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[5204] ゼロの黒騎士(ゼロの使い魔×鉄コミュニケイション)
Name: 早朝◆74a45303 ID:a07c8492
Date: 2008/12/09 00:43
某所で連載させていただいていた作品を転載したものです。
こちらへの転載に際し、一部文章を改訂しています。
(と言っても、間違い探しレベルですが……)

・この作品は、ゼロの使い魔と、小説版鉄コミュニケイション(以下鉄コミ)のクロスオーバーSSです。

・鉄コミのファンの方は、ごめんなさい。大幅にキャラが弄ってあります。

・ゼロの使い魔のファンの方にも、ごめんなさい。
 このキャラはこんなんじゃない! と思われたら、全部筆者の力量不足の所為です。

・全17回で完結済みです。

・EGFマダー禁止。

最後に。
某所での連載中に様々な形で支援して下さった方々と、
作品を某所から引きあげた時、惜しんで下さった方々に、
心からの謝罪と、そして、感謝を捧げます。

それでは、楽しんでいただければ幸いです。



[5204] ゼロの黒騎士 第一回
Name: 早朝◆74a45303 ID:a07c8492
Date: 2008/12/09 00:45
人間が投げた棒をくわえて戻ってくるのは命令されたからじゃない。
ぼくらがそうしたかったからだ。


気が付けば、彼は闇の中に居た。
感じるのは、暖かな物が自分から流れ出していくという感覚だけ。
それが流れ出た分だけ、体温が下がっていく。自分から何かが欠落していく。
彼は、流れ出ているものが、自らの血液だと気が付いていない。

――寒い。何時の間に俺は寝転んだんだ?

――起きなければ。

何故?

――起きて、行かなければ。

どこへ?

――起きて、行かなければ。大聖堂に、あの納骨堂に。あいつに渡す物があるんだ。

あいつって誰? 渡すものってどこにあるの? そもそも……

君は、何?

――俺……俺は?

鼻の頭の辺りに何か暖かいものを感じる。

「……ミ…ス……ミスタ…た……けて! 使い魔が……わ、わたしの使い魔が死んじゃうっ!
 助けて下さい、早く助けて!」

若い、いや、まだ幼いと言っていい女の、泣き声混じりの悲鳴が聞こえた。
薄く目を開けると、淡い色の髪の少女が、顔をくしゃくしゃに歪めてこちらを覗きこんでいた。
驚くほど大きな瞳から、とめどなく涙が零れ落ちてくる。
冷えていく感覚の中で、その一粒一粒が暖かい。

本人の意思とはまた別に、鈍った思考がとめどなく流れ続ける。
人間の年を計るのは昔から苦手なのだが、こいつは多分まだ大人にはなっていないと思う。
膨らみの乏しい胸の辺りに視線を落として、そんな事を考える。
彼が知っている大人は、皆それよりも胸が大きかったし、子供は、同じように小さかったから。
いや、彼とて何時までも胸が小さな女性が居る事は知識として知っていたが、
朦朧とした意識の中では、本能が経験の判断を最優先させた。
そして、当然の事のように、理屈ではなく本能が先に気づいた。

――待て。何故人間が居る?
それがどこかおかしい?
――おかしいだろ!

何かが間違っている。どこかがおかしい。
俺の身体は何故目の前の人間に反応しない?
いや待て、そもそもおれの身体は……。
……まあ、どうでも良い。寒いし、だるい。
納骨堂へは、一休みしてから行く事にしよう。

賦活しかけた思考が、再び泥沼のような闇に絡め取られる。
思考の速度が鈍っていく。掴みかけた答えがすり抜けていく。
薄れゆく意識の片隅を、人間たちが交わす会話が掠めていく。

会話に集中しろ、情報を集めろと、高知性化処理を施された理性が囁くが、
聞き耳を立てる、ただそれだけの事が辛い。
相当脳の処理能力が低下しているらしく、苦労して聞き取った会話も、
片端からゲシュタルト崩壊を起こして単語へとばらけていく。
単語一つ一つの意味は理解できても、一塊の文章として、どうしても理解できない。
夢の中で全力疾走するような、そんなもどかしさがある。

「落ち着きなさい、ミス・ヴァリエール。大丈夫、治療を施せばまだ十分に間に合う傷だよ。
 今は『コントラクト・サーヴァント』を成功させる事だけに集中しなさい」

「でも……えっぐ……でも……」

「ミス・ヴァリエール。春の使い魔召喚は、神聖な儀式であり、
 また、二年生への進級を決定するという意味でも、重要な行事なんだ。
 先延ばしにする事は出来ない。分かるね?」

「ぐす………はい」

「まずは『コントラクト・サーヴァント』を。それが終わったら、すぐに保健室に運ぼう。
 大丈夫、君ならば出来る。この日のために、誰よりも努力していたのだろう、君は」

「は、はい! …………わ、我が名はルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール。
 五つの力を司るペンタゴン。この者に祝福を与え、我が使い魔となせ」

口に暖かで柔らかい何かが触れる。
目を開けるまでも無い。
涙で少し塩辛い、先ほどの少女の……ルイズの、唇の感触だった。
何よりも、涙の味が記憶を引き戻した。
――そうだ……おれは怖がる顔じゃなくて、笑顔が見たかったんだ。

唇がそっと離れると同時に、左前脚の先に熱を感じたが、意識レベルの低下した脳に、
痛みなどという余分な感覚を処理する余裕は既になく、ただ淡々とそれを受け入れるに任せる。
その熱の感覚を最後に、今度こそ彼は意識を失った。
――



結論から言えば、二十数回の失敗の末に、
ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールの呼び出した使い魔は、
瀕死の重傷を負った一匹の黒犬だった。


最初の数回の失敗は、常日頃からルイズをゼロと馬鹿にする同級生たちから散々野次られたものの、
皆、途中で飽きてしまい、失敗が十回を越える辺りから、
担当教員のコルベールを除いて、目も向けなくなっていた。
春のうららかな陽気の中、気怠い雰囲気の漂う草原で、独り延々と召喚失敗を繰り返す美少女。
よほど真剣なのだろう、軽く汗ばみ、頬は紅潮している。まあ、春だしね。マントなんて着てるし。
部外者が見る分には、中々見応えのある見世物かもしれない。
が、同級生たちにとっては見慣れた風景に過ぎない。
ルイズが魔法に失敗するのも、彼女が決して諦めようとしない事も。
なので、ようやくルイズが召喚に成功した時は、皆ほっと安堵の溜息をついた。
やれやれ、これでようやく帰れる、と。
だが、その溜息はすぐに悲鳴に取って代わられる事になる。


誰よりも使い魔の召喚の成功を喜び、そして、現れた使い魔の状態に驚いたのは、
当たり前の話だが、他ならぬルイズ本人だった。

ルイズはこの日を迎えるにあたって、背水の陣を敷く覚悟で望んだ。
何しろ今までとは違い、この春の使い魔召喚に失敗するという事はつまり、
2年に進級できないということであり、プライドの高いルイズにとって、それは受け入れ難い屈辱を意味した。
役に立つと思った文献は片端から漁り、疑問があればどんな些細なものでも教師に質問をした。
出来れば上級生にも体験談を聞いて回りたかったのだが、その名も高いゼロのルイズの質問に、
まともに答えてくれる者はいなかった。
更に一週間前からは体調管理に万全を期し、三日前からは毎日召喚の儀式の舞台となる校外の草原を下見した。
それでも、それでもルイズの不安が拭われる事はなかった。
何しろゼロのルイズだ。魔法成功確率ゼロの女。
16年の人生において、何度期待を込めて杖を振ったことだろうか。
何度始祖ブリミルに祈った事だろうか。
だが、系統魔法の奇跡は起こらず、無常にも杖の示す先が爆発するようになっただけ。
一人、また一人と同年代の知人や友人が魔法の発動に成功するたびに、ルイズを見る周りの目は冷めていった。

唱えたはずの呪文が、無残にも失敗するたびに、唇をかみ締めた。
何度嘲られ、からかわれても、決して諦めなかった。
わたしの名はルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール。
ヴァリエールの名を冠する者が、身に降りかかる苦難を前に膝を屈するなどあってはならない。
だからずっと耐えてきた。だからずっと戦ってきた。
だから、だから、始祖ブリミルよ、お願いです、わたしに確信を下さい。
わたしは魔法が使えるのだという確信を。
一つでも示してくれるのでしたら、わたしはそれだけで一生を耐えられます。

もし仮に、ミズやおけらや果てはセミの幼虫が召喚されたとしても、
この時のルイズならば、喜んで使い魔として契約しただろう。


そんな訳で、光り輝く『門』の構築に成功した時、ルイズは安堵のあまり腰が抜けるかと思った。
極度の緊張状態から急激に解放されたため、ちょっとした宗教的絶頂さえ感じている。
膝の辺りががくがくする、太股に力が入らない。
脳内にかつてない量の幸福物質が分泌され、多幸感が全身を支配する。
身体を駆け巡る興奮に反応して、瞳孔が開く。
掌に滲む汗が止まらない。反対に、口の中はカラカラに乾いて、舌が上顎に張り付く。
杖を握る手が震える。背筋が総毛立つ。
不覚にも、絶対誰にも見せないと誓ったはずの涙で、視界が滲んだ。
まだコントラクト・サーヴァントを済ませていないのだが、この時点で綺麗さっぱり思考から消え去っていた。
そんな、ちょっと背中を押せばあっさり彼岸に旅立ちそうなルイズを現実に引き戻したのは、現れた使い魔の姿だった。

使い魔は大きな黒い犬だ。
素晴らしい。
本当に大きい。立つと頭がルイズの胸辺りまで届くんじゃないだろうか。
素晴らしい。
長い脚、がっしりとした胸。皮膚の上からでも力強く筋肉が盛り上がっているのが分かる。
素晴らしい。
黒い体毛は短く、つややかに光を反射している。漆黒というのだろうか? メタリックな印象さえ与える。
素晴らしい。
だが、せっかくの美しい身体も何かどす黒い物で汚れて台無しになっている。
――え?
所々覗く傷口は深く、中には骨まで達しているものさえあるようだ。
――何、これ?
ただでさえ切れ切れの呼吸は短く、そして、それ以上に浅い。
――嘘……やだ……やだ、こんなの!
弱々しい呼吸を繰り返すたびに、傷口から、どこにそんな量があるのかと驚くほど血が噴出している。
いやぁあぁぁぁぁぁぁあああぁぁぁぁぁ!

「ミ、ミスタ……ミスタ・コルベール、助けて! 使い魔が……わ、わたしの使い魔が死んじゃうっ!
 助けて下さい、早く助けて!」


コントラクト・サーヴァントが終わった瞬間、ルイズは完全に虚脱した。
短時間に感情が極端から極端に振れたため、一時的に精神のブレーカーが落ちたのだろう。
そんなルイズを尻目にコルベールはテキパキと生徒たちに指示を出し始める。

「移送の準備が終わるまで、水系統の生徒はミス・ヴァリエールの使い魔に治癒の呪文をかけ続けて欲しい。
 ああ、確かに水の秘薬がなければただの気休めだよ、君。しかし、その気休めが生死を分ける状況だ」

「フライに自信のある生徒は? ふむ、君か、ミス・タバサ。
 では、ミス・ヴァリエールの使い魔は僕が背負うから、君は補助を頼む」

さて、それじゃ、と使い魔に近づくコルベールのマントの裾を、くいっと何者かが掴んだ。
軽くつんのめったコルベールが視線を向けた先には、力無く座り込むルイズの姿があった。
まるで、二の腕から先だけが意志を持つように、マントの裾を握り締めている。
奇妙に表情の欠落した顔が、コルベールに空虚な瞳を向けた。
情動を伺えないその表情から、しかし、コルベールはルイズの問いを正確に読み取った。

「大丈夫。安心しなさい、ミス・ヴァリエール。
 僕を信用しろとは言わない。君が呼んだ、君の使い魔の力を信じれば良い
 君は落ち着いてから、保健室に来なさい……」

コルベールの顔をじっと見つめた後、ルイズはこくりと頷くと手を離す。
一つ一つの動作が妙に幼い。
コルベールは、そんなルイズにゆっくりと言い聞かせるように言葉を付け足した。

「良い使い魔じゃないか。心からおめでとうを言わせて貰おう、ミス・ヴァリエール」



[5204] ゼロの黒騎士 第二回
Name: 早朝◆74a45303 ID:a07c8492
Date: 2008/12/09 00:46
気が付くと、彼は毛布で作った簡単な寝床の上に横たえられていた。


情報を求めて、脳内に仕込んであるデータロガーをチェック。
最後に記録されていた状態と現在のそれを比較する。
身体中に複数の裂傷と骨折がロガーに記録されていることを確認。
今更ながら、自分が死の一歩手前に居た事を認識する。
特に額と首の裂傷は、あと数mm深ければ、即死しかねない危険な代物だ。
……よく生き延びたものだと感心する。
主要な臓器に深刻なダメージが無かったとはいえ、あのまま放置しておけば、程なくして出血死していたはずだ。
思う。死んでいたはずの自分が、まだ生きている。しかも、運動レベルに支障が無いほどに回復して。
更に思う。いや、放置されていなくとも、普通、助かる傷ではない。
あの時点での出血量は、間一髪とか紙一重とかいう言葉の介在を許さないものだった。

結論。ということは、おれは人間に助けられたのか? それも、尋常ではない何らかの手段で。
高知性化された脳髄の奥、彼が認識できないどこかから、それを認めるなと喚く声が聞こえる。
それを認めたが最後、お前はお前ではなくなると。
その声を打ち消すように、最後に見た、あの女の顔が思い浮かんだ。
ただでさえ大きな目を見開いて、涙を一杯にこぼしながら、誰かに助けを求めていた姿。

――あいつが、おれを助けたのだろうか?

各部のチェックを終え、意識の焦点を感覚器官に返す。
並列処理出来れば、自己診断と周辺情報の取得が一度に出来るのだが。
どうも目を覚まして以来、この身体にどうしようも無い違和感を感じる。
敢えて言うならば、そう、使い慣れていないとでも言うべきか。
あるべき物が幾つも無く、しかも、無くしている事を自分が知らないはずだという奇妙な確信。
かつて呼吸と同じように当たり前に行っていた事が、今の自分には出来ない。
しかも、何かのきっかけが無ければ、出来ないという事それ自体に気が付かないという事実。
もっと大事な何かを取りこぼし、そして、その事を見過ごしているのではないかという獏とした不安。

――おれが、不安? それはおれにとって最も縁遠い感情ではなかっただろうか?
――まあ、良い。傷が治っているなら、今は現状を把握する事のほうが先だ。

――

20㎡ほどの部屋には、寝台が一つと幾つかの家具が置かれている。
日の差し込み方から察するに、窓が一つある方角が南。北側に扉が一つ。
集合住宅の一室だろうと推測する。
分厚い石組みの壁の向こう側から、隣人と思しき声が漏れ聞こえてくる。
そして、目の前では人間の女が目を丸くしている。
濃い色の髪を肩口で切り揃えてある。
頭の上には――彼の知り得ない知識だが――サーヴィングキャップがちょこんと乗っている。
恐らくは白と黒で纏められ袖を大きく折り返したユニフォーム。
見る人が見れば、ビクトリア朝の正統的メイドだと言っただろう。
その横には、突っ伏すようにして寝ている女が一人。長い薄い色の髪、全体的に小作りな身体。
小柄な体躯には大きすぎるように見えるマント。ミニスカートからは、やや肉付きの薄い脚が無造作に投げ出されている。
彼はそのどちらも脅威足りえないと判断。
確かに本調子とは言いがたいが、その気になれば、非武装の人間など悲鳴をあげる暇さえ与えず始末する自信がある。
自身の絶大な戦闘力の優越を信じるがゆえに、彼はこの場は静観する。
行動を起こすのは、目の前の人間が敵か味方か判別した後でも遅くは無い。

――敵か、味方か?

一瞬の思考。
それがすでにかつての自分ならばありえない迷いであったことを、今の彼は気づくことが出来ない。

「ミス・ヴァリエール! ミス・ヴァリエール! 起きました!
 ノワールが起きましたよ!」

いまいちまとまりに欠ける彼の思考を断ち切るように、目の前のメイドが声を張り上げた。

「起きて下さい、ミス・ヴァリエール! ルイズ様!」

「ごめん、シエスタ……あと五分だけ……」

実にベタな寝言だと思う。
いや、無論彼が人間の寝言を聞いたのは初めてなのだが、
彼の知識の中では、まだ眠い人間はそういう弁明をするのだという事になっている。
ちなみに次点は「う~ん……むにゃむにゃ」と「もう食べられないよー」。
この辺りの軍務には全く関係の無い知識が、軍研究所時代の彼が博識と言われた所以だが、所詮は軍用兵器の博識。
一般常識の無さでは、アルビオン在住の乳革命(仮名)さんと大差無い。
ともかく、今の会話から、二人の名前は把握した。
固体識別名を割り当てる。
髪の色の濃い方がシエスタ。
薄い方がヴァリエール、或いはルイズ。しばし逡巡した後、ルイズで固定する。
謎が一つ残った。
……ノワール?

シエスタは暫くルイズを揺さぶるものの、当のルイズに全く反応が無い。
やがて諦めたのか、ルイズを未練の残る視線で一瞥した後、シエスタはろくでもない爆弾を落とした。

「もう、ミス・ヴァリエールったら。でも、仕方ありませんよね、この3日間、全然寝ていないんだから。
 ずっとあなたの看病をしていたのよ、ノワール。良いご主人様ね」

――おれの事かっ!

――


ルイズが召喚した使い魔が目を覚ましたのは、あの日から3日後の事だった。
何故か傷ついた状態で呼び出された使い魔を助けるために、
ルイズは今まで溜め込んでいた仕送りを全て使って、学園中の水の秘薬をかき集めた。
動物に詳しいメイドが居ると聞けば、直接頭を下げて助力を頼んだ。
容態が安定したと言われたので、医務室から自室まで運んだ。
どういう訳か、一度だけコルベールが部屋まで見に来た。
動物に詳しいメイド――シエスタという名前だった――を紹介してくれたのも、そもそもはコルベールだった。
コルベールは、使い魔の左前脚にあるルーンを暫く難しい顔で眺めた後、帰った。
土産代わりに水の秘薬を一本奢ってくれたのは、本当に助かった。

シエスタと一緒に使い魔の名前を考えた。
黒い犬だからからノワールというと、シエスタがすっごく微妙な表情をしたのはちょっとカチンと来たが、
その辺りのセンスのなさは、ルイズ自身もよく承知している。
「変に捻って外しちゃうよりマシでしょ! べべべべ、別に他に名前が思い浮かばなかったからじゃないんだからね!」
シエスタの眼差しが生暖かくなったような気がした。むきゃー。

シエスタの指導の下、折れている骨に添え木を当てた。
中々止まらない血で包帯が汚れる度に取り替えた。
授業に出席する事も眠る事も拒んだ。
新学期の頭で、始まっていないも同然の授業は兎も角、
眠らないのは身体に障ると、シエスタは交代で休むように薦めたのだが、
ルイズは頑として首を縦には振らなかった。
流石に三日目の払暁、糸が切れるように崩れ落ち、そのまま眠り込んでしまったが。

怖かった。怖かった。怖かった。
目を離した隙に、せっかく呼んだ使い魔がそのまま消えてしまうような気がした。
精一杯、自分に出来る努力をしたけれど、ルイズにとって、努力とは常に裏切られる物だった。
少なくとも、魔法に関わる諸々の事毎に関しては、そうだった。
とても信用できたものではない。

しかし、その努力は、今、正しく報われた。
すっかり傷の癒えた使い魔がルイズの目の前に居る。
あきれた事に、あれだけあった傷が、殆ど残らず綺麗に治っていた。
唯一名残を残すのは、特に深かった額の傷跡だけ。
眉間に奔るその傷跡は、犬としては飛びぬけて大きな身体と相まって、一種異様な凄みを漂わせていた。

「……良かった、良かったぁ」

目を覚まして一番に無事に意識を取り戻した使い魔を見たルイズは、咄嗟にどうして良いのか分からず、
立ったり座ったりを落ち着き無く数回繰り返した後、辺りを憚らず大泣きした。
後ろからその姿を見守るシエスタの目にもうっすらと涙が浮かんでいる。

――始祖ブリミルよ。卑小なわたしの祈りに応えてくださったことに、心からの感謝を捧げます。

――


まだ開いている傷口は無いか、接いでない骨は無いか十分に確かめた後、
シエスタは仮眠用に持ち込んだ毛布を手に、ルイズの部屋を去った。

「じゃあ、仕事があるので、私はこれで……その、失礼かもしれませんけど、この三日間、楽しかったです」

別れ際、シエスタはこう言って微笑んだ。

「……あ、あのね……」

扉を閉めようとするシエスタに向かって声をかけた後、暫くもじもじするルイズ。

「……?」

「色々、アドバイスしてくれて、ありがと。えっと、その……ノワールが助かったのは、あんたのお陰よっ!
 本当に感謝してるわっ!」

一気にまくし立てた。頬が赤い。
照れ隠しなのか、何だか目つきまで悪い。睨んでいる様にも見える。
事情を知らない第三者が見たら、叱責してるように見えたかもしれない。
だが、シエスタもこの三日間でその辺りの機微はよく弁えていた。
どうにも素直になれない人なのだ、と。
そういう所が、ちょっと可愛いんですよね、という呟きは、心の中に収めておく。

「はい。光栄ですわ、ミス・ヴァリエール。こちらこそ、過分のご厚意、感謝に堪えません」

「ルイズで良いわ。あんた、この3日間、うっかり何度かそう呼んだし……それに、あんたには散々世話になったもの」

ぷいす、と横を向いた。すでに耳まで真っ赤に染まっている。

「そ、その勘違いしちゃダメなんだからねっ?
 貴族をファーストネームで呼べるからって、思い上がったりすると、痛い目見るんだから!」

意訳:他の貴族も同じような感覚で付き合うと、相手の逆鱗に触れちゃう可能性が高いし、
   そうじゃなくても、この事を鼻にかけて自慢すると、同じ平民から妬まれるかもしれないから注意しなさい。

ああもう何でわたしこう素直じゃないなというかシエスタだったらこんな事言われなくてもわかってるはずでしょ
素直じゃないっていうか一言多いのよねしかも言ってから気づいても遅いのよわたし怒らせちゃったらどうしよう……

内心自己嫌悪でグルグルするルイズ。そんなルイズをシエスタは驚いたように見つめる。
驚きが覚めていくにつれて、シエスタの身体にじんわりと暖かい何かが広がっていく。

「はい、承知いたしました……ルイズ様」

何かあったら、すぐ相談にいらして下さい、と言って、花開くようにシエスタは笑い、
そして、今度こそ扉を閉める。

パタン、と音がして、部屋には、一人と一匹が残された。



[5204] ゼロの黒騎士 第三回
Name: 早朝◆74a45303 ID:a07c8492
Date: 2008/12/09 00:46
そんなわけで、ルイズの部屋には、奇妙な緊張感が満ち溢れていた。
東に陣取るは、寝床代わりの毛布に座るノワール。
対するルイズは、西の寝台の上で何故か正座。

両者見合ってはや四半刻。
限界ギリギリ一杯まで高まった緊張感は、今、崩れようとしていた。
……というのは、あくまでもルイズの主観で、ノワールからしてみれば、
事情の説明を待っていたに過ぎない。
とはいえ、ノワールが緊張していないといえば、嘘になる。

彼には彼で、説明を待つ理由があった。

どう動くにせよ、何が起きているのか把握しない事には始まらない。
ご主人様がどうこう言っていた以上、このルイズという女が、おれの上位者だと認識されているのだろう。
上位者。つまりは指揮者だ。
指揮者であるからには、おれに権威を示し、何故命令を下す権利があるのか説明する義務がある筈だ。
……少なくとも軍人と軍人の間ではそういうことになっていた。
ああ、くそ。ここは軍隊じゃないんだった。
ログでは、進級がどうこう言ってたから、多分、人間たちの子供が集められる学校って奴なんだろう。
学校だとどうなんだ? 説明する義務があるのか、ないのか。
分からん……だが、さっきからこいつはおれに話しかけたがってる。
こいつの話を聞けば、おれのこの場における立ち位置を確認できるかもしれない。
逆らうか、従うか、どちらを選択するにせよ、それは話を聞いてからでも、遅くは無い。

彼には彼で、説明を待つ理由があるのだ。
例えそれが、結論を先送りにするための、少々言い訳がましいものだとしても。

ルイズが軽く息を吸いこむ。
ノワールは耳をそばだてる。
ノワールのその姿が、どこかワクワクしているように、何かを期待しているように見えるのは、きっと気のせいだ。
少なくとも、気のせいで無ければならない、ノワールにとっては。


「いい? ノワールはわたしの使い魔。わたしはノワールの主人。
 使い魔っていうのは、主人と感覚を共有して……そういえば、出来てないわね。怪我してたからかしら?
 ええっと、後は主人が必要とする魔法の触媒を手に入れて……暫くは必要ないから忘れて。
 でも、どっちも出来なくても、主人を守るのが使い魔の一番重要な仕事なんだから、問題ないわ」

ないったらないだもん、と気合を入れるルイズ。
ごく普通の使い魔にまだちょっと未練がある模様。

「勿論、一方的に奉仕しろって言ってる訳じゃなくて、守ってもらう代わりに、わたしはノワールの衣食住を保証する。
 わたしに出来ない事を、ノワールがする代わりに、ノワールに出来ない事を、わたしがするの」

おれに衣は必要ないけどな、とノワールは思う。
そうね、だから、とルイズは続ける。

「主従よりもそう……相棒っていう方が近いのかも」

あいぼう、相棒、パートナー。
自分の言葉にうんうん頷くルイズ。
あ、今、わたし良い事言った、とか思ってるに違いない満足げな表情。
その所為で、相棒という言葉に、ノワールの耳が反応したことに気が付かない。

「そうよね、主従なんて軽い言葉じゃダメよ。
 だってそうでしょ? どっちかが死ぬまで、使い魔の再契約はできないんだから。
 相棒とか、パートナーとか、運命共同体っていうのよ、こういう関係は」

話し出すと自分の言葉に興奮する性質なのか、正座していた筈のルイズはいつの間にか立ち膝になっている。
言葉を紡ぐ度に動く身体、揺れるスカート。
とうとう寝台の上に立ち上がるルイズ。握り締めた拳、力強く中空を見つめる瞳。

「そうよ……だから、春の使い魔召喚の儀式は神聖なものなんだわ。
 ミスタ・コルベールが事有るごとに念を押してたのを、みんなはうざったいって言ってたけど、
 みんな、その重みが分かってなかったのよ。
 春の召喚の儀式は、単なる進級試験や、適正検査なんかじゃない!
 メイジが、生涯共に生きるかもしれない運命共同体を呼び出す儀式なんだもの!
 神聖って言葉でもまだ足りないくらいよ!!」

声を張り上げる。 腕を振り上げる。
何か物凄い真実に辿りついたような気になってるが、それは錯覚に過ぎないんだよと囁く心のどこか冷静な場所。
それでも満足感が胸を包む。だだ漏れの脳内物質がもたらす分かりやすい幸福。

Q.何でこんなにわたしハイなんだろ?

辛うじて残った理性が幸福垂れ流し機と化した脳みその隅っこで考える。

A.そういえばさっきちょっと寝ただけで、三日間完徹したんだったっけ。

自覚したら、物理的な衝撃にさえ匹敵する、凄い現実感を伴う眠気が襲い掛かってきた。
頭の中を、ガツンと横合いから殴られたような感じ。
ああ、このまま倒れこんで眠ったら、気持ちいいんだろうなぁ、と他人事のように思考する。
くすくす笑いながら眠りに落ちること請け合いのナチュラルトリップ。
でも、ダメ。まだ肝心な事をノワールに伝えてない。


「あ、あああのね」

舌が上手く回らない。
よたよたふらふらとノワールに向かって歩き出す。

「ほほ本当の事を言うとね、他のメイジが使い魔をどう扱ってるのかよよよく知らないの」

もしかしたら道具みたいに扱いのが正しいのかもしれない。
情をかけすぎると、重大な場面で判断を誤るかもしれない。
だけど……

「すす少なくともわたしは、ノワールを絶対に見捨てない。
 どんな事がああああっても、わたしは全力でノワールをた助ける」

素足のまま、床に下りる。
石の筈なのに、ふわふわと綿を踏むような感触。硬いものを踏んでいる気がまるでしない。

今から自分が口に出すのは、本末転倒な台詞だ。

「で、でもね、ノワールはわたしのために命をかけるひつようなんてないんだよ」

お座りの姿勢のまま、ルイズを見つめるノワールを、真正面からぎゅうと抱きしめる。
恐れも不安も欠片も感じさせない仕草。
その後ろにあるのは、この子がわたしに危害を加えるわけが無いんだという、根拠の無い確信。
或いは、ノワールが自分に害意を抱くなら、それはそれで仕方の無い事なんだという丸抱えの信頼。

「だって、だってね、あんた、わたしがよんだらきてくれたでしょ?
 それだけでわたしは……」

もう十分救われたんだよ、という最後の言葉は、寝息混じりのはっきりとしないむにゃむにゃの中に吸い込まれて消えた。



はっきりとしないむにゃむにゃの内容を正確に聞き分けることが出来たのは、犬の鋭い聴覚あらばこそだった。
精神的に一匹置いてきぼりを食らったノワールは、切なく溜息をつく。
待ち望んでいたはずの説明は、途中からルイズが興奮して、訳が分からなくなってしまった。
だが、まあ、と気を取り直す。とりあえず、理解できた所だけ整理すれば良い。
要は食べ物と屋根のある住処を引き換えに、ルイズを守れ、とそういう事らしい。
暫くの間は、それで良いかもしれない。
暫くの間だけだ。
誰かに従うなんて柄じゃないし、運命共同体とかパートナーとか言うが、
人の一生に付き合っていたら、犬の一生が何個あっても足りない。
適当に付き合って、この辺りの情報が集まったら、折を見て逃げ出す。
そういう関係だ。
ルイズが悲しもうが恨もう泣こうが、知ったこっちゃ無い。

フラッシュバック。
こちらを覗きこむルイズの泣き顔。

一瞬呆然とした後、何でそんな物を思い出すんだと振り払う。
関係ない。関係ないんだ。
心の中で呟く言葉は、現実の確認というよりも、半ば以上、自らに言い聞かせるための物だった。

ふと気づき、そういえば、と思う。
おれ、こいつがちゃんと笑った所、まだ見てないんだな。

当のルイズは、実に幸せそうに緩んだ顔で、ノワールに抱きついたまま寝こけていた。


兎も角、このまま一晩寝かせておくわけにもいかない。
かといって、起こすのもあんまりだろう――何しろ、おれを看護してこんなに疲れたのだから。
犬臭いのには我慢してもらって、この毛布に寝かせるか、とまで考えた所で、脳裏を過ぎる光景。

それは、他の人間から、犬臭いと馬鹿にされるルイズの姿。

やたらと具体的かつ鮮明なその光景は、何故か物凄く彼の癇に障った。
なので、しどけなく眠り続けるルイズを背に乗せ、寝台まで運ぶ。
ひょいと寝台に飛び乗り、背負ったルイズをベッドに横たえる。
かなりてこずった。具体的には、首にしがみ付いたルイズを背に乗せるまでの工程に。
割合乱暴に扱ってしまったのだが、よほど疲れていたのだろう。
ルイズはそれでも起きる気配が全く無かった。

やれやれ、と窓の外を見上げると、いつの間にか、ノワールの記憶には無い、二つの月が辺りを優しく照らし出している。

こっちじゃ月は二つあるのか。
この分だと、体内時計は計測以外信用できないな。

しかし、おれが用心棒か。

――殺した。ぼくは用心棒だ。ぼくの……

用心棒という言葉に、脳の奥を引っかかれるような違和感を感じる。
違和感といえば、もう一つ。
ノワールという名前。
おれは、もっと違った名前で呼ばれていた事があったんじゃないか……?

淡く輝く二つの月は、何一つ疑問に答えないまま、中天に差し掛かろうとしていた。


翌朝、ルイズは寝台の上で、文字通り飛び起きた。
毛布で寝床にノワールが寝そべっている姿を確認して、胸を撫で下ろす。
さて、使い魔も治ったことだし、もう授業を休む理由は無い。
今日はノワールを連れて初めて出席する記念すべき日だ。遅刻なんかしたらしまらない。
ぽいぽいと着替え、朝食に向かう。勿論、ノワールも一緒だ。
ただ、シエスタが言うには、成犬の食事は日に一回で良いらしいので、
ノワールの食事は、夕食にあわせて、厨房で作ってもらう約束になっている。


部屋を出た所で隣室のツェルプストーとばったり顔をあわせた。

「おはよう、ルイズ」

「おはよう、キュルケ」

「あら、立派な使い魔ね、ルイズ。精々使い魔負けしないように気をつけなさい」

流れるようなジャブ。

「あんたこそ男連れ込む事ばっかり考えてないで、少しは勉強しないとその大層な火竜山脈のサラマンダーが泣くわよ?」

ジャブにあわせるようにしてカウンター。

「言うじゃない……ま、今日はゼロのルイズ卒業記念って事でこの辺にしといてあげるわ」

明後日の方を向いてわざとらしく肩をすくめる。
むかっ。

「何よそれ。言い負かされたからってそういう風に逃げないでよね」

キュルケは余裕の表情。

「逃げてなんか無いわよ? でも、本当にゼロのルイズってからかえなくなっちゃったのねぇ」

「しみじみ言わないでよ、しみじみ!」

にっ、っと笑う。
何この余裕。もしかして隠し玉でもあるのかしら?

「ま、頑張んなさい」

くしゃくしゃっと頭を撫でられた。
そのまま、食堂に向かうキュルケ。
暫く呆然とした後、ハッと我に返る。

なによあれ、余裕見せちゃって。くやしい、くやし~!
今に見てなさいよツェルプストー。積年の恨みは怖いんだから。
いつか、絶対に、ぜーったいに追い抜いてやるんだから!

地団太を踏んで口惜しがるルイズを、ノワールはじっと見つめていた。

朝の一番 ラ・ヴァリエール VS ツェルプストー
●ラ・ヴァリエール ○ツェルプストー  決まり手 先達の余裕


朝食は恙無く終わった。
ルイズは三日ぶりに堪能する暖かい朝食に心から満足し、幸せな気分で食べると、
何時もと同じ食事も一味違う事を実感した。


そして、その事件は一限目の講義の前に、起こった。
発端は、風下のマリコルヌという少年。
ぽっちゃりと太った冴えない彼が軽い気持ちで言い放った言葉だった。
彼は何時ものように、皆のようにルイズを馬鹿にした。
ゼロのルイズ、と。
幾らサモンサーヴァントとコントラクトサーヴァントに成功しても、たった二回。
お前にはゼロの二つ名がお似合いだ、と。
そもそも、その犬だってその辺歩いてる犬を連れてきたんじゃないか?
だってお前はゼロのルイズだものな。
朝のじゃれあうような言い合いとは違う、明らかな悪意の込められた言葉に、
誰よりも早くノワールが反応した。

起きた事件を言葉にするのは決して難しいことではない。
ノワールは、自重を感じさせない動きで、ルイズの机を飛び越え、
自分の席に戻ろうとするマリコルヌの目の前に立ち塞がった。
ただそれだけだ。
吼えなければ、牙をむいてもいない。
唸るどころか、そもそも、睨んでいるとさえ言い難い。
本当にただ“立ち塞がった”だけだった。
だが、ただそれだけの事で、マリコルヌは腰を抜かした。
マリコルヌは、真正面からノワールの瞳を覗き込んでしまったのだ。
マリコルヌがノワールの瞳の中に見た感情は、殺意、憎悪の類ではない。
侮蔑ですらない。
それは、強いて言うならば、苛立ちを含んだ無関心とでもいうべき感情だった。
耳元でうるさい蚊に憎悪を抱く者はいない。
蚊を叩き潰すのに殺意を込める者はいない。
耳障りな音を立てて飛ぶからと、蚊を蔑む者もいないだろう。
わざわざ蚊に対等な人格を認める必要など存在しないのだから。

故に、もう一回耳元で飛んだらうざったいから、今のうちに潰しておこうかな、というのが、
この朝のマリコルヌに対してノワールが抱いた感情の全てだったといえる。

生殺与奪の権を完全に握られた絶対的な弱者の勘で、マリコルヌはその一切を直感的に理解した。
自分がメイジだとか、相手が犬だとか関係ない。
目の前のこいつの気まぐれの方向が、ほんのちょっとでも自分に不利な方に振れれば、
その瞬間が自分の命日なのだと、十全に理解してしまった。
相手にとって自分は、気に触らなければ息をしていても構わない。その程度の存在なのだと。
マリコルヌは、朝食後にトイレに寄っておいた事を、始祖ブリミルに感謝すると、ゆっくりと意識を手放した。
気が付けば、教室の中は静まり返っている。
この日以降、ルイズをゼロのルイズと笑う者はいなくなった。

マリコルヌが気絶するのを見届けた後、
ノワールは、ルイズに顔を向けると、これで良いの? と問うように、首を傾げる。
ルイズは、召喚から四日目にして始めて、自分の使い魔に心からの笑顔を向けた。



[5204] ゼロの黒騎士 第四回
Name: 早朝◆74a45303 ID:a07c8492
Date: 2008/12/09 00:47
「それは確かなんじゃな、ミスタ・コルベール」

普段のおちゃらけた姿からはとても想像できない重々しい声で、
オールド・オスマンは目の前の男、『炎蛇』のコルベールに問いかける。

「……この三日間、幾つもの文献に当たり、様々な可能性を検討しましたが、間違いありません」

ごくり、と唾を飲み込んだのは、果たしてどちらだったのだろうか?
良くも悪くも動じることが無いオールド・オスマンが相手をしていても、なお空気が重い。
それほどにコルベールの辿り着いた答えの持つ意味は、深刻だった。

「間違いありません。ミス・ヴァリエールの使い魔の左手に刻まれたルーンは、ガンダールヴのルーンです」

つかの間、沈黙が落ちた。
部屋の温度が数度下がったかと錯覚させるような冷え冷えとした緊張感が満ちる。

「ガンダールヴは、詠唱時間の間、ブリミルを守ることに特化した神の盾、じゃったな」

沈黙を断ち切るように、オールド・オスマンが呟いた。

「はい。残念ながら、その姿形は後世に伝わっていませんが、彼はあらゆる武器を使いこなしたと言われています」

「しかし、ミス・ヴァリエールの使い魔は……」

「そう、彼女の使い魔は犬なんです」

再び学院長室が沈黙に包まれる。
先ほどよりも、更に深く、重く。
お互いに、今交わされた会話の意味をその胸のうちで思案しているようだった。

「この件は……」

「分かっています。内密に、ですね」

「うむ……」



春の召喚の儀式から、暫く経った。
その間、ノワールは全く手の掛からない使い魔だった。
まず、無駄吠えをしない。
『赤土』のシュヴルーズの授業で、ルイズが錬金に失敗し、
大爆発を起こした時も、暴れる使い魔たちの中で、例外的に落ち着きを払っていた。
下のしつけ、世話をする必要も無かった。
散歩も必要なかった。
何しろ、朝夕に折を見て学院を抜け出し、一時間ほど裏の森を駆け回っている。
食事と睡眠以外の用は、そこで済ませてしまっているらしい。
ただ、最初にノワールが姿を消した時、ルイズは半狂乱になって学院中を探し回った。
泣き声を聞きつけて、何事かとノワールが駆けつけた時には、ルイズはヴェストリの広場でへたり込んで大泣きをしていた。
シエスタが必死になって慰め、何故かそばにはキュルケが何かを持て余すように佇んでいる。
キュルケが手を引いている一際小さな少女――読んでいる本から顔を上げようともしない――には見覚えがなかったが、
どうやら、ノワールの捜索を手伝うつもりだったらしい。
その光景にノワールは、心のどこかにちくりとした何かを感じた。
だが、それが罪悪感だったと気づくのは、もう少し先の話。
兎も角、それ以来、ノワールが外出する時はルイズの顔を見上げ、
許可を貰ってから、というルールが暗黙のうちに成立した。

かようにノワールは手間の掛からない使い魔だったが、ルイズは、暇を見ては手間をかけたがった。
というよりも、世話をしたがった。

夜寝る前には、必ずブラッシングをした。
毛並みが艶々になるのを見て、このわたしの使い魔なんだから、いつも身奇麗にしなくちゃね、と笑った。

使い魔との触れ合いの一環と言い張って、一緒に散歩にも行った。
一歩遅れて付いてくるノワールを見ては、その度に零れるように微笑んだ。

シエスタに声をかけて、学院そばの草原で取って来いをして一緒に遊んだ。
ノワールは教えてもいないのに一発で取って来いを成功させて、シエスタを驚かせたりした。
ルイズはその事を、まるで我が事のように喜んだ。

一緒に昼寝をした。といっても寝たのはルイズだけで、
ノワールは、寝転んだ自分の腹に頭を持たせかけて眠るルイズの寝顔をじっと見つめていた。

ギーシュの愚痴を一緒に聞いた。
ノワールのご褒美用干し肉が切れたことに気が付いて、厨房に貰いに行く途中で、
顔をぼっこぼこに腫らして飲んだくれるギーシュにつかまったとも言う。

「で、うっかり落としたモンモランシーから貰った香水を拾ったのが、よりにもよってケティだった、って事?」

「うっ……ううぅ、ああ、なんて、なんて僕は運が悪いんだ。始祖ブリミルは僕を嘉し給わぬのかっ!」

「全部あんたが悪いんじゃない。二股とか信じらんない」

サクッ。クリティカルヒット。

「あ、う、で、でも、僕は薔薇……甘い蜜の香りに誘われてやってくる蝶を拒む薔薇があるだろうか? いや、無い!」

ギーシュ、再起動を試みるも、

「言い訳する男って、最低ね」

失敗。止めを刺されて、テーブルに突っ伏す。

「あ、でも、私は本当に好きな相手なら、二番目でも良いかなー……なんて」

背後から、優しげな声が響いた。

「シエスタ、何時の間に来てたのよ?」

「いえ、食堂からルイズ様の声が聞こえたものですから」

そろそろ切れる頃ですよね、と言って笑うシエスタの手には、干し肉の入った袋があった。
気が利くわね、ありがとう、シエスタ。いえ、とんでもありません。
和やかな空気が流れ、ギーシュの影が極限まで薄くなったその時、

「あなた、シエスタだっけ? その考え方は負け犬の考え方よ、負け犬。
 本気で惚れちゃったんだったら、無理やりでも振り向かせるくらいの気持ちじゃなきゃダメよ」

相手も自分も燃やし尽くすような情熱こそ、恋の醍醐味でしょう?
横合いから、婀娜っぽい声が茶々を入れた。

「キュルケ!? なんであんたまでいるのよ!」

天敵の出現に、ルイズの声が一瞬で尖る。

「ちょっとした事故で、部屋の風通しがよくなっちゃったの。
 まだ肌寒いから、寝酒でも召してさっさと寝ようと思ったら、何か面白そうな話をしてるじゃない」

「なーにが、ちょっとした事故よ。どうせ男絡みでしょ? ギーシュと同じように、二股がばれたって所かしら。
 あさましいったらありゃしない」

「そこのギーシュは捨てられちゃったんでしょ? あたしの場合は、奪い合い。
 ほんと美しいって罪よね……あら、誰からも相手にされない、ルイズにはこの違い分からなかったかしら。
 ごめんあそばせ、オホホホホ」

みるみるうちに険悪になる空気。
心なしかのアルヴィーの踊りもぎこちない。

「……あ、私、まだ洗い物が残っているので、先に失礼させていただきます」

君子危うきに……などと口の中で呟きながら、
こっそり脱出しようとするシエスタの背後から、ガシリと肩を掴む手。
ひ、っと息を呑むシエスタ。

「シエスタ、いくら気まずくても、あなたが席を立つ必要なんて無いのよ?
 この慎みを知らない、キュルケって女がとっとと部屋に帰れば良いんだから」

「あら、言ってくれるじゃない、ルイズ。そもそも最初はギーシュの恋愛相談だったんでしょ?
 ネンネのあなたじゃ役に立たないんだから、あなたこそとっとと帰るべきじゃないかしら?」

「……今日こそ、あんたとの決着をつけなきゃいけないようね、フォン・ツェルプストー」

「吠え面かいてもしらなくてよ、ラ・ヴァリエール」

とても十代の少女二人が発するとは思えない重圧が広い食堂全体に満ちる。
うっかり逃げそびれたシエスタはすでに、涙を目に溜め始めていた。

「……なあ、ちゃんと話を聞いてくれるのは、君だけだよ、ノワール。
 ああ、君となら良い友達になれる気がする。
 今度、僕のヴェルダンデを紹介するよ。君と同じく、寡黙な良い奴なんだ……。
 なあ、聞いてるかい、君。
 ケティとモンモランシーに殴られた挙句、何で女の子の喧嘩のダシに使われてるんだろうね、僕」

結局、ギーシュの愚痴はノワールが聞く羽目になった。
喧々諤々と学院の夜は更けていく。

ノワールと遠乗りに出かけた。
馬と併走しても息一つ上げないノワールの体力に驚いた。

虚無の曜日は、ノワール“で”遠乗りに出かけた。
シエスタに見送られて、さて、出掛けようかとしたところで、キュルケとタバサに見つかった。

「あっはっはっは、どこの美少年かと思ったら、ルイズじゃない!」

「うっさいわね、ミニスカートでノワールに跨るわけにもいかないでしょ」

だが、裾丈の短いキュロットスカートと学園指定の飾り気の無いブラウスで身を包み、
長い髪を邪魔にならぬようにハンティング帽に押し込んだ姿は、
まだ女の匂いの薄い身体と相まって、確かに少年のように見えた。
自覚があるのか、あんたみたいに他人に下着見せる趣味はないの、という返事にも勢いが無いルイズ。

「……でも、何時もの格好よりも、その方が色気があるのは、女としてちょっと不味いわよ、ルイズ」

手にした本からちらりと視線を上げ、ルイズを一瞥したタバサが呟く。

「サスペンダーがあれば完璧」

勝気そうな瞳、目元に深い影を落とす長い睫、滑らかな頬、髪を結い上げている所為でむき出しのうなじ、
染み一つ無い白い肌、キュロットから伸びるすらりとした脚線、繊細を通り越してどこか危ういとさえ感じさせる華奢な身体。
少女と認識していた時は見過ごしていた諸々の要素が、今は少年期特有の危うい潔癖さを感じさせた。

あ、ちょっと汚したいかも。
不穏な考えが頭をもたげる、キュルケ。

一瞬の後、正気に戻る。
……何考えてるのかしら、あたし。あれは、ラ・ヴァリエールなのよ?
まったく、虚無の曜日に暇なんて持て余してるから変な考えが起きるのよね。

「……ねえ、ルイズ。弟さんがいたら、近いうちに是非紹介してくださいな」

「いないわよっ!」

もしいても、あんたなんかに絶対紹介しないわっ! と一声叫んでひらりとノワールに跨ると、
迅雷の速度で走り去るルイズ。
サラマンダー(注:学園で飼われる乗用馬の名前)よりもはやーい。
手綱も鞍もないため、ノワールの首筋に顔を埋めるようにしがみ付く。
ノワールの毛皮の下で、しなやかな筋肉が躍動しているのを感じる。
一足駆けるごとに、力強く心臓が拍動するのが分かる。
視点が低いため、馬よりも遥かに速く感じる速度。
知らず知らずのうちに、ルイズは歓声を上げる。



「……あいつ、使い魔召喚してから随分元気よね」

ポツリと、キュルケがどこか寂しそうに呟いた。

「まあ、当たりを引いたのだから気持ちは分かるのだけれども」

今までずっと報われなかったものね、という呟きは、唇より先に飛び出す前に留める。
同情なんて柄じゃないし、何よりルイズもそんな物は望んじゃいまい。
あー、なんかくさくさするわっ! 街に繰り出して男でも引っ掛けてこようかしら、と伸びをするキュルケを横目に、
タバサはじっとルイズとノワールが消えた先を見つめていた。
この小柄な友人が、珍しく読書以外の事柄に興味を持ったと察したキュルケは、ちょっとからかってみる事にする。

「タバサ……愛の形は人それぞれだから、口を出すのは野暮だけど、同性愛は不毛よ?」

「違う」

一言で否定された。
食い下がる。

「あなた、まさかノワールに……!?」

いけない、いけないわ、タバサ。それは流石に人の倫に外れるわよ。
あまりにもおぞましい想像に声を戦慄かせる。

「もっと違う」

心なしか、タバサの声に冷たい何かが混ざったような気がする。

「あの犬は異常」

何時ものように、端的過ぎる言葉。
タバサの一番の親友を自認キュルケでも、流石にこの一言で全てを察するのは無理だった。

「説明して」

「運動能力という点だけ見ても、犬という範疇から大きく外れている」

コクリ、とキュルケが首を傾げる。
どこか子供じみた、意外に可愛らしい仕草をするキュルケは、年相応の少女のように見えた。

「そうかしら? そりゃ確かにルイズを乗せてあの速さで走れるのは大したものだけど……」

そうじゃないと言う様に首を横に振るタバサ。

「ノワールというあの犬は、朝夕に裏の森に行く。時折、時間の関係で正門が閉まっている時がある」

それが? と視線で先を促す。

「あの犬は、城壁を飛び越えて学院の外に出る。帰ってくる時も同じ」

キュルケは、暫くその言葉の意味する異常さが掴めない。
そりゃ、門が閉まっているなら、壁を……。

「……え、嘘。だって、あの城壁、5メイルはあるでしょう?」

タバサが小さく頷く。

「城壁の僅かな凹凸に爪を引っ掛けて一気に駆け上る」

確かにそれは犬って範疇じゃないわね、と呟いて、キュルケは黙り込んだ。
考え込む二人。

「犬にそっくりの幻獣って可能性はないのかしら?」

ヘルハウンドみたいな、と付け足す。

「無い。医務室に運び込まれた時、ミスタ・コルベールがディテクト・マジックをかけたけど反応しなかった」

そう……と呟くキュルケ。
それきり暫く黙りこむ。
学院の喧噪が妙に遠くに聞こえる。
だが、キュルケの直感も、タバサの論理的思考も、今日この場では役に立たないようだった。
答えを得るには、あまりにも情報が少なすぎる。
とうとうキュルケが、つい、と顔を上げた。どうやら結論の出ない思考に飽きたらしい。

ま、どうでも良いわ、ラ・ヴァリエールの使い魔のことなんか。
それよりも、今日何して暇を潰すかよ。
ね、お願い、タバサ、街に行くのにシルフィードで送ってくれないかしら?

ダメ、今日は虚無の曜日。用件を済ませた以上、部屋で読書をしていたい、と視線で語るタバサ。

思い切り不満げな、えー。

そんなやり取りに、おずおずと一人の少女が割り込んだ。

「あの、よろしいでしょうか?」

この辺りでは珍しい黒い髪を肩の辺り切り揃えたメイド――ルイズを見送りに来ていたシエスタだった。

「えっと、あなた、シエスタだっけ? どうしたの?」

つい先日、食堂でルイズとやりあったキュルケは、昨日の今日ということもあり、流石に顔と名前が一致する。
ふと、気づく。
平民であるシエスタが、貴族、しかも、トライアングルメイジであるキュルケとタバサに話しかけるには、
そうとうの勇気を必要としたはずだ。
案の定、シエスタの手は震えていた。

緊張を和らげるように、キュルケは微笑みかける。
タバサにその手の社交性というか気遣いは期待するだけ無駄なので、
こういう時は、意識してキュルケが前に出る必要がある。
その微笑に勇気づけられたように、シエスタが再び口を開いた。

「お二人の会話を小耳に挟んで……実は、私もノワールについて、気になっていた事があるんです」

「そういえば、あなた、最近ルイズの周りでよく見るけど、どういう関係なのかしら?」

ご説明していませんでした。申し訳ありません、と一礼して謝り、自分とルイズの関係を説明するシエスタ。
動物の知識を買われ、ノワールの介抱を手伝ったのだという事。
それ以来、ルイズとは懇意にしている事。

「祖父が、こういう事に妙に詳しい人だったんです。
 暇とお金さえあれば、ハルケギニア中を回って動物の生態を調べていたそうですわ」

動物について詳しい知識があるのは何故かと問われたシエスタは、少し遠い目をしてそう語った。

「なるほどね。で、気になることって言うのは?」

「ノワールの犬種の事ですわ。
 ノワールの体高はおよそ一メイル五サント。
 ハルケギニア最大といわれるアルビニオンのウルフハウンドを凌駕する大きさです。
 これに曲がりなりにも匹敵する犬種となると、
 ゲルマニアの猪狩りの狩猟犬や、ガリア南西部山間のマウンテンドッグですが……」

興味を引かれたのか、タバサも口を挟む。

「どの犬種もノワールに似ていない」

頷いて、肯定の意を表すシエスタ。

「はい。明らかに違う犬種ですわ」

でも、とキュルケが呟く。

「それなら貴方のお祖父さんも知らない所から……
 例えば、ロバ・アル・カリイエから召喚されたって可能性もあるでしょ?」

「かもしれません……でも、犬を見ていると何となく分かるんです。
 その犬種が何を目的として、どの程度人の手が入っているのか」

それで? とキュルケが先を促す
シエスタが、すっ、と息を吸い込んだ。

「ノワールは、牧羊犬でもなく、狩猟犬でも無いと思います。
 そのどちらを目的にするとしても、あれだけの能力を必要とはしません。
 恐らくは、いえ、ほぼ間違いなく軍用犬として生み出され磨き上げられた犬種ですわ」

巨躯に裏打ちされた強靭かつしなやかな身体能力。
一度聞いた固有名詞を確実に区別する知性。
複数の命令を同時にこなす事のできる高い判断力。
“今”の“先”を予想する事の出来る鋭い洞察力。
それらと、必要とあらば、気配を完全に断つ野生の本能との理想的な混合。
本来ならば、軍用犬ですら、これほどの能力を必要とはしない。
シエスタが軍用犬と言ったのは、年齢不相応な該博な知識を持つ彼女をしても、
他にここまで高い能力を求められる犬というのが想像も出来なかったからだ。

シエスタはノワールの血の向こう側に、怨念じみたブリーダーの執念を感じていた。
想像上のブリーダーたちが挑む命題はただ一つ。“最高の狩人を作り上げる事”

一旦息を継ぐ。
まるで、今まで喋った事がずっと背負っていた重荷だったかとでも言うように。

「少し、不安なんです。ノワールは本当に良い子だし、ルイズ様も可愛がってます。
 でも、時折感じるんです、観察するように私たちを見ているノワールの視線を」

あれは、一度酷く傷ついた事のある犬の目だ、とシエスタは思う。
例えば、飼い主に裏切られたとか。
そういう犬は、もう一度傷つけられる事に殊の外敏感だ。
そして、少しでも裏切られたと感じたら、必ず報復するだろう。
その時、自分は決してルイズの力にはなれない。
シエスタは、犬の強さを、そして、ただの人間である自分の弱さをよく知っていた。
ましてや、ノワールは軍用犬だ。
その能力は未知数だが、間違いなく、シエスタの知るどんな犬よりも強力だろう。
自分どころか、下手なメイジでも相手にならないかもしれない。
でも、噂に聞くトライアングルメイジの二人ならば……。

だから

「だから、その時は、酷い事になる前に、ノワールを止めてあげて下さい
 ルイズ様のためにも、ノワールのためにも」

シエスタは深く頭を下げた。
キュルケはタバサと顔を見合わせ、そして、肩をすくめた。

「ま、考えとくわ。
 あなたの考えすぎだと思うけどね」

その眼差しは、ノワールに乗って帰ってくるルイズに注がれている。
遠目からでも分かる。
ルイズは、楽しそうに、それは楽しそうに笑っていた。



[5204] ゼロの黒騎士 第五回
Name: 早朝◆74a45303 ID:a07c8492
Date: 2008/12/09 00:48
トリスタニアは、トリスティン王国首都にして、最大の都市である。
その目抜き通りであるブルドンネ街ともなれば、昼夜を問わず人が溢れ、
連日祭りのような賑わいを見せる。
その人ごみが、真っ二つに割れた。

通りの真ん中から綺麗に右と左に分かれた人波を前に、狼狽しているのは一人の美少女。
薄いピンクの髪は緩やかに波打ち、すらりとした肢体に、丈の短いキュロットスカートが良く似合っている。
明らかに何故こんな事になったのか気づいていない。
だが、群集の視線が自分の少し後ろに集中している事に気が付いて、
勝気な瞳に困ったような――そして、わずかに、ほんのわずかに誇らしげな――表情が浮かんだ。

「す、すこし不味かったかしら?」


話は、少し時を遡る。
ノワールとの遠乗り以来、ルイズは理由を見つけてはノワールを乗り回すようになった。
元々乗馬が得意だったルイズは、ノワールと一体となって風を切る感覚がいたく気に入ったらしい。
流石に制服着用が義務付けられている授業時間の間は自重しているが、
放課後になると、今まで以上にノワールと一緒にいる姿が見かけられるようになった。
一週間経った頃には、手綱も鐙も無いのに、乗馬と大して変わらない感覚で、
ノワールを乗りこなせるようになっている。
ルイズにしてみれば、ノワールはちょっとした仕草から乗り手の意を汲んでくれるので、
慣れてしまえば馬よりもよほど乗りやすく、速度も馬以上、
地上一メイルそこそこという視点の低さに由来するスピード感とスリルも、馬には無いものだし、
そして、何よりも、ノワールと同じ風景が見られるのが、純粋に嬉しかった。
同じ風景を見ていると思うと、いつも無表情なノワールの心に、ほんの少しだけ近づける気がしたのだ。

そんなわけで、ハルケギニア屈指の乗犬(推定競技人口一人)の腕前に達したルイズは、
少し前から暖めていた計画を実行に移したのだった。

ルイズの計画とは、つまりは、買い物にかこつけた、トリスタニアへの遠乗りである。
ちまちま学院の周りを走り回るのとは、訳が違う。
今度の遠乗りは、時間的にも距離的にも、今までで最長の物になるだろう。
新たなる挑戦を前に、ルイズは獰猛に微笑んだ。


結果として、馬で三時間は掛かる所を、ノワールは二時間少々で軽々と駆け抜けた。
春の薫風は、肌に心地よく、日に日に濃くなっていく青葉の色は、目に快い。
爽やかな気分でトリスタニアに辿り着いたルイズは、いつもなら馬を預ける駅を素通りした。
そのとき、少しだけ引っかかる物を感じたのは、確かだ。
だが、結局は、ノワールと一緒に居たいという我侭に流されてしまった。
一応、理由が無いわけではない。
だって、そうでしょ? ノワールは馬じゃないし、わたしの使い魔だもん。
そもそも、首輪を買いに来たのに、ノワールが居ないんじゃ、似合うかどうか分からないんだもん。

そして、ルイズは今、ノワールに乗ってトリスタニアに言ってくると言った時の、
シエスタの微妙な表情の理由を、しみじみとかみ締めていた。
学院で使い魔に見慣れていると、感覚が麻痺しがちなのだが、よくよく考えたら、
体高が一メイルを越える犬の威圧感は相当なものだ。
シエスタは良い子だし、色々世話にもなっているのだけれども、平民という事で少々遠慮しすぎる感がある。
忠告・諫言の類を叱責するほど、心の狭い人間では無いつもりのルイズとしては、
もう少し遠慮なくずけずけ言ってもらって構わないのにな、などと思っている。

こうなっては仕方ない。
少々気まずいが、さっさと買い物を済ませて帰ろう。
出来れば、ノワールと一緒にトリスタニアを散策でもしようと思っていたのだが、
流石にこの状況でそれが出来るほどルイズの肝は太くない。

心臓に毛の生えてるフォン・ツェルプストーなら平気なんでしょうけどね。
繊細なラ・ヴァリエールじゃ無理よ無理、とキュルケが聞いたら本気で怒りだしそうな台詞を、心の中で一人ごちる。
そもそも、こんな風に注目を集めてもなお、最初の目的を果たそうとしている時点で、
相当強心臓だという事実は華麗にスルー。

まず、彫金職人を訪れ、銀のプレートを注文。
散々迷った挙句、銀無垢の表面に飾り文字でノワールとだけ刻んでもらうことにした。
続いて革細工の店でやいのやいのと細めベルトを選んで、プレートを取り付けてもらう。
職人は、やや引きつった顔で、お似合いですよ、と言ったが、
なるほど、ノワールの艶やかな黒い毛皮に、銀の輝きは良く映えた。


その帰り道、ブルドンネ通りをそぞろ歩いている時に、事件は起こった。
銀だものね、毎晩ちゃんと磨かなきゃね。
あ、そうだ、帰ったらシエスタに銀磨き用の端切れを貰おうか、
などと、ルイズが一人盛り上がっていた時の事だった。

ルイズが手ずからかけてくれた首輪を、首筋に感じながら、ノワールは考える。
おれは、何故まだここに居るのだろう? これは最近のノワールのベーシックな悩みごとの一つだ。
学生連中や、教員の話を盗み聞きして、大体の状況は理解したし、着々と準備は進めている。
そろそろ、学院を離れても良いような気がする。
幸い、ルイズに連れまわされた遠乗りのお陰で、おれは随分この辺りの地形にも詳しくなった。
とはいえ、まだまだ準備が足りないのも確かだ。
何しろここは異世界。どんな障害が待ってるか分かったものじゃない。
万全を期し、慎重には慎重を重ねるのは、当然だ。
しかし、こうも思う。準備というのはただの言い訳じゃないのか?
俺にはあの学院を離れがたい理由があるんじゃないのか?
否定する。
いや、明確な理由があるわけじゃない。要はきっかけがないという事だ。
あとは……そう、義理だ。
目の前で風に揺れるロングヘアーを見ながら思う。
そう、義理だ。思えば、こいつには命の借りがある。
人間て奴はどうにも好きにはなれないが、こいつに助けられたと言う事実を無視することは出来ない。
借りっ放しは性に合わないのだ。
そいつを返すまでは、もう暫くここに居る。居る間は、こいつの命令も聞く。そういう事だ。
毎晩してくれるブラッシングが気持ち良いとか、
とって来いを成功させた時に自分の事のように喜ぶのが嬉しいとか、
無条件に寄せてくる信頼がこそばゆいとか、そういうのは違う。そんな事は断じて考えていない。

ノワールの首元には、銀のプレートが慎ましやかに輝いている。
ぐるぐると回り始めた思考を断ち切るように、女の悲鳴が響いた。

結論から言えば、それはただの引ったくりだった。
ルイズに命じられたノワールは、あっという間に犯人に追いつくと脚に噛み付いて引きずり倒し、
これをあっさりと制圧した。
ルイズは、被害者である老婦人から大変感謝され、恐縮した。
照れ隠しに、平民の保護も貴族の義務よ! と強がった所、今度はいたく感心された。
ぷいと横を向いて照れる表情に、少しだけ色彩の違う構成要素が混じる。
その構成要素の名を羞恥という。
自分は何もしていないのに、果たして感謝に値するのだろうか、という疑問だ。


夜の帳は惨劇を覆い隠す。

まず最初に、フーケの名誉のために弁護をしよう。
事故だったのだ。フーケに非が無いとは言わないが、それは、間違いなく事故だったのだ。
まさか三十メイルに達しようかと言うゴーレムの前でもたもたしている人間がいるとは思わなかった。
ゴーレムの身体は大きすぎて、肩に乗ったフーケにはゴーレムの足元が見えなかった。
ここ一番でどうしようもなく運が悪いルイズが、砕けた石に脚を取られて転ぶなんて、考えもしなかったのだ。

そもそも、事の始めから巡り合わせが悪かったとも言う。
たまたま、ロングビルこと土くれのフーケは、狙いを定めた宝物庫の下見をしていた。
たまたま、王都で自らの無力を実感していたルイズは、こっそりとノワールを連れて魔法の特訓をしていた。
たまたま、暇を持て余していたキュルケは図書館から帰る途中のタバサと共に、ルイズを冷やかしに現れた。
たまたま、苛立ち紛れにルイズが放ったファイアーボールの魔法は、大爆発を起こして、宝物庫の壁に深いひびを穿った。

どれか一つが欠けていれば、こんな事にはならなかっただろう。
そして、文字通り降って沸いたこの好機を、土くれのフーケが見逃すはずがなかった。

即座に呪文の詠唱を開始する。
操作性や、精密作業のための緻密さを捨て、ひたすらに巨大で強力なゴーレムを作成。
三十メイルに及ばんとするその巨体をもって、ひびの入った宝物庫の壁を破壊。
後は破壊の杖を奪い去り、記念の署名を残したら、悠々とゴーレムに乗ったまま学院から脱出する。
何故か宝物庫のそばに居た、タバサとかいう学生の使い魔である風竜を呼ばれるとちょっと厄介だが、
まあ、何とかなるだろう。
その筈だった。それで終わる筈だった。
ルイズという少女が居なければ。そして、彼女の使い魔が居なければ。


「嘘! こんな時に……」
転がる石に脚をとられる。
たまらず転んだ。
立ち上がらなきゃ、と思いつつも、思わず後ろを振り返る。
見なきゃ良いのに、振り返ってしまった。
その一動作が命取りだった。
視界をゴーレムの足の裏が埋め尽くす。
恐怖がルイズの脚を萎えさせた。
最初に思い浮かぶのは、避けられ得ない死。
次に思い浮かんだのは、故郷の家族でもなく、忠誠を誓う人の面影でもなく……。

そして、無情にも、ゴーレムの脚が全てを踏み潰した。

ゴーレムにルイズが踏み潰される、一瞬前、確かにキュルケは聞いた。
ルイズは、最後の最後になって、自分の使い魔に、“来ちゃだめ!”と叫んでいた。

あなた、馬鹿よ、ルイズ。
せっかく使い魔召喚に成功して、あんなに喜んでたじゃない。
それが一ヶ月も続かないなんて、そんなのあんまりよ。
へなへなと座り込む。

後悔が身を苛む。
こんな事なら、からかわなきゃ良かった。いじめなきゃ良かった。
使い魔負けしないように気をつけろなんて、言わなきゃ良かった。

「死んじゃったら、何にもならないわ。ねぇ、そうでしょ? 答えてよ、ルイズ……」

その呟きは、風に流れて、消えた。


命を賭ける必要は無い?
馬鹿を言うな。この程度の危機で、おれの命がどうにかなるものか。

全力でおれを助ける?
一度、お前はおれを助けただろうが。借りっ放しは性に合わない。

来るな?
お前を置いて逃げられるものか!

永遠に引き伸ばされた一瞬。今にもルイズの上に落とされようとしているゴーレムの柱のような脚。
無論、こんなものに潰されてしまったら、人も犬もくそも無い。全部まっ平らになるだけだ。
たわめられた身体に爆発的な力が蓄積される。三歩だ、三歩で助ける。それ以上の時間はない。
風を巻いて駆け出した。
一歩。十メートル近くを一気に詰める。まだ届かない。
二歩。ルイズの元に辿り着く。膨大な質量が背後に迫ってくるのを感じる。
三歩。ルイズの襟首を咥えて離脱。直後無造作に下ろされるゴーレムの脚。
舞い上がる砂埃、びりびりと衝撃を感じるほどの轟音。
間に合ったと言う安堵。
もしかしたらルイズの鼓膜が破けたかもしれないという恐怖。
だが、あのまま潰されるよりは万倍もマシだ。
地面に横たわるルイズを見下ろす。
ショックのあまり気絶しているらしいが、その顔には、死を間近にしたものの恐怖が刻み込まれている。
眉間に寄った皺、何かに耐えるように握り締められたてのひら、強くつむられた瞳、今にも泣き出しそうな口元。
こいつは、自分の死という絶対的な恐怖を前にしてもなお、おれの事を救おうとしたのだ。
助けてと泣き叫ぶことは簡単だっただろう。
来てくれと呼べば、おれが助けに来ると信じていたはずだ。
助かる可能性を拒んで、たった一人で逝くと覚悟した時、どれほど心細かっただろうか。
それでも、それでも勇気を全部一滴残らず振り絞って、こいつは最初に交わした約束を守ろうとしたのだ。
おれよりずっと弱いのに、こいつは、死の恐怖を振り切ったのだ。

ああ、認めてやる。認めてやるさ。
他の誰が認めなくても、おれが認めてやる。
お前は、凄い奴だ。大した奴だ。
お前は、おれの相棒に相応しい女だ。

砂埃で汚れたルイズの頬をペロリと舐める。
汗の味と、ざらつく砂と、ルイズの香りがした。
恐怖に強張ったルイズの表情が、かすかに緩んだ気がした。

知らず知らずのうちに低い唸り声が喉から響く。
遥か頭上のあいつは、おれの敵だ。
戦力差とか、体格差とか、全部知った事じゃない。
おれは、あいつを噛み砕かずにはいられない。
あいつは、おれの相棒を傷つけようとしたのだ。

敵はでくの坊の肩の上、杖を構える人影。闇色のローブを纏うメイジ。土くれのフーケを名乗る盗賊。
奴に、誰の相棒に手を出したのか教育してやる。


ゴーレムの右足に狙いを定める。ここから先はタイミングが勝負。
接地の瞬間、足に飛びつき、一気に膝まで駆け上がる。
駆け上がる勢いと、ゴーレムが右脚を振り上げる勢いを利用して、一気に胸まで飛び上がった。
そこから肩まで、ノワールならば一歩の距離だ。
今更フーケがノワールに気づく。遅いとほくそえむノワール。
まさか犬が垂直三十メイルを駆け上がると思ってはいなかったのだろうが、それを油断というのは酷だろう。
まさかという思いが、ゴーレムを維持するかフライを再詠唱して逃走するかの一瞬の迷いが、彼女の命運を分けた。
杖を握る右手首にノワールの牙が食い込む。皮膚が破れ、骨が砕ける。
握力を失った右手に握られた杖が、重力に引かれて零れ落ちる。
だが、フーケとて伊達にその名をトリスティン中に轟かせているわけではない。
常人ならその場で転がりまわるしか出来ないであろう痛みを堪え、左手に持った『破壊の杖』を捨てると、
咄嗟に懐から、あらかじめ契約しておいた予備の杖を引き抜き、震える声で詠唱。
崩れ落ちるゴーレムの肩を蹴って、フライを発動すると、学院裏の森へと逃げ込んだ。
森に逃げ込んだのは、上空からの追跡をかわす為だろう。
その背を追うように、ノワールも城壁を駆け上がって視界から消える。

無事なルイズに気づき、手当てをしていたキュルケが、慌ててタバサに声をかける。

「ちょっと、行かせちゃって大丈夫なの? シルフィード呼んで、空から追いかけたほうが良いわ。
 幾ら手負いでも、ノワールがトライアングルメイジに敵うはずがないもの」

返ってきた答えは、よろず物事に関心を持たない傾向にある友人の性格を割り引いても、無情なものだった。

「必要ない」

「必要無いって、タバサ、そんなわけ無いでしょう!」

意識を取り戻した時、もしノワールがもうこの世に居ないと知ったら、
それも自分の仇を討とうとして返り討ちにあったと知ったら、ルイズがどれほど傷つくか想像も出来ない。
思わず声を荒げる。余裕のある優雅な振る舞いを旨とする、キュルケらしからぬ言葉。

「ノワールが森に行くたびに、シルフィードに乗って観察していた」

消えたノワールを見送るタバサが返した答えは、少々的外れな物に聞こえた。

「学院裏の森には、現在四つの野犬の群れが存在する」

「?」

「その全てを、ノワールは統率している」

「……朝夕に森に行くのは、そういう理由だったの」

緊張を解くように、溜息をつくキュルケ。
安心したのか、言葉にも落ち着きが戻ってきている。
そんな親友に目を向け、タバサは静かに言葉を続けた。

「あの森は、ノワールの領域、狩場、キリングフィールド」



「なるほどね。牙を避けるために、胃袋に逃げ込んじゃった、ってわけか」

あらゆる方向から聞こえてくる低い唸り声。
あまりにも数が多すぎて、気配を探る意味が殆ど無い。
木の影に敵、茂みの影に敵、視界の隅に敵、背後に敵頭上に敵すぐ傍に敵遠間に敵敵敵敵敵敵敵……。
だが、不思議と恐怖は感じない。
あまりにも異常な状況が、恐怖などというまともな感情を想起させないのかもしれない。
あるいは、恐怖が飽和して、精神のどこかが断線してしまっているのかもしれない。
どこか冷静な頭で、何はともあれパニックに陥らずに済むのは良いことだ、などと考える。
そのまま、思考は勝手に自らの状況を確認する。
右手の傷は言わずもがな。右足には早くも新たな噛み傷。
この森が野犬の巣である事に気づき、慌ててフライで逃げようとした時に食いつかれた傷だ。
飛行を封じられ、走ることも叶わない。
そもそも、こうも派手に血の匂いをばら撒いていては、逃げた所ですぐに捕捉される。
泥沼の持久戦に引きずり込まれた格好だが、ゴーレムを作成した分、
精神力を消耗しているフーケの方が圧倒的に分が悪い。
いや、例え万全の状況であっても、あの“化け物”が指揮するこの包囲を果たして抜けられただろうか?

「年貢の納め時かな……」

口に出した途端、萎える気力。
だめだ、弱気を振り切れ。
自分には、帰る場所が、諦めてはいけない理由があったはずだ。

「だけどね、犬ころ風情がこの土くれのフーケを舐めるんじゃないよっ!」

自らを鼓舞するために、叫ぶ。
その声を合図にするように、視界のあらゆる影から、野犬の群れが殺到した。

夜の帳が、惨劇を覆い隠す。


翌朝、トリスティン魔法学院の正門前で、ボロボロに傷ついたミス・ロングビルと、
そのロングビルを見張るようにその横で伏せているノワールが発見された。
先夜すでにルイズ、キュルケ、タバサにより事の顛末が報告されていた事もあって、
学院はミス・ロングビルこそ土くれのフーケと断定し、治癒を施した後、王都の衛士に引き渡す事となった。
ただ、その際の報告書では、何故かルイズ以下三人がフーケを捕らえたことになっており、
更に、学院長の名で、すでにシュヴァリエの爵位を得ているタバサを除く二人に、
シュヴァリエの爵位を下すよう申請が行われた。

実利を重んじるキュルケ、何事にも超然としたタバサは兎も角、この一件はルイズの劣等感をいたく刺激した。

「納得いきません!」

当然の如く、その場で噛み付いた。

キュルケは、貰えるものは貰っときなさいよ、と如実に視線で語っている。
タバサの無表情からは、何も読み取れない。

朝の学院長室。部屋の主のオスマンだけでなく、隣にはコルベールも控えている。
オスマンとコルベールは顔を見合わせた後、溜息をついた。
オスマンが重々しく、口を開く。

「のう、ミス・ヴァリエール。こうは考えられんかの? 主と使い魔は一心同体。
 で、あるからには、使い魔の手柄は、主の手柄であると、な」

ルイズは反論出来ない。
何故ならば、オールド・オスマンの言はどうしようもないほど正しいからだ。
だけど、その正しさに納得する事が出来ない。
だって、自分は何もしていない。ノワールに助けてもらって、ただ気絶していただけだ。
なのに、シュヴァリエなんておかしい。嬉しいけど、嬉しくない。
何も出来なかった自分が悔しい。
咄嗟に嬉しいと思ってしまった自分が嫌だ。

俯いて肩を震わせるルイズに、気遣わしげな眼差しを送るコルベール。
そっとオスマンに目くばせをした後、キュルケとタバサに退室を促す。
二人が退室したことを確認して、ゆっくりと語り始める。

「ミス・ヴァリエール。落ち着いて聞いて欲しい。君の使い魔の事だ」

ルイズが顔を上げた。
目には、涙さえない。乾ききったその表情が、痛々しかった。

その表情に一抹の不安を感じながらも、コルベールは語った。
ノワールのことを。ノワールに刻まれたルーンの意味を。


フリッグの舞踏会が終わり、ルイズは自室に帰ると、ばったりと寝台に倒れこんだ。
無性に疲れていた。
ルイズを筆頭にした三人がフーケを捕らえたという噂は、あっという間に学院中に広まっていた。
麗しく着飾ったルイズの美しさと相まって、舞踏会の間中、ダンスの申し出が後を絶たなかった。
ついこの間まで、ゼロのルイズと蔑んできた相手が、歯の浮くような美辞麗句と共に、恭しく手を差し出してくる。

……みんな、馬鹿みたい。

枕に顔を埋めたまま、呟く。

フーケを捕まえたのは、わたしじゃないのに。
凄いのは、わたしじゃなくて、わたしの使い魔なのに。

ずっと誰かに認めてもらいたかった。
凄いね、と褒めてもらいたかった。

今、この学院でルイズを認めないものは、殆ど居ない。
凄いと褒めてくれた相手は、今日だけでも十指に余るほど。

でも、こんな風に認めて欲しかったわけじゃない。
やっても居ない事で褒められても、全然嬉しくない。

沈んだ気持ちで、寝返りを打つ。
ノワール。わたしの使い魔。黒い大きな犬。多分、学院最強の使い魔の一角。
始祖ブリミルの伝説。四つの使い魔。神の盾ガンダールヴ。
左前脚に刻まれたルーン。
ミスタ・コルベールの言葉が蘇る。

「我々も、最初は何かの間違いだと思った。
 例えば、『始祖ブリミルの使い魔』の記述が間違っていたのだ、とかね。
 だが、今回の一件で、認識を改めざるを得なくなったんだ。
 トライアングルメイジを戦闘不能にするような犬は、あらゆる意味で、尋常ではない」

「報告書の内容を改竄した理由は、それさ。
 ガンダールヴのルーンを持つ者……いや、犬か、が再び現れた。この事は様々な波紋を生むだろう。
 いつか明らかにしなければならないにせよ、
 せめてどのような影響を及ぼすかを見極めてからにしたいと我々は考えている。
 今、ノワールに注目が集まるのは、望ましい事態ではないんだ」

ごろごろと寝台の上でで転がる。
胸の中で渦巻く何かがあるのに、言葉に出来ない感じ。
すっかり指定席となった毛布の寝床で、何事かとノワールが顔を上げる。

「ねえ、ノワール。あたし、あんたに相応しいメイジになれるのかな」

珍しく不思議そうな表情を浮かべるノワールに向かって呟くと、目をつぶる。
身体は正直だ。速やかに眠りは訪れた。
眠りに落ちる一瞬前、頬をノワールに舐められたような気がした。



[5204] ゼロの黒騎士 第六回
Name: 早朝◆74a45303 ID:a07c8492
Date: 2008/12/09 00:48
眠れない夜は、昔話をしよう。

そうだ、今日はこんな話はどうかな、シエスタ?

犬、という生き物がいるな。
そう、角のマードックさんが飼っているようなアンリのような奴だ。
彼らが何時頃から人間と一緒に生きてきたか、知っているか?
千年? 二千年? いやいや、そんな物じゃない。
五万年と言われておる……人がまだ、石を砕いて道具を作っておった頃だな。
どんな動物よりも長く、犬と人は共に生き、歩んできた。
犬のご先祖様である狼は、肉食で、本来はそうそう吼えん。
つまり、今の犬が持っておる、つまり、アンリのように、何でも食べ、
お前が近づいたりするとすぐに吼えるという特徴は、人間と暮らすようになってから得たものということだな。
何でも食べるからこそ、人の残飯でも生きていける。
すぐに吼えるのは、集合体に危険を伝える事こそ、人が犬に求めた本来の役目だからだ。
感覚が鋭い犬と共に暮らす事で、人間の生活は随分安全になった。
ほれ、アンリも、お前さんがどんなに息を潜ませて近づいても必ず気づいて吼えるだろう?
犬は人間が気づかないような音にも気づくし、鼻も鋭い。
人間が最も恐れた夜の闇は、犬にとっては大した障害ではなかったんだな。
犬と共に暮らす事で、人間は夜をに恐れず、安心して眠れるようになった。
もしやすると、犬がいなければ、人はこうまで文明を発達させる事なく、滅んでおったかも知れん。
寝ない子は育たんからな。シエスタもよく寝て大きく育てよ?

ま、それはともかく、その後も、犬と人は共に生きてきた。
人は、必要に応じて、様々な資質を持つ犬を選び、育て、繁殖させてきた。
五万年の積み重ねの末に、とても犬という一言で括れないほどに、多様な種類を誇る生き物になった。
しかしな、シエスタ。
野犬を見ても分かるように、犬は本来人と共に生きずとも生きていける生き物だ。
それでもなお人と生きようとするのは、何故なんだと思う?

分からんか。まあ、シエスタはまだ小さいから仕方ないな。
それはな、人と犬は、損得抜きで信頼しあう事の出来る、数少ない動物だからだよ。
愛、と言い換えても良いな。
人に愛された犬は、人を愛するようになるものだ。
だが、それだけに、一度人に裏切られた犬は、中々人を許そうとはせん。
信頼する事を知るからこそ、裏切られる痛みも理解できると、そういうことだな。

ん? その話はおかしいって?
人の歴史はブリミル様が降臨した六千年前に始まるじゃないか、だと?
ん……まあ、そういうことになっておるな。
だから、シエスタ、この話は、わしとお前だけの秘密だ。
他の誰にも、喋るんじゃないぞ? そう、二人だけの約束だ。


懐かしい夢を見た。
死んだ祖父の夢だ。
今にして思えば、祖父のあの話は、徹頭徹尾異端思想で、
外に漏れようものなら、焚刑間違いなしの筋金入りにやばい代物だった。
幼かった私に、よくまああんな際どい話をしたと思うが、
祖母の話などを聞くと、祖父は昔からそういう所に妙に無頓着なところがあったらしい。

祖母によれば、祖父は元々村の人間ではなく、ある日ふらりと訪れた旅人なのだという。
真面目とはとても言えない気質で、女にだらしなく、風来坊の気があって、
余裕があると始終フラフラと旅をしていたらしいのだが、それでも最後には私の元に帰って来てくれてね、
と語る祖母の顔は間違いなく惚気ている女のそれだった。
真人間とは口が裂けても言えない様な祖父が、村に居つくことが出来たのは、
頭が良くて、色々物知りだったかららしい。
特に、今や村の名物になっている大風車は、祖父の指導のもと作られたのだが、
元々水利の良くなかったタルブの村にとっては救世主とも言える存在で、
出来る前と出来た後では、収穫量が倍近く違うとか。
他にも名物料理のヨシェナベや、葡萄の栽培のノウハウなど、祖父が村にもたらした物は相当数に上る。
その知識を惜しんだ先代の領主様は、祖父と、当時のタルブの村長の孫娘――つまりは祖母だ――と娶わせ、
村に留めおいたのだそうだ。
私の若さと美貌にメロメロだったのよ、と祖母は語るが、
実際の所は、年の離れた祖父にメロメロだったのは祖母の方だったらしい。

まあ、それはともかく、と服に袖を通しながら思う。
祖父は私にとって優しくも物知りなお爺ちゃんであり、大好きな人だったことには変わりはない。
亡くなった時は、亡骸に縋って大泣きした。でも、それももう昔の話だ。

サーヴィングキャップを頭に載せたら、姿見でずれていないかどうか確かめる。
何故、今になって祖父の夢を見るのだろうか。
本当は理由など、問うまでもなく知っていた。

窓の外に目をやる。
ルイズ様とノワールの所為だ。

窓の外には、主人の元へ帰ろうと走るノワールの姿がある。



フーケを見事捕縛した(ことになっている)ルイズの日常は、さほど変わることはなかった。
フリッグの舞踏会の時にあれだけワラワラ寄ってきた男どもは、ルイズに脈が無いと見るやすぐに声をかけなくなり、
申請したシュヴァリエの称号は、何でも基準が変更されたとかで却下された。
そのどちらも、ルイズにとってはありがたかった。
特にシュヴァリエの一件は、内心忸怩たる物を抱えていた分、むしろ、却下されたと聞いて喜ぶほどだった。

ただ、物思いに耽る時間が明らかに増えた。
窓の外を眺めながらぼんやりとしているルイズは、ここ最近教室でよく見かける光景だ。
メランコリックな美少女という題のついた、一幅の絵のようにさえ見える光景だが、
大体の場合において、キュルケが茶々を入れて台無しにしている。
だが、そうやってキュルケとやりあっている時のルイズは、直前までの屈託が全くなく、
見ようによっては、楽しそうにさえ見えた。
まるで、その時だけは、悩みのなかった頃に戻れるとでも言うように。

「なあ、ノワール」

そんな風景を眺めながら、ギーシュはルイズの使い魔である黒い犬に声をかける。
机に頬杖をついて、実にやる気がない。
ルイズの机の傍で伏せていたノワールも、どこか面倒くさそうにギーシュを見上げる。

「君のご主人はどうしたんだ? 何だか最近元気がないみたいじゃないか。
 いや、あのルイズが淑やかになったっていうんで、結構人気が出てるみたいだけどね」

知るか、と言わんばかりに視線を外して再び伏せるノワール。
そんなノワールに気づいていないのか、ギーシュは続ける。

「僕はまあ、割とどうでもいいのだけど、モンモランシが結構気にしていてね。
 なんでも、彼女の憎まれ口を聞かないと調子が狂うとか言ってたな。
 女の子ってのは、実に素直じゃないな。もっともそこが可愛いところでもあるんだけどね」

視線の先では、キュルケとルイズが楽しそうに喧嘩をしている。
その近くでは、タバサは相変わらず我関せずという顔で読書をしている。
どこにでもありそうな、日常の風景。

「まあ、もうすぐ品評会だし、その頃には元のルイズに戻っているかもしれないね。
 もっとも、そうじゃないと困る。
 僕のヴェルダンデに対抗できるのは、君とタバサのシルフィードくらいだと思っているのだから」

ライバル不在でダントツ優勝と言うのも、つまらないからね、と嘯いて、
ギーシュは気障な仕草で髪をかきあげた。
答えは当然のように返ってこなかった。
次の授業がはじまろうとしていた。


豪奢な馬車の中で、王女は十三回目の溜息を吐く。
鳥の骨と宮廷の内外から揶揄される宰相マザリーニは、
そんな王女に批難と同情が混合された眼差しを投げかけた。

今更、共感も理解も求めはしないが、であるからこそ、
信頼も信用もしていない臣下の前で溜息など吐くべきではない。
そんな言葉を、心の中でだけ、そっと呟く。
無論、口には出さない。

本音を言えば、不憫だと思う。同情もしよう。
国の思惑のために、愛しても居ない相手の元に嫁ぐなど、本来ならば許されるはずの無い所業だ。
聖職者たる自分が、いの一番に反対してしかるべきだろう。
しかし、彼女の双肩に乗っているものは、個人の想いなど問題にしないほど重い。
そして、彼女は、今だその事実を理解していない。
いや、理解はしているが実感として感じた事が無いのだろう。
一部の貴族は、今回のゲルマニア皇帝との婚姻に反対し、アンリエッタを女王として戴冠させるべきだと声高に主張する。
とんでもない話だ。
平時なら、それも良いだろう。
だが、レコンキスタの危機が迫る今、王の実感を持たぬまま彼女を王位につけるのは、
誰にとっても不幸な結末しか呼ばない、とマザリーニは確信していた。

或いは、自分が生粋のトリスティン貴族だったならば、王女に殉ずることを良しと出来たかもしれない。
だが、自分は始祖ブリミルを奉じる聖職者だ。
この忠誠心の第一位の座を占めるのは、天上にいます神をおいて他にはいない。
その次に、救済すべき信徒たちが座る。
自動的に、トリスティン王家の座は常に三位より下となる。
故に、自分は、国のため、正確には、そこに住む信徒のために、
王女殿下のささやかな願いを平然と踏みにじる事が出来る。
彼女が欲するあまりにも当たり前の幸せを、笑いとばす事が出来る。
出来るのだと、マザリーニは信じた。信じるほかなかった。
かつて先帝が、数多いるトリスティン貴族を差し置き、自分を宰相に据えたのは、それが理由だからだと、
この生真面目で、ある意味誰よりも誠実な枢機卿はそう理解していた。

窓の外を眺める王女の表情は、マザリーニには窺う事が出来ない。
豪奢な馬車の中で、王女が十四回目の溜息を吐いた。


じめついた湿気と、いわく言い難い悪臭の漂う暗黒。
それが、チェルノボーグの監獄の大部分を占める構成要素だ。
それらが占める体積の割合に比べれば、固定化の掛かった分厚い壁も、大人の親指ほどもある鉄格子も、
収監された囚人たちの身体も誤差の範囲に収まる要素でしかない。
そんな闇の奥で、女が一人横たわっている。
女の名はフーケ。土くれの二つ名で恐れられた、凄腕の盗賊にしてメイジ。
フーケは思う。
碌な死に方はしないだろうと覚悟していたが、まさか犬にたかられて死に掛けるとは思わなかった。
死ななかったのは、自分に実力があり運が良かったから、だと思いたいが、
どうやら、あの忌々しい黒犬に自分は生かされたらしい。
全くもって腹立たしい話だが、あの時の傷は、生命に支障のない身体の末端部、手足に集中しており、
端から奴が自分の事を殺すつもりがなかったのは明らかだ。
あの黒犬は、ゼロのルイズの使い魔は、仮にもトライアングル・メイジであり、『土くれ』のフーケと恐れられた自分を、
殺すことなく捕えようと試み、そして、その試みを完全に成功させたのだ。
その結果、自分は今この監獄にいる。
大した奴だ。心の底からそう思う。大した奴じゃないか、あのノワールって犬は。
大した奴なんだが、犬なんだよね。
犬に捕まったのかぁ、わたし……。

フーケは、今までしてきた悪事のツケが、一度に回ってきたのかもしれない、と切なく溜息を吐いた。
もう見ることも無いだろうが、もしももう一度懐かしの故郷に帰れたら、あの可愛い妹分に会えたなら、
いっそ堅気に戻ってしまおうかとさえ思う。
思えば、トリスティン魔法学院での生活は悪くなかった。
オールド・オスマンのセクハラも、まあ、悪戯程度のものであったし、もっと酷いのは幾らでもいる。
給金もよく、仕事もそんなに多くなかった……今更ながら、貴族崩れのメイジの職場としては破格だったことが分かる。
しまったなー、破壊の杖なんて無視しておけばよかったかなー、とちょっとだけ後悔。
いけないいけない、どうもこの暗闇はわたしを弱気にする。
もしかすると、あの夜の、あの森の闇に少しだけ似ているからかもしれない。

その闇が、突如、口を聞いた。
そう思えるほど、その男は唐突に現れた。

「『土くれ』だな? お前に話がある」

サイレンスの魔法か何かを使ったのだろうか。
気がつけば、鉄格子の向こう側に、男が佇んでいた。
黒い装いの男だった。マントが黒く、帽子が黒く、上着が黒く、手袋が黒く、ブーツが黒い。
唯一つ、その顔を隠した仮面だけが闇に白く浮かび上がる。

フーケは思う。
さて、こいつが運んでくるのは、幸運か、それとも更なる不運か。
まあ、どっちにしてもここはどん詰まりだ。

「殺風景な住まいで悪いね。最近は物騒だから、施錠したドア越しの無礼はゆるしておくれよ」

今は吹く風を歓迎しよう。

「さ、話してもらおうか。勿論、良い話なんだろう?」

仮面の向こう側に、歪んだ笑みが浮かんだ気がした。



[5204] ゼロの黒騎士 第七回
Name: 早朝◆74a45303 ID:a07c8492
Date: 2008/12/09 00:49
その朝、ルイズは、小熊ほどもあるモグラに未練がましい流し目を送られるという珍しい体験をしていた。
ノワールは、ルイズの横で何があっても対処出来るように身構えている。
どうやら、眼前のジャイアントモール――ギーシュの使い魔であるヴェルダンデ――を、
マリコルヌよりもレベルの高い脅威とみなしたらしい。

「……ちょっとギーシュ。あんたの使い魔、一体なんなのよ」

「おかしいな。いや、僕のヴェルダンデは何時もはもっと慎ましいんだけど……」

暫く考え込んだ後、ポンと手を叩く。

「宝石の指輪か何か持っているだろう、君。それも、かなり石の大きな奴を」

「え? ええ、殿下から賜った水のルビーがあるけど、それがどうしたのよ?」

ギーシュは、気障な仕草で髪をかきあげる。
ミステリーならば、ここで犯人を指摘しそうな勢い。

「ヴェルダンデは宝石が大好きだからね。
 きっと、君が嵌めている水のルビーの匂いが気になるんだろう。
 この良く効く鼻で地中の鉱石や宝石を見つけてきてくれるヴェルダンデは、
 土系統のメイジである僕にとって、最高の相棒さ」

自慢げに言い放つギーシュの姿に、どこか疲れたような眼差しを送るルイズ。

「分かったから、あんまりこっち見ないように言い聞かせてくれない?
 なんか落ち着かないんだけど……っていうか、何であんたの使い魔がここにいるのよ」

「いや、一緒に連れて……」

「ダメ」

「つ……」

「ダメ」

ものすっごい恨みがましい目でルイズを睨むギーシュ。
そんな視線をルイズは鼻息一つで吹き飛ばす。
どこをどう見ても、ギーシュの貫禄負けだった。

「大体、急ぎの旅だって言うのに、モグラを連れて行く余裕なんて無いわよ。
 わたしだって、今日ばっかりはノワールじゃなくて馬に乗っていくつもりなんだから、一人だけ我侭言わないでよね」

自分の使い魔だけ連れて行くのは我侭ではないと心の底から信じている声音。
ギーシュは、誰だよ、ルイズが淑やかになったとか与太飛ばしてた奴は、と一人理不尽さをかみ締める。
くそ、これで許されるんだから、美人は得だ。男だったら絶対顔に一発入れてる。勿論グーでね!

「それに……途中で置き去りにする羽目になったら、その子が可哀想よ。
 大事な使い魔なんでしょ? 必ず帰ってくるって約束して、学院に残ってもらう方が良いわ
 ……なによ、まじまじとこっち見て」

「あ、い、いや……」

まさか気遣われるとは思わなかったとは、口が裂けてもいえない。

「いや、ノワールは大丈夫なのかい?」

なので、話題を強引に摩り替える。

「大丈夫よ。ノワールは凄いんだから」

応えた声には力がなかった。
いつもなら誇らしく胸を張るはずのルイズが、どこか悄然とした姿に見えるのは気のせいだろうか?
迷うような、躊躇うような、一瞬の間。

「それに、わたしはノワールがいないと……」

何も出来ないんだから、という言葉は喉の奥に仕舞い込む。
それを口にするのは、あまりにもみじめだった。
そんなルイズの気持ちを知ってか知らずか、ギーシュは途切れた台詞を鮮やかに無視する。

「それを言うなら、僕のヴェルダンデだって、大丈夫さ。
 こう見えても素早いんだ。馬相手なら、地面を掘り進めながら併走できる」

それ、本当? と、目を丸くするルイズに向かって、ギーシュは得意げに胸を張る。

「凄い使い魔を召喚したのは、何も君だけじゃないんだぜ。
 確かにちょっと太陽光は苦手だけど、船に乗る間は、船倉で我慢してもらうさ」

そろそろ行こうか、急ぐんだろう? と促すギーシュに、ルイズが頷こうとしたその時、
朝靄の向こう側から、一人の長身の貴族が姿を現した。

3
「ミスタ・グラモンと……ミス・ヴァリエールかな?」

声を聞いたルイズの眼が、驚きのあまり見開かれる。

「誰だ!」

ギーシュが誰何の声を飛ばすが、羽帽子をかぶるその貴族は、動じた様子を見せない。
それどころか、悠々と帽子を脱ぎ、優雅に一礼する。

「失礼。君たちに協力するように姫殿下から命じられてね。
 僕は、魔法衛士隊、グリフォン隊隊長……」

「……ワルド様!?」

知り合いかい? と驚くギーシュを尻目に、
髭も凛々しい青年貴族は喜色も露わにルイズへと駆け寄ると、あたりを憚らず抱き上げた。

「覚えていてくれたか! 久しぶりだな! ルイズ、僕のルイズ!」

「や、おやめください、ワルド様。もうわたしは子供ではないのですよ?」

「ははは、これは済まない。しかし、相変わらず君は軽いな。まるで羽のようだ」

「もう、恥ずかしいですわ……」

羞恥に頬を赤く染めるルイズ。
誰だこのルイズ似の女の子、という驚愕が張り付いたまま表情が固定されたギーシュ。
爽やかに、朗らかに笑い続けるワルド。

ノワールだけが、その光景をどこか醒めた目で見つめている。
まだ、旅は始まってすらいなかった。


何でこんな事になったのかといえば、話は先日にさかのぼる。
ゲルマニア訪問の帰途にある王女アンリエッタが、トリスティン魔法学院を行幸する。
思えば、それが全ての始まりだった。

急遽準備された歓迎式典もおさおさ滞りなく終わったその夜、アンリエッタは一人ルイズの部屋を訪れた。
何故? と言われても困る。来てしまったのだから仕方ない。
忘れられがちなのだが、一応ルイズは、トリスティン屈指の名門貴族ラ・ヴァリエール公爵家の息女である。
幼い頃は、歳の近いアンリエッタの遊び相手として、王宮やラ・ヴァリエール公爵領で一緒に遊んだ仲だった。
昔から、よく言えば気取りが無い、悪く言えば王女だろうと全く遠慮しないルイズは、
機嫌をうかがうばかりの大人に囲まれていたアンリエッタにとって、いつも新鮮な驚きを与えてくれる大事な人だった。
幾ばくかの年月を経て、否応もなく二人の関係は変化していったが、それでも友情に変わりはないと、
この純真な王女は信じている。

そんなアンリエッタにしてみれば、たまの息抜きとして、幼馴染にして親友であるルイズに会いたかっただけなのだが、
話がどう転がったのやら、気が付けば、ルイズは密書を携えてアルビニオンに赴くという事に。
この時点で、アンリエッタは大分慌てている。
まさかこんな事になるとは思わなかったのだ。
確かに、土くれのフーケを捕えた功労者としてルイズの名前があったのは覚えていた。
魔法が使えなかったはずの友人が、数人がかりとはいえ、
トライアングルメイジを捕縛できるほどに実力をつけた事を嬉しく思っていたのは事実だ。
だが、大事な、本当に大事な友人を、自分の我侭に巻き込みたくはなかった。
しかし、アンリエッタも付き合いが長いだけに、ルイズの気性を良く知っている。

ルイズは、一度言い出したら絶対に、そう、絶対に止まったりしない。

どうしようどうしようとパニックに陥りかけるアンリエッタに、ふと名案が思い浮かぶ。
言うなれば、頭の上に“明かり”の魔法がひらめく感じ。ぴかーん。

かくして、言いだしっぺのルイズと、立ち聞きをしていた所をノワールにふん捕まったギーシュ、
運良くだか悪くだか、前日直衛任務についていた関係でアンリエッタに顔を覚えられていたワルドという、
見るからにチームワークとかに縁の無さそうなトリオが完成した。


「よろしかったのですか?」

例え旅先であろうとも、宰相マザリーニの一日は、まだ夜も明けやらぬ早朝から始まる。
恐らく、同じ学院の違う部屋では、アンリエッタ王女が、密かに親友の出発を見守っているはずだ。

「構わん。恋文に関しては、すでにゲルマニアと対応を協議済みだ。
 ……それに、姫殿下には必要なのだ。自分にはまだ自由があるという幻想がな」

しかし、王女の微かな希望も、願いも、全ては枢機卿の掌の上。
あからさまな発言に、さすがに秘書が鼻白むが、
地獄の特等席はすでに予約済みだと覚悟した、この聖職者の表情は微塵も揺るがない。

「それでは、ワルド子爵の件に関してですが」

「軍籍を抜いておけ。
 万一、事あった場合は、一民間人が婚約者と共に個人的にアルビオンへ向かっただけと強弁する。
 後任には副長を充てよ」

しかし、彼はもう少し賢い男だと思ったのだがな、と呟くと、
ふと気づいたように羽ペンを止める。

「君、念のためにワルド子爵の身辺を洗いなおしておいてくれないか」

一礼した秘書が部屋を退出するのを確認して、ようやくマザリーニは重い溜息を吐く。

「……姫殿下、罪な事をなされましたな。
 例えミス・ヴァリエールが成功したとしても、それは徒にウェールズ殿下を苦しめるだけと、何故お分かりにならないのです」

窓の外は朝靄にけぶる魔法学院の風景。
校門の辺りに、グリフォンが舞い降りる。
恐らく、ワルド隊長の……いや、ワルド子爵の乗騎なのだろう。
出発が間近と見て、マザリーニは静かに瞑目し、聖句と共に短い祈りを捧げる。

「旅路の幸運を祈らせてもらうよ、ミス・ヴァリエール。
 もっともわたしの祈りになど、始祖ブリミルは応えたまわぬかもしれないがね」

その呟きは、がらんとした沈黙に吸い込まれるように消えた。


三人組のアルビオンへの旅立ちの日は、そのまま強行軍の一日となった。
グリフォンにはワルドとルイズが騎乗して先導し、ノワールと馬上のギーシュがこれに続く。
全速で走り続け、馬を乗り潰しかける事、すでに数度。その度に、駅で馬を乗り換えて更に走る。
目指すは、港町ラ・ロシェール。
早馬でさえ二日掛かる行程を、一日で疾駆する強行日程。

ようやく日が西の山に掛かり、あたりを夕暮れが赤く染めあげる頃、
峡谷に挟まれたラ・ロシェールの灯りが、ぽつぽつと目に飛び込んできた。
精も根も尽き果てたという風情で、馬の首にへばりついているギーシュは、
ただひたすらに、今日取る宿のベッドの柔らかさに思いを馳せている。

故郷の父上、母上、軍務に就いているはずの大兄上、中兄上、小兄上、申し訳ありません。
ギーシュは異土に果てるさだめだったのでしょう。もう、尻と腰と背中が死にそうです。
……いや、待てよ? 土の上というわけではないのだから、異土という表現はおかしいな。
やはりここは鞍上というのが正しいのか。

ようやく見えてきた街の灯りに、多少正気づいたのか、ギーシュの脳裏に、二度目に馬を乗り換えて以降、
始めて論理的思考とでも言うべき物が蘇る。

それにしても、まさか魔法衛士隊の隊長が、ルイズの婚約者とはね。
朝、出発の際に聞いた驚愕が、再び頭を過ぎる。
婚約は十年前だというから、当時のワルド子爵は、才気煥発なれども、海の物とも山の物とも付かない少年だった筈だ。
魔法衛士隊グリフォン隊隊長という、今日のワルド子爵の姿を予め見通して、
末娘との婚約を進めたのだとしたら、ラ・ヴァリエール公爵の人物眼は、なるほど大貴族の名に恥じない代物だろう。

首を持ち上げて、前方を走るグリフォンを視界に入れる。
もはや手綱を握る気力さえないギーシュとは違い、ワルド子爵の騎乗姿勢は、朝と何も変わらず、スマートで優雅に見える。
それどころか、抱かれるようにして前に跨るルイズを気遣う余裕すらあるようだった。
クソ、魔法衛士隊の連中は、化け物か何かか。
口から出る悪態にも、力が無い。もはや、込めるだけの余力がないのだ。
こんな自分が、曲がりなりにも脱落せずに済んだのは、ワルドのグリフォンが先導している事もあるが、
ノワールが居てくれたお陰だ、とギーシュは考える。
馬が脚を緩めようとすると、それを察したノワールが、背後に回って威嚇し、決して馬を休ませない。
もしも、ノワールの助けがなかったら、とうの昔に置いてきぼりを食っていただろう。

全く、大した使い魔だよ、ルイズ。ま、僕のヴェルダンデには敵わないけどね。
何しろ、この速度に追随できるモグラは、ハルケギニア広しといえども、ヴェルダンデだけさ。


街の灯りはどんどん明るく、大きくなってくる。
この分ならば、陽が落ちきる頃には、何とか辿り着くだろう、と安堵した次の瞬間、
ギーシュの馬の目前に、幾つもの松明が投げ込まれた。
突然の出来事に、怯えた馬は一声いななくと棹立ちになる。
手綱を握る事さえままならないギーシュは、そのまま地面へと投げ出され……なかった。
飛び上がったノワールが、ギーシュのベルトを口に咥えると、そのまま、手近な岩陰に引き擦り込む。
次の瞬間、ギーシュが目にしたのは、飛来した矢によって、針山のようになって倒れ付す馬の姿だった

時刻は折りしも黄昏時と夜の狭間。
夜の闇は、早くもあたりを覆い始め、奇襲を仕掛けてきた賊の姿を隠している。
対して、こちらは赤々と燃える松明によって、どこに身を隠したのかあまりにもあからさまだ。
案の定、隠れている岩陰に向かって矢が雨のように降り注ぐ。
しかし、頭を抱えるギーシュをよそに、ノワールが岩陰から走り出した。
矢ぶすまが途切れる一瞬の隙を突き、松明の光が届くホンの僅か外側を大回りする。
汗に混じるアドレナリンの匂いで数を嗅ぎわけ、殺戮の予感に興奮する呼吸音で隠れ場所を特定する。
賊は崖の上。数は三十五。
矢が飛んでこないところ見ると、岩陰から飛び出したノワールの影に気づいた者は皆無。
後方から響く異様な金属に、ちらりと後ろを返り見る。
二メイルほどの金属製の人型が、降り注ぐ矢を物ともせずに、松明を踏み消していた。
恐らく、ゴーレムとかいう奴を、ギーシュが魔法を使って作り出したのだろう。
思ったよりも、気がきく。
ノワールは思う。それでこそ、ここまで連れてきた甲斐があったというものだ。

平地を駆ける速度そのままに、一気に崖を駆け上る。
崖の上には、矢をつがえる男たち。
奇襲のために、灯りを控えたのが裏目に出た。
優位を作り出すための、夜の闇と森の影が、今は傭兵たちへ牙を剥く。
四人殺されるまで、自分たちが攻撃されていることにさえ、気が付かなかった。
弓を捨て、剣を抜くまでに、更に三人が喉笛を食い破られている。
すでに全戦力の五分の一が殺害されながらも、パニックに陥らずに武器を構えた事実は賞賛に値しよう。
しかし、それは致命的なミスだった。この時点で逃げていれば、損害はここまで大きくはならなかったはずだ。
結果から言おう。この奇襲に参加した三十五人のうち、生き残った傭兵は五人に過ぎない。

三十人目がどうやら隊長格だったらしく、それまで何とか維持していた士気が崩壊した。
すでに五人まで減らされた賊は、重荷になるものを全て投げ捨て、一目散に逃げ出す……ただし、崖の下に。
森の奥の闇に逃げ込む度胸の持ち主は、一人としていなかった。
当然の帰結として、重力に引かれた生き残りは、十メイルの距離を一瞬で縦方向に移動し、
しこたま身体を打って悶絶する事になった。

崖の下では、ギーシュが目を丸くしている。
上空から、異変に気づいた風竜が、何事かと降下してくる。
その背に乗っているのは、印象的な青と赤の、見慣れた二人組だ。
先行していた二人乗りのグリフォンが、今頃きびすを返してこちらに向かってくるのが見える。
崖の上で、その全てを見ていたノワールは、安堵の溜息に似た何かをこぼすと、
中天に昇ろうとする双つの月に向かって、雄叫びを上げた。
それはようやく姿を見せた“敵”に対する、宣戦の咆哮だったのかもしれない。



[5204] ゼロの黒騎士 第八回
Name: 早朝◆74a45303 ID:a07c8492
Date: 2008/12/09 00:50
「キュルケ? タバサ? なんであんたたちがここに居るの!?」

「早起きして窓の外を見たら、貴方がどこかに出掛けるじゃない。
 きっと、昨日の夜に貴方の部屋を訪れた、トリステインの王女様に何か頼まれたんだろうと思ってね。
 タバサにちょっと無理を言って、貴方たちを追いかけて貰ったの。
 一人だけ面白そうな目にあうなんて、許せなくてよ?」

「……っ! あんた、それをどこで!」

キュルケは事も無く、結構みんな知ってるわ、と答える。

「貴方、本当にお姫様が誰にも見つからずに貴方の部屋に行けたと思ってたのかしら?
 ギーシュに尾けられて気がつかなかったのよ、あのお姫様」

「……しまった。それもそうね」

「納得しないでくれよっ! 僕が傷つくだろうっ!」

ギーシュが最後の力を振り絞って絶叫する。
でも、誰も恐れ入ったりしない。だってギーシュなんだもん。

「ところで、なんでタバサは寝巻きなのよ?」

「ああ、あたしが急かしたものだから、着替えてる暇もなかったのよ」

「……あんた、本当にその子の友達なの?」


結局、生き残った五人は、ただの盗賊に構っている暇は無いという、ワルドの言葉で放免される事になった。
尋問した僕が言うのもなんだけど、こんなあっさりしてて良いのかなぁ、という呟きは、ギーシュの偽らざる本音だ。
まあ、良いか。魔法衛士隊の隊長が言うんだから、間違いはないだろう。
この時、どうしようもないほど疲れていたとはいえ、安易にワルドの主張になびいた事を、
後に、ギーシュは苦い後悔と共に思い出すことになる。

『女神の杵』亭は、ラ・ロシェール屈指の高級宿であり、
この街から、アルビオンへと向かう貴賓が逗留する宿としても知られている。
選び抜かれた調度品、チリ一つ落ちていない清潔な店内。
腕自慢の調理人が、鍋を振るい、熟練のホテルマンたちが宿泊客をもてなす。
王都の最高級の宿にも、決して劣りはしないというのが、この宿の主人の口癖だった。

キュルケとタバサと合流した一行は、そのままラ・ロシェールの街へと入り、
ラ・ヴァリエール公爵家の定宿だという『女神の杵』亭へと向かった。
どう考えても野次馬以外の何者でもないこの二人を、
ルイズたちは、その場で追い返しても良かった……というよりも、
任務の性質を考えれば、追い返すべきだったのだろう。
だが、トライアングル・メイジ二人は戦力として決して軽視できない事から、
これ以上の詮索は無用という条件で、ワルドは二人の同行を許可していた。
そのままワルドとルイズ、ノワールの二人と一匹は、乗船の交渉のために桟橋へと赴き、
残されたキュルケとタバサは、歩く事もままならないギーシュを半ば引きずりながら、『女神の杵』亭に宿を取ったのだった。


乗船交渉が上手くいけば、明日の朝には、アルビオンに向かって出発する事になる。
だが、交渉が上手くいかないのか、トラブルが発生しているのか、ルイズたちは中々『女神の杵』亭に姿を見せない。
ギーシュが、テーブルにべったりと突っ伏したままピクリとも動かず、タバサが黙々とハシバミ草のサラダを平らげる中、
キュルケは、運ばれてきた料理にも、グラスに注がれたワインにも手をつけず、ワルドについて考え込んでいた。

これは、女の勘だ。
多分、あの男はろくなもんじゃない。
そりゃ、顔は抜群だし、能力や地位で考えれば、有能で前途洋々たる若者、といった所なのだろうが、
話しかけたときにこちらを見た、あの目つきがどうにも気に喰わなかった。
あれは、己以外の全てを自分の道具だと信じている傲慢な男の瞳だ。
抱かれて一番面白くないのは、ああいう男だ。
あたしが押し付けられた公爵も大概だったけど、あんなのが婚約者とは、ルイズも可哀想に……。

キュルケにしては珍しく、仇敵とみなす少女にしんみりと同情した。
自分が、婚約者がらみのトラブルで、留学する羽目になっただけに、余計にそう感じたのかもしれない。

ワインをあおる。
思う。
あの子、ここ最近、ただでさえ落ち込み気味なのに、また変な悩みを抱え込まなきゃ良いのだけど。


案の定、帰ってきたルイズは、世界の悩みを全て背負い込んでますとでも言いたげな憂鬱な表情をしていた。
そのルイズの隣に座ったワルドが、重々しく口を開く。

「アルビオンに渡る船は、明後日の朝にならないと出港しないらしい。
 事は一刻を争うのだが、今は仕方がない。
 諸君、明日はゆっくりと休養を取って、明後日以降に備えて欲しい」

ギーシュを除く全員がいっせいに頷く。
その様を確認してから、ワルドは言葉を継ぐ。

「さて、そうと決まれば、今日は早く寝よう。
 僕とルイズ、キュルケとタバサが相部屋で、ギーシュには、一人部屋で寝てもらう」

「あ、先に謝らせていただくわね。ごめんあそばせ、子爵様」

キュルケが優雅に一礼する。
その仕草が、待っていましたとでも言わんばかりに見えたのは、気のせいだろうか。

「……?」

不審な表情を浮かべるワルドに向かって、さり気なく爆弾を投げ込んだ。

「部屋、二つしか取れませんでしたの」

「……は?」

ワルドの顎が落ちる。
声は聞こえたのだが、言葉の意味が分からないとでも言いたげな表情。

「だから、二つしか取れなかったのよ、部屋。
 二人部屋が二つ。
 アルビオンの亡命貴族が、何組も逗留しているらしいですわ。
 三部屋は物理的に不可能ですって」

唖然とした表情。
キュルケは、内心で上げる快哉を、面に出さないように苦労する。
気に食わない男への、ちょっとした嫌がらせ。
 
「お詫びといってはなんですけど、あたしとタバサが一つのベッドで眠りますわ。
 あなたの婚約者には、不自由な思いはさせません」

面食らった表情のままの、ワルドに、邪気の欠片もない笑顔を向ける。

「まさか、結婚前の男女を、同室にするおつもりではないでしょう?」

一気に畳み掛けた。
自失から立ち直ったワルドは、不承不承といった仕草で首を縦に振ると、
始めてみせるやや乱暴な仕草でギーシュを部屋へと引きずっていった。
その背中が視界から消えるのを確認すると、キュルケは先ほどとは、また微妙に質の違う微笑を浮かべた。
その微笑みは、花開くように美しい。
だが、見る人によっては、それを悪魔のような、と表現したかもしれない。

「さて、それじゃあ、女同士で仲良くやりましょうか」

じゃんじゃん飲みなさい、ルイズ、とキュルケはワインを注ぐ。
我関せずという顔で、タバサははしばみ草のサラダを食べ続ける。
ラ・ロシェールの夜は長い。


「なるほどね。十年ぶりに現れた憧れの人との再会ってわけ」

ロマンチックじゃない、と寝台の端に座ったキュルケが茶化す。

「でも、よく分からないの。だって、十年よ?
 確かに憧れてたし、素敵だとも思ってたわ。だけど、わたしだって何時までも六才の子供じゃないもん。
 十六歳の今になって再会したからって、昔の気持ちに戻れるわけじゃないわ……」

四本目のワイン瓶を開けたあたりから、ようやくルイズは重い口を開き始めた。
食堂で散々飲み食いし、現在、部屋に戻って七本目を開けている最中。
キュルケの下世話な好奇心に乗るのはしゃくだが、良い事が一つだけある。
誰かに話しているうちに、自分でも気がつかなかった何かが見えてくる事だ。

「でも、ワルドはそれを望んでるみたい……ううん、そうなるって事をまるっきり信じてる」

そのうち、プロポーズでもしてくるんじゃないかしら、と重い溜息を吐く。
昔はあんな風じゃなかった……と思う。
一人小船で拗ねていた自分を、慰めてくれたあの頃のワルドと、今、こうして再会したワルド。
両者には決定的な違いが有る。
それは、優しさの質だ。
今のワルドの方が洗練されていて、気遣いも一々さり気ない。
でも、その優しさは、ルイズを見ていない。

この十年の間に、ワルドに何があったのかしら?

「確かにちょっと唐突よね、貴方の婚約者。
 そこまで熱心なら、普通、もうちょっと連絡をとるものよ」

そこで今まで黙っていたタバサが、口を開いた。

「一目ぼれ」

口こそ出さなかったが、話はきっちり聞いていたらしい。
キュルケはルイズのつま先から頭のてっぺんまでを一瞥。

「ありえないわ」

言下に否定する。

「何か他に目的がある」

暫く考え込んだ後、キュルケは深刻そうな表情で、ルイズに向き直った。

「……ねえ、ルイズ。近々、遺産を譲り受ける予定はないわよね?」

「ないわよっ! っていうか、何よ、一目惚れはありえないって! 可能性は存在するでしょ!」

「……」
「……」

さ、もう夜も遅いし、寝ましょうか、タバサ。ちょっと端に寄ってもらえる?
あ、そうだ。明日になったら、服を買わなきゃね。
え、いらない? ダメよ、幾らなんでも寝巻きのままって訳にはいかないわ。

「こらー! 無視するなー! 寝るなー!」

がるるるると唸りそうなルイズ。
部屋の隅で丸まっていたノワールが、大きな欠伸をした。


翌日、ギーシュが目を覚ましたのは、昼近くになっての事だった。
痛む節々を伸ばしながら食堂へ赴く。

「おはよう、寝ぼすけさん。身体の調子はいかがかしら?」

食堂では、キュルケとタバサが早めの昼食を取っていた。
よろよろと歩いてくるギーシュに気がついたらしく、キュルケが軽く手を上げる。
テーブルの上には、二人が頼んだ料理が湯気を上げている。
喉がゴクリと鳴る。よくよく考えてみれば、疲労のあまり昨日は夕食を食べていない。
空腹が、胃をきりきりと締め上げるようにこみ上げてくる。
そんな視線に気づいたのか、テーブルに着いたギーシュの前に、料理が盛られた皿が置かれた。
鳥の腿肉に、肉汁のソースが掛かった肉料理。
茶色いソースのこっくりとした照りが、目に眩しい。
驚いて視線を上げると、キュルケが微笑んでいる。

「お腹空いているんでしょう? まだ手を着けてないから、お食べなさいな」

人の優しさに触れて、涙が出そうになった。
というか、泣いた。
礼もそこそこに、皿の上の肉に齧り付く。
皿はあっという間に空になる。

人心地ついたところで、ふと、居るはずの人間が居ない上に、
何か物凄い違和感がある事に気がつく。
ええと、あれ? 確か昨日はタバサは寝巻きだったよね?
なんでそんなに白いフリルがたくさん付いた黒いワンピースを着ているんだい?
頭のレース編みのヘッドドレスは何かの冗談かな?

「キュルケ、タバサの格好はどうしたんだい?」

どうせまともな答えは返ってこまいとタバサ本人ではなく、キュルケに尋ねる。
よく見ると本に目を落とすタバサの視線が、微妙にさ迷っている。
やたらと注目が集まるこの格好は、かなり居心地が悪いらしい。

「ああ、これ? 朝一で買ってきたんだけど、こんなのしかなくって」

でも、その割には似合うでしょうという、楽しそうな顔を見れば、その言葉が嘘だというのは明らかだ。
絶対に狙ってやったに違いないと確信する。
悪魔か、この女。

「何かしら、その目つき。もう片方はピンク色だったんだけど、どうしても、って言うから、こっちにしたのよ」

訂正。
悪魔だ、この女。

「あー、まあ……君たちが仲が良いのは、よく分かったよ。
 ところで、ルイズとワルド子爵は? 姿が見えないようだけど」

「ルイズはノワールの散歩。ワルド子爵は、そのボディーガードですって」

なるほど、と頷く。

「でも、ノワールが居れば、たいがいの相手はどうにかなるだろう。
 意外に心配性だな、子爵も」

アルビオンの貴族派だって街中で仕掛けるほど馬鹿じゃあないさ、と言いかけたところで、
目の前の二人が詳しい事情を知らない事を思い出し、口を噤む。
首を突っ込んできたとはいえ、事情も知らないまま、この二人をアルビオンに連れていってしまって良いのだろうか?
向こうではどんな危険が待ち受けているのかも分からないというのに。
都合が良い事に、二人の同行を許可したワルド子爵はこの場にはいない。
トライアングル・メイジの実力は心強いが、ここはやはり、男として、同級生として、二人をとめるべ……。

だが、百戦錬磨のキュルケが、ギーシュの先手を取った。

「止めても勝手についていくから、言うだけ無駄よ?」

「なっ」

驚愕するギーシュとは対照的に、楽しそうな、とても楽しそうな、キュルケの言葉。

「気遣ってくれるのは嬉しいけど、あたしは、何事もあたしのやりたいようにやることにしているの。
 だから、貴方たちは貴方たちで利用したいように、あたしたちを利用すれば良いのよ」

そもそも王族が関わっている時点で、事情を聞かせてくれるなんて思っていなくてよ、とキュルケは笑う。
隣のタバサもこくりと頷く。
驚愕に凍り付いていたギーシュの口から、つられるように笑いが漏れた。
どうやらこの二人は、事情は知らないし、知るつもりもないが、手助けしたいから勝手に助けると言っているらしい。
こちらの勝手でするのだから、感謝も謝罪も必要ないのだと。
酔狂だ、酔狂極まりない。だが……。

だが、なんと誇り高い酔狂だろうか。

「はっ……ははははっ、あははははっ、君たちもよくよく物好きだな」

涙が出るほど大笑いする。
周りの客が何事かとこちらを見やるほどに。
ひとしきり笑った後、涙を拭うと、一転して表情を改めた。
この気持ちが、少しでも正確に伝わりますように。
モンモランシーに平謝りした時だって、これほど真剣にはならなかった。

「ありがとう。そして、僕は君たちと机を並べられた事を、誇りに思うよ」

キュルケは唇の端で笑い返すと、大袈裟よ、と言って、軽く手を振った。
そっぽを向いた浅黒い頬は、よくよく見れば少し紅くなっていたかもしれない。

「まあ、それはそれとして、昨日も気になったんだけど、何で船が出ないのかしら。
 今日なんか天気も良いし、風もないし、絶好の航空日和って感じじゃない」

キュルケの照れ隠しの独り言のつもりだった一言に、ギーシュが答えた。

「今夜は月が重なる『スヴェル』の月夜だろう?
 その翌日、つまり、明日の朝にアルビオンがラ・ロシェールの街にもっとも近づくのさ。
 勿論、近づけば近づくだけ、風石の節約になる。
 ただ、遠ければ特別料金を上乗せするんだろうけど、近いとそうするわけには行かない。
 だから、『スヴェル』の月夜の前後二三日は、割に合わないといって、中々商船が飛ばないんだ」

意外な相手からの意外な答えに、キュルケは目を丸くする。

「へぇ、変なことに詳しいのね、貴方。ちょっと見直したわ」

美女に誉められていい気にならないギーシュはギーシュではない。
やたらと誇らしげに胸を張る。

「ま、空軍に務める兄の受け売りだけどね……って、しまったな。
 昨日は、つい勢いに乗せられて飛ばしたけど、あんなに急ぐ必要は無かったんじゃないか。
 どうせ今日は船が出ないって分かっていたんだから」

ポロリとこぼした一言に、テーブルを囲む雰囲気がほんの僅かに変化する。

「……ねえ、ギーシュ。その話って、軍人ならみんな知っていてもおかしくない話なのかしら?」

先ほどまでとは打って変わって真剣な表情を浮かべるキュルケ。
いつの間にか、タバサも本から目を離して、ギーシュを見つめていた。
だが、ギーシュはその変化に気がつかない。
何時ものようにお気楽に答える。

「ん? うーん。どうかな。兄が知っていたのは、多分空軍に所属していたからだと思うよ。
 でも、自国周辺の地理や物流について知っておくのは、優秀な軍人なら当然かもしれないね」

その答えに、そう、とだけ呟くと、キュルケは顎に手をやって考え込んだ。
自分の答えが何を示唆したのか、まるで気づいていないギーシュは、そんなキュルケの様子に首を傾げる。

これは、確かめてみる必要がありそうね、と呟く声は、隣に座るタバサにしか聞こえないほど小さいものだった。



[5204] ゼロの黒騎士 第九回
Name: 早朝◆74a45303 ID:a07c8492
Date: 2008/12/09 00:50
「また、ごっそりと減ったね」

「他人事のように言わないでもらいたいものだ」

一晩経ってみると、『金の酒樽』亭でたむろする傭兵の数は、あからさまに減っていた。
昨晩の奇襲が失敗した後、生き残った五人を隔離し、被害状況の漏洩を防ごうと試みたにもかかわらず、
機を見るに敏な傭兵の一部は、早くも姿を消している。

ま、その辺の嗅覚が鈍いようじゃ、傭兵なんてやっていけないからねぇ、とフーケは思う。
一度に三十人が死んだのだ。
何も言われなくとも、生死の間際で生きてきた連中ならば、何となくおかしい事くらいは空気で感じる。
戦場では、その辺りの勘働きが生死を分けるといっても良い。
逆に言えば、ここに残った連中は、腕がないか、運がないか、あるいはその両方ともない盆暗ども。
他人事なら実に笑える話だが、自分がそいつらを引率するとなれば話は別だ。

やれやれ、盛り上がる話じゃないか。
名前とツラを覚えられてなきゃ、あたしだって逃げたいくらいさ。

そんなフーケの胸中を知ってか知らずか、じっと考え込んでいた白仮面が口を開く。

「こうならないためにも、お前をつけておいたつもりだったのだがな」

その言葉に、フーケは肩を竦めた。

「相手は百人からの荒くれだよ? あたし一人で全員を見張れると思わないで欲しいね」

誉めろとは言わないが、だったらもっと人をつけろと言外に匂わせる。

「……まあ、良い。それで、何人残った?」

「逃げたのは、昨日奇襲に行かなかった連中の三分の一ってところだから、四十人そこそこさ」

「様子見のつもりの一戦で半分以下まで減ったか……」

感情の読み取りにくいくぐもった声が、怒りと屈辱でそれと分かるほど歪んだ。
そんな白仮面を、フーケは腹の底でせせら笑う。
だから、あの犬を甘く見るなと言ったんだ。
どれだけ優秀なお貴族様だか知らないが、これに懲りたら、
世の中の全部が全部、あんたの思う通りに行くなんて思わないことだね。

「で、どうするんだい? 戦力はがた減り、士気は最悪だけど。
 向こうにゃあの忌々しい犬コロが控えてるんだろう?」

こんな様じゃ、良いように食い散らかされるだけだと思うけどね、と付け加える。

「問題はない。要は今夜の襲撃までもてば良い」

豪気な事で、と鼻を鳴らした。
傭兵の命が安いのは、世の倣いのようなものだが、こうも安売りされると流石に気分が良くない。
――これだから、貴族は嫌いだよ。

「……まあ、スポンサーはあんただ。好きにしな」

まあ、良い。
傭兵たちは、そもそもが自分の命を切り売りして生きているようなものだ。
値を見誤って安売りしてしまうなら、それがそいつの寿命だと割り切るほかない。
ならば、連中の心配をするのは筋違いというものだろう。
問題は、安売り対象が、自分の命にまで及ぶか否かだ。
牢から出してくれたという負い目はあるものの、フーケとてむざむざ使い捨てられるつもりはない。
そろそろトンズラする頃合かね、という言葉は、心の中に仕舞っておく。

ふと、酒場の窓を見上げた。
空が青い。でも、四角い窓に切り取られた空は、あの懐かしいアルビオンの空ほど高くも蒼くもない。
ホント、身許を知られてなかったら、遠慮なく逃げられるのになぁ、と切なく思う。
無性に、妹分が作ったシチューの味が懐かしかった。

いかんいかん。
仕事の前に弱気は禁物だ。
里心なんて出すとろくな事にならない。

「さ、それじゃああんたの作戦とやらを聞こうじゃないか。
 一つ景気の良い奴を頼むよ!」


久しぶりに見上げた空は、高く、青かった。
この空が続く場所に、この旅の目的地である、アルビオンがある。
自分は、無事に任務を遂げることが出来るのだろうか?
いや、遂げなければならない。自分がゼロではないと証明するためにも。
自分は、ノワールに相応しいメイジであると証明するためにも。
そのためならば、命だって惜しくはない……。

などと意気込んでいたのも、今は昔。
気がつけば、随分色んな人を巻き込んでしまった。
ギーシュ、ワルド、キュルケ、タバサ。
ルイズだって馬鹿ではない。
ほぼ貴族派の勝利が決したアルビオンの地は、
王党派に組する者にとって危険極まりない地だと、そう理解している。
半ば以上自分の我侭で言い出した今回の一件で、自分以外の誰かが傷つくのは嫌だった。
とはいえ、事は国家の重大事なのだ。
物凄く悔しい話だが、トライアングルメイジや、魔法衛士隊隊長の助力が得られるという以上、
少しでも任務の成功率を上げるためにも、彼らを利用しないわけにはいかない。
ここで、みんなに帰れと迫るのは簡単だが、それこそルイズの我侭以外の何者でもなかった。
ルイズだって、事の優先順位を間違えるほど、馬鹿ではないのだ。
だが、理屈はどうあれ、心は痛む。
誰もが、理屈で感情を割り切れるわけではない。

まったく、ツェルプストーが悪いんだからねっ! 勝手についてきたりするから!
ただでさえ、頭の痛い問題があるのにっ! とノワールの散歩をしながら思う。
学院で恒例となっている朝の散歩。
いつもならノワール一匹で済ませてしまうのだが、周囲に人家のない魔法学院ならともかく、
ラ・ロシェールの街に体高一メイルを越える犬を解き放つわけにもいかない。
大騒ぎになるのはまず間違いないし、下手すると街の警備兵が出てくるような騒動に発展してしまうかもしれない。
密使という立場上、それはよくない。大変によろしくない。
とはいえ、飼い主が一緒にいれば、問題は無いかと言うと、そういう話でもないのだが、
色々と考えたい事もあるルイズとしては、これは一人になるちょうどいい機会のように思えた。
そんなわけで、久しぶりにノワールと一緒に散歩をすることにした。
そこまでは良い。ルイズとしては、何の問題もない。
だが、気がつけば、何故か悩みの種の一つであるところの、ワルドまでついてくるという話になっていた。
護衛が必要とか、なにか色々言っていた気がするが、頭が真っ白になっていたルイズはびた一覚えちゃいない。

なんでついてくるのよ、もー。
ノワールに悩みを聞いてもらおうと思ってたのに。

頭の片隅で、そんな事を考えながら、ちろりと隣を歩くワルドを盗み見る。
峡谷の狭間を、土のメイジが文字通り成形して作り上げたラ・ロシェールの街は日の光に乏しい。
そんな薄暗い街の影を切り取るように差し込んだ日差しが、ワルドの整った横顔を照らし出した。
頭の中から、ワルドへの不満が消え去る。
胸が高鳴り、頬が赤く染まるのが、自分でも分かる。

――格好よくなったよね。

思い出の中の憧れの君は、十年の時を経て再びルイズの前に現れた。
凛々しい眼差しはそのままで、少年期特有の甘さが綺麗に抜け、
それを埋め合わせるように、経験に裏打ちされた重厚な自信を漂わせる大人の男。
頼りがいがあるというのは、こういう事を言うのだと思う。
そんな人がルイズの婚約者で、しかも、彼はルイズに異性として好意を抱いているのだという。
なんていうか、今だ信じられない自分がいる。
前者は、実感が湧かなかっただけで、ずっと前から決まっていた事だ。
納得できない事もない。
でも、後者はまるで信じられない。
自分でいうのもなんだが、自分自身の可愛げのなさには自信がある。
胸はぺたんこ、素直じゃない性格。
顔の良さで辛うじてトントンだと思う……思いたい。
でも、ワルドならもっと良い人がいる筈だ。
自分みたいなチンチクリンなんて問題にならないくらいの人が。
……なんでわたしなの?

ふと、ワルドの眼差しが遠くなる。
ワルドを見詰めるルイズに向かって、その眼差しのまま懐かしそうに微笑んだ。
慌てて視線を逸らすルイズ。でも、多分バレバレだ。

「こうしていると、昔を思い出すな。
 拗ねて池の小船に隠れていた君を迎えに行った帰りは、二人でこうして歩いたね」

思いがけない昔話に、釣られてルイズの目が遠くを見つめる。

「もう。昔の話はやめてよ、ワルド」

「あの日の君もこんな憂い顔ををしていたっけ。
 何とか笑顔が見たくて、帰り道に色々な話を聞かせたのを覚えているよ」

「……そうね」

「あの頃の君は、ご両親から出来の良いお姉さんに比べられて、泣いている事が多かった」

「そうだったわ。慰めてくれるのは、いつもちいねえさまとあなただったわね、ワルド」

それは、懐かしい記憶だ。
世界が決して自分に優しくない事を、ようやく悟ったあの遠い日々。
情けない事に、今だ自分は、そんな世界と折り合いをつける方法を見つけ出していない。

「幼い君には、辛い日々だっただろうね。
 あの頃の僕には、そんな君を助ける知恵も、力もなかった。
 だが、今は違う。
 今の僕ならば、君を守ることが出来る」

「……」

「今の僕ならば、可愛いルイズ、君にあんな悲しい思いをさせはしない.
 僕に、もう一度機会をくれないか?」

話が、何か怪しい方向に進んでいる気がする。
今更のように、ルイズは気づいた。
ノワールを除けば、今、自分とワルドは二人きりなのだ。

「ワルド?」

「ルイズ、この任務が終わったら、結婚しよう」

「え……?」

「僕には、君が必要なんだ」

「ちょ、ちょっと待って、ワルド……」

「いや、良い機会だ。最後まで言わせてくれ、ルイズ。
 僕はずっと、君には他の人間にはないオーラ、不思議な魅力があると思っていた。
 十年前からずっとだ」

僕以外には、誰も気づいていなかったようだけどね、と真面目な顔で告げる。
え、ここが笑うところなのかしら、と思うルイズ。
だが、ボケを外したはずのワルドは、何時まで経っても真面目な表情を崩そうとしない。

「き、気のせいよ、そんなの」

暫くの間、呆然とワルドの顔を眺めた後、我に返ったルイズは、慌ててその言葉を否定した。
確かに何時か魔法を使えるようになりたい、ならなくちゃいけないとは思うが、
いきなりオーラがどうとか言われても、困る。

「いや、僕だって曲がりなりにもスクウェアクラスだ。
 そんな僕だからこそわかることもある。
 今は失敗ばかりしていても、何時か必ず君は歴史に名を残すメイジになると、僕は信じているんだよ、ルイズ。
 そう。始祖ブリミルに比肩し得るような、偉大なるメイジにね。
 ……僕は、魔法衛士隊隊長で終わるつもりはない。
 この国を、いや、ハルケギニア全体を動かすような貴族になりたいと願っている。
 そのためには、君の力が必要なんだよ、ルイズ。
 僕の傍で、ずっと僕を助けてくれないか?」

ワルドの事を、嫌いか好きかで聞かれれば、躊躇いなく好きだと答えるだろう。
婚約者云々の事を抜きにしても、だ。
それほどまでに、あの日の思い出は甘く、美しく胸に残っている。
だが、何かが引っかかる。なんだろう、何が引っかかっているんだろうか?
その何かが形にならないうちに、言葉だけが口から滑りでた。

「ごめんなさい。でも、こんな大事な事を、そんな急には決められないわ。
 わたし、ずっと立派な魔法使いになりたいって思ってた。
 そうすれば、きっとみんなはわたしを認めてくれるはずだって」

一旦言葉を切り、息を継ぐ。
心のどこかに、答えを保留したのはもっと別の理由があるはずだと囁く声がある。

「わたしは、それがまだ出来てない。
 それが出来ないうちは、ちゃんと前に進めない気がするの。
 だから、お願い。もう少しだけ待って、ワルド」

嘘ではないが、それが理由の全てではない、とルイズは思う。
多分、少し前ならば、喜んでプロポーズを受けただろう。
でも、今は……。

「……どうやら、急ぎすぎて君を困らせてしまったようだね。
 この十年間、放ったらかしだった婚約者から、急に結婚を申し込まれれば、面食らうのも当然だ。
 ゆっくり考えて、それから返事をしてくれ。僕はもう急がないよ」

会話が途切れる。
街の喧騒が、二人の間に流れる沈黙を通り過ぎていく。
ノワールの眼差しは、じっとワルドの背中に注がれている。


昼下がりの酒場には、気だるい空気が流れている。
ぽつぽつと食事客がテーブルを埋めるホールで、
キュルケとタバサは、散歩に行った二人と一匹の帰りをのんびりと待っていた。
タバサは無言でページを繰り、キュルケはその様を眺めながらちまちまとワインを舐めている。

さて、とキュルケは考える。
あの色男の隊長さんから、どうやって聞きだそうかしら。
具合の良い事に、ちょうどギーシュはヴェルダンデの世話があるとかで席を外している。
今ならば、あの空気が読めない同級生に茶々を入れられることはない。

「あの二人、そろそろ帰ってくる頃ね」

「噂をすれば影」

タバサが指差した先、酒場の入り口に差す一組の人影。
ナイスタイミング。

「あら……おかえりなさいまし、ワルド子爵、ルイズ。
 席、空いてるわよ。お昼まだでしょう? 食べていきなさいな」

「では、お言葉に甘えさせていただこう。ルイズも構わないね?」

キュルケの気遣いに感謝するそぶりを見せつつ、さり気なくルイズに椅子をすすめるワルド。
勿論、ルイズが座るのを確認してから、自分も席につく。
本当にそつがないわね、とキュルケは思う。
でも、今はそんな気遣いも胡散臭く見える。

席について、メニューを眺めようとしたルイズの視線が、ふとある一点で動きを止めた。
信じられないものを見たとでもいうように、目を瞬かせる。

「ええと……ところでタバサ、ちょっと見ない間に随分趣味が変わったわね」

「違う。これはキュルケの趣味」

珍しい事に、語尾に被せるように、間髪いれず答えが返ってきた。
しかも、ちょっと語調が強い。
よくよく見れば、雪のように白い頬にほんのりと朱がさしている。
何時ものように本に視線を落としてはいるが、
むしろ、羞恥のあまりこちらに視線を向けられない事を誤魔化しているように見える。

まあ、確かにトリステインでは、こういう装いはまず見ない。
多分、アルビオンでもガリアでもゲルマニアでも見ないだろう。
その分、人目を引くし、恥ずかしがるのも分かる。
だが、ルイズはキュルケを責める気にはなれなかった。
だって、似合うんだもの。
黒と白を基調に纏められたその服は、色味だけ見れば非常に地味なはずなのだが、
ふんだんにフリルを使っているため、むしろ与える印象としては華美とさえいえるだろう。
彩度に乏しいその服をタバサが纏うと、普段は意識する事のない、青い瞳と髪が鮮やかに目に飛び込んでくる。
さすが親友を自称するだけあって、悔しいけどキュルケは良い目をしている。
これは可愛い。
いや、それ以上に、なんていうか、わたしの視線であのタバサが恥ずかしがっているって事に、
何故か胸がドキドキする。

気がつくと、恥ずかしがるタバサを眺めて、キュルケもにやにやしている。
目覚めてはいけない何かに目覚めかけたルイズ、再起動。
あ、危うくツェルプストーと同じレベルまで落ちる所だったわ、と心の中で汗を拭く。
ルイズが落ちかけた場所は、どう考えてもキュルケのいる場所より深くて暗いどこかだが、
そんな冷静な意見は無視無視。

「あー、ええと、本当にツェルプストーは性悪ねー。ちょっとは反省しなさいー」

「心が篭っていない。棒読み」

「そ、そそそそ、そんな事ないわよ」

本当に申し訳無さそうに、ワルドが口を挟んだ。

「……ルイズ、楽しそうな所すまないのだが、そろそろ注文しないか?」

「ご、ごめんなさいっ!」



少し遅めの昼食も終わりに近づき、テーブルでは表面上和やかな会話が続いていた。
ふと思いついたように、キュルケがワルドに訊ねる。

「それにしても、昨日も気になったんですけど、何で船が出ないのかしら。
 今日は天気も良いし、風もないし、絶好の航空日和って感じじゃない?」

さり気ない問いかけだった。
先ほどのギーシュとの会話を聞いていなければ、長い付き合いのタバサでさえ聞き流しただろう。
『微熱』のキュルケ、渾身の一言だった。
状況が状況じゃなければ、拍手したいくらいだ。
釣り込まれるようにワルドがその質問に答えた。
緩やかな坂道をボールが転がるような調子。

「今夜は月が重なる『スヴェル』の月夜だろう?
 その翌日、つまり明日の早朝、アルビオンが最もラ・ロシェールに近づく」

半ば以上確信していた答えが帰ってくる。
だから、動揺は顔に出さずに済んだ。

「なるほど。そんな理由があったの。
 それにしても博識ね。
 それとも、魔法衛士隊の隊長なら、これくらいは知っていて当然なのかしら?」

流れるように、核心に迫る。
さり気なく、さり気なく。相手にこの気負いを絶対に悟らせてはいけない。
そんなキュルケの内心を知ってか知らずか、ワルドはごく当たり前のように答えた。

「いや、昨日桟橋で乗船を交渉した船の船長から聞いた話さ」

なんだ、そうなの、と力が抜ける。
馬鹿みたいね、あたし、と洩らしそうになるその一瞬前、
デザートのクックベリーパイを突っついていたルイズがひょいと顔を上げた。
無自覚なまま、とんでもないを爆弾を放り込む。

「あれ? ねえ、ワルド、あの船長はそんな話してなかったじゃない。
 わたしもノワールも一緒にいたんだから、間違いないわ」

ね、ノワール、と、何も知らないルイズは使い魔に気楽に同意を求める。
だが、その一瞬、ワルドの表情が強張るのを、キュルケは確かに見た。

「あ、ああ。そうだったかな。
 昔、仕事でアルビオンに渡った時に聞いたのを勘違いしてしまったようだ」

それもホンの一瞬の事だ。
何事もなかったかのように、語を継ぐ。
でもね、貴方の尻尾は掴んだわよ、とほくそえむキュルケ。
勿論、そんな表情はおくびにもださない。

「そうですわ。ちょっとした思い違いなんて誰にでもあること。
 ねえ、貴方もそう思うでしょう、タバサ」

だが、答えたのはタバサではなく、ルイズだった。
婚約者の前という遠慮がなくなり、久しぶりのけんか腰だ。

「あんたの場合は、ちょっとしたどころか、完っ璧に健忘症じゃない。
 なんてったって、誰と付き合っているかも覚えてないんでしょ?
 だからあんなに一度に大人数と付き合えるのよ。
 ……男って馬鹿ね、こんなむ、むむむ胸ばっかり大きな女に騙されて」

言い返そうとするキュルケをさえぎる様に、ワルドが声をあげた。
期せずして、いなされた格好のキュルケが、頬を膨らませる。

「手厳しいな、ルイズ。でも、僕は君だけしか見ていないつもりなんだがね」

「それは……もう、意地悪しないで、ワルド」

「ははは、済まない。だが、男にだって、色々な種類がいる事を知ってもらいたくてね」

さて、と言いながら、ワルドが席を立った。

「念のため、今のうちに明日の支度を終わらせてしまう事にするよ。
 それでは、また後ほど」

失礼、と優雅に一礼して、部屋へと向かう。
残された三人は、三者三様の眼差しで、その背中を見送った。

「じゃ、わたしもちょっと厨房に行ってくるわね」

「まだ足りないのかしら、ルイズ。とんだ大食らいね」

「ち、違うわよっ! ノワールのために、肉を貰って後で煮てもらうように頼んでおくの!」

「煮て貰う? 生のままじゃだめなの?」

「犬って、肉は火を通した方がよく食べるんだって。
 人間の食生活にあわせた結果らしいわ」

「それ、シエスタの受け売り?」

「そうだけど……何よ、その目?」

「別に。あの子もたいがい物知りね」

お陰でわたしは助かってるけどね、と言うとルイズも席を立ち、ノワールもそれに従う。
後には、キュルケとタバサが残された。

「クロ、かしらね」

「恐らく」

「狙いは?」

「情報が少なすぎて、断定は出来ない。
 でも、アンリエッタ王女からルイズに託された“何か”だけではない事は確か」

「ルイズ自身も目的の一つなのかしら」

「間違いなく」

少し考え込むキュルケ。
静かな光を湛えた青玉のようは瞳が、じっとその姿を見つめる。
キュルケが結論を出すよりも早く、タバサが口を開いた。

「あの二人には伝えない方が良い」

「そうね……二人とも、嘘が下手だもの。教えると、まず間違いなくワルドに感づかれるわ」

それに、と思う。今ここでワルドを問い詰める事は簡単だ。
だが、何一つ確定的な証拠があるわけではない。
グリフォンをとばしてギーシュを置いていこうとした一件にしても、
ルイズと二人きりになりたかったと言われれば、それまでの話だ。
その他に証拠といえるものは、キュルケの女の勘だけ。
それでは言い逃れられてしまうのが落ちだろう。
つまり、旅の途中に、ワルドに感づかれないようにしつつ証拠を掴む必要があるということだ。
予想されるタイムリミットは、アルビオン到着時。
貴族派に掌握されつつあるあの場所に辿り着かれたら、恐らく何をしても無駄だろう。
勿論、キュルケとしては、そうなる前にルイズ、ギーシュを連れてシルフィードで逃げ出すつもりだ。
ルイズはごねるだろうな、と思う。
だが、キュルケとしては、この機会に断固としてルイズに恩を着せる腹積もりだった。
そして、後で弄るネタにする。

別にラ・ヴァリエールを助けようと思ってるわけじゃないのよ?

自分に素直なようで、変な所で素直じゃない女、キュルケ。
とにかく、チャンスは今日の午後一杯と、明日のアルビオン渡航中の船内という事になる。
正直、やり遂げる確率は低い。だが……

「面白くなってきたじゃない。これでこそわざわざ着いて来た甲斐があるってものよ」

困難であればあるほど、燃え上がるのが、彼女の性。
キュルケの二つ名は『微熱』。
燻り続ける情熱は、格好の燃料を得て、今まさに燃え上がろうとしていた。

しかし、キュルケはまだ気づいていない。
すでにワルドに先手を打たれているという事に。
事態は密かに、しかし想像もつかないスピードで、動き始めようとしている。


王都トリスタニア。
書類の山に埋もれた執務室。
重大な報告を聞く間も、宰相マザリーニは一瞬たりとも羽ペンを止めない。

「なるほど。ワルド子爵はレコン・キスタと通じていたか」

「はい。調査の過程で他にも数名の貴族がレコン・キスタと通じている事が明らかになりましたが、こちらは?」

「後回しだ。ただし、監視は付けておけ。泳がせておいて、頃合を見て釣り上げる事にしよう」

「御意に。それでは、ワルド子爵に関してはいかがなさいますか?」

「手練の竜騎士を三騎選抜して、ラ・ロシェールに派遣し、ワルド子爵と同行者を確保させろ。
 人選に関しては君に一任する。
 ただ、竜を降りた後の戦闘能力に重点を置くように。
 『閃光』のワルドはこの国屈指の使い手だという事を忘れるな」

「は。しかし、ワルド子爵はグリフォンライダーです。
 グリフォンならば、ラ・ロシェールまで一日かかりません。
 すでに一行はアルビオンへ発ったのでは?」

そこで初めて、マザリーニはペンを止め、秘書官の顔を見上げた。
お気に入りの生徒に教える教師のような口調。

「君、今夜は『スヴェル』の月夜だ。
 つまり、明日の朝までアルビオンへの船は出ない。
 ワルド子爵たちは、嫌でもラ・ロシェールの街に足止めされているはずだ」

「申し訳ありません。自分の考えが足りませんでした。
 それで、殿下へのご報告は如何いたしましょう?」

「それは……私がしなければならない事だろう。
 折を見てご報告する。
 それよりも、竜騎士の選抜を急げ。
 今すぐ派遣すれば、今夜半前にはラ・ロシェールの街に到着するだろう」

「は。では、自分はこれで失礼します」

ドアの閉まる音。
沈黙。
しばしの後、再び羽ペンを走らせる音。
動揺もなく、混乱もなく。それは見事なまでに常と変らぬ執務室の姿だった。
その静けさが、マザリーニにとって、この程度の謀略など、
日常の一幕に過ぎないことを、何よりも雄弁に物語っていた。



[5204] ゼロの黒騎士 第十回
Name: 早朝◆74a45303 ID:a07c8492
Date: 2008/12/09 00:51
眼下には、ラ・ロシェールの町並みが広がる。
街の灯りが、水底に沈んだ宝石のようにも見える。
その光を遮る、人影と呼ぶにはあまりにも大きな何か。

――何だあれは? ゴーレム?

とにかく、何かしら騒動が起こっているのならば、そこに彼らが追っているワルドが関わっている可能性が高い。
翼を傾けて急降下する。
後続の二騎が、隊長騎に続いた。


数十分前――『女神の杵』亭にて

「あら、お帰りなさいまし、子爵」

「日は既に落ちているとはいえ、こんな時間から酒盛りかい? あまり感心はしないな」

「堅い事は言わないで下さいな。何しろ、明日は出立するんですもの。
 朝一番の船に乗ったら、敵地アルビオンへ一直線。
 騒げる時に騒いでおかなければ、もしもの時に未練を残しますわ」

「なるほど。まあ、そういう事なら仕方ないか。
 しかし、明日に残さないように」

「話の分かる方で良かった。さ、子爵様も一献」

「いや、僕は……」

「寂しい事を仰らないで下さいな。
 魔法衛士隊の隊長ともなれば、ご見聞も広いのでしょう?
 軍務の話など色々お聞かせくださいまし」

「あ、それは僕も聞きたいな」

「参ったな」

「……ちょっと席を外す」

「タバサ嬢、どこへ?」

「手水」

「……それは失敬」

――上手くやりなさいよ、タバサ。


予想はしていたが、部屋の扉には当然のように鍵が掛かっていた。
タバサは何事もないかのようにスカートのポケットから細い針金を一本取り出すと、鍵穴に差し込む。
だが、手の中で弾かれるような感覚。

――施錠の魔法。

手の込んだことだと思う。
だが、タバサは焦らない。
障害があるなら、馬鹿正直に突撃する必要はない。迂回すればいいのだ。
ここから入るのが無理だとすると残るは……ベランダの窓。
ちょうど都合の良い事に、隣の部屋を確保してある。
上手くすれば、そこからフライを使うことなく侵入できるはず。

そこまでは良かったのだと思う。
計算違いは、部屋にルイズがいた事。
ルイズは寝台に腰掛けて、伏せるノワールの頭を撫でながら、ぼんやりと考え事をしているようだった。
さすがに事情を知らないルイズのいる前で、隣の部屋に侵入するわけにはいかない。
かといって、顔を見た瞬間部屋を出るというのも、失礼極まりない話だ。
少し考えた結果、タバサは本を取りに来た事にする。
実際、寝巻きのポケットの中にもう一冊本を持ってきている。
何しに来たのかと問われたならば、その本を取りに来たのだと答えれば問題はないはずだ。
そうと決まれば長居は無用。
幸いと言っていいのか、キュルケが買ってくれたこの服はフリルだけではなく、ポケットも多い。
本の一冊くらいなら、そこに入れておけば行動に支障はないだろう。

だが、ごそごそと自分の寝巻きを漁るタバサの背中に向かって、ふと思いついたように、ルイズが尋ねた。

「そういえば、キュルケはまだホールにいるの?」

タバサは本を探す手を止めると、ルイズに向かってコクリと頷く。

「そう……ギーシュやワルドも一緒?」

同じように頷き、さらに一言付け加える。

「宴会」

下で飲んでいてくれるなら、こちらとしても好都合と言う本音はそっと無表情の下に隠した。
ルイズは、どこか困ったように微笑む。
学院では見ないような、どこか大人びた表情。

「そういう気分じゃないの」

そう、とだけ返す。
しばらくの間、部屋の中を沈黙が満たす。

「キュルケがさ、タバサといつも一緒にいるの、ちょっとわかる気がするわ」

唐突に、ルイズが口を開いた。
小首を傾げるタバサ。

「自分じゃ意識してないのかもしれないけど、タバサの傍って意外に居心地が良いもの」

タバサはじっとルイズの顔を見つめる。
何の表情も浮かべていないはずのその顔が、どこか驚いているようにも見えた。
しばらくそうした後、くるりと背中を向けて、寝巻きのポケットを探る作業を再開する。
その姿勢のまま、ポツリと答えを返した。

「よく分からない」

多分それは、キュルケもわたしもある意味では似たもの同士だからだ、とルイズは思う。
つい最近、薄々感じていたことが、ここに来てはっきりとした形に像を結ぶ。
物凄く認めたくない事実ではあるのだけれど、自分もキュルケも、お互い我が強く、そして、敵が多い。
ルイズは魔法が使えないことで、キュルケはその男性遍歴で。
だから、そういう部分で人を判断しないタバサの傍が心地良い。

「もっと早く気がつけばよかった。そしたら、友達になれたのに」

友達、とタバサは呟く。
それに気づかないまま、ルイズは続ける。

「今からでも、遅くはないかしら?」

ふと、手が止まった。
タバサが何かを答えようとしたそのとき、ノワールの耳が立った。
がばりと起き上がる。

「ノワール?」

「静かに」

不思議そうな顔をするルイズをタバサが制する。
そのただならぬ様子に、ルイズも口を閉ざした。
緊張した空気が流れる。
その瞬間、部屋のドアが叩かれた。タバサは無言のまま立ち上がり、油断なく杖を構える。
凍りつくような沈黙の中、むしろのんびりとさえした声が響いた。

「ルイズ、僕だ。入っても良いかい?」

ワルドだった。
緊張した空気が霧散する。

「ワルド? ちょっと待って。構わないわよね、タバサ?」

杖を下ろし、コクリと頷くタバサ。
ルイズはワルドを招き入れるために寝台から立ち上がった。
どうやら、ワルドはルイズをホールの宴会に誘いに来たらしい。
さきほどまでの反動なのか、どこか弛緩した空気が漂う室内で、しかし、ノワールだけが警戒を解いていない。
この若さにして、幾つもの修羅場を潜ってきた経験が、その事をタバサに気づかせた。

――外?

先ほどまでおぼろに差し込んでいたはずの月光が翳っていることに気がついた瞬間、タバサは短く呪文を詠唱。
タバサが渦巻く風に身体を突き飛ばされるようにして部屋の入り口まで飛び退り、ノワールも一足で後退する。
次の瞬間、ベランダから突き込まれたる巨大な岩の拳が、室内に置いてあった何もかもを破壊しつくした。

「ゴーレム!?」

ワルドに抱きかかえられて難を逃れたルイズが叫ぶ。
壁が破壊され、見通しがやたらと良くなった部屋の外、中天にかかろうとする二つの月を隠すようにして、
二十メイルはあろうかというゴーレムが立ち上がる。
その肩には、二人の男女。
片方は白い仮面を被った男。もう一人は……。

「『土くれ』のフーケ! チェルノボーグの監獄に収監されてるはずじゃなかったのっ!?」

「あたしくらい才能豊かだと、スカウト先が引きもきらなくてね。
 雇い主が救い出してくれたのさ!」

その言葉に合わせるように、ゴーレムが拳を振り上げる。

「こいつは、素敵なバカンスの返礼だよ。
 釣りは要らないから、受け取っておくれ!」

「いかん! 一時撤退する!」

一階へ通じる階段へ三人と一匹が駆け込むのと、拳が唸りを上げて叩きつけられるのは、ほぼ同時だった。
砕けた破片が降り注ぐのを、頭を屈めてやり過ごす。

「フーケの雇い主って、アルビオンの貴族派なのかしら」

「恐らく、ね。
 さて、困ったな。どうやら我々は囲まれたらしい」

「嘘!?」

「本当さ。さっき一瞬だが、通りの方から近寄ってくる連中が見えた。
 弩を持ち歩く連中がただの野次馬とも思えないしね。そろそろホールに踏み込んでくる頃だろう」

タバサが提案する。
いつもと変わらぬ静かな声に、一筋焦りが混じっていたかもしれない。

「合流」

これ以上はないというほど、簡潔な提案に、ワルドは首を横に振る。

「いや、それは上手くない。このような任務では、半数が目的地にたどり着ければ成功とみなされる。
 キュルケ嬢やギーシュ君には悪いが、派手に暴れて敵の目を引き付けて貰おう。
 タバサ嬢。君もここに残ってくれないか?」

逡巡は一瞬。
タバサはワルドの言葉に、こくりと頷いた。
無論、タバサはキュルケと同じように、ワルドの潔白を信じてはいない。
状況的にあまりにも怪しい点が多すぎる。
だが、仮にキュルケの疑惑が真実だとして、ここで拒絶した時、果たしてワルドはどう出るだろうか。
最悪の場合、杖を抜く。
魔法衛士隊の隊長を務める人間と、この状況下で一騎討ちして勝つ自信があると言い切れるほど、
タバサは自信過剰な人間ではない。
ならば、ここは一旦引き、キュルケ達と合流して、状況を仕切りなおした方が良いと判断する。
実を言えば、一番の親友であるキュルケの事も心配だ。
先日の待ち伏せの規模を考えると、二人だけでは荷が重い可能性が高い。
それに、何よりもルイズとワルドを二人きりにするわけではない。
吠えもせずじっと伏せているノワールに目をやる。
ルイズの袖をクイと引っ張った。

「ノワールに乗っていくと良い。あなたが一番足が遅い」

「え? あ、ええ、そうね。確かにそうだわ。ありがとう、タバサ」

「気をつけて」

その一言に、万感の思いを込める。

「タバサも無事で。
 ギーシュも守ってあげてね。多分一番弱いから。
 あー、あと、ええっと……その、ツェルプストーにも気をつけるように言っておいて。
 べ、別に心配してるわけじゃないんだからね。その、死なれたら寝覚めが悪いじゃない!」

「分かった」

一つ頷いて、ホールに向かって駆け出す。
その後姿を見送ると、ルイズはノワールに跨った。

「行きましょう、ワルド」

騎乗姿も凛々しいルイズに、何故か痛々しげな眼差しを送るワルド。

「その、ルイズ、下着が……」

「そ、そそそそれ以上は言わないでっ! それに、そんな事言ってる場合じゃないわっ!」

二つの影が、裏口を目指して走り出した。

表通りを横切り、細い裏道を抜け、一散に桟橋へと向かう。
足取りに迷いはなく、目的地はこれ以上ないほどはっきりとしている。
二人と一匹は、あっという間に世界樹の根元に辿り着く。
昨晩も訪れたエントランスを抜け、一瞬視線を彷徨わせるワルドを尻目に、
ノワールは速度を緩めることなく、目的の階段を駆け上る。
追随するワルド。ノワールは決して脚を緩めようとしない。
遥か下方にラ・ロシェールの街の灯り。
今にも崩れそうな手すりが、足音にあわせてパラパラと木屑を舞い散らす。
きしむ階段のたわみさえも、階段を駆け上がる速度に変換する。
後方から置いていきかけたワルドの制止の声。
見上げる視線の先、階段の向こう、踊り場に黒い人影。
わだかまる闇に浮かび上がるような白い仮面。

――危ない、止まれ。

だが、ルイズは抱きしめる腕の下で、ノワールの筋肉が更にうねり膨れ上がるのを感じる。
これは、ノワールが加速するときの兆しだ。

――飛び降りろ、ルイズ!

諸腕に力を込める。
闇の中に流れる髪が、何かに引っ張られたのではないかと思うような大加速。
叩き付ける様な向かい風の中で目を凝らせば、ボロボロのはずの手すりが、
滑らかな一繋がりの流体のように視界の端を後方に流れ去っていく。
階段の踏み板が、蹴り脚の勢いに耐え切れず、一足ごとに踏み砕かれる。
とても階段を駆け上っているとは信じられない。闇の底に向かって落ちていくよう。
だが、ルイズに恐怖はない。
階段の上で仁王立ちをする白仮面の脇を、とても曲がり切れるとは思えない速度ですり抜けた。
白仮面は咄嗟に詠唱を中断してルイズに手を伸ばす。しかし、その手は空しく宙を掴む。
そのまま物理法則に従い踊り場の手すりをぶち破って、
一人と一匹は放物線を描いて中空へと投げ出され……たりはしない。
ノワールは手すりのギリギリ手前で方向転換。
慣性を嘲笑うかのようなバランス感覚で体勢を整えると、体が流されるままに、
手すりを思い切り蹴りつける。逆方向への再加速。
崩壊寸前だった手すりはその一撃で完膚なきまでに破壊されるも、
その僅かな一瞬を文字通りの足がかりにしてノワールは鋭角にターン。
メイジなど真正面から相手にしていられないとばかりに、さらに階段を駆け上がる。
走り去る背を見送る形になった白仮面は、それでもルイズの桃色がかった金髪が闇の中に消える前に呪文を再詠唱。
完成した魔法をノワールめがけてに叩き付けた――エア・ハンマー。
階段の端から端まで叩きのめすに十分な大きさの空気の塊がルイズに迫る。
だが、それが見えているかのように、ノワールは階段の外へと飛び上がると、
垂直に切り立つ壁――世界樹の幹の内側――を、ルイズを背負ったままひた走る。
ルイズが腕の力を弱めるなんて、欠片ほども考えていない機動。
斜めに傾いだ視界の端で、ワルドが白仮面をエア・ハンマーで吹き飛ばすのが見えた。
そのまま、枝に停泊する船まで走り抜ける。

思う。
聞いたぞ、確かに聞いた。
更に思う。
間違いなく、中断前と後で違う魔法をお前は詠唱した。
止まると思ったのだろう?
ルイズが降りると思ったのだろう?
脚が止まったらおれだけ始末しようと思ったんだろう?
当てが外れて、ルイズを巻き込まんでも良いように殺傷力の低い魔法に切り換えたな?


タバサがホールにたどり着いてみると、そこは酷い有様だった。
魔法の範囲外から、数十人がかりで射掛けられては身動きも取れない。
据えつけられたテーブルの脚を錬金して横倒し、バリケード代わりにしているが、
そうでなければ、ギーシュとキュルケは今頃針鼠になっていただろう。
タバサは、低い姿勢で転がるようにテーブルの影に走りこむ。

「タバサ、無事だったのね! ルイズは!?」

「分断された。ワルド子爵と一緒」

裏口の方を指差す。
その仕草で全て了解したとでも言うように、キュルケは一つ頷いた。

「予想してしかるべきだったわ。これがあるから、わたしたちの同行を許したのね」

確実な証拠を押さえようなんて考えたのが不味かった。
とっとと全部ばらして正面から対決すべきだったか、と後悔しても後の祭り。
認めよう。『閃光』の二つ名は伊達ではなった。
手回しの速さはワルドの方が一枚上手だ。

「よ、よく分からないが、ルイズはワルド子爵と一緒なんだろう?
 なら、彼に任せて、ここを何とか切り抜ける方が先決だと思うんだが」

「そのワルドと一緒だって言うのが、問題なのよ。
 でも、確かに今はこれを切り抜ける方が先決ね」

魔法で牽制することで押し込まれる事だけは辛うじて防いでいるが、このままではジリ貧だ。
絶え間なく射掛けて足を止め、精神力が尽きた所で押し込む。
常套手段だが、実に有効な選択だ。有効すぎて、こちらに打つ手がない。
ちょっとは山っ気だしなさいよね、と顔も知らぬ傭兵たちに八つ当たり。
となると、撤退するが上策だが、それにしても、傭兵の足を止めるために最低一人は残る必要がある。
ドットメイジのギーシュは論外。足止めにもならない。
となると、残るのはキュルケかタバサ。
どちらが残るにせよ、残った一人は確実に死ぬ。
いや、そこで死ねればまだマシだ。何しろこちらは女の身。
さらわれでもしたら、どうなるかなど考えたくもない。

「ん……?」

「ちょっと、ギーシュ! 危ないわ、頭引っ込めなさい!」

「あ、いや……見覚えのある顔がちらほらいるんだ」

キュルケはタバサに牽制を任せて、ギーシュに向き直る。

「見覚えのある顔?」

「ああ……僕は昨日、生き残った傭兵を尋問しただろう?
 流石に昨日の今日だからね。顔くらいは覚えてる。
 参ったな。やっぱり貴族派に雇われてたんじゃないか」

知っていれば、こちらが先手を打てたのに、と悔しそうに呟くギーシュ。
でも……

「でも、これは使えるな。傭兵だけなら、何とかなるかもしれない。
 追い払うだけでいいなら、だけどね」

「何か名案があるなら、早くしていただけるかしら?
 正直、あまり時間がないの」

はやくどうにかして、ルイズとワルドを追いかけなくてはならない。
焦るばかりで、キュルケの思考が空回りする。

「出来れば、僕にも事情を説明して欲しいんだが……まあ、良いか。
 さて、ではとくとご覧じろ」

ギーシュは薔薇の造花を模った杖を一振りする。
花びらが舞う。

「こいつは、ク・ホリンとでも名付けようか」

そこに現れたのは、青銅製の犬の姿をしたゴーレム。
1メイル強のそれは、細かい部分まで、驚くほどノワールに似ていた。
キュルケが感心したように呟く。

「貴方、変なところで器用なのね」

テーブルの影から、七体のク・ホリンが風のように飛び出す。
射掛ける傭兵たちの中から、幾つもの悲鳴が上がった。


戦線はしごくあっさりと崩壊した。
犬の姿を模した青銅製のゴーレムを見た瞬間、昨夜生き残った五人が泡を食って逃げ出し、後は酷いものだった。
一人欠け二人消え三人が連れ立って逃げ出し、気が付けば矢ぶすまに切れ目が出来るようになり、
中のメイジ――多分、キュルケという学生――が放った火球の魔法が傭兵たちのど真ん中で炸裂した時、
もはや敵前逃亡を押し留める術はなくなっていた。
恐怖に囚われた集団のなんと脆いことか。
それを食い止めるべき白仮面はもういない。
五人が逃げ出す直前に、後は好きにしろと言い残して、世界樹の方へと飛び去ってしまった。
自らが作り出したゴーレムの肩の上で、『土くれ』のフーケは切なく溜息を吐く。

さて、どうしたものかな、と考える。
傭兵をゴーレムで脅して、もう一度酒場に押し込む事も出来ないわけではない。
だが、昨夜の一件で心底恐怖を刷り込まれた五人の狂態を見た傭兵たちの士気は最低も良い所だ。
パニックが感染しかけていると言っても良い。
最悪の場合、ボウガンがこちらを向く可能性さえある。
あの犬コロと直接対峙していない連中なら、恐怖を新たに刷り込む事で統制を取る事も可能だろうが、
その場合はゴーレムで何人かの傭兵をミンチにする必要があるだろう。
また、無理に傭兵を頼らず、ゴーレムの力押しで中の連中を黙らせるという手もある。
二十メイル超のゴーレムの制圧力は、あんな急ごしらえのバリケードなど、物ともしない。
宿屋の入り口から手を突っ込んで叩きのめすだけで事は終わる。
終わるのだが……

……正直、そこまでする必要はあるかなぁ、とも思う。
大体、自分は盗賊であって、少なくとも、今はまだ殺し屋ではないのだし、
あのノワールとかいう犬ならともかく、キュルケやタバサ、ギーシュという学生を恨んでいるかと言うと、
そこまで深い接点があったわけでもない。
確かに、キュルケとタバサが、フーケが破壊の杖を盗み出そうとする現場に居合わせたのは事実だが、
何かされたわけでもないのだ。
そもそもフーケの中で、あの一件はどちらかといえば自分のミスで起きたのだという意識が強い。
学生だと侮ったりせず、三人娘がいなくなるのを待ってから宝物庫の壁を破壊すれば、
あんな目に遭わずにすんだのだから。
降って湧いたチャンスに、思わず先走った所為だと言える。

雇い主も用は事足りたと言ってるわけだし、これ以上ドンパチする必要はない、か。
それじゃ、今日のところはこの辺で消えさせてもらうかな。

フーケはフライを詠唱。
ゴーレムを解体する手間もそこそこに、夜の闇へと消えた。
結果として、あくまでも結果としてだが、フーケのこの判断は彼女の命を救う事になる。
何故ならば、この直後、マザリーニの放った追っ手――三騎の竜騎士が、ラ・ロシェールの街に到着したのだから。


「ワルド、見て! 竜騎士よ!」

舷側から身を乗り出すようにして、ルイズが叫んだ。
船長との交渉を終え、船――『マリー・ガラント号』という――が出港するのを確認していたワルドは、
思わず安堵のため息が漏れそうになる。その胸にあるのは、逃げ切ったか、という思い。
見栄えのしないトリステインの宰相を、鳥の骨と侮る者は決して少なくない。
だが、その傍に仕えてきたワルドは、マザリーニの有能さを嫌というほど目の当たりにしてきた。
だから、もし仮に誰かが自分の行動の不自然さに気がつくとしたら、
必ずマザリーニが最初に気づくことになるだろう、とそう思っていた。

だが、それにしても、追うと決めたら躊躇わず最速の手段を選ぶか。
偶然とはいえ、『スヴェル』の月夜絡みで、時間的余裕はまだあると偽装できていたはずなのだがな。
つくづく抜け目のない男だ――だが、今回は俺の勝ちだ。

「……ワルド?」

怪訝そうなルイズの声。

「あ、ああ、すまない、ルイズ。 少々を考え事をしていてね。
 恐らく、変事あることを察した近在の領主が向かわせたのだろう。
 後の事は彼らに任せて、僕たちはアルビオンへと急ごう」

そっとルイズの肩を抱き寄せる。
腕の中で、わずかにルイズが身を強張らせたが、拒絶はしない。

「空の風は君が思うよりも身体に障る。今夜はもう船室で休んでいたほうが良い。
 もしも、可愛いルイズが風邪など引いてしまったら、僕の胸は心配で張り裂けてしまうよ」

大げさね、とルイズがわずかに笑みをこぼす気配。

「大袈裟でも何でもないんだがね」

ワルドは心の底からそう答える。


「やられたわ。見事に置いてきぼりね」

アルビオンへと向かう『マリー・ガラント』号は、もう豆粒ほどの大きさにしか見えない。
ゴーレムが突如動かなくなったことで、フーケが退散したことを知ったキュルケ達三人だったが、
全力で急いだものの、結局『マリー・ガラント』号の出航には間に合わなかった。

「でも、まだよ、まだ手はある!」

だが、キュルケは諦めようとしない。
諦めるのは、ツェルプストーの女には似合わない。

「シルフィード」

ポツリとタバサが呟く。
そう、まだタバサの使い魔であるシルフィードという手がある。
今すぐ出発すれば、アルビオンに船が到着する前に……。

「あー、すまないのだが、お嬢さん」

いきなり背後から声を掛けられた。
うるさいわね、今忙しいのよ! と言いかけた所で、その声の主が、タバサでもギーシュでもない事に気づく。

「『女神の杵』亭の主人が言うには、君達が、ワルド子爵の同行者だそうだね。
 そして、傭兵とゴーレムに襲われたそうじゃないか。ちょっと事情を聞かせてもらえないかな?」

「……え、どちら様?」

キュルケに声を掛けたのは、磨き上げられた胸甲も眩い一人の騎士だった。
腰には実用一辺倒の無骨な鉄ごしらえの杖が無造作にぶら下がっている。
そして、その男を何よりも特徴付けているのは、その後ろを守るように佇む一匹の風竜。

「トリステイン空軍竜騎士隊の者だ。
 マザリーニ枢機卿から、ワルド子爵とその同行者を保護するように命じられている」

更に二匹の風竜が、その背後に舞い降りる。
翼の生み出す風圧で、砂埃が舞った。

「こちらも事情が分からなくて困っているところでね。
 君達から詳しい事情が聞けるものだと、そう期待しているんだ」

穏やかな表情とは裏腹に、その言葉には否とは言わせない迫力があった。
キュルケ達にとって、この夜の騒動は、まだもう暫く終わりそうにもなかった。



[5204] ゼロの黒騎士 第十一回
Name: 早朝◆74a45303 ID:a07c8492
Date: 2008/12/09 00:52
「見て、ノワール! アルビオンよ!」

まるで我がことを自慢するかのように、甲板上のルイズはノワールを振り返った。

どこまでも広がる雲海に、黒々とした大きな影が落ちる。
見上げれば、目を疑うような光景。
雲の切れ間から覗くその大地は、確かに空中に浮かんでいた。
“空”に向かって流れ落ちる幾本もの河の流れが、濃密な雲を形成し、
その大地の下半分を覆い隠している。

アルビオン。
その国土は、ハルケギニア上空と海洋上を周遊する浮遊大陸である。
常に雲を纏うその姿から、別名を『白の国』という。

「ルイズ、ここに居たのか」

眩しそうに目を眇めるルイズの後ろから、声がかけられる。
振り返る眼差しの先には、マントに羽帽子姿の青年貴族――ワルド――の姿があった。
どうやら、船室にルイズの姿がない事に気づいて、探しに来たらしい。
まだ早朝と言っても差し支えのない時刻。
その上、昨夜の騒動でさして睡眠時間が取れたとも思えないにもかかわらず、
俊英の呼び声も高い(元)魔法衛士隊隊長は、そんな様子をまるでうかがわせない。

「ごめんなさい、ワルド。もうすぐアルビオンが見えるって聞いたから、思わず」

対するルイズは、目の下にうっすらと隈が見える。
気遣わしげにワルドは訊ねる。

「眠れなかったのかい?」

わずかな逡巡の後に、ルイズは頷くと、そっと視線をラ・ロシェールの街の方向に投げかけた。

「タバサとギーシュとキュ……じゃない、タバサとギーシュ、無事かしら」

常々、先祖累々の仇敵と公言しているキュルケの心配なんてしてないんですよー、とばかりに誤魔化すルイズ。
そんな婚約者の様子に笑みをこぼすと、ワルドもまたラ・ロシェールの方角に眼差しを向けた。
まるでそうすればあの町並みが見えるとでも言うように、目を細める。

「大丈夫だろう。
 確かにあのサイズのゴーレムの制圧能力は驚異的だが、三騎の竜騎士に抵抗できるとは思えないな。
 となれば、問題は竜騎士が辿りつくまであの三人が無事かどうかだが、
 ギーシュ君は兎も角、トライアングルメイジが二人いたんだ。
 あれだけの短時間で易々と制圧はされないさ」

「そう……」

「それよりも」

そう言って、ワルドはルイズに向き直る。

「僕たちは僕たち自身の心配をした方が良い。
 スカボローの港から、ニューカッスルまで丸一日。
 その間、反乱軍の戦線を突破する事になる。
 その際に奴らがどう出るかだが……」

昼は兎も角、夜は危険だな、と続くはずだった言葉は、
しかし、鐘楼から張り上げられる、急を告げる声にかき消された。

「右舷上方の雲中より、船が接近!」

甲板で作業していた船員達が、一斉に見張りが言う方向を見上げる。
雲間から悠然と下降してくるのは、『マリー・ガラント号』よりも、一回りは確実に大きい船体。
その舷側に開いた穴からは、大砲の筒先が覗き、威嚇するようにこちらに向いているのが分かる。

「反乱勢……貴族派の船かしら?」

「或いは、空賊か」

にわかに慌しく船員たちが動き回る中で、むしろのんびりとした空気さえ漂わせている二人と一匹。
危機感が無いわけではない。ルイズは兎も角、ワルドはそこまで頭が悪いわけではない。
ただ単に、船員としての技術を持たない二人(と一匹)はこの期に及んで出来ることが何もないだけである。
何も出来ないならば、せめて邪魔にならないように隅で大人しくしている分別くらいは持ち合わせている。

「これは……どうやら逃げ切れないな。
 向こうの方が船足が速い」

「ワルド、貴方なら何か手伝えないの?」

「船を浮かべるので、魔法は打ち止めでね。
 僕としては、船長達の奮闘に期待しているんだが……」

そうこういっている間にも、威嚇射撃なのか、雲の彼方に砲弾が打ち込まれる。
その轟音を合図にしたかのように、『マリー・ガラント』号の船足が見る見るうちに緩まっていった。

「裏帆を打った……船長も諦めたか」

ポツリと呟くワルドを、ノワールがじっと見つめていた。


時は少し遡る。
ラ・ロシェールの街、半壊した『女神の杵』亭。
見通しが随分良くなった酒場兼ホールには、竜騎士隊の三人と、
キュルケ、ギーシュ、タバサが向かい合って座っている。

「つまり、ワルド子爵とラ・ヴァリエール嬢はすでにアルビオンに向かった、と?」

竜騎士隊の隊長の言葉にキュルケは頷く。

「ええ。その通りよ。
 これで事情は全部話したのですけど」

もうよろしいかしら? と告げるよりも先に、隊長は片手を挙げてキュルケを制する。

「後一つだけ、聞かせて欲しい」

急いでいるのよ! という言葉を飲み込むと、キュルケは艶やかに微笑んだ。
傍で見ていたギーシュが思わず見とれるほど華のある笑顔。
だが、タバサは知っている。
彼女の一番の友人は、怒りを抑えるために、時として笑顔を浮かべるのだ、と。
そんなキュルケの気持ちを知ってか知らずか、内心の窺えない淡々とした調子で隊長は続ける。

「いや、簡単な事だよ。
 君たちはラ・ヴァリエール嬢の学友という事だったが、彼女を追ってアルビオンへ向かうつもりのかな?」

答えを返すまでの一瞬の躊躇いは、質問の意図が読めなかったからだ。

「……もし仮に、そのつもりだと答えたら、どうなさるおつもりかしら?」

意図が読めないので、思いつく中で最悪の展開を想定する。
彼らの目的はワルド子爵とその“同行者”の“保護”。
つまり、一応とはいえ同行者であるキュルケたちは、最悪この場で強引に捕縛される可能性があるという事。
覚悟を決めて、さり気なく髪を掻きあげた。
豊かな胸の谷間に潜ませた杖を、即座に引き抜けるように。
心持ち呼吸が浅く速くなる。
もしも、相手が引き止めるようならば、この場で一戦交わしてでも、アルビオンへ向かう。
これはルイズを助けるためなんかじゃない。
出し抜かれたまま引き下がるなんて、誇り高きフォン・ツェルプストーの名が許さない。

隊長は、考え込むように顎に手をやった。
何のことは無い仕草だ、単なるポーズだと、キュルケは自分に言い聞かせる。
が、黙考というには鋭すぎるその眼差しに、こちらが観察されているような気がしてならない。
心の底まで見透かされているのではないかと言う恐怖。
ホンの僅かな時間だというのに、掌がじっとりと汗ばむ。
微笑みを浮かべている唇の端が引きつっているような気がして気になって仕方がない。

長い長い一瞬の間の後、隊長は口を開いた。

「なるほどね。
 最近は、アルビオンも随分荒れていると聞く。
 要らぬ心配だろうが、重々気をつけたまえ」

心の中で、ホッと一息つく。

「貴重なご忠告、感謝いたしますわ」

それでは、御機嫌よう、と言って立ち上がろうとするキュルケたちを、隊長が手で制する。
まだ話を聞いていけという仕草。
無視して背を向けようとするキュルケのマントの裾を、タバサが引っ張った。

「これは独り言なのだが、最近は本当にこの辺りの空も物騒でね。
 アルビオンへ向かう船を狙った空賊が出るそうだ。
 まあ、船団も組まずに一隻でアルビオンへ向かう商船など、良い鴨だな。
 まして、他の船が通りすがる心配の無い時間に、となれば尚更だろう」

「……ちょっと、それって」

「私は独り言を言っているだけだが?
 話は変わるが、アルビオンの王党派は、十重二十重の重囲に対して、ニューカッスルに篭城の構えだそうだ。
 ニューカッスルは決して大きな城砦と言うわけではないのだが、物資の尽きる気配もないとか。
 さて、どこから仕入れているのだろうな。
 確かにニューカッスルは、雲の下に港を隠しているという噂だが、
 まさかそこに商船を呼ぶ訳にもいくまい……」

そんな技量を持つ商船などあるわけがないし、
そもそも機密保持という点から見ても論外だ、と虚空に向かって呟く。
意外な成り行きに声にならないキュルケに変わって、タバサが問いかけた。

「目的地とすべきは、スカボローではなくニューカッスル」

その言葉に、隊長は大仰に肩をすくめて見せる。
眉を上げて、何を言っているのか分からないとでも言いたげな表情で。

「さて、私は独り言を言っただけだよ。
 少々地声が大きいから、誰かに聞こえてしまったかもしれないがね。
 そして、その誰かが何をしようと、我々は知ったことじゃあない。
 さて、失礼する。
 ワルド子爵に追いつけなかった事を、上に報告しに戻らなければいけないのでね」

会見は終わりだとばかりに、隊長以下竜騎士の面々は椅子から立ち上がると、
入り口へ向かって足早に歩いていく。
その背中に向かって、心からの感謝をこめて、キュルケはスカートの裾をつまんで優雅に一礼した。
隊長は、振りむきもせず、ただ、小さく片手を上げることでその一礼に答えた。


空賊船の船倉。
薄暗く、埃っぽく、小さな窓の他に明かりと言えば、古ぼけたランプが一つ吊るされるだけ。
酒樽や小麦袋、火薬樽、果ては大砲の弾丸までもが雑然と置かれたその場所に、
不似合いな可愛らしい寝息が流れていた。
そこには、片隅で寝そべるノワールに顔を埋めるようにして寝こけるルイズの姿がある。
『マリー・ガラント』号が拿捕された後、身代金目的の人質として、ワルドと一緒に押し込まれていたのだった。

勿論、最初からずっと寝ていたわけではない。それは違う。ルイズとてそこまで脳天気ではない。
ワルド共々杖を取り上げられた上で船倉へ移された直後は、一頻りドアを叩き大声をあげて抗議していたのだ。
が、しかし、今までずっと圧し掛かっていた、重要な任務を任されたという緊張感に、慣れない旅の疲れが重なり、
その上、昨晩の徹夜が響くという悪条件下で最後に残った体力の一滴まで使い果たしてしまったルイズは、
程なくして扉にずるずるともたれかかる様にトーンダウン。
今にもぶっ倒れそうな様子のルイズを見るに見かねたワルドが、少し休むように薦めたところ、
暫くは渋っていたのだが、疲れと眠気には勝てず、少しだけと断った上で、
空賊船が宙返りをしても起きそうにない程深い眠りについた。
そして、現在に至る。
ノワールは寝た振りをしながら、耳と鼻で辺りを警戒している。
ワルドはそんな一人と一匹の姿をどこか楽しそうに眺めていた。

だが、ドアを開ける荒々しい音で、静寂は唐突に打ち破られた。
戸口には、スープ皿を持った太った男の姿。
驚いたとでもいうように、口笛を鳴らす。

「怖くて泣いてるんじゃないかと思ったんだが、どうしてどうして、肝っ玉の太いお嬢ちゃんだ。
 静かになったってんで飯を持ってきたんだが、こりゃあ暫く必要なさそうだな」

おもむろに立ち上がったワルドが答える。

「その辺りに置いてくれれば、この子が起きた後にでも食べるさ」

「おいおい、仮にも客人に冷めたもん食わすわけにもいかねぇだろうが。
 まあ、嬢ちゃんが起きたら見張りに言いな。暖めて持ってきてやるよ」

「それは助かる」

意外に気の良いらしい大男はぽりぽりと頬を掻いた。
どうやら感謝されて照れているようだ。酷い話だが、あまり気味の良い姿ではない。

「ま、こっちも聞きたい事が色々あるしな。
 あんたに聞いてもいいんだが、この嬢ちゃんから聞き出した方が楽そうだ」

それよりも、と少々不器用に話題を変える。
船倉の隅で丸まっているノワールとルイズに視線をやりながら。

「その犬、嬢ちゃんの使い魔って話だったが、大人しいもんだな。
 さっきは肝を冷やしたぜ。その犬と離されるくらいなら飛び降りるー、とか騒いでよ。
 これだけ大人しいって知ってりゃ、俺らだってあんな事は言わなかったんだけどな」

「あまりノワールを甘く見ないほうがいい。
 ルイズ……主に害を為すと判断されれば、躊躇することなく牙を剥くぞ」

ワルドの声の調子が心持ち低く、抑えたものになる。
まるで何かをその内側に覆い隠そうとでもするように。

「ま、ようは嬢ちゃんに手を出さなきゃ構わんわけだろう?
 安心しろよ、うちの連中はそこまで女に飢えちゃいねーって」

それに気づかぬまま、太っちょは言葉を返す。
ワルドが再び口を開いたとき、そこからは、
先ほど見え隠れした朧な影とでも言うべき暗い調子が綺麗に拭い取られていた。

「ま、そうだろうね。僕も心配はしていないよ。
 仮にも誇り高きアルビオン王立空軍が、婦女子に不埒な行いをするとは思えない」

さり気ない一言にその場の空気が一変する。
開け放たれた扉の向こうには、その言葉を聞き咎めたのか、柄に手をやり、こちらに踏み込まんとする見張りの姿。

「……何を言ってるんだかわからねぇな。
 俺たちが、何だって?」

一言一言を押し出すように発する。
だが、緊迫した雰囲気に気が付かないとでも言うように、淡々とワルドは続ける。

「アルビオン王立空軍、さ。
 とはいえ、その名を冠する軍隊は今や君たちと、この船一隻だけだろうけどね」

「……おい、貴様」

「君たちの頭領に話がある。
 いや、こう言い直した方が良いかな?」

「おいっ!」

まるで世間話でもするように、気軽な調子で言葉の爆弾を投げ込んだ。

「アルビオン王国皇太子ウェールズ・テューダー殿下に話がある、とね」



[5204] ゼロの黒騎士 第十二回
Name: 早朝◆74a45303 ID:a07c8492
Date: 2008/12/09 00:53
ワルドが連れられた先は、船長のためのものと思しき、一際大きな部屋だった。
豪華なディナーテーブルが据え付けられ、
その上座には頭領がどっかと座って、水晶のはめ込まれた杖を弄っている。
周りを囲む屈強な男達が、威圧するようにワルドを睨み付けた。
だが、ワルドはそんな視線を意に介さず、
黒い縮れ毛に、眼帯、更にぼさぼさの髭を生やした頭領に恭しく一礼する。

「お前か。この俺が、ウェールズだと駄法螺を吹いてるのは」

「初めてお目にかかります。
 トリステイン王国魔法衛士隊、グリフォン隊隊長、ワルド子爵と申します」

丁寧な名乗りも、この状況下では小馬鹿にしているようにしか聞こえない。
現に、空賊の頭領は目に見えて機嫌が悪くなる。

「誰が名乗れといった。
 おい、あんまり舐めた口利いてると、甲板からロープなしで飛び降りる羽目になるぞ」

頭領はそう言って凄む。が、ワルドは動じない。

「別人だ、と仰られますが、その手に光る玉は、紛れもなくアルビオン王家伝来の宝重、風のルビー。
 三年前、私はラグドリアン湖畔での園遊会で警備についておりました。
 その折に、ご尊顔を拝する機会が数度ありましたが、今と変わらず、その指輪をはめておられましたね」

頭領は、参ったとでも言う様に天を仰ぐと、にやりと笑った。
まるで悪戯がばれた悪童のような笑い。

「神のご意思は、正に計り知れない。
 まさか、私の顔を知っている相手と行き会うとはね。
 ならば、もうこれも用済みだな」

そう言うと、無用の長物となった、鬘と付け髭、そして、眼帯を毟り取る。
その下からは見事な金髪の、凛々しい若者の姿が現れた。
従兄弟というだけあって、青い瞳に、どこかアンリエッタを思わせる雰囲気を漂わせていた。

「アルビオン王国皇太子、ウェールズ・テューダーだ。
 王立空軍大将、本国艦隊司令を務めているが、まあ、こちらはあまり実が伴っているとは言えないな。
 何しろ、誇り高き王立空軍も、もはやこの『イーグル』号しか残っていないのだからね」
 
跪こうとするワルドを、ウェールズは押しとどめる。

「ここでは息苦しいだけの虚礼は無用だよ、ワルド子爵。
 それにしても、大した眼力だ。
 三年前にちらりと見ただけの、しかも、変装している相手を見分けるとはね。
 きみのような立派な貴族が、私の親衛隊に十人もいれば、今日のこの苦境はなかったかもしれないな」

「お褒めいただき、光栄の至り。
 一度見た顔を忘れるようでは、魔法衛士は務まりませぬ。
 ……そして、大変失礼ながら、殿下」

そこまで言ってから、ワルドはやや気まずそうに続けた。

「世間一般では、そういった装いは変装ではなく、仮装と呼ばれるのです」

それ見たことかと言わんばかりに、副官と思しき男がウェールズを見つめる。
ウェールズはそれを受け流しきれず、ゴホンと咳払いをして誤魔化した。

「ま、まあ、知らぬ者が見れば、私がアルビオン皇太子だとは思わないだろう?
 それで十分だし、今まではばれる事もなかったのだから、結果的には正しかったんだ」

それは兎も角、とウェールズは表情を改めると、ワルドに向き直った。

「トリステインの魔法衛士が、一体、何用があって、アルビオンへ?
 知っての通り、アルビオンは今、微妙な状況にある。
 そんな時、安易に干渉すれば、母国へ火種を持ち込む危険がある事くらいは、きみも理解していよう」

「殿下、詳しい事情は、大使であるラ・ヴァリエール嬢からお聞き下さい。
 わたしはただ、アンリエッタ姫殿下より彼女の護衛を仰せつかったに過ぎません」

ウェールズは形の良い眉を跳ね上げる。

「ふむ、ならば、何故、今このタイミングでこの事を明かした?
 後でも……そう、あの可愛らしい大使殿が目覚めてからでも、良かったはずだ」

「道中の危険を廃するのが護衛の務めならば、
 不幸な行き違いを回避するために、あらかじめ誤解の余地を潰しておくのも、その範疇に含まれましょう。
 これが一つ。そして、もう一つ……」

「もう一つ?」

「はい。
 ラ・ヴァリエール嬢に、もう少し上等な部屋をお貸し頂けたら、と」

ウェールズの瞳に、興味深げな光が灯る。
王族から与えられた待遇に文句をつけるその物言いは、場合によっては、王族に対する不遜、不敬の類とも受け取られかねないが、
ワルドがその事に気づかないほど鈍い相手では無いことを、ウェールズは今までのやり取りで十分に承知していた。

「ワルド子爵、不躾な質問になるが、もしやラ・ヴァリエール嬢ときみは何か、その、特別な関係が?
 ああ、勿論、答えたくないなら、答える必要はないよ。
 部屋は部下に用意させよう。幸い、使っていない部屋の方が多いくらいだからね」

ただ、君にそこまでさせる以上、ただの同行者というわけではないのかなと思ってね、と付け加える。
ワルドは気を悪くした様子も見せず、隠し立てするつもりはなかったのですが、とそれに答えた。
どこか楽しげでさえある。

「慧眼、恐れ入ります。
 実を言うと、ラ・ヴァリエール嬢は私の婚約者なのです」

「はは、なるほど。
 了解した。部下には一番良い部屋を空けるように言っておこう。
 彼女はアルビオンが迎える最後の大使だ。
 であるからに、是非とも今夜の祝宴には出席してもらわねば困る。
 そのためにも、十分に疲れをとって貰わないとね」

ウェールズは、得心が行ったというように、一つ頷くと、朗らかに答えた。
だが、その言葉、正確には“最後の大使”という言葉に、痛ましいとでも言うように、ワルドは眉を潜める。

「殿下……やはり……」

そんなワルドとは対照的に、むしろ、淡々とすら言える調子で、ウェールズは答えた。

「取り繕っても仕方あるまい。
 ニューカッスルが陥ちれば、もはや退却する先はない。
 ああ、この度の戦は、我々の負けだ。
 戦力差も三百対五万となると、無駄に希望を抱かずに済む分、返って有難いくらいさ。
 だが、ただで負けるつもりもない。
 次の攻撃で、奴らは王家の誇りと気概をその身で知る事になるだろう」

場の空気が一変する。
そこにいたのは、先ほどまでの凛々しくも気さくな王子ではなく、
死地を定めた一人の武人だった。


ルイズが目覚めると、そこは船倉ではなく、飾り気のない部屋のベッドの上だった。
上級船員のための部屋なのか、ベッドは割合に良い品を使っている。
枕元には、ノワールがちょこんと座ってこちらを見つめている。
その姿を見て安心し、ごろりと寝返りを打つと、再び眠りの淵に戻ろうとするルイズ。
だが、眠気がその思考を絡め取るよりも一瞬早く、脳が周囲の状況を認識する。
思わず跳ね起きた。
まず第一に確かめたのは、上着の胸ポケットに入れておいた密書の有無。
それがあることを確認したら、今度は何を想像したのか、安堵する間もなく慌てて着衣の乱れを改める。
マントこそ傍の椅子に掛けてあるものの、上着やスカートに変わりがない事を知ると、
ほっとため息をついて、ベッドに倒れこんだ。
事情こそ分からないものの、とりあえずの何事もなかったと認識し、落ち着いたところで、
ようやく部屋の中に複数の人影がある事に気づいた。

一人は、ワルドだ。それは良い。
いや、あまり良くはないのだが、そこは婚約者の誼で許してもらうことにする。
だが、問題の、もう一人の男には全く見覚えがなかった。
金髪に、青い瞳。端正な顔立ちが、高貴な出自を感じさせる。
目を丸くしてこちらを見ているが、たった今演じた醜態に驚いているのであろう事は想像に難くはない。
見ず知らずの異性にそんな姿を見られた恥ずかしさに、真っ赤になって思わず布団を頭まで被る。
ワルドが慌てて何か言っているのだが、パニック状態に陥ったルイズにはビタ一聞こえちゃいない。
暫く布団に包まってうずくまる様に丸まった後、恐る恐るという感じで、ルイズは布団から頭を突き出した。
どうやら、ワルドが見知らぬ男に謝っているようだった。
男は何か苦笑しながら、謝るには及ばないとでも言うように、首を振っている。

「……ええっと、ワルド、そちらの方は?」

「ルイズ……なんというか、色々言い辛いのだが……こちらは、アルビオン皇太子ウェールズ・テューダー殿下だ」

今度こそ、ルイズの思考は完全に停止した。

「……は?」

見ず知らずの男――ウェールズ――は、困ったように笑うと、すまない、間が悪かったね、と言った。


とまあ、そんなわけで、ウェールズとの会見中にも関わらず、現在ルイズは絶賛現実逃避中なのだった。
その証拠に、一見まともに受け答えしているが、目の焦点がいまいちあっていない。
隣では、ワルドが冷や冷やしながらそれを見守っている。
お座りをしながら、この様子を眺めているノワールは実に退屈そうだ。

「そうか、姫は、アンリエッタは結婚するのか。
 私の可愛い……、従姉妹は」

だが、ウェールズのその言葉を聞いて、ようやく再起動。
どうやら、殆ど無意識のうちにアンリエッタからの密書を手渡していたらしい。
慌てて頷いて肯定の意を示す。
それを確かめたウェールズは、再び手紙に視線を落とすと、続きを読み始める。
そして、最後まで読み終えると、小さく微笑んだ。ルイズには、その微笑がどこか寂しそうに見えた。

「了解した。姫は、あの手紙を返して欲しいとこの私に告げている。
 何より大切な、姫から貰った手紙だが、姫の望みは、私の望みだ。そのようにしよう」

ルイズの顔が任務を果たせるという喜びに輝く。

「しかしながら、今、手元にはない。ニューカッスルの城にあるんだ。
 姫の手紙を、空賊船に持ってくるわけにはいかぬのでね」

ウェールズは、笑って言った。

「実を言うと、この事が無くとも、きみ達を招待する心積もりだったんだ。
 丁度良い。ニューカッスル城まで、ご足労願いたい」



[5204] ゼロの黒騎士 第十三回
Name: 早朝◆74a45303 ID:a07c8492
Date: 2008/12/09 00:53
隠し港は、ニューカッスル城の直下、アルビオンの底とでもいうべき場所に、
ぽっかりと空いた鍾乳洞を利用して造り上げられていた。
冷たく湿ったもやを掻き分けるようにしずしずと上昇するイーグル号の甲板で、
ノワールを連れたルイズは目を丸くしている。
こんな風景は、物語の中でしか見たことが無かったからだ。
まるで御伽噺に出てくる空賊の隠し砦だ、と思う。
てきぱきと船員達に指示を出していたウェールズは、その様子を見て、満足げに微笑んだ。
ワルドが重々しく頷く。

「まるで空賊ですな。殿下」

「そう、まさに空賊なのだよ、子爵」

どうやら、考えることは皆同じらしい。
ルイズはクスリと笑った。


ニューカッスルにたどり着いたルイズたちを最初に迎えたのは、ウェールズの侍従を務める老人、パリーだった。
パリーは、ウェールズの無事と、そして、思いもよらぬルイズたちの来訪を喜んだ。
だが、何よりもパリーを喜ばせたのは、ウェールズが『マリー・ガラント』号を鹵獲することで、
大量の硫黄を入手したことだった。
これだけ大量の硫黄があれば、王党派は最後の誇りを満天下に示し、栄光ある敗北を遂げる事が出来るだろう。
貴族派の攻勢は明日の正午から始まるという。
それに間に合って、本当にようございました、というのが、
六十年の長きに渡ってアルビオン王家に仕え続けた老臣の言葉だった。

敗北、という言葉が、ルイズの胸に重く響く。
恐らく、この城に明日の決戦を勝てると思っている人間など一人もいないだろう。
だが、にもかかわらず、ニューカッスルの城全体が、奇妙な躁状態にあるようだった。
迫りくる確実な死と敗北から、目を逸らすでもなく、むしろ進んでそれを受け入れようとしているような。
確かに、分からないでもない。
泣こうが喚こうが、それが必ず訪れるのならば、怯えて鬱々と過ごすよりも、
残された時間を楽しむ方がまだしも建設的だと言える。

だけれども、とルイズは思う。
理屈の上ではそうと分かっていても、本当にそれを実践できるものなのだろうか。
明るく振舞う裏側には、そうしていなければ隠せないほどの、深い虚ろが穿たれているのではないか、と。
そう認識した瞬間に、理解は速やかに訪れた。

明日の今頃には、この城内で息をしている王党派の人間は、誰一人いなくなる。

胃の辺りが重くなる。
鉛でも飲み込んだような気分。
仮にもルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールは武門の出である。
そして、そうであるからには、自分のそれも含めて、死を恐れてはいけない、と固く信じている。
その矜持があればこそ、フーケのゴーレムに潰されそうになっても耐えられた。
……耐えられた。実はあの時、ちょっと漏らしてしまったのは、ルイズだけの秘密。
この旅の途中にしても、襲い掛かってきた盗賊たちを噛み殺し、返り血に染まったノワールを洗った。
その時も決して怖いとも、恐ろしいとは思わなかった。
だから、今感じてるこの気持ちは恐怖ではない。断じて違う。そうであってはならない。
これはそう。喪失感だ。
今眼に映る誰かと、明日より先は言葉を交わすさえ事が出来なくなる現実に、寂しさを感じているだけだ。
 
ウェールズ宛の密書を書いているアンリエッタの表情を、
そして、アンリエッタからの密書を読むウェールズの表情をルイズは思い出す。
若干空気が読めないところのあるルイズだが、アンリエッタとウェールズにとって、
互いが特別な人であることくらいは、察する事が出来た。
そう、アンリエッタにとって大事な人が、明日死ぬ。
少なくともルイズにとっては、あまりにも理不尽な理由で。
きっと、アンリエッタは悲しむに違いない。

死は恐ろしくはない。
だけれども、仕える主が悲しむことが恐ろしいのだと、そうルイズは思う。
そうであって欲しいと、切に願った。


ルイズが人知れず葛藤に胸を痛めている間にも、手紙の返還は終わった。
アンリエッタを悲しませたくない一心で、ルイズがウェールズに亡命を薦める一幕があったものの、
ウェールズの決意が翻ることは無かった。
会見の最後に、ウェールズはパーティの参加を薦め、
それに従ってルイズは扉の外で待っていたノワールと共に退出し、後にはウェールズとワルドが残った。
ルイズの足音が聞こえなくなったことを確認してから、ワルドはウェールズにむかって一礼する。

「まだ、なにか御用がおありかな? 子爵殿」

「恐れながら、殿下にお願いしたい議がございます」

「なんなりとうかがおう」

「実は……」


パーティは、ニューカッスル城のホールで賑々しく執り行われた。
普段は飾り気がないであろうそのホールは煌びやかに飾り付けられ、
鮮やかなまでに白いテーブルクロスの上には、山海の珍味が所狭しと並べられている。
そのテーブルの間では、麗々しく着飾った貴族たちが、優雅に談笑し、
どこから連れてきたのか、楽師が奏でる音が流れる。
園遊会とでも見紛うよう光景を前にしながら、ルイズは壁の花をしていた。
パーティが始まって暫くの間は、敗色濃厚な王党派陣営に訪れた唯一の大使という事で、
声を掛ける者が引きも切らなかったが、それも少し前に落ち着き、ルイズはようやく一息付くことができたのだ。
ふと目をやれば、ワルドは笑いさざめく一団の中心となって話題を振りまいている。
こういう場所に慣れているのか、その姿は実に板についていた。

先ほど勧められた料理の皿を手に、誰にも聞かれないようにそっとため息をつく。
ここには、こんなにも暖かな光に溢れているのに、寒々しく感じるのは何故なのだろう?
所詮、自分は部外者で、戦の前の高揚感を共有できないからなのだろうか?
違う。多分、それは違う。
 
「……部屋に戻ろうかな」

ぽつりと呟く。
その声に反応するように、ルイズの傍で伏せるノワールの耳がピクリと動いた。

「あ、ごめんね。その前にノワールのご飯?」

いや、そうではなくて、と、ルイズを見上げるノワールの瞳が語ったような気がした。
ルイズの肩越しに、その背後を見上げている。
正確には、見上げているのは、ルイズの背後に立つ人影。

「失礼するよ。パーティは楽しんでいるかな、ラ・ヴァリエール嬢」

「殿下……」

ウェールズだった。
先ほどまでは座の中心で歓談していたのだが、どうやら、一人物思いに沈むルイズを見て、声をかけにきたらしい。
気配りの出来る方なんだ、とルイズはそこはかとなく失礼な感想を抱く

「はい、楽しませていただいています。
 過分のご厚遇、感謝に堪えません」

「いや、そうかしこまらないでくれ。
 今日は無礼講だ。大いに飲み、大いに食べ、二度とない今日という日を楽しんで欲しい。
 ……浮かない顔だね」

そんなに表情に出ていたかと、ルイズは咄嗟に顔を伏せる。

「いえ、そんな……」

「もしかして、我々の運命を嘆いているのかな?
 だとしたら嘆くにはあたらないよ」

きっと顔を上げるルイズ。
わたしは、死を恐れてはならない。
何故なら、貴族とは死を恐れないものだから。

「いえ、それは違います、殿下。
 主の悲しみが、我が悲しみ。主の嘆きが、我が嘆きでございます。
 ウェールズ様がお隠れになられたら、どれほど姫さまがお嘆きになるかと思うと……」

一呼吸置く。
きっと、わたしが何を言うか、ウェールズ殿下はもう分かっているのだろうな、というどこか他人事のような思考。

「やはり、亡命は……」
 
その言葉を遮るように、ウェールズは言う。

「私は王族だ。髪の一筋から、つま先に至るまで、この総身は全て国とその民のためだけ存在する」

「でしたら、なおの事、アルビオンのためにも今は屈辱に耐え……」

「それが真にこの国の為になるのならば、私は如何なる屈辱にも耐えよう。しかし……」

「しかし?」

「見たまえ。今、この場にいる人間が、このアルビオンに残った最後の王党派だ。
 勿論、戦いの中で散っていった者も多い。
 しかし、それ以上に、レコン・キスタに寝返った者が多いのだ。
 この内乱のさなか、まさかあの男が、と何度思ったことか」

「……」

「施政者の一人としては、甚だ情けないことだとは思うのだが、
 正直に言って、父上の治世の何がここまでの不満を貴族たちに抱かせることになってしまったのか、
 未だに見当もつかない。
 だが、そんな私にも一つ分かる事がある。
 今、我々がここで落ち延びれば、この内乱は間違いなく長引く。
 そして、もはや勝ち目の無い以上、内乱が長引いた分だけ、この国と民を苦しめる事になる、とね」

ウェールズは笑った。
何の気負いも、影も無い、見るものの心を軽くするような笑顔。
その笑顔で、ルイズは悟った。
この若い人好きのする王子は、自棄になっているのでもなければ、諦めているのでもない。
最後に課せられた使命を、ただ真摯に果たそうとしているだけなのだ、と。
例えそれが、自らの死で締めくくられるものだとしても。

「潮時なのだよ、ラ・ヴァリエール嬢。
 民から必要とされなくなった王家が存続し続けて良い理由など、何一つない。
 ならば、精々派手に散り、王家の意地を見せ付けてやるだけさ」

「……それが徒花だったとしても、ですか?」

言ってしまってから、頭の隅を、怒られるかなという考えが過ぎる。
だが、ウェールズはどこか困ったように笑みを崩し、ルイズの顔から視線を外して膝をつくと、
ルイズの傍らに伏せるノワールの頭に片手を乗せた。
呟いた言葉は、ルイズではない誰かに、ここではないどこかへ語りかけているようだった。

「決して意味が無いわけじゃない。
 レコン・キスタの主張が聖地奪還である以上、アルビオンを掌中に収めた後、
 必ずやトリステインに矛先を向けるだろう。
 ならば、我々は三王家の一角として、最後まで奴らに痛撃を与え続けねばならない。
 それこそ、奴らがトリステインに攻め入ることを躊躇するほどの、ね」
 
その口調が、眼差しが、ウェールズが誰の為に死を決意したのかを、雄弁に物語っていた。
ルイズは思う。
王族として国を思う心と、アンリエッタを想う心の妥協点が、
レコン・キスタに最後まで抗い続けて死ぬという結末なのだろう。
そうやって死ぬことで、ウェールズは最後の愛の証を残そうとしているのだ。
 
“自分に出来る精一杯の形で、私は君を守ろう”

身勝手だと思う。残された人間がどれだけ悲しむのか、分かっていないとも思う。
だけど、果たして自分にウェールズの決意を非難する権利があるのだろうか?
自分の命よりも、使い魔の命を優先してしまう自分に。

「ヴァリエール嬢、アンリエッタに伝えてくれたまえ。
 ウェールズは、勇敢に戦い、勇敢に死んでいった、と。
 それだけで十分だ」

ルイズは、そっと一礼する。
この震える肩に気づかれませんように、と祈る。
ウェールズのこの想いは、誰かがアンリエッタに伝えなければならない。

「確かに、確かに承りました、殿下。
 この命に代えても、必ずや姫さまにお伝えいたします」

「頼む……ああ、そういえば」

と、立ち上がったウェールズは何かに気が付いたように、ルイズに振り向いた。

「少々早いが、おめでとうを言わせて貰うよ、ラ・ヴァリエール嬢」

「は?」

意表を突かれた、というよりも、全く心当たりが無かったルイズは目を丸くする。
その反応を見て、ウェールズも怪訝な表情をした。

「おや、ワルド子爵から聞いていなかったのかい?
 実は、明日の朝、君たちの結婚式の媒酌を子爵に頼まれたのだが……。
 すまない、また何か間が抜けたタイミングになってしまったね」

何かルイズの纏う雰囲気が変わる。
なんというか、ゴゴゴゴゴという擬音が似合いそうな、そんなオーラを漂わせているように錯覚させる、
重苦しい威圧感とでも言うべきものが漏れ出す。
自らの死すら使命と割り切った皇太子が、僅かに気圧された。

「ラ・ヴァリエール嬢?」

「す、すすすすみません、殿下。
 ちょ、ちょっとワルドに事情を聞いてまいります」

ウェールズは、そう言って、ワルドに向かって歩いていくルイズの足元から、
ズシンズシンと大地を踏み抜くかのごとく響く足音を確かに聞いた……気がした。

「……もしかして、私のせいなのか?」

寝そべって目線だけでルイズを追うノワールに向かって問いかける。
返ってきた答えは、退屈そう大あくびだった。

まあ、とウェールズは考える。
如才の無い子爵のことだ、きっと上手くやるだろう。
うん、上手くやるに違いない、上手くやるんじゃないかな、
まあ、ちょっと明日の結婚式が潰れるのは覚悟しておくか。
 
 
結局、ワルドの謝罪と説得もあって、結婚式は執り行われる運びとなった。
前日から準備をしていたウェールズとしても、ひとまずは胸を撫で下ろし、
一組の男女の門出を祝うという形で、自らの人生の証を残すことが出来ると喜んだ。

勿論、結婚式などしていては、『イーグル』号と『マリー・ガラント』号の出航には間に合わない。
ルイズとワルドは、ワルドのグリフォンに乗って帰るとしても、
大人一人分ほどの体重があるノワールまで一緒に乗せていくわけにはいかない。
ルイズは散々渋ったものの、ノワールは一足先に出発することとなった。


朝の礼拝堂には、ワルドとルイズ、そしてウェールズの三人の姿。
ステンドグラスから差し込む光が、鮮やかな色合いで影を切り取る。
決戦前という事もあって、戦の準備で城内は騒然としているはずなのに、
礼拝堂はまるで時間から置き去りにされたように静まり返っていた。
皇太子の礼装に身を包むウェールズの背後には、始祖ブリミルの像。
それと相対するように、ワルドとルイズが並ぶ。

「では、式を始める」

ウェールズは厳かに宣言する。

「新郎、子爵ジャン・ジャック・フランシス・ド・ワルド。
 汝は始祖ブリミルの名において、このものを敬い、愛し、そして妻とすることを誓いますか」

重々しく頷くワルドは、魔法衛士隊の制服をその身にまとっている。
杖を握った左腕を胸の前に置くとき、ジャラリという音がしたのは、鎖帷子を着込んでいるせいか。
ウェールズはかすかに怪訝な表情をするが、数刻の後に戦場となる場ではむしろ相応しいかと思い直す。

「誓います」

その言葉に頷き、ウェールズは、今度は新婦であるルイズに向かって問いかける。

「新婦、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール。
 汝は始祖ブリミルの名において、このものを敬い、愛し、そして夫とすることを誓いますか」

ルイズの頭には、王家から借り受けた、枯れぬ花で飾られた冠。
マントはいつもの黒いそれではなく、やはりこれも王家から借り受けた純白のもの。
常と違うのは、それだけだったが、それでもやはり、彼女は花嫁に相応しい清楚な美しさを漂わせていた。
ウェールズの読み上げた詔に誓うと答えれば、それでワルドとルイズの婚姻は成立する。
始祖ブリミルの名に誓われた愛は婚姻の契約となり、その一瞬をもって愛は永遠になる。
ルイズの冠に飾られた枯れぬ花は、変わらぬ愛の象徴である。
 
だが、しかし、この期に及んで、ルイズはまだ迷っていた。
確かに、昨日は納得したような気がしたのだが、今になってみると、何か丸め込まれたような気がしてならない。
あくまでもこれは仮のもので、魔法学院には卒業まで通っても良いとワルドは言っていたし、
なら、何時か行うのだから、今行ってしまっても良いような気もした……したのだが、何かが引っかかる。
その何かが、ルイズに『誓います』という言葉を言わせないでいた。
かつてないほどの速度で、脳みそを回転させるルイズ。

わたしは何に引っかかっているのだろう、何がわたしを躊躇わせるのだろう。
そうか、と思い出す。
ラ・ロシェールの『女神の杵』亭で、ルイズにふと宿った疑問。

“昔はあんな風じゃなかった……と思う。
 一人小船で拗ねていた自分を、慰めてくれたあの頃のワルドと、今、こうして再会したワルド。
 両者には決定的な違いが有る。
 それは、優しさの質だ。
 今のワルドの方が洗練されていて、気遣いも一々さり気ない。
 でも、その優しさは、わたしを見ていない。
 
 この十年の間に、ワルドに何があったのかしら?”

そうだ、わたしはまだこの疑問を解いていない。
わたしはもしかしたら、十年前のあの日あの時に慰めに来てくれた憧れの人とは、
まるで違う人と結婚しようとしているのかもしれない。

「……新婦?」

「ルイズ?」

ふと我に返ると、心配そうな表情で、ウェールズがルイズの顔を覗き込んでいた。
どうやら、それなりに長い時間考え込んでしまっていたらしい。

「あ、あのね、ワルド……」

意を決したルイズが、口を開いたその瞬間だった。
凄まじい轟音と共に、礼拝堂が、いや、城全体が地の底から突き上げられるように鳴動した。



[5204] ゼロの黒騎士 第十四回
Name: 早朝◆74a45303 ID:a07c8492
Date: 2008/12/09 00:54
ニューカッスル城直下、早朝。

「くしゅっ」

悠然と空を舞うシルフィードの背の上で、キュルケは、寒さに身体を震わせていた。
冷たく湿った霧とも雲ともつかないもやが、マントを濡らし、容赦なく体温を奪っていく。
頭上に覆いかぶさるアルビオンの大地は太陽の光を遮り、圧し掛かるような重々しい威圧感を醸し出していた。
正直に言って、長居したい場所ではないのだが、
ニューカッスル城は十重二十重に貴族派に囲まれており、こうでもしないとたどり着けそうにも無い。

こんな事なら、冬服でも持ってくるんだったわ。

額に垂れかかる鬱陶しい濡れ髪を払いのけながら、キュルケはそんなことを考える。
目の前には、タバサに方向と距離を指示するギーシュの背中。
ギーシュの使い魔であるヴェルダンデは、まったくもって優秀で、
ギーシュの話では、『水のルビー』の匂いを頼りに、大体どの辺りにルイズがいるのか分かるらしい。
そして、ラ・ロシェールの街で出会った竜騎士の話によれば、ニューカッスル城は隠し港の真上に作られている。
結論。ルイズの気配がする真下に、隠し港の入り口がある。
そんな訳で、寒さに身体を震わせながらも、キュルケたちはこんな所を飛んでいるのだった。
とはいえ、何事にも限界と言うものは存在する。
薄手のマントはぐっしょりと濡れ、もはや防寒の用に足るとはとても言えない。
特に、肌も露な着こなしのキュルケの体力の奪われ方は並大抵ではなく、
戻ろうかと問われるたびに平気だと強がってはいるものの、蒼ざめた顔は明らかに限界が近いことを示していた。

そんな友人の状況に、表情にこそ出さないものの、タバサは内心焦れていた。
ワルドに大幅に先行され、今すぐにでも追いつかなければ、手遅れになるかもしれないという事は分かる。
だが、このまま飛び続ければ、キュルケの身がもたない。
問題は、今だワルドが何を狙っているのか分からないことだ。
事態は切迫しているのか、まだ余裕があるのか、それとも、すでに手遅れなのか。
分からないからこそ、今ここで無理をしてでもニューカッスルへ赴くべきなのか、
一旦退くべきなのかの判断が出来ない。
いっそ、上空から強行突破してしまおうかという考えが過ぎる。
駄目だ、短慮に走るな。それは自殺行為でしかない。
だが、このままでは……。

タバサの中で、焦燥と理性のせめぎあいが、臨界点に達しようとしたその時、
視界の端を、何かの影がかすめた気がした。
……船?


ニューカッスルの隠し港では、非戦闘員の脱出に向けて、急ピッチで準備が進められていた。
『イーグル』号に、王家秘蔵の財宝が次々に積み込まれ、
『マリー・ガラント』号も、硫黄の代金が支払われた上で、脱出に協力するように依頼されていた。
勿論、脱出が成功した暁には、相応の謝礼が払われる事になっている。
桟橋では、永の別れを惜しむ家族の姿が、そこかしこで見られたものの、
おおむね混乱もなく、それぞれが割り振られた船に乗り込んでいった。
その様子を、物見櫓の上から歩哨の兵がどこか弛緩した眼差しで眺めている。
もう暫くすれば、『イーグル』号『マリー・ガラント』号は出発する。
その出発風景が、彼の見る最後の平穏な風景となるはずだった。

だが、その時、もやを切り裂くようにして、一匹の風竜が港へと飛び込んできた。
その背には何かを大声で喚く人影。
貴族派の奇襲かと、歩哨はクロスボウを構える。
視界の隅では、同僚が同じように矢を番えるのが見えた。
如何に竜騎士といえども、この閉鎖空間では、十全にその機動力を発揮することはできない。
ならば、数人掛りで射掛ければ、少なくとも一本は致命傷となるはず。
クロスボウの装填には時間が掛かる、この一射で必ず仕留めなければならない。
無意識のうちに歩哨は唇を舌で湿らせる。
しかし、狙点が定まるよりも早く、その背に乗った女が上げているのが、警告の叫びだと気づいた。

「早く逃げなさい! 貴族派の軍艦が……」

待ち伏せしている、という言葉は、連続して響く轟音によってかき消された。
音に身体全体を叩きのめされたような衝撃。
思わず膝をついた歩哨が次の瞬間に見たものは、砲撃によって混乱の坩堝へと叩き込まれた隠し港の姿だった。
先ほどまでの平穏は、もはや見る影もない。
船に乗り込むために順番を待っていた者たちは、少しでも安全な城へと逃げ込もうと走り回り、
脱出を指揮するはずだった士官が、秩序を取り戻そうと大声を張りあげるも、
雲下からの砲撃の前には大した効果もないようだった。
耳を聾するような轟音が途切れりことなく続く。
『イーグル』号と『マリー・ガラント』号は辛うじて直撃を受けていないが、
見るも無残な姿と成り果てた桟橋を見るに、それも時間の問題のように思われた。
それどころか、この港全体が遠からず崩れ落ちるのではないかと思うほど、雨霰のように砲弾が撃ちこまれる。
港のどこかへ着弾するたびに、近くで逃げ惑っていた不幸な誰かが吹き飛び、そして、そのまま動かなくなった。
歩哨は、その殆どが避難するはずだった子供や、老人、女たちであった事を思い出す。
クロスボウの台座を、指が白くなるほど強く握り締めていることに気づく。
腹の底から、焦げ付くようなどす黒い感情が沸き立つ。
だが、しかし、歩哨の脳裏にあるのは、一つのシンプルな疑問だった。

何故奴らはここにいる?
貴族派はこの場所を知らない筈なのに。

だが、その疑問に答えが出ることはなく、
幾度目かの斉射により、物見櫓ごと彼は吹き飛ばされた。

かくして、ニューカッスル城攻防戦の幕は切って落とされた。
この会戦に関わる誰もが望まない形で。


「……なあ、もしかして、僕らの所為で隠し港の場所がばれたんじゃなかろうか?」

隠し港から、城に続く階段の踊り場で、ギーシュは一息つきながら、ずっと考えていた疑問を口に出した。
隣で静かに息を整えていたタバサが、首を横に振る。
湿ったロングスカートで走った所為か、いつもより体力を消耗したらしい。

「見張りが出入り口を見張っていた。
 砲口が上を向いていた」

キュルケが言葉を接ぐ。

「つまり、私たちが来る前から隠し港の位置を知っていて、
 奴らは逃げてくる船を狙い打ちにするつもりだったのね」

こくり、と首を縦に振る。
なるほど、とギーシュは頷くと、それにしてもよく見てるな、と感心する。
僕なんて、シルフィードの首にしがみ付いて、ブリミルに祈るのが精一杯だったっていうのに。
奴ら、僕らの姿を見たと思ったら、パンパン撃って来るんだもんなぁ。
あれは、生きた心地がしなかった。
ヴェルダンデは、隠し港に到着した時に、地中に逃がしたから大丈夫だろうけど、
僕らはもしかして逃げ場のない場所に飛び込んだんではなかろうか?

「なんて事をするのかしら!
 逃げる相手まで打ち落とそうとするなんて、とんだ卑怯者なのね!」

タバサたちの推測に、地団太を踏んで怒っているのは、
タバサと同じ青い髪と瞳が特徴的なマントを羽織った美女。
時折覗く素足の脚線が艶かしい。
そういえば、気が付くと隣を走っていた気がする。

「あー、タバサ。ところで、この人は誰なんだい?」

あ、それ、わたしも知りたいという表情をキュルケがした。
沈黙するタバサ。
何となく気まずい空気が流れる。
僅かな時間の後、タバサはいつものように淡々と話す。

「兎に角、戦端が開いた以上、長居は出来ない。
 ルイズを早く見つけて逃げ出すべき」

「……いや、だからこの人、誰?」

「今は些細な事を気にしてる場合じゃない」

「いや、些細なことじゃないし、この人が着てるのタバサのマントだろ、って、おい!
 僕を置いていかないでくれ! 待て、待ってくれったら!」


その時、ルイズは、ニューカッスル城の礼拝堂の中で、
轟音にかき消されて聞こえる筈のない、ワルドの声を聞いた。
確かに、ワルドはこう言った。

「早すぎる」と。

倒れかけるルイズを、間一髪で抱きかかえるようにして支えたウェールズは、
いち早く事態を把握しようと、全力で思考を巡らせる。
連続する砲撃音が下から響くという事はつまり、隠し港が何らかの攻撃に晒されているという事だ。
恐らくは貴族派の奇襲。正午から攻撃を開始するという布告は、こちらを油断させるための罠か。
それだけで卑劣と罵るに値するが、しかし、最大の問題は、唯一の脱出路に蓋をされた格好になったことだ。
これでニューカッスル城からの脱出は不可能と言わないまでも、極めて困難になった。
そして恐らく、まだ非戦闘員の脱出はまだ完了していない。
彼らには戦う術はなく、脱出できないとなれば、十中八九雪崩れ込んだ敵兵に嬲り殺しにされる運命が待っている。
その認識は、光の速度で燃え盛るような怒りへと転化した。

「おのれ、卑怯な!」

思わず激昂する。
腕の中のルイズが、その声にびくりと身を震わせた。
その震えで我に返る。
王党派はここで全滅する。しかし、この少女とその婚約者はトリステインに無事返さねばならない。
愛するアンリエッタの危難を救うためにも。
だが、事ここに至って自分に出来る事は、あまりにも少ない。
息を深く吸い込む。

「どうやら、卑劣にもレコン・キスタは約を違えたようだ。
 もはや一刻の猶予もない、子爵、ラ・ヴァリエール嬢を連れて逃げたまえ……子爵?」

ウェールズは、ワルドの姿にどこか尋常でないものを感じた。
怒りに満ちた眼差しで宙を見つめ、ぎりぎりと歯軋りの音が聞こえそうなほど、歯を噛み締めている。
問いかけるウェールズには何も答えず、ワルドは奪い取るようにして、ルイズを自分に向きなおらせた。
力強い指が、ルイズの肩に食い込む。
その痛みにルイズが声を上げるよりも早く、ワルドは吼えた。吼えるとしか表現のしようがない声だった。

「ルイズ、誓うんだ! 今、ここで、僕を夫とすると!」

血走った目が、ルイズを捕らえて離さない。
ルイズは、いやいやをするように首を横に振った。
凄まじい力で握り締められる肩が痛い。
何かに憑かれた様なその眼差しが恐ろしい。
そして、あの轟音の中で聞いた一言の真意が分からなかった。
確信する。
やはり、十年の間にワルドの何かが決定的に変わってしまったのだと。
そして、それは決してルイズが望まぬ方向へと変わったのだと。

「ワルド、離して!」

「子爵、今はそのような事に拘っている場合ではない!
 早く脱出したまえ!」

尋常ではない様子に、ウェールズが割って入ろうとする。
だが、ワルドは乱暴な手つきでそれを振り払った。

「黙っておれ!」

「子爵、乱心したか! 今すぐラ・ヴァリエール嬢から手を離したまえ!」

杖を抜こうとするウェールズを尻目に、再びワルドはルイズに話しかける。
先ほどとは違い、穏やかな声音で、むしろ懇願する様な調子とさえいえた。
だが、ルイズには、むしろその穏やかさが恐ろしい。
ワルドは、あの激情をその身に宿したまま、こんなにも穏やかに振舞うことが出来るのだ。

「ルイズ、すまない。突然のことで取り乱してしまったようだ。
 ……一言で良い。誓ってくれ。ブリミルの御前で、一言誓うだけで良いんだ」

己に向ける眼差しの中に、ルイズは先ほどと同じ燃え上がる狂気の片鱗を見た。
いや、もしかしたら、ルイズが旅の途中、ずっと気が付かなかっただけで、
この狂気は、ワルドの心の奥底でずっと燻っていたのかもしれない。
今更のように、ノワールと別れた事を後悔する。
怖い。
ここで首を横に振ったら、何をされるか分からない。
でも、頷けばそれで契約は成立してしまう。
ブリミルの名の下になされた契約は、永遠でなければならない。
それはつまり、ワルドと生涯を共にしなければならないという事だ。
ありったけの勇気を振り絞る。

力を貸して、ノワール。

「ごめんなさい、ワルド。
 わたし、今の貴方の妻にはなれない。なりたくない。
 何をそんなに焦ってるの? 何が貴方を変えてしまったの?
 それに、さっき早すぎるって言ったわね? もしかして、ワルド、貴方……」

明確な拒絶の意思に応えるように、ルイズの肩を握り締めていた手から力が抜ける。
ワルドの手から、解放されたルイズは、よろけながらも一歩離れ、大きく息をつく。
さして暑いわけでもないのに、シャツの背中が汗でぐっしょりと濡れていた。
うつむいたワルドの表情は、羽帽子の影になってうかがう事が出来ない。
その影の奥から、呟く声が聞こえる。

「何故? それはね、ルイズ」

むしろ優しげとさえいえる声音。
だが、そこに込められた何かに、ルイズは慄然とする。

「それは、これが最後のチャンスだったからさ。
 君は、僕が何者か知ってしまった後では、決して結婚を承諾しないだろうからね」

「何を、何を言っているの、ワルド?」

「子爵から離れろ! ラ・ヴァリエール嬢!」

事の成り行きを警戒しながらも見守っていたウェールズが、ついに杖を抜いた。
或いは、武に身を置く者の勘とでも言うべきものだったのかもしれない。
だがしかし、それすら上回る、文字通り目にもとまらぬスピードで、ワルドの杖が抜かれた。
そして、その瞬間には、すでに呪文の詠唱が完成している。
『閃光』の二つ名の面目躍如とでも言うべき早業。
そして、身を翻したワルドに、ウェールズは為す術もなく、その魔法で胸を貫かれる。
貫かれる筈だった。

7
その瞬間の事を、ルイズは後年になっても鮮明に思い出すことが出来た。
ほの暗い礼拝堂の中を、ステンドグラスの欠片が舞い、差し込んだ太陽の光が乱反射する。
ゆっくりと舞い落ちるその欠片の中を、大きな黒い影が、翔ぶような速度で駆け抜けていく。
それが『マリー・ガランゴ号』に乗りこんでいる筈の、彼女の使い魔だと気づくよりも早く、
ノワールは凄まじい速度のままで、ウェールズを突き飛ばした。
一瞬前までウェールズのいた場所に、ノワールが入れ替わる形になる。
当然の成り行きとして、青白く光るワルドの杖が、ノワールの無防備な腹に突き刺さった。
眩しいほどに鮮やかな赤が、礼拝堂に飛び散った。
ルイズの目の前で、ノワールが倒れ伏す。

「やはり来たか」

冷静ささえ感じさせるワルドの声が、もう持ちあげることさえ叶わない頭の上から降り注ぐ。
“やはり”気づいていたかと、ノワールは考える。
そうでなければ、ウェールズを助けるために、命を張った意味がない。
心臓が一つ拍動するたびに、悪い冗談のように血が流れ出していくのが分かる。
全身から力が抜けていく。

「お前が俺に敵意を抱いている事には、少し前から気づいていた。
 だが、何故分かった? 俺がお前の主の敵となると」

何故? それは愚問と言うものだ。
最初に会ったときから、お前がいつか裏切ると、俺には分かっていた。
ああ、そうとも。他の何を見落とそうとも、俺がこの匂いに気づかない筈がない。
俺の鼻は、嘘と裏切りの匂いを嗅ぎわける。

「嘘……」

呆然と座り込むルイズの姿が見える。
ノワールは、トライアングル以上の称号を持つメイジの戦力を、
重火器を持った人間、数人から十数人分に匹敵すると評価していた。
だが、例えスクウェアクラスが相手であろうとも、
一対一ならば、引けを取らない自信が、ノワールにはある。

「貴様、レコン・キスタの刺客か!」

問題なのは、メイジの持つ能力の多様さだった。
ルイズのお伴で授業を聞きながら、ノワールは少しづつ、魔法に対する知識を蓄えていた。
その結果、もっとも脅威となるのは、直接的な攻撃能力よりも、
例えば土系統メイジのゴーレム創造や、水系統メイジの精神操作のような、
搦め手に類する能力であると結論付けていた。
彼が知る中でも、もっとも警戒を要するのは、ギトーという男の講義で語られた、風系統メイジの奥義。

「如何にも。ウェールズ・テューダー。
 貴様の命とアンリエッタの恋文、この『閃光』のワルドが貰い受ける」

最悪だったのは、よりにもよっていつか敵に回ると看過した男が、
風系統の奥義を極めたスクウェアクラスのメイジだったことだ。
この時点で、ノワールは一対一で事を構えるという前提を放棄した。

「ラ・ヴァリエール嬢、逃げろ!」

時間が掛かるにしても、ワルドを殺すことは出来る。
だが、ルイズを守りきれる自信が、ノワールには無かった。
××××として鍛え上げられた彼には、何かを守りながら戦うと言う経験が無かったのだ。
だからこそ、ノワールには、ルイズが逃げるだけの時間を稼ぐ事が出来るメイジが、
どうしても必要だった。

「無駄だ、逃がさん。ユビキタス・デル……」

ウェールズが実力こそ一歩譲るものの、ワルドと同じ風系統のメイジであったことは、
ノワールにとって望外の幸運だったといえる。

「ユビキタス・デル・ウィンデ……」

同じ手段で、ワルドに対抗することが出来るからだ。
もしも、ウェールズがいなければ、
ノワールには、不意打ちで一撃のもとにワルドを殺すと言う選択肢しかなかったはずだ。

「何!?」

ワルド必殺の初撃をかわし、ウェールズがその実力を発揮するのに必要な一瞬を稼ぐことこそ、
ノワールが最優先すべき事柄だった。
そして、それは達成されようとしている。彼自身の命と引き換えに。

「風のメイジは、何も貴様一人ではない!
 逃げろ、ラ・ヴァリエール嬢! ここは私が引き受ける!」

とはいえ、実を言えば、ワルドに隙が無かったわけではない。
旅の途中で、ノワールには、何度かワルドを噛み殺すチャンスがあった。
血液が足りない所為で、薄ぼんやりとする思考の中、ノワールは思う。
何故、おれはとっととあの男を殺さなかったのだろうか、と。
幾つか思い当たる節が無いでもなかった。
例えば、当面、ルイズに危害を加える様子が無く、切迫した危機ではない状況下において、
いたずらにに変数を加えることによって、相手側の出方が予想できなくなる可能性があったから、とか。

「いや……ノワール、死んじゃいやぁ」

ルイズは、涙を零しながら、ノワールの傍から離れようとしない。
暖かい雫が、ノワールの顔に落ちる。
まあ、今更、分からない振りをすることもないか、と思う。
結局のところ、おれはルイズに嫌われたくなかったのだ。
罪も無い婚約者を噛み殺した怪物だと、思われたくなかったのだ。

「立て! 立って逃げたまえ!
 君の使い魔の死を無駄にするな!」

「おっと、お前に他人を気遣う余裕などあるのかな?」

「くっ」

ワルドが呼び出した偏在は四体。対するウェールズのそれは三体。
数の上でも、質の上でも差がある以上、時間を稼ぐのが精一杯。
決着がつくまで、さほど時間は掛からないはずだ。

「やだ、やだよぅ……ノワールを置いていくなんて、やだよ……」

そんな理屈は分かっているはずなのに、ルイズはその場を動こうとしない。
面倒くさい女だ、と思う。
馬鹿な女だ、とも思う。
全く誰の為にこんな目にあっているのか、分かっているのかと思う。
だが、どこかで自分は、こうなる事を予測していた気がする。
脳髄の奥深く、制御不能などこかで、こうなることを期待すらしていたのではないだろうか。

ルイズの言葉が嬉しくないかといえば、勿論嬉しいに決まっていた。

なら、もう一踏ん張りだな。

跳ね起きる。
動かなかったはずの四肢に、力が漲るのを感じる。

「ノワール!?
 ……え? ちょ、ちょちょちょっと!?」

ひょいとルイズを背負い上げると、一瞬の隙を突いて、風を巻くようにして走り始める。

「馬鹿な、致命傷だったはずだぞ!」

ノワールが覚悟していた魔法の一撃は、とうとう飛んでこなかった。
驚愕するワルドの声を背に受け、ノワールは最後の最後で奇襲に成功したことを知る。
礼拝堂の扉を体当たりで打ち砕くと、そのまま廊下を駆け抜けた。
目指すは隠し港。
砲撃で足止めを食っているのならば、
『イーグル』号や『マリー・ガラント』号が出発していない可能性はきわめて高い。
蜘蛛の糸よりも細い希望だが、もはや生きて脱出できる可能性は、そこにしか存在していない。
あとは、アルビオン王立空軍の技量とルイズの運に賭ける。

幾つもの角を曲がり、階段を下る。
傷口からは、止め処なく血が溢れ、その目はもう光を捉えることは叶わない。
だが、それでも足取りに澱みはなく、速度が落ちることもなかった。
ルイズがどこかで泣いている。

「止まって! 止まってよ! このままじゃノワール死んじゃう!」

駄目だ、今足を止めれば、お前が死ぬ。
俺には、そんな現実を許容することは出来ない。


結局、隠し港にたどり着くはるか手前で、ノワールの心臓は、動くことをやめた。



[5204] ゼロの黒騎士 第十五回
Name: 早朝◆74a45303 ID:a07c8492
Date: 2008/12/09 00:55
ある少女の話をしよう。
その少女は有数の歴史を誇る公爵家の娘として生まれ、ただ一つの例外を除いて不自由なく育った。

彼女は、屈指の大貴族の娘として生まれながら、魔法を使うことが出来なかった。
苦手とか、不得意とかではなく、全く魔法を発動することが出来なかったのだ。

まあ、落ち着こう。
メイジとしての格が、貴族としての格に直結するとは、巷間でよく聞くところではあるし、
貴族自身、そう信じている節がある。
だが、実際のところはどうなのかと言えば、決してそうではない。それはない。
勿論、影響はする。だが、それは家格を超越するものではないし、
もっと微妙で複雑な、悪く言えば陰険、よく言えば慎ましやかな物だ。
例えば、実績も、家柄も同じくらいの貴族が、一つのポストを争っていた場合、
最終的にはメイジのクラスを比べる事になる、とか。
魔法衛士隊や軍隊など、例外も多々あるものの、公的にはその程度の影響力しか持たない。

公的には。

この公的にはという奴がミソで、つまりは、私的にはもう少し強い影響力を持つという事に他ならない。
とはいえ、やはりあまりあからさまにするのは、慎みに欠けるとされていて、
例えば、件の少女を、いくら魔法が使えないからと公衆の面前で罵倒したりすると、
モラリストを気取るお歴々に散々後ろ指を指された挙句、公爵家から怒りの鉄槌が下ったりする。
なので、普通はもっと隠微な形を取る。
それは、上品に口許を隠す扇子の陰で、聞こえよがしに囁かれるゴシップであったり、
明らかな嘲笑を含んだ眼差しであったり、社交の場での礼儀正しい無視であったりする。
精神衛生上、明らかによろしくないという点においては、面罵されるのと大差ないのだが、
こういった場合においては、目くじらを立てる方が大人げがないとされ、
下手をすると、図星を指されたから怒り出すのだとか、ゴシップの正しさを補強する材料にされてしまったりする。
対抗手段がないという点においては、あからさまな悪意の数倍性質が悪かった。
まあ、そんな訳で、屈辱に身を震わせながら怒りに耐える十歳にも満たない少女という、
第三者から見ると、最高に後味の悪い代物が生まれたりする。やれやれ。

結局のところ、少女が不運だったのは、貴族と平民を別つ証しとでも言うべき魔法行使能力を欠きながらも、
大貴族の娘として生まれてきたという一点につきる。
どちらか一方だけであれば、こうまで注目を浴びてしまうこともなかっただろう。

とはいえ、勿論、場所も違えばルールも違う。
この辺りの機微は、優雅かつ微妙極まりないバランスの上に成り立つ社交界ならではのもので、
むしろ、こういうルールが通用しない場所の方が多い。
それは例えば軍隊であったり、例えば裏社会であったり、例えば全寮寄宿制の学校であったりする。
そして、往々にしてそういった野蛮な場所――学校は野蛮な場所ではないと仰られるかたは、
子供たちの力への憧れと無邪気な残酷さを過小評価されていると言わざるを得ない――の方が、
メイジとしての格が、集団内でのパワーバランスにおけるより重要な位置を占めていたりする。

当然の帰結として、件の少女の家族はこう考える。
つまり、魔法学院に入学するまでに、魔法が使えるようにならないと、可愛い末娘が酷い目にあうのは間違いない。

生まれを否定することはできない。
社会を改革するほどの事ではない。そもそもしようと思っても間に合わない。
どう考えたって、この状況を解決するのに一番の早道は、彼女が魔法を使えるようになる事だった。
なので、彼女の両親は迷わずその道を選んだ。

努力と根性の世界に生きる母親の指導は、それはそれは厳しいものになった。

少女の名前を、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールという。


でも、とルイズは思う。
今にして思えば、家を離れた今にして思えば、母にしごかれていたあの頃は幸せな時期でもあった。
優しく接してくれたカトレアはもとより、
なんだかんだ言っても必ず最後まで魔法の練習に付き合ってくれたエレオノール。
領地経営に飛び回り、中々帰ってこられない父も、家にいる時は何かと構ってくれた。
母はいつも厳しかったが、あれは娘を思えばこそだったのだろうと今なら納得できる。

家を離れ、魔法学院に寄宿するようになってから、骨身に染みた事の一つが、
魔法を使えない貴族が如何に惨めかという事実だった。
母が厳しく魔法を仕込もうとするのも当然だ。
ある程度覚悟はしていたが、想像の中の学校生活は、現実の半分も酷くはなかった。
何をしても嘲笑の対象になる。
何時までも空を飛べないことが、踏み台を使わなければ高い所にある本を取れないことが、
鍵をかけるために機械式の錠前を必要とすることが、
魔法を使えば簡単に出来る事がルイズだけはできないと言う事実が、全てルイズを嘲る理由になった。
何しろ、魔法を習得するための努力さえ、面罵の対象になるのだ。
ゼロと呼ばれるのが嫌で、ゼロのままでいたくなくて、何時かゼロのルイズでなくなるための努力が、
無駄だからの一言で切って捨てられる。
自分にどうしろというのか。ずっとゼロのまま蔑まされていろというのだろうか。

そんな八方塞の状況の中で、それでも卑屈にならずにいられたのは、
ラ・ヴァリエール公爵家の一員だという矜持があればこそだった。
思い返してみれば、あれだけ厳しく、また、姉二人とルイズを比べる事を躊躇しなかった母は、
だが、決して魔法が使えないという理由で、
ルイズの事をラ・ヴァリエール公爵家に相応しい人間ではない言わなかった。
それは、家族の誰もがそうだ。父も、二人の姉も。
だからこそ、『ヴァリエールの名を冠する者』が苦難を前に膝を屈するなどあってはならない、
と自分を叱咤できたのだ。
揺るがぬ柱があるからこそ、吹きすさぶる悪意を前に、俯かずにすんだのだ。

魔法が使えるようになれば、家族が認めてくれると、自分を見てくれるとばかり思っていた。
違った。その想いは間違いだった。
馬鹿だな、わたし。
認めてくれるも何も、ずっと愛していてくれたのだ。
未熟な自分が、それに気がつかなかっただけ。

魔法を使えるようになりたい。
立派なメイジになりたいと言う想いは、今も変わらない。
変わったのは理由。
わたしは大丈夫だよって、安心させたい。
みんなのお陰で魔法が使えるようになったから大丈夫だよ、と。
あの愛に、何時か必ず報いたい。
報いたかった。

ごめんなさい、父様、母様。
ごめんなさい、エレオノール姉さま、ちいねえさま。


隠し港へと続く長い階段。
その途中の小さな踊り場で、ノワールとルイズの身体が少しずつ冷えていく。

ごめんね、ノワール。
わたしの我侭で、こんなところまで連れてきちゃって。
疲れたよね。
わたしも疲れちゃった。
少しだけ休もう。
目をつぶって、少しだけ。

目を閉じて、現実を遮断する。
とじめやみの中で、少しずつ現実と思考が溶解していく。

少しだけ休んだら、もうちょっとだけ頑張ってみよう。
もうちょっとだけ頑張って、トリステインに帰ろう。
大丈夫、ノワールと一緒なら、きっと何とかなる。

そこには、カトレアがいる。父が、母がいる。エレオノールがいる。
アンリエッタがいる。シエスタがいる。タバサがいる。大負けに負けてキュルケもいる。
ギーシュがいて、ミスタ・コルベールがいて、モンモランシーがいて、オスマン老がいて……。
そこにはみんながいる。

そしてきっと、ノワールが何時までも傍に居てくれる場所だ。

ルイズは、瞼の裏に決してたどり着けない楽園を描く。
光溢れるそこでなら、いつか、ルイズも魔法が使えるようになるかもしれない。
閉じた瞳から、涙が一滴流れ落ちると、ノワールの頬に当たって砕けた。

左前肢に刻まれたガンダールヴのルーンが、鈍く光を放つ。
脈動するように明滅を繰り返しながら、その光は少しずつ強く激しくなっていく。
ルイズが瞼越しに異変に気がついた時には、ルーンは灼きつくような眩さで輝いていた。

そして、ルイズは“視た”。


はるか頭上から、金属と金属が激しく打ち合わされる独特の甲高い音が響く。
身体を震わせるような地響きは、踏み鳴らされる幾百幾千もの足音だろうか。
どうやら、ドサクサのうちに地上でも戦闘が始まってしまったようだった。
それでなくとも、隠し港への砲撃による衝撃で、
一歩間違えると階段を踏み外してしまうそうなほどニューカッスル城全体が鳴動しているのだ。
足元から全てが崩壊してしまうのではないかという恐怖が頭をちらつく。
事実、細かな破片が、走り続ける一行の頭上から、ぱらぱらと降り注いでくる。
先頭をきって長い階段を駆け上がりながら、キュルケの焦燥感は頂点に達しようとしていた。
今や事態は悪化の一途を辿り、ルイズの救出どころか、自分たちの脱出すら覚束ない可能性が高い。
基本的には楽観的なキュルケではあるが、それでも限界というものがある。

ここで退くべきか、進むべきか。
戦端が開かれてしまった以上、地上からの脱出はもはや不可能事だが、
隠し港からならばまだ目があるとキュルケは踏んでいた。
高速で空中を飛行する物体に対して、大砲が命中する確率は極めて低い。
とはいえ、あれだけドッカンドッカンぶっ放されていると、まぐれ当たりの可能性も決して低くはないが、
それでも、朝、散歩していて鳥の落し物が直撃する程度の可能性でしかない。
現状でもっとも恐ろしいのは、貴族派の目的が脱出船団の撃墜から、隠し港の制圧にシフトしてしまうことだ。
制圧の為に竜騎兵が投入された場合、脱出の可能性は限りなく低くなる。
つまり、逃げ出すならば今のうち。

どこで何やってるのよ、馬鹿ルイズ。

だが、そんな思いとは裏腹に、キュルケの脚は階段を駆け上がり続ける。

絶対に、絶対にこの貸しは生きて返してもらうわ。
このあたしに借りを作って逃げ切れると思わないことよ!

行く手に広がる踊り場で、二つの影がわだかまっていることに、最初に気が付いたのはキュルケだった。
だから、小さな方の影が、桃色がかった特徴的なブロンドの女の子である事に最初に気づいたのも、キュルケだった。

「ルイズ!」

一瞬の安堵。今ならまだ間に合うという思い。
だが、その時、一際大きな揺れが、ニューカッスル城を襲った。
たまらずたたらを踏んだキュルケの目の前で、ゆっくりと踊り場の天井が崩れ落ちる。
その真下にいるルイズは、気絶しているのか気づいていないのか、逃げだそうともしない。
意味の通らない言葉を叫びながら、ルイズに向かって走り出そうとするキュルケを、
タバサとギーシュが必死に押し留める。
ゆっくりと、やけにゆっくりと、一際大きな岩塊がルイズに向かって落ちていく。
キュルケは、虚空に向かって夢中で手を伸ばす。
だが、その手は何も掴まない。その手は決して奇跡を起こせない。

しかし、そんな現実をバンパイア・ナイトは許容しない。

「……シュバリエ・ノワール?」

奇妙な静寂が支配する時間。
聞こえるはずのないルイズの呟き。
次の瞬間、激しい光の奔流が、その場にあった全ての物を漂白する。


最後の偏在が、ワルドのライトニング・クラウドによって消滅する。
同時にウェールズは、ワルドの偏在が放ったウィンド・ブレイクによって吹き飛ばされた。
壁に叩きつけられたウェールズの手から、杖が弾き飛ばされる。
勝負がついたと見たのか、ワルドは大きく息をついた。

「敵ながら、見事だったぞ、ウェールズ。
 お前が指揮を執っていれば、あと三日は攻勢をしのいだかもしれん」

半ば以上本心から、ワルドは敗者に向かって賛辞を捧げた。
偏在の数においても、質においても優っており、一瞬のうちに勝敗が決していてもおかしくはなかった。
にもかかわらず、ワルドが呼び出した四体の偏在のうち、すでに二体が消滅。
決して長い時間とは言えないが、足止めを食い、ルイズを探し出して止めを刺すための時間は残されていない。
結局、ワルドは三つあった目的のうちの一つしか遂げられなかったことになる。

「一つ、答えろ」

壁にもたれかかったまま、ウェールズが顔を上げる。
その目には、恐怖も怒りも絶望も希望もない。
ただありのままに結末を迎え入れる覚悟だけがあった。
僅かに考え込むと、ワルドは首を縦に振る。

「最期の望みというわけか。
 良いだろう、聞き届けてやろうじゃないか」

だが、妙なことを考えるなよ、と杖を向ける。
鼻先にエア・ニードルを纏った杖を突きつけられても、ウェールズは眉一つ動かさない。

「なぜ脱出する非戦闘員まで殺そうとする」

ああ、その事か、とワルドは僅かに瞳を暗くした。
どうやら、ワルドにとっても、それは決して愉快な話題ではないようだった。

「クロムウェル閣下は、万が一にも王族を逃がすなと仰せになった。
 本来ならば、港を離れるまで待ってから、『マリー・ガラント』ごと撃ち落す手筈だったのだがな。
 手違いがあったらしく、まあ、見ての通りの醜態を晒している。
 よほど我が主に憎まれているようだな、お前たちは」

「馬鹿な……。
 父にせよ、ぼくにせよ、このような状況で逃げ出す卑怯者だとでも思っているか」

ワルドは首を横に振った。

「そうではない。
 確かにお前たちは逃げ出さないだろう。
 だが、逃げ出す女官の胎に、次代のアルビオン王がいないと誰に断言できる?
 閣下が憂慮されたのは、そういう可能性だ」

「……下種がっ!」

吐き捨てるようにウェールズは言い放つ。
ワルドが肩を竦めた。

「言葉は選んで欲しいものだな。
 目の前で主が罵倒されるのは、あまり良い気分ではない」

その言葉に反して、ワルドは気分を害したようには見えなかった。
むしろ、自らを偽らず会話する機会を、楽しんでいるようですらある。

「まあ、そう悲観したものでもないさ。
 如何に数の上で優位に立とうとも、我々と貴様ご自慢の『イーグル』号のクルーとでは練度が違う。
 その気になれば、運と状況次第で、突破できないという事もあるまい」

楽しげなままに続ける。
それは、まるで非戦闘員の脱出が喜ばしいものであるかのようだった。

「そうあって欲しいとでも言いたげだな、ワルド」

「ああ、そうであって欲しいとも。
 無駄な殺戮は俺も望むところではない」

「例えそれがラ・ヴァリエール嬢を救う結果になったとしても、か?」

その問いかけに、ワルドは答えない。
ウェールズは、ワルドの中の決定的な何かを踏んだことを悟った。
しばしの沈黙の後、ワルドが代わりに返した言葉は、ウェールズへの死の宣告だった。

「質問は一つだったはずだ。
 惜しい気もするが、さらばだ、ウェールズ・テューダー。
 我が大望のために死ね」

杖がウェールズの胸に向けられる。
そのまま突きこまれれば、全てが終わるはずだった。

「待ちなさい!」

だが、その時、礼拝堂に凛とした声が響いた。
開け放たれた礼拝堂の扉。
差し込む光を背に、ワルドに向かって堂々と杖を向ける一人の少女の姿がある。
純白だったマントは、赤黒くまだらに染まり、頭を飾っていたはずの花冠は影も形もない。
ウェールズの眼が驚愕に見開かれる。
振り向いたワルドは、眩しそうに目を細めた。

「ルイズ、戻ってきたのか。
 あのまま逃げていれば、命を拾ったかもしれぬものを。
 愚かな娘だ」

どこか嘆くように、ワルドは呟く。

「お願い、ワルド。
 もうやめて。今ならまだ間に合うわ。
 今からでも降伏して」

「恐怖で気が触れたか、我が婚約者よ」

「お願い、ワルド。
 わたしは貴方を殺したくはない」

「正直に言えば、俺もお前を殺したくはなかった。
 だが、再び目の前に現れた以上、お前を見過ごすわけにはいかん……恨むぞ」

「やめて!」

先ほどまでとは打って変わって、どこか疲れたような表情を浮かべたまま、ワルドは、杖を振った。振ろうとした。

銀色のきらめきが、視界の隅を踊る。

訝しく思うよりも先に、杖を振ろうとした腕が、二の腕からそのままポロリと落ちた。

「……なんだと?」

呆けたような声。
次の瞬間、腕の切断面から鮮血が噴き出した。
ルイズは、まるで痛みを堪えるかのように唇をかみ締めながら、その様を見つめている。
悲鳴こそ上げなかったものの、ワルドは膝をつき、傷口を押さえた。
ノワールの妨害を予想して着込んでいた鎖帷子が、キラキラと滑らかな断面を晒している。
少し離れた場所に、杖を握ったままの右腕が転がっている。

「く、くそ。なんだ、何が起こった!?」

一体何をされたかすら理解できない。
ただ一つ分かるのは、自分が何かとんでもない理不尽に身を晒されたという事実だけ。
混乱するワルドの元に、コツコツと近づく足音。
顔を上げたワルドを、ルイズが何の感情もこもっていない瞳で見下ろしている。
少なくとも、ワルドにはそう見えた。

「ワルド、貴方の負けよ。
 降伏して。命までは取らないわ」

「……殺せ、ルイズ」

ルイズの表情が強張る。
そこでワルドは、ルイズの表情を読み違えていたことに気づいた。
無表情などではない。
ルイズは、涙を堪えていた。
瞳に力を込め、零れおちそうになる涙を必死でせき止めている。
そういえば、エレオノールや母に叱られる時、ルイズは何時もそうやって我慢していた。
そして、耐え切れなくなると誰も見ていない小船の上で泣くのだ。
少なくとも、ワルドの知っているルイズという少女は、そういう意地っ張りなところのある少女だった。
彼女の根っこはあの頃から、何も変わっていない。
意地っ張りで、わがままで、無力で、
その癖、誰よりも貴族らしくあろうと、誰よりも先に我が身を犠牲にしようとする少女。
その在り方は、ある意味で酷く傲慢だ。だが、それが今は何よりもまぶしい。
省みて、自分が如何に変わってしまったかを思う。
だが、後悔はない。変わらねばならなかったのだから。
大願成就の為に。母の為に。全てを切り捨てなければならなかったのだから。

「ワルド!」

勝敗は決したというのに、敗者よりも、勝者の方が追い詰められているようだった。
背後では、ウェールズが立ち上がる気配を感じる。
もう時間がない。

「殺せ」

ならば、せめて目の前の少女に殺されたかった。

「何故、隠し港の場所がレコン・キスタに知られたのだと思う?」
 俺が知らせたからだ。小さな石を、港に落としてきた。
 何でも、かすかに霧を放ち続ける魔法の石という話だった」

憑かれた様に早口でまくし立てた。
ルイズが静かに息を呑むのが分かる。
ワルドの行いが何を意味するのか理解したのだろう。
その事を確認し、ダメを押すようににやりと笑う。

「相当遠い場所からでも、ディテクト・マジックでどこにあるのか分かるらしい。
 発する魔力に特徴があるとかいう話だったが、俺にはよく分からん。
 下で砲撃している連中は、その石を目印にして盲撃ちしてるだけさ。
 まあ、あの石がなければ、隠し港の位置も分からなかっただろうな」

「ワルド……あなたと言う人は……!」

「今この場を生き延びたところで、許されるはずのない命だ」

思い出すのは、ラグドリアン湖畔で行われた園遊会。
夜の闇を払うために、文字通り林の如く立ち並ぶ燭台の数々。
魔法で事足りることを、人の手で執り行わせることこそ、富貴の証。
紅玉、翠玉、青玉、金剛石。
佳人たちを飾り立てる貴石の数々が、蝋燭の灯りで煌びやかに輝く。
ワインが注がれる雪花石膏の杯も、山海の珍味が並べられる皿の一つ一つも、
名のある職人達が工夫を凝らし、この日のためだけに用意し、今日、この日ためにだけ使われる。

だが、会場の隅で警備をする若い魔法衛士にとって、贅を尽くした饗宴も、
我こそはと美しく咲き誇る社交界の花々も、色褪せた灰色の後景に過ぎない。
彼が熱心に見つめているのは、一人の少女。
桃色がかったブロンドという特徴的な髪の色をしたやせっぽちの少女は、
精一杯の澄まし顔で、若き王女の付き添いをこなしている。
この場にいる百人に聞いても、百人が先を歩く王女の方が魅力的だと答えるだろう。
しかし、一目見たときから、彼は少女に恋をした。
例え相手が婚約者であろうとも、レコン・キスタに組する彼では、叶うはずのない恋だった。

ほんの一時、甘く心地よい夢を見ていた気がする。

「殺せ」

ルイズが、諦めたようにうなだれる。
ワルドは、最期の願いだけは叶うことを知った。

「……ナイト、お願い。
 あれが恋かどうか分からないけど、十年前のあなたが好きだったわ、ワルド」

君にしてみれば、身勝手な物でしかなかったと思うが、俺は俺なりに、君を愛していたよ、ルイズ。

針の穴を通すような正確さで、ワルドの心臓に、親指ほどの太さがあるフレシェットが突き立った。
想いは言葉にならないまま、それが宿った胸を貫かれて消えた。

よろよろと立ち上がったウェールズが、呆然とした表情のまま、ルイズに問いかける。

「ラ・ヴァリエール嬢、これは一体……?」

ルイズは、どこか寂しげに微笑むと、膝をついて一礼する。

「殿下に、折り入ってお願いしたい議がございます」



[5204] ゼロの黒騎士 第十六回
Name: 早朝◆74a45303 ID:a07c8492
Date: 2008/12/09 00:56
二メイルを超えようかという巨体には、一際大きな後脚がついている。
昆虫ならば羽根がついているはずの場所には、一対の腕が身体に密着する形で折りたたまれている。
前脚の内側に、いかにも繊細な作業向きという感じの細い腕が一対。
頭部は胴部に比べると随分小さく、クの字に曲がった触角があり、
目は確認できるだけで二対、更に額に相当するであろう部分に一つの計五個。
全身が見たこともない真っ黒で滑らかな装甲に覆われ、
胸に相当するであろう部分に、意匠化された馬の頭部がマーキングされている。

一言で表すならば、それは巨大な昆虫を模したガーゴイルの様に見えた。
だが、ハルケギニアでただ一人、ルイズだけがそうではないことを知っている。
今、自分が目にしているものがガーゴイルなどではないことを。
それが、底知れぬ威力を秘めた、一個の兵器であることを。
それこそが、彼女の使い魔の、本当の姿であることを。

その名は、ナイト。
アルビオンの古語で、シュヴァリエを意味する古い言葉。

いっそ呆れるほど巨大な岩塊を支える左攻撃肢には、ガンダールヴのルーンが鈍く光る。
右攻撃肢を一閃する。

ルイズは知っている。
あまりにも速く振るわれるため、銀色の閃光にしか見えないそれが、
単分子フィラメントと呼ばれる一種の刃であることを。

岩塊が真っ二つに切り裂かれる。
二つの切片は絶妙なバランスによって、ルイズを避けるようにして落下。
腹に響く鈍い音と共に、盛大な土煙が巻き起こる。

ルイズは知っている。
ナイトが音よりも速く走れる事を。
その装甲が、およそ彼女が思いつく限りのあらゆる攻撃に耐えきるであろう事を。

もうもうたる土煙の中、ナイトがルイズにゆっくりと顔を向ける。

ルイズは知っている。
ナイトがルイズを確認するのに、本来、顔を向ける必要などない事を。
その仕草が、ルイズに無用の不安を抱かせないための精一杯の気遣いであることを。

もう、彼女のノワールはどこにもいない。
だが、彼女の使い魔は此処にいる。

ならば、それで充分だ。
ルイズは、巨体を見上げながら、そっと微笑んだ。

視界の隅で、キュルケがこちらに駆け寄ってくる姿が見えた。
何時の間に辿り着いたのだろうと言う疑問を抱く間もなく、抱きついてくる。
その後ろから、タバサとギーシュ、そして見知らぬ少女がナイトを警戒しながらも歩み寄ってくる。
声にならない嗚咽。
首筋に感じる暖かな雫は、キュルケの涙だろうか。
ルイズは、そっとキュルケの肩を抱くと、昨日までならば絶対に言わなかった言葉を呟いた。

「ありがとう、ごめんなさい」

そして決然たる決意を込めて告げる。

「行かなきゃ」と。


「つまり、あの……」

ウェールズはナイトを言い表すための言葉を捜して、一瞬の間、言いよどむ。
だが、結局、上手い言葉が見つからなかったのか、一つ頭を振ると、語を継ぐ。

「あの姿が君の使い魔の本当の姿であり、そして、君の使い魔は異世界で造り上げられた兵器だったのだ、と?」

小塔のテラスに続く螺旋階段を昇りながら、ルイズは無言で頷きかえす。


礼拝堂に取って返し、ウェールズを救ったルイズが願い出たのは、王党派への助勢だった。
ルイズは静かにこう豪語した。

『助勢を認めていただければ、攻勢を削ぎ、非戦闘員が脱出するだけの時間を稼いでみせます』

手練の術者であったワルドを、不意打ちに近い形とはいえ、一瞬の元に屠ったその力量を見てもなお、
ウェールズはその言葉を信じることは出来なかった。
当然だろう。
如何に強力な使い魔を従えようとも、相手は五万を数える軍隊。
例え殺戮の限りを尽くしたとしても、大海の中の一滴に等しい。
一体、何が出来るというのだ。
だが、もはや彼には頷く以外の選択肢は残されていなかった。
ルイズは正しくウェールズの急所を突いた。
自らの命を救うためならば兎も角、非戦闘員を救うことが出来るならば、彼はエルフに魂を売り渡すことさえ躊躇しなかっただろう。

ウェールズが頷くと、ナイトは文字通り壁に溶け込むようにして消えた。
驚くウェールズに向かって、ナイトは壁をすり抜けることが出来るのです、と、ルイズは事も無く告げた。
そして、驚愕覚めやらぬウェールズに、もう一つの願いを申し出た。
戦場を一望できる場所へ案内して欲しい、と。


ルイズと共に階段を駆け上がりながら、ウェールズは更なる疑問を口にする。

「ならば、何故、召喚の時から、あの姿ではなかったんだ?
 犬の姿の時よりも、遥かに強力なのだろう?」

「恐らく、ナイト自身も自分の力の事を、自分の過去を忘れていたのだと思います」

そうでなければ、とルイズは思う。
思い出すのは、あの光の中で見た、忌まわしい記憶。
そうでなければ、ノワールは、ナイトは、わたしを、人間を決して許しはしなかっただろう。

テラスへと続く扉が見える。
気がつけば、城壁付近から聞こえていた戦闘音が途絶えていた。
両開きの扉を体当たりするようにして開く。
光が両目に射し込み、視野が一気に広がる。

ルイズが初めて目の当たりにする戦場は、奇妙な静寂に支配されていた。

幾つもの軍船が空に浮かんでいる。
歩兵が隊列を組み、ニューカッスル前の平原に陣を敷いている。
城壁には幾つもの梯子が立てかけられ、あと少しで城門が突破されていた筈だ。
目を凝らせば、遥か後方で騎兵が所在無いといった風情で控えているのが見える。
城門の前では、破城槌を抱えたゴーレムが、今まさに門扉へ破らんとする姿勢のまま、硬直している。
それがぐらりと傾いだかと思うと、ゆっくりと崩れ落ちた。
傍に居た歩兵を幾人も巻き込みながら、高さ十五メイルはあろうかというゴーレムが土に還っていく。

それら全てを睥睨するように、暖かな日差しに似合わぬ闇色の昆虫が、ただの一匹で立ち塞がっている。

ナイトだ。
これから起こる全ての出来事に耐えるため、ルイズは、テラスの手すりを強く握り締める。


城に入り込んだ敵兵は全て排除した。
残る問題は、とナイトは思う。
如何にして効率よく五万という大軍の進攻を食い止めるかという一点に尽きる。
百や二百を殺したところで、五万という数の歩みを止めるには至らない。
そして、五万という数の持つ圧力だけで、押し潰されかねないほどに、守るべき対象は脆弱なのだ。
この平原に存在する敵性体をことごとく殺しつくすことも不可能ではないが、そこまですることを、
多分、彼の相棒は望まないだろう。
求められているのは、最小限の犠牲による、最大限の成果だ。
ならば、やるべき事は唯一つ。
可能な限り惨たらしく、速やかに彼我の戦力の差を思い知らせる。

人の足を止めるのは、損害の数字ではない。恐怖だ。

左右攻撃肢から単分子フィラメントを展開。
後ろも見ずに一振りして、城壁にかけられた梯子を全て両断しながら、大雑把に計算する。

まあ、5000は殺さずに済みそうだな。

進攻ルートは敵本営まで一直線と決める。
大加速なし、高機動なし、回避運動なし。
後は逃げられない程度に低速で、間に存在する全ての障害をゆっくり踏み砕きながら、
遥か後方の天幕、敵本営を攻撃するだけだ。

始めよう。


ナイトがゆっくりと、酷くゆっくりと歩き出す。
事態が把握できないまま、呆けたように見上げる敵兵の頭を、攻撃肢で無造作に掴み上げた。
紙箱でも潰すように、頭蓋骨ごと握りつぶす。
同僚の血と脳漿を頭から被ったかたわらの雑兵が、悲鳴をあげながら槍で突きかかる。
甲高い音を立てて、槍の柄が真ん中から折れた。
光を吸い込む、夜の闇のように黒々とした装甲には、傷一つ認められない。
歩兵は、信じられないものを見る様に、自分の手の中に残った柄とナイトとを見比べる。
のそり、とその歩兵に向かってナイトが向き直る。
感情を映さないその瞳に一瞥された瞬間、その歩兵の中で何かが音を立てて砕け散った。
意味の通らない悲鳴をあげ、背中を見せて逃げようと走り出す。
異変の元凶に気がつき、ナイトに殺到しようとする同僚達を押しのけ、戦場の外に向かって走っていく。
血塗れの顔を拭いもせず、何があったのか誰何する下士官に目もくれずひたすらに走る、走る、走る。
もはや彼の頭の中には、勝利の暁に必ず払うと約束された特別給も、
ドサクサに紛れて掠め取れるかもしれない王党派の財宝もない。
そこに詰まっているのは、あの恐ろしい悪魔から、生きて逃げることだけ。
走る、走る、走る。
息が切れる、肺が破裂しそうになる。
脚が重い。持ち上げて、下ろす。ただそれだけの作業に、筋肉が悲鳴をあげている。
止まる、止まってしまう。もう走れない。
立ち止まった瞬間、彼は反射的に振り向いた。
あれだけ全力で走ったのに、あれほど長い時間走っていたように思ったのに、
彼が走ったのは、結局、三百メイルに満たない距離だった。

その三百メイルが、赤く染まっていた。

赤黒く斑に染まった風景以外、そこには何もなかった。
あの辺りには、昨日まで酒を酌み交わしていた戦友が、後ろから撃ってやろうかと陰口を叩いていた上官が、
ろくに戦場も知らないくせに粋がっていたいけ好かない貴族の若造が、いた。いた筈だ。
誰もいない、どこにもいない、あいつらはどこに消えた!

ゆっくりと膝から力が抜ける。
赤黒い視界のそこかしこに散らばる、あまりにも小さい断片が、彼の仲間のなれの果てだと気づいた時、
最後に残った一片の正気が、木っ端微塵に打ち砕かれた。
緊張と恐怖に強張っていた顔の筋肉が弛緩する。
全身から、ありとあらゆる体液を垂れ流しながら、それでも彼は笑っていた。
その脇を、むしろ悠然とした風に、赤く彩られた黒い装甲の悪魔が通り過ぎていく。

歩兵は、力なく笑いながら、傍にあった石をナイトに向かって投げようとした。
それは狂気の中で本能的に起動した防衛衝動のひらめきかも知れず、
或いは、恐怖の根源からの発作的な逃避行動だったのかもしれない。
だが、その理由はどうあれ、ナイトはその行動を、一種の敵対行動と識別した。
彼の手から石が離れるよりも早く、短分子フィラメントの煌きが宙を舞う。
右手の二の腕より先が、正確に一サント角の立方体に解体されて崩れ落ちていく。
その様を眺める歩兵の瞳に淀む沼のような濁りが、さらに闇を深くしていく。
顔にこびりついた笑いが、腹の底からの爆笑へと変わり、俄かに騒がしさを増していく戦場に響き渡る。
惨劇の幕は、まだ開いてもいない。
これから先、何倍もの、何十倍もの人間が死ぬ。
全てを嘲笑するように響く笑い声は、まだ鳴り止まない。

戦場は、ただの狩場へとその姿を変えようとしていた。


小塔で見守るウェールズとルイズの目前で、レコン・キスタの陣列が真っ二つに切り裂かれていく。
その先頭を歩むのは、ルイズの使い魔であるナイトだ。
とにかくその歩みを避けようと脇に退くものと、状況も分からず押し包んで殲滅しようとするものが入り交ざり、
それに加えて、本格的に戦場から逃亡しようとするものと、それを押し留めようとするものの間で同士討ちまで起こり始め、
レコン・キスタはすでに統一した軍事行動が取れないまでに混乱していた。
無理もない、とウェールズは思う。
恐らく後方に情報が伝達されるよりも早く戦線が崩壊しているのだ。
相手の本陣が、状況も掴めないまま混乱の極みにあるのは間違いないだろう。

城壁に向かって大砲を打ち込んでいた軍船は、暫く前から砲撃を止めていた。
ゆっくりと方向を変えて、その筒先を平原の一点……正確には本陣に向かって進み続ける“何か”に向ける。
どうやら、レコン・キスタは、多少の犠牲に目をつむり、何としても混乱の原因を排除することを決意したようだった。
思いの外、早く混乱から立ち直ったな、というどこか他人事のような想い。
これで、戦いとも言えないこの殺戮劇が終わるのかという、安堵にも似た想いが胸に宿る。
戦場にとどろきわたる轟音。一瞬ののちに、着弾地点に幾つもの土煙の柱がそびえ立った。
王立空軍司令としての経験が、少なくとも数発はナイトに直撃していたはずだとウェールズに告げている。
だが、戦場を渡る血生臭い風が、土煙を掃った後に見えたのは、
まるで時を止めたかのようにナイトの手前の空間で静止する砲丸と、
それ以外の至近弾に巻き込まれて吹き飛んだ敵兵の姿だった。
ナイトは、無事なようだった。
恐らくは、無傷。
思わず呻き声が漏れる。

「なんだ、あれは」

風に流される呟きに、小さく答える声があった。

「磁力盾です」

思わず聞き返す。

「……なんだと?」

「簡単に言えば、目には見えない盾です。
 その気になれば、あれで剣や槍も食い止められるはずですわ」

ルイズだった。
この瞬間まで、ウェールズの思考から、ルイズがこの場にいる事は半ば以上消えかけていた。
眼前で展開される、あまりにも凄惨で異常な事態に気を取られていたためだ。
思わず、我に返る。
そう、今、まさに眼前で、あまりにも凄惨で異常な事態が繰り広げられている。

「ラ・ヴァリエール嬢、今すぐ、下へ戻るんだ。
 友人達と合流して、ここを離れなさい。これは、貴族の婦女が、いや、人が見て良い光景ではない」

だが、ゆっくりとルイズは首を横に振る。
その眼差しは、戦場を歩くナイトを見つめたままだ。

「いいえ、殿下。
 それは出来ません」

彼女は、殺戮に魅入られたのだろうかという思いが、頭の片隅を過ぎる。
ならば、止めなくてはならない。彼女には、あの使い魔がいる。
殺戮の快楽に身をゆだねて、あの力を行使するならば、数え切れぬほどの悲劇が生まれるだろう。
だが、戦場を見つめるルイズの瞳に、血の匂いに酔うもの特有の輝きはない。
彼女は歯を食いしばっている。
手すりを折れんばかりに握り締めている。
その姿は、むしろ、何かとてつもない苦痛に耐える、苦行僧のようだった。

「ラ・ヴァリエール嬢……?」

搾り出すような声で、ルイズは続ける。

「ダメなんです、殿下。
 あそこで戦っているのは、人を殺しているのは、わたしの使い魔なんです。
 わたしが命じました。だから、わたしには、それを全部見て、全部背負う義務があるんです。
 帰ってきたナイトに、お疲れ様、よく頑張ったね、って言ってあげなきゃいけないんです!」

「……しかし」

反射的に抗おうとするが、どんな言葉を繋げれば良いのか分からず、ウェールズは沈黙する。
ルイズは、どこか熱に浮かされるように、話し続ける。

「ナイトをあの姿に変えた人たちは、結局、ナイトを怪物にしてしまいました」

それは、遥か遠い異世界の話。
音と言えば、爆音であった時代、光といえば、紅蓮の照り返しであった時代。
攻性ウィルスと、マイクロマシンが風の中を荒れ狂い、
幾つもの都市が、熱核兵器の劫火の中に消えていった時代。

「あれだけの力を与えて、ナイトを置いてきぼりにしてしまったんです。
 犯した罪を全部押し付けるだけ押し付けて」

それは、ルイズがあの眩い光の中で見た光景だ。

「ナイトは結局、怪物になってしまった。
 そうなるほか、なかったんです!」

でも、それは、ナイトがわるいんじゃない!

ナイトは間違いなく人を憎んでいた。
世界中を炎で焼き尽くしたあの戦争が終わった後の、凪の様に静かな時代。
放射線と神経毒と、もはや制御不能なまでに奇怪な変化を遂げたウィルスに蝕まれ、
ゆるゆると滅んでいく人間たちを、ナイトは同型機と共に、まるで止めを刺すように見つけ出しては殺して歩いた。
結局、命じるものが全て死に絶えた後も、ナイトの戦争は終わらなかった。
だが、破壊と殺戮の為に生み出された兵器にとって、戦争を続けるほかに、
縋るものも、守るべきものも無く、ただ放り出された荒野を生きのびる術などあったのだろうか。
旅を共にする同型機は居た。
だけど、ナイトが本当に望んだものは……。

「ナイトは、わたしの使い魔です。
 怪物になんかさせない。わたしがさせません!」

ルイズは思う。
ナイトを、絶対に一人にはしない。わたしがずっと傍に居よう。
きっとそれが、何の力もないわたしに与えられた役割なんだ。
今度こそ、ナイトが心の底で望み、欲していたものを与えてあげなくてはならない。
それがきっと、わたしに出来るただ一つのことだ。

「ラ・ヴァリエール嬢、君は……」

気遣わしげに、ウェールズが呼びかける。
だが、その言葉をルイズの凛とした声が遮った。

「同情はご無用です、殿下。
 わたし、嬉しいんです。
 ずっと、悩んでいました。わたしはナイトの相棒として相応しくないんじゃないかって」

だが、今は違う。

「でも、違ったんです。
 きっと、何も無いからこそ、わたしは選ばれたんです。
 ずっと傍に居られるように。危なっかしくて、ナイトがわたしの傍を離れられないように」

戦場を見つめるルイズの目には、涙さえない。
だが、彼女は数千という命の重みに、今も必死に耐えている。

おお、ブリミルよ。
貴方はなんという重荷をこの少女に背負わせたのですか。

改めて、ウェールズはルイズを見た。
あまりにも細いその肩、抱きしめれば砕けてしまいそうな華奢な身体、
精一杯背伸びしても、ウェールズよりも確実に頭一つ小さな、まだ花開く前の蕾のような少女。
だが、この少女は、これから先の一生を、想像もつかない重圧の下で生きていかなければならないのだ。
それは、個人で持つには強力すぎる力を抱えるという現実。
利用しようと近づく者もいるだろう。その力を恐れるあまり、排斥しようとするものも少なくないはずだ。
これからずっと、彼女は誰にも、本当の意味で心を許すことは出来ないだろう。
それはあまりにも痛ましく、また、残酷なように思えた。
しかし、変わってやることは、ウェールズには出来ない。
それどころか、肩の重荷を共に支えてやることさえも。
知らぬこととはいえ、非戦闘員を助けるために、ナイトによる殺戮を許したのは、他ならぬウェールズなのだから。

初めて戦場から視線を外したルイズが、ウェールズに向き直る。

「殿下、ご自分を責めないで下さい。
 どの道、ナイトとわたしが脱出するためには、こうする他無なかったんです。
 それならば、わたしは、アンリエッタ様の大切な人の命を救いたかった、ただそれだけなんです」

一瞬、ウェールズは話の流れを見失った。

「……ラ・ヴァリエール嬢、君は何を言っているんだ」

幾らこの戦いを退けたとしても、レコン・キスタの軍勢はこれが全てというわけではない。
やがてはあえなく押し潰されるだろう。
ただ、滅びの日が先延ばしされるだけの抵抗……だが、少なくとも非戦闘員を逃がす事は出来る。
目の前の殺戮は、そういう意味を持った戦いのはずだった。

「ナイトが敵の本営の会話を聞きとったんです。
 あそこに、オリヴァー・クロムウェルがいます」

皮肉にも、その姿を取り戻してから、
ナイトは、感覚の共有などの使い魔としての基本的な能力を得ていた。
それはまるで、ノワールの身体が、あくまでも仮初のものであることの証左のようでもあった。

「なんだと……まさか!」

ナイトが一直線に本営を目指すもう一つの意図を、ウェールズは悟った。

「ナイトの……君たちの目的は、クロムウェルの首か!」

ルイズは、儚く微笑んだ。
その背後では、ナイトが本営に到達しようとしている。


レコン・キスタの本営がある天幕は、煮え滾る混乱の坩堝と化していた。
訳も分からないうちに崩壊していく戦線。
二転三転する被害報告。帰ってこない伝令。
竜騎士を伝令代わりにし、上空の軍船からの情報伝達を密にすることで、どうにか状況は理解したものの、
判明した事実は、更に信じがたいものだった。
人型大の何かが、城門から本営に向かって一直線に進撃しているのだという。
そして、甚大な被害を出しながら、その進攻を止めるどころか遅らせることも出来ていないのだという。
投入可能な最大火力を用いることを選択。
軍船による砲撃を命じたものの、目標は健在。
ならばと情報収集の為に近づいた竜騎兵隊が連絡を絶つに及んで、パニックは最高潮に達していた。
最終的には本営の移動が提案されたものの、その時にはもう既に全てが遅かった。

レコン・キスタ総司令官である、オリヴァー・クロムウェルは己が目を信じられなかった。
いや、信じたくなかったという方が、正しい。
必勝を期してこの一戦に投入した戦力は五万。
対して、ニューカッスル城に立てこもる戦力は、どんなに多く見積もっても五百に満たないという話だった。
負けるはずのない戦だった。
事実、昨日までは全て上手くいっていたのだ。
ある空軍艦隊司令の“説得”を皮切りに、アルビオン王国中枢に根を張るように“協力者”を増やしてきた、
十分に根を張ったところで、『ロイヤル・ソヴリン』号の叛乱を起こし、後は……。
全てが順調だった。
あまりにもトントン拍子に物事が進むものだから、もしかしたら、ずっと夢を見ているのではないかとさえ思った。
ならば、覚めて欲しくなかった。ずっと夢見ていたかった。昨日までは。
今は、夢ならばこの悪夢が覚めて欲しいと、心から願っている。
酒場の片隅で酔いつぶれる生臭坊主に戻れるならば、この世のどんな宝を手放したとしても惜しくはない。

彼の協力者であり、ガリアとのパイプ役であったシェフィールドが、本営の混乱のさ中、姿を消していた事に、
今だクロムウェルは気づいていない。

日の光を背にして、唯一の出入り口をふさぐ様に、黒い悪魔が立ちはだかっている。
天幕の中は、一面の血の海だった。
応戦しようとした司令部の面々は、杖を引き抜くよりも早く、物言わぬ肉塊へ姿を変えていた。
クロムウェルは助けを求めるように、キョロキョロと左右を見回すが、
すでに彼以外に立って息をしている者は、天幕の中には存在していない。
ゆっくりと、ナイトが動き始める。
その歩みだけで、クロムウェルのなけなしの勇気が蒸発した。

「ひっ、ひぃっ!?」

彼が最後に縋ったのは、ブリミルへの信仰ではなく、
己を不当に軽んじたと信じていたアルビオン王家への憎悪でもなく、
彼にとっての夢の道具、魔神のランプたる『アンドバリ』の指輪の力だった。
数え切れぬほどの死者を操り、彼の妄想をここまで実現させたその力だけが、
今、クロムウェルを現実に繋ぎとめる唯一つの鎖だった。
指輪の嵌った指を突き出すようにして泣き喚くようにして叫んだ。

「と、ととと止まれ! 来るなぁぁぁぁぁぁぁ!」

――念線接続を検出しました。
――ルート権限をアップデート。
――最上位指揮個体おりう゛ぁー・くろむうぇるを確認しました。
――以後、当該機体の指揮に従ってください。

ナイトの脚が、ぴたりと止まった。
ナイトが自らの指示に従ったことで、涙と鼻水塗れになったクロムウェルの顔が、喜色と希望に輝く。
もしかしたら、助かるかもしれない。
いや、これほどまでに強力な力を手に入れたのならば、ガリアの力に頼るまでもなく……。

KNGIHT-RES(001):そんな甘いプログラムで、おれを縛れると思うな。 EOS

その声が、『アンドバリ』の指輪を通して聞こえたと気づくよりも早く――

ナイトは即座に『コブラの巣』への接続許可を求めるパケットを数百のルートに向かって送信。
無論、全ての通信はマイクロセカンドの後にタイムアウト。
ナイトのセキュリティシステムは、
この事態を指揮中枢たる『コブラの巣』のバックアップシステムまで含めた消失と判断。
機密保持のため、無期限・無制限の単独行動を許可し、
それに伴いナイトを縛りつけていた幾つものロックが、光の速度で解除されていく。
その中の一つに、敵味方識別信号の抹消権限が含まれていることを確認すると、ナイトはクロムウェルを指差した。
宣告する。

KNGIHT-RES(002):敵味方識別信号抹消、アカウント“おりう゛ぁー・くろむうぇる”。
当該機に対するすべて支援義務を放棄し、当該機よりの無線有線念線すべての質問接続を拒否する。
逆賊誅すべし。 EOS

――『アンドバリ』の指輪を嵌めたままの指が、くるくると宙を舞い、
鼻水と涙に塗れたまま笑っている頭が胴体から転がり落ちる。
薔薇色の夢想に浸ったまま、オリヴァー・クロムウェルは死んだ。
それと同時に『アンドバリ』の指輪による、
空軍司令を初めとしたレコン・キスタの重鎮達のコントロールが途切れ、その自律活動は永久に停止。
脳髄ともいえる部分が一度に崩壊したことで、レコン・キスタはその上層部から早くも無力化しつつあった。


最後はちょっとやばかったとナイトは思う。
どうやら、身体が一度昔に戻った時に、システムの大部分が初期化されてしまっていたらしい。
後でセキュリティ・ホールの有無をもう一度確かめなおしておく必要があると、空き領域にメモしておく。
まあ、その代わり新品同様の身体が手に入ったと思えば破格の取引だ。

ナイトはクロムウェルの首と、念のために指輪の嵌った指を拾い上げる。
嗅覚センサーを近づけて嗅いでみる、が、最期の醜態から予想したように、やはり大した奴とは思えなかった。

まあ、良い。
その辺りの詮索は、あのウェールズとか言う人間がやるべきことであって、おれやルイズには関わりあいのないことだ。

天幕を出ると、遠く、ニューカッスル城の小塔のテラスに佇むルイズの姿が見える。
人間の目では豆粒ほどにしか見えくとも、ナイトの視覚ならば、その睫のかすかな動きまで見て取ることが出来る。
攻撃肢を振って無事を知らせるかどうか、ほんの少しだけ迷う。
が、ある程度感覚を共有している以上、ルイズにはおれの無事が分かるし、おれにはルイズの無事が分かる。
今更知らせる必要はないし、そもそも、その、そう、そういうのはおれには似合わない。
別に気恥ずかしいとか照れくさいとか、そういうことではない。

とにかく、と強引に思考を断ち切る。
帰るか、相棒のところに。

アルビオンの空は、どこまでも蒼かった。


かくして、ニューカッスル城攻防戦は、誰一人予想し得ない形で幕を閉じた。
死傷者数は、およそ一万。
そのうちの半分以上が、混乱の中で起こった同士討ちによるものだといわれている。
この一戦により、指導者の大半を失い、
さらに奇術ともいうべき謀略が暴かれたレコン・キスタは自らの重みで瓦解した。
司令官を失った前線指揮官の殆どは原隊へ復帰し、
主だったアルビオン貴族たちも、生きている者は、王党派への恭順の意を示した。
今だレコン・キスタの理想を掲げ、王党派への反抗を続ける者もいないではなかったが、
あくまでも地方勢力にとどまり、もはや大勢を覆すだけの力は残されていなかった。
アルビオン王家を襲った未曾有の危機は去った。
無論、内乱の残り火とでも言うべきものは残っているし、その鎮火にはまだ数年の時を必要とするだろう。
だが、六千年の時を耐え続けたアルビオン王家は、またしてもしぶとく生き残ったのだ。

時代は新しい階梯へと進もうとしていた。



[5204] ゼロの黒騎士 最終回
Name: 早朝◆74a45303 ID:a07c8492
Date: 2008/12/09 00:58
アルビオンからの撤退は、長く苦しい道のりとなった。
雨の如く降り注ぐ弓矢は、アルビオンを救済した聖女を称える賛辞であり、
林の如く突き出される剣は、邪悪な陰謀を打ち砕いた救世主を讃えるために掲げられた握り拳だった。

当然といえば当然の話なのだが、気が付けばルイズは、救国の聖女という事になっていた。

もはや風前の灯火も同然だったアルビオン王家は、再び息を吹き返した。
この功績は一体誰に帰すのだろう?
それは勿論、異形の使い魔を従えた一人の少女。
我が身の危険も省みず、トリステインから訪れた、最後の大使。

では、我々は、一体彼女にどうやって応えればいいのだろうか。
祝宴? 受勲? いや、そんなものでは足りない。
内乱で領主を失った封土を与え、アルビオン貴族として迎えようではないか。
爵位はどうする。伯爵? いっそ公爵に? いや、まだそれでも国を救うという大業に報いたとはいえない。
そう、この献身に応え得る報酬はただ一つ。

褒め称える側としては、極めて都合が良い事に、ルイズは若く美しい乙女であり、
更に言えば、他国とはいえ、伝統と格式と威勢を誇る公爵家の娘。
そして、救われた格好のアルビオン王国には、ちょうど歳の釣り合いが取れそうな、未婚の皇太子が存在した。

当たり前のように導き出される結論。
アルビオン救国の聖女を、未来の国王妃として、迎え入れようではないか。

無論、提案した側は、こんな良い話が断られる筈がないと、心の底から信じていた。

内々にこの話がルイズへと伝えられた時の事を、キュルケは後にこう語っている。

“中々の見物でしたわ、あれ”

最高級の白磁のような肌が、白から青、そして赤く染まる色彩の変化を見届ける前に、
凶報を告げる使者は去ったものの、ルイズは頭を抱えた。
結論から言えば、当人同士の都合やその他諸々を一切無視したこの計画は、話がウェールズにも伝わった時点で、
内々のうちに叩き潰される事になるのだが、この一件は、思いの外ルイズに大きな衝撃を与える事になる。
話の内容が、ではない。
まあ、勿論アンリエッタに対する申し訳なさとか、いきなり断ったりしたらウェールズに対して失礼に当たるのではないかとか、
考えなかったわけではない。
考えなかったわけではないが、衝撃を受けた一番の理由は、
この婚約話の裏側にある、ナイトの力をアルビオンに留め置きたいという思惑が、
あまりにもあからさまだったからだ。
覚悟はしていた。
だが、まさかこんなにも早く、こんな形で迫られるとは思っていなかった。

ルイズは己の覚悟の甘さを心の中で笑う。
自分はこれからずっと人の好意の裏を疑って生きなければならない。
だが、それがどうした。
わたしは、あの光の中で、覚悟を決めたはずだ。
こんな事で、絶対にわたしは追い詰められたりはしない。
絶対に、絶対に、わたしはナイトをただの力なんて考えるようには、ならないんだから!

とはいえ、流石に憂鬱になった。
短い時間の間に、様々な祝宴やら行事やらに引っ張り回された挙句、珍獣扱いされていた所為もあって、
肉体的にも精神的にも疲れきっていたことも、悪い方向に作用した。

そんなわけで、トリスタニアへと報告へ向かうためにシルフィードの背に乗るルイズは、
口からエクトプラズムが漂いだしていても不思議ではないほど憔悴していた。

「大丈夫なのかね、あれ」

見かねたギーシュが、キュルケに耳打ちをする。

ちなみに、当初、ルイズは再び王立空軍の旗艦となった『ロイヤル・ソヴリン』号に乗って、帰途に着くはずであったのだが、
流石にそれは勘弁してください傍から見たらアルビオン唆してトリステインに攻め入ってるようにしか見えませんと、
土下座せんばかりの勢いで断り、何とか計画を取り消してもらっていた。
だが、見送りの一つもないまま帰しては、アルビオンの沽券に関わるということもあり、折衷案として、
因縁深い『イーグル』号に乗り、ラ・ロシェールの街までウェールズ直々に送り届ける、という形に落ち着き、現在に至る。
ナイトは、流石にシルフィードには乗りきらないので、直下をぴたりと離れずに疾走している。
ルイズはナイトの背面装甲に乗ってトリスタニアまで行くつもりだったのだが、
掴む取っ手さえない高速移動体に長時間座っていられるはずもなく、あえなく断念した。

気のない返事をギーシュに返しながら、まあ、仕方がないわよ、とキュルケは思う。
ナイトの力は、個人が抱え込むには強力すぎる。
例えば、何かのきっかけで、ルイズがトリスタニアの住民を皆殺しにしたいと願えば、
そして、真実それがルイズの願いであるならば、ナイトはそれを躊躇うことなく聞き届けるだろう。
それでなくともナイトの力は、あまりにも直接的に人の運命を容易く捻じ曲げてしまう。
ニューカッスル城攻防戦での活躍を、世人はアルビオンの危機を救ったと言うが、こういう言い方もできるのだ。
ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールは、たった三百人を救うために一万人以上殺した、と。

キュルケは、ルイズの選択を間違っているとは思わなかったし、
クロムウェルが何をしていたのか明らかになった今となっては、
あのまま放置しておけば、もっと酷い事になっていただろうとも思う。
だが、問題はそういう事ではない。
ルイズの決断一つで、死ぬはずのなかった数千人が死に、
一つの国の未来を全く違う方向に変えてしまった、いや、変えてしまえる事だ。
これから先、何事か起こる度に、ルイズは苦しむ事になるだろう。
それは、力で解決できることならば、およそどんなことでも思い通りになってしまうという苦しみだ。
手に掛けた命の数に戦慄き、その手で救えなかった命の重さに、後悔で身を焼く日も来るだろう。
だが、それでも力を振るわずに済ませる事は出来ない。
何故なら、“ナイトの力をもってすれば、国家を救うことさえ出来る”のだから。

そんな苦しみは、トリステインという国にでも放り投げてしまえば良いだろうに、きっと、ルイズはそうしない。
ルイズは、そんな理由で、自分の使い魔を放り出したりはしない。

このままでは、ルイズの人生は冷え冷えとしたものになる。
それを思うと、キュルケは、心の奥底で、説明のし様がない衝動に駆られるのを感じた。
目の前で特徴的な桃色がかったブロンドが揺れる。
頼りないその背中を、そっと抱きしめた。
びくりと震える耳元に、そっと囁く。

「ねえ、ルイズ。こうしていると暖かいでしょ?
 忘れちゃダメよ、暖かいって感じる貴方がいる事を」

だから、忘れないで、貴方が人間だって事を。

「頑張って、頑張って、それでも耐えられないくらい辛くなったら、ナイトと一緒に逃げてしまいなさい。
 その時は、あたしが匿ってあげるわ」

ルイズの肩が、小さく震える。
泣いているかもしれない顔を、覗き込まない分別くらいは、キュルケだって持ち合わせている。
小さな、本当に小さな呟き。

「……ダメ。キュルケに迷惑掛けちゃう」

予想通りの答え。
強く、強く抱きしめる。

「馬鹿ね。貴方があたしを頼ってくるなんて、よっぽどの事に決まってるじゃない。
 そんな時に手を差し伸べないほど、あたしは無慈悲な女じゃなくってよ?」

「……うん」

全くもって、とキュルケは思う。
あたしの周りは、ちいちゃな女の子に限って、重いものを背負ってるのね。
がばちょと腕を広げて、タバサも一緒に抱きしめた。

「タバサもそうよ。
 困ったことがあった時は、あたしがいる事を思い出してね?」

どんな時も表情を変えないキュルケの一番の友人は、やはりこの時も眉一つ動かすことはなかった。
だが、キュルケの言葉にポツリと答えを返す。

「覚えておく」

その答えに、キュルケは大きな笑顔を浮かべる。


蚊帳の外に置かれた格好のギーシュは、そんな心温まる光景を、ぼーって眺めていた。
タバサの髪の色に、ニューカッスル城で出会った美女の面影を思い出す。

“……結局、彼女はなんだったんだろうなぁ。名前くらい聞いておけばよかった”

ルイズと合流して、暫くして気が付いたら姿を消していたのだ。
惜しいことをしたなぁ、と、ギーシュは思う。
そんなギーシュの思いを見透かしたように、シルフィードがきゅきゅいと一声鳴いた。
トリスタニアは、もう目と鼻の先にある。


ルイズからの報告を受けた後、アンリエッタはすぐさまマザリーニとの会見を設ける手はずを整えた。
そして今、マザリーニの執務室には、ただ冷え冷えとした沈黙だけがたゆたっていた。
室内にいるのは、マザリーニと、アンリエッタだけ。
つねに傍で控えている秘書官も今だけは席を外している。

「知っていたのですね、マザリーニ枢機卿」

椅子に座るアンリエッタに、机を挟んで相対する形のマザリーニは、沈黙したまま答えようとしない。

「わたくしのウェールズ様への想いも、あの恋文のことも、全て!」

ゆっくりと重々しくマザリーニは口を開く。
固まりきっていた空気が、それだけのことでマザリーニの側に流れ出したようだった。

「勿論、全て存じ上げておりました。
 存じ上げた上で、殿下のご婚約の話を進めたのですから」

何か問題が? と言わんばかりの答えに、アンリエッタは思わず鼻白む。
だが、確かにその通りなのだ。何も問題はない。
彼女自身、ルイズに向かって、好きな相手と結婚するなんて、物心ついた時から諦めていると言っている。
王族にとって、恋と結婚は所詮別物なのだ。
だが、ならば手紙の文言は問題にはならないというのだろうか?
あの一言に込めた気持ちは、国という巨大なシステムを揺るがすことさえ出来ないのだろうか。
搾り出すように、呟く。

「……なら、あの手紙は。
 手紙の中で、わたくしはウェールズ様を愛するとブリミルの名の下に誓いました。
 それも知っていたというのですか?」

「ええ」

勿論、と事もなくマザリーニは首肯した。

「そのことについては、先方と対策を協議済みでした。
 隠すからこそ、弱みになるのです。
 その存在を周知してしまえば、ああいったものは弱み足り得ません」

もっとも、至極繊細な民衆の心を、無用に騒がせないための手は打っておく必要はありますが、と枢機卿は続ける。
ならば、全部無駄だったのだろうか?
あの悩みぬいた日々も、眠れぬ夜も、ルイズに密使を頼んだことも。
その思考を読んだように、マザリーニは言葉を繋いだ。

「いいえ、無駄ではありません、殿下。
 決して、無駄などでは。
 少なくとも、殿下が遣わしたラ・ヴァリエール嬢は、
 ウェールズ殿下の命どころか、アルビオン王国の命脈を救いました」

畏れながらも、殿下の事は、おしめをされていることから存じ上げておりますが、
この度、初めて出し抜かれましたな、とマザリーニは呟く。
その顔に、微笑みめいた表情が浮かぶのを、アンリエッタは呆然とした思いで見つめていた。

そういえば、この男は昔はこうではなかったはずだ。
もっと昔は幸せそうな表情をしていたはずだ。
何時からだろうか、この男が険しい表情しか浮かべなくなったのは。
何時からだろうか、この男が鶏の骨と揶揄されるほどやせ細ってしまったのは。
前王である、父が死んでからだ。
ただ一人で国という重荷を背負う苦行が、枢機卿をこうまで変えてしまった。

「……恨んでいただいても、構わないのですよ?
 アルビオンは救われ、レコン・キスタの脅威が去ったとしても、
 ゲルマニアに殿下がお輿入れする事には変わりがありませぬ」

マザリーニは、クロムウェルによるレコン・キスタの蜂起が、
半ば以上あるマジックアイテムに力に頼るものだと知ったときから、何者かの関与を確信していた。
一介の司教に、そのようなアイテムを手に入れるツテも、知識も存在するはずがない。
誰も彼もが、危機は去ったとただ浮かれるばかりだが、
むしろ、目につかない形となったことで、脅威は高まったのかもしれないとすらマザリーニは考えていた。
そんな時に、婚約を破棄し、自ら孤立するわけにはいかない。
トリステインのような小国ならば、尚更。

執務室を再び沈黙が支配する頃、マザリーニがポツリと言った。

「それで殿下が楽になるのでしたら、この老骨を存分にお恨みください」

恨む?
確かに、身の不幸を、全てマザリーニの所為にしてしまえれば、楽になれるだろう。
だが、そうする資格が自分にはあるのだろうか。
目の前にいるのは、誰よりも不幸な一人の男。
背負う重みに押し潰されそうになっている事に気づいてすらいない。
果たして、自分には、その男の重荷をもう一つ増やすだけの資格があるのだろうか?

「わたくしは……」

今、自分は何を言おうとしているのだろうか?

「貴方を許しますわ。マザリーニ枢機卿」

驚愕に、マザリーニの目が見開かれる。
これで出し抜いたのは二度目ね、と心の中の冷静な自分が呟いている。

「政に興味の持てぬ母、何も知ろうとしなかったわたくしに代わり、よくぞこの国を支えてくれました」

「殿下……」

息を一つ吸い込む。
マザリーニを恨んではいない。その言葉に嘘はない。
だが、この一言は、彼を縛る呪詛になる。

「国王代理として、最後の命を下します。
 トリステインを守りなさい。
 この国と、この国に拠って生きる全ての民を守りなさい、マザリーニ枢機卿」

「誓って、その言葉の通りに」

机を立ったマザリーニが、膝に床をつき頭を垂れる。
アンリエッタは、椅子から立ち上がり、その誓いを受け入れた証に、マザリーニの肩に杖を置く。
誓いは為された。彼はその生涯をトリステインという国に捧げるだろう。
例えそれが、心休まる日の来ない暗い路だとしても、彼は歩き続けるだろう。
今、この日の誓いを胸に、もはや、重荷を重荷だと思うことすらない。
アンリエッタは、その事を思い、満足の吐息をもらした。


それより数日の後。
鮮やかな初夏の日差しの下、魔法学院傍の平原には、爽やかな風が渡る。
若い恋人たちの語らいが似つかわしいそんな風景の中に、闇色の昆虫がでんと居座っている。
似合わないことこの上ない。
光を吸い込むような、艶のない黒い背面装甲の上に一人の少女が丸まって眠っていた。
桃色がかったブロンドという特徴的な色の髪が緩やかに波打ち、同年代の少女と比べても、かなり小さな、
もとい慎ましやかな胸元が、小さく上下している。
その胸にかき抱くようにして抱きしめているのは、古色蒼然とした一冊の本。
大理石を磨き上げたような指には、澄み切った湖を映しこんだ蒼い宝玉が光る。
再び、風が吹く。
かすかに、だか、確かに革の装丁が光を発した。


かくして、虚無《ゼロ》のルイズの伝説が始まる。



歴史的補項

アンリエッタ・ド・トリステイン

ゲルマニア皇帝アルブレヒト三世のもとに嫁ぐ。
良くも悪くも開放的なゲルマニアの気性に影響されて、眠れるナニかが開花したのか、
瞬く間にアルブレヒト三世を尻に敷くことに成功。
双子の男子を含む、三人の子に恵まれ、皇妃としての責務を全うする。
誰も予想しなかったことだが、家庭的にはそれなりに幸せだったようだ。
幾らでも表向きの政治に口出しできる立場であったが、
自らの政治的センスのなさを自覚していたのか、その生涯にわたり政治的な影響力を行使することはなかった。


ウェールズ・テューダー

クロムウェルによる内乱を鎮圧した後も、反乱や暴動が続発するアルビオンの平定の為に東奔西走する。
彼の獅子奮迅の活躍により、アルビオンがようやく一応の平穏を得た直後、今度は父王ジェームズ一世が崩御。
アルビオン王となる。
アンリエッタと、その第二王子の暗殺未遂事件に端を発するガリア戦役、いわゆる虚無戦争では、
ロマリア・アルビオン・トリステイン・ゲルマニアの神聖四ヶ国連合の総司令官として、勝利に多大な貢献をする。
一般的には、美しい森の妖精との悲恋物語の主人公のモデルとして知られるが、
後世のその優しいイメージとは裏腹に、長く戦場に身を置いていたため、在位中は騎士王などと呼ばれていた。


ギーシュ・ド・グラモン

魔法学院卒業後、陸軍に入隊。
ガリア戦役での活躍を経て、最終的には元帥位に昇る。
彼と、彼の兄たちの活躍を以って、武門としてのグラモン家は完成したとされる。
銃兵とメイジの有機的な連携による火力の集中をもっとも得意としていた。
その功績を称えられ、退役後、準男爵位を賜る。


キュルケ・アウグスタ・フレデリカ・フォン・アンハルツ・ツェルプストー

魔法学院在学中、ある事件をきっかけに、教師であったジャン・コルベールを親密になる。
卒業後に結婚。
彼の良き妻、良きパートナーにして、一番弟子、そして最大の理解者となる。
コルベールの死後、彼の遺作となった探検船「東方」号に乗り、東方へと出発。
この前代未聞の大冒険が成功した事により、ツェルプストー家は東方交易の窓口として莫大な利益を上げた。
これを基に、キュルケは後のツェルプストー財閥の基盤を築くにいたる。
トリステインとゲルマニアの併合の機運高まる頃、彼女とルイズの友情は、
相当に美化された形で、巷間に流布していたが、その事に触れられる度に、なんとも言えない表情をしていたという。


シエスタ

魔法学院退職後、タルブの村へと戻る。
その後、数年の時を掛けて、祖父の残した手稿を纏めなおし、
更に自らの見聞を加え、大著『ハルケギニアの動物誌』を記す。
明らかに時代を超越した解剖学に基づく生物分類と、細密なスケッチは様々な分野で大反響を起こし、
当初、一部の好事家のための珍本扱いであった本書は、粗悪な海賊版や贋物、
果ては二匹目の泥鰌を当て込んだ類似品まで生み出した。
この一大ムーブメントが、やがてハルケギニアに博物学という概念を生み出すこととなる。
ちなみに、ノワールの詳細な身体的特徴が今に伝わっているのは、最初の治療の際に、
彼女が記録していたからであることは、意外に知られていない。


ジャン・コルベール

蒸気機関の発明者にして、飛行機械のパイオニア。内燃機関の概念も提唱している。
存命中に発明、考案した発明品は多岐に渡り、
その幾つかはハルケギニアの社会構造を一変させるほどのインパクトを持っていた。
晩年は、妻であるキュルケのサポートのもと、メイジを必要としない飛行機械の発明に心血を注ぐも、
その第一歩である『東方』号の完成直前に病死した。
草稿などで、内燃機関を用いた完全無魔法の飛行機械の可能性に言及しているなど、
その先見性は同時代人の追随を許さず、一部では異世界からの訪問者であるなどとも言われているが、
それならば『東方』号の完成に、あれだけの時間を必要とするはずがない。
ともかくも、時代を変えた一人である事は間違いなく、彼の死後実現した『東方』号の冒険により、
ハルケギニアに、いわゆる大航空時代が訪れた一事からも、その事がうかがえる。


タバサ(シャルロット・エレーヌ・オルレアン)

魔法学院卒業後、本格的にガリアの特殊部隊『北花壇騎士団』の一員としての活動を開始する。
優秀なエージェントとして、様々な謀略や陰謀に加担し、これを成功させ、
この頃から、コードネームである『雪風』は、社会の裏側で恐怖をもって語られることとなる。
ガリア戦役中も、それは変わらなかったのだが、人質同然の扱いであった母が行方不明になると同時にガリアを出奔。
キュルケを頼り、ゲルマニアに身を寄せる。
それ以降は、ガリア攻勢の最右翼として、様々な作戦に従事。
当初こそ中々信用されなかったものの、単独行動を任せられる強力なメイジとして、重宝されていたようだ。
戦後、唯一残ったガリア王家の直系であることから、新生ガリア王国の王位に推されたが、これを固辞。
使い魔のシルフィードと共に姿を消す。
その美貌と、数奇な運命、謎めいた後半生から、叙事詩や御伽噺のヒロインとして、
彼女の名は広く人口に膾炙することとなる。
彼女は、物語の中の英雄として、後の世に語られる存在となったのだ。


フーケ(マチルダ・オブ・サウスゴーダ)

ガリア戦役中、多大な功績があったとして、ウェールズによりサウスゴーダ太守に封じられる。
家名の再興を果たしたものの、前歴がやや不明瞭な事もあって、
偽者であるとか、ウェールズの愛人であるなどと言われていたようだ。
社交界での陰口は兎も角、領民達からは、領地の福利厚生に心を砕き、
特に戦災による孤児の保護に力を入れた、中々の名領主として慕われた。


マザリーニ

アンリエッタがゲルマニアに嫁いだ後も、宰相としてトリステインをゲルマニアの併合から守り続けた。
トリステインの国力は、ゲルマニアに比べると明らかに劣るものの、
ゲルマニアには本質的に連邦国家群であるという弱点があり、トリテインを併合すると、
二番手三番手の地方は、ゲルマニア国内での発言力が自動的に一つ下がるため、併合を忌避する風潮が強かった。
マザリーニはこれを利用して、ゲルマニア国内の併合派を牽制し、
決してゲルマニアの意思を統一させないという方法で、これを成し遂げた。
とはいえ、相変わらずトリステイン国民からの人気は低く、アンリエッタをゲルマニアに売った売国奴として、
以後百年以上にわたり、主要なフィクションの悪役の座を占め続ることになる。
アンリエッタの第二王子が、トリステインの王位につくと、かねてより進めていた仕事の引継ぎなどを終えて引退。
その直後に、精根尽き果てるようにして死去。老衰であったと伝えられている。


ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール

アンリエッタの結婚式のために、始祖の祈祷書を預けられたことをきっかけに、虚無の属性に目覚める。
その事が判明した直後に、何故か落ち込んだらしい。
学院在籍中も、様々な事件に巻き込まれながら、何とかトリステイン魔法学院を卒業。
卒業後は、アンリエッタ付きの女官として、ゲルマニアに赴く。
これは、双子の男児を出産したばかりのアンリエッタと、将来トリステイン王となるはずの第二王子を守るために、
マザリーニが手配したものであったようだ。
かの地にて、キュルケと共に暗殺を未然に防ぎ、その裏にガリア王国の蠢動がある事を突き止めることに成功。
これが後の神聖四ヶ国連合による、ガリア侵攻――ガリア戦役の最初の引き金となった。
ガリア戦役時は、ガリアと協力関係にあるエルフの精霊魔術への最後の切り札として、
前線を文字通りの意味で飛び回り、多くの兵を救った。
戦後は、再びアンリエッタの女官として、静かな日々を送ったようだ。
この時期のルイズをさして、『皇妃閣下の私的エージェント』であったとする言説は、
フィクション、ノンフィクション、ノンフィクションと称する出所の怪しげな手記、その他諸々枚挙に暇がないが、
前述の通りアンリエッタは政治的な関わりを避ける傾向にあり、どれも信憑性が薄いと断言せざるを得ない。
だが、そういった無責任な流言が然もありなんと思わせるほど、
様々な逸話に彩られた、まさに波乱万丈な人生を送った人物であり、
彼女こそが、我々が知る最後の『伝説』の中の人物であったといえるだろう。
なお、その生涯の最後まで、傍らには異形の使い魔の姿があったという。


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