所は僕が『障害物をすり抜ける程度の能力』で作りだした、一次的な避難場所だ。けどしばらくしたら元の土に戻ってしまうから、注意しといた方がいいと思うね」
「……そりゃは確かに気になることだったけど、今は……」
「来たみたいだね」

 そういってまた違う方向を見たカドルの視線を、話を二度も逸らされ不承不承に似た気持になりながら追う。そこにいたのは、先ほどこいしに吹き飛ばされたはずの燐と空。そして疑惑を向ける二人を先導する、カドルと同じで血だらけのカニスとダンだった。

「お前ら、無事だったのか!?」
「アタイたちは人間と違って丈夫なの、あれぐらいならまだ平気よ」
「けど、そこの二匹は……」
「私たちでもやられるのには限度があるから……いつっ……」

 空は右腕で左肩を抑えて呻く。破れかけた白い布地からは血が滲み出ており、重傷ではないにしろ、痛みでしばらくは左手が不自由でありそうだった。縁は「悪い」と一言断ってからすぐに空の服の破れた部分と、自分のシャツの一部を破って結び、空が抵抗する間もなく手慣れたもの特有の素早い動作で、傷の部分に長くした布地を巻きつけた。

「ちょっと不出来だけど、即席包帯だ。しばらく痛いけど我慢してくれ」
「ん……妖怪ってすぐ傷が治るから平気なんだけどなぁ……けど、ありがとう」
「ああ、取っとけ取っとけ。減るもんだけどな」

 巻かれた即席包帯をポンポンと叩きながら感謝を述べる空に、縁は多少強がりながらも笑顔で返した。その二人のやりとりに、燐は何所か不機嫌なものを表層に浮かべるが、三匹からの声にすぐに消えてしまう。

「おい、すぐに移動するぞ。もうあまり持たないからな」
「ちょっと待ってよ! こいし様は放っておくっていうの!?」
「違ぜ、そりゃ。こいし様はあのまま、今の関係者がいない状況で戦い続けるのが一番いいんだよっ」
「簡単に言っちゃうと、キミたちがいることでこいし様は更に暴走してしまっているのさ」
「暴走……もしかして、さっきの少し変化してた弾幕のこと?」
「変化? 何が変化してたんだ?」

 空の何気ない言葉に、カドルに引っ張られる形で移動しながら問う縁に、飛行する要領で三匹を追う燐が答えた。

「最初に出した『本能「イドの解放」』があったでしょ。アレは元々、こいし様の前方を弾幕同士が交差しながら相手に襲いかかるスペルなのよ」
「だけど、今のはこいし様の周りをグルグル回ったり、ピタって止まったりしたでしょ? スペルカードの弾幕は確かに少しは発動の仕方に余裕があるけど、あそこまで変わったりはしないんだよ」
「……そうなのか。じゃあこれが、さっきお前らが言ってた、こいしの暴走ってことか?」

 燐と空の説明を何とか理解しながら、前を行く三匹へと問いかける。その内の、縁を引っ張るカドルが縁を一度振り返り、そしてまた前を向いてから、重い声を吐き出した。

「……正確には、あれは暴走ではなく、意識という過去と、無意識という現在が混濁し、あの方自身の現在のアイデンティティが不安定になっているんだよ。だから、術者の状態に作用されやすいスペルカードは、本来の効力を半ば見失っているんだ」
「……わかんねぇよ、もう少しわかりやすく……」
「ここらでいいだろ」

 ダンの言葉に遮られ、その直後に浮上したことによって、縁の不満の声は途絶えた。周囲の壊れていない町並みを見渡せば、あまり人気、いや妖怪たちの気配は感じられない。地霊殿にもいるような動物たつが疎らにいるだけだ。だが遠くとも近くともとれる距離から爆音が聞こえるということで、そうあの場所から離れていないことが窺い知れる。
 縁・空・燐が、そこで三匹が、自分たちの予想以上に怪我を負っていることがわかった。むしろそれは、致命傷といっていいかもしれない。カニスに至っては脇腹に小さいながらも風穴が開いているのだ。だがそれでも、三匹の眼光には決意を孕んだものが見れ、三人は緊張を走らせる。そもそも、なぜこの三匹が自分たちを連れてきたのかも知らされていないのだ。
 三匹を代表して、角の一本がぽっきりと折れ、そこから血を滴らせるカドルが前へと出た。

「キミたちを連れてきたのは他でもない。こいし様に深く関わりながら、こいし様が無意識を得ることとなった経緯を知らない……本当なら……そこの人間がこなければ、まだ百年は触れることなかった、そしてこいし様が完全に記憶を封印しきっていたかもしれないことを、教えなければいけない、と思ったからさ」
「それが、今のあのこいしと関わってるってことだよな」
「当然だぜっ。けどな、こいつを聞くってことは、人間、てめぇには最悪、こいし様の安寧のため、死んでもらうかもしれねぇ。そこの火車がしようとしたみたいにな」
「にゅっ!? ど、どういうことお燐!?」
「余計なことは言わないでよアンタたちっ! おくうは、今は……」
「へっ、そうだぜ。そういう追求は後だ。何せ早く言っとかないと、こいし様がこっちを嗅ぎつけちまう可能性があるからな」

 ダンの変わらぬひょうきんな調子に遮られ、空はぐっと言葉をしまい込んだ。そして懐疑の目を向けてくる空に、燐はそのことを言った三匹を睨む。そして縁は、自分の生死がこれからの話で決まるのだと思うと、固唾を呑みこんだ。

「いいから、さっさと話せよ」
「ああ、わかってるよ……まぁ、前置きはここまでは。これから話すのは……」
「……人間や動物を愛し、優しくて哀れで、他者を信じていたころの、私の妹の話よ」

 全員が、その声の登場に驚き、そして上を仰いだ。不届きものたちに対して強大な力を張り漲らせる白いカモメを侍らせた、地霊殿の主にして、この事態の中心にいなければならないはずの、古明地さとりが、感情を押し殺した顔を携えて、ゆっくりと降りてきた。



 あとがき:

 他の方の東方小説を読んでて思ったこと。

粗製(うp主)<あれが東方の小説だって!? じゃあ、俺は何だ!!

 おはこんばんちわ、短い上に予告を裏切って後二話もこいし編を続ける鬼に笑われた作者です。さぁ笑え、笑うがいいさ、笑ってくれよ、ほら笑うんだ、アーハッハッハッて。
 アーッハッハッハッハッー!!! まだまだいけるぜメルツェェェェル!!
 すいません、あまりの頭痛に某ナルコレプシーの主人公の嫁の常套文句とカブトムシが混ざってしまいました。というわけでもうちょっと続きます。レポートとかで忙しいのにマジバロスwww 
 他の方のように東方らしいほのぼの空気とか胡散臭い言葉遊びの世界がしたいのに、ついついやっちゃうのは殺伐としたシリアス(笑)とオサレ(笑)な展開の数々。所詮は二流と言うことか……(こいしの性格と解釈も含めて)
 ちなみにここで言い訳させてもらいますが、おくうのスペル「メガフレア」は○○がついてなくてもギリギリ使えるかもしれない、と思ったので出しました。だってスペル名に○○がついてないし、火を制御してるのだから少しは使えるだろう、と思ったからです。
 前置きはここまでにして、一番怖くて気になることがあります…それは……

虚胸<弾幕、薄くなかったですか?




[7713] 第八話――聖人<私と萌えてみろ!!
Name: へたれっぽいG◆eaa9c481 ID:f33d8d16
Date: 2011/02/14 14:12
「まったく、面倒だねぇ!」

 そう喚きながらも、勇儀は襲い来る弾幕の動き一つ一つを見切り、片手に持つ杯から酒を零さぬように自らの動きを制限しつつ、ハートの群れを避けていた。直撃コースとなりうるものには、もう片方の手から式神として使用する玉を取り出し、弾幕目掛けて投げつける。赤色の玉は虚空へ躍り出た瞬間から勇儀の妖力を受け式神/使い魔となり、全方位に長大な針をまき散らしてこいしのそれを阻んでいく。

「十一ー、まだ墜ちてないかい?」
「軽くっ、言わんでくださいっ、よっ!」

 気軽にかけられた声に、引切り無しにブーメランを振るいハートを捌く十一が、必死な表情と声のまま答える。弾幕同士のぶつかい合いの度生じる異なる妖力が反発を起こす音と光はさながら金属同士のものに似ており、だがそれよりも彩りは鮮やかであり、ある種花が咲く様な光景であった。
 だがそれでも、勇儀に比べ遙かに未熟な十一ではその全てを防ぐことはできず、全身は傷だらけで、直撃をもらった左肩は動かず垂れ下がり、右腕一本で自らの弾幕・ブーメランを繰っていた。
 その十一に、さながら成長を見守っていた姉のように不敵な笑みを浮かべる勇儀目掛けて、使い魔を破壊しそのまま突っ込んできたハートが襲いかかる。それを軽く避け、蹴りで彼方へ吹き飛ばした瞬間、また別の方向から現れたハートに横面を殴られ、錐揉みしながら吹き飛ばされる。

「っ、やるじゃないか!」

 更に追撃とばかりに勇儀の吹き飛ばされた更にその先から飛来するハートの軍団、回転しながら勇儀はその流れに身を任せながら酒を飲むという荒業をやりのけながら、とうとうスペルカードの封を切る。

「目を回すんじゃないよっ『鬼符「怪力乱神」』!!」

 鬼の符が赤く光ったと思った瞬間から、直後に起きたのは勇儀の両手首の枷から伸びる鎖が伸び、何股にも分れて360度に広がっていくという、人間の範疇では考えられぬ現象である。その鎖たちはそれぞれがとぐろを巻きながらも伸びていき、遂にはこいしの『抑制「スーパーエゴ」』の最大射程範囲まで到達する。それに気づき、こいしが両手を頭上につき出し、勇儀目掛けて弾幕を放とうとした瞬間、勇儀は笑った。

「十一、しっかり避けろよぉ!!」

 そして静止し、両手を胸の前で思い切り交差させる。その瞬間に鎖は枷から千切れ、そして更に鎖の一つ一つの結びまでもが乖離していく。そこから更に、乖離したパーツが赤く変色し矢じりのように姿を変え、それぞれが独立した意思を持ったかのように動き始めた。原子の運動にも似たそれはこの戦闘空間に思う様跳ね飛び、ハートを根こそぎ撃ち落としていく。

「もう少し早く言ってくれ、どぅわっ!?」
「ははっ、お前の母ちゃんなら三味線弾きながら避けてたぞ!」
「お袋と比較しないでくれ、うおっ!」

 『スーパーエゴ』と同じく無差別的攻撃なのか、共に闘っているはずの十一すら被害を被り、さらに回避に専念させられる。だが勇儀の弾幕は意図的にハートの集まる場所、こいしの周辺に集中させたのか、ハートの数が減るのが目に見えるようにわかり、そしてこいしもまた回避を余儀なくされた。
 その途中、こいしの目の前で回りながらふわりふわりと浮かんでいたスペルカードに、罅が入る。スペルカードは使用限界まで術者の傍を離れず、そしてその内に眠る全ての力を解き放てば自壊してしまうのだ。
 その限界が、ハートを一度に多く破壊されるという負荷のせいで加速し、迎える。ガラスが割れた音にも似た響きと共に、こいしのスペルカードが燃え、そして消失した。だがそれにこいしは眉すら動かさず、ただぶつぶつと呟きを重ねるだけであった。
 
「何でわたしなの……わたしだけなの……お姉ちゃんはどこなの……セイジロウも、キイロも、アオも、クロも……違う、アナタたちじゃない、消えてよ……」

 それが風の流れにのってきたのか、スペルカードを仕舞って再チャージをする勇儀と、ブーメランをより巨大化させ、次のスペルをすぐにも出そうとする十一の鼓膜を響かせる。

「さっきから何を言ってるんだい……けどまぁ、そんなこと関係ないよ。あんたには山程説教があるんだから、ね!」
「今の内だ、抉らせ……もとい、墜とさせてもらうぜ、無意識の!」

 その明らかな隙を狙って、二人が新たなスペルカードを取り出し、宣言する。その直前。

「……『表象「弾幕パラノイア」 』」

 小さなスペルカード宣言が響く。途端に、二人の周囲を小粒の弾幕が埋め尽くし、球状となって封じ込め、視界と行動を完全に封鎖してしまった。更に二人が驚愕する間もなく、こいしが高々と掲げた両手からこいしの胴体ほどもある弾幕を連続発射、二人を閉じ込めた紫の球体へと、その内側の二人を打ち抜かんとする。
 見えぬ視界で、二人は自分たちが窮地に陥っているのだと本能的に悟った。咄嗟に身構え、あるいはスペルカードによって脱出しようとする。その時、彼方から声が響いた。

「ははーいおまたせー! 『罠符「キャプチャーネット」』!!」
 
 先程のこいしへの意趣返しというように弾幕が、新たに現れた薄紅と新緑の二種の色をした蜘蛛の糸が作りだす強大な巣に巻き取られ、そしてその巣がひっくり返り、勢いそのままにこいしの弾幕と蜘蛛の巣型弾幕が、無意識の少女へと跳ね返される。
 それを驚愕の表情で見たこいしは、次の瞬間、先とは違う壮絶な喜色を浮かべ、歯を剥きだして奇声を上げ、苛烈なる弾幕で持って撃ち落とし始めた。

「あっちゃ、全部落とされるかぁ……とっ、早く抜け出したら?」

 それに半ば予想通りという調子で、黒谷ヤマメは頭を掻いて、球状の弾幕に封じ込められた二人、いや鬼を見上げる。だがその中で勇儀はゆっくりと酒を飲みながら、肩で息をしながら自らを封じ込める弾幕にブーメランを叩きつけては弾かれる十一を見て、嫌にゆったりとした調子で返した。

「いんやダメだねぇ。こいつはどうやらスペルが限界迎えるまでなくなってくれないらしい……ま、それまで一人で頼むよ、黒谷」
「うっわ、酷い! 十一も何かいってやってよ」
「そんな……気力も……ないぜ……」
「あら、そうなの……まぁいいわ」

 そしてヤマメは振り返り、ヤマメの放ったスペルの弾幕を叩き落としたこいしを、冷や汗を垂れ流しながら見上げた。潜在能力という面では、残念ながらヤマメはこの場にいる誰よりも劣っていた。よくて十一と似たようなものだろう。目の前であれほど激しい弾幕を、即座に自分のものだった弾幕ごと落とした相手をするには、ヤマメだけでは荷が勝ち過ぎていた。

「ま、それでも……妹分がやられたんだ、それ相応には報いてもらうよ!」
「い、もうと……そうか、わたしは、妖怪の……うふふ、わたし、妖怪なんだ!!」
「躁鬱の激しいやつだね。嫌いじゃないけど、今はムカつくよ。私の弾幕で百年は熱にうなされてもらおうか!!」

 そうしてヤマメは新たなスペルカードを取り出し、解放する。まったく同じタイミングで、こいし本人が、右の顔と左の顔にまったく別の表情を浮かべるという奇妙奇天烈なことをしながら、ヤマメへと一直線に飛びだした。




第八話『ハルトマンの妖怪少女』



 さとりは今朝から感じていた嫌な予感が的中しているのを、嫌々ながらも理解していた。心が読めないはずの妹の身内が、瞬きの瞬間の度に、感じては消え、生じては失せ、蘇っては死に。不完全ながらも、昔のように読めるようになっていることを、地霊殿からも見え聞こえたあの光景と、そして眼下にいる五匹と一人を見て。事情は、予測できる。あの過去を知り得ているさとりは、柄にもなく歯ぎしりをし、見上げてくる人間を睨み、今はまだ無駄だと己の心に制止をかけた。
 事情を知るフレッチャーに頼み、『ありとあらゆる場所を飛べる程度の能力』でこいしが、過去と今を幻視し混濁させる妹が暴れる様を、巻き込まれぬよう上空で見ているだけだった。こうなった以上、さとりには、そしてフレッチャーにも、こいしに手を出すことはできなかった。もし無理にこいしに手を出すならば、彼女の暴走は悪化の一途を辿ってしまう。いや、人数が多くなればなるほど、彼女の意識と無意識は破傷していくのだ。
 だから今、引き金を引いた人間と、ついでに自分のペットたちに、そしてなぜか事情を知っている三匹に目を向け、ゆっくりと降りた。フレッチャーは降りてこない。そもそも彼が攻撃態勢をとっているのは、ただ単純に彼の嫌う『面倒』に巻き込まれたから、八つ当たりという形をとって、縁たちへと攻撃を加えようとしているだけだろう。

「フレッチャー、抑えて」
「……面倒はごめんだ、後は勝手にやっていろ」

 さとりが地面に足をつけると同時に、フレッチャーは攻撃の意思を表層から消すと、ゆっくりと翼を動かした。その直後、まるでビデオの編集でも見ているように、縁の視界からフレッチャーの姿が消失した。その驚愕をぎょろぎょろと動く第三の目で読み取りながら、さとりはゆっくりと二人のペットへと目を向けた。びくり、とその両肩が震える。その心中を読んで、さとりは若干の呆れを抱いた。

「『勝手に戦ったことを怒られやしないか』……そこは別にいいの、二人とも。あの状態のこいしならば、火の粉同様、降り払わなければいけない。責めるつもりはないです」

 ただし、とつけ加え、燐を睨む。その視線には抑えるべき感情から滲み出る怒気すら感じ取れた。

「お燐……私は言ったはずです。こいしの異常が強まるようなら、中邦さんを殺すように、と」
「ぅ……そ、そうですけど、あの状況では……」
「『鬼に邪魔をされた』『いきなりこいしがきたから判断できなかった』言い訳としては上等、ですけど、あなたがそれを未然に防げなかったことだけは事実です……あとで……」
「……やっぱさとり、お前なのか」

 さとりの喋る横で、ぽつりと縁が言葉を零した。心を読み、さとりがそちらへと向く。

「ええ、そうです。貴方の考え通り、お燐をけしかけ、貴方を殺そうとしたのは私です」
「っ……それもやっぱり、こいしと関わることなのか?」
「ええ。そして地霊殿の立ち位置自身にも……ですがもう、手遅れのようですけどね」

 甘かった、とさとりは溜息とともに自分の浅慮を吐き出し、そしてこの状況の中、渦中にいながらもまったく外側でしかなかった人間に対して、妖怪らしからぬ憐憫を込めて、説明をしようと考えた。肩を落としているペット二匹はよいが、重傷を負いながらもこいしのことを話そうとした三匹が黙っているのを見、そしてその心の内の考えを読み取って、改めて縁を真正面から見据えた。

「中邦さん、地霊殿は一体この地底でどんな役割を持っていると思います?」

 唐突にまったく違うと思われる言葉を振られ、縁はすぐに話の筋を戻そうとしたが、しかしさとりの目を見てその雰囲気が緊迫としたものが入っているのを感じ取り、考え、そして答えた。

「……動物たちの住処で、お前たちの家。そして……灼熱地獄って場所の、蓋……じゃないか?」
「七割方合ってますね。ですが残り三割は見当がつきますか……いえ、つくはずですよ。街へと出た貴方なら」

 そう言われて、縁は殆ど一週間前の記憶を掘り起こし、あの時、喧嘩を始める前に話していたこと。初めて会った時に十一が勝手に喋ったこと。そして勇儀が言っていた十一をけしかけたという連中の話。その中で共通するのが、ある行動。そしてその行動から考えられる、縁にとってはそれこそ物語的な、同時に身近なものである考えが頭に浮かびあがった。

「まさか……さとりたちを、押し込めていた?」
「……その通りです。誰かが言っていませんでしたか? 心を読まれることは、相手の全てを丸裸にしてしまうようなものだと」

 肯定されたことにまだ理解そのものを受け入れきれず、たまらず他の地霊殿の住人たちへと顔を向けた。だがその表情の全てが無言でありながら、さとりの言葉を肯定してしまっていた。それでも、と心中で追いすがる縁に、さとりは静かに現実と虚構の入り混じる言葉をぶつける。

「貴方の方が異常なのですよ。慣れる程度で私たちとこうも触れあっているのが……まぁそこは、貴方個人のことなので今は関係ないですが……とにかく、これで地霊殿のことに立ち位置はわかりましたね?」

 不承不承ながら首肯。くるりとさとりは縁の背を向け、未だ爆音轟く西区へと視線を向ける。その眼は縁からは見えず、ただ第三の目がぎょろりと周囲の縁を見ているだけだった。

「それではなぜ貴方を殺すことと、地霊殿が関係するのか……それは簡単です、貴方と触れることで、こいしがああやって暴走し旧都に被害を出すこと最小限に防ぐ……そうしなければ、ただでさえ忌諱される私たちの立場が、更になくなってしまいますからね」

 だからこそ、可能ならば、ああなる前にしたかったですが。一人愚痴てから、そしてまた、さとりは縁に向きなおった。その眼が縁の思考を捉え、そして縁もまたさとりに心を読まれることを予測していた。だからか、二人は同時に言葉を発する。

「「ならなぜ、貴方(俺)とこいしが触れあうことがまずかったのか」」

 ここにきてようやく、話の核心に、そして縁・燐・空が知りたかったことに話が繋がろうとした。しかしその前に、さとりは今まで黙っていた三匹へと目を向ける。そこには感心、そして驚嘆の色が込められている。三匹もそれに気づいて、血だらけでありながらも慇懃に礼の姿勢をとった。

「まさか、記憶と経験(記録)を分離して私に読ませないようにしていたとは……私に負担をかけさせたくなかったとはいえ、関心するわ」
「「「恐縮の極み」」」

 互いだけが知るそのやり取りに、困惑するのは当事者以外だった。疑問符を浮かべる三人に対し、カドルは鼻で笑い、そしてちらりとさとりを見た。その心を読み取って、さとりは一度目を閉じた。第三の目だけが忙しなく周囲を見渡し続け、ひたすら心を読み取り続ける。そしてぴたりと、西区の方へ目線が向けられると、さとりの対の瞳もまた眠りから起きるように開かれた。
 それによって、空気が変わる。ただ緊迫としたものではない。どこか別の場所に、ここではないどこかへと連れていかれたとでも錯覚させられるような。不意に縁は、この世界にくる直前に学校でやっていた怪談の語り合いの中で、妙に話が上手い奴が話す時に、雰囲気そのものがガラリと変わるのを思い出し、それと似たような現象が今この場に起きているのだと確信した。

「……話しましょう、貴方が……いえ、人間がどうして、こいしへ深く関わってはいけないのか……」

 さとりの口が、ゆっくりと紡がれる。詩人の如き言葉が、弾幕の響かせる華麗にして粗暴な音を遮断し、聴く者を過去へと誘い始めた。
 



「おはよう、お姉ちゃん!」

 朝起きると、あの子はいつも笑顔で私を迎えてくれていた。今もあの子は笑顔を浮かべるだろうけど、今と決定的に違うのは意識を持って、無意識とはまた別の、輝く様な笑顔だった。あのころ、地下へと追いやられるずっと前。大結界が作られてまだ大して日が経っていなかった時。もちろん、第三の目は開いていて、あの子は心を読むことができた。だからこそ、『覚』の運命を体現していた。
 妖怪『覚』は妖怪の山の麓で暮らしていた。今と同じ、けど今よりも苛烈に、昔は『心を読まれる』ことを恐れられていたから、他の妖怪たちとは離れた生活していた。それでもやはり、言葉を使うことのできない低級の妖怪や動物たちは私たちを慕ってくれた。そしてこいしは、そんな動物たちと遊ぶことが、一番楽しいことだった。

「あはは、くすぐったい……そうだおまえの名前はキイロにしよう! 黄色の犬って珍しいでしょ。そしてそっちはアオ、お前はクロね」

 その中でもあの子が名前をつけた三匹、犬のキイロとアオ、羊のクロとは特に仲がよかった。悪戯好きでよく私たちを困らせたこともあったけど、その困らせられることが、ある種の楽しみになっていた私たちには、そんな三匹といることがうれしかったし、何よりこいしはいつも笑っていた。本当、心からの笑顔で。
 けど、問題があった。アオが人間の里にいる人間のペットだったってことがわかったの。あまりに一緒にいることが普通で、心を読み取り忘れてしまっていた。私はこのまま構わず飼っていようと言った。けれどあの子は。

「きっとその人はアオがいなくなって悲しいと思ってるはずだよ……だからアオ、おまえの飼い主のところにいこ!」

 あの子は優しかった。心が読めようと、他人を信じていた。だから少し思い込みが強い部分があって、独善的なとこもあった。それでもそれは大多数から見れば、たしかに子供が持ってる無償の優しさだった。私はついていこうとした。けどあの子は三匹と一緒だから大丈夫と言った。あの子は、人間は知っているし何度か追いやられたこともあったけど、まだ人間が心の底は優しいと思っていた。
 私は妖怪の里へ駆けていくあの子を、この当時幻想郷に来て知り合ったフレッチャーに協力してもらって追い掛けた。フレッチャーなら、例えどんなことがあろうと、逃げることができたから。
 人間の里に着いて、人間とは極力会わないようにしながら、あの子はすぐに心を読んでアオの飼い主を捜しあてた。そして彼の前までいき、一緒に連れてきたアオを前に出して、謝った。妖怪が人間のペットを攫ったと思っているのだろうと、考えられたんだろうと先読みしたんだろう。私も方法は違うが、考えは同じだった。
 普通なら怒られ、また迫害され、石を投げられ、アオを置いて、こいしは帰ってくるだろう。目に涙をためながら。そう思っていた。だけどその人間は、こいしが頭を下げた時、笑った。ひとしきり笑った後、こいしの頭を撫でた。はにかみの顔で。

「そんなに怖がらないでくれよ。いや、きみが面白いやつだって思ってさ……そうだ、僕と友達になってくれるかい?」

 最初はこいしはポカンと口を開けていた。けどすぐに満面の笑顔を浮かべて、返事をした。

「うんっ!」

 こうしてあの子に、初めての人間の友達ができた。クロたちも祝福した。けど私は、どこか怖かった。きっと人間を、いや他者を信じられなくなっていたのだろう。だからその時は、こいしに妙な真似をすればすぐに殺すつもりでいた。
 けれどその後、その人間の男とこいしはよく遊んだ。こいしが里に出入りするのは不味いだろうから、里から少し離れた場所で二人は待ち合わせて遊びに行っていた。三匹も付いていった。私もまた、こいしの心が読める射程からはずれた位置から二人を見ていた。
 けれど、危惧したことはまったく起こらなかった。こいしが心を読めると言われても、人間は少し恐怖を感じたようだが、すぐにそれを引っ込めて彼女を笑わせた。心を読まれることを受け入れたのだろう。そういう相手が昔から少なかったがいたことを知っている私は、少しだけその人間の事を信じるようになっていた。

「そういえばあなたの名前はなんて言うの?」
「ああ、誠二郎だよ」

 セイジロウという人間は里の有名な一族の丁稚奉公の一人だった。ただ両親の残した一軒家のために屋敷の中ではなく一人で暮らしているらしく、里の中での評判も平凡、といったところだった。ただ夢があったようだ。外から流れてきたある絵が彼の家に飾られているらしく、その絵を自分で再現することが、彼の生きる目標だったという。他の妖怪から見ても、それなりに羨ましいことだったろう。
 そのまま日々は過ぎていった。あの子はセイジロウと何日かに一度会う様にしていたが、しかしその間隔は徐々に小さくなっていっていた。それは別に構わない。私としても、私たち二人の『覚』の輪だけではなく、例え一時でも、幻想の中の幻であろうとも、あの子が他者の世界に触れて、その表情をより豊かにしていくのは、見ていて楽しく、嬉しかったのだ。ただの妖怪として、セイジロウに嫉妬を覚えたこともある。だがそれも、こいしの笑顔と比べれば小さ過ぎて、すぐに笑って流してしまった。
 セイジロウもまた、こいしと会えることを望んでいるようだった。距離ぎりぎりの範囲で心を読んだときは、あの子を自分の絵のモデルとしたいと思っていた。あの子もそれを読んだのだろう、顔を赤らめ、嬉しそうに微笑んでいた。その喜びが伝わったのか、三匹もよく鳴いた。セイジロウは、照れくさそうに頭を掻いていた。そして家に戻ると、こいしが喜色満面でそのことを話し、私も釣られて笑みを作っていた。
 人間と妖怪の時の感じ方は違い過ぎる。だからこそ、私は今この一瞬を、穏やかで安らかな世界が、もう少しだけ続くようにと、件の絵が完成されるまでは、せめて。続いて欲しいと思っていた。

 だけど、幻想郷は全てを受け入れている。負の感情さえ。

 セイジロウが妖怪と逢引きしている。前々から休日にふらりと里の外に出かけていることを疑われていたセイジロウは、その悪意の尾ひれがついたウワサを聞き、更には仲間内から問われたことで危惧を覚え、しばらくこいしに会わない方がいいといった。だけどこいしは、そのことを聞かなかった。

「どうして、きっと話せばわかってくれるよ! 誠二郎がそうだったみたいに」

 こいしは麻痺していたのだ。ただセイジロウという人間だけと話していることで、本来の人間とはいかなるものであったのかと。
 セイジロウが一方的に会わないというと、その翌日、あの子は三匹を連れてセイジロウに会いにいってしまった。何も考えず、ただ愚かに人間を信じて。

「覚だ……」

 誰かが言った。忌み嫌われる妖怪が、人間の里に来ていると。それは伝播していった、負の枷を、伝えられるごとに一つ一つつけていって。その心を感じ取っていたあの子は、ひたすらセイジロウの家へ走っていった。けれど途中、あの子に向かって石が投げられた。

「帰れ、この覗き見野郎!」
「お前に買わすものはねぇんだ! とっとと出ていきな!」

 里の人間、里に降りてきていた一部の妖怪たちが次々とあの子へ罵詈雑言をぶつけた。それを止めようとしてくれた人間や妖怪もいた気がするが、今はもう覚えていない。ともかく、あの子は走った。涙を溜めて。
 そしてセイジロウの家の前に辿り着き、その戸を開けようとした。けれど中から聞こえたのは、怒声だった。

「どうして会いにきた!?」
「だ、だって……もう、会えなくなるみたいで、嫌だったの!」
「少しの間だけっていったじゃないか、くそぉ!」

 そうして戸が開けられ、こいしと三匹は中へと入った。その周囲に人が集まっていく。あの妖怪を出せ、説明しろ、化け物を庇っているのか。自覚というもの持ち合せながら、それを置き去りにして吐き出される言葉の数々。それらがかなり長い間続いていたと思うと、突然あの子が戸を開けて、飛びだしてきた。その眼に先ほどよりも大粒の涙を溜めて。
 すぐに取り囲んでいた人間たちがセイジロウの家へと入っていった。私は、こいしを追った。だからその時、あそこでどんな会話がされていたか。それをあの時知っていれば、ああはならなかったと、妖怪らしからぬ後悔というものをしていた。
 こいしはすぐに見つかった。セイジロウとの集合場所で蹲っていた。

「……大丈夫、こいし」
「………お姉ちゃん」

 こいしは泣かなかった。だけど顔を悲しみに染め、ただ組んだ手と足に埋めて、何もかもを必死に耐えようとしていた。私はそれを聞きだそうとし、まず心を読んだ。そして知った。
 セイジロウは、こいしを否定した。こいしを拒絶した。端的に言えば、それだけである。だがそれ故に容赦がなかった。一度折られようとした人間の心は、簡単に他者へとその原因への鬱屈を吐きだそうとする。その吐き出し口がこいしとなってしまったのだ。
 セイジロウに、依存しているように、信じていたこいしは、深く傷つけられた。そして私には、セイジロウという人間への怒りが沸き上がっていた。里の人間たちならば仕方ない、あれはある意味当然の帰結であり、いずれああなると想像ができていたからだ。
 だが、それ故に、あの瞬間にこいしを裏切ったセイジロウを、私は許すことができなかった。妹をこうまでコケにされて黙っていられるほど、当時の私は妖怪としても覚としても成熟してはいなかった。妖怪同士の決まり事など知ったことではない、と私は人間の里であの人間を殺すことを決意し、しかしそれをこいしに止められた。

「どういうつもりこいし? 私はあの人間に仕置きをしてくるだけよ」
「……ダメだよ、そんなことしちゃ。だって、誠二郎の言ってることの方がきっと正しいもん」
「っ! 幻想郷に正しいも何もないと、前に言ったでしょう!! それを忘れたの!?」
「違うの! 私はただ、お姉ちゃんに誠二郎を殺させたくないだけ!」
「『セイジロウが死ぬのは嫌』と、正直に言いなさい!」
「『これでこいしが戻ってくる』って、心の中で思っているくせにっ!!」

 私たちは実に珍しく、そして今までの中で一番大きな姉妹喧嘩をしてしまった。辺りの木々をなぎ倒し、通り過がりの妖精を壊し、一昼夜休まず、ただひたすら罵詈雑言をぶつけ合って。
 そしてそのまま決着をつけず、別れてしまった。こいしはあの場所で。私は自宅へと。そのまま私は放心して、何もせずに三日間の時を過ごしてしまった。心の中にあるのは、後悔だけだった。こいしの笑顔を望んでいたのに、それを取り戻せると思った瞬間に、失敗してしまった。それだけを三日間ずっと、悔やんでいた。
 そうしていると、不意にフレッチャーが現れた。

「セイジロウがこいしを連れていった」

 それだけを言った。それだけを聞いて、私の意識は最大級の悪寒が走り、こいしが座っているだろう場所へと急行した。フレッチャーも付いてきた。
 そして、あの場所に、こいしはいなかった。セイジロウに連れていかれたのならば、人里か。そう思い、人里へと飛んで、能力を最大射程で延ばし、片っぱしからその心を覗いた。そして、こいしが連れていかれた場所、そしてセイジロウと、彼にあの子を連れてこいといった人間たちの影が脳裏でチラついた。
 フレッチャーの能力を使わせてもらってえ、その場所へと飛んだ。魔法の森に近い廃屋だった。昔は人間が住んでいたというこの場所に、こいしがいるという。
 だがその時、私の能力そのものである第三の目は、その廃屋には心を持つ者がいないと告げていた。そんなはずはない、少なくともこいしはいるはずだと考えると、一瞬、心のようなものが生じた。それはこいしのものだった。私はすぐに廃屋の扉を開こうとしたが、すぐにその心は消えてしまった。
 まさか、殺されたのか? 最悪の予感が私の脳裏を巡った時、またあの子の心の反応があった。だがすぐに消え、また現れた。蛍の尻にも似たその点滅に、私は何故か恐怖を覚えていた。だがそれを、フレッチャーの催促で振り払い、廃屋へと踏み行った。
 そして、異常な光景を見た。
 決して狭くはない屋内。そこでは天井や、壁、所構わず肉片と血が散乱し、床には血溜まりの池が幾つもできていた。人食を主とする妖怪だったら喜ぶかもしれない光景だったが、けど私には刺激が強すぎた。そして中央には、こいしがいる。四肢をぶらりと垂らし、床の上で仰向けになって寝ていた。その目は、帽子が被っていて見えない。

「こいしっ!」
 
 肉片を踏み散らかしながら、私はあの子のもとへと辿り着いた。その時、あの子の心が、一際大きく見えるようになったと思い、私をそれを覗いた。
 そして、どうしようもない絶望感が、私を襲った。
 私が見たのは、その時のあの子の記憶だった。
 セイジロウを筆頭とした里の人間たちが、こいしを取り囲んでいた。その手には、こいしがセイジロウの家を飛びだしたさいに置き去りになっていたクロ、アオ、キイロたちが、その皮を剥がされ、ぶらりとぶら下げられていた。絶命していた。心を読めるあの子は、それがわかってしまった。そして、人間たちが、セイジロウが、何をしようと考えているのかも。
 あの子は逃げ出そうとした。けれど、退魔師の針がそれを許さなかった。こいしの手が床に縫いとめられ、そのまま両手足の腱を切断された。妖力もまた、一時的にではあるが封印された。そしてあの子の意識がある中で、それは始まった。
 一人一本、刃物を持った。あの子へと近づき、無造作に刃を振り下ろし始めた。めった刺しだった。あの子は悲鳴を上げた。だがそれすらも喜劇のものへと変え、人間たちは代わる代わるあの子に刃を振り下ろし続けた。妖怪だから死ににくい。だから、死にはしないが、死ぬような思いをさせる。そして心を読む妖怪がいなくなれば、今より過ごしやすくなる。言われないのない悪意と独善が刃に込められ、心を読んでしまうことだけが残されたあの子はただひたすら、それを見せ続けられた。四肢は残されながらも壊死させられ、血は身体中から噴き出し建物の中に血の煙が生れ、床には血の川が生まれていた。肉の欠片が飛び散る。
 それでもこいしは生きていた。生きてしまっていた。そのことに、セイジロウが気づいた。そして、刃を振り上げた。

「……たす、けて……せいじ、ろう……」

 あの子はやっと、悲鳴以外の言葉を発した。それを聞いた時、セイジロウの顔に、そして心に、様々なものが吹き荒れた。後悔、懺悔、憐憫、優越感、劣等感、侮蔑、同情、義憤、自己嫌悪、排他、自己防衛。数え上げればキリがない。それを見ていたこいしが、いつしかセイジロウの顔に、そして心に、たったひとつの悪意が、彼の中で一つの幻影を生んだことを知ってしまった。その幻影がセイジロウの心を呑みこみ、あの子に向けて、あの子がもっとも聞きたくない言葉を告げた。

「嫌だね。誰がお前みたいな妖怪を助けるか」
「わ、し、たち……とも、だち……」
「あんなの嘘に決まってるだろう? あはは、バッカだこいつ! あんなのを信じやがって!」
「え、絵を…見せて……」
「そんなものはないよ……で、いい加減、死んだらどうだい? 例えば、こことか…こことか」

 セイジロウが指さしたのは、こいしの頭と、下腹部。その二か所に、一旦降ろされた刃の切っ先がなぞられた。

「ここをさせば、さすがにお前も死ぬかな?」
「や、め…て……セイジロウ……っ!」
「うるさいんだよ、このクソ妖怪!」

 その言葉がきっかけとなって、セイジロウの刃が、あの子のお腹に突きたてられた。
 そこであの子の心/記憶が途切れた。残されたのは、この肉片と血の山だけ。だが私にはわかった。この子がこの惨状を生み出したのだと。それを知った時、私は人間たちへの復讐など忘れて、ただこいしを見ていた。帽子がずり落ちていたこいしは、天井を見ながら、何かを呟いていた。その眼には光がなくて、眼尻には涙がたまっていた。
 そして、あの子の第三の目は、既に閉じてしまっていた。
 この日からあの子は、変わっていった。そして何より、あの子にはあの時の記憶が、何よりセイジロウやアオ、キイロ、クロのことが抜け落ちていた。簡単に人間や妖怪を殺し、気まぐれで食べられないものを口に含み、どことも知れぬ場所をふらふらとさまよい始めた。常に笑顔を、昔とはまったく違う、どこか恐ろしげなものが感じ取れる笑みを顔に張り付けて。
 あの廃屋は、私があの子を連れだしたあと、フレッチャーが破壊してくれた。里に行けば、人間たちがセイジロウの家を燃やしていた。浄化のようだ、と昔の私たちを見るように、私はその燃える家を見ていた。あの三匹は結局あの死体の中から見つからず、恐らくは、あの空白の間、こいしの手によって人間たち同様、細切れにされてしまったのだろう。だから、探さなかった。
 私は、いつあの子があの時の記憶が戻るのかわからず、恐怖を覚えた。それがあの子の身を案じてなのか、それともあの空白の瞬間の後、ただ虚空を見ていたあの子が再び現れることへの恐れなのか、それはわからない。
 けれど、一つだけ言える。
 あの子は、古明地こいしは、人間によって壊れてしまったのだと。
 信じていた人間によって、無意識という場所へと閉じ込められたのだと。
 だからもう、私は人間を信用はするが、信頼は二度としないと。
 それだけを、誓った。



 さとりが喋り終えたとき、その場で口を開く者は誰もいなかった。遠くから、遠雷のように弾幕の音が聞こえるだけだ。その中で縁は、その人間たちにただ、許せない、という怒りだけを覚えようとしていた。だがしかし、右腕がぴくりと動いたかと思うと、別の考えが、いや冷水のような言葉が身内より湧きあがった。
 そいつらを許せないと感じるのはどうしてだ? こいしのためか? それとも、こいしを助けるという演技をすることで自分は真人間だと証明するための自己弁護か?
 声に従う様に、縁は考えだした。自分は、どうして怒ったのか。こいしのためだと信じる自分と、それは遠まわしな自分のためだという自分。二人の縁が、それぞれの理由を主張する。どちらももっともらしく、縁には判断がつけられなかった。

「……先ほどの話ですが、一つ訂正させてもらいます」

 その縁の心中を読んでいるだろうが無視し、さとりは唐突に口を開いた。

「私はさっき、あの三匹は見つけなかったといいますが……どうやらそれは違いました」
「え……どういうことですか、さとり様?」

 話しを聞いていて今まで涙目であった空の言葉に、さとりは視線を黙っていた三匹へと投げかける。三匹もまたそれにうなずき、カドルが前へと出てきた。縁はそれを見ていて、そしてそいつらが常に履いていた褌の色を思い出し、まさか、と突拍子のない確定情報を思い描いた。怒りをその顔に表していた燐もまたそれを察したのか、「あっ!」と声を上げる。

「……僕達が、さっきの話に出てきたクロ、アオ、キイロってことさ」
「まぁ、といっても俺たちも目が覚めたのは…って言い方はおかしいかもしれないが、とにかく妖怪として目が覚めたのはあれからずっと後だったからな」
「俺の予想だと、たぶんあの場に残っていた悪意やら魔法の森からの瘴気やらが作用して、長い年月をかけて俺達の死体を妖怪化したんだろう」

 得意げに語る三匹に、空が即座に素直を疑問を浮かべ、口にした。

「……うにゅ、けどそれだと、さとり様の能力に引っかからないの?」
「そこは私の盲点でした。彼らは動物だったころの記憶を、肉体的な経験の領域に落とし込んで無意識とすることで、心の記憶として読まれることを避けていたみたいです」
「元々こいし様対策だったんだけどな……最初は、驚かせるだけのつもりだったけど、あんな風になっていれば、もはや関係なかったんだが……」

 空への疑問に即座に回答したさとりとカドルを見ながら、縁はようやくカドルたちの行動に一貫性がありそうなのを感じ取れた。義憤や怒りは脇において考えると、三匹はこいしを第一に考えてるのがわかった。だからこそこいしと縁の接触が最小限になるようにしてたのだろう。初めて会った日のやりとりがその証拠だ。だがそうなると、どうしても疑問に思うことがあった。
 なぜ、縁に過去を教えるような素振りを見せ、こいしへの興味を集めようとしたかだった。
 さとりは恐らく、ただ自分にこいしと関わらせたくないからだろう。こいしのそれはある種、縁の常識から考えればトラウマ/人間嫌いになってもおかしくはないと思わせるものだった。だからこれを最後にこいしの前から消える。それに駄々をこねるか、こいしの説得のためなら、その身を差し出せ。そう遠まわしに言っている。
 だがカドルたちはどうだろうか。こいしの過去を教える、まではいい。だがそこから、明らかにこいしに関わって欲しいというような態度。こいしから逃がしてもらったことや、昨日のことからも、殺すつもりもないと思える。単純に考えるなら、こいしの説得への協力。それだけ、しか今の縁には考えられなかった。

「……随分と色々と考えていらっしゃいますね、中邦さん」

 そこに思考を現実に戻すさとりの声が響く。

「大方、中邦さんが考えているとおりです……どうします、今なら貴方をフレッチャーにお願いして、地上までお連れしますが?」
「……いきなり手の平かえして、さっさと上に送るのかよ……」
「ええ、そうでもしないと、貴方は残りそうですから」

 自分すら知らない図星を押されたようで、縁は何も言えなくなっていた。その縁をじっと見つめる三匹。燐と空も、縁を見ていた。この場にいる全ての妖怪の視線が、縁へと集まっている。そのことを意識すると、縁の中に焦りが生じてきた。
 遠方から相変わらず弾幕がぶつかり合う音。だがそれが、徐々にこちらに近づいてきている印象を覚える。あながち間違いではないだろう。弾幕の光は、先ほどよりも大きく見えるのだから。
 これで、時間制限もついた。ふざけている、と縁は笑いたくなった。
 疑問と問いはどれも複雑難解。ただでさえ縁の中でも最高に難解な代物であるのに、しかもダメ押しとばかりの時間制限。迷う暇はないのに、迷ってしまう。その矛盾が更に縁を自らの混沌へと落としていく。
 怒りの矛先、怒りの種類。感情の分け方。自分の命はどうなるか。逃げだすのか、それとも犬死の可能性を抱えて身をゆだねるのか。
 問題を出された子供のように、天を仰いだ。縁の意思を封じ込めるような、大きな天井と、光の見えない縦穴。全てが八方塞がり。たまらず、子供のように泣きたくなった。最初はこいしの理由を聞けば何とかなるかもしれない。そう思っていた自分を殴り飛ばしたくなった。
 それでも、男の意地として涙は流さないようにし。

「あっ………」

 唐突に、あることに気づいた。
 さとりがその心を読んで、眉を顰める。不機嫌に。

「『こいしは泣いていなかった』……いきなり何をそんなことを言い出すのですか、貴方は」
「なんでそんなこと考えられるんだか、こんな状況で」
 
 さとりばかりでなく、カドルからも非難する調子の言葉がぶつけられた。だがしかし、縁はそのひとつの考えが生み出した一つのピースが、自分の中にあった空白に嵌るのを感じた。
 スイッチが入る。
 その瞬間、行き詰まりダムのように溜っていた言葉の数々が一斉に流れ出し、ある一つの形を作り出す。それは縁が作り出す一つの道。形を変えられ、歪められようが、その真を変えないレール。縁の道だった。
 
「………あー、そうか。バカか俺。目先のことばっかで、もっと身近なことに気づかないなんて」
「……どうしたのよ人間」

 天を仰いだまま独白する縁に対し、疑問の棘を隠さず燐は問いかけた。それに応えず、縁は軽く息を吐き出す。
 まだわかっていないことがある。それに仮説であり、間違っている可能性が高い。これならさとりたちの言う方がマシだろう。だが、一度自分の中で決まった独善的解釈は、すでに縁の方向性を決めてしまっていた。わからないことを片端からカッコでくくり、一旦端に置いておく。そうすれば、道はよりわかりやすく見えた。
 顔を元に戻す。その眼を見た瞬間、空は思った。また、あの目だ。十一と戦っていた時の、あの目。その目が、空へと向けられた。怪訝を浮かべる周囲の妖怪へは目もくれず、空だけに見据える。心がザワめくのを感じた。嫌な感じはしない。むしろこれは、期待の類だと、空の頭は教えてくれる。

「空、予備の、何も書いてないスペルカードってあるか?」
「え、あ、うん……一枚だけだけど」
「上等だ、それ貸してくれ」
「……ちゃんと生きて返してよ」
「もちのロンだ」

 軽いやりとりで、空は縁に何も書かれていないスペルカードを渡した。そのやり取りを見ながら、まさか、と心を読んでいたさとりが縁へと驚愕の表情を見せ、それに応えるように縁は獰猛な笑みを浮かべた。そして妖怪たちに目もくれず、すぐに体を反転させ、一直線に向かっていった。
 こいしのいるあの場所へと。

「な、何をしているんですか……おくう、貴女も何を!?」
「縁を追いかけるだけですよ!」
「ちょ、おくう! あんた何それを勝手に……」
「お燐も来る? きっと縁は、何かするよ」
「何よそれ!?」
「何かっ!」

 雲を掴むような空の言葉に、今まで怒りという単純な感情だけに従って縁を見ていた燐が、今度は親友の行動に疑問を生じ、頭の中を混乱させる。そして、さとりは押し殺そうとする感情の中、表情に隠しきれぬ苛立ちを滲ませ、空と、背中を向ける縁を睨みつける。

「おくう、今すぐあの人間を止めなさい!」
「……なんでですか?」
「そうでないとこいしがどうなるかわからないからです!」
「うーんと……どうなるかわからないってことは、もしかしたらこいし様がよくなるかもしれないってことですよね?」
「そんなものは詭弁、屁理屈です! 言っていることがわからないんですか!?」
「え、えーとぉ……さとり様ごめんなさぁぁい!!」
「くっ!」

 空と縁、それぞれの背中目掛けて、さとりは弾幕を撃とうとした。伸ばされた手が妖力を光の弾へと変換する直前、さとりと縁たちの間に三つの影が割って入る。さとりは、心を読んでいながらも、ぎしりと苛立ちに奥歯を噛んだ。

「何のつもりです、クロ、アオ、キイロ!」
「……その名はもう捨てましたよ、今の僕達はこいし様親衛隊のカドル、ダン、カニスです」
「それになぜ止めるかと言われたら、まぁ、期待だな」
「期待……人間に殺され、主人さえ殺された貴方たちが、人間に期待するのですか!?」
「それはあんたもだぜ、さとり様」
「っ!?」

 声が詰まる。隣りの燐からは、えっ、という疑問の声が向けられるのを知りながら、さとりは構わず目の前の元ペットたちへと吠えようとした。だがそれも、直前に口を出したカドルによって遮られてしまう。

「そもそもあなたは、何故あの人間を地霊殿に置いたのですかね? 期待、という利用価値にも使える言葉以外に、邪魔者を置いておく理由がありますか?」
「くっ……」
「えっ? えっ? どういうことですさとり様!?」

 先程の状況とは真逆に、今度はさとりが追い詰められていることに燐が戸惑い、そして頭を何度も掻いた。そして、もうどうでもよくなった。耐えられなくなった、とでもいうべきか。

「さとり様、アタイはおくうの後を追います!」
「あ、お燐!」
「よし、僕達もいくぞっ……」
「ちょっと、キツいけどな……」
「なに、踏ん張りどこってとこさ……さとり様は遅れずに!」

 さとりを置いて、他の四人の妖怪もまた、縁の後を追う様にこいしの元へと向かっていってしまった。一人残されたさとりは、振り上げた腕からそのまま弾幕を生み出し、地面に叩きつけた。苛立ち全てを込められたそれは、小規模な穴を作り出し、そのまま弾幕は消失する。

「……期待? そんなわけ、あるはずがないじゃないですか……ただの、確認……それだけです」

 独り言を繰ると、さとりはゆっくりと飛び出した。自分の最愛だった妹がいるだろう場所へ。



 星熊勇儀は笑っていた。乾いた笑みだった。
 目の前には大量の弾幕。それを避けながら、もう酒の少ない杯を守りながら、他の二人を確認する。黒谷ヤマメ、地面にめり込んでいるが死んではいない。スペルカードは破壊されている。戦闘不能。林皇十一、瓦礫の山に突っ伏し、弾幕のブーメランは消滅、スペルカードは全滅、体力も危険。戦闘不能。そして、自分。スペルカードは残り一枚。
 対して向こうの、今も笑い、時々俯き、そして狂う無意識の少女の残存戦力は不明。スペルカードはこれまでに六枚は破壊。これで七枚目。そして今、それも終わる。
 ガラスの砕ける音。こいしの目の前に浮かんでいたスペルカードが消失する。それでもこいしは楽しげに、しかし苦しげに、新たなカードを取り出す。
 さすがにマズいか。そう思い、スペルカードとしてではなく、本気の戦いを仕掛けるべきかと勇儀が覚悟しかけ、杯を仕舞った時だ。

「こいしぃぃぃーーーーー!!!!!!」

 何所からか響き渡る声。様子を見に来ていた全ての妖怪・妖精の目がそこに集まる。地上、瓦礫の山に躍り出たちっぽけな存在、その後方に、黒い翼を生やした地獄鴉が一匹ついてきている。右手は不可思議なものでできた、それだけの人間。しいて言うならば、この前若い妖怪に殴り合いで勝ったばかりか。
 そう、それだけ。ただ物珍しい人間。その人間の声に、なぜか妖怪たちは吸い寄せられた。
 勇儀が見つめる中で、その人間は左手にスペルカードを取り出した。
 こいしが見つめる中で、その人間は右腕に弾幕となる第三の腕を出現させた。
 地底の妖怪たちが見つめる中で、その人間は高らかに宣言した。

「今からお前に、一対一のスペルカードバトルを挑む! もちろん、拒否はないだろーなぁ!!」

 全ての妖怪、鬼の四天王すら保証人とし、ちっぽけな人間・中邦縁は真直ぐにこいしを見上げた。
 その眼に、迷いも疑問も怒りも、何もかもを燃やして。



 あとがき


 やだ……なにこれ……

 そんなネ実っぽいセリフをいいたくなる中二病展開。中盤鬱というか、こいしちゃんファンの方にすごく申し訳ないので、ほんのちょっと興奮していただければ幸いです。グロですかねぇ、やっぱ……申し訳ないorz
 さぁ、次こそラストだよ……と思いたいです。



[7713] 第九話――聖人<もしかしたら君も……私と同じ……
Name: へたれっぽいG◆eaa9c481 ID:f33d8d16
Date: 2011/02/14 14:12
 何もかもをの視線を独り占めしている人間に名指しされた妖怪は、スペルカードを構えた体勢のまま、ぽかんと人間を見下ろしていた。その人間は一歩一歩、妖怪へと近づいていく。
 さきほどまでとは違う、過去とは違う、不敵な笑みを携えて。一体あれは何だ、と妖怪は思った。本当にあれはあの人間もどきだったのだろうか、本当にあれは刃物を持っていたあれだったのだろうか。疑問という意識が、妖怪の頭に染み渡っていく。

「へえ……いきなり出てきて、横から弱った獲物を掻っ攫うってのかい? 情けないこったねぇ」

 今まで戯れていた相手・鬼が、人間へと問いかける。そこには妖怪と同じような違和感と苛立ちと、鬼特有の戦いに水を差された怒りがあった。

「それでも勝率なんて考えられないさ……むしろここは一旦休憩と思って、下がっててくれないか?」

 鬼の怒気をぶつけられているはずなのに、人間は己の弱みを何の気負いもなく、淀みない調子で鬼に答えた。鬼はその返答に驚いて、頬を痙攣させながら、嫌みを吐き出すように言葉を紡いだ。

「無謀とわかってて戦うのかい? 無茶ですらない、ただの無駄だねぇそういうのは」
「好きに言っていいぜ。けどな、そうと決めたら無謀だろうが無駄だろうが突っ走って、無茶と無謀を殴り飛ばす……それが男の花道だ」

 受け売りだけどな、と繋げて返した人間は、相も変わらず笑みを作る。それに妖怪は、先までの違和感の代わりに苛立ちを覚えた。なぜいきなり変わっているのか、と。それは妖怪の中では矛盾であったが、真理故の一貫性を持っていた。その妖怪の苛立ちなど露知らず、数拍の沈黙の後、鬼は盛大に吹き出した。
 
「く……はっはははは!! 言うねぇ! 吠えるねぇ! いいだろう、ならその無謀無策、貫き通して見せな!!」

 そういって、鬼は妖怪の弾幕に耐え切れず墜ちた二匹を回収し、先ほどまでの弾幕ごっこの最中とは違って、上機嫌で他の取り巻きたちの輪へと入っていった。それを見送ってから、人間が妖怪を見上げた。妖怪も人間を見下ろした。そして互いに何も言葉を交さず、スペルカードを取り出す。ここで妖怪は今は、今日初めて、自分の手札の全てを曝し、本来のスペルカードルールに則っていることに気づいた。

「俺のカードは一枚。そっちは?」
「わたしは……残り三枚」
「OK、なら決まりだ。ちなみに俺は空は飛べないが……ハンデってとこだな」
「ハンデ? 縁ちゃん……わたしを、舐めてるの? それともあの時みたいにされたいの?」
「ガキ相手にはこれぐらいで十分だってことさ」

 過去と現在の挟間、意識と無意識の混沌に、びしりと在りえぬはずの罅が入る。それを作り出したのは、無責任な人間のあからさまな、自信に満ちた挑発の言葉。一体なぜそのような言葉が、一度殺されかけた/殺された人間が吐けるのか、疑問という興味が鎌首をもたげたが、しかし今必要なのは、この人間を殺すことだった。
 恋い焦がれる殺戮。無意識が告げるその行為を、焦がれる感情を苛立ちへと置き換え、妖怪は一枚のスペルカードを構える。だが人間はスペルカードを仕舞い、右腕を構えるだけだ。まだ使わないつもりかと、妖怪はまた舐められたような気分がして、苛立ちを強めていく。

「……戦いを始める前に、一つ決めとかないか?」
「なにを?」

 唐突な提案。妖怪は今までとは違う、怪訝という表情で持って問い返した。考えてみれば、人間が突然現れてからずっと会話の流れを握られていると今更気づき、しかし妖怪はそんなことはどうでもよい、と別の苛立ちのためにそれを切り捨てた。

「勝った方は、負けた方に好きな命令ができるってのはどうだ?」
「ふーん……いいよ、別に。わたしが……勝つ……また、殺すから」
「はっ、言ってろ」

 提案を妖怪は受け入れた。意識のシフトが、再び無意識との衝突に変わっていく。第三の目が震える。妖怪は、そっと、スペルカードの名を唱えようと息を吸う。そして人間は、条件を満たしたことに満足し、右腕を、第三の腕を振りかぶる。

「いくぜ、こいし。てめーのその眼をこじ開けてやる」

 その言葉が、戦いの合図となった。



第九話『涙の種、笑顔の花』


 
「『深層「無意識の遺伝子」』」

 こいしの宣言と共に、彼女の周囲を三原色を象徴する弾幕たちが出現する。球体、縁の頭ほどもあるそれらはこいしを第三の目から延びるチューブと同じように彼女の体を取り囲み、さながら遺伝子の二重螺旋型とでもいうように回転する。遠目から見るそれは、色鮮やかな削岩機にも似ている。それをそのまま撃ちだすのかと警戒する縁は、次の瞬間、こいしが急降下で突撃してくるのを見て、真横へと跳んだ。

「突っ込んでくんのか…っ!?」

 たまらず愚痴を零し、轟音と共に着地したこいしへ振り向こうとした瞬間、その背後の軌跡に二列螺旋状に、回転から意図的に落とされ空中に静止する弾を見つけてしまった。なんだよそれ、と喚くが、しかし直後に残されていた弾幕が一斉に縁の周囲へと落ち、爆撃の如き衝撃で瓦礫が宙を舞う。
 縁は右腕と第三の腕を頭上に掲げながら前へと走り、こいしをちらりと振り返る。自分を囲う弾幕の高速回転によって地面と破片を削りながら、端が裂けるほどに三日月に口を開いて縁へと迫ってくる。その速度は、爆撃に晒されている上、悪路をゆく縁とは比較にならない。

「あはははははっ! 他の人間がいないと刃物も持てないのぉ!?」

 その声には既に、縁が現れた直後のものとは違い、本来、というべきかは縁の中では疑問だが、過去と現在が混濁している調子が聞き取れた。舌打ちをする縁の頭上に、最後の一発が迫ってきていた。それに気づき、縁は先ほどの自分が、出したばかりの第三の腕が、弾幕を弾いたことを思い出した。いや、その記憶の掘り起こしは既にこの場に再び来る前に推測できている。今のは、再確認。
 やれる、と自分を信じ、右腕を、幻想の腕を迫る弾幕へと伸ばし、掴む。野球選手の投手が投げた弾を捕球したものに似た衝撃が、存在しえない感覚として縁の右腕を走る。過去にも度々あった、心的障害ではない正体不明の幻痛(ファントムペイン)が再び生じたことに驚きながらも、すぐにそれをカッコに括り、第三の腕を引き戻す。その手の中には、類型のエネルギーで出来た弾丸がある。
 左足を軸に半回転。遠心力が体につく。幻想の腕を振りかぶる、サイドスローのフォーム。

「うぉりゃぁ!!」

 こいしの姿を捉え、投てき。だがそれは、回転する弾幕の二重螺旋に阻まれ、彼方へと吹き飛ばされてしまう。こいしはそれに気づかぬとでもいう様に、更に前へと突き進んでくる。斜めに傾く視界で、縁は体をねじり、強引にもう一回転。
 それによってこいしの通過するだろう軌道からはずれるが、その背後にはやはり、遺伝子を象徴する弾幕の跡が残されている。ならば後の先を、ともう一度右腕を振りかぶる。

「そこぉっ!」
「あはっ」

 可笑しな弾幕と言われようと、縁の新たに生まれた腕は弾幕だ。スペルカード勝負である以上、それが弾幕であるならば、縁の繰り出した伸びるストレートパンチは有効である。だがそれも、同じ弾幕であるこいしのスペルに対し阻まれれば意味がない。しかも未だどこか迷いがあるのか、折角の側面からの、だが若干下に狙いを定めてしまったそれは僅かに軌道をズラした螺旋に防がれ、数瞬の拮抗の後に、縁のものが弾き飛ばされるという形で終わった。
 こいしはそのまま真直ぐ進み一際高い瓦礫の山に一度当たりかけ、水泳の壁蹴りのように体を丸めて瓦礫の一つに着地、再度縁へと狙いを定める。縁はそれに気づいているが、しかし今度は千本ノックとでもいうように襲いかかる、静止していた弾幕の突然の運動を避けるべく、比較的形の残っている屋台の陰に潜りこむ。屋台に着弾し、木片が周囲へとまき散らされる。その内の一発が貫通、縁の頬を掠めた。
 刃物で薄く切られたような熱さ。何度も経験したことのある熱さ。舌打ちをし、屋台から抜け出す。直後に、屋台は完全に崩壊し、どこからか「おれの店がぁ!」などという悲鳴が聞こえた。それを今は聞こえないフリをして、こいしの方を見ると。

「こ・こ」

 振り向いた先にはいず、真横から、声がかかった。反応が遅れながらも、右腕をそちらに向けられたのは半ば奇跡であったろう。互いの術者も肉薄した状況で、第三の腕と高速螺旋が再び衝突する。

「くぉっの……!」
「えへへ、消えちゃえ消えちゃえ……磨り潰しちゃえ」
 
 その突進力に、足を動かしていないというのに地面と瓦礫の中を後ずさりするという奇妙な体験をする縁は、心中、自動車を受け止めようとするとこうなるのかと、まったく関係ない思考を広げてしまう。目の前には、二重螺旋の背後には、サードアイを震わせる妖怪少女。顔には、相も変わらず壮絶なまでの喜悦と、今度は憎悪からくる憤怒がない交ぜとなった表情ができていた。金属をチェーンソーで切っている様な音が目前から響き、鼓膜を割らんばかりに震わせる。
 唐突に、背中が何かにぶつかった。同時にそれは衝撃となり、重量級のボクサーにでも背中を殴られたのかと錯覚した。だがすぎにそれが、家屋の壁だと気づき、次いで、衝撃は痛覚となって全身を突き抜けた。空気と唾液が口から洩れ、弾幕に触れ蒸発する。
 縁の体を強引に民家へと叩きつけたこいしは、そのまま可憐な笑みへと顔を変え、螺旋の回転を引き上げる。それは推進力の強化ではない、回転数の底上げ。

「っ! 身体、がっ!?」

 その結果起きるのは、回転に従って、第三の腕ごと縁を強引に持ち上げようとする力の働きだった。壁を壊しながら、体を自分の意志とは関係なく、弾幕ごとこいしの二重螺旋の運動に従って浮かばせられる縁は、壁を破壊するたびに頭に木片をぶつけられるような痛みに耐えながら、なすがままとなって、壁から放り出された。その先のこいしの背後、瓦礫への山へと転がりこみ、口の中に汚れが入り込む。

「あ、かっ……!」

 様々な衝撃や痛みから一旦引き離されたせいか、今度は転がった分の痛みが全身に何乗にもなって上乗せされようとした時だった。こいしの背後に配置されていた無数の弾幕が、動きを止めた縁へと向かって、動きだした。
 咄嗟に右腕を掲げた。正面のみ、最初は防げた。だが次に背後から降ってきた弾幕に気づかず背中を殴られたような感覚が突き抜けると、右腕が下がり、完全に無防備となった。そこに、横殴りから一発、地面に崩れ落ちる暇もなく、真正面から弾幕に腹を殴られる。さらに一発真横に着弾し、巻き上がった木片が縁の皮膚に突き刺さる。
 縁の体は、悲鳴を上げようとした。だが悲鳴をあげる暇もなく、縁を追撃の弾幕が覆い隠した。



 所詮は、人間だったか。弾幕によって瓦礫が潰され巻き上げられた粉塵を見つめて、さとりは誰にも見られぬ心の内で、静かに安堵のようなものを零した。浮遊し、眼前を見下ろすさとりの能力の内では、同じようにこの戦いの終わりを考えているものが数多くいた。こいしによって家などを壊された妖怪たちだ。本音を言えば、いきなりしゃしゃり出てきた人間一人の都合よりも自分たちの都合として、家や商売道具を壊された恨みを自分たちの手で晴らしたいのだろう。褒められれば喜ぶし、貶されれば腹が立つのは人間も妖怪も同じ。いや、メンタル面の比重が大きい妖怪は、人間よりも恨み深いものもいるかもしれない。
 ひとえに手を出さないのは、これが鬼・星熊勇儀によって決められた戦いだからだ。鬼は妖怪たちのトップ、まとめ役でもある。それにもまして、勇儀という鬼は人望が厚い。彼女の言葉でなければ、妖怪や妖精たちは即座にこいしを攻撃していただろう。
 だがそれも、戦いの結果が人間・縁の負けと決まった時点で終わりを迎える。さとりの第三の目にはスペルカードを構えるもの、能力を発動しようとするものがちらほら見える。さとりにできるのは、もはや最終手段として、フレッチャーに頼みこみこいしをどこか人気のない場所へ連れて行ってもらい暴れさせること。そして、地霊殿の立場、妖怪『覚』として、地底の妖怪たちに謝罪と償いをすること。ヘタをすれば、この身が生贄となる可能性もある。
 それもいいかもしれない、とさとりは自嘲気味に考えたところで、まだ人間が負けていない、死んでいないと考えているものたちがいることに気づいた。
 そちらに第三の目を向ける。それは先ほど主人のさとりに向かって啖呵を切った空、そしてこいしの下につけた、こいしのペットだった三匹。更には、起きたばかりのあの若い虎の妖怪に、鬼までもそう考えている。燐に関しては、半信半疑といった心境だった。
 いったい、どうしてそんなバカなことを信じられるのかと、さとりは溜息をついた。どう考えても、あれだけの弾幕に晒されれば、二週間前まで、可笑しなところはあれ、ただの人間に過ぎなかった中邦縁が動ける道理はなかった。弾幕、妖力という妖怪にとっては当たり前の力も、ただの人間から見てそれは単なる暴力以上に、妖怪と人間という越えられぬ差の現れなのだ。
 もう、いいだろう。そう思い何気なく、先ほどまで痛みで心がハレーションを起こしていた縁へと第三の目を向けようとした時だ。
 こいしが、動いた。スペルカードバトルにはありえない、トドメを刺すためだろう。心を読めなくても、こいしの心を予測できたさとりは、しかしこいしの心が完全に壊れるのを防ぐため、同じく動いた。二度もその心の比重が傾いている相手を殺せば、こいしは無意識へ沈むどころではない、より深層の領域へと沈みこみ、目覚めなくなるかもしれない。他の少数の妖怪も動く、それはルールのためか縁のためだろう。この場にこいしの身を案じて動いたものは、さとりしかいなかった。
 それにどこか、悔しさと失望を感じた瞬間だった。
 晴れかけた粉塵の中から、巨大な手が伸び、こいしの進行をせき止めた。
 
「……まだ、まだまだ」

 静かに響く言葉、妖怪たちが動きを止め、こいしさえも驚愕に表情を染められ、螺旋と拮抗する手の持ち主を見た。
 粉塵が晴れたそこにいるのは、血だらけの人間だ。膝をつき、額は割れ、片目は腫れあがり、服は下のシャツとボロボロのズボンしか残っておらず、全身に弾幕や小さな瓦礫で開けられた小さな穴が空き、そこから血が噴き出している。満身創痍、まさにそういうべき状態だ。その状態で、右腕を上げ、弾幕を出している。

「……まだこれからだっ、こいし」

 そして、告げる。まだこれから。言うに事欠いて、まだこれからだと。

「お前を救ってやるまで、俺はお前に負けない……っ!」

 満身創痍のどの口で、救うという言葉を吐き出し、血をまき散らしながら、立ち上がるのか。だが茫然とするさとりの視界の中で、縁に呼応するように、藍色の腕が肥大化していく。藍色の輝きを増していく。即座に弾き返されていたはずの巨腕が、今度はこいしのスペルを押し戻していく。こいしがそのことに反応し、拮抗の反発力をそのまま使い、後退する。その間に、ただの人間だった中邦縁は、完全に立ち上がっていた。そして、右腕を構えなおす。明らかに、ただのパンチだという構え。
 
「さぁ、さっさとかかってこい!」

 だがその構えは、ただ単純で愚直であるが故に、簡単には倒れそうになかった。



 救う。救うとは何か。苛烈なまでの痛みで白濁/朦朧とする意識の中で、問いを立てる。縁自身、本当はそんなことを考えていない。こいしに言ってやりたいのは、もっと具体的なことだ。ただそのことが、もしかしたらこいしにとっての救いとなりえるのかもしれない。そう考えてしまっているバカで単純な自分がいる。見当違いだ、お角違いだ、と言われかねないというのに。
 そう考えているのは、悔やんでいるからかと、過去の自分が、数年前の自分が、掴めなかった右腕が囁いてくる。そうではない、と反論を投げかけようとしたが、心の内では肯定している。悔やんでいる、後悔している。かつての親友は、望んでいなくなった。いなくなるしかなかった。だが同時に、昔は助けてほしかったと考えていたことを、縁に打ち明けてくれていた。
 どうしようもないことがある。その結果が、今の僕だ。
 親友はそういった。そういって笑った。似た者同士で、正反対の悪友は言った。生まれが嫌われ者の親友は、体の一部のせいで嫌われ者だった縁にそういってくれた。
 その手を、去っていく手を、縁の手は、結局掴めなかった。
 ならば、その後悔に後押しされた今はどうだ。この後悔を親友は笑うかもしれない、皮肉げで小難しいことを言いながら。だが今、この後悔の念は縁の右腕に力を与え、藍色となって具現化している。理屈はわからない。これで勝てるのかもわからない。圧倒的地力の差をどれだけ埋められるのかも見当もつかない。
 しかし今、この瞬間は、その力を存分に使う。この方法が、こいしを引っ張り上げるただ一つの方法と信じて。
 覚悟を改めて決めた直後、縁の目に、再びあの線が見え始めた。十一と戦った時と同じ現象、全てに繋がる線。それに内心驚く暇もなく、感情をどこかへと失くしてしまったこいしが、ぽつりと呟く。

「なぁにそれ……? セイジロウ、だよね?」
「いいや、中邦縁だ。早くこい、それともビビったか?」

 縁の即答に、こいしの弾幕が一瞬止まる。だがそれは幻だというようにまた螺旋は回転を始め、回転数を上げていく。そして軌道に配置されるはずの小型の弾幕が、こいしの周囲へとばら撒かれ、アートでも作るかのように配置されていく。それらは数秒の滞空の後、無造作に縁へと向かってくる。
 迫りくる弾幕を前に、縁は動かない。一発が、左腕すれすれを通り過ぎた。縁の見える線の世界では、その弾と縁は繋がっていなかったからだ。
 繋がっていなければ、こちらに来ることはない。なぜかそうだと理解できていた縁は、数発の弾が真横を通り過ぎるのを見た後、遂に自分に繋がる弾が迫ってくるのに気づいた。

「っらぁ!!」

 真正面からくるそれ目掛けて、構えていた右腕を、巨大化した第三の腕を叩きこむ。弾く要領は同じ、だがその向きを調整し、こいしへと殴り返す。そのまま一回転しようとする縁を見ながら、こいしは殴り返された弾を目の中心において、そして弾がまったく違うものへと変わるのを幻視し、恐怖に顔を塗りつぶす。直後に顔の半分は笑みへと変わる。
 
「怖いからなくなっちゃえ!!」

 顔を半分だけ背け、もう半分で弾幕を見据え、片腕を突き出し己を取り囲む螺旋を前方に集中させる。その状態で、更に回転を引き上げる。弾を勢いそのままに吹き飛ばし、そのまま突っ込んでくる。今までの比ではない速度。線が教えてくれるそれを、縁はこいしに背を向けながら、この体についた遠心力、いや第三の腕をどうするか考えた。
 ただ殴るだけではダメだ。感じるからに先ほどよりも速く、鋭い。もし同じように真正面から殴るだけでは、例え巨大化した今の状態でも、削り切られるだろう。ではどうする。痛覚によって麻酔をされたように鈍くなる思考に、真逆、研ぎ澄まされていく闘争本能の意識が、問いに対し答えを提示する。
 相手が回転しているなら、その逆の回転を叩き込む。
 単純明快にして奇天烈・突飛。なぜそのような考えが浮かんだのか、縁本人すら分からない。だが、巨大化という一種の形の変化ができるならば、いけるのか。いや、やってみせる。
 体をフリッカーの態勢へと移行させながら、第三の腕へのイメージを変化させる。今まではただ無意識にもう一つの巨大な腕だった。ならばその、右腕の形をしたそれは、縁の右腕同様取り外し可能なのか。そのまま射出することができるのか。いや、そのイメージだけを想像する。藍色の塊に変化が起きる。肘先までは蜃気楼にようにぼやけてなかったそれの末端がジェットエンジンにも似た形状へと姿を変え、拳を作る腕全体が、電気製品のスパークでも起きているかのような音を唸らせ回り始める。
 こいしはもうすぐ傍まで迫ってきていた。だがこちらも、準備はできた。

「いっけぇぇぇ!!」
 
 全身の力を藍色の弾丸/ロケットパンチに込める勢いで体を捻り、右腕を突き出した。同時に思考するのは、第三の腕が勢いよく放たれるイメージ。そのイメージを右腕がフィードバック、タイムラグなしに、第三の腕は射出された。
金切り声にも似た奇声を張り上げて、縁の弾幕がこいし目掛けて飛び、その周囲を守る螺旋に激突した。
 互いの回転運動が噛み合うたびに静電気が鳴り響くようなノイズが激突の中心から周囲一体へと広がった。こいしの妖力と、縁の意思を変換した力とがそこから漏れ出し、更に衝撃波となって瓦礫を粉砕していく。拮抗が始まる、だがそれもすぐに、元々の力の差か、こいしが押し始める。こいしの笑みが濃い狂気の色を染めはじめた。
 その直後、縁は更に前へと踏み出し、己が射出した弾幕目掛けて、右腕を突き出した。

「っりゃぁぁぁぁあ!!」

 こいしの目が驚愕に見開かれるのとまったく同時に、杭を叩き込むように、こいしの弾幕に縁の弾丸/拳が食い込んだ。障害物をねじ込まれ、強引に運動を止められたDNAの弾幕はぐらりと形を崩し、自らの運動エネルギーに耐え切れず四方八方へと散り散りとなる。縁の弾幕はこいしに当たる直前で回転を緩やかに止め、元の大きさへと戻っていく。そしてこいしの、ただ単純に驚いた顔を見て、血を顎から滴らせる縁は不敵に笑った。

「これで、一つ目だ」

 ガラスに罅が入る音が聞こえた。スペルカードが破壊される直前に聞こえるもの、縁のそれはたったひとつのスペルカードを壊しただけの宣言に過ぎなかったが、古明地こいしという妖怪の力を知るものがいれば、異常な光景ですらあった。そのことを知らず、さぁ次は何だと全身に纏わりつき始めた、痛みとはまた別の気だるさを感じながら、腕を構えなおそうとする。その中途、顔を俯けあらぬ方向に目をやり始めたこいしの口が開いた。

「……救うって、どういうこと?」

 ぽつりと、風の音とすらなりえない声の大きさ。しかしそれを聞いた縁は眉を顰めた。

「助けるってどういう意味?」

 支離滅裂な問いかけ。だがそれは、縁が先ほど考えたものとまったく同じ。

「わたしが、あの時、何かをされたから?」

 虚空を見やる瞳に誰も映っておらず。戦っているはずの縁すらいず。

「セイジロウは今も………わたしが“気持ち悪い”……?」

 第三の目は、震えを増すばかりであり。それ見聞きしていて、徐々に縁の中に、苛立ちとはまた違う怒りが湧き上がる。

「誰も彼もが、わたしであって、わたしじゃない……縁ちゃんは……ううん、そう。そう、あなたも……」
「……そこまでだ」

 幾度目かの囁きがこいしの無意識と意識の崩壊を再構築させようとするその直前に、こいしをまっすぐに見つめる縁が遮った。こいしが縁を見た。その眼を覗いた。その眼には、五体がある自分自身が映っていた。

「いい加減、顔を隠して蹲ってないで、立ち上がりやがれ」

 縁が口に血を含ませながら語った言葉に、こいしはびくりと体を震わせた。辺りは嫌にシンと静かであり、たった数個の言葉を言われただけのこいしが歯を鳴らす音が響いた。それに気づきながら、縁は構えを解いて、こいしへと言葉をかける。

「……今更だけどさ、俺、お前の昔のことを聞いた」

 縁は一歩、脚を踏み出した。それに合わせて、縁の瞳に映る自分から逃げるように、こいしは一歩後ずさりした。

「悪いとは思ってる。けど、おかげで一つわかったことがある」

 もう一歩、縁が近づく。こいしがひっ、と息を吐きだし、懐へと手をやった。

「お前はただ第三の目を閉じて、周囲に壁を作ってたんじゃない。他人の心が信じられず、傷つくのが怖くなっただけでもない」

 妄想として捉えられてもおかしくない縁の推測の言葉は、しかしこいしを追い詰め、その手にスペルカードを握らせた。

「お前は、本当はっ……」
「……っ! 『嫌われ者のフィロソフィ』ぃ!!!」

 縁の言葉を遮るように、スペルカード宣言。咄嗟に右腕を盾のように構え、第三の腕を出現させるが、しかし縁の予想に反して直接的な弾幕は向かってこず、代わりにこいしの姿がビデオの編集のように消失した。驚愕し、口を中途半端に開けた縁に対し、こいしが消失したことで、いや、こいしがその一部となることで発動するそのスペルは、姿を現した。
 縁を囲む家屋数軒分の領域に、所狭しと弾幕が配置された。動きの遅くなる一方の頭で思考をする暇もなく、その弾幕たちは一斉に動き出した。ただ、一方通行。予想に反したその動きに縁は若干拍子抜けの印象を覚えたが、しかしすぐにそれが間違いであると気づく。
 弾幕からバラが咲いた。青色のバラ、むせ返る様な妖力の香りを放つそれは無数に咲き乱れ、空間に散らばる弾幕の中を縦横無尽に咲き、枯れ、種という弾幕へと還る。その動きはランダムであり、その咲き誇る向きを常に見てなければわからないものだ。しかし、縁はすぐに、常にこちらを擦り潰そうと動き続ける弾幕の存在に気づき、このスペルの本当の恐ろしさを知った。
 多重トラップ。動きを制限し誘導する一方向に動き続ける弾幕。そこからランダムに咲くバラで仕留めるかと思えば、そちらの派手な動きに気を取られた隙に、元から配置された弾幕が獲物を刈り取る。縁の望むあらゆるものに繋がっている線の領域で動きを見切ろうとしても、如何せん弾幕の数が多く、かつ花が咲くその瞬間まで線の感覚が変わらないのだ。特定しようにもできない。
 
「くそっ……! こいし、姿を隠したって、聞こえてるよな!?」

 鈍足に、かつ不気味なまでに緊張感を与えてくる種となる弾幕を線で確認しながら左右にステップを踏んで避け、バラの動きを目で追いながら、こいしの姿を探し言葉を投げる。

「今のスペルの名前、いったい何だよ! そんなにお前は、自分から嫌われ者になりたいのかよ!」
「違う、違う違う違う違う!!!」

 バラが唐突に縁に眼前に咲き、こいしの閉じた目がその中央にあった。声は弾幕のすべてから反響し縁の鼓膜を色と共に圧倒する。閉じた目から伸びるチューブが、自ら動き始め、触手とでもいうように縁に襲いかかる。ムチのような豪速、一本を右腕で受け止め、その間に二本を左腕に受け、トゲでもついているように肉を剥ぎ抉られる。
 その痛みに顔を顰めた直後、一瞬、意識の外に追い出してしまっていた鈍足の弾幕達がギロチンの刃と主張して縁の胴体を泣き別れさせようと迫る。

「うぉっ、あーーっ!」

 気合などというまやかしを叫び、ムチを強引に弾き第三の腕で弾幕を殴り飛ばす。風船でも殴ったように吹きとんだ弾幕はしかし、すぐにまた後方の戦列へと舞い戻り、再び縁への刃となった。

「みんなが、みんながわたしたちを嫌う! わたしたちに悪意の心を見せつけてくる! わたしに石を投げてくる! わたしのお腹を裂こうとする! そんな痛いのはもう嫌なの!」
「っ、ならお前の望みはなんなんだよ!」
「わたしは、そうなる前にみんなを殺さなくちゃいけないんだ!!」
「嘘だっ!!」

 否定を叩きつける縁に背後でバラが爆発し、縁の背中を火炎瓶で焼く様に吹き飛ばした。上着が焼かれ、背中の感覚がひきつるような痛みと寒気によって占領され、赤ん坊のものに似た呻きが口から漏れ出し膝をつきかける。だがたたらを踏んで強引に体を持ち上げ、背後のバラの中心、雌しべが眠る箇所に安置された第三の目を睨む。

「だった、ら……何で、俺をすぐに殺さなかった! 何でお前は俺に笑顔を向けた! なんで、なんで……そんな泣きそうなのに、泣こうとしない!?」
「……っ?! そんなもの、知らないっ!」
「無意識だそれを操れるだっていうなら、本音を吐きやがれ!」

 縁が叫びと共に、震える第三の目に右手を向け、その眼を掴もうとした。その直後に目は、バラが、弾幕が消失する。いや、違う。線が全て地面の下に繋がっている。まさか、と感じながらも弾幕の手のひらを真下に向けた。先ほどの種が、しかし青から黄色へと変色して真下からにゅるりと出現し、その弾幕を掴む形となった縁は、それに持ち上げられていく。同じように弾幕の種の中から、再びバラが咲きはじめた。今度は黄色、それらが弾幕の中を弧を描く様に咲き誇る。 

「うるさい、うるさいうるさい!! セイジロウなんか、縁ちゃんなんかっ、人間なんか、あなたなんか、もう死んじゃえぇ!」
「っ、この、だだっ子!」

 言葉と共に、バラがこちらに来るのを軌道から読むと、縁は弾幕から手を離し、そのままバラの行進を第三の手で受け止めた。しかし受け止めた次に瞬間に真横の弾幕からまた新たなバラが咲き、縁の頬を焼きながら吹き飛ばす。唾液ももう出ない、代わりに口内で切った傷から血が溢れだし、縁は徐々に力がなくなっていくのを感じながらも、しかし腕を伸ばそうとした。
 
「もう聞かない! 言葉なんて聞かない! 言葉もいらない! 心なんて見ない! いらない! だからもう、あなたも、ペットも、お姉ちゃんもいらない!」

 こいしの弾幕が二度、消失する。そして次には、縁の背後で赤いバラが咲き、再び縁は体を焼かれながら、上空へと飛ばされた。赤い種たちが、それを追う様に一直線に出現し、バラが後を追い、猛禽類が獲物で遊ぶように、縁の体を虚空で焼き弄る。

「食べてやる! 焼いて食べてやるっ! あなたはもう、そうすれば、私と……っ」

 縁の左腕をバラが包み込んだ。縁の痛覚はもうほとんど存在の意味をなくし、バラが左腕から離れた後、もう殆どが炭にも似た皮膚の状態になっていること、筋肉の繊維すら見え始めていること、その想像も絶する激痛に気づかず、そのままこいしに嬲られ続ける。
 いや、違う。
 線を見ていた。バラに焼かれ食われながら、一人の少女が自分自身の言葉で自分の第三の目を傷つけながら、ただひたすら線を見、探していた。縁のどこからか、恐らくは右腕が、線は全てに繋がっていると教えてくれた。ならば見えるはずだと、縁は考えていた。たった一点、スペルカード。こいし自体が消失したはずのこの空間のどこかに、あると考えるそれを。
 そして、見つけた。脇腹を焼かれた後に。その場所を。
 
「……だれが、食われるか」

 また吹き飛ばされる。その直後に右腕を動かし、強引に体勢を変え、バラへと真正面になる。

「だれが、いらないだって」

 第三の腕が回転を開始、たった一点。バラが突っ込んでくる。

「……そんなもの、お前に……自分のしたいことに気づかないフリをしてるやつに」

 振りかぶる。目を見据える。第三の目と向きあう。

「決められて、たまるかぁぁぁぁ!!!!」

 バラが縁の体そのものを包みこむ寸前、縁の拳が振り落とされた。狙い穿つのは、第三の目の背後、そこにある、こいしの心を模った、バラの棘に包まれたスペルカード。回転がバラを抉りながら、棘を粉砕しながら、スペルカードを捉え、縁の獣の叫びと共に、バラの中から強引に引き剥がす。
 そのままバラの中から落下という名の脱出。縁の全身はもはや焼かれていない個所はなく、湯気すら立っている。しかしその第三の手の中には、こいしの、本来は捉えられるはずのない、スペルカード。

「っ、二枚目ぇ!!」

 それを圧し砕く。途端にバラは消失し、種も消え、宙空に現れたのは、第三の目を抑え込み、信じられないものを見る目で、地面へと落ち、よろよろと立ちあがる縁を見下ろす、今にも泣きそうな顔をしたこいしだった。

「………どうして」

 呟きは、荒い息を吐きだす縁へと届いた。

「どうして、そんなに……そんなになってまでわたしと戦うの! わたしに構うの!? わたしは、わたしは……」
「……もう、誰も傷つけたくないってか? みんなが好きだから」

 縁の声は、喉も僅かに焼かれたせいか、それとも肺に息が上手く送られていないのか小さなものだった。しかしそれでも、周囲の音がなくなったような静けさのせいで、それはこいしの耳に、心に、第三の目に届いた。縁はこいしを見上げながら、自分の中にあったその考えを声に変えて、三つの眼尻に涙をためる少女に、答え合わせでもするように語りかける。

「本当は……お前はまだ、他人を信じたいんじゃないか。けれど昔のことがトラウマになって、その気持ちを無理やり封じてきたんだ……だからその眼が閉じて、他人が好きだった自分を忘れようとしていた……けど、それでも時々そういう気持ちが漏れだして、俺と会った時から、それがおかしくなっちまった……そうじゃないのか?」
「……わかんない、わかんないよ……そんなこと」
「そうだよな……二重の意味で、お前は自分の心に鍵をかけちまったんだ……なら、俺がお前に言うことは決まっている」

 そうして縁はまた構えた。こいしはいつの間にか地面に降り立ち、縁と同じ目線に立って、縁を、たった一人で、もはや満身創痍を通り越して致命となっているはずの身体で、知らない自分自身と、そして自分を見てくれている人間を見て、その言葉を待った。

「俺がお前の三枚目のカードを壊せることができたら……その心の鍵も壊してくれないか?」
「……どうして?」
「さぁな。理屈っぽい理由はないんだけど……お前の、誰かが大好きだったころの笑顔を、俺は見てみたいんだ」

 また、はにかむような笑顔。自分でもよくわかっていないと、とぼけているようだった。しかしそれを見ていて、こいしは少し俯いた。いつの間にか、第三の目から手を離し、そっとスペルカードを取りだしていた。そして顔を上げた。そこには、無意識と意識の狭間で崩壊を迎えようとしていた少女の姿はない。

「じゃあ……壊しにきてよ、縁ちゃん」
「ああ、わかったよ。なら壊してやる」

 縁は頷いた。体にはもう力が残っていないはずなのに、あと一撃、いや二撃、動ける様な気がした。ただそこで打ち止めなのは変わらない。チャンスは一度。そう覚悟を決めた時、不意に空から貸してもらった、白紙のスペルカードのことを思い出した。それを、右手で出した直後、こいしはスペルカードを空へと放った。

「サブタレイニアンローズ」

 隠されたバラの名を冠したスペルカードは、光を放ち、その力を顕現する。こいしの前から赤と青のバラ、そして環のように広がる、そのバラのレールがリング・ウェーブのように広がろうとしていた。
 その直前に、縁はスペルカードを取り出した。本来は、スペルカードバトルを成立させ、対等の条件で戦うために貸してもらっただけの、いうなれば張り子の虎のようなもの。形だけのスペルカード。相も変わらず白紙のままのそれに、縁はふと、先ほど自分が出した腕を飛ばすというのを思い出し、それの名前が胸に沸き上がった。
 形だけでも。それでもそこに何かが宿るのなら。
 縁は第三の腕に白紙のスペルカードを持たせ、高々に掲げた。そして宣言し、イメージするのは、ただ一つのことを貫く力。天も地も、それが壁であるというのなら例えどんなものであろうとも貫くもの。その、ファントム。

 螺旋「スパイラルファントム」

 右腕が、第三の腕が、縁の中の力を奪い取っていく。
 もっていくならもっていけ。最後の一滴まで。だがその代わり、こいしのところまで連れて行ってもらうぞ。
 縁の意志に答え、第三の腕が藍色の光を強めていく。握りこまれた拳の中から光が生じ、縁のイメージを増幅し、形を作り出していく。回転が始まり、その勢いは天井知らずの領域まで瞬時に高まる。その時、第三の腕に変化起きる。その先端が手刀のそれへと変化し、超高速回転もあってか、それは二重螺旋を刻みこむ一つの武器となる。
 その切っ先をこいしへと向ける。迫るバラの弾幕。その奥にある、こいしの心の鍵を象徴するとでもいうように光り輝く、スペルカード。
 
「おぉぉおおおおおおおお!!!!!」

 そこ目掛けて、咆哮と共に正面突破をかける。
 最初のバラの環に幻影が触れ、一つ、砕く。
 そのまた次の赤のバラ。横殴りのそれに、幻影が綻びを生じる。構わず、破壊。
 三つ目の青が迫る。先端が焼かれ、幻影全体に罅が生じる。構うものかと、貫く。
 四つ目の輪と衝突した時、とうとう一度止まってしまう。しかしそれを、再度叩きつけることで突破。
 そして五つ目、スペルカードの直前、こいしの目の前へとたどり着く。青・赤・黄の三重にバラでコーティングされた弾幕は縁のスペルを押し止め、拮抗を開始した。鼓膜を破壊するような轟音が生じ、その衝突の余波で地面に罅が入る。
 縁のスペルにより深い罅が入りこむ。こいしのスペルには僅かなものしか入らない。それでも縁は前へと踏み出した。それによって第三の腕は、バラに焼かれ、その力の逆流によって砕かれようとした。
 その瞬間、縁は右腕を振りかぶった。スペルではない。弾幕でもない。ただ、意志が変換された力を纏っただけ。しかしそれは一つの槍、一つの螺旋となって、三つのバラに生じた小さな罅に叩き込む。

「うぉぉぉぉおおおお!!!!!」

 言葉にすらならない。もはや本能ですらない。もし存在するならば、それは人の魂の叫び。中邦縁を構成する全ての叫び。その叫びが最後の力となって、こいしの前に生まれた弾幕を、たった一つの、小さな罅から打ち砕いた。
 その勢いのまま縁はスペルカードを掴み、残る全ての力を注ぎ込み。

「ラストぉ!!」

 破壊する。
 ガラスの砕ける音が、響いた。それが最後となって、ここにある全ての音が消え去った。
 辺りがそのままシン、と幕でも下りたように静けさを保っていると、縁はゆっくりと前へと歩き、作り損ねた微笑みを浮かべるこいしを抱きしめた。そのまま膝をつき、こいしもまたそれに見を委ねるように、縁に体を預けた。

「……約束、守ったぞ」
「うん」
「鍵……壊してやったぞ」
「……うん」
「……人間は、一人でもお前の傍にいられるって、わかったか?」
「……っ……うん……うんっ」

 縁はまた、力強くこいしを抱きしめようとした。しかしそれはもう、力も弱く、抱擁とは言い難かった。それでもこいしは嬉しそうに微笑みを浮かべて、しかし言葉を重ねるごとに、崩れていった。嗚咽がこいしの口から漏れ始める。

「今はお前を怖がるやつなんていないんだ……だからもう、泣いてもいいんだ……無理やり嫌われ者になろうとしなくても、いいんだ」
「うんっ……っ……うん!」
「だからさ……今はただ、好きなことをしてくれよ………」

 その言葉が切っ掛けとなったように、こいしが縁の胸の顔を埋めた。そうして手は背中へと回され、まるで縁の代わりと言う様に、強く抱きしめた。

「っっ……あ、あぅあ、あああ…」

 そして、こいしの目から、涙がこぼれた。その途端、閉じていた第三の目がゆっくりと、わずかに開かれ、そこから大粒の涙がぽろぽろと流れ始めた。まるで今まで溜まっていたものを、全て流し切ってしまうように。
 
「あああぁぁぁあああああ……」

 こいしの泣き声は、ただ地底中に、幻想郷中に響いた。それを聞いていると、縁も何故か泣きたくなった。いつかの自分が、幼かったころの自分が、不意に彼女に重なって。そう思うと、縁の目からも涙が溢れた。まるで昔の自分が、こうして誰かの腕の中で、泣いている幻想を見ていて。その幻想と、こいしの泣き声と、熱い涙が体に染み込むのを感じながら、縁はとうとう意識を失った。




「で、このままで終わりだったら、どれほどよかったか……」
「ほらっ、ぐちぐち言ってないで、キビキビ働きな!」

 『現場監督』と書かれた鉢巻を巻いた勇儀の怒鳴り声に辟易しながら、未だ火傷の残る体に鞭打って、右腕に抱えた木材を運ぶ作業に戻った。
 こいしが暴れて縁がそれを沈めてから既に五日、骨を折った時よりも圧倒的に早く、曰く勇儀の持ちだした特製の薬品で人間の範疇を超えた速度で大まかな怪我や火傷を治してしまった縁は、そのまま責任をとるという形で地底の街の西区の再建作業に従事していた。
 本当はもっと重いものであったらしいが、あの戦いで縁の戦いぶりを見て、その姿が気に入った強い妖怪たちの意見で軽いものとなっていた。その声の中で一番大きかったのは、縁に啖呵を切られ、無茶無謀無策を貫き道理を蹴っ飛ばした姿を約束通り見せられた勇儀だった。
 約束を守った義のため、人間と地霊殿のペットたちは古明地こいしの代わりに街で働くこと。それが縁の被った罪状だ。無論、家を壊されたという恨みを持つ妖怪たちもいるが、それを縁は仕方ないことと思い、その妖怪たちと会えたらしっかりと謝るようにしている。その大半がその後の飲み会で許してくれるようになったが。

「お、もう左腕いけるのか」
「まーな……つか何だよ十一、そのスペカは」
「お前スペルカード手に入れたんだろ、ならもうやれるだろって思ってな」

 同じく再建作業に母親の命令で従事している十一から、弾幕ごっこという名のサボりが提案される。

「だが断る。俺の手はまだ完治してないっつーの」
「右腕だけでいけるだろ。なんなら……」
「あんたたち……よくよく口は動くようだねぇ……」

 十一の背後から、怒気に震える声が響く。二人の肩が恐怖で震えた。十一はそっと背後を振り返ると、そこには目からビームのようなものを出して光らせる鬼がいた。その鬼は両手を組んでぼきぼきと鳴らし、口からは怒りの湯気のようなものを出している。

「なんならここにいる全員でしてやろうか、え? どうする?」
「い、いやさすがにそれは勘弁……」
「だったらさっさと働きな!!!!」
「「イエス、マム!!!」」

 鬼の雷が落ちるのを見て二人は即座に踵を返し、木材を担いでえっほえっほと走り出した。それを遠くで見守る空と燐は呆れた苦笑を零した。だが燐だけは、その眼にある種の感心を抱いて、縁を見つめている。それに気づいて空が燐の顔を覗き込む。なによ、と燐が言う前に、空はにこりと笑って、こういった。

「ね、言ったとおりでしょ?」

 燐は顔を真っ赤にして、空と追いかけっこを始めた。そして勇儀に怒られた。
 一方そのころ地霊殿では、古明地さとりとこいしの親衛隊はこいしの部屋の前でうろうろとしていた。縁が意識を失い、そして目覚めてから少したって、何事かを二人きりで話したあと、こいしは部屋へと籠って何かをしていた。縁の心を読んで何をしているかは知っているさとりだが、しかしこいしの心は未だ読めず、実際はどうしているかどうしても気になってしまうのだ。
 あれ以降、こいしは未だ第三の目は閉じたままだが、何か吹っ切れたようにいろいろなことに興味を持ち、かつ深く関わろうとしていた。本来の好奇心とはまた違うが、しかし負の面は見られない表情で持って。その顔を引きだした縁に対し、さとりは嫉妬と羨望と感謝と興味の入り混じる、複雑でカオスとなり始めている感情を抱き持て余していた。それ故、縁には一度二度会ってから、ここ数日は会っていない。
 一体どうしようか、と悩んでいると、カドルたちがじっとこちらを見ていることに気づいた。そしてその心にある言葉も読みとれた。

「『明るくなった』ですか? むしろこれは落ち込んでいると……」
「いえ、素敵なほどに明るくなっています」
「そうやって感情を表に出すことは、さとり様は少ないからな」
「今までのクール系もいいが、これもまたよし!!」

 好き勝手のたまう三匹に頭を抱え、いい加減屋敷から追い出そうかと考えた矢先だった。ばん、と勢いよく音を立てて扉が開かれ、白い封筒を抱えたこいしが飛び出してきた。くるりとさとりがいることに気づくと、口を開く。

「お姉ちゃん、縁ちゃん見なかった?!」
「え、い、今は西区の方に……」
「ありがとう!」

 あまりの勢いに思わずしどろもどろになってしまったさとりの答えに、こいしは早速とばかりに飛んで行ってしまった。突拍子もないことをするのは前々からだが、しかしああやって急ぐ様な様子を見せたことはなかった。ぽかんと口を開けたさとりだが、しかし次には、そっと笑みを浮かべる。

「……あの子からああやって、あんな笑顔で感謝をされるのは久しぶりですね」

 そう考えていると、あの異邦人に対して、少しは簡単に感謝を述べられるかもしれないと思い、こいしの笑みを思い出しながら喜びで頬を染めた。
 そしてこいしは猛スピードで地霊殿を飛び出し、一直線に縁のいる西区へと向かっていた。いの一番にこの手紙を書き終えたと伝えたいのは、これを提案した相手なのだから。
 こいしはあの戦いの後、確かに心の中にあった棘や鍵がなくなるのを感じていた。しかしどうしても一つ、抜けないものがあった。セイジロウのことだった。一番の友人に対しての負い目は果たしてどうつければいいか、と目覚めて少し経った縁に対し打ち明けた時、縁はこう答えた。

「手紙でも書いたらどうだ? どっかで聞いた話だけど、手紙ってのは書いた時点で相手に届くらしい……心の整理つけるにも、丁度いいかもな」

 こいしはその提案を採用し、早速手紙を書きはじめた。だが元々物をあまり書かなかったので悪戦苦闘、結局数日もの間悩みに悩み、直しに直し、ようやく完成に漕ぎつけたのだ。その報告を、縁にしたかった。だからこうして急いでいたのだ。
 だが不意に強風が吹いた。わっ、と顔を手で覆った拍子に、手紙が手から離れ、どこかへと飛んで行ってしまった。こいしが目を開けた時には既に手紙はどこにもなく、どうしようかと悩んだが、しかし不意に、これでよかったのだと思い始めた。書いた時点で手紙は届くというなら、もう、大丈夫だと。
 だからこいしは縁に報告だけをしに西区へと向かった。
 西区に着くと、すぐに縁の姿を探した。きょろきょろと辺りを見渡すが、姿が見えない。うーむ、と悩んでいると、燐と空を見つけ、駆け寄って縁がどこにいるかを尋ねる。二人は場所を知っていたのですぐに教えてくれた。ありがとう、とこいしは二人に礼を言うと、すぐにその場所へと向かった。

「……お燐、顔赤くなってるよ」
「……おくうこそ……あれは……まずい……反則ね」
「……うん」

 そんな会話が後ろで為されていたが、こいしには聞こえず、ひたすらに縁を探し続ける。
 そして、見つけた。こいしは木材を置いたばかりの縁向かって突貫を開始した。

「縁ちゃーん!!!」

 そのまま縁が驚くのも構わず、その背中に飛び乗った。ぎゅっと前に手を伸ばし、今一番気になる人へと、ただ、奇麗という他ない無敵の笑みを浮かべて、縁へと報告という名のおしゃべりを始めた。


 


 彼岸、此岸、その挟間を分かつのは、黄泉路のものが渡る三途の川である。無音を生み出す霧に包まれ、尖塔の如き岩が無数に突き出すその岸辺・此岸の側の方には、子どもたちの霊がただ石を積み上げる場所があった。賽の河原と呼ばれるそこは、日頃静寂である三途の川に置いて、唯一、音が絶えまぬ場所である。しかしその音とは、子供たちが哀しい唄を唄う声、石を積む音、積み上げた石が崩される音だけである。
 子供たちが石を積むその中で、一人、大きな人霊がいた。その周りにはたくさんの石塔が立ち並び、その霊の周囲には積むための手頃な石は無くなっていた。それでもその霊は、石を積み上げるためにどこからか石を持ってきて、またその行為に耽っていた。
 その石積みの上に、どこからか、風に遊ばれながら、封筒が落ちてきた。
 霊はそれに気づき、封筒を手にとってじろじろと見たが、なぜかこれが自分宛てのものだと思い、封筒を開きその中にあった手紙を見た。周囲の石を積む音。子どもたちの唄い声。その中で一人手紙を読み続けていた霊魂は、流せぬはずの涙を流し始めた。そうしてそのまま、声のない嗚咽を吐き出し続けていると、不意に立ち上がり、その手紙を持ったまま、死神たちがよく訪れる岸へと移動した。
 そこに着くと、赤毛の死神がいた。何度か見た顔だった。向こうもまたこの霊を知っているらしく、驚いた顔をしている。

「おやまあ、一体どうしたんだい? あんたがあの場所から動くなんて……いや」

 死神の目が、霊の持つ手紙に気づき、そちらに向けられた。そうして不意に何かを悟ったのか、「そうか」と呟くと、船に乗って、霊を招いた。霊もまたそれを望み、船へと乗った。船は三途の川を泳ぎ始める。静かな船旅、今の人霊にとって、それは心地よかった。

「大きいくせにずっと場違いな賽の河原にいたあんたが動くとなると、何かあると思ってたけど……それ、誰からだい?」

 唐突に、いつも陽気な死神が尋ねてきたので、霊は答えた。好きな人だった妖怪の名前だ。

「そっか。そりゃよかったね……吹っ切れたかい、お互いに」

 霊は頷いた。もう彼には、楔となる後悔と懺悔はなく、ただ己の今までの清算とその次のことを待つだけの、ただの霊に過ぎない。ただの、人間だった霊。赤毛の死神は微笑んだ。

「きっと今のあんたなら大丈夫さ。ここの閻魔様は、不思議なくらい、優しい方だからね」

 霊はその冗談みたいな物言いに笑った。死神も笑った。船は、次の人生の門出を祝って、ぎいこぎいこと音を立てていた。



  あとがき

 やっだっばぁぁぁぁぁぁ!!!
 
 や、やっちまったぜぇ!! な作者です。投石される覚悟はできています。ちとここ最近はレジュメとレポートに圧されて更新も遅れてしまいました……もう、ゴールしてもいいよね……(レポートと連載的な意味で
 そろそろフラグも立ちならび、しかしまだキャラは全部出きってませんが、ちょいとここでアンケートを、と考えています。

 次の話は、橋姫様を予定しておりますが、その次はちょっと何も考えていません。小話みたいなのをと考えていますが、いかんせん作者のボキャブラリーと知能指数では素敵なほのぼのやらまったりやらが描けず、かつ引出しの少なさに絶望しています。なのでその次、橋姫様の話の次の話の短いお話を読者様からアンケートで取りたいと思います.
 基本は幻想入り方式ですので、こんな感じです。


ち:空と何かする
れ:燐に何か絡まれる
い:こいしに振り回される
で:さとりと一緒にお茶を飲む
ん:街にいる妖怪の誰かと遊ぶ

f:一緒にお風呂に入る



 採用するかどうかは、ちょっといろいろ考えなければいけないので、もしかしたら勇儀さんに笑われてしまうかもしれませんが、できればお願いしますor2
 あ、ちなみに大まかなストーリーの流れは考えているので、その中にちょっと組み込む、という形です。

古<PV数が四万を超えた。次の目標は二千万だ。先は長いが、頼んだぜ、相棒

PS.タイトルと同じショコタンの歌を戦闘後あたりから流すとムードが出るかもしれません。スミカ・ユーティ(ry

3/25 ちょっと修正


「紫様、そろそろ夕餉の……おや、どうしたんですかそれは?」
「ああ、藍。いえ、ちょっと面白いものを見ていたのよ」
「また、時間と空間と場所と位相とその他もろもろの境界を弄って、どこかを覗き見していたのですか……相変わらず趣味が悪いですよ」
「ふふ、言ってくれるわね。ところでこれ、どう思う?」
「これ、ですか……ほう、この人間、妖怪相手に頑張りますね。それで、これが……ん?」
「あら、どうしたの?」
「いえ、この人間の右腕、少し違和感が……義手、でしょうか?」
「そ、流石私の式、目がいいわね。ならこれが何で動いているかもわかる? ちなみに元は外の世界のものよ」
「また外のものを……まぁ今はいいです。それでこの義手ですか……電池、ですか? 太陽電池でも、超小型の原子炉ではなさそうですし、ただの電池かと」
「ふふ、ハズレ」
「え、ですが外の世界のもののはずです。外の世界では殆どが電力で動いていると、紫様から聞いていましたが…」
「そうね、これはちょっと意地悪な問題ね。ならこうして、フィルターをかけてみましょう。そうすれば、答えはわかるはずよ」
「………これは、まさか」
「そう、そのまさかよ……アイツもやってくれるわね。まさかあれを息子の義手に組み込むなんて……」
「……紫様は、これが何か知っているので?」
「ええ、そうよ……アイツもこれを組み込むのに、苦労したわね……いえ、今はそれより」
「ええ、回収をしなければ……」
「それはダメよ。よく見てみなさい、この霊力の流れ、完全にこの子と繋がっているわ」
「それでもこれは、ただの人間が持つには……いや、違う。これは神気……封印もされているのですか?!」
「この封印の術式は心当たりがあるわね……まぁいいわ。とりあえず藍、これでこの義手が何で動いているかわかったでしょう?」
「はい……」
「なら、言ってみて」


「……その義手には、電力の一切が使われていません。それは最初から霊力を使用しての動作が前提になっています。そしてその要は……」



 東方地霊縁起
 第一部、来訪編、完。



[7713] 第十話――古<選んで書くのが、そんなに上等かね
Name: へたれっぽいG◆eaa9c481 ID:f33d8d16
Date: 2011/02/14 14:12
 西区の復興計画が始まって以降、縁の朝は今までよりも早い。
 彼には未だ、地霊殿の清掃係という仕事と、自分のための朝食・昼食作りという生存のための食料確保の任務があるのであり、またそれは午前の間に一通り終わらせないといけないのだ。
 こいしとの戦いで負った傷は、鬼特製の塗り薬のおかげで疲労と共に、かつての喧嘩の時よりも格段に早く回復し、焼かれた腕と足も数日経って少し動かし慣らしてみれば、違和感もなくなっていた。しかしそれでも、打ち身や刺し傷のようなもの、火傷の痕は残ってしまっている。
 まぁそれも仕方のないことだと、目覚めた縁はベッドから起き上がろうとして、しかし左腕にかかる妙な重さに邪魔されてできなかった。何事かとそちらに顔を向けた。寝間着の胸元がはだけた美少女の寝顔がそこにあった。色素の薄いセミロングの髪。幼さが残る故に可憐さを感じさせる顔立ちには、眉、口、眼元が恋の妖精に愛されているように配置され、見る者の目を奪う。その無防備な吐息が、縁の生物の右腕にかかり、ほうと産毛を撫でる。
 古明地こいし、縁が今回怪我を負った理由であり原因であり、しかし今は至って普通の妖怪少女になろうとしている、縁の同居人であった。頬にかかる髪の一本が、彼女が呼吸をするたびに唇に触れ、そのあどけない外見ながらも、異様な色気を発していた。少なくとも縁はそう感じてしまった。

「これは……面倒なことになった」

 思わず小声でフレッチャーの口癖を呟くと、なぜかいるこいしに疑問を抱きながらも何とか起こさないよう左腕から顔をズラそうとし、右腕でそっと持ち上げようとする。その時、こいしが「んっ……」と呻く。起きちまうか、と縁は懸念した通り、こいしはゆっくりと目を開け、縁の姿を認めた。いや違う、未だそこには眠気のものがあり、夢の中をさまよっているのが見てとれる。

「あ、えにしちゃんだぁ……」

 そのまますっとこいしの顔が縁の顔に近づき、吐息のかかる距離まで接近する。縁は思わず、この何歳も年下に見える少女の顔を至近で見ていて、ドギマギし、しかし身体が痺れたように動けなくなっていた。縁にはロリとかペドなどが似合いそうな容姿の少女に性的欲望を覚えるなどという性癖はなかったが、しかし寝起きという人の欲動が働きやすい状態で、現在進行形で不思議な色気を醸し出すこいしを見ていると、胸の異常な高鳴りを自覚せざるを得なかった。
 こいしの口が開き、そこから伸びる舌が、縁の頬をぺろりと舐めた。顔を更に赤くする縁を余所に、こいしはそのまま。

「……おいしそう」
「へっ?」

 縁が驚く暇もなく、ガブリと噛みついた。

「イエ"ヤ"ァァァァァァ!!」

 奇妙な叫びが地霊殿に響き渡って、寝ぼけ眼の妖怪たちやペットを起こしてしまった。



第十話『門の守り人』



「ふーん、へーん、そんなことがあったんだー」
「えっとぉ、ごめんね縁ちゃん」
「別にいいと思いますよ? 実際に食われたわけじゃないんですし」
「お前ら、口と一緒に手を動かして俺の朝食を奪おうとするなコラ」

 食道、隣りの厨房でフレッチャーが中華鍋を振り回している傍ら、朝の事情を話した縁はジト目の空と片手で念仏を唱えるようなポーズで片目を瞑り謝るこいし、呆れと嘲笑半々の燐の三人が繰り出す箸から自分の朝食のおかずを死守しつつ、食事をとっていた。
 フレッチャーから提供されたマスの塩焼き、おろし大根付き。同じくフレッチャー作のぬか漬け。赤味噌の少し濃い味噌汁。そして旬とは言い難いが妙に香りのある筍の御飯。典型的な日本食の姿であるがしかし、朝食にしてはボリュームがある。だが最近は学業の代わりに肉体労働を主としている縁にとって、丁度いいどころか物足りないものであった。それ故に米の一粒でも多く身体の中に蓄えようとしているのに、なぜか話を聞いてる途中から不機嫌になり縁の食事を食べ始めた空、それに続いてこいしと燐も横取りを始めて筍を味わうなどという暇はなかった。
 
「むぐっ……で、そういやあんた、普通の弾幕とか出せたり飛べるようになったりしたの?」
「あ、てめ。人のぬか漬けを……それはあんまり上手くいってな…て、こらこいし、塩焼まるごと食おうとすんじゃねぇ!」
「碌に話が進まないね……」

 こいしが丸呑みしようとしているマスを縁が奪い返しているのを余所に、着々とぬか漬けと筍を胃の中に放り込んでいく、元凶とその親友。何とか縁がその手から取り返すと、こいしがカエルのようにピョンと飛び、がぶりとその塩焼きの半分にかぶり付き、身の部分を丸ごと食べていってしまった。

「はうあー俺の塩焼きがぁぁぁ!!」
「うーん、でりしゃす。けどもうちょっと焼きが欲しいかも」
「何でグルメになってるんですかこいし様……あ、このニンジン美味しい」

 がっくりと項垂れる縁のその背中が見えないのか、もっきゅもっきゅと口を動かし味を楽しみ評価を下すこいし。そしてそのこいしの変わっていないようで変わった様子にため息を吐きながらニンジンを集中的に食べ始める燐。空が困った顔で味噌汁に口をつけたところで、ようやく縁は立ち上がり、微妙に涙を流しながら、この食事の悪鬼羅刹たちに対して罵詈雑言を吐き出すのであった。

「この妖怪飯浚いどもめぇ……」
「私、地獄鴉だよ?」
「あたいは火車」
「わたし、覚」
「私も覚です」
「……<偉大なカモメ>の化身だ」
「マジに返すなっての! そして何気ない顔で会話に参加した上更に飯を食おうとしてんじゃねぇそこの一人と一羽!!」
 
 元からいた三人、更には突然現れた、カチューシャを外しハート型のヘアピンで髪を留めたさとりと、空の中華鍋を片翼で軽々と持ち上げているフレッチャーに対してもツッコミを入れ、増えた食事横領犯たちから食事を守るべく朝食を猛スピードで口にかき込み始める縁。さすがに空たちもその必死さに哀れに思ったのか手をひっこめたが、しかしこいしだけは縁のスピードに追いつこうと躍起になって箸を動かしている。
 それに対抗して更にスピードをあげる縁であるが、こいしの無意識はそれに追いつかんとばかりに箸と口を動かし食べ物を胃の中に放り込んでいく。

「ほのおほれがほそい!? このほれがフローリぃ!?」
「ほう、ほそいよ、フハジールをはいてにするしゃひょーなみにおそい!!」
「貴方たち……口に物を入れた状態で喋らない!!」
「「すぃませんっ」」

 もはや食べることよりもどちらが先に食いきれるかの勝負になって二人だけの世界に入っていた縁とこいしを、二人の掛け合いの飛び火として米粒をつけられたさとりの一喝が正気に戻した。
 二人は即座にさとりを見、そこに殺意の波動にも似た本能的恐怖をもたらすオーラを纏った地霊殿のヒエラルキー最頂点の姿の存在を認め、すぐさま平伏した。その隙に空と燐が残ったものを全て食べてしまっていたのだが、縁は知る由もなかった。
 
「で、いつの間にかこんな集まったわけだけど、俺の飯を奪う以外に何かようでもあるのか?」

 閑話休談といったように間を置いてから、縁は水を口に運びながら食堂に集まった面子を見渡す。ちなみに縁は自分自身が出した問いを肯定されたら、即刻地霊殿を出て十一の家に逃げ込むつもりであった。

「うーにゅ、私はフレッチャーに小腹が空いたから何かもらおうかなって」
「アタイもおんなじ。けどフレッチャーに注文した直後にあんたがそれ持ってきたから頂いてたわけ」
「だったらフレッチャーのを待ってろよてめぇら」

 空と燐の返答は縁の食事を奪うにも一応理由(?)のようなものが認められそうなものだった。だがそれにしても朝食を奪われた立場の縁としてたまったものではなかった。何より。何となくではあるが、食事を奪う時に空の雰囲気が異常に怖かった気がするが、これはさすがに気の所為だと縁は思い込むことにした。

「私は……そうですね。今日は掃除はしなくてもいいことを貴方に伝えるためですね」
「へ、どうして?」
「『誰か代わりがいるのか?』いえ、そもそも貴方が掃除係の代わりだったんですよ、覚えてないんですか? 
「あー……そういや、そうだった気がする」
「『色々ありすぎてて忘れてた』……まったく。とにかく、本来その仕事を任せていたペットが今日から復帰しますので、貴方は復興作業の方に集中してください」

 どこか言いよどみながらも、フレッチャーが持ってきた『悟り』と書かれた湯呑に口をつけながらさとりが応えた。その言に縁はこれと言った不満はなく、むしろ今日から朝に余裕が持てることに僅かな安堵を覚え「わかった」と返答した。
 その気の緩みのせいか、離れた位置から見るとその文字が『小五ロリ』という不謹慎なものに見えてしまった。意外にもその言葉がさとりの容姿に合っているような気がしてしまった縁は、しかし心を読まれたのか、さとりからの一睨みでその考えを心の奥底に仕舞った。
 そのまま気を逸らすためにフレッチャーにも目を向けると、白いカモメは手に持っていた中華鍋をクルクルと回し、テーブルの上に被せた。そうして周囲の妖怪と人間が突然の料理長の奇態に注目する中、中華鍋がゆっくりと持ち上げられていく。その中から現れたのは。

「……鶏肉の皮の春巻きだ」
「「「うおぉぉぉーー!!」」」

 縁がテレビの中でしか見たことがないような、高級中華料理店にでも出されていそうな皿とそこに盛りつけられたきつね色を越え黄金色にすら見える、見事という他ない揚げ加減の春巻きだった。白い陶磁のように輝く皿には、四方を囲む中国の幻想の生物たちが住み料理を護るように囲み、彼らが守る今回の王、湯気が赤く見えそうなほどの春巻きが座っていた。
 声を上げた空と燐が真っ先に箸を伸ばし、次いでまるで手品のように現れたことに驚き声を出してしまっていた縁と、今は彼におんぶされるように背中にひっついていたこいしが、春巻きへと手を出す。
 縁の腹はそろそろ満たされたと感覚の一つが告げようとしたが、春巻きの香ばしいと嗅覚をくすぐる香りがそれを吹き飛ばした。口へと運ぶ。一口目を噛み、スナック菓子のように外面がサクサクとした奇妙な、しかし旨いと食欲が告げる感触を味わおうと思った瞬間には、少し早いぐらいの秋野菜をふんだんに使い、更には妙に歯ごたえのある肉の中身が口内で化学反応を起こした。二口目を食べると、その肉の正体が塩で味付けられたエビであることがわかる。しかも噛めば噛むほど、その味と香り、そして野菜と鶏肉を使った皮との融合が起きるのだ。
 絶品とはまさにこのことだと縁は素直に思い、周囲を見ると、さとりと料理人を除いた三人も恍惚とした顔になっていた。小腹が減っただけの空たちのためだけに、これだけの料理を作りながらも澄ました顔をしているフレッチャーに、先日のさとりに聞かされた話もあって、実はかなり優しいのではないかと思ってしまった。

「ふふ、さすがですね、フレッチャー」
「……面倒は嫌いだからな、追加分はある。腹が減ったら勝手に取りに来い」

 さとりに褒められながらもフレッチャーは常の調子で答え、中華鍋を翻した。その瞬間には白いカモメの姿は一瞬にして姿を消し、あとには妖怪三匹が群がる春巻きだけが残されていた。縁ももっと食べたい気分だったが、しかしもう数もなさそうで、かつ時間も迫っていそうだ。
 昼食のおにぎり、サケの代わりにマスを入れたそれを自作ポーチに入れ、十一のツテで紹介された呉服屋に形だけは直してもらった学生服のズボンに吊り下げる。

「んじゃ、そろそろ行くわ」
「あ、ええ、いってらっしゃ……」
「えにひひゃんひょっとまって!」

 椅子から立ち上がった縁に気づいて口ごもりながらも返そうとしたさとりであるが、しかし直前に縁の行動に気づき、振り返ったこいしにさえぎられてしまった。こいしはそのまま口に春巻きを咥えたまま縁に文字通り飛びついて、その背中が自分の定位置だという様に抱きついた。そしてそのまま、春巻きを口から出し、縁の口元に運ぼうとする。

「はい、あーん」
「いや、バッチイだろ。自分で食べろって」
「あー、ダメだよ縁ちゃん。女の子はそんなこと言われたら傷つくんだから。それに縁ちゃんだって『もう少し食べたかった』んでしょー?」
「うぐぅ……」

 見事に心の内側を読まれ、思わず呻く。その口が空き、思考に僅かな空白が空いた瞬間、こいしの目が光った。

「あーん!!」
「ふぐぅ!?」

 春巻きを口の中に捩りこまれる縁。春巻き自体はそのまま仕方なく食べるが、時々妙にねっとりしたものがくっついているような気がし、しかし無理やり気づかないようにして呑みこんだ。その様子にこいしはにへら、と口元を緩め、こういうのを見れたなら別に素直に食べてやってもよかったかな、と縁が思った直後、強烈な殺気が縁に叩きつけられた。
 発生源は唖然として口をあける燐の横、春巻きを口に含んだままこちらを睨む空である。その視線を受けていると何故かこの場にいるのが居た堪れなくなり、逃げるように視線を四方八方に飛ばしてしまう。しかし空の眼光は強まる一方だ。もはやこの場にいられない、縁はそう判断し、空へと背を向け。

「そ、それじゃあ行ってくるぜ!」

 状況がよくわからないがしかしひっつくのを楽しんでいるこいしを背中に乗せたまま、殺気には敏感だがその最奥にある感情にはまった気付かない縁は部屋を出ていった。その姿を見送った燐は、突然忙しなくなった縁に疑問を抱きながらも、新しい春巻きを口の中に入れようとした。しかしその手は春巻きを掴むことはなかった。

「ご馳走様っ」
「あーっ!? おくう!!」

 いつの間にか、この一瞬のうちに、空が春巻きを全て食べてしまっていたからだ。そのままお燐が空の口から春巻きを出そうと躍起になって取っ組み合いという名のじゃれ合いを始めるのを見ながら、さとりは縁に見せたこいしの笑顔と、縁に一瞬向けられていた空の心境の表層を思い出し、そして本来の自分の目的があったことを思い返し、ふぅ、と溜息を吐いた。



「ふ……随分と調子よさそうだねぇ、ご飯をたかられてるだけとも知らずに」
「そういうお前らは随分と調子悪そうだな」

 西区の復興作業場、その集会所となる仮設テントにこいしを背中に乗せたまま訪れた縁を迎えたのは、尻に一升瓶を刺したまま皮肉気な口調を吐き出すカドルを筆頭とする、酒飲みたちの夢の跡とでもいうべき、どうオブラートに言うおうとも隠しきれぬ死屍累々の光景であった。
 カドルの両脇には樽の中にストローのように上半身が刺さったまま沈黙しているダンとカニス、そして人型の妖怪の中に沈んでいる十一の姿があった。おまけに、むせ返るような酒気。思わずしかめ面をしてしまうほどだ。

「う~ん、どうしたのぉカドル?」
「こ、こいし様……こ、これには深いわけがありまして……」
「な~に言ってんだい。そもそもあんたらが自棄酒に付き合えっていってきたんじゃないか」

 テントの外からの声にそちらを振り向くと、眼元に隈を作った勇儀が髪に水を滴らせながら入ってきた。その服もいつもの白い無地の、機能性を追求した簡素なものではなく、全体的に余裕を感じさせる薄い青の上着だ。顔を洗った様子だが、よっぽど酔っていたのか、その声には未だ不機嫌な酒気が混じっている。

「聞いてくれよご両人。こいつらったら昨日の夜突然ここにきて『俺たちのこいし様が大人になっちまったぁぁ!!』なんて叫びながら『雷電削り』の『SOM割り』なんてものを持ち出してきやがったのさ」
「何か、名前はよくわからんけど雰囲気からしてヤバそうだな……」
「まったくだよ、さすがの私だってSOM割りを十杯もやるのは御免だよ」
「いや、聞くからにヤバそうなのを十杯もいけるあんたもスゲーよ」

 縁の言葉に何かを返そうとした勇儀であったが、しかし欠伸によってそれは遮られ、時を同じくして顔を地面へと落とし、完全に沈黙するカドル。そのカドルに刺さる一升瓶をこんこんと指でつつくこいしに「ばっちぃから止めとけ」と言う縁は、同時に今のまま仕事に移れるのかと疑問に思っていた。
 そのことをそのまま口から吐きだし、眠たげな現場監督へと問いかける。

「なぁ、今日は仕事できんのか? まぁ、見るからに全滅なんだけどよ」
「あふ……あ~もうこりゃダメだよ。今日は休み、幸い昨日までにはめぼしいとこまでは片付いたから、区切りはいいさ。それじゃ、解散、私は家で寝る」

 それだけいって勇儀はふわふわと危なげに飛び立った。ここはどうすんだよ、疑問の声を上げようとしたが、しかしその疲弊した顔を見ると余計な心労をかけるという気にもなれず、そのまま見送ってしまう。
 そして残されたのは、空の一升瓶を筆頭としたゴミの山と二日酔いを併発してうなされながらも眠り続ける妖怪たち、今この場にきたばかりの縁とこいしだけであった。こいしがカドルの尻から一升瓶を抜き差ししながら遊んでいるのを傍目に、縁はこの状況を見てどうしようかと溜息をついた。

「とりあえず……軽く掃除するか?」
「ん、どうして?」
「いや、何か……習慣?」
「ん~変なの~、けど私も手伝うよ」
「お、悪ぃな。後で何か奢ってやるぜ」
「ほんと!? それじゃあねぇ……」

 目を輝かせて様々な食べ物を想像しているだろうこいしに、選択を誤ったかと冷や汗をかく縁であったが、しかし今はもう掃除すると決めた以上、それをしながら対処を考えようと思考を逃避させ、目立つゴミを一か所に集め始めた。こいしもまたそれに倣い、頭の中で何を要求するかを考えながら、縁の後ろのちょこちょことくっついて回り、同じようにゴミを回収していった。
 その作業は灼熱地獄での指示を終え復興作業の手伝いに空たちが来るまで続き、二人が降りてきた時には丁度粗方のゴミをテントの中にあった袋に纏め、空(から)の一升瓶を一か所にまとめた後だった。倒れた妖怪たちについては、明らかに身体の構造に悪い態勢のものだけ寝かし直し、他はそのまま放置である。
 その二人のテキパキとした動きに、たった今来たばかりの空と燐は、テントのいくらかマシになった惨状を見てポカンと口を開けていたが、しかし空がうにゅぅ、と頭を抱え、疑問をそのまま口に出した。

「え~~~とぉ……二人とも、何してるの?」
「見てわかんねぇのかよ。掃除……つーか酒飲みたちの後始末してたんだよ」
「は、何でよ? 人間がやる意味がわかんないわ」
「そりゃ、なんつーか……こっち来てから掃除ばっかやらされてたからね、こういうスゲー汚れてる場所見てるとつい身体が反応しちまって……」
「あ、それがさっき言ってた習慣だったんだ」
「わかってなくて手伝ってたのかよ!?」

 コップをテーブルの端にまとめたこいしが今更なことを口走ったことに対して思わずツッコミを入れてしまった縁であったが、「気にしな~い気にしな~い」などと無意識の少女は鼻歌でも歌う調子で別のゴミを取りにいってしまった。残された人間はとりあえずこいしのマイペースに慣れたのか、一度溜息を吐いて作業を再開しようとし、未だに口を半開きにしたままの二人に対し目を向ける。

「つーかお前ら、そこでぼうっとしてるなら少しは手伝ってくれよ」
「むぅ、何であたいたちが……」
「こいしだって手伝ってくれてんだぞ」
「う………」

 そこで空と燐はちらりと互いの顔を見て、そのまま寄せ合い、縁へと背を向けた。しかしすぐに縁と、その背後でちょこちょこと働くこいしを見て、互いの困惑とした感情を小声で吐き出し始めた。無論、距離を離し、縁にも聞かれない距離だ。

「ちょっとおくう、誰あのこいし様? 偽物?」
「ちょ、ちょっとお燐。さすがにそれはヒドイよ。いくらこいし様が今まで働かなかったからってさすがにそれは……」
「けどねぇ、さすがにアレは……」
「きっと縁が言ったからじゃないかな? こいし様、アレ以来縁に、その、べったりだし」
「そうよねぇ。今朝だってあいつの寝床に潜りこんでたらしいじゃない、いくら何でも……て、ちょっとおくう、抑えて、抑えて!!」
「……うにゅ? 何が?」
「え、今の無自覚? ……別に隠し事もできないわよねぇ、⑨だし」
「何か知らないけど⑨っていうなぁぁ!」
「お前ら、内緒話で喧嘩するならテントの外でやれ!」

 そのまま弾幕ごっこになりそうなのを縁が察知、二人をそのままテントからヤクザキックの要領で追い出した。しかし二人もこのまま待っているのは嫌なのか、それとも本当にこいしが偽物かどうか確認したいのか、すぐに戻ってきて掃除の手伝いをし始めた。作業人数が二人から倍の四人になったことで効率も上がり、また動きにくいところは宙に浮かびながら作業を行うことで滞りもなく、掃除自体はそれからすぐに終わってしまった。
 そして、無駄に何もすることがなくなってしまった時間。しかしそれこそ縁には願ったり叶ったりの状況であった。
 離れた位置からでも聞こえるテントの中で妖怪たちがうなされている声をBGMに、縁は瓦礫などが粗方撤去されたことで開いた空間に立ち、目を閉じ、全身に力を巡らせていた。力とは、有機質ではない右腕を通して現れたあの第三の腕を構成するものと同じもの。意思と魂の構成要素であり繋がるもの。腹式呼吸の要領で、血管にその力、教えられた名を霊力というそれを、空気と一緒に体中を巡らしていく。右腕にもそれが溶け込もうとするとき、あの藍色の巨腕が現れそうになるが、今回は用は別にあるので、それを抑え、ただ単純に右腕への霊力へと戻していく。その時、右腕の内側と外側とが、まるで皮一枚を無理やり乖離させ二枚にするような、痛みとも言えぬ感覚があったが、それを思考の隅に置いておき、教えられた工程を踏んでいく。
 霊力が満ちる。妖怪たち、勇儀を筆頭とした、力の扱いに長けたものたちに聞いた、人間にも応用できる力を制御するための修行法の一つである。ただ単純に全身に妖力、人間である縁であれば霊力を全身に廻らせたまま、そのまま何もせず循環させ続ける。その循環速度、及び密度を徐々に高めていき、霊力の基本的なコントロール法を学ぶ、というものである。
 こいしとの戦いの時はガムシャラに、無自覚に霊力を使い、結果として右腕だけに集中する形となっていた縁は後になってようやくその存在と名前を教えられ、今現在はそれの制御方法を学び、『飛行』という人間にはあり得ない現象を本当にできないかと思考錯誤を繰り返している段階である。
 目を閉じたまま、霊力の流れを周囲の空間にわざと零し、自分と空間との間に繋がりを持たせようとする。その瞬間、循環の環が不用意に乱れ、縁の集中と霊力の流れを混乱させる。仮設休憩所として置かれたベンチの上に座り縁の様子を見ていた三人も、その変化に気づいた。
 顔を顰める縁は周囲へと霊力を流すのを止め、循環を元の状態へと戻すよう働きかけることに集中する。その折、いや集中するという行為によって右腕への制御がおろそかになり、第三の腕が顕現した。その瞬間、循環の環が第三の腕に引っ張られ、ごっそりと霊力を持って行かれるのを理解する。
 ただ無意識に出すのならいざ知らず、意識的に霊力をコントロールしようとしている現在、霊力を通すだけで出るようになってしまった縁の弾幕は、目の上のタンコブであった。
 第三の腕を何とか霊力の流れに還元し、元の循環にようやく戻すことに成功する。そこで縁は一旦息をつき、コントロールを無意識へとバトンタッチする。いつの間にか汗をかいており、秋も暮れてきた現在、乾燥した微風が心地よかった。

「ふ~ん、力の制御は元々センスよかったけど、そっから大分上手くなったわね。けど、飛ぶってとこにいくまではまだまだね」
「ぐ……まだだめなのか?」
「まぁねぇ。やっぱあんたは経験不足なのよ。このまま霊力をコントロールしてくのもありだと思うけど……何よりあんた、何でもいいから空を飛んだり宙に浮いたりしたっていう経験とかないのぉ?」

 地霊殿の中でも妖力の制御に優れている燐の指摘に、縁は呻くだけだ。燐は先日の一件以降、基本は空と一緒ながらも、縁とそれなりには話すようになり、縁が他の妖怪に教えを乞うていることを聞いてその教える一員になっているのであった。もっぱら、縁が仕事の後や起きた直後、そして空いた時間でしか練習をすることができないので、その時に時間が合えば見る、という具合である。
 なお、空は人に技術を教えるのはヘタな上、殆ど力任せに制御している節があるので自分が使う分ならまだしも教えるのは無理。こいしは無意識で妖力を使っているので論外。さとりに関してはそもそも弾幕ごっこが苦手らしく、しかもこと妖力の制御ならさとりより上手な燐がちょうど教えると言った直後だったので、辞退という形となった。
 
「そんなんある方が珍しいっての……落ちた経験ならあるけど」
「? ま、いいわよ。じゃ、飛ぶのは一旦……」
「ちょっと待ってお燐。縁ちゃんは空さえ飛べればいいんだよね?」

 燐の言葉を遮ったこいしがベンチから跳ねるように立ちあがり、とてとてと縁の元へとやってきて、その背後に回った。その様子に、縁は何故か嫌な予感がした。

「せ、正確には空を飛ぶイメージがあれば、ですけど……」
「え、えーとぉ……こいし様ぁ、いったい何を……」
「もちろん、飛んでくる!」

 笑顔で言うが早いが、こいしはふわりと浮かんだかと思うと、そのまま縁の両肩に手を回し、その高度を上げていく。「ぬわーっ!?」と叫ぶ縁の、いきなり地面から足が離れ、重力の抱擁から逃れるという奇妙な体験による混乱など知ったことではないと、更に速度も速める。
 地霊殿の屋根ほどの高さを超えるのもあっという間、こいしに引っ張られるように空へと浮かび上がった縁は、元の世界ではヘリでしか見られないような、しかしそれよりも遙かに危険で安全な、そして現代では存在しない光景に目を奪われていた。
 地底中を一望できるほどの高さ。しかしそれは、以前地霊殿や勇儀の家から見たものとはまた違う、前後左右、足下全てが生きているものたちが築き上げた街並みが広がっているのだ。先ほどまで自分がいた場所がもはや箱庭の中の一部であるように見えると、感慨深いものがあった。

「すっげぇ……な……」
「うん、何が? あ、それより縁ちゃん、そろそろ手ぇ離していい?」
「え、ちょっ待てタンマ!? 今離したら死ぬ! 落ちて死ぬって!!」
「え~、けど縁ちゃんもう飛ぶ感覚わかったでしょ~。それに以外と面倒くさいし……死んじゃったらわたしがずぅっと閉じ込めとくし……」
「最後の小声で言ったのはどういう意味だーッ!?」

 そのままバタバタとこいしに掴まれたまま声に連動して動くが、しかしこいしの姿を確認しようとして上を見上げた時、いつも縁を見下ろす巨大な穴の存在に気づいた。妖怪たちがよく通るのを飛べない縁は地上から見るしかない、地獄の深道。こいしもそれに気づいて、上を見上げた。

「なぁこいし。せめてあそこまで連れて行ってくれないか?」
「ん、別にいいけどぉ……縁ちゃん、もう地上に行きたいの?」
「いや、とりあえず下見だけ。地上に行くのは、せめて自力で空を飛べるようになってからだ」
「……そっか。うん、わかった」

 一瞬、縁に見えぬように顔を背けたこいしは、しかしすぐに朗らかに笑うと、縁を掴んだまま更に高度を上げた。そのまま何事も、会話もなく深道の入口へと至る。
 地上から見えたとおり、また想像通りではあるが、まるで地上にそのまま通じているかのように広く長い縦穴だ。しかしその道は曲がりくねっているのか地上からの光は見えず、代わりに外縁部にある無数の横孔から、そこに住む妖怪や動物たちが目を向けてくる光だけだ。
 横穴には幾つか看板が打ち付けられたものもあり、その中に『この先、迷宮と地底湖』などというものもあることから、居住区である以外にも何処かしかへの入口となるのもあるようだ。

「ふ~ん、結構人気もあるんだなぁ……こいしはここに来たことあるのか?」
「ん~と、たぶん、地底に降りたときだけだと思う」
「そうか……じゃ、探検するか?」
「あっ、それ楽しそう! けど縁ちゃん抱えたままってのはなぁ」
「だったらそこらの横孔にでも一旦……」

 縁がそうやって、誰もいないだろう横穴を指さした時だった。

「……珍しいわね、人間が、妖怪に捕まってこんなとこまで降りてくるなんて」

 不意に頭上からかかった声。こいしと縁が同時にそちらに振り向くと、腕を組み、肩口まで伸ばした輝く金髪を縦穴に吹く風になびかせる、見るからに年上とわかる女性が浮いていた。藍色と茶色の和装の上着と、白く太い線が走る青のスカート。アームガードのようなもので覆った腕の先についた手は白く、その指先にスペルカードを持っていた。白いマフラーをたなびかせる顔には、サファイヤと同色の、しかし深い色をし、胡乱気なものを浮かべた瞳があり、縁たちを見下ろしていた。
 縁は一瞬、降りてくる、という単語に疑問符を浮かべたが、しかしすぐにスペルカードの存在を認め、誤解を解こうと口を開いた。

「ちょっと待ってくれ。俺は地底から、この子に頼んでここまで飛んできたんだよ。だから、地上から降りてきたわけじゃない」
「地底から? もしかしてアナタが、あの喧嘩の時の人間? たしか……ウミグニカメオだったかしら?」
「全っ然違え!! 中邦縁だっ! で、こっちは古明地こいし!」
「知ってるわよ、ただのジョークよ。有名だもの」
「有名人なんだ、縁ちゃん」
「……らしいな」

 縁とこいしが些細なことに顔を寄せて話し合う間に、クルクルと指先でスペルカードを回す女性は、じろりとこいしと縁を舐めるように見、次いで街の方を見下ろして、ふんと鼻を鳴らした。そしてまた縁に顔を向けると、スペルカードを指に挟み、突然の好戦的な構えに驚く縁たちに突きつけた。

「アナタ、ここを通りたい?」
「え、いや、いづれは通るって気持ちだけど今は……」
「そっ……なら、今から弾幕ごっこをしましょう。アナタが勝ったらここを何時でも好きなだけ通っていいわ。ただし負けたら通行禁止よ」
「なっ! ちょっと待てよ、いきなりそんなこと言われたって! 理由はなんだよ!?」

 突然の一方的な宣戦布告に縁は眼を見開き、こいしに持ち上げられているのも忘れて、女性に噛みついた。しかし女性は澄ました顔をしたまま、妖力を高めていく。

「理由? そうね……人間のアナタにわかりやすいものを挙げるなら、私がここの守護者であるから。そして本当の理由は……」

 そういって名も知らぬ女性はスペルカードを放った。縁が反応するよりも先に、無意識を察知でき、かつ妖怪であるこいしが縁の体を抱きよせる。その瞬間には、スペルカードは光を発し、後はその名を告げることによって、顕在する直前の状態へと移行していた。

「アナタとアナタの周りが妬ましいからよ。『妬符「グリーンアイドモンスター」』」
「縁ちゃん、掴まってて!!」
「うわっ!?」

 こいしが縁の背中を抱きしめるようにしたまま、体を上昇する。その直後、進行方向に緑色をした弾幕の帯が出現し、こいしは止む無く急停止、するのではなく身体を捻り、その隙間を通り抜けようとした。しかしそれを出来るのは、こいし一人の場合のみ。

「っ、こいしっ!」
「あ、縁ちゃんっ!?」

 縁は体がこいしに追従するように曲がった瞬間、そのままこいしが何をするかを察知し、右腕に霊力を通す。第三の右腕を顕現し、自分とこいしを守るように掲げた。
 その状態のまま、帯の中へと突入する。こいしは僅かしかない隙間をすり抜けるよう、そして縁はその隙間からはみ出すように出ている弾幕にこいしが当たらぬよう、自分の弾幕が触れるのを厭わず腕を掲げ続ける。そして、帯から抜けだすころには、縁の服はいつぞやよりはマシだが、再び裂けた状態になっていた。

「くそっ、いい加減新しいのを買うのが早いって!」
「ご、ごめんねっ縁ちゃん」
「今は謝んなくていいっ、くるぞ!」

 縁の視線の先では帯が次々と、まるで虹の橋が泡ができるように出現していき、その緑の弾幕がカーブを描きながら縁たちへと向かってこようとしていた。

「悪いけど、こいし。俺は飛べないから、その、このままどこか地面のある場所に離して、お前だけ先に降りててくれ。そうすりゃ、あの人は俺だけが目当てっぽいから……」
「やっ!」

 こいしは縁の言葉を遮ると、後ろから強く縁を抱きしめた。女性が顔を顰めているのにも気付かず、こいしは縁の耳元で囁く。

「わたしは前に縁ちゃんに助けてもらったんだ。だから縁ちゃんを置いてくなんてできないよっ。このまま一緒に戦う!」
「こいし……」
「茶番はそこまでよ。二人で戦うってなら、さっさとしなさい」

 女性が悪態を吐き捨てるように言葉を投げると同時に、帯の生成速度が速まり、結果としてこいしたち目掛けて迫るスピードが上がった。しかしこいしはそれを見ていて、横へと飛ぶ。

「わたしが飛ぶから、縁ちゃんは弾幕で戦って。もうさっきみたいなことはしないから!」
「……わかった、頼む。いきなり名乗られもせず喧嘩振られたんだ、仕返ししてやろうぜ!」
「うんっ!」
「何だか悪役みたいね、私……」

 縁とこいしが二人で話に決着をつけている間に、女性はスペルカードを制御する手とは反対に、もう一方の手を差し出す。そうしてそこから五つの光球を作り出すと、手の中で先端を尖らせ、指の間に挟み込み、振りかぶる。

「まあいい、わっ!!」

 投てき。その先は、こいしが飛ぶ進行方向。こいしはあえてそこに突っ込もうとするが、しかし縁を抱えていることに気づき、急ブレーキ。しかし背後から緑の弾幕が近づいていることも察知し、真下へと向かう。縁はその突然の方向転換に三半器官と内臓を揺さぶられるが、しかしこいしを信じて耐える。
 女性は再び眉をひそめた。それに気づいた縁は、縁の心を読むさとりの姿を思い出し、重ね、その直後に縁への直撃コースだったそれを、再びこいしの急停止で回避して、疑問を吐き出す。

「おい、いきなり人に喧嘩売る理由が妬ましいの一言ってどういう意味だよ、答えやがれ!」

 少女の姿をした妖怪に抱きかけられたまま叫ぶ人間の姿に女性はある種の情けなさを見ながら、しかし妖怪を理解しきれてないだろう人間に対し、だが妖怪とこうまで信頼関係を築けたことに対して興味という好意を持って、それに応えることにした。無論、スペルカードの制御は怠らない。

「……私の能力は嫉妬心を操ること。けれど、嫉妬ってのは誰かとの間、何かとの間でしか起こり得ないわけ。だから私は限定的だけど、そいつが誰かをどう想ってるかわかってしまうのよ……おかげで、他人のいいとこ悪いとこばっかり見て、妬ましいということだけが膨れ上がってしまっているの、よ!」

 再び通常の弾幕を投げる。しかしこいし/縁はそれを回避。第三の腕を巨大化させる。

「つまり、嫉妬してるってだけかよ!」
「ま、そうよ」
「だったら嫉妬なんかしてないで、あんただって遊べばいいじゃないか!」
「その遊びが、これってこと」
「ざっけんな! こいし、あいつに向いてくれ!」
「う、うんっ」

 こいしが帯を一度切り返し、交差するように避けたところで、縁は右腕を振りかぶる。第三の腕は変化を終え、ロケットパンチの形となり、回転を開始していた。女性が顔をしかめ、その手に弾幕を生成、この一瞬、動きを止めている縁とこいしに対し、ダーツのように投げ放った。

「だあっ!」

 まったく同時に、縁は第三の腕を射出する。無理な姿勢で、かつ空中であるがために力の全てを乗せられなかったそれは、女性のそれと衝突すると、ひび割れたと思った瞬間に砕けちってしまった。しかしそれは向こうも同様、一か所に集中するように投げられた弾幕を破壊されていた。
 だがそれでも、女性の気だる気な目つきは変わらない。

「どうしたの、その妖怪に勝ったんでしょう? それともそこの妖怪が実は弱かったの?」
「むぅ、わたしのことバカにしてるっ!」
「にゃろっ!」

 縁が再び第三の腕を生みだすと同時に、帯の接近に気づいたこいしが再び移動を開始。その時、縁は何事かをこいしへと囁き、こいしはそれに一瞬気を取られ、帯に掠ってしまう。すぐに体勢を立て直し、帯と距離を取りながら縁へと再確認。そして頷き、上へと飛ぶ。

「なんのつもり……?」

 女性は帯を追跡させながら、再び弾幕を、今度は数を増やして、その先へと放る。それを確認した瞬間、縁は叫んだ。

「今だ!」

 その叫びの直後、こいしは縁を高々と放り投げた。その軌道上には女性が投げた弾幕があるが、しかしそれも先に飛び越えているのなら意味のないものだ。帯はターゲットが二つに別れたことで一瞬迷走するが、すぐに女性は帯を制御、弾幕ごっこを買った人間へと、その落下予測位置へと潜り込ませようとする。
 しかしそこで彼女は、縁を運んでいた妖怪の存在を失念した。いや、突然に行動によって、させられていたのだ。

「やぁ!」

 縁というデットウェイトがなくなったことで自由となったこいしの両腕が振るわれる。途端、女性の周囲を覆う様に花弁の如く開く弾幕が生じ、女性の動きと意識を制限する。舌打ちをし、回避と迎撃に集中する女性、こいしはさらに女性の動きを封じるべく、弾幕を増やし続ける。

「『螺旋「スパイラルファントム」』!!」

 そしてまた縁も、落下をしながら帯を突破するために、いや、こいしに動きを止めてもらった妖怪目掛けて、自らの持つ唯一のスペルカードを取り出し、発動する。
 金髪の妖怪は気づいた。これが、こいしへと一旦目を向けさせ、更にその弾幕で気を取られ、そちらが本命と意識を向けた瞬間、本当の本命である縁がスペルカードで強引に『グリーンアイドモンスター』を突破し、一撃を与えることだと。
 しかしそれに気づいたのは、縁の作りだした仮想の巨大削岩機が、帯を切断しながら突破し、女性のスペルカードを捉え、その反発力を強引に押切り、そのまま車にでも轢かれたように外縁の岩肌へと吹き飛ばされた時だった。
 女性を弾き飛ばした縁はすぐさまスペルカードを解除、縁の落下位置へと予め回りこんでいたこいしに受け止められ、しかし一度勢いを殺すためぐるりと回って、元の態勢へと戻る。そして二人して、女性が吹き飛ばされ、叩きつけられたであろう岩肌へと目を向ける。そこは今、スペルカードの破壊の余波なのか、岩から巻き上げられた濃い埃と砂の煙によって遮られ、女性の姿を確認することができなかった。

「やったか……」
「きっとダメだと思うよ。縁ちゃんのセリフ的に」
「ここでそういうこというなっての!」

 一瞬解れた緊張感が、こいしの無意識な言葉に対しツッコミを入れさせた。その瞬間を狙ったかのように、煙の中から、スペルカードを発動する光が差した。そして、それを宣言する声も。

 舌切雀「大きな葛籠と小さな葛籠」』

「ほら言ったとおりだよっ」
「んなこと言ってる場合かっ!」

 煙の中からそれを吹き飛ばすように、薄い膜に包まれた巨大な緑の大玉が大量に撃ちだされ始めた。こいしはそれに即座に気づき、すぐに回避行動をとるが、その途中に煙が晴れた位置から無暗矢鱈に弾幕を展開し続ける女性の姿に気づき、しかし彼女がまったく動かないことにも気付いた。縁もそれ気づき、チャンスだと、第三の腕に霊力を集中させようとした。

「縁ちゃん、いけるよ!」
「わかった、突っ込む!」

 この時縁は、なぜか悪寒がしていた。このまま突っ込むのではだめだと、そんな感じがしたのだ。しかしそれはこいしの無意識とはまた違う直感、不確定要素だらけのものだ。また、縁自身、これで終いにするといき込んでしまったのだ。第三の腕を肥大化、ただ射出するだけでは、先ほどのように弾かれるだけだ。ならばと、こいしにもその意志が伝わり、突撃姿勢をとる。
 そのまま、突貫。こいしが最小限の動きで弾幕を避けるのに任せて、縁は右腕をいつでも振りかぶり、スペルカードに叩きこめるようにする。そして、女性の頭上を取る。女性は動かない、縁とこいしを見上げるだけだ。先ほどとは打って変わって、虚ろな目で。

「これで、終わりだぁっ!!」

 そして右腕を振り落とし、第三の腕が女性を捉えようとした。その瞬間、女性の全身から、弾幕の溢れだした。驚愕の声を上げる暇すらなく、振りかぶった体勢のままの縁と、それに張り付いていたこいしはその弾幕の波に飲まれるような勢いで被弾していき、吹き飛ばされ、離れ離れとなる。
 そうなれば宙を飛べも浮かべもしない縁はただ落ちるだけだ。こいしの時ほどではないが、しかし常人の痛覚を持つ縁には、至近距離からのマシンガンパンチの衝撃は意識を揺さぶるには十分だ。そのまま体勢を整える間もなく落ちていこうとする縁。

「はい、私の勝ち」

 そしてそれを片手で受け止めたのは、弾幕を一切出していない金髪の女性だった。縁は眼を見開き、首を強引に回して今まで自分が正対していた女性を確認しようとした。未だ、いる。もはや弾幕は出していないが、たしかにいる。そして視線を元に戻せば、縁を受け止めたもう一人の女性。

「な……」
「何がどうなってるかって? それは簡単よ。私の姿形に見立てたデコイを配置し、私という本体はあなたたちがデコイに気を取られている隙に、弾幕に紛れてここまで来ただけよ」

 そういって女性は、周囲に浮かんでいたスペルカードの光を消した。その瞬間、残っていた岩肌の女性の姿は消え、地獄の深道は静寂を取り戻した。
 やられた、と縁は心の底から思った。縁の中に分身をする、というスペルカードの概念がなかった故に、そのようなものに対する警戒心がなかった。しかしそれを差し引いても、デコイに弾幕のトラップをしかけ、かつ自分自身はデコイの巨大な、身を隠せるほどの攻撃に紛れて後ろに潜み、攻撃のタイミングを待っていた。先ほどのこいしとの即興合わせ技などではない、戦術の領域の技術だった。
 そうして内心で関心していると、わずかに体を汚しただけのこいしが、ぎらりと女性へと目を向け、スペルカードを取り出していた。だが女性は相変わらずの顔で、冷静沈着とも言える声で、それに対応する。

「縁ちゃんっ!」
「ああ、心配しなくても大丈夫よ古明地の妹さん。けど、勝負は私の勝ちね」
「ぐ………」
「わたしはまだ戦えるよ!」
「だめよ、今ここで私が彼を離したらどうなるか、わかってるわよね?」
「う……」
「ふふ、素直でよろしい」

 縁、こいし、両者ともに撃沈。女性はここでようやっと口元を緩めると、不意に何かを思いついたのか、縁をぐいと持ち上げ、その肩に手を回して落ちないように固定すると、そっと顔を寄せた。
 その突然の行動と、美女の顔の接近に思わず顔を赤らめる縁。朝にこいしの顔を間近で見た縁であるが、しかし目の前の女性は、また別の魅力を持っていた。いうなれば、引きこまれるような色気、というべきか。吐息にかかれば、まるで食虫植物の匂いを嗅いだ虫のように、不可抗力的にそこに入り込んでしまうような、どこか危なげな空気の、しかし抵抗し難い魅力。縁はそこまで考えて、ごくりと、今まで喧嘩腰で戦っていた相手に対し唾を呑みこんだ。どこかで、びしりと何かに罅が入る音が幻聴として響いた。

「それにしてもアナタ、噂通り面白かったわ……そういえば自己紹介がまだだったわね、水橋(みずはし)パルスィよ」
「えあ、は、はい……」
「ふふ、急に畏まるのね……とりあえず、私の勝ちだからここは通さないわ。けどね、私に勝ったら通してあげるのはこれからも一緒。ただし、今度はあなた一人でここまでこれるようになってから来なさい」
「い、言われなくてもわかってるっての!」
「あら、顔が真っ赤ね……そうね、今、面白い条件を一つ思いついたわ。アナタ、私の家で主夫やってみない?」

 そこで女性、パルスィはちらりと横目でこいしを見た。そしてこいしの様子に顔を満足げに微笑みと、また縁に近づいた。縁の顔は、シリアスな戦いの後だというのを忘れたように、真赤になる一方だ。こういう経験は今までなかったからだ。またどこかで、ビキビキと何かに罅が入る音がした。

「しゅ、主夫ぅ?」
「そ、家事その他をアナタがやる。その代わりアナタは私が責任もって地上に連れていくわ。これでどう?」
「い、いやそれ、結局はあんたの家に住まなきゃいけないから意味が……」
「大丈夫よ、ちょっとの間だけ……けどその間」

 そうして、パルスィは縁の耳元に顔を持って行き、甘い菓子のようにねっとりとした声で、囁いた。

「たっぷり可愛がってあげるから」

 縁の顔が更に赤くなり、青少年特有の妄想が一瞬にして脳内に沸き上がりイメージ映像となった。そしてついに、ひび割れの幻聴は、崩壊、いや爆発のそれへとなって、現実へと現れた。

「え~に~し~ちゃ~ん~~の~~~~~っ!!!」

 殺気、と思って縁がこいしの方を向いた瞬間には、時既に遅く、そこには意識と無意識の衝突と崩壊をしようとしていた時よりも、遥かに恐ろしいオーラを纏ったこいしが、その手に八枚のスペルカードを持って、その全てを発動させようとしていた。否、今にも発動するのを強引に抑えている、という暴発を超えた恐ろしい状況であった。その状況にも関わらず、パルスィはほくそ笑み、縁は逆に顔を赤から青へと変えていく。

「ちょ、ちょっと待て、何でお前がそんなに怒ってる……て、ごめんさすがにその量はマズいってーの!!」
「ふふ、計画通りね」
「何か知らないけど計算付くかよこんちくしょー!!」
「ドスケベぇぇぇぇぇぇ!!!!」

 弾幕が放たれた。パッ、とスペクトルの輝き。それだけだ、それだけとしか言えない弾幕の密度。パルスィは直前に縁を離し離脱し、残された縁にそれを受け止める暇もなく、甘んじて受けるしかなかった。悲鳴は弾幕の光にかき消され、その光が収まる間もなく、縁は重力の網に再び引っ掛かり、そのまま目を回しながら落下をしたのだった。
 こいしにもうそれを追う気持ちはないのか、ふんっとそっぽを向いてしまい、パルスィは「ああ、妬ましいのが晴れたわ」と縁を虫を弄った後の猫のような目で見下ろしながら微笑んでいた。
 そのまま哀れ、縁は地面と赤い花を咲かせてキスをしようとするかもしれない矢先、地上から何かが縁向かって飛んでくるのが見えた。

「え~に~し~!」
「う、うつほ……た、助かったぁ」

 縁はそこで正気を取り戻し、安堵しようとした。しかし気付かなかった。こいしが何も知らない空が縁を助けようとして昇ってきたのを確認したのを、そして彼女に今ありのままに起きたことを伝えるべく、無意識を操る能力を存分に使って縁の横に来ていたのを。

「いったいどうしたの! 何だか二人で飛んでいった時はこいし様がいるから大丈夫ってお燐がいってくれたけど、けど心配で待ってたら突然地獄の深道の方で弾幕ごっこの光が見えて、えっとそれで一際おっきな光の後に縁が落ちてくるのが見えて……」
「お、落ち付いてくれ! とりあえず先に俺を……」
「止めなくていいよおくう。縁ちゃんがすっごく綺麗な妖怪にでれでれ~になって、そのせいで弾幕ごっこに負けちゃったんだから! これはその罰ゲームなの!」
「あ、こ、こらこいし! 何ねつ造を……」
「……ふ~~~ん」

 真っ逆さまに落下する縁は、同じく落ちながら話している空が、突然低い声を出したことに悪寒がした。今までで最大の恐怖、それが今、空から放出されている。重力とは逆さまなのになぜか湧きだす汗が頭から頬に流れていく。
 ギギギ、とブリキ人形のように空の方を見ると、そこには何かの黒い熱を後光のように背中に背負った空が、冷たい視線を縁に向けていた。朝に向けられたものとはケタ違いの密度。しかもこいしからも空よりも小さいが似たようなものが発せられているので、負の圧力のサンドイッチ状態である縁の精神的なストレスとダメージは計り知れなかった。

「う、うつほ……さん? は、話を聞いてくだ……」
「こいし様、その妖怪ってどんな感じでした」
「金髪で、スタイルがよくて、すっごく大人な感じ!」
「へーほーふーーん……」

 落ちているせいで縁には強風が吹き当り、寒いはずだった。しかし今、それよりも寒い、絶対零度の如き視線がぶつけられ、その強風を味わう余裕は、縁には存在しなかった。
 不意に、空は笑った。縁もそれに釣られて、ひきつった笑みを作ってしまった。

「ねぇ、縁ぃ。もうちょっと飛ぶって経験すれば、後でイメージしやすいよねぇ?」
「え、あ、それはどうだろうなぁ……ははは、どうしたんですか空さん、そんな右足に妖力を集中させて。さすがにまさかそれは……」
「それじゃ、ちょっと逝ってみようか~」

 振りかぶられる右足。その射線上から退避するこいし。縁の落下軌道上に待機する空。そして、もはやただの人間ボールと成り果てた縁。

「字が違うってさすがにそんなツッコミをする前に何か知らんがすまんかっ……」
「縁のぉぉぉ、バぁぁぁカぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」

 縁はこの瞬間誓った。絶対に自力で空を飛んであの嫉妬心ではなく悪戯心を操る妖怪を叩きのめしてやると。そして、二度と地底に自分の涙で出来た流れ星を生み出さないと。
 縁はそう固く固く誓って、最後にどうやって空とこいしの機嫌を直そうか考えながら、地底に住む幼い妖怪たちの願い星となった。

「……まるでファルスね」

 地上に一人残っていた燐が、地底に駆ける流れ星を見上げながら、誰に言うでもなくそう呟いたのは、また別の話である。




 あとがき

 最近理想郷にも東方SSが増えてきましたね。

穴<いい傾向です。

 前回が「中島かずき先生ごめんなさぁぁい!!」の回であったなら、今回は「西条真二先生&赤松健先生ごめんなさぁぁい!!!」の回でした。読者の方々もマジごめんなさい、やはり作者にはラブコメとかほのぼのの才能が皆無です。あと、話を作る能力も……orz<ウツダシノウ
 とりあえず今回は言い訳が多いです。まずお燐が妖力の制御が得意ってのは、地霊殿の中で唯一、自分のパワーアップ方法を言っていたこと、自分の力で猫への姿になれる事からの推測です。
 穴<いわゆる独自設定です。
 パルスィがお色気姉ちゃんなのもそんな感じです。どうにも作者の脳内ではパルスィはこんな感じだったので……
 そして今回の一番のあれな部分。餅焼き職人と化してしまったおくうですが……すんません、何度書き直してもおくうがこうなってしまい、もうヤケになりました、サーセンorz 

 しかもやらんといっていた戦闘……ああくそう、しばらく先が恋しいぜ……その前に(現実が)ここからが本当の地獄だ……(レポート的な意味で) 
 

 よくわからんけど追加してみたい設定:

 SOM割り:
 名水、SOMで酒を割る手法。SOM自体は古い湧水からしか汲み取れないので、実は稀少。SOM自体、酒との相性はかなりよく、特に『雷電削り』や『怒尾挫阿』『鬼畜王小龍』などは他の酒よりもマッチする。ただしその分アルコールの回りは速くなるという副作用のようなものがある。
 尚、SOMが何の略かは近くのコジマ汚染患者に聞いて欲しい。ドミナントとの約束だ!



[7713] 第十一話――穴<プランD、所謂駄文です
Name: へたれっぽいG◆eaa9c481 ID:f33d8d16
Date: 2011/02/14 14:13
「あーくっそ、まだ首が痛ぇ」

 もはや仕事ではないのに日課として体に染み付いてしまった掃除のための箒を一旦壁に置き、昨日の地上数十メートルからの隕石的な落下によって首を寝違えたように痛めてしまっている縁は、そのまま首に手を解そうとした。ごきり、と固まった筋肉が鈍く動こうとする音が鳴るが、しかし一向に痛みは取れない。
 無意識に霊力を使って体を防御、更に着地のさいに第三の腕で衝撃を和らげようとし、かつゴミ捨て場に突っ込んだまではよかったが、落ちた時の体勢のせいで、新たにできてしまった傷と打ち身、そして首のそれの痛みは引く気配がない。少なくとも今日一日はずっとこれに悩まされるだろう。
 加えて、縁を直接的にこうした人物は昨日から、会っても顔を合わせようとせず不機嫌にそっぽを向いてくる。いったい何が何だか、と縁も苛立ちを隠そうと言おうとした矢先には、同じく昨日離れてから縁の傍にいなかったこいしがいつも通りいつの間にか現れ、何も言わず縁のスネを蹴り、この前の一件から距離が近づいた空と一緒に何事かを話しながらいってしまったのである。スネを抱えて片足で跳ねながら、このことを、なぜか最近一人でいることの多くなった燐に聞いてみるが「あたいもわからないわよ」と縁と同じように、不貞腐れた顔で答えただけだった。

「わっけわかんねーつーの……あ、こら、そこの毛玉邪魔だ!」

 悪態を吐きながら掃除を再開しようと箒を取った時、ふわりと現れた人の頭ほどの球体に、縁はもはやうんざりとした顔で、しっしっ、と箒で払った。
 地霊殿の掃除を続けている縁には、最初は気づかなかったが、慣れてきてようやく判別がつくようになったその、ほっそりと白い線を引きながら浮かべ、淡い光を放つそれが、霊魂や人魂の類であることに気づき、確認をとっていた。
 最初は現代人らしく、もっとも身近なオカルトというべき人魂の存在に驚きはしたが、しかし幻想郷に来てからの異常事態・人外という存在との触れ合いによって耐性が付きはじめていた縁にとって、もはやそこまで驚くような対象ではなくなっていた。今ではその形状から毛玉とすら呼び、掃除の邪魔になれば強引にでも追い払うほどである。
 縁の前に現れた人魂も箒に追われるようにひゅるりと逃げ、他の動物や人魂が集まる場所へと逃げていった。それを見ながらも、縁は箒を動かす速度を緩めない。
 同時に勇儀に教わった、恒常的な力の制御の訓練として、両手両足首にギプスのように、わざと負の側に落とし込んだ霊力を、自前の霊力で造り出しくくりつけるのを忘れない。こうすることにより日常に霊力制御を持ち込むことで、制御そのものを無意識に行える段階まで持って行こうという趣旨だ。また霊力の整え方、そのベクトルも同時に繰ることで霊力の操作法、そして身体への影響を図る意図もある。
 こと、霊力操作の才能があるのか、それとも他の外因的な理由で霊力を操るのが上手いのか、どちらにしろ霊力を使うのが得意な縁にとって、この修業はうってつけであった。勿論、こうして意識的にやるので、辛いことは確かであったが。
 
「にしても、こうでもしないと本当に飛べねぇのかなぁ……いや、んなことよりも今は、いや、一緒に考えなきゃならんのは、あの女に勝つ方法だ」

 箒を持つ手に力を入れて、縁が思い返すのは、“地獄の深道”入口にて出会った、まるで童話の中のエルフという種族のように尖った細長い耳を持つ、妖しい色香を最後に振りまいてきた妖怪・パルスィである。
 使われたスペルカードは二種類、その二つが二つとも、こいしが暴走した時に見た十一や空が使っていたような真っ向勝負をかけてくるような弾幕ではなく、こいしが幾つか使っていた、しかしそれとも違う、変則的な戦法を主とするスペルであった。
 次はもう攻略できる、と根拠のない意気込みはするが、しかしまずはそこまで一人で辿り着き、かつ戦うという条件が揃っていなければならない。飛行は未だ練習という段階も見えない。そして戦い方も、今までの地に足をつけたものから、空を飛んだままのものへと変えなければいけない。この前のものはほとんど落下そのものを利用とした攻撃、しかもこいしに運んでもらったものなので参考にはならない。
 つまり、飛びながら、かつこいしや空が使うような、ただ純粋に遠距離から攻撃ができる弾幕を創らなければいけない。
 実を言うと縁はその考え自体は既に出来ていた。それ故に昨日、本当は勇儀か十一、もしくは燐に見せてその出来の確認をしてもらうつもりだったが、なんやかんやとあって結局うやむやになってしまったのである。

「せっかくだから一人でもっと試してみるかなぁ……」
「それなら、もっと調度品がない場所でお願いしますね。貴方の『考えた』弾幕だと、どうしても周りに迷惑がいきそうですから」

 背後からの静かな声、独特な言葉のイントネーション。それらは全て、縁に声をかけてきた少女の持つ能力を起因とするもの。箒を持ったまま、あれ、と呑気な顔を浮かべる縁の視線の先には、肌寒いのか、いつもの薄着に淡いピンクのカーディガンが羽織るさとりがいた。

「えーと……もしかしなくても、聞いてたか?」
「ええ、読みました。確かにいい考えだと思いますが、もう少し捻りが必要だと思いますよ」

 心の内側で思い浮かべていた弾幕を読まれた結果、予想外の方面からダメ出しを喰らって落ち込む縁。だがそんな彼の態度など気にしないといいたげに、それにしてもと、さとりは縁の持つ箒を見て、軽く溜息を吐いた。

「もう掃除はしなくてもいいといいましたが……」
「あー……なんつーか、その……」
「……別にいいですよ、そこまで深く考えなくても。けどどうせなら……」

 バツが悪そうに頭を掻く縁を見ながら、さとりは一度言葉を止めて、すう、と息を吸った。そして一拍を置いてから、なぜかぎこちない笑みを浮かべて、縁へと提案する。

「向こうにいくまで、お茶にしませんか?」



 第十一話『砂糖菓子の瞳は見透かせない』



 縁がさとりの部屋に入るのはこれで二度目である。しかし前回はこいしと一緒で、かつ話が終わったらすぐに出て行ってしまったので、こうして部屋の外に小さなテラスがあることなど知ることはえきなかった。中庭を見下ろす形となっているそこは、丁度中庭中央にあるピラミッド型のガラス、灼熱地獄への入口を見ることができ、その奥に揺らぐ炎が、蜃気楼のように風景を歪めているのが見てとれる。
 そこを椅子に座りながら見ていた縁は、ふと、いつもあそこに降りて行っている二人の顔が浮かび、果たして彼女たちの仕事とはどのようにするのかが気になった。
 
「というかあいつら、燃えたりしないのか? 暑そうだけど」
「下は熱いですよ、おそらく人間の貴方では長居はできないでしょう」

 声の方に振り向けば、紅茶のビンと二つのカップが乗ったお盆を両手で持ったさとりが部屋とテラスを繋ぐドアから出て、縁と同じく、灼熱地獄の入口を見下ろしていた。そのまま縁の座る椅子の前までやってくると、一度盆を置いて、そのまま縁の対面に置いた椅子へと腰掛けた。縁の座るそれもそうだが、パッと見では何の変哲もない木製の椅子、しかし細部に目を凝らせば様々な細工や文様が施してあるのがわかる。テーブルに関してもそれは言え、そのさりげない細工そのものが、まるでさとりの一つ一つを分け与えたようなパーツであるようだと感じた。それ故に、そこに平然と座り、お茶をカップに入れる姿が絵になるようである。

「おだてても出るのはチャイだけですよ?」
「素直にそう思っただけだってーの」

 もはや心を読まれるのもお手の物、と言いたげに視線をさとりに返すと、第三の目と一緒にはぁ、と軽く溜息をついたさとりは、コーサーに座らせたカップをそっと縁の前に置いた。外から入り込む風によって鼻孔へと侵入する香りは、それがただの紅茶ではないことを示している。色もまた、乳白色に近い。しかしただのミルクティーというわけでもない。チャイという名前らしいのだが、縁は残念ながら自分が生活をするぐらいの自炊はできるが、料理への知識は人に誇れる程はなかった。

「一応、紅茶の一種です。ただ作り方と葉の具合が違うだけですよ」

 心を読み、縁が抱いた疑問に対し簡潔に答えるさとりであるが、しかし縁は首をかしげて、カップの中のお茶を見下ろした。

「紅茶ってそんな変わるもんか?」
「工程一つで方程式が乱れる。フレッチャーが昔、そう言ってました」

 カモメの姿で背中を向け、憮然とその言葉を言う料理人の姿が容易に想像できて、何となく笑ってしまった。さとりもその姿を見たか、はたまた思い出したのか、くすりと笑ってカップに口をつけた。縁もそれに倣って、「じゃ、ありがたくもらうな」と一言断ってからカップを、まったく似合わぬ、縁の中の上品というもののモノマネをしながら持って口へと運んだ。
 最初に味覚を刺激したのは、温かなミルクティーに似た匂いと味。しかし次に感じたのは、シナモンのもの。なぜシナモンが、と頭を傾げるが独特の風味がチャイを落とす喉から鼻へと通り抜け、深く考える必要などないと囁いてくる。いや、思考をシンプルに纏めてくれている。シナモンは地底全てを回っていないからわからないが、恐らくはフレッチャーに、そして風味は最低限の材料を使ったことで最大限に引き立てられた結果だろうと結論づけた。

「なんつーか……不思議な感じだな。結構シナモンが強いかも」
「そうですね、ちょっと入れ過ぎてしまったかもしれません」
「けどおいしいからいいと思うな、これ以上入れたらさすがに……て、さとりが淹れたのか?」
「意外ですか? これでも家事は一通りできますよ?」
「いや、なんつーか……」
「『似合いすぎて困る』……とは、どういう意味ですか? それと、私は割烹着ではなくエプロンで調理をしますから、貴方のその想像とは違いますよ」

 さとりの常日頃からの雰囲気からか、どうしても割烹着をしている姿しか思えなかった縁のそれは、心を読んださとり本人に即座に否定され、逆に想像しにくい現実を教えられた。カップを持ったまま両腕を抱え、何とかその絵を頭の中に作り上げようとするが、しかし浮かんできたのはフリルのついたエプロンドレスの両端を摘んで、可憐に、そして優雅にお辞儀をする姿であった。さすがにこれはないな、と自分自身の想像を否定しようとする縁であったが、こびり付いたカビのように消えてくれない。それを必死に理性という洗剤で落とそうとするも、何故かそれはエスカレートし、「おかえりなさいませ、旦那様」なとという音声までつくようになってしまった。
 なぜこうなる、と嘆き頭を振った時だった。気づいた時には、さとりはジト目で縁を見ている。どこか見下ろし、蔑むような視線。縁は先ほどの想像など一瞬のうちに彼岸に置き去り、乾いた笑い声をあげてチャイを口に含んだ。

「……不埒ですね」
「ブッ!? い、いやこれはだな……」

 咄嗟に顔を横に背け、チャイを噴き出した。そしてまた気管支に残る液体を咳で外へと出しながらさとりに向かうと、第三の目もまた冷たく細められ、さとりが妙に大きく見えてしまっていた。

「しかも今度はメイドの格好ですか……そういうのが好きなんですね、そうですね」
「そこまで考えてないってーの! い、いやさすがに悪いと思ってるけど」
「ならこういいましょう……ムッツリスケベ」
「ちっがーーう!!!」

 正確にはただのスケベである。だが縁はある意味決まり文句として無意識に否定の声を上げ、さとりは初めて縁が来た日、その心中で考えていたことを思い出し、やはりこの年代の男性というのはスケベ心が強いのだと確信した。

「とりあえず落ち着いてください、そのためのお茶なんですから」
「静寂を乱したのはそっちだろーが!?」
「たしかにそうですね。けどそれとこれとは話が別です」
「無茶苦茶関係あるじゃねーか!? ああーもう!」

 もはや埒が明かないと言葉を切り、カップに残るチャイを一気に飲む干す。子どもそのものというその縁の行動に、まるで弟をからかう姉のように小悪魔染みた微笑を浮かべて同じくチャイを飲むさとり。こうやって口で言いくるめられ、かつペースを握られている縁はそっぽを向きながら何とか一泡吹かせられないかと思考を始め、その一方でさとりは、本来彼をこの小さなお茶会に呼んだ理由とはまったく関係ないことを話して笑っている自分に気づき、両手で持ったカップに視線を落とした。
 それによって、一時的にではあるが本来の静寂さを地霊殿は取り戻した。縁は知らないが、動物や妖怪たちがいるとはいえ、この地霊殿は静かであることが多かった。それは空や燐などの騒ぎなどを起こす陽気なものたちが、そのほとんどの時間は灼熱地獄での仕事に費やしてしまうため、そしてこいしはお供などを連れて外へと勝手に出かけてしまっていることが多々あったからだ。勿論、四人揃って行動することもあった。だが、縁が来てからの、あの忙しいほどの騒がしい出来事は、数えるほどしかなかった。
 カップの紅茶に映る自分の顔を見下ろして、さとりはその静寂であった時のことを思い出し、そうして、今の地霊殿のことを、いやたった一人の妹のことを思い浮かべ、顔を上げた。

「……こいしのこと、ありがとうございます」
「んあっ?」

 「さとりをギャフンと言わせてやろう計画」を頭の中で練っていた縁は、実はさとりに考えを読まれているから無意味なのではないかという今更な思考にたどり着こうとしたところで、突然その本人からかけられた声に素っ頓狂な、そして想定外の言葉を言われたことに対する思考の停止で、茫然とした声を出してしまった。
 縁のその呆けた態度を気にせず、さとりは、自分がずっと言いたくて胸に仕舞っていた言葉を、一つ一つ選びながら吐露していく。そして縁もまた、さとりの顔が真剣な、しかしどこか、先ほどまでの彼女よりもなぜか小さく見え、その言葉に無言で耳を傾けた。

「私はあの日以降、こいしを大切にしようとしてきたと思っています。人のいない地下に移り、あの子の無意識が望むままにさせ、そして知らなかったとはいえ、あの子のかつてのペットをお供にした。こいしのため、それが姉としての私の義務だと、そう思っていました……けれど」

 さとりは、疲れたような笑みを浮かべた。それは彼女が自らの第三の目に隠していた、彼女自身の過去であったかもしれない。しかし縁にはそこまでわからない。ただ、その笑みにはどこか、暗く重い、現在にのしかかる過去が見え隠れしていると感じただけだった。

「結局それが、あの子を封じ込めていた……貴方がこいしの心を開いた時、心からそう思いました。私は、あの子が本当に望んでいることを……本当は怖くて泣きたかったあの子に、気づいてあげることができなかったんです。自分の胸を貸してあげることも、できませんでした」

 さとりはまた、カップに映る自分の顔を見下ろした。そこにはあの日、自分の足に顔を埋めているこいしを、ただ見ているだけの自分しかおらず、その水面に映る少女がいらないことまで口走るその心を覗くことはできなかった。

「もしかしたら、私はあの子が怖かった………いや、羨ましかったんです。心が読めるのに、それでも他者を信じられるあの子のことが」

 それはさとりにとって、嘘偽りのない本音だった。昔の自分と今の自分、その両方が、妹に対して羨望を抱いていたのだと肯定する。だからこそ、こいしがその心を壊して、心を閉ざしてしまったことに対して失望と、いつしか自分もそうなるのではないかという恐怖とがない交ぜになった感情がさとりの中に形成され、小さな仕草や態度、接し方の中に現れてしまっていたのだ。

「だから……その心を信じてあの子の壁を壊してくれた貴方に、感謝します」

 そうしてさとりは、頭を下げた。それに対して、ようやくさとりの先の言葉の意味が、そして真正面から向けられる好意からの感謝の言葉に対して、バツが悪く、かつ照れくさそうに頭を掻いて、視線を逸らした縁は、果てどう答えればいいのかわからず、頭の中で迷走する思考の糸を必死に纏め上げようとした。ただの青少年であった縁にとって、こうやって感謝の言葉を向けられるのは、あまり慣れていないこともあるが、未だ気恥かしいことだった。

「あー………あのさ、別にそこまで言われることじゃないと思うんだが……それに俺は、自分がそうしたいって思ったから、手を伸ばしただけだしさ」
「……怖くは、なかったのですか?」
「はっ?」

 心を読んでいたはずのさとりは、なぜかそう問いかけていた。カップを持った手に、自然と力がかかった。さとりは今、自分自身を許すことができない、その冷静さの中に封じていた怒りの感情が煮え立っているのを感じていた。縁のそのふざけた、ハッキリとしない言葉が、彼女の中にあった、恐怖の一つの像を刺激していたからだ。
 恐怖という感情はさとりの中に確かにあった、だがそれは複数の歪像をもっている。一つはこいしと同じようになってしまうかもしれないという不安なる可能性の自分。そしてもう一つは、そのこいしに、自分をも殺されてしまうのではないか、というずっと心の奥にしまっていた、願望にも等しい痛みの感情。
 さとりは縁がまた、ポカンと口を開け、思考に空白を空けたことを読んだ。そしてあの戦いのとき、そのような感情など、どこかへ置き去りにしていたことをも読んでいた。それでも問いかけたのは、自身すら気づかぬ、嫉妬にも等しいそれであった。

「怖かったって……そりゃあ……」
「嘘ですね。貴方はあの時、あの子を人間の子どもと同じように見ていたはずです」
「……そうかも、しれねぇ」

 心を読めるさとりの言葉に、縁は、最後に泣きだしたこいしの姿と、それに重なった幻像のことを思い出し、一度溜息を吐いた。そしてお茶を飲もうとして、既に中身が空であることに気づかず、そのまま口に運びあれっ、と間抜けな顔をして、カップの中を覗きこんだ。さとりがスッとビンを持ち、縁が置いたカップに湯気の立つチャイを注いだ。そうして次に、自分の分にも注ぐ。コポコポ、とカップに反響する音が、血が昇っていたさとりの頭を、その熱とは真逆に冷やしていく。
 縁もまた、その音に心を落ち着かされ、あの時の自分の心を思い出していく。何もできないとき感じたのは不安であり無力感であった。見知った少女の豹変、周囲からの圧迫、そして自分自身の立場。いくら前向きであろうと、ただの学生でしかなかった縁には、ましてや外来人・異邦人という立場であるのだから、その不安という感情は、そして巻き起こる破壊に対しての無力感は、彼に恐怖を喚起させても可笑しくなかったはずだ。それでもそうはなかったのは、やはりこいしの姿が、何かに見えたからだ。
 不意に縁は、チャイに映る自分の顔を見下ろし、気づいた。

「そっか……俺、こいしを昔の俺と重ねてたのか」
「……それは貴方の小さなころの記憶の、あの二人のことですか?」
「……読んだのか、今。俺の、その……昔のこと」
「はい」

 縁の心の内側に浮かぶのは、二人の人間。その内の一人に抱きしめられる、泣き顔で、ドロだらけの縁の姿。どうして泣いていたのか、縁はよく覚えていない。それでも、その顔は今、あの瞬間のこいしのそれに似ていて、重なっていた。右手を持ち上げ、その手の平を見下ろす。あの二人に伸ばした無機質の右手は未だここにあり、その心もまた、内側に眠っている。
 さとりに心を、あの記憶を読まれたことは、縁にとって不意うちにも等しく、怒るべきだという理性が存在したが、だがそれよりも縁は、自分自身がこいしを助けようとした理由が、そこから出ていたことに気づけたことに、何となく笑いだしたくなっていた。
 さとりはその心の移り様に怪訝な色を浮かべ、そうして、改めて彼の口からその言葉を聞こうとした。

「もう一度、聞いていいですか。どうして……怖くなかったんですか? やはり、昔の自分と重なっていたから、ですか?」
「……いや、たぶんそれじゃない。自分と重なってるからって、それが怖いって感情と繋がらないとはかぎんないだろ」

 縁はようやく、自分の心を言葉に変換できる術を手に入れた。カップを置いて、先ほどのさとりの礼に恥じない、自分にしてはほとほと珍しい真剣味を出して、ゆっくりと声に出していく。

「きっとさ、俺は自分が、あの時のあの人と同じ気持ちだったんだ。ぶつけようのない気持ちを周囲にぶつけるガキを見ている自分自身……それに対してどうすればいいか、考えながら向き合う。わざと上からの目線で、あいつの気持ちを全部受け止めてやるってことを伝えてやるために」
「……敵わない相手にそうしたって、結局犬死にしかならなかったらどうしたんですか」
「そうだよな。けどさ、それも違うんだ。無駄死にとか犬死にとか、そんなの関係ない。ただ、気持ちのぶつけところを、流しどころを見つけられない小さな子どもと付き合ってやるのが、同じ道を通ったやつのすること……あの人たちならきっと、そう言うだろうと思っちまったんだ……今は、そう思ってる」
「そう、ですか……」

 さとりはそうしてまたカップに口をつけた。縁も、整理がつきそうでつかない心を落ち着かせるために、チャイを飲む。喋っていた時間が長かったのか、それは少し冷めていた。
 また、沈黙が落ちた。今度は長い沈黙だった。縁には、さとりのように心を読む術がない。だからこそ、彼女がどう今の自分の言葉を受け取ったか、わからなかった。だから待つしかなかった。

「………きっと」

 唐突に、中庭を見下ろしながら、さとりは呟いた。

「きっと、そんな貴方だからこそ、あの子の壁を壊せたんでしょうね。怖いとか、羨ましいといった心で、一方的にあの子のことを考えていた私では、ずっとあのままだった…………それでもいいと思っていた私は、いたんですね」

 さとりの口調は、先ほどよりも透き通る声だった。それ故に今のさとりは、手を伸ばせば霧のように消えてしまいそうな危うさ、儚さがあった。だから縁は、気がつけば言葉を吐きだしていた。

「違う、と思う」
「えっ?」
「俺がやったのは、きっと荒治療だ。相手の弱みにつけ込んで無理やり暴くのと、たぶん、同じだよ。だけどさ、さとりはゆっくりとこいしがあのことに整理をつけて、向き合えるまで待とうとしたんじゃなかったのか?」
「……そこまで考えてませんよ、ただ、あの子があの時のことを思い出さないようになるまで、待っていただけです」
「ならさ、どうして俺とかカドルたちみたいな、話し相手を割り振ったんだ。少しづつ、その壁を取り除こうとしたからなんじゃないか?」
「……わかりません」

 縁自身、よくわかっていっているものではない。偉そうに言える立場でもない。だがそれでも、こうして目の前で、自分自身の中に勝手に埋没しようとしている少女に声をかけないほど、冷血漢というわけでもない。だから、ガムシャラに言葉を作って、声にする。

「なら聞いてみりゃいいじゃないか」
「えっ?」
「こいし本人にだよ。しばらく一緒に飯食ってなかったんだろ。その時にでもいいから、自分は優しくできたかとか、あの時どうすればよかったか……ああもう、とりあえず真正面から飯でも作ってやって姉らしいとこ見せてやればいいじゃないか!! そんだけ!」

 言いたいことはそれだけだと言いたげに、縁はまたカップのお茶をぐいと飲み干し、そっぽを向いた。自分の言っていることがいい加減である自覚があったからだ。そんな縁へと顔を向けていたさとりは、ぱちくりと目を瞬かせると、第三の目がぎょろりとさとりの顔を見上げた。さとりは殆ど無意識に、その眼を撫でていた。そして何かを思い出そうとするように、ゆっくりと目を閉じ、言葉を紡ぐ。
 
「そうですね……そういえば、あの子に最後にご飯を作ってあげたのは、大分昔でした……」

 さとりは眼を開き、縁を見つめた。そうして、ゆっくりと微笑んだ。

「手伝ってくれますか?」
「え、あ、ああ………」
「それじゃあ、期待してますからね」

 笑み。恐らく縁は初めてみただろう、さとりの何の色もない、純粋な笑み。それはここには存在しない月の美しささえ称えており、縁は我知らずその微笑みに見惚れていた。
 その直後、中庭に設置されたピラミッドが、まるで華が太陽の日を浴びて花弁を開く様に四つの板を四方に開け始めた。その直後に熱気がむわりと地霊殿中に広がり、次いでそこから三つの人影が飛び出してくる。午前中の仕事を片付けた空と燐、それに何故かこいしである。こいしはともかく、仕事のある二人が灼熱地獄から出てきたということはつまり、縁は既に西区に向かってなければいけないという時間であることを告げていた。

「やっべ、急がなきゃダメじゃん!」

 先ほどまでの初心な少年らしいフリーズ状態から一瞬にして現実へと舞い戻った縁は椅子を蹴飛ばすように立ち上がり、さとりの部屋へと繋がる戸口へと向かおうとした。だがここで、状況の分析ができたさとりが釣られるように立ち上がり、かつこいしが縁とさとりに気づき声をかけた。その瞬間に、奇跡のような連鎖が発生した。

「中邦さん。ここから出るのではなくおくうたちに運んでもらった方が」

 まずさとりが一つの提案をしながら立ち上がり。

「あ、そうか! そっちの方が早いか!?」

 縁が急ブレーキをかけようと両足に力を踏ん張り。

「あー、縁ちゃんだ!」

 こいしがそれに声をかけ、一瞬縁がそちらを向き。

「うわったっ!」

 気の緩みが両足に筋肉と慣性への屈伏を許してしまい。

「えっ?」

 そのまま足がもつれ、驚くさとりの方へと倒れ始め。

「こなくそっ!」

 背後にある落下防止の柵にさとりがこのままぶつからない咄嗟の判断で縁が手を伸ばし。

「どわっ!」
「きゃっ!?」

 そのまま抱きよせ、縁は重力に促されるまま、さとりとテーブルのセットを巻き込んで倒れ込んだ。

「ちょ、何今の音っ!? って、さとり様!?」
「縁!?」

 どんがらがっしゃんと紅茶のセットが割れる音を響かせるテラスへと空と燐が目を向け、こいしが一目散にそこへと飛んだとき、咄嗟に目を閉じていた縁とさとりは、ゆっくりと、同時に目を開いた。

「っ……大丈夫か、さと……り……」
「え、あ、は……い……」

 互いの顔が超至近距離にあることに気づいた。縁が上に被さるように、さとりを抱きしめていた。椅子などは縁の背中に乗っかっており、互いの顔しか視界に映らないほどに接近した位置、そして態勢はしかし、縁にそれを認識させないほどの衝撃を与えていた。先ほどのさとりの微笑みが即座に縁の脳裏にフラッシュバックし、その顔が目の前にあると思い、急に顔が紅潮する。さとりもまた、己自身、何故か理由もなく、顔が赤くなる。断じて縁の心の中に即座に浮かんだ、キレイだな、柔らかいな、可愛いな、などという言葉に触発されたわけではない。断じてない。
 そのまま互いに、なぜかわからないが、何もできず見つめあっていると、不意にさとりの顔に影が落ちた。

「……ふ~ん、そっかぁ、今度はお姉ちゃんにも手を出すんだぁ」
「「っ!?」」

 そして掛けられた、冷気そのものとすら言える声に二人は即座に反応し、跳ねるように離れた。その拍子に、縁の背中が何者かにぶつかった。最初、それは倒れた拍子に転んだ椅子かテーブルかと考えた。しかしそれにしては細く、また僅かながら、温かさ、生気と呼べるものも感じる。そして、絶望そのものとも言うべき、恐るべき気配もである。少なくとも、縁にとっては。
 恐る恐る背後を振り返る。そこには、なぜか両腕を組んで仁王立ちをしているこいしが、両隣りに空と燐に戦闘態勢を取らせて立っていた。特に空から放たれる眼力は恐ろしく、可視化する妖力がレーザーのように輝いている。縁はこの瞬間、デジャブを感じた。冷や汗と一緒に思い出すのは、昨日の流星体験である。

「え、えーとなお前ら……何をどう勘違いしてるかわからんけど、これは事故で……」
「言い訳は罪悪って言わないかしら、この変態」

 燐からの目線も厳しい。その手には既にスペルカードがあり、発動寸前であった。縁は乾いた笑い声をあげながら、何とか弁解してもらないかとちらりとさとりに視線を送った。その視線に、縁の「弁解を頼む」という意思を読んださとりは、にこりと笑うと、よく通る声で告げた。

「やっぱりエッチなんですね、中邦さんは」
「ちっがぁぁぁぁぁう!!!」
「ふ~~ん、へー、さとり様にもそこまで言われるほどなんだぁ……いやらしい……」

 さとりの言葉を真に受けた空が、静かに言葉を告げた。縁を取り囲む三人は、同時にスペルカードを宙空へと放り投げた。その瞬間、縁は今日のという一日が終了するのを悟った。

「とりあえず……少し、お話しようか」

 やられる。その直感は、こいしの宣言と同時に、縁の本能は即座に全身のコントロールを奪わせ、力を取り戻し、逃走を開始させた。その瞬間、背後で三人がスペルカード宣言をするとともに、大量の弾幕が解き放たれるのを感じ取った。

「「「逃げるなぁぁーー!!」」」
「こちとらまだ死にたくねーんだよぉぉ!!!!」

 先程の予感は、こうやって一日中三人に追い回されることに所以していたのだった。無論、縁にそんなことを考える暇などなく、ただ今は、後ろから弾幕を繰り広げて迫ってくる妖怪たちから地霊殿中を逃げ回ることだけだった。




 四人が大騒ぎをしながらテラスから去るのを見て、屋上へと飛んで上ったさとりは、ふぅと息を吐いた。理解不能な胸の高鳴りは既に収まっている。胸と第三の目に手を当てながら、眼下で繰り広げられる、屋敷中に大災害を広げる逃走劇を見下ろす。その先頭に立つ、この地底に一人だけの人間に、自然と目が行ってしまう。その心を読むが、今の彼はあの三人からどうやって逃げるかだけを考えていた。

「……料理を作ってあげればいい、か」

 その人間が言っていたことを思い出し、自分の腕前を記憶から掘り返す。悪くはない、とあのぶっきらぼうなカモメは言っていた。それに、フレッチャーが来るまでは、料理はさとりがやっていたのだ、食べられないものができるはずがない。だがそれでも、やはり振る舞う側であるのだから、美味しいものを食べてほしかった。

「しばらく、特訓しましょうか」

 そういって、さとりは静かに微笑んだ。目指すは次の夕食会。その時に、とっておきの料理をペットたちに、心の距離が離れていた妹に出して驚かせてあげよう。そして。

「驚かせてあげますよ、中邦さん……?」

 異邦人だった少年がその味に驚く姿を想像し、さとりは微笑みを零した。
 眼下の屋敷では、件の人間が三匹の妖怪に捕まって、死刑という名の私刑を受けていた。


 2010/11/28
 編集ミスであとがきが消えました、じょ、冗談じゃ……



[7713] 第十二話――婆<初体験といこうじゃないか
Name: へたれっぽいG◆eaa9c481 ID:f33d8d16
Date: 2011/02/14 14:13
 火焔猫燐は自室の布団の中で日々憤っていた。その相手とはもちろん、あの居候の人間である。突然現れて、偶々事件が起きて、偶々それを解決して、それで信頼を勝ち取ってこの地霊殿に、いや地底に居場所を作ってしまったあの人間。燐は正直にいって、あの人間が気に入らなかった。いや、人間という種そのものはただのエサの一つでしかなかった。
 燐は今まで、人間から生じた悪霊・怨霊を食べて妖力を高めてきた。それ故に、その怨霊などからたまに人間の断片を知ることができる。善いといわれる人間、悪いといわれる人間。そういうものがいると聞くが、しかし結局霊になれば変わりはない。そうでしかない、それだけの存在。それが人間だ。
 それをわかっているはずの空がまず最初に彼を信じようとした。次に、地底の妖怪たちが。それから、あの事件を通してこいしが。つい先日には、そのこいしの件を通して、さとりが。誰も彼もがあの人間を認めようとしていた。
 そして自分もまた、それを認めかけてしまったのだ、こいしへとただ真直ぐに進んでいく姿を見ていて。そのことに腹が立った。だから自分をも許せない。だからこそ自分への腹立たしさを経由し、縁への嫌悪となる。
 ならばそれをどう解消しようか。無論、縁を殺すようなことはしない。そんなことをすれば親友に怒られ、もしかしたら主二人に、自分が消されてしまうかもしれない。だから燐がしたいのは、思い知らせてやることだ。
 人間と妖怪の違い。人間のどうしようのなさというものを。
 だからこそ人間に力の術を教える一人となった。圧倒的地力の差、それを教育という過程で叩き込み、思い知らせてやろうしたのだ。だがそれも、あの人間の類稀なるセンス、闘争本能という精霊に愛されているとでも言いたげな霊力操作と戦い方の習得。今はまだ飛行もできないが、遠距離用の弾幕は完成を見ているのだろうし、空を飛ぶ日も近いだろう。だからこそ、もう別の方法が必要だ。
 そのための方法を考えていると、不意に、あの深道のことを思い出した。あそこにいた橋姫なら、今の自分の気持ちをわかってくれるかもしれない。そうまで考えて、あの深道にある、あの横穴のこと、その横穴からいけるあの場所のことを連想的に思い出して、自分の頭に電球がつく錯覚を燐は覚えた。
 
「よしっ、これだ!」

 そうとだけ叫んで、燐は早速その作戦を練るために布団を頭から被って、思考の海に水没した。幸なことに、明日は西区の作業もない。絶好のチャンスだった。後は、他の皆を誘えるか、それだけでいい。

「心しておきなさいよ、人間。誰も彼もが、アンタを受け入れてるわけじゃないってね」

 狸の皮算用をしながら、燐は愉快に布団の中で笑っていた。



第十二話『火焔猫燐の憂鬱』



 その日、地霊殿は熱かった。

「あっち~」
「あついよ~」
「だったら抱きつくなっての」

 汗が出ててもひっついてくるこいしを振り払いながら、縁は開け放たれた灼熱地獄への道、そこから目に見えるほどわかる溢れだす熱気と、あまりにも熱すぎる灼熱地獄から逃れるため毛玉や妖怪が次々と穴から飛び出してくるのを見上げた。
 どうにも昨日、灼熱地獄の火力調整をミスしてから、その余剰分の炎を逃がすため開けっ放しになり、結果、地霊殿中に熱気が溢れ返る羽目になっているらしい。縁はそう聞いており、納得もした。
 果たして今日はどう過ごすか。幸か不幸か、西区の作業は今日は休み。事前に伝えられていた定休日のようなものだ。地霊殿に残って修行をするか、または外に出て修行をするか、どちらかにわかれてしまう。さすがに地霊殿にはこの暑さで居られないから、外にいくしかないだろう。
 十一にでも会いにいくかな、と考えながら、廊下の隅で倒れ込むいつもの変態三匹を、着替えた薄着を汗で肌にはりつかせるこいしがつんつんと小突いていた。だが、反応はない。もはや屍のようなものだった。

「えにしちゃ~ん、た~す~け~て~」
「だからひっつこうとすんなって!」

 つっつきから一転、再び縁の背へと乗りかかろうとするこいしをひらりと避け、バッグに入っていた扇子を扇ぐ。これまた友人の入れ間違いであり、紙製の部分には『有澤重工』などという活字体がデカデカと書かれていた。だが気分的には、扇げば扇ぐほど身体に熱がかかるような気分であった。空気そのものが熱すぎるのだ。
 無意識を使って肩に手を掛けふわふわと浮かび牽引されるように縁の傍にいることにしたこいしを伴って、昼食を作ってさっさと出かけることにした。食堂への道には熱さにやられた妖怪たちがへばりこんでおり、中には人魂までもが廊下に転がっていた。妖怪だろうと人間だろうと暑いものは暑いか、と心中で感じつつ、扇子の風を肩越しにこいしに送りながら半腐乱死体と化しているペットたちを避けて歩く。
 そして食堂へと到達。そこまでに流した汗は夏場そのもの。元々学生服とは言え、ここに来たのが夏の終わった直後であるが故に未だ学校指定のTシャツにネクタイだけというスタイルだった縁は、秋口とは言え少々厚手だった服のこいしなどとは比べて過ごしやすいが、しかしそれでもこの暑さは耐えがたいものであった。
 水の補給も必要だと人間の縁は思いながら戸をあけると、そこにはさとりと空という珍しい組み合わせの二人が椅子に座っており、透明な更にきらきらと光る白い粉のようなものに黄色のシミ/淡い赤のシミを作ったものをスプーンで食べていた。この状況で食べるもの、すぐに縁はそれが何か察することができた。

「おいそれカキ氷か! 俺にも食わせてくれ!」
「えっ! それほんとお姉ちゃん!?」
「………食い意地の魔人ですか、貴方たちは」
「う~~にゅ~~~」

 がっつくように歩いてきた二人に苦笑の色を帯びた溜息を吐きながら、二人の分のカキ氷を持ってくるため椅子から立ち上がるさとりと、二人が来たことに気づいていないと言いたげにカキ氷を口に入れ、顔を綻ばす空。人間と無意識がその顔に、そこにかけられた赤の色合いと氷の冷気にはぁはぁと目を光らせながら涎を垂らすのにようやく気付いた空は、先日の追いかけっこのことなどを忘れて条件反射的にカキ氷を自分の腕で隠した。
 しかし食欲の魔人二人の視線は依然変わらない。むしろ今は、食い手のいないさとりのものにロックオンをしている。こいしなど、対抗手である縁がいなければ、即座に奪っていたことだろう。
 
「二人とも、はしたないですよ」
「さ、さとり様~~」

 厨房から出てきたさとりに、二人の視線をもろに浴びていた空が悲鳴をあげる。縁とこいしがすぐさまそちらに振り向くと、さとりの持つお盆に乗った氷の芸術的な食べ物が二人の眼を焼いた。「うおっ、まぶし」などと縁は二、三度眼を瞬かせてから、その芸術作品、メロンのシロップとブルーハワイ特有の青いシロップをかけられた二つのカキ氷を肉眼で捉えた。
 そして次の瞬間にはこいしが歩いてくるさとりのお盆からブルーハワイのカキ氷を奪い、スプーンも使わずにそのまま食べ始めていた。そして唐突に片手で頭を押さえ始めた。冷たいものを急激に食べた直後に起きるあの現象である。

「あ、あたまいたい……」
「そりゃお前、んなかぶりつくだろ」

 こいしの様をからかうように笑いながら、縁は「さんきゅ」と一言断りをいれてからカキ氷をとり、スプーンでまずは一口味見の意味も込めて、放り込む。縁の顔が、ゆるんだ。

「このわざとらしいメロン味っ!」
「誰ですかゴローちゃんって……」
「あ、いや、何かこういうのを食べたらいわなくちゃいけない気がして……」

 縁の心象に現れたある人物のことをジト目でさとりから問われながらも、縁はその意味を心の中で伝えるように浮かべながら、カキ氷の氷山を崩していく。舌の上に冷気そのものといった砂粒同然の氷がしゃりりと溶け、味覚を冷やされたメロンのシロップが甘味として刺激される。氷自体も良いものを使っているのか、その浸透率は縁が今まで食べたカキ氷より数倍深く、単純な味であるシロップのそれに果樹園の如き深みを帯びさせている。それ故ついつい手が動き、早いペースでカキ氷が縁の口に消えていく。
 その結果起きるのは。

「ぐぉおおお、頭がぁぁぁ……」
「……縁も⑨だよねぇ」
「⑨ばかりです」
「う、うっせぇ……特にそこのおく……ぬぉぉぉぉ……」
「えにしちゃ~~ん、さわがな……はうぅぅううう……」

 関連痛に頭を痛ませるアホがもう一人誕生することだった。それに苦笑いを浮かべる先客二人であったが、その内の一人は先ほどまで自分が同じ目に合っていたのを棚に上げて笑っていた。鳥とは目の前の行動に気を取られることでもまた、忘れやすい性質をも持つのだ。

「っ~~~……ん、そういや空、燐はどうしたんだ? それにお前、今は下に行ってなくて大丈夫なのかよ」

 痛みがようやく引いてきたところで、縁はようやく空がここにいることに疑問を抱いた。灼熱地獄の調整を任されていると目の前の本人がいっていたはずなのに、今現在異常が起きているはずの現場にいなくて大丈夫なのか。また、同じように灼熱地獄勤務で、大概一緒に行動している燐はどうしているのか。当然の疑問を緑色に変色した舌を回して訊ねると、より赤みがかった舌にスプーンを置きながら、空は少し思い出す素振りを見せて応えた。

「う~~んと、まず私のことなんだけど、今は火が強くなり過ぎてて手がつけられないの。だから、天窓だけ開いて火が弱まるまで待ってるんだよ」
「へ~~、んじゃしばらくあのままってことか……火が弱まるのってどんぐらいかかるんだ?」
「うにゅ……たぶん、今日一日はずっと……かな」
「え~~~そうなの!? えにしちゃ~~ん、やっぱり助けてぇ。あとカキ氷頂戴」
「だーかーら! 一々ひっつこうとすんなっての! そしてやらん!!」

 早々にカキ氷を食べ終えて抱きつき、その一瞬の怯みのうちに容器に乗った氷の山にかぶりつこうするこいしを、右手に容器を持って掲げて避ける縁。突然始まったカキ氷と言う至宝の奪い合いに説明を続けようとしていた空は「え~とぉ」と手持無沙汰に言葉を口の中だけで転がしていた。そんな空を見かねてか、予め読んで聞いていた言葉を代弁するために、さとりが口を開く。

「中邦さん、どうやらお燐は別件でここにいないだけで、灼熱地獄には行っていないそうです」
「んあ、そうなのか?」
「うん、何か、え~と……みんなとここで待ってて、だったっけ?」
「あいっかわらずお前は物覚え悪いなぁ……」

 スプーンを加えたまま小首を傾げる空に、縁たちは呆れの溜息は吐いた。むっと、その反応に顔をしかめ、縁へと詰め寄ろうとする空を横目に、さとりがふと何者かの接近に気づき、扉の方へと向いた。そしてそのものが誰かを特定するよりも早く、扉が開かれ、赤と黒の二色に包まれた影が食堂へと飛び込んできた。

「諸君、泳ぎにいくわよ!!!」

 そして、突然の宣言をした。

「はっ?」
「うにゅ?」
「ふえ?」
「はい?」 

 乱入者の唐突すぎる発言に眼を丸くする四人。それにかまわず、猫耳を得意げに揺らし、運んできた荷車に載せたずた袋から色とりどりの水着を出すお燐。

「……いや、ちょっと待てお前。何か突然すぎてよくわかんねぇけど……泳ぎにいく?」
「そうよ、暑いんだしちょうどいいでしょ? ちょっと遠いけどね」
「……あの地底湖まで、ですか? 確かにあそこなら涼しいでしょうけど」

 即座に我に返った縁とさとりが、一人は単純な質問の言葉、もう一人は心を読むことで、その真偽と詳細を確認する。しかし縁だけは、さとりが燐の心を読んで取り出したのだろう言葉にイメージが当てはまらず、頭に疑問符を浮かべた。

「地底湖? そんなとこあるのか?」
「ほら、縁ちゃん、この前上った『地獄の深道』に看板があったでしょ? あそこの奥からいける場所だよ」

 さとりの代わりに縁の肩越しから顔を出したこいしが、以前の記憶を誘発させる。あの出入口にいった時、つまりはパルスィと戦う直前だ。確かにその時の記憶にある映像を思い出してみれば、地底湖と書いてあった看板があったことを、ああ、と得心のいった顔で思い浮かべることができた。

「んじゃ、あの横穴から通じてるのか。結構遠いけど、大丈夫なのか?」
「まーね。途中迷宮、ていうか変な迷路みたいになってるけど、そんなに深くはないから大丈夫よ」
「うにゅ、そうだったっけ? 全然出れなくて、結局お燐が右手戦法を使ってた気が……」
「な・ん・で、アンタはそんないらんことばっかは覚えているのよー!!」
「うにゅぅぅ!! だからほっぺはやめて~!」

 相も変わらずの攻守でじゃれあいを始めた二匹に、こいつら暑くねーのか、などと内心思いながら、結局こいしを背中に抱きつかせたままの縁はその場所の詳細を尋ねるべく、家主の方へと顔を向けた。

「で、さ。結局その地底湖と迷宮ってどんなとこなんだ?」
「私は行ったことがないので……こいし、貴女はいったことあるんでしょう?」
「う~ん、ないよ。けど、飛べなくなるってことだけはカドルたちから聞いたことあるなぁ」
「飛べなくなる? 何だそりゃ?」
「むぅ、わたしに聞かれてもわかんないよ。あ、けど地底湖ってすっごいキレイだって聞いたことあるよ! 縁ちゃん早くいこうよ!!」
「最後の辺りから話が行くこと前提になってんぞ……つか何か怪しい場所みたいじゃねーか」
「そうでもないわよ。何でも、あの迷宮には珍味になる虫がいるからって潜るやつも結構いるみたいだし、地底湖も夏場にはいく奴もいるしね」
「ふ~~ん……」

 昔、入口だけを見たことがある鍾乳洞を思い出し、縁はそれに近いものか、と心の中で半ば納得した。珍味というのも、洞窟には固有に適応した生き物がよくいるというのだからそれだろうと当たりをつけ、また妖怪たちもよく行き交いしていると言っているのだから、そんなに危険ではないだろう、と高を括った。つまりは、行かない理由はないということである。

「で、行くの? 行かないの? どうするの?」
「いや、何でお前俺だけに聞いてくんだよ」
「アンタが行くっていったらこいし様は絶対ついてくるからよ」
「そういうもんか? なぁこいし?」
「ついていくよ、だって縁ちゃん抱き心地いいんだもんっ」
「お前が抱きついてくる理由はそれかよっ!?」

 俺は抱き枕かよ、と躍起になってこいしを振りほどこうとする縁に対し、それを子供のような遊びと思って笑いながら剥がされないようにする無意識の権化。まるで子供だとその場にいた三人は思いながらも、しかし各々その内に秘める感情は別々のベクトルを差していた。特に燐は顔に出るほどにその感情が強く、声に無意識のうちに怒気を孕ませていた。

「とにかくっ! これで四人でいくのね! さとり様はどうします?」
「……そうですね、私も行きましょう」
「え、さとり様もですか? というよりお燐、私強制参加!?」
「暑いししばらくやることないんだからいいでしょ! それじゃ人間、外出てて!!」
「はっ? 何でだよ?」

 ズタ袋をテーブルに置き、ビシッと扉向かって指を指す燐に素直な疑問をぶつける。その間にふよふよと浮かんでズタ袋の中身を、同じく顔を寄せた空と一緒に覗きこんだこいし。そしてそれを何かと認識した瞬間、心を読んださとりと共に三人の目が厳しいものへと変わり、人差し指を扉へと向ける。

「縁、ちょっと出てって」
「縁ちゃん、ちょーっとだけ出てって」
「中邦さん、先に玄関前で待っててください」
「だから一体なんだって……」
「はいっ、アンタの分。大人しく待ってなさいよ」

 おもむろにズタ袋に手を突っ込み、そこから取り出したものを縁へと投げた燐。縁はそれが何なのかを確認すると、即座に四人の方を見て、あーっ、と天を仰ぎながら、次に微妙に顔を赤くしながらそっぽを向いた。縁の手に握られているのは、古い型ではあるが、男物の水着である。サイズは少し大きいが何とかなるだろう。

「えーと、その……悪かった、先いってる」
「だから早く出て行きなさいって言ってるじゃない」
「うっせ、だったら中身のこと言えっての」
「乙女なアタイたちにそんなこと言わせる気? 気が利かないわね」
「ぐっ……あーくそ、わーたよ、出てく出てく。待ってるからな」

 女性陣の水着選びの場に、男性一人とは総じて居にくいものである。それは縁の元の世界でも、ここの世界でも変わらぬ法則であった。




 ふわり、と宙を浮かぶ。それが他人の力を借りるものであれ、縁にとって人生二度目となる重力の軛からの解放は感慨深いものだった。いつかは、できれば早いうちに、この感覚をモノにしなければならない。そう思うと縁は無意識のうちに全身に霊力を巡らせ、飛行のための霊力の運び方を模索しようとしていた。

「あ、縁ちゃん。あんま力まないでね、ちょっと飛びにくくなっちゃうから」
「あ、悪ぃ」
「……それともやっぱりおくうに引っ張られるほうがいいの……スケベな縁ちゃん」
「なっ、ち、違うっての!!」

 心なしか冷たい視線をこいし筆頭に送られることに狼狽する縁。今この瞬間、こいしに肩を持ってもらっていることで飛んでいる状況で手を離されることがあれば、縁の即死は間違いないであろう。ちらりと空の方へ眼を向ければ、地味に顔を赤くし胸元を抑えている。その仕草に、そして両腕で結果的に強調される形となった二つの山に、縁は先ほどの感覚が蘇るのを覚えた。
 地霊殿から飛びたつ直前。前回にこいしが縁を運んだということで、今度は空が縁を運ぶ役に立候補した。縁はその辺りは特に頓着はせず、こいしも渋々ではあったがそれを了承。そしていざ縁を運ぼうという段階で、それはまず二人の間で起きた。
 ぷにゅ、という擬音が発生したという錯覚を呼び起こしそうなほどに縁の背中に押し付けられたそれ。空は無防備にも縁を後ろから抱きかかえる形で持ち運ぼうとしたために起きた現象に、その瞬間から縁の男としての感覚は全て背中へと回されていた。
 でかい、それが潰れている。着痩せするタイプか、と縁の少ない経験が判定をつける。このままこの感触を味わったまま飛ぶのは、男のロマンとしてまた一興。そう思い、自然と顔が緩んだ直後、鼻先をハート型の弾幕とレーザーが同時に掠めた。
 左右、というより背後を未だ状況を理解していない空と共に振り返ると、妖怪覚の二人が、一人は静かな怒気を溢れさせながらもレーザーを発射した自分の手を不思議だといいたげに見つめ、もう一人は笑顔の中に怒りの権現ともいうべき青筋をいくつも浮かべていた。そしてその更に後ろ、猫型の妖怪は眼を光らせ、片手に怨霊を出現させていた。
 空もまた、その空気で察したのか縁からパッと離れ、厳しい眼を向けてくる始末。元々はお前のせいだろう、というツッコミができる雰囲気ではなく、結局縁は不機嫌なこいしに連れて行かれることになった。

「つーか、何であんな怒ってんだか……確かにやましい気持ちだったろうけどさぁ」
「何か言った?」
「んや、何でもねーよ」

 明らかに分が悪くなので、さりげない地獄耳を持つこいしに対し会話の切断を図る。機嫌のいい時にでも聞いてみるか、と縁が考えている間に、あの大口をいつも開けている地底都市の天井の穴へと辿り着いた。前にこいしと二人だけで来た時と同様、多くの妖怪が横孔から地霊殿の主要メンバーたる五人を覗き見ていた。
 そして、ここの番人もまた、以前とは違い横穴から顔を出し、胡乱気な眼を向けてくる。

「あら、また来たの? しかも今度はこんな大人数で」
「げ、水橋」
「あら、心外ね。そんな嫌われるようなことをしたかしら」
「むぅ……」
「そっちのお嬢さんにはあるようだけど……ふぅん」

 あからさまに警戒する縁を一際強く抱きよせるこいしをからかうような視線で確認すると、そのまま流して前にはここに来なかった三人へと目をやる。
 その中から、すいっと燐が前へと出てくる。地霊殿を出る前から何所か引っかかりを抱いた顔をしているさとりの視線を尻目に、燐は真直ぐに、今の彼女にとってもっともタチの悪い能力を持っている妖怪へと話を通そうとする。

「初めまして、になるかな。アタイは火焔猫燐。こっちはアタイの同僚の……」
「ああ、大丈夫よそこは。あなた達はなんだかんだ言って有名だもの」
「ありゃ、そう。じゃあ単刀直入に用件を言うわね。ちょっとそこの地底湖にいくけど、大丈夫よね?」
「あら、どうして私に許可を取ろうとするのかしら?」
「だってねぇ、アタイが聞いた話じゃあ、アンタがここら辺の元締めみたいだしねぇ」
「ふむ……まぁ、間違ってはいないわね。まぁ私はあくまで地上と地底を繋ぐ道の番人だから、地底の一部であるあそこにいく輩を止めはしないわ。それが……まぁ、いいわ」

 見透かすかのような視線。それを燐と、そして縁へと向ける。そのまま組んでいた両手の一つをクイッと、この場には妙にミスマッチな看板へと向け、行けと促してくる。しかし、未だこいしと、そしてようやく前件の人物と容姿が頭の中で一致した空がジト目で睨んでくることに、そして神妙な、とでもいうべき複雑な顔をしているさとりを見て、溜息を吐いた。

「別にそこの人間を取ろうって気は今はしないわよ。まぁ、ここを通る様なことがあれば容赦はしないけど」
「俺はモノかっての……」
「あら、生き物ってのはすべからくモノよ? 問題はそこに、アウラやらゴーストやら魂やらがあるかどうかの違いよ」
「……実は難しい話好きだろ?」
「この程度、むしろ人間であるアナタが答えられなきゃいけない問題よ? 学びなさい、せっかくこんなとこに堕ちてきたんだから」

 妙な突っかかり方する奴だな、と前回のこともあってそんな面倒な性格をしている相手だと半ばわかっていた縁は軽く息をついて、相も変わらずパルスィに対して警戒心を剥き出しにするこいしに運ばれ空と共に看板のすぐ横にある穴へと入っていく。
 それを見送り、パルスィは少し遅れて三人の後を追う、残る二人に目をやった。その二人の顔は対照的だ。明るいものと影のあるもの。だが、明るいものというのはすべからく暗い影を内包し、影とというものは他の影をも取り込むことができる故に、それを感知できる。パルスィは嫉妬を読み取ることができる、それは疑似的に心を読む力でもあり、それ故に二人が考えていることがわかってしまい、面倒くさそうに溜息を吐いた。

「……そこの覚はペットのすることを止めないのね」

 二人がピタリと止まる。パルスィよりも高い位置にいる二人はゆっくりと眼下を振り返る。

「何……アンタ、アタイがやることわかっててそういってるの?」
「ええ、どんなことをやるのかわからないけど、予測ならできるわ。解り易過ぎる嫉妬なんだもの、操るまでもないわ」
「……アタイの心が嫉妬だっていうの?」
「さぁ、けど少なくとも、あの人間よりよっぽど子供っぽいことはわかるわ。それに、わかってて止めようとしない、そこのバカな妖怪もね」
「っ!」
「なっ、アンタ、さとり様をバカだっていうの!?」

 主人を貶されてか憤りの声をあげる燐を横目で視界の脇に収めながら、パルスィが中心に据えるのはさとりただ一人。さとりは、顔を背けたままで、何も言い返そうとはしない。

「そこの猫は少なくとも心を読まれて邪魔をされる覚悟をしてても、バカで幼稚なことをしようとしてるわ。けどアナタは何? 心を読む妖怪が、自己矛盾に苛まれて助言もちょっかいもできないようじゃ商売あがったりよ?」
「……私はっ」
「あーもー、何なのよアンタはっ! さとり様、もういいです。行きましょう!!」

 そうして、未だ顔を俯けたままのさとりの手をとって看板のある場所へと浮かびあがろうとする燐。嫉妬という心のベクトルが見えるパルスィにとって、あの二人に対してはまだ二言三言足りない気分であったが、しかし相手の機嫌からはもう一言ぐらいしかダメだろうと思い、仕方なく、分かりやすくかつもっとも度し難い言葉を使うことにした。

「精々、素直になりなさいね」
「……どういう意味よ」
「あら、言葉通りよ。それじゃ、悪戯の成功を祈ってるわ」

 それだけいって、パルスィは中途半端な寝起き加減の気晴らしをするために繁華街へと降りて行った。

「……お燐、もう大丈夫です」
「あ、さとり様……」

 それを見送ってからさとりは自分から燐の手を離し、パルスィが降りていく姿を見送りながら、看板の先の横穴で先に待っているだろう三人を思い、見上げた。そして、最後に隣りのペットへと、今回の首謀者へと視線を戻す。その心を第三の目で再度見透かして。

「……貴女の考えていること、別に邪魔をしたりはしません。ただ、あの人の命に関わることだけは避けてください」
「!……それは、ありがたいですけど、やっぱりもう、あの人間は殺しちゃダメっていうんですか?」
「こいしには、今はあの人が必要です。見て入ればわかるでしょう? それに……」
「……わかってますよ、おくうもですよね……だから、私は……」
「……早く行きましょう。こいしがいるのだから、置いていかれてしまうかもしれないから」

 主人としての貫録か、その場をさとりは強引に切った。だがそれは、あの間接的にしろ心を読んだ妖怪の言葉がトゲのように突き刺さっている証でもあった。
 それはまた、燐も同じだった
 地底湖はまだ遠く、そしてその間にあるのは、妖怪が出入りし、そしてまた、妖怪ですら未だその全貌の全てを知らぬ迷宮である。何が起こるか、それはまだ誰にもわからない。



 あとがき:






\そんなことよりクワガタの話しようぜ!!/













 はい、すんません、マジメにあとがきやります。AC3PをやりながらMUGENと幻想入りばっかり見ててすっかり更新が遅れてしまったぜメルツェェェル!!
 夏休み補正でPV数増えたり新規さんとかこないかーなどと考えている作者です。

乙<クズが……空気にもなれんか

 ちょっと今回から二章のターニングポイントになる迷宮探索編、通称お燐フラグの話に入ります。その割には全然お燐が活躍してない気がして困ります。予定より始動のための話しが長くなり、二話予定が三話か四話予定となってしまいます……なので今回はヤマはないです。またもじかくてつまらん話でメンゴ! え、やっぱりダメ? マジかよ、夢なら醒め……



 次回へ向けての注意:
 ゲイヴンネタ・ACネタ・ガチなAC(?)ネタ、半クロスオーバー(?)などが含まれる可能性があります。むしろ突っ込みます。コジマネタではないのでご注意ください。
 




[7713] 第十三話――婆<なんだこれは、NGシーンというわけではないのだぞ……
Name: へたれっぽいG◆eaa9c481 ID:f33d8d16
Date: 2011/02/14 14:14
CAUNTION!! 高濃度コジマ汚染注意報 CAUNTION!! ゲイヴン出没注意 YUUKURISHITEIITENE!! 


「一体なんだってんだこんちくしょーーー!!!」
「私に言われてもわかんないよーー!!!」
「アタイだってそうよバカーー!!」
「バカって言うなーーー!!!」
「ツッコミは後にしてくださいっ……!」
「縁ちゃーーん、いつまで走るのーーっ!?」
 
 全速力で走る縁に並走する四人からの返答に、縁はくそっ、と悪態をつき、背後を振り返った。もうどこをどう走ったかわからない。そもそもが入り組んだ場所なのだ、場所を把握していろというのが無理な話なのだ。それも、アレに追われているのだから。

「ハメさせてくれ」
「尻を貸そう」
「私のドミナントをよく見ておくんだな!」

 形容し難い怪物たちが縁たちの後を追っているのだ。しかもすごい速さで。大型の射突式やら蒼く輝き天をも突く様な、男性の股間についているものがフルパワーで稼働している時のような状態のものが、四本足の股間の部分に装着され、縁たちに、その尻に先端がロックオンされているのだ。
 明らかに、狙っている。

「なんでいきなりこんなガチムチネタなんて入ってやがんだよぉぉーー!!!」

 メタな叫びはどこまでも続くアリの巣の如き迷宮の挟間に消えていき、縁たちの逃走劇はまだまだ続いていくのである。



第十三話『迷宮旅行』


 
 話は少々時間を遡る。
 遅れた二人をこいしが先に行こうとせがむのを必死に抑えながら待って、五人は一本道の迷宮の入口へと足を踏み入れた。踏み入れる、といってもそこは特別入口らしい鳥居や戸などもなく、他の横孔同様、ポッカリと暗い闇の奥まで、それこそ縁がここにくるまで頭の中にあった地獄というものに通じているような穴が開いているだけだ。だがその中は他の横穴とは違い、発光性の強いヒカリゴケが群生しているおかげか、人間であり夜目の聞かない縁にとっても十分な光量があった。しかしそれであっても、洞窟の先は深く闇に包まれている。

「何か妙にワクワクすんな……」
「なーにいってんのよ。あたいたちは前に来たんだからそんな探検しないわよ」
「マジで?」「えっ、そうなの?!」
「何でおくうも驚いてんのよ……」
「お姉ちゃん、これ何かわかる?」
「ああ、それは……」
「さとり様もこいし様もいってる傍からちょこちょこ動かないでくださいよおっ!?」
 
 一人、ガーッと吠える燐の姿に、提案者だけあって張り切ってるな、と縁は心中感嘆とも言える感想を落とした。呑気とも言える。そんな心の内側が表面にも出てきたのか、苦笑いにも似た頬の緩みを、空はそれを見て同じような心境で笑みを零した。その余裕ともとれる二人に一人肩に力の入る燐はただでさえ怒声を張って寄せた皺を更に寄せて、そのまま不機嫌な顔を作り、縁の眼前へと指を突きつけた。

「あんた、先頭いきなさい」
「はあ、なんでだよ? 普通に考えるなら空……はダメだから、道を知ってるお前だろ」
「縁~、それどーゆー意味~?」
「おくうはちょっと黙ってて。とにかく、何だかんだいってあんたって反射神経はあたい達バリにいいでしょ? それに、危機管理能力も高そうだし」
「ちょっと待て、それだけかよ! だったらよっぽど丈夫なお前らでも平気だろ常識的に考えて!」
「却下、つーかそもそも居候の身であたい達の主で家主に手を出そうとする時点でアウトなの。ほらっ、キリキリ働く!」
「蹴るなっての!」

 尻を蹴られて列の前へと出された縁は、暴論を吹っかけてきた燐へ憎々しい視線をぶつける。それを燐はふんっと鼻息一つで受け流し、早く歩けと催促する。
 舌打ちし、しかしこの前のことについては確かに負い目がないことはない縁としては仕方なしと前に出る。そういえばあいつ、小さいけど柔らかかったよなぁ、と一瞬抱きしめたさとりの体のことが連想的に思い出してしまい、歩きながら手をわきわきとさせてしまうと、ハッとなってさとりの方を見る。
 案の定、横でこいしが持っているキノコに顔を向けながら、ちらりと目だけを向けてくるさとり。ヒカリゴケの光の錯覚でなければ、その顔は少し赤みがかっている。
 読まれたか、と青少年特有の気恥かしさとバツの悪さに心が苛まれ、それが声になろうとした時、両方の脇腹を小突かれた。いや、小突かれたというレベルではない、ド突かれた。

「おうっ!?」

 オットセイの鳴き声のようなものを吐き出し脇腹を抑えながら左右を見ると、いつの間にかこいしと空がいた。その顔はむすりとしたしかめっ面である。

「っ~~、何だよ、またお前らの方が怒ってんのかよ?」
「別に~?」
「怒ってなんかないよ?」

 ねー、と顔を見合わせる二人に、心の中で嘘つけ、とあらん限りの、しかし声にならない叫びをする。

「そんなことより、早く前に出てよ」
「そ~そ~、縁ちゃんが前に出てれば大丈夫だもん、盾として」
「お前らの方が丈夫だってさっきから言ってる俺の主張は無視かよっ!?」

 二人はそのまま縁に前に出るよう身体で催促し、腑に落ちない縁としては渋々ながらもそれに従い、先頭を歩く。その一方で二人が怒っている原因がさとりにあることを思惟でもって何とか察しはするが、しかしそれより先の領域になると途端に不透明になってしまい疑問符を浮かべる作業に入ってしまう。
 数歩下がった位置に、自分自身の行動に対し縁と同じように疑問符の花を頭に咲かす空と、変わらずに頬を膨らますこいしが、一人は歩き、一人はふよふよと浮かび、その後をついていく。
 更に後ろからさとり、燐の順番でチューブにも似た、楕円形の天井に押し込められた道を歩く。しばらく、多少曲がりくねりはするが一本道が続く。その間に燐からぶつけられる視線が、まるで地霊殿に初めて来た時のように鋭いことに疑問を抱きながらも、縁はこいしや空に絡まれながら先頭の役目を果たして歩く。
 そうして歩き続けて数分。

「と、分れ道か……」

 ここに来てようやく、他の妖怪や妖精等とも会わないまま、三又の矛のように三つに分かれた道に遭遇する。真正面に真直ぐいく道、上の方へ向う左の道、下へと向かう右の道。四人の視線が最後尾の燐へと向かう。急に四対の眼を向けられた燐はしかし既に腕を組み頭を傾げ、必死に記憶を掘り起こす作業に入っていた。

「んーと、アレがこうなっててあそこがカブラカンで、あっけど途中にげろしゃぶが……あーもう変な眼で今は見ないで、集中できないわよっ!」
「俺だけに言うなっての!」
「お燐、貴女の思い出している通りだと、ここは真直ぐにいけばいいのでは?」
「う、そ、そうですけど……」

 さとりの心を読んだ一言に対し、急に歯切れが悪くなり、恨みがましそうにさとりを横目で見る燐。その突然の慌てように、何も知らない三人は首を傾げるが、しかし道がわかったのなら大丈夫だろうと切り替え、いざこいしを先頭にして先に進もうとする。

「あ、ちょっと……」
「あら、そこに誰かいるのかしら?」

 燐が三人に対し静止の声を上げた直後、右の道の奥から声が反射し、響き渡る。同時に縁がその声を、そして闇の奥から昇ってくる存在に対し感じたのは、怖気であった。
 過去に出会った初めての妖怪や、崩壊しかけたこいしに対してのそれとは違う、人間が理解を超えたもの、理解という錯覚すら起こせぬほどに不可思議な存在へと感じる、知性的本能が導く恐怖感情。それが、ゆっくりと近づいてくる。

「うにゅっ? どうしたの縁?」

 その縁の左手を握りながら、小首を傾げた空が訊ねる。それは空にとって半ば無意識の行動であったが、縁はそのこと、外部の存在との接触によって未知のものに対する恐怖に犯されかけていた正気を取り戻し、数度息を荒げて、そして不思議そうに見つめてくる空の目に映る自分自身を見て、呼吸を整える。そして、何となく空を軽く小突く。

「なんでもねーよ、ちょっと息苦しくなっただけだ」
「うにゅぅ、だったら何で殴るのよぉっ!?」
「うっせ、何となくだ! つーかお前も何でいきなり手なんか握んだよ」
「わ、わかんないもんそんなの! ただ、縁の顔が……」
「あらまぁ、おまけに随分と楽しそうで、騒がしいわね」

 縁が空に向き合っている間に、闇からその妖怪は現れた。これまた人間とはまた違う、妖怪らしい特徴を持った、しかしオカルト方面での知識のない縁にとってその正体などまったく見当のつかない妖怪であった。
 人間としての部分は、燐と同じぐらいの背格好にショートカットの黒髪、黒で統一された洋服とこれまた黒のオーバーニーソックスと肌のきめ細かい白と対称的になるようなものだ。だが妖怪としての部分は、右の肩甲骨から生える鉤爪のような赤い翼、左肩からは犬の尻尾のようにくるくると巻かれ先端が矢じりの如く鋭く青白い奇形の翼、それぞれ三対六枚と、分かりやすそうでまったくバラバラな特徴であった。右腕と、登山用にも見える杖には世界的な医療機関のマークのようにヘビが絡みついている。
 そこまで視界に入れるころには、縁の中にあった恐怖は既に消え失せていた。それは果たして自分がこの妖怪を妖怪として姿を見ることができたからか、それとも空に手を握られたからか、縁にもわからなかった。

「こんにちわってとこかしらね。珍しいわね、この時期に誰かがここにくるなんて、しかも団体さんで」
「そーゆうあんたこそ、一人でこんなとこにいるのはどうしてなんだ? その口ぶりからすると、今はここって妖怪たちはこないんだろ?」
「ほほうほう、私にちょおっと恐怖してると思ったら、もう無くなってる……んー、つまんないような面白いような……さすがに地底に落ちてきた人間は一筋縄じゃあいかないか」
「そこは違うよっ! 縁ちゃんは面白くって変でよくわかんないんだよっ!!」
「こいし、後でお兄さんとちょーと話そうな? 主に俺に対する認識的な意味で……そこで目を背けてるお前らもだぞ?」
「あっははは、何アナタたち充分面白いじゃないっ!」

 さっと目を背ける二匹に対してその後頭部に視線をぶつけつつこいしの両頬を摘む縁を余所に、さとりは一人前に出て、腹を抱えて笑う正体不明の妖怪と向きあう。第三の目がぎょろりと妖怪の腕と杖に絡みつくヘビの視線とぶつかり、さとりの目が赤い瞳を見透かそうとする。妖怪は笑う、そしてさとりは、かすかながらも、驚愕に顔を染めた。
 
「私の心を読もうとしてるね、妖怪覚。けど残念、そうとわかってれば、心を正体不明にして読ませないようにすることだってできるのですだよ」
「貴女は……何、ですか?」
「あれ、こいつの心読めないのか?」

 こいしへのお仕置きと空たちに対するけん制という名の予告から目を離し、さとりが言った奇妙な言葉に対し疑問の視線を名も知らぬ妖怪へとぶつける。

「正確には見せないようにしてるだけなのだわさっちゅーねん」
「いや、その前に語尾を統一しろよお前……」
「ノンノンノン、この正体不明っぷりが私のウリなのねんっ。さー、そんな私の名前と目的はなんでしょう?」
「んなの余計わかるかっ!!」
「ちぇーちぇー、つまりませんでござるな」

 口をタコのように細めて理不尽な不平不満を述べる妖怪への理解はますます遠ざかるばかりで、こいしは目を輝かせているが、縁他二人は「なんなんだこいつは」と怪訝な眼を向けていた。縁はもう一度「語尾統一しろ」と言っても「嫌でございますぅ」とおちょくるような調子で返され、かつその際に身体を奇妙奇天烈な羽根と一緒にクネクネとさせられては、内心ウザイと思っても仕方のないことだと自己弁護をする。
 その時、妖怪の足元から何かが現れる。全員の視線がそこに一気に集まり、それを視認した。その瞬間、うげっ、と妖怪を含めた四人が生理的な嫌悪を条件反射で吐き出し、一人が目をキラキラさせ、ありゃま、と事情を知っているだろう一人がそれを抱き上げた。
 その物体は一見血を吸って丸々と太ったダニに似ていた。しかし身体の大部分はブヨブヨとした肉質の水色で、脚は胴体と思わしき楕円の部分の先端一か所にしか集中しておらず、それがウネウネと動く様は触手にも似ている。その多すぎる多脚のすぐ上の水色の肉の上に、シャチにも似た目にも見える斑点がある。それを抱き上げている妖怪はその反転に頬を寄せ、すりすりと肉質を堪能していた。傍から見れば、気持ち悪いとしか言いようのない光景だった。

「ねぇねぇ何その面白可愛い生き物!?」
「それ可愛いのかよっ!?」
「おやそこの人間、随分心外なことを言ってくれジャマイカン。AMIDAの可愛さは幻想郷一でもあるっていうのに……おーよしよし、どうしてついてきちゃったのかな? もしかして寂しかったのかなぁ?」

 うぞうぞと動く触手な脚とその上にある目のような斑点に向き合う様に持ち上げ、妖怪は顔を綻ばせ頭のように出っ張った部分を撫でる。ついでに、無意識を操っていたのだろう、いつの間にかそこに近づいたこいしも一緒に撫でている。
 あのナマモノが違う生き物だったら絵になるんだろうなぁ、と縁は本来の目的も忘れて印象的な感想を心中で零した。その言いようのない疲れにも似た諦観の感情を視線から読み取ったように、妖怪が縁たちへと視線を戻し、手の中のナマモノを縁の前へと差し出した。まったく愛らしくない目が、縁を上目づかいに見つめてくる。

「撫でてみる?」
「謹んでお断りします」

 即答した。目の前のナマモノ、AMIDAと言われていたそれは触手の動きを遅め、心なしかしゅんと落ち込んでいるように見えた。錯覚だと心から思い込む縁を余所に、名称不明の妖怪は「可愛いのに……」と初対面にも関わらず似合わないと断言できる呟きを吐き、その直後、今まで黙っていた燐が爆発した。

「だぁぁぁもぉぉぉッ!!! 何でこんなところで道草食ってるのよっ! 早く行くわよ!」
「あ、今は私の通ってきたとこ以外は使えないわよ」

 そのままのしのしと歩きはじめた燐に向かって、妖怪は何気なく静止を余儀なくされる言葉を吐いた。ピタリと、燐、戸惑いながらも燐に続こうとした空と縁、妖怪を未だ見つめていたさとり、AMIDAを撫で続けるこいし、それぞれの動きが止まった。
 その中で、冷や汗を垂らしながら、燐が言葉を紡いだ。

「ど……どうして?」
「この時期は♂(ディ)ソーダーっていう、この子の親戚みたいな子たちの繁殖期なのよ。あの子たちの求婚方法って過激だから、近づけば怪我だけじゃすまないわよ? 私みたいに頻繁に来て顔を覚えられてるなら別だけどね」

 知らなかったの、と如何にも当然のことを尋ねるように妖怪の視線が燐に向けられ、次いで地霊殿の四人が燐へと視線を集中させる。その眼は全て「知らなかったのか?」と問いただすものであった。燐はそれにうっ、と仰け反ることしかできなかった。

「で、左の道と正面の道は丁度そのテリトリーにぶつかるってわけ。ユーアンダスタン?」
「……ほ、本当、なの?」
「信じるかどうかはそっち次第だわっさ。見た感じ、あの子たちが目的というわけではないと、地底湖に向かってるようだけど」
「ん、そっちの道も通じてるのか?」
「真ん中の道よりは大分遠回りになるし、かなり入り組んでいるけどにゃ~。ま、お急ぎというわけではないなら、繁殖期が終わったころをお勧めするねぇ」
「えっとぉ……それっていつぐらい?」
「後一週間は先~。丁度始まったばかりだしねん」

 燐が「うそ~」と喚いて崩れ落ちた。さとりはその様子にほっと安堵の溜息をつき、縁たちはその二人の仕草に小さな疑念を抱きながらも、果たしてどうするか、と同じ疑問を抱いてより集まろうとした。
 だが。

「ねぇAMIDAのお姉ちゃん」
「ん、何? ちなみに私の名前は、あー……ぬえ。ぬえって呼んでいいわ」
「それじゃぬえのお姉ちゃん、この子と同じような子がこの奥に一杯いるの?」
「そうよん、私が世話をしているコロニーも除けば、まだ一杯いるかもしれないだわさ。けど……」
「それじゃあわたし行ってみるね!!」

 こいしが一人、妖怪・ぬえの横を通って一人奥へと静止する間もなく文字通り飛んで行ってしまった。

「……あんの無意識天然っ! 追いかけるぞッ!」
「え、う、うんっ」
「ちょっ、何であんたが決めてんのよッ! ああもう!!」
「………失礼します」

 その後を、自分にいつもひっついている妹分の安否を心配した縁が、釣られるように空と燐が、そしてぬえを見ながらさとりが続き、洞窟の闇の奥へと消えていった。残されたのは、AMIDAという謎のナマモノを撫でくり回す、ぬえと名乗った妖怪だけ。その顔は、ヒカリゴケの薄らとした光の中で、ほくそ笑んでいた。

「ぬふふ……まさかこんなに容易く騙されてくれるとは思わなかったわ。これはパルスィやムラサたちにいい土産話ができたわぁ」

 ぬえの語ったことは、全てが嘘ではなかった。事実として、今の時期はあの生命体たちの繁殖期であり、危険である。だがしかし、繁殖期特有の求婚活動が行われている場所にもっとも近いのは、中央の道と、そしてぬえが絶対に安全なルートを知っている、右の道なのだ。
 そのことを思い、そしてアレを見る羽目になるだろう五人のことを想像しただけで、ぬえは笑いを堪えることができなかった。

「いっや、まさかここまで上手く騙れるとはね~ん。後は飲み屋でこの勝ち話を……あ、そういえばあそこもあったっけ……あっちゃー、大丈夫かなぁ……」

 ま、いっか。そう呑気な結論をつけて、ぬえはAMIDAを抱きかかえたまま、縁たちとは反対に迷宮の出入り口へと歩いていった。縁たちに関しては、ここで他人が不幸になっても、話の種がより面白おかしくなるだけなのだから、彼女にとっては構わなかったのだ。ただぬえが心配するのは、AMIDAの住むコロニーのこと。そして、今のところは彼女を含めたごく一部の妖怪や鬼しか知らない、秘密の場所。
 正確には秘密でもなんでもなく、ただ誰も探そうとしない場所。なぜならその周囲は。

「さ、それじゃ君の御飯を探そうね~~。豆って食べれたっけ?」

 ぬえと名乗った正体不明の妖怪は、これまたそれに似つかわしいナマモノを抱き抱え、嗤いながら、都へと降りていくのだった。




 あれから幾つかの別れ道を通り、殆どがこいしの先導で進む中、燐は焦っていた。彼女が当初考えていた計画が早くも座礁してしまったからだ。
 計画自体は簡単なものであった。まずは迷宮での厄介な場所を地霊殿や街の妖怪たちから聞き、同時に建前としての前準備として水着を集めるか発注。それはある程度終わったところで、空に気づかれないように死体をいつもの倍以上炉心へと放り込み、温度を上げる。それによって平均温度があがって、少なくとも縁がへばっているところに、避暑地として地底湖を紹介し、迷宮へと向かわせる。
 そして、予め頭にたたき込んでいた二つのルートを行き、そこにあるといわれるものを使うか、はたまたわざと迷宮に置いてきぼりにし、縁の、人間的な醜悪さを引っ張りだそうとしていたのだ。突発的であり計画性のない、突発的なものであったが、燐にとってこれは最良の策でもあった。
 さとりにバレるのも計算の内であり、万が一の場合は説得をするつもりだった。燐の頭の中では、さとりは未だ縁に対して警戒心を持っていると思っていたからだ。
 そしてこの計画は、燐たち妖怪の安全が確保されていなければいけない。滑稽さとは、異なる立場だからこそ認識できるのだ。だからこそ、この地底でもっとも厄介な、それこそ燐たち妖怪にとっても危険としか言いようのない場所である第三のルートを避けようとしたのだ。だが現実として、今はその一番厄介な、避けたかった道を行っている。
 余計なことを、とぬえと名乗った妖怪に対し身内で呪詛を唱え、しかし前を先ほどと同じ調子で歩く三人を、正確にはその中央にいる縁の背を睨む。両横には空とこいし。もはや何年もそのポジションが当り前であるように思えてしまうほどに三人の距離は近く、自然であった。
 少し歩を緩めれば、そこに少し遅れて、しかししっかりとついていくさとりの姿があるだろう。燐の姿はそこにはない。まるでお弾きの様に、燐が縁にとって代わったようだ。
 そのことを思えば、歯ぎしりをしていた。
 燐の中で縁を嫌う理由はいくつもあった。人間と妖怪の差を理解できない分からず屋。家主の許可はあるが自分たちにはまったく礼もなく地霊殿に住みこんだ無礼者。ファーストコンタクトの時に親友の胸を揉んだり主人を押し倒したりした女の敵。こいしの心を傷つけた奴。
 だがどれもが、燐にとって表層の理由にしかなかった。この計画を燐に行わせた原因は別にある。だがそれを燐は認めたくなかった。認めてしまえば、自分という妖怪が崩れてしまうような気がしたのだ。それほどに地霊殿での今までの生活は、彼女の大きな一部となっていた。

「……お燐」

 はたと自己の海から立ち返れば、いつの間にかさとりが燐の横にいた。いつもの陽気な笑みを燐は作ろうとした。

「うにゃ、何ですかさとり様? 道に関してなら確かにこっちでも……」
「……あまり思いつめなくてもいいんですよ」

 燐の歩みが、ピタリと止まった。さとりは燐の正面に立ち、前の三人には決して聞こえない小声で燐へと語りかけようとした。

「貴女が彼をどう思っているか、心を読まなくても、その顔を見てればわかります。だから私は、貴女の計画を止めなかった……私もまた、あの人の全てをまだ信じているわけではないですから」
「……つまり、都合がよかったっていうんですよね?」
「ええ、正直に言えば。ですけど……ただ、それでも、貴女自身の区切りをつけさせるためには、もしかしたら必要なのかと思ったのも、事実です」
「なら何で、思いつめるな、なんて説教臭いことをいったんですか? 確かに色々と考えてますけど、アタイはそこまで……」
「いえ、そうではないです。そんな意味では……」
「なんですか、さとり様もあの橋姫みたいなことを今更言うつもりですか! だったら……」
「きゃあっ!」

 燐が激情のままの言葉を喚きだそうとした直前だった。どさり、という音と共に、甲高い悲鳴。反射的にそちらを向くと、こけたと思わしきこいしが帽子を整えて立ち上がろうとしていた。そのことに、さとりは違和感を覚え、燐はあることを思い出す。否、つい先ほどまで考えていたことだ。

「おい、大丈夫かこいし?」
「こいし様、大丈夫?」
「うん……けど、何か知らないけど、飛べなくなっちゃったみたい」
「飛べなくなった?」
「本当ですか?」

 こいしを介抱していた空がその事実を確認するために、いつもは畳んでいる漆黒の翼を広げ、一度羽ばたかせる。だがしかし、柳を揺らすような風が起きるだけで何も起きず、ましてや空が浮かぶことはなかった。疑問を表情に出す空を見て、燐も浮かぶため力を入れる。ふわりと体が浮かんだ。そのままこいしたちの元へと向かおうとすると、その途中、急に重力の鎖が燐の足を掴み、浮力というべき概念を燐から奪い取った。だがそれは予め予想済みだったのか、こいしのようにこけることはなく燐は難なく着地をする。そして、とうとうここまで来てしまったか、と天を仰いだ。

「あー、もうここかぁ……」
「知っているのかお燐?!」
「何でおくうがさっきの奴みたいに語尾変わってるのよ……まあ言っちゃうとさ、ここから先は基本、飛べなくなったり弾幕だせなくなったり……まあ今の妖怪の戦い方ができなくなるのよ」
「はあっ? はあっ? はあっ? なんじゃそりゃ?」
「あ、ここがカドルたちが言ってた場所なんだぁ……」
「うにゅ、うにゅ? えーと……つまり、もう飛べないの?」
「何かわけわからんポイントが五ポイントも溜まってるようだけど、アタイだってよくわかってないわよ。とりあえず、しばらく使えなくなるだけで、ここを出れば使えるらしいわ」
「……どうやら本当みたいですね。能力は使えますが、スペルカードもダメみたいです」

 遅れて歩いてきたさとりが、スペルカードをヒラヒラと手の中で揺らしながら、第三の目を動かす。まじかよ、マジです、と呑気な問答をする縁とさとりの横で、燐は危惧していた場所に入り込んでしまったのだと、だがどうすればよいか思考を何度も切り替え、もはや自分の計画を二の次にしなければならないことを決めていた。

「どうする、このまま行くか? 俺は元々飛べねーし、そこまで弾幕に頼る気はないからいいけど」
「わたしはいくよ~。だってAMIDAの巣にいってみたいし~」
「えに……こ、こいし様が行くなら私もっ!」
「……私も、このままでも大丈夫です」
「……わかりました、なら」

 自分の意見を余所に勝手に決め始めた四人に対して疎外感を覚えながらも、このまま続行の旨を伝えようとした。
 その時だった。先ほどまで燐たちが通った道の穴から、パラリと砂が落ちた。それだけだ。全員がしかしそのことに対し奇妙な違和感を覚え、視線を向けた。縁は知らないが、燐は夏に起きた地震のことを思い出し、もしやまたなのかと考えた。 だが違った、その壁の反対側からも、今度は多量に土が零れおちた。同時に今の場所からも。そのことに対して、なぜか悪寒がその場の全員に走った。何かがくる。それは生物的な本能ともいうべき危機への予測であり、事実としてそれは正解に限りなく近いものであった。
 壁を、内側から、削って這い出ようとするもの。ぱらりぱらりと土が崩れていく様を、燐たちは呆けたようにまるで足がプレッシャーという縄に縛られたように動かず、ただ見ていた。そして、それが壁を壊し、現れるのを見た。

「ちょ、おまっ」
「なにこれ、ふざけてるの?」
「あ、あまり意味があるとは思えないよ?」
「面妖なぁ……」
「こんなものがいて喜ぶというの? 変態ねっ」

 かろうじて声を絞りだす五人のものは、現実逃避に似たものか辛辣以外の何物でもなかった。それほどまでに、それは、その、酷かった。
 現れた二匹の特徴をあげるならば、まず四本足であった。足の長いカメか二本ほど脚のないカメムシにも似ている。しかしその上にはチョコンと、バケツのようなもの、もう一方は縁の世界の古めかしいアンテナのようなものが、頭のように乗っかっていた。事実それは頭部なのだろう、目のようなものもあり、また場所を確認するように左右へ振っている。だがそれよりも気になるのは、股間と思わしき場所にあるもの。
 どう贔屓目に見ても、男性の股間部についているアレだ。ナニとも、赤さんとも、掃射砲(エーレンベルク)とも呼ばれるそれが、その身体構造からは想像できない、二本脚で仁王立ちを始めた二匹にぶら下がり、しかし次の瞬間には天を突く様に隆起した。
 ヒッ、と男性の縁も怯える声を上げた直後、それは口もなく、ある言葉を説いた。

「遅かったじゃないか……」
「手こずっているようだな……」
 
              やらないか  尻を貸そう

 時が止まった。
 そして、わずかな空白の後、燐の号令と共に動きだす。

「全力で退避よ! 近づいたらそこで人生は終了よっ!!!」
「言われなくてもわかってるつーんだぁぁぁ!!!!」
 
 貞操を守れという本能が命ずるままに踵を返し、一目散に変態生物二体とは反対方向、迷宮の更に奥へと駆けだす五人。縁はともかく、飛ぶことができなくなっている現在、全員が地面の上を己の身体能力のみで走ることになっているが、それでも速い。
 その外見や普段の振る舞いを裏切るようにさとりも速い。この場にいる人型生命体の全てが感じ取ったのだ、アレは侵すべきものではないのだ、性的な意味で、と。だからこそ、侵される前に逃走を図ったのだ。
 だがしかし。

「御望みとあらば見せてやろう! 私の決定的なドミナントをな!!」
「変態が地面から出てきたぁぁぁ!?」

 それを遮るように、一見すればバイザー型のカメラアイをしたロボットの顔が乗った新手が、先の二匹のように股間の掃射砲を隆起させて地面から飛び出してきた。そのことに全員が反射的に足を止めてしまう。
 その、前に。

「なっめんじゃないわよぉぉ!!!」

 トップスピードからの、猫そのものとも言える身体のしなりを生かしたサマーソルトキックを燐が叩き込んだ。地面から飛び出した体勢のまま滞空していた変態生物はそれを防ぐ術などなく、キックの勢いそのままに天井へとめり込んだ。その間に五人はその下を一気に通り抜ける。

「さっすがお燐!」
「んなこといってる場合じゃないでしょっ! とりあえず逃げるわよ!」
「ですがお燐、どこへ?」
「それは……地底湖にですっ!」
「なぁ、道わかんのか?」
「…………」
「そこで黙りこむなよぉぉぉ!!!!」
「こ、こっちの道は調べてなかったのよっ! そもそもあんたがいなければぁ…!」
「みんな、後ろっ!」

 こいしの叫びに全員が奔りながらも後ろを振り向き、後悔した。先ほどの変態生物たちが四足歩行の猛ダッシュで追いかけてきているからだ。股間の、外道な笑みをする赤ん坊の顔に隠されるべきナニの先端をこちらに向けたまま。

「とりあえず、今は撒くぞぉぉぉっっ!!!」

 縁の叫びが三度、迷宮の中へと吸い込まれ、五人はもはや地底湖やナマモノの巣のことなども忘れて走り続けるのであった。



 そうして、冒頭へ至る。

「こちら、ジョシュア・オブライエンだ。援護に向かう。残しておいてくれ」
「まだまだ腐るほど突き合わないか♂」
「何か赤いのが増えたよっ!?」
「後ろ振り向く暇があったら走れーーっ!!」
 
 空の叫び通り、背後にいた三匹に更に体全体が赤い、そして股間のものが一回り大きいナマモノが二体増え、猛追をしてきていた。
 アレに捕まったら更に酷いことになる。その直感に従う様に縁はひたすら走る。何故なら、理由はわからないが、自分の尻に視線が集中しているような気がしてならないのだ。気のせいだと否定していたが、少し振り返れば、あのガチガチの本気モードな掃射砲の砲口が自分に向けられていた。振り返らなければよかったと後悔。その後悔を忘れようと、燐へと声をかける。

「っで、どうすんだよっ! このままじゃジリ貧だぞ!」
「そんなのわかってるわよ! けどまだ飛べないし、ましてや弾幕も出せないのよっ!」
「そりゃそうだけどよおっ!」

 縁は咄嗟に右腕を見る。そこに霊力を通し、右腕から新たな腕を剥がしだすイメージを浮かべるが、しかしそれは特訓の時のように現実にはならない。走りだしてから何度もそれをやっているが、しかし一度もそれが顕現することはない。先ほどの燐のように交差際に一撃加えられるか、とも一瞬考えたが、あのサマーソルトの直撃を受けてもすぐに再起動したタフさと、何より生理的嫌悪からあれに触りたくなかった。

「っ! 皆、伏せてっ!」

 唐突に何かを読み取ったさとりが叫ぶ。反射的に空がこいしとさとり、縁は燐の体を押し倒し、同時に自らも屈みこむ。その直後、アンテナ頭のナマモノの背中らしき部分が盛り上がり、いかなる原理か、皮を破るように内側から何かが飛び出した。それは一見すれば箱だ、明らかにものを詰め込んでいるとわかるほどの。

「降り注ぐ○子(ス○ルマ・ミサイル)!」
「んな名前こんな場所で出していいのかよっ!!」

 咄嗟の縁のツッコミなどいざ知らず、箱の蓋が開け放たれ、そこから白い尾を引く矢の如き飛来物が飛び出した。数は五つ、その速度は現在の縁たちの比ではない。屈むことで避けようとした縁たちの目論見をあざ割るように、それは弧を描く様な軌道で地面へと突き刺さろうとする。着弾、同時に広がるのは白い爆風と衝撃。

「つっ!?」
「にゃあっ!?」

 爆風を生み出した矢は縁と燐、空と二人の覚の間を引き裂く様に地面へと突き刺さり、その地盤を衝撃でもって揺るがせる。だが地盤にそれを耐えるほどの力と厚みはなく、爆風によって巻き上がる土煙に紛れ込むように地面に罅が走る音を、人間よりも数倍耳のよい妖怪より、むしろだからこそ矢の爆発によって鼓膜を一時的に使いものになる前に手で閉じた縁が捉えた。
 幻想郷に来て何度目になるかわからない、絶対に当たる悪い予感が縁の体を駆け抜けた。直後に、罅が縁と燐の真下まで走り、そのテリトリーのナマモノたちが侵入してくる。空たちは先ほどの爆風に吹き飛ばされて離れた位置にいる。そして縁の予感通り、それは起きた。
 びきり、と音が鳴ったと思った瞬間に、縁の足場が崩れ始める。ナマモノたちが乗ることによってかろうじて保たれようとした均衡が、その重量に耐えられなくなり崩壊したのだ。空を飛ぶ術のない、ましてや飛べるとしても現状ではそれが使えない場所にいる以上、縁が落ちることに逆らう術はなかった。

「縁っ、お燐っ!」
「空っ! ……悪い、先行っといてくれ!!」
「ば、バカなこと言わないでよぉぉぉ!!! バカーーーー!!!」

 空の震える叫びが聞こえる中、鼓膜をやられ、目を回す燐を抱きかかえ、縁は重力に逆らうことなく、瓦礫とナマモノたちと共に更なる闇の奥へと落ちていった。





 闇の奥。誰かが知り、誰もが知らず、いつかの人々が夢想し、いつかの誰かが忘れ去った場所。そこで何かが、囁いた。

『侵入者を確認……排除、排除、排除』

 闇の中に光が灯り始める。その極彩色の彩りの中に照らし出される影がある。それは人型をしていた。そして何よりもそれは、巨大であり、生命の息吹をしておらず、縁の右腕と同じように無機質でできていた。

『ハイジョ……ハイジョ……ハイジョ……』

 それは、誰かが忘れ、誰かが夢想した、孤独な囚人看守にも似ていた。





 あとがき

縁「さっさと俺を某腋メイドや人間の皮を被った人外みたいに、こうガッーと空を飛べるようにしやがれっ!」
うp主「ナマいってんじゃねぇ! ♂ソーダーの巣に叩き込んで触手プレイさせるぞ!!」

 どうもこんにちわ、上の会話は忘れていただけるありがたい作者です。とりあえず今回は……はい、読者の皆様、特にACネタやら星霊船をやっていない方、ほんとーーーにごめんなさい! ACネタに関してはまだ予定通りだったのですが、星蓮船に関しては……その、また神主が地底に関するネタをやって「やってくれた喃、神主……」と少し虎眼先生なノリになってしまい、つい出してしまいました、はい。やっちゃったZE☆
 しかもそれでハイテンションだったせいか色々な要素を追加したり改変しちゃいました。ぬえの子好きの方マジごめんなさい!orz ちなみに作者はまだEXいってません、これが粗製って奴ですね、わかりま(メメタァ
 
 とりあえず次回では……はい、迷宮編は完結しません。だって次はバトル必至なのでww 自分はどうにも萌えよりバトルがないとモチベーションが上がらないようなのです、サーセンwww


 どうでもいい設定とか何とか:

♂(ディ)ソーダー:
 いつのころから地底湖に続く迷宮に住みついた謎の生命体(ナマモノ)。性別はどの個体も雄だが何故か交尾や繁殖はできる。身体の至るところに霊力や妖力に頼らない、縁の世界の重火器にも似た攻撃手段を持っている危険な生命体だが、繁殖期以外では大人しく紳士的。むしろ個体によっては喋れることを利用して迷宮の案内をするものもいる。
 とりあえず妖怪かもわからないので研究するモノ好きな妖怪もいる。なお、赤い個体は総じて戦闘能力が高い。種族を通して最大の武器は股間についたナニである。

AMIDA:
 ♂ソーダーと同様、いつのころからか迷宮に住みついた謎の生命体(ナマモノ)。グロテクスな見た目だが、それ故にペットとしての愛好者が多く、中には迷宮内にある幾つかのコロニーの一つを自分専用のものとするものもいるほど。個体によって空を飛んだり、酸を吐いたり、自爆をするものもいるが、総じて大人しく、愛玩用ナマモノとしては丁度よい性質をもっている。触手兼の足と目のような斑模様が人気の秘訣。




[7713] 第十四話――胸無<弾幕、薄くなかったですか?
Name: へたれっぽいG◆eaa9c481 ID:f33d8d16
Date: 2011/02/22 00:21
 ゆさゆさと体を一定のリズムで揺らされる感覚に、高音の衝撃で意識の闇に押し込められていた燐は、うっすらと浮かび上がろうとした。次いで身体の触覚が意識と結び始め、誰かに抱えられているのだと認識する。それが中々心地よく、再び意識が落ちようとした直後、左足首に走った痛みに強制的にたたき起こされてしまう。
 ようやく瞼を開ける気になり、それを上げた時最初に映ったのは、黒いものだった。すぐにそれが髪であると理解すると、不可抗力的に匂いが鼻をくすぐった。知った匂いだ、だがこうまで近くで嗅いだことはない。機会はあったが、決して好き好んで嗅ぎたくはない匂い。それが体中に入りこもうとして。

「っ!? にゃああ!」
「どわっ!」

 燐の意識は完全に覚醒し、中邦縁に背負われているのだと気づいた瞬間奇声ともとれる大声を上げた。驚く縁を余所に、燐は全身を捩らせその背から離脱しようと試みるが、しかし再び走った足首の痛みに制約され、結果としてくたりと、抱きつきたくなどない人間の背中に手を置いた。

「つ~~……いきなり暴れんなっての」
「う、うるさいわね。いきなりこんな状態だったんだから当然でしょ! それより、一体何がどうしてこうなったのよ」
「あ、覚えてないのか?」
 
 顔を半分だけこちらに向けて話す縁の言葉に、すぐに燐は記憶を掘り起こす作業に没入し、「あっ」という間抜けな声と共に思い出した。あの不思議な弾幕のような矢の爆発に耳をやられ、無様にも気絶してしまったことを、だ。
 そのことを思い出すと、羞恥心が突然燐の中に芽生え、頬を赤らめさせる。人間相手に無防備で無様な姿をさらしたのだから、燐にとっては当然ともいえる感情だった。
 そのことを忘れるように周囲を見る。洞窟内であることは変わりない。しかし先ほどまで違うのは、自分たちを追いかけていたナマモノがいないこと、主と親友たちがいないこと、今回のターゲットであったはずの人間と二人きりであること、そして洞窟の内装が少々変わっていることだ。
 ヒカリゴケが変わらず群生しているおかげで明るいことは変わりない。だが洞窟内の黒い土や壁の中に、時々鈍い銀色の平坦な、それこそ土ではないものが混じっていることだ。縁がたまたまその上を踏むと、カンッ、というおよそ土らしくない、むしろ金属に似た音が響く。

「……もう一回聞くわ、何がどうなったの?」
「……信じらんねーかもしんないけど、あの爆発の後床が崩れて、俺とお前だけが落っこちた。ついでにあのナマモノ連中もな」
「はあっ何それ? だったらナマモノたちどうしたのよ? というか、あたいはともかく、アンタは落ちて大丈夫だったの?」
「ナマモノ連中は落ちた時に瓦礫に挟まってあんま動けなくなってたから、その隙に逃げてきた。で、俺とお前が無事なのは、コイツのおかげだ」

 縁は一旦燐の足から右手を離すと、燐にもわかるほどに霊力を込めた。その直後、今この場で起きるはずのない現象、腕の形を模した弾幕が藍色を輝かせて顕現した。たまらず目を丸くする燐が叫ぶ前に、鼓膜へのダメージを瞬時に考慮した縁は推測の言葉を連ねる。

「たぶん、落っこちてる間に弾幕が出せない空間から出れたんだと思う。コイツのおかげでクッションは何とかなったし……まぁ、とにかくなんとかなった」

 本当は、宙空であるにも関わらず、♂(ディ)ソーダーたちが縁の尻を狙って来て、それを必死に迎撃する内に出せたのだが、流石にそれを言う勇気は縁にはなかった。言ってしまうと、あのナマモノたちの熱い視線と妙に白い液体が肌に触れた感触がリアルに思い出してしまうそうだったからだ。
 今この瞬間に考えるだけでも、あの悪夢のような肢体が心を悪夢への恐怖に誘おうとする。ぶるりと体が震える縁を、燐は心を読まず何故か察することができ、これ以上ナマモノたちに関する追求は自分のためにも止めておこうと考えた。

「それで……何であたいがアンタにおぶさってるのよ」
「あー、それも……なんつーか、偶然?」
「んな偶然あるわけないわよっ!」
「実際あったんだからどう説明しろってんだよ!」

 実際は、落下の衝撃の際、元々中途半端に片腕に抱えた状態だったのが、落下中の迎撃行為で更に離れ、そして最後にはガムシャラな行動によって、強引な着地もあって縁が倒れた拍子に背中に落ちてきたのだ。
 加えて、その後すぐにナマモノたちから逃げる必要性を感じた縁はそのままの体勢で一番燐を運びやすい方法、背負うという形と相成ったわけである。まさしく偶然の産物でしかなかった。
 だがしかし、そうだとわかって易々と理解しないのは、燐の感情だった。理性は理解しているし、尚且つナマモノから追われている状況で仕方なくこうなってしまったのも推測できる。むしろ、こちらが無事なのは感謝すべきことなのだとは、暴れながらに理解できた。
 しかし燐は中邦縁が嫌いだ。だから、こうしていることを身体は拒否し、適当な理由を口が作り出し、両手両足は縁に無理をさせよと動く。

「ウソおっしゃい! どうせホントはあたいの……いつっ!」
「ん……どした、どっか捻ったか?」
「そ、そんなんじゃない……っ」

 その結果が、先ほど覚醒したばかりと同じく、左足首のそれに阻害されてしまうことだった。その明らかな痛みの声と表情に、横目で半分しか見えない縁であっても、燐が痛みを覚えているのがわかってしまうほどだった。

「ったく……ちょっと降ろすぞ」
「あ、勝手に決めないでよっ!」
「うっせ、こうでもしないとどこ怪我してるかわかんねーだろが」

 燐の抗議に正論で持って返しながら、縁は洞窟内に転がる手頃の岩の上に燐を降ろした。そのまま、まず真っ先に痛覚の集中しやすい、かつ自分自身の過去の経験から、万が一怪我をしたら痛みが継続しやすい場所、そしてこの先の探検で少々考え直すかもしれない個所から見る。
 丁度そこは、足首に当たる。捻挫などはそれこそ冷やさなければ酷くなる可能性もあり、まだ飛行ができないのであれば、地底湖で泳ぐこともできなくなるかもしれないからだ。
 ちょっと足見るぞ、と勝手に女性の柔肌に触ろうとする不埒者に対し燐が赤くなって抗議しようとするのも関わらず縁は左の足を取り、そこに手を這わせ、軽く握っていく。その最初の感覚は、マッサージをされているようであり、「ん」という名状し難い吐息が燐の口から洩れた。だが次に縁が手元を少しズラして握ると、燐の足に三度、悲鳴が上がる。

「ここっぽいな」
「だ、だったら力入れないでよ」
「いれなきゃわかんねーだろっと」

 そういって縁は一旦手を放すと、ポーチから水筒を取り出し、更にここまで来てまた傷や汚れが目立つようになってしまった服の比較的きれいな部分を破り、それに水筒の水で濡れさせ、水気を取る。そして結果的に冷えたそれを、燐が抵抗する間もなく足首へと巻きつけた。

「悪ぃな、適当な布がないからこれしかねーや」
「……あんたっていっつも自分の服を千切っては布代わりにするわね。そんなんだから服屋に厄介になることが多いのよ」
「うぐ……っせ、自分でもわかってらぁ」
「っ、てこら、そんなキツく縛んないでよ!」
「ん~、聞こえんなばがっ!?」

 おちょくろうとしてきた縁を無事な方の足で顎を蹴りあげ、燐はそのまま青天になる縁を見て心地よくふんっと鼻で笑った。手加減をしてやったから大丈夫だろう、と顎を抑えながら起き上がる縁を見て、少しストレス発散したと思いながら、試しに浮かぶ、というイメージを抱く。
 この時点で常なら身体は宙に浮かんでいるが、何も起きない。飛ぶことはまだダメか、と半ば予想していた結果にため息をつき、歩くために立ち上がる。瞬間、左足に痛みが走り、顔をしかめる。

「ったく、無理すんなっての。ほれっ」
「……何よそれは」
「何って……さっきみたいにおぶってやるだけだよ。痛いの無理して歩いちゃ余計酷くなるだろが」
「うっさい、これぐらいなら妖怪のアタイは平気よ! 伊達に怨霊扱えるわけじゃないのよ」
「あーそうかい。けどな、それと痛いのは無関係だろ。つか、んな痛そうな顔してる奴が無茶すんなっての」

 背中を向けて跪く縁に、燐は言いようのない苛立ちをまた覚えた。何度も感じる苛立ち、怒り、不快感。その意思が爪を尖らせる。怨霊を呼び出し、縁に襲いかからせようとする。
 だがそれでも、ほらっ、と目で催促してくる縁を見ていると、その隣りにこいしや空の姿が透かすように浮かび、踏みとどまらせる。同時により苛立ちが強まる。それをぶつけるように、乱暴に燐は縁に乗っかった。

「っ……意外と重っぐふっ!」
「次、刺すわよ」
「……へいへい」

 どこかすれ違う二人は、そのままわけも分からぬ、どこに通じているかも知れぬ一本道を歩く。背中の妖怪だけがただ、その心の鬱屈としたものをひたすらに抑えつけながら。




 第十四話『蹴りたい背中』



「ねぇおくう。前から気になっていたけど、おくうって縁ちゃんのことどう思ってるの?」

 燐と縁の二人とはぐれた以降、あの場で待機していてまた同じようなナマモノに襲われかねない危険性を考慮して、仕方なく縁の言った通り先へと進む中、唐突にこいしはグチグチとここにはいない縁に対して文句を言い続けていた空へと問いかけた。
「ふへっ?」といつもの口癖ではなく、心底虚を突かれたとでもいうべき間抜けな顔をして、空はその質問の意図を足りない足りないといわれる頭で何とか受け取ろうとした。しかし、やはり空の頭脳では処理しきれず、ううんと呻いて歩を止めてしまう。

「えっとぉ、こいし様、もう一度いいですか?」
「おくうは、縁ちゃんのこと、どう思ってるの?」
「え、それは勿論……うにゅ?」

 すぐに答えようとして、しかし明白な、たったひとつのシンプルなものが頭に浮かばず小首を傾げた。そのままうんうんと唸り、必死にこいしの言葉への答えを自分の中から捻りだそうとするが、だが元々記憶力に乏しい空にはそれに当てはまる語彙はなく、空気を掴むようなものであった。
 だが、そうではないと思う自分がいると、空は思った。それこそバカな話だ、そう考えていたからか、横で聞いていたさとりが二人の間に割って入ってきた。

「……こいし、それは別に今聞くことではないでしょう?」
「そうだけど……ただ、ずっと気になってたんだ」

 さとりを見ずに、こいしは空を見つめる。閉じられているはずの第三の目が、うっすらと開こうとしている。そのことにさとりが僅か、しかし必死に抑えようとする驚愕を尻目に、こいしは三つの目で空の心を確かめようとしていた。その詰問の如き調子に、空は余計に言葉に詰まる。

「ねぇ、おくうは……縁ちゃんのこと、好きなの?」
「はへっ?」
「っ!」

 また突然にわからない、理解し難い言葉で問われ、空はまた言葉を失った。だが同時に、それは先ほどよりも明確な、分かりやすい表現を用いられているので、空でも数秒の時間をかければ、何とか理解できるものであった。だから、言葉はつっかえつっかえながらも、声として、あふれ出てくる。

「うにゅぅ……えっと、そういうの私はよくわからないんですけど……ただ、縁の傍にいると、すごく楽しいんです!」
「楽しい? ならわたしと同じだよっ」
「はい、楽しいんです。心がポカポカして、それで、えっと、そのまま長く一緒にいられたらなって思って……うにゅ……それだけです」
「……う~ん、それだけ? ほんとーに?」
「はいっ!」

 最後の最後には、それだけをはっきりと答えられた。鳥頭の空には好き嫌いの区別は大まかにしかわからない。だから大別すれば、今の空にとって縁は十分に好きの部類に入った。だから空は、そうとわかるよう、最近はよく一緒に縁といるこいしに、嘘偽りなく告げることができた。こいしはその答えを聞いたままの体勢でしばらく空のことを見つめると、「そっか」と一言だけ零した。
 そうして何事もなかったように、いやより細かく見れば話しを始める前よりもどこかすっきりした顔で二人の先頭に立ち、空の手を引いた。

「ほら、早くいこっ」
「えっわっ、引っ張らないでくださいよこいし様~」
「お姉ちゃんも早くっ!」
「……ええ」

 さとりが答えるのを聞きながら、空はこいしに引っ張られる。しかし途中、こいしは空はただ一言、はっきりと笑顔で、そして片手で空の顔を指さしながら、告げた。

「今日からおくうをわたしのライバルに認めますっ!」
「……うにゅ?」
「ん~、そこでちゃんと答えてくれると嬉しかったんだけどなぁ……まぁおくうだし、いっか」

 そういってこいしは笑った。おくうは終始疑問符を頭の上に浮かべたままで、更にこいしは笑った。
 その後ろでは、さとりが一人、第三の目を片手で、こいしたちには見えぬように抑えていた。

「……何かしら、これ」

 形容し難い、それこそ数多の他者の心を読み取ってきたさとりは、自分の中に生まれた感情に、わずかな戸惑いを覚えていた。




 燐を背負ったまま歩き続ける縁は、次第に白い、アスファルトかアクリル、リノリウムにも近い材質の地面が増えてきたことに気づいた。カンカン、と明らかに土を踏む音と感触ではないそれに縁は不可思議さを覚え、いい加減溜まり溜まってきた言葉が「なんじゃこりゃ?」という形として出してしまった。

「どうしたのよ?」
「ん、ああ。さっきから地面が変っつーか妙でさ……」
「変? 妙? 何がどうよ?」

 背中越しの燐の問いかけに、すぐに思い当たることを伝えようとしたが、しかし果たして自分の知る固有名詞が通じるか、という疑問に駆られて、内心で言葉を探し、口ごもりながらも何とか声として出す。

「なんつーか……俺の元いた世界のもんっぽい」
「はぁ、何それ? つまり外の世界のものってこと?」
「かもしんないってだけだよ。俺だってこんな真っ白なの、病院ぐらいでしか知らないっての」
「病院って、前にアンタが言ってた診療所みたいな場所のこと? こんな壁や床だったら、普通病気って酷くなるんじゃない?」

 ナニカサレタヨウな漫画雑誌を一人率先して読むだけあって、燐はよく縁に外の世界についてのことを質問し、そこから会話なり喧嘩なりに発展することもあるが、施設関係についてはそれなりに知識を持っていた。
 だからか、ついその実物に近いものを見て、印象的な感想をそのまま吐露し、縁もそれに応えようと、うーんと頭を捻らせ、それらしいことを思い出す。

「なんか知らねーけど、人間にゃ色の違いで感じる感覚が決まってるんだとさ。そこら辺の感覚は妖怪は違うんじゃねぇか? つかそもそも俺に聞くな」
「むっ、何よ。別にこれぐらいいいじゃない、若いうちからそんなケチだとハゲるわよ」
「んな、誰が言うことかいてハゲるだこの猫娘っ! 毟んぞ!!」
「はっ、やってみなさいよ!」
「だー! こら暴れんじゃねぇ! つか爪尖らすな押し付けるなあと当たってんぞコノヤロー!!」
「………っ!」
「ぎ、ギブギブッ! く、首絞めんなぁぁ……」

 先ほどから実は感じていた、空に比べれば控え目な、しかししっかりと自己主張をする二つの物体の感触をポロリと零してしまった縁は必然的に致死性の高い処罰を受けることとなった。
 羞恥から顔を赤くした燐は、今すぐにでも皮も被らぬ間抜けな狼の背から逃れたかったが、しかし未だ飛ぶことはできず、しかも足首の痛みも先ほどよりは引いてはいるがまだ存在し、動くに動けず、仕方なく狼の手綱を両手で絞めつけ、適当なところで離してやることしかできなかった。

「……あ~、死ぬかと思った。おめー、手加減って言葉知らねぇのかよ!」
「ジュ~ブンしてるわよ。そもそもアンタなんて、あたいからしたらモロ過ぎ。手加減の方が難しいわよ」
「~~っ、んなのわかってるっての。つーかそのことはオメーがいっつも言うことじゃねか」
「……そうね、ほんと……硬いのはその腕だけよね」

 縁の言葉に、いつもならすぐさま変化球か直球ストレートの返し文句をしてくる燐の、そのあまりに唐突な弱弱しい愚痴染みた呟きに、はてどうしたのか、と縁は心中で零し、顔の表面にしみ出す。更なる返し文句としてバントかヒットエンドランを用意していた縁としては締まりが悪く、だからつい、不用意な言葉を選んでしまった。

「おい、本当にどうしたんよ。まだケガが痛むのか? それともやっぱ、アイツらと一緒の方が……」
「……っさいわね」
「あっ? っつ! 爪立てるなって言ってんだろ!」
「うっさいって言ってるでしょ!! あたいの居場所を奪った張本人のクセに!」
「はぁっ?! 何言ってんだよ!」

 突然癇癪を起したように喚きだす燐。縁としてはそれは正しく癇癪以外の何物でもなく、しかも言われもないことを押しつけられているようで、自然と顔が厳しいものへと変わり、声にも先ほどとはまた違った怒気が混じってしまう。だがそれよりも遙かに大きな声で被せ掛けるように、燐の叫びは続いた。

「アンタがくるまではねぇ、あたいが屋敷の中を明るくしていたの! こいし様のこともあの三匹の次くらいに見てた! バカなおくうのフォローもした! さとり様の遣いも何度もやった! 屋敷の他のペットたちのまとめ役もした!! 全部あたいがやっていた……あたいしかしようとしなかったことなの、それを勝手にやってきたアンタがぐちゃぐちゃにして! おくうやこいし様に取りいって! あたいの居場所を……」
「……っんなわけのわからない話してんじゃねぇ! 誰がいつお前の居場所を……」
「してんのよ! アンタの隣りにいつも誰がいるのか思い出してみなさいよっ!!」
「んがっ!?」

 言葉に込められた思いを全てぶつけるように、ドン、と背中を思い切り打たれ、不意打ちにも近いそれに縁は耐えきれず前へとつんのめってしまい、前のめりに倒れ込んでしまう。そのことを予想していなかったのか、燐もまた「にゃうっ」という悲鳴をあげて、元々がおぶられる形もあってか、縁に重なるように倒れこむ。だがその衝撃ですぐに横に転がり、鼻をぶつけてしまう。

「つ~~……」
「う、うぅ……何よ、なんでよ……こんなことばっか……」
「お、おい、大丈……燐?」

 額をぶつけたことでじんじんと痛む頭を抑えながら縁が横を向けば、鼻を赤く、眼尻に涙を溜めた燐がいた。最初は鼻をぶつけたせいかと考えたが、しかし声の震え方と、そして髪を前へと垂らすその姿に、常の燐の姿を見ることができなかった。
 縁は知らない。燐の中で積り積ったナーバスな感情が鼻をぶつけるという痛みにハレーションを起こし、無理やり抑えていたそれがダムの決壊のように溢れだし、爆発しそうになっているのを。
 なまじ、痛みの原因が負の感情の原因とも言える人間と、その人間に無様な自分を見られたこと、そしてこうなったことが半ば自業自得であるだけに、正しく氾濫の如く感情の高ぶりは顔の表に流れてきそうだった。いや既に燐の顔にあるパーツからは鼻水とも鼻血とも言える液体が流れ出し、きつく閉じられた目からはぼろぼろと涙が落ちようとしていた。

「あたいは……っ、ただ、昔みたいにっ! 四人でいたかっただけなのに! 別にこいつなんていらなかったのに! どうしてよ……っ……どうしてアンタなのよ……」

 独白にも近い言葉。激しくなるかと思えば、すぐに蚊のように小さな声と嗚咽。縁はその燐の顔を見て、声を聞いて、何も答えられなかった。彼女がこうやって泣き叫ぶ原因は全て自分が来たことに、そしてガムシャラになって行ってきたことに起因している。ここでもし、彼女に言葉をかけても、それはくだらない道化にしか過ぎず、無責任な人間のただの一例にしかならないだろう。同情すら門外漢だ。
 言葉はある。それは喉元までくるが、しかしそこで止まってしまう。縁自身、わかってしまっているからこそ、何も言えないで、何かを言いたい、それでも堪えるよう歯を噛み、燐に聞かれぬよう息を吐き、汚れていない服の部分を破いて、燐に差し出すのだった。

「………なによっ」
「……拭けよ、じゃないと、その……俺の服が汚れるからさ」
「……最っ低! 何か、言ってみなさいよ!」

 縁の手から元服だった布切れを奪い取り、燐はちーん、と鼻をかんだ。それを見計らって縁はまた燐の前にひざまずき背中を見せた。そのことに、厚顔無恥とも言える縁の態度に燐はまた顔を赤くし、縁の背中を右足で一度蹴った。
 何すんだ、と縁が振り向き怒鳴ろうとするより前に、燐はまたその背中に乗った。変わらず、顔は見えない。縁はそこで、燐が少し落ち着いたのを感じ取り、やはり、自分自身の主観を、言葉でしかない言葉を言おうかと、口を開こうとした。
 その時、不意に音が聞こえた。一瞬、それぞれの心中に思考を広げていたそれはただの雑音のようなものにしか認識しなかったが、次いで、またアレが来たのか、と思い背後を振り返った。
 だが背後にはヒカリゴケの光しかなく、あの怪物たちの姿は見えなかった。ならばどこから、と前を向くと、そこには先ほどまでは気づかなかったが、如何にもな扉があった。問題はそれが、幻想郷、縁が見た中では地底世界にはありえない、スライド式のドアだったということだ。
 縁たちが歩いて近づけば、ピーという、燐には聞き慣れぬ機械の音とともに、圧されていた空気の抜ける音、そして、一人でにドアが壁の中へと滑りこんでいった。

「ちょっと……何これ……」
「自動ドア……おいおい、どういうことだよっ」
「自動ドアって……もしかしてあのコードオルカによく出てくる……アンタの世界の、アレ?」
「ああ、それだ。自動ドアって幻想にはまだなってないはずだろ、どうなってんだよ……」

 互いの疑問を口々にドアのあった場所を通る。そして少し歩けば、正面にまた別のドアがあるのが見えたと同時に、背後のドアがまた独りでに閉じた。ここしばらく見ていないからか、それとも漂い始めた不気味さがそうさせたのか、縁の体はぶるりと震えた。燐の体も同時に震えた。はっとなって、互いの顔を見た。

「なによっ」
「何だよ」

 先ほどまでのこともあってか、その先が続かない。顔を正面に戻して、次のドアが開いたところで、その先へと行く。

「うわぁ……」
「なんだ、これ……」

 そこに突如として広がる光景に、二人はたまらず声をあげていた。
 そこはただひたすらに広かった。側壁全体が丸みを帯びて天井へと連なり、さながら昆虫の複眼のように小さなモニター一つ一つが赤い光と黒い光を交互に出力しているという奇妙な場所であり、またその天井までは地霊殿の一階から最上階までの高さよりもやや高い。
 そしてその中央、丸みのある側壁に囲まれるように、一本の大きな道のようなものがあった。むしろそれは不透明で角ばったガラス管とでもいうのか、やや光沢を持っている。そして最後にこの空間全体を表するならば、電極が中央に通るカプセル、と評するべきだった。
 端の端にある出入り口からでもそうと言えるほどに、単純であり、目が痛くなる場所だった。

「……まさか」
「ん、どうしたんだよ?」

 呆けたように天井を見上げていた燐の呟きに、同じような顔をしていた縁が拾い上げる。それに応えるように、燐が一旦視線を落とし、やや問い詰めるように口を開いた。

「ねぇ、アンタの……外の世界でこういう場所ってあった?」
「……少なくとも、ニュースとか研究所とかにあった写真にはなかったな」

 縁の頭の中には一瞬、粒子加速装置である巨大な環状施設のことが思い浮かんだが、それこそこのような構造ではないだろうと切り捨て、はたまたアメリカの某エリアの内部はこうなのではないか、とも妄想ともつかないことが思い浮かぶが、そうなると幻想郷はアメリカにも通じていることになるので強制的にカット。
 そのとりとめのない縁の想像を無視し、この場所のインパクトもあってか、燐は淀みなく無知な人間に対して言葉を続ける。

「幻想ってのにはね、アンタたちの世界ではまだ考えられているだけのものも含まれてるって、前に誰かに聞いたことがあるわ。だから、もしかしたら……」
「……何だよ、じゃあここはなんかの……それこそ未来にあるかもしれない場所ってことかよ」
「そこまでは言ってな……」
『侵入者感知。排除せよ』

 燐の言葉が、空間そのものに響き渡る声に遮られた。その声は女性的なものであったが、しかし生気というものを一切感じられず、縁には声の形をしたただの音、ノイズのようなものにしか感じとれなかった。元いた世界のアナウンスでも、まだ人らしさを感じられたと覚える。
 この奇妙な音に慣れていない燐はたまらず耳を封じ、音がどこから出されたのかを探そうとした。縁はそのアナウンスの意味を理解した途端、それが自分たちのことではないかと推測し、何が起きるのか、と周囲を見回す。
 そして、発見は同時であった。

「何、あれ……」
「ロボッ……ト?」

 二人が見上げる先に、それはいた。全高は目測で恐らく縁の二倍、三メートルは優に超えているだろう。人の姿をした、人とはまったく違う鋼鉄の五体。人間と同じ二つの目を光らせる平たい頭部から背中にかけて尻尾のように長く伸びる突起物が生え、両手は手の形をなしておらず、先端にかけて筒のように穴が開いていた。そしていかなる力が働いているのか、少なくとも縁が感じる中で霊力の欠片もなしに浮遊していた。

『ハイジョ……』

 そしてどこからか聞こえる、先のアナウンスよりも遙かに機械然とした合成音声が響くと同時に、その両の筒の先が縁たちへと向けられる。危機管理能力そのものとも言える悪寒が全身を奔り、縁は燐を背負ったまま、真横へと走り出した。その直後、筒の穴が光る。光った瞬間、丸い球体のようなものがそこから発射されたかと思うと、瞬きをする間に、数瞬前まで縁たちがいた場所を二つの光球は焼いていた。
 
「レーザー?! つか問答無用かよっ!!」
「何よ、また厄介事!?」
「知らねぇよ! けどさっきのアレの言う通りだと……」

 縁の走る軌跡を追う様に、両腕の筒、銃口から次々と光の弾が撃ち放たれ、さながら猟犬のように二人の侵入者を追い立てる。事実として、縁は後退という選択肢を頭の中からはずし、どうにか反対側にある、もう一つの出入り口へといけないかと模索する。

「俺達はアイツの縄張りに入ったってことじゃないのか!!」
「なによそれっ!」

 燐が叫ぶと同時に、縁の言うロボットはそれこそ妖怪や妖精のように音もなく宙をふわりと、それこそ木の葉のような自然体で動き、縁たちへと光球を連射しながら迫る。それを見ながら、逃げながら出入り口を探すのは危険だと縁は決める。だがそうと決めても、果たして飛べない状況であの如何にもなロボットを倒せるのかどうか、という戦闘への思考が動く。
 その思考を深める内に、ロボットの両足の脹脛(ふくらはぎ)に当たる部分が開き、その中には先端に丸みを帯びた物体が目を光らせた。そして、射出。両足から一発ずつ、計二発同時発射のそれが次々とロボットの頭上で弧を描き、地上を走りまわる縁へと照準を定める。

「っ、ミサイルかよ!」
「さっきのアレ!?」

 糸を引きながら迫るそれに、燐は先ほどのナマモノが出したものと同類のものであることを察し、走る縁の代わりに怨霊を呼び出す。怨霊たちは燐の思念に従い、即座に高密度の弾幕を展開し、その中へと突っ込むミサイルたちをハチの巣にする勢いで撃ち抜き、炎の花が一瞬にして守護者と縁たちを遮った。

「ぬわっ! おま、見えねぇじゃねえか!」
「だったらあのままにしとけっていうの! そんなんだったらアンタは別にいいとして、飛べないあたいが危ないじゃないッ!」
「俺のことはそんなんかよっ!?」

 縁がいつもの調子を取り戻して叫び返した時だった。どんっ、という大砲の火薬が爆発する音とともに、何かが爆炎を貫いて迫ってくる。そちらに目を向けた時、熱気がカマイタチの如く頬を撫でた。爆炎を貫いてきたのは、それを凝縮したような巨大な火球だった。息を呑む、同時に右腕が条件反射的に動き、第三の腕を顕現させる。第三の腕が火球に触れた瞬間、ミサイルの比ではない爆発が火球から巻き起こり、周囲に爆風と熱気、数多の破片をまき散らす。
 悲鳴を上げる暇もなく身体が第三の腕を跳び越える衝撃に押され、防ぎきれない火焔が縁の体を撫で、燐の髪を焼いた。そのまま倒れ込む二人に、後頭部の突起を頭部を内部へと格納し前方へと突き出した守護者は追い打ちとでもいうように、更にその突起の先端から火球を二発放つ。燐と縁は同時にそれに気づき、縁は右腕を、燐は怨霊を前へと突き出した。再び爆発が赤い空間をより赤く彩る。

「このっ!」

 初撃とは違い、怯むことなく燐が怨霊を呼び出し青の弾幕が展開される。しかしそれと同時に、守護者もまた両腕の銃口からパルスレーザーを乱射、怨霊も含められば手数の多いはずの燐の弾幕を、その弾幕展開速度よりも遙かに速く撃ち続けることでで、燐の弾幕を打ち消そうとする。
 チッ、と舌うちをする燐が懐からスペルカードを取り出した直後、ロボットの胸部が上下に、顎を広げるように開かれた。その内側には新たな銃口が赤い光を反射し、紅色の放電を発したかと思うと、鮮血と同じ色をした、両腕より放たれるそれよりも数倍巨大な光弾を解き放った。
 スペルカード宣言が間に合わない、燐の弾幕が紅色の凶器に意に介さず突き進み直撃するかと思った直後、真横から藍色の拳がそれを殴り飛ばした。

「……プラズマまでブン殴れるのかよ、これ」
「っ、ちょっと、邪魔しないでよっ!」
「はあっ!? 今のヤバかっただろお前! 当たってたらいくらお前らでも死ぬぞっ!」
「うっさいわね、そんなん平気よっ!」

 縁が触れることができないはずの存在まで殴り、弾いたことに自ら感嘆する間もなく燐は不自然な悪態を吐き出し、スペルカードを眼前に放る。

「押し潰すっ! 『妖怪「火焔の車輪」』!」

 宣言。同時に解き放たれた妖力は焔を形造り、それは車輪にも似た赤と青の輪を作ると思うと、バラバラに分解され、熱気と共にロボットへと殺到する。形は違えど十一の弾幕に似たそれに対し、守護者は最初の数発に呑み込まれ、姿が見えなくなった。
 だが即座に爆炎の中から四つの砲門が伸び、一斉射によってその弾幕を押し返していく。妖力と科学がぶつかり合うたびに対消滅を起こし、相殺し、爆炎が次々と巻き起こる。言葉通り物量によって押し潰すが如く燐は更に車輪の密度を上げていくが、それに平然と、焦げ跡一つない守護者はついていき、ついには間隙を縫って燐の真横へとパルスを抜いた。
 同時に、びしりとスペルカードに罅が入る。

「っ……!」
「おい、燐っ!」
「まだよ、まだいけるっ。これぐらい……!」
『ハイジョ……ハイジョ……ハイジョ……』

 火焔とプラズマの花弁が広がる中、守護者は唐突に射撃を止め踵を返し、ふわりと舞い上がった。逃すか、と燐が車輪によって守護者を包囲しようとするが、その直前に守護者はミサイルを放ち、手薄となった燐へと降り注がせる。
 スペルカードを仕舞い、常の調子でそれを避けようと身体を動かそうとした時、燐の左足に再び痛みが走り、無理に動こうとして倒れ込む。見れば、先ほどのパルスレーザーの熱にやられたのか、縁が巻いた服の切れ端が焼き切れていた。そこから覘く足首は痛々しげに腫れている。
 弾幕の撃ちあいで忘れていた痛みが今になって悲鳴をあげてきたのだ。その一瞬の怯みの内にミサイルは燐へと迫る。殺傷を目的としたミサイルは例え妖怪が相手だろうとその威力を遺憾なく発揮するだろう。それは先ほど迎撃した際に巻き起こった爆発から容易にうかがい知れる。
 死にはしない、だがこれを受け動けなくなった所を、あの炎よりも熱い光の弾によって何度も貫かれ焼かれるのを想像すると、自然と身ぶるいした。
 嫌だ、燐は呟いた。常の燐ならばこのようなことは言わなかったろう。だが自然淘汰にも似た、弾幕ごっことは違う死を無機質にさせる闘争と、燐自身の精神がナーバスな状態になっていたことが、妖怪として決して感じてはいけない、己の死を認識しようとしてしまった。
 精神の死は、妖怪にとって存在の消滅に繋がりかねないのだ。

「俺を、忘れんじゃねぇ!!」

 だからこそ、背後から聞こえていた声と、飛びだしてきた影に心底度肝を抜かれた。
 縁は右腕と第三の腕で燐と自分を守るように覆うと、左手を突き出した。親指を突き立て、人差し指は突き出し、その下の三本は丸める。輪ゴム鉄砲の形。しかしそこに装填されるのは輪ゴムなどではなく、縁の霊力に攻撃性を持たせたもの。
 頭の中で銃のトリガーをイメージする。そこに左手を重ねて、親指という照準機にターゲットを合わせる。時間がない故にほとんど勘で行い、引き金を引く。同時に人差し指という銃身から飛び出したのは、藍色の、それこそ銃弾にも似た球だった。だがその速度は本来初速から音速を超える弾丸よりは遙かに遅く、しかしそれでもミサイルを迎撃するには十分な速さをもっていた。一基撃ち抜くが、しかし次々とくるミサイルを相手に、縁は更にトリガーを引き続ける。
 百発百中とまではいかないが、それでも殆どのミサイルを撃ち落とし、縁の左の弾幕を抜いてきたものを、右の弾幕で殴り飛ばす。
 そして全てのミサイルを迎撃したところで、上を見上げる。しかしそこには既にロボットの姿はない。見失ったかと焦る気持ちと同時に、縁の中に一瞬の安堵が広がり、力が抜けた。
 ふぅ、と深い息を吐きだし、左手から霊力を消した。実戦で左手の弾幕を使うのが初めてであることもあったが、同時に縁の世界において未だ架空のものであり、またもっともリアリティのある兵器が眼前まで迫り、それを撃ち落とせたということが主な原因だった。縁が過去の常識を持ったままだったら動けもしなかったが、こちらに来てからの非常識な弾幕を何度も浴びた結果、耐性がついたおかげだった。

「……助けないでよ」
「あっ?」

 急に静けさが訪れた空間に、燐の呟きが響く。姿を隠しただけであろうあのロボットへの警戒心も忘れて、縁は無理やり立ち上がろうとする燐へと振り向いた。

「手を出さないでって……言いたいのよ」
「はぁ? んなことできるわけねぇだろ」
「うっさい! ここでアンタに助けられちゃあ……あたいは……惨めになるだけじゃない……」
「んな……今更そういうこと言うかあ!?」
「うっさいうっさいうっさい黙れ人間!! あたいはねぇ……アンタが嫌いなのよ、アンタを認めたくないのよ……だから、アンタを……」
「……ふっざけんじゃねぇ」

 先ほどとは違い、今正にこの瞬間にも命の危機に晒されているからだろう。そしてまた、燐の言い分があまりにもこの場を考えない、身勝手なものであったからかもしれない。それを何度もぶつけられ、縁自身、もはや耐え切れなくなっていたせいもあるやもしれない。だが事実がどうにしろ、縁の堪忍袋が切れたのは間違いなかった。

「んな泣きごとなんてこちとら聞きたくなぇんだよっ! 大体なんだよさっきからあたいはあたいはって! どっかのスイーツかよお前は!」
「っ……ざっけんじゃないわよ! 意味わかんないけどあたいのことバカにしてるってのはわかるのよっ! ふざけてんのはアンタでしょっ!」
「ナマ言ってんじゃねぇ、ふざけてるのはお前だろがッ! こんな時までイジけてやがってよっ!! そんなに俺が気にいらなけりゃ、無視しときゃいいだけの話じゃねけか!」
「そんなバカで単純なこと言ってるんじゃないのよ! そんなことしたら、あたいは……」
「っ、それがイジけてるって言ってんだよっ! 誰がお前をいらないなんて言ったっ! 少なくとも、俺にとってお前は……」
 
 悪寒という直観が言葉を妨げ、縁に防御姿勢をとらせた。第三の腕で真上からの、電極のような施設をぐるりと迂回してきたロボットの三点射を防ぐ。一歩遅れて、燐も反応する。
 だが、身体を捩らせた拍子に左足に負担をかけたのか、キツク眼をしばる。その燐に一瞬目をやり、次いで牽制の霊弾をバラまく。ロボットはひらりと回避、その合間に胸部ハッチが開き、プラズマ砲が縁の藍色の腕を焼いた。衝撃、むしろ負荷が縁にまでフィードバックし、第三の腕が霞のように解けかける。
 その隙を突くかのように守護者は動きを止め、四門の砲を一斉に展開した。だがそれよりも早く縁が第三の腕を巨大化させ、今まで以上の霊力を集中させる。
 直後、数多の科学の弾が縁の第三の腕に殺到し、気を抜けばすぐにでも第三の腕が霧散しそうになるのを、縁は歯を食いしばり耐える。それと共に、怨霊を呼び出し、今すぐにでも弾幕を展開しようとする燐に対し、たった今気づいたことと、そこから即座に考え付いたことを言葉に変える。

「おい、燐! 俺をアイツのとこまで飛ばせるかっ!?」
「何言ってるのよっ! そんなふざけたこと言って……」
「違う、よく見ろ! アイツはあの体勢になった時まったく他のことしないだろっ! だから、俺が直接地面に引きずり降ろせばっ!」
「ばっかじゃないの、アンタ! 生身の人間が弾幕の中を無事に……そもそもアンタじゃ、傷一つつけられないでしょっ!」
「それはさっきのお前も同じじゃねぇか! 今のお前じゃ多分、アイツの装甲をブチ破れねぇだろ」

 縁の言う通り、燐の弾幕は例えスペルカードで持ってしても傷をつけらなかった。それは先ほどの『火焔の車輪』で証明されている。燐もそのことには気づいているのか、ぐっ、と声をつぐんだ。だがそれでも、縁をただ飛ばしただけではあの奇妙な人型に致命傷を負わせることも、ましてや傷をつけることもできはしないだろう。そもそも、燐のスペルカードと拮抗してみせたあの弾幕を掻い潜る必要もあるのだ。
 それを見越して、縁は今にも負荷に負けそうになる右腕に必死に霊力を集中しながら、ただ一度、頭を下げる。

「頼む、信じてくれ! 俺が嫌いだっていうならそれでいい、けど今だけは……」
「っ………何よ、勝算はあるっていうの?」
「ある、コイツで」

 そういって無謀な人間が取り出したのは、一枚のスペルカード。だがそれは以前から使っているものではなく、縁が左手の遠距離戦用弾幕と共に作りだした新たなスペルカード。
 本来の弾幕ごっこに倣わせるように、十一の協力の元つい先日ようやく完成をみたものだ。その存在自体は教師役をやっていた燐も知っている。だからこそ、果たしてそれだけでいけるのか、という懐疑もあった。
 
「……それ、使えるの?」
「ああ。けど正直言えば、アイツに取り付かないと意味がねぇ」
「わっけわかんないわよ! それも弾幕でしょ、だったら……」

 燐が怒声を浴びせようと瞬間、その視界にミサイルという火薬と鉄で出来た狗が解き放たれるのが映った。怨霊を前面に展開、雨霰というように降り注ぐレーザーとプラズマにも抵抗しうる弾幕を瞬時に張り、更に怨霊が撃ち落とされた瞬間に、その内側から更に弾幕を射出するようプログラムする。しかしそうであって、単純な火力の差と高低のアドバンテージもあっても、怨霊は次々と撃墜されていく。
 縁の藍色の腕も、もう限界を迎えようとしている。だからこそ、今、決断しなければいけない。
 だがそうであるのに、その判断を求める状況とは裏腹にぐちゃりぐちゃりと燐の中で感情が混ざり合う。突然このようなことを提案してきた人間に対しての侮蔑とさい疑、先ほどから感じている嫌悪。燐はほとほとこの人間を嫌う材料を持ち合わせていた。だが同時にこういう土壇場でのこの人間の爆発力を知っているということだ。それはあのこいしとの戦いの時にわかっている。だから、それを信じようと思えば信じられる。
 それについ数分前まで何度もいがみ合っていた男が頭を下げたのだ。いくら、決して義を重要視しない妖怪とはいえ、燐という個人はそのことに驚き、感心し、揺らいでいる。それでも燐は、今一歩踏み出せなかった。どうする、どうする、と頭の中で自問が跳ねまわる。
 そうしてそれが容量最大まで膨れ上がろうとした時、ふと、あることを思い出し、言葉にした。

「ねぇ人間……あんたさっき、なんて言おうとしたの?」
「っ……あっ、何のことだよ?」
「だ・か・ら! 少なくともあんたにとって、あたいは何なのよ」

 窮地を迎えたが故に先ほどまで何度も熱せられた頭が真逆、強制的に冷やされたせいかもしれない。普段の、それこそこの人間を前にした燐ならば、そのような言葉は決して言えなかった。だが今、決してそれを尋ねる状況ではない、ということを燐は客観的に理解していた。ならばまだ自分は頭が熱せられているのだ、と思っていると、縁は少し悩んだ素振りをして、言いにくそうに答えた。

「あー……あいつらの抑え役で、一緒にツッコむ仲間で、それと……」
「それと?」
「……気の合う女友達。だーもう! 要はお前があんな風に悩んでるのは筋違いだって言いたいんだよ! お前がいないと空とこいしは俺だけじゃ抑えられないんだよっ!? つーかお前はあいつらの引っ張り役なんだろ! 後であいつらに自分で聞いてみりゃーいいじゃねーか!」

 途中から喚き声になっていた縁の言葉に、燐は一瞬、弾幕が飛び交う場所であることも忘れてぽかんと口をあけて呆けると、そっか、とだけ呟いて力を抜く様に息を吐いた。正しく力が抜けるようであり、何度も言われた盲点を一度に全部丸ごとぶつけられたようだった。だからこそ、頭の中が、今はそれでいい、と切り替わる。
 ばちん、と己の手で己の両頬を叩く。清々しい音は、例え弾幕同士がぶつかり、火焔弾やミサイルの爆発音の中であっても、この広い空間に響き渡るようであった。
 そしてそれを成した燐の目には、弱気という二文字はない。

「やれるの?」

 輝く赤い眼で持って、縁へと問いかける。だからこそその変化を、縁が知らない、もっとも燐らしい燐への変貌を目の当たりにした縁は、不敵な笑みを作って、ああ、と頷いた。
 燐はそれに頷く間も惜しむように、また新たな怨霊を呼び出す。それは縁の右腕と第三の腕の間の僅かな隙間を埋めるようにびっしりと広がり、ない両腕をぐーんと伸ばすように炎のように揺らめく身体を両横に広げていた。そして燐はそれを確認した後、おもむろに縁の左腕をとる。

「投げ方はシンプル、アイツのとこにアンタを左手軸にブン投げる。アンタがその腕を解除した瞬間はあたいの怨霊たちでカバーする。そっちはそっちで何とかする。これでいい?」
「最っ高にシンプルで助かる。それじゃ」

 一、と燐が呟き、第三の腕を一時的に解いた縁を後ろに持っていく。左足に痛みが走るのが、我慢。
 二の、と縁が言うと、燐が怨霊たちに一斉に弾幕を展開させ、縁はスペルカードを口に入れ、噛みしめた。
 三! と二人が叫んだ直後、燐は縁を守護者目掛けて放り投げた。
 放物線を描く様に縁は正体不明のロボットへと飛んでいく。そしてそれを一つの弾幕と認識したのか、守護者は頭部から伸びるロングバレルを向け、死神のキスすら焼き尽くす火焔を撃ち放った。だがそれは縁にとって予測の範囲内だった。迎撃されることを見越して、風圧に耐えながら、既に第三の腕を、リンクしている右腕と一緒に持ち上げている。体勢は強引に投げられたせいか安定しない、だがそれでもやる。
 
「っああああ!!」

 迫る火球目掛けて、第三の腕を降ろした。だがそれは叩き下ろすような力強さは持ってはおらず、体操選手が台へと手を置く様な感触に近かった。事実、縁はある一つの確信の元に、それを行ったのだ。
 この第三の腕は、理屈は不明だが、弾幕であろうと幽霊であろうとプラズマであろうと触れることができるということを。
 それ故に縁は正しく体操選手のように体を捩らせ、火球を踏み台のようにし、また一段高く飛んだ。その反発力によって火球の狙いはそれ、この空間に伸びる中央の施設の上部へと直撃する。縁はそれを見ることなく、宙で一回転しながら、守護者の上を取る。
 まだだ、と縁が思考をした瞬間、守護者の残る三つの銃口が縁に向けられた。それはさすがにマズイ、と懐からスペルカードを取り出そうとした直後、ロボットの四肢の周囲に突如として獣のように顎を開いた怨霊が出現した。そして怨霊たちはその大口に違わず守護者の両手両脚に食らい付き、強引に縁への狙いを逸らした。

「『恨霊「スプリーンイーター」』借り一つよ」

 その言葉は縁には届かなかったが、しかしそれが燐がやったことだと察することはできた。借りだな、と縁が内心で感謝の言葉を落とすのと同時に、胸部のプラズマ砲が火を噴く。第三の腕を斜めに構え、その直撃を阻止。プラズマが通り過ぎた空間の熱が縁の髪と皮膚を焼く。それでも重力に従い、そして己の意思をそこに介在させ、縁は守護者の元へと落ちていく。
 そして。

「おぉぉぉらぁぁぁぁぁぁッッ!!!」

 着弾。同時に、ストレートパンチ。
 今まで以上の霊力を集中させた上、落下の分の加速エネルギーも込められたそれは頭部の砲身を真っ二つに折り、更には縁の倍以上あるその巨体を仰け反らせた。だがそれだけでは、このロボットは墜ちない。ストレートパンチの形となる第三の腕を開き、巨体を掴む。そして第三の腕を引っ張り、しかしそれが動かぬ故に引っ張られる形で縁はロボットへと取りついた。
 こうなれば守護者はその巨体、火器の取り回し故に縁を焼き滅ぼす術を持たない。身体を振り回し、強引に引きはがすだけだ。事実としてロボットは弾幕の展開を止め、急加速と急ブレーキを何度も行い、そして人型であるはずなのに縁の知る最先端戦闘機でもできないようなマニューバを繰り返し始めた。
 その揺れ一つ一つに縁は振りほどかれそうになる。だがしかし、両手両足で力の限りその無機質の身体にしがみつくのを止めない。同じ機械のはずの右腕が軋む音がする。それでもやめない。そしてしがみ付きながらも、縁は移動する。ロボットの胸部へと。
 縁がとり付き、弾幕の展開を止めて坐りこんだ燐は、ようやく縁の狙いに気づき、あっ、と声を上げた。そしてまた守護者も、縁が胸部に近づくのを感じ取ったのか、プラズマ砲のハッチを開いた。

「そいつを……」

 だがそれこそ、縁の狙い。

「待っていた!!」

 即ち内側への直接攻撃だった。

「『散光「ディアスポラカノン」』」

 左腕を拳の形のまま、その砲口へとつき入れる。そして歯で抑えていたスペルカードを零し、宣言。その直後に、拳を包み込むように霊力の光が生じる。それは一瞬にして弾幕となって周囲に広がると、瞬く間に収束し、拳を包み込むような巨大な一つの弾丸となった。それが拳を開いた瞬間、真正面へと撃ち出される。そしてその先にはプラズマを収束させるための装置、その奥にはこの無機質の体の心臓とも呼べるジェネレーターが脈打つ場所。そして直前まで縁がくることに対しプラズマがプールされようとしていた、その結果起きるのは、内部から逆流だった。
 
「よっしゃっづあっ!」

 スペルカードを撃ちだした瞬間、その反動で左腕を引き抜いたが、しかしその反動が強すぎたのか、左手は焦げ、鍛えているはずの肩もはずれる。そしてその衝撃は縁の体から一瞬、雄たけびをあげる間もなく力を失くし、結果、縁の体は再び重力に負け落ちていく。
 咄嗟に身体を捩り、第三の腕をクッションに着地を試みるが、しかし脱臼の痛みと、先ほどまで弾幕を受け止めて霊力を消耗したこともあってか、アスファルトと同等の硬さを持つだろう床にぶつかって無事に済む気がしなかった。これは骨か義手を持ってかれるか、と冷や汗を縁がかいた時、ロボットが爆発を起こす。
 その爆発は最初の数秒は小規模のものだったが、しかしジェネレーターへの高エネルギーの逆流がそうさせたのか、次の爆発によって上半身と下半身が分断される。上半身は爆発によって壁へとぶつけられる。しかし下半身はそのまま下へと落ちる。縁の真上を覆う形で。

「でぇぇぇぇ!?」

 爆発に目を向け突然影を落としたその巨大オブジェに、さすがに死ぬか、とすら考えた。だがさらに縁が思考をする間もなく、その体が何者かによって持ち運ばれ、下半身の落下ルートからはずされる。しかもそのまま滞空までをもした。それに驚き、縁は自分をバッグのように抱く人物の顔を見、声を上げた。

「燐?!」
「何、助けちゃ悪かった?」
「い、いや、正直助かったけど……お前、まだ飛べないんじゃなかったのか?」
「あたいだってよくわかんないわよ。ただ、アレ」

 頬や服に焼け跡を残す燐が指さす先に目をやると、先ほど縁が台にした火球がぶつかった場所に、まるで墓のように高々と建てらてた、黒い物体。それが火球の衝撃でか、本来真直ぐ伸びていただろう形は崩れ電流がスパークとなって瞬き、周囲に立っていた小さな棒は衝撃によってなぎ倒されていた。

「アレがああなってから飛べるようになったんじゃない?」
「あ、つまりなんだ? アレさえ壊せばまた飛べるようになってたと……なんじゃそりゃ? つーかそもそも、明らかに未来っぽいのが何で霊力とか妖力封じたり、飛べないようにできたんだ? しかもあのロボットは飛べたし……わけわからん」
「そんなのあたいに聞かないでよ、それってむしろあんたの方が詳しいんじゃない?」
「俺でも未来のことはわかんねーよ、つか誰もわかんねぇだろ」
「ふーん……あとさ、中邦」
「あん?」

 そう何気なく答えて縁は燐が自分の名を初めて呼んだのにも気付かず、その次の言葉に虚を突かれた。

「あたいたち、地底湖に泳ぎにきただけよね?」
「あ……………そういやーそうだな」

 ぱちりぱちり、と壁に叩きつけられずれ落ちたロボットだったものがもくもくと煙を上げる中、二人は数拍の沈黙の後、なぜか腹を抱えて笑った。その間、何度も縁が落ちそうになったのに、当事者たちはそれでも笑っていた。



 あとがき

 トーラスのコジマ力は世界一ぃぃぃぃぃぃぃ!!!!

 すみません、宣言まったく無視して久々に更新できたことに喜んで通常の三倍アホな子になっている作者です。
 とりあえずおまたせして申し訳ありません。ちょちょいとモチベーション下がった上におりんりんがローテンションの極みでまったく動いてくれなくて四苦八苦してました。
 残暑がなくならないうちに水着のとこは出したいなー、と。
 
 で、今回の言い訳タイムはこちら。

・排除くん
 とりあえずACシリーズを知らない人はごめんなさい。あの地下施設の、文字通り守護者だと思ってくれれば結構です。ちなみにこのロボットの存在は逆に東方を知らない人に対しての伏線(?)みたいなものです、まぁ東方やってる人ならすぐティン!とくるかもしれませんがw ちなみに装甲に関してはロボなので固くしました。けど耐久力が紙なのは原作仕様というこれ如何にな(ry
 あとディティールに関してですが、ちょっとNXやって確認したのですが、プラズマの発射口がどうしてもわからないので話しの尺も関係して胸部に開閉式にしました。だってこれをもとにしたキサラギのコアで開きそうじゃないですか、胸?

・こいしとおくうとさとり
 あからさまなフラグ立て。ちょちょいと、つーかむしろ早すぎ?と自分でも思ってますが、彼女たちのことを考えるとやっぱり出した方がいいなと思いだしました。ちなみにこいしは事情が事情なので結構自覚してます、けどおくうは⑨なので半ば無自覚です、なのでしばらくは餅焼き職人やってもらいます。さとりんは皆様のご想像にお任せします。

・お燐
 今回一番苦労した子。そしてあからさまなフラグその二。本当はもっと他のキャラも交えて彼女の心象が踏ん切りついていく形にしたかったのですが、尺の都合上(ry まぁまだお燐に関しては完全に終わってません、お燐の中でもまだ縁に対しては一旦カッコにくくっただけなのです。だから彼女の心の中ではまだ縁は認めたくないヤツ、つまりまだまだツンデレのター(メメタァ
 あと、こんな心理描写だったのですが、ちょっとスイーツ(笑)すぎたかな、と反省。だが後悔は(ry



[7713] 第十五話――貴族<身体に聞くこともある
Name: へたれっぽいG◆eaa9c481 ID:f33d8d16
Date: 2011/02/17 02:39
「で、ここっていったい何なんだ?」
「ちょっと調べてみる?」
「そんな時間ねーだろ、あいつらとも合流しないといけねーし」
「それもそうね」

 ひとしきり笑った後、二人はまずあのロボットが再び動かないか確認すべく、上半身の近くへと寄っていた。そして弾幕をぶつけたり、つついてみたりするがまったく反応がなく、もはや完全に打倒したことを確認し、ようやく本来の目的のために踵を返そうとした。しかしその直後、びきり、という音と共に、ロボットの右腕がよろよろと持ちあがろうとしていた。
 二人は瞬時にそれぞれの弾幕で防御姿勢をとる。だが予想された攻撃はすぐにはこず、逆に持ち上げられた銃口は縁たちには向くことはなく、かわりにその頭上でぴたりと止まった。顔面の半分が壁にぶつけた拍子に潰れた頭部に残った最後の目が、明滅しながらも、その先にあるものを照準する。

『……機能……し……自ば……プログラム……起動……職員は……ひを……』

 途切れ途切れといった無機質の声が響き渡った途端、縁の右腕に静電気が走る様な痛みが逆流した。また幻痛か、と内心この弾幕よりもわけのわからない現象に対して舌打ちしようとして、しかしすぐに部屋全体が揺れ始めたことに驚き、そして赤い照明が更に真っ赤に染まっていくことに、顔を青ざめる。このようなシチュエーションで伝えられること、起きることなど大概決まり切っているものなのだ、主にテレビの中のお約束で。
 そしてそのお約束という名の幻想が存在するのがこの幻想郷というものであり、縁が頬を痙攣させたその瞬間、何かが破裂するような音が突如響いてきた。

「……ねぇ中邦、あたいなんだか嫌な予感がするんだけど」
「奇遇だな、俺もだ」

 そんな二人が顔を合わせた時、今度は最初にここに入った時に聞こえた低い女性の声が響き渡る。

『ガーディアンの機能停止を確認しました。規定に従い当施設はデータ保護のため十分後に自爆します。職員は速やかに退去してください』
「「……でぇぇぇぇぇっ!?」」

 アナウンスが終了し、地響きが始まるのと、二人の叫びが響くのはまったく同時であった。



 第十五話『ハートに火をつけて』



「ちょ、自爆って……ショッカーかよっ!」
「そんなこと言ってる場合! いいから逃げるわよっ!!」

 言われるまでもなく、と縁は本来自分が逃走用にと目星をつけていた扉へと目を向ける。だが次にはげっ、と苦い呻き声をあげた。燐もまた、自分たちがこの空間に出た時に通った扉の方を見て、うげげっ、と縁のものと似たような声を出す。
 扉は両方とも、人間大のものが通れるような場所ではなくなっていたからだ。縁の見る方はミサイルが突っ込んで扉がひしゃげ、プラズマもオマケにもらって地獄の熱と同等と呼べる熱気を放っている。そして燐の方も同じような状態であるが、こちらは外側からも何かに押されているのか不自然なへこみが出来ており、岩なりなんなりによって詰まっているのが窺い知れる。どちらの扉に行くにしても時間がかかるのは間違いない。
 互い、息も合わせず息の合った行動で、それぞれが見なかった方へと顔を向ける。そして再び百面相よろしくな顔で現状への絶望を表現する。

『……聞こえるか、こちらへ逃げ込め!』

 だが、捨てる神あらば拾う神あり。どこかで聞いたことがあるような声がアナウンスから響くと同時に、どこか上の方で、ガシャン、と扉が開かれる音が聞こえた。二人は一斉に上を、電極の側面へと目を向けた。そこには壁の一部を無理やり押しだしたように開かれた、立派な通路の見える扉があった。

「何か知らないが助かった!」
「て、これあたいが運ばなけりゃいけないのよね? あーもう仕方ない!」

 これ幸いとばかりに二人は、正確には縁は燐に持ち運ばれて、その扉へと飛び込む。同時に、がしゃんと扉が独りでに動いて閉まり、まるで退路などないというように、一瞬暗闇に通路が包まれた。だが即座に先ほどと同じ赤い光が通路中を照らしだし、二人の顔を染める。
 二人はすぐに通路を見渡したが、まず一つ、自分たちが落ちてきた方向に続くと思われる方は不自然に歪んでいて通れない。反対方向、更に奥に続いていると思われる方は特に異常がない。至って普通の、しかしそれ故に不自然な自動ドア。先ほどの声と合わせて、正直に言えば、怪しかった。

『施設爆破まで、残り九分……』
「っ、考えてる暇なさそうだな」
「そうねっ」

 覚悟を決めて、そちらへと歩を進める。扉はやはり二人が近づけば勝手に開いた。

「全ては私のシナリオ通り……レイヴン、ハメさせてくれ」
「螺旋「スパイラルファントム」
「贖罪「旧地獄の針山」」
 
 そこにいた、股間のエーレンベルクをそそり立たせる♂ソーダー相手に全力全壊のスペルカードを叩き込む。だがしかしそれがバケツ頭の♂ソーダーに届く前に、二つの影が躍り出て、尻、いや肛門と思わしき菊穴を弾幕の前に突き出した。うげっ、と二人が呻くが、しかし一度動き出した動きというのは例え弾幕であろうと易々と止まらなかった。

「レイヴン、尻を貸そあぉぉぉぉぉぉぉ!!!」
「レイヴン、括約(筋)は効いている、よろしくぬぉぉぉぉぉぉ!!!!」
「「ぎゃああああ!!!!」」

 何が起きたかは詳しくは記述できない。ただ、超高速回転しているはずの縁の弾幕が、ぬぷり、という音を立てて挿入されかかったとだけ言える。

「そこのノンケ二人、落ち付いてくれないか?」
「これのどこが落ち着けるかぁぁぁぁ!!!」

 光の輪を発射しただけの燐はともかく、ほとんど直接入れてしまったような縁は交渉人のような冷静さで話しかけてくる元凶のバケツ頭に対して轟音を立てる螺旋を向ける。その形相は鬼のようであり、血涙すら流れそうだ。そんな、地底在住の鬼に対して迷惑極まりない比喩表現が似合ってしまう縁と、被害が少なくほっとする燐に対して、バケツ頭他、三匹の♂ソーダーが縁たちの前へと集まる。いづれも、縁が瓦礫の中に埋もれたと思っていたものたちだ。
 誘い込まれたか、と縁が考え、目くばせで燐に強行突破の意思を伝え、同意するのを確認し、未だ発動中のスペルに霊力を流し込もうとする。それよりも早く、四匹は中央から二つに分かれる形で縁たちに道を開けた。それを怪訝に思い、縁は四匹がその背後に隠す部屋の壁面へと目を眼を移そうとした。だがそれも、残り八分、と告げるアナウンスに急かされ、中断する。
 だからといって、このまま進むというのも癪であった。

「つーかお前ら、どうしてこんなとこいんだよ? 俺達と一緒に落ちてきたなら……」
「簡単な話だ、我々の方がここのことをよく知っている。そしてキミたちにはここのことを、いや正確にはこの先にある部屋のことを黙っていて欲しい」
「どうしてあたいたちがアンタ達の言うことを聞かなきゃいけないわけ? もしかしてあたいたちのことを騙してまた……」
「我々はここでは絶対に繁殖期にはならない。それにこの中で決して暴れるわけにはいかなくてな」
「……ますますわかんねぇ、どういうことだよ?」
『残り七分』

 アナウンスが非現実的な現実を告げる。四匹の代表というべきバケツ頭の口ぶりからすれば、恐らくは外、迷宮へと戻る道はあるのだろう。問題はその途中に何かがあり、口外してはいけないということ。正体はまったく見当がつかないが、それが先まで二人が戦っていたモノとまったく同じようなものであり、再び二人に襲いかかってくることも十分考えられるからだ。
 加えて、迷宮でのあのキチガイを通り越した性欲の魔獣とは決してならないとも、確信を持って告げてくる。むしろその声音は確認というものであった。
 何か企んでいるのではないかと考えない方がおかしい。その二人の思惟をさとりのように読み取ったかの如く、バケツ頭は口がないのにほくそ笑む。アナウンスが、更なる時間の経過を告げた。

「安心したまえ。我々は一切の嘘はついてない」
「……それを信じろって方がおかしいだろ。仮にテメー、何かにそれ誓えるのか?」
「このエーレンベルク♂に」

 ビキビキと四匹のナニが膨張した。

「こっち見せんな!」
「アクアビットってレベルじゃないわよ!?」
「ふむ、心外だな。我々では魂と同等の扱いであるというのに……」
『残り五分』
「ちなみにいっておくと、ここから出るには例え真直ぐに進めても最低でも四分かかるぞ?」
「ッ、の野郎! このタイミングでそれ言うか!」
「ちょっと、揺れ酷くなってない?!」

 燐の言うとおり、揺れはアナウンスの告げる残り時間が少なくなっていくのと反比例して強くなっていく。地面に足をつける縁が、気を抜けばそのまま転んでしまうほどだ。だがその中でも二体ずつに分かれた妖怪でもないナマモノたちは余裕ともとれる冷静さで股間のものと一緒に直立していた。
 その冷静さこそが不可解さ・疑心暗鬼を呼び、縁を内心苛立たせ、この場にしつこく留めさせる理由だった。このままここにいれば彼らもまた爆発に巻き込まれタダでは済まないはずだからだ。勿論それは縁たちにも言える。故に縁は一時的にせよこの好奇心にも似た感情を封じなければならないし、燐にしては、そもそも存在自体が気に入らない目の前のナマモノに構っている余裕は本来なかった。

「ああもう、先行くわよッ!」
「んな、おいこら勝手に掴むな!?」

 何とか感情を押し殺そうとしていた縁の身体を強引に掴み上げて、四匹の間をすり抜けようとする。だが完全に部屋から出てしまう前に、せめて胸に残るしこりを取り除くべく何とか顔だけをナマモノたちへと向け、叫ぶ。

「おい、お前らは逃げなくていいのかよ!?」
「その点は問題ない……もうこれで四度目だからな」
「はぁっ!?」

 縁が素っ頓狂な声を上げるとと共に燐は自動で開くドアを抜け、再び赤いランプで照らされる廊下へと出る。縁の視界ではドアが閉まり、しかし先ほどまでとは違い、ドア全体の装飾かと思っていた幾多の円を重ねたような部分が噛みあいながら回転し、カチリという音とともに動かなくなっていた。何となく、カギをされた、という印象を現代人としての感覚で持って理解する。
 チッ、と舌打ち一つ、縁は彼らが告げた言葉を頭の中で反芻しながらも、「いい加減離せ」と喚いて燐の手から離れる。

「人が親切してやったのにその言い草は何よっ」
「それは、後で詫びる!」

 離れた状態、蹴る力がそのまま足に返ってくるほど硬い床に靴底が着いた瞬間から、縁は燐の加速していた分の速さに追いつくべく駆けだす。スプリンター選手顔負けの走りだが、その顔は必死の形相であり、見えぬゴールをただひたすら求めるマラソン選手のようでもある。事実、縁が走り、燐が宙を駆けようと、長く硬質の、一本道のチューブは自動ドアという仕切りによって細かく区分けられ、開けても開けても次の自動ドアが僅かに離れた位置にあるのが続くのは、時間と命の危機に追われる二人にとって、短時間の間であるが故に、急速にストレスを与えていく。

「くそ、出口はまだかっ!」

 焦りが声を為すが、しかし全力疾走をしながらのそれは半分自殺行為であり、舌を噛まなかっただけ奇跡的であったろう。だが焦りはそれだけではなくなることはなく、そして眼前に迫る、今までのものより一回り大きく、かつ反応の遅いドア。ならばそれに焦りを転化した一撃を加えるのは、自明の理にも等しい感情の暴発だった。

「っらぁぁ!!」
「やぁっ!」

 縁は右腕を構え、燐は飛び蹴りの体勢のままに突撃。本来は罅一つ入らぬはずの存在しない材質で出来たドアを、気合でもって、一撃で殴り壊す。メキリ、という音が聞こえた時には、二人はもう一撃を加えて、人間サイズの生命体が二つ通れるほどの穴の分の壁を殴り/蹴り飛ばした。そのままの勢いでその部屋へと侵入し、突きぬけようとした。
 だが、その部屋の明るさと広さ、そしてそこを埋め尽くすものを認識した瞬間に、二人は脚を止めてしまった。
 そこは先ほどまでの通路がチューブ、つまりは何かしらを伝うためのものならば、ここはその伝えるための何かがある場所に違いなかった。ではそれとは何か、というのは走っている間縁が頭の隅で考えていたことだ。アレだけを釘を刺され時間が押していようと、気に留めておきたいものはおきたいのだ。
 だからこそそれが眼前に広がり、縁が考えていたような、この場所の動力源や司令室のようなSF的な空間ではなく、もっと清潔で、そしてグロテクスな現実が突きつけられたことに思考が停止してしまった。
 通路とは違い完全に円柱型の空間、照らされる光は先とは違い淡い青であり、現状には似つかわしくない穏やかささえ感じられる。縁たちの立つ場所はそこを貫く、アーチも何もないただ一枚の板のような一本道であり、空間の中央にはそれを囲うような巨大なリングが存在し、縁たちの前で音もなく緩やかに回転している。そして空間の壁及び天井、床一面にはビッシリと青い蛹のようなものが敷き詰められていた。縁は久しく己の目がいいことを恨んだ。その蛹を構成するガラスの中身が見えてしまったからだ。
 青いガラスの蛹の中にある、いやいたのは、人間のようなものだ。ような、という形容をつけざるをえない、なぜならその人間は、必ず頭の上から半分がキレイになくなっていたのだ。血は出ていない、尚且つ頭部、いや脳の大部分が存在しないというのに、表情は穏やかな眠りであり、それが誰一つ崩されていない。それ故にシュール。それ故にグロテクス。
 妖怪、妖精、鬼といった幻想の存在と、果てはつい先ほどまでは巨大人型ロボットなどという科学技術の幻想と戦っていたはずの縁が、一瞬、言葉もなく吐き気を催した。幻想の存在と触れあい、戦い、認め合うとはまったく違う、異質さの極み、不快性。同時に、これこそがあの生き物たちが言っていたことなのだということを察することができた。

「何よこれ……死体でもない、生きてもない……ただの物体ってわりには、ヌメヌメしてる……怨霊たちが怖がってる」

 人間よりも永くを生き、灼熱地獄を住み場とする燐であってもこの光景は理解を超えていたのか、震える独白を零している。いや、妖怪の感性だからこそこれが、気持ちの悪いものである、と認識しているのかもしれない。
 二人は顔を青ざめながら、互いの顔を見る。そして目くばせ一つで、それぞれの弾幕を顕現した。ここを破壊する。
人間として、妖怪として、互いの利益を一致しようとした時、背中合わせにそれぞれの力を構え、一息の間にスペルカードを発動させ、眼前に広がる光景を吹き飛ばそうとした。

『残り二分』

 しかしその直前において迫る時間が告げられる。ようやく二人は、自分たちが貴重な数秒の時を止まってしまっていたことを思い出した。同時にそれが、ここもまたその範疇に入るのだろうということを思い出させることだった。

「どうする?」
「どうするも何も、決まってんでしょ」
「だよな、じゃ……」
「ラストひとっ走りよっ!!」

 弾けるように別れ、そのまま再び脱出への道を行く。巨大なリングの下を通り抜け、ついでに八つ当たりだというようにリングにそれぞれの弾幕をぶつけ、リングが急な動的エネルギーをぶつけられたことで本来の運動を停止しようとするのを確認もせず、その異様さでもって気味の悪い空間から飛び出る。部屋を出れば先ほどまでの通路と同じ赤く点滅する、しかしより広くなった坂道が延びている。
 浮遊する燐とは違い、直接走破しなければならない縁は先ほどまでの道程もあり一瞬疲れが顔に出るが、だがここで最後とばかりに足を前へと突き出す。自爆のプロセスの先走りか、はたまた何か異常が起きているのか壁に走るコードが前触れもなく千切れ、流すべき電流を虚空に垂れ流す。だがその僅かな青とも白ともとれぬ光であっても、坂道の先にあるドアの向こうに何があるかは映せない。
 それでも今は、何もかもを忘れて縁は走る。燐は飛ぶ。
 坂を上る二人の気迫に負けるようにドアは開きだし、二人の前に脱出口を開示した。だがそこは。

「垂直、かよっ!」
『残り一分』

 そこは何かの発射口なのか四角い作りをしており、上方に天井はなく、どこまでも上に続いている。その先に薄らと見えるのは、ゆらゆらと揺らめく何かの影。それは壁ではなく、むしろ透明性すら持っていた。つまりそここそが目的地であり、同時に空を飛ぶことのできない縁では決して辿りつけない場所である。無論それは、縁が一人であった場合だ。

「ほらっ、さっさと掴まって!」
「悪ぃっ!!」

 燐が何の抵抗もなく差し出した手を左手で掴み返し、縁はもしもの場合にとスペルカードを取り出しておく。それを確認する間もなく、燐は飛翔を妖力をブーストした最大初速で開始。体内時計が残り四十秒と告げる。普段は操るに留めておくだけの怨霊の力までも推進力に変え、燐は更に加速する。たったひとつ、手を握り合うだけでしがみつく縁をそこから離さまいと力強く掴み、縁もそれに応える。残り三十秒。
 距離にして半分を超える。だがその中途、突然に遙か上の両脇の壁が爆発し、その内側から数多の何かが飛び降りてくる。相対的な速度の関係でその全貌は掴めないが、どことなくイナゴにも似たそれらは、上から下へと真っ逆さまに、燐と縁への直撃コースへと落ちてくる。

「螺旋『スパイラルファントム』!」

 ナマモノ相手に中途半端に発動し、中途半端に停止していたスペルを再び起動させ、燐の前面へと展開する。高速回転する幻影の螺旋削岩機は唸りを上げ、落ちてくるイナゴを触れた瞬間に弾き飛ばし、その進路を確保する。だがイナゴもまた、その身が螺旋に触れる瞬間に突如爆発するものが生じ、縁にスペル継続への負荷を与えていく。残り二十秒。
 あと、僅か。迫る脱出口は、近づけばたゆたう波のようなものであることがわかる。まるで水槽のようだと縁が思った矢先、再び脱出口付近から爆発が起き、今までの数倍の大きさを誇るイナゴが、その両の眼を光らせ、燐たちへと吶喊してくる。

「最大加速、フンばりなさいよ!!」
「んなのこっちのセリフだ!」

 互いの減らず口を叩き合いながら、二人は臆することなく迫る巨大イナゴへと加速していく。残り十秒。螺旋の先端が激突、だがその瞬間、今までとは違い、イナゴは弾かれも削られもせず、その螺旋の回転に頭部に火花を散らしながら落下を続ける。そうなれば螺旋の底と燐の頭がぶつかりそうになるのは当然であり、タイムリミットに間に合うどころか、ヘタをすればこの巨大イナゴに踏み潰されてしまうかもしれない。そうはさせるかと、縁は削ることはなく、そのまま押し上げるように右手を持ち上げていく。螺旋が勢いを取り戻し、落下を停止。僅かな落下運動の停止によって浮遊した状態となるが、すぐさま燐が最後の一滴とばかりに妖力にブーストをかけ、怪物を押し上げ始めた。
 二人の心はこの瞬間、完全にシンクロしていた。
 すなわち、押し通る。たった一つのシンプルな答え。

「「いっけぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!」」

 残り五秒。巨大イナゴを押し上げ続け、ついのその尻を脱出口へと叩きつける。イナゴ越しのそれは正しく強化ガラスのようなものであり、ただでは壊れないといいたげだ。なれば、後は押し込むだけ。加速と螺旋回転、妖力と霊力を同調させるかのように雄たけびを上げる。その直後、イナゴの頭部がヒビ割れ、そこから決壊するかのように、螺旋がイナゴの体を打ち砕き、貫く。
 その勢いのままガラスへとぶつかり、その先端が入りこんだ瞬間、時間は来た。二人の真下から一際巨大な地響きがしたと思った瞬間、灼熱地獄もかくやというべき炎が燃え上がり、出口目掛けて吹き上げてくる。その吹き上げる空気に後押しされるように螺旋がガラスを割った瞬間、今度は二人を呑みこむように水が溢れ落ちてくる。強大な水流を、縁の螺旋が裂き、燐がその僅かな隙間を飛ぶ。
 だがそれでも次の瞬間、炎を纏う豪風は二人と水流を押し上げ、ただ上へと爆発した。その衝撃でスペルブレイク、螺旋によって生まれていた空気の層がなくなったことで、二人を水流と炎が同時に襲いかかり、呼吸もできず上下左右全てがわからなくなるほどにもみくちゃにされる。それでも二人は手を離さず、ただその流れに身を任せる。
 結果的にそれが功を奏した。爆発の勢いは留まることなく、二人はそれによって新たに生まれた水流に乗って、空気のある層、いや水上、その遙か上空へと放り出された。

「ぬわああああああ」
「い、あああああああああ」

 宙空に弾ける水滴と共に叫ばれる二人の悲鳴。その悲鳴の示すとおり二人は何の抵抗もできないままそのまま落下し、着水。ざぶん、と波が起きる。水中へと再びエントリーした拍子に二人は手を離してしまい、そのまま空気を求めるように、それぞれ持前のタフさで水面へと顔を出す。ぷはっ、と新鮮な空気を吸ったのはまったく同時で、まるで互いが互いに気づかないように、何となくの方向感覚で岸のある方へと泳ぎ、湖底へと足をつけた。
 そしてようやく体全体が水の中から抜け出したところで、二人はようやく互いの姿を見た。

「てんめ……後少しで死ぬとこだったじゃねぇか!」
「何よ、あたいのせいじゃないでしょ! むしろあそこで力尽きたあんたのせいじゃない!!」
「はあ、それだったらお前の妖力が足りなかったんじゃねぇか? もっとあそこで加速できてりゃこんな風にならなかったろうが!!」
「何よ、飛べないクセに生意気言うの!」
「んだとコラ! やるか!」
「やってやろうじゃない!」

 犬猿の仲もどうかというほどの唾の掛け合いからそのまま、二人は先ほどまでの高い連携のことなど因果地平の彼方にでも投げ捨てたとでも言う様に、疲労し妖力・霊力も少ない身体にも構わず弾幕ごっこを始めてしまった。とりあえずこれは、第三者たちの武力介入が行われるまで、アホのように続いたのだった。



「……それで、二人とも、何か申し開きはありますか?」
「ない、ないです! だから焼き正座はこれ以上勘弁してくださいさとりさん!!」
「直火は、直火はぁぁっ!!」

 弾幕ごっこを鶴の声一つで止められ、縁と燐はどこからか出てきた焼けた鉄板の上で正座をさせられていた。そのあまりの苦痛に涙目となって縁は無意識の内に敬語となり、燐は全身の毛を逆立てていた。その二人に刑を執行している旧地獄の閻魔、ではなくさとりは、いた仕方ないとはいえる二人の無茶をしかしスルーすることはなく、しっかりと罰を与えて小さな体で仁王立ちをして見下ろしていた。
 だが、その姿は常の淡い紫のものではなく、何をどう間違ったのか、縁のいた世界で小中学生が学校内で主に水泳の授業で着ている紺色の水着、いわゆるスクール水着によって包まれていた。ご丁寧に、縁の世界では幻想となり存在しないはずの旧式のものだ。そのおかげで、仁王立ちであろうと恐ろしい怒気を発していようと、それをぶつけられぬ当人たち以外からは威厳も何もないものであった。
 
「さとり様ぁ、そろそろ許してあげてもいいんじゃないですか?」
「そうそう、別に二人が悪いわけじゃないんだから」

 軽く声をかける空とこいしも、さとりと同様に水着へと着替えている。空はそのグラマーな肢体を最大限に生かすためかリボンと合わせた緑色のビキニであり、比較的シンプルで、それ故に健康的な肌の張りを押し出す、青少年には至って嬉しさ半分辛さ半分の出来となっている。一方こいしは姉とは違い全身を覆うものではなく、むしろ空と同じようなセパレートタイプのもので、上を橙色と白のパステルカラー、下をオレンジ色のフリルスカートがついたものとなり、こいしの持つ可愛らしさをよく引き出している。
 そんな二人がさとりの両横から説得するのを見上げていて、縁は一般的な高校生の例にもれず、無意識に顔を傾けて、たわわに実る空の二つのメロンの挟間を覗こうとした。だが次の瞬間には、真横からのエルボー、小さな足での膝に対しての踏みつけが同時に行われ、縁は直接的な痛みと肉がより焼ける痛みを同時に味わい、ぎゃああああ、と叫びながら鉄板の上でのたうち回る。結果的にダメージは倍プッシュ状態であるが、本人は気づいていない。

「まったく……もういいですよ、貴方達にも事情はあったんですし……」
「お、マジで! ヒャッホウ!!」

 さとりが影を帯びた顔つきとなって燐をちらりと見た瞬間には既に縁は鉄板の上から跳び上がり、一目散に湖へと走り出した。走りながら服の上下を脱ぎ、予め着ていた水着一丁になり、義手の接合部分と間接部に水避けの袋をつけながらのそれは、器用という他ないだろう。
 縁がはしゃぐにも理由はある。一つは迷宮と謎の施設をくぐり抜け辿り着いたことに対する達成感と開放感。二つ目はあの施設でのことでのやりとりを禁じられた、進んで言おうとは決して思わないあの光景を忘れようとする葛藤、最後にもっとも現金ではあるが、この場所、地底湖の風景だろう。
 燐と縁が飛び出してきたのは、偶然のような必然か、目的地である地底湖であった。二人が間欠泉もかくやという水流に押し出されるのを、少し前に到着していたさとりたちが見つけ合流し、お仕置きを受けていたのが先ほどまでの流れであった。
 迷宮の最奥にあるとは思えない広さの面積と高さのある空間に一面に広がる湖は風もないのにさざ波が立ち、水温は地底に存在する湖にしては高く、温水プールのようでもある。だがその透明度は高く、潜らずとも魚やカニといった生命の息吹があることを見てとることができた。幻想郷らしい不思議な場所だな、と縁は思ったが、それが先ほどまでいたあの場所と比べると、こちらの方がまだマシであると、感情の高ぶったままの心根とは別に溜息を零した。
 
「縁ちゃ~ん!」

 そんな憂鬱げな顔を浮かべている縁の背後から、いつものようにこいしが飛びかかる。しかしそこはやられ慣れている縁、場所が場所だけに無意識のうちにしているリミッターもはずして、こいしが負ぶさってきた衝撃をそのまま逃がさず、片足を突き出し、おりゃあ、という掛け声と一緒にこいしを投げた。きゃー、という如何にもな悲鳴を上げて飛んでいき、派手な音と水しぶきをあげて水の中へと沈んだ。

「こ、こいし様ー! 縁ぃ、覚悟ぉ!!」
「よっしゃこいや! 湘南のハマちゃんと呼ばれた俺の実力を見せてやらぁ!!」
「うにゅー!! だったら私は地底銀河のフュージョン王だもん!!」

 勿論てきとうな嘘である。だが縁も空もそんな細かいことなど気にせず、弾幕の代わりに水をすくい上げ互いの顔目掛けて掛け始めた。最初それは互角の均衡を保っていたが、すぐさま戦線復帰したこいしが背後から縁へと近づき、水鉄砲をかけた。縁がすぐさまそれに反撃するが、しかし振り向いた直後に今度は空からの集中爆撃を被ってしまう。しかしまた空に攻撃の手を戻そうとすれば、再びこいしのゲリラ攻撃がまっていた。

「こんの、テメーら卑怯だぞこんにゃろう!!」
「勝てばいいのよ勝てば!」
「今は妖怪がほほ笑む時代なのっ!」
「んだ、ちょ、何をするだうわらばっ!」

 どこかのモヒカンヘッドのような悲鳴をあげる縁に対して更に容赦のない苛烈な波状攻撃をしかける空とこいし。
 そんな楽しげな三人を少し離れた位置から見つめているさとりと燐。しかし一向にその中に加わろうとしないのは、二人だけで話すことがあることに他ならず、心を読めない燐もそのことを察していた。

「……吹っ切れたようですね」

 唐突なさとりの問いかけ。しかし燐は、やはりわかっていたのかと、何となく予想できたことに改めて現実が符合し、ふぅ、と息を吐いた。そうして案じてくれていた主人の方へと顔を向けると、はい、とただ一言答えた。その燐の反応に満足げに頷いたさとりは、しかし新たに生じた懸念材料のことに第三の目を向ける。

「あそこのことは私にもわかりません。ですが、そこまで深く考える必要もないでしょう。私たちは幻想郷の全てを知っているわけではないですから……」
「それはそうですけど……ただ、上手に納得できなくて」
「なら、またいつか行ってみましょう。今度は、私たちも一緒に」

 さとりにしては、何気ない、ありふれた問いへの答えだった。燐も妖怪である故に、そのことを理解していた。だがそのニュアンスの中に、つい最近地霊殿の住人となった縁のことを含まれていることに気づいた自分が、別段腹立たしい気持ちにならなかったことに、燐は、これが認めるということだと、猫の小さな頭と大きな心で理解した。
 
「はいっ」

 だからそう、素直に答えた。

「さぁ、それじゃ遊びましょうか」
「よーし……中邦ぃぃ覚悟ぉぉぉぉ!!!」

 さとりの言葉からワンステップのち、燐は縁たちの元へと駆け出しながら、まるで手品師のように服を一気に脱いだ。その下からは予め着ておいたワンピースタイプの水着が現れる。さとりのものとは違い、へそや胸元のヒモを初めとした露出のあるタイプで、健康的でスレンダーな肉体を持つ燐に、まさしく猫のしなやかさとエロテックを醸し出す仕様となっている。だが服一枚であの激しい脱出劇からは防ぎきれなかったのか、少々焦げ跡がついていたりするのはご愛嬌だろう。
 
「げぇ、燐っ!?」
「ハッハー! まだまだいけるわよねぇ、メルツェェェェル!!」
「きた! メイン猫きた!」
「これで勝つる!!」

 新たに参戦した燐に歓声を上げる空とこいしとは真逆に、万の敵援軍に匹敵するものが現れた絶望と驚愕とが入り混じった表情を浮かべる縁。容赦などされないことが容易に目に浮かぶからだ。それを想像し、無意識に逃げ腰となる縁を三方から追い詰め始める燐たち。元々あまり動く方ではないさとりは、離れた位置からのんびり見ているだけで、助けもしないだろう。

「にゃろ、ならば! 秘儀、畳返しっ」
「こんなところに畳なんてわぷっ!?」
「うにゅっ!」
「わぁっ」

 苦肉の策ともいえる技、第三の腕を一瞬で水の中に出し、そのまま掬い上げるという荒業に出る縁。男性で体格も平均よりはある上に、そこから更に巨大化している手という器は両手で掬うよりもより多くの水を掻き上げ、正しく畳と同等の高さと厚さの水を三人にかけようとしたのだった。
 だが、ここで縁は、疲れがたまっていたのか、はたまた他の要因でか、自らの弾幕の射程範囲を見誤っていた。
 腕を振り上げた直後、何かに親指が引っ掛かった。同時に燐もまた水着の一部が引っ張られるような感覚がしたが、すぐさま襲いかかってくる水の畳に防御を優先せざるを得ない状態となり、それを気にする余裕などなくなっていた。

「へっへっへ、数多の強敵(とも)を打ち破ってきた俺の畳返しの味はど………う……」

 形勢逆転、といいたげに鼻を伸ばそうとした縁が、しかし次の瞬間には燐の方へを眼を向けたまま動きを停止してしまった。何をする、などと言いながら反撃の準備をしていた燐や空は、一体どうしたのかと、その縁の視線の後を追ってしまった。
 その視線の先には、ヒモが千切れて、慎ましやかではなくしっかりとその存在を自己主張する二つの双丘がぷるん、と燐の呼吸に合わせるように揺れていた。

「っっっ!!!!」
「ちょ、待、まて! これは事……っ、こいし!?」
「え~に~し~ちゃ~ん、逃がさないよ~」

 言い訳をしながらも、確実に爆発するであろう燐の射程内から逃れるべく反転しようとした縁を、いつの間にか背後から接近していたこいしが羽交い絞めにし、まったく身動きをとれないようにしていた。その額には、心なしか怒気によって膨れ上がる血管が浮かび、第三の目から伸びる環がひゅんひゅん唸りを上げていた。
 何とか逃れられないか、と思った瞬間には、遅かった。

「こんの……」

 はっとなって燐へと向きなおれば、視界一杯に拳が映っていた。

「ドスケベおっぱいバカハンターーー!!!!!」
「無実だぁぁぁ!!!!」

 最近こんなのばっか。そう縁は世界すら狙える拳によって遊覧飛行と落下しながら思い、水の中へと沈むのだった。

「……過ぎたるは及ばざるがごとし、ですか」
「うにゅ、どういう意味ですか?」
「……やり過ぎは注意という意味ですよ、おくう」
「……むぅぅ」

 さとりのその言葉に疑問符を浮かべながらも、一人、燐の胸を見て鼻の下を伸ばした縁に対して何もできなかったことに、意味不明な苛立ちが募る空がいたが、それぞれがそれぞれの気持ちでいっぱいいっぱいだったので、気にされることはなかった。





 あとg……バーボンハウス


 やあ(´・ω・)
 ようこそ、バーボンハウス旧都店へ。このコジマエキスはサービスだから、まず飲んで落ち着いて欲しい。
 うん、「また」設定投げと殴りオチと更新遅れなんだ。済まない。セラフのチートブレードもって言うしね、謝って許してもらおうとも思っていない。
 でも、このタイトルを見たとき、君は、きっと言葉では言い表せない「逆流(ときめき)」みたいなものを感じてくれたと思う。
 殺伐としたパックス・エコノミカの中でそういう気持ちを忘れないで欲しい。
 そう思って、このタイトルと更新なんだ。
 じゃあ、注文(次回アンケート)を聞こうか。


ジン:うにゅほ「……何だろう、最近縁を見てると、ちょっと胸がもやもやする」
テキーラ:こいし「そういえば縁ちゃんってどんなとこに住んでたんだろう?」
コニャック:お燐「あそこのこと、アイツなら知ってそうね……中邦も連れていってみよ」 
ピスコ:小五ロリ「……ようやく、できました」
グラッパ:十一「よ、修行の成果はどーよ?」
ブランデー:ヤマメ「お、久しぶり。一杯行かない?」 勇儀「お、いいねぇ」 パルパル「なんで私まで……」
泡盛:フレッチャー「……昔話をしてやろう」
オリジナルカクテル:自由枠


 複数注文は受け付けてるけど、注意してほしいのは注文通りの品が出せない可能性があるんだ、すまない。
 ああ、そうそう。これは特別メニューのカクテル(性的な意味で)なんだけど……ある条件を満たしたお客さんに出しているんだ、いるかい?


XXX-1 プロジェクト家主のお姉さんver.K
XXX-2 プロジェクト家主のお姉さんver.S


 開放条件:友人10人以上にACシリーズを布教(空の方でも可)






「………これで五回目か」
「ああ、だが今回は少々状況が違う」
「確かに、な。人間の存在、リングへの干渉。そしてガーディアン……いや、パルヴァライザー封印装置の再生不能、および解除……これはお前のシナリオには入れられるのか?」
「いいや、私はそもそもシナリオなど書いていないさ……だが、これから少しは、必要だろうな」
「そこは任せよう。頭はお前なのだから」
「わかっている……全てはただ、穏やかな眠りのために……未来という幻想の果てが、ここに訪れまでは」



Exダンジョン『メイド・イン・ヘブン』開放、クリア後特典としていけるようになりました。



[7713] 第十六話――甲虫<まだまだいけるぜ、メルツェェェェル!!
Name: へたれっぽいG◆eaa9c481 ID:f33d8d16
Date: 2011/02/19 21:20
 カラカラ、と映写機のフィルムが回る。その音が響くのは、昭和の時間に取り残された、古錆びた映画館。本来ならば誰もいないはずのそこに、二人の存在がいた。見ているものは、ある一人の青少年が一つのハプニングによって異世界に行くという話だ。欧米の、それも80年代には既に撮り尽くされたような、不出来なファンタジー。だがそこに映っているのは欧米の生活形式、想像されるファンタジーとは違うオリエンタルなもの。そしてまた、主人公の少年が、たった一人の人間でありながら、そこに住むものたちと交流を深めていくものだった。
 しかし一番の違いはそこではない。この映画は、全てが実際に起きたことを、ただフィルムに収めただけなのだ。

「……うふふ、どうかしら?」

 女は愉しげに尋ね、持っている入れ物からポップコーンを一つまみ取り、口へと放り込んだ。東洋的でエキゾチックな服装であるが故に、食べているものとの違和感を拭いかねないが、しかしその違和感こそが、彼女を彼女たらしめているものであった。
 男は、無言を貫く。女は席を一つおいて座る男の横顔をしばらくの間見つめて、溜息をついて映画へと目を戻した。彼女としては予想通りのものであったが、それ故につまらないものであったからだ。
 
「………あいつは、バカだ」

 唐突に、男は呟いた。スクリーンの中では、少年が赤毛の少女と共に炎に埋め尽くされる施設から全速力で脱出しようとしていた。女は顔を向けず、目で映画を追いながら、聞き流すように聞いている。男もそれがわかっているのか、はたまた独白なのか、その言葉は続けられていく。

「人間と妖怪は違うっていうのに、その違いをわかっていない……いくつになっても、異形というものの恐ろしさを覚えないんだ」

 映写機が徐々にフィルムを回す速度を落としていく。映像もまたそれに伴いぼやけていき、最後には何も見えなくなってしまう。映画館が完全な暗闇に支配される。男の顔は見えない、紫の顔も見えない。ただ残るのは、ポップコーンを噛む場違いな音。

「それはかつての貴方のことを言ってるのかしら?」
「……茶化さないでください。それよりも紫さん、やはりあの件は……」
「考えておくわ、機会があれば、だけど」

 スキマが開かれる。闇の中であってなお、その独特の極彩色は色を見せつける。光とはまた違う存在の表し方。男はそれに対し、何も感情を浮かべない。

「父親って生き物は、貴方みたいにエゴイストなのかしらね?」
「……子を思えばこそ、ですよ」
「やっぱりエゴイストね」
 
 それだけいって、紫はスキマの中へと消えた。残されたのは、空になったポップコーンの容器のみ。男は黙ってそれを見下ろすと、もう一度スクリーンに目を移した。映写機が再び回り始める。からからと、独りでに。スクリーンに再び光が灯り、少年の姿が、中邦縁の姿が、そして彼が見ていた光景が映し出されだ。
 男は一人、それを見続ける。時間を忘れたように。たった一人の息子が見てきた光景を目に焼き付けるように。

「……縁」

 その男の名は中邦犹嗣、縁の実の父親だった。



 第十六話『はじまりのはじまり』



 様々なことに巻き込まれた地底迷宮の大冒険が終わって数日、地霊殿はいつもの騒がしを取り戻していた。あるモグラ頭の妖怪は妖精に告白し一蹴され、動物たちは掃除役の苦労など構わず毛づくろいをし、ごろごろと寝転がる。その和やかな風景の廊下を歩くのは一人の影、猫耳と二股の尻尾を揺らす燐だ。

「アイムシンカーとぅ~とぅとぅ~とぅとぅ~……意外といいわね、これ……てあれ?」

 いつか縁が口ずさんでいた鼻歌を同じように歌いながら歩く燐が、本来仕事で灼熱地獄に行っているはずの時間に食堂の前を通ったのは偶然だった。仕事中に荷車の車輪が歪んでしまいパーツの交換を行うため、予備が置いてある部屋へと戻る途中だった。常日頃、日中はよくてもフレッチャーしかいないような食堂の奥、ガラスの先の向こうの厨房に人影が見えたのだ。
 縁とこいしが戻ってきたのだろうか、と一瞬思ったが、しかしその考えはその人影が一つであることですぐに解決した。ここに来た当初ならともかく、縁はまず一人では行動しない。正確に言えば、必ず誰かが勝手に傍にいる。その代表がこいしであり、次いで旧都でよく共に過ごす十一だ。その次がおくうか自分だろうと順列をつけていた燐は、厨房で動く存在に、消去法的にそうとしか思えない妖怪が挙がることに気づき、あまりに意外性のあることに驚愕しようとし、思わず心の口を閉じた。
 なるべく口も心も静かにしたまま、好奇心に突き動かされて、そっと食堂に入り、厨房をのぞき込む。そこでは想像し難い予想通り、地霊殿の主さとりが淡いピンクのフリル付きエプロンを身に付け、何かを煮ているか温めているかしている鍋の中身をお玉でゆっくりとかき回していた。

「どういうことなの……」

 最近妖精の間で流行っている言い回しを思わず呟く燐であったが、視界の先のさとりは心を読めるはずなのに燐の存在に気付かず、お玉で中身を掬って口へと運び、数拍の間を置いてよし、と頷いた。どうやら納得のいく出来のようだ。そのまま珍しい、あまりにも珍しい鼻歌を歌って一旦その場を離れる。ちなみにいえば、それは先ほどまで燐が口ずさんでいたものと同じだった。
 さて、声をかけようか、もしくは何を作っているのか聞いてみよう、と燐がドアノブに手をかけた時、それが固定されていることに気づく。物理的なものではない、妖力/霊力を使って無理やり動かないようにしているものだ。

「む……誰よ、こんなのやったの」
「オレだ」

 背後から聞こえた特徴的な声音にぎくりとなる。そろりと振り返ると、テーブルの上で羽を繕うフレッチャーが、相も変わらぬ胡乱とした目で燐を見ていた。嫌な奴に見つかったなぁ、と内心で素直な感想を出していると、しかしすぐにその言葉から、この場のことを推理する。

「もしかしてさとり様があんな風に料理してるのって、あんたのせい?」
「……違うな、あの小僧にでも聞け」

 小僧、という形容を使われた人物がすぐ頭の中に浮かび、ああっ、と燐は苦虫を噛んだような顔で顔を背けた。その人物はどう考えようとも縁だった。直接的か間接的かの違いはあろうが、間違いなくあの人間に間違いはないだろう。普通であれば他の、それこそ幾通りの可能性を考えられるはずであるが、不思議と納得できてしまうのである。とりあえず原因はあのバカ人間にしとけばいいや、という投げやりの気持ちでは決してない。
 そのまま想像を続ける燐は、仮に主人が縁を原因として食べ物を作るとして、その用途、目的はなんであろうかという当然の疑問にぶつかった。そしてそこからすぐに直結したのは、さとりが手作り料理を縁に振る舞っているという図である。思いだせば、以前にテラスで二人きりで話しをしていたこともあるのだ。その時の二人は、最終的には縁が押し倒したような形になってしまったが、実はかなり話が弾んでいたのではないだろうか。つまりは、かなり仲がいい。
 そこまで妄想の羽を広げ、二人が紅茶片手に談笑する絵を思い浮かべると胸中に原因不明のムカムカが生じ、我知らず燐は不愉快な顔となり、くるりと踵を返した。フレッチャーも何も言わず、次に燐が叫びであろう台詞を片手間に予想しながら羽繕いを続ける。

「ちょっと中邦ぶん殴ってくる!!」

 殴られるハメになる本人にとって理不尽極まりない、しかしフレッチャーにとって予想通りの台詞を叫んで、ドアを壊すような勢いで閉め出て行った。あの様子では仕事には戻らんだろうな、と大当たりの予想を立てていると、厨房のドアが開きさとりが出てきた。その顔には若干の疲労の中に、満足げなものが窺い知れる。その源はお盆に乗せた料理であるのは明白であった。

「あら、誰かいたのですか?
「ああ、一匹な。それよりそいつを早くこっちに寄こせ。そいつは味は冷めないうちがいいだろうからな」
「そう、ですね。それじゃあフレッチャー、お願いします」

 さとりの表情の中に緊張の筋を入り、お盆に乗せていた料理をフレッチャーの前に置いた。底の深いフチが抹茶色をした食器、その中にあるのは湯気をあげる肉じゃがだった。色よく煮立てられたジャガイモと豚肉、そして玉ねぎが日本の模倣料理特有の甘味を持つ煮汁の中で己の存在をそれぞれ匂いによって主張し、それらが異なることで生まれるハーモニーが嗅覚を通して舌に味を連想させる。
 フレッチャーはしかし感情の色を変えず、さとりがエプロンの端を握りしめながら見つめる中で、右翼にいつの間にか取りだした箸を器用に使って、じゃがいもを一つ摘む。そしてそのままクチバシの傍まで放り、魚でも食べるように少しづつ身体の中へと納めていく。さとりの喉が鳴る。フレッチャーが舌の上に残るジャガイモを喉奥へと送りこんだ。その心の中に生まれた言葉にさとりが認識した直後、フレッチャーは変わらぬ様子の声を発した。

「……上出来だ」
「っ! ありがとうございます!」

 たった一言の賛辞、さとりはその一言に今までの苦労が報われたことを知り、ペットであるはずの鳥に頭を下げた。フレッチャーはそれに鼻を鳴らすと、次いで豚肉を口の中に入れる。

「だがこれはまだ人に何とか出せるレベルで、ということだ。まずみりんが多い、それに砂糖もだ。これではこいしはともかく、他の奴には甘過ぎる。大人数用に作るならば、これぐらいの量に更に醤油も合わせろ」
「は、はいっ」
「まぁ、それでも最初のころの、塩と砂糖を間違えるよりはマシだがな」
「……そのことは言わないでください」

 さとりが気恥かしげに顔を赤く染めた。フレッチャーはそれに対し、偶のドジが出たな、と昔からの付き合いだからこそ出せる感想が喉元まで出てきて、玉ねぎと一緒に呑みこんだ。だが僅かな差でさとりは心を読んで、ジト目で口の悪い皮肉屋のカモメを睨んだ。
 さとりがフレッチャーに対して料理の教えを乞う様になったのはテラスの一件以降からであった。地底に移り住んで以来料理のほとんどをフレッチャーに任せきりにしていたので、縁に対しては大見得を切ったが、その腕はお世辞にもいいものではなくなっていたのだ。素人のようなドジを踏むほどに、だ。だからこそ、ああいった以上は格好のつくものを作り出さなければいけない。そのためには早く昔の感覚を取り戻す必要がある。そのためにフレッチャーに付き合ってもらっているのだった。

「とりあえずはここまでだ、後で調味料の感覚を思い出しながら再チェックをしておけ」
「はいっ」

 フレッチャーの助言に頷きで返して、肉じゃがの入った器ごと持って食堂を出ていくさとり。影になって僅かにしかみえない表情には、隠しきれぬ喜びの色が見てとれる。他のペット、こいしや縁相手に口を割らないモノたちにやって感想をもらうのか、それとも、と主人に対しての柄ではない感想を心の中で零したところで、廊下への出入り口からジト目で睨んでくる件の妖怪に気づく。その眼は三つとも明らかに「余計なお世話です」と語っていた。
 そして燐のものと負けないほどの音を立てて自室へと戻っていった。やれやれ、と肩ではなく翼を竦め、技術指導の鳥は羽繕いを再開した。しかししばらくしてから三度、ドアが開かれる。先ほどまでとは違い静かなものだ、まるで親に行動を知られたくない子供のような慎重さが、半身をドアから覘かすその身から感じ取れる。
 そしてその影は、フレッチャーの姿を認めると、顔に安堵の色を映した。

「うにゅ、フレッチャー。……その、お願いがあるんだけど」

 言葉の途中から顔を曇らせる地獄烏、霊烏路空は、おずおずと彼に一つの提案をした。フレッチャーはそのことに対し、ひとつ、溜息をついた。

「これは……面倒なことになったな、あの小僧も」

 


「おーらい、おーらい!」

 頭上の家屋の骨組みからもうすっかり慣れてしまった怒号のような声に縁は耳を塞ぐこともなく、屋根に使う平たい材木を持ち上げ、クモに似た下半身と上半身が筋骨隆々を持つ男は体育会系によくある暑苦しい笑顔ではいよっ、と縁たちにタイミングを合わせて、するするとそれを骨組みの上へ上げていく。そのまま骨組の枠に沿って、スコンと並べる。この近辺では珍しく、縁でもわかるようなオーソドックスな屋根の作り方だった。後は隙間がなくなるまでこれを続けて、瓦を敷けばいいだろう。
 続けて材木を渡しながら周囲を見渡せば、初めて西区へと訪れた時の風景に似たものがそこに広がっていた。西区復興が始まって数週間、形としてはもう終わりが見えてきており、作業に従事しているものは最後の締めにと今まで以上に気合を入れ、かつ完成祝いの大宴会向けて酒を溜め始めていた。だがそうは言っても個人で作っていた屋台などは今回の件などに入っておらず、また町並自体がどこか新しい空気を持っているので、丸っきり元に戻るというわけでもないだろう。だがそれでもここは、日本の古い建築と同様、壊された家の材木や柱からそのまま流用しているからなのか、旧都の西区であるという雰囲気を漂わせていた。異邦人である縁だからこそ覚える感覚なのかもしれない。

「んでよー結局帰りは何もなかったのか?」

 縁の隣りで残りの角材を能力を使って切りそろえている十一が顔だけを向けて、話の続きを催促してくる。その声に思考の海から引き戻された縁は、うーん、と迷宮と地底湖でのことを思い出しながら、新たな板を縦にする。半ば予想通り土産話を要求されていた縁であったが、一騒動あったことと弾幕合戦が起きたことだけは言ったが、あの施設のことだけは直接は話していなかった。弾幕合戦の内容も、実際はロボットのことをボかして言っている。

「まーな。ダメ元で燐が最初に考えてたルートを逆にいく形になったけど、何も起こらなかったよ……まんまとあのぬえって奴に一杯喰わされたわけだよ、畜生」
「ダッセぇなぁ。ま、オレ様から見りゃ、ようやく人間と妖怪の構図っぽいことになったなって気分だがな」
「妖怪は人間を面白可笑しく騙すってヤツか? それこそフザけんなってもんだ」
「お前が規格外なんだよ、自覚しろっての」

 十一にそう言われても、しかし縁はそこまで自分が規格外であるという自覚は持てなかった。首を傾げて、そうか、と誰ともない疑問の声をあげる。縁にとっては右腕の件と幼少期の妖怪との遭遇を除けば、それほど他人と変わらぬ人生を送っていると思っているからだ。無論、少々荒れていた時期も少年の多感さ故にありそれが原因ともなって、社会全体から見れば多少悪い面というのもあるが、それでも常識の範囲内であろう。この街/幻想郷に降ってきてからのことでも、変わったといわれればちょっと適応しただけと答えられる。
 結論として、やっぱ人間が一方的に妖怪に騙され遊ばれるのはいかんだろ、と心の中で息巻いたところで、はっ、とあの『線』の予測や悪寒にも似た電流が縁の脳裏に走った。それに従い、材木を持ったまま身体をひょいと傾ける。
 
「縁ちゃっっぎゅむ!?」

 案の定、無意識を操る程度の能力の持ち主であるこいしが縁の側面から跳びつこうとし、その相手が傾いたことで代わりに現れた屋根となる板へと顔面をぶつけた。鼻からぶつかるという傍から見れば見事な激突ぶりである。

「うわ、なんだい今の音は!」
「ハデにいったな~」
「あ~……大丈夫か、こいし?」

 下半身のみがクモの妖怪が顔を覗かせ十一がどこか的外れな感想を呟く中、元凶でありながら被害者にもなりかけていた縁が、さすがにこれはまずいかと冷や汗をかきながらこいしを板からひっぺ剥がそうと手を伸ばした。だが直後にこいしは顔を自力で剥がし、鼻と顔の出っ張った部分を赤くしながら、不意の痛みで眼尻に涙をためて縁を睨み上げた。

「ひどいよ縁ちゃん! 縁ちゃんはわたしが抱きついきたいと思ったらそうされなきゃいけなかったはずだよ!」
「いつからそんな決まりがあるってんだテメー!」
「縁ちゃんがエッチなこと考えながら寝てた時」
「そんなん知るかぁぁぁ!!」

 暇が出来てしまえば青少年の衝動的に任せてそういう類の妄想をしたり夢を見てしまう身としてはこいしのいう約束がいつであるかも知ることができない縁としては全力否定をせざるを得なかった。

「なんだい、いつもの嫁さん二号じゃねぇか。脅かすなよ」

 だがそのツッコミもクモ妖怪の何気なく言った発言に吹き飛ばされる。盛大に噴きだした後、気のいい相方だと思えた妖怪に縁は食ってかかる。

「おいちょっと待て、なんだそれ、誰がんなこと言いやがった! しかも二号って何さ!?」
「誰がっていってもなぁ~」
「縁よぉ、前から言われてるぜ。勿論一号のことも、な」

 意地の悪そうな笑みでクモ妖怪の言葉を引き継いだ十一に、それこそ怪訝な眼を向ける。茶化されている、というのは縁に理解できたが、しかしそこでどうしてこいしが該当するのか、また他にもう一人誰かいるのか皆目見当つかなかったからだ。根も葉もないことでからかわれることからでの不快感と、自分以外にこいしに対しても迷惑の何物でもないと思っていたのだった。
 
「ったく、変な茶化し考えんじゃねぇよ。な、こいし……?」

 そのことに同意を求めようとこいしに振り返るが、しかし縁の予想を裏切って、こいしは顔を俯けている。何かしら小言で呟いているが、縁にはそれが届かず、また顔色もわからない。しいて言えば、耳元が若干赤くなっていることだろう。それほど嫌だったか、と縁は早合点し、すぐに未だ顔をにやつかせる二人に睨みを聞かせながら、縁にとっての事実を告げる。

「言っとくけどなぁ、こいつらとはんな関係じゃねぇよ。よくてこいしは妹だっての、ばーか」
「おいおい、妖怪相手に妹扱いかよ」
「……ウワサは聞いてたが、まさか本当にそんなことを言うとは思わなかったぞ」

 驚きの度合いに違いはあるが、縁を見る二人の視線は多大な呆れのものが大きく、直ぐに複雑なものが籠った溜息を吐いた。その態度に縁はムッと顔を顰めて噛みつこうとする寸前、縁の服の端を掴まれ、たまらずそちらを振り返った。こいしがいる、その顔はもはや赤みがなく、いつもより二割増しと言えるような笑顔である。しかし目だけは笑っておらず、同時に第三の目が真っ赤に充血しながら見開かれ、縁を見据える。それらが相乗して噴出する空気は、空腹時に獲物を前にした肉食獣のそれであった。
 笑みとは本来攻撃的なものである、などという言葉がなぜか縁の脳裏に浮かび上がり、嫌な汗が無意識に流れ出る。

「え、え~と、こいしさん? なぜにそんな怒ってるんですか?」
「別に怒ってないよ~?」

 雰囲気に負け自然と敬語になった縁に、にこやかに答えるこいし。口調すら怒りのものは含んでいない。だがそれでも一言一言紡がれるたびに重圧感が増していく。正体不明の恐怖を浴びせてくる少女から逃れるため、助けを求めてこの場にいる男二人に目を向ける。だが一人はいつの間にか縁の手から板を奪って作業に戻ってしまい、もう一人は口笛を吹きながら角材を研ぐ仕事に戻っている。だが二人とも、特に十一の方はあからさまに聞き耳を立てていた。
 うふふふふ、となぜか黒白っぽいも紫ローブっぽくもある魔法使いが背後に現れそうな笑い声をこいしが一歩踏み出すたびに、縁も一歩後退する。だが元々裾を掴まれているので、離れることができない。そのまま文字通りの一進一退が続いていると、縁の足に何かが当たった。後ろをまったく注意してなかった碌にバランスをとることもできず、のわっ、という間抜けな声をあげてそのまま後ろの木材置き場へと倒れこんだ。それに合わせて、こいしは縁に引っ張られることなく、うまく馬乗りの姿勢となる。

「ふふふ……」
「な、何をするだぁぁぁ」

 見た目は小さな少女でしかないこいしにマウントポジンションをとられるのは何度かあるか、かつて首を絞められた時よりも遥かにプレッシャーがかかる。何をされるかわからない、というのが縁の中でそれを感じさせる強い要因であろう。
 そんな縁を見降ろして、ふふん、と一度鼻を鳴らすと、こいしはゆっくりと上半身を落とし、縁の耳元へと口を持っていく。これまでのことから、噛まれるか、と縁は来るであろう痛みに耐えるべく筋肉に力を入れるが、しかし予想に反して耳にかかったのは、こいしの暖かな吐息だった。

「別になにもしないよぉ、お・に・い・ちゃ・ん」

 はへっ、などと縁は頓狂な声をあげてしまった。声と同様、間抜けな顔をしている縁を見下ろして、こいしはふふふと笑う。縁は、その顔を見上げながら徐々にこいしの言葉の意味を理解していき、我知らず顔を赤らめていく。

「んな、んな、おまっ、いきなりどうして」
「だってわたしのこと、妹みたいって思ってるんでしょ? だったら別にいいでしょ、お兄ちゃん」

 こいしの顔は笑っている、ネズミ/玩具を見つけた猫のように。さしずめ縁はその猫の前に置かれたまな板の鯉であろう。わたわたと混乱し正常な思考ができず動けずにいた。その様子を横目で見ていた十一が、それじゃあこの先生きのこれないぜ、などと呟いたが、しかし当事者たちには聞こえることはなかった。

「ね~お兄ちゃ~ん、どうして顔赤くしてるの?」
「く、こいつ……」

 こいしの笑みは猫のそれの他にもう一つ先ほど含んでいるものがあった。それは先ほどまでの威圧的なものとは一転しての、艶のある、引力を発生させるもの。その艶の種類は若い縁にはわからない。だがしかし、見た目が明らかに中学生以下の少女相手に、しかもよりによって「お兄ちゃん」などと呼ばれて顔を赤らめ動悸を速める自分自身が信じられず、もし仮にこいしが乗っかっていなかったならば、頭を地面にぶつけていただろう、それも何度も。
 そのように身内で、俺はロリコンじゃない、ロリコンじゃない、と呪詛の如く唱えながら肝心のこいしを振り払えない縁は、しかし何とか合わせられていた視線だけは外して彼方を向き、地霊殿の方向から何かが高速で飛来してくるのが見えた。一体何だ、と呪詛を唱えるよりも効率的な煩悩撤去方法に移行してそれを注視すれば、それの先端が鈍い赤色というのがわかる。どこかで、いや毎日見ている色だ。

「なぁぁぁかぁぁぁぐぅぅぅにぃぃぃ!!!」

 そして次には、遠方であるが故にエコーがかかっているが、これまたいつも聞いているような声だ。だがここまで怒気を、それこそ灼熱地獄の熱を帯びた怨霊を纏わせたようなものではない。
 その声の主はある程度輪郭が見えるほどまで近づくと、飛びながら身体を丸めて回転し始めた。さながら、空中での助走のようだと、嫌な予感がしてきた縁はこれまた嫌な汗をかきながら思い、よく当たる予感に従いすぐさま動けるようこいしに視線を戻そうとした。

「こいし、そこどいアレェェェェ!?」

 いるべきはずのこいしはいなかった。代わりに縁の上に乗っているのは、筋骨隆々としたビルダーの如き肉体美とポーズを再現した木彫りでビキニパンツ一丁の男性裸体像だった。だが本来の人間の彫り物と決定的に違うのはその頭にあるべき場所が四角錐と台形を合わせバイザーのような彫りこみが刻まれているものに置き換わっていることと、胸部に『アリーヤ川手』という名称が刻まれていることだ。
 十一の身長と同程度の大きさのそれは大きさに違わず重く、縁がすぐには動かせぬほどのものであった。慌てて顔だけ動かして、これを置いただろう犯人を探す。案の定、こいしは縁の傍を離れ、じっと小動物を観察するように両手の平で顔を置く机を作って見ていた。その周囲には、これを運んできたのだろう、いつものお付き三匹が荒く息を整えながら寝そべっていた。

「ちょっと待ったこいし、こりゃどういうこった! つーか何これ!?」
「この前の宴会中に無口な妖怪が彫ってくれたものの余りだって~」
「そいつのセンスおかしいだろっ、ぜってー何かに汚染されてるだろ! つーかいい加減これどけてくれ!! お前らでもいいから!」

 縁は自然と悟っていた。何故かはわからぬが、こいしは未だ怒っていると。故にまだ見ているはずだろう二人の妖怪に助けを求め、視線を向けた。だがしかし、救いの神はいなかった。クモの妖怪は酒が欲しくなってきたなぁ、と虚空を見て決して視線を合わせようとせず、十一に至っては一度ニヒルに笑うと、ゆっくりと口を開いた。

「助けるつもりなど元よりない」
「じょ、冗談じゃ……」

 現実を認められず、思わず呟く縁。しかしその瞬間にも時間というものは常に動き続け、ついにその時が訪れた。
 空中のそれは回転の状態から飛び蹴りの姿勢をとった。そしてその瞬間、その妖怪、燐は声高々に叫んだ。

「『究極「おりんりんキック」』!!」
「それスペカちがっ………」

 縁の言葉は最後まで続かなかった。何故ならば急降下してきた燐の飛び蹴りによって、縁の上に乗っていた木彫りの変態像ごと蹴り抜かれたからである。そのまま理不尽に対する怒りを抱くことすらできぬまま意識を失う直前縁が見たのは、水色の布のようなものであった。



「まったく、楽しそうだねぇ」

 星熊勇儀は作業現場で突如立ち上った煙とゴミの柱と建設作業特有の喧噪とはまた違う騒ぎの音を肴にして、ぐいと杯の酒を飲み干した。復興計画も終盤に差し掛かっている現在、本来ならば最後の締めを誤らぬよう現場監督として作業場にいなければいけないが、しかし住まいをこの機に新調したいものが今日は多く、監督の仕事を率先して行っているので、久方ぶりの傍観者役を楽しむことにしたのだ。現場監督といっても、それを為そうとする若い芽があれば伸ばすべくあえて放置するのもまた、まとめ役としては必要なことなのだ。
 こうして偶の休みを得た勇儀は近くで買い入れた銘酒『かぶらかん』を舌鼓を打ち、ゆっくりと作業現場から離れた休憩所にいるのだった。ここであれば万が一異常事態や総責任者がいなければ対処できないことが起きてもすぐに行けるからだ。

「飽きないもんだねぇ、あいつらも」

 だがしかし、その異常事態には勇儀が今見ている場所での喜劇めいたことは入っていなかった。むしろこれは、西区復興に参加しているものたちにとっては、もはや宴会と並んで日常茶飯事の出来事の一つに挙げられているものだった。即ち、人間・中邦縁を取り巻く出来事。それは最終目標である地上への脱出のための修行の他には、西区破壊の時に家を失くしたものや恨みを買ったものとの和解や喧嘩/弾幕ごっこであったりするが、しかし一番数が多く、また被害も規模も大きいのは彼を取り巻く女性関係でのことであった。
 まず西区崩壊の原因である古明地こいしを筆頭に、その事件が起きる前から縁の傍に影があった地獄鴉の霊烏路空。また空と共に火焔猫燐が、そして地霊殿の主で滅多に外に出てこない古明地さとりが槍玉に挙げられ、被害込みで何かを起こすのはこいしと燐が主だった。
 しかしこの女性関係を面白がって、本人たちには知られていないが賭け事が組まれているほどであった。これには復興計画の殆どの妖怪や妖精が関わっており、彼らの巻き起こす小規模な事件を含めて目下一番の娯楽となっている。尚これには縁の一番の親友を自称している十一が率先して動いており、特別顧問としてある妖怪までも引きいれたほどだ。ちなみにこれが賭けとして成立しているのは、縁の無自覚な鈍さのおかげであった。
 勇儀も傍から見てわかるが、縁は女性からの好意に驚くほど疎い。覚悟の座り方からして恋を経験しなかったわけではないだろうが、それでもそれは特殊な部類だったのだろう、と推測はつけている。つまり、よくある恋愛感情にはそれこそ常識的な、天狗のような常識で固まったものから見ればそれが彼の能力かと疑えるほどの鈍さなのである。
 そのせいで筆頭ともいえるこいしに毎度毎度ちょっかいを出されているのだから、少しは学習をしたらどうかねぇ、と酒を呑みながら息を吐くと、その件の人物が幻想郷では滅多に使われる事のない担架に乗せられてここまで運ばれてきた。物の見事に目を回してきれいに気絶している。呆れて溜息が出た。

「まったく、今度は何やったんだいこいつは?」
「……常套」
「なんだい、いつものことかい。被害の方は?」
「……損壊」

 縁をここまで運んで寝かしつけているのは地底の数少ない医者の一人だった。着流しの上に白衣というおよそ時代錯誤とは言わず倒錯的な格好をし、およそ医者らしくない業物を腰に帯びる男はそのまま処置を続ける。蹴られて気絶しているがそこまで傷はなく、軽く冷やしておくだけでよいのだった。
 この医者がいつも一言二言、いや漢字二文字の言葉しか言わないことを付き合いから理解している勇儀は「常套」の意味から事態を察し、やはり火車の猫か無意識の妹が被害の出るやり方でぶつかったのだろう、と推測した。そうして何かをやったか言ったのだろう縁に対し、少しは学習したらどうかねぇ、と独り言のように呟き、今にも立ち上がり出ようとする医者へと目をやった。

「どうする、呑んでくかい?」
「……下戸」
「つれないことを言うもんじゃないよそこは」
「……客人」
「んあ?」

 言われて勇儀は開け放しの戸口を見、あまりにも珍しい妖怪の登場に口笛を吹いた。そこにいたのは、柱に背中を預けて腕を組む、水橋パルスィだ。医者は一見して我関せずといった態度を見せ二人の鬼に対して一礼すると、休憩所から出て行ってしまった。残された二人の内、挨拶もなしに最初に口を開いたのは、先客の方だった。

「で、どうしたんだい、あんたが態々こんなところに来るなんて? 別に宴会に参加しにきたわけじゃないんだろう」
「まぁね、あのくだらないトトカルチョのことで呼ばれただけよ」
「あ~、アレね」

 ふざけたフリをして、勇儀はいそいそともう一つ、新たな杯を取り出す。パルスィはそれを見て特に何も言わず、座敷に腰かけ、酒の入れられた杯を貰う。その一連の動きは儀式めいたほどの慣れられたもので、二人の間に何かしらの友情すらを垣間見せるものだった。
 そうして一度杯をぶつけ合ってから呷り、一息つく。互いに別種の色香を、勇儀は奔放で力強くパルスィは艶のある太夫の如きものを伴ったものだった。そこまでして、パルスィがうんうんとうなされながら横になっている縁の鼻をおもむろに摘むと、勇儀がゆっくりと話しを振りだした。

「そういやあんた、林皇のとこの子倅他に頼まれたもんねぇ。楽しげなことには嫉妬するんじゃなかったっけ?」
「他人の何たら蜜の味ってやつだもの、これは元々嫉妬とは別だわ。むしろあなたがこういうのは嫌いじゃないのかしら?」
「鬼は色恋沙汰ってのは楽しむもんさ、勿論他人のそれなら、賭け事だってするね」

 付き合いが永い故に答えが容易に予想できる問答を繰り広げた後、一杯呷る。パルスィはそこで縁の鼻を摘むのを止め、縁は息の不自由となる悪夢から解放される。しかし未だ眼を覚まさない。そのことにパルスィは頬を緩め、勇儀は口元を吊り上げた。

「何だい、実は結構気にいってるんじゃないかい?」
「それはあなたもじゃない? 私はこの子を……そうね、イジメ甲斐のある人間とは思ってるわ」
「それが気に入ってるっていうんだよ、しかもアンタにそうまで言わせるなんて、この坊主も大したもんじゃないか」
「排他的な連中をわざわざ自ら出張って黙らせたあなたほどじゃないわ」

 二人はそこまで言って、薄く笑う。互いのウワサは既に聞き及んだ通りのものであり、「ガチタン……ガチタンが……」と魘される少年に対する気持ちもまた似ているものだった。
 しかし、唐突に勇儀は顔を真剣なそれへと変え、その身に纏う雰囲気もまた、水橋パルスィの旧友ではなく地底都市の統治者の一人、四天王の星熊勇儀のものを纏う。それを察しながら、パルスィは酒を一度喉に通した。喉を通る音がやけに響いた。

「それで………どうして私のところにきたのか、教えてもらおうか」

 パルスィがこの西区を訪れた目的は、彼女が特別顧問として引っ張りだされた縁を巡る多角関係の賭け事の途中経過と解説を任されたからだ。だがそうにしても、態々その中心ではないただの賭けの参加者である勇儀の元に来る理由とはならない。ならば愚痴にしろ何にしろ、勇儀に話すことがあると考えるのが常套だった。
 
「……『未来の遺跡』がまた壊れたわ、恐らくはこの子たちのせいでね」
「……そうか」

 西洋の神秘世界において賢者の如き深い知識を有するというものと同様の耳を持つ妖怪の言葉に、日本において山の主、土地の主と祀られた鬼の一人は静かに頷き、休憩所の中に満ち満ちていた威圧感を霧散させた。だがしかし、その顔には先ほどよりも険しさが見え、パルスィのもたらした情報が必ずしも愉快なものではないことを示していた。
『未来の遺跡』と呼称されたそこは、迷宮の最奥、地底湖にも通じる謎の施設だ。呼称に関しては施設そのものが幻想入りした時に調査を行った一部の妖怪のみの間で交わされるもので、そこにより詳しいものは別の名称を使っていた。
 そしてパルスィはその調査を行った一人であり、またその場に何かがあった時に知らせることを約定した守護者の一人でもあった。それもまた、妖怪の間でしかなく、真の守護者はまた別に存在するが、ここではまだ関係はしない。

「わかってるの? 私たち妖怪はともかく、人間である坊やにとってあそこは知らない方がいい場所なのよ?」
「まぁね、あそこは可能性の一つとはいえ、人間には酷なところだからね……まぁ真実を知ったら、だけどね」
「仮に坊やがあのガーディアンを倒したなら、確実にアレは見てるわよ? そうなったらいずれ気づくわ」
「だろうねぇ……最悪、こいつはまたあそこを破壊しにいくか……元の世界に逃げるかもしれないね」
「その方が救いでしょうに……勇儀、そもそもあなた本気で坊やを外に帰してもいいと思ってるの?」

 勇儀の杯に満ちる酒がゆらりと揺れ、僅かに零れた。

「坊やを廻る女性関係で賭け事をするってことは、あなたは妖怪の少女が人間に恋をし結ばれることを肯定していることになるわ……そうなれば坊やは人間、情に負けてここに残るわよ」
「そんなのこいつの勝手さ、別に誰ともくっつかなきゃそれでもいいのさ。ま、そん時は私はこいつが帰る時に玉無し扱いしてやるがね」
「そういう意味で言ったわけじゃないことぐらい、わかるでしょ」

 パルスィは今まで外に向けていた顔を勇儀へと向け、その眼を見据えた。勇儀は答えない。静かに酒を呷るだけだ。

「妖怪が人間に恋をする。それも複数の妖怪が、たった一人の人間によ? 今はかつての時代でもないし、ましてやあの時代にさえこうまで恋慕の情を向けられる人間はいなかった……そして何より、坊やは『今』の外の人間。人間から忘れ去られたあなたがこの意味をわからないはずがないでしょう」

 碧い瞳が、くすんだ金の瞳を射抜く。見透かされている、と勇儀は素直に認めた。

「人間と妖怪は違う……わかってるさ、そんなこと。けどねパルスィ、こいつはそれを二度も打ち破ってるんだぞ」

 だからこそ、勇儀は可能性に繋がる一つの事実を提示した。それはこの地底に住むものたちが久方ぶりに体験した、昔語りの再現。正面からのぶつかり合いで、人間が妖怪を打ち破って見せた光景。そして人間が妖怪を受け入れ、妖怪もまたその傍にいることを望んだという使い古されたお話。一度目は拳で、二度目は各々の力で。
 だからこそ勇儀は、縁ならば、古の人間と妖怪の関係を取り戻せるのではないかと思っていた。しかしパルスィはその考えごと勇儀の言葉を鼻で笑った。

「たったの二度の話よ、あなたが理想主義者の真似事をしたって似合わないわ……本当の意味では、まだ坊やはこの差を理解していないわ」
「どうしてそう言いきれるんだい?」
「無防備過ぎるからよ。この子の適応力は私も認めてるし、期待もしてる。けどね、それは真の恐怖を乗り越えてないだけ、もしかしたら麻痺してるだけなのかもしれないわよ?」

 妖怪は人間を食らう。人間は妖怪を排斥する。よくできた二項対立だった。それは例え、古からでも変わらない。いや、それこそがもっとも初めの形で、正しい形。勇儀とて、いや鬼である彼女だからこそ理解していた。だが、それだけではないことも知っていた。
 一拍の短い、しかし間が空き、二人は同時に酒を喉に通した。これだけ話していたからだろう、喉は渇き、酔いは霞のように消えかけていた。

「………ならさ、パルスィ。こいつを試してみようじゃないか」
「……二度あることは三度ある、というつもり? もしかしたら三度目の正直かもしれないのよ?」
「それでも納得のいるものが欲しいんだろ、人間と妖怪の間のことで」
「ええ、そうね。だったら………」

 はたとパルスィは何かに気づき、勇儀を見た。その眼には、信じがたいものを見るものがあり、疑いの光すらあった。それを受け止めた勇儀は鬼にしては物珍しい、悪戯を企む悪餓鬼のような笑みを浮かべた。

「あなたまさか、坊やをあの子にぶつける気っ?」
「持ってこいだろう? あいつにも、こいつにも」
「……口実はどうする気? 鬼は嘘が嫌いじゃなかったの?」
「あいつの機械好きは知ってるだろ? それに丁度あいつ向けの依頼が来てたからね、嘘を吐くことはないさ」
「詭弁ね、まったく……それに釣られて殺されることになる坊やが可哀想だわ」

 パルスィは一度溜息を吐くと、いつの間にか空になった杯を置いて、ゆっくりと立ち上がった。

「もう帰るのかい?」
「ええ、用事はもう終わったもの」
「真改といい、最近つれない奴ばっかりだねぇ」

 杯に酒を注ぎ足す勇儀はあからさまに溜息を吐き、芝居がかった仕草で肩をすくめた。パルスィはそれに振り返りもせず、戸口の外まで歩いていく。しかしその途中、一度歩を止めた。その背中から声がかかった。

「勇儀、人間と妖怪の対等な関係は今も昔も存在しないのよ。幻想郷はそのためのシステムなんだから」

 幻想郷の成り立ちを見守っていた鬼は何も答えなかった。パルスィはそれをわかっていたのか、返答を待たず立ち去った。残されたのは、酒を一人飲む勇儀と、ようやく悪夢から解放され、穏やかな寝息になった縁だけ。復興現場の喧騒がここだけを避けて通るように静まっていた。

「……そんなの、昔から知ってるよ」

 残された勇儀はそう呟き、酒のなくなった徳利を置いた。その時、無意識に力を込めていたのか、徳利は思いのほか音を立て更には畳の上に軽い振動を作り、縁の身体を揺さぶった。その小さな揺れに脅かされたように、縁はぱちりと目を開いた。そして一度ちらりと右腕を見て不思議な安堵の溜息をつき、ついで周囲を見渡した。

「っ……ここは……て、言うまでもねぇか」
「ああ、ようやく起きたねまったく……タイミングがいいのか悪いのかわからんね」
「そんなの知るかよ。ったく、あんにゃろう、何だよあの技、加減もしねぇで……」
「毎度毎度、よくやるよねぇお前も」
「好きで寝てんじゃねーつの! つーか燐ぶっ飛ばす! ついでにこいしも今度こそお仕置きしてやる!」

 ぐちぐちと文句をたれ復讐を誓う縁は上半身のバネを使って一息で立ち上がると、体を軽く解した。そこの辺りは慣れたもので、寝ていた分固くなっていた身体がすぐに動けるほどになっていた。それを横から見ていた勇儀は自然と笑えた。内心、また返り討ちにあってここに運ばれるだろうと想像ができて、声に出るほど笑いそうになった。
 だが次の瞬間には、その顔が引き締められた。

「なぁ縁、ちょっとお使いにいってくれないかい?」



「え~と、ここか」

 勇儀からお使いという名の仕事を頼まれた縁は一人、旧都の南西にある路地裏を歩いていた。ここまでくればこいしの巻き起こした災害の跡はどこにもなく、昔懐かしい空気だけが漂う街並みが整然と並んでいた。しかしこの路地裏ではそれだけでなく、どこか山中で霧の中を歩く様な不気味さがあった。初めてくる場所だけにそれは一層強く縁の心に入り込み、居心地の悪さとして顔の表に出ていた。
 そうして辿り着いたのは一軒の家。旧都では珍しい三階建てで、しかも縁が元いた世界にある車庫のような建物が隣接されていた。ここにいる人物が、何でもカラクリ、勇儀曰く機械に強いらしく、彼女の家にある完全防音のガラス戸の制作者であるらしい。そして縁は勇儀に頼まれ、『スーパーキングドッキリビックリキュウリメカ112号』というネーミングセンスの欠片もないものを注文しにきたのだ。
 こんなところに住んでるし、絶対変人だろうな、と縁は頬を引きつらせながら、とりあえずは戸を叩いて住人がいないかを確認することにした。

「すんませーん、誰かいますかー、勇儀さんからの使いなんですけど」

 大声をかけながら戸を二回、それを三度続ける。しかし反応は返ってこない。いないのか、と試しに戸に手をかけると、すんなりと開いた。一応鍵はあるようだが、それすらしてないようだ。とりあえず中だけでも確認するか、と思い顔を間から入れようとし、しかし突然頭が何かにぶつかった。

「いたっ! っつ~……何だよおい」

 戸と柱の空いたスペースを見るが、何もない。今度は警戒して、そこに右腕を突っ込ませた。そしてそれは何かに触れた。硬い壁のようなものだ。

「完全に透明なガラスってやつか? こんな防犯装置もあるのか」

 すげ~な~、と現代っ子である縁はいきなり出てきた妙に現代的な、しかも実現できそうな代物の小さな感動を覚え、好奇心からそれを何度も叩いたり、撫でてみた。すると数か所、小さなへこみがあるのがわかった。もしかしてこれが引っかけかな、と試しに指で軽く引いてみると、多少の抵抗と共に、透明なガラスのようなものは動いた。音はしないが、感覚でわかった。
 おおっ、と感動しながら、ひょいと家の中へと入る。そして右腕を離すと同時に透明なガラスのようなものだけが自動的に閉められた。そのことに、やっぱり防犯装置か、と勝手な確信を抱いて、家の中を見回す。

「ちょっと遅いけど、お邪魔します……って、なんだこれ」

 縁の言葉は、家の中にぎっしりと、乱雑に置かれたそれらに目を惹かれた。
 一つは木で出来たペンチだった。一つは解体されたラジオ・オーディオとカセット式のウォークマンだった。一つは殆ど完璧な状態で整備された原動機付き自転車だった。
 そこはおよそ旧都という古い日本の街には似合わぬ、現代的な自動車整備工場の、少々古い先入観が集まって出来たような部屋だった。

「これ……どういうこった? 確かに忘れられたようなものばかりだけど……それでも、誰がこんな整備してるんだ?」

 土間から家の中に上がらず、無造作にウォークマンを拾って電源を入れた。しかし動かない。バッテリーの蓋を開ければ、そこには肝心要ともいうべき単三電池が入っていなかった。そうなれば、これはガラクタだろう。よく見れば小さな傷やへこみが多くみられる。それでも一見して、電池があれば動きそうなところを見るに、この家の主がよほどの機械好きで、そして縁以上に機械の強いことが想像できた。

「そこにいるのは誰?!」

 物思いに耽っていた縁に怒声が浴びせかけられた。同時に土間からも見えるスカスカの階段がとんっとんっと音が響き、誰かが降りてきたのがわかった。慌てて縁はウォークマンを元の場所に戻し、姿勢を正した。その間に、この家の主は一階に降り、縁の姿を両目で捉えた。
 赤い上着に白いフレアスカート。それに家の中でも上着と同色の『M』という刺繍がされた帽子をしているのは、まだ縁の最近広がった常識の中でセーフを判定を与えられる。しかしその胸にかけられた錠前と、信じられぬものを見る目で縁を睨む顔はその中でも際立っていた。
 睨んだまま何も喋ろうとしない見た目少女の、妖怪だろう相手に果たしてどうしたらよいか考えた縁だが、とりあえずは自分の目的を果たそうと口を開いた。

「えっと、河城みとりさんだよな? 勇儀からの使いで注文を……っ!」

 少女、河城みとりからの返答は、弾幕だった。
 
 
 あとがき

 読者は激怒した。必ず、かの怠惰むっつりの作者のケツを叩いて続きを書かせなければならないと決意した。
 そんなことが起きても不思議でもないと思ってる作者です。鈍筆でごめんなさい、これも全て教習所いき始めたのと同時期に出たSLPがいかんのです。え、違う? 

乙<阿呆が……空気にもなれんか

 さて、今回ですが、正直迷走しました。せっかくのアンケートですから一つ一つに応えたいという気はあったのですが、しかし頭の中で「お前、それでいいのか?」と謙虚なナイトが囁いてきて、書いては消してをくり返し、一つの結論に達しました。

 そうだ、また一つ○○編ってやっちゃおう。

 死亡フラグでした。ですがまだ続きます、アンケートの泡盛に応える気持ちで。続きは来年で!(ウソウサ……?

 

おまけ:気絶中に見た縁の夢


「縁、起きなさい、縁」

 縁は目覚めた。そして最初に見たのは、ガチタン天国だった。そして縁の目の前にいるのは、一際巨大なガチガチしてるガチタンだった。

「誰てめぇ」
「私は君の義手、ワカの精の(´神`)です」

 ぎゅーんぎゅんぎゅんと縁の第三の腕がドリルになった。

「やめたまえ縁! は、話しを聞こう、聞きましょう、聞いてくださいっ」

 とりあえず止めた。

「で、ここどこだよ」
「ここは我々ガチタンたちのガチタンによるガチタンのための世界、ここでは私が全てを司っている! つまり君も今すぐガチタンにならなければここから脱出はできぬ!! そしてきみはこれから作者の考える種死ものやフラオムの忍者ワールドや黒歴史やループ世界やマホラ何とかの世界でガチタンの力を思い知らせるのだ! さぁきみも今すぐレッツガチタン!!」
「ば、おま、ふざけんな! 誰がんなっ……!?」

 なんということでしょう! 縁の目の前には、いつの間にか愛くるしいガチタンたちに姿が……

ガチターン ガチターン ガチターン ガチターン ガチターン ガチターン ガチターン ガチターン

「う、うわあああ!!」
「ああ、逃げてはいけない! さぁ早くこっちへ!」
「誰がガチタンになるかぁぁぁぁ!!」

 逃げる縁、追うガチタン。だが不意に縁に、こんな声が聞こえてきた。

「聞こえるか、こちらに逃げ込め!」
「死亡フラグっぽいけど踏むしかない!」

 ガチタンっぽくない飛びこんだ縁。それに気づかず、直進して過ぎ去っていったガチタンの群れ。

「ふぅ、助かった……ぜ……」
「さぁ、これで邪魔は入らなくなった……ふ・た・り・で」

 やらないか

「のわぁぁぁぁ!!!」
「逃げる? ダメだ、ハメさせてくれ」

 縁は今度は♂ソーダーの群れから逃げることにした。しかし♂ソーダーはガチタンと違ってとても早く、すぐに捕まってしまった。

「ち、ちくしょう!」
「さぁ、今度こそ……」
「だめぇぇぇぇ!!!」

 真横から何かが飛んできて縁に覆いかぶさりエーレンベルク♂を見せつけていたナマモノを蹴り飛ばした。
 その影はある一人の少女だった。

「え、あ、お前は……」

 縁がその名を言う前に、彼女に抱きしめられた。もう大丈夫、と耳元でささやかれ、縁はようやく心休まったところで、現実へと復帰したのである。

 まったく、やれやれだな

 夢の中に残った何かが、呆れたように溜息をついた。



[7713] 第十七話――少佐<スランプだと? まだいけるだろへたれ作者!
Name: へたれっぽいG◆eaa9c481 ID:f33d8d16
Date: 2011/02/26 23:59
 轟音が遠雷の如く届いた。同時に南西の方から立ち上る煙。屋根から見ればそれが一目瞭然だった。復興現場が再び違う色の喧噪に染まり始める。そうなるのも無理はない、あの方向には、アレが、妖怪にも人間にも溶け込めない半端もの、かつての地霊殿の古明地姉妹とも地底における縁ともまた違うはみ出しものが住んでいるのだから。それが何かあって市井に出ててくるのは興味半分、迷惑半分というところなのだ。
 そのことを思えば、情けない、と自らの同胞ともいうべき地底の連中に喝を入れたい気持ちになるが、しかし今はその喝を別方向から入れようという試みをしているために、彼女はすくりと立ち上がり、声を張り上げた。

「あんたたち、落ち付きな! どうせただの弾幕ごっこだろうさ、さっさと作業に戻んなっ」

 地底中に響かせるような大声に、作業を行っていたもの達は一部に怪訝な顔を浮かべて爆発が起きた場所と勇儀を見るものがいたが、大部分はすぐに何事もなかったと言いたげな顔で復興作業に戻っていった。
 これでいい、今はこれで。自身に言い聞かせるように身内で呟きながら、勇儀は一人あの場所を振り返った。視線の先では色取り取りの光が瞬き、それが全て地上に向けて撃ち込まれているのが煙越しに見える。弾幕ごっこ、嘘ではない。だがしかし、予想していた時よりも幾分か早い。勇儀の思惑の埒外が起きたのだろう。
 すまん、勇儀はあの場所に送った少年に対し心の中で謝った。そして同時に彼があの時と同様、奇跡を手繰り寄せてくれることを願った。
 再び爆煙が舞いあがった。その音は再びこちらまで響き勇儀は我知らず顔を歪め、そこを注視していた。そのことが幸いしてか、勇儀はそこへと向かって動き出す一団を発見することに成功した。やれやれ、と溜息をついて、両脚に力を込め、跳躍。その衝撃で屋根が粉砕されるが構わず、勇儀はその集団の前に落着し、振り返る。

「あそこに行くのかい? 野次馬する暇あるんならさっさと仕事に戻ってくれないかね」
「そんなこと言うの、勇儀さんらしくねーな」
「へぇ、どう私らしくないって?」
「あからさまに嘘すれすれのこと言ってるとこだよ」

 その中の一人、十一が己の弾幕を呼び出し向けてくる。本能が察知したのだろう、戦うことになると。それは場合によっては正解である。そうであっても、その眼には目上、それも妖怪を束ねる力すら持つ鬼を相手にするという余計な気負いがない。ただある確信があるだけだ。
 良い眼だ、あの子猫だったやつがここまで成長したか、と勇儀は内心感心した。

「そんなことどうでもいいよ……ねぇ一本角の鬼さん、縁ちゃんはどこ?」
「さぁ、仕事に戻ったんじゃないのかい?」
「嘘、あれから一時間も経ったのにだよ? 今の縁ちゃんがお燐のキックを喰らっても長くても三十分ぐらいで起きるもん」

 覚の少女こいしが十一に並ぶ。トトカルチョの票を見ても判るが、彼女がもっとも縁に近い一人とあってその観察力も半端ではないようだ。勇儀の追及を避けようとした戯言を一言で斬り伏せ、妖力を漲らせる。同時に彼女のペットであるという三匹の妖怪たちもまた、鬼が相手であるというのに怖気づくこともなく、むしろ意気揚々と身構える。
 何か小言で「左な」「じゃあ右」「ここは間をとって両方に」という相談をしているようだが、恐らくは攻め方だろうと胸の母性を揺らして勇儀は推測する。

「別にあいつがどうこうしようと知りませんが……あいつに何かあると、さとり様が困るんです。だから通してくれませんか?」
「その物言いだと、あそこに縁の坊主がいるみたいだね。どうしてそう言いきれるんだい?」
「最近地霊殿の中じゃ、何か起きたら大体あのバカ人間のせいなんですよ。そしてこういう時も同じことが言えるかなって」

 火車の少女燐が怨霊を呼び出し、片手に彼女の象徴とも言える死体入りの荷車を顕現させる。いつかあった時に見た迷いは幾分か晴れ、その迷いもまた質の違うものになっている。だが、良い傾向に違いない。勇儀はこれまたここ最近になって気にかけるようになってしまった猫娘の成長に内心笑みを浮かべた。
 三人と三体、それぞれの弾幕が展開直前になったところで、勇儀はようやく杯を出した。そこに入れる酒は先ほど買った『かぶらかん』ではなく、SOM割りの雷電削り。いつもは隠し持っている徳利に入れたとっておきだ。それを一度豪快に喉に流し、妖力を全身に漲らせる。

「あんた達の言い分はわかった……けどまあ、それはできぬ相談ってやつだ。弾幕ごっこでなら話は別だけどね」
「何だよ、結局勇儀さんが戦いたいだけかよ」
「悪いがそれも違うね……ことが終わるまで、あんた達はここで待ってなってことさ!」
「やっぱり縁ちゃんは向こうにいるのね!」
「そういうこと! けどあんたらはここで通行禁止さ!」

 今頃久方ぶりに会う人間相手に力を振っているだろう、妖怪にも人間にもなれなかったものの言い分を勝手に借りて、勇儀は同時に仕掛けてきた六つの存在に全力に限りなく遠く近い力を振い出した。


 同時刻。地霊殿から飛び出し、煙の巻き上がったそこに向かう一羽の地獄鴉いることなど、神ならぬ勇儀は知る由もなかった。



 第十七話 『神もくじ引きを引く』


 
 突如迫った光を前に縁が右腕を掲げ防御出来たのは、これまでに何度もあった危機の連続のおかげだった。元の世界でも一時期荒れていたことでケンカをすることもあり奇襲されること、そしてこちらでは異常事態から、特にこいしの一件では藪から棒というタイミングで攻撃を仕掛けられたことがあるのだ。加えて、たびたび行う十一や燐たちとの模擬戦/弾幕ごっこで弾幕に対し防御手段や対策も練ってある。故にそれは、必然ともいえる反応だった。
 だがしかし、反撃はできなかった。それは突然攻撃を仕掛けてきた彼女に対しまだ敵意を持てなかったことでも、こちらが勝手に家に入ったという負い目でも、スジが通らないからでも、屋内であるから危険性を猶予したわけでもなかった。その弾幕の一撃を受け止めるのに、その時の縁が出せる霊力の全てを費やさなければならなかったからだ。
 大玉の弾幕に押し出される形で縁は引き戸を破って外へと弾きだされた。あの透明な扉がなかったことに縁は気づくこともなく、ただ外に出されたことと普通の戸を破った背中の痛みに戦闘意識が強制的に引き上げられ、両足で踏ん張り静止すると共に第三の腕で大玉を天高く放り上げた。
 しかしその先に、いつの間にか飛び出していたのか、赤い妖怪が滞空していた。何かを持って右腕を振りかぶっている。いつも意識してる霊力の枷を強引に外しながら、それを縁が確認した時には既に振り抜かれ、大玉は再び地上の縁目掛けて落ちてくる。しかも今度は一つではない、みとりがそれ、縁の元いた世界でいうポールに付いた標識でもって叩いた直後に大玉は拡散し、X字型の形となって爆雷のように降ってくるのだ。

「くっそ!」

 第三の腕を巨大化させ身体を覆う以外今の縁にそれを防ぐ術はなかった。第三の腕が何度も小さな弾を受け止め、さながら雹が過ぎ去るのを待つように衝撃に耐える。その一発一発も迷宮の底で出会ったロボットの砲撃やレーザーと同等のものだ、ヘタには動けない。
 そして弾幕の雹が止み、いつの間にか巻き上げられていた粉塵の向こうにいるだろう赤い少女に目を向ける。第三の腕は未だに手の甲を肥沃化した楯の形、話しを聞いてもらえなかった場合今一度弾幕の洗礼をもらうかもしれないからだ。
 みとりは未だそこにいた。縁のことを屋根よりも高い位置に滞空して見下している。右手には先ほどの標識、腰にはイヌ科の尻尾のような毛の塊を吊るし、背中にもまた右手に持っているポール付きのと同様通行止めを意味する赤い標識を背負っているのがわかる。そして何より、左手にはスペルカードが構えられており、顔には隠そうともしない不快さがあった。

「ちょ、ちょっと待て! 話し聞いてくれっ、勝手に家に入ったことには謝るからさ!」
「ああもう最悪、最悪ね! どうして人間が地底にいるのよ! しかも私の家に入ってるし、最悪ったらありゃしない!」
「……? なぁ、聞こえてるか! おーい!」
「おまけに家のものまで少し壊れちゃったじゃない!? これ直すのにどれだけ手間がかかるのよ……ああもう最悪」

 こちらの言葉など聞こえていないかのように独白を重ねるみとりに眉を顰める縁。あれだけやっておいて聞こえないはずがないだろう、と思うと、ではなぜ、という疑問が連続して浮かび上がる。言葉の意味を考えれば、もしかしたら最初にここに来た時に燐が見せていた態度た同じかもしれない、と思ったが、しかしそれは燐の本音を聞いた今となっては違うとわかる。それならばもっとストレートな意味なのではないか、とそこまで思い至ったところで、弾幕と共にまき散らされていた妖気が再び濃くなるのを感じ取れた。昔は感じなかったそれは確かに縁がこれまで飛行の術を覚えるために行ってきた修行をしてきた成果の現れでもあるが、しかし今は出てほしくなかったと心の底から思った。
 みとりから溢れ出すその妖気の密は明らかに縁の第三の腕にを押しつぶせるほどにまで膨れ上がっているからである。加えて、左手のスペルカードは溢れだす妖気を吸い取り、書きこまれた文字が妖しく輝いている。明らかにスペル発動寸前の状態だった。

「ちょ、待て待て待て、今度はスペカかよ!? せめてこっちの話を……」
「とにかくまずは人間の排除っ」

 禁生「生れ赤子は赤い顔」
 
 濃密な妖気が殺気と共に解放された。同時ににとりの左手のスペルカードは彼女の胸元へと浮かび移動し、錠前でくるくると回りだす。そしてそこからまったく同時に大小二つの弾幕が飛来する。
 まず真っ先に縁がその動体視力でもって捉えたのは一直線に飛んでくる細長く薄い白色をしたものだ。速いが、こちらをただ真っすぐ狙うだけのもの。サイドへと跳んでそれを回避しようとするが、しかしすぐに遅れて飛んできた赤い大玉の存在に気付き、舌打ちと共に前進を選択。背後で地面が吹き飛ぶ、その威力に相手がこちらが人間だというのをお構いなしか、はたまた確信犯なのかという思考に辿り着き、左手を構える。

「こんの……っ! 少しは話を、聞け!」

 もはや最初の目的が縁の頭から抜けかけていた。それを考えながら戦うのは縁にはまだ荷が重すぎるし、縁自身それを自覚していた。次に飛来するだろう大玉から第三の腕で身を守りながら、みとりの真下につき、銃型弾幕を乱射する。
 だがしかし、それはいつの間にか展開されていた、赤色の蝶の群れにことごとく弾き飛ばされた。うげっ、と縁が呻くと、みとりは口元を三日月に歪めて、二種類の弾幕を放ってくる。同時に今度は、蝶の群れの一部が縁目掛けて殺到し始めた。
 くそっ、と悪態をついて再び距離を稼ぐため背を向けて走り出す。その際微妙に左右に揺れながら走り、決して狙いを一定にはさせない。これは先ほどのような直接狙ってくるような弾幕に対し有効であると十一などに教えてもらい、何度も練習したものだ。そして大玉に対しては一瞬見、射線を見切ることで対応する。だがそれでも、群れとなって押しかかってくる蝶に対しては、有効な迎撃手段がない。今はかろうじて、左手で迎撃するのが関の山だ。加えて攻撃に転じようにも、せめてあの守るように舞い続ける蝶の群れを何とかしなければいけない。
 客観的に見れば明らかに縁が追われる立場であり、絶対的に不利な状況であった。

「なら、ぶち破る!」

 そこで終わっているようであれば、中邦縁という人間は既に十一に殺されていただろう。一度幅跳びの要領で飛びあがり、中空で反転。着地を終えるまでに右手で上着の内ポケットに仕舞ってあるスペルカードを取り出す。そして左手は握り拳を作り、みとり目掛けて構えをとる。怪訝な顔を浮かべるみとり、だがその間にも三色の弾幕は縁へと迫る。
 霊力充填開始。終了。右腕からスペルカードを離し、言霊を解放する。

 散光「ディアスポラカノン」

 スペルカード宣言と共に左腕を突き出した。それと共に溢れ出したのは眩しいばかりの光。それは前方全てを面の範囲で一度埋め尽くし、迫りくる弾幕を撃ち落とし、押し留めた。

「びっくりさせるだけのスペルかいっ!?」

 みとりがその光に一瞬目を細め如何にも拍子抜けだと挑発するが、しかし次の瞬間には驚きと共に見開かれた。縁の前方へと広がった光の帯の弾幕は瞬きの間に縁の左手に戻ると、そこに一個の玉として凝縮された。そしてそれが膨れ上がり、破裂寸前の蛇口のような印象を覚えさせるほどになると、縁の口元が不敵に歪んだ。同時に光の玉は一際大きく膨れ上がった。

「ぶち抜け!」

 そして縁の叫びと共に轟音となって目も眩むような光線が解き放たれた。それは予め押し留め、弱めた三種の弾幕を易々と撃ち貫くと、蝶の群れへ、その中心にいるみとりへと伸びていく。事前に、正確には間一髪でそれを察知していたみとりは残る赤い蝶を光線の射線上へと集中させ、同時に標識を振りかぶる。
 蝶の壁にまつろわぬ民の名を冠した一撃がぶつかった。その衝突は拮抗、縁のスペルは蝶の一匹一匹を少しずつ焼き消していくが、それでもその数の前に勢いを弱めてきている。縁はそれを霊力をさらに注ぎ込むことで突破しようと目論見、両足がスペルの反発力に体が倒れぬよう地面に跡が残るほどに力を入れた。
 その一方、みとりは先の焦った調子とは一転、嘲笑った。

「力押しでも少しは考えておくべきだったわね!」 
 
 得物の標識が勢いよく振り落とされる。その切っ先には妖力が込められており、軌跡には赤い弾幕が立ち並んだ。それはこいしのものと同じようにパッと可憐な、しかし破壊の力すら秘めた妖力の花びらとなって散ると、周囲に殆ど無差別にぶつかり始めた。そしてそれをスペルを発動してその特性上動くことのままならず、同時に右腕で第三の腕を出しておくという並列霊力操作もまだままならない縁が防げる道理はない。
 しかし直撃コースのものは、縁の周囲に余波として放出される霊力と反応していくつかは寸前で小爆発を起こして消えていく。だがまた幾つかの弾はしっかりと縁の服を破って皮膚へと突き刺さり、そこから血がじわりと溢れだし、走る痛みに縁の集中力が切れ、更にスペルカードに負荷が直接攻撃と相まって一気に掛かる。
 その様子にサディスティックな喜悦の色を浮かべるみとりは、そうら、と勢いよく標識をもうひと振りした。現れたのは今のとまったく同じ弾幕の華。縁のスペルカードにヒビが走る。体に霊力の逆流が生じ、みとりの弾幕が更に突き刺さる。それから均衡が崩れたのは、すぐだった。

「くっそぉ!」

 スペルブレイク。蝶の壁を貫こうとした光の奔流が消え去り、縁はあの奇妙な音と共に割れた自身のスペルカードに霊力を流すのをカットすると、すぐさま右腕に霊力を流して第三の腕を出し、前方に広げる。途端、今まで最初の光の帯で動きを止めていた三種類の弾幕が一斉に縁に襲いかかり、第三の腕をバリバリと攻め立てる。三色の色に徐々に押されるも何とかその場で耐えられぬかと踏ん張ろうとするが、そうであるが故に霊力が削られていく。それが縁に命の危機を思わせ、強い生存欲求を揺り動かした。
 薄らと、あの“線”が見え始めた。全てに繋がる“線”、久方ぶりに見えたそれに感動する暇もなく“線”が集中し、綻び、そして穴となるべき場所に目を移し、愕然とした。それは遙か上空、真上だ。縁の純粋な脚力では一切届かない距離。仮に跳躍であそこまで行けたとしても、次の瞬間にはただの人間故に落下を始め、追ってくる蝶の群れに自ら飛び込むことになるだろう。
 その一瞬の死への恐怖が霊力の構成を緩ませたのか、はたまた第三の腕自体が一旦の限界を迎えていたのか、蝶の群れの一部が霊力の盾を突き破り、縁の胸へと突進する。服を一瞬で破ったそれはかつてこいしが放ったバラの弾幕同様触れた部分は熱く、痛覚すら焼き切ってしまいそうだ。

「……こんっのお!!」

 痛覚を叫びで誤魔化し、人間の身体こそが花弁の内と言わんばかりに居座る美しい赤の蝶たちを、縁は自身の左手で弾幕で撃ち抜く。息を吐く間もなく別の弾幕が縁の藍色の腕を貫く、首筋を掠めた。
 よろめくように後退し、貫かれた盾に空く風穴目掛けて飛んでくる弾幕目掛けて、やけくそとばかりに左手で迎撃を行うが、焼け石に水の状態。線が見えていても、上手く照準も合わせられない。嫌な汗と焦りが縁の心と身体に忍び寄る。
 その元凶である赤の少女は、人間が必死になって一本道を弾幕に追いまわされる様を見て笑みを作って観賞しているが、しかしふと家を方を見て一考し、そしてまた縁へと視線を戻した。

「ふーん、存外保つじゃない。けどまぁ、この後の掃除のことも考えると……」

 僅かな思惟の時から抜け出すとおもむろに傍らに浮かぶスペルカードに手をやり、手の中に回収し、スペルを止める。そして同時に、己の能力を発動した。
 縁は霧のように消え始めた弾幕に、スペルブレイクしたか、と一瞬の疑問と希望を持ったが、次の瞬間に背中に何かがぶつかったことで、危機からは未だ脱出していないことを本能的に察した。反射的に背後を見やる。そこはまだただの道、すぐに路地裏特有の狭い別れ道があるが、しかしそれもまだ数十歩先の場所、そこまでには何もない。何もないのだ。それなのに縁の背中に何かが当たり、動きを妨げている。

「貴方が後退をすることを禁止してあげたわよ、今からここはわたしに向かって一方通行よ」

 どっと汗を背中から滲みだす縁に対し、正しく上から見下したみとりが、ゆっくりと地面に降りながら言葉をかける。横目でちらりとあからさまな挑発に取れる声と笑みを確認しながら、縁はしかしそこから読み取れることを必死に頭の中で考える。
 まず言葉と現状からして、目の前の少女の姿をした人外は何かを妨げる力を持っている。額面通りにとれば動きの制限に近い。そして誘導もできる。そして一方通行。思わず縁は、心中、てめぇは警察とかの一日署長か何かかよ、と罵声を吐き、息を大きく吐き出した。

「……動きを制限できんのか、あんたは」

 結局そこまでして言えたのは、最初に考えたものだった。それに対しみとりはふっとほくそ笑んだ。

「そうね、そんなとこよ。わたしの能力はまぁ色々なことを行為や事象を禁止する程度のこと、効果は今貴方が味わっている通りよ」
「は、サービスってか。不法侵入者に対しちゃ、妙に懐が大きいな」
「たまの大盤振る舞いよ、今から久々に直接殺してあげるアフターケア付きで、ねっ!」

 その言葉が終わると共にみとりが一足で跳んできた。十一や燐ほどではないが、それでも人間である縁にとっては十分速い。振りかぶられる標識、見た目からして激しい痛みを連想させるそれが、あの速度のまま振り抜かれるとなると、そして妖怪の力を込められると、切断の領域に至るかもしれない。
 “線”は未だ見え続ける。いや身体に蔓延り始めた気だるさ、虚脱感が増すたびに濃くなっていく。縁はそれに導かれるように右腕で、第三の腕で標識を受け止める。衝撃を受け止めきれず足が地面にめり込み、全身の筋肉に振動が走り、開いていた傷穴から血が溢れた。

「っ……だから、不法侵入は謝るっていってるだろ! どうして俺が、初対面のあんたに殺されなきゃならねぇんだよっ!?」

 叫びと共にみとりを弾き、左手の弾幕で牽制する。しかしみとりはそれに対し、標識を突き出しただ一言、通行止め、と呟いた、その直後に弾はまるで見えない壁にぶつかったように動きを止め、霊力が空気に拡散していった。そこまでされるとは思っても見なかった縁は致命的な隙となる思考の空白を作ってしまい、そこにみとりが標識を振り回して入りこむ。

「どうしてですって? そんなの、貴方が人間だからよ!」

 縁が気づいた時には例え線で見えていようと、既に時間がなかった。叩きつけるようなみとりの叫びと共に、ごっ、と左の横腹に何かが衝突してきた。時速百キロを超えた乗用車かと間違うばかりのそれが標識の平たい正面部分だと気づいた時には、縁の体は野球ボールのように吹き飛び、人気も妖気もない空家と突っ込んだ。
 ぱらぱらと腐った木材が折れて落ちる中で縁は不自然な自分の身体の体勢を何とか起き上がらせようと力を入れるが、まったく動こうとしなかった。加えて息ができなかった。確実に骨をやられ、言葉にし難い痛みが体内で暴れまわっている。
 それでもふんばればまだ動ける、縁は痛みに耐えながら両の手で身体を持ち上げ、自然と四つん這いになる。同時に痛みがひどくなったが、息は出来るようになった。同時に視界は粉塵の舞う光の柱に満たされ、今の衝撃で天井にも穴が開いたことを知らせてくれた。

「ふーん、まだ生きてるの。しぶといわね」

 ひょこりと縁の身体によって空いた穴から顔を出したみとりはそのまま家の中へと入り、おもむろに虫の息とも言える人間の背中を思い切り踏みつけた。抵抗などできるはずもなく、倒れ込む。口の中に木片が入り、頬を内側から切り付けた。目がチカチカとした。線が目の中で捩りまわる。
 何か手段がないか、霞み始めた視界で暴れまわる線の一つ一つに目をやる。それと同時に、頭の中が絶対的な命の危機に対して熱されていた思考に冷却水を撒き、起こるべきだった疑問を提起させてきた。

「安心しなさい、痛いのはこれからだから。とりあえずは、そうね……」
「っ……どう、して……人間、だからって、殺されなきゃ、ならねぇんだよ……!」
「……その舌から捩り取られたい、ねぇ?」

 髪が鷲掴みにされ、頭を持ち上げられる。更には顔を後ろに曲げられ、首が痛み、口が勝手に開く。そしてその開いた口にみとりが強引に手を突き込み、舌を掴み上げた。吐き気にも似た痛覚が口の奥から込み上げた。涙が自然と出てくる。それでも、みとりを睨み上げるのだけはやめない。今ここで目を背けてはならないのだと、心の内が叫ぶのだ。

「……まったく、弱っちぃ。そのくせ口は達者で、諦めも悪い。これだから人間は嫌いなのよ」

 舌を言葉通り捩られた。びくりと身体が未知の感覚に神経を支配されたことで跳ね、意志と思考が吹き飛ぶ。みとりはそれを喜劇でも見るように愉しみ笑う。なけなしの意地が再び顔を怒りに染めるが、しかし今度は舌を出したまま顔面を床に叩きつけられ、処理しきれぬ感覚の濁流に消されかけた。
 そして追い打ちとばかりにみとりの手の中にいつの間にか再びポール付きの標識が存在し、そのポールの先端が縁の左腕に突きたてられた。
 熱気を帯びた悪寒、というべき奇妙な感覚が痛みの代わりに左腕から全身に伝播し、それが徐々に激痛へと変化し、波が起きるが如く神経を痛覚で焼き切った。言葉にならない悲鳴が縁の口から溢れだす。痛みの元から逃れようと左腕が暴れようとするが、しかし床にポールで縫いとめられたようになってしまっているので、身動きどころか、逆に暴れれれば暴れるほど痛みは増すばかりだった。

「はは、よく苦しむじゃないか、いい表情だよ! 殺しがいがあるわ! さぁ、次は右腕よっ!」

 そういうみとりは一息で標識を引き抜き、縁の左手から噴き出す血潮を服や毛玉の装飾品に浴びながら、今度は右腕目掛けて振り下ろす。だがその妖怪の力によって剣の切っ先とも言える貫通力を持ったそれは甲高い音を立てて弾かれ、肉体の曲線に沿ってはずれ床へと刺さった。みとりの顔にさっと疑問の色が差し込んだ。

「何、貴方。何か仕込んでるの?」

 縁は答えられなかった。舌が度重なる仕打ちによって半ば使えないことと膝によって抑えられた左腕の激痛に耐えていることが原因であるが、みとりはそのことをわかっていて縁の後頭部今一度殴ると、右腕に被さる上着の袖を無造作に引き裂いた。
 そこから現れた黒金にも似た光沢を誇る、人間の右腕を模した無機質の存在に息を呑んだ。

「なにこれ……外の世界のもの? この光沢は……鋼? 鉄? いえ、違う……」

 縁を抑えつけるのも忘れ、その異質な右腕を手に取る。そのまま叩いてみたり、撫でてみたり、間接を動かしてみたりと、先ほどまでの縁に、いや人間そのものに向けていた憎悪を忘れたかのように義手の調査に没頭している。それに意識を向けすぎて、みとりは縁の身体に力を入れ抑えるというのを、ほんの僅かな時だが、忘れてしまった。
 その一瞬を、意識を結ぶ“線”が見える縁は見逃さなかった。痛みでまとまり切らない霊力を振り絞り、第三の腕を作り出すとそのままストレートパンチを繰りだす。眼前に突然に現れた弾幕にみとりは虚を突かれ、完璧と言えるまでにもらってこれまた腐食した階段へと叩きつけられた。
 
「っ、やってくれるわね!」
「ぁ、ぐ……んなの、こっちの、セリフだ、あっ!?」

 二人が起き上がり始めたのはまったく同時だった。だが縁は左腕から溢れた血と共に再び倒れ込む。立ち上がるにはすぐには無理だった。叫ぶぐらいは平気だが、しかし左腕から徐々に力が抜けてきているのだ。
 血が力と共に身体から抜け出している、それこそ霊力ごと。痙攣する左手両脚に鞭打ち、右腕を起点に再度起き上がろうとする。その間にみとりは完全に立ち上がり、口から血の混じった唾をペッと吐きだして、標識の先端を縁の首に添えた。

「悪あがきもここまでね……気が変ったわ、その義手を寄こしなさい。そうすれば命だけは助けてあげる」
「ふざ、けんな……どうして、そこ、まで……」
「……ふん、命乞いもせず気楽なもんね。まぁいいわ」

 みとりはおもむろに一枚のスペルカードを取り出し、指を鳴らした。それに合わせて、みとりの毛玉のストラップから勢いよく何かが飛び出した。徐々に霞んでいく視界の中で縁が捉えたものは、キュウリの形に似た細長い物体だ。
 数は三、全てが赤色と緑が混じり合い、しかし明確に区分された斑模様の色合いとなっている。ふよふよと滞空するそれは縁の身体各部の真上までくると、その鋭利な先端を向けた。縁はその瞬間に、見えた線が感覚で何をされるかを予期し、身体を固くした。

 禁技「オービットキューカンバー」

 スペルカードの発動。それと同時にキュウリ型の自律式使い魔は一斉に弾幕を縁目掛けて連射した。一発一発に込められている妖力は縁の皮膚に突き刺さる程度で殺傷力はさほど高くない。しかしその撃たれる量がかつてのこいしのスペル『深層「無意識の遺伝子」』よりも遙かに多く、更に言えば今は身体も満足に動かぬ満身創痍。意識がなくならないほうが不思議だった。悲鳴が絶えず上がり、そして弾幕の嵐の中に掻き消される。
 そしてまた唐突に、みとりは指を鳴らした。同時に銃撃の雨は止まり、縁の首ががくりと落ちようとする。しかしそれは、みとりの標識に上で横になるだけだ。そして縁の首から下は右腕を覗き、もはや針山と表現するに相応しいものとなっていた。弾幕の威力が抑えられていただけに嬲られていたのと変わりなく、表面を走る血管は破られ赤く染まらぬ弾はなかった。左腕の傷から溢れる血と相成り、空家の床は見る間に赤く染まり、鉄の匂いに満ちていく。
 それを見下ろすみとりは顔を歪めた。

「最後よ、その右腕をわたしに献上しなさい」
「……ぁ……っ!」
「何、聞こえないわよ」

 みとりはかすれた声を聞くために、縁の顔を標識で持ち上げた。精一杯の力を振り絞りながら動く唇は、やがてゆっくりと音を伴い、声となっていく。それと同時に右腕がみとりの前まで持ち上げられ、ある形をとった。手の甲を向け、中指だけを突き立てる形だ。

「てめぇの、理由を、言うなら……少しは考えても、いいぜ、この、腐れ赤……!」
「っ……………そう」

 みとりは一瞬、自身の感情がわからなくなった。自身を睨み上げる人間は明らかに死にたいの木端だ、少々霊力に優れているのと、明らかに外来の品であるとわかる義手の右腕を持っているぐらいが特徴だろう。加えて死ににくい。先ほどまではそれが、名前すら知る気にならない人間に対するみとりの評価だった。
 だが果たして、これがただの木端だろうか。生死の如何を相手に握られているにも関わらず、ふてぶてしくも意地を貫こうと挑発してくる。おまけに多少強引ではあるが、最初の目的である理由すら問いただそうとしているのだ。
 一体これは何だ。そんな疑問がふとみとりの中に浮かび、そして打ち払う様に頭を振った。思い出したのは、地底にくるまでの生活、自身がしる限りの人間たち。その中には無論、今目の前で蹲り、あからさまでまったく場違いに見える挑発をしてくる人間と同年代のものもいた。それと変わらないはずだ、そうに決まっている。
 そうと決まればみとりの行動は早かった。標識から縁の首をずり落とし、そのまま振りかぶる。

「なら……妖怪、らしくっ、勝手に奪わせてもらうよ! あんたの命ごとね!」

 直後、縁の脳天目掛けて標識が渾身の力で振り落とされた。縁にはわかる、それは自分の命を奪うには十分な威力を持っていると、そして今それを防ぐ術はないと。ここまでか、と思う次の瞬間には縁の顔は潰れたトマトのように床に散乱するはずだった。
 縁の見る線が突然空けた天井から伸び、そこから声が響くまでは。

「プチ、フレアァ!!」

 叫びが届くのと同時に天井を溶かし赤熱した光の球がみとりへと落ちてくる。間一髪でそれに気づいたみとりは咄嗟に振り上げていた標識を強引に曲げ、叩き上げるようにその光球を受け止めた。同時に叫んだ言霊は、一方通行。
 かろうじて聞き取れた縁の見上げる中、灼熱の球は標識に導かれるまま物理法則を無視して斜め上へと押し返されて、最後には天井に新たな穴を開けて地底のドーム型の天蓋向けて飛んでいってしまった。

「縁から、離れろぉぉぉ!」

 その振りきった瞬間に、黒い翼を目一杯広げた少女が急降下による突撃でみとりへと迫った。みとりは振り上げた直後の体勢故に対応が間に合わず、降下のエネルギーが込められた回し蹴りに直撃。ぐっ、と鈍い音を立てて再び吹き飛ぶ。今度は空家の壁を突き破り、隣の家のものまで壊して見えなくなった。
 そして赤い妖怪を渾身の一撃で吹き飛ばした少女、空は緩やかに着地をしながら艶やかな髪を翻すと、倒れ伏す縁の傍に駆け寄った。霞む視界の中で、彼女が左手に何かを持っているのがわかった。透明な袋、何か、茶色のものが見えた。だがそれ以上のことはわからない。

「縁、大丈夫!?」
「うつ、ほ……どうして、ここ、に……」
「そ、それはえーと、縁たちを探して西区にいって、その時こっちで変な煙が見えて、少し寄り道してもいいかなって思って……そんなことより縁の方だよ、どうしてこんなことになってるの!?」
「っ、揺らすなって……」
「あっ……うにゅ、ご、ごめん」

 無意識に縁の身体を強引に起こして揺らしていた空は、縁の苦痛の呻きを聞いて止めた。だがそれでも身体の向きを変えられ起こされたのをこれ幸いにと、縁は朦朧とし始めた意識を振り絞って、体を壁際まで持って行った。

「けど、ラッキーだ……空、あの赤野郎は……」
「………奇妙な右手をしてると思えば、今度は地獄鴉に助けられる……気味の悪い人間ね、まったく」

 声。そして爆発。二人が同時に顔を背け衝撃と破片が過ぎ去るのを待ち、その方向を見れば、先ほどの細長い使い魔の数を更に増やして周囲を巡らせているみとりが、底冷えのするような目で二人を見下ろしていた。半目で仰いだ縁はそれを、感情の濁流で濁り切っている、と場にそぐわぬ冷静さで表した。
 その一方でみとりは突然現れた地獄鴉が今まで自分がさんざん弄っていた人間の関係者、それも命を助けようなどとするほどの相手だというのを悟り、胸中に言語化不能の感情が吹き荒れるのを自覚していた。
 それに伴い、先よりも遙かに密度を上げた妖気が身体から溢れ出し、未だ展開していたアクセサリの毛を媒体にした試作品の使い魔たちが数を増やし、回転数を上げていく。

「ふざけたことだね、妖怪が人間を……」
 
 胸中のものを無理やり言葉にしようとしたみとりの口上を巨大な球が遮り、吹き飛ばす。みとり自身はそれを紙一重で避け、それを放った相手を見た。地獄鴉だ。マグマが煮え立つ色をした眼には噴きだすほどの熱い怒りが籠り、一直線にみとりへと向けられている。

「縁をこんなにしたのはあなた?」

 声には怒気。縁も聞いたことがないほどの怒りがそれには込められ、突きだされた右手にはスペルカードと共に灼熱の球が膨張と縮退を繰り返していた。
 ただの人間には重圧にすら感じるそれを受け、みとりはにやりと口元を歪めた。

「そうだといったら?」

 空の周囲の温度が上がり、熱風が巻き起こった。

「焼き潰すっ!」

 直後空の右手から天上目掛けて光球が放たれた。それは先ほどみとりに向けて放たれたものと同じだ。みとりはそれを空中でひらりと避ける。それと同時に反撃の弾幕を、×印のものを放ち始めた。

「縁、下がってて! 仇とってくる!」

 言葉の用法を間違え縁が気力体力共に消耗してツッコむ時間もなく、空は左手にバスケットを持ったまま赤い妖怪目掛けて飛翔した。縁への直撃コースとなる弾のみを強引に突き破り、みとりへと肉薄する。
 みとりはそれを予期し標識を振りかぶっていた。空の翼が大きく曲がる。それに釣られて空の体もまた中空で上下逆さまに反転した。黒髪の天辺すれすれを標識が薙いでいく。その隙を狙い、空の足が妖力によって赤熱化し、回転からの蹴りが繰りだされる。

「キューカンバー!」

 受け止めたのは、宙空に漂っていた自動攻撃端末/スペルカード用の使い魔。衝突と共にそれは破壊されるが、しかしみとりへと蹴りが届くことはなかった。返す刃で空がみとりに吹き飛ばされる。
 うぐっ、と翼を広げて制動をかけた空に、みとりは淡く輝く様になっていたスペルカードに妖力を更に注ぎ込み、指を鳴らした。

「『禁技「オービットキューカンバー」』!」
「っ!?」

 新たに一基補充して、六基の使い魔が一斉に空に殺到し、直角の軌道を描きながら碧と赤のレーザーの弾幕を掃射する。たまらない、とばかりに空は逃げに転じ、翼から白色の弾幕をバラ撒いた。
 使い魔たちはそれを慣性を無視するかのような、人間には想像し難い直覚的な動きで回避しながら追いすがる。まったく当たらぬ弾幕を撃つのを止め、空は妖力全てを推進力に変換し、更に加速。
 キューカンバー、一基、先回り、発射。バレルロール。羽を掠める。背後から追いかけてくる使い魔が足先にまで届きかける。空の体が本能と呼べる部分で翼を閃かせ、シザーをしかける。そのままパワーダイブ、同時に右手から弾幕発射。
 突然の反撃に使い魔の少ない行動ルーチンでは回避のパターンがなく、五基撃墜。勢いを殺さぬよう身体を捩り、残る最後の一基目掛けて蹴りを放つ。

「わたしの嫌いなものを教えてあげるわ」
「うぐっ!?」

 その背後に、今まで悟られずに近づいてきていたみとりが標識による打ち上げを行った。防ぐ術もなく空は更に上空へと弾き飛ばされる。みとりは一度、速度規制、と呟いてから、再び口を開く。その声は、もはや呼吸すらも満足にできない縁にも聞こえるほどによく通る、淡々とした、原始の恐怖を呼び覚ますようなものだった。

「一つ目は人間、なぜならわたしを迫害したから」
「きゃあ!?」

 その先に待ち受けていたのは壊し損ねた使い魔。それは身内から凶暴な緑色の閃光を解き放ち、光に焼かれたものは同時に放たれた衝撃波によって今度は真下へと真っ逆さまに落ちていく。

「二つ目は河童筆頭の妖怪たち、なぜならわたしを認めなかったから」

 その空の顔面を、同じく飛び上がっていたみとりが鷲掴みにする。今度は悲鳴すら上げられない。それでも空は暴れて顔面の拘束から逃れようとした。しかしあざ笑う様にみとりが手にかける力を増して、みしと骨が軋んだ。同時に、落下地点が修正される。縁のいる場所へと。

「三つ目は、妖怪を助ける反吐が出るような人間と、人間を助けるクソのような妖怪よ!!」

 そして、隕石かと間違うばかりの急加速からの落下。廃屋の構造をへし折り、地面へと叩きつけられる空。衝撃が走る、広がる波紋は縁が背中を預ける壁をも壊し、脆弱な人間は体を木の葉のように吹き飛ばされ、血をまき散らしながら転がった。
 視界がぐるぐると回っている。それを何とか戻そうと、痛みのおかげで少しは冴えた頭の中で考えながら、現状を確認する。真横には木片が突き刺さったバスケットが転がっていた。そこから漂う香りを、今の縁は感知できない。
 シャクトリムシのように体を這いずらせて、爆心地を見やる。かろうじて見えるのは、起き上がる一つの影。それには翼がない、代わりに巨大な丸看板を背負っている。その影が縁へと振り返り、服と同じ紅色の瞳が淀んだ赤で燃え上がるのを見た。足元からは、うめき声が聞こえた。

「う、あ……」
「っ、う……つ……ほ…」
「やっぱり、妖怪ってのは人間と違って丈夫だと思わない? こんだけやってもまだ生きているんだから」

 みとりが足を踏みならす。鳴ったのは悲鳴。ぎしりと何かが鳴った。自分の歯が噛みしめられている音だ。力が湧いてくる。右腕はまだ動く。それを支えに、もう一度、もう一撃。
 立ち上がれ、早く立ち上がれ。あいつを助けるんだ。心の中での言葉は、徐々に、確実に力に変わっていく。同時に左腕から、背中から、流れ落ちていく。だからこそ、全てが流れ落ちる前に立ち上がらなければいけない。
 口が勝手に開く。喉が熱くなる。それを吐き出そう。そうすれば、立ち上がれる気がする。

「っっ、ぁぁぁああああ!!」
「うるさいよ」

 そして、縁はたった一発の弾に叩き潰された。
 真正面からの一撃。満身創痍の身で避けられる道理はない。そのまま、どうと倒れる。もはや起き上がれなかった。

「そんなにこの地獄鴉が大切なのかかしら? 貴女はどうなの?」
「ん、あ……えに、し……」
「何?」
「えにしに……えにしを、いじめる、なぁ……」
「……ふーん、そう」

 瞳に差す色を変えず、みとりは冗談でも流すように、腹を踏みつけられ翼を使い魔で縫い止められていても睨んでくる妖怪に言葉を返し、片手を背中に回した。背中の標識の側面には小さな穴が置いており、そこに片手を突っ込み、探る。そして、目当てのものを見つけると、サディストの笑みがみとりの顔を彩った。人間の考えた法則をあざ笑って現れたそれは、一見すれば、指をなくした手だった。成人女性のサイズで手首までしかない。
 それの手首の部分を標識のポールの先端に差しこむと、ゆっくりと指のない手の平を空の額に置いた。
 空の身内に、吐き気にも似た悪寒が走る。それは恐怖となって顔に現れ、みとりはそこから空の心理状態が移り変わるのを見た。そしてみとりは、再び使い魔をアクセサリから数基呼び出し、命じる。スペルカードは点滅し始めている。
 オービットキューカンバーは主人の命を忠実に行い、ガラスの音とともに朽ちた。直後に、運ばれた縁がみとりの足元に倒れ伏した。引きずられたのか、先ほどまで倒れていた場所からここまでに血の斑点の道が出来ていた。みとりは縁の髪を掴み、持ち上げる。縁の顔には何度も地面や壁にぶつかったせいか切り傷の他に痣も出来上がっていた。満足げに、みとりは耳元へ口を寄せ、囁く。

「人間、ゲームをしようじゃないか。簡単なゲームさ、わたしはこれからこいつにある仕掛けをする。時間限定付きの爆弾みたいなやつさ、貴女はそれまでにわたしを倒せばいい。一人でだ。いつもの弾幕ごっこさ。貴方が勝ったらこの爆弾を解除する、負けたらその腕をわたしが頂く、簡単だろう? けどね、その間にこいつには地獄が待ってるよ、人間が考えるみたいな地獄だ。そして時間が間に合わなければ、それは想像できるだろう?」

 縁の目が薄らと開いた。左手は握りしめられようとしてるのか、それとも血がなくなり過ぎたのか、痙攣を起こしていた。しかし間違いなく、右手は拳を作っていた。

「それじゃあ合図に、良いものを聴かせてあげるよ。妖怪すら殺す振動の音、あんたの大切なやつが響かせる騒音公害を!」
「っ」

 誰かが息を呑んだ。
 右手を振り上げようとした。
 そこで力が尽きた。
 誰かが、助けて、と言った。
 指のない掌が空の額に押しつけられ、そして。

「………あああああああああああああ!!!!!」

 悲鳴とありとあらゆる轟音が脳内を埋め尽くして。
 空の泣き叫ぶ顔と、みとりがほくそ笑むのを見て、縁の意識は落ちた。




 明らかに時間稼ぎを狙っていた勇儀をようやっと退け、こいしたちがその場所に辿り着いた時、全てが遅かったことが、そして理解を拒む現実があった。破壊の爪痕と血痕が散在する裏路地。倒れ伏すのは、血だらけの縁と、白目を剥いた空。傲岸と立つのは、赤い少女。担ぎこむ不思議なポールにはよく見れば血が染みついていた。

「縁ちゃん!」
「おくうっ!」
「てんめぇぇぇぇぇぇ!!!!」

 最初に動き出したのは十一。刹那の内に練り上げられたブーメランが、狩猟の神と呼ばれるに相応しい踏み込みから放たれたのは、弾幕ごっこなど関係ないとばかりに込められた殺意の一撃。
 だがその振り下ろしは、少女が気づいたと共に呟いた、進入禁止、の言葉と共に、突如現れた不可視の壁に遮られ潰された。全速力で壁に真正面からぶつかったような十一は顔を抑えてたたらを踏み、次の瞬間には壁目掛けてブーメランを叩きつけた。しかしそれも壁を打ち壊せない。構わず、もうひと振りのブーメランを顕現させ、十一はひたすら壁を打ち続ける。

「答えろ! てめぇが縁と地獄鴉をやったのか!?」
「何よ……あなた達もこの人間目当て?」
「答えろっていってんだ! この赤河童!」

 鬱陶し気に十一を見ていた赤い河童の目が、うっすらと細まった。そして流すように二人の横を通って、倒れ伏す一人と一羽に駆け寄る妖怪を確認する。特にこいし、赤河童にとって、同じように地底の忌み嫌われものでしかなかったはずの妖怪覚が大手を振って市井に出ていて、何より人間の身を案じていることが脳裏を焦がした。
 赤河童は、ふと笑いたくなった。だから笑ってやった。

「笑ってないでさっさと答えろ!」
「二週間だよ」
「何?!」

 突然脈絡のない返答に十一の思考が逸れる。その直後、その腹に弾幕が叩きつけられた。受け身もできずに十一は転がり、しかし即座にバネを生かして起き上がり、身構える。

「それが残された期限だって、人間に伝えときなさい。もっとも、生きてたらだけど」
「生きてるに決まってるよ、絶対に!」

 こいしがたまらずに叫び、河童へと弾幕を放った。赤河童はそれに対しふっと鼻で笑うと、ゆっくりと十一の方へ歩きながら、標識をひと振り、ハート型の弾幕を弾き飛ばした。同時に燐が怨霊を呼び出して向かわせたが、次の瞬間には突如現れた赤い蝶に飲み込まれてしまった。

「わたしは西区か家にいるって伝えときなさい! もっとも、恐怖で足が竦んでこられないなら別だけどね!」

 そうして河童は一人高笑いをしながら、悠々と帰路へとついた。縁たちの命を助ける必要がある、という気持ちと、復讐をしなければならないという思いの板挟みになっていた三者は、それを止めることなどできなかった。
 壊れたバスケットは転がり、中に入っていた菓子に砂煙が被さっていた。



 後書「もう土下座しかできないorz」:
 
 こいよ、かかってこいよ赤胡瓜畑メンバー! あ、すんませんやっぱやめ(ピチューン
 はい、そんなわけで極悪みとりんでした。縁とおくうが絶賛死亡フラグです。そして戦闘ばっかりの上短くてごめんなさいorz
 それと今のうち言っておきます。木城ゆきと先生ごめんなさぁぁぁぁい!! orz

3/24 ほんのり修正


わりとどうでもいい設定:
 禁技「オービットキューカンバー」(Nomal~EXTRA、オリジナルスペルカード(笑))
 みとりが単独で『未来の遺跡』に潜ったときに手に入れたものを模倣して作ったスペルカード。アクセサリの尾から毛を数本抜いてあらかじめ妖気で加工し、スペル発動と共に使い魔化させる。使い魔は二色、赤と碧であり発射する弾幕もそれに準じる。使い魔は対象の周囲を旋回、直角機動で追尾し、レーザー型の高速弾を発射する。網を作ることも可能で、それの美しさから弾幕ごっこのスペルカードとして成り立っている。未だ試作段階。完成系はルナティック及びファンタズマに限定される。
 



[7713] 17.5――唐沢<ピーピーピーボボボボ
Name: へたれっぽいG◆eaa9c481 ID:f33d8d16
Date: 2011/02/27 00:16
「あいったー!」

 三角帽子と蜂蜜色の髪の毛を逆立たせて、常連である普通の魔法使い、霧雨魔理沙の悲鳴が秋も終わりに近い幻想郷の魔法の森の一角、香霖堂の広間から上がった。
 正確には元広間であり、今は客を相手に商品を並べるカウンターである。店主である森近霖之助は古なじみで腐れ縁である少女にため息をついて外来の品である本を閉じた。
 霖之助の隣り、カウンター席で静かに本を読む銀髪に赤と青のメッシュが一房づつある少女は変わらず本を読み続けている。外は大雨が降り、雑音と呼べるものは全て雨音にかき消されいく。悲鳴もまた、香霖堂の中だけで反響して消えた。

「っ~~、やい香霖、商品に罠を仕掛けるなんてどういう腹積もりだ?」
「安心してくれ、害意のないものには反応しないから」
「私がまるで盗人猛々しいみたいじゃないか」
「現にそれが反応したからそうなんだろ?」
「借りてくかツケにするだけだぜ」

 ぐうの音の代わりに屁理屈をこねて魔理沙は引き下がった。赤くなった右手にはネズミ捕りが掛かっており、それは商品の入った棚の上側に紐で結ばれ、逆さまとなって取り付けられていたものだ。
 普段からの行いか、慣れた手つきで古典的罠を外した魔理沙は律儀に商品の横にネズミ捕りを置き直すと、不貞腐れた顔で、商品である安楽椅子に座った。その瞬間、ばちりと魔理沙の身体に電流、静電気のようなものが走った。

「っ~~、おい香霖、私のこと嫌いになったのか?」
「すまない、それは誤作動だよ」

 よっ、と立ち上がって、反射的に立ち上がった魔理沙の横に屈みこみ、椅子に施してあった細工を外す。それを確認してから、魔理沙はようやく安心して椅子に座った。くすくすと本を読んでいた妖怪が笑ったが、魔理沙の一睨みですぐに読書に戻った。
 幻想郷に雨が降り続いて、今日で三日目だった。


 閑話:17.5話『午睡の中の夢』


「で、どーいうことだよ香霖。久々にきたと思ったら客相手に罠をしかけるなんてひどいんだぜ」
「それは謝るよ」
「店主~、コーヒーまだ~?」

 ボタンが五つある不思議な箱、店主の霖之助曰くゲームボーイというものをくるくると指先で回す魔理沙の当然の疑問と不満の声に応えながら霖之助は暖簾をくぐってカウンターに座った。その手に乗せたお盆にはマグカップが三つ。
 中には香霖堂の他には紅魔館と人里ぐらいでしか手に入らないコーヒーという飲み物だ。魔理沙と彼女の友人アリス・マーガトロイドの家にもまた魔法の薬品としておいてあるが、嗜好品としては上記三か所のものより遙かに劣る。
 無理やりせがまれ淹れてきたのだが、お盆の上には既知の仲であるが故にそれぞれに合わせた砂糖やミルクが容器に入れられており、本読み妖怪は砂糖を二つ、魔理沙はミルクと砂糖ありあり、霖之助は何も入れないブラックを嗜む。
 
「こんな罠なんか仕掛けて何が楽しいのやら……まぁ突破する楽しみはあるかもしれないけど」

 ゲームボーイに仕掛けられていた、墨を発射するスポイラを取り外して愚痴る魔理沙に、霖之助はブッと噴きだし、咳こむように笑った。

「なんだよ香霖、気味が悪いぜ?」
「いや、すまない。魔理沙の言葉がそっくりだったから……つい……」
「そっくり?」

 魔理沙だけでなく、本を読みながら聞き耳を立てていた妖怪までもが小首を傾げた。霖之助はそれを目に止めて、ゆっくりと外の景色を見た。相も変わらぬ雨だけが、彼に過去を想起させる。それを見る魔理沙もまた、珍しい、霖之助の遠くを見やる、同時に様々な感情をない交ぜにした表情に引き込まれるように、彼の言葉に耳をすませた。
 少し弱まった雨音が倉庫然とした香霖堂の中に響く。同時にそれは彼ら彼女らのいるこの部屋を隔離してしまっているようだった。

「昔、といっても二十年ぐらい前だけど、幻想郷には大泥棒がいたんだよ」
「私が生まれる前だな」「私がくる前だね」

 魔理沙と本読み妖怪は同時に答えた。コントのようなタイミングの合い方に二人は互いの顔を見合ったが、すぐに顔を逸らし元の位置に戻した。霖之助はコーヒーを一口飲んで、一服していた。過去をゆっくりと思いだしているようにも見えた。

「そいつは、目的のものがあればどんな場所にだっていった。悪魔の館だろうと、妖怪の山だろうとね」
「スペルカードルール制定前だってのに、命知らずなやつだぜ」

 もっともだ、といって霖之助は短い銀髪を揺らしながら、何気なく香霖堂の出入り口を見た。
 その瞬間、バンと大きな音を立てて扉が開かれ、雨が入り込んできた。だが霖之助の目と耳は過去への思いからか、まったく別のものがそこに映っていた。
 夏の一日、春の夜、秋の月、冬の寒さ、妖怪たちの怒号、御宝の主人の抗議。そして何よりもそれを引き連れてきた張本人。当時の人里のものから問題児扱いされ、里の守護者の悩みの種でもあった一人の少年の姿。

 よお森近、邪魔するぜ!

 霖之助の姿は霧雨の店の手伝いのころに戻り、あの少年が光が差す扉の中現れたと思った。

「失礼します、今は開店中ですか?」

 だが霖之助が現実として認識したのはまったく別の、少女の形だった。美しい緋の衣を纏い、自然以外の力で勝手にたなびく羽衣もまた同色だった。何よりも大人と子供の大人よりの顔立ちでありながら幻想郷的な整った顔立ちは初めてみるものだ。
 つまりは霖之助があったことのない人物。里の名家の人が迷ったのか、と霖之助が疑問を浮かべたが、答えはすぐに魔理沙からもたらされた。

「何だよ、あの天人のお付きじゃないか。どうしてこんなとこにいるんだ?」
「知り合い?」
「ああ、こいつは夏の時の……」
「初めまして、竜宮の使いの永江衣玖と申します」

 衣玖と名乗った人外の少女はしかし霖之助が知っている者達とは違って礼儀正しく、まさしく理想とする客の姿勢で店内に入ると、お借りしますよの一言と共に雨に打たれた髪と身体を拭くため手近にあった布に手をかけた。
 だがその直後、彼女の頭めがけて金たらいが降ってきた。カン、といい音が鳴って衣玖は頭を抱えてうずくまったが、すぐに復活して店主である霖之助に睨みを向ける。
 大人の雰囲気を持つのに涙目で睨まれては威圧感も何もないな、と霖之助は内心思いながら、すまない、すぐに解除するといって、外の方式で造られた刺繍の入った布にある罠を解除し、彼女に手渡した。

「わざわざすみません、御店のものなのに」
「買っていただければ結構ですよ」

 まともそうな客が相手なので、普段ぶっきらぼうな霖之助もまた丁寧に返した。そこには先ほどまでの思い出に浸る空気はない。御上手ですね、と衣玖が答えた後に魔理沙と勝手に居座る妖怪からブーイングがあがった。

「おーい、私の話聞こえたかー?」
「店主猫かぶりすぎ」

 苦笑いを浮かべたのは果たしてどちらからだったか。霖之助はすぐにカウンターに座り、衣玖もまたある程度濡れを拭きとるとタオルを元の場所に置き、勝手に本読み妖怪の隣りに移動した。座らないのは、何かに触れば痛い目に合うという学習したのだろう。
 誤解だと霖之助は言おうとしたが、しかし現状からは弁解も難しいので止めた。

「で、衣玖ー私の話は~」
「ああ、それはですね……今更ですが、店主は貴方ですよね?」
「森近霖之助です」
「これはどうも……それでですね、ここは幻想郷中のもの以外にも、外から流れたものも置いてあるのですね?」
「ええ」
「それならばここに、これくらいの小さな破片、いえ鱗か珠のようなものはないでしょうか? 色は、そうですね、とりあえず光っています」

 そういって衣玖が示したのは両手の親指と人差し指の重ねて輪にする程度の大きさだった。三人がそれを同時にそこを覗きこみ、ふむと一考して部屋中を見渡す。電気という力がなくて動かない携帯電話という式、触れば「ゆっくりしていってね」と鳴く生首のようなぬいぐるみ、外の世界でスポーツという決闘の一つであるパンツレスリング用のパンツ、総監督マシーン改、その他多くの品々で埋まる店内にはそれらしいものはなかった。
 霖之助はすぐに頭の中で、非売品倉庫のリストを浮かべた。自身の能力を使い続けているおかげか、どちらに何があるかはすぐにわかる程度にはなっている。だが同時に名前は出せるが、形と一致するまではいかない。だからこそ名前からその品物を探そうと考えた。

「それの名前は?」
「名前ですか? 実はそれ……」
「は~い、ストップ」

 衣玖が問われた通りに答えようとした瞬間、三人と一人の間をスキマが妨げた。幻想郷の住民なら知らぬものはいない。たちまち四人の顔が驚きに染まり、その間に金色をまき散らしながら、八雲紫はスキマから抜け出し香霖堂の中へと降り立った。

「一体なんのようなんだぜ紫?」

 一早く思考が復帰した魔理沙が問いかけるが、紫は無造作に霖之助のマグカップに口を運んでコーヒーを嗜んでいた。その行動に魔理沙の額に青筋が浮かび上がり、本読み妖怪からむっという声があがって、ようやく比喩の意味で止まっていた時間が動きだした。
 それを見計らって、紫はマグカップを置くと扇で口元を隠して衣玖を見据えた。衣玖は一瞬、視線に宿る感情を探ろうとしたが、しかし夏に会った時のことを思い出し、無意味だろうと判断して言葉を待つ。

「貴女がここに来ても探しものはないわよ、いえ、あれは今この地上にはないわね」
「それなら貴女はあれがどこにあるかご存じで? 二十年以上も幻想郷からなくなっていたものを?」
「ふふ、それはどうかしら。けど必要なもののところにあるのではないかとは思うけど?」
「やはり、知っているようですね」

 二人の問答にまったくついていけない妖怪と魔理沙の頭の上には疑問符が幾つも浮かぶが、しかし衣玖がしかめ面をしてスペルカードを取り出したのにぎょっとなって身を引いた。
 その中で霖之助は一人、二人の会話に紛れ込む過去と繋がりかねない言葉の端々から思考を連ね、そしてスペルカードに光が灯り始めた時に状況に気づき口を開いた。

「ちょっと待ってくれ、ここは僕の店だ、荒事は外でしてくれ」
「……そうですね、失礼しました」

 店主の諌めに、隠そうともしない不服を声に含ませて衣玖はカードを仕舞った。ふふふ、と紫は笑い、何気なく棚に置いてある品物をとった。霖之助がそれを注視し、魔理沙はどこかで見たことあるなと首を傾げた。
 視線に気づいて紫はそれをカウンターに置いた。黒い羽ペンだ、ペン先に何かの装飾らしきものがされている以外はみるべきものはないが、しかし幻想郷ではもっぱら筆が用いられる。
 外のものだろうか、と事情を知らぬ本読み妖怪と衣玖は考えたが、しかし突然魔理沙があっ、と突拍子もなく声をあげたことで、無言で視線を交わす紫と霖之助を除いた二人がそちらを見た。

「それパチェリーが使ってるのと同じやつじゃないか!」
「そう、正解。あなたは思ったより記憶力があるようね」
「そうじゃなきゃ魔法使いはやってられないぜ……ってありゃ、どうしてあいつのペンがこんな辺鄙なとこにあるんだ? もしかしてよく似た偽物か?」

 新たな疑問に直面した魔理沙が腕を組んでペンを見下ろす。魔理沙が知るパチェリー・ノーレッジという魔法使いはその二つ名『動かない大図書館』が示すとおり殆ど紅魔館の図書館から外に出ることはない。
 この店に時々来るという紅魔館のメイド長やパチェリーの個人的な配下である小悪魔は別かもしれないが、それにしても態々ペンだけ持ってきて店に置いておくという道理はない。
 故に魔理沙にはどう考えても不自然なそれに頭を悩ませるが、だがそれは不意に口を開いた霖之助によって、解かれることになった。

「……正真正銘、それは紅魔館の魔女のペンだよ。ただし、二十年以上前の、とつくけどね」

 純粋な幻想郷の住人である魔理沙と本読み妖怪が息を呑み、今年の夏にその場所へと赴きその空気を知っている衣玖も目を見開いた。
 紅魔館は魔理沙と幻想郷の要である博霊の巫女がかつての異変解決のため向かう以前は現在よりもより排他的な面があり、忍び込もうとするならば門番である華人小娘によって撃退されるのが関の山だった。
 ましてや二十年前はスペルカードルール制定前のため、戦いとは命のやり取りに直結しかねない。
 
「ちょっと待てよ、そんなのがどうして香霖の店にあるんだ?! まさか香霖が盗りにいったとかじゃないよな?!」
「そう、僕じゃないよ、盗ってきた奴がいるんだ。そいつは……」
「中邦……いえ、こちらでは羽柴犹嗣だったわね」

 羽柴犹嗣。聞いたことがない、と頭の中で断定できたのは本を読んでいた妖怪だけだった。魔理沙はまたどこかで聞いたことがあるようなないような、と頭を曲げ、衣玖は何かを察したのか眉を顰め、霖之助はその名前を出したスキマ妖怪に常には決してない険しいものを浴びせ、それを受け止める紫はあら怖いと漂々と受け流す。

「やはり、知っていたのか貴女も。いや、彼ならその気になればマヨイガにもいけるか……」
「ええ、彼は家にも来たわ。私が式としての命を出した藍ですら手こずるような人間ですもの、興味が沸かないのが無理というものよ」

 そういって紫は無造作にペンを手に取って振った。途端に本来の用途にはない使用をされた商品に取り付けられた罠が起動し、再び金ダライが降ってきたが、しかし紫はその落下コースにスキマを広げ、軽々と逃れた。
 その罠全てが、かつて霖之助が勤めていた店によく足を運んでくれた友人、羽柴犹嗣の悪い癖を直そうと苦心して作ったものだった。それを分かっていて罠を発動させたのかと思うと、霖之助の胸中に華やかだった思い出に泥を塗られたような気持ちが僅かながら浮かんだ。

「……お二人だけの昔話はそこまでにしていただきましょう。八雲紫、簡潔に答えていただきたい。あの咎人が幻想郷に戻ってきたというのですか?」

 二人だけの重い空間を割り裂いたのは、これまた剣呑な視線と言葉を発した衣玖だった。霖之助の言を律儀に守っているのかスペルカードは出してはいないものの、直接それを浴びせられていない霖之助と蚊帳の外となってしまった魔理沙と本読み妖怪ですら息をのむほどだったが、対しても紫は仕事熱心だことと口元を扇で隠してペンを元の位置に戻した。

「安心なさい、楽園の追放者は追放者のままよ。本人もそれは重々承知の上だから」
「そうですか、それならよいのです……ならばあれはこの地上にはないということですね?」
「そういってるじゃない」
「なら、同僚や天人の方たちにもそう伝えておきましょう。ですが……」

 衣玖は紫の横を通り抜け、戸口の方へと歩いていった。そしてドアノブに手をかけたところで背を向けたまま言葉を連ねた。

「もし羽柴犹嗣に会うようなことがあればこう伝えてください。龍神様に弓を引いた罪は、我々は決して忘れぬと」

 最後に店主たちに失礼しますと告げて美しき緋の衣は雨風の強い外へと出、飛んで行った。あまりに勝手な伝言を頼まれた紫はしかし楽しげにくすくすと笑い、いつもの妖しげな表情を顔に張り付けている。その一方でしかめ面を浮かべた霖之助はスキマ妖怪へと向き直った。

「紫、貴女はあの時彼に何があったか知っているのか?」
「ふ~ん……あなたが犹嗣と最後に会ったのはいつ?」
「一週間の大嵐が起きる前日」
「そう。けどその様子では、どうして彼が幻想郷からいなくなったのかは知らされていないようね」
「……いなくなるかもしれない、とは言われていたさ」
「あらそう、けどよかったのかしれないわね。もし彼が事情を話してたらあなたも巻き込んでしまったかもしれないし」
「そうだね、だけど今ので大方の事情はわかったさ。なら僕は……」
「あーもう!! お前らいい加減説明不足で話すのやめろー! 私にもわかるように言ってくれ!」
「差別はんたーい!」

 今まで完全に存在が無視されていた魔理沙と妖怪がうがーと吠え立った。たまらず二人をほうを見てぱちくりと目を瞬かせる霖之助とは対照的に、あらあら困ったわねと紫は別段困っていないような口調で呟いた。すぐに霖之助はぎろりと紫を睨むと、しかし次の瞬間には紫の足元にスキマが広がっていた。

「説明は面倒臭いから帰るわ、後は自分で推理しなさい」

 それじゃあね~、と軽く手を振って紫はスキマの中に消えていった。逃げたな、と霖之助が悪態をつく間にも二人の少女はわがままな子供のように説明しろと声高々に問い詰めてくる。
 はぁ、とようやく人口密集率が元に戻った香霖堂に安堵と共にこれから話すことに対しての気苦労を思うと溜息が出る。だがしかし、自身の考えをまとめるためにはよいかもしれないと思い、まずは落ち付けと少女たちにストップをかけた。

「とりあえず一服しないか? キミたちはまだ帰らないんだろ?」
「正確には帰れない、だぜ」
「もうわたしは三日間いるんだけど……」

 雨音は徐々に弱まってきているが、それでもそれぞれの家に帰るまでには立派な濡れ鼠となっているだろう。それなのに魔理沙はよく来たな、と思いつつ霖之助はようやくコーヒーを一口呑んだ。若干冷め始めたそれは温く、苦みも香りも中途半端で、霖之助の心をそのまま現すようだった。



 はぁ、と溜息をついて縁側から空を見上げた。三日間続いた雨はようやく止み、山の合間から沈みゆく太陽が真っ赤に燃えていた。
 妖怪の山、守矢神社に住まう東風谷早苗はその風景を見ていると、どうしてか懐かしさを感じた。それは幻想郷に初めて来た当時に馳せた摩訶不思議なノスタルジアではなく、彼女の幼いころの記憶を蘇らせたものだった。草履を履いて外へと出ると、彼女が仕える神の一柱がケロケロと嬉しそうに飛び回り、眷属とも言える動物たちにあいさつ回りをしていた。
 容姿そのままに童子の遊び風景を見ているようで微笑みながら見ていると、そこに幼いころの自分と、もう一人、かつての早苗とそう年の変わらぬ少年が一緒に遊んでいる景色を幻視した。慌てて眼をこすると、もうそこにはかつての自分も、あの少年の姿もない。ホームシックなのかな、と内心思いながらまた空を見上げた。やはり空は、茜色に燃えている。

「なーくん、元気にしてるかなぁ」
「あーもー、また失敗したぁ!」

 ずっと昔に会ったきりで別れてしまった一人の少年のことをホームシックだと思いながら思い出していた早苗の思惟を自室の部屋から飛び出してきたもう一柱の神が遮った。常の赤地を基本とした神としての衣ではなく、昔ながらの作務衣にドテラという神としての威厳も何もない姿だ。
 憧憬に浸っていた雰囲気を見事に壊された早苗は溜息をつきながら彼女、八坂神奈子へと振り返る。その両手に掴んでいるのは、外の世界においてパテ板と呼ばれるものを神奈子自身が加工したものだ。

「またフルスクラッチしてたんですか? こっちじゃそれはできないからって前言いましたよね?」
「早苗だって人のこと言えないじゃないかい? この前は残ったスプレー使ってシュープリスの塗装して」
「夜間戦仕様はああでもしないと光沢が出ないんです」

 幾度となく語ったレイレナード社製の色艶について再びぶつけようとした早苗であるが、しかし次の瞬間それを遮る様な木枯らしが守矢神社の中に入り込み、構造上風通しのよい風祝の衣装の早苗はぶるりと震えた。どてらを羽織っている神奈子も服の隙間に入り込んだのか両手で身体を抱え、外ではしゃいでいた残る一柱もくしゅんと可愛らしいくしゃみをした。
 
「本格的に冷えてきましたね」
「昔の通りっていうんだけど、あっちの環境に慣れてる今の私たちにはちょいと辛いねぇ……諏訪子ー、八咫烏の調子はどうなってるー?」

 夜の帳が落ちるにつれて増える闇の影に追われるように母屋へと戻ってくる小さな、しかしそれ故に深き神である友人へと神奈子は問うと、守矢神社の真の信仰対象、洩矢諏訪子はんー、と冷えた水で手を洗いながら、彼女らが計画する深謀の要の状態を浮かべた。

「もーぼちぼちってところかな。こっちに来てわたし達の力も戻ってきてるから、前よりはやり易くなってるよ。圧縮完了まで後二、三週間ってところかな」
「冬が始まっちゃうじゃないか、今年には間に合うのかい?」
「エアコン使えるようになるのは早くて如月(二月)だねぇ」

 それじゃあまだしばらく炬燵かい、と嘆く神奈子と、冷えた手を早く温めるために家の中へとそそくさと上がりながら、カーペットも恋しいねぇ、とぼやく諏訪子。存亡の危機のために率先して幻想郷への移動を進めてきた神様たちが一番現代文明を悔やんでいるじゃないですか、と心の中で溜息をついて、早苗もまた家の中へと戻っていこうとした。
 しかし途中、ふとした思いから今一度外を見る。夕闇、月と星の光が今か今かと舞台にあがるのを待ち望み、空は赤と青の混じり合う、人間妖怪問わずして圧倒させる色が幕となっている。その下で今、自分が仕える神がこの世界の住人たちの生活をより良くしようと、そしてそれが自身の益となるよう動きだし、まもなく計画は始まろうとしている。それに反対する意見はないし、むしろ早苗は家族同然の二人の神を支援する。
 だが同時にあるのは、それとはまったく無関係の、憧憬と予感。この空を見たからだろうか。風祝の東風谷早苗が少し不思議な力を持つだけの、ただの女の子だった早苗として出会った不思議な男の子。最後に別れたのもこのような茜空だったな、と今さら思い出しながら、ありえない予感を忘れ去るように視線を元へと戻し、食事の準備をし始めた。
 彼女がありえないと断じた予感の名は、再会といった。


 

 あとがき:

 感想を見直すと結構原作との時系列気にする方が結構多いので閑話で説明してみました。今後のネタバレも盛大に含んでますけどね!!!
 とりあえず今回で縁とその親父、中邦親子と幻想郷の因縁がかなり判明したと思います(むしろ殆ど?)なので今後どうなるかも予想がつきやすいかと。まぁもともとベタなので今更ですがw なので感想に、

赤帽子<東方エロゲ地霊殿? ああ、あの時代遅れの
 
 とかあっても泣きません。すいません、泣きます。


2/7 赤河童<おっと、戯言は禁止だ。



[7713] 第十八話――≧<これで…イイッ
Name: へたれっぽいG◆eaa9c481 ID:f33d8d16
Date: 2011/02/14 14:39
 夢を見ていた。誰かが喜んでくれる夢だ。霊烏路空は自分が作ったそれを食べてくれる相手に笑顔を浮かべていた。手に持っていたバスケットにはまだまだ作ったお菓子が入っている。次々とそれらを並べると、相手は苦笑いを浮かべた。この前だってこいし様がご飯食べちゃったからお腹空いてるでしょ、と自分には似合いそうにないと思ってしまう言葉を口にして、その口の中にお菓子を詰め込む。フレッチャーに教えてもった、クッキーというものだ。
 相手は喉を詰まらせた。慌ててお茶を出した。一息つけたところで、殺す気か、と言われて頬を引っ張られた。反撃した。しばらくそのまま言い合っていると、たまらなくおかしくなって、また笑い合った。
 何でかそれが、心地よいと空は思った。バカな頭で、夢だからだろうと決めつけた。
 その時、どこからか音が聞こえた。それはどんどん大きなって反響し、相手を音で埋め尽くし、食いつくしてしまった。空はそれから逃れるため、飛びあがって、耳を塞いだ。それでも音は消えない。むしろ更に大きくなっていく。
 また別の夢を見る時もだ。
 今度はそこに、自分の主とその妹、そして親友と居候が出てきた。広間のような場所で、あやとりやトランプを、時々ボードゲームをしている。自分は殆ど負けてしまい、彼女の主が妹に時々負ける以外は一位をキープ。三位争いで親友と居候が接戦し、取っ組み合いにまで発展した。その二人を何とか抑えて、今度は皆でご飯の準備をする。今日は皆で作るのだ、きっと楽しいだろう。夢なのだから当然だ。
 最初は突然無音になり、ついで周囲には何もなくなる。食いつくされたか、何もなかったことにされたか。そして上下の間隔も消え、空を飛ぶというのではなく、放り出されたような気分に陥る。そして唐突にあの轟音は襲いかかってくるのだ。
 消えて、消えて。空は祈る。叫ぶ。吠える。
 音は消えない。轟音。騒音。やがてそれは自分の内側から鳴り響いているのだと理解し始めた空を、音が体の内側から食い破った。何度でも、何度でも。死の恐怖を与えるはずの妖怪すら、内側に潜む寄生虫の成長と暴走に為す術もなかった。

「もうやだぁ! 誰か、誰か助けてよぉッ! フレッチャぁ……お燐……こいし様ぁ……さとり様ぁ……縁ぃ……」

 そして最後に、空の頭は破裂し、轟音という怪物は地獄鴉の臓腑を闇の中へと吐き捨てた。



 第十八話『夢診断』



 何かに急かされるように、縁の意識が浮上した。うつらうつらとぼやける視界が自室を認識する。頭の中は重く、体は鉛のように動かない。部屋の中は冷え込み、静けさに包まれていた。どたどたと部屋の外を何かが駆けていく物音はするが、しかしそれも遠いところで発生した山びこのようなものにしか聞こえない。どうしてこうなってるんだっけ、と真っ白な思考の中で疑問の言葉だけを浮かび上がらせるが、応答はなし。起き上がれないかと力を入れてみるが、上手くいかずにだらりと垂れる。こんな風にぶっ倒れたのは久々だな、と思うがしかし今はそれ以外考えられず、ぼうと天井を見やる。
 そうしていたら、ぎちり、と音がした。右腕からだ。これだけは相も変わらず自由に動き、顔の前まで持って行けた。天井の代わりに機械の手のひらを見る。傷だらけだった。濡れ仕事や汚れた場合にはできるだけ拭く様に、そして週に一度は寝る前にチェックをしていたはずなのに、ここまで細かく傷がついていることに気付けなかった。手のひらの方も、腕全体も同様だった。ここに来てからずっと無理してたもんな、と感慨深いものが湧き上がりつつ、できれば早めに整備したいとすら思って左手に置いた。その途端、左腕から激痛が走り、縁に思考にばちりと火花が散った。

「っっっつぅぅぅ……」

 動けないまま痛みに耐えようとするほどキツいものはない。いっそ舌を噛みながら耐えていようかとバカな考えすらも浮かべながら、縁は何とか首を動かして左手に目を降ろした。かろうじて見える身体にも幾重にも包帯が巻かれているが、左腕はそれに輪をかけて巻かれ、むしろ器具によって固定されていた。どうしてここまで、と縁はようやくの疑問に辿り着き、その直後に自身が倒れるまでの記憶が一挙に蘇った。
 不明瞭な理由で攻撃を仕掛けてきた赤色の少女。為す術もやられ、何度も倒れる自分。なぜか助けに来てくれた空。そして最後に、倒れ伏す空を足蹴にし何かを押しつけ、歪み切った笑みで赤の妖怪に言葉を囁かれ、空が泣き叫んだ。
言葉の内容は死の宣告。それも明らかに敵意を向けていた自分ではなく、偶々きてくれただけの空を対象にしたもの。

「うつほッッぐあがっ!?」

 フラッシュバックが終わりきらぬうちに衝動に任せ起き上がろうとするも、即座に身体は脳の命令に拒絶反応を起こして縁の意思をベッドの上に縛りつける。痛みを紛らわそうと動きまわりたいという衝動が湧き上がるが、それをも押し殺す。復帰した思考が今までの経験を参照に、動かない方がいいと判断したからだ。歯をくいしばって耐える。割れはしないが歯茎は痛んだ。

「っは、は、は……くそ」

 ようやく痛みが引き、全身の筋肉を強張らせていた力が荒い息となって吐き出される。それを整えてから、どうにか起き上がれないかと力を入れようとするが、全身は元より左腕が主となってそれを妨げる。原因は間違いなく交通標識で貫かれたせいだろう。せめて足だけでも動かせないかと曲げようと試みるが、それすらも途中で挫折せざるをえなくなる。そして見上げる羽目になるのは、地霊殿の自分の部屋だった。だが今は、その意味合いは大きく変わる。
 以前、幻想郷に来る前も、そして幻想郷にきてからも何度か見たことのある、薄ぼけた視界の中の天井。ボロボロになって、倒れて、担ぎ込まれ、包帯でグルグル巻きになって、痣だらけになって、血を流す。今回はそれが、一方的な、完全な敗北によるものだっただけ。

「……ちくしょう」

 それを許容し、笑ってやり過ごしたり、諦観をしたり、忘却することなど、中邦縁にはできなかった。真直ぐにその事実を認め、痛みという現実界が解を肯定する。だからこそ、泣きたくなった。
 勇儀の使いを果たせなかったこと、空を巻き込んでしまったこと、それを悔やみ、その後どうなったかと考える思考と気持ちは確かにあるが、しかし縁という一人の男子は、真正面からの勝負に嘲られながら敗北を喫したことの方が精神に負うものが大きく、感情が一つのもので満ち満ちた。動く右腕で、誰もいないのに眼元を隠して、自然と溢れる涙を流す。完膚なきまでの敗北はなかったわけではない、むしろ中学生の頃は両手で数えきれないほどあった。それでも悔しいものは悔しかった。油断をすれば、あの哄笑と、囁かれた言葉が耳元に現れる。二週間。自分がどれほど寝ていたかはわからないが時間がないことだけはわかる。
 何の時間がないのか。自然と思考の中に生まれた言葉に疑問を提起し、回答を待つ。しばらく考えるが、回答はない。そして考えれば考えるほど、河城みとりがイメージの中に現れ、縁の髪を掴み上げ、空を踏みつけ高笑いをあげる。そしてその度に悔しさが涙となって溢れ出る。

「コジマの光に導かれ!」
「パックスの未来を憂う!」
「我ら粒子戦隊コジマン……ておや?」

 そんな縁の心境など知ったことではないとばかりに床から現れたのは飛び出してきたのは、こいしのお付きの三匹であった。驚いて右手を上げ三匹に視線だけ送り眼を見開く縁と、縁の顔に物珍しい痕跡を目ざとく見つけて驚くカドルたち。痛々しい沈黙が一人と三匹の間に落ち、たっぷり三秒の後、ようやく口を開いたのは縁だった。舌打ちを一つし、そっぽを向く。

「何の用だよ」
「……みっともねぇとツッコムべきかなこりゃ?」
「おいカニス、そりゃマズイって!」
「まったくだね、こういう青春ストライクな少年のガラスハートは放っておくに限るんだよ」
「いやけどよ、そこは弄くらなきゃお約束に反するんじゃないか?」
「ああ、そっか! ヒーローものでもこういう奴は弄られる定めだったよな!」
「む、カニスの言ってることも正論だね、ならここはダンとカニスで激しく、そして……」
「だからお前ら何しにきたって聞いてんだろうがっ!」

 好き勝手に遠まわしに縁のことを詰っていた三匹に対し、ついに縁が吠えた。感情を露わにしてふーふー、息を吐く若者に対し三匹は身内で目を合わせて一度縁を振り返り、それぞれ別方向に各々特有の呆れのポーズを取って溜息を吐いた。縁の頭に一瞬で血が上り、右腕を振り上げて第三の腕を顕現させる。だがしかし、それは常よりも幾分か小さく、藍色の光も弱い。同時に右腕を振りかぶった時に身体を捩ったせいかすぐに全身の傷口から信号が発せられた。たまらず身体を仰け反り、動かず悶える縁。第三の腕も一緒に消えてしまった。三匹はまた溜息を吐き、縁が落ち着くまで待ちながら、必要だろう情報を与えることにした。

「さて、まずはきみがどれだけ寝ていたか教えてあげよう。今日で四日目さ」
「~~、そんなに寝てたのかよ……」
「そう。そしてついでに言えば、僕等は寝ている君のお守というわけさ」

 悶え苦しむことからようやく逃れることができた縁は半眼でカドルを睨むと、おお、怖い怖いと挑発するような顔をする鹿頭の妖怪の代わりにカニスがこれまた呆れて肩をすくめた。

「あんなぁ、人間がそれだけ傷負って四日で意識が戻るのはすげーことなんだぜ?」
「まったくだな。前々から思ってたけど、あんた実は人間止めてないか?」
「ふっざけんな、俺は正真正銘人間だっての。お前らがくれた薬いいだけだろーが……癪だけど」
「冗談も通じないとは……」
「やれやれってやつだな」

 冗談に聞こえねーよ、と心中で呟いて、縁は三匹に、もっとも聞きたく、そしてもっとも躊躇して、問いを重ねた。

「……空は、どうなった?」
「旧灼熱地獄にいるね」
「もっとも、そこに行くしかないって言ったほうがいいか」
「……どういう意味だよ、それっ」

 ダンの零した言葉を数瞬の間咀嚼しその意味を理解すると、縁は我知らず声を荒げてしまった。空の仕事場は地霊殿地下の灼熱地獄、そこに居るだけならば特に目を顰める様なものはない。だが、そこに行くしかなかった、というのであれば話は別だ。地霊殿に空が居てはまずいという事情がある、ということが遠まわしに言及されているのだ。

「……実際に見てもらった方が早いねぇ」
「そうだな、他のことはついでに話すとしよう」

 そう言うや否や、三匹は縁のベッドの傍に寄ると、それぞれ両脇と足に回って、各担当の四肢を病人相手という慎重な動作で持ち上げた。当然のごとく縁には激痛が走るが、しかし本人もまた何が起きたかを確かめるために痛みを耐え、三匹に何も言わず持ち上げられる。
 さながら両肩を磔に固定された罪人のように起き上がった縁であるが、しかし両足が床についた時、何とか足だけでも動かせないかと試すが、しかし震えるだけで自由にはままならない。胸中で今日で何度目になるかわからない舌打ちを打つ。それは表情にも出ていたが、三匹はそのことには何も言わなかった。
 三匹、正確にはダンとカニスの二匹が縁の肩を支えて、カドルが部屋のドアを開けず、そのまますり抜ける。部屋に入ってきたときと同じ『障害物をすり抜ける程度の能力』であろう、縁たちもそれに続いてドアを開けず、突入する。慣れぬ縁は思わず目を瞑り、ドアを通過するまで待った。そうといっても一秒に満たないだろう、すぐに縁は眼を開く。
 だが既にそこは、縁の知る地霊殿の内装とは大きく違っていた。

「なんだ、これ……?」

 廊下中に走る一直線の亀裂、それが幾重にも走り、軌跡上に存在する器物は例外なく破壊されていた。床に埋め込まれたステンドグラスも割れ、灼熱地獄の熱が昇ってきているのか蜃気楼が発生している。いつもはごろごろと気ままに過ごしているはずの地霊殿のペットたちはあるものは居心地悪そうに毛を舐め、あるものは率先して粉々になった調度品の破片を取り除いていた。その光景が広がっているのは何も廊下だけではない。カドルの能力で中庭に出れば、そこから見える景色のほぼ全てが亀裂によって破損させられていた。近代の戦争の景色でもこうはならない、むしろそれとはまったく別だ。なぜならこれは全て内側から破壊されているのだ。

「……これが全部、おくうがやったことだよ」
「っ! どうしてだよ、あいつの気が狂っちまったってのかよ!」
「あの鴉は正気さ、ただし身体の中がおかしくなっただけさ」
「身体が……まさか、あの赤野郎が何かした時に!?」
「そうだねぇ、そしてそれは文字通り、あの赤河童にしか解決できないよ」

 赤河童、とみとりの種族が判明したことは些細なことだった。右腕が震える、握り拳を作る。だが同時にあの嘲りの笑みが脳裏に浮かぶと、左腕に鈍痛が走った。丁度、貫かれた部分だ。同時に、右腕の震えが強くなり、臓腑が冷えた。それを縁は知っている。何度か味わったことのある、屈辱的な感情だ。

「っ……こいしとかさとり、それに燐はどうしたんだ?」

 振り払うように疑問を連ねる。縁の胸裏に気づいたのか、元々話すつもりだったのか、三匹を代表して先行するカドルがそれに応えた。

「こいし様とさとり様は昨日までお前の看病、今は鬼の四天王のとこに行ってる。お燐はおくうの傍、あとフレッチャーはいつも通りどこかいってて三日前からいないよ」
「そ……っか」

 さとりのように心を読めない縁には、地霊殿に住む大部分のペットと話すことはできない。そしてその少数派とも言えるフレッチャーや燐がいないとあれば、必然的に喋るのは日頃こいしの傍にいたり変態的行為で勝手に仕置きされいなくなっている、接点のあまりない三匹だけだった。だがそうであるからこそこそ、今はよかったと縁は思っていた。泣きはらして、今でもまだ気を抜けば目から感情の発露の現れが出てきそうな状態を、より親しいものには見られないという、子ども染みた安堵だ。同時に、未だその安堵そのものが不安定なものだという自覚もある。
 それを知ってか知らずか、それともまったく別の、たんなる親切でか、カドルは灼熱地獄を一度見下ろしてから、再び縁に向けて問いかけた。

「……おくうのとこに行くかい?」
「行ってもいいのか?」
「別にキミを灼熱地獄に下ろしちゃいけないなんて誰も言ってなかったからねぇ……それとも、キミ自身が避けてたのかな?」

 縁はともすれば不安で饒舌になりそうな舌を黙らせた。以前は、自分が飛行の術を覚えるまではいかないと思いこみ、空たちにも言っていた。だが今この状況で同じことを問われれば、胸中の自分が返答に困っていた。もしかしたら、と予感があったのかもしれない。灼熱地獄、本当の、縁の想像する地獄がそこに開き、人間の死体の山が無数に並び、そこで空や燐が好き勝手に生きていたら、自分はいつも通り彼女たちに接することができるのかという不安と疑惑。
 そこまで考えて、痛むのも構わず縁は頭を振った。今はそれが重要なことではないと己の言い聞かせたからだ。重要なことは、空に会って、話をすること。自分を守るために戦って、灼熱地獄に居続けなければならなくなった理由を問うために。

「いや、そんなわけねぇ……飯、適当に水で済ますからよ、そうしたら降ろしてくれ」

 だからこそ強がった言葉を吐いたが、縁はほんの少し、灼熱地獄に降りるのを先延ばしにした。どちらにしろ丸三日何も食べていなかったことは事実であるが、本音を言えば、水しか入りそうになかった。ひたすらに気が重い。もしかしたら水も入らないかもしれない。

「わかったよ、なら大人しくしているようにね。ああそれと……」
「……なんだよ?」
「おくうには触らないように、死にたくなければね」

 意味深でどこか皮肉気な悪態を吐いたカドルはそのまま能力を使って再び潜り、カニスたちもまた、まだ男を掴まえてなきゃいけないのかよと愚痴を呟きながらそれに続く。それに対しても弱り切っていた縁は、地獄に落ちる前準備だと思ってしまった。




 手を叩かれた。じんじんと赤くなる手。色褪せた景色の中で赤く幼い童女/自分は叩かれた手を引っ込めて、痛みに涙を溜めた。少女の前には彼女と同じくらいの子どもたちと、その親の大人が一人。大人が彼女の手を叩いたのだった。その大人が少女を見下ろして言う。

「ウチの子に触るな、妖怪の血を引いてるくせに!」

 次の日には一緒に遊んでいた子の手を引こうとして叩かれた。子どもは彼女の手が赤くなるのを見て、謝りながら言った。

「ごめんね……けどみんな言うの、あなたに触っちゃダメだって」

 叩かれる回数は次第に増えていった。手の赤みの引きのが遅くなっていき、いつしか彼女の顔まで真っ赤になっていた。視界はぐしゃぐしゃになり、声とはならぬ声が村中に響き、やがて村の外へと移っていった。
 そこで一人でいると、少女に似た生き物たちが近寄ってきた。河童という妖怪、彼女の父親と同じものだった。少女はもしかしたらと思って彼らに触ろうとした。しかし彼らは少女が触れる直前、伸ばした手を叩いて消えてしまった。
 残ったのは赤くはれ上がった手。じわりと涙のたまる目。一体自分が何をしたのかという疑問。血を分けた妹は、その純粋性故に受け入れられ、一方で自分はどちらにも寄る辺がなかった。
 手の赤みがまた顔に伝播する。それを隠して、河城みとりはどこにもいない場所へ逃げ出した。

「……ちっ、最悪」

 逃げ出した地底にある薄汚れた家。乱雑とものが置かれた部屋の中でみとりは眼を覚ますと、おもむろに自分の額を殴った。そうすれば夢から覚めたばかりの鬱屈とした気持もなくなるとかと思えたが、しかしなくなるはずがなかった。寝ぐせのついた頭を掻きながら立ち上がると、舌打ちをして一階の洗面所へといく。洗面台の前に立つと、自分で作った蛇口を回して水を出し、顔を洗う。そのまま髪を解かすため顔を上げて鏡を見ると、思わずしかめ面を作った。吸血鬼というわけでもないみとりは普通に鏡に映る。その顔は酷いものだ、クマも出来ているが、何より泣きはらした跡がある。もう一度顔に掬った水を叩きつけて、それから髪を解かした。
 いつものサイドポニーに髪を括り、皿の機能を果たす帽子を被る。半分だけとはいえ、あるとないとでは大分違う帽子/皿の存在に、夢見が悪かったからか、気分が悪くなる。一瞬、投げ捨ててしまおうかとも考えたが、利己的な面がそれを否定し、帽子のズレを直すにとどまった。
 地底に朝という概念はあるにはある。だが妖怪にとっての朝は夜だ。最近の傾向ではそれも崩れてきているが、みとりにとって昼夜とは人間と同じ感覚だった。故に夜に眠気の限界がくれば寝もするし、腹は空かぬが食は取る。
 なぜならば彼女はただの妖怪でも、人間もなかったからだ。半人半妖、それが彼女の正体だ。

「ん、米がないわね。それに餅も……貯蔵分のはどこだったっけ」

 気分転換にと久々に食事をとろうと半ば研究材料で物置となっている調理場で食べられるものを探すが、しかし何分ずぼらな面もあるみとりは拾ったものと研究資料、自分で作り上げたもの以外はどこに何を置いたか忘れてしまい、さてどうしようかと悩んだ。しかしそれもほんの数十秒で終わる。

「久々に外で食べるのもいいかもね」

 思い立ったが吉日、みとりはいつもの交通標識の形をしたリュック、獣の尾のアクセサリをつけると、玄関口に立った。そこでふと、二つの案件があるのを今更ながらに思いだした。一つは、あの人間が家に入ってきたこと時のこと。このことに関しては自身の探究心の強さに呆れてしまった。もう一つは、ここ三日間に起きた変化。変化の場所は家の周囲、向けられるのはプレッシャー。そのようなものに慣れていたみとりは久々に当てられるそれに今まで鬱陶しくて家の中にこもってあの腕の調整をしていたが、しかし外に行こうと決めた今はそうはいかない。それにもしかしたら、後者の件で前者のことも一気に片付くかもしれない。
 それに、むしろ憂さ晴らしには丁度よいと妖力を全身を漲らせ、いつでもスペルカードを出せるようにしておく。戸を開く。一歩踏み出す、半身が出る、二歩目、三歩目、全身が家から出て、戸を閉める。空気が唸る。風切り音が聞こえるのと同時に、アクセサリの尾に手を突っ込み、それを引き抜く。妖力で固定化し、白い毛で構成されたポールと赤と白で染められた進入禁止を意味する外の世界のものを模した交通標識。自身の身長よりも若干長いそれを軽々と振り回して、みとりは迫りくるブーメランを弾き飛ばした。

「最近の妖怪の男ってのは不意打ちが流行ってるの? 趣味が悪いな」
「それを読んでて敢えて出てくるお前もだな」

 弾かれたブーメランは回転を止めず、そのまま弧を描いて向かいの家の屋根に座っていた妖怪の元へと舞い戻った。虎耳と尻尾、四日前に見た顔だ。そして同時に、この三日間度々みとりを張っていた妖怪でもある。

「人の家にしつこく張り付いてるのは、外の世界ではストーカーていうらしいわよ」
「残念ながらそんなんじゃねぇよ、狩猟ってのは忍耐が必要なのさ。ついでに相手のことを調べるのもな……なぁ、半人半妖の河城みとりさんよ」

 ふーん、とみとりはおどける様にわざと答えた。わかりやすい挑発だ。同時に相手が自分のことを調べ上げたということもわかる内容でもある。そういう意味では、二重の挑発、レスポンス待ち。ここまでくれば乗ってやろうと口を皮肉気に持ち上げて言葉を返す。

「虎から狗にでも替われるほど鼻が利くみたいだね、どうせならなってみたら」
「そいつは勘弁だな、それにあんたは色々と有名みたいだから結構すぐわかったぜ」
「ふーん、そう。それで、一体何しにきたの?」

 わかり切ったことを聞くな、と言って虎の妖怪はスペルカードを三枚取り出した。やはりそれか、みとりはそれに挑発のお返しとばかりに二枚で応える。びきりと若虎の額に青筋が浮かぶが、むしろみとりしてはこれでも多いぐらいだと思っていた。それでも敢えて出したのは、食前の運動として、徹底的にいたぶる為だ。

「こっちのこと調べたならわかるでしょ? あんたじゃわたしには勝てないよ」
「そんなの弾幕ごっこだからわかんないだろ?」
「弾幕ごっこは女の子の遊びだって知らないの?」
「女の子の遊びを男がしちゃいけないって決まりがあるならそれに従うな。世の中にゃ自分の娘のおままごとに付き合うやつだっていたんだからよ」
「何年前の話しよ」

 軽口の叩きあいと共に高まるのは妖気。スペルカードに刻まれた文字や紋、力ある言霊が活性化し発光し、いつでも封じられたスペルを発動できるようになっている。後は決闘の合図さえあれば、いつでも顕現可能だ。互いに笑い合うが、一方は隠せぬ複合的な意味を持つ、同時にわかりやすい怒気を撒き散らし、もう一方のみとりは嘲笑の意味合い、むしろ見下すというもの、傲慢にも似た奇妙な優越感、鬱屈とした逆説を湛えている。笑い合うが故に、軽口での前座は終わっていた。

「……じゃあよ、いい加減」
「それはストップ、その前に聞きたいことがあるからね」

 しかし、闘争の前の緊張を先に踏み越えたようとした若虎を、みとりは質問という形で遮った。何だよ、と出鼻を挫かれた虎はあからさまな顔でみとりを見るが、そんなこと知ったことではないと顔で作って、先ほどから思い立っていた問いを口にした。

「あの人間の能力は何?」
「……いや、知らねぇな。知ってても、あんたに教えてやる義理はねぇな」
「あ、そう。なら……」

 みとりの足元から光が走った。スペルカードの文様、妖力の赤い光が、力ある形をなし、弾幕という名の絵画を作り出すベースとなる。それに半瞬遅れて若虎、林皇十一が一足飛び、急降下する弾丸となってみとりへと肉薄した。

「知ってるやつに聞きにいくわ!」
「その前に、ダチの仇はとらせてもらうぞ!」

 非止「だるまさんがころばない」
 幻像「森林から覗く目玉たち」

 スペルカード宣言と共に三つの姿に転じた十一を、みとりは妖怪よりも遙かに人間らしい怪物の表情で迎え撃った。



 当初の予想通りというべきか、縁は吐いた。
 吐しゃ物は主に胃液、先ほど飲んだ水も含まれているかもしれないが、黄緑の色に染まってしまえばわかるはずもなく、そしてそれがすぐに死体の山の中に染み込み、蒸発してしまえば意味もなくす。本来ならば、胃液特有の鼻をつく臭いが更なる吐き気を促すのだろうが、今の縁はそれ以上のものによって、頭の中を真っ白にさせられていた。
 灼熱地獄跡。地霊殿の地下、中庭のピラミッド体から入り込んだそこは、縁の最悪の予想通り、いやそれ以上に彼の理性を破壊しようと鎚を振るった。最初は夏場のような熱気で傷が沁みたが、しかし徐々に慣れれば、その熱気に肉の焼ける臭いが混じっていることがわかった。見下ろせば、幾つかの黒い山がらせん状に道を作っており、最深部までの道のりが実は地続きであること、階層ごとにわかれていること、そして最下層にはマグマのようなものが流れているのがわかる。飛べないからという言葉は決して言い訳にはならないことが証明され、縁はカドルたちにされるがまま、その山の一つに近づいた。
 よく地霊殿の見るものよりも紫、正確には青みがかった霊魂があちらこちらにふわふわと浮いているが、縁が近づくや否やすぐに遠ざかってしまう。そして自然に出来た中空の道を下りると、山の全貌がわかる。否、それは山ではなかった。全て人間の死体だ。焼け焦げた人間の死体が積み重なってできた死体の山なのだ。老若男女関係なく、全て、無造作に、人間というものとして扱われず。
 そう脳が理解した瞬間、縁の臓腑が裏返った。

「うえ、げぇ、うえええええ」

 今もまだ吐いているが、段々と収まってきてはいる。それでも吐き気自体はなくならない。常に人肉の焦げた臭いが縁の周りに漂っているからだ。今の縁は、その死体の山を前にしていつの間にか蹲り、ただ身内のものを吐き出す装置となっていた。

「まったく、きたないなぁ」
「外の世界にはこういう場所はないのか?」
「いや、地獄だからじゃねぇか?」

 縁とは対照的に、離れた位置で少年の様子を見ている三匹は、軽い調子で呆れかえっていた。その三匹を縁は人間の尊厳でもって睨みつけ、しかし三匹の傍にある人魂を、その内側を見てしまった。それは球体の上に人間の顔を張り付かせて、抜け落ちた歯茎を目一杯に開き、縁を睨み上げていた。見上げているといっても誤りはない。なぜなら彼らが縁を見る目は、嫉妬や羨望、そして縁というものを害し、奪いたいという、人間の負の感情を混沌化させ詰め合わせたような色だったからだ。
 耐え切れず、悲鳴をあげてまた下を向いた。死体で埋まった地面は黒く焦げ、縁の吐しゃ物はその中で異質な色となって映えていた。それが縁に、ようやく自身が、まったく未知の世界にきたことを教えた。今までの自分は、どこか勘違いしていたのだ。結局妖怪だろうと精霊だろうと、どこか動物や人間と変わらぬ存在なのだと。きっと変わっているのは見た目と性格だけで、同じなのだと。無意識に、そう信じていた。
 それを木端微塵に壊された。カドルたちの態度が、あの恐ろしい紫の人魂がいても平然としていることが、縁にはたまらなく恐ろしかった。可能ならば、体が自由に動かせるならば、今すぐにでもここから逃げ出したかった。ただの人間の縁にとって、死人しかいないこの地獄跡は、恐怖でしかなかった。

「……何しにきたのよ」

 声がかかった。縁は鬱屈とした気持ちを捨てきれず、緩慢とした動作で声の届いた方へと顔をあげた。いつもの猫車を持った燐が死体の山の上にいた。その眼に映る感情は、今の縁には異端者を排除しようとする色にしか見えなかった。

「なにって、その……」
「おくうに会いに来たなら止めといたほうがいいわよ。死にたくなきゃね」

 死ぬ。いつもはよく聞く言葉。元の世界ではよく聞いていた言葉。それはケンカの時だったり、ニュースの中であったり、日常会話の中の何気ない冗談だったり。それが今、肉と臭いを持って縁を抱きしめる。縁は死を想ったことがある、それは幼少のころにあった妖怪との対峙の中であったり、数年前の出来事であったり、戦いの中であったりした。それでもそれはまだ綺麗であった。記憶という劣化するものが死を美化したのか、はたまた感情の高まりが死の意識を昇華していたのかはわからない。
 だがそれらのものよりも、この薄汚れた景色こそが何よりも縁の命を死とリンクさせた。身体が震え初め、サウナのように熱いはずなのに寒気がした。寒気はまたすぐに、吐き気に転化された。

「うえ、えっ、うえああぁぁぁ」
「ちょ、汚いわよ! どうしたのよ一体!?」

 猫車を放って、燐が心配気に近づいてきた。それでも吐き気はともらず、何も出せないのに、縁は吐くという行為を続けた。喉が焼けて、涙が出てきた。寒気も止まらない、体も震える。両手で抱きしめているはずなのに、止まらない。

「っ、そこの変態ども、このバカ邦を上に運びなさい!」
「そうはいってもねぇ」
「元々来たいっていったのはそいつだし」
「俺たちは用も終わったしそろそろ戻るぜ」
「あ、ちょっと!」

 燐の静止の声も聞かず、三匹はふわりと浮かぶと、天井とも言える場所に開いた天窓から出て行ってしまった。縁を降ろすという目的は確かに達してはいるので、彼らなりの義理は果たしたというのか、それともまた別の意思が働いたのか、思考のまとまらぬ縁には皆目見当もつかない。ただ今は心中で薄情者、と弱弱しげに罵ることしかできない。

「ああもう、とりあえず落ち着ける場所に……けど上に一度行ったんじゃおくうを一人にしちゃう時間が……ならあっちしかないじゃない!」

 一人縁の傍で何事かを呟いていた燐は、おもむろに蹲る縁を両脇に手を通して持ち上げると、そのまま引きずるように荷車の元まで歩いた。何しやがる、と縁はいつかのように叫ぼうとしたが、そんな余力は持ち合わせておらず、また不覚にも燐の体から伝わる、生きている証の温かさが心地よく、何も言えなくなってしまった。

「ほら、コレに乗ってっ」

 それもすぐに新たな絶望に変わる。燐が縁を入れたのはいつもの荷車だ。だがその中には、この死体の山から運び出したと思わしきものが、あるものはバラバラのパーツに分割され、あるものはそのままの状態で無造作に入れられていた。止めてくれ、と縁が言おうとしたが、しかしその声を出す前に燐は臆病ものの身体を火車の中へと押し込んだ。

「さぁ、特急で降りるわよ!」
「や、やめ……」
「そんな体調悪いのに無理いわないの! 舌噛まないでよ」

 言うや否や、燐は一息に浮かびあがり、らせん状の灼熱地獄の吹き貫きを下降していった。その間、縁はずっと死体の上に座り、死体に触れ、死体に掴まれていた。痛みがもはや麻痺した左手は首だけの頭の凹凸を撫で焦げた油で汚し、両脚は赤ん坊にしか見えない胴体を踏みつけている。もはや意地とか人間としての自覚が消し飛んだ縁が発狂しないことは奇跡的だった。

「ついたわよ!」
「うぐえっ」

 縁の思考が真っ白になり景色すらも認識できなかった内にどこかに辿り着いたのか、燐が荷車を傾かせるままに転げ落ちた。死体もまた一緒になって落ち、縁の背中を死体の山に隠そうとする。立ち上がろうと右手を支えにするが、他の部分がついてこない。シャクトリムシのように、何度も起き上がろうとして、ずるりと倒れる。慌てて燐が、乱暴にしてしまったか、と火車を放って縁の傍に寄った。

「って、ごめん! すぐに……」
「さわ、るな……」
「えっ? ちょっと……」
「俺に触るな!!」

 急かされるように縁の上の死体をどかした燐が手を出そうとするのを喚いて拒絶した。びくり、と燐の体が震え、動きが止まる。見上げる縁の目は、憎悪とも怯えともつかぬもので濁っていた。その濁る色は、黒く焦げた罪人の死体に顔にある、目玉の無くなった穴に似ていた。生者である縁がそのような眼をすることに燐は底冷えした。日頃から縁の気性に正面からぶつかりあっているだけに、戸惑いも強かった。

「っく……ここはどこだ?」
「……避暑地ってあたいたちは呼んでるわよ。灼熱地獄跡の下層での、熱があまりこない場所……あたいたちの仕事の休憩所よ」

 縁はようやく正気に戻って地面を触れば、確かにそこには先ほどまでの場所とは違い死体で埋め尽くされているようなことはなく、土の感触がした。同時にどこからか、ぐつぐつと何かが煮える音もしている。マグマの音だろうか、下層に近いというのは確かなことなのだろう。次いで周囲を見渡せば、全体はいつかの迷宮のように丸みのある洞穴のようだというのがわかった。休憩用の長椅子があることから、横穴式住居みたいでもあるという印象を覚えた。

「それで、どうしたのよ。そんな傷で……まさか本当にあいつに会いに来たわけじゃ……」
「……そう、そうだよ……そのつもりだったよ」
 
 身体を這いずらせて、ようやく壁に背中を預けた縁は燐を見ずに答えた。その態度が癪に障り、縁の眼光に圧されるがまま何もせずに見守っていた燐は彼へと詰め寄ろうと足を踏み出した。

「ちょっと、あんたはバカなの! こっちがあれだけ心配してやったっていうのに、なんだってそんなっ」
「っ、こっちに来るなぁ!」

 縁はほぼ反射的に第三の腕を出し、燐目掛けて振り回していた。間一髪でそれを後退し避けた燐だが、すぐさま縁に対して鋭い眼光で問いかける。それに対して縁は、自らがやってしまった行為にバツが悪そうな顔になり、だがすぐに顔を背けて、小さく、弱弱しげに呟いた。

「……悪い。今の俺、どうにかしてる……落ち着いたら、ちゃんと戻るからさ」
「……あの赤河童に負けたの、そんなにショックだったの? それとも……」
「違う! いや、それも理由だけどさ、その……」

 縁は口ごもった。地獄と聞いていたのがまさか本当のことで、こんな死体だらけのとこにいるお前たちが、理解できない化け物にしか見えなくなってしまった。そんな義理も何もないちんけな理由で気が動転しているなどと、仮にも男であり奇妙なプライドが高い青少年の縁には言えるはずがなかった。それに、先ほどから感じる不快感もまた、その感情に上乗せされていた。
 不貞腐れた子供にも見える縁を、燐は珍妙なものでも見る目で見たがしかし内心で、何さバカみたい、これじゃあ怨霊と変わらないじゃないか、と苛立ちのままに罵った。だがそれも、縁の身体の状態が悪いことを考えて、少しは耐えてやろうという気持ちで溜息を吐き、気分を変えた。

「……はぁ……だったら落ち着くまでここにいなさい。あたいはおくうのとこに行ってくるから……後でちゃんと送ってあげるわよ」

 どうせ一人じゃ帰れないんだからね、と至極当然の、想像すればすぐにわかることを言われた縁だが、燐の好意を素直に受け取れなかった。それまでここにいなきゃいけないのかよ、と不貞腐れた意気地のない言葉を口の中でこねくり回し、ほら穴の奥だけに視線を向ける。いつもならばここで一度二度噛みつかれ罵詈雑言の応酬が始まるのに、鬱屈としたものから変わろうとしない縁の態度にまた戸惑い、苛立ちながらも、燐はさっさと火車から落としたバラバラ死体を元に戻して縁に背を向けた。

「それじゃあ、大人しくしてなさいよ」

 ふんと鼻を鳴らした燐はおさげを揺らして悠々と出て行ってしまった。残された縁は、痛む両足を何とか曲げてそれを両手で離れないように蓋をした。女々しい体育座りのまま、両膝に顔を埋める。
 寒気は徐々に収まってきた。だが代わりにあるのは、何かが煮え立ち音。浮かんだ泡が表面に現れ破裂する音。臭いは変わらず、死体のもの。熱気は先ほどの場所よりもあったが、人間の縁にはどちらでも変わらなかった。その中で思うのは、どうして降りてきてしまったのだろうという自問だった。理由ならいくらでもある。だがそれは全て、後悔の材料に換えられてしまう。理由の一つ一つが、その対象/動機を罵る言葉と感情になる。
 どこか冷静な心の片隅が、いつもの自分だったらこうまでならなかったろう、と客観的とも主観的ともつかない分析をした。常の自分ならこの灼熱地獄跡を見て、ここにいる人魂や燐たちを見て、諍いはあるはずだが、それでも受け入れられたはずだ。彼女たち自身を見る目は変わらないはずだ。そうしていつものような日常に戻り、またバカをやって、いつかここから出ていくはずだ。

 本当にそうなの?

 誰かが疑問を問うた。心の内側、体の右半身、存在しない右腕から。縁は思わず顔を上げ、自分の右方向を見た。そこには小さな子どもが、縁と同じように蹲っていた。その子どもはゆっくりと顔を上げ、縁を真直ぐに見上げてくる。どこかで見たことがある顔を前に、縁は何も言えなくなっていた。声が動きを止めていた。

 いつものきみでも、きっと彼女たちを拒絶するんじゃないの? ガムシャラになって逃げだすんじゃないの? 彼女たちが理解できない違うものだってわかったから、怖いんじゃないの? 弱っているとか、タイミングが悪かったっていうのは、きみの言い訳じゃないの?

 縁は何も反論できなかった。違う、とか、そんなわけない、という言葉は心の中でいくらでも出てきた。だが声が出ない。子どもの言葉が、声帯に楔を差しこんだように、何も震えて、出てこない。

 逃げ出したいんだよね。もし空にあったら、きっとあの赤河童っていうのと戦うことになっちゃうから。コテンパンにされたやつに今度こそ殺されちゃうかもしれないから。怖いよね、そういうの。けどそれよりも怖いのは、化け物に化け物退治をお願いされることだよね?

 声が掠れる。子どもの目には何も映っていない。それを真正面から見ている、縁の姿自身も。子どもの右腕がそっと持ち上がる。有機の腕、人間の腕、肌色の腕。言葉は色々あるが、それはゆっくりと縁の人ならざる腕に近づく。

 ここにいる人間はきみだけだよ。きみはまた一人なんだ、元の居場所のいつかみたいに。ここの人間は、みんなあいつらのエサか燃料さ。

 止めろ、と縁の口がようやく音となる声を紡いだ。だがそれでも子どもの手は止まらない。人間の手が、機械の腕に触れた。それはそのまま中へと入り込み、その中にある何かを掴んだ。瞬間、縁の右腕を今までの比ではない幻痛が襲う。のた打ち回りたかった、しかし子どもが腕の中の何かを掴んでいて、離してくれることはなく、不思議なことに身動きができなかった。

 機械の腕っていっても、あいつらとは全然違う。あいつらにとって、ちっぽけな人間の持ってるちっぽけな武器さ。見下してるんだよ、あいつらは。愛玩動物と同じだ。きみなんて、ここにいようと同じなんだ。またそういう腫れもの扱いなんだ。

「縁っ!!」

 ほら、きみに重荷を背負わせようとしている化け物がきた。

 子どもはそういうと右手を離し、縁に洞穴の入口を向かせた。幻痛によって茫然自失としていた縁はそこに翼を広げた化け物がいるのを見た。その化け物はなぜか、目の淵に液体を溜めていた。



 あのバカが来てるよ。地霊殿そのものを破壊しかねない病状を負い、被害が最小限で済むはずの灼熱地獄跡でも常に浮かび続けなければならない空の耳にその言葉が届いた時、死体を灼熱地獄の炉に落とした燐はしまったと自らの口を塞いだ。
 空に起きたことは、空自身にはあまり理解できなかった。
 空の身体を見てくれた医師曰く、ある特殊な力の波が頭の中に打ち込まれたという。その波は一つ一つは単なる弾幕程度の力だが、頭の中で反射し身体の中の物質の共振することで波自体のエネルギーを増していくという性質のものだが、それは減退することなく、しかも一つではなく数万発という膨大な数が精密な計算のもと打ち込まれ、二週間後には一か所に局在して爆発的なエネルギーに変換、空の体を木端微塵に破壊するというのだ。
 知識はあるが基本的には頭の悪い空は、つまりは二週間後にまでに処置をされなければ自分は死ぬのか、というのだけ理解した。だがそれは結果だけを理解したに過ぎなかった。
 空の体は、何かに触れるだけでそれを破壊するようになってしまった。最初にそれに気づいた、正確には起きたのは、あの戦いでそれを打ち込まれた時に倒れて目覚めた直後、ちょうど一日経った時だった。頭の中で、あの奇妙な手を押しつけられた時のような、轟音としか呼びようがないものがどこからか聞こえると、ベッドが前触れもなく壊れた。それからあの音が響くたびに、空に触れたもの全てが破壊された。妖怪だろうと幽霊だろうと関係なく、触れていれば何であろうと内側から破壊した。腕や足が犠牲になったペットもいる。さとりやこいし、特に燐に被害が及ばなかったのは奇跡という他ないだろう。
 昨日再び空の容体を聞いた医者は、いつもの二文字だけの言葉をさとりの読心によって補てんされながら仮説を立てた。頭の中の振動波が伝播し、周囲に被害を与えてしまうのではないか。同時に、これを治療する手立てがあるのかというさとりの問いに対し、稀少、としか答えなかった。
 つまりは、方法は存在する、だがそれを為す技を持つ者は稀にしかいないということ。さとりの読み取った医者の知識の中に、それを為せる妖怪や鬼は地底にいなかった。地上には鬼を除き、地底の妖怪が出ることは基本的にできない。鬼と地上の妖怪との盟約のせいだ。
 残る手段はあの赤河童に治療方法、数万発の振動波に逆位相の波をぶつけるという荒業をさせるしかない。それもここ数日は縁の看病と、空の処置にて何も動くことができなかった。そして空はその間、今この瞬間も、ノイズが内側から自分を破壊するイメージにつき纏われていた。
 触れたものが木端微塵になる。ならば二週間後、自分もああなるのではないか。もしかしたら、それよりも悲惨なものか。加えて、時折どこからかノイズがするのだ。頭が割れる様な轟音。それが頭の中から響いているとわかったのは二日経ってからだ。そしてノイズが始まると、感覚も麻痺するようになっていった。最初は一瞬だったが、ノイズが響くたびに、麻痺の周期は長くなっていった。
 それは否応なく空に死を連想させた。死のイメージは妖怪にとって致命である。精神に存在を依拠する妖怪などは死を意識しなければ死ぬことはない。だが逆に人間のように死を意識していれば、いずれ衰弱し、死ぬことになる。なまじ純粋なだけに、そして縁という人間の傍にいただけに、空はより強く自らの死を意識してしまった。
 もしこの時、体が破壊されるようなことがあれば、それは空の死を意味した。だからこそさとりは地霊殿の被害を抑えるよう空を灼熱地獄に身を置くよういい、燐に空の話し相手となるよう命じた。それは死の意識を思わせないようにするための処置であったが、燐としても親友がともすれば死んでしまうかもしれない状況で何もしないほど薄情ではなかった。むしろ率先して空に陽気な話をした。
 だがそれでも、空の意識はノイズが訪れるたびに暗い面へと落ちていった。昨晩はついに自分が壊れる夢すら見た。死体を啄み焼き続けた地獄鴉は、それ故に自身の死のイメージからは遠い場所にあり、対処の方法を知らなかった。
 
「うそっ……それ、どこ?」
「ち、違うからね! あいつはまだ本調子じゃなくて、あそこで休憩して寝てるだけで……っ!」

 だからこそ、自分がこうなった原因ともなり、また自分を救ってくれるかもしれない可能性のある少年がきたことを聞いた時、空の胸に熱い何かが込み上げてきた。それは衝動となり、空の身体を動かした。先ほどまで暗く粘ついた死のイメージしかなかった頭が急速に回転し、燐が洩らした言葉から縁がいる場所を推測し、そこへと翼を向ける。燐の静止する瞬間もない、初速からの最高速度。制御不能の加速だった。
 それを為すのは、やはり感情だ。

「縁」

 会って話がしたかった。何を言えばいいのかわからなかったが、それでも一目会いたかった。

「縁っ」

 あんなひどい目にあっていた縁が心配だった。いつものように、強がる彼を見たかった。

「縁っ!!」

 そして何よりも、彼に触れたかった。

「………うつ……ほ……?」
「縁……?」

 はたしてそこにいたのは、空の知る中邦縁だったか。死体の焦げた油で臥せっている間に露出する肌は勿論のこと着せた服や包帯は黒く汚れ、左腕を吊るしていたホックもはずれている。髪は口元には涎の後のようなものが照かり、何よりも瞳には光がなかった。いや、違う。濁ってみえなくなっているのだ。これではもはや、縁の姿をした臆病な誰かなのではないか。そう思えてしまうほど、空が見る縁の姿を空は信じることができなかった。
 手を差し伸べてみる。がたり、という大げさな音を立てて縁の姿をした誰かは後ずさった。胸裏にあった熱が、少しずつ締め付ける様な痛みに変わっていった。同時に痛みは不快さへと変換され、空の身体を一歩前進させた。それに合わせて、縁の身体を奪った何かも虫のように下がった。

「……どうして、ここにきたの?」

 それでも頭の中か、それとも心の中は、それは縁だと信じているのか、縁に対しての問いかけをした。縁の身体をした誰かはこちらに目を合わせず、か細い声で答えた。

「……事故、みたいなもんだ」

 バカだバカだとよく言われる空でも、その言葉が嘘だというのはわかってしまった。なら、自分のために来てくれたのだろうかと言いたかった。だが今それを尋ねると、淡い希望すら簡単に否定されそうで、何よりも想いを踏みにじられると考えることが怖かった。
 身体が震える。ノイズのせいではない。もっと精神的な、身体の内側からくる場所が、寒い寒いと言っているのだ。怖くて寒いと。だからか、誰かの温もりが欲しかった。何かに触れているという実感が欲しかった。触れたものを壊してしまうという意識の枷が、その欲望をより強くしていた。
 また一歩、空は踏み出した。

「ねぇ、縁……」
「……なんだよ」
「触っても、いい?」
「っ! 来るな!!」

 突然大声で叫んだ縁に驚く間もなく、空の眼前に藍色の腕が迫る。不意をつかれた空はそれを避けることができないはずだったが、しかし空に触れる直前で、縁の第三の腕は霧散し、あとには茫然とし右腕を見下ろす縁がいた。だが直ぐに立ち尽くす空を濁る瞳で睨みつける。空は動くことができなかった。縁が自分を見る目が、あまりにも恐ろしく、哀しく、信じられなかったからだ。

「……触るな、俺に触るんじゃない、化け物っ」
「っ……どうして、そんなこと言うの?」

 その瞬間、縁の目が烈火のごとく怒りに燃え上がった。烈火の色はドス黒く、発せられた声には苛立ちとも恐怖ともつかぬ不快感が付きまとっていた。

「人を……人間をこんな風にしておける奴らが化け物じゃなくて、なんだっていうんだ」
「けど、ここにいるのは昔の悪い罪人だけで、しかも死んだ人間だけなんだよ!」
「それが何だってんだよ! 悪いことしたからって人間じゃなくなるっていうのかよ!? 人間だったら、もう少しマシな死後があったっていいじゃないか……」
「そんなの……人間の身勝手だよ! 縁だってわかるでしょ!」
「わかってたまるか、認めてたまるか、それこそお前らの理屈じゃねぇか……っ」

 声を張り上げすぎたのか、縁が喉を押さえ咳をした。ただでさえ全身打撲に近い状態だったのだ、呼吸器にも負担がないと言い切れるはずがない。たまらず、空は縁という誰かに近寄ろうとした。だが縁はそれに気がつくと、全身が悲鳴を上げるのも構わず立ち上がり、転げるように空を避け、ほら穴の入口から出ていた。
 二人の間に、灼熱地獄跡を下から照らす赤い炎の色が影を作り、それぞれを分けていた。

「わからずや、縁のわからずや! 貴方なんて縁の姿したただの人間だ!」
「お前らみたいな化け物なんかに、俺が……俺を分かられてたまるもんかっ!」

 叫ぶや否や、縁は踵を返して灼熱地獄跡へと走り出してしまった。その向かう先は最下層部かはたまた中層部、どちらにしてもただの人間が長時間いて無事でいられる場所ではない。もう知るもんか、空は心の中でそう決心しながらも、心の内側に嫌な引っ掛かりができていた。それに引っ張られるように、黒い翼は彼を追おうとする。
 その瞬間、空の頭にノイズが響きはじめた。同時にそれは空の聴覚を潰し、意識すら轟音で埋め尽くし、感覚を消し去ろうとした。飛翔しようとした体勢のまま、空は声をあげることなく前のめりに倒れ、ああそういえばあのこと言ってなかったな、とどこか場違いな言葉を心中で呟き、意識が暗転した。



 走る、走る。地獄の釜の中を走る。縁は走る。逃げるために走る。ひたすら上を目指して走る。痛み悲鳴をあげる身体を押して無理やり走り続ける。
 ここはもう嫌だ。元の世界に帰りたい。人間のいられる場所じゃない。自分のいる場所じゃない。
 両腕が重い。両足が痛い。呼吸が乱れる。咳が出る。
 それでも走り続ける。死体の山を走り続ける。死臭と焼け焦げた肉の臭いを纏わりつかせて走る。臭いから逃れるために走る。
 不意に転んだ。受け身もとれず転がった。死体の地面から突きだした手に足を引っかけたのだ。止まってはいられない。こうしている間にも、あの恐ろしい霊魂たちは縁を追ってくる。化け物が縁を食料にするために追ってくる。
 立ち上がれ、立ち上がって走り出せ。逃げるために、元の世界に帰るために。

「小僧……こんなとこで何をしている」
「ひっ」

 声がする。化け物の一匹の声。振り返らず、走る。

「連れてきたのは、大方あの変態どもか……面倒なことになった」
「っ、よ、寄るな!」

 瞬きの後には、白い鳥の化け物は縁の目の前で浮いていた。縁は右腕を振りかぶって、殴りかかった。足も震え、構えもなっていない、子どもの殴り方だった。だが次の瞬間には縁の体は宙で一回転し、死体の地面に叩きつけられていた。何が起きたか、縁にはわからなかった。

「……面倒を増やすな、ガキが」

 鳥の化け物から放たれた眼光が、すぐさま逃げ出そうと死体の中でもがいていた縁の動きを止めた。縁の下半部から、熱いものが流れ出て、寝間着を汚した。

「地獄ミミズ狩りの帰りにこれとは……何があったかは知らんが、惨めになったものだな」
「た、頼む……喰わないで、くれ」
「今の貴様を食おうとするものなど、幻想郷にはいない」

 びくびくと縁の体が震える。鳥の化け物はその様を鼻で笑うが、不意に何かを思い出したように目を細め、蓋のされた空を仰いだ。逃げ出すなら今しかない、と縁の破錠した理性が叫ぶが、体が動こうとしてくれなかった。
 そうこうしている内に、化け物は眼元を最悪な笑みに歪めると、嫌みな声を響かせ悪魔の提案を持ち掛けた。

「そうだな……貴様は外の世界に帰りたいか?」
「っ! か、帰してくれるのか?」
「ああ、そうだな……ある場所を通りぬけられたらな」

 縁は確認のための問いを肯定で返された瞬間から、化け物の細い足に縋りついていた。

「な、何でもするっ何でもするから俺を帰してくれ! お願いだっ!!」
「……ふんっ」

 縁を蔑む目で一瞥し、化け物は白く輝く翼を広げた。直後、縁の体はここではないどこかへと飛び、倒れた。赤河童につけられた傷から血が滲む。それでも顔を上げ、目を上げられたのは、縁に残された何かの最後の一片のおかげか。
 開いた眼が捉えたのは濃霧の中に広がる巨大なほら穴だ。いつかの迷宮のように鍾乳洞なのか、形が不規則であった。周囲は霧が濃すぎて見えず、だが何故か天上から光が差していた。もしや地上に出たのか、そう信じかけた縁が上を見上げる暇なく、化け物に手を引きずられ、鍾乳洞の入口へと放り込まれた。

「この先を歩いていけ、上手く進むことができれば一週間ほどで抜けられるはずだ」
「ちょ、ちょっと待てよ! 水や食料は……」
「知るか、現地生物でも食え。お前が入ったらこちら側の穴は閉じるから、死にたくなければひたすら歩け」
「そんな……」
「何でもするといったのは貴様の方だ、せいぜいあがけ」

 首だけで鍾乳洞の奥へと進むように催促してくる化け物。噛みつくだけの気力も、抵抗する気もない、縁は俯いて洞窟の奥を向いた。何も見えない、霧のせいだけではないだろう。本当の黄泉の入口とはこういうものではないのか、と縁は先行きが不安になる感想を抱いた。もう一度後ろを振り向く。怪物は、フレッチャーといった鳥の化け物は縁をいつもの鋭い眼光で見ている。
 逃げることはできない。ここがどこかもわからないのに、逃げられるはずがない。
 走るのではなく、歩きだす。足場が不安定だからだ。いつの間にか死体の山ではなく、まともな固い岩の上にいたことに気づくと、妙な安心感が芽生えた。それも少し歩き、入口に光がなくなったころ、すぐに消えうせた。
 轟音が背中を叩いた。慌てて振り返れば、入口が上から降り注ぐ岩石によって封じられようとしていた。本当にするとは、信じられなかった。慌てて外への道へと走る。だが暗くなったせいか足もとが覚束ず、再び転んだ。
 そして起き上がる時には、縁は完全な闇の中に取り残されていた。





「面倒見のいいことね、偉大なるカモメの継承者さん」

 縁を鍾乳洞へと封じたフレッチャーに声をかけたのは、スキマを操る妖怪であった。地底の鬼との盟約などあってないようなものか、と彼女がここにいる理由を正確に推理し、鼻を鳴らした。

「でもどうして彼を試すようなことをしたの? 今の彼はそこまでしてやるような器じゃないでしょう?」
「……だから貴様は、妖怪の賢者でしかないのだ」
「あら、言ってくれるわね」

 八雲紫はころころと笑う。こうまで賢者と称される彼女をコケにできるのは極僅かで、その少数の中にいるのが、このカモメであったからだ。

「でも貴方は面倒は嫌いじゃなかったかしら?」
「その通りだ。オレは面倒が嫌いだ……ただ」

 フレッチャーはまた空を見上げた。もはやそこに霧はなく、見上げた天空には、二つにぶれる恒星が輝き、朽ち果てたオービタル・リングがこの忘れられた星を守るように囲っていた。そして大地と空の挟間には、鳥と呼ばれていた生物たちが自由気ままに翼を広げていた。

「偉大なるカモメの意思に従うならば、話は別だ」
「あら、またその話? それならその意思様はなんとおっしゃって?」
「……そんなもの、一つしかない」

 自由という無限の思想たれ、だ





 あとがき

読者<作者……(展開と更新速度に関して)事情を説明してもらおうか……
作者<いま少し気力とEN出力をいただければ……
読者<弁解は罪悪と知りたまえ!

 とりあえず深くあとがきは書きません。ただ一言。
 その(漢な縁の)幻想をブチ壊す!



[7713] 第十九話――粗製<それが小説だって! じゃあ俺はいったい何だ!? 
Name: へたれっぽいG◆eaa9c481 ID:f33d8d16
Date: 2011/03/15 18:59
 どれだけ闇の中を歩いたか。
 縁は涙すら知覚できず、ただ脳に歩くという行為を命令していた。それでも、完全の闇の中で、己は本当に歩いているのだろうかという疑問が浮かぶ。その度に見えない足先に意識を集中し、地面の感じ取る。それだけが今の縁が世界を感じ取る唯一の術だ。もし光を照らせば、今の自分は下を向いて歩いているのだと容易に想像できる。

 ちくしょう、ちくしょう、嵌められた。

 焦りと怒り、そして恐れをそのままに、何度も声に出しているはずの言葉は闇の中で反響し、果たして自分の声から出たものかすらわからない。もしかしたら、最初に岩を崩され一人にされた時に吐きだした大声が今でもこの常闇の中で燻っているだけなのかもしれない。それも違い、実は姿を見せない怪物が発しているのかもしれない。
 がちがちと歯が鳴る。恐怖でか、それとも寒さでか。鳴る音もまた、すぐにかたかた、という骨が直にぶつかる音に変わり、子どもの頃に見たホラー映画の中のガイコツを思い出させた。その子ども染みた想像ですら、今の縁に渦巻く底知れぬ孤独と恐怖を倍化させる。

 ちきしょう、出せ、出してくれ。

 余計に縁は声を張り上げるが、反響の頻度があがるだけだ。いっそのこと走りたいとも思ったが、しかし足が震えて、歩くしかできそうになかった。
 今の縁の顔をもし見ることができるならば、そこには憤怒を形相を真似ようとし眼尻に涙を溜めた少年を見ることができたろう。もしも縁の目がこの常闇の中でも利き、手頃な石があれば、八つ当たりをするのは簡単に想像できるほどだ。

 俺が悪かったのか。違う。そんなはずがない。あいつらが悪いんだ、人間を、死んだ人間をあんな風に扱うあいつらが悪いんだ。勝手に連れてきたあいつが悪いんだ。俺は悪くないんだ。

 その衝動が消えないからこそ、言葉を張り上げようとする。両手というものが顔だと思われる場所を触り、しかしそこに機械と生体の差が感じられなかった。足は止まらない。手が、引切り無しに知覚できぬ頭部に触ろうと努力する。しかし出来ない。まるでゴムで出来た造形品でも触るようだ。故に、己を感じることができない。

 あそこじゃ俺は一人だ。いつかあいつらに食われて殺されちまう。だから出せ、ここから出せ。早く、早く。そしてあの世界へ、俺の、人間の世界に帰してくれ。

 恐れには様々な種類がある。未知へのもの、上位者へのもの、自らの地位を脅かすへのもの、命へのもの、錯覚へのもの、死へのもの、変化へのもの。数え上げればあげるほど、九十億の神の名を唱えるが如く果てがない。縁は今自分が味わっている恐怖の名を言語化することもできない。できないからこそ、リビドーは対象を心象より見つけて、強引に言葉に変えてぶつけようとする。
 
 ここじゃあ、暗すぎる。何も見えない。どっちにいったらいいんだよ、どこにいったらいいんだよ。俺は、どこに。

 言葉が途中で途切れる。足と思わしき箇所が何かに引っかかると感じた時に、途端に前に倒れるという現象が縁の意志きに関わらず起きたからだ。上下の世界が未だ存在していることに縁が喜ぶ間もなく、デコボコとしたものに前面がぶつかる。何が起きたか、と該当する事象を脳内で検索すれば、地面に倒れたというのがもっとも適切だった。

 痛い。

 短く、言葉にしてから、縁はぶつかったさいに小石で傷つき怪我をした頬を撫で、気づくことができた。痛みがある場所がすべからく認識できるのだ。触っていると感じ取れるのだ。
 そう判った瞬間、縁はここにはいない誰かや場所への怒りなど忘れて、喜び勇んだ。喜色に染まった身体をそのまま起き上がらせ、今度は後ろへと倒れこむ。ごちん、と後頭部が盛大にぶつかり、一瞬、目に閃光が瞬く。
 それが出来たと思った途端、縁がようやく知覚できた目からどっと涙が溢れた。

 痛い……痛いって思うのが、「ほんなにふれしいはんてほもったことふぁかった」

 言葉の途中から頬を抓りながら喋ると、それは耳にしっかり届いた。いや、そもそも声はどこにもいってなかったのだと理解した。骨に声という振動は最初から伝わって鼓膜に届いていたのだ。それが今まで半狂乱になっていて、わからなかっただけだ。身体を仰向けにしたまま、胸を左手で掻き毟る。

「この声も、この痛みも、全部、俺のもんだ……」 忘れて、やるもんか。

 声の途中からまた声を認識できなくなり、今度は右手で頬を抓る。適度な痛さでは肉体を感じられないから、肉を引きちぎらないように、できるだけ力を込めて。込めるという意識を持って、右手を操る。いてて、と鼓膜を震わせた己の悲鳴を嬉しく思いながら、不意に空の顔が思い浮かんだ。
 いつだったか、こうして空の頬を摘み、思いっきり引っ張ったことがある。左手にあった感触は、柔らかかったな、というのが、ありありと思い出せた。そこまで考えて、何を自分は考えているのだと自責した。化け物の一匹のことなど考えても今は意味がないと。しかし、別の化け物の一匹のせいでこうなり、またその霊烏路空という化け物は人間の死体を貪っていたのだという想像がすぐ様呼び起こされ、憎悪にも似た怒りが沸く。
 
 ここから出たら、あいつらを殺してやる。
 
 反響を繰り返す、自身のものとも認識できない叫びを繰り返していただけの憎悪という力を、その言葉を締めくくりに、体を動かす力に変える。徐々に痛みが引いていく身体を何度も抓りながら自己認識して立ち上がり、再び闇の中を歩きだす。方向などわからないが、それでも真直ぐ進んでいたはずなので、いつかはどこかにぶつかるはずだ。その希望的観測を元にただ進もうとし、どこかからか声以外の音が鳴って、急に力が抜けた。
 音の元は、縁の腹からだった。警戒と共に丸々十分を止まって音の発生源を突き止めることに費やした縁は、正体がわかるや否や脱力し、かすかに笑った。声を出して笑いそうになった。
 縁の身体はこの時既に、最後に水を飲んでから五時間以上が経っていた。それがどのような意味を持つのかを思い知ったのは、それからすぐだった。いや、今の縁にとっては、時間が経つという概念は極めて希薄だった。だからそれは、腹が鳴ってすぐに起きたこと、食欲からの要請が肉体の本来の運動を取り戻した直後であったかもしれない。
 最初は笑って陽気であった。だがすぐに気分が沈澱し、喚く元気までが消え失せていく。その状態が少し続くと、急に足が重くなった。それによって感覚が一瞬沸き上がって喜びかけたが、すぐに前のめりに倒れ、おかしいなと思った。同時に喉が無性に渇き、今更あれだけ喚いていたのに唾が出なくなっていることに気づいた。喉を掻きむしりたくなる。次いで、脚を動かす、いや身体から動くという機能が徐々に失せていった。三日間のエネルギー無補給は、少年という大量のカロリーを消費する傾向のあるものにおいて、死に直結しかねない状態を起こしていたのだ。強い精神的ストレスを現在進行形で受けていることもまた、それに拍車をかけ、より死を受け入れやすくしてしまっていた。
 
 どうして、だ……くそ……うご、か……

 歪んだ憎悪による空元気すら出せなくなった縁に、眠気が急速に襲いかかってくる。闇の中で深淵へと潜る。それがどれほど危険であるか、縁は今更出てきた動物的本能に教えられた。つまり、眠れば死ぬ。
 死。幻想郷に来てから、何度それに直面してきたか。何気ない時から、己の意地を張って立ち向かう時、仲間と協力して打倒した時。しかし今の縁には、意地も、元気も、勇気も、友もいない。ただ、縁があるだけだ。果たしてそれだけで死というものに立ち向かえるか。
 できない。
 諦めの吐息が漏れた時、縁の意識は精神の闇の中に引きずり込まれていった。
 その時、右腕の中が、ぼう、と光ったことを知ることができたのは、縁が見えなかった、ここの住人たちだけだった。


 第十九話『流離人』



 酒の熱さが伝わってこない。
 それは、いつもなら熱燗で頂くはずの名酒『古王』を趣味ではない揺り籠割りという手法で飲んだためというわけでは決してなかった。雰囲気と共に頂く作法が、逆に今の作業場休憩所のものでは逆効果となっている。
 そしてこの三日間、地上の天気とはまた別の理によって変わる地底の天候の悪化と同様、星熊勇儀もまた晴れなかった。原因は言うまでもなく赤河童、河城みとりと人間、中邦縁が起こしたこと、自分がそうなるよう仕向けたはずの事件だった。
 何もかも上手くいく、いくはずだった。みとりへの来客が日頃よりごく少数であること、彼女に対しての周囲の扱いが腫れもの扱いであることも知っていた。
 故にみとりの家の付近で彼女が弾幕ごっこをしようと元々の妖怪の気質があろうと、その他大勢は不干渉を貫くはずだろう。そして縁の側にしても、もっとも勘のいい一人と、如何にも彼の助太刀をしそうな連中を一気に相手取ることで問題はなくしたはずだ。
 だが結果は、別の方向から現れた縁に対して用がある妖怪がきて、しかも最悪の形で巻き込まれてしまったというものだ。それは二重の意味で勇儀のずさんな計画を破錠させる要素を持つ。その中で何よりも意味を持つのが、縁がみとりに対してとる立場だ。
 最初の計画通りならば、縁だけがみとりと対峙し、敗北し、そしてあの半人半妖のことだから人間を殺そうとするはずだった。縁ではまだ、あの道理すら殴り飛ばす少年でもまだ、迫害された故に並を遙かに超える力を持つみとり相手には勝てないと十一との模擬戦闘をたびたび見ていた故の考えだった。
 それをさせないために時間稼ぎのフリをして、タイミングを見計らってこいしたちを逃す。だが、救援が訪れるまでに縁はみとりから妖怪という存在からトラウマに残りかねない死の恐怖を刻まれることだろう。そこから縁が如何に行動するかがキモだったのだ。
 それが、空の登場によってどうにも言い難い状態へとなってしまった。

「……ちぇ」

 右の頬を撫でる。事の顛末を十一から聞き代わりに黒幕が自分であることを教えた際、殴られた箇所だ。十一曰く、まだ足りないがそれはあいつがやる分だ、と言っていたが、そんなのわかっているよ、とは勇儀はいえなかった。立場はどうあれ、鬼にあるまじき卑劣な策謀を企てていたのは間違いなく、その相手が親友の息子の親友であるのだから、義と勇を重んじる勇儀はそれを受けなければならなかった。そういうこともわかっているからこそ、喉を通る酒も不味くなるのだ。
 ともかく、結果として縁の寿命は延びた。だが代わりに霊烏路空のものは残り十日となってしまった。みとりがいかなる力でそうしたかはわからないが、しかし地獄鴉が相方の火車と共に無口な医者を訪れた際にみたものを考えれば、なるほど確かにこれなら妖怪を内側から殺すことも可能だろ納得した。内側というのは、精神的な面も含まれる。触れるだけでものを破壊する制御不能の力など鬼にとっても遠ざけたいものだ。良心の呵責の概念が妖怪には総じて少ないとはいえ、その良心を向ける対象ごと破壊されては意味がない。
 心という器は、一度ヒビが入れば容易く壊れるものだ。ましてや妖怪など、風船のようなものだろう。
 それは別として、問題は、縁がみとり、いや妖怪に心に恐怖を刻みつけられそれでどうするかを測る、つまりは試し、人間と人外との区別をしっかりと持たせようという企てだったが、これでは縁は立ち上がらざるを得なくなってしまうのだ。こいしの時の動機を聞けば、そうなるとしか思えない。
 結局、勇儀やパルスィが望む『縁の無防備さ』がわからぬまま、縁はまた立ち上がってしまうのだろう。他者のために己の命を平然と投げ出すエゴを中邦縁は持ち合わせているせいだ。
 だがもしかしたら、と勇儀はふと思う。永年の友人であるパルスィが指摘したあの無防備さこそが、彼が外の人間であり、始原の恐怖をまだ自覚していないだけなのではないか。可能性は低いが、それにぶつかり動けないなんてこともあるんじゃないか。
 そこまで考えて、勇儀は自らの思案に自嘲し、味のしない酒を呑みこむ。都合が悪い方向に向き過ぎているし、そうなって一切動かなくなってしまえば勇儀としてはそれこそ殺したくなってしまうのだ。失望の意をこめて。

「……それはあまりに身勝手ではないですか、勇儀さん」
「……遅かったじゃないか」

 突然かけられた苦言に、勇儀は自嘲から不敵の形に変えた笑みで返した。その笑みと心を真っ向から見据えて、古明地さとりは西区復興現場休憩所へと上がりこむ。その後ろからついてきているこいしもまたそのまま座に上がるかと思ったが、そのままふわりと浮かび、勇儀の真正面へとつく。開け放たれた二つの目と閉じた瞳が胡坐をかく勇儀を冷たく、いや濁り切った光でもって見下ろしている。

「縁ちゃんの看病してたからね、ずっとお酒飲んでるあなたとは違うの……それで、お姉ちゃん、やっぱりこの鬼が縁ちゃんにあんなことをした黒幕なの?」

 口から溢れた声もまた、淡々とし、かつ冷え冷えとする感情が詰め込まれた矛盾したものだ。まさしく怨霊の住まう灼熱地獄の主の一人に相応しいといえる貫禄だろう。
 一瞬にして心と体を休めるはずの場所が剣呑とした空気で満たされるが、場慣れた勇儀は口笛を吹いて余裕の態度を崩さず、しかし内心で心を読めるさとりは別とし、どうしてこいしが勇儀が事の仕掛け人であるかを見抜いたのかと疑問を持ち推論のいくつかを立てた。その勇儀の思惟向けて、さとりの目がぎょろりと向く。

「『なぜこいしが貴女の事情を知ってるか』、それは単純な話です、この子のペットたちの能力をご存じなら自ずとわかるはずですよ?」
「……ああ、なるほど、あの変態どもね。それにしてもあんたの能力は相変わらず薄気味悪いねぇ」
「……よく言われます」

 いつもの無表情ともとれなくない顔に多少のヒビを入れたさとりと、変わらず見下ろすこいしに対して飲むかい、と酒を勧めて、脳裏でさとりが言ったヒントから確定に近い仮説を作り上げた。
 こいしのペットであるあの三匹は旧都ではそれなりに有名だ。主に女性の間のブラックリスト上位として。彼らに下着を盗まれたり湯浴みを覗かれたものはまずいない、そして仕打ちを受けるのも儀式のようなものだ。とりあえずダメな意味で名が通っているので、その手法、能力を使った犯行もまた知れ渡っている。勇儀も名前は聞いたことがあるが、実際に対峙したのは先日の件が初めてであったので件の妖怪たちと判別するのに時間がかかった。
 そして、彼らが悪名を轟かせているのは女性の間のみで、男性にはむしろ好印象だ。理由は言うまでもない、人間だろうと妖怪だろうと男という生き物はそういう話題が強いものは同性に尊敬されるのだ。そしてそれは人脈にも繋がり、また彼ら自身の能力での諜報も可能。恐らくは、それから今回のことを探りだしたのであろう。
 存在理由と趣味と生き様とは違い、優秀なこった。そう締めくくって勇儀は意識を酒を拒否した二人に戻した。そうされることを勇儀も予想済みで、つれないねぇと四日前と同じ調子で軽く笑った。

「………古明地の妹、確かに私が今回の件の黒幕だよ」
「そう、なら」
「やめなさいこいし。今回は争いに来たわけじゃないのよ」
「……わかってるよ、そんなこと」

 こいしが出し掛けていたスペルカードを袖の中へと仕舞い、すとんと降りて座りこんでそっぽを向いた。瞳に映る光も濁りが薄まっている。これがもし、中邦縁と出会う前であったなら、数十秒後にはこの仮設の憩い場は吹き飛んでいたかもしれない。
 良い傾向だと素直な感想が口から零れそうになったが、それを抑えて話しを進めるために口を動かす。

「さて、とにかくあんた達が知りたいことはもうわかったと思うよ? 少なくとも、さとり、あんたは心が読めるからもう理解してるだろ?」
「……そうですね、確かに今あなたが考えていたことは全て読ませていただきました。だからこそ、言わせてください……どうしてそんなに焦っているのですか?」

 焦る、この私が。一瞬、勇儀は何を言われたかわからなかった。だがしばらくしてようやく言葉を呑みこむと、さっと怒りが喉元までせり上がってきた。それを見越した上で、さとりは言葉を連ねてくる。

「西区復興が間もなく終わるこのタイミング、しかも明らかに問題が発生するとわかっていての行動。河城みとりという方は……まだよくわかりませんが、とにかく中邦さんと同じ人間が嫌いという人に彼をぶつける……まるで即席で作り上げたような穴だらけの計画……急かされてるとしか思えません」
「……そうかい」

 酒を入れ直す。盃に酒が落ちる音は心を落ち着かせる。余裕を音で取り戻して、口に少量運ぶ。喉を酒が焼くと共に乱された思考が平静へと戻っていく。同時にそれは、さとりの言った言葉を受け入れさせる土台にもなってくれた。
 焦る。成程、そうかもしれない。兆候もあった、機会もあった。だがしかし、何もこんな荒治療のような手段を取る必要はどこにもなかった。みとりの元へ向かわせる口実もまた他にもあった。そもそも人と人外の絶対的な壁の存在を認識させるのに、半人半妖/中途半端なものとぶつけ合わせることはナンセンスだ。
 しかし、それは全て承知の上で行ったはず。みとりにぶつけさせたのもまた、あの全てを閉めだした少女の心を、目の前でむくれる覚り妖怪の片割れの時のようにこじ開けてくれるかもと期待したからだ。だがそれも、焦るという気持ちの原因とはならない。それはもっと根本的な場所に問題があるはずだ。
 いや、違う。そもそもその答えを、自分はいつもぽろりと零してやいないか。

「……なぁ古明地の。あんたはあいつがいつまで幻想郷にいると思う?」
「藪から棒に……『すぐにいなくなるかもしれない』と考えている鬼に応える義務はありません」
「可愛げがないねぇ、よくもまぁあの坊主はあんたと一緒にいられるよ」
「……わたしがちゃんと聞いてないからって、縁ちゃんの悪口は言わないでよ」
「そいつは悪いね……じゃあ妹の方、あんたはあいつがいつまでいると思う?」
「…………できれば、ずっといてもらいたいよ」

 こいしが畳の上で、ぎゅっと拳を作った。紡がれた言葉は願望で希望だ。予想ではない。つまりは、その答えをいつも縁にくっついている少女は持っているということだ。妹の心の声だけは聞けないさとりもまた、そちらに耳を向け、次の言葉を待つ。だが同時に心中では、答えが何であるかわかるぞ、と叫ぶ別の自分がざらりと身内を撫でていた。

「けど、縁ちゃんはきっと、地上にいって、外の世界に帰って、二度とこっちに来ないと思う。だって……わたしの大好きなあの人は、幻想郷に染まりきっていないんだもん……これからも、ずっとそうだと思う」
「……正直に言うと、私も同意見だね」

 惚気にも聞こえる、しかし同時に諦めの吐息すら混じったこいしの言に対して、勇儀は胸中で鬼の誓いにかけて答えた。中邦縁の持つ雰囲気は独特だ。彼の性質を知るものは、そのバカなほどの愚直さと人間らしい頭の回転、そして男といより幼い少年として無謀さを兼ね備えたそれを見るたび、古に消えた英雄に近い、言わば幻想郷よりの人間であると思うだろう。放逐された、はたまた一癖あるものたちが集った地底もまた幻想郷の一つであるので、そこで受け入れられるのも道理だ。
 だが、彼の行動理念はそことはまったく別の場所にある。それこそ勇儀や古明地姉妹の知らない、外の世界のものと言えるものだ。あの無機質の右腕がそれをより強く意識させるのか、それとも彼自身に深く関わると自然と見えてくるのかは不明であるが、それでも彼の眼差しが“ここではないどこか”を見ているのはわかってしまう。
 勇儀もまた、十一との模擬弾幕ごっこが終わって休んでいる縁が、不意に天井の大穴を遠い目で見上げているのを何度か見ていた。
 そう、だからこそわかってしまうのだ。

「あの坊主はきっと近いうちにここからいなくなる……例えどんな形であろうとね。西区の復興はあいつの身勝手な負い目であり、ここに留まる理由でもあるのさ。少なくとも、それが完全に終わるまであいつはここにいる」
「『だから、中邦さんがここにいるうちに出来るお節介はやってしまおう』……あの人にはいい迷惑ですね」
「若いうちに苦労を乗り越えてりゃ後々役に立つだろうよ。もっとも、あいつはそういうのを何度も経験してるだろうがね」
「……そんなの、聞いてみないとわからないよ」
「何だい、拗ねてんのかいこいし?」
「そういうわけじゃあ……っ!」

 無意識とは獣的な察知能力をも妖怪の中に呼び覚ますのか、こいしはばっと休憩所の入口へと顔を向けた。さとりもまた、第三の目がそちらを向き、元々そちらを向いている勇儀はようやくお出ましか、と酒を呷って向かい入れた。

「遅かったな……言葉は不要かい?」
「こんなところでやり合うほどわたしは派手好きじゃないよ……やってくれたね、星熊さん」

 威嚇するように出入り口で仁王立ちをする河城みとりは、勇儀だけを見据えて言い放った。溢れだす妖気はいつでも臨戦態勢に移行できるほど濃密なものであり、先ほどとはまた別種の緊張が満ちる。

「十一はどうしたんだい? あいつのことだからあんたに噛みつきに行ったと思ったんだけど」
「近場の池に水没させといたさ。噛ませ犬にしちゃ、よくやったよ」

 そういったみとりの白い毛のアクセサリは常よりも目に見えるほど体積を減らしていた。恐らくスペル発動や杖として顕現させる分の毛を幾つか消耗させたせいだろう。更に目を凝らせば、服のあちこちに切りつけられた跡が残り、一部には既に傷は塞がっているとはいえ身体にまで達したものもある。
 若輩者で半妖ながら上位妖怪級の力を持つみとり相手によくやったものだ、と勇儀はどこかの池で水没している若人に素直な称賛を口中で送ると、がたりと勢いをつけてこいしが立ち上がり、みとりを睨みつけた。無理もない、と心中思うが、窘める。

「やめてくれ、妹の方。ここじゃあ狭すぎる」
「なら、他の場所に移動すればいいよね?」
「応じる気はないし、長居もする気はないから弾幕ごっこは却下。それに、あなた達には聞きたいことがあるだけだしね」

 初めから戦う気などなかったかのように一人勝手に殺気を霧散させたみとりが、今度は勇儀だけでなく三人に目を配る。今にも飛びかかるか弾幕でも放ちそうなこいしをさとりは片手をとって抑えつけようとしつつ、覚りの目はみとりを見据える。だがそれでも、さとりはみとりが言葉を言うのを眉を顰めて待った。

「……あのクソ人間の能力は何?」
「……へぇ」
「何、その顔は?」
「いや、お前の口からそんなことを聞くなんて思わなかったからね。てっきりあの右腕のことだけかと……」

 動きを止め、複雑な表情を浮かべるこいしを余所に、勇儀は心底驚嘆したような声音を出し、みとりは気味悪げにそれを睨んだ。だがすぐにみとりはさっさと余計なことは聞かず答えろと視線で返答を催促する。それに対し、勇儀は意地悪げに口元を歪め、両手を広げて肩を竦めた。

「残念ながら、私は知らないね。せいぜいわかるのは、あの右腕を起点にしてるぐらいだよ」
「ふん、そう……なら、そこの貴女は?」

 問われたのはこいしだ。恐らく、あの場に駆け付けた際にいた顔だったからであろう。事実みとりは、必死な形相で人間を介抱しに向かったこの小柄な少女の妖怪の姿を、憎々しげに思い、覚えていた。こいしは握り拳を作って、何も答えない。
 それに関してこいしは、知りたいと思う気持ちと知りたくないと思う気持ちが半々になっていたからだ。知りたいと思うのは、傍にいてほしい人のことをもっと知りたいという異性へのごく自然な欲求から。知りたくないと思うのは、それを知れば縁は自身の力を知り、より速く地上へと、外の世界へと行ってしまう可能性があるからだ。その二つの反発は、縁に抱きついている時だけ忘れられていた。
 それを今、縁を害した妖怪に掘り起こされ、何も答えられないことに愕然とし、悔しかったのだ。
 知らないのだろうな、とそんなこいしの様子を観察したみとりはすぐに隣りの妖怪/さとりへと目で問いかける。さとりは地底/旧都ではみとりと同じような意味で有名人だ。だからこそ、問いかける言葉は声に発する必要がないことをみとりは知っていた。

「……『能力を発動していた家になぜ入られたのか、原因を知りたい』……意外とマメなんですね」
「っ!? ……なるほど。妖怪覚が嫌われる理由、何となくわかったよ……確かに気分が悪いね」

 だからこそ、みとりが言うつもりがなかった問いの理由を心の内から盗みとられたことに心底驚き、同時にいつかの赤河童がされたように蔑みと忌避の感情をブレンドさせた視線をさとりに送った。無感情な表情を作ったままそれを受け止め、どうなのですか、とさとりは問いの言葉を重ねる。勇儀はもとよりこいしもまた、心中の葛藤はともかく、無言でみとりの返答を待った。
 三対の視線の色が先ほどまでとはまた違うものに変わったことで居心地の悪さを感じたみとりは、ちっ、と舌打ちを一つ打つと、さとりを一度睨んでから口を開いた。

「わたしの能力が『あらゆるものを禁止する程度の能力』てのは知ってるよね?」
「まぁ、ね」

 この時、勇儀がわずかに顔を顰め、酒を不味そうに飲んだのに気づいたものはさとりだけであった。

「わたしはその能力をいつも家に使ってるわ……誰かが勝手に入ってくれないようにね」
「……ねぇ、もしかしてそれって、あの虎が正面衝突した透明な壁のこと?」

 こいしが思い出したのは、最初の接敵の時に十一がぶつかった不可視の壁のことだ。みとりはそのことを若干の間をおいて思い出し、ああ、と肯定し、比較的関係が深い勇儀が代わりにと言葉を引き継いだ。

「こいつが通行止めと決めた時に出てくる壁さ。あれはヘタな力じゃ壊れないし、無くせもしない」
「……それなのに、あの人間は入ってきた」

 苦々しげに呟くみとりを、さとりは第三の目で持って見続けながら、しかし脳裏で思惟を続けた。それは勇儀とこいしも同じであった。むしろ勇儀こそ、みとりが地底にきたさいに一番世話をしてやったからこそ、その能力の厄介さを理解していた。
『あらゆるものを禁止する程度の能力』の名は伊達ではなく、一度使われれば鬼の怪力でも突破することは容易ではない。それこそより万能なものか、別の方面に特化した上で相性の良い能力でなければ、通行止めの壁を正面から通ることはできないだろう。しかも家というもっとも強固なプライベート・エリアにいれば、回りこむなどといった小細工も意味がない。
 だからこそその不可解さは勇儀もみとりも膨らませた。しかし勇儀だけは同時に、一人のときとは打って変わって、面白くなってきた、と心底楽しめる気持ちが奥底から徐々に沸き上がってきた。嫌な予想や推測だけがらしくなく身内を満たしていたのが、予想外なことで予想外のことが起きてくれたからだ。縁らしい、と言えばそれで片付くはずだったが、それでこそ試した価値がある、と意気込めた。
 酒を呷ると、先ほどよりも美味いと思えた。

「もしかして、それは……あなたが招き入れたのかもしれませんよ」
「……どういう意味?」

 唐突に呟いた、それこそたまたま零れてしまっただけかもしれない言葉の意味を、みとりは冷める様な視線で尋ねた。勇儀とこいしも釣られてさとりを見るが、さとりはみとりのようには動じず、一人眼を瞑り脳裏で第三の目が拾い集めた心の内側の情報を整理する。

「……あなたの心のにはまだ………えっ?」

 そうして得た情報から導き出された仮説を口にしようとした時、第三の目がここに近づく一つの心を捉え、見開いた。それは顔にも表れ、さとりは一瞬にして驚愕の色に染まる。その変化に気づいたのはこの場にいた全員が同時であり、そしてさとりが立ち上がるのと共に、新たな客が休憩所に現れた。それは人間の知らない四足獣だ、大きさは成長した猫ほどだが、顔立ちはいっそトカゲに似ている。ここまで急いてきたのか吐き出される息の声はこれまたトカゲに近い。しかしそれに比して、尻尾は一本の途中から三股に分かれていた。
 その地霊殿のペットは、すぐさま目で、心で主に事を伝えた。その主人もまた、何が起きてしまったのかを、茫然自失とした顔で、声に出していた。

「中邦さんが……いなくなった……?」

 耳に届き、理解した瞬間、勇儀は己の計画が失敗に終わったということに対するものとは別の失望が胸に去来した。



 さとり達が縁失踪の報を知る数時間ほど前、火焔猫燐は空が一直線に向かった、縁がいたであろう横穴の前で立ちすくんでいた。彼女の前には発作で倒れたのだろう空が転がっている。だが、親友が会ったはずの人間がどこにもいない。壁などに真新しい削りがあることから、何か諍いが起きたのは確実だ。
 それが何かを思った途端、取り返しのつかないことが起きてしまったのではないか、という確信にも似た予感が燐の胸中に沸き上がった。それに押されるように、空に触らぬように彼女を呼び起こす。

「おくう、大丈夫……起きなさいよ、ほら」
「……ん、あ……おり、ん……?」

 鬱屈に顔をあげた空の顔には涙の跡が残り、その上についた焼けた砂がぱらぱらと落ちた。触れたらいけない、と燐は自然と伸ばし掛けた手を自制し、震える声を隠すよう、ゆっくりと問いをかけることにした。

「どうしたのよこんなところで寝て、中邦のやつに何か言われたんなら、あたいがあいつを殴ってくるよ?」
「…………え、えーと……だ、誰、それ? 中邦、なんて人、知らないよ?」

 発作の昏睡状態から復帰し、燐が空へ事の次第を問い詰めた時の返答だ。一瞬、燐は我が耳を疑い、息を呑んだ。だがすぐさま我を取り戻すと、たまらず空の両肩を掴み揺さぶった。起きた直後にまた発作があるかもしれないという可能性すら考えの外に置いてしまうほどに、燐の胸中は一瞬にして焦燥にも似た思いに駆られていた。

「ちょ、ちょっとどうしたのよ! まさかとうとう頭の中身が振動に負けてパーンしたっていうの! むしろ元々のバカが酷くなった!? そうじゃなきゃ、いくらおくうでもあいつのことを忘れるはずが、いやもしかしてあいつが何かしたの!? やっぱり鳥頭が……」
「っ……もう、やめてっっ!!」

 身内にある感情を何とか整理しようとする心根を消費しようとするがために、空への悪口や縁への疑いを揺さぶりながら次々と連ねるが、しかし、一際強く空が燐を押して身体から引きはがして、洞穴の奥に燐の視線から逃れるように向けた。二人の間にはマグマの中で沸き立つ気泡が弾ける音だけが響き、燐は未だ空の言葉が信じられず、呆けたように空の背中を見つめていた。だが、その体を見ていて気付く。震えているのだ、腕が、肩が、翼が。

「私さ……お燐が言う様にバカだから……縁なんて人間のこと、あの音と一緒に忘れちゃったよ……忘れたほうが、いいもん」

 嘘だ。燐はそう喚きたかった。もし本当に空が誰かを忘れたならば、もっとどうでもよいと呑気にしているはずだ。今の状況だったならば、すぐにでもあの最下層部に戻って鬱屈とした空中浮遊に戻るはずだ。永い時を一緒にいる燐だからこそ、空のそうしなった時の行動がすぐに想像がついた。
 だから違うと断言できた。空は中邦縁のことなど忘れていない、忘れられるはずがない。霊烏路空はバカで鳥頭なのだ、だからこそしっかりと覚えた大切なことは決して忘れないのだ。渡り鳥が己の住処を忘れぬように、渡来地を忘れぬように。加えて、燐が一度も中邦縁のことを“縁”と呼んでいないのに、縁といってしまったことがその証拠だ。
 間抜けなところを見せて尚忘れたと言い張るのは、忘れてしまいたいと念じているからだ。そう思いこみたいと願うほどに、空と縁の間に起きた何かは、空にショックを与えてしまったのだ。そのことに気づいたとき、縁を八つ裂きにしてやりたい、親友にこんな辛い思いをさせた人間を酷い目に合わせてやりたい、と燐は心の底から思った。
 空が背を向けているのを確認してから、すぐに燐は怨霊を操れるだけ操り、中邦縁が灼熱地獄のどこかにいないかと探させた。飛ぶことができない以上、縁はまだ灼熱地獄にいるはずだ。慣れぬということもあるし、ただの人間が進むにはここは些か険しい。必ずどこかで息をついているはずだ。怨霊を介して、仲のよい妖精たちにも同じことを頼む。頭の緩い妖精でも、灼熱地獄跡では珍しい生きた人間ならきっと見つけられるはずだ。

「……わかったよ、あたいが、その、悪かったから。だからほら、折角ここにきたんだし、何か飲まない! 最近全然飲み食いしてなかったから丁度いいじゃない!」

 一方で燐は親友を一人残してはおけぬとここにいることを選んだ。元から空の傍にはいたが、今の状態ではともすれば視界から外した瞬間、姿がなくなっているような不安を抱かせるほどに危ういという印象を持ったからだ。だからわざと大きな声を出して、空を元気づけるように隠してあった飲み物を取り出し、空へと振る舞った。
 空もまた最初は戸惑ったが、しかしぎこちなく表情を笑みにして、それを受け取った。
 燐が縁の姿がどこにもないという報告を受け、同時に妖精の一人が地霊殿のペットたちにそのことを言いふらすのは、それから間もなくのことであった。



「やっ、どうした、元気ないね」

 縁は懐かしい声が聞こえて、そちらを振り向いた。だがすぐにそれは懐かしいものではなく、今のものであることに気づかされ、よっと気さくに返す。庚慶介(かのえけいすけ)は相変わらずの、猫が笑うような顔で嬉しそうにしている。何がそんなに楽しいのだろうか、と病院の廊下を二人で歩きながら縁は思う。だからこそ、素直にそれを尋ねることにした。口から出る言葉使いは、縁にとっての今、十四歳の少年のものだ。

「おめーはみょーに嬉しそうにしてんな、あ?」
「それがねー、愛の奴がさ、この前のお礼っていってこれをくれたんだよ、ほらっ」

 そういって慶介が出したのは白く透明な、可愛らしいデコレーションのついた小袋だ。中には井筒愛(いづつめぐみ)が焼いてくれたのだろうクッキーが入っている。縁は愛さん看護師に無茶言ったんだろうなぁ、と思いつつ同じものを病人服の上から羽織っているコートから同じものを取り出した。

「あ、それっ!?」
「おめーだけが特別じゃねーんだよばーか」

 にやり、と不敵に笑ってやった。慶介はぬぬぬ、と唸り声をあげたかと思うと、次の瞬間には両手を縁の持つ小袋目掛けて伸ばしてきた。のわっ、と縁は仰け反ってそれを避ける。現在十四歳の縁よりも四歳も年上のはずの慶介は、しかし縁と同じぐらい無邪気な顔を意地気の悪いものに変え、じりじりとにじり寄ってくる。

「愛のものをきみみたいな不良少年に渡すわけにはいかないなー、うん」
「んだとてめぇ、この万年不良病人!」
「はっはっは、その程度言われ慣れてるから痛くも痒くもないなぁ!」
「……潜在的ロリコン」
「ぶち殺すぞヒューマン!!」
「コミックL○とかいうエロ本持ってる時点で確定だろーがバァカ!」
「キミだって見てる時すごく目が血走ってたのに何いってんだっ!!」
「んなわけあるかボケェ!」

 廊下の真ん中でそのまま互いの手を組んで取っ組み合いを始めた二人だが、周囲の看護師や入院患者は見慣れているのかほほ笑ましそうに、あるいは懐かしそうに見ていた。それは二人がとても楽しそうに笑っているからだろうか、はたまたそこに、ノスタルジアを刺激するものが透けて見えるからだろうか。
 少なくとも、“縁”にとってそれは紛れもない過去であり。
 そのことに気づいてしまった縁は、一瞬にしてセピア色の世界から放り出された。

 …………あ、ぐ。

 体が震えている、としか肉体を認識できない。瞼を開いていても、ノンレム睡眠の時すら良いと思える闇の中。現実は果たしてここなのか、縁には理解できなくなっていた。むしろあのセピア色の、十四歳の自分がかつての親友と共に病院にいる時の方がリアリティを持ち合わせており、そちらが現実だと言われても素直に頷くことができそうだった。
 立ち上がるという意識を身体に流す。肉体が過度の疲労によって意識を意識として体中に流れる錯覚を持てるように、縁の意志は血流に乗り五臓六腑を動かそうと染みわたる。右腕だけにはそれが上手く伝わらず、しかしもっとも素直に動いてくれた。右腕に起き上がり、うつ伏せになっている身体はそれに引きずられ、顔もそちらを向く。右腕がぼう、と淡く霧のように光っているのが見え、同時に右肩の辺りまで身体を意識できた。
 どうしてだ、と自分の声とはならない疑問を発して、仰向けに身体を転がしてから、右腕を眺める。いつもはただの鋼、黒金にも似た光沢をしているというのに、今は光のおかげで青白く見える。その光が自分の弾幕、第三の腕と同じ光であることに思い至って、縁はようやく、義手に霊力が流れていること、そして自分には霊力という不可視の力があることを思い出した。
 霊力は身体を活性化させ、身体能力を向上させる効果がある。詳しい原理は縁にはわからなないが、常日頃から霊力で身体に枷をつけるという向上とは正反対のことを身体に強いているので、肉体への作用は実証済みだった。なぜ義手に霊力が流れているのか、それは初めて弾幕を作り出した時に浮かんだ疑問が今ようやく再浮上したものだったが、しかし縁は再びそれを胸奥に押し込め、霊力を今どれだけ使えるかを確認した。
 身内、丹田とも呼ばれる個所、はたまたまったく別の場所から気泡のように浮かぶエネルギーを操り、電気信号の如く全身へと送りこみ、付着させる。肉体をイメージし、それを霊力で覆うのだ。すると、イメージした肉体は認識されたものとして縁の感覚を取り戻し、視覚として取り込め、ぴくり、と左手が反応した。

 うご……く……動、け。

 身体に霊力が、変換された渾身が満ちる。眠りに落ちたせいか、体力は僅かに戻っていた。だがそれでも雀の涙ほどだ、すぐに尽きる。よく見れば霊力の光も、真っ暗闇のはずなのにいつもと比べて格段に弱い。蛍火と呼ばれても文句はいえないほどだ。
 闇の中の闇へ落ちる前、あれほど体中を埋め尽くしていた感情の嵐が、今はどこかに消えてしまっていた。夢のせいか、眠りについたせいか、腹が空いたせいか、笑ったせいか、それともまったく別のことが原因か。どれともつかず、どれでもある。本当は簡単に忘れてしまうほど下らなかっただけなのかもしれないし、ただ身体の防衛本能が一旦封じているだけなのかもしれない。考えてみても、結局は不明。だがその分だけ、縁に意識は身体を動かす、その一点だけに集中していた。
 霊力を繰り、体を強引に動かす。肉体の動きに合わせることは、不思議とやりやすかった。両足と両腕でゆっくりとこけないように立ち上がる。その時気が緩んで、霊力が途切れた。その瞬間、縁は再び感覚を持つことが許されぬ闇の中に立つことになった。
 一気に感覚がなくなったことで、バランスが崩れる。眠りに落ちる前と同じように、倒れるということには地面に胴体のどこかがぶつからなければ気付けない。鈍痛によって知らされるのだ。口中が切れると共に、初めて喉が渇き切っているのがわかった。唾も出ない。体が急に水を求め始めた。口の中に出来た傷口から僅かに出る血を舌が貪欲に舐めとり、水の代わりにしようとする。
 それでもやはり足りない。霊力を再び肉体に纏わせ、今度は先ほどよりもスムーズに立ち上がった。水を求めて、一歩踏み出す。躊躇はしたが、水分を求める単純な欲望は二歩目から大胆さを持たせた。歩く方向は前、ひたすら前へ。

 水……水……。

 亡者の如く縁はさ迷う。一歩、二歩。無意識に両手を上げ前に突きだす。霊力の輝きは灯りとしては機能せず、足下以前に目がまったく意味をなさないのは変わらない。むしろ頭の中がカラッポだからこそ、今まで起きなかった、動物的で人間的な、不意に触れる物体への対応を身体が行っていた。
 その手がいかな偶然か、何かに触れた。ごつごつとした冷たい感触。それが垂直に縁の前にある。手のひらを広げそれに押しつけたまま、まず右に向かって方向転換し歩く。百歩ほど歩いて、身体がまた別の壁にぶつかる。元の壁に手をつけたまま、そちらの方を探ると同じように垂直にかつ不規則に隆起している。反対方向にも歩いてみるが、やはり結果は変わらず。自分が歩いてきたのが、それこそ迷うことのない一本道であるということを今更ながらに知り、状況は何も変わっていないというのに僅かな安堵がこぼれる。そしてすぐに、いつかの迷宮のように入り組んでいる可能性と、ここを登らなければ先に行けないということに気づいて、より深い絶望感に呑まれそうになる。何とかそれに押しつぶされないよう、しかし緩慢とした所作で身体を動かす。
 縁が試しに背を伸ばして腕を大きく上げても壁の感触はある。左手についた汚れから、それが白っぽい岩であることがわかった。岩壁、しかも先が見えず、手をかける所すらわからない状態。それがどれほど危険なことなのか、ロッククライミングの知識のない縁でも容易に想像がつく。
 だが、先に行かなければ、ここから出られない。戻ることはできない。そもそも、戻る道が本当に正しいかもわからない。
 縁は意を決して右手を伸ばし、指が引っ掛かりそうな場所を手探りで掴んだ。それが終わってから、今度は左足を同じように壁にぶつけながら、ようやく引っかける場所を見つけてそこに置く。今度は左手を身体を左足に重心を置いて高く上げ、掛かる場所がないかを探し、かける。それが終われば右足、こちらは左足よりも少々高めの位置。上手く掛かってから、左半身で身体を支えるようにして右手を離し、上の方を探る。
 そのルーチンを何度も、のろのろと繰り返す。完全に地面から離れ、仮に霊力がなくなったならば、その瞬間縁は再び、しかしより強く背中から地面へと落下するだろう。そうなれば大怪我ではすまない、弾幕の雨にやられるものとは違う、もっと生臭い死を迎えてしまうだろう。それを意識しよいよう、縁は両手両足に意識を集中する。玉となった汗が額から顎まで流れ、そんな水分が残っていることに驚きつつ、縁は掲げて岩壁をぺたぺたと探る手を止めない。
 
「はぁ……はぁ……っ」

 荒い息が眼前の岩壁に反射して耳を震わせる。嬉しいことのはずなのに、喜ぶ余裕がない。震える手で、脚で、岩肌を蹴り、足場を探りだす。繰り返すたびに、縁の中に重力への魅惑が揺れ動く。このまま霊力をなくした瞬間、そのまま闇の中に、今度こそ目覚めることなく現実へと落ちていくのではないか。
 もしそうなれば、また彼や彼女に会えるではないか。いや、むしろ最近会ってないから、きっと喜ぶだろう。そもそも、左腕を折っていたのにこんな無茶をしていてはダメなのではないか。ああ、そうだ。まったくそうだ。なら早くこんな辛い夢から醒めなければいけない。
 口元に薄らと笑みを浮かべていた縁は唐突に自分が恐ろしい錯覚にとらわれかけていたことにハッ、と気づいた。自分は今、此処こそが夢の中で、意識を失っていた間に見た夢こそが現実だと思おうとしていた。
 たまらず首を振る。汗の雫が散って、すぐに闇の一部となる。無暗に息を吸い込み、吐きだした。その間、手と足は岩壁にかけられたままだ。
 錯覚を振り払って、また手と足を動かし始める。それでも夢の形をした死への誘惑は止まない。

 や、どうしたのさ、こんなところで。

 縁くん。それって面白そうだね私にもやらせてよ。

 どこからか聞こえる言葉。自身の吐き出す息すらともすれば自分のものと認識できないこの空間では、幻聴かどうかですらはっきりとしない。それでも縁の冷静な部分が、これは幻聴なのだと理解していた。何故なら二人の声を縁が、いや世界中の人間が聴くことはもうないのだ。
 聞こえるはずがないと心に言い聞かせ、右手を伸ばし、岩肌を掴む。その手に何かが重ねられた。白い手だ。薄ぼんやりとしている。反射的に縁はその手の先を見て、驚愕で目を見開いた。

 庚……愛さん……

 かつての友人たちがそこにいた。縁が知る妖怪たちのように空中に浮かび、縁を見下ろしている。その姿は、縁が夢で見た通りのままだった。『ライ麦畑でつかまえて』をポケットにつっこんだどてらを着る庚慶介に、いつも室内にいるのにカーディガンを忘れない井筒愛。二人とも、縁といつも会っていた時と同じ微笑みをしている。
 どうしてこんなところに、と縁が口にしようとした時、同時にそれが意味のない質問だと思う自分がいた。それを肯定するように、三年前と変わらぬ姿をした慶介は、いつもの調子で、縁を笑う。

 もしかしてまた意地を張って父親とケンカしたのかい? これだから反抗期っていうのは。

 慶介くん、そういうこといったらダメだよ。縁くんはきっと理由があってこういうことしてるんだから。

 ああ、違う。違うよ。縁は二人にそう言って、左手を離し、ゆっくりと手探りを始めた。縁の体は、二人が幻覚であり、幻聴であることを知っていた。だがそれでも縁は二人から目を離すことができず、その言葉に耳を傾けていた。
 
 こっちの方がいいんじゃないか?

 慶介が縁の上を移動して、少し離れた位置を指差す。縁の左手を思い切り伸ばせば何とか届く位置だ。手伝わなくていいのによ、と縁は少し可笑しくなって、左手をそこへと伸ばした。そして導かれるまま左手がそこにあるはずの隆起を掴む、しかしそこは縁が力をかけた瞬間崩れた。
 あっ、と息を吐きだして反射的に右腕の霊力を強め、両脚になけなしの力を込めかけた。だが左半身は勢いに負けそのまま足場から外れ、右半身だけが支えとなって縁は闇の中に浮かんだ。声にならない音を出しながら、縁は左足をリカバリーすべく、左半身を岩壁につける。だが足先は中々捕まらず、焦りが込み上げる。
 顔が歪むのがわかった。死の恐怖にだ。
 
 残念だったね、中邦。

 うん、そうだね。それじゃあ、ばいばい。

 またな。

 縁が焦りと戦いながら左足の足場を確保すると、白い身体をした二人は闇の中に溶けて消えていった。
 ふざけるな、と一時的に正気に返った縁は思った。二度と会えない相手だった。それが幻覚の中に現れ、あまつさえ自分を死に誘ってきた。それは縁が縁自身の思い出を冒涜し、生への執着を止めさせようとする働きではなかろうか。疑心暗鬼ともいえる感情が、縁の内側に浮かび、熱い何かとなって迸った。

「ちくしょおっ! 死んでやるもんか! 死んでたまるかぁぁぁ!!!」

 声が、縁の声として闇の中で反響した。
 それから縁はまた登るという行為を始めた。何度も手を伸ばし、探り、体を持ち上げ、脚を踏み外しかけ、霊力を絞りだし、ひたすら上へと這い上っていった。両手は土で汚れきり、左手は開いた傷に埃が入り、両脚の靴は先端の色がもうわからない。
 幻は周期的にやってくる。決まってあの二人だ。それは縁の中でもっとも死のイメージを起こさせるからだろう。
 死神は来るな、縁は強く念じた。念じるたびに霊力は強く輝くが、すぐに元の弱弱しいものになる。
 霊力がなくなれば一巻の終わり、縁は真っ逆さまに闇の中に落ちていく。それは集中力が切れても同じことだった。人間は光のない完全な闇の中で生きられるよう出来てはいない。その無理を通すことは、体と心に影響を及ぼす。幻聴と幻覚はまさにその作用が現れた結果だ。
 まして、縁は身体にエネルギーが不足した状態で、かつ水分も満足に補給できていない。肉体と精神の限界は、当然のように訪れた。
 左手を伸ばすことが徐々に億劫になってきた。震える左手は、やがて元の位置に戻って、縁を支えるだけに留まった。足を上げる気もなくなり、霊力の光もまた、もはや眼を凝らさなければわからぬほどになっていた。必然、身体の知覚も再びなくなってきている。
 このまま動けなくなって、次の二人が来たら終わりかな。何気なく零した言葉は寒気のするほど現実味を帯びていて、猛烈に身体を抱きしめたくなった。だがそれが出来ないことを、四肢だけで岩肌に取り付いている縁の小さな理性は知っている。だからこそ、その寒さは耐えることしかできなかった。
 そして、何もできないからこそ、寒さは縁の心に吹きすさぶ。不安と恐れと、後悔に変わって。
 このまま前に進むだけで本当に外に出れるのか。元の道を引き返した方が堅実ではないか。元の世界には帰れるのか。そもそも、この壁を登れたところで、先に進めるのか。はたまた、こんな先すら見えない壁など本当に登りきれるのか。
 全てが否定的だ。弱虫だと、縁は自分のことを罵ってやりたかった。弱虫の自分が全て悪いのだと、責任を押し付けてやりたかった。弱虫だからこんなところにいるのだと、無茶苦茶なことを叫びたかった。弱虫だから、妖怪相手に、死体の山から逃げだしたのだと言ってやりたかった。

 死ぬのか……俺……? こんなところで……一人で……

 孤独、いや孤寒。闇の中でたった一人残され、弱り切った縁に、耐えきることはなかった。誰でもいいから、誰かがいてほしかった。幻覚でもいいから、かつての友人たちにいてもらってもよかった。しかし肝心な時に限って、幻は現れてくれない。元の世界にいた友人や学友、とにかく覚えている限りの人間の顔を思い出し頭の中に浮かべるが、ただ空しいだけで、孤独の寒さをより強めるだけだ。
 歯が独りでに鳴りはじめる。それでも肝心の身体を動かせなくなった縁は、ひたすらに彼ら彼女らのことを思い描き続けた。
 だがそれを続けていると、不意に別のものが浮かんでくる。妖怪だ。縁が幻想郷で出会った妖怪たちだ。すぐに止めようと、縁のちっぽけな理性と本能は抵抗を試みる。だが決壊した河川のように、一度溢れ出した想いの激流は縁の中に流れ込んでいく。
 喧嘩をしたら仲良くなった虎の妖怪。一角を生やした姉御肌の鬼。気のいい土蜘蛛と弱気な釣瓶落とし。大人の雰囲気をした橋姫。人を殺そうとしてきた赤河童。皮肉やなカモメ。変態趣味な悪霊たち。心優しい心の読める覚と、誰よりも他者を思う心の読めない覚。いつも些細なことで喧嘩をしてしまう死体運びの火車猫。何気ない時に支えてくれた地獄鴉。
 
 ………悪いやつなんて、いないじゃねぇか。

 唐突に呟いた言葉が、じわりと出てきた涙と一緒に闇に落ちた。
 縁は心のどこかであの灼熱地獄でのことを思い出した。死体の山の妖怪たち。人間を食う妖怪たち。縁はそれを悪いことだと断言してしまった。そして今も変わらない。縁の価値観が妖怪たちと灼熱地獄跡の在り方を否定している。予め知識として教えられていたはずなのに、いざとなった瞬間に、人間の独善的な面が縁の内側から出てきたのだ。いや、もっと生々しく言えば、縁がいつか妖怪たちに食べられ、そしてあの死体の山に放置されることに怯えてしまったのだ。
 もしくは、人間が、自分が、縁が、たった一人取り残され、他のものとは違うという無意識の排斥を感じてしまったからかもしれない。
 人間は経験を通してでしか、自分のこととして受け入れられない。経験論とも人は言う。そしてまた、先入観と早とちりというものもしてしまう。“他者”を受け入れられないことには、知性ある人間のその部分が悪魔の囁きをする時もある。仕方のないことだと、事情を知らない他人は言うかもしれない。それでも縁はこみ上げたこの感情を、愚かだと、バカだったと罵った。

 ……それだけで、それだけで……あいつら、親友だっていってくれたじゃないか……認めたって、いってくれたじゃないか……優しく、してくれたじゃないか……!

 優しかった。異邦人であり、捕食対象である縁を住人として受け入れてくれた。それはまごうことなき事実/真実だ。縁はようやくそのことに気づいた。気づいた瞬間、もはや水分など残っていないと思った身体から、涙が次々とあふれ出てくる。両手両足で身体を支えるためにそれを拭うこともできず、縁は唸り声を上げて泣き続ける。闇の中、揺り籠で眠り可笑しな格好をした赤ん坊のように、泣き続ける。
 泣いて泣いて、自分自身の言葉をひたすら傷つけ、そして最後に出てきたのは一つの想いだった。

 ……空……

 地獄鴉の霊烏路空。灼熱地獄跡でのけんか別れをしてしまった相手。自分の喧嘩に巻き込んで、致死の病にかかってしまった妖怪の少女。

 会いたい……空……俺は……

 無性に、彼女に会いたかった。再会の時は、土下座をして謝ればいいだろうか。だがそれよりも、縁はたったひとつのことをしたいと願っている。その、ともすれば人間という種とは敵対してしまうかもしれない感情を、縁は、確かめるように、紡ぐ。誰もいないと知り、闇の中に呑み込まれてしまうとわかっていても、ただ、声にする。

 ……お前を……抱きしめたい……お前の震えてた身体を……「今度は、ちゃんと……おちょくったりしないで……しっかりと、お前の温もりを、確かめたい……お前も、俺も、生きてるんだって、確かめたい……」

 闇の中で、また、縁は声を取り戻した。今までよりもずっと小さな呟きなのに、ぽつぽつと浮かんでははじける気泡の思いは、今までよりもずっと、闇の中で溶けずに残った。

「違う……ごめん、正直にいう……おまえとくっつきたい。お前が何を思ってるかを知りたい……お前が何を好きなのか、もっと知りたい……お前が、その……ほしいんだ……空のことが……好きなんだ……」

 空が死にかけていることも、彼女を傷つけた赤河童のことも、縁は今は忘れてしまっていた。ただ身内の中に沸きだす想いだけが大事だというように、ただ言葉の余韻だけが、縁に一つの想いを確信させていた。
 手を握ってくれた。最初に名前を呼んでくれた。さりげない時に、けど気づけば隣りにいた。蹴られたりもした。頬も引っ張られた。笑顔を向けてくれた。
 中邦縁という人間は、いつの間にか霊烏路空という妖怪に、心惹かれていた。
 それだけが、自分すらわからなくなるこの闇の中で、唯一確かなことだった。
 だが不意に、縁の想いを闇が聞き終えたのを待っていたように、現実という存在が、あるべき時間が、縁の考え付かなかったことが、縁の頭上から降ってくる。
 最初に縁が聞いたのは音だ。どこからか聞こえ、どこからも聞こえる。だが縁にはもはやほんの僅かな気力と霊力しかなく、精々上を見上げることしかできなかった。それが幸運だった。何かが降ってくる。闇の中で縁の霊力同様、光り輝く何か。

「え、あっ」

 縁が発することができたのはそれだけだ。思考も一瞬、気づけば右腕を掲げて、それを受け止めようとする自分がいた。しかしそこまでだ。縁の膝までしかないその物体を縁はぶつかり、そのまま一緒に闇の中に落とした。
 縁は衝撃に負け、手足が岩肌から剥がれた。そのまま真っ逆さまに吸い込まれていく、という印象だけを覚えるだけ。それと、目に映ったつま先に付着した霊力と石つぶてに、不思議な子ども。縁があの灼熱地獄で見たものとは違う、縁の知る妖怪に似た小さな子供。頭から生える二本の触手が一本だけ半分から折れていることに気づいて、なんでこんなどうでもよいことがわかるのだろう、とイヤに冷静な自分に驚いた。
 次いですぐに、これで死ぬのか、と思いつつ、ああこれで、もう何も頑張らずにすむ、と不思議な安堵感が持てた。
 そうしてまた、縁は衝撃と共に意識を失った。
 
 


 あとがき:

 さて、夢枕獏先生に土下座して吊るか(挨拶
 東方どこいった、という声があるかもしれませんが、エロゲ地霊殿なら仕方ない(笑)の精神でお願いします。
 それと裏話ですが、この話しで縁はルートが確定しましたが、最初はアンケートで「おくうorこいしor地霊殿ハーレム」のどれかでを出すつもりでした。
 それが出来なかったことをお詫びしますorz

 それにしても区切り悪い上に短いなぁ……o…rz



[7713] 第二十話――的<遊びは終わりか? Mr.イレギュラー? 
Name: へたれっぽいG◆eaa9c481 ID:f33d8d16
Date: 2011/03/16 20:53
 腐敗した空気の中で河城みとりは自我を得た。二本足で立ち、壁に隠れてみる光景は、自分よりも遙かに大きな人間たちの言い争いだ。男性と女性、二人とも人里に住まう人間であり、その一方はみとりの生みの親だった。互いの口から熱を帯びた排気ガスが溢れて部屋の中を満たそうとし、壁に空いた小さな穴からするりと逃げていく。二人の人間から滲みだし、既に居座った腐敗という存在に恐れを為したからだ。
 茶碗が飛び、みとりが縋りつく壁にぶつかり割れた。砕けた破片が髪を切り、肌を傷つける。大人たちはそのことに気づかず、子どものことで口論の熱を高めていく。頬から流れる赤い川筋に触れて、みとりはようやくここに自分がいるのだと、理解した。
 そして生まれたばかりの言葉は、あんな子ども、という自分を指すものを意味していた。その意味が“望まれなかったもの”ということだと知る頃には、みとりの周囲には誰もいなかった。それを知ったみとりの目を、額から零れた血が塗りたくった。
 その途端、腐敗した空気が一転して吹き飛び、渇いた草原の匂いへと変わった。同時に赤色から茜色に変わった世界を一人で歩いていた。黄金に燃える野原はみとりの耳に風の囁きを知らせ、その足を止めた。人里と妖怪が集う太陽の畑の間にひっそりある小さな丘の上、猫の額ほどの黄金畑。山々から覗きこむ太陽はそこを見下ろし、飽きたように沈もうとしている。
 いつの間にか荒れていた呼吸を整えて、一度天を仰ぎふっ、と力を抜き、みとりは黄金色の絨毯へ寝ころんだ。空は複雑な色をしている。赤と青とも紫ともつかぬもの。龍神が通った跡という虹とどちらが複雑だろう、と取りとめのない考えが浮かび、空っ風に吹き飛ばされた。
 
「……きっもちいいなぁ……」

 妖精さえ住処に帰る時間の挟間で、みとりは、まだ河童でも人間でも、その挟間にあるものとしての自覚も持たなかったころの幼子は、舌足らずな口で小さく吐き出し、目を閉じようとした。すると、風の匂いと歌声の中に注意しなければ気付かないほどの小さな音が聞こえ始めた。
 知っている声だ。そしてまた、知らない声でもある。少なくとも我を得たばかりのみとりは聞いたことのない声音。自然と目が開き、体が起き上がった。黄金の原っぱは幼いみとりと同じ背丈、背延びをしても髪が見えるぐらいだ。
 だからみとりは声を上げた。大きく、強く。声の主に届く様に。
 その声が届く前に、みとりは夢から醒めた。そこはもはや黄昏の空の下ではなく、地底の薄汚れ、ケガレに満ち、彼女のようなものが住まう地獄の殻だった。

「………あんな場所、いつ行ったっけ?」

 起き上がることなく呟いたみとりは、知らず、焦がれる想いと共に天井を見上げた。



 第二十話『記憶の途切れ』


 

 霊烏路空は赤々と照らしだされる地獄の壁をぼんやりと眺めていた。ぷかりと浮かぶ身体は気だるく、ともすれば今にも眼下にある八卦型の炉心へと落ちてしまいそうだ。親友の燐はいない、中邦縁がいなくなってから、日に何度か自らの足で灼熱地獄跡中を探し回っているからだ。

 え、に、し……なかぐに……えにし……縁……。

 名前を声に出さず、唇と指だけで作ってから、空は丸めた身体を強く抱きしめた。
 お燐に言った言葉を事実にするため、その名を何度も忘れようと余りある時間を使ってひたすら意識しないよう、今までの数倍も仕事に没頭した。火力調整という仕事は例えこの奇病を患っていても行える。真剣に行うというのは、燃やすための死体を選別することだ。しかし、火にくべればどの死体であろうと変わらない事実を前に、それこそ意味のない工程だと知っていても、空はその行為に没頭した。
 それでも時間は余ってしまってしまい、燐もいない時は、溶岩の流れを見たり、怨霊たちの気配を感じ取ったり、ひたすら意味のないことをした。一度は身体の内側から聞こえるノイズにも耳を澄ませた。
 しかし必死に忘れようとする空の意志に反するように、縁の名前が、声が、顔が、表情が、身体の中に思い出されてしまうのだ。降り積もった塵が簡単には消えないように縁と空、縁と妖怪たちとの思い出が思い浮かぶのだ。そして心の中にその景色が、そこで一緒に笑っている縁を見つけるたびに、空は想ってしまう。
 どうしてあんなことを言ってしまった、という後悔の気持ち。
 そして、どうして気づけなかったのだろうか、と。
 空には主人である古明地さとりのような心を読み取る力はない。古明地こいしのように常に傍にいるわけではない。火焔猫燐のように二人の間だけで通じる独特なコミュニケーションをしているわけではない。この三者と比べると、あまりに平凡な付き合い方をしている。
 だから気づけなかった。中邦縁が、実はあれほどまでに脆い人間であることを。人間という脆く儚い生き物の一人にすぎないことを。皆が皆、いつの間にか縁に対して遠慮を忘れるとと共に、そのことすらも忘れてしまっていたのだ。人間であって、人間ではない。人でなしという言葉の原理と同じだ。それは空も例外ではない。むしろ自分こそが最初にそうだと思いこんだのではないか。
 思考の連鎖はいつも決まってそこで止まってしまう。そして空はぽろぽろと涙を流してしまう。自分が悪いのだと思いこんでしまう。顔を翼に埋めて、地獄跡に一人取り残される。ノイズが強くなった、落ちた涙の雫が音を立てて破裂し、音の津波に空の意識がまた消えようとした。辛いはずであるのに徐々になれてきたこのブラックアウトの直前に、空は自ら飲みこまれようとした。
 だが、今日は違った。意識の消失とともに縁のことを忘れるためにと眺めていた溶岩の上を、一枚の岩が流れていた。涙で視界の滲んだ空には、それがあるものに見えた。あの日、縁に対してあげようと思っていたものだ。どうしてそれを縁に渡したくなったのか、空自身もよく判っていない。ただ、その思いが沸き上がったのは不明だが、何かをあげるという形に固まったのは地底湖での出来事からだった。
 自然と、空の黒い翼が広がった。轟音の反響で痙攣にも似た震えを伴った羽ばたきは、心の衰弱で重みを増している身体をゆっくりと持ち上げていく。気づいているのは、空本人ではなく、周囲にいた妖精や怨霊たちだけ。
 自分自身の正体不明の想いに突き動かされ、意思を無視される形で、上へと、地霊殿へと昇っていく。止めるものはいない。難なく中庭の窓まで辿り着いた。そこではっと正気に戻り、また意識が消えたのかと早合点しかけたが、しかし自身の目の前にあるガラスの天蓋を認め、無意識下の行動に疑問符を浮かべた。

「あれ、私どうして……」

 それだけで言葉が止まり、一瞬理性にせき止められた複合された想いが、ゆっくりと空の頭の中に染み渡っていく。翼の震えは収まり、空を阻むものはあとはこのピラミッドのみとなった。それを開放する装置の場所は身体で覚えており、自然と体が出入口傍の、岩石でできているはずの灼熱地獄跡の天井にぽつりとある近代的なスイッチの前に移動した。

「……大丈夫、かな」

 蓋を開閉する天井についたボタンを前に、空は珍しく意識が飛ばずに済んだ発作の影響が残っていないかと危惧して迷ったが、それも数秒、意を決して手を押しこむ。気分のせいか、普段よりも数倍重苦しい音を立てながら蓋は開いていき、灼熱地獄跡の熱がそこから地霊殿の外向かって吹き上がる。黒い翼もまたその流れに乗り、一気に灼熱地獄跡から飛び出した。
 四日ぶりに戻ってきた地霊殿は、空の奇病による亀裂がそのまま残されたままの状態であったが、だがそれよりも気になることがあった。重い静寂。いつもなら中庭の片隅にでも動物や人魂や怨霊がいるはずなのに、今はどこにも姿を見ない。怪訝に眉を顰め、窓の向こうを覗くと、数匹のペットたちが廊下に寝そべっているのがようやく見えた。
 だがその顔はどれもが窮屈そうなものだ。地霊殿を包む雰囲気がそれをさせるのか。空もまた、何事もない体調であったなら外へと出かけていってしまったかもしれない。しかし今は地霊殿の、あのカモメが根城とする厨房に用がある。
 周囲に空に気づいたものが少ないことを確認してから、中庭にそっと着地する。足先までは振動が届きにくいことは既にわかっていたものの、以前に壊しかけたこと場所である故に弥が上にも臆病になってしまう。翼を畳み、壁に端も付かぬよう慎重に戸を潜りぬけて屋内へと入る。空気は変わらず重い、むしろそれが強くなったような気さえする。
 どうしてだろう、と一瞬疑問を浮かべるがすぐに、縁がいないから、と決めつけかける自分がいた。空の主観では、既に縁の存在は地霊殿の一部のようになっていた。代替え不可能なほどのかけがえのないものとして。

「……そこにいるの、おくう?」

 不意に聞こえた声に身体が怯えに震えた。気配がない、しかし声の反響は空にその主の居場所を教えてくれる、左側面だ、無意識を操る彼女ならば」、そもそも視覚に入っていようと認識できなかったろう。空は摩耗した意識でそこに集中し、調度品を置く机に腰掛けるこいしを認め、疑問を覚えた。
 意識の摩耗と反比例して冴えるようになった頭は、縁が三日前にいなくなってから、こいしはほぼ毎日休むことなく地底中を、時には地上ぎりぎりまで昇って件の少年の姿を探しているのだとお燐から聞いていた。だからこそ、どうしてここにいるかが見当もつかなかった。

「こいし、様……どうしたんですか、そんなところで?」
「……縁ちゃん探しの休憩」

 第三の目がふよふよと、膝を抱えるこいしの周囲を浮かぶ。その足元には机に置かれていたのだろう花瓶が割れ、中に容れられていた赤い花と水が床の市松模様を赤一色に染め上げていた。血の色だ、空は連想すると同時に、かつて地霊殿に漂っていたある臭いを久方ぶりに嗅ぐ様な心地になった。
 それは腐った血と人肉の臭い。火焔猫燐かこいしが屋敷内の様々なところに置いていた人間のオブジェから漂っていたものだ。縁が来た当初は、ほんの少しの間だけとさとりがただの人間である縁に配慮して片付けさせていたが、こいしの事件が終わるころには、誰も元に戻そうとはしなくなっていた。
 代わりに、地底の本来持つ暗鬱とした空気を吹き飛ばしてしまうような風が中邦縁という形を持って吹き荒れていたからだ。その例えにまで考えがいたった時、空は先ほど否定しようとした決めつけを確信に変えた。縁が帰ってこなければ地霊殿はいずれ、また死体の匂いで溢れ返るだろう。
 それを思って、自然と空の顔が不快なものに変化した。その表情にこいしの目が向けられた。覗きこまれたそれは、かつてのこいしの、無邪気で、純粋で、残酷無比で、エゴとイドの境界が曖昧なカオス体の精神構造をしていた時に似た光を宿していた。似ていた、というのは、そこに一抹ばかりの意思が存在していたからだ。

「……わたしが縁ちゃんを見つけようとするのが、嫌なの?」
「え?」
「そういえば、縁ちゃんがいなくなったのって、おくうと喧嘩した後だったんだよね? ねぇ、だったらそれって、おくうが悪いってことなの?」

 腕を解いたこいしが、ちゃぷっ、と軽い音を立てて水で濡れた床に足をつけた。空の目と耳がそれに一瞬、それこそ瞬きの間ほどに意識が向き、集中した。その直後、こいしの身体は空に肉薄しており、両手が首へとかけられかけていた。意識に生じた全体への空白に無意識でもって同化し、視覚の中にありながら認識から外れ接近したのだ。
 
「え、あ……」
「よく考えたらそうだよね? おくうが勝手に出てこなければ縁ちゃんがあの河童とまた戦うことにならなかったんだし……もしかして縁ちゃんはおくうのためなら身体を張ってくれると思ってるの? 自惚れてるの? 自分のためならやってくれるって、まだ考えてるの?」
「ぅぁっ……!」

 喉元をこいしの小さな五指が締め始めた。真綿を締めるように緩やかに、それでいて万力の如く力強く。声が熱い息としてしか口から出ず、かろうじて動く両手でこいしの腕を掴み首から外そうとするが、まったく動こうとしない。蹴り飛ばす、などという乱暴な選択肢はなく、何より精神的にも体力的にも消耗している空にそのような真似をすることはできなかった。

「そんなのダメだよ……! だって縁ちゃんは、わたしのことも助けてくれたんだよ? あの嫌な刃とトゲの檻から連れ出してくれた人だよ? だから、一人占めしてるなんて……そんなこと……!!」
「ち、が……こ、ぃ、し、さ……ぅっ!」

 苦しげに言葉を吐きだそうとするも、それはより強くなる締め付けのせいで言葉半ばに途切れ、呻きに変わってしまう。自らの舌の奥あたりからあの轟音とは違う、皮と骨が軋む音が聞こえ、空は賢明にもがき、薄く眼を開け狂乱の態の主に目で訴えようとして、しかし空を更に異様な空気の中に落としこんだ。こいしの両の眼が真っ暗闇の中から射殺さんとばかりに空を貫き、それに反して顔は微笑みに似た形に歪んでいた。そして僅かに見える第三の目が、いつかのようにぶるぶると震えている。
 たった三日。わずかそれだけの時間で、古明地こいしの精神は限界に近づいて、いや元の無意識の状態に戻ろうとしていた。地霊殿の変容と同様に、こいしもまた縁のその変化のあり方を依拠していたのだと空は理解してしまった。これほどまでにこいしは縁のことを想っているのだと、今の空は気づいてしまった。
 古明地こいしは、中邦縁がいなければもうダメなのだ。

「こいし、止めなさい!」

 ぴたりと、両手の指に込められていた力が緩まり、空の呼吸器が正常に働きはじめた。しかし離されることはない。空とこいしは、声の主、苦虫を噛んだような顔をした古明地さとりを同時に見た。

「お姉ちゃん……」
「こいし、おくうを離しなさい。自分が何をやってたか、わかっているの!?」
「えっ?」

 言葉がこいしの体内に入りこんだように、瞳に潜んでいた意思の光が輝きを取り戻し始めた。それが強まると共に、こいしは自身の両手が空の首にかかっていることを初めて気付いたように、あっ、と声をあげて離した。空の首にはほんの僅かな間だけだというのに、指の形の痣が出来ていた。その痣と自分の両手を何度も見比べるこいしの顔は、自分がやったことを信じられぬとばかりに茫然自失としたものであり、同時に大人に叱られ行為の応報を突き出された子どものようであった。
 そして空は咳きこみながら彼女から離れ、壁に背中をつけた。だがその直後、再び音が身内から響きはじめ、割れるような痛みに頭を抱えた。背中の壁に蜘蛛の巣状のヒビが走る。空の意識が再び無重力に放り込まれるが、しかし今日は運が良いのか、またすぐに戻ってくるができた。轟音が頭の中に潜んでいくと共に前へ倒れこむ。

「おくう!」

 咄嗟に空へと駆け寄ったさとりは、胴と腕の服だけを持つようにして支え上げた。空の顔は一瞬にして汗が溢れ、青ざめている。首に出来た痣がその痛々しさを引き立ててしまっていた。それを見下ろすように見ていたこいしの表情にもまた、怯えの色が混じっていき、両手が震え始めた。

「っ……おくう、ごめんねっ」
「っ、待ちなさいこいしっ!」

 それを振り払うように踵を返し、こいしは我知らず走りだした。姉であるさとりの制止の声にも答えず、そのまま廊下の角を曲がって姿を消してしまう。
 さとりは一瞬身を上げたが、すぐに自分が抱きかけるペットの存在を思い出し、ほぞを噛む思いで空を起き上がらせた。

「さとり様……どうして……?」
「私は妖怪覚ですよ、自分のペットの心ぐらい家に帰ってきたらわかります……それより、おくうは、どうして自分がここに上がってきたか判ってるのですか?」
「う、にゅ……その、ごめんなさい……よく、わかりません」

 頭を俯かせ、空は心情をそのまま吐露した。事実、こいしと偶然会う前、灼熱地獄跡から出る直後から空はなぜ地霊殿に戻ろうと思っていたのかを、空の主観では忘れて、気づいていないことすらわからないでいた。そして今まさに発作が起きたことが、主人の問いかけにしどろもどろにしか答えられないことが彼女に自責の念を植え付け、涙をまなじりに溜めさせていた。
 さとりは一度息を吐くと空を離し、ついで手頃なところにいた怨霊に言伝を頼み灼熱地獄跡に送ると、苦笑しながら起き上がった空に振り返った。

「少しの間だけなら、ここにいても構いませんよ……お燐への言い訳は自分で考えておきなさい」
「あっ……! ありがとうございま……」
「ただし、私の目の届くところにいるように」
「はいっ!」

 空はさとりの言葉を理解すると、暗い表情を一転、喜色満面で寛大な主に頭を下げた。発作が起きた直後にすぐに次はないだろうと楽観視したものだが、さとりは空の心が顔に浮かぶ感情と同じく変わったことを第三の目で確認すると、甘い判断だと言われても正しいことであると確信し、口元に微笑を称えた。
 だがすぐにその気持ちは、こいしへの思いと共に苦々しいものに変わった。それが伝播したのか、頭を上げた空の顔と心にもまた、迷いのようなものが浮かんでいた。いや、そもそも空の中には既にその思いがあったのだ。

「あの、さとり様……こいし様は、大丈夫ですか?」

 歩み出そうとしたさとりの足が不自然に止まった。第三の目がぎょろりと空を見、気弱になっている地獄鴉は肩を震わせたが、しかし質問を撤回するつもりはなかった。さとりもまた、それを理解した。

「……あの子も、中邦さんと関わって少しづつ変わってました……だから、きっと大丈夫です」

 はたしてそれは本当に空のために言った言葉なのか、それとも自分自身を納得させるためのものなのか、さとりにはわからなかった。この三日間のこいしは、心を読めないはずなのに、その行動で全てが見透かせるようだった。傷痕が開きはじめたのを必死に我慢して消えた半身を求めている、と言葉にすればよいだろうか。空の心がそう感じたように、さとりもまた、こいしが今、非常に危ういバランスであることに気づいていた。
 しかしまた、心を読めるからこそ、空の精神もまた危険であることをわかってしまっていた。
 自分の体のみならず周囲にまで被害を与える治療法不明の病。自分自身が直接の原因となったのかもしれない、中邦縁の失踪。つい先ほどのこいしの責め苦。これだけの要素が揃えば、妖怪といえどストレスに意識が負けてしまうものもいる。事実、空は灼熱地獄跡の出入り口直前まで、意識とは違うもっと別の意思、それこそ深層心理や願望と呼べるものが身体を乗っ取っていたのだ。それだけ不安定である、妖怪の死に近いのだと察せられるのだ。

「……け、けどっ」
「おくう、貴女は今、他の人を心配するほどの余裕がありますか? もし万が一何かあっても、クロ……カドルたちがいてくれます」

 零した言葉は、しかし不思議と言い訳がましいものであった。こいしへの不安がさとりの中で強まるのと反比例するように、空の中ではこいしを心配する思いが高まっていく。鳥頭だから、それともバカだから、自分の身を省みるということまで考えが至らないのだろうか、と横道にそれた思考が出来上がるが、その部分が、今この地霊殿にいない人物の行動に重なった。
 そのことを思ったとたん、前触れもなく、体の奥深く、胸の後ろ側がずきりと痛んだ。そのことに顔をしかめていると、空がおずおずと口を開き、心の中にある思案が読みとれた。

「……あ、あの、さとり様……」
「『私と一緒にこいしを追えばいい』、貴女は自分がどれだけ他の妖怪に迷惑を与えかねないかわかっているんですか?」
「あ、う……けど、けど……縁なら……」

 きっと、向かってく。
 最後の言葉が萎み、空の中で、縁と最後に会って話した時の記憶がフラッシュバックし、さとりはそれを読んでしまった。怪物を見る人間の目。それを持つ縁に、もはや常にあった明るいものはなかった。胸の奥がまたずきりと痛くなった。その痛みはさとりのものだったか、それとも心を読んだ空のものであるか、一瞬、わからなかった。
 だが痛みはさとりに一つの思いを感情の水面に波立たせ、ゆっくりと言葉に変えていく。

「……わかりました。ただし、常に宙を飛んでいること、そして兆候が見えたらすぐに灼熱地獄跡に戻ること。わかりましたね?」
「! は、はいっ!!」

 主人の受諾の言葉にパッと笑顔を咲かせた空に対し、さとりはなぜそのようなことを言ってしまったのかと自問自答した。やはり甘いのか、と簡単な答えに縋ろうとするが、しかし胸の痛みが否定し、第三の目が自身を非難の目を向けてくる。自然と閉じた瞼に浮かぶのは、さとりの知ってる中邦縁と、空が最後に見た中邦縁だ。
 どちらが本物なのだろう。さとりはそう思った。空の中にある気持ちとは切り離して考えても見るが、決着はつかない。だが、自身がなぜ空の嘆願を聞き届けたのか、さとりの中の縁が教えてくれる。
 せめて、いなくなった縁の影を追いたい。縁ならこうする、と説いた空の言が、さとりを動かしたのだ。

 
 
 どうしよう、その単語だけに支配されたこいしはひたすら走っていた。
 そもそも空をどうこうするつもりなど初めから彼女にはなかった。本当に、偶然に、休んでいた時に出会ってしまっただけだ。だからこそ、本来なら話しを聞くだけきいて、もしかしたら一緒に縁を探しに出かけたかもしれない。だが空の姿を認識した途端、いや空が何かを探す素振りと目をしているとわかった途端、こいしの中から熱く、どす黒いものが沸き上がり、無意識を律している意思というものを塗りつぶされたのだ。
 そうなってからのこいしは、今はいないはずの縁を奪われぬよう、空を必死に責め立て、殺そうとしていた。首の感触はまだ手の中に残っている。それが心地よい、という自分がいることにこいしは自己嫌悪を覚えた。
 もしそう感じてしまうなら、縁に嫌われてしまうかもしれないからだ。
 姉からの指摘で正気に戻る中、たったそれだけの言葉がこいしの身内から、閉じた瞳から浮上し、空にぶつけたように自分自身を責める。浮遊して移動しないのは、浮かべばすぐに四方から不浄の責め苦が襲いかかってくるかもしれないという思いのせいで、走っているのは背後から形をもった黒い感情から逃れるためと錯覚をしていた。
 地霊殿を飛び出してもまだ走り続けた。手のひらを見下ろす。互いの二の腕に抱きつくようにしていたはずのそこには、赤黒い液体と錆びた鉄の匂いで汚れ、蛆虫が這い出る肉片がこびりついていた。

「ッ!?」

 声にならない悲鳴を叫び、その拍子に足をもつれて、転んだ。起き上がることは簡単だったが、息が勝手に荒くなり、手のひらを見れなかった。地面にこすり付け、立ち上がり、改めて見る。そうするとそこは濡れた土で汚れているだけで、あの人間の肉片のイメージはなかった。
 よかった、と思った瞬間、なぜ自分があれを人間の肉片であると決めつけたのか疑問に思い、それが鍵であったかのように、一つのイメージが無意識の深奥から飛び出してきた。
 自分の手が人間の男性の首を絞めつけている。見知った青年の手には分厚い刃が握られており、その切っ先はこいしの腹を刺す直前で震え、止まっていた。青年の目は白目を剥いていた。それがあまりに可笑しいものなのか、自分は笑い、握っている首をそのまま潰し、頭と胴体を切り離した。血の雨が噴きだし、こいしの両手は自分の血以外に、青年の、セイジロウだったものの皮膚と赤と黄色の肉と骨の破片で汚れてしまう。それでも、こいしは楽しげに笑って、周囲にいた、こいしに刃を突き刺していたものたちに手を向け、一人ずつ、様々な方法で磨り潰していった。

「あ……ああぁ……あ……っ」

 その感触一つ一つが身体から、無意識から逆流してくる。本当にそれが記憶であるか、それとも妄想の産物であるかもわからぬまま、自我が削り取らていく。体が震え、脚から力が抜け、膝が地面につく。耳を塞いでも責め苦が聞こえる。背後から追いかけてきていた抽象の怪物が影を落とした。

「助けて……縁ちゃん……助けてよぉ……」

 口が勝手に動き、声が求めるものは、かつて自分をこの血と闇色の無意識の檻から連れ出してくれた人間。だが、応えは帰ってこない。気配もしない。どこにもいない。
 中邦縁は今はいない。何故いない。どうして傍にいてくれない。何か、原因があるのではないか。
 
「あっ……」

 浮かんでは弾けて消える言葉の中から、一つの疑問を抜きだした。どうしていないのか、その原因。すぐに思い至ることができた。

「あの、赤河童……あいつがいるせいで、縁ちゃんがいない……おくうも、くるしんでる……」

 憎たらしい表情を浮かべ、傷つき倒れ伏す縁と空をあざ笑った半人半妖。そして縁がいなくなり、空に病を植え付けた諸悪の根源。なぜ気付かなかったのかと、自分を笑いたくなる。それを排除してしまえば、もしかしたら、縁は帰ってくるかもしれない。

「あはっ」

 わかってしまえば簡単だった。怨嗟の声も聞こえず、影ももう落ちていない。頭から手を離し、ゆっくりと起き上がり、ふわりと浮かぶ。顔には正解を得ることができた、見た目相応の子どもの笑みが張り付いているが、もしこいしを見ていたものがいるならば、第三の目が震え、見開かれた対の瞳からは意志の光が徐々に消え失せていくのが認められるだろう。
 無意識故に、子どもの如く、不安なものを排除する。
 どれだけ変わろうと、縁という稀有な存在に出会おうと、それだけは未だ変われなかった。

 

 河城みとりは長屋の上を歩いていた。長屋という建物とそこに住むものに対し、人を寄せ付けないみとりとしてはなぜ好き好んで同じ屋根の下のような場所で暮らすことができるのか理解できなかった。
 そして何故自ら嫌う筈の長屋の上にみとりがそこにいるのかと問われれば、それはみとり本人もよくわかっていない。外の世界のものと思わしき車輪つきのものが散々弄り回しているのに上手く動いてくれない、ということに対するストレス発散目的のための散歩、というには少々こじ付けがましい。みとりはインドア派だ、加えて他のものとあまり馴染もうとは考えていない。
 たった二つの事柄が頭の中で妙にこびり付いてしまっていて、それを振り払うのにいつもとは違うことをしているのだ。
 一つは、あの星熊勇儀、古明地姉妹との話し合いに乱入してきた動物からもたらされた、人間・中邦縁の失踪の報。あの場から最初に動いたのは勇儀、その次に屋敷に戻る古明地姉妹、そして取り残されたようにみとりは最後までいた。他の三者の動きが速かったからか、嘲る暇すらなかったというべきか。
 家への道を歩きながら、所詮は人間だなと内心嘲笑してやった。そして同時に、人間なぞ信じるからこうなるのだ、とあの場にいたものたちに毒を吐いておいた。みとりの思惑通りにことが運んだといっても過言ではない。妖怪と自分の命を人間の前に示せば、必ず後者に食いついてくるとみとりは知っているからだ。
 それは経験則だ。みとりは地底に来る以前、ある程度妖怪と仲のよい人間に見つけては、その人間と妖怪を追い詰め選択を迫った。その度に人間は己の命を選び、妖怪を捨てた。妖怪の方がまだましだ、中には人間と同じ選択をするものもいたが、しかし自ら命を差し出してくることが多かった。人間と仲良くなろうという輩に限って他の妖怪から見て変で、妙に義理堅い。みとりは、選択を選ばせたたびに、人間だけを殺すか、両方を殺した。そのころには既に開花していた能力がそれを可能としていた。
 勿論限度は見極めていた。里の守護者やみとりと同じ半妖の青年など、ある程度交友関係の多いものに手を出せば危うくなるものには近づかず、それこそひっそりと交流を重ねる、みとりの両親たちと同じようなものたちを中心に狩りたてていった。
 だがそれでも結果は変わらなかっただろう。みとりは心の中でそう結論づけていた。
 ならみとりがすることは、これまで通り変わらない。命乞いをし、数分前まで友と呼んでいた妖怪を差し出す胸糞悪い人間たちの顔を死の色に染め上げるのと同じように、中邦縁という人間を殺すだけだ。現われなかったら、代わりにあの妖怪の死にざまを嘲笑ってやればいい。実に単純だ。
 一つ目の案件に軽く決着をつけ、もう一つの事柄に思考を割く。覚えていた夢の内容だ。
 こちらはまるで見当がつかない。手を叩かれ拒絶される夢ならば腐るほど見てきたが、母親が誰かと口論をしていることなどは、腐るほど見てきたことではあるが、夢の中では初めてだった。ましてや、自分一人が稲穂の原で寝そべっているなど、まずありえないし、記憶にない。くわえて、その中で声が聞こえ、幼い自分が答えているなどというのは、考えられない。

「……外の世界の本にはたしか、夢は記憶の整理だって書いてあったけど、この分じゃ嘘偽りみたいね」

 いつか前に拾った本の内容を思い出して声に出してみるが、いまいち納得はできない。たしかに悪夢として自らが排除される夢を何度も見ているが、それもまたおぼろ気であるし、記憶というよりも心の中にある自らの行動理念の再確認に等しい。だからこそ、それとはまったく関係なくかつ機械関連のことでもないのにあの夢を見た事はおかしかった。

「けど、あのクソババがクソジジイと言い争ってたのは少し覚えてるし……」
「あ、おーい、そこの赤い人ー! ちょっと手伝ってーっ!」

 自らの夢への考察をひたすら重ねていたみとりに長屋の下から声がかけられた。気付いたが、無視しよう、とみとりはそのまま聞こえなかったフリをして歩き続ける。

「って聞こえてないのぉ! この距離からじゃそんなわけアルマジロでしょ! たーすーけーてー!!」
「……や、ヤマメさん、そんな恥ずかしく大声を……」
「だって誰も通りかかってくれないじゃない! あー、この際プライドは抜きっ! 何でもするから助けてっていってるサル!!」
「そ、それは人に物を頼む言い方じゃないですよ?!」
「………はぁ」

 あまりにも五月蠅いせいか、ついつい声の方を振り向いてしまったみとりであるが、すぐさま眉をひそめて、何これ、ふざけてるの、と呟いてしまった。眼下では少女の入った桶が桶に挟まっているという、会話と同じく珍妙な光景があったせいだ。小麦色の髪をした土蜘蛛が少女の入った桶だけを何とか外そうと、少なくとも女性とは思えない足の使い方でがっちり嵌った桶を抑えていた。
 見なかったことにしたかった、と先ほどまでのしこりとはまた別の鬱そうとした思いを溜息と共に吐きだし、屋根から飛び降り、軽い音を立てて着地。土蜘蛛が何かを言う前に、用件を終わらせてしまおうと能力を使う。一方通行、と少女/釣瓶落としの入った桶が引っ張られる力と嵌る桶の反発力の方向を一方面のみを残して禁止し、みとりは土蜘蛛が持つ桶とは反対方向のものを持ち、軽く引っ張った。
 その瞬間、すぽんと桶から桶が勢いよく外れた。

「「ぬわーー!?」」

 ごろごろと転がっていく妖怪たちがあられもない恰好で止まるまで見ていた後、みとりはなし崩し的に持っていた桶を放り投げ、くるりと背を向けた。何か知らないが興が削がれた、と散歩を止めて帰路につこうとする。しかしみとりの背後で他の妖怪には決して見せられないような恰好で転んでいた土蜘蛛が、目を回した釣瓶落としを抱えたまま勢いよく立ち上がると、背中を向けたままのみとり向かって声をかけた。

「いやー、ごめんごめん、助かった! けどさすがに何するかは一声かけてほしかったよ!」
「……助けてあげただけマシだと思ってよ」
「だからそれは礼をするって、この子の休憩がてらどっかで奢るから! あ、私は黒谷ヤマメ、でこの子はキスメっていうの、よろしく!」
「よ、よろしくお願いします」

 一息に礼と挨拶をしてのけた土蜘蛛、黒谷ヤマメと桶の中で小さくお辞儀をする釣瓶落とし、キスメを横目で見ながら、厄介なタイプを助けてしまったとみとりは自身の行動の浅はかさを呪った。友人以前に、知りあいすら作る気がないみとりとしては、このようにずかずかと懐に飛び込んでこようとする手合いは苦手であった。例外は旧地獄に来た当初から付き合いのある勇儀ぐらいのものである。
 だからこそ、みとりはどうやってヤマメから逃れようか目を合わせずに思案し、同時にもっとも適当だと思われる、生返事をしながら歩き去る、というのを実践する。考えるのはまた別の案だ。そのあからさまにそっけない態度をとるみとりに向かって、気にしないかはたまた分っていてフリしているのか、キスメの入った桶を抱えて、隣りを歩きはじめるヤマメは言葉を重ねる。

「いやー、今日は建設仕事の非番だってのに頼まれごとのついでに降りてきたから帰りに色々遊ぼうってことで無茶しちゃってねー。珍しくこっちまできてみたけどこんな災難にあっちゃうし、あの中邦って人間の子はいなくなったって聞くし、どうにも面倒なことばっか起きてね~」
「……あ、そう」
「それでその関係か何か知らないけど勇儀様に呼び出されて、おかげで緊張しちゃったよ」
「…そっ……? 呼び出し?」

 ヤマメの言葉の中にある、自らの胸裏に溜まる澱をかき乱す断片に、思案が口を動かしオウム返しにみとりは問う。ヤマメはようやく引っ掛かった、としたり顔を一瞬浮かべたが、すぐに下顎を片手で撫でるといういかにも考えているというポーズをとって唸り、しかし目だけは笑って気楽な調子で零し始めた。

「誰かが最近地底の洞穴から地上に出たかってこと、ずっと前に伊吹様が出て以来誰もいないんだけどねぇ」
「……ふ~ん、そう」

 もたらされた情報はみとりにとっては意味のあるものだった。そっけなく返事をしたが、みとりは心中で縁が本当にどこに消えたかを推理する。ヤマメの証言から、これで縁が正攻法でかつ唯一とも言える地上と地底を繋ぐ道から出なかったことが決まった。そうなれば縁はまだ地底のどこかにいることになる。しかし旧都のどこかにいれば既に勇儀がその情報網から見つけていてもおかしくはない。そうなれば尋常の場所でないところだと考えるのが筋だ。
 すぐにみとりが思い浮かぶのは『未来の遺跡』や地底湖に繋がる迷宮だ。あそこならば地上付近までいく必要もないし、様々な障害はあるものの隠れようと思えばいくらでもいられる。身を隠すには打ってつけだ。だがすぐに、果たして飛べない人間がどうやって『深道』まで上がるかという問題も残る。みとりはたった一度の戦いから、縁が飛ぶことができないことを看破していた。
 もう一つは地霊殿地下にある灼熱地獄跡。地獄跡の名所は他にもあるが、地理の面で人間でもいける場所となるとあそこ以外は存在しない。問題は、ただの人間が住む環境では決してなく、またその場所は古明地さとりの管轄下にあるため、隠れ続けることは不可能だということだ。
 
「……もうちょっと詳しく聴かせてくれない?」
「はいよ、んじゃちょっと場所変えよっか。カレーていう珍しいもの食わしてくれるとこ知ってるから、そこに行こう! キスメもそれでいいよね?」
「ヤマメさんがいいなら、そこでいいです」
「それは任せるわ、ついでに奢ってもらえれば上等よ」
「それぐらい任せてよっ」

 気分をよくしたのか鼻歌を歌ってみとりの前に歩きはじめたヤマメのポニーテールとぶらぶらと揺れるキスメを見ながら、どうして自分はこうして動いているのだろう、という疑問がまた浮き上がった。浮き上がるだけで、考える気は今はなかった。ただ、今は小腹が空いてるし情報も得られそうだから丁度いい、という打算的な思いだけがあった。
 ヤマメの案内でそのまま街を歩く。ヤマメには様々な妖怪が朗らかに声をかけ、そしてヤマメもまた調子よく返していく。それだけでヤマメという人気者の一端をみとりは見抜き、益々自らの行動を後悔し始めた。同時に警戒心もまた強くなっていく。
 それはみとりに向けられる視線のせいだ。種類は四つ。まず好奇心によるもの、みとりを知らず、ヤマメの傍にいた何者かを探ろうとするもの。次に疎ましさ、みとりというものの存在を知り、その在り方を知っているが故に、なぜここにいるのかという疑心も混じったもの。この二つはまだマシな方だったが、残りが非常に面倒なものだ。
 三つ目は敵意、二つの理由の中に入りそうだが、恐らくは人間や地霊殿の妖怪たちとのイザコザを知って、みとりを敵視し始めたものだろう。最後は三つ目とは対照的で、かつみとりがもっとも嫌う卑屈な好意。これは先日のイザコザを知った上で、元々鬼や人間、地霊殿のことを敵がい心したり疎ましく思っていたものが、みとりのことを評価し、陣営や派閥に取り込もうとする輩だろう。
 人づきあいを嫌うみとりにしたら、卑しい感情のもと群れの中に取り込まれるような目に会うなど、それこそ人間に喧嘩を売られることに匹敵する嫌悪だ。
 軽率だったと改めて悔いるが、しかしふと臭いを感じ取ってそちらに思考を持ってかれた。嗅いだ事がないはずなのに、どこか懐かしく、頭の中に何かが引っ掛かった。いつの間にかみとりの家の付近に似た路地の裏側に入りこんでおり、視線の数は減っていたが、みとりにはその初めて嗅いだはずなのに、しかし不思議と食欲をそそりデジャビュを覚える匂いの元を求めて気付くのに数秒の間を置いた。

「着いたよ、此処ここ。キャプテーン、いるー?」

 ヤマメは『かれー屋キャプテン』という暖簾のかかった店に友人の家にでもあがるような気軽さであがり、みとりも仕方なくそれに続いて店内へと入った。その途端、先ほどまで漂っていただけの香りが全身を包み、みとりの身体から警戒の文字を奪った。
 いつも外に出るときは纏っているそれを剥がされたことで一瞬ぼうっとしたみとりだったが、すぐに正気を取り戻して思考と注意の心を取り戻し、店内を観察しだした。内装は土間にあがるような形式ではなく、全てカウンターと席で構成された居酒屋だ。棚の上には徳利や瓶、壺の代わりに数珠や巻物らしきものが置かれているのが目を引く。
 カウンターの中にいるのは白い服とセットの帽子を被った妖怪、いや幽霊だ。エプロンをつけて香りのもとである大きなナベをお玉でゆっくりと回している。店内にはちょうどピークを過ぎたのか、それとも元々閑古鳥が鳴いているのか客の姿はなかった。

「ヤマメにキスメね、いらっしゃい……それとそっちは初めてですね、『かれー屋キャプテン』へようこそ。私は店長兼コックのキャプテン・ムラサと申します」
「……河城みとりよ」

 人間嫌いでも、みとりは妖怪になった亡霊まで殺すような気はさすがにしなかった。カウンターの端の席に座り、そこでもうムラサのことを視界から外し、ヤマメに目で話の催促をする。しかしヤマメはムラサの正面席に座るとキスメの桶を台の上に置き、一緒に品物札を見て何を頼むか悩んでいた。
 この様子では無理だと思い、仕方なくみとりも札を見る。全てひらがなで書かれたそれは右から『のーまるかれー』『はいえんどかれー』『ねくすとかれー』『くびわつきかれー』と並んでいた。とりあえず、無難そうな『のーまるかれー』を頼むことにする。

「のーまるかれー一つ」
「はいよっ」
「あ、それじゃあ私はねくすとでっ!」
「は、はいえんどをお願いします」
「あらら、誰もくびわつきに挑戦しないのね」
「あれはもうコリゴリよ」

 ヤマメは苦い顔をしてムラサを見上げ、キスメもまた何かを思い出しているのか、舌の感覚がなくなりました、となぜか赤い顔をして呟いている。もしや辛いものなのかとアタリをつけていると、ムラサが手際良く釜からご飯を広い皿の半分を埋めるように盛り、その残るスペースへと、あの鍋の中に入ったいたスープをかけた。トロリとした茶色のスープにはニンジンや牛肉、ジャガイモ、タマネギが大胆なカットで入っており、茶の中でひそやかな自己主張をしている。

「はい、のーまるかれーお待ち!」
「……これだけ?」
「そ、これだけ。あ、水とスプーンを忘れてましたね」

 みとりの前にぽんと出されたカレーを前に、普通の店ならばもう少し時間がかかるものではないのか、と当然の疑問を浮かべるが、さらに水の入ったコップとスプーンが配膳されたのを見ると、これだけのようだ。手抜きかとも一瞬考えたが、しかし皿の上に乗るものから漂う独特の香りは、それが自らの究極の姿であると声高に叫んでいる。スプーンをとって、白米とスープの間の部分を掬い、ごくりと生唾を呑む。そして、一息に口に運ぶと、途端に口内から鼻へと匂いと辛みが突き抜け、むせかけ、噛まずに飲み込んでしまった。
 ぷはっ、と息を吐いて、辛い、と呟いた。しかし手は勝手に新たにご飯とカレーを掬い、口へと運ぶ。今度は辛さに耐えながら、ゆっくりと咀嚼する。口の中で何とも言えない味わいが広がり、先程呑みこんでしまったものが喉元を熱くする。目はいつの間にか涙を湛え、顔も高揚していた。辛さのせいだ。しかし深い味が深淵に隠れ、舌で感じ、歯で噛むたびに五感が読み取っていく、言葉にしがたい辛さだ。

「気に入ってくれたみたいですね」
「ふっふーん、ここ紹介した甲斐があるね~」
「はふっはふ……か、辛いです……」

 そのみとりの様子を満足げに見つめるムラサに、意地悪げでしたり顔をしたヤマメ。キスメは我関せずと自分の分のカレーを食べながら口を赤くしていた。ヤマメの言い方に妙に年下扱いされていることに不服を覚えたが、しかし旨いと思うのは確かであり反論を返そうにも返せなかった。気恥しくなって、またカレーを一口食べる。ヤマメに聞く事が残っているが、今は食べる事に集中することにした。

「それにしても、ヤマメがウワサの子と一緒にくるなんて思わなかったわよ。どういう経緯で知り合ったの」
「いやー、何かさっき困ったことがあってねー、そん時助けてもらったからお礼ってとこだよ」
「つまり、まだ知り合ったばっかりってところね……大方、またキスメを振り回しすぎて厄介事をぶち当たったってとこ?」
「そ、そうなんでひゅよ~」
「むむ、そりゃ確かに厄介事には突っ込むけど、そんな頻繁じゃないよ」
「はいはい、そう言いたいならキスメの桶の傷を減らしてからね」
「ぐぬぬぬ……」

 和気藹々とした談話が聞こえてくるが、みとりはそこに入らなかった。元々の性格もあるが、しかし今はそれ以上にカレーという食べ物を一口一口、丹念に身体の中に染み込ませていくことに必死だった。それは身体の内側にある何か急かされることに似ていて、自然と食べる速度があがっていく。その一心不乱な様がどこか気になったのか、ムラサがみとりの皿を見てまた嬉しそうに笑いかけ、そして怪訝な顔に変わった。

「そんな辛かったかしら?」
「別に……許容範囲よ。悔しいけど、美味しいし」
「な、泣くほど、ですか?」

 おずおずとした物言いでキスメが指摘すると、みとりは初めて自らの目から止めどなく涙があふれていることに気付いた。あれ、と自身への問いかけに似た呟きを零し、眼元を拭う。拭った甲が濡れていた。どうしてだろう、という疑問とともに視線を下に落とすと、スプーンの動きが止まり、皿の上に落ちた。
 食べかけのカレー。茶と白の住み分け。しかし頭の中にある何かが、茶色の中にさらに赤を混ぜようとする。どこか食べた事のある味にしても、違う。味が、辛さが、まったく違う。あれはもっと赤く、単純で、焼けるようだった。子どもの味覚には厳しいものだった。
 それでも頑張って食べた。褒めてほしかったから。
 誰にだ、疑問の声が胸中から聞こえ、イメージがさらに奥底から溢れそうになる。ハレーションしかける頭は目からより液体を流すことで抑えようとする。しかしみとりの中にある他者への意識が涙を抑えようと両手で目を塞ぐ。それで止まるわけではないが、直接見られるようにはましだと、冷静を欠いた赤河童は思った。
 
「ちょ、ちょっと大丈夫?」
「っ、さ、触るな!」

 かけられたヤマメの声と手を反射的に振り払った。その勢いが反射的だったゆえに加減が利かなかったのか、二人の手のひらは赤くなるほどの力が籠っていた。みとりの豹変ともいえる態度に泡を食ったような顔を浮かべるヤマメとキスメだが、しかしヤマメは弾かれた手を一度見て、そしてはぁ、と溜息をつき、微笑を作ってみとりへとまた手を差し出した。

「あー、何かすまなかったね。それより、紙でもいる?」
「いいわ、別に……今日は、もう帰るっ」

 それだけいって、みとりはヤマメの手を無視し、顔を両手で隠しながら店を出た。背中から「ツケにしとくよ」という声が届くが、頭の中には入ってこない。
 誰かが先ほどから、カレーの匂いを伝って囁きかけているのだ。いや、囁きのような小さな声であって、それは本来もっと大きな声だ。子どもが精いっぱい張り出す声。だからこそ元となる匂いから離れ、ひたすらに、闇雲に歩き続ける。その間中、声以外にも、フラッシュバックのような映像が脳裏を掠めていく。
 木製のスプーンで先ほどのカレーによく似たものを一生懸命食べながら、笑顔を浮かべる自分。それを優しげな眼差しで見つめている二対の目。
 河城みとりはその眼が誰のものかを知っている、河城みとりだから知っている。嫌になるほどの現実/排除の構造に出会おうとも、最初の最初にこびり付いている記憶。自意識が生まれるよりも前にある、肉体や個の経験。それが降り積もった“みとり”の中から急に這いだしたことで、未だ整理がつけることができない。
 その状態の赤河童の進路を、複数の影が塞いだ。さすがにそれには気づいて、みとりは足を止め、現実へと意識を復帰させる。途端に“みとり”が再構築され、イメージと声がわずかながら遠のいた。だが、不愉快なほどに残滓はある。
 
「河城みとりさん、だね?」

 不愉快を隠さず、みとりは舌打ちを打って空を飛び、彼らの上を越えようとした。しかし影が落ちて、頭上にまた妖怪がいることを察する。河城みとりを形づくっていた経験が自然と妖力を放つ。するとみとりへと声をかけた妖怪が慌てたように両手を振って、弁明を告げてきた。

「そう警戒しないでくれ、我々はキミの味方だ」

 その物言いにみとりは一瞬目を丸くし、そして笑いだした。代表らしく妖怪以外のものが高々に笑い声を出すみとりに対し、隠そうとしていた警戒心と不快感を怒気と殺気に変え視線にのせてぶつけるが、しかしみとりは逆にそれが笑いの種となって、終いには笑い転げてしまった。
 代表の妖怪は、みとりの笑いが収まるまで待った。そしてみとりはその間に、既に忌み嫌われたものの在り方を取り戻していた。匂いがまだ残っていようと、もう温かな声は聞こえなかった。

「突然ですまないが、我々は……」
「ふん、どうせ星熊勇儀が人間を襲いに地上にいけないからと邪魔だから、一緒に排除しようっていうんだろ? ついでに、あわよくば地霊殿の連中の糾弾も手伝わせようって腹積もりかな?」

 嘲りの形に口元を吊り上げると、その妖怪はみとりの想像通り、若干うろたえたが、すぐに気を取り直して、意図的な無表情で話しを続けようとした。すぐ後ろの取り巻きが陰で話し合いを始めていた。

「……察しがいいな、ならば」
「そんなの、わたしには関係ないね。妖怪なら妖怪らしく好き勝手に、独りで、気ままに、碌に深く物事を考えず、そして見て見ぬふりをしながら生きてればよかったのに。何さこんな半人半妖を寄ってたかって取り囲んで……人間並に下等だね、あんたらは。そんなのだから、鬼に抑えつけられるんだよ」

 相手が鳥肌が立つような文句を垂れ流す前に、みとりは自身の本音を思う様吐き出して、そしてゆっくりと、見せつけるように、懐から一枚のスペルカードを取り出した。

「今日のわたしは虫の居所が悪いんだ……あんたたちには、あの世経由で御帰り願うよ」
「……この人数差で、半人のくせに生意気をっ」
「言ったな? ならば見せてあげるよ、わたしが今日まで生きてこれた証を! さあ、おいでっ!!」

 そうして、ただ一言、謳うように、そのスペルを解き放った。
 ソルディオス、と。



 あとがき

 難産おぶ難産、本当はもっと短いはずだったのですが……暗いしみとりん大暴走ですし、収拾つけられそうにn(ry
 そしてまたまたオリスペカ(?)が出そうですが、説明は次回以降になります……さぁ、みんなでみとりんのことを変態って呼b(AMS光
 縁来てー、早く来てー



[7713] 第二十一話――ピザ<ノーカウント、ノーカウントだ! 
Name: へたれっぽいG◆eaa9c481 ID:f33d8d16
Date: 2011/03/22 02:09
「なんでこんな時に限ってみんな出てるのよ、もうっ!」

 火焔猫燐は地霊殿を走っていた。灼熱地獄跡から出てきたばかりなのか、その体には僅かに人の焼けた臭いがついており、二つのみつあみは死人の灰と土埃で汚れていた。しかし地霊殿を駆ける姿にはそれを気にする余裕などはなく、頭にあるのはようやく掴んだ情報と、それを伝えるべき相手の姿だ。
 つい先ほど、聞き込みをさせていた怨霊の一つがある情報を引っさげて戻ってきた。それによると三日前、ある怨霊が遠目であるが、この灼熱地獄跡にはまずいない生きた人間の男が、不思議な白い鳥に捕まった直後、どこかへ消えたというのだ。
 燐にはそれだけで充分だった。三日前以前に、この灼熱地獄は地霊殿が出来てから生きている人間が入りこんできたことはないからだ。必然的に、それは縁しか候補は残らない。さらに白い鳥に関しては、旧地獄が本来の地獄であったころから住んでいる燐でも、一羽しか知らない。

「フレッチャー、何のつもりよっ……」

 何が無限の意思だ、などという罵りが次々と口から出てくる。思えばここ数日姿をまったく見ないことがおかしかったのだ。確かにあのカモメが断りもいれずいなくなることはあるが、厨房などにはその前兆のようなものが見えることがある。燐たちの知る限り、フレッチャーが定期的にいなくなるのは地底、いや幻想郷では手に入らない珍味の確保のためだ。古明地さとりの読心でもそうだったと聞いている。
 だがそれでも今回はまだわからない。少なくとも、みとりとのいざこざが始まった日の朝食時はいつもの整理整頓された厨房だった。それはつまり、いつでも自由に調理器具を引き出すことができる状態だ。
 これが行方不明となる前には決まって器具は埃のつかない場所に、そして生ものなどの痛みやすいものは全て処理されている。ただ忘れたかそれともできない理由があったのかなどという、それとも縁を連れ出した際に起きたなどの不確定要素を含めても、現状はオックスフォードグレー、限りなく黒に近い灰色だ。
 しかし状況の推理をいくらしても、連れ出した理由のほうはまるで検討がつかなかった。そもそも口数の少ないフレッチャーからしてその行動理念は料理以外では燐には理解できない。だが今の状況が状況なのだから、禄でもない理由だと決め付けておく。

「それよりも早く、さとり様を……」
「ふん、あいつがどうした?」

 声がどこからか聞こえた途端、燐は走る勢いを利用して跳び、くるくると回転しながら四足で着地、威嚇態勢をとる猫のように身を低くして周囲を仰ぎ見た。声の主は存外近くにおり、右翼には幾重もの竹で編まれた桶を持って、その中を覗き見ている。件の人物、いや鳥が、相変わらずの傲岸不適な調子で浮かんでいた。

「フレッチャー……!」

 燐は自分の目が先ほどよりも険しくなるのを自覚していた。だが、それが仇を見据えるようなほどまで鋭くなっていることには気がつかなかった。

「あんた、どうして中邦のやつを連れ出したりしたのよっ。明らかにあんたの嫌いな面倒事じゃない」
「……なるほど、知っているか。まぁたしかに面倒であるし……この様子だと、こちらも面倒なことになっているようだがな」

 フレッチャーの視線が周囲を観察し、最後に燐を捉えて、また桶の中へと戻り、おもむろにその口ばしを突っ込んだ。瞬く間に顔を引き上げたときには、先端にミミズの一匹を咥え、飲み込んだ。そして、いかにも不味いと言いたげに目を細めた。
 その様子は、燐の意見や、今地霊殿に起きていることなど些細なことだと言いたげだった。燐の口の中で、かみ締められた歯が軋んだ。

「ちっ、やはり今年はハズレだな。あそこの土地も痩せたか」
「っ……こっちの言う事も、聞きなさいよ!」

 激情に駆られ、弾丸のように白いカモメへと襲い掛かった。身体能力だけでも、大型肉食獣のそれと同等かそれ以上のものを持ちうる妖怪の、全力の跳躍。ただの鳥であれば、そのまま捕らえて燐の胃袋に直行だ。事実、容疑者を前にした燐もそう考えていた。
 しかし無限たる意思の体現者は、空いている左翼を燐の前へと突き出して、その先が触れた途端、ぐるりと回転し、自らの質量の何倍もある相手を絡め取り、天井へと投げ飛ばした。かはっ、という息が燐の口から漏れ、固い床へと落ちようとするが、その直前でフレッチャーの羽の何枚かが再び燐の体に纏わりつき、いかなる力か、重力を軽減し優しく着地させた。

「落ち着け、妖怪が自らの精神を制御できなくてどうする」
「はっはっ……誰の、せいよ、誰のっ!」
「……ふん、たった一人の人間相手によくもまぁそこまで執着できるな」
「うるさい! 気に入ってるのはこいし様だけよッ!」

 立ち上がりつつ、余裕でも油断でもない、ただ自然体であることを崩さないカモメを睨み上げる。叫んだ言葉は些か空疎だった。

「まぁ、いい。小僧は今手が離せんし、連れ帰れもせん。のたれ死んでるかもしれんがな」
「だから、死なれちゃ困るのよっ!」

 こいしの縁に対する入れ込みようとその反動はこの三日間、一度でもその姿を見るものがいれば察することができたほどだ。それでもし、本当に縁が行方不明でなく死んだということになれば、一体どうなってしまうのかまったくわからない。消滅するか、はたまた無意識の奥に秘められていたものが出てきてしまうかもしれない。どう転ぼうと、暗い影が落ちているのだけは、わずかでも思慮が働くものには理解できていた。
 だから燐は、ここで犯人と特定できたフレッチャーから、絶対に縁の所在と、命の有無を聞かなければならなかった。そこに自らの激情が混じっているのを自覚せず。

「もし中邦が死んでたら、誰がこいし様のイドを止めるってのよ! あんた責任とれるの?!」
「責任? 責任といったか貴様?」

 その瞬間、フレッチャーは笑い出した。普段のイメージからはまったく考えがつかぬ、高々と響く笑い声。しかしそれが嘲りに満ちたものであると気づくと、燐は再び激昂した。

「何がおかしいのよ!」
「おかしくて当然だな! 人間が生み出した言葉に支配されるほど、お前らは変わったのか? それともそこまで人間的であるからこそ捨てられた地獄にいるのか? そんなものは自由意志を阻害する重しに過ぎん。そんなことを言ってれば、お前らはいつか飛べなくなるぞ」
「っ、戯言はいいのよ! それよりも、中邦はどこよ!?」

 聞いてはいけない。フレッチャーの言葉に込められたものが火焔猫燐の中にある何かを突き崩そうになるのを、戯言と言って切り捨て論題を元に戻そうとした直後、フレッチャーはしばし燐を見下ろして、仕方ないと呆れたように顔を振ったが、突如あらぬ方向を振り向いた。その先にあるのはひび割れた壁であるが、しかしその視線はその先にあるものを透かし通していた。

「……どうしたのよ」
「……これは、面倒なことになったな」
「はぁ、何言って……っ!?」

 燐が問いかけた瞬間、フレッチャーの白い姿は消え、残された桶だけが重力の存在を思い出したように床に落ち、中身のミミズたちを市松模様の上にぶちまけた。その音も消え去ると、後には燐の呼吸音しかない。いったい何なのよ、と燐は身を翻して近場の窓を開け、外に飛び出してフレッチャーが見ていた方角を、ざわりと肌が粟立った。

「何よ、あれ……」

 視線の先、繁華街の南地区の方角から、鮮やかな緑色の柱が立ち昇り、燐はかつて迷宮の奥深くで見たあの理解不能の光景の中で味わったような、妖怪にすら怖気をもたらすものを感じた。



 第二十一話『ゆれる』



「うーん、接し方が悪かったのかなぁ、泣かせちゃったし」
「ヤ、ヤマメさんのせいじゃないですよ! あ、あの、たしかにヤマメさんはいつも厚顔無恥で無神経でおばさん臭くてふにゅーーーっ」
「キースーメー、その無自覚毒舌は直した方がいいっていつも言ってるよねぇ?」
「ほ、ほひぇんなひゃいぃ」

 みとりが出ていった後の店内で、カレーを食べ終えたヤマメは、自分の対応が間違っていたかと項垂れていたが、その傷口にワサビを塗りつけるようなことを言った妹分にお仕置きとして両頬を引っ張っていた。キスメの肌はとても良く伸び、小人然とした姿と相まって、童女が生意気な口をきいて姉に怒られている図にしか見えず、残った食器を片づけながらムラサは微笑を零しつつも、どこか懐かしむような眼をしていた。
 しかし次の瞬間、響き渡った爆音と衝撃に店内が揺れ、手から逃れた皿が地面に落ち、四散した。

「ちょ、ちょっと今の何! スペルカード!?」
「ひゅ、ひょごい音だったですよ」

 席に座っていただけの二人は特に怪我はなく、むしろ音の原因を探ろうと椅子から跳び上がり、今にも暖簾を潜って飛び出してしまいそうだった。だが、揺れに動転して気付けなかった、いや遅れて伝わってきたというべき妖気を感じ取り、わずかに勢いを止めた。
 
「これは……本当にスペルカードなの? それにしても、何か……混じり気が、多い」

 ムラサは自らが零した言葉に自信が持てなかった。妖気のようであって、そうではない。友人に正体不明を売りとする妖怪がいるが、それとはまったく異質の気配。まるで、まったく別のものを無理やり妖気に変えているような、不安定でいて、嫌な胸騒ぎを起こさせるものだ。

「ちょっと様子見てくる!」
「あ、ま、待ってくださぁい!」
「っ、二人とも、軽率ですよっ!!」

 ムラサと同じものを感じているはずの二人が好奇心に負けて飛びだしたのを慌てて止めようとするが、しかし時既に遅く、二人の姿は店の中から消えてしまった。ムラサは一度、店内を見回し、棚の上の品が落ちていないことを確認してから、二人の後を追って店から出る。
 途端、風が吹き抜けた。熱した風。炎を扱う妖精か妖怪、はたまた地霊殿の蓋の調整がうまくいかなかったのか、という当然の疑問は、路地に開けられた巨大な円の空間とそこから天に向かって昇る光の柱に吹き飛ばされ、言葉を失った。
 家々の破片をまき散らす柱は緑色に輝き、根元には直径があの一本角の鬼と同サイズの巨大な黒い球体があった。傍らには、通行禁止と書かれたひし形の突起がついたポールを持って一人佇む、河城みとり。
 
「なんだ、これ……」

 ムラサは無意識に呟いた声は、小動物のように震えていた。別にこの破壊の形跡がそうさせたのではない。この規模ならば、鬼ならば当然でき、ある程度の力がある妖怪ならば誰しも可能だ。
 しかし周囲に満ちる濃厚な、異質な妖気が、これがただの惨状ではないことを六感が告げていた。その勘にも等しいものを信じ、みとりの周囲を見れば、緑色に焼けた、としか形容しようがない色となった妖怪たちが死屍累々と倒れていた。

「ちょ、ちょっとっ! みとり、これ一体どうしたのっ!?」

 ムラサが怖気づいている間に、ヤマメが大声をあげて、爆心地の中心にいたみとりへと問いかけた。みとりはしかし、答えない。口元を歪ませているだけだ。それに先ほどの件もあるのか、業を煮やしたヤマメは円の中に踏み込んでいく。浮かんで追い掛けてきたキスメとムラサが止めようとして声をかけかけるが、それよりも早く、倒れていた妖怪の一人がよろよろと起き上がり、みとりと黒い球体を憎悪の色をした眼光で睨みつける。
 ムラサたちは言葉を失った。その妖怪の横腹に大穴が穿たれているからだ。だがそれだけならば、驚きはするがまだ言葉を失うほどではない。しかしその穴の周囲から緑色の光が零れ、それが増えると共に、風穴が広がっているのだ。みとりはそれ見て、嘲弄を露わにしていた。

「キサマ……それは、何だ?」
「何、ただのスペルカードと、使い魔だよ? 女の子らしいでしょ」
「ふざけるな! こんなものがただの使い魔であってたまるか! なんだこの傷は、なぜ塞がらない!?」
「そりゃそうさ、ヘタな妖怪なんかペシャンコになるようなケガレを浴びたんだから、その程度で済んでる方がマシよ」
「ケガレ? これが、ケガレだと? こんな気味の悪い一色のものがか!?」

 妖怪の男が苛立たしげに、しかし隠しきれない動揺を滲ませて呟く疑問は、ムラサたちの心情を代弁していた。
 ケガレとは妖怪たちが誕生する理由の一つでもあり、または存在理由でもあり、食糧でもある。ましてやその濃度や混濁具合はかつて地獄であった地底は地上とは比べ物にならない。だからこそ不思議なのだ、そんなものをぶつけられた程度で、果たしてどうして妖怪が傷を負い、火傷をし、体を欠損するのか。
 みとりはほくそ笑み、その妖怪を軽く押した。それだけで妖怪は後ろに倒れ、半人半妖の少女を怯えた光を瞳に称えて見上げる。みとりの傍らに浮かんでいた球体が、ゆっくりと、丸く小さくへこんだ、巨大な単眼にみ見える部分をその妖怪へと向けた。そして、それを為した少女は、出来の悪い生徒に丁寧に教えるように語り始めた。

「そうだね……これがただのケガレだったら、妖精やあんたらのエサになってしまうよ。けどこれは、ただの人間から生まれたケガレなんかじゃないさ……いや、人間の可能性そのもの、かな」

 ケガレを生み出すのは主に人間だ。人間の魂とコミュニティから沈澱したものの一部がそれであり、清め払うことはできても、その存在が新たに生み出ることを阻止することはできず、その性質そのものを完全に変えるなど出来はしないはずだ。それとも、まったく別のケガレを生み出すほどに、地上の人間は変わったというのだろうかと、ムラサはみとりの口上から読み取ろうとしたが、しかし居酒屋もどきをやっている都合上、よく聴く愚痴の中に、地上付近のものから語られる話から地上の民はそこまで変わっていないことを思い出し、違うと断定した。
 ムラサのその考えを読んだように、みとりは謳い続ける。

「人間は自分たちが人間であることも忘れちまう……そういう奴らの落としたケガレさ」
「人間が人間であることを忘れる? そんなアホな話あるの?」

 当然ともいうべきヤマメの呟きは、しかしみとりには届かなかった。妖怪や神は自身の存在理由を知っている、幻想郷の存在と、スペルカードルールがそれを物語っている。幻想は幻想であるからこそ、自らの実存を忘れることはない。もし忘れるようなことがあれば、それは変質か、はたまた消滅に直結するものだ。
 だからムラサたちは、それは人間とて当てはまるだろうと考えていた。妖怪にはおよそ考えもつかぬことだからだ。

「ま……貴方たちみたいな奴らには一生わからないことでしょうけど……今あるのは、この力にひれ伏すこと、それだけよ!」

 叫びが合図であったように、球体に細かく刻まれたマトリクスから緑色の光が漏れ出し、丸く小さなへこみからもまた緑の色が溢れ出した。いや、それは内側からその部分に向けて溜められているというべきか。時間が経つたびに目玉の部分から溢れる光が強く大きくなっていく。
 そのままであれば、緑の光は開放され、この光景を生み出したであろう一撃が再び放たれるだろう。しかも今度は、弾幕ごっこの領域を越えた、妖怪の消滅という解をもって。

「このっこっちの話も聞け! 『細綱「カンダタロープ」』!!」

 そうなる前に、ヤマメがスペルカードを発動させ、掲げた左手から生まれた細糸が瞬く間に編まれてできた綱を両手で掴み、球体へと投げた。綱は意思を持っているように球体を締めつけると、みとりが反応する間もなく、ヤマメは網を背負うようにし、両腰に力を込めた。

「うっりゃああああ!!」

 そのまま彼方へと投げ捨てる勢いで球体を持ち上げ始めた。球体もまた、抵抗をする力がないか、そもそも動く機能がないのか、されるがままに体を持ち上げ、砲口を地底の天蓋へとズラし始めた。土木を得意とする土蜘蛛だからこその芸当に、ようやくヤマメたちの存在に気づいたといった様子で、みとりは目を丸くし、状況把握を遅らせた。

「っ、ソルディオス!」

 そこから数秒して状況を判断したみとりがポールの底を地面へと叩きつけ、言霊を叫ぶ。ロープ越しにソルディオスが反応したのを、直接触れるヤマメと、同じようなスペルカードを持つムラサは気づくことができた。

「キャプテン、お願いっ!」
「わかってる、『転覆「道連れアンカー」』!」
「わわ、わっ」

 締め付けられた状態のままぐるりと一回転してこちらに砲口を向けた球体/ソルディオスを認識したと共に響いたヤマメの声と同じタイミングでムラサはスペルカードを発動、先端に錨のついた鎖をいまだ倒れる妖怪へと投げ飛ばした。そしてその引っ掛けを妖怪の脇に滑り込ませ、一息にムラサたちとはまったく別の方向へと投げ飛ばした。ぐっ、という呻きが聞こえたが、今は気にしていられない。
 そこまでしてやっとムラサとヤマメは同時にスペルカードを解除し、状況の推移についていけず、慌てふためくキスメを抱えて飛び上がった。

「発射っ!」

 みとりの声が飛び、ソルディオスに秘められていた力が一点へと解き放たれた。光線に似た力の奔流の着弾地点はムラサたちが数秒前までいた場所。緑色の光がパッと花開いたと思った瞬間、みとりのいう“ケガレであってケガレでない”力の爆風と爆圧が一気に広がった。
 視界が緑一色に埋まり、脊髄反射的に目を覆う。風圧で飛行のバランスが崩しかけるが、ヤマメは糸を、ムラサは錨を手近な家屋に括りつけ、それを耐えしのいだ。

「くぅ……衝撃波自体は、短いみたいね」
「たしかに……けど威力は十分、殺傷レベルね」

 常に意識して丁寧語を心がけていたムラサがそれを忘れて、眼下の光景に畏怖の息を吐いていた。不出来なクレーターがそこには出来上がっており、その内に沈殿物のように溜まった緑色の光がちらちらと光るたびに、気分が悪くなるような思いがした。瘴気とも呼ぶべきかもしれない、事実ヤマメに抱えられたキスメは爆発の衝撃で既に目を回し、気を失っていた。
 衝撃波が完全に収まったところで、二人はこちらを見上げるみとりへと向き直る。

「ちょっとみとり、これどういうこと? さすがに穏やかで有名なあたしもこれはアウトっていいたくなるよっ」
「……それはこっちのセリフだし、いきなり飛び込んできたのはそっちでしょう? わたしは火の粉を振り払っただけよ」
「それでもこれはやりすぎ、どんだけ他の妖怪に迷惑かけてると思ってるの! ここはあんたに関係ないやつの寝床もあったんだよ?」
「それこそ、ご愁傷様ね……興が覚めた、帰るわ」
「だから、待ちなって!」

 立ち上がったみとりがすぐに背を向けソルディオスを戻そうとしたが、ヤマメはまだ赤い背中に追いすがった。振り向いた顔には、明らかな苛立ちと、判別のつかぬ憤りと、妖怪らしい害意に満ちた目があった。久しく遭遇することがなく、かつては自分自身が浮かべていただろうその顔に、ムラサは思わず表情を歪めたが、ヤマメは顔色を変えずにそれに向き合う。

「さっきから何? そんなに突っかかってくるのは気に食わないんだけど」
「あのね、友達がこんなことしてて気にならないのはおかしいでしょっ!」
「ともだち?」

 みとりの表情の内にある、判別のつかぬものの臓腑の何かが変わったことを、ムラサもヤマメも気付けなかった。

「貴女にとってたった一回食事を共にすることが、友人の作り方なの?」
「それだけで友達になっちゃいけないの?」

 ヤマメはそれが当然であるというように告げると、みとりは、およそこの惨状を生み出した妖怪と同じとは思えない虚を突かれたような顔になり、それを恥じるように顔を俯かせた。ムラサは堂々とした物言いから一転、自分が可笑しいことをいったのかと顔に浮かべるヤマメを見て、それはヤマメのような妖怪だからこそいえるのだと内心零した。
 誰に対しても陽気で、屈託のない態度をとる。だからこそ地底の妖怪たちの人気者であり、勇儀を筆頭とした鬼ほどでに顔が広い。ほんの少し打ち解ければ、彼女にとっては友達になるのだ。
 しかしみとりの反応は、少なくとも友人ができたことに対するものではなく、むしろ殺気すら滲ませていた。だからこそ、それを抑えるために、今度はムラサが前に出た。思い浮かべるのは、かつての自分と、恩人の姿。今はまた別の世界に封じられている一人の女性。そしてみとりとヤマメが怪訝な目を向けてくる中、ゆっくりと口を開いた。

「河城さん。私は昔、とてもやんちゃな亡霊でして、数多くの人間を殺してきました。それが悪いというわけではないですが、少なくとも当時の私は自身のことしか考えず、ほかのことなど塵芥程度にしか思っていませんでした」

 言葉にするだけで、当時の自分がありありと思い出せた。自分を縛る/自縛してしまった海から逃れるために人間の船を襲い続け、いつの間にか妖怪になってしまった。それからは妖怪としての力を得るために人間たちの船を沈め続けていた。
 ヤマメは友人の突然の昔語りに目を丸くしながらも口を挟まず、みとりもまた、俯いたままであるが聴いているようだった。傍らにあるソルディオスが先ほどのように発光しないのがその証だ。

「ですが、ある日、私を海から連れ出してくれた人と出会えました。それは本当に幸運なことです。妖怪だって、いや妖怪だからこそ、誰かと一緒にしか生きていけません……だから、友達の一人ぐらいいたって、いいじゃないですか」

 彼女ならばこういうだろう、ムラサはそう信じて連ねた言葉の結果を、沈黙しているみとりから待った。これはすべてがムラサの意見ではないが、影響を受けているものだというのは間違いなかった。もしや見当違いな説法を説いているかと自問したのは、自分がこうやって誰かに説教をすることに慣れていないからだ。もしこの場に、店によく来る恩人を慕う少女や、正体不明が売りの妖怪がいたら笑われてしまうだろう。
 それでも、みとりが話を聞き、少なくともこれ以上ソルディオスを使わなければ御の字だった。ムラサの無意識にあった打算的な部分は、みとりと、いやあのソルディオスと呼ばれた物体と、たとえ弾幕ごっこであろうと戦うことを拒否していたからだ。
 しかし、だからこそムラサは自身の行いが失策であると気付けなかった。ヤマメもまた、ムラサと、ヤマメ自身が言ってしまった言葉がみとりにとってどのような意味があるのかを、想像できなかった。

「………ひとつ、聞いていいか?」
「なんですか?」
「………そいつは、もしかして人間だったかい?」
「……変わりもので、人間からも嫌われてましたが、聖(ひじり)は人間でした」
「そう」

 最後にそう締めくくり、みとりはムラサたちに体を向けた。話を聞いてくれたか、と思ったのもつかの間、瞬く間にみとりの傍らに現れたソルディオスが、ばちりばちりと音を立て、みとり自身からも妖気があふれ出した。
 二人はみとりがいつ生まれ、地底に住んでいるのかはわからなかったが、しかし地力の差を感じさせるほどに、圧倒されかけた。
 
「いいことを教えてあげる……わたしは、妖怪を助ける人間も、人間を慕う妖怪も、ついでに妖怪同士で馴れ合うやつも、大嫌いなんだよ」

 二人は冷たくも怖気が奔る言葉と、この世全てを憎みきるような眼を見て、ようやく気付いた。ムラサと、彼女が信じたものの言葉は、河城みとりを形作るものを徹底的に踏みにじるものだということを。
 ソルディオスが主の意思を感じ取ったように、再び緑の光を収束させる。しかし今度は一箇所に集めるのではなく、自身を膜で包み込むように循環させている。それに伴い漂い始めたあのケガレは、先ほどの比ではない。ヤマメもムラサも、先ほどの砲撃からまだあれが全てではないと確信していた。なぜならばあの砲撃だけでは、ここまではならないはずだ。
 堪えるか、退避するか、それとも迎え撃つか。さっと思い浮かんだ選択は、どれもが実現不可能に思えた。膜を見ればわかる、あれは割れる寸前のシャボン玉だ。止める術がない。そして割れた光の衝撃が砲撃と同等であるならば、逃れる時間はない。そして堪えることの不可能性は、この場で未だ倒れ伏す妖怪たちが示している。
 万事休すか、と思ったのもつかの間、二人の前を影が翻り、瓦礫の山へと突き刺さった。

「みぃぃとぉぉぉりぃぃぃ!!!」

 雄雄しい一角を振りかざした影はスペルカードを持った手をそのまま地面へと叩きつけた。みとりが固唾を呑んだのと、発動の光が眩しく輝いたのとほぼ同時に、スペルカードを通してあふれ出した力が周囲の岩という岩を不可視のカラクリによって浮かび上がらせた。

 力業「大江山颪」

 疑似円形闘技場にあった瓦礫が形も大きさも問わず、怒声の号令と共に一斉に緑色の泡へと殺到した。直後、球体を包んでいた泡が破裂し、緑色が視界いっぱいに広がりかけ、ムラサたちを焼かんと迫る。その光を壁ともいえる密度の弾幕が塞ごうと次々に飛び掛り、接触と同時にその身を緑の粒子に削り取られていく。
 それでもその数は圧倒的、地中からも巻き上げられる大岩の弾は怪力乱神の力を授かり、殉教者と化して認めるべからず力を押しつぶし、圧していく。そして一つの怪物と数の弾丸の拮抗は、数時間とも錯覚しかねない五秒の合間に決着がついた。

「っ、ああああ!!」

 みとりの咆哮はソルディオスの輝きと共鳴し、完全に岩間の中へと封じ込められようとした爆発は灯火の最後の如く燃え上がり、鬼の怪力乱神が込められた弾幕を全て弾き飛ばした。その余波ともいうべき爆風が吹き荒れ、ムラサたちは未だ繋いでいたアンカーによって吹き飛ばされずに済んだが、巻き上がった瓦礫や煙が視界を塞ぎ、目の前に現れた人物の正体をも覆い隠していた。
 いや、違う。そのスペルカードの名は地底にいるものなら誰もが知っている。力を象徴とする鬼の種、その中にあって“力”と渾名された唯一の存在。山の四天王が一。

「星熊、勇儀……」

 煙の向こうから聞こえた声と共に視界が晴れ、星熊勇儀は金色の髪を揺らめかせ、いつもの酒器の代わりに燃え崩れるスペルカードを指に挟み、焔を凝縮したような怒りを込めてみとりを睨み付けていた。



 その日、勇儀は酒をかっくらっていた。原因はいうまでもなかったが、それは三日前よりもひどい状態だった。居酒屋ひとつを丸々占拠して、昼を過ぎてから一人で呑み続けていたのだが、常日頃の勇儀ならばまずしないだろう傍若無人な振る舞いに店主や店員は目を丸くしていたが、しかし上客でかつ鬼ということもあり、何も言わずに酒を出し、貸切の状態にしてくれていた。
 朝方までは、勇儀は自分ができる範囲のことをしていた。西区復興の詰め、それと平行して、十一などの知り合いに頼んだ縁捜索の件。地底の風穴の入り口付近に住む土蜘蛛からも情報提供をしてもらったが、まるで成果がなかった。この分ではやはり、地底の誰かに食われたと見るのが正しいと、勇儀の指導者としての思考が決めかけていた。
 だからそれを振り払うために、十一たちががんばって探しているのを尻目に酒に一度溺れようとしていたのだ。
 そして店の酒も残り数本となった時、その光は立ち昇った。最初は店の外にいた妖怪たちが騒がしかったが、ついで店員までもが輪に入り込み、勇儀の耳にも入った。悪酔いをして頭が割れるように痛かった勇儀は、言われるままに外にでて、二日酔いの頭痛が一瞬にして吹き飛ぶような気になった。ついで訪れた寒気と怖気が、勇儀が光の柱に対する感情を示していた。
 そして二つの負の予感に急かされるまま、光の柱の根元へと飛んでいき、あの緑色の光を始めてみた時のことを思い出していた。
 『未来の遺跡』の最深部で見つけたもの。それは新しいもの、珍しいもの好きの妖怪たちからしても禁忌と呼び、封印すべきものだった。事実、調査団のリーダーを務めていた勇儀は現地の生物たちと協議し、奥には誰も立ち入らないよう、物理的に道を封じてきた。同時にそれは内側から誰も出られないようにする、という意味もこめられていた。
 『未来の遺跡』に元々住んでいたという、あの不可思議な四足の獣たちはこの遺跡は破壊は可能だが消滅は不可能であるといった。勇儀はパルスィと共に一度はガーディアンを撃破して、二度目は直接内部を壊して破壊しようとしたが、遺跡は爆発が起きた数日後には元の姿に戻っていた。現地生物は言う、どこかに機械文明を持つ人類がいる限りこの遺跡は消滅しない、と。
 だから勇儀はパルスィを含む何人かの妖怪たちにこの遺跡の監視と守護を任せることにした。正確には、最深部に侵入されないようにするだけだ。中層までならば、人間はともかくとして、まだ許すことができるし、そもそも物好きでない限り長居をしようとするものもいないだろうと高を括っていた。それは遺跡から出てきた生物たちも同じようで、彼らは各々が好きなように、遺跡に繋がる迷宮内に住み始めた。中には妖怪と仲良くなるものや種もでき、知名度は低いものの、地底の住人として受け入れられつつあった。
 それが今、下手を打てば壊されかねない事態になっている。
 徐々に薄れいく光の柱の元までたどり着いた時、勇儀が見たものは、今朝方話を聞いた土蜘蛛にその相方、あまり顔を知らない妖怪と、河城みとり、そして緑の光を発する謎の球体。その光は近場で感じ取ると、勇儀があの場所で見て感じたものとは違っていたが、しかしアレと同様に、妖怪にとって、いや生きているものに対し等しく毒となりうるものだった。
 だからこそ、それを妖怪たちがたむろする場所で使ったみとりを許せなかった。みとりの境遇を知り、そしてみとりに対して勝手なお節介をしてしまったことに対する負い目はあるが、それ以上に許せなかった。徹底的に懲らしめ、二度とその技術を使わせないようにしようと思った。縁のことに関してそこに含まれないのは、未だ勇儀が縁と、そしてみとりをどこかで信じているからに他ならなかった。

「どうしてここに……?」

 勇儀の背中から、呆然としたヤマメの声がかかる。しかし勇儀は振り返らない、視線は真下で能力を発動しているみとりに合わせ続けたままだ。スペルカードが壊れた音を確認してから、意識だけを少しだけ背後に向けて、杯を持たない両の手を拳にする。

「あんたたち……こっから逃げな。ちょっと派手にやらかすからね」
「え、ちょ、いきなり来てそれは……」
「いいから早くしなっ!」

 体が震えるような喚き声があげて、勇儀は背後の二人に下がるよう命じた。ヤマメもムラサも少しの間迷ったが、しかし勇儀からあふれ出す空気に圧されたのか、何も言えず引き下がった。だがそれは上空に逃れただけで少なくともこの円形の空間から出ただけだ。それでいい、と勇儀は思い、同時に己から発する“圧”を円形の縁に沿うように開放し、自分では名前もつけなかった力で瓦礫の山から倒れた妖怪たちを外に弾き飛ばした。
 これで並大抵の妖怪は近づけないし、近寄らせない。みとりと一対一で向かい合うからこそ意味があるのだ。
 そうしている間に、みとりは驚愕のままにしていた表情を苦々しげなものに変え、再びポールの底で地面を軽く叩いた。途端、ソルディオスの表面から煙のようなものと、空気が抜ける音がして、みとりが纏っていた能力の壁がとける。術者自身が汚染されないためだろう、と勇儀は当りをつけたが、それは正しかった。

「こんなとこに鬼の四天王様がなんのつもり?」

 みとりの言への答えと言わんばかりに、勇儀が緩やかなに瓦礫の山で拳を鳴らすと、そのまま片手だけを握り締めて地につけるような構えを取り、新たにスペルカードを取り出した。みとりの手の中にあるスペルカードから、すでに球体がスペルカードによる使い魔であることを見抜いていた。ゆえにこれは、弾幕ごっこによって決着をつけねば、筋が通らない。

「みとり……あんたが何をしようと、正直構いやしない。この前の件だって責があるなら甘んじて受けようさ。けどね……」

 怪力乱神が勇儀からあふれ出す。みとりもまた、勇儀が何を言わんとしているのかを察してか、それとも元々わかっていたのか、左手に蝶を一匹生み出した。剣呑とした空気で張り詰められ、球体もまた煙のようなものを吐き出すのをやめた。周囲が騒がしくなるが、しかし勇儀の耳には意味のある言葉としては入ってこない。一つの怒りが意識を埋め、力に変えているのだ。
 それが、一つの瓦礫の崩れる音と共に、開放された。

「その力をここの連中にぶつけることだけは許しちゃおけないよっ!」
「都合のいいときだけでしゃばってくるね、いつも!!」

 互いの叫びがぶつかった直後、勇儀の姿は消えた。いや、それは前方への踏み込みだ。瓦礫を踏み潰し、握り締めた拳を叩きつけんがために、天狗にすら匹敵しかねない初速で跳んだ。同時にスペルカードを発動し、怪力乱神が勇儀の片手に巨大な輪を作り出した。

「枷符っ、咎人の外さぬ枷!」
「ソルディオス・キューカンバー!」

 あふれ出し固形化していた金剛の具現たる輪は手の中でさらに六つに別れ、重ね合わさり、勇儀が二歩目を踏むと共に一斉にみとり目掛けて投げ出された。輪は勇儀から放たれると三つがそのままみとりに直進し、残る三つが退路を塞ぐように左右と真上から弧を描くように迫る。
 対し、みとりの掛け声と共にソルディオスが緑色の光をチャージする。それとほぼ同時に、勇儀はみとり目掛けて再び跳ぶ。身を低くしたままの地を滑るような突撃態勢に、みとりは慌てず蝶を飛ばした。赤い蝶は勇儀の輪のように手品の如く増えるとその身をX字の弾へと変えて、一斉に勇儀目掛けて羽ばたいた。自らが放った輪を追い越した勇儀は、ごきりと両手の骨の筋肉を鳴らした。
 ソルディオスが轟きを上げ、緑光を放つ。勇儀はさらに身を低くし、それこそ顎が地にぶつかりそうになるほどの状態になって、光が背中の上を過ぎ去るのを送った。髪は奇跡的に先端だけ焼かれるに止まり、枷符の内三つの輪が一瞬にしてその光に消し飛ばされ、周囲を覆う怪力乱神の圧力に風穴を開けた。そのことに舌打ちをし、両手を瓦礫の中に突っ込み、一気に引っ張り上げる。
 
「どおおおっせい!!」

 そのまま畳替えしの要領でみとり目掛けて投げ飛ばした。蝶は瓦礫の飛礫に正面の群を潰され、主への最短コースを空けてしまう。みとりは瓦礫をポールで弾きながら、退路の関係上、仕方なく後ろへと飛び下がるが、勇儀はさらに振り上げた形となっていた両手に輪を生み出し、一直線に投げ飛ばした。

「っ、ホーミングレーザー全門展開!」

 焦燥の色を顔に浮かべたみとりの指示の元、輪の直撃コースから外れていたソルディオスが、合計五つの弾幕がぶつかる、みとりが先までいた場所に躍り出て、その姿を変えた。変えた、といっても表面の部分が少し浮き上がり、規則的な山脈のような凸凹ができただけだ。だが隆起した先端の全てに、巨大な目玉がはめ込まれ、緑の光を称えている。勇儀は天性の勝負勘から、自分が作った輪が潰されるのを予期し、更に踏み込んだ。

「発射っ!」

 そしてその推測通りのことが起こされた。緑色の目玉から、それこそ勇儀が使い魔などを使って打ち出すような細長い光条が雨のように放たれ、その全てが直角的な機動を取りながら、迫りくる輪と勇儀を迎撃せんとした。
 飛翔する枷は全て瞬く間にその身を削られ無力化され、残る勇儀にはざっと見ただけでも二十の光条が襲い掛かる。流線を描くレーザーとはまた違う軌道に避けきれないと判断した勇儀はあえてその中へと飛び込んだ。
 体中に光条が突き刺さり、血が噴出しそうになった。しかし星熊勇儀は鬼、この程度で怯んでは恥でしかない。故に勇儀は最高速度で光の雨を突破し、球体の化け物、緑のケガレを生み出す根源の前へと踏み込んだ。右の拳は既に握り締められ、力の勇儀と恐れられた腕力は筋肉の動き一つで放たれようとしていた。
 その暴力的な衝動に、勇儀は許可の合図を出した。狙いは一つ。繰り出されるのは音の壁を超え、空間さえも抉るようなアッパー。
 捉えたのは、虚空、のみ。

「何っ?!」
「ソルディオスを狙ってるのは、わかってたよ」

 驚愕の間もなく、眼前に迫っていたみとりからの刺突を防ぐことも、カウンターを返すこともできず腹に受けた。背中へと突き抜ける衝撃と共に、真後ろへと吹き飛ぶ勇儀の耳に届くのは、己の拳がある一定の速度を越えたときに聞こえる、障子を破ったような音だ。いや、それにしてはタイミングが些か速い。そんなことより、なぜあのタイミングで拳が避けられたのか。
 その二つの疑問は、勇儀が地面に跡を残しながら衝撃による後退を止め、みとりの上を見たときに仮説でありながらも判明した。そこには既にチャージを終えたソルディオスが、緑光を爛々と輝かせ、ついで再びあの破る音が聞こえた。
 まさか、あのソルディオスという奴も、空気の壁を越えられるのか。
 驚愕が勇儀の頭を突き抜けた直後、ソルディオスは咆哮し、緑色の光が勇儀を包んだ。回避は間に合わないと、咄嗟に力の全てを防御へ回したが、しかし光は容赦なく勇儀の体を焼き尽くし、星熊勇儀というものを汚染する。皮膚の隙間一つ一つから蛆虫が侵入し、そして毛虫のものより遥かに固い針を内側から刺されるような、としか言いようがない激痛と不快感。
 数十年ぶりの悲鳴が口からあふれ出し、勇儀は膝を屈した。それと共に光の爆発は収まると、スペルカードと衣服はほとんどが焼き崩れ、肌の色が緑色の変色、いや火傷を負ったのがわかった。荒く息をしていると、猛烈な吐き気が襲ってくる。それを根性で抑え込み、余裕の表情を浮かべるみとりをにらみつける。

「どう、ソルディオスの一撃は? さすがに鬼は頑丈のようだけど……ああ、安心して、それは一時的な風邪みたいものだから安静にしてれば治るわよ。元の場所にあったアレよりはよっぽどマシだから」
「っ……だからって、こいつのことはっ」
「ええ、そうね。そうだろうね……鬼である貴女には、些か毒として強すぎるみたいね」
「そんなこと、聞いてるんじゃあ、ない!!」

 止めなければ、という苛烈な思いが痙攣を起こし始めた四肢を奮い起こし、立ち上がらせる。小鹿のように情けない両足を闘争意識が叱咤し、ふわりと浮かび上がる。荒い呼吸をしながら取り出した二枚目のスペルカードは、まだ発動のための力をわずかしか流していないとはいえ、弱弱しい発光だ。
 全力で叩き潰そうとして、一手先を読まれた程度で返り討ちに合い、致命傷を受けるとはとことん情けない。余裕があれば苦々しいながらも笑みが作れそうな心境に、今は苛立ちしか浮かばなかった。ソルディオスの脅威は初めから感じ取っていたはずだが、それを扱うみとりのことを過小評価しすぎていたのだ。鬼としての驕り、と言われればそれまでだが、しかしそれとはまた違う、と勇儀は思う。鬼が驕りと紙一重の余裕を持つのは常なることだ、それが妖怪を超え、人間と相対するものとしての存在理由でもある。
 みとりはそれを打ち砕いた。禁忌の技術と、弾幕ごっこに必要不可欠な先を読む力によって、勇儀を一度退けた。故に、今度こそは油断も余裕も驕りもなく、沈める。
 そして勇儀が構えなおした時、みとりに変化が起きた。



 みとりは未だ立ち上がってくるいつかの恩人を、侮蔑とわずかな同情を込めた視線で見下ろし、ゆっくりとソルディオスに手をやった。内部のスペルカードと連動したカラクリは規則的な鼓動を鳴らし、みとりが愛する機械の感触を楽しませてくれる。このままこの子に任せて周囲の野次馬たちも吹き飛ばしてしまおうか、などという、およそ自分らしくない野蛮な思考が脳裏に浮かんだ直後、眩暈が起こり、動悸が早鐘を打った。
 反射的に胸元を抑え、表情に出るのを必死に抑え込み、深呼吸をする。それでどちらも収まってくれたが、いつの間にか噴出していた脂汗がべとついていた。ソルディオスを使いすぎた、と心中悔いる。
 擬似使い魔ソルディオス、いや『試製「ソルディオス・キューカンバー」』はチャージ/内部での装置活性化の時以外にも常時あのケガレを放出している。みとりは半人半妖であるおかげか他の妖怪や鬼よりも影響は少ないが、それでも使い魔への指示の関係で遠隔操作ができず、常にケガレを浴びているのだ。たとえ能力を使って遮断しようとしても、そうなれば操作ができなくなってしまい、結局本格的な戦いでは何度か遮断を解かなくてはならない。
 そして今日、原因が不明瞭な苛立ちと激情に任せて始めた戦闘で切り札の二度の使用、長時間の展開、そして鬼・星熊勇儀との攻防、何よりも起床前の夢と白昼夢で見た光景での心的ストレスによって急激に溜まった疲労が、蓄積されてきたケガレの悪影響と一気に出てきてしまったのだ。
 そのみとりが落ち着くまでを見ていた勇儀は、ようやく解決の糸口を見つけたというように、弱弱しいながらも不敵な笑みを浮かべ、鼻で笑った。

「あんたにも、影響が出てるじゃないか。早くそいつを仕舞ったらどうだい?」
「……断る、いくら星熊さんでも、戦いの最中に自分の切り札を引っ込めるなんてできないよ」
「意地を張るのは大いに結構! だけどあんたのそりゃ、子供の癇癪と似たようなものでしょうが!」

 みとりの顔がぐにゃりと歪んだ。勇儀の言葉が耳を通さず、心に直接突き刺さった。子どもと言われた程度でなぜ、と歪んだ自分の顔に自問したが、答えは返ってこなかった。代わりに浮かんだのは、粘つくような怒りと憎悪。

「貴女にはたしかにここに来た時世話になったけど、もう、我慢できない! ここで消し飛ばすっ!!」

 自分自身が言い放った言葉がどのような意味を持つのかは想像できなかった。それ以上に、腫れた手を再び叩いた勇儀をこの手で消してしまいたいという思いだけが上回っていたからだ。ソルディオスに再びエネルギーを増幅させる。貯蔵分は半分を切っていたが、今の調子で戦えれば十分と当たりをつけていた。能力で勇儀の動きを封じこみ、確実に叩きこむ。そう決め、ポールをフェイントのために旋回させ始めた時だ。

「み~つけた」

 声。どこから、という思考を浮かべた瞬間、ソルディオスがチャージ状態を解除して、みとりの背後に回る。硬質の装甲に小さな穂先と化した手がぶつかり、耳障りな音が響いた。ついで、少女が不意に零したような笑い声。ソルディオスにそのまま押し込むよう指示する間もなく、その影はくるりと浮かび上がり、虫を解剖する時の童子と同じ笑みと、感情が読めない坩堝の色をした目を両立させて、みとりを見下ろした。
 それが誰かとわかった時、みとりと勇儀は同時に目を丸くしたが、しかしみとりは、自身が狙われる理由にすぐ思い至って、嘲りを込めた笑みを送り返した。

「誰かと思えば、あの時いた覚妖怪の片割れか。期日はまだだよ、それともあの人間でも見つけた?」
「何言ってるの? あなたさえ居なくなれば縁ちゃんは帰ってきてくれるんだよ? だったら別に、わたしが殺しちゃってもいいじゃない」
「……そう、無意識っていうのは、トチ狂ったやつの言い訳らしいね」

 古明地こいしは恐れを感じず、好きな遊戯に心馳せる子どものような顔のままスペルカードを二枚取り出した。どうやら狙いはこちらだけらしい、とみとりは内心で言葉にしきれなかった分の悪態を吐き、ちらりと勇儀のことも窺う。こいしが介入してきたことは不本意だと顔には書いてあるが、しかし勝負を途中で止めるつもりは更々ないのか、構えは解いていない。
 疲労を身体の中に封じこみ、自然と三すくみの状態になってしまった状況に、さてどうするか、とソルディオスを一瞥しながら思考を巡らしていると、勇儀がそれを破るためにか、こいしの方を向いて口を開いた。みとりはそれを見てから、ソルディオスの装甲に手をやり、一つの指示を与えて、出方を待つことにした。

「古明地の妹、ここは引きな。そいつはあんたの手に負える相手じゃないよ」
「まだいたの? それにそんなことはダメだよ。こいつは今ここでわたしがすり潰すんだから。おくうを酷い目に合わせて、縁ちゃんを苛めたこんな奴、許されると思ってる? 思ってないよね? だからわたしがそれができない二人のためにやるんだよ? 原因は後で縁ちゃんに殴られるだけで許してあげるから、ね」

 みとりは思わず、この無意識の娘に対して賞賛を送りたい気持ちになった。ここまで鬼を虚仮にできるものは早々いないだろう。同時にこれで決闘となった時、乱戦となることは間違いなく、若干の安堵が緊張に紛れる。いや、そもそも勇儀がみとりから視線を外した時点で、勝利の確立は格段に上がっていた。

「……それであの坊主たちが納得するっていうのかい?」
「してくれるよ。しなくても、きっと喜んでくれるはずだよ。縁ちゃんなら、きっと……」

 衆人観衆の只中で、こいしの笑みに始めて影/感情が生まれた。みとりは知らないが、それは以前こいしが心の均衡を崩して暴走した折に、縁との対話の中で見せたものに酷似していた。しかしみとりはそうとは知らなくとも、その影がどのような意味を持っているのかを、いやと言うほど知っていた。かつての虐殺の経験の中に、そして赤い手のひらのどこかにそれはあった。
 みとりの顔が再びくるりと変わった。皮肉気な喜色から、憎悪の限りの暗い怒りへと。意識が別のとこに逸れて気にしなくなっていた腫れた傷に、突然辛子でも塗りたくられたような、というのがまさにそれだった。

「へぇ……そこの覚妖怪、貴女はあのくそ人間をどう思ってるの?」
「どうしてそんなことあなたに教えなくちゃいけないの?」
「ただの確認だよ。今言わなくても、後で強制的に聞きだしてあげるから構わないよ」
「そう、なら……あんなことをどうしてするのかも、わたしがあなたを潰しながら聞いてもいいよね?」

 ただでさえ肌が粟立つような空気の中に、泥を浴びせかけるような妖気/殺気が広がった。それが今は心地よい、何度も浴び慣れたものがその中に混じっていたからだ。ポールを、とん、と叩く。みとりの突然の質疑に怪訝な顔を浮かべていた勇儀が、顔色を変えていく。二人のやりとりにだけ注意を向けていたからこそ気づけなかっただろう力の流れに。

「じゃあ、行くよっ」

 そして気づかないこいしが体を中空で反転させて、胸元で回転させていたスペルカードを発動させた。同時に勇儀が、こいしの方へと跳んだ。それも全て遅い、みとりはほくそ笑み、ソルディオスの内側で、勇儀に気づかれぬようリチャージし、増幅し、現在できうる最高威力の切り札を解き放つための合図を、こいしに聞こえるように告げた。

「そう、けどさようなら。お帰りにはなれないけどね」

 瞬間、ソルディオスの装甲から本体のカラクリに繋がる発振装置のボルトがハリネズミの如く展開した。制御を司るそれらに引きづられる形で一部の装甲までもが浮かび上がり、膜のように流体するケガレの中に取り込まれ、第二の増幅作用を生み出し膜を更に肥大化させた。それはもはや、先ほど勇儀が止めたものよりも遥かに危険な状態であり、止められるものもまたいなかった。
 誰かがこいしの名前を叫び、勇儀がこいしの体を抱きしめ、衝撃から守るようにこちらに背を向けた。
 全てが、遅い。極限まで貯められた光が、みとりの真横で爆発した。ケガレすら侵食する反/半ケガレの緑光は奔流となって即席コロシアムを満たしつくし、それだけでは食い足りぬとばかりにかろうじて無事だった家屋を巻き込み、外縁部にいた妖怪たちが逃げていく。その間、爆心地にいたみとりは能力によって自身への影響全てを阻害し、素知らぬ顔で光の中に消えた勇儀たちを思った。
 光が収まると、天に向かってまた緑色の柱が出来上がっていた。これだけはまだ、開発者自身のみとりもわからない現象だった。しかしだからとって、それが今は不快というのではない、むしろ美しいとも感じえた。周囲に広がる光景、いや一人の妖怪の姿がみとりに限りない満足感を与えていた。
 緑色に焼かれているのは先ほどまでの光景と同じだ。だが、それをぶつけたかった相手は倒れ伏す勇儀に抱きしめられ、茫然と目を丸くしていた。その傍には見知らぬ小さな妖怪が二匹、“ケガレ”に焼かれた状態で伏していたが、気にするような要因ではなかった。
 能力を解除し、ソルディオスを今度こそ機能停止にさせる。途端に外装を覆っていた球体が白い毛と毛髪、そして心臓部であるカラクリとスペルカードに分かれ、毛はそのまま自然発火を起こし消滅し、カラクリはみとりの平たいリュックへ、そしてスペルカードは手元に戻った。能力だけで遮れなかったのか、露出していた肌の部分が火傷したように熱いが、許容範囲と呼べるものだったので無視し、守られるだけだった覚妖怪の元へと歩いていく。
 古明地こいしは鬼に抱かれていたということもあってか、それとも至近距離で光を直視していた衝撃でか、体を動かそうとしなかった。都合がいい、と彼女の傍らに立つと、勇儀をこいしから剥がし、その横へと転がした。背中が緑一色に焼かれて気を失っている勇儀を見て、少なくとも一週間は出しゃばってこないだろう、と簡単な当たりをつけながら、ポールの先端をこいしの首元に突き付ける。
 こいしの服から露出している肌もまた、勇儀によって守ってもらえなかった部分は緑に変色し、ウワサの閉じた第三の瞳もぐったりと地面に転がっていた。妖気も爆発に吹き飛ばされたのか、もはや感じなかった。

「よかったね、お家には帰れるぐらいには無事らしいね。ま、わたしを倒すのは無理だってわかったなら、だけど」
「…………なぁ、に、いまの」
「貴女の大好きな人間が出した排泄物だよ」

 二度も誰かに説明するほどみとりは酔狂ではなく、またこう言った方が人間を愛していると思わしきものの心を潰すには良いと判断したからだ。こいしの瞳が左右へ振られ、倒れ伏す妖怪たちとこの光景を映し出した。そして喉から、ようやく、みとりが望んでいた嗚咽に似た音が漏れ出し始め、みとりはそれをポールの先端で喉を押しつけることで潰した。

「ねぇ、どんな気持ち? 人間が吐き出した汚い部分にやられてどう? 悔しい? 悲しい? それとも怒った?」

 この瞬間、みとりは絶頂の時を迎えたように気分がよかった。今までにあった苛立ちが全て溶けて消えていき、ただ他者を征服する心地よさだけがあった。高笑いが漏れ出しそうになり、それを必死に抑えなければ、言葉の続きを言えそうになかった。
 早く次の責めを囁いてやろうと思うが、やはり無理だった。哄笑が自然とあふれ出し、空いた手で顔を覆い、心の底から笑い始めた。更地同然ともなったコロシアムで、その音だけが響き渡る。反響する自身の喜悦そのものに、みとりの気分は相乗効果で高まっていった。

「………違う」

 だが、その愉悦が、少女のかすれた声によって切られた。みとりは自分の顔から表情が消えるのを自覚しながら、下したはずのこいしを見下ろした。その間にも、こいしは言葉を連ねていく。

「……こんなの、違う。わたしが刺されたあの刃より、ずっとマシだ」
「へぇ、その口ぶりからするに、前に人間に酷い目にあったようね。それで、どう? 今度はそれを……」
「こんなのじゃない!」

 喉を押さえつけられているのに、こいしの声は緑の光が浮かぶ空間に響き渡り、みとりの口上を閉ざした。

「こんなの、ただの嫌な力だ。あの刃よりずっとマシだ! わたしは……わたしは、セイジロウに感謝してるんだっ! わたしに出会ってくれて、はじめての友達になってくれて! それだけはわたしの中で変わらないの! だから、縁ちゃんにも……縁ちゃんに、会いたいの……会いたい、だけなの」

 そこには先ほどまで在ったはずの狂気がなくなっていた。ソルディオスの輝きに吹き飛ばされたのか、正気に戻っただけなのか、それともただの空元気なのか、みとりには判別がつかなかった。
 だが、それが重要なのではない。強く輝き始めた意志を宿す瞳に見据えられるのが、たまらなく嫌だった。ソルディオスに消し飛ばさせたはずのあの痛みが、腫れた手が、イメージが、一つ一つほじくり返されるようだった。違う、と心の中のどこかにいたみとりは否定する。目の前の覚妖怪は、ただ見ているだけなのだ、と。見透かされていると思っているのは自分なのだと。

「……ふざけるな」

 一部にあるみとりとは相反するように、みとりは声をあげた。

「感謝してる? 会いたいだけ? そんなのじゃないだろ、妖怪は人間を見下してなんぼだ、人間は妖怪を排除して当然だ。そういう成り立ち、そういう世界で、そういう生き物なんだろう、わたしたちはっ?! そうじゃなかったら……」

 言葉が、理性が、一度だけ詰まった。何をしているのか、何を言おうとしているのか、自分でもよくわからない、どろどろとした塊が、声になってあふれ出すのを止めることができそうになかった。

「そうじゃなかったらっ、わたしが除け者にされた理由にはならないでしょう!! わたしがお父さんから捨てられて、ともだちがみんないなくなって、お母さんが殺された理由にはならないだろうっ!?」

 ポールを押す力が自然と強まった。こいしはもはや、呻きも出せず、みとりに首を押さえつけられ呼吸もままならなかった。みとりは、こいしを殺したくなった。地底で妖怪を殺してはいけないという決まりはないが、決定的な厄介事を除けるために今まではそうしなかった。あの地獄鴉のことだって、人間の浅ましい部分を見せつけ、見捨てさせることができれば、元に戻すつもりだった。
 それすらも忘れて、みとりはこいしを残虐に殺したかった。この、自分を、全て否定しようとするものを、目の前から消してしまいたかった。そうしなければ、自分の口から、自分でない自分が、次々と吐き出してしまいそうだったから。

「さぁ言ってみてよ!! どうしてわたしがこんなとこにいるのかを、お母さんが殺された理由を! じゃなきゃ、死ね! 死んでしま……」
「やめてぇっ!!」

 冷水を浴びせかけてくるような声が聞こえ、直後巨大な翼がみとりの前へ降り立ち、もたつきながら縋ってきた。それはいつかの地獄鴉だった。

「もうやめてよ! 私はちゃんとあなたの言うとおりにするから、何もせずに待ってるから! これ以上私の大切な人たちを傷つけないでよぉっ!」

 艶を失った長い髪を振り回し、以前よりも痩せた頬を涙で濡らし、霊烏路空は泣きついてくる。こいしから離され、たたらを踏んだみとりは突然の乱入者の存在に頭にカッと血が昇り、無理やり引き剥がそうとポールを振り上げ、頭から刈り取るように薙いだ。空は、緑の綿が広がる地面を転がり、こめかみの辺りから血を垂らし始め、それでもまだ起き上がろうとした。

「私なら、いくらでも好きにしていいから。だから、こいしさまを助けてよ……お願い……お願い、します……」

 口中を切ったのか、ぽつりぽつりと囁くようになっていた懇願が、みとりに言語という分節にわけられないものを湧き上がらせていた。本来ならば、いますぐにでも空を嘲り、こいしに止めを刺すはずだろう。
 しかし今は、その欲求が沸いてこない。いや、あるにはあるのだが、他にも同時に浮かんだ感情ともつれ合い、絡み合い、結果として混沌とし、声を発するという行為すらできなくなっていた。
 視界の片隅では古明地さとりが妹を、以前一度だけ顔を見た火車の猫が勇儀を抱き起こし、こちらを睨み付けてきている。だが、意識を向けることはない、ただそうあるだけだと認識してるだけだった。
 みとりの目は、人間と妖怪の関係を貶すためだけにあの病気を叩き込んだだけの、ただの妖怪にのみ集中していた。こちらを向いて、お願いします、お願いします、と妖怪にあるまじき浅ましい姿を曝している。ポールを握り締めていたはずの手から、急に力が抜け、落としかけたところで、みとりは正気に立ち返った。
 何をしているんだ、と自身を叱咤する。突然世迷言を喋りだした覚妖怪がいて、それを助けて無様にも跪く地獄烏がいるだけの話。地霊殿の妖怪たちは、こちらが今使った力と、霊烏路空の中の波を消し去ることができるのをみとりだけと思う故に、強引に襲い掛かってくることはない。古明地こいしが例外的であっただけだ、
 故にみとりが心を乱す必要は何もない。
 そのはずなのに、この空の姿が、妙に気になってしまう。取り戻そうとする精神の均衡を破壊されてしまう。刺激される、みとりの内側にひそむものによって。
 気づけば、みとりは再びポールを持ち上げていた。火焔猫燐が、もう我慢できない、とばかりに身を伏せ、みとりへいつでも跳びかかれる態勢へと移った直後、また新たな影がみとりの前に出現した。

「……そこまでだ」
「白い、カモメ? なに、貴方もそっち側のやつ?」
「そっちやこっちでオレを縛るな、小娘。そんなことよりも、貴様はもう引け」

 へぇ、とみとりの頬が釣り上がる。今までと違い、シンプルな嘲りと嘲笑。鳥類が舐めるな、みとりは心中ではき捨て、反射的に妖気の質を戦いのものにする。

「いい度胸してるね鳥。焼き鳥にされたい?」
「フン、ソルディオス一つでぐうの音をあげている奴が粋がるな。既に倒れてもおかしくないはずだろう?」

 息が詰まる。見透かされた、と思ったからだ。事実、みとりの体は意思とは無関係に悲鳴を上げている、勇儀を殴り飛ばした時でさえ全力以上の力を使っていたのだ。“ケガレ”の分を差し引いても、限界ぎりぎりだ。今まで持っていたのは緊張感のおかげだ。

「ちっ、嫌なところをついてくるわね……いいよ、今日はここまでにしてやる……そこの鴉」

 みとりが声をかけると、空はびくりと体を震わせた。それが無性に腹が立ち、みとりは自然と声を荒げた。

「残り一週間、せいぜい人間に絶望しながら生きてくんだね。あんたらも……こんな事になってるのに、駆けつけてくれない英雄様にさ」

 みとりはそれだけ告げて背を向けた。空とさとりが何かを言いかけたが、それでもみとりは今度こそ振り返らなかった。そのまま浮かび上がり、家路へと飛んでいく。取り巻いていた妖怪たちからも声をかけられない。当然だ、過程はどうあれ、あの星熊勇儀を下したのだから。それだけが今回のわかりやすい成果か、とある程度離れたところで口元を緩めると、鼓動が再び高鳴った。
 途端に飛行がおぼつかなくなり、みとりは、はっはっ、と呼吸で落ち着きを取り戻すとしながら、人目のつかないところへ降り立ち、そのままどこかの家の囲いへとぶつかり、崩れ落ちた。動悸は落ち着く気配はない、むしろ息を吸い、吐くたびに酷くなっていく。こんなところで寝たら、それこそ終わりだ。危機感によって体を持ち上げようとするが、無様に倒れこむ。
 視界がだんだんと黒く狭まっていき、意識が細糸で繋がれただけになった。また一人か、頭に浮かんだ最後の言葉と共にみとりは闇の奥へと落ちた。
 その最後に、誰かが手を差し伸べていたことに気づかず。
 そしてその誰かは、白い服をきた友人と妹分の釣瓶落としにこのことを内密にするよう嘆願し、誰にも気づかれないよう、みとりを上へと、深道の先へと連れて行った。




 あとがき:
 どうしてこうなった!!!(姐さんとかみとりとか姐さんとか) みとり編長すぎワロス。

 P.S 通常状態での勇儀vsみとりでは「姐さん>>>>>>>>>>>>>みとり」ですが、ソルディオスつきならば「姐さん≧みとり」です。相性ってポ○モンでも大事ですよね。

 6/27
 今更ながらみとりvs勇儀の前哨戦を修正。使用スペルカードを変更しました。

 わりとどうでもいい設定
 
 試製「ソルディオス・キューカンバー」:

 禁術「オービット・キューカンバー」の上位互換扱いのスペル。みとりが『未来の遺跡』最深部に潜り込んださいに見つけたものを元に開発、再現した擬似的な使い魔。むしろオービット・キューカンバーはソルディオス開発のテストとして生まれ、そのまま使用されているという経緯もある。
 その最大の特徴は内部のカラクリによって生成・貯蔵され放出される、幻想に対して猛毒となりうる“ケガレではないケガレ”である。これが何故勇儀や地底の妖怪たちに毒となりえるかというと、いうなれば性質が違いすぎているからである。機械文明がコミュニュティー的な幻想を破壊し、自らがコンピュータ・インターネット世界におけるシュミラクルを生成、投影して、似て非なる世界/幻想を生み出し、そこから零れ落ちたのがソルディオスの“ケガレ”なのである。
 わかりやすくいえば、感染力の弱いペスト。
 弾幕はホーミングレーザー(二段階自機狙い)、波動砲(一瞬だけの極太マスパ)、全周囲エネルギー反転(諏訪子ボム)の三つを使い分ける。またみとりが反応できないものを自動的に防御し、主の乗り物ともなる。試製と名がつけられているのは、未だこのケガレの放出を制御しきれていないから。
 



[7713] 第二十二話――COM<システム、キドウ  
Name: へたれっぽいG◆b6f92a13 ID:a2573ce4
Date: 2011/03/23 01:22
「こんの、うすらバカ鳥っ! なんであいつを逃がしちゃうのよっ!? それにおくうもっ、何であんなこと言ったのよ!! というかどうしてこんなとこに出てきちゃってるのっ!?」
「だ、だって、その、こいし様が心配で、うにゅうぅ……」
「お前ら暴れないでくれ、後でオレが姐さんに殺されるだろっ」

 あらん限りの怒声で喚きたてる燐に部屋の隅で浮かびながら縮こまる空、そしてそれを注意する林皇十一が注意をするだけで、場に何度目かもわからぬ沈黙が降りた。指差されたはずのフレッチャーは聞こえていなかったとばかりに、窓枠にとまり、先ほどまで勇儀たちが戦っていた場所を見上げている。そしてさとりは、床にふせる勇儀とこいしを看るために、顔を伏せていた。
 あの疑似円形闘技場でみとりが離れて行ってすぐ十一がようやく駆け付け、その案内で負傷したこいしと勇儀、ついでにダンとカニスを勇儀の家まで運び、燐が西区にいた一言しか喋らないヤブ医者を連れてきていた。そして医者には、今はただみとりが言っていたように安静にさせるしかないという旨を告げられて、ようやく落ち着いたところだ。
 十一が母親とのツテで勇儀の家に度々世話になっていたことが幸いして、ある程度勝手がわかる上に、ここには余計なちょっかいをかけてくるようなものはいない。倒れ伏す勇儀を地霊殿に連れて行けば、確実に一悶着起きるだけだ。
 ダンとカニスは今、別の部屋で医者が診ており、駆け付けたカドルは一人情報収集に戻している。縁の件ではなく、みとりの行方についてだ。帰ってこないということは、まだ成果があがっていないのだろう。

「……あれは貴様らが御しきれるものではない」

 その状態で、ぽつりと呟かれたフレッチャーの一言が、沈黙した燐の怒りの炎に再び薪をくべた。

「それが、ふざけんなっていうのよ!! あんたは何かあいつについて知ってるっていうのっ、ねえ!?」
「少なくとも、貴様よりはな。それにわかっているはずだ、本気の鬼さえも下した相手にお前が勝てるものか。そこの虎はわかっているだろう?」
「っ……悔しいけど、今はそうだ」

 十一は臍を噛む思いでそれを肯定し、燐ははぁっ、と素っ頓狂な声を上げた。縁との掛け合いから、この若虎が負けず嫌いであることはこの場にいる全員が知っていた。だからこそ、声をあげなくとも、空とさとりも驚いていた。

「うっせーな、オレ様だってぜってぇ手ぇ出しちゃいけねぇ相手の区別ぐらいできる……アレを使わないあのクソ半妖なら、まだ戦えるさ」
「だ、だったら……」
「……お燐、そこまでにしなさい。あなただって、あのソルディオスと呼ばれたものの危険性はわかっているでしょう。それに、あなたと同じ気持ちを抱いたのは、あの場にいたほとんどの妖怪なんですから」

 主人の諭すような言い方と、図星を刺されたような言葉が燐の内に燃え盛る炎を鎮火させ、座りこませてしまった。ソルディオスの危険性は、この場の誰もが肌で感じ取っていた。特にさとりは心を読める分、あの戦いを見守っていたものたちの心境を直に読み取り、そこからわかる客観的な恐怖の概念を突き止めていた。
 有無を言わさぬ浸食。幻想を食い破る幻想。妖怪や妖精という幻想であるからこそ抱いてしまう恐怖。自分が別のものに変えられてしまうという無機への感情。
 アレがある限り、河城みとりに手を出そうとするものはいなくなるだろう。自分が自分でなくなるという恐怖に勝てるものなどいないのだから当然といえば当然だ。四天王の一人に数えられた鬼が倒れた今対抗できるものは、実質上、なし。
 だからこそ、今はカドルの報告を待つ以外、みとりに関して打つ手はない。故にさとりは、ペットであるはずのフレッチャーの心が見た光景と、燐が心の片隅にひっかけている言葉をくみ取った。声を出すとき、なぜか喉が震えた。

「……フレッチャー、中邦さんをどうするつもりですか?」

 誰かが声をあげ、固唾を呑んだ。そして視線というもの全てが同時に白いカモメへと集中する。フレッチャーはさとりに一度視線を返すと、いつものように鼻で笑った。
 それだけの行為が、フレッチャーが縁失踪の直接の原因であることを全員に直感させた。もしこいしがみとりから引き離した直後に気絶していなければ、すぐにでもフレッチャーに飛びかかっていただろう。

「……試しているだけだ」
「おい、そこの奴みたいにオレは心が読めねぇんだよ、わかるように説明しろ」

 壁に背中を預けて腕を組んでいた十一の指先がにわかに光りだした。同時に重い空気がピンと張り詰められていく。それでもフレッチャーは常の調子を崩さず、喧騒の繁華街を見下ろすだけだ。
 さとりにはフレッチャーの心はわかる。しかしどうしてそのような感情を抱けるのかはわからない。

「この地底、いや幻想郷の外のどこかに連れ出して、真っ暗やみの洞窟に放り込んだだけだ」
「え、けど……それ、だけ?」
「それだけだ」

 空の再度の問いかけにフレッチャーは頷き、そして燐が怨霊をフレッチャーの周囲に呼び出したのは直後だった。空がそれに気づいて燐を見ると、そこには犬歯をむき出しにして、片膝を上げていつでも飛びかかれる態勢になった燐がいた。フレッチャーはそれを小馬鹿にするように、やはり笑う。

「もう一度聞くが、どうして貴様はあんな小僧に執着しているんだ?」
「そんなの……っ、もう知らないわよっ! それよりも、さっさとあいつを洞窟の中から出してこい!」

 燐の必要以上に必死になる想いをさとりは感じ取れはした。しかしそれは何を源流とするのかはわからないが、さとりもまた、フレッチャーなりの訳を知らなければ、燐と同じようにフレッチャーに詰め寄っていただろう。
 ただの人間を、それも錯乱状態に近いものを自分の姿すら見えぬ闇の中に放り込むなど、ただ殺すのと変わらない。人間は肉体的にも、精神的にも脆いのだ。

「無理だな、あの中はいくらオレたちが“解りやすく”なるとはいえ、人間一人見つけるには少々広い。それに……」
「つべこべ言わずにっ……」
「今戻っても、どうせ貴様らかあの赤河童に食い殺されるだけだ」

 燐と十一が虚を突かれたように気を動転させ、粟立つほどの殺気を徐々に収めていった。縁の豹変の、いや人間らしい恐怖の感情をさらけ出した件は失踪の報と同時にこの場の誰もが知っている。
 そのような中邦縁は、誰も見たくなかった。十一は友人の変貌に失望し、こいしは拒絶され、再び暴走するかもしれない。そしてその状態では赤河童に抵抗することはとてもできないだろう。いや、そもそも、それまでの縁でも勝てなかったのだ。
 それらを加味すると、今地底に縁がいない方が都合がよかったのかもしれない。空ですら、そのことに気付き、顔を俯かせてしまった。

「ん……」
「っ、こいし!」

 再び沈黙が訪れようとした矢先、こいしが呻きをあげながら、ゆっくりと両の目を開いていく。さっ、とフレッチャーを除いた地霊殿の妖怪たちの視線がそこに集まる中、こいしは天井と周囲を半目で見渡し、最後にさとりへと向け、小さく口を開いた。

「お姉ちゃん……あの、河童は?」
「それは……」
「あいつならどっか行きましたよ! それよりもこいし様、体は大丈夫ですか?!」
「お燐……うん、大丈夫。あとそれから……もう一度、あの河童に会えないかな?」

 今度はフレッチャーを含めた、その場にいたもの全てが耳を疑い、燐や空は間の抜けた声をあげてしまった。さとりは思わず、読めないはずの妹の心を読もうとしたほどだが、しかし、あの河童の内側にあったものを何度か垣間見たイメージが、今更ながらに思い浮かび、それがさとりに声を出させていた。

「それは……どうして?」
「……あのね、おかしいかもしれないけど……あの河童、似てる気がしたんだ。そう思ったら、何もできなくなったの……」
「似てる? 何に?」
「わたし……ううん、縁ちゃんに」

 これだけで言葉を失ったものは何人いたか。十一はぽかんと口を開け、燐は理解に苦しむように頭を抱え考えにふけり始めた。心を読めるはずのさとりもまた、その疑問を抱かずにおれず、しかしなぜか、尋ねることができなかった。哀しみに似た、しかしそれとはまったく別の色を持つ顔をした妹を、はじめて見てしまったからだ。
 こいしは、力なく落ちている第三の目を拾い上げ、そっと胸元で抱きしめた。閉じられた三つの目の真意を知るものは、誰もいなかった。
 二羽を除いて。


 
 
 第二十二話『影三つ』


 

 怪物がいる。妖怪がいる。人間がいる。呼ばれ方は様々だが、それはいつもみとりを指していた。わたしは怖くない、と手を差し出せば、音を立てて退けられる。ずきりと痛む手の甲には、髪と同じ、赤い色。それを確認している間に、みとりの周囲には、腫れものでも見るような眼で、それぞれの輪を作る人間や河童、妖怪たちがいた。
 ああ、どうしてわたしは輪に入れないのだろう。
 孤独というには少々違う。あるのは寒さではなく、手の腫れによる熱さだけ。冷やすための水がないかと、みとりは後ろを振り返った。そこには、赤い髪をした子どもが、両親と思わしき男女の間で手を結び合い、笑顔を振りまいていた。子どもの胸には首から下げられた錠がゆらゆらと歩くたびに揺れ、そのたびに鳴る音が子どもの心を表していた。
 そうしてみとりはようやく思い出した。いつかの自分は、確かにその輪の中の一人だったのだと。それは夢から覚めたみとりの中にすっと入り込み、彼女が自ら錠をしていた記憶の穴に鍵を差した。
 その直前でぱちり、とみとりは目を開くと、あの力を使って三連戦もした後だというのに、頭の冴え具合はいつもよりもいいぐらいだった。こんな時もあるだろう、と特に考えず身を起こし辺りを見渡せば、そこは見知った我が家ではなかった。ざっくらばんに言い表せば、洞窟の中に和洋折衷の家財道具を入れて作った子どもの秘密基地という趣が強い。そしてみとりには、そういう趣味も秘密基地もない。
 そこまできて、ようやく冴えているはずの頭は自身が倒れる寸前のことを思い出した。急激に高まる警戒心が起きぬけの体を飛び起こし、右手が標識の穂を持ったポールを引き抜こうと腰元に伸びた。だが、それは虚しい空気の感触だけを掴んだ。あれ、と自分の首から下を見下ろすと、そこには生まれたままの姿の自分がいた。呼吸のたびに、お情け程度に膨らんだ双丘が上下していた。
 カッ、とみとりの顔が自身の髪より真っ赤になって、体は勝手にシーツをひっつかんでいた。そのまま素肌にぐるぐると巻いたところで、胸元にぽっかりとした穴が空いているように感じた。それは視覚的には違和感としても残り、状況確認も済ませていないのに頭をそのことだけで悩ますと、ようやくそれに思いいたって、部屋中を見回した。
 目的のものはすぐそばの机の上に置いてあった。それを掴み、頭から首に下げる。シーツの隙間から胸に落ちた錠は、肌に触れるとひやりと冷えた。帽子がないせいで寒さに耐性ができてないからか、とバカみたいなことを考えていると、誰かが近づいてくる気配がした。
 咄嗟にそちら、部屋の入り口にかけた暖簾へと目を向け身構えると、何の前触れもなく体から力が抜け始めた。

「やっほー、目ぇ覚まし……大丈夫っ?!」

 暖簾をくぐって現れた妖怪が、手に持った水入りのタライを棚の上に乱暴に置いてみとりへと駆け寄った。それほどみとりの倒れ方は唐突で、不安を起こさせるものだった。小麦色の髪をしたものに支えられて、みとりは倒れきる前にその妖怪に抱きすくめられた。金属でできた錠とは違う、生きているもの特有の温もりがシーツ越しに感じた。
 それがたまらなく愛しく思えた。もっと感じたい、という欲が出た。平静だった頭の中が、力が抜けた拍子に霧でも立ち込めたのか、複雑な思考ができなくなっていた。生き物の温もりをそのまま抱きしめ返す。まどろみの誘いがそこから溢れて、みとりはそのまま妖怪に抱きついてもう一度夢の中に戻りたい、と思ってしまった。
 今度は、あの輪の中にいる夢を。

「え、えーと……わ、私にはそーゆう趣味はないんだけど~……聞こえてる?」

 耳元で遠慮がちに呟かれたことで、みとりの意識が少しずつ現状を認識しようとし、ある程度、知らぬ相手に自分から抱きついている状態であることに気付いたところで、頭の中に羞恥という感情の槍が突き刺さり、それに押される形でピンと相手から離れた。
 以前見た茶色ベースの服の上からパッチワークのように生地を縫い合わせ修復したと思わしき割烹着を着た黒谷ヤマメが、困ったような笑みをみとりに向けていた。その顔が少々赤いのは、突然抱きつかれたからであろうか。

「な、何よ貴女は!? わたしをこ、こんなところに連れ込んできてどうするつもりっ!?」

 口からはとりあえず意味のある言葉を出すことはできたが、みとりは自分が無自覚に行ったことに対する羞恥心で頭の中を埋められ、顔はそれに比例するように真っ赤になっていて、ともすれば首元まで染まっていそうだった。ヤマメもまた、あはは、と若干気恥ずかしそうに笑いながら、みとりから離れて、先ほど置いたタライを持ってきた。中にはよく冷えた水と濡れ布巾が入っており、ヤマメはその一つをみとりに渡した。

「とりあえず起きたなら自分で冷やせるよね? それとも私がやった方がいい?」
「っ、からかうなっ!」

 自分でもバカだとわかるほどの声をあげて、みとりは布巾を頭の上に置いた。本当は額に当てるのがいいのだろうが、半河童であるみとりには、よく冷えたもの、というだけで心地がよくなった。
 ふぅ、と一息吐き、落ち着きを取り戻す。すると熱を失った部分に疑問がわっと入り込み、それを整理するために数秒の沈黙がみとりの中に出来上がった。それを何かと勘違いしたのか、ヤマメは近くに置いてあった丸椅子を引き寄せそこに座り、ベッドに座るみとりの背に合わせて口を開いた。

「さっきの答えだけどね、私はみとりが倒れたから自分の家まで運んできただけだよ。そっちの家知らないからね」
「……なんでそんなことしたの? 別に貴女には関係ないでしょう? それに……」

 そこから先のことをみとりは言わなかった。倒れた、というからには、どうしてそうなったかを知っているという意味も含まれている。つまりヤマメは勇儀に諭された後もずっとあの場に残り、見ていたということだろう。だからこそ、どうして自分を助けるような真似をしたのか、みとりには理解不能だった。声を出すたびに戻ってくるいつもの自分、人間を殺したいほど大嫌いで他の存在とも慣れ合わない河城みとりでも、答えは考えつけない。

「いや、だって友達だし、何かほっとけないし」

 だからこそ、あっけらかんに言われた答えに目を丸くし、ヤマメをぼうっと見てしまった。ついでに、それだけ、とも訪ねておく。すぐにうん、という肯定が返ってきた。
 余計にわけがわからなかった。同情だからか、といういつもなら浮かんでくるアイロニーな言葉も、ヤマメの前には無意味な気がして口を噤む。結局答えがわからないのが嫌で、別の問題を提起して、そこから逸れようとした。視線も逸れたのは、みとりの無意識だった。

「……あ、あの時いた、他の妖怪は?」
「キスメたちのこと? 二人とも家に帰っただけだよ。あっ、あなたがここにいることはちゃんと秘密にするよう言ってあるから安心してね」
「……そっ」

 そっけなく答えたが、冷静な一面のみとりはそこにある意味を読みとって、思考を働かせ始めた。自分の居場所を秘密にしなければならないということは、それだけ地底が今混乱しているのだろう。表立っているか、水面下であるかに関わらず。
 当然だと、今更ながらにみとりは思う。曲りなりにも『山の四天王』の一人を下して、その下手人が起きず、鬼はしばらく起きないのだから。厄介事/人づきあいが嫌いなみとりとしては、こうやって匿われたのは運がよいのかもしれない。自身のスタイルと感情は別として。

「わたしはどれくらい寝てたの?」
「丸一日ってとこかな」
「……星熊さんは?」
「それはわからないよ。けど地霊殿の連中が動いてたから、どっかで安静にしてると思う」
「そっ、か」

 よかった、と続けそうになって、みとりは頭を振ってそれを消した。戦いの最中は、日ごろから勝手に構ってきて心底邪魔だと思っていた相手を心配するのは何かの間違いだと思っていた。そう考える自分の思考も間違いだと思い、一息ついて、余計な意識に禁止をかける。錠が閉まる音が聞こえたような気がして、平静が戻ってきた。

「あ、そういえばみとりの服は洗って干してる途中だからね。あの緑色のが全っ然とれなくてさぁ~」

 あっはっは、と悪びれもなく笑うヤマメの言に、予想はしていたこととはいえ勝手に自分の服を洗われたことに憤りを覚えかけたが、しかしこうまで分かり易い恩人に対して恩を仇で返せるほど、みとりは無遠慮ではなかった。たとえそれが、自分が打倒した勇儀に似ている性質のものだろうと。

「ああ、それはわたし特性の石鹸を使わないと無理だから、構わないよ………それより、あなたは聞かないの?」
「何を?」
「緑色のケガレ」

 ジャブのつもりで尋ねる。ヤマメは先とはまた違ったものを含んで顔を歪め唸った。返答に困る、というのだろうか。みとり自身、さすがに全部を教える気はないし、概念自体はあの場ですべて言い切ったつもりだ。あれ以上となると、もっと複雑な説明、それこそ外界の言語のひとつであると思われる『C言語』というものも使わなければいけない。
 さぁ、どう返す。みとりはただ待った。そしてヤマメは、うんうんと唸り続け、声を濁しながら答えを提示した。

「……死ななきゃ安い?」
「…………はっ?」

 聞き間違えかと、わが耳を疑った。しかしそれに反してヤマメは、ああそうか、と閃きを得たような得心顔でさらに言葉を続けた。

「いや、だってよく考えたら、スペルカードルールって不慮の事故ありじゃない? そうしたらみとりのあの変態ボールを使うだけなら別に問題ないのよね……あ、だからって決闘なのに他の奴を巻き込んだりとか、止めを刺そうとしたのは許してないからね」
「え、いやちょっと。あれだけの妖怪を吹き飛ばして、鬼も倒すような代物よ? それが怖くないっていうの?」
「そりゃ怖いって思うけど……たぶん私は他の妖怪が感じているより、あれに対する感情は弱いのかもね。私自身、忌み嫌われる感染症の能力だし」

 土蜘蛛だからねぇ、とヤマメは軽く冗談でもいうように体から力を抜いた。みとりの体からも、それで力が抜けるような錯覚を覚えた。感染症を操る程度の能力を持つからといって、それであれに怖気を持たないはずがない。ケガレから生まれた幻想をも侵食するものを元に作りだした代物なのだ。それを振るえば、どんな妖怪でも自分からさらに遠のくはずだ。態々自分から能力を使わなくても、勝手に周りがいなくなるはずだ。
 自分自身という設計理念を根本から覆されるような、奇妙な敗北感。屈辱、と呼ぶには色合いが違う。自分の体が拘束されて、呼吸のできる水の中に放り込まれ、ずっと浮遊だけをしているような感覚。宙ぶらりん、というのが一番近いか。先ほどの急な肉体の弛緩が気すら弱めているのか、いつもいつも持ち合わせていたはずの、あの憎悪と激情を沈めて、常の自分らしい反論をさせてくれなかった。錠の冷たさが、強く感じ取れた。

「本当に、そんな、程度なの?」
「ふっふ~ん、これでも鬼には好かれる程度には嘘つかないよ!」

 どうだ、と胸を張ったヤマメに、みとりは今度こそ何も言えなくなった。無意識に、左手が錠をシーツの上から掴む。

「……ねぇ、わたしのこと、鬼や地霊殿の奴らに突き出さなくていいの?」

 その弱気が、悪魔の囁きにも似た問いを、みとりの口から紡がせていた。もしみとりが自ら言った言葉の意味を平静の状態で受けとまたならば怒り狂うことだろう。それは自らを死と屈辱の中へと売り込むことだからだ。へっ、と一瞬ヤマメは目を丸くしたが、次第に意味がわかってきたのか、肩を震わせ始め、そして顔を怒気に染めた。

「ちょっと、それは心外だよ! そんなことするならとっくに突き出してるっての! 誰が友達を危険な目に合わせようとするの? そりゃ、みとり自身の責任もあるから、自分で行くって言うなら別にいいけど……けど、そんなやけっぱちな状態じゃあ私は許さないよっ!」
「っ、お前に……何がわかる!? 自分のことを否定された科学者を……嫌われものの気持ちを知ってるの?!」

 激情とも憎悪とも違う熱いものが突然膨れ上がり、みとりの内側で爆発した。錠を握る左手がいっそ痛々しいほどに力を込められ、ただでさえ生気をなくしていた肌がさらに白くなった。そのみとりの俯いたままの癇癪を、ヤマメは顔を真っ赤にして首元を掴んで引き寄せ、息が届く距離で叫んだ。

「ナマ言ってんじゃないわよバカっ!! そんなの、この地底にいる奴は全員厭ってほどわかってんのよ!」

 みとりの目が、ヤマメの目に強引に合わせられた。それは、あの勇儀の中にも見たことがなかった、知らない感情の光を称えていた。みとりはその光に引き寄せられるように、動くことはなく、ただ、一匹の妖怪の慟哭を聞いた。

「私たちはねぇ、地上から嫌われた連中なんだよ! こっちはあいつらのことなんか考えず、ただ妖怪らしくあろうとしただけで、こんな地の底に押し込められたんだっ、人間にも妖怪にも!! あんただってっ、それがわかってたからここに堕ちてきたんじゃないの!?」
「そ、それは……」

 みとりはしどろもどろに何かを口走りそうになった直後、ヤマメは我に返ったように声をあげ、ごめん、と一言呟いてみとりをベッドの上へと戻した。そして、あはは、と苦笑いを浮かべると立ち上がり、みとりに背を向けた。

「お腹空いてるわよね? 今汁ものもってくるから待ってて」

 それだけいって、ヤマメはそそくさと部屋から出て行ってしまった。残されたみとりはしばらくその背中を追おうと暖簾に視線を固定していたが、左手に感覚がないことに気づいて、ようやく目を下に向け、手を錠から離した。今度は右手で、シーツと体の間から錠を掬い取り、手のひらの上に置いた。鍵穴は暗く、そこに化け物が潜んでいるかのように、機構が見えない。いや、見えずとも、みとりの技術力ならば、十分解錠できる。
 どうして今まで開けなかったのだろうか、と疑問がみとりの中に生まれた。それは現状への逃避のためであると共に、今まで目を背けていたことに対する初めてのアプローチだった。
 開いたとろで意味がない、というだけではない。これを開けてしまったら、何か大切なものが失われる。そんな根拠のない直感があったのだ。大切なもの、と自然と心に浮かんだ言葉は、すぐにイメージができてしまった。それは記憶だ。幼いころの自分、ただの河城みとりだったころの思い出。
 バカな、とようやく舞い戻ってきた半人半妖のみとりは嘲笑った。子どもの時から差別の意思を投げつけられていたのはわかっている。思い出はその程度だけなのだ。
 それは違う、と夢に出てきたみとりは叫ぶ。目を覚ます直後に観た、記憶の綻びの先にあった光景が、頭の中に浮かんだ。

「……まさか、アレは本当に、そうなの?」

 独白は空しく宙に消えた。錠は答えない。体の重さは消えてくれない。ただ今は、何もかもが、みとりを無言で圧しているような錯覚を覚えるほどに静かだった。いつもは静けさを愛するはずのみとりは、今日に限って、だれかを求めていた。だれか、はどこにもいなかった。妖怪ではなく、それは人間の形をとっていた。
 人間。自分の中に半分流れる血の元。河城みとりを最初に拒絶したものども。みとりがもっとも拒絶する生物。その一人を、ついこの間ぼろ屑にしたことを思い出し、名前を頭の中に浮かべようとした。
 中邦縁。
 地底に突然現れたおかしくて、研究材料になりそうな右腕を持つ、人間。そして。
 
「……あの人間も、ここでは一人、か」

 声に出した言葉が頭の中にしこりとなって、思考を埋めた。次いで、どこにいるのだろうという疑問が浮かぶ。その疑問の大本は、倒れる前に地底中を歩き回っていた時に抱いていた想いと同じような気がした。
 記憶の錠前に差された鍵が、くるりと回った音がした。





「や、きみが例の不良? 本当に義手なんだね」

 突然かけられた声に、縁は振り返る。病院の屋上ではためく白いシーツや洗濯物が風の強さを知らせ、同時に縁に声をかけてきた相手を隠す。焦れったくなって、縁は怒声を上げた。

「隠れてないで出てこい!」
「わぷっ、それなら助けてよ」

 声の主はシーツに絡まり身動きが取れなくなっていた。何やってんだこの蓑虫、と小さくボヤいて、縁は中々抜け出せない相手を舌打ちしながら手伝った。左腕は骨折で動かせないので、力加減を間違えられない右腕のみで行ったせいかそれも手間取り、縁が相手の顔を見ることができたのは五分ほど経過してからだった。
 
「いや、ごめんごめん。助かったよ」
「……あーそーかい。だったら帰れ」
「ひどいな、せっかく話し掛けたっていうのに」

 声の主は中性的な男性だ。背は十四歳の男子の平均より若干高い程度の縁より一回り大きく、しかし茶色の短髪がいっそ優男という風貌を見た目よりも幼く見せる。病人服にどてらを一枚着ただけの姿は病院でそれなりに長い時間過ごしているという証だろう。左手には青と白の背表紙をした本を持っている。一見して、入院患者ではあるがどんな理由で居るかはわからない、という縁とは好対照な風貌だ。
 もう一度舌打ちをして、青年に背を向け、柵に右手を乗せてぼうっと見ている世界を見下ろす。郊外にある総合病院らしく土地面積は多分に持っており、整理された庭に緑と青が広がっている。目を少し上に移せば、縁の通っていた中学校のある街と、遠くには山々がそびえていた。
 そうして縁が意識的に存在を無視しようとした相手は、しかし気を悪くした様子もなく作ったような薄い笑みで縁の隣りに立ち、柵を背もたれにした。それでもそれ以上は何もしてこない。先に音を上げ口を開いたのは縁だった。

「……何の用だよ」
「特にはないね、しいて言えば今時一匹狼気取っているっていう珍しい少年を野次馬根性で見に来た一市民ってところかな」
「……本人の前で言うことか、それ?」

 殺気を視線に込めて問う。青年はおお怖い、とふざけた調子で視線を受け流し、縁に向き直ると右手を差し出した。

「ちょっとふざけすぎたみたいだね、ごめんごめん。一応自己紹介しとくよ、庚慶介っていうんだ」

 笑みの形を変えないまますらすらと言葉を並べる青年・慶介に、縁はついつい胡散臭さを感じたが、しかし差し出された右手が一向に引かないところを見て、戸惑いながらも、人間の手を模した機械を差し出した。十四歳という第二次成長期に合わせたそれは丈夫さよりも拡張性に重点をおいて設計され、軽量素材の比重が大きい表面部位のおかげで軽くなっていたが、しかしそれでもただの人間、ましてや病人に向けて振るえば内部の機器の重量と単純な硬さ故に凶器になりかねない。
 それでも慶介は、そろそろと半ばまで差し出された義手を強引に取って振って、作り物めいたものとは違う、しかしどこかカーテンに隠されたような笑みを浮かべた。

「よろしく。ところで意外と温かいんだねこれ、排熱が悪いの?」
「……中邦縁。そこら辺はまだ試作の試作だから調整が難しいんだとさ」

 縁はマイペースにかつ衣着せぬ物言いの先輩病人に対して内心呆れの溜息をつきながら、一人で仏頂面をしていた時とは違い、口元をわずかに緩ませていた。

 そう、これがぼくと慶介たちの出会いだ。

 縁は見た。声の主、庚慶介の遙か後ろ、柵の上に足を乗せ座りこむ少年の姿を。しかし認識はできない。何故なら童子の姿は、本来存在しえないものあり、“縁”もまたここにはいないはずのものだったからだ。



 あとがき

 もう、ゴール(打ち切り)しても、いいよね……すんません嘘です、短くてごめんなさいorz



[7713] 第二十三話――壊<どおおりゃあああああ 
Name: へたれっぽいG◆b6f92a13 ID:a2573ce4
Date: 2011/03/24 01:17
 中学生の中邦縁にとって年齢の近い年上、少なくとも同年代の人間という存在は、大よそは敵であった。それは縁の生き方が世間一般でいう不良のカテゴリに入るものであり、また縁自身常人とはまったく違うものを持っていたからだ。
 それは右腕の義手。少しでも良識のあるものならば専門の施設や学校に通う筈であるのに、わざわざ五体満足を備えた人間と同様の中学校に行くことが、他の学生や親から見れば異常なことであった。
 そのような視線を受け続け、しかし縁はあえて無視しながら学校に、何食わぬ顔で通い続けた。本人としては普通に生活できることと、九歳のころの約束によって前向きに行っているだけのことであった、学生、特に思春期に入りたての少年少女というものは、幼少期に存在した排斥の概念が変化し始めるものであり、その対象を選ぶことを学ぶのである。そして縁という五体不満足の少年は、格好の獲物であった。
 まず最初にノートがなくなるようになり、耳をすませば誰かが縁に対しての根も葉もないウワサを口にしていた。次にある日、縁に声をかけた男女半々のメンバーが縁に対しパンを買ってくるように言い縁がそれを拒否すると、バッグがなくなっていた。
 そのころには、縁と小学校の時から友人であったもの、興味本位で近づいていたものたちは周囲からいなくなり、縁はクラスから孤立し始めた。縁もまた自身の置かれた状況を察し、クラス、いや学校という人間のコミュニティから距離を置きはじめていたが、学校からいなくなるということだけはしなかった。そして、自分が受けていることを親や教師に報告するということもなく、ただ静かに、世間でいうイジメの環境の中に身を置いていた。しかしそれは、子どもらしい自尊心で耐えていたことも一因であるが、約束を違えるわけにはいかないという拙い気持ちもあった。それは同時に、縁から陽気さを奪い、抑圧の意識を肥大化させていくことにもなっていたが、気づけるものはまず誰もいなかった。
 縁を排除の動機の実験台に選んだものたちは、反撃をされないことをこれ幸いにと、更に行動をエスカレートさせていった。机や椅子への中傷の落書きは当然とし、給食をわざと少なくされること、持ち物検査の際に他の生徒が持ってきた漫画やタバコなどを勝手に入れられ不当に罰を受けたこと、猫や鳥の死骸や腐った卵をぶつけられたこと、バケツ一杯の水を不幸な事故に見せかけてかけられたこと。
 悔しくてたまらなかったが、縁は子どもらしく暴力を持って反撃をしなかった。それは縁の内部にある戒めのせいだった。いつか誰かと交わした約束と、九歳の時に出会った二人の自称神と一人の少女との出会いが、縁に暴力/右腕を振るわせることを拒否させていたのだ。
 だがそれでも、少年の心はまだ脆く、我慢の限界はあっけなく訪れるものであった。
 その日縁は校舎裏の用具室に呼び出された。そこにいたのはいつもと変わらぬメンバー、一年生の縁に対し、三年生と二年生が一人ずつ、残り男女の一年が五人。彼らは入ってきた縁を取り押さえると、即座に床へと倒し、こう言った。

「ズボン脱いでちんこ見せろよ。ついでに犬のカッコになれ」

 縁を携帯電話のカメラが囲い、下卑た視線が見下ろした。縁はもはや何も言うことができず、そしてなけなしの小さなプライドは行動を起こすことを許さなかった。俯いたままズボンを脱がない縁に対し、三年生の男子は舌打ちを一つし、ポケットからあるものを取り出した。
 それは折りたたみ式のナイフだ。美術の時間で用いるような木工用ナイフなどではなく、芸術品かサバイバル用の、実用的で持ったものに力を持たせるという錯覚をもたらす、本物のナイフ。縁の口から情けない悲鳴が上がった。それでも後ろに下がるだけ、何もしない。
 豪を煮やして、最年長の男子はナイフの刃先を縁の義手に這わせた。

「ほら、さっさとしろよ。ぶっ殺されてーのか?」

 それは脅しや危ないことを覚えたての拙い殺気と文句であったが、正常な判断がとれなくなっていた縁には効果てき面であり、急いでズボンのベルトを外し始めた。しかし慌てて手元が狂うのか、中々思う様に外れない。チッ、と誰かが舌打ちを打った。そしてナイフは、ゆっくりと刃を義手と肉の間へと滑らせていった。縁はまた一段と怯え、肩を震わせた。
 その拍子に、刃が縁の身体の、義手との接合部に刺さった。途端、縁を正体不明の激痛が襲った。発生源がわからぬそれに縁が悶え苦しむ様を加害者たちは一瞬、何が起きたのかと茫然と見ていたが、しかしすぐにナイフに怯えて演技をしているのだと思い、罵声を浴びせながら縁の腹を蹴った。
 無様に転ぶ縁。しかし人間をボールとした遊びはそれを皮切りに始まった。頭を蹴られた。背中を蹴られた。髪を踏まれた。足を踏みならされた。義手を蹴られた。鼻を蹴られた。一しきりそれが続くが、縁はそれでも気を保ってしまっていた。なまじ、中途半端な力しかこもっていなかった蹴りは、縁を楽な方向へと運ぶことを決して許さなかった。
 そして最後に、ナイフを持った三年生が、ドロと埃だらけの縁の右腕を持ち上げた。そして、額に汗を垂らし、どこか引きつった嘲笑の表情をとって、ナイフを先ほどの場所へと突き立てた。

「どうせだから、こいつはおめーみてーなクズでゴミなウジムシ身障にはいらないよなぁっ!」

 その一言が、縁に残されていた理性を壁を壊してしまった。
 右腕が機械の力でもって男の手を振りほどき、降り下ろされようとしていたナイフを掴み、砕いた。突然のことに男の反応が遅れた。縁は右腕をナイフを砕いた形のまま、腕を跳ね上げ、男の顎を打ち砕いた。硬いものとはそれだけで凶器であり、ましてや不意うちの形をとって顎を、脳を大きく揺さぶられれば、人は脳震とうを起こす。ぐらりと年長者の体が前のめりに倒れようとした。しかし縁は、牙をむきだしたネズミはそれだけで絶対的上位者を許しはしなかった。起き上がりながら、その頭に頭をぶつけ、立ち上がり左手を叩き込んだ。
 ぐりんと白眼を剥いて、今度こそ三年生は倒れた。想像すらしなかった、弱者のはずの身障者の反撃を誰も理解できなかった。現実を受け入れることに、一瞬拒否反応を起こしたのだ。
 縁は彼らに背を向けたまま俯いていた。しかしゆっくりと、肉体と精神両方を汚したものたちへと振り返る顔は、歯を剥きだしにした犬と同じものであった。

「……ぅぅぅぅぅぅうううあああああああああああああああああ!!!!!」

 そして獣の咆哮と共に、縁は右手を握りしめ、手近にいた男子を殴りつけた。
 早々に逃げだした女子を除いた一対四の乱闘が始まった。しかし女子が一方的な情報を土産に教師たちを呼び、対応の遅れた大人たちが用具室に駆け付けたころには、既に決着がついていた。右腕を振りかぶり、延々と気絶した三年生を殴り続ける縁。他に動くものはいない、血だらけの用具室。赤色に染まる縁の両腕、それとは対照的に、イジメを受けていたはずの少年は、泣きながら、泣くのをこらえようとする子どもの顔をしていた。
 そしてこの事件以降、縁の学校での立場は変わった。
 退学処分を免れたのは、事前に教師が生徒間にあった空気に薄々気づいていたこと、偶然にも縁の机に何かを入れる生徒がいたのを見たことがある教師がいたこと、何よりも縁の父親が、最先端医療のトップの一人であり、一部PTA役員に顔が広かったという“偶然”があったおかげだった。
 それでも停学処分は免れず、縁は五日間家の中に引きこもり、己を見つめ直した。父親の声は無視した。じっと右腕を見つめながら考えた。誰かを殴った感触はすぐに思い出せた。そのことに一瞬、寒気のようなものが浮かぶが、それは不思議なことに高揚へと変わった。強いものを打倒し、自らを取り戻せたことによる開放感だと思った。そしてすぐに、また学校に戻れば、前と同じようになるのではないかという不安が沸きがあった。
 だがそこで、辿りついた答えは簡単なものだった。危害を加えるものは全て敵。殴り飛ばして、自分は強く、いじめられるようなものではないのだと証明する。
 答えを得た縁は気分よく復学し、自ら更なる孤立の道を進み始めた。
 以前と同じようなことをする相手には拳を振い、上級生から売られた喧嘩を買い、いつの間にか他の学校にいって自ら喧嘩を売るようになってしまっていた。一年生が終わるころには狂犬と呼ばれ、教師からも疎まれ、もはや誰も縁に近づこうとしなかった。
 二年生になってからもそれは変わらなかった。もし変わったことがあるのならば、父・犹嗣の都合で転校することになったことだけだ。それは縁に変われという忠告であったのかもしれないが、それだけで変われるほど、縁は大人ではなかった。
 適当な相手を見つければ、殴り殴られ、蹴られれば蹴り返し、隙を作るために頭突きをかまし、最後に相手が立っているか、自分が立っているか。それだけを没頭している間は何も考えずに済んだ。殴ることに確かな興奮を覚えた。負ければ悔しいが、倒すことに快楽を見出した。相手が無様に倒れる様を見下し、嘲笑が浮かんだ。
 いつしか、ただただ純粋に楽しい、という快楽への思慕が出来上がっていた。
 その気持ちに流され油断していたのか、縁は転校先の学校で久方ぶりに左腕の骨を折られた。一年生のころ、喧嘩三昧になったばかりのころ以来のものだった。
 そしてその入院先で、縁は庚慶介と、井筒愛に出会った。



 第二十三話『Mr.ホールデン~the third wedgo Ⅰ~』



 庚慶介は不思議な男だった。一目見れば誰もが目を疑う縁の右腕を最初から平然とした調子で見て、あまつさえその手に握手をしたこともそうであるが、何よりも掴み所がない。縁が試しに喧嘩でよく使った恐喝紛いの文句を言っても、飄々とかわす。疑問を尋ねれば、必要なことであろうと平然と嘘とジョークを織り交ぜてくる。しかし不思議と腹が立たず憎めない。
 そういう奴もいるんだな、と縁は入院三日目ですっかり仲良くなった慶介を認めていた。成長期とはいえ複雑骨折となった腕骨が完治するまで早くてひと月、入院は義手と体についた接合部位の調整も含めて十日。謹慎期間もこの中に含まれているので、優に一か月以上前に過ぎ去ったゴールデンウィーク以上の休みがとれた計算になる。それは本来ならば自らの力を持て余すだけのはずであったが、庚慶介との出会いはそれを別の方向へと向けていた。

「………どういうことだよ、これ? わけわからん」
「あー、君にはまだラカンは早かったかもねぇ。けど読まないよりはマシだよ」

 四日目の昼過ぎ、病室のある階層の階段前にある広場で慶介が持ってきた本を読まされていた縁は、三十分後に知恵熱を出して白旗を振った。分厚く古い本特有のカビに似た匂いを縁から返され、慶介は予想通りとばかりに笑って、自らが読んでいた文庫本を閉じた。
 縁としては、そっちのヘミングウェイの方が性にあってそうだ、と内心ぼやくが、もしそう言えば、ならドフトエフスキーを読んでからね、と返されるのはわかっていた。昨日の内にそれに近いやりとりがあったので、余計にその想像は現実味を帯びていた。
 五階建ての病院の四階入院患者棟のエスカレーター前で、窓の外を向いてむくれる縁をしばらくおかしげに見つめていた慶介は、その笑い声を徐々に潜めていき、ちらりと掲示板に張りつけられたカレンダーを見て、おもむろに呟いた。
 
「ん~、そろそろいいかな?」
「? 何がだよ」
「我が病院のお姫様に謁見させるの」
 
 よっと勢いをつけて立ち上がると、慶介は文庫本をどてらのポケットに、ハードカバーを片手で持ったまま縁を手招きした。軽やかに動くその様子を見ていて、はたしてこいつはどんな病気なんだろうか、と何度目かわからない疑問を縁は浮かべた。ついでに、キザだろコイツ、と声に出して言うのも忘れない。慶介はそれをスルーした。

「何で今になって人を紹介する流れになんだ?」
「ふふふ、我が病院の姫はある程度信がおける人じゃないと会わせてはいけないという暗黙の了解があるのさ。ほら、あそこにいる柏のおじいちゃん、さっきからこっちを見てるだろ? あの人は姫に惚れた一人だからね」
「……いいのかよ俺で。自分でいうのもなんだけどよ、俺って世間一般じゃ、十分不良とかいう分類に入るんだぜ?」
「自分で不良って言っちゃう時点で背伸びした子どもくらいさ。それに、姫の一番のお付きである僕が言うんだ、君は信じられるって」

 振り返って、にこりと笑みを作る慶介。その歯に衣着せぬ言い方に縁は男相手でも顔を真っ赤にし、すぐさまそっぽを向いた。その思春期特有の気恥ずかしさをわかっているのか、慶介はおかしげに笑った。

「ほら、ついたよ」

 そうこうしている内に辿り着いたのは、五階の特別病棟と区分けられた場所にある個室の前。名前の書かれているプラカードには『井筒愛』とだけ記載されている。場所が場所だけに、勝手に入ってもいいのだろうかという常識は持ち合わせていた縁だが、それを無視するかのように慶介は三度ノックをしてから、入るよと一声かけてドアを開けた。
 開けた先には、名前からわかる通り女性らしい内装が目に入る。大衆小説がささった棚と、その隣に置かれたテディベア。窓脇には小さな花瓶が三つ、四季の花を咲かせている。そしてベッドの上で手帳らしきものを読んでいるのは、クリーム色のパジャマの上にカーディガンを羽織った、慶介と同年代か少し上程度に見える女性だ。こちらに気づき、読んでいた本から顔を上げて浮かべた微笑には、中学生の縁が感じたことがない、包み込むような優しさに満たされていて、不覚にも、それに見ほれてしまった。

「や、愛。昨日貸した本は読み終わった?」
「もうっ、私は慶介くんみたいに速読できないよ。それより、そっちの人は?」
「ああ、新入りの中邦縁くん、属性は一匹狼なツンデレだ」
「んな、テメェ喧嘩売ってんのか!?」

 慶介の物言いにすぐさま噛み付くが、しかし上品な、としか形容のしようがない笑い声が幼稚な怒りに入り込み、縁はさっとその主を見て、なぜか気恥ずかしくなり、したり顔の慶介を離した。それだけでは腹の虫が収まらなかったので足を踏んでおくことも忘れない。
 ふぎゃあっ、といつもの澄ました態度を消し飛ばすような悲鳴をあげて飛び上がる慶介を、今度は縁が笑った。そして愛は、体を屈しながら笑みを深めた。あとで覚えてろよ、と慶介が目で訴えてくる前に、笑い合っていた縁と愛の視線が合った。今度は顔を赤くせず、しかし胸の動悸が激しくなりながらも、この年上の女性を見続けることができた。

「初めまして、縁くん。井筒愛よ、よろしくね」
「……ま、まぁ……その、よろしく」

 にこりと笑った愛に、なぜか直視するのが耐えきれなくなってそっぽを向いた縁を、慶介は踏みぬかれた足を抱えながらにたにたと笑っていた。


 簡単にいってしまえば、縁は井筒愛に一目ぼれをしてしまった。満二十歳となる愛の、年上の女性特有の雰囲気に当てられたのか、それともあの柔らかな笑顔に惚れてしまったのかは自身でも定かではなかった。たまたま一人のときにあった、実は長老の異名を持つ柏のおじいちゃんに相談してみると「男が女に惚れるのなんてそんなものじゃよ」と悟りきった目と言葉で諭され、ついつい納得してしまった。
 しかし、問題がある。それは姫こと井筒愛の人気はそのあだ名の通りこの病院の入院患者の間では高かったことだ。普段はあの部屋にいることを義務付けられているようだが、歩けないわけではなく、両親と思わしき人物たちに連れられたり、勝手に抜け出した際には必ず誰かを骨抜きにしてしまっているらしい。故に、彼女の名前を知る者はそのまま彼女を好いているといっても過言ではなかった。
 そして縁に愛を紹介した慶介もまた、その一人であり、縁と同じく彼女に思慕の情を向けているものだった。

「ほほう、つまり僕らはいつでもライバルであるということ……まぁ君は入ってきたばかりだからランク的に最下位だろうけどね」
「そんなん、ば、挽回するのは簡単だってぇの!」
「……挽回の使い方はともかく、じゃあ愛の好きなもの知ってるかい?」
「うぐっ……」
「ほら、何も言えない。口だけにならないようにねぇ」
「な、なってたまるか、バカ!」

 しかし、慶介はそういうことを気にせず縁と付き合い、むしろ兄弟のようにからかってくることが多々あった。縁も、それを不愉快とは感じずむしろこそばゆい思いをし、拒絶しきれなかった。むしろこの一年間でもっとも安らいだ時といえるかもしれない。
 それでもこの入院期間中の幾日かは憂鬱なことがあった。その時は、慶介や愛と会うときとは対照的に苛立ちを隠さず、対面する人物の前で何度も舌打ちを打った。
 部屋は研究室然としたもので、非常用のもの以外専門知識のない縁には用途不明の機器で溢れていた。加えて、毎回毎回一対一で対面することになるのだから、思春期の縁にとって、形容のしがたい感情が湧き上がり、そしてその相手は一々それに構うことはなく、黙々と腕から外した義手の表面を取り外して、中の部品を点検していた。

「……ここでも勉強はちゃんとしてるか?」

 くたびれた白衣を着た医者、いや縁の実の父親である中邦犹嗣はぼそりと尋ねた。犹嗣の仕事の関係上、家ではあまり会うことができないがために出たものだった。それに対し、縁は一つ舌打ちを鳴らす。これで何度目かという問題は最初からなかった。

「少しぐらいならしてるっつーの」
「それじゃあ、復帰したときに追いつけなくなるぞ」
「んなの、あんたには関係ないだろっ」

 縁は視線を合わせることなく吼える。犹嗣は実の息子の言いように対し、点検を終えた部品を取り付けなおす動きを止めたが、すぐに再開して、また口を開いた。

「関係はあるさ、僕は君の父親だからね」

 父親だから。その言葉を口にされただけで、縁の臓腑に疼く言葉にしがたい感情が逆撫でされるようだった。苛立ちを隠さぬまま、親という生き物が一番嫌がるだろう言葉遣いを考え、口を滑らす。

「あーはいはいそうですね、それより早く終わらねーのかよ」
「父親に対してその言葉遣いはなんだ?」
「これが素だよ」
「……そうか」

 それだけで、また会話が終わってしまった。縁はもう一度舌打ちをし、研究室中に満ちる居心地の悪い空気を批判した。そのまままた意味のわからないデータを眺めているうちに、最後のパーツが義手にはめられ、表面部分が取り付けられる。

「右手を出してくれ」

 義手を持ちあげた父親の催促に、左手の使えない縁は無言で肘近くの二の腕にある接合部分を差し出し、義手が取り付けられるのを待った。犹嗣は何事かを呟きながら、それを淀みなく取り付けた。一瞬、静電気のようなものが幻痛よろしく感じたが、すぐにそれは消え、代わりに義手が正常に稼動したいつも通りの感触を体が認識した。
 立ち上がって、軽く振り回す。問題なく動いたそれに、自然と笑みがこぼれそうになるが、しかし苛立ちの対象である父親の手前、すぐに引っ込めた。

「どうだ、以前ともう変わらないだろう? それと近々新しいバージョンにするつもりだから……」
「あー、わかったよ。とりあえずもう終わりだよな? そんじゃ」
「……少しはこっちの話も聞きなさい」
「は、そんな面倒なこと、誰がしてるか」

 くるりと踵を返して、親を視界から除けた。そのまま何も言わず、調子のよくなった右手で扉を開いて、廊下へと出ようとした。

「庚慶介くんと井筒愛さん、この二人とあまり親しくしないようにな」

 しかし、何の前触れもなく投げ放たれた言葉に、ぴたりと動きを止められた。ぐるり、と首を回転させて、もうこちらからは視線を外し、備え付けのパソコンに向き直った父親をにらみつけた。そのまましばらく縁は意図を探ろうと、父親の白髪交じりの髪が被さる横顔を見ていたが、知るか、とはき捨てて部屋を出た。
 そのまま扉は、高い音がわざと出るように閉めた。燻っていた苛立ちは最後の最後で焚き付けられ、それでもまだ解消できることはできなかった。突然響いた音に廊下を歩いていた看護師が目を丸くしてたが、ひとにらみするとすぐに視線を逸らして足早に去っていった。
 ふん、と荒い鼻息をつく。

「う~ん、反抗期してるねぇ」
「んなっ!?」

 そして真横から突然かけられた声に驚き、今までとは逆の頓狂な悲鳴をあげてしまった。声の主である慶介は相変わらずのチャシャ猫然とした表情で縁を見、予想される反応を待っていた。縁も、頭ではそうとわかっていても、感情はついつい相手の思う通りのものを滑らせてしまうのを自覚しているので、顔を背け、無造作に歩き出してから口を開いた。

「んなの……お前には関係ないだろっ」
「あっはは、それさっき君が父親に対して言ってたのと同じ台詞だよ」
「っ……」

 ぐうの音も出なくなった縁の横に難なくついた慶介は、縁の中にある複雑かつ滑稽な思惟など関係ないと言わんばかりに調子よく話し続ける。

「て、スネちゃったか。どこいくんだい?」
「愛さんとこだよっ!」
「それじゃあ、僕も行こう。ああそうだ、今度アガンベンの新刊が出るっていうんだけど、退院した後にでも買ってきてくれないかい?」
「誰だよアガンベンって、つーかそこは退院祝いのお前が何かくれたりするんじゃいのか普通?!」
「日頃から病院の中にしかいない僕らじゃあげられるものなんてたかが知れてるさ~。ま、愛なら調理室借りてお菓子作ってくれるんだろうね」
「え、愛さんって料理できるの?!」
「まぁねぇ、ここに入るまではそういう方面だって……まぁ、聞いたことはあるし」

 途中から歯切れの悪くなった慶介に気づくことなく、縁はすぐに頭の中で愛の料理姿を想像してみた。いつも来ているパジャマの上にフリル付きのエプロンをして「はい、どーぞ」と笑顔でケーキなどを渡してくれたり、あーん、などといって食べさせてくれたりする年上の女性の姿が青少年の妄想の力によって易々とイメージでき、にへらっ、と表情を崩してしまった。
 この数日後、本当に愛からクッキーをもらい、今浮かべている顔よりもさらにひどいものになることになり、また慶介も同じものをもらって取っ組み合いを始めて、動かせそうになった左腕の症状が一段と酷くなることになるのだが、運命の三女神でもない彼らは知る由もなかった。

「はぁ、そのだらしのない顔を愛に会うまでには直しとくようにね」
「っ! お、おう!」
 
 慶介に指摘されて、反射的に右手で顔を叩いた。必然、咄嗟の反応では細かな加減の利かない義手は想像以上の勢いがあり、縁が顎にひびでも入るかのような衝撃に思わずその場で蹲ってしまった。慶介はそれを指さして、けらけらと笑った。やっあpりいつかしめる、とこの年上の友人に対して密かな復讐心を心の中で燃やした時には、すでに縁の頭の中からは、父が最後に言い放った言葉に秘められた意味と疑問は消失していた。



 十日間、いや、慶介とのじゃれあいで調整をし直した左腕のおかげで三日伸びた入院生活も終わり、縁は再び学校へと戻った。しかしその生活は、縁にとって以前と変わらぬ色あせたものだった。ただでさえ学校に行くということさえ辛いのに、眠くなるだけの授業、自分を煙たがる教師、明らかな怖れと気持ちの悪い先入観を込めた目と口でウワサをする同級生たち。教室の椅子に座っているだけで心がささくれ立つようだった。
 いや、その感情は前からもあった。今はそれが、より自覚した上で感じ取れるだけだ。原因は、病院での出会いだろう。自分と正反対の性質なのに不思議と仲良くなれた青年に、見つめてくれるだけで優しさに包みこんでくれるような女性。それ以外にも、将棋というものをしきりに薦めてくる少年や、豊富な人生経験から様々な話をしてくるお爺さん、慶介と共に下着当てゲームをして怒った若い看護師。
 いい顔をしない父親と会うことを除けば、縁にとってあの病院こそが、他者に心を開くことを忘れていた少年にとっての“居場所”になっていた。
 そうなれば、自然と縁の足は郊外の病院へと向いていた。下校直後や休日。左腕の定期検診という本来の目的もあったが、縁がそこに通うのは、もはやほぼ毎日のようになっており、生活の中心は学校よりも、病院にいる慶介や愛と過ごす時間になっていた。一度だけ学校をさぼって病院にいったこともあったが、慶介と愛に真剣な表情でこう注意された。

「……私もね、病気になる前は学校に行ってたんだよ。昔は学校なんて嫌だなって思ってたけど、こんな風になって、ずっとここに入っていると……何だか、あそこにいることがとても贅沢で、幸せなことだって気づくんだ」
「僕たちは、正直いって君が羨ましいんだよ。普通に学校に行って、普通に授業に出て、何かを学ぶ……例え自分の人生が自分自身のものだとしても、それに憧れないのは嘘とはいえないよ。だから君がサボってここに来るっていうのは、僕たちにとっての裏切りになる……」
「だからね、縁くんにはちゃんと学校に行って、私たちの分まで、楽しく過ごして欲しいの……だめ?」

 縁は何も言えなくなっていた。二人の言葉があまりに重すぎて、一瞬、押しつぶされそうになった。固定状態から外され、傍目にはもはや骨折前と変わりのないはずの左腕の中が、まだずきりと痛んだ。その痛みに耐えかね、縁は二人に対し、無言で頷いた。
 そのやり取りがあった日以降、縁は一度もサボることも、また遅刻することもなく学校に通った。喧嘩も買うことはあれど、売ることはしなくなった。周囲からは何があったのかと奇異の目で見られたが、当事者である縁は我関せずと、黙々と授業を受け、そして病院に通う毎日を送った。


 そんなある日、いつものように縁は病院の待合ホールで左腕の診察時間がとれるのを待っていた。休日の土曜日の昼であるせいか、面会希望や診察待ちの人々でカウンターの前の席は埋まっており、縁は仕方なく背中を手ごろな壁に預け、持っていた紙袋を置いた。中には慶介を筆頭に病院のコンビニでは買えないような品々が詰まっており、一部の男性からは熱狂的支持のある、縁の年齢では本来買えない代物も含んでいる。慶介用には嫌がらせ込みでロリータな品も揃えており、縁はこの病院の男性入院患者の間では『エロネゴシエーター縁』として尊敬の念を集めていたが、本人は知らぬことだった。
 もうちょっとかかるなぁ、と慶介から課題代わりに出された文庫本を取り出してそれを開こうとした時、見慣れぬ顔が開いたエレベーターから現れたのを見て、眉をひそめた。全身黒スーツの集団、顔ぶれはみな縁が喧嘩を買うようなチンピラや不良もどきとは一線を画すものを放っており、その中心にいる、一人だけサングラスをかけた男にどこかで見たことがある顔だな、と注視した。
 その視線に気づいたのか、サングラスの男が縁に振り向き、待合室の中央で足をとめた。それに合わせて周囲の黒服たちも動きを止め、その内の一人が男に耳打ちをした。男もまた何事かを返すと、耳打ちをした黒服ともう一人を残して、他の黒服は病院から出て行ってしまった。
 男の眼光をサングラス越しに感じとって、縁は本を持ったまま、右腕に拳を作る。サングラスの男は二人のお付きを伴ったまま、こちらに歩み寄ってきた。背中から不自然な汗が滲み出したが、しかし視線は三人を捉えたまま絶対に逸らさなかった。

「……その本……シェイクスピアの『ハムレット』だな?」
「ああ、そうだけど」

 警戒心をそのままに、縁は無遠慮な言葉遣いで答えた。後ろの二人から一瞬、怒気にも似た威圧感が放たれたが、縁はわざと無視して、話しかけてきた男だけに注意を払った。サングラスのかけられた顔だちを間近で見れば、やはり誰かに似ているという思いが強まったが、しかしそれ以上の思考は、目の前にいる男の発する空気が許してくれなかった。
 いつの間にか周囲からは人がいなくなり、看護師や一般客がこちらの様子を窺いながら、何事かと勝手な想像を互いに教えあっていた。

「そのくたびれ具合から察するに、それは慶介のものか?」
「っ! ……確かにそうだけど、それがあんたに関係あるのか、おっさん」
「小僧、よくもそんな口をっ……」
「止めろ三井、ここは病院だ」

 三井、と呼ばれた巨漢の黒服はサングラスの男に手で制され、そのまままた斜め後ろの定位置に戻った。それよりも縁は、慶介の名がこの男の口から出たことで、ようやく自身の中にあった違和感に合点がいった。目の前の男は、慶介に似ているのだと。
 サングラスの男はしばらくこちらを見ると、不意に頬を緩めた。サングラス越しではその目に何が宿っているのかは知れないが、それでもこの男から放たれていた空気は少し弛緩したような思いがし、自然と縁の緊張感は和らげられた。

「あいつが言っていたのはキミのことか……名前は?」
「……中邦、縁。そういうおっさんこそ、何て言うんだよ」
「私か? 私は庚和正(かずまさ)という。しがない事業家さ」

 庚。名字としては確実に少数派の部類に入るだろうその名に、縁はこの男が慶介の縁者であることを確信した。しかしそれ故に、この慶介の親とも兄とも読めぬ男の正体が判らなかった。同時にそれは、親友である慶介の正体をも、不明瞭という名の霧の中に追いやろうとしていた。

「キミはその本をどこまで読んだ?」
「……まだ半分だよ」
「そうか、なら君は生きる方と死ぬ方、どちらを選ぶ?」

 生きるべきか、死ぬべきか。ハムレットに出てくる有名な一節だ。縁もその部分は既に読み終えているが、だからこそそれを今聞かれたことが判らなかった。思わず目を丸くして、突拍子もないことを尋ねてきた和正をまじまじと見る。尋ねた側も自分の発言が何の脈絡も持たないことを理解しているのか、苦笑いを口元を浮かべ、恥ずかしげに、忘れてくれ、と告げて踵を返した。
 
「慶介と仲良くしてくれ、それはあいつのお気に入りの一つだからな」
「え、あ、おいっ」

 縁は反射的に呼びとめようとしたが、しかし声が聞こえていないかのように、和正は付き人たちを引き連れて病院を出て行った。追いかけるか、と逡巡するが、直後にカウンターから自分の名を呼ぶ声が聞こえ、縁は差し伸ばしていた右手をおさめて荷物を持ち上げた。
 診察自体は既にほとんど確認だけであり、診断の方もまた、若い体の回復力にしても早いなぁ、という担当医師からのお墨付きをもらうほどであり、完治したも同然だった。診察を終えてカウンターで次の診察日を決めると、縁はすぐさま入院患者棟に向かった。
 すっかり顔馴染みとなったナースステーションの看護師に軽く挨拶をし、入院患者たちがいつも集まっている向かい側の階段前へと向かう。そこでは柏のおじいちゃんと将棋少年がなぜかチェスをし、ソファに座った井筒愛が小さな少女に絵本を読んでいるなど、縁が知るいつもの光景が広がっていた。だが、そこにはいつも何かしらをしているはずの、一人の青年の姿がない。
 何度かその姿を捜してから、縁はちょうど良く絵本を読み終えた愛に尋ねることにした。

「なぁ、愛さん。慶介は?」

 愛は縁の存在に気付くと、一度ちらりと幼子と膝元に広げた手帳を見てから、縁を見上げた。愛がいつも誰かを見る前には必ず手帳を見るのは何度も彼女を会い、そして恋愛感情のもたらす力でもって観察しているので、癖かはたまた彼女の病気と関わることなのだろうと思っている縁は特に気にしなかった。

「慶介くん? 今日はお客さんが来るからって会ってないけど……」
「お客……面会ってことか? もしかしてそいつらってヤーさんみたいな黒服きてなかったか?」
「え、えーと……」
「ああ、そういう奴らじゃ。三か月に一度は必ずくる連中じゃぞ」

 答えたのは将棋少年を下した柏のおじいちゃんだった。チェックメイトとなったルークのコマを手の中で弄びながら、縁を横目で睨んでいる。愛さんを困らせたからか、とそのいかにもな目線を同じようなもので返して、疑問をぶつける対象を愛から柏に移した。

「なぁ、あいつら何なんだ? あいつらのリーダーぽい奴は慶介と同じ名字で顔立ちも似てたけど……やっぱあいつの家族なのか?」
「まぁそうじゃな。だがヤクザみたいな奴らではなくて、奴から聞いた話じゃあ旧華族の流れを組む一族のようじゃが……そこから先のことはわしも知らん。そもそもわしはあのインテリ崩れがどうしてこんな田舎の病院に長い間いるのかも知らんし……いや」

 一瞬、柏の視線が鋭さを伴って愛へと走ったのを縁は見た。だがそれを向けられた本人は気付くことなく、新しい絵本を取り出していた。旧華族、縁も歴史の授業のおかげで意味は知っている。そしてそこから、慶介自身がその一族に入っていることが頭の中で繋げられることができた。
 同時にそれは、柏のおじいちゃんの言っていた通り、なぜそんな人間がこの病院でずっと入院しているのかという疑問を生じさせるものだった。この場にその答えを知るものはいない。ならば、それは本人に聞くしかないだろう。
 ありがと、と差し入れの荷物をチェス二人組の前に置いて、一路慶介の病室へと向かう。後方で男たちの歓声が聞こえ、すぐに無垢な少女の声にたじろぎ呻くのが聞こえたが、それに思考を割くのはすぐに止めた。
 慶介の病室も個室であるが、皆が集まる四階にある。部屋の中には数えきれないほどの本があり、考えてみればそこからして一人の病人に対しての扱いが異常なのだということに気付くべきだったと、縁は自らを怒鳴りつける。慶介の下へと向かう途中、自然と肩が怒り上がった。

「慶介、いるかっ?」

 昼間ならば診察時間以外ではいつも開いているはずのドアをノックして、縁は相手の返事も待たずに部屋の中へと入った。そこには、珍しくベッドに寝そべり本を読んでいること以外、普段と変わらない慶介がいた。返事がなかったのは本に集中していたからか、と一人得心しかけ、それを見つけた。
 個室の蛍光灯にかけられた、先端が輪に結ばれたロープ。ドラマなどによくある、自殺のための簡易装置。生きるべきか、死ぬべきか。和正から問われた言葉が、悪寒となって縁の背筋を貫いた。

「慶介っ、お前!!」
「……ん、縁か、いたの?」
「いたのか、じゃないだろっ。なんだよそれ!!」

 沸騰した激昂に導かれるまま、縁は慶介の傍へと近づきながら、右手で強引にロープを引きちぎった。それを見て、ようやく慶介が目を丸くしたのをほぼ同時に、縁はベッドの中の慶介の襟首を掴み、眼前へと引き上げた。持ち上げられた拍子に、慶介の手からいつもの持ち歩いている、青と白の二色の表紙の本が転げ落ち、彼がいつも目を留めていたページを開いた。

「わけわかんねぇよテメェ! 肉親だかなんだかしらねぇ奴に会ってかと思えば自殺しようとしやがって!! 愛さんのこととかはどうでもいいのかよ!? 答えろっ!!」
「……義兄さんに会ったのかい? それに、まぁ自殺ってのとはちょっと違うんだけど……」
「これを見て自殺以外に何が思い浮かぶんだよっ」
「それも、そうか……説明するから、ちょっと降ろしてくれないか? 苦しいしね」

 そこで縁は、ようやく自分が必要以上の力を込めていたことに気づいた。悪い、などとも言えるはずがなく、ただそのまま手を離し、慶介をベッドの上へと落とした。視線も明後日の方を向いたが、しかしそこに自らが千切ったロープを見つけ、不機嫌にそれを踏んだ。
 縁に詰問されている間も常以上の冷静さを保っていた慶介は、ベッドの下に落ちた本を視界に捉えると、体にそれを拾うよう命じたが、しかし不思議とうまく言うことを聞かず、むしろ震えという拒否の形をとった。それでも何とか取り上げると、開かれたページにある台詞に目を通し、閉じる。きみになら別に話してもいいかもね。かすかに縁に聞こえるほどの小声で呟いてから、互いがいつの間にか親友と認めていた相手を見た。
 
「縁、それならいおう。別に僕は自殺はしないさ……ただこの方が思索にはちょうど良いからさ」
「思索って……だったらこんな面倒だし、紛らわしい真似しなくても……」
「それに、僕は自ら死ななくても、体が勝手に死ぬさ」
「バッ……そんなの、人間なんだから……」

 何を当たり前なことを。寿命やちょっとした事故や病気という常識の中で図ろうとした縁の考えを、慶介は今まで見せたことのない、鋭く、重く澱んだものを称えた目で黙らせた。

「生きるべきか、死ぬべきか……メメント・モリ……我思う、故に我在り……今の僕は、ずっとこれを気にしてる……」

 そうしてその目に似合わぬ場違いなはにかみを浮かべ、慶介は劇役者のように、朗々と話し始めた。

「僕の命は、もってあと一ヶ月なんだ」



 あとがき

 切りが良いのでこの辺りで。次回で過去回想は終わらせられるようがんばります……orz
 というより、元々東方分が少ないのにこれでは……え、元から? 悔しい、でも(ビクンビクン



[7713] 第二十四話――輝美<諸君、派手にいこう 
Name: へたれっぽいG◆b6f92a13 ID:a2573ce4
Date: 2011/02/14 14:45
 白いシーツが舞台劇のように舞う病院の屋上で、寝そべった縁は己の心をあざ笑うように晴れ渡る蒼穹を見上げ、目元を左腕で隠した。そうでもしないと、心が目を通して、涙を流してしまいそうだったからだ。頭の中に浮かぶのは、ほんの一時間前に聞いた、親友の語り。その一つ一つを頭の中に並べるだけで、くそっ、という悪態が出てきた。

「……わけが、わかんねぇよ、ほんと」



 僕の病気は、まぁ、生まれながら心臓が弱いって思ってくれればいいさ。最初のころは三十歳ぐらいまでしか生きられないって言われてたけど……悪化しちゃってね、二十歳まで生きられれば上等、この前の検査でそれもダメ。ヘタしたら明日にも消える命さ。

 うそ、だろ……け、けど心臓っていうなら、手術するなり、移植すりゃあ……

 ドナーっていうのはそう簡単に見つかるもんじゃないよ。移植後の問題もあるしね……普通なら親類とかのほうが確立が高いんだけど、そんなことをする無駄を、あの母たちはしないだろうね。

 どういう、ことだよ?

 ……僕の実家は旧華族の流れを組む資本家だけど、僕自身は先代当主……僕と同じように心臓の病で死んだ父が“どこともしれない馬の骨の”女を孕ませて出来た、一族の汚点みたいなものなんだ。それでも父の遺言で一族の一員にはなってるけど……正妻の義母や祖母は目に見えて僕のことを嫌ってるし、そのせいもあってあの屋敷は居心地が悪い。正直言って味方をしてくれるのは、世話を焼いてくれる和正義兄さんだけなんだ。

 ! だ、だったら、お前を産んだ母さんの方に頼んで、そういうとこからは……

 母さんなら、僕が一族に引き取られてからすぐに“事故死”したよ。

 っ!?

 とにかく、僕は家では厄介もの扱いだったけど……なんだろうね、頭だけは結構回ったからね、よくも悪くも。そいつを武器にうまく立ち回ったおかげで僕も“事故”にあったり、“突然の心臓発作”なんてことにはならない程度にはなれたさ。義兄さんが時々来るのは僕の見舞いの他にも意見交換だったりの理由もあるしね。

 ……なら、どうしてそんな奴がここにいるんだよ。ここって別にお前の家に近いってわけじゃないんだろ?

 いや、この病院に僕を押し込んだのは一族の母と祖母たちさ。名目上、俗世を離れて安らかに眠れるよう配慮したっていうけど……どう考えても、僕が倒れたのを理由に一族から完全に排除しようって腹だったろうね。まぁ今はその真っ黒な考えには感謝してるけど。あんなところはもうこりごりだったし、それにここじゃなかったら、愛には会えなかったんだし。

 ……

 同情したかい? けど、僕の友人でいるなら、そういうのは止めてほしいね。ついでに、義兄さんとかに当たるのも止めてほしいかな。たしかに、こんな話を聞かされた後じゃキツイかもしれないけど……

 なぁ、この話、愛さんにはしたのか?

 ……したけど、“忘れて”いるだろうね。けどそれを僕らは決して責めちゃいけない。これは愛の問題だし……それに、忘れて欲しいと僕が望んだのも事実だからね。

 ……っ、どうしてだよ! どうして、忘れて欲しいなんて。

 どうしようもないことがある。その結果が、今の僕だ。……その本人がいつ消えてしまうかもわからないのに、惚れてしまった相手に余計な重しをかけたくないだろ?

 っ……くそ、わかんねぇよ……今までだって、お前のことわかんなかったのに……どうしてそんなこと言えるんだよっ。

 さぁねぇ。僕自身の口が僕と独立してるからかもしれない。ああそれとね縁、その考えは止めといた方がいい。

 何がだよ。

 “理解”って概念さ。それは確かに動機としては大事だろうけど……もし、その本質を見誤るようなことになったら……僕は君を親友とは思わなくなるね。



 思い出すだけで怒りと哀しみ、無力感と苛立ちが沸き立った。慶介に投げかけた言葉通り、親友の考えていることがまったくわからなかった。それともこれは、死を目の前にした人たち特有の思考なのか。答えは出ない。たったひとつわかることがあるとすれば、それは全てがもう手遅れであること、病気であるが故に、医者ではない自分ではどうしようもないこと。死の概念についても、縁が知る由もない。
 はずであった。

「……あれ? 死ぬ……?」

 頭の中で何かが引っかかった。答えが見つからない故の逃避が起こした作用であったのだが、それは縁の中にあった何かに向かって飛び込もうとしてしまった。暗い部屋の中で眠る直前に「死んだらどうなるのだろう」と取りとめもなく考え、わけもなく鳥肌が立つ幼子にも似た、泡のような思考。
 それ故に、縁の内側から一つのイメージを引きずりだそうとした。
 真夏の夜、天の川、土と焚火の匂い、スコップ、指輪、無表情、タバコ、死体。
 ひとつひとつはてんでバラバラだ。しかしその全てが、ある景色の中に内包されている要素だ。だからこそ、ぼんやりとし始めた頭が、勝手に確認を始めた。

「タバコ……火……真赤……行先は……」
「どうしたの、そんなところで」

 モザイクと化している記憶が口から勝手にあふれ出している時、隠した視界の向こうから声がかかった。手をずらして片目だけを出すようにして、声の主を覗き見た。井筒愛は、いつもと変わらぬストールを風になびかせ、柔らかな微笑を称えていた。



 第二十四話『hope~the third wedgo Ⅱ~』


 
「……そっか、そうだったんだ」

 フェンスに上半身を乗せるようにしている愛は、座り込んだままの縁に視線を合わせることはなく、一面の青空向けて呟いた。縁の顔には、言ってしまった、という後悔と、言うことができた、そして慶介の背を押したかもしれないというものと愛に対する好感度の上昇などという、清濁が複雑に絡む表情が形となっていた。
 愛の姿を見た瞬間、縁は直前まで考えていた切り貼りを全て捨てて、なぜか慶介から聞いたことを一切合財話してしまった。それは友人を裏切ることになるかもしれないと薄々感づいていながらも、止めることができなかった。そうしければ、愛に好意を寄せるものとして、フェアではないような気がしてならなかったのだ。縁の若さゆえの独善である。
 しかし全てを言い終えてから、慶介が言っていたことを思い出す。この話は愛は既に知っているはずだということ。しかし聞いた本人は忘れているはずだ、と。事実、聞き手としての愛は終始、このことをはじめて聞いたとでもいうような態度だった。そのことに引っかかりを覚えるが、今はそれを聞くべきではないと判断した。正確には縁自身の出した保留ではなく、愛が常からもつ雰囲気が、それを尋ねるのを憚らせていた。
 だから今は、別の、先走った善意を思考し、言葉にした。

「……なぁ、愛さん。最後なんだからさ、あいつと、その、一緒にいてやって……」
「別にいいよ」

 その独善から、良かれと思って発してしまった言葉を肯定されて、思わずはへっ、と愛を見てしまう。愛はまだ空を見上げたままだ。その姿に、なぜか一抹の寂しさを覚えた。

「私は慶介くんのこと嫌いじゃないし、男の人とそういう風に付き合うってことにも憧れがあるし、何より私のことをずっと見ていてくれたっていうなら、最後ぐらいはお返しにちゃんと見ていてあげたいよ……ただ」
「何か、問題が?」
「こんなことで付き合うようになって、慶介くん喜ぶかな~て」

 何気なく紡がれた言葉は、縁の中に巣くった独善を貫いた。当然だ、縁の独善は危うく親友のプライドを傷つけようとしていたのだから。ふざけた調子でいても、慶介は柏のおじいちゃんが評したとおり『インテリ崩れ』に相応しく、プライドが高いところがある。病院にいればほぼ必ず一緒ともいえる縁とて、そのことは察している。
 そんな相手が、友人を通して知られた事情を笠に着て、本気で恋した女性と付き合おうとするだろうか。否、そんなはずはない。慶介ならばきっと、申し出を断り、縁を松葉杖で殴りつけた後、回りくどく、そしてトラウマになるような絶縁状を叩きつけてくるに違いない。
 思わず、顔を隠したくなった。その願望に従い左手で覆うと、肌が熱くなっていた。自らの無知と配慮のなさった思い知ったことに対する羞恥の表れだ。付き合ってくれと願い、自分自身もまた好いている女性に指摘されたことが、それに拍車をかけていた。

「たしかに、そうだよな……ごめん、今の忘れてほしい」
「別にいいよ、そんなお願いなんてされなくても、きっと今の話は“忘れちゃう”から」

 愛は気遣うような口ぶりの中に何かを含ませていたが、縁はそれがいったい何であるのかまでを察することができなかった。愛の手が何気なく縁の頭に伸び、そっと撫でたからだ。男としてなら、本来それは気恥ずかしいことで、ついつい抵抗したくなるものだが、しかし相手が愛ということもあり、縁は顔を赤らめながら、なすがままになった。
 そして、そんな彼女がこうやって自分の頭を撫でたり、屋上で空を見上げる姿を改めて見るたびに、縁はそこに、何度目かもしれない感情を抱く。言語化不可能な想い。手を伸ばせば、ストールに隠れた翼が広がって、愛が空の中に消えてしまうかのような、少年的詩的な、儚さというものへの憧憬。横顔に浮かぶ、寂しさとも諦めともつかない、しかし透明な微笑。
 その全てが井筒愛であると感じるたびに、縁はこの女性に惹かれてしまう。

「う~ん、縁くんとか慶介くんの悩みも聞けたし、満足満足っ。それじゃあ、私は先に戻るね」
「え、あ、はいっ」
「あ、それとね」

 縁の頭から手を離し、ついでフェンスからも勢いよく離れ、軽やかに階段へと歩んでいた愛は、くるりと縁に振り返った。そこには先ほどまでとは違う、悪戯好きの猫にも似た、また違った色合いを帯びる年上の女性の笑みがあった。

「“忘れる”前に言っちゃうけど、縁くんが悩んでるから話を聞いてやってくれって頼んだの、慶介くんなんだよ」
「……へっ?」
「あ、これ言っちゃいけないことだっけ、まいっか。ちゃんと仲直りするんだよ~、じゃあね~」

 衝撃の事実に茫然自失とした縁を放って、愛は今度こそなびくシーツのカーテンの向こうに姿を消してしまった。口を半開きにしたまましばらく事実を頭の中で整理していた縁は、ようやく再起動すると共に、大声で笑った。敵わないな、と思って。
 ひとしきり笑い転げた後、慶介に仕返しに行くかと思い立ち立ち上がる。気分は頭上の晴天ほどではないが、雲はそれなりに飛んで行っていた。今なら慶介の話術にも対抗できそうな気さえし、うんと背を伸ばす。義手の動きも心持ち良いと錯覚しそうだ。それを終え、シーツのカーテンの向こうにある階段へと歩き始めると、その中にひとつ、物珍しいものを見つけた。
 青色の表紙の手帳だ。どこかで見たことがあるな、とそれを無造作に拾って注視すると、手帳のレイアウトを見てようやくデジャビュの正体に気付いた。これは色違いであるが、愛の持つ手帳とまったく同じものであるのだ。ならば愛が先ほど落としたものかと考えるが、しかしこのタイプはどこにでもあるメジャーなものだし、何より病院内のコンビニで売っているものだ。愛のものではないかもしれない。
 とりあえず確認した方がいいのでは、と今更当然のことを行動に移そうとするが、しかし今は慶介のことのほうが優先順位が高かった。後で持ち主の名前だけでも確認して、もし愛のものだったらできるだけ今日中に渡そうと決め内ポケットに手帳をしまい、屋内へと戻った。
 そして屋上からはシーツの群れがそよ風と遊ぶ音以外、何もなくなった。そのはずであるのに、声が伝わった。

「………いいなぁ、男の子って……けど、それに比べて……」

 独白そのものである呟きは、声の主同様、突風でも吹き荒れれば、すぐにも吹き飛ばされてしまうような、弱弱しいものだった。



 
『……のニュースです。大手食品メーカーであるキサラギフードの缶詰に異物が混入していた件について、岡部代表取締役は「それは異物ではなく缶詰の内容物である」という旨の発言を……』

 どこかで見たことがあるような子どものポスターが貼られた階段前のホールを通ると、無造作に置かれていたラジオからよくあるニュースが流れていた。何年か前の入院患者が置いていったものらしいが、しっかりと動くので、老年の患者たちは時々それをつけながら話に花を咲かせていた。ラジオ消してけよ、という余裕はないが、そこで足を止めた。
 
「慶介」
「ん、縁か」

 庚慶介がそこにいた。読んでいるのは先ほどと違い、縁に貸したのと同じシェイクスピアのもの。
 一時の沈黙の後、縁は慶介の対面にある椅子へと座った。慶介も視線を本に戻し、ラジオと、慶介が本をめくる時と、それとどこからか響く床を蹴るもの以外、音を立てるものは何もなかった。

「……愛さんになんてこと頼むんだよ、てめぇ」

 最初に口を開いたのは縁だ。慶介が本の最後の方、第四幕第一場で本をめくるのを止め、目線を上げた。

「そのほうが君が喜ぶと思ったからさ」
「ああ、たしかに嬉しかったな。ファーストキスだったんだとよ」

 慶介が突然噴出した。狙い通りだと、縁は気づかれないようにほくそ笑む。

「ちょ、ちょっと待って! 愛はそんなことしたの!? 僕にはまだ何もしてもらってないのに!?」
「ついでに頭も撫でてもらった」
「なん……だと……!」

 目を見開いて、慶介が立ち上がる。縁は起き上がらない。だが体は笑えを抑え込むのに必死で、時々震えていた。しかしまだだ、と自分に言い聞かせて、顔だけを上げて慶介を見上げる。顔に勝者としての余裕を貼り付けて。

「どうやら、好感度は俺のほうが上みたいだな?」
「っっっ!?」

 雷鳴がどこかで鳴った、ような気がした。慶介の体が崩れ落ち、膝を屈して、手を地につける。完全なる敗北者のポーズだ。笑えよベジータといわれるのが似合いそうだったので、縁もそうしようとしたが、しかしもはや耐えられなかった。
 噴出して、笑い出す。慶介が緩慢とした動作でこちらを見上げるが、それを気にする余裕もなく、縁はひたすら愉快に笑い転げた。本日二度目のそれにさすがに腹筋が持ちそうになかったが、それでも笑った。椅子から落ちて、床の上を転がった。腹を抱えた。声を病院中に響かせた。
 慶介はしばらくそれを見ていると、事の次第を察したのか、徐々に破顔していき、そしてついに決壊して、笑い声があふれ出した。途中で何度か咳をしたが、それでも縁の隣で笑い転げた。読んでいた本を尻の下に踏んづけても気づかずに笑った。
 ナースや入院患者の幾人かが様子を見に来たときには、ようやく二人は笑い疲れ、荒い息を整えながら二人は床の上に座りながら、互いの背中に体重をかけるようにした。

「やってくれたね」
「日頃の仕返しだ、バカ野郎」
「はは、単純バカにそういわれるようじゃ、僕もまだまだだな」

 縁の単純極まりない嘘に引っかかったのは慶介だ。そして、慶介がそうと気づけないほど余裕がないと知って仕掛けた縁は、自分の策に溺れて自爆し、腹を痛めた。自業自得であったが、それでも縁は満足していた。

「……とりあえず、なんていおうとしたかは、保留だよ、このインテリバカ」
「……そっか、それもいいさ」

 慶介はそれだけいって詳しくはつっこもうとしなかったが、正確には、何を言えばいいか何も思いつかなかった、だった。そもそも数時間の内に、死に瀕した友人への態度と言葉をどうにか用意できるほど、縁は器用ではなかった。こうしてカマをかけることができたのは、愛を相談役にと、自分の状態を棚にあげて寄こした慶介のおかげだった。そしてそれを立派に引き受け、縁の中にあった重みを幾分か軽くしてくれた愛のおかげだった。
 自分一人では、何かもっと、暗く冷たい場所に足を踏み入れていたかもしれない。縁は陽気になった思考の片隅でそんなことを考えながら、傍にいてくれた二人に、心中で感謝をした。そしてなんとなく、こんな言葉が浮かんだ。

「……一人じゃ、無理なんだよ」

 慶介が、突然年寄りじみたことを呟いた縁のほうを振り向こうとした。しかし背中合わせの状態では、それも途中までしか叶わなかった。

「お前とか、愛さんとか、柏のじいさんとか、ここで出会った奴らがいなかったら……俺、もっと怪我してさ、こんな腕でもちゃんと付き合ってくれる奴がいるなんて、知ることができなかったかもしれない」

 右腕をあげた。義手、人の腕の形に似せた、人以外の何かでできたもの。それをくっ付けられた、かたはの自分。

「だから俺ができるのは……たぶん、一緒にいることだけだと、思う」

 最後の言葉を言うときまでに、縁の顔はなぜか赤くなり、声も小さくなっていた。恥ずかしいことを言っている、と自覚しているからだ。
 それに対して、慶介はもう一度噴出した。縁がそれを半目でにらむが、しかしいつものペースを取り戻した病人は、ふふんと鼻を鳴らした。

「まったく、素直じゃない思春期だなぁ。それに、さっき答えは保留っていったのに、すぐにそれを撤回しようとするなんて」
「な、こ、これは別に俺のじゃなくて、世間一般的のをだなぁ!?」
「病院で世間とか説くかい君は? どうやら教育がまだ足りてないようだねぇ。どうせなら僕が死ぬまでにスパルタ教育といくかい?」
「お前のスパルタで俺の脳がヤバイ!」

 背中合わせでギャーギャーと言い合いを始めた二人はナースたちや入院患者たちは、ああまたか、と苦笑しあった。この病院の問題児二人は、相も変わらずくだらないことで騒いでいるのだ。しかしそれを見ているのが、どうしようもなく、心を心地よくくすぐるのだ。


 それから二人は、いつもと変わらぬ日々をすごした。縁は学校からの帰りや休みの日に来院し、慶介や愛と遊んだ。
 慶介には宣言どおり古今東西の文学などを叩き込まれそうになったが、その度に愛や柏のじいさんの後ろに隠れてやり過ごした。
 ラジオでやっていたキサラギフードの缶詰を持ってきて、有志の皆で食べることもした。当りは縁で、変な触覚みたいなものが口の中を汚した。観ていた人々が盛大に笑い、最強の看護師おばちゃんが現れると共に蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
 エロ本を持ってきたとき、愛に気づかれた。縁は慶介に全ての責任をなすりつけようとし、慶介は柏のじいさんに責任を投げ、そして責任逃れのループが一定以上続いたところで、傍にいた看護師に耳打ちをされた愛による『この変態どもがっ』発言で一部を除くほとんどの男が崩れ落ちた。
 その変わらない日々の中で変わったことは、慶介が自由に使える時間が少なくなり、個室から動かない日が増えたことと、縁が時々患者たちの前に姿を現すことがなかったことだ。


 そんな日々が二週間ほど続いたある日。
 頬を青く腫らした縁は慶介の個室で本を読んでいた。慶介から出された課題の本ではなく、たまたま古本屋で見つけた宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を、右腕の義手で器用に一ページずつ捲っていく。部屋に満ちるのはその音と、慶介の寝息、そして心音を図る計器のリズム。
 慶介の体は、確実に病に冒されていた。いや、そもそもそれはあったのだが、慶介が周囲に見せようとしていなかっただけだ。本来ならホスピス(末期患者ケア施設)に入っていてもおかしくはないのにここにいることが、彼自身の矜持なのだ。
 縁はそれを、愛に言われて気付かされた。だから今は慶介が起きるまで、傍で待っている。愛をめぐる戦いは対等でなければいけないのだ。
 心電図に多少の変化が生じる。起きる前兆だ。縁は本を仕舞い、慶介を見た。その目が薄らと開いていく。そして親友は縁の姿を確認すると、いつものアイロニーを浮かべた。

「まるでゲイの彼氏だね」
「そう思われたくないならさっさと起きろよ、バーカ」
「底抜けのバカにバカって言われたらお終いだね、ほんと」

 一言多いんだよ、と縁が返している間に、慶介は自分に繋がったチューブ類が外れないよう注意しながら上半身を起こし、しばらくぼうっと虚空を見つめていた。最近するようになったその目に、縁は寂しさと無力感が混じっているはずのごちゃごちゃとした感情が湧きあがるのを感じた。左手が膝の上で無意識に拳を作る。
 そうしていると、慶介の視線が縁に戻り、彼が仕舞った本に注がれた。そしていつものように口元を緩めた。

「今更『銀河鉄道の夜』かい?」
「なんだよ、悪いかよ」
「いや、全然。むしろ今の状況じゃハマりにハマってるさ……そうだ」

 何かを思いついた慶介は、勝手に本をとってぱらぱらと捲ると、挿絵のページで手を止めた。そして一度瞑目し、今度ははっきりとした意識の光を宿して縁を見た。

「縁、星でも見に行かないかい?」
「はっ? いやお前病気だし無理だろ。俺はあのおばちゃんに怒りのコブラツイスト喰らいたくねーぞ」
「もちろん、怒られるさ。けど一度ぐらい、いつものメンバーで病院を抜け出して、バカな夜風に当たりにいきたくない?」
「……うわ、キザ」
「君に言われたくないな。あーあー、『だから俺にできることは……」
「ちょ、バカ止めろ! それ以上いうな!!」

 二週間前に慶介に言ったことをそのまま真似されたことに、まだ人生経験が足りない縁は即座に顔を真っ赤にしそれを阻止した。慶介はそこで一旦区切り、しかしいつでも再開できると顔をニヤつかせている。その意図を看破した縁は、ぐぬぬとしばらく呻き睨みあうと、折れた。

「くそ、わーたよ、やりゃーいいんだろやりゃ! けど抜け出すったって計画とか……」
「何言ってるんだい? 抜け出す方法も時間もここに全部揃ってるさ」
「はっ?」

 縁がとぼけ顔で問うと、慶介は一つの方向を指さした。その先を追うと、そこには立派なカーテンのついた窓が昼の陽光を部屋の中に招待していた。ひくり、と縁の頬が不自然に痙攣する。何をどうするか、いつもなら真っ先にそういうことを考える縁は察してしまったからだ。その縁に、慶介はもう一つ爆弾を投下した。

「ついでに愛も誘おうか」
「おいマジかよ! さすがにそれは見過ごせねーぞ!?」
「大丈夫だって、愛なら了承するさ」
「んなわけあるか!」

 数十分後、部屋に遊びに行った折にこのことを尋ねると、二人よりも明らかに喜んだ調子で「行く行く、絶対行く!」と答えた愛がいた。
 その夜、静まり返った病院で、三人の若者が動き出した。まず一番動くのは健康な縁だ。あらかじめ慶介の部屋に準備をしながら潜み夜になるのを待って、愛を迎えにいくのだ。巡回のナースや警備員の背後に回って発見されないようにしていると、ウワサのスニーキング・ミッションとやらの気分になって、胸が躍った。
 しかし行動はそれに反して静かに、慎重に進める必要がある。ただでさえ響きやすい床を、裸足になることで音を立てないよう配慮し、少しずつ進んでいく。階段の時がもっとも骨が折れたが、匍匐前進の要領で乗り越える。そして愛の部屋の前に到着、あらかじめ約束していた通り、ノックをせずにドアを開ける。
 手帳をひたすら読んでいた愛が縁に気付くと、ちょっと待ってね、といってベッドの下から何かを取り出した。それは汚れと埃にまみれたいかにも女子高生向けなデザインのスニーカーだった。

「それは?」
「たぶん、私の昔のもの」

 縁と同じく裸足になると、片手に靴下を突っ込んだスニーカー、もう片方に手帳を持ち、そしていつものカーディガンを纏って、準備おーけい、と言った。縁は一瞬何かを言うべきかと迷ったが、しかし何も言わずに、警戒をしながら部屋を出る。愛もそれに続いて、必死に隠そうとする、しかしどうしても震え上がる興奮を笑みの中に称えながら、縁の後に続いた。
 そのまま何事もなく、慶介の部屋の前に辿り着く。部屋に入ると、慶介はすでに準備を終え、以前首つり用に置いてあったロープに、他の部屋から無断で借りたカーテンを巻きつけ一本の長いロープにしたものが床に転がされていた。

「首尾は?」
「万事OKっ」
「よし、なら次だ。愛、ちょっとそっちにて」

 愛を部屋に脇に下がらせ、二人は重しとなる棚の一部を持ち上げ、ローブの両端の一つに乗せた。そして慶介が開け放った窓から、もう片方の部分をそこから外に投てきした。ここから下には個室はない。さらに言えば、夜中に人が出入りするような部屋もない。それゆえにできた大胆さだ。
 まず最初に慶介がこともなげに降り、次に愛が慎重に降りた。縁は途中でこの即席ロープが切れないように見張る役で、二人が降りたのを確認してから、重しをひとつ追加して、クライミングの真似で足を立てながら降り始めた。地上四階といってもそこまで風が強いわけではなく、気をつけることといえば、窓の上を通過するときに見回りの人間がいるかどうかと、勢いあまって窓を蹴ったりしないことだ。
 調子よく三階まで降り、眼下の二人が小声で早く早くというのがきこえる。何で病人のほうが大胆なんだよ、と心中で零して、もう一歩分、下へと進む。
 その直後、ちょうど左手が握っている結び目の部分が破れ始め、縁が驚愕する間に裂け目は広がり、ぶちりと音を立てて千切れた。
 二人に悲鳴が聞こえ、縁は咄嗟に下を見た。奇妙な浮遊感が体を支配したかと思うと、直後重力が肉体を縛りつけ地面へと手繰り寄せた。瞬きもできない一瞬で見下ろす先には、二人の傍の、大き目の花壇。
 認識した瞬間、足が勝手に落下の状態から病院の壁を蹴り前へと跳ぶ。同時に体を丸めて、ショックに備える。
 音よりも先に衝撃が右肩のあたりを突き刺し、右半身から左半身へと伝播する。熱を伴ったそれに肺の空気があふれ出し、丸めたはずの体が土の上に投げ出された。眼がずきずきとしたが開くのには問題なく、病棟に囲まれた夜空と、自分を心配げに見下ろす二人の顔が見えた。
 ふぅ、と珍しく焦ったような調子を見せた慶介に、にやりと唇を吊り上げた。

「そう簡単に死んでたまるかよ」

 心臓は未だバクバクと音を立て、何よりも土だらけで顔には毛虫つきの葉っぱがくっついた縁がそういっても、むしろ滑稽で、一安心した慶介と愛はあふれ出しそうな笑い声を抑えようと必死になっていた。縁がそのことに気づくのは、数十秒後のことである。




 病院と町の間には小高い丘が一つ、ぽつねんと居座っていた。夏場は小さなキャンプ地として多少は賑わうそこは、シーズン前とはいえ人気がなく、既に寝ているだろう管理人を除けば、病院から抜け出しひたすら歩いてきた三人組だけのものになっていた。気分は『スタンド・バイ・ミー』だね、と慶介が言ったが、縁はそれを見たことがないのでよくわからなかった。

「ん~、疲れた~」

 最初に草原の上に寝そべったのは愛だった。履物を先ほど取り出したスニーカーに変え、それ以外のものはそこいらに放り出していた。自称体力のない慶介は一番息が上がっていたため続いてすぐにその隣に座り、縁は二人の前で立ったまま、満天の星空を見上げていた。夏が近いせいか夜風には湿り気があり、しかし開けた場所ということもあってか不快にはならない。
 そのまま少しの間、風の口笛だけに音響の役目を任せて空を見上げていると、息を整えた慶介がゆっくりと口を開いた。

「こういう時って、将来のこととかを話すのが定番だね」
「おい、お前がいうかそれ? ブラックすぎるだろ」
「けど、もしもってことでいいんじゃないかな、それ? あ、私はね、看護師になりたいかなぁ」

 無邪気に夢を語った愛に、二人は一瞬顔を歪めそうになったが、しかしすぐに『もしも』という言葉に縋って愛の夢の姿を思い描いた。ナース服の上になぜかトレードマークのカーディガンが羽織った愛が「はい、じっとしててね」といって体を傾けてくる。いい、と呟いたのは果たしてどっちだったか。

「それだったら僕専属になってよ」
「いーや、俺だな。お前じゃすぐナースコール使って迷惑かけるだろ。お前にはおばちゃんがお似合いだ」
「どうせ手鏡でも使ってパンツ覗こうとするだろうムッツリには言われたくないね~」
「俺がいつムッツリだっていう証拠だよっ!」
「はいはい二人とも、そのことは“忘れる”前に後でたっぷりお仕置きするから、将来の夢について戻る戻る」

 うーい、と仲良く返事をして言葉のじゃれあいを止めた二人は、今度は果たしてどちらから話を切り出そうかと視線でけん制を始めた。負けたのは慶介だった。一つため息をついてから一転、子どものように胸を張って宣言した。

「僕はね……文化人類学者になりたいね」
「……なんか、らしいな」
「うん、それっぽい」
「むむ、反応がいまいち。けど本気だよ。いろんな文献を読んで、手始めに網野善彦の論を完全にして、ついでに伝説の稗田阿礼の文書を探し出して、最後には世界の民話や神話をレヴィ=ストロースのように巡り合わせてみたいね」

 慶介は目を輝かせて言うが、その方面の知識のない縁と愛にはちんぷんかんぷんだった。それに気づいた慶介は、やれやれと頭を振ると、つまりね、と続けながら上を見上げた。それは世界に対して庚慶介という人間の夢をぶつけているようにも見えた。

「みんなが小さいころに知った物語を、もっともっと、世界中に手が届くほどに広げたいんだ」

 その夢の意味を知るには、縁はまだ子ども過ぎた。要約したにしてもやはり抽象的に過ぎ、首を傾げる。しかし愛はその意味を理解したのか、嬉しそうに微笑んだ。それがちょっといけ好かなく、縁はふんと鼻を鳴らした。慶介はそれを見て笑い、縁に催促を送った。

「それじゃ、最後は縁だね」
「う、俺か……けどなぁ」

 縁は夜空を見上げながら頭を捻ったが、将来何をやりたいかなどパッと出てこなかった。十四歳の縁には、まだこれから何をしたいのかわからなかった。夢を持っていない、といえばそれまでだが、だからといってそれが良い事か悪い事かと判別もできない。ただ、そういう年頃だった。そういう人間だった。それだけだった。

「ぶっちゃけ、探し中」

 だから、こう答えるしかなかった。

「うわっ、ダサッ」
「縁くんならまあ、そういうと思ったなぁ」

 ぐうの音も轟沈。途端に恥ずかしくなって、顔を年上の二人から背けた。これが普通だっての、という言い訳がのど元まで出掛かったが、これ以上の恥の上塗りをしないためにも飲み下す。その縁の青い態度が丸わかりだったのか、慶介と愛は含み笑いをして、しかし羨ましげに見つめていた。

「まぁ、今はそれでもいいよ。たとえ右腕がそうでも、縁ならどこでもやっていけそうだしね」
「それ、褒めてんのか?」
「褒めてるさ」
「褒めてるね」

 慶介の肯定に、愛もまた同意する。なぜか納得がいかず、縁は渋面を浮かべて夜空を見上げた。別のことを考えて頭を冷静にしようと思ったのだ。とりあえず知っている星座、特にわかりやすい夏の大三角を探そうと、右手を伸ばす。その途端、またいつかのイメージがフラッシュバックした。
 焚き火、頭を撫でる大きな手のひら、星空に伸ばした義手に重なった手、二人の大人に囲まれた自分、見上げているのは、夏の大三角。
 一瞬、息を呑んだ。二週間前とは違い、あまりにも生々しい感触が胸中から体に染み渡ったからだ。ふとすれば、現実とイメージが置き換わりかねない錯覚。それから体だけでも逃れようと、現実に対して言葉という釘を打った。

「慶介……夏の第三角形ってまだ見えないのか?」

 先ほどまでの調子とは打って変わって、淡々とした口調で縁が唐突に尋ねると、慶介は怪訝に眉をひそめながらも立ち上がって、しばらく周囲を見渡し不満げに唸った。

「いや、見えるはずだよ。ただ、時間か見てる方向が悪いのかもしれないね」
「そっか……」
「縁くん、どうしたの? もしかして、何かあった?」
「いや、ちょっと……なんつーか、思い出せそうで、思い出せないことが……」

 頭を左手の小指で小突く縁を見て、愛が息を呑んだような気配がした。縁はその理由を、察することできてしまっていた。

「……そっか、思い出せるといいね」

 優しげで、それでいてどこか憧れを含んだ声音に、縁は仰向けに寝そべったままの愛を見た。彼女の顔には、声と一緒に、縁に対する憧れと、そして自身に対する諦めのようなものが見え隠れしていた。慶介の目もまた、愛へと向いていた。

「私には、こういう思い出はもうないから……持てても、そういうの“忘れちゃう”から……」
「……仮称、忘却曲線不安定症、ですよね」

 縁はそういって、内ポケットから水色の手帳を取り出した。愛の目にも、慶介の目にも、驚きはない。しかし縁の目には、取り残された子どもに似た悲しみの色がありありと浮き出ていた。風が凪ぐ。縁と、二人の末期患者の間を隔てるように、草原が波状に揺れた。縁は突きつけるようにしていた手帳をそのまま開くと、その最初のページには、こう書かれていた。

『次の井筒愛へ。
 今のあなたはとある病気にかかり、病院にいます。おそらくあなたには高校生のころの記憶しかないでしょうけど、それもきっと曖昧なものです。
 信じられないかと思いますが、本当です。もしそれを確かめたいというなら、次のことを思い浮かべてください。
 友達の顔を。
 学校の場所を。
 家族の名前を。
 貴女が患った病は、普通の人よりもはるかに記憶を失いやすくなるもので、一定期間が過ぎると、その間の記憶まで全て失ってしまいます。それだけは、なんとなく感覚でわかると思います。以前の私のように。
 お医者様曰く、手術で治せる可能性は10%未満。その手術を受けるかは、記憶を失うまでの貴女に、ううん、“私”に委ねます。だからせめて、悔いが残らないようにしてください。
 それがこの手帳を残した、前の井筒愛の願いです』

 次ページからは、この手帳に対する取り扱い、そして愛の字と思わしきものでもので埋められた、病院内で知り合い、親交を持った人々の顔写真や手製のイラスト、そしてその人物の特徴を捉えたメモ書き。病院内のスケッチまで含まれたそれは、ある意味井筒愛の記憶そのものだ。“忘却曲線不安定症”の名は、初めのページの方にある、井筒愛の欄に書かれていたものだった。名前てきとう、というメモがそこに矢印で記されている。
 夜風が再びなびく。手帳のページがはらはらと踊り、手帳の真ん中のところで止まった。そこには、縁と慶介のことが、それぞれ一ページ丸ごと使って記されていた。

「これ、愛さんのですよね……どうしてあの時、俺の前に置いていったんですか?」
「……賭けをしてみたかったの」

 愛が上半身を起き上がらせ、自分の片膝を抱き寄せた。

「次の私のための手帳を持ってきてくれるのが、もし縁くんや他の人だったなら手術は受けない。慶介くんなら、手術を受ける………私を好きだっていってくれる人たちを利用した、最低の賭け…………」

 愛が、目も隠れるほどに、膝に顔を埋めた。その肩が、微妙に震えている。男は二人は何も言わず、ただ大好きな女性の、罪だと思い込んでいる言葉に耳を傾けるだけだった。

「ごめんね、二人とも……こんな勝手なことしちゃって……縁くんも、慶介くんも、こんな嫌な目に合わされたら、嫌だよね……けど、私だけじゃ、決心がつかなかったの……もしかしたら、死んじゃうじゃ……ううん、記憶がもし戻ったら、私じゃ、なくなっちゃうかも、しれないって、思って……っ」

 井筒愛の声にも震えが入り込み、嗚咽が混ざり合う。縁はそっと手帳を閉じると愛の前に置いた。そして、いつの間にか起き上がった慶介に視線を送り、互いに距離をとって歩き出し、約三メートルの地点で止まって、振り返った。
 愛はその足音に気づいて顔を上げると、男二人は、互いに知りうるファイティングポーズをとっていた。

「勝ったほうが手帳渡して告白な」
「手加減は?」
「ねーに決まってんだろ、正直容赦する気ねーし」
「まったく、寿命がもうない若者に向かって寿命を削るようなまねを……ま、そのほうが後腐れなくていいけどね」

 二人は不敵に笑いあう。愛は困惑をまなじりに涙を溜めた顔に浮かべ、両者を何度も見比べた。そして堪り兼ねて口を開くより先に、男の子たちは、いつも年上の可愛い女性に向かって、子どもの言い訳を口にした。

「実を言うと、手帳を拾って読んだ後、少し考えて予想してました。何かあるかなってぐらいは」
「僕は縁が手帳を取り出した辺りからかな。愛の病気に関しては知ってたし……“忘れて”いるだろうけど、手術の話は、一度聞かされたしね」

 それに、と慶介は続けた。

「惚れた女の可愛い我ままぐらい受け入れてやらないと、男が廃るしね」
「……だーかーら、キザっだってーの。何でそんな臆面もなくいえんだよ」
「羨ましいだろ」

 縁は何もいえなかった。似たようなことを言おうとしたが、慶介の言い分のほうがよっぽど決まっていたからだ。愛の眼が見開かれ、目に見える驚愕となって現れている。そんな顔もするんだな、と横目で好きになってしまった女性の貴重なシーンを心の中に保存すると、縁は今更なことをこれからの決闘の相手に尋ねることにした。

「そもそもさ、お前喧嘩できんのか?」
「病気だって発覚する前には、ヤバい方面に何度も片足突っ込んださ。ブランクはあるけど……君の今の体の分も差し引けば、十分だろ?」

 バレてた、と縁は冷や汗をかき、腹を撫でた。そこには、我武者羅に、慶介の兄、和正の家へと乗り込んだ時に殴られ蹴られた跡が未だ痛々しく残っている。例え当人が納得し、縁も一緒にいると約束をしたとはいえ、縁はすべてに納得と、覚悟ができていなかった。
 だからこそ、和正に問いただしにいった。丁度、愛の手帳を見た後だということもあって、わけのわからない怒りのようなものに突き動かされた。それをそのまま口に出していた。これでいいのかと。兄貴なんだから何とかしろと。家族なんだろと。
 その答えが頬の痕だった。
 ボロボロになった後、引き取りにきた父犹嗣に同じ箇所をぶたれ、応急処置だけをされた。反省しろと、言外に述べていた。
 だが、縁は反省もせず、ここにいた。反省などする必要もないからと決め付けて、こうして慶介と向き合っていた。和正が弟を本当は生かしたいと知っていても、彼の命を削ることを決めた。父犹嗣の親心と医者としての無力感を無視して、一人の女性を巡って戦おうと決めた。
 予感はしていた。予兆もあった。だから、夜に病院を抜け出して、ここまで来た。ならば後は、親友のために、親友の命を燃やそうと決めた。
 その結果、たとえバカだとよく言われる縁でも、簡単に想像がついてしまうものになってしまうとわかっていても。
 気を抜けば、泣きそうになってしまう自分を戦いのための戦闘本能で覆い隠し、重心を下げた。

 星が、銀河鉄道が駆ける夜空の元で、中邦縁と、庚慶介は、同時に地を蹴った。


 あとがき

 青春ですか(笑) 次回の途中辺りから現在に移る予定 ウソウサ



[7713] 第二十五話――社長<この雷電を削り切るとは……化け物めが…… 
Name: へたれっぽいG◆b6f92a13 ID:a2573ce4
Date: 2011/03/26 15:08
 二人の男の子がひたすら殴りあう。
 それはなんとバカバカしい光景か。女である愛には理解できないことだろう。
 あのような場面だったら、責められるのは自分のはずだ、最悪殴られることすら覚悟していた。恋愛感情を利用するような杜撰でやけっぱちなことを仕組んだ女に対して、どんな男でもそうするはずだ。
 だが二人は愛を責めることなく、互いに互いを敵として戦っている。勝ったほうが手帳を渡して、告白してくる。そんなことをせずともいいのに。愛は二人が拳で痣を作るたびにその言葉を浮かべた。同時に、自分のためだけに二人が戦っているのだと思うと、女としての陶酔が滲み出てきて自己嫌悪に陥るそうになる。
 そして何故二人はわざわざ戦うのかという疑問に舞い戻り、結果思考の迷路に戻ることになる。
 しかしそれが、根本的に間違いであることを、愛は知ることになった。
 二人は殴りあいながら、笑っているのだ。まさしく子ども、見た目よりも何歳も年下に見えるほどに、無邪気な笑みを零している。
 それを見ていて、愛はようやく自分が、実は要因の一つでしかないことに気づかされた。二人の別れの儀式の締めくくりに、たまたま自分がいるだけなのだと。今まで自分たちの憧れだった人に、その最後の見届け人になってほしいだけなのだと。
 それに気づくと、いつの間にか流していた涙が止まり、肩からすとんと力が抜けた。無自覚に悲劇のヒロインを演じていた自分にも気づいたのだ。そのことに自己嫌悪を起こすことも、二人に対して苛立ちをぶつけるような無様な真似はしない。それは二人を更に裏切ることと同じなのだ。
 記憶を幾度も失い、それでも手帳に書かれていた“井筒愛”を演じていた愛。気を抜けばぽろぽろと零れていく自分というものに何度も嘆き、苦しみ、悲しみ、怒り、狂いそうになった。前の“井筒愛”も自分であったのならば、同じものを味わっていたのだろう。そうならなかったのは、この病院にいた人々が、優しく、温かかったからだ。
“井筒愛”として何度目か、しかし自分自身の中では初めて会った人が、何も言わずに挨拶をして、そして記憶が失っていようと平気なくだらない話を始める。ニュース番組でのおかしなところを神妙なことを言いながら指摘し、子どもと老人がボードゲームで一喜一憂しながら愛にやり方を教えてくれる。体が無意識に覚えていたクッキーの作り方の不備を、余計なことを言わずに正してくれた人がいる。
 そして今、不思議な右腕をした少年と真っ向から向かい合う青年は、記憶を失った自分でもわかってしまうぐらいの好意を向けてくれる。その目は手帳に記された“井筒愛”ではなく、今の自分を見てくれていた。
 これほど嬉しいことはなかった。だから愛は、彼らと一緒にいたいと思い“井筒愛”となってきた。そしてそれは、いつの間にか自分自身と一体になり、データバンクである手帳に新たに書き加えるほどになっていた。
 その井筒愛とは、こんな場面で余計な口出しをする女だろうか。いや、そんなはずはない。そんな無粋な真似をするような女では、とっくのとうに皆から見放されている。
 そもそも“自分自身”が、それを拒んでいる。
 だから今できることは、あるとすれば一つ。
 この結果がどうなろうと、見届けるだけだ。
 そして付け加えるならば、リミットに近づく自身の記憶欠落を耐えることだ。

 

 二人のケンカは当初、縁が優勢だった。当然であった。自身で体力がないと自覚し、尚且つ見るからにあまり外で動いていなかった慶介と、未だ学校で喧嘩を吹っ掛けられ、それを返り討ちにできる縁とでは雲泥の差があった。
 しかし互いに一発一発が決まるたびに、慶介の動きにキレが生まれ始めた。
 否、それは生じたのではなく、取り戻したものだった。慶介がいったことは事実であり、そこには空手家の足捌きが見て取れた。加えて、本人たちは知る由もないが、慶介には縁を超える才能があった。天才とでもいうべきもの。もし別の星の下で生まれたならば、もし体が丈夫であったりドナーが見つかったりしていたならば、彼の才能は世界を目指すことができた。
 その、病魔に体を蝕まれ、ただ主人の死と共に埋もれるはずであった天賦の才が、最後の命の輝きと共に燃え上がっていた。
 否、最後であるからこそ、慶介の体はこの世に並ぶもののない才能を遺憾なく発揮していた。
 繰り出される拳は縁の胴を捉え、反撃の一撃を最小限で受け止め、そしてカウンターを決める。いくら慶介の体が長い闘病生活で痩せ細っていても、才能が自動的に導き出す効率のよい体捌きと攻撃は、ただの中学生ならとっくに膝を屈したものだった。
 しかし縁も負けていなかった。彼には慶介にない経験という武器があった。義手である故に右腕を攻撃に使えないというハンデはあるものの、この一二年のケンカ三昧の日々がそれを補う戦い方を既に編み出していた。右腕の硬質は刃物などの危険物所持者以外の場合は単純な盾としての機能として使い、それ以外で攻撃を行う。リーチの面を除けば、それは古今東西に普遍する、剣術での二刀流に相当する戦い方だった。
 
「りゃあああっ!」
「やあああっ!」

 故に、互角。互いの拳が互いの頬を打ち抜く。慶介が合わせたクロスカウンターが、しかしそれをよけきれずに、痛みわけの形になったのだ。歯が勢いに負けて零れ落ちるほどの衝撃に負けて、二人は無様な悲鳴をあげてよろよろと離れた。慶介の顔も、縁も顔も、もはや青くなっていない場所がないといえるほどに腫れていた。唇や目元はとっくに切れ、わずかに残った顔の輪郭に沿うように流れている。
 服の内に隠れて見えない部分は、更にひどいことになっているだろう。前日大人相手に前哨戦をやった縁は尚更だ。

「は、はははっ!」
「あっはは、はは……!」

 それでも二人は笑う。顔が歪むたびに熱さと痛みで転げまわりたくなるにも構わず笑いあう。笑いながら、頭突きをし、蹴りを放つ。頭を揺らされた後にわき腹という支点を揺すられ、二人は同時に地面に転がった。それでもプルプルと震えながら立ち上がり、今度は拳で胸を打つ。鈍い音とうめきが唾と共に吐き出された。

「っ、やるじゃんかよ、虚弱病人!」
「そっちこそ、万年不良!」

 慶介の手が縁の手に絡まり、そのまま足払いを仕掛け身を浮かす。悲鳴をあげる間もなく、慶介は身を低めて縁を引っ張り上げ、そして背中を通過させてから、地面へと思い切り叩き付ける。負けじと縁も、仰向けに倒れた態勢のまま慶介を引っ張り込み、そこに持ち上げた右足の裏を鳩尾に差し込む。ぐむ、という声があがるのを構わず、巴投げの要領で慶介を投げ飛ばした。
 縁と同じく、夜露にぬれた草の上に転がる慶介。縁が先に起き上がり、慶介も次いで腕を使って立ち上がった。
 そしてまた、離れた位置を詰めるべく、震える足に脳内からあふれ出す麻薬を打ち込み、走り出す。
 高々に笑い声をあげながら、二人はひたすら殴りあい、蹴りあい、頭突きをぶつけあい、そして倒れて、足を震わせ、何度も立ち上がった。
 何故笑うのか。理由は瑣末、問うまでもない。楽しいからだ。口だけで語り合っていた友人と、今は体全てで語り合っているのだ。これが楽しくないわけがない。駆け引きや罠などという余計なものがないのがさらに心地よい。認め合った仲だからこそできる、最後の語り合いは、こう楽しくなければいけない。
 故に笑うのだ。最後のときまで。

「あははははっっ!」
「はははは、ははははっ!!」

 そして決着は、始まりと同じに、唐突に、しかし予定調和のように終わりを告げた。
 縁の拳を胴で受け止めた慶介と、慶介の拳を腹にもらってしまった縁。明白な差。抱き合うような形になっていた二人は、縁が崩れ落ちるという形で終わった。仰向けに倒れた縁の目には、少し位置が動いた夜空と、ぼこぼこの慶介の顔だけが映った。すっかり笑みの形に固定されてしまった口元を、もう少し吊り上げてみた。

「くそっ俺の負けか……」
「ああ、僕の勝ちだ……」

 縁の言に答えて、慶介もまた体を大の字にして倒れこんだ。もはや指一本も動かせない二人の元に愛が歩み寄り、座り込んだ。

「二人ともお疲れ様。カッコよかったよ」

 愛が、涙の跡が残る顔を綻ばせて、二人を労った。それだけで縁も慶介も、もはや手帳や告白のことなど関係なく、報われたような気持ちになれた。
 そのまま三人は、また来たときと同じように無言で夜空を眺めた。体を動かせない男二人は仕方なくであるが、それに付き合う愛の気持ちは量れない。
 そのままぼうっと見ていると、縁の頭の中で、何度目かも知らぬイメージがわきあがった。内容はこの丘に来たときと同じだ。しかしその鮮明さが、情報という意味で違った。そのフィードバックは、まっさらになっていた縁の頭の中に一つの言葉と、疑問を作り出してしまった。

「……なぁ、本当にこれで、よかったんだよな?」
「……なんだい縁、余計なことを言うなよ……僕は今、すっごく気分がいいんだからさ」

 ふてくされたような呟きに、縁は返す言葉が見つからなかった。縁もまた、それが当然だと思っている。縁だって、ほんの少し前まで同じ気持ちだったのだ。
 それでも。

「俺、お前に死んで欲しくないんだよ……“パパ”や“ママ”みたいに、いなくなってほしくないんだよ……っ」

 ぼろぼろと、どこからか溢れだす記憶の奔流が涙となって流れ出した。自分が何を言っているのかもわからず、ただ、無意味な願望をさらけ出してしまった。情けなく、声が嗚咽で震えだした。
 一人になるわけではない。愛がいる、和正がいる、病院の皆がいる、父親がいる。それでも、たった一人の親友が、大好きだった“パパ”と“ママ”のようにいなくなるのが、耐えられなかった。

「……ミームって言葉、知ってるかい? 文化の遺伝子さ」

 ぽつぽつと、慶介が腫れた顔を動かして語りだした。愛は静かに、縁は泣きながら、耳をすませた。

「人は遺伝子に支配されてるとか言う人がいるだろう? ミームの理論でも同じことを言う奴がいるのさ……けど、とあるSF小説の中にはこんな風な言葉がある。『ミームは人に勝手についてきてるだけ』だって」

 満天の星空から流れ星が、一つ、落ちた。

「だからさ、縁は僕のミームを……ううん、僕のことを、忘れないでくれ。そうしたら、僕は君が変に気負ったり、今みたいにへなちょこになったりしたら、説教しにくるからさ」
「……気負うって、何だよそれ……」
「僕の命に囚われて、似合わない道を選ぶこと……そうだね、たとえば医者になるとか」
「……お前に言われなくても、医者になれるほど勉強できないっつーの」

 いつの間にか“パパ”と“ママ”のことも“忘れて”泣き止み、縁がぶっきらぼうに言うと、慶介と愛は揃って苦笑をもらした。

「ミームを取り込むっていうのは、それに囚われることじゃない。共に連れて行くだけさ……縁、君は、君が生きたいと願うところに、僕のミームを連れて行ってくれれば十分なんだ……それだけが、ホールデンになりたかった僕の願いさ」
「……わかったよ、そんだけ言われたら、連れてくしかねーじゃねーか」

 縁は、右手をあげた。慶介も、震えながら右手をあげた。しかし途中で落ちそうになったところ、愛が取った。お邪魔だったかな、と愛が目で問うと、慶介は首を横に振って、愛に持ち上げるのを任せた。
 中空で、三人の手が重なった。

「他に何か連れてくのはあるか?」
「そうだね……じゃあ、これを機に、普通の人とももっと仲良くしてもらおうかな」
「……なんかさっきいったことと矛盾してないか?」
「いんや、全然。これはミームとは関係ない、純粋なお願いだからさ」

 ああそれと、と慶介は繋げていった。

「ヘタなことで取り乱したり、大事なときの勝負事に負けるのは、僕で最後ってのはどう?」
「……善処する」
「うん、よろしい」

 それを機に、三人は手を離した。星/命の輝きが見下ろす丘で、ただの人間たちの中からはみ出さざるをえなかった少年少女たちは、夜風の中でそっと目を閉じ始めた。眠りが近い。もはや病院に戻る気力もない。だからこそ、染み出すような眠気に身を委ねることに、何の違和感も、恐怖も、存在しなかった。

「縁……愛……ありがとう」

 そして三人は、眠りについた。

 翌日、病院へと戻った後、庚慶介の命は、静かに消えた。



 第二十五話『clover~the third wedgo Ⅲ~』



「この本、面白かったよ“中邦”くん」

 慶介がこの世を去って一週間。そのゴタゴタも済み、縁は愛に面会に来ていた。ベッドに座る彼女の膝元には青い手帳。縁は愛から返された本をとって、笑みを浮かべた。

「そうだろっ。俺も最初はそこまでじゃなかったんだけど、中盤からの流れが最高でさっ!!」
「そうそう! あ、けど………」

 意気込む縁に首肯していた愛だが、しかし急に喉に何かが詰まったように口ごもると、カーディガンで包んだ指でこんこんと頭を小突きながら、何気ない疑問を口にした。

「これ、どこかで読んだような覚えがあるんだよね……もしかしてこれが、“忘れる”ってことかな?」

 縁の胸に、激痛が走った。それは切なさを伴い、愛がいなければ胸を力いっぱい掻き毟りたくなるほどの衝動を持ち合わせていた。それを縁は耐えて、気のせいだろ、と笑顔を作って答えた。
 愛の定期的な『一定期間の記憶の全リセット』は、慶介が死んだ三日後に起きた。縁が愛の下を訪れた時、彼女が発した最初の言葉は「きみは誰?」であった。最初、愛は冗談でも言っているのか思い、不器用に笑みを作って自分の名前を言った。しかし愛は「初めて聞いた」と言って、困惑を浮かべた。それは縁も同じであったが、すぐに愛の手元に一ページ目を開かれただけの青い手帳の存在に気づき、以前から言っていたことがついに起きたのだと理解し、受け入れてしまった。
 本当は、叫び、問いただし、愛が困惑し、思い出すまで肩を揺すっていたかもしれない。しかしそれをしなかったのは、事前にそういうことが起きるのを知っていたことと、慶介の死があったからだ。そして何より、前日に愛が手帳の最後のページに、あることを書き込んでいたことを知っていたからだ。
 だから縁は、初対面の人に浮かべる笑みの形に歪めて、こういえた。

「すんません、人違いしてたみたいです。あ、俺は中邦縁っていいます」

 それから次の日の愛は、以前の“井筒愛”が中邦縁が慶介の紹介で出会った後と同じような態度をとるようになっていた。だが自身に起きたことへの相談役という今までにない立ち位置と、呼び方が以前と違い“中邦くん”になってしまっていた。そのことだけが、縁の中でしこりとなっていた。

「それで、聞いてる中邦くん」
「え、あ、何?」
「うん、私の手術の日って、来週で間違いないんだよね?」
「あ、ああ。変わってないですよ」

 青い手帳の最後に書いたこと。それは愛が脳手術を受けることであった。成功確立10%。それを今の“井筒愛”は知らない。知っているのは、あの夜それを本人に尋ねた縁と、娘の病気の症状ゆえに、彼女を拒絶した両親たちだけだ。何度も何度も親の顔を忘れてしまう娘、それに耐えられる人間は早々いない。縁はそれでも、愛の親たちに同情はするが、責めることを止められなかった。

「それまで退屈だなぁ……あ、そういえば、庚慶介って人、知ってるよね? もしかしてもう退院したの?」

 ずきり、とまた胸が痛んだ。先ほどよりも強く、激しく。愛は慶介を覚えていない。手帳に記されたそこには彼のことを事細かに書いたメモはある。だが庚慶介という一人の人間/男を覚えていることは、決してない。あの夜に何があったのかも、もはや忘却の彼方だ。そうと知っている。なぜ以前の“愛”が慶介の死を手帳に残しておかなかったことも本人から知らされている。それでも堪え切れない激情を縁は抑え込み、ゆっくりと口を開いた。

「あいつは……結構きまぐれだからさ、今週はあんまり愛さんに会いたくない気分じゃないのかもしれない」
「……それ、結構酷いよね?」
「そういう奴だからさ。俺からでよけりゃ、どんな奴か教えますけど?」
「あ、うん! お願いね!」
「了解っ。それじゃあ、あいつと会った時とか……」

 縁は思う。知らないのならば話そう。会えないのならば代わりに教えよう。インテリ崩れで、嫌味な奴で、貴女のことが好きで、自分の最高の悪友だった男のことを。
 愛はそれを、楽しげに聞く。縁の口元を見ながら、嬉しそうに聞いていた。


 そして、時は矢の如く流れ、手術の日が訪れた。
 愛が運ばれた手術室の前には、井筒家の夫婦と、縁、そして庚和正の姿があった。なぜここへ、と縁が尋ねると、生前弟に頼まれた、と答えた。あいつらしいキザなやり方だな、となんとなく嬉しく思った。愛の両親とは何も話さなかった。手術の前に多少を話したが、縁は愛を傍で見守ることを止めた二人を若さ故に許すことができず、口論直前まで発展しそうになったからだ。
 病院の皆はこない。それは彼らがこの住人であるからだ。それは良くも悪くも、こういうことに慣れてしまっていたせいだろう。縁も、数ヶ月も彼らに付き合ってれば、それを理解してしまっていた。
 無言のままに五時間の時が流れた。手術室のランプが消えたのは、その直後。四人の顔が一斉にドアへと向き、待ち人が出てくるのをひたすら待った。
 現れたのは医師二人に押されるストレッチャーの上で眠る愛と、手術の執刀医などをしていた愛の担当医、そして縁の父親である中邦犹嗣だった。縁には何故犹嗣がこの手術に参加できたのかは不明であったが、しかし理由はしっかりとあり、それを縁が知るのは高校生となってからだ。
 先生、と叫んで愛の両親が担当医の下へと走りより、彼もまた手術の結果を、隠し切れぬ苦さを称えたままこの場にいる人たちへと告げた。
 手術は成功した、と。
 彼女の親たちは喜んだ。泣きながら喜んだ。和正も一息つきながら、肩の力を抜いた。縁も一瞬、無意識に泣きそうになったが正気に戻り、しかし喜びが顔に現れそうになった。
 だが、同時に気づいていた。五時間という大手術の後で成功したというのに、なぜ長年愛を見てきた担当医のお医者様が、苦々しい、むしろ悔しさゆえに躊躇をしているような顔を浮かべているのか。それにようやく気づいた愛の両親に、担当医は、ここではなんですから、と彼の研究室へと案内されていった。
 言い知れぬ不安が縁の胸中に浮かび、後ポケットに入れていた、慶介の愛読書と同じものを握り締めていた。手術衣のキャップを取り外した犹嗣が、和正に近づき一言二言告げ、そして縁へと向き直った。

「縁、今日はもう帰りなさい」
「……けど、何かあんだろ? せめて愛さんの顔を……」
「手術直後の患者に『赤の他人』は面会などできない。それはここに通っていたお前が一番よくわかっているだろう?」

 反論できなかった。例え事情を知っていようと、あの夜を共有した仲であろうと、本人はそれを“忘れ”何よりも愛と縁の仲は他人でしかないのだ。唇を噛み、ともすれば怒鳴り散らしそうになるのを抑えて、踵を返す。しかしその背中から声が一つかかった。

「家で待っててくれ……」

 縁は一度足を止め、父親を振り返りそうになった。だがそれはできない。もし振り返れば、父親が示した譲歩を無視し、この場で、病院という公共空間で問いただしてしまいそうだったから。
 だから縁は、あの奇妙な子供のポスターが貼られた玄関前のホールで心を落ち着かせてから、家へと帰った。その途中、病院のどこかで、誰かが泣いているような声が聞こえた。


 転勤の多い中邦家が拠点とするのはもっぱらマンションだ。ただでさえ家にいることが少ない父・犹嗣の代わりに家の家事を取り仕切る縁にとって、2LDKのこの居住スペースは些か広いものだった。
 しかし今日は違う。本来の家主と縁は、リビングのテーブルで対面に座り、重い沈黙を保っていた。ラフな格好となった犹嗣の顔には、医者としての戸惑いが浮かび、それが縁にはじれったく、今すぐにでもテーブルを叩いて先を促そうかと思っていた。
 その矢先に、ようやく犹嗣が動く。滅多に使うことのない煙管タバコに葉を詰め込み、マッチで火をつける。紙タバコとは違うどこか粋を感じる香りと仕草に出鼻を挫かれ、縁は左手をわなわなと震わすが、犹嗣は口から煙を吐き出すと、ゆっくりと口を開いた。

「本当なら、患者のプライヴァシーに関わるが……井筒さんのためを思って言おう。縁、井筒愛さんの記憶は手術によって全て戻り、欠落も起きることはないだろう。だが……」

 あと三日しか生きられない。

 一瞬、何を言われたか縁はわからなかった。だが、徐々に現実というもの脳が認識していくと、ごちゃごちゃとした感情が体を反射的に動かし、テーブル越しの父親の胸倉を引っつかんでいた。犹嗣の顔は変わらない。いや、そこには僅かに、息子に対して哀の感情が潜んでいるが、激情に意識を支配された縁が気づくことはない。

「どういう、ことだよおい! 何で愛さんがそれだけしか生きられないんだよ……手術は成功したんじゃなかったのかっ!?」
「……成功したからこそさ。数日しか生きられなくなる代わりに記憶が戻る確立は10%、記憶を取り戻し、寿命も元のままで生きられる確立は……0.01%だ。これは彼女も、井筒さん夫婦も事前に了解していたことだ」

 そこでようやく気づいた。何故態々愛は手術を受けるか否かをあんな回りくどい方法で決めたのかと。それはこの結果を知らされていたからではないか。脳手術はメスを入れる場所が場所故に事前の準備がかなり必要になる、つまり、受けるかどうかの賭けをする期間は十分にあるはずだ。それこそ、青い手帳以前のものに書き記しておくぐらいには。
 愛はいつからこのことに一人悩んでいたのか、慶介はこのことを知っていたのか、助かる方法は他にはなかったのか。水泡の如く沸きあがる疑問は、伸ばされた縁の左手首を、犹嗣が掴んだ事で止まった。強烈な力がそこにかけられ、思わず手を離す。だが、犹嗣は縁を離そうとはしない。
 常日頃は白衣の下に隠れている細腕のはずが、どこにそれほどの力を隠しているのか。条件反射的に親を睨み付け、右腕をその手首にかけ、足をテーブルの上に持ちかけた。だがしかし、そこまでで止まる。犹嗣の眼光に止められる。
 ただ父親として息子に我侭に対する怒りがあるだけではない。医者としての無力感にあよる哀しみがあるだけではない。それよりも大きな、濁りきった澱が光の意思となって若白髪の前髪がかかる瞳に宿り、縁を見据えているのだ。見つめられていると、腰が自然に椅子へと落ちた。

「僕が、前に庚君と井筒さんにあまり会わないよう言ったのを覚えてる?」
「……ああ」

 そこまで言われれば、縁にも父親が何を言わんとしているかわかった。だがそれでも黙っている。

「二人とも特殊な環境で、いついなくなっておかしくはなかった。僕としては、お前に誰かがいなくなるなんて想いをこれ以上して欲しくなかった……」

 ずきり、と縁の頭が痛んだ。父が言っているのは、義手となった原因ともなる事故で、幼いころに死別した母のことを言っているのだろう。だが何かがその言葉の裏に潜んでいるかのように思えた。たとえば、あの屋上や丘の上で見たイメージに似たものが。
 だが今はそれは重要なことではない。それよりも聞きたいことがあるのだから。

「……だったら、何で今度は愛さんのことを言うんだよ? 俺がそんなこと言われて何もしないとは考えねーのか?」
「知ってるよ。けどね、もうここまで来てしまった。そしてお前は井筒さんと関わりすぎてしまった。なら井筒さんのために何とかしてあげるのが、医者としての勤めだ」
「……はっ、医者として、かよ」
「当然だ」

 ならば、この手にかけられた力は何なのだろうか。その目に宿ったものは何なのだろうか。縁にその中身はまだ知ることはできない。それでも、ただ『医者』であるだけではない、というのはわかる。

「……この三日間、北条さんに井筒さんの外出許可が出るよう嘆願しておいた。お前が会えるとしたら……恐らく、最後の日ぐらいだろう」

 犹嗣が手を離す。それだけで縁にかけられていた不可視のプレッシャーが半減したかと思えたが、しかしあの眼光だけは未だに縁を射抜いている。固唾を飲んで、犹嗣の言葉を仕方なく待つ。

「その時はせめて、彼女が心安らかにいけるようにしてくれ」
「……っ、やけにあっさり言うんだなっ」
「医者は慣れてしまえば、誰かの死に対して感動を薄れさせるものさ……たとえどれだけ思い入れをいれようとしても」

 それだけいって、ようやく犹嗣は煙管を咥えた。最後の言葉に付与された重みで何かを言いたいなのに言えなくなっていた縁は、一度舌打ちをしてから、自らが吐き出した煙を見上げる父親を横目で見た。そこには先ほどまでの判別不能な澱の光の代わりに、無常を憂う男の顔があった。
 父には父の事情がある。無意識の内にそれを感じ取っていた縁は、それでもなお、犹嗣に反発したくなった。それはただ年頃の男の子であるためか、それともまったく別の理由があるのか、縁自身、わかるはずがなかった。



 二日間、病室で目覚め、手術のために髪の毛をばっさりと切った愛は、両親に連れられて様々な場所に行っていた。病院の入り口でそれを見守っていた縁は、井筒夫婦を愛から引き離したい衝動を必死に抑えていた。
 今まで見放していたのに、今更親のつもりかよ。そんな権利は、あんたたちにはない。
 それを抑えられたのは、ひとえに愛のおかげだった。井筒親子が病院の玄関前に向かう前に四人は出会い、縁がまず口火を切ろうとした。その矢先に、いつもの患者服ではなく、それこそ普通の女の子らしい青のワンピースといつものカーディガンを羽織り、頭に包帯を巻いた愛が口元に指を立てた。
 
「帰ってきたら話そ、ね?」

 井筒愛の目には、縁を親愛の目で見るものがあった。中邦縁がわかっているのだ。
 病院で愛を見送った後、縁は誰にも見られない場所で、密かに泣いた。
 そして縁は愛が帰ってくるまでの間、必死に考えた。何を話すか。何か出来ないか。何かプレゼントできないか。慶介から想いを受け継ぎ、そして自分の想いをために、井筒愛という最愛の女性のために、何かをしてあげられないかを。ただひたすらに。
 井筒愛の体は二日間の小旅行、取り戻した記憶にある地を巡る最後の旅行でどこまで消耗されるかもわからない。脳手術直後の女性が外出許可をもらえること自体が奇跡的であり、そしてそれゆえに井筒愛の生の終わりを告げていた。彼女は旅行中、十を超える錠剤を一度として欠かすことはできない。それですら焼け石に水ともいえると、昨晩の内に犹嗣から聞かされていた。
 だからこそ悩んだ、慶介から借りた本に悩まされた時でもこれほどではないと断言できるほどに悩みぬいた。一日目はそれだけで過ぎ去ってしまい、二日目は病院の皆に尋ね周り彼らが何をするかを見聞きした。
 形あるものとしては、何も残さない。それは死というものの前には余分となるからだ。それでも縁は何か出来ないのかと彼らに問うと、代表である柏のおじいさんは「最後までしっかりと見届けてやるだけ」だと告げた。慶介の死を前にそれと同じようなことをした縁は、何もいえなくなった。

 そして、愛は帰ってきた。病院を出て行くときよりも幾分かやせ細り、車椅子に乗り、顔は青白かった。一見すれば、ただ病気で体を弱めてしまっただけのように見えたが、事情を知る縁には体全体で表す死相にも見えた。その彼女を、井筒愛を知る人々が出迎えた。しかしそれは質素で静かだ、今の愛に余計な負担をかけないための配慮だったらしく、数人の代表者だけでの最後のお出迎え。柏のおじいちゃんに看護師のおばちゃんもその中に含まれていた。
 愛は母親が押してくれる車椅子で移動しながら、彼らと話す。縁もその中で無言を貫きながら、彼女が最後を迎えるだろう病室の前まで歩いていった。隣りには、愛の父親がいる。彼もまた無言だった。
 病室の前、愛がいつもいた思い出の部屋。その前にたどり着くと、見届けにきた人々は皆、一人ひとり、名残惜しげに離れていった。涙ぐむも、それを愛の前で決して見せないようにする人もいた。柏のおじいさんは最後に芝居がかった仕草で愛の指にキスをした。愛は彼らにありがとうといいながら、辛さを隠せぬ笑顔を浮かべていた。
 愛と母親、それに愛の担当医と看護師が病室に入った。そこで彼女は意味の形骸化したチューブに繋げられ、体を横たえる。その間、男である縁と父親はドアの前で待っていた。
 数分の沈黙。縁は静かに待っていた。しかし愛の父は、しばらく何か考え事をしていたのか顎を上げて瞑目していたかと思うと、おもむろに縁の方を向いた。

「……中邦くん」
「……なんすか?」

 苛立った声が縁の口から出た。縁にとって、彼ら愛の親たちへの心象はいいものではない。しかし同時に、愛にとっての大事な両親であることも、そして何より、あの奇病に対してもっとも長い間苦しめられていたのは彼らだというのを、慶介から受け継いだ理性によって理解してしまっている。そのことについては何度も噛み付き、未だ決着がついてないからこその苛立ちだった。

「ありがとう」

 その苛立ちが、目の前の男性に頭を下げられたことにより、停止した。

「娘がこの二日間、いや、記憶がなくなる苦しみの中でも生きてこれたのは、間違いなくきみたちのおかげだ……あの子の父親として、感謝したい」

 だから、ありがとう。

 感謝の言葉。なのにそれが、贖罪か、懺悔にも聞こえる。事実そうなのだろう。両手が、有機と無機の腕が異口同音の軋みをあげる。殴りつけたい衝動に駆られ、しかし何もしなかった。無意味なのだと、心でわかってしまっていたからだ。それを理性とし、衝動を精一杯に抑え込む。顔を俯かせ、獣のような変化を縛り付けてから、顔を上げた。

「俺は……俺たちは、あんたに感謝されたくて愛さんの傍にいたんじゃねぇ。愛さんが好きだったから、精一杯生きて欲しいと思ってただけだ。記憶とか、病気とか……関係ない」
「……そう、か。少し、ほっとした」

 どうしてそのような言葉が出来てのか、縁には理解できなかった。しかし愛の父の肩から力が抜けたように思え、聞くに聞けなかった。聞いたとしての理解できないという予感もあった。だからそれ以上何も言わなかった。
 その時、ドアが開き愛の母親が顔を出した。同時に、医師と看護師が彼らに会釈して外へと出ていった。代わりに、縁と父親が中へと入る。
 愛はベッドの上にいた。顔にはマスクがかけられ、脇には今までなかった計器が幾つも置かれている。心電図の音だけが、愛の呼吸とあわせて鳴っていた。

「……愛が、あなたと話したいって」

 愛の母親が、掠れた声で告げた。目元が赤い。何も言わず、縁はベッド脇に置かれた来客用のパイプ椅子に腰かけた。愛の目が縁に向けられる。その顔は病院の前にいたときよりも、一気にやせ細ったように見えた。皆に苦しくとも笑顔を向けていた時にあった、弱弱しい生気も、今は見えない。繋いだ機械にそれを吸い取られてしまったようにすら、感じえた。

「愛さん……」
「縁くん……そんな泣きそうな顔、しないでよ」

 何かを話そうとしたが、何か熱いものに邪魔されて縁は言葉に詰まった。それを半透明のマスクの内側を白くしながら、愛は笑おうとした。しかし縁には、マスクが邪魔で笑みに見えなかった。

「私……全部思い出したよ。この病院に、始めてきたときのこと……この病気になった事故のこと、陸上部の、県大会で入賞できたこと……クッキーの作り方、教えてもらったこと。ずっと前に、慶介くんに、告白されたこと」

 慶介に以前告白された。初耳だった。えっ、と間抜けな声が縁の口から漏れる。愛は笑みを深めて、ようやく縁にも見えるようになった。見えたからこそ、その笑みが弱弱しく、痛々しいものに感じた。

「慶介くんは……全部、わかってて、見守ってくれてたんだ……今、私はそのことを思い出せて、幸せ……けど、ね」

 愛の手がゆっくりと持ち上がる。咄嗟に両手でその手を握った。細く、冷たい。縁の義手よりも、はるかに冷たい。本当に生きているのかと、疑問にしてしまいたくなるほどに。

「私、縁くんが……“中邦”くんのことが、好き………部屋からあまり出なかった私に会いにきてくれて、色々なこと教えてくれて、時々影があって、何よりお日様みたい子みたで……私には、眩しかったの……そう最後の記憶の私が、ずっと言うの」
「あっ……」
 
 最後の“井筒愛”。その記憶があるのは当然だ。今いるのはきっと、全ての記憶を思い出した井筒愛なのだ。だからこそ、一度消え去った想いを思い出しても可笑しくはない。
 そして、思う。あの時の愛が、そんな風に自分のことを見ていたのかと。嬉しくなると共に、切なかった。何故なら縁にとっての太陽は、愛だったのだから。

「ふふ、いっちゃった……嫌な、女だよね……慶介くんのことも好きで、その上、中邦くんのことも、好きだっていうんだから……」
「そんな……そんなこと、ないっ。それでも、別にいい! 俺たちはただ……愛さんが好きだっただけなんだ! 愛さんがそう思うなら、それでいいっ!」

 彼女の手を握り締めた。そこに愛がいることを感じようとして、ひたすらに強く。

「ちょっと、痛いよ……」
「あ、ご、ごめんなさ……」
「けど、今はこれぐらいで、いいかな……」

 愛は痛がるそぶりを見せない。それをするほどの体力が残っていない。手から伝わる冷たさが、そう教えていた。

「縁くん……」
「何?」
「強く、生きて……無理に、私のことを背負わなくていいから……縁くんが、正しいと思うように、生きて……好きになった人には、カッコよくいて欲しいから……ダメ、かな?」

 その言葉は、縁にあることを思い出させた。それは愛が手帳の最後に書いたことと酷似していたのだ。
 
 もし、手術が終わっても記憶が戻らなかった場合に備えてここに記します。
 手術が失敗したからといって、絶望してはいけないと思う。
 たとえ記憶がなくなっても今までの私がそうだったように、生きることはできる。それは素晴らしいことだと思う。みんながいれば、きっと私は私として生きていける。
 だから、もし記憶をなくしてしまった“井筒愛”にいいます。
 強く生きて。絆は消えないから。

「……うん……わかった……」

 愛の手を、胸に置く。心電図の音以外にも、別の音が聞こえた。鼓動だ。心臓の音。血が流れる音。魂の息吹。
 たとえこれほど弱っていても、それだけは消えない。“死んでしまう”その瞬間まで、人は生きているのだ。死んだとしても、何かを残していくのだ。庚慶介、あの親友のように。あの、“ママ”のように。
 頭痛がする。イメージがどこからか流れ込む。誰かが縁を抱きしめている。そして何かを告げる。何かを縁の中に残して、逝く。
 その姿が、目の前の女性に重なった。

「大丈夫……胸を張って、生きてくから……慶介と、愛さんの分まで、精一杯、生きてみるから……っ」

 気づけば、嗚咽の混じった声を縁は吐き出していた。みっともなく大粒の涙を零していた。慶介の時でもこれほど出しはしなかったというほど、流していた。その、弱気を出してしまった少年は、愛は目を細めて、握り締められた手を解いて、縁の頭へと置いた。

「あ……」
「もう……だから、そんなに、気負わないで……」

 そして、ゆっくりと、撫で始めた。
 いつかの屋上のときよりも弱弱しく、緩慢で、しかしその時よりも慈愛に溢れていて。縁は涙を止めていた。

「歩くような、速さでいいから……がんばっ、ね……」

 そして、その手が、ゆっくりと、落ちた。
 愛はその目を閉じた。心電図の音は、まだ、鳴っていた。

「……はい……ありがとう、ございっ……ます……っ」

 縁は、初恋の女性が眠りにつくのを見届けてから、ゆっくりと、頭を下げた。


 数時間後、その音は、眠るように止まった。
 
 


「そうだ、これが僕らの別れだ」

 縁はなだらかな丘陵地帯にある墓地の中にいた。その一つの墓の前で、崩れ落ちていた。銀河鉄道の通る夜空の下、縁は二人でそこにいた。いつの間に移動したのかも、意識があったのかもわからない。永い夢をみていたのだ、と誰かが告げれば、素直に信じてしまいそうだった。
 何も書かれていない黒い墓石の前には二つのものが添えられていた。一冊の本と、一冊の手帳。線香の匂いが縁の鼻を刺激するが、それは現実感を帯びた虚構のそれであった。
 小さな子ども、あの夢の中に度々出現した、五体満足の姿をした縁はいう。

「僕らはずっとこの死人たちに使命を背負わされてるんだ。生きろって。それはとてつもない苦痛だってわかってる? 少なくとも慶介は否定しないんじゃないかな? 愛だって、顔には出さなかったけど、何度か自殺しようとするほど苦しかったかもね」

 夜空の星が、一つ瞬き落ちる。その光は徐々に近づいてきた、全貌を縁の前に現した。銀河鉄道、蒸気機関車の姿をしたそれは墓石群の上を滑るように進み、そして停車した。客室の窓からは、様々な人影が見えた。

「君はそれを実は忘れてたんじゃいか? だって、そうじゃなきゃあんなことにはならなかった。空たちを拒絶しなかったし、こいしの時だってもっとスマートにやれた……日常の中に潜むことで、過去のことを忘れ、重荷から逃げ出したんじゃないか?」

 客室のドアが開く。顔を上げた少年の姿の縁が、中をなんとか覗こうとする。その右腕には、義手はない。中は暖かな光が満ちていて見えないが、そこから梯子のようなものが下ろされているのがわかった。乗れ、というのか。

「今だったら、どこまでも逃げれるよ? さぁ、乗りなよ」

 縁の背後に移動した、小さな縁はそう囁く。縁はそれに従い、ゆっくりと左手を梯子へと伸ばした。

 そして、夢から覚めた。





 縁はまた闇の中で目を覚まし、目の前に闇とは相いれない真っ白なものがあるのを見た。
 視界いっぱいに広がるその光に対して一瞬、まだ夢の中にいるのかと勘違いをしたが、すぐにそれだけが光り輝いていることに気づき、ああまだあの世界にいるのかと、落胆を覚えた。
 だが直後に、自分以外の何者かが光であることを察し、慌てて左手を動かしそれに触れようとした。しかし腕はいや、体そのものがまったく動こうとしない。元々動けなかったものを霊力で無理やり動かしていたことのツケが今更出てきたのだ。冷静な思考が、とうとう、と訂正する。だから次に、霊力を使って動かそうとするのは当然の帰結であったが、頼みの右手でも不可能だった。
 ちくしょう、と縁は呟いた。口渇により声にならないそれはしかし、闇の中で見つけた初めての他者の存在に触れることができない、どうしうもない悲しさで出来ていた。。
 びくりと光が震えて、縁の上で飛び跳ねそのまま後ろへと下がった。背丈はそれほど高くない、巨大なバランスボールだと見間違うばかりの大きさと等身で、光に包まれた皮膚は人間の縁とは違い柔らかな緑色。人間と同じく五体を持ち二足直立をしているようだが、顔の輪郭は人間の子供と両生類を合わせたようなものであり、何よりも人間の生え際に当たる部分からはアンコウに似た触覚が二本生えている。その内の一本は、痛々しく千切れていた。
 どこか人間で言う怯えたものを表情とするその生物に、縁はしばらくそれを凝視してから、自身が岩壁を登っていた時に落ちてきたものだということに、ようやく思い至った。

「……――ッ」

 そして仰け反り転んだ体勢のままの生物も、ようやく口を開くが、しかしそれは縁/人間が聞き取れるものではなかった。何を喋っているのかまったく判らなかったのである。言語であるのかもすら、そもそも人類学の知識のない縁には見当もつかない。
 手をぱたぱたと振っているが、それは人間でいう慌てたもの特有のものであったので意味をなさない。舌打ちをしたい気持ちを抑え、縁は右手だけでもどうにかジェスチャーを伝えられないかと右手にゆるゆると霊力を流し、痙攣したように震わせながら手をあげた。だが持ち上がるだけで、指などはまったく動かない。機械制御じゃないのかよ、と自身の右腕に身内で文句を垂れるが、声に出ていたのか生物はまた一歩分下がった。
 縁はどうするか、と頭を働かせようとするが、度重なる疲労と栄養失調、何よりも脱水症状がそれを妨げる。義手への疑問すら渇きの前に崩れようとし、霊力の光もふっと消え、三度昏睡状態に陥ろうとする。だがそうなればもはや永遠に幻覚と闇の世界に留まることになるのを、縁は生き物の生存欲求として悟っており、それに抗うことなく、目を瞑ろうとした。
 すると様子をただ見ていただけの光の生物は、恐る恐る縁に近づいていき、無事な方の触覚を慎重に右腕に近づける。縁の意識に潜む目に見えぬ痛がり屋の小人が右腕を退けようと声高に叫んでくるが、体は変わらず動かず、触手は光の膜と機械の表面とを触れ合せた。途端、静電気のような痛みが右腕から走る。幻痛は身体の状態に関係ないらしいことを実証できた縁はしかし嬉しがることもなく、ただ今は厄介なものだと愚痴りたくなった。
 生物の方も同じく吃驚して仰け反り、しばらく目を闇に向けて瞬かせていたが、突然慌てた様子で背中に背負っていた何かを取り出した。光に照らされてぼんやりとしかわからぬそれは細い円柱の形をしており、縁に向けられた先端にはリコーダーのものと同じ横に伸びた細く小さな穴が一つ空いていた。
 それを持ったまま、背を向けてどこかへと走り去ってしまった。取り残された縁は、何もすることができず、しかしだからといって眠ってしまうわけにはいかず、ただぼうっと感覚を消失させる闇を見ていた。
 そうすると、必然的に、先ほどまで見ていた、妙にはっきりとした夢/記憶が頭の中に浮かび、すぐに溢れかえった。

 なんでこんな大事なこと、断片的にしか覚えてなかったんだよ

 縁は、もはや枯れている涙を流しているような錯覚を覚えた。
 



 あとがき

 今回の後半から本編が再開するといったな。アレは嘘だ。

P.S.タイトル修正、ダイジョウブ、バレテナイ…



[7713] 第二十六話――COM<レイヴン、助けてくれ、化け物だ!  
Name: へたれっぽいG◆b6f92a13 ID:a2573ce4
Date: 2011/03/26 15:35
 闇の奥から、ぼんやりと光が近づいてきている。ぼやける視界のせいで、複数にも単数にも見えるそれに、縁が正体を見極めようと目を細めると、それはある地点からぱっと二手に分かれて、縁の周囲を囲んだ。
 近く、という表現がこの闇の中で相応しいのか、その光の影を見ると、先の不思議な生物だった。数は五つ、触覚の状態や顎の下の皮の垂れ具合の違いがあるが、間違いなく同種の生き物たちだ。
 妖怪だろうか、縁は再び擦り寄ってきた、しかし今までとは違い包み込むような眠気と共存しながら、薄ぼんやりと疑問を浮かべる。その内の二匹が屈んで縁の顔を覗き見た。一匹は先ほどのリコーダーもどきを持っていた触角折れ、もう一匹はそれよりもはるかに傷が多く、包帯と思わしき布を体中に巻き、その内の一つで眼帯をしているものだ。
 その妖怪が口を開く。

『へっ、生きてるか、迷子さん?』
 あ……

 口を開いただけで発せられた、縁と同じ言語/言葉。それだけで、何度目かも知れぬ涙が溢れそうになるほどの感動を縁は覚えた。顔が反射的にあがって、眠気という霧が徐々に晴れていく。口を開いて、意味ある声を発しようとした。そこで止まってしまう。口の中が言うことを聞かず、声すらも渇きしか訴えず、縁の意思に応答しない。
 それだけで察したのか、包帯つきの生き物は隣りのリコーダーもちに同じように口を開いた。

『水……いや、深層水のほうを持ってきてくれ。こいつはきっと、脱水症状ってやつだ』

 周囲の光の影たちがどよめいたような気がした。縁には彼らがどのような言葉を発しているのか、そもそも空気を震わせて喋っているのかも判別つかない。しかし包帯つきの眼光と、リコーダーもちの目に負けたのか、二つの光が遠ざかり、消え、そして瓶らしきものを持って現れた。大きさはその小さな体躯に相応しく、縁の元の世界にあるジョッキと同サイズ、それだけで彼らにはかなり重たいらしく、瓶を持っている光たちはよたよたとしている。
 瓶は光たちの手から縁の顔の前に置かれると、それだけで見えなくなってしまった。あの闇の中に溶けてしまったのだ。しかし包帯つきが瓶のあった場所に手をやると、それだけで薄っすらと輪郭が見えてくる。

『顔を上に向けろ』

 言われたとおり、気力を振り絞って顔を体感的な真上に向けた。包帯つきが瓶を持って縁に覆いかぶさり、瓶を傾けた。瞬きをする時間の後、半開きになっていた口に何かが落ちてきた。舌がそれを受け止め、正体を突き止める。
 水、それも冷えて澄んでいる。喉に伝った途端、数日分の渇きがそれに過剰反応を起こして拒絶しようと咳を立てた。その間にも水は流れ落ち、痩せこけた頬や鼻を濡らす。そして長く渇いた咳の途中から、喉は口の中に落ちてきた水分を取り込み始める。最初は弱弱しく鳴っていた喉が、徐々にだが強く早くなっていく。
 そして瓶の一つが空になり、もう一つの方が持ち上げられるより前に、どこにその力が残っていたのか、縁は瓶を奪い取って瓶口を喉に押し込む勢いで傾けた。人間の体の七割を構成するものが体の中に勢いよく流れ込み、それに合わせて喉が動く。その勢いに負けて体が逆流を防ごうと咳を起こすが、それでも生存の過剰本能は止まらず、瓶の中身がなくなるまで続いた。
 真っ逆さまにした瓶を振り、最後の一滴まできれいに飲み込んでから、縁は足りないという渇望が強くなるのを感じた。そしてそれは、これをもってきた相手へと即座に向けられた。

 おい……まだ、あるだろこれ、もっとよこせよっ
『……驚いた、もうそんな吠えられるのか。おい、まだあったよな、持ってきてくれ』

 結局、縁が落ち着くまでに、瓶三つが消耗されることとなったが、本人はただ、久方ぶりの水を味わうのに夢中だった。



 第二十六話『酒の名はブルース』



 頭蓋の内側に頭痛、全身に痛覚と活力が少しづつ戻り始めたのを感じながら、しかし縁は未だ倒れこんでいた。そもそも水を飲んだだけで回復するほど人間は都合よくできていない、そして元々気力が萎えきっていた縁にとって、水分補給は体が求めただけのことであり、そこから起き上がれるかという問題もある。
 しかし、頭はこんな状況・体調にも関わらずしっかりと回りだし、周囲を囲む妖怪たちの存在に疑惑を提示した。

 ……悪い、助かった……それでさ、ここはどこだ? それにあんたたちは……
『そんなことも知らずここに入ってきたのか? ここは……まぁ、地獄でも天国でもない、たぶん煉獄ってやつさ』

 答えたのは、やはり唯一自分に話しかけてくる包帯つきだった。煉獄、と聞いて縁はおかしくなった。ほんの少し前まで、自分は地獄に住んでいたのだから、冗談にもならないものだと思ったからだ。

 じゃあなんだ、ここに住むあんたらはそこの妖怪とか餓鬼か?
『……まぁ、昔はそう呼ばれていたなぁ』
 昔?
『ヒトがいなくなった今じゃ、俺たちだって妖怪か何かわからないのさ。とりあえずはネドモって名乗ってる』
 ……ネドモ、ね。それよりさ、人間が、いないってどういうことだ? そんなわけないだろ、幻想郷なら人里っていう場所があるらしいし、それに地球には六十億人以上もいんだから……
『ゲンソウキョウ? チキュウ? どこだそれ?』

 心底不思議そうに返され、縁はより深い当惑の渦に叩き込まれそうになった。額面通りに受け取れば、目の前の存在が本当はここのことをまったく知らないか、はたまた本当に幻想郷、ひいては地球でないことになる。
 ありえない、と縁は心の中で叫んだ。仮にここが地球でなかったとしたら、そもそも縁が生きていること自体が奇跡だ。重力の問題、大気の成分、先ほど飲んでしまった水の中身その他諸々の要因がかみ合わなければ人間は生存できない。
 死んでしまいその後の夢でも見ているのかもという妄想が一瞬浮かんだが、すぐに否定した。痛覚が残っているならば、人間はまだ死んでいないという証だ。
 それならばここはどこなのだと、心の中で再三となる疑問が出て、力が抜けた。
 全てを投げ出したい気持ちになっていた。
 生にすがりついているのは本能的欲求のせいだ。それを差し引けば、今の縁は無気力の極み、些細な疑問は全て澱の中に沈んでしまう。その底は濁りすぎていて、よく見えない。

 ……いや、なんでも、ない。それよりもさ、何で他の奴は話さねぇんだ? あんたが代表とか?
『ああ、そりゃ……俺ぁ昔っから生きてるヤツなら誰とでも話せることができたからよ、おかけでお前さんみたいなやつ相手にはよく引っ張りだされんのさ』

 能力だ、と確信を持てた。ここは幻想郷ではないからその概念はないのだろう。ただ特異なだけ。そこから想像の翼を広げることは容易だが、するほどの元気はない。
 今自分の中に潜り込んでしまえば、あの銀河鉄道に乗り込んでしまうような気がしたからだ。
 しかしそれも、ああ別にいいかな、と考えてしまう自分がいるのに気づいて、口元を緩め、開いた。

 俺は……どれくらいここにいていいんだ?
『あ~……死にたくないなら、まだ出ないほうがいいなぁ。じゃないとあいつに食われちまう』
 はは……死にたくない、か。そんなのとは今、無縁の気分だけどな。

 包帯つきの隣りにいる、触覚の折れたネドモが顔をしかめたような気がした。対称的に、話しかけてきている包帯つきは困り顔と思わしき顔になったが、飄々とした態度は崩していない。

『そーかい……ま、何かの縁だし、少しぐらいここで休んでいけって。死ぬのも生きるのもそれからにしろ』

 それだけいうと、包帯つきだけでなく、他のネドモたちも光の残滓を残しながら踵を返し、この闇の中から消えていった。唯一、触覚つきがこちらを気遣うかのように何度も振り返ったが、他のものに催促されたのか、急いで消えていった。消える、という表現はもしかしたら間違っていて、単にここは何かしらの部屋で、その入り口から出て行っただけかもしれない。
 また、何もない闇の中に戻った。
 喉を潤した状態で喋ったことが、今更ながら、とても久々のことのように思えた。それを思い出すと、胸の中の澱みの奥が少し熱くなった。息が苦しい。見えない左手で胸元を掴み、抑え込む。右手でさらに抑え込もうとしたが、相変わらず動こうとしない。一瞬、胸の熱さが高まったように思えたが、すぐにそれは冷え込み、錯覚だということにした。
 
 ちく、しょう……

 苦し紛れに言葉は吐いて、目蓋を閉じる。そこには本来の薄闇の世界ではなく、たった一人の少女の姿を映していた。
 縁、と名前を呼んで、零れんばかりの笑顔で少女は笑いかけてくる。そうじゃないだろう、と妄想の中の少女に向かって毒づいた。
 非難されべきなのだ、拒絶されるべきなのだ、笑顔ではなく罵倒を与えられるべきなのだ、それが正しいのだ。ひたすらに己に言い聞かせて、妄想を振り払おうとする。しかしそれを消えず、むしろより強くなっていくようだった。
 逃避のために、縁は目を開けることを選んだ。すると、先ほどの光の一つがまたこちらに近寄ってきているのがわかった。触覚の折れたネドモだ。先と違うのは、三頭身にも見える身体の胸元だけが穴が空いたように暗くなっていることだけ。
 彼(?)は伏している縁の傍に近寄ると、その暗い部分を離した。遠目からはわからなかったが、それはネドモの体系には些か大きいものらしく、それを両腕で抱えていたらしい。暗いものは音もなく転げ、その大部分が闇と同化してしまった。かろうじて見えるのはネドモの足元に留まっている分だけ。
 それが一体何なのかとほんの僅かな、逃避じみた興味が沸き、身体を横にして左手を伸ばそうとした。しただけであって、そこに触覚があるかは別。そのことを思い出して、スズメの涙ほどの霊力を左腕に通した。
 ネドモが折れた触角を驚いたように跳ねた。そういえばさっきもそうだったな、と思い出して、縁は何とか誤解を解こうと思い、薄い霊力の膜を張って口を開いた。

「危害は……くわえない、ただ、お前が持ってきたやつを……」

 久方ぶりに聞き取れた自身の声に感激する間もなく、ネドモは身体ごと跳ね上がって、そのまま後ろへと飛び退いた。怖がられているのか、警戒されているのか、はたまた両方なのか。
 歓迎はされてないよな、と自己完結をして、薄っすらと見え始めた視界で、暗い穴だったものを捉える。例えるならそれは、奇形のグレープフルーツだった。もう一種は異常成長したホワイトマッシュルーム。どちらも一見すれば、文化圏の人間からはナマで食するにはいささかか憚われる見た目だ。しかし、我侭というものを言える立場ではない。
 身体が目の前に放り出された食料を求め出し、自動的に左手がマッシュルームを掴んだ。キノコ類を触ったときと同じ、さらさらとしたもの。食えるのかという疑問も一瞬、食うという生存欲求に塗り替えられた。引き込み、錆びたかのように動かない口に無理やり突っ込む。そしてじりじりと歯を閉じていき、たったの一口を今出来る全力で噛み千切る。
 口内に芳しい香りが充満し、先ほど飲んだ水がすぐに唾液に変換されて口中に溢れた。一口一口を、味わうように食べる。菌糸類独特の味わいが喉を通り、身体へと浸透していく。今更ながら腹が鳴った。それに急かされるように再びキノコもどきにかじり付く。
 丸々一つを平らげるのにそう時間はかからなかった。その間、ネドモは何もせずじっと縁を見ているだけだ。二つ目に手をかけ、半分ほど食べたところで、縁はそのことに気づいた。

「……食って、よかったんだよな?」

 口を動かしているせいか、先ほどよりは流暢に話すことができた。しかし結果は同じ、ネドモは後に壁があるように両手をつき、警戒を露にしている。言葉が通じないようなら仕方ないか、と縁は考え、今度はフルーツに手を伸ばした。
 甘い果汁に満ちたそれのおかげで乾燥しかけた口内を潤し、縁はようやく一息つくことができた。もちろん、いっぱいにも腹八分目にもなっていない。何もないよりはマシというくらいだ。
 気力は、水だけを飲んだころよりは戻ってきている。体力に関しては、座りなおすぐらいというほどだ。光の具合がまた濃くなった霊力を目に意識して、周囲を見渡す。暗いままだが、どこに何があるか、という感覚だけはわかった。その感覚を信じれば、ここは自分が膝立ちができる程度の高さしかない洞で、入り口は一つということだ。ネドモがいるのはその壁だ。
 それだけ確認して、縁は身体を持ち上げ、背中を壁に預けるように座った。長時間寝ていたのだろう、足や腰が重く、背中も痛い。骨折をしていないことが幸いだ。一息吐いて、視線を先ほどからこちらを見ているネドモに向けた。
 目が合った。言葉が通じないのはわかっているので、仕方なくそのままにして、改めてネドモというものを観察する。
 妖怪としか言いようがない姿形だが、なぜかこの闇の中でも光っていて、認識することができる。妖力がその働きをしているのかと考え、暫定的にそうしてしておく。先ほど自分に話しかけてきた個体と見比べると、触覚が折れていることぐらいだ。あちらは片目に包帯を巻いていた。そこから察するのは、何かしら怪我をするようなことが起きている、ということ。
 たとえば、戦いなど。

『おう、元気してる……って、もう食ったのか』

 そこまで考えていた時、先ほどの包帯つきがひょっこりと現れた。

「ああ、まぁな……もしかしてあれ、あんたのおかげだったのか?」
『へぇ、そうすればまた違った話し方ができるのか……ああ、さっきのメシに関しては俺からさ。口にあったか?』
「それなりにはな、文句なんていえないさ……ありがとう」
『よせって、照れくさい』

 先ほどはできなかった感謝の意を、今度こそ明確に伝えるために頭を下げる。それに困ったようになった包帯つきは、触覚で頭を掻いた。両手が先のように暗くなっていることから、何かを持っているのを推察することができた。
 それを証明するように、包帯つきは縁の前で腰をつき、それを目の前に置いた。広がった感覚から、それが先ほど頂いた水瓶を一回り小さくしたものと、彼らのサイズに合わせた小さなお猪口だと気づいた。

「それは?」
『大部分の場所からとれる水さ、飲むと酔っちまうんだ』

 酒じゃねーか、と心中ツッコミをいれ、同時にここの水脈は幻想郷以上に可笑しいのかと思ってしまった。そしてそこから導きだされるのは、自分が与えられた水のことだ。

「ちょっと待ってくれ……俺が飲んだのは普通のだったけど……」
『ある程度深いところなら、ただの水がとれるさ。まぁ……』

 そこで包帯つきは言い淀んでしまい、言葉尻が消えてしまった。見れば触角の折れたネドモも何かを言いたげに包帯つきを見つめている。その意味が分からず尋ねようとしたが、しかしその前に包帯つきの口が開いた。

『それよりもお前、イケる口か? こちとら日頃は暇だから、話し相手が欲しいんだよ』
「あのな……あんたらの常識じゃどうか知らないけど、俺みたいなやつは脱水症状起こした直後じゃ酒なんて飲めるわけねーよ」
『何いってるんだ? お前に深層水を飲ませてから、もう二時間経ってるぞ?』

 経過した時間を言われても、縁はそれを実体として受け止めることができなかった。この闇の中にずっといたせいで体内時計はとうに壊れ、何よりも時間を確認する術がないからだ。それでも脱水症状時に水だけ飲んで眠ったとは、我ながら命知らずだと、心の余裕が自嘲を作る。
 
「そっか……そんだけ経ってりゃ、もう平気だよな。甘いものも食えたし」
『そうでなくちゃっ、ほら、お前も付き合え』

 包帯つきは触覚で傍にいたネドモを招くと、最初それは迷っていたが、しかし恐る恐るといった調子でこちらに近づき、目の前の包帯つきの隣りに腰を下ろした。そのおっかなびっくりとした調子に、包帯つきは笑った。

『なーに怯えてんだよお、こいつはお前の命の恩人だろうっ! なら怖がってちゃダメだろ!』
「命の恩人? 俺なんかしたのか?」
『こいつが山の上から落ちたとき、登ってたあんたにぶつかったろう? 普通なら死んでるが、あんたがクッションになってたおかげで助かったのさ』
「それって俺が巻き込まれただけじゃないか?」
『その通りよ』

 包帯つきのネドモはそういって笑いながら酒をお猪口に入れ始め、折れた触覚のネドモは非難するような視線を彼にぶつけた。縁はただの被害者だと判明したが、しかし怒る気にはなれず、むしろその様子が可笑しくて笑いたくなった。
 その感情に流されるまま、縁は笑うのには窮屈な態勢で笑い出した。しばらく笑っていると、二匹のネドモの視線がこちらに向いていることに気づいて、もしかしたらだめだったのかと思ったが、それは包帯つきがカエルとトカゲの顔を足して二で割った相貌を緩めて否定した。

『……なんだい、ちゃんと笑えるじゃないか』
「ん、何が?」
『さっきみたいに辛気臭いままじゃたまらなかったからな、ちょっと心配だったんだよ』

 ほら、と酒が入ったお猪口を渡される。縁はそれを左手で受け取りながら、その手に触れた。ゴム皮質に似た、少し弾力のある、しかし人間や動物と同じほのかな暖かさがある、でこぼことした手。無意識に酒を受け取った後も感触が忘れられず、縁は投げかけられた言葉の意味と相まって呆けてしまった。
 お猪口の感触はあるが、しかし中身はわからない。もし今ここに光があり視界が回復していたら、見事な間抜け面が酒に映っていただろう。
 そこまで考えて、縁は酒を呷った。口内に冷たい液体が入ってきたかと思うと、どぶろくに似た香りがむわっと溢れかえり、鼻を突き抜けた。そのまま喉まで飲み込むと、ウォッカと同等の熱さが喉を焼き、弱まっていた頭痛を一気に消し飛ばした。
 
「~~~~ッッ」

 言葉も発せぬまま、お猪口を地面に叩きつける勢いで置いた。一瞬二匹を目を丸くしたが、しかし包帯つきは調子をよくして更に縁のお猪口に酒を注ぎ、ついで自分の分の酒を一息で飲み込み、同じようにたたきつけた。
 触覚がピンと天を突いて、包帯つきのネモドは顔を赤くしながら、再び酒を注いだ。
 今度は両者同時に酒を呷った。飲み干すスピードも同じ、器を地面に置いたのも同時だった。

『へぇっ、イケるな』
「まぁな」

 そういって互いの種族も名前も知らないもの同士は、大きな笑い声をあげた。それに付き合うネドモもつられて笑い、酒を呷ってから、一発で顔を赤くしてしまった。




『ふーん、なるほどねぇ』

 折れた触角のネドモが床に伏し、縁もまた身体を横たえている状態で、包帯つきが何も見えない闇の中にぼんやりとした声を零した。
 酒宴も中盤にさしかかったころ、縁は酒の勢いに押されるまま、自分の境遇を話していた。
 普通に生きていたとき、幻想郷という変な場所に拉致されたこと。そこで妖怪たちと知り合ったこと。
 様々な妖怪や幻想やロボットと時には拳や弾幕で戦い、時にはこうして酒でもって語り合ったこと。
 居候先の女の子のトラウマを治すきっかけを作ったこと。
 たった一度の敗北で変わってしまったこと。
 妖怪の在り様を勘違いしていて、その本性に恐怖してしまったこと。
 好きだと自覚した少女を拒絶してしまったこと。
 不思議な鳥にこの場所に放り込まれたこと。
 昔の恩人や親友との約束を半ば忘れてしまっていたこと。
 そして今、約束を違えていたことを自覚してしまったこと。
 後半になるにつれて、縁の語り口には嗚咽が混じり始め、最後にはほとんど言葉を為さなかった。それでも包帯つきは黙って聞いていてくれた。それが嬉しくて、情けなくて、縁のまなじりには涙がたまっていた。

『せっかく知り合った連中にんな迷惑をかけて、こんなところにいる、ね……そりゃ、たしかに嫌になるな。後悔とか自己嫌悪とかに潰されそうか?』

 縁は何も答えられない。答える気力は、身勝手な懺悔と共に零してしまっていた。

『……誰だってそうだよ、嫌なものに押しつぶされないやつなんてどこにもいねぇ。逃げ出したいのが当然さ』

 闇の中でも聞こえる言葉は、すんなりと縁というものの中に入り込んでくる。

『眠って忘れろ、それ以外ねぇ』

 闇そのものが言葉であるように、ぽかりと空いた心の隙間に入り込んでくる。

『お前のことなんてみんな勝手に忘れるさ、勝手に忘れていく。時間がお前を救ってくれる……ひとりぼっちになっっちまうけど、まぁそんなの最初からさ。そんな時の相棒はこいつと相場が決まってる』

 包帯つきは、酒の入ったお猪口をひらひらと揺らして、また一口飲み込んだ。縁の右腕は、動く気配はなかった。

『だいたいよぉ、どいつもこいつも期待しすぎじゃないか? 生まれた時に土産なんて持ってこなかったじゃねーか……高望みしすぎだよ』

 縁は何もいえない。そのままでいると、眠ってしまいそうだった。寝て、忘れて、重圧から開放される。そうすればあの銀河鉄道とてこない。一人きりであるが、この闇にいすぎたせいで、慣れてしまったはずだ。酒の代わりも、そこらを掘れば出てくるだろう。そうなれば後は、自分と酒だけの世界だ。
 それは何と素晴らしい世界なのだと、縁は夢想に感動した。永久に眠れる世界。そこにいきたいと、心の底から思った。
 しかし、たった一つだけ、些細な疑問が頭に浮かんで離れなかった。それを、落ち着いてきた喉に音を通して、声にする。

「……なんであんたは、こんなに良くしてくれるんだ?」
 
 不思議だった。見ず知らずのものを介抱し、食事を与え、愚痴まで聞いてくれる。最初はかなりの数のネドモがいたのに、こうして一緒に飲んでいるのはこの二匹だけというのも奇妙な話だった。
 普通に考えれば、仲間が助けられたので看病し、そこに話が通じるものと助けられた恩に報いようとするものが置かれたというだけで十分だが、それ以上を勘繰ってしまうのが人間というものだった。

『おいおい、ここまで腹割ったっていうのに、野暮なこと聞くなぁ』

 その愚かさを、包帯つきは一笑した。

『しいていうなら、生きてて、話が出来て、何より飲んでて酒がうまいからだよ』

 単純明快な理を問われた子どものように拗ねた調子で、その答えを返した。
 あんたの辞書に矛盾ってのはないのか、と一瞬問いかけそうになったが、なぜかそれは間違いだと思った。彼の中では、今まで言った言葉は全て延長線上にあるのだろう。
 旧都の奴らみたいだな、とすっからかんの愛想笑いが漏れそうになった途端、小さな地響きと、振動で倒れた空の水瓶のせいでそれは妨げられた。

『……なんだいまったく、いい気分だっていうのにさぁ』

 おもむろに包帯つきが立ち上がり、背中を軽くはたいてから、眠っているもう一匹を蹴って起こした。起こされた方はびっくりした様子で跳ね起きると周囲を見渡し、そして地響きに気づくと目を細めて、包帯つきへと顔を向けた。
 ある事実を肯定するように包帯つきは頷いた。それを見たネドモは、けだるげに置き始めた縁の方を向くと一礼し、すぐさまは踵を返して、声をかける間もなく出てしまった。
 その様子にただならぬ雰囲気を感じ取って、縁は包帯つきへと問いの視線を送った。

「いったいどうしたんだ? ただ事じゃないみたいだけど……」
『なーに、いつものことさ。日頃より少し早いぐらいなっちまったけど、そんなに変わらないさ』
「だから、何がさ」
『……まぁ、よくある生存競争ってやつだな。お前はここでのんびり待ってりゃいいさ』

 穏やかではない単語に目をひそめる縁に、ネドモはそれ以上何も言わず、外へと悠々と歩いていってしまった。その間にも地響きが強くなっていく。一定の間隔を置いて揺れるそれは、巨大な生物の足音にも聞こえる。生存競争、という単語がそのイメージにさらに拍車をかけ、縁の中に巨大な負のイメージ、そして今さっきまで酒を飲み交わしていたものたちの死のビジョンを呼び起こした。

「っ、くそ」

 立ち上がろうとし、しかし途中で足がもたついて、前倒れになってしまった。元々体力が中途半端に回復している状態で、明らかに強いとわかるアルコール飲料を飲んでしまったせいだ。それでも前に進もうとする縁に、心の内側から声が聞こえた。
 お前が行って何になる。お前はこれから眠るのだろう、忘れるために。それならすぐに立ち止まって、眠りながら彼らを待てばいい。
 声の主は灼熱地獄でも、闇の中の崖でも現れた、縁自身の虚像だ。そしてそれは全て的を得ていて、何も反論することができない。
 反論できないから、縁は何も言わず、這い蹲るようにして前へと進んだ。
 声は言葉を変えて何度も縁を詰る。もしくは甘い言葉で意思をふやけさせようとする。声が聞こえてくるたびに、縁は動きを止めた。その間にも、地響きはその間隔をランダムにしながらも、大きく強くなっている。
 わけのわからない焦りが熱を持ち始めた。それに合わせて、闇に残響するほどの声も強くなっていった。内容も単純に死ね、などという乱暴なものも出始めている。それを言われて、否定したがる自分がいることに、また汚れた口元が緩んだ。
 死んでもいいと思っていたのに、いざ言われれば死にたくないと、眠りにつきたくないと思う。焦燥がさせるのか、体力の回復がそう思わせるのか。どちらにしても都合のいい話だった。
 それらの全てに言い訳も思いつかず、縁はひたすら前へと進んだ。
 間隔からして出入り口が近いのがわかると、首を精一杯伸ばして外を見ようとした。直後、光の軌跡が目の前を通り過ぎた。ネドモだ。一瞬ではあったが間違いなくそうに違いない、と確信して、慌てて身を外へと投げ出す。
 そこにあったのは、原始地球の光景だ。
 巨大な光に向かって、無数の小さな光が襲い掛かっていく。ネドモたち、一度は起きた縁を取り囲んだものたちもその中にまぎれている。恐らくは折れた触角のものや、あの包帯つきも。
 巨大な光は、縁はどう形容したらいいかわからなかった。昆虫のように六本足であるはずなのに、全体や顔つきは小型のクジラの流線型に似ていて、体のヒレや背中などの一部からは機械としか言いようがないパーツが羽のように突き出ている。地球上の生物をランダムにミキサーにかけたらこのような無秩序な生物になるのだろうか。
 その細い足が闇の中にある地面を踏むたびに地響きが起きる。その足が振るわれるたびにネドモが吹き飛び、口が開けば誰かが食われる。死の恐怖、原始的本能を刺激する、顕現。
 足が震え、全身に伝播した。先ほど吹き飛ばされたネドモを見れば、地面に光が散乱していて、徐々に発光が弱まっていっていた。吐き気がこみ上げる。人間とは似つかない姿のそれに、人間の死と同等の不快さを感じてしまったのだ。
 その隙をつくように、声が忍び込んでくる。
 さぁ、逃げるなら今のうちだ。ここは危ないから、もっと別の場所で寝よう。こんな闇の中だから、あいつらだってわかるものか。
 震える足のつま先が彼らとは反対の方向へと向いた。中に戻ってはだめだ、確実に被害にあう。壁際を通って、気づかれぬように歩く。霊力も消して、彼らにも見える光を消す。これでいい、これで逃げられる。
 そのまま壁に左肩をつけた格好で、縁は這いずろうとした。
 しかし再び、光の塊が眼前へと落ちてきて、幾分かのパーツに分裂した。光る液体が縁の顔にかかり、大きな破片が目の前に転がってきた。それは片手片足を失ったネドモであり、あの包帯つきだった。認識した途端、縁はその顔を左手に抱えた。

 なに、してんだよ! 何だよあれはっ! それに何で、あんたが戦って、こうなってんだよ!?

 霊力を使っていないために、声は鼓膜すら震わせない。それでも通じたのか、首から上だけのネドモは、解けた包帯の中の古傷を晒して、縁を見上げた。

『なんだい、出てきちまったのか……いったろ、生存競争、て。あいつはさ、俺たちを食料にするのさ……お前の世界なら、どこにでもある話だろ? それに抵抗するのには、ぐうたらも何も関係ないのさ』

 人間で言えばショック死すらなりかねない激痛に苛まれているにも関わらず、このネモドの喋り方は流暢であった。それが能力の恩恵かはわからない。しかしそれ故に、一字一句が縁の心をかき乱し、いつかのイメージを呼び覚ました。
 慶介との最後のケンカでも見た、あの夏の夜の記憶。地面を掘り起こし、赤い何かを入れるビジョン。
 今それが、明確に思い出せる。
 中邦縁は、誰かと一緒に、大切な誰かを、バラバラになった人間を埋めた事がある。その事実と共に。

 だからって……だからって……こんなこと、認められるわけ、ないだろ! せっかく、知り合えたのに……こんな……また、また、俺は、見殺しにするだけなんて……っ」
『はは、泣くなって……男なんだ、どうせ泣くなら、女のために泣こうぜ。似たようなこと、お前の悪友ってやつも言ってたんじゃないか?』
「言って……っ、ねぇよ……」

 記憶と意思と激情が混濁して、何も考えられない。霊力が出たのも勝手なことだ。涙が出るのも勝手なものだ。右腕は動いてくれないから、左腕でもう助からない命を精一杯抱きしめる。それに反して、光は徐々にか細くなっていく。

『はは、それだけいえれば……十分さ。だからさっさと逃げたほうがいいぞ?』
「なん、で……」
『これは、俺たちの事情だからさ。外から来たお前を、巻き込むわけにはいかないのさ』
「そんなこと……っ

 縁は、その言葉にどう答えたらいいかわからなかった。ない、といってしまえば簡単だ。しかしそれを言えば、今抱きかかえているものをこうまでしたあの怪物相手に立ち向かわなければいけない。このような、人間に似たものを、バラバラにしてしまう。
 霊力によって擬似的に機能を回復している聴覚が、歯の震えを捉えた。ガチガチ、とうるさい。それは縁の奥底に刻み込まれたくびきの大きさを表していた。慶介や愛によって刻まれた楔よりも遥かに深い場所に、それを埋め込まれている。それはトラウマという言葉によって表現できた。
 縁のそれは、人の無残な死の映像を拒絶する。
 過去に死んだものでも、今現在死に絶えようとしていても関係ない。ものと化し、森羅万象に汚濁としてしか認められぬものを本能に近いもので拒絶してしまうのだ。
 自覚してしまった今ですら、縁はそれを抑え込める手立てはない。ただ目の前でバラバラとなったまま消えようとする命の前でも、何か行動を起こそうという気にすらなれない。
 誰か俺の代わりに、こいつを助けてくれ。響かぬ声を大にして叫ぶが、返ってくるのは怪物の打ち鳴らす地響きだけだ。 
 助けはない。どこにもない。
 その時、ふと、頭の中に浮かぶ言葉があった。
 眠って忘れろ。今死に絶えようとしている妖怪のようなものが告げたアドバイス。今の縁には、それがとても冴えたやり方だと思えた。思考停止、というよりは、もっと幼いもの。楽の方への逃避。それでいいと肯定する自分。
 さあ、この半死体を見なかったことにして、さっきの場所に戻ろう。もしくは、当初の予定通りこの闇の中に紛れてしまおう。
 そう、心の中で決めて、身体さえもそこに従うようにした。

 それなのに、縁の左手は、ネドモを離そうとしなかった。

 どうしたんだい、早く離さないのかい?

 いつの間にか現れたのか、背後からあの子どもの声がぶつけられた。振り返らずともわかってしまう、変わらぬ不遜とした態度と声。

「わかってる……わかってるよ……けど、さぁ……離したく、ないんだよっ……」
 そいつを抱えてたら、あの怪物が君を襲うかもしれないのにかい。
「そうだよ、そうだよな。けど……それじゃあ、ダメなんだ……それは、何か、嫌なんだ……」
 今更慶介との約束を果たそうっていうの。それこそもう手遅れだっていうのに。

 傍から見れば急に独り言を喋りだしたように見えるのであろうが、縁の腕の中のネドモに、それを気にしている余裕はなかった。それは同時に生命の消滅が刻一刻と近づいている証でもある。
 それでも今、縁は背後の子どもと話しをやめることはできなかった。

「そうだよ……手遅れかもしれない。けど今からやれば、きっと……」
 無駄さ。仮に今がうまくいっても、どうせ空の時には何もできないさ。根本的な臆病の部分で、何も変わってないんだから。
「…………そうだよ、な。そうかもしれないよな」

 脳裏に浮かぶのは、目蓋を閉じたときに現れた少女の笑顔と同じ。そして崖を登る際に走馬灯の如く浮かんだ人々や妖怪たち。そして記憶に刻まれた、誰かたち。

 皆が縁を見ている。子どもの姿をした中邦縁を見つめている。縁はそれに対して最初は俯いて、視線を合わせなかった。
 その中で、閉じた第三の目を持つ少女が覗き込み、少しだけ目線を合わせた。しばらく睨めっこをすると、少女のほうが泣いてしまった。縁は慌ててそれに気遣い、宥めようとした。しかしすぐに、少女のお姉さんや他の人たちも現れて、一緒に慰めてくれた。縁は安堵して、離れてまた顔を俯けた。
 ただ少し、気まぐれに顔をあげた。すると今度は赤い河童の姿をした、縁と同じくらいの少女が見下ろしていた。その目が怖くて縁は泣き出しそうになったが、しかしその前に鴉の少女が縁の前にきて、助けてくれようとした。そして代わりに苛められた。
 縁はそれを見ていたが、背中を向けてしまった。赤毛を二つのお下げにした少女が縁をそちらに向けようとし、最後には縁の代わりになった少女を縁の真正面に置いた。
 縁は下を向いたまま、てきとうなことを呟いた。少女は怒った。怒った後にえんえんと泣いてしまった。縁は知らん振りをして、また下を向いたままだ。
 そのままでいると、いつのまにか誰もいなくなってしまった。残っているのは、少女の泣き声の残響だけだ。縁は怖くなって、皆を探そうと歩き出した。ただそれだけでは、誰も見つからない。困った縁は、一人で泣き出してしまった。
 泣いて、泣いて、少女の泣き声も消してしまったころ、ようやく泣き終えた。
 そして目を擦りながら、恐る恐る顔をあげた。最初に見たのは、自分とそっくりの子どもだった。
 その子どもはいった。「どうして泣いているの?」
 縁は言った。「誰もいなくなってしまったから」
 子どもは不思議そうに尋ねる。「皆がいてほしいの? 楽しいことだけじゃないんだよ? きっと嫌なことだっていっぱいされちゃうよ?」
 縁は真っ赤になった目を子どもに合わせて答えた。「それでも、さびしいのは嫌だ」
 子どもはおかしげに笑う。「本当にそれだけ?」
 縁は少し困って、つけ加えた。「ううん、やっぱり怖いし、自分の思い通りになったほうがいいや。けどね、それじゃ何か、違う気がする」
 子どもは尋ねる。「どこが違うの?」
 縁は、大きく深呼吸をして、背を伸ばしてから言った。「僕はずっと下を向いて、みんなのことなんて見てなかった。見ていたフリをしていたけど、あの子にそのことがバレちゃった。それはきっといけないことだってようやくわかったんだ……だから僕は、皆を見たいんだ」
 子どもは悪戯をするように更に尋ねる。「いけないことだって、誰がいったの? 昔の友達? ケロちゃんと神さまたち? 昔の“パパ”と“ママ”? それともお父さん?」
 縁は、息を吐いた。そして一度目を閉じてから、ゆっくりと開けた。「自分で、気づいたんだ。みんなはヒントを与えてくれた。けど、それを掴み取ったのは俺自身だ。俺が、俺だけがこの手で手に入れた答え(フォー・アンサー)だ。気づいたのは今この瞬間だけど……最後にお前が、気づかせてくれた」
 大きくなった縁を見て、子どもは力んだ身体を緩めるように笑った。「そんなのが答えでいいのかい? 実は間違ってるかもしれないし、もっといいものが見つかるかもしれないよ?」
 縁は、己の子どもの姿をしたものに目線を合わせて、にかりと笑った。「それじゃあまたお前がヒントでもくれよ。そしたら俺がまた、それを選んでみるからよ」
 子どもは一度大きく目を見開いたが、何かを諦めたかのように肩をすくめた。「わかったよ。それじゃそれは、また後だ。今はまだ、邪魔者がいるからね」
 突然子どもの横に現れた銀河鉄道の列車に特に驚きもせず、子どもがそれを乗りこんでいくのを見て、縁は声を上げた。「じゃあまた後でな」
 子どもの姿から、どんどん形を変えて、アメーバに似たよくわからいものになった何かは、縁を振り返った。「頑張れよ、宿主。私としても、これ以上は疲れるからね」

 そして、銀河鉄道が走り出したとき、縁は己の内面世界から目蓋を開けることで現実世界へと立ち戻り、左腕の中にいるネドモがまだ生きていることを確認した。あの中にいたのは精々十秒程度だろう。走馬灯の類に似ているのかもしれない、と笑みを作りながら彼を降ろし、壁に手をつけて何とか立ち上がる。
 右腕で、髪を掻き揚げた。
 思ったとおり動く。あれが元の居場所に戻ったからだろう。お節介焼きだなと、今までの自分の情けなさを思い出しながらまた笑みをつくり、ゆっくりと構えを取る。
 その構えは、今までのケンカのスタイルとは違う。腰を落とすのは同じだが、左半身を前に出し、右腕を弓を引くように後ろへ。拳は力いっぱい握り締める。いつの間にか見え始めた“線”の映る眼前には、今も暴れまわるネドモたちの天敵がいる。体力からして走ってそこに向かえるとは思わない。だからこそ、取り戻した霊力を有効活用する。
 思い出すのはかつて迷宮に迷った先で出会った謎のロボットと、燐との共闘。そこからの脱出。ぼろぼろの服をまさぐり、紙を取り出す。スペルカード・ディアスポラカノン。ビームを撃つだけのエネルギーは強大で、反動が大きい。それを、右肩に置き、呼吸を整える。
 何をするのか、何をしたいのか。その全てが輪郭となって見え始めていた。しかしそれには、あの怪物が邪魔だ。物理的にも、心情的にも。
 だから、それを、本当の決意と覚悟と共に。

「ブチ、壊す! 『残光「ディアスポラカノン」』!」

 スペルカードが発動し、鋼鉄と人間の間から目くらましのための閃光があふれ出す様に瞬いた。怪物がそれに気づいて、こちらを振り向く。好都合だと縁は獰猛な笑みを浮かべ、次の衝撃に備え、目一杯の力を込めて、跳びあがった。
 その直後、全身に残っていた霊力全てを吸い取って、光条が生まれた。それは光線であり、触れたものをなぎ倒す力を秘めている。その光の持つ力を今縁は、全て推進力に変えて、宙へと飛んだ。
 自然と右腕は前へと突き出し、縁の体はジェット戦闘機のアフターバーナーともいえる爆発的加速エネルギーをもっとも生かす形となる。後は暴れ狂い狙いがズレそうになるのを修正するばいい。それだけで、目標へと一直線へ飛んでいく。

「うおおおぉぉぉぉぉぉぉ!!」

 怪物は突然の、爆発のごとき光の奔流に怯み、動きを止めていた。まさしくチャンス。
 その頭蓋へと、勢いそのままに右腕を、叩き込む。

「ッらぁ!!」

 岩壁を割る音、と形容しかねないすさまじい音が響いた錯覚を覚え、同時に右腕の先端から、何かがひび割れる音が聞こえた。手ごたえ、大。
 右腕の勢いは止まらず、そのまま縁の身の丈の何倍もあろうかという怪物を押し込み、壁と思わしき場所に叩きつける。そのまま押しつぶす気持ちでなけなしの霊力を振り絞るが、不意打ちから我へと帰った怪物が、縁へと反抗を始めた。
 二本の脚が頭部に拳を叩き込んだ態勢のままの縁に向かって突き出される。“線”によって間一髪でそれに気づいた縁は、右腕の肘の位置を僅かにずらして、空中で転がるように回って回避した。スペルカードへの霊力を一度カット、滑り込むように着地して、“線”が教えてくれる安全地帯へと飛び込む。刹那の前まで縁がいた空間を、怪物の脚が薙ぎ払った。
 縁が飛び込んだ先は、怪物の懐。スペルカードをもう一枚取り出し、真上へと、怪物の腹目掛けて放り投げる。そして構えた右腕の符と、投げはなったそれ向かって、霊力と、言霊を、目の前の壁を破壊する命を送る。
 それによって如何様な作用が生じたのか、二つの符は共鳴し、投げ出した符に新たな力を書き加え、それに相応しい名前を名乗った。命じた縁は、その名を叫ぶ。
 ここではない、どこかへと向かって。

「穿孔ぉぉぉぉスパイラルゥゥゥブレイカァァァァ!!!!」
 
 縁の体が第一宇宙速度もかくやという速度で急加速するのと同時に、その義手の先端にも変化が生まれた。それは以前の螺旋の符よりも遥かに巨大な、二重螺旋の象徴。生命の刻印、DNAを模した姿。人間の前へ進むという意思の体現。
 超高速回転の唸りと共にそれが無防備な腹へと叩き込まれた直後、怪物は最初に響かせた咆哮をはるかに超える悲鳴をあげて、自らの腹を食い破ろうとする存在を排除しようとした。しかしそれはあまりに遅い。

「ブチ抜けぇぇぇぇぇぇぇ!!!」

 縁の新たな力は、まさしく重力圏を突破する宇宙船の如く怪物の腹を突き破り、その背後にディアスポラカノンの弾幕を残して、背中へと突き抜けた。
 怪物は悲鳴をあげようとした。だが縁の残した弾幕は怪物の欲求よりも早く己の機能を果たし、四方へと弾幕を撒き散らすように爆発した。その結果、光の巨像は、内側から爆発するように中空で四散した。
 縁はそれを見届け、転がるように着地してから、晴れやかな笑みと共に気絶した。




『おいおい、本当にもう行くのか?』
「ああ、そうじゃないと俺の惚れた相手が死んじまうからな」
『……そうかい、そりゃ一大事だ』

 縁が目覚めたのはそれからいくばくか時間が経ってからだ。正確な時間はやはりわからないが、それでも今の縁にとって、一分一秒が惜しかった。前起きたのと同じ洞穴で起き上がった時、傍にいたのは前と同じあの触覚の折れた方だった。とりあえず縁はジェスチャーで何か飲めるものはないかと尋ねると、彼はすぐにアルコールの入っていない水のほうを持ってきてくれた。この辺りは一度酒を飲み交わしたもの特有の便利さだった。
 それを飲み干すと、縁はすぐにそこから出て、このネドモたちの住処から出ようとしたところで、あの包帯つきに呼び止められたのだ。縁としても、実は街の入り口がわからず困っていたところで助かったと思ったが、その姿を見て顔をゆがめた。彼の身体にはやはり半分の四肢しかなかく、杖のようなものでひょこひょこと跳ねて移動していたからである。
 それを見て、縁の心の中でざわめきがあったが、縁は一呼吸することでそれを宥めた。
 そして今、縁はかつて自分が落ちたあの岩壁の前にいる。見送りと案内は、酒を飲みあった間柄の二匹だけ。他のネドモは縁を見てひたすら感謝したように礼をしていたが、すぐに自分の持ち場と思わしき場所に戻ってしまった。どうやら去るものは追わず、というスタンスらしい。
 
『本当ならもっと礼らしい礼もしたいが……今はあいつのせいで死んだやつの墓を作ったり、家を作り直したりで精一杯だから、何も出せない。悪いな』
「いや、命をたすけてもらっただけで十分だって。それにあんたに会えて、よかったって思ってる……きっと今日の事は、しつこく思い出すな」
『へっ、全然人の話聞いてないな……』

 そういって、元包帯つきは岩壁を見上げた。縁と触覚折れも一緒になってそこを見上げる。“線”を使っていても、先が一切見えない。登るのはやはり、自殺行為と同じだろう。ネドモたちに頼めばもっと簡単なルート、それこそ正規ルートともいえる道を教えてもらえるだろうが、縁はあえてここに連れてきてもらった。
 それはかつての自分を改めて乗り越えるための儀式にも似た気持ちが縁の中に芽生えていたからだ。無論、あの強引な飛行の術を使う気は毛頭ない。
 
『……この崖の上には、かつての俺らの集落があった。けどある日突然あの化け物が現れて、俺たちは今の場所に逃げ出した……今でも時々、そこに行っちまうやつがいるけどよ』

 昔語りのように朗々と話し出した包帯付きはおぼつかない調子で身体を振り向かせ、触覚折れを見る。その相手は反省しているという調子で頭を下げている。

『もしかしたら、まだあの怪物の仲間がいるかもしれない……俺たちの爺さんたちの話じゃ、ヒトがかろうじて生きてたころにいた奴らしいんだけどさ』
「いや、そこまで聞けば十分だよ。後は……たぶん、知ってるやつに聞く」
『ん、そうか……それじゃあな、勇敢な渡来人様』
「縁だよ、中邦縁」
『……そうかい。俺ぁサイモン、こいつはラヴクラフトっていうんだ』 
「そっか、じゃあなサイモン! ラヴクラフト!」
『おうよ、幸運を祈るぜ、バカ野郎のエニシ!』

 最後の挨拶を終えて、縁は彼らに背を向けて、岩壁に手をつけた。“線”を見ることで、自分が手をかけるべきでっぱりやへこみは大体わかるので、以前よりかはやりやすいだろう。それも幾分かだ。体力は完全に戻っていないし、何よりこのヘタをすれば手の先も見えないのは変わらない。闇の中で一人ぼっちでいることの恐怖も残っているだろう。
 それでも縁は登り続ける。
 いつの間にか下は闇に覆われて見えなくなり、二匹の光すら消えてしまった。また一人に戻ってしまった縁に、どこからか声が聞こえた。

 さて、それじゃあまたお勉強の時間と行こうか。
「今は止めろって、集中できなくなる」
 それは前だって同じだろう、状況を等しくするだけさ。
「ったく……わったよ、なら好きなだけ話しやがれ、どうせなら俺のわけわからん記憶についてもいってみろ」
 いい覚悟だね、ヤケかもしれないけど。さて、まずはどの部分から話してやろうか……

 縁はこうして、自身の中の、否、自分の右腕にずっといた、もう一人の自分にして同居人と禅問答をしながら、ゆっくりと、しかし確実に、壁を登り、闇の中を進んでいった。
 ひたすらに、前へと。



 あとがき
 
 初期案では縁の飛行方法を入手するだけの話が、こんなに長くなってしまったでござる。あと、今回のパクリ元のトライガン・マキシマムの『ろくでなしとブルース』は神回、異論は認める。


 ネドモたちやあの怪物に関しては次回辺りにフレッチャーが解説してくれますが、どうでも設定なのでネドモのみのっけときます。興味のある方のみどうぞ。



わりとどうでもいい設定:

ネドモ:
 縁が連れてこられた『人類種が滅んだ地球型惑星』にかつて住んでいた妖怪たちの成れの果て。人間がいなくなったが、それらが残した対異能機能を備えた生体兵器によって観測(現実の存在として固着)されているため、消滅することができないでいる。
 姿形がある程度同じなのは、最後に残った妖怪から分かれてしまったことと、人間が最後に出会ったのが、現在のネドモの姿をした妖怪であり、それを基本として兵器のデータにインプットしてしまったため。
 現在は地上が妖怪が生きるには辛い環境になっているので、光の届かない闇の中でのみ生きている。闇の中で光っているのは、妖力のせい。この惑星ではアストラル側に傾いているエネルギーは特定条件化で自動的に発光してしまうため。

 裏話:
 「ネドモNEDOM」という名称は「デーモンDEMON」のアナグラム、姿形の元ネタはタツノコプロ『鴉-KARAS-』に出てくる「雨降り小僧」です。



[7713] 第二十七話――興<全ては私のシナリオ通り…… 
Name: へたれっぽいG◆b6f92a13 ID:a2573ce4
Date: 2011/03/27 23:55
 崖を乗り越え、異文明の名残を通り過ぎ、原生生物たちをやり過ごし、それでも深遠の闇は続いていた。
 たとえどのような精神状態であろうと、たちまちの内に虚無状態へと陥りそうになる世界。自らが灯す魂の光だけが唯一の道しるべだった。
 話し相手となる奇妙な自分自身は常に現れるわけではない。故に縁は、幾度も自分を見失うほどの孤独を味わった。その度に闇に似たぐつぐつ煮える負の感情が浮かび上がり、弱気の念と己の過去と過ち、そして自分や世界というものへの疑問が生じ、幻聴となって語りかけてくる。
 幻聴は時に人や妖怪、動物の姿となって現れもした。縁はそれらを振り払い、時に無視し、耳を傾け、対話を試みようともした。彼らが紡ぎだす心に直接渡してくる言葉は、縁の歩みをも止めようとすることもあった。
 それでも縁の足は動いてくれた。機械のように単調ではなく、己の意思を乗せて、這うように、着実に。
 そうしていると、やがて奇妙なものが見え始めた。闇を侵食するような白色。自分が放つ霊力やネドモのような光とはまた違うもの。小さな米粒のようなそれは、近づくたびに徐々に大きくなって、やがて縁の数倍もあろうかという大きさに変わった。
 そこまで近づけば、正体を知ることもできた。ここではどう呼ぶかは不明だが、太陽の光だ。闇の中に否応なく適応させられた目は、それを光ではなく巨大な壁か、白色の闇と同等に扱ってしまっていて、その先にあるものを映そうとしなかった。

 それじゃあ、ここまでだ

 背後でここしばらくのうちにすっかり聞きなれてしまった声が届き、疑問と共に振り返る。

「ここまで? 義手の中にいるんだったら、別にここまでってわけじゃあ……」
 こうして対面して会うことは本来無茶なことなんだよ。普通なら、夢の中でうまく接合できた時か、きみの精神が弱まりきった時ぐらいしか表に出てこれないからね
 
 幼少時の縁の姿をしたそれは、ぐにゃりと頭を潰すと、そのままゲル状の生物と化して鋼鉄の義手へと纏わりついた。そのことに対し、今の縁は不快感を覚えることはない。

 ここの環境が特殊なだけさ、実に興味深い……まぁとにかく、ここから先はまた一人になるということさ
「そっか……」

 持ち上げた義手の掌で、それはいつかの夢に出てきたものに似た奇怪な生命体へと変貌した。六本足で、ナメクジの如く目を突き出し、体が東京タワーの骨組みのような構造。まさしく夢そのものとも言える、幻故の怪物の姿。それもまたこの可笑しな存在の一面、そして自分自身の中の一部でしかないことを、今の縁は何となく理解できていた。

「けど、また後でやばくなったら、手伝ってくれよ?」
 ふふ……私はただ、ここに“いるだけ”だからね。どう使うかはきみ次第さ。因果も、性も。
「……ったく、わかったよ」
 それでいいさ。

 それだけいって、彼とも彼女ともつかないものは義手の中に戻っていった。見送ってから、縁は一度息を吐いて、改めてその壁に振り返った。ここまで近づいたはずなのに、そこだけ光が切り取られたように、何も零れてこない。自分の身体は相変わらず可視化された霊力を用いなければ認識できない。
 世界が違うのだ。
 光と闇。天国と地獄。人間と妖怪。生と死。自分と他者。
 隔てられた対立の図式、ここはその境目だ。縁はほんの少し、そのことを思って両手の拳を握って、前へと踏み出した。
 光の壁は何の抵抗もなく縁を通し、その目を焼いた。
 もう何年も浴びていない、と錯覚できるほど久方ぶりに感じた太陽の光に、人間の目はそうそう容易く対応できるものではない。慌てて両手で目蓋を覆って、目の痛みが引くのを待った。
 そのままの状態で何秒か、それとも何分が経ったろうか。時間の感覚が狂っていた縁にはそれがわからない。だがそれよりに長い時間を置いて、ようやく目から痛みが引いたのを感じると、ゆっくりと目蓋を開いていく。最初に見えたそれは白く霞んでいたが、しかし目が慣れるにつれて徐々に精彩を帯び、世界を縁に見せ付けた。


 そこは人間にはおよそ想像しがたい世界だ。空は白々としながら二重にブレる太陽以外にも、それ以外は夜明けか黄昏の直前のように歪んだ紫色をしており、天蓋の骨組みの如く巨大な輪が地平線まで突き刺さっている。縁が立つ崖の下には青々とした生命が、人間の常識外の大きさで生え伸び、地球では考えられない、地球の一般的なものとも妖怪ともまた違う格好をした鳥たちが飛んでいた。
 縁は一瞬言葉を失った。
 心が空っぽになって、全てが意味のないことだというのを思い知った。
 生も、死も。
 目的も目標も。
 欲望とかいう余計なものも。
 自分が生きているということも。
 代わりにわけのわからない衝動が大地を踏みしめる足から背中を突き刺し、天空へと昇っていった。
 失った声の変わりに口からあふれ出た。
 獣の咆哮にも似た響きを伴って、縁の衝動はその世界へ届けた。
 世界はそこで、縁という小さな人間がいることを認めた。





 第二十七話『pray』




「……ふん、一日オーバーか」

 また背後からの声。今度は久方ぶりのものだ。太くて熱いものを全て吐き出し終えた直後で、すぐに喋ることができなかった縁は、息を整えてから、自分が抜け出てきたと思わしき洞窟の上に留まる存在へと目を向けた。

「そんなに経ってるなんてわかるわけねーだろ。時計なんてないんだしよ……それよりも、俺になんか言うことねーのかよフレッチャー」

 白い翼を広げたカモメ・フレッチャーは、布切れ同然となった学生服を纏い、みすぼらしく汚れ、ヒゲまで生やした縁を見下ろしながら、また鼻を鳴らした。そのことに対して腹を立てる気力まではないし、そもそもフレッチャーがここにいること事態驚くことはなかった。
 つい先ほどまであれほど奮えていた心が、今は透き通る湖面のように落ち着いている。線も今までよりははっきり見えており、それがフレッチャーの隣りの虚空にも伸びていることに気づいていた。

「……飛ぶためのコツは掴めたか?」
「知るか、そんなもん。」
「だろうな、そんなことのためにオレは貴様をここに入れたわけじゃない」
「だったら言うなって。そもそも何が目的だよ。俺を殺すためだったか?」
「ある意味それは正しい。バカは一度死ななければ治らないというしな」
「てめぇ……」

 憎むべきはずの相手の普段通りとも言える憎まれ口に、自らが出した語気とは裏腹に口元が緩んでしまった。よくよく考えれば、フレッチャーもまた、あの地下世界で世話になった相手なのだ。それならば、恨みと恩義とプラスマイナスゼロになると、楽観的に考えることができた。
 そんな心境の縁を、フレッチャーは気味悪げに感じながら、同時に明らかに変わった雰囲気を読み取っていた。

「……今なら貴様を元の世界に帰してやってもいいぞ」

 だからこの場所へときた時の約束を切り出し、縁の目をまん丸と見開かせた。
 縁はその話について、色々とあってすっかり忘れていた。だから正直に言えば寝耳に水の状態だったが、フレッチャーの目がこれまでにないほど剣呑なものを称えているのに気づいて、しっかりとした答えを出そうとした。しかしそれは、考えるまでもなく出てきた。

「却下。幻想郷でやることがあらからまた灼熱地獄跡に戻してもらうさ。そこまで飛ばしてもらえれば、後は一人で行くさ」
「ほう、亡者の山で妖怪たちに怯えることしかできなかったやつがそんなことが言えるのか?」
「言えるさ。もうあいつらを恐れたりしねぇ……いや、違う」

 心の中に浮かぶのは、洞窟の中で出会ったネモドたちだった。もしもあそこまで精神が疲弊してなければ、やはり怖がっただろうか。いや、そうに違いない。何故なら途中で現れたあの怪物には、逃げ出してしまうほどに恐怖を感じてしまったのだから。
 だから、もう二度と怯えないとは保障できない。
 それでも。

「俺は、全部受け入れるだけだ。怖いとか、嫌だとか、そういうのも全部乗り越えて……あいつらの傍にいる」

 慶介はいった。忘れないでくれと。
 愛はいった。正しいと思うように生きてくれと。
 欠けていた記憶を“僅かに”思い出し、改めて受け継ごうとするならば、縁がまずすることは、決意だった。今までは無自覚にただの『強がり』でそうしていたが、己の弱さを自覚し、逃げることを知ったからこそ、誓うことができる。両の足で、大地を踏みしめることができる。
 もう二度と、目を逸らし、逃げたりはしないと。
 フレッチャーはその誓いや決意といった人間らしい“言葉”を、一笑に付した

「ふん、独りよがりだな。加えて、脆弱な答えだ。偽善者や政治家でももう少しマトモなことを言うだろう」
「そうかよ……それでもさ、隣りで息をして、ちゃんと生きてる奴らを知らないのは……寂しいじゃねぇか」

 フレッチャーの目が驚きに瞬いた。しかしそれも一瞬で、すぐにあの鷹のように鋭い眼光へと戻って縁を射抜いた。

「寂しい? それは貴様の方だろう、そんなこと思っているようならば結局他者の間に縛られるだけだ。他者を思えば、それだけ他者も貴様に感情を向けてくる。愛情、依存、親愛、憎悪、嫌悪、拒絶……下らぬ感情に縛られ続ける限り、貴様は永遠にそのままだ……その色合いが複雑であればあるほど、貴様が背負うものは大きくなり、縛るものは強くなる。そこに貴様の意思……“自由”はあると言えるのか?」

 自由。なぜそのような言葉が出てきたのか、縁には理解できなかった。だがフレッチャーの目には、今まで以上に強い光が爛々と輝いている。その問いという眼光にこそ、フレッチャーが縁をここまで連れてきた意味があるのだと、何となくだが察することができた。
 目を瞑ってから、一度深呼吸をする。異世界のそのまた異世界でも、恒星は輝き、生命は生まれる。その匂いを嗅ぎ、空気を体中にめぐらせる。取り込んだものを自分というものと混ぜ合わせ、受け入れる。
 目蓋をあければ、光り輝くカモメという、妖怪のような存在がいる。それだけだ。そのような相手と、縁は、繋がっている。
 生きて。

「舐めんじゃねぇ。“世界(ここ)”に生きていることが俺の“自由”だ。それをてめぇにとやかく言われる筋合いはねぇんだよ」

 フレッチャーの目が、再び瞬いた。目の中の輝きは変わらぬが、その意味は時間と共に変わっているように見える。詳細まではわからないが、この哲学染みたことで人を惑わすカモメの答えはしっかりと返してやったと意気込むと、不意にフレッチャーが くつくつと笑い始めた。それに戸惑っていると、カモメはその同種族の間では比較的大きな翼を広げ、ゆっくりと縁の横へと滑空し、その周囲を緩々と滑り降り、縁の傍で停止した。
 相も変わらず奇妙な光景だ、と久方ぶりに見る、鳥が羽も動かさず一箇所に停止しているということに内心懐かしさを感じていると、笑い終えたフレッチャーは、口ばしの根元を器用に歪めて、ニヒルな表情を作った。

「どうやら、ここに連れてきたのは成功だったようだな」
「……そうかい、だったら何で俺をこんなとこに連れてきたんだ?」

 今更と今更な質問が口から滑り出て、フレッチャーの口ばしの緩みを再び固いものにしてしまった。その目が不意に頭上に向く。縁も釣られて地球とは違うこの星の空を見上げた。あの人工的な輪は変わらず存在し、時々赤色の雲の向こうに隠れてしまう。地球ではまったく見られない景色だ。
 それでもここが、縁と無関係な世界であろうか。

「……貴様は洞窟の中で、何と出会った?」
「何だよ、藪から棒に」
「いいから、答えろ」
「……ネドモっていう気のいい連中と、そいつらを食う変な怪物。それから……たぶん、俺自身」

 一匹と一人は、視線を上に向けたまま、言葉を交わした。鳥のようなものがぎゃあぎゃあと叫びながら、紫色の大空へと飛んでいった。

「オレの予想では、貴様が逢うのは、最後にいった貴様自身だけだと思っていたがな」
「どうしてそう思うんだよ」
「貴様の右腕にあるものは前々から推測できていた。思惑はわからんがな……だが、意識が宿っているならば、この星の大気の質を考えれば十分出現することが可能だと目処がついていた」

 だが、とフレッチャーの言葉は続く。その響きには、この鳥らしからぬ弁明のようなものが込めれらているように感じえた。

「ここの原生妖怪と生物兵器がまだ生きていたのは、オレの誤算だ……オレ以外にここに文明があるのを知っているのは、もはや一握りだったからな」
「……やっぱりあいつら、妖怪だったのか?」
「成れの果てだ。この『文明が崩壊した世界』ではもはや妖怪という幻を認識する人間は生存していない……あるのは、人間が残してしまった妖怪とも戦える兵器だけだ。言うなれば、あれらはこの世界の残夢だ。消える時を失ってしまった、“自由”をなくしたものたちだ」

 フレッチャーの言葉を言い換えれば、ここは終わった世界ということだ。縁にはそうは思えなかった。少なくとも縁には、あのネドモたちも、先ほど飛び立った鳥のようなものも、あの奇妙な植物も、懸命に生きていると感じたからだ。

「……終わってねーだろ。あいつらだって、今を生きてんだ。残夢とか、成れの果てとか、もうそんなの関係ないだろ」
「フッ……そう思っているならば、勝手にしているがいい」

 思ったままを口にすると、フレッチャーに笑われた。その調子が、前のように小馬鹿にした調子だったので何か言い返してやろうとしたが、フレッチャーの目は上へと向いたまま、しかしどこか郷愁を思わすものを称え始めていて、何もいえなくなった。
 それからしばらく、沈黙が続いたが、再びフレッチャーが、今までとは違う、どこか老人のような雰囲気を思わす口ぶりで、話しを再開した。

「……昔話をしてやろう」




 あるところに一匹のカモメがいた。そいつは若くて、怖いもの知らずで、誰よりも高く、速く飛べると思っていた。他のカモメはそいつとは違って、日々の暮らしに精一杯で、いつも飛ぶだけで狩りもしないそいつを嫌い、いつしか群れから追い出していた。
 そのカモメは群れが自分の飛ぶという崇高なことを理解してないと思い込み、ひたすら飛ぶことに打ち込み始めた。
 そんな時に、あるところから不思議なカモメが現れた。彼は常に光り輝き、そいつよりも遥かに進んだ飛び方を知っていた。彼はそいつを生徒にしたいというと、そいつはすぐさま教えを請い始めた。
 やがて、彼はそいつの群れだけではなく色々なところから生徒となるカモメを呼び込み、様々な飛び方を教えていった。そいつも彼に教えられるまま、ただひたすら新しい飛び方を楽しんでいたし、彼の理想を知って協力すると言った。
 彼は、全てのカモメに飛ぶことの素晴らしさを知って欲しいと願っていた。
 群れのところに行くたびにその話をし、飛ぶことの素晴らしさを説いた。そいつも生徒として可能な限り教えを村の凡庸なカモメたちに教えていった。
 だがある日そいつはミスを犯し、死ぬような目にあってしまった。それでも彼はそいつを死の世界から引っ張り上げてくれた。
 群れのカモメたちは彼を非難した。やれ、怪物だの、悪魔だの。元々彼は〈偉大なカモメ〉の御子とも言われて神格化されいたから、理解しきれないことが起きると排斥されるのは自明の理だった。
 彼はそこから去った。
 残されたそいつは他の生徒たちと一緒に彼の残した飛行法と理想を広めようとした。彼自らに助けられたそいつは、その中でも特に熱心だった。
 しかし、カモメたちの歩みはあまりにも遅かった。生徒たちはそのことに苛立ち、中には生徒自身も教えを放棄するやつが現れた。中には彼と同じ境地まで昇り、自然といなくなったものもいたが……とにかく、一羽、また一羽と立ち去っていったのは確かだ。
 やがてそいつは一羽だけになった。それでもそいつは懸命に教えを続けたが……いつからか教えに対し疑問を感じるようになっていた。
 本当はカモメには特別なものとそうでないものとで分かれているのではないか。飛行法を判るやつと判らないやつでは、教えそのものも通用しないのではないか。もしそうならば、今まで自分がやってきたことは無駄なのではないか。
 そこまで考えしまったならば、堕ちるのは早かった。
 そいつは教えることを止め、そこから去った。全てが面倒になっていて、誰も何も知らない場所にいって、休みたかったのだ。
 そうして色々なところを飛び回るうちに、様々なことを知った。妖怪や人間の存在に、思想や宗教、概念やリアリティ。飛ぶことにも疲れ始めていたそいつは、手ごろな人間の中に飛び込み、そいつとなってそれらを知識として吸収した。
 そして、飛ぶことをやめたそいつは、戦うことを選んだ。それも虐殺の類に入るものだ。面倒だ面倒だ、といい続けながら、そうしていなければ自らを繋ぐ最後の欠片すらも留めておけないほど、疲れきって、自棄っぱちになっていた。
 だが、その日々にも終わりは始まった。
 空すら見ることも嫌になって地下の世界に住んでいたそいつは、ある日一羽の渡り鴉と出会った。渡り鴉はそいつの関与しているある計画を邪魔する女の仲間で、そいつの敵だった。
 そいつはいつものように敵を力で持って消し去ろうとした。だがそいつは負けた。何度も戦う機会があったが、悉く負け続けた。
 そいつは負けるたびに面倒ごとだと渡り鴉のことを恨んでいたが、嫉妬もしていた。そいつにはない、戦うことと飛ぶことを兼ね備えた“自由”な意思を持ち合わせていたからだ。
 戦いは続き、同時に計画は進んでいき……そいつは敗北を重ねるたびに嫉妬に狂っていき、渡り鴉を葬るために、より強い力を求めた。
 それは機械との融合によって、人間を超えるというものだ。
 そいつはそれによって確かに力を得て、同時に自らの内に眠っている何かが機械に引っ張り上げられようとしているのも感じていた。だからこそ、渡り鴉に勝てると確信し、一騎打ちを挑んだ。
 だが、負けた。完膚なきまでに。
 そいつは機械と炎に包まれながら、こう思った。

『オレが燃える……燃えてしまう……これは、面倒な、ことになった……』

 もはやそいつは、そいつ自身が縋っていた最後の欠片すら見失っていたのだ。翼という飛ぶための手段を。
 だからこそ、炎と共に、そいつは消えようとした。
 そんな時だ。炎が形をとった。そいつは驚きながらも、その存在を認めた。
 彼だった。

『なぜ……今更、現れたんです……』
『きみの練習の成果を見にきたからに決まってるよ。何故ならわたしときみは教師仲間だからね』
『違う、ぼくはもう、飛ぶことなんてできない! 人間になって、翼もなくして、血みどろになって、挙句に飛び方も忘れてしまった! もう、あなたの生徒であったフレッチャー・リンドはいないんです……』
『ふむ、なるほど、休憩時間が長すぎて、寝ぼけているらしいね。それじゃあフレッチ、おさらいをしよう』

 フレッチ。そいつをそう呼ぶのは、彼だけだった。彼は光り輝く翼を広げて、炎の奥へと飛んでいってしまった。

『そら、まずは急上昇だ』
『何を言ってるんです、ぼくにはもう翼がないと……』
『自分の目でみるもの全てを信じるなと言っただろ。きみの心の目で見るのだ』

 言われてそいつは、言葉通り心の目に従った。するとそいつの目に、カモメだったころの翼が生えていた。

『すごい、本当に、本当にぼくの翼だ!』
『いいぞ。それじゃあまず、急上昇からだ』
『はいっ!』

 そいつは彼についていくまま、機械の中を飛び、地下の断層すらも超えて、一気に空へと飛びあがった。
 久方ぶりの飛行は、そいつに新しい地平を見せてくれた。同時に、彼に言われるままに教わっていた飛び方を一つ一つ確認していった。低速飛行法、全力水平飛行、苦手だった十六分割垂直緩横転。
 ひとしきり飛び回っていると、そいつの身体はカモメのころに戻っていた。違いがあるならば、以前は同じぐらいの背格好だった彼よりも大きくなってしまったことだ。
 そして、超低速着陸で、そいつの故郷によく似た崖に降りた時だった。彼はそいつに別れを告げた。

『それじゃあ、今度こそお別れだ、フレッチ。今ではきみの方がわたしよりも多くのことを知っている。それは誇るべきことだ。たとえどんなに飛ぶことをやめようとしても、きみが日々の練習をやめなかった結果だ』
『そんな……こんなもの、違います! こんなものは、あなたに教えてもらった飛行法には何の役にも立ちません! またぼくの教師になってください』
『それはダメだ、もしそんなことしたら、きみはきみの嫌ったものと一緒になってしまう……フレッチャー、正しい掟とは?』
『自由へ導いてくれるものです』
『なら、カモメとは?』
『自由という無限の思想です!』
『なら、自由とは?』
『それは……』

 そいつは答えられなかった。彼に言われた自分の中の知識や飛行法からその答えを導きだそうとしたが、見つけることができなかった。
 その間にも、彼の光が強くなった。彼が以前、そいつの前からいなくなるとき同じだった。

『わからないなら、次に会うときの宿題にしとこう』
『っ、待ってください、まだぼくは……』
『考え、飛ぶんだ。わたしたちは、カモメなのだから』
『―ョ―サ―ン!』

 彼はまたたく光と一緒に消えた。
 残されたそいつは、再び世界を飛び回り始めた。名を変え、初心に戻り、様々な飛行を続けながら、彼に出された宿題をひたすら考え続けた。
 そうしている内に、いつの間にかそいつは彼と同じように光り輝くようになって、どのような場所にも飛べるようになっていた。
 それでも答えは見つからなかった。色々な場所にいって、色々なものと出会って、言葉を交わしたが、誰もそれに対する明確な答えは持っていなかった。
 なので、そいつが避けていた、かつて自分を打ち倒した渡り鴉に会うことにした。
 そいつとも無事対話を果たし、一度休憩をとることにした。そいつが出会った中にいた妖怪が、ぜひ来てくれと誘われた場所に飛び、羽を休めることにした。



 フレッチャーは長い話を切って、再び翼を広げた。話の間収まっていた輝きは、徐々に体中からあふれ出している。どこまでも透き通る、どこへでも飛ぶことを可能とする輝き。いや、どこへでも飛べるからこそ持ちえた輝きだ。

「飛ぶぞ、オレに触れろ」
「……なぁ、フレッチャー」
「なんだ?」
「結局、お前の宿題っていうのはできたのか?」

 心の中に残っていた疑問をそのまま吐露し、それを聞くまで飛ばないという姿勢でもって待ち続ける縁。フレッチャーは顔を、にやりと笑って、こう答えた。

「オレは面倒は嫌いなんだ、自分で考えろ」
「……へーへー、そうですかっと」

 すっかりいつもの調子になってしまったフレッチャーに参りましたと肩をすくめ、その輝く身体へと手を伸ばす。そして両の手を胴へと触れさせた状態で、偉大なる白きカモメは大きく羽ばたいた。その瞬間、フレッチャーと己を結ぶ線がぐにゃりと歪み、量子の重ね合わせの如くブレ始め、直後、世界は一瞬の内に転じ、縁の姿はこの星から消えてなくなってしまった。
 残されたのは、フレッチャーが羽ばたいた時に取れた白い羽根と、縁が見た線の跡。その線の先にあったものが、にゅるりと、スキマという空間を割り割いて現れた。
 和洋折衷の紫色ベースのドレスに、それに合わせた少女趣味の日傘。初めてあった時とは違い後頭部に結われた金髪を特徴的な帽子に隠し、左手で開かれた扇子に隠れた顔には、妖しく笑う少女の表情がある。
 一種族一個体の妖怪、神隠しの主犯、妖怪の賢者。様々な渾名を持つその名は八雲紫。

「ふふ……中々うまく、いえ想像以上に成長してくれたみたいね……けど」

 それ以上の言葉は続かず、紫の姿は、再び現れたスキマの中へと消えていった。







 縁の視界がコンピュータがデータを読む込むかのように二転三転し、ようやく安定したかと思った瞬間感じたのは、あの懐かしき蒸し暑さと熱気だった。視界一杯に広がるのは、死体でできた山と坂、とぐろを巻いた天井と、その先にうっすらと見えるガラスの正三角推。
 じわりと視界がこの地面の遥か下を流れる溶岩によって赤に染まっていく。同時に紫色をした霊魂がふよふよと縁とフレッチャーの傍に近寄ってきて、その内の一つ一つと線が結ばれようとしている。そしてあの、記憶と決意を揺さぶる腐りきった死臭が体中に染み出し、一瞬にして縁の膝から力が抜けようとした。
 それを、欠片ほどの意思で押し止め、ふんばる。深く呼吸をしながら、ゆっくりと身体を持ち上げる。死の匂いが口中に広がった。それでも縁は、深呼吸を続けた。フレッチャーと怨霊たちは何もせず、その様をじっと見ているだけだ。
 それも落ち着いていき、ようやく縁が目をフレッチャーに戻すと、冷笑を称えた鳥という奇妙なものがあった。

「どうやら、まだ全てを克服できたわけではないようだな?」
「うっせぇ、少しずつ慣れてってやるさ」
「そうか、ならばもういいな」

 そういってフレッチャーは再び翼を広げようとしたが、しかしその前に縁が手で押しとどめた。

「ちょっと待った!」
「……なんだ貴様、まだ面倒なことを聞く気か」
「いや、そのさ……今更なんだけど、どうしてお前、こんな風に色々とやってくれたんだ?」
「面倒だな、貴様が河城みとりに勝ってからにしろ」

 ほんの少しの戸惑いと疑問そして覚悟を込めた問いかけをしたが、しかし一蹴にされ、フレッチャーは瞬く間に視界から消えてしまった。がくりと肩を落とす縁、ほんの少し前までの緊張が台無しにされた気分だった。
 だが、と縁は思う。
 
「要は、さっさと厄介ごとを終わらせてからにしろってこと、だよな」

 やっぱり何だかんだ言っていいやつだよな、と至極勝手な印象を再び確定させて、縁は螺旋の死体の坂と、その遥か先にある、この灼熱地獄跡の出口を睨みあげた。フレッチャーは縁の希望通りここに置いていってくれた。普通ならば新たにトラウマを作り出されかけた場所に放置されることを恨むのだろうが、縁の今の目的の一つに妖怪の存在を、本当の意味で受け入れるということもある。
 だからこそ、ここはそれにうってつけの場所だ。幻想郷の中でも封じられ、放棄された場所。人間がもの以下として扱われ、妖怪の肥しにしかならない場所。それに対する義憤や困惑、拒絶などという感情を置いておき、ただあるがままを受け入れようとすることが重要なのだ。
 その第一歩を、上に向かっての意思と共に踏み出す。足の裏に、あの洞窟とは違い、確かな感触が伝わってくる。少し弾力があるもの。放置された死体だろう、と縁は思うが、しかしその全てに同情している暇はなかった。
 歯を食いしばりながら、もう一歩、更に一歩。縁は人間の死体の山を歩いていく。
 飛ぶ、というには些か無茶苦茶な方法だがあるにはるが、しかし使う気にはなれなかった。そもそも今の縁では長続きはしないし、何よりこの足裏の感触が、縁の決意を試しているのだ。それを無視することはできない。
 そして歩きながら、件の妖怪、河城みとりのことを考える。
 フレッチャーの言ったとおりだとすれば、期日まであと二日。順当に行けば今日中に地霊殿まで着き、そこで休ませてもらって一日を使う。実質は最終日のみ、ぶっつけ本番だけだ。
 勝てる算段は、ない。
 自分が以前と違うのは心持と、強引な飛行方法を得たことだけであるし、初邂逅のときはスペルカード一枚すら破れなかった。相手の枚数がわからない以上、こいしと戦ったとき以上の枚数を使われることを覚悟しておかなければならない。
 そして負ければ自分は殺され、空も死ぬ。
 それを思うと、怖気が背中を撫で、灼熱地獄跡にいるのに寒気がした。一緒に、みとりの姿が脳裏に過ぎる。
 人間だけでなく、妖怪すらも嫌う、赤河童と呼ばれた妖怪。縁が元いた世界にあった標識を軽々と振り回し、嗜虐心を表に出して、ひたすらこちらを詰る姿。心底、縁と空を侮蔑する顔。
 あの時はなぜか無理やりにでも、自分に襲い掛かってくる理由を聞こうとした。人間嫌いで妖怪も嫌いだといえばもっともらしい理由になるかもしれないが、それでも縁は妙な引っ掛かりを今改めて感じていた。無意識にそう感じ取っていたからこそ、瀕死の状態でも尋ねたのだろう。
 それはどうしてか。縁は自分へと問いかける。右腕の掌を見下ろすが、その疑似間接の奥からは何も声は聞こえない。
 もう一つ、浮き出るように思いを浮かべるのは、霊烏路空のことだ。以前と同じなら、この灼熱地獄跡のどこかにいるはずだ。
 正直に言えば、今すぐその顔を見たかった。そして抱きしめたかった。その想いは洞窟の時から変わらないし、むしろ名前を浮かべた瞬間に急に強くなった。
 それができるのは、縁がこの事にケジメをつけてからではいけないのだ。そう、決めてしまったのだ。
 故に苛烈な想いを強引に封じ込め、再びみとり対策を練ろうとした。その直後、線が直上向かって一直線に、大きく震えながら伸びた。反射的に前へと飛び出した縁の背中で、弾幕をぶつけ合わせたような破砕音が響いた。
 怨霊が手を出してきたか、と縁がその線の主に対して眼光をぶつけようとするよりも早く、その相手は怨霊と青白い妖精を引き連れて縁を冷たく見下ろした。

「何をしに現れたの。ここはただの人間が来る場所じゃないよ」
「っ、燐?!」

 約一週間ぶりに会うこととなった火焔猫燐は、言葉と同時に弾幕をばら撒いた。




 
 縁がフレッチャーに連れられ灼熱地獄跡に戻ったのを、仕事のために空の下へと向かっていた燐は偶然にも見ていた。見間違いかと思って何度か目を擦ったが、しかし消えたのはフレッチャーだけで、縁の姿だけは以前となくならなかった。ならばそれは幻ではなく現実、燐の中で一瞬、胸裏の奥に切なさに似た喜びの感情が生まれようとし、瞬く間に憎悪へと変わった。
 なぜ今更のこのこ現れた。
 今までどこに行っていた。
 お前がいなくならなければ、状況はあそこまで悪くならなかった。
 そもそもお前がいたから、こんな風になってしまった。
 あの迷宮での出来事など、所詮は自分の気の迷いだったのだ。
 あんな人間を、認めてはいけなかったのだ。
 言葉は次々と浮かび、憎しみの色を変えることなく転じていき、その度に巨大になっていく。体の支配権すら奪う衝動へと変化するには、それほど時間を要しはしなかった。
 気づけば、燐はいつもスペルカードを使うとき手伝ってくれる妖精たちを引きつれ、黒く焼け焦げた死体の山を駆け上っていく縁の真上にいた。そして片手で妖精たちに指示を出し、一斉に弾幕を発射させた。相も変わらず勘だけはいい人間はそれを前に飛び込むことで避け、燐へと振り向いた。
 その目に驚愕が浮かぶ前に、燐は苛立ちを通り越した憎しみを宣言し、自分の周囲を螺旋回転を象徴するような弾幕を放射線状に展開した。幾重もの鎖の如きそれは縁を直接狙うことはなく、その両サイドへの動きを封じることが目的だ。

「じゃあね、せいぜい魂の原型を留めないようにね」
「ちょ、おまっ……?!」

 弾幕ごっこをする気はない、確実に消し飛ばす。死体が手に入らないのは嫌だが、嫌いな相手の死体など収集しても意味はない。
 矢を引き絞るように妖気を集中させ、勢いのままに投げ放つ。形は先のものと同じだが、それでも速度と範囲は桁違いの弾幕だ。同時に妖精たちが続き、縁に爆撃の如き弾幕を降らした。一般的な妖怪退治屋でも決して防ぎきれるものでもない、ましてや右腕以外はただの人間である縁が受けきるなどというのは不可能だ。
 しかし縁は咄嗟にあの藍色の腕を顕現させ、一瞬にして肥大化させると、正面から迫る燐の放った弾幕を全て叩き潰した。轟音を鳴り響かせるそれを、縁は更に薙ぎ払い、右側面からの妖精の弾幕を殴り飛ばしゾンビの物まねをする妖精たちの目を驚愕のそれにさせると、その場からわずかに数歩後退した。
 たったそれだけで、左側面から飛来した弾幕が回避された。着弾したのは全て縁の足元や、目の前。掠りすらしない。
 一体何が起きた。燐は一部始終を見ていたがしかし信じきることができなかった。縁がいつもの腕型弾幕を使って、燐と妖精たちの弾幕の一部を防いだのはわかる。失踪する前よりも遥かに早い発動は驚くことではあるが、それは重要ではない。問題は、縁から見て左から来た弾幕を、ほぼ一瞥しただけで避けきったということだ。それも最小限の動きで。

「いきなり何しやがる!?」
「……勝手に消えて、そしらぬ顔で戻ってきたあんたが、どうこう言えるわけ?」

 第三の腕を発動させたままの縁の目が見開かれる。とぼけているようにも見えるその顔が、燐の中で苛立ちを産んだ。

「あんたがいなければ、おくうやこいし様が苦しむことはなかったのよ……それが今更戻ってきたところで、殺してくださいって言ってるようなものなのよ!」

 叫びと怒りを込めて、取り出したスペルカードを発動する。

「みんなには、絶対に会わせない!」

 恨霊「スプリーンイーター」

 迷宮最奥でのときと同じように、しかし今度は縁の周囲へと呼び出した怨霊たちが牙となって囲うように襲い掛かる。縁は舌打ちして、また前へと飛び出した。またいつものように霊力で出来た腕で突破するつもりだが、それを簡単にさせるほど今の燐はお人よしではない。
 小回りの利く猫の姿へと変化し、怨霊の牙の一角を突き崩した縁の背後をとる。振り向いた縁の顔向かって、サマーソルトの要領で二尾をぶつけようとした。しかしそれを、間一髪で回避されてしまう。だが変わりに縁の態勢が不自然な動きについていけずに崩れた。
 再び人型へと戻り、死体を乗せた火車を投げ飛ばす。さすがにこれには対処法はないらしく、縁の右肩へと直撃し、巨腕の具現を霧散させ、そのまま地面へと引き倒した。
 ぐへっというカエルを轢いた時と同じような呻き声を上げて無様に倒れ、右肩を抑えて痛みに震える縁。それに向かって、スプリーンイーターの第二撃が、ゆっくりと迫っていく。

「……最後に言い残したいことがあるならいいなさい。それぐらいなら、あたいも覚えておいてやるから」

 火車を回収するためわずかに浮かび上がった燐は、刻一刻と死の瞬間が迫る縁に向かって、最後の問いかけをしていた。
 本当なら、どこに行って何をしていたかを尋ねるのが常套なのであろうし、事実、そのことに興味がないわけではない。衣服などをよく見れば、明らかにこの弾幕戦以外で傷つき汚れ、破れた隙間から見える箇所にはじゅくじゅくとした生傷がいくつも残っている。旧地獄中を探していなかったことと、フレッチャーが関わっていることから、ここ以外のどこかに行っていたのだろうと推測はできていたが、縁の状態からそれがどのような場所かまでは想像がつかなかった。
 しかし妖怪の理性を超えた殺意がそれを圧倒的に上回っているので、問いとはなりえない。
 後でフレッチャーにでも聞けばいいだろう、と目処を立てたとき、縁が膝を立たせ、かしずくように顔を項垂れた。右肩はまだ抑えていることから、脱臼をしたのだろうと想像できる。いなくなる直前の縁ならば、既に戦意を失っていてもおかしくはない。だが、もし、こいしのときと同じならば、或いは。
 そんな愚にも付かぬ想像をしていたのが予兆となったのか、縁は顔を項垂れたまま、ゆっくりと起き上がり始めた。スプリーンイーターはもう一メートルを切っている。答えを聞くにも、時間はそうないだろう。

「……ねぇよ」
「何?」
「まだ終わってねぇっていってんだよ、このバカ猫!」

 右肩を抑えていた左手が懐へと伸び、一枚のカードを取り出した。スペルカード、燐はそれを視認した瞬間、縁の持つ二枚のカードにおける特徴と弱点を確認し、すぐに二枚目のカードを取り出せるようにした。その間にも、縁は右手にスペルカードを持つ手を変え、空いた左手で強引に右肩を持ち上げた。
 苦痛に歪むその顔が、言霊をつむいだ。

 穿孔「スパイラルブレイカー」

 初耳のスペルカード、それがもたらす効果を知らぬ燐は、一手、対応が遅れた。直後、縁の右背中肩甲骨の辺りから藍色の光が爆発を起こしたようにあふれ出し、一瞬にして縁の身体を天高く持ち上げた。釣られて、燐と妖精たちの視線もそれを追う。そこには、右肩から巨大な藍色の焔と、スペルカード『螺旋「スパイラルファントム」』以上に巨大化した螺旋を構える縁が、その先端を燐に向けていた。

「うそ、飛んだ……っ!?」

 満足に飛ぶこともできないはずの縁が飛び上がり、あまつさえ滞空しているという出来事に一瞬呆けたが、次の行動を予期した燐はスプリーンイーターを仕舞い、用意していた二枚目のカードを前方へと放った。

 死符「ゴーストタウン」

 燐がつれてきた、人間が想像する幽霊のように真白な妖精たちが号令を出した妖怪の周囲へと慌てて駆けつけ、燐の合図とも言える妖気開放と共に一斉に弾幕を縁目掛けて発射した。妖精故に一発一発の力は弱いが、数がある以上それは一種の暴力ともいえた。それを前にしても、縁は未だ滞空したまま、動こうとしない。
 いや、違う。動かないだけだ。
 螺旋の回転が高まり、右肩から噴き出す縁の藍色の霊力は膨らみを増し、破裂寸前の風船すら思わせる。その表現は正しい、縁はまさに、力を溜めているのだ。それも、燐を一撃で吹き飛ばすほどの。螺旋の向こうに見える縁の瞳には、強烈な意思の光が宿り、燐を射抜いていた。
 燐の理性はそれをわかっている。もはやそこに、妖怪を拒絶しようとした縁はいないと。
 燐の憎悪は理解しながらも、身体をその場にとどめている。今まで一度も自分に勝てなかった奴が、いまさら新スペルを使うだけで自分に勝てるはずがない。
 その二つのせめぎ合いに決着をつけるのは、ゾンビフェアリーたちと自分が放った弾幕が着弾する時。
 その瞬間を見逃すまいと瞬きもせずに縁を凝視している燐の視界の中、縁の背中で肥大化していた藍色の揺らめきが爆発した。
 
 轟音は一瞬にして燐の眼前を通り過ぎ、スペルカードを破壊し、燐すらもその余波で吹き飛ばした。

「っ?!」

 自分が吹き飛ばされていることに、一、二秒経ってからようやく気づいた燐は反射的に中空で制動をかけ、態勢を元に戻しつつ、スペルカードがあった場所を見た。そこはもはやただの虚空だ。燐の使っていたスペルカードは欠片すら残らず消え、ゾンビフェアリーたちはみな燐と同じく巨大螺旋の余波で四方八方へと薙ぎ払われて目を回していた。
 そして、それを為した人間は、死体の山に巨大なクレーターを作り上げ、その中央で右肩を抑えながら、燐を一直線に見上げていた。
 視線が合った。その目は以前と同じに一見見えたが、今は覗けば覗くほど深みに嵌ってしまいそうな深さが見えた。ギラギラとした活発さと反骨心も、形を変えて共存している。そしてその深みを覗き込んでしまった燐は、先ほどまであれほど湧き出ていた憎しみや怒りといった感情が、急速に薄れていくのを感じた。
 あの深い穴の中に吸い込まれてしまったのだろう。それでもその全てを吸いきれるわけではない。その残りカスのような憎悪を駆り立て、燐はようやく口を開くことができた。

「……終わってないって、どういうことよ」
「言葉通りだよ。俺が河城みとりに勝てば、それで万々歳なんだろ? だから、そうするように、するのさ」
「ふざけないで。あんだけボコボコにされて、どうやって勝つっていうの? あいつはこの前、勇儀様にも勝ったのよ」
「マジか……そりゃやべぇな」

 縁の顔が、わずかに緩む。どこかはにかみにも見えるその顔に、先ほどとは違う憤りが湧き上がり、燐の身体を動かした。地上へと降り、縁に肉薄するや否や、その襟首を掴み上げ、身体を持ち上げた。負傷した右肩に当ったのか、苦悶の表情を浮かべている。

「ヤバイっていうんじゃないわよ! これであいつは鬼の四天王と同じくらい強いってことが証明されちゃったのよ! あんたみたいなただの人間が敵うわけないじゃない! それに、あんたがいなくなって、おくうやこいし様やこいし様がどんな思いをしてたか判ってるの!? あたいの想いだって……ッ!」

 一瞬、自分が何を言おうとしたかわからなくなった。だから一度頭を振って、とにかく、と仕切りなおした。

「おくうはもう覚悟してるの……だからもう、あんたの出る幕は……」
「だったら、やるしかねぇよな」
「はっ? 何言って……」
「好きになった女の子一人守れなくちゃ、意味ないんだよ」

 言葉の意味がわからなかった。
 好きになった女の子。それは誰だ。話の流れからして、一人しかいない。だが何故か、それを否定したがる自分がいる。頭が秒単位で白くなって、呆けたうめき声を出してしまう。それを打開するために、尋ねなおす。

「好きになったって……誰をよ」
「空だよ……霊烏路空、おくう……呼び方はともかく、俺はあいつのことを好きになっちまったんだよ」
「嘘……バカじゃないの。人間が妖怪に恋をする? そんなの、いつの話よ……そもそも、あんたいつおくうのこと好きになったのよ。喧嘩別れしたんでしょ?」
「好きになったのは何時かってのは……正直、俺もわかんねえ。けど自覚したのは、喧嘩した後だ……あいつのこと、本当はすごく大切にしたいって気持ちがあったのに、気づいちまったんだよ」

 笑っちまうよな、と人間の男は笑う。あんなに妖怪を恐れ始めていた人間が、今は首を掴まれ息もかかる距離だというのに、困ったように笑っている。嘘を吐いている様子もない。いつの間にか生えているヒゲが、とても不細工に見える。右肩だって痛そうだ。
 好き。親愛ではない、男女間での愛情。それを縁は、地獄鴉という妖怪相手に持ってしまったというのだ。
 そのことを頭が理解した途端、今度こそ頭が真白になった。同時に、胸が急に痛んだ。ずきずき、と頭痛が胸の内側で起きているような心地で、気持ちが悪かった。手から力が抜け、縁を降ろしてしまった。

「……燐?」

 様子が可笑しいと縁が顔を覗きこんできた。だが名前を呼ばれただけで一気に意識が覚醒し、もう一度縁の胸倉を掴んだ。今度は持ち上げるほどの力を込められなかった。だが代わりに、胸裏の不自然な痛みが、烈火の怒りへと変換され、口から迸った。

「何バカ言ってんの! 人間と妖怪が恋仲になってうまくいくわけないでしょ!? そんなの、外来人のあんただってわかるでしょっ。そもそも生命としての在り方が違い過ぎるのよ!!」
「ああ、そうかもな……けど、そんな些細なことはいいんだよ」
「些細ですって……っ」
「俺は、少なくともこの想いが伝えられればいいんだ。それでOKもらえたら確かに嬉しいけど……拒絶されようが、俺は構わない」
「そんな……都合のいいこといって……っ」
「俺は本気だ。だから……」

 強く断言された言葉と共に、燐は縁に見返された。
 また、あの瞳だ。いやに吸引力のある、深い光となった瞳。妖怪ではきっと誰も持っていないだろう、人間だけが持つだろう意思の色。輝きとはまた違う、しかし引きつけられてしまう目。それが燐に訴えかけてくる。ここを通してくれと。
 燐は、何も返せない。目に引き込まれるだけだ。
 そもそも、問答をすることも、弾幕ごっこもどきもする必要がなかったのだ。縁には嘘を吐いたが、空は覚悟を決めたわけではない。現に燐が一旦離れる直前まで、発作と悪夢に苛まれて、更にやつれてしまい、衰弱もしていた。ただ、縁が戻ってきてくれることだけは信じていた。
 そして、仲直りがしたいと、言っていた。
 例え間に合わなかったり、縁が負けるようなことが起きた場合に、せめて縁が妖怪に対しての心持ちをちょっと戻して、自分とまた同居人の関係に戻って欲しいと願っていた。
 自分で縁のことを忘れる、といったことを忘れていたのだ。
 だから、せめて親友の願いを叶えようと空に一度は会わせるつもりだった。その時次第で、さとりやこいしのところにも連れて行こうともしていた。
 河城みとりとの戦いは、もはや二の次だ。こいしは回復した直後、空のためにもう一度決闘を挑もうとしたがカドルたちやさとりによって抑えられている。全力の鬼とほぼ互角の戦いを繰り広げた相手に、ただ無意識を操れるだけの覚妖怪が敵う道理がないのだ。それはさとりも同じことがいえた。
 ならばフレッチャーがいない以上自分が、とも考えはしたが、空の看病やこいしが暴れたときの抑えなどで時間を割かれ、結局できなかった。そもそも、暴走したこいしに圧倒された燐が勝てる見込みは少ないのは自覚していた。いくら弾幕ごっこが実力差を埋めるためのものとはいえ、地力が同じである以上、同類であれば殆どその意味は形骸化する。
 しかも、肝心のみとりは、あの時以降姿を見せないのだ。家の方にもいないことは、十一やカドルが確認してくれた。これでは、決闘をするにはいいが、相手がいないのである。恐らくは、本命が現れるまで、身を隠しているのだろう。
 つまり、地霊殿の面々は、完全な詰みの状態にあったのだ。

「……いいわよ」
「本当か! なら、早くこの手を……」
「その代わり!!」

 何もしなければ、このまま終わりだった。だが、それを変えられる相手が今、こうして帰ってきた。帰ってきて、しまった。

「……ちゃんと、勝ちなさいよ」
「そりゃ、もちろん……」
「それと……今度から、あたいのことはちゃんとお燐って、呼びなさい」
「はっ? そりゃ、まぁ……別にいいけど」

 縁が肯定したのを聞いて、燐は手を放した。自由になった縁は、右肩を左手で強引に押し込むと、しばらく無理やり嵌めた骨の痛みに身を屈めたが、立ち上がると、再び上を目指して歩き始めた。今まで蚊帳の外だった妖精たちがそれを面白そうに眺め、上からふわふわついていく。
 
「……なんで飛べるのに、態々歩いてくのよ」

 その背中に向かって、未だに棒立ちとなっていた燐が問いをかけた。縁は振り返って、その年齢よりも少し子どもっぽい笑みを浮かべて答えた。

「まだ上手くできないし、燃費悪いんだよ。次飛んだら、たぶんぶっ倒れちまうし」
「なら、あたいたちの休憩所で休んでく?」
「そんな時間ねーからいいよ……悪ぃな、お燐」
「……別に、いいわよ」

 燐は、ふわりと宙へと飛んで、縁をすぐに追い越した。そして、今度は自分が縁に向かって振り返り、精一杯の笑顔を作った。

「先に行って窓を開けとくから、早く登ってくるのよ」
「おうよ、待ってろよ」

 縁がサムズアップで応じ、ゾンビフェアリーたちも真似をして、燐へと親指の腹を向けた。それがあまりにもおかしな絵で、燐は笑い出しそうになった。代わりに燐もそれに応じて、一気に上へと飛んだ。
 窓を開けると、そのまま地霊殿の中庭へと飛び出した。そして心の中で、縁の帰還を思い描く。すると二階の窓の一つが開き、そこからさとりが顔を出した。その第三の目が、燐をこれ以上なく睨みつけている。

「お燐……それは本当なの?!」
「はい、今、灼熱地獄跡を徒歩で登ってます」
「そう……よかった……こいし、中邦さんが今帰って……」

 万感の思いを込めて吐き出された吐息の後、すぐさま部屋にいる妹へと声をかけようとしたさとりだが、その眼前を突風のような何かが通り過ぎ、一直線に窓へ飛び込んでいった。
 燐とさとりが目をぱちくりと瞬かせ、それの正体を口にした。

「こいし様……なんだか、すごい勢いでしたね」
「そう、ね……あれだけすごいと、今まで私が看てたのがバカらしくなってきますね」

 はぁ、と妹の脅威の復活にため息を吐くさとりの顔はどこか嬉しそうだった。その意味は、燐にもわかる。今の燐なら、わかってしまう。

「さとり様……とりあえずこのことを、勇儀様に伝えてきますね」
「そうですね。あの人も当事者の一人ですし……お願いしますね」
「はいはい、このお燐ちゃんにお任せを~」

 勤めていつもの明るいお調子者の空気を出して、その場を去った。
 地霊殿を出ると、お椀型の土の空が見える。だが今日はその全てが見えない。曇っているのだ。その具合から、明日は雨だろうと妖精たちは言っている。雨の中の弾幕ごっこは、人間の縁には辛いだろう。
 せめて勝率を上げるために、明後日までは持って欲しい。そう考えて、上を見ながら歩いていた。
 不意に、ぽたり、と足元で音が鳴った。見ると、水滴の後が地面に残っている。まさか本当に降り始めたのだろうか、と思っていると、再びそこに水滴が落ちた。何であたいの足元ばかりに、と口にすると、もう二、三滴落ちて、地面を濡らした。
 それが皮切りになったように、その“雨”は勢いよく振り出した。だがその間隔は雨にしても長く、狭く、何よりも熱かった。
 頬を雨が伝わるとき、不思議な熱さが伝わってくるのだ。仕方なく、“雨”を手で拭おうとする。それでも“雨”が止む気配はなく、どんどん顔は濡れていき、熱さは顔全体にまで広がってしまった。
 街を歩く妖怪が、こちらを見た。ひどくビックリした様子だ。他にも気づいたものが、皆同じような顔をしている。こちらは“雨”に降られているだけなのに、なぜそこまで驚くのだろうか。
 その内の一匹がこちらへ寄ってきた。赤い一角に星のマーク。豪奢な金髪をなびかし、所々に未だ包帯を巻いて、本来なら医者に自宅療養を言い渡されているはずの女傑。燐が探していた、妖怪ではなく、鬼。

「ゆ、勇儀、様……」
「……お燐」
 
 勇儀の顔には他のものが浮かべるものとは違う、どこか哀しみに彩られたものがあった。そして、燐が何かを言おうかとまごついている間に、その女性として豊かな身体に抱きしめられた。

「……泣きたいことがあるなら、泣いたほうがいいよ。あんたも女の子なんだからさ」

 反射的に勇儀の顔を見上げた。その目に映る自分を間近に見て、ようやく燐は理解した。
 “雨”だと思っていたのは、自分の涙だったのだ。
 どうして泣いているのだろう、と自分自身の顔を見ながら、その原因を思い出そうとした。

 お燐

 心の中に反すうした声。縁の声。自分の呼び名。“親愛”の意味をこめた愛称。
 故にそれは、思慕の間柄のものではない。

 燐

 嫌いなはずの自分の名前。なのに縁が呼び捨てにするのだけは、いつの間にか許していた。それが当然だと思い込んでいた。
 だが、その理由に、気づいてしまった。
 縁が空を好きだといったときから。
 縁が自分をお燐と呼んだときから。
 縁がここに戻ってきたときから。
 火焔猫燐は、いつのころからか、無自覚のうちに、中邦縁のことが好きだったのだ。

 それが今、恋という自覚すら持てぬうちに、終わりを告げられたのだ。

「ふぐ、ぅ………ぅぁ、うああああああぁぁぁぁぁぁぁぁあん!!」

 “雨”が勇儀の胸の中に吸い込まれていく。火焔猫燐の想いで出来た涙たちは、それを受け止める地底の鬼に受け止められ、一日早い雨を降らしていた。
 燐の恋の終わりのために。




「……縁が、私のことが、好き?」

 灼熱地獄跡の奥で、中空で丸まった空は、ぽつりと呟いた。

「けど……お燐はきっと、縁のことが好きで……こいし様は、縁がいないと、きっと壊れてしまう……」

 その瞳には、一見、憔悴故の虚無が見えるかもしれない。
 だがそれを目を凝らしてみれば、様々な感情が混ざり合ったゆえにできたものであるとわかる。

「……わたしは、縁が……」

 そしてその瞳を称えた空は、その言葉の続きを言うことなく、ただ灼熱の虚空を、くるくると回っていたのだった。



 あとがき:

 PS3ェ……(箱○ユーザーの呻き)
 とりあえず恒例の超展開と、待望のフラグクラッシュをしてみました。

2010/9/6
 お燐のセリフの一部のみ修正しました。



[7713] 第二十八話――興<遅かったじゃないか……  
Name: へたれっぽいG◆b6f92a13 ID:a2573ce4
Date: 2011/03/31 03:03
「縁ちゃーーーーん!!!」
「そぉい!」
「へぶっ?!」

 天上から超高速で飛来したこいしを、縁は線が教えるままの軌道に従い、半身を傾けるだけで避けた。その結果、縁にまだついてきていた妖精たちを巻き込んで、涙目だった幼い覚妖怪は焼死体の山の中へと頭から突っ込んだ。ふぎゅ、と頭だけが死体の間に挟まって、およそ少女には似つかわしくない格好でばたつく姿に、突進した際に落ちてきたこいしの帽子を手に取った縁は、ぷっと吹き出した。
 だが、次の瞬間にはこいしは死体の間から頭を引き抜き、縁を睨みあげた。

「何するの縁ちゃん、そこは避けちゃだめだよ普通!」
「いや、なんつーか……癖?」
「『癖?』じゃなーい!! 十日間も会えなくて、おくうとかわたしが酷い目にあって、それで感動の再開かと思ったら、『癖?』の一言でブレイクとか酷すぎるよ! しかも何かデジャビュも感じるし、きっと二度ネタだよこれ! ノーカウント、ノーカウントだっ!」
「そんな気力はないっつーの! まぁけど、その……心配かけて、悪かったな」 

 縁は、死体の灰で少し汚れたこいしの頭を軽くはたくと、最後にその髪をくしゃりと撫でた。以前よりは若干艶が落ちてパサついたそれは、こいしや燐が言ったように、とても大変なことが起きたことを縁に言葉なく伝えていた。それでもこうして前のようにきついコントもどきをしてくれるのが嬉しくて、自然と笑みが出来た。
 そのまま撫で続けていると、こいしの顔が、縁を睨みあげながら、徐々に赤くなっていく。疲れが出たのか、と妹分の少女に対して懸念が生まれたので、少々辛いが身体を屈めて、目線を同じ高さにした。すると一瞬、いつも閉じていた第三の目が大きく見開かれたが、見間違えだといいたげに、すぐに閉じてしまった。

「大丈夫か、こいし……?」
「……っ! う、ううん、なんでもない!」

 声をかけてもしばらく時間を止められたように動かなかったこいしが、ようやく動いたと思ったと同時に、明後日の方向を向いてしまった。怪訝に思うが、しかし縁としても、再開をいつまでも味わっている時はない。膝を伸ばして、今一度坂を見上げる。まだまだ先は長そうで、戻ってきた当初に感じていた不快感はましになったとはいえ、未だ無意識的に縁の精神に負荷をかけてくる。
 やっぱり長居はできないよな、とこいしの頭から手を離して、さて、と仕切りなおしの合図をする。こいしがまた、縁の方を見上げた。

「俺はまた歩くけど、お前はどうする? 疲れてるなら、先戻ってたほうがいいぞ」
「……う、ううん。縁ちゃんと一緒がいい! けど、どうして歩くの? わたしが運ぶ?」
「やっぱそれ聞くか……ケジメって、言えばいいかな? だから、手伝わないでくれると助かる」
「それも……縁ちゃんが言ってる、独善? それとも、自己満足?」

 曖昧にぼかした言葉が、こいしの言葉によって晴れた。それはいつかこいしが縁に対していった言葉だ。こうして自分に再び帰ってくるとは思わず、縁は我知らず笑みを浮かべていた。くすぐったい感情が、それを起こさせたのだ。先ほどとは打って変わって、縁を気遣うような、はたまた問いただすような、どちらにも見える瞳を向けたこいしが、少し困惑したように顔をしかめた。
 縁はその頭に、返し忘れていた帽子を被せた。わぷっ、とこいしが驚いてズレを修正している間に、縁はまた目線を合わせて、口を開いた。

「そうだな、お前が言うとおりだ……けど、今はそれだけじゃない。俺が、お前らと一緒にいるために必要なことでもあるんだ」
「どうして?」
「それは……まぁ長くなるな……歩きながらでいいか?」
「あ、うん……それなら」

 屈んだままの姿勢の縁に、こいしはそっと飛び乗り、そのまま背中へと回って首へと両手を回した。丁度おんぶのような態勢に近いが、そこに縁の支えがなく、こいしの身体がさりげなく浮いていることであろう。縁の邪魔にならないようにした、こいしなりの配慮だった。

「ずっとわたしたちを待たせた罰として、このまま上まで歩いていって」
「なんだよそれっ。ま、いいけどさ……じゃ、何から話すかな」

 いつもの調子に戻ったように見えるこいしを背負って歩きながら、縁は一つ一つのことを思い出しながら、少女へと語り始めた。少女の第三の目が、今この時開ききり、その顔には形容しがたいものが出来上がっているのも知らずに。
 そしてまた、一つの線が、遥か下に向かって伸び、緩やかに近づいていることにも。



 第二十八話『マイ・ソング』



 中邦縁帰還の報。それは燐が必然的な偶然で出会った勇儀に伝えられるよりも先に、口の軽い妖精たちによって火が燃え広がるように一気に旧都へと知れ渡った。その反応は様々であり、安堵するもの、心配をするもの、猜疑をかけるもの、それを否定しケンカを始めるもの。だがその全員には共通して、ある意識があった。
 河城みとりはどうするか。
 中邦縁がいなくなったのも、先日の謎の緑色の爆発の件にも関わっている赤河童は、この報にどう反応するか。既に何人かの情報通によって人間と赤河童の間に取り決められた約定は、大半の地底妖怪の耳に入っている。期日は今日を含めてあと二日。どちらからにしてもアクションを起こしても可笑しくはない。
 封印された妖怪たちは一つの話題に食いつきながら、その次に起きるはずの、より大きな祭りの気配を敏感に感じ取りながら、今はただ嵐の前に前夜祭を行うのだった。
 それを感じ取りながら、件の半妖である河城みとりは旧都の繁華街を歩いていた。その姿は、一部の能力を有するもの以外は決してみることが出来ない。『遺跡』より入手した情報を元にみとりが自力で作り上げた光学迷彩装置のおかげだ。元はどうあれ、奇しくも腹違いの妹と同じものを開発していることを知らぬみとりは、その装置の範囲内の中で、ふん、と不機嫌に鼻を鳴らした。

「嫌な空気だ、わたしに動けって言ってるみたい」
「いや、そうでしょ当然。あの中邦って子が戻ってきたなら、みとりもそれ相応の覚悟をしなきゃね」
「…………準備は忘れてないよ」
「ま、間がありましたねっ」
「何か言った?」
「いえいえいえいえ!!」

 みとりのすぐ後を歩くヤマメに担がれたキスメが、ぶんぶんと桶ごと頭を横に振って失言をなくそうとした。背後を見ていたみとりも、それだけでバカらしくなったのか、鋭く尖った眼光を前へと戻し、苛立たしげに舌を打った。その様子にキスメはまだ自分の一言が効いているのかと肩を震わせ、みとりの人となりをこの数日間で少しはわかるようになっていたキスメは、やれやれと頭を振って、キスメを慰めるように頭を撫でた。
 二人の姿もまた、みとり以外のものからは決して見えない。これはみとりが開発した迷彩装置が、特殊な方式によって機能する、範囲(サークル)識別型であるからだ。その媒介にはみとりの発明品兼スペルカード『禁術「オービットキューカンバー」』の子機が利用され、範囲内にいる三人の目には、自分たちの頭上を囲うように細長い姿をした子機がぐるりと効果範囲に沿って回っているのが見えている。
 この機能を端的にまとめるなら、そこにあるのを認識させないようにする遮光カーテンをレールに沿って広げているようなものである。
 そして何故このような方法で街を歩いているかというと、みとりが副作用の発作を落ち着かせ、ようやく家へと戻るためだ。みとりは現在地底に知れ渡ってしまった有名人であり、みとり自身がそういうことを嫌ったために、態々このような回りくどい方法を取るのだった。飛ぶという、見つけてくれといってくれるような手段は論外であった。

「それで、家に戻ったところでどうするの? その準備ってのするの?」
「帰るだけよ」
「け、けど、その、今帰ったら、他の妖怪とかに、見つかっちゃうんじゃ……」
「わたしにコレがある限り、そうそう突っ込んでくるバカはいないわよ」

 そういって取り出したのは、一枚のスペルカード。全面が緑一色に、黒金の線がミミズのように纏わりついている。ヤマメたちがごくりと唾を飲み込んだ。そのカード、ソルディオスの力と特性は、情でみとりを助けたヤマメをして怖気させるものであった。
 その様子に満足して、みとりはカードを仕舞い、ほんの少し足を速めた。カードのことでたじろいでいたヤマメも、キスメが「お、置いてかれますよ」と言われて、カーテンから出ないためにも小走りで追いかけていった。
 
「けど、本当のとこどうするの? 地獄鴉……おくうちゃんにしても、本当にあのままにしとくの?」
「当然よ。わたしは、約束は守るほうだからね」
「……そっか」
「あら、止めさせないの?」
「私だって妖怪だからね、人間を困らせたり疫病を移して殺しちゃったりするけど、約束は守るから。みとりが約束っていうなら……まぁその時はその時じゃないかな?」
「あ、あたしもそう思いますっ」

 二人の意見に、みとりはそう、とだけ答えた。内心では、無駄に信用されているな、と皮肉めいた言葉が浮かぶ。そして同時に思う。
 半分人間の私は、果たして約束を守るだろうか。
 自らが嫌う血を思い、自然と自嘲が浮かぶ。それに気づいたヤマメが顔をしかめるが、みとりが先に足を止めたのを見て、その先に何があるのかを見るのが先だった。そこにあるのは旧都繁華街にはよくある団子屋であり、ヤマメも何度か通ったことのある場所だ。だがそこにいるものたちが問題だった。
 星熊勇儀に火焔猫燐。前者はみとり自身が先日ソルディオスによって倒してしまった『恩人』であり、後者は地霊殿の関係者で霊烏路空の親友だ。
 手をつけられていない団子を乗せた皿を傍に置いたまま、俯いたままの燐が何事かを話している。薄くなった緑色の火傷跡とほんのわずかな包帯をした勇儀はそれを朱色の酒器を片手に聞いている。当然というべきか、みとりたちには気づいていない。

「ちょっとみとり、どうするの? ……みとり?」

 ヤマメが思わず尋ねたが、しかし返事は返ってこなかった。どんな顔をしているのか覗き込もうとした時、唐突にカーテンの中に何者かが入り込んできた。ぎょっと目を見開く三人を他所に、癖の強い金髪を揺らしながら、水橋パルスィはあら、と声をあげた。

「何かと思ったら……赤河童にヤマメとキスメじゃない。何をしてるの?」
「い、いやそれはこっとのセリフだよパルスィ! なんでこれがわかったの!? 私もよくわかんないけど!」
「何故って。そんな嫉妬の塊のような視線があったら、嫌でもわかるわ」

 ヤマメとキスメとは顔見知りのパルスィの視線がついっ、と初対面のはずのみとりへと向けられた。パルスィが現れたときとは別の意味の驚愕の色へとその顔が変じる。
 パルスィは嫉妬心を操る、故に誰がどのような嫉妬を抱いているのかも能力でわかってしまう。故にみとりが抱いたそれを感じ取っていたのだ。

「どうしてこんなとこにいるのかは、聞くだけ無粋ね。邪魔したわね」
「ちょっと待ちなさい」

 光学迷彩の効果範囲から出ようとするパルスィを、みとりが止めた。何、と背を向けていたパルスィがみとりへと振り返る。

「たしか貴女は、勇儀さんや地霊殿の連中とも仲がよかったはずよね?」
「まぁ、勇儀はともかく、地霊殿の面々とは顔見知り程度よ」

 いけしゃあしゃあと関係性が薄いと告げるパルスィに、それなりにウワサや賭けの事情を聞いているヤマメとキスメがうわぁ、とある種の尊敬の念を吐き出したが、事情を知らないみとりからすれば、知り合い程度ではあるのだろう、と深いことは気にしなかった。問題は、地霊殿の面々と普通に話しても大丈夫な相手ということだ。

「なら、あそこにいる二人に言伝をお願い。明日までなら、地底湖で待っててやるって」
「……あら、そ。それぐらいなら、まぁいいわ。けどこんな回りくどいやり方なんて、後ろめたいことでもあるみたいね」

 パルスィは口元を三日月状に歪めてみせる。確実に事情を知ってて言っているのだと、嫌味なほど伝えてくる嘲笑に、ヤマメは意地の悪い友人に対して苛立ちを覚え何事かを言おうとした、それよりも早く真意を見せぬ橋姫はカーテンから出て行った。

「パルスィったらあんな言い方しなくてもいいじゃない!」
「そ、そうですよ! いくらあたしでもあんな風にはいいません!」
「……キスメ、そのことは後でオフィスで話すとして……みとり、さっき言ったこと、本当なの?」

 ひぇぇ、と情けない悲鳴をあげて桶ごと震え始めた妹分をスルーしてヤマメが問うが、みとりの視線はカーテンから出て行ったパルスィの背中を追っていた。パルスィは特に寄り道もせず、そのまま人生相談のような雰囲気を出す鬼と火車のもとまで行き、口を開いた。
 そこまでを見てから、みとりは止めていた足を再び動かしだした。

「あ、ちょ、みとり!」

 再度、慌てて彼女の後を追うヤマメだが、その頭の中では、先ほどのみとりの言伝が気になって仕方がなかった。この数日みとりの看病をしてきたヤマメには、みとりは問われればしっかりと返す、几帳面な性格の持ち主だということもわかっている。それが何も返さず、無視したということは、答える気がないか、答えたくないか、はたまた両方か。
 どのようにしても、みとりの心はまだ何かにとり憑かれているのだということを、ヤマメはひしと感じていた。
 偽りの空模様は、その予感を指し示すように、暗雲に満ちていた。
 


 縁は暗闇の中にいた。すっかりと慣れ親しんだ闇だ。相も変わらず、地面を踏んでいるはずの足場の感触がない。
 ははっ、と軽く笑ってしまい、尻餅をついた。心持は、以前よりは断然良い。ここが夢の中であるという自覚があったからだ。眠る直前のことは覚えていないが、フレッチャーの話や燐やこいしとの再開をしっかり思い出せるのがその証拠だ。
 ではどうして夢の中でもこんな場所に来てしまったのだろう、と疑問に思うと、右腕の中の居候が言っていたことを思い出した。弱ったときの精神などにも出てくる時がある、と。
 ならばそうなのかとも考えたが、一向にあの不可思議生命体が出現しないこともあって、やはりそれも違うと決めた。
 そのままぼうっとその闇の中を眺めていると、ぽつり、ぽつりと光の点が現れた。何なのだろうと縁が近づいてみると、それは一瞬、虫や獣の姿となって、すぐに飛び去って、また光の点に戻ってしまった。また別の光点を見つけると、今度は妖精と、あちらの世界で出会ったネドモたち、更には慶介や愛の姿をとって、また飛んでいってしまった。
 光点はやがて縁の周りを埋め尽くし、大きな光の大河へとなった。
 縁はその流れの中にいる。闇の中にできた天の川の真ん中にいるのだ。
 この世界そのものだ、と縁は思った。
 闇という何もない場所で、あらゆるものの命がそれぞれの輝きと姿をとって、しかし遠くからは小さな粒にしか見えず、それでも懸命に生きようとしている。
 そんな命たちが寄り集まって大きな河を作っている。
 そのことに気づいて、縁は闇の中で涙を流した。胸の奥から体全身を、あの洞窟から抜け出した直後の気持ちに似たものが、別の作用を伴って、満ちていく。
 縁の流したものすら、その河の流れの一粒となって、生命の輝きの中に参加した。
 遠くの場所に目をやれば、こことはまた別の光の大河が流れている。
 ああ、こんなにも大きなものなのか。
 縁は心からそう思った。そして同時に、あの“線”が色々な光点に伸びていることにも気づいた。それに沿う様に歩いていくと、一つの粒があった。触れると光点は、八雲紫の姿をとった。
 また別の線を辿っていくと、今度は空や燐、こいしやさとりといった、地霊殿の皆がいた。
 他の線を、縁は辿り、再び出会っていく。
 十一、勇儀、パルスィ、ヤマメ、キスメ。
 病院の皆、中学の時にケンカした相手、縁を虐めていた上級生たち、幻想郷に来るまで一緒だったクラスメート、九歳のときに出会った一人とニ柱。
 そして、顔も名前も思い出せぬ、二人の男女。
 それらを一つ一つ巡っていって、曖昧だった“線”の正体が、今、わかった。

『縁を見る程度の能力』

 繋がりを、縁がこれまで関わったものを、縁がこれから関わるものを、その全てを知らせる絆の証。
 それが縁が“本来”持っていた力だった。
 その能力の線が、一つ、河から外れた場所に伸びていた。縁はそれを追う。
 そして出会ったのは、赤色の帽子を被った、河童の少女だ。
 こちらを威嚇するように睨み付けてくる少女に、縁は、右腕を差し出した。
 

 それがどうなったかが判る直前に、縁の意識は覚醒した。
 柔らかなものの上に身を横たえている。およそ一週間ぶりのベッドの感触だ。そして、腰元には不自然に膨らんだシーツ。掴んで持ち上げると、こいしが腰に手を回して静かな寝息を立てていた。無意識を司る瞳も閉じ、縁の腹の上に転がっている。懐かしい光景だった。わずか一週間足らずというのに、幾年も昔のように思え、そんな感想が出た。
 こいしの頭に手を置いて、ゆっくりと撫でながら、この地霊殿の第二の自室に戻ってきた経緯を思い出す。
 こいしを背負いながら灼熱地獄跡を登っていき、最後の中庭までの吹き抜けをロケット推進よろしく一気に飛び上がり、背中に掴まっていたこいしや中庭にいた妖怪たちを驚かし、地霊殿へと舞い戻った。それを窓から見ていたさとりと目が合い、「よ、久々」などと声をかけたら、何故か弾幕の弾を投げられ、それから逃げているうちに廊下に追い詰められ、最後には胸を一度軽く殴られて「お帰りなさい」といわれた。
 
「疲れてるでしょうし、少しでも休んでいてください……お風呂や食事は、その後でもいいですから」

 何があったかは、恐らく心を読んで大体は把握したのだろう。だからこそ深くは問わず、さとりは縁に休むよう言ってくれたはずだ。その言葉に甘えて、未だに掴まったままのこいしに、このままちょっと寝るからどいとけ、と注意して、そのまま返事も待たずにベッドに倒れこんでしまったのだ。
 ベッドは縁やこいしの服のせいでそれなりに汚れてしまった。これは後で洗うのが面倒だな、と思っていると、不意にドアが開いた。

「……あ」

 そう呟きが零れたのはどちらだっただろうか。とにかく、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をした少女が開いたドアから顔だけ出し、そのまま何もなかったように顔を引っ込めようとした。

「……ちょっと待ってくれよ」

 それを縁は、咄嗟に引き止めてしまった。完全に閉まりかけたドアが、ピタリと動きを止めた。しばらく二人は何も言わず、こいしの寝息だけが廊下まで響いたが、やがてまたドアが開いていき、黒髪と翼を揺らして、霊烏路空が部屋へと入った。
 その身体は以前よりも更に痩せ細り、翼の面積は明らかに減っていた。どこか困惑した目の下にはクマが出来、頬もまた以前の柔らかさを失っていた。何よりも、ドアに回す以外、その身を決して壁や調度品に触れようとはせず、ドアの傍から離れなかった。
 あまりにも痛ましいその姿に、縁の顔が歪んで、左手がシーツに深いシワを作った。それでも顔のほうはすぐに怖がらすような歪みを取り繕い、できるだけ笑みを作って、口を開いた。

「……久しぶりだな」
「……うん、そうだね」
「あれから、症状はどうだ?」
「………大丈夫、だよ。予定通りになってる、だけ」

 なら、大丈夫のはずがないだろう。歯を食いしばりそうになるのを決死に抑え、終始暗い表情の空を少しでも明るくしたいと願って、できるだけ能天気になるような顔を作って、実は会話の種も見つからない真白の心を搾り、言葉を見つけ出す。

「そっか。けどよ、明日、いや今日か? まぁどっちにしろ俺があの河童を何とかするから、それまで我慢してくれよっ。そういや俺、別の世界に行ってたんだぜ。お前らのいう俺の世界じゃなくてさ……」
「……よ」
「ん、どうした?」
「いいよ」

 空の目が、細く鋭く、しかし揺れる意思の光を宿して、縁を睨みつけた。

「縁は、もう何もしなくていいよ」
「……なんだって?」
「言葉通り、だよ……もう、何もしなくてもいいよ。そうすれば、万事解決でしょ」
「っ……何が、万事解決だよ!」

 好意を寄せた少女の、度を越えた暴言に取り繕ろうとした意識が全て剥がれ去り、荒げた声が口からあふれ出した。心中で、こうじゃないだろ、これでは別れた時と同じだろう、と冷静な縁自身が叱責するが、それでも止まれなかった。

「だって、私が今いなくなれば、全てが上手くいくんだよ! 縁が生き残って、こいし様やお燐、それにさとり様にもこれ以上迷惑かけなくて……全部、丸く収まるんだよ」
「よくねぇ! お前がいねぇじゃねぇか!」
「いないほうがいいんだよ。縁を独り占めにしちゃうかもしれない私がいたら、こいし様や、お燐が……っ」
「独り占め? お前、何言って……」

 途中まで出掛かっていた言葉が、しかしパズルのピースをはめ込むように縁に答えを導き出した。空の顔が、ほんの少し、朱に染まって明後日の方向を見て、胸元で両手が祈るように合わさっていた。しかし横顔から覗く瞳は濡れ、悲哀の色を帯びていた。

「……聞いてたのか?」
「……うん……縁が、戻ってきたところから、ずっと見てた……偶々だったけど」

 ほんの少しだけ目を逸らしていたけど。そういって空の目は、暗く沈んだ。
 燐に言い放った言葉、決意、そして目の前の少女/妖怪への好意。その全てを既に聞かれていた。普通ならば、あまりにも出来すぎていて笑い転げてもおかしくはなかったが、しかし今はそれ故に、空を苦悩させている。

「……そう、か」

 だから、そうとしか言えなかった。何か、もっと強気なことを言えればいいのだろうが、自らの思慕を知られていて、それが間抜けなことが原因だったのだから。頭の中が、さっきとは別の意味で真白になっていた。

「……こいし様は」

 数秒のほどの沈黙の後、空は囁くように話し始めた。

「縁がいないと、ダメなんだよ……きっとまた、壊れちゃう」
「それ、どういう意味だ」

 縁が尋ねると、空はゆっくりと語り始めた。縁がいなくなってから数日後、こいしの情緒が再び、いや以前よりも更に不安定になったこと。河城みとりとの遭遇戦で、こいしや勇儀がその中で負傷したが、代わりにこいしがみとりとの会話で一時的に安定したこと。
 だが、地霊殿の誰もが、いつこいしの心が以前の状態に戻ってもおかしくはないと考えていることも。
 それらを聞かされ、縁は未だ自分に抱きついている少女を見下ろした。その姿には地霊殿からいなくなる直前よりも少々の違いはあるが、それでも灼熱地獄跡で再開したときは、代わりのない様子だった。再び暴走したなどと言われても、実感が持てなかった。

「縁が思っているほど、こいし様は強くないよ……ううん、きっと、妖怪ってそうだよ」

 空は、縁を見ないまま、ぽつぽつと言葉を紡いでいく。先ほどから部屋中に話し声が響いていたせいか、こいしの手が寝相で剥がれ、体が上向きとなって、縁の体が少女から解放された。

「ずっと、あそこで考えてたんだ。仕事もそんなになかったし、お燐だっていつもいてくれるわけじゃないし……考えるしかなかったんだ。縁に言われたから、考えたんだよ……私たち(妖怪)って、何だろうって。すぐに忘れちゃうから、何度も、何度もやり直しちゃったけど」

 ようやく、空は笑った。それは自嘲だった。

「それで、思ったんだ。きっと私たちって、か弱いんだって。人間の思いや幻想でしか生きられないから……人間がいなきゃ、“ここ”にもいられないから」

 変なこと言ってるよね、私。そう言って、空はようやく縁を見て、その自嘲気味な笑みを向けた。
 妖怪はか弱い。
 たとえどんなに人間より力が強くて、超常の事象を引き起こし、運命すら単独で歪ませ操り、永い時を生きようとも。
 けっきょくは、一人だ。
 それだけでも辛いのに、妖怪には生きるために必要なことが多い。種によって違うが、人間を驚かせたり、殺したり、はたまた逆に喜ばせたり、幸福にさせたり。ただ隣り合って気づかれないだけというものもいる。そして、植物や虫や人間よりも、弱点と呼ばれるものが多い。
 だからこその、か弱さだ。
 不思議な気持ちが、縁の胸に去来した。それと同時に思い出すのが、フレッチャーに聞かされた、ネドモたちの経緯だった。人がいなくなったから、人の残したものでかろうじて生きている妖怪たちの子孫。そして目の前にいる、幻想郷という隔離世界で生きている、妖怪の一人。
 同じなのだ。誰かが存在しなければ、ここにいられない。
 妖怪も、そして人間も。
 もしかしたら、命というものも。

「……なら、お前だって他のやつがいなきゃ、生きられないってことだろ」
「うん。けど私は、もうすぐ死んじゃうから関係ないよ」
「だったら、お前の言葉通りなら、お前がいなきゃいけない奴だっているだろうがっ」
「……あ、そうだったね」

 自らの失敗をそれほど悔いる様子もなく、空は自嘲の笑みを浮かべたままだ。空っぽの笑顔だと、縁は思った。それは霊烏路空という少女/妖怪には、決して似合わないものだ。

「り……お燐だって、さとりだって、フレッチャーだって、あのバカ三匹だって、それにこいしだって、お前がいなくなったら悲しむだろっ。それに、こいしが河城みとりと戦ったのだって、お前のためでもあったかもしれないじゃないか」
「そう、かな?」

 縁の言葉をまったく信じていない、いやそもそも、言葉の意味も受け入れたかもわからないほどの呟きだった。一度は静まったはずのあの猛りが、再び湧き上がってきた。

「それに、聞いてたんならわかるだろ。俺だってな……いや、俺が一番、お前に死んで欲しくないんだよっ」
「……うん、きっと、そうだね」

 空は、空疎な仮面をつけたままだ。似合わない、いつも燐やこいしと共に、太陽の陽気さを振りまく笑いを浮かべていた少女には、あまりにも似合わない仮面だ。
 体が勝手に動き出した。ほんの少し眠っただけだというのに、全身から今までの疲労が一気に悲鳴となって縁の意識を揺さぶったが、それを歯牙にもかけず、縁はベッドから起き上がった。
 中空に浮かぶ空の体が、一瞬、震えた。

「まだ起き上がっちゃだめだよ、縁っ」
「うっせぇ。バカなこと言ってる奴を一発ひっぱたいてやんなきゃ、腹の虫が収まんねぇよ!」

 一歩、踏み出す。素足の足裏がひんやりとした床の感触を、空の場所まで続く道を伝えてくる。それに合わせて、空の体が、僅かに後退し、顔についていた仮面が剥がれ、驚愕から、怯えへと変わっていく。

「聞いてないみたいだったら、何度も言ってやる! お前に俺は、死んでほしくない! だから、みとりを倒して、お前も助ける!」
「そんな……お燐に聞いたよね、私はもう、覚悟してって……っ」
「それがどうした!」

 二歩、三歩。縁と空の距離が縮まるに、空の顔に、彼女が戻ってくる。

「そんな死ぬためだけの覚悟なんて捨てちまえっ、そんなのお前になんか似合わないんだよ! お前のスペルカードでさっさと燃やしちまえばいいんだ!」
「そんなこと……っ、こいし様は、縁のことが好きなんだよっ!」

 後一歩、というところで、縁の足が止められた。それに気づき、これ幸いと、空は更なる言葉を、感情のままに振り撒きだした。

「本当はお燐だって、縁が好きかもしれないんだよ! みんな縁のことが好きなんだよ! その大切な命が無駄になったら、ダメだよ。そうだったら、バカな私の方が……」
「そんな大切もクソもあってたまるか! それでも俺はっ」

 最後の一歩を前に出し、すかさず空の浮かんだ身体を掴んだ。あっ、と空が抵抗する間もなく、痩せた翼までもが、すっぽりと縁の腕の中にあった。

「お前が、好きなんだっ」

 だから、絶対に死なせたくない。
 腕の中にある、妖怪の命。ここからいなくなる直前まで、あれほど拒絶した少女。それでも肌を付き合わせれば、同じ鼓動と、温もりがある。
 生きている。
 ここにいる。
 それだけが今、大切なことなのだ。

「…………そんなに触ってると、発作がきたとき……縁、死んじゃうよ?」

 大人しくなった空が、胸の中で声を霞ませながら呟いた。それに対し、縁は抱きしめる力を強めながら答えた。

「そん時はすぐに離れて、収まったらまた抱く」
「ぷっ……何それ」

 空は噴き出したように笑った。それを聞いただけに、空が今、どんな顔を浮かべているかわかった。それがたまらなく愛おしくて、また力を強めた。するとそらがようやくもぞもぞと動き出して、苦しい、と言った。慌てて離すと、空は下を向いたまま、両足を床につけて、手を腰の辺りで遊ばせていた。
 急に気恥ずかしくなって、縁も明後日の方向を向いてしまった。
 そのまま妙な空気が漂い始めた中、最初に口を開いたのは。

「あのさ」「あのね」

 同時だった。
 二人の顔が、ここで始めて、本来の姿で正面から向き合った。空の顔は真っ赤だ。瞳は相変わらずどこか憂いを帯びているが、その質は先ほどまでとは違って、見ていて引き込まれるようなものだった。そしてその目に映る縁自身も、先までとは打って変わり、顔を真っ赤にした情けないものになっていた。

「あ、う、うつほから先言えよっ」
「え、縁からでいいよ、うん」
「いやいやここはレディファーストってことで空からだなぁ」
「紳士ならここで率先して行動すべきってことで縁からで」
「いやいや、だったらお前が……」「ううん、縁から……」
「「ぷっ」」

 不毛な応酬を始めかけて、二人は急に同じ懐かしさに囚われて、笑い出した。今までの重苦しいものや恥ずかしさを全部吹き飛ばしてしまうような笑い声だった。ベッドの中でこいしがううん、と呻いた時に、ようやく気づいて二人は笑うのを止めた。
 そうしてから、空は縁に向き直った。その身体は一見弱弱しく見えるが、しかしもう悲壮や悲哀、自虐といったものを取り払った、いつもの霊烏路空の姿があった。

「その、ね……私、縁のこと、信じてみるね……ううん、前から信じてたけど……今度は、もっと信じてみるっ。だから、ね……」

 そうして、空はおもむろに縁に近づき、一度また顔を俯かせた。そうして勢いよく顔を上げると、背伸びをした。
 そして、縁の頬に口付けした。

「だから、あの河童に勝って、こいし様やお燐に弁明してね! 続きは、その、それまでお預けだからっ!!」

 直後、空の体が慣性の法則を無視したような機動でドアを開き、部屋から飛び出していった。その折に部屋の外から「撤退だ、撤退しろ!」「う、うにゅぅぅぅぅ!? 何でこんなにいるのーー!?」などという悲鳴のような嬌声のような阿鼻叫喚が響いたが、縁はしばらく動けなかった。
 無意識に頬を触れる。空がキスしてくれた頬。

「…………はは、やべぇ」

 妙な嬉しさが縁の全身から湧き上がり、心地よい甘さが伝播するようだった。それと同時に、胸の奥で、何かが燃え上がった。それは火だ。縁があの洞窟の中で得た、自分や世界に対する答えというものを象徴する火。
 それに今、自分が見事に惚れたと自覚して、告白して、了承ともいえるような行為をされて、勝ってといわれたことで、また新たな火が燃えた。

「絶対に、負けらんねぇな」

 火と火が合わさって、炎となる。灼熱地獄の炎すら焼き尽くすような、強い意志の炎。
 それを胸に抱き、ゆっくりと一度深呼吸をした。すると、今まで忘れたかのように、腹の音が鳴った。本当に今更で、可笑しくて、嬉しくて。

「ハァァラショーーー!」

 疲れや悲鳴など忘れて、奇妙なテンションでドアから飛び出していってしまった。その頭にはこの瞬間、みとりや妖怪や能力などといったものはない。ただ一人の男の子としての幸福のみが満たされていた。

 そして、残された部屋では。

「……―――」

 一人の少女が、思慕を抱いた少年が寝ていたベッドの中で、消えるように呟いていた。


 あとがき

 告白→キスはエロゲ・ギャルゲの掟です。けどマウス・トゥ・マウスは早すぎると思います><
 あと、恥ずかしさに悶死したり、無駄な甘さに糖死したら負け。





[7713] 第二十九話――興<いかん、そいつに手を出すな!  
Name: へたれっぽいG◆eaa9c481 ID:a2573ce4
Date: 2011/02/14 14:47
 戦いの前夜、地霊殿は一部を除き、とても“平和的”であった。
 縁が眠りから起きたのが夕暮れ時だったので、もはや残すとしたら夕食ぐらいであったが、この日は縁が帰ってきたということもあって、妖怪四人と人間一人に鳥類一羽、加えて変態な三匹だけではなく、地霊殿のペットたちが集まれるだけ集まって、中庭でささやかな宴を開いていた。ペットの中で縁と親しいもの、主に朝夕の邸内掃除の際に顔をあわせたり協力して当っていたものや、失敗してしまった料理を進んで食べてくれたものは、特に帰還を喜び、それ以外のものたちはひたすら酒宴を楽しみ、幻想郷の住人らしくお気楽に過ごした。
 そして主賓でもある縁は、その妖怪たちに入り混じって、何も考えていないように飲み食いしていた。衰弱状態とほぼ言って等しい状態で、加えて後には、自分と空の生死を背負って勝機の見えない戦いに身を投じることになるのに、それをまったく感じさせることがない。
 だが心を読めるさとりも、灼熱地獄跡で一戦した燐も、地霊殿に向かって一緒に歩いたこいしも、そして想いを打ち明けられた空も知っている。いや、たとえ知らずとも、妖怪の本能ともいえるべきものが覚えている。
 死を前にしたとしても変わらぬものを持てる人間こそが、妖怪と人間の、あるべき狭間なのだと。
 そして縁がまず最初にダウンしてその場で眠りこけ、それを燐が猫車で端に放置し、ペットたちが主賓を無視して更に騒ぎだすと、さとりと空が少々静かにするよう注意するが、しかし火車と覚妖怪の妹の二人が自棄酒のように一升瓶をラッパ飲みして酒宴を盛り上げほぼ夜通しで続き、そして夜明け近くにはほとんどのペットと妖怪が地に伏した。中にはゲロ色の噴水をあげるものもおり、地霊殿の中心ともいえる四人も、無意識の内にいつもより高揚していたのか、顔を青くして思い思いの場所にダウンしていた。
 その中で一人、起き上がる影がある。最初に倒れたはずの縁だった。
 頭を抱えながら周囲を見渡し、惨状を苦笑いを浮かべ、体勢が明らかに悪いものをきちんとしたものに戻していく。その際、相変わらず無重力空間にでもいるように身体を浮かして丸める空に左手を伸ばし、袖を掴む。だが直後、悪寒のようなもの、“線”の震えを感じて手を離した。
 途端、空の顔が酒とはまったく別種の、あの内側に何ものかが巣くっているかのような苦痛の表情となり、周囲に甲高い音が響いた。同時に中庭にあるガラスの構造物にヒビが入り、耳のよいペットたちが顔をより険しくした。
 これで果たして、正午まで持つか。宴の前に燐から伝えられた伝言を思い出して、縁の両手が強く握り締められた。
 そのまま踵を返して洗面場で顔を洗い水を飲み、部屋へと戻って、帰った時に着替えさせられていた寝巻きを脱ぎ、ぼろぼろのままの学生服に袖を通す。もはや旧都の呉服屋でも修繕不可能なほどに千切れ、買い換えなければならないもの。最後の務めだ、と世話になった服に心の中でつげ、地霊殿の入り口まで歩く。
 その途中、中庭で残ったつまみの類だけを片付けていたフレッチャーと、一度だけ目があった。しかしすぐに、あちらが目を逸らし、そのまま作業に戻った。言うべきことは既に言った、と言葉なくその背中は語っている。
 縁もそれがわかっていて、フレッチャーから目を離し、他のみなに視線を移していく。
 地霊殿に運んでくれた火焔猫燐へ。
 妖怪らしさを感じさせず、しかしもっとも己に接してくれた古明地こいしへ。
 見ず知らずの自分を何だかんだで受け入れてくれた古明地さとりへ。
 心が何度も不安や恐れに襲われた時、傍にいて手を握ってくれた霊烏路空へ。

「……いってくる」

 その誰にも聞かれていないのを承知で呟き、縁は地霊殿のドアを開け、外へと出た。すっかり狂った体内時計では夜明け直後だという感覚だが、それに関わらず地底は暗かった。元々独特の明るさと暗さではあったものの、今はその比率が暗さに傾いている。
 曇っているのかもしれない、と縁はそれらしい推測をして、旧都の中心、“地獄の深穴”の直下向かって歩いていく。何気なしに見上げた先に、小さな赤い点が一つ、そこへと向かって飛翔していた。“線”を覗いてみると、その赤い何かと縁は繋がっていた。
 
「早いなおい、大丈夫なのか?」

 不意に声をかけられ、縁の視点が地上へと戻された。これも懐かしいもので、縁の顔が自然と綻んだ。

「十一……」
「は、なんだよその微妙な面は? オレ様に会ったのが嫌か?」

 林皇十一は壁に寄りかかったまま腕を組み、悪ガキがニヒルを気取るような笑みを浮かべていた。変わった様子のない地底での数少ない男仲間の問いかけに、縁も同じものを顔に作り、不敵に答えた。

「そんなわけないさ、むしろお前の方が俺に会うのきつかったんじゃないか?」
「べっつに、そん時はそん時さ。ま、最悪絶交と腹パンで済ましてたとこだな」
「嘘臭ぇ、ぜってぇ人の喉下噛み千切るつもりだったろ」
「んなわけねーよ。そんな品のねーこと、誰がやるか」
「そうかよ、だったらいいけどな」

 互いに憎まれ口を叩きながらも、その会話に互いの現状の全てを含み、そして理解しあった。その証拠に、クツクツと二人は喉を鳴らして笑う。気心の知れた相手なら、これだけで十分なのだ。
 だが、それだけでも、これからのことはわからない。十一は含み笑いを潜めると、その腕を解いて、一枚の札を取り出し、縁に向かって放った。第三の腕で反射的に受け取り、その札を見てみる。描かれた文様からスペルカードであるのがわかるが、模擬戦では見たことないものだった

「『幻像「森林から覗く目玉たち」』簡単に言うと分身だ。人間でも霊力に心得のあるやつにはちょっとぐらいなら使えるし、ま、時間稼ぎぐらいにはなるだろ。持ってけよ」
「……どういう風の吹き回しだ?」
「あの半妖はやばい」

 ぎらりと虎の化生ともいえる妖怪が、狩りを前にしたかのように目を細めた。

「妖怪じゃないから人間としての“努力”ができて、人間ではないから妖怪らしい“純粋さ”を持ってる……あいつの過去に何があって、そしてどんなに能力がやばかろうと、この二つの要素が河城みとりの強さだ。勿論、お前が知らないだろうけど、勇儀さんもぶっ飛ばしたソルディオスっていう緑色の光もヤバイ。お前がこうして戻ってきたんだから勝機の一つや二つはあるんだろうが、手札は多いほうがいいだろ?」

 まぁお荷物になるようなら持っとくだけでいいさ。十一はそれだけ言って用は済んだと言わんばかりに沈黙し、再び腕を組んで背中を壁に預けた。
 縁としても実利的な面から言えば、これはありがたいことだ。あの時何が起きたかは縁自身も全容を把握していないが、名状しがたい怪物を倒すために咄嗟に唱えたスペルカードのせいで、その元となったカード二枚は使えなくなっていた。
 唯名論的な面があるスペルカードは、その発想元と力があればいくらでも作れる。しかし『穿孔』のスペルを生み出した時、縁の体自体には最小限の霊力しか残されていなかった。それを右腕以外の場所から補うために、既に霊力を込めていたスペルカードから吸出し、書き換えが起きていた。結果として力を無くした二つのスペルカードは『螺旋』をベースに書き換えたことで役割を終えてしまったのだ。
 本来ならばそれはスペルカードを触れてまだ二三ヶ月の、霊力の扱いが多少上手いだけの縁が出来ることではないが、縁の天才肌染みた直感と、右腕の“何か”の表出、そしてあの微弱な霊力でも可視化されるまでに純化される環境が、それを可能にしてしまった。
 本人からすれば、出来ると思って思ったことを、足りない部分を気合で補っただけの感覚であった。

「……ありがとよ。けどこいつは、お守り代わりぐらいに借りとくな」
「だったら、ちゃんと返せよ」

 一枚しかない、だから縁は、十一からのそれを使うわけにはいかなかった。弾幕ごっことして考えるならば、それは失策かルールを知らぬ無法者の思考だ。だがその先にあるものを、そして河城みとりがしたということを考えれば、常套の決闘とは言いがたくなるだろう。
 だからこそ、そこに縁という人間の意地が、ちっぽけな我侭が入る余地ができる。我侭だからこそ、他のものの介在を許さない。
 
「出来る限りなっ」

 それだけいって、縁は十一の前を通り過ぎて、また歩く。十一はもはや何も言わず、ただ足音だけで縁を見送った。
 静かな旧都、覚えているのは騒がしい時間だ。もしかしたらこれで見納めと考えると、自然、こみ上げてくるものがあった。それを今は頭を振って忘れ、今一度上を向く。
 気づけば、旧都の中心にいた。縁は一度下を向いて、深呼吸をする。そして藍色の腕を生み出し、一気に地面へとたたきつけた。その衝撃と反発力を利用して、一気に浮かび上がる。その第三の腕を消し、右肩の方へと霊力を集中させた。
 凝縮させ、方向を定めて、爆発させる。さながらジェットエンジンのアフターバーナーの如く藍色の光の炎が縁の肩から噴き出し、その身を押し上げ、軌跡を多少らせん状に歪めながら、しかしそれでもまっすぐ地上への道へと昇っていく。
 それは先日の緑の光とは対照的に、見ているものが自然と見上げてしまうような光だった。



 第二十九話『君想フ声・前』



 そこは迷宮の奥地の一つ、地底湖。河城みとりは、一人で湖岸に立っていた。拾った小石を水平に投げ、三段跳びをさせてから、泡のように沈んで消える様をぼうっと見守る。
 小石は沈んでいく。下へ、下へ。幻想郷にあって異色を放つ存在と表裏となった水底へと。それを目で追ってから、胸元の錠前を取って、何となしに弄くる。一瞬、それを引きちぎって、あの石のように湖へと投げてしまおうかとも考えた。

「……バカね」

 みとりはぽつりと呟いて錠前から手を離すと、その場に座り込んだ。懐中時計を開く。最後の日が始まって、まだ八時間。みとりがここに来て一時間、卯の中刻、午前七時。妖怪の常識でいえば誰も来るはずがないし、場所的にいえば件の人間ならばなおさら時間がかかるのは明白だった。それでもみとりの身体は勝手に動いていた。
 一週間ぶりに帰った我が家で、建設時以来誰も足を踏み入れたことのなかった河城みとり邸に何食わぬ顔で入ってみとりに酒と食事を要求してきたヤマメとキスメを起こさないようにし、酒飲み妖怪たちがいびきをかく旧繁華街の上を飛んでいった。
 迷宮の中もかの不思議生命体たちの繁殖期が過ぎたせいか静かなもので、何とも会うことはなかった。
 今までのみとりが歩んでいた道をなぞる様に。

「……よっ」

 不意に、背後から声をかけられた。以前も今も忌諱し、しかしこの瞬間だけは待ち望んだ声の主だ。みとりはその声にどこか違和感を覚えながらも、振り返ることなく疑問を口にすることにした。

「早いわね。もっと遅いかと思ってたわ」
「いや、何か目ぇ覚めたら、誰かが大穴に飛んでくのが見えて……俺も早く行こうって思ってさ。それで飯だけさっさと済ましてこっちに来た」

 声をかけられてから、みとりは既に周囲を探っていた。気配は自分以外に一人だけ、迷宮に住んでいるものたちは遠巻きにはいるだろうが、地霊殿の妖怪たちはいない。文字通りの、一対一だ。

「へぇ……どうやら、人間には珍しい空(そら)を飛ぶ術を覚えたようね」
「ま、偶然だし、強引だけどな」

 それにしても、飛んでたのはお前だったみたいだな。中邦縁はそういって、深呼吸をした。みとりもそれに合わせて起き上がり、おもむろに標識を引き抜いた。小波が聞こえる。みとりの心境が、自身で考えていたよりも穏やかで、いや表面上そうであり、本当はもっと虚無的で混沌としたものが奥で葛藤を続けているが故の、静寂のおかげだった。
 
「聞いて言いか?」
「何を?」
「どうしてここにしたんだよ。そりゃたしかにお前は場所とか前には言ってなかったけどさ……」
「勇儀さんに言われただけよ。わたしが能力全てを使うと被害がでかいからって」
「……意外だな、お前なら別に、そういうの気にしなさそうなのに」
「偏見ね。わたしだって、恩人の頼みぐらい聞く」

 正直に言えば、勇儀がそのようなことを叫んでいたのを思い出したのは、昨日燐と一緒にいた、未だ火傷や傷跡が残る勇儀を見てからだ。ソルディオスの力、いやその源。ただでさえ地底中の妖怪や妖精、鬼を敵に回すようなことを起こして今更というのに、それでも勇儀の言葉には、ついつい頷いてしまうような魔力めいた力があった。
 これがカリスマやオーラと呼ぶべきものか、と自身の能力や遺跡の存在以上に不可解で薄気味の悪い代物にしたがってしまった自分自身に、みとりは暗く笑う。恩人の願いに報いた、というのに、確かな本音も混じっているのが余計にみとり自身の心をこじらせた。
 良心は不似合いなものだという意識があるからだ。

「さて、疑問には答えたわ。それじゃあ……死ぬ前の前戯はいい?」
「……一応、な」

 中邦縁が、ゆっくりと構える。足裏が浜を踏みしめる音でわかった。

「わたしのカードは……そうね、そっちに選ばせてあげるわ。別に一枚でもいいわよ」
「だったら……全部だ」
「……そう」

 自棄になったのだろう。みとりはそう思って、ようやく縁を見た。そしてふっ、と一瞬、みとりの気持ちというものが“消えた”。そこにあったものが信じがたいものだったからだ。
 自然体。いやそれよりも、もっと穏やかな、それこそ気心の知れた友に会いにきた若者のような、微笑。些か微笑と呼ぶには挑発的なものが多く含まれているが、間違いなく微笑であった。どう見ようとも死という絶望を前にした人間の顔ではない。

「随分と、余裕そうね」
「悪ぃな、これでもいっぱいいっぱいだよ。だからさっさと始めちまいたい」

 そう、と返事だけはしたが、みとりは縁の言を信じはしなかった。敵に対して無意味に自分の弱みを晒すことはないだろう、と内心で零し、望みどおりに手の中に自分が持つ十二枚全てのスペルカードを扇のように揃えた。うげっ、と縁が呻く。

「多いな」
「今更後悔しても知らないわよ」
「するか、言っただけだ……それじゃ、こっちも」

 そういって縁が出したには、一枚のスペルカード。何の変哲もない、スペルカード。それだけだ。

「……一枚、だけ? それだけで、本当にわたしに敵うと思ってるの?」

 思わず眉をひそめて、みとりは問いかけた。スペルカードを持つ手に、自然と力が篭った。語気が強くなり、胸裏から黒々とした悪意や憎悪、苛立ちやプライドといったものが沸き立ち、妖力となって体外に流れ出した。それでも中邦縁は態度を崩さず、悪びれもなく理由を口にした。

「ちょっとひと悶着あって、これ一枚だけになっちまったんだ……けどな」

 スペルカードを仕舞い、一度は敗北し、圧倒的な、月と蟻ほどのスケールの違いを余すことなく味わされたはずのみとりを前にして、縁は構えを取った。そこに怯えの感情は見えない、迷いもない。故にみとりは困惑し、激昂しかけ、呑みこまれかけた。

「今の俺は、誰にも負ける気がしねぇ」
「っ……それなら、それを」

 気圧されかけた己を叱咤し、みとりもスペルカードを仕舞い標識を頭上で廻し、その穂先を挑戦者目掛けて突きつけた。さざ波が二人の気迫に圧されたかのように引いていき、一瞬の静寂が広い空間に満ちた。

「……証明してみなさい!!」
「言われなくてもなぁッ!!」

 そして静寂は、機械を一部とした人間と、人と妖の狭間の子の叫びによって切り裂かれ、岸辺を踏み抜く音が小波に混じった。互いの最初の一手は接近。縁の右腕から藍が乖離し新たな腕となって拳を作り出し、みとりは標識を背負うように構える。
 繰り出したのも同時、藍の腕と赤のポールウェポンが中空で激突し、削れた縁の腕の霊力が虚空へと散る。そのままみとりは押し切ろうとするが、しかし縁の弾幕はくるりと手首を翻すと、標識のポールを掴んだ。くん、とみとりの身体が浮遊感に襲われた、持ち上げられたのだ。

「うらあっ!!」

 そのまま縁が湖上向かってみとりを放り投げた。ちっ、と舌打ちをして逆さまのまま急制動。X状の妖弾を標識に纏わせ、縁に向かって振りぬく。人間はそれに対し避ける素振りも見せず、機械の腕を下に大きく振りかぶり、それと比例するように弾幕を巨大化させた。その大きさ、みとりの身長の二倍。
 それを、掬い上げるように振り上げた。第三の腕が地面を抉り、湖面を抉り、弾幕を掬い上げた泥と水で相殺してみせた。これにはみとりも目を見張り、内心で縁に対しての評価を修正する。伊達にいなくなっていただけはない、という言葉をつけ、スペルカードを取り出す。

「弾幕にしちゃ雑ね!『禁生「生れ赤子は赤い顔」』!」

 かつて眼前の人間が突破できなかったものを、最初に切る。これでプレッシャーをかけ、動きを鈍くする。周囲に展開した二種の弾幕を射出体勢にしながら、宙に広がった泥の先を睨みつけ、相手の弾幕がいつ飛び出してきてもいいよう備える。
 しかしみとりの予想は、そこからカーテンを突き破ってきたものによって裏切られた。

「舐めんなぁっ!!」

 右腕を突き出し、藍色の光を右肩を噴き出しながら、中邦縁が一直線に飛び込んできた。たまらず目を見張り、弾幕を発射する。二種が重なり合って生まれた紅の蝶が一斉に縁向かって動き出すが、みとりの予想を超えた速さで接近する縁には、間に合わない。
 みとりの頭上をとった縁が右肩の光を消して、第三の腕を顕現する。その大きさは、先ほどの更に二倍、みとりの四倍だ。たまらずみとりが両掌を突き出し、能力を使って相手の侵入を阻止しようとした。
 その能力に向かって、藍色の拳が叩き込まれた。絶対的な防御を誇るはずのみとりの“禁止”の力が、揺れた。同時にみとりの身体は湖面へと吹き飛ばされ、水中向かって強制的にダイブさせられた。水しぶきの柱があがるほどの衝撃が突き抜け、能力を解除してしまった。
 それによって気をやってしまったのも一瞬、周囲にばらけてしまった蝶を水面に集結させ、自分が飛び出すのと同時に縁へと全弾幕を一斉に発射した。頭上の縁は再び光を放ち、バカの一つ覚えと突進してくる。みとりは嘲笑し、蝶の量を更に増やし、弾幕の密度を押し上げた。
 人間の身でこの量を捌くのは困難、ましてや完全展開した今、以前よりも密度はある、中邦縁がいくら飛ぶ手段を覚えていようが突破は不可能だ。そうタカを括った。
 だがそれでも迫ってくる縁は見て、おかしいと気づく。そもそも真っ直ぐ飛んでいるだけなら、既に被弾していてもおかしくはない量だ、ましてや避ける素振りもない。怪訝に思い、理性的思考でもって敵を注視する。そこでようやく、縁がしっかりと回避行動をとっていることに気づいた。
 それはおよそ回避行動とは言いがたい。何故なら縁は、身体を小刻みに動かして、ほとんどその軌道から逸れていないからだ。正面からの弾はさすがに左手で迎撃しているようだが、それでもこれは驚愕すべきことだった。
 いったいどれほどの胆力があれば、この弾幕密度を前にほとんど直進のような真似事ができ、しかも最小限の動きだけで避けようと思うのか。弾幕ごっこがいくらそれらを推し量る側面を持ち合わせているとはいえ、みとりは自身の弾幕が並みの妖怪を上回っているのを自覚している。
 その考えだからこその、思考の停止。たとえ数秒の間でも、高速戦闘の弾幕合戦において、それは致命的だ。

「来たぜ、ここまでっ」

 気づけば、第三の腕を再度振り上げた縁が、目前まで迫っていた。我に返り、傍らにあった蝶の一匹を咄嗟に縁向かって放てたのはハーフであるみとりだからこそだ。それでも縁はみとりよりも“早く”左手の指先を蝶に照準し、撃ち抜いていた。
 
「まず、一枚目だッッ!!」

 そして今度こそ、みとりの体を、スペルカードごと殴りつけた。二度目の特大ダメージにスペルカードがブレイクし、弾幕が一斉に妖力の破片となって散らばっていった。それを見届けることなく、みとりは再び湖中へと叩き込まれた。
 息を反射的に吐き出すと、代わりに水が入り込んでくる。皿/帽子がとれそうになるのを抑え、水中で“深呼吸”する。水棲の生き物でもあった河童の血を引くみとりは、水中はむしろ力の出すやすい場だ。
 湖面にいるだろう人間を睨み上げ、二枚目を取り出す。

 閉符「地底の隅に独り棒立ち」

 宣言と共にみとりの妖力が拡散してそれぞれ固まりを作ると、細長いレーザーとなって一斉に飛び出す。その軌道は網目、包囲陣だ。隙間をカバーするのは、水しぶきに化けた妖弾。そこから更に赤の弾を繰り出すのだが、みとりはそれをせず陣を調整し、縁が水面スレスレまで降りてくるようにし、己はその場所まで先に移動する。
 水中に引きずり込み、このまま仕留める。頭上で人影が陣を作り出すレーザーの中を踊るのを見上げながら、一人ほくそ笑む。
 水面の前まできた。みとりは左手を開き、いつでも縁が真上にきてもいいように雌伏した。そしてその時はすぐに訪れた。みとりの身体に影が落ち、足首が覗く。口を三日月のように吊り上げ、みとりは左手を水中から突き出した。
 その手が、直前でぐるりと回転し、逆さまとなった縁の左手に、つかまった。えっ、と呆けてしまったみとりの身体が間髪いれず引き上げられ、空中へと躍り出た。逆さまとなったままの縁と目が合い、してやったりと言った顔で笑っているのがわかった。

「何するか想像つきゃ、こんなことも出来るんだよ」

 離された縁の右手が、そのままみとりの胸元に浮かぶスペルカードを掴んだ。

「二枚目、いただくぜ!」

 そしてみとりの元から引き離し、強引に握りつぶした。あっけなく、スペルカードが崩壊する。想像を超えた状況に頭が強制的にフリーズしたが、それは縁が湖のそのまま落ちた音と共に再起動を果たした。だが表面上では動かない、思考の動きを再構築し、高速化させている、いわば内面の変化。それが現状を表す言葉を探し当てた。
 不可解、その一言に尽きる。
 まずは弾幕の避け方、これはまだ人間にも不可能ではないといえるから、百歩譲って中邦縁にも可能だと考える。だが二つの懸念、肉薄した状態での蝶の発射を、先読みしたかのように直前で撃ち落したことは解せない。縁から見れば、あの時は完全に死角となっていたはずだ。
 そしてもっとも解せないのが、水中からの手を避け、逆に引っ張りあげたことだ。これこそ事前にわかっていなければ対処はできないはずだ、想像や予想の範疇を超えている。
 偶然というには既に懸念すべき事象が三つも重なっている。二週間の間で弾幕の極意を知ろうと、こうまではならない。努力や純粋な才能では届かない領域だ。

「なら、やはり能力ね」

 自然、考えの行き着く先はこれだった。能力も努力や才能と密接に関わるが、しかし全てではない。先天性のものや、ある日突然開花することとてある、みとり自身がそうだったように。
 問題は如何様な能力かということだった。真っ先に浮かんだのは未来予測かそれに準じるもの、覚妖怪と同様のものとも考えたが、それは違うと断言できた。少なくとも闘う直前の会話でそのような兆しは見られなかったからだ。
 また未来予測という線も疑わしい。何故なら本当に未来予測であったら、みとりが二枚目のカードを切る前に既に未来の情報に準じたアクションを起こしているはずだ。それこそ、事前にカードを潰したり、みとりの出現位置の真上にいたりなど。
 結局わからず仕舞いなので、みとりは縁の能力を『攻撃を読み取る程度の能力』と仮定しておくこととし、いつの間にか岸辺へとたどり着いた人間に新たな怪訝の念を抱きながら、尋ねることとした。

「随分と面妖な能力ね、満足に飛ぶこともできないなんて」
「へっ……能力あることと、飛べることは、そんなに関係ないだろ」
「ま、人間ならそうかもね……それでよく、わたしのカードを二枚も突破できたものね」
「言ったろ、負ける気がしないって」

 人間のばからしい世迷い事に虫唾が走ったが、代わりに『能力』であるという確証は持てた。最初の言葉を否定しなかったからだ。同時に、縁がまだ飛行術に関して不完全であるということも明言してくれた。みとりにはどこがそうなのかと分らないが、ヒントはあるはずだと思い直し、三枚目を展開する。通常の弾幕とは少々趣を異なるそれは、その違和感を探り当てるのに打ってつけだった。

 非止「だるまさんがころばない」

 スペルカード発動と共に、みとりは地上で水びたしで棒立ちのままの人間向って、一枚目と同等以上の妖弾をばらまいた。舌打ちが響き、真横へと走り出し藍色の腕を顕現した。今度はみとりが舌を打ち、弾幕の勢いを弱め、自分自身が飛翔して縁へと接近する。
 弾幕の発生源が近付いてくるのを見逃すはずもなく、迎撃か回避かの二択を迫る。そして縁が取ったのは、停止しての迎撃。その瞬間、みとりの目に喜悦が生じ、さらに弾幕が発動時の勢いを取り戻し、愚かな選択をとった獲物へと群がった。面食らった顔で縁は第三の腕を巨大化させ盾とするが、それもまた愚策だ。
 
「這いずれ、アリンコ!!」
「ざっけんな!」

 スペルカードを中途に投げて、みとりがそれから吐き出される弾幕を援護射撃とし接触、お返しとばかりに振りかぶった標識を振り下ろした。縁はそれを機械の右腕一本で止めるが、その衝撃は地面に伝わり、人間の脆弱な体の態勢を崩した。足もとが水に浸されやすい岸辺であったのも原因だった。

「ぐっ……!?」
 
 結果、縁の体は地面へと膝をつき、第三の腕が揺らいだ。その瞬間、みとりは必死の思いで踏ん張ろうとする縁をそのまま蹴って地面へと叩き伏せ、その反動を利用して離れた。直後、第三の腕が防いでいた弾幕が一斉に縁を襲い、驚く間もなく、紅色の洪水が人間の体を飲み込んだ。

「……予感はしてたけど、本当にそうだったとわね」

 スペルカードの傍に戻ったみとりは胸がすく思いで赤の弾幕の中に別の赤色が混じっていくのを見下ろしながら、己が予感が的中しているのを感じた。
『非止「だるまさんがころばない」』は一見丸い妖弾を集中的に狙って放つだけに見えるが、その真の特性は“相手が動きを停止した際、密度を数倍に高める”ことだ。文字通りの“非止”停止の不可能性を表す、みとりの能力らしいスペルカードだ。勘の良いものはスペルカード宣言をした段階で、これに気づくだろう。
 だが縁はそれに気付かなかった。みとりが飛び出した瞬間、動きを止めたのがその証拠だ。
 これからわかるのは、縁の能力が攻撃予測においての狭義、つまり攻撃がどのようにして向かってくるかだけを判断する力しかないことだ。もしこれが広義、相手の能力やスペルカードの種類すら判断するようであったら、さすがのみとりも勝利を納めるのに時間がかかったろう。
 しかしその心配はもう必要ない。勝負はもはや決しているも同然だからだ。

「とりあえず、時間いっぱいまで見てようかしら」

 大嫌いな人間を一方的に弄る様は心が高揚する。それは楽しいという感情だとみとりは思い、笑みを作ってみた。湖面に映るものは、とても妖怪らしい笑顔だろう。これを見て、蟻のようにはい出してくるはずの縁がどんな顔を浮かべる楽しみだと、みとりが夢想していた時だった。
 赤色に交じって藍色の光の帯が天井に向かっているのが見えた。藍色は中邦縁の腕型弾幕の色だと気づき、それが漏れ出したのかとみとりが考えその帯の先を見ると、笑みが消え、息が漏れた。
 第三の腕が、そこに出来上がっていたのだ。それはみとりが気づいた瞬間、手刀の形を作って高速回転を始めると、みとりへ一直線に射出された。

「こっの、進入禁止!!」

 正気に戻った直後慌てて能力を使い、空飛ぶ手刀を直前で止めて見せた。だが、可笑しい。手刀は動きを止めたが、しかし推進力だけは失わず、未だ回転しながらガリガリとみとりの作り出した不可視の壁を削ろうとしていた。
 まただ、とみとりは未だ残っていたしこりが再び現れたのを見て、心中吐き出した。
 禁止の力はほとんどのものに通用する。例外があるとしたら、鬼や一部の大妖怪のようなみとりよりも遥かに力があるものか、裏をかくような能力のみ。しかしこの藍色の塊は、力があるというわけでもなく、ましてや禁止の裏をかけるような能力にも見えない。
 故にそれはみとりを混乱させる。半分の河童の血が不可解な知的経験に腹を立て、思考をそちらのみに傾けようとする。
 だからこそ、みとりが想像したように、未だ吐き出され続ける赤色の妖弾の中を、這うようにして抜け出してきた人間に気づくのが、圧倒的に遅れてしまった。
 
「なっ!?」

 突然、みとりの能力と拮抗していた腕が消え去り、体が突然支えをなくしたように傾いた。一体何が、とみとりが思った矢先、視界の端に、妖弾の雨を掻い潜って飛んでくる影が見えた。そこにはもはや上半身に被さるようだったぼろぼろの服はない。いつかみとりがそうしたように、半分以上が自らの血で濡れていた。
 それでも来る、一心腐乱に向かってくる。先ほどの手刀と同じ、藍の片翼を広げた人間が。

「歯ぁ、食い縛れぇぇぇぇぇ!!」
「っ! 進入……っ!??」

 気づき、咄嗟に能力を使う直前に、みとりの腹に、スペルカードを巻き込んで、拳が叩き込まれていた。スペルカードブレイクの前兆ともいえる、あのガラスの音が聞こえた。衝撃で息を漏らしたみとりは反射的に蹴りを縁の無防備なわき腹目掛けて繰り出した。
 みしり、という音と感触が、足先から伝わる。人体の急所にも近い場所に、妖怪の怪力が加わったそれは、ただの人間なら昏倒しかねないほどのものであるし、みとり自身、そうなる手ごたえはあった。
 しかし人間/縁は揺らがない。みとりの目を睨みつけたまま開いた右腕でみとりの肩を掴むと、今度は左のストレートを同じ場所へと叩き込んだ。がっ、とみとりが呻き、ヒビ割れが響く。そして最後に、突き出されたままの左手が、銃の形をとった。

「三、枚目ぇっ!!」

 血を吐き出さんばかりの咆哮と共に縁の撃ちだした霊力の弾丸が、スペルカードを撃ち抜いた。



 全力だった。最初から全てを出し切る勢いで縁は攻め続けた。一度は防御に回り気を失いかけたが、それでもそこから攻勢の念を再構成し、反撃してみせた。もはや防御などという真似はできない、と口内に溜まった血を吐き捨て、左手で脇腹を抑えながら思う。
 自身の放った霊弾に撃たれ、そのまま湖へと三度墜ちて行ったみとりを視線で追いながら、霊力を最小に絞り、落下速度を調整しながら、岸辺へと降りていく。地面に着いた瞬間、みとりに蹴られた場所に、鈍い痛みが走って呻き声が口から漏れた。全身が弾幕に打たれ続けて痛いはずなのに、そこだけが強烈に自己主張していた。
 
「こりゃ、折れたかもなぁ……」

 薄い笑いがこみ上げるが、弱気が出てきたわけではない。むしろこの程度で済んだという意識が縁の中にはあった。
 未だ三枚、しかしたしかな三枚だ。以前は不意打ちとはいえ、一枚も破ることができず屈したのだ。仮に肋骨の一本が折れたか、内臓に傷が入り内出血を起こしてたとしても、確かな進歩と言えた。
 それを為したのは、縁の自覚する中では二つの理由、そして無自覚にもいくつか理由がある。
 自覚したものには、飛行の術の体得と、『縁を見る程度の能力』のおかげだ。飛行によって行動の幅が広がったのもあるが、能力によって自らに当る=縁(ゆかり)が出来る弾を判別し、それだけを念頭に置いて回避していたのだ。みとりの二枚目のカードの際、水中からの奇襲を避け逆に反撃をしたのも、これのおかげだ。
 そして無自覚な要因は、縁の霊力の質とコントロールの向上だった。
 体力の限界を迎えた結果、純粋に霊力によって肉体を動かしていたこと。体の表面に合わせて霊力の波を整えていたこと。少ない霊力をギリギリまで持続させて動き続けたこと。霊力が可視化されるほど“濃い”空間におり、何よりも自己の死と生の境界に立ったこと。
 それらのことと、幻想郷に来る以前より無意識に右腕を霊力によってコントロールしていた下地もあったが故に、縁の霊力を操る術と限界は格段に上がっていた。これがなければ、先ほど窮地に追いやられた際に、霊力を頭上に伸ばして遠隔で第三の腕を形成することという真似はできなかった。
 だが縁にはそれができるはずだという確信があっただけだ。その確信という信じる力も、縁の力を全て引き出すのに一役買っていた。
 そして全てが合わさったからこその結果が、今だった。
 同時に、ここまでだった。

「…………訂正するわ」

 声が、湖中から響いた。同時に、今まで感じていたプレッシャーが縁を襲い、ぞわりと怖気が走って鳥肌が立った。

「あんたをクソ惨めな人間から、少々厄介な人間ぐらいにはね」
「……は、それくらいかよ」
「その程度よ。だけどもう、あなたはこれから瞬きをできなくなる」

 水中から、今までの調子とうって変わって静かに河城みとりが浮かび上がってきた。それと同時に湖面から出てきたのは、かつて自分の背中を針山へと変え、空を撃墜した、あの細長い飛翔体だ。みとりはゆっくりとした動作で標識を薙ぎ、その上に乗せられたスペルカードに妖気を流した。
 その瞬間、スペルカードが発動し、既に展開していたオービット・キューカンバーに変化が生じた。小さく細い体のそれらはまるで原子のように手近なものへとくっつき、枠を作った。その枠の中に更にオービットが入り込み、隙間がなくなった途端、極彩色へと変じたかと思った矢先、再び色を変えた。
 変化を終えたそれらは数こそ減らしたものの、複数のキューカンバーが合わさったことにより巨大化し、色と形によって個性もあった。その個性が、縁には不思議でならなかった。

「おいおい、また道路標識かよ……」

 速度制限、一方通行、重量制限、駐停車禁止、落盤注意。総数五枚の標識は形も色も大きさも縁の知るものとまったく同じで、目に見えぬ妖気によって浮いているという差異があるだけだった。それが可笑しくて、思わず噴き出し疑問を口にした。

「どうして態々こんな形にしてんだ? 俺の元の世界のこと実はよく知ってたりとか……」
「科学技術だけならそれなりに興味はあるわ、だけど進んで肥溜めの中にはいきたくないわね」
「はっ、肥溜めかよ、ヒデェ言われようだな」
「へえ、怒らないの?」
「俺だって、あの場所が全部キレイだって言うわけじゃない。それこそお前の言うように、肥溜めみたいな場所だってあるし、もっと酷い場所だってあるはずだ」

 ひゅるひゅる、と変形したキューカンバーが虚空を切る音がする。縁はそれを聞きながら、左手を脇腹から離した。

「それでも、あそこは俺が生まれて、俺の悪友が育って、俺の初恋の人が満足していった世界だ……だから、その全てを肥溜めだっていうなら、テメェを泣かす!!」
「泣かす? わたしを? はは、ギャグで言っているのそれ?」
「悪いが、大マジだ」

 構えを取る。スペルカードはまだ使わない。代わりに目に力を入れ、“線”に意識を集中する。例えスペルカードの全貌が能力の関係上見えなくとも、相手の一挙一動には間違いなく対応できるからだ。
 薄ら笑いを浮かべていたみとりの表情が消えた。同時にキューカンバーたちが自由に動き回るのを止め、その先端を一斉に縁へと向けた。

「……わたしの残り枚数は九枚、そっちは一枚で、ましてやその怪我。普通に考えるなら、持つはずがないわよねぇ……泣いて命乞いするなら、地獄鴉を助けてあげるぐらいは考えてあげてもいいけど?」
「は、却下だ却下。冗談はその赤色だけにしな」
「…………殺す前に、一ついいかしら」

 威圧感がまた増した。人間の本能のような部分がけたたましい警鐘を鳴らしだす。今更遅ぇよ、と自分自身に不敵に笑い、口ではみとりの言葉になんだよ、と答えていた。

「どうしてそんなになってまで妖怪のために戦おうとするの? ……ああ、そういえばその義手を奪うことも理由にあったかしら」

 その言葉を受け入れるのに、数秒のときが必要だった。そして数秒経った後に、縁は大きく噴出した。質問があまりにも滑稽だったからだ。その反応を予期できていなかったのか、表情の消えていたみとりの顔に、苛立ちのようなものが僅かに浮かびあがった。

「何がおかしいの?」
「いや、ほんと今更だと思ってなっ。けど、答えるとしたら、アレだな」

 滑稽だが、同時に、この分からず屋の半妖に知らしめるには丁度いいと考えた。

「この義手は借り物だから、誰かに渡すわけにはいかない……そして妖怪を……いや、空を助ける理由は、たった一つ」

 最後に、一呼吸をして、声を張り上げる。みとりの威圧を、吹き飛ばすように。

「俺が、あいつのことが好きだからだよ!!」

 地底中に響かせるように、縁は叫んだ。その想いの大きさに比例するかのように、地底湖の天井まで、湖の底に至るまで、縁の告白は長く長く反響した。みとりの身体が声に合わせて震え、顔に表情が戻った。気圧されたものの顔。だがそれは時間が経つにつれ、驚愕と困惑、理解できないという感情の全てがそこに浮かび上がっていった。
 そしてそれは徐々に怒りのようなものへと変じていき、先ほどの冷酷さを前面に出していた時とは反対に、業火の如き憎悪を滾らせ、縁を睨みつけていた。

「……後悔するなよ、人間……そういうことを、よりにもよって、わたしの前で言ったことをっ!!」

 禁技「オービットキューカンバー」Level EXTRA

 スペルカードがついに宣言され、標識たちが縁向かって殺到し、それに合わせて“線”が目まぐるしく変化し始める。それを目で追い、義手から霊力を滾らせ、第三の腕を作り出す。おもむろに振りかぶり、右横へと叩き降ろした。そこから迫っていた一方通行の標識弾幕が、地面へとめり込み、ばらばらとなった。

「いいや、何度だって言ってやる! 俺は、霊烏路空のことが、大好きだってなぁ!!」
「っ! 言うなってっ」

 みとりが、真正面から突撃する。縁の周囲を踊る弾幕たちは目まぐるしく動き回るが、こちらに飛んでくる気配はない、いわば動きそのものがフェイント。故に縁は、霊力を一手に第三の腕へと集め、凝縮し、弓を引くように構えた。
 みとりがポール付きの標識を振りかぶる。縁が拳を繰り出す。最初の激突を再現するかのように。

「言ってる、だろうっ!!」
「断るっ!!」

 衝突。衝撃波が激突の中心からあふれ出し、湖面を揺らした。最初のぶつかり合いの比ではない力の衝突。それを制したのは、人間だった。

「うそっっ!?」

 特殊な体毛と妖力で編まれた標識が、ポッキリと折られた。縁はその隙を逃さず更に追撃をかけようとするが、その前にみとりが周囲のキューカンバーを第三の腕に突き刺し、行く手を阻んだ。縁の動きがそれで止まったのを見計らって、みとりが再び湖上に後退した。それに縁は悔しがることはない、むしろ気分がよかった。
 己の想いが、相手を引き下がらせたのだから。

「こんな言葉を知ってるか、河城みとり!?」

 みとりが通行止めの標識を再生しながら、縁を睨みつける。見上げているだけでは、こちらのいうことを聞いているようには思えない。ならば今一度、その耳に届くほどの声を張り出すまでだ。



「惚れた女のために命を張る男の子は、無敵なんだよっ!!」



 あとがき:

 アレー、もっとシリアスな展開だったのになー? もっとボッコボコになるはずなのに、アレー?
 そんなわけで縁くんの熱量が作者のリアル事情(更新したくない精神状態&できない状況)に反比例してオーバーヒートしてます。つーか勝手に似非標語作るとか、バカなの、何なの、死ぬの、もげるの?
 一話で収めるはずがまた長くなってます……まとめられない上に更新遅い作者でごめんなさいorz
 



[7713] 第三十話――姐<この静寂……遅かったというのか  
Name: へたれっぽいG◆eaa9c481 ID:a2573ce4
Date: 2011/03/15 18:31
 中邦縁がいないことを最初に気づいたのは空だった。すっかり同居人となってしまった奇形の頭痛で目を覚まして、周囲をとりあえず見回し、死屍累々の光景に口端を痙攣させた。すぐに燐や主人の姉妹を見つけることができて、さぁ後一人はどこだと浮かんだまま探すが、しかし見つけることはできなかった。
 おかしいと思い、徐々に起き出すペットや妖怪たちを尻目に、屋敷の中を探し出す。かつての掃除ルート、灼熱地獄跡入り口、部屋、そして玄関と見回るが、あの姿はどこにもいない。途方に暮れて階段の手すりの上でドアを見ていると、ある予感が脳裏を過った。
 既に、地底湖に向かっているのではないか、と。

「おくう?」

 声が背後からかかり、空は背を仰け反らせて飛び上がった。そのまま中空で一回転して逆さまになり、声の主を視界に収めた。それから少し、声を失った。

「こいし、様……」
「どうしたの……って言わなくても、縁ちゃん、だよね」

 先ほどは気づかなかったが、こいしの目元には薄いクマができ、ウェーブのかかった髪はいつも以上にほつれていた。泣き跡のようなものも薄らと見えた。だが視線だけははっきりとして、第三の目が、薄くながらも開かれていた。
 空は宴の間中、いや縁の告白を受けてからずっと、こいしと直接対面するのを避けていた。こいしがどのような思いで縁の傍にいたのか、今は前よりもずっと強く分かってしまっていたからだ。こいしの立場となった自分自身のことを想像するだけで、脳の中のノイズとは違う、しかしそれ以上に強く、掻き毟るような痛みが胸裏で疼く。
 それでも、何かを言おうとした。態勢を元に戻して、羽根を縮め、喉元まで来ている言葉を声にしようと踏ん張る。それでも出てこない。出したいのに、出てこない。
 
「……だめだよ、おくう」

 見かねた、というようにこいしが声をかけ、首を振った。重い目蓋の裏から、第三の目がじっとりと空のことを見つめていた。

「今おくうがそれを口にしたら、きっとわたしはおくうを許さないと思う……たぶん、縁ちゃんと一緒に死んじゃうかもしれない」
「っ……それはダメ! ……です」
「うん、わかってる……みんな、悲しくなっちゃうから、しない……わたしはおくうも、お燐も、お姉ちゃんも、地霊殿のみんなも……縁ちゃんも、大好きだから」

 そういって、こいしははにかみを浮かべた。
 涙が出そうになった。こいしが縁に向ける“好き”という言葉/感情の“本質”に触れてしまい、変えてしまったのは、自分が原因でもあるのだ。胸の奥が苦しくなり、両手を重ねた。数多の言葉がそれだけで痛みの中へと還っていき、純化されていく。
 それを必死に、ひとつの言葉に変えようとする。実在の最奥に潜む自分自身/幻想を形として、感情として、言葉として、朗々と声にする。

「……はい、私も、こいし様のことが、大好きです」

 ぱちくりとこいしが三つの目を瞬かせ、しかしどこか力が抜けたように肩を落とし、頬を緩めた。それはいつか縁が見せたはにかみに、とてもよく似ていた。

「うん、さすがわたしとお姉ちゃんのペットだよっ。それじゃあ早く、縁ちゃんを追おう!」
「はいっ、っ?!」

 応えた瞬間、脳裏からあのノイズが響いてきた。今までよりも遥かに大きく、速い。一瞬にして聴覚の機能を侵食し、視覚をジャックして世界を揺らす。こいしが何かを叫んだ気がしたが、轟音に妨げられて聞こえない。よろめいて、先ほどの手すりにぶつかった。
 その瞬間、手すりは空の身体が触れた部分から“破砕”され、砂場の砂一粒ほどの微塵となってぱらぱらと床へと落ちた。こいしの目が見開き、手を差し伸べてくる。それを何とか後退することで避けて、そのまま階段から飛び出し、中空に浮かぶ。周囲に物体がないことを確認してから、いつもの通り轟音が収まるのを待つが、今に限って収まる気配がない。
 終わりが近いのか、と自然に悟り、力が抜けていくような感覚があった。だがそれはすぐに一つの意思と共に塗り替えられ、ノイズへの抵抗へと変わった。その不思議と力が湧きあがる意思は一つの言葉に変換できた。
 縁に会いたい。
 滑稽だった。こいしが一番彼を求めていたと思っていたのに、土壇場ではその“思い”すら遥かに上回る“想い”が自分の中に眠っていたのだと、今更ながらに気づいた。いや、予兆はあったのだ。告白を受けてから、ケンカ別れして会えなくなってから。それよりももっと前、無意識と意識の境界。あの、縁が十一に向かって闘う姿を初めてみたときから。
 ただ、傍にいたいと思う気持ち。
 傍にいてあげないと、という錯覚。
 感謝の気持ちの裏に隠れていた、ごちゃまぜになった二つの想い。こんなにも前から自分は縁のことが好きになり始めていたのだと、今ようやく気づいた。それはずっと一緒にいたさとりやこいし、燐へと向ける想いよりも遥かに強く、酷薄で、卑小で、人間的で、気持ちの悪いものだ。それでも、この気持ち/幻想だけは否定できないのだ。
 縁の傍にもっといたい。
 人間と妖怪など関係なく、どちらかが死ぬまで共にいたい。
 共に歩みたい。
 縁の道を、一緒に歩いてあげたい。
 だから、まだ。

「死にたくないっ……」
「動くなよ」

 思考とも走馬灯ともいえぬパルスに正気を失っていた空に、頭上から声がかかる。轟音すら破って聞こえたそれに、幻聴かと思った瞬間、空の頭を超音速の何かが幾度も走り、ノイズを弱めてみせた。弱まったノイズはすぐさま脳の奥へと引っ込み、発作が収まった。
 一体誰が、と空が上を向くと、そこにはフレッチャーが両翼の羽毛が半数以上千切れとんだ状態で滞空していた。

「ふ、フレッチャー?!」
「ふん……やはり、うろ覚えでは完全な解除は不可能か」

 次の瞬間、フレッチャーの全身から血が音を立てて噴き出し、赤い霧を生み出した。真白な毛が一瞬にして真っ赤に変わる様子は凄惨だがどこか神秘的で、目を引いた。しかしすぐに現実的な問題と、自身に起きたことに対しての出来事を思い出し、声を荒げた。

「フレッチャー、大丈夫なの?! そ、それに……」
「キサマの脳の“波”を一時的にだが再拡散させた……上手くいっていれば今日の夜までは保つだろう」

 自分が為したことも、全身から今も血が流れ続けていることにも関わらず、白かったカモメは気にする様子もなくこいしの方を向いた。空もそちらを見ると、目を見開いた。顔を苦痛にしかめたこいしの右腕にコインほどの穴が空き、血が流れているのだ。直感的に、これは自分のせいだと悟ってしまった。
 それを『読み』こいしが咎める調子で口を開いた。

「『違うよ』おくう……これは、おくうのせいじゃない」
「で、ですけど……」
「穴を開けたのはオレだ、そうしなければ、伝播した“波”でこいしの頭は破裂していたからな」

 パーンという音と共にな。フレッチャーは無事な手すりにとまると、血だらけの羽根を繕おうとした。だがしかし、前触れもなくぐらりと身体が傾き、一階へと落下しようした。それに気づいて、間一髪で空がカモメを掴まえ、こいしの隣りに置いた。
 よく見れば、フレッチャーの翼は羽毛だけでなく、骨格までもが曲がっていた。いかなる能力か魔技を用いればこうなるのかと妖怪の本能のようなものが恐怖に疼いたが、空はそれを打ち消して、誰かを呼ぶために顔を上げた。

「待て」

 口を大きく開こうとした矢先、フレッチャーが声を出した。何、と空が振り返ると、赤く染まった体毛の顔を青ざめながら、フレッチャーがよろよろと起き上がった。

「キサマは、中邦を追え……場所はわかっているだろう」
「え、けどそれじゃあフレッチャーとこいし様が……それに」
「青臭い約束をしているなら、今は三歩歩いて忘れろ。“波”を拡散させたとは言え、中途半端な知識と経験による急場しのぎにすぎん。いつ再激突しても可笑しくはない……ならばすぐにでも治療できるよう、あの半妖のとこにいるべきだ」
「だからって……」
「この程度、全身を焼かれた時に比べればマシだ。さっさと行け」

 強い眼光に圧され、空は迷いながらも、フレッチャーの言に従うことにした。耳を澄ませば、先ほどの騒ぎで目を覚ましたのか、中庭の方からざわめきが聞こえた。皆が起き始めたのだ。二人のことはそちらに任せておけばいいのかもしれない、と自分自身に言い訳染みた理論武装をして、白いカモメに頷いた。

「う、にゅ……わかった」
「……待って、わたしも行くよ」

 こいしが立ち上がりながら、自らの左腕の袖を破った。布の切れ端となったそれをそのまま右腕の小穴に巻きつけ、きつく縛る。いつか空が縁にしてもらったことと同じことを、こいしは自分自身にしていた。こいしの第三の目は既に閉じている。しかし両の眼は先ほどよりも強く、はっきりとした意思を持っていた。

「最初に言ったよね、縁ちゃんのところに行こうって……置いてけぼりだけは嫌だよ」
「……はい!」

 だからこそ、空は今できる精一杯の覚悟で応え、玄関のドアを開けた。その先にはいつもと変わらぬ旧都に、暗い天蓋。

「あ……」

 そこからひらひらと落ちて冬の化粧をし始める雪と、旧都の繁華街へと伸びる道に一塊となる集団が二人の目に映った。



 第三十話『君想フ声・中』



 地底湖の水面を撫でるように、二つの大きな光が駆けていた。赤と藍。湖の中央へと進む赤を、藍が追いすがっていた。その周囲には追いかける藍を攻め立てるように色とりどりの小さな光点が飛び交い、緑色の光条を幾つも発射していた。
 その緑の折を縫って、藍が幾度目か知れない赤への肉薄を成し遂げ、赤が振り上げたポールウェポンでそれを迎え撃った。

「妖怪に狂ったエセ人間が、しつこいのよ!」
「言ってろ、禁止バカが!!」

 ガンッ、と赤の光/みとりが振り下ろした標識と、藍の光/縁の突き出した右腕が中空で激突し、互いが互いの威力の反発によって吹き飛んだ。
 みとりはそのまま縁の方向を向きながら後方へと飛行する一方、縁は反発の勢いを霊力噴射推進/ブースターで強引に打ち消し、勢いのままに再び猛追をかけつつ、全方位から襲い来る交通標識の形をとったオービット・キューカンバーの容赦のないオールレンジ弾幕を“線”で見切り、最小限の身のこなしで紙一重に回避する。回避した直後から、外れた弾幕のレーザーが巻き上げた水しぶきが身体を濡らし、血を吸った僅かな服の部分を黒く染めあげた。
 追い、払われる。この繰り返しを『禁術』のスペルが発動してから幾度したか。縁は舌打ちをしたい衝動に駆られたが、主人である赤河童を守る攻防一体の猟犬/オービット・キューカンバーがそれを許さない。
 総数四枚の道路標識たちが不可視の力によって超高速で中空を飛び回り、充填されていた妖力を変換/出力し、標識の縁(ふち)と絵柄に沿うように、それぞれ一枚が同時に三十を越えるレーザーを照射する。四枚合わせて百二十を越える細長くも、計算し尽された網の目の如きレーザーが常に縁へと牙をむいていた。
 縁はその一つ一つを瞬時に“線”によって見分け、滑走中に身体を逸らし、再点火時にぐるりと捻りを加えて、かろうじて紙一重で回避していく。だがそれでも、隙は殆どないといっていい。大口を叩いたはいいが、その目は文字通り瞬きという休みを与えられず、確実にかつ急速に疲労が溜まっていた。再加速の際、さらに身体を捻った瞬間、みとりに蹴られた部分から鈍痛が奔った。

「ちいっ!」

 動きが一瞬鈍り、右足にレーザーが突き刺さる。貫通はしなかったが、それでも気勢が削がれた。咄嗟に左腕を突き出しみとり目掛けて霊力弾を撃つが、自身が動いている状態で、かつ対象が高速の三次元機動を行っている上、ほぼ三百六十度から集中砲火を受けている状況で禄に狙えるわけがなく、弾は明後日のほうに向かって飛んでいくだけだ。
 ただ撃っているだけでは埒が明かない。狙うのはやはりインファイト。第三の腕によるスペルカード及びみとりへの直接打撃。しかし縁の霊力とコントロールでは、まだ飛行と第三の腕の同時顕現を常時行うことはできない。使うとしたらスペルカードだが、相手の枚数はまだ半分以上ある。
 これではジリ貧だと何度目になるかわからない舌打ちを心の中でつき、勝負をかけ、加速/跳躍。同時に第三の腕を展開、真上を通過しようとした標識キューカンバーを殴り飛ばした。びしり、と音を立て、きりもみしながら彼方へと飛んでいったそれに一度も目を向けることもなく、縁は振りぬき様に真後ろから斉射されたレーザーを防ぎ、途切れた瞬間、霊力の腕を推進力に変換し、空中で加速をかけた。
 今度は己の身体を回転させながら直接みとりへと仕掛け、同時に遠心力がもっとも強くかかる瞬間に相手を正面に見据え、強引に右腕を突き出す。
 彼我の距離一メートル。もはや瞬きと同時に拳がみとりを捉える位置。今度こそ掴まえた、と思った瞬間、みとりの口元が笑みに歪んでいるのを視認したと同時に、両者の間の真上に、二基のオービットキューカンバーが銃口を向けているのに気づいた。

「にゃろうっ!」

 マズイ。直感や予感といったものを超えた事実を認識し、縁の身体が固まりつつも、迎撃態勢をとる。ブーストカット、第三の腕顕現、巨大化。左手、銃撃。まったく同時に二つの標識もどきが輝き、六十を越える光線が一斉に煌いた。
 縁の周囲で藍と緑と赤に照らされる水しぶきが上がった。間髪入れず、ガシャン、というスペルカードブレイク特有の破裂音。大きな水しぶきの後には、直撃によって中枢を抜かれたキューカンバー二基と、三肢のいずれも撃ち抜かれ鮮血で服を更に汚す縁の姿のみ。
 みとりの姿がどこにも見当たらない。弾幕と水しぶきが舞っている間に距離を離したか、はたまた先ほどのように水の中に潜んでいるか。

「スペルカードは今ので抜いたはず、なら……っ」

 かつて自分を痛めつけた『禁術「オービット・キューカンバー」』を乗り越えた感触はあった。ならば次のスペルカードを出してくるか、様子見をしてくるか。どちらにしてもみとりの位置を探るために、視界に“線”を映し、その位置を探ろうとする。
 真上と真下から、己に伸びる“線”を見つけた。急ぎ上下を確認すると、初邂逅の時に見た、妖力で練り上げられたX字状の弾幕が幾十も中空と水中に作り上げられていた。それらはゆったりとした動きで縁に挟み潰そうかとしており、縁は即座にそこから離脱すべく、ブーストした。
 縁が加速したと同時に弾幕がバラバラに分裂して動きを早めた。否、それは本来高速で動くはずだったものを、みとりが能力を用いて『低速』にしていたのだ。そこまでは頭が回らない縁も、遅効性の効果だというのは理解しており、一瞬背後を振り返って舌打ちした。

「運転中は……」

 その瞬間、縁の向かう先から声が聞こえた。弾幕の効果によって“線”が確認しきれなかった位置だ。視線を戻したと同時に、赤河童が水中から姿を現し、縁が反応するよりも早く顔を鷲づかみにした。

「余所見、厳禁ってね!!」

 そして、水中へと引きずりこむと同時に、豪腕を用いて湖底目掛けて投げた。
 突然水の中に入れられ身体が追いつかず、気管に水が入り込み軽いパニックに陥りそうになり、湖底にぶつけられたショックで一瞬意識が飛んだ。水の抵抗があって尚全身が痺れて動けなくなってしまいそうな衝撃だった。同時に水を多く飲み込んでしまい、空気が気泡となって体から抜けていく。
 空気を。意識を取り戻した直後に水面向かって飛ぼうとした瞬間、水中で裸眼でいるせいで歪む視界の先に、みとりの姿を捉えた。その背中には、揺らめく水上を背負い、顔にはサディステックな笑みが張り付いている。ぞくりと背中が粟立つ。最大級の危機の予兆に、秋季と冬季の狭間故に冷たい水中の中で、さらに身体が冷えたような錯覚を覚えた。

「人間は不便よね、水中で呼吸もできないなんて……だからといって、河童は“河”に依存している生き物、存外その在り様はベクトルは違うけど似ているかもしれない……吐き気を催す推論だけどね」

 みとりの声が不思議に水中の中でも響く中、水の中にある波やうねりといったものが変化を生じる。術者の周囲に波紋の如く広がるそれは、みとりが取り出した一枚のカードに従うように形を変え、混ざり、やがて妖力を帯びて光を放ち始めた。
 スペルカード、と縁が気泡を吐き出しながら声にならないものを叫んだ瞬間、みとりの胸元で錠前が揺らめき、スペルカードが宣告された。

「まぁ、そんなことはどうだっていいの。問題は、人間であるあなたは、弾幕になぶり殺しになるか、それとも溺死するか、どっちが早いかってことよっ」

 流符「赤胡瓜の河流れ」

 水流が暴威として縁へと向けられた。それはもはや弾幕ではなく一種の自然現象であり、卑小な人間にはそれを耐え忍ぶしか方法はない。耐えることもできなければ、ただ無残に食い散らかされるだけだ。意思を持ったカマイタチに似た水流たちは縁向かって直進し、一部に身体が触れた瞬間、その部分がそぎ落とされた。新たに噴き出す血が水を汚し、痛みに空気が逃げだす。咄嗟に第三の腕を引き出し力を帯びてしまった水流を“殴り”つけて逸らすが、水のカマイタチはそれだけに留まらず、淡い光を帯びた尾で縁の身体を弄び、たちまちの内に湖底へと戻してしまった。
 それだけでは終わらない。妖力の妖しい光を帯びた大きな流れはみとりと縁の周囲をぐるぐると循環していると思いきや、その身から水流の一部が切り離すように球状の妖弾を吐き出し始めた。それはまさしく奔流、瞬く間に数え切れないほどの弾幕となって縁のぼやけた視界を覆い尽くし、絶望がハイパーリアルとして具現化した。
 空気が持たない。水中ゆえに満足に動かない体。加速度的になくなる体力と気力。触れるたびに削られる弾幕。全方位から迫る弾幕。ほくそ笑むみとり。
 絶対的窮地といえる状況、それでも縁にはまだ、何かが残っている。闘志と呼べばいいか、意地といえばいいか、生存本能と括ればいいか、はたまたそれらとはまったく違う何かがある。
 それは縁の思考に問いかける。ここで終わりか。
 縁は答える。まだ終わりじゃない。
 答えを示すために、水流に翻弄されながら左手を懐に突っ込み、スペルカードを引っ張り出す。頭の回転に身体が追いつかなくなってきている、時間がない。残る霊力の五割でもってスペルカードを発動し、水の中に声なき声で宣言する。

 穿孔「スパイラルブレイカー」

 右肩から霊力の炎が爆発し、第三の腕が螺旋形態をとる。水中は空気中の三倍音をよく通すという通り、螺旋が唸りが湖中に響き渡り、それに恥じない回転が水流を乱す。それだけでカマイタチは縁の周囲から逸れるようになり、ゆったりと迫ってきていた奔流は隊列を乱し始めた。
 記憶にあったのは、燐と地下遺跡から脱出したときだ。あの時も同系統のスペルによって、押し寄せてくる水を弾いていたのだ。それはつまり、ある程度の推進力と螺旋回転の速度があれば、水中での自由が少しは利くかもしれないという希望的観測。知識がない故に、ただの直感でしかない。
 それに縁は賭け、右肩の霊力を一点に集中、爆発させ、水中から高速浮上を始めた。その穂先には、顔をしかめたみとりの姿。

「なるほど、擬似的に渦を巻き起こすことで水流を乱して、ついでにわたしを狙うように見せかけて水上にも出ようと……けどね」

 みとりが、螺旋の軌道から外れた。疑問を持つも、それを長く維持させる余裕はなかった。むしろ好都合とばかりに、さらに加速して水上を目指す。そして湖面と湖中の境界に縁の螺旋の腕が触れた瞬間、何かにぶつかった。目を見開く。しかし目の前には、淡い光の水の境界だけ。だが確かに、何かがスペルとぶつかってチカチカと火花を散らしながらそれ以上の上昇を阻んでいた。

「外出禁止……といったところね」

 疑問は、少々離れた位置からこちらを伺い見ていたみとりからもたらされた。

「わたしの能力で、今この水中にいるものは一切外に出ることはできない……言ったでしょ、溺死するほうが早いかって」

 やられた、と短い思考。縁は湖に入れられた瞬間から、いやみとりを追いかけていた時から既にこの罠に嵌っていたのだ。激昂しながらも自分の有利なフィールドへと誘導し、油断した瞬間に一気に引きずり込み、そこで一旦スペルカードでプレッシャーをかけ、水面に出ようとしたところで能力で禁じ、希望を挫いて戦意が薄れたところを発動中のスペルカードで止めを刺す。地底湖のほぼ中央にいるために、陸上へは遥か遠い。己の能力に対する絶対の自信と、自身の種族の優位を確信できているからこそできる、即興でありながら上手い策だ。
 絶体絶命とはこのような状況だろう。だからこそ、縁は笑う。酸素が尽きかけて、耐え難いほどの苦しみとなっても、笑う。
 螺旋は未だ動いている、爆発の推進も保っている。この不可視の壁、かつて縁が二度触れたことのあるそれは、触れられるものとしてそこにある。そして何よりも、中邦縁は、絶体絶命という壁を幾度も殴り飛ばしてきたのだ。
 
「舐めんなよ……」

 耳奥でしか響かない声と共に、回転を高める。みとりが怪訝と不機嫌を混ぜ合わせた表情を浮かべ、口を開こうとした瞬間、びきり、と音が水と空気の境界から響いた。
 ヒビが見える。見えないはずの壁にヒビが螺旋を中心に入り、加速度的に大きくなっていく。ありえない、とみとりが驚愕に目を見開き、縁の口元が不敵に歪む。
 そう、触れるならば、それは物体としての意味も持つ。故に、有限。破壊することができるはずだ。

「俺の拳を、こんな薄っぺらな壁一枚で止められると思うなああぁぁッッ!!!」

 螺旋を続けたまま、壁から一旦離し、自らの身体を捻る。体の中の力を練り、義手を通して第三の腕へと送り込み、一点の力を増幅させる。全開の五割を凝縮させ、螺旋の光をより深くする。唸り声が水流の音をかき乱し、新たな流れとなって湖中の一つとなる。
 それだけの力を込めて、雄たけびとと共に押し込んだ。
 ひびが、螺旋の切っ先を中心に崩壊し、何かが聞こえた。

「っ!」

 不可視の壁が砕かれ、破砕の幻聴が脳から耳へと突き抜けると共に、縁の身体を水上へと飛び上がる。しかしその目は、幻聴の違和感によって見開かれていた。
 それは、鍵の音。錠前に合わない鍵を無理に刺しこもうとする音。如何な想起か、脳裏に湖面を境にして分かたれた先にいる、みとりの胸元で揺らめくものが浮かんだ。

「げほっげほっ……何だよ今のはっ!?」

 一瞬の妄想は、幻聴よりももっともらしく強く耳に残った。呼吸することも忘れていたことに気づいた瞬間、咳き込むと同時に眼下から無数の線が伸びていることを察知した。攻撃、それも先ほどのスペルカード。
 “穿孔”のスペルカードをプールして仕舞い、第三の腕を消して跳躍飛行に専念し、一気に飛ぶ。その直後に、水柱が無数に湧き上がり、飛翔する縁向かってその先端をカッターのように尖らせて向かってくる。口内に残る水を吐き出し、今度は万全だ、とばかりに左腕で水柱の一つ一つを迎撃し、未だ湖中にいるだろうみとりの“線”を確認する。位置はまだ変わっていない、つまりあの場から動いていない。
 水中で勝ち目がないのは今さっきの攻防で身に沁みた。かといって水中の敵向かってピンポイントで的確な攻撃をできるなどと自惚れてはいない。故に相手を湖上に引きずり出し、最初のような正面からの激突こそが望ましい。彼我の戦闘能力の差は二の次だ。
 
「どうして赤河童ぁ! 水の中に引きこもってないで、少しは顔を出して見やがれ! ビビってんじゃないんだろうなあ!!」

 第三の腕を手刀にして、落下しながら飛び出してきた水柱を切断しつつ、湖中のみとりへと届くように叫ぶ。チンピラ顔負けの誘い文句に自らのボキャブラリーの貧相さに場違いだが自嘲した。
 そうした途端、湖面から今度は水柱だけでなく、あの水弾の大群までもが、メタンガスのように浮かび上がり、湖上を埋め尽くし始めた。たまらずブーストをかけて急制動、弾に触れる前に体を捻じり隙間に滑り込み、逆にその場でスピンすることでブーストの余波を使って吹き飛ばす。
 水柱/水流とは違いこちらは一つ一つには力をあまりかけていないようで、吹き飛ばしただけで簡単に消滅してくれた。だが如何せん数がある。吹き飛ばした矢先、縁の足下からは次の群れが整然とした列となって現れだした。ブーストで急速離脱した瞬間、待ってましたとばかりに水柱が物理法則を越えた曲線軌道で縁に襲い掛かってくる。
 
「くそ、しつけえっ!!」
 
 持久戦が不利なことは縁自身が一番理解している。かといって一枚のスペルカードに全ての力を注いでは、待ち受けているのは死と直結した敗北だ。水柱を避けながら水弾の大群から逃れるために徐々に上昇しつつ再度舌打ちをし、残り二割の霊力でスペルカードを使おうかと思考したその瞬間、湖面と“線”に動きがあった。
 赤い影が、みとりが、音もなく湖上に浮かび立った。波紋すら起こしていない。弾幕に隠れて、その顔にどんな表情が浮かんでいるのかはわからない。だが、今までとは空気が違うと肌で感じ取った。体がより引き締まり、汗とも水滴ともしれないものが頬を流れて顎から落ちる。
 落ちる雫は、みとりの左手によって新たに引き抜かれたスペルカードで両断され、湖面と一つになった。
 
 禁視「オプティカルブラインド」

 朗々とした声で、水弾を周囲に浮かべながら、みとりは新たなスペルを宣言する。んな、と縁が呻いた直後、視覚が瞬く間に弾幕に染まった。三百六十度/全方位を隙間なく囲い視界を封じた弾の壁は、しかし縁に直接傷つけようとはせず、ぐるぐると周囲を流動するだけだ。“線”で見ても、自分との直接的な因果は繋がっていない。
 球体の中に閉じ込められたか、と現状を認識しようとした瞬間、弾壁の向こう側にまで“線”が震え、こちらに接近するものを報せる。水柱かと、先ほどのスペルカードがまだブレイクしていないことと、“線”の種類で気づき、反射的に後退する。
 自らを囲う球形は、しかし縁の動きを阻まなかった。むしろ縁の動きに追従するように自らも動き、縁を中心に沿うようにし続ける。直後、凶器ともいえる水柱が弾幕を“すり抜けて”縁が数秒前までいた空間を貫いた。

「同時発動に加えてそっちの弾幕は干渉し合わないとか、反則なんじゃねぇか!?」

 もっともらしいことを“線”でかろうじて居るべき方向だけはわかるみとりへとぶつけて、第三の腕を出し、落下開始と共に壁をチョップを繰り出す。手ごたえはある、だが弾幕による球形の壁は手刀によって縦一文字の風穴を開け、一瞬にして元に戻ってしまった。
 そう都合よくはいかないか、と内心舌打ちし、新たに真正面から“線”が張ったのを確認した。振り下ろしていた第三の腕を、そのまま振るい上げて飛んできた“何か”を弾き飛ばした。弾幕の壁を“潜りぬけ”超高速で飛んできたそれは口にし難い奇妙な感触だったが、しかし開いた隙間からみとりが波のように広がる白い妖弾を展開しているのを見て、その合間となる場所に身体を移動させる。この間にも真下からは水柱が不規則に縁を狙い、そして徐々に水玉が立ち昇ってきていた。待っていれば敗北は必死だ。
 遠隔顕現による第三の腕の奇襲は今は使えない。みとりを射程圏内にするには距離があるし、時間がかかるのでその間、空中制御のできなくなった縁が水柱に貫かれるか水の中に落ちるかの方が早い。何よりもこれはまだ奇襲にしか使えない、故に初見だからこそ効果があり、二度目はよほどうまくやらないと効果が無い。
 ならばと、左手を持ち上げ、みとりの方向かって霊力弾を形成する。弾幕の壁の隙間を撃ち抜くか、先の壁を掻き分けてくる“何か”のカウンターとして撃ち出す。これがダメならば、再びスペルカードを使うしかない。しかし前者の隙間はないといってもよく、“線”でも見分けられない。
 
「くそったれ!」

 駄目元で霊力弾を発射。弾は縁の想像、一部を欠けさせすぐに再生されるだけだという考えを、簡単に覆した。霊力弾は先ほどの水柱同様、弾幕の壁に何もないように干渉せず、すり抜けていった。目を瞬かせた後、不可解な現象を再度確かめるために、新たな水柱を避けつつもう一発を撃ち出す。同じようにすり抜け、視界から消えた。
 
「なんだこれ!?」

 相手の弾幕ならばまだ話は通るが、左手の霊力弾も素通りとは、スペルとして意味が無い。そもそもそれなら第三の腕自体がすり抜けていても可笑しくはないはずだ。だが第三の腕はこの壁を削ったのだ。矛盾が生じている。そのために思考が絡まり始め、水柱が右側から迫っていたことに気づけなかった。

「っ、んなろ!」

 気づいた瞬間に間一髪で第三の腕を出して防御する。しかし勢いに負けて弾幕の壁へと身体が弾かれる。反射的に弾かれた時の勢いを殺さず右腕を振りかぶり、壁を形成する弾幕へと第三の腕をぶつけ、強引に静止する。壁は流動しながらも第三の腕がぶつかった部分がへこみように削れ、それの形に沿うように壁は動き続けている。
 やはり、おかしい。衝撃で浮いていた身体が重力に囚われる前に第三の腕を消して浮遊を行使しながら、縁の中にあった違和感が決定的なものとなった。原因も過程も不明な、結果だけが知れた異常現象。第三の腕だけがなる事実。
 その思考を、今度は絡まらせない。戦闘本能と呼べるものがあるならば、縁の中にそれは同じ轍を踏まないようにフル稼働し、思考のベクトルを一本に絞らせた。この現象をどうやってこの危機に役立て、再び攻勢に転じさせるかを。。
 “線”を見れば、ついに泡とみとりの吐き出した白い妖弾が壁の中に入り込み、十秒ほど待てば眼前に現れることだろう。時間はない。危機回避における回答を得なければ、上下左右を完全に封じられた檻に閉じ込められ、なぶり殺しにされるのだ。
 それはあるか。必要なのは、スペルカード発動よりも消費の少ないスマートなやり方。縁は高揚によって痛覚の鈍い身体の中にある頭脳で、冷静に、無茶無謀な案を提案する。それを承諾、実行へと移す。
 義手からの右腕を弓を番えるが如く大きく引き、推力のエネルギーとなる霊力を右肩、そして肘に集中/凝縮する。そして、一つ呼吸をした瞬間、右肩を爆発させる。身体が地面とは水平になって前へと飛び出し、壁へとぶつかろうとする。その直前に第三の腕を出し、壁へと衝突させる。

「いっけぇ!!」

 衝撃。壁は先よりも深く窪む。それだけだ。だからこそ縁は間髪いれずに、右腕の肘に溜めておいた霊力を起爆した。人間の身体を浮遊させるには心もとない、しかし第三の腕と同時に展開できる霊力と、拳のインパクトを増すには十分な爆発的推力が、第三の腕をさらに押し込ませる。
 その原理は、単純な釘打ち機/パイルバンカーであり、こいしとの勝負の際に最初のスペルカードを壊した時のものと同一である。単純であるが故に、単純な原理、即ち「殴ればへこみ、穴があく」には忠実であるのだ。
 その縁の確信に応えるように、多重のひび割れが聞こえ、弾幕の壁に穴が開いた。すぐ向こうには白い妖弾の群れに、みとりの姿。第三の腕で開けた壁の縁(ふち)を掴み、強引に身体を引っ張って飛び出す。勢いのままに妖弾の一つにぶつかりそうになるのを、先に左手で撃ち抜き、不定形の右翼を展開する。そのまま急上昇し、湧き上がる泡とも距離をとる。
 途端、“線”が背後に反応。膨大にして巨体。ぶつかればひとたまりも無い。振り返り際、第三の腕を巨大化。迫りくる、縁の視界を封じ閉じ込めていた巨大な球体を裏拳で殴り飛ばした。その先にいたみとりは降りかかる己のスペルカードの一つに対し、何もしない。

「……やっぱり、人間は卑怯が好きね」

 だが球体はみとりにぶつかることはなく、スペルブレイクの音と共に羽根を散らすように崩壊した。同時に立ち昇っていた泡や水柱が力をなくして本来の理に取り込まれ、湖へと落ちていった。期せずして二つのスペルカードを壊したことになり、口元に自然と笑みが出来上がる。

「残り六枚だ、覚悟はいいか!」

『禁生』『閉符』『非止』『禁術』『禁視』『流符』。十二枚の内の六枚の破壊。体力や怪我は過剰に受けたが、まだ闘える、気力は満ちている。その余裕を示すためにも真上から見下ろすが、しかしみとりの反応は薄い。聞こえたのは先ほどの呟きだけだ。何かが可笑しい、と表情を改めて引き締め“線”に意識を集中しようとした瞬間、みとりは細めた目を縁に向け、口を開いた。

「よもや、能力を二つ持って挑んでくるなんて、予想外よ」
「……はぁ?」

 能力を二つ持つ。寝耳に水、といえばこのことだった。縁の能力は『縁を見る程度の能力』、物事の関係性や因果関係を“線”として見ることができるだけだ。他の妖怪たちが原則一人に能力一つであるならば、縁にもそれが該当するはずだ。
 だからこそ、そんなわけがないだろう、と“理性”はみとりの問いに答えようとした。だが縁のどこかが、何かが、何ものかが、それに待ったをかけた。違和感か、はたまたデジャブか。詳細すら知れぬ、脳裏で蠢くざらついた感覚。それが吐き出そうとした言葉を飲み込み、縁に沈黙という形の答えを作り出した。
 みとりはその答えを受け取り、口を動かす。

「違和感はあった。わたしの能力で作った“禁止の壁”は、心の壁そのもの。だから普通の力じゃまず壊すことはできない……物理的な力が、個人の淡い幻想である心の具現に作用する道理はないってこと。それこそ、勇儀さんのようにハチャメチャな力でもない限りは」

 それは説明というよりも、彼女自身が持論を確認するためのものにも聞こえた。縁もこの間発動し続ける弾幕を回避しながらも、身内の中に動き出した疼きに惹かれるまま、その言葉に耳を傾ける。

「けれどあなたはそれを何度も突破してきた。決定的だったのは、わたしの家に侵入してきた時。そして今さっき起きたスペルカードでの破壊……わたしの予想では、あなたの能力は攻撃や物体の運動と位置の予測と踏んでいたけれど、それとは別にある可能性が高いのよ」

 けど、とみとりは言葉を続けながら、スペルカードを二枚取り出す。だが縁は、体中の痛みのことを忘却してしまうほどに、紡がれる言葉に惹かれて、構えのまま、動けない。

「実はその興味深い右腕の機能なのか、それとも……その予測する能力ですら、“本来の能力の一要素でしかない”のか」

 鼓動が高鳴った。同時に、右腕が幻痛でも起こしたように、“熱い”という感覚を覚えた。反射的に右腕を抑えた瞬間、集中が途切れ、それを待っていたかのようにみとりが動いた。

「間抜けね、このまま終わりなさい」

 急加速、そして片手で振りかぶられた標識。反応が遅れる。眼前にみとりの顔、それを見て、再び縁の反応が遅れた。途端、中途半端な防御姿勢をとった左腕に横薙ぎの凶器が突き刺さり、過剰な熱を伴ってミシミシという音が体の内から響き、縁の身体は水面を幾度もバウンドしながら、湖岸へと殴り飛ばされた。
 口内に砂が三度入り込んできた。湖面か落着の時に頭をやられたせいか頭が痛み、シェイクされる三半規管が普段は聞こえぬ超音波の幻聴を聞きだしていた。そして一瞬、視界が真っ暗になる。それはまさに刹那の間。しかしそれは、縁が一度意識を失ったことに他ならない。
 感覚のない左手で頭を押さえると、ぬるりとしたものが手の平を赤黒く染めた。血だ。そう認識した瞬間、吐き気がこみ上げ、逆らわずに吐いた。これもまた血だ。今の衝撃で、折れていた骨が内臓のどれか、特に消化器官を傷つけた可能性が高い。
 急速に自分の内から失った人の潤滑液/エネルギーに、改めて「死ぬかもしれない」という思いが浮かんだ。ただそれは、あの暗闇から這い戻ってきてからずっと心の内にある思いだ。
 いつか、死ぬ。五十年後かもしれないし、数秒後かもしれない。生きているものは、死とは縁遠いものであっても、必ず隣にいて、いつ“生”というものを奪い取ってしまうかわからない。
 それでいい、それでいい。幻痛を感じさせるほどに熱く、表面の一部が剥がれはじめた右腕を握り締め、縁はゆっくりと起き上がり“線”を確認する。みとりはまだ上にいる、弾幕はまだ発動していない。聴覚も回復してきて、何かの音を捉えている。左腕はまだ何とか動かせる。霊力は五割。相手の残りスペルカードは六枚。
 第三の腕を、熱を吐き出すように展開しながら、みとりを見上げる。いつの間にか降り始めた雪の中、赤い河童は縁ではなく、対岸の方へと向いていた。縁もそちらを見て、その姿を視認し、目を見張った。

「―――――ッ!!」
「――――、――――!!」

 何人もの妖怪がそこにいた。その内の三人は友人や恩人と呼べる人々だ。だけど、大きく口を開いて何かを叫んでいる二人は、縁にとって、かけがえのない人たちだ。そして、未だ聴覚が完全でなくても、自分の名前を呼んでくれているのだと、何となくわかってしまった。二人のうちに一人、縁がこの場で命を賭けるためにきた少女は、以前もそうやって名前で呼んでくれたのだ。
 ああ、もうここからは、格好悪いところは見せられない。
 右腕に灯った熱を、呼吸と共に体内に循環させる。ただでさえ戦闘で火照っていた身体に、過剰な熱が加わり、それが縁の感情と合わさり、力となる。この熱の出所は、何となく察している。ただどうしてこうなったかは今一掴めない。だから今はそれを脇に置き、こう考える。
 相手にこちらも全容を知らない自身の能力を知られた。ならそれを逆手に取り、ものにする。
 単純でバカバカしく、策も何もない考えだった。故に、シンプルに、これまで通りに戦いに専念できる。
 
「まだ、終われねぇよ! 第二ラウンドだっ!」

 景気づけの咆哮の直後、こちらへと振り向いたみとりの“何か”が爆発した。




 縁の恥ずかしく、そして憎憎しく、激怒を誘発する告白で荒れていた心はいつの間にか落ち着きを取り戻していた。いや、それは落ち着く、という言葉では言い表せない現象だ。例えば、荒れ狂っていた河川が、ぴたりと運動を止めて元のせせらぎに戻ってしまう、時間の逆転現象染みたもの。そうとしか言い様がないほどに、激情を振りかざしていたみとりの身内は冷静さを手に入れていた。
 切欠は二つある。一つは、これから喋ること。刺激された知性がそれを証明し、人間譲りのずる賢い闘争本能がそれを現状に引き出そうとした結果だ。もう一つは、原因不明、いや起点だけが判明している。己が絶対防御に等しく、何者も通れないと信じていた壁が、突き崩された瞬間だ。
 振れ幅が大きすぎて感情という波がなくなるという現象を、この二週間の内に一生分味わった気分だった。だが今回は、今まで以上だ。言葉にし難いものが、どろどろと固まりながら凝縮し、時たま伸びる触手のような余波が身体を動かそうとする。口だけが自分の制御下であり、みとりは休めることなく、相手を揺さぶることを目的とした推論を言葉にしていた。
 中邦縁のもう一つの、または本当の能力。
 既に述べたもの以外に、みとりは先ほどまでの弾幕合戦で判断材料を集めていた。まず『流符』の際にあった水流の迎撃。縁の様子を見るに気づかなかったようだが、縁はみとりがスペルカードに取り込み弾幕としたもの“以外”の水流も殴り、逸らしていたのだ。
 それを見、壁を破られてから、みとりは急速に冷えた頭で一つの仮説を立て、実験を行った。反則スレスレのスペルカード同時発動で縁の視界の判断力を奪い、故意的に“普段は意識できず、触れないもの”を弾幕に紛れ込ませたのだ。それは禁止の力で気圧を操作し、意図的に作りだした、妖力も何も纏わせていないただのカマイタチだ。中邦縁はそれも、右腕の延長であるただの弾幕で弾いた。
 天狗が扱う、妖力を帯びた風ならばまだその現象には納得できただろう。だがこれは、専門の力を持たないみとりが経験という科学によって作り出したものだ。ただの人間なら気づかぬ内に怪我をした程度の認識だろう。妖怪なら、すっぱり傷を開いて、すぐに回復するのがオチだ。
 最後に『禁視』の要ともいえる弾幕の覆いそのものだ。縁はあれを弾幕で抉っていたが、そんなことはできない。あれが透過しないのは、内側に囲んだ肉体だけなのだ。それ以外のものは、例え風や弾幕であろうと透してしまう、正しく視覚を潰すためのもの。スペルカードの力とて、その限りではない、なのにそれを殴って壊し、あまつさえ逃げ出した牢人を弾幕の殻そのものが追いかける不具合すら起こしたのだ。
 やはり異常だ。能力というものでしか、この事態を説明できない。同時に、本人も知らぬタネを暴いたことで、こちらの攻め手に若干の修正を加えることとなった。そのために、手に持った二枚のスペルカードに目を落として、立ち上がろうとする人間を確認する。左手が痙攣し、吐血もしている。もはや長くはないだろう。だがもう、油断はしない。

「もうそろそろギブアップでいいんじゃないかしら? 調子に乗った芋虫には、これ以上やるのも無理そうだしねぇ。ま、代わりにかわいそうな地獄鴉が一羽爆死しちゃうけど、構わないわよね」

 先ず軽い挑発で様子を見るが、反応はない。起き上がるだけで精一杯のようだ。それとも、今の衝撃で耳をやられたか。どちらにしても、仕込には絶好のチャンスだった。先にスペルカードを発動させるために妖力を集中するため、雪が降り始める中空へと投げようとした。
 その矢先。

「縁ーーーっ!」
「がんばれーー、縁ちゃーーん!!」

 遠くから声が聞こえた。対岸だ。反射的にそちらを向き、声を失った。妖怪たちがそこにいたのだ。声を上げたのは、みとりが振動波を叩き込んだ地獄鴉と、第三の目が閉じた妖怪覚。その横には、ヤマメとキスメ、そして星熊勇儀の姿があった。三人もまた、みとりではなく、立ち上がった人間を見ていた。
 誰も彼も、みとりを見ていない。一人だけで、ぽつんと浮かんで、スペルカードを構えているだけだ。

「…………どいつも、こいつも」

 地球の核のように特異点的でありながら安定していた感情というものが、ざわりと呻き、急激に成長を始めた。握っていたスペルカードに力がこもり、妖力が流れ込む。

「そんなに、人間が好きかっ……」

 超新星爆発寸前の怪物と化した感情/河城みとりの本質が、新たなスペルカードを取り出す。それもまた、事前に起動直前となったものに同気し、赤光を放ち始める。その余波に錠前が揺れ、耳障りな音が響く。いつもと少し違う、鈍い音。不安を煽る、不協和音。気になりはしない。そんなことよりも、一刻も早く、このような茶番から抜け出したかった。
 直後に、中邦縁が、みとりの思いを逆撫でするかのように叫んだ。第二ラウンド開始だ、と。
 
「ふざけるな……っ」

 眼下の人間/怪物を見下し、発動寸前だったスペルカードを全て放り投げ、展開する。三枚のカードは互いに干渉しつつも、しかし混ざり合うことなく溜め込まれた妖力を解放して、湖に赤い太陽を作り、雪を染めた。

 禁域「ノー・エントリー」・禁詩「緋蟲の報せ」・「忌避されし紅色の河童」

「三枚同時発動!? みとり、何をやって……」
「うるさい、黙れ鬼」

 かろうじて聞こえた勇儀の声に苛立ち、一塊となっている外野の周囲を禁止の結界で囲い、閉じ込める。これでしばらくは、少なくとも人間を嬲り殺しにする間は保つはずだとポールウェポンの標識をしまいながら思案し、定められたスペルに従って身体を現実原則への干渉を禁止する。つまりは、物質の完全透過、一種の無敵状態だ。
 それを終えると、自らを弾幕の泡へと変じさせた様に見せつつ、周囲に再び赤い蝶が顕現した。
 蝶は最初のスペルの時よりも一回りほど大きく、煌く鱗粉を撒き散らし始める。その数、わずか三。そして翅の形状も若干変わっており、上からの視点では、巨大なハートの形のようである。
 中邦縁が藍の焔で飛び上がった瞬間、顔に衝撃が走る。当然だろう。スペルカード「忌避されし紅色の河童」は、相手の特定の動きを一定時間ごとに禁止する、みとりの能力をフルに活用したものだ。今の時間は、最初の向きから左右に動くことを禁止する。上下と前後だけが、今の縁の行動範囲だ。
 動きが制限されたことに気づいた縁に対して、一枚目の効果が発動し、三百六十度全てから大玉が出現し、縁を包囲する。驚きに満ちたその顔向かって、みとりは蝶を解き放ち、同時に自らも動いた。
 ほんの僅かに動くだけで、身体に蛇が纏わりつくような重みを感じた。さすがにスペルの三枚同時発動、それに伴う効果、そして紛れ込んだ外野たちを閉じ込める壁と、一度に妖力を消費しすぎているようだ。スペル発動時間も、このままでは長くないだろう。
 それに構わず、みとりは弾幕と化した己自身で縁を泡に埋もれさせるべく、急降下を開始した。左右への移動を禁じられながらも大きな穴の開いた包囲陣を易々と抜けた縁に、再び同じような弾幕の陣と、自由に飛び回る蝶が同時に襲い掛かった。第三の腕を出さず、義手そのままで蝶が殴り飛ばされる。だが鱗粉が首筋にかかり、その顔に苦悶の表情が表れた。ヒルを強引に剥がしたような、焼ける痛みを感じているのだろう。それでも二回目の陣を抜けたのは、流石といえた。みとり自身、縁のこの弾幕、いや戦闘への異常適性とも言える性質を認めていた。
 そうでなければいけない。“怪物”を倒すには、相手をよく知らなければいけないからだ。

「強がることで、調子が戻ると思ったの?」

 挑発を加えながら、縁へと飛び込む。急上昇されて回避され、みとりは急制動をかけつつ、再び突撃する。今度は、包囲陣が閉じようとするタイミングに合わせてだ。

「誰かの声援を受けて、強くなれると思っているの?」

 これも避けられたが、それだけにしか反応できなかったようだ。飛んでいた蝶の翅に右足が当り、その部分を起点に体が後へと斜めに傾いた。万全であれ予測能力もあり避けられたのだろうが、コンディションは見るからに悪いはずだ。加えて、左右への移動禁止は、飛翔の制限と共に、このようにバランスを崩すようなことができる。逃さず、突貫。破裂する弾幕の泡を、縁の腹へと叩き込んだ。
 
「人間が、化け物が、わたしに勝てると思っているの?」

 そのまま落下する縁の体が、突如中空で静止し、みとりの周囲に絶えず生成されていた泡たちが、一旦全て破裂した。もう第二段階の時間だ。これではスペルブレイクまで後一分もないだろう。泡が再度生成され始める、今度は先より一回り大きい。最後の段階には、更に巨大化し、泡の数も増えるのだ。
 そうしている間に縁が身を起こそうとしていた。その瞬間、一定間隔で形成される包囲陣が閉じ、縁を押しつぶした。弾幕はすぐに消え、身を固めて、しかしそれ以外に何もしていないにも関わらず浮かび続ける縁だけが残された。
 第二段階、上下への移動禁止、高度調整の禁止だ。代わりに左右への移動は解禁だが、その分蝶が働いてくれていた。

「そんなの、不可能なのよっ!」

 蝶たちは、いやその鱗粉は本体から離れてそのままでいると、小さな弾幕へと変じるようにしてあった。その時間は瞬きほど。だが蝶自体が好き勝手に飛び回るおかげで、相手へのプレッシャーとなる。気づかれていなければ、ブービートラップにも使える。
 どのような変化が起きたか気付いたのだろう、左腕に霊力が集まり後退しながら霊弾を撃ってくる。無意味だ、アストラル的な存在と化している今のみとりに、ただの弾幕が当たる道理はない。泡沫の棘と共に、それを思い知らせるが如く追い詰める。

「人間という怪物は闇を恐れる! 妖怪という化け物は照らされることに恐怖する! 互いが互いの存在を、本当は憎み合っている!! そこに感情とか意味なんてないっ、ただの真理だ! だからお前は、ここで死んでいけ! わたしという怪物に殺されていけ! 忌々しく、くだらない情と一緒に!!」

 泡が破裂し、縁の左腕が跳ね上がる。右足を蝶の弾幕が打ちすえる。開ききっている傷口を焼く。不愉快極まりないものが、みとり自身の手で消えていく。とどめ、あと少しで、とどめ。

「それが……」

 直後、縁の右腕が握りしめられた。踏み込みすぎた、とみとりが気付いた瞬間。

「どうしたぁッ!!」

 見えず、触れずの体が“殴られた”。強烈な右ストレートが、左頬へと決められた。予測はできていたはずだと、慌ててその場から飛び去ろうとした瞬間、いつの間にか展開していた藍色の巨腕が、みとりの腕を掴んでいた。
 仮説が悪い方向に的中してしまった。中邦縁は、掴めないはずのものまで、掴むことができる。それこそ、無差別的に、平等に、区別なく。霊界的/量子的な状態となったみとりを殴り、あまつさえ捕まえたことが、その最後の証明だ。これを予想していたからこそ、不可視化、非実体化するスペルと変則型のスペルカードを使い、さらに感情的にとはいえ盤石を期す為もう一枚も切ったというのに。

「何をっ……!」
 
 たまらずうめき声をあげ、相手の思惑を看破しようとした瞬間、一気に引き寄せられた。カウンターを考える暇もなく、その勢いのまま頭突きを食らった。額から波紋のような衝撃が頭全体を奔り、思考が一瞬飛ぶ。視覚も瞬きの瞬間に真っ白になって、動きを止めてしまった。

「人間は、たしかに弱い! だから誰かを虐げる! 」

 焼いたはずの右足が、新たに生まれてくる泡を割りながら、胸部へと膝を繰り出してきた。重なった錠前を突き抜けて、痛みが背中へと突き抜ける。

「妖怪だって、本当は弱い! 誰かが思ってくれなくちゃ、消えちまう!!」
 
 逃れなければ。藍色の腕から逃れなければ。そのために、妖怪譲りの力でもがこうとし、泡の破裂で引きはがそうとしているのに、逃げられない。

「だから、互いを理解し合えないっていう、言い分もわかる!!」

 二度目の頭突きが、アッパーが、蹴りが、みとりの体を、その内側を突き抜け、揺らし続ける。思考が、できなくなる。考えることをやめたがり、聞かないようにしていた怪物/人間の言葉が、聞こえてしまう。

「お前がそれを、怪物だっていうならそれでいい! 弱くて、誰かに縋らなきゃ生きていけないことが悪だって言うのも、別に構わない! けどそれはっ!」
 
 右腕が離された。思考が白濁と化しながらも、それが逃げるチャンスだと感じ取り、間髪入れず下がろうとしたみとりに対し、縁の背中から、藍色の炎が噴き出した。

「弱い、てめぇの道理だ!!!」

 ゼロ距離の、急加速での、右拳。一度目の衝撃が腹を突き抜けた瞬間、縁の右拳に溜められた霊力が解放され、二度目の衝撃を釘打ち機のごとく打ち出した。耐え切れず、胃の中のものが逆流し、吐き出す。それと同時に、胸元から、何かが壊れる音がした。ガラスのようなものが壊れる音。金属が壊れる音。二種の多重奏。それらは自分の家でよく聞く音。
 ふと、自分の家とはどこだったか、というとりとめのない、しかし不思議な疑問が脳裏を過った。そして、スペルカードの最後の瞬間に『禁域』の輪に再び潰され、落下しだした縁を視界に収めながら、実体に戻ったみとりは重力に絡めとられて、同じように湖岸の砂浜へと落ちた。
 強く丈夫な半妖の体であっても、受け身をとることができず、無様に転げ落ちた。砂が口の中に入り込み、懐かしくも吐き気のする記憶と感情が蘇りそうになった。しかし押し込められた憎悪の“想い”は、中邦縁への憎悪の糧となって、記憶を混濁させながら、みとりに起き上がらせる力を与える。
 他者は他者を理解できないという真理を、弱い道理と言った。ふざけるな、どのような幻想を見れば、そのような甘ったれたことが言えるというのだ。人間だろうと妖怪だろうと、愛や友情などという幻想に取り繕い、依存し、しかし心底では罵倒し、殺し合っているではないか。それの何が可笑しいのだ。どこが、間違っているのだ。
 生まれてしまったものは、皆孤独なのだ。孤独故に、他者を傷つけるのだ。
 己の中から浮き上がる言葉を一つ一つ確かめながら、みとりは粉雪と砂が入り混じったものを掴みながら、起き上がろうとした。だが胸元にあったはずの、何かがないことに気づいて、動きを止めた。
 落下の衝撃で震える手を胸部に持っていき、胸部をまさぐる。ない、あるべきはずだったものが、そこにはない。何度も何度も、震える両手で確認する。言葉にならない声を吐き出しながら、存在しないものを探す。それをひとしきりしてから、頭を上げて、周囲を見る。
 そして探していたものは、以外にも近く、波打ち際に、無残な形で落ちていた。

「あっ……」

 それは、真っ二つに割れた錠前だった。
 たび重なる戦闘と、拳の衝撃、そして元々が古い品であったために、とうとう限界がきていたのだろう。ものの寿命を考えれば、当然のことだった。
 だけどみとりは、それを信じれなかった。

「あ………あぁ、あああぁあ………」

 湖へと這いずるように駆け出し、波に浚われようとする所へ手を突っ込む。雪を溶かす水が、今は煩わしい。寄せた波に当る自分の手がもどかしい。早く、一刻も早く、あれを身を焦がし続ける憎悪の太陽すら消し飛ばすほどの焦燥に駆られて、みとりの手と目が錠前を掴まえようとしていた。
 それは一分もかからなかった。だがみとりには何時間もの出来事に思えた。
 ようやく自分の下に戻ったものは、見間違いようもなく、壊れていた。

「ああ、うあ、ああぁぁぁぁ………」

 鍵穴を中心にひびが広がり、そこを起点に左右へと分かたれている。どんな素人から見ても、直せる余地のない壊れ方だった。
 力が抜けて、へたりと座り込んでしまった。手のひらに乗せた錠前の壊れものを前に、みとりの内に蠢めき力を与えてくれたものがいなくなってしまったようで、動けなくなってしまった。すると、目から何かが溢れてきた。今まで力を込めて防ぎきっていたものだ。熱い。垂れた部分がそれに刺激されて、熱を帯び始める。
 頬も、口も、鼻も。そして何より目が、熱い。溢れる何かが増えるごとに、熱くなる。

「………なに、泣いてんだよ」

 そして背後からかけられた声に、みとりの体がびくりと震えた。最初は、怯えが身の内から湧きあがった。振り返りたくない、という気持ちが瞬間に肥大化したが、しかし次いで、星の核の如き怒りが思い出したように、いやこれまで以上に燃え上がり、みとりを声の主へと振り向かせた。
 左腕を抑え、今までの傷に加えて、新たに右目を腫らした〝怪物”が、〝人間”が、〝みとりをいじめる人”が、そこにいた。その顔は、みとりには言葉にできない。する必要もない。ただ目の前のものを、残虐に殺してやらなければ、気がすまなかった。

「……なあ」
「……も」

 “怪物”の言葉を遮り、震えた声が出た。怒りのあまりに震える片手がスペルカードを取り出し、残る全ての妖力を注ぎ込む。緑色の光がみとりのリュック、そしてスペルカードから溢れ出し、力の脈動が地底湖中に響いた。

「よくも、わたしの、お父さんと、お母さんが、くれたものをぉぉぉ!!」

 大切なものが、壊されてしまった。ならば、仕返しをしなければいけない。悪いやつを。いじめて来るやつを。河城みとりをひとりぼっちにする、元凶を。
 混濁している。混沌と化そうとしている。みとりの身内で、様々な感情が、錠前が壊され、鍵を失ったことで溢れかえっている。それを今、みとりの精神は自ら崩壊するのを防ぎとめるために、たった一人の人間相手にぶつけようとしていた。

「ソルディオオォォォォォス!!!!」

 そしてぶつけるのは、みとりがもっとも恐ろしいと感じた、異なるケガレの力だった。



 あとがき
 あけましておめでとうございまスライディング土下座!! 
 復活予告遅れてすいませんでした、バアッーテックスの尻を貸しにいってきます。
 あと、今回は戦闘グダグダでごめんなさい。次もこんな感じです、すんません。



[7713] 第三十一話――鎧土竜<落ちませんよ、私の鎧土竜はっ(修正)
Name: へたれっぽいG◆eaa9c481 ID:a2573ce4
Date: 2011/03/15 17:57

 
 夕焼けの原っぱを駆ける。それが河城みとりにもっとも強くこびり付いた記憶のイメージ/原体験だった。
 みとりは河童であるためカラクリも好きだったが、それと共にかけっこも好きだった。それがこうじて、友達との遊びでは鬼ごっこが一番だった。
 黄金の野原を、みんなで走り回る。みとりは半妖というだけあって一番速く、男の子たちにも一目置かれていた。そういうことが要因になっているのだろう。
 だが、何故イメージの中でも走っているか。記憶にある限りはいくつかパターンはある。家に帰るとき。妖怪の山へ向かうとき。子ども達から遠ざけられたとき。大人たちから罵声を浴びたとき。
 だがそれよりも強烈なイメージがある。
 両親がみとりのことで口論しているとき。終わりが始まったときだ。
 河童の父親と、人間の母親。その中に時々、母親の母親、つまりは祖母が加わり、家の外にまで響くほどの罵詈雑言が応酬される。滲み出るほどに染まった嫌悪と憎悪、疎ましさから迫害へと変わり始める認識。日に日に増える暴力の影。家の中だけでも辛いのに、一歩でも外に出れば、何かを言われるか、投げられるか。腐りかけた卵の匂いが付着した髪を、時々思い出す。
 昔は、こんなことはなかった。
 河童の父に合わせて村の外れで三人仲良く暮らしていたのだ。だけど、祖母の願いと、両親のみとりに対しての願いによって、母がみとりを連れて里で暮らし始めたのだ。それから全てが悪くなり始めたのだ。河童である父は家に時々来る程度になり、その度に近所の人々に気味悪がられ、祖母と口論になり、母の心を蝕んでいった。
 それまで何も気兼ねなく遊んでいた村の子どもたちとも、関係が変わってしまった。みとりの父が河童であることに妖怪に向けるものらしい嫌悪を大人が抱き、それを自分たちの子どもに伝染させたのだ。頭の良かったみとりは、そのことを理解してしまっていた。
 それからみとりは一人で行動するようになった。心配した父が、腹違いの妹となる純粋な河童、にとりに引き合わせて仲良くさせようとしたが、男性の不純さを垣間見たような気になり、父が嫌いになっただけだった。母は、周囲の人々や祖母からの悪意を一手に引き受けながら、みとりを懸命に人里に慣れてもらえるようにしていた。父も、そのことには誠実さを見せた。
 それが二人の願いだったからだ。
 そのことに、祖母が表面上は反発し嫌悪感を抱いていたが、しかし一方で、どこか認めている節があったのを、みとりは一度だけ見たことがあった。みとりのことを、一度だけ正面から見てくれたことがある。
 最初で、最後。父のこれない日に、母が村の男たちにどこかへ連れ去られた時だ。みとりは母を男たちから取り返そうとした。だけど妖怪の血が混じっていても、みとりはただの子どもだった。顔を蹴られて、倒れて後に踏み潰された。母が止めてくれと懇願し、男たちは嫌な笑みを浮かべて、条件を出した。
 母は俯き、みとりと父に謝りながら、それを受け入れてしまった。
 何をされたのかを、みとりは知っている。大人になったことで、その意味を理解している。生きているものの尊厳を、意志を尊重することを、女であるということを、根こそぎ踏みにじられたのだ。
 だがこの時のみとりは子どもで、ただ恐ろしく酷いことをされることしか理解できていなかった。
 一人帰ってきたみとりを待っていたのは、童のように泣く祖母だった。祖母はみとりを見るなり、顔を怒りに、そしてついでさびしく、哀しいものに変えて、傷だらけのみとりを抱きしめた。

「ごめんよぉ、ごめんよぉ。こうするしか、わしらはこの里じゃ生きれないんじゃ……みとりは、何も悪くないのになぁ……」

 初めて、みとりのことを名前で呼んでくれた。そしてそれきり、祖母は泣き喚いた。みとりは何も考えられなくて、ただ祖母を、昔母がそうしてくれたのよう、背中をさすって一晩中あやした。
 次の日、母は帰ってこなかった。祖母は元に戻っていたが、時々遠くを見ていた。
 その次の日、母を見つけた。村の外側にある井戸の傍で、ぐったりとしていた。酷い臭いがした。服を破かれた体中、血と黄色い付着物で汚れていた。その目は、光を宿していなかった。
 みとりは母を連れて帰った。里の人間たちの目はもう、気にならなかった。どんな目で見ているか知っているし、慣れてしまっていたからだ。
 家に帰って、仰天する祖母を尻目に一人で母を洗い、布団に寝かせた。母の目はどこにも焦点が合わさっていなかった。祖母は呻きながら、母の顔を覗いて、また泣いた。

「……出ていけ」
「……うん……お母さんを、お願いします」
「出ていけといったろう、この半妖がぁッ!!」

 唐突に切り出された絶縁宣告も、すんなりと受け入れられた。もう終わってしまったことを、幼心と引き換えに気づいてしまったのだ。母のことは心配だったが、祖母がいてくれるから大丈夫だろうという気もあった。
 最小限の荷物だけ持って、その日のうちに家を出た。父に挨拶だけでもしようと思い、河の方へと足を向けた。世話になる気にはなれなかった。
 河につくと、にとりが最初に声をかけてくれた。それ以外の河童は、その場にいたものはすぐにどこかへ消えてしまった。
 家を出たことと、しばらく一人でいる旨を腹違いの妹に告げ、次に父が今どこにいるかを尋ねた。にとりは口を濁した。少しきつく問い詰めると、おずおずと場所を教えてくれた。みとりは他の河童に気づかれないように、父のいるという河童の集まる場所にいった。
 そこで見たのは、顔を真っ赤にしながら酒を飲み干し、高笑いをする父だった。その口が開けば、やれ「あの人間の嫁は煩わしい」「いい加減いなくなって欲しい」「あの子どもも面倒だな」「いやそもそもあれが生まれてきたのがいけなかった」という無責任なことを大声で喋った。周囲の河童たちも、それと同じようなことを矢継ぎ早に叫んでいた。
 みとりは何も言わず、その場を去った。そのままにとりの静止も振り切り、山を出た。
 一人になりたかった。
 いや、一人にならなければいけなかった。
 河城みとりは、存在してはいけない。

 いなくならなければいけなかったのだ。

「うぁ……」

 喉が熱くなって、涙が目から零れ始めていた。
 いつの間にか、少し前までは友達と一緒によく鬼ごっこをしていた野原に来ていた。大人たちも、妖怪も、そうそうこない穴場だ。だけど、みとりは知っている。みとりを通じて、この場所によく来てくれた大人と、妖怪を。
 そして、帰りが遅れると、いつも迎えに来てくれていた、父と母を。

「あ、ぁうぁあうう」

 膝が崩れ落ち、靴が汚れた。両手が大地につき、稲穂を何本か巻き込んだ。
 その拍子に、胸元から何かが飛び出した。金色の錠前だ。カラクリが好きだったみとりの誕生日プレゼントにと、見た目の単純さとは裏腹に、中身はちょっとだけ捻った構造をしている、ほんの少し特別な、みとりだけの宝物。
 ここにはもう二度ときてくれない人たちがくれた、たった一つ残ったもの。

「うああああぁぁ、あああぁぁぁあぁああああっ」

 ついに、我慢しきれず泣き出してしまった。涙と泣き声と共に、自分の中の大切なものが全て溢れていった。風がそよいで、太陽が夕日に染まろうとも、それを止める術にはならなかった。止める方法は、いや止めることができる人たちは、もういない。みとりの中には、もう存在しない。

「人間と河童は盟友だ」
「その間にできた、私たちのみとりなら、きっと互いの架け橋になってくれるわ」

 河童と人間、妖怪と人間。
 その間の子であるみとりに、二つの種族を結び合わせる架け橋になってくれと願った、みとりの大好きだった両親は、もうどこにもいない。
 全て、失ってしまったのだ。奪われてしまったのだ。
 繋ぐべきはずの二つの存在によって。
 繋ぐ役割であるべき河城みとりが、原因となって。
 
「あああああああああああああああああ、ぁああああぁぁぁあああああ……」

 もうどこにも、河城みとりの居場所はなかった。
 
 そして河城みとりは、今までの己を、存在意味/存在してはいけないという意味だけを残して、鍵をしてしまった。

 残された河城みとりという残骸は、その意味を果たすために、誰もが己を必要としない地底へと、堕ちていった。



 その、はずだった。



 第三十一話『君想フ声・下――そして、“小さきものたち”』





 叫びと共に、緑色の光子が縁の視界を染め上げた。
 降り落ちる雪の白も、縁の作り出す藍色の光すらも霞んでしまうほどの強烈な光。全てを染める黒色にも似た性質を誇る悪魔が、その形を完全なものとし、術者を乗せて宙へと浮かび上がった。同時に緑の光は若干収まり、地面から生え、浮かび上がるように構築された球体/ソルディオス・キューカンバーの内部に吸収されるように萎み、ゆっくりと立ち上がるみとりの胸ほどまでで発光を留めた。
 悪寒が止まらない。今までのみとりに対して感じたものが、強烈な感情を向けられての科学的反応だとすれば、これはそれすら上回る、遺伝子レベルの警告とも言えた。十一が言っていたのもわかるな、と口の中で愚痴て“線”を見開く。
 それとまったく同時に、ソルディオスの一部に穴が開き、ガラスの目玉が飛び出した。その目玉の数と同じだけの“線”が全て縁へと、複雑な曲線を描いて繋がっていた。
 くる。思考と同時に、前進。体力と霊力の消耗が激しい。痛みは一部が既に何も感じないほどだ。だが、動けることには変わらない。だからまずは、走る。全力で。

 No Future
 
 何かがそう詠った。直後、ガラスの目玉/粒子収束レンズが一斉に瞬き、捻じ曲がる光線を幾十も発射した。その速さ、軌道、数、全てが『オービット』の比ではない。右肩に藍の力を込め、爆発させ、更に加速する。殺意の光の雨の中では、止まることは決して出来ない。

「お前は……お前たちは……」

 ソルディオスに乗るみとりが、何事かを呟いた。縁の頬を光条が掠め、すぐさま背後で爆発が起きた。降雨の中へと突入したのだ。気を抜く暇は一切ない。
 それでも、声だけは耳に届く。

「いつも、わたしを嘲笑う……日向の中から、輪の中から、指をさす……」

 砂柱が間断なく巻き上がり、その実行犯は縁の肌を触れただけで緑色に焼く。焼かれた傷は、ただの火傷より冷たく、そして体の内側へとじわりと侵入してくるような怖気を催すものだ。直撃すれば、それこそ精神を焼かれるだろう。予感ではなく確信だ。魂が存在することを、既に縁は知っているのだ。
 それでも前へ、前へと走る。
 前へと踏み出すのは勝利のためか。そう問われれば、今の縁は躊躇してしまう。勝利しなければいけない理由はある。それが道理であり、自分自身のためであり、大切の人のためでもあり、誓いであるからだ。
 だが見てしまった。河城みとりを構成していた核を見せられてしまった。そのために、縁の右手は、拳を作りきれなかった。かといって、足を、湧き上がる感情を止める理由には、なりえない。

「勝手に群れて、ひとりでいるやつを好き勝手に嗤って……そんな権利が、お前たちにあるのか?! そんなことにわたしを、お父さんを、お母さんを……巻き込んで……」

 みとりの慟哭ひとつひとつに反応し、ガラスの目玉の数が更に増え、吐き出されるレーザーの数が倍加していく。夕立の勢いはとうに越え、滝とすら言える量のレーザーが地表に突き刺さり続け、縁の見る“線”の量は加速度的に増大し、負荷が高まっていく。
 その限界か、はたまた度重なるダメージのせいか、両目から何かが切れる音がし、負傷した左足から一瞬力が抜けた。倒れる、と考えるより先に、闘争本能が右腕で地面を殴らせ、その反発力で宙へと飛び上がらせた。藍色の炎が、更に苛烈に燃え上がる。

「許されない……そんなのぜったい、許しちゃいけない……お前たちがいなければ、お父さんも……お母さんも……わたしも……っ」

 レーザーの目玉による一斉射撃。飛び上がった勢いのままに、縁はきりもみしながら上空へとさらに飛び上がり、その追撃をかわそうとする。その予測軌道へ向けて、ソルディオスのもっとも巨大な目玉であり、口である中央部分のへこみが開き、緑の光がチャージされ始める。

「しあわせ、だったんだぁーーー!!」

 慟哭と砲撃音はまったく同時だった。魂を焼き尽くす緑色の焔の塊が向かってくる。第三の腕で受け止めるという発想は、その巨大すぎる砲撃と直感から止めて、更に急加速をして、射線から逃れる。緑の光線は肩を掠め、そのまま天井へと突き刺さり、爆発を起こした。
 爆風は垂直に立ち下がり、飛行していた縁をも巻き込む。体のバランスが崩れ、上下感覚がなくなるような回転をしながら、爆風と衝撃波に飲み込まれて吹き飛ぶ。赤く染まりながら横転する視界には、未だ追いかけてくるホーミングレーザーが映り、第三の腕を広げる。
 そして、そのまま“線”に通じる“空間”を掴んだ。
 途端、身体は不可視のフックにでも引っかかったように静止し、宙ぶらりんの格好となってしまった。何故こんなことができるのか。そんな余分なことを考えようとする思考を停止し、左腕を突き出す。照準は全て、迫るレーザーの群れ。
 見える“線”に繋がるレーザー全て向かって、左手の弾丸/弾幕で狙い撃つ。全弾、命中。即座に、みとりの方向に伸びている“線”が反応する。第二射か、と思った瞬間に、今度は掴んだ“空間”を離して、間断なく殴りつける。その反発力で縁の身体は飛び上がり、直前までいた場所を、ソルディオスの砲撃が轟音と共に走りぬけた。
 
「どうしてわたしたちに突っかかってくるんだ! わたしたちは、何もしてないのに! ただ、みんなと一緒にいようとしただけなのにっ!!」

 みとりが、こちらを睨みつけている。仰いだその顔には、先ほどと変わらぬ、大粒の涙と、子どもの癇癪のような泣き顔が出来上がっていた。改めて見るそれに、怒りと哀れみが核とした、形容しようにない、熱いものが内から沸きあがった。
 拳は、もう作れる。

「ごちゃごちゃと……わけわかんねぇことを……」

 第三の腕を消し、フルブースト。真上からの真っ向勝負。ソルディオスの百蛇の目が見開く。それに身体を止めてしまうことは、ない。光が放たれるよりも早く、届くからだ。

「最初にケンカを吹っ掛けてきたのは、お前からだろうがぁッ!!」

 熱い感情を込めて、拳を振り下ろす。みとりがそれを抜き放った標識で受け止め、そのまま騎乗するソルディオスごと吹き飛んだ。水面近くまで落ちたみとりは直前でソルディオスを使って急制動を掛け、スペルカードを抜き出し、発動した。

 禁恋「運命が招く悲劇」

 宣言と共にみとりの身体を中心に廻ったのは、弾幕で出来た巨大なハートの束だった。それは虹を構成する色と同じ数で構成され、加速度的に巨大化し、破裂した。リングウェーブを可視化したような衝撃波の輪が幾十も重ねられたのに等しいその弾幕は、空中から落下している縁に容赦なく襲い掛かろうとする。

「違う、お前だ! お前がわたしの中に入り込もうとしたからだ! いないはずのわたしに勝手に触ろうとしたからだ!」
「アホなこと言ってんじゃねぇッ! てめぇはそこにいるだろうが!!」
「消えてなくなれと言ったのは、お前たちだろうっ!!」

 藍色のブースターを小刻みに使って弾幕を紙一重で回避しながら落下の速度を速めつつ、ソルディオスに乗ったまま雷のように一瞬で急加速と急停止を繰り返し、空中を自在に動くみとりへと拳の照準を合わせる。

「話が、見えないんだよ!!」

 再/最加速。“線”によって未来位置を特定したみとりを、第三の腕を顕現し、真上から殴りつける。直後、ソルディオスの前面が真白に煌き、その体が後方へと瞬間移動のように跳んだ。
 驚異的だ。だがそれは、読んでいた。振り下す勢いのまま、第三の腕で湖面を殴りつけ、その反発で背中からみとりへとぶつかる。多少痩せたとはいえ、青年男子の渾身のタックルをまともに受ければ、既に疲弊している妖怪といえど無事ではすまなかった。かはっ、とみとりが唾を吐き出しながら呻き、その手から標識が落ちて、スペルカードの光が弱った。
 
「この、クソ河童ぁ!!」

 逃すかと、そのまま霊力噴射で高速回転し、勢いのままに蹴りを叩き込む。その一撃はスペルカードを蹴り抜いたと同時に、みとり自身の手によって掴まれ、防がれた。そしてもう片方の手には新たな、そして最後のスペルカードが握られ、ソルディオスの球体から、ロックボルトが突き出し、緑の燐光が瞬いた。

「わたしに……わたしたちに、近づくな! 人間ッ!!!」

 光を視認した寸前に、第三の腕を盾とする。直後、爆発。体が一気に吹き飛ばされ、緑の光が藍の力を貫き、視界を緑色一杯に染め上げる。防ぎきれなかった体の部位がレーザー以上に肉を焼き、魂に牙を突きたててくる。
 悲鳴を上げそうになった。

「っ、らぁあ!」

 悲鳴をなけなしの気合に変えた。爆発が収まると共に、みとりの位置を目潰しをくらったように使えなくなっている通常の視界の代わりに“線”で認識し、急制動によって止まろうとした。しかし己の意識に反して、身体は空中に浮かびながらも、みとりからじりじりと離されていく。起動直前の状態のスペルカードからあふれ出す不可視の力が縁の体を押し出し、みとりへ近づけさせまいとしているのだ。
 まさしく、河城みとりの切り札。そう確信させるプレッシャーが、そこから溢れていた。

 サブタレイニアンキューカンバー

 視界が若干回復したと共に、みとりが片手から放り、胸元で輝かせたスペルカードを宣言する。ソルディオスの発動時にも匹敵するほどの妖力が赤い渦となってスペルカードとみとりから溢れ出した。この力が、みとりから縁というものを、いやどんなものをも斥けようとしているのだ。
 まさしく、みとりの言葉通りのもの。お似合いだな、と縁はうそぶきつつ、『穿孔』のスペルカードを取り出した。この排斥しようとする力を突破するには、例え一度見られているにしても、これしかないからだ。
 一方でみとりの周囲には完全なリング状の弾幕が先ほどを上回る数で重なり、緑の煙を廃棄しているソルディオスにもまた、新たな粒子が一つ目に集約されようとしている。
 これが最後の激突になる。両者ともに、互いの体力、霊力/妖力共に尽き掛けているのが判っていた。息を荒げることがないのは、その余裕さえ肉体に残されていないからだ。どちらが落ちるにしても、これで決着がつく。
 今の二人に、一番始めのきっかけと、その終わりの条件は、頭になかった。昂ぶりきった意識はそのことすら邪魔と判断して除去し、ただ終わりの一手を組み立てるために全てを注ぎ込んでいた。そのことこそが、互いが唯一明確に認識している、共通意識であり、闘争の理由だった。
 ただ、決着をつける。それだけでいいと。

「穿孔ォォォォォ!!!」

 火傷を起こすほどの熱に突き動かさ、縁が右腕を掲げ、スペルカードを宣言/咆哮する。
 刹那、みとりの周囲に浮かぶ弾幕たちが一斉に広がり、赤と緑のレーザーを放ちながら、縁へと迫りだした。

「スパイラルゥゥブレイカァァァァァ!!!!!」

 スペルカードが灯り、右肩から最大級の藍の焔が燃え上がり、具現化した第三の腕が巨大螺旋衝角と化す。掲げたそれを、縁はみとりへと向け、再び叫ぶ。

「ぶち、貫けぇぇぇ!!!!!」

 直後、縁の身体は前へ吹き飛んだ。その速さはみとりのスペルカードが発する赤の斥力の影響下にあって尚、縁の意思の爆発を発現するかのように、音速に迫ろうとしていた。その身体は右半身からあふれ出す藍色の霊力によって、一直線に飛ぶ彗星のようであった。
 それを迎え撃つみとりの弾幕は、藍色の螺旋に触れるだけで弾き飛ばされ、その輪を破壊されていた。レーザーすらもその前には無力で、光を根こそぎ螺旋に取り込まれ、縁という星を彩る光にしかならなかった。
 それでもみとりは、縁に屈するという意思も、本能も、意味も、存在も、己も、なかった。
 
「来るなぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」

 弾幕への力を全て斥力に込め、ソルディオスのチャージの限界を超えさせる。斥力そのものを可視化されるほどに赤く染まると共に、ソルディオスのボルトからスパークが煌き、緑色の光が高められ、球体全体に亀裂が生じ始めた。
 斥力が強くなったことで、縁のスピードが落ちる。負けるか、と縁は心の中で念じ、搾りかす程度にしか残らない霊力を、更に絞って、推進力にする。
 その瞬間、チャージを終えたソルディオス砲が、怪物の咆哮となって放たれた。
 最初の砲撃を遥かに越える極太の緑の光条に、螺旋が真正面から激突する。巨大螺旋に隠れきれない左半身が緑色に焼かれ始め、右腕が震えると共に義手の表面に枝のようなひびが入る。身体は僅かに後退し、勢いの全てが打ち消されそうになった。顔も仰け反り、意識を失いそうになる。
 みとりが、泣きながら、歪に笑った。これで、勝ったと。これで、私はまた、一人になれると。
 その希望/孤独を、縁は眼光で、意思で、意地で、打ち砕きにかかる。

「舐めんなぁぁぁぁあぁぁああああああ!!!!!」

 人の咆哮と共に、割れたヒビから光が漏れ出し、それは煙のように螺旋に吸い込まれていく。瞬く間に第三の腕は更に巨大化し、回転を増した。右肩の藍色の炎も勢いを増し、十メートルを越えるほどの火柱/炎翼となって羽ばたいた。
 その力は、みとりの全てを拒絶する赤の力も、ソルディオスの鬼すら膝を屈する異端の“ケガレ”の全力すらも、真っ向から引き裂き始め、縁の身体を徐々に、少しずつ、確実に、みとりの元へと進ませ始めた。
 みとりの笑みが、おこりえなかった未来/絶望に驚愕となって見開かれ、すぐさまそれを否定するべく、己の命ごと、斥力と砲撃への妖力の糧とした。

「わたしは、負けないっ、負けられない!! 負けたら、負けたら……わたしが、わたしじゃなくなってしまう!! だからぁ!!!!!」

 みとりの慟哭が、縁の耳に届く。螺旋を貫いて、縁というものを突き刺してくる。みとりそのものとも言える斥力が、更に膨れ上がる砲撃が、縁を圧し戻そうとする。
 だからこそ、止まらない。

「それは、こっちだって同じだぁぁぁぁ!!!」

 砲撃を、みとりの意思を切り裂く。己というものを、そこに刻むために。

「ああああああああああぁぁ!!!!」
「がぁああああああぁあぁぁ!!!!」

 獣のような咆哮/泣声が、霊力と妖力、“ケガレ”の激突する音を凌駕して、地底湖に、その遥か先へ、旧都にまで響き渡る。
 その二つの絶叫は、縁がソルディオスの砲口まで到達し、加速度的に割れていくソルディオス向かって、その先端を突き刺した瞬間、それらを遥かに越える爆音に掻き消され、途絶えた。
 


 
「うにゅッ!?」
「きゃっ!?」

 地底湖の対岸、みとりによって張られていた結界の跡地で、五人は湖上で起きた強烈な霊力と“ケガレ”の衝突による爆発に身を強張らせ、たまらず両手で顔を覆った。緑色の火傷痕が残る勇儀は、他の四人よりもいっそう苦々しくその“ケガレ”の存在に傷が疼き、歯軋りすらしていた。
 勇儀、そしてヤマメとキスメが地底湖の戦いを見にきたのには、空とこいし同様それぞれ訳があった。勇儀は、自分自身の不始末の決着を見届けるために。ヤマメとキスメは、いつの間にか家からいなくなっていたみとりに友人として不安を覚え、彼女を探すために。
 それぞれが地霊殿の前で遭遇し、さらにこいしと空に会ったのは、必然性すら臭わせる偶然だった。そして、思惑は違えど目的と目的地が同じであり、競争の理由もないのであれば、共に行動しない理由はなかった。
 普段はまったくと言っていいほど揃わない面子を繋げた渦中の二人は、少女たちの気持ちを無視するかのように激突し、その衝突の力故に大地へと落ちようとしていた。
 緑色の“ケガレ”の光の渦から、まず最初に、二つの影がそれぞれ正反対に弾かれたように落ちてくる。それは人影、一人の人間と、一人の半妖だ。次に、“ケガレ”の光を纏った小さく黒い欠片たちが二人の合間から湖に落ち始めた。丸みを帯びたもの、焼け爛れた金属、紛れもなくソルディオスだったものだ。
 
「縁ぃッ!」

 空が叫ぶと同時に、縁とみとりが真っ逆さまに湖へと落水した。そこは比較的浅瀬で、縁の背ならば何とか足がつく程度にしか深さに余裕がない場所だった。十中八九気を失っているだろう少年の安否を確かめるべく、空は一気に翼を広げようとした。
 その手をこいしが掴み、勇儀が同じく飛び出そうとしたヤマメとキスメを手で制した。

「何、するんですかこいし様ぁ! 早く行かないと、えにしが……」
「……まだだよ、まだ、決着がついてない」
「っ」

 こいしの言葉に、胸を突かれた。予期していたからだ。二人の激突と、二人の叫び。妖怪、いや生きているもの全ての根底を揺らすような、ただひたすらな願いの叫び声。人間だからこそ、人間でもあるからこそ、吐き出せる願いの形。それがあれだけで終わると、思えなかった。
 なまじ、空は縁の不屈を何度も目の当たりにしている。知っている。信じている。だからこそ、これ以上傷つくのが見たくなかったのだ。その感情が強いからこそ、主人であるはずのこいしを、たまらずにらみつけ、言葉を無くした。
 こいしは震えていた。あの河城みとりのように、泣き顔を必死に抑えようとする童のように、震えていた。その第三の目も、同じようにぶるぶると震えている。
 耐えているのだ。妖怪覚であるからこそわかってしまう何かに。自らを傷つけたみとりに対しての共感に。読み取ってしまった、“似ている”と告げていた二人の感情に。

「見てっ、二人が……」

 ヤマメが指を差し、離れた位置に落下した二人を見る。
 その二人は、まず最初に左腕を掲げて、ゆっくりと水の中で向きを変えると、湖の波打ち際まで這い出した。二つの異なる咳が響き、その時だけ動きが止まった。そして、どちらからともなく立ち上がり、互いを視認した。
 縁は、満身創痍を当に越えているだろう。今までの弾痕からの傷もさることながら、薄らと開いた両目からは今も血が流れ、出した咳にも血が混じり、裸同然となった上半身は左半分はほとんど緑色に焼けて、見るだけで壊れそうになっているとわかる右腕をだらりと垂らしていた。
 みとりもまた、妖怪であるには、あまりにも薄汚くなってしまっていた。目は虚ろになって口から黒く染まった血を零し、緑色に変色した両腕は完全に垂れ下がって、帽子と背負った禁止標識のリュックはどこかへと吹き飛び、髪は解けていた。
 そのまま両者は、それぞれ足を引きずりながら、猫背のままに歩き始めた。
 歩む速度は果てしなく遅く、波にさらわれてしまうかもという考えが浮かぶほどの弱弱しい足取りだった。全力を超えたぶつかり合いは、二人の体力と霊力/妖力を根こそぎ奪い取ってしまったのだろう。ならば二人を動かしているのは、それこそ精神か、それすらも存在しない、何かか。
 それでも、互いが互いを後一歩の距離まで近づいた瞬間、鈍く、そして大きく動いた。
 
「あああっ!」

 縁の左手が、みとりの左手が、振り上げたと共に、互いの顔を殴りつけた。鈍く、大きな音が地底湖に響き、ヤマメと勇儀を除いた三人が身体を竦めた。それだけだったのに、もう五人は動けなくなっていた。
 理屈でも、幻想でも、感情でもない何かが、彼女たちを留めていた。
 それに身体を縛られて、ただ先ほどのように、見守ることしかできなくなっていた。
 ただ一つ、泣きたくなるような、胸の奥底をを掻き毟る思いと共に。




 幻想/イメージが浮かんでいた。
 河城みとりは旧都の往来の真ん中で一人立っていた。立ちすくんでいた、といってもよかった。ただただ、棒立ちになって妖怪妖精人間が歩き去っていくのを見ていた。その中にはみとりが知っている顔も会った。例えばそれは鬼ごっこで遊んだ男の子友達。あるいは妖怪の山に住む河童と、妹のにとり。人里で共に暮らしていた祖母。自分を生み育ててくれた父と母。カレーというものを食べさせてくれたムラサに、勝手に友達だといったヤマメとキスメ。旧地獄での家を紹介してくれた勇儀。
 皆が皆、みとりのことなどただの障害物程度に避けて、歩き去っていく。みとりはそれを俯きながら見送った。
 その中のひとつに、ある少年がいた。右腕が金属でできている少年は覚の姉妹に火車の猫、そして地獄鴉と共に楽しげに笑いあいながら、みとりの横を通り過ぎていく。その姿が、とても眩しかった。眩しすぎて、手を伸ばそうとした。
 それはみとりがずっと欲しかったものだ。認めたくなかったものだ。だから手を伸ばす途中で、止めた。焦がれることを禁じた。いつも通りに。
 少年たちが過ぎ去っていく。みとりのことを、たった一人、封印された妖怪たちの街の中でたたずむ少女のことを気にすることなく。
 外の世界だろうと、幻想郷であろうと、どこでも変わらない風景。当たり前の光景。みとりのいる場所。みとり以外、誰もいない場所。
 さびしい、と感じなくなったのはいつだったか。かなしい、と考えなくなったのは何百年前だったか。くやしい、と思わなくなったのは彼方の先か。
 それが河城みとり。人からも妖怪からも、そして己自身からも迫害され、追放され、ひとりぼっちで立ちすくむ妖怪の全てだ。ひとりきりだから、それ以外の全てを禁じたいと願った。それがいつしか、自分の能力となった。『ありとあらゆるものを禁止する程度の能力』は、そんなありふれた逃避願望から生まれた、小さな力だった。
 消えたいと願ったから、生を禁じた。迫害されることが怖いから、誰かが近寄るのを禁じた。誰かとふれあいたちという愚かな夢を持ったから、誰かに近づくのを禁じた。それらを叶えるための臆病な能力。河城みとりの正体。
 自覚していた。故に、自覚しているという認識を禁じていた。たとえ、この泡沫のごときイメージの中でも。
 少年たちが、道の遥か先に消えようとしている。帰り道だったのだ。これから皆で、暖かなご飯でも食べるのだろう。みとりはそれを考えて、止めた/禁じた。考えてしまえば、自らを禁じる力/鍵が、緩んでしまいそうだったから。
 そこではっ、と気づいて、胸元に手をやった。そこにはいつも身に着けている錠前がなかった。いつ無くしたのか、と思い出そうとした矢先、視界の端に誰かが立っていることに気づいた。
 先ほどの少年だ。少年の周りには、なぜかあの妖怪たちの姿がなかった。それだけではなく、彼の横を通る妖怪たちは、彼に視線を送ることもなく歩いていった。 
 少年はひとりで立って、上を向いていた。その姿に、みとりは錠前をなくしたことも忘れて、息を呑んだ。引き込まれる何かが、少年にあった。そこで少年の目がこちらを向き、表情が変わった。
 安堵。そこにあるのは、仲間を見つけたときのような、安らぎが差し込む笑顔があった。だが同時に、宿敵を見つけたとでも言いたげな、獰猛で不敵な含みもそこにはあった。
 そのことに、みとりは急に怒りを覚えた。仲間、という見られ方に嫌悪を覚えた。宿敵、という考え方に同意した。
 だからみとりは、左腕に拳を作って、思いっきり殴ってやるために振りぬき、イメージから抜け出した。
 イメージから抜け出した瞬間、そこがどこだかを忘れた。そしてすぐに痛みと共に思い出し、どれだけ自分が気を失っていたのかを周囲の状況と体調から把握した。
 スペルカードは、あの激突で全てが壊れていた。カードを媒介にしてコントロールするソルディオスは、見るまでもなく大破。体の調子は、最悪を軽く通り越し、気を抜けば再び意識をなくしてしまうだろう。
 だが、痛みと、そこに付随する感情、そして白昼夢とも言えるイメージが、みとりを急き立てる。あの人間に負けるなと。
 浅い水の中から、無様に這い上がる。帽子もなくしたせいもあって、力は貧弱な人間程度にしか、もしくはそれ以下だった。全身は、今まで味わったこともない感覚に苛まれ、痛みとも熱ともわからぬものが、内外から理性と精神、魂を削り取っていく。
 視界を動かし、相手を探す。居た。向こうも立ち上がり、こちらを見ていた。両目ともに血涙を流し、満足に機能していないのだということがわかる。それでも尚、その目はみとり同様、魂を削られ尚、やせ我慢をしているものであり、同時に何かが違っていた。
 その違和感が、気に入らない、腹が立つ。
 負けたくない。負けるわけにはいかない。最初の遭遇時からあった殺意とは意を異なる感情のそれは、しかし殺意や憎悪以上にみとりの中でしっくりきて、みとりの身体を動かしていた。
 歩く、足を引きずりながら、歩く。
 近づけば近づくほど、相手が満身創痍なのに気づいていた。そして目もよく見えた。ギラギラとした眩しいものが、その目に燃えている。みとりがどこかで見たことがあるようなものが、そこに宿っている。
 許せなかった。憎憎しかった。妬ましかった。羨ましかった。
 その思いと共に、イメージの中にまで現れたこの人間/中邦縁を、大声を上げて殴りつけた。白昼夢と同じ、左手で。
 真っ向からカウンターで返された。痛かった。子どものころは、男の子相手のケンカでも殴られたことはあったが、これほどまでに痛くはなかった。痛すぎて、涙が零れた。
 それでも、水しぶきを立てながら踏ん張り、もう一撃を食らわす。今度は右手。当った場所は額、縁が石頭だったのか、振り抜いたのに、拳が痛くなった。
 水面に縁の血が飛び散る。構わず、ひび割れた義手が大きく振り上げらた。くるとわかっても、避けるほどの余裕はなかった。
 義手の一撃が、こちらの左頬を捉えた。視界が真白になって、熱した空気と唾液が口から零れた。仰け反る上半身、倒れようとする身体。負けたくないという思いだけが、足を踏みとどまらせてくれた。
 体を跳ね上げる勢いのまま、縁に飛び掛る。押し倒して、マウントポジションをとる。顔面を、思い切り殴りつけた。呻く、中邦縁という名の人間が、苦しんでいる。

「ハッ、はは、はははは……」

 痛いだろう、苦しいだろう。これがわたしが味わったきた気持ちだ。お母さんを苦しめたものだ。本当はもっともっと辛いんだ。だからもっと、味わえ、味わって、いなくなれ。
 一撃、一撃に、その思いを込める。直接殴るから、直接伝わる。相手の肉に自分自身の拳が傷をつけていく、言いようのない感覚。
 それは本来、気持ちのいいもののはずだ。妖怪なら、楽しいと思えるものだ。だからみとりは笑みを作る。さっきから失敗してばかりの、妖怪らしく傲慢不埒な怪物の顔をとろうとする。
 なのに、うまくつくれない。作ろうとしても、作り方が、抜け落ちたように思い出せない。それを紛らわせるために、拳への思いを強める。込めれば込めるほど、力も強くなる。“傷”も深くなっていく。
 それが、とても“苦しかった”。

「っ……らぁ!!」
 
 突然、人間が振り下ろした拳を左手で掴んで、ひび割れた右手がお腹に叩き込まれた。一瞬、頭に何もなくなった。血と涎を吐き出し、前かがみになってしまう。間髪いれずに、縁が右足を強引に上げて、バランスを崩された。よろめくことも出来ずに、冷たい水の中に頭から入る。
 口の中に水が入り、咳き込む。それだけで、真白で朦朧だった意識に、一筋の光が入った。溺れないようにしながら、殴られた腹を抑えて、何とか起き上がろうとした。顔だけを先に、人間に向けた。
 視界に、迫り繰る人間/左手の拳が入った。倒れこみながらの、一撃。避け、られない。

「うあああぁっ」

 緑色に焼けた拳が頬を打ちつけ、星が頭の中で弾けた。何もできずに、三度湖へと倒れこんだ。中邦縁も一緒になって倒れた。体が痙攣して、起き上がる力が出ない。体中がただ、痛い痛いと泣いていた。とりわけ、ある場所が、とても甲高く泣いている。
 薄ぼけた視界に移るのは、自分の両手。拳を作ろうとして、何度も握り締めようとして、それで力を失くして開いてしまう中途半端な手。
 そこが緑色の火傷に負けないぐらい、じんじんと赤く腫れて、痛かった。
 
 


 幻想/イメージが浮かんでいた。
 中邦縁は街を歩いている。その街は奇妙なことに、左手側が縁の元々いた現代の街の商店街で、右手側が旧都の繁華街だった。その道を、ある時は学友たちと、ある時は引越し前の友達と、またある時は慶介と愛と、そして最後に幻想郷で出会ったものたちと歩く。肩を組みながら十一と、弄り回されながらもパルスィと、買出しのチェックのためにとフレッチャーと、下着を盗んで匿ってくれというカドルたちと。そして最後に、地霊殿の四人と一緒に。
 空が手を引っ張って、こいしが背中から飛びつき、燐がいちゃんもんをつけてきて、さとりが半歩遅れて微笑む。ここにいる限り、何度でも続くと思っていた光景だ。今は、妖怪と人間の垣根を知った後でも、ずっと続いてもいいと心の底から思った。
 そのまま四人で歩いていると、ふと何かが気になって後ろを振り返った。往来の真ん中には、見知った顔が三つと、舌を向いていて見えないものが一つ、赤い服の少女。知っている顔は、ヤマメに、キスメ、勇儀。三人とも、俯いた少女に声をかけ、手を伸ばそうとした瞬間、その手を叩かれていた。
 やがて勇儀が、ヤマメとキスメが離れ、少女は一人になった。傍を通り過ぎるものの中に、幾人かが視線を向け、中には声をかけるものもいた。それすら少女は無視して、俯き続ける。誰も彼も、少女の目には映っていないようにすら見えた。
 縁は、少女に向かって半歩踏み出した。すると、傍にいた皆が、半歩離れた。離れた場所から、縁のことを見つめている。その殆どの意味合いは、心配や懸念、疑問だ。何故縁がそのようなことをするのか、というものだろうし、少女に触れれば痛い思いをするのは明白だと言いたげでもある。
 顔だけ振り返りながら、四人に縁は言う。知ってる、大丈夫だ、と。
 視線を少女に戻し、一歩一歩踏みしめて、近づく。少女の歩みが止まった。すぐ傍まで寄ると、縁は声をかけた。どうしたんだ、と。無視された。さらに二言三言重ねたが、悉く効果はなかった。どうするかと顔をあげると、それほど離れていない場所から、ヤマメにキスメ、そして勇儀がこちらの様子を伺っていた。彼女らもまた、コミュニケーションを諦めたわけではないようだった。
 視線を少女に戻し、笑顔を作り、左手を差し出してみた。即座に叩き落とされた。すぐに赤くなるほど痛かったが、もう一度差し出してみた。再び叩かれた。少し涙が出た。ふき取ってから、もう一度。より強く叩かれた。さすがに、怒りたくなった。怒りを抑えながらもう一度。勢いよく叩かれた。
 何するんだよ、と思わず怒鳴ってしまった。少女がびくりと体を震わせ、すぐにこちらに傾き歯軋りする音が聞こえた。突然怒鳴られて、怒っている、いや怯えているのだ。縁には、それが痛いほどわかった。わかってしまったから、怒りはすぐに引いた。
 ごめん、といいながら、もう一度左手を出す。大振りに叩かれた。脱臼してしまうのではないか、というほどの衝撃が左腕に走った。その時、初めて少女は呟いた。
 わたしには近づくな、寄るな、触れるな、声をかけるな、怒るな、苛めるな、助けるな、関わるな。
 か細い声だった。先の怒りとは別の意味で苛立ち、今度は右手を差し出した。狙い通り、少女は右手を叩こうとした。そして金属を叩いた鈍い音がして、少女はびっくりして手をあげ、その拍子に顔もあげた。幼い顔立ちに、涙が溜まっていた。流れ落ちた跡もくっきりと残っていた。
 びっくりしただろ、と義手の右手を見せびらかしながら、意地悪く笑ってやった。少女の顔が、見る間に羞恥と怒りで髪と同じ色に染まり、言葉にならない叫び声をあげて縁を非難し、殴りかかってきた。それを受けつつ、時に反撃する。
 やがて、殴る手を止めないまま、少女は尋ねてくる。なぜ、声をかけてきたのか。
 縁は、あまりにも単純で、簡単で、当たり前すぎることで、一瞬答えられなかった。すぐに吹き出し、少女に顔面を思い切り殴られて仰け反りながら、応えた。
 そんなの、決まってる。だって。
 イメージは、そこで覚めた。同時に全身の一部から鈍痛が走ると共に、どうして自分がここまでムキになっていたのか、理解できた。
 体を起き上がらせようとしたが、右手と口しか動かせる気がしなかった。水中と地底で二つに分かれた視線の先には、同じように水面に顔を半分鎮めてこちらを見る、河城みとりがいた。
 その顔は、もはや単純な言葉で言い表すことができなかった。強引に言語化するならば、様々な感情や気力、しがらみが抜け落ち、最後に残された僅かなものが、その己自身を探そうとしているような、普通なら見ていることが辛くなるもの。
 このままでは満足に喋れないと、何とか右手だけを使って、仰向けになる。それだけでもう埃程度もないといっていい体力を消耗した。降り注ぐ雪と天蓋を仰ぎ見ながら荒く息をつき、みとりを確認する。その体は動かずに、ただ視線の先に伸びた両手を、何とか開閉しようとして、中途半端な形になっていた。縁も左手を動かそうとして、ひりひりとした痛みがあるのを感じるような錯覚を覚えた。
 錯覚/幻想でも、痛みは痛みだ。痛いから、わかることがある。赤い腫れが、教えてくれる。
 
「……泣いて、いいんだ」

 みとりの手の動きが、ゆるりと止まった。視線が縁へと向けられる。今まで見せてきた憎悪や嫌悪がすっかり抜け落ちたその目には、縁のよく知る、痛がり屋の怯えが潜んでいた。

「……誰も、お前のことを傷つけたいなんて、思ってない……好きで、苛めてるやつだって、いるかもしれないけど……全部が全部、そうじゃない……」
「……そんなの、うそ」
「うそだったら……なんでお前、泣いてんだよ……苦しそうに、辛そうに……してんだよ……」

 縁はずっと見ていた。みとりが泣きながら、拳を振るうのを。痛いのを強がって我慢して、立ち向かってきたことを。痛い痛いと心の中で叫びながら、両手も真っ赤に痛くしていくのを。
 みとりは、何も言わなかった。ただ、喉から嗚咽のようなものが聞こえ始めていた。泣き方までそっくりだと、目を閉じながら思った。

「本当にお前が言うような人でなしだったら……そんな顔、するわけないだろ……」
「ちが、う……」
「違わねーよ…………俺がそーだったんだから」

 縁は、自分の昔のことを話してしまおうかと考えた。だが、そうすれば体力がまず持たない現金な体のことを察して、ため息をついた。

「俺はよ、誰よりも痛いのが、嫌いだったから……そうなる前に、誰かを傷つけて……けど、相手も痛いことにも気づいて……どうしようもできないってわかっちまって……だからもう、そういうのから目を背けて、傷つけるしかできなくなっちまったんだ……そうすれば、少なくとも自分は、傷つかないからさ……」
「……怖く、なんか……」
「怖いさ……殴ったやつの目を、思い出せばいいさ……相手がどんだけ痛いか、何となく、わかっちまうんだ……それから逃れるには、相手をのすしかない……それを続けて、いつの間にか……誰も、いなくなる……」

 みとりの手が、若干拳の形を作った。

「わたしは……そうじゃ、ない……あいつらから、やってきたんだ……!」
「……そうかよ……けどさ、そいつらだって、本当は怯えてたんじゃないか……? だから、お前にそんなことをした……今の俺や、お前と一緒さ……たいして、かわんねーよ……」
「かわん、ない……? そんなの……」
「かわんねーさ……どいつもこいつも、痛いのが嫌なのさ……痛がり屋なんだよ……」

 自分が感じる痛みは、いくつあるのだろうか。ふと縁は思ったが、数えようとするのはやめた。それこそ、数え切れないほどあるに決まっているからだ。
 みとりが作ろうとしていた拳を開いて、溜まっていた雫がひとつ零れ落ちて、湖と雪に溶けた。

「……みんな、痛いのが嫌なら……どうして、優しく、してくれなかったの……?」
「……わかんねぇ……」

 嘘偽りのない言葉だった。無責任といわれようと、縁は『人間』で、まだ十七年ほどしか生きていない。たとえ生と死の境界を彷徨い、他者との繋がりを“線”で見えるようになり、妖怪と正面から殴り合いができ、好きな女の子のために戦っていようと、ただの子どもであることには変わりなかった。色々なことを教えてもらい、学びもした。戦うことで相手と理解し合う事も知っていた。ただそれだけだ。
 自分が昔、義手のことでいじめられて、それからはみとりの言うことと同じ、人というものが異物を嫌うという性質をわかったフリをしていても、内心納得がいかない反骨心もある。反骨心は屁理屈も作り、それに整合性も付け加える。それにすら疑問を持つ。
 矛盾。堂々巡り。イタチごっこ。
 それがずっと、考えもしない場所で、様々な形に姿を変えて縁を動かす力になって、時に妨げ、悩ましていたのだ。
 その答えは、こんな時にも、見つからない。一番かけてあげるべき言葉が、見つからない。
 だから今は、己の中にある矛盾を、そのまま言葉にした。

「きっと……優しくしたい時とか……相手を苛めて、追い出そうって時が、あるんだろ…………どいつも、こいつも、気まぐれだからさ……俺も、そうだからよ」

 自分勝手で、すぐに怒って、独善を振り回して、暴力だって簡単に振るう。ざっと中邦縁というものを見直せば、これだけ悪い点が出てきてしまう。他者から見れば、悪い部分などもっと出てくるだろう。そしていつの間にか、悪い部分しか見えなくなって、悪い部分だけで決め付けてしまうようになる。相手も、自分も。
 
「……けどなぁ……それってやっぱ、“誰か”がいてくれないと、できないんだよなぁ…………」

 自分の知らない悪い部分を見つけてくれるのは、“誰か”。自分がそうしたい、そう思うという感情をぶつけるのも、“誰か”。それが生きていようといまいと、人間であろうと妖怪であろうと、いやがおうにも変わらない。

「“誰か”がいてくれるから、いっぱい怒れて……泣けて……辛くて……嬉しくて……つまらなくて……楽しくて……とにかく、いろんなことが……できる、だろ? それでさ、そいつらの好きなとことか、嫌なとことかも……探してやる、のさ……そうしてりゃ、きっと……痛がりなことなんて、みんな、忘れちまうさ」
「……そんなの、わたしの禁止と……封じ込めてるだけと、変わらない……逃げてるのと、変わらない……っ」
「そう、かもな…………」

 忘れる。封じ込める。ああ、全てそうだ。中邦縁は、全部が全部当てはまる。慶介と愛のことを半分以上も忘れ、幼少期のころも曖昧で、妖怪たちのことからも目を背けた。それだけは変えようにない事実だ。
 事実で、真実で、現実。そうであるからこそ、縁は、矛盾の中から、一つの言葉をすくい出した。

「けど……そいつらがいたことだけは……“絆”だけは、絶対に、なくならない……」

“線”。自らの体に通じてくるおかしな視界のエフェクト。恐らくは、自分の能力。全てに繋がる能力。それを持つ縁だから、言葉にできる。

「みんな、気づいてないんだよ……生きてるだけで、色んなものと、ずっと関わってて……結ばれてるんだって……ただ、少し、見えにくいだけなんだ……」

 降り積もる雪の一片にも、“線”は結ばれている。いつもはそれを意識しないで、消しているのだ。全部と付き合っていたら、きっと一生を使っていても足りないだろう。それでは、自分自身がいずれいなくなってしまって、意味がなくなる。自分と相手がいなければ、なり立たないのだから。
 だから、と矛盾に対して、すくい出した言葉から、一つの力を突きつける。ふらふらと上げた右手を握り締めて。

「……それに気づくことが……生きてるって、ことなんじゃないか……“誰か”を求めることが……止められ、ないんじゃないか……?」

 右腕が、ぱたりと落ちた。矛盾/縁の中の混沌は、意味深な笑みを浮かべて、何も返さない。今の言葉を搾り出すことが、限界だったようだ。あとはみとりがどう返してくれるか、というのを待つだけ。
 そこでようやく、弾幕ごっこの決着はどうなったのかと疑問が出た。それもすぐ、もう関係ないな、と消えてしまった。今ならば無条件にみとりのことを信じられ、例え自分が負けたということになっても、空を助けてくれるだろう、という根拠も何もない思いで満たされていた。

「………どうして……そんな話、わたしにしたの?」

 閉じかけた意識に入り込むように、蚊の鳴くような声で、みとりが尋ねてきた。目だけを動かして、視線を彼女に合わせる。嗚咽はもう、聞こえなくなっていた。
 どうして。決まっている。イメージの中にいた少女に言おうとしたことと同じだ。ありきたりで陳腐な、けれどたしかな理由。
 
「………そんなの、決まってる……だって、俺に、そっくりだったからさ……」

 答えてから、ようやく、本当に言いたいことを言えた様な気がした。“誰か”と関われば、自分と同じ部分が見つかる。そこに共感を覚えたり、嫌悪を感じたりするのも、生きてて当然だと考えた。慶介と自分、そして愛という例があったからこそ、信じられた。
 二人は“ここ”にいる。死んでしまっても、二人がいた証は、縁の中に残っている。その出会いという“縁(えにし)”で得たことを、二人の存在を否定しないことを、ひとりぼっちで泣くみとりに、かつての自分自身に、知って欲しかったのだ。

「………わたしは、裏切られたの」

 不意に、みとりの両手で地面を押し、体を仰向けにした。その目は同じように雪の降る天蓋/遥か先の大空をまっすぐに見つめていた。零れる独白は、小さな声で、淡々と、しかし不思議な響きを持って、縁の鼓膜を振るわせた。

「……最初は、村の大人……次に、友達……その後に、お母さんと、お父さん……おばあちゃんは、わからないけど……勝手な理由で、誰からも見捨てられたのには、変わんない。だから、許さない……絶対に、それだけは……許さない……」
「……そっか」

 許す、という言葉は身勝手だと、縁は思った。寛容のものに見えるが、同時に相手の気持ちを自由に動かすことのできる、枷の言葉。相手を思い通りにできる言霊。それは時に、自分自身すら縛ることがある。けれども、誰もがその枷にどこか繋がれている錯覚を覚える。
 だから縁は、みとりの抱えるそれを、ただ受け止めた。みとりを裏切った人々を許すかどうかは、きっとみとりだけが決められるはずだからだ。
 そうして黙っていると、けどね、とみとりが呟き、ゆるりと上げた手を、縁の見える場所まで持ち上げた。赤く腫れた手だ、見ているだけで、こちらも痛くなるほどに。

「そんな奴らに仕返ししても……向こうも、わたしも、痛いことは変わらないの……これって、おかしいの……?」
「んなわけ、あるかよ……許すとか、許さないとか、そんなことより前に……体が痛くなくても、心は、痛いはずだからさ……」

 機械でできた義手でも、痛いときは痛い。幻痛こそがその証だ。たとえ科学や理屈でその理由を幾つでも挙げられても、その都度感じる痛みだけは、消せはしない。

「そっ、か……」
 
 ぱちゃりと音を立てて、みとりの手が落ちた。雪の降る音が聞こえる、小波が寄せて顔から血と涙を浚っていく。耳鳴りがするほどに、それを静かだった。このまま眠ってしまってもいいと思えるほどに。

「……いやだったんだ」

 眠気を遮って、みとりがささやく。

「わたしは……裏切られても……見捨てられても……生きてちゃいけないって言われても……どんなに、痛くても……ほんとうは、ひとりぼっちがいやだったんだ……みんなと一緒に、いたかったんだ……」
 
 目蓋が重い。みとりの声も、どこか遠い。残滓のような力を全て抜けきれば、波間に抱かれて湖底に沈むだろう。そうなる前に、縁はその言葉を、河城みとりの“願い”に応えたかった。
 ひとりの、似たもの同士/生きているものとして。

「……俺もだよ、バカな河童……」
 
 最後に、悪態をついた。似たもの同士だから、あんなにムキニなっていたのだと、気づかせるために。ただの同族嫌悪だったと、最初に気づいたのは自分だと告げるために。

「……そう……ありがとう、アホの人間……」

 少し吹き出して、みとりもそれに応えた。目蓋を閉じる前に、みとりのその顔を覗き見た。
 そこには、雪が解けて大粒になった涙を垂らしながら、それでも穏やかに微笑む、一人の女の子がいた。
 
 救う。救うとは何か。こいしと対峙した時に浮かべた疑問に、己の中から浮き上がった問題に、小さな存在でしかない縁はひとまずの答えを差し出した。

 こうやって、手を差し伸ばしてあげることだったのだ、と。


 あとがき
 幸村誠先生、お許しください!
 そんな説教臭さフルモード&作者ジャンピング土下座体勢のみとりん決着編でした。
 みとりんの真実は「ひとりはいやだ」です。だから縁が触れた禁止の壁に取っ手みたいなへこみがあり、ハリネズミのように強力な力で周囲を追っ払う。

穴<所謂ツンデレです

 次回は後始末なので短めです……ようやく終わりが見えましたよね、ええ、たぶん。


 修正後のあとがき

 Gジェネワールドと不思議の幻想郷やってたらこんなに時間かかった……どういうことなの……
 地震、関東圏に住む作者には意外とびっくりな初体験でした。
 そして何よりも、地震の被害にあった方々、そして未だ行方不明の人々の無事と、一日も早い復興を祈り、願います。
 なお、修正前のバージョンがよかったという方は、感想板でご意見ください。要望があればそちらも別途あげようと思います。



[7713] 第三十二話――社長<燃え尽きるがいい……
Name: へたれっぽいG◆b6f92a13 ID:a2573ce4
Date: 2011/09/05 01:38
「縁っ!」
「縁ちゃんっ!!」

 彼方から声が聞こえて、みとりはゆっくりとそちらに顔を向けた。そこにはみとりを気遣ってくれていた恩人の鬼、しつこく友達だと言ってきた土蜘蛛と釣瓶落とし、そして自分が組み敷いている人間の同居人と、自分が傷つけてしまった彼のもっとも大切な地獄烏が走ってきていた。
 水を差された思いで顔をしかめ、大きく息を吐き出して起き上がろうとした。砂浜に触れた瞬間にじんじんと手が痛み、両腕と言わず身体全体がぷるぷると震えたが、それでも上半身だけは何とか持ち上げた。そのまま縁を見下ろすと、すっかり目を閉じ、呼吸は浅く顔色も悪いが、表情は憑き物でも落ちたように安らかだ。もう大丈夫だ、とでも安心している、何かを信じきった寝顔だ。
 呆れる思いをしながら嘆息を堪えると、違うものへと変換された。約束を果たさなければいけない。自然とその形へと変わった感情はみとりに周囲を探らせ、どこかへ吹き飛んだリュックを見つけようとした。目的のものは底の浅い場所から突き立つソルディオスの破片に引っかかり、少々距離があった。
 確認している間に、こいしと空が縁を抱き起こすが、そこで空は離れ、こいしだけで陸へと引っ張り上げようとした。理由は、みとりが一番よく知っている。だから、動かなければいけない。

「霊烏路、空……だっけ?」
「え、な、何?」
「そう、警戒、しないで……あなたの中の“波”を、消すだけ、だから……ちょっと、待ってて、ほしっ……」

 空を引きとめながら、痙攣を起こす両足で起き上がろうとした。しかし半ばまで立ち上がったところで、急に力が抜け倒れこんでしまった。もう一度、と膝に力を入れるが、思うように起き上がらない。それでも、と自身の体に念じていると、おもむろに手が肩に伸びてきてひょいと体が持ち上げられた。
 一体誰が、とその手の先に視線を延ばす。その間にみとりは肩を担がれ、視線のすぐ傍に特徴的な赤い角が真っ先に目に入った。

「星熊、さん……」
「まったく、あんたも無茶するねぇ」

 星熊勇儀はからからと笑う。それに呆気をとられて、みとりは言うべきことを見失い、そっぽを向いた。この恩人に何をしたのかは、その顔に残る火傷のあとが有無を言わさず告訴してくる。鬼という尊い幻想を唾棄すべき“ケガレ”で汚したのは自分だと。それに応えるべきものを、みとりは見つけられない。何か言わなければいけない、と思うのだが、頭が真白になって何もいえない。
 そんな心を見透かしたように柔らかく微笑む勇儀は、一度視線を外し、支えがなければ動けないみとりの歩調に合わせながら、言葉を紡ぐ。

「けど、元気になってくれて何よりだよ」
「っ……何も、言わないの?」
「何を言う必要があるんだい?」

 耐え切れなくなったみとりに被せるように、勇儀は言葉を重ねてくる。みとりは弾いたように勇儀を見、その目を覗き込んだ。そこにはみとりが考えていたような、怒りや苛立ちと呼べるようなものはない。ただ単純な、労いの思いがあるだけだ。
 再び言葉に詰まって、みとりは歩みさえ止めてしまった。それに勇儀は仕方ない、といった調子で一度嘆息した。

「たしかにあんたがやったことには咎はある。けどそれを今ここでいうのは野暮だろ? それに……」

 勇儀はそこで一度言葉を切ると、おもむろに空いている方の手を伸ばした。その先にはリュック同様ソルディオスの破片に引っかかっていた、焼け焦げた帽子があり、それを難なく拾い上げるとみとりの頭に被せて、ぽんぽんと頭を軽く頭を叩いた。

「癇癪起こして、しまいにはケンカで泣いちまった妹分を許してやるのは、私の役目さっ」

 頭の上に、焼けた布/皿越しにある勇儀の手の感触が、じんわりと伝わってくる。言葉が出ない。無性に、目頭が熱くなった。それを見られるのが恥ずかしくて、俯いた。子ども扱いは、何も出来ない無力な存在/かつての自分と同じように言われているようで嫌なはずなのに、ほんの少し前の自分なら暗い怒りを爆発させているのに、今は胸の奥底が温かくなるようだ。
 それがまた恥ずかしく、しかし嬉しいとも思う自分がいることに驚いた。

「それと、私だけじゃないぞ?」
「えっ……?」
「みとりー、これでいいのー?」

 勇儀の言葉に三度驚くと、前方、みとりのリュックが引っかかっていた方から声がかけられ、顔を上げた。そこにはヤマメが手を振り、キスメがみとりのリュックを両手で持ち上げていた。二人は水面スレスレを浮かびながらこちらに寄ってくると、異様な細さをしたリュックを差し出してきた。
 
「はい、これ!」
「ど、どうぞっ!」

 ヤマメはにかりと、キスメはぎこちなく笑みを向けてくる。そこには勇儀と同じように、罰を与えるといった責めの色はなく、むしろ勇儀よりも親密さを込めたものがあった。どうして、という疑念があった。ここにいること、笑いかけてくれること、少なくともそうしてくれることを望むような態度はしていなかったはずだ。むしろ嫌われて当然ともいえるものだったはずだ。みっともなく泣いているところを見られているはずだ。
 それなのに、どうして。
 その思いを込めた言葉が出掛かって、しかしそれをヤマメに口を人差し指の腹で抑えられてしまった。

「言ったでしょ、友達だって。だからほっとけないのよね、そういうの」

 そういって茶目っ気を含んだウインクをするヤマメに、潤んだ目になりながらもうんうんと頷くキスメ。
 また、胸の奥にある何かが、ぽかぽかと温まって、体を縛り付けているものが軽くなり、同時にしっかりと結び付けられたような感覚を覚えた。中邦縁は言っていた、“絆”だけはなくならないと。今、認識したものがそれならば、みとりは知らぬ間にそれを結んでいたことになる。
 姉妹に、友達。誰かと誰か、ものとものを結ぶ関係。気づいてしまえば、こんなにもありふれたものであることに、みとりは笑いたくなった。けれども、顔は先の殴り合いのせいで痛んで、うまく動かない。それが少々有難かった。
 すぐに心変わりをしたような自分に若干の不甲斐なさと、気恥ずかしさを覚えたからだ。
 だからこそ出来るのは、せめてもの感謝の一言だった。

「……ありがと」
「え、今なんて?」
「何でもないよ、それより三人とも、湖から一旦出て……霊烏路は、こっちに来て」

 空いた手でヤマメとキスメからリュックを受け取り、おぼつかない手つきながらもそこから目的のものを取り出す。目の前にいる二人はその珍妙な腕のオブジェとしか言えないものに首を傾げ、勇儀は顔色を変えた。これに内包されたものを鬼の嗅覚が感じ取ったのだろう、と推測を立てながら、その“腕”を無造作に掴む。

「……支えがなくなるけど、大丈夫かい?」
「大丈夫……それに、これはわたしのケジメだから……そういうのは、自分自身でケリをつけるものでしょ、“勇儀さん”」
「っ、みとり……」

 勇儀は言葉に詰まり、黙ってみとりから離れた。すぐに倒れそうになって、ヤマメが動こうとする。しかしたたらを踏みながらも、みとりは倒れなかった。皿/帽子が戻ってきたおかげというものあるが、それ以上に自分にもまだ居場所があることに気づけたことが、不可視の力となってみとりを奮い立たせてくれた。
 
「みとり、その、大丈夫? 約束だか何だか知らないけど、無理しちゃったら……」
「そ、そうですよ……血も出てますし、その、皮膚も……」
「簡単な用だから、大丈夫よ……だから、心配しないで、“ヤマメ”“キスメ”」

 勇儀と同じように驚かせるつもりで、二人の名前を呼んでみた。すると二人は、予想以上の反応、目をぱちくりと開き、ぽかんと口を空けてしまった。それが可笑しくて、ひりひりと痛いにも関わらず笑みが出来た。

「今、私たちの名前……ちゃんと呼んでくれたの?」

 しかし改めてヤマメに言われた途端、急に顔が、腫れとは別の理由で赤くなって、そっぽを向きたくなった。それでも、自分自身に時間がないことを理由にその衝動を抑え、紛らわせるために声を荒げた。

「ああもう、それはいいでしょう! 危ないから早く出て!」
「は、はははい!」
「うん、わかったよ!」
「~~、そんなしたり顔するなぁ!」

 二人と勇儀を大声で追い返しながら、ほとんどなくなってしまったキーホルダーの毛からいつもの棒を作り出そうとしたが、それは鉛筆程度のものしかならなかった。考えた通り、捨て身の方法しかないと悟る。
 そのことを覚悟した時、ふわふわと浮いて空が近寄ってきた。すぐに水の中に入るよう鉛筆サイズの棒で指示すると、違和感を覚えた。湖の中に溶け込むように入り、翼を畳む姿をじっと見るも、違和感の正体は見えない。空が顔を上げ、みとりに目を合わせた。
 それでようやく気づいた。体は震えているものの、その目には先ほどまでは確かにあった、今まで散々な仕打ちをしてきたみとりに対する、警戒の色がないのだ。

「……貴女も、わたしを信じるっていうの?」

 そんな疑問が言葉になった。空は、すぐに応えた。

「うん。だって……縁が信じたんだもん」
「何それ、あのアホな人間の言うことなら、信じられるっていうの?」
「信じるなんて、縁は言ってないよ。あなたが約束を守ってくれるって任せたから、あんな風に寝てるんだよ。だから、私は信じることにしたの」

 空が振り返り、その視線がこいしが膝に頭を置いた縁へと向いた。その顔には憑き物でも落ちたように、気が緩みきった子どもの寝顔があり、こいしはこちらに対して警戒しながらも、どうにもばつが悪そうにしていた。それを見ている空の表情には、気恥ずかしさに様々な感情を組み合わせたような微笑が浮かんでいた。
 それにもまた、みとりはデジャビュを覚えた。ここ二週間の中で見続けた夢/白昼夢の中で見かけた気もする笑み。しかし空がこちらに向き直って口を開くと、その既視感は一旦胸の奥に引っ込んでいった。

「それにね……さっきのあなたの顔、縁に似てたから」
「……はい? 似てたって、そこのアホの、どんなのと?」
「えっと、ね……そ、その、私が、一番好きな、顔、かな……」

 えへへ、と笑い出した空に、引っ込んだ既視感は消滅し、急に脱力感を覚えると共に、このまま放置してやろうかこのノロケ鴉、といういつも身を焦がしていたものとは違う黒い感情が湧き上がった。そしてその感情に不意打ちをされたように気づくと、不思議でならなかった。
 そのようなものが出てきたのが生まれて初めてで、その感情があまりにも気軽で、どこか間抜けで、すんなりと受け入れられてしまったからだ。ヤマメたち三人に抱いたものと同じ、今の自分にはどうにも扱いに困る、決まり悪い代物だ。
 猛烈に頭を掻き毟りたくなって、その余裕もない体に苛立ちともつかないむずむずしたものを覚えた。だからこそ思考を元に戻し、さっさと済ませようと、口を開いた。

「目を閉じて……何も考えないで……」

 こちらの雰囲気が変わったことを察した空が目を瞑ったのを確認すると、水の上まで浮遊し、“腕”の手の平を空の額に軽く押し当て、同時に鉛筆サイズの棒を空いた手で構えた。か細い思考の糸を織って空の脳内を廻る波に対しての波動係数計算を行い、制御棒越しにその流れ、数、エネルギーを感じ取る。二つのイメージは予想以上の不協和音を奏で、ソルディオスの余波で焼け焦げる魂に鞭打つ作業となるが、それでも歯を食いしばり、かつ粛々と演算し続ける。
 二つの、あまりに幾何学的な演算の狭間に取り殺されそうになった瞬間、答えを出した。それを一拍も置かずに腕へとフィードバックし、起動させる。刹那、湖面に空を中心に幾重もの波紋が広がり、風切り音が周囲を覆った。同時に“腕”を持った手に特徴的な高周波が伝わり、一息に胴体まで駆け上ってくる。それに合わせて、棒を自分の腕に思いっきり突き刺し、風穴を開けた。途端、反対側にも穴が開き、二つになった穴から噴水のように血が吹き出した。
 満身創痍を当に越えた体で、追い討ちとばかりにごっそりと血がなくなって目の前が真っ暗になろうとする中、みとりは目蓋を上げる空を見ながら、奇妙な安堵感に包まれ、思いのままに吐き出した。

「よかっ……た……」

 それだけを何とか言い残して、みとりもまた限界からの誘いに誘われ、夢の中へと旅立った。



 第三十二話『僕たちの風が吹く』
 


 ぱちり、と縁は目を覚ました。目を何かで塞がれていて爽快とは言いがたいが、寝覚めはとても良く、意識もはっきりしていた。おかげでどうして寝ていたのかも自覚しており、目を塞いでいたもの、包帯を動く左手で取って、周辺状況の確認をするまでにはスムーズにいった。
 地獄はもう知っているので対象から除外し、とりあえず天国ではない。すっかり生活感が染み込んでしまった地霊殿の自室だ。机の上は少し整理されていたが、乱雑な包帯の余りと何かが入っていると思わしき小袋、水の入った桶とそこにかけられた濡れ布巾が放置されていた。
 そして何よりの生の実感は、他の部屋から持ってきた椅子をに座り、縁の足に腕枕をしき、静かな寝息を立てる霊烏路空の存在だ。
 恐らくはずっと看病してくれていたのだろう空を起こさないように、鈍痛に軋む上半身を起き上がらせて、自身を見下ろしてみた。予想通り、手ひどくやられた痕がいたるところにある。上半身は裸になって脇腹を中心に薬品の染み込んでるガーゼが貼り付けられ、左腕はいかにも薬草を煎じて染めたという色合いの包帯でぐるりと巻かれているが、動かすのに支障なし、下半身も左足に痛みがある。目に見えない部分にも、まだまだ誰かが治療してくれた跡があるだろう。
 それらは、みとりと戦ったという認識を確かな現実のものであると証明してくれた。
 今度はどれぐらい寝ていたのだろうか、と頭を抱えたくなって右腕を額にやろうとすると、その動きが鈍いことに気づいた。咄嗟にそちらを見ると、見事なまでに亀裂が入り、一部からは中の部品が丸見えになっていた。

「……さすがに、限界だったのか……そりゃ、そうだよな」

 思えば、ここに来てからまともな点検一つできなかった。その中で妖怪との遭遇、幾度もの弾幕ごっこやぶつかり合い、ロッククライミング、果ては虚空をぶん殴るという奇妙なことにまで付き合わせたのだ。無傷、いや無理が出ないという方がありえない。それが今回、目に見える形となって現れたのが堪えた。元の世界でも義手は壊したことはあるが、その度に開発者である父が直すか、はたまた代わりを作り、入れ替えて使っていたのだ。そのため、たった一種の義手に、ここまで濃密な期間ずっと一緒だったということは、おそらくはないはずだ。
 愛着と呼ぶものが生まれるのは当然であり、またここにいるはずの、あの存在のことも気にかかった。

「大丈夫かよ、お前……家、壊れちまってんだぞ?」
「うに……にゅぅ……?」

 独白が洩れたその時、空が身じろぎをしながら、掛け布団と自身の腕枕に埋まる頭を寝起きらしい緩慢な動作で上げた。もう一度、うにゅう、と鳴いてぽけっとした寝起き顔の目蓋をこすると、縁をじっと見つめる。その目が徐々にはっきりとするのに合わせて、涙が目じりに溜まっていった。

「えに、し……?」

 ぽつりと洩れた自身の名に、応っ、とできるだけ軽い調子で返すと、折りたたまれていた翼の先端がぐっと上に伸び、見た目は以前のままだが生気を帯びた羽根が視界一杯に広がった。
 あっ何か知らんけどデジャビュだ、と頭に浮かんだものに従い身構えようとした直後、軽い衝撃が胸部にきた。空の震える右拳が、包帯越しの胸板を叩いていた。えっ、と思わず困惑をそのまました声を上げたが、すぐに第二撃の左手が叩き、その僅かな衝撃で完治していない傷が痛み、「いてぇっ」と喚く以外に反撃も何もできなかった。
 空はそれに気づかない、いや意図的に無視して、無言のまま連打を叩き込んでくる。そのことごとくが力の篭っていないものだ。僅かに頭が俯き、影になって見えない眼から、ぽたぽたと涙が零れて、シーツを濡らしている。そのシミが広がるにつれて、空の手の勢いがなくなって、ついには胸に拳をつけたまま止まってしまった。

「………ばかぁ」

 そして、ようやく吐き出された言葉に、縁はようやくデジャビュの正体に思い当たった。十一との始めてのケンカの後に勇儀の家で目覚めたときと同じなのだ。たった二、三ヶ月前の出来事であり、それほどの時間が経ったのかと感慨に耽るにはまだ短いともいえる、だがまりに濃密な月日だった。元の世界では早々ない経験だろう。
 その中で知ったこと、変わったことはたくさんある。その中で今もっとも関係あるのは、目の前でぽろぽろと泣いてしまっている、地獄鴉という妖怪である、少女との繋がり/関係だ。その思惟に対して、そういう関係だったらこんな時どうすればいいだ、と足りない頭で考えるが、何も有効なものが浮かばなかった。だがそんな思索よりも、たった今目の前で泣いてる少女を泣き止ますにはどうすればいいか、という思考が出て、それは自然な調子で左手が空の髪に伸ばし、あやす調子でぽんぽんと叩いた。

「開口一番にそれかよ。普通、生きててよかったとか、起きてくれたんだね、とかじゃないか?」
「……心配だったんだもんっ」
「おいおい、信じてくれなかったのかよ?」
「そんなの当然だよ! けど心配だったのは別だよ!」

 ごんっ、と今まで以上の力で両拳の槌が叩き込まれた。いてっ、と呟きながら、緩む口端を抑えられなかった。いったいどれほど眠っていたのかはまだ定かでないが、空がこうして自分から積極的に触れてきてくれることが、あの約束を河城みとりが果たし、病気を治してくれたことの何よりの証拠だからだ。
 しかし一方で、空にこうして不安になるほど心配をさせてしまったのが心苦しかった。頭に置いたままの手で、空の髪を撫で始める。最後に会った時よりもずっと艶やかになった黒髪は縁の手に絡まりように解け、空の目から零れる涙も、それに合わせて止まっていった。
 何とか落ち着いたか、と手を止めた矢先に、再び胸を叩かれた。今度は強めで、鈍い音と共に空気が口から漏れた。

「…………もっと」
「あ~あー、わかった、わかったよ。だからまぁ、その……もう泣かないでくれって」
「泣いて、ないよ……ばかぁ」

 再び撫で始めると、空は何度も縁のことをバカと、嗚咽交じりの声で罵りながら、胸板に置いたままの手をずるりと落とした。やがて空は髪を解かされる感触をより深く確かめるように目を閉じた。その仕草に妙な気恥ずかしさとまだ未熟な愛しさのようなものを覚えていると、こんこんとノックの音が響いた。
 気づけば、二本の“線”が向こうと繋がっている。全て見知ったものだ。

「中邦さん、入りますよ」

 響いてきた声は、この館の主のものだ。随分気を使われてたんだろうな、と思いながら手を止め、本来は必要ないだろう返答を返す。

「あー、ちょっと待ってくれ……手ぇ疲れたし、もういいだろ」
「……うん、けど」

 空に確認を取ると、頭の上に置いたままの手を包むように取り、そのまま膝の上に置かれた。それだけで、先の気恥ずかしさがより強くなって、顔に表れそうになる。

「お話終わるまで、手繋いでて、いい?」

 ぐっと来た。突然の宣言に頭の中が興奮の赤に染まって、それが耐え切れずに顔に表れて、熱を帯びたのが自覚できてしまった。
 思い返せば、起きてからの自分も大分頭がショートしていたように思えたが、ここまでストレートではなかったはずだ。あの病気って実はこういうのも抑制してたんじゃねぇか、と心中で叫ぶが、「だめ?」と小首を傾げて聞いてくる空に、あまりに言うことがありすぎて何も声に出来ず、そっぽを向きながら頷くしかなかった。
 それに空が顔を綻ばせて、きゅっと手を握って応えた。その瞬間、ドアが勢いよく開かれた。勢いをそのまま強烈な音となって部屋中に響き、内包されていた凄みに二人は慌てて手を離してしまった。そのことに気づき、空があっ、と残念そうな吐息を漏らした直後。

「そこまでよっ!」

 部屋を空けた張本人、火焔猫燐がどこかで聞いたことがあるかもしれない静止の叫びを上げながら突入し、ベッドにいる縁めがけて突撃、膝蹴りを側頭部に叩き込んだ。

「ぶべっ?!」
「え、えにしぃぃっ?!」

 縁は一切の抵抗もできずそれを喰らって再びベッドへと倒れこみ、慣性を無視して膝蹴りを叩き込んだ瞬間の態勢をままに静止する燐はふんと鼻を鳴らすと、突然の事態に口を半開きにしたままの親友に目を向けた。

「何二人っきりの世界になってるの、腐れ死にたいのっ!?」
「お、お燐、怪我人に向かって今のは……」
「あれ見てからいいなさい」

 ぴっと燐が指差した先に空が視線を向けると、ドアの向こう側で廊下に寄りかかるさとりがいた。その顔は非常に言語化しにくく、少なくともこの場にいる三人には不可能なことだった。だがわずかに聞こえるか細い呟きだけが、地霊殿の主、覚妖怪に何が起こったのかを理解させる手がかりとなっていた。

「……甘いのは、まずいわ……」

 ともすれば何か白いものを口から吐き出しそうであった。空はそれに対して、どうしてあんな風になっているのだろうと小首をかしげ、燐はこの鈍感が、と親友の態度に心中悪態を吐きながらも、さとりの心情に共感していた。だからこそ原因の一部を、色々な私情込みで蹴り飛ばしたわけであるが。

「……っ、てめー人の殺す気かっ!?」

 こめかみの辺りを擦りながら起き上がった縁は、開口一番に燐へと突っかかったが、お前が悪い、とそれこそ親の仇でも見るような視線で睨む燐に常にはないプレッシャーを感じ、勢いを殺されてしまった。縁としても、安否を心配させたことなどには負い目があるが、そこまで深い理由は分からず頭を悩ませた。
 
「……はぁ、心配してたのがバカみたい」
「うっせーな、だったら少しは優しくしやがれ」
「それとこれとは話は別よ、おくうもね」
「どこがだよ!」「え、私も?!」
「残念ですが……今回ばかり、私もお燐の味方をします」

 騒がしくなりそうだった怪我人の部屋の中に、ようやく正気を取り戻したさとりが入り、何事もなかったように朗々とした声を発した。言い繕おうとした人間と妖怪の男女は、しかしさとりの、燐にも負けぬ眼光に黙らされ、こそこそと自分たちの非がどこにあったかを確認し合った。
 多少は自覚があったのにどうして人に言われると察しが悪いのか、とさとりは溜息を吐きたいのを堪えて、話を進めることにした。

「……怪我の具合はどうですか、中邦さん?」
「ん? ああ、思ったよりは平気だぜ。それより……」
「今日はあれから丸二日です。中邦さんの治り具合は旧都のお医者様に診てもらいましたが、かなり良いそうです。ソルディオスの影響も少ないといっておりました。それとおくうのことですが、この二日間一度もあの発作は起きていません」
「オーケイ。分かりやすい説明で助かる」

 さとりの読心能力は説明の時にとても助かるな、と頷きながら同意する縁に対し、こちらも慣れた調子で、しかしどこか嬉しそうに頬を緩めるさとりは、しかしすぐに口元を引き締めた。

「ですが……河城みとりはまだ起きてません」
「そっ、か……もしかして、あのソルディオスってやつの原因か?」

 事前情報と実際に戦ってみた感想から、もっとも原因があるのはそれしかなかった。あの緑の光は文字通り魂を焼かれかねない。それが人間と妖怪でどれほどの効果の差が出るかは知らないが、繰り手であっても半妖という存在であるみとりにどのような影響を及ぼすかは定かでなかった。
 ちゃんと元気に起きてくれればいいんだけど、と何気なく呟き空も首肯すると、さとりと燐が驚いたように目を瞬かせた。何か変なこと言ったか、と隣の空に尋ねるが、ううんわかんないと首を横に振った。すると燐はがくりと脱力して崩れ落ち、さとりは堪え切れなかったと言いたげに溜息を零した。

「その、中邦さん。それにおくうも……貴方たちは、あれだけのことをした相手のことを、もう恨んでいないというのですか?」

 さとりの疑問は、とても当たり前のことだった。妖怪だって嫌な事をされたら大小や忘れっぽさがあるとはいえ、相手を恨んだりもするし、仕返しをしたいとも思う。その感情を糧にする妖怪や、そこから生まれた妖怪もいることがその証明だ。この旧地獄でいえば、パルスィがその親戚筋に当るだろう。おまけにみとりが地霊殿や旧都の妖怪、その中でも特に二人にしたことは、それこそ弾幕ごっこという決闘で勝敗が定められたとはいえ、早々消えるものではないはずだ。
 空はともかく、縁とて改めて言われれば、さとりの言わんとしていることを察する程度は聡くはなっている。だからこそ、その言い方に気に食わず、顔をしかめた。そして空もまた、ただの表面上の言葉に対してすぐに真剣に悩み、一見弱気な、しかし芯には明確な意思を持って応えた。

「何言ってんだよ。あいつをこれ以上恨むって言うのは、ただ泣き虫を寄ってたかって苛めるようなもんじゃねぇか。んなの嫌だぞ俺は」
「え、えーと、その、さとり様、それにお燐も……私は、その、変だって思われちゃうかもしれないですけど、あの子のことはもう、恨むとかそういうことが、できなくなっちゃって……」

 態度と心情の細かな部分に差異はあれど、しかし縁と空の言わんとしていることは殆ど同じであり、再びさとりは言葉に詰まり、燐は困りつくした末に呆れ果てたといった表情で、何とか立ち上がった。そしてまた二人で顔を合わせて、ちらりと横目で縁と空を見ると、さとりはどこか嬉しそうに微笑み、燐は悔しさと嬉しさがごちゃ混ぜになった複雑な顔を作った。

「ふふ、そうですね……そういう心を持っている人もいることを理解できないとは、私は覚妖怪失格ですね。それにしても……」
「あんたたちが好き合った理由が何となく理解できちゃったよ、あたい……こんなにもあたいとおくうの意識の間に差があるとは思わなかったわ」
「んなっ、ど、どどどうしてそうなるんだよ!?」
「す、好きあうって……うにゅぅ~……」

 唐突なお似合い宣言に、あまりそういう扱いに慣れていない縁は顔を真っ赤にして喚き、恐らくは意識し合って初めての経験となる言われ方に空は体内で核融合でもしているのではないかと思われるぐらいに顔を紅潮させ頭から湯気を出し始めた。それを見て、こいつらギャグで言っているのか、という表情になってしまうさとりと燐。
 場を仕切りなおすのと、話題を逸らすために、縁はわざとらしい咳をし、この場にいない一人の妖怪のことを聞くことにした。

「そういえばこいしはどうしてるんだ? もしかしてまたどっか遊びにいってるとか……」

 言葉を口にする直前にさとりが、言葉にした後に燐が今までのどこかからかう調子だった表情を引っ込め、先程の縁と空の答えを聞いた時と同じぐらいに、どこか困惑した、説明をし辛いといって口を開くことができないという空気を漂わせた。何か不味いことでもあったのか、と右腕の調子を再度確かめながら、気を引き締める。空もそのことに何の答えを持ってないと言いたげに、縁と同じく返答を待った。
 
「……あの子は今、河城みとりの下に行って、看病をしています」
「え、それほんとか?」

 返ってきた答えは、予想の埒外のものだった。驚きによって一瞬思考が途切れそうになるが、構わずに燐がさとりの言葉を引き継ぎ、口を開いた。

「そーよ。一応変態三匹が一緒についてるし、あの半妖の個人的知り合いだっていう勇儀様やヤマメたちと交代でやってるみたいだから、今のとこ何の問題もないみたい」
「そうか、あいつが……」

 それだけを吐き出してから、どうしてこいしがそのような行動をとったのかを考えた。
 こいし自身はみとりとは特別仲良くはない、それどころか一度弾幕ごっこを仕掛けて返り討ちにあったというのは、決戦前夜に既に聞いている。その時に何が二人の間にあったのか仔細を知らないのが、思考をするための重要な素材であるのにまるで足りていない。
 まさか負けたから言いなりになってるとか、嫌らしい復讐をしてるとかってわけじゃないよな。根も葉もない不安が泡のように浮かんで弾ける直前、空がおずおずと声を出して、それを吹き飛ばした。

「あの……こいし様は、大丈夫だと思いますよ」
「『前に似ているからと自分で言ってたし、それに……』もう、おくう。せめて言いたいことはちゃんとしなさい」
「ご、ごめんなさい。だけどほんとに、こいし様は、その、私や縁に酷い事をしたのは怒ってるかもしれないけど、あの子自体にはもう恨みなんてないと思うんです」
「『何故なら、みとりのことを心配しているのは、本心だろうから』……おくう、本当に何の根拠もないの?」
「はい。だってこいし様のこと、大好きですから」

 縁の隣りで、空が笑みを浮かべる。それは事情を知らないものでも、相手を信じきっている類のものだとわかる笑みだ。縁も含め、三人が驚く中、一人さとりが重いため息を吐き出し、眉間にシワを作った。

「……おくう、それはちょっと答えとしてはあんまりなものよ」
「うにゅっ!?」

 ですが、とさとりは自然と険しくなっていた頬を緩めて、空の傍まで歩み寄ると、すっと頭を撫でた。

「そうやってこいしのことを信じてくれるのはとても嬉しいわ」
「う、うにゅぅ……」

 そうされるのが照れくさいのか、縁と二人きりでいた時とはまた別の照れくささで顔を赤らめる空。その様子を見ていた燐が、しょうがないなぁ、と親友に対する呆れと嬉しさを微笑に滲ませ、縁も釣られて頬を緩ませた。
 しかしそれも二、三拍の間だけに済ませ、下半身を動かしてみる。筋肉を過剰酷使した影響か痺れるようなものと、何度も打ち付け貫かれたおかげで針を刺されたような熱を帯びた鋭い痛みが、交互に交じり合って脚を行使を拒否したが、許容範囲だと誤魔化し、ベッドの外に足裏をつけた。
 そのまま立ち上がれないかと左手に力を込めた矢先、すっかり和んでいた三人がこちらに気づいた。

「縁、何やってるのっ?」
「何って……みとりの見舞いにいくに決まってんだろ」
「見舞いって……」
「中邦、あんたどこまでバカなの、おくうよりバカなの? あんたは怪我でまだまともに動けないし、そもそも普通そこまでする必要あるの?」
「『こいしが行っているから、自分も行かないと不義理になる』、そういう気持ちもあるのはわかりますけど、今は安静に……」

 さとりがそこまでいって、第三の目ごとぎょっと目を見開き、口を半開きにした。縁はそれに対して、にかりと笑って、ふらふらと立ち上がって、さとりが読んだ心をそのまま声に出した。

「友達がまだ意識不明だっていうなら、見舞いにいくのは当然だろ?」





 また、あの野原にいる。夢の中で見た景色、禁止した記憶の中に繋がりの触媒として埋め込まれていた原風景。みとりはそう己のいる場所を認識すると、黄金を揺さぶる微風を身体一杯で味わった。体に染み付いていた腐臭というものが風に吹き飛ばされ、肩の重さがなくなるような心地だった。
 目を閉じて、息を大きく吸い、吐く。それが多重奏になっていると気づくと、みとりはその自分以外の音の主を探るべく視線を巡らせ、隣に立つ小さな存在を認めた。野原の稲穂と同じ程度の背丈に、黄昏に染まってオレンジ色に映える赤い髪。胸元には今のみとりにはない、奇妙で綺麗な錠前をアクセサリとして飾り、強めの風が凪ぐたびに小さめの帽子が飛ばされないように抑えている。
 みとりがしばらくその童女を見下ろしていると、急にこちらを見上げてきて、思わず愕き仰け反った。だがみとりのそ失礼ともいえる反応を気にした様子も無く、少女はにかりと笑顔を浮かべた。開いた唇からは八重歯が覗き、生えきったばかりの歯が並んでいた。

「お姉ちゃんも、ここが好きなの?」

 問われた内容に、みとりは言葉を詰まらせた。その原因を疑問として身内に反芻させる間もなく、少女が風の中で謡うように、言葉を続けた。

「わたしは、ここが大好き! 麦がきれいで風が気持ちいいし、追いかけっこやかくれんぼには丁度いいし、何よりみんなの秘密の場所っていうのが好き! 雨の時とか服がすぐぐちょぐちょになってお母さんに怒られるけど……あ、友達と遊んでると、時々妖精とかも混じってるときもあるんだよっ!」

 少女の声、単語の一つ一つが、体を通して、心の中にしみこんでくる。その度に、どこからか音が聞こえ始める。それは先ほどからずっと耳の中で囁かれる風の歌声であったり、追いかけっこをする子どもたちの声であったり、そこに一緒に混じって遊ぶ妖精や妖怪の歓声だった。
 それらを聞くたびに、みとりは思う。知っている、ずっと忘れていた/禁止していたけど、これをわたしは知っている。覚えている。

「ただね、ちょっと里から遠いのがね。だからみんな、日が暮れると帰っちゃうの」
「……あなたは、大丈夫なの?」

 ようやく紡いだ言葉は、少し震えているものだと自覚できた。少女はそこに気づかず、ただ言葉の意味だけを考え、うーんと唸った。

「そーでもないけど、わたし、半妖だし、他の子と違って妖怪とかには襲われにくいの」
「そう。けど、嫌なことも、あるんじゃないのかな?」
「むー、お姉ちゃんって、嫌な人?」
「そ、そういうわけじゃあ……」

 自己嫌悪に陥りたくなった質問に、純粋で、人を困らせることに長けた子どもの知恵の詰まった疑問が返ってきて、みとりはまともに答えることができずに、少女から目を逸らした。
 少女は、そんなみとりを見て、変なお姉ちゃん、と呟くと、また大きく背を伸ばし、両手を広げた。視線を戻したみとりは、まるで野原と少女が一体になって、溶けてしまう様に見えた。

「嫌なこともあるよ。けどね、それよりずっと楽しいことや嬉しいことが、いっぱいあるから!」
「えっ……」

 自分よりずっと幼い半妖の答えに、みとりは言葉を失って、頭の中が真白になった。気づいた時には、少女がぽかんと口を半開きにしてこちらを見ていることに気づき、余程自分は可笑しな顔になっているのだと考え付くと、沈んでいく太陽の方へと視線を移した。
 目から頬にかけて、一筋に熱を帯びていた。確かめなくても、何であるか分かってしまった。だからこそ、拭いたくは無かった。

「……お姉ちゃん、泣いてるの?」

 少女が、ただひたすらに当然な、だけど子どもにしか聞けないことを聞いてくる。みとりもまた、それに素直に頷き、答えた。

「そう、かもね」
「嫌なこと、あったの?」
「うん」
「じゃあ、すごく、辛かったの?」
「とっても」
「…………じゃあ、楽しいこととか、嬉しかったこと、あった?」

 みとりは、太陽から今度は天井に広がる空(そら)を見上げた。そこは昼と夜、青と赤と黒、星と雲の境界線だ。およそ言葉にはし難い配色で世界が塗りたくられ、太陽の沈む速さに合わせて色を変えていく。昼/人間の世界から、夜/妖怪の世界への移り変わりを体言している。
 まさしく、半妖のみとりには似合いの場所だった。どちらであって、どちらでもない、半端者。だけど、たしかに息をして、存在している。
 河城みとりという半妖がいたという事実だけは、他人が、自分が、いくら否定しても、変えることはできない。
 だからこそ、答えはわかる。本当ならば、ずっと昔から備えていたものを、今また発見できた。
 
「……うん、あったよ。昔も、今も……きっと、これからも」
「そっか、よかったね」
「うん……うん」

 いつの間にか、ぽろぽろと泣いていた。雫は地面に落ちることなく、風に浚われてきらきらと風の通り道をデコレーションしていた。少女は、幼い日のみとりは、今のみとりを見上げながら無邪気に笑った。
 その時、遠くから声が聞こえた。

「おーい、みとりー」
「もう帰ってきなさーい! 早く帰ってこないと、晩御飯抜きよー」
「あ、お父さんとお母さんだっ」

 みとりがその声に振り返ると共に、少女が太陽の反対側へと稲穂の海を掻き分け走っていった。その先には、みとりと同じような帽子を被る意思の強そうな男性と、若く柔らかな印象を覚える女性が立っていた。
 ああ、と息が零れ落ちる。二人がどんな人物か、みとりは知っている。憎しみと怨嗟というペンキによって思い出の中の顔を塗りたくり、その存在を明確に思い出すことを禁じていた相手。それが夢の中とはいえ、みとりの前に姿を見せ、とても幸せそうに笑ってくれていた。
 その二人に泣き顔を見られたくなくて、急いで顔を拭った。だけど溢れる涙は止まらずに、袖にシミを作るだけだ。

「みとり」

 男女の前へとたどり着いた童女が、こちらに振り向く。すっかり夕日とは別の理由で赤くなったみとりに、“みとり”が手を振った。

「それじゃあ、またねー! がんばってねー!」
「っ……うん!」

 二人の男女/みとりの両親もまた、少女のエールに合わせて手を振ってくれている。こんなに嬉しいことはなかった。涙は止まらなかったが、何とか笑顔を作って、それに応えた。
 三人の親子はみとりの様子に満足したのか、笑顔を浮かべたまま踵を返し、家路へと帰っていく。幼いころのみとりは両親に楽しかった出来事を語り、親はそれを受け止め、少女を褒めたり、叱ったりする。
 あまりにも、自然で、ありふれていた、みとりのかつていた場所。みとりがもう一度欲しかったもの。
 それが遠ざかるのを、みとりはもう引き止めない。頑張れ、と言われてしまったのだ。ならばそれに応えるのが、例え人や妖怪という種族の違いがあっても常道というものだろう。
 だがせめて今は、この夢の終わりまで、あの幸せな日々の背中を見送っていたかった。河城みとりが、幸せというものを心に刻むために。





 夢から堕ちる/覚める。みとりは目を開くと、そこが見覚えのある天井であるのを確認した。薄呆けた視界と思考は、最初はどこであるかという明確な答えを導き出せなかったが、二秒三秒と経つごとに動き始め、発明品の設置のために幾度か入ったことのある星熊勇儀の家にある客間だというのを理解させた。

「あ、起きたんだ」

 唐突にかけられた声に、そちらの方を向く。水桶と濡れ布巾を横に置き、座敷の上にちょこんと座った覚妖怪の片割れ、古明地こいしがそこにいた。ついで視線をずらすと、隣りに角の生えた羊のような妖怪に、襖の前には同じような動物型の妖怪が二匹立っている。この三匹の共通点は頭に何かしらの逆三角形で色遣いの鮮やかな布を被っていることと、例外なくみとりに対して警戒心を抱いていることだ。
 どっちに対してのお目付け役かしら、とこいしを見上げながら心中でごちると、体を起き上がらせた。体に掛けられていた掛け布団がその勢いで捲られ、誰かしらのものと思わしき、茶と黒が入り混じった半袖の寝間着に守られた上半身が露になった。服から覗く両腕には包帯が巻きつけられているが、試しに動かしてみると、予想よりも火傷の痛みはなかった。

「……あなたの体、ボロボロだったって」

 言われて、こいしに振り向く。想定外のことを言われたからだ。精々が無茶のし過ぎで風邪のような状態になって、しばらく寝ているだけと思っていたが、まさかボロボロとは思いもしなかった。

「それ、どういうこと?」
「えっと、未知の毒……ううん、“ケガレ”に長い間触れすぎて、内側の組織がダメになってきていたんだって。もしあのまま“ソルディオス”を使い続けていたら命の危険があったってさ」
「そう……」 

 両腕を見下ろし、包帯でも隠し切れない緑色の火傷跡を確認する。思えば、不思議なものだった。『未来の遺跡』の最深部でソルディオスの雛形になった超構造体を見つけた時、背中から汗が出るのを止められなかった。だがそれこそが、みとりが求めていたもの、能力ですら不完全な他者の完全拒否/侵入禁止を可能にする力であるという予感を持ち、研究用に持ち帰ってからは、その時の悪寒が嘘のように消えたのだ。
 そのことをまず最初に奇妙に思うことが正常であるのだろうが、生憎とその時のみとりは一研究者/河童として、超構造体の解析に躍起になって、注意が疎かになっていた。いや、もしかしたら、呑まれていたのかもしれない。
 超構造体を、いや、あの遺跡を作り出したものたちが残した“狂気”というものに。

「じゃ、もしかしたらわたし、もうあんまり生きられないのかもしれないわね」
「ううん、全然」

 こいしの丸暗記したような宣告から出した予想は、真っ先に否定された。科学者としてのプライドも傷つけられた気がして、自然と顔が険しくなり、きつい口調で問いただした。

「どういうこと、それ」
「うーん、わたしも詳しくはわかんないけど、“ケガレ”の殆どが他のものと混ざってて、毒素みたいなのが消えちゃったんだって」
「……つまり、抗体ができたってこと? もしくは、“ケガレ”そのものが、他のケガレと一つになったってこと?」
「そう、なるのかなぁ?」

 小首を傾げて、隣りに座る妖怪に視線で同意を送るこいしと、いやいや僕にもわかりませんよ、と首を横に振るへんてこな動物妖怪。とにもかくにも、これで体が考えていたよりずっと軽いことには理由がついた。だからこそ、本来最初にすべき質問を、ようやくすることができる。

「それで、貴女はどうしてわたしのとこにいたの?」
「え、看病してたんだよ?」
「それはわかるから……」

 一応視線でお供の妖怪に尋ねるが、そちらも明らかに回答に困って押し黙るだけだ。ならば仕方ないと、散々酷いことをしてしまった相手へと、引け目を感じながらも直接聞くしかなかった。嫌々なのは、自分がこの覚妖怪に対してした行為を改めて掘り起こすのと同意義の行いだからだ。

「……わたしは、理由を聞いてるの。だってわたしは、貴女に対してとても酷いことをしたはずよ?」
「そうだね、わたしは今でもそのことは怒ってるよ。前のわたしだったら、とっくの昔にあなたのことを殺っちゃってるはずだもん」

 無意識を操るものらしい歯に衣着せぬ言い方に、三匹の妖怪が腹が痛むようにお腹を抑え出し、みとりは怪訝に眉にひそめた。人間の大人ならいざ知らず、妖怪というものが負の感情を隠し切った上で、その対象となる相手に朗らかに接するなど、そう易々とできるはずがないのだ。
 そこまでみとりが自身の経験からくる理論武装を身内で固めていると、だけどね、とこいしが言葉を続けた。
 
「あなたと縁ちゃんがちゃんと弾幕ごっこで決着を着けたから文句なんていえないし……何より、わたしがあなたを傷つけたら、きっと嫌な気持ちになっちゃうから」
「嫌な気持ち? どうしてよ?」
「だって、あなたと縁ちゃんって、すっごく似てるんだよ! あなたに酷い事したら、縁ちゃんにひどいことしてるみたいだもん。あ、けど縁ちゃん本人をイジめるのは好きだからね」
 
 お気楽な調子で、たった一人の男性に向ける親愛の言葉を続けるこいしの声は、途中から耳に入ってこなくなっていた。中邦縁と自分が似ていると、まったくの他人から言われたのは初めてだからだ。そのことに無性に腹が立って、先ず脳内で自分と縁の類似点を次々と挙げていく。髪型、性格、戦闘中に見つけた癖、口調、エトセトラ。途中から判断材料があまりに少ないことに気づいて止めるまで、まったく似てないという結論が出た。

「どこが似てるのよ、あんな純情ド阿呆人間と」
「うーん……えっと、むむむ……わっかんないや」

 待ち合わせの約束を間違えたような調子のいい声音で返ってきた言葉に、思わず大きく肩を落とした。だがしかし、冷静にクールになれ、と怒り心頭になって喚きだしそうになるのを抑えながら、何とか上半身を持ち直し、再度尋ねた。

「ちょっと……貴女から言ってきたんでしょ? 理由ぐらい言葉にしなさいよ」
「だって、何となくそう思ったんだもん。けどね、これって不思議なんだけど、とっても納得できるんだ」
「無意識娘の何となくで決められちゃ、埒が明かないわよ……」
「あれ、けどあなたは確か、縁ちゃんにも言われて、認めてたよね?」
「あんなの……あの場の勢いよ、勢い。ノーカウントでいいわ」

 不思議なぐらいむきになって、似ている云々を否定していると、襖の向こう側からどたどたと騒がしい音が響き、それが部屋の前までくると、勢いよく開かれた。出入り口を固めていた二匹がぎょっとして、現れた人物、この家の持ち主の存在を認めた。

「お、みとり。ようやく起きたみたいだねっ」
「勇儀さん……」
「おっと、私だけじゃ……」
「みとりー!」「みとりさーん!」

 勇儀が全てを言い切る前に、その背後から飛び出した二つの影がみとりに飛び掛ってぎゅっと抱きしめた。唐突なことで数秒間されるがままとなったが、抱きしめられているという事実に気づくと、これもまた気恥ずかしくなって、顔に若干熱を持ちながらも、それらを引き剥がした。
 剥がされた二人、ヤマメとキスメは何をするんだ、とあからさまなぶーたれた顔を作り、勇儀はその後ろでにやにやと笑い、こいしはおーと、口を半開きにしていた。お供の三匹は「これがお姉さん系とツンデレの絡みか」「なるほど、ドミナントだ」などという意味深な会話をしていたが、みとりには殆ど聞こえていなかった。

「いきなり抱きついてくるの禁止よ、禁止!」
「みとりは固いな~もう」
「当然の反応してるだけっ! ……はぁっ」

 猫のように笑うヤマメに何を言っても無駄だと早々に悟り、軽い脱力が起きた。いつもは一歩引いたポジションにいるキスメもヤマメと同じものを浮かべているから、尚のこと性質が悪い。自分にとって非常に居心地が悪いこの流れを何とかするべく、顔を引き締め、聞きたかったことを聞くことにした。

「状況、教えてもらえない? あの後どうなったか、何で勇儀さんの家にいるのか、この服は誰のか、それと……どうしてこの覚妖怪の片割れがわたしの看病をしていたのか」
「も~、だからいったでしょ、。わたしはぁ……」
「無意識故致し方ないは理由に入れる気はないわ」

 言いすがってくるこいしを一刀の下に伏し、こういう状況のまともにもっとも適任ともいえる勇儀に答えを促す。固なぁと頭をぽりぽりと掻いて、指名された鬼は仕方なしと妹の我侭を許容する姉のような態度で口を開いた。
 だがそれも、殆どがみとりの考えた通りのものだった。
 あの弾幕ごっこの後にみとりが空を治療してすぐに気絶したこと。ソルディオスなどはそのままにし、急いで二人を旧都に運び医者に診せたこと。縁は地霊殿に部屋があるのでよかったが、みとりの家は能力の影響で入ることは出来ず、勇儀の家に上げたこと。服は勇儀のものは合わないので、ヤマメのものを着せたこと。そのまま丸二日間眠り続けたので、勇儀とヤマメとキスメ、そしてこいしが交代で看病していたこと。こいしが看病するというのは最初ヤマメとキスメに疑われたが、勇儀が「嘘はいってない」といって認められたこと。
 
「ま、大体こんなものだね。他に聞きたいことは?」
「……そうね、少なくとも勇儀さんも、この覚妖怪の……」
「こいし」

 言葉を遮られ、覚妖怪の方へと視線を向ける。すると、ふくれっ面が目の前にでんと表れ、思わず身を引いてしまった。

「ずっとその呼ばれ方だよね? わたしにはこいしって名前があるから、そっちで呼んでよ」
「だったら、古明地の妹でも……」
「ややこしいからダメ」
「……わかったわよ、“こいし”」

 たかが呼び方、と判断して名前で呼ぶと、こいしは微笑を浮かべ、ヤマメたちは微笑ましそうに笑った。何となくそれがムカつき、眼光を鋭くして周囲を睨むが、それでも態度を崩せなかった。

「……とにかく、勇儀さんも、こいしがここにいる理由はわからないのね」
「まぁね。けどそんなちっさいことはいいんだよ。要はこいつにお前のことを看ていたいって気があるかどうかだからね」

 にかりと快活に笑う勇儀は、いかにも鬼といった風情があった。これだからこの人は苦手だ、と恩人に対しての評価を再確認して、もう一つの気になることを告げることにした。

「ねぇ、それじゃあ、わたしと戦ったあいつは……」
「おーい、勇儀ー、いるかー?」

 そうしようとした矢先に、その人間、中邦縁の声が、屋外から響いてきた。



 二人きりにして欲しい。示し合わせたように告げた縁とみとりの願いは聞き届けられ、みとりが寝ていた部屋には今、二日前に死闘を演じた二人だけとなっていた。みとりは相変わらず上半身だけを起き上がらせ、こちらで手に入れた外出用の着物を羽織る縁はその横に胡坐を掻いて座っていた。

「怪我、大丈夫か?」
「それはこっちの台詞よ。人間の方が普通治りは遅いものよ」
「ああ、それは医者にも驚かれたよ」
「あらそう、それはこっちも同じよ」

 ある程度静かになったところで切られた口火は、互いにそっけないものだった。視線も合わせようともせず、一見すれば余程の仲の悪いものに見える。だが口元に作られた僅かな笑みの形もまた、二人の共通点だった。

「……貴方に壊されたソルディオスは、一から作り直しよ」
「いや、あれはあのままの方がいいんじゃねぇか? 他の妖怪にもすっげー迷惑みたいだしさ」
「その程度で私の科学の進歩を止める気は一切ないわ。というより、壊したんだから、直す手伝いぐらいはしてもらうわよ」
「おい、何やらせる気だよ」
「簡単なことよ。迷宮の奥にある遺跡にいって、最深部にあるソルディオスのオリジナルの一部を持ってきて欲しいのよ」
「迷宮の奥の遺跡って……あそこか! けど、俺がお燐と一緒にいった時、自爆したような……」
「あそこは自爆したり壊されたりしても、数日経てば全て元通りになるわ。わたしの仮説としては、強固すぎる幻想としてこちらに移ってきてしまったか、妖精と同じ自然現象と化したか、はたまた時間の呪いにでもかけられてるかね」

 うへぇ、と縁は呻いた。不思議なことは幻想郷の常とはいえ、まさか自分の世界の側に近いSF的な施設すらも、その不可思議現象の一部に巻き込まれてるとは想定外だったからだ。みとりのいう理屈は縁には少々難しいが、事実としての現象だけでも充分幻想郷的といえた。
 その困った顔に満足したのか、みとりがサディスティックな面を覗かせながらほくそ笑む。だがそれも徐々に消えていき、やがて視線が下に向くと、胸元に手をやった。そこにはかつて、あの錠前が下がっていた。

「昔の夢を見たわ」

 不意に、ぽつりと呟かれた言葉に、縁はそっか、と相槌を打った。
 みとりはそれで許可を得たというように、その夢の内容を、かつての自分に起きたことを、部屋の外にいるだろうものたちにも聞こえるように、朗々と、一つ一つ語り始めた。
 自身もかつては地上に住んでいたこと。駆けっこが得意だったこと。河童の父と人間の母がいたこと。腹違いの妹がいること。人里に移り住んでから人妖どちらからも迫害されるようになったこと。祖母とは関係が険悪だったこと。全てが終わったあの日、その祖母が初めて名前を呼んで抱きしめてくれたこと。人に裏切られ、妖怪にも裏切られ、しばらくは地上で一人で暮らし、堕ちる様にこの旧地獄へと来たこと。それからも住処を紹介してくれた勇儀と仕事で会う以外は、殆ど他者との接触をしてこなかったこと。
 ずっと、ひとりきりだったこと。
 それだけのことを語り終えると、黙って聞いていた縁もまた、“己が覚えている限りの”自身のことを話し出していた。
 小学生になる前に事故に合い義手になったこと。九歳のころに神様と名乗る二人と自分と変わらぬ現人神候補の女の子、そして初めて妖怪と出会ったこと。中学生になって苛められ、周りに暴力を振るい、誰も心に入れなかったこと。その後に、庚慶介と井筒愛と出会えたこと。二人の死に立ち会ったこと。
 そしてそれを日常の中で“不自然なくらい”大事な部分を色々と忘れ、高校生として普通に生きていたこと。つい先日、八雲紫と名乗る女性に、この幻想郷、旧地獄に落とされたこと。

「あとはまあ、多分知ってると思うから省くな」
「はぁ……ものの見事に恵まれてるわね」
「うっせ、これでも苦労してるんだよ」

 どこかの橋姫のお株を奪うように、妬ましいと言いたげな視線を向けるみとりに、返答に困ると頭を片手で支える縁。それで充分だったのか、みとりはふっと頬を緩ませた。

「冗談よ」
「嘘つけっ。目、笑ってないぞ」
「つまらないネタばらしは禁止よ」

 それに、とみとりは天井を仰ぎ見て、ゆっくりと目を瞑り、重い溜息を吐き出した。

「本人と他人からも言われて、自分でも似てるって認めちゃったら、少しは憂さ晴らしもしたくもなるわ」

 似ている。縁が最初に言ったのは、あの戦いの時。だがそれに心のどこかで気づいたのは、もしかしたら初めて会った時からかもしれない。見えない壁に遮られて、けれども何かの拍子にすっと開いてしまう扉。単純な切欠で、色々な物事に首を突っ込んでしまう。終わった後で分析して、今こうして互いの過去の語り合ってからは、余計にその思いが強くなる。
 相似、とまではいかなくても、点対称ぐらいには近いだろう。我ながらなんて例え方だ、心中でロマンの欠片もない比喩に縁が辟易していると、みとりがこちらをじっと見ていた。今までなく真剣で、だがつき物が落ちたように、安らいだものだ。

「ありがとう、中邦縁」

 そう言って微笑んだ赤髪の少女は、ただ可憐で、美しかった。
 見惚れた、とはまさしくこのことで、正気に戻った瞬間、縁は顔を真っ赤にすると共に頭を両手で抱え、「俺には空がいる、空がいるのに」といかにも分かりやすい狼狽ぶりを見せ、みとりはそれを見て、してやったり、と悪戯に成功した子供のように笑った。
 だがその視線が縁の右手に集中すると、むっと顔を顰めて、無造作に手を伸ばした。捕らえたのは、縁の破損した義手だ。

「これ、大分壊れてるわね……バラすついでに直させてもらうわ」
「え、これ直せるのか……って、バラす前提じゃねーかおいっ!」
「強奪するってわけじゃないから、大丈夫よ、問題ないわ」
「ツッコミ待ちしてるこいしと似たような顔してる奴のことなんか信用できっかーっ!」

 いいじゃない見せてよ、だが断る、などという応酬を繰り返しながら、玩具を取り合う子供のようにぐぐぐっ、という無駄に緊迫した均衡が生まれる引っ張り合いをし出す二人。その時背後で襖が開き、話は終わったの、と言う空を先頭に部屋から出ていた面々が中に入ろうとしていた。
 だがその瞬間、縁が勢い余ってみとりを引き寄せてしまい、そのまま後ろに倒れこんでしまった。考えてみれば、縁の体力は想像以上に回復した上で、みとりは医者から原因不明で異質の“ケガレ”がなくなったとはいえ、体の内側がぼろぼろだと言われていたのだ。人間と半妖の差はあれ、体力がものを言う引っ張り合いに置いて、歩き回る程度の余裕がある縁に軍配が上がるのは当然だった。
 その結果、皆が部屋に入ってきた後には、みとりが縁を押し倒すような格好になっていたのは、自然な成り行きといえた。
 顔を赤らめるもの、何をやっているのかと嘆息するもの、むっと顔を顰めるもの、面白くなってきたとにやけるもの、この現場を即座に旧都に広めようと飛び出すもの、翼を大きく広げて顔を真っ赤にするもの、などと様々な反応があるが、縁はそれを見る余裕はなく、あまりに近すぎる、きょとんとしたみとりの顔しか、態勢的見ることができなかった。
 一方でみとりは、最初どういう状況かわかっていなかったが、次第に顔を赤らめ、次に部屋に入ってきた面々を見て、その先頭にいる妖怪が発し始めた負の波動を感じ取ると、意趣返しができると思いつき、紅潮した顔のまま、縁の耳元でささやいた。

「貴方、たしかあの地獄鴉が好きだったのよね」
「え、まぁそうだけど……」
「それ、わたしが半妖だって知って言ってるんでしょ?」
「それは関係あるか! 俺はあいつだから……」
「あ、そっ。じゃ……これは前金代わりよ」

 脈絡のないみとりの言葉に文句を言おうとした瞬間、顎を持ち上げられ、そのままみとりの顔が近づいたと思うと、唇に何かが押し当てられた。柔らかく、湿り気のある、いい香りのするもの。何味だろ、と思う前にそれは唇から離され、再びみとりの顔が視界一杯を埋め尽くした。その指先が、半妖河童の唇に触れ、未熟なチャシャ猫の笑みを作り出した。

「一応、わたしも初めてだったけど……前金として、上等よね?」
「え、あ……い、今の、もも、もしかして……っ!」

 何をされたかの正体を問いただそうとした瞬間、襟首を強引に引っ張られ、ぐえっとひき潰されるカエルの鳴き声が喉から鳴った。だがそれで苦しむ間もなく、縁は更なる恐怖を目の当たりのすることになった。
 それは阿修羅すら凌駕する存在だ。鳥が威嚇するように黒い翼を大きく広げ、何かに耐えるように顔を真っ赤にしながら体を震わせ、しかし漲るプレッシャーは今まで味わったことのない、しかしソルディオスのフルパワーを前にした時のような身の危険を感じさせた。それを発する少女は、霊烏路空だ。

「ね、ねぇ、縁ぃ……今のは、何だったの、かなぁ……?」

 にこり、と不器用に笑おうとする空。縁を持ち上げる手には力が限界まで入っているか血管が浮かび上がり、そのオーラは親友の燐とキスメを涙目にし、他のもの、主人であるさとりと鬼の勇儀すら一歩引かせるものであった。だらだらと汗が流れ始め、命の危機すら覚え始めた縁は、何とかこの場を打開しようと、会話をとることにした。

「う、空……今のは、俺の意思に関係なく、じ、事故みたいなものであって……」

 言った瞬間、空の目から笑みが消え、凄みが増した。

「ふーん、へー……けど縁、笑顔に見惚れてたよね? どれぐらい本気だった? キスの感触は?」
「えーと、なんつーか、色々と忘れちまうくらい良くて、すっげーいい匂いと感触が……はっ!?」

 つい、口を滑らせた。それで終わりだ。
 霊烏路空の体から溢れるオーラが熱気を伴う妖気へと転換され、凄まじいまでの熱が首下を掴む手から伝わってくる。以前にも何度か空に吹き飛ばされることはあったが、今回は言い訳不可能な上に、最大級のパワーが待ち受けている。
 慶介、愛さん、今そっちに逝きますと、心の中で何故かいい笑顔を浮かべるかつての親友二人に挨拶を送ると、空の空いている手には、二つの光球が八の字の輪を描くスペルカードの光が灯った。
 ああ、死んだな、と縁は思った。

「縁の……浮気ものバカァァァーーーー!!!!」

 初めて明確に形となった嫉妬に突き動かされる、空の放った灼熱の炎は、勇儀の家の天井を突き破り、心を通わせた半妖の少女についつい見惚れてしまった青春少年を、地底の天井近くまで吹き飛ばした。
 それを終始見ていたみとりは、ひたすら愉快だと、泣き笑いをしていた。それに釣られて、残った妖怪たちもまた、楽しいな、と笑った。
 



 おまけ:

「うーがー……死ぬかと思った」

 空に吹き飛ばされた縁は、何とか夜までに地霊殿まで歩いて戻ってきていた。折角もらった服はすっかり焼け焦げて、見るも無残な状態になっていた。屋敷の中に入ると、動物妖怪や怨霊たちが相変わらず自由に動き回り、縁を見るや否や、生暖かな目線を向けてきた。一匹一匹を無性に殴りたくなったのを我慢して、部屋の前に戻ると、ドアの前に人影あった。

「空……」
「あ、縁……」

 ずっと待っていたのだろう空の手には、起きた時に机の上にあった小袋が握られていた。一体なんだ、と先程吹き飛ばされたお返しに色々とイジめるような言葉で要件を聞こうとした瞬間、ぐぅと腹の虫が盛大になった。思えば丸二日間何も食べてない上に、起きてからもすぐにみとりの下に向かったのだから、食べる間がなかったのだ。

「お、お腹空いてるの?」
「まー、そりゃぁな……」
「そ、それじゃあ……」

 気まずくなって言葉を続けられない縁に対し、空は先程の失態を思い出してか顔を赤くしながらも、そろそろと小袋のリボンを解いた。少し距離が離れていても、空けた瞬間に漂い始めた香ばしい匂いに、縁の腹がまた鳴った。

「えーと、そ、それは?」
「うにゅ……クッキー」

 それはクッキーと呼ぶにはあまりにも不器用な代物だった。傍によって小袋の中を覗くと、形がまったく不揃いであり、色合いも殆どが焦げちゃ色だった。だが匂いだけはしっかりとしていて、空きっ腹の食欲を誘ってくる。ここでがっつきたい気持ちに駆られたが、どうしても確認したいことがあった。

「これ、お前が作ったのか?」
「うん……ほんとはね、縁が河城みとりと初めて会った日に渡そうとしたんだけど……弾幕ごっこ中に、全部砕けちゃったし、あの後すぐに、私も変になっちゃったから、作れなくて……だから昨日、大急ぎで作ったの。けど、前教えてくれたフレッチャーがいなかったから、前より悪くなっちゃったけど……だからっ」

 そういって空は、袋から一つ、長方形のクッキーを取り出すと、縁の前に持っていかず、しばらく見下ろすと、何かを決意したような顔になって、ぱくりとクッキーの端を咥えた。そのまま縁の顔の前まで、自身の顔ごと近づけ、口でクッキーを差し出した。

「んにゅっ」
「えーと……これ、このまま食えと?」
「んにゅ!」

 こくこくと頷く空に、どうツッコめばいいのか本気でわからなくなった縁。不味いからとわかっているから、仕方なく口移しにするとは、どういう発想をしているのだ。心中で幾度も現実の奇妙な理不尽に対して第三の手によるラッシュを繰り出して、心を落ち着かせる。
 だが、顔を赤くしてクッキーを咥える空を見直すと、再び頭を抱えて明後日の方向を向いた。殆ど経験のない縁に、これはあまりにもレベルが高すぎるのだ。本来ならば脱兎の如く逃げ出したいところだが、そうなれば空がこのままの態勢で追いかけてくることは必至で、地霊殿中、ひいては旧都中にこの嬉し恥ずかしポーズを晒す事になる。
 それは断固として、一人の男として止めるべきである。そんな奇妙な理論武装を心の鎧として為し、空へと向き直って、両手を肩に置いた。
 びくり、と震える空。前に抱きしめて通り、考えてるより華奢な体だという感想を、冷静なごく一部の思考が洩らすと、ついにクッキーの端を縁も噛んだ。空は、咥えたまま離さない。縁も、ついに自棄になって口を動かし、クッキーを食べていく。味を確かめる余裕は一切なかった。
 半分まで、食べ終わる。あと二、三回食べ進めれば、空の唇に触れてしまうだろう。鼓動が高鳴り、膝が震えるようだった。
 その時、空の口が動き、ただでさえ近い顔が更に近づいた。鼻の両端がこつりと当り、互いの息がかかるようだ。固唾を飲み込む間もなく、空がもう一口食べて、もう後一回という距離になった。
 視界一杯の空の顔に、縁の理性を支えていた何かが、今にも千切れそうになっていた。それでも、それでも、と耐えて、自分から最後の一口を進めて、空の唇へと達した。

「ん……」

 しばらく、そのままの態勢だった。何も考えられず、ただずっと、空の体を唇越しに感じ取っていた。
 ようやく口をどちらからともなく離すと、空の顔がこれ以上ないくらい赤くなって、俯いた。縁もまた自室の方を向いて空と顔を合わせないようにした。互いにしばし何も言えない状態が続くが、何とか打開策をと沸騰する頭の中で思考していた縁は、唐突に浮かんだことを、後先考えずに口にした。

「な、なぁ!」
「な、何!?」

 互いに無駄に大きな声を出していた。

「さ、さっきの、みとりのとこでさ……あれってやっぱ……嫉妬、してくれてたん、だよな?」

 質問をした直後、ようやくこちらを見てくれた空の頭から、火山噴火のような煙が爆発した。うにゅううぅ、といつもの鳴き声を弱弱しくしながら座り込み、頭を抱えだした。
 縁もまた、何を言っているんだ俺は、と更に悪化した状況に自己嫌悪を覚え、空と同じようになってしまった。
 今度こそ二人は完全に沈黙し、キッチンで「甘死……甘死してしまう……これが私の最後というの……」といって突然悶え出したさとりの奇態の症状から、縁と空が原因だと察した燐が駆けつけ、いつも蹴っている方にジャーマンスープレックスを繰り出すまで、廊下に座り込むことになった。




 あとがき

 Q.こんな更新速度で大丈夫か?
 A.一番いい更新速度を頼む。

 みとり篇、ようやく終わりました。いや長かった……多くは語りません、もう何度もあとがきで言っちゃってますので。けどこの終わりももう少しスマートにかつ、きっちり締められれば……あと、久々だったからキャラのみんなブレすぎてワロス……実力不足ですね、わかりますorz
 今までのシリアスの反動で、糖分多めのラブコメになりました。糖分が足りないよカスが死に腐れ、脆弱な終わりだ水没しろ、と思う読者の方々、お許しください!
 あ、物語自体は折り返し地点です。お暇な時にぜひお付き合いください。





「ふふ、若いわねぇ……」

「……」

「どう、男親として、息子が恋人と仲睦まじくしているところを見るのは」

「……奇妙な気分ですよ」

「そういうものなのかしらね? さて、今のが二日前の映像よ。そろそろこうやって覗き見するのも飽きてきたわねぇ……ああ、藍にお酒でも用意させとけばよかったわ。すっかり当てられてしまいましたもの」

「……それで、今日の分は」

「ふふ、今見せますわ………………え?」

「っ! ………これ、は」

「さすがに、私もこれは……まさか、あそこにいるのは、守矢の……」

「……紫さん、準備してください……――を、行います」

「まぁ、そうね……状況がこう、急に動くとなりますと……霊夢にでも、知らせましょうかね」

「そちらは貴女の判断に。幻想郷の問題ですからね」

「……それにしても、本当にいいの? もしかしたら、あの少年……帰ってこられなくなりますよ?」

「そうならないよう、加減はします。そのために、原子力発電所にハッキングしたんですから」

「貴方の能力をフルで使う代償ね……恐ろしいけど、本当、人間には過ぎたものね」

「……成ってしまったものに、文句はいいませんよ」

「まあいいわ、それじゃあ始めましょう……貴方の能力に因んで、私が命名いたしますわ」

 始めましょう、無限螺旋の儀を。


 東方地霊縁起
 第二部、共生編、完。



[7713] 第三十三話――興<一体、どれだけのレイヴンが、このSSを受け取ってくれただろうか 
Name: へたれっぽいG◆eaa9c481 ID:0268cc84
Date: 2014/07/23 01:41
 旧地獄の都はすっかり雪景色に染まっていた。並び立つ長屋の上には雪の瓦が出来上がり、地面は妖怪たちが頻繁に歩く道以外は、厚い白銀のカーペットが出来上がっていた。天井を仰げば“地獄の深穴”の周辺以外はすっかり厚い雲に覆われて、白いドーナツ状の奇妙な天気模様となっていた。粉雪は既に降り止んでいるが、秋とはまるで違う凍えるような気温が、寒さに弱いものたちの身体を暖かな家へと押し返そうとしている。だがしかし、大半の妖怪変化はお得意の飲酒で適応し、場合によっては普段よりも酔いに任せて騒いでいた。それは数ヶ月前に大規模弾幕決闘によって吹き飛んだ旧都西区も変わらず、というよりむしろそここそが今日の活気の中心部となっていた。復興した家々の間には土蜘蛛の糸が張り巡らせ、戦国時代の御旗や色とりどりのシンボルマーク、それにどこかで見たことあるような企業ロゴが“外の世界”のお祭りよろしく吊るされていた。

「お前たちー! 酒は持ったかーっ!?」

 そして、西区復興の中心地になっていた休憩所。そこには旧都中から集まったとすら思える数の魑魅魍魎で溢れており、皆が皆、音頭をかけた星熊勇儀に合わせて沈黙し、盃を掲げた。

「よーしいいね。みんな、今日までご苦労だった! 色んなことがありすぎたけど、久々の大工仕事を楽しんでくれてたら、音頭を取った私としちゃ最高だ! とにかく今日は最後の締めだよ、飲め! 騒げ! 羽目を外せ! お祝いだーーっ!」

 そして、豪快な号令と一気飲みと共に、旧都西区完全復興を祝う、ドンチャン騒ぎが幕を上げたのだった。


 第三十三話『歩み』


「よう、あそこの家お前が直したんだって、やるじゃねぇか!」
「いや~、けどあそこの鬼瓦のデザインは前のほうがよくてですね~」
「カレー、黒いカレーはいらんかねー! 全てを辛味で焼き尽くす黒いカレーはいかがー?」
「ひゃはっ、いいじゃん、盛り上がってきたねぇ!」
「いかん、そいつには手を出すな!」
「カレーから、辛さが逆流する……うにゃぁぁぁああああああああああ」

 ごった返したように騒がしくなったお祝い会場では、様々な喚き声が響いていた。早速呑み比べを始めるものとその観客たちの野次、どこかの船長兼カレーが新作を売る喚声、黒い何かに焼き尽くされて爆発四散する奇声。そのどれもが底抜けの陽気さに彩られていて、正に祭りといった雰囲気であった。

「あ~あ、こういう時手が使えないの辛ぇよな~。あ、そのイモ天くれ」
「そうだね~。はい、あ~ん」

 その一角には、左腕を包帯で包み、半壊した義手の右腕を応急処置としてままだらんと下げた中邦縁と、大量の天ぷらが載った取り皿を持った霊烏路空がいた。河城みとりとも和解し、恋人として関係をスタートした二人の間には、二週間前までの雰囲気に似た、しかし以前よりずっと近づいた距離感があった。

「んぐ……にしても、俺らがいない間にきっちり作業進めてるなんてなー」
「えーとね、お燐いわく皆寒いの嫌だったから早く寝れるところ作りたかったんだって」
「あー、そりゃそうだな」

 二人の言葉通り、旧都西区はこの二週間の間に復興を終えていた。元々みとりとの騒動の直前には既に作業工程は残すところ僅かになっていたこともあるが、何より雪の気配に気づいていた、寒さに弱いものたちがさっさと寝床を確保するために率先して働いていたことが大きな要因だった。その妖怪変化たちも今日は大いに騒ぐだろうが、明日には二日酔いを迎え酒で解消しながら、冬眠なり引きこもりになるだろう。
 最後まで手伝えなかったことに、申し訳なさと悔しさを抱きながら、再び「あーん」と空が差し出してくれた掻き揚げを頬張ると、酒盛り特有の光景の中から、見知った顔が近づいてくるのに気づいた。

「よ、ご両人」
「なんだよ十一、茶化しにきたのかよ」
「大当たりだ、つーかパッと見そう見えないからマジで付き合い始めたのか確認しにきたんだよ……ま、ちゃんとそれっぽいのはわかったけどよ」

『主任砲』と書かれた一升瓶を持った林皇十一が、いかにもな顔で酒を呷るのに、縁は呆れた声を返し、空は照れたように顔を赤くして、もう一度縁に食べさせてあげようとした天ぷらを落とした。

「というかそもそも俺らがちゃんと、んんっ、そういう関係になったのって、昨日の夜なんだぜ? 噂広まるの早すぎねぇか?」
「そりゃお前、賭けになってたんだから、地霊殿の話が分かるやつがせっせと広めてくれたに決まってんだろ」

 主にいつもパンツ頭に被ってるあいつらな、と、一升瓶を仰ぐ十一のリークに、あの変態ども今度しめる、と内心誓った縁。そしてこの会場に着いてから感じていた、妙に遠巻きでかつ生暖かな視線の正体というのが、その賭け事の参加者のものだと当たりをつけた。さっきから声をかけられなかったのは変な気でも使われていたからなのか、と使えない両手で頭を抱えたい気持ちになっていた時、くいっ、と袖を空に引かれて、そちらを向いた。

「ねぇ縁、それってつまり、私と縁のことがみんなに知られてるってことだよね?」
「お、おう」
「だったら……」

 疑問に答えた瞬間、空が縁の左腕をぎゅっと抱きしめた。当然、怪我が完治していない縁に鈍い痛みが走り、いつっ、という情けない悲鳴が木霊した。

「あ、ご、ごめんね」
「い、いきなり何すんだ……」
「だってみんな知ってることは、みんなの前で縁に甘えてもいいってことでしょ?」

 違うの、と疑問符を浮かべ小首を傾げる空。さっきまでの俺らの距離感はどこいった、と顔を赤らめながら叫びたく縁に、更に「ほらっ、口開けて」と包帯越しに驚異的な胸部を押し付ける空が次の揚げ物を箸に持ち、縁の口元まで運んできていた。

「お~お~お熱いな~どうせなら口移しでもいいんじゃないか?」
「ば、十一てめっ、変なこと教えんな!」

 酒が回ってすっかり野次馬のようになっている十一が恋人初心者の二人を煽ってくる。縁は即座に反撃しようとしたが、しかしそれよりも前に、味方である空がさらなる燃料を投下してしまった。

「えっと、それはもう、しちゃった」
「おっ」
「ほんとかいっ、いやーそりゃめでたい!」
「ば、ヤマメ!?」

 感心したような顔の十一の後ろから、いつから聞いていたのか、野次馬根性丸出しといった表情の生ける疫病こと黒谷ヤマメが飛び込んできた。その肩側にはすっかり酒が回って目を据わっているキスメが、ひっくと一拍置いて、二人を指さした。

「じゃあ、もうちゅーもしたんれすねぇ」
「ぶふっっ!?」「うにゅっ?!!」

 そして酔っぱらいが口にしたのは、この場を更に混乱させる爆弾だった。
 
「おお」
「そりゃそうだよねぇ」

 キスメの指摘に確かにそうだそうだと頷くと、いかにも意気地の悪い笑顔となった虎と毒蜘蛛の即席コンビ。今更その事実に恥ずかしくなったのか、急激にリンゴのような顔色になる空。そしてこのままでは精神面で再起不能となると判断し、逃げを選択した縁は"目"を開き、"線"をたどり始めた。そしてその先にちょうどいい思われる避難場所が見つかると、一刻も早く離脱するため、空の左腕を抱きつかれたまま手を掴み直し、ぐいと引っ張った。

「あっ……」
「悪いが、離脱させてもらうぜ!」
「あ、おいこら逃げんな!」
「おとなしく私達の酒のつまみになれー!」
「匹夫が……生きやすいものだな、ふらやましいよ……ひっく」

 後ろから理不尽なブーイングがぶつけられるが、それこそ構ってられないものであり、まだ顔を赤くしままの空を離さないようにしながら、どんちゃん騒ぎの渦の中を飛び込んだ。そこでもやはり、ご両人、仲ようそうだなぁ、イレギュラーがぁっ、などというからかいややっかみの声が引っ切り無しにぶつけられたが、一々答えられるはずもなく、重量と装甲を極限まで削った変態よろしく一目散にその場から離脱した。
 
「……で、なんでわたし達のところに来るのよ」

 そして辿り着いたのは、縁同様白い包帯が目立つ一昨日までの仇敵河城みとりと、それに晩酌される水橋パルスィと星熊勇儀のいる仮設テントだった。復興作業中に使用していた時のをそのまま利用したらしいのか、土埃や謎の液体ですっかり汚れているが、橋姫に鬼、そして半妖赤河童という取り合わせが不思議と落ち着きのある雰囲気を出している。

「いーじゃないかみとり。どうせ家主のとこに行っても逃げられるってとこなんだから」
「え、なんで……」
「わかったかって? そんなもん、だっきお燐に聞いたに決まってるじゃないか」
「聞いたというより、愚痴よね。愚痴られるぐらい、仲が認められてるのよ貴方達……まったく、妬ましいわ」

 未だリンゴのような顔で混乱状態から戻らない空を座らせながら問うた縁に、勇儀はいつも通り“れいがい”とよく分からない銘が打たれた一升瓶から器に注ぎながら答え、パルスィはお猪口を口に運びながら便乗してきた。
 実際、この宴には縁や空、話題に上がった古明地さとりや火焔猫燐も含む地霊殿の面子も参加している。しかしさとりからは「私がその雰囲気に慣れるまで接近禁物」と非常に真面目な声音で念押しされ、燐に至ってはどこか自棄糞気味にあの黒いカレーに挑み再起不能寸前な悲鳴を上げてダウンしていた。

「愚痴って……そこまで、こう、それっぽいことはしてないつもりなんだけどなぁ」
「自覚ないの? そんな無頓着だと、また昨日みたいにキスするわよ」
「なんでそこでキスになるんだよ!? つーかお前決闘までの“人間なんて大嫌いってーか他の奴なんて近づくな”的なオーラはどこいった!?」
「貴方に殴り飛ばされて湖底に沈んだわよ。代わりに好意が入ったけど」

 不意の告白に吹き出す縁。面白くなった、と突然追加された酒のツマミに顔を破顔させる勇儀と例のごとく妬ましい、と呟きながら顔をニヤつかせるパルスィ。逃げ場所を誤った。みとりとパルスィがいる以上、勇儀がいてもこういう会話はないと踏んでいた縁だったが、己の浅慮を悔いるしかなかった。
 
「……にゅ?! ダメェェェェ!!」

 そして縁が逃げの思考に陥ろうとした時、その左手を取ったままだった空が正気に戻り、同時に大声を上げて縁の頭を胸元に抱き寄せた。

「むぐっ?!」
「縁は、私の恋人なの! 勝手にキスとか、エッチなのはしちゃダメ! 全部私がするんだから!!」

 おお、と予想もしないところからの反撃に感嘆の息を漏らす野次馬化した鬼と橋姫。その二人を視界の端に収めながらも、縁は豊満な胸に口と息を抑えこまれ、呼吸がまったくできなかった。普遍的ながらも至高とも言える男性の夢の中に抱かれながらも、とりあえず生存欲求を果たすべく、無理やり腕を解こうとするが、しかしこういう時に限って完治した妖怪と治療中の人間の力の差で抵抗ができなかった。
 決して、胸の弾力と匂いと柔らかさに負けたわけではない。

「……はぁ、半分冗談だから、早く離してあげなさい」
「そ、そう……って、半分っ!?」
「むごがっ」

 聞き捨てならない言葉に、更に腕に力を込める空。より一層押し付ける女性の諸々と、それを上回る息苦しさに、縁はギブアップと義手で床を叩くが、しかし空はみとりを涙目できっと睨みつけて気づかず、主犯は面白半分に黙したままだ。そして、人間が例えどんな天国な環境でいようと、満足な呼吸をするのを止められればどうなるのか、というのを知っている縁は、だんだんと義手を動かす気力もなくなっていき、最後にはぶらんと意識を母性の暴力に放り投げた。

「お、気絶したね」
「え? え、縁~~~っ」

 涙目のまま縁の肩をがくがくと揺さぶる空。そんな二人を、勇儀とパルスィは喜劇を見るように笑い、みとりもまた、してやったりとはにかんだ。その笑顔を見せるみとりの姿は、旧都に住むただの妖怪のようであった。




「はふぅ、一休み一休み」

 西区の家の屋根の上。たらこのように腫れた唇になった燐がその縁(ふち)へと座り込んだ。祝いの席の始めからハジケすぎたせいで、すっかり疲れと酔いがまわってしまっていた。こうなると、いくら旧地獄の妖怪といえど休憩が必要になる。

「まぁおかげで、おくうたちに顔合わせずにすんだけどさぁ」
「お疲れね、お燐」

 背後からの聞き慣れた声に、ピンっと二股の尻尾を逆立て、そろりと振り返る。燐の飼い主である古明地さとりが、右手に徳利を揺らし、顔を仄かな酒の赤に染めていた。さとり様、と燐が一声するまもなく、すとんと隣りに座ってしまった。
 聞かれただろうか、と思ったが、そう考えること自体が無駄だと気づいた。何故なら自分の主は覚妖怪なのだから。

「あのーさとり様、今のは聞かなかったことに……」
「『親友の恋人に失恋して、ちゃんと付き合いだした二人を見るがまだ辛い』『そういうのを見てると、つい暴力的な行為で誤魔化してしまう』ですか、お燐は乙女なんですね」
「だ~か~ら~」
「そういうお燐を知ることができて、ペットの主として私は嬉しいですよ。これも、いい影響だと思います」

 まぁ私は別の理由で無理ですけど。そう茶化すように言葉を切ったさとりに、燐はようやく気づいた。
 地霊殿の主、いや覚妖怪がこのような場所に来ることは今までなかった。何故ならば心を自動的に読んでしまうために、祭りという状況が生み出す"身内の喧噪"と呼べるものが一気に溢れかえり、気を失いそうになってしまうからだ。そうでなくても、心を読む覚妖怪が場にいるだけで顔をしかめるものも多い。結果、互いにとって不愉快な思いしかないのだ。だからこそ、さとりはこういう場面に呼ばれることがあっても、努めて関わろうとはしなかったはずだ。
 だが、あの人間/中邦縁が来てからは違った。何かと問題を起こすかの青年のせいで燐だけでなくさとりも街に出ることが増え、地霊殿の中限定とはいえささやかなパーティも開かれた。そして今は、勇儀や他の妖怪にも誘われてここにいる。古明地さとりは大声を上げて騒ぐのは得意ではなかったはずだし、なにより心の声をそのままに先に口にしているのに、いい雰囲気のままだ。むしろ今は、僅かにだが、気分が浮ついてる。

「これも、あのバカ邦の影響よね……」
「ええ」

 微笑むさとりが、徳利を差し出してきた。それを受け取り、器に満ちた焼酎で喉を焦がし、ふぅと一息つく。
 思えば、縁を地霊殿に置いた理由がいつの間にかなくなっていた。そもそも最初はさとりの妹の精神安定のため、おまけに気狂いになった時の贄のつもりだった、らしい。だがむしろその状態の相手を鎮め、今までよりずっと安定した状態にしてくれた。更には旧都と地霊殿の中を縮め、地霊殿そのものを明るくしてくれている。トドメに、地霊殿に住む妖怪の一人、自らの親友と恋仲になってしまった。ついでにいえば、いつの間にか自分の心も盗まれていたが、勝手にポイされた。
 自分で最後に思い浮かんだことにむかむかしたが、今では彼が地霊殿にいることが当たり前のようになってしまっていることに改めて気付かされた。ついこの間まで、事情があったとはいえ不在だった時の暗い雰囲気がその証だ。
 
「そうね……私自身も、それが当然のように思ってるのね……けど、あれはもう少し抑えて欲しいわ」

 燐の心を読んださとりがそれに続け、わずかに顔をしかめる。恋仲となった空との関係は認める。だけどその甘ったるい空気はいつまで経っても慣れる気がしないので抑えてほしい。きっちり言葉にもしているその思いに、さとりも燐も力なく笑う。くだらないことだけど、どうしようもないものはどうしようもないのだから。

「あ、お姉ちゃんにお燐」
「あら、こいし?」
「こいし様?」

 後ろから声をかけられ、ちらりと覗く。つくね串を頬張る妹の古明地こいしがおおびっくり、と口にしながら微笑みながらさとりの隣に座った。

「二人ともどうしたの? あ、さては緑色したいい妖怪に追いかけられて疲れちゃったの?」
「疲れたのは確かですけどそんな知りませんよ?!」
「というより……そういうの、いたかしら?」
「ん~てきと~」

 屈託なく笑い、つくねを噛るこいし。無意識がデフォルトな変種覚妖怪の相変わらずな調子についつい脱力してしまうお燐とさとり。

「まったく、貴女は……カドルたちはいいの?」
「あの子達ならカレー屋さんの所で『食べきれたら私のドミナントをお見せするわ!』って言ってた鵺にほいほい誘われて、お燐が食べたのの二倍ぐらい大きいカレー食べてたよー」

 ペットの無謀な挑戦に対し止めもしない飼い主の鏡のセリフに、お燐は内心ご愁傷様という哀れみと、骨は拾ってあげるわという同じ食べ物のような何かに挑んだ同僚に対しての情けを吐露した。さとりも同じ感情を抱いているのか、呆れた顔をしてため息を吐いている。

「そういうお姉ちゃんだって、どうしてこんなとこに?」
「私はこういう所に慣れきってないから、ちょっと休憩しているの。お燐は別の理由で休憩中」
「そっか、うん。お燐もおんなじなんだ」

 そういって、串に残った最後の一口を飲み込むこいし。アタイと同じ、という言葉に違和感を抱いて、驚き顔のさとり越しに彼女を見た。別段、変わった調子はない。いつものように何を考えているかわからに表情、串のタレがこぼれて多少汚れた袖、薄っすらと目を開き、体を取り巻く第三の目。

「あ……」
「こいし、やっぱり貴女……」

 そこまで目で追って、ようやく気づいた。第三の目が僅かなりとも開いている。それは、中國縁が古明地こいしを鎮めてから時々見ることがあった現象であり、同時にそれが意味することは、本来の覚妖怪の力である”心を読む”能力がこいしの中に戻りつつあるということだ。もし、こいしがその力を使ったのであれば、今の言葉の意味もわかる。さとりではなく、お燐。つまりは人間に恋敗れた故の傷心の心理。

「そうだよ、お姉ちゃん。わたしね、ほんのちょっと"目"、開いてきたんだ……だからね、わかっちゃうの」

 こいしが、二人に向き直る。赤い晴れが見える目元に笑みを作って。

「二人の……ううん、縁ちゃんの心の中には、入れないんだって」

 けどね、とその笑みを見ただけで胸が締め付けられるような思いをしている燐を他所に、こいしは言葉を連ねる。

「それでもまだ、わたしの中には"熱"が残ってるの……縁ちゃんを、好きでいたい。縁ちゃんの中の、一番になりたい……そういう、熱くて、けどほんのり甘くて、苦い”熱”……おくうには大丈夫って言ったはずなんだけど、全然消えてくれないの」

 心の妖怪なのに、ダメダメだよね。もう一度笑顔を作るこいしに、お燐を先ほどまで苦しめていた酒や疲れというものが急速に消えていき、代わりに何かよくわからない熱いものが手を震わせ始めた。

「正直、お燐やお姉ちゃんが羨ましいな。だってお燐はちゃんと振り切ってるし、お姉ちゃんは最初からわたし達を見守る側だし……わたしも、早くこれがなくなって……」
「そんなことありません!!」

 震え始めた声を遮るように立ち上がった。

「アタイの方が、ずっとずっと情けないです! おくうみたいに自覚できなかったし、こいし様みたいに強く強く想っていられないし! だ、だから、そんな風に、アタイや自分の恋心を否定しないでくださいっ!!」

 一息で叫んでから、自分自身にびっくりした。自分の主である二人のうちの一人に、責めるような物言いをしてしまったからだ。それも数ヶ月前までは、畏怖まで覚えていた相手に、だ。気恥ずかしさに顔を赤くしながら、これも全部あのバカ人間が悪い、とこの場にいずに話の中心となっている人物に責任転嫁する。
 そんなペットの姿を、三つの目でまじまじと見上げるこいしは、ぽかんと口を開けていた。

「お燐……」
「……情けないわね、私は」

 二人の話を聞き入っていたさとりが、そっと呟いた。

「お燐の気持ちも知っていた。こいしの想いも微笑ましくて、けどただ更正の手段でしかないと考えて、見ているだけだった。ただ傍観者を気取っていて、何もしなかった……こうして貴方達が心のままに感じ、言葉にしているのが、羨ましいと思うだけ。地霊殿の主で、そこに住む妖怪と怨霊の主といっても、こういう時どう声をかけていれば、わからないんだもの」
「さとり様……」
「けど、けどね、こいし」

 さとりが、微笑みを称えてこいしへ向き直る。その目には、お燐が見たことがない、だけれども過去の彼女を知るものならばわかる、姉の慈愛というものが宿っていた。

「私が羨ましいというその想いだからこそ、貴女には捨ててほしくないわ」
「お姉ちゃん……」
「だって、人に嫌われるしかなかった覚妖怪が、自覚して誰かに”恋”を想っていられる……それはすごいことなんだから。だから、大切にしてほしいの」

 そういって、さとりがこいしの手を握った。きっと、何の解決にもなっていないだろう。自分自身の言葉だってそうだ。この“想い”は、きっと個人個人が、何かに決着をつけたと思った時にしかなくならない。それまではずっと“熱”に苦しみ、翻弄されてしまうのだ。だけど、それはきっと悪いことじゃな。この”熱”の言いなりになるわけではないのだから。そのことはきっと、こいしも理解している。だからこそこの主は肯定されて、泣きそうになっていのだ。

「っ……ありがとう、お燐、お姉ちゃん」

 帽子のツバを深く被り、涙を隠すこいしを、お燐とさとりは、ただ見守ることにした。眼下の騒ぎと、再び降り始めた牡丹雪のおかげで、二人の耳元には、一人の恋する少女のすするような泣き声は聞こえてこなかった。





「さて……そろそろ、聞きたかったことを、聞こうかしら」

 汚れた布越しに雪が降り落ち、宴の嬌声がだんだんと静かになっていく掘っ立て小屋の中で、気絶した縁を膝に寝かせた空を器を持ったままのパルスィが指差した。

「うにゅ、私に?」
「ええ」

 空を指した指先は、そのまま気絶の際の息苦しさとは程遠い穏やかな寝顔をした縁の胸元にすっと落ちた。だが、パルスィの目は、空の顔を真正面から見据えたままだ。

「貴女、こいつが外の人間だけど、こいつが外に行くといったら、どうするの?」
「? ついていくけど」

 さも当然と言わんばかりの返答に、ぶっ、と鬼と赤河童が吹き出した。

「そんなことだろうと思ったわ。こら勇儀、笑わない」
「だってよパルスィ、こいつ即答じゃないか!」

 実に愉快だと笑い始めた勇儀に、そんなに変なことかと縁の額を撫でながら小首を傾げる空。その様子を見て、こんな常識も知らないのかとパルスィは呆れたが、もしかしたらそうは思えないような様な環境が身近にあるのか、はたまたただの鳥頭だからか、と考えつつ、それを教えることにした。

「いい? 旧都の妖怪はね、地上を行き来してはいけないの。これはわたしたちがここに住み始めてからずっと続く、地上と旧地獄との盟約なの」
「え? ええっ、そうなのっ?! け、けど、だったらフレッチャーとか……」
「もちろん、例外はいるわ。そもそも幻想郷の地上ではなく”外の世界”に直接行けるもの。地上にいっていること、いえそもそもいることすら認識されないもの。そこの一本角みたいな特権的に許されてるやつ……最後に、盟約には含まれていない“人間”」
「……それって」

 声が掠れ、言葉のひとつひとつを受け入れるたびに、今までふわふわしていた感情が、まるで重石を括りつけられたように沈み始めた。自分は、フレッチャーのように“外の世界”に直接いけない。こいしのように無意識を操り認識されずに過ごすことはできない。鬼や、地霊殿の主という立場にあるさとりのような立場ではない。“間”である縁とともに、彼が行こうとした地上に出ることができない。当然だと思っていた、前提条件が崩れてしまった。
 少し涙ぐみそうになった。縁の額に置いていた手を、無自覚に握りしめた。どうすればこの人と一緒にいられるだろうと考えて、か細い知恵から、妙案のような苦し紛れが、喉を震わせた。

「そ、それなら……私、神様になるもん!」
「ちょっと待ちなさいどこからその発想がでてきたの。あと勇儀、うるさい」

 不意の発言に笑い転げる勇儀を一蹴して、パルスィが先よりも柔らかい眼差しとなって、空のトンデモ発言への疑問を口にした。その目の柔らかさには、呆れよりも可哀想な子を見る哀れみの色のほうが強かった。だがそれに負けずか、それとも気づかずか、鳥頭の奥に忘れられた過去の記憶を苦しげに唸りながらも口にした。

「えーとね……妖怪って人の恐怖心とか心の負の部分を食べてるけど、神様だと人の信仰心とみたいな正の感情を食べるって聞いたことあるの。だったら、神様と同じ信仰心みたいなのを食べ続けたら、神様になれると思うの。それに神様になれば、勇儀様みたいに地上に出てもいい立場になれると思って……」

 空のたどたどしい理論に、意外と勘はいいのかもしれない、と感心するパルスィ。神になる、という着眼点は悪く無いからだ。
 実を言えば、大概の”神”と呼ばれる存在の誕生理由というのは空の言うとおりだからだ。例を上げれば、地上に未だ住む厄の神や、表で新カレーの猛威を振るうカレー屋の友人である新人毘沙門天こそが空の言う、信仰心によって神として誕生/変化した存在だ。そしてこの理屈で言えば、信仰心さえ集めることができれば、雑多な妖怪変化、すなわち旧地獄で死体を焼くことしかできない地獄鴉の空でも、”神様”になれるのだ。
 だが、空の考えには決定的に欠けていることがある。

「で、その信仰心っていうのはどうやって手に入れるの?」

 一度吹き出してから黙りこみ、聞き手となっていたみとりがその事実を指摘した。それに空は、再びうーんと唸ると、表情をきりりと整えて答えた。

「これから考える!」
「……はぁ、ああそう。一応言っておくけど、神様だからって地上に行けるとは限らないわよ」
「うにゅ?! そうなの?!」
「ええ。そうよね勇儀さん、パルスィさん」

 流し目で、自ら言ったことを、ようやく落ち着いてきた旧都のまとめ役と、口直しと三度酒に口をつける“地獄の深道”の番人へと確認する。

「えー、わたしは別にいいけどなぁ」

 だが、あまりにも呑気で気の抜ける勇儀の返答に、当事者二人は仲良くズッコけ、パルスィははぁっと、ため息を着いて頭を抑えた。

「少しは真面目に答えてあげなさい。それに、鬼がそう軽く言ったらダメでしょ、立場を考えなさいよ」

 じろりと睨め付けるパルスィに、一升瓶から酒をどばどばと酒坏に満たしながら、不敵な笑みで答えた。

「いいんだよ。惚れた男に着いていくために自分の存在すら変えるっていうんだからね。鬼の女はこういう泣かせる話に弱いのさ」
「かといって、地上の賢者たちが黙ってるとは思えないけど?」
「さぁ、何分あっちだって女だからねぇ。共感してOK出してくれるんじゃないか?」
「楽観視しすぎよ、勇儀。そういうのは妬ましくなるから止めてほしいんだけど」
「橋姫だからってお前が心配性すぎなんだよパルスィ。それにこれが問題になっても、こういう男女の好いた惚れたのイザコザってのは、いつだって何かを変化させる切っ掛けになるんだから、ちょうどいいだろ?」

 むぅ、とパルスィが黙りこみ、いかにも「勝った」と言いたげな顔で酒を煽る勇儀。みとりは面白くなさ気に顔をしかめ、空は今の会話からどういう答えが出されたのかを思考し、あっ、と答えを導き出した。

「つまり私、神様になってもいいだよね!?」
「ま~ねっ。ま、信仰心を集められたらって話だけどね。そっちについちゃ、私はな~んも言わん」

 それに、と勇儀は付け加えた。

「あんたが女の武器でこのたぬき寝入りしてる坊主をここに留まらせるって選択肢もあるけどね」

 勇儀が空の膝に上にある縁に視線を落とすと、その頭がぴくり、と動いた。えっ、と空が疑問符を出す間もなく、縁の両目がゆっくりと開かれた。

「あー……気づかれてたか。いつからだ?」
「あんたが起きた時だから、空が神様宣言した時だよ。自慢の彼女の寝心地はどうだった?」
「このまま一日中寝てたかった……って、そういうこと言ってる状況じゃねぇよなぁ」

 よっこいせ、と縁の上半身が持ち上がる。そして一度目を丸くした空の顔を見ると、その濡羽色の頭にぽんと左手を乗せ、わしわしと撫でられた。

「んにゅっ、縁?」
「……空、俺さ、やっぱ一度外の……“元の世界”に戻ろうと思うんだ。それでさ……」

 お前には、ここで待っていて欲しい。
 そう、真剣な目を告げた。



 あとがき
 
 お久しぶりの方はお久しぶり。初めての方は初めまして。へたれっぽいGです。あまりに久々の投稿なので忘れ去れていると思いますが、当時このSSを見ていた方がまだ黒い鳥候補のように生き残っていてくれていると幸いです。
 それと久々なのでもじけえ!です。文章力も低下しています。次もこんな調子ですが、どうかよろしくお願いいたします。



[7713] 第三十四話――隊長<何をしに現れた、ここはただのレイヴンが来ていい場所ではない
Name: へたれっぽいG◆eaa9c481 ID:0268cc84
Date: 2014/09/05 01:43
 決めていたことだった。

「……帰る、の?」
「ああ」

 こんな顔をされるのは、予想がついていた。

「すぐ戻ってくるの?」
「……わかんねえ」

 覚悟していたから、何とか許してもらおうと、彼女の目を見つめていた。

「……私、ついてっちゃ、ダメなの?」
「……ああ」

 それでも、辛かった。
 牡丹雪の影がうっすらと見えるテントの中、目の前の少女が自分の言い放った言葉を租借し、何とか飲み込めるよう問いただし、そしてそのたび肯定され、目に見えて意気消沈していくのが自らのことのようにわかった。ぐるぐる巻にされた包帯の中、まともな節電伝達ができていないはずの義手が、無意識に軋みを上げて握りしめられた。
 思えば、濃密な数ヶ月だった。あまりに濃すぎて、最初から此処に住んでいるような錯覚すら覚えたことがある。それでも時折見る元の世界の夢が、縁が違う場所の住人であることを思い出させてくれた。上を見上げるたびに、大地の天蓋にぽっかり空いた空洞が地上と元の世界への思いをざわつかせた。
 そして、そうしなければいけない理由もあった。
 左手で握った彼女の柔らかな手が不自然に強張るのがわかる。目尻にじわりと涙が溜まっていくのがわかる。許されないかもしれないが、その雫を左手で掬おうとした。だが、強烈な音によって、空にのみ向いていた意識が引き戻された。音の発生源へと振り返ると、目の据わったみとりが、手に持った器を壊したままの姿勢で、ぎらりと縁を睨み付けていた。

「……最初に確認するわ。戻ってくるのね?」
「当然だ。必ず戻ってくる」

 即答。同時に、空の目尻から雫を掬い取り、そのまま腕を取り胸元まで抱き寄せた。
 ちゃんと戻ってくる。それだけは確かだ。この場に契約とか約束の神がいても、断言できる。腕と、それから接触する胸元から届く空の心音が、今の言葉を間違えようのないものとする。

「どうし……」
「縁、どうして私、いっしょにいっちゃダメなの?」

 みとりの声を遮り、抱きしめられた空自らが、縁の目を見上げて疑問を口にした。先ほどまで穏やかな雰囲気のままだった勇儀とパルスィもまた、目を笑わすことなく、縁と空を見つめてくる。
 ふぅ、と一息つき、空の身体を開放して、代わりにまた手を握った。それに対し、空は視線をそのままに縁の手を握り返してくれた。そのことが、こんな状況なのに、たまらなく嬉しくなり、奇声でも出したい気分になった。だけども、今は身内に燻るものを、自分自身でさえ形として捉えきれていないものを言葉にすべく、ゆっくりと口を開いた。

「……理屈、じゃあんまいえないけどさ……夢を叶えるためだ」
「夢?」
「ああ」

 フレッチャーに導かれ彷徨ったあの死と隣接した闇の中。そこで再び出会えた親友と初恋の二人。未だ思い出せぬふたつの人影。そこから見つけ出した”熱”のようなもの。あの二人を忘れていたこと、自身の過去に何かがあって思い出せない大切な人たちのこと、受け取った”熱”、その全てに決着をつけるためには、どうしても”元の世界”に戻る必要があるのだ。
 もしも理由がこれだけだったら、空にもついてきて欲しかったと、心中自答する。だが、あの中で受け取り、見つけたのは、それだけではなかった。もしそれを言葉にするならば、今はまだ”夢”などという曖昧な単語にしか形容できなかった。

「……あるやつが、もし長く生きれたら、旧い歴史を探そうって言った。ある人は、何度も何度も記憶をなくして、そのたびに新しく記憶を埋めていった……このふたつに共通してるのって、何だと思う?」
「ん~~……わかんない」
「だよなぁ。ぶっちゃけると言ってる俺もよくわかんねぇ」
「なによそれ」

 険しい表情はそのままだが聞きの態勢になっていたみとりからついツッコミが入った。だよなぁ、とまた力の抜けた笑いを返し、言葉を続ける。

「俺はさ、その二人が俺に残してくれたのはそのよくわかんないものが、ミームとか、そういうんじゃなくて、もっと根源的な……”願い”や”思い”だと感じたんだ」
「ふ……ん、それまた、妬ましいくらいにピュアね」

 呆れたようなパルスィの呟きに、そういうもんか、と疑問符を浮かべながらも、徐々に燃え出した”熱”のままに、声をだす。

「きっと、それはさっき空が言ってた”神様になる方法”にも通じてるんだと思う。誰かの願いとか思いを、別の誰かに繋げて、継いでいく。忘れることもあるけど、誰かが書き留めたり、置き忘れたものの中から、そういうのは何度でも蘇る。勘違いされたり、ネジ曲がったりすることもあるけど、奥底にあるものだけは変わらない……幻想郷は、忘れ去られたものたちの楽園だけど、きっといつか、誰かが振り返って思い出すこともある。いつか幻想郷のみんなが”外”のことも忘れてしまうことがある。俺は、もしそうなった時に、何とか思いださせるような機会や、ものを残したり、探したりしたいんだ」

 そこまで言い終えると、僅かな疲労と確信が体に染み渡った。自分の中にあったものが、誰かに、声を上げて伝えることで、初めて形を見せてくれた。そしてそれは、言っている縁本人が、自分自身にひとまず納得ができるものだった。青写真にも満たない願望だが、それでも今、他者へ、そしてそれを伝えるべき大切な相手に言うことができたのだから。
 一人の少年のちっぽけな願いに対し他の三人が黙り込んだ中、呆れと賞賛と、ほんの僅かな慈しみと羨望を混ぜた顔を肘机に乗せた勇儀が口を開いた。

「は~~……ま、わかりにくい目標というか夢だけど、それならなんでまたその子を連れてってやらないんだい? 違う種族っていう絶好の存在じゃないか」

 勇儀のもっともな指摘に、乾いた笑いが出そうになった縁だったが、それに対しても答えはするりと出てくれた。

「最初はさ、自分ひとりだけでやってみたいんだ。自分自身の目で、まずどうなってるか知って、感じて、受け止めたい。そこでまた仲間や敵を作ったりすることもある。何もかもなくして、一人で倒れるかもしんない。けど、ここで空が……俺の中にいる空と、今ここにいるお前の存在が、きっと最後の時には、体を動かす力になる。お前のとこに帰るんだって。だから……今は、待っててほしい」

 語りの途中から、空の顔だけを見据えるようにして、言い切った。ここまで啖呵を切っておいて、我ながらなんとも独善的で、ひどい考え方だと思った。おまけに嘘偽りはないのだから、余計にたちが悪い。
 もし、空が受け入れてくれなかったらどうしよう。先程からポカンとした表情の空に、急にそんな不安が心中に立ち込めた。最悪、付き合い始めて二日目にして破局となってしまうかもしれない。嫌な汗が出そうになり、妙に大きなツバが口内に溜まった。
 
「え、え~と、う、うつほ……」
「……認めない」

 あらぬ方向から聞こえた言葉には押し込められた怒気が込められ、縁の喉で引っかかっていた声を締め付け、引っ込めてしまった。同時に、やっぱりな、と自身の答えに対して真っ先にそう言うだろうと予想していた一人に怖気付くことなく振り返った。眉をひそめたみとりが、ゆっくりと立ち上がり、身勝手な青年を見下ろした。

「なぁにが、自分ひとりだけで、よ。そんなの、男が現地妻をやり逃げする時の言い訳じゃない。結局あんたも、バカな妖怪を都合のいい女と思って切り捨てようって腹なのね」
「っ! ……そう、聞こえるかもな。けどな……それでも俺は、戻ってくるって言ってやる」

 みとりの言い分に怒りが腹の奥からぐわっと湧き上がりかけ、それを異音を鳴らす義手を握りしめることで抑えつけた。半人半妖で、それ故に両親の諍いと崩壊を見ていたみとりが縁の自分勝手な理屈を認められず、罵声をぶつけてくるのはわかる。それでも、今はただ、当事者である自分は、未来にたいして不確かな約束を口にすることしかできないのだ。
 そしてそれを本心だと証明するのは、より強く言葉を重ねるか、拳を交えるか、はたまたただ、信じてもらうしかない。

「そう、なら……」

 するり、とみとりが腰を上げた。半ば予想通りとはいえ、戦いは避けられそうになかった。
 そう、そこまでは考えていた。

それを証明んぶっ?!」
「はーいみとり、落ち着けって」

 包帯だらけの体から妖気を滾らせ始めたみとりを、いつの間にかその背後まで移動していた勇儀が、ほんのりと赤いその口に”あれさ”と書かれた一升瓶をねじ込むことで止めてしまった。そればかりか、みとりの後頭部を押さえ込んだ上で瓶を逆さにし呑ませるどころか流し込んですらいる。あっちの世界でやったらパワハラやアル中で訴えられるな、と突然のことについ明後日の方向へ思考が飛んでしまった縁だったが、みとりの顔が首からその髪のように赤くなっていくのを見て、慌てて止めにかかった。

「ちょ、ちょっと勇儀、さすがにストップだストップ! みとりがやばい!」
「二千万……五千万……一億……!」
「って、もう全部飲んじまってんじゃねぇか!?」

 時既に遅し、と言わんばかりに引きぬかれた一升瓶には既に液体が残っていなかった。そしてひっく、と声を鳴らしたみとりの目は、先ほどとは別の意味で坐っていた。こう、猛烈に嫌な予感がする。シリアスな空気が急速に失せていく中、先程までとは別の意味で汗を流しそうになっていた縁の鼻先に、顔を同様赤くなったみとりの指先がぴしりと突きつけられた。

「表にでて、しょーぶなさい! そしてしょーめいなさい! あなたのあいがほんものなのかを! ついでにわたしがかったらぎしゅとDTをもらいうける!!」
「落ちついてねーじゃねーかぁぁ!!」
「あっはっは、めんごめんご」
「まったく、この鬼は……」

 悪びれずに笑う勇儀に、肩をすくめ呆れるパルスィ。助けるのない二人を他所に縁は顔を真赤に染めたみとりに引きずられ、外へと運ばれていくのだった。そして未だに目をまんまるとしたまま縁の手を繋ぐ空も、ずりずりと雪の降る祭り会場に連れていかれるのだった。



 第三十四話『世界は○○に落ちている』



 どうしてこうなった、と縁は顔を引きつらせた。

「さぁ、本日のびっくりどっきり突発メインイベント! 『女をやり逃げして地上に逃げるヤリチンくそ野郎とその共犯者を雪まみれにしてやろう雪合戦』だぁぁぁ! 実況はわたくし、地底のアイドルこと黒谷ヤマメと!」
「当事者煽った張本人こと星熊勇儀で送らせてもらうよ!!」

 今、縁たちは先ほどの宴会会場に戻ってきていた。だがそこには先とは違い、短時間に降ったとは思えないほどの降雪と、うず高く積もりあげられた雪の柱で四方を決められたフィールド/競技場が出来上がっていた。フィールド内には雪で固めて出来た長方形のブロックの大小がランダムに並べられており、縁の知る雪合戦の公式戦に似た環境となっていた。競技場の中央にはご丁寧に場を二分する一本線が引かれており、それを挟んで対峙する形で、縁を含む複数人が並んでいた。
 正面を見れば、いつの間にか手を離していた、ボーっと顔のままの空。右隣には酔いが更に回ってふらついているみとり。左隣には組んだ両手をべきりと鳴らす燐が仁王立ちしていた。
 振り返って自分の両隣を見れば、したり顔の十一と、いつもの桶から出て、俯いたまま雪球を黙々と作るキスメがいる。頭を抱えたくなる状況に、十一が何も言わず肩を叩いてくれた。それに対してつい加減の効かない右手で殴り返しながら、競技場の外、実況席と掘られた大きなかまくらの中にいる三人、というよりも主犯である勇儀とパルスィをびしりと指差す。

「くぉらそこの犯人っ、お前らが出てこいや!! つーかこっちは両手使えないっつーの!! あと俺はまだ童貞だっ!!!」
「いいじゃないか、ハンデはあげるんだし。それにまたみとりとマジメに弾幕決闘ヤるよりは、こういう子供のお遊びのが互いに後腐れないだろ。何より、ただの癇癪で酒の味を濁されちゃ溜まったもんじゃないからねぇ」

 なんとも自分本位な答えが勇儀から戻ってきたが、縁としても、正直助かったところがあった。自分の体はまだ完治とは言いがたく、両手の状態も、まず左手はある程度動くがそのたびに痛みが走り、右腕については”元の世界”から持ってきてバッグに放り込んでいた簡単な道具と此方の布やらで多少の補強をしただけの半壊状態。もしいつもの通り弾幕ごっことなれば、一方的にやられるだけだ。
 それならば確かに、誰も傷つかない雪合戦のような遊びでケリをつけることができるなら一番だ。だがひとつ気に食わないところがあるとすれば、態々みとりを強引に酔わせて、朦朧とさせてしまったことだ。

「けどなぁ……」
「言っとくけど……そこの子が貴方に噛み付いたのは、ただの嫉妬よ。だから貴方が考えてるような小難しい話じゃないのよ」
「嫉妬?」
「気づいてるでしょ? みとりはただ貴方と霊烏路空の間柄が羨ましいだけよ。そんな私のお株を奪うようなのは、酔った勢いの若気の至りにしてさっさと発散させるに限るわ。ああ、妬ましい」

 勇儀の後ろで競技場の光景を肴にちびちびと酒を飲むパルスィの言葉に、声を詰まらせた。みとりがこの地底に来るまでの事情は既に聞き及んでいる。それ故に、先ほどの話を聞かれれば、反発されることも覚悟していた。受け止めようとも考えていた。だがまさかこのような形になってしまうことだけが予想外だったので、納得しきれないだけだ。

「いいんだよ。どうせみとりだって、本心じゃお前たちのことを認めてるよ。だから癇癪だって言ったろう? 納得できないんだったら、みとりを見てみればいい」

 勇儀に言われ、みとり、というより正面にいる三人の方へと振り返る。

「……」

 そこには、まず自分の手のひらを胸にあてて目を瞑る空と。

「ぶっこーろすーぶっこーろすー、なかぐには~ぜんめつだ~」

 不穏なことを歌い、雪球を握ったままシャドーボクシングを行う燐と。

「あっはっは、にんげんがたくふぁんいる~~わたしもさ~んにんいる~あはははは」

 先日の威厳や恐怖など因果地平の彼方に放り出し、すっかり出来上がった河城みとりがいた。

「なにもかもメチャクチャじゃねーか!? つかなんでお燐だけんな殺意高いんだよ?!」

 もはや正気とは言いがたいみとりではなく、つい此方に殺意の波動をぶつけてくる燐に対してツッコミを入れてしまった。かまくらの中で勇儀とパルスィが腹を抱えて笑っているが、今は無視するしかなかった。

「なんでですって?! よくも聞いてくれたわねこのポエム波発生装置!! あんたがさっき出したポエム波のせいでさとり様が爆発しちゃったのよ!!」
「なんだそれわけわからんぞ!?」
「突然だったわ……アタイとさとり様、それにこいし様と一緒に飲んでた時、突然苦しみだしたの。『クサ……甘クサイ……おくうへの想いや決心からくるあついパトスが私の目を……』そしたらこいし様が『大変、お姉ちゃんは中枢部をやられたんだ。このままではきっと爆発しちゃうよ!』なんて言って、アタイを逃してくれたの。その後、聞こえてきた『ほあああああぁぁぁぁ』という叫びと爆発音を、忘れられないわ……」

 明後日の方向を見て、その目尻に涙を貯める燐。それを見てみとりとヤマメが「カワイソウダナー」とほろりともらい泣きしていた。縁は自身の頬が引きつるのをわかった。燐のいうことが事実ならば、今自分自身でも思い返して恥ずかしい宣言と現状の原因を、さとりはダイレクトに聞いていたのと同じなのだ。そのことに対する身をかきむしりたくなるような恥ずかしさもあるが、何よりも縁の視線の端で、目を回したさとりを括りつけた大旗を目一杯振り回しこちらを応援するこいしの姿が見えたことが、燐の可笑しさに奇妙なシュールさを付与していた。

「そ、そうか……あとお燐、一応聞いとくけど……もしかして酔ってるか?」
「酔って、ないっ!!」
「そ~よ、酔ってないわよわたしたちあ~~はっはっ! 盛り上がってきとぁぁぁぁぁ!!!

 そう叫ぶ燐の目は、よく見れば鳴門のようにぐるぐると回っていた。縁は知らないが、彼女は焼きつくされた舌の口直しと、傷心している主人の一人のために、いつもより多くの酒をかっくらっていた。それが今、縁に対する怒りと想いが発散される場を提供されたことで、一気に回ってきたのだ。
 そしてそれに同調し、勝手に盛り上がるみとりもまた、もはや癇癪とか嫉妬とかそういう言葉を超えた領域に足を踏み入れていた。一言で言えば、ただの質の悪い酔っ払いだった。
 それを見て、縁はただ一言、心中で呟いた。あかん、と。

「いや~、実にやばい状況だなぁ縁」
「つか、何しれっとお前が参加してんだよ十一」
「な~に、ただの数合わせだよ。それに何より、面白そうだからな」

 ぎろり、とワンパンチで沈めたはずの十一が肩にのしかかってくるのをひと睨みにして、一言。

「本音は?」
「死なない程度の修羅場で走り回るお前を賭けの元締めとして盛大に笑ぐほぉっ!?」
「碌なもんじゃねぇなこのクソ虎っ!」

 あまりにも碌でもないことを吐露した悪友の脛へローキックをかましてやった。ぴょんと跳ねた十一だったが、着地の際に積雪に足が埋まり、勢いのまま雪の中に倒れた。そのまま足を抱えて転がりだしたのを横目に、今度は先程から沈黙を保つ、この場に似つかわしくない小さな影/キスメに声をかける。

「あ~、キスメ、お前はどうして……」
「匹夫が……」
「えっ?」
「この雷電に削り合いを挑もうというのか……」
「誰だよ雷電って?! つかなんか普段と違いすぎねぇか?!」

 前言撤回、この場の誰よりもキスメは状況/混沌に適応していた。側頭部の両端で結った髪は逆立ち、体からは妖気や霊力とは違う謎のオーラが立ち上り、それが作る幻の像は、ガッチガチに堅めた鋼鉄の大型戦車(タンク)のようであった。様子がおかしいことには薄々気づいていたし、先ほど会った時には既にかなり酔いが回っていたのも知っていた。だが、それでもこれほどとは考えもつかなかった。

「いやー、酔ったキスメを更に酔わせたらどうなるかと思ってさー、ついやりすぎちゃった」
「原因お前か?!」

 実況こと犯人のヤマメが舌を出して悪びれなく謝るが、縁の中で彼女は”いつかはっ倒すランキング”の上位にランクインしするのは止められなかった。

「細かいことは気にしなーい。さて、各選手が挨拶を終えた所で、そろそろルール説明に入りましょう」
「よくねぇわっ?!」
「ルールは簡単! パンツ取られたら負け」
「しかも雪合戦関係ねぇ?!」
「だっはっは、いいねぇ。今度から地底限定ルールの弾幕ごっこもそれにするかい」
「んな怖いこと言うんじゃねぇ!?」

 唐突に始まってしまった本番までのカウントダウンと恐ろしい発言をする勇儀。縁は何とか抗議の声を上げるが両者共に華麗にスルー。そしてメインで喋るヤマメが縁の声に被せてかき消してしまうように、競技場を囲む大勢の魑魅魍魎/野次馬に向けて説明を続ける。

「それも負けの条件にして、とりあえず弾幕ごっこと同じ”まいった”と言わせるか、行動不能にすること。もしくは合計五発当たったらダメね! そして弾幕や妖気、霊気、能力の使用はなし! みんな雪球と身体能力で勝て!! ただーし、人間で両手でマスこきもできない少年は例外的に霊気で作るいつものでっかい手を使用してもよし!! もちろん攻撃防御は雪球オンリーだけどねっ」
「マスこきはよけーだっ!?」
「なお、会場の設営協力は『かれー屋キャプテン』とその仲間たちの提供でお送りさせていただいてまーす」
「無視すんなっつか宣伝っ?!」

 かまくらの上に、いえーいとノリのいい妖怪三人と、入道雲のような大きく白い霧のような妖怪が現れ、それぞれポーズをとった。その内の一人は、地底湖に行く際に出会ったあの封獣ぬえだ。カレー屋なんてやってたのか、と現実逃避的にそんなことを考えていると、何すんだ、と復活した十一に肩を掴まれた。

「さすがのオレでも今のはいてーぜ……それで縁ぃ、今のお気持ちはぁっ?」
「クッソ最悪だよ、流されるまま何かこういう形で気持ち証明しなきゃならないし……」
「ほ~ん。ま、オレ様はお前が何言ったかわかんねぇけど、いいんじゃねぇか? どうせキザに~アホなこと言ったんだろ?」

 ぐっ、と図星を刺されたように詰まってしまった。思い返せば、たしかにキザな行動と言葉だが、言ってることは端的に言えば、アホ、の一言で済むようなことなのだ。夢を語ろうが、愛を証明しようが、どれも自分のアホから出たことには変わらないだろう。
 
「ならアホは踊ってなんぼだろ? そして何より、ここにいるのもみんなアホさ。だからお前のことを認めてる奴も多いんだよ」
「……それ、極論すぎだろ」

 そう返したが、少しだけ楽になった。また変に拘って、意地ばかり張りそうになったのが、今ので程よく解れた。とりあえず実況席の三人は後でリベンジすることだけを確定して、いつもの巨大なエネルギーの手を顕現し、一つ、雪球を作った。それを見て、十一もにやりと笑った。

「いいじゃねぇか、みんな酒を飲んでるからなぁ。ほれ、お前の女も何か言いたそうだぞ?」

 言われて、黙りこんでていた空が目を開け、いつの間にか作った雪球を片手に持って、縁をすっと見据えていた。

「縁っ」
「なんだ」
「え~と、ど~してこうなったの?」
「そっからかよっ?!」
「えへへ、ごめん……けど、とりあえず二人と協力して、縁たちを倒せばいいんだよね? だったら、私が勝ったら、一つ、言うこと聞いてもらうね?」
「それって?」
「私が勝ったら教えるもん! 待っててあげる彼女を信じてよ」
「それ言われると、弱いんだけど……」
「うにゅへへへへ……」

 だらしなく、けど嬉しそうに空が笑う。けど次の瞬間には、隣の呑んだくれ二人とは違った引き締まった顔で、雪球を持った右手を突き出した。縁はそれに、不敵な笑顔で答えた。

「お~と、イチャイチャした二人によっていい感じに場が引き締まりましたぁ! 野次馬の中のひとり身共からも熱いブーイングが聞こえるぞぉ!」
「イチャイチャは余計だ!!」
「さぁ、程よく場も温まったところで……」

 縁の叫びと、顔をボンと真っ赤にした空を無視して、かまくらの屋根に移動したヤマメが雪合戦の開始を告げるべき、大きく腕を振り上げた。それに合わせるように、いつの間にかかまくらの周辺に複数の妖怪が等間隔で集まり、同じく手を掲げ、妖気の大玉を作り出していた。

「ひゃっはーよーあははははははは!」
「さぁ、腕がなるな縁ぁ!」
「正面からいかせてもらう、それしか能がない……」
「アタイの邪魔をする奴は、みんな雪だるまにしてやるわぁぁあああ!!」

 各々が、とはいっても一部を除き、準備万端だった。観客と化した百鬼夜行のボルテージも程よく高まり、その瞬間を待ち望んでいた。

「空……」
「……うにゅっ!? な、なに?」
「とりあえず、雪合戦楽しもうぜ」
「……うんっ!」
「メインシステム、戦闘モード起動! 雪合戦、開始ぃぃぃーーー!!!!」

 そして、戦いの火蓋が切って落とされ、地下に大輪の花火が上がった。

「「だぁぁぁぁいれいヴぅぅぅん!!!」」

 それと同時に、燐とみとりが動いた。酔っているとは思えないほど息の合った、否、酔っているからこそできる理不尽な連携によって足元に積み込んでいた雪球を掴み飛び上がると、一直線に縁へ向かい跳び上がった。その態勢から、燐は向かって左から、みとりは右から投擲。

「う~にゅっ!」

 さらに雪球を突き出した状態のままだった空が、それをそのまま大振りに投げた。フォームも何もあったものではないが、妖怪の力のおかげか、野球選手もかくやという豪速球となっていた。三面からの同時攻撃。咄嗟に屈んで回避しようとしがた、積雪に足を取られ、態勢が崩れた。そこに向けて、燐とみとりからの第二射が放たれる。直撃すれば気絶は必至。

「まずっ……」

 呟いた直後、縁に迫る五つの球が全て雪球に撃ち落とされた。慌てて背後を振り返ると、あの偉大なオーラを身にまとったキスメが、手の中で雪球を弄んでいた。その球が、次の瞬間、手首のスナップされると同時に、音を伴って放たれた。そして呆然としていた縁に迫る新たな雪球を、見事空中で迎撃した。

「撃ち負けはせんよ、当たるのであればな……」

 そのような男前のセリフを吐くキスメを見て、かっこいい、とつい心の中で呟いてしまった。すぐに自分が集中的に狙われている現状を察し、手近にあったブロックの影へと飛び込む。瞬間、そのブロックめがけて大量の球がぶつけられた。第三の手で球を作っては投げるが、焼け石に水だろう、と次の手を考えるべく、ちらりと自分を守る防壁の横から様子を伺った。

「縁ばっかに目ぇ向けてんじゃねぇぞ!」

 真っ先に見えたのは、間隙を縫い飛び出す十一。標的は手持ちの球が尽きたみとり。両手に持った雪球をアンダースローで投てき。その速度は左右の手で違い、左から放ったのは遅く、右からは速い。わかりやすいが、しかし酔っぱらい状態の相手には有効な牽制と本命だ。

「この前のリベンジだっ」
「まぁぁだ、まだ!」

 みとりはそれを深く身を屈むことで回避。同時に雪をひと掬い、一コンマで握ると、無駄にスタイリッシュに宙返りし、体の上下が逆さになった瞬間に反撃の一撃を見舞った。酔っぱらいとは思えぬ機敏な動きから放たれた球は、ふつくしい、などと世迷い事を呟いていた十一の顔に見事に直撃した。
 
「邪魔よ、消えなさいイレギュラー!」
「この雷電に削り合いを挑もうとは……豪気なことだ」

 一方、キスメと燐は弾幕ごっこもかくやという勢いで雪球の投げ合いを行っていた。正確に言えば、燐が乱雑に投げまくる雪球を、キスメが自信への直撃コースを読んで迎撃し、隙あらば狙うという状態だ。おかげで周囲への流れ弾も多く、こうしている間にもみとりと十一に当たり、縁の隠れるブロックを何度も叩いている。
 どうやってここから飛び出すか、と考えたところで、ひとつ気づいた。

「空がいない……まさか!?」
「えぇぇい!!」

 気づいた時には遅かった。別のブロックの影から飛び出した空が、両手に抱えた大量の雪球を一気に放ったのだ。咄嗟に反撃しながら、横へと飛ぶ。だが痛みと雪に足を取られ、二発の被弾。反撃の球は当たったが、同じようなダメージレースだと負けてしまうだろう。

「ひゃっはーにんげんだーー!」
「アタイハアンタヲムッコロス!

 加えて、みとりと燐は縁が視界に入れば、優先的に狙ってくるようだ。二人がそれぞれの相手からの球に被弾するのも構わず、縁をターゲットしたのがその証拠だ。

「はっ……上等ぉっ!」

 背後に敵となった恋人、左右に自分を優先的に狙ってくる絡み酒の妖怪二人。状況は開始時よりも悪い。だが、縁は腹を括ってその場に留まり、高々と第三の腕と、その手のひらの中に作った人の頭ほどの雪玉を掲げた。これは遊びなのだ。不利であろうとハンデを背負っていようと、全力で楽しまなければ損なのだ。
 だから、笑えるのだ。高揚した気分のまま、この異界でできた友人たちと戯れるのだ。共に遊ぶことに、種族もなにもないのだから。

「でぇぇえぇりゃああ!!」

 たとえ、これから先、どんなことがあろうとも。




 時間は、少し遡る。

「さってとっと!」

 冬の黄昏の中、すっかり暗くなった境内の中で、背の高い麦藁帽を被った少女が、身の丈ほどもある金輪を腕でぐるりと回し、灯篭の明かりが交差する箇所へと放り投げた。金輪は自然の摂理通り地面に落ちるということはなく、むしろ地面に垂直に浮遊し、放り投げられた勢いのまま自転を続けていた。数百年ぶりに行った、簡単すぎて殆ど忘れてしまっていた儀式の下準備が完了し、よし、と麦わら帽子の少女こと、守谷神社の真の主である洩矢諏訪子は胸を張った。

「まったく、ただのダウジングもどきだっていうのに、ここまで古臭い方法取らなくてもいいのに」

 諏訪子の後ろで腕を組んでいた、守矢神社の表の奉納神である八坂神奈子は旧友である神に呆れを零した。その神奈子の姿は、普段自室で外界から持ってきたプラモデルを組む時の砕けたものとは違い、神としての赤と紺を中心とした衣服と胸元の鏡の飾り、権能の象徴である巨大な注連縄を背負っていた。

「いいじゃない、神様が旧い地獄の亡者に太陽を授けに行く、なんて人間たちが書いたふっるい同人もどきなシチュエーションなんだから」
「あのー、現代っ子として日本書紀と古事記を神様にこき下ろされるのはちょっと……」

 神奈子の隣りで、同じく守谷神社の正装である風祝の衣装を纏った東風谷早苗が、自分のご先祖様兼肉親兼神様のはっちゃけた発言に苦笑いし、諏訪子曰く“ふっるい同人”の中で別の神様に敗れたことのある主神は、まさしくそうだ、と高笑いを上げた。

「いいのよ。人のこと好き勝手書いてくれたのなんてそれぐらいで」
「早苗もまだ堅いねぇ。もう少し、そうね……今までの常識を外れるぐらい、柔軟にならなきゃ」
「むぅ」

 ぷっくりと剥れる大事な家族の姿に、まだまだ子供だなぁ、と二柱は微笑んだ。その間に、周り続けていた金輪は自転を続けながらも、鏡に移されたかのように増殖を開始し、八つになったところで止まった。それは複数の円で構成された、更に巨大な輪であった。その大型の構成体は空中で横倒しになると音もなく地面へと落ち、そのままずぶりと沈んだ。
 諏訪子の行った術、それは神奈子の言うとおりダウジングに似た効果を発揮するものである。ただし探すものは、ある神と一体になるに相応しいものと、ある計画のための位置情報だ。そしてそれは、この幻想郷の遥か地下、旧地獄と呼ばれる場所を指し、同時にそこへと到るエレベーターの役割を果たすのだ。とはいえ、この術の規模と範囲は予想以上に広いことと、行く先の場所が場所であるために、術者である諏訪子はコントロールに集中するためこの場に留まることとなってしまった。
 ただ、それはこの後劇的な登場シーンを考えている神奈子としては、一人で行く方が都合がよかったので問題にはならなかった。諏訪子には呆れられ、早苗には羨ましがられたが。

「お、出たね」
「んーこの感じだと、到着は丸一日ってとこかな?」
「結構かかりますねぇ」

 ずぶずぶと地面に波浪を立てる奇妙な鉄の輪の円盤を見ながらのん気に呟く早苗。まぁそんなもんさ、と神奈子は答えると、ひょいとその上に乗った。それを確認してから、諏訪子はいままでこの場の端に置きっぱなしとなっていた、彼女の胴体ほどもある置き鏡を腕に抱えると、そのまま鏡面を神奈子へと向けた。

「いくよー神奈子ー」

 そして宣言と同時に、鏡が燃えるように輝いた。その輝きは諏訪子の鏡から飛び出すと、一直線に神奈子の胸元の鏡へと吸い込まれていった。

「よっし、八咫烏移動完了。どう、調子は?」
「……うん、だいぶ小さくなってるね。これならただの妖怪でも飲み込めそうだわ」

 自身の豊かな胸に乗る鏡に手をやり、その中に宿った、八咫烏と呼ばれるものを確かめ、満足げに頷く神奈子。これで準備は全て整った。

「じゃ、行って来るね。上からのナビゲートよろしくね諏訪子」
「はいはい、任せてよ」
「早苗、私がいないからって、あの部屋の掃除はやめてよね」
「え~!?」

 細かすぎるパーツで乱雑となった工作部屋を今度こそ掃除できると考えていた早苗が釘を刺されて、ぶーと不満の声をあげた。ダメだからねと、重ねていいながら、神奈子の身体は見る見る地面の中へと沈み込んでいった。その速度は岩盤や地質を探りながらのため鈍間なものだが、偶にはこういう風情を楽しむのもいいかな、とも思えた。
 これから行く先は、旧地獄。そこで彼女は、神らしく、神の炎と、神を授けにいくのだ。いつかの御伽噺のように。


 あとがき

 この後めちゃくちゃセックスする(挨拶
 ようやく書きたかった部分にうつれそうで少し気が楽になっているへたれっぽいGです。このあとがきにつきましては加筆修正後のものとなりますので、修正前と違うことに混乱される方もいらっしゃるかと思いますが、お許しいただけたらと思います。
 最後にひとこと。
 山の頂きについたら、後はころがり落ちるだけですよね?




「……っ」
「あ、起きた」

 ぼんやりとした視界が、徐々に鮮明になる。それと共に浮かび上がるのは、自分の顔をじっと見つめる空の顔と、ここはどこかという疑問だった。

「空、ここは……?」
「縁の部屋だよ。あの後縁って、お燐とみとりの集中砲火で真っ先にやられちゃったじゃない、キスメも酔いが回ってさらに暴走しちゃった。最後は勇儀様やこいし様、それにあそこにいたみんなが入り乱れての大混乱になっちゃって……とりあえず、なんでか胴上げされてた縁を助けて、ここまできたの」

 大変だったんだよ、と頬をかきながらも楽しげに微笑む空に、釣られて顔を緩ませながら、気を失う前の最後の光景を思い出した。最後に見たのは、雪球の嵐だった。発生源の二人、眼がぐるぐると回転していて見るからに近寄りがたい状態になっていたお燐とみとりに対し、何とか弾幕も書くやという雪球の飛びか合う中を掻い潜り、それぞれに一回づつ当てたところで、突然後頭部に衝撃が走り、意識を失ってしまったのだ。
 何かが当たっただろう後頭部を擦る。よっぽど硬く圧縮された雪をぶつけられたのか、見事なタンコブが出来上がっていた。そして、状況から考えれば、下手人はすぐわかった。

「ほっほう、俺の恋人は彼氏を気絶させた上で拉致する、意外な知能犯だったのか」
「うにゅっ?! ち、違うよっわざとじゃないもんっ!?」
「けど当てたのはお前なんだろ?」
「……うにゅ」

 ごめんね、としゅんとした顔で謝る空。その表情に、温かいものが内から込み上がって、気づくと横たえてた体を起こし、左手をその頭に乗せていた。

「別に怒っちゃいないさ。むしろあんなカオスな乱痴気騒動から抜け出せてラッキーって思ってるさ」
「……えへへ、どういたしまして」

 そのまま彼女の頭を撫でる。濡羽色という表現がよく似合う黒髪には、雪合戦でついた雪が溶けたのか、少し水滴がついていた。おそらくは自分の髪もそうなっているだろう。乾ききっていないからまだそれほど時間が経っていないのかと窓を見れば、外は未だ雪が降っていたが、すっかり夜の闇が天井を覆っていた。彼方からは薄っすらとどんちゃん騒ぎの音が響き、まだまだ祭りが続いていることを教えてくれる。
 もう少ししたら戻るかな、とそう思った矢先に、空の両手が縁の左手を包んで、胸元へと運んだ。

「空?」
「縁、私あの時言ったよね? 私が勝ったら、いうこと聞いてもらうって」
「あ~……ま、いいか」

 雪合戦の結末は聞いた限りでは有耶無耶になったようだが、縁と空の二人だけの勝負でいえば、確かに空の勝ちだ。それに縁としては、空の言うことは仮に勝ったとしても聞くつもりだった。

「それで、なんだよ?」
「うん……あ、あのね、縁」

 顔を赤くして、何度か左右に視線を泳がせ、言いよどみながらも、最後には縁を目を見て、こう言った。

「縁の……縁の赤ちゃんがほしい」
「……はぁっっ!?」

 奇襲、とはまさにこのようなものだと縁は思った。慌てて周囲を見渡し、更には能力で”線”を見て、この場に誰もいないことを確認した。もしかしたら誰かから吹き込まれたか、ドッキリである可能性を考えてしまったからだ。だが、空の羞恥の赤に顔を染めながらも、縁を見て離さない真剣な眼差しに、彼女の言葉が本気であることを察した。

「……とりあえず、なんでだ?」
「えっとね……証が欲しいの。縁が元の世界に一人で行って、しばらく戻ってこないって聞いてから、どうしようって思ったの。私、みんなからバカって言われるし、記憶力もないから、もしかしたら縁のことも忘れちゃうんじゃないかって……怖くなったの」

 空の顔が、徐々に俯き、握られた左手に込められた力が増した。

「それで、どうすればちゃんと覚えてればいいかなって考えてたらね……頭の中に、私と、縁と、見たことのない赤ちゃんの顔が浮かんだの。それで、私達の赤ちゃんがいれば、縁はここに戻ってくる気になるし、私は絶対に縁のことを忘れないって思いついたの」
「それは……」

 何か、言葉が出かかって、そのまま消えた。今、声に出そうとしたのが、空の飛躍した提案に対する呆れか、恋人を不安にさせてしまったことに対する自身への憤りか、自分の若さで赤ん坊が欲しいと請われたことに対する戸惑いや恐怖か、はっきりとしなかったからだ。
 
「それに……もし、縁が戻ってこなくても……今、私が縁あげられるものは、全部あげたいの」

 がつん、と頭を思い切りぶたれたようだった。空の言った言葉の意味が、縁がもし空のことを忘れるようなことがあっても、許してくれるというものだったからだ。そして今自分が考えていたことが、全て自身に対するものだったことに対しての怒りが、空の言葉から生まれた衝撃となって思考を殴りつけたのだ。自分勝手な自身に酔っていたことを、空は縁への想いだけで自覚させてくれたのだ。そして同時にそれは、空の縁に対する気持ちが、かけがえのないものだということを判らせてくれた。
 泣きたくなった。いや、自然と涙が流れた。熱いものが喉奥に湧き上がり、それに従うままに、空の体を抱き寄せた。

「え、縁?」
「……ごめんっ……ごめんなっ……不安にさせちまって……」
「……ううん、大丈夫」

 空の手が、縁の背中に回って、抱きしめ返してくれた。彼女の柔らかな温もりと匂いが、縁を包んだ。

「ありがとうっ……俺……お前のことが好きになって、よかったっ……ありがとうっ……」
「私も……縁を好きになってくれて、よかった……」

 そのまま、しばし抱き合ったまま、時間が過ぎた。それだけで十分だと思ってしまったからだ。こうして想いが通じあって、ただ二人で互いの温もりを分かち合うだけで兵器だと思ったからだ。
 だけど、きっと、それだけでは彼女の気持ちを満たせないだろう。それも感じ取っていた。だから、縁は、空から一度離れて、彼女の目を見つめて、いうことにした。

「……ほんとは、俺からこういうのって、言わなきゃいけないと思うんだよな」
「えーと、何が?」
「あー……わかってるだろ、お前」
「うにゅっ?」

 小首を傾げる空に、ああもう察しが悪いな、ばかだな、と内心悪態にもならない愛しさを感じながら、震えそうな喉を整え、言葉を発した。

「……空、俺と・・・・・・結婚してくれ……俺の子を、産んでくれ」
「っっ」

 ぱっ、と空の髪が跳ねた。言ってから、卑怯だったかな、と思って恥ずかしくなり、顔が火照った。それでも空の顔から目を離さなかった。
 そして、空は。

「……はいっ!」

 返事と共に、口づけをしてくれた。



※2014年9月5日 加筆修正



[7713] 第三十五話--DG<天丼って話だが、最新型が負けるはずねぇだろ!いくぞぉぉぉぉ!
Name: へたれっぽいG◆eaa9c481 ID:0268cc84
Date: 2015/06/22 01:55
 恥ずかしくて気まずい、という状態を今、縁は体感していた。朝食時の地霊殿内の食堂にいるのは自分と、対面に座る霊烏路空のみ。手元には片手で食べられるようにしたおにぎりが幾つかと温かい緑茶の入った二人分の湯のみ。全て目の前の少女が用意してくれたものだ。そのことはいい、じんわりとくる嬉しさがある。問題なのは、なぜ二人だけなのかであり、かつ二人の間で昨夜から現在までの間に、ナニをしたかだ。
 まず、食堂に直通している厨房にいつもはいるカモメの妖怪のようなもの/フレッチャー。彼はつい先日までの出来事で重傷を負い、傷を癒やすためさとりからしばらく暇をもらっている。昨日の乱痴気騒ぎにも参加しなかったことから、能力を使ってどこかに出かけていると考えるのが妥当だ。
 次にこの地霊殿の主である古明地さとりとこいし。この二人は少なくとも騒ぎには参加し、特にさとりはこいしによって悪酔い一直線コースに入っていたのもあり、あの会場で倒れていることが考えられる。こいしに関してはそれに付き合ってかはたまた別の妖怪やお付の三匹と戯れてか、同じくそこにいる可能性が考えられる。少なくとも縁が"線"で見た限り、地霊殿内にはいないと思われた。
 空の親友である火焔猫燐だが、これはさとりと同じく会場で寝ているはずだ。あれだけ酔った状態で、しかも聞いた話では雪合戦後の乱闘のような状態に参加していたというから、いくら妖怪でも快調な目覚めというわけにはいかないだろう。
 最後に、地霊殿に残る普通の動物のペットや怨霊もどきたち。彼らは、一言で言えば空気を読んだとしかいいようがなかった。廊下ですれ違った際、縁たちを見る目が生暖かったのがその証拠だ。怨霊については、縁に対する圧力が当社比増しであった。
 そして、その原因となったこと。それは、よく言えば男女の営みであり、子を授かるための儀礼や儀式。悪く言えば、男女の体の貪りあい、快楽の求め合いだった。
 睡眠時間は、あまりない。疲労も、ある程度のみ。それだけで、縁と空のしたことが、若気の至りや、若さ故の何かであると言えた。事実、縁の心中では様々な後悔の色が渦巻いている。それは主に、付き合い始めて一日二日でコトに及んでしまった己の若さや、空の告白に対する自分自身の回答や、果てはコトの最中の自身の拙さという、若者特有の恥の認識によるものであった。
 だがその後悔の中には、気持ちを正直に伝えてくれた少女と繋がったことに対するものは一切なかった。
 向こうはどうなのかと、妙な緊張感のせいであまり喉を通らないおにぎりをひとかじりしつつ、ちらりと対面に座る空へ視線を向ける。少なくとも起き抜けと食堂に来てからは彼女も同じような状態であり、そのせいで交わした言葉も少なかった。
 だが縁の想像とは裏腹に、一晩をかけて愛しの男を包んでいた翼はリラックスした状態で垂れ下がり、女性らしい柔らかさのある両腕で作られた机の上に置いた顔には、はにかむようなほほ笑みが称えられていた。
 つい見惚れて、ぽろりとおにぎりの一欠片が落ちる。

「……えーにしっ」
 
 そして追い討ちのように正気を失ったタイミングで名前を呼ばれて、今度はおにぎり全部を落としそうになるほど驚いてしまった。

「な、なんだよ」
「えへへ……」

 どうやら、名前を呼ばれただけのようだ。それだけで空は満足したように口元を緩めた。
 それだけで、後悔と緊張が解け、同時に、女ってずるいな、と訳の分からぬ感想を心中で吐露した。そして自分自身の感想の仕返しをしようと考えた。

「……うつほ」
「なーに?」
「…………これ、恥ずかしいな」

 自分で彼女の名前を呼んでおいて、言葉通り恥ずかしくなって、自爆した。空の翼が嬉しそうにパタパタと揺れた。それを見ているだけで、ズルいな、ともう一度同じ言葉を身内に零した。





 第三十五話『始まりの終わり』


 


「乳繰り合いは終わったか?」
「「うわぁっ?!」」

 突然、二人の意識外からかけられた憮然とした声に、思わず飛び上がりながら離れる。少し視界を落とした先にいる声の主は、本来の白い羽の部分が見えないほどに包帯を巻いた翼でやれやれと呆れたと言わんばかりのポーズをとった。そして、珍しくそのまま鳥類特有の足でのっしのっしと離れた二人の間を通り、厨房へと入っていった。

「い、いたんなら先に声かけろフュッ?! ……フレッチャー!」
「そ、そうそうそうだよっ」
「たった今戻ってきたばかりだ、それとももっと早く戻ってきた方がよかったか?」

 言葉を噛んだり、どもったりするほど動揺していた二人に、厨房からクチバシだけを出して反論する地霊殿の裏のご意見番ことフレッチャーに、ぐっと声を詰まらせ、そのまま赤めた顔を伏せて着席する縁と空。言われた通り、この鳥が早くから地霊殿に戻ってきていても問題はない。だが、初の情事の後なのだから少しは空気を読んで欲しかったというのが、まだ初な二人の偽らざる気持ちだった。

「ふん、別にそうしててもオレは気にはしない。たとえお前らが色ボケに染まりすぎて、所構わず繁殖行為をしていてもな。それよりも、だ」

 いかにも無関心な調子のフレッチャーは頭から湯気が立ち上るほどになっている二人を一笑した後、今度は頭全体を出して、視線を合わせてきた。

「霊烏路、お前は仕事に戻れ。火力が足りん」

 そういって、くいと細い鳥目で厨房にある原始的なコンロを指した。どうやら今の間に遠隔で操作したらしく、僅かながら火が灯っている。だがいつも縁が使っているような勢いはそこにはない。縁の知っている限り、地霊殿の湯沸しや火の元は、旧灼熱地獄での火力で出力が決まっている。故に、ここ最近の出来事のせいで、空の仕事である火力調整が満足にできなかったことが影響しているのだろうと推測できた。
 えっ、と一瞬戸惑って縁の横顔をちらりと見た空も、フレッチャーから立ち上り出した"オレは面倒は嫌いなんだ"オーラを感じ取り、慌てるように立ち上がった。

「わ、わかった、わかったから! ……そ、それじゃあ縁」
「え、なんだ……」

 こちらから、頑張れ、や、一緒に行こうか、などという言葉を投げかけようとした矢先、空の掛け声に機先を制され、彼女を見上げた。すると、目の前にすぐ空の顔が迫り、距離が瞬きの間にゼロになった。柔らかな唇の感触があるのは、額。いつかの時のように、また額。ぬめりのような生暖かさがそこから離れたのもすぐだった。

「ま、また後で……ねっ」
「お、おうっ……」

 照れたようにはにかむ空に、うわ言のように返すしかなかった縁。気づけば、空はぱたぱたと食堂を出て行ってしまい、その間に縁ができたのは、額に残った感触に手をやるぐらいだった。

「で、だ」
「うわああぁぁぁぁぁぁっっ!?」

 すっかりいることを忘れていた地底のカモメのいつも通りの不機嫌そうな声に、今度は心臓が飛び出るようなほどの驚きを表現してしまい、椅子からそのまま転げ落ちてしまった。

「だから驚かすなっつーのっ!」
「勝手に百面相しているのは貴様だろうが……まぁいい」

 翼の一振りで中途半端なコンロの火を消し、フレッチャーは文字通り浮かんで椅子の背もたれに立った。ふと、その動作に違和感を覚えて、すぐに思い至る。普段のこの皮肉屋でナルシストの気がありそうなカモメであれば、宙を飛ぶ際、必ず羽ばたくのだ。それが今はただ、そのまま浮いただけ。態度は変わらないが、体は万全ではないのだというのが判ってしまった。

「……その、ありがとな、空のこと」
「些事だ、オレはただ従っただけだ」

 その傷/翼の包帯の意味に思惟がゆき、ただただ溢れた感謝の言葉を口にすると、これまたいつも通り一言で切り捨てられた。フレッチャーの言うことがそのままの通りであれば、このカモメは以前言っていた"自由という意思"に従っただけということだが、縁にとってはやはり、恋人をギリギリのところで留めてくれた恩人、もとい恩鳥であるのだ。感謝ぐらいさせろ、と愚痴るように言葉を口内に収めた。
 そして、こちらをじっと見るフレッチャーの次の言葉を待つ。態々声をかけ直し、こうしてほぼ同じ目線になったのだから、聞きたい、言いたいことがあるのだと察するのは当然だった。

「貴様、当面はどうするつもりだ」

 少し待って、聞かれたことは、昨夜と同じ、縁の想いを確かめるものだった。目を瞑って、まだ少し痛む左手を胸に置く。昨日のような迷いは、多少を晴れているだろうかと自問し、その答えとなるものを心という霧の中から救い上げ、声にした。

「少ししたら地上に行って、元の世界に戻る。そしてあっちとここを行き来する方法を見つけて、また戻ってくる……目下としてはまぁ、地上への出入り口守ってるパルスィに勝つことだな」
「そうか……答えは見つかったのか?」
「少しだけな、けどまだわかんないことだらけだ」

 朗々と響いた問いに、自然体のまま答える。声にしたものは、昨日のように少し淀んだり、恥ずかしさは含まなかった。おそらく、相手が空やみとりではなく、フレッチャーという、いけ好かないが、一羽/一人の男の前だからだろう。

「戻る、いや行き来するといったが、霊烏路と添い遂げる気はあるのか」
「ある」
「お前が霊烏路より早く老い、早く死に、番としての相手を一人残すとわかっていてもか?」
「……」

 沈黙で答えた。沈黙しか出すものがなかった。
 思考の一環として、それは前からあった。彼女たち/妖怪は皆、人間より長命で、人間から見れば不老に等しい。自分は多少腕っ節は強いが、ただの人間で老いも死にもする。実際に何度か死にかけてたりしている。そしてそれは、空を残して去ってしまうのと同義である、と今初めて突きつけられているのだ。
 きっと自分と空の子が支えてくれる、いやそもそも空には地霊殿の皆がいる。そういうお為ごかした思考は、ただの思考停止にすぎないだろうと、胸中自分を叱咤する。だから、考える。そうしなければきっと、自分は空に相応しくないのだろうから。

「考えを止めるな、とは言わん」

 だが、その思考を断つように、フレッチャーが口を開いた。

「古今東西、人外と結ばれた人間は必ずある思考を抱く。そしてその答えは、どのような寓話・神話・民話であろうと違いは必ずある。破綻、諦観、束縛、希望、約束、懺悔……所詮、答えなど”そのような”ものだ」

 だが、と人間にも、異なる生命体にも生まれ変わった経験を持つカモメは、言葉を続けた。

「自由とは、意思とは、そういうものだ。飛ばねばわからない。そしてそこで考え、また飛んで、墜ちて、考え、また飛ぶ。その繰り返しだ。そうして手に入れ抱いたものに、初めて納得し、受け入れることができる」

 ふわり、と白い体が椅子から離れて、鋭い剣先のような視線が、縁から離れた。

「だから、貴様の口からそれを聞くのは、また今度にしてやろう」
「……言ってろ、バカ鳥」

 遠回しなエールを残して厨房の中へと消えたフレッチャーに、空気に消えそうなぐらいに小さな声で言葉を返した。
 一人残される形となった縁は、背中がむず痒くなるようなんとも言えぬ気持ちごと飲み込むように、テーブルの上に残っていた食事を平らげた。空いた食器類をカウンターの上に運び、さてこれからどうするか、と考えた矢先、どこか遠くから声が聞こえてきた。響き方からして、屋敷の出入口のところだろう。何かあったのか、とその聞きしたった呼び声に惹かれるように、縁は食堂を後にした。
 もし、縁がこの時自身の能力を使って”線”を見ていれば、食堂のガラスの向こう、中庭のところでじっと聞き耳を立てていた存在に気づいただろう。その、黒い大きな羽を折り畳んだ、最愛の少女のことに。





「「さくやはおたのしみでしたね」」
「うっせぇ!」

 地霊殿を出てまっすぐ、旧都中央のよくある居酒屋の一角で、ケラケラと笑いおちょくる林皇十一と黒谷ヤマメの明らかに"わかってる"類のセリフについ怒鳴り返してしまった。地霊殿まで昨日の反動で眠りこけたさとりとお燐を、本人の無許可で使用しているだろう猫車に入れて運んできた十一とヤマメに誘われるような形で飲み直すことなった縁は、早速軽い後悔のようなものが脳裏に浮かんだ。周囲を見れば、ぐったりとした様子のキスメが布団を干すが如く塀の上にくの字の状態で放置され、店の出入口前では『(´神`)』と掘られた雪だるまの中に白目を向いたみとりが顔だけをだして埋まっており、こいしを筆頭とした妖怪妖精がそれを指さして大笑いしていた。どうやら乱痴気騒ぎは現在進行形で続いているようだ、と心中冷や汗を垂らす縁を他所に、中身の減ったお猪口へ十一が勝手に酒を注いだ。
 あの後のことを聞くのにちょうどよい、という思惑もあって来たのはよいが、予想以上の地獄絵図っぷりに、もはや飲んでなければやってられないと、ぐぃと一飲みする。度の強いアルコールが喉を熱し、体力と体液の少なくなっていた体を無理やり火照らそうとした。

「おいおい、そんなハッピーな状態なのにカリカリすんなよ」
「させてんのはお前らだろうが! つーかいつからそんな仲良くなってんだよ?!」
「いやー私こいつ主催の賭けに参加しててねー。賭けには負けちゃったけど、なんか結構話が合ったのよー」
「それに幻想郷じゃ、酒を一緒に飲めばどいつだろうが飲み仲間さ」

 わっはっは、と互いの肩に手を回して酒を掲げる酔っぱらい妖怪二匹に、何やってんだか、と溜息をつきながらも縁自身もまた、器に残った清酒を飲み干した。昨日の時もそうだが、自分の体は自分で考えているよりも酒に強いらしく、これだけ飲んでも思考はしっかり働いてくれている。それが幸運だとは、こういう場では決して言えないことも、幻想郷に来てから何度も思い知っているが。

「で、どうだったよ」

 そういう幸運でないパターンが悪友からストレートで飛んできて、思わず口の中のものを吹き出してしまった。

「な、何がだよっ?!」
「とっぼけないでよ~もう~」
「これだよ、これ」

 瞬時に自分の両横の移動し、肩を掴んだ上、親指と人差し指で作った輪にもう片方の人差し指を出し入れするセクハラ妖怪が二匹。朝の地霊殿よりも別の意味で居心地の悪くなった空間に、やはり付いてくるんじゃなかった、と顔を引きながら後悔する縁に対し、十一とヤマメは酔いの回った視線で顔を覗き込みながら、縁の答えは催促してくる。
 何を聞かれているか、なんということをすっとぼけても無駄だった。だがそれをおおっぴらに言えるほど幼くもないし大人びてもいない。中邦縁はそういうお年ごろだ。

「……そもそも何で俺が……その、空とだ……あー……」
「セックスとか夜伽とかちゃんと言えよ、もう童貞じゃないんだしよぉ」
「数時間前までそうだったやつに無茶いうな! つか、なんでわかるんだよ」
「なーに言ってんだ、お前の体からそういう臭いがしてるからに決まってんだろ? そもそも屋敷の中だってちょいと臭ってたしなぁ」
「ぶっ!!?」

 迂闊だった。朝起きた後、二人して黙々と部屋の掃除はしたが、自分たちのついた諸々を流すために、汚れたまま風呂場に行ってしまったからだろう。そのせいで、廊下にもわずかながら臭いが付いてしまったのかもしれない。嗅覚の鋭い妖怪やペットならば、必ず気づくだろう。そこまで考え、あのでかいおっぱいはどうだったー、などという外野特有のからかいに耳も貸さず、恐らく知り合いの中で特に鼻の良さそうな火焔猫燐がその状態の地霊殿を理解したらどうなるかと、つい想像してしまった。想像の中でのお燐はなぜか中世の騎士風のマスクを被っており、「旧地獄名物、水橋ブリッジ!」という謎の掛け声と共に縁に対しアルゼンチンバックブリーガーを仕掛けていた。想像の中ですら、まず死ぬだろうと確信できる至高の技に寒気が走った。

「やべぇ、お燐に気づかれたらぜってー逝く……」
「なーに大丈夫だって。オレ様たち妖怪の中でそんな童貞処女でウブな反応するのなんて早々いねぇって」
「あ、あははー、ソウダネー」
「そうか……いや、ああ、そうだな!」

 一瞬、床の上でお互い初めてということがわかり、はにかんだ笑みを浮かべた空のことを思い出したが、そんなことを言い出したら余計突っ込まれると先に気づき、とりあえず肯定しといた。何故か、隣りにいるヤマメの目が白々しい上に明後日の方向を向いているが、そこまで気にすることではないだろう。そしてつい、釣られるようにヤマメの目線の先、西区の方へと目が写った。
 西区の上空はまだまだ騒ぎが続いているのか、耳を澄ませば大きな嬌声やわめき声が響いているのがわかった。更には時々地上から上空に、上空から地上に向かって弾幕が展開して、祭り会場を彩る花火になっているのも見てとれた。

「あー、あー……あっちはまだ雪合戦ってか、弾幕ごっこしてるのか?」
「おう露骨に話題変えてきたな」
「うっせぇ。で、それで合ってるんだよな」

 ぎろり、と軽く睨むと、十一が少し真面目な表情となって、黙ってしまった。その代わりにヤマメが縁の疑問に気の抜けた声で答えた。

「んーまぁね。経験上、このままだと勇儀さん筆頭に他の鬼とかも集まって、あと二、三日は続くかなー」
「二、三日か……もしかして、パルスィもか?」
「まぁ、そうなるかなあ。なんだかんだいって勇儀さんとの付き合いも永いみたいだしねぇ」

 というより、なんでそんなこと聞くの。そんな当然とも言うべきヤマメの疑問には答えず、そのままじっと西区の空を見つめていた。勿論答えはすぐに返そうと思えば返せたが、心中に浮かんだ考えのせいで声にするのを忘れてしまい、しまいには知らず知らずの内に、まだ怪我の治りきらない左手で義手を撫でていた。
 その様子も見てた十一が、縁、と一言、悪友の名前を呼んだ。

「なんだよ」
「オレと戦え」
「は?」

 口をぽかんと開けてしまった。ヤマメもいきなりの宣言に目が点になっていた。それに構わず、手頃な位置に並んでいた徳利を掴み、そのまま一気にラッパ飲みして、十一は言葉を続けた。その目には酔っぱらいにはない、真剣な男の光があった。

「お前、こっちの女を抱いたのにまだ帰る気なんだろ? パルスィさんと戦うのだってあの穴を通してもらうためだろ?」

 ピシッと指さされた方向は、分厚い雲がさながらドーナツの穴のように空いた空間、"地獄の深道"。地上に唯一繋がると言われている場所の守り手は、橋の字を名前に持つ少女の妖怪だ。水橋パルスィ、縁は以前、こいしの協力があったにも関わらず、彼女に負けている。つまり、あの道を通る権利を得ていなかった。少なくとも縁の中ではそうだったし、そのことを他の妖怪にも言っている。

「……よく、わかったな」
「まぁ昨日あんだけ聞いたからな、今更そういう気を起こさない奴だってのはよく知ってる。だからこそ、だ。お前にはまだ負けてそれっきりだからな」
「はっ? いや、そんなことないだろ」

 縁の疑問は当然のものだった。実を言えば縁と十一は何度か戦ったことはある。みとりとのイザコザがある前は復興作業の合間を縫って、特訓と称して何度も弾幕ごっこを行っているのだ。それには燐やこいし、勇儀が交じることもあったが、だいたいが一対一だ。時には熱くなりすぎて、本当の決闘になりかけたこともある。

「十一、俺達結構やりあってるじゃねぇか。なら別に……」
「バッカかお前。あーいう特訓ってのが前提になるので、熱くなりきれるわけないだろ」
「むっ」

 事実をそのまま口にしようとしたら、事前に潰されてしまい、同時に自身でも理解できてしまう材料を提示されてしまった。
 言われてみればたしかにそうだ。名目上、そして周囲が工事中であることや、その後の仕事の都合も考えて、"全力"ではあっても"本気"ではなかった。より正確にいえば、"死ぬ気"にはなりきれなかった。弾幕ごっこの原則に含まれる優雅やさ余裕というものとは程遠くにあるような言葉だが、そのことと"本気"になることは矛盾しない。
 だが、縁の今までの戦いはそういう優雅という言葉にに連なる概念とは程遠いものだった。ほぼ全てが、膝を地につけ、全身から血を流し、泥を食んでいる。そして例外なく、身内から沸き上がる"熱"に感情や魂を焼かれ、無我夢中に体を動かしていた。それこそ"本気"や"死ぬ気"の、いやそれ以上の熱を持って、だ。
 そして特訓の時は十一の言うとおり、やはりそうと言えるものがなかったいうのも事実だ。
 
「……あーえーと、つまりだ。十一は中邦くんと、サシの、どっちかが"不慮の事故"になっても構わないぐらいに本気で戦いたいってことでいい?」

 今まで黙って二人の言葉を耳を傾けていたヤマメが、この場で提示されたことをまとめてくれた。迷わず、十一は頷いた。

「負けっぱなしは性に合わないからな」

 十一は歯を剥いて笑った。不敵で、向こう見ずなガキ大将のような笑みだ。縁もそれを見て、ようやくことの重さ、いやバカさ加減を知った。ただこのバカな部分は、十一と初めて出会った時からの共通項だった。

「いいぜ、なら今度も完璧に勝って勝ち逃げしてやるよ」

 だからこそ縁も完全な勝利宣言などという、男/少年という生き物だからこそわかる言葉で答えて、十一の目を見返した。同じような笑みを返しながら。それ以上の言葉は無粋だ。十一はその返答に笑みに獰猛さと嬉しさを増して、逸る気持ちを抑えられないとばかりに手に力が入っていた。

「はー、オスってなんでこう変な方向に血の気が多いのかねぇ」

 土蜘蛛という世間的には物騒な部類に入る種族のヤマメが、こういう時だけ鬼みたいだよ、と賞賛なのか呆れなのか、愚痴た自分自身でもよく理解していない感想を付け加えて、肩をすかした。
 まるで女性を代表としたといったヤマメの言葉に対して、縁は心中で、そういう生き物だから、と答えながら、縁は自由な左手でまだ手付かずの酒器を持つと、その口を十一に向けた。それだけで察し、十一もまた自身の酒坏を持つと、酒器の口に当てた。酒を器に注ぐ。波々と満たされた強烈な香りの酒を、十一はグイと飲み干した。空になった器は、今度は縁の側に置かれ、縁もまた酒の残った酒器を十一の側に置いた。そうして、今度は十一が持って、差し出した酒器の口に、差し出された酒坏のフチを合わせた。注がれる酒を、一滴もこぼさないように口に運び、飲み込む。甘い香りが咥内を満たしたと思えば、すぐさまアルコールの熱さが喉と食道を焼いた。かなり、キいた。

「ぷはっ」

 飲み干して、思わず息が漏れた。無造作に選んだものだったが、予想以上に強烈だった。だがこれで、大事な約束がまたできて、笑みを深める。十一もまた、嬉しさを隠さずはにかんだ。嬉しそうにしちゃって、などと素直な感想を心中に零し、いつの間にか干された状態からうつ伏せに直されたキスメを背を撫でながら、ヤマメも自身のお猪口に残っていた酒を口に注いだ。

「あー、縁ちゃんだ! おっはよー」

 そんな、一昔前の男の子の青春のような空気に切り込むように、塀の下からこいしがひょこりと顔を出した。それと同時に、建物の下の方から、ふんがー、などというみとりの奇妙な掛け声が聞こえると共に、視界の端で雪製超総監督マシーン二号が内側から破壊された。
 なんとなく、それだけで縁はこれからの状況を察してしまった。いつのまにそこまで仲良くなってたんだ、という考えは心の棚の上に置き、とりあえずこれから起きることの原因を確認することにした。

「おはよ、こいし……ところで、さっきまでみとりを雪だるまにしてたのって、お前か?」
「いえーす!」

 爽やかな笑顔だった。初めて会い、あの戦いの前とは違う、少女らしい可憐で底抜けのない、いい笑顔だった。その下で、みとりの怒声とこいしと一緒に雪だるまと一つになっていたみとりを笑っていた魑魅魍魎がなぎ倒される音と喚声が湧き上がった。さっきまでの空気はもう完全に消し飛んでしまった。十一はもう先ほどの回答で十分だったのか、すっかりこれから起きるであろう見世物を楽しむ態勢になっていた。ヤマメも笑い転げるのを我慢しているような顔になりながら、キスメを小脇に抱き、いつでも離脱できるようになっている。
 縁は、嫌々ながらも、もう一度確認のために聞いた。

「こいし、その時ってみとりは起きてたか?」
「んー、半分覚醒って感じかなぁ?」
「つまり、お前の顔は見てたってことか」
「バッチリ!」

 下から、あの無意識ド腐れ娘ー!、などという一際大きいみとりの声が聞こえた。縁は、来るべき状況に"線"を開いて、いつでも動けるようにした。

「で、雪だるまにしてた時、お前何やったんだ?」
「んーと」

 いつの間にか縁に横に座ったこいしは、こう答えた。

「♂ソーダーハーレムにいる夢を無意識を操って見せてあげたよ」
「ただの嫌がらせじゃねーかソレ?!」
「えへへ。実は昨日、縁ちゃんが帰った後に雪合戦で負けちゃったから、そのお礼にって」
「いつの間にそんな腹黒な発想出るようになった?!」
「こ~め~い~じ~こ~い~し~」

 てへっ、と下を出して悪びれた様子もなく言うこいしについツッコみを入れた瞬間、地底中に響くかのような低い怒気を伴う声が、縁とこいしの頭上から掛けられた。咄嗟に、その声の方を見ず、十一とヤマメの方を見た。先の男同士の約束をした相手と、それを茶化しながら見守った女性は、ガンバレと言外に含んだ笑みを返し、サムズアップをした、階段から去っていった。
 
「あいつらぁっ!?」
「へぇ、中邦もいるの……ああ、もしかして、そこのド外道娘にあんな男汁満載の夢見せろって指示したの、あんた?」
「はっ?!」
「よくわかったね、みとり!」
「おいぃぃ!?」

 縁の意思を一切介さず、諸悪の根源が縁にされてしまった。ちょっと待て、と縁はこいしを振り返ったが、こいしは縁の背中に隠れ、ばーりあ、と楽しそうに小声で呟いていた。

「まぁ、嘘でしょうけど……とりあえず、気に入らないから、一緒にぶっ飛ばす!」
「分かってて言ってんのかよ?! てか、お前昨日からそれだな!?」

 とりあえずムカついたら中邦縁のせいにしよう、なとちう理不尽な八つ当たりをする輩が更に増えてしまい心の底からツッコミと嘆きの声をあげる縁を無視して、みとりが自身の道具から精製した槍のような交通標識を振りかぶった。きゃー、と更にしがみつき始めたこいしに、後でげんこつかます、と心中決め、第三の手を顕現させようと、腰を上げた。

「とりあえず、消えろイレギュラー!」
「全然関係ないことで気合いれんなぁ!?」

 そして、みとりが標識を振り下ろそうとし、縁が第三の腕を出した瞬間。
 縁の体を今までにないほどの悪感と、目に映る"線"に乱れが生じるのと同時に、地底中に地鳴りが走った。
 そして、地鳴りの中、縁の脳裏に、今朝別れたばかりの空が浮かんだ。
 
「なに、地震?」
「へー、地震だー。縁ちゃんが来る前にもあったけど、ちょっと違う?」

 みとりが腕を振り下ろすのを止め、周囲を見渡した。こいしもまた縁の肩に顎を乗せながら、揺れでカタカタとなる店の中を見渡していた。そのどれにも気にかけることなく、縁は背中から悪寒と脂汗が流れだしたのを自覚した。何か、とてつもなくマズイことが起きた。状況を何も理解できていないが、それだけはなぜかはっきりと感じ取れた。

「くそっ!」
「わっわっ、縁ちゃん?」

 地鳴りが止み始めた瞬間、縁は背中にこいしがいることも忘れて、建物から飛び出した。ベランダから飛び降り、辺りの妖怪たちが慌てたように家から出たり、また勇儀たちのせいかと騒ぎ立てたりするのを横目に、右肩から霊力の羽を突き出して、地霊殿へと走った。

「ど、どうしたの?」
「わからねぇ! けど、嫌な予感がする!!」

 正確には、もう起きてしまっている、と感じているのが正しかった。だがそこまで詳しく言語化できるほど、縁に余裕はなかった。踏み固まった雪道で助走をつけて、一足飛びに飛び上がる。そこから、更に加速。予想以上の速さなのか、こいしが離されまいと強く縁の腰を抱いた。それにも気づかず、縁は飛び続けて、地霊殿の上空へと着いた。
 上から、中庭の旧灼熱地獄への入り口が開いているのが見えた。だがそこからは、これまでにないほどの熱気が立ち上っていた。まるで、地鳴りに呼応しているように。

「こいし、お前はさとりとお燐が様子を見てくれ! 今のフレッチャーじゃまだキツいハズだ!」
「けど、それを言ったら、縁ちゃんだって……」
「空が今、下にいるんだっ! なら俺が行かないわけにいかないだろ!!」

 こいしが、言葉を詰まらせ、縁の胴に回した手を緩めた。その瞬間に縁はいま一度加速を掛け、こいしを置いて、一息に灼熱の熱気の中へと飛び込んだ。

「っ、あっちぃな、くそ!」

 さながらそこは、地獄の釜だ。いや、この場所の意味を考えれば、そこは今、まさしくそうと呼べる状態だった。焼死体でできた道は燃え上がり、そこから立ち上る黒い灰は熱気のやられて空気中で更に燃え、残った湯気は黒く赤く空間を満たしていた。だがその奥、旧灼熱地獄の最奥部の方には、光が見えた。
 ひとつは、太陽のような光だ。そこへと伸びる先はもっともよく知ったものだが、縁の知る限り、ここまで苛烈なものではなかった。残るふたつは、翠と茶だ。凛とした輝きを放つ翠が太陽の光の周囲を回るように動き、一方で暖かな灯りのような茶の光が大地に根付くように動かなかった。
 遠くからはハッキリわからないが、太陽の赤白い光を、翠と茶の光は攻撃しているようだった。
 気持ちが逸り、縁は更に加速した。光に近づくことで視界は開けていき、熱気も増していった。そして同時に、幻想郷へ来てからよく聞くようになった破裂音や爆発音、そして巨大な質量同士がぶつかったような鈍い音が耳に届き始めた。

「何が、何が起きてんだよ……空!」

 訳の分からない状態に悪態を零し、縁は最愛の少女の名を呼んだ。それと同時に、視界が一気に広がった。
 最初に見えたのは、赤白い光であった霊烏路空だ。だが、その姿は縁が知るものとは異なるものだった。豊かな乳房の間、体の正中線にあたる場所に、怪物のような巨大な目玉が出来上がっていた。左脚には衛星の如き二つの光がまとわり、右足は醜悪な鉄のオブジェを履いていた。右手は樹のような色合いをした、砲としかいいようのない物質によってすっぽりと覆われてしまい、黒い両翼はいつもの彼女のものより二倍以上に肥大化していた。そして何より、彼女の顔には、普段の温和で陽気な少女には似つかない、不穏な瞳の光と無表情が張り付いていた。
 翠の光は、青みがかった髪に赤い半袖の上着と白のロングスカートという、偉丈夫のような女性だ。その背には女性の背丈ほどもある巨大な注連縄が輪をなして背負われており、彼女が醸し出す威圧的な空気を更に演出していた。
 一方で茶の光は、翠の光の女性とは打って変わって小さな背格好の少女だ。二つの目玉のついた鍋のような帽子を金色の短い髪に被り、古い神社の神職の服を改造したような紫地の服を着ている。
 縁には、その三人の女性全てに、見覚えが会った。空は、朝までは一緒にいた。だが、翠の光の女性と茶色の光の女性は、見覚えが会っても、それは遠い子どもの頃の記憶であり、そして少なくともここにいるはずがない存在だった

「……神奈子さまに、ケロちゃん?」

 子どもの時分、そう呼んでいた二柱/八坂神奈子と洩矢諏訪子は、縁の存在に気づかず、異形と化した空に対し、攻撃としか力を振るっていた。神奈子はどこからともなく呼び出した、注連縄を巻いた巨大な柱を砲弾のように空に撃ちだし、諏訪子は座り込んだ地面の周囲から無数の水柱を噴出させ、空へとその切っ先を向けていた。だが二人の攻撃は、空に届く前に蒸発し、文字通り消滅していた。一方で、空はその場から動かず、異様な光を宿した視線を諏訪子に向け、次いで砲身と化した右腕を向けた。
 そこから、極大の光が溢れた。光は灼熱の渦となって壁に張り付いて諏訪子へ襲いかかった。諏訪子はそれに気づき、危うげなく飛んで離脱。目標を失った光の渦が地面へぶつかった瞬間、大地を揺るがすようなエネルギーと共に鼓膜を壊されるような爆音が轟き、たまらず顔を歪めた。地鳴りの原因は、どうやらアレのようだ。眼下を見れば、爆発の余波でマントルのような旧地獄の炎の河が活性化し、大地や死体を更に溶かし始めていた。

「っ……まさか、えー坊!? どうしてここに?!」

 爆熱の余波から逃れ上空へ飛んだ諏訪子が、こちらに気づいた。だが、縁はそれに答えられるほど、余裕はなかった。悪感は更に酷くなっている。空の力が信じられない、それこそ別物といっていいほど膨れ上がっているのもそうだが、縁と空を繋ぐ"線"が、これまでになく太く、赤く、それでいて悪意や怨念に似た何か悪いものの満ちたものになっていくのがわかる。そして何よりも、尋常ではない空の顔が、嫌で、悲しくて、恐ろしくて、怒りを滾らせ、見ているだけで縁の心をかき乱していく。
そして、即座に結論は出た。このまま放っておくのはとてつもなくマズい、と。

「空ぉぉぉぉぉ!!」

 すぐに止めなければいけない。だが、声を届けるにはまだ遠いし、きっと届かないだろう。ならばと、いつも通りの手段/決闘によって、大人しくさせることを即断した。
 覚悟を決めてからの、停止状態から、最大加速。近づいてきていた諏訪子を過ぎ去り、諏訪子の声で縁に気づいた神奈子の視線も振り切り、加速の慣性をそのまま、鈍い右腕を強引に動かして、空へぶつけようとした。恋人に拳を向けることに、何故か抵抗感がない。むしろ、今この瞬間はそうしなければという気持ちが、悪感に押され強まっていた。強引にでも止めなければ、空が取り返しのつかないことをしてしまう、と。
 だが自らの内から沸き上がる敵意と予感とは裏腹に、空の周囲に広がる、目に見えない力場のようなものが縁の一撃を阻んだ。義手は、溶けていない。

「ならぁっ!」

 空がこちらに気づく。その前に、第三の腕を引き絞り、殴った場所を更に殴りつけた。鋼鉄のシャボン玉を破るように、第三の腕は力場を破った。そのまま霊力でできた弾幕の凝縮体のような手は空へと届きかけた。直前、空の口が、彼女に似合わない、歪な喜悦を形作ると、右腕の先端から光が伸びた。その光は三メートルほどの長さまで伸び、さながら漫画に出てくる不思議なエネルギーで形成された剣のように固定された。その、長大な光剣が、縁の一撃にぶつけられた。

「なっ?!」
「……ははっ」

 拮抗は数秒。だが、それを過ぎれば、第三の腕はバターのように切り裂かれた。驚く間もなく、返す刃が横薙ぎに縁に向かう。再度第三の腕を作り、それを光剣の真上からぶつけた。膨大な質量にぶつけたように、光剣は下に逸れ、そして縁の体が上に浮かび、致死の刃が足元を過ぎる。それだけで、靴とズボンが燃え上がった。

「くそっ……けどっ!」

 上を取った。体を捻り、霊力をブーストさせる。巨大な黒い翼が刹那、縁のいた場所をなぎ払い、そこから溢れだした弾幕が接近してきていた神奈子を迎撃した。

「坊や、離れろっ! そいつはっ!!」
「目ぇ、覚ませぇぇぇ!!」

 自身に襲い掛かる弾幕を即時迎撃する神奈子の言葉をかき消すように、裂帛の叫びが喉から溢れ、がら空きの背後から蹴りを放つ。それをもう片方の翼で止められるが、それは既に"線"で理解している。更に焼けた脚をねじ回し、翼を絡め、脚でたぐり寄せる。思わぬ方法に空が驚き、引っ張られるが、次の瞬間には、翼に力を溜め、強引に縁を振り払った。吹き飛ばされながら、縁は左手で霊力の弾を牽制に撃ち、義手の内に最大の力を込める。

「痛いだろうけど、歯ぁ食いしばれよっ!!」

 笑みを深める空の周囲に、力場が再形成されようとした。だがその隙間に、神奈子の柱と諏訪子が隆起させた土で出来た巨大な腕が叩きこまれ、空を挟み込んだ。その隙に、縁は懐からスペルカードを取り出し、宣言する。

「穿孔ぉぉぉ!!!」

 宣言と共に、縁の体から霊力が渦を巻いて溢れだし、第三の腕が急激な螺旋回転を生み出した。力はそのまま力場となり、正面に据える空を捉えた。そのあまりの力の大きさに、神奈子と諏訪子が目を見開く。だが、両手両翼で二柱の攻撃を受け止めていた空は、呼応するように、二柱が行使する力を"含めた"エネルギーを溢れさせた。

「スパイラルゥゥッ……?!」

 自らの力を一点に集中しながら、縁は目を見開いた。御柱と呼ばれる神器と、土着信仰の神の力で形成された土の拳を、空は自身の右腕の異形を開放しただけで破壊した。それは開放としか言いようがなかった。六面の辺は少女の細腕から離れると、光を纏って十の刃に変じ、そのまま腕を軸に公転し始めた。太陽の光としか言いようがない力を更に、目に見えぬ程の高速回転を行わせ、全てを粉砕する刃と成したのだ。それだけで発生した力の余波で紫電が走り、旧灼熱地獄を内壁を破壊し続けた。
 マズイ。アレに正面からぶつかるには、まだダメだ。自身の中の、勘や本能とも言うべきものが、強く言いつけてくる。それでも、縁は体を行使し、力を更に高める。彼女を助けなければいけない、それだけで臆病になる理由は消えるからだ。
 
「ッ……構うかァァァ!!」

 自らの悪寒を振り切きるように叫ぶと共に、自身の力が臨界に達した。故に、飛ぶ。

「ブレイカァァァァ!!!」

 轟音と共に、突き出された右腕と第三の腕に引っ張られるように、縁は空へと飛んだ。彼女から走る紫電は、螺旋回転する第三の腕にぶつかった瞬間、弾き飛ばされた。
 空もまた、太陽を圧縮するような回転を続ける右腕の巨大なら螺旋の刃を、腰だめに構え、縁に向かって飛んだ。その進行方向に向かって神奈子が結界を張り、諏訪子が土と水によって形つくった泥の網を仕掛けるが、一瞬にして食いちぎられる。
 もはや、二人の右手が螺旋を止められるものはいない。それでも二柱は激突の瞬間まで、空の力を削ごうと力を振るった。
 だがやはり、空の手に入れた太陽の力は、天空と大地の力を焼きつくし、今真にぶつかろうとしてくるイカロスを叩き潰そうとした。

「空ォォォォォォォォォ!!!」

 激昂と、繰り出された両者の螺旋の激突は、紙一重の間に行われた。螺旋と螺旋がぶつかった瞬間、これまでにないほどの力が地底を揺るがし、余波だけで神を吹き飛ばした。
 縁の目の前に、空の顔が見える。その顔は、彼女に似つかわしくない、悪意や狂気に染まろうとしていた。だけども、その目から、大粒の涙が溢れていた。
 義手に入っていたヒビが広がり、同時に空の螺旋の力が弱まった。

「うつほ……」

 縁の声に、空は答えない。
 義手のヒビが全体に広がり、空の螺旋を形成する刃が砕け始めた。

「……くそ」

 縁の目の映る空との"線"。それは太く見えたのは、他の"線"が重なった結果だった。
 縁の右腕が砕け、第三の腕が消失し、空の残された本当の右手が、義手を更に破壊した。

「ごめん」

 縁の見える"線"には、三つの"線"が重なっていた。そして縁の見える空の顔は、一瞬だけ、泣きそうな、縁のよく知る妖怪の少女の顔になった。
 そして、空の右手は、縁の心臓を潰し、背中を貫通した。
 血が溢れだす。全身から力が抜けていき、視界が瞬く間に暗くなっていく。本当の"死"が、嬉々として縁の命を持って行こうとしていた。抗うことができない。だが、それでもと、もう形も存在しない右手に変わって、死力を尽くしてようやく動く左手で、空の目尻に溜まった涙を拭った。
 喜悦の顔に戻った空の右手が引き抜かれる。それと同時に、力の一切を失った縁は、重力に逆らうことなく墜ち始めた。その視界には、義手から抜き出してあろう光る"何か"を、あの気味の悪い目玉に取り込む空だった。

「あっはははははははははははははははははは」
「っ、えにしちゃぁぁぁぁぁぁぁん!!!」

 そして、何かを取り込んだ空の、その内側に何者かの哄笑と、こいしの悲痛な叫びが、縁の聞いた最後の声だった。


あとがき:

やった、第三章完!

更新状態:
2015.06.22 一部加筆



[7713] 第三十六話――COM<メインシステム、戦闘モード起動します
Name: へたれっぽいG◆eaa9c481 ID:0268cc84
Date: 2015/09/23 23:06
 力が欲しい、と思った。
 愛していると言ってくれたヒトが憂いなく旅立てるように。
 最愛の人が帰る場所を守れるように。
 恋した人が寂しい時、傍に行けるように。
 今いる家族と、これから生まれてくるだろう新しい家族を守れるように。
 だから。
 力が欲しい、と願った。


 第三十六話『霊地の太陽信仰if』


 土の中を泳ぐ。言葉にすれば奇妙としかいえないだが、それは人間の感性とそこから生まれた言葉だからこそ生じるものだ。モグラであれミミズであれ、彼らが土の中を移動することを人間の尺度では『掘る』『食べる』という概念で受け止めているのと同じだ。だが本人たちからすれば、あえて人間の言葉にするなら時には『泳ぐ』という動詞が一番適切だということもある。
 今現在、地底世界に向かって土の中を進む八坂神奈子と洩矢諏訪子にとっては、たまたま移動方法が『泳ぐ』という言葉に沿っているに過ぎなかった。諏訪子の能力の応用でどのような地層であろうと水の中のように移動でき、神であるが故に呼吸などという肉体を持つが故の煩わしいことも無理にしなくてよい。そして外の世界では消滅の危機に瀕しながら、幻想郷に来て取り戻した信仰というエネルギーによって、深く深く潜るにつれて増していく怨念ともいうべき負の概念を意に介さず進むことができた。そもそも、諏訪子自身が”ミシャクジ”というケガレや澱みの信仰から生まれた神であるが故に、もし個体としての怨霊が道を塞いだとしても、ただのエサにしかならい。
 諏訪子はその役目も含めて、先頭を泳いでいる。それ以外にも、旧地獄にあるという灼熱地獄の怨霊たちの気配を感じ取り、そこへ迷わず案内するという役割もある。少し離れて後方にいる神奈子は遅れることなく付いているが、両手で力を練り、定期的に空気の層を地中に作り上げていた。
 その行為には、神奈子と諏訪子の今回の目的の布石である。二柱の、より正確には守矢神社の目的は、旧灼熱地獄にある存在を生み出し、それが操る原子力/核エネルギーを地上に送り、地上にエネルギー革命を起こすことだ。それによって妖怪の山や自らを信仰するものたちの生活水準を底上げし、信仰をより強固にしながら、そこからの風説によって更に信者を増やすためだ。決して、外の世界のエアコンや電気ポッドやプラモ作成のために必要な諸々の電気家具が恋しくなったわけではない、はずだ。
 そして地底で作った核エネルギーを安定して地上に供給するには、専用の道が必要だ。神奈子が作っているのは、その道を後から作りやすくするための、道標となる”楔”でありながら、同時に加工すればすぐに簡易的な通行口も開通可能な”爆薬”だ。
 
「お、そろそろだね」

 諏訪子が口を動かさず、しかし地中でも問題なく聞こえる、内から響く声で神奈子に告げ、垂れた袖口から金輪を取り出す。手のひらサイズの鈍い銀色のそれは瞬く間に諏訪子の身長ほどの大きさとなった。諏訪子は軽く振りかぶり、土の中から金輪を進行方向の先へ投げはなった。金輪はクルクルとしばらく進むと、やがてピタリと止まり、輪の内側の空間が水面のように揺らめいた。揺らめきは土色と赤を混ぜたような色をしており、さながら陽炎のような歪みをしていた。

「神奈子、そっちは」
「OKだよ」

 諏訪子に問われた神奈子は自信に満ちた声で答えた。知ってた、と諏訪子が答えながら、水辺に飛び込むように輪の内側を潜り抜けた。その向こう側は、黒い靄が立ち上る、旧灼熱地獄だった。地の底では赤い河が流れ、山と見間違うような焼死体の上空では、怨霊たちが絶えず生まれては焼かれ、人間のようにざわめき立っていた。

「あーやっと着いたー。やっぱ私は青い空の方が性に合うなぁ」

 同じく金輪を抜けた神奈子が諏訪子の隣りに浮かびたち、うんと背伸びをした。ここまで丸一日とも言える間地中の中にいたのだ。神奈子でなくても軽く気が滅入るだろう。

「いつもプラモ作ってるから逆に大丈夫なんじゃないの?」
「あれはあれ、それはそれってやつさ」

 普段の生活を知る諏訪子がジトッと睨むが、今代の風祝いの影響ですっかり現代文明の遊びにハマっている神奈子は容易く受け流した。
 
「ま、そんなことより依代探しだ。まずは人型の妖怪だっけ?」
「そうだよ。あと、できれば火を扱えるのね」
「あと、できればそれなりに力をあって、かつ私達が制御しやすいのっと」
「分かってんじゃん」
「確認よ」

 悪びれる様子もなくウインクする神奈子に、またこいつは、と心中悪態をつく諏訪子。気を取り直して、旧灼熱地獄中の気配を探る。
 二人で確認した条件は、今現在神奈子の鏡に封じている神の依代であり巫女ともなる存在だ。神の名は八咫烏。太陽神の使いであり、太陽神の一相、そして凶鳥でもある。諏訪子たちがこの鳥に目をつけたのは、自分たちでも勝てる程度の力であることと、何より”外の世界”において実用化の目処がついた核エネルギーそのものでもあるということだ。後は、条件に合った依代/生贄に憑依させれば問題ない。旧地獄のとはいえ、神にとっては木っ端妖怪に違いないのだ。

「……いた。もう少し下みたいだね」
「どんな妖怪かはわかる?」
「ん~……地獄鴉じゃないかな」
「なら、丁度いいね。諏訪子、ちょっと私だけで行くから隠れててくれないかい?」
「何って……ああ、そういう。神奈子はそういうの好きだなぁ」
「天の神だからね」

 キザな台詞を返すと、神奈子は衣服を少し正し、自身の力の応用で周囲の空間から煤を払って、諏訪子の示した方向へと飛んでいった。やれやれ、と諏訪子は旧友の悪癖に辟易するが、彼女の言葉に従って隠れることにした。近くの岩壁に近寄ると、黒焦げた岩が不自然に隆起して、巨大な手の形を作った。その手のひらに諏訪子は身を預けると、岩の手はすぐに諏訪子を包み込んだ。だが岩の中はガラスのように透明だ。そして隆起した部分は、壁に沿って神奈子を追い、下へと向かった。
 旧灼熱地獄の最深部、赤い炎の河の更に下には、巨大な火の玉が地面に埋め込まれていた。旧灼熱部分の核部分である炉だ。

「転炉、いや惑星核の模倣品か」

 原始的だけどいい出来だな、と諏訪という技術の地の神としての感想を抱きながらお目当ての相手を探すと、すぐに見つかった。炉の上空と、すぐ近くに積み上げられた死体の山を往復する黒髪黒翼の少女の妖怪だ。慣れた動きで死体を洗濯物のように抱え上げ、炉の真上に移動してから投下している。恐らく仕事としてはそれだけでいいのだろうが、更に死体が宙にある間に発火させ、炉を加熱しやすくしている。どうやらそれなりに長生きで、火の扱いにも長けているようだ。うってつけ、と言えた。

「後は頭が空っぽだったら助かるんだけど……お、来たみたい」

 少女に求める要望を口にしていると、急に上の方が光り輝いた。地獄鴉の少女が驚き、手を止めてそちらを見上げた。過剰演出だなぁ、と諏訪子が苦笑いしていると光の向こう側から、鏡から卵程の大きさの光の塊になっている八咫烏を取り出し、脚を組んだ如何にもな態勢で、神奈子が少女の前に降りてきた。明らかな不審人物相手に、警戒態勢を見せる地獄鴉。当然だよなぁという感想を漏らしていると、まるで高貴な神のような風貌で目を閉じていた神奈子が、ゆっくりと眼と口を開いた。

「少女よ、貴女はこの地底で最も力を持った鴉か?」
「えっ……あ、そうだよ」
「なら、貴方に力を与えます」
「……それは、どんな力?」
「遍くものを照らすもっとも力強き力、太陽の力です」
「なら……ください」

 おっ、と諏訪子は思った。鳥の妖怪は大抵鳥頭でお世辞にも頭も良くないというのが相場と決まっている。烏天狗のようなものは別だが、幻想郷の地上や”外の世界”の鳥の妖怪とて、そこは変わらない。だが、あの地獄鴉は、自身が地獄にいる鴉の中で一番力が強いと言ったが、与えられる力には疑問を持ち、そしてどんなものかと聞いた上で欲しいと言った。しかも初対面で如何にもな空気を出す相手にだ。ただのバカならどんな相手からだろうと力を貰えればそれで喜ぶだけだが、盗み見る少女の顔は”女”として決意が現れていた。

「……なぜ力を欲する?」

 同じ疑問を神奈子も持ったのだろう、予定にはなかった欲の理由を口にしていた。理由次第では、他の妖怪を探さねばいけないからだ。

「私には、大好きな人がいる。けどその人は、ここを旅立ってしまってしまう。なら私は、あの人が、縁が帰ってこれる場所を守るための力が欲しい。縁が迷った時に道を照らしてあげるだけの光が欲しい。縁が凍えそうな時に温めてあげる熱が欲しい。それをくれるのなら、鬼や閻魔様……ううん、誰であっても構わない」

 ふむ、と諏訪子は考える。縁、というその大好きな相手は妖怪か何かだろう。それが理由は分からぬがここからいなくなってしまう、故に戻ってくる場所を守るための力が欲しい。理由としては、あの地獄鴉がこの灼熱地獄跡から移動しないという点で十分だった。何より、頭は空っぽではないが、中々どうして、堂に入った態度だ。

「……地獄鴉、名は?」
「空、霊烏路空」
「……いいだろう、ならお前に力をくれてやる」

 何より、神奈子が気に入りそうな啖呵だ。威厳の代わりに闘争の神として一面を言葉の端から漏らして、胸元に浮かべていた八咫烏を、少女/霊烏路空の胸元に押し付けた。光を受け取った空は喉を鳴らすと、口からそれを飲み込んだ。光が少女の喉奥に消えて、数秒の後、変化が起きた。

「っ、あぐ、ああああああああぁぁぁぁぁっ」

 少女が喚き声と共に天を仰いだと思うと、胸元から肉と服を突き破り、飢えた獣を思い起こす赤く充血した眼が現れた。苦しげに腹を抱く空の着るマントの内側が、ただの白地から星空、いや宇宙空間の投影画像へと変化する。更には、左足に焼け溶けた岩のような妖気の塊が張り付き、右足には妖気と神霊の力で作られた小型の双子星が公転し始めた。そして、泣きながら伸ばされた右腕には、霊気で構成・物質化した巨大な六角形の箱/制御棒が組み上げられ、その細腕をすっぽり収めてしまった。
 予想通りの変化だった。予め八咫烏の封印・圧縮時に”外の世界”の原子炉をベースとした式を組み込んだおかげで、それを表す形態、これだけの力を扱ったことのない妖怪でも制御し易い形となった。これならば自滅することはないだろうと、変化を見守っていた神奈子はゆっくり上昇し始めた。後はそれらしいことを言ってやればお仕事はお終い、霊烏路空が核エネルギーを完全に制御できるようになったころを見計らって、改めて話を持ち込めば問題ない。

「……えっ?」

 だが、想定外のことをミシャクジ/諏訪子は感じ取ってしまった。遥か頭上から、大量の怨霊と、それに乗り移られた死体が押し寄せてきている。神奈子にそれを伝えようと岩から飛び出した諏訪子だったが、次の瞬間、変化を終え、脱力し俯いたまま浮かんでいた空が神奈子に向かって右腕を突き出した。空を見ていた神奈子は咄嗟の行動に驚きながら、槍のように先端が光った制御棒を横へ蹴り弾いた。
 下方へと矛先を向けた制御棒は、次の瞬間、膨大な熱量を伴うエネルギーを生み出し、灼熱地獄の壁一体を薙ぎ払った。間一髪で諏訪子は泡を作ってそちらに飛び乗り、ビームと見間違うような光の奔流を回避した。だが着弾の後に発生した爆風はそうは行かず、泡ごと対岸側へと吹き飛ばされてしまう。

「諏訪子っ! ちっ、いきなり自分を産んだ神様に反逆とはっ、猪口才な真似してくれるわね」

 言いながら、神奈子は光を途切れさせた霊烏路空向かって二撃目の蹴りを放つ。空は翼でそれを受け止めるが、神奈子は既に三撃目、空の真上に呼び出した御柱を手の一振りで打ち下ろそうとしていた。だが、ピクリとも動かない。何かに止められてると上を見ると、そこには先ほど諏訪子が感じていた、膨大な数の怨霊と焼死体の群れが御柱を取り押さえていた。いや、抑えているのではなく、御柱を食いながら、一直線に霊烏路空の元に集まっているのだ。

「神奈子離れて、さすがにそれを今の私でも飲み込みきれない!」

 態勢を立て直し、地中に溜まった水を集めながら諏訪子が叫ぶ。霊烏路空の元に集まろうとしている怨霊と死体、それはこの灼熱地獄跡に未だ残留していたものの大半を占めていた。神話の時代、融理の原則が働いていた時分ならいざしらず、まだ力を取り戻し始めて僅かしか経っていない諏訪子には、あの量のケガレを一度に取り込むには骨が折れる。集めた水を水柱とし、神奈子と鴉の間を別つが如く放った。
 諏訪子の牽制に合わせて、空から離れる神奈子。急流の水もあるが、霊烏路空が追い打ちをかけてこなかった。むしろその視線は目と鼻の先まで近づいてきた魑魅魍魎に向かっていた。
 空が、両手と両翼を広げた。途端、怨霊と死体は混ざり合いながら二手に分かれ、鴉の黒い翼へと殺到した。翼に触れると、怨霊は羽へ、焼死体は肉と骨へ姿を変え、加速度的にその体積を肥大化させていく。炙れたものは空の周りを取り囲み、可聴化できない喚き声をかき鳴らした。さながらそれは神に捧げる贄の周りで舞い踊る神職のようであった。

「……何がどうなってる?」
「分からない。けど、少なくとも八咫烏にはこんな大それたことができる頭はないはずだ」

 神奈子と諏訪子は、卵の殻のような状態となった空と魑魅魍魎たちを挟んで対称となるような位置取りをしながら、状況をまとめるためにも、様子を伺うこととした。二柱はこの現象に心当たりはあった。簡単にいえば、これは信仰を得るための原始的な祭だ。信仰対象となる神を呼び寄せ奉り称え、祭りという絶頂の空間の内で神と一体化しようとする。諏訪子/ミシャクジ信仰の神は、近代まで自身の信仰の儀礼にその風習を残していたが故に、今起きている現象への理解は神奈子よりも深い。
 だがそれ故に解せない。八咫烏は確かにあの天照の一相という側面もあるという話も存在するが、それでもただの先触れ/使いっ走りでしか非ず、また自身も神として扱われることもあるが故に、このようなまつろわぬものを信仰の源とするのは道理に合わない。まつろわぬ民には既に彼らの為の神はいるのだから。

「いや、だからか……?」
「その両生類の頭で何かわかったの?」
「一言多いよ……けど神奈子、私の考え通りだと、ちょっと今の私達じゃ分が悪いかもしれないよ」
「何……!?」

 神奈子がその前を問いただそうとした矢先、死体と不浄の霊で作られた殻に亀裂が生じた。いや、それは亀裂ではなく隙間だ。隙間は瞬く間に広がると、中にいた赤ん坊/神の姿が見え始めた。その姿は殻に囲まれる前とそうは変わらない。だが一番の変化は翼だ。淀んだ色味の黒、それが大地を埋め尽くすかのように広がって残った殻の怨霊を取り込むとと、次の瞬間には、霊烏路空の背丈の三、四倍程度の大きさに縮小とした。それでも尚巨大で、怖気が走るような気配を発していた。

「……そういうことか、諏訪子」
「そうだよ神奈子。私たちはどうやら、この地獄に本物の太陽神を作っちゃったみたいだ」

 神奈子の得心が行ったという顔に、諏訪子が言葉を続けて答える。二柱の顔には、苦い過去を思い出したような冷や汗が流れていた。
 言葉通りだ。原因は自分たちで、理由の詳細は分からぬが、今この瞬間、地底世界に新たな太陽信仰が生まれたのだ。

「……神様になった気分はどうだい、霊烏路空」

 神奈子が挨拶を交わすような軽さで神としての新人へ声を掛けた。空はそれに答えず、左腕を頭上に掲げ、指を鳴らした。途端、豆粒大の黒点が生じ、瞬く間に空の頭ほどの大きさに成長した。黒点/黒い太陽の周囲には、更に十の小惑星となる黒点が回り始め、それぞれが熱気と妖気、そして神気と霊力を発していた。
 二柱の中で九十九パーセントだった推測はこの時点で確信に変わった。霊烏路空は自身を巫女や贄ではなく、神として八咫烏と一体化したのだ。信仰者は、この灼熱地獄跡に残る全ての怨霊と生霊、そして無念だ。人間以外でも信仰者とするの可能なことは、神奈子と諏訪子が身を持って知っている。だがただの罪の残りカスでしかない怨霊を食うのではなく、新たに信徒とするには理解に苦しんだ。
 だが現実、発生したのだ。霊烏路空はこの忘れられようとした地獄の、まつろわぬもののための太陽神になった。そして自分たちは部外者で、地上にいるもののための神だ。
 ならばこれから何が起きるかを想像するには固くなかった。

「そら来たっ!」

 神奈子が防御を取ると同時に、十の小惑星が黒い太陽に変じ、全方位に向かって、熱光線を発射した。壁を抉って地響きを鳴らし、天井の灼熱の河を貫き、灼熱地獄跡の核を撃ちぬいた。途端、核から爆発が生じ、ただでさえ熱さが増していた地獄跡が更に熱くなった。

「ふんっ!」

 神奈子は自身に伸びてきた光条を、二重三重の結界を瞬時に作って防いだ。その小脇から諏訪子が飛び出し、両手に持ちだした金輪を空の本体に向かって投げはなった。空は右腕の一振りで輪を弾くが、輪を瞬時に大カエルに変じ、その大口で左右から空を飲み込もうとした。しかしカエルを一匹は縦一文字、もう一匹は横一文字に光線によって切断され、ただの金属に戻った。次いで諏訪子の四つの目がギョロリと動くと、熱によって解ける元金輪は今度は水滴になって、空本体だけを取り囲む泡となった。本体からの接続が切れて、黒い太陽が自分の内側に吸い込まれるように消え、光線も消えた。

「諏訪子、このまま潰すよ!」
「当然っ!!」

 防御を解いた神奈子が、先ほどよりも更に巨大な御柱を呼び出し、肩に担ぐ。諏訪子も空の背後へと移動し、破壊によって生まれた岩石に空中に集めて一つとして、巨大な人間の手を創りだした。そして声を合わせることなく、同時に空へと放った。しかしその質量攻撃は、空が身内より発した力場によって、為す術もなく溶かされた。力場はそのまま泡を上書きするように空を覆って、更に妖力による弾幕を放ち始めた。

「ちっ、やっぱやりにくい!」
「早苗にはもう少し遅くなるって言っとけばよかったねっと!」
「携帯電話がないとほんと苦労するわね!」

 即座に退避、弾幕の隙間を縫って隙を伺い始めた神奈子と諏訪子は、口は悪いままだが、顔からは苦味は消えず、更に深めていた。ここは今、神となった霊烏路空の神域、ホームグラウンドだ。神となるためのものを与えたとはいえ、神奈子と諏訪子の信仰はこの場からは得られない。力を十全に振るえなく、しかも失うだけなのだ。戦いにくいことこの上なかった。
 だがそれでも文字通りのヒヨッコに負ける気はなかった。いくら太陽神とはいえ、たかが一地獄の怨霊と焼死体に残った残りカスだけの信仰だけでは、そもそも神奈子と諏訪子を滅するには足りないくらいだ。量もそうだが、質だって低いはずだ。綻びは必ず生じるはずだ。

「これで弾幕ごっこだったら、私たちも危うかったかもね」
「それは違いないっと!!」

 ルールのある決闘ではない以上、神奈子と諏訪子に分がある。知識も経験もだ。新たに制御棒から放たれた光線を避け、神奈子が御柱を再度形成して弾幕を薙ぎ払った。諏訪子もまた二つの金輪を投げ、その内から弾幕を発生させると、空の弾幕を尽く撃ち落とした。手を封じた、と神奈子が接近する。狙いは胸元の目玉、そこから八咫烏を取り出す。右手を鳴らし、左手に白蛇を呼んで、剣に変じさせる。そして切っ先を力場に突き立てるが、途端、刀身が溶けた。多少は保つと考えていた神奈子は目を驚きに見開き、それ故に真横からの翼を一撃を回避できなかった。

「ぐっ!?」
「神奈子っ! て、やばっ!!」

 戦神を一蹴した空の制御棒に、先の砲撃以上の光が集い、諏訪子に向けられた。さすがに直撃は不味いと、即座に土と水で偽物を作りつつ、岩壁の中に潜って逃げた。そして空は偽物に向かって熱量の暴力を放った。光は一瞬で偽物を飲み込むと、巨大な爆発を生じた。

「とっとー! さすがに二度めはコントになるよっ!」

 地中から強引に引きずり出されながらも、諏訪子はそのまま爆風を利用して空の下方へ飛び、地面に手を付けると、再び水柱を作り出す。渦の中に即興で創りだした矢尻を巻き込み、裂傷を負わせることを目当てに巻き上げる。

「この程度で、私から目を背けるんじゃない!!」

 吹き飛ばされた神奈子もまた空中で急制動をかけると、お返しとばかりに御柱を撃ちだした。
 二柱の攻撃を、今度はそのまま力場だけで止められた。ちっ、と神奈子と諏訪子は同時に舌打ち、廻り続ける思考を更に回転させる。しかし空は考えを潰すとばかりに、神奈子へ無造作な妖力の嵐を、諏訪子には右腕を向けて光線を放ってくる。神奈子も諏訪子も、再び距離を取ることを承知で、その場から離脱した。

「さーて、どうしよっかなぁ……?」

 爆風の余波を受けながらも、帽子についた目玉をギョロギョロと動かし場を見極め、力場の突破を試みようとする諏訪子は、しかし視界の端に写った、場違いな人影に気づいた。それは諏訪子の記憶とは幾分か背丈も雰囲気も違っていたが、しかし人間の成長期という急激な変化を伴う数年を経ても、変わらぬ魂とぶっそうな気配を人工の右手に宿した相手を、見間違えはしなかった。
 
「っ……まさか、えー坊!? どうしてここに?!」

 あまりにも唐突で、あまりにも場違いな再開。現実に付いて行けず思考が停止している間に、彼女らの古い友/中邦縁は、地獄鴉の名を叫びながら、真っ直ぐに飛んでいった。飛ぶ、という行為に更に諏訪子が驚く間もなく、縁が空に接敵する。神奈子もそこでようやく縁の姿を認めて驚きの声を上げ、一瞬、諏訪子と視線を合わせた。視線には、知ってたか、という言葉があったが、当然、諏訪子は首を横に振った。
 だが、使えると、両者は判断した。瞬時の攻防で、縁はあの厄介な力場を壊し、苛烈な攻撃に耐えた。何より、さっきまで感情が欠落してしまったような空の顔に、変化が生じた。知り合いなのだろう、そして何かしら深い間柄なのだろうと即座に推測を立てて、空の隙を作るための手段となする。

「坊や、離れろ! そいつは……ッ」

 だからこそ、長時間ただの人間を太陽神に近づけさせるのは不味い。力場が弾けた瞬間、再接近をして縁を回収しようと動いていた神奈子だが、こちらの意図に気づいたように弾幕による迎撃を放った空に追い払われてしまう。諏訪子も縁が離れるだろう時のためと、再び地中の岩を集め巨大な人型の手を作るべく、準備を始める。
 だが、状況は最悪な方へ進み始めた。
 一旦離れた縁が、スペルカードを取り出し、霊気を開放する。スペルカードまでも縁が持ってることに驚くよりも、更に強烈な衝撃と怖気が二柱に走った。空の右腕が変態した。霊烏路空というものに格納された太陽神と怨霊たちの願いが、右腕を覆う制御棒を改変し、禍を宿した黒い星の具象が現れ星の回転を模して、厄災としての太陽の力を増幅させ始めた。触れたものを溶かし潰す、黒い太陽の矛。
 かつて、神話の時代に戦った相手に抱いたような、恐怖の圧。それが神奈子と諏訪子を突き動かし、その力が向けられた縁を守るべき、二重の障壁を作った。だが即興の障壁は、先よりも容易く破壊され、何の障害にもならなかった。
 そして、縁が創りだした藍の螺旋と、空の炎と黒の螺旋が宙空で激突し、人間の体が貫けれた。

「くそっ!」
「待って神奈子! 様子が……っ、まさか!?」

 抱き合うように止まった二人に、神奈子が取り囲むように御柱を配置する。咄嗟の判断なのだろう、もはや縁の命は度外視された陣だ。だが諏訪子はそれを留め、そして後悔した。あの瞬間、自分が身代わりになってでも、止めなければならなかった、と。
 その思考の原因となるものが、縁の義手から引きぬかれた。

「"龍神の卵"……そういうことか、だから坊やに……!」
「私達が掛けた封印が弱まってて、今ので完全に壊されちゃったみたいだね……ってことは、ヤバイよ神奈子……」
「ええ、多分……明日早苗に会えそうにないわねっ」

 義手から取り出されたものが、縁の命を繋いでいたものが、八咫烏もどきに取り込まれようとする。その前に、互いに互いの意図を通じ合わせ、神奈子は空の真上に、諏訪子は呼び出したカエルに縁を受け止めさせながら、空の真下に移動した。

「えにしちゃん、えにしちゃんっっ!!!」
「って、なんだいあんたは!?」

 カエルが地面に着地した瞬間、どこからか現れた妖怪の少女が、縁に飛びついた。それを横目で見ながら、諏訪子は神奈子と共に準備を始めるべく、今体に残るありったけの神気を空間全体に焚べ始めた。

「うるさい、黙って!! えにしちゃん、目をさまして、何で胸に穴なんて開いてるの、人間がそんなの空いてちゃ、死んじゃうよぉ……」
「貴女、えー坊の知り合いっ?!」
「っ、だから、知らないっ、知らない貴女なんか、黙って……っ!」
「良いから答えて!」
「っ……わたしは、えにしちゃんのっ、と、友だ……」

 今日は初対面の妖怪に意味深なことを聞いてばかりだな、と嫌にコメディな思考が過ぎった。切羽詰っている証拠だろう、と自嘲しながらも、少女の回答に頷き、声を張り上げる。

「友達なんだねっ、なら聞いて! 今からわたしとあそこのケバい神の力で、生まれたばっかの鴉の神を封印する! そしたらこの灼熱地獄跡は誰も出入りできなくなる! その前に、貴女はえー坊を抱えて地上に行って、永遠亭ってとこを尋ねなさい!! そうすれば少なくとも、肉体は復活できるかもしれない!!」
「え……」
「私達が帰る時のために準備してた抜け道をこれから開ける! だからそこを……!」
「諏訪子避けろぉっ!!」

 頭上から声と光が落ちてくるのは、ほぼ同時だった。巨大な溶岩の球が、諏訪子と妖怪に向かって落ちてくる。やったのは、あのにたにた笑う霊烏路空だ。神奈子は”準備”で動けない。自分も説明に気を取られすぎていた。まだアレを制御するために動かないと先入観を持ってしまったという誤りもある。そして今この状況で何より最悪なのは、動けば自分は助かるかもしれないが、どうあがいても縁は完全に滅せられることだ。
 それが狙いか、と歯を食いしばり、せめてもの守りを行おうとした瞬間、熱気の巨球はピタリと止まった。

「……車両、停止ぃっ……古明地こいし、これはどういうこと!?」
「こいし様っ、中邦っ……!?!」

 見れば、遥か上空から現れた新手の妖怪の一体が、能力か何かを使って止めたようだ。それでもやはり、神を超えた力を込められたパワーに抗うのは厳しいのか、脂汗をかいている。もう一方の猫の妖怪は、縁の傍に寄り、死に体としか言いようが無い姿を見て声を失っていた。

「なにしてやがる、てめぇぇええ!!!」

 そして、三体目の妖怪が、霊烏路空へ襲いかかった。体を分身させ、四方八方から弾幕を生じさせ、一気に攻め立てるようだ。それに対し空がにやりと笑う。あの笑みは、自分より弱いものを甚振ろうとする子どもの顔だ。意識がそちらに向いた今がチャンス、と考えた瞬間、阿吽の呼吸とも言える読みで、神奈子が遠隔で動かした四本の御柱が目前まで迫っていた球を挟み潰した。

「ぷはっっ!! 助かったわ! けど状況は……」
「どうするかは、そこの古明地こいしってのに話した! 貴女らは早く、抜け道を使ってえー坊を地上に連れてって!!」

 問答をしている時間はない。諏訪子は金輪を取り出し、自分がこの灼熱地獄跡に現れた位置へ向かって投げはなった。金輪は岩壁に張り付くと、その内側の空間を極彩色に歪め、異様な道の入口を作り出した。泣き腫らした古明地こいしが一瞬目を見開くと、その目を手で強引に拭った。

「貴女の言うとおりにすれば、縁ちゃんは助かるんだね?」
「そういってる! 人間も診れて、それも死体同然のを治せる医者なんて、私は今は一人しか知らない!」
「わかったっ!」
「こいし様!?」「古明地こいしっ!?」
「お燐、みとり、付いてきて!」

 さっきまで正気を無くしていたのがウソのような声の張りだつた。それに呆気に取られた赤い髪の妖怪二体を他所に、こいしは縁を抱きかかえ飛び立った。どうやら、線は細いが肝は座ってるようだ。縁同様、どうしてここに現れたかは知らないが、良い”縁”を築いたみたいだと、今は目を開かない少年を思う。

「ぐあぁあああああああぁぁ」
「諏訪子、急げっ!!」

 その思いを、上から響いた悲鳴と急かす声に遮られる。見ればあの虎の妖怪が両腕を切断され、残った胴体の傷から怨霊を変換して作られたマグマを直接体内へ流し込まれていた。遊んでやがる、と反吐が出るような感情を抑えこみ、最後の仕上げを空間全体にかけていく。
 巨大化させた金輪を配置された御柱に通し、天と地の両方の意味を合わさせ、境界を歪めさせる。神奈子は御柱一つ一つを巨大な輪の支点と定義し、背負う注連縄から新たな枝を伸ばし、御柱同士をつなげていく。輪による世界を定義、それによる封印だ。即興故に雑で綻びも多いが、今はこうして、霊烏路空が”龍神の卵”に完全に馴染むのを防ぐしかない。
 悲鳴をあげることもできなくなった妖怪を更に弄んでいた空が、ようやく周囲の変化に気づいた。もう遅いと、と諏訪子と神奈子が笑った矢先、空の頭上に停滞していた黒い太陽が脈動し、両翼が広がった。同時に灼熱地獄跡全体が震え始め、地獄の釜と火の河から炎の柱が吹き上がった。

「こいつ、力で強引に……っ!?」

 無尽蔵とも言える核エネルギーの力で星の脈動を再現し、封印を振りほどこうとする空を更に強引な方法で封印を施そうとした矢先、翼から怨霊たちが分化し、黒い触手となってある場所目掛けて動いた。その切っ先には、今まさに金輪を潜ろうとするこいし達だ。

「しまっ……」

 諏訪子が声をあげる間もなく、怨霊が縁を捉えようとした瞬間、その細い触手を、赤髪の火車が、掴んで止めた。

「お燐っ!」
「こいし様、河城、行って! これならあたいでも少しはっ……」
「で、でもっ」
「早く……河城みとりっ!!」
「っ!!」

 お燐と呼ばれる少女の声で、河城みとりというもうひとりの赤髪の妖怪が動いた。こいしと縁を強引に掴み、金輪の中に放り込むと自身もその中に飛び込んだ。そして次の瞬間、金輪が砕かれ、入り口が消えてしまった。

「ありがとう……ごめんなさい、さとり様……」

 安心したように燐が呟いた瞬間、その体に別の怨霊が殺到し、体を覆い隠してしまった。よくやってくれた、と諏訪子は心の中で賞賛し、これで憂いはなくなったと、地獄鴉を仰ぎ、その先にいる相棒へと叫んだ。

「神奈子ぉぉぉぉ!!」
「っ、いくぞぉぉぉぉっ!!」

 そして、二人の雄叫びと共に、封印は発動した。その直前に諏訪子が思ったのは、帰りを待って一人寂しく夕飯を食べてい、たった一人きりの風祝の姿だった。



「うーん、ちょっと失敗しちゃいましたか……」

 自炊した大根煮の味に、しょっぱい、と感想を抱いてしまった東風谷早苗は、そのまま失敗作の残りを口の中へ放り込んだ。途端、口内が予想以上の酸味に包まれ、思わず目を瞑ってしまうが、お茶と一緒に流し込み、ふうと一息つく。同居人とも言える二人がいないからこその無茶なレシピだったが、今後はこれを封印した方がいいだろう。
 キサラギ印の調味料は調整難しいなぁ、とぼやきながら残りの夕飯も三角食べで平らげ、ごちそうさまとひと心地着く。普段は自らが仕える神でもある八坂神奈子と洩矢諏訪子と談笑しながら食事を取るのだが、その二柱は用事があって現在この守矢神社にはいない。予定では今晩から明日の朝までには戻ってくるはずだが、今日という日がもう終わりそうな時刻なので、仕方なく夕餉を一人で取ってしまったのだ。
 食器類を片付け、社務所の縁側に腰を下ろす。夜の稽古と祈祷ももう終わり、湯浴みも済ませ、後は寝るだけの状態だ。だのに妙に眠気がこない。初冬の冷え冷えとした空気が体に突き刺さり、自然と吐いた息が白く溶けた。思えば、幻想郷に来てからこうして一人になるのは数える程度しかなかったと、ぼんやりとした頭の中で思いついた。
 東風谷早苗は、本来外界の人間である。だが現代社会において不要とも言える巫力と適性を持ってしまったため、幻想郷に来ることを選択した、元ただの女子高生だ。勿論、昔から相談し、姉妹や育ての親とも言える神々の影響もあったが、最終的にはその選択をしたのは早苗自身だ。科学技術は好きだし、SFも趣味に入っている。日本のある会社が大型二足歩行ロボットを開発に成功した時には、両親に強請ってお披露目会に行った程だ。その熱意は学校の友だちにも知れ渡っていたし、受け入れてもくれていた。
 それでも、そういうものと切り離されるこの場所に来た。今でもそのことを後悔することがあるし、幻想郷の生活に馴染みきれない部分もある。だがそれ以上に、早苗の思考と体と感性に、幻想郷の空気はとても馴染んだ。パズルのピースが合わさり一枚の絵になるように、早苗は自分がここにいることが自然であると思ってしまっている。
 なのにこうして、澄んだ空をぼうっと眺めていると、どうしようもないホームシックにかかってしまう。特に今は一人だからか、いつもより余計に酷い。幻想郷に来る前にあったテストの答案、駅前にあったお高いウナギの味、愛想の悪い近所のおばちゃんの顔、いつも耳を満たしていた水の流れる音。
 どうせ眠れないのなら、今日はもっとこの気持に浸ってしまおうという気になって、目蓋を閉じて更に故郷の思い出を記憶から掘り起こし始めた。初めてアニメに出てきたようなロボットを見れた日、その時のはしゃぎように少し困ったような顔をした両親の顔、告白をされたけど自分の特殊性故に断った苦い記憶、霊感があり神様はいると公言し気味が悪いと虐められた小学生の時代、その時にあった男の子との出会い。

「そういえば、この前もなー君のことを思い出しましたっけ」

 そっと目蓋を開ける。子どもの頃の淡くも甘い記憶。たった一年の大切な思い出。小学生の頃故にそこまではっきりとした顔立ちは覚えていないが、分かりやすい特徴は今でも残っている。少年の右手が人とは思えない鋼色をした義手であること、そして少年の恥ずかしそうなはにかみ笑顔と、ひとつの言葉。

「今頃、どんなことしてるんだろうなぁ」

 きっと大変なんだろうな、と想像の翼を広げて考えた。義手であること、父子家庭でしかも転勤を繰り返し、住居が一箇所に安定しないこと。これだけで常人とはまったく違う大変さを背負っているのだとわかる。加えて早苗は、かの少年が自分と”同類”であるということも知っている。
 もし、こちらに来る前に彼と再開していたならば、自分はどうしていただろうか。彼がいる向こうに留まるか、むしろ彼を引っ張ってこちらに連れてくるか。そんな詮ないたらればを考えて、くすりと笑ってしまった。いくらなんでも乙女チック過ぎるだろうという自嘲だ。

「ほんと、一人だと変なこと考えちゃう……?」

 ふと、鼻に何かがかかった。季節外れの羽虫だろうか、と思ったがすぐに違うとわかった。鼻先が氷に触れたみたいに冷たかった。たまらず払うと、それは地面につくまでに水に変わってしまった。

「雪……?」

 天を仰ぐ。人工の光に遮られない満点の星空から、雪が降り始め、更には虹がかかっていた。

「幻想郷では雲がなくても雪が降るんですねぇ」

 呑気にそんなことを呟いた。幻想郷では自分の常識が通じないことが多々ある故に、こういうこともあるのかと素直に受け取り、星空と雪と虹という、世にも奇妙で美しい光景にただただ見入っていた。どうせならもっと近くで見ようかと、大空に飛ぶために霊力を練り始めた直後、異変が起きた。
 異変は、唐突な地震だ。それだけならば、日本という地震多発国に住む人間特有の感性で、受け流すだけだった。だがその規模が大きく、しかも明らかに地面が変化が生じていると分かれば、異常だと判断するには容易かった。

「何っ……」

 揺れの震源地は近い、いやすぐ傍だ。境内へ飛び出し、普段から持ち歩いている札を構える。変化が起きているのは、昨日の夕方、神奈子と諏訪子が潜り込んだ辺だ。あの辺りは今後、地底への直通エレベーターを作る予定であるため、特殊な結界が敷かれていた。その中心がクレーター状になり、最奥部から煙と水が漏れ出していた。
 この現象に、早苗は心当たりがあった。そもそもその現象は、日本では僅かな場所しか見れないのだ。そしてその場所は早苗の故郷も含まれていた。

「これって……まさか、間欠泉? なら神奈子様たちが帰ってっ……?!」

 希望的観測を交えた言葉を漏らした瞬間、熱湯の水柱が轟音を立てて吹き上がった。故郷のものとは明らかに勢いと様子の違うそれに、早苗は驚きながらも宙空へ飛び、俯瞰するように様子を見ることにした。だがそれすらもまた、驚きに塗りつぶされることとなった。
 熱湯から生卵のようなものが飛び出すと一瞬で割れて、三つの影になった。一つは小学生ほどの小柄な少女、そして少女に抱きかかえられた男性、最後の一つは赤髪の少女だ。その赤髪の少女は空中で静止すると、間欠泉へと向き直った。早苗も釣られてそちらを見ると、三度目を見開いた。
 間欠泉の内から、どろりとした赤黒い粘液が溢れ出ている。一瞬それが何なのか判らなかった早苗だが、教師代わりの神奈子と諏訪子、そして自分の経験と風祝としての能力から、見当をつけることができた。

「まさか、怨霊? けど様子が……」
「侵入、禁止ぃぃぃ!!!」

 早苗が困惑している最中に、赤髪の少女が叫んだ。すると間欠泉は上から押し潰されるように地面へと戻っていき、やがて見えなくなった。だが小さな怨霊がお湯がすり鉢状の底からにじみ出てきており、ちっ、と赤髪の少女が舌打ちした。
 早苗は、この状況をまだ把握しきれていない。だがこのまま放っておくと不味いというのは理解した。故に、守谷の風祝いとしての能を行使することした。目を閉じ、自身の内にある霊力と神気を混ぜ、右手の中指と人差し指に集中する。その状態を維持し、心中で祝詞を唱えながら、五行を切る。
 五行は宙空で姿形となって顕現し、回転しながら、怨霊の蟻地獄に被さった。途端に、怨霊たちは失せ、ボコボコと沸きあがろうとしていた温水は今度こそ地中へと消えた。

「……助かったわ」
「あ、いえいえ、困ってる時はお互い様ですし……えっと」

 大きく息を乱していた赤髪の少女が、礼を述べてきたので、ついつい社交辞令的な言葉を返してしまった。よく見ればかなりボロボロであったが、身なりは河童に似ていた。だが気配は妙なもので、人間と河童と、それとよく分からないものが入り混じって判断しにくかった。
 ちらりと、先に降りた二人を見る。こちらもボロボロで、小さな少女の方はゴシックな装いがあっただろう薄緑の服を纏い、体をぐるりと囲む不可思議なケーブルと閉じた目玉、そして雰囲気から妖怪であることがわかった。男性の方は顔は隠れて見えないが、見るからに酷かった。およそひと目見て、生きてはいないだろうと思った。だがしかし、死んでいることが原因なのか、人間なのか別の何かなのか、判別ができなかったがどこか懐かしさがあった。

「あ、あの~貴方達は……」

 意思疎通ができるのなら、と二人の少女を交互に見ながら改めて声を掛けた。だがその直後、降りていた少女が、早苗に向かって叫んだ。

「助けて……縁ちゃんを助けてっ!!」
「へっ……?」

 そんな急に、と改めて小さな少女と、男性を注視した。妖怪らしからぬ、壮絶とも言える泣き顔に一瞬気圧され、そして次の瞬間、隠れていた男性/青年の顔に、思考と言葉を奪われた。
 それはついさっきまで自分が想い、思い出の中で描いていた少年とそっくりだった。いや、その顔は少年がしっかり成長すればこうなるだろう、という想像に近く、何より自分の中で、その死人同然の青年が、その人であると無意識の内に認めてしまった。

「……なー、くん?」

 呟いた幼なじみの名前は、妖怪の少女のわめき声と降り始めた雪の中でも、嫌に大きく響いた気がした。


 あとがき

 ここからが本当のエロゲ地霊殿だ・・・(第3章2回目



[7713] 第三十七話――主任<あ、そうなんだ。で?それが何か問題?
Name: へたれっぽいG◆eaa9c481 ID:4a2ca8d0
Date: 2016/06/25 19:44
 古明地さとりは、叫び声に起こされた。

「っっ、かl!?」

 鈍痛のする頭に、無理やり熱した棒を突き刺されたような痛みがさとりを襲った。息も出来ない痛みと苦しみにベッドから転げ落ち、そのまま何度も頭を床に打ち付けた。それでも痛みは中々消えず、開きっぱなしの口が急速に乾き始めた。水を、と周囲にある机を力任せに探るが、余計なものが落ちるばかりで、肝心なものが見つからない。
 このまま狂い死にそうだ、とありもしない死に方が脳裏に浮かんだ瞬間、ばたんと部屋のドアが開かれた。

「さとり様っ!?」

 声からしてお燐だろう。気心の知れた相手の登場に安堵剃るとともに、助け起こされながら掠れた声で求めるものを口にする。彼女はさとりをベッドに戻すと、部屋のどこかに置いてあった水瓶とコップを取り、すぐに水を入れてさとりに手渡した。鈍痛が消えない中、さとりは一気に水を飲み干すが、やはりは気分は優れないままだ。だが、あの叫び声はまだ続いている。燐の様子から察するに、この”声”は聞こえていないようだった。ならば、と意図的に自分の能力/心を読む力の範囲を狭めた。すると想像通り、”声”は小さくなった。どうやらこの”声”は何ものかの心の叫び声のようだ。
 そこまで推測してからようやく一息つき、顔にある二つの目を開ける。心配そうな顔をしたお燐がさとりを見つめていたので、安心させるために微笑みを返した。ただ、頭痛はし、気持ちの悪い汗がまだにじみ出てくるため、作った笑みはぎこちなかった。

「大丈夫ですか、さとり様……?」
「平気、よ……ちょっおと二日酔いが酷いだけ……それにさっきの声……」
「声?」
「ええ……っ」

 疑問を口にした途端、地霊殿が揺れた。夏に起きたものとは比べ物にならない規模のそれが建物内外を揺さぶった。調度品が崩れ、ペットの妖怪や動物たちがてんやわんやに慌てふためく。驚く燐に抱きつかれ、ベッドのフチを掴みながら、心を読む力を弱めてよかった、と妹のそれのように目蓋を細めた第三の目を見下ろす。

「「「さ、さとり様~」」」

 急な揺れが恐ろしかったのか、いつもは飼い主についているか欲望のままに動いているはずのこいしのお付三匹が、天井から現れ、さとりの胸に飛び込もうとした。すんでのところでお燐が反応し、回し蹴りの要領で蹴り返した。

「くっ、や、やるじゃないかストライプな失恋者……ぐぎっ」
「だまらっしゃい、こんな時に! さとり様に甘えたいなんて思う暇があったら、今どうなってるのか教えなさい!」

 不埒なことを口走ったカドルの腹に踏み抜くような燐のスタンプが決まり、その様に恐怖したダンとカニスがビシリと敬礼ポーズを取った。

「イエス、マム! どうやら灼熱地獄跡にいた霊烏路のバカに何かが接触したようです! その結果、怨霊たちが霊烏路に向かってます!」
「へっ……どういうこと、それ?!」
「……わかんねぇ……ただ、霊烏路の顔が、その、見えない」

 その言葉に燐は眉をひそめ、さとりはダンの言葉の意味をまとまりきらない頭で受け取った。ダンの能力を端的に言えば透視だ。天狗が持っているという千里眼ほどではないため、距離の離れた場所を見るときには正確さに欠ける。むしろ、灼熱地獄跡の最深部まで何とか見ることができたダンを褒めるべきだった。
 空に接触したという何か、それの出現に伴う怨霊の大移動。因果関係はまだはっきりしないが、あの声は大群となった怨霊か、その何かなのかもしれない、と自分の脳力を狭めることとなった原因に当たりをつけた途端、思考のために置いてきていた現実で地面が再び揺れ、バランスを崩しかけた。

「じ、地震!? また?!」
「こ、これっ、アイツがやったのか?!」
「ダンッ、どういう……ッ!!?」

 地震の最中、再び自分を叩き起こした"声”が聞こえ始めた。しかもそれは力を抑えているさとりにも無理やり聞こえるように強くなっていた。頭痛が激しくなり、顔中に吹き出物が現れたように頭が重くなる。現実の耳から届く、燐やカドルたちの言葉もうまく処理できない。こいし同様、妖怪覚としての力を消すほど能力を抑えられればよいのだが、そんなことをすれば古明地さとりの『妖怪・覚』という概念に揺らぎが生じる。この精神状態でそんなことになれば、よくてこいしと同じように別の能力に変化してしまうか、最悪は自身の消失だ。
 ならば、この”声”が収まるまで耐えるか、聞こえなくなるまで離れるしかない。さとりはすぐに、後者を選択肢した。

「っ、お燐、旧灼熱地獄跡に行って、おくうの様子を見てきて。カドルたちは、私を勇儀さんたちの元まで、できるだけ、ここから距離を離して……連れてって……っ」
「さとり様!? そんなに顔が青くなってるんだったら、アタイが……」
「っ、お燐! さっきダンは、怨霊が大量に動いているって言ってたわ……なら、怨霊を操れる貴女が行けば、何かの役に立つかもしれない」
「で、でも……」
「いいか、らっ!」
「ッ……カドル、ダン、カニス! さとり様を、任せたわよ!」
「「「言われなくても!」」」

 さとりの言葉に、燐とカドルたちがようやく動いてくれた。そのことにうっすらと笑みを作り、さとりは何とか繋いでいた意識を手放そうとし、直後に声によってまた起こされた。奥歯を噛み締め、痛みに耐える。

「は、はやく……l
「ハイ!!」

 燐が窓から中庭へ移動したのと同時に、カドルたち三匹がさとりの体を持ち上げ、そのまま能力を使って地霊殿の外へと飛び出した。なるべき地下から距離を取るため、三匹は地底の天井近くまで高く飛び上がった。うっすらと見える視界に、大地震に揺れる地底の都市全体が映った。上昇する途中、蒼い一筋の光が地霊殿の中庭に飛び込み、それを緑と赤のシルエットが追ったのが見えた。
 意識が朦朧として、何かをより思惟にするのは限界だった。後はただ、目を閉じ、耳を塞ぎ、妖怪の目を細めても聞こえてくる不快な音に耐えるしかない。

「さとり様、もうすぐです!」

 数分間か、はたまた数時間か、そんな体内時間が曖昧な状態になったさとりの塞いだ両耳の隙間からカドルの声が聞こえた。うっすらと眼を開くと、粉雪の舞う旧都の広場、そして驚きに目を見開いた勇儀がいた。何とかここまでこれたと考えた瞬間、不快な”声”が急に消えた。

「えっ……?」
「さとり様?」

 突然顔を上げた主人にカドルが声をかけるが、さとりはそれに気づかぬまま、地霊殿を振り返った。未だ痛む頭が更に殴られたような衝撃がさとりに走った。外見上はいつもと変わらぬ様子の我が家が、今は神々しい、と呼ぶべき空気を内側から発し始めていた。ありえないことだ。神気などというのは、神と呼ばれるものか、よくて巫女が纏い発するものだ。それが、そういうものとは真逆の性質を持つ地霊殿/旧地獄から立ち上るなど、ありえないはずだ。

「さとりっ!」

 はっ、と、意識を近くに戻す。いつの間にか大分降下していたようで、問い詰めるような勇儀と、いつの間にか傍に寄ってきていたパルスィが囲むようにいた。

「こりゃいったいどういう事態? あんたは顔が悪いし、地震が起きたと思ったらピタリと止むし……また縁が厄介事を引き寄せたの?」
「……いいえ、巻き込まれたのは、おくうの方……そのはず」

 さとりは視線を再び地霊殿に戻した。そこは見知った場所のはずなのに、なんだか自分の家ではないようだった。

「……嫌な空気がするなぁ。私が人間に騙されるちょっと前みたいだ……」
「それはよっぽどね、勇儀。まぁ私も、この状況では誰かに嫉妬する時間も作れそうにないわね」

 勇儀とパルスィも、各々の感想を声にしながら、さとりと同じ方向を見た。
 何かが起きてしまっている。さとりの家族を巻き込んで、何かが胎動している。そのことに悔しさと不安と、家族の安否の願いが同時に湧き上がり、両手を無意識に握りしめた。
 開かれた眼に戻った第三の目は、空の心も、燐の声も、こいしの姿も、縁の手も、何も移し、聞き、捉えてくれなかった。


 第三十七話『仄暗い記憶の底へ』


 そこは病室だった。現代人間社会の基準で測るのならば最小限の機能としかいいようがないが、清潔かつ患者の状態を常にモニタリングできる環境の整った、良質な場所と言えた。患者は布団に寝かされ、白く簡素な服に着替えさせられている。その胸と左腕にはチューブが伸びており、布団の傍に置かれた器具へと繋がっていた。患者の顔は死者と間違えるぐらいに白い。チューブを通って流れる薬液と、呼吸のための動作だけが患者を生きていると認識するための印だろう。だがそれでも、ペタリと伏せた右袖の空洞が、傍目から見れば遺体のような空虚さを与えていた。
 その、眠り続ける患者の横に座る、二人の少女。一人は普段とは違う、ダボダボの学生シャツのような服装をした古明地こいし。もう一人は普段通りの風祝の正装に身を包む東風谷早苗。二人はほぼ初対面で、言葉もまだ数える程度しか交わしていない。そんな二人を繋いでいるのが、本来胸に風穴を開けられ、即死したはずの患者/中邦縁だった。
 古明地こいしは、早苗が縁の幼なじみだとは知らない。東風谷早苗も、いつの間にか幻想郷に来ていた縁がこいしとどういう接点があったのかを知らない。だが、互いの様子から、中邦縁という存在が彼女にとってどれだけ大切/驚愕であった存在なのかは理解することができた。だからこそ早苗はすぐに、幻想郷でもっとも医療に長けていると思われる存在が診療所として門を開いている永遠亭に縁を運ぶよう伝えて案内し、こいしと、今はこの場にいないみとりも指示に従った。結果としてその判断は正しく、永遠亭の住人たちによって直ぐ様処置され、縁は死ぬことはなかった。
 
「ねぇ……」

 不意に、布団の端を握りしめたままだったこいしが呟いた。

「なんで縁ちゃん、起きないの? 何で心臓がないのに、息をしているの?」

 こいしの言葉は、早苗も思うことだった。早苗が縁の再開を果たした時、既に縁の胸元はポッカリと大穴が開いていた。即死だと理性は判断した。だが東風谷早苗という一人の少女としての思いと感情、そして風祝の感覚が、縁はまだ死んでいないと判断した。その判断が正しいかはまだ断定しかねている。ただこのような状態になってまで、中邦縁が肉体的には生きているという現象の要因には心当たりがあった。

「古明地さん……でいいですね? なーくんの右腕のことを、どこまで知っていますか?」
「こいしでいいよ、お姉ちゃんがいるし……変わってて、すごく力の強い、借り物の腕、ぐらい……ただ、何かが隠れているっていう、変な感じ」
「なら私のことも、早苗と……なーくんの義手には、彼のお父さんがなーくんを生かすために取り付けた、あるものがジェネレーターになってます」
「じぇね……?」
「機械……カラクリのための心臓、と思ってください。それが本当に小さいころ、交通事故で死にかけたなーくんの外付け人工心臓として、一時期なーくんを生かしていたと聞いてます」
「なら、それがないと縁ちゃんは死んじゃうってこと?」

 初めて会った時以来に、こいしが早苗の目を見た。早苗は一瞬、飲み込まれそうになった。底の見えない緑色の闇が二つ、そこにあった。飲み込まれないよう拳を握りしめて、次の言葉を吐き出す。

「いいえ、私と出会った時にはもうそれには頼らなくても大丈夫だと、神奈子様から伺っています」
「……じゃあ、今もそれがあるから……ううん、足りないから、起きてくれないの? ならわたしがそれの代わりを取ってくるから、何なのか教えて?」
「……それは無理です。だって、なーくんの腕にあったのは……」
「宇宙卵、いえ”龍神の卵”よ」

 声と共に部屋の襖が開き、縁の処置を行った女性、八意永琳がするりと入ってきた。赤と蒼の左右二色に分かれた服の上から白衣を纏い、背中に伸びる三つ編みにされた銀色の髪、そして知性と冷静さを理性的なまでに合わせた毅然とした表情が一介の医者とは根源からして違うことを現していた。その斜め後ろには彼女の弟子である鈴仙・優曇華院・イナバが、検診用の器具が詰まったケースを両手で持っていた。縁の学生服に似たブレザーに白衣を纏い、永琳より明るい銀髪を持ちながら、幼い顔立ちのせいなのか、縁と同程度の齢の少女にしか見えない。

「八意さん……やっぱり、分かりますか?」
「実物を見たのは初めてだし、”欠片”しか残っていなかったから確証はなかったけどね。だけど今なら彼がどうして生きているかは理解したわ」
「! 縁ちゃんは大丈夫なの?!」

 こいしが勢い良く立ち上がり、縋るような目で永琳を見た。幼い妖怪の必至な問いに、ふぅ、と一息着くと、こいしと早苗の患者を挟んで反対側に座った。鈴仙もそれに習い座ると、器具ケースを開いた。そこには何かの液体が入った注射器と、両端が鈍い針で出来たケーブルが収められていた。

「その前に確認させて。貴女達、私達が来るまでに彼の体を見た?」
「いいえ、動かしたら不味いと思って、直接触ったりもしてないです」

 早苗の返答と、こいしの首を横に振るという回答が帰ると、永琳は「少しショッキングよ」と注意を伝えてから、縁の上に掛けられた毛布を取り、その下にある服、そして肌に直接巻かれている、ただの呪いとはとても思えない、コンピュータ言語に似た文字がびっしりと書き込まれた包帯の一部をズラし、隠された部分を二人に見せた。
 早苗は、言葉を失った。

「……心臓に、機械が生えてる……?」

 それはおよそ、早苗の知る言葉では表現できないような有様だった。空いた胸から直接心臓が見えている。それだけでも可笑しいのに、右腕の方から伸びてきた虹色の粘液のようなものが心臓と周りの内蔵・骨にとりつき、そこから機械としか思えない鋼色や黒色の物体が生まれ、奇っ怪なことにその箇所から更に人間や動物のミニチュア染みた内蔵や手足・耳が生えて、心臓全体を取り囲もうとしているのだ。しかもそれは今こうして見ている間にもピクリピクリと動き続け、縁の内を侵食してるようにも見えた。

「私が処置しようとした時には、丁度この粘膜が心臓に触れた所でね。それに触れた途端、妖気やら量子波動やら神気やらがごちゃ混ぜになったのが溢れでて、心臓や骨の欠けている箇所を治し始めたのよ。おかげで私のやることは治療や手術じゃなくて、この気配が不用意に外に漏れないようにするだけよ」

 一緒に当たっていたてゐがトラウマを刺激されて気絶してしまったわ。そう括り、永琳は再び包帯で空いた胸元を隠した。それだけで急に溢れだした異様な空気が消え、ようやく呼吸ができるようになったと、早苗の体が勝手に深呼吸をした。そのことに早苗自身も驚いていた、それほどの圧が、アレから漏れていたのだと。横を見れば、こいしも胸元と、顔を青ざめ、浮遊する目のようなものに抱きしめていた。
 
「私から言うことができるのは、彼……中邦縁さん、だったわね? 中邦さんの体はとりあえずこのまま放っておけば”龍神の卵”が治してくれるわ。けど、起きるかは別よ」
「えっ……?」

 寝耳に水、だった。弾かれたようにこいしと早苗の目が永琳に向いた。その反応が分かっていたのか、永琳は首を横に振って、縁の頭に触れた。

「魂がないわ」
「っ、そんな……」

 早苗が悲鳴を漏らし、こいしの目が見開かれた。魂の入っていない人の体は、人間という生物の機能を持っただけの有機物だ。獣にとってそれを食えば腹を満たすことはできるだろう、だが妖怪などの魑魅魍魎にとって、魂と器である肉体の両方があって、初めて彼らの主な食事となる”人間の感情”は生まれる。即ち、肉体と魂は一セットで人間であり、どちらかが欠けていれば、それはもはや別の存在なのだ。
 故に、今目の前で眠っているのは、縁の形をしたただの肉塊に過ぎないのだ。
 それは、早苗にとって、そしてこいしにとっても、縁が死んでしまったことと同義であった。

「だけど、まだ繋がっている」

 だが永琳の言葉に三度二人の表情が驚愕に代わり、その間に永琳が縁の額にふぅっ、と息を掛けた。すると、淡い藍の糸がうっすらと見えるようになり、それが縁の頭から伸びていることがわかった。早苗はそれが直感的に、魂と肉体を繋ぐ蜘蛛の糸ようなものであると看破した。そして、もし魂が完全に肉体から剥離しているのならば、この糸自体無いはずだ、とも理解した。
 そこから言える事実は一つ。魂は今、肉体にはない。だが、この糸で繋がっているならば、助かる術はある、ということだ。
 隣りを見れば、こいしの顔にも、状況に対する疑問の表情は見受けられなかった。だが、その内に秘められたものまでは早苗は見抜けなかった。

「なら、まだ連れ戻せるってことだよね」

 えっ、と早苗が声を出すまもなく、すくりとこいしが立ち上がり、優しく縁の魂の糸に触れた。この糸の先に縁の魂がある、そこが地獄か旧地獄か、はたまたまったく別の場所かはわからないが、こいしは戸惑わなかった。

「待ちなさい、ただ糸を追いかけても彼の魂には辿りつけないわ」
「……どういうこと?」
「少し感知してみたけど、この糸の先で幾つかの次元にレイヤーが重ねられてるわ。私なら無理やり突破できるけど糸も壊しちゃうし、貴女のような妖怪では知覚すら不可能よ」
「次元……レイヤー?」
「えっと……つまり、境界みたいなもので隠されてる、ということですか?」
「そうね。東風屋さんみたいな外の子には、プロキシサーバーを複数経由しているって言う方がいいかしら」
「う~ん。逆にそれだと余計わからなくなります……」

 ちょっとした風邪や挨拶などでここに通った時、早苗が外の出身だったということを永琳や鈴仙には話してあった為、外の単語を用いてくれたのだろうが、IT分野は噛じった程度しか知識のない女子高生には逆に混乱するものだった。そしてこいしの方はそもそもただの妖怪なので、二人の言葉はちんぷんかんぷんであった。

「結論から言えば、助けに行きたいならこれを使うわ。うどんげ」
「お二人共、こちらです」

 師匠に愛称で呼ばれて半身前に出た鈴仙が、先ほど取り出した器具を二人の前に差し出した。このまま行っても無駄だと、言葉の意味は判らずとも、早苗の無意識を感じて悟ったこいしも座り直し、早苗と共に器具を見下ろした。それを確認し、鈴仙は一つ一つの道具を目で示しながら、その説明のため声を紡いだ。
 
「一つは、この患者さんと繋がるためのケーブルです。色々な情報を繋げるから針が太くなってます。もう一つは意識を深く沈めるための睡眠薬のようなものです。患者さんと繋いだ状態で使えば、患者さんの肉体と精神の中に精神体を投射して、魂の糸の中を通ることが可能です」
「つまり、縁ちゃんの魂の後を追えるってことだよね?」
「ざっくらばんに言えば。ただ、そういうことが得意な妖怪や能力を持っている存在ならともかく、風祝のような存在が行えばどんな不具合が出るかわかりません。それに問題があります。”龍神の卵”が、これにどんな影響が出るかはわかりません。それと、魂を見つけても必ず戻せるわけでもないですし……そもそも、仮にいままで言ったことを全てクリアしたとしても、これを仕掛けた相手の元に、精神だけで相対することとなります」

 それがどういう意味かわかりますね、と鈴仙は言外に目で、特にこいしを強く見ながら伝えた。妖怪は精神に依存した存在である。仮初とはいえ肉体がある今ならともかく、その有機質の膜すら取り払われた世界では小さな傷も致命傷と成りかねない。特に縁のこの状態はあからさまに人為的な現象である以上、精神を投射した先に、魂を握った犯人がいても可笑しくない。そうなれば戦いは必至となるはずだろう。
 しらず、早苗は鍔を飲んだ。幻想郷に来て日々目新しいことが一杯で自分の常識が通じないというのは理解してきている。そこには現代社会では遠ざけられつつある生死に関わる問題もある。弾幕ごっことて、一歩間違えれば命に関わるものだ。それでもまだ、早苗には外の世界の認識が残っている。故に一瞬、躊躇した。

「それだけ?」

 そしてその間に、古明地こいしは縁を救うための道具を安々と手にとった。鈴仙は目を瞬かせ、永琳はふぅと息を吐いた。

「一応聞くけど、貴女の能力はどんなもの?」
「無意識を操れるし、感じ取れるよ」
「なら、丁度いいわね。器具が一セットしかないからどっちかに選んでもらうつもりだったけど、能力的には貴女のほうが都合が良さそうね」
「あ、あっさり決めていいんですか師匠っ?」
「患者の身内が臓器移植に協力してくれるようなものよ。それより、貴女は準備を」
「は、はいっ」

 わたわたと鈴仙が動き始める中、早苗はただこいしの横顔を見た。自分が今、どんな顔になっているかは分からない。ただ、驚きと疑問の面が強いことは分かった。何故、そんな簡単に決められたのかと。だから、その疑問をまず、素直に口にしてみた。

「……怖く、なんいですか?」
「えっ? なんで?」
「だって、その……死んでしまうかもしれないのに」

 声にしてから、ナンセンスだ、と早苗は思った。幻想郷、そもそも妖怪と人間では、死生観が違うのだ。そもそも死の概念すらないものまでいる。僅か一日の間とはいえ、こいしが人間よりの死の概念も理解してくれていることはできているが、それが自身の知るそれに当てはまっているのか解らないのだ。
 だからこそ,この質問には、意味のない答えが返ってきても可笑しくはない。少なくとも、早苗が望むようなものは返ってこないだろう思っていた。

「……うん、そうかもね。私も、死ぬのはやだ。せっかく縁ちゃんに会えたり、お姉ちゃんと仲直りできたのに、それがなくなるのは嫌だな……けどね……」

 だがこいしは、自分より一回りも小さな体躯の妖怪の少女は、過去を懐かしむように一度目を閉じ、改めて早苗の目を見つめ返し、言葉を紡いだ。

「大好きな縁ちゃんがいなくなるのはもっと嫌なの」

 そこには、狂気も、無邪気さも、歓喜も、憂いも、それを飲み込んだ光を宿す目があった。
 それだけで、分かってしまった。ああ、この娘は、恋をしているのだと。そして恋に殉じても、それを受け入れるのだとも。

「盛り上がってるとこ悪いけど、こいしさんだっけ? ちょっと左手をだしてくれないかしら……そろそろ始めるわよ」
「ん、わかった」

 こいしが永琳に向き直り、言われた通り左手を差し出した。傍によった永琳と鈴仙が警告もなく細い手首にケーブルを突き刺し、次いで注射器を打った。痛みにこいしの顔が歪むが、悲鳴はなく、ただケーブルの先に繋がる、縁の体をじっと見ていた。注射器の中身が

「さて、薬は打ったから、後はケーブルが外れないように寝るだけよ」
「……ねぇ、お医者さん?」
「あら、それは私? 何かしら?」
「寝る姿勢は、何でもいいの?」
「ええ、浮かんでようが跨ってようが、これが繋がってれば問題無いわ」
「なら……」

 こいしはそこで、ゆっくりと立ち上がると縁の左半身側へと移り、その包帯の巻かれた左腕を取ると、そのまま枕にして横になった。

「うん、これが一番落ち着く」
「……師匠は問題無いとは言ったけど、寝にくくないの?」
「ううん、全然」

 胡乱げな視線を向ける鈴仙に、こいしは重くなる目蓋を抗わずゆっくりと閉じながら首を横に振った。

「……早苗」
「……何でしょうか」

 ゆっくりと目蓋を閉じていくこいしを、早苗はただ見守るしかなかった。本当なら、色々な言葉を掛けたり、もっと大事なことを考えなければいけないのに、何も出来なかった。

「あり……がとう…………」

 そして、紡がれた感謝の言葉に、ようやく今抱えている感情の正体に気づいた。気づいて、けれども今はこの場に相応しいと思えば、ただ膝に置いた両手をぎゅっと締めて、抑えこんだ。
 どこかで、そんな早苗の感情を代弁するように、遠雷の音が響いていた。外は晴れ渡った快晴であるにも関わらず。



 気づけば、こいしはどこともしれない空間を漂っていた。自分の体を見ると、ぼんやりと光る半透明体になっていた。この場所に長居しては自分がなくなってしまう、直感的にそれを把握したが、しかし自分のやるべきことのため頭からその考えを隅に置き、ここに来る前に見た糸を探す。
 それは自分の右手に引っかかっていた。そのことに気づいて、まずは安堵する。後はこの糸の先を追っていくだけ。そうと分かると、こいしは糸に手を触れながら、勢い良く飛び始めた。視線の遥か向こうには、淡く光る何かが見え、そこまで魂の糸が繋がっていた。そこに違いないと、ただただ加速する。
 ようやく、輪郭が見えてきた。中邦縁だ。体の右腕側があの時見た心臓のように侵食され、内側から別の生き物が生まれようとしているようにも見え、冒涜的かつ悲哀で痛ましい姿だった。ぐったりと身動きの取れない彼の体を引っ張るのは、金色の長い髪を靡かす女性だ。
 状況から察するに、縁の魂をいつの間にか連れ去ったのはあの女だろう。そう認識し、煮えたぎるような怒りを抱いたこいしだったが、すぐにそれを抑えこみ、縁の救出を再優先として、更に飛び続けた。

「これは、ひとりの少年の物語」

 視線の向こう側から、朗々とした声が響いてくる。

「少年は昔、片腕をなくして、半人半機(サイボーグ)になり、“繋がり”ました。それが起点」 

 喜劇を唄う吟遊詩人にも似た調子の声。せせら笑いにも聞こえるそれに、蓋をしたはずの怒りを沸々と湧き上がりそうであった。

「人ではなくなった少年は、しかし人間の心を持っていたため、不幸にも自身の変化に怖気ついた周囲の悪意に晒されました。そしてその時分に出会った男女を、親と認識しました。それが、最初の楔」

 響く言葉は、少年の物語だ。それに当てはまるのは、今この場には中邦縁しかいない。自分の知らない縁のことを晒しもののように話されるのは、本当に嫌だった。

「ただし、楔が打ち込まれたことを忘却されてしまいます。そんな少年が次に出会ったのは、現世では非常に珍しい、人と親しい神様たちと、神様に仕えることが決まっていた少女でした。それが、二つ目の楔」

 それでもこいしは、ただ前に進んだ。後数十秒も飛んでいれば、追いつくだろう。だがそんなこいしをあざ笑うように、金色の女が不意に手をあげると、その目の前に不可思議な穴が空いたのだ。その中はこの空間の色に似た、しかし別の性質を持ったもの。赤い目のようなものがまだ距離のあるこいしにすらぶつけられ、たまらず怯みそうになる。
 その中へ、無造作に縁の体を放り込まれた。

「二つ目の楔は無事なまま、少年は再び世の不条理、必然に巡り合わせ、怒りをぶつけました。その果てに出会った男女と友好を深め、恋と友情を知り、失いました。それが、三つ目の楔」

 こいしは、迷うことなく、その空間の穴/スキマに身を投じた。恐怖はあった。だがそれ以上に、このままでは縁を二度と手の出せない場所に連れて行かれようとしている、そんな悪寒がしたのだ。だからこそ、共に飛び込み、そこから脱出すればいいいと思ったのだ。

「そして青年へと成長していった少年は、二つ目の楔、そして起点と繋がる幻想の楽園、その“まつろわぬものたち”の住まう場所に墜ちました。これが楔か、それともまったく別の何かとなるか……それはきっと、彼にしかわからない。私はせめてそれが、幻想郷のためになればと、“願う”ことしかできない、非力な存在ですわ」

 背中に届く声は、徐々に楽しげなものに変わっていった。そんなことに気づかない程、こいしは必至になって、前を漂う縁に捕まえようと、ただ手を伸ばした。
 そして、その手が縁の体/右手に触れた瞬間、視界の向こう側から様々な光の奔流となって現れ、二人を飲み込んでしまった。途端、こいしの頭の中によくわからない景色や声、臭い、感情が入り込み、一瞬の内にこいしは気を失ってしまった。

「……ん、あれ?」

 そしてこいしは、ゆっくりと目を覚ました。視界はほの暗い部屋の中を映し出し、そこがどこだか頭がはっきりと認識しなかった。身を包んでいるものを見ると、薄緑のパジャマの上下に、花柄の掛け布団を被せていた。そのような布団は地霊殿にあっただろうか、などと考えていると、バンと大きな音を立てて、部屋の中に入り込んだ。

「こらっ起きろこいし! もう7時半だぞっ!」

 声の主は、縁だ。そこに妙なムズ痒さを感じながら、体を起こす。広くなった視界に、ふと違和感を覚える。旧地獄の朝は、このように明るかっただろうか。地霊殿に、こんなにも動物のぬいぐるみが置いてある部屋はあっただろうか。自分の部屋に、縁の着ているそれに似たブレザーの女性服は掛けてあっただろうか。

「もうそろそろ飯食わねぇと学校遅刻するぞ?」

 見慣れたものよりパリッとした学生服の上にエプロンをした縁に対し、こいしは違和感を覚えながらも答えた。

「うん、わかったよ、'お兄ちゃん’……あれっ?」

 言って、小首を傾げた。自分はお遊びでしか縁のことをそう呼んだことがないのに、今はすらりと言葉にできてしまった。むしろそれが、自然のように思えた。

「どうした、まだ寝ぼけてるのか?」
「う、ううん……き、着替えるからちょっと先食べてて」
「おう、あんま遅れんなよ」

 そういって縁が部屋を出てドアを閉めると、こいしは奇妙な予感に従いながら、光を遮るカーテンと窓を一気に開け放った。途端、強烈で懐かしい光がこいしの視界を焦がそうとし、たまらず腕で光を遮った。それにすぐに慣れた、腕を下ろして、光の先にある景色を見た。
 太陽が燦々と輝く青い空に、空を遮るケーブルと鉄塔、それにぬるりとして雑なものが混じった風。ガヤガヤとした賑わいが石造りや木製とは違う家々から遠い喧噪のように聞こえ、もっと遠くからは聞いたこともないのに慣れ親しんだという奇妙な気持ちが湧き出すがたガタゴトという音が響いてくる。
 縁からは、何度か聞いたことがある景色。外の世界が、こいしの視界に広がっていた。


割とどうでもいい設定:

注射器に入っていた睡眠薬:
 八百比丘尼の遺骨を粉末状にしたものを使うことにより、一時的に八百比丘尼の能力を利用・再現するための"薬品"。八百比丘尼はその任を後継に授けるとき、夢を利用して歴代の比丘尼の記憶や経験を共有する。その際、八百比丘尼と後継者は同じ夢というスペースに意識を移動することになる。本来は永琳が肉体的治癒に精神的な病を克服する必要がある患者用に作った薬であり、今回使用されたのはその余りである。



[7713] I-0
Name: へたれっぽいG◆12966735 ID:a2573ce4
Date: 2012/11/08 01:59
「これは、ひとりの少年の物語」

 金色のビロードを広げるように、自身の髪を不可思議な世界の中でなびかせる八雲紫は、謳う。彼女が歩む場所のない虚空を踏むごとに、この空間を占める極彩色と、深淵へと繋がる目玉たちは増えて、消える。水中にでも舞台があるといわんばかりの振る舞いで、ある場所へと進む紫の顔は、彼女を知る誰しもがそうと判る胡散臭げな雰囲気を持ちながら、しかし同時にらしくもない不安を孕んでいた。

「少年は昔、片腕をなくして、半人半機(サイボーグ)になり、“繋がり”ました。それが起点」

 右腕に広げた扇子の舞いは、優雅そのもの。彼女の親友である桜の歌姫とはまた別の趣を持つ舞踊は、八雲紫の本質を外側に表質させたものだった。そして左手には、風船よりも軽く浮かぶ、一人の青年を持っていた。裸体となり、意識なく目蓋を閉じた青年の右手は、奇妙なものだった。

「人ではなくなった少年は、しかし人間の心を持っていたため、不幸にも自身の変化に怖気ついた周囲の悪意に晒されました。そしてその時分に出会った男女を、親と認識しました。それが、最初の楔」

 その右腕は、あえて言葉に表すならば、無機質の卵の殻の内から伸びる、有機質の茎と枝。茎はトカゲの胴の様でもあり、枝は鳥類や軟体生物のようでもあった。およそ人間とは、いやそもそも生物かすらどうかわからない、ただの“もの”としか言いようのない、混合物であり原初である状態となった腕。

「ただし、楔が打ち込まれたことを忘却されてしまいます。そんな少年が次に出会ったのは、現世では非常に珍しい、人と親しい神様たちと、神様に仕えることが決まっていた少女でした。それが、二つ目の楔」

“もの”は一体となっている青年の肩にまで広がり、それは徐々に胸部と頭部へ侵食していく。特に胸部への侵攻は目に見えるほど早い。焦っている、とも取れる侵食速度は、その体の真ん中にぽっかり空いた風穴の存在を危惧しているようだった。

「二つ目の楔は無事なまま、少年は再び世の不条理、必然に巡り合わせ、怒りをぶつけました。その果てに出会った男女と友好を深め、恋と友情を知り、失いました。それが、三つ目の楔」

 青年の体を人以外のものに変えながら、侵食はついに風穴に到達し、ゆっくりと同化することで埋めていった。紫はちらりとその様子を確かめると、そっと手を掲げた。召使のように、神隠しの主犯の進行方向に広がった境界/スキマに、そのまま青年を流し込む。
 青年の身体には、どこかに通じた光る糸があった。それがある程度入ったところで、紫はスキマを閉じようとした。そのままスキマによって千切れるかに見えた糸は、しかし次の瞬間、遥か彼方から飛んできた人型の光が青年の入ったスキマの向こう側へと飛び込むと、スキマが閉じたにも関わらず、淡い光を宿しながら存在していた。
 一瞬だけ見えた人型にしばし目を瞬かせたが、しかしすぐに顔をいつもの胡散臭い、だが今度は先ほどとは違い、常の調子を取り戻した様子で、どこか楽しげなものを孕ませたものに変えた。

「そして青年へと成長していった少年は、二つ目の楔、そして起点と繋がる幻想の楽園、その“まつろわぬものたち”の住まう場所に墜ちました。これが楔か、それともまったく別の何かとなるか……それはきっと、彼にしかわからない」

 紫は新たに生み出したスキマに腰掛けると、そのままするりと境界の向こう側へと落ちた。重荷がなくなったような身軽さだった。

「私はせめてそれが、幻想郷のためになればと、“願う”ことしかできない、非力な存在ですわ。ふふふ……」

 そして最後に、八雲紫を八雲紫と定義してきた、聞くものに疑惑を残す笑い声を響かせて、スキマを閉じた。




【i、ポインタ】

 
 目を覚ましたのは、何かに急かされてだった。

「……っ!?」

 戸惑い、跳ね起きる。同時ににじみ出た脂汗に構わず胸、心臓のある辺りを両手で叩く。少々汚れた程度の学生服は、たった今作られたばかりのシワに抗議するように、ボタンに映る“月”の光を縁の目に返した。それでもすぐには信じられず、目で見て、何度も手で確認する。
 異常はない。“破れた跡”や“補修した跡”、“明らかに触り心地の違う箇所”も、ましてや怪我などがない。あるとすれば、背中や袖についた土ぐらいだ。悪寒と脂汗と共に、違和感が増す。それに従うように、“まったく無事な、手袋をつけた”右腕を見、そして天を仰いだ。
 そこには“月”が輝き、“満天の夜空”が広がっていた。初秋の、夏の第三角形が半分以上も地平に呑まれている、季節の移り変わりに相応しい景色。そしてその狭間には、人が今の文明世界の血液としている電気を循環させるための電線が、四方八方、家々を跨ぐように張り巡らされている。
 違和感がまた強くなり、同時に、懐かしさと、奇妙な感動と、不快感と、狭苦しさを覚えた。一言でそれらを包括するならば、“ズレている”、と言うしかない。インファンス/幼さ故に持つ世界に対しての疑念にも似たそれだが、しかし月を見上げている内に、訳もわからずに、涙が出てきた。

「っ……何で泣いてんだよ、バカじゃねーの」

 男が泣くなんて、情けない。口ではその、普段なら当然とばかりの思いを吐露したのに、身内に宿るものは、唐突に泣き出した自分を受け入れていた。違和感が気味の悪さと溶け合い始め、気分が悪くなった。このまま一度どこかで吐いてしまおうか、と考えながら、学生鞄を持ち上げる。
 だが、予測していたよりも軽がると持ち上がった鞄に、また違和感を覚え、急いで中を確認する。借りた本や漫画、勝手に入れられたのだろう小道具、有沢重工の扇子。目ぼしいものはしっかり入っていた。気のせいか、と未だに不快感を覚える不可解な自分を無理やり納得させて、顔を上げた。
 そこは見慣れた公園だ。だだっ広くて、土管が積み上げられてて、子どもが遊ぶには丁度いい広場。その中央には、“空間の裂け目”などという異常なものは、ない。

「……何考えてんだ俺、さっさと帰るか」

 肌に入り込んでくる秋風にすらズレを感じて、止まらない汗を腕で拭うと、帰路へと戻った。今日は久々に父親が帰ってくるのだから、たまにはのんびりさせてやるか、などと“いつも考えていただろう”ことに逃避しながら。
 中邦縁が、右腕が義手ということ以外はどこにでもいるだろう学生が去った公園は、ただ黙して夜が更けるのを待っていた。そこには和洋折衷の服装を纏った妖艶な美女も、始まりとなる出来事も、存在しなかった。


あとがき(注意)

2012/11/08 正式な更新ではないので、sage更新とさせていただきます。



[7713] 作者<騙して悪いが……本編じゃないんだ
Name: へたれっぽいG◆eaa9c481 ID:f33d8d16
Date: 2011/09/13 02:11
※注意ッ!


・これはNGシーンの寄せ集めです
・版権ネタが意図的にしこまれています
・一部深刻なコジマ汚染が発生しています
・特定のキャラがクリア後使用になっています
・作者が出現します
・盛大なネタバレがあります
・台本形式です
・いつもの文は存在しません
・時系列も存在しません
・「まぁ、ありじゃないか」という扇動家の方のみ、飲み物を口に含みながらご覧ください
・吹いたら負け
・ゆっくりしていってね!
・ただしみょん、テメーはダメだ





・プロローグ/空き地より


縁「………まさか放課後にやっていた『ドキッ☆ギリギリ時期ハズレの怪談大会~ぽろりはないよ~』が今更効果を現すとは」

 ガサッ…背後からの音。不自然な草の吐息。

縁「誰だ!?」

 振り返る縁。そこには……





興<遅かったじゃないか……  尻を貸そう>干



 バケツを被ったようなマスクをした男、アンテナのようなものが頭である男が、ガチムチでテッカテカの体をブリーフ一丁で守りながら、縁に迫っていた。
 ちなみに、もっこりしている。ナニが。



(°Д°)……

縁「レイヴン、助けてくれ! 化け物だ!!」
燐「ちょっと誰よ、興と干を楽屋に入れたのは!?」
紫「あらら、うふふ」
こいし「わたしがもうらはずだったのに勝手にとらないでーー!!」
縁「言い争ってないで助け、アッーーーー!!!」



 縁の貞操が終了したのでカット




・プロローグ/縁落下シーンより


 
空「うにゅっ!」
燐「おくうーっ!」

 突然空から落下してきた人影……ああもう面倒くさい、とにかく降ってきた縁がそのまま⑨(おくう)へと激突し、そのままくんずほぐれつで倒れてしまった。妬ましい……

空「……あ、え、あっ」

 そのまま気絶せず起きていた空が見たのは、胸を触りながらスカートに頭を突っ込む縁だった。妬ましい……

空「……///!! きゃぁあぁああああ!!!」

ボキャァツ!!「ふげっ」ガキィン!!!「ぬふぅ」メメタァ「やっだ、ばぁぁぁ!?!」

 グ○ンラガンのロージェノムよろしくなコンボを叩き込んだ⑨が最後に縁を拳で打ち上げると、その手にスペルカードを持った。

空「お願い力を貸して!!」
燐「あ、さすがにそれは……」

 空の姿が変化する。あれにあれがついたり背中に何とかがついたりしまいには某所に素敵なものがくっついたり。ただしその分パワーは上がりまくって倍率ドン! 更に倍! 状態である。

空「『(ぴー)符「(見せられないよ!)」』!!!!」

 人類では到達できない宇宙創生的な光が生じ、縁は考えるのを止めた。


十一「死んだ! エロゲ地霊殿完!!」
燐「あんたも何で勝手に殺してるのよ」
十一「いや、台本にそう書いてあって……」
燐「作者ちょっと出てきなさい」
空「うぅぅ……恥ずかしいよぉ……ああいうのは夜だけにしてほしいよぉ……」
縁「……(返事がない、どうやらただのカーズ様のようだ)」


 作者がお燐にフルボッコにされたのでカット




・第一話/縁の夢の中で


 幼い縁とその父がいる。父は息子に、優しく語りかけていた。

父「縁…よく聞いてくれ」

 そうして、何かの決意を固めて、自分の頭に手をやった。そして、とった。

父「実は父さん、ズラだったんだ」

ΩΩΩ<な、なんだってぇーー!!


 撮影どころではなくなったのでカット



・第一話/広間にはいったシーンより


さとり「ふふ、そうですね…どらま、というのはわからないですが、その男と今の貴方は丁度同じですね」
縁「だろ?」
さとり「けど安心してください、貴方の心を読めるのはこの館には私一人しか……」
縁「ん、どした?(アドリブか?)」
さとり「……ちょっとカットを……少し中に入らないでくださいね」
縁「あ、ああ……」

 そうして中に入っていくさとり。ご丁寧に縁に見えないように開け閉めも行ったので中は見れなかった。
 が、しかし。

縁「見てはダメだと言われれば、見たくなるのが男の心情!! 俺の右腕は、ロマンを貫く腕だぁぁぁ!!」

 無駄に扉を右腕で壊して(修理費:縁持ち)部屋へと侵入する。
 そこにいたのは、本来あや取りをしているはずの三人だったが……

四人「あっ……」
縁「……どういうことなの」

 縁が見たもの、それは!!

縁「……なんで空があやとりの糸で亀甲絞り状態なんだよ……」

 しかもそれを解こうとしている三人は、傍から見れば空を襲っているように見えるのだ! 衣服乱れているし。
 ×××板直行確実なあられもない姿を見られて顔を赤くしていく空とは対照に、作者とスタッフ同様心の中で●RECをかけていた縁は、ゆらりと立ち上がった燐の背後に死を見た。

燐「乱入してくるとはとんでもないやつね……」
縁「お、おおおおおもちつけ! これはふかこうりょ……」
燐「小便は済んだ? 閻魔様にお祈りは? 部屋の隅でガタガタ震えて汚染患者になる準備はOK?」
縁「いろいろと間違って、て、Wコジマフィンガーはまず……」
燐「死ねぇ!!」


 テーレッテ-/オーモーイーガー/デーンデーンデーン/シンクノソラー


 縁とスタッフが天罰を食らったのでカット




・第二話/さとり説明シーンより



 この幻想郷は忘れられたモノたちの楽園…貴方の居た世界において、消えて、幻想となったものや場所が集まる世界です。結界という壁で隔離された箱庭、そう頭の中で思い浮かべてもらえればけっきょれふ………だから貴方のいた世界のことを外と呼びますし、貴方のように外から迷ひょいこんできた人のことを……がい、がい………そう、外来人といいます。そして外の世界では既にいないと言わ……いわ…言われている存在と……私たちのような妖怪と呼ばれるものなどが数多くい……

さとり「ああもう、ここ台詞長すぎます! もう少し短くならないんですか?!」

 さとりんが台詞を噛んだり忘れたりしたのでカット



・第二話/さとり思考シーンより



 ……それを考えるならば、中邦縁の存在は、さとりの良心を持ってしても邪魔でしかない。故に彼に会った当初は、ここのことを教え一晩泊めた後、無謀な地上への道を危険性を言わずに教えて地霊殿から出すつもりでいた。
 だがしかし、さとりの声は彼がここに住めるよう取り計らっていた。もしかしたら数日中にはいなくなるかもしれないが、考えを纏める猶予ぐらいの間は居てもいいと言ったのは確かだった。

さとり「……………」

 何にとは思わない。彼と話している時の自分の心を思考しつつ、思いだすのは、一瞬恐れ、一瞬驚き、そして恐れを徐々になくし………あれ?

さとり「……ええ、忘れました。また。もう何度目ですかね? ほら、笑いなさいよ、そこでこいしが笑っているように。笑えばいいんです、ほら笑いなさい、笑っていいといってるんです、ほら笑って! アーハッハッハッって!」

 アーハッハッハッハッ!!!


 台詞忘れが多いさとりんのせいでカット



・第四話/仲直りのシーンより


 
「全部は許さねーからな」
「わかった、けどちゃんと返すさ。その右手の重さ分は」
「言うなお前も。安い挑発か?」
「お互い様だろ」

 それだけ言って、二人はぐいと酒を呷った。
 そんで、ぶっ倒れた。

勇儀「あ、いっけない。二人に渡したの秘蔵の『神主殺し』だった」
燐「『神主殺し』は……まずい……」


 
 二人が急性アル中になる前にカット



・第五話/縁の荷物のシーンより


縁「うっわ、こんなものまで入れてたのか…」

 そういって縁はぽいっとベッドの上に道具を置いた。その横では燐と空が何かの本を一緒になって、真剣によんでいた。

縁「あれ、空って少年トーラス読んで……って、なんでそれがあるんだーー!?」

 二人が読んでいたもの。それは縁の部屋に置いて(隠して)あったはずのエロ本である。例えどんな異化効果を使っても、それはエロ本である。

燐「……あんたって、こういうのが好きなのね」
空「うわっ、これ見て……こんな体勢で入るんだぁ……」

縁「そんな目で俺を見るなぁぁぁぁ!!」

空「あ、これ試してみよ……」


 この後、縁は燐の目によって(心に)深刻な打撃を受けたのでカット



・第六話/空へのチャレンジより


 店から顔を出した空は、変な体勢の縁を見て、疑問を口にした。

空「……何してるの?」
縁「そ、空を飛ぼうと、してんだよ……」
空「シャ○ホッドみたいだよ」

 縁はずっこけた。別の意味で。ついでにそれを聞いてしまった他の妖怪たちもずっこけた。


雷電<呼んだか?
勇儀「タイム・パラドックスが起きる前にさっさと帰りな」


 伝説の蛇の一味が幻想入りしそうだったのでカット



・第七話/こいしの首締めシーンより

縁「なに、をっ……!」

 マウントポジションで縁の首を締め始めたこいし。ぎりぎりと徐々に込められる力が強くなっていき、それに合わせてどんどん縁の顔色も悪くなっていき。
 ボキン、と奇麗な音が鳴った。
 縁は泡を吹いて白眼を剥いて、カクンと落ちた。
 即死である。

こいし「あ、殺っちゃったZE☆」
燐「誰かーVOB持ってこーい!!!」


 縁が月の頭脳のいる診療所に運ばれたのでカット

※VOB……全高12メートルの人型ロボットを時速2000キロメートルの世界に連れていく素敵ブースター。常人は死ぬ。



・第七話/三匹登場シーンより

縁「どわっ」

 そんな昭和の香りがする熱い連中でも言わないような戯言を言って地面の中に潜った縁。しかしこの空間に誘ったものの声は聞こえず、はてどうしたのかと周囲を見まわす。
 そして見つけた先にいたのは。

黒「見えたっ!!」
青「縞パンだと……許せる!!」
黄「ヒャッハー! 丸見えだぜぇぇ!!」

 隠されし大秘境を思う存分見上げて歓声をあげる崖下紳士たちだった。彼らの興奮具合を端的に言えばE3でメタルギアソリッド4が発表された時の外人と同レベルというところだろう。
 仕方なく、縁も注意しようとして彼らの元までいった。だがつい、上を見上げてしまい。

縁「ガーダーだと……ありえるのか、こんな姉御キャラが……」

 崖下の仲間入りをしていた。

燐「……」
空「……」

 
 燐と空のコンビによって四匹のバカがレア(焼き加減的な意味で)になったのでカット



・第八話/回想シーンより

 ぶっちゃけ三度もおんなじネタを使うのはまずいのでカット

さとり「だったら最初から使わないでください!!!!」



・第⑨話/アバンより

 互いがスペルカードを取り出すため、懐に手を入れ、そしてそれを開示した。

「……」
「……」

 が、互いに出したのはスペルカードとは似ても似つかなかった。
 まずこいし。何がどうなったのかわからないが、どこぞのブレイドなライダーが持ってそうなカード。こいしには変身ベルトも、カードをいれるための装置もない。
 次、縁。こちらはもはやカードの形もしていない、しいていえば四角い形をしていた。その中央には液晶画面がついている。見る人が見ればわかるが、どこぞの選ばれし子供たちの持ってるものと同じである。

こいし「……変身!!」
縁「俺、進化!!」


 何も起きなかったのでカット。



・第十三話/縁と燐落下シーンより


 空の震える叫びが聞こえる中、鼓膜をやられ、目を回す燐を抱きかかえ、縁は重力に逆らうことなく、瓦礫とナマモノたちと共に更なる闇の奥へと落ちていっ……こうとして、何かに掴まれた。

縁「あん?」

 縁が自分の足を掴んだ、妙にぬめぬめしたものを見下ろした。しかも妙な浮遊感まであるのだ、もしかして飛べた? なんていう希望的観測なんて持ち合わせてはいない、むしろあのド変態たちに追われた時以上の危機の予感だ。
 はたしてそこにいたのは。

 テ・ケ・リリ?

 つぶらな瞳がキュートな旧支配者の下僕のでっかいバージョンだった。

縁「ちょ、おま、さすがにこちうはやば……てうわ服の中になんかぬめぬめが、つーか俺は男だから読者サービスになんないだろぉぉぉ!」
燐「ふあ、ん、ぁ……な、何よ、ちょっと気持ちぃ……ていや、ちょっとこれはシャレになら……」

 らめぇぇぇぇぇぇぇぇ!!

空「うわぁ……」
こいし「え、縁ちゃんのって、あそこまで……」
さとり「(ゴクリ)」


 スタッフが助けるまで男性用なのか女性用なのかわからない18禁シーンが続いたのでカット。


・第十六話/さとり料理シーンより

さとり「そう、ですね。それじゃあフレッチャー、お願いします」

 さとりの表情の中に緊張の筋を入り、お盆に乗せていた料理をフレッチャーの前に置いた。底の深いフチが抹茶色をした食器、その中にあるのは……ナマモノだった。

フレッチャー「……」
さとり「……どうぞ」

 もはや名状しがたい怪物とかブルーベリー色をしたツナギの男とかコジマ粒子研究施設の内部にでもあるようなカオスの権化となっている料理(?)に対し、沈黙以外の何も返せない偉大なる何とかのカモメ。さとりの顔もまた、ほどよく青紫色に変わりつつ脂汗が額に滲んでいるが、食器をフレッチャーに対して寄せてくる。
 フレッチャーは無表情に、しかしその身体全体から覚悟完了という威圧感を無駄に出しながら、右翼にいつの間にか取りだした箸を器用に使って、元じゃがいもと思われる見た目アクアビットのド変態共謹製ホビロンを一つ摘む。
 そして「コジマァ……コジマァ……」などと奇声を発するそれを、一口で飲んだ。

フレッチャー「……ウェンズディッッ!?!」

 ドサ。フレッチャーは死んだ。メシマズ(笑)

さとり「誰ですかこんな台本作ったのはぁ!?」


 フレッチャーがガチで死に掛けたのでカット。


・第十六話/みとり初遭遇シーンより


縁「えっと、河城みとりさんだよな?」
みとり「そうよ」
縁「(あれ、アドリブか?)俺は中邦縁っていって、勇儀からの……」
みとり「……進入禁止、音声遮断」
縁「うお、おいみとり、何いきなり人を閉じ込め……っ!?」

 唐突に退路を断たれた縁がみとりに抗議しようとした瞬間、赤い影が縁を押し倒た。
 その目は、獲物を見つけた狩人だった(性的な意味で)

みとり「ハァハァ……今なら誰もこない……しかも久々だし……絞り尽くしても、誰も文句はないはず……」
縁「え、何これ? 俺腹上死?」
みとり「大体八十年ぐらいはイチャイチャするから死なせないわ」
縁「oh…って、お前今ぜってぇ並行世界出身だろぉぉぉぉ盛んじゃねぇぇぇ!!」

 こいしと十一が到着した時には逆レイプ(事後)の構図が出来上がっていたのでカット。




燐「で、これってオチなんてあるの?」

 そんなものはにぃ


 了



 あとがき

 ギャグセンスがないのにコジマ中毒禁断症状に陥ったのでついカッとなって書いた。反省はしている。
 あと、吹いたら負け。





[7713] 作者<キャラショウカイ……デデデストローイ、ナインボー 
Name: へたれっぽいG◆eaa9c481 ID:f33d8d16
Date: 2011/09/13 01:45
スーパーキャラ紹介タイム

・ネタが含まれております
・三十二話(第二部終了)までのネタバレが含まれております。
・原作のネタバレが含まれております。
・ネタが含まれております。大事なことなので二回言いました。
・少々箇条書きになっております。



○巻き込まれ型と首突っ込み型とがいろいろ混ざった自称一般人

 中邦 縁(なかぐに えにし)

 種族:人間
 能力:縁を見る程度の能力?
 区別:オリ主

 とある妖怪の事情に巻き込まれ、更に事故と不確定要素によって幻想郷の旧地獄に落ちてしまった外来人。右腕が義手なのは幼いころの事故のせいである。性格は前向きで結構単純バカな面があるが、基本的に困ってたり泣いていたりする人のことを放っておけない。過去にいろいろありすぎてこうなってしまっている。
 どうみてもただのエロゲの主人公です、本当にありがとうございます。
 
 幻想郷に来てその文化や種族の違い、考え方や遊び方に驚きながらも順応していっている。ついでに女の子とも仲良くなっている。だが一時期は徹底的なまでの敗北と自覚のなかった疲労、及び記憶の想起により妖怪たちを拒絶し、自暴自棄になりかけたが、妖怪たちのお節介や偶然の出会い、そして忘れていた思い出を取り戻すことで乗り越えた。 
 霊烏路空とはこの時の騒動以降、恋仲である。MOGERO

 弾幕に関しては、右腕を媒介に霊力(人間の霊的エネルギーが変換されたもの、妖怪にとっての妖力)で構成された第三の腕と、左手からも撃てる弾丸型のものがある。腕型は伸縮自在で形もそれなりに変えられるので、腕としての汎用性は高いが遠くへ飛ばすという意味での弾幕としてはイマイチ。
 また、全てに繋がる線を見通す目という、弾幕ごっこには非常に有利になる能力のようなものがある。以前までは、縁が極度の興奮状態(穴<いわゆるピンチです☆)にならないと見えず、日常生活ではあってないようなものだったが、現在はある程度コントロールできる。

 縁の見る“線”は意思とものとの間にある「アウラ」(W・ベンヤミン的解釈に則る、漫画では『ぼくらの』に近いのでそちらを参考)を縁の意思/魂がもっとも具体的かつわかりやすくした形であり、それが縁とくっつかどうかを見定めることができる。今はまだ自分にぶつかったり関係があったりしなければいけないが、将来的には他者と他者の間の線も見通すことができる。
 だが直接覚醒後の縁と戦った河城みとり曰く「本来の能力の副産物」または「それとは別のまったく違う力」があるらしい。

 ある特定期間における記憶が曖昧である。
 また、義手の中に“何かがいる”ことも自覚している。




○何だかんだでだよもん星人化している地霊殿の地獄鴉

 霊烏路 空(れいうじ うつほ)(通称:おくう、別名⑨、お⑨)

 種族:地獄鴉
 能力:死体を燃やす程度の能力(※)→???を操る程度の能力
 区別:原作キャラ・六面ボス

 地霊殿ができる前から、灼熱地獄に住んでいた妖怪。地霊殿設立以後はさとりのペットとなり、お燐と親友になる。
 最初はこいしやさとりに対し狼藉を働かないかとお燐と共に縁を見張っていたが、しかし十一との喧嘩を契機に彼を信じ始め、今ではその隣りで一緒に行動することが増えてきた。
 だが仕事をサボっていたので他の灼熱地獄を管理する妖怪から怒られていたりもするが、別に関係もないので省略。

 基本的に鳥頭の単純☆⑨だが、こうと決めたことはそうそう曲げない、バカはバカでもよい方のバカでもある。
 だが第二部の途中からは後述する病のせいで自身の内側への問いを深める機会があり、少々ながら頭がよくなったかもしれない。
 
 中邦縁とはみとりとの戦いをへて恋仲となる。だが本人は自覚していないが、意外と嫉妬深い。

 第二部終盤ではみとりとの事件で致死の病を負う(脳に直接特殊な“波”を数万も叩き込まれ、それが二週間ピッタリで一箇所に集まり、エネルギーを爆発させる。ガンマ線によるガン治療を思い浮かべるのがもっとも近いイメージである。元ネタは『銃夢lastorder』より)。この病気は伝播するため周囲への被害が出ないよう、例外的なことが起きる以外は、基本的に灼熱地獄跡の奥で浮かんでいる。

(※)死体を燃やす程度の能力(オリジナル、独自設定)は地獄鴉としての能力が灼熱地獄に長居しすぎたせいで変異した能力。その副産物として、灼熱地獄の炎も多少は操れるようになっている。
 



○地獄の輪禍とか呼ばれてたけど今はそんなに働いていないお調子者の猫

 火焔猫 燐(かえんびょう りん)(通称:お燐)

 種族:火車
 能力:死体を持ち去る程度の能力
 区別:原作キャラ・五面ボス

 おくうと同じく地霊殿設立前から旧地獄に住んでいる火車。本来は死体運びやネクロマンスなどが得意で死体愛好家であるが、縁がきてから監視にかまけて自分の趣味をあまりやっていない。性格は陽気なお調子者であるが、縁にはどうしても最初の警戒心があってか、冷たく当たってしまう。
 よくおくうと行動するが、最近おくうは縁と行動するようになったので、お燐もそれについていくことが多々ある。そのたびに縁とちょっとした口喧嘩のようなものをしてしまう。ツンデレっていった人、先生怒らないから手を上げなさい。
 しかし最近は縁に力の使い方を教えてたりと、こいしの事件の時以降、彼を認めている節がある。それでも二人きりになってしまうと(ry そしてツンデレって言った人(ry

 縁の存在を疎ましく思っていた本当の理由は、自分の居場所をとられかねないかと危惧する心と、縁を受け入れようとする思いが無意識に葛藤していたからであるが、第二部の迷宮編にて、共闘とピンチを共に乗り越えたことで縁のことを認める。同時に、縁のことを意識しだしてしまい、やはり表面的な態度は変われずにいる。ツンデレって(ry

 二十五話にて縁の言葉から自らの想いを自覚、同時にそれが叶わぬものであると知り、火焔猫燐の奇妙な恋(ルート)は終わった。以降は親友を任せるに値するか、良き女友達としてのスタンスを取ろうとする。

 能力としては怨霊を操ったりもするが、二尾の猫にも変化できる。なお、コジマ粒子汚染患者。



○螺旋力とかコジマ粒子でこじ開けられた恋の瞳

 古明地 こいし(こめいじ こいし)

 種族:さとり
 能力:無意識を操る程度の能力
 区別:原作キャラ・EXボス

 第三の目が閉じていた、地霊殿の小五ロリの妹。無意識故の無邪気さと残酷さを持つが、最近は少し意識的な行動が増えてきている。
 本来はさとりと同じく他人の心を読めていたようだが、人間恐怖症と他者を信じる心がダブルバインドを起こして、かつ過去のトラウマのせいで無意識の能力に目覚め、そして縁というトラウマを呼び起こすトリガーで現実と過去がフッシュバックを繰り返し暴走。めでたく鎮圧された後、トラウマを治す切欠ともなった縁にひっつくようになる。
 だが、第三の目自体はまだ開いていない。このことは、まだけじめがつけ切れていないか、はたまたこいしの妖怪としてのレゾンテートルが無意識に固定されてしまっている可能性がある。しかしそれでも、時々縁の行動を読んだような行動をする。
 たぶん天然ドS。それが無意識のジャスティス。

 縁との触れ合いにより「意思を意思する」ことを知り、無意識を操る力を意識によって制御することが可能になっている。そのため、某妹様や某大冒険のような狂気は鳴りをひそめている。だがそれは縁に半ば依存することで出来たことであり、縁がいなくなると、再び枷が外れてしまう可能性がある。

 縁への恋心を抱いている。霊烏路空と中邦縁が恋仲となっても、“それは変わっていない”。だが表面上は、縁の言っていた通りの態度をとるようにしている。
 



○暗躍しているはずだったのにいつの間にか丸く収められて内心複雑な地霊殿の主。

 古明地 さとり(こめいじ さとり)

 種族:さとり
 能力:心を読む程度の能力
 区別:原作キャラ・四面ボス

 地霊殿の主にして小五ロリの姉の方。基本的には妹思いだが、こいしが無意識を得ていたことによって仲が少しギクシャクしていた。こいしのトラウマとなった事件以降、元々彼女はそこまで他者を信じていなかったのが、より信じなくなってしまった。それを突然現れた縁と、彼によってこいしが救われたのを見て、また少しだけ他者を信じようという気になり始めた。目下、自分すら気づかなかったこいしの心の鍵をはずした縁に対し、謝罪と感謝をしようと思っているが、タイミングが合わず、またさとり自身も負い目があるのか、中々話せないでやきもきしている。
 
 みんなSだって言うけど作者はたぶん誘い受けだと思っている。ウソウサ

 縁との対話により様々な気持ちに吹っ切れる一方、滅多に会わなかった人間の男性相手に不思議な感情を向けている自分の存在に気づき、内心首をひねっている。それでも地霊殿の主としてのスタンスは変わらないが、つい最近は料理を学び直し、地霊殿に住むものたちに振る舞おうというささやかな野望を抱いている。

 みとりを巡る事件(異変)にて、再び裏方に回ることになる。彼女自身は、縁のことを信じていた。
 それ故に縁が無事全てを成し遂げたことに安堵すると共に、ペットである空と恋仲となったことは主人として祝福している。

 なお、料理の腕前は運が悪ければフラジールの逆流タイム行きの代物である。



○スーパー姉御モードな怪力乱神

 星熊 勇儀(ほしぐま ゆうぎ)

 種族:鬼
 能力:怪力乱神を持つ程度の能力
 区別:原作キャラ・三面ボス

 旧地獄、地底都市のまとめ役の一人である鬼。傾気者の気質を持ち、地底の妖怪たちからの人望も厚い。大の酒好きで例え戦闘中であろうと杯を手放すことはない。裏を返せば、杯を手放した時はかなり危険である。また、地底中の酒屋の酒を味見しているので、どこにどんな酒があるのかも全て把握している。『雷電削り』は辛さに飢えてる時に飲むお気に入りの一つ。
 縁が街の妖怪に襲われないのは彼女が彼を気にいっていることにも起因している。いつかは自分が縁とサシで戦いたいようだが、そんなことをしたら縁に明日はにぃ。
 
 尚、胸部の母性は登場キャラ中最高のものである。某サメの人のおっぱいスカウターは余裕で破壊可能。

 縁の成長を見て、もう一人の嫌われもの、河城みとりと接触させた張本人。みとりの世話を何かと焼いていた勇儀は、縁ならみとりを何とかできるのではないかと思い、また縁自身を試すために一計を案じる。結果的には他の多くの妖怪を巻き込む形で迷惑をかけ、事件の最中の勇儀は非常に居心地が悪く、みとりが呼び出した『遺跡』のテクノロジーに敗北し、一週間近くも眠りについていた。
 簡単にいえばいいとこなしであった。

 みとりの起こしたことに関しては自分が悪いという認識を持っており、十一やパルスィと共に後始末などの裏方に回っていた。
 だが地底湖の決戦には駆けつけ、半端者同士の決着を見届け、みとりが前を向き始めたことを感じ取った。

 
 


○おせっかいでお兄さん気質も兼ね備える幼馴染属性として最強に見える妖怪

 林皇 十一(りんおう といち)
 
 種族:虎(縄文時代における狩猟の神としての虎)
 能力:鋭さを変える程度の能力
 区別:オリジナルキャラ

 地底に住む至って普通の妖怪。年若くて喧嘩早いが、一度仲間や友と決めた相手は信じ切るという困った性格を持つ。十二人兄弟の十一番目、双子の妹とはよく喧嘩はするが仲は悪くない。一時期までは地霊殿に対して良いイメージを持たなかったが、縁との喧嘩にて破れて以降、あまりそういう感覚は表に出さないようにしている。また、彼を通して地霊殿のメンバーと話すようになったので、その気持ちも薄らいできている。
 また、その喧嘩の結果から、縁のことを他の妖怪たちよりも特別気にいり、縁が街に繰り出せばよく会いにいく。友情すら感じているようだ。

 縁の訓練や模擬戦の相手をするのはもっぱら十一であり、縁の力を一番よく知っているのも彼である。十一もまた友人と呼べるような相手はいるが、縁ほど深く友情を深めた相手はいなかった。
 そのため、縁のことを友として最も信じているのは十一である。

 みとりには縁が一度敗北した際決闘を挑んだが返り討ちに合い、以降はリベンジを密かに誓いながらも、地底からいなくなっていた縁の捜索など裏方に回っていた。
 結局は縁に自身のスペルカードを渡し、代わりに勝ってもらうことで溜飲を下げようとした。
 新たに、ある一つの思いを抱きながら……

リア友「こいつは確実に縁×十一の流れだよな?」
 ※実際にあった話です。



○空気? 何それおいしいの?

 黒谷 ヤマメ(くろだに やまめ)

 種族:土蜘蛛
 能力:病気(主に感染症)を操る程度の能力
 区別:原作キャラ・一面ボス

 地底の人気者の一人。顔の広さでは勇儀などの一部の階層を除けば上位に入るかもしれない。それほど社交性のある、しかし能力だけを見れば嫌われ者の妖怪。普段は街や深道の上層部の間を行ったり来たりしているが、街で遊ぶ場合はいつも妹分のキスメを連れて行っている。面倒見はいいのかもしれない。
 
 しかし弾幕戦は中の中レベルに定評がある。いまいちパッとしないのは作者の技量かそれとも……(ここから先は読めない……

 第二部終盤においてみとりとちょっとしたことで知り合い、勇儀との戦いで意識を失った彼女を匿い、彼女へ地底妖怪としての意地を見せた、みとりの地底での初めての『友達』でもある。
 その友達としての意地は最後まで変わらず、みとりと縁の決戦でも、彼女の味方であり続けた。



○小動物ポジションには定評があります

 キスメ

 種族:釣瓶落とし
 能力:鬼火を落とす程度の能力
 区別:原作キャラ・一面中ボス

 恥ずかしがり屋の妖怪で、街に降りる際はいつもヤマメに連れて行ってもらっている、人見知りの難儀な性格を持つ。ただ、誰かと話すこと自体は嫌いではないらしいが、たまに無自覚な毒舌が出てしまう。無邪気故の弊害かもしれない。
 尚、桶の中身がどうなっているか、誰も知らない……

 第二部終盤にてヤマメと共にみとりと遭遇、彼女に助けられ、ヤマメと一緒に(勝手に)『友達』になる。
 だがそれは決して、嫌なものではなかった。

 しかしジムカスタムである。



○いいか、俺は面倒が嫌いなんだ

 フレッチャー・S・B(フレッチャー・スティンガー・バック)

 種族:不明(<偉大なカモメ>の化身)
 能力:ありとあらゆる場所を飛べる程度の能力
 区別:オリジナルキャラ

 地上にいたころから古明地姉妹のところに住んでいた謎の生命体。ただしその能力は家事から術に至るまで幅広い領域にまで伸び、古明地家の家事を一手に引き受けていた時期もある。能力である『ありとあらゆる場所を飛べる程度の能力』はまさしくどこでも飛べる能力。あの子のスカートの中からブラックホールとホワイトホールの挟間、果てはしずかちゃんの風呂場からビッグバンが生じる前の『無』の世界のトンネル効果の瞬間まで、とその能力は某スキマに並びうる。
 性格は徹底して面倒事を嫌う性質。しかしその面倒を嫌う割には、おかわりを事前に作ったり、なんだかんだ言って縁のための材料を渡したり、面倒見はよい可能性はある。

 何かを育てる、ということに関しては実は人一倍強い姿勢を持っている。それはフレッチャーがまだただのカモメのフレッチャーであるころから存在し、複数の転生体験を得た後になって更に強くなったものである。だからこそ可能性の全てを投げ捨てて逃げようとする縁を許さず、殺す思いで別の太陽系の地球型惑星にある特殊な穴に放り込んだ。

 無限という意思を捨てるということは、フレッチャーにとって何よりも許し難いことだからだ。

 だが同時にフレッチャーはそれを捨て去ることの欲求や悦楽も、そして存在しない自分というものと向きあう辛さを知っているので、縁が穴を抜け出すことに成功した時、顔には出さないが縁のことを認め、面倒と言いながら彼に己の過去を話し、戦いの場へとちゃんと戻した。

 期限ぎりぎりで限界がきた空の病気を強引に引き伸ばし、重傷を負うものの、能力行使には問題ない。

 作者が勢いで出してしまったキャラ一号。今では反省しているが、漢キャラ不足感は否めない。



○違うよ、仮に変態だとしても、変態という名の紳士だよ

 カドル/ダン/カニス

 種族:アンシリーコート(彼らの場合、人に害為す悪霊としてではなく、動物と混ざった中途半端なもの)
 能力:障害物をすり抜ける程度の能力/ものを透視する程度の能力/匂いを嗅ぎ分ける程度の能力
 区別:オリジナルキャラ

 変態という名の紳士。今現在は地霊殿のさとりのペットとして、こいし付きという形になっているが、それぞれが元々はこいしの昔のペットであり、ある事情で妖怪化してしまった。その時に今現在の性格と能力を持つ。こいし第一主義であり、またそれ以外は紳士、たまに崖下。頭に被っているのは実はパンツである。ただし何の、誰のパンツかは聞いてはいけない。
 別名コジマンジャー、だがその名を呼ぶ者はあんまりない。

 こいしの事件以降、縁のことを認めるが、それは過大評価しているに過ぎなかった。縁がいなくなった時は本当に驚き、正直にこいしに殺されると覚悟していた。その方がキャラ的にスッキリして(ry

 実は能力的に情報収集が得意であり、こいしについていないときはその能力を使って覗きや下着ドロをし、勇儀やパルスィにつるし上げを食らっている。
 第二部終盤ではさとりと共に裏方に回り、みとりの周辺状況や縁の行方を探っていた。

 作者が勢いで出してしまったキャラたち。今では反省している。



○実はエロっぽく見えて初心だったら作者的にはどれほどよかったか……

 水橋 パルスィ(みずはし ぱるすぃ)

 種族:橋姫
 能力:嫉妬心を操る程度の能力
 区別:原作キャラ・二面ボス

 地上と地底を繋ぐ『地獄の深道』を守護する妖怪。他者の嫉妬を操る能力を持ち、副産物として誰かしらの人物と人物との関係性やその強さを測ることができる(※独自設定兼解釈です)。性格はそんな能力を持っているのでヒネくれて鬱屈としており、陽気な奴や楽しそうな奴を見るとつい邪魔をしたくなる。しかしお祭り騒ぎなどは邪魔せず、酒を飲みながら静かに眺めているタイプ。
 その能力のせいか、時々若い妖怪のカップルや夫婦に相談されることもしばしば。そのことに鬱を募らせたりもするが、決して能力を使って嫉妬心を煽ったりはしない。困っている相手に対してそんなことをしても楽しくはないからだ。
 縁のことは知っていたが、実際に会うのは彼が深道にきた時である。今では、次にどうからかって周囲の妖怪の嫉妬を煽るかいろいろ考えている。口癖である「妬ましい……」に恥じない、いい性格をしている。

 この作品のオリジナル設定である『未来の遺跡』の監視役でもある。その役目の内容は、パルスィ他、遺跡が出現した際に調査した一団しか知らされていない。

 みとりと縁が起こした騒ぎの間は常に中立の立場であったが、火消しとなった勇儀には人知れず協力した。

 色っぽいお姉ちゃん要員な性格にしてしまった、地味に後悔中。
 


○出した後にぶっちゃけ赤河童ルートもありなんじゃなかったかとちょっと後悔した

 河城 みとり(かわしろ みとり)

 種族:人間と河童のハーフ
 能力:あらゆるものを禁止する程度の能力
 区別:二次創作キャラ・地霊殿PHボス

 地底・旧都にひっそりと住んでいた赤河童。時々勇儀から回される仕事をしながら、一人河童らしく技術の研究開発に没頭する毎日を送っていた。しかしある時、能力をかけて入れなくしていた家が、地底にいるはずのない人間に突破されてビックリし、その人間・縁をズタボロに殺そうとした。
 しかし縁のもとに妖怪が助けにきたことで、みとりの心にあった一つの思いが沸きだし、二人を徹底的に甚振り殺そうとする。その一方で、縁の義手と能力に興味を持つが、それは思いの一つの派生であった。
 縁が失踪したという報をもらった後も、無自覚に縁(人間)の姿を探して旧都を彷徨い、ヤマメとキスメに出会って仲良くなるが、すぐに自分自身の忌々しい過去を思い出し、周囲に八つ当たりをしてしまう。

 河城みとりは河童の父と人間の母を持つハーフであり、両者の架け橋になるようにと願われた子だった。だがその願いは人間・妖怪双方からの迫害、それによって起こる家族内の不和によって消え去り、憎悪と呪いになってみとりを苦しみ続けた。
 何故なら幼いころ、みとりは人とも妖怪とも、楽しく幸せに過ごしていたからだ。

 絶望そのものといえる呪いの苦しみから逃れるため暴れ、恩師の勇儀や“友達”と自称したヤマメに諭され、それでも止まることのできなかったみとり。
 しかし自身をかつて追い出したものと同じ弱者であり、憎悪の対象であると同時にもっとも身近なものである人間/縁に、正面からぶつかり合い、敗北を経て、元々の願いと思い出を取り戻すことができた。
 以降、河城みとりはしばらくは治療に専念しながらも、他のものたちに少しずつ、心を開くようになっていった。

「あらゆるものを禁止する程度の能力」以外にも、この中では『遺跡』のテクノロジーを解析した製作したスペルカードも用いる。その内の一つは勇儀すら危惧し、打ち負かすものである。
 だが現在はその最たるものであるものは縁によって破壊され、全体的にパワーダウンしている。
 


○一人称と外見が作者の中でころころ変わるやつ

 庚 慶介(かのえ けいすけ)
 
 種族:人間
 能力:なし
 区別:オリジナルキャラ

 十四歳の縁が入院先の病院で出会った青年。縁の悪友であり、よき理解者でもあった。享年十八歳。
 性格は世間を斜に構えた皮肉屋であるが基本的には誠実で、惚れた女性にはとことん弱いタイプ。そのため、井筒愛には頭が上がらない。また文学青年であり、様々な本を病室に持ち込み、時折それ親しい人に貸したりしていた。
 縁が時々妙に偏った知識を持っているのも、慶介の本が出典であることが多い。
 また、一度は愛とも付き合ったことがあるが、彼女が『リセット』して以降、実は惚れてる男友達としての立場をキープするようになった。
 
 その生まれには色々と複雑な事情があり、また先天性の病気で体が徐々に弱まっていき、常人というものをあまり信じられなくなっていた。だがその垣根を取り払ったのが縁であり、実質救われていたのは慶介の方であった。

 兄に和正という人物がおり、慶介が信頼できる唯一の『肉親』である。

 最後は縁との殴り合いの末、それに勝利した上で果てている。一人の男としての最後を迎えたのだ。

 イメージとしては『武装錬金』のパピヨンにかなり善人補正をかけた感じ。あとケンカも出来る。



○ゆゆ様とキャラが被りそうで困ったけど、モデルはまったく別のところからです

 井筒 愛(いづつ めぐみ)
 
 種族:人間
 能力:記憶を忘却する程度の能力(不完全)
 区別:オリジナルキャラ

 十四歳の縁が入院先の病院で出会った女性。享年二十一歳。
 おっとりとしてマイペースな性格だが、それ故に誰とも分け隔てなく付き合え、病院の人気者。一部の男性患者からは『姫』とも呼ばれている。
 実は中学生の終わりから入院をしているが、本人にはその記憶は死の原因となった手術まで存在しない。彼女は後天性の脳の障害によって、記憶が一定期間経つとリセットされるようになってしまっていた。手術によってそれを治せることは可能であったが、成功率は限りなく低く、また成功しても長く生きられないと宣告されていた。
 そしてそう聞かされた愛の両親は、記憶を失い続ける娘と、死とほとんど直結している手術の前に苦悩し、やがて彼女自身を見捨てるという選択をとった。愛はそれでも両親を責めなかった、何故なら彼女は記憶に付随する感情ごと忘れているからだ。

 愛は記憶のリセットのせめてもの抵抗として、日記手帳を書くことにした。これを毎日つけ、リセットが近づくと新しい手帳にそれをまとめたものを書き写し、最後に前書きとして『次の井筒愛』へのメッセージを残すようにした。その指示はすべて手帳によるものだ。

 庚慶介とは仲がよく、一度は恋仲になったが、記憶のリセットによりその記憶はなくなった。手帳には慶介の希望によって残していない。

 慶介の死後、再び記憶がリセットした。その時は奇妙なぐらい優しくしてくる縁に好意を抱いていた。

 手術後、三日間の生の猶予が与えられ、その内二日を両親と共に故郷を巡り、最後の一日を病院の皆、そして縁と過ごし、この世を去った。

 イメージとしては作者の先輩と『半分の月がのぼる空』のヒロイン・秋庭里香を里香のツンデレ成分を薄めた上で足して2で割ったようなもの。病気の元ネタはkeyの『智代アフター』より。




○実はラスボスでも文句ないチートレベル

 中邦 犹嗣(なかぐに なおつぐ)

 種族;人間
 能力:???
 区別:オリジナルキャラ

 縁の実の父親。旧姓は羽柴で、一応婿養子である。
 脳外科医でありながら他の医療分野以外にも様々な方面の知識と技術を持ち、BMI(ブレイン・マシン・インターフェース)を中心とした医療機器の開発にも携わる科学者でもある。縁の右腕の義手を設計・開発したのも彼である。
 妻は縁が幼いころに死別。以後、男手一つで息子を育てていたが、肝心の縁とは中学卒業までは仲があまりよくなく、庚慶介と井筒愛との件以降、ようやくそれなりに歩み寄ることができていた。

 幻想郷の元住人。霧雨道具店見習い時代の森近霖之助や先代博麗の巫女とも親交があり、なおかつあることのために妖怪の縄張りに入ってそこから適当なものを盗むといった『泥棒家業』をしていたため、幻想郷では顔が広かった。また一部ではその実力と根性を買われ『幻想郷一の大泥棒』とも呼ばれたことがある。

 しかしある事件を引き起こし、その過程で妖怪の山や人里に大変な被害(主に水害)を及ばせ、幻想郷を追放された(もちろん、直接の原因とは違うが)

 その能力及び実力は現時点で明らかになっていない。しかし言えるのは、犹嗣はスペルカード制度以前の幻想郷を飛び回り、紅魔館や妖怪の山、果ては永遠亭やマヨイガにまで忍び入り、五体満足で生還した上で何かしらの盗品を手に入れるほどであった、ということだ。
 



[7713] 短編集――作者<ワタシハナニカ……サレタヨウダ…… 
Name: へたれっぽいG◆eaa9c481 ID:f33d8d16
Date: 2011/02/14 14:49

・時間軸は全て、迷宮探索直前~みとり編直前のどこかとなっています。細かいところは各自のフロム脳で補ってください。

・リクエストと気力があれば追加されるかもしれない。

・お暇と「ハハハ、こやつめ」という仏心ある方のみどうぞ。




番外『サプリメンツ』




S-1『ある雨の日』

 

 雨。久方ぶりで季節外れの天気雨。龍神の理が届かない地底ではオオナマズのくしゃみや地底在住の入道のせいだとも言われるが、事実は定かではない。だが、霊烏路空にとっては原因やら因果やらなどは関係なく、ただ恨みを抱く事態でしかない。雨宿りに使ってる宿の廂(ひさし)にはしどどの水が垂れ落ち、空の帰途を阻んでいた。
 はぁ、とため息を吐くと、持っている頭陀袋がずしりと重くなるような気がした。定期的な買い出しの品物が濡れなかったのは幸いだろう。

「別に濡れてもいいかなぁ。けどこっち濡れちゃったら……」

 重い買い出し品の中身を見降ろし、それが濡れに濡れて使えものにならなくなったときのことを想像する。

『金を出しておいてあっさり全滅とはな……使えないやつだ』
『いいか、オレは面倒が嫌いなんだ』

 怒りの鬼(ファンタズマ)と化したフレッチャーによる全殺しコンボスペル(※難易度的にはアレサにジェットのブレードとアンサラーの遠距離攻撃無効がついたものとイメージしてください)が集中砲火されることが容易に想像でき、背筋がゾッとした。雨のせいで寒いこともあるだろうが、黒焦げになって「燃える……燃えてしまう……」と呟き尻だけ持ち上げて倒れる自分が簡単に思い浮かべることができてしまったからだろう。なんとか頭を振ってそのイメージを忘れる。
 そうすると現実の問題が戻ってきて頭の中を占拠してしまう。
 こんな時に火車を持つ燐と別行動だったのは運が悪い。傘を貸してもらえるような知り合いは近くにはいない。翼で荷物を覆うのは論外だ。さらにダメ押しとばかりに、この食材は早めに持って帰らなければいけない。
 八方塞がりだな、と雨空を見上げてぼやくが、返答はさらに強まる雨音ばかりだ。もう一度、らしくないため息を吐く。辺りは突然の雨で慌てふためき濡れながら家路や一時の休憩所へと向かう妖怪や妖精の雨音以上の喧騒で溢れているのに、ここだけそこから外れて暗い気持だ。
 空の近くをまたひとつ、影が駆け抜けていく。手傘を持った少年だ。そして何より、空のこの数週間の間で弥が上にも見知った顔だった。

「縁?」
「んあ、空か?」

 水しぶきをあげてブレーキをかけた縁はいつもの学生服と髪を濡らしくるりと空を振り返った。その拍子に傘に溜まっていた雨水が周囲に勢いよく飛んでいき、またすぐに溜まって端から次々と落ちていく。

「んなとこでどうし……なんだお前、傘ねーのか?」
「うにゅ……そ、そうだけど」
「荷物の量からして……買出しだよな、燐は?」

 縁もまたここしばらく居候生活のおかげで、地霊殿の住人達の生活様式というのを大分解ってきているつもりなので、空が持つ荷物の内容もすぐ察することができた。
 そして空は縁の問いかけに対し、ふるふると否定の意を露わにした。

「今日は別々に買い出ししてたから……フレッチャーの買い物リストの中にあった、えーと、な、謎…ジャム……だっけ? とりあえずそんな名前のもの探すって」
「ちょっと待て、なんでそんな如何にも怪しげでかつヤバ気なもんが必要なんだよ! 板的な意味で!」
「だ、だって名前がややこしいし、ネタ的にK○y過ぎて誰にもわかんないだも、あうっ!?」
「OK落ち着こう……これ以上のメタ会話は……まずい……」

 横道に逸れ何かを置いてけぼりにしてしまいそうな単語をぽろぽろと零しそうになった空の額を左手でデコピンすることでかろうじて止めることに成功した縁だが、不意打ち同然でデコピンをされた空は空いている手で叩かれた場所を擦り、恨めしげに縁を睨みつけている。
 だが頭を叩かれたおかげか、空はあることを思い出し、気づいた。

「そういえば、こいし様は? たしか今日は出かけるときからずっと一緒だったよね?」
「あー……なんか知らんが、『せっかくだからわたしはこの赤の扉にするよ!』とかいってどっかの誰か様の家に入ったきりではぐれた……追おうとしたら俺じゃ開けらんねーし、わけわからん」
「あれ、じゃあその傘は?」
「あー、こいつは勇儀に貸してもらったんだよ。ちゃんと干して返してくれればいいってさ」

 そういって少しばかり掲げた傘には、洒落者の勇儀の性質を表すように、傘生地はどこか気品のある黒色をしており、細部を見れば金メッキが施されているのがわかる。もし縁が、これが元の世界で大変稀少な傘であり、最低でも二十万円の価値があるものだと知れば、庶民的感性故に使うどころか触れもしなかったろう。
 へぇ~、と珍しいものを見る様な眼で傘を見上げる空の様子に、縁はようやく状況を察して、確認するように問いかけた。

「……なぁ、もしかしてしなくても、俺帰ったらお前帰れなくなるよな?」

 うん、と空は首肯し、縁はうーんと悩み呻く声を上げ、すぐに手招きを始めた。その意図が読めず小首を傾げる地獄鴉に、察しが悪ぃなぁ、と呟いて手招きを止めると、空の腕をとった。

「ほら、傘入れ。一緒に帰るぞ」
「あ、そっか」

 言葉にされてようやく理解した空は得心がいったという顔で、ポンと拳の小槌を掌に落とした。納得したところで縁に引かれるまま、早速傘に入ることにした。縁も空が雨に濡れないようなるべく傘を廂に寄せ、掴んだ腕を引っ張って空の体があまり雨に当たらないようにした。そうしてから、傘を右手から持ちやすい左手に変える。

「ほら、帰ろうぜ」
「うんっ」

 そのまま二人入るにはいささか狭い傘に何とか身を寄せ合って、帰路へとつく。買出し品のことと、二人の歩調の違いで走ることができないので、必然的に歩くことになってしまう。周囲の妖怪の大体が走ったり飛んだり踊ったりしていることもあって、相対的にとてもゆっくりとした速さに感じてしまう。
 何とか早く晴れないかなぁ、と心中で呟く縁は、空が雨に濡れてないかとちらりと横を見て、思わずどきりとした。やはり雨がわずかながら入りこんできてるのか長い髪はうっすらと湿り気を帯びて口元近くにくっつき、、服もまた豊かなボディラインがわかってしまう程度に張り付いていた。その様子が普段の空にはない、深窓の令嬢のような雰囲気を出し、まるで少女の普段知らない顔を覗いてしまったような気持になって、思わず熱を帯び始めた顔を背けそうになった。
 だが、そうなる前に空の肩が微妙に傘の部分からはみ出て濡れてしまってることに気づき、自分の身体を半歩外に出し、開いている手で空の服の端を取って傘の中央になるところまで引っ張った。

「そっち濡れてるだろ。もうちょっとこっち寄れよ」
「あっ……け、けど、それじゃ縁が」
「俺はある程度平気な義手の方だし、男だから別にいーんだよ。それにこれぐらいでどうにかなるほどヤワじゃねーて」
「それだったら私も妖怪だから縁より丈夫だから平気だもん」
「それとこれとは別だろ」
「別じゃないよっ! む~……」

 男の子的な意地を発揮してしまって引こうとしない縁を、ジト目で睨む空。そうしながら考えるのは、何とか縁も自分も雨に濡れる範囲を狭めることができないかという方法だ。傘の大きさからしてどちらか一方の肩がはみ出てしまう、しかしだからといって荷物を疎かにすることはできない。
 う~ん、と睨むのを止め声に出すほど悩み始めるが、鳥頭の記憶力が奇跡的な確率で覚えていたものがイメージとして浮かび上がった。それは縁が持ってきた本にあった一頁の絵だ。そこでは男女で行っていたから尚更丁度よい。そうと決まれば、と空は縁の顔を一度見上げて、ついで傘を持ってる腕を見た。
 その様子に縁がどうした、と疑問符を浮かべた瞬間、空は行動に移った。

「えいっ」
「うわっ、と!」

 空が縁の腕に自らの手を回し、抱きよせ、組んだのである。肌と肌とが濡れた服越しに合わさり、その内側から互いの温かな体温が感じられた。

「う、空っ!?」
「こうすれば、私と縁もあんまり濡れないよねっ」

 どうだと言わんばかりに顔を緩ませる空。事実、二人の肩は何とか傘の収まることができたが、縁にとっては別の問題が緊急脳内御茶会が行われる勢いで出来てしまった。腕を組むことで押しつけられる形となった空の胸の感触が左腕から直にわかってしまうのだ。男の性が左手に触覚の全てを集中し、その大きな胸のむっちりとした味わいを堪能しようとし、それに反抗する理性がいやだめだと阻止しようする。加えて、このような状態のせいか、空の匂い、男を自然と誘惑してしまう少女の匂いというものまでもが縁を刺激してくる。

「ば、おま、離れろって!」
「うにゅうう、どうしてそんなこと言うの?」
「そ、そりゃ……その……」
「? 変な縁」

 この鈍感、と縁はこの妙なところで察しが悪い少女に心中だけで空疎な罵りを吐き、組み直そうとして更に押し付けられた胸の感触に顔を赤くし、空の顔を直視できなかった。
 そして空は。

「……えへへ」

 不思議で、心地よい気分だった。雨音のおかげで周囲の音が聞こえず、まるで二人っきりでいることが、なぜか心をぽかぽかと温めてくれた。それは縁の温かさが伝わってくるからだと思ったので、もっとそれを感じたく、体を預けるように、縁の傍に更に寄った。
 それが縁の赤面具合をより強めるとも知らずに、だ。だがそんな縁を見ていると、かわいいなぁ、とも思っている自分がいることに、空は気づかなかった。


 地霊殿に帰宅後、玄関で身体を乾かしていた燐とこいしが腕組み相合傘の状態で見つかり、縁は以下の掛声の仕置きを食らうことになった。


「アーリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリアリーヴェデルチ!!!」

 実行犯は当然の如くお燐であった。まる。


 なかがき①
 友人たちに「この小説にはおくう分が足りない!」とか言われたからやった。
 萌える、萌えてしまうって言ったら負け。



S-2『とある縁の一日』



6:00 起床、同時にベッドに入り込んでいたこいし(本日はイチゴ柄の下着のみ)を排除しにかかる。

6:30 着替えと洗顔を済ませ、厨房にて朝食と昼食の準備にかかる。

7:45 昼食用の弁当を作り、朝食に移る。第X時朝飯大戦勃発(地霊殿妖怪連合vs中邦縁)

8:10 大戦の爪痕を片付け、地霊殿内の掃き掃除を始める。

8:20 変態三匹がこいしの下着の柄と色について尋ねてくる。卍固めをそれぞれに決め、ゴミとして出しておく。

8:50 地霊殿出発

9:30 西区復興現場到着、及び復興作業での仕事に入る。

12:20 休憩。一緒についてきたこいしと共に昼食をとる。

12:40 十一と共に軽い弾幕ごっこを始める。連敗が続く。

13:00 作業再開。こいしがその直前に縁のほっぺにキスをする。

13:30 空、お燐が灼熱地獄跡での仕事を切り上げ、こちらの仕事に移る。

14:50 アクシデントでお燐の胸に顔を埋める。社長砲級の一撃をくらって昏倒。

15:20 復活、作業に戻る。

15:23 今度は空の胸を触ってしまう。少佐砲級の一撃をこいしとお燐からもらって昏倒。

16:20 復活、たまたま来ていたパルスィからそのまま迫られる。

16:21 空に発見され、スペルカードを使われる。間一髪で退避、逃走する。

16:40 和解。作業に戻る。

18:00 本日の仕事が終わる。十一と共に旧都に繰り出す。

20:00 帰宅。さとりの説教をもらう。ついでにフレッチャーからも小言を言われる。

20:10 夕食。

21:00 部屋にて空、お燐、こいしと共にグダグダと過ごす。

22:00 部屋から少女たちを追い出し、風呂場へ。

22:07 さとりと浴場で遭遇。殴られる。

22:45 こいしがいないことを確認してから就寝。

23:00 こいし、縁のベッドへ潜入。



S-3『マジックナンバー』

 
 こいしはふと眼を覚ました。開くのは顔にある両の眼だけだ。薄らとした闇、掛け布団の中にいるのだとわかると、その中で身じろぎをする。下着一枚だけの状態だと、布団に吸収された熱がほどよく伝わり、眠気に似た誘惑の気持ちよさがある。肌に直接触れる布が心地よく、そのまままた寝てしまおうかとも考えたが、この中にいるもう一人の、いや本来の住人はどうしているのかという疑問がぼんやりとした思考の中で浮かんだ。
 顔をもぞもぞと布団から出す。すると、地底特有の霧のように柔らかな光がこいしの目を刺激するが、覚醒へいたるには些か力不足だった。それよりも、と夢見心地の気分のまま、目の前にある人間の顔を見つめる。
 精悍だが、とある若虎のものより幾分か幼さの残る顔立ち。髪は地底に落ちてきた時より少し伸びて、頬には未だいつかの弾幕勝負で出来た火傷の痕がうっすらと残っている。しかし寝顔はその外見よりも幼く見える。もしかしたら、こいしの外見と同じぐらいかもしれない。
 人間、中邦縁。いつも見ている青年の、無防備な一面を見ることができて、こいしは自然と頬が緩み、第三の目の瞼が軽くなるのを感じた。

「えにしちゃん……」

 あの事件以降、こいしは自然と他者を求めていた。それが顕著になるのは眠る前、もしくはその中途だ。身体は夢遊病のように動き、縁の部屋へと向かった。無意識の領域下で起きたことだ、それはこいしの意思であると共に外れた場所から決定されている。
 誰かを求めて一緒に寝てもらうだけならば他にも選択肢はあった。姉であるさとり、お付きのカドルたち、ペットのおくうやお燐。
 しかしこいしの無意識が、深層が求めたのは中邦縁の温もりだった。体は勝手に就寝中の縁の布団の中へと潜りこみ、その横に丸くなる。そしてより直接それを感じようと、寝間着も寝ながら脱いでしまう。
 その行為そのものは縁に煙たがられているのだと、こいしは何となく気付いていた。そうでなければ、あれほどの拒絶反応を毎回毎回出すはずがないと思っていた。しかし縁が起きた時の反応やじゃれ合いが楽しくて、煙たがれているという考えを忘れることができていた。
 きっと、こうして勝手に求めるのはいけないことなのだということを、こいしは直観的に感じていた。他にもいるのに、態々縁の下にくるのもまた、それと同じ理由なのだということもまたわかっているような気がした。

「……わたし、縁ちゃんが、好き」

 恋い慕う少年の寝顔を眺めながら呟いた言葉は、寝息に紛れて届くことはないだろう。それでも言葉の意味をこいしは自分の中で噛みしめ、身内から広がってきた、切なさ、としか形容のしようがない儚い想いを抑え込むように、胸元と、閉じた第三の目を掴む。
 恋。
 好きになるということ。
 言葉にすれば単純だ。言葉は言葉でしかない。内包する意味を介するのは感情を持つ知的生命体だけだ。
 そして単純なものであるからこそ、こいしを苦しめる。恋い焦がれるとはひたすらに相手を欲する気持ちだ、こいしの場合は、そこに相手の体温を感じたいという気持ちがフィルターとしてかかり、現在の行動、勝手な添い寝というものに変えているだけだ。
 
「ん……」

 身体をまた動かし、縁の寝息のかかる距離まで顔を寄せる。そうすると、まつ毛の一本一本まで、少年の顔が見える。そのまま目を瞑り、猫が甘えるように、自分の額を眠る王子様の額につけた。まだまだ眠いせいで、無意識の中のわたしがうまく制御できないのだと、こいしは自分の中に思考ともいえぬ言葉を零し、そっと両腕を縁の身体に回した。
 う~ん、と縁の寝息の調子が変わり、顔も少し苦しむような表情になって眉をひそめている。どんな夢を見ているのだろう、と些細な問いを口にしたきり、こいしはくっつけた額から感じる縁の体温を感じて、もう一度、眠りについた。眠る直前に、自分が縁の夢の中に出てたらいいな、と思いながら。

 
 起床後、またいつものように、縁はこいしをたたき起し、シーツを巻いて部屋から追い出そうとした。

「む~、縁ちゃんのケチ~」
「ケチじゃねーよ、つーかおまえは慎みってやつをもて!」

 むすっ、と顔を膨らませ、子猫のように運ばれるこいし。そのまま部屋の外に放り出そうと思った矢先、縁は何気なくこいしの顔を見、目を細めた。さらに足も止まったので、こいしはいつもとは違うパターンに疑問を浮かべ、そのまま声に出した。

「? どうした、縁ちゃん?」
「いや……なんつーかお前、髪伸びたか? 前髪とか大丈夫か?」

 言われて、こいしは目だけで上を見、自分の前髪を摘まんでみた。確かに伸びている。妖怪も成長するとはいえ、ここまで人間的な部分が見えるのは早々ない。邪魔かな、と思ってそのまま自分の髪を爪で切ろうとしたが、しかしのその前に縁がちょっと待て、とそれを制した。

「むぅ、どうして縁ちゃん……」
「いや、なんつーかさ……別にそのままでも……て、切ろうとしたんだしだめか」

 だったら、とこいしを持ったまま、元の世界の、こいしにとっては縁が外の世界の住人であるというのを認識させるバッグのポケットを探り、何かを取り出した。鉢がねにも似た細いそれは内と外の部分が上下に開く仕組みのようであり、縁はそれを確かめると、こいしを一度ベッドの上に座らせた。
 何かな、と思ってこいしが目を輝かせながら待っていると、縁は不意にこいしの背に合わせて身体を落とし、右手を顔の後ろに回し、左手を前髪に軽く触り、顔を寄せてきた。

「っ」
「ちょっとじっとしてろよ」

 こいしの身体がシーツの中でピンと固まった。いつもはこいしの方からからかい、身体をふれ合うスキンシップしているからか、突然その立場が逆転したことに意識がついていけなかったのだ。第三の目も身体と一緒に固くなったような気分になり、縁の顔だけが視界いっぱいになるころには、反射的に目を閉じてしまった。薄い闇の中で前髪が右に寄せられているのがわkり、それがさらに、何かに止められたのだとわかった。

「終わったぞ……つーか、なんで目なんか閉じんだよ」
「だ、だって……むぅ、縁ちゃんのひきょーもの」
「だったらそれ、没収してもいいか?」

 ほら、と縁は手近にあった手鏡をとると、こいしの顔をそこに映し出した。そこにはシーツにくるまった自分が、先程の針金もどき、外の世界の髪留めで前髪を寄せられていた。いつもの帽子がないおかげか、早朝に縁と額にくっつけたおでこが強調されていた。そのことを思い出すと、なぜ、急に気恥しくなった。

「どーだ、似合うか?」
「……な、なんか、変な気持ち、かな」
「まー、そーかもなぁ……けど、俺はかわいいと思うけど」

 さらりと出てきた言葉はまだ起きぬけのせいで思考回路が回っていないせいだろうか。しかしそれを聞いてしまったこいしの身体は言葉の意味を認め、頭の中でリピートすると、爆発するような熱が内側から湧きあがった。
 事実、鏡の中の自分は熟れたリンゴと同じ色をしていた。

「え、ちょ、こいしっ?」
「~~~~、も、戻る!!」

 縁の顔を見ているのが急に恥ずかしくなって、シーツをかぶったまま部屋を出た。廊下では、いつもと違う様子のこいしの姿に目を見開いたペットたちの視線があり、余計に恥ずかしくなった。どうしてこんな気持ちになるのだろうと自問したが、柔らかくなったはずなのに閉じたままの瞳は答えてくれなかった。


 この日から、こいしの前髪が時々髪留めで止められるようになって、縁への態度が余所余所しくなることが起きるようになることがあったが、それはこの話も含めて無限の平行、潜在した可能世界の話である。

 


 なかがき


5/14更新分

友人「今日はこいしの日だぞ」
作者「!?」

 そんなわけで急いで作った。プ○ポスレっぽいからそっちでやれと言われても反論できない。反省はしている。
 あと、これはこいしルートの話なので本編には関わりません、ご容赦を。
 

 

 あとがき

 読者様、お許しください!!


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

SS-BBS SCRIPT for CONTRIBUTION --- Scratched by MAI
3.2979228496552