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[42755] 竜星の宰相(戦記物・ひとまず完)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:e6b9fc29
Date: 2021/06/07 00:46
ここに書き込むのは初めてのようなそうでないような気がします。

戦国だとか幕末っぽいのとか洋の東西問わずそれっぽい文化だとか戦記だとかアンチヒーローだとか変身だとか特撮だとか謀略劇だとか異類婚姻譚だとか身分差だとか純愛だとか野心マシマシの欲望に正直な主人公だとかけものだとかフレンズだとかを書きたかったので一緒くたにしてお出ししました。

カクヨムにても連載中です。



[42755] プロローグ:竜中の人 ~夏山星舟~(前編)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:e6b9fc29
Date: 2017/08/28 20:19
 光龍三十五年。
 その日、一つの国が竜によって滅ぼされた。
 人の軍は竜に負け、竜は人を支配した。

 ……だが、そんなことには関係なく、少年は餓えていた。渇いていた。病んでいた。その左眼は……腐食して欠落していた。

 重い足取りで歩けば、針の波にさらされるかのごとくに幼い身体を激痛が苛み、その痛みが寄せ引きを繰り返すつど、口の端からは苦悶の声がちいさく漏れた。

 すれ違うものはいる。
 だが、彼ら人間はそれぞれの荷や財産を持って自主的に退去するのに手一杯で、彼に拘っている余裕はない。
 そもそも、日常時においても彼らに施されたためしなど一度もなかったが。

 彼らにすれ違いざまにぶつかれば、向けられるのは嫌悪と忌避。

 痛みと餓えと嫌厭の狭間、朦朧とする意識のなかで、彼は自分がどうやってたどり着いたかはしらない。
 だがそこは、竜たちに占拠された庁舎だった。
 戦勝の祝賀会を開く彼らは、酒を飲み、肉を喰らっていた。
 笑っていた。喜びを噛み締めていた。

「あ、あぁ……」

 少年は悲痛に呻く。
 知らず、身を潜めていた垣根から這い出て、腕を突き出していた。

 竜。
 強き者、硬い者、賢い者、輝く者、美しい者、誇り高い者、貴い者、富める者、奪う者、与えられる側の者、支配する側の者。
 食う側の者。

 自分と彼らの、何が違う?
 髪がある。目鼻がある。同じ肌を持ち、二足で立って行動で意志を示し、言語を交わす。口や鼻から呼吸し、肉を食らい、水や酒を飲む。衣服をまとい、文化文明を生み出す。

 広げた五指が、虚空をつかむ。
 彼らの影を、彼らの放つ栄光の輝きを、その上に広がる無限の星々へと。

 隻眼の少年は、空の左眼から血涙を流して渇望した。
 彼らのごとき力を、権威を、名誉を、財を。

 いや、それだけでは足りない。
 もっと、もっと……!
 何もかも、ぼくの……ッ!!

 伸ばしたその手を、何かがつかみ返す。
 全身を強張らせた少年の前にいたのは、一人の、いや一匹の竜の少女だった。

 命と気品に満ち足りた彼女は、小柄なその身を屈ませて、にっこりと微笑んだ。

「一緒に、食べる?」

 その出会いが、すべての始まりだった。



[42755] プロローグ:竜中の人 ~夏山星舟~(後編)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:e6b9fc29
Date: 2018/04/15 21:02
 光龍四十五年。
 大陸東部、尾根(おね)州、石場(いしば)。

 そんな味気ない、不毛という言葉を想起させる地が、東部中央に位置する要衝だった。
 名の通りにかつては火燃石の採掘場として有名な場所だった。
 その産出量が下降気味にある今でも、その輸送のために開けた道は経済的に、あるいは軍事的に機能している。

 その要地も、人の手から別のものへと渡ろうとしていた。

「人間どもにしては中々やりますな」
「うむ、存外頑強に抵抗しおった」
「まぁ、この山が尾根州最後の砦であるからなぁ」

 楽観、おごり、あるいは上からの目線による、卑弱のものたちに対する称賛。
 彼らの陣営には、戦場とは思えない弛緩した雰囲気があった。
 だが、陣幕をまくり上がった瞬間、彼らの顔が一様に緊張を取り戻した。
 色とりどりの髪色が動き、一対の宝玉のような、透明度の高い両目が現れたふたりを見つめていた。

 ひとりは、蜜色の長髪を結い上げた妙齢の女性。その眼は他の者とは違い、一目でわかるほどにあざやかに、赤と青とで、左右非対称な金銀妖眼となっていた。
 名目上とは言え総大将としての責任からか、あるいは初陣であることの緊張感か。戦場には不釣り合いな白皙は、微笑を浮かべつつも、やや強張りを見せていた。

 そんな彼女に敬意と微笑ましさを見せていた彼らの視線が、後につづいた青年を見た瞬間、一転した。
 少年らしさを残す、鼻筋の通った顔立ち。やや背丈は不足気味ではあるが、半マンテルと陣羽織を組み合わせて瀟洒に着こなす、引き締まった肉体。
 だが、彼らからしてみれば常識外の生き物だった。
 カラスを思い起こさせるツヤのない黒い髪。同色の黒い瞳。だが、その瞳は顔の右にしか存在していなかった。
 左目は、眼帯で覆われている。中に眼球らしきものは見えるが、それは頭蓋の形が歪まないようにするための詰め物に過ぎなかった。

 何より異様なのは、それは今、十数吉路(キロ)隔てて相対しているものと同種……ヒトだった。
 無論、彼らの部下の中にも人間はいる。だがここまで堂々と陣中に出入りできる人間は、この男ぐらいなものだろう。

 侮蔑、純粋な嫌悪、あるいは好奇。
 色とりどり、様々な感情の入り混じる視線を、彼は涼やかな微笑とともに受け流した。

 上座に着席した娘の咳払いが、一瞬漂った不穏な雰囲気を打ち消した。

「皆、ここまでご苦労でした。このシャロン・トゥーチ、おかげで何事もなく初陣を勝利で飾ることができました」

 そう言って礼を告げる彼女に、幕僚たちは表情を崩した。

「いやいやなんの」
「全ては陛下や総領閣下のご威徳と、姫様の督戦によるものです」

 と褒めはやす一方で、平素の彼女に珍しく強気の発言をいさめる声もあがった。

「しかしまだ、勝利と決まってはおりませんぞ。敵軍はますます頑強な抵抗を試み、意気盛んとか。遠からず、反撃に出るやもしれません」

 対する女司令はかぶりを振る。そして、みずからの脇に立った隻眼の青年に向けて視線を送った。自然、陣営の者たちも追従するかたちで注視する。
 微笑を浮かべたままに、青年は表情を固めていた。じらすかのように、あるいは話題を振られて自身が困惑しているかのように、それをどう切り出そうか思慮するかのように。
 やがて、その口だけが動いた。

「あちら……すなわち人間どもの藩王が病死したようです」

 こともなげにもたらされた急報に、青年への悪感情を忘れたかのように一同は騒然となり、隣や向かいの者たちと談じ合った。
 嘘か真か。ならば敵は退く気なのか。となれば敵の士気の高さとつじつまが合わぬ。
 そんな彼らの耳に届くか届かないか、といった声量で青年はつづけた。

「我々の耳に届いた、ということはとうに敵陣にもその報が届いていることでしょう。あの意気はあくまで見せかけ。おそらくは今夜あたりにでも、この地を放棄して退く肚でしょう」

 淡々とつづけられるその言葉にいつしか騒がしさは止む。あとは司令官の裁断を待つのみ。そんな空気が出来上がった。
「皆、聞いてのとおりです。これで戦は終わりました」
 その中で、彼女は言を発した。

「これにて我々も兵を退き、領都へ凱旋を」
「恐れながら、総領姫様」
 だが、その副官は女主人の言葉を遮り、うやうやしく頭を垂れた。
「ここは、追うべきかと」
 そして、彼女の意見とは対する進言をおこなった。

「追撃しろって言うの? じゃなかった……せよと、言うのですか?」
「元よりこの地は、先帝たる雹龍帝ナラグジャ陛下が避寒地として愛用されていた土地。それを資源欲しさに人間どもが略取し、私物化いたしました。この地を満たすほどの彼らの流血でもってその代償をあがなわせ、かつ神陵にて眠る陛下のなぐさめとすべきかと」

 故事を引き合いに出して弁をふるっていた彼は、刺さる視線をまるで意に介さないようにふるまい、そして最後に締めくくった。

「とはいえ、今まで前線にて奮戦されていた皆々様におかれてはさぞやお疲れのことと存じます。願わくば、我ら第二連隊六〇〇名にて、その任に当たりたく」

 ここまで渋面を作りながらも、その饒舌に耐えていた幕僚たちは、ここにきて我慢の限界を迎えた。

「黙れっ! さっきから聞いておれば、まるでおのれが竜であるかのようにべらべらと!」
 まず立ち上がったのは、今回先鋒の大将をつとめたブラジオ・ガールィエだった。こと、この成り上がりの人間嫌いの急先鋒でもある彼は、ここぞとばかりに威圧感をともなって詰め寄った。燃えるような橙果色の瞳がくわっと開いて青年を射貫くかのように光を放っていた。

「大方、ここにきて手柄を立てられぬことに焦りでもおぼえたのであろう。ヒトの浅知恵など、我らに通じると思うてか」

 その分厚い巨躯は、至近から見上げる青年にとっては岸壁のようにさえ見えるだろう。彼ほどではないが、青年よりも一回りも大きい部下や同僚たちがまた、それに続いて青年を囲った。
 だが、彼はそんな状況下でも怖じる様子は出さず、肩をすくめた。

「別段たくらむことなど……ただ自分は、皆々様の心身や先帝陛下のご無念を思えばこそ」

 などと、隻眼の小僧はぬけぬけとのたまう。
 彼を擁護すべく腰を上げたシャロン
に、煉瓦色の髪を逆立てたブラジオが振り向いた。

「姫様、我らにこそ、その任を与えていただきたい!」

 もともと、青年に言われるまでもなく、ブラジオらには追撃したい欲求があった。
 最近生意気にもたてつく人間どもを、思う様に屠りたいという残酷な本能がうずいていた。

 シャロンは思案するそぶりを見せた。
 その互い違いの目が、青年の隻眼へと向けられる。
 彼は微笑を返した。

「皆さまに余力があるとはつゆ知らず、差し出口を申しました。しかしながら敵の士気が高いのもまた事実であり、その指揮も、退却のタイミングも凡将のそれとは思えません。おそらくは何らかの備えも」
「もう良いッ! その無駄口は閉じておくがよいわ!」

 地方豪族のひとりが放った恫喝に、彼はそれ以上の説明はせずに、しずしずとかしずいた。

「失礼をいたしました。……では、自分たちは遊軍として、皆様のご活躍を拝見し、向後に活かす学びとさせていただきます」

 そんな彼が浮かべた表情は、誰の目からも確かめることはできなかった。

~~~

 果たして、青年の予測は当たった。
 敵は夜陰に乗じて退き、それを追い立てながら彼らはひとつ山を越えた。
 そしてその先にあった盆地で、彼らは敵を、完全に捕捉した。

「各々、『牙』を剥けぇい!」

 ブラジオの号令一下、それぞれの兵を率いる将たちが剣を抜く。
 ――いや、それに類似した何かを、抜いた。

 あるいは何もない空間から、生じた雲から、あるいはほとばしる雷の中から。
 あれが、彼らが生まれた時から持つといわれる『牙』だ。
 その刃があらわになった瞬間、彼らの屈強な肉体が様々な、そして異形の装甲に包まれた。
 触れるだけで皮膚を切り裂きそうな鋭利なそれらこそ、彼らの『鱗』だ。

 彼らは自身につづく人間(ヒト)や獣竜(けもの)を叱咤しながら、盆地に陣取る敵勢へと向かっていく。
 おおきく飛び上がって敵の歩兵部隊に突っ込むと、それぞれ握りしめた『牙』を振りかざして、畏怖する敵に叩き込む。

 走る速さは彼らが放つ銃弾よりも速く、その外殻は砲弾でも容易に傷がつかぬほどに分厚く、対してその一撃は、そのいずれよりも速く、重厚で、ただひたすらに強い。

 それが彼ら真竜種……人が竜と呼ぶ知的生命の長たる種であり、すべての生命の根本ともされる存在だ。

 ――だが、そううまくはいかないんだな。

 青年は自身の連隊とともに丘陵地帯を迂回しながら、戦場を見守っていた。
 遊軍として配置されたそこからは、その推移があざやかに見て取れる。

 敵の中軍が退いた。そこに突っ込んだ竜たち率いる追撃部隊が、咆哮をあげながらそこを占拠した。
 次の瞬間、丘陵で待機していた敵が、砲撃と銃撃を開始した。
 西方大陸から輸入されてきたとおぼしき臼砲は、破壊の威力と範囲はすさまじいが、機動性は悪い。
 つまりそれは、最初からここに配備されていたものであり……敵は、ここを戦場としてあらかじめ設定していた。

 その火砲でもってしても、真竜種は傷つかない。
 だが、足止めはできる。彼らが率いる部隊はふつうに銃弾砲弾の雨嵐にさらされて、血の華を咲かせながら断末魔をあげ、損耗していく。
 彼らが率いているのは、彼らの土地の民だ。その多くは、人間や獣竜種だった。
 すなわちそれは、彼らの領地や部隊の人的資源の消費をそのまま意味している。

 そして竜たちが経済的、軍事的に麻痺している隙を突いて、人はあらたに領土をかすめとる。
 これが、いまだ竜たちに対抗手段を持たない人類種の基本戦略だ。

「苦戦しているようだな」
 副官の女獣竜種、リィミィが切れるような美しい声で言った。

「……ハハッ!」
 青年は、一笑で返した。
 それは陣幕の内での優雅なものとまるで違う。野性味をむき出しにしたような笑みだった。

「……まさか、予測してたか」
「そりゃそうだろうよ。連中にしても、ただで要所を返すつもりはないし、追撃を完全に振り払うためにも大々的な反撃はしてくる。となれば、偵察を出すほどの距離でもなく、オレらから山で死角となっていたこの盆地以外にない」
「なぜ、それを言おうとしない」
「言おうとはしたぞ? まぁ言い方が回りくど過ぎて、途中でやめさせられたけどな」

 リィミィは青い瞳をすがめて苦笑した。
 すでに青年の意識は戦場へと戻っていた。

「そろそろ本当に退くな」

 と頃合いを見計らい、部隊の足を一度停止させた。
 陣形を整える彼らを、登り始めた朝日が照らす。

 そして眼下には、脇腹をさらす敵勢。
 細州(さいしゅう)ごしらえの、軍刀を抜きはなち、彼らに向けて突きつけた。

「敵後方、崩れはじめたあたりへ仕掛けるぞ」

 端的に指示を伝える。敵が側面に回った敵に気がついたらしいのは、その時だった。
 もはや遅い、と彼は嗤う。
 誰よりも先んじて、青年は駆ける。
 その隻眼を、子どものように、あるいは星の光を宿したように輝かせて。

 彼の名は、夏山(かやま)星舟(せいしゅう)。
 竜の陣営における、唯一無二の、人の将であった。



[42755] 第一章:トゥーチ家の人々 ~領主館襲撃事件~(一)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:e6b9fc29
Date: 2018/02/18 22:52
 トゥーチ家管轄、東方領都六ッ矢(むつや)。
 六割の人間と三割の獣竜や鳥竜、そして一割の真竜種で構成されたその地方国家の首都は、多様な種のるつぼでありながら大過なく治められた、竜たちの統治の規範とも言える存在だった。
 十年の歳月をかけて完了した水路は民衆の衛生、生活環境を一気に改善させたばかりか、街の景観にも一役買っている。

 夏山星舟とその副官たるリィミィは、この『故郷』にいち早く帰還した。
 論功行賞も終えたとあっては、戦場にもはや用はない。次いで彼が願い出たのは、祝賀会の下準備だった。

 露骨な点数稼ぎ、という声は大きいが、それでも竜では成しえない細やかな気配りをしてこそ、人間たる自身の価値を見せることができるというものだ。

 そんな自分に負けず劣らず、街の住人たちは目ざとい。
 戦勝の飾りつけや露店を出してふだんは蔵入りしている品々を展開し、すでに祝いの雰囲気で凱旋軍の帰還を待っていた。
 もとより、十年前、人が敗北して国を奪われてもなお、居残った連中だ。
 金銭的な理由で出ていけなかった者もいるにはいるが、そんな事情を含めても、しぶとくたくましい。
 そういう人間の面を、星舟は嫌いになれなかった。

「時間もあるし、歩こうか」

 と誘ったのは、星舟だった。
「このあたりは、手癖の悪い奴らが多いですよ」
 人力車の運転手は、一応の義務としてそう注意してくれた。

「あぁ、よく知ってるさ」
 星舟は答えた。

 車を降りて、路地を歩く。

 ただ、小柄なリィミィには気の毒なことをした、と下りてから思った。
 自分より年上なのだが、小柄で骨細。顔だちも少女の面影……どころかどう見ても童女に近い。
 軍服の上からミィ家伝統だという白い狩衣風の羽織を打ちかけているが、これが裾や袖を持て余し気味で、それを引きずらないためには、常に背をそらすような歩き方をしなければならない。

 だが、気遣えば彼女の高い矜持を傷つけることになる。それを知っているから、内心では詫びつつも、あえて気づかぬていを装った。

 屋台でエビの串焼きを買い食いしながら歩いていると、
「靴磨き、どうですか」
 という声が聞こえてきた。

 見下ろせば、浮浪の身らしき少年が木箱の前に座っている。
 それなりに色を統一した書生のような風体だが、よく見れば靴や靴下の色、大きさ、意匠は微妙に異なっている。
 靴があるだけまだ贅沢な方だ、と星舟は思った。

「靴磨き、どうですか」
 少年は顔色を伺うような目つきとともに、そう言った。
 隻眼の将校は鼻を鳴らした。
 そして少年の商売道具である布巾を彼からもぎ取った。

〜〜〜

「良いか、布は指を重点に手に巻く。で、こうやって……円をえがくようにして磨く。土踏まずとかも忘れんなよ。ほい、これで一丁上がりっと」

 上着を脱いで中腰になり、みずからの手を汚しながらも自分の靴で実演する星舟を、あっけにとられた様子で少年は見つめていた。

「あとこんなところで商売するよりは、まっとうに靴履いてるヤツらの居住区へ行け。とかく竜どもは、人が自分らにへりくだって傅くのが好きなんだ」

 それに、と注意を付け足して彼はするどく手を伸ばし、少年の胸元をつかんだ。
 身構える彼から引き抜いたのは、夏山の蝉紋の縫われた革袋……自分の財布だった。

「こういうことをするなら、相手を選べ。ものを選べ。分量を選べ。家紋入りのものなんて根こそぎ盗れば、それこそアシがつく」

 声を低めてそう言うと、自身の頭の左横をたたいてみせる。

「死角からいったのは良い着眼点だ。けど、相手もそこが死角だってこと、自覚してるってことを忘れちゃいけねーな」

 表情を凍り付かせる彼の前で自身の財布を覗き込み、中身に増減がないことを確かめる。そのあとで鋼玉銭を何枚か取り出すと、少年の手に握らせた。

「話に付き合ってくれた礼金だ。とっとけ」

 そう言うよりも早く、少年の体が飛び上がった。
 突っぱねるように星舟の肩口をたたくと、その反動を勢いにして走り去っていった。

「ったく、商売道具置いてくなって」

 埃を払いながら立ち上がった隻眼の男の右側から、リィミィが預かっていた羽織と軍服を差し出した。それを肩からかける彼に、
「大丈夫か?」
 とリィミィは尋ねた。

「なに、時間には間に合うし、どうせ向こうで着替えも沐浴もする」
「そうじゃなくて、あの盗人突き出さなくて」
「良いんじゃねぇの? ひとり捕まえたところで、あの手の輩は三倍はいるから」

 それでも、人間が支配していたころの治世ならぬ痴世に比べたら、だいぶマシにはなったほうだ。

「その場のお情けではした金だけやっても、さっさと使い果たしちまう。大事なのは、生きるための知識を与えてやることだ」
「アンタがそうだったように?」

 透き通った藤色の瞳が、氷の矢のように視線を送る。
 星舟は皮肉な笑みをたたえた。答えはしなかった。

 やがてふたたび歩き始めたふたりに、白々とした陽光が降り注いでいた。



[42755] 第一章:トゥーチ家の人々 ~領主館襲撃事件~(二)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:e6b9fc29
Date: 2017/08/28 20:23
 かの東方領主の居館は、六ッ矢の街の西端に位置する。
 元はそこを収めていた斉場(さいば)家の所有だったものを召し上げ、装飾一切を竜ごのみの白を基調としたものに入れ替えた。
 本来であればそうした処置は『かの当主殿』の好むところではないが、そこが森、庭園そして河川とを障壁とした天然の要害であったことと、指導者の変更を民に伝えるためにはやむをえない処置であった。
 ただ、戦に敗れた斉場家の遺児旧臣のうち、望むものは藩国本土への移住を許し、また居留する者の多くを、そのまま相談役として残し、その生活と身分を保障した。
 今宵のような戦勝祝賀の夜会においても、招かれる立場であった。
 ……とは言え、元が自分たちの城であったことを思えば、面白くはないだろうが。

「聞きましたかな、例の男の件」
「あぁ、あの男」
「またも、武勲を立てたとか」
「横から野良犬のごとくかっさらったの間違いだろう」

 湿気と粘性をふくんだ声で、彼らはささやき合う。

「夏山家といえば、絶えて久しい旧家であろう。そればかりを重用なさって。他家との均衡も考えてほしいものよ」
「おや、ご存じないのか。夏山とは名ばかり。実際は、どこともしれぬガキよ」
「なんと!?」
「あの戦のドサクサにまぎれてここに紛れ込んだのを、あの変わり者の姫様が気に入られたのさ」
「そのようなものに夏山の名を与えたのか! ……まったく、何がどうなってそうなったのやら」
「竜の考えていることはよくわからん」

 リィミィは、たまに獣竜であることがうとましくなることがある。
 なまじ五感が人間や真竜よりもすぐれていると、いやな情報まで頭に入ってくる。

「人気だな」
 会話の内容までは聞こえずとも、時折向けられる視線から悪意は伝わってくるのだろう。礼服姿の星舟は肩をすくめた。
「放っておけ」
 傲然と壁にもたれて腕組みしながら、彼は嗤った。
「どうせ直接言う気概もない連中だ。まして、直接オレや竜に手をかけることもできない。あーやって自分らの中で完結させて、満足してるだけさ」

 東方領主が彼ら『相談役』に諮問したのは、せいぜい二、三回だった。
 それも基本的な文化や習慣のみ。あとはその下の下級官吏や街の顔役、商工の寄り合いから話をし、それからもろもろの調整をしていくのがもっぱらだ。
 つまり彼らは形ばかりの名誉職で、生活が約束されているだけで何の権限も実兵力も与えられてはいないのだ。

「その事実だけでも、連中がいかに閣下を呆れさせたか知れる」

 時刻になった。
 貴人の来着によって場の雰囲気が変わりつつあった。星舟はわざわざ『相談役』たちの前を素通りして、賓客たちの前に出た。

「皆さま、長らくお待たせいたしました。開会の前に、東方領主アルジュナ・トゥーチ様よりお言葉を頂戴いたします」

 手身近に前置きを済ませると、星舟は背後に控える主に目配せをした。
 鮮やかに赤くも、熾火のような温かさと柔らかさを持った双眸は、そんな彼に輝いて応じて進み出た。

 上下一対となった白い礼服は、ふつうの竜と比べて五割増しの布が用いられている特注品。それほどの大柄な肉体が動けば、それだけで客人たちは背を伸ばすというものだ。

「皆も知ってのとおり、あちらの藩王が死んだ」

 竜たちが軽く沸き立ち、杯を捧げ持った。

「だが敵とは言え、確たる戦略眼を持った良き大将であり、直接会うたこともないが尊敬にたる人物と言えよう。こたびの勝利を喜ぶなとも、嘆けとも言わん。だが、かつてかの仁を主と仰いだ者たちが、この場に少なからずいることを忘れるな。それが、強者たる者のつとめである」

 まるで鉄を声帯に持つような、低くもよく響く、公明正大にして堂々とした言であった。
 その巨体の裏で、星舟が顔を伏せて一瞬間笑ったのが、リィミィからの角度から見えた。
 だが、その意図までは読めなかった。

「それでは、乾杯!」

 顔を持ち上げて宣言した時には、彼はすでに竜の忠実な副官だった。



[42755] 第一章:トゥーチ家の人々 ~領主館襲撃事件~(三)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:e6b9fc29
Date: 2017/08/28 20:28
「警備に抜かりはないか。館の内部だけじゃなく、外や搬入物にも気を配れ」

 あいさつも終わり、宴もたけなわという頃合い。人の輪からも竜の群れからも外れたところに、数人の男女がいた。
 彼ら、第二連隊より選抜した兵に星舟はあれこれと指示を与えていた。

 俺たちも飲みたい、客ばかりずるい。
 そう文句の声があがるのに対し、

「俺が一番飲りたい」

 と返した。一同の愚痴が、笑いに変わった。

「まぁこれが終わったら奢ってやる。好きなもん頼んでいいぞ!」

 そう豪語すれば、笑いがさらに歓声と雄叫びに変わった。
 だが、それが良くなかった。いくつもの重なり合った声によって、背後から忍び寄る足音に気がつかなかった。
 声がひととおり止んで星舟が違和感をおぼえたときには、気配は彼の死角、左後ろの至近に立っていた。
「ッ!?」
 あわてて振り向いたその顔に、

 ぷに

 と、指が頬に突き刺さる。
 あどけない笑みが、後ろにはあった。

「隙だらけー」

 えへーと屈託なく歯を見せて、金髪の女竜は言った。
 戦場ではいろいろと障りになるからと髪を束ねていたが、下したままというのが本来の彼女ごのみらしい。
 白い肩を露出させたナイトドレスが似合う二十歳過ぎの立派な『成竜(おとな)』だというのに、その笑みのかたちも、性分も、出会ったころとなにも変わらない。

 ――だからこそ、調子が狂う。
 東方領主の長女、シャロン・トゥーチの傍近くにいると。

 星舟は苦さを、繕い笑顔で覆い包んだ。
 それとなく、彼女の手を自分の頬から外し、頭を下げた。

「……これはこれは姫。こたびの初陣と勝利、おめでとうございます」
「うん。セイちゃんのおかげでね」

 公然とその愛称で呼ぶな、と内心で毒づきつつ
「とんでもございません。皆さまもおっしゃっていたように、すべては大将たる領姫様の功でございます」
 と褒めた。

 やや誇張は入っているが、その賛辞は本音だった。
 二十歳という遅まきの初陣ながら、聞くべきは聞き、決めるべきはおのれで決定し、適材適所、均衡をよく保ち部隊を運用した。まさしく、大将としての資質は十分だと感じさせる采配だった。
 そしてそれは、戦局だけの話ではなく、政治的な均衡においても打倒なものだった。出陣したものほとんどが戦功を立てた反面、際立って活躍したものがいないのが、その証左だろう。
 もっとも、そこまで踏み込んだ思考ではなく
「功を立てられない方々がかわいそうだ」
 という程度の温情なのかもしれないが。

 ――おかげで本隊付のオレの活躍の場がなくなって、多少強引なやり方で功を挙げるはめになった。

 それでも、聞く耳を持たない無能であるよりかはよほど良い。

「……隊長、そろそろ任に戻ります。何かあればお申し付けください」
 リィミィが体裁をととのえた口調で言った。
「あぁ、悪かった」
 と星舟がその気遣いに詫びると、一礼とともに連隊を引き連れて彼女は離れていった。

 一同が去った後には、気まずい沈黙が残った。
 いや、そう感じているのは星舟のみで、目の前の娘はそうした距離感や壁というものを感じている気配はなかった。

「もう、十年かぁ」

 感慨深げに彼女は言った。

 シャロンがそうやって無邪気な笑みを見せるたび、十年前の光景が頭をよぎる。
 食物をほどこす竜の少女。それに飛びつきむさぼる人間の少年。
 自分にとっては切り捨てたい、忌まわしい恥部。
 何者でもなく、何も持たなかったみじめな野良犬だった頃。

 ほかの誰かに同じ話題を切り出されて嗤われようと、かんたんに流すことができるというのに。

「あのころから、セイちゃんはいろいろ頑張って来たよね。何かご褒美あげなきゃだよね。何がいい?」
「……さすれば姫様、ひとつお願いがございます」
「ん? なに?」
「今後、このようなおふるまいは公的な場ではお控えくださいませ」

 え、とひきつった声で聞き返す姫に、星舟はうやうやしく臣下の礼をとって、
「ほかの方々の目も、ございます」
 そう、付け足した。

 これは事実だった。
 彼女の性格を承知している者も多いが、あきらかに他者と違う態度に周囲の客からは不審のまなざしが向けられていた。
 そしてそれは、そのまま星舟への悪感情へと変化する。「姫に付け入って甘言を弄する佞臣」などといういわれなき風評には我慢がならない。
 媚びるにしても、立身するにしても……そして奪うにしても、それはあくまで己自身の知識、才覚、器量でもってのことだ。

 それに、シャロンにしても、いつかは婿をとる身だ。
 こうした振る舞いは、その支障となるだろうに。

 星舟の念がどこまで通じていたかは知れない。
 だが、居住まいをただして笑顔を引き締めた彼女は、領主の娘の気品をもってうなずいて見せた。

「無礼を働きましたね、夏山殿。貴殿の忠告を容れ、今後は気をつけることとします。……ほかに、何か不足なものはありますか?」

 その彼女の姿を受け入れつつ、星舟は首を振った。

「ありがたいお申し出ですが、すでに論功を終えたことですし、ご無用に願います」

 では、ときびすを返した瞬間、

「公的な場でなければ、良いのですね?」

 と、姫は問うた。
 星舟は顔の右半分をシャロンに向けた。
「ね?」
 いや、それは彼女の中で確定済みの、念押しだった。
 星舟はぎしぎしと笑みを強張らせつつ、明確な返答は避けた。

 ~~~

 ――そうだ、お情けでほどこしてもらうモンなんて、もう何もねぇ。
 シャロンから離れたあと、星舟はおのれのうちにある願望について振り返ってみた。

 ――土地、家柄、兵力、人材。必要な種はすでに手に入れた。そこからどう花を咲かすかはオレの才腕しだいだ。

 そしていつかは、手に入れる。
 十年前にあの日見たこのまばゆさも、星天もすべて。

 ――だが、トゥーチ家の面々は厄介だ。
 才があれば種族の別なく登用し、また彼ら自身の政治的軍事的手腕は、ただ力に恃む他の竜よりも、いや人間たちよりもはるかに抜きんでている。
 月並みな栄達や生活を望むのであれば、これほど絶好な環境もあるまい。
 だが、それを飛び超えるとなるとすれば、話は別だ。

 ――偏見で凝り固まったような駄竜ってのもイヤだが、賢すぎるのも、問題だ。
 とりわけ、アルジュナよりも、シャロンよりも面倒なのが……

「ご嫡男、サガラ・トゥーチ様、帝都よりお着きでございます!」

 扉口からやや緊張がはしった声があがったのは、そんな折だった。



[42755] 第一章:トゥーチ家の人々 ~領主館襲撃事件~(四)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:e6b9fc29
Date: 2017/08/28 20:28
 帝都の学問所は、十万冊の蔵書があるという竜の国では最大規模の学府だった。
 実際に数えたわけではなかったが、光龍四十年。星舟と名を与えられた隻眼の少年もまた、そこにいた。

 といっても、正式な学生ではなく、あくまで留学生兼人質として派遣されていたシャロン・トゥーチの付き人としてであり、当然十万余の書物には触れることさえかなわなかった。

 本来であれば、だ。
 だからみずからが仕える令嬢が借りた本や教材を、その目を盗んで宿舎から持ち出して、裏庭や階段の隅で夜毎に読んだ。

 可燃性の石を取り付けたランプにともし、自身や本とともに布で覆い隠しながら、右目を凝らしてかじりついた。

 ……ある夜、裏庭の草むらで読んだのは、竜と人の興亡についてであった。

 ~~~

 百年近く前、この大地を二種類の知的生物が支配していた。
 それが竜と人であった。
 竜が三、人が七割を占め、それぞれ西と東とに棲み分けながら、長い間不干渉でいたのだった。
 
 それ以前の記録はとぼしい。
 そういう盟約が存在していたのか、はたまた暗黙の了解であったのかはしれない。
もちろん、平和的な交流や技術の提供などはあったようだ。竜の『牙』や『鱗』を模したものが人間で言うところの刀剣や甲冑である。
 もっとも、人間たちは自分たちの派生物こそが竜であり、自分たちこそがその起源だと主張している。

 だが、そうした約定は、人の竜への畏敬とともに薄れていった。
 それまで群雄割拠の様相であり、人間同士で争っていた彼らだったが、結城(ゆうき)家なる武家のうち、真次(まさつぐ)なる傑物がわずか十八歳にしてその領内を平定。
 十万を超える大軍。当時最新鋭の装備。若き初代藩王は考えた。

「これがあれば、竜でさえも屠ることができるのではないか」

 後世からの目ではあるが、野心旺盛な彼が竜たちの豊富な水や鉱山資源に目を向けることは、自明の理であった。

 彼は長征軍を編成した。
 当時無双の武をほこったとされる弓手、井栗谷(いぐりや)武室(ぶしつ)。軽妙果敢な機動戦でもって真次の片腕として働いた己館(みたて)風ノ助(かざのすけ)。あざやかな外交手段で戦乱の世をくぐり抜け、鬼謀でもって真次の覇を支えた盟友葛城(くずしろ)高明(たかあきら)。
 その他彼らとしのぎを削り、あるいはその高い志に感銘を受けた英傑たちが、その挙に参じた。

 彼らは神速でもってまず獣竜種たちの村や関を奪取。彼らを追い立て、殲滅しながらそこに人間の民を入れた。
 そうして悠々勝利を重ねながら竜たちの城に向かった彼らに、包囲されるまで、その長たる真竜種たちは穏健な対応を見せていた。
 もし兵を退くのであれば、我らも貴君らを許す、と。
 だが、それを彼らは自分たちに恐れをなしたと見た。使者であった獣竜を斬り、その首を答えとして送り返した。
 得意の絶頂にあった結城真次は、こう宣言したと言う。

「藩王というにはまだぬるい。僕こそが、人竜王、結城真次だ」

 ……それが、竜たちの最後通牒と知らず。
 自分たちの指先が、すでに彼らの逆鱗を触れていたともしらず。

 使者を斬った翌朝、竜たちが城から討って出た。それを待ち望んでいた結城軍十五万は、高明の采配による遊兵を作らぬ鮮やかな陣立てに変化しつつ、それを取り囲む。
 井栗谷、己館の部隊が戦法として左右から挟み込み、それぞれの剛弓利刀を手に提げて、勇ましく突っ込んだ。



 負けた。



 十数万人の軍勢は、異形の外殻にその身を包んだ竜たちに、散々に打ち破られた。

 真っ先に突撃を仕掛けた井栗谷、己館は真っ向から頭を叩き割られてさっさと死んで、混乱する兵たちが後続を押しのけて逃げ惑った。

それを鼓舞する立場にあった結城真次は、味方に押し寄せられてもみ合いとなり、首の骨を踏み折られて、美貌をほこった顔は踏み潰され、カエルのような醜面となって圧死した。

 先鋒どころか総大将まで喪った葛城高明は、わめきながら逃げ惑ったあげくに首を斬られた。
 それから先のことは、あえて語るまでもない。
 いかなる大軍も、装備も軍略も人材も。
 本気で怒った竜たちの前ではまったくの無意味だった。

 竜に破れた人は辛うじて結城家の一門から二代目を擁立した。
 かと言って、国内の事情から先代の掲げた竜打倒の看板も下ろすこともできずにいる。
 
 その戦略戦法は消極的なものになり、反攻と報復を名目に進出してくる竜軍に出血を強いつつ、自身はその間に竜が奪った土地を奪回する。

 そんなことを繰り返し今日に至る。

 ~~~

 この節まで呼んだ瞬間、星舟の側頭部に鈍い痛みがはしった。
気がつけば身体が横倒しになり、読んでいた資料は、『リィミィ』という編者の名をさらしながら地面に散乱した。

 自分が足蹴にされたのだと理解したのは、地面の感触が頰に当たった時だった。

「これはまた、珍しいものを見たな。ドブネズミが生意気にも本なんか見てるよ」

 自分を蹴った相手は、自分と同じく闇夜に溶け込む暗い髪色をしていた。
 だが、その燃えるような双眸は人のものではなく、残忍な光をたたえて少年を見下ろしていた。

 先に監督生として入学していたその青年こそ、東方領主アルジュナ・トゥーチが嫡男、若き日のサガラ・トゥーチだった。

 彼は起き上がろうとする星舟の前髪を引っ掴むと、そのまま宿舎の塀へと叩きつけた。
 星舟は義眼が割れていないか。まずそれを恐れた。それほどに、サガラの暴力には容赦がなかった。
 そのまま彼は、足下で燃えるランプを拾い上げると、少年の頰へと押し当てた。
 残る右眼さえも焼くかのような光と熱に、星舟は苦悶の声をあげた。

「こんなとこで火なんてつけるんじゃないよ。燃え移ったらどうするんだ? そんなことも理解できないような低脳がな、生意気にも読書なんてする資格、あると思うか?」

 肉体的に、精神的に彼を追い詰めながら、サガラは星舟を地面に引きずり倒した。

「こういう馬鹿は、ちゃんと楯突かないようしつけておかなきゃ、な!」

 無防備にさらされた腹部に、強烈な蹴りが一発見舞われた。
 呼吸さえ忘れるほどの衝撃が、星舟を襲った。
 逃れようとする彼の足を押さえつけたまま、二度、三度と立て続けに蹴たぐられる。

 そしてそれは、星舟が動かなくなるまで、執拗に続けられた。



[42755] 第一章:トゥーチ家の人々 ~領主館襲撃事件~(五)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:e6b9fc29
Date: 2017/08/28 20:25
「そういえば、お前が拾われて十年か」

 庭の様子を一望できるバルコニーに肘を置きながら、その男は言った。
 妹も先ほど似たようなことを言ったが、彼女との十年とこの男、サガラ・トゥーチとの十年は、まるで意味合いが違っている。

「……あの頃は」

 言いよどんで、口をつぐむ。

「色々とひどいことやっちゃったよな!? 悪かった! 謝る!」

 くるりと向き直った男は、パンと下げた頭の前で両手を合わせた。
 顔を上げる。
 五年前までは険のある、凶暴性むき出しの顔つきだったのが、今では爽やかな好青年のそれだった。
 目にはあの頃のギラつきが和らいで、父譲りの優しみに満ちて、鼻筋がすっきりして整った造形の顔はなるほど、母親こそ違えどあのシャロンの兄である。

「あの時分は、俺も色々あったんだ。許してくれ、とは言わない。だがそれでも、今この時勢には、胸の内におさめて欲しい」

 虚を突かれたように右眼を見開いた星舟だったが、微笑して首を振った。

「恨むなどと……自分の如きものを、この家に受け入れてくださっただけでも感謝しています。特に、サガラ閣下においては夏山の養子入りまで手配していただき、何とお礼を申し上げれば良いものか」
「硬い!」

 途中で礼を遮られて、「は?」と聞き返す。

「硬いよ星舟。言っただろ、お前がこっちに来て十年。そこまで長く付き合えば家族も同然。人でなければトゥーチの名を与えても良いと親父殿はおっしゃっていたが、俺も……本当に色々とひどいことをしたが、今では兄弟や対等の友のように思っている。それともこれは俺だけの話か?」

 と、星舟の右眼を不安げに覗き込んでくる。
 星舟は、表情を明るくしてサガラを見つめ返した。

「いえ、自分……オレも! サガラ様のことは兄と慕っています。過去のことなど、水に流しました」

 そう答えた。
 そうか、とサガラも表情を崩し星舟の肩を気軽に叩いた。

「今回の戦も活躍したと聞いた。これからもトゥーチのため、竜のため、その才智を貸してくれ」
「もちろんです。特に知恵においては、人より一つ空洞が多いもんで。その分詰め込んでおきますよ」

 サガラの肩を掴んだ手に力が入る。
 笑顔が一瞬引いて、真顔になった。
「お前」
 と低い声になったのも一瞬、ふたたび端正な顔立ちが華やいだ。
 腕に星舟の頭を抱え、グリグリと拳を押し当てたじゃれついてくる。

「ちょっとは冗談が言えるようになったじゃないか! シャレまで学んでいたとは思いもしなかった!」
「ハハハ! これもサガラ様の教導の賜物ですよ!」

 そんな談笑の時間だったが、ひとつの咳払いが彼らに割って入った。
 リィミィだった。
 例の白衣を引きずらないよう背を伸ばしながら、もう一度軽く喉を鳴らすと、解放された星舟にあらためて接近した。

「お楽しみのところ、申し訳ありません。隊長、少々よろしいですか」

 少々、という程度のことであればわざわざ副官自身が告げにくることはない。
 彼女の登場が、無視できない問題の発生を意味していた。

「それでは、任務に戻ります」
 と礼をすれば
「あぁ、落ち着いたらあらためて飲もうぜ」
 サガラは、杯を捧げもつ手真似とともに微笑を浮かべた。
 それに満面の笑みで応えると、リィミィに先導されて足早にその場を離れた。
 やや距離を置いてから

 ーー水に流してやるともさ。今はな。
 と、内心で毒づき、鼻で嗤った。

「いずれあの頃受けた礼を、倍にして返してやるんだからな」

 〜〜〜

「……ハッ! 実際のところ、あの片目に何を詰め込んでいるもんだか」

 自身の護衛として控えていた鳥竜グルルガンよりナプキンを受け取り、サガラは手から腕にかけてを拭き取った。

「……え、仲直りしたんじゃないんスか」

 朴訥な南方訛りでそう言う矮躯の護衛に、サガラは肩をすくめた。

「いや本当にヒドイことしたと思ってるよ。正直、あそこまでしたのは若気の至りってやつさ。でも……あいつを見てると虫酸がはしるってのとはまた、別問題なんだなー」

 あの頃は、本当に色々とあった。そのせいで荒んでいた。それは事実だ。
 何より、すぐにも死にそうなあの餓鬼が長じてここまでの逸材になるとは、さすがに読めなかった。
 それを予期できていれば、今頃もっと自然な友好関係を構築していたことだろう。

 と同時にこうも考える。
 ーーあぁまでひどい仕打ちをされもなお、勉学や家にしがみつき、物欲も見せない。そんな都合の良い人間、いるはずもない。

「けど今のところ、始末する理由もないし、あいつはそれ自体が有用だ」
「有用? 有能でなく」
「そう、有用。一応体裁上は人間も用いるというのが統治のうえでは必要だけど、あの『相談役』とかいう置物に権限を与えてもロクなことはしない」

 どうせその場の感情や目先の損得に揺れて即物的に兵や土地ごと裏切る。
 だがあの『片目』には目的がある。それを達成するまで、奴はこちらを裏切らない。
 トゥーチ家が東方の雄であり続ける限りは。

「加えて言えば、星舟は防波堤だ。あんな素性もしれないガキが自分たちより重用されれば、『相談役』たちには面白かろうはずはない。自然、その怨嗟は竜にではなく奴自身に向く。そうやって食い合わしとけば良い。奴なら、あの程度の連中は造作もなくひねるだろうけどな」
「……割と評価してるふうに聞こえますけど、やっぱり」
「あぁ、大嫌いだねぇ」

 ですよねー、というグルルガンのつぶやきが、風に流れていった。

「まぁ星舟が才気走って失敗するならそれでも良いさ。その時はやっぱり人間なんかは用いるに値しない劣等種っていう証左にもなる。生かさず殺さず飼い慣らす。それがあいつへの対処さ。来たるべき時が来るまでは、あの感性の欠片もないシャレも我慢しておいてやるとも」

 はぁ、とグルルガンは理解しているのかどうか分からない生返事をした。

「ですが、それで良いんスか?」
「ん? 何がよ」
「だって、サガラ閣下も半分はに」

 瞬間、グルルガンの口をサガラの腕が押さえつけた。
 その速度と……黒髪の下からのぞく真紅の瞳に宿った殺意に比して、さほど力は入っていない。
 だからこそ、声も出ないほどに恐ろしかった。

「……なぁグルルガン……お前さぁ、今なにかとんでもないこと、口走らなかった?」

 押さえたその手が、汗の吹き出すアゴへと移った。指先が立てられて喉元をなぞり、鎖骨の間に爪が食い込んだ。

「す、すんません! 勘違いでしたッ」
 肌に粟を作りながら、グルルガンは悲鳴じみた詫びを入れた。

「そっか」
 手を戻したときには、サガラの顔には屈託のない笑みが浮かんでいた。
 霧散した殺気に、鳥竜は胸中で安堵の息をこぼした。
 この誇りと力の圧は間違いなく、自分たち鳥竜獣竜のような半端者とは違う。正真正銘の竜のものだった。
 たとえそこに、何者の血が混ざっていようとも。

 サガラはバルコニーの下を覗き込んだ。
 その眼下の庭を、早歩きで当の隻眼の人間が通り過ぎていった。

「ハッ、走れ走れ。せいぜい足掻くが良いさ」

 サガラは低く呟いた。
 その横顔には、他の竜にはない、闇深さのようなものを見た気がした。



[42755] 第一章:トゥーチ家の人々 ~領主館襲撃事件~(六)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:e6b9fc29
Date: 2018/02/15 23:08
「館が襲撃される可能性があるってのは、どういうことだ」

 連隊の詰所がわりに借り受けた倉庫に入るなり、中にいた数名に呼ばわった。
 道中リィミィからもたらされた情報はただそれのみで、彼女自身がその報を扱いかねているようだった。

 農耕具の土の鉄の臭いが、密室に充満していた。
 歴戦の男女に取り囲まれている少年は、罪人のように、ただでさえ華奢な体躯をしぼませて、椅子の上でヒザと背とを丸めている。
 透明な瞳に淡い色合いの毛髪。やや血色の薄い肌。狐の尾を模した飾りを腰からくくりつけている。
 いずれも獣竜種に代表される特徴だ。

「ん、こいつはたしか」
「新参のシェントゥだ。若すぎて今回の戦には参戦していない」

 だから、今回の警備に参加したのだとリィミィは紹介と補足をした。

「お前が、見つけたのか」

 星舟は意外の念に襲われた。
 もし異変を察知するとすれば上空で見ていたキララマグかクララボンの鳥竜種姉弟のどちらかだと思っていた。
 少年を取り囲むなかに入っていたその二人に目をやれば、困惑顔で首を振る。

「見た、というよりも聞いたそうだ」

 唇を噛んで視線をさまよわせる少年に代わり、リィミィが口を添えた。
 いわく、彼が倉庫から出て屋敷周辺を見回っていた先で、どこからともなく、床や天井をへだてて音と声とを聞いたのだという。

 何色もの声音がささやき合う。獣竜の耳をもってしてもその全てを拾うことはできないものの、そのうちの一語が強烈に耳に残った。

「ワレラセイジョウナルジンリノオンタメニ」

 という、呪文めいた締めくくりの言葉が。
 やがてそれは金属音にかき消されたという。

「『我ら、清浄なる人理の御為に』」
「なんです? それ」

 クララボンが、リィミィが繰り返した言葉の意味をたずねた。

「『光夜(こうや)騎士団』。最初はこの国内で人間の権利を確立するための活動家の集まりだったのが、いつしか過激な人間至上主義へと鞍替えした。手段と目的が入れ違ったバカ共だ」

 そう言って星舟は鼻で嗤った。
 元より、敗残者の類縁だということを思えば、彼ら人は十分すぎる保護を受けている。
 竜は絶対数において人間よりも少ない。祠や洞や集落で人間から離れて暮らしていた時代であったならまだしも、国を治めるとなれば当然その生産性や防衛機能を維持するための労力や兵力は必要となる。そのために人間の扱いに対して、彼らはおおむね慎重だった。
 だがそれにしても、最低限の食料を与え、奴隷として酷使すれば済む話だ。いや、街や城など放棄して自分たちの住処に引きこもればいい話だ。
 だが、百年前人間を追撃した竜たちが目の当たりにしたのは、荒れ果てた光景だった。
 相次ぐ内紛によって略奪や焼き討ちをくり返された集落。富や権力を中央に集中したことにより枯渇した農村。親が子を竜に食料として売ろうとし、逆に子が親を殺して自分で食らう地獄絵図。
 その先遣であった真竜たちはいずれも決戦までは城に籠っていた者たちで、はじめて知った人の国の姿に言葉を喪ったという。

 初代藩王結城真次とその幕僚たちは、自分たちの目の届くところだけしか見てはいなかった。征旅のなか、何度も目にしたこの光景に、一向に心を向けようとしなかった。

 先遣隊から報告を受けた覇龍帝が、奪った土地から国を作り、海外から技術者たちを招いてその統治方法を学び、人を保護、あるいは苦界から解放しようとしたのはそれからだった。

 竜たちは、こと真竜種においては尊大で強い矜持の持ち主で、なんの能も持たない人を見下し、自分たちこそが至上の存在と信じて疑わない。だが情けや義理は人以上に知っている。
 もちろん例外はあるにはあるが。

 ――竜なのに、『人』が好過ぎる。

 その善意や意義を慮りもせず、彼らが来る前の生活がどんな惨状だったか振り返りもせず、自分がどれほどの厚遇を受けたか顧みもしない。ただきれいごとに溺れて考えもせずわめき立てる。そんな連中の象徴ともいうべきが、『光夜騎士団』なる組織だ。

「えーと、つまり? そーいう厄介な連中がこのお屋敷に紛れ込んだと」
「そういうことになるわね」

 弟の言葉に、キララマグがうなずき、深緑色の視線をシェントゥに向けた。
「こいつの言葉や感覚を信じるとなれば」と、彼女の視線は言外に付け足していた。

「どこで聞いた?」
 と、星舟は机に広げられた地図を見せながら問うた。
 少年兵は震える指で本館の東棟の外を示した。

「裏口、食糧庫、そして調理場か」
 いずれも人の出入りが激しい場所だ。特に今夜は。
 華麗な夜会の裏側で、その倍するせわしなさで料理人や下働きが動いているのだから。

「で、具体的にはどこから聞こえてきた?」
 それに対してシェントゥは首を振った。
 ――木造だから声を拾いやすい反面、響き過ぎて特定ができないのか。
 星舟は不明瞭な返答に対し、怒らず納得した。

 この居館は外目から見れば白亜の堅城にも見えるが、実際は地元で採れたツガが用いられている。
 ここを制圧したアルジュナは、壁の上から塗炭と灰と植物を特殊な比率で混合した物を塗ることにより、腐敗や虫食いの対策としたのだ。白く見えるのは、そのためだ。
 今回はそれが助けとなりながら、一方で仇となった。

「そいつの聞き間違いなんじゃないですかね」
 クララボンは懐疑の声を発した。
「だって、俺は見てないですもん」
 一同が注視するなか、怖じることなく彼はつづける。
「見逃したんじゃないのか、お前鳥眼だろ」
 人間の銃士経堂(きょうどう)が逆に疑問の声をあげた。

「おあいにくさま。ミィ先生お手製の……度入りのゴーグルっていうの? コレがあればよく見えるんだよ。お前らよりもずっとね。なんなら、同じ高さから遠見対決でもしてみるかい? 飛べるなら、の話だけど?」
「なにぃ!?」

 議論が脇にそれながら加熱しそうになる。その直前に、星舟は机を拳を打ち付けた。

「やめろ」

 その一言で、場は静けさを取り戻した。

「そういうの、オレらの間じゃナシだって言ったよな?」
「……ウス」

 クララボンがしぶしぶ引き下がった。だが、人に詫びることはなかった。

「で、でもクララさんの言う通り……聞き間違い、かも……」

 そこまで唇を引き結んでいたシェントゥが、ようやく口を開いた。
 だが、そこから発せられたのは、自身の感性の否定だった。

「おれ、初陣じゃ荷運びだったし、対して活躍もしていないし……だから」

 他者から聞いてみれば、少年の実績の有無と今回の報告は、無関係なものだった。だが、彼からしてみればそれはそのまま自信の無さにつながる要素なのだろう。
 星舟は膝を折って、うつむきがちなシェントゥと目線を合わせた。
 委縮する彼の前髪に手をやると、その先端を撫でつけて白い歯をニッと向けた。

「じゃ、これがお前の初手柄だ」

 少年は耳から首筋まで赤く染めてはにかんだ。

 ――この様子じゃ『騎士団』の存在は知らなかったらしいしな。あの長ったらしい決まり文句は、聞き間違いや虚言でとっさに口にできるものでもない。
 星舟には星舟なりに、シェントゥの報告を信じる理由がある。だが、それを口にするのは野暮というものだろう。

「聞いてのとおりだ。杞憂であればそれに越したことはないが、真実であれば大変なことになる」

 立ち上がった時には、星舟は気持ちの良い好青年の貌から、指揮官の面立ちへ切り替えていた。

「シェントゥが音を聞いたというところを重点的に警戒を強化する。キララとクララは引き続き空から侵入、脱出の経路を探れ。経堂とシェントゥは現状監視に当たっている者にも事情を説明し、聞き込みに回らせろ。オレらが入館する前に警備や準備を担当していたものをこっちによこせ。リィミィとオレは各部署から集められた情報を精査し、連中の目的を洗い出す」

 星舟の号令が発せられれば、隊員たちにそれ以上の異議はない。
 それぞれ割り当てられた任務を達成すべく、早足で方々に散らばった。

 彼らの気配が消えたあと、
「やれやれ」
 と毒づき、星舟はシェントゥが使っていた椅子に腰を下ろした。

 第二連隊は、第七まで存在するトゥーチ家直轄の部隊のなかでも、もっとも多くの種族を抱える混成部隊だ。
 そして、そのいずれもが、どこか欠落している。

 一度海外に渡航しながらも年齢や性別、種族家柄、身長や外見を理由に学者としての道を閉ざされて帰国した獣竜。
 鳥竜種として生まれながら飛ぶのがさほど上手くない者。視力の弱い者。
 狙撃砲撃に精通しながら火器類を軽視しがちな竜の国では重用されず、また本人の軽率な言動から各国からつまはじきにされた銃士。
 他より敏感な五感を生まれついて持ちながら、自信が希薄で口下手なために上手くそうした情報を伝えられない新兵。

 ……ただでさえ能のないと称される人間の身であり、さらに隻眼という障害を負った指揮官。

 こんなありさまなために、『寄せ集め部隊』だとか『駆け込み寺』だとか揶揄されていることも知っている。そこに『どこかの誰か』の作為が働いていることも、勘づいている。

 ――けど、誰とは言わんがそんな連中ばかり送ってくれてありがとうよ。

 だからこそ、星舟にとっては御しやすいのだ。
 彼らが抱えている屈折や煩悶、痛み。
 それをおのれの身でもって、知っているからこそ。

 ――そして感謝してやる、愛すべきバカども。まさか竜に挑んできてくれる人間がまだこの国にいるとはな。……おかげで、また手柄が立てられる。

 隻眼の男は、声に出して高らかに笑った。



[42755] 第一章:トゥーチ家の人々 ~領主館襲撃事件~(七)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:e6b9fc29
Date: 2017/08/28 20:30
 ーーげ。こいつだったのか。

 そんな声を、星舟は心底に落とした。
 直接は言わない。笑顔で必死に取り繕う。
 だが、悪感情ぐらいは、相手も薄々察しているはずだ。

 自分にしても、になど、引き継ぎ前に支度をしていた責任者でなければ、会おうともしなかっただろう。

「御用、と聞きましたが」
 筋の通った美しい声だが、感情が乗っていない。

「これはこれは侍女長殿。お呼びだてして申し訳」
「御用、と聞きましたが」

 ……そして、声と同様ながら、その顔かたちは美しくも情というものを感じさせない。
 月並みな表現だが抜き身の刀、という言葉がよく似合う、近寄りがたい威圧感と身の引き締まるシャープな美貌を持っていた。
 そしてその鋭さは、外洋装仕立てのふんわりした給仕服をもってしても隠し切れない。それが、彼女……シャロン付きの侍女長ジオグゥだった。

「よほどにご多忙なようなので、単刀直入に申し上げる。……この館に賊が紛れ込んだおそれがある。何か、不審な物や人を見たおぼえはあるか」

 ジオグゥは、迷うことなく目の前の星舟を指で示した。

「おぼえがありますわね。目の前に図体ばかりの大きなドブネズミが」
「ハハハ! ……面白い冗談だが、そんな戯言でなごんでいるような場合ではないのだ」

 星舟は笑い飛ばした。
 笑い飛ばさなければ、胸倉をつかんでの殴り合いに発展していたことだろう。

 対する侍女は、相も変らぬ非好意的な態度のまま、無言で書類を差し出した。
 それは、星舟らが到着する以前の物販の受け取り伝票と、来賓のリストだった。

「……たしかに」

 それらを受け取るや、パラパラと帳面をたぐってざっと目で追う。
 たしかに、その身元や出所は信頼のおける豪族や商家の判物ばかりで、不審な点は見当たらない。
 パタン、とそれらを閉じた後、星舟はあらためて

「感謝する、侍女長殿」
「謝意というものは、言葉にしたところで心がこもっていなければ意味のないものですよ」
「ハハハ、これは手厳しい。オレとしては誠意を尽くしたつもりなのだが。なかなか言葉で感謝を示すというのはむずかしいようだな」
「そうなのですか。自分は貴方に欠片ほどの誠意も信頼もおぼえません。なのであえてそれを口にすることもありませんから、そのむずかしさは理解できませんわね」

 では、と頭も下げず、武人のごとく隙を作らず、体を切り返して侍女は去っていった。
 足音が遠のく。気配が消える。
 それから、満面の笑みを凍ったように張り付かせた星舟は、

「リィミィ」
 口だけを、動かした。

 そして一転、怒気をあらわに表情をゆがめ、
「塩! 塩蒔いとけ塩ッ!」
 と怒鳴りつけた。
「塩はない。石灰(いしばい)なら大量にあるが」
「じゃあそれで良いから!」
「色は似ているが代用できるものでもないだろう。それに、一地方の人間たちによるその縁切りの風習の効能は、直接的に証明されていない」

 あまりに理路整然とした、慣れたような物言いに、星舟は余分な力と毒気を抜かれる。
 どっかりと椅子に腰かけなおした彼は、前髪をくしゃくしゃと乱し、息をついた。

「……昔っからあの女とは、どうにも肌が合わねぇ」
「その言葉は、前提として肌の合う相手がいた時に用いるべきだろう」

 侍女長ジオグゥ。
 あの取り澄ました物言いと顔を見るたびに、ムカムカと吐き気のようなものが肺のあたりにこみあげてくる。
 元の素性は定かではない。
 星舟と同じく『偏執領姫』シャロン・トゥーチに拾われたひとりで、彼女には絶対の忠誠を誓っている、そうだ。
 ただ違うことは、星舟は純正の人間であることに対し、彼女は半分は獣竜だ。

 とはいえ歳も境遇も似ている。侍女としての資質はともかく、武技には長けているし、領内や家の事情にも精通している。本来であれば自分から接近し、トゥーチ家中においてはまっさきに取り込んでおきたい対象だ。
 だが、あの『鉄の女』は、どうにも最初から夏山星舟の潜在的な敵あるいは害毒と信じて疑っていないらしい。
 また、そうした態度も言動どおり隠そうとしていない。

 ――いや、それでも侍女長としてどうなんだ? 通常の作業や人間関係に障りが出るほどの態度ってのは。

 と、公人としての立場から星舟は思わないでもない。
 だが、一方で「あるいは」とも想像する。

 獣竜としての嗅覚と、人間としての猜疑心を持つ彼女であればこそ、感じ取っているのではなかろうか、と。
 ……この男は、将来竜たちに対してよからぬ謀事(はかりごと)をなそうとしているのではないのか、と。

 どうにも自分は、そういう混血の手合いとは、相性が悪いらしい。

「にしても、『あちらさん』のほうが損得と打算で通じ合えるぶんまだ救いがある。それに比べてあのムッツリ女と来たら」
「言い忘れていましたが」
「…………うおぉ!?」

 出て行った、と思ったその女の声が降って来た。気がつけば、背後に取り付けられた窓からこちらを覗いていた。
 心中の多くを直接口にはしていなかったから、油断していたというのもある。もちろん、相手も練技のかぎりを尽くし、気配を極限まで抑えて忍び寄って来たのだろう。
 話しかけられるまでおなじ獣竜種であるリィミィでさえ、察知できなかったのだろう。この冷淡な副官の顔に、自分とおなじ動揺が浮かんでいる。それでも、自分ともあろう者が背後に立たれた。
 屈辱と、おのれに対する憤りを取り繕えずにいられない間に、ジオグゥは冷ややかな視線を彼に浴びせて言った。

「『あぁ言う戯れ』は、事前に届け出ていかなければ。侍女らが困っておりましたので」



[42755] 第一章:トゥーチ家の人々 ~領主館襲撃事件~(八)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:e6b9fc29
Date: 2017/08/28 20:32
「今すぐに集められるのはどれぐらいだ」
「二十名。一応非常勤扱いだから、今ごろ酒でも飲んでるだろう」
「水ひっかぶせて高い酒で釣ってこい。キララクララ姉弟はどうしてる?」
「彼らを含めて指定の位置に向かうようにシェントゥが伝令に出した」

 本館へ向かう途上、リィミィに対して指示を出し、報告を受けながら、星舟は件の荷の後を追っていた。
 だが、目につくはずのそれは一向に姿を見せず、星舟の中には焦燥が静かに積み重なっていくようだった。

「やってくれたな」
 という独語は、犯人のみならず、随従させているジオグゥにも向けられていた。

「あんたの頼んだ荷が、どうかしたのか」
「オレじゃない」
 首をかしげるリィミィに憮然として短く答えた。

「オレは、頼んでいない」
「ですが、あれを持ってきた人夫たちは間違いなくあなたの手形を持っていました」
「偽造だ。そもそも、つい今しがたまでオレは軍務についていた。出せるわけがないだろう」

 その迂闊さを直接咎めたいところだが、シャロン付きの侍女衆やジオグゥ当人が欺かれるほど、星舟の筆跡を真似た偽判は見事なものだった。
 ともすれば、自身でさえ勘違いしてしまうのではないかというほどに。

 偽書とともに品を搬入した男たちは、五名。
 名のある商家の者からの使いを名乗り、それを証明する紋つきの羽織も、たしかにその店の物であったらしい。
 侵入者らは、どこかに潜伏していたわけではなかった。堂々と、この屋敷に入ってきていた。
 その途上に事を成就をひそかに誓い合ったのを、シェントゥの聴覚がつかんだ。

「夏山様より、『こっそり準備してお館様を驚かせたいので、どうかそれまで内密に』と承っております」

 という口上を、「あの隻眼ならやりかねない」「またあの片目か」とすんなり彼女らは信じてしまったらしい。
 なるほど、派手好きの数寄者でもある自分ごのみの趣向には違いない。星舟はひそかにうなずいた。
 ……あくまで荷が伝票どおりのものであったのならば、の話だが。
 星舟に対する悪感情が、この場合はジオグゥの嗅覚をかえって鈍らせたらしい。

「ふざけたマネしやがって」

 口汚い罵声を、かろうじて小声に抑える。
 ただ単純に、暗殺をもくろむのであれば、ただ単純に武功をつかむ好機だ。だが、自分の名を騙られたのであれば、話が違ってくる。
 サガラやジオグゥのごとき連中に、いらざる疑念としこりを残す。
 もし、自分がこの夜宴の警護を買って出ていなければどうなっていたことか。きっと、何も知らない間に犯人に仕立てられていたに違いない。そのことを考えると、軽く背筋に冷汗が流れた。
 そうでなくとも、ジオグゥは今まさに疑いのまなざしを向けてきていた。

「真実、夏山殿の謀ではないかと思いましたが」
「なに?」
「自分に見抜かれそうになったので、あわてて口封じに行こうとしている。違いますか?」
「大外れだ。仮にそれが本当だったとしても、貴殿の過失に違いあるまい。それにこそ、自分としては猛省を促したいところなのだがね。そもそもだ。見抜いたと豪語されるが、ここまでの会話で、その品とやらの正体がわかったとでもいうのか?」

 星舟は正論で畳みかけた。ジオグゥは淑女然とした顔だちをわずかにしかめて、ちいさく舌打ちした。軽く地が出た。ざまを見ろ、と星舟は内心で舌を出した。
 自覚はあるらしく、反論はしてこない。おおかた、今の邪推も八つ当たりが主な動機だ。

「そういうあんたは、わかったのか? 連中の手口と狙いが」
 それまで静観していたリィミィが口をはさんだ。
 星舟はかるく頷いて見せた。

「ここまで回りくどく、かつ周到な仕掛けだ。費用も人数も、年数もかけていただろう。となれば、宴に来ているひとりふたりの暗殺じゃあ割に合わん。……そして、それを遂行するための手段は自然限られてくるし、運ばれてきた荷の形状や大きさを考えれば、あとの見立ては容易だ」

 ……その手段を、自分だって今まで考えなかったことはなかった。
 人は、竜には勝てない。
 だが、それはあくまで正面からの殺し合いでの話だ。
 『牙』を抜き、『鱗』をまとっていなければ人類と彼らに大差はない。彼らが生身でいる瞬間、死角からの狙撃、平時での毒殺を行えば、殺せないことはない。
 だが、真竜種は『鱗』をまとわずとも、常人を超える敏捷さと五感と頑丈さを持っている。
 側背から飛んでくる矢玉は、大方避けられる。毒は、触れるだけで肌がただれるような強烈なものでなければ通用しない。そんなもの、混入させた時点で露見する。
 よしんば討てたとしても、その場から逃れることはできまい。その場で、他の同輩に八つ裂きにされるのがオチだ。

 であれば、どうするか?
 消去法でいけば、自明の理だ。

 直前まで気取られることをせず、気付いたときには『牙』を剥く間も逃げる間もないほどの速度で、自分をふくめた周囲を巻き込み、跡形もなく吹き飛ばす破壊力を有するもの。
 そんなものを、対象を中心とした地点に仕込む。
 そこまで説明すると、ジオグゥにもどうやら察しがついたようだった。

「……そうだ。どうせ狙うなら、鏖だ」

 星舟は舌打ちして、ドアを開いた。

「夏山様よりの戦勝祝いの品でございます」

 宴の場より、どよめきが漏れていた。
 五人の侵入者は何食わぬ顔で台車を停めた。どれも、比較的若い男たちだった。

 彼らが館内に運びいてていたのは、巨大な硝子細工の像だった。
 天井に食らいつかんほどの、大蛇のようなそれが、かつての竜たちの原型であったという。そんな民話も人の地方には残っている。

 彫られた鱗は分厚く細かく複雑で、灯火の輝きを乱反射し、中の様子を見せなかった。
 だが、その内部には縄のようなものが見え隠れしていた。尾から入ったそれは、その像が三本の指で握りしめた黒ずんだ宝玉へとつながっていた。

「えー、この導火線に着火いたしますと、なんと宝玉が赤く鮮やかな光を放ちます。うまくいけば、拍手のほどをよろしくお願いいたします」

 などと気取った言い回しとともに、感嘆して像をあおぐ竜たちの中央で、彼らは尾に火種を近づけた。

「待った!」

 星舟は入り口で声をあげ、腰のホルスターから拳銃を抜いた。

「いつ、誰が、そんなことを頼んだと?」

 ぎょっとした表情で見つめ返し、動揺する彼らにもわかるように、ゆったりと聞いた。
 だが、その中でもっとも年長者である男が、背にいる四人を振り返った。

「かまわんッ! やれ!」
 という号令の下、導火線に火をつけた。

 星舟は舌打ちし、前へと進み出る。
 だがそれよりも速く、強く踏み込んだ女がいた。ジオグゥだった。

 長丈のスカートをひるがえし、白く引き締まった脚部を腿までさらしながら身を屈し、絨毯の上をすべるようにしながら爪先を突き出した。

 妨害しようとする男たちの股の間、人と人の隙を潜り抜けて像までたどり着くと、足裏を台車に密着させて、一度大きく退いてからそれを蹴り飛ばした。

 台車は推進の力を得てバルコニーに向けて走りだした。途中、サガラを轢きそうになったが寸でのところでグルルガンにかばわれて避けられた。星舟は舌打ちした。
 だが、ジオグゥの脚力と台車の加速は、星舟の予測をはるかに上回っていた。
 竜たちを避けながら、あるいは避けられながら、台車に固定された像は窓ガラスを突き破る。いくつもの破片をまき散らしながら放物線をえがいて落下するそれは、空中で轟音とともに、爆炎を咲かせた。

 本棟全体を揺さぶるほどの衝撃が館を襲い、竜たちの口から、先ほどとは別の色の動揺が漏れていた。
 その中で、残心の構えをとりながら呼気を泰然と吐く侍女長。
 そして彼女の背を呆然とながめながら、

「……えぇー……」
 と、星舟は立ち尽くしたまま呆れ声を出した。



[42755] 第一章:トゥーチ家の人々 ~領主館襲撃事件~(九)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:e6b9fc29
Date: 2017/08/28 20:33
「くそっ!」
 事を、仕損じた。
 そう判断するや、下男に扮していた男たちはその羽織を脱ぎ捨てて逃走した。

「逃がすな! 追えッ!」
 グルルガンに助け起こされながら、サガラが甲高く声をあげた。
 この世でもっとも嫌いな男の命になど従いたくはなかったが、星舟は誰よりも速く動いた。
 混乱する会場で、出口めがけて向かってくる五人組。その中心かつ先頭に立っていた年長者の男めがけ、ホルスターから抜いた拳銃を定め、引き金をしぼった。

 背を雷管で叩かれて打ち出された小粒な弾丸が、男のヒザを撃ち抜いた。
 悲鳴をあげて転がった彼を、リィミィが投げた縄の輪が捕らえて縛り上げる。

 端からそれて逃げようとした一名を、ジオグゥの膝蹴りが襲った。
 精神的にあまり気味が良いとは言えない音とともに、哀れな若者は地面に昏倒した。

 残る三人は、眼を血走らせながら懐から直刃の短刀を抜き放ち、振りかざしながら突っ込んでくる。
 星舟が足下に数発の威嚇射撃を放つが、動揺する余裕さえないのか、ものともせず彼らふたりを突っ切った。
 だが、星舟にしてもここで数で勝る相手と斬り結ぶ気は最初からない。すでに逃走経路を想定し、伏兵は配置してある。

 ――せっかく拾った若い命。ふたたび捨てさせるのは哀れなことだ。

 ……などという半端な慈悲など、もとよりこの隻眼の将にはない。

「訳知り顔と予備の捕虜は確保した。あとは全員殺して良い」
 銃身を上に折り、弾倉を取り換えながら、彼は酷薄に嗤う。

 何事かと入り乱れる使用人たちをかきわけ、あるいは刃で恫喝して退かせながら、渡り廊下を抜けようとする。
 だが右手、開けっ放しになっている窓から、ふたつの影が飛び込んできた。

 翼をかたどった光の粒子を拡げながら、飛来した彼ら……星舟麾下の鳥竜種姉弟は、逃れようとする男たちの横合いを襲った。

 クララボンが靴底で逃げようとする一名の肺腑をえぐる。
 身動きがとれなくなった彼の首筋を、腰から引き抜いた匕首で切り払った。
 引いた血の糸が白い壁に真一文字をえがく。

 キララマグはつまずきながら、逃れようとする斬敵の前に立った。
 体勢を立て直している間に、ひとりを逃した。
「しまった!」
 と、彼女は目で追いながら、もうひとりの刃の握り手をそのままつかんでひねり上げた。苦悶の表情でうめくその若者の足を払い、そのまま背に負って投げた。

「隊長すみません! ひとり逃しました!」
「相変わらず、姉御は飛ぶのヘタだねぇ」
「うるさいド近眼」
「遊ぶな! ……いや、ご苦労。あとはオレが追う!」

 姉弟の肩を一度ずつ叩き、星舟は単騎で駆け出した。
 遠のく刺客の背は廊下の角を折れて姿を消した。星舟は使用人たちの左手につらなる私室を素通りし、足を速めた。
 装填しなおした拳銃を先に角の先へ突きつけると、かるく悲鳴があがった。
 それから拳銃を構えたままに自身の身体も角へ入れた。

 だが、拳銃相手におどろきの声をあげたのは、襲撃犯ではなかった。
 小柄な獣竜の少年、シェントゥだった。

「お前か」

 ひとまず緊張を解いて拳銃をホルスターへとしまう。
 腰を抜かしかけていた少年の背に手を差し入れ、「すまなかった」と詫びる。

「いえ……あの……こっちこそ、ごめんなさい」

 赤くなり、うつむきながら身を硬くした少年に、改めて問う。
「誰かこっちに逃げてこなかったか?」
 と。

 シェントゥはそっと両手で星舟を押し返しながら、首を振った。
「おれ、こっちから来ましたけど、誰も見てません。でも」
「でも?」
「臭いはします。……する、気がします」

 そうか、と星舟は相槌を打った。
 本人には自信がないようだが、星舟は、敵の侵入を察知し、味方の位置を割り出したこの新兵の嗅覚を、等身大に評価している。

 言い直しはしたが、この気弱な斥候が断言しかけたのであれば、まだ近くに、確実に、奴はいる。

「…………」

 星舟は、右の窓にちらりと目を向けた。


「死ねやぁッ人類の裏切者!」


 刃を前倒しに、男は突っ込んできた。左手の部屋からドアをけ破り、左側の視力を失った男にとって完全な死角から。
 シェントゥが隊長と鋭く呼ばわる。

 ……そして星舟は、彼の姿が映り込んだ窓越しに、それを視認した。

 細州ごしらえの鞘からはしった白刃が踊る。
 旋回させた軌道上にあった、男の上腕を刎ね飛ばした。

 耳障りな断末魔が、爆風以上に耳障りだった。
 ただ、もう一度この絶叫を聞くことはない。せいぜい騒ぐだけ騒げ、と心の中で許容する。

「相手の死角を突こうなんてときはな、そこが自分の弱点だってことを相手も把握してるってことを忘れるなよ」

 今日、誰ぞに言ったことのないようなことを嘲笑交じりに改めて伝え、せせら笑いながら星舟はニの太刀を振りかぶった。



[42755] 第一章:トゥーチ家の人々 ~領主館襲撃事件~(十)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:e6b9fc29
Date: 2017/08/28 20:34
 宴のさなかに起こされかけたその事件は、結局領主館を紅蓮で包まずして終息した。
 三名を捕縛、二名を殺害。
 賓客たちは水を差されたような白けた面持ちで帰っていったが、トゥーチ家以下、その場に居合わせた誰にも、傷ひとつついていなかった。

 ――戦果としては上々。
 だが、と星舟はみずから進んできた道を顧みた。

 血路、とはよく言ったものでその道は、紅の色と破壊の痕とで彩られていた。

「こりゃ、侍女連中にどやされるかなぁ」
 と星舟は黒髪に手をやりながらぼやいた。
 だが、そもそもの発端はジオグゥらの私情からくる不手際だ。それほど強くは出られないだろう、と踏んだ。

 ふと、気配を感じた。
 背越しにもつたわってくる、山のような、巌のような、大きく分厚い威と存在感。

 きびすを返すと同時に、彼はヒザを屈した。
 その存在感の源、アルジュナ・トゥーチに、頭を垂れた。

 そして隊長のしぐさに倣い、キララとクララの姉弟もあわてて頭を下げた。腰を落としながらも唖然とするシェントゥは、その彼らに頭を下に押し付けられた。

「面倒をかけたようだな」
「とんでもございません。竜の方々の露払いこそが、私の務めでございますれば」

 謙遜する隻眼のヒトに、領主たる真竜は頷き、目をその後ろと向けた。

「其方らも、戦の後というに、よく働いてくれた」

 三名の部下は、床につかんばかりに深々と低頭し、口々に謝意を述べた。
 呼び出した部下とともに事後の収拾に当たっているリィミィがいれば、もう少し気の利いた対応ができたかもしれないな。
 星舟はちらりと思ったが、すぐに首を振って、そんな思考を振り払った。そこまで媚びに徹することもないだろう。

 アルジュナに促されて立ち上がった星舟は、彼をまっすぐ見据えて言った。

「今回の件、おそらくは実行した者のみではないかと。資材資金を調達した者、絵図を描いた者、そして手引きをした者は必ずおりましょう。それらを草の根分けてでも探し出して御覧に入れます」
「無用。すでにサガラに探索を命じてある」
「お戻りになられたばかりの若君が、わざわざこのような雑務を手掛けることもありますまい。私どもにお任せいただければ、愚かな考えを持つ虫どもが二度に地上を這うことができないよう、徹底的に」
「星舟」

 抑揚のない声で、領主は拾い子の名を呼んだ。
 は、と居住まいをただした青年の肩を、羽でもつまむようにそっと、触れた。

「お前がそこまでせずとも、良い」

 その威容と均等に釣り合う、野太くもよく通る、鉄の質感を帯びたような声、言葉の響き。
 それに押されるような形で一歩退き、星舟は黙って頭を下げた。彼の横をすり抜けて、東方の覇者は「大義であった」と言い置いて、離れていった。

 ふぅ、と息をつき、星舟は頭と手を同時に挙げた。
 部下に対して、立っていいぞという合図だった。そして掲げた手を、ひらひらと左右に揺らす。行っていいぞという指示だった。
 それに従い、鳥竜の姉弟と獣竜の少年は、頭を下げてリィミィの下へと向かっていった。
 残された星舟は、窓べりに手をかける。
 上体を外に投げ出し、星天をあおぐ。そこへ、右手を伸ばしかけたとき、

「大将」

 向かいに生えたクヌギの樹林から、声が聞こえた。
 経堂が、長銃をたずさえたまま、そのうちの一本の樹上に腰かけていた。
 星舟は手を止め、顔を下げ、少し離れた彼に片目を移した。

「新顔の使用人のうち、何人かが先ほど館を出ました。街にいた部下に尾行させてますけど……」
「あぶりだすまでもなかったな。どこに逃げ込むか見届けさせろ」
「制圧できそうなら、一気に仕留めて良いですかね。……サガラの若殿さまに、手柄を横取りされるのもシャクでしょう」
「だからと言って、帝つきの幕僚兼未来の東方領主様のお仕事を奪うと、後々面倒になる。ここは連中の巣穴を教えてやって、恩を売った方が得だ」

 了解、と低い承諾とともに、経堂の気配と暗影が消える。
 今度こそ本当に、星舟はひとりだった。

 外の闇と内に広がる文明の光に挟まれて、星舟の足下には長い影が伸びていた。その中で彼が孤独と孤立を自覚したとき、ふと、肩への感触がよみがえる。
 アルジュナの手は、大きさやごつごつとした骨っぽさに反して、優しく、あたたかく……そして、儚いと感じるほどに、繊細な手つきだった。気取りのない、素直な情の表現だった。

「……だがすこし、お痩せになられたか」

 毒にも薬にもならないつぶやきは、誰に拾われることもなく血と酒と残滓の香りに乗って、薄れて消える。
 そんな益体もない言葉が自分の内側の、どの感情から来るものなのか。それをあえて詮索せず、隻眼の将は竜の居館を独り歩く。



[42755] 第一章:トゥーチ家の人々 ~領主館襲撃事件~(十一)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:e6b9fc29
Date: 2017/08/28 20:34
 事件から数日後。
 人力車に乗る星舟は、あの日通った道を、帰途として選んだ。

 今日おこなった公務を思い返し、今後の課題を自分や外の情勢に見出す。
 評議の内容を反芻し、それが意味することを奥まで追及する。

 結局、実行犯が『光夜騎士団』ということ以外、その多くはわからずじまいだった。
 捕縛した三名および館内の内通者達は、頑なに口を割らないまま獄中で頭を割って死んだか、でなければ自分たちの背後にいる者まで知らなかったのどちらかだ。
 店の方へと問い合わせれば、男たちはたしかに、元はこの地方にあった小藩の家臣であったという。
 五年前、藩の政庁であった居館が落とされたのち、例の五人は零落して士分を捨てて商家で奉公をするようになった。
 いずれも事務方の役人であったらしく、計算も早く、また元侍とは思えないほどに驕りのない態度で、商家の者たちは大変重宝していたらしい。
 ゆくゆくは正式に手代として取り立て、店を任せてもよいと思った矢先に、今回の凶行であった。問い合わせたところ、店でさえあずかり知らぬことで、武家屋敷にも匹敵するような大店が、喧噪と足音で揺れに揺れた。

 ――おそらくは、もとよりそのつもりで長い間忍従していたのだろう。
 これは調査の指揮を執っていたサガラの見解だったが、星船も同じ考えを持っていた。
 忌々しいが、認めざるをえない。

 ――そしておそらくは、藩国の側に、いる。
 武士でも商人でも、ましてや狂信者でさえ思いもよらぬ奇想のもと、元は実直な頭でっかち達を遠くより操り、『人間爆弾』に仕立て上げてしまうような者が。

 ――藩王は死んだ。だが、後は誰が継ぐ?
 王に男女を問わず、子は多かったという。
 これからは誰が主導権を握る。王族か、はたまた重臣か。
 これといって勇名を聞かない者ばかりだが、そのいずれかが今回の騒動を仕組んだのか。
 あちら側では王座をめぐる争奪戦が始まっていることだろう。そのさなかに、外部からの圧力がかかるのを妨害するためというのが今回の動機か。
 数年後を見越してそんな計画を立てられる人材がいるのか。あるいは、似たような埋め火が、この帝国内部のありとあらゆる場所に張り巡らされているというのでも言うのか。
 ……そんなことが、あの負け続けの藩国に可能なのか。

 空想と推測の入り混じるとりとめもない思考は、人力車が大きく前後に揺れて停止したことにより、遮られた。
 見れば前方、小道へと別れた岐路に人だかりができていた。
 近づかなければ相手が男か女かさえわからない夕闇の時分だというのに、けっこうな数が立ち止まり、背を反ったり爪先で立ったりして、その小道の奥を覗き込もうとしていた。

「何事だ?」
 と問えば、車の牽き手が事情を聴きに向かった。
 ややあって、現場を検分していたとおぼしき、髭面で大柄な憲兵を連れてもどってきた。

「何があった?」と、改めて星舟は車を降りて問うた。

「死体です」
 と、勤勉そうな男は直立して答えた。
 ただでさえつい先日に爆殺未遂が起こったばかりだ。そうした事件性のある事柄に、見物人たちは敏感になっているのだろう。そして、それは星舟も同じだった。

「どんな死体だ? 数は? 状況は?」
 しつこいほどに重ねて尋ねる星舟をなだめるかのように、彼よりも一回り年上らしき男は表情をやわらげて答えた。

「なに、浮浪者のケンカの巻き添えですよ。ただ、まだほんの子どもだったので、皆哀れがっているだけです」
「子ども」
「このあたりを仕事場にしていた、靴磨きの少年ですよ。まぁ元はと言えば、彼がどこからかくすねてきたらしい鋼玉銭がそもそもの原因だったのですがね。彼の身内がその出所を問い詰めようとしても答えず、奪い取ろうとすれば、頑なに手放さず、といった次第で。で、周囲を巻き込んで大事になった時には、その騒乱の中心で、彼は体中の骨を折られて絶命していたそうです」

 話の中で、その全容が明らかになっていく中で、星舟の呼吸は荒く、浅くくり返されていた。
 憲兵を睨みつけ、唇を引き結んだまま、彼の報告に耳を傾けていた。
 一言一句、その顛末を漏らすまいと。それが己のしでかしたことに対する義務だと。
 叫びたい衝動を、かろうじて押し殺して。

 目の前の彼が悪いわけではないのだが、隻眼から発せられる、殺意じみた迫力に気圧されたのだろう。憲兵はやや薄気味悪げに、こちらの顔色や機嫌をうかがうようにおずおずと、
「あの、もう戻ってもよろしいですか」
 と尋ねた。それがむしょうにシャクにさわる。いや、今は何を言われようとも、腹立たしさが上回る。自分が発する言葉のすべてが、怒号となって吐き出されそうだった。
 強張る手を振って許可し、人力車の担い手に対しても、「お前も」と短く言って、賃金を支払った。
 この奇妙な客をあえて乗せ続ける勇気はないのだろう。彼は、ほっとしたように快諾し、会計を終えた。

 星舟は、酔ったような足取りで夜に沈みゆく六ッ矢の街を歩く。
 気が付けば、家宅も第二連隊の屯所も通り過ぎて、人のいない大路を歩いていた。
 まるで、あの頃の、孤児だった自分に戻ったかのようだった。

 ーーいや、違う。何故、気づかなかった。どうして、忘れていた? オレだって、同じような目に散々遭ってきただろうに。

 ギリギリと、奥歯を噛み締め、眦を絞る。
 与えること、施すことのむずかしさを改めて痛感した。
 同時に、竜たちを思い出す。

 戦場での「お前などいつでも殺せる」と言わんばかりの、ブラジオの目。
 相手の遺恨を知り、嫌悪を覚えつつもまるで竹馬の友かの如くに振る舞えるサガラの所作。
 無心にして無償の慈愛とともに置かれた、アルジュナの手。
 そして初めて会ったあの夜と同じ、自分の施しや好意が相手を幸福にすると信じて疑わない、シャロンの無垢な笑み。

 嗚呼、と星舟は夜天を仰いだ。
 ーーまだだ。まだ、足りない。武力も、権力も財力も、知恵も知識も、それを動かす器量も!

 つぶやきの後に続く想念が、胸の内で嵐のように渦巻いている。
 それに突き動かされて、宝珠に爪を立てるがごとくに、無数の星へと腕を伸ばす。
「それでもッ、オレは!」
 白銀の月に向かって、咆哮にも似た気炎を吐く。

「未熟でも良い! 今は矮小でも非力でも構わない! だが、いつか必ず手に入れる。あの日見た煌めきの全てを、竜の、人の何もかもを!」

 隻眼の男は、自分を含めたすべてを嗤う。
 狂気の大笑を轟かせる。

 光龍四十五年。
 人と竜とのひとつの変遷期において、夏山星舟の野望は、彼の中では未だ中途であった。


第一章:トゥーチ家の人々 〜領主館襲撃事件〜 ……閉幕



[42755] 番外編:騎馬と竜
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:e6b9fc29
Date: 2017/09/21 08:07
 初春の風が、朽葉を踊らせ、草原をざらりと撫でていた。

 愛馬の手綱を引いた夏山星舟は、郊外の空気を思い切り吸った。肺腑を抜けるような爽やかな気が満たした。
 爆破騒動の後始末やらの、諸々の疲れや気鬱が重なった彼にとっては、それが何よりの妙薬だった。

 そんな彼に従う悍馬『ライデン』は、長い脚に山のように盛り上がった豊かな胸筋と、そしてふてぶてしい面構えを持っていた。

 二年前、戦場におもむく際に星舟が捕らえたものだ。
 元は人間が扱っていた軍馬かその裔か。
 十年前に竜たちに制圧された頃に逃げ出したものが、そのまま野生化したものだろう、と星舟は憶測していた。

 物資の移送に必要な軍馬を民間、野馬の中より徴発した時に混じっていた一頭だ。
 体躯はやたら大きなくせに、孤高を気取って、共に捕獲していた本来の群れからも外れ、不遜なたたずまいで孤影を保つその姿……そこが、星舟の琴線に触れた。

 役人や地元の古老や猟師でも手を焼く暴れ馬だったが、相通ずるところがあったらしく、星舟にだけは懐いた。
 やはり己は、欠落者とは相性が良いらしい。自重めいた調子で、星舟はそう結論づけた。

 とは言え乗馬する回数はあまり多くはない。
 戦場に駆り出すにも、竜たちを見下ろすような図になるので、彼らの不興を買うはめになりかねない。いちいちそれを気遣わなくてはならないし……もっと致命的な理由も存在している。

 だからたまの休暇に普段は郊外に放牧している彼を連れ出し、思う様に疾駆させる。
 この『ライデン』、奇矯なことに、放牧されているよりも星舟が乗りこなしているほうが、伸びやかに走るのだそうだ。

 だがこの時は、少しその愛馬の様子が違っていた。
 むずがる子どものように、鼻先を何度もぶつけてきて、言葉にできない何かを訴えようとしていた。

「なんだよ、ずっと遊んでやれなかったからスネてんのか?」

 ハハッと軽やかに笑う。
 政務に軍務に、それを隠れ蓑にした野心の隠匿にと、心休まるヒマのない彼にとって、本来の安堵が許される一瞬だった。

「あれー? セイちゃんじゃない!」
 ……そしてその安堵は、本当に一瞬で幕を下ろした。

 星舟は慣れ親しんだその声に背を向け、一度思い切り、苦い顔をした。
 そして彼女のほうへと振り向いた時には、柔和な笑みをたたえる忠臣の貌となっていた。

「これはこれは総領姫様。わざわざこのような場所に来るとも思わず、失礼をいたしました」

 ただ言葉は多少自覚のある慇懃無礼気味に。
 対する竜の娘、シャロン・トゥーチにその意図が気取られた様子はない。
 その脇にひかえるジオグゥは察知しているかもしれないが、上機嫌な主人の心に波を立てるのを良しとしないのかもしれない。そしらぬていで、弁当箱を片手に提げて侍っていた。

「でも、久々に見たなぁ。セイちゃんのそういう笑顔」
「畜生にしか心を開けない、寂しい男ですわね」

 無邪気に顔をほころばせる主人と、容赦なく辛辣な言葉を浴びせる従者を前にして、星舟の繕い笑みは強張った。

 ――そういうことか。
 そして、馬が示した異様な反応の正体に、ようやく気が付いたのだった。

 だが咎める気はない。『ライデン』なりに伝えようとはしてくれていたし、そもそもよくこらえた方だ。並の馬であれば、たちまち主人を振り切って逃げだしていただろう。

「あちゃー、やっぱりなついてくれないかぁ」

 人の機微には鈍重なくせに、馬の感情はわかるらしい。

「なついてくれれば、戦場でも一緒にいられるのにね。そういうの、軍馬とか騎馬隊とかって言うんでしょ?」
「お嬢様、あまりこの男に余計な知恵を入れないように」

 てめぇが余計な猜疑心抱く前に、そのことは考えたわこのボケが。星舟は内心だけでそう毒づいた。
「それは無理でしょう」
 と、それを笑いで覆い隠した。

 馬は、竜を恐れる。
 それが騎馬を投入できない最大の理由だ。

 たしかに人間同士で争っていた時代、騎馬隊はその機動力と威力でおおいに活躍したという。
 だが、本能的なものか、竜らが生物としての上位種である故か。彼らは竜の気配に人よりも敏感だ。
 ましてや、彼らが殺意を剥き出しにするような場では如何か。

 竜領への大侵攻時、藩国側秘蔵の勇猛果敢な鉄鋼騎馬軍が、本気になった竜を前に算を乱し、それがかえって被害を増やしたのは有名な話だ。

 それ以降、人竜間のこの永き闘争において、騎馬隊というものは用いられていない。せいぜい物資を輸送する程度の運用しかできずにいる。

 ーーもっと使い方があるようにも思えるが……竜たちの自尊心も傷つけず、機動力を発揮させられるような。

 とは星舟もまた考えていることだが、明確な答えを出せずにいるし、実践する機がそれほど多くない。
 この乗馬も趣味という以上に、そうした思索を巡らせられる貴重な場でもある。

 今日は、見事にそれが潰されたが。

「……ときに改めてお尋ねしますが、姫様は何故このような場に」
「うん、ちょっと散策にね。それと思い出めぐりかな」
「思い出?」
「ほらこの場所、覚えてない?」
「……あぁ」
 追憶とともに、星舟は重い声をあげた。

 五、六年ほど前、アルジュナとシャロンの親子仲が険悪になった時期があった。
 何が原因かはわからなかったが日夜口論を繰り広げ、この箱入り娘が家出をすること数知れず。あの温厚なアルジュナが星舟に八つ当たりのように厳しく当たったのだから、それは当事者間ではよほど相容れない確執だったのだろう。

 落ち着いた頃、興味本位でその原因を聞いたことがあるが、シャロンはぐっと唇を噛んで、目を真っ赤にして視線をさまよわせた後、
「女の子にはいろいろあるのですよ」
 とお茶を濁しただけだった。
 ちょうどこの頃、彼女の縁談が持ち上がっていたから、その関連だと目星はつくが。

 そんな連日の喧嘩のたび、逃げるように駆け込んだのが、そして追いついた自分がなだめすかしたのが、この草原だった。

 ーーそこまでなら、よくある家族ゲンカなんだけどな。



 だが、彼女は弾けた。



 貴族の装いを脱ぎ捨てた彼女は黒の軍服を着合わせ、その背や袖裾に古代の龍の姿を独特の金刺繍として編み込み、日夜大刀や木刀の類をかついで街を練り歩いた。

 そして『救星血盟会』だとか『覇天侠友連合』だとかいう徒党を組んで市井に繰り出し、似たような放蕩無頼の集団と衝突することもしばしばあった。

 ジオグゥを見出し、召抱えることになったのもちょうどその頃である。

「……懐かしゅうございます。お嬢様と契りを交わしたのも、ちょうどこの原での、昼夜を通しての決闘でしたね。あの時、自分はお嬢様の腕っぷしと器のデカさに惚れ込んで……ではなく、文武の才気と寛容な御心に惹かれて、ついていこうと決めたのです」
 当時の記憶がよみがえるのか、ジオグゥのふてぶてしい面構えに、わずかにだが朱が差した。

「もぉー、やめてよ〜。今になるとちょっぴり恥ずかしい思い出なんだからぁ」
 対するシャロンも同じく赤面し、はにかんで見せた。

 が、今の話の内容に乙女が恥じらう要素など、何一つ、万に一つ、欠片さえも見当たらない。

 ーー武侠の講談話じゃねぇんだぞ。
 声に出して呆れたくなる一方で、ジオグゥの戦闘力に舌を巻く。

 無論、当時のシャロンとて加減がしただろうが、それでも荒んでいた頃の《《あの》》シャロンと渡り合うとは。とても混血の獣竜とは思えない。

「昔から、珍しもの好きでしたね。姫様は」
 当時の記憶が親しみとともに帰ってきた、という体で、星舟は語を和らげた。
 その隻眼は、侍女へと向けられていた。
「えぇまったく、中には毒虫の類まで」
 ジオグゥは、隻眼の将を睨み返した。

 ハハハ、と星舟は豪快に笑う。
 フフフ、とジオグゥは眉ひとつ動かさず、真顔のまま笑声だけをあげた。
 だが内心では、互いの影を殴り合っていたことだろう。

「もう! そこまでヤンチャじゃないってば!」
 知らぬは飼い主ばかりである。

「それに、私だって無差別に拾ってるわけじゃありません」

 たしかに。星舟はその一点に関してだけは、声にせず同意した。
 彼女はなにも憐憫の情や物珍しさから拾ってきたものを愛玩しているわけではない。

 たとえそれが路傍で見つけた犬猫であっても、妙に学習能力が高かったり、あるいは人になついたりして、三日もあれば芸を覚えることさえある。すなわち、才の萌芽を見つけ、育てることが異様に上手いのである。
 しかも本人が特別何を教育したわけではなく、自然と周囲に彼らがそうなる土壌が出来上がってくるのである。
 単純な戦闘力において真竜種と渡り合うジオグゥにせよ、不具の人間でありながら異例の出世を遂げた星舟にせよ、そうやって生まれた異才の人物には違いない。

 ――そこが気に食わねぇ。
 嫉妬やおぞましさから、星舟は素直に毒づいた。
 彼女の仁徳がそうさせるのか、あるいはそういうものを引き付ける独特の空気を醸しているのか。

 ――あるいは。
 と、『ライデン』をそれとなく見る。
 人に乗られることを好み、かつ竜をそれほど恐れない悍馬。
 シャロンが見出すまでもなく、そこかしこで、そうした変異の種が生まれつつあるのか。
 今この瞬間にも……そして、おそらくは人の中にも。

 ――まぁ、さすがに真竜種を真っ向から殺せるような人間は出てこないだろうがな。
 自分とて、まだその領域には至っていない。まだまだ力が足りない。
 それ以上に、そんなことはあってはならない。そんな生物は、有り得てはならないのだ。自分の描くこの天下の図において。

 星舟は苦笑しながら妄想を振り払う。
 血の臭いがするような昔話に花を咲かす女子ふたりに、ある程度の距離を持ちながら改めて加わったのだった。



[42755] 第二章:狩人 ~対尾港撤退戦~(一)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:e6b9fc29
Date: 2018/09/15 19:41
 のどかな街道筋を、馬車の縦列が進んでいく。
 一見して悠然と、泰然と進んでいるかのように見えて、その速度はかなり出ていた。まるで、嵐の前の、雲の群れのように。

 葛城陽理は、そのうちの一台、中ほどの馬車に揺られながら「くあ」とあくびをひとつ、落とした。

「あー、めんどくせ」

 おおよそ葛城家波頭藩を取り仕切り、五千の兵を率いる当主とは思えない発言に、そばに同乗していた老臣は顔をしかめた。

「若、いえ殿。発言にはお気をつけください。どこで間者が聞いているともわかりませぬゆえ」
「分かってる分かってる」

 と言ったそばから、また大きなあくびを一発かまし、
「めんどくせー」や「やる気ネェー」とか嘆くようにくり返す。
 やや大仰に嘆息する白髪の老人の脇で、それまでぼやき続けてきた陽理が、

「たまたま席次的に順番が回って来たのがが葛城だっただけさ。俺じゃなくたって、どうせ連合の誰かが継ぐことになるんだ」
 と、声を低めてつぶやいた。

 この連合藩国は、もとより平和を重んじて、という名目の妥協によって成立した国である。
 そのため、初代藩王である結城家の権勢はそれほど強くはなかった。そこに加えての、あの無謀な出征に大敗である。
 それを断行した結城家が負った責務は重く……おのれらも同調したということは棚に上げて……他の有力者たちからの圧迫により、数代の間にその機構は大きく変質していった。
 政戦の方針を決定づけるための手段は各藩による合議制となり、一応はそれは盟主である藩王が最高議長となるのだが、その藩王も結城家からのみ輩出するのではなく、この連合成立以来の重臣の家系より順々に、かつ公平に出されることになっている。
 むろん、後継者や血縁の関係など、さまざまな問題もあるにはあり、中には血の流れるような暗闘もあった。だが、幸いにして国を割るほどの騒動にはいたらず今日にいたっていた。

 その席次が今、この十八歳の藩主に回って来た。

「あぁ、面倒だ面倒だ」
 とその青年は何度となく言う。
 だが、彼の根底にあるものを、この道程にいたるまでに行ってきたことを、老臣は知っていた。

「しかし、そのための根回しはしておられた。これからせんとしておられることも、この愚老が知らぬとでもお思いか」
「だから、面倒なのさ。俺は別に人の上になんて立つつもりはないけど、順番が来たことだし、辞退しようにも他の候補はグズの無能だったり、女子だったりどうしようもない。にも関わらず、それをわきまえない佞臣どもがウロチョロと這いずり回ってる。まったくイヤだねぇ、人の上に立つってのは」

 薄く嗤いながら、息継ぎでもするかのように「面倒だ」をくり返す。
 表面上はたしなめながらも老臣は、この牙を隠した麒麟児が、王座に座る未来図を容易に想像することができた。



 彼ら一行は、首都たる秦桃(しんとう)へと向かった。その城下の絢爛さには眼を奪われることなく一路、迎えの待つ王宮へとさらにその足を速めた。

「……爺、抜かりはないな」
 声音をあらためて陽理は問うた。
「はい、皆準備は整っております」
 と老臣はよどみなくひび割れた調子の声で答えた。
「あぁ、藩王になっての初仕事がコレとはね、まったくもって面倒くさい」

 しかし相も変わらぬ主の調子に、老人は苦笑した。
 これは王になっても、性格に変わりはなさそうだった。

 内門である西虎門は、内側から錠がかけられていた。ここを通って中央広場に出、奥に進めば謁見である鳳凰の間、奥には王の書斎や私室が通じ、東に回れば書庫や指揮所や兵舎、さらにそこから裏口に回れば武器庫や火薬庫へもつながっていた。
 その門前で、まず未来の王とその側近が足を下ろした。
 大ぶりの羽織を肩から打ちかけ、のそのそと陽理は歩き始めた。

「開門せよ! 次期藩王、波頭藩主葛城陽理の到着であるッ」
 番をしていた者が顔を見合わせてから最上級の礼を返し「しばしお待ちを」と言い置いてから、まずは自分たちが門の内側へと入っていった。
 それから、門が開くまでに結構な時間を要した。

「いちいち手間でかったるいな……王座についたらこの門取っ払ってやろうか」
「殿、いえ陛下」

 主君の逸りを家臣は抑えようとしたが、それより前に門は開いた。
 瞬間、衝撃波が彼らの顔面に押し当てられた。

 すわ敵襲か。そう考えて身構える彼らだったが、その正体は銃撃砲撃のたぐいではなく、彼らの前にいるのは兵士ではなかった。
 そのことに、先んじて進んでいた馬車も戸惑っていたようだ。中に控えていた者たちも、そこから出る気をかえって失ったようだった。

 それは、音楽であった。
 金属で構成された器具を打ち鳴らし、あるいは吹き鳴らし、抜けるような青空に豪奢に演奏を轟かせる。

 一切の技量や道具を余さず用いた、豪奢で豪快で濃厚なしらべ。だが、ほんの少しの哀調のようなか細さがその中に伏兵のごとくに忍ばされているようなのは、気のせいだろうか。
 だが逆にそれが良い、と陽理は思った。こうした芸事にはあまり敏感なほうではない彼の感情さえ、その音のほとばしりは揺すり動かした。

 演奏が止んだ。
 広く長く大きくとった、玉座に通じる階段の手前。そこで指揮をとっていた者が、振り向いた。

 年のころは二十そこそこ……いや、落ち着いた立ち振る舞いから見れば、もっと年月を重ねている可能性は否定できない。

 この大陸では竜たちをのぞけばあまり見ない、太陽光と蜜でつむいだかのような光沢のある金髪が波打つ。極上の宝玉のような純度の高い蒼い瞳。血色はいいが、抜けるような白い肌。

 何より瞠目すべきは、自分のそれと倍ほどはある腕を振りかざす屈強な楽団を従えていたのが、この見目麗しい女性だったという事実だ。

「出迎えにふさわしい見事な余興だった。異国の者か」
 その小柄で骨細な立ち姿に、彼にしては珍しく素直な賛辞を陽理は与えた。
「お気に召していただけたのであれば何よりです。わたしは、カミンレイ・ソーリンクル。音楽の顧問としてこの地に招かれました」
 と、土地の標準語で話し、ふんわりと開いたスカートとかいう履物の裾をつまんで広げる。それが、海を隔てた異国のうち、北方の一国の礼儀作法であるらしい。その指の動きは手慣れて洗練されていた。それが挨拶であるという前知識がない者であっても、心奪われるに違いない。

「そうか。まっ、これからよろしく頼む」

 次代の王であるはずの男に、カミンレイは無言の微笑で返した。
 おもむろに、右手でとった指揮杖を、蒼天へと突き出した。

 その杖の下端が、カツと石段を鳴らした。
 刹那、爆音が四方から響いた。
 光と煙が楽団の頭上、門に設置された高楼より吐き出され、そこから発せられた弾丸が、射線を幾重にも交差させながら、彼らの一団を撃ち抜いた。

 先頭の車で馬が暴れて横転し、血まみれの兵たちがその中から躍り出た。
 後部でも同様なことであり、また陽理の身近では……つい寸刻まで会話を交わしていた老人が射殺されていた。
 取り残されたのは、呆然と立ち尽くす彼のみであった。

「失礼。曲目に対する解釈の齟齬が認められましたので、音楽教師として是正させていただきました。『これから』とおっしゃいましたが、貴方に『これから』はなく、先ほどの演奏は、そんな貴方へと手向けたものにございます」

 完全に虚を突かれた形となった陽理は、カミンレイの慇懃無礼な宣告に、反応できずにいた。
 この端麗な指揮者が本当は何者なのか、何故自分がこうした目に遭うのか。それさえも問うこともできずに。

「やはり兵を潜ませていたか! おおかた開門と同時に要所を制圧し、内外に潜在する反抗的な派閥を排除する。狙いとしてはそんなところか?」

 そんな彼女の段上から、透き通った声が降って来た。
 神々の扱う槍がごとくに鋭く、長くまで届く、豪放ながらに心の奥底から惹きつけられる音声だった。

「次代の王というには小胆なことだな! いったいどこに、己が家に入るのに路傍の小石まで除く家主がいる!? 己の二足で大地を踏みしめ堂々と歩けば、つまずくことなどありもしないし、気にもかからん! それが君主というものだ!」

 声の主もまた、若き女性だった。
 やや赤みがかった、黒とも茶とも表しがたい長い髪。本邦人ばなれしたすっきりとした高い目鼻立ち。
 背丈は並みの男以上にすらりと高く、髪色と酷似した軍服調の異装をまとった姿で、石段を下りてカミンレイに並び立った。

 だが、おのれの装束や声音、カミンレイの容姿にさえも負けないぐらいに印象深いのは、その双眸だ。
 ただ見返すだけでこちらの肌が焼けるような、黒々とした輝きを宿している。それは、あらゆる人間の功罪、善悪を見定める、超常の存在を想起させた。

「なんだ……なんなんだ、お前らは……これからの王に対して、こんな無礼が許されるとでも……ッ」

 彼女の声に圧されるように、陽理は言葉を詰まらせた。
 そして彼女の声と自分のそれとを比して、みずからの矮小さを恥じ入るように、次第に声は小さくなって枯れていく。

 カミンレイはさきほどの微笑とは一転、冷ややかに彼を見下ろすと、自身の背後にあった譜面台から、一枚の紙片を抜き取り、虚空へと放り投げた。
 一度ふわりとおおきく舞い上がったそれは、まるで意志を持っているかのように、陽理の足下へと滑り込んできた。

 それは、本来その場にあってはありえない証書だった。
 自身の判と、署名と、血判と、それに連なる人間の名。それらを見下ろした瞬間、陽理の顔色からさっと血が抜けた。

「葛城陽理。各所に対する贈収賄および数年におよぶ癒着、先年における赤国(あかぐに)、吉妹(きつせ)両家の国境争いにおける無断の加担および扇動。および前の尾根州石場における独断による撤退と隣国の救援依頼のたびたびの無視。それらはすでに明るみとなっています」
 ほほぉ、とまるで今知ったかのように、カミンレイの隣の女は口を丸くして感嘆とも呆れともとれる調子でうなずいた。
「これはまだ、叩けば余罪がこぼれ落ちてきそうな勢いだな」

 それを無視して、カミンレイは指揮杖を藩王候補者だった青年へと突きつけた。

「よって貴方の藩王継承権を剥奪。すでに波頭藩でも藩主を放逐する決定が下され、弟御が継ぐことになりました」
「なっ、なんだと!?」
「そして本日をもって、この赤国流花(るはな)様が、次期藩王と決定いたしました」

 そこでようやく、哀れな罪人は女の姓名と素性を知った。
 と同時に、赤国には先年詰め腹を切らせた嫡子のほかに、海外に渡航していたはずの姫がひとりいたことを思い出した。
 たしかに、時和(ときわ)藩領赤国家は、葛城の次に藩王と目されていた家柄だ。だが、それがなんだというのだ。

「バカな……女の藩王など、聞いたことがない!」
「そこが貴様の限界だ!」
 陽理の吐き捨てた言葉を、その女……赤国流花は喝破した。

「やれ男だ女だなどと拘泥してこの情勢を顧みず、おのれの周囲のみを見て面倒だなんだと嘆くフリをする。そんな男の怠惰な統治など悠長に五、六十年と待っていたら国が亡ぶ! 今すぐに、即刻! この国を革める! そのために私は先代に呼び戻された。そのために、このカミンレイが登用され、ありとあらゆる網を張った!」

 ガックリと膝をついた敗者を見下ろしながら、陰のない口調で流花は言い渡した。

「命までは奪らん。そもそも、要らぬ。日々放言している望みの通り、俗世の面倒から離れ、怠惰と無為の余生を送ると良い」



 謀反人たちが生死にかかわらず片づけられたのを見届けてから、赤国流花は軍服を翻した。
 その後を慕う音楽教師に、冗談めかしく語り掛ける。

「しかし、罪はともかくとして、よくあの男のやらんとしていたことを見抜いたな。むしろ、本人が日々面倒だ迷惑だと口にしていたのだから、これ以上は余計な野心がないと考えるのが筋ではないのか?」
「本当に怠惰な者は、その心境を口にすることさえ億劫なものです。『面倒くさい』をあえて連呼するような者はその実、おのれの存在を認めさせたくてたまらないのですよ。おそらく、怠惰の衣を脱いでこの場で『実はまだ本気を出していない』『やる気になればこの程度のことはできる』と演出したかったのではないかと」
「なんだそれは。何事も『面倒だ』で片づけるような輩を、他人が信任して心命をゆだねるわけがなかろう。まったく不可解なヤツだったな」

 バカバカしい。そう吐き捨てたげな流花の物言いに、カミンレイはそっとため息をついた。
 赤国流花には本人も自覚していな底なしの度量がある。『当時は』一介の音楽家でしかなかったカミンレイやその他の逸材を見抜くたしかな見識がある。
 が、その一方で、こうした小物の、神経質で複雑かつ微細な心情の動きには目が届きにくい。

 ――まぁそれはこちらでフォローすればよい。そのために、私がいる。

 うつむきがちのカミンレイに、さらなる質問が飛んできた。
「七尾(ななお)と日ノ子(ひのこ)はどうしている?」
「準備万端整っているようです。いつでも、戦を仕掛けられます」
「戦? それは違う」

 小姓から手渡された外套に、肩を覆わせる。
 その眼下には、近衛の兵五百名ほどが陣を組み、列を成す。
 彼らが手にしているのは、いずれも海外から取り寄せた、ガス圧拡張式の施条銃だった。

「竜らは人ではない。だが、決して不老不死にして万能の神などではない。……これは狩りだよ、カミン。そのことを知らしめるために、私は行くのだ」

 流花は親しげに愛称で彼女を呼ぶ。だが、それは凄惨な響きを帯びた、確信に近い宣言だった。
 音楽顧問はそれを真摯に受け取り、こっくりと首肯した。

 新王が高くのぼる日輪に挑むように拳を晴天へと突き上げる。
 そして彼女が生まれ変わらせた新生藩王国軍たちは、その軍靴の下で熱狂の産声をあげたのだった。



[42755] 第二章:狩人 ~対尾港撤退戦~(二)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:e6b9fc29
Date: 2018/09/15 19:43
「リィミィ君。キミの海外留学の希望だが」

 光龍四十年、帝都。
 中央学府の長たる老竜は、女獣竜に抑揚のない声で告げた。

「諦めてくれ。すまない」
「理由は、お聞かせいただけるのでしょうね」

 謝りながらもそこに申し訳なさは感じない。視線も判を押すばかりの書類に向けられたままだ。また、そうした態度はいつに始まったことではなく、非常勤の講師であるリィミィの中では彼への賢者としての敬慕などとうに消え失せている。

「席がすべて埋まってしまった。学生の中でも希望者数多でね。特に真竜種の若く優秀な若者たちが見たがっているんだ。学府としては、未来ある彼らをこそ優先し、広い世界を見てもらいたい」
「その大半は物見遊山のつもりでしょう。この私が綿密な打ち合わせのうえ、ようやくあちらの学園と提携が実現したんですよ? これでは恥をさらすだけでまるで意味がない」

 人と竜、いずれを選ぶべきか。それを思案しているのは大陸内部の人間ばかりではない。はるか先の大海の先の諸国もまた、どちらに手を結ぶべきかを考えているのだ。
 留学に赴く生徒たちの一挙一動もまた、その査定に大きく関わってくる要素であるはずだ。現に、人間達もまた正式な使節として竜たちの二倍三倍の速度と人数で、異国へ送り込んでいるではないか。
 無駄に加齢するばかりでこの老いぼれは、内側の勢力関係とおのれの立場にしか興味がないのだ。

「それに、今の言いぐさ。まるで私に先がないように聞こえましたが」
「他意はない」

 学長は干からびたビワのような鼻をひくつかせて嗤った。
 それが合図のように、扉の前に立っていた事務方が彼女のすぐ背後まで寄ってきていた。それを鋭敏な聴覚で捉えながらも、リィミィはまっすぐに目の前の老竜へと向け続けた。
 彼は、書類から手をはなした。
 真摯に対話をする気になったかと思えばそうではなく、古書の切れ端をつなぎ合わせる作業にうつっただけだった。
 本来は学長の仕事ではない。ただヒマを持て余して、手慰みににやっていることらしい。

「ただ、キミだってとうに身を固めても良い歳だろうに。獣竜の技師は重宝がられるが、学問で身を立てた者など聞いたためしがない。だから半端な学者の真似事などほどほどにしておいて、そろそろミィ家に新たな血を入れるべき頃合いではないのかね?」

 なるほど、とリィミィは自分でも驚きたいまでに、冷えた声を発した。
 理解した。ただし、相手の言い分がではない。納得などしていない。
 ただ、相手の無理解と、今後一切の歩み寄りがかなわないことを、理解した。

 ただ、反論する実績も材料もない。老竜の言葉は、道理の通った正論には違いなかった。
 彼女はろくに梳いてもいない頭を押し付けるようにして下げて、執務室をあとにした。

〜〜〜

 彼女は一応は考える。今後の身の振り方を。
 ――どうすれば、海を渡れる? どうすればヤツらを見返せる? 私の論の正当性が証明される?
 それは今日にいたるまでに、何度となく自問してきたことだった。
 だが返ってくるのは、いつも同じ言葉だ。

 後ろ盾なくして渡海したとてどうなる? ミィ家を潰す気か?
 見返す? そんな卑しい虚栄心のために、自分は学んでいたのか。
 証明する? その実践の機会や実績がなければ、机上の空論のままだ。だが、それは獣竜の自分には永遠に回ってくることはないだろう。

 あの老いぼれの言うとおり、所詮自分のそれは、証明されることのない技術や情報をひたすらに紙に書き留めるだけで、誰の興味も惹かないごっこ遊びでしかないのだろう。
 そして半ばそれを諦めて、様々なしがらみから一歩踏み出そうとしないあたりも含め、自分の限界なのだろう。

 —―辞職の手続きと荷造りでもしておくか。
 ため息とともにみずからの寮室のドアを開けた瞬間、リィミィは身を強張らせた。
 そして彼女と同じように小柄な身を硬直させた少年がいた。
 部屋に入るまで、獣竜の感覚をもってしても、その捉えられなかった。ひとつだけ残された右目の、異様な怯えてぶりから見てわかる。おそらく、極限まで気配を消す術に長けているのだろう。
 今回はそれが災いして、突然の接近と発見を許してしまったようだが。

 ――だが盗人ではない。
 なんとなしに、リィミィは感じ取った。

 弾かれたように、少年は平伏した。
 だが逃げはしない。名乗りもしない。
 みずからが小銭目当てで侵入した泥棒ではないと、無言で弁明しているのだ。
 そもそも、この部屋に値打ちのあるものなどあるはずもない。
 本は学府の廃品だし、新聞紙や雑誌の切れ端は数年前の海外のもので、紙屑同然の管理状況だったものだ。
 そして少年が胸にかき抱いている自身の論著もまた、学長達に言わせれば、無価値なものらしい。

 その所作は学生とは思えなかったが、よほどの冨家に飼われているのだろう。少年の着衣は相当に良いものだった。当然、竜に従僕として仕えている以上、多少の不自由はあるだろう。だが、わざわざ盗みを働かずとも、血色は良いし、十分に扶養されているように思える。

「お前、何者だ」

 リィミィは問うた。平伏するばかりで少年は答えない。主人に迷惑がかかることを恐れたのだろう。あるいはそれによる懲罰か。

「べつに怒っているわけではない。ただ、訳を知りたい。そんなものを読んで、どうする気だったのかをね」
 そうやんわり告げても、少年は答えない。
 リィミィは、根気のあるほうではない。事態が膠着したことを察すると、攻め口を変えた。

「……ではこうしよう。理由だけ答えてくれたら、素性は問わない。他の篇や書を貸してやっても良い」

 顔を上げた少年の、右目の色が変わっていた。当然、恐れや警戒は払拭しきれてはいないが、目の前にいる学者自体に対する好奇がそれが上回った。そんな顔つきだ。

 ――こいつ、生意気にも私を見定めている。

 と、リィミィもまた、隻眼の少年に興味を持った。
 そして両者は、無言のうちに契約を成立させたのだった。

「面白いから」
 少年はおもむろに口を開いた。

「面白い?」
 リィミィは口をかすかに歪めた。
 講義を受けられる身分でもなく、自分よりも実践できそうにもない無学な人間の小童が、それを理解したとでもいうのか。

 さすがに礼を欠く言葉だったから、あえて口にはしなかったが、顔には出ていたらしい。
 少年の目に、昏い怒りのようなものが点いたのをリィミィは見た。

「生産者との直接の連携。強化された産品生産による経済発展。海運貿易の強化。市場の独占」

 竜の文字で書かれたその原文を、何ら行き詰ることなく読み上げ、かつ要点をつまみ上げた。
 ふたたび固まったリィミィを、少年は隅々まで探るような目つきで尋ねた。

「これを人間たちがやったら、竜は、この大陸はどうなるの?」



[42755] 第二章:狩人 ~対尾港撤退戦~(三)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:e6b9fc29
Date: 2018/09/15 19:44
「起きろ」

 出し抜けにそう言われて、リィミィは目覚めた。
 瞼を上げれば、現世の夜が広がっていた。
 そこには七年分歳をとって軍に身を置く彼女自身がいて、七年分成長した隻眼の少年は上官となっていて、自分に屈んで視線を合わせていた。そしてここは東方領主管轄旧武家屋敷、夏山星舟の邸宅だ。
 夢の延長にしては、悪い冗談にもほどがある。

「さしものリィミィ先生も、出陣前の下準備はこたえるか?」
「あぁ、どこかの誰かが周辺地域の根回し、調査、傷病者の受け入れ先の確保に部隊編成にと、学者くずれに無茶ばかり強いるからな」
「オレはその三倍は請け負ってるがな」

 家主、夏山星舟は皮肉げに、唯一無二の瞳を細めた。
 かつては虫の羽音ひとつにびくびくとしていた少年が、ずいぶんと傲岸不遜になったものだ。リィミィは呆れを通し越して素直に感心した。

「とは言え、女性に夜更かしさせるのは申し訳ないとは思ってるさ。詫びと言ってはなんだが、夜食を作ってきた。味見してくれ」

 そう言って差し出した椀には、雑炊が入っていた。ただしその色は赤く、白いものが覆いかぶさり、香りは酸い。

「これ、何が入っている?」と目つきで問う彼女に、星舟は答えた。

「赤茄子の実を刻んだもの、それに漉したもので米を煮た。で、酪を載せてみたら案外美味くてな」

 食ってみろ、とこれまた声にせず手と目で促される。
 原材料と調理法と見てくれからでは、想像しがたい。それに、赤茄子は好みではない。
 だが、料理の腕や感性は、星舟の数少ない美点のひとつだ。その腕を信じて、匙で一口。

「どうだ?」
「……美味いよ」

 本来赤茄子は食えたものじゃないと思っているリィミィだが、これはいける。
 トゲのある酸味を、酪のまろやかさが分厚くそれを包み込んで互いを引き立てる。
 見た目こそ適当に材料を入れて煮込んだだけのようにも思えるが、素人が同じように作ったとしてもこの味には至るまい。
 米にも芯が残っていないし、何種類もの香辛料やすり潰した野菜で調味しているのだろう。やや大味に思える豪快さの奥に、深みを感じさせる。

「そうかそうか」

 破顔一笑、子どもめいた無邪気な表情を星舟は浮かべた。
 人と竜のありようを一変させる大それた絵図を描く一方、彼は時折、こうした瑣末なことで幼い笑みや反応を見せる。
 惨めだった少年時代。そこで本来得るべきものを、取り返すかのように万事を楽しむ。

 ――いや。
 彼が変質した、という考えを、リィミィは改めた。
 臆病なまでの慎重さ。それを持っているにも関わらずどこか危うささえ感じさせるほどの好奇心と純粋さ。
 兵学や政のみではない。料理、医薬、服飾、礼儀作法、その他もろもろの文化や雑学さえも吸収しなければ気が済まない、底なしの知識への貪欲さ。高みへの渇望。
 それらは、出会ったあの頃から何も変わっていないのだ。

「それ平らげて、気合い入れて励んでくれよ? 何せ、もうすぐ戦だ。オレらの武功の機会が、早くもめぐって来たんだからな。……今度こそ、誰にも邪魔はさせないさ」

 そしてそんなあどけない笑みのままで、同じように野心を語る。
 リィミィはそんな青年となった少年に、言いしれない畏怖と、一抹の不安と庇護欲をおぼえているのだった。



[42755] 第二章:狩人 ~対尾港撤退戦~(四)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:e6b9fc29
Date: 2018/09/15 19:48
 ブラジオ・ガールィエは、東方領、トゥーチ家の与力衆においても第二、三を争う領地と権勢の持ち主だった。

 性は質実剛健。その忠誠心の厚さと武功においては、陣営随一である。
 基本長身ぞろいの真竜種においてもその身の丈は頭ひとつ抜きん出ており、盛り上がる筋肉は他を圧倒する。

 率いる軍勢は、領地の広さに反して千名程度と少ない。
 これは生産力のない、痩せた土地であるからというわけではない。彼の収める細州(さいしゅう)は鉱脈の筋にあたり、鉄工の技師もすぐれている。東方領の武器生産を支えていた。
 彼があえて寡兵で軍務にあたるのは、人間を兵として使うことを過度に嫌うゆえである。装備する銃にも、一世代前の火縄銃が混入している。
 無論、輜重隊や工作部隊、先遣隊に組み込むことはあるが、戦闘員としては考慮していない陣立てである。
 だが、竜たちで大半を構成した部隊は、攻勢に長け、守りは硬い。
 アルジュナ・トゥーチが自ら軍を指揮していた頃は、兵力展開のできない限られた要所や、戦局を決定づける一打として投入されることが多く、嫡子サガラもそれに倣う形で運用していた。

 彼が兵の少なさに反して常に一番功を立てるのは、それ故である。

「またぞろッ! 藩国の愚か者どもが我らが領土に侵攻するとの風聞がある!」
 その領内の練兵場にて、体躯に見合う大音声をあげた。
 それに応じるかの如く、竜たちの木剣を握った腕の振りも、苛烈さを増していく。

「おのが主君、おのが同胞の喪も明けぬうちに節度ない出征、これに応ずるすべはもはや根斬りおいてあるまいッ! 各々、尚武の魂と矜持と気位でもって、奴ばらどもに強者の何たるかを思い知らせッ!」

 いくつもの木剣が割れる。的にしていた藁人形や二枚巻きの藁が中折れする。それにも構わず、荒ぶる竜兵たちは老いも若きも折れ剣で死した的を打ちつづけた。
 破壊的な音が連鎖していくなか、雷鳴のごとき怒声を轟かせる。

 その姿は、竜の体現者と言ってよかった。

 ~~~

 「今戻った!」

 みずからの居館にもどったブラジオは、邸宅すべてに行き渡るような大声を放った。その言葉も実に端的だ。

 本人は別段機嫌が悪いわけではない。それが彼なりの常の声量であり、強いて言うなれば従者や家族がこちらの要件を聞き逃さないようにという、彼なりの配慮の結果だった。

 その声につられて、おそるおそる顔をのぞかせたのは、従僕、それも年老いた人間だった。
「あ……」と声を漏らすその男を、ジロリと強面が見返した。
 しばらく老人が口がきけずにいた様子だった。だが、ややあって

「旦那さま!」
 と、子どものように顔を華やがせた。

「なんだ、騒々しい」
 と軽く叱咤するブラジオだが、舞い上がる老僕よりもその語気は強い。
「今朝、娘が目を覚ましました。これも、旦那様が薬を手配してくだすったおかげでございます。このご恩、どのようにお返しすれば」
「当然のことをしたまでだ。借りを返したくば分相応の働きをせよ」

 次いで、多くの人が顔を出した。
 旦那さま、殿、主人さま、様々な敬称でブラジオを呼び慕い、受けた恩情に対する感謝の念をめいめいに口にする。

「俸給の前借りの件、ありがとうございます! おかげでいい医者に見せられました」
「弟の婚姻の仲だち、お世話になりました」
「これ、うちのかかあがこしらえた餅です。よろしじぇれば、どうぞ!」

 それらを当たり前のごとくに受け入れ、貢物をみずから手に取り小脇に抱えながら、巨漢の真竜は人の垣根を分け入った。
 そしてその奥、白金の色と柔らかな光をたたえていたのは、ひとりの女だった。

「……いま、戻った」
 ブラジオは館に入る前に放った一言を、今度は控えめに口にした。
「おかえりなさい、あなた」
 そして彼よりもずっと小柄な女性は、抜けるような笑みをたたえたのだった。

 ~~~

「おかえりなさい、父上」
 ブラジオが嫡子、カルラディオ・ガールィエは、食卓の場で父を出迎えた。父に似ず骨格の細い彼は、一見すれば婦女子のようで、それゆえに煉瓦色に白銀が一房という奇異な髪色は、余計に衆目を惹いた。

「帰っていたのか」
「えぇ、春季休みですので明日まで」
「上手くやっているのか」
「はい。先日の試問では首位を維持いたしました。近々、御前討論会にも参加いたします」
「そうか、今はそこがお前の戦場だ。存分に励むと良い」

 父の言葉に、少年は目を輝かせてうなずいた。
 ふだんはもっと大人びているはずなのだが、久々に親と会った反動だろう。その口ぶりは少し実年齢より幼く聞こえる。

 それぞれの膳が運ばれてくる。
 菜飯に汁物に、里芋の煮物、程よく身のついた山鳩を甘辛く炊いたもの。
 夏山星舟などは外洋の料理に傾倒して賢しらげに奇抜な手料理などを振る舞いなどするが、結局のところ落ち着くのは、こうした馴染み深い飯だろう。

「そちらの戦場は如何ですか。なんでも、ヒトらが再侵攻を目論んでいると聞きましたが」
「特に支障はない。むしろ、安易に武器の利便に頼るようになり、軟弱になったぐらいよ」
「しかし」

 カルラディオは口元に笑みを浮かべたまま、目のあたりに険を見せた。

「お味方のうちにあって、夏山などという人間が領主さまに取り入り、我々と並び立つがごとく振舞っているとか」
「あやつか」

 ブラジオはある宴席での、異国の料理を得意げに披露する隻眼男を思い出し、いやな気分になった。

「彼の者のごとき不埒なる男を正すことこそ、真竜の亀鑑たる父上のなすべきことでは」
「カルラディオ」

 飯をよく食んで喉に通してから、その真なる竜は静かに口を開いた。

「あまり、あの男の陰口をたたいてやるな」

 それは、カルラディオふくめて相伴にあずかっていた妻や控えていた従僕たちにとっても、意外な言葉だっただろう。
 この家の内においても外においても、この男の『隻眼』ぎらいはあまりに有名であったからだ。
 周囲の驚嘆をよそに、もくもくと口に肉や米を運びながら、ブラジオは続けた。

「なるほどあの男は過ぎた待遇を得て天狗となり、さらなる栄達さえも望む野心があると見た。だが、そうして分不相応な欲望に手を伸ばさんとすることもまた、我らが庇護すべき人間の一面であろうよ。憎むよりも先に、その卑小さを憐れむべきよ」
「ですが、父上」

 それはあくまで理屈で理想だ。そう言いたげな我が子を手で制した。

「不満があれば当人に面と向かって言うが良い。そのうえでなお気に食わなければ、殴ってやれば良い。いずれ顔を合わせることもあろう」
「……はい、父上!」

 自身にそう言い聞かせられかはともかくとして、少年は尊敬と憧憬のまなざしでもって、父に心地よい相槌を返したのだった。



[42755] 第二章:狩人 ~対尾港撤退戦~(五)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:e6b9fc29
Date: 2018/09/15 19:52
 ことの起こりは、大陸南端で位置する汐津(しおづ)藩兵の侵攻だった。

 赤国流花の八代藩王即位に合わせるかのように、あるいはあてつけるかのように周辺諸藩と語らい連合軍を結成すると、赤国の許可を得ずに独自に西進。
 竜たちの海運の要、の和浦(わのうら)港を抑えると反発する施設や村々を焼き払った。

「先代や当代の藩王の名に泥を塗るがごとき曲事」

 温厚なアルジュナ・トゥーチが彼の藩主を名指しでそう非難したことにより、迎撃と反撃の部隊編成は大規模なものとなった。
 直轄領からはシャロンを総大将とした連隊の第一から第五までを投入。ブラジオをはじめとした武闘派真竜種にも参集を呼びかけ先鋒とし、第二連隊をその軍監として割り当て、さらには嫡子サガラ率いる帝都からの近衛兵団を後詰めとして差し遣わした。

 ……が、そこまでする必要は、なかったのかもしれない。
 戦場に急行したブラジオ・ガールイェはそのまま敵軍を強襲。草を刈り取るがごとく、南方小藩連合を粉砕し、彼らの五つの営所をまるで濡れてしなびた障子紙かのように破った。

 敗兵をまとめながら遁走した汐津の軍を急追。
 自領の喉元、対尾(つのお)港より舟で逃げようとする彼らを、さらに追い詰めた。
 また、北の平原からは山と河に挟まれた葵口(あおいぐち)を目指して、シャロンが進軍、反撃軍の補給路を確保。サガラは妹にその指揮を任せ、会見(かいけん)平原に停留し、近隣の村々を安堵させる。

 アルジュナの言うところの『曲者』の敗残者たちは、民兵や義勇軍、傭兵といったたぐいのものをかき集めて防戦する。一方で決死の伝令をいくたびも発して、近隣の七尾(ななお)藩にまず、後背を扼すように依頼した。
 和浦と汐津を結ぶ海沿いの道。その北の山岳に位置する小藩である。
 かつては大陸の中核を支配していた大藩だったが、領地経営の不振と不祥事もしくはそれを名目とした謀略によって、その多くを他家や王土へと割譲するか、支藩として独立を許してしまっている。
 この地方に点在する『尾』のつく土地はみなこの藩の所有した名残である。
 

 だが、七尾は消極的な対応を見せていた。戦端当初より参戦を拒み、静観に徹した。毎年のようにこの地にて熾烈な攻防をくり広げていた彼らには、もはや戦う余力がなかったのかもしれない。
 和浦から通過中の竜軍の横合いに一打撃を加えていれば、あるいは苦戦させられたかもしれない。だが、彼らはそれを無視。二千名ばかりを国境に配置し、抗戦の構えこそ見せたが、仕掛けようとしなかった。
 だが一応の義務は果たそうということか。その伝令を、おそらく王都へと送り届けたに違いない。

 王都秦桃、先代藩王の喪に服す間もなく動く。
 すぐさま救援軍を編成。旧領の時和藩、そして海軍を赤国流花自身が率い、水陸両面より向かう。

 総力戦の様相まで呈しはじめた情勢下において、ブラジオらの後につづく軍監星舟は、道中に臥した死体を数えていた。

 ~~~

「退け、だと?」
「はい。もはや目的は果たしました。これ以上の追撃はご無用かと。サガラ様にもそう進言いたします」

 港まであと一歩というところで、その報復行動に異を唱えだした者がいた。
 第二連隊長の、夏山星舟であった。

 暗い光をたたえるその右目で、居並ぶ諸将を品定めするかのごとく見渡す。
 表面上礼儀作法にはのっとっているから、彼の所作に対し不快さは感じても直接的に糾弾する者はいない。だが、その主張はまた別だ。怒りも手伝って、露骨な嘲笑が方々から漏れた。

「貴様もよくよく奇妙な人間よ。先の戦において、我らが留まれば進めと言い、かと思えば我らを引き留め己が進む。そして今また我らが進まんとすれば、退けという。はてさて、その空の左目は、いったいいずこを向いておるのやら」

 そう言って詰め寄ったのは、ブラジオ麾下の獣竜、バオバクゥであった。
 主に似て、武勇に長け剛直ではあるものの、同時に直情でもある彼はあまり弁に長けているとは言えず、その皮肉はずいぶんと直截的な物言いだった。

「戦というものはひとつとして同一のものはございません。さらに言えば、一戦場においても状況や対策は刻一刻と変化します。まして、石場は攻め、こちらは守りの戦。そもそもの前提が違いましょう」

 など、理路整然と反論されれば、言葉に窮して怒情を爆発させそうになる。

「では、この場合の理由は?」
 部下を制し、ブラジオは立ち上がった。
「この場における変化した情勢とはなんだ?」

 たしかにここ対尾は三方を山で囲われた出島で、進むも退くも何かと難の多い場所だ。
 だが北の糧道は姫らが抑えているし、近日中にはこちらの水軍もまた碧浜より出立し、西の間道を割けてこちらに合流予定である。
 孤立や兵糧攻め、あるいは敵援軍による逆包囲の懸念を取り除いた、可能なかぎり万全の体勢と言えた。
 だからこそ、独断では退けぬとも。

 話を聞く耳はあるのか。すがめた星舟の右目に、そう言いたげな嘲弄の色が見え隠れする。
 バオバクゥ同様、ブラジオもまたこの男が好ましくないのは、こういう表情を作るあたりである。
 おのれの心中が看破されていないとでも思っているのか。あるいは、そう思われていても構わないとでもタカをくくっているのか。追及されようと切り抜けるだけの才知がおのれにあるとうぬぼれているのか。
 どちらにせよ、侮られているには違いない。
 どれほど自分に理屈を言い聞かせても、この人間が嫌いな理由が、それだった。

「ひとつには閣下もすでにご承知かと思いますが、対尾港が非常に不利な場所ということ。もうひとつには、道中の死体や打ち捨てられた旗が少なすぎます」
「つまり?」
「敵はあえて、この場所へと我々を誘引している可能性が高い。石場の時と同じく」
「つい今しがた、貴様の口より『ひとつとして同じ戦場はない』と聞いたばかりだが?」

 バオバクゥの揚げ足とりを、星舟は露骨に無視した。

「そして第三に、七尾藩の静観が不気味なのです。あちらから仕掛けて来ずとも、完全に背を向けて無視すべきではありません。もし敵に何らかの策謀あらば、あの小藩が重要な役割をになっているはずなのです」

 言いたいこと、言うべきことはすべて吐き出した。
 そうい言いたげに息をこぼして瞑目し、星舟は自席へと戻っていった。

「……わかった。だが、退却など思いもよらぬことだ。このまま包囲を開始する」

 人間の隻眼は、あらぬ方向を向いている。
 その青年の前に「だが」とつづけて、ブラジオは立った。

「我らが包囲よりはずれる。西の間道を抑え、七尾に動きあらば抑え込む」
「殿!?」
「構わん! ……そこまでせねば、この人間めは納得すまい」

 それで良かろう、と歩を進めて顔を寄せる。
 星舟はまっすぐに向き直った。

「常套の戦術ですか。なるほど、いつもながらその常在先陣のお志には感嘆を禁じ得ません」

 微笑を浮かべてぬけぬけと言ってのける。
 こうしてブラジオ・ガールィエが威圧とともに接近すれば、たいていの人間は畏敬によって身を伏すか、敵であれば武器を捨てて逃散する。
 だが、この男は違う。
 畏敬もせず、怯えもせず、必要最低限の礼節をわきまえつつ、平然と受け止める。

 ――いったいなんなのだ、此奴は。

 好悪や種族の枠組みを超えたところで、ブラジオはそう考えざるを得なかった。



[42755] 第二章:狩人 ~対尾港撤退戦~(六)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:e6b9fc29
Date: 2018/09/15 19:52
 包囲が始まった。港湾と陸地とを結ぶ橋を挟んでの銃撃が始まった。それから本格的に南方領よりの増援ラグナグムス船団が到着。船大砲や焙烙で攻撃を開始する。

 だが、その重厚な攻囲の中に十日あっても、連合部隊は音を上げずにいる。
 特にその武働きが顕著なのは急募で寄せ集めたはずの義勇軍たちだった。
 指揮を執るのは年若い、それこそ少年の域を出ない十代後半らしき男だ。
 保塁を要所に配置してこちらの攻めを受け流し、射角を考慮した外縁からの銃撃は、効果的にこちらに被害を出してくる。
 その装備は最新鋭のもので、射程も竜軍よりもずっと長く、装填も早い。それは義勇軍の練度によるところも大きい。

 仮にこちらの銃撃砲撃によって一角を崩しても、すぐに穴埋めされる。
 右往左往する友軍さえも叱咤し自分の麾下として組み込み、結合させて軟体生物のように展開する。

「本格的にまずくねぇ?」

 借り受けた漁村の一角。
 縁台を壁に立てかけて、梯子がわりに屋根に登り、夏山星舟は思わずぼやいた。

「何がまずい」
 その足下でリィミィが彼を仰ぎ見た。

「いや、この状況がさ。ここでの膠着は最悪の流れだ」
 一見して、時間はかかるがほぼ決着のついた情勢下に対し、彼は異議をとなえた。

「キララとクララの姉弟が帰ってきた。敵の艦隊はさながら船遊びのように洋上を蛇行している。新型艦の操船技術に不慣れなのか。こちらへの陽動のつもりか、はたまた形式ばかりの増援で見捨てる算段なのか。陸側もそれに足並みを揃えるように停滞している」
「もう一度飛ばしてみるか?」
「偵察の乱発はこちらの陣容を相手に悟られかねない。ブラジオ殿が攻めに加わっておられないことが露見すれば、それこそ奴らが乾坤一擲の反攻に出るかもしれないぞ」

 この小柄な部下の言葉はいつも通り正論の、一般論だ。だがそれゆえにこそ、星舟の心を痛く突いてくる。
 ブラジオら真竜種の突破力を投入すれば、強引にでも出島が落とせたかもしれない。
 だが彼らは、星舟の退却の権限に中途半端に反発してしまった。おそらく今後の展開次第では動くであろう七尾藩の抑えにまわり、この攻めに参加するのは東方領主の連隊と小領主たちである。統制自体はできてはいるが、いかんせん決定打に欠けている。

 ――余計なことを口にしたか。
 今更悔いたところでもう遅い。まさにそれこそが、星舟痛恨の失策だった。

「なんだったら、我々第二連隊でまた勝利を決定づけるか?」
 挑むように、リィミィは尋ねた。「よしておこう」と星舟は首を振った。

「敵もかなり手練れだ。孤軍で挑めば被害が出る。それに退却論を前日に出しておきながら抜け駆けて武功立てりゃ、またぞろ卑劣なやり口で手柄をかすめ取ったとケチがつきかねん」

 それに、と一拍子置いてから嘆息交じりに言った。

「ブラジオの面目をつぶすわけにもいかねぇからな」

 階下では、何か言いたげな沈黙がつづいていた。
 やがて、皮肉な鼻哂が聞こえてきた。

「お優しいことだな」
「イヤミかよ」
「いや、本気で言っている。……余計な気遣いは、かえってお前の野望を足を引くぞ」

 星舟は答えず、笑い飛ばした。
 だが、お互い見えもしないはずのリィミィに、あるはずのない左目を覗かれているような心地がして、なんとなくおさまりが悪くなった。笑みは引き、残された右目の視線を、青い虚空へと投げ出した。

 磯風に撹拌された血と硝煙の臭いが、第二連隊の陣地にまで届く。
 唸る風が、星舟には、竜の慟哭のように聞こえていた。



[42755] 第二章:狩人 ~対尾港撤退戦~(七)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:e6b9fc29
Date: 2018/09/15 19:55
 汐津藩家老であり、侵攻軍の一司令であった令料寺(れいりょうじ)長範(ながのり)は、その夜自軍を率いてひそかに対尾港を出た。

 高速船に乗り込んだ彼らは敵船団を振り切り、潮流に従って西進、間道を抑えている竜軍の南方へと出た。

「荷は捨てよ。船もつながず流せば良い。生きて帰ることを想うな」
 上陸するや海岸添いに軍を進ませ、松林の陰に布陣している竜たちの背後に出た。
 吹き流しの旗が夜風に流れ、無数の尾を闇に流していた。

 なびく旗印を遠目で睨みながら、彼らは最低限の灯りをたよりに、自身の銃に装薬や、油で濡らした布に鉛玉を込めたり、それらを込矢で突いたり、準備をととのえていく。

「大丈夫でしょうか。連中、鼻がききます。もしやこの夜襲が露見しているのやも」
 武器の整備をしながら、懸念を示す部下に、令料寺長範は首を振った。笑みも浮かべていた。
「こちらが風下だ。臭いで気付かれることはあるまい。……そもそもすでに割れているようなれば、すでに我らの命はないであろうよ」
 そう剛毅さを見せる壮年の家老の頬には、不自然な力な加わった。声もかすかに震えていた。
 だがあのまま港に籠っていても、陥落は時間の問題であったであろう。そのまま犬死するならばまだ良い。だが、落とされた先には藩の政庁と、そこで戦況の推移を見守っているだろう主君、長砂(ながすな)元観(もとみ)の身がある。到底座していられるような状況ではない。

 ――忌々しいが、『あの者』の策に乗るしかあるまい。

 その決意をあらたに、彼ら必死の銃士隊は、樹木や土地の高低を活かし死角を縫うようにして回り込む。射程の有効範囲すれすれのところまで接近した彼らは、身を強張らせながらも懸命に呼吸を整え、押し殺し、自身の胆力を余さずふるい、引き金に指をかけた。

「…………ッてぇ!」

 長範の号令一下、前装式の施条銃が火を噴いた。
 間の空を埋め尽くすほどの弾丸が、野営地を襲う。
 そこに寝そべっていたであろう兵士や、そこに貼られた陣屋陣幕の類を貫く。

 その轟きはそのまま衝撃となって、射手たち自身の臓腑を熱く震えさせる。恐怖を、頭の中から打ち消し、奮い立たせてくれる。

「つづいて第二射、放て!」

 弾を撃ち尽くすのに合わせ、長範は新たな辞令をくだす。
 陣太鼓の連打となって浸透していく指示に従い、装填手たちが新たに先込めした銃を選りすぐりの名射手たちに手渡していく。
 撃つ。込める。その命令と実行の反復は、彼らが携行していた弾を打ち尽くすまで行われた。

 もうもうと、白い煙が自陣を埋めていた。
 自分たちですら目と耳と鼻とをふさがれるような世界のなかで、彼らはその総攻撃の結果を見守った。

「……やったか?」
 そこに立ち上がる者はいない。通常の人や獣、いや生物であれば、そのはず。そうあるべきなのだ。

 薄らいでゆく煙幕。その中に、長範は影を認めた。噛んだ奥歯が、ギッと軋みをあげる。

 立っている影はひとつふたつだけではない。壮絶なまでの銃撃のあとにも関わらず。

 松の樹上や陣の上に、獣を司るという竜がのぼっている。
 鳥を司る竜が、中空に在る。
 そしてその主たる真なる竜は、分厚い『鱗』をまとって地上に整列していた。さながら、その一匹一匹が、小型の城塁であるかのように。
 彼らを射貫けなかった弾丸が、その足下に散らばっていた。
 夜闇においても煌々ときらめくのは、色とりどりの双眸。それらが視線だけで焼き殺すかのような烈しさで、一斉に視認していないはずの自分たちを見返していた。

「バケモノめ……ッ」

 漏れ聞こえれば士気に関わるのは承知しているが、長範はそう呻かざるをえなかった。

 だが彼は、その至上の怪物たちの背の向こうで、篝火が近づいていたのを見つけたのだった。

〜〜〜

 荒涼とした潮風が、塊となって陣屋の隙間から吹き込んでくる。それに当てられる形で、星舟は醒めた。

 その塊は、人の形で枕元に立っていた。飛び起きるや、撃鉄を起こした銃をそこへと突きつける。

 だが、訪れていたのはなじみの深い、ふてぶてしい面構えの、偵察に遣っていた部下だった。

「脅かすな、経堂」

 その顔つきのままに第二連隊屈指の銃撃手は、酒を飲んでいた。
 自分がひそかに取り寄せた、秘蔵の逸品を。
「いい酒ですね」

 咎める間もなく彼は手酌で二敗目を杯へと汲み、「うん、いい酒だ」と口にする。
 文句のひとつも言いたくなったが、彼の帯びた、捨て鉢気味で荒れた雰囲気と、どことなく非難めいた独語の響きが、星舟をためらわせた。
 むしろ、何かを聞きたがれたがって、この男はあえて反骨の姿勢を見せているのではないかと直感した。

「何があった? ……いや、何を見た?」

 その男の変調に、星舟は直截に切り込んだ。
 杯を干して棚の上に置いた経堂は、酒気をかすかに帯びた呼気で、淡々と告げた。

「二日前、令料寺長範が一隊を率いて港を出た。で、ブラジオ殿の隊に夜襲を仕掛けました」
「あぁ、あれがそうなのか。てっきり要人を乗せて本国へと逃げ帰ったのかと思ったが」

 それがここまで自軍を誘引せしめた敵の切り札……とは思いがたい。
 戦局を打開せしめるどころか、一矢報いられるかどうかさえも定かではない危険な賭けであり、万一成功しても旨みは少ない。せいぜい包囲の一角が弱まる程度だ。

「が、結局ブラジオ勢に大した打撃は与えられなかった」
「だろうな」

 予想通りの顛末に、星舟は納得を示した。
 だが、それならば何故その知れ切った結果に、この肝の太い奇人が動揺しているのか。そのことを訝しんでいると、さらに声がかぶせられた。

「……問題はその後。ブラジオ殿たちがその奇襲部隊に気を取られている間に、七尾藩が出撃した。ひそかに、山をくだった彼らは、まっすぐにその背を突きました」
「ついに動いたか。で?」

 経堂はふと視線をそらした。
 棚に置いた杯をふたたび手に取ろうとして、やめた。ただもう片方の手には、徳利を抱いたままにしていた。

「……ブラジオ勢およびその友軍に、被害が出た」
「はっ……ハハ」

 星舟は笑った。心の奥底から突き出た衝動のままに、笑った。
 あの何者にも譲らぬ、劣らぬという気構えの男が、そしてその同種の生き物たちが、泥を舐めた。そのことを祝わずして、何を寿ぐ? 酒が経堂の手になければ、

「まず、獣竜の部隊長であるファンガドンが討たれた。ついで、真竜種のモルンゴルスも」
「真竜種にまで被害が出たのか? うっかり『鱗』を解いたとこでも狙撃されたか? なんにせよこりゃ相当の痛手だな。今後東方領内のヤツらの発言力にも、影響が出るぞ」

 と、星舟は興奮で声を弾ませた。
 だが、対して経堂の表情は、沈鬱なままだった。
 彼とて、熱心な竜信奉者というわけでもなかろうに、うなだれたまま、ボソボソと報告をつづけた。
「同じく真竜種、アーグドレム・アーカム戦死」


 え、とかわいた声が星舟の吊り上がった口端から漏れる。

「同じく真竜種首長、テレックス・ドラン討死。その子、参陣していた親類縁者も同じ。フルディングス兄弟も死亡」
「待て」
「他、南方梅香園(ばいこうえん)のギガナーブラ勢も、当主を死なせて敗走。ブラジオ殿は友軍をふくめて四割近い損害を出して後退。今、敵の追撃を受けてるからさらに被害は倍に増えるかも」
「待て、待て! 待てッ」

 星舟の目元を口のあたりから余裕の笑みが消えた。
 気が付けば千里を走ったかのように呼吸は乱れ、動悸が抑えられずにいる。

「なんだそりゃ……なんなんだそれ!? それじゃ、まるで」
「アンタほど聡い人なら、そこから先は言わんでもわかるでしょうよ」

 ずいと経堂の顔が間近に寄る。
 酔いもまざって血走った眼に気圧されるようにして、星舟は後退して壁に手をついた。そしてそんな彼の反応などまるで知ったことじゃないという風に、経堂は無慈悲に真実を告げたのだった。



「真竜種を真っ向から殺せる人間が、現れた」



[42755] 第二章:狩人 ~対尾港撤退戦~(八)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:e6b9fc29
Date: 2018/09/15 19:56
 ……夜襲部隊の一斉放火を退けた竜たちは、背後から受けた気配に、反撃を止めて振り返った。
 炬。そしてそれを手にした兵士たちが、山を下りてきて迫っていた。

 それは、異質な人間の集団だった。

 黒一色の軍服。痩せてはいるが引き締まった肢体。それだけであれば、たしかに人にしては優れてはいるが、竜たちの衆目を引くこともなかっただろう。

 だが、彼らは外見以外の部分が、明らかに他と一線を画している。

 まず、彼らは声をあげなかった。死地に身を投じんとしている間際にも関わらず、鬨の声さえあげようともしない。
 その表情をブラジオは認めた。何の色も浮かんでいない。何の感情も表出していない。恐怖や緊張さえもない。
 さながら異国の葬列のごとく、あまりに静かに整列した彼らの先頭に、大将らしき若い男が立っている。

 羅紗地の軍服は、フロック型のマンテル。それには到底不釣り合いの、本邦ごしらえの大頭巾をかぶり、腰には反りの深い軍刀。精悍というよりかは茫洋とした顔だちだが、その眼光は地獄の火であるかのように、昏く淡い。
 刀の鯉口に手をかけながら、もう逆の手にあるのは鉄の棒。指揮杖というには、長大なそれは、大の男でさえ持つのに苦労しそうなものだが、それを難なく片手で持っている。
 ゆっくりと、歩幅を合わせた兵士を引き連れて、互いを視認できる距離までに達しながら、竜におびえることなく、その背で敗亡する味方に焦ることなく、彼らは絡み合う蛇の軍旗を翻し、接近してくる。

 ――七尾藩。だが今更やってきて挟撃もあるまい。
 その紋所が記憶の一部と合致したブラジオは、心の中でつぶやいた。
 だが、そのつぶやきには言いしれない暗さがあった。
 何かが違う、と頭の裏で、今までに聞き覚えのない声がささやいているように錯覚した。

「面白い! 竜を前にして、怯まぬその気概、本物かどうか試してやろう!」
 部隊長のファンガドンが、駆け出した。
 猪突猛進の向きがある彼は、率いるべき配下も捨て置き、単騎駆けに、高揚に突き動かされるままその大将へと向かっていった。

 その側頭部に、血の華が吹きこぼれた。
 遅れて発砲音が聞こえた。後に続かんとした部下が、同様に交差する弾道に射抜かれた。
 視認できる場所に、射手はいない。にも関わらず、闇の森の中から飛来した弾は、獣の走力を借りて馳せるファンガドンの急所を単発で射抜き、その胞輩たちを鏖殺した。
 竜たちの想像の範囲外の、射撃の精度と飛距離だった。
 おそらくは鬼のような装備の男は、その威風堂々とした見かけを利用した陽動で、ひそかに両側面の森、その死角に兵を展開していたに相違あるまい。しかし、実際に攻撃を仕掛けられるまで、その存在を竜たちは察知できずにいた。

「おのれっ!」
 その伏兵の鮮やかさを賞嘆し、警戒するよりも先に、野良犬のように同胞が撃ち殺されたことへの怒りが勝った。
 モルンゴルスが猛る竜たちの先頭を切って進む。彼らを中心として交錯する弾丸もものともせず、彼ら外殻をまとった真竜種がつづく。
 同胞を殺した報いを受けさせるべく、まずは眼前の『陽動部隊』へと。

 戦闘を放棄したということか。自らの役割を終えたがゆえに、粛々と死を受け入れようとでも言うのか。あるいは別の詭計でもあろうというのか。だが、砲丸さえ通じぬ甲冑に、いったい何をもって抗すると?
 大頭巾の大将は、命乞いはしなかったが、逃げる様子もなく、だらりと肩から先の力を抜いた。刀と鉄棒。それらは握りしめたまま。

 その深く沈めてひねった腰から、刃がはしった。突き上げた剣先が、三日月を夜に描いた。振り下ろした。



 斬った。
 真竜種を、その『鱗』もろともに。脳天から。

 べしゃり、と鈍い音がする。
 ついぞ今まで、人間になどさらしたことのない、真竜の血液が、砂地を濡らす。
 外殻の内側にへばりついた肉片が落下の衝撃でこぼれ落ちた。両断された身体の大部分は、そのまま支えを失って、声さえもあげずに

 つい今まで浜辺を揺らしていた咆哮と足音が、それこそ引き潮のごとくに止んだ。
「…………は?」
 という、バオバグゥの間の抜けたような声が、傍らから漏れ聞こえてくるほどに。

 竜を討ったという達成感も喜びも、男の茫洋とした顔つきにはなかった。
 一度大きく息を吸う。踏み込んだ。一瞬で間を詰めた。

  本来なら次いで攻めるはずだったアーグドレム・アーカムの前に立った大頭巾は、左手の棍棒でその側頭部を打った。傾いたその首筋に、刃が食らいついて鋸のように引いて、斬り落とす。

 鎧われたままの彼の首を、蹴った。猛将として知られるその与力、テレックス・ドランも、飛んできたその首に、その所業に、後退した。それよりも速く、人間の大将は迫り、胴を凪ぐ。岩石のような上半身が、真っ赤な鮮血とともに吹き飛び、部下の上に落ちてのしかかった。悲鳴をあげる彼らを無視し、さらに先へ。

 刃を振るう。鉄棒を落とす。切る。打つ。斬る。撲つ。斬る。斬る。斬る。斬る。斬る。打つ。打つ。打つ。打つ。打つ。討つ。殺す。殺していく。
 まるで野菜でも調理していくかのような、感情の乗らない動作で、彼は屍の山を作っていく。進むたび、それらは積み上がり、広がり、血液は河となって竜たちの足を沈めていく。

 何が、起こっている?
 何故、人が、銃弾も砲弾も使わず、竜を、圧している?

 再び男が踏み込む。
 事実を認識するよりも、理由を詮索する前に、竜らは自分の中にはなかったはずの感情……恐怖に突き動かされ、どっと逃げ崩れた。

「進め」
 混沌の渦と化した戦場に、その魔人は無慈悲な令を投じた。黒ずくめの兵たちが、竜たち死骸を踏み越え動き出した。
 一言も異論を唱えることなく、主人と同じような面持ちで。

 ――なんだ、これは。

 無貌の兵士たちが、声もなく殺到する。
 松木によじ登ると、そこに止まっていた鳥竜たちが、飛び立つ前に、あるいはその直後にしがみつき、自身らもろともに地面へと落ちていく。
 地表で待ち受けていた兵士が何本も剣を突き立てて串刺しにし、頭部や胸に銃弾を何発も浴びせた。

 ――何が、起こっている?

 獣竜たちが取り囲まれている。
「えぇい、どけっ! 何故どかぬ!?」
 ブラジオの副官たるバオバクゥが、自らの身長ほどにある大刀を振りかざし、七尾藩兵たちを寄せ付けまいと奮闘していた。
 彼ら獣竜は獣の知覚や感覚を一時的に借りることができる。特にバオバクゥは虎の力を、その腕や刃に宿らせることができる。その一振りが、猛虎の爪牙に相当する……はずだった。

 だが、その豪腕によって不自然な方向に手足が折れようと、四肢が切り飛ばされようと、首筋から死に至るだけの血量を流そうとも、人間たちは声もなく、恐怖も見せずに仲間の屍を踏みしめてバオバクゥに組み付いた。
 やがて数人がかりでかの巨漢を押し倒すと、こじ開けた口や服の隙間に爆薬をねじ込んだ。
 あの歴戦の勇者が、まるで子どものように首を振って抵抗していた。導火線に松明で火をつけられると、その表情をより強張らせた。
 そして彼らは、敵味方を問わずに自爆した。ただの一言も恨み言を言わず、笑いも泣きもせず。悲鳴のひとつさえ漏らさずに。

 一体何なのだ? こいつらは……?

 我を失って、鎧をまとったままに立ち尽くすブラジオの側頭部を、弾丸が打った。
 金属音を立ててはじかれた弾を見て、とうとう自身へも敵襲かと身構えた彼だったが、視線の先、丘の上に立っているのは、死んだような目をした七尾藩兵ではない。自分のよく知る人間そのもの……それも、もっとも気に食わない夏山の五芒星を腕章につけた狙撃手だった。

「さっさと撤退命令を出せッ」

 竜を見下ろす非礼も、あまつさえ銃で撃った無礼も咎める間もなく、彼は鋭い目つきでアゴでしゃくった。

「退けだと!?」
「アンタが逃げるか指示しなけりゃ、他の連中が退くに退けないでしょうがッ! ったく、物見決め込むつもりだったのに、世話の焼ける……!」

 舌打ちまじりにそう言うや、自身は丘から滑り下りた。
「忠告はしましたよ。俺は先に退散するんで」
 松を弾避けに、自身を狙う銃弾から身を隠しながら対尾方面へ奔ろうとする彼を、「待て」とブラジオは呼び止めた。

「あれは、いったいなのだ……? あれは本当に、人間なのか?」
 そんなことを問うている暇も意味もないことは、ブラジオとて理解している。
 だが、それでも問わずにはいられなかった。

 隣でその男は引き金を絞った。
 銃腔から吐き出された六角形の奇妙な弾は、彼を狙っていた銃手の頭部へと確実に命中した。
 だが、七尾藩兵は倒れない。膝をも屈さず、装填を終えた弾を発射した。
 もっともその弾は、明後日の方向へと流れていったが、寒波にも似たおぞましさが総身を襲った。

「さぁてね。逆にこっちが聞きたいぐらいですが」
 夏山の兵士は、自身や仲間を犠牲に敵を殺していく悪鬼たちを睨みながら吐き捨てた。

「あんなもんは、もう人間とは呼べませんや」



[42755] 第二章:狩人 ~対尾港撤退戦~(九)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:e6b9fc29
Date: 2018/09/15 19:59
「馬鹿な!」
「そんなこと、あってはならん!」
「そうだ! 何らかの幻術を施したに違いない」

 敗軍を収めた、事の顛末を公表する報告会に呼ばれた。
 竜軍の反応は、星舟の予想通りの言葉から始まり、予想通り否定の流れで終始した。

 ――つうか、今時幻術って。

 目付けという立場上、呆れて傍観するほかない星舟の前で、これまた予想の範疇の流れになっていく。
 すなわち、無様な敗北者への転落したブラジオ・ガールィエへの責任追及である。

「ブラジオ殿とのあろう御方が、何を愚かなことを……」
「おおかた、敵の破れかぶれの一撃が、打ち所悪かっただけであろう」
「しっかりと現実を見据えられ、確かな報告をなされよ」

 ――現実を見据えてねぇのはお前らだろう。

 現に、偶然や過失で済まされないほど多くの真竜種が、未だ戻ってはきていない。
 彼らとて、薄々は感づいているのだ。だからこそ、頑なにその現実を結果を超えて頭ごなしに否定をしようとしているのだ。

 真竜種を殺せる人間の登場を。
 長く続いた自分たちの蜜月の終了を。

 隻眼の人間は嗤う。
 なんてことはない。それを呑むほどの精神的な受皿が、彼らにはなかったというだけの話だ。

 ブラジオはどうか。星舟は衆目に晒される彼を視た。
 自らの報を信じようとしない幕友たちに、目を見開き、握り拳をわななかせ、明らかに憤りを募らせている。だが、この直情の雄には珍しく、恫喝まがいの反論はしなかった。

 彼とてその天敵の存在は、在り得てはならない、認めてはならないのだろう。

 結論の出ない、不気味な沈黙が続いた。
 ――仕様がねぇ。潮時か。
 出しゃばるのも得にならない汚れ役も、できれば御免被りたいところだったが、逼迫した状況で停滞させるのはまずい。
 聞こえないよう微細な嘆息を漏らし、星舟は立ち上がった。

「実は、自分も偵察に部下を遣っていましてな。その者からも、同様の報告を受けております。その辺りは、直接の言葉を交わしたブラジオ殿もご承知のはず」

 ブラジオが星舟を見返した。彼を囲む視線の一部が、星舟へと移った。

「黙れ夏山!」
「貴様の寄せ集めの雑兵の戯言など、信じられるか!」
「その目と性根と同様、貴様の部下も物事が歪んで見えるようだなっ」

 予想通り。
 あーあーあーあー、と星舟は小さく嘆いた。
 だが個人的な呆れはともかく、全体を強引にでも動かさないことには始まらない。彼は、

「身分も所属も種族も違う者がまったく同一の凶報を持って来た。その理由を、見たものが事実であるという以外、自分には思いつきませんが……ただまぁ、いずれにせよ理外の敵です。迎撃ないし反撃の準備は、急ぎしておいた方が良いでしょう。軍監という立場上、私にできることは報告をそのままサガラ様にお伝えして判断を仰ぐことのみです。この先陣の総大将は、ブラジオ殿でありますれば、向後の方針と編成は、お任せいたします」

 返事はない。
 ただ二三言、星舟への悪態が飛んで来ただけで、あとは彼の言うとおりになった。

 事態の転換によって、急激に膨れ上がった課題。それに頭を痛めながら、星舟は退出しようとした。
 後に残っているのは、鬼の彫像のごとく、最初に立って地点から微動だにしないブラジオのみである。

「……あれは、なんだったのだ」
 その通りすがりぎわ、立ち尽くしている彼から声がかかった。

 否、こちらに向けた問いではなかっただろう。思わず口から出た、そして初めての敗走の道中、その分厚い胸の内で反復していたものであったろう。

「……さぁ、自分は直接見ておりませぬゆえ何とも。それは」

 あまりに悄然とした彼の姿に、数日前までの存在感は見当たらない。星舟は、苛立ちとも焦燥ともとれる感情を覚えた。嗤いを心底から忘れ 、思わず声をかけた。

 燃石のごときその目に、わずかに輝きがやどり、星舟へと向けられた。

「では、人とはなんだ?」

 投げかけられた問いに、隻眼の人間は答えることができなかった。

〜〜〜

 月が出ていた。
 洋上にて遊ぶがごとき停滞を見せていた艦隊があった。

 旗艦の名を、鯨風(げいふう)。
 現藩王が海外渡航中に在って、前藩王の指示により外国に発注していた新型艦であった。

 通常砲十門、施錠砲十二門、計二十二門の備砲を持つ鉄張りの木造鑑であり、巨魚の名を持つに相応しい様相である。さながら、海に浮上した城塞といったところか。

 藩王直属艦隊の総司令、日ノ子(ひのこ)開悦(かいえつ)は最終調整を完了したとの報せに、軍帽を仰いで胸を撫で下ろした。

「このまま行けば朝には敵さんの背を衝けそうです。にしても予定と寸分違わんとは、あの音楽家の姐さん、恐ろしいヒトですな」
「ここが大一番の見せどころだからな。入念に入念を重ねたのであろうよ。そもそも、これの生みの親は、あの女の父だ。『弟』の無様は見せられまい」

 だが、今回は操艦こそすれ、洋上における大部分の方針は同乗している別の人間が出すことになっていた。今、隣に並び立ち、明高自身はその人物にへりくだる形となっていた。
 ましてそれが女ともなれば少々の不満は残るが、相手は上客も上客だし、自分が出張りたい気持ちも理解できる。一回り年下の小娘に腹を立てるわけにもいかないから、あえてここは自分が大人になって飲み下すしかあるまい。

 その彼女は、この船の生まれた国でこしらえたという軍服をぴっちりとまとい、外套を肩から打ちかけ、潮を孕ん夜風でなびかせた。

 陣太刀で甲板を叩いて屹立すれば、なるほど風采のあがらない中年の小男よりも、よほど海の覇者だの女王だのと呼ぶに相応しい。

「さぁ、一狩り行こうかッ」

 人の王の号令一下、潮流とともに、対尾港を主軸とした大局は、大きく転じようとしていた。



[42755] 第二章:狩人 ~対尾港撤退戦~(十)
Name: 瀬戸内弁慶◆a2cea59d ID:e6b9fc29
Date: 2018/09/15 20:01
 対尾港包囲軍が展開する最東端、谷参(たにまいり)。
 海と砂丘とに挟まれたその街道筋に、そこに張られた陣に、靴音と歌声が轟いた。

 儀仗を手に、典雅な身のこなしで舞いながら、村祭りを想起させる音調を口ずさむのは、カミンレイ・ソーリンクル。
 艦隊より分かれて進む陸上の部隊の、総司令だ。
 いや、名分としてはその一万五千の軍を形成する雄藩から出し合った各代表者の合議によるものだったはずだが、藩王からの直命によってやってきたこの謎の女奏者が瞬く間に実権を得てしまっていた。

 当然そこに異が唱えられる……はずだったのだが、最初から不自然なほどに反発は少なかった。
 表立って声にした者らも、時に布陣や装備の出来を褒められほだされ、あるいはかつての過失や戦績不振、あるいは露見するはずのない罪状をちらつかされれば、黙らざるをえなかった。
 何より、常にその背後に屈強な異国の士を引き連れていられれば、なおのこと。

 が、それでも不満はくすぶっている。
 たしかにここまで新造の連合軍を滞りなく進めてきた手腕や事前の根回しには目を見張るものがあるが、それと実戦とは話が別だ。このように童のように戯れる女に、生命を預けることなど出来ようか。

「……いにしえの白拍子でもあるまいに、いつまで舞の真似事などなさるおつもりか」
 伊良子(いらこ)藩主が弟、伊良子周総(ちかふさ)は、反対派を代表して進み出た。

「すでに敵は二吉路先の海沿いの砂丘を手勢二〇〇〇にて抑え、それを中心に平野にぜっと見積もっても一万を展開している。真竜種がおらぬは僥倖とは言え、指揮を執るのは人外の力を持つ獣竜や鳥竜のたぐい」

 事実、みずから突貫してくる勇猛さ、その精強さは遠目にもわかるほどだ。
 彼らは高所の利を最大限に利用し、砂丘側の攻め手を寄せ付けない。それどころか、逆に押し返さんとするほどだ。
 だがしかし、誘いに乗って丘陵を下ることはしてこない。こしゃくなことに、存外冷静だった。

「よしんば本隊たる我らがここで悠長に足止めを食らい、出遅れるようなことがあれば、それこそ笑い話にさえならんと」

 なお言い分をぶつけようとする彼の頭を、覆う影があった。
 貴種ながら藩中随一の体躯の持ち主とされる彼を、その影は頭からつかみ上げた。

「悠長なのはキサマだ、島猿」

 彼女自身よりはいくらか流暢さに欠ける、だが確かに聞き取れる声で、男は言った。
 本邦の者とはやや色の異なる黒髪に、竜とも渡り合えるのではないかという巨躯。

 たしかヴェイチェル・ウダアシアという、まるで憶えられそうにない名だったかと思う。年齢など、壮年という以外到底わかりそうにもない、無骨な顔つきだった。
 眼前に、もうひとりの異人の将官が立ちはだかった。

 白髪、いや銀髪の老人。筋肉こそ背後にいる男には劣るものの、その付き方には無駄というものが感じられない。
 剽軽そうな細面にたくわえた顎鬚を撫でながら、身をかがめて周総へと目をすがめてみせた。
 こちらはダローガ・ネヴィアとか言った。

「なぁオサムライさんや。前の会議ですでに指示は伝えたであろう。そのうえで、細かい調整は早馬を飛ばしたであろう。それにシンリュウが来ないのも、織り込み済みだ。マグレなんかじゃない。ならば何を案ずる? 何を留まっている?」

 さしもの巨人ふたりに挟まれれば、いかな剛な者でも委縮はするだろう。
 果たして自分自身がその通りになった周総は、枯れそうになる声を絞り上げた。

「その奇妙な踊りをやめよと申している! ここは戦場だ! さようにクルクルと手を動かされては迷惑千万!」
「あれは、ブヨウではない」

 彼の抗議は、ヴェイチェルの低い一喝によって遮られた。

「ありゃ指揮だよ。よく見ろ」

 ダローガはそう言ってみずから身体をずらした。
 彼の言葉を脳裏に浮かべて改めてカミンレイを視た。

 なるほど確かに、でたらめな舞踊というのではない。円弧をえがく手足の動きには一定の法則性がある。歌声に聞こえた抑揚のある音声は、よくよく聞いてみれば何事かの指示のようだった。
 それも、遠く聞こえる喚声や砲声に合わせて、その緩急や調子は細かに変化していく。
 そうして気心の知れたらしい異国の軍使が、各陣営へと飛ばされていくのだ。

「あぁして、戦場ゼンブの空気、感じてる。均衡を、操作している」

 そう言われても、やはり見た目の可憐さも相まって、全体的には歌舞の印象をぬぐえないのだ。それこそ、戦を忘れて魅入ってしまいそうなほどに、キレのある美しさの。

「で、お前さんは何を突っ立ってる?」
「オマエのようなモノを、このクニではデクというのだろう」
「な――」

 あまりにも直截的な罵詈に、言葉を詰まらせ、血をのぼらせる。

「周総さまは、私が下がらせました。すでに伊良子隊は三度の攻勢に参加しており、疲労も溜まっていたことですので」

 諍いに発展しそうなのを、儀仗を回しながらカミンレイが遮る。

「それよりお前はどうなのですダローガ? 指示、聞こえていましたよね」
「了解、もちろんです、お嬢」

 飄々としたほうの異人は肩をそびやかせ、銃身が剣のように長いライフルをかつぎ、進み出た。
 彼女がふたたび『指揮』にもどって間もなく、彼の率いる七〇〇がばかりの兵が砂丘の南側へと踊り込んだ。

 剽悍な兵だった。錬度の高く、彼女の意を行動に反映させるまでが異様に速い。
 砂丘の背後に回り出ようとする彼ら異国の小隊を止めるべく、敵の後詰が動いた。

 ――だが……
 周総は首を振った。

「あなたは竜たちの力をご存知ない。彼らに比べれば、我々の鍛錬や技量の優劣など児戯にもひとしい。竜を斬れる人間など、見たこともない」
「……竜を斬れる人間、ねぇ」
「は?」
「まぁ何事にも例外はあるものですけど、その考えにはおおむね賛同しますよ。竜は手ごわく、そして速い」

 獣竜種で大半が構成されたであろう五〇〇〇の部隊は、縦列を作って追った。
 そしてダローガ隊は丘陵を落とすことに拘泥しなかった。接敵する前にあっさりと退いたという報がもたらされる。

「ただ無理に歩調や力で競う必要などないでしょう。あくまで相手が激しい『踊り』を望むのであったとしても、それに合わせて先んじれば良いだけのこと」

 縦列になった追撃部隊は、その砂地に足を取られて遅々として進まない。
 それでも常人たちのそれより行軍速度がはるかに勝るが、それでもかろうじてダローガ隊が反転するほうが速かった。

 散兵にて隘路の東口で待ち構えると、頭を出した獣竜部隊に左右から容赦なく弾丸を浴びせていく。
 自分が強敵と明言した相手が、赤子のようにバタバタと倒れていく。
 その有様を唖然と見守っていた周総だったが、気が付けば近くにヴェイチェルの姿がなかった。

 直後、轟音が背から聞こえてきた。
 敵の別動隊か。身をすくませた周総の目にうつったのは、自分たちの側面を通過していく、黒い塊だった。

 長い脚、漆黒の毛肌に、白銀の鐙。赤い鬣が、血潮の異臭が色濃い戦風になびく。
 鉄蹄が地を踏み抜き揺らす。人を乗せて。

「……馬……!?」

 唖然とする彼をよそに、四〇〇〇ばかりの騎馬団は平地に向けて突撃を開始した。
 先陣を切るのは、あの黒髪の巨漢であった。彼は鉛色に鈍く光りを放つ、鉞とも槍ともつかぬ奇妙な武器を手に、狂気さえ感じさせる雄叫びをあげた。
 それをひとたび薙げば、人であろうと獣竜だろうと、嵐や雷光のごとくに一息に粉砕していく。
 馬蹄が黒い煙をあげながら、敵を寸断し、蹂躙していく。
 周総が幼いころ軍記や講談で熱をあげ夢想し、かつ現実ではついぞ見ることのかなわなかった光景が、そこにはあった。

「そのまま平地を突破した討竜馬(トルバ)兵は敵部隊の背後に回り込み二重包囲。砂丘と敵本体を分断」

 儀仗が天へと突き出される。円を描く。小柄な身が独楽のように合わせて回る。

「予備兵力をすべて投入。南の戦線の押し上げ拡張。獣竜を退けたのちには過度な追撃はひかえ、そのまま砂丘を横合いから突いて落とせ」

 そのたびに、周囲を取り巻く声や気配の色が移り行く。演じる曲目が変わるがごとく。

「三方より本隊を包囲。鳥竜種は優先して殺せ。今後の戦争における彼らの重要性を、自身が気づくその前に、出来るかぎり数を減らすように」

 儀仗が天より下がった。靴音と歌声が止んだ。
 そして眼前に残ったのは、長期戦を危惧されていた膠着した戦場ではない。
 勝利に沸き立つ味方と、その足下の鏖殺された敵の人や竜……否、屠殺された獣の残骸だった。

 ――やはり、歌舞ではないのか。
 血なまぐさい現場ながら、彼女の部下から否定されながら、どうしても周総はそう結論づけざるをえなかった。

 布石を打ち、下積みを重ねたうえでの合理的かつ手際のよい戦略、基本を抑えながらも千変万化の用兵術。そこは認めるしかない。ただそれでも、その際立った精妙さは、本人の俗世ばなれした美貌もあいまって、もはや戦という枠組みを超えていた。

 戦場を舞台に、銃器や鉄器を、あるいは人材や兵士たちの動きそのものを、楽器に見立て、それらを余すことなく自身の芸事へと昇華させる。それこそが、カミンレイの戦。

 ――いや、戦のみならずそれは……

「さてと。それでは進みましょうか。第二楽章を奏でに、対尾港へ」

 ――というか、口ぶりから察するに、自分は音曲を奏でる者だと言いたげだった。



[42755] 第二章:狩人 ~対尾港撤退戦~(十一)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:e6b9fc29
Date: 2018/09/15 20:05
 今年に入って初の雪が降った。
 大雪や吹雪と呼べるたぐいのものではないが、周囲の友軍がうすく白く、冷気でかすむ。

 港の抑えとして、そして有事の際には東西いずれかを援護する遊撃部隊として中央の丘陵に展開するトゥーチ家の第二連隊は、俯瞰すれば乳の海に浮かぶ孤島か巌のように見えただろう。

 星舟は手袋をはめた両手を擦り合わせて、じっと目を凝らす。
 堪え難い冷え込みというわけではないものの、焦燥感がそうさせた。
 港の敵が薄まった包囲を突破しようとすることは予想されたが、消耗しているがゆえか、主力たる令料寺隊が抜けたがゆえか、あるいは水軍に背後を刺されることを恐れてか、討って出る気配はない。

 気を配るべきこと、その上で対処しなければならないことは山ほどあるのに、それを成すだけの兵力もツテもない。

 ゆえに宙吊りになったような状態で、示威行動的な進退と牽制を繰り返すほかすることがない。危機は、今すぐそこに迫っている。そんな予感があるのに。

 何度目かの舌打ちが傍らのリィミィにも漏れ聞こえたようだ。
「東へ物見に遣ったシェントゥはまだ帰ってこない。が、西にあてがったキララもな」
「わかってる」
「今はおとなしく彼らを待て。待つ姿勢も、大将としての器量が問われるぞ」
「だから、わかってるって」

 忌憚ない副官の直言に手を払いつつ答える。
 手持ち無沙汰なせいもあって、一挙一動が大げさになっているという自覚があった。

 そんな星舟をなごますように、クララボンが明るい笑い声をあげた。

「まー、真竜を殺せる人間がいたってたって、たかが一人でしょ? あんだけの真竜が鎮圧に出たら、それで終い。明日にでも凱旋してくるでしょうよ」

 そこから落とすか退くか選べば良い、と鳥竜は言う。
 だが、それを嗤ったのは、経堂だった。

「あれを、あれらを、一個の人間として見ちゃいけない。もはや一種の新兵器だ」
「怯えすぎじゃない? 何見たか知んないけど、誇張しすぎでしょ」
「あぁ、俺の妄想なら良かったんだがね。お前ら鳥竜が飛び立てもせず地面に引き倒されて撃ち殺されていくのを見たら、お前さんもその主張を改めるぜ」

 第二連隊の中でも年齢と種族間の意識差が顕著なふたりが、その確執を再燃させる。
 リィミィのちいさな咳が、それを収めた。

 いずれにも肩入れせず静観していた星舟だったが、心は経堂に寄せている。皮肉と苦味の混在する彼の言葉には、その殺戮の場を見てきたという重みがある。
 いや、それを否定したクララボンも、たしなめたリィミィも、そして胸をざわつかせている星舟自身もまた、本当は気づいている。

 この戦は、普段のそれとは違う。
 いや、この戦を機として、何か根底から覆ろうとしているということに。

 潮風の向きが、一度おおきく渦を巻いてから変わった。
 氷のつぶてでもぶつけられているかのような、冷たい風。
 港越しに、水平線の向こうに、巨影が見えた。

 たとえ見えているのが輪郭だけでも、その威容にはおぼえがある。
 長さおよそ五十五目取の、鉄板張りの巨大な軍船。方形の船体に、大名屋敷でもそのまま取り付けたかのようなその帆船は、南方は碧浜の総領、ラグナグムス家の母船である。洋上の敵が動いたと知り、当主自ら迎撃に当たっていた。

「……どうやら、あちらは蹴散らしたみたいだな」
 冬風をはらんだ帆がなびくさまを見て、クララボンが安堵の息を漏らした。
 それから肩をすくめながら経堂をおちょくるかのごとく、腰をかがめて上目遣いに見た。

「なぁおっさん、目がまだ達者か試してあげるよ。帆の耀紋がいくつに見える?」

 そういって持ち上げた指の先、来着した帆船の違和感に、星舟は気がついた。
 随行しているはずの麾下の͡小早船の姿がない。こころなしか、クララボンの示した帆は、傾いている気がした。
 ……遠く、半鐘が鳴り響く音がする。

「リィミィ、遠眼鏡よこせ」
 硬い声で命じて差し出した手に、手早く取り出された筒が落とされる。
 のぞき込んでもその全容までは掴めなかったが、明らかに異質な状態だった。
 ……甲板が、出火をしていた。
 そして直後に、レンズ越しに黒煙と橙色のひらめきが、星舟の視界を焼いた。

 目を離せば、爆発音が遅れて聞こえた。
 もはや肉眼でも把握できる。船影が、おおきく傾いていた。

 船員たちが海にいやおうなく投げ出されているのも目撃したし、その水音や断末魔もかすかに漏れてきた、ような気もする。

 上下ひっくりかえり、船骨を外気にさらしながら座礁する軍船の姿は、あたかも猛禽に無残に腹を食い破られた畜生のような印象を与えた。

 たしかあれには当主が総大将として乗船していたはずだが、どうなったのか。
 かつて生誕の祝賀の際、使者として謁見したときにあったのは海の男という表現の似つかわしくない、書生じみた線の細い青年だったが、まぎれもなく真竜だった。

 その『鱗』であれば艦砲射撃にも耐えうるかもしれないが、問題は水に落ちた後だ。戦国の甲冑を着ているようなものだ。重みで沈みゆくから、一度解除せざるを得ない。だが、素体をさらしながら海面に浮上した彼を待っているのは、おそらく……

「……ラグナグムス家の象徴が、沈む……」
「は、ハハ……自分が何かしたわけじゃないよね」
「お前さんが指を突きつけただけで船を吹っ飛ばす妖術でも持ってない限りな」

 狼狽ぶりも三者三様といったところだが、彼らの上司たる星舟の精神状態はもっとひどい。
 気づいた。気づいてしまった。敵の狙いが、戦略が、意図していたところが。

 今の砲声と、巨鯨のごとき敵艦隊の威容によって脳は揺さぶられ、その中に点在していた情報の断片たちは、数珠つなぎに連鎖し、直結する。

「……退くぞ……」

 自分でも聞き取れないほどの声量で命じた彼に、リィミィは怪訝そうな目を向けた。彼女が悪いわけではないが、自身に対する憤りを乗せて、彼は声を荒げた。

「退けっ! 北の間道口まで後退だッ!」
「退く? んなことすれば港の連中が出てきちまいますよ!?」
「どのみちもう抑えきれねぇよ! このままだと敗残兵に押しつぶされるぞ、早くしろ!」

 部下たちには当惑もあったが、まず身体が彼の号令に反応した。そうするように仕込まれてきた。
 それからいくばくもしないうちに、最低限の撤収準備を終えた彼らの下に凶報が矢継ぎ早にもたらされた。

「七尾藩および港の脱出部隊、西の防衛線を突破! そのままこちらへ進軍中ッ、もう間もなく来ます!」
「ひ、東の戦線が……谷参で壊滅……騎馬隊が先陣切って逃げ散るみんなを、追ってます!」
「騎馬隊!? 嘘をつくな! そんなモン、この戦場で使い物になるはずがないっ」
「ほ、ほんとうです! 真っ黒な大男が先陣切って、真っ黒な馬にまたがって……ッ」

 錯綜する戦況、いや一方的な敗報。
 陣を移し、戦場よりいったん離れた第二連隊の中でさえそうなのだから、敗兵、死者、虚報、凶報の渦中はいかばかりか。

 星舟は笑った。笑うほかなかった。
 タガの外れたようなその声に、周囲の者が足を止め、一様に振り返った。
「最初から、和浦を焼いたときから……これが狙いか」

 一部派閥の独断専行と見せかけた、露骨な蛮行。それによってトゥーチ家を挑発し、負けたと見せかけ対尾港を攻めさせるべくこの死地に誘い込んだ竜軍を、逆に三方から包囲する。
 未知の軍事力をもってして、力づくでねじ伏せ、この袋小路に押し込める。
 不意打ちじみた正攻法、という矛盾した表現が、脳裏をかすめた。

 最初からそのつもりだった。いや誘いであることは察していたが、ここまで大規模な包囲まで展開されるとは、星舟さえも読み切れなかった。

「そんなことが、あるわけがない」

 呆然とつぶやいたリィミィと、かつての彼の目算は合致している。
 ありえるはずがない。一度でも戦場の混沌に身を投じた者であれば、ほぼ必ずそう言うだろう。

 三手に分けた大軍を各方面から差し向け、同時期に勝利せしめ、同日に同じ戦場に参集させる? そんなあまりに壮大すぎる戦略は、兵法を聞きかじったような前線知らずの青二才が、いかにも机上で空想しそうなことである。が、通信手段さえまともに確保できない現実において、容易にできることではないのだ。
 まして、新政権を樹立したばかりの、混成軍をおのれの手足のごとく統御することなど。

「けど、実際やられちまったもんをどうこう言ったってしょうがねぇだろ!」
 リィミィを、そして己自身を怒鳴りつけた。
 振り返る。よほどひどい形相だったのか、シェントゥがちいさく悲鳴をあげた。
 少年の華奢な肩を掴むや、早口で、だが確かに聞き取れる滑舌で、彼は少年に言った。

「帰ってきてすぐ動かして悪いが、使いっ走りを頼む。後方の本隊に行って今から言うことをシャロン様かサガラ様に確実に伝えろ。『我が方敵に包囲されつつありこのままでは全滅必至。急援求む』と」
「わ、分かりました!」
「さっきみたいな調子じゃ困るぞ! 一言一句違えず伝えてくれりゃ良い。それと、役目を果たしたらもう戻ってこなくていい」

 それ以上言う気は無かった。
 行けと細腰を叩いて追い遣ると、経堂がその頼りない背を見送った。
「自分が行きましょうか」と目配せする年上の部下に、星舟は首を振った。

「お前は二〇〇率いて麓につけ。野戦砲も持ってって良い」
 熟練の射手はそれだけで、自らに課せられた役目を察した。

 二方の陸路と海から、続々敵が来着する。
 彼らは白兵戦を挑むことはしない。
 ただ、次第に中央へと東方領軍を追いやりながら、的確に射撃し数を減らしていく。敏捷に動ける獣竜も鳥竜も、そも素早く動けるだけの場所の余地がなければ、恰好の的と化す。人と等しく撃ち抜かれていく。
 艦砲が火を吹いた。本来の射程よりかはやや遠いようだが、狙いを正確に定める必要はない。一箇所にまとめられ味方の兵が、その砲火に呑まれた。そして岸に近づくたび、その狙いはより巧妙に、より狡猾に、執拗に、残虐になっていく。

 窮地を脱した港の兵が討って出た。
 今まで追い詰められていた彼らは今までの千載一遇の機を得て雄飛する。
 決死の脱出軍は、抜刀と同時に突っ込み、竜陣営にさらなる恐慌をもたらした。

「……援護はしなくても良いのか?」
 間道に拠ったままに動かない星舟に、リィミィは一応念を押す形で問うた。
「あの有様に六〇〇投じたところでどうにかなるかよ」
 星舟はそう吐き捨てた。

 部下たちからはさすがに真意を問うかのごとき目を向けられていたが、彼は自分たちの保身のために何もそこに陣替えしたわけではなかった。そうであったなら物資も投げ捨てとうに本隊と合流している。

 その大規模な攻勢の裏、敵陣の一部が後方から土煙を吹き上げ、大きく迂回してきた。

 規則正しい人以外の足音が近づいてくる。シェントゥの報告を信じていなかったわけではないが、やはり騎馬だ。
 自身の予測が当たったとき、星舟は奇妙な安堵を覚えた。

「な、なぜ近づいて来る!?」
「我らの位置を知っていたとでも!?」

  戦場を占める大音量に対し、自然陣内の声も大きくなる。星舟もまた、声を大にして答えた。

「知ってたんじゃねぇ。この場所が狙いなんだ。だからオレらはここに来たんだ」

 馬蹄が黒煙を巻き上げる。
 即席の塁壁は寸前に仕上げたが、果たしてどこまで通用するか。
 敵の顔の輪郭が、おぼろげに見えた。不遜に笑う、異国の巨人。鉞の類を掲げて突っ込んでくるのを睨み返し、隻眼の男は無理矢理に口端を吊り上げた。

「奴ら、袋の口を閉じる気だ」



[42755] 第二章:狩人 ~対尾港撤退戦~(十二)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:e6b9fc29
Date: 2018/09/15 20:05
「……てぇ!」
 星舟の怒号とともに、爆音が轟き、銃口は火を噴く。
 硝煙の臭いが鼻腔と咽喉を焼いた。

 麓に陣取った砲兵隊が二|印地《インチ》半の鉛弾を吐いて、地面へと落下して散る。

 その煙幕を突っ切って、悍馬の群れはいなないた。グロロロという鳴声は、草食動物のものというよりかは、猛犬の唸り声に近い。

 砲声に怯えを見せず、むしろより果敢に攻め来たる。
 速度と鉄の暴力が、星舟の陣を殴り抜いた。
 米俵と土塁を組み上げた即席の塁壁は、彼らの高い馬脚をも防いではいた。だが、射撃の合間を縫って肉薄する騎兵は、そこから迂闊に首を出した歩兵を、あるいは勇んで出ようとした抜刀隊を、その大鉞で屠っていく。鉋で表面を削ぐように。

 次弾を装填して構える頃には、馬と兵は走り去っている。その先頭で指揮している男と目が合った。
 異相の外人は、暗い目元に嘲弄の色をあからさまに浮かべつつ、涼やかに弾丸の間を抜けていった。それからこの一集団は鮮やかに馬首を巡らせ、横合いから再び攻め来たる。

 星舟は舌打ちする。騎兵は足を止めてはならない。その本質をあの大将はわきまえているし、一兵一兵にその訓示が行き届いている。

 ある兵学者は言った。
 竜と戦わず人同士が争うことになったとしても、いずれ騎馬は、火器の発展とともに駆逐されたであろう、と。
 おおむね星舟も同意しているが、それは大量に兵力と銃器を投入できる経済力が背後にあっての結論だ。通常、今のように装填までに容易に接近を許してしまう。
 星舟は射手と別に装填手を複数を用意するなど、六〇〇の中で出来るだけ円滑に弾が行き届くように工夫はしているが、それでもこの有様だ。
 
「リィミィ」
 再度の突撃もしのぎ切った後、星舟は傍らに副官を呼びつけた。

「お前のとこのアイシィとメルラゥを寄越してオレの左右に侍らせろ。合図を出したらオレの眼前に立っているのを撃てと伝えろ」

 と、肚に気を溜めて命ず。
 は? と聞き返す彼女に、指示を反復することはなかった。
 次の瞬間、彼は自らを保護する塁壁に手をかけた。
 切っ先で天を突くようにして軍刀を掲げるや、身を乗り出した。

「うおおおおおぁ!」
 驚く周囲をよそに、流れ弾が脇腹をかすめるのも構わず、塁の上に立って雄叫びをあげる。
 その好餌に、右側面へ回ろうとしていた馬たちが正面に転じた。当然のごとく、陣頭に立つのは、あの巨人である。

 その男は声もなく長柄を大きく振りかぶる。半月状の刃が星舟の脳天に届こうとした瞬間、星舟はみずからの身体が均衡を崩すのも厭わないほど、大きくのけぞった。

「やれ!」

 合図を飛ばす。鼻先を刃風がかすめた。
 浮き上がった前髪の一部を鉄の刃が裁つ。
 可能な限り背を反らした星舟の、文字通りの寸毫の間を、抜けていった。

 仰向けに転ぶ星舟の背後、土塁の内より銃口が伸びていた。
 暗い闇をたたえた異人の両目に、驚愕の色が浮かぶ。彼に向けて、ふたりの獣竜の引き金は絞られた。

 男の角張った顎を目がけて、二発の銃弾がせり上がる。
 一発は武器を弾き飛ばし、もう一発は男の腕を貫通する。当たった、否、防がれた。
 この見た目からして歴戦の猛者は、知っていたのだろう。腕の骨こそ、人体の中で特に頑丈な部位であり、生まれついて持ち合わせた盾だと。

 だが、その後続は主人の異変に足を止めた。ひと塊りに連なっていた。

「撃てェ!」

 リィミィと星舟との、阿吽の呼吸で陣立てを終えていた第二連隊は、横隊に展開したまま、その騎馬隊を銃火で挟み込んだ。
 
 腕を射抜かれた男は、平然とその傷口を見つめた。倒れ伏す部下たちを傲然と顧み、みずからは悠然と馬首を巡らせ駈け去った。

 彼は横顔で、仕留めそこねた獲物を睨んでいた。何か母国語を口にしていた。口の動きで意訳するなら、「覚えていろ島の猿」と言ったところか。

「……あっぶねぇなクソ! もう二度とやらねぇぞこんな|蛮行《コト》!」

 塁上から転げ落ちた星舟は、こんな策を立てた自分自身に憤り、己が矢面に立たざるをえない卑小さに怒りを覚えた。
 だが、それにも増して怒っていたのは、リィミィだった。

「それはこっちの台詞だ! 自殺がしたくば他所でやれ!!」

 返す言葉もなく、土を払って起き上がり、指揮官の目で以て改めて戦場を望む。
 勇猛な騎兵の中でも、特に勇敢であろう先鋒の五十騎馬ばかりは撃ち殺せた。
 この戦場全体から見れば微々たる数字だが、それでも敵は容易には再攻勢には出ないだろう。ある程度の時間は稼ぐことができるだろう。

 ただし、星舟にとっては十全の成果とは言いがたい。
 アイシィもメルラゥも、リィミィ麾下の獣竜の中でも特に秀でた銃手だが、それでも経堂の妙技の域には遠い。彼ならば、たとえああいう不安定な状況下であっても、あの程度の距離であれば一発の銃弾で眉間を貫いていたことだろう。
 その彼は高所より敵の後続の牽制に当てている。容易に移動させることができなかった。

 ――せめてもう一隊、いやもう五〇〇程度で良い。それだけ兵がいてくれたらもう少しやりようはあるものを……いや指揮下に入らずともいい。左右の戦線を縮小して敵をこの場所に誘い込めば、逆に追撃してきた敵を挟み込めるっていうのに。

 そう歯噛みしながら、星舟は敵の手から離れ、地に突き立った鉞を見つめた。

 もちろん、彼とて好きこのんで孤立しているわけではない。移動している間も、防戦している合間にも、増援は乞うていた。だがいずれも黙殺されている。

「……ダーイーオース隊への要請の返事は?」
「……はっ。あの、その」
「ありのまま言ってくれて構わん」

 戻ってきた鳥竜の伝令は、ためらいがちに隊長を見返した。ややあって、声を震わせて伝言を唱えた。

「……『貴隊を助く牙なし。一戦もまじえず後ろに逃げ帰った夏山こそ、怯懦の極み。その汚名を晴らしたくば、再び前線に戻りて剣戈を交えるべし』……と」
「ふざけんなっ!」

 間髪を入れず星舟は怒鳴った。

「こっちゃ今の今まで命的にしてまで踏ん張ってたんだぞっ! そういうあいつらはどうなんだ!? ただ殺される順番を待って列に並んでるだけじゃねぇかッ!」

 怒る青年の肩を、副官が押さえた。おびえる伝令に持ち場に戻るよう目くばせする。

「落ち着け。他の耳目がある」
「あぁ!?」
「第一、事前に周囲との連携をはからなかったお前にも責任はある」
「……言ったところで信じるか。むしろ、妨害されてただろ」
「そこをどうにか言いくるめるのも、大将の裁量だと思うがな」
「うるせぇ!」

 忠言、というよりも反論のしようのないリィミィの正論が、星舟の神経をすり減らす。

 星舟の目算に反して、正面の騎馬は態勢を立て直しつつある。再度の突入も時間の問題か。
「申し上げます! 七尾藩軍、複数の部隊を突破! こちらへと向かっております!」
「港から出撃した部隊の一部が中央を突破ッ、ここへ直進しています!」
「……方円陣を維持……! 手は空いているのは、撤退の準備もしておけ……っ」
 三方からもたらされる凶報に、星舟はそう決断せざるをえなかった。

 決戦の場に、十万を超える兵が集っている。大陸中のありとあらゆる種族、部族が集っている。
 そんな中で、人でありながら竜に属す片目の将はただのひとり……ぽつねんと孤立していた。

 そう自覚したとき、星舟は総身を震わせた。
 背後から軽やかな足音が聞こえた。さては退路にも敵が回り込んだか。びくりと振り返った星舟の視線の先には、遣いに出したはずの少年兵が同じように身をすくませていた。

「シェントゥ! お前、帰ってこなくて良いって言ったろ!」

 いや、と星舟の脳裏にいやな予感がよぎった。
 会見平野からこの対尾港まで、往復するには速すぎる。

「……行けなかったのか? そこまで敵が来ていたのか?」
 張り詰めた声で問う上官に、彼はおどおどと首を振った。
「いえ、あの会ったんですけど……その、これを届けるようにって」

 相変わらず獣の少年の説明は要領をえなかったが、差し出された書状には、迷いはない。
 それをもぎ取る、裏面に捺された焼き印に顔をしかめ、乱暴に紐解く。決して達筆とは言えない竜文字で記された内容に、星舟は目を通す。
 そして、

「…………あぁ?」

 緊迫とはまったく別物の、苛立ちと不機嫌さのないまぜになったような面持と心境で、背後を振り返ったのだった。

 〜〜〜

「塁壁の敵、後方へ敗走!」
 その報に触れた時、カミンレイ麾下討竜馬隊分隊長ウクジット・セヴァカは誰よりも先に出た。散々にやられ未だ十分とは言えないヴェイチェル隊長を、出し抜けたと思った。
 この少壮の軍人は、一回りも年下の上官とは様々な意味で対照的と言えた。

 一方は寡黙で陰気。一方は饒舌で弁が立つ。
 一方はカミンレイに見出されなければのたれ死んでいたであろう、士族を冠するだけの貧民。一方は舞踏会を開くことを許された門閥の出。
 一方はその性根ゆえに上官の覚えはめでたくないが、部下からは信頼が厚い。一方は上役に顔こそきくが、反面部下からはおべっか使いと陰口。

 だが、両名とも方向性は違うものの十二分に有能と呼べた。そこは周囲も、お互い自身も認めるところである。感情の好悪は別として。

 生来より筆舌に尽くせぬ権謀術数を真近で見てきたウクジットは、相手の弱り目、その転換期を見抜く、独特の嗅覚を持っていた。その感性を戦場に転用すれば、それすなわち戦術眼の出来上がりである。追撃戦に長けた良将である。

 その眼と鼻から判断するに、孤軍奮闘していた部隊は行動の限界を迎えていた。が、統率のとれた彼らが何かしらの一手は打つと見ていたから、彼は後方に回っていたのだ。

 踏み止まるようには具申しなかった。くり返しになるが、互いに力量を認めていこそすれ、互いの好悪は別であった。

 そしてあの隊は、なけなしの一手でもヴェイチェルを討てなかった。余力があろうとあの状況下で底を見せては半死に等しい。さらに三方から各藩の兵が迫っていた。まともな感性が大将に備わっていれば、大抵は退く。

 それ兆候を例の嗅覚で察知したウクジットは、誰よりも先んじて追えたわけだ。

 彼が間道に突入した時、視認できる距離にあの大将のものらしき黒髪が見えた。彼は峠の向こう側に一瞬消えたが、
 正直、ヴェイチェル並に表情にとぼしいこの国の人間など、どれも同じように見えるが背格好は同じだし、後尾で退却の指揮を執っていたのは遠目からでも見えていた。

「追うぞ!」
 勇んで鐙を鳴らし、速度を上げる。
「お待ちください! ご令嬢よりは過度な追撃は無用と……っ!」
 追いすがる兵士の制止にも、彼が止まることはない。

「構わん! 深入りするまでもなく、ここからならば四〇〇程度で追いつける!」

 上手くいけば峠を越えたばかりの敵兵に向けて逆落としが仕掛けられる。ともすれば、ヴェイチェルが一杯食わされた男を討つことができる。となれば隊における自分の立ち位置は彼のそれを上回ることになるかも知れず、未だに自分について回る「手足の働きではなく舌を使って階段を昇った」との謂れのない不名誉も払拭することができる。となればあの陰気な巨人の上に立つことだとて。

 ずいぶんと、自分ばかりに都合の良い未来展望だという自覚はある。
 だがそれ以上に悲願でもある。自分の将器があの男よりはるかに優っているとは言わないが、劣っているとも思わない。まして長幼の序を考慮に入れれば、本来であれば自分が隊長を務むべきではないのか。

 渦巻く野心を吹き飛ばしたのは、他ならぬ、彼自身の感覚だった。
 風が変わった、潮目が転じた。
 その流れの源は、峠の上だった。

 黒髪の青年は、ふたたび姿をさらしていた。
 だが一目して、さっきまでの彼とは決定的に異なっている。
 
 黒髪も、骨格も同じ程度。
 だが詰襟の軍服に真紅の首巻きをしている。その手には、何本もの背骨を絡み合わせたような、不気味な剣が握られていた。その持ち腕は熾のごとき赤熱を帯びた、装甲が張り付いていた。
 何より、それ以上に、帯びた気配がまるで違う。例えるのなら、図らずして灰色熊に対面してしまったような心地。生物としてとうてい太刀打ちできないと肌身に刻まれるような無力感。

 彼ではない。ヒトではない。
 アレは、竜だ。

 だが、戦場で見た竜とも何かが違う。見た距離の長短は確かにあるが、それだけ片付けられるものではない。
 戦場の西側で戦っていた竜……所謂真竜種は、もっと直接的な敵意……というよりも闘志をぶつけてきていた。だが、目の前の男はその部分が竜種と食い違っている。こちらを見下す眼差しにはねじくれた、ドス黒い悪意のようなもので満ちている。あえて呼称するならそれは……

 ウクジットの詮索は遮られた。
 信じがたい現実が、この少壮の野心家を引き戻した。
 黒い竜の身長が、ぐんと増した。いや、元々高くなっていたのだが、峠の影に隠れていたのだ。
 ……自分たちと同じ動物に、またがっていることによって。

「……トルバ……」

 母国の響きでそれの名を呼ぶ。
 ただ一頭ではない。黒竜の背後に、ズラリと騎士たちが整列している。
 人の形を成した者もいるが、たいていの騎乗者たちは異形の姿だ。
 彼の国の人では、とうに淘汰されたかのような甲冑にも似た装い。いやその原典ともされる姿。

 彼らを率いる黒竜は、遠目からでもわかるほど、いびつに嘲笑を浮かべる。

 言語と種族の隔たりはあれど、彼が振り下ろした骨剣と、唇の動きが意味するところは理解した。


「殺せ」


 ……それが、ウクジットの最後に聞いた言葉となった。



[42755] 第二章:狩人 ~対尾港撤退戦~(十三)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:e6b9fc29
Date: 2018/09/15 20:09
 敵騎馬隊の追っ手をたやすく突き崩したサガラ・トゥーチ率いる重騎兵たちは、そのままの勢いで戦場に乱入した。

 後続として殺到していた藩兵たちは、まさかの騎兵の突撃に動揺して、逃げ散った。
 勇猛果敢に攻め来ていた巨漢の騎兵も、仲間やおのれの死すらも厭わず粛々と侵攻していた七尾藩兵も、意外なほど勝勢に固執せずに、あっさりと退いた。

 日も沈み、雪も止んだ。両の陣営も退き、対尾港に一時の膠着状態が生まれた。
 そこは包囲していた時と同じだが、状況はむしろ逆転していた。死にかけていた対港は兵員と物資の搬入によって、難攻不落の要塞と化していた。

 だが、星舟が智勇の限りを尽くしても覆せなかった局面を、サガラはただ一度の突撃で変えた。
 歓呼の声で迎え入れられた総大将の威容を、星舟は複雑な思いで見つめていた。

「あれは、トルバという」

 その夜、あらたに本営と定めた台場で軍議を開いた竜たちの前で、サガラは発表した。
 杉板の壁をへだてて、特異ないななきが聞こえてきた。

「厳密にいえば、あれはよく似た生物であって、馬そのものじゃないけどね。本来背に何かを乗せるような大人しい連中じゃないが、それでもきちんと調教すればあの通りだ。そして……奴らは竜を恐れない」
「いったい、あのような生き物をどこから……?」
「海外、『黒鷲の国』と呼ばれる西方の一国に、巨大な火吹き山が存在する。そのふもとに生息していたのが、トルバだ。俺が海外に渡航した時分にその習性を見出し、ひそかにつがいを持ち帰り、仔を生ませ、土地になじませ養育し、砲声を子守歌がわりに調練した。奢った人どもの度肝を抜き、その心根を折るために」

 これは、トゥーチ家の事情に精通していた星舟でさえ知らない情報だった。
 おそらくは、帝都で、しかも極秘裏に行われていたことだ。だが、今の今までトルバの存在さえ知らなかった己に、むしょうに腹が立った。

「けどまさか、敵にも同じように見出し育て、同じように実戦に大量投入してくるようなヤツが現れるとは、予想してなかったけどねぇ。伝え聞いた話によれば、連中は『討竜馬』とか当て字してるそうな」
「うぬ!?」
「生意気な」

 島文字を指で宙に描くサガラに同調するかのごとく、息まく声が随所で漏れる。だが、彼らの反応に満足することなく、若き黒竜は大儀そうに溜息をつき、自身の椅子の背に重心をかける。
 総大将の不作法をとがめるような険しい目つきが、サガラへと向けられていた。次席についたブラジオであった。

「わざわざその討竜馬とやらを敵味方に自慢するために、遅参されたのか」

 その巨体から発せられた怒りの波動が、陣営内を静かに侵していく。
 ブラジオの怒りはもっともなことだ。もっと早くにサガラがこの状況の対策に動いていれば、被害は抑えられたはずだった。危機がせまっていると判断できるだけの報告と進言も、星舟を介して送っていたはずだった。彼の副官も大勢の配下も、死なずに済んだかもしれない。

「そうではないさ」

 サガラはかすかに目を細めて、姿勢をただした。
 さしものトゥーチ家嫡子でも、歴代の重臣たるガールイェ家当主は軽視できるような存在ではなかった。一定の敬意と距離感を持ちながら、サガラは微笑を向けた。

「ではお聞かせ願いたい。何故に、かくも遅くなられた?」
「いや……申し訳なかった。お詫びもしようもない」
「訳を、お聞かせいただきたいと申している」

 ブラジオの視線を受け流すように涼やかに、サガラは応じた。

「ひとつには、情報収集のため。今日にいたるまでに当然、藩王国新政権の顔ぶれは探っていた。だが、異常なまでに締め付けが厳しく、多くは謎に包まれたままだった。だが、奴らが出兵したそのゆるみに付け入り、ようやく暴くことができた」
「それで、何者なのだ。あの者らは?」

 今まで敵などとも思わず歯牙にもかけていなかったであろうブラジオが、真竜種たちが、はじめて自分が対峙している相手のことを、知りたがった。

 赤国流花。
 前時和藩主の令嬢。本来藩王の後窯であった葛城家波頭藩を追い落とし、歴代初の女王として即位する。
 だが彼女自身は、長らく海外に学生として渡航していた。そこで如何な生活を送っていたか。その詳細までは把握できない。ただ、留学先である『氷露の国』での評判は良く、多くの人材を見出し好を通じ、また、国元にいた先代藩王にも、その才器を愛されていたようだ。
 その後、最新の装備や物資、技術を持ち込み帰国。それを如何なく投入しているのが、今のこの状況というわけだ。

 ――どこかで聞いたような境遇だな。
 直立しながらそれを聞いていた星舟は、まず目の前に座る男を見下ろし、次いで遠く葵口をへだてて陣をかまえる彼の妹を想った。だが、それ以上は考えなかった。

 カミンレイ・ソーリンクル。
 赤国流花が見出した人材のひとり。『氷露の国』で、流花の音楽教師として侍していたらしい。
 だが、祖国の大家『雷翁』として、そして艦船設計の偉才として知られる元帥、ニケイクズロフ・ソーリンクルの一人娘であった。だが、この大陸以上に女性が権利を得ることが難しいかの国で、彼女は軍人としてではなく、一教師として生活していた。
 そんな彼女の、才質をいかにして流花は知り得、どうやって彼女自身や藩王を説得したのか。そこまで知るすべはないが、彼女は異国の地に、流花に先んじて元帥の旧臣たちとともに招聘された。
 表向きは母国と変わらず『音楽教師として異国の文化を取り入れるため』とのことだったが、その裏で藩王の頭脳となり、彼の信任のもとにきたるべき流花政権の土壌と新生軍を作り上げていった。

 ――ってことはこいつ、初陣なのか!?
 あるいは記録には残らずとも、教師になる前、ひそかに父親に従軍でもしていたのか。それでも、その経験は微少なものであろうし、率いた兵も万、いや千を下回ろう。
 時折、こういう化け物が神の戯れのように現れる。
 なんの実績も経験もないくせに、ただ培った知識と生まれつきの感性だけで、経験豊富な常人の二段三段上を行く天才が。
 だが、本物はごくまれだ。その背を見た未熟な若輩者が、我もそうあろうと分不相応な無謀愚行をおかす。ある意味では厄災ともいえるのかもしれない。

 日ノ子開悦。藩王国操船奉行。すなわち海軍の元締めだ。
 元は廻船商の次男坊である。若いころは放蕩三昧の日々を送っていたが、その後父親に勘当される。その際の手切れ金を元手に士分の株を購入し、断絶されていた日ノ子姓を受け継ぐ。
 武士となった彼は海運の知識を用いられ五年で海防奉行の与力にまで昇進。諸外国の合同使節団が初めて接触した際には、様々な言語を使い分けて彼らを驚嘆せしめ、のちに条約を交わす際、主導権を握る契機ともなった。

 ――国外はまだしも、あの先代の藩王、とんでもない隠し玉を用意してやがった。
 星舟はグルルガンとともにサガラの背に侍りながら、低く唸った。
 やはり、先頃にアルジュナが酒宴で口にしたとおり、たいへんな傑物であったと評さざるをえない。統治したころにはあまり不鮮明な金の動きがあったからと藩王国内の評判が良くなかったが、すべてこれらの膳立てを整え次代に託すためであったのならば……死してこそ、あらためて再評価できることもあるということか。

 だが、もうひとり。
 決して忘れてはならない男が、あえて避けるように後回しにされている。

「……それで、七尾藩は? あの大頭巾は、何者か?」

 星舟が立場上聞きたくとも聞けないことを、ブラジオが代わりに問うた。
 サガラは微妙な面持ちのまま、視線を横へとずらしていく。甘さと苦み、笑みと怒り。水と油のごとく混ざり合う要素のないものが、やや丸みを帯びてはいるが端正ともいえる彼の顔のうちで混在している。

「それについては、そこなテリーザン殿のほうがお詳しいんじゃないかな」

 その眼が、末座にいた若い真竜種を射止めた。
 一同の視線もまたそれに続いたものだから、代替わりしたばかりの青髪の若者は、その重圧に押されてたじろいだ。

「先年、お父上が七尾藩主との対戦中に陣没されたとのことだったね」
「え、えぇ」
「届け出では『病に倒れたがゆえに撤退し、その背を七尾藩に撃たれて被害をこうむった』となっていた。けど、ご先代はそうなる直前すこぶるご壮健で、かの陣中においても焼酎を一夜で一瓶干されたとか?」
「……よく、ご存じで」

 同年代の、それも『混ざりもの』の黒竜の穏やかな視線と声に、テリーザンは怯えを見せていた。そわそわと、爪のやや欠けた指先が絡み合っている。
 名を呼ばれた当初こそ当惑の色のほうが勝っていたが、言わんとしていることに心当たりがあるらしく、徐々に血の気が引いていくのが見て取れた。

「……まさか……」
 発言は控えるべきであろう星舟だったが、それでも思わず声が漏れた。

「貴殿も従軍していたはずだ。その時にも、あの大頭巾はいたのかな?」
「それはっ」
「七尾藩主、霜月信冬(のぶふゆ)は貴殿の父を斬ったのか、と聞いている」

 ブラジオの物言いを真似たかのようなその詰問に、テリーザン家の当主が五体を凍り付かせた。と同時に、陣内からは驚嘆の声が漏れ聞こえる。あの兵器ともいうべき鬼人は、自らの部下も生命を顧みず突っ込んでくる何者かは、あの山の小国の統治者であったのか、と。

 テリーザンはかすかに唇を震わせて、言語化できない呼気がかすかに、断続的にこぼれ続けて地に落ちる。
 そんな彼へ冷笑を浮かべながら、サガラは硬質な声を浴びせた。

「まぁ、よしんばそういう事実があったとして、他家への体面上言えるわけがないし、その時点では信じられなかっただろうさ。……しかし、言うべきだった。貴殿への詮議はこの状況を打破してから、あらためて行う」

 若当主は浮かせかけた腰を下ろした。というよりも、支えをうしなって落ちた、という表現の方が正しいだろう。

「……ということだ。いつ、どうやって生身の人間ごときが真竜種の『鱗』を傷つける術を身に着けたかまでは定かではない。けれどもそれを抜きにしても、奴らは藩王国内の中でも異質、いや異常だ」

 珍しく、星舟の中でサガラと意見が一致した。経堂も、かつて同じ見解を示した。
 七尾藩は、人として、いや生物として、根底から在り方が間違っている。

「こういう異能者たちを赤国流花……いや、彼女を立てるカミンレイがどう運用してくるのか、その全力を引っ張り出したかった。これが第二の理由だ」
「つまり、我らは初めから捨て石であったと?」

 総大将を質問攻めにしていたブラジオが、そこで静かな怒りを再燃させた。
 机に置いた握り拳に欠陥が浮かび上がり、不自然なまでの痙攣が起こっていた。

「捨て石とは聞こえが悪いことを。せめてそこは、試金石というべきではないのかな?」
「同じことだ」
「そんなことは、微塵も思ってはいないさ」
 サガラは平然と口にした。
 平然と、虚言を、口にした。

「そもそも、前軍の進退はブラジオ殿に一任していたはず。貴方がたは、己自身の選択によって、あの港を包囲し、そして今この憂き目にある。そこに俺がどうこうしようという意志は介在せず、まさかブラジオ殿ともあろう方が捨て石などにみずから甘んじようとするはずあるまい。……違うか?」
 黒髪の下の、宝石質の瞳を眇めて、悪意的に問う。
 星舟がそうはっきりと物申せば、首が飛ぶかもしれない。だが、サガラにはそうさせないだけの竜としての威と、トゥーチ家の代表者という権威と、何より彼らの窮地を救ったという実績があった。そうした何層もの不可視の城壁が、竜たちの害意を阻んでいた。

 隣のグルルガンを盗み見る。ややヤクザな雰囲気を持つ凶相の鳥竜は、表情の筋肉を引きつらせている。笑いながら。
 この手のやりとりで、竜がサガラを言い負かすことはできまい。何故なら彼は、竜であると同時に悪辣な人……

 サガラが、ふとこちらを振り向いていた。
 星舟は心の中で言いかけたことを打ち切り、微笑を返し、背の筋を伸ばして直立した。
 総大将は肩をすくめながら、諸将へと向き直る。

「もちろん、この状況に陥るまでもっと本腰を入れて対応をしなかったうちの星舟にも落ち度はある」
「は?」
「そして、俺もまた、見通しが甘かった。そこは認めよう。……この敗北は、全員の責と思ってもらいたい」

 サガラはそう締めくくった。
 あえて言葉にしたことで、敗北の二字が、彼らの頭の上に重くのしかかったことだろう。

「……なんの!」
 おのれらの内にある実感を払拭せんと、ある竜が立った。

「一杯食らわされようとも、敵にいかな策や異才があろうとも、トルバはこちらにもある! 御曹司どのも参られた! この上シャロン姫も到着されれば、兵の質量ともに我らが上よ! これよりは我らが力づくで小賢しき者どもを粉砕せん!」

 のう、と彼は同調を求めた。彼と同じ精神的指向を持つ者が、勇ましく喝采を唱えた。

 勢いを盛り返し沸き立つ軍中にあって、サガラはただ、目を細めてその光景を見守っていた。曰くありげに、その指は星舟を招いていた。



「撤退する」
 首脳部の者らが意気揚々と引き上げた後、暗黙の合図に従って居残った星舟に、サガラは迷わずそう断を下した。



[42755] 第二章:狩人 ~対尾港撤退戦~(十四)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:e6b9fc29
Date: 2018/09/15 20:14
 退却することに、星舟としても異論はなかった。現状と、これまでのサガラの動向を観察していてなんとなく予感はしていた。

 そもそも本来の目的である連合軍討伐は、緒戦の時点で達成、いや破綻していると言って良い。それ自体がすでに人間たちの誘いの一手であり、まんまと竜たちはそれに乗って過剰な追撃をしてしまったのだから。
 こうして誘きこまれた死地に、もはや見出せる価値などありはしない。サガラにしてみても、すでに敵の力量は測り終えたわけだから、何の未練もないわけだ。
 それに会見の平野であれば、十分に軍を展開することができるし、艦砲も届かない。もし敵全軍が追ってきたとして、十分に応戦できるはずだ。

 だからこそ、サガラは少数精鋭で駆けつけた。もし全軍をあげて援護に来ていれば、この狭い戦地は、より不自由にならざるをえなかった。

「では、退却をあえて明言なされなかったのは?」
「抗戦の意気だけは見せかけとかないと、敵に感づかれるからねー。方針を公表するのは撤退開始の三日前だ。だがそれより先行し、それぞれの副官を通じて根回しをしつつ、最後には直々に俺が各々を説得する。一種の調略だな、これは」

 竜たちの座とは逆向きになって、机に背を力なく倒し陣幕の中に吐息をひとつ。やはり、口で言うのは簡単だとしても、実際に説得するのは骨が折れることなのだろう。この男には珍しい、悔恨と憔悴の色が見えた。

「しかしながら、敵味方ともにこれだけの大軍です。確実に背を撃たれます」
 希少な弱音につけ込むように、星舟は維持の悪い問い方をした。
「すでに退却路は想定済み。軍の規模、開始時期、経路に応じてその編成も決定している。道中の村々にはシャロンより渡りをつけて物資を配備させている」

 それに対し、サガラはすんなりと、よどみなく解答を出した。

「まぁそれでも、急な撤退になるから、ある程度の資材は捨てざるをえない。その損害はある程度トゥーチ家が補償する。……と言っても、一昔前の武器弾薬を鹵獲したところで、敵さん喜ぶかねぇ」

 個々の武勇はともかく技術的な遅れをとっている自軍の愚痴めいたことを、彼は嗤って独語した。
 その目が、あらためて星舟へと向けられた。視線が、蛇のごとく絡みつく。

「さて問題は、その撤退に際しての殿だが」
「……」
「どうしたら良いと思う? 今回の敗戦、トゥーチ家にも少なからず責任がある。となれば、自然俺らのうちから誰か出すべきだろう」
「……」
「かと言って、当然俺には撤退軍すべてをまとめる義務があるし、シャロンは葵口を固めて動けない。他の者では荷が勝つ」
「……」
「ここは、前後の事情や敵勢に精通し、被害が少なく寡兵での戦闘に長け、大局が見られてそれで……万が一死んでも相続や家名にあまり影響の出ない者が良いんだけどなー?」
「…………」

 かくも露骨に言われては、ここに呼び止められた意図も、言われようとしていることも明らかだった。

「……自分の第二連隊にも、被害は出ています」
「だが他と比べたら軽微だ」
「しかしあの大軍相手では支えきれますまい」
「それに当然各軍から兵員も供出させるさ。そうだな、千もあれば、まぁお前なら十日ほどは保たせられるだろう?」
「殿は、真竜種の方々が受け持つという取り決めがあるでしょう」
「けど今の今までその撤退という行動自体がなかった。そんな段になって軍法もへったくれもあるもんか」
「それでも真竜種が、特にブラジオ殿のような剛の者が、人間風情に背を守られることを承服しましょうか?」
「……なに? やりたくないの? 常日頃滅私奉公の精神で竜に仕えると称してはばからない、お前が?」
「むろん、命をなげうつ覚悟はあります。それでも『鱗』であれば、七尾の、それも藩主霜月に気をつければ良いだけの話で、並みの弾であれば容易に跳ね返します。それ故に、無用な被害も避けられるかと」

 命をなげうつ云々は当然本音ではない。捨て駒にする気しか感じられない殿軍など、誰が進んでやりたがるものか。
 だが、そのための建前には、道理を通した。
 真竜種は未だ無双の盾ではないか。列を成して立つだけで、それはたちまち不落の城塞となるではないか。

 サガラは上体を起こした。
 作った握り拳で、何度か机を叩いた。彼が思慮するときの、クセのようなものだ。だが、その碧眼に逡巡の揺れはない。自分を捨て石にすることは、この男の中で確定事項なのだ。
 ただ、それとは別の思案とは、何か。

「……いい機会だ。というよりも、今生の別れともなるかもしれないから教えてやるよ」

 ややあって、拳の上下運動がぴたりと止んだ。総大将は口を開いた。

「『鱗』は、持続させられない」

 もったいぶることもせず、まるで頼んだお使いの注意点を言い添えるかのような気軽さで、彼は真竜種の秘密を暴露したのだった。
 自他ともに認める面の皮の厚さを誇る星舟も、さすがに
「……は?」
 聞き返すほかなかった。

「俺が異国に留学した頃、体調管理は向こうの医師に頼んでいた。彼は俺たちの体質に並々ならぬ興味を持っていてな。そして俺自身、そこまで深く追究したことがなかったから、彼と研究を重ねていた。得られたものは多くはなかったが、ひとつ気になる結果が出た」
「……それは?」
「まず聞いておきたいけど、お前って血の中に目に見えない程度の塩や鉄が混ざってるって、知ってる?」
「まぁ、向こうの学説などでたまに目にしますが」
「『鱗』を展開させると、どうやらその塩と鉄とを消耗するらしい」
「それは、通常の運動でも同じでは?」
「その倍以上の速度でな。そして欠乏すれば、当然『鱗』の維持どころか体内の機能に支障をきたす。兆候は末端に見られる。軍議の席での奴らの落ち着きのなさを見ただろう」

 そう言えばと思い返す。
 小刻みな痙攣。割れたり欠けたりした爪。塩や鉄が体内で不足がちな証左だという。あの見るからに頑丈そうなブラジオでさえそうだったのだから、直接確かめていないが他の真竜種はいかばかりか。

「……そんな秘密が」

 思わず口にしてしまった独眼のヒトに、黒竜はいわくありげな、皮肉そうな笑みを浮かべていた。

「秘密、ねぇ」
「何か?」
「いや、秘密というよりかは、竜のほとんどが、その事実を知らんのだろうさ。何せ今までは、あの殻をまとって突っ込めば、たいがいの敵が崩れた」

 ここまで連戦と長陣を強いられたことがないからこそ、露呈した弱点か。

「……すでに真竜種が限界に近いことは理解しました。しかしながら、未だに余力を残す方も多くいるでしょうし、その理屈を説いたところで彼らが納得をするとも」
「星舟」

 サガラの笑みは、形はそのままに質が変わっていた。まとう空気が反転していた。

「話は変わるけど、こういう噂が陣中に流れているのを知ってるか?」
「なんです?」
「俺が駆けつける前、とある部隊が無断で持ち場を離れた。そのためにせっかく包囲していた敵の脱出を許し、被害をもたらしたという。さらに口さがない者にいたっては、その指揮官の人間は、敵に内通していたとも言っている」

 おのれのことを言われているのだと悟った瞬間、星舟の頭は真っ白になった。
 しかし、虚勢でも演技でもなく、自然と笑みがこぼれる。
 ただしそれは、怒りと呆れの感情の先にあるものだった。

「サガラ様ともあろうお方が、まさかそんな雑言をお信じになられるとは」
「いやぁ? もちろんそんなものは信じてないけど? ただ、お前の立場は今、かなり危ういと思うんだけど」
 サガラは、肩をそびやかして答えた。
「お言葉を返すようですが、オレはあの場で出来るかぎりの最善を尽くしましたよ」

 本営の隙間から流れ込む風が、内部の灯火をなぶり、ゆらめかせる。
 横を向いたサガラの顔の陰影を、より濃く浮き彫りにさせるなかで、彼は
「最善、ね?」
 と、冷たく聞き返した。

「けどお前さ、なんで正面から騎馬受け止めちゃったわけ?」
 そう半笑いで言い添えて。

「え?」
「たかだか一隊二隊、適当にやり過ごせばよかったんだよ。ふもとに死角なんていくらでもあっただろう。そのうえで俺たちを狙うようなら間道で待ち構えてその出鼻をくじくも良いし、反転して包囲された奴らを叩くようならさらにその側背を襲えばよかった。なにもわざわざ真正面から挑まなくてもいいもんじゃない」

 あ……と思わず声が漏れる。
 ラグナグムス艦隊が沈んでこの方、膨大にもたらされる情報と一刻ごとに変移していく状況に対応しきりで、今の今までその可能性に思い至らなかった。……自分は、的確な判断と行動をしてきたと、信じ切っていた。

「……まぁ、あの乱戦でそこまで求めるのも酷な話か」
 サガラは露骨にため息をついた。
「でもさっきも言ったよな。この敗戦は俺もふくめた全員の過失だ。とくに軍監でもあったお前に与えられた役割と責任は、大きかった。なのに自分だけは例外だと思うのは、少し虫が良すぎるんじゃない?」
 だがその視線は失望と非難の冷たさを帯びて、星舟をえぐった。

「……面目次第も、ありません」
 下唇を浅く噛んで、星舟はうなだれた。背に、氷水のごとき汗がつたう。
 なのに、胸は炉にくべられたかのように熱く、早鐘を鳴らしている。
「なぁ、星舟」
 理性と感情がないまぜになって、一語も出せずに声を詰まらせる彼の肩を、一転やさしくサガラが抱いた。

「俺は、お前の実力がこんなものでもないと知っている。その忠誠心を誰よりも、種族や年齢、身分を超えた友として信頼している」
「サガラ様」
「その実力や心根が竜たちに疑われているのは、俺としても辛いんだ。それらを証明するためにも、どうか受けてもらえないだろうか」

 ありとあらゆる状況が、お前がやるしかないと責めてくる。だが腹立たしいのが、そういう風に操作されたという自覚があることで、それ以上に怒りをおぼえるのは、自分自身がそうあるべきだと思いはじめていることだ。

「…………わかりました。お引き受けしましょう」

 サガラの手が肩に回ってから、長い沈黙のあとで星舟も覚悟を決めた。
「そうか! やってくれるか!」
 『垣根を超えた友人とやら』は、心底嬉しそうに顔をほころばせた。これ以上はこの十年間で一度も見たことないぐらいの満面の笑みで、手を差し伸べた。
 星舟もまた、最上の表情でもってそれに応じ、固く強く手厚く、握り返したのだった。


 ――いつか、絶対ぇ殺してやる。


 と、決意をあらたに。



[42755] 第二章:狩人 ~対尾港撤退戦~(十五)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:6f4fa50d
Date: 2018/09/15 20:14
「はぁっ!? シンガリ!?」

 東方領第二連隊の今後の方針が、星舟の口から発せられた。その辞令にまっさきに反応を、それも否定的に示したのは、クララボンだった。

「冗談じゃないですよ! 自分らだって、やることやったってのに、なんでそんな懲罰人事……いや竜事? とにかくそんな役目食らわにゃならんのですか!?」

 主立った将校もまた、彼の意見と同和を唱えた。そんな非難にさらされても、彼らが主将、夏山星舟は命を発表したきり貝のようにじっと黙し、隻眼を凝らして、地図に記された退却路と撤兵の計画書を見つめていた。
 自身も理不尽は承知で言っているのだろう。その意図を汲んで、リィミィは助け舟を出した。

「理由は今しがた説明したとおりだ。様々な理由から、我々にしか務まらないとサガラ閣下が判断した」
「そんなもん上の都合でしょうよ」
「では、トゥーチ家の意向に背くか? あとでどういう追及がくるとも想像せず」

 あくまで食い下がろうとするクララに、副官は突き放すようにして言った。

「あるいは藩国側に奔る、というのも手だがその場合は我々が国家という体になって初の人類へ寝返った竜種ということになるが」
「うぐ」
「逃げるなら、あんただけにしなさいよ。私は巻き込まないでね」

 キララマグは弟の背を冷視した。
 まっとうな竜であれば、そんな恥知らずなこと、出来ようはずもない。拒絶などもとより可能な立場でないことを、あえてリィミィは彼らに突きつけた。

 こういう窮地の時、かえって肝の太さを見せるのは女のほうだろう。第二連隊における二輪の華の片割れとして、そのキララの気丈さを頼もしく思った。

 言葉を詰まらせたクララボンは自らの席を蹴って立ち、舌打ちしながらきびすを返した。
 が、一瞬立ち止まって自分が倒した椅子を持ち直してから、衆目の中で気まずげに、退出した。
 その姉も含め、他の者も続く。残されたのは、主将と副将だ。

「……さっきの論法だと、まるで人間は逃げて良いみたいに聞こえるな」

 ようやく、星舟が口を開いた。

「実際そうだろう。身寄りも未練もない人間たちは、十中八九脱ける。特に、そういう手合いの多いウチはな」
「増員は出る」
「なけなしのな。さらなる脱走を理由に補充を求めれば、サガラ殿はあんたの将器を問うてくるだろう」
「やめろ、想像するだけで苛つく」

 面倒ごとを押し付けてくれた当人をジロリと睨み据え、リィミィは言った。あらためて、口にせざるをえなかった。

「世の中が覆った。人の手によって今までの道理は破壊され、時代は変遷する。あんたの未来図は広げる前に破綻した」

 残酷な真実を告げる。
 今の彼は、七年前の自分と同じだろうとリィミィは思った。
 どれほどに力を尽くし、いかに智慧を絞ろうにも、いかんともし難い理不尽の障壁が眼前に立ちはだかっている。
 それに直面したとき、この独眼の人は立ち向かうべく奮起するのか。あるいは折れるのか。
 乗り越えてほしいという期待と、自分とおなじ挫折を味わってほしいという願望。相反する感情がないまぜになった暗い熱を言外に、だが明確に込めて、彼女は星舟を視た。

 彼は地図を見つめたままだ。いや、それさえちゃんと視界に入れているかさえ怪しい。
 机を抱えるようにして指をかけ、何かに耐えるかのごとく、その縁がギシギシと軋む。

 肩が小刻みに震えている。
 感情を込めて漏れ出す息遣いは言語と呼べるものではなく、ただ喘ぐという行為に終始していた。

 ――折れたか。
 安堵と失望が内心で、渦を成す。

 みずからが志なかばで果てるにせよ、せめて退却に指示は的確さを求めたいところだが。あるいは使い物に
ならなくなった彼に代わってリィミィ自身で指揮を執ることさえも考慮せねばなるまい。

 声をかけるべく唇を開きかけた。
 その、刹那。

「ふふふ、ふへへへははは……ふははは、ハハ! ハーハハハハハハッ! 畜生! ふざけるな!! アーハハハハ!!」

 彼は笑った。頰を引きつらせ目に血を走らせ、いからせ、それでも全神経を傾けて、笑うという行為を全力で表現していた。
 背を反らした彼の像が、灯に照らされて巨影となる。

 彼は、折れたわけではなかった。その類のものであれば、ただひとつの瞳には、かくも燃えるような輝きはあるまい。

「おいおいそんな目で見るなよ。というか、これが笑わずにいられるかッ? あれだけ偉ぶっていた真竜種が、為すすべなく背を向け逃げ散る? その背を守るのが、自分らより格下と侮っていた人や獣竜や鳥竜だ!? とびきりの悪夢だ! 奴らにとってはなッ!今! 竜はッ! 至上の存在から転げ落ちた! 絶対王者の座を手放した! これが、笑わずにいられるか! ハハハハハハハ!」

 明確な勝算や展望があるわけではない。
 だが、それでも笑っている。

 彼は怒りながら笑い、狂いながらも必死に打算していた。彼の中でリィミィ以上に、理性と感情とが内在し、かつ共生していた。
 激情をもっておのれを滾らす燃料とし、笑いを持ってその舵を取る。狂気でみずからの背を突き、組み立てた理屈が後からついてきて、骨子を支えていた。

「未来図が破綻しただぁ? 阿呆。むしろ、やりやすくなった。これさえ乗り越えられれば、オレの立場はさらに上昇する! すべてを傅かせてやるまでの近道ができたというわけだ」

 風が、荒ぶる。
 自身の喉輪を絞められたかのような、息苦しさと奇妙な法悦が、彼女を包んで肌を粟立たせる。

 これなのだろう、と思った。
 家名、性別、年齢、門閥、種族。
 さまざまな事情に阻まれ夢破れた自分に、いや超越者たるすべての竜に不足していたもの。そんな自分が、あの時の星舟に見出したもの。人を、人たらしめるもの。

 それは、いかな理不尽や逆境においても諦めないしぶとさ。それさえも味方につけて、幸運を引き寄せる貪欲という名の心の剛腕。

 それを持っているがゆえに、人と竜の立場は逆転する。それまでの半生を擲って、彼女は年端もいかぬ少年の教師となり、部下となった。

「これから面白くなる。こんな所で死んでたまるか、死んでやるものか。……力を貸せリィミィ。新時代の先駆けはカミンレイのような余所者でもなければサガラでもない。オレたちだと、世の中に教えてやる」

 歯を剥く星舟に、リィミィは迷うことなく、つよく誓った。



[42755] 第二章:狩人 ~対尾港撤退戦~(十六)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:6f4fa50d
Date: 2018/09/15 20:15
 その撤退の発表は、常と変わらぬサガラの口ぶりで、あっさりと行われた。
 混乱はそれほど起こらず、その準備は不慣れながらも粛々と始められ、その間に各隊からの殿軍の兵員も抽出された。

 都合八〇〇名。火器弾薬も十分に供給され、持ち運べなかっ食料等は先に退いた主軍が退却路に置くという。
 それは当初予定されていた数よりも多く、脱走兵や、彼らが持ち去った物資を差し引いても十分すぎる待遇であった。

 と同時に、
「せめてもの手向けだ。お前はここで死ね」
 と言われている気がして、感謝の念よりも何くそという気持ちが強い。

 扱いが難しいということ、そも対人戦になるのだから必要性は薄い。その二点を理由に討竜馬が提供されなかったあたりに、サガラの底意地の悪さを見た思いだ。

 補充部隊を率いるのは、サガラの補佐官でもある鳥竜種グルルガン。
 サガラが帝都に上って躍進する前にはよくその隊を支えたが、その後彼が近衛兵の指揮権を得て、あまつさえ本来帝都の守護に就くはずのその精鋭たちと近代装備を、一隊のみとはいえ好き放題に移動させられるほどの権威を持ってからは、その役目は薄れたと言って良い。
 つまり、サガラにとってはもはやお払い箱。むしろ扱いに困るといったところだろうから、こういう役回りになるのはさほど不自然でもない。

 毛色も種族も練度もまるで違う混成部隊を、さほど身分も家名も持たない彼が統率する。その心労は想像にかたくない。へたをすれば、自分よりもよほど理不尽な立場にあるのではないか。
 それを想えば、

「ヨロシクオネガイシマース」

 ……まして、六連で徹夜したかのような虚ろな目であらぬ方向を見上げながら、半笑いを浮かべる彼の姿を実際に見れば、サガラへの不満不安をぶつけるわけにもいかなくなる。

 あるいはそういう心理効果を狙っての抜擢か。
 となれば、さすがの次期東方領主、人事ならぬ竜事の妙と言えるだろう。

 だが、思いもよらぬ朗報があった。
 凶報を受けたシャロンの軍からも、一隊が割かれた。
 東方領第一連隊、一〇〇〇。
 質量ともに戦局を左右させるに足る、歴然たる戦力だった。

 ――まぁ、問題はその指揮官だが。
 星舟は、現れた同僚を、こちらからは接近を気づかぬ体を装いながら盗み見た。

「ええぇー、良いじゃん。今晩飲もうよ。君のためにわざわざ銘酒も用意したのに」
「困ります! これから夏山隊長と会うんでしょう!? ほら、噂をすればいらっしゃいますよ」

 副官である少女、ポンプゥの腰や尻に触れていたかの第1連隊長は、そこで待ち受けていた星舟の存在に気がついたようだった。
 薄く紫がかった前髪を正し、折りたたんだ後ろ髪を正す。着崩した軍服のボタンをひとつ留直し、狐裘でしつらえた飾りを腰に巻き直す。
 そして切れ長の瞳を含みを持たせて、ニヤリと歪めた。

「これはこれは。人間の分際で第二連隊長にまで上り詰めた、夏山殿じきじきのお出迎えとは痛み入る」
「……貴殿も、主命といえ遠路はるばるこの死地に赴くとは恐れ入る。忠心ゆえか、あるいはよほどの酔狂か。それとも両方かな?」

 お互いの腹を探るような、罵声と皮肉の応酬。

「……」
「……」

 悪意たっぷりに互いを嗤い合い、睨み合う。
 両者の関係性を知らぬ周りの将兵は、何事かと目配せし、耳語し合う。
 グルルガンやリィミィ、ポンプゥは呆れたようにため息を吐いた。

 第一連隊長は顔に手を当て、覆って俯く。肩を震わせた。間もなく発せられる怒情を予測して、周囲は身構え、そして押しとどめるべく、寄ろうとした。

「……アーハハハハ! 星ェー舟ゥー!」

 その足を、第一連隊長グエンギィの豪放な笑いが止めた。

 そのまま飛びつくようにして彼の頭を脇に抱えてはしゃぐ。

「お前がいながら何だよこのザマ! なんて最悪だ、なんて地獄だ! わたしも最初から無理言って来てりゃよかったなー」
「うるせーよ、耳元でがなるな……」

 終始上機嫌な同僚とは対照的に、星舟は苦い顔になる。だが、その悪態には、数年来の付き合いに裏打ちされた親しみがあった。
 とは言え、頰に押し当てられる柔らかさは、女日照りの身にとっては毒だ。
 ふと目をその正体にやれば、盛り上がった衣服の隙間から、素肌の焼けた色合いがのぞく。

 細身の美少年もしくは美女が好きだと放言する癖に、当の彼女がそれなのだから、救えない。

 武技に優れ、兵の進退の見極めも早いし、部隊の動き自体も速い。近代兵器に対する理解もある。その美貌も相まって、若い兵たちからの信奉も厚い。撤退戦においてこれほど頼りになる将もいないわけだが、

「で、その危機の状況は聞いてるな?」
「あぁ、空から星屑が落ちて来て爆発したんだっけ? 敵が大砲に自分らを詰め込んで撃ってきたんだっけ? あるいは海から大津波を召喚して!」
「根底からして違ぇよ! それだったらお前が来る意味がねぇだろ!?」
「はっはははは! 相変わらず冗談の通じない奴だ。愛い奴め、姫さまに代わって抱きしめてやろうか『セイちゃん』」

 ……ただその言動は恐ろしく適当で、雑だった。

 〜〜〜

 漁家の屋根にのぼった星舟は、足下を見回した。
 殿軍、総勢二三〇〇。
 今まで星舟が率いてきた中で、最大の兵数だ。
 とは言え今回のことがなくてもいずれはその三倍五倍、いや十倍を率いる自負があった野心家にとっては、その光景は歓喜とは遠い。

「あぁそうそう。お姫様から言伝」

 その小屋の壁にもたれながら、グエンギィは楽しそうに言った。

「『玉砕とか責任とか、らしくないことは考えずに、必ず生きて帰ってきてね。私の星舟』だとさ」
「……『私の』?」
「いや、後半は憶測にもとづく脚色」
「…………」

 星舟は軽く舌打ちした。

 兵たちを改めて閲する。
 悲壮、怒り、諦念、あるいは大将への不信か。浮かべる表情の色は思い思いだが、笑みを浮かべるような物好きは誰ひとりとしていない。
 見る者の表情さえ暗澹たる気持ちにさせる。そんな面持ちだった。

 懐中より取り出した紙片を広げ、その面に視線を落としながら、平坦な調子で演説する。

「私が、夏山星舟である。サガラ閣下よりこの殿軍を指揮し、真竜種の背を守る栄誉を賜った。そしてこれは諸君らにとっても大変な誉である」

 反応らしきものはない。星舟もまた、そこまでの熱意や気焔は、期待していなかった。
 少なくとも、この段階では。
 代わり、背に控えるグルルガンの気配をうかがう。
 これから星舟が言わんとしていることは、サガラに報告されればその猜疑心を刺激する内容かもしれない。

「命を的に、我が身を盾に、決死の覚悟で挑むように」

 それでも、今彼らの心をまとめなければ、その『かもしれない』さえ訪れないのだ。

 意を決し、紙面を握りしめて、彼は声をあげる。

「などと、耳障りの良いことを並べる気はない」

 隻眼のヒトは、原稿をその手の中でふたつに割いた。リィミィに突き返すように後ろへと放り投げ、あらためて将兵全員の顔を見渡した。
 ざわめき、当惑する彼らに、星舟はあらためて、そして感情を入れ込んで言葉を投じる。

「これはどう言い繕っても使命ならぬ死命であり、私をふくめてこの場の全員が、竜軍の退路を支えるための犠牲の柱だ。お前たちも、それを理解しているからこそ表情をこわばらせているのだろう。もし命惜しさに、先の脱走者に倣うとしても、とがめはしない」

 星舟はそれ以上は続けない。相対する敵陣を、無言で指した。
 何人かの目が、足が、気持ちが、そちらへ向きかけた瞬間に、「だが」と彼らに向けて言い置いた。

「オレはともかく、サガラ・トゥーチというお方は許しはしない。必ず、草の根を分けてでも出奔者造反者は、たとえ一歩兵であったとしても捜し出し、殺す。たとえ敵中にあったとしても変わらない。そしてオレも、次にその者と出くわした時には容赦なく処断する」

 低く、静かな恫喝が彼らを引き留めた。

「何より、お前たちの心が、その裏切りを許しはしないだろう。……断言してやる。たとえその心の臓が動いていたとしても、拭い去れない暗い影が、その生涯に残る。そして、その痛みに耐えられる者は少ない。二度と天道を仰ぐことはかなわないだろう」

 ゆえに、と歩を進める。軒を強く踏みしめながら、星舟は抑えた声量で、だが確かに遠くまで通る強い語気でつづけた。

「生きろ」
 と。
「どうせ避けられぬ使命だとしても、誰かに課せられた役割だとしても、最後の一瞬まで、己の魂を賭けて、胸を張れ。生存をあきらめるな」
 と。

「数を恃みにおのれが勝った気でいる敵を嗤え。真竜種でも太刀打ちできなかった相手どる己らを誇りに思え」

 生きろ、とくり返すたびに、その弁に熱が入る。
 その熱は自身の魂さえもたぎらせ、さらには皆に伝播していく。

「俺には、お前たちのすべての死に責任を持つことができない。だが、渾身の生に報いる覚悟と算段はある! 生きて凱旋したのであれば、厚く報いることを約束しよう! もし敵に討たれたとしても、その遺族の生活を保障しよう。身内もを持たぬ者は、藩王も羨むほどの立派な墓標を立ててやろう! ゆえにッ、今この一時ッ! この夏山星舟とともに戦ってくれ!」

 静寂は、一瞬だった。
 だが次の瞬間、二千超の喝采が大地を揺らした。
 我欲も、夢も、矜持も。清濁を超えた熱情となってほとばしる。

 それを正面から浴び、身をひるがえして背で受け、星舟一息で屋根から飛び降りた。

「いや、大した英傑ぶりだ」
 グエンギィが、手を拍ちながら、本気とも揶揄ともとれるような底抜けな調子で、友を出迎える。

「英傑に見せかけるのが、上手いだけですよ」
 リィミィが呆れたように、辛辣きわまりない評をくだす。
 星舟が破り捨た原稿が、その白い手の中に収められている。

 そこには、書き損じた適当な文字列があるだけで、演説の内容など何ひとつとして記されてはいなかった。

「そのふたつに、違いなんてあるのかねぇ?」

 グエンギィは意地悪そうに、第二連隊の女獣竜の顔をのぞきこんで問うた。
 彼女も、そして彼女の上官自身も、それには答えない。

「負け戦こそ、英傑か愚物かの器量が問われる。……行くぞ。ここからが、オレらの戦だ」

 みずからの才覚でもって、悪しき流れを反転させた。
 そんなたしかな実感とともに、星舟は歩き始めた。



[42755] 第二章:狩人 ~対尾港撤退戦~(十七)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:6f4fa50d
Date: 2018/09/15 20:16
 竜軍の撤退を察知した藩国軍のうち、その異変に気がついたのは、前方に陣取っていた汐津藩兵だった。
 率いる令料寺長範は、物見より報告を受けて勇躍して出陣を命じた。

 そも、彼はここまで貧乏くじを引かされつづけていた。
 決死隊として討って出たものの、そもそもは竜たちから七尾藩への注意をそらすための囮であり、またその後、対尾における歴史的な反撃戦にも七尾藩が矢面に立っていたがゆえに参戦することができなかった。

 だが、雌伏の時を経て、こうして千載一遇を得ることができた。
 しかも、真竜のたぐいはその殿軍の中には見かけられないという。となれば、何を躊躇することがあるだろうか。

「逆包囲には加われなかったが、追撃戦こそ先駆けとならんッ、追えぃ!」

 号令を下すや、みずから率先して進み出て、夜陰もいとわず追った。
 長範と彼の部下は、疲労などまるで感じさせない俊足ぶりで、ついに夜も明けないうちに峠の口で敵の姿を認めた。
 一〇〇〇名ほどで口を固めていた敵陣は即座に丘陵へと退き、高所の利を得る。だが、その後退はかえって汐津藩兵の士気を高めるばかりだった。

 だが、そこで味方の足は止まった。

 煌々と輝く月を背に、棹立ちになった馬にまたがった男の影が、彼らの頭上にあった。黒い髪に、恵まれてはないにせよ整った体躯。鞘ごと掲げたその手に、装甲のような装飾が張り付き、月光を照り返していた。
 その背に、竜の帝を象徴する首長の蛇の旗がいくつも立った。

「我が名はサガラ・トゥーチ! 増長した人の子らよ、また我ら近衛兵とトルバの威を浴びに参ったか!」

 声高にそう呼ばわれば、今まで躍進していた兵士たちの足が止まった。
 その東方領主嫡子の率いる帝都の精兵が、自分たちと同じく討竜馬を組み込んでいたというのは、彼らもまた報として接していた。

 地上最強をうたわれる『氷露の国』の分隊長が、彼らに討たれたとも。

 だが、怯えはない。真竜種が軒並み退去したというのは信頼できる目利きの者たちからの報告であった。それに、敵味方を隔てているのは険しい勾配だ。いかな悍馬と言えども、容易に下れるものではなかった。

「怖じるな! また、奴らのほしいままにさせるのかッ!?」

 令料寺長範は、兵をするどく一喝した。
「中央のあの敵は相手にせず、牽制するだけで良い! 中央突破するだけの兵力はない! 両翼を展開して包囲を拡げつつ、谷参でソーリンクル殿がやってみせたかの如く、頂上の敵は孤立させれば崩れよう!」

 背を伸ばす彼らを押すように、さらに道理をもって下知を出す。
 当惑していた兵たちは、新たなる辞令を受けて再動した。

 決死の射撃手たちこそ近代装備を身につけていたが、未だ汐津藩全体が完全に装いを統一できていたわけではない。その多くは、未だに小具足に太刀を佩き銃だけがかろうじて前世代の胴銃という、時代が錯綜した異質きわまりない出で立ちだ。

 だが、甲冑の重量などものともしない健脚で、彼らの部隊は両の翼を伸ばしていく。
 丘に陣取るサガラ隊を無視して素通りし、彼らの背後に回り込もうとした。

 銃声が轟いた。

 逸った味方が暴発させたものではなかった。その音は、その向こう側から発せられたものだった。高地の陰で、断続的に光が放たれていた。
 部隊を進めた、東西の両側で。

 出鼻をくじかれた両翼の部隊に、抜刀隊が斬り込んできた。
 多くは獣竜種で構成されたそれは、たちまに彼我の間合いを埋めた。
 とりわけ武働きが顕著だったのだが、紫髪の女獣竜だ。
 彼女は山岳の悪路をものともせず、剽悍に動き回る。野狐のようなしなやかさで月下を舞い、細身の直刀が、汐津の勇兵たちを斬り伏せていった。
 遠く離れた場から見れば、まるでたわむれているかのように錯視してしまうほどの軽妙さだった。

 むろん、真竜種ほどの威圧感はない。
 ひょっとしたら勝てるかもしれない。刃や弾がその身に届くかもしれない。そんな気もするだろうが、それは全て錯覚で、だからこそ威に屈して逃げ惑うより、かえって犠牲が増えたことだろう。

「……またしても、貧乏くじ、か」

 長範は苦笑した。だが、腹では憤りのほうが強かった。冷静に考えれば、総大将たるものが直接殿を買っているわけがあるまい。こんな幼稚な影武者に引っかかった自身を嫌悪した。
 もしこの場にいたらぼやくのではなく、感情のままに吼えていたことだろう。

 彼の独語に怪訝そうな視線を向けている副将にして妹婿、泡河隆久に「退け」と低く命じた。

 虚栄心がくすぶる。悔恨が胸を焼く。
 だがそれを切り離して戦闘を断念できるあたり、彼は十分に良将たりえた。

〜〜〜

 追手の第一陣は撃退した。
 沸き立つ殿軍部隊において、その勝利への喜びを見せない変わり者が……まぁそれなりにいたが、とりわけ不機嫌だったのは、『サガラ・トゥーチ』だった。

「どうした? 苦虫を五、六匹噛み潰したような顔して」
「どうしたも苦虫もあるかぁ!」

  言わんとしていることを承知で、右翼側を指揮していたリィミィが問えば、彼は赫怒し、バサバサと前髪をかき乱した。
 あえて覆い隠していた左目の眼帯があらわになった。

「なんでオレがッ、この世で一番嫌いな男の真似事なんてせにゃならんのだ!」
「目の数と色以外の背格好が似てるから」
「誰が考えたこんな策!?」
「私だ。採用したのは、あんただ」
「あぁあぁ畜生!」

 サガラ・トゥーチの影武者……夏山星舟は、頭を抱えた。
 みずからを抑止力に見せかけて敵を左右に分散させ、そこを伏せた兵で叩く。
 策としては単純だが、かなりきわどい賭けではあった。何しろ彼の背後にあったのは出来合いの張りぼてか旗ぐらいなもので、ほとんどの戦力は伏兵に振り分けてしまっていたのだから。
 その胆力と実行力をかんがみれば、多少の愚痴は許されるだろう。

 だがそんな彼を、ためらうことなく指で差して笑う女がいた。
 星舟は彼女、グエンギィを咎めるように睨んだ。ことさら大仰に、彼女は両手を掲げて首を傾げた。

「わめくなよ。グルガンちゃんに聞こえるぞ」
「グルルガンな。奴なら、もう斥候に出した」
「で、自分らはどうするね。……ていうかあいつら、完全に殲滅できたよな」
「できてもやる意味がねぇんだよ。すぐにここを引き払う。この北の三叉路で捕捉されるのは避けたい」
「そのためにも、追手は完全に振り切るのがいいんじゃない? 策の仕組みだってばれる」
「逆だ。逃げた連中は確実に後続の進路を詰まらせる。派閥も出自も違う連中だ。確実に揉める。時間ができる。こっちはただでさえ兵力不足だ。同じ生きとし生ける者同士、助けてもらわなくちゃなぁ」

 くくく、と低い声を喉から絞り出すようにして嗤う。
「わー、悪い顔」という野次が、すかさず横合いから飛んできた。

 そうこうしているうちに、グルルガンと彼の麾下の鳥竜種が戻ってきた。
 強面に見合わない、申し訳なさそうな面持ち。まぁそれは常と変わらないものの、今回はその苦味の度合いが違っていた。

 怪訝そうな彼からの報告に、そしてグルルガンの萎縮させた痩躯に、機嫌を良くしたはずの星舟は顔の左半分を、まるで墨汁でも舐めたかのように苦みばしらせたのだった。



[42755] 第二章:狩人 ~対尾港撤退戦~(十八)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:6f4fa50d
Date: 2018/09/15 20:18
 山麓に続く隘路に、竜の殿軍が展開していた。敗北し、這々の体で逆走して来た汐津藩兵の報告よりも、数が少ない。
 とすれば、先の戦で勝利も飾るも、敵にもそれ相応の被害が生じたか。

 ……と、思いたいところであろうが、次鋒をつとめる分良藩の軍務奉行金泉(かないずみ)教氏(のりうじ)は、そうとは考えない。見くびらない。むしろ、

 ――見くびられたものだ。
 と感じたのは彼らのほうであった。

 たしかに、すぐれた火器の導入によって戦術の幅はむしろ狭まったといってよい。
 だが、違い軍勢とは言え後続相手に幼稚な策が二度通じると思われるのは、失礼千万である。
 これ見よがしに前面に出張った甲冑武者は、まぁ外見こそ真竜のたぐいに見える。
 逆立った毛のような皮殻。鋭い爪を模した手甲脚甲。だが敵に真竜種がいないことは、先の戦いで露見している。今更同じ手を食らうものか。
 影武者といっても、中々の体格である。察するに、殿軍中においても相当の有力者と見た。その敵中央の出鼻をくじいて、敵の支柱を折り、算段を破ってやれば、左右の伏兵などおのずと崩れる。
 そう考えた教氏は自身の誇る射手たちに命じた。

「あの愚か者を撃てる者はいないか。あの装甲が円錐弾にも有効か試してやれ」

 さながら古武士の弓の競い合いのような誘い文句に、腕に覚えのある者たちはニヤリと笑った。
 そのひとりが、ふいに顔を持ち上げた。
 笑顔が消え、目を見開き口を半開き。銃把を握るその手が緩み、見えざる力に吊り上げられるかのごとく逆の腕が持ち上がり、虚空の点を示した。

「金泉様」
「なんだ?」
「『影武者』が、飛んで来ます」

 突拍子もない報告に、教氏は「あ?」と敵陣を見た。影武者の姿がない。次いで、指された空を視た。

 最初は小粒のような大きさだった影が、徐々にその規格を膨れ上がらせていく。やがて独特の輪郭を得たそれは、曲線を描いて、地面に落下した。

 〜〜〜

 火気を孕んだ砂塵が、その肉体の衝突とともに巻き上がる。
 同時に振り下ろされた大刀ならぬ『大牙』が、分厚いその幕を消し飛ばし、赤熊の大将を両断した。

  一太刀で複数人がまとめて屠られ、逆に敵の銃撃は彼の甲殻にひとつの瑕もつけられない。
 それは鳥竜のごとき滑空ではなく、火山岩の墜落のようだった。
 その敏捷さは獣竜のごとく翻弄する種のものではなく、すべてを薙ぎ払う破壊の暴風だ。
 
 逃げ惑う彼らは十分に思い出したであろうか。
 そも、己らは彼らより下位に属する種族なのだと。
 一時、戦略や用兵や装備で優勢に立ったとしても、それは個々人が彼らを上回ったのではないのだと。

「おーおー、張り切っていらっしゃる」
 もともと彼のいた地点より、敵兵の惑う様を俯瞰しながら、夏山星舟は両手を挙げ、片足を持ち上げおどけてみせる。
 だがその実、内面は嫉妬とその力に対する渇望で荒れていた。
 やはりいまだあの境地には、みずからの矮躯はほど遠い。そのことを噛み締めながら、彼は戦況がただ一個の勁さが好転させて行くさまを見守っていた。

 さほど時間をかけず、敵は逃散した。
 もとより、混成部隊のうち自分たちの派閥だけが被害を被ることだけをよしとする者はいまい。

 返り血ひとつついていない刃をおさめ、彼が帰ってきた。その時には、満面の作り笑顔で出迎えられる程度には、星舟の精神は均衡を取り戻していた。
 橙果色の髪、たくましい肉の基幹。ただ人によく似た姿で在るだけで、他を圧する強烈な気配。

「お疲れさまでした」
 その男、よきせぬ援軍ブラジオ・ガールィエにそう頭を下げた星舟だったが、剛健なこの男は媚態に対し、冷笑をかるく浮かべた程度だった。

「しかし、何故このような場所に? 損害の激しい貴殿の隊はいち早く撤退するよう通達があったはず。にも関わらず、どうして単身お戻りに?」
 そのあからさまな悪意的対応にめげることなく、星舟は淡々と慇懃、だが知りたいと言う念を込めて男の真意を問うた。

「迷った」

 揺らぎのない足取りで星舟を素通りし、背を伸ばして毅然とし歩くさまは、どう考えても遭難した竜のそれではなかった。

 ――ひょっとして今の、冗談か?

 ずんずんと先に行く豪傑の背を見届けてから、グエンギィに目で意見を求める。
 彼女はひょいと両肩を持ち上げただけだった。

 ~~~

 殿軍部隊は、その日没にようやく休むことができた。
 すわ今度は影武者か。いや真竜に違いない。
 そういった疑心暗鬼が、追っ手の脚を鈍らせたに相違ない。

 だがそれでも、この部隊は今までまとまった休みなどとれていなかったに違いない。人も竜も、皆疲弊し、傷を負わない者は、身分種族を問わずほとんどいなかった。

 緒戦は完勝と聞いていたが、それでも被害は少なからず出るのだろう。いつ襲来してくるか知れぬ敵や先の見えない不安がために脱走者もいるだろう。

 獣竜は鋭敏だけでなく鋭い五感を持つ種族であったと記憶しているが、そんな彼らでも正体を失って雑魚寝。その隣で人もまた、手足を広げて潰れていた。そこに、区別や分別というものはない。ブラジオの部隊では考えられない光景だった。

 ――これが第二連隊か。
 ある種の解放感をおぼえるまでの混在ぶりに、ブラジオは意外の念を抱いた。
 東方領においてはその柱石として、自領においては完璧なる総大将として在ったおのれが、今この陣中においては身の置き場もない。生まれて初めて彼は、心に隙間を意識した。

 その中で、おぼえのある顔があった。
 その三十そこそこの兵士は、多くの同胞がぐったりとしている中で明確な自我を保っていて、黙々と自身の銃を分解していた。
 まるで意図も用途もわからないような部品を、均等な間隔で露店の品のように並べていた。

 その男の前に、真なる竜は立った。

「先は、世話になった」

 竜に礼を言われることなど、めったにあるものでもなかろうに。
 だが、五芒星の腕章をつけた男は眉ひとつ動かさず、首が揺れたのか目礼なのかわからない程度の首肯をしてみせただけで、ふたたび銃器の点検へと意識をもどしたようだった。
 ただ、
「あんたも、大変でしたね」
 などと世間話のような繰り言を、相手に聞かせるつもりもなさげに呟いただけだった。

「あの修羅を目の当たりにしていながら、いまだこのような死地にいるとはな」
「死地でしょうかね」
「人間ながら、その胆力は見事なものだ」
「金払いがいいもんでね」

 ブラジオはいくらか興が削がれた。もとよりそういう表情の変化を隠せる性分でもない。不愉快さを嗅ぎ取った狙撃手は、そこでようやく竜を見上げた。

「妥当な理由でしょうよ。……まぁ、前はほかにもいろいろと、もっと立派な名分もあったんですが、生きてるうちに取りこぼしちまいまして」

 男は前のめりになって、やや遠い位置にあった手ぬぐいを持った。開いた襟元より提げられたものを、ブラジオからも見えた。擦り切れたその守袋の布地は、すさんだ中年男性が持つには、やや華美に過ぎた。

「それでも貴様ほどの射手であれば、より富貴の者にも、権勢を持つ者も雇ってもらえよう。よりにもよって、何故あの男なのだ」
「偉くて金持ちだからって、羽振りがいいわけでもなくてね。その点、あの旦那は腹をくくりゃ思い切りが良い。かといって、こっちを偉ぶらせてもくれない額なんで。まぁ要するに、妥当な理由に、妥当な銭ってところです」

 銃腔を丹念にぬぐいながら、淡々と続ける。
 それが一通り終わると、今度は設計図もなしに、それらを一から組み立てなおした。

「まぁそんなちっぽけな庶民からすれば、あんたらのほうがよっぽど奇怪ですよ」
「なに?」
「大将こそあの化物どもを見たでしょうに、なんだってこんな場所に来ちまったんです?」
「知れたこと。貴様らのごとき脆弱な生き物に、我が背を預けることをよしとせぬゆえ。むしろ、その弱き者どもを守るため」
「で、根底にあるのが『人間どもは未熟で愚かゆえに、超越者たる竜が保護する』ってアレですか」

 百年単位で繰り広げられてきたこの戦役における大義を、男はざっくばらんに噛み砕いて理解していた。まともに答えられる者はそう多くはいないというのに。存外な学識を、彼は得意げにもならずに垣間見せた。

 ブラジオは「然り」と重々しくうなずいた。
 男はそこで、初めて少年のように笑った。

「そら、それだ。そもそもそこがもう矛盾しちまってる。今藩王国にはこの上ない戦の天才がいて、竜よりも強い狂人がいて、あんたらが飛んだり走ったりするより速い船を駆る水軍がある。それをまとめ上げた最高の王様が座ってる。そんな連中に、自分らは負かされ、追い出された。いったいどこに、庇護すべき弱者がいるんです」

 男の問いには、札遊びでいい役を叩きつけたような優越と弾力が生まれていた。
 なるほど飼い犬は主人に似るというが、やはりこの傲岸不敵な人間には、あの慇懃無礼な隻眼の主が相応ということか。

 ――食い殺してやろうか。

 そこに夏山星舟の影を見出したブラジオは、しずかに殺気をたぎらせた。
 この雄が呼吸をするだけで、空気の熱は奪い去られ、逆に大地は煮えるようだった。憔悴しきっていた人も竜も、それに当てられてあわてて跳び起きた。

 だが、それでも当人は動じようともしなかった。
 さすがに作業の手を止めていた。ブラジオも見返していた。だが、その細い瞳孔は、何の感情も発してはいな。捉えてしかるべきブラジオの何物をも、写し取ってはいない。

 ――あぁ、そうか。
 生命や本能といった、根源的に近い存在であるからこそ、真竜種は悟る。
 この男は、とうに死んでいるのだ。自分が彼を知るよりもずっと前に。

 七尾藩の主従と同じことだった。生きていないものを、どうして殺せようか。

 殺意を収縮させた竜に、死人は重ねて問うた。

「それで大将は、何故ここに?」

 その問いにはもう、先のような大層な壮語を容易に唱えられる気がしなかった。
 強いて言うならば、失いかけたその理由を求めてのことだったのかもしれなかった。

 そして男は、遠く先頭にて星空を見上げる隻眼の青年を、あらためて見つめなおした。



[42755] 第二章:狩人 ~対尾港撤退戦~(十九)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:6f4fa50d
Date: 2018/09/15 21:35
「貴様はこんなところで何をしている」

 いやなやつにまずいところを見られた、と思った。
 具体的にどこが、というわけでもなく、まして叛意や野心の兆しを見せようはずもないのだが、実に子供じみた所作を覗かれて、夏山星舟は少々気恥ずかしい思いだった。

「なに、埒もない戯れですよ」
 包み隠さず受け答え、しかし感情は笑みで偽った。

 前触れなく現れた客将ブラジオ・ガールイェは、フンと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
 答えが気に入らなかったのか、それとも自分の存在そのものが気に入らないのか。どのみち失礼な話だ。自分たちはいくらでも無礼を働いても良いのに、人間どものそれは許さないというのはいったいどういう了見か。

 思考が脇にそれたことを自覚した星舟は、あらためてブラジオを見た。
 いつになく覇気が薄いことには、すぐ気が付いた。と言っても、七尾相手に敗退したときのような完全な忘我ではなかった。正気ではあるが、気配が鈍磨しているとでも言おうか。

 歯切れが悪そうに口元をゆがめ、伏せがちな眼が何やらいわくありげだ。
 たとえるならば、意を決して問うたことに対し、見当はずれな答えが返ってきて気まずいというか。あるいは折檻されて親に殴られた小僧のような。

 ――え、なに。これ、オレが聞いてやらなきゃダメな流れ?

 逆に当惑してしまった星舟は「あの?」と声をあげた。
「貴様はなぜ、ここにいる?」
 だがその気遣いを一方的に遮って、真竜は真正面から問うた。

「なるほど貴様にしては逃げずに良く健闘していると言ってよかろう。他の者にはそう見えなかったようだが、先の包囲戦においてもみずから身を矢面に立たせたのであろう。だが、その本意はどこにある?」
「……なるほど?」

 星舟は肩をすくめてみせた。

「つまり、貴殿もこの星舟の忠誠心をお疑いとのことですか。しかし自分はまぎれもなく偉大な竜のために」
「くだらんおためごかしは良い」

 ブラジオはまたも星舟を一喝するように遮った。

「貴様の態度には竜に対する尊敬の念は終始感じられぬ。……言え。命をなげうってまで守りたいものとは、得たいものと本当は何なのだ。貴様は人のために動いているのか。それとも真実、竜のために働いているのか」

 その問いに対し、適当にはぐらかすことは可能だった。
 だが何やら挑まれているような気がして、そこに遁辞をかましたら自分の大事な部分までぼやけてしまうような気がして、星舟は押し黙った。
 やがて、顔を持ち上げ、まっすぐに答えた。

「貴殿が自分に何を期待されておられるかは皆目わかりませんが……ただ、自分の信条に、人も竜も関係がありません」

 険しく眉を吊り上げるブラジオは、しかしふたたび星舟の声を切ることはなかった。不愉快げには違いないが、腕組し、じっと語り終えるのを待つ構えだった。

「人にせよ竜にせよ、その個々には使命や運命というものがあります。そしてそれは天よりゆだねられたものではなく、おのれの才気とここまでの積み重ねによる結果でしかない。それが自分の持論です」
「そのおのれより課された命とやらが、この無謀なしんがりだとでも言うのか」
「然り」

 星舟は隻眼を細めて、迷わず言い放った。

「……まぁたしかに、サガラ様よりかくも身に余る大任をお預けいただいたときには、いささか驚きもいたしましたが、とはいえあの方が指摘されたとおりに監督役であった自分の不始末にも問題があり、その任をまっとうできるのは自分しかおらぬ、と」

 一呼吸置いて、さながら銃を撃ち返すような心境で、彼はつづけた。

「であればその務めを受け入れましょう。そのうえで、竜軍の一将として敵勢を食い止め、第二連隊長として部下の生命を守りましょう。余力才覚がありながら座して諦めて、何もせぬもの。それをこそ自分は憎みます。そうならぬためにこそ、この夏山星舟は戦うのです」

 ブラジオは、宝石質の目を閉じた。
 固く引きむすんだ大ぶりの口から「なるほどな」と声が漏れる。
 それ自体が巌のような彼の強面と寡黙ぶりは、表情が多少変動しても、感情の変化は分かるにしても、その真意までは計りかねる。

「……納得は、していただけたでしょうか」

 さながらガールイェ家の執事もしくは家宰のごとき恭しさで、星舟は男の機嫌を伺った。

 ブラジオはただ彼について、
「吠えたな」
 と冷たく評価した。
「だが、理解はした」
 とも続けた。自分よりもひと回りふた回りと小柄で骨細な青年に視線を定めたまま、前後は逆ながら互いを隣に並び立った。

「貴様のことは、変わらず好きになれんがな」
「…………それは残念至極」

 その拍子に自身の爪先にあった小石を蹴り飛ばした。カロコロと、心もとない音を立てながら、それは彼らのいる丘陵から転がり落ちて闇へと消えた。

「せいぜいおのれを、失望させぬ程度に励め」

 直裁的な物言いながら皮肉とも激励ともちれる置き台詞で締めくくって、その肩背を広く見せつけるようにして去っていった。

「なんだったんだ、ありゃ」
「あのぅ、旦那」
「うひゃい!?」

 ブラジオを見送った星舟の背後に、遠慮がちな足音が落ちてきた。
 彼の後ろに、音もなく忍び寄れるような道はない。そこに接近できるとすれば、それは鳥竜種をおいてほかにない。

 物見に遣っていたグルルガンが、例のごとくヤクザじみた凶相を情けなく悩ましげにねじ曲げていた。

「……なんで、どいつもこいつもオレの背中を見るのが大好きなんだよ?」
「は?」
「いや、なんでもない。それでグルルガン殿、用向きは?」

 グルルガンは胃痛でも抱えているような面持ちで、闇に包まれた前方の状況をつまびらかに報告してきた。
 星舟もまた、同じような面をしてみたくなった。

 何故、誰も彼も自分を背から不意打ち、困らせるようなことしか言わないのか。

〜〜〜

「前に回り込まれた」

 申し訳程度の陣幕の内で、星舟は地べたに尻をつけながらため息をついた。
 そこには同じようにへたり込んだ分隊長たちが居並び、この世の終わりのような面をつき合わせていた。

「……なんで?」
 クララボンが間抜けた問いを投げる。
 呆れるほど単純な問いだったが、それ故にその場に居合わせた全員の総意でもあった。

「決まっているだろう」
 元より明るい性分ではなかったが、リィミィもまた常より輪にかけて暗い。
「敵一部の機動力が、こちらを上回っている」
「トルバか」

 先に別れたばかりのブラジオが呼ばれもしないのに、当たり前のように幕僚のうちに加わっていた。腕組み、直立しながらその軍議に口を挟んできた。

「おそらくは、あの騎馬隊は味方の追撃を囮に七尾藩領の山道を経由して迂回してきたのでしょう。あれは火山地方原産の生物と聞いています。むしろそうした道の方が、得手とするのかと」
「わー、あの速さでまだ本領じゃなかったんかー」

 クララが足を投げ出し、笑い天を仰いでいた。そうするよりほかにないのだろう。

「だが、数は知れている。突破するぶんなら、容易であろう」
「ダメっすね」
 ブラジオの言に、実際に見てきたグルルガンが否と答えた。
「連中、川を挟んで柵やら竹矢来設けてんスよ。いかにブラジオ様が突っ込んでも、その間に我々が手間取って撃たれます」

「それはどの地点でのことだ」
「例の三叉路の手前でさァ」
「やはりか」

 星舟は額に手をやって呻いた。
 そうして足止めを食らっている間に、追撃部隊に背を囲まれ、塞がれ、そして刺される。

「……足止め?」

 ふと、自身の脳中に降って落ちた言葉に、星舟は対策を考えるよりもまず疑問を抱いた。

「妙だな」
 その独語を拾ったらしいリィミィが、肉の薄い唇を指で覆って首を傾げた。

「どう言うことだ」
 ブラジオがリィミィに向けて尋ねた。
 童顔を持ち上げた彼女が応答しようとするのを、星舟が制した。
 彼女の疑問を代弁した。

「トルバ隊は、味方の進路まで塞いでいます。これは竜軍全体ではなく、まるで我ら自体を足止めしようとしているかのような……」
「そもそもの目的が、この部隊の殲滅なのであろう。この部隊には本来であれば真竜はおらぬ故、勝てると踏んだ」
「武勲稼ぎや憂さ晴らしのための掃討戦にしては、手が混みすぎていましょう」

 つまりこれも、追撃戦も、自分たちを潰すためのものではなく、あくまで本隊と合流させないための一手段にほかならない。
 それの意味することは……
 その脳裏に、火花が閃いた。そこに、絡みつく蛇の軍旗が照らされた。

「七尾藩……」
「え?」
「前にいる軍勢に、七尾藩兵とその藩主はいるか?」

 グルルガンはそれに対して返答をし……ようとして、声を詰まらせた。
 いかに察しの悪いものでも、この連戦で心身が疲弊しきったとしても、おおよその察しは今のこの鳥竜の態度でついたはずだ。

「そういうことか」
 一同に緊張がはしるなか、吐き捨てるように独語した。
 想像以上にまずい事態に陥っていた。
 もし藩主である鬼人霜月が星舟たちが想像しえる行動をとっていた場合、この殿軍部隊のみならず、竜軍全体……いやここにいるほとんどはまだそこに及びつかないかもしれないが……敵の参謀がより踏み込んだ悪辣さを持っているとすれば、さらなる効果を狙っているのかもしれない。

「このままじゃいかねぇ」
 星舟のつぶやきが、衆目を集めた。
「早急に前方の敵を突破し、追撃の憂いを取り払って本体に合流する」
 だが、それは落胆と失笑へと転じた。
 それができたら苦労はしない。集まる視線はそう訴えていた。
 そしてそれは他らなぬ星舟とて、つい口にしただけで同じ気持ちだった。

 ――考えろ、考えろ。
 星天を見上げ、おのれに念じた。
 味方だけじゃない。敵も何かが、食い違っている。

 そもそも敵はなぜ、こうも的確に、手足のごとく即席の軍を動かせる?
 外様も外様、海の向こうからやってきた二十、三十の小娘に、あの連合国家のいかなる国軍も寸分たがわず従うのだろうか?

 ――『動かす』?

 まただ。自分の脳髄を流れゆく言葉が一節、どうにも引っかかる。
 それこそが、違和感の根本のような気がした。
 
 ――そもそも汐津藩たちはここまで酷使され続けていた。そのうえで、なお自分たちが損な役回りを引き受けたというのか?

 彼の頭上で、一筋の星が流れた。
 いや、そう見えただけなのかもしれない。自身の想像と結びついた、幻。
 だがそこから生み出された答えは、決して幻ではなく実像をともなっていた。

 ――違う。
 その女狐は、ただ読んでいるだけなのだ。敵味方の動きを、全体の情勢をおそろしいほどに的確に。
 彼女が動かしているのは、ごく一部の、討竜馬隊などの直属の部隊だけだ。
 指揮外にある部隊に対しては、微細な指示などしてはいまい。たくみに誘導して自分で選んで行動しているようかに、彼ら自身に思い込ませている。
 結果、あたかも毛色の違う全軍が一体となって連動しているように見せかけているにすぎない。

 ――とするならば、後方の部隊は、自分たちが何のために動かされているのかも、討竜馬部隊の存在も、まったく知らされていない……?

 星舟は、口元に手をやった。
 指で頬や唇をはじくたびに、脳は闊達に論理を組み立てはじめる。
 知らぬうちに、口の端には悪魔の魂が宿っていた。

「……やめた……」

 彼の含み笑いを、そしてこの意味不明な言葉に、一同は薄気味悪げな視線で真意を問いただしていた。

「逃げるのは、やめだ」
 星舟はくり返し言った。

 泰然と構えているブラジオに、嘲笑を浮かべ手刀を首筋に当ててみせ、そして高らかに、はばかることなく宣言した。

「オレは、敵に降ります。貴方の『牙』を手土産にね」



[42755] 第二章:狩人 ~対尾港撤退戦~(二十)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:6f4fa50d
Date: 2018/09/15 21:36
「降参です」

 令料寺長範は、手の中に収められた宝刀をじっと見つめていた。
 所謂竜の『牙』という代物だ。拵えも上等の品と分かるが、抜いてみると、それなりの業物と知れる。

 だが、果たしてそれが実際に竜を変化させていたかどうかまでは、判別がつかない。何しろ今まで、遠目か夜目でしか見たことがない。

 そして正体が知れないという点では、それを献じた片目の男も同様だった。
 彼の背後には今まで引き連れてきた獣竜鳥竜の類が縄で繋がれていた。人間の兵がそれを取り囲み、彼らに銃剣を突きつけていた。
 あまつさえ唯一無二の真竜種さえも隙を突いてその『牙』を奪い取って捕縛したという。
 その投降者の言い分を聴き終えて、

「到底信じられぬ」
 長範は素直な存念でもって答えた。

「信じる信じないはともかく、あの気位の高い竜たちが、縛られている。これはまたとない偽りの降伏でないという証左であり、手土産では?」

 その男、夏山星舟はみずから構築した即席の陣中で、肩をそびやかせながら答えた。

「真竜種の『牙』を奪ったことは百歩譲って認めるとして、他の竜は如何にしても力を封じた?」
「長らく竜に支配されてきた夏山の家には、彼らに抗する術を記した古書がございます。それによれば、特殊な土地の霊草を特殊な配分で編み込んだ縄には、彼らの力を奪うという効果があるのです」
「な、なんだってー!?」

 反応したのは、背後で縛られている紫髪の女剣士だった。その剽悍な戦いぶりは、記憶に新しい。

「そうだったのか! いやー、そう言われると段々と力が抜けてきているような……あっぶね!?」

 星舟は、彼女に躊躇なく拳銃を向けて抜き撃った。
 
「実弾撃ってくんな!」

 足元に穿たれた穴を見ながら、彼女は乱暴に怒鳴った。

「……とまぁこんな感じで完全に御し切れるものではありませんので、こうした段取りは手短に済ませたいものですが」

 一瞬眉唾物と疑いかけた長範はその光景を見て認識をやや改めた。
 芝居だとしても、誇り高い竜を平然と撃てる内間がいようはずもない。

 夏山なる青年は、彼女の抗議もどこ吹く風といった調子で受け流していた。

「だがもうひとつ、問い質したいことがある」
 長範は疑念を隠さず尋ねた。

「貴隊は我ら追撃部隊を今まで完封してきた。それが、出口の見え始めた今時分になって、何故心変わりされた?」

 それを受けて、隻眼の将校は声を出して笑った。
 不審と不快で顔を歪める長範に、「いや失敬」と、彼はなだめるように手を左右に振ってみせた。

「ただ、ご謙遜が上手いと思いまして。御身を危険にさらして囮として、前に異人と討竜馬を塞ぐ。これほどの大計に嵌められれば、観念せざるを得ますまい」


 〜〜〜

 汐津藩兵と投降者と、そして彼らに裏切られた竜たちの一団は、三叉路を超えた。川を越え、そして黄昏には前方に待ち構えていた異人たちの陣へと合流を果たした。

「……これはいったい、如何なる仕儀か」
 怒情を押し殺した声で、長範は呼びつけた目の前の異人に尋ねた。

「それはこっちのセリフだ、島猿」
 単身、丸腰に近い状態で汐津藩の営所に招かれながら、そして幾人もの屈強な武人に囲まれた緊迫した空気の中心に座しながら、その巨漢は傲然とした態度を崩さない。揺るぎさえしない。
 ただ在るだけで、尻に敷いた床几がギシギシと筋肉の重みできしむ。

 そうした気骨は昨今の武士にも見られないものだが、とかくこのヴェイチェルなる男は、それを上回って余りある陰気をまとっていた。

「何故我々が追い詰めてやったのに、その男を殺さん。捕虜など取った」

 異人は一切の情もない目で、長範の背に立つ夏山を見据えた。
 微塵も敬意を感じさせない物言いに
「問うているのはこちらだ」
 と、冷たく返した。

「貴殿らが前に待ち受けていると承知していれば、あえて無茶な追撃などせず、被害も抑えられた。知っていれば、分良の金泉殿は死なずに済んだ。カミンレイ殿は、我らを見殺しにされるおつもりだったのか」
「先走ったのは、キサマだ」

 言葉の不自由などではない。文化や思想の違いでもない。あからさまな侮蔑の色を、眼差しに込めた。

「我らの功を横取りするハラだった男が、偉そうに口答えするな。それに被害が出たのは、キサマがバカで、弱かっただけだ。それをオレたちのせいに、するな。自分の兵の責任ぐらい、自分で持て」

 まったく異人の言うところは、正論だった。だがそれ故に、腹が立つ。その目元に浮かぶ暗い優越感が、さらに鬱屈を倍加させていく。

「それぐらいにしておけ」

 巨体の向こう側から、声がかかった。
 気がつけば、白髪の老人がヴェイチェルの背後に身を屈して地べたに座っていた。
 決して矮躯ではない。むしろ、背丈に関しては並の男を上回る。
 にも関わらず、今の今までそこに居合わせた者の誰にも存在を感知させなかった。
 恐らくは性格に難がある朋友が、今この時のように諍いを起こした時、円滑に収めるために。
 あるいは危害が及ぶようなことがあれば、その敵の眉間に、鉛玉を撃ち込むために。

 これ見よがしに抱えた長銃を前にすれば、長範とて言動を抑えざるをえなかった。

「それを踏まえての、お嬢の戦略だ。余計なこと言って波風立たせるなや」

 そう言って老人はみずからを覆い隠していたその背を叩いた。だが、面罵された長範を弁護することもしなかった。
 いやそも、「余計なこと」とは、どちらに向けられた言葉か。

 その三者三様の在り方を、夏山は右目を眇めて見守っていた。

 〜〜〜

「……どうやら、追撃部隊には何も知らされていなかったようで」

 陣幕から出た異人二人の背を見守りながら、夏山が低い声で言った。

「貴殿には、関わりのないことだ」
「関わりのないとは心外。かつてこそ竜の下で隠忍していた自分ですが、今は同じ旗を抱く同志ではありませんか」

 つい数日前、その同志を散々に破ったことなど遠く過去に置いてきたかのような言い草で、なんの後ろめたさも感じさせないそぶりで彼は語る。
 そこを追及するより早く、隻眼の青年は距離を詰め、身振り手振りでさらにまくし立てた。

「いや人か竜かなどと分別する前に、自分はこの国の士なのですよ、令料寺殿。このまま座して異人どもをのさばらせて良いものですか」

 長範は無視を決め込み、黙して歩いた。

「たしかに彼らを見出した藩王陛下は、女性であることを差し引いても稀代の明晰さと度量を持つと言って良いでしょう。しかし、いささか異人を優遇しすぎる。もし彼らが今回の武勲を盾にさらに増長すれば、どうなります?」
「どうなると、言うのかね?」

 そこで長範は、足を止めて向き直った。
 何か口出ししそうになっている護衛たちを手で制し、長範は薄く嗤った。

「それは人と竜との戦いではなくなる。『黒鷲』や『氷露』といった諸外国の干渉が本格的に始まってしまう。この国の歴史の重みを知らぬ部外者が、我々の闘争の日々を破壊し、先人たちの流血を冒涜して、旨みだけをかっさらう。……それで良いのですか?」

 今までの浅薄な立ち振る舞いとは打って変わり、その声音に加わった重圧には真摯さがあった。隻眼に燃える心火が、みずからが吐く言葉が心底より出たものであると必死に訴えかけている。

 なるほどな、と長範は乾いた声とともに鼻を鳴らした。
 たしかに、今の状態でもあの異人たちは目に余るほどに礼を失していた。そこに今回の功績が加われば、どれほどの横暴に出られることだろうか。
 まして彼らを指揮するカミンレイは早くも国家の中枢に食らいついている。音楽家などとは笑止。事実上の宰相ではないか。

 今まで諸藩で回していたこの国家にねじ込まれた、異物だ。

 もし赤国の任期が満了したとして、彼女ら異人は大人しく雇い主に従って引退し、祖国へ帰還するだろうか? あるいはその大原則さえも破壊してまで、居座り続けるのではないか。
 それは杞憂と一笑できない現実味を帯びている。

「今後、我々は団結して彼らに抗するべきです。そのためには、七尾や汐津といった、彼らに次ぐ奮闘を見せた雄藩の連合が不可欠。そしてその盟主になるには、七尾は血統はともかく、やや国力としては不足。港湾を有したあなた方が、適任かと?」

 回りくどい言い方とともに、隻眼が妖しく微笑む。

「なるほど君は戦だけでなく、口舌も回るようだな。……あの竜どもにも、そうして取り入ったのか?」
「ご冗談を」

 長範の皮肉を軽く受け流し、夏山星舟は軽く両手を掲げて見せた。
 やや姿勢を整えてから彼は、「その竜ですが」と切り出し、媚びるように身を寄せた。

「捕らえた彼らにはまだ、使い道はあります。よろしければ連中を用い、お国の役に立たせたく存じますが?」
「どういうことかな?」
「先の話、要は彼らの力を弱めれば良いのです。彼らが我々より優位に立っているのは、どういった点でしょうか?」
「カミンレイ氏の権威、そして軍事力だ」

 厳密にいえば討竜馬の存在や装備、兵の練度だろうが、そこまで言わずとも相手には伝わるだろう。その夏山は、さながら藩校に招かれた学士のごとく、破顔一笑、頷いてみせたのだった。

「だが、彼らの資源兵力とて無限ではない。不足が生じれば海を渡って補充せざるをえないのです。付け加えるならば、ああいう使い方をしてくる以上、持ち込まれたその数自体、あまり多くはないとみました。そこが彼らの弱点でもあります」
「ずいぶん前置きが多いことだな」
「失敬、では単刀直入に。……捕虜とした竜の一部を、彼らの陣へと解き放ちます」
「なっ!?」

 予想を超える夏山の献策に、長範は取り繕う余裕さえも見せられずに驚いた。
 そして、表情を戻せぬままに、さながら隙を突くようにしてさらに夏山は詰め寄った。

「実のところ、捕らえた獣竜種のなかには自分の投降に理解を示してくれる者もいましてね」

 彼の筋書きとは、こういうものだった。
 曰く、その彼らに情義を口実に内密に話を通したという。

「監視を目を甘くしておくゆえ、そこから逃げるように」

 と。
 ただしその方面というのは、例の異人たちの陣がある。確実に、衝突を起こす。

「さしもの討竜馬隊も最新武器も、内側から竜に攻められればひとたまりもありますまい。貴方がたは、それをただ見過ごしているだけで良い。あるいは、一通り暴れまわらせたあと、彼らを背から討って恩を売ってやってもいい。どさくさにまぎれて、彼らの物資も押収できるかもしれません」

 情義を交わした、という割には酷薄な策を、夏山はためらいなく披歴した。

「貴殿はその時どうしている?」
「策の責任者としては、彼らが果たして期待通りの動きをしてくれるか、背後から見守るほかありますまい。最後尾についていきます」
「だが、我々が友軍の危機に何もできずば、それこそ叱責を食らおう」
「真竜種を生け捕りにしただけでも、それを帳消しにして余りある功でしょうに。将来のための投資と思われることです」
「そうか。だがこうも考えられよう。……これはやはり川を無傷で渡るための偽りの投降で、貴殿はその捕虜とともに逃げ去る算段だ、とな」

 声を張って、長範は彼を質した。
 夜半に焚かれた篝火が、隻眼の将校の面立ちに暗影を作る。
 表情には薄い笑みを浮かべたまま、しかし彼の陰影に揺らぎは生じなかった。

「まずその前提を疑われると、立つ瀬がありませんが。……自分はもっと、大局を見据えていますよ」
 夏山は筋の通った鼻を鳴らした。

「よろしい。では忠義の証として、捕らえたブラジオ・ガールィエは貴殿に質として預け置くといたしましょう」
「なに?」
「『鱗』の展開できない竜など、やや膂力のある人程度のもの。十重二十重に鎖で戒めてしまえば恐ろしくもありますまい。それに万が一自分が信義を裏切るようなことがあったとしてです。東方領きっての実力者を見捨てたとあればどうしておめおめ竜のもとに逃げ帰れましょうか?」

 まるでその質問を待っていた、あるいは誘導してきたと疑いたくなるような流暢さで、彼は提案した。だが、理屈は通っている。
 一度疑った手前言葉に詰まった彼に、夏山はささやくように付け加えた。

「ただこちらが忠誠を示した以上、こちらも何か証を提示して欲しくなりますな」
「……というと?」
「証文を頂きたい。今回の策が成った暁には、それなりの金子と、あとは汐津藩におけるある程度の地位を約束する、と」
「貴殿の言う大局とは、それかね」

 長範は俗な要求を嗤った。
 だが、そこで甘さを見せるほど、彼は迂闊ではなかった。

「だが、あいにくこの約定がカミンレイや藩王の目に触れるかたちにはして欲しくないのでな」
「では、文書ではなく物で」

 食い下がる夏山の右目が、それとなく長範の腰回りへと注がれた。
 その先にあるもので、汐津藩家老は彼が何を求めているのか理解した。
 ベルトにぶち込んだ大小二刀のうち、脇差を抜き取ると、彼に突き出す。
 汐津の名のある刀工のこしらえた、ふたつとない守刀であった。

「貴殿にはたいそうな『刀』を頂いたのでな。今回の件の褒美という名目で、貴殿にこれを授けよう。事が落ち着いたら、それを持って我が邸宅を訪れるとよろしかろう」
「ありがとうございます」

 かすかに震える手で受け取った若造は、黒い頭を深々を垂れて礼を言った。
 長範は、その死角より冷ややかに見下ろしたのだった。

 ~~~

「よろしかったのですか? あんな俗物の言うことを信じて」
 夏山星舟の姿が闇に溶けてしまった後で、長範の護衛は彼のいた地点を白い眼で睨みつけていた。

「別に信じてなどいないさ。あの男が危険などということは重々理解している」
「ということは、それを承知であえて受けたと?」

 野性味のなかにも優雅さを感じさせる足取りで長範は歩き始めた。
 灯明にさらされ長く伸びた影を、護衛は追った。

「もとより事が成ったあかつきには、奴は同じくその場で屠るつもりさ。我らはここまで十分、貧乏くじを引かされてきた。そろそろ穢れ役だけ他者に背負わせ、実利を取る側に回っても良かろうよ」
「しかし、表向きだけとは言え奴の策に乗ることはあまりに」
「恒常(こうじょう)子雲(しぐも)」

 汐津藩家老は、低い声で護衛の姓名を呼んだ。

「人のことはともかく、君はどうだね」
「拙者ですか?」
「腕は立つが、出自が不明瞭すぎる。仕える前、君はどこで何をしていたのかね?」
「ですから、何度も申し上げているとおり浪人としてなかなか仕官できずにいたところを、たまたま殿の知遇を得て」
「その腕で、この戦乱のなかどこにも雇ってもらえなかったか?」
「えぇ、どこの台所も苦しいようで」

 子雲は肩をすくめた。
 長範は苦み走った嘲笑を浮かべると、そのまま彼を突き放すかのように歩行を速めた。
 他の護衛も、義務のように主に倣って冷たい一瞥を彼に呉れると、そのまま去っていった。

「…………あの坊やからはその信用ならんヤツと、おんなじ臭いがするのですよ。ご家老」

 誰にも聞こえないようにそっと嘆息すると、自身の歩調を保ったまま、彼は上司を追わずに脇へと逸れたのだった。



[42755] 第二章:狩人 ~対尾港撤退戦~(二十一)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:6f4fa50d
Date: 2018/09/15 21:37
 次の夜。
 夏山星舟と令料寺長範は件の策謀を実行に移した。
 口ばかりの約定を再確認し、うわべばかりの信頼を交わし、表面上の友誼を互いに示したあと夏山は虜囚の獣竜を引き連れて闇の森へと消えた。その暗黒の奥に、異人たちが陣所とした村落がある。はや勝利を確信しているのか、酩酊気味の喧騒がこちらへも聞こえてくる。

 好都合だ、と長範はかすかに漂う葡萄酒の臭気を舌で舐めた。

 彼らは内外への注意を緩めることだろう。
 何より、戦勝前のこの弛緩は、彼らにこれからしでかす失態に対する、弁明の余地を与えなくするであろう。

 やや間があって、喚声が聞こえた。濁って野太い笑い声は、やがて悲鳴と怒号に転じた。

「今だ、やれっ!」

 その声が最高潮と思しき山を少し超えた辺りで、彼は部下に突撃を命じた。

 汐津藩兵は将来の政敵を陥れるべく、そして怪しき策謀家の口を封じるべく、声を押し殺して動き始めた。

 だが、異人の陣中に踊りこんだ彼らが見たものは、酒や商売女を抱えて逃げ惑う異人の痴態などではなかった。

 一兵一兵ことごとくがこちらのそれらの体躯を軽く超える、討竜馬兵の精鋭たち。
 乱戦による消耗を嫌ってか、皆徒ではあったが、それでも氷像のごとき荘厳さを持った整列であった。

 対照的に、主将長範ら含めた汐津藩軍は、その虚を突かれた形となった。
 何故、彼らは無傷なのか。
 竜たちは、夏山はどこへと消えたのか?
 そもそも何故、この北国の者共は、自分たちへ刃を向けているのか!?

 その疑問に解が出るよりも早く、先頭に立つ寡黙にして傲慢な巨人が、突撃を命じた。

 〜〜〜

 時はしばし遡る。

「汐津藩が、貴殿らを狙っていますよ」

 黄昏時と同時に村落に訪れた片目の男は、ヴェイチェル・ウダアシアの前で、流暢な氷露の母国語でそう密告した。

「この夏山星舟、陰謀への加担を強いられました」

 わずかの悲壮さも感じさせないような調子で、彼は続けた。
 うさんくさげにそれを睨み返したヴェイチェルは、老いた佐将に視線を投げた。

 小賢しげな猿となど口をききたくない。
 そう暗に受け取ったダローガは、軽いため息とともに問いかけた。

「お前さん、本気で言ってんのかい。あの真面目そうなサムライが、そんな大それたことをすると」
「……まぁ、どれほど嫉妬していたとしても、本来であればしないでしょう。ですが彼は、我々という隠し球を手に入れた。そこで、自分たちを汚れ役に仕立て上げて、貴殿らを失脚させるべく襲わせようとした。脅しと見返り、両方を用意する念の入りようで。……これが、その証拠です」

 と、夏山星舟はこの国のナイフを一本差し出した。
 その長さと鞘などの装飾には、憶えがある。

「長範氏はこれを手渡し、汐津における身分を約束すると……まぁ、本当かどうか知れたものではないですが」
「たしかに、あの男がぶら下げていたもんだな」

 ダローガが受け取ったそれを認めると同時に、にわかにヴェイチェルは起立した。
 部屋の片隅にかけてあったハルバードに手を伸ばそうとする彼を、老将は「待て」と制した。

「あの男を討ったハイそれで終い……ってんなら、この坊やはわざわざ単身忍んでここに来やしねぇさ。だろう?」

 もう一枚裏がある。そう踏んだダローガは、あえて冗談めかしい調子で隻眼の若者に吹っかけた。
 夏山は、笑って目礼した。

「現状彼らは陰謀を行動に移したわけではなく、それを一方的に攻撃したとあれば、単なる私闘としか捉えられますまい。ここはあえて、襲われたフリをして頂きたいのです」
「フリ、ねぇ」
「彼らは捕虜をあえて貴殿らの陣地に乱入させ、自分らだけが利を得ようと目論んでいます。そこで、その中間あたりで逃げ道を作り彼らを離脱させ、そして貴方がたは偽りの悲鳴をあげる。それに釣られてやってきた汐津を待ち構えて、正々堂々誅伐を加えれば良いかと。そのうえで、逃した捕虜は背より討滅。汐津の捕らえたブラジオは貴殿らが管理すれば十分な功と言えましょう。もし、万一自分の言うことに誤りあったとしても、待ちぼうけを食らうだけのこと。次の朝にあなた方の欠伸が増える程度だ」

 まるで上等の執事のように、だがハッキリとおぞましいことを具申する男だった。

「つい数夜前は竜と語らい、汐津に降ったかと思えば、今また我々に彼らを売るってのか」
「竜を見限ったのは、その軍容の脆弱さと、それを訴えてきた自分を疑ったあげくにかくのごとき死地に放り出されたがため。そして降伏した先は汐津藩ではなく、藩王国のはずでした。せっかくの再就職をフイにしたくはありません」

 隻眼の現地人は、そう言って肩をすくめた。

「が、その藩王国というのもいささか難があるように思えますな。合議制とは聞こえが良いが、いかんせん、方々の権勢が強すぎる。やはり、至上の強者とは異国の地に惜しげもなく一軍と鬼才、人材、器機を投入できる強国……」

 青年に唯一ついた眼が、曰くありげにこちらを見つめていた。わざとらしく首を振ってみせる。
 露骨すぎる態度に苦笑を漏らしながら、ダローガは問うた。

「で、あんたはその作戦中どこにいる?」
「さすがに捕虜を残したまま消えれば、疑われます。監視を名目に一番にそちらの陣に駆け込みますので、どうか保護を」

 媚びるようにだらしなく笑い、夏山は頭を下げて、細かい段取りのうえで離脱した。
 夜の訪れとともに消えた青年を見送るようにダローガは虚空に目をやっていた。

「で、どうするね騎兵隊長殿。こんなしょうもない身内争いで消費したくないから、トルバは後方に待機させておくのがいいとして、あの片目の処遇はどうする」
「殺す」

 ヴェイチェルは即答した。

「猿どもは皆殺しだ。目玉が一個だろうと二個だろうと関係ない。帝国の威の下にことごとくを斬り刻み、血泥と煮込んでボルシチにしてやる」

 隻眼の内通者よりもはるかに陰惨な言を吐いた。

「……敵であれ味方であれ、まずその能力を推し量れ、というのがお嬢の命だが?」
「それはあんたがやれば良いだろうよ執事殿。あいにくと俺には教養がない。あの年増女の好みのジャムと紅茶も割合も知らなければ、敵の悲鳴以外で好む音曲も知らん」

 鼻を鳴らしてそう続けた。
 呆れがちにそれを見ていたダローガだったが、あえて何も言わなかった。
 この男の暴言癖は今に始まったことではなく、対象に敵味方を問わず、さらに言えば感情の好悪さえ関係はない。自身を引き立てたカミンレイに忠誠心と友愛の情はあっても、怨嗟など毛ほども抱いてはいないだろう。
 あえて今の言を要約すると、

「女としての人生を捨ててまで智勇を尽くして戦うカミンレイ様に対し、戦うしか取り柄のない己はただ武でもってその信頼に応えるしかないのだ」

 と言ったあたりか。
 無論、その真意の裏を汲み取れる者は多くはない。と言うよりまず居まい。居てたまるか。

 本人に暴言の自覚がないのだから、いくら口でたしなめようとも是正しようがない。時を遡って、彼の語彙のセンスを醸造させた劣悪な家庭環境に物申すしかなかろう。

 まぁ、だがこの場合は……

 ダローガは、ちらりとその豪腕を見遣った。敵に、夏山星舟の射手に撃ち込まれた弾丸は幸いにしてすぐ摘出されたが、傷つけられた矜持までは癒えてはいまい。彼への私怨はまだ生きている。当人の自覚の有無はともかくとして。

「俺の定規は、この三ローコーチのハルバードだ」

 あえて負傷した手で、だが苦もなく長物を担いで見せる。ダローガはもはや何も言わなかった。

 すでに、独断専行でウクジット・セヴァカがこの大地に斃れている。これ以上、不和を醸すわけにはいかなかった。
 老将は漠然とした危機感より、現実に見えている問題を優先した。

 〜〜〜

 という経緯だ。
 つまり、どういうことかと言えば。

 整列して待ち構えていたとは言え、出迎えた客の様相は、ヴェイチェルたちの予想とは少し外れていた。そして、もちろん汐津の愚者どもさえも、そこにはまぎれもない動揺があった。

 何しろ、両陣営ともにドサクサにまぎれて屠ろうとした男が、いない。
 両陣営が利用するはずだった捕虜が、消えている。

 予期していたはずの相手と激突したにも関わらず、互いが虚を突かれた形で始まったこの奇妙な『遭遇戦』は、当初こそ、まがりなりにも陣を成していた『氷露』勢が優勢となっていた。
 だが、その攻めの手が次第に緩む。それに合わせて、汐津側も反撃をせずに退きはじめた。

 刀剣をつかんだ手よりも、引き金にかけた指よりも、しだいに闇夜にさまよわせた視線のほうが動くようになる。

 ――あの男は、どこだ?
 ――あの男は、味方ではなかったのか?
 ――あの男を、殺すのではなかったのか?

 困惑する両陣営の側面から、
「誰ぞをお探しかな?」
 声が聞こえた。

 決して大きくはない。それこそ喚声や、あるいは当惑のどよめきにさえ劣る声量。だがそれでも、音の中にある強烈な個が、その場にいた人間の心を惹いた。否、彼らの神経を、逆撫でにした。

 夏山、星舟。

 深い暗闇の中に嘲弄とともに浮かび上がったその影を、兵士たちは見た。
 汐津藩および令料寺長範は男の背後に展開した兵……捕虜だった者たちの数よりもずっと多い竜たちが両陣を取り巻くのに戦慄した。

 だが『氷露』の国の軍人たちは、彼らを怖れはしない。しなかったが……夏山星舟と、彼とともに降った人間たちの乗り物に、ヴェイチェル以下、その肉体を凍り付かせた。

 彼らが難を恐れて後方に退避させた軍馬……トルバに、彼らはまたがっていたのだから。

「悪いなご両人。オレのひとり勝ちだ」

 時間も稼ぎ、難所も無傷で渡り、そして追撃部隊に痛撃と互いへの不信を与えて、あげく逃げる足まで得た撤退部隊の長は、そううそぶいた。
 そして開いた口が塞がらない汐津藩家老の姿を認めると、意地悪げに唇をゆがめてみせた。

「言っただろう? 『もっと大局を見ている』って」



[42755] 第二章:狩人 ~対尾港撤退戦~(二十二)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:6f4fa50d
Date: 2018/09/15 21:41
 それは、峠を越えて現れた。
 葵口を抜けて会見原に集結する竜軍。その動揺が落ち着かぬうちに、出現した。

 大将シャロン・トゥーチは、目線を上げていち早くそれに気がついた。
 今まで、陣頭に立って激励の笑みを浮かべていたお姫様が突如真顔になったのだから他の者も異変に気付かざるをえなかった。

「殿軍は、第二連隊はどうしていたのだ!?」

 傍らから声が聞こえた。おそらく対尾攻囲に参加していた誰かだろう、その声に、過剰ともいうべき緊張がこもっていた。

「彼らが抑えているのは葵口です。おそらくはその西の森林、その間隙を縫って裏道より侵入したのでしょう。……この近辺は、七尾の縄張りでしょうから」

 だが、それでも大軍を移動させられるほどの軍道が存在するとも思えない。
 旗や陣太鼓の少なさが、それを物語っている。
 あるいは知られざる予備兵力を隠したうえでの偽装かも知れないが、それならばあの蛇の紋を真っ先に掲げてことさらこちらの警戒を煽るようなことはすまい。
 それが狙い、という線も考えられるが……。

 伏兵は、有りや無きや。
 シャロンの考察は結論がつく前に杞憂で終わった。いや、むしろ牽制であったのなら、どれほど正常であったか。

「七尾勢、前進してきます! 止まりません!」

 二〇〇〇余の集団が作動しはじめた。
 黒々と茂る椎の木々の合間に潜り込んだ彼らは、その葉を鳴り散らすように峠から下りてくる。

 挑んでくる?
 斬り込んでくる?
 この平野で?
 はるかに少ない兵数で?

 人が、竜に!?

「おのれ、つけあがった挙句にふざけたことを……!?」
「いや、あきらかに伏兵増援あっての動きぞ! それらの存在に気をつけるべきではないのか!」
「いや、いずれにせよあの大頭巾が奴らの主力ぞ。先に叩いて第二波に備えるべし」

 ただの前進。突撃ではない。一矢も飛んできてはいない。だが、それが引き出した反応は、様々だった。
 だがそのいずれの根底にあるものは、

 ――怯え。

 であるようにシャロンは思える。対尾で大敗を経験した者も、そうでなくあくまで伝聞を受けた者も、本能が揺さぶられているのだ。
 喚声も発さず接近してくるあの敵は、決して触れてはならぬ者だと。

 現に、彼女自身とて……

「……静まりなさい!」
 震える手首を止血のごとく固く握りしめ、白皙を持ち上げ姫将軍は叱咤の声をあげた。

「敵に後続があれば、この開けた平野、すでにその影が見えても良いはずです! とうてい信じがたいことですが……彼らは助攻なしの単身攻撃を仕掛けてくるつもりのようです。よって我らは彼らへの迎撃に専心します! ……常土(とこつ)山主(やまぬし)エーデンバルグ!」
「はっ!」

 動揺で波打つ陣営のうち、名を呼ばれた一小領主が進み出た。

「貴方の組下には良い銃士がそろっていると聞き及んでいます。まずは彼らの斉射で林を抜けた敵の出鼻をくじき、その狙いを探ります!」
「し、しかし当方ではまず真竜種が敵を鋭鋒を折り、しかるのちに射撃で落ち穂を拾うがごとく掃討していくのが定法であり、仰せの指示では逆……」
「その定法が通じぬ相手ゆえにあえて逆を行くのですッ、今は竜だ人だという体面にこだわっている場合ではないっ、他の隊も装填と陣立てを急ぎなさい!」

 その触れを契機に、ようやく竜軍は動き始めた。いや、彼女の電撃的な威光を浴びて、無理やりに身体が動かされたといっても良いだろう。
 とにもかくにも、もとより臨戦の体勢にはあったがゆえに、迎撃の体勢は早々と整った。
 例外として真竜種エーデンバルグ率いる六〇〇程度の銃撃部隊が突出するかたちとなり、ざわめく木々の手前で固唾を飲んで待ち受ける。

「無理攻めはしなくて良い。一射して崩れぬと思えば素直に後退するように」

 とは言い含めてあるが、果たして駆け引きを知らぬ竜が素直にその忠告に従ってくれるかどうか。

 向かってくる靴音が鮮明になった。
 それと同時に、エーデンバルグが野太い声を飛ばす。射音が飛ぶ。煙が前方を覆い隠す。
 だが、薄れた煙幕のその先に、死体はない。
 代わりに打ち立てられたのは、俵の塁壁、そして立ち上る、白い浅地に義の一字の染め抜いた旗。

 ――違う! 七尾藩だけじゃないっ!?

 シャロンは物理的に一歩退きそうになるのを踏みとどまった。
 その彼女のはるか前方、即席塁壁の向こう側より、黒い装束の抜刀隊が突出し、蝗害にも似た無軌道な動きと速度であふれ出した。

 ~~~

 人のかたちを成した災害に、エーデンバルグが呑まれた。
 彼が危惧したとおり引き際を見誤ったのか、それとも自分が結果として無理な戦術を強制してしまったのか。それは遠目からは判断できなかった。

 だが、最奥の本陣からでもわかったことはある。否、突進してくるのだから敵情は嫌でも伝わってくる。
 敵は、二種。
 ひとつは予想通りの七尾藩。そしてその鬼人たちの援護をしているのが、装いもまばらな軽装の士だ。
 聞いたところによれば、いずれの藩にも所属せぬ義勇軍が、戦端においては敗色濃厚だった対尾港防衛に参加し、鮮やかな手際で防戦していたという。
 そしていざ竜の包囲が崩れ去ると、突出した抜刀隊が苛烈な反攻を仕掛けてきた。
 それを先陣切って采配したのは、彼女よりも年下とおぼしき、少年だったという。今と同じように。

 それにしても、年若とは思えない見事な指揮ぶり、兵たちの練度だ。
 何より陣地構築能力が、今まで見た人間の部隊の中で、群を抜いて秀でている。
 言うなれば、機動する要塞といった具合か。

 七尾藩が最強の鉾となって一気に突き入ってくるのなら、彼らは個の武勲を捨て、防備に専念し、彼らの侵攻を鋼鉄の盾となって援護していた。両翼を伸ばす竜軍が、その包囲を完成するよりも速く、精鋭たちは一直線に切り崩し、まっすぐに本陣へと突入しようとしていた。

 数でも、個の兵の勁さでもこちらが勝るのに、ましてそれを十全に活かせる地の利も得ているのに、押し切れない。むしろ各個に打ち破られて行っている。

 ――まさか狙いは、わたしか?
 シャロンはハッと息を呑んだ。
 本来であればありえないことだった。想像することさえ許さないことだった。だが、彼らにはおそらく、それを実現可能にするだけの集団としての剽悍さがあった。

「万一に備え、どうか御身はお退がりあれ!」
 供回りにもそのことに気づいた者がいた。そう鋭く進言が飛んできたが、シャロンはそれを跳ね除けた。

「まだです! まだ、第二連隊が戻ってきていない……ここで我々と合流しなければ、彼らは敵中で孤立します!」
「恐れながら、すでに彼らも何らかの手段によって無力化、あるいは壊滅させられていると考えられ……」
「もしそうなら、彼らが食い止めている敵勢がとうにここに来て良いはずです。彼らはまだ生きている。生きて、こちらに向かってくる。ここで踏みとどまれば、いずれと彼らと挟撃できる!」

 確固たる理でそう説いたシャロンだったが、彼女自身、多分に私情が入り混じった決断であるという自覚はあった。

 それでも、覆せない。
 どうしても、想ってしまう。

 ――ぜったいに帰ってきて、セイちゃん。私のもとへ……っ!

 だが彼女の祈りに反し、状況は悪化の一途をたどっていった。距離が詰められていく。

「今こそ竜を討て!」

 声が聞こえた。
 澄み渡った、少年のものだった。
 この血みどろの戦場に、爽風が送り込まれるのを感じさせる、晴れ晴れとした響きとともに、少年は直剣をたずさえて、年頃も装束も違うみずからの同志と、そして黒い将兵たちとともに堂々と進む。

 なぜか彼には弾が当たらない。
 そして彼は自分自身にそうした矢弾避けの加護があると信じて疑わない様子だった。弾丸が足元の土をめくれ上がらせようとも、その動きにいささかのためらいも怯えもなかった。

「苦難の時代は終わる。竜に虐げられてきた世界は終わりを迎えるんだ! 今こそこの大陸に、人による国を取り戻し、同胞たちを解放しようじゃないか!」

 黒髪の少年は、はばかることなく宣う。
 そして彼を守護する味方は、 そんな彼に神威を見出したように熱狂の声をあげた。黒い鬼人たちは、声こそあげずともその進撃を速めた。

「……」
 シャロンは薄く唇を噛む。
 自分だって良いおとなだ。今更人間解放のための戦いなどという大昔の大義名分を持ち出す気はない。それがあまりに矛盾に満ちた独善であることを理解しているし、両首脳陣の中でそれが形骸化しつつあることも承知している。

 ただそれでも、一瞬、彼女の心に小動(こゆるぎ)は生じた。
 自分たちに同心した人々に、そして『彼』に注いできた情愛は、独りよがりの偽物であったのかもしれない、と。

 想像すべきではなかった。たとえそれが真実であったとしても、今この場で。

 その逡巡が、一時の集中の途切れを生んだのだから。

 持ち上げた視線の先に、互いの顔を認識できるほどの間合いに、その長身の悪鬼が屹立していた。
 不自然なほどに開いた間、自分たちを阻む者はなく、疲れを知らないその面貌が、軽く呼吸を整えた。そして踏み込んだ。

 乾いた地面に強烈な足跡を残し、金棒と刀を携えて、七尾藩の大頭巾は単身でその間隙を進む。
 今まで物理的に彼女を後退させようとしていた真竜種の供回りが進み出て、『鱗』まとって彼を阻もうとした。
 進み出た二体のうち、先に仕掛けた方の頭を、彼の金棒が難なく粉砕した。
 大振りで生じた隙を突くべく、横合いからもう一体が仕掛けた。

 だが、大頭巾の脇から飛び出た刀が、肩ごしにその竜の喉笛を貫いた。
 そのまま釣り針にかかった石鯛のごとく、やや肥え気味の竜はその男に腕力によってたぐり寄せられ、そして盾とされた。

 半分骸になりつつある味方を、敵もろともに葬れる邪竜など、彼女の配下にいない。それがかえって仇となった。
 両側で立ちすくんでうろたえる彼らは、男が通り過ぎるその刹那に叩きつぶされ、そして首を刎ねられる。

「……っ!」
 彼女は自身の、細身の『牙』の口を切った。
 だが遅きに失した。大頭巾の大将は、彼女の至近まで距離を詰めていた。
 彼に生命を奪われた側近が、乱雑に脇へと放り投げられた。

 片腕で大上段に持ち上げられた金棒が、日差しを遮った。その影が、膨れ上がってシャロンの総身を覆ってしまった。逆光で黒く塗りつぶされた男の貌。そこについた眼だけが、生気も正気も感じさせずに竜の娘を見下ろした。
 だが、そこには何の感情も介在していない。憎悪めいたものもない。ただ、彼にとって今しようとしていることは殺戮ではなく『処理』なのだ。

 金棒が振り下ろされる。
 つんざくような異音が響き、シャロンの聴覚を奪った。だが、生命までは奪われはしなかった。

 男は、自身の横面を、彼女に叩きつけられるはずだった金棒で守っていた。
 その六面のうち、外側に向けたほうがしゅうしゅうと火薬の異臭とともに煙を立ち上らせていた。

 その硝煙の向こう側にあるものを、たしかに彼女は視た。
 あぁ、と。安堵とも感動ともしれぬ声が、自身の口からこぼれ落ちた。

 黒い侵入者たちの斜め後ろから現れた、第三の集団。
 その中心に、五芒の星旗がおおきく翻っていた。



[42755] 第二章:狩人 ~対尾港撤退戦~(二十三)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:6f4fa50d
Date: 2018/07/22 16:06
 それは、峠を越えて現れた。
 葵口を抜けて会見原に集結する竜軍。その動揺が落ち着かぬうちに、出現した。

 大将シャロン・トゥーチは、目線を上げていち早くそれに気がついた。
 今まで、陣頭に立って激励の笑みを浮かべていたお姫様が突如真顔になったのだから他の者も異変に気付かざるをえなかった。

「殿軍は、第二連隊はどうしていたのだ!?」

 傍らから声が聞こえた。おそらく対尾攻囲に参加していた誰かだろう、その声に、過剰ともいうべき緊張がこもっていた。

「彼らが抑えているのは葵口です。おそらくはその西の森林、その間隙を縫って裏道より侵入したのでしょう。……この近辺は、七尾の縄張りでしょうから」

 だが、それでも大軍を移動させられるほどの軍道が存在するとも思えない。
 旗や陣太鼓の少なさが、それを物語っている。
 あるいは知られざる予備兵力を隠したうえでの偽装かも知れないが、それならばあの蛇の紋を真っ先に掲げてことさらこちらの警戒を煽るようなことはすまい。
 それが狙い、という線も考えられるが……。

 伏兵は、有りや無きや。
 シャロンの考察は結論がつく前に杞憂で終わった。いや、むしろ牽制であったのなら、どれほど正常であったか。

「七尾勢、前進してきます! 止まりません!」

 二〇〇〇余の集団が作動しはじめた。
 黒々と茂る椎の木々の合間に潜り込んだ彼らは、その葉を鳴り散らすように峠から下りてくる。

 挑んでくる?
 斬り込んでくる?
 この平野で?
 はるかに少ない兵数で?

 人が、竜に!?

「おのれ、つけあがった挙句にふざけたことを……!?」
「いや、あきらかに伏兵増援あっての動きぞ! それらの存在に気をつけるべきではないのか!」
「いや、いずれにせよあの大頭巾が奴らの主力ぞ。先に叩いて第二波に備えるべし」

 ただの前進。突撃ではない。一矢も飛んできてはいない。だが、それが引き出した反応は、様々だった。
 だがそのいずれの根底にあるものは、

 ――怯え。

 であるようにシャロンは思える。対尾で大敗を経験した者も、そうでなくあくまで伝聞を受けた者も、本能が揺さぶられているのだ。
 喚声も発さず接近してくるあの敵は、決して触れてはならぬ者だと。

 現に、彼女自身とて……

「……静まりなさい!」
 震える手首を止血のごとく固く握りしめ、白皙を持ち上げ姫将軍は叱咤の声をあげた。

「敵に後続があれば、この開けた平野、すでにその影が見えても良いはずです! とうてい信じがたいことですが……彼らは助攻なしの単身攻撃を仕掛けてくるつもりのようです。よって我らは彼らへの迎撃に専心します! ……常土山主(とこつやまぬし)エーデンバルグ!」
「はっ!」

 動揺で波打つ陣営のうち、名を呼ばれた一小領主が進み出た。

「貴方の組下には良い銃士がそろっていると聞き及んでいます。まずは彼らの斉射で林を抜けた敵の出鼻をくじき、その狙いを探ります!」
「し、しかし当方ではまず真竜種が敵を鋭鋒を折り、しかるのちに射撃で落ち穂を拾うがごとく掃討していくのが定法であり、仰せの指示では逆……」
「その定法が通じぬ相手ゆえにあえて逆を行くのですッ、今は竜だ人だという体面にこだわっている場合ではないっ、他の隊も装填と陣立てを急ぎなさい!」

 その触れを契機に、ようやく竜軍は動き始めた。いや、彼女の電撃的な威光を浴びて、無理やりに身体が動かされたといっても良いだろう。
 とにもかくにも、もとより臨戦の体勢にはあったがゆえに、迎撃の体勢は早々と整った。
 例外として真竜種エーデンバルグ率いる六〇〇程度の銃撃部隊が突出するかたちとなり、ざわめく木々の手前で固唾を飲んで待ち受ける。

「無理攻めはしなくて良い。一射して崩れぬと思えば素直に後退するように」

 とは言い含めてあるが、果たして駆け引きを知らぬ竜が素直にその忠告に従ってくれるかどうか。

 向かってくる靴音が鮮明になった。
 それと同時に、エーデンバルグが野太い声を飛ばす。射音が飛ぶ。煙が前方を覆い隠す。
 だが、薄れた煙幕のその先に、死体はない。
 代わりに打ち立てられたのは、俵の塁壁、そして立ち上る、白い浅地に義の一字の染め抜いた旗。

 ――違う! 七尾藩だけじゃないっ!?

 シャロンは物理的に一歩退きそうになるのを踏みとどまった。
 その彼女のはるか前方、即席塁壁の向こう側より、黒い装束の抜刀隊が突出し、蝗害にも似た無軌道な動きと速度であふれ出した。

 ~~~

 人のかたちを成した災害に、エーデンバルグが呑まれた。
 彼が危惧したとおり引き際を見誤ったのか、それとも自分が結果として無理な戦術を強制してしまったのか。それは遠目からは判断できなかった。

 だが、最奥の本陣からでもわかったことはある。否、突進してくるのだから敵情は嫌でも伝わってくる。
 敵は、二種。
 ひとつは予想通りの七尾藩。そしてその鬼人たちの援護をしているのが、装いもまばらな軽装の士だ。
 聞いたところによれば、いずれの藩にも所属せぬ義勇軍が、戦端においては敗色濃厚だった対尾港防衛に参加し、鮮やかな手際で防戦していたという。
 そしていざ竜の包囲が崩れ去ると、突出した抜刀隊が苛烈な反攻を仕掛けてきた。
 それを先陣切って采配したのは、彼女よりも年下とおぼしき、少年だったという。今と同じように。

 それにしても、年若とは思えない見事な指揮ぶり、兵たちの練度だ。
 何より陣地構築能力が、今まで見た人間の部隊の中で、群を抜いて秀でている。
 言うなれば、機動する要塞といった具合か。

 七尾藩が最強の鉾となって一気に突き入ってくるのなら、彼らは個の武勲を捨て、防備に専念し、彼らの侵攻を鋼鉄の盾となって援護していた。両翼を伸ばす竜軍が、その包囲を完成するよりも速く、精鋭たちは一直線に切り崩し、まっすぐに本陣へと突入しようとしていた。

 数でも、個の兵の勁さでもこちらが勝るのに、ましてそれを十全に活かせる地の利も得ているのに、押し切れない。むしろ各個に打ち破られて行っている。

 ――まさか狙いは、総大将(わたし)か?
 シャロンはハッと息を呑んだ。
 本来であればありえないことだった。想像することさえ許さないことだった。だが、彼らにはおそらく、それを実現可能にするだけの集団としての剽悍さがあった。

「万一に備え、どうか御身はお退がりあれ!」
 供回りにもそのことに気づいた者がいた。そう鋭く進言が飛んできたが、シャロンはそれを跳ね除けた。

「まだです! まだ、第二連隊が戻ってきていない……ここで我々と合流しなければ、彼らは敵中で孤立します!」
「恐れながら、すでに彼らも何らかの手段によって無力化、あるいは壊滅させられていると考えられ……」
「もしそうなら、彼らが食い止めている敵勢がとうにここに来て良いはずです。彼らはまだ生きている。生きて、こちらに向かってくる。ここで踏みとどまれば、いずれと彼らと挟撃できる!」

 確固たる理でそう説いたシャロンだったが、彼女自身、多分に私情が入り混じった決断であるという自覚はあった。

 それでも、覆せない。
 どうしても、想ってしまう。

 ――ぜったいに帰ってきて、セイちゃん。私のもとへ……っ!

 だが彼女の祈りに反し、状況は悪化の一途をたどっていった。距離が詰められていく。

「今こそ竜を討て!」

 声が聞こえた。
 澄み渡った、少年のものだった。
 この血みどろの戦場に、爽風が送り込まれるのを感じさせる、晴れ晴れとした響きとともに、少年は直剣をたずさえて、年頃も装束も違うみずからの同志と、そして黒い将兵たちとともに堂々と進む。

 なぜか彼には弾が当たらない。
 そして彼は自分自身にそうした矢弾避けの加護があると信じて疑わない様子だった。弾丸が足元の土をめくれ上がらせようとも、その動きにいささかのためらいも怯えもなかった。

「苦難の時代は終わる。竜に虐げられてきた世界は終わりを迎えるんだ! 今こそこの大陸に、人による国を取り戻し、同胞たちを解放しようじゃないか!」

 黒髪の少年は、はばかることなく宣う。
 そして彼を守護する味方は、 そんな彼に神威を見出したように熱狂の声をあげた。黒い鬼人たちは、声こそあげずともその進撃を速めた。

「……」
 シャロンは薄く唇を噛む。
 自分だって良いおとなだ。今更人間解放のための戦いなどという大昔の大義名分を持ち出す気はない。それがあまりに矛盾に満ちた独善であることを理解しているし、両首脳陣の中でそれが形骸化しつつあることも承知している。

 ただそれでも、一瞬、彼女の心に小動は生じた。
 自分たちに同心した人々に、そして『彼』に注いできた情愛は、独りよがりの偽物であったのかもしれない、と。

 想像すべきではなかった。たとえそれが真実であったとしても、今この場で。

 その逡巡が、一時の集中の途切れを生んだのだから。

 持ち上げた視線の先に、互いの顔を認識できるほどの間合いに、その長身の悪鬼が屹立していた。
 不自然なほどに開いた間、自分たちを阻む者はなく、疲れを知らないその面貌が、軽く呼吸を整えた。そして踏み込んだ。

 乾いた地面に強烈な足跡を残し、金棒と刀を携えて、七尾藩の大頭巾は単身でその間隙を進む。
 今まで物理的に彼女を後退させようとしていた真竜種の供回りが進み出て、『鱗』まとって彼を阻もうとした。
 進み出た二体のうち、先に仕掛けた方の頭を、彼の金棒が難なく粉砕した。
 大振りで生じた隙を突くべく、横合いからもう一体が仕掛けた。

 だが、大頭巾の脇から飛び出た刀が、肩ごしにその竜の喉笛を貫いた。
 そのまま釣り針にかかった石鯛のごとく、やや肥え気味の竜はその男に腕力によってたぐり寄せられ、そして盾とされた。

 半分骸になりつつある味方を、敵もろともに葬れる邪竜など、彼女の配下にいない。それがかえって仇となった。
 両側で立ちすくんでうろたえる彼らは、男が通り過ぎるその刹那に叩きつぶされ、そして首を刎ねられる。

「……っ!」
 彼女は自身の、細身の『牙』の口を切った。
 だが遅きに失した。大頭巾の大将は、彼女の至近まで距離を詰めていた。
 彼に生命を奪われた側近が、乱雑に脇へと放り投げられた。

 片腕で大上段に持ち上げられた金棒が、日差しを遮った。その影が、膨れ上がってシャロンの総身を覆ってしまった。逆光で黒く塗りつぶされた男の貌。そこについた眼だけが、生気も正気も感じさせずに竜の娘を見下ろした。
 だが、そこには何の感情も介在していない。憎悪めいたものもない。ただ、彼にとって今しようとしていることは殺戮ではなく『処理』なのだ。

 金棒が振り下ろされる。
 つんざくような異音が響き、シャロンの聴覚を奪った。だが、生命までは奪われはしなかった。

 男は、自身の横面を、彼女に叩きつけられるはずだった金棒で守っていた。
 その六面のうち、外側に向けたほうがしゅうしゅうと火薬の異臭とともに煙を立ち上らせていた。

 その硝煙の向こう側にあるものを、たしかに彼女は視た。
 あぁ、と。安堵とも感動ともしれぬ声が、自身の口からこぼれ落ちた。

 黒い侵入者たちの斜め後ろから現れた、第三の集団。
 その中心に、五芒の星旗がおおきく翻っていた。



[42755] 第二章:狩人 ~対尾港撤退戦~(二十四)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:6f4fa50d
Date: 2018/09/15 21:43
「やぁ、どうやら、間に合ったようだな」

 グエンギィが手を目元に当てながら声を弾ませた。

「……違う。手遅れだ」

 星舟は彼女に聞かせるまでもなく呟いた。
 開けた平野。とうに逃散はしているだろうが、この戦地にも、視認できる範囲で民家は確実に点在している。

 ここに至るまでも、遠巻きに人の目はあった。兵のものにしては気配を消しきれていない。
 おそらくは怖いもの見たさの見物人か、あるいは時代錯誤の落ち武者狩りか。

 それが意味するところを、あえて星舟は周囲に伏せた。
 とっさの機転で相手の真意をくじいた、という筋書きでこの場はぬか喜びをさせておかなければ、士気に関わる。

 敵に斉射を浴びせた銃士隊が転身してきた。
 先駆けて大将に一発くれてやったのは、もちろん経堂であった。

「仕留められなかったか」

 もとよりそこまで過度な期待はしていなかったから、落胆はなかった。
 だが、この陰気な男にしてはめずらしく、苦さを隠さず経堂は答えた。

「その片っぽの目でご覧になってたでしょう。風向きも読んだ。直前まで悟られていた気配はなかった。よしんば避けられたとしても、偏差を読んで二発目で仕留められる。そのはずだった。にも関わらずあの野郎、ろくすっぽこっちを見もせず捌きやがった」

 星舟は無言でいた。自分とは別の方向で、経堂はこの状況を危ぶんでいた。

「あれと、今から衝突するんですかね」
 と。

 隣には、ブラジオの目があった。
 さしもの剛竜も、一度敗北を喫した相手には慎重なようで、とりあえずその場では口を出すことはしなかった。
 彼の様子を確認してから、あらためて星舟は経堂を含めたその場の全員に命じた。

「西南に移動しつつ、敵の退路を塞げ。決して正面から挑むな。一対一で戦うな」

 〜〜〜

 後背を扼した敵部隊が、その五芒の星旗が、西に推移していくのが、義勇の兵を率いる少年からも見て取れた。
 おそらくは自分たちが来た道、七尾天神沿いの山道を塞ぐハラだろう。

「霜月公! これ以上は無理だ! 大敵を目前に無念だろうけど」

 退こう、と声を大にして促すまでもなく、かの若き七尾藩主は周囲を護衛で固めた敵総大将の前より離れ、すでにその身を翻していた。少年とのすれ違いざま、

「用は済んだ、帰る」
 と、抑揚なく言い残して。

 その男、霜月信冬が何かを指示した様子はない。軍鼓のような合図で示し合わせたわけでもない。
 だが彼が駆ける後を、兵たちは声もあげずに追従していく。彼らを狙う銃剣にも弾丸にも構わず、ただ退却という行動に専念する。
 流れ弾で隣の兵士の頭部が撃ち抜かれようとも悲壮さひとつ浮かべず進み、眼前に軍勢を遮るモノあれば、個々人を犠牲にしてでも排除する。

 それはもはや呼吸が合っているというよりかは、虚飾や比喩もなく一個の生物だった。
 頼もしくはあるが、近代の武装、合理的な戦術でその身を固めた義勇兵たちにとっては理外の存在だった。

 一手遅れた義勇兵たちが、自然その露払いを務めることとなった。
 さしもの彼らも、三方に敵を抱え、移動じながらの防御陣形の形成は、困難を極めるというものだが。

 いや、違う。

 手応えのなさと違和感を覚えた民兵の長は、すぐに悟った。むしろ露払いをしてくれているのは、彼らだ。
 彼らの異様さに圧されるかたちで、竜たちは必要以上に距離をとっている。それで、自分たちの安全が確保されているのだ。

 だがしかし、いやだからこそ……

「彼らを死なせるな!」
 少年は軍剣を突きつけ喚呼する。

 そこに甘えるわけにはいかない。
 自分がすべきことをするのだ。正しいと信じられることを為すのだ。

「でもよォ、良いのかよ」
 援護体制を整えつつも、副将の役割を買って出てくれている同郷同年代の弥平が口を尖らせた。

 やや鳥嘴に似た鼻を突き出した先に、道を阻む敵多くを殺傷する七尾藩兵の姿があった。

「奴らに全部かっさらわちまって、手柄がねぇってのに」
「構わないさ。彼だけが唯一、竜と少数でぶつかって対抗しえる存在だ。僕たちでも、そこまではいかない。今後も彼らとの連携は不可欠だ」

 それに、と一度語を留めてから、その白皙に薄く朱を差して目を細めて見せた。

「『彼女』は、直接見なくても僕のがんばりをわかってくれる」

 怪訝そうな弥平の視線を振り払うかのようにあえて少年は声を張り上げ、弧を描いた剣先で前方を指し示す。

「さぁっ! あれなる敵を打ち破り、英雄として凱旋しようじゃないかッ」

 その先には戦風になぶられ流される、星の旗があった。
 そこに直線で突っ込む、大頭巾の大将の姿があった。

 総量で重さ二〇基蔵はありそうな棍棒と刀を手に、平野を疾駆する。
 横列に並んだ銃口が、彼を十字に狙っていた。そして装填を終えたそれらが、一斉に火を吹いた。

 だが霜月信冬は……、宙に、飛んだ。

 二階建ての高さに相当するほどに浮き上がり、並みの十歩にも劣らぬ先の地点に降り立つ。
 それはもはや跳躍の域を超えて飛翔と言うほかなかった。

 忘我していた小隊長があわてて自意識を取り戻し、再度の斉射を兵に命じたがもう遅い。
 左右に蛇行をし始めた信冬は、それらの着弾よりも速く動き、間合いを詰めつつあった。
 もとより、十字砲火は集団に打撃を与える時にこそ最大の効果を発揮する。絶えず移動する個に当てることは想定に入っていないだろう。
 むろん、中には腕の立つ射手もいて、彼を狙撃せんと付け狙っていたようだが、むしろ彼が警戒する必要があったのはその一点のみだった。むなしくその一射は金棒に弾かれた。

 そしてそうやって翻弄されている間に、後続の七尾藩兵もまた、いくつかの縦列に分かれて敵への突入を開始した。それこそ、彼らが旗印に刻む多頭の蛇のように。

 射線を超えて斬りこんだ信冬の一閃が、敵の銃士隊を潰した。
 鮮血おどるその有様を、その刹那を、敵も義勇兵たちも、呆然と見ているほかなかった。その一瞬を注視していた彼らには、そこだけ時間の流れが止まっているかのように感じたことだろう。

 だが実際それは、目にも止まらぬ進撃であったはずだ。

 ――勁い。

 義勇兵とその主将は、あらためて感じ入った。
 真なる美食に例える言葉が見つからないように、比較のしようのない桁外れの暴威は、ただそうとしか表しようがなかった。

 ~~~

 星舟は鼻先に血袋でも突きつけられたかのような心地で、顔をしかめた。
 久しく嗅いだことのない、味方が流した血の臭いの濃さだった。
 頭が痛くなる。その悪臭が、鼻腔から入って精神をかき乱した。

「あらためて厳命をくり返せ! 正面衝突は避けろッ! 適当に前を開けてやりゃあ、敵も積極的には仕掛けてこない」

 副将のリィミィにそう通達し、彼女も異論なくそれを承諾した。

「いや」
 だが、別の男の胴間声が、低く重く、拒絶を示した。

「たとえ甚大な被害を出そうとも、奴らはここで仕留めろ!」
 そう雷声を飛ばしたのは、誰であろう、ブラジオだった。

「藩兵どもさえ食い止められれば、あの大頭巾は我が仕留める」
「ブラジオ様」
「あの恐れ知らずの供回りさえいなければ、一騎打ちで、身体能力で遅れをとろうはずもない。そして頭さえ打ち砕けば」
「ブラジオ様ッ!」

 星舟は声を荒げた。真竜相手にらしからぬ態度だと我ながら思うが、目の前で味方の一部が潰走させられた。穏やかな気分でいられないのは自明の理だった。

「指揮官である私の頭越しに令を下される理由は、あの化物への復讐心ですか」
「そんなわけが、なかろう」

 あくまでもブラジオは進み出ようとする。
 それに内心で舌打ちしつつ、それでも懸命に己を律して、一定の礼儀は保っていた。
 もっともそれは、ブラジオ自身とて同じであろうが。

「貴様もひとかどの将であるならば、いや一個の命であるならば、うすうすは気づいているはずだ。あんなものどもはこの世に在ってはならぬ。今討てるときに奴らめを討たねばこの先、竜……いやこの天下自体に如何な厄災をもたらすか知れたものではない、と。そしてたとえここで奴らと相打ちになろうとも、それは遂行すべきなのだ、と」

 このような瀬戸際にも関わらず、周囲の兵には動揺がはしっていた。
 それは、命令系統が分裂したからではない。ブラジオの語る言葉に、一定の道理があると考えていたからだった。
 目の前に迫りくる異質な兵の在り様が、その殺戮が、心をそうざわめかせるのだと。

 星舟とてそれが例外ではない。
 ――だが。
 隻眼の将校は、踏みとどまる。

「それは、我々の役割ではない。ここまで活路を求めて死線をくぐってきた兵たちに、最終的に自分の生命を盾にしろと命じよとでもいうのですか……?」
「星舟」

 ブラジオがおのれの名を呼ぶ。今まで聞いたこともない、すがる児童のような調子で。
 ――なんて声、出しやがる。
 ふしぎと泣きたい気分になった。思えばはじめて名を呼ばれたかもしれなかった。

 肩を掴もうとしたその手を、星舟は振り払った。

「貴殿には助けられた。ここまでの道中、我ら単独では、より苦労も犠牲も増えたでしょう。偽りなく感謝と尊敬をおぼえています。ですが、あえて諫言をお許しください。……引っ込んでろ。これはオレたちの戦だ。アレ相手におめおめ逃げ帰ったあんたが、そんなこと言えた義理か」

 星舟の言葉には、常の慇懃さも虚飾もなかった。向後のための打算、次の瞬間までの自分の生命の保障。それら一切をかなぐり捨てた暴言だった。……いろいろな意味で、限界だった。
 そして一度でいい、そうした本音をぶつけなければと思っていた。ふとこの瞬間に思い立ち、直後にそれを口にした。何故そうなのか。今頭が沸騰し、自暴自棄に近い状態にあった星舟には、その思考をまとめて結論づけるだけの余裕はなかった。

「……いや、大将。この方が退いたのは俺が」

 自分の部隊に甚大な被害をこうむって引き下がった経堂が、何かを言わんとした。だがその胸板を突くようにして続きを妨げたのは、他ならぬブラジオ本人だった。
 多分に幻滅と嘲りの意を、橙果色の瞳に込めて。

「ならば、卑怯で卑小な人の将よ。せいぜいおのが責務をまっとうするが良い。……真竜種(われ)は、真竜種(われ)の務めをば果たす」

 とのみ言い置いて。

 ひっ、という引きつった悲鳴が起こった。
 その方角を首を向けた瞬間、総身が硬直するのが分かった。

 数歩先に、霜月信冬がいた。
 血を絡めた二振りの得物を怪鳥のごとくに拡げ、強く大地を踏みしめていた。

 ほんの数秒間の指揮の乱れ、集中力の欠如。そこに消極的対応という方針が重なって、あろうことかこの男の陣深くへの介入を許していしまった。いや、それさえも見透かす超人的な戦術眼か、あるいは神通力でもあるのではないか、この怪人には。

 ――まだ疲れも見せず、単騎で斬り込むか……!

 いや、斬り込むというよりかは、もはやそれは爆弾の投下に近い。その一段がひとたび自陣で爆発すれば、計り知れない被害をこうむる。
 外側からのとっさの援護は期待できない。何しろ、向こうも七尾藩兵と義勇兵の対応でかかりきりだ。

 その人間爆弾の進路に、小柄な影が震えている。
 シェントゥ。伝令役にそば近くに置いていたのがかえって災いしたらしい。
 本来の彼の逃げ足であれば脇に逸れて回避もできただろうが、完全に威に呑まれてしまって思考を放棄している。

 その様相は、象に無関心に踏みつぶされる野兎といったところか。
 今までの例に漏れず、そのまま信冬の前方に立ちくしていれば待っているのは……

 星舟は舌打ちして打って出た。
 一歩遅れて制止の声が左右からかかり、何本もの手が袖を引こうとする。
 だがそれよりも速く伸びた星舟の両腕がシェントゥの細腰をかっさらって、草地へと我が身ごと引き倒した。

 股に、焼き鏝でも押されたような激痛と熱が襲った。
 確かめるまでもなく、斬られた。かわしきれなかった。

 先に大刀を潰されてさえいなければ一太刀浴びせるとはいかずとも、防御のひとつもできたのだが。

「ご、ごめんなさい……ッッ、おれ、なんかのために」

 自分を取り戻したシェントゥが、涙を浮かべて謝る。
 泣きたいのはこっちだ。そう言いたくなるのをこらえて、立ち上がろうとするもままならない。その苛立ちに声を震わせながら、星舟は毒づいた。

「勘違いするんじゃねぇ……! お前にはまだまだやってもらわなきゃならねぇことが多くあるんだよ……ッ」

 それに、部下を守るのが第一とブラジオを突っぱねた手前、その部下をむざむざ眼前で見殺しにはできない。そうした意地に縛られたうえでの、暴挙だった。

 当然、その無茶には代償が伴う。
 赤い血潮にまみれた軍靴が、起こしかけた視界にちらつく。

「ついでだ。その首級、もらっていくぞ」

 横暴極まりない科白が目上から落ちてきた次の瞬間、頭を衝撃が襲った。全身が揺らされた。
 そして、星舟とシェントゥの身体は、虚空へと放り出されたのだった。



[42755] 第二章:狩人 ~対尾港撤退戦~(二十五)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:6f4fa50d
Date: 2018/09/15 21:44
「そこがもう矛盾しちまってる」

 わかっている。

「今藩王国あちらさんにはこの上ない戦の天才がいて、竜よりも強い狂人がいて、あんたらが飛んだり走ったりするより速い船を駆る水軍がある。それをまとめ上げた最高の王様が座ってる。そんな連中に、自分らは負かされ、追い出された。いったいどこに、庇護すべき弱者がいるんです」

 そんなことは、言われるまでもなくわかっている。いや、分かっていたはずだった。

 自分たちの道理が、大義名分は、とうに破綻していることになど、だいぶ前から気づいていた。

 それでも、認めたくはなかった。
 たとえ全能の神たりえないにせよ、生命として上位種であるはずの自分たちよりも、運命が卑小で、多分に過ちを犯す憐れなる者たちが上回ることを。

 認めるのが、恐ろしかった。
 保護し統括していた彼らが自分に向けていた笑みや信頼が、表面だけのまやかしであったなどと。
 そんな彼らに公明正大に接しつつも、歪んだ優越感を抱いていたことが。
 逆に思い通りにならぬからこそ、そして自分とは真逆の生き方をしながらも信望を下々より得ているかの隻眼の孺子を、嫉妬によって憎んでいたことを。

 あぁ、そしてその孺子。
 天の差配とは、なんと皮肉なことか。

 この小賢しい男が、今の自分の行動を予期していなかったことは、大きく見開かれた単眼が証明している。

 おのれとて、知らずその身体が動いていたのだから彼自身にとっても驚きだ。

 ブラジオ・ガールィエは、我が腕と引き換えに夏山星舟とその小姓を、彼方へ投げ飛ばしていた。

「ぬ、うぅぅぅ……!」

 鉄柱にも似た鈍器が、肘から下の腕骨を砕いた。素体といえ、今まで食らったことのない激痛が、この男を苛んだ。
 だがそれはもっと早くに、体感しておくべき痛みだったのだ。自分を信じ、代わりに死んだ者たちに、とって代わって受け止めるべき罰だったのだ。

 ひしゃげた腕を、ブラジオは容易に引っ込めなかった。逆にみずからを叱咤してさらにその腕を押し伸ばし、かの魔人の鉄塊を抱き込んだ。

 さすがの怪力でもってしても、ブラジオ渾身の抵抗には苦戦を見せた。表情には出さないにせよ。いやこの男にそんな感情は存在するのだろうか。
 恐ろしいほど、思考の切り替えが速い男だった。鉄が引き抜けぬと判断するや、刀をブラジオの脇腹に突き入れた。

 だが、それが狙いだった。それゆえに、今まで変身をせずにいたのだ。
 その刺突が肺腑に達する間際、彼は自身の『牙』を剥いた。
 祖神、父祖より受け継ぎし『鱗』が彼を覆い包む。刀身を、我が身に取り込んだままに。
 これで、この男の武器を奪うことに成功した。だがそれは、自身の生存のための退路を断ったにひとしい行為だった。

「ブラジオ殿!」

 そこにいたって、ようやくその目論見を汲んだらしい。部下の獣竜二名に抱え起こされた星舟が、声を張り上げた。

 その右目が、まるで我が父でも案ずるかのようにもの悲しげに歪んでいた。

 ――散々に迷惑をかけられた、毛嫌いしていた相手だろうに。

 それらの遺恨一切をかなぐり捨てて、この人間は竜を本心で案じていた。

 そのことを、ブラジオはおかしがり、口腔に広がる血潮とともに面の中で笑みをこぼした。

「離れてくれ! 狙いが定まらん!」

 あの人間の銃士が銃口を彷徨わせながら言い放った。
 だが、一瞬たりともこの大頭巾を自由にさせてはならないことを、我が身でもってブラジオは知っていた。わずかでも腕の力を緩めれば、こいつは鉄棒一本でもって、周囲の夏山勢を撲殺して回るだろう。

 その銃士の背に、七尾藩兵が突っ切ってきた。主人が苦境にあるにも関わらず、その死んだような視線は目の前に立っている障害……すなわちこの銃士の排除しか念頭にないようだった。

 取っ組み合ったまま、その上背でもってブラジオは銃士を突き飛ばした。かろうじて彼は迫る凶刃の軌道線から逸れた。彼に代わり、ブラジオの背が数太刀を浴びた。が、それは鉄音を弾くのみであった。

「どうだ。貴様の業物、いかな魔力があるかは知らぬが台無しにしてやったぞ」

 ブラジオは、そう声を大に『牙』を、七尾藩主の脳天に叩き込もうとした。
 だが対する信冬は、一片の悔しさも滲ませなかった。

「?」
 ただ、やや厚みに欠ける眉の根をかすかに、訝しげに歪め、

「その程度》》の数打、買い直せば良いだけだが?」

 と言った。

 信冬の両手が、武器を放した。腰を深く沈めてひねった。
 すぼめた指先が、神速で突き出された。

 『それ』の右手は、『鱗』を貫通した。ブラジオの巨大をそのまま浮き上がらせた。
 もう一方の手が、さらにその傷穴を穿ち拡げる。

 そしてあろうことか……素手のままに、彼は真竜の肉体を、上下ふたつに引き裂いた。



「迷った」
 なぜ戻ってきたのか、という青年の問いに、自分はそう返答した。
 だがそれは、決して冗談のつもりでもおためごかしでもない。

 あの時、真実自分は迷っていた。

 人とは何か。竜とは何か。
 自分たちが掲げる前提が覆った時から、それを見失いながら、そして次なる何かを求めてこの死地に到った。

 その夜、彼に逆に問うた。お前こそ、何故そこにいるのかと。
 決して届かぬ星のまたたきに手を伸ばす愚か者。そいつは、いっそ清々しさまで感じさせるほどの厚顔さで、恥もせず答えた。

「自分の信条に、人も竜も関係がありません」

「人にせよ竜にせよ、その個々には使命や運命というものがあります。そしてそれは天よりゆだねられたものではなく、おのれの才気とここまでの積み重ねによる結果でしかない」

「余力才覚がありながら座して諦めて、何もせぬもの。それをこそ自分は憎みます。そうならぬためにこそ、この夏山星舟は戦うのです」

 まるで生命の真実を語るがごとき、途方もない言。果たして奴自身がそれを本当の意味で理解しているのかはともかく。本心より紡がれた言葉は、まちがいなくブラジオの目をふたたび開かせた。

 自分は、何者か。
 ブラジオ・ガールィエである。
 真なる竜の亀鑑にして、人類の庇護者である。
 そこに、人の変化も竜の盛衰も関係はない。
 ただ己は己として、そうあらんとすれば良い。
 自分を信奉して散った部下たちのためにも。自分を慕った民草のためにも。そう生き方を示した妻子のためにも。

 ――その結末が、これか。

 思考を続けたまま、ブラジオの上半身は、落下していく。
 あふれ出る臓物も、血液も、霜月信冬は浴びなかった。

 すでに興味の失せたように、七尾藩主は鉄棒を拾いなおして悠然と走り去っていく。兵たちが、それに続く

「見事! 信冬公! 見事!」
 そう言ってはしゃぐ少年の声は聞こえたが、自分の首を取りに来る様子もない。
 もはや首を獲って殊勲の証とする時代が、人間たちの中で終わったのだと思った。

 どちゃり、と音を立ててブラジオの半身は自身の血と臓物の中に沈む。
 通常ではありえない視界の角度、同じように落下した自身の半身が見えた。

 なるほど一部とはいえ自分の脚の裏などはこう見えていたのかと、奇妙な感慨をおぼえながらも意識が薄れゆく。

 その先に、あの青年がいた。
 敵の退路からずれた位置にいる。彼の読んだ通り、敵は退く先にいる相手には容赦はしないが、脇道に武功を求めようとはしなかった。

 異様な光景ではあった。
 中央突破を許したすえの乱戦ではあったが、互いに隣り合った敵にこれ以上は拘泥せず、それぞれの本隊に合流するべくすれ違っていく。

 だが、夏山星舟は、今の彼の手に余る地獄を脱した。敵が避けて通っていく。

 まるでブラジオを含めた他を犠牲にしてでも、彼を何処かの果てへと引っ張っていく、超常の意思が働いているかのように。
 彼自身の増長のとおりに、ともすればそれ以上の運命が彼に割り振られているかのように。

 それは、果たしてこの片目の青年にとって幸か、不幸か。

 だが、最期に庇ったのがあの連中で良かったと思う。
 それは、実は好意的に感じたからではない。力量こそ認めざるを得ない部分はあったが、死に際においても虫の好かぬ男であることは変わりはない。相手にとってもそうだろう。

 だがしかし、いやだからこそだ。
 互いに嫌悪する相手だからこそ、みずからが掲げた信念を選り好みした偽善ではなく、本当の意味で貫徹できたというたしかな実感があった。

 無念ではある。だが、充実も感じている。

 これ以上己の生に付け加えるべきものは何もなく、前時代の象徴はその変遷とともに去る。痛でもあり、快でもある。

 忌々しくも、今は極小卑弱であろうとも、だがたしかに新しき風を感じる人間たちへ。

 そして今は遠く離れていようとも、自分のすべてを受け継ぐであろう我が子へ。

 伝わるかどうかは知らず、遺す。



「為すべきを為せ、在るように在れ」



[42755] 第二章:狩人 ~対尾港撤退戦~(二十六)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:6f4fa50d
Date: 2018/12/11 07:45
「勝った……?」
 竜軍が去った対尾港に陣する藩王国総軍。その陣中で不気味なほど長く続いた静寂。
 それを破り、最初に口にしたのは、誰だったのか。

 だが確実にそれは伝播を始めて広がり、やがては歓喜の色を増して、大地さえ揺らすどよめきへと変わり、山々を震わせる喚声と化した。

 兵士たちは武器を投げ捨て両手を突き上げ、あるいは上空へと祝砲を放ち、傍らの所属も身分も違う者同士が抱き合った。
 本来は彼らの暴走をたしなめなければならない立場の者たちもまた、熱くなった目頭を押さえていた。

 無理らしらかぬことであろう。
 それは、今までのような多大な被害を出したうえでの辛勝ではない。
 これは、野ネズミのように巣穴から這い出るようにして得た功ではない。

 まぎれもなく自分たちは、正面から彼らを打ち破ったのだ。

「そうだ。我々は勝った。いや連中を、狩ったのだ」

 その声に、劣らぬ声量の声が響き渡った。
 戦場とは不似合いな、凛と鳴る女性のもの。喜んでいた兵士たちの身体に、緊張がはしり、誰が戒めたまでもなく、場は静けさを取り戻した。

 巨艦より現れた軍服の女王。颯爽たるその姿を認めた者から、膝を突いて彼女を出迎えた。
 船上より彼女に侍っていた海軍司令官、それに地上で待っていた異人の女を伴って、赤国流花新王は国土を踏んだ。

「諸君。まずは落着、祝着。大儀であった。よくぞ、若輩新参たる我らの指揮に、惑うことなく従ってくれた」

 そうねぎらいの声をかけた時には、すでに低頭しない者はなく、畏敬の眼差しでもってこの戦女神に拝していた。

「だがどうだ? 彼らは決して無敵などではない。神ではない。技術を極め、英知を尽くせば、彼らの怪力を無力化できる。そういう時代が訪れたのだ。諸君らが何よりその証人ではないか!」

 姿勢は屈したまま。だが彼女の弁はそんな兵士たちが静かに発する熱を高めていく。

「今日この日より! 虐げられてきた日々は終わる! 彼らの傲慢をくじき、我らの領土と矜持を取り戻す戦いが始まる! 彼らの占領する地で圧政に苦しむ同胞たちにこの報を届かせろッ、それが偽りでないことをさらに示せ! そして追い落とせ! この地をあるべき形へと戻すのだッ」

 喝采が沸く。新王を称える音声が響く。
 照れもせず、また奢りもせず、当然の賛美と受け止めた流花の背後から船員たちが酒が運ばれていき、各陣中へと供された。

「まぁ今日のところはだ。勝ちだろうと負けだろうとすべて忘れて、飲めッ」

 先ほどとは多少毛色の違う喚呼と賛美が、一帯を振動させた。


 この戦の立役者たちが戻ってきたのは、そんな折だった。
 着到を報せられた流花はただちに彼らを眼前へと迎え入れた。

 七尾藩主霜月信冬はともかく、本来手足を視界におさめることさえ憚れる身分差であった。義勇兵は弥平以下、委縮しきって震えながら平伏していた。
 今まで死地に身を置いていたはずだろうに。
 その長たる少年は、その光景を滑稽に感じた。

 ――でも……

 少年は少年でまた、それとは別の理由で身を硬くしていた。
 赤国流花を盗み見、感動に打ち震えた。

 ――お綺麗だ。あの時と……いやそれ以上に。

 だが数年前の面影を持つ彼女は、彼ではなくその隣に進み出た大頭巾の男へと身を寄せた。

「霜月殿。危険な役回りをよくお引き受けくださった。感謝します。今後ともその武勇と精兵には活躍していただきますぞ」

 と、固く手を握りしめて、下にも置かぬ破格の遇し方だ。だが、この母親の胎の中に感情を置き忘れたかのような男は、ぼそぼそと陰気な声で、

「すべては、国のためなれば」

 と、短く答えたきりだった。

 そして流花は、今度は少年たちのほうへと目を向けた。

「貴様らも、雄藩にさえ勝る八面六臂の活躍であったと聞いている。いずれ、それに見合った褒賞をとらす。望みは金品か、取り立てか、領地か。あるいは年貢の免除か」
「も、勿体ねぇお言葉で! そのような望みは思いもよらず。ただおれらの村を、いえ国を守らんがために立ち上がっただけで」

 惚けている少年に代わり、弥平が代わりに答えた。一生懸命に練習していた口上を、つまずきながら額を土に擦り付け述べていく。
 本来は権勢にへり下るような肝の細い男ではないのだが、それを差し引いても、彼女が放つ威が彼を身分相応の卑屈さにさせてしまうのだった。

「まぁ、細かい話は秦桃に帰ってからだな。何しろ前例というものがない大勝だ。その論功賞もまた、類を見ないものとなろう」

 そう言い置いて、自身は艦へと戻っていこうとする。

 ――やっぱり、覚えていないか。
 誰にも理解されない軽い落胆と、寂寥を少年は俯いたままに噛み締めた。

「おい」

 思い焦がれていた声が降ってきたのはその時だった。

「私がくれてやった簪は、まだ持っているか」

 その声がまるで天啓か雷のように、少年の体躯を貫き、起き上がらせた。

 本来は目通りさえ許されない身分差。そんなことさえ忘れて、彼は女王の背を凝視する。

 振り返った横顔が、涼やかに眼を細め、口端が悪童のように吊り上がる。

「忘れて良いような約束を果たしに来るとは、律儀なヤツだな。……網草(あみくさ)英悟(えいご)」

 生まれ出でし時から決められていた、おのれの名。そのはずなのに、今その瞬間に自分がそう名付けられたように楽信は錯覚した。
 否、自分の生命は今この瞬間より本当の意味で得たのだと思った。

「はい……っ、はい! まだ、この懐に!」

 竜に勝利した瞬間でさえ流さなかった涙を、英悟は一筋、二筋とこぼした。
「まぁ、そこな大頭巾殿に合わせようとはあまり思うなよ。命が惜しければな」
 とぼけたように肩をすくめさせ、流花はふたたび背を向け、歩き出した。
 また、離れてしまう。なまじ心を通わせてしまったがゆえに、未練はいっそう強くなる。
 何か話題をと模索する義兵の少年は、膝で土を擦りながら大声を発した。

「そう……そうなんです! 霜月公はまさに鬼神の働き! 数多の竜を殺傷し、あまつさえ明らかに精強な巨竜でさえ討ち取りました! サガラ・トゥーチもあの場にいれば、あるいは討ち取れたかとッ」

 女王に反応はない。
 だが、意外な人物が、彼女に追従しようとしたその足を止めた。

「……今、なんと言った……?」

 そう反応を示したのは、異国の女楽師。たしか名をカミンレイとか言ったか。
 年齢不詳な彼女はそれ自体が楽器であるかのような美しく、硬質な声色で、彼に問うてきた。

 意外な人物の思いもよらない食いつきに、英悟は言葉を詰まらせた。
 代わり、霜月信冬がそれに答を返した。

「サガラ・トゥーチは本陣にはいなかった。あの男が指揮を執っていれば、いま少し苦労をしたかと」

 ~~~

 外では、夜を徹して酒盛りが催されていた。
 優雅さとは無縁だが、陰気など微塵も感じさせない、活気と陽気にあふれた宴だった。

 対して、竜軍が本陣として使っていた台場では、陰鬱な面々が顔を突き合わせていた。否、それぞれが床に視線を落したまま、自身の鬱屈や後悔と対峙していた。

「長範殿」

 そのうちのひとり、この勝ち戦において唯一勝ち星を得られなかった男に、カミンレイは静かに声をかけた。

「……ははァ!」

 やや妬ましげに外を横目で睨んでいた家老は、ハッとしてように視線をふたたび伏せた。

「あなたはわたくしの密命に従い、よく敵をここまで誘い込んでくれました。その後も信じて耐え忍んでくれた。その奮戦の甲斐あって勝利も飾れたことですし、わたくし自身はしがない演奏家。将兵に対する処罰の権限は持ち合わせてはいません」

 残念ながら、と内心で付け足した。

「よって、今回の一件は不問に処します。部下にも落ち度はあった」

 傍らのヴェイチェルが、その巨体を隆起させようとした。それを、ダローガが脇から押しとどめた。
 この男の短い忍耐が焼ききれる前にそう裁きを終えたカミンレイは、委縮する現地人の肩を叩いた。
 感謝の言葉を述べようとする彼よりも先に、その耳元で囁きかける。

「ただこれ以上我ら相手に余計なことを画策すれば、それこそ本当に『貧乏くじ』を引くことになりますよ?」

 とたん、男の額から汗がどっと吹き出し、額や首筋を伝って、顎から床へと滴り落ちていく。
 だんだんと所在をなくしていく視線が「何故それを!?」という混乱を隠せなくなっていくのが、滑稽だった。

「話はここまでです。もう行ってよろしい」

 その汗が引かないうちに、女楽師は家老を退出させた。
 多少溜飲が下がった、といった調子のヴェイチェルは腹に落着きを取り戻したようで、腰を深く落としていた。

「お前たちも、よく分かったでしょう。この大陸に住まうのは、かつて我らの先祖が滅ぼした知性なき野人や飛竜たちとは訳が違う。私たちに通じる価値観や思想を持ち、中には国内外の知識を積極的に取り入れようとする賢者もいる。陛下やお前たちはあくまで彼らを獣とみなしているようですが、彼らが他の国……たとえば『三花』などと国交を結べば、かなり厄介な位置づけになる。それをさせぬために、来ているのです。認識を改めなさい」
「……まぁ、今回一杯食わされたのは、人間の小僧でしたがね」
「そのようですね」

 それは先に報告を受けている。
 指揮官の名まではまだ教えられてはいないが、東方領本領、第二連隊長は人間の身でありながら正攻法と奇策を織り交ぜ、今回の殿を忠実に務めおおせたという。
 こと、ヴェイチェルにおいてはいたく誇りを踏みにじられたらしい。今も忌々しげに舌打ちしながら、だが見えない敵に張り合うように不敵さを見せていた。

「だが奴ら、よほど慌てていたらしい。せっかく奪ったトルバの多くを道中に逃がしていたわ」
「……で?」
「四方に散っていたし、話を聞きつけた他のサルどもも必死で探しておったが、なに。今部下に回収に当たらせている。ほとんどは接収できるさ」
「…………そのせっかく鹵獲した希少も希少の軍馬を、何故敵が道中で手放したのか。何故散らして解放したのか。何故それを他の隊が知り得たのか。そこには頭が及ばないわけですか」

 カミンレイのわずかな声色の変化で、ダローガもまた察したようだった。だが、珍しく雄弁をふるうヴェイチェルに、直接説明をしようとはしない。やや苦みのある愛想笑いでごまかすだけだった。
 そしてカミンレイもまた、執事の意図を汲んだ。

 ――たしかに、過ぎたことをいちいち粗探しする意味はない……

 もはや演奏は終わり、多くの観客は興奮と感動を味わっている。
 たとえそれが演者自身の満足のいくものでなくとも、もはやできることは幕の裏で渋面を作ることぐらいだ。

 それ以上は何も言わず、部下のふたりを退かせた。

 それから数日ほど後。
 各藩の隊が自領に撤収していくなか、残って事後処理をしていたところに、偵察が戻ってきた。
 突如降ってわいた気配に、振り返りもせずカミンレイは藪から棒に尋ねた。

「で、様子は?」
「貴女の予測されていたとおりですよ」

 と、それなりに年季の入った男の声が影を伸ばすとともに答えた。

「和浦から続く野浄(やじょう)、平入(ひらいり)。西に続くめぼしい竜軍の港湾は焼け落とされてます。政庁や代官所からは人員から戸籍、航路図。はては走り書きに到るまですべて回収のうえ。さらに東西の橋が落とされていて、対岸の碧納(へきのう)には防塁がこしらえられている。あれは事前に準備していたとしか思えません。ですが、撤収自体の指揮を執っていたのは」
「サガラ・トゥーチ」

 やられた。
 表情には柔和さを保たせたまま、臓腑を自身の迂闊さに対する怒りで焼く。
 恐らくはある程度までは撤退の総指揮を執っていたはずだ。だが、安全圏まで至った直後に自身は少数の兵とともに戦場を離脱。事前に配備していた軍勢と合流し、各港湾を廃棄した。自分たちに、使わせないために。

「おまけにただの自落というわけでもないようで」
「と言いますと?」
「やれ『分良藩の部隊が略奪したのだ』とか、『異人が襲ってきた』とか『七尾が焼き討ちをした』とか、そういう埒もない風聞が流れています。事実、ウクジット隊の腕章が襲撃された村で発見されたようで」
「……何名かの死体が見当たらないと思ったら」
「まして竜たちは有史以来、略奪をした事例は皆無に等しい。それに自領を焼くなど、一般的な感性からすればありえない。自然、近隣を焼いたのは勝ちに奢った我らというのが、もっぱらの説で、我らの評判はガタ落ちです。被害を覚悟で総軍で攻めればあるいは碧納は落とせるかもしれませんが、その後の統治、守備……そして開港、入植ともなると」

 カミンレイは振り返り、眼力でもってその男の口を封じた。

 ある程度の妨害は予想していた。だが、それをはるかに上回る周到さと悪辣さで、サガラは今後の構想を打ち砕いてきた。

 ――おそらくはあの男は、気づいている。
 いくら勝利を重ねようとも、領土を切り取り資源を確保しようとも、本国と自分たちをつなぐ『海』を取らねばたちまちに補給は限界に達して立ち枯れるということを。
 ただでさえ、皇帝とその側近たちはこの軍事的介入をただの軍資の浪費、元帥令嬢のお遊びと見なしているフシがある。流花と先王、父からの進言で今回の出陣か叶ったとはいえ、あちらから補給路を拡張することはまずありえない。

 せめて土地勘のある汐津やら分良やらに余力があれば。
 あるいはヴェイチェルらがトルバの回収などにかまけずさっさと帰陣してきていれば。いやそもそも、トルバ自体をむざむざと奪われていなければ。
 彼らを威力偵察として差し向けて、奪取まではいかずとも妨害ぐらいはできたものを。

 おのれのとりとめのない悔恨に、彼女は首を振った。
 相手に完璧さを求めるのは、自分の悪癖だ。何より、他ならぬ自分自身が、最後の最後、指揮杖の振りが一拍子遅れたのだ。口では油断を禁じながらも実際は竜を安く見積もり過ぎていた。

 そう自覚を持つと、怒りは収まり、確たる道理となってカミンレイの腑に落ちた。

 ――しかし、まさか全軍の撤退それ自体を囮とするとは……

 件の殿軍の将はその策を知っていたのか。いや、それはありえない。
 ブラジオ・ガールィエが死んでいる。注意を引くためだけに、戦没者の碑銘に書き連ねて良い男ではない。

 ――なのに、何故……
 何故、その男の小手先の戦術と、サガラの戦略はかくも噛み合っている?

 まったくの偶然か。あるいはサガラが一方的にそれを利用したのか。
 そもそも、その男には自分が敗残の将ではなく、竜軍の一挙瓦解を防ぎとめた陰の功労者だという自覚はあるのだろうか。

 ダローガの人物評では「小才が利くものの、感情的かつ衝動的で詰めの甘い小者」とのことだがどうにもそれだけではない予感がある。

「なんと言いましたか?」
「はい?」
「例の第二連隊長です」
「あぁ、夏山星舟ですか」
「せいしゅう」

 この国では多くの耳慣れぬ言語を聞いてきたが、その中でもとりわけ発音しづらい名であった。

「戻ってきたばかりですが、もう一度貴方には彼らの領内に潜り込んでもらいます」
「次の楽章に進むわけですか」

 彼女の流儀に合わせた物言いで、影は答えた。
 彼に軽く頷き返し、「それと」と、一本の指を立てた。

「ことのついでに、頼みたい用事があります」



[42755] 第二章:狩人 ~対尾港撤退戦~(二十七)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:6f4fa50d
Date: 2018/09/15 21:53
 悪夢のような戦が終わった。
 敗軍は傷病者と同胞の骸を抱えて国へと帰り、一将の功も成らず、万骨は枯れた。

 昼下がりの雨が、刃のように冷たく光を放ちながら、鋼の陵墓に降り注いでいた。
 鋼といってもいかな材質で構成されているのか。その奥底はいったいどれほどの広さで、どれだけの竜の亡骸や彼らの用いていた『牙』や『鱗』が納められているのか。
 それはリィミィたちのような竜でも知るものはいない。それを管理する真竜種たちの間でも、秘中の秘であり、あるいはそれぞれがまったく別の種類なのかもしれない。ただ、東方領のこの陵墓に関して言えば、丘をくりぬいてはめこまれたその場所は、墓地というよりかはまるで

 ――保管庫……
 のようだった。

 故竜の巨躯よりも一回り以上小さな棺が、嫡子カルラディオを先頭に、数人の家族の手によってその中へと収められていった。
 その函に、肉体は容れられていない。ただあるのは、必死の反撃で取り戻した彼の抜き身の『牙』であった。乱戦の中、かろうじて回収できたのが、それだった。
 そしてやはり、その担ぎ手の数が多すぎるために、やや持て余し気味になっていた。
 死者、ブラジオ・ガールィエを遺徳を示さんと葬式は礼式にのっとって厳かに執り行われてはいたものの、かえって空疎な印象を弔問客に与えてしまっていた。

「となると、鞘と遺体は……敵の手に」

 白衣から一転、黒い喪服のリィミィが危惧を耳元でささやいた。
 だが、夏山星舟は唇を引き結んだままに答えなかった。代わり、負傷した彼を支える厚朴の杖が、ぎしぎしと音を立てるのみだった。

 彼らの数歩の距離の先には、東方領主アルジュナ・トゥーチが立っている。
 彼こそ杖や床几を使っても良い歳だろうに、それでも二本の脚で、背を伸ばして直立していた。
 だが、その姿はいつにもまして年老いて、そして悄然としていた。
 すまぬ、という小声がその背から漏れ聞こえてきそうだった。

 シャロンはふだんの爛漫さを喪い、うなだれていた。
 サガラが事務的にブラジオの過去の業績を読み上げ、その忠心と勤労を賞美した。
 ジオグゥの姿はなかった。

 どれほど貴び、惜しむべき時間ではあったとしても、葬儀は式が済めば終わるものである。
 だが解散というはこびになっても、立派に喪主を務め上げた次期当主に客がめいめいに偉大な先代を悼む言葉を告げに集まっていた。
 その顔ぶれは比較的若い。無理もないことで、彼らの父兄の多くもまた、対尾にて没した。

 真竜種が死ぬということは、戦力が大幅に低下するとか威厳が削がれたということのみではない。何より、その家々を差配していた最高権力者が突然消えることが最大の問題なのだ。

「これからこういうのが続く。……喪服を乾かしてる暇もありゃしねぇ」

 星舟はそう愚痴をこぼした。
 ただそう言いつつも、あれこれと世話を焼こうとするシェントゥが差し出す傘を手で拒み、逆に彼自身が雨に当たらないように傾けた。

 喪主と星舟の目が合った。カルラディオは表情なく、自分に身を寄せる竜たちに断りを入れ、星舟の周囲をかき分けるようにしてつかつかと接近してきた。
 父ブラジオに似ず色白の美少年だが、なるほど学府におけるサガラ以来の秀才との呼び声に見合った知性と気品を感じさせた。

 しずしずと頭を下げた星舟に対し、彼は歩みを止めなかった。
 困惑する取り巻きをよそに、その歩速はいさおう高まっていく。

「この度は」

 硬い声で弔辞を述べようとした星舟は、しかし最後まで言うことができなかった。

 勢いをつけて踏み込んだカルラディオが、右の拳で星舟の顔を殴りつけたのだから。

「何故……父を救わなかった」

 星舟の上体が揺らいだが、膝は屈さなかった。それが気に入らなかったのか、少年の白皙に、朱と怒が徐々に浮かび上がった。

「お前がッ!!」

 少年はさして自分と身長の変わらない男の襟首に食い掛かり、押し倒した。
 周囲が声で自重を促したが、あえて強引に引き止めようとする者はいなかった。
 少年の烈しさが他者の介入を良しとしなかったし、その怒りが道理でなくとも同情できるものだったからだ。

「気の済むまで、させてやれ」
 と、傘の下のサガラが後輩の心痛を重んじるような調子で、周囲を制止した。だがその一瞬、薄い笑いが唇を歪ませたのを、リィミィは見逃さなかった。

 いかに骨細の若年と言えども、真竜の腕力である。馬乗りになられたまま殴られる星舟の顔に、見る見るうちに痣が出来、血が切れた口から流れていた。

 無論、列席していた第二連隊がそれを看過して良いわけがない。何人かは無理矢理にでも両者を引き剥がそうとしたが

「手を出すな!」

 と、他ならぬ殴られている本人が、血にむせながら命じたのだから、止まり、判断しかねていた。

 もちろん夏山、ガールィエ両家の諍いを激化させなための配慮ではあったが、それだけではなく、やり場のない少年の激情と無念に、誰よりも同情的なのがこの星舟だったからだろう。

 しかし、そのことにカルラディオが気づく気配はない。また、慮る義理もない。

「父上はお前たちを守るために戦ったのに! お前が何もしなかったからッ! お前がおのれのなすべきことを果たさなかったから父は死んだ!」

 星舟の口から、かすかな呼気が漏れた。
 隠れた前髪の奥で、詰め物の埋めた眼窩が歪んだ。

「お止めなさい!」

 鋭く制止の声が上がり、その方向に向きながら衆が割れた。
 開けた道からみずから傘を差したシャロンが険しい表情でカルラディオを睨んでいた。

「お父上も、そこの夏山殿も、それぞれが自身の信念に従って、為すべき使命に力を尽くしたのです! その死の責をもう一方に押し付けることは、あなた自身がッ、お父上の矜持を汚す行為に他なりません!」

 カルラディオの振り上げた手が宙に留まった。
 刺激しないよう、慎重な足取りで彼らの下に近づいた領姫は、握り固めたままの少年の拳を掌で包み、自身の眉間に当てた。

「皆が大いに傷ついたのです。その咎めを受けるとすれば、それは指揮官であった私に他なりません。やるなら私を撲ちなさい」

 母のように、姉のように、若き当代にそう諭す。見る見るうちに彼の痩躯から敵意が萎んでいくのが傍目からも見て取れた。完全にそれが霧散したわけではないが、力なく肩を落としたカルラディオは星舟とシャロンから身を離した。

「……くそ……!」
 しゃくり上げるように毒を吐く。あるいは、本当に突然降って沸いた重責と悲運に押しつぶされて、雨に紛れて泣いていたのかもしれない。

 泥を払いながら、シャロンが星舟へと向けて手と、逆の手で握る傘を差し伸ばした。

「彼も混乱しているのです。夏山殿、あまりお気にされぬように」
 という慰めは、彼の耳に通っているのかどうか。
 そも彼女の姿は、星舟に認識されているのか。

 星舟は自分の手足を使って杖を拾い、立ち上がった。
 戦傷も癒えず、今またあらたに傷を刻まれた隻眼の青年は、歩き始めた。
 あまりに痛ましいその姿に、今まで公の者として振る舞っていたシャロンは、

「……セイちゃん!」

 と、たまりかねて情動のままに彼を呼んだ。
 星舟は足を止めた。雨に打たれるまま、黒髪の先からしたたらせ、頬を濡らしながら、暗い表情を向ける。だが、まるでしがみつくように輝きが眼の奥底でくすぶっていた。
 どういう感情に起因するものか推し量れない表情で深々と辞儀をしながら、星舟は、分厚い雨の帳の中に溶けていく。

「無駄ですよ」

 なおも彼を呼び慕い、追いかけようとするシャロンをリィミィは嘆息まじりに制した。

「あの男は、必要であれば自分で傘を差しましょう。目的があれば、濡れるのも構わず他者に惜しみなく自身のそれを渡すでしょう。使命のためならば、敵味方から奪い取るでしょう。ですが、差し出された傘には決して入らない。……そういう男ですよ。今の夏山星舟は」

 呆然と立ち尽くすシャロンの周囲では、彼女の身を案じた身内や侍女が、争うように傘を差しだしていた。

 光龍四十五年。
 竜たちの長く続く苦難と試練は、今この瞬間より始まった。


 第二章:狩人 ~対尾港撤退戦~ ……閉幕



[42755] 番外編:狐の毛皮は何色か(前編)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:6f4fa50d
Date: 2018/10/14 13:53
 冬の気配が例年にも増して長かった頃合いも、そろそろ終わりを迎えようとしていた。
 あたたかな気が流れ込む六ツ矢の一区画、その武家屋敷を、鳥竜の姉弟が訪れていた。

「どうもー。母上から頼まれて見舞いの蜜柑を届けに……ってあれ?」
 キララマグの前に出て門戸を叩いたクララボンを出迎えたのは、茶髪の小柄な少年だった。

「あれ? お前さんは……」
「シェンちゃん」

 とっさに名前の出なかった弟に代わり、前に出た姉がその名を呼んだ。
 ともに死線を超えた新兵は、はにかみながらペコリと頭を垂れた。

「おタキさんは?」
「産休だそうです」
「あっちゃー……隊長、孕ませちゃった?」

 姉に向う脛を蹴り飛ばされて、クララボンは悶絶した。

「それで代わりに、おれが身の回りの世話を」
「そう、それは……とても良いことね!」
「つか、いつの間にそんなに仲良くなったんスか? そもそも、なんでお前さんが世話してんの」

 彼女らの会話に妙な親しみを感じたクララボンは、脚を抱えるようにして跳ね回りながら、両者の顔を覗きみるようにして問うた。

 痛みが治まった頃合いを見計らって、その新米、シェントゥは姉弟を招き入れた。廊下へ案内しつつも、その横顔に陰を差し込ませた。

「隊長がケガしたの、おれのせいだし……他にもいつも色々お世話してくれるし。何かお詫びできることないかなって、思ってたらキララさんが相談に乗ってくれて」

 ふぅん、とクララボンは相槌を打った。
 たしかに、隊長ことこの屋敷の主である夏山星舟は、とくにこの少年を目にかけている。まだ年端もいかない子どもであるゆえというのもあるだろうが、明敏な感覚を買っているようだった。
 本竜が気にかけている臆病と大人しいと言う気質についても、

「物見、使い番なんぞそれぐらいがちょうど良い。何より、オレを裏切ることがないというその気弱さが、良い」

 と、例のあくどい顔で述べていたが、はたしてどこまでが本心なのやら。
 とにもかくにもそんな寵を受けたこの獣竜の少年は、そんな星舟の言い分は知らず、ますます上司への敬慕を深めていったのだ。

 ――それにしても、だ。
 この純朴な少年はそれで良いにしても、姉が他者を気にかけるとは意外だった。
 冷淡というほどではないが、誰に対しても均等な距離をとるのがこの姉ではないのか。

「なによ」
 と、自分に似た目鼻立ちが疑念を向けてきた。

「いやぁ、自分は姉さんにそんな風に親身に相手されたことって、ないかなって」
 こういう時の姉には隠し事はできない。
 それを知っているクララボンは、率直に答えた。

「たとえば?」
「姉さんの友達の好みとか、マトモに答えてくれたことないじゃねっスか」
「あれはあんたがあの娘にコナかけようとしたからでしょう」

 姉の態度はそっけない。だが、隙間もなくすぐに記憶を呼び起こせるあたりに、姉弟としてのつながりを感じさせた。

「クララさんが、おれが隊長の身の回りの世話をするときに、いろいろ教えてくれたんです。お茶をお出しする時機とか、料理の味付けの好みとか、どうすれば、喜んでくれるのか、とか、自分の気持ちの整理、とか……」

 土産を両手に抱えたシェントゥが、姉をかばうように言った。だが、消え入るような彼の言葉尻に、違和感を覚える。
 首筋まで紅潮させた白い首筋が、同性から見ても妙に艶っぽい。並の女の比ではない。

 その物言いや感情に対する追及をしようとするクララの前に、小柄な影が立ちはだかった。副官リィミィが、白い上衣を引きずるようにしながら、相変わらず気難しい顔をしていた。

「両名とも悪いな。ララ家も大変な時だろうに」
「いやぁ、ウチはまだいいス。他の鳥竜の方がよっぽどか大変っスよ」
「そのようだな」

 ますますその表情に苦みを加え、その威に気圧されたシェントゥは、おずおずと蜜柑の入った包みを彼女へと差し出した。
 同類のよしみというやつか、わずかながらに表情をほころばせたリィミィは「自分で届けてきなさい」と命じた。少年はパァッと顔いっぱいに喜色を浮かばせ、主の待つ部屋へと入っていった。

「来たか」
 その部屋の奥から、声が聞こえた。

「そんなところに突っ立ってないで、こっち来て座れ」
 そう上司の声に勧められるままに、姉弟は座敷に辞儀とともに入った。

 ――座るっつったって、どこに?

 クララボンは胸中でそうぼやいた。
 布団に膝を潜らせた夏山星舟を中心に、八畳間には足の置き場もないほどに書簡の類が広がっていた。
 それに余さず読み込む星舟の右目には、わずかな雑念も感じられなかった。

「……なんか、思ったより具合良さそうっスね」
 と、クララボンはリィミィに耳打ちした。

 腿を斬られた時にはもしや失血死、あるいは脚の切断か、などと隊内で激震がはしったものだが、幸いにして重要な血管の損傷は免れた。毒素も入らずに済み、七日としないうちに杖を突いての歩行が出来るようになった。
 が、そんな身体を押して、時には雨に、時には悪意にさらされながらも戦後処理に奔走した彼の身体は、一区切りのついたふとした拍子に高熱を発してしまった。

 だがそれも乗り越えて、星舟の肉体は快方に向かいつつあるようだ。

「どうだかな」
 しかし彼のそばで良く見ているリィミィは、その見立てには懐疑的なようだった。

「聞こえてるぞ」
 帳面をめくりながら、その星舟が舌打ちした。

「だから少し体調を崩したぐらいで、元から大したことねぇっつの。明日葉に数種の野菜、果実を擦り入れたコイツを飲めば、どんな病もたちどころに治るっつーの」

 彼はそう自慢げに、グラスに入った橙色の手製薬酒を捧げ持った。

 ――なんで、頭のいい奴に限って医者の言うこと信じずにこういう根拠のない怪しげなモンに傾倒するんだろ……

 そう疑問に思わざるをえないクララボンだったが、彼に「それで?」と星舟は促した。

「周囲の状況は? 多少は落ち着いたのか」
「えぇ、まぁ」

 クララボンは畳の縁外に沿うように膝を揃えながら、言葉を暗く濁した。
 あの悪夢のような撤退戦から数月と経ち、事態は春の兆しとともにようやく落ち着きを取り戻していた。

 と言っても、好転はしていない。
 混乱に乗じて一斉に動き出した七尾、汐津ほか南方の諸藩が竜の版図の切り取りを開始。当主不在となった領地を切り取った。

 藩王軍の陸海よりの助勢を得る形で和浦周辺まで進出して完全に制圧していた。
 また竜帝国内においても、反竜の動きが活発化。どこからともなく湧いて出た旧権力者の残党主導による一揆が頻発していた。

 それに歯止めがかかったのがつい先日のこと。
 海路をサガラたちの親衛隊に抑えられ、補給が限界に達した。また、隣接する藩による領土や権益の問題が激化したため、ひとまず藩王側でもその収拾に回り始めていた。

「で、そのサガラ様は、機動戦を各地で展開。わずかにですが、次第に押し返し始めていますが」
「切り取った領地を返そうともしない。帝都の直轄領として、自分の部下に統治させてる、だろ?」
「……よくご存知で」

 クララボンはそう褒めたが、本人は嬉しくなさそうに鼻を鳴らした。

「オレが分捕ったトルバが、さぞかし役に立ってるんだろうな。……あーあ、接収されるってわかってりゃ、いっそあの場で全頭使い潰しておくんだった」
「でも、乗馬の心得があったのは一部の、士分の出の人間だけじゃなかったですか。それに乗りこなすにしても、実戦で使えるかどうかも」

 キララマグがそう見解を述べた。だが、星舟はぐっと唇を噛み締めて首を振った。

「それでも空馬のケツ引っ叩いて、まとまった数を会見平原に飛び込ませてりゃ、なんとかなったかもしれねぇだろ。……そうすりゃきっとブラジ」
「星舟ッ!!」

 姉弟の傍らで徐々に顔を渋くさせていたリィミィが、突如として声を荒げた。
 平素の在り方とは違う彼女に驚く周囲をよそに、彼女は呼吸を整えた後、

「それ以上は、止めておけ」
 と上司を諌めた。

「……すまん」
 と正直に謝った星舟だったが、パチクリと目が瞬くその顔は、なぜ叱られているのか分からない子どものそれだった。

 あまりに無防備であどけないその様子を観察して、クララボンは得心の嘆息を吐いた。

 ――なるほど先生の言うとおり、たしかにまだお疲れだわな。

 そんな病人の前におずおずと、剥いた蜜柑が手渡された。
 傍らのシェントゥが差し出すそれを、星舟は右目で見ていた。
「あの」
 少年は、ごこちなく笑いかけ、敬愛する上司の口元にそれを近づけた。
「甘いもの食べたら、その……ちょっとは安らぐかと思います」

 自分で大胆なことをしているという自覚があるのか。シェントゥは伏せたまなこを彷徨わせ、真っ赤になっていた。
 対する星舟は固まっていた。このままされるがままに口にくわえるか、それとも手で取るか。その思考と選択の時間だったと思う。
 だが彼の両手や周囲は書面や帳簿でふさがっている。それを改めて見つめ直したい星舟は、後者を選んだ。

 首をやや伸ばして蜜柑の一切れを唇で挟む。それを見たシェントゥは少し安堵したような……それでいてかなり嬉しそうな表情で目を輝かせていた。

 その横顔を、ふと見遣ってしまいながらもクララボンは、なんだか見てはならないものを見てしまった心境だった。

 とは言えリィミィの一喝から生じた場の緊張は、表面上は微笑ましい絵面によって緩和された。
 当のリィミィもまた、先ほどのことはさっぱり忘れたように、星舟に報告書を近づけて談じていた。

「シェンちゃん、全員分の蜜柑も剥くから、あとお茶も淹れるから手伝って」
「あ、はい!」

 姉に手招きされて、シェントゥは座敷から退出した。

 はて、二名がかりで取り掛からねばならないほどの量を持って来ただろうか。
 素朴な疑問から、また純粋な興味から、クララボンは彼女らが向かった台所へと忍び寄った。

「……やった、食べてくれました! キララさん!」
「そうねっ、頑張ったわね、シェンちゃん!」

 と、ささめく声が漏れ聞こえたのは、三歩ほどの間合いでだった。

「でも、大丈夫だったんでしょうか……男にあんなことされて、気色悪いとか思われなかったでしょうか」
「大丈夫よ。そんなことにこだわる人じゃないし、状況でもない。むしろ、色々と傷ついてる今こそ好機なのよ。ここぞとばかりに押してきなさい。今度、私の服貸してあげるから、ちょっとばかり着飾っても良いと思うわ」
「で、でも本当にこれで喜んでくれるんですか?」
「心配しないの。貴方の恋……忠誠心は、きっと、伝わるって信じてる」

 もじもじと恥じらいながらも、キララマグの言うことに抵抗する気配はない。姉はそんな純粋な美少年を見て、今まで見たことない陶然とした表情でうなずいていた。

 そして彼女の弟は、あんぐりと顔を上げ、物陰で総身をわななかせていた。

 〜〜〜

「姉さんッ、アンタいたいけな少年になァにを吹き込んでんスか!?」

 上機嫌で小盆を抱えていったシェントゥをやり過ごし、クララボンは姉を改めて問い詰めた。

 だが、キララマグは泰然と立ったまま、悪びれもしていない。
 鳥竜にありながら飛行を不得手とするという、重大な欠陥を抱えたそ身体だが、この時ばかりは体幹に一切の揺らぎもない。その様はさながら、一個の戦女神の像だった。

「ねぇ、ボンちゃん」

 姉が姿勢を崩さず口だけ動かした。弟を愛称で呼ばわった。

「あんた、先の戦での大敗は、何が原因だと思う?」

 突拍子もない問いに、クララボンは面食らった。だが、彼女は真剣に問うてきていた。それを受けて、とりあえずは思考を切り替え、推察した。

「思い当たるフシは、山ほどあるっスね……」
「そう。でも、つまるところは全てはある一点につながると思う」
「と言うと?」
「人間への無関心、無知。ひいては、自分たち以外の価値観を認めていなかったこと。そしてそれは真竜だけに限った話じゃない。人々の持つ価値や歴史、知識や技術といったもの。獣竜や鳥竜たちもそれとあらためて向き合う時が来たと思うわ」
「……それは、そうかもしれませんね」

 まさか姉の口から竜種すべての今後を慮る言葉が、しかもこんな折と場所にて出てくるとは思わず、クララボンは面食らい、だからこそ虚心でその意見を受け入れていた。

「姉ちゃんもね、ずっとそのことについて考えてた。で、最近一つの結論を得たの」
「結論?」

 オウム返しに問う弟に、姉は思わせぶりな、だが透き通った笑みを称えてみせた
。すらりとした指先が据え置かれた釜や鍋の縁をなぞる。その所作は、我が姉ながらに様になっていると思う。やはりこういうところで、同じ腹から生じた生命であったとしても、男女の差というものが出てくるのだろう。

 自身と比してやや肉感的な唇が花開き、彼女の言魂が、静まり返った台所に朗々と響いた。

「人たちの間で衆道、もしくは男色って文化があるのを知ってる?」
「おっとォ~? 竜種の命題にかこつけてとんでもない方向にハナシ転がし始めたぞこの女竜~」

 一瞬でも呑まれかけた自分がバカだった。そう痛感しつつ、姉の愚かしさを青年鳥竜は嘆いた。だが弟の心姉知らずというべきか。キララマグはなおも力説しようと身をよじり、手を振りかざした。

「種族や性別の垣根を超えた融和こそ理想! そこには当然葛藤もあるでしょう。他者の軋轢や様々な障害もあるでしょう。しかし、それを乗り越えた先にこそ真実の愛が存在する! あなたはそれを低俗だと軽蔑するというの!?」
「趣味嗜好は個々の勝手でしょうがね。自分が低俗だと軽蔑してるのは、純朴な少年をたらしこんで敬意を恋愛感情と錯覚させて自分のそれを強要しようとして、あまつさえ上官をそれに巻き込もうとしているあんたにっスよ」

 実際に姉のやらんとしていることを口にしてみて、そのおぞましさに身の凍る心地だった。
 しかし、互いに相容れぬと理解しているのは、あちらも同じらしい。
 止めるように説得しようとしたクララボンの鼻先に「とにかく」と掌が突きつけられた。

「とにかく姉さんに任せておきなさい。悪いようにしないから」
「いや、悪化させてるのあんたなんスけど……てちょっとォ?」

 キララマグは足早に去っていく。飛ぶのはへたくそのくせに、妙に足には長けている姉であった。
 ひとり台所に取り残されたクララボンは、がりがりと後ろ髪をかき乱し、

「……これ、自分がどうにかしなくちゃダメな流れスか?」
 などととりとめのない問いかけをひとりごちる。

 鳥竜種クララボン。
 女にだらしがなくその日常感は怠惰と逃避に満ちている。

 ただ、身内の恥に対する責任感はそれなりにあった。



[42755] 番外編:狐の毛皮は何色か(後編)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:6f4fa50d
Date: 2018/10/14 13:54
「というわけで、おたくの貞操がキケンなんスけど。どうしたらいいんでしょう、隊長」
「それを当人に言う」

 姉の野心を表明されて後日。
 単身ひそかに夏山邸を訪って、クララボンは相談を持ちかけていた。未だ床に就く夏山星舟自身に。

「いや、だって掘られそうな本人に言っとかなきゃいかんっしょ、とりあえず」
「え、オレが受け止める方なの?」
「あ、攻める方がお好みなんスか。実は隠してたけどそういう欲求があったとか?」
「いや、今はお前を全力で殴り飛ばしたい欲求に駆られているけどな」

 愛すべき第二連隊長の面立ちに、困惑こそあれ動揺は見られない。
「別に良いんじゃねぇの」
 器量を見せるがごとく、大振りに焼いた茶碗に例の薬液を注ぎつつ、それを不味そうに飲んでいた。
 不調が長引いているのはそれが原因なんじゃないのか、とクララボンは指摘したかったが、本人がそれを是と見ているのであればあえて不粋は言うまい。

「やることやってりゃあ、オレは何も言わんよ。趣味や嗜好に首を突っ込む気もない。だからお前たちにも目を瞑ってやってるだろ」
「……なんか引っかかる言い方」
「で、逆にお前はオレにどうすべきだと?」
「姉の除名、追放。シェン君の状態によっては処断も止むなしかと」
「ええ……」

 数日間とりあえず考えたうえでの結論を披瀝すると、軽く引かれた。実に心外である。

「いやだって、あんな綺麗な目で衆道がどうとか言い出されたらララの家名と引き換えにしてでも止めようとか思いますって」
「阿呆らし。そもそも慕情云々にしても、キララが勝手に舞い上がってお前がうろたえてるだけじゃねぇのか。当事者の口から聞いたわけでもなしに」
「じゃあもし本当に告白されたらどうするんスか」
「どうもしねぇよ。お互いの感情の置き処さえしっかり固まってりゃあ、外からああだこうだ言われても惑うことなんてありゃしない。シェントゥだってその辺りの分別はつくだろ」
「おれがどうかしたんですか?」
「うひゃあぅお!?」

 大人物然と振舞っていた直後、会話にそのシェントゥが割って入った。割烹着姿で。
 星舟は慌てて跳ね退き、床の間に手を突いた。そんな彼の過剰な反応に狐少年もまた大仰に驚き、危うく手に持つ盆を落としかけた。

「ど、どうかしましたか?」
「い、いや? お前こそどうした?」
「昼餉の用意をしてきました。……ってあれ? クララさん」
「ど、どーもー」

 数歩間合いを置いて、クララボンはぎこちなく笑みを向けた。

「ちょうど良かった。今、うどんを作ったんです。クララさんもどうですか?」
「わ、わー。嬉しいなー」

 訝られないのが逆に不自然なぐらいギクシャクと喜びを表現してみせる。
 ただ、それは星舟も同じだった。相手の顔色を窺うように、愛想笑いをひきつらせていた。

「どうぞ」と差し出された小ぶりのどんぶりを受け取ると、
「弱った身体には、こういうのがありがたい」
 と、まるで自分に暗示でもかけるかのようにひとりごと。星舟は箸で一気にすすった。
 その隻眼が、軽く見開かれた。

「ほう、良い麺だ」
 と、自身も料理を手掛ける程には味の探究者たる星舟が、シェントゥのうどんを褒めた。
 高評価に、安堵と喜悦の表情を浮かべながら、シェントゥは「良かったぁ」と声を弾ませた。

「踏んで作った甲斐がありました」
 と続けた。

 麺を手繰る手が、止まった。
「……なんだってぇ?」
 問い返すその声は、他者からすれば彼らしからぬ、情けない響きだった。

「えぇ。タネをですね。足でこねてそこから作ったんです。ふみふみ、こねこね、ふみふみ、こねこね……」

 赤子のような幼さを残す素足が蠢く様子を、星舟はなんとも言えない目つきで見下ろしていた。おそらくはクララボン自身もまた、同様の視線で彼に追従していたことだろう。

 擬音を口ずさむ唇にその目線は持ち上がる。血色のいいそれはとても男のものとは思えない。だが箸を止めてじっと見入る星舟は心奪われたというよりも、ぞっとしないような心境であったことだろう。

「それじゃっ、クララさんの分も用意してきますね」

 だが褒められて舞い上がるシェントゥに、星舟の真情が伝わっているとは思えない。軽い足取りで台所へと向かっていく。ぱたぱたとせわしない足音が遠のくと、
「…………」
「…………」
 星舟とクララボンは何となしに互いを見つめた。

「おいどうしてくれんだよ……!? お前が妙なコト言い出すから変に意識しちまっただろうがッ!」
「はぁ!? こっちのせいにしないでくださいよ! っつかアンタついさっき自分でなんて言ったんスか!?」

 見つめ合いはいつのまにか言い合いに変わり、本人たちの自覚もないままに取っ組み合いに発展した。
「とにかくっ! 早々に対処をお願いしますね!」
 突き放すように隊長を押し返し、クララボンは最低限の声量で、それでも最大限の感情を込めて言って、立ち上がって踵を返した。

「おいお前は何してくれんだよ!?」
「やっぱなんかこれ以上首を突っ込むとめんどくさそうなんで、忘れて寝ることにするッス!」
「死ねッ!」

 隊長直々の悪態もどこ吹く風。
 即時撤退を決め込んだ次の瞬間には、クララボンの姿は屋敷から消えていた。


 そして取り残された夏山星舟は、
「シェントゥ、ねぇ……」
 と思案とともにひとりごち、やがて書棚から隊員名簿を引っ張り出した。

 ~~~

 その日、東方領直属第二連隊は、ようやく内々の整理も終わったことによって、対尾での大敗以来始めての大規模な合同演習を行うことになった。

 場所として選ばれたのは、六ッ矢北端にある古城の跡地。かつて人と竜とを分け隔てていた国境だった。
 そこには復帰した隊長、夏山星舟の姿もあり、周囲を湧かせた。

「オレが休んで間にどれだけ弛んだか見てやるよ」

 などと冗談を言って笑いを誘ったが、それに渋い顔を見せたのはリィミィだった。

「腑抜けてたお前よりかは皆よっぽど頑張っていた。あと、私の管理能力を疑われるのは心外だ」
「いや、そうは言っても……じゃ、アレはなんなんだ」

 あまりに辛辣な返しにたじろぎながらも、星舟は自分たちが対する側を指差した。

「ゔべばー、地面が回って見える……この世が球体に見える……」

 などと蒼白な表情で目を剥く第一連隊長の姿があった。
 開いた軍服の下に着ているにはどう見ても寝巻きで、言動のいずれを見ても深酒に祟られたとしか思えない。

 副官のポンプゥに引きずられるように現れたグエンギィを冷ややかに見ながらリィミィは、

「アレは……まぁ同じ組織においても治外法権や内政不干渉は存在する」

 と弁護なんだか非難なんだかよくわからない見解を示した。

「アレとか言われてますよ!? 良いんですか!?」

 ポンプゥは狸の尾飾りを振り乱しながら、怒りと羞恥と悔しさで顔を赤くしていた。
 小柄というより幼いと言った方が妥当な身体を使い切って引きずろうとしているが、もはやグエンギィは両足で立つことさえままならない。
 まったく視界に入れるだけで軍紀の乱れそうな同僚である。

「さて、いかに弛緩したとしてオレの部隊の中には、ああいう不届きなヤツ……」

 背後に整列する第二連隊を閲して回る星舟の目が、最前の少年兵へと留まった。
 シェントゥのその茶色の頭髪には、椿の油でも使っているのか、いつもより艶がかかっているような気がした。藤の花を模した髪飾りをそこに取り付けている。
 えへへ、とはにかみながらも、眼前で足を止めた星舟にまるでに見せつけるように。
 上目遣いで、顔色をうかがっていた。

 周囲の事情の知らない兵士はそんな彼を奇異な目で見ていた、次列に立つキララマグはキラキラと両の瞳をきらめかせ、その傍らのクララボンは拝み、すがるような目つきを眼鏡の奥底で形作っていた。
 リィミィはおおまかな事情をそれとなく知っていたのか冷ややかに彼らを観察し、面白そうな気配を本能的に感じ取ってのか、悪酔いから軽く復活したグエンギィがいつの間にか顔を認識できる程度近くまで来ていて、興味深げに両者を交互に見守っていた。

 つまり軍事演習そっちのけで、衆目は次の星舟の反応を待っていたといって良かった。

 星舟は、軽く溜息をこぼした。

「シェントゥ」
 と少年兵の名を呼び、
「はい!」
 と何かを期待するように上官を仰ぎ見た。

 その彼の頭部を、星舟は容赦なくひっぱたいた。

 ぱしん、と乾燥した音が、静まり返った古戦場に響き渡った。
 痛い、というより信じられないといった感じで、シェントゥの見開いた目が星舟に向けられた。

「お前、いい加減にしねぇと隊を追い出すぞ」
 そんな彼に、星舟は冷ややかに言い下した。

「そんな……困ります……!」
「……『困る』……?」
「ちょっと、叩くことないじゃないですか!」

 その時、隊伍からキララマグが飛び出した。
 獣竜の少年をかばうように自身の腕に抱え込むと、上官を怖じもせず睨み上げる。

「なんでですか!? このコは、隊長のために」
「いつ命じた。いつオレが、こいつにオンナの真似事をしろと」
「今まで世話になっておいて、なんて言いぐさ……」
「そりゃこいつが余計な罪の意識を感じてたからだ。けど、それも無駄な気遣いだったようだな」
「だいたい、オンナのマネゴトって、差別ですよ! リィミィ姉さんだって、私だって……それにアレだって、一応は女性です! 厳密に言えば!」

「アレって、一応って、厳密にって」
「グエンギィ隊長、言われてもしょうがないです」

「つまり、部隊に女性なんていくらでもいるじゃないですか! だったら真似事だとしても、せめて慕ってお世話をすることだっていいじゃないですか!」

 地獄の撤退戦においても異議を唱えなかった女鳥竜が、他者を押しのけてまで食ってかかった。
 その珍事をただ傍観するほかない一同を前に、星舟は彼女を睨み返した。

「じゃあ聞くが、今までオレがお前たちをオンナとして見たことがあったか。抱かせろだとか臥所を共にしろなんて誘ったか?」
「なっ……! そんなこと、言われてたら舌噛んで死にますよ!」
「……そんなに?」

 思いっきり罵倒を受けながら、星舟はもの悲しげに流した。

「けどお前が承知の通りだ。オレは一度も、お前らに女性であることを求めたことはない。リィミィは判断力、分析力に優れた副官だ。キララマグ、お前も偵察としての退き際の巧さ、そこから得た雑多な情報の取捨選択の能力には目を見張るものがある。そしてアレは……まぁ実戦は強いから」
「ねぇ、私の扱い悪くない?」
「つまり、オレは女性だからお前たちを抱えたり連んでるわけじゃない。お前たちがクセはあっても信じるに足る資質の持ち主だからだ。他の者も同様だ。というかな」

 ここで星舟は大きく深呼吸をした。
 そして声を限りなく大にして、隻眼の男は獣のように吼えた。

「お前ら、女性としてあまりにあんまり過ぎてとてもそんな気起きねぇんだよッッ!!」

 その論の確かさに聞き入っていた部下や同僚たちだったが、星舟、心からの叫びによって一転、掌を返したように非難を轟々と鳴らし始めた。

「最低」
「女の敵!」
「したり顔のクズ!」

 星舟は適当にそれらをあしらった。したり顔のクズ呼ばわりは酷すぎて泣きたくなった。

 そして改めて彼は、シェントゥを見た。
 この騒乱の元凶となった幼い獣竜は、改めて自分を顧みられて背を反らした。

「お前は何者だ? シェントゥ。媚びる男娼か、それとも兵士か」

 夏山星舟は問いをぶつける。シェントゥの瞳で感情の波が立った。
 言いよどんでいた少年は、やがて意を決して星舟を見返した。双眸に宿る輝きには、しっかりとあるべき場所に定まった重みがあった

「シェントゥは、貴方の兵士です。夏山星舟さん。今までもこれからも、貴方に報をもたらす」

 それは入隊以来、少年が初めて見せる、強い意思の表明だった。
 どうしようもない負け戦だったが、それでもこの気弱な彼にとって悟り得るものはあったらしい。

 他の者も、そうであったと思いたい。
 そして自分自身にとっても。

 ――そうさ、オレもまた、夏山星舟だ。あのとき星に伸ばし、この名を授かった時からずっと変わらない。たとえどんなに現実が自分を痛めつけようと、この信念だけは抂げちゃならないんだ。

 そう決意を新たに「よし」と星舟は頷き、少年兵の決意を受け容れた。

「そうと分かりゃ、そんなもん外しちまえ」
「あ、でもこれキララさんにつけてもらって……いてっ」
「あーあー、無理に外そうとするな。ほら、頭貸せ。オレがやるから」
「え!? で、でも」
「良いから、じっとしてろ」

 シェントゥは真っ赤になって頭を星舟へと差し出し、固まりながら彼にされるがままになっていた。そのやりとりを、嬉しさを隠しきれない少年の横顔を、キララマグは至近で、陶然と眺めていた。
 髪飾りをゆっくりと取り外した星舟は、軽く睨みながらそれをキララマグへと突き返した。

「今回は不問に処す。けど、もう余計なことするんじゃねぇぞ」
「ありがとうございます!!」
「お、おう……?」
「いや、多分別の意味でお礼言ってるっスよこの姉さん」

 〜〜〜

「いやー、どうなることかと思ったけど、意外にも正攻法で解決したっスね。我らが隊長殿にしては」

 もっとも、その後の模擬戦はそれが飛び火したかの如く苛烈なものとなったが。それでも姉の目論見は外れ、自分の危惧した最悪の展開は回避できた。
 円満ではないにせよ、これで良かったのだとクララボンば疲労困憊のおのれに言い聞かせた。

「姉さんも、これに懲りたら大人しくしててくださいね」
 共に帰途につく姉を顧みながら、クララはそう言った。だがキララは思案顔で口許に指をやろ、やがて真剣な語調で尋ねた。

「やっぱりあの主従、これ以上ないぐらい完璧な組み合わせだと思うのだけれど、どうしたら肉体関係にまでこぎつけられるのかしら」
「いや貴女がこの程度でめげない気丈な女性だということは重々承知していましたしそんな貴女を誇りに思いますが、この件に関しましては何卒ご自重頂けないでしょうか」

 思わず本来の自分をかなぐり捨てて丁重に懇願するクララボンであった。

 まぁあんなことがあった矢先、多感に揺れ動く少年の感情を知りながらも衆目の中であんな行動に出る星舟側にも問題はある。
 もし問題が再燃したらまた全部押し付けようと心に誓った。

 そんな風に算段を立てていた矢先、軽やかな足音が姉弟に近づいてきた。

 背後には、当のシェントゥが息を弾ませながら立っていた。

「シェン君、どした?」
「あの……今回の件、あんなことになっちゃいましたけど、色々と気を回してくれて、なのにお礼がまだ言ってなかったし……」
「いいのよそんなことは! それよりも、次の作戦を」
「こっちこそなんかごめんねー! この愚姉の言うことなんて綺麗さっぱり忘れて良いから! だから健全な性生活を送ってほしいんだけど」

 進み出ようとする姉をシェントゥから遠ざけ、クララボンは笑いかけた。

 もじもじと、指を絡ませながら言葉を詰まらせながら、それでも誠意と健気さに満ちた謝意を示す少年。いや、傍目からはやはり男には見えない。

「でも、キララさんには驚きました。っていうか、やっぱり女同士だとやっぱり見破られちゃいますよね」

 どこからどう見ても女……今、なんと言った?

「……え?」
「戦場だと色々苦労があるかって思って男のフリをしてたつもりだったんですけど、やっぱり細かい所で素が出ちゃうのかな」
「……え、え?」
「その点キララさんもリィミィさんとか、すごいです。ちゃんと女としていながら、戦場に出てて」

 クララボンは弾かれたように首を動かした。ただし問題発言をぶつけてきた彼……否彼女ではなく、姉へ。

 姉はこの事実に気づいていたのか。故にあえて隊長に当てがおうとしていたのか?

 いやそうではあるまい。知っていたら、男色がどうのだの口が裂けても宣うまい。
 その証左に、キララは今、目を見開いたまま硬直していた。柔らかみに欠けるその直立姿勢は、指で強く突けば今にも崩れ落ちそうだった。

「隊長には色々と気付いてもらえなかったみたいですけど、けど女の子らしい格好とか久々に出来て、嬉しかったです。ありがとうございました!」

 そう表情を華やがせるシェントゥに、徒労感をにじませた愛想を返す。
 一体今日に至るまでの気苦労はなんだったのかと誰にでも良いので問いたい心境だった。実際に解決したのは星舟本人だったものの。

 胸の内で溜息を深くついたクララボンの背後でキララマグは、死んだ魚の、いや死んだ鳥の目をしていた。

「しゅぅーりょぉー」
 と光の消えた目の焦点が定まらないままに繰り言のように呟き、
「おつぁれさぁでったー、あじゃじゃしたー」
  と、凄まじく雑な発音で勝手に締めくくり、踵を返して早足で去っていく。

「……本当にロクでもねぇなあの女……ちょっと待ってくださいよー、帰り道で美少年とか拉致しないでくださいねー」

 と制止をかけながら、クララボンは後を追った。



 彼らの影が足下から消えた後、シェントゥは笑みを引かせ、真顔になった。
 そして大儀そうに短く切った髪を撫でてなびかせながら、夕闇へ身を沈ませた。

 そして他愛ない日常は思い思いに終わり、新たな戦いの火蓋は切られ、引き金に指がかけられた。
 そして今日、戯れに興じていた彼ら第二連隊を震撼させる事件が、すぐ後に控えていたことなど、誰にも予期しえぬことであった。



[42755] 第三章:大牙 ~夏山星舟拉致事件~(一)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:6f4fa50d
Date: 2018/10/21 15:46
 禁山の頂上に、巨大な異物が突き立っているのが夏山星舟の隻眼からも視認できる。

 天と地とを繋ぎ止めるような長大な円筒と、今彼が立つ園からはかなりの隔たりがあり、その間を霧がかかっているにも関わらず、遠望できた。
 トゥーチ兄妹の従僕として初めてこの地に踏み入れた時、あの奇異なる物質に心奪われたものだと彼は思い返した。

 あの時は天道を支える柱のように思えていたが、今となっては神の放った巨大な矢ではないかと感じている。

 だが方々に広まる伝承に曰く、あれは船だそうな。
 あれによってこの地に降り立った|国連(くにつらね)の神々は、この地に蔓延る『闇の旧権力者たち』とやらを征討し、その後はこの大陸に竜を、次いで人を造ったという。
 むろん、人と竜との間では、この伝承に前後の違いや微妙な差異はある。


 夏山星舟はそこに神秘性を見出すよりも、道理や因果のようなものを感じている。
 すべてが真実ではないにせよ、まったくの偽りということはあるまい。おそらく先の神々に類する存在は、たしかに在ったのだと思う。

 今、竜が人に駆逐されんとしている事実もまた歴史の一部となり、文明が滅びた後は擦り切れた神話として綴られていくのだろうか。

「ずいぶんと、久しぶりとなったな」
「帝にもいろいろとご心配をおかけし、面目次第もございませぬ」

 二色の透き通った声が空の下に響く。それらによって、星舟の意識は神話の世界から引きずり戻された。

 今、彼らは龍帝の宮殿に招かれていた。
 白を基調とした、かつては神々が居住していたという庭園。割れた卵殻のような外壁と原生する見慣れない真紅の花々以外、神代の生活を識れる遺構はほとんどない。

 これでも人と争う前は洞窟同然の場所だったというから、相当に発展したと言って良いだろう。海の外より運ばれてきたと思しき、角灯や調度品の類も散見される。

 都に来たのはこれで二度目だが、初回と違い星舟が従っているのはトゥーチの家長である。

 警護のために外部に背を向けている星舟は、ちらりと隻眼を傾けて様子を盗み見た。
 そのアルジュナ・トゥーチが対しているのは、白磁のような肌を持つ、骨細の青年であった。
 最上等の染料と銀糸と技術で仕上げられた、上下ひとつなぎの衣服をまとっていなければ、誰も彼を竜の国における最高権力者とは認めまい。草莽の学者、という趣の聡明さは見受けられる。
 だが紛れもなく、彼は龍帝なのだ。

 そんな彼の背に控える見目麗しい妙齢の女性の列に、アルジュナはちらりと視線を配った。

「また、愛妾を増やされましたな」
「……目敏いな」
「尊い御身なれば、多少はお慎みなされるよう」

 そう言って、アルジュナは首を垂れる。
 この東方の物主が傅くのはこの青年だけであろう。また彼に渋面を作りながらも、ここまで踏み込んだ直言を受け入れさせられるのはこの老竜のみであろう。

「そういうアルジュナ殿こそ、近頃は帝都から足が遠のいている。もしや身体の加減でも悪いのか?」
「多忙な時期が続き、老体に鞭打ちましたでな。そもそも、寄る年波には勝てませぬ」
「それでも」

 龍帝はやおらに立ち上がり、くるりと星舟たちから背を向けた。
 やはり細すぎる。
 消息不明となったラグナグムスも召し抱えた海の男たちと比して半分ほどの太さと身の丈しかない華奢ではあった。
 だがその彼からさらに全身の骨肉を削ったような痩躯であった。
 その彼が、言葉を続けた。

「隠居は、まだ早過ぎはせぬか」

「……えっ!?」

 驚いたのは帝でも、女房たちでもない。ましてやアルジュナでも。星舟だけであった。

 思わず完全に振り向いてしまった。帝と目があった。理知の瞳に煩わしさがあった。羽虫を払うような手つきに詫びて、星舟は目を外部へ戻した。だが自身の背の向こうに、意識は残したままだった。

「その様子では、周囲の者へは伝えていなかったようだな」
「愚息には伝えております」
「あの者自身より聞いた」

 知らされていなかったのは、自分自身のみではない。後継者のサガラのみだ。当然のことであろうが。
 自身にそう言い聞かせながらも、星舟は疎外感と悔しさを噛み締めた。

「それは、此度の敗戦に責任を感じてのことなのか?」
「無論、それもございます。しかしながら、敵も味方も新たな世代に移りつつあり、真竜としてあれほどの力を持っていたブラジオも死にました。ならば愚老のみが、どうして時流の波をせき止めるようなことが出来ましょう」

 だが、吐き出した龍帝の呼気に、納得した様子はない。本竜の意向であればあえて留めはしないが、自分にとっては喜ばしいことではない。そう言いたげだった。

「……何か、ご懸念でも?」

 アルジュナはそう尋ねたが、貴人は答えなかった。

「サガラは近衛隊長と東方領主を兼任することになります。何かとご不便をかかるやもしれませぬが……あの者であれば、大過なく務め上げましょう。私やシャロンも補佐に当たりますが、それさえも必要ありますまい」

 ともすれば倅自慢ともとれるアルジュナの発言ではあったが、そこに偏愛の響きは感じられない。むしろこれが我が子に向けたものかと思えるほど、淡々としていて客観的だった。

 だがサガラの名を聞いた瞬間、帝の呼吸には乱れが生じた。やがて、細い嘆息へと変じた。

「なぁ、アルジュナ殿。笑わずに聞いてくれぬか」
「承りましょう」

 気鬱を隠さず切り出した天上の存在に、音もなく立ち上がってアルジュナは寄り添った。

「……余はな、正直なところ、あの者が恐ろしい。貴殿の子が」
「……」

 星舟は両者を改めて盗み見た。
 表情を変えずにいる老公は、すぐには返答をしなかった。若い帝の続きを待った。そして沈黙に耐えきれなくなって、堰を切るように口を開いたのは、帝の方からだった。

「いや! 害意などないことは分かっている! 苛烈な手段を用いることはあるが、それらが全て筋の通ったことであることも、竜のためになることも理解しているつもりだ! だが、あの黒竜はいったい何を最終的な目的としている? この戦争の勝利か? 竜の発展か? 人の駆逐か? 隷属させるのか? 余は、いや余のことをあれは、あれの余を見る眼は……っ!」

 感情の昂りとともに、言葉を継ぐごとに、その指先はわななき、ただでさえ色白のかんばせからは血の気が抜けていく。

 血が滲まんばかりに握り締められたその手を、枯れた老臣の掌が握って覆った。

「あまり、憂いなされますな。それこそ身体に毒というもの。……ご心配めされるな。役職からは身を退くとて、あれの父親まで辞めたわけではありませぬ。もしもあの者の道に誤りが生じたのであれば、この老骨の『牙』でもって正してみせましょう」

 細めた視線を真っ直ぐに向け、赤子を宥めすかすかのように緩やかに上下や前後に手を動かす。
 そうしているうちに不要な緊張が青年の手から抜けていくのが見て取れた。
 やがて帝は自らの意思と力でアルジュナから身を引いた。多少上体が揺らいだが、周囲の侍女が彼の肩を支えた。

「……少し風に当たりすぎたようだ。醜態をさらしたな。ありがとう、『叔父上』」

 ほのかに笑う帝に、「いえ」と抑揚なく彼は応じる。

「時に、『宰相殿』の調子こそいかがですか」

 話題を転じた瞬間、また龍帝の表情が温和から遠のいた。その視線が伺うように星舟の方へと向けられる。だが、フンと鼻を鳴らし、すぐに玉眼は逸れた。
「聞こえたところで、どうせ理解できようはずもない」
 と、憐れみを込めて。

「あまり良くはない。近頃はますますその言は不明瞭になり、論理に矛盾が生じるようになった」

 そしてなるほど、星舟には見当の及ばない話だった。
 直属の群臣は掃いて捨てるほどいるとして、不思議と『宰相』に類する役職はこの国家において存在しない。
 故に彼らが語らっているものは何かしらの隠語であろうが、現在星舟には追及する気は起きない。

 サガラと帝の微妙の軋轢なども、ともすれば今後の役に立つ情報ではあっただろうが、心の琴線に触れないままに右から左へと素通りしていった。

 今、彼の関心はただ一点、アルジュナ・トゥーチの引退にのみ占められていた。

 そしてそれで手一杯になっている己の卑小さを、彼は嫌悪した。



[42755] 第三章:大牙 ~夏山星舟拉致事件~(二)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:6f4fa50d
Date: 2018/11/07 21:49
 先を行く老竜の広い背が、星舟の視界から都の姿を覆い隠していた。

「どうした? 帝都の光景より、見慣れた者の背が希少ということもあるまい」

 そう言って、星舟を含めた五名ばかりの供回りをからかう。これはアルジュナらしからぬ軽口であった。それは、今まで背負ってきた荷が下りたことへの安堵から生じたものか。あるいは突如に浮足立ったおのれに、彼が一番動揺しているのか。

 たしかに横に目を移せば、帝都の街並みがそこにはある。
 踏み込むうちにどの方角が東西かわからなくなるような升目状の区画は、童謡などで若い時分に頭に覚え込まさなければ、生まれ育った者でさえ迷うという。
 これは、先史以前、竜たちがおおよそ文明というものを成立させる前に整備されていたものだとされている。
 廃墟、遺跡、あるいは古城同然だったその場所が人と争い、交わるうちに再び流用され、生活環境が整えられた。

 とはいえ、立地的には最適とは言い難い。
 四方は山で囲まれていて、弓矢で争っていた時代には難攻不落であったことだろうが、大砲が登場した今なら、帝都が射程に収められる。

 近くに金山があるわけでもなし、経済的にも便利とは言えない。

 ――まぁ、金山ならぬ禁山ならあるわけだが。

 自分たちを見下ろす山に、一瞬だけ意識が向いた。
 あるいは、あそこに湯水のように湧き出る鉱脈が本当にあるのかもしれないが、この苦境においてもあの場所から何かが運び出された形跡はない。
 そこに通じる道だってもはや整備されているかわからない。
 正真正銘の、不可侵の聖域だ。

 鬱蒼と伸び茂る山の木々から脇目を外し、人間は咳払いした。

「しかし、今の自分の興味は御身の進退にこそありますので」
「言ったことが全てだ。戻り次第、領内にあらためて布告する」
「ですが、この状況下で唐突な代替わりなどすれば、さらに混乱が広まりましょう。さらに言えば」

 そこまで口にして、星舟は言葉の結びを呑み込んだ。

「さらに言えば、なんだ」
 アルジュナは静かに追及した。

「……帝のおこぼしになられた不安も、道理かと」

 ――こやつ、ついに言いおった。
 周りの護衛は星舟の他はすべて真竜で、宝石質の瞳をそう咎めるように向けてきた。
 だが、そのいずれにも気丈に振る舞おうとも動揺の色が濃い。おそらくは彼らとて、聞きたかったことは引退がらみのことばかりのはずだ。

 星舟は思った。
 自分は彼らの無言の圧力に押されて、問いを投げたのだと。

 私情を差し引いても、近頃のサガラの動向は派手に過ぎる。
 近衛を率いての反攻作戦はまだ良い。だがその苛烈さは内にも向けられている。
 事前に父より通達があったこともあるのだろうが、アルジュナの頭を飛び越えて竜たちを差配している。それも、東方領の直轄にさえ入っていない与力衆や小領主にさえ。

 特に派手に動いているのが領土問題の口出しだ。
 自分たちが切り取り返した旧領はまだしも、あの大敗によって浮き上がった管理者不在の領内にさえ東方領の連隊や特使を派してその代行として居直らせている。
 また後継者がいたとしても、その遺産の整理と称して乗り込み、少しの不正や過失が見つかれば、それを出汁にまた自分たちがその領地の管理を名乗り出る。

 よもや竜が人に寝返ることはあるまいが、周囲の不満は確実に積もり始めている。
 明らかに咎に対する罰が大きすぎる。公平さに欠けていた。それでもなお、サガラは直轄領を増やし、自分の手を拡げようとしていた。

 そのことを説いたが、
「あれも張り切っているのだろう。じきに落ち着きを取り戻し、対応も緩和される」
 とアルジュナは、それを黙認するかのような受け答えだった。
 そこには、いまいち煮え切らないような余韻があった。

 ――ひょっとしたら、引退はサガラの野郎に勧め、いや責任を問われて強制されたのか?

 星舟はその背に探るような目を向けた。
 アルジュナはそれを承服したかもしれないが、星舟にとってはたまったものではない。
 いずれアゴでこき使われることになるのは自明の理であったとしても、こんな混沌極まる戦況で、恣意的に矢面に立たされるのは勘弁してもらいたい。
 まして、七尾藩に対するのは、もう御免だ。

「しかし」
 食い下がろうとする星舟の言葉を、
「では、お前がやってみるか」
 と、試すような主の問いかけが遮った。

 は? と乾いた声で思わず聞き返す彼の頬を、うすら寒い風が撫でた。
 唖然とする星舟に合わせる形で、先行していた真竜たちは足を止めていた。

「実のところ、早急に領内の事情に片をつけたいのは私も同意見だ。長引けば長引くほどに、住民の反乱や再侵攻を誘発する可能性は高くなる。が、いかんせん内外に目を向けなければならぬサガラのみでは、どうしても足りぬ。……よって、『人手』が要る」
「それで、自分に遺産遺領の調停や整理を代行せよ、と」

 話が早い、と老竜は頷いた。

「しかし、サガラ様がご自分の任を取られることを良しとしましょうか」
「引退の前に、私から辞令を正式に出す。よもや先代最後の指示を直後に撤回することはあるまい。揃わぬ足並みを外部に見せるようなものだ。何より、手が足りぬのはあの者とてわかっているはずだ。表立って拒みはせぬ。いや、拒めはせぬ、といった方が正しいか」

 そういって、かすかにアルジュナは笑った。だが、その笑いには攻撃性も伴っていた。
 理解した。敗戦の責があるゆえ口を挟む資格がないものの、現状に忸怩たる思いを抱えているのは当のアルジュナなのだ。

「どうする? お前の言うところの公平さと、サガラの厳格さ、領主たちがいずれを受け入れるのか、勝負してみるかね」
「勝負……というのはやや恐れ多いことですが、片や閣下の名代とは言えただの人間。片や間もなく当主となられる竜。果たして論をぶつけ合うことができましょうか。そもそも何故自分なのです?」

 しばらく、沈黙があった。アルジュナはあらためて夏山に向き直った。

「ひとつは、お前の言うところの公平さ。我らが直接身内を洗えば、それこそ派閥や種族、家名に偏る。だがお前は人であり、特定の派閥に拠らぬ」
「なるほど」
「第二に……実のところ、かつてほどお前は毛嫌いや過小評価されておるわけではない」

 では『かつて』は客観的に見てもそうだったのか。
 星舟はそう言いたかったが、話を円滑に進めるべく唇を閉じた。

「お前は誰もが死ぬと思っていた退却戦から見事生還した。単身逃げてきたのであればまた違ったであろうが、被害を最小限に減らし、多くの竜を救った」
「ブラジオ様は、死なせてしまいました」
「皆意地があるし負け戦ゆえに大っぴらに褒めるわけにもいくまいが、内心お前を見直しておる」

 そうですか。星舟は乾いた相槌を打った。だが、なんの感慨も湧かなかった。
 力量、格、経験、実績。自分の中であらゆるものが不足しているのを知ったのは、他ならぬ星舟自身だ。

「むろん、今なおお前に含む者も少なくないのは事実だ」

 星舟が脳裏に浮かべたには、カルラディオ・ガールィエの、雨に濡れた痩躯と憎悪の形相だった。
 あの彼が「ハイお勤め御苦労様です」と、倉を開いて自分たちの台所事情を教えてくれるとは思えない。

「そこで、先にお前には別の任を与える。それをもって、功とし格とし、説得力とせよ」
 窪んだ眼窩の下、瞳を閃かせて主は命じる。
「藩王国と話をつけ、捕虜の返還を要求すべし」
 と。

 あの大戦の後、行方不明者に比して回収できた死体の数が著しく違うということは、領国においても沙汰されてきたことだ。藩王国側がひそかに捕虜をとっているのではないか、ということも」

 知らず、星舟の口端には笑いがのぼっていた。
 皮肉と乾きが多分を占める、暗い笑みだった。

「……後に控えている仕事より、よほど難しいですな」
 というのが、星舟の忌憚ない見解だった。

 敵は、捕虜を十中八九捕らえている。そして今までついぞ捕らえることのできなかった竜が相手だ。自分たちも、そして彼ら自身とて知り得ない奇跡を持つ種だ。
 どのような目に遭っているか想像するだにぞっとしない。

 だが、だからこそ彼らは手放すまい。どんな交渉材料を持ち出そうとも……いやそもそも……

「交渉するための駒が、足らないかと」

 そう切り出した青年の前に、アルジュナは歩を進めた。
 衰えたとしても巨躯である。一歩進むだけでその歩幅は大きく、眼前に山がせり上がったかのような迫力がある。

「星舟」

 この日はじめて、主は彼の名を呼んだ。

「ただ実績を積み上げることだけが、格か? 成功を続けることだけが、皆に認めてもらう術か?」

 星舟は、すぐには答えなかった。答えられなかった。

「そうではあるまい。お前は過日、あの地獄を切り抜けた。それこそが、今のお前を再評価する契機となった。違うか?」
「それは……」
「少なくとも、出来る仕事のみ得意げに切り回すよりは、よほど良い」

 アルジュナの指摘は、今までの彼の指針を否定するものだった。

「お前は難局にあって全身全霊を傾ける時こそ輝き、そして伸びる質の男だ。失敗しても、そこから何かを得られれば良い。すべての責任は引退とともに私が負う。だから、存分にやれ」

 そうアルジュナは励ましたが、星舟の目には殿軍を半強制した時のサガラと重なった。

 ――親子揃って狸だな。

 内心で苦笑をこぼす。
 体良くおだて上げているが、なんのことはない。要するに、サガラと自分を噛み合わせ、その倅への牽制に当てる胆なのだろう。

 だがそれほど悪い気はしない。
 つまりそれは夏山星舟がサガラ・トゥーチの対抗馬たりえる存在だと認められたという証だ。少なくとも、現惣領の進退を賭けるに値する程度には。

 ふぅ、という一呼吸の間に、感情と打算を整理する。
 思考のために一度沈みかけた顔を上げた時には、いつものふてぶてしい執事の顔に戻っていた。

「承知しました。それでは成否に関わらず、この身の全てをもって、事に当たらせていただきます」

 先ほどまでの弱音は何処へやら。ぬけぬけとそう宣言する青年に、うむ、とアルジュナは短く返す。

 だがその唇には、微妙な安堵の緩みがあった。

「それで、このままお帰りになりますか」
「うむ……あぁいや、せめてシャロンらの土産でも、な。色々と案内を頼みたい」
「……なぜ自分に?」
「近頃妓楼に足繁く通っていると聞く。女の扱いには慣れていよう」
「……遊女とご息女をひとくくりにするのはどうかと思います」

 先ほどの剣呑なやりとりなどすっかり忘れたように、一団は他愛ないやりとりとともに都を巡った。

 だが東方領主の言葉は一時の座興や気まぐれではなく、まして夢でもない。

 帰郷するやすぐに、アルジュナ・トゥーチの名の下に辞令が下され、星舟はもう一方の都へと向かうことになる。



[42755] 第三章:大牙 ~夏山星舟拉致事件~(三)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:6f4fa50d
Date: 2018/11/25 17:48
 王都、秦桃。
 足を踏み入れたのは初めてだった。
 今のように任務でなければ来なかっただろう。竜の国の住人でも、そして人間として扱われてこなかった頃には、その門をくぐることなど夢想だにしなかった。
 人々が、戦乱とは無縁の生活を送っている。かの女王が流入させた技術、文化。それらによって急激に変化しようとしている日常に戸惑いと、順応し、むしろ積極的に取り入れようとする意欲とが同居している。

 区画としては、帝都にも似ている。
 帝都。名もなき都。名付ける必要もない、竜たちにとっての唯一無二のクニ。生命の始まりの地。

 だが文明の程度で言えば、この『偽りの都』の方が上だ。

 そしてこちらの方が自分としては受け入れやすい、と星舟は感じた。

 元々、帝都が長身の真竜種に合わせて家や物の背が高いというのもあるが、そんな理屈を飛び越えて本能的に、ここは居心地が良いと思った。
 交渉はここに来て一月にも及んでいたが、その間に彼の身はすっかり人都の風や食に馴染んでいた。

 もし今後、自分たちがこの都を陥とすことになれば、この生活は喪われるのだろうか。この街並みは、竜好みののっぽな建築物だらけになるのだろうか。

 星舟はそれ以上は考えず、ただ純粋な疑問のままで飲み込んだ。
 そして正奇を織り交ぜた根強い交渉のすえに人類側の宰相、カミンレイを引きずり出し、そして王との謁見にまでこぎつけた。

 〜〜〜

 星舟が呼び出された会見の間は、第一議堂と名付けられた一室だった。
 山桜の濃く若い芳香が室内を占め、その中に新政権の首脳陣が背をそらして列座していた。

 自領の運営がある藩主たちは出席していない。
 多くは、名も顔も知らぬような吏人ばかりであった。骨格も、武人のものではない。刀など、斬ったどころか抜いたこそさえないのではないか。

 だがその顔つきは馬鹿殿様たちのそれとは比べものにならない。

 彼らが通した議題を、藩主たちが判を捺すだけ、という形式になっているようだ。おそらくは内外の事情の急激な変化にともない忙殺される小領主たちの隙に、『それ』をねじ込んだ。そして制度の性急すぎるまでの刷新は、そして前線の、惰性な戦略構想を覆すような劇的な大勝は、それを意図したものでもあるだろう。

 今は雑多な問題に対しての議会だが、いずれはその段階を引き上げ範囲を広げ、藩主たちを、発言力を削っていく。
 議席そのものから蹴り出すための、布石。

「やぁ、長らく待たせてしまったな!」

 その構造を就任からわずか数月で作り上げた女ふたりは、最後に現れた。
 光沢の質感の中に熾火のきらめきを持つ長髪。かたや柔らかな髪に、氷の冷たさを秘めた女。いるだけで周囲の芳香をかき消すがごとき主従は、直立する星舟と相対する席へと腰かけた。

「どうだこの都は、今はなかなかに慌ただしいが、住み心地は良いだろう?」
 おのが胸中を突きえぐるがごとき問いかけを、星舟は薄く笑って、返答を避けて流した。

「それにしても、余に会えぬからと、まさかカミンを口説くとはな」
「口説くなどと滅相もない。ただ自分は、異国の音楽家なる女性がいかな御仁か興味があり、歓談したに過ぎません。その折、自分本来の用件を茶話程度にこぼしたまでのこと」

 女王は口を歪めて苦笑した。

 ここまでは多忙を理由に、女王は星舟と面会しようとはしなかった。大臣どころか、二等三等の外交官にさえ話を通せない始末だった。

 音楽教室カミンレイ・ソーリンクルがこの国の影の参謀であることなど、とうに知っている。だが彼女が表向きは、政戦ともに関わりのない一教師に過ぎない以上、求めれば必ず面会できると星舟は踏んだ。

 氷の帝国からやってきた宰相は、やや面食らったようだったが、音楽や芸事、異国の文化の教示を名目に現れた彼を快く……少なくとも表面上は、受け入れて四方山話に花を咲かせた。そして、王に会えない旨を極力自然な風に打ち明けると、

「では、自分の授業の時間を使って、会われますか」

 と、まるで鏡を合わせるかのように、自分が求めていたことを申し出、今に至る。
 一対一の面会ではなく、無様な晒し者にするがごとくこのような場を設けられているのは、不満ではあるものの。

「それはそうと、あらためまして新王即位おめでとうございます、赤国様。そして忙しい御身の貴重な時を私のような者のために割いていただき」
「貴重なればこそ、手短に済ませよう。前置き能書き一切無用」

 星舟の謝辞を遮ると、女王赤国流花は他称音楽教師の差し出した書簡を紐解き、目の前で読んで見せた。

「なになに……竜種の亡骸の消失、隠匿、回収の嫌疑、返還?」

 断片だけを拾い上げて読み上げる。本当に目を通しているのか疑いたくなるような速さで末尾までたぐると、流花は鼻で嗤いながらそれを楽師へ突き返した。

「知らんな。まったく見当もつかん」

 星舟は、薄笑いをぎしりときしませた。

「……ご存じない、ということはないでしょう。今もなお我々は干戈を交えて戦っている。なのに、骸を見ていないというのはおかしな話だ」
「いやぁ何しろ今まで我らは負け続き。真竜種の死に様など、お目にかかれたことなど一度もないのでな。てっきり、真竜種は死ぬと泡となって消えるのではと思っていたが、そうか死体は残るのか」

 本心か皮肉かよくわからない口ぶりでそう返すと、その細首をカミンレイへと振り向けた。

「カミン、お前知っていたか」
「いえ、戦とはまるで無縁のわたくしには、衝撃的な事実です」
「だそうだ。余も驚いた」

 一同が笑う。全ては、予定されていた流れのように。演劇のように。
 薄っぺらい茶番を見せられてもなお、星舟は食い下がった。

「ならば彼らはいずこへ消えたのですか」
「それはそちらが捜索すべきこと。我らは一切預かり知らぬ」
「……竜にも父母がおり、兄弟姉妹があります」
「ほうそうなのか」
「残された家族はすでに命のないものと覚悟しながら、彼らの帰りを待っております」
「それは可哀想に!」
「なにとぞそのご温情をもって、せめて心当たりなどあれば」
「心中お察しする! だが無い袖は振れん」

 女王の強弁が、使者の哀願を打ち砕く。
 怯みはしないが、内心で舌を打つ。

 知っている、もしくは持っているが返さぬというのであればまだ交渉の余地がある。情義を説き、道理を通す隙が生まれる。

 だがまさか、こうまで堂々とシラを切られるとはな。

 返事に窮する星舟をさらに追い立てるがごとく、流花は言い放った。

「そもそも藩王国と竜とは不倶戴天の敵同士。よしんば死骸を回収したとして、侵略者に返す必要性を返す意義はないと思うがな」
「それでも戦には節度や礼節というものがございます。今までも、正式な国交などないにせよ、我が主アルジュナ・トゥーチは敵の亡骸を丁重に送り返していた前例があり、となればそちらがもし亡骸を隠匿し弄ぶがごとき真似をしていたとしたならば、藩王の御名を汚し」
「使者殿」

 指を絡み合わせて、女王は肘で机を突いた。

「余はな、知らぬと言った」

 そのわずかな所作で、その一言で、今まで彼女の周囲を覆っていたなごやかな気配は一変し、敵意が星舟を覆い包んだ。

「これはもはや真偽の問題ではない。王の言葉を覆すにはそれ相応の大義と覚悟が要るが……それらを今の貴殿が持っているのか」
「……」
「敵国とはいえ確たる証もなしに王の宣言を疑うのか。それこそ大いに礼を失する言動であろう?」

 ここぞとばかりに正論を持ち出し、それ以上の口答えを許さない。
 たしかに、星舟および東方領には、王国が死体や捕虜を隠しているということを暴くような物証は調査をしたが発見できなかった。

 それゆえにこそ星舟は道理でもって押し通そうと目論んだのだが、女王の面の皮の厚さはそれを跳ね除けた。

「良かろう! ならば納得ゆくまで精査しようではないか。カミン!」
「はい」
「貴様の祖国に藩王の名において調査団の派遣を依頼せよ。そのうえで他国の目より厳正にして公正な調査をしてもらうが良かろう」
「かしこまりました」
「ただし使者殿! もし貴殿の言うような推測がただの下衆の勘ぐりであった場合、その責任と醜聞は貴殿やアルジュナ殿のみならず龍帝にさえ及ぶが、それを承知であろうな!?」

 何が厳正にして公正な調査だ。星舟は心中で毒づいた。おおかた、証拠は残していないし、氷露の国とは通じているだろうに。それが故の強硬な姿勢だろうに。だが、その後ろ盾に抗しうる盟友を、竜は海の外に持ってはいない。

 ――ここまでが限界か。
 そう見切りをつけた星舟は、あらぬ方向へと持っていかれようとする流れに「けっこう」と制止をかけた。

「他所を巻き込んでまでの大ごとにする必要がありますまい。しかしながら、調査をするというのは賛同いたします」
「ほう? ではまさか、竜どもをこの国に招き入れようとでも言うのか?」
「そうではありません。王の金言、信じましょうとも。ただ、王国にもない。我が国にも戻ってこないとなると……残るは諸藩が王の御意に背いて隠匿している、と考えるのが妥当でしょう。そう例えば……真竜を討った七尾藩など」

 攻めの向きと方法を切り替えた星舟の言葉に、議場は先ほどとは質の違う緊張感が生まれた。
 耳語、目語がひしめく諸臣をよそに、

「図々しさ、見苦しさもここまでくると感心だな。……余に、功臣を疑えと?」

 と、流花は冷笑を浮かべた。
 そこからにじむ幽かな怒気を肩をすくめてかわしつつ、すっとぼけた口調で答えた。

「陛下が忠心を感じるのはご自由ですが、功臣が必ずしも忠臣とは言えますまい。現に私は、先の戦のみぎりに不穏ならざる言動をしていた敵将を知っております。あえて名指しでお伝えしても構いませんが」

 女王は声を出して笑った。
 だがその笑声の裏側で、怒りが静かに募っていくのを、その場にいた誰もが感じていたことであろう。まるで桶に水に溜まっていくように。

「そうか、貴様か。汐津を誑かした狼藉者は」

「……すべては死戦を生き残るための方便でございますれば、ご寛恕いただきたく」
 深々と頭を下げながら、星舟は彼女らの様子を盗み見た

 知っていたのか、と言いたげに女王は楽師に一瞥をくれた。素知らぬ顔でカミンレイは立っていて、流花を鼻白ませた。

「まぁ良かろう。で、余にどうせよと? 参戦した各藩に立ち入り調査をさせろと求めているのか?」
「いえいえ、これは要求でも依頼でもございません。あくまでご忠告申し上げているのです。陛下に背き竜種の秘密を探究している面従腹背の輩が国内にいればそれこそ貴国の一大事。そのような奴ばらを排除してこそ世に正しきを顕すこととなりましょう。またその姿勢をあまねく天下に知ろしめしてこそ、真の公正というものかと」

 頭を垂れたままに、星舟はよどみなく答弁する。その長広舌に辟易した様子で、炎の女王は「分かった分かった」と手を振った。

「よく回る舌を持つ男だ。件の家老も、そのように口説いたか」
「その長範様にも、似たようなことを言われました」

 星舟は顔を上げて苦笑した。

「分かった。あらためて内部にて監査するとしよう。その結果は貴様らにも追って沙汰する。それで良いか」
「陛下」

 そこまで必要最低限、求められた場面でしか発言をしなかったカミンレイが、自主的に進み出た。「構わん」と流花は彼女を遮った。

「この程度でこの小うるさいのを追い払えるなら安いものだ」
「感謝いたします」

 星舟にとってもはや罵声も皮肉も問題ではなかった。
 勝ったとまではいかないが、圧倒的に不利な状況から六対四程度のほぼ引き分けに持ち込んだという手ごたえはあった。

 あらためて誓紙を取り交わし、それを納めて退出しようとした星舟の足を、

「しかし解せんな」

 流花の、聞こえよがしな独語が留めた。

「貴様の悪辣さは、どう考えても《《こちら》》側だ。この都の水は、さぞや合ったことだろう。なのに何故、今なお竜につく?」

 その問いについて、夏山星舟は思案する。
 答えそのものではない。それはすでに自分の中で結論が出ていて揺るがないものだ。
 逡巡したのは、言うか言うまいかということについてだ。

 必要最低限の取り決めは交わした。いかに見え透いた虚言であったとしても、王が翻意せぬと明言したのであればそれ以上の進展や改善は望むべくもない。

 国交は回復のしようもない。少なくとも、人の側が頭を下げて妥協しない限りは。少なくとも、自尊心の高いこの女が詫びを入れるまでは。よってそれもまた不可を意味する。

 あるいは、今から言うことを逆恨みされてこの帰途に襲撃される可能性も考えた。
 だが、みずからの狭量さを披露するがごときあからさまな暗殺を、女王が指示するとも思えない。よってその恐れも薄い。

 次に会うときがあるとすればおそらく、どちらかがどちらかの首を刎ねる時だけだ。

 ――つまり、もうぶちまけちまって良いってことだ。
 星舟は浅く呼吸する。そしてあらためて向き直った。

「たしかに、ここは居心地が良かった。おこがましいにも程はありましょうが、私と陛下の性質はよく似ている」

 負けを喫する前のオレとな。
 内心でそう付け足し、星舟は唇のみで笑ってみせた。

「なればこそ、貴方の覇道の一部に組み込まれるのはぜったいに御免こうむる。そして何もかもが揃った居心地が良い場所でふんぞり返るよりも、竜たちの側の方で働いている方がよほど生きている実感がある」

 おさらばです。真顔になった女王に向けてそう締めくくって、隻眼の人間は人の王に背を向ける。
 そして二度と顧みることなく、自分の故郷へと帰っていった。



[42755] 第三章:大牙 ~夏山星舟拉致事件~(四)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:6f4fa50d
Date: 2018/12/11 07:47
「暑い!」
 赤国流花は私室へと続く廊下を歩きながら、もはやおのれの正装と化した軍服に手をかけた。
「しつこいッ!」
 紐解いた上着を剥ぎ取り、うろたえがちに後に従う侍女にぞんざいに投げ渡す。
「うっとうしいッッ!」
 シャツのボタンのうち、上ふたつを外すと、豊かに盛り上がる胸が、一度大きく上下した。

 そうして自身の部屋へと戻ってきた彼女に、カミンレイは影のようにぴったりと張り付いている。彼女の一瞥が、侍女を下がらせた。

「なんなのだあの男はッ!? まるで理解ができん! 人と竜、その形勢の逆転劇、その様を見ていたはずだ。なのに、何故竜のためにああも食い下がる!?」
「さぁ。わたくしとしてもそこを知りたいところでして。単純に盲従するようんな輩とも思えませんが」
「だから連れてきたのか?」
「さて、どうでしたか」

 すっとぼけたように抑揚のない声で応じる楽師に対して流花が返したのは、鼻哂だった。

「見くびるな。貴様ならば、私に引き合わせるよりも前に煙に巻くことだってできたはずだ。それぐらいはわかる」
「おみそれしました」

 自分の韜晦をあっさり認め、心のこもらぬ賛辞を平然と口にする。
 そんなカミンレイの様に鼻白みながら、彼女は寝台に我が身を投げ出した。

「見るかぎりでは、多少は猿知恵のある程度。どうということのない小魚といったところか。あの程度、何ら障害ともなりえぬ」
「はい、ダローガたちもそう申しておりました」

 カミンレイは机や床に散らばる書の類を拾い集めながら、部屋の片隅に一瞬視線を遣り、「ただ」と言葉を継いだ。

「そんな男がなぜ、彼よりも勁く、彼よりも器量のある剛将ブラジオを差し置いて生き延びたか。興味はありませんか」
「ふん、運に恵まれただけさ」
「かもしれませんね。ですけど、運や流れというのは時として才や器よりも恐ろしい。才あればこれぞという手段をとる。大器であれば万民が認める在りかたをする。しかしひたすらに運が良い非才小器というのは……どう転ぶか予測がつかない」
「……ではその運や流れを味方とするために、奴もろとも取り込んでみるか?」

 試すように、あるいはおちょくるように、軽い気持ちで王は問いを投げかける。
 だが、絶えず慎重に、まるで弦の張りを調えるかのように指を動かす楽師の所作には、よどみがない。
 形ばかりの微笑を浮かべ、だが明確には返答をしない。だが、どんな追及にもふてぶてしく応じる彼女の沈黙こそ、明確な答えだった。

「おいおいおい!」
 流花は吐き捨てるように気を発した。

「しっかりしてくれよ。そんな訳のわからん小物より、現実的な問題が山積しているじゃないか。まずはそちらを片づけてからだろう」
「そうですね。では、手始めにそこにいる彼のことなどいかがですか」
「彼?」

 いわくありげなカミンレイの視線を、流花もまた追った。
 その先、部屋の片隅には、ひとりの少年の姿があった。

「わー、ひゃー……!」
 などと頓狂な声をあげて顔を真っ赤にしている。
 手で目を覆い隠そうとしているが、好奇がそれに勝るらしく、わずかに開けた指の隙間より、女王の着衣から覗く素肌から目が離せないでいるようだった。

「あぁ、とんと忘れていた。すまんな。変な男に捕まっていた」
 女王は取り乱しもしない。ただシャツの襟元を緩慢な手つきで閉じ直す。
 他ならぬ、彼女自身がその少年、網草英悟を呼びつけたのだから。

「で、先の戦の話だが……改めて礼を言う。よくぞ身分の垣根を超えて守備軍を取りまとめ、耐え忍んでくれた」
「い、いえ! そのお言葉だけでも、十分に報われます!」

 健気な言葉に、犬であれば尾を千切れんばかりに揺らしていたであろうその熱の入り様に、流花はほろ苦く笑い我が身を起き上がらせた。

「お前は良くとも、身を賭して働いた部下はそうはいくまい。おおかた、次男三男あたりの村のはねっ返りでも無理くり引っ張ってきたのであろう。よってそれぞれには働きに応じた金品を送り、また村自体には向こう五年の免税を施す。もっとも、これはあくまで内定であるからして、正式な公表までは他言無用だ」
「……はぁ」

 英悟は現実のものとなりつつある成果に対しても、生返事。信じがたい、と思っているというよりは、興味自体がなさそうだった。
 だが、彼の態度はは女王の不興とはなり得なかった。むしろその態度こそが、彼の自分を慕うことへの純粋さの証左とも言えるだろう。

「……ああ、それとな。望む者あれば士分に取り立てる。むろんお前もな。いや、むしろ来い」
「!」

 少年の表情が変じた。
 目を輝かせて顔を上げた彼に、流花は白い歯を見せた。

「お前のとこの家老の金泉が死んだことは既に知っていよう。だが彼の者にはあいにく子がおらんのでな。唯一継承権を持つ親類の子もまだ幼く病弱だ。そこで、彼が健康に長じるまでは、『一時的に』我らが共有できる預かることとなった。……話が見えてきたか?」

 英悟は背を逸らし、膝を揃えた。

「英悟。お前が余の、いや私の名代として、その地と兵を治めよ。お前ほどの有能な士を遊ばせておくなどということはせぬ。まだまだ働いてもらうゆえ、精進せよ」
「はいッ!!」

 切れるような快諾とともに、涙をにじませ少年は頭を地につけた。

 〜〜〜

 網草英悟の勇み足が、部屋の向こう側へと消えていく。
 氷の国で生まれた冷ややかな目は、その足音と気配が消えるまで慎重に見守っていた。

「『私』と『余』は使い分けたほうが良さそうだな。公的な場では後者を、私的な場や親しい者……と相手にそう思わせたい時などには前者を、という具合にな」

 はにかんだ女王の意見は無視して、軍師は愁眉を彼女に向けた。

「……少々、気前が良すぎるのでは?」

 流花は、自身の腕を枕に、ふたたび寝台に横たわった。

「良すぎるからこそ意味があるのだ。門地も家名も持たぬ無官の者が、ただ武功によって躍進する。前線で胡座をかいていた連中の尻にも、これでようやく火がつこう」
「それでも、程度や順序というものがございます。いかにすぐれた音調も奇策も、そこに至るまでの順当な積み重ねあってこそのものです」
「わかっている」

 少しわずらわしげに、流花は手を振った。

「だが、誰でも良かったというわけでもないぞ」
「陛下とは旧知のように見えましたが」
「まぁ、多少縁があってな。それで甘やかしてしまった……おい、冗談だよ。そんな顔をするな」

 少女然としたカミンレイの面貌に、わずかに差した陰影の意味するところを、女王は汲み取った。

「奴の築陣能力は見事なものだ。それは貴様も認めるところであろう」
「それは、たしかに」
「そしてこれからはカビの生えた城や屋形の取り合いではなく、野戦で多くの勝敗が決することとなろう。その点において、奴の資質は得難いものだ」

 流花は寝台に散乱していた図面を広げ、言った。

「まず英悟が竜どもに先んじて要所を確保し地固めをする。そうして一種の膠着状態を作ったのちに七尾や討竜馬隊に遊撃させ、側背を突かせるもよし、他の戦線を押し
上げるもよし。そういう図を描きたい」
「その構想には、理解を示します」
「加えて言うなれば、各藩に突きつけた匕首でもある。裏切る者があれば、その凶刃が我らに届く前に手首から切り落とそう」

 そこで、とそういう玩具のように、前後に大きく揺れ動いて流花は言った。

「貴様の連れてきた討竜馬のうち、百体ほどあいつに預けないか。幸い、金泉の領地は牧にも山にも恵まれている。養うにも向いているはずだ」

 まるで詐欺まがいの商談のごとくそう持ちかける女王は、畳み掛けるように言った。

「お前たちにばかり苦労をかけるのは、心苦しいのだ」

 それは、冗談の意味合いを込めた懇願だった。だが、得てして隠した感情とはそういう部分にこそ発露する。

 ――狙いは、それか。
 カミンレイは女王の真意を氷の心眼で見定めた。
 だが表向きに浮かべたのは、十年の知己のような、しょうがなさげに苦りながらも、それを受け入れる柔らかい笑みだった。

「拒もうにも、無理やりにでも持っていくのでしょう? 陛下は」

 流花は笑いながら楽師を手招きし、頰や痩躯を気軽く叩いた。



[42755] 第三章:大牙 ~夏山星舟拉致事件~(五)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:6f4fa50d
Date: 2019/01/14 18:20
 舞踏館の建設が、王宮東の郊外に進められていた。
 その監督役として視察に来たカミンレイ・ソーリンクルの背後には、まるで音楽とは縁遠いような巨漢たちが付き従っていた。

「……で、お譲りになられる、と」

 そのうちのひとり、老武官ダローガが、皮肉な笑みを口元に称えて答えた。

「仕方がないでしょう。我々は祖国からも疎まれた食客。赴任地でもそっぽを向かれれば、支援を失い立ち行かなくなるは必定」
「そういう足下を見られているようで、どうにも鼻もちなりませんな。あの任期付き女王陛下は」
「むしろそれぐらいでなければ、担ぎがいがない」

 かの女王には、自分の手に収まる駒というものがない。如何に強しといえど七緒は外様であり、自分たちに至っては外国からの客人だ。
 カミンレイに語った戦略構想以上に、陸地において自分にとって忠実で、善良な将器を欲したのだろう、と推察できた。
 純粋に流花を慕う良将、網草英悟はまさにうってつけと言えた。

「まぁ、純粋さと善良さは似て非なるものだと思いますがね」
「は?」
「何でもありませんよ」

 彼女は少年の浮かれ顔を思い浮かべた。だが、それ以上は何も言うことをしなかった。当事者のいないところでどう語ろうとも、無意味なことだった。

 しばし無言のうちに、建設現場を彼女らは巡った。
 裏方にある階段。そこを使って地下の回廊に出る。雇った人足のほとんどは、その存在さえ知らない。そのほとんど以外の誰かは、先月川で溺れて死んでいるのが見つかった。とても不幸なことだ。

 ヴェイチェル先導のもと、そこを下ると、迷路のような道順が待っている。核心部分に至るためには、知識と経験と、その門扉の前にいる衛士に頭を下げさせる権限が要る。

 門扉をくぐり抜けると、鉄錆びた臭いと音の洪水が彼女らの五感を襲った。当初はそれらの耐え難さに顔をしかめざるを得なかったものだが、慣れとは恐ろしいものだ。今では真顔で素通りできる。

 と言って、それらは建造による工程で発生したものではなかった。つんざくような騒音は槌を振るう音ではなく、生きた男たちの悲鳴や絶叫、断末魔と呼ばれるたぐいのものだ。そして異臭の音とは、彼らの血肉が生きたままに削ぎ落とされるために生じたものだ。
 視界においては血の混じらない箇所はなく、薬品こそ置いてあるが大病院や舞踏館の様相とは程遠く、いくつもの区画と房に分けられたその場所は、彼女の祖国の精神異常者や重大犯罪者を収容する監獄に似ていた。
 あえて言語化するならそれは、

 ――阿鼻叫喚。
 地獄(アード)と呼ぶさえためらわれるこのような状況を、この国では四文字で片付けられる。便利というか、そんな言葉が生まれるような過酷さを嗤うべきか。

「いやぁ、すごいですよ、元帥令嬢」

 赤黒く指紋のついた報告書を持ち込みながら、壮年の男が興奮気味に言った。カミンレイが連れてきた動物学者だった。

「例の三号棟の真竜種、水や食料を与えないまま二月になりますが、まだ生きています。さすがに反応は希薄になりましたが。まぁ常人の十倍に相当する弛緩剤を投与したので、その影響もあるかもしれません」

「そうですか」
 カミンレイは淡白に相槌を打った。

「採取した皮膚組織や解体した骨格は我々とさほど差があるように思えません。てっきり『鱗』というのはその体表が何らかの作用によって一時的に変質したものと思いましたが、その兆候も見られません」
「いや、だが獣竜や鳥竜はすごいぞ。彼らの持つ祭具のような金属片の放つ、特定の波長に反応して筋組織が変質し、周囲の空気の流れを歪ませる。それが滞空や超感覚、身体強化に繋がっていると思われる」

 獣竜の処置を担当していた若い知識層が、口を挟む。まるで玩具を買ってもらった子どものように目を光で満たしながら。

「まぁさすがに、それでも真竜の身体能力には遠く及ばず、上腕を切断して数時間後には出血多量で死にますし、銃弾を急所に撃ち込めばもって三発といった程度の耐久性です。あ、もちろんその検体は解剖班に回してあります。眼球や指先一つ、無駄にはいたしません」

 そうですか、とカミンレイは淡白にまた応じた。

「へ、へへへ」

 虚ろな笑いを浮かべた作業者が、虚ろな笑いを浮かべながら彼らの前に立ちはだかった。

「おい、次はどのクソ竜どもをバラせば良い?」
 そう尋ねる彼の右手には、刃が握られている。捕虜たちに筋骨は生半な刀剣では断てないので、主に肉切り包丁のような、切れ味よりも分厚さや頑丈さを優先したものが選ばれる。

「あいつらには親父も、爺さんも殺された。その仇を討たせてくれて、感謝するぜ」

 現地採用されたその屠殺者は、答えを待たずに表情同様、現実ばなれした足取りで、村歌を口ずさみながら次なる房へと向かっていった。
 カミンレイは半歩退がって、道を開けてやった。

「すごいですよ、彼も。もう三日三晩、眠りもせず仕事をしてくれています」
 頼もしげに、壮年の方の学者が言った。

 カミンレイは去っていった彼に休養を命じたくなった。だが、あぁいう状態になってはどうせ手遅れだ。仮に自分の士官にああいう手合いがいたとしたならば、敵中に放り出して、敵を存分に撃ち尽くさせたあと支援を絶って見殺しにしていただろう。

 ずいぶんと、自分の奏曲は血なまぐさいものとなったとカミンレイは思った。ため息をついた彼女の眼前に、さらなる来客があった。
 それは、あの『肉屋』と同様に地元で雇った医者だった。本草学にばかり固執する他の村医者とは違い、外科手術の重要性を説いて、そして実践をしてきた老人だった。

 だが何人の身体を開いた彼は、青白い顔で口許を押さえていた。
 やがて、カミンレイの足下にうずくまると、彼女のブーツを吐瀉物で汚した。

 すでに何回も吐いているのだろう。その内容物には、根菜の欠片さえも残っておらず、粘性の薄い薄黄色の液体が散らばっただけだった。

「キサマ」

 もし誰も、何も言わなければ、一秒後には老人の枯れた首はヴェイチェルによってねじ切られていただろう。

 だがいきり立つ巨人を、カミンレイは冷ややかな流し目で抑えた。

「……違う……こ、こんな、こんなことは……」

 繰り言のように呟く彼に、カミンレイは身を屈めて目線を合わせた。

「儂の妻は、戦火に焼かれて死んだ。せめて敵わずとも良い。せめて竜どもをひとりでも……そう思うたこともある」
「知っています」

 その復讐心ゆえに登用したのだと、カミンレイは暗に続けた。

「だが、これは……これは間違っている。こんなものを望んだわけではない……! こんな行為は……人間の所業ではないっ!!」

 学者たちは、嗚咽とともに溢れる老医師の言葉に、キョトンと目を丸くした。やがて、肩を竦めて笑い合った。

 だがカミンレイは笑わなかった。
「そうですね」
 ただ悠然と目を細め、震える老人の拳を自身の掌で包み、震えが止まるまで待っていた。

「けど、貴方の言うとおりなのですよ、ドクトル。彼らは強く、疾い。如何に銃器をもって到底敵わないでしょう」

 ですから、と楽師はすっと顔を、酸い残り香を持つ唇へと近づけ、そして囁いた。

「だったらせめて、我々も『人間』を捨てないと」

 老人は、声を裏返して女児のごとき悲鳴をあげた。

 〜〜〜

「『牙』のほうの研究は、まだ時間がかかりそうです」
「そうですか」

 『現場』の視察を終えた異邦人たちは、階段をくぐり抜けてふたたび建設作業場へと戻っていた。
 人の醜悪さを凝縮させたような世界から脱した彼女は、久々に太陽を拝んだような心地だった。

「何しろ、ぶっ叩こうと炉にブチ込もうと、分解どころか傷一つつきやしない。嬉々として竜をバラしてた先生方が、こいつに関しては頭抱えてますよ。ここから先は本国へ流してあちらさんの結果待ちですな」
「まぁ、あれを見れば連中の顔色も変わるでしょう」
「ただ、学者たちが妙なことを言ってましてね。あれは文字通りの身体の一部が変化した牙でもなけりゃ、大昔の武器でもない。もっと別の用途、体系で造られた、言うなれば機……」
「その所見は、後で資料にまとめるように。現物と添えて本国に送ります」
「……それと、学者先生たちから『鱗』を展開させた真竜種を連れてきて欲しい、と」
「死にますよ」

 用意させたものに靴を履き替えたカミンレイはその要求をにべもなく突っぱねた。

「しかし、その真竜種たちが薬の効力もあると言え、よく大人しくしていますな」

 戦場にてその荒ぶりようを知っているダローガが、呆れたような調子で言った。

「一番効いているのは、食事ですよ」
「食い物ですか。毒とか?」
「そんな直接的な真似をしていれば、死人が出ていましたよ」
 提示された直接的な手段に、カミンレイは苦笑を漏らした。
「獄に入れた当初はそれなりの礼儀を尽くし、捕虜を観察するに終始しました。いずれ捕虜交換が両国の間で執り行われるゆえ、どうかその間は大人しくしていてほしい、とね」

 もちろんそれは方便だった。
 だが彼らは疑うことなく、それに従った。

 へりくだるのであれば、それに従ってやろう。
 よもや自分たちに毒など盛るまい。
 その程度の小細工、どうとでもなると。
 こんな土牢など、いつでも破れると。

 そうタカをくくって。

 まぁもっとも、彼らの伝来の至宝たる『牙』が質として隔離されていたのだから、大人しくせざるを得なかったという面もあるのだろうが。

「注目するべき点があったのは、食事でした。彼ら塩気の強い食事を好む。そこで何となく見当がついたのですよ。彼らは常人よりも多くの塩分が活動に必要なのではないかと」
「で、食事から塩分を抜いた、と」
「やがて不満を言う気力もなくなりましたよ。そこでようやく、実験が開始できたわけです」

 眉ひとつ動かせずに、酸鼻きわまる空間を通過して、カミンレイは地下施設を出た。

「しかし、結局死人は出てますよ」
 ダローガが撫で肩を持ち上げた。
「徴用した医者や作業者、役人の自殺者は、今月に入って五名です。もうすぐ六人に増えるかもしれませんがね。驚きました。あいつら自殺の時本当に腹とか首とか切るんですなぁ。もっと楽な死に方があるもんでしょうに」

 ダローガはひとしきり笑ってから、カミンレイの冷視に気づいて表情と姿勢を正した。

「ですが、脱走者はその三倍です。施設の邦人が死に絶えるのが先か、竜たちがくたばるのが先か。賭けでもしますか」
「その彼らはどうしました?」
「国境を越える前に全員始末できたみたいですな。中には王に直訴に及ばんとしたものがいたようですが、親衛隊に射殺されました」
「知っていますよ。その時わたくしも同席していたので。……しかし無益なことを」

 カミンレイは毒づいた。
 そもそもあの殺戮場の主導者は、誰であろう藩王赤国流花だ。
 本人は外交使節相手にいっそ清々しいまでに大嘘をかましていたが、犠牲も虐待も黙認されている。むしろ、暗に推奨しているとも言って良い。

「時代を新たな段階へと推し進めるために、竜や皆には犠牲になってもらう」
 とは流花の弁だが、彼女の兄たちや実父は竜たちとの戦で亡くなっている。人質として預けられていた彼女は先王を養父として育ったわけだが、その彼も満足に眠ることさえ許されず奔走し、疲弊していく様を間近で見ていたことだろう。

 如何に飄々と大人物然と振舞っていたとしても、彼女の根底にあるものは竜に対する烈しい憎悪と執拗な嫌悪と言って良い。
 ゆえにこそ、彼女は竜を畜生と同列に扱い、その知性や人格を否定する。
 本人に自覚があるかは、ともかくとして。

 別にそれならそれでよい。
 網草英悟への性急すぎる厚遇にせよ、竜たちの虐殺にせよ、女王の情動や思惑がその責任を負って手を汚してくれるというのなら、その分自分たちが余計な気苦労を持たずに済むというものだ。

「惰弱な連中だ」
 巨人の嘲笑が、カミンレイの思考を打ち切った。
「我が国の軍人であれば、ウォッカを一瓶飲んで眠ればあの程度のこと、明日には忘れられる」

「やめなさい」
 カミンレイは冷ややかに一喝した。

「自殺にせよ、他殺にせよ。その結果がどうであれ。自身の魂魄を焼かれながら生命の冒涜に正否を問い続けた者たちです。もし骸を回収しているのであれば、親族に返還はできずとも、決して粗略に扱わぬよう」

 直訴しようとして目の前で撃たれた者の死相を、カミンレイは思い返した。
 腕も足も顔の肉もナイフで削りとったかのように細まっていたなか、ただ目の中で必死さだけがいつまでも残り続けていた。
 それは、あの夏山星舟の隻眼にも宿っていた焔と同じ種から生まれたものだ。

 矛盾だと思う。傲慢だとも、偽善だとも。自分のような人非人において、彼らの気高さを称賛する資格がないことも、承知している。
 それでも、ただ必死に、真実の生を求めて足掻く者の眼差し。たとえそれが無明の闇を儚く飛び回る蛍火のようなものであったとしても、貴ぶべきものだと思う。

 その半生を死んだように生きていた、自分のような者にとっては。

 人間としてさえ肉体、精神が欠落したようなあの青年を実像以上に見てしまうのは、そうした内面から来るところなのかもしれない。

「……話が変わって例の片目ですが」

 命じたきり再び黙りこくった令嬢を探るような目つきで、ダローガは問うた。

「どうします? 奴の体面のための埒もない言いがかりのために、諸藩の猜疑心を刺激するというのは」
「形式ばかりで良いでしょう。事前に内示を出したうえで、二、三項文書で詰問する。その程度で」
「で、奴自身は」
「……」
「まさか本当に味方に引き込むつもりじゃあるまいな」

 上司である自分を脅しつけるように、ヴェイチェルは骨格たくましいアゴを突き出した。
 ともすれば、今から自分がトルバにまたがりハルバードを手に敵領まで夏山を追いかけ、斬首してきそうな気概さえ見せている。

「すでに別の者に命じています。その者ならば、片手間で彼の命運を握れますよ」

 施設から離れると、草木の匂いが戻ってきた。
 その中で大きく深呼吸して肺腑の中身を入れ替えながら、感情を排した声で、女宰相は答えた。



[42755] 第三章:大牙 ~夏山星舟拉致事件~(六)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:6f4fa50d
Date: 2019/01/14 18:18
 国境の関所の口にリィミィの姿が見えた時、星舟はほっと息をついた。
 ようやく、想念渦巻く魔境から脱したという心地さえする。いや、本来の自分たちからすれば背に拡張される領域こそ在るべき場所なのだろうが。

「嬉しいね、そんな出張ってくるまでオレに会いたかったか」
 自身の安堵を押し隠すように、あえて軽口を叩く。
 
「人間たちの発展の様子をいち早く聞きたかっただけだ。あんたの安否はその次」

 対する副官の反応は、にべもないものだった。
 いわゆる「好意を持つ相手につい意地悪なことを言っちゃう」乙女的なものではなく、徹頭徹尾、本心からそう思っている冷淡な眼差しだった。

 そんな彼女の塩っ辛な対応でさえ、今この時には郷愁じみた感傷をおぼえた。

 星舟は、かつての自身では考えられないほどの丹念さでもって、警備隊へ帰国の手続きと近隣を治める小領主たちへの挨拶回りを終えた。
 迎えに来た動機はともかくとして、リィミィが同伴と事前の根回しをしていなければ、それらはもう少し剣呑な、尋問めいたものとなって手間取っていただろう。そこは素直に、感謝した。

 その彼女の要求に、星舟は答えることにした。

「……という塩梅で、竜に大勝して国中は大浮かれの好景気。銭も物もばんばか回り、秦桃の港にも国内外の船が溢れてた。反射炉も作ってた。郊外に完成済みのものが一基、建設中のものが三基。これはあくまで目視出来ただけの数だ」

 出来るかぎり客観的な言い方をした。だが、客観的であろうとすればするほどに、説明はより踏み込んだものとなる。

 藩王国は、急速な革新を遂げようとしている。その事実を、現場から離れて初めて痛感する。

「そっちの方はどうだった? オレが留守の間に何か変化はあったか」
 そのことを自覚した星舟は、それとなく話題を切り替えた。

「別段何も。強いて言うなら、サガラ様は絶好調。その強権は日増しに強まる一方だ」
 六ツ矢に直通する街道筋に、ささやかな風が絶えず吹いていた。そろそろ、蝉の声が植樹の合間にから聞こえてくるようになっていた。

 途上の駅舎に預けていた雷電に乗る星舟に、馬丁か徒士のように付き添いながら、リィミィは「ただ」と平たく続けた。

「まだ風聞の域だが、政庁としての機能を碧納に移すのではないか、と囁かれている」
「は? 六ツ矢はどうなる?」
「風聞、と言っただろう。まぁその場合は、おそらく最低限の守備を残し、そのままアルジュナ様の住居となるはずだ。……あのご隠居の発言力は、さらに削られる」

 アルジュナの力を削がんとするのは予測していた動きだ。
 だが、その場合の移転先が碧納というのはどうか。下手をすれば、敵兵の動きが目視できるのではないかという最前線ではないか。

 だが、怨敵の動向に危惧や嫌悪を抱くよりも、その意図を模索したい。

「再決戦の気運を高め、士気を高揚させるのが目的なのかもな」

 リィミィはそう見解を述べたが、もし真実ならばそれだけを理由に周囲の反対を覚悟で断行するとも思えない。

 今後の命運を鍵を握るのは海路と判断した、ともとれる。

 あるいは真竜種さえ殺す藩主霜月を、避けるべき鋭鋒と捉えたのかもしれない。
 ――六ツ矢と七尾藩の所領では、近すぎる。
 一方碧納であれば、彼らの間には諸藩の領がある。いかにそこがかつての七尾の旧領といえ、素通りとはいくまい。
 皮肉にも、敵の勢力が自分たちの壁となってくれるのだ。

 あぁ、と思わずくたびれた声が漏れる。
 国内外で、大いなる流れの転換期となっている。その潮目に、自分は立っている。にも関わらず、両者の動向に怯えるように右往左往し、振り回されているしかない。

 ――ええい、やめだやめだ。なんでオレがいちいち不愉快な連中に煩わせられなきゃならんのだ。

 東を見ても西を見ても頭が痛いことばかりであれば、今この時の自分のすべきことを見つめ直そう。

「で、遺産の整理の方は?」
「アルジュナ様の口添えもあって、あとお前が及ばずまでも女王を引きずり出してケチをつけたことも漏れ聞こえてきたおかげもあって、気持ち悪いぐらい上手く行ってるよ。あんたの屋敷の半分ぐらい、資料で埋まっている。一通りは取りまとめてやってるから、家に帰ったら決済にかかれ」
「……そいつは重畳」

 皮肉げに頰を引きつらせ、星舟は下馬した。
 しばらくは手綱みずから引いて進み、夏山の牧に至ると、老いた下男に雷電を預け、トゥーチ家本領に帰参した。

 それから、星舟はためらいがちに尋ねたら。

「カルガル君は、どうしている?」
「は?」
「カルラディオ・ガールィエは、どうなった?」

 それとなく、冗談めかしく尋ねる腹づもりだった。だが、結局踏み込んでしまった。その表情には、強張りがある。

 結果、余計にリィミィの不審を招いたようだった。
 かすかに眉根を寄せて、だが彼女は律儀に答えた。

「教職に就いた学友によれば、家督を継承するため、退学したそうだ。サガラ様以来の麒麟児と称されていただけに、そいつも残念がっていた。もうそろそろ、こちらに帰ってくる頃合いだろう」
「…………そうか」

 ごく自然な相槌を打ったつもりだった。だが、口の中で石を舐めているかのように、舌の動きは鈍かった。

「これだけは、言っておくぞ」
 ため息混じりに、リィミィは星舟の前に我が身を割り込ませ、漫然とした彼の歩みを止めさせた。

「私があんたに協力しているのは、ひとえに自分が培ってきた知識と理論の証明のためだ。だからもしあんたが、いやお前が、つまらん感情移入をして目的を見失うようなことがあれば、見限る」
 冷ややかな宣告とともに、リィミィは見上げるように星舟を睨み据えた。
「そしてブラジオ・ガールィエの死に対し夏山星舟に責任を求めることは、彼への冒涜に他ならない。お前のお姫様の言っていたとおりにな。例えそれが夏山星舟自身であってもだ」

 それは叱咤と呼べる温情を持ち合わせてはいなかった。
 もし彼女が言ったとおりのザマに夏山星舟が成り果てたとしたら、リィミィは間違いなく切り捨てるだろう。

「オレが、ガールィエ家に不必要に同情しているとでも?」

 バカも休み休み言え。星舟はそう笑い飛ばした。
 生前言えなかった悪口でも付け足そうかとも考えたが、とっさには思いつかなかった。

 韜晦するのは止めた。
 リィミィに視線の矢を射返し、答えた。

「後悔なんてとうに通り過ぎた。今あるのは純粋な反省だ」

 どこが違う? そう問いたげに唇を開きかけた彼女に、続ける。

「対尾で敗けたあの時、オレに足りなかったのは兵でもなけりゃ武器やトルバでもない。竜からの信頼だ」

 「奴らがオレの言葉に耳を傾けていれば」と、敗戦の前後にはそう恨んでいた。だがそうではなかった。
 互いに生命を託し合う関係を、そこに至るまでに築けなかったおのれに責任があるのだ。
 アルジュナは、それをこそ知っていたからこそ自分に信を稼げと暗に助言し、今回の事業を任せたのではなかったか。

「だからオレはここから始める。まずは自分の周囲から地固めする。その間にサガラにも赤国流花にも、大きく水をあけられるだろう。というか、最初から立つ地点が違う。けど、それがどうした」

 そもそも、自分の究極とするところの目的は、目先の他者と争う類のものではない。要は、自分がその地点に到達すれば良いものだ。
 いくつもの敗戦と失策を経て、星舟はその境地に至った。

「為すべきを為せ、在るように在れ、か」
 誰ぞが遺した言葉を、星舟は強く噛み締め、胸に納めた。

 リィミィは、ますます呆れたように眉間の溝を深くさせた。

「今さらそんな大前提の初歩的な条件の話をさせられてもな」
「……気づいてたなら言ってくれない?」
「気づいてないなら気づいてないとちゃんと言え」
「言えるかっ」

 そんなとりとめもない会話の合間に、笑い声が横から挟まれた。

「これはこれは、いつもながら賑やかことですな」

 粘りを帯びたその声の主に、ふたりは振り返った。
 人でも竜でもない、大きく長く、鼻を突き出した異形の顔が、そこにはあった。

 だが、決して初めて見る造形ではない。似たものも、これと同じ獣も、星舟は間近で触れたことだってあった。
 だが、竜の国領で、ましてトゥーチの本領で、それ……トルバの牽く馬車など目にするとは、ついぞ想わなかった。

 車に繋がれた黒馬は、不機嫌そうに生臭い息を吹きかけた。深編笠をかぶる御者は、脇へ逸れるよう手で合図を送ってきた。
 胸糞は悪くなったが、他でもない。大路で言い合いをして彼らを妨害していたのは自分たちだ。

「これはこれは……しばらく見ないと思えば、ずいぶんと羽振りが良くなったご様子で。『相談役』の皆々様……」

 咳き込みながら、星舟は車の右隣へと回り込んだ。中から現れた老人たちは、馬の唾液のごとく、悪臭さえ漂う粘っこい笑みを浮かべていた。

「夏山殿こそ、都から都へ、文字通りの東奔西走。さぞ大変であったことでしょう。……今からその復命を?」
「まぁ、そんなところです」

 無役にして無益な彼らが、顔を突き合わせるたびにみせる嫉妬や、そこから目をそらす為の侮蔑は、この時ばかりは見受けられない。

「よろしければ、ご一緒しませんかな? この馬についても、ちと話をしておきたい」

 普段は浅薄な人間たちが、この時ばかりは言い知れない圧力を持っていた。



[42755] 第三章:大牙 ~夏山星舟拉致事件~(七)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:6f4fa50d
Date: 2019/01/28 00:06
 新しい車輪が、がらごろと音を立てながら進んでいく。馬側に座らされた星舟からは、その音も大きめに聴こえていたことだろう。
 車の内より、夏山星舟はそれとなく外を窺った。通行人の盛りも過ぎて、人の数はまばらとなっていたが、視線はその数に比して割合が多い。
 
 その視線は、いずれも好奇の色を孕んでいる。恐怖はない。この奇異なる乗り物が竜の勘気を被るのではないか、という恐怖が欠如してる。それを眺めていれば自分たちにも類が及ぶのではないか、という想像に到っていない。
 そのことに、星舟は危機感を抱いた。抱く側に回った、と言うべきか。

 車の内装は、ふだん奢侈を好む老人たちとは違い、簡素そのもので、むしろ座席には腰への労りが欲しいぐらいだ。

 尾てい骨に直接的な負荷がかかるその薄い席に、四人の男と一体の女竜が腰掛けている。

 案外揺れに弱いのだろう。戦場でさえ崩れたことのないリイミィのかんばせに、汗と苦悶が浮かんでいた。それでも学術的興味は尽きないらしく、必死に耐えていた。溺れる中、板切れに必死にしがみつく遭難者のように。

 老人たちはどうか。
 ある程度の余白は確保されているとはいえ、成人男性が四人である。当然、互いの息がかかるほどの距離感にもなろうというもの。あるいはそこまで詰めていた方が揺れも少ないだろうか。
 あるいは新しく手に入った玩具を前に、我も我も無理やり乗り込んだ結果がこれなのか。大の大人が。

「懐かしいですなぁ」

 その老いた子どもが、外を見ながらおもむろに感慨を述べた。

「十年前、貴方はまだ幼かったゆえにあまり憶えておられぬやもしれぬが、この辺りには呉服屋や反物屋が立ち並んでおってな。それはもう店先に並ぶ紬や絣、縮緬が色とりどりでたいそう美しくてのう」
「この先は妓楼であったかな。それはもう灯火が夜毎鮮やかに闇を照らしておった」
「さよう、貴様なんぞは太夫に入れ込み、夜毎に通っておったのぅ」

 などと旧懐を目元に浮かばせた老人たちに、星舟は

「美しい思い出ですな」
 と相槌を打った。

 お前らの思い出だけは、美しい。
 内心ではそう言い換えた。

 鼻先を、腐った肉の臭いが掠めた。
 多分に皮肉を込めたはずのその感想は、自分たちに対する世辞と受け取られたらしい。

「……それも今となってはどうじゃ」

 潜む悪意に感づいた様子もなく、一転して暗澹たる面持ちで、陰鬱な嘆息を互いに吹きかける。

 角を曲がる。整備された区画のうち、外から見て二層目のあたりに、老人たちが偲ぶ場があった。
 彼らが語る繁華街の光景は、今となっては姿形もない。
 竜の支配と同時に所領の収支が見直された結果、呉服屋は不当な癒着が発覚。その談合の温床となっていたことで、妓楼の多くも芋づる式に撤退した。あとに残るのは、格子窓や欄干がかろうじてしがみついているような廃屋ばかりであった。

 当然、日が昇るうちに、人が過ぎる場所でもなかった。

「見よ、この有様を。かつての栄えが戻る様子もない」
「保護と言えば聞こえは良いが、言うなれば自由も楽しみもない支配ではないか」
「我々もせめて内側より物申し、人が人たる尊厳を確保せんと努力した。だが、領主様……いや旧領主様は、我らを遠ざけるばかりで聞く耳も持たなかった」
「いわんや、そのご子息は……」

 彼らの嘆きが愚痴に変わり、そして非難へと繋がっていく。その瞬間、絶不調だったリィミィの表情に、理性が戻っていった。星舟の最低限の愛想笑いは、底意地の悪さを露呈させた薄笑いへと変ずる。

「で、裏切ることにしたのか。今さら」

 車が、止まった。

 頬杖を突いた星舟の投げた問いに、彼らの批判は止んだ。愁眉も慨嘆も追慕も、老人たちの枯れ顔にはすでにない。

「何もかもが分かりやすい連中だ。今まで竜の下で惰眠を貪っておいて、いざ旗色悪しと見るや、被害者面。おのれらの正当性とやらを主張する。馬一頭と馬車一台を贈られれば、喜んで尻尾を振るか。そのうえで、ついでにオレを籠絡して来いとでも新しいご主人様に命ぜられたか?」

 老人たちの土色のシミが斑点のように混ざった顔に、さっと血色が混ざる。その反応も、星舟にとっては予想の範疇だった。

「……それを見越して乗ったとしたのならば、多少は話を聞く気があったと思ったのだがね」

 ある種の落胆とともに、星舟は三本の指を立てた。

「あんたらは、三つ勘違いしている。一つ、そもそもオレがこの馬車に乗ったのは、あんたらの思惑はともかくとして、裏で糸を引いているのが誰かを知るためだ。でなきゃリィミィを連れてくるものか」

 リィミィはみずからの袂に手を差し入れている。そのわずかな動きから注意をそらすように、あるいは時を刻むように、指を一本畳む。

「第二に、竜はたしかに先の戦で敗北した。だがあんたらが勝ったわけでもなけりゃあましてや強くなったわけでもない」

 指が、もう一本畳まれる。
 残る一本を額の前に立てて、星舟はあえて宣った。

「そこな女は腐っても獣竜だ。あんたらが袂に潜ませた拳銃を抜くより、速く」

 言葉の最中に、老人たちは一様に女竜の微動に気づいたようだった。だがすでに遅かった。
 人ならざる瞬発力でもって袖口から抜きはなった短刀は、彼らと彼女の空間を切り裂いた。魚骨にも鏃にも似た奇妙な刀身が、彼らのひとり、ピストルを抜こうとしたその腕に突き立った。

 悲鳴をあげる同胞に、残るふたりが狼狽する。

「こうすることは、余裕ってわけだ」

 彼らに向けて、今度は星舟が撃鉄を起こす番だった。

「途中でバラす奴があるか」
 横目で睨む副官に、
「途中まで気を引いといてやっただろ」
 謀反人たちに視線と銃を定めたままに、星舟が言う。

「それでも腐ってもというのは頂けない」
「言葉のアヤだよ」

 そのうえで「さて」と話題をあらためた。

「それじゃあ話してもらおうか。この馬車の出所と仲間の数と拠点……まぁ、大方見当はつくがな」

 あえてゆったりと、銃の口を左右に、引きつった老人たちの口元に往復させる。

 ゆっくりと、木音を鳴らして車の右戸が開いたのはその時だった。

「あ?」

 外に立っていたのは、深く編笠をかぶった、御者の男だった。

 当然、彼の存在を忘れていたわけではない。彼らの曲ごとを聞いてもなお手綱をとっていた以上、賛同者であることは自明の理だ。
 だが、こうしてその盟主を質にした以上、手出しはすまい。
 その、はずだった。

 だが……男は動いた。
 同胞を顧みない行動力と、彼が立っていたのが潰れた目の側の死角だったこと。それらが、星舟の一瞬の虚を生んだ。

 御者は、手にした直剣を鞘から払って、車内に踊り込んできた。一瞬で距離を詰めると、その刃の冷たさを星舟の首筋に押し当てた。

「星舟!?」

 リィミィが声をあげる。だが、彼女が立て直し、上司を救うよりも、男の所作は迷いがなく、素早かった。
 伸び上がった蹴りが第二の短刀を投げんとした彼女の腹を襲い、そのまま反対側の戸を破って車外へ押し出した。
 その過程で、編笠が落ちた。

「お前は……ッ!」
 あらわになった素顔は見覚えがあるものだった。

 だが、誰何する間も無く、馬は再出発した。御者に扮していた男は、ひらりと外を舞い、その操縦へと戻っていった。

 もはや、星舟に刃を突きつける必要はなかった。いかに老いぼれと言え、三方から銃器に取り囲まれれば、抗う術はなかった。

「……知っておるともさ。街中で馬車を走らせれば、その意図を竜どもが汲み取ると」
「だが、これは我らの決別の表明よ」
「小僧、つい先ほど放言しておったな。我らは、勝ち馬に乗っただけで強くなったわけではないと」

 怨嗟と報復心に満ちた声調とともに、元『相談役』のひとりは、こめかみに銃口を押し当てた。

「では貴様はどうなのだ? 虎ならぬ竜の威を借りる貴様が、今こうして単身となって何ができる?」



[42755] 第三章:大牙 ~夏山星舟拉致事件~(八)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:6f4fa50d
Date: 2019/02/03 17:03
「隊長の、バカァッ!」
  
 かの連隊の駐屯地にしている、大嶋三佐神宮跡は、六ッ矢の、いわゆる三層目の区画にある。
 人の言うところのこの世の創始者である軍神が眠るという鎮守の森と川が囲み、天然の要害の趣を持つそこは、守備隊の駐屯地というよりかは、さながら山賊の住居のようであった。

 だがそれは、領主館を攻めんとする敵を挟撃するための出城ともなる、重要な拠点でもあちゃ

 そんな中で、今日もポンプゥの嘆きがこだまする。
 上官の手によってまさぐられた着衣は乱され、その羞恥で目元を熱くし、屈辱の涙で軍服の袖を濡らす。

 女性同士の戯れの範疇とは相手の言い分だが、もし男性の手によって行われていたら、破廉恥漢の所業であったことは疑うべくもない。

「今日こそ辞めてやるぅ……辞めて、お上に訴え出て、あの痴女を獄門へと送ってやるゥ……」

 しかし彼女が泣いて飛び出すのも、恨み言をこぼすのも、通算五度目のことだった。今年に入って。

「辞めるのは結構だが」

 声が、横合いから聞こえてきた。
 毎度痴話喧嘩じみたポンプゥと上官のやりとりに、口を挟む者は部下の中でも多くない。下手なことを言えば、かえって刺激して八つ当たりを食らうことになるからだ。

「その前に、頼みがある」

 だが木々の合間から抜けて出てきた女の声は、ためらいもなく、そしてごく自然にポンプゥの足を止めた。
 彼女にとっても、慣れ親しんだ姉弟子の声だった。

「あ、先輩! 聞いてくださ……」

 その声があまりに平静そのものだったものだから、ポンプゥは振り返りがてら愚痴をこぼそうとした。だが先輩……リィミィの姿を目に入れた瞬間、固まった。

 自分に負けず劣らず少女然とした彼女の姿は、自分以上に汚れ、荒んでいたのだから。
 白衣は土に汚され、髪は好き放題に乱れている。おのれのことのみに関しては神経質なリィミィらしからぬ、立ち姿だった。

「ど、どうしたんですか……その姿」

 動揺したのはポンプゥばかりだ。リィミィは淡々と……いやおそらくは後輩を落ち着かせるためあえて……常と変わらぬ物言いで、用向きを伝えた。

「グエンギィ隊長に助力を仰ぎたい。今、会えるか」

 〜〜〜

 カラカラと鳴るような豪快な笑い声が、狭い室内を揺さぶった。

 自身がもたらした凶報とはまるで逆の反応に、リィミィは憮然とした顔つきでそれが収まるのを待っていた。

「帰って早々に誘拐! まったくあいつは平時においても退屈させてくれないな。あははは!」

 前身は西院とおぼしき一角に、第一連隊長グエンギィの居室はある。
 本来は神域と呼ぶに相応の清潔感のある板張りの部屋だったのだろうが、今は使い古した土瓶やらビィドロの球やら、はたまた飲みかけた蜜酒などが無秩序に散乱し、見る影もない。
 そしてその中に公務に携わる書簡など、一切見当たらなかった。

 それを冷ややかに脇見しながら、リィミィは咳を払った。信に値する星舟の盟友と見て頼った彼女だったが、早くも後悔し始めていた。

 やはり、経堂あたりでも良い。第二連隊だけで対応すべきだったか。

 そう思いながらも切り出した手前、退くわけにもいかずさらに並べ立てる。

「冗談と捉えられては困ります。公然と謀反人が現れたということは、さらに飛び火する可能性が高く、ひいては事がうちの夏山のみならず竜全体に」
「どれだけだ?」
「え?」
「敵の数は、どれほどいた?」

 明るく軽やかな音調はそのままに、問うてくる。口も目も細まって常と変わらぬ笑みを称える。だが、笑声は消えていた。針金を通したように、場から弛緩が消えた。

「……相談役だった老人が三人。あと、やたらと腕の立つ護衛役が一人」

 ふぅん、とグエンギィは鼻を鳴らした。

「ポンちゃん」

 彼女は副官を愛称で呼んだ。
 リィミィを案内したすぐ後にこの居室から退出していたポンプゥは、帳簿を持って足早に帰ってきた。

「はい。事前に先……リィミィ副隊長に伺っていた特徴から、その相談役は斉場の旧臣である笛末、濃田、久能手の三方だと思われます。彼らの禄高と普段の金遣いから、動員できる兵力はさほどの数ではないかと」

 傍に歩み寄った副官の示す数字に目を向けたグエンギィは「まぁせいぜい合わせて三〇〇程度か」と一読しただけで目算を立てた。

 彼女が問わんとしていたことが、当時の状況ではなく、彼らがこのまま挙兵に及んだ際の兵力だと、そこに至ってリィミィは気づいた。

「とは言え、相談役たちは一蓮托生。残る役員たちも今回の件に加担していると見て間違いはないでしょう」
「で、連中が『光夜』の残党を囲っているともなれば、また話は変わってくる」

 『光夜騎士団』。先に領主館を爆破しようとした、人種絶対主義者たち。ついぞ、その名と存在を忘れていた。

「と言っても、兵力自体はたかが知れている。容易に潰せる。問題はそこじゃなく、時だ。そうだろう?」
「……時間をかければ、星舟の命数も危うくなる、と?」

 ごく当たり前のことを口にしたリィミィに対し、グエンギィは目を丸くした。
「驚いたな」
 と、彼女は言うほどには感情のこめずに返した。
「サガラ様のこと、忘れてない?」
 そして続けた。

「サガラ様がこのことを知れば、どうなるかな」
「……まさか、見殺しにするよう手を回すとでも」

 よもや不仲かつ潜在的政敵だとしても、そこまであからさまな謀殺をするだろうか。疑問視する彼女の前に、グエンギィは席を立って歩み寄った。

「逆だよ逆。サガラ様は救うよ。間違いなく、率先して。けど、それは星舟の命が惜しいからじゃない。奴に恩を売るためさ、あるいは弱みを握るとも言って良い。とにかく、それで父親の考えの出鼻をくじき、彼らの首に鈴をつけるために。そしてそれは星舟にとって死ぬほど耐え難いことなんじゃないのか」

 それは、リィミィの中には聞くその寸前まで存在しなかった道理だった。
 ――こいつ、ただ戦ばかりできる酔いどれじゃない……。
 とグエンギィを見直したのは、その時だった。
 兵の進退だけで、第一連隊を務めているわけにあらず。政治的嗅覚と均衡感覚あってこそのこの見識なのだ。

 グエンギィはすっと指をリィミィの白衣の上になぞらせた。
 思わず身をすくませるリィミィだったが、その手に日頃の好色の気配はない。
「あーあー、こんなに汚しちゃって」
 とぼやき、
「これでここまで走ってきたの?」
 と尋ねる。
 その指が、派手に土や木っ端で汚れた箇所で留まった。
 彼女の獣の瞳が、

 ――誰かに見られるとは考えなかったのか?

 と静かに問責した。

 みずからの過失に顎を引く彼女に、グエンギィは薄く目を細めた。

「改めて言うよ、先生。……『驚いた』。まさかこの程度のこともわからん輩に連隊の副官が務まるとはな」

 軽妙な表情にも、冗談めかしい声音にも、変化は見られない。
 だが、獣竜種の敏感な感覚でのみ汲み取れるような領域で、東方領第一連隊長は冷たく譴責していた。

 リィミィがグエンギィはの評価を改めるのとは対照的に、彼女は相手の不見識に対し失望と憤りを示したのだ。

「もういい。後は私に任せてくれな」
 リィミィ自身の熱をも連れ去るように、グエンギィはその身を引きはがした。

 冷えた肩を落として、リィミィは唇を薄く噛んだ。
 もし自分に本物の獣の尾なり耳なり生えていたら、垂れてより一層の無様をさらしていただろう。

「あまり気にしないでください、先輩」
 気落ちする彼女に、ポンプゥはそっと耳打ちするように慰めた。

「あの人、ふだんはだらしないけれども、声を出して笑うなんてことはめったにないんです。笑うとすればそれは……相当切羽詰まっているとき」

 そういえば、とリィミィはぼんやりと思い出す。
 絶望の撤退戦、その殿軍の与力として招かれた時もグエンギィは現れるなり高らかに声を響かせていた。

「かなりお気に入りなんですよ、貴方のところの隊長が」
 含み笑いにかすかな強張りめいた緊張をにじませながらその副官は上官の真情を代弁した。

「あいつは相変わらず悪運がいい! 無駄になッ!」
 耳語が聞こえているのか。照れ隠しゆえのあえての大音声か。憚りなく、両手を広げたグエンギィはそう褒めた。

「幸い、サガラ様は碧納を視察中だ。伝わるにはまだ時間がかかる。それに、我々はこれから教練を願い出ている。多少の兵を街中で動かしても、怪しまれない。まだ我々の内で収められるはずさ」

 る、と続こうとした言葉が、彼女自身の息を呑む音で遮られる。
 ややあって、「あー」と間延びした、カラスのような濁った鳴き声を発し、眉を下げて俯いた。手の置き場のない机、その縁を軽く拳を作って小突いた。

「先生、『彼女』に任務の報告したか?」

 愚鈍と暗に揶揄されたリィミィだったが、グエンギィが誰のことを指したのか。そしてそれの何に難があるのか。それが察せられぬほどではない。

 三者の気鬱げな眼差しが、遠く西へと注がれる。

「こりゃ、思った以上に血が流れるぞ……」

 先にあるのは、領主館。
 アルジュナが退いたその執務室で、おそらく誰よりも星舟の帰還を待っている真竜種の娘がいるはずだった。



[42755] 第三章:大牙 ~夏山星舟拉致事件~(九)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:6f4fa50d
Date: 2019/02/18 00:36
 かの領主館の執務室は、かつて寸時訪れた時とさほど変化はなかった。
 かの変わり者の領主代行殿であれば、もっと奇怪な生物の標本だとか、おどろおどろしい模様の壁に塗り替えられていてもよさそうなものだが、意外にも白亜の居城の様相はそのままだ。せいぜい、自筆とおぼしき走り書きや地図の断片が増えた程度か。
 いかにシャロン・トゥーチとは言え、それなりに嗜好の節制は心がけているらしい。

 ただ、完全に無欲には徹せられないようだ。
 地図といっても戦略構想を練るためのものとは思えない。
 そこに描かれているのは動物の分布図や、発見した日時等で、その生活の様や群れの構成などが付箋とともに記されている。
 あるいは雲の形、星の並び、そしてそれに前後する天候の動きや月の齢など、多岐に及ぶ。
 机の書類にそれとなく伏せられているのは、動植物の描写された絵。それも風景画のようなものではなく、事細かな角度から色をつけて描写され、それについての独自の解釈が添え書きされている。

 ――数寄も極まれば、学となるか。

 リィミィにしてみれば門外のものだが、それでも学術的に大いに意義のあるものだという強い共感はおぼえた。

 とはいえ、今はそれを観賞しにきたわけではなく、この偏愛のお嬢様をどう出し抜くか、という一点が問題なのだ。

「……セ……夏山殿が来られないということは、どういうことでしょうか」

 言葉遣いこそ統治者として振る舞いながらも、領主代行の表情には焦燥や心配が隠しきれないでいる。光の加減もあってか、かすかに影が差している。

「いや、ちょっと自分の馬に乗ってる最中に噛まれて転げ落ちましてね。なに、明日になれば寄越しますよ」

 騙す気が本当にあるのか、「自分に任せろ」と事前の打ち合わせで息巻いたグエンギィの説明は、すさまじく雑な嘘だった。
 あきらかに疑わし気に眉をひそめたシャロンは、
「私はライデンを知っています。気性は荒く悪戯もしますが、主人を落馬させるような駄馬ではありません」
 と鋭く言い切った。

「そもそも、領内に入る時点では彼は徒歩であったという報が子分ど……友人たちから報告を受けております。それと、奇妙な『馬車』を目撃したとも」

 シャロンの背後から口を差し挟んだのは、侍女長ジオグゥだった。
 名実ともに彼女の側近となったこの女は、護衛兼諜報担当として、遠近に目を光らせている。

 ――さすがに、単純で近視眼の野蛮竜というわけでもないか。

 初手で明確な矛盾を突きつけられて、リィミィたちは奥歯を噛んだ。
 見間違いでしょう、と白を切るのはさほど難しい演技でもなかったが、

「何かあったのですね。彼に」

 と断定じみた物言いとともに、宝珠の眼差しは両獣竜に定められては、かえって疑念と怒りを強めるばかりだ。
 リィミィは、これでいけると太鼓判を捺した発案者に、咎めの眼を向ける。
 当のジオグゥはどこ吹く風。空とぼけたふうに首筋をかきながら、ふぅと息を蚕の糸のように、細く長く吐いた。

「なに、本当に大したことじゃあないんです。ただちょっと、『相談役』にかどわかされた程度で」
「出動します! 兵の準備をッ!」

 ジオグゥの白状を、詳細どころか最後まで聞くことをせず遮り、若き女竜は席を蹴って立ち上がった。

「これは東方領ならびに竜全体に対する明確な謀反です! すぐさま兄上のもとへ早竜を飛ばし、このことを報告! 総力を以て事態に対処しますっ」

 矢次早にそう号令を飛ばすシャロンを、リィミィは慌てて制しようとした。
 爆発した怒りが謀った自分たちに向けられることはさすがになかったが、むしろそのほうが良かったかもしれない。
 彼女の判断は、あくまで堅実で合理的だった。領内の膝下で起こった反乱であれば、兄サガラにこのことを報告するのも、間違いではなかろう。ただ、そうなると困るのが星舟やアルジュナであるだけで。

 とは言っても、甘やかされて育ってきたお嬢様のことである。この判断から察するに、夏山星舟、サガラ・トゥーチの表面上の付き合いを、額面通りに受け取っている可能性が高い。

「あなたの兄上とお父上は政治的な理由で反目していますよ。あと、兄上と星舟は互いに憎み合ってるんです。仲が良いとか信じてるのは貴方ぐらいです」

 とは、今更説明もできまい。
 そしてリィミィの物憂げな視線は、ふたたびグエンギィへと向けられる。
 どこまでが本気か容易に悟らせないこと女は、どこから諦めたように目尻を下げて、へらへらと笑っている。出陣の準備をすべく、足早にシャロンは退室しようとしていた。
 ……もうダメだろ、これとリィミィが諦めかけた、その瞬間だった。

「猫かわいがりも、大概になさいな」

 時節は、夏も盛りのころであった。
 にも関わらず、グエンギィの口から嘲笑交じりの言葉が漏れた瞬間、氷の塊を部屋に投げ込まれたような、あるいは自分たちの意識だけが氷室に飛ばされたかのような、そんな空気が生じた。
 荒く音を立てていた、シャロンの沓が、止まった。

「溺愛も程度を過ぎれば、その猫に鬱陶しがられますよ」

 ジオグゥでさえ固まり、シャロン自身もまた怒りよりも驚きが勝ったようなその状況下で、第一連隊長はさらに追い打ちをかけた。

「……なにが言いたいの、貴方」
 振り向いたシャロンの声は、今まで聞いたこともないほどに低かった。

「言葉どおりの意味ですけどね」
 前門の獣竜種、後門に真竜種を抱えながら、ジオグゥはなお態度を改めることをしない。
「あまり大仰に身構えれば、それがかえって星舟の寿命を縮めますよ」

 氷の怒気は、星舟の寿命、という言葉と同時に収縮を始めた。

「考えてもご覧なさい。現状、連中は知れ渡るのを承知で兵を挙げようとしています。ただそれは、こちらが容易に対応できないと踏んでのことです。真竜種各家が大量に死亡者を出したことにより宙に浮いた利権、指揮系統。そのゴタツキの隙なら突けると、タカをくくってるんです。そしてそれは事実でしょう」

 グエンギィの言葉に、偽りはない。もしシャロンの方法で実際に万全に兵を集めて対処しようとした場合、それに時を費やして敵も地固めを完成させることだろう。そして、おそらくは藩王国も呼応して攻め来る。

「連中が夏山を生かしているのは、指揮官が不足しているから、あくまで篭絡せんとしているのでしょう。人間としてまともな実戦経験があるのは奴ぐらいですから。ただ、あの老人たちにしても、その説得に時間をかかている余裕はない。我らが本腰を入れて攻めかかってくると判断されれば、奴の説得を諦めて殺すでしょう。そして、兵備に時間をかければかけるほど、その怖れは強まっていく」

 ――上手い。
 滔々とつづられていくグエンギィの弁明に、リィミィは舌を巻いた。
 挑発的な一撃をくれてやって冷静な思考力を奪いつつ、もっともらしい道理を説いて主導権を自分の手元に引き寄せながら、彼女にとって大本命であるはずの星舟の安否をちらつかせる。

 やはりグエンギィは、何もかもがデタラメな所作に反し、本質的にどういう行動が求められているのか、その本質の把握に長けた将だった。
 直言ばかりの自分にはできない芸当だった。

 ――まぁ、ただこいつら、普通に仲が悪いだけかもしれないが。
 片や未だ睨み、片やそんな薄笑いとともに見返すような心洗われる上下関係を目の当たりにして、リィミィは鼻を鳴らした。

「お嬢様、自分としても、大軍での出兵には不承知です」
 意外な助け舟が出た。侍女長ジオグゥだった。
「今のところ、犠牲となったのは連隊の一指揮官です。カタギが虐殺されてるのならいざ知らず、たかだかその程度で兵を動かせば鼎の軽重が問われます」
「その程度、という言い方はないでしょう」
「申し訳ありません」

 主竜(あるじ)に咎められて、ジオグゥは頭を垂れた。

「ですが、夏山殿は忠義の士です。敵に質として捕らわれようとも、命を惜しむような方ではありません」
 抑揚もなく、臆面もなく、眉ひとつ動かさずジオグゥはシャロンに伝えた。

 そう、夏山星舟をひそかに評価し、信服を置いていたのは何を隠そう、ふだんはいがみ合っていたジオグゥだった……はずがなかろう。
 この女はグエンギィの道理に賛意を示したわけではなく、単純に憎き男に心を砕く主の様子が面白くなく、「死ぬならさっさとひとり野垂れ死ね」といった心境に違いない。

 ただ、それでも陰湿な根回しや妨害に出なかったのは、いかにもジオグゥらしい性分といったところか。
 何はともあれ、その場にいた全員の総意を汲んで、トゥーチ家の令嬢はみずからの焦りを認め、令を改めた。

「では、少数精鋭によって事態を処します。指揮は貴方に一任します。責任一切は、私が負いましょう。……それで良いのですね、第一連隊長?」
「もとよりそのつもりですよ」
「それと、私も出ます」
「お嬢様」

 ジオグゥがたしなめる。だが、それに対して
「ちょっと散歩に出かけるだけ。……というかジオグゥ? 私が、遅れをとるとでも?」
 事もなげに目を細めた彼女の主は返した。
 これは過剰な自信でもなんでもなく、基本的に争い事を控えがちな彼女をしてごく自然に言わしめるだけの、歴然たる事実なのだろう。

「……まぁ、《《遅れは》》とらないでしょうね。貴方」

 グエンギィは苦みが多分に混じった笑みで、そうお墨付きを与えた。そしてこうなった時のシャロンの意固地さは、誰よりもジオグゥが承知しているはずだった。

「ではせめて、自分もお連れください」
 と侍女は名乗り出て、「ありがとう」とシャロンは彼女を容れた。

 この場にいないポンプゥを加えれば女ばかり。はたから見れば大層鮮やかな五輪の華となろうが。その実情はそれぞれが毒気が強く、しかし質も違えば、別の方向を向いている。……ただひとりの、男を中心として。

 ――私が言えた立場ではないが星舟。どうしてお前の周りの女はこう……

 思いかけたことを、喉に流し込み、胃の腑の奥底までぐっと押し込める。
 そのまま消化するのも、愚痴として吐き出すのも、すべてはあの半端者を救い出してからだ。

 かくして、過日「あんまりにもあんまりすぎる女ども」と評されたリィミィとグエンギィは、さらに厄介すぎる爆弾をふたつ抱え、捕らわれの男を救うべく動き始めた。



[42755] 第三章:大牙 ~夏山星舟拉致事件~(十)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:6f4fa50d
Date: 2019/03/18 23:11
「そいじゃま、手っ取り早く方針をご説明願おうか、先生。完全な無策で我々を恃みとしたわけでもないんだろ?」

 あらためて連隊の駐屯地に戻るや、たちまちの内に兵が集まり始めた。
 頭数が揃ったところで、含みを持たせた丁寧な口調で、グエンギィはリィミィへと促した。
 自分で良いのか、という逡巡や謙遜に時間を割いている余裕はない。極力感情を排したうえで、リィミィは精鋭部隊と万夫不当の女傑たちに挟まれるかたちで直立した。

「現状、件の謀反人たちが領内を出たという報せは受けていません。察するに、敵も我らの動きを警戒し、残留する兵力が分散するのを待っているのでしょう」

 ただおそらく敵の誤算は、その集まる速さと数だろう。
 よもや第一連隊がほぼ全数行動可能になっているなど、考えてもいまい。

「そこで、一部を割いて領内の出入り口を封鎖。残る兵力でもって敵の隠れ家を強襲します」
「その言い方だと、ほぼ敵の所在を把握しているようだな」

 さすがに鋭い。グエンギィは今の説明の中であえて説明しなかった根幹の部分に、ざっくりと切りこんできた。
 対するリィミィは、鷹揚に首肯する。みずからの袖口から、老人たちにも用いたあの短刀を取り出す。

「これは私の考案した特殊な返しがついています。その返しの部分には、ノコギリの歯のような微細な突起があって、一度刺されば抜きにくく、無理に引き抜こうとすれば血管や神経を傷つけ、気をうしなうほどの激痛がはしります。取り出すには、しかるべき場所で切開手術をするほかありません」

 陽光を鈍く照り返すそれをあえて味方の衆目にさらしながら、息を吸い、続ける。

「そして私には、その臭いが目で追えます」

 それはいったいどういう言い回しか。一部の若い人間の兵は顔を同輩たちと見合わせたり、あるいは先輩に目で意図を問うたりしていたが、大半は考えたのは一瞬で、すぐさま納得した。

「……あぁ、あんたの祭具はそういう代物か。どうりで、戦場で力を振るわないと思ったよ」
 グエンギィが言った。
「珍しいですわね」
 ジオグゥが珍しく直接口を利いた。
「私が怪力になったり刃を研ぎ澄ましたところで、たかが知れているでしょう」
 そしてリィミィもサラリと返してのけた。

 女でも戦場に立てる者はいる……それを実証するためにその世界に飛び込んだリィミィだったが、それでも己の力量ぐらいはわきまえていなければ、道を踏み外す。

「聞いてのとおりです」

 満を持して、シャロンが進み出た。
 真竜である彼女が一方踏み出すごとに、場の空気の、緊張の密は増していく。

「細かい差配は、あなた方第一連隊に一任します。私も、グエンギィ隊長の指示に従い、夏山星舟救出の一助となればと思っています。これまでの彼の功は計り知れないほどに大きく、その労苦は私たちが知り得ないほどに深いでしょう。これからは、さらに労も功も積み重ねていくことでしょう。ですが、ここに命が絶えるようなことがあれば、それらの今も将来もなかったことになる。……私からもお頼みします。どうか、彼を救ってください」

 そう言って、真竜がはるかに位も力も弱い相手に頭を下げた。
 だが、それは決して侮りを生むことはなく、兵たちに与えられた士気とか義憤とか責任感というものはいやがうえにも高まっていく。

「ちょっと星舟寄り過ぎだけどな」
 頭を垂れて退がったリィミィに、グエンギィが耳打ちした。その視線の先に、苦い顔を作る侍女長の姿があった。

「……それはそうと、礼を言ってませんでした」
「え?」
「ご協力とお口添え、感謝します。グエン隊長」
 その揶揄を聞き流し、リィミィは謝辞を述べる。
 だが、対してグエンギィは不満そうに、というかスネたように目をすがめ、口元をゆがめた。

「それ、わざと言ってんの?」
「は?」
「なんだ、気づいてないのか。そこは策士らしいと認めてもよかったんだけどね」

 何かを言わんとしているのはわかるが、その意図が何なのかわからない。そんなリィミィの素の反応は、かえってグエンギィの落胆を招いたようだった。
 気まずい空気が両者だけの間に流れ、やがて、折れたようにため息交じりに連隊長は言った。

「っていうか、もし許されるなら私だって星舟を見捨ててたよ」
「えぇ……?」
「当たり前でしょ。いくら親友だって言っても、サガラ様は敵に回したくない」

 純粋に彼を案じ、自身の部下へと弁をふるうシャロンの裏で、さらりとグエンギィは言ってのけた。

「でも、お味方いただいた」
「だからホレ、そこがリィミィ先生の悪辣なところさ。もし面と向かって断ったりしてみろ。それで星舟が死ねば目の前のお嬢様は激発するだろうし、サガラ様はサガラ様で素知らぬ顔してその責任を私におっかぶせるだろうさ」
「それは」

 いくらなんでも考えすぎではないのか、と言い切ることのできない難しさが、今日における内外には存在している。

「つまり、この子狸ちゃんが迂闊にも用向きも聞かずあんたを通しちゃって、直談判を許しちゃったのがそもそもの悪手」
「それは申し訳ないと思いますが、尻を鷲掴みにしないで下さい……っ!」

 可能な限り抑えた声量で、出来うるだけの怨嗟を込めて、ポンプゥは抗議した。

 とは言え、とリィミィは思う。
 それでも、無理に断ることもできたはずだ。その無理をあえて通さないところが、グエンギィの懐の深さというか。踏み切らせないところに、星舟のなけなしの人徳があるというか。

 同時に、痛感する。
 自分は、保護されていたのだと。

 いなくなって理解する。
 今日まで。上司を介してではなくグエンギィと直接会話をするまで。

 煮え切らない半端者と内心失望を抱いていたが、実際は自分の知らないところでこんな怪物のような女どもとやり合い、成果をもぎ取ってきたのだろう。
 自分など、その成果の、さらに彼が精査し、漉した純粋な判断材料を座して待っていただけに過ぎないのではないか。

 ――才が、要る。
 強く、噛みしめる。

 リィミィにではない。夏山星舟に、別の智嚢が必要だ。
 所詮自分は、内を治める才でしかない。
 公平に資源や情報を分配し、運用するだけに過ぎない。そしてそれが限界なのだろう。

 だから、星舟の野心がどこに到達するにしても、別の種の参謀が必要となる。
 言うなれば邪智とも呼べるもの。
 他者を出し抜き、蹴落とす才。
 扱いを間違えれば毒ともなりうる劇薬。
 だが、戦うためには必要な智慧。

 だがいったい、そんな逸材など、どこにいると言うのか。
 万が一いるとして、果たしてそれは、誰なのか?



[42755] 第三章:大牙 ~夏山星舟拉致事件~(十一)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:6f4fa50d
Date: 2019/03/28 08:32
 夏山星舟は、縛られていた。
 どこぞの家屋の三和土で、柱に、さんざんになぶられながら。

 浴びせかけられるぬるま湯のごとき水は、時折垣間見える外の田園から適当に汲み上げたものなのだろう。閉じた唇の隙間からじんわりと侵入し、切った口腔をさらに痛めつける。鼻からも入ってくる腐った藻の悪臭が、夏山星舟に意識を手離すことを許さない。
 だが今はそれで良い。一瞬たりとも気を絶やすなと、我が身に命ずる。

「くそっ! 此奴め、面の皮の厚い!」

 散々に殴りつけたあと、比喩なのか本当の意味でなのか、老人が言った。
 痛む手の甲をかき抱くようにするさまを、星舟は嗤った。

 何が武士か。何が面の皮の厚いものか。老人の私刑も、尋問も、戦い慣れていない人間のそれだった。

 どこを殴れば効率よく痛めつけられるのか。そこに考えが至っていない。ただ目に見える暴力と権威でもって脅せば、いずれは屈服するものと思っている。実際のところ、かつてはそれで大概おのれらの意のままにしてきたのだろう。

 だが、もはや自分たちの力も衰え技巧も通用しなくなったことに気づいていない。かえって痛んでいるのは、自身のろくすっぽ鍛えていない筋骨だという自覚がない。けって自分たちの今後の立場を貶めていることに思い及んでいない。もはやそれは自傷にして自殺だ。

 ――自分ならもっと上手くやる。
 そのいろはでも教えてやろうかという親切心が、他人事のように浮かぶ。だが、無意味だと考えやめておいた。

「……何が、おかしい」

 だが、恩知らずにも彼らは星舟の顔に張り付いた嘲笑に、目をいからせた。刀を抜かんと柄に手をかけた。

「おやめなさい」

 制止の声がかかった。例の、御者に扮していた男だった。すでにみすぼらしい装束は脱ぎ捨てて、長袴に半マンテルという、軍人めいた格好をよく着こなしていた。
 歳は経堂と同じぐらいか。だがどこか虚無的で荒廃している彼とは対照的に、生やした口髭を綺麗に切り整えた、物腰に品のある優男だった。

「その男はどうやら、生半の精神力ではないようです。力づくでは、かえって恨まれるだけ。我らの正義と道理を説き、心腹させるべきかと」

 だがその指先の動きは精妙かつ繊細そのもので、一本の医刀と並の医師も顔負けの手腕でもって、リィミィも放った刃を老人の腕から取り除いた。

 からんと、適当な机に転がされたその異物を見た瞬間、治療を受けていた老人にあらゆる感情が蘇ってきたようだ。縫合を受けながら恐怖と怒りがないまぜになった顔を、強張らせる。

「貴様っ、何故さっさと助けなかったのだ!」
「領主館より逃げ帰った同志曰く、夏山星舟は死角であるはずの左側への不意打ちも捌いたとか。拙者も、この者はひとかどの武人と見ました。あの瞬間、乾坤一擲の奇襲を仕掛けるまで隙などなかった。これも我らに使命にため。何卒ご容赦いただきたい」

 などとつらつらと正論をば並べられては、年長者として立つ瀬がない。
 痛みか悔しさか。老人らは奥歯を噛み締めた。

「……お前、やっぱり見たことあるな」
 星舟は『相談役』を介さず、直接その男に語りかけた。
「汐津軍にいただろ」

「……元、汐津藩徒士組頭、恒常子雲。あの戦の後責任の所在を問われ放逐された」
「それはそれは」

 令料寺長範ら当時軍を率いていた主だった者らがあの後罷免されたとは聞いていない。要するに、そのシワ寄せが下々の者へと回ってきた、というわけだ。

「だからといって勘違いしないでもらいたいが、貴殿を憎んでこの謀に加わったわけではない。ただ純粋に、この義挙に人類解放の風を感じてのこと」
「義挙、ね」

 そこであらためて、今この状況に立ち戻る。
 誰がこの絵図を描いているのか、と。

 この老いぼれどもに、それを画策できるとも思えない。だが直接動いているのは紛れもなく老人たちで、しかも細かな行動の調整が取れていない。そもそも自分の説得などに時を費やすより、領主館を急襲するなり被害を承知で脱出して自領に籠るほうがよっぽど筋の通った判断だ。

 察するにこの連中は、計画通りに動いた結果、戦局全体にどういう影響を及ぼすのか、どういう意味があるのかさえ理解していない。その結果自分たちがどういう結末を迎えるのかさえも。

 ただ目先の欲に溺れているだけ。微細な帳尻合わせや尻拭いは遠方にいる誰かに丸投げし、責任の所在は自分たちにはないと信じて疑わない。言われたこと以外のことをすることへの、忌避。保身。甘え。
 このまま彼らは、反省とは無縁の精神性でい続けるだろう。
 誰かを妬みながら生き、誰かを憎みながら死ぬだろう。

 それらが頼みにしている、裏方はどうか。
 星舟はおのが想像の中に、音曲を奏でる女楽師の姿を視た。

 どこまで彼女が関与しているかは知らないが、この糸の最奥にいるのがカミンレイに違いない。

 だがそうなると、別の疑問が生じる。
 この彼女らしからぬ雑さはどうだ? 余念無い下準備の末に大包囲を完成させた女が、こんな連中を頼みとするだろうか。

 そこに対する解は、すぐに出た。
 頼みとする必要など、あろうか。
 そもそもカミンレイにしてみれば、扇動はすれども、同調する必要は微塵もない。竜国内を荒らしてくれればそれで良いのだ。いまだ生乾きの新国家を固めるまでの、時間稼ぎとして。そのために何千人死のうとも、あの異邦人に憐憫の情など沸きはすまい。

 今回の件は、すべて竜軍の敗北から端を発している。いや、厳密に言えばその敗走と、無謀ともいえる七尾藩単軍による、本陣突撃。

 それらは衆目にさらされながら行われた。いや、おそらくはそこまで計算に入れてあの女は根回しを続けてきたのだ。

「竜は殺せる」
「竜が絶対だった時代は終わった」
「この波に乗り遅れるなかれ」

 時の目撃者たちにそう示唆し、喧伝するために。
 結果として、その事実は風聞というかたちで流行病のように国内外に過剰に広まり、人々は浮足立った。
 そしてその背を、カミンレイは突きとばした。
 いまだ帝国内でくすぶる不穏分子に今回のように甘い言葉で囁きかけ、目に見える形の報償をちらつかせたりもしただろう。あるいは、七尾藩の合力の可能性をほのめかしたか。
 あとは転がる先がどこであれ、彼女にとっては知ったことではなかっただろうし、その程度で動くような軽率な輩に、それ以上の用などなかったはずだ。

 あの女宰相からしてみれば、反竜の土壌こそ重視すべき事柄であって、その中で芽吹く雑草そのものには、さして興味などない。

「……アホくさ」
 泥と血が過剰に分泌された唾液に混じる。そんな口は、動かすのも億劫だった。だが、それでも思わず声がこぼれた。

 どんな大計が待っているのかと思えばなんのことはない。自分は遠く離れた幹を追いかけようとして、偶さか足下に生えた蔦にけつまずいただけなのだ。

 そしてその蔦と成った種の正体にも、おおよその見当がついた。

 占拠した農家とおぼしきその家屋。その出入り口を封鎖するムシロの帳が開き、光が差し込んだ。黒い人影がぬぼっと伸びたかと思えば、それは白皙の少年のものへと変化した。

「謹んで言葉を賜るが良い。斉場家が後裔、斉場繁久(しげひさ)様であらせられる」

 ――あぁ、やっぱり。
 果たして星舟の予想は当たった。だが、ここまで歓喜も痛快もない的中もないものだと内心で毒づいた。



[42755] 第三章:大牙 ~夏山星舟拉致事件~(十二)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:6f4fa50d
Date: 2019/04/14 21:42
 軍兵を引き連れた乙女たちは、リィミィの超知覚を頼りに、南の外れへと向かっていた。

 自分には『臭い』が追えると強弁した彼女ではあったが、神経を研ぎ澄ませておおよその方角がわかる程度だった。距離が少し遠かったのもあるのかもしれない。
 だが、さほど問題ではなかった。方向さえ合えばあとは知性の出番だ。そこから、馬車を隠せる程度の家屋があり、かつ通行に乏しい場所を割り出せばよいし、そこまでいけば感覚もより正確になってくるだろう。

 果たして彼女の憶測は、見込みの甘さと非難されることなく的中した。

 そこは穀倉地帯の一角ではあったが、十年前の戦時に地主一家が逃散して以来、管理者もおらず手つかずとなっていた土地だった。
 もともと水はけが良い場所ではなく、また財をはたいてその改良に臨むにしても、その負担を上回る収穫量は見込めそうにもない。

 そう言った理由から放棄されていた場所に、近頃買い手がついた。
 それは名もない米問屋であって、安定した仕入れ量を確保するためにも直営の農地を持っておきたいという理由からだったが、むろんそんなものなど望むべくもない。
 調査はまた後になるだろうが、おそらく背後には旧斎場家の影があるはずだった。

 しかも出入りをする小作人の姿は目撃されていたそうだが、湿泥に手を加えた様子はまったくない。
 どうしてこうも露骨な偽装工作に誰も気づかなかったのか、逆にふしぎなぐらいだ。

 ――あるいは。
 ふと湧き出た疑念に突き動かされるままに、リィミィはさらに南へと目を向けた。
 その疑念の先に、グエンギィがいる。
 彼女は右へ、次いで左へと指を動かした。

 一拍子置いて、遠く先の泥地から、彼女の麾下が顔を出した。蛙の属性を持つとされるその獣竜種たちによって、側に立っていた敵の歩哨は、泥の中へと引きずりこまれた。左手に立っていたもうひとりが驚き、声をあげる間もなかった。振り返った彼らの背側から忍び寄ったもう一組の『蛙』が、同様に半身を乗り出し、人間を引きずりこむ。

 口に押し当てられた彼らの指間に、リィミィは水かきのような圧を感じた。
 だが、音は極力抑えられている。ここからは聞こえないし、至近であっても小石が落ちた程度のものだっただろう。

 血のあぶくが、泥沼にふたつ。

 そうして、ここに至るまでに警戒網を食い破ってきた。第一連隊が一芸に特化した分隊を抱えていることは聞いていたが、実戦でかくも有用であったとは、リィミィにとっては少し意外なことだった。

 もっとも、その精妙な工作兵たちであっても、もう少し敵の密度が高ければ、苦労を強いられただろう。だが、グエンギィがこれ見よがしに街中に走らせた陽動に釣られて警備を固めていた兵をその都度過剰に派していたために、その目は粗く緩くなっていた。

 勇んで合流せんとしていた同志とやらにしても、ポンプゥの率いる分兵と動ける第二連隊を経堂が取りまとめ、合流前に拿捕することに成功していた。ひとりも取りこぼすことなく。

 つまりここに至るまでに、八割がた勝負が決していた。

 となれば残る気がかりは、星舟の安否である。
 敵陣の中枢、庄屋の屋敷跡を捕捉できるまでに距離を詰めていた。もはや人質を押し込め、かつ敵の大将が身を隠せる場所は、そこしかなかったし、リィミィの肌も見えない釣り糸で引きずられるように、かすかな痛痒とともにあの一点を示している。

「まぁ、後は巻き狩りみたいなもんでしょう」
 事もなげに、グエンギィは言った。

「声をあげて囲む。投降すれば良し。なお抵抗をするようなら、あえて包囲に一点を開けてそこに敵を誘い、無防備になったところを襲えば良い。人質を連れているのだから、自然その足は遅くなる。もっとも、星舟にあえて危険を冒して引きずって行くほどの価値はありません。便所かどっかにでも打ち捨てられていくでしょう」

 その意見にはリィミィも概ね同意だった。便所うんぬんのくだりは置いておくとして。

 だが、承服していない者がいた。というか、その姿を消していた。

「お嬢様」
 その動向を目敏く追っていたジオグゥが、諫止の声を静かにあげる。
 彼女の主シャロンは、単身小走りに屋敷の方へと向かって行く。足を止めず、言った。

「それでは自棄になった敵に彼が害されるおそれがあります。先行して誰かが潜入し、彼を救出しなければなりません」
「そりゃそうかもしれませんがね。けど、御大将みずから行かんでも、ウチのもんを遣らせりゃ良いでしょう」

 ジオグゥとグエンギィが、畔を歩いてシャロンを追う。
 引きずられそうになる部隊を、リィミィが抑えていた。

「私は指揮官ではない、と言ったでしょう。それにもし見つかっても、真竜である私であれば切り抜けられます」

 そう言って聞かない。そうなれば、テコでも動かない。それを察したジオグゥは引き止めるのをやめ、
「であれば自分もお連れください」
 と妥協案を提示した。

「……都合よく立場を切り替えちゃってまぁ。これだから現場に出張る上司ってイヤなんだ」
 そう毒づくグエンギィだったが、彼女もまた苦い顔のままシャロンへ追従した。

「あー先生? 部隊はそのままね。いや、むしろ後退させろ。密集させるな」

 は、と乾いた声でリィミィは聞き返す。
 シャロンがみずから救出に出ることで予定が当初のものとは狂ってくることは理解する。だが、目標まで入れ替わった訳ではないし、むしろより近くで、異変に即応できるように待機しなければならないのではないか。何故真逆の指示を出すのか。

 つらつらと疑問を思案する学士を、グエンギィは追い足を止めて見つめた。

「先生さ、ひょっとしてシャロン姫様の『鱗』、知らないの?」
「……そうですね。葵口の折は見られるかと思いましたが、霜月の進撃は速く、『牙』を抜く暇もなかったようでしたので。非難するようで恐縮ですが、もっと速く抜いてさえいればもう少し被害は抑えられたかもしれません」
「あぁもういい。分かったよ」

 グエンギィは苦笑し、独り合点した。

「まぁ分かってないよな。あの『牙』を抜いていれば被害が少なかったなんて、そういうズレたことを言ってる時点で」



[42755] 第三章:大牙 ~夏山星舟拉致事件~(十三)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:6f4fa50d
Date: 2019/04/24 22:28
 目にも留まらぬ速足でもって息つくこともなく長駆しする。屋敷の裏口へと回り、一気に歩哨の首を絞め上げる。そして一気に飛び上がり、あるいは木と壁を伝って音もなく納屋の小窓から侵入する。

 それは、一級の資質を持つ獣竜種や、その上位種たる真竜種であれば容易なことだった。

 梁から移動したシャロン、グエンギィ、ジオグゥの三人は、目下に保護対象と敵を同時に捕捉した。

 だが、その中心には、謀反人とも人質ともまったく質の異なる人物が立っていた。
 気品にあふれた色白の青年。分厚い外套で薄い肌をくるんだその立ち姿は、あたかも聖者の誕生もしくは復活にも似ている。

「謹んで言葉を賜るが良い。斉場家が後裔、斉場繁久様であらせられる」

 老人のひとりが彼の名を告げた。シャロンたちは、その頭上の『隘路』で互いの顔を見合わせた。
 この六ッ矢における旧支配者層に冠していた一族。彼はその血縁者だという。

「本物ですかね?」
 グエンギィは領姫へと耳語した。ひょっとしたら一瞬でも面識があったのではないか、と考えての問いであった。

「わからない」
 シャロンは首を振った。
「だけどその真偽に、意味はないと思います」
 グエンギィはそう続けられた彼女の言葉に、へぇと内心で感じ入る。

 やはり腐っても統治者であるということか、馬鹿とさえ言いたくなるほどの純朴さだが、その辺りの感覚は備わっていると見える。

 そう、それが本物かどうかなど、詮のないことで、対外的にそれがどう見えるかのほうが重要なのだ。
 おそらくは、彼は藩王国が送り出した、あるいは仕立て上げた刺客だ。

 竜は人を支配するにあたり、やはり人の知識をあてにしている。
 そうでなくとも、戸籍情報などを握っているのは彼らだから、自然帰順した者たちへの処置は甘くなる。結果、この国は前線に埋め火を抱いて戦っているというのが実情だった。
 もっとも、それは今まで土の深くに埋もれていたものだ。その上に、圧倒的な力がのしかかり、暴発の危険など毛ほどさえなかった。

 だが、先の敗戦が竜土を大いに揺らした。その結果、地盤に亀裂が生じて導火線はむき出しになった。あとは、藩王国がそこに旧権力者の『|火種《たね》』を蒔けばよかった。

 そこまで読んでの、シャロンの発言だった。
 ――良かった。
 グエンギィはひそかに安堵した。
 星舟の姿を見た瞬間激発するかと思ったが、その程度の分別を持てる程度には、彼女は冷静だった。

 そう、慎重に、隙をうかがう。
 星舟を救ったあとは、可能な限りこれから起こりうる『悲劇』を軽減させる。
 今は、忍耐の二字のみがある。

「彼の縄を、外しなさい」
 弦楽のような純度の高い声で、斉場繁久は命じた。
 老人たちが、軽い動揺を見せた。

「お待ちくだされッ」
「この者の今にも噛みつきそうな目を見なされ! 縄を解いた瞬間、噛みついてくるやもしれませぬ」

 まるで猛獣扱いだと、グエンギィは笑いを忍ばせることに苦心する。
 一瞬、視線のようなものを感じて彼女は気配を消した。

「だからといって将来我らの同志となる者を、いつまでもひどい扱いをしているわけにもいかないよ。それに恒常どのもおられるさ。丸腰の者相手に、決して遅れをとるようなへまはしない」
「恐れ入ります」

 我がことのように誇る盟主に、その配下たる長身の男性は恭しくも美しい礼を捧げた。直前に自分たちの気配を察しかけたのは、あの男らしかった。

 ――先生の言っていた『腕の立つ奴』か。

 人の身でありながら、柔と剛、攻と守、いずれにも隙というものが見受けられない、完成度の高い肉体だった。グエンギィが対等の条件で戦っても、十のうち三、いや四は負けるかもしれない。残る六分の勝ちにしても、容易に得ることは適うまい。

 恒常と呼ばれたその男が、星舟の背後に回ってその縛めをあっという間に解いた。が、捕縄の心得もあるようだ。さっと解けるということは、その逆も然りと考えるのが筋だ。

「すまなかったね、手荒なことを真似して」

 少年のねぎらいの言葉に、星舟が口を開く気配はない。だが気にした様子もなく、繁久はつづけた。

「だが、どうか察してほしい。こうしてでも、君を仲間に引き入れたかったのだ」

 声にも、卑しさというものがない。老人たちに刷り込まれているのではなく、あくまで自分で思考したものだというたしかな言霊だった。

「たとえ、潰えると知れた計画であったとしてもね」

 星舟は貝のように押し黙っていた。だが、その右眼にはかすかな変化があった。

「若!」
「今日に至るまで確信が持てなかったから言うまいと思っていた。だがどうやら本国は我々を棄てにかかっているらしい。でなければ、増援がとうに送られてきていてもいいはずじゃないか」

 ことのほか冷静な判断力に、グエンギィは意外の念にかられた。目を見開くシャロン、星舟も同様だろう。

「けど、君さえ加わってもらえればその状況も好転する」

 痛ましい縄の痕跡をいたわるように、星舟はおのが手首を仏頂面で撫でさすっている。

「君のことは恒常殿から聞いている。生還は望み薄と思われていた過日の撤退戦における智勇の駆使、まるで毛色の違う混成軍をとりまとめて、被害を最小限にとどめた。その手腕があれば、いま少し上手に領内を立ち回れるはずだ。そうだろう?」

 星舟は否定しなかった。まんざらでもない表情をした。

「もし東方領の懐で持ちこたえているとなれば、藩王国も考えを改めるかもしれない」
 これは少々楽観に過ぎるのではないか、とグエンギィは思った。
 事は軍事行動だ。この彼らがそうであるように、また自分たちがほぼ第一連隊のみで動かざるを得なかったように、集団というものは動き出すまでに一朝一夕でその令を改めることはできない。厄介な手続きや連携が必要となる。ましてや複数の思惑渦巻く連立政権、合議制ではなおのこと。

 だが星舟はそれを口にして否定することはしなかった。ただ苦笑じみた表情で立つのみだ。

「だが、そんな君の現状は、決して恵まれたものとは言えまい」

 その星舟の表情から笑みが消えたのは、この時だった。

「そもそもはそのような殿軍を任せられていること自体、君の命は軽んじられているとは思わないのか。そしてそれを成し遂げたところで、特別何かが報いられたわけではなく、さらなる難題を押し付けられる。そんな良いように扱われ、用済みになれば捨てられる」
「自己紹介か?」

 星舟が皮肉を言った。だが、みずからの境遇それ自体を否定しなかった。ゆえにその挑発はふだんの切れ味に欠け、敵は余裕たっぷりにそれを受け流した。

「だからこそ、君の気持ちも理解できるというものだ」
「理解……?」
「そうさ。語らうまでもなく、僕らは同士。六ッ矢が落ちたあの地獄に居合わせ、今日に至るまでに竜どもに押さえつけられ忍従を強いられ、忸怩たる想いを抱えて生きてきた」

 シャロンが奥歯に力を込める音が聞こえる。
 この鈍重ならざるともお気楽な姫様は、今になって気づいたのかもしれない。人質以外に意識を傾ける気になったのかもしれない。

 自分たちはそもそも守護者ではなく侵略者で、支配者ではあっても統治者ではないということを。

 そして最後は、夏山星舟へと帰結する。
 たしかに自分たち竜のために多くの苦役を背負わされてきた『セイちゃん』は、温情と道理ある繁久の説得に靡いてしまうのではないか、と。

「けどその暗黒の時代ももう終わりだ。竜の中にいては力づくで押さえつけられるだけだが、人の中にあればいずれは身を立てることができる。僕たちならば、星舟にふさわしい地位も名誉もいずれは与えられる。……人の世に戻ってきなさい、星舟」

 そう言って斉場の御曹司は手を差し伸べた。
 星舟は、否定しない。その手を払いのけることも面と向かって拒むこともしない。

 飛び出そうとするジオグゥの、肩を押さえて押し留める。

 ――頼むから、迂闊なことは言わないでくれよ、星舟。
 乞い願うように、あるいは祈るように、グエンギィは思う。

 もし彼が敵方に与するならば、そのそぶりを見せるのならば、ジオグゥは即この場で、シャロンの制止も聞かずこれ幸いと二心の者として彼を処断するだろう。よしんば脱しても、サガラは嬉々として彼を伐つだろう。

 そうなればサガラが次に疑いを向けるのは星舟に昵懇なグエンギィだ。もしくはそれを口実にすり潰すか。
 であればこそ、彼女は誰よりも早く星舟を攻撃しなければならない。

 ただ、保身のためだけでもない。

 星舟に分不相応なまでの野心があることなど、とうに知っている。だが彼女はそれを止めることはしない。愉しみとさえ感じている。

 だからこそ。
 たとえその場しのぎであったとしても、自分よりも先にこんなつまらない連中に披瀝してしまえる程度の望みであれば。

 ――私が、お前ごと殺してやるよ。

 そう心に決めた矢先、声が、眼下で漏れた。
 星舟が、吹き出し、肩を震わせ笑っていた。

 果たしてそうかこの不忠者。
 それを変心の兆しと断じて身を乗り出そうとしたジオグゥを、グエンギィは変わらず抑え込んでいた。

 これは、違う。
 この笑みは、同調のためのそれではない。

「いやー……」
 不審がる周囲をよそに、星舟は彼らしからぬ、間延びした声をあげた。

「笑っちゃいけないんだけどさぁ」
 口端を歪めたままに、紡ぐ。
「本当なら好き放題に喋らせてもっと情報を引き出すのが筋なんだろうけどさぁ……!」
 語尾が揺れ動く感情に合わせて震える。

「けど、我慢しろってのが無理な話だよなぁッッ!」

 ここまで寡黙を貫いていた男が、吼えた。
 笑いながら、否、怒り狂いながら。

 浮かぶ笑みは、愉悦のためではない。
 くすぶり続け、堪えてきた感情、それが一線を超えて屈折したかたちで発露したものだった。

「与えられるだと……? ふざけんじゃねぇ! 搾取するばかりで何も与えてこなかったのがそもそものお前らだろうが!」

 その場にいた誰もが知り得なかった、夏山星舟の貌だった。

「オレはお前らがふんぞり返っていた時分から、ここにいた。クソ溜めの中で、その日の飯どころか名前さえ与えられなかった……ただ存在しないものとして扱われ、誰にも見向きされなかった……!」

 シャロンやジオグゥに対しては、表面上は忠良な従者であっただろう。またグエンギィに対しても、理不尽に対して不平をこぼす事はあっても、ここまで憤りを露わにすることはしなかった。

「……セイちゃん……」
 その彼が押し隠していた烈しさが、外に弾き出た。それを目の当たりにした時、グエンギィは、そしておそらくシャロンも秘め事を共有するかのような、奇妙な感慨と法悦を得た。

「……そんな何者でもなかった餓鬼に、『夏山星舟』を与えてくれたのは、ヒトではない竜たちだった。……あの方たちだけだ! オレを、命と見てくれたのはッ!」

 斉場繁久は気圧された。言葉に窮した。当たり前だ。彼らに浴びせられた怒りは、彼らのみならず、夏山星舟の半生を苛んだすべてに対するものだ。とうてい、二十にも満たない子どもや無能な敗北者たちが二つ返事で受け答えできるようなものではない。

 だが、その心火は、彼のまったく預かり知らないところへ延焼した。

「セイちゃん」
 隣で静かに呟く。何度も、まるで大切な本を同じ頁を読み返すように。その文字を指でなぞるように。

 自身で否定しかけていたことを、本人は受け入れてくれていた。トゥーチ家を、心底慕ってくれていた。

「セイちゃん……!」
 ふたたび、静かに呟く。情感の熱がこもる。

 だが、その華奢な四肢から発せられる真竜の気は、両獣竜の心胆を寒からしめるに十分だった。

 その圧を真近で受ければ、剽悍なグエンギィも剛毅なジオグゥも、ぶわりと額や背に冷汗と粟を浮かせた。

 足場となった梁が、悲鳴をあげる。
 その下にいた謀反人たちもまた、総身で危機を感じ取ったか。突然雹にでも降られたかのように、剥いた目を上げた。

 中でも驚愕したのは星舟自身だった。

 救援は、予想していたはずだ。
 グエンギィたち以上にリィミィと付き合いが長い彼のことだ。彼女の短刀がここまで運ばれた以上、おっつけそれを嗅ぎつけてくると知っていたに違いない。

 でもまさか、領主代理自ら出陣とは、思いもよらなかったようだ。

 ――おいおい星舟。

 硬直する彼に、グエンギィは苦笑を傾けた。
 隣からも重圧は加速度的に増していく。そこ慣れなどあろうはずもなく、冷汗は引かない。

 シャロンにとって、そして星舟自身にとって、あの啖呵はこれ以上ない最適解だった。

 自身の野心など頭から抜け落ちたように激情をぶちまけた結果、この姫様にはこの上ない忠誠心を見せかけ、かつ彼女の情愛を焚きつけてしまった。

 感極まり、昂るシャロン・トゥーチと言う名の炉が今、どういう状態に陥っているか。誰よりも星舟が理解しているはずだ。

 ――そうだよ……いくらなんでも喜ばせすぎだ、お前!

 凍りつく場に、美少女のかたちをした爆薬は、みずからを投下した。



[42755] 第三章:大牙 ~夏山星舟拉致事件~(十四)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:6f4fa50d
Date: 2019/05/19 15:27
 それは、火山岩のような威容と勢いでもって落下した。
 形状そのものは女の肉体を保っていた。豊かさも、くびれも、服をまとっている時よりも肉感的に浮き彫りになっていた。

 だが、その『鱗』はそれ自体が刃物の集合体のようでもあり、鉄鉱石の鈍く黒い輝きを持ち、その中に、星のように黄金の点と、その奇跡を描くがごとく流線が刻まれている。

 細身の『牙』は彼女……シャロン・トゥーチ自身の変化に呼応するかのように、おぞましいまでに鋭利に、乱雑にその刀身に突起を増やし、まがまがしく反りが深くなっている。その鯉口にも似たには花弁のごときものが広がって、手の甲にまで至っていた。

「シャロン・トゥーチか。驚いたな、まさか子飼いの危機に、みずからお出ましか」
 繁久が言った。
 『鱗』をまとった真竜を前にして、あえてこの強気。この落ち着き払いよう。その胆力だけは、認めて良いと思った。

 ――だが、これは……まずい。

 一瞬目が合ったグエンギィを、再度、気取られぬよう睨み上げる。

 彼女の隣にいるジオグゥは、主君を追って飛び降りた。だがいまだ梁の上にいる彼女は、そのままおどけたようにブンブンと両の手を振っている。

 おどけた、ように。
 分かっている。内心で振り回され、本気で焦っているのは彼女自身だ。

「夏山星舟を解放しなさい。さすれば、今回の一件は内々に収めます」

 低く沈んだ声で、救いの主が言った。恫喝の響きであれ、圧はない。穏便に、事を終えようという譲歩が見られた。

「お優しいことだね。さすがは帝国内きっての穏健派、アルジュナ殿のご息女だ。人に対して今のように君の温情による美談も、しばしば耳にしているよ」

 まるでおのれが対等か、知己のように振舞う。むろん、それは幼稚さからくる無鉄砲というわけではなかろう。星舟を人質に取り、かつ竜たちが仕掛ける前に彼の喉首を搔き切ることができるという、子雲に対する信頼。それゆえの、強気であろう。

 あるいは自身が生命を惜しまず正義を為しているという、揺るぎない自負ゆえか。

「だがそれは、語弊を承知で言わせてもらうなら、いわば婦人の情というものだ。自覚があるかは知らないが、君にはとって人に向ける感情は、犬猫に向けられるものと同じではないのか。強大な力、無敵の甲冑を持つがゆえの優越に過ぎない。だが我々は畜生と同類ではない。知性があり、言葉があり文化があり、誇りがあり信念がある。我々は対等でなければならないはずだ。違うか?」

 堂々たるその啖呵は、星舟の考えにも通ずるところがあった。そして諸人が言わずとも腹のなかで思っていたことでもあった。
 常のシャロンであれば自分たちの抱える矛盾と合わせて沈思し、自己嫌悪とともに心の隙を生んだだろう。

 だが、

「夏山星舟を解放しなさい。さすれば、今回の一件は内々に収めます」

 鉄面の奥底から繰り出されたのは、一言一句違わない、反復の恫喝だった。
 ここまでの話の流れに一切触れず、ただ自分の要求を片道で突きつける。
 謀反人たちは、本来持ち合わせるシャロンの情の懐の深さと甘さにつけ込む心算を多分に持っていたはずだ。
 だが、見たこともないであろう強硬な姿勢に、面食らい、当惑し、また得体の知れない不気味さを覚えていたようだった。

 そも、彼らの言葉など一切耳に入っていないに違いない。個人個人の顔など、今の彼女の視界にさえ映らない。

 有り体に言えば、今の彼女は、忍耐の尾が切れていた。

「……今すぐ、オレを解放して裏口から逃げろ。お前だけなら逃げ切れる」

 何を言っているのか。胡乱な視線が子雲より発信され、星舟のうなじに突き刺さる。
 今、竜たちに天地より取り囲まれている彼らが命を繋いでいるは、ひとえに星舟を質としているゆえだ。それを手放すことは、おのれらにとって命綱を手放すに等しい。
 この片目はおそらく助けを得たことで自分の力が増したごとく錯覚し、増長し、益体も無い脅しをかけているのだろう、とでも思っているのか。

 だが、シャロンを知る星舟に言わせれば、おのれを解放しないことは下策も下策だ。

 この偏愛の姫君は、おそらく彼が自由にならない限り地の果てまで追ってくる。そして、星舟の頸部に押し当てられた匕首が走るよりも、速く……

 べつに彼らが想像するように威を借りて言っているわけでも、温情をかけているわけでもない。
 ただその場にいることそれ自体が、自分やシャロン自身を含めたその場にいること全員の危機なのだ。

「……残念だよ、多少は話がわかる方だと聞いていたが……」

 不穏なものを本能的に感じ取ってはいつつも、斉場繁久は真の理解には至ってはいない。うろんげに睨み返し、おのれの背に隠れるような老人たちを伴って、身体を少しずつ出口へと傾けていく。それに、子雲と彼に捕らえられた星舟が従った。

「計は破れた。だが我々はまだ死ぬわけにはいかない。いつの日か、ふたたびこの地に斉場の旗を、人類回天の標べとして立ててみせる」

 そう息巻く少年に、シャロンが向けた反応は多くはなかった。

「警告は、した」

 どうやら相手に理解も諾否も求めない一方的な勧告は、今のシャロンにとっての、最大級の譲歩であったらしい。

 次の瞬間、『牙』を剥く右腕で異音が放った。地底に眠る何かが、彼女の腕を介して遠吠えを響かせるような、重低音。

 その音の波が、感覚を狭めていく、高低の幅が拡大していく。それが最高潮に達した瞬間、『牙』の先端が弾けるように、飛んだ。

 湾曲したそれは、短筒のようにも見える。浮遊し、ゆっくりと繁久の鼻先へ。
 彼は身じろぎしない。『牙』もまた宙に留まりそれ以上は動かず。直接少年の貌を潰そうとはしなかった。

「どれほど強がろうとも、斬れないと思ったよ」
 ふぅ、という落胆とも安堵ともとれる吐息とともに、顔を背けて出口へと向かう。

「結局のところ、それこそが君の甘」

 最後まで言うことはできなかった。
 そして未完のまま終わった繁久最後の弁は、大いに誤りだった。

 その『牙』の尖鋭が、光を発した。熱を吐いた。青白い輝きが、小年の側面で膨張し、彼の頭部を飲み込んだ。
 痛みはなかっただろう。無念を感じる暇さえも。
 
 少年の魂魄はその首とともに消し飛んだ。彼は自分たちは獣ではなく知性を誇りを持った人間だと称した。

 だがその知性を無くしてしまえば、残ったものは獣でさえなく、ただの肉と糞の塊だった。

 立ち尽くしたような異様な死体。一体何が起きたのか。首が消し飛んだ主君。それを前にした時、残された老人たちに、くすぶっていたという矜持も、不遇の中で持て余していたという経験も学識も、まるで役に立たなかった。ただ本能に従い、逃げた。

 だが、朽ちた肉体と直感よりも彼女の殺意のほうが、速かった。
 彼女の手の内で、『牙』が崩壊、いや分解した。

 柄頭当たる部分が老人の背に取り付いた。引きつった悲鳴とともにそれを除こうともがく彼は、それの正体を身をもって知った。いや、それが作動する瀬戸際に、知覚したか分からないが。

 柄頭が、老人の背へと触手めいたものを伸ばし、突き立てる。内側へと何かの液体を一定量注ぎ込むと、鉄の触手ごと離れて別の獲物を求めてさまよった。

 その時にはもう、老人の始末を終えていた。
 内側から肉体が膨張し、骨も肉も液体質に変化させていく。やがて原型をなくし、赤褐色の泥団子か葛餅のようになった彼は、主君の亡骸ごとに爆発した。

 その爆炎に皮膚を焼かれながら、ひとりが逃げ出した。肌が焦げ付くのも、衣服の飛び火も構わず這い出た彼は、表の歩哨に侵入者の存在を知らせ、保護を求めようとした。もっとも異変はとうに知られていようが。

 そう、総て、遅きに、失した。
 あるいは、端緒より、選択を誤っていた。

 彼らの頭上に、花弁の鞘が踊る。それは何かを招く儀式的に、法則的に、輪になって回転する。

 灰色がかった天上で、閃くものがあった。それは瞬く間に雲を食い破り、空気の壁を破壊して天地を震わせ、急転直下に落ちた。

 雷に似て非なる何物か。自然現象ではない。純粋に精製された、力と熱の柱。明らかに森羅万象の理から外れた、外つ神の射放った矢であった。
 それが、男たちを、いや彼らの立っていた地帯を根こそぎ焼き払った。

 屋敷が半壊する。地面を溶かす。中に眠っていた地層を赤熱させ、底の見えない空洞を穿つ。

 その場にいた全ての者に、言葉はなかった。
「や、やめ……たす、おゆるし」
 そんな声が漏れ聞こえた。星舟が止める間もなく、取り残された老人の喉は、頚椎は、シャロン自身によって、枯れ枝のように無言で手折られた。

 鉄面に覆われた頭が、内に燃え立つ視線が、今度は星舟を飛び越え、子雲へと向けられた。浮遊する矛先が、彼へと狙いを定めた。

「なんだ……なんなのだこれは!? 聞いていないぞあの女っ!?」

 紳士然とした様子をかなぐり捨て、そう叫ぶ子雲は、星舟を解放して、身を低めて飛んだ。

 誰よりも長じた武芸と危機を判別する嗅覚が、間一髪で光の斉射より彼を救った。彼に代わって家屋の土壁がそれを負った。穴が開けられた。
 星舟は顔を覆った子雲の襟髪を掴んで引き立たせた。耳元で囁き、それから空いた壁へ背を蹴り込んだ。

 とは言え、星舟も安全であったわけではない。もはや、無差別だった。花弁や棘や剣先が狙う標的は、人のみならず竜たちにさえ及んでいた。

 みずからに伸びる触手を、ジオグゥは手刀で振り払った。虎の質を持った一薙ぎはその先端を切断するにいたったが、すぐにまた柄頭は、鉄の芽を生やして伸ばし、元の長さを取り戻した。

 梁で待機していたグエンギィは、足場を蹴って上司にためらいなく軍刀を落とさんとした。だが、彼女たちの間を、熱線すり抜けた。

「あっぶね!?」

 思わずそう口走りながら、グエンギィは空中で身をひねって軌道を変えた。が、そのために制動が間に合わず、柱にみずからを打ちつけた。

「おい、なんで連れてきた!?」
「仕方ないだろ! なんかついてきたんだから!」

 グエンギィを助け起こしながら、非はないこと承知で彼女を責める。八つ当たりも良いところだが、感情のぶつけどころがそこしかなかった。

 次の瞬間には、駆け出していた。彼らを二手に分かれて、棘が追った。

 これが、シャロン・トゥーチがめったに『牙』をを剥かない理由。
 彼女の初陣が遅くなり、過保護気味に育てられた要因。

 神祖よりの血を母方より引き継いだ彼女は、同時にその神にも等しき力も同時に継承していた。
 もし制御できれば、霜月信冬がいかに怪物であったにせよ、遅れを取るものでなく、それ以外の戦場でも彼女一騎在るだけですべてが覆るだろう。

 制御できれば、の話だ。

 だが分散したシャロンの『牙』は、直接的に彼女の心理と繋がっている。彼女の感情の赴くままに『牙』は荒ぶり、また『牙』が暴れるほどに彼女の感情も引きずられ、高ぶっていく。

 だから、シャロン・トゥーチは情深いその性格が安定するまで様々な感情がひしめく戦場には身を置くことができなかった。今なお前線に立てない。
 一旦暴走すれば、多くの味方をも巻き込むだろうから。彼女が大切にする者たちさえ殺すだろうから。

 あるいは、彼女を単身戦陣へと突っ込ませることが、戦力として最適な運用方法であるのかもしれない。
 だが、尊きその身を、神祖に連なるその血統を、従者つけず大量殺戮兵器のように投げ込めるだろうか。
 また、そういう扱われ方をして、未だ少女の如きその心が穏やかで居られるだろうか。

 圧迫された心はある日、平穏の中で、誰かの側で唐突に爆発するかもしれない。文字通りに。

 ――なんという……

 恐ろしい運命なのだろう。
 誰よりも優しく、自然の理に学び、万物を愛する女が、何者をも破壊し、万象の法を覆し、すべてに畏怖される力を持ってしまった。

 星舟は獣のようの吼える彼女を想う。あの星夜に見た、娘のほがらかで無邪気な好意を想う。
 泥のような色味しかない過去の中で、あれだけが彩を持っている。あれが、夏山星舟のすべての始まりだった。

 ――たとえ、星を落とす異形であっても構わない。オレは……!

 それについての思索を、打ち切る。
 今の自分に時もなく、位もなく力もない。そんな自分にしかなし得ない一瞬のため、その非力を尽くす。

 グエンギィが自分を呼んだ。だが構わず突出した。乱舞する光線が腿をかすめることにも拘らず、束の触手が背を追うのも度外視し、頭上に展開する花弁をも、意識から外し、ただ影法師のような彼女の姿へ、手を伸ばす。

 次の瞬間、彼の肉体に、じゅうと焼ける音と異臭がした。



[42755] 第三章:大牙 ~夏山星舟拉致事件~(十五)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:6f4fa50d
Date: 2019/06/03 01:20
 束の間に、星の夢を見た。
 寒々とした黒い空間に、またたく無数の光を幻視した。

 近くで見る。次第に近づくにつれ、正体が明らかになるにつれ、失望が大きくなった。
 それはなんのことはない。ただ大きいばかりの、光を跳ね返すばかりの石塊だった。
 だが、より遠きに目を移せば、失望はより強い期待へと変わった。はるかな先にやはり光明は点在していた。

 無限に続く暗夜航路の中途に、銀を波うたせる、舳の折れた舟のような形状の巨体が漂っていた。あるいは、竜の躯か。

 それは今この瞬間に火を吹いたかのように、前肢から突き出した爪をちりちりと赤熱させていた。
 その先には、緑碧の巨大な星があった。

 舟中に、意識が至る。
 真っ白な部屋、廊下。体内か、あるいは胎内か。
 その内部に、とうに朽ちて骨さえまともに残らない死骸が散乱していた。散乱といっても、床にではない。空中に浮かび上がっていた。

 それをすり抜け、心臓部に迫らんとした瞬間、脳裏に怒涛の情報が、流入してきた。
 未来も過去も関わりなく、経緯も結果もかき乱して。

 『侵略者(コンキスタドール)』レ■ドインベー■ョン。ヤ■タノオ■■。選定システム。オー■ーロード。『星喰らい』。■体指■性進■計画。『上帝■』■型分■計画。始天五剣(オリジンファイブ)。■星■■戦■。国連未■■惑■■査団。■露■■軍独立■。外■宙適応型■イオノイド■画。代■生体■■。■■アンチャン■ラーシ■テム。

 意図も意義もまったく分からないまま、箱詰めのまま脳髄へと押し込まれる。苦悶の声をあげる。その筐体をみずからの脳内で開け、神秘の一端なりとも明らかにしようと努力はするが、それはいたずらに自身の脳に苦痛を与えるだけで、語句の咀嚼どころか記憶することさえ叶わない。

 ややもすれば、それは彼が明晰さを自負する頭脳を破壊し、廃人とさせていただろう。

「セイちゃん……?」
 あどけなさを含んだ、その呼び声さえなければ。

 ふと正気に戻れば、そこはちっぽけな、庄屋敷の壁があった。心許なさげな、少女の面影を残すシャロンがいた。
 『鱗』の解けた彼女の肩を押さえる夏山星舟の右腕は、光線を掠めて袖口を焼き、皮膚を焦がしていた。
 あと一歩でも、その身がずれていたのであれば、右腕は肩ごと消し飛んでいただろう。
 隻眼隻腕の将士など、笑うに笑えない。

 自分が見たのは夢だったの幻だったのかは分からない。そも、何を見たかさえも判然としない。醒めては味の悪さだけが残る夢のようだった。だが費やした時は、それほど長くはないはずだった。

 それでも、彼と彼女の、周囲の状況は一変していた。

 見るも無残な死骸の放つ焦げた臭いは、香ばしさどころか鼻先をかすめるたびに強烈な嫌悪感となって襲いかかってくる。

 かつてはそれなりの権勢を誇っていたような構えだった屋敷は見るも無残にその痕跡を消し飛ばした。

 グエンギィ、ジオグゥの両女傑でさえ、『鱗』を解いたといえ今の不安定なシャロンに接近することにはためらいがあるようだった。

 いわんや変事を察して近づいた、あるいは合流したリィミィ、ポンプゥ以下の救援部隊など、強張る表情を隠そうともしなかった。

 そしてその惨状に怯えていたのは、他ならぬシャロン自身だった。
 我に返ったのは良いものの、自覚なくおこなった虐殺を何の心構えもできないままに目の当たりにしたのだから、これに過ぎる酷い仕打ちもあるまい。

 詫びようにも、相手はすでに冥府に送った。弁明をしようにも、その余地がないことを知っているのは他でもなくシャロン自身だ。

 ならばせめて、怪我を負わせた星舟へと……などと思っていたのだろう。だが、差し出そうとしたその腕は、今の今まで老人をひねり殺してそのままだったために、脂の浮いた血で汚れていた。

 睫毛を伏せて、目をそらす。
 手を引こうとする。その指先を、星舟は反射的に掴んでいた。

「え、セイちゃん……え?」

 羞恥よりも困惑が勝っているが、身体は反射的に抗おうとしていた。無意識で発揮した力である。渾身の力で踏ん張り、星舟は彼女引き寄せる。それが難しいなると、今度はみずからの身を寄せる。
 千切れかけた上着の袖を裂いて、汚れるのも構わず、シャロンの指先を拭った。

「だ、だめだよセイちゃん。汚れちゃうから……!」

 そう言って腕を振りほどこうとするが、思う様に力が働かなくてなっていった。次第に力は抜けていった。肩をすとんと落とし、顔もぼうっと緊張を無くしていく。
 自身の手を、身体を、星舟へと委ねた。

 意識をしないように爪から指の間まで、丹念に慈しんでいた星舟だったが、鮮血を拭ったあとの親指の付け根を、そこに残った桃色の傷跡を見た瞬間は、流石に虚心でいられず、つい目を逸らしてしまう。

 それは今ここで負ったものでも、戦傷でもない。指輪のように残るそれは、星舟自身がつけたものだ。彼女との出逢いと繋がりの証でもあり、罪の象徴。

 などと表現すれば多少は格好がつくが、実際は人生の汚点以外の何物でもない。
 あてどなく彷徨っていた名もなき子が、差し出された食物を取り込もうとして、勢い余ってそれを持っていた竜姫の指まで噛んだ。

 今でこそこうして熟視しまければわからないほど塞がったが、後で聞いた話によれば血の出るほどに、針で縫わねばならないほどに深く歯を立てていたらしい。
 今にして思い返せば餓鬼の執着恐るべしというか、呆れるほどの身の程知らずというべきか。

 散々血を浴びてきた彼だが、傷跡を見るたびに、その時の血の味が、今でも蘇るようだった。

「やっぱり気になるんだ、それ」
 他人事のように、シャロンは自分の傷について星舟に問う。

「……償いようのない、大罪でありますれば」
 低く沈んだ声ともに、何か言い訳のように星舟は返した。
「私と距離を置くのは、これのせい?」
「……臣下としての、分です」

「私は、そうは思わない。これ罪だなんて」
 そう言って、真竜の姫は首を振った。

「そしてあなたを、自分の愛玩物だと思ったこともない。出逢ってから、ただの一度も」

 星舟は、宝珠の瞳を見返した。こうして視線を間近で交わす機会など、まして触れ合う機会など、滅多にないだろう。これ以前も、以降も。
 手の動きが、意図せずして速度を緩めた。

「セイちゃん、私は」
「オレにとってのあなたは」

 彼女が継ごうとした言葉を、星舟は自身の声でもって塞いだ。慕情の告白や、逆に別れ話を口付けで誤魔化すような最低の男のように。そう思われるのも、覚悟の上で。

「星です。星なのです、シャロン様。ただオレの手の届かない天頂で、変わらず輝き続けてくれればそれで良い。それだけで十分なのです」

 手をすり抜けて、星舟は自身からその身を離した。肌が触れ合う感触が消えていくのを意識したのは、彼も彼女も同じだっただろう。

「……なのでお助けいただいたことは感謝いたしますが、かくのごとき些事で、今後は御心を乱されぬよう」

 ふたたび視線が合う。合ってしまった。

 シャロン・トゥーチの瞳には、様々な感情が渦巻いているようだった。
 期待。落胆。不安。羞恥。喜び。悲嘆。甘え。切なさ。怒り。混乱。諦め。抵抗。理性。本能。欲望……

 自分が野心のために切り捨ててきたものが、絶えず流動していく。
 それらが文字通りの虹となり彩となり、織り交ざっていく。ひとつの銀河を双眸の中に描いていく。

 決して口にはしないが、美しいと本心から思える。
 たとえそれが、星舟や、彼女自身を苦しめる宿業であったとしても。

 一礼とともに、星舟はその身を翻した。
 自然、退出するその先々では自分を助けに来た女たちの目があった。

 グエンギィはさっきまでの怯えはどこへやら。ニヨニヨとしつつどう見てもこの状況ややりとりを堪能しており、その横でジオグゥが「こいつ気持ち悪」とでも言いたげに、星舟の胡乱そうに睨んでいた。

 ポンプゥは肝心の人質であった自分のことなどまるで興味などないようで、てきぱきと撤収準備の指示を飛ばしていた。そして主要な顔ぶれの中では最後に、リィミィへと行き当たった。

 ジオグゥさえも差し置いて、この小柄な副官ほどに今の星舟に鋭い感情を向けてくる者はいなかった。
 まるでこちらの心底を突きえぐるかのような視線が、何を意味しているのか。自分のどういう態度が、彼女の不審と不興を買ったのか。
 星舟には分かっていたが、あえて言葉にはしなかった。

 ――いったいお前は何のために、誰のために戦っているのか?
 などと、あえて口にするまえでもないことだった。

 何が悪かったのか、自分で考えて反省を促される子どものようなバツの悪さで顔を伏せ、垂らした前髪の奥に隻眼を隠す。

「……今日はもう休め」

 露骨なため息。だがそれを吐き出すとともに、顔の険は取れていた。
 呆れたように、その中で精一杯気遣われるかのように、肩を小突かれる。
 あるいは、真正面から頬を強烈にぶたれるよりも、その痛みは尾を引いたかもしれなかった。



[42755] 第三章:大牙 ~夏山星舟拉致事件~(十六)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:6f4fa50d
Date: 2019/06/16 20:29
 月琴を爪弾くと、ピンと張り詰めた、透き通った音が鳴った。
 それが法則性を持ち、一定の間隔を開けて連続したものとなると、音曲らしきものになろうかという萌芽を感じさせた。

 そこに変調が加わると、その巧拙はともかくとして、四畳半の密室に、風雅が加わった。銀葉に乗せられた白檀の香と相まって、腸さえも蕩かすような甘美さを生じさせていた。

 その余韻は、灯火が盛る夜の六ッ矢に、蜜のように溶けて拡がり、浸透していく。

 またしても負傷療養中となった夏山星舟がみずからの琴曲で無聊を慰めているのは、昴玉楼。

 この城下町で、今となっては唯一無二の、高級妓楼。
 闇の浅深を問わず客の入る、不夜の城閣。

「お連れ様、いらっしゃいました」
 欄干に半身を預けて琴曲を弾いていた星舟は、室外よりの声と足音に反応して身をもたげた。

 障子を開けて現れた長身の紳士は、男でも見惚れるぐらいの切れるような所作で一礼し、そして膝をそろえて星舟の傍らに坐した。

 自身から誘うまでもなく女が放っておかないだろう色気を持っていた。だが、ふだんはいざ知らず今回ばかりはそれを行使する気はないようだった。

 酒を注ごうとする女に遠慮し、星舟もまたその特権でもって彼女らを退かせた。

「つくづく、矛盾の塊だ。貴殿は」
 開口一番、淡々と客人は言った。

「密室を規制し、密談を糾弾する立場にありながら、その貴殿自身が偽名でもってこのような場を運営している」
「アルジュナ様に許可はもらっているさ。諜報機関、情報源の一環としてな」
「だが、それはつまり人間の女を竜に売っている言うことだ。隷属させるということだ」
「人を女衒みたく言うな。直接的な干渉なし、希望するなら身請けも足抜けも快諾する優良店だよォ、ウチは」
「だが彼女たちにも苦界に身を落とすより他の生き方があったはずだ」
「その生き方ってのは、ドブネズミみてぇな暮らしのことか? それとも蕎麦や饅頭同然に身を切り売りして、梅毒で頭をやることか?」
「……」

 男は答えなかった。

「手に職がない。学もなけりゃ礼儀作法も知らん。そんな女の末路なんてたかが知れてる。それでも人は歌うことができる」
「情緒的な表現だ」

 誰がどう聞いても感情のない声で、白々しく男は言った。
 なんとまぁ会って早々剣呑な、と星舟は思った。だがそもそもはこの紳士、恒常子雲は今の今まで敵だった。無理らしからぬ態度だと考えを改める。

「なぜ、自分を助けた? ここへ招いた?」
「もったいない、と思ってな」
「もったいない?」

 節がある程度区切りのよいところまで奏でてから、星舟は月琴を傍らに置いた。子雲へと向き直った。

「お前さん、投擲は得意だし格闘の心得もある。……銃の心得は?」
「対尾の決死隊の中で鉄砲隊を指揮していた」
「結構。じゃあ小隊程度であれば、指揮能力もあるというわけだ。オレが投降した時も、胡乱気な目で睨んでいたな」
「何を言いたい?」

 その時と同じ目を、子雲は向けた。
 望みの通りに食いついた彼にまっすぐに、本題を切り出した。

「では手短に言う。オレの部下にならないか?」
「断る」
「即答かよ」

 拒絶の一刀のもとに両断される。
 与する理由がないこととは言え、こうもはっきりと言われるといくばくか心が傷つくものだった。

「言ったはずだ。自分は、人類解放を目指してこの武を磨き、士道を貫いている。今単身生き残り、逃げ場に窮しているとはいえ、何故竜に降らなければならないのか?」
「けどオレには興味がある。だから教えてやったここに、正直に来た。だろ?」
「……たいした自惚れだ」

 笑いもせず、子雲は皮肉を言った。

「同志を失い、潜伏していた者たちも貴殿らに制圧された。他に当てがなかっただけだ。ここの妓女のごとく、竜に媚を売ることなど」
「おいおい、オレの方こそたった今言ったぞ。《《オレの》》部下にならないかと」

 仏頂面でい続けた子雲は、そこで初めて反応を示した。
 あの無謀と無能の集団の中で、唯一見どころとある程度の知見を備えていたこの男は、それだけ言えば

「……つまり貴殿は、自身が埋伏の毒たらんと、あえて裏切り者を汚名を被って雌伏していると? いずれ蜂起するその日まで」
「藩王国に味方する気はない」

 一度は晴れた怪訝の眼差しは、ふたたび星舟へと向けられた。

「……なぁ子雲」
 呼吸を知ったる知己のような気軽さで、星舟は敵だった男を呼ばわった。

「そもそも、赤国王の唱える竜種殲滅が、本気で成ると思うか?」
「歴代でも稀有なまでに大器で英邁な陛下であらせられる。十分に信じられる気宇をお持ちだ。その幕下にも一代の英傑が揃い踏み、霜月公は現に真竜種を撫で斬りとした。それは貴殿も知るところであろう」
「そうか。では質問を変えよう。あの出征、汐津藩だけでもいくら使った?」

 加熱しかけていた議論は、星舟の問いをきっかけとして一気に凍りついた。

「少なくとも、追撃の失敗を名目にお前ほどの士を手放さなきゃあならないほどだ。相当の戦費が投入されたはずだ」

 子雲は押し黙った。
 むろん、台所事情まで踏みこめるほどの立場にはなかったはずだが、それでも戦地に動員され、購入した銃器を扱うにあたり、財政への圧迫は肌で感じ取っていたはずだ。

「なるほど確かに、人は竜を殺せる。だがその一勝一殺のために必要なものは数知れん。兵力の大量動員はもちろんのこと、稀代の用兵家、鬼神、外国の助力、最新の銃器、軍艦。多くの条件を満たす必要がある。……続けられるのか? そんなことが。次代に続くのが稀であればこそ、彼らは稀代の傑物たりえる」
「局地戦にまでその全てを投入する必要はない。先の戦のように、機動戦と策でもって決戦に誘引し、大幅に戦力を削り、集団的な抵抗を出来なくさせる。東方領を突破して一挙に帝都を突くことさえ夢想ではなくなる」

 冷ややかな眼光が、揺らぐ。だが弁はその鋭さを保っていた。

「なるほど、じゃあその理想的展開の先のあるものを、帝都を占拠し人の世となったこの国で何が起こるか、予言してやろうか」

星舟はあえて大仰に言ってみせた。

「竜の殲滅なんてどだい無理な話だ。取りこぼしは必ず存在する。彼らは必ず自分たちの棲家を奪還しに来る。そして蜂起の瞬間矢面に立たされるのは、傑物でも鬼神でも金持ちでもない。無辜の民や駐屯兵たちだ」
「……それは、立場が逆でも起こりうることだ」
「それでも、竜の勁さは一世一代のものじゃない。生物としての頑強さだ。一時的に無茶をして優位を得るよりも、上から下に、天から地に、強者から弱者に、という構造にしたほうがよっぽど自然の理に叶っているんじゃないかね」
「だから、隷属するというのか。隷属しろというのかッ」

 声を荒げ、子雲は席を蹴った。

「彼らが天下を取れば、それこそ永劫に人は竜に頭が上がらなくなる! 犬猫と同等の扱いを受けることになる! 貴殿はそれを是とされるのか!? それで父祖に顔向けができるのか!? 支配される子孫たちに、面目が立つとでも!」

 正論でもって星舟を制さんとする彼を、今度はその『裏切り者』が冷ややかに睨み返す番だった。

「……あいにくと、誇りに思える父祖なんざいなくてな。そもそも見てみろよ。外を」

 見るまでもない、と言わんばかりに首を背けた。
 見るまでもなく……外には、抑圧でも苛政でもなく、正常な人間の営みがあった。
 それは男も認めるところであるがゆえに、彼は黙殺したのだろう。

「そう、人間が不当に支配されているなんてお題目は、お前たちの敬愛すべきご先祖様が過剰に喧伝してるに過ぎない。そしてそんな中で不平を言うようなヤツはいやしない。いつしか、それが常識だと思うようになる」
「飼い慣らされることに、変わりはない」
「飼い慣らされる? 逆だよ子雲。オレはな」

 星舟は息を吸う。
 どこかで仕損じる自分を省みて、いつも以上に細心の注意を払って、気配を探る。自分たちが耳目に触れる位置に他者がいないことを確かめる。

 だが、彼の挙動は大ぶりかつ大胆なものだった。
 両腕を大きく広げて夜景を背に立ち上がり、そしてみずからに改めて誓うように、戒めるように強く宣言した。

「オレは、竜に天下を取らせる。それはそれとして、その営みの下に人の機構を作る。そしてその組織でもって、竜たちの生活を内部から支配する。これこそが、人々が生き残り、果てのない報復戦争の連鎖を終わらせる唯一の方法だ」



[42755] 第三章:大牙 ~夏山星舟拉致事件~(十七)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:6f4fa50d
Date: 2019/06/26 19:03
 両手を持ち上げたまま、しばしその場に星舟は佇んでいた。だが、びっくりするほどに無反応でい続けた紳士を前に、いつしか興は陶酔とともに覚めた。

「画餅だ、それは」

 すごすごと、自分の席に膝を揃えて戻っていったあたりで、ようやく子雲は言葉を発した。

「画餅かね?」
「結局奴ら上に立つ限り、滅多なことできん。内から支配すると嘯いたところで、生き物としてすべてにおいて勝る奴らにその上権限も明け渡せば、取り込むどころか歯向かうことさえ許されまい」

 だが、彼の語調には、先ほどまでの明確な拒絶がなく、むしろ話を推し進めるだけの材料を、提供している風にさえ感じられた。

「能力は知恵は個々にもよるが、全体を見渡せば人は竜に優っている点がただひとつある」
「それは?」
「数だ」
「……結局、そこに立ち戻られるおつもりか」

 呆れたように、子雲は言った。
 手酌で酒を注ぎ、おのが内の忸怩たる思いを押し流すように、一息に清酒を煽る。

「だから、数の優位あればこそ、その利を活かし竜を攻め切ることもできるというのだ」
「だが、攻められれば崩れる。そういう事をくり返した結果が百年続く土地を取った取られたのイタチごっこだ。このまま長引けば、急激に技術を発展させ始めた諸外国よりもずっと国力は遅れをとることになる。本格的な内政への介入が始まる。現時点でもお前のとこの親分はみずからそれを招いちまったじゃないか」

 二口目を、注いで呷る。
 この男でも、酒に溺れることがあるのだろうか。興味本位で彼の蠕動する喉を観察しつつ、星舟は続けた。

「……良いか? 真竜種は少ない。獣竜種は人に次いで数が多いが、学問や算盤はおおよそ苦手だ」

 まぁ例外はいるが。自身の副官を頭の後ろに浮かべながら、内心で苦笑する。

「鳥竜は分類こそされているが、大本は獣竜と同じだと言われている。ここから先は細かく挙げれはキリがないが、つまりはもし統一国家が成立した場合、肥大化した国の生産や事務を担うのは……人だ。竜は胃袋を自分たちより弱い奴らに握られることとなる」

 かと言って、今更裸で洞窟に引きこもって暮らすことは決してないだろう。穴倉を出た竜は、陽光を浴び、人間の知に触れた。文明の甘美を、官能を、彼らは一度味わってしまった。
 その贅肉をそぎ落とすことは、不可能であろう。

「……画餅だ」
 子雲はくり返し言った。実現性の乏しさ。ただ彼の意に染まぬ部分が、今となってはその一点しかないように。

「そうだな。今は絵空事だとも」
 そしてそれは、星舟の認めるところでもある。
 なればこそ、なのだ。

「だがそれを言ったら、赤国流花の描くものだって、所詮は画餅だ。しかも、あの女の中で紛い物のまま完結してしまっている。それ以上は広がりようもなく、オレたちにとっても旨みがない。それをカミンレイが知らんわけもないけど、あいつはあいつで自国の益のために動いている。いつまでも藩王国に肩入れするとも思えないがな」
「……」
「もちろん、オレの展望にもまだ多くの課題が残されている。とりわけ足りないのは『人手』だ。だが、誰でもいいというわけでもない。特にあんな共謀するに足らん小者なんてのは論外だ」

 なればこそお前だ、と重ねて星舟は説得した。
 即妙の武勇があり智慧があり、そして……

 そこまで言わんとして、星舟はその愚を悟って慎んだ。その直後に、子雲は起立した。早足で、障子まで向かった。部屋を出ようとしたところで、呼び止めるまでもなくその足が止まる。

「……しばし、考える時を頂きたい」
「語った以上、多くは待てねぇよ」
「承知しております。……これをしかるべきところへ届け、ここへ帰ってくるまでの四日間。それでまでには考えをまとめておきます」

 心なしか言葉遣いを柔らかくして、子雲は言った。
 その懐から、一束の黒い絹のようなものを引っ張り出し、星舟へと披露する。

「それは?」
 星舟は問う。
「繁久様の遺髪です。状況が状況ゆえに、死を覚悟おられた。そのため万が一何かあった場合はこれを形見とせよ、と……そして汝は生きよ……と」

 寸刻、子雲は、一瞬顔を丸めた紙細工のようにしかめた。その顔を覆い隠すように、指先を目に押し当てた。
 顔を上げた時には、温和ながらも油断のない武人の貌に戻っていた。

「たしかにあの方は、おのが理想や生き様を追い求めすぎて下々の心としばしば乖離することがありました。しかし、その志は疑いようもなく高潔であられた。貴殿はあの方を悪しざまに罵られたが、これより人を信任し、抜擢しようという方が、人の欠点ばかりを見て美点を見出し、伸ばそうとしないのは如何なものかと」

 それは痛烈な批判だった。だが星舟の理念を解さなければ成し得ぬ忠告でもあった。

「……痛み入る」
「しかし意外でしたな」
 素直に非を認め軽く頭を下げる星舟に、身繕いをしながら子雲はさらに言葉をかぶでた。

「あの時の啖呵。貴殿は心底、竜を、トゥーチ家を敬愛しておられるように見えた」

 星舟は息を呑み、唇を引き結んだ。
 彼の沈黙が破られるのを待たずして、男は今度こそ退出した。
 足袋が畳を擦る音。板張りを踏み鳴らし、階を降りていく音。
 それらが止まるまで、隻眼の青年はぐっと奥歯を噛みしめたまま、硬直していた。

 ~~~

 恒常子雲が完全に去った後でも、昴玉楼の主はそのまま居座った。
 かといって女はずっと近づけないまま、ただ無言で独り、酒を飲みつづけたが、酔いとは無縁の心境だった。

 こういうところをあらためて顧みると、やはり自分はあまり人間というものが好きではないのかもしれない。と言って、竜が来てほしいというわけでもないが。特にシャロンには、こういう醜態は見られたくもない。

 今はとにかく、ありとあらゆるぬくもりから離れて、自身の心音だけを聞いていたかった。
 だがそう決めたにも関わらず半刻ほど後には酒にも倦んで、月琴を取り出し弦を弾くこと数節、それにさえも飽いて、とうとう手持無沙汰となった。

 ただ所在ないその腕を、欄干の傍にあって手を伸ばす。
 群青を帯びた天の星海は、光輝を放ちながらもなお、この手の中には落ちてはこない。

 ――あれは、一体なんだったのか。

 そもそも『あれ』とは何を指していたのかさえ、記憶の中にはすでにない。
 全身を貫くような体験を間違いなくしたはずなのに、もどかしいほどに思い出せない。

 それでも今は、あれらが何物であっても良いと思った。ただ、落ちることなく、身を寄すことなく、頭上で輝いてさえくれれば。

 シャロンの影が重なる。十年前の彼女と星空を想う。
 彼女を突っぱねた時の自身やその直前の、子どもじみた恥ずべき振る舞いも思い出す。なぜあんな軽率に。感情を吐露してしまったのか。
 そもそも、なぜ餓えた何者でもない少年は、彼女の血を吸ってしまったのか。

 それでも今は、手を伸ばす。
 いまだ何者でさえ自分と大いなる天をつなげる、一筋の紙縒のように。

 ――この夢と想いは、矛盾していないはずだ。……絶対に。



[42755] 第三章:大牙 ~夏山星舟拉致事件~(十八)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:6f4fa50d
Date: 2019/07/08 08:12
 馬上である。
 夜陰に紛れた恒常子雲が視る南の対岸には、迂回してきた碧納の姿があった。
 その川を遡上して東の本流を進めば、そのまま藩王国の陣にたどり着く。

 おそらくは最大級の警戒を見せる帝国の近衛兵たちは、子雲がこれ以上進もうものなら、たちまちに銃弾を放ってくるだろう。

 またがっている馬は、討竜馬ではない。
 だがこの場合はこれで良かった。彼らの臆病さが、言い換えれば竜種に対する過剰な警戒心が、騎手を救うことになるだろう。

 彼は懐から遺髪を取り出した。
 それをじっと見つめながら、耳を澄ませて周囲の気配の有無を確認した。肌で、風の流れの上下を感じ取った。

 影は、自分を含めふたつ。

 そのうえで、彼は《《誰のものともしれぬ》》その髪束を、ぞんざいに投げ捨てた。

「良いのですか?」
「どうせ誰ぞの骸から適当に引っこ抜いたもんですよ。繁久のものじゃない」

 夏山星舟や『同胞』とは名ばかりの捨て駒らに向けた恭しさは、上部から取り払われた。
 紳士然とした様子はもはやその背格好だけ。皮肉げな笑みを浮かべて、下馬して背後の客を出迎えた。

「良いのですかはこちらの言いたい台詞ですな。よもや宰相ともあろうお方が、陣を離れ渡河までして、しかも最前線でお一人とは」
「新たなる州都を物見遊山に来たしがない楽師ですよ」
「ご冗談を」
「まぁ事あるごとに都内にあってわたくしどもが口出しすると、それがかえって不協和音になります。それに今後の対応方法、貴方がたの言葉で言うところの建白書はすでに上奏済み。それをお取り上げになるかは女王陛下次第です」
「ははぁ、なるほど。カミンレイ閣下はすぐれた演奏家であると同時に作曲家でありましたか」

 彼女の国の文化に理解を示しながら、子雲は肩をすくめた。
 目の前の年齢不詳の女は、異国の人形を想わせる神秘的な風貌も相まって、現実味というものに乏しかった。あるいは自分が見ているものは秘伝の幻術で、実物の彼女は今も秦桃あたりで筆を執っているのではないかとも思えた。

「で、如何でした? 東方領内の様子は」
「当然のことながら、大半の芽は潰れました。が、先走るような輩も今回で軒並み消えましたので、もう少し手綱を握れるようになりましょう」

 それと、と声の調子を落とす。

「シャロン・トゥーチの暴走を、目にしました」
「ほう?」
「彼女を怒らせるような真似は、避けるべきでしょう。あれは流石に、今の人類の技術力では手に余ります。霜月公とて、太刀打ちできるかどうか。仔細はこれに」

 そう言って報告書を献じたあと、子雲は「あぁ」と、意図的に、ついでのように付け足した。

「あと、夏山星舟に接触しました。紆余曲折ありまして、以後は彼の下で行動したいと思います」

 行動は制限されるが、竜に近しい彼の側近くにあれば、得られる情報はより多いし、ともすれば彼らの行動もある程度は操作することとてできるはずだった。

「では、星舟自身はどうですか」
「あぁ、あれ」

 子雲は鼻を鳴らして即答した。

「貴方はやたら目をかけておられたが、てんで駄目ですな。そりゃあ多少目鼻は利きましょうが、それだけです。あとは大言壮語と過ぎた野心だけが持ち味の男です。にも関わらず情を捨てるだけの気概もない。もっとも彼の展望は計画性がないながらも発想は面白い。酒のツマミ程度に聞くぶんには楽しかったですよ。たしかに愛玩物として見る程度には興味がある人物ではありますが、それだけの男ですよ。きっとどこへも行けず、放っておいてもいずれ身を滅ぼすことでしょう。あえて心を砕く必要もありますまい」

 その雇い主、カミンレイ・ソーリンクルは口許を緩めず、だが睫毛の長い目だけを細めた。
 怒っているのか笑っているのか。異人の表情がどちらの側の感情に起因しているものか、子雲は計りかねていた。

「下らぬ男だと断じておきながら」
 ややあって、口を開いた。
「ずいぶんと熱心に彼を評するではありませんか、子雲殿」

 指摘されて、初めて彼はおのれが饒舌にあの隻眼を語っていたことを自覚した。

「まぁ、精緻であることばかりが作品の良し悪しとも限らない。駄作なれども、不完全であればこそ語りたくなるようなものもあります。そういう下手物の類ですよ、あれは」

 彼女なりの感性を織り交ぜて、警告する。

「これ以上、彼への深入りはしないように」
「心得ておりますとも」
「貴方がこれからも我々と良き友人でいたいのであれば、ですけどね」
「……承知」
「では、引き続き内偵と種蒔きの中継は貴方に一任します」

 言うだけ言って否も応も聞かず、楽師は手渡された手綱を掴んで馬に乗り、そのまま慣れた手捌きでもって馬首を自陣へと翻して駆け去った。

 ようやく自分ひとりとなって、ふぅと息をつく。
 馬を奪われたのは心許ないが、それでも息つくことさえ至難な彼女に近くから離れられたのは、彼にとっては救われた心地だった。
 この地は見渡す限りに自然の豊かな野原だが、あの高楼から見た竜の街の方が、よっぽど広く感じて落ち着けた。

 危険な思考を打ち切って、足下を俯きがちに見る。
 打ち捨てたはずの黒髪は、名もなき雑草にしがみついて、とどまっていた。
 揺れ動くその隙間の奥底に、子雲は霊魂を視た。

 斉場繁久のものだったのか、この髪の本来の持ち主だったのか。あるいは夏山星舟の生き霊か。

 それは子雲自身にさえ分からない。
 あまりに多くを偽りすぎた彼には、おのれの感情の所在は、すでに無意味なものとなっていた。星舟を嗤えはしまい。

「……そうきつい眼をしなさんな」

 ただその中でも、ひとつ確かなことがある。こうと迎えたい末路がある。至上ではないにせよ、就いておきたい席がある。

「あんたらに呪詛をかけられるまでもなく、どうせいつかは使い潰される。だがせめて、こんな面白い時代をできるだけ良い席で観覧して、せめて冥府の土産としたいのさ」

 そう、ただ駒として扱われるのではなく、せめてそういう人を人たらしめる部分は、変わらず自分の内に納めておきたい。
 そのうえで、最期の一瞬まで見届けさせてもらう。

「さてそうなれば、勝つのは藩王国か竜か。あるいは、もしかしたら……」

 子雲はあらためて藩王国の陣を遠望した。竜の碧納要塞を視た。そして星を仰ぎ見た。
 澄んだ空の中に点在する輝きの中の多くは、幾千年もその座標を変えていない。
 だが、その貌は少しずつ色を変えつつあるような気がした。

 二心の士は目を細めながらも肩をそびやかした。
 そして軽やかな足取りで、二律背反の人に参じるべく身を翻した。

第三章:大牙 ~夏山星舟拉致事件~ ……閉幕



[42755] 番外編:侍女の一身は重き荷を背負うて遠き道を以下略
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:6f4fa50d
Date: 2019/07/31 23:05
「シャロン様はお会いになられません」

 ――せめて取り次ぐそぶりぐらいは見せろ。
 初夏も終わりに差し掛かった頃であった。新政庁への諸々の引き継ぎ中の、執務室の前であった。
 眼前に立ちはだかる侍女長に夏山星舟は毒づいたが、悲しいかな強行突破できるほどの力量があるわけもなく、愛想笑いとともに立ち尽くすだけだった。

「いや、別段用というわけでもないが」
「では訳もなく貴き御身に接近したというわけですか」
「そう揚げ足を取ってくれるな。いやなに、饅頭をこしらえたから過日の礼も兼ねて差し入れに来たのだが」

 そう言って四つの白い宝珠のごときそれを差し出した。
 じろりと獣の目でそれを見下ろすや、ジオグゥはおもむろにそれを引っ掴んだ。

 食われた。四つとも。
 それほど大口は開いていないはずだった。
 あまりに唐突にそんな暴挙に出られたものだから、我に返った瞬間には盆の上の菓子は欠片さえ残っていなかった。

「これにて用はなくなりましたね。ではお引き取りを」

 二の句も告げず星舟は固まった。
 だがことの是非はともかくとして、この傲慢な獣竜の言の通り、大義名分は物理的に消滅した。
 抗議しようにも、多忙を極めるシャロンの耳に口論の様子を届けたくはない。

 言葉もなく、ただ踵を返すことが合理的かつ最善手だった。

 その夜星舟は枕を悔し涙で濡らしたとか、なんとか。

 〜〜〜

 あくる日。
 いつものように扉の前で警固に当たっていたジオグゥの前に、片目の不埒者は再度現れた。

 大皿の上に置かれた、山のように巨大な、黄色く焼き上げた食物を手に。

「鍋で……卵を焼いたら、殊の外上手くいってな……っ! 夜食にと思って、持参した……!」

 苦悶の顔はその焼き菓子で隠され、息も絶え絶えで支える両手はプルプルと震えている。
 当然、彼自身とてかの姫君がこれを丸ごと完食できるとは露ほども考えてはいないだろう。

 シャロンの夜食という名目で運ばれてきたこれは、その実ジオグゥに対する報復であり、挑戦だった。

「食えるものなら食ってみろ」と。

 ――いや、仕事しろよ。
 ジオグゥはそう思ったが指摘するには至らなかった。
 どうせこの小賢しい男のことだ。そうケチをつけられることも見越して、公務にて一定の成果を挙げているに違いない。

 かといって、喧嘩を売られっぱなしというのも癪である。
 重量感あるそれを、ジオグゥは正眼で睨んだ。

 深呼吸。
 そして手づかみ。開く口は小さくとも、そこから吸引力でもってゾロリと麺を啜るがごとく、口にしまい、すべての歯を使って細断し、喉に通して、胃の腑に収めていく。

 右眼を剥いた敵の眼前で食べていく。否、呑んでいく。
 彼女にとって幸いだったのは、とりあえず口に入れたよく分からない代物の味は良かったことだ。
 基本的に味噌と塩が効いてさえいればなんでも食えるというジオグゥをして、このよく分からない卵黄と砂糖の混合物は美味いと思う。
 だが、蠱惑的でもあると同時に暴力的な甘さでもある。もし自分が本当にこれをシャロンに食べさせていたらどうしていたのか。

 ともあれそれも過去のことだ。
 その悪魔の甘味はすでに皿の上から消えていた。

 唖然として固まる星舟の間抜け面を見て、溜飲を下げる。この苦難も、報われた心地がした。

「それでは、お引き取りを」

 そんな彼に勝ち誇るようにジオグゥは言った。

 〜〜〜

 もはや、退くに退けなくなったのか。
「見よう見まねでパンケーキなるものを作ってみた!」
 あくる朝もそんな風に何層にも重ねた円盤状焼き菓子をひったくって平らげた。

「いやー鼈甲飴たくさん作っちゃってさぁ!」
 バリバリと食べた。

「みんなで季節外れの餅つき大会したんだ! 良かったらシャロン様に」
 ひょいパクと食べた。

「部下が結婚したんだ。海外では祝いの席ケーキなるものを用意すると聞いて作ったんだけどなんとまぁ突然の婚約破棄で」
 モリモリと食べた。

 食べた。
 食べた。
 連日、食べるに食べた。



 そしてガシャンと、針は振り切れた。



「莫迦な……!」
 ある日の入浴前。脱衣所。何気なく乗った体重計。
 ジオグゥの視線の先、その目盛りは見たことのない数値を示していた。

 例のごとく、数寄者のシャロンが海の外より取り寄せた計測器であった。両足をそろえて台座を踏めば、それに応じて針が動く。構造のことはよくわからないが、おそらくは秤と同様の原理であるとは思われた。
 ふだんは見向きもしないような代物だったが、気まぐれに使ってみた。結果、彼女の心胆を寒からしめるに至った。

 服のせいだと言い訳しようにも、全裸である。
 体調による誤差だとするには大きすぎる。何か悪いものが憑いたのだと風呂場であえて水風呂に浸かりその身を清め、引き締めた。
 だがあらためて乗ってみても、結果は寸分たがわず。針は勢いよく右に展開した。憑いていたのは贅肉である。

 礼法は修めているが、あまり美容というものに頓着しない彼女……だったが、さすがに衝撃を受けた。
 ふだんはさほど意識しないはずの檜の板張りが、この日ばかりはやけに大きく軋む音を立てた気がした。

 ~~~

 一体の獣竜が眠れぬ夜を過ごそうとも、朝は明ける。
 気鬱になっていたところに、ともに朝食を摂っていたシャロンが
「なんか最近血色いいねぇ」
 と二杯目の白米をおかわりしながら言った。それが決定打となり、女従者の気分を底にまで落とした。

 とはいえ、坐して肥ゆるを待つのはジオグゥの性分には合わない。
 努力はすべきである。そして同時に、そもそもの要因を探るべきである。
 番人として廊下に屹立し、誰もいないところで爪先立ち。少しでも我が身の弛緩を是正すべく奮闘している。

「……何をしている?」
 そこに現れた人間の男。
「まぁいいが……ずっと甘いものばっかりだったしな。たまには塩辛なものも良かろうと思って、馬鈴薯を揚げて塩をまぶしてみた。良ければ食」
「やっぱりテメェの企みかッッッ!」
「ぶへぇっ!?」

 そして差し出された菓子を目にした瞬間、ジオグゥを暗雲のごとく覆っていた盲は拓いた。かの君側の奸の陰謀を悟らせるに至った。
 鉄拳は不意打ちぎみに右頬に見舞い、彼を壁へと叩きつけた。我が身を長らく冒していた毒物は、その転倒にしたがって地面に散らばった。

「かつての雷王ジオグゥも堕ちたもんさね! まさかこんな男の罠にかかるなんてね!」
「ちょっと待てなんの話だ!? というか素が出てるぞ!」
「おとぼけになんじゃないよっ! 将を射んとすればなんとやらってことだろ!? あたしを肥え太らせて身動きがとれなくなったところに、姐さんを害そうってハラだってことはとうにお見通しさっ!」
「お前の想像上のオレすげぇ頭悪いな!?」
「お前?」

 つい、互いに地が露わになった。そのことで多少気まずくなり、妙な空気が流れた。だがそのことにより、激した感情が多少収まりはした。

「……まぁ、なんだ?」
 星舟は大儀そうに溜息をこぼしながら言った。

「もういっそのことぶっちゃけるが、この機に互いに好ましからず思ってんのは今更だし、オレも大人げなかったことは認めるよ? けど、んな非効率的な方法とるわけないだろ。どう見ても自業自得だ自業自得」

 彼の言葉を額面どおりに受け止めれば、正論にもほどがあるだろう。
 しかし、と彼女は食い下がる。

「貴方の悪意が自分を堕落させた。でなければ、あんな数値など」
「数値? 体重計にでも乗ったってのか?」

 聞き返され、言い過ぎた、とジオグゥは後悔した。
 一度滑った口は、どうにも緩くなっているらしい。よりにも最も知られたくない相手に、迂闊に恥部をさらしてしまった。
 もしこれを出汁に恫喝あるいは嘲笑などしようものなら、相打ちもしくは破滅を覚悟で相手の頚を折ろう。そう決心したジオグゥだったが、彼女の意に反して、星舟はなにやら思案するように、口元に指をあてていた。
 だがやがて、露骨にため息を吐くや、屈んで散らばった残骸を手で片づけながら言った。

「正直なところ、理不尽きわまりない仕打ちは受けたけど、ただオレにも悪いとこはあったし、この間さらわれた時もシャロン様にもあんたにも面倒をかけちまったわけだからな。その罪滅ぼしと言ったらなんだが……まぁ事情がわかったからどうにかしてやるよ」

 面倒もなにも、流れ的にそうなっただけでジオグゥ自身は見殺しにしたい急先鋒だったわけだが、ここであえて言うのも無粋だ。ただ、どうにかするというのはいかにも眉唾物だ。

「どうするというのです? 鬼道でも用いて痩せさせるとでも?」
 すっかり口調も迂遠な悪意も取り戻した侍女に、片づけを終えた星舟もまた、不敵な笑みをいつものように浮かべて返した。

「そんなとこだ」

 ~~~

 星舟がジオグゥをともなって向かったのは、件の脱衣場だった。
 男女の区切りがあるその岐路において、迷わず女性の方へと足を向けた彼に、ジオグゥは白眼を投げかけた。

「なるほど、同輩の不幸にかこつけて、禁断の花園を荒らさんとする匪賊の魂胆でしたか」
「んなわけないだろ。だいたい釜に火が入ってさえいないこの時間帯に、いったいどんなご婦人が入るってんだ」

 一挙一動を疑ってかかるジオグゥに対し、星舟はいちいち道理でもっていなす。

「ではなんのためにここに」
「んなもんわかり切ってるだろ。いくら食い過ぎったって座ってる時間よりも立ったり走ったりしてる方が長いお前が、急激に太るわけないだろ。針が振り切るほどの増量なんて、それこそ見た目で分かるが、見た限りではさほど変化はない。となれば前提が間違ってんだよ」

 そう吹いた星舟は、柱時計のような体重計、その首を掴むや前後に揺らした。傾くたびに、鈴のごとく鉄の異音が内部から響く。計測部分の針が、無軌道に左右に揺れた。
 それを見た星舟はあーあーと得心がいったような声をあげた。

「やっぱりどっかがいかれてやがるな。まぁ顛末としちゃそんな具合だ。まぁ食べ過ぎには違いないがあまり気にし……なんだよ、その目は」
「ずいぶんと察しがよろしいことで。さては貴方が自分を憔悴させるために、前もって忍び込んで」
「……お前、生きてて疲れない?」

 星舟は呆れながら言った。その口調には、心配するような響きさえ感じられた。
「あらいやだ。冗談ですわ」
 この男に気遣われるのは癪なので、不本意ながら撤回した。
かつ改めて問う。

「であれば、何が原因で?」
「さぁてね。あえてざっくり言うのなら、日常的に想定外の負荷がかかり続けていたか」
「何が?」
「……」

 渋い顔で、と言うより驚く様子をひた隠す結果ひどい顔になった、という塩梅で、星舟は立ち上がって声のほうを振り返る。

「シャロン様、ここで何を?」
「へへへ、朝から暑くて身が入らなくて行水に……セイちゃんこそこんなとこで何してんの?」

 政務に当たっているはずのシャロン・トゥーチが、桶を抱えて立っていた。

「不埒にも覗きをしていたところを自分が見咎めまして」
「違います。姫様の愛玩の品が破損したと、そこな侍女長殿に泣きつかれまして」

 お互いにくるぶしや膝裏を小突き合いながら、ジオグゥと星舟の目はまさに体重計へと注がれた。

「あぁ、それね」

 訳知り顔で頷いたシャロンは、重苦しく自身もその器具を見つめた。

「いやー、それ壊れちゃったんだよ。ふつうに使ってただけなのに、ふだんから使ってたからちょっと残念」
「ふつうに」
「ふだんから」

 上司の愚痴めいた説明から、それぞれ別の単語を拾い上げる。だが、先の星舟の推測を前提とした時、彼らの思い描いた可能性はほぼ同一のものであったに違いない。

「ほらほら、着替えるから出てって。あ、ジオグゥも修理の手配お願いね」

 そう言ってシャロンがグイグイと部下たちの背を押し、半強制的に退出させる。

 ピシャリと閉ざされた戸を背に、武官と侍女は並列した。

 やがて星舟の右目は控えめに、だが確実に何かを訴えたさそうにジオグゥの横顔を眺めていた。

「別に何も言ってないだろォ!?」

 そしてジオグゥは、そんな星舟を一顧だにせず全力でひっぱたいた。



[42755] 第四章:蘭蕉の少年 〜八十八鶴川反攻戦〜(一)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:6f4fa50d
Date: 2019/08/18 18:14
 網草英悟の運命が大きく分岐したのは、十年前の村祭りだった。

「やぁ、私にこの村を案内してくれるか」

 その日、村長の名代として見回りに参加していた彼に、赤みを含んだ髪を結わえた少女が無作法に語りかけた。
 口ぶりこそ依頼あるいは要請という体を作っていたものの、それが承けられて当然という強い語気を含んでいた。
 垢抜けた調子の、自分よりも頭一つ背丈と年頃が上の娘。紬で織られたその装いは、士族のそれだった。
 だが、彼の家はこの土地においては下手な武家などよりよほど経済力や影響力を持っている。そんな命令を聞き入れる道理はなかった。
 しかしながら、互いに素性を名乗っていない、供回り連れていない偶然の邂逅だった。となれば、この非礼も無理らしからぬことではあった。
 そして身分の隔たりを超えた暗影の内の交流もまた、祭りの醍醐味ではあろうと思い直した。

「良いよ」

 英悟は笑って快諾した。その腕を引いた。その大胆さは、娘にとっても意外だったのだろう。驚き、そして引かれるがままに従った。
 袂を彩る蝶を、艶やかに舞わせながら。

 〜〜〜

 そしてふたりは、村のあちこちを巡った。
 村の味噌とともに焼いた団子を駄賃で購い、分け合った。
 社に詣でてそれぞれに願をかけ抱負を胸の内にて誓った。
 その裏手で精気を有り余らせた若い男女の営みに出くわして心を乱しながら退散したり。
 夜を駆け、人の合間をくぐり、互いの理解が及ぶ範疇で村の内外の事情や戦について存分に語り尽くした。

 たしかにそれは、身分を超えたやりとりではあった。
 英悟の予想と違ったのは、いずれが上で、いずれが下であったかということであった。

 別れ際、どこからともなく現れた少女の警固は、素人目から見てもわかるほどにいずれも一流の剣士たちであった。そして自分に組み付いた父親は、必死に自分と、我が子の額を土へと打ちつけた。それは怒りというよりも、恐れに近い感情からであっただろう。

 娘は、隣国の藩主の末裔であった。

「いや、愉快だった。この国を離れるにあたって、良い土産ができた」

 娘はそう言って少年の非礼を赦した。
 そしてまだ事情が呑み込めない彼に、自身の髪を留めていた簪を握らせた。
 蘭蕉(カンナ)の花を飾ったその一本を、無意識のうちに強く握りしめた。

「いずれ私はこの国に帰還する。王者として」

 髪を振りほどいた彼女は、その場にいた誰もが青ざめる言を発した。おそらくはその誰もが妄言だと忘れようとした宣誓ではあったろうが、英悟の胸には不思議なことに至極当然の将来だと受け入られた。

「我が名は赤国流花。私がその座に即いた時にまだ今日のことを憶えていたのならば、我が幕下に参じるが良い」

 彼女はそう言い残し、この国を発った。

 人の記憶に強く残るのは、痛みだという。だがそんなものは俗説だと、英悟は知っている。

 あの祭りの後、父親にしこたま殴られた。だが、その折檻の痛みなど、とうに身体から抜け落ちている。
 その後寺に忍び込んで兵法書を盗み出して軍学を学んだ。父親を説得して自衛のためと称して銃器を買った。私財をはたいて近代の兵書も取り寄せ、洋医学者たちを呼び寄せ言葉を学んだ。村のあぶれ者たちを一級の兵士として教練した。
 その労苦さえも、彼女と再会を果たした瞬間に霧散した。

 英悟の内にあるのは、それによって得た経験と、あの日の美しき想い出だけだ。

 ――ただ、僕は、彼女のために戦えればそれで良い。それ以上は何も求めない!

 そう決意を新たに、彼は目を輝かせ、今日も今日とて与えられた騎兵の調練に当たっていた。



[42755] 第四章:蘭蕉の少年 〜八十八鶴川反攻戦〜(二)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:6f4fa50d
Date: 2019/09/01 23:58
 新政庁は、碧納の駅舎より二十吉路北に建てられていた。
 夏の日差しも盛りを越えたその日、星舟は始めて憎き男の居城に足を踏み入れた。

 せいぜい美観を失わない程度の深堀と高い垣根が伸び上がっているだけで、防衛機構らしいものはいない。殊に、白兵戦を想定さえしていない。
 ともすれば、背後に控える南新山の連峰が最大の要害と言えただろう。

「真正面から竜の居城を攻められるならば来い」ということか。あるいは「ここまで攻めこられたのならそもそも詰んでるわ」ということか。前後いずれを向いていたとしても、思い切りが良い。

 枡形のような角張った外観は赤く黒く塗装され、いかにもサガラ好みといったところだろう。アルジュナの愛した白は、そこにはない。

 敷地に入ると番所に用向きを伝え、それからすぐに執務室へと通された。

 部屋が狭く見えるのは、そこを埋め尽くす膨大な資料ゆえだろう。すべての政戦の略が、この一室に集結していた。

「久しぶりだねぇ、星舟」

 片手間に書類に決裁を下しながら、その部屋と、そして東方領の主は親しげに声をかけた。

「どうだ、つつがなく暮らしてるかい」
「は。サガラ様のご活躍もあり、六ッ矢は安穏としております」

 肋骨を開くようにして反り返って、星舟は答えた。

「なるほど。シャロンが力を使ったことが些事とは恐れ入る」
 その彼の秘中の秘をあっさりと暴き、サガラは意地悪気に嗤った。

「謀反人ども相手に、使ったんだって? まぁお前が止めたらしいけど」
「……誰から、それを?」
「さぁて、紫の君とでも言っておこうか」

 ――やってくれたな、あの女狐。

 それがグエンギィであることは疑念を一考するまでもなかった。
 彼女とて、今回は星舟奪還に動かざるをえなかったとはいえ、本格的にサガラの敵対派閥に属するわけにはいかなかったのだろう。そこで、彼自身にも情報提供者として恩を売ることにしたというわけか。
 あえてコトの順序を入れ替えたのは、そのグエンギィなりの温情ゆえか。

 その苦境と選択は理解するが、それでも一言ぐらい諮ってくれて良いものではないかと思う。そこに食えない女狐の、底意地の悪さを感じさせた。

「別段、サガラ様にお伝えすることもなかろうかと思いまして」
 頬を強張らせせながら、星舟は言った。

「ただ、訂正をさせていただきますと、オレがその賊徒ども相手にてこずったゆえに、そのふがいなさゆえにシャロン様が力を使わざるをえない状況に陥ってしまったわけです」
「へぇ、言い分が違うねぇ」
「その『彼女』なりに、気を回した結果でしょう」
「ふぅん、そうなんだ。……あぁ、そうなんだ」

 たとえ虚言であろうと真実であろうと、シャロンを貶める真似は星舟には出来かねた。
 それはそれとしてグエンギィの掛けた梯子は取り外した。

「まぁ呼びつけた理由はそれじゃないよ。わかってるだろう」
「先に提出した案の件ですか」

 サガラは席から立って頷いた。
 部屋の余裕のなさのためか、心理的な重圧によるものか。
 彼の姿が、かつてより大きく見える。いや、自分が矮小なのか。
 星舟は気取られないようにそれとなく背を反り直した。

「そ。再侵攻計画。時期的にそろそろ勝負に出て良いとは俺も思ってた。けど、何故比良坂(ひらさか)なんだ? そこんとこを、お前の口から直接聞きたくてね」
「はい。まず理由としては」
「待った」

 木壁に手をつきながら、逆の腕でサガラは制止をかける。

「これがあったほうが、分かりやすい」

 そう言うや、不審がる星舟の前で壁の一部を、サガラ自身の目線の高さにある部位を強く押し込んだ。するとその奥で何かが噛み合う音がした。内蔵されていたバネが作動し、壁の中から土と苔の山が滑車に運ばれて現れた。

 いや、それはただの適当に盛られた土塊ではない。この政庁の模型を中心とした、山岳や丘陵の高低さえ形にした、一帯の縮図だった。

「良いだろう? 特注で造らせた」
「良いですねぇ!」

 サガラは本当に自慢げだった。そして星舟も、いつものようなおべっかではなく本心から羨んだ。
 だが、はしゃいでばかりもいられない。そんな自分を戒め、恥じるように星舟は咳で浮ついた空気を払った。

「比良坂に橋頭堡を設け、敵を圧迫する。それがお前の策の概要だったな」
「はい、理由の第一としては、士気高揚。サガラ様の奮闘のおかげもあって、戦線は五分の状態で維持できています。しかしそのままで済むわけではない。時間が経てば、それだけ先の反乱のような有象無象の出現を許してしまうことになる。そうさせないために、敵味方に知らしめるべきです。あんな大敗は、大勝は、二度起きるものではないのだと」
「で、それで何故ここを選んだ?」

 黒竜は模型の縁に腰かけた。
 指で、自身の居城をなぞり、山を抜け、東にある平地を示した。

「お前なら当然気づいていると思うけど、俺は今、海を取ることに執心している。海路による流通こそが奴らの生命線だからだ。で、お前これが海につながっているように見えるわけ?」

 比良坂と名付けられた地の近く、川筋に見立てたとおぼしき空堀がいくつも枝分かれしている。
 だが、海にたどり着く前にそれらはさらに分化し、細まっている。原寸大に戻しても、とうてい商船や軍艦が通過できそうになかった。

 その問いは、星舟にとっても考慮済みのことだった。

「はい。そこで第二の理由となるわけですが、ここが七尾より遠いからです。彼らが到着するまでに奪い取れる算段が高い」
「なるほど? 拾える勝ちだけ、拾いたいってことか」
「えぇ、サガラ様と同様に」

 サガラは少しだけ目を眇め、表面上は笑ってみせた。

「第三に、この碧納と南方領主ラグナグムス家の連携を密とするため。かの家はご当主が討死され混乱の真っ只中といえど、潮の流れを知る方々。海を鎮守するとなれば、その網は多きに越したことはないでしょう。……この碧納に居を構えたのは、それも理由だと思いましたが?」

 星舟はあえて正答をしなかった。
 そもそもサガラの思惑として、ラグナグムス家と手を取り合うためにここに移ったわけではない。むしろ混乱に乗じて、その技術力と権益を蚕食しようという肚であることは明確だった。

 とはいえ直接それを口にすることは、さすがにサガラの厚顔であっても出来かねるのだろう。

「まぁ、そうだね」

 と言ったきりだった。
 星舟もそれ以上は踏み込まず、自身の話を優先させた。

「第四に、その海路の圧迫」

 ほう? とサガラは目の色を改めた。

「そこは忘れていなかったわけか。で、陸を抑えることがどうして海を封鎖することにつながる?」

 興味と悪意が入り混じった調子で問いかける上司に、よどみなく星舟は指で街道筋を追いながら応じた。

「確かに物は海によって輸出され、異国にそれを売ることで富を得ています。しかしながら、輸出されるべき銀や良質の鉄は鉱山より採掘され、絹にしても多くは山郷からです」
「まぁ、銀や絹が貝から出てきたって話は聞かないしな」

 サガラの笑えもしない諧謔は、聞かなかったことにして流した。

「主だった経路はふたつ。我々も身をもって知っている、対尾以西のあの隘路。そしてこの比良坂。そして主に用いられるのは後者です。そこを抑えれば、港はあろうと売り物はなくなる。兵の動員にも遅滞が生じる。七尾にも独自の山道が存在すると聞きますが、あくまで風聞の域ですし、七尾に血管を握られることをあの女王は良しとしないでしょう」

 ふぅむ。へぇ。なるほどねぇ……などと。
 星舟が熱弁をふるう合間にもサガラは実態のない愛想笑いを浮かべて首肯を反復させるばかりだった。

 そして聞き終えて、星舟の息が整うのを待って、それからようやく意見を発した。

「ていうかそれ、ただの嫌がらせじゃない?」

 ――すさまじく、雑にまとめられた。

「いやだって、そうでしょ? 士気にせよ七尾にせよ、連携にせよ輸送路にせよ。要するにそういうことだよね。どの観点から見ても決定的だとか大打撃ってわけでもないし」
「そ、それを言われてはそもそも身も蓋もありませんが……せめて遅滞行動とか妨害作戦とか言ってもらえませんか」

 まさか手柄が立てたいから半ば無理を承知で献策しましたとは言うわけにもいかず、星舟は答えに窮した。
 だが次の瞬間、

「それで? いつから始める? まぁどのみち時間がない。編成を今から練るぞ」

 サガラは腰を持ち上げ、座席の背後の資料を漁り始めた。
 え、と星舟は意外の念に駆られた。直前まで、迂遠に断る兆候しかそこに見受けられなかったではないか。

「なんだよ、まさか取り下げるとでも思ってたのか? だったらグルルガンでも寄越せば済む話でしょ?」
 まるで背後に目がついているかのように星舟の顔色を読み取り、サガラは肩をすくめた。
「意外に思われるかもしれないんだけどね」
 顧みる。
 棚から一冊の目録を抜き出すと、その角で星舟の胸板を小突いた。

「俺はね、そういう益体もない嫌がらせが嫌いじゃない」

 ――いや、知ってるから。
 表向きは愛想笑いで、裏では苦笑い。二種の笑みを使い分けるのに苦労しながら、星舟は不得要領的に頷いて見せたのだった。



[42755] 第四章:蘭蕉の少年 〜八十八鶴川反攻戦〜(三)
Name: 瀬戸内弁慶◆ce71185d ID:6f4fa50d
Date: 2019/09/13 00:03
 魁偉なる馬の鼻先が、丘陵に囲まれたその牧野の一角にずらりと並んでいた。

「始め!」
 二隊、前後、そして敵味方に分かれた討竜馬隊に向けて大鼓を打ち鳴らした網草英悟は、その後自分も東に配した一派に加わり、指揮を執った。

 対するのは副将、弥平の率いる同数の分隊だ。
 猛然と、だが隙のない堅実な攻め気を見せる彼の部隊と一度衝突したあと、勢いを殺さずその布陣突っ切った。

 敵部隊はその英悟隊の背を突くべく追った。
 だがその尾の切れ端にさえ、容易に触れることはかなわなかった。

 むしろ誘うがごとくに左右に揺れ動くそれを、一心に敵は追った。これは一見、不要な運動のように見える。そして士気も精度も同等となれば、疲労の度合いは彼らの間で勝敗を分ける重要な要素となるはずだった。

 だがむしろこの場合、予定行動のうちにあった英悟隊と、その一挙一動に揺さぶられて気を配らねばならなかった弥平隊とでは、むしろ走らされ、疲れさせられたのは後者であった。

 敵を散々に引きずり回したあとに土をまくりながら、英悟らは丘陵を駆け上がった。
 なおも追尾線とした弥平らだったが、その疲労は頂達していた。
 坂は登りきれず、塁壁のようなその堅陣に綻びが生じる。若き勇者の戦術眼は、それを見逃さなかった。

「反転!」

 号令一下、轡を転じた討竜馬は、追撃を諦め、道を折れた敵部隊の中腹へと鋭く、速く切り込んだ。

 勝負は一瞬だった。
 正面の核に敵大将の姿を認めた英悟は、自身の手にした竹竿でもって、自身の背に敵刃が届くよりも先にその脇腹を叩いた。

 ぎゃあという弥平の悲鳴と落馬をもって、両陣営ともに損害らしい損害もないままに、調練は終了した。

「くぅう〜!」

 たしかな手応え、女王より預けられた騎兵団が使えるモノになっているという実感。
 それは、英悟に疲れを忘れさせ、胸をじぃんと熱くさせた。

「いてて……士分になりゃあ野良仕事はしなくて済むと思ってたのに……なんで毎日毎日」

 部下に助け起こされながらぼやく弥平は、鵜飼(うかい)なる相応の家名を襲い正当に網草英悟の副将としての地位を与えられ、また読みも弥平(ひさひら)と改めていた。

「けどまぁ、いい感じなんじゃねぇの」

 弥平の言うとおり、全ては順風満帆。それこそ霜月公よろしく真竜さえ打倒してしまえそうな勢いが、熱が、自分たちの内に興っている。
 だが、

「まだまだだよ」
 下馬しながら少年は答えた。

「もっともっと鍛えないと。強くなって、あの人のために」
 袱紗に包んで懐に忍ばせた、簪に手をやる。
 それだけで、痛みとも疼きともとれる、甘い刺激と官能が、彼の心を占めた。

 対して弥平はやや一歩退いたような表情のまま、ネコのような目を怪訝そうに眇めていた。

 そのまなざしに気づいて「どうした?」と問いただすも、

「いや、おめぇ……なんか」

 と言葉を濁す。あるいはそれは彼の内においても言語化の難しい感情であったのかもしれなかった。
 だがそこを追及する前に、地平の先に騎影が見えた。
 此方に負けず劣らずの、人馬ともにしゃんと背を伸ばした、見事な乗りこなしでわかる。王都よりの使い番、それも上使だろう。

「……どうやら、火急の報せのようだね。行ってくるよ!」

 緊張の合間に、また彼女のために働けるという喜悦を隠せず、声を弾ませて栄悟は使者へと駆け寄った。
 いずれに優先順位をつけるようなことではないが、時間はまた用が済めば作ることができるだろうと、己に言い聞かせて。

 だが、女王直々の招聘によって都へと出立することが決まった彼はその日のうちに封地を発ち、帰ってきた後も結局それについて話を詰める暇はなかったのだった。



[42755] 第四章:蘭蕉の少年 〜八十八鶴川反攻戦〜(四)
Name: 瀬戸内弁慶◆ce71185d ID:6f4fa50d
Date: 2019/09/29 21:11
 英悟が入都すると、そこはすでに戦の様相だった。
 物の喩だ。まさか竜軍に攻め込まれたわけではないが、次なる戦の予感を察知して、人が、物が、車が、船が、官が民が流動していた。

 とりわけよく動いていたのは、皮革である。
 白刃を打ち合い、衣に色づけしてその武と功を誇る時代が終わったといえ、いまだ動物由来の資材は重宝がられていた。
 いや、銃の発達により弾薬の消耗は加速した。したがってそれを容れる胴乱やそれをくくりつけるズボンのベルトなどでさらに需要が増した。

 対尾の時もそうだった。
 単なる商戦ではない。実際に、血を流す戦が起きる。
 革細工を二次的な収入源にしてきた村の倅である英悟は、磯と獣の臭気の複合体を嗅いで、それを読み取っていた。

 〜〜〜

 例のごとく、赤国流花の私室へ招かれると、そこにはすでに先客がいた。
 精悍さと、幽鬼のような陰鬱が同居した風貌の彼は、戦装束である大頭巾をかぶっていなくとも、誰かはすぐに分かった。

 霜月直冬。
 追撃戦における共闘相手。ともに竜軍の本陣に斬り込んだ同胞。この世で唯一無二、利器に頼らず真竜を殺せる男。

「っへへ、どうも……」

 愛想笑いで彼への萎縮と、そして招かれていたのが自身のみではなかった落胆を隠し、英悟は頭を下げた。

 直冬は目礼したのみだった。必要以上に偉ぶらないが、かと言って彼に親しみを見せるわけでもない。
 当然の道理だった。自分は一村の成り上がり。彼はかつてはこの大陸で覇を唱えた七尾藩の現当主。年功も家格も、天と地ほどの差がある。

 だが、英悟にはそれでもかすかな反発を抱いた。それでも自分たちは、この場では、『彼女』の前では対等の、いずれも欠けてはならない、彼女が王道を疾るための車輪のはずだと。

「この間は、助かりました」
 英悟はあえて気を奮い立たせ、ことさら明るく話しかけた。
「いやー、本当に生身で竜と戦える人間がいるとは思いませんでしたよ。実際に目にするまで、何やらそういう特殊な兵器かと思っていました」

 返ってきたものは、沈黙だった。
 一瞥を与えてくれもしない。まるで自分が存在しないように、まるで英悟が存在しないように。

 ようしそれならと、ますます自身を鼓舞し、あえて過剰に踏み込む。

「なんか、秘密があるんですかね」

 探るような問いかけにも、直冬は反応しない。
 軽い落胆や諦めとともに向き直った英悟だったが、

「波を、見ている」
 ふいに横合いから、声がかかった。

「ナミ?」
 思いもかけない返答に、聞き返した声音は上ずっていた。

「奴らの『鱗』を打つと、波が生じる。綻びが出る。そこを狙い撃って、斬る」

 それは途方にくれるほどに抽象的な説明だった。おそらく、それ以上の説明は当人にさえ困難なことなのだろう。
 砲弾さえ跳ね除ける未知の金属にまつわる摂理など今まで誰も確かめたことがなく、ましてそれを切断できる極致に達した人間など今までいようはずもなく。
 その技術や原理はたしかに存在するかもしれないが、表すに妥当な言葉は今日に至るまで成立していなかったのだろう。

 もっとも、それが具体的に明らかになったとして、それを実証できるのはこの直冬のみのような気もするが。

 女王と異国の腹心が入室してくるまで、それ以上の話の広がりはなかった。

 〜〜〜

 気難しい顔で入ってきた流花とカミンレイは、むっつり黙ったまま、先に待たせていたふたりにさえ気づかない風であった。

 声をかけるべきか、否か。そう迷いさえする英悟だったが、彼女たちのうち、流花が腕組みし、瞑目するように睫を伏せたまま、おもむろに口を開いた。

「嫌がらせだな」
「えぇ、嫌がらせでしょうね」

 カミンレイがそれに応じた。なんのことだか分からず、逆に押し黙って対応を待っていたのは英悟たちの方だった。

「先ごろ、カミンが忍ばせていた内間から報がもたらされた。竜どもが比良坂への侵攻を企てているとのことだ」
「領有している中遠藩よりも援軍の要請が来ています」
「比良坂ですか」

 英悟が口を挟んだ。
 海に通じてこそすれ、それ自体からはやや離れた、不毛な丘陵地帯である。
 海沿いでの迫合いが続いていたが、ここにきての陸地である。

「兵の規模はせいぜい一五〇〇程度とのことだ。名のある真竜に動きはない。いずれも無名若手の輩で編成されている」
「夏山星舟の名があります」
「誰だそれは」
「過日に難癖をつけてきた男です」
「あぁ、あれか。だがお前の言うところ、戦の腕は二流ではなかったかな」

 質も量も、彼女たちは問題としていないようであった。土地の問題ではない。軍事力の問題でもない。であれば、何をもって顔をしかめているのか。

「人数や地理が微妙であればこそ、扱いに困っているのですよ」

 カミンレイが王に代わって答えた。
 英悟は、視線で女王に具体的な説明を求めた。

「我らが動けば追い返すのは容易いだろう。だが、この程度で出兵の前例を作れば、前線の諸藩の要請にことごとく応じなければならなくなる」
「しかし芽は早々に潰すべきでは?」

 そこで初めて直冬はこの密議に加わった。
 流花はしっかりと彼に向き直って薄く笑った。

「それでも良いが、行っていただけるのかな?」
「出来ればお断りしたい」

 えっ、と少年士官は思わず声をあげた。
 女王の命は最大級の栄誉であるはずである。藩王国とそれに属する民草が、将士が、後の世のため全霊で当たらねばならない事業であるはずではないのか。

「先の戦、我らにも少なからず被害は出ている。どうしてもというのであれば是非もないが、後々のことを考えれば下らん戦は避けて温存はしておきたい」

 彼の言い分はわかる。
 だがそれをはっきりと物申して拒絶するということは、英悟にとっては脳裏をかすめたことさえない、ありえない受け答えだった。

「そうだな。余としても、一杯の水を大盃に注ぐがごときせせこましいことは、したくない」

 そして彼の直言に流花が理解を示し、かつ遠慮を示したことが何より意外だった。
 だが同時に、ここまで説明や彼女たちの思惑を聞かされれば、先の渋面の意味も理解できた。

 敵も半端、得られる利害も半端。
 となれば応ずる側も微妙な均衡感覚でもって応じなければならない。
 ただ相手を面倒がらせるだけの、実益のない軍事行動。
 ゆえに流花たちはそれを嫌がらせと評したのだ。

「おそらく敵の狙いは」

 楽師は語る。

「かくも無意味な出兵の目論見としては、表向きはこちらの経済活動の妨害」
「どうかな、案外下らん功名目当てで下郎が名乗り出たものかもしれんぞ」
「その可能性もありますが、それを採り上げた者の思惑がございましょう」
「我らがそうしたように、その侵攻軍で我らを釣り出し、決戦に及ぶとかか?」
「そこまではしないでしょう。ただ、状況に応じた我らの攻め方、守り方。その情報を引き出したいというのが狙いかと。ここまでの機動戦も、おそらくはその研究の一環」

 なるほどなぁ、と。
 自身の寝台に胡座をかきながら、女王は納得の相槌を打った。
 だがその双眸は、灼熱を保って煌めいている。

「であれば二度とそんな舐めた真似が出来ぬよう、ことごとく刈り取る必要があるな。それこそ、その研究成果とやらをひとつたりとも、持ち帰らせぬように」
「であれば、一撃の破壊力を有し、あらゆる状況に柔軟に対応ができ、かつ進退の切り替えの速い人物が適役でしょう」

 カミンレイは王の意向に寄り添う形で建言した。
 あぁ、と若き士官は内心で感嘆する。
 これは、芝居だ。茶番とまでいかないが、彼女たちの麾下において、そんな条件に当てはまる人材は数少ない。
 英悟はようやく、自分がここに呼ばれた理由を察した。おそらく彼女たちは、最初からこの自分を必要と、

「ヴァイチェルが適役でしょう。ダローガに補佐をさせます」

 されている、はず、だった。

「え?」
 思わず聞き返す英悟をよそに、流花は悩ましげに腕をかき抱き、首を傾げた。

「あの男かぁ……? 追撃戦では例の片目にしてやられたのだろう?」
「えぇ。しかし今回は内部より子雲が陰助します。ダローガも彼に無茶はさせないでしょう。何より彼の抱く深い屈辱と怒りが、先の条件である破壊力となりましょう」
「手綱が握れるのか。今回は」
「ウクジットが武運拙く死したことは不幸なことながら、それによって指揮系統が整理されました。先のような不協和音を出しはしません」
「ふん、よく言う。あれはお前らしからぬ手落ちだった。間引き目的で見殺しにしたのだろう?」
「我らが軍神スヴォートヌイの御名に誓い、そのようなことは決して。それに彼も覚悟のうえで異国の地を踏んだのです。その士魂に、わたくしがとやかく言うことはできません」

 話は進んでいく。英悟の名が、一度ものぼることなく。
 流れが脱線しかけた間に彼は、自身の戸惑いをある程度収拾させることに成功した。だが、未だ鼓動は不規則に打っている。それを落ち着かせるには、彼にとってただひとつしかなかった。

 越権、不遜を承知で、少年は憧れた女性に向けて半身を乗り出し、声をあげた。

「僕を……僕を使ってください!」



[42755] 第四章:蘭蕉の少年 〜八十八鶴川反攻戦〜(五)
Name: 瀬戸内弁慶◆ce71185d ID:6f4fa50d
Date: 2019/10/17 00:12
 言った。言ってしまった。
 英悟は自らの厚顔を恥じるように伏せた。

 だがもはや後には退けない。語気をより一層に強め、床に額をつけて願い出た。

「お預かりしている騎兵隊もすでに円熟していて、実戦にも出られる状態に仕上がっています! それをご承知で僕をここにお呼びになったと信じています!」

 反応はなかった。
 英悟は神を仰ぐような心地で、恐る恐る顔を持ち上げた。
 そこにあったのはかすかな驚きだった。だがそれは英悟の勇を称えるたぐいの、前向きな驚き方ではなく、初めてからがそこに彼がいたことに気づいたかのような、無関心からくる軽いものだった。

 困ったように、流花は苦笑した。

「貴様がよく調練に励んでいることはわかっているともさ。もとより貴様の参戦は決定している」
「だったら……!」
「だがあくまで、先遣と助攻としてだ。まだ迎撃部隊すべては委ねられん」

 思いもよらない発言だった。
 彼女こそは、自分の想いならず手腕も見てくれていると思っていた。それゆえの厚遇なのだと。
 ゆくゆくはその右腕として支えることになるにせよ、せめてこの程度の戦の、指揮権ぐらいは与えてくれると。

 どうやら図らずして、目つきは剣呑なものになっていたらしい。女王はわずかに目を眇めて首を傾けてみせた。

「いや、余としては任せても十分に任に耐えうるとは思っているのだがな。そこなカミンレイが譲らんのだ」

 視線を三方より注がれた楽師は、迷惑そうな顔で答えた。

「網草殿はまだお若く、経験も実績も浅いですから。周辺諸公との連携もとらねばならない以上、その指揮官には位格が求められます」
「おいおい、その点で論ずれば、貴様や余こそ最たる破格であろうよ」
「それはそれ、これはこれ。例外は多発させるものではないでしょう」

 まるで自分に都合が悪くなると正論や権利を振りかざす母親のように、カミンレイは半ば暴論でもって指摘を跳ね除けた。

「だからこそ、その箔をつけるためにも今回の戦を任せて良いと余は思っているのだがな。相手も子竜ともなれば、これほど狩り初めに適した場もないと」

 そう言ってかすかに咎めるような目線と口調で、女王は言う。
 英悟は安堵した。やはり、彼女は自分の味方で、忘れていたわけではなかったのだと。

 ――あえてその敵を捜すともなれば……
 そして少年は、ちらりと異邦人の取り澄ました横顔を盗み見た。
 彼がカミンレイたち外人将士に不信感と反発をわずかに抱いたのは、この瞬間が初めてであったのかもしれない。

「カミンレイさんは、僕に何か不安なことがあるのですか?」

 敬愛すべき流花の王声に追従するかたちで、永悟は畳みかけた。
 対するカミンレイは、涼やかにそれをあしらったのみだった。

「貴方自身に不安なことなどないですよ」
 感情の乗らない弁解。そのうえで「ただ」と言い添える。
「貴方や他の者に比して、夏山星舟は幾多の戦地を乗り越えてきた男です。あなたのような正道を行くものにとっては、これほどやりにくい人間もいないでしょう」
「また夏山か。あの程度の男など、我が王国に掃いて捨てるぐらいいるだろうに。酔狂なことだ」

 また、彼女らの口からその名が挙がる。今まで自分の名は、呼ばれていないというのに。
 その者は英悟が封地を与えられたあの日、暴論と強弁をもって不遜にも人類の救済者たるこの流花を貶めたという。
 そして英悟自身もまた、彼とは袖が触れる程度の縁を持っていた。

「……それって、なんか竜に積極的に与しているっていう片目のヤツですよね。この間の戦でやり合いましたけど、流花様の仰せのとおり、そんな凄い力は持ってるように見えなかったですよ」
「お味方に霜月公がおられましたから」

 カミンレイは冷たく言い放つ。
 もしや、という想像が少年の脳裏で掠めた。
 星舟のごときはあくまで口実で、実際は自分に功績を立てられるのを忌避してのことではないかと……。

 首を、振る。
 それは邪推というものだった。あってはならない妄想だった。
 稀代の名君の下に一挙団結して暗黒の時代を終焉させんとする最中に、よもや我欲をもって背信する者がいるなどということは。

 カミンレイ女史の心底はともかくとしても、彼女の一存をもって諦めるわけにはいかない。
 ようやく、気の狂うような忍従と努力の果てに、ようやく。
 心焦がれていたあの時の娘と再会し、想いを遂げることができるというのに。

「どうかお願いします! どうか僕に、雄飛の刻をください!」

 次の瞬間とった英悟の礼は、海境の内外に礼を見ない、奇妙なものだった。

 じんわりと汗をにじませたみずからの懐に手をやり、もう片方の手は敷かれた絨毯を獣のようにつかみ、肩を震わせ顔を伏せる。客観的に見ればそれは突然の発作で苦しむ人にも見えただろう。
 だが彼の容体を気遣うような人間は、この密室にはいなかった。
 その恰好の真意を知るのはおのれひとりだと、英悟は思っていた。

「その懐にあるのか。例の簪」

 ――そのつもりで、いたのに。
 あの時の少女は、その彼の胸に秘めていたものを、感情を、何一つ読み違えることなく言い当てた。
 英悟は弾かれたように目を上げた。
 そこには女王の、面はゆげに目を細めた表情があった。

 英悟は泣きたくなった。いや、実際知覚しないままに、熱した頬に涙は流れていたのかもしれなかった。

 流花の言のとおり、あの祭りの晩、彼女と心を通わせた証である蘭蕉の簪は、丁寧に管理され油紙に包まれて、一切曇ることなく少年の胸の内にあった。
 そして彼らの想念もまた、同様に美しい輝きを保っていたと、少年は自覚した。

「カミン」
 女王は略称で、軍師の名を呼ぶ。
「華を持たせてやれ」
 その一言だけで彼女には、主君の言わんとしたことと、解したようだった。
 少々億劫そうに肯じた彼女は、いくつかの条件の提示とともについに折れたようだった。

 ひとつは周囲とよく推し量って事を推し進めること。
 ひとつは防衛戦であるゆえに、深追い深入りは無用のこと。
 ひとつは討竜馬のみを決して恃みとしないこと。
 ひとつは夏山隊に恒常なる内通者がいる。彼には話を通しておくのでなんとかその男と連絡をとり、情報を冷静に精査したうえで敵や目的を見誤らないように。

 等々、大小の様々な注文をつけたが、それを二つ返事で英悟が呑めば、それ以上は何も言わなかった。

 かくして討竜馬を中核とする新進気鋭の戦力は、英悟の帰還と同時にすぐさま召集され、救援の求めに応じて意気揚々と自領を出たのだった。



[42755] 第四章:蘭蕉の少年 〜八十八鶴川反攻戦〜(六)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:6f4fa50d
Date: 2019/12/12 10:49
 戦を目前にして、夏山星舟は憔悴しきっていた。

「カヤマ兄さん!」

 開けっぴろげた口腔からははぁはぁと息も絶え絶えに喘ぎ声が漏れ聞こえ、白眼を剥き、ただでさえツヤに欠ける黒髪は痩せて光を失っていた。頬はこけて、若干細まった両腕を膝の上に投げ出し肩は完全に陣所の壁に委ね、指先が小刻みに震えている。

 そんなザマで、軍監としての役務を果たすべく彼とその部隊は国境にいたっていた。

「なんだ、その珍妙な呼び方は……」
 彼に代わって雑務を代行していた副官のリィミィが、上官の惨状に思わずクララボンが放った一声に不審を示した。

「いやぁ、なんとなしに言わずにはいられなかったもので。そいで、どうしたんです大将は?」
「どうしたもこうしたもあるかいな」

 土臭い言い回しとともに消耗しきった星舟が、苦り切った表情で部下を睨んだ。

 瞼を落とせばすぐに、まざまざと、ここに至る道程の労苦とサガラへの憎悪が蘇る。

 種や身分を超えた共同作業と言えば聞こえは良いが、実際はほぼサガラ独断の選抜によって、侵攻軍の編成は行われた。
 もちろん意見を言う機会はあったが、その内情の多く、とりわけ軍団としての質や強度を知っているのは父に従い中央に赴き、長く軍務の中枢に携わっていたサガラなのだから、自然主導権を握られることになったのだ。

 まぁ、それは良い。ある程度は覚悟していたことだ。

 だが、

「おやおやこいつは……」
 と思わせぶりに口端を吊り上げたかと思えば、サガラはポイとその名簿ごとに『可』の箱に投じ、

「あっちゃさすがに彼らは」
 と苦笑い。だがその手は、迷いなく『可』の箱へ。

「下手したら死ぬわコレ」
 と嘆きながらも、ポイと採用。

 そしてそれら一連のながらは、これ見よがしに星舟の眼前で行われ、星舟は表情筋を笑顔の状態で固定したまま見送るしかなかった。
 何も言えなかった。それ以外の表情を出せなかった。もし一度でも動じれば、一気に感情を爆発させて東方領主に殴りかかってしまう己の姿が、容易に想像できるからだった。

 結果として出来上がったのは新進気鋭、大胆な抜擢とは名ばかりの悪性と素人の煮こごりだ。
 家が取り潰された無頼上がり。自分たちの惣領が先の戦が死に、その報復と名誉回復のために名乗り出た副将。閑職に追いやられた藩王国の元小役人。

 装備は各自持ち寄り、都合してくれたのは農耕用のを急ごしらえで軍馬に仕上げたのと、弾薬のみ。

 それを兵力として強引に運用し、ここまで来た。
 やれ宿をとればどっちが先に場所を取るかで揉め、差配の手違いで宿帳から漏れた狼藉者が拗ねて街中で炬火を焚いて野営を始める。
 出立すれば間もないうちに過去の遺恨を引き合いに出して騒ぎを起こし、親の仇を見つけただとかで刃傷沙汰にまで発展する。

 一生分の人情物語と悲喜劇を体験しながら、ようやく彼の率いる不良債権、不渡り手形の集合体のごとき一団は本隊との合流地点へ到達した。
 本来の日時よりかはいくらかは早いが、それでも星舟が目指した予定よりもずっと遅れている。

「心中は十分に察するが、せめて顔色に出すな。ただでさえ乱れた結束をあんたがまとめずしてどうする」
「そうですって、ほら軍物語にもよくあるじゃあないですか。こういうあぶれものたちがこう、歴史的な功績を立てるとか」
「夢物語の読み過ぎだ。余計に目と頭を悪くするぞ」

 リィミィの苦言は聞き流し、クララの諭しには辛辣な皮肉を返す。
 そんな星舟の満身創痍を前に肩をすくめながら、クララボンは浮上した疑問を主将ではなく、副将へと向けた。

「でも、大将が大将じゃないんすね」
 聞く人によれば混乱しそうな問いかけの意図を正確に読み取って、リィミィはすらりと答えた。
「さすがに人が牛耳を執れば、よほどの異常事態がなければカドが立つ。そこで一応は目的地に比較的近い豪族の中でもっとも勢力が強く、精強な家が択ばれた。それが鷹羽加(たかばか)の郷守、ナテオ・ツシキナルレだ」

 真竜種特有の舌を噛みそうな名をよどみなく挙げると、クララボンは不思議そうに近眼をすがめた。

「なんか聞いたことない名前ですね。対尾戦に参加してました?」
「元は南方領の所属だったが、ラグナグムス家の弱体化をきっかけにトゥーチ家の与力に所領ごと配置換えされた。最近まで病死した先代の喪に服していたから、例の戦には参加していない」

 少し身を休めたことによってなんとか気分を最底辺から持ち直した星舟が、リィミィの代弁を引き継いだ。
 もっともその手続きには悪辣かつ強引なサガラの暗躍があったことを、星舟は知っていたがあえてそれを持ち出す気にはならなかった。

「だが、本来は攻め気が強い陸戦担当だ。家格としても問題はない。八十鶴においてもその姓を耳にしただけで顔色を変える奴もいる程度にはな。何よりオレにも借りがある。故ブラジオ・ガールイェ殿ほど手は焼かないはずだ」
「借り?」
「例の財務調査の件はツシキナルレからも持ちかけられていてな。先代の遺産相続で揉めていたところを、丸くまとめてやった。ご当代直々に感謝状もいただいたよ」

 合縁奇縁とも言うべきか。まさかその一件がこの戦に結びつくとは当時予想だにしていなかったが、おかげでサガラに気取られることなく希望をねじ込むことができた。
 あるいは、アルジュナはそこまでわかっていて、自分に任を与えたということか。

 ――まさかな。
 星舟は自身の妄想を哂った。なぜ人の、それも腹に一物を抱えた野心家の立場に、真竜種たるあの方が斟酌せねばならないのか。

 その時、風に乗って潮が鼻先まで運ばれてきた気がした。
 磯風は周囲の寒気を運び、その源なる力の余波を運び、それまで博打や腰兵糧を食んだりしていた彼らの手を上げ、口を閉ざさせ、背を伸ばして立ち上がらせ、そして目を向けさせた。

それは異常ともとれる集団だった。いや、竜全体のことを思えば、星舟隊が異物ではあるのだが。
 白無垢にも似た色と質を持つ生地に浅葱の線をほどこした、海賊や廻船商のような風さえある独特の軍服は、波紋の旗印は、南方領のもの。義理立てか、それとも東方領のものに着替えるには仕立てが足りていなかったのか。
 その千人を超す彼ら一体一体が、士と呼ぶに足る威風と体格を備えていた。

 そして蒸し返るような男くささの中心に、可憐な花が一輪。
 青みを帯びた長い髪。香料と椿の油で整えた前髪の奥には、燃えるような真紅の瞳。日焼けとは無縁とでも言いたげな白い肌を肩の半ばまでさらしているが、不思議と煽情の気はなく、むしろ巫女にも似た神気を宿している。

「その片目……まぁ! それでは貴方が、夏山星舟殿」

 手を合わせ、悠然と笑む。
 星舟はたおやかな妙齢の美女を前に、固まった。

「もしや、貴方様が……?」
「あぁ、書簡でのやりとりのみでしたものね。申し遅れました。私がナテオ・ツシキナルレ。今回の総大将の栄に浴すものです」

 星舟はすぐさま礼を拝した。なまじ知った気になっていたことが裏目に出て、反応が遅れてしまった。

 ――まったく竜の名前ってのは……

 その|詞《ことば》が女性のものか男性のものか、文字だけ追ってもわからない。
 感謝状の筆跡が男性のものだったのは、祐筆にでも任せていたゆえか。
 もっとも、向こう側からすれば人の名前こそがそうなのかもしれないが。

 だが、面と向かえばいやでもわかる。
 おそらくは腰に一本の曲刀を差しただけのこの女が、この益良雄たちで構成された武装集団の中でもっとも、勁いということに。

「醜態をお見せし、申し訳ありませんでした」
「刻限より一日早いご到着ですもの。休めるときに休むことは、悪いことではありませんわ」
「それでも早いに越したことはありません。すでに敵は我らの侵攻を気取り、待ち構えていましょう。さっそく軍議を」

 そう言って本営に招こうとする星舟の袖を、ナテオの指先がつまみ上げた。

「……なんでしょうか?」
 女性の過度な接触には多少の慣れがある。
 さほど動揺もなく立ち止まって振り返る星舟に、女竜は微笑みかけた。

「もうお一方、お呼びしても?」
 典雅さを失わない程度の茶目っ気を見せて口元をほころばせる彼女に、
「……むろんこの場におられる諸将にもご参加いただきますが」
 と答える。公平さは、失われていないはずだった。

「実はほかに、どうしても参戦したいという方がおられまして、私に話を持ち掛けていただいたのですよ」

 また、毛色の違う軍が寺院内に進入した。
 星舟は、その軍旗と、それとは別に打ち立てられた肖像の絵柄を見て、顔色を変じさせた。ツシキナルレ家の現当主が女性であったことの衝撃など、一瞬で塗り替えられた。

「その方が亡きお父上から継承した軍の消耗は、補填しきれてはいません。ですが、それを押してお父上に報いるべく、参陣した次第したいと。それこそが、御尊父に対しうる服喪となると」

 その旗の下に集う将兵は、かつての真竜と獣竜が少なく、人の数が増えている。
 古色蒼然としていた軍装も、真新しいものへと換えられていた。

 まったくその色相の変化させその部隊において、先頭を行く者には見覚えがあった。
 橙果の瞳、髪は亡父からたしかに受け継がれていた。
 だがその骨細の肉体は、反して似ていなかった。やや持て余した軍服の袖周りをまくり上げて、その真竜の少年は星舟と相対した。

 ――あの雨の葬式と同じように、星舟を睨み上げて。

「すでに面識があるとは思いますが、あらためてお引き合わせしましょう。カルラディオ・ガールィエ殿。ブラジオ閣下のご子息で、このたび正式にガールィエ家当主となられた御仁ですわ」



[42755] 第四章:蘭蕉の少年 〜八十八鶴川反攻戦〜(七)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:6f4fa50d
Date: 2019/12/12 10:49
 しばし、ふたりの若者は指揮官を仲立ちとするかのような立ち位置のまま睨み合っていた。

 まるで気心知れた仲だとでも思っているのか。ナテオはニコニコと彼らの横顔を微笑ましげに見守っていた。
 その鈍さは、シャロンを彷彿とさせた。

「……お久しぶりです、夏山殿」

 頭を下げたのは、意外にもカルラディオの方が先だった。

「その節は大変な無礼を働き、申し訳ありませんでした。今後はあのような狼狽を見せぬよう努めますゆえ、水に流していただきたく存じます」
「いえ……心中、お察しいたします」

 軽く位置を下げた白皙には、何の表情は浮かんではいなかった。言葉遣いは淀みがなく、論壇において発揮されたというその舌は非常に滑らかなものだった。
 いや、おそらくは感情を乗せてはいないからこそ、言の葉を載せた舌車はよく回るのだろう。
 対する星舟は、当たり障りなく、かつかけようもない言葉をかける素振りを見せながら朴訥に応じた。

「さぁさぁ、四方山話もありましょうが、皆さま席へ」

 流れを止めたのはナテオのはずなのだが、その彼女が、率先して陣内を進み、招き入れんとしていた。
 だが星舟はむしろ救われたような心地で、それに応じたのだった。

 〜〜〜

「それでは、僭越ながらこの夏山星舟が道中に集めた状況をもとに、敵方の動きを説明させていただきます」

 そう前置きをしたうえで、仮設の陣屋に集結した諸将を星舟は視た。
 数からして第二連隊が軍事行動の中核を成してはいるが、割合としてはナテオの傍系か傘下部族が多い。列席する顔ぶれは若くとも皆むさい男たちばかりである。

 磯と漢の臭いにむせ返りそうなのを咳払いでごまかしながら、星舟は主戦場となる八十八鶴川の一帯の地図を広げた。
 
 高い稜線が、東西を分断していた。
 南北を川が流れている。南が八十鶴、北が五十亀。八十鶴を越えてさらに南が橋頭堡建設予定地である比良坂。その山脈を水源地とする二川の水流はここに至ると穏やかなものだったが、深さがあった。
 無理に徒士で渡ることもできなくはないが、橋を渡ったほうが日常的にも軍事的にも賢明ではあるだろう。

「――敵は近頃頭角を見せた網草などという者を大将に据えて、周辺諸小藩を糾合。想定を超える進軍速度でもってすでに八十鶴川の南に堅牢な野戦陣地を構えています。このまま行けば、川を挟んでの対峙となりましょう」
「説明大義でしたわ、星舟殿」

 労いの言葉により、主導権と決定権はナテオに渡った。予想はしていた星舟は大人しく引き下がった。

「それでは戦場は八十鶴と定まりました。いざ、一挙して川を渡り勇を奮い、真っ向より突撃してこれを撃滅いたしましょうっ!」

 喚声があがる。
 かの大敗によって奪われた恨みを晴らさんという報腹心。直接的にその戦いに助勢できなかったという悔恨。
 それらが彼らの胸中に炎を熾し、突きあがった感情の奔流は気勢となって大気を震わせ、拳を天へと突き上げられた。ある者においては、興奮のあまり軍服を脱ぎ捨て隆起した上腕を晒すものさえいた。
 鳴りやまない轟雷のような鬨は、永久に続くものと思えてしまうほどに、止まることはおろか弱まることをも知らなかった。

 それに冷水を浴びせかけるのを覚悟のうえ、星舟は挙手をした。

「夏山殿? なにか」
「そのお覚悟はまことに見事なものです。ですが、戦場は別に設定すべきかと思います」

 具申せんとすると即座に、非難の声があがった。

「余計なことを言うでないわっ!」
「打ちっ殺すっど!?」

 ――結局、こうなるのか。
 激昂するナテオ配下の部将たちに、彼は辟易した。リィミィは上司を擁護すればより混迷するから押し黙り、カルラディオは露骨に星舟の苦境を無視した。
 いったい今までの根回しは何だったのかと問いたくなる。

 だが、そこで意外な流れが舞い込んできた。

「おやめなさい」
 当のナテオが、部下たちをたしなめた。朝さえずる鳥ような令嬢の声は、益荒男たちを一瞬で鎮めた。

「夏山殿は、我々のために骨折りくださいました。それに我が友、シャロン・トゥーチの一目置く方でもあります。その言は傾注に値しましょう」

 色彩の派手さに比して柔和な光を称えた眼差しが、星舟へと向けられる。絹をなぞるかのような手つきで、彼を促した。

「聞き入れてくださり、感謝いたします、ナテオ様」
 星舟は頭を下げて、そのうえで地図に指と目を移した。

「川を対峙しての戦いとなれば、自然渡河する側の足は鈍ります。そして仕掛ける側は我々なのです。敵はその地の利を活かし、水流に足を取られている我々を配置した銃砲で撃ち抜けば良い」

 今更兵法の初歩も初歩を説かねばならない我が身を内心で自嘲しながら、星舟は続けた。

「真竜に、そのような豆鉄砲が通じようか」
「では、その真竜がこの幕内にどれほどおられるのか」

 星舟は若干語気を強めて返した。反論した獣竜は、険しい顔を隠さなかった。

「私と、供回りの二名ほどのみです。あとは」

 率直にナテオはその手の内を披歴した。そのうえで、末席に座すカルラディオ少年を見た。

「夏山殿はすでにご承知のことですが、『鞘』が敵方に渡ったまま、ガールィエ家に戻ってきていません。よって僕は『鱗』を継承できていない」

 陣内から、憐憫と嘲笑の気配が漏れてくる。
 もっともそれは夏山側の与力からで、ツシキナルレ側からは彼が力を使えないからと差別するような空気はなかった。
 星舟としては、いかなる反応をも見せず、無視して淡々続けることだけだった。

「むろん、力づくでも突破はできるでしょう。ですが、今回は比良坂に要塞を築くことこそが目的なのです。後続の妨害も送られてきましょう。真竜の方々の投入は、長期戦向きではありません。そのためには、被害は最小限に抑えなければなりません」

 さらに、と彼は川の図柄をなぞりながら続けた。

「敵にはトルバを引具しています。渡河に時間をかければ、背後に回られ、退路を断たれる恐れがある。いやほぼ確実に別動隊を回り込ませるでしょう。真に警戒すべきは、そこです」

「それでは?」ナテオが問う。
 星舟の指は、図上を推移していく。

「交戦すべきは、この山脈の東側。まずは、我々が対岸へ攻勢を仕掛けます。その後あえて退却し、この地へと誘い込みます。皆々様はその尾根を挟んで西にてそれを待ち受け、鳥竜を斥候に出し逐次状況を更新。頃合いを見計らい南北より一挙に覆い包んで殲滅する。その後、無人となった対岸を悠々と渡れば良い」
「なるほど。つまり対尾の戦と同じことを今度はこちらより仕掛けると」
「ご明察、恐れ入ります」

 星舟はナテオの理解力に感謝した。
 ブラジオや他の武断の徒より若く温和な彼女は、やはり思考に柔軟性というものがあるのだろう。

「誘いに乗らねば?」
 カルラディオが異を唱える。
 当然の懸念であったから、星舟は難なく答えた。

「その時はあらためて攻勢を仕掛けます。一種の膠着状態を作り、そのうえでナテオ様の本隊が横槍を入れるもよし。あるいは別の地点より渡るもよし。ただし、第一の策より当然被害は大きくなります。それでも、正面からの突撃よりは遥かに被害を抑えられますが」
「カルラディオ殿のお考えは?」

 ナテオの一声で一同の視線が、ふたたび若き真竜へと注がれた。
 
「自ら矢面に立たんとする夏山殿のお志、まことお見事なものです。その心気を以て立てた策であれば、どうして僕のごとき新参者が意見出来ましょうか」

 感情というものを忘れたような心ない賛意だった。
 とにもかくにも一番厄介な相手から言質をとった星舟は、たしかな手応えとともにナテオへ言外に決断を求めた。

 美しい女竜は、決意と気品をもったその目で諸将を見渡し、

「これにて我らに心は定まりました」

 と明言し、強く机を叩いた。

「いざ、一挙して川を渡り勇を奮い、真っ向より突撃してこれを撃滅いたしましょうっ!」

 喚声があがる。
 かの大敗によって奪われた恨みを晴らさんという報腹心。直接的にその戦いに助勢できなかったという悔恨。
 それらが彼らの胸中に炎を熾し、突きあがった感情の奔流は気勢となって大気を震わせ、拳を天へと突き上げられた。ある者においては、興奮のあまり軍服を脱ぎ捨て鍛え抜かれた上半身を晒すものさえいた。
 鳴りやまない轟雷のような鬨は、永久に続くものと思えてしまうほどに、止まることはおろか弱まることをも知らなかった。

「……んん?」
 星舟は笑みのまま首を直角に曲げた。
 彼女の決定が自分の予想、あるいは希望と大きくかけ離れていたものであったがために、彼の思考能力は時を止めた。

 それから彼は周囲に断って中座した。
 陣屋より出る。花は一輪二輪とあるものの、基本的にはむさかったり無愛想な面を突き合わせた密閉された空間。そこから出た瞬間開放感が青年の鬱屈を浄化した。

 新鮮な秋風を肺腑いっぱいに吸い込むと、身体自体が入れ替わったかのようだった。小川の清水で顔を洗い、草原に腰を落として足を投げ出して蒼天を見上げる。鳶が円を描いて啼いていた。
 今まさに戦が起こるとは思えない、長閑さであった。

 ――雲の流れが、速い。
 そのことによって逆に星舟は、今まで多忙に生きてきたことを自覚した。

 自分に本当に必要だったのは地位でも名誉でも権力でもなく、こういった心身を安らがせる時間だったのかもしれない。

 ふっと息を漏らした。陽光に目を細め、思わず呟く。
「おっかしいなぁ……オレ、聞き間違えたのかな。やっぱ疲れてんのかなぁ……」

 そうだ。そうに違いない。
 あるいは自分の言い方がきっと誤解を招いたのだろう。
 そうでなければ、どう考えても流れがおかしすぎる。

 反省した星舟が戻ると、雄叫びはまだ続いていた。

「あのー……あのー」

 星舟はあらためて自分の意見を聞いてもらうべく声を張り上げた。
 ジロリ、と胡乱げな目線が、彼へと集中した。

「良いところなのに、誰じゃわぬしはっ!」
「打ちっ殺すっど!?」

 どこかで聞いたような脅し文句を、また同じ竜が叫んだ。というか、誰何したのもさっき食いついてきたのと同一獣竜だったはずだが……

「夏山殿、何か意見が?」
 気品だけはあるナテオが、優しげに声をかけてくれた。こうして見ると、この陣中においてまっとうな竜に見える。

「攻めます。退きます。そして囲みます」

 やはり自分に何かしらの過失があったのだと、星舟は思い直しつつ、今度は指でしっかりと図面の地点を示して、簡略に説明した。それこそ、バカにしてるのかと言われても仕方ないぐらいに。

「なるほど。つまり攻勢は一時的なもので、あえて退却して敵を誘い込み、山陰よりの伏兵で包囲殲滅せんと。かつての対尾のごとく。そういうことですわね」
「え、いやだからさっきそう説明し……全くもってその通りです。はい」

 やはり理解をしてくれていたので、これ以上は余計なことは言うまい。

「これにて我らの心は定まりました」
 机を叩いてナテオは強く宣言した。

「いざ、一挙して川を渡り勇を奮い、真っ向より突撃してこれを撃滅いたしましょうっ!」

 喚声があがる。
 かの大敗によって奪われた恨みを晴らさんという報腹心。直接的にその戦いに助勢できなかったという悔恨。
 それらが彼らの胸中に炎を熾し、突きあがった感情の奔流は気勢となって大気を震わせ、拳を天へと突き上げられた。ある者においては、興奮のあまり軍服を脱ぎ捨て素っ裸になる者さえいた。
 鳴りやまない轟雷のような鬨は、永久に続くものと思えてしまうほどに、止まることはおろか弱まることをも知らなかった。

 ――星舟は生暖かい眼差しで、それを見届けるほかなかった。

 〜〜〜

「あいつらバカしかいねぇぞッッッ!!」
 ――その夜、彼は自陣にて椅子を蹴り飛ばした。



[42755] 第四章:蘭蕉の少年 〜八十八鶴川反攻戦〜(八)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:fa083409
Date: 2019/12/01 21:35
「おかしいだろ!? おかしくないか!? おかしないっすか!!」

 夏山星舟は憤っていた。
 心を交わす難しさに憤り、ままならぬ情勢に憤り、世の不条理に憤り、大いなる矛盾に憤っていた。
 放置しておけば世界そのものにさえ勢い余って喧嘩を売りそうであった。

「落ち着け。見苦しい」
 その様子を傍らで見守っていたリィミィは、機を見て冷ややかに嗜めた。

「ナテオ氏は今まで突撃によってのみ勝利を得てきた。その基本方針をにわかに変えがたいところがあるのだろう。いや、むしろ彼女たちにとっては戦場に立って吶喊することは、米は炊いて食うのと同じように、あって当然という工程なのかもしれない」
「その工程に巻き込まれて犬死にしろってのか!?」
「根回ししたんじゃなかったのか?」
「したさ! 家宰のブアルスゥにな! けどあいつそのことスッパリ抜け落ちたみたいに裸になってウォーウォー叫んでんだもん!」
「もんって……」

 黒髪を抱えるようにしてその場に蹲った青年を見て、リィミィはため息をこぼした。

「仕方ない。私がもう一度説得を」
「無視すればよろしいのでは?」

 提案を、何者かが遮った。
 陣幕の内に進入したのはこれ紳士然とした若さと老獪さの間にいるような、そんな人間だった。

「失礼。外にもお嘆きが聞こえて参りましたので」

 その優雅さもあってか、多少トゲがある言い回しでも嫌味には聞こえない。

「恒常」
 そして星舟は侵入者の姓を呼んだ。

「そもそもは議論できない相手と対話をしようとするのが間違いのもとなのです。意思の疎通が難しいのであれば、独自に動けばよろしいでしょう」
「ずいぶんな言いぐさだな、新入り」

 リィミィは彼を睨み据えた。
 彼が一度斉場繁久とともに挙兵に及ばんとしていたことは、その時討伐軍に参加していたリィミィの記憶に新しい。
 だがそんな因縁はおくびにも出さず、男は微笑みかけた。

「夏山殿は言うべきことは言いました。ならば次は、為すべきを為すが道理というものでしょう」
「言うのは勝手だが、無許可で軍を動かせばそれこそ罰を受ける」
「許可なら取ったでしょう。相手に正しく受け取ってもらえなかったというだけで」
「では何か? 本隊の援助はなしに第二連隊単独で、敵の別動隊に当たれと、そういうわけか?」
「はい」

 なんの臆面もなく、リィミィの皮肉を是ととり、新参者、恒常子雲は新たな上官の前に上体を回り込ませた。

「夏山殿。貴殿は人の上に立ち、そして竜を内より統率されるお方のはずだ。ならば、多少の兵力差があろうとも網草英悟ごときに独力で挑んで負けて良いはずはない。そのため方策も、貴殿の機知なれば容易に見出すことでしょう」

 子雲の弁は、すらすらと語られ躓くということがない。
 だがその流暢さはまるで、井戸水に毒を流し込むが響きに、リィミィには聞こえていた。

「まぁ、な」
 そしてまんざらでもなさそうに、星舟は機嫌を改めた。
 自身の寝床に腰を下ろすと、ぼんやりと天井を見上げていた。虚のような表情だった。しかし、やがてふっと口元を緩め、

「――なるほど、やってみるか」
 と、リィミィの方ではなく、子雲を視た。

「星舟!」
 諌止の声をあげる彼女に、星舟は肩をすくめた。
「わかってる。もう一度陳情するさ。今度は別方面からの根回しもして、出来る限りの援助も引き出す。それで良いな? 恒常」
「充分かと。出過ぎた真似をいたしました」
「いやいや。十分に役に立ったよ、ありがとう」

 珍しく率直に礼を言った星舟に、リィミィは少なからず衝撃を受けた。どうやらよほど、この人間のことを気に入っている様子だった。
 目礼とともに退出しようとする彼を、「あぁ」と星舟は一度呼び止めた。

「お前に一つだけ忠告しておくことがある」
「はい、なんでしょうか」
「オレらは主観の生き物だ。切り離せるものじゃない。だが、昨日までの敵に対して偏見は持つなよ。過剰な奢りや恐れがあったからこそ、今日にいたるまでの藩王国の凋落がある」
「心得ておきます」

 これまた、優雅にして淀みがない表情で頷き返し、恒常子雲は退室した。
 その足音と気配が自分たちの側から完全に切り離されたのを見計らい、リィミィは星舟に身を寄せた。

「ずいぶんと奴のことを気に入っているようだな」
「むしろオレの展望を想えば、人は積極的に重用してしかるべきだろ」
「その考えは賛同する。だが、他の連中との均衡も考えろ。いくらなんでも偏向が過ぎる。先達には経堂もいるだろう」

 本来であればここに無許可で立ち入ることも、あんな差別的な発言も咎められてしかるべきものだ。
 そう言いたかったが、それを遮るようにして星舟は尋ねた。

「なんかあいつに気になるところがあるのか?」
「……あるわけではないのが、逆に不安だ。あいつは今の今まで藩王国の旗頭を掴んで前線で我々と斬り結んでいたんだぞ? お前の命だって狙った。にも関わらず、今はそんな事実自体がなかったかのように、我々に従属している」
「そりゃ、オレの説得が効いたんだろうさ」

 むしろ目に見えるかたちで不審であったのは、浮足立った星舟当人の姿だ。
 こと、あの恒常子雲のことに対しての偶しぶりは、その前歴に比して異常ともとれた。
 ほぼ傭兵にも似た経堂の処遇は例外として、初めて有用な人間を得たというその歓喜ゆえか。脇の甘さは相変わらずだが、先ほどのような寛容さはともかくとして、ここ数日間は彼に物事の一切を諮りっぱなしだった。

「あいつは役に立つ」
 などと宣われれば、いかなリィミィとて苛立ちを抑えきれなかった。

「やはり、人間の方が親しみやすいのか?」

 その衝動が、決して言わなかった、言ってはならぬと自身に戒めていたことを、突き出させた。
 そして最後まで禁句とできなかった己を、リィミィは恥じた。これではまるで、駄々をこねる子どもではないか。

「……すまない。忘れてくれ」
 おとなに立ち返り、軍師もまた踵を返した。

 果たしてこの感情は、焦燥感は、公かそれとも私か。
 岐路に立たされているのは、変化を求められているのは、星舟のみでは、人のみではない。
 そんな当たり前のことは、とうに覚悟していたはずだった。むしろ、それをこそ望んでいたはずだった。

 だがそれをあらためて自らの心身を以て噛みしめる時が来たのかもしれない。

「……ま、何が言いたいのかはよくわからんが、今はやるべきことをやるとしよう」
 うつむくリィミィの肩を叩き、彼女を抜いて先に陣屋を出た。
「どこへ?」
 てっきり今日はそのままヤケ酒でもかっ食らって就寝すると思っていたリィミィは、怪訝そうに遠のくその背を見送った。

 星舟はため息をひとつこぼす。
 気鬱を隠さず答えて曰く。

「比較的に話の通じる方へ、騙すなら騙すなりに、最低限の筋を通しに」



[42755] 第四章:蘭蕉の少年 〜八十八鶴川反攻戦〜(九)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:814435cc
Date: 2019/12/12 10:50
「若様、共に初陣を飾りましょう!」
「旦那様の仇、討たせてくだせぇ」
「皆と気持ちは同じだ。このような戦によろしく頼む」

 —―父親からの脱却を求めながら、父親の影に縋ってやがる……
 待たされた宿舎の軒先でガールィエ義勇軍の『心温まる交流』を眺めながら、星舟はその矛盾を嗤った。

 対尾の戦で半壊に追い込まれた彼らである。恐らくは出征にあたっては、ブラジオ存命中は禁じ手であったであろう人を軍事力として徴発した。
 そうしなければ、軍隊として最低限の体裁さえ整わなかったことは容易に想像できる。

 そしてかくも無理を押して出なければいかなかったのは、揺らぐブラジオの旧臣に自分の力を証明するため。そうしなければ、家中の動揺に付け込みサガラの介入を招くため。

 そしてもうひとつは……

 いきさつとしては、その辺りか。
 故に星舟は目の前の茶番を嗤いこそすれ、少年が直面する如何ともし難く理不尽な状況を嘲りはしなかった。

 その彼が寄ってきたのは、ちょうど星舟が笑みを良質なものへ引き戻した直後だった。

「お待たせをいたしました」
 『牙』の代わりに佩いた軍刀が、かの新米当主のパンタロンの腿のあたりと擦れ合っていた。

「して、火急のご用向きと伺いましたが、何か敵に動きでも?」

 実際その情報がこちらに伝わっていれば、もうちょっと楽に段取りがつけられただろうに。そう悔やみながらも表情には出さず、黙礼したまま、かつ不審がられない程度の時間を使って思考する。
 なんと言って誤魔化すか。どう欺いて、望みを引き出すか。

 ……かつての卑しさに落ちそうになっていくおのれを、星舟は引き留めた。

「実は」
 リィミィが切り出そうとしたのを抑えて、彼は顔を上げた。

「出立の日、怠けます」
 そして星舟は、直裁に言うことを選んだ。

「……はい?」
 カルラディオ・ガールィエの繕い笑顔に、ぴしりとヒビが入る音を、確かに聞いた。

「結局何故か正攻法ということで一決しましたが、自分はそれでも敵は別働隊による横撃を仕掛けてくると踏んでいます。カルラディオ殿は後詰となっていますが、その相談役という名目で貴殿の指揮下に入れば、比較的動きやすくなり、準備も整えられる。明日その部署替えを本隊には伝えますが、カルラディオ殿におかれては事前の了承と、可能であればお口添えをしていただきたく」

「……根拠は?」
 笑みを彼なりに精一杯に留めながら、カルラディオは問い返した。
「敵が反攻を仕掛けてくるという、確たる証は、あるのですか」

 問われた星舟はあいまいな笑みで返した。
「ありやなきやと問われればありますが、今はまだなんとも」
 隣からリィミィの、正面からはカルラディオの、冷視が返ってくる。「どうせハッタリだろう」と言わんげに。
 ことカルラディオにおいては、昏い悦びのような笑みさえ口端に浮かばせていた。

「……なるほど」
 曰くありげに呟いたあと、悪意のにじむ笑みを浮かべて彼は言った。

「父の葬儀の時にシャロン様より叱責され、そして内治や外交においても評判が改まりつつあったのを聞き、自分が偏見を持って見ていたと反省したものですが…やはり当初のお噂の通りのお方だったようだ。父に対しても、あれやこれやと尤もらしく言って、惑わせたのですか」

 正直なところを思えば、目の前の少年にはおそらく、自分を糾弾する資格があると思う。あの敗戦にも、ブラジオの死にも、責任は間違いなく自分にある。何度振り返ってもその結論に行き着いた。

 だがここでは、あえてその心情とは真逆をいこうと、決めた。

「尤もらしく言い繕うのは、お互い様だ」

 場に、目には見えない霜が降りた。
 カルラディオの顔には、笑みが余裕とともに一気に引き、代わりにさっと怒りの朱が差していた。

「そりゃある程度は体裁や建前は必要だろうさ。けどあんたの言葉や態度の端々からはこっちへの悪意が露骨に透けてんだよ。むしろ容赦なく罵倒してくれたほうが、まだ気が楽ってなもんだ」
「隊長!」
 隣接するリィミィは、星舟を公的な呼称で諫めた。だがその腕を、星舟は振り払った。ここに来た目的、ひいては今後の活動を破綻させかねない発言を、流れをどう撤回するか。この明哲な頭脳は全力で回転しているに違いない。

 星舟は他人事のようにその板挟みに同情したが、あらためる気はなかった。

「……その真竜に対して礼を失した発言の数々、必ず報告させてもらう……!」
「誰にだ? ナテオ様か、それともサガラ様にか? ここまで来た甲斐があったようで何よりですな、これで怨敵を失脚せしめる口実ができたわけだ」
「……っ」
「理由は他にも色々だろうが、あわよくば、って考えてただろ?」

 カルラディオは驚きを隠さなかった。いや、隠せなかったと言った方が正しいか。
 若さのせいにするには片づけ切れない馬鹿正直さであった。

「ブラジオ殿は家長としては大樹と呼ぶに相応しい器であったと聞くが、ご子息の養育にはしくじったというわけか」
「見殺しにした貴様が父を愚弄するなぁ!」

 後ろ暗い打算を相手に指摘された羞恥が、自分はともかく亡父までも愚弄されたということが、カルラディオを再び凶行へと駆り立てた。

「父親を? 馬鹿言うな……っ、自分は、あんたを嗤ってるんだ」

 襟首に掴みかかるその細腕は、あの雨の日と同じく想像できないぐらいに強い。武器がなかろうと華奢な少年だろうと、竜なのだ。
 それを涼しい顔……だけは必死に取り繕いながら、星舟はその腕力を押し返した。

「……たしかに、自分とブラジオ様は反目することが多かった。互いに譲れぬもの、相容れないもの、理解より遠いものなどのほうが認め合うことよりも多く、通じ合うことは稀ではあった。だが少なくとも、自分はあの方の確たる美点を知っている」

 戦場においても出さないような渾身の力によって、カルラディオを押し返し、ずいと隻眼を寄せる。

「あの方は己の力を誇り、己の信念を貫き、己の言葉で語った。嫌悪し、偏見を持つにしても確実に己で見たものにそれを向けた。そしてそこに過ちがあれば、己の身でもってその責を負った。その点に関してだけは、自分は……オレはあの方に遠く及ばない。だが、その死を機に、その後塵を拝さんとしている」

 カルラディオの腕力が弱まった。力で圧されたのではなくて、気で圧された。

「オレはこの軍を勝たせたいと本気で思っている。いや、勝ってもらわなければ困る。そのためにオレは自分の判断を信じ、持つ限りの手札を擲つ。たとえあんた達に怯懦と罵られようとも、見込み違いであったにしても、その責を負う覚悟だ」
「口だけは、なんとでも言える。僕は協力しないぞ」
「良ければといっただろう。あんたの助力なしでもやる。告げ口でもなんでもやれ」

 重ねて、同じ論調で悪態をつく彼に対し、星舟はさもつまらなさげに鼻を鳴らした。

「自分を憎んで時が戻るというのなら好きにするがいいさ。むしろそうなるってんならこっちからお願いしたいくらいだね」

 吐き捨て、きびすを返して背を向ける。
 だが、と去り際に星舟は言った。

「別にブラジオ様の代わりをしろとは言わない。あんたにはあんたの都合や予定があるだろう。……が、今のあんたの振る舞いを見て亡きご尊父はどう思うかな?」

 返事はなかった。少年は、両腕を下げて項垂れるのみだった。
 その彼を慰めるかのように、家臣たちが取り巻いていくのを、去り際に見た。

「――お前なぁ!」
 聞こえぬ距離になって、リィミィの虚飾のない叱責が飛んだ。
「本当に説得する気があったのか!?」
「良いんだよ。あいつは付け焼刃の馴れ合いでどうこうできない」

 それにリィミィは感情に任せた失敗と思っているだろうが、星舟の感情は、計算のうえで爆発させてみせたものだ。
 徹頭徹尾、カルガディオ・ガールィエという少年は夏山星舟という仇敵を憎んでいるし、その性質を忌み嫌っている。
 彼が右を向けば、カルラディオは左を向く。そういう情の烈しい若者であった。
 だがそれは逆を言えば、逆のことをすれば……カルラディオは星舟の案のとおりに行動してくれる。

 もちろんこれは空論に過ぎない。が、ヘタに媚びへつらうよりはいくらかは望みがあるし、性にも合っている。

「懐柔ができないのなら、逆の方向からあいつを操作するだけのことさ」
 そう毒づきながら、星舟はまたたく星空を見た。

「それに、目に見えるところに敵がいないと、あいつも迷うだろう」

 自分の判断の誤り、要所要所の甘さが、ブラジオをはじめ多くの者たちを死に追いやった。それはカルラディオの言うとおりだ。
 帝国を勝利せしめることなど、誰に託されずとも自分のためにやっている。
 なればこそ、彼の遺したものの憎まれ役を買って出ることで、その詫びとしよう。星舟はそう思っていた。

「だからって、露悪的に過ぎやしないか?」
 リィミィは呆れながら言った。
「ま、個人的にいけすかねぇのは事実だしな」
「その理由を教えてやろうか?」
「え?」
「いけすかないっていう理由だよ」

 リィミィは珍しくも皮肉げに、口端を持ち上げた。

「慇懃無礼で他者への蔑みや自身の虚栄心や誇りが透けて見える。普遍的な論調でもって相手を屈服させようとする……彼は、ブラジオ様でなくあんたに似ている。少し前のな」

 その評を、星舟は味の悪さを感じつつも聞き流すことにした。

 しばし沈黙して歩く彼らの前に、恭しく礼をする人間の男が迎えに現れた。

「恒常」
 またこいつか、とでも言いたげに副官は苦々しげにその名を呼ぶ。悪意は伝わっているだろうが、そのことを臆面に出さず子雲は先んじて言った。

「どうやら手応えがあったご様子で何よりです」
「おう。明日から早いぞ、今のうちに寝とけ」
「拙者は夢を貴殿に託しましたゆえ、眠るも醒めるも、貴殿の去就次第です」

 多少気障ったらしい言い回しだが、完璧な答辞。
 リィミィはその軽さを危惧しているようだが、星舟はその頭の巡りの速さを尊重していた。

「予定どおり敵を待ち受ける。丘陵の分かれ道、東西どちらから来ると思うか」

 星舟は恒常子雲に問うた。

「東側の方が比較的なだらかで、トルバを使うのであればそちらから来るでしょう。星舟殿、旭日のごとき勝利を」

 新たな副官が優美な響きでそう答えたことによって、星舟は自身の勝ちを確信した。



[42755] 第四章:蘭蕉の少年 〜八十八鶴川反攻戦〜(十)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:fa083409
Date: 2019/12/22 15:06
「敵は、東にて待ち受けるとのことです」

 網草英悟の陣中において、夜半の来訪者はあいさつもそこそこにそう切り出した。

「拙者が、そう仕向けました」
 その内間、恒常子雲は得意げに胸を反らす。

「あとは、貴殿が全兵をもって稜線を隠れ蓑に鳥竜の目をかいくぐり、西の道より敵の本陣を襲い備蓄を強襲し、返す刀で後背より彼の者らを仕留めればよろしい。そうなれば竜どももあえてこの地に留まろうとはせず、甲斐なく逃げ散るでしょう。そこを叩くもよし。その後の進退はお任せしますが、まぁここまででも充分に大勝と呼べる戦果でしょう」

 諮りもしないことを、ベラベラと論じる。
 おそらくはそれこそが彼の素であり、特別な意趣のない態度ではあるのだろう。むしろ好意的な助言ですらあろう。

 だがその端々にまで自信が満ちている。
 おのが才気に対する自負と自慢が溢れている。
 聞けば彼は、剣名で一地方を馳せた勇士であり、遍歴の後に藩主に迎え入れられたこともあるという。動向はともかく、その血筋も没落したとはいえ確かなものではあるらしい。

「あ、煙草吸ってもよろしいですかね。あちらだと品行方正で通っているものでね」

 僻目ではあるのかもしれない。その自覚はあった。
 だがそれでも彼の態度は、門地に依らず確たる血統ではない英悟たちからしてみれば、

 ――傲慢な
 としか思えなかった。
 歴とした武士としての矜持。自分たちのような成り上がりものを自然、下に見るように染みついた思考。そのすべてが。

「――身体にも障ると聞いたし臭いがつく。あんたもそれでは帰った時に結局怪しまれるんじゃないのか」
 友人の不機嫌を横目で感じ取ったのか、弥平はやや苦い口調で言った。

「あぁ、むろん沐浴をしてから帰りますのでご心配にはおよびません。あちらさんには偵察という口実で来ておりますので、帰りの道すがら乾きもしましょう」
 だが弥平を好意を、この不敵な男は意図せずふいにした。
 英悟の彼の嫌悪感は、さらに強いものとなった。

 弥平自身はさして気分を害した風はなく、ただ両者の顔色を盗み見ながら咳払いした。

「おや、どうやら遠慮したほうが良いご様子で」
 ようやくその目線の意図を察したらしいが、さほどその口ぶりに申し訳なさは感じられない。せいぜい取り出しかけていた牛皮を巻いた小箱を、ふたたび懐にしまう程度だった。

「で?」
 弥平は話を強引に本題へと戻していった。

「あんたの進言を容れると敵将が信じると思う、その根拠はなんだ?」
「一つに、拙者を信頼しきっていること。ことこの戦の進退においては、何をするにも副官のリィミィめを差し置き、拙者に頼る始末。そして拙者も、それによく応え、正答を導いてまいりました」
「一つに? 別の理由があるのかい」
「まぁ一つ目の理由と根は同じところにあるのですがね」

 ややひねくれた風にそう前置きしたうえで、鬚の下、肉付きの薄い唇がにやりと歪んだ。

「夏山星舟は、夢に溺れています」

 ――夢に?
 自分たちの作戦行動以外に関わる情報以外は聞き流す気でいた英悟は、初めて耳と心を傾けた。

「左様。決して到達しえない絵空事。一笑だに値しない妄想。そのようなものを、あの者は信じている。いや、信じようとしている。それゆえに、天を見て星へ手を伸ばし、だが哀しいかな足下の影が見えていない」

 子雲に、かりそめに臣従した男への敬慕の念はまったく感じられない。
 彼は心底より、その敵将を侮蔑しているように感じられた。仮にその人物の偶像肖像が目下にあり、かつそれを踏めと命ぜられれば、この男は躊躇なくそれをやるだろう。

 ――だがどうしてこいつは……
 それを憎々しげにではなく、さも愉しそうに笑っているのだろう。

 ……同時に、よく知らない敵将の顔の代わりに、自分の愛する女王の貌が浮かび上がった。
 夢を嗤うこの男は而して、赤国流花の理想さえも腹の底で嘲っているのではないのかと。

「もう結構。頂戴した資料と合わせ、あとはこちらで吟味する。あなたは引き続き敵中で離間工作などして備えてもらえればいい」
 網草英悟はそう言って座を立った。
 ぎょっとした様子の副将を無視し、だがすぐにはその場を発つことはせず、冷ややかな眼差しを下ろした。

「念を押してあらためて問う。あなたは流花様に忠誠を誓っているか? 敵の妄執へと向けたその嘲笑は、僕らの夢へと向けられることはないのだろうね?」

 見上げ返した子雲の瞳は、すっと細められた。奥底の眼光に、濁りのようなものが生じた気がした。彼は深々と頭を下げて答えた。

「拙者ごときの下賤の者が、どうして陛下の大望を推し量り、異を唱えることなどできましょうや」

 その口ぶりには、先までのおふざけはなかった。礼を正して、まじめくさった調子ではあった。だがそこには境界線を引いて門を閉ざしたような、頑なな冷たさもあった。あるいは何かに対する諦観とも言って良い。

 その眼が、態度が、なおのこと気に食わなかった。

 ――奴らと同じ種のものだ。

 本来の事業もそこそこに、来るべきまさに今この時流のために、流花のため、その理想の役に立つために、勉学や鍛錬に励む自分を、哂った連中。

 見える場所、聞こえる位置で、直截にそれは絵空事だと断じた親族。
 迂遠にそれを諫め、かつくだらぬ田植えや来年のための籾を数えろと強いた小者ども。
 背後でその大道を知る努力さえせず、後ろで指を差した愚か者たち。

 ――彼女を、僕を、馬鹿にした奴ら。
 今まさにこの瞬間、過去に押し込めていた憎悪は現在対する男に対する心象と結合した。
 そして不必要だと感じつつも、奴の女上司――自分を大将に推さなかったあの楽師へと延びてつながる。

 これ以上交わす言葉もなく、英悟は陣所を出た。
 弥平は彼を追ってもろもろの気遣いや諌止をしたが、彼は止まらなかった。子雲は動かなかった。

 外ではさぁいよいよ竜どもめに一泡食わせるぞと、いままで弾圧されてきた小藩の志士たちが息巻くのが、こちらには直接的に向けられずとも感じられた。それが伝播したのか自身の本隊の討竜馬が嘶きの合唱をする。

 昏く、黒い衝動だと思う。
 だがそれは今、自分には必要なものだと英悟は直感した。

「討竜馬を出すぞ」

 そこで初めて、彼は友人の目を見、そして意思を表した。

「居残った夏山なんてものは、敵でさえない。僕らの敵は……哂う者たちだ」



[42755] 第四章:蘭蕉の少年 〜八十八鶴川反攻戦〜(十一)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:78dca77d
Date: 2020/01/01 19:39
「というわけで、風邪を引きました。グホゲホ、ゲェーホッホ!!」

 星舟は自分では完璧と思っている仮病と空咳とを駆使して、ナテオへと訴えかけていた。
 カルラディオは彼を隣より白眼視していたが、何かを言うことをしなかった。

「まぁ、それはそれは……」
 ナテオは欠片ほども疑う気配もなく、むしろ哀れそうに眉を下げ落としていた。

「あれほど熱烈に先陣を願い出ていましたのに」
「いえ、していませんが」
「後のことはお任せくださいな。貴方の立てた策に従い、一挙団結して敵陣を突き破ってみせましょう」
「いえ、そんな策立ててないです」
「慎み深いのですね。夏山殿」
「ソウデスネ」

 もはや、怒るにも怒れなかった。
 それはそれとして、保険としてクララボンに一隊を率いさせて、本体に組み入れた。
 補充兵を除けば、これで星舟が率いるのは実数は元の第二連隊と変わらない。
 ただ野戦砲と荷駄を曳いてきた討竜馬ではないただの馬は、こちらにほぼ全てを残した。

 だが、その配下の方はどうか。
 別れの言葉もそこそこに彼女が身を翻すと、自然背後の将兵は星舟と向き合う形となった。
 そのうちのひとり。強面の若い獣竜がずいと進み出た。殺すぞとかなんとかと、軍議の席で痛罵してきたあの男だった。川獺の尾飾りを腰に巻いている。

 息がかかるくらい、歯の黄ばみが分かるぐらいに凶器的な顔面を突き出してくる。星舟は逃れずそれを受け止めた。

「これ」
 そんな顔のまま、男はあるものを握らせた。
 小さくて丸い、丸薬のごときもの。

「金柑の汁と蜜とを煮固めた飴だ。喉にいいっちゃ」
 
 低い声音でそう言って、ぐずりと鼻をさすりながら悪童じみた相合を崩す。

「馬」
「馬?」
「いえ……敵は数多くの討竜馬を抱えています。よもや遅れを取ることもありませんが、ご武運を」

 『っっ鹿じゃねぇか』と喉から出かかったのを、星舟は懸命に堪えて呑み下した。

 まぁ、ねじくれた悪意を向けてくる馬鹿よりは、真っ直ぐに気持ちの良い馬鹿の方がよほど良いが。

 軍勢を見送った後、カルラディオをちらりと見遣った。

「いやぁまさか、あれほど反対なされていたのにお口添えしていただけるとは思いませんでしたな」
「貴隊のみを残すことが不安だっただけですよ。裏切られ背を撃たれてはたまったものではない」

 礼節をいくらかは改めたものの、視線は合わせない。口調は剣呑。
 それぞれの軍勢を束ね、配置替えをすべく入れ違う。そのすれ違いざま、星舟は飴を指で拭ってから口へと放り込んだ。

「先に言った通り、協力はしない。こちらはこちらで好きにやる。それまでは手並を拝見しますよ」

 少年の挑発的な物言いを、その背伸びを鼻で嗤い星舟は進む。

 ――さぁて、出番だぜ子雲。
 取り澄ましたあの新参者の顔を思い浮かべ、思わず笑みがこぼれ落ちた。

 〜〜〜

 ふらりと舞い戻ってきた恒常子雲は、忙しなく動く兵の動きに軽く面食らった。

 借りていた家屋から陣幕や旗幟は取り払われ、まとめられて荷車へと押し込められる。
 そのうち何度か往復する兵と行き当たりそうになった。その間際に、いくつか妙な眼差しが混じっていたことが少し気にかかった。

 まだ顔に馴染みがないのか。それとも人に対する差別的なものか。だがそれを気にしないようにしつつ、彼は大将の姿を求めた。

 そして手ずから自身の寝所を片付けていた隻眼の青年は、腹心の帰投に振り返って上機嫌に笑いかけた。

「おう、ずいぶん遅かったな!」

 もう間も無く破滅に追いやられるとも知らず無邪気に浮かれる彼に、苦笑をこぼして頭下げる。

「貴方が早すぎるんですよ。ご出立はまだ先だと思っていました」
「機に臨みて変に応ずる。兵法の基本だろ? 準備はすでに始まっている」
「そうですか。残念ながら敵の姿は捉えられませんでしたが、近隣の村民に問うたところ、やはり別働隊らしき影を見たそうです。ここまでは予定どおりと言えるでしょう」

 取りすましたような子雲の言に、頼もしげに星舟はうなずいた。
 ますます彼への信と依存を深めたようで、親しげに彼の肩を抱き、共に並んで陣屋の口に立つ。

「皆聞いてくれ!」

 そのうえで、周囲で作業する兵たちの手を止め、あらためて訓示を飛ばす。

「やはり当初の予定どおり、敵はこちらに向かってきている。残念ながら本隊の援護は期待できない。現戦力をもって応戦せざるをえない!」

 先の狼狽振りなど嘘のように、一端の指揮官の貌と弁でもって演説を打つ。

「まずこの子雲の見立てどおり、敵を一方にて待ち受け迎撃する! すでに本隊に追随したクララボンがそれに必要なものを全て置いていってくれている! 単純な兵力のぶつかり合いであれば相当の苦戦が予想されるが、なに、この恒常子雲の戦術眼と物資、そして諸君らの戦意があれば何ら不安に思うことはない!」

 勝った。騙しおおせた。
 子雲は恭しく将兵に頭を下げながら、そう確信した、愉悦を噛み締めた。

「では、将士諸君! 《《西》》へ向かって、進めぇ!」

 下げた頭が、硬直した。
 子雲が動けないでいる間、すでに兵士たちは自分たちに割り当てられた、撤収作業を再開した。

「……今、なんと?」
 辛うじて笑みを残したまま、車や飛び交う指示の喧騒の中でもう一度確かめる。
 星舟は右目をキョトンと丸めて問い返した。

「ん? だからお前が言ってたのって西だろ?」
「いえ、東です」
「そうだったか?」

 その組下になって以来、呼吸ひとつ乱していなかった。喜怒哀楽、いかなる感情も露骨には表さなかったはずだった。それでもこの時ばかりは、短い言葉の中に焦りを露呈させた。

「あー、でもまぁあれだ。西でも東でもそう大差ないだろ?」
「いえ! 根底に関わる話ではありませんかッ!?」
「と言ってもな。もうそのためにクララも間道に罠を設けつつある。急に作戦は変えられないだろ」
「罠!? ガールィエ家とともに敵に当たる手はずでは!?」
「あ、これも言ってなかったか? 悪いな、彼らの助力は得られなかった。だから多少小細工をすることになってな」
「は!?」
「クララボンの分隊は人質であると同時に事前に工作をする役割でもある」

 西か、東か。まず前提としてそれだけでも明確に戦の帰趨を決する二択であるはずなのに、星舟の対応はおざなりだった。
 彼はまとめた寝具を配下に預け置き、身軽そうに伸びをして、呑気に歩き始める。
 
 ナテオの生霊が乗り移ったわけでもあるまいし、今まで話し合ってきた方策は、自分の誘導はなんだったというのか。
 さすがにその迂闊さに苛立ち始め、追うべく踏み込もうとした。
 だが、研ぎ澄ましたその武心が、おのが心奥よりその一歩を制御した。
 そして理性と経験は、完全に背を向ける刹那に見せた鋭い眼差しで全てを悟った。

 ――まさか……まさか!?

 足下がぐらついた。
 だが不明瞭だったこの男の言動に納得できた。そうなれば、取るべき選択と行動を迷わず実行に移す。

 すなわち誇りや計画よりも身の安全を。
 戦地の誘導よりも個人的な逃亡を。

 一歩、また一歩。
 誰にも知覚されない巧遅さでもって、それとなく星舟から距離を取る。目線や表情は忠良な謀臣のままに、後ろ歩きで器用に兵たちの注意の間隙をかい潜る。

 そして群れの外周にまでたどり着いた瞬間、彼は転身して一気に駆け出した。
 衆を抜けた先にあったのは、三の銃口だった。

 自身の東西を挟み込むように、獣竜の小柄な少女たちが目当てを子雲へ定める。

 反射的に足を止めると、人間の狙撃手がゴリと骨に響く音を立てて、後頭部に銃を突きつける。

「……どこへ行くつもりだ? 軍師殿」

 突き離したはずの星舟が、
 罠にかけたはずの獲物が、
 無謀な小者と見下していたはずの若造が、
 姿は見せないままに、からかうように尋ねた。



[42755] 第四章:蘭蕉の少年 〜八十八鶴川反攻戦〜(十二)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:fa083409
Date: 2020/01/14 00:01
 南に竜の軍勢が出立して後、果たして日を待たずして敵の勢は西道に姿を見せた。

「率いているのは英悟本人。兵員はほぼ総数。ナテオ様は空陣と対することになるだろうな。とくればいやでも敵の狙いに気づくだろうさ」

 キララの報告を受けた星舟はみずからの読みが当たったことに満足していた。
 そして次の手も、次の次の手も、完全に的中とまで行かずともある程度敵は引っかかってくれるだろうという手ごたえも感じていた。

「……その口ぶりだと、奇襲の有無や進路のみならず、ほぼ全軍が来ると分かっていたようだな」

 感心した、というよりも呆れたような調子で、リィミィは言った。だがそこにはつい先日までの苛立ちや焦燥感というものは見えない。

「あぁ、こいつが教えてくれたからな」

 星舟は右目と顎で虜囚を示した。
 並の獣竜とでさえ渡り合うほどの武人といえど、銃口を突きつけられ、手の自由を奪われては抵抗もできず、従容とみずからの不覚を受け入れているようだった。
「はぁ、拙者が?」
 だが恒常子雲の眼にはなお叛意……というよりもふてぶてしさがあって、おどけたように小首をかしげた。

「お前、言ったよな? 『多少の兵力差があろうとも網草英悟ごときに独力で挑んで負けて良いはずはない』ってな」
「言いましたな、たしかに。……あぁ、なるほど」

 子雲は得心がいったように呻いた。
 そう、あの時点では、判明していなかった。
 奇襲の規模がどれほどのものなのか。率いる場合それは誰か。
 にも関わらずこの賢しらな男は、断言じみた調子で答えてしまった。
 だからこそ、知り得た。
 奇襲は敵陣営において確定していて、来るのは網草英悟の本隊、少なくとも自分たちの手勢より勝る兵力でだと。

「だが、どちらから来るかまではさすがに読めない。だからお前に選ばせた」
「なんとまぁ、汐津戦でも思っておりましたが、よくもまぁ意地汚くあれやこれやと悪知恵が思いつくものですな貴殿は」
「お前は、行儀が良過ぎたな」
 星舟は哂って言った。

「お前は実際に、本来であれば、間諜などまるで向かない折り目正しい侍の出なんだろうさ。だから生真面目に過ぎた。がっつり人の派閥に加わって扇動まで指揮していた奴が、不平も見せず積極的に協力する。いるわけねぇだろそんなもん。追手を騙す時は欲目を見せかけ、欲目を突いた。そこがオレとお前の違いだ」

 言われた子雲は、意外そうに瞳を丸くした。それは彼の素の表情であったのだろう。不審がる星舟と、しばし無言で見合う形となった。
 やがて、肩を上下させて笑い返した。

「失敬。そんなことは初めて言われたものでね。……ま、反省は今後に活かしましょう」
「今後そんなものがあると思ってるのか?」

 リィミィは減らず口の内通者を捕捉した、自身の麾下の銃士に向けて手を挙げようとした。その手を、上から星舟は押さえた。

「まだ、それには役割がある。……連れていけ」

 同じく彼を捉える経堂にそう命じ、星舟はあらためて正面を向いた。
 すでに煙が立っているのが見えた。想像をわずかに超える速度でしだいに大きく濃くなっていくそれを見据え、配置につかせた。

「まずは稜線の死角より出鼻をくじく。余計なものを撃ってる暇はないぞ」

 丘といっても遮蔽物になるような高く太い樹木はない。よってそこに兵を伏せることはしなかった。
 配備された銃は最大七連射が可能だが、再装填は床尾より弾倉管を入れ替える必要があり、時間と手間がかかる。よって戦闘における役割としては単発銃に等しい。

 戦法としては一撃離脱が望ましく、より最善なのが不意を打たれた相手が作戦の失敗をその時点で悟り、帰ってくれることだ。

 やがて、敵が来た。射程に入った。
 星舟はその隻眼で以てその機を見澄まし、砲火の令を下した。

 最前に在って当座の銃弾を撃ち尽くし、朦朦と煙幕が垂れ込める。数穂先の視界をも塞ぐ。

「やったか?」
 新参の下士官が、張り詰めた声で誰にともなく問う。

 馬ァ鹿。星舟は銃声の残響に、そんな悪態を紛らす。銃弾を浴びせた敵側から悲鳴が上がっていないのは丸分かりではないか。

 そもそもはそれを言ってやれていた試しは、星舟の経験として一度とてない。どこぞの家老でもあるまいし。

 ややもして、煙幕が薄らぐ。戦の幕が上がる。
 そこには直立する兵の影があった。それらを守る簡易的な塁壁が並んでいた。
 てっきり一文字に討竜馬でもって斬り込んでくると予想、いや期待していたが、そこは読みを外した。
 そして数発の応射があり、前線の足元に幾つかが爆ぜた。

「転身!」

 退却だの後退だのと言えば、それが想定内の行動だとしても新兵は本当に崩れるかもしれない。そういう直感もあって、星舟は慎重に言葉を選んだ。
 逃げに、いや目標地点に行軍することに徹した軍は、瞬く間に有効射程外に至った。

 〜〜〜

 穴の開いた土嚢を擲ち、形勢を整える。制止も聞かずに先走った小藩兵が、何人か犠牲になった。

 英悟はその骸を冷ややかに見下ろしながら、部下に片付けさせる。

「読みが当たりましたな」
 側で声を弾ませたのは、泡河隆久という若武者だった。汐津藩より供出された与力の指揮官であり、家老の令料寺長範の妹婿である。

 ちょうど兄のような年頃の彼は、風当たりの強い中で少年の大将を、偏見なく立て、かつ自身が盾となってくれた。弥平を除けばこの陣中で信の置ける人物であった。

「当たり前だよ。あんな軽薄な輩の計なんて、最初から信じていない」

 そう平たく言い放った背後から弥平が顔を覗かせた。

「けどどうするんだ? こちらの動きが敵に露見してる以上、大事になる前に退くんだよな」
「この程度で退くぐらいなら、最初からここへは来ていない。すでに大半の敵が動いたのは見たじゃないか。残敵を正面から撃滅する。それまで退きはない」

 消極的な副将の意見を、英悟は一笑に付した。

「楽師さまから、深入りは避けろって言われたんじゃねぇのかよ」

 苦言を呈された瞬間、弾かれたように彼は友を、今までに向けたことのない目で顧みた。
 戦の前に交わした約定は、あの密室以外に誰にも図ったことがないことだった。
 その目を向けてから、その矛盾と失言に気がついたようだった。

「……あいつが、お前に言ったのか」
 つまりあの女は、副官に釘を刺したのだ。
 自分を信じず軽挙妄動、若輩の輩だと邪推した挙句、その頭越しに部隊の方針にさえ越権して口を挟みだした。

「あいつの送った奴の策が失敗したんだぞ? その上司であるあいつこそがこの露見の大元の原因だ! それなのに、安穏と都にいる女の機嫌をいちいち確認しなくちゃならないのか!?」

 そう赫怒した英悟の肩を、隆久が実際にも比喩としても持った。

「異国には賽は振られた、という言葉があります。深入りというのであれば、すでにこの状態がそうでしょう。……それに義兄の無念を、晴らしたい」

 本音は、最後の一言にあるのだろう。
 だが、正直なればこそ、復讐心といえどその想いが純なればこそ、この場の誰よりも頼もしかった。
 同調の意思を手を握り返す力に添えて、英悟は頷いた。

「すぐにその本懐は遂げられるさ。奴らが逃げたのは数の上でも大将の器量としても、正攻法では我々に遠く及ばないからだ。散々に星舟を破って、所詮あの女に人を見る目などないことを流花様に証明しようじゃないか」

 そう豪語して、若き英雄は愛馬にまたがり、その鐙を打った。
 今度こそ討竜馬隊、王都よりさらに借り受けた分を加えた二百騎を先頭に置き、彼らは追撃戦へと移ることとなった。



[42755] 第四章:蘭蕉の少年 〜八十八鶴川反攻戦〜(十三)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:fa083409
Date: 2020/01/30 01:04
「……ふん、なんという体たらくだ」

 カルラディオは東寄りの稜線の陰にあって、そう低く嗤った。
 星舟敗走。その報に触れての独語であった。

 敵の襲来から道筋まで読みきったは良し。だが悲しいかな人の身であるあの者の絵図は、おのれの手に届くところにはなかったということだ。

「いかが、なさいますか」
 自身の乳母の息子たる近従が、顔色と意向を伺った。
「しばらくは放っておけ。噛み合わせ、敵が消耗しきったところで丘を駆け下りて横を突く。それまで手出しは」
 カルラディオはそう命じかけて、思案する。いや、そういうおのれがあまりに悪意に満ちていたことを、軽く反省したといった方が正しい。

「……夏山殿から援けを求められれば、動く。それまではあの男がこの醜態をどう取り繕うのか見てやろうじゃないか」

 命令を改めると、露骨にほっとしたような気配があった。主に自分の供回りから。
 そこがカルラディオにとっては不満だった。
 これは亡父旧主の弔い戦ではないのか。そこに身命を擲つべく、お前たちも僕もここに来たのではないのか、と。
 今こうしているのは決して怯惰のためではない。ましてや行動それ自体は私怨によるものではない。戦機を逸しないための、静観であるはずだ。

 みずからにも再度、強く誓い直す。
 そして軍紀を引き締め直し、その機とやらを、夏山隊の危を、ひたすらに待った。
 その頭上を、雲がうねりながらゆっくりと、だが確実に速くなりながら流れていく。

〜〜〜

 おかしい、と英悟が思ったのは追走の最中だった。
 敵大将の姿が見えるほどの距離からこの戦は始まった。にも関わらず、今はその後備を捉えることさえできない。突き離されていると言って良い。

 そんな馬鹿な、と少年は思った。小さく声にしていたかもしれない。
 全兵でないにせよ、こちらは騎兵を抱えている。その速さで本来はとうに追いつき、竜のいない弱卒の群れなど散々に切り崩していないとおかしい。

 途中で道を逸れた? 待ち伏せ?
 自身の経験がそれらの可能性を否定する。
 出鼻こそ急襲されたが、それも難なく退けた。周辺に身を伏す場所などあろうはずもなく、あったとしても読みやすいはずだ。
 
 みずからが手本となって速度を上げると、ようやくそのカラクリが見えてきた。

 曲がり角にちらりとのぞいたのは、焦がした黍の髭がごとく茶色い体毛。風にあおられ浮き上がるそれは、まごうことなく馬の尾だった。

 鎧が鞍を打ち鳴らす。馬蹄が響く。地をめくり上げる。

「馬鹿な……っ!?」

 今度こそ英悟は確実に驚嘆を口にした。
 目視できる限りの騎兵の隊が、眼前にはあった。

 どういうことだ。討竜馬を用意できたというのか。自分たちでさえ持ち分だけでは隊として成り立たず借り受けたというのに、それを上回るだけの量を。

「違いますよ網草殿! あれはただの馬です!」

 追いついた隆久が鋭く声をあげて指弾した。
 なるほど確かに、落ち着きを取り戻して見れば、確かにいずれも鹿毛葦毛の不揃いなただの国産馬である。

「なるほどなぁ、確かに真竜種さえいなければ、ただの馬でもある程度は統御できるってわけか」

 馬蹄に混じって、弥平の感心するような呟きを聞いた。その方角を見ながら、英悟は舌打ちした。

 苛立ち、逸る己を理詰めの思考で律する。
 蓋を開けて見れば何のことはない。奴らは輸送用の駄馬を無理やりに引き立ててそれっぽく見せているだけだ。ただの虚仮威しだ。ひとたび真の軍馬がその尻に噛みつけば、情けなく四散するに違いない。
 それに山岳において生まれた討竜馬である。当然こういった場所は一般の馬より遥かに得手とするところだ。

 敵は計破れ、背を見せて逃げている。
 こちらは戦意たくましくそれを急追している。

 この圧倒的な事実を前にすれば、小手先の工夫などなんと些細なことか。なんと勝敗のあきらかなことか。
 捕捉必至、勝敗確定の戦いに、英悟はいくらか機嫌を持ち直した。

 そんな、矢先だった。
 敵が二つの流れに分かれた。
 主流はそのまま直進し、少数の部隊が東の丘陵へと駆け上っていく。

「好機到来! 今こそ報い与えん!」

 そう言わんばかりに、中遠藩兵の五百ほどが自軍からも分かれた。だが本音は少数かつ速度を落とした相手を敵とする方が楽に功を稼げるゆえであろう。

 伝使を遣って、いかにも虚栄心に満ちた白熊の部隊長に制止をかけたが、彼らは聞かなかった。そして英悟もあえては引き留めなかった。

 それが誘引であることは明白だった。
 そのうえで独断を咎めなかった。
 自分を軽んじる人間は苦境に陥って死ね。そんな心境だった。

 〜〜〜

 両陣の微妙な変化を、カルラディオ・ガールィエは化身は出来ずとも竜としての本能で嗅ぎ取っていた。
 だが、戦というものを未だ知らぬ少年竜は、その是非までは分からない。
 そこで偵察を放ち西部の様子を探らせると、果たして敗走中の第二連隊より副官のリィミィとやらが援けを求める使者としてこちらに来ているらしい。

「意外に音を上げるのが早いじゃないか」
 そう左右に語らった彼は、呆れと薄暗い悦びとともに床几より腰を上げた。
 だが、使い番の顔は、そんな大将の様子とは裏腹に曇りが見受けられた。
 なにかまずいものを吐き出すに吐き出せない。そんな苦みばしった表情に、カルラディオは眉をひそめた。

「わかっている。腐っても友軍だ。救援には出るさ」
「あの、いえ……そうではなく」

 どうやら彼は指揮官としての態度を咎めているわけではないようだ。
 別に起因するものから、何か気まずそうに視線をさまよわせているらしい。
 ややあって、舌を慎重げに動かして報告を続けた。

「……その、ですね。そのリィミィ殿の分隊を、一部の敵が追ってきています。というよりも、あからさまにこっちに誘導してきています」

 秋のうろこ雲が、彼らの頭上を流れていた。
 その狭間を舞う山鳥が、戦火から逃れるかのごとく必死に翼をはためかせて風に乗っていた。
 同じ風を孕んで、ガールィエ家の旗がはためく。

 そうだ、戦だ。今しているのは戦だ。
 戦況は、どうなっていたと言っていたか。
 たった今、なにかとても、とんでもない報せがもたらされていた気がする。

 そしてリィミィは救援を乞うべくやってきている。
 あからさまに、誘導している?

 ――敵が、迫っている?

「…………はぁんっ!?」

 赦してやる者の立場として、大将然と振る舞うよう努めていたカルラディオだったが、事態を悟るやその虚勢をかなぐり捨て、眼を剥き、上ずった頓狂な声をあげた。



[42755] 第四章:蘭蕉の少年 〜八十八鶴川反攻戦〜(十四)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:fa083409
Date: 2020/02/06 21:21
「どういうことだ! 約束が違うぞ!?」
 星舟の副官の顔が視認できるようになるなり、カルラディオはそう声を張りながら詰め寄った。

 だがリィミィなるその女性は怒れる若き真竜を前に冷ややかに見返し、
「約束、とは?」
 と、主人そっくりの不遜さでもって問い返し、彼の怒情を煽り立てた。

「とぼけるな! 互いに不干渉という取り決めだ!! あんただってその場にいただろう!?」
「私が聞いたのは、場所を妨害も協力しないという、貴方の一方的な宣言だけですよ。それをうちの夏山がどう受けたかなど知る由もない」

 さらに、獣竜は淡々と続けた。

「戦というのは流動物なのです。どういう方向に転がっていくのか、ある程度の操作や先読みはできても完全な掌握は不可能です。よって当初の予定から逸脱することなどそう稀なことではない」
「詭弁を……!」
「いえ、むしろこれは夏山なりの配慮なのでしょう」

 殺意の域にも達しかけたカルラディオの敵対意識をこともなげにやり過ごし、リィミィは嘆息した。

「本当は夏山星舟は私に貴方を挑発するよう命じました。『高所より傍観し、旨みのみを得る肚であろう。そのような勝利を得たところで、何の面目あって泉下のお父上に報告をするのか』と」
「言ってくれる……!」

 だが、心に刺さる。思惑を容易に読まれている。だからこそ自分は今、激しているのだとカルラディオの才子としての部分は冷徹に客観していた。
 そしてリィミィがあえてその命に反したことにも、伝えたい彼に真意があるのだとも。

「仮に貴方のやり方で勝利を得たとしても、サガラ様はお認めにならないでしょう。むしろ、自分の部下を見捨てたことを口実にガールィエ家を処罰する算段の方が高い。こちら側としても、貴方にもしもが起これば同様のことが言えるでしょう」

 そのための、あの追撃部隊だという。
 今のカルラディオの部隊とリィミィの陽動部隊のみで対処できる程度の数。
 それもまだこちらの位置を知覚し切れていないというその虚を突けば、勝利はより確かなものとなることだろう。

 つまり星舟がリィミィに命じて連れて来させたのは敵に非ず。経験の浅い竜に与えるべき適当な獲物。そう彼女は言わんとしていた。

「……これまでの確執、これ以降の遺恨はともかくとして、今は助け合いませんか? いえ、現状として貴方は我々を追尾する敵に応戦せねばならないはずです」
「だが、しかし」

 あの男は自分を裏切った。父を見限った。
 その少年の認識が彼の決断を、現実や理屈を上回って踏みとどまらせた。

「だが、なんですか」
 リィミィは冷たくそこを突いてきた。
「実際のところ、お父上と奴との間に確執は存在した。それは星舟の認めるとおりです。しかしながら、貴方が邪推するような間柄では決してなかった。お父上の死の責任について星舟が必要以上に重く受け止めているだけで、私の見るところ、あの男が負うべき責任などないと思いますがね」

 カルラディオは顔を上げて睨みつける。

「では何故貴方に対してあの男はかくも露悪的なのか」

 その時にはもう、彼女は話題を移していた。そして自分から答えを打ち出すことはしなかった。
 生徒の自主性を重んじる生徒のように、彼の思考の内に解を求めている。

 何故己らを擁護せず雨の日に殴られるのを良しとしたのか。何故あえて今日にいたるまで、挑発的な態度を取り続けたのか。

 それは自分が悪いと、ことブラジオの死に対しては思い続けてきたからだ。
 その上で父の死に報いる方法を模索した結果が、その子の怒りを矛先をあえて自分に誘導し、かつその父に代わって成長を促すためだったとしたら。

 ……あくまで、この女教師の言い分を全面的に肯定すれば、の話だが。

 だが、当座の怒りや混乱は収まった。
 面倒ごとを押し付けられたことに対するわだかまりはまだあるが、それも重苦しいため息に絡めて吐き落とす。
 代わりに生じたのは、そんな厄介極まる人間の弁護を自主的にしなければならない副官に対する、微小な憐憫だった。

「……大変だな、あんたも」
「別に。私が勝手に気を揉んでるだけですよ」

 愛想笑いも感謝もなく、リィミィは返す。
 軽く目を伏せながら、ふぅと小さく吐息を漏らす。

「……そうだ。いつだって私が、私たちが勝手に気にしてるだけだ。あいつは自分が気遣われていることを知りさえしない。あの時と同じ、誰よりも弱虫で臆病で繊細で、なのに負けず嫌いで強情な鼻垂れ小僧のままだ。あの馬鹿は。それが遠いと感じているならそれは、あいつがベソかきながら歩き続けた結果だ。背を押した私が、その場に留まっていただけだ。あいつが変わったわけじゃない」

 どうやらカルラディオにとっての考える時間は、彼女にとっても同じ時であったようだ。
 誰に向けたものともしれぬ独白を、彼は意図的に聞き流し、怯えを見せる自軍の将兵を顧みた。

「聞いての通りだ! これより我らは、向かい来る敵を挫く!」

 先日までは仇討ちに気を吐いていた新兵たちは、多少その勇を減退させながら声をまばらに上げた。
 カルラディオとて、武者震いとも純然たる恐怖とも思える瘧を、その手に宿している。

「不安に感じるのも無理はない。だが、ここにいるリィミィらの古兵たちが、我らを導いてくれる! 彼らを手本に訓練どおりに、事に当たれ!」

 声が揃った。哮りを見せた。
 それを見届けたカルラディオは、再び少女の如き女竜を見た。

「……で、よろしいな。夏山の軍師殿」
「無論、観戦に来たわけではありませんので」
「肝心の夏山は勝てるんだろうな」
「でなければ私がここにはいません」

 迷いなく答えたリィミィの背後で、後続の味方が集結し、かつ副将の指示を仰がずして陣を組みつつあった。

 その時、忙しなく動く一つの影を、カルラディオは認めた。
 各間を結ぶ伝令役として奔走する小柄な新兵。それに目がつき、かつ脳をくすぐられるような奇妙な感触に眉を潜めた。

「……リィミィ殿、あの少年……いや、少女か?」
「あぁ、あれは星舟の近侍ですが、激戦の場に置きたくなかったのでしょう。私の介添として連れていくように命ぜられまして。彼女が何か?」
「いや……以前どこかで」

 だがそのことを想起する暇はない。
 とりあえず保留の域にその既視感を放置して、カルラディオは全神経を初陣へと集中する事にした。



[42755] 第四章:蘭蕉の少年 〜八十八鶴川反攻戦〜(十五)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:fa083409
Date: 2020/02/19 07:45
「申し上げます! 中遠藩の別働隊、敵の伏勢に遭い苦戦中! 至急、救援を乞うております!」

 ザマを見ろ。網草英悟は意地の悪い笑みを浮かべた。その上で、要請を黙殺した。

「おい! まさか友軍を見殺しにする気じゃないだろうな!?」

 追いついた弥平が肩を引いた。だが、他を顧みている暇などありはしないし、

「寧ろそれこそ、敵の思う壺だ」

 と彼は友に告げた。

「敵はそうやって僕らを細かく分けていくつもりだ。少数の兵を小出しにしつつそれを上回る兵数を割けばいずれ本隊の戦力差は埋まってしまう。それこそが奴らの狙いさ。先走った味方は愚かなことだが、お陰で狙いが判明した」
「だからっ、現状それに引っ掛かった味方はどうすんだよっ!?」

 それを馬蹄で聞こえない振りをして、英悟は追走に集中した。

 そしてまた敵が、分かれた。
 東と西。大と小。
 巻き上がった土煙によって正確な数は把握しかねた。だが、異様な量のその土煙の量とのぼった速度にこそ、英悟は欺瞞を感じ取っていた。

 耳を澄ませる。
 左右の耳の捉えた音量の違いに、笑いそうになった。
 なんのことはない、向かって右手の分隊は先と同じ見せかけだ。ただ馬を繋いだ荷車に枯れ木などもくくりつけて切り離しただけに過ぎない。大仰に過ぎる煙幕はそのためだ。

「決して追うな。また伏兵に襲われるぞ」
 この命の効果は絶大だった。誰も彼も、真一文字に本隊を追っていく。
 もっとも、そう何度も伏撃に割ける戦力は敵に無かろうというのが、英悟の見立てだった。だが疑いもせず、保身と栄達への欲のために、彼らは己らがつい今し方まで侮っていた英悟に従った。
 
 英悟は侮蔑する。
 卑しく無能な味方も、何度も同じ手が通用すると甘い見立てを持った敵の愚将も。

 誰も彼もが、自分を侮っている。
 だが、この中で真に将たるは自分だ。女王を慕っているのは自分だ。尽くしているのは自分だ。
 そのことをこの一戦でもって明らかにしてみせる。そしてそれは遠くない未来だ。

 本来は火山を住処とするという黒馬たちは、悪路などものともせず、見る見るうちに距離を縮めていく。

〜〜〜

 良かった。分けた隊は追ってくれなかったか。

 馬上に在って星舟はひとまず安堵した。追うなら追うなりの対応策は用意しているが、敵の選択は空恐ろしくなるほどにこちらの思惑に嵌まりつつあった。

 とは言え、この作戦の成否は星舟の微細な距離感覚にかかっている。一瞬たりとも気を抜ける状況ではなく、そこにまだ定かではない勝利に酔う暇はない。

「よっしゃかかったぞ! 勝ち確定だな!」

 それでも、彼は笑う。大言を吐く。
 己を叱咤し鼓舞し、無理くりに自己評価を高めていき、折れない頑強な神経を練り上げていく。

 そして同時にリィミィやカルラディオの戦闘の成り行きを案じる。
 虚を実で以て討つ。兵書いわくこの状況において数の多寡など問題ではなく、むしろ浮き足立った味方は他の同胞を心身ともに巻き込んで災いとなり、枷となる。
 いくらカルラディオの隊が見せかけだけの新兵だけだとしても、さほど無理のない戦運びとなるはずだ。

 そして部下を気遣った。
 多くは元は士分の人間である。馬の扱いには元より慣れた者を選抜した。皆、久方ぶりの乗馬に手こずりつつも進軍に障りはない。捕虜である子雲とそれを捕らえる経堂の姿は、そこにはない。
 中にはキララマグら竜も混じってはいるが、これも日頃馬に慣らした成果が出ていた。それでもその走りには竜馬ともにぎこちなさが拭えなかったが、むしろ適度な緊張感は馬蹄の運動に雑味を混じらせない。

 そして、最後に自身の愛馬に心で語りかける。
 『ライデン』。種を超え、強さに阿らぬ、自分にはもったいないほどの誇り高き悍馬。
 長らく待たせてしまった。ようやくお前を投じる戦場が整った。
 思う様に駆けろ。鬱屈を振り切って風となれ。

 「さぁ、最後の一駆けだッ、全速で突っ切れ!」

 声を張る。鞍を叩いて愛馬を猛らせ、加速する集団の先頭を切った。
 俯瞰すれば、あたかもそれは、逃げる側と追う側、それらを包括して道を拓く先駆者にさえ見えただろう。



[42755] 第四章:蘭蕉の少年 〜八十八鶴川反攻戦〜(十六)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:fa083409
Date: 2020/03/01 21:31
 山間部を抜けた英悟の本隊が見たのは、五十亀川の流れ、そこにかかる船橋が、投じられた松明によって焼け落ちる様。

 そしてその川向かいに陣する、夏山の星旗。

 それを見た瞬間、英悟は思わず吹き出してしまった。
 知らぬ間に本営を川向かいに移し、物資を移送し、その俵や土嚢を塁壁としている。

 何という弱腰か。及び腰か。
 端緒から勝負を捨ててなければここまで周到な逃げ方が出来ようはずもない。

 なんという浅慮で惰弱な抵抗か。
 あの類の低さ脆さはどうだ。自分たちの技術力に遠く及ばない。
 橋を落として進路を塞げば、戦意と足が鈍るとでも考えたのか。あの程度の水深や流れですくわれるような脚を討竜馬が持っているものか。

「進め進め! 一気呵成に、渡河して突き崩せ!」

 今までは英悟の差配を疑問視していた者どもも、異論を挟むことなく付き従う。
 もはやこの段階にあっては戦果なく退くという選択肢はなく、武人として、騎場の士として渡河の上で相手を蹂躙する自信があった。

 こと、追撃軍の中核を成す汐津ほかの面々にとっては葵口で散々に自分たちを翻弄した怨敵夏山である。その戦意も一入ではあった。

 飛沫をあげて騎兵隊は川へと突入した。
 粗悪な銃器から、ばらばらと散発されるも射程外である。速度を緩めるには値しない。

 再装填の時間的な隙をすり抜け、片目男の張り詰めた面持ちが確かめられるほどになった。
 偉大なる女王に歯向かったというその傲岸不遜な面に軍刀を突き立て、その流血の上に旗を翻す光景を夢想する。そして女王に武功を称賛され、共に寄り添いながら手を取り合って並び立つ未来を確かに視た。

 しかし、意識の浮遊感は肉体のそれへとすり替わった。
 夢想は現実に打ち消された。

 一瞬の隙から目覚めた時、英悟の肉体は横転する最中だった。
 水面に叩きつけられた。起き上がろうとしたが、腿のあたりは倒れた討竜馬に下敷きになっていた。

 後続の軍人たちも同様の状態に陥った。
 いったい、なにが起こった? 自分が空想に在ったその刹那に、なにが。

 水面に顔を押しつけられて、あがく。
 必死に手のつくところを模索する手が、川の底に達した時、水とは別の硬く冷たい感触に行き当たった。

 土砂が混じって濁る水の中に、瓶が石で固定されてあった。
 ご丁寧に均等に。馬脚に嵌るように。

 ――こ、こんな……こんな単純な罠に!?

 嘶きと悲鳴が頭上で交錯している。
 進むにしても退くにしても、指示を出さねば。
 冷静になるように自戒しながら、重しが足にのしかかったままに、必死に顔を水上に出した。
 だが、そうしたことをある意味では英悟は後悔した。

 対岸に、夏山隊が先よりは世代を次に進めた銃を揃えて、引き金を絞っていた。

 〜〜〜

 現有戦力でもって考えられる最大の効果引き出す射角に展開した鉄砲隊が、その弾丸が、トルバと騎手の身体を穿っていく。

 瞬く間に血染めとなった川の流れを目の当たりにし、随伴していたキララマグは思わず
「すごい」
 と、畏と敬を込めて呻いた。

「まさかトルバにこんな対処法が存在するなんて」

 まるで革新的なような物言いをしたキララに、考案者たる片目の青年は不満げだった。

「馬の進撃を罠でもって止めて一斉射撃。こんなもん、騎兵対策としちゃ初歩も初歩、古典も古典。略して……ショホコテだ!」
「は?」
「略して……」
「は?」
「……すまんオレが悪かった。まぁともかく、この場合相手が馬鹿正直過ぎただけだな。しっかしここまでキレイにかかってくれるとはな。お陰でいくつも拵えた次善策がご破算の空回りだ」

 足止めを食らった部隊の中心点。そこに溺れるごとく足掻く少年の姿があった。偵察に出た時に見た。彼こそが敵の首魁、網草英悟だった。その時は若くして将器を感じさせたが、今の彼にはその尊厳の欠片も見受けられない。

「あいつ、今日に至るまでに相当調練を重ねたんだろうさ。最新の兵備を整え、機動戦術を学び、一糸乱れぬ精鋭部隊とやらを練り上げたんだろうさ」

 そんな彼を冷ややかに馬上で見上げながら、星舟は言った。

「だが、網草は三つ思い違いをしている。第一に、調練ってのは打ち止めの長所を伸ばすためにやるんじゃない。弱点を把握し、可能な限り減らすためにやるんだ。第二に、その練度ゆえに他隊と連携が取れていない。合わせる気さえない。だから一つでも予想外の綻びが生まれると、たちまち孤立して脆い」
「もう一点は?」
「教本のごとく、人間同士同等の技術力でしのぎを削ってるわけじゃない。相手は、オレたちだ」

 かつての星舟なれば、賢しらげな嘲笑を浮かべていただろう。だが、今の彼は一笑だにしなかった。これもまた、キララ含めた配下が感じている、微妙な変化だった。

「とうに騎馬による戦闘技術が廃れて久しいから仕方ないとはいえ、結城だのの前時代の史書に、馬の潰し方なんぞいくらでも先例があっただろうに。温故知新、最新の知識がすべて通用しないってわけじゃないが、それを敵に合わせて調理しないからこういう結果を生む」

 そう言い放つ星舟もまた、眼前の敵を見ていないのではないかとキララは批判的な目で見ていた。
 いや少なくとも意固地になって渡河を敢行した相手よりかはマシではあるのだが、新しいものにばかり目を向け旧き者を取りこぼした、かつての己自身を彼に重ねている気がする。

 もっともこれはあくまでキララの所感であって、踏み込んで詮索する気はなかった。そこまで親しみを感じる仲でもない。

「さぁ仕上げだ。一気に仕留めるぞ」

 星舟は右目を持ち上げ、敵の背にそびえる峰を視た。
 その麓にて変化が起こったのは、まさに彼の見積もり通りの時刻だった。



[42755] 第四章:蘭蕉の少年 〜八十八鶴川反攻戦〜(十七)
Name: 瀬戸内弁慶◆eabf7a64 ID:aaefd026
Date: 2020/03/11 12:35
「下りろ」
「分かってますよもう。手荒いもんだ」

 経堂によって鎧と脚の結束を解かれ、かつ銃座で小突かれて、その内間は鎧に縛られたまま下馬した。

 愚痴をこぼすものの、その男、恒常子雲においてはさして苦を感じた様子もない。
 言うまでもなく、手足の自由が利かない状態での乗馬など、至難の業である。
 あるいは適当な場所に放逐するならば適当に馬に任せて走らせれば良かろうが、この男はその状態で落馬することなく乗り切った。
 こんな曲芸じみた技術、相当の修練を幼少の頃より叩き込まれていなければできないはずだった。

 であればこそ、経堂はなおさらに彼への不審の念を強めた。

「お前さん、その気になれば逃げられただろ」

 そいつは黙って従うよ、というのが星舟の弁。
 珍しく当てた上官の読みは、理由を聞かずして素直に褒められるものでもなかった。

「逃げれば、貴殿が我が背を撃つ」
「当たり前だ」
「それでは逃げ果せるかは五分五分、と言ったところでしょうなぁ」
「試そうとは思わなかったのか?」
「その五分の賭けに負ければ、拙者は策破れし無様な虜囚の体で、誰にも知られず死ぬことになる。そんな死に方、御免被りたいですな」

 臆面もなく言いのけて、カラカラと笑う。
 自身が敵の間諜であったことが露見し、双方から見捨てられるであろうことは必至で、今この瞬間にさえ一挙一動によって命が危ぶまれる。
 そんな状態にあっても、この不遜さは損なわれない。一種痛快ささえ感じられるほどだ。

 なるほどこれは、尋常の間諜に非ず。如何にも夏山星舟好みの、かつ意気の通じ合える変わり種と言えるだろう。

 さてその両者の眼下、稜線が東西に広がる前の北端の先にて、追撃部隊は見るも無残な、紅の敗色でもって五十亀川を彩っていた。

 そして彼らの脇では、荷車に隠していた品物を所定の位置に運搬し、組み立てていた。

 もうこの時点で、いや奴らが星舟を追った時点で勝ちは見えている。ここまでやることもなかろうという妙な慈心が芽生えそうになるも、もらった給金に見合う仕事はせねばという義務感が、その萌芽を土に埋め直す。

「木盤への固定、完了しました」

 部下がそう報告したあと、彼に組み上がった物を見せるべく彼の視界から我が身を退けた。

 先の円く広がる口を川へと向けた、鉄の臼。野戦砲。破損しない程度の最大限の装薬量を込めたその砲身を叩きながら、子雲を見、その腕の拘束を解きつつ、経堂は言った。

「お前さんが、合図を出せ」

 子雲の笑顔に強張りが生じた。

「我らが隊長殿からの、ご指名だ」
 と付け足すと、彼はその意図を完全に理解したようだった。

 彼の内心はともかくとして、明確に攻撃を支持させることで完全に藩王国との手切れとなる。少なくとも心理的には、そうなる。

「ほら、早くしろ。もう敵軍が敗走してくる」
 腹芸は好むところではないが、急かすことで心理的余裕を奪う。

 子雲はじっと砲身を見つめ、砲口を睨んでいた。敵軍はすでに渡河を諦め、後ろから崩れつつあった。統制を欠いているがゆえに中々に下がれずにいるが、ややもすれば半ば陸地に乗ずる形となるだろう。

「射角、下に一〇度調整」
「上に十五度、西側に五修正だ」

 硬い声で飛ばした指示を、経堂は即座に改めた。
 子雲は驚きとも呆れとも取れる目つきで見返した。

「風読み違えましたって誤差じゃねぇぞ。往生際が悪いぜ旦那」

 それっきり、子雲は口を閉ざしてしまった。
 敵軍はその間にも川を脱しつつあった。

「おい」

 焦れた経堂が突き出した顔に目がけ、子雲は懐から細長い物を抜き出した。
 躊躇せず、経堂はあらかじめ万端に整っていた銃を速射した。

 しゅうしゅうと白煙が、弾道を軽く避けた子雲の手元で立っていた。

「どうもありがとう」

 彼が指で差し挟んだ、一本の煙草は、弾丸の摩擦熱で火がついていた。
 それを丁寧に燻らせながら、唇でつまむ。
 一呼吸分紫煙を呑む。これのみで満足したのか、大儀そうに口に含んでいたそれを吐き出した。

「……畢竟! いかなる時節においても冒し難き道理ありっ!」

 次の瞬間に彼が吐き放ったのは、闊達にして諸人の鼓膜を揺さぶる大啖呵であった。

「あれに見えるは竜に逆らう愚かなる人! 戦局の流れも見えぬ愚かなる将! 天地善悪順逆を翻すが如きかの者らを、この恒常子雲、天意と、そして我が主夏山星舟に代わりて討ち果たさん!」

 周囲が呆れるほどの、あからさまな芝居っぷりを見せつけながら、子雲が目を眼下の敵に向けた。

「射角上へ十五度! 左へ七度修正っ、撃てぇっ!!」

 彼の号令一家、裏切りの砲声が轟き、撃ち放たれた榴弾が宙に散った。



[42755] 第四章:蘭蕉の少年 〜八十八鶴川反攻戦〜(十八)
Name: 瀬戸内弁慶◆eabf7a64 ID:78974020
Date: 2020/03/23 10:05
 たしかに、あの男の声を聞いた。
 次の瞬間、降り注ぐ鉛の雨は敗走中の藩王国軍の正中を射抜き、追い討ちをかけた。

 人馬、骨と血肉。かろうじて砲弾を逃れた生き残った騎手とともに討竜馬に同乗していた英悟は、それらの混合物とも言うべき醜悪な塊を、目の当たりにすることとなった。

「裏切ったな……裏切ったなっ! 恒常子雲ッ」
 彼は悲鳴を放つ代わり、裏返った声で目視できぬ相手を非難した。

 理屈に合わぬ。
 何故人間が竜の側に寝返る? この回天の時期に、あえて旗を畜生どもの側へと翻す?
 あの女王の、彼女の意志や夢に叛く?

 理屈に、合う。
 自分が負けたのは、あの卑劣漢が裏切り、自分たちの軍事行動を逐一星舟に漏らしていたからに相違ない。
 でなければ自分があんな男に負けるものか。そのための努力をした。勝つための、愛する彼女を勝たせるための修練を積んだ。本来ならば、正しく行われていた戦ならば完勝を収めていたのは自分だ。
 一兵さえ討ち取ることもできず、むなしく敗走しているわけがない。
 ――だが、悪夢は醒める気配を見せず、続く。

「ぜ、前方よりさらに敵っ!」
「さ、山上の伏兵が別動隊を破ったかっ!?」

 弥平が動揺し言葉を喪失している大将を代弁し、声を張り上げた。
 だが、網草英悟は腐っても将だった。麓の敵であれば進行方向がおかしい。山を駆け下ってくるはずである。
 だが、前方だ。しかも、星の標ではない。

 海と山。相反する紋所が一つの生地に染め抜かれた旗。
 敵の、本隊。
 戻ってくるのが、速すぎる。

 迎え撃たんと迫ってくる先鋒にいるのは、誰あろう、女丈夫である。であれば、誰あろう、ナテオに相違ない。

「も、もはや」
 誰かが、命さえも諦観したかのような嘆きを落とす。

 だがむしろ、英悟は勇をふたたびに得た。
 迂闊に攻め入る彼女を討てば、済む話である。

「どけっ!」
 愛馬はすでに喪った。馬が要る。速さが要る。ゆえに彼は、同伴者を蹴り落とし、馬を我がものとして真一文字に駆けた。

 手綱とは逆の手には短筒が握られている。撃つと同時に、『牙』を抜き放った彼女の姿も変わった。
 外殻の表層は青紫に歪曲し、さながら鬼火のようでもある。地を踏みしめるたびに、逆立つその毛飾りが揺れて、火花や硝煙にも似た独特の粒子が閃いて散る。

 それは何よりの重しであるはずなのに、速度はさらに加えられていく。
 真正面から弾丸を、避けもせず受けた。
 やはり、それが真竜の肉体に届くことはない。そも、本気になればたやすく避けられるはずだった。
 だがそれで良い。今はそう思わせておけばいい。最期の一発まで、一瞬まで。

 波を、注視した。
 竜殺しの男、霜月信冬の言う通り。その理屈が抽象的なれど真実のものだとするならば、同じ人である自分にもできるはずだ。

 そして、見えた。
 幻覚か、いやたしかに視た。窮地において最大限に高まった集中力が、極度の緊張状態が、それを可能にしたようだ。

 四発目。
 敵味方いずれの目にも無駄弾としか取られなかったであろうが、彼はたしかに、表装に揺らぐ波紋を見た。より薄くなる装甲の一部を見た。
 狙いは額。五発目で波を再度作り、そこに射込む。

 果たして、五発目にも見えた。
 これで自分も、女王にも認められる。称賛される。この失態を補って余りある栄光の煌めきが、眼前に広がっていたのをたしかに実感していた。
 これで英雄として、ひとりの男として、彼女に……

 音が、爆ぜた。

「……え?」

 だが、奇妙な感覚に襲われた。
 弾は、自分の側からは来なかった。
 銃声は遠く、熱はより近く。……痛みは、鈍く。
 撃ち尽くした拳銃は手元をぽろりと転げ落ちた。

 指が、銃を把っていたはずの親指が、ぶらりと付け根から所在なく垂れ下がった。
 血が滴り、一足遅れて自重によって、最後の皮一枚が千切れて、音もなく落ちた。

「あぁぁぁぁぁぁあああぁぁぁぁ!?」
 今度こそ、憚りなく英悟は声を張り上げた。

 銃弾は、指を撃ち落としたのは、ただの馬に乗って猛追してきた夏山星舟の放った一発であった。

 痛みのみではない。竜殺しの極意を掴めるあと一歩のところでくだらぬ男が適当に撃ったまぐれ当たりによって妨害され、失敗したことを自覚し、彼は悲嘆した。
 その痛恨事が、この一瞬の彼の世界だった。ひっくり返って落馬したおのれを介抱し、呼ぶ弥平の声が、遠かった。

 だが彼が悪夢の世界に意識を浸からせようとも、現実はさらに追い打ちをかける。真竜なる脅威の塊が、眼前まで迫っていた。
 流麗な刃の切っ先を前へと傾け、敵将を討つべく。

 だが、それを身を挺して遮る一影があった。
 泡河隆久。
 かの若武者は己が腹にあえて『牙』を突き立てさせるようにして、英悟らをかばった。

「あとを、汐津を、義兄を、どうかお頼み申し上げる」

 死に場所と命数を悟った彼は、血の泡を口端より吹きこぼしながら、それでもなお、澄んで親しみやすい眼差しで同輩たちを顧み、確たる言葉でそう遺言した。

 彼を視認できたのはそれが最後だった。
 あとはどうしようもなく、星舟の追撃と本隊の挟撃、さらには丘に陣していた敵の伏兵も中遠藩兵を追い落としながら加わり、痛打を加えた。

 総大将網草英悟およびその副将は、見るも無残な様相で逃散した。



[42755] 第四章:蘭蕉の少年 〜八十八鶴川反攻戦〜(十九)
Name: 瀬戸内弁慶◆eabf7a64 ID:c4f16778
Date: 2020/04/03 23:47
「お、おぉ」
 真竜の闘気をまともに浴びて竿立ちとなったが故に、狙いがぶれた。敵将を仕留め損ねた。
 まぁ勝つには勝ったことだし、これで良し。自分にもそう言い聞かせて、星舟はどうどうと愛馬を宥めて落ち着けせた。

 その上で地に足をつけて、自ら手綱を執ったままにナテオを出迎えた。

「これはわざわざの救援。痛み入ります」

 彼女の参戦は、星舟の予想にはないことだった。この猪武者は、ついそのまま敵の偽陣に突っ込むものだと思っていた。
 彼女の挟撃のおかげで敵に想定以上の打撃を与えられたとも言えようが、逆にそのおかげで乱れが生じて敵の指揮官は討ち漏らし、かつ追撃も出来なかったとも言える。

「こちらこそ、ありがとうございます」
 装甲を解いた彼女は、見てくれだけなら貴婦人然としたおっとりとした笑顔で礼を返した。
「夏山殿には、命を救われました」

 そんな大仰な、と星舟は笑った。真竜種の『鱗』に、鉄砲玉ごときで傷がつくものか。

「いえいえ、本当ですよ。あの殺気、あるいは本当に死ぬのではと思ったのですから」
 ナテオはムキになったように言い返した。
 生物としての本能か、こちらを立てるための、ただの誇張か。
 判断しかねて曖昧に肯く彼に、思い出したように竜軍の指揮官は両手を重ねた。

「それはそれとして、本当はここへは救援にではなく、相談をしに戻りましたの」

 〜〜〜

 八十鶴の対岸が、燃えている。
 土を焦がし木々を焼き、川には灰色がかった液体を垂れ流し、その水面に虫や魚が浮かび上がる。おそらくは毒の類だろう。

 そんな悪業を躊躇いなく執行する兵士たちの前に単騎。あの大頭巾。
 霜月信冬。そして七尾藩兵。
 渡河してそれを妨害しようものなら、彼が命じるまでもなくあの黒衣の精兵たちはたちまちに陣を成し、逆襲にかかるだろう。

「敵の本隊はカルラディオ殿と夏山殿が撃退したといえ、我々が到着した時には後詰としてあれがいたのです。そして今、あのような謎の行動に出て」

 ナテオはそう言ったが、星舟には理屈だけは分かった。

 この地を、命の棲めねぇ穢土とする気か。

 仮にこの地を取ったとして、砦の作りには材料が要る。維持するにも食料が、水が、糧秣が。
 そのことごとくを、あれらは全て現地より向こう十年消滅させる気でいる。
 もちろん、国元より物資を搬送すればそれも解消できるだろう。だがサガラの言うところの『嫌がらせ』がせいぜいの橋頭堡に、そこまでの手間が割けるか。割くことが許諾されるか。

 行動の理由は、明白だ。判る。だが、

 ――普通にそれをやるか! 他人の領地だろう!?

 元より大した土地ではないにしても、国土に変わりはあるまい。近隣に住まう民草も在るだろう。それさえ、あの鬼は眼中に入れぬというのか。

 亡きブラジオの言動が思い返される。
 あれは、どれほどの犠牲を払おうとも絶やさねばならぬと、あの剛気な漢はそう畏怖していた。

 勝勢に乗じていっそ追い返すか。

 否、ただでさえ半渡にて戦うことになるのに、怪物たちの相手は出来まい。
 それに、常軌を逸した行動によって兵たちの気勢自体が削がれている。
 この予想外に速い敵の到来と思い及びさえしなかった凶行によってすでに作戦は破綻した。仮に犠牲を払って破ったとして、無意味なことだ。

 自分は真竜には、ブラジオ・ガールィエにはどうあっても成れはしない。

 自身の見解を、私情を最低限に削ったうえでまとめて、星舟はナテオに言上した。

「分かりました」

 あえて星舟の意見を求めた姫大将が、重く頷いた。ある意味では難敵は眼前の七尾でなくこの女だ。どうせ人の話を聞くフリをして突撃するに決まっている。
 むしろ逆に突撃を主張すれば言うことを聞いてくれるか。そんな考えさえ浮かんだ矢先に

「我らの心は定まりました」

 例の文句である。
 思わず星舟は身を乗り出して、諫止を

「突撃」
「もはや交戦は無用です。撤退しましょう」

 しよう、としていたのだが。
 彼が止めずとも、ナテオはその決断を迷いなく下した。
 むしろ、途中で言葉を半端に遮られ、まるで逆に星舟が突撃を主張しかけたような、そんな感じになってしまった。

 そんな片目の副将に、優しい眼差しを女竜は投げかけた。

「夏山殿の勇は称賛に値します。ですが、攻撃とは時機と相手とを見極めることが大切なのですよ。……無理をなさらずとも大丈夫ですよ」

 そして、まるで乳飲み子を教え諭すかのように言い含められた。

「………………ソウデスネッ!!」
 ものすごく釈然としなかった。



[42755] 第四章:蘭蕉の少年 〜八十八鶴川反攻戦〜(二十)
Name: 瀬戸内弁慶◆eabf7a64 ID:fa083409
Date: 2020/04/13 07:48
「いやー、少し見くびっておりました。貴殿、割とやるではありませんか」

 宴席であった。
 主戦場である八十鶴ではかんばしい戦果もなく撤退となったが、慰労をもって野陣で催すこととなった。

 そこから少し離れたところで、恒常子雲がふたたび縛に就いていた。
 目の前には夏山星舟。その脇にはリィミィ。そして背から首を落とせる間合いで、経堂が立っていた。
 そして虜囚は、まるで今なお同胞かのように、気軽に星舟を称えた。

 水にも等しき酒を干しながら、星舟はその不敵さに苦笑を贈った。

「大したもんだろう」
「ですが、戦略的には敗北だ。まだまだ天下に及ぶ目はお持ちではない」
「七尾の早期参入も、織り込み済みだったわけだ」
「まさか」

 子雲は肩をすくめた。

「知っておれば、あんな小僧ではなく霜月公と相図っておりましたとも。……とは言え、あれは国や軍隊ではない。独断で動く、一個の巨大な生物でしょう」

 夏山星舟は目を南の彼方へと投げかけた。
 五十亀、八十鶴両川を隔てた先に、今なお大蛇のごときそれが蠢いている気がして、ぞっとしなかった。

「それで、拙者はどのようになりますか」
「決まっている。お前にくれてやるものは、死だ」

 リィミィは冷たく宣告する。竜としての生真面目さと矜持ゆえか、あるいは別の悪感情に起因するものか。彼女のこの男に向ける意識は鋭利なものだ。
 だが獣竜の殺意を浴びてもなお、子雲は飄々としていた。

「それこそまさかでしょう。そのおつもりであればとうに拙者は死んでおります。あえて拙者に号令を下させたは、今なおこの身を役立たせようという魂胆。そう解釈いたしましたが、如何」

 恐ろしいほど的確に、彼は星舟の意図するところを見抜いていた。
あるいは策に溺れてさえいなければ、この洞察力をもって星舟の反計を見抜き返していたかもしれない。そう思うと、たとえそうせざるを得なかったほど手駒が不足していたとはいえ、自身の策は薄氷の上に成立したものだと実感が浮き上がる。

 リィミィが咎めるように、あるいは諫めるように星舟を見る。
 星舟は隻眼の眼差しをもって経堂への合図とした。
 それを承けた経堂は、取り外した銃剣でもって戒めを切り落とした。

「星舟!」
 リィミィが自身の不満をついに声に出した。
「次やれば、殺すさ」
 彼女の諫めを手で遮った星舟は、腰を落としてその投降者と目線を合わせた。

「だが、その時に殺すのは、お前の不忠をなじるためのものじゃない。お前が、二度も裏切りを露見させるような無能だからだ。……お前に元から忠誠心なんざ期待しちゃいない。お前は自分の身が保障される限り、オレに力を献じ続ける。そういう男だろう?」

 経堂の手より受け取った杯を星舟は手ずから子雲に渡し、そして酌をした。
 毒とも疑わずそれを呑んだ子雲は、カラカラと笑ってみせた。

「まぁ命は惜しくありますが、それだけではありませんよ」
「ほう?」
「こんな時代に生まれたのです。目まぐるしく、安穏な場所など存在せず、されど面白おかしいこの潮目に。拙者は、その中で時の激動を感じていたい。できれば特等の席よりね。貴殿なれば退屈はせずに済みそうでしてな。こうなった以上、しばらくは御厄介になりますよ」

 二杯目が注がれる。それに気づいていない風には見えるが、彼は一滴もこぼしはせず、ふてぶてしく弁を打つ。

「何しろ貴殿、危なっかしくて。生まれたての子犬が走り転がる様のようで、飽きない愛らしさがある」
「………まぁ、それならそれで良いけどな」

 歯に衣を着せぬにしてももう少し持ち上げてくれてもよさそうなものだが。
 呆れ半分彼の臣従を容れた星舟の背後で、リィミィは踵を返し、無言で立ち去っていった。
 その刹那に一瞬垣間見せた、複雑そうな表情の訳を、最後まで打ち明けないままに。



[42755] 第四章:蘭蕉の少年 〜八十八鶴川反攻戦〜(二十一)
Name: 瀬戸内弁慶◆eabf7a64 ID:fa083409
Date: 2020/04/21 00:34
「この愚か者がぁっっっ!!」

 霜月信冬と合流し、敗兵をまとめて帰国した網草英悟を待っていたのは、藩王赤国流花の面罵だった。

 気遣われると思った。傷の塩梅を尋ねられ、ねんごろに労わられるものと。
 だが彼に向けられたのはそれとは遠くかけ離れた、険しい叱責だった。

 公的な場ではなく、出陣を願い出たのと同じく彼女の私室であったことが、まだマシと思うべきか。それともこの怒りが体面を気にしてのあえての怒りでなく、抜き身の感情そのものであることを嘆くべきか。

「あれだけ注意を促したと言うに、大言を吐いたにも関わらずッ、見え透いた罠にかかり、討竜馬を貸し与えた分も含めほぼ全滅させただと!? 貴様は何ということをしてくれたのだ!」
「お、お言葉ですが」

 その言葉を平伏しながらも、英悟は遮った。

「ひとえにこの失策は恒常子雲が敵に寝返ったために起こったものです。僕に間違いはなかった! そうでなければ僕があの敵を虜にしていた!」

 荒げる息を整えることなく、女王は背後に控える楽師を、その裏切者の雇い主を睨みつけた。彼女は常と変わらぬ氷の表情のまま、女王と視線を交わさず書面を見つめていた。

「その子雲からの報告によらば、『こちらも英悟殿の作戦を危ぶみ、中止を提案したが彼は自説を曲げず敢行した。そして実際、危惧したごとく星舟の術中に嵌りつつあった部隊を救うべく、敵中にあってそうと知られぬよう何度も中止の合図を送ったがついに気づかれなかった』と」
「……で、その子雲は何故戻って来ぬ!」
「引き続き、敵の内部に在って埋伏の毒たらんとのことです」
「ば、馬鹿な!? そんなのでっちあげだ!! 保身のための讒言だ!」
 たまらず敗将は声を上ずらせ、顔を浮かばせた。

「では、弥平殿からのこの調書も虚偽であると?」
 少年の怒りにも眉一本とて動かさず、カミンレイは問うた。
「たしかに恒常子雲の弁明には多々疑わしき点もありますが、それでも一部はまぎれもない事実。それはそこな七尾藩公の報告よりも明らか」

 完全に影となり、あるいは一本の柱のごとく、かの陰気な剛将は部屋の片隅に直立していた。にわかに浮き出たその気配に圧されるように、英悟は口をつぐんだ。

「貴様は功を焦り、カミンとの事前の約束をことごとく破り、国家に多大な損失を出した。……実情を詳らかにしたうえで、あらためて沙汰する。それまで謹慎をしておれ」

 流花はそう言って額に手を遣った。
 彼の肉体の欠損には言葉さえ一切触れることなく、今まで傷ひとつ負ったことがないのではないかという、美肌を五本満足なおのれの指でなぞっていた。

 ――貴女のために頑張ったのに。
 ――貴女がそうしろと言うから励んだのに。
 ――貴女が、約束したからすべてを、捨てて……

「聞こえなかったのか、下がれッ! ここは本来ならばお前のごとき者が入れる場ではない!!」
 浮かび上がった諸々の言葉は、悲憤は、その一喝でのって泡のごとく弾けて消えた。
 英悟はこれ以上どうすることもできずに、一度大きく低頭して退出したのだった。

「もう少し、出来る奴だと思ったんだがな」

 と、自身の見立てを悔いるかのような女王の独語を、背に受けながら。

 ~~~

 英悟が退出した部屋の中に、数年分とさえ思える深く大きい息が落とされた。
 言わずもがな、ただの小競り合いだったはずの戦に自身の裁定が必要となった、赤国流花のものであった。

「……すまなかったな、霜月殿。貴殿には要らぬ苦労をかけてしまった」
「さほど苦ではありませぬ。すべては我が国のためなれば」

 我が国、という語を強調して彼は答えた。
 迷いのない彼の返事に女王はいくばくか機嫌を改めたようではあったが、カミンレイは氷の座に腰掛けるがごとき姿勢を取り続けていた。

「しかしながら、無断による出撃はいただけません。向こう数年は棲めぬ焼け野とされた比良坂近隣の住民からも訴えが来ています」
「そう言うな。逐一許可を乞うていれば、それこそ間に合わず拠点を築かれていた。住民と藩には十分な補償を開悦に命じて届けさせよ。どのみちそれ自体は惜しむような土地でもあるまい」
「……かしこまりました」

 無表情でかしずいた彼女の肩に、特に感慨もなさそうに手を置いた。

「お前や開悦、そして霜月殿。これとめぼしい人材を、私が見出した。そして来るべき時に集結せんと誓い、その証を与えてきた」

 カミンレイの上衣の表層を、流花の指がなぞっていく。
 肩から首筋へ。そして頬へ。
 裏を隠す髪をめくり上げて、耳へ。

 そこには淡く儚げな光沢を放つ、楓の葉を模した耳飾りが取り付けられていた。

「開悦には向日葵の小箱を、霜月殿には桃の花の笄を。私が若き頃に諸君らに託した。それこそ、我が名のごとく、流るる花弁のごとくな。……今回こそ無念な結果に終わってしまったが、それぞれの誓いを忘れず、今後も奮起してもらいたい」


 
 ……その話を網草英語は盗み見、一部始終を聞いていた。
 そうすることは臣として、男として、人としての倫に外れるという自覚は保っていたが、内心で期待をしていたゆえに彼は立っていた。

 彼女が、許してくれると。
 赤国流花が落ち着きを取り戻し、謹慎など間違いであったと、やはりお前に非などなかったと、自分が悪かったと頭を下げることを。

 だが現実とは、えてして期すれば期するほど逆を向くものである。
 女王によりもたらされたちょっとした事実はしかし、彼の心を絶望の深淵へ突き落すには十分な威力を有していた。

「もらったのは、僕だけじゃなかったのか……!?」

 一般人から、いや少なくとも滅私奉公につとめていたかつての彼であれば、将来の能臣と嘱目されて彼女の名になぞらえた品を下賜されるという栄誉を喜び、より一層の忠勤を誓っただろう。

 だが今の彼は。
 一段飛ばしで立身し、位階に見合わぬ寵遇を得た彼は。
 与え、与えられた本人たちの無自覚なうちにその欲求や英悟自身の期待を肥大化させていた。

 少年が感じたのは、嫉妬と憎悪だった。いや、今まで彼なりに抑えてきたものが一気に噴出したのだ。

 そのタガとなっていたものこそが、過去の、何者にも立ち入ることのできない、少女であった流花との逢瀬。思い出の品。蘭蕉の簪。自分だけが彼女の特別であることの、証。

 だが彼の根底を支えていたその意識は、突きつけられた事実によって毀された。
 女王は、あの女は最初から自分を利用する気だったのだ。
 そして自分の役に立たぬと判れば、どれだけ尽くそうとも冷酷に切り捨てる。そういう女だったと知った。

 震える手で、懐より簪を抜き出した。
 平素何よりも大切にしていたそれが、にわかにくすんで、汚らわしいもののように感じた。

「あの、売女がぁぁぁぁ……!」

 反転した愛憎に突き動かされるまま、網草英悟は残った指でその花簪を手折った。



[42755] 第四章:蘭蕉の少年 〜八十八鶴川反攻戦〜(二十二)
Name: 瀬戸内弁慶◆eabf7a64 ID:fa083409
Date: 2020/05/04 00:18
 トルバの群れが、人の型なれども人類種ならざるものたちを乗せて、街道をゆく。
 都への西上の途にあったサガラはその中間地点にて追いついてきた伝馬より、その『敗報』を受け取った。

「『ナテオ軍、敵別働戦力を殲滅させるも、川向かいに橋頭保を作ること能わず』と来たもんだ」

 そう口にしながらも傍目に見る主の顔立ちはことのほか上機嫌で、グルルガンの不審を買うことになった。
 その凶相の従者に、サガラはその書簡を預け置く形で手渡した。
 断ってから拝見すると、なるほどと思った。

 目的を果たせなんだゆえに負けと言うも、被害らしい被害はなく、むしろトルバを多数抱えた敵の精鋭を潰したとのこと。夏山直筆とおぼしき書面においても、悪びれた様子はなく、むしろ「どうだ見たことか」という自信さえもうかがえる強い圧を感じさせた。

「べつにあいつの馬鹿みたいな策戦なんざどうでも良かったのさ。むしろそんなモノが成功するより敵の機動力が潰れたことが嬉しいねぇ。上首尾上首尾。帰ったら譴責に留めておいてやるよ」
 そう言って馬上、諸手を打ち鳴らす。

「……若、いやお館。失敗は織り込み済みなんでしょう? そのうえで夏山さんは、よう働きなさった。じゃあちょっとはお褒めしてもいいってもんじゃ」
「やーだーっぴ☆」

 あえて目を剥き舌をべろりと出し、極限まで他者をおちょくったような表情で言下に断る。
 いつものことだが、いつも思う。

 ――なにをしたらここまで性根って歪むんだろう。
 と。

 だがそのひねくれぶりが学生時代より妙な仁徳を得ているのもまた確かなことで、たとえばこの近衛軍などがそうだ。小隊の指揮官のほとんどは彼が都で得た学友や後輩で構成され、皆一廉の将才の武勇の持ち主だが、それでもサガラの足下に甘んじて、陰口でさえサガラへの不平を漏らしたことがない。
 帝よりも、混血児であるはずの彼個人に、絶対的な忠誠を誓っているフシがある。

 そして上官の陽気さに反して、誰もが皆寡黙で表情に乏しい。まるで|錻力で出来ているんじゃないかというその中で、グルルガンは肩身の狭さというか、むしろ自身に異物感さえ覚えていた。

 ――アルジュナのご隠居様もご隠居様だ。もうちょっと子育てに目を向けていただけりゃあ多少はマシとなったものを。

 過去、シャロンともひと悶着あったという前領主アルジュナ・トゥーチは、領民や臣下に対しては人竜いずれに対しても分け隔てない恩徳を施したが、なぜか我が子の教育に対してはどこか一線を引いたような態度であったという。それどころか、ほぼ育児放棄に近い。

 静謐なれども情け深い明主である。無関心であったはずはなかろう。多忙ゆえ、というのも何か違う。
 サガラの背越しに見る彼は、父子の対話というものを極端に拒んでいるように見えた。

 ――まるでそれは、察しの良い二人の子らに、何かまずいことを気取られることを忌避しているかのような。

 いっそアルジュナが動かぬならば年長者として、口幅ったいが親代わりとして、諌止すべきところは諌止せねばならないのかもしれぬ。

 そう思い立った頭が、サガラの背に行き当たった。馬が彼の乗馬の尾に触れてむずがった。
 寡黙を貫いていた周囲がざわめいた。
「も、申し訳も」
 生きた心地がしないままに、グルルガンは頭を下げた。

 だが、彼が主の背に追突したのは自身がぼんやりしていたからではなく、にわかにその馬脚を止めたからだ。ざわめいたのは、その失態ゆえではない。

「なんだ、あれ」
 サガラが、対尾の絶体絶命の窮地に在っても動じなかった青年が、虚空を仰ぎ見てそう言うのがせいぜいであった。
 一様に向けられた視線を、グルルガンも追従し、そして同様に呆然とした。

 視認できる距離にある帝都。その方角にて、赤黒い雲が天へと向かってたちのぼっていた。それはどんどんと形を変える。目に見えるほどの速さによって。
 秋である。季節の変わり目であれば風の強さによっては、雲は流れその形状を変化させることもあるだろう。だが、明らかにそれとは別種の現象であった。

 増えている。膨張していく。体積を増して、際限なく秋の空を赤く黒く埋め尽くしていく。その空の青さごと。太陽の輝きごと。本来の白いいわし雲ごと。
 ……帝都の地よりのぼるそれは、端を発していて、切れ目を作ることがなかった。

 唖然とする彼らの頭上を追い越し、瞬く間にその雲は、何かの生き物のように、天を飽くことなく食らっていく。軍隊のごとく侵していく。

 やがて数日を待たずして、妖雲は大陸全土を覆い尽くした。
 そしてそれを待っていたかのように、同色の、赤黒い雨が全土あまねく一斉に降り始めた。


 第四章:蘭蕉の少年 〜八十八鶴川反攻戦〜 ……閉幕



[42755] 番外編:竜の遺児(前編)
Name: 瀬戸内弁慶◆eabf7a64 ID:fa083409
Date: 2020/05/17 21:44
 この晩、夏山星舟は上機嫌であった。
 自身が経営する昴玉楼にて思わぬ客と対し、この店最上等の銘酒を特権でもって呷る。

「ううー」
 ……いまだ幼さの残る顔を真っ赤にして、色気たっぷりな妓女に挟まれた少年領主を肴に。

「どうしました? カルラディオ様、こういう趣向は、お気に召しませんか?」
 橙果色の髪を緊張で震わせる彼に、意地悪く尋ねる。
「ふたりっきりで話がしたいとのことでしたので、この場を設けさせていただきましたが」

「……この状況がふたりきりに見えるのか!?」
 真っ赤になって怒鳴るも、ブラジオのような威圧感は望むべくもない。
 むしろ背伸びした感じが愛らしさに思えるらしく、ますます女どもに言い寄られ……もとい愛玩されつつあった。
 さしもの星舟も気の毒に思い、満足してから杯を置き手を振って彼女らを下がらせた。

「して、例の代物は?」

 軽い酩酊を頭から追い出し、星舟は声を引き締めた。それによって場がある程度の秩序を取り戻した。
 足下の膳を手で除けて、少年は鎖骨に手を滑らせて、絣の隙間、その懐から数冊の冊子を取り出した。

「これがガールィエが所有している権利書の写し。これが過去の土地や水争いの判例です。他のものも後々届けさせます」
「ありがたい。これでガールィエ家のみならず周辺の権利問題も片がつきましょう」

 そう言って手を伸ばした星舟だったが、
「ただし、前もって言っておきたいことが何点かある」
 それらはカルラディオによって高々と持ち上げられた。

「まずひとつ。ほぼ騙し討ちに近いとはいえ、すさまじく腹は立っているとはいえ、網草との戦で功を立てられたのは、貴方の企みとおせっかいによるところが大きい。だからこれでその貸し借りは無しだ。決して貴方に心を許したわけでもなければ、まして赦したわけでもないので、その辺り心得違いをしないよう」
「その律義さ、感服します(めんどくせぇなコイツ)」
「…………顔に出てるぞ」
「おや失敬」

 互いに敬語と悪態、敬意と敵意を絡ませながら、欄干より見える夜雲の流れと同様に話は推移していく。

「で、他のことは?」
「ひとつには、あくまで感情抜きの話ではあるが、昨今のサガラ様に信が置けない。同門の先輩とはいえ、あの方にこれをお譲りすることは気後れする」
「ほう、ではこの星舟は信じていただけると」
「……少なくとも、貴方は自分がうぬぼれてるほど器用に立ち回れる人間ではないでしょう」

 カルラディオは皮肉な笑みを返した。
 今度は、星舟こそが面白くなさそうな表情を浮かべる番であった。

「その人間のことを言えた義理ではないと思いますが、まぁ良いです。では他には?」

 若造の指先から冊子を奪取することも念頭に入れ、視線をそれとなくそちらへと遣りながら、星舟は注意を逸らす意も兼ねて尋ねた。

「頼みがある。遺産問題に絡む話だ」

 心を許したわけではない、と公言した矢先に、彼は重大事を持ち掛けてきた。
 やはり青臭いというか、肝心なところで人が好いのが真竜らしいというか。

 軽く呆れる星舟が諾否いずれも明らかにしないうちに、カルラディオはさらに畳みかけた。

「話と言うのは、姉のことでして」
「……貴殿に姉がいるとは初めて耳にしましたが」
「あぁ、僕も最近知ったモノでね」

 ……ふざけているのだろうか、と思ったが、どうにも表情から察するにそうでもないらしい。というかそもそも冗談の言える質でもあるまい。
 ということは文脈から察するに、

「『いたことが発覚した』ということですか」
「話が早くて助かる」

 気重げに少年は肯じた。

「貴殿のしんがりに加わる際のことだが、亡父は何か悟り得ることがあったらしい。先に離脱させた部下のうち、討死した副将バオバクゥに次いで信用できる者に、口頭で遺言を残したらしい。その者が言うには、『遺産の分配のうち、金銭の三割を娘に譲渡する』とのことでね。だが、ガールィエ一族に娘はいない」
「……御母堂には?」
「訊けるわけないでしょう。告げた者は嘘を言うような者ではないし、ついたところで徳をするような立場でもない。そもそも彼自身がそれがどこの誰だか知らないのです。……僕も、父上がさような色魔であったとは思いたくはないのですが」

 カルラディオは苦い顔でそっぽを向いていた。
 
「はは、色恋というものはなかなか制御の利かないものですからな。ていうか貴方だってさっき鼻伸ばしてたでしょう」
「……なんか言ったか?」
「いえなにも」

 凄む少年をのらりくらりとかわしながら、先を促す。
 彼は怒りを咳払いで紛らし、星舟の催促に従った。

「ただ、母上には内緒で内偵は進めていたところ、ある程度の言質と裏は取れました」

 ほう、とノドグロの干したものを箸でつまんでむしる。酒を呑む。

 ガールィエ家内で発覚した情報とすればサガラあたりが蒔いた風評というわけでもなさそうだ。もっとも、虚偽であったほうがこの少年もいくばくか救われた心地であったろうが。
 あの質実剛健の四文字の体現者が、よもや妾のたぐいを作るなど、生前の彼を知る者たちからすれば考えられない醜聞だ。
 まともな家庭環境など持ったためしのない星舟にしてみれば、普遍的な家族観で同情するしかないが。

「父は、僕が生まれる数年ほど前、この六ッ矢の領内にてある獣竜の娘に惹かれたそうです。ですが、その娘の家は父の不行状のかどにて没落しており、ガールィエ家とは歴史も権勢も天地の差。アルジュナ様のお薦めにより母と婚を結ぶにあたり、合意のもとで別れたのだとか。そのはずであったのですが」
「その時すでに第一子を身ごもっていた、とカルラディオ様はお考えですか」
 あるいはいまだ逢瀬は続いていたか。が、そこまで言及すれば下種の勘ぐりであろう。
 そして六ッ矢、という懐かしい名を聞いて、話は読めてきた。
 答えを呈する前に、直截に少年は切り出した。

「ずっと都暮らしだった僕は、この街に精通しているわけではない。長居すればサガラ様の疑念を招きかねない。そこで僕は国元に帰るので、居残って『姉』とやらを捜していただきたい」
「捜して、なんとされます」
「……もし父が破局したがために母子ともども生活に困窮しているというのであれば、その責任をとるのはガールィエ家長の務めだ。だがもし私怨から、あるいは遺産を狙って悪を為したり、サガラ様に担がれて権益に介入することがあれば、その時は悪銭一枚譲る気はない。いかな父上の遺言といえどもだ」

 断固とした態度で、統治者としての貌をもってそう言った。
 父の浮気心があの男への妄信を解いたのか。あるいは初陣で何らかの意識改革でも生じたのか。

 ――ブラジオの後釜としてじゃなく、ガールィエ当代としての風格が薄皮一枚分程度は出来上がったらしいな。

 そのことが嬉し……くはないが、まぁサガラの支配に対する防波堤の一角が出来たことは認めて良い。

「それで」
 感情を殺したような調子で、星舟は尋ねた。
「受けなければ、あるいは受けたとしてお望みの成果が得られなかった場合は、どうなります」
「当然、これはお預けですよ」

 カルラディオはひそかに伸びかけていた星舟の食指から冊子を外し、自身の顔の高さまで掲げ持った。

「そのうえで、サガラ様の下へは奔らずとも、アルジュナ様へ直々に献上する。そうすれば貴方の面目とアルジュナ様よりの信頼は喪われる」

 それは十代そこそこの少年が考え付く精一杯の腹芸なのだろうが、その結果自分の立場さえも危うくなることに想像がいっていない。

 ――仕方ねぇか。

 対策はいくらでも思いつくが、そこで無駄に争う気はないので年長者の責務として、ここは譲歩するのが正しかろうと思う。

 それに、とちらりと思った。ブラジオの死相を回想した。
 任務に支障が出ていない程度であるが、今もあの敗戦が心にしこりを残しているのだ。

 ――いい加減、ここいらで吹っ切っておくべきだな。

 これで受けた借りを返す。それが全ての返済でないにせよ、あとは故竜の責でもあることだし泉下のあの男に自己負担してもらうことにしよう。

「分かりました。そうとなっては自分も困る。せいぜい微力を尽くすことにしましょうか」
 そう『打算』した星舟は、取引を諾とし、杯を傾けて不敵に笑った。



[42755] 番外編:竜の遺児(中編)
Name: 瀬戸内弁慶◆eabf7a64 ID:fa083409
Date: 2020/06/10 21:55
 カルラディオとの密会を終え、夏山宅に戻ってきた星舟は、その後ろくすっぽ外出しない日々が続いた。
 その後、経堂や子雲に領内の何事かを探らせたかと思えば、今度は自身が立って単身出かけて行った。

 行き先も告げずに遠のいていくその背を、屋敷の口にてリィミィは見送っていた。

「良いんですかね、つい最近拉致されたばっかりの方が」

 皮肉めいた調子を挨拶代わりに、経堂が庭の垣根より顔を出した。

「本人が良いのなら良いんじゃないか。いつまでも子どもじゃあるまいし」
 そう冷たく言い放った後に、続けた。
「そんなに気になるのならお前が行けばいいだろう。最近こき使われてる件だと思うし、同じ人間同士、相通じるものもあるだろう」
「一つ伺っても?」
「なんだ」
「いったい何を拗ねて」
「私は拗ねていない」

 強い言葉によって経堂の問いかけを断つ。妙に上ずった語調になってしまったのがまた、我ながら腹立たしかった。

 否定こそしたものの、この陰気な狙撃手には何もかも見透かされているようで、気まずくなったリィミィは目を背けた。
 その視線の先、夏山家の中、碧納への引越しの手伝いに来ていた恒常子雲がシャツの袖をまくった姿でにこやかに笑っていた。

「ではよろしければ、拙者が夏山殿にお供しましょうか」

 などと提案するこの元裏切り者に、リィミィは険しい表情を隠さなかった。元々、温和な表情でも性格でもないわけだが、この男相手ならとりわけだ。

「いやいや、遠慮なさらず。なに、行き先は目星がついておりますゆえ」

 などと強引に押し切り、着の身着のまま、重労働の後にも関わらず軽やかに、子雲は出かけていった。

「さすがにあいつが行くとなると、後を追った方が良いんじゃないですかね」
「……好きにしろ」

 そう命じると、目礼とともに経堂は立ち去った。
 ふたりの男が立ち去ってのち、取り残されたリィミィは考えた。
 これは、奴らに担がれたのではないか、と。
 自分に上官としての最低限の体面を保たせるために、打ち合わせなし、即興の芝居を仕掛けたのではないかと。

「…………」
 深く息をつき、顧みる。
 窓に映った自身の顔。華奢な背丈。五年前から成長も廊下も感じてはいなかったが、最近、ふと気になって自らを投影することが多くなった。
 そしていくらかは痩せたような心地がしていた。

 今、星舟の幕下には優秀な智者がいる。ただ溜め込むばかりの知識ではない。それを機知として外へと向けて発揮できる者たちが。

「……もう、そろそろ良いのかもな」

 かくれんぼの鬼に見つかったような心境で、女獣竜は独語した。
 
 ~~~

「……なるほどな。いやありがとう。お婆さん、どうかこれを孫の小遣いにでもしてくれ」

 市井の外れ。その東の居住区。そこで聴取を終えた星舟は、老婆をねんごろに慰労し、金銭をその手に包ませた。

「ありがとうございます。どうかカルラディオお坊ちゃまを、そしてあの御方をよろしくお願いいたします」
 曲がった腰をさらに低くして乞う彼女に強く頷き返し、星舟は微笑した。

「もちろんだともさ! カルラディオ様と私は恩讐を超えた忘年の友! 必ず姉弟の仲をよいほうに取り持ってさしあげよう!」

 そう宣誓して長屋の内へと下がらせて、星舟はその場を後にした。
 大通りに出て、二歩、三歩。
 急停止して見せて反応を窺ってから、その追跡者の方を振り返らずに

「お前らも小遣いをせびりに来たのか?」

 と、からかう。
 建物の隙間に身を隠していた銃士と曲者は、いつものような捨て投げやりな表情とうさんくさい面を並べて現れた。

「それにしても、珍しい取り合わせだな」
「貴方こそ、らしくない」
「オレだって、この時代の年長者には尊敬を覚えるさ。特に戦乱を武器を持たぬ身で生き永らえた烈女であればな」
「いえそっちではなく、背中に立っても仰天しなかった」
「そっちかよ」

 それから人間、男、三人。
 連れ立って当てもなく歩く。

「今日はお前らの集めた情報のウラ取りだ。だから別に用事なんてないぞ」
「まぁ、興味本位ですよ」
「興味? 経堂が?」

 下手をすれば自分の生き死にさえ関心のなさそうな男である。そんな男から興味などという言葉が出てくるとは思えず、星舟は軽く面食らった。

「ブラジオの旦那とは、色々とありましてね」
 とだけ言ったきり、経堂は寡黙な銃撃手へと戻った。
「で、そっちは?」

 次いで問いを向けたのは、恒常子雲である。

「そりゃ、あわよくば内乱の種にならないものかと……はははは、冗談ですよ。竜というものを学べと言われたのは、夏山殿ではありませんか。竜の血統などを調べるのはまた得難い機会かと思いまして」

 その名のごとく、常のごとく、食えぬ言動で本心はぐらかせる。

「別に付き合ってもお駄賃やらないからな」

 諧謔のつもりで言ったわけだが、両人ともに一切笑声も立てず、また眉ひとつ動かさなかった。

「それで、収穫はあったんですか」
 むしろ滑ったのを気遣われるがごとく話題が転じられ、かえって星舟は傷心を抱くこととなった。

「あの婆さんは、この地が竜によって『解放』されてからこっち、ずっとガールィエ家に仕えてきた。だが、戦傷を負った夫の看病のために暇を出されたんだが、その夫も間も無く死んで寡婦になってたわけだ」
「なるほど、ではあの老婆が哀れに思ったブラジオ様の寵を受けその遺児を
「想像したくないことを生々しく言うんじゃねぇ! ……おまえらが調べたんだろ。ここから先の獣竜種の居住区域には、副将バオバクゥの別邸があった。そして、件の姉上様の母親ってぇのが、その係累だ。だから、ブラジオは娘が生まれた当初そこに色々理由をつけて通ってたらしいんだな。その仲介やら母娘の世話をする一人として、婆さんは臨時かつ秘密裏に再雇用されたってわけだ」

 だが、状況はある日を境に一変した。
 流行病で娘の母親が亡くなり、日を跨いで弔問にやってきたブラジオ主従に、すでにして自我を形成していた娘は言ったらしい。

「これ以上、貴方から哀れみも施しも受けたくありません。これよりはこの身ひとつで生きて参ります」
 と。

「……まぁ物心ついた時には、自分が不貞の子だと分かってたんだろうな。そんな自分が嫌だったのか。はたまた親を恨んだのか。とにかく母の死を契機に娘は行方を晦ましましたとさ」

 寓話的締めくくりとともに、星舟は飴を噛み砕いて完食した。

「で、その娘は?」
「そのまま行方知れずらしい。目撃情報は何度かあったみたいだが、どれも確かなものじゃなかったとか」
「名前ぐらいはわからないもんですかね」
「婆さんもそこまで立ち入ったところまで聞けなかったらしい。正直、オレが今回の件で訪れるまではバオバクゥの隠し子とさえ思っていたほどだ。かといって他家に転属した他の奉公人に聞き込むと、サガラの耳に入る可能性が高い」
「では完全に手詰まりというわけですか」

 子雲の言葉に、星舟は足を止めた。

「手がかりはない。だが心当たりはある」
 韻を踏むような言い回しとともに。

「それは?」
「ひとつは、まぁ単純な前後関係だ。その娘が出奔した後、奇しくも我らがトゥーチ家でもひとりの娘が家出してな。で、なんでか荒れまくっていたその姫君様は、奇しくも同じように愚連隊まがいのことを近隣でしていた女傑と殴り合いをしてなぁ」

 胃が痛むような思いで、星舟は述懐する。
 すでに遠く過ぎ去ったことではあるが、あの時の外見的な痛々しさ……もとい痛ましさを今の彼女が思い出したときは……察するにあまりある。
 いや、案外平気そうでもあるが。

「第二に……この際だから勤勉な子雲くんに教えてあげよう。基本竜の姓っていうのは血縁が近いほどに発音が近似していくもんだ」

 たとえば、真竜種の場合、その姓名は彼らを創りし神やかつて居を持っていた天つ国の名、天上の役儀や官職、あるいはさらに彼らが信奉していた上位の神々が基になっているとされている。そこから微妙な発音の変遷を経て系譜は分岐しているという。

 獣竜種ははじめ名を持たぬとされ、番号や単純な一文字を呼び名とされていた。
 それが戦や祭事で功を得たとき、褒美として真竜種の姓名の一部を与えられたのがはじめとされていた。鳥竜種は起源を獣竜種と同じくするが、その名の羅列の法則性の違いをもって今では別種のいきものとされている。
 そして彼らも同様に微妙な発語の違い、捩りによって商家の暖簾分けのごとく、系譜を増やしていった。

「つまり、クゥ家と血族であるならば、その娘は似たような姓を持っているはずなんだ」

 今もその姓を使っているのならばな、と言い添える。
 だが、石でも呑んだような面持ちで、後ろのふたりは視線を交わしていた。
 この段に至れば、両者ともに、星舟の前振りと仮説が何者を示唆するのか、うすうす感づいたようだった。
 そしてその決定打となる最後の点を、ため息とともに星舟は挙げた。

「……あちらに非があるにしても、真っ向から真竜種を冷たく面罵する『まざりもの』なんざ、オレにはあの女しか思い浮かばねぇよ」

 ブラジオとバオバクゥの慰労を突っぱねた姿に、『彼女』を当てはめると容易に想像がつく。
 薄々嫌な予感はしていたが、いざ頭の中の所感や理屈を並べて整理してみると、二逃げ道がないほど、対象がはっきりとしていた。
 二度目の重い嘆息は、そのせめてもの抵抗だった。

「……会うしかないんだな、この世で二番目ぐらいに会話をしたくない奴に」



[42755] 番外編:竜の遺児(後編)
Name: 瀬戸内弁慶◆eabf7a64 ID:fa083409
Date: 2020/07/13 00:56
「あっ、セ……夏山殿、今日は非番と受けていましたが」

 時と処を遷して碧納。
 活動拠点の正式な移転を完了させた星舟は、その足で執務室を訪れた。
 兄の代行、執政者としての体面を保とうとする彼女に、星舟は微苦笑する。

「えぇ、おっしゃるとおり非番ですので、一定の節度さえ保っていただけるのであれな私用として接してもらって構いませんよ」
「そっかー。良かった」

 途端に緊張を解いて素に戻り、椅子の背もたれに上半身を預ける。
 その弛緩ぶりを見れば件の侍女長あたりが咎めようものだが、ふしぎとその影は見当たらない。そもそも居ればこんな気軽に対面が叶うものでもないのだが。

 まぁまぁ座ってと、海外より買い付けたというソファなる長椅子へと着座を求められる。
 言われるがままに座した星舟の隣に手をついて座る。

「……ところで、サガラ様は?」
「あぁ、兄上? そう言えば帰ってくるのが遅れてるね。そういうところはキッカリした方のはずなのに」

 ……第一の懸念、解消。つまりは余計な茶々を入れられる心配はないということだ。
 その言質をとってから、次の問いに、本題に転じる。

「では、侍女長殿は?」
「ジオグゥなら、なんか失せ物が見つかったとかで回収しに数日間お休みだけど……なぁに、さっきから他の竜のことばかり気にして」
 ぷぅっと膨れて口を尖らせて、姫君はご立腹気味である。
「そりゃ、両者ともセイちゃんと仲良いけどさ」

 ――いや、そりゃねぇよ。
 というツッコミは腹の裏に押し隠し、表向きはにこやかに、好青年然として、

「こういう時ですから、普段腰を落ち着けて聞けないことでも聞こうかと思いまして……たとえば、かの侍女長殿とシャロン様との出会いの話とか、じっくりと」

 話を切り出そうとした直後、けたたましく扉が開いた。
 羅紗地に虎の刺繍の入った、赤い上衣を着流した、独特の装束をまとう、渦中の女獣竜である。

「あれ、今日は私用で来る子多いね」
 ――なんだこの私服!?

 突然の来訪はともかく、まず目につくあたりに星舟は内心で追及する。
「この馬……夏山殿がここに向かったと舎、旧友より聞きまして」
 星舟の一瞥にもシャロンの歓待にも意を介さず、つかつかと歩み寄って星舟の襟をねじり上げ、吊らす。

「申し訳ありません。この男を、少々拝借します」
 仲の良さを疑われることさえ厭わぬ、急いた様子で早口かつ事務的にまくしたてると「え、え?」と戸惑う娘をよそに引きずるように星舟を連れ去ったのだった。

 ~~~

「なんのマネですか」
 ドのつく派手さの上衣を翻し、侍女長ジオグゥは廊下の死角、その壁際に怨敵を追い詰めた。

「なんのことだよ?」
「留守中なのをいいことに、自分のことをさんざん嗅ぎまわっていたそうですね。挙句の果てにはお嬢様にまで聞き込みですか」
「いや?」
「……とぼけたことを抜かすと壁にめり込ませますよ」
「とぼけたことを言ってんのは、あんただろ」

 猛獣の殺気を浴びても、星舟は平然を取り繕っていた。
 主家の新築に穴を開ける従者がどこにいるものかという理詰めで、それへの恐怖を抑えていた。

「あんたが居なかったのは今日が初耳だし……そもそも、オレが調べていたのはガールィエ家の家出娘の行方であって、シャロン様付の侍女長殿の身辺じゃねぇんだがな」

 ――語るに落ちる、ということの好例を、そしてそれに嵌った者の表情を、星舟は今初めて目の当たりにした気がする。

「将を射んとすればまず馬をって奴だ。……ん? この場合は逆か。とにかくまー、ものの釣られやがって」
 むしろ予想に反していたのはジオグゥ自身の不在であって、彼女がいないと言われた時はどうしたものかと軽く悩んだものだが、お互いにとって良い時機に帰ってきてくれたものだと思う。

 憤怒の形相は、嵐のように過ぎ去った。
 むしろおのれの過失だ、怒りに任せればそれこそ自分がガールィエ家の私生児だと認めたことになる。
 そういう自覚はあるらしく、敵意は引っ込めてくれた。

「なんのことでしょうか」
 そのうえで、しれっと韜晦した。
「自分の知己に、似たような境遇の者がいただけですよ。まぁその者も、貴方のゲスの勘ぐりに当該する者ではありませんが。ただその者の不安かつ不快にさせたを想えばこそ、自分は貴方の不躾を咎めたまでのこと」

「……まだシラを切るか。まぁいい」
 その態度からしてカルラディオの疑念は杞憂に過ぎないことは分かり切っているが、あえて問う。

「じゃあその知り合いに仮に捜している親類縁者がいたとしてだ。そしてその家長に不幸があったとしてだ。……弔いに行く気や言うべきことはあると思うか?」
「ありませんね……微塵もありません」

 星舟は軽く頷き返した。
 まがりなりにもこれで言質を取ったことになる。

 用事は済んだ。ここで中座しても、あとはこの侍女長がシャロンに、悪しざまに誹謗するだろうが、どうにか取り繕うことだろう。

 返しかけた踵を、ふと星舟は止めた。

「関係のない話ではあるが」
 と前置きして。

「オレとブラジオ・ガールィエ様は、正直仲が良い方じゃなかった」
 では何故今回の依頼を請けた? そうジオグゥは尋ねたげに眉をひそめた。

「いや、実のところオレが一方的に毛嫌いしてただけなのかもな。正直、妬ましかったよ。生まれながらにして力も権力も名声もあって、それを惜しみなく、謙遜もせず当たり前のように行使する、竜そのものって感じがな」

 それが鼻について仕方がなかった。
 ただ傍にいるだけで、高みを目指しあれやこれやと知恵を回し、うろちょろと奔走する自分がより卑小な者だと教えられているようで嫌だった。

「それでも、死んだあとにようやくわかった。やっぱりあの方は誰にとっても巨さかった」
 その死を、多くの者たちに惜しまれたように。
 その死に、今なお、自分の心が引きずられるように。

「そしてその巨さを、自分でも持て余しているような……不器量な方でもあったよ。最後に戦場を共にした奴の心象としてはな」

 語っているうちに星舟は、まるでそれをジオグゥに聞かせている、というよりも自分で最終的な整理をしているように思えた。 
 なので若干の修正を試みつつ、本当に伝えたかったことでもって締めくくらんとした。

「だからまぁ、その娘に言ってやれ。仮にお前が父親のことで苦しんでたとしても、まぁ向こうも向こうで苦しむことがあったんだろう。感情の表し方が下手なだけでな。そして故人であるなら、恨むよりも、その方から受け継いだものを胸に、前に進め。ブラジオ様ならそう」

 言う、とまとめかけたところで、ジオグゥが星舟の肩肉に指を食い込ませた。
 風音が耳元で鳴り、拳が通過したことを悟った次の瞬間には、星舟のすぐ後ろで壁に拳がめり込んでいた。

 ――本当にやりやがった。
 先ほどはまさかやるまいとタカをくくっていたが、本当に新館に風穴を開けるとは思わなかった。

 奥歯を噛みしめ前歯を剥き出し、眼の白い部分には血が奔っている。
 間違いなく殺す気で拳を打ち込んだ。避ける間もなかった。せめてもの道徳心が、本竜も無意識のうちに軌道をわずかに逸らしたのだろう。

「自分は」

 それこそ猛獣の呼吸を喉奥より絞り出し、目つきを和らげぬままに竜は言った。

「テメェのそういうところが、心底嫌いだ」

 そう吐き捨てるや、紅衣を翻し娘は帰る。

「そういうとこって、どこだよ……?」
 そう問い返すも、相手は足早にその場を立ち去っていた。
 生々しく残る破壊の痕跡を脇目に見れば、恐怖は遅れてやってきて、星舟はもたれた背をズルリと壁に滑らせていく。

「ていうか、どうすんの? コレ」
 そして相手に面と向かって好悪を物申すあの調子は、当の父娘が意識することでも、まして望むことでもないだろうが、やはりガールィエの血統のように、星舟には思えてならなかった。

 ~~~

 郊外の、昼の、茶店である。
 女がらみであまりおちょくるのもどうかと思ったので、妓楼は止めて第二の待合場所に依頼者を呼びつけた。

「……そうでしたか」

 報告を聞いたカルラディオ・ガールィエは安堵であるかのような、それでいて寂しげでもあるかのような息をついた。
 軒先よりぼんやりと空を見上げる眼差しは、まだ見ぬ姉の姿を追っているかのようでもあった。

 遺産問題に首を突っ込まないという意向のみ伝え、その実名や素性は伝えなかった。そこまでは依頼に含まれていない。もし追及されればそれなりの対応を取ったかもしれないが、あえてカルラディオからもそのことは尋ねなかった。

「会いたいと、思われますか?」
「あちらにはあちらの都合というものがありましょう。そもそも」
 その問いにカルラディオは首を振った。そのうえで、言った。
「家督よりも土地や遺産よりも、大切な問題に片がつきました」
 微笑む少年の股には、いつもの軍刀ではなく、新たな刀が佩かれている。
 その体躯にはやや余り気味の大太刀。そしてそれ自体で人が殴り殺せそうな骨太の鞘。
 星舟もよく目にした、ブラジオの『牙』であった。

「それをどこで?」
「さて、敵方の雑兵が国庫に収めず盗品として流していたことまでは調べがついていたのですが、そこから闇市に紛れて追い切れなかった……なのですが、先日いつの間にか屋敷の玄関口に、傘か何かのように立てかけてありまして。まぁ恩を押し売りされて当惑はしていますし、薄気味悪いですがね」
「……なるほど」

 星舟の独語はカルラディオの語る仔細を理解したというより、謹厳実直なジオグゥが急な暇を取った経緯についての納得だった。
 姉弟そろってめんどくせぇ、と心の中で毒づく。

「話が逸れましたね。ともかく今回の返礼は、またきちんと形にして」
「宵越しの報恩はあまり好みでなくてね、今お願いしたい儀があります」

 それも今回引き受けた目的の一つだった。
 若干カルラディオは呆れた様子だったが、そもそも自分たちの関係性で義理人情とか無償の報酬だとかのほうが薄ら寒いだろうに。

「……今お請けできることであれば、なんなりと」
 若干の苦みを含むカルラディオの承諾に対し、星舟は一枚の紙片を見せた。
 そこに描かれているのはある者の簡単な肖像と名と、自分が知りうる情報のすべてだ。

「……この者が、何か?」
「麒麟児と称された貴殿です。まだ学友の縁をお持ちでしょう。そのツテで、帝都からのそいつの足跡を洗い出してもらいたい」

 もちろん、自分でもふと沸いた疑念をもとに、出来る限り内偵を進めていた。
 結果、もはやほぼ断定できてはいるが、それでも裏付けが欲しかった。

「……竜捜しの返礼が、竜捜しか」

 どことなく皮肉げに唇を吊り上げたカルラディオの頭上で、風もないのに空の雲が勢いよく流れていく。
 まるでそれは、白雲をに取って代わって凶兆めいた暗雲を呼び込むような、どことなくおぞましい昼空であるように、星舟には思えてならなかった。



[42755] 最終章:鉄血の宰相 〜網草英悟の乱〜(一)
Name: 瀬戸内弁慶◆eabf7a64 ID:fa083409
Date: 2020/07/26 00:12
夏山星舟の知覚は及ぶ限りにおいて、発端はトゥーチ家管轄の西端、その山村だった。

 取り立てて特産もないが、飢えることもない平凡な村。そしてその収入源は養蚕業が主を占めていた。
 箱の中で、桑の海の中で蠢く白き虫らを、その顔役である真竜種ミカムッヤは目を細めて覗きこんでいた。

「あぁ……ようっく食ろうて糸を吐けよー。きっと今年も美しいものとなろう」
 少壮の竜がまるで赤子のようにあやすものだから、周囲の職人らは皆苦笑した。

「お蚕様をかくも愛でられるお竜様というのも、失礼ながら物珍しい」
 というほほえましげな呟きを拾って、ミカムッヤの翠玉の神秘と柔らかさを帯びた瞳が細められた。

「失礼を返すようだが、ここに来た当初は儂もつまらぬ場所の鎮守に割り当てられたものだと思っておったよ。だが、いざ蚕など飼ってみるとまた面白い。かくのごとき、助けを得ねば独りでは羽化もできぬ弱き虫が、かくも美しき糸を吐く。たとえかくも脆弱であっても、その渾身の生より紡がれし美が、人や我らの暮らしを支えている。なんと見事なことか。なんとも不気味であったが、今となっては愛しく思う」

 それは蚕のみにあらず。
 卑小にして愚かと思っていた人間たちが、みずからの営みをなんとか保とう、より良くしようと奮励してみずからを出し切る姿もまた、今のミカムッヤにとっては慈しむべきものとなっていた。

 母性父性にも見た充足感を噛みしめながら、彼は舎より出た。
 
 ……その雨が降ったのは、この直後だった。

 雨か、と手をかざして見れば、その表に雨粒が落ちる。
 だが、その雫は一滴にしてすでに分かるほどに赤黒く、仰ぎ見れば陽を翳らす雲もまた、不気味な濃色であった。

 直後。
 ずぐん、と大きく心臓が跳ね上がった。
 臓腑は火油をかけられた蛇のように熱くうねり焼けただれ、ミカムッヤは今まで味わったことのない苦痛とともに突っ伏した。

 血反吐を一升分の塊として吐き出したかと思えば、顔面の穴という穴から流血し、自らが流した血の池に溺れていた。

 慌てて駆けつけんとした護衛の真竜らも、外に出て雨を浴びるなり、彼の如く可視化できるほど劇的に体調を悪化させるということはなかったものの、皆熱に浮かされて、そして後日皆例外なく死んだという。

 後に残されたのは唖然と、だが何事もなく異様な雨天の中を立ち尽くすヒトの子らと、その彼らの世話を待つように葉の中を這い、転がる蚕であった。



[42755] 最終章:鉄血の宰相 〜網草英悟の乱〜(二)
Name: 瀬戸内弁慶◆eabf7a64 ID:fa083409
Date: 2020/08/05 07:46
 そしてその暗雲と致死性を持つ奇病は、東進を続けて六ッ矢へと至った。
 降りしきる雨は例外なく生活用水を赤黒く汚染した。雨と病、その関連性が掴めないままに領内の真竜種たちが出血と熱とを起こし、ついには死者が出る。
 現当主が不在のまま、率先してその対応に追われていたアルジュナ・トゥーチは、決して屋敷内より外に出ていないにも関わらず、突如廊下にてその巨躯を崩れさせた。出血は見られなかったものの、今までありえなかった高熱を発し、床に臥すことになった。

「だめです! 井戸を汲んでもこの有様で……」
「だったら氷室から切り出したものを溶かして使え!」
「い、いくらなんでも領民すべては賄い切れません! トゥーチ家周りでも数日と保つか……」
「貯水とそれが尽きるまでの間に汚染されてない水脈を探して汲み出せっ、もうそれしかねぇ!」
 元よりその旧本領にてアルジュナの補佐に当たっていた星舟が突如としてその役務と責任を一身に負うこととなり、多忙を極めていた。

「くそっ、なんなんだよこれは!?」
 医師を呼んでも学者を招聘しても、それらしい見解や予防や治療法はなく、あの至上の生物たちがなす術なく衰弱死していくのを傍観するしかできないでいた。

「真竜種以外には使わせたら? 赤い水」

 領主館内を東奔西走しながら指示を飛ばし、歯噛みし毒づく星舟の後ろで手伝いに来ていたグエンギィが蜜柑を剥いていた。

「効かないんでしょ、彼ら以外」

 ……そう、それこそがこの奇病の唯一の救いというか、一周回って厄介極まりないというか。
 今のところ症状が出ているのは真竜種のみだった。
 彼らより生命力で劣るはずの獣竜鳥竜、そして人間果ては蚕に至るまで、それに類する症例の届け出はない。たまに気分が悪いと訴え出てくる者がいなくもないが、たいがいは一般的な風邪や気の病という奴だ。
 あくまで雨やそれの溶け込んだ水気を取り込んだ真竜種のみが罹患し、二次感染の例はない。

「それでも、立場ある奴がおおっぴらに言うことじゃねぇだろ……」
「他に手はないだろ」

 グギ、と星舟の頬がきしむ。
 やはりというかさすがのグエンギィと言うか。
 この紫髪の獣竜は物事の本質を残酷なまでにざっくりと見抜いている。どれだけ道義を垂れようとも、真竜種には清水を選び、あの赤い水を民草に使わせるほかないのだと。

 だが蔓延しているのは、病のみにあらず。
 すでに流言飛語が口伝によって広められている。

 曰く、これは奢れる竜に下された天罰だなどという益体もないものから、これは藩王国が開発した新兵器だというものまで。

 いちいちそれを捕まえて否定するのも馬鹿らしいが、あえて言うのであればこの雲は西より流れてきた。すなわち帝都より。
 
 すなわち藩王国側より仕掛けてきた謀略ではないだろうし、そもそも奴らが開発するとすれば、真竜種のみに限定することもなかろう。

 しかし、悪貨は良貨を駆逐する。
 荒唐無稽、有象無象の風説であれ、妄信する者もいるだろうし、それに乗せられ世情は揺らぐ。そんな中で清水を独占などすれば、選民、圧政、搾取、差別だなどと誇張して騒ぎ立てる愚か者が沸いて出ることは容易に想像がつく。
 あの女楽師の網がそれを利用するということも。

「ではもっと現実的かつ早急に危惧すべきことについて話そうか」
 そう話を切り出したのは、リィミィだった。
 被害状況に目を通しつつ、胡瓜をかじる少女のごとき奏者は、声の調子を抑えて言った。

「扇動などというまどろっこしい手を用いず、あるいは併用し、藩王国がこれを機と捉えて侵攻してくる可能性についてだ」

 リィミィの言うところは分かる。
 真竜種が使い物にならなくなっている、というだけでは事足りない。
 ただでさえ対尾の敗戦の傷が残っている中に、今回の最高権力者たちの相次ぐ病死により、政治と軍事の中枢は都鄙の別なくほぼ麻痺状態。
 サガラは戻って来ないままで、アルジュナは病に伏した。唯一東部における総指揮権を持った者がシャロン・トゥーチしかいないが、彼女も新府の方を収集するのでかかりきりだ。
 もし今戦を仕掛けられて来たら、各領主はそれぞれの持ち場でそれぞれの権限でもって自衛、応戦するほかない。となれば各個撃破されることは目に見えている。

「そうなったら……まぁお手上げだよな」

 これが第一連隊長のご意見である。
 事態の深刻さとはまるで乖離したあっけらかんとした口ぶりで、蜜柑を食んでいる。
 リィミィはそんな彼女を、食ってかからんばかりに鋭く睨み据えた。
 同僚を庇うわけでもないしそんな気は毛頭ないが、星舟はリィミィをたしなめた。

「この雨は、東へ向かって伸びている。つまり藩王国も現在同じような状況ってわけだ」
「だが、人間には効かない」
「それはまだ判明してない。ひょっとしたら種族別の時間差ってもんがあって、今は平気でも後々発症するかもしれねぇだろ」

 みずから言っていて、うすら寒い憶測ではあると思う。
 そうなれば戦どころか、この大陸から生命全てが絶えることになる。

「それによしんば無効だとしても、不安なのは向こうの兵だって同じだ。自分らには効かないってわかっていようと、こんな雨の下で野営行軍なんぞ、したくないに決まってる。士気なんて維持できるわけがない」

 というわけであの女王らは、扇動をするだろうが大々的な軍事行動は控えて様子見と国内の収拾に務めるだろう、というのが星舟の見解であった。

「……そんなことも理解できず、手柄や名声欲しさに声を大にして出征を主張するような、そんな頭のおかしいガキみたいな奴が独断で兵権を行使しなければ、の話ではあるが」

 そう鼻で嗤う星舟の下に、シェントゥが駆け寄ってきた。彼、いや彼女の体躯には有り余る館内を、上官求めて走り回ったのだろう。弾む息もそのままに、星舟にさらなる凶報を告げた。

「碧納の恒常さんから、その、急報で……っ!」

 もっとも危惧し、かつ現状と『彼女』の性質ゆえに手立てがなく、かつ覚悟していたこと。
 ポンプゥも肩で息をしながら参上し、グエンギィへと耳打ちする。
 そして連隊長とその副官たちは、張り詰めた面持ちを見合わせた。

 東部総領代行、シャロン・トゥーチ。
 件の病に罹患し、自室にて倒れたという。



[42755] 最終章:鉄血の宰相 〜網草英悟の乱〜(三)
Name: 瀬戸内弁慶◆eabf7a64 ID:fa083409
Date: 2020/08/17 08:04
「今こそ全面攻勢に打って出るべきだっ!」

 この異常の重大さも理解できず、頭のおかしいガキのような奴が、王宮にて声高に出征を主張している。
 もちろん、正式な軍議の場ではない。公会議にせよ小会議にせよ、網草英悟などという一農民のネームプレートは用意されていない。
 もっと救いがたいのは、こんな馬鹿げた論に一部藩の主および評定衆が同調の意を示していることだ。先の戦で義弟を喪った令料寺長範などは、報復戦を強く望んでいるという。

 何度書簡でもってたしなめても聞かぬゆえに、本来であれば一笑に付して取り合わぬはずのカミンレイが、わざわざ出てきて制肘しなければならないということになる。

 というよりも、呼び出すよりも先に廊下にて待ち構えていた網草に引っ掴まれるや、そう提言してきたのだ。

「真竜種がまともに動けない今こそが機なんだ! 人間には効かないんだろう!? 僕に兵を貸し与えてくれれば、たちまちのうちに失地を回復してやるっ!」
「網草殿、謹慎かつ療養中のはずですが?」

 カミンレイは書面に目を通しながら、冷たく声を発した。
 眼下にあるのは、地下牢の被害報告書だ。雨水など入る余地のない環境であったにも関わらず、残りの実験体……もとい真竜の虜囚が一匹余さず全滅したと。
 これでは実際にあの雨と疾病の因果関係が立証されない。人体に影響が及ぶかという点においても同様である。

「療養なんて」
 腕を吊り下げる少年は、吐き捨てるように言った。
「そんなことを気にしている場合じゃない! 今が千載一遇だとなぜ分からない!?」
「別に貴方の傷の具合など気にしていませんよ。わたくしが気にしているのは、兵たちの士気と病の実態です」

 冷然とした眼と語をもって、楽師は答える。

「そもそも、発症する可能性が十分に残されている疾病を放置して、病に冒された国へ攻め込むなど……世の謗りや蔑みは免れますまい。諸外国より白眼視されるようなこととなれば、今後の貿易にも影響が」
「こんな事をしてるヤツが道徳を説くな!」

 英悟はか細い手をはたいて書類を剥ぎ落した。
 返すその腕が、カミンレイの襟髪をつかみ上げて軋む歯を剥いた。

「そんなに僕を成功者にしたくないのなら素直にそう言えっ! お前だろう、あの方にあることないこと吹き込んで遠ざけたのは!? 彼女は僕を悪しざまに罵るような人じゃなかった! お前が異国の地で何かを吹き込んで変えちまったんだそうに違いない!」

 普段、カミンレイ・ソーリンクルは過大に評価することも過少に侮ることもない。少なくとも、表情に出すことはしない。
 が、今回網草英悟に対する評価はこの一挙一動をもって底値を更新した。

 八十鶴……否、五十鶴川で夏山との戦い以降、どういう心境の変化があったのかなどカミンレイには知る由もないし、元より知りたいと思えるような人間性でもない。
 ただ、何かが彼の内で何かが壊れたのだと思う。
 ある程度の情状の斟酌はするが、それをもって公を枉げようとは思わない。

 その彼の横っ面に、強烈な負荷が加わり大きく歪んだ。
 そして次の瞬間、網草英悟の肉体は横に傾き、地を滑っていった。

「悪ぃな、見ていて美しい光景じゃなかった」

 握り拳を回しながらそう言うのは、海軍総元締めの日ノ子開悦であった。
 正規軍というよりかは海賊の大親分といった塩梅の体つきと性分と持ち主ではあったが、そこに大した差異はあるまい。荒くれ者どもを指揮するに、内外の面において十分すぎるほどの資質を持っていた。

「くそっ」
 毒づき、少年は去っていく。激発のせいか、指の傷口が開いて、包帯より滲む血の雫が、床に点々と滴下していた。

「お手間を取らせまして、申し訳ありません」
 英悟の分も含めた語感の重さをもって、カミンレイは開悦に詫びた。
 本来であればヴェイチェルあたりの仕事だろうが、彼もまたダローガとともに、状況の把握と祖国への連絡網の強化に奔走している。
「なァに、楽師殿とお父上には結構な船を頂いたんです。その支払い分ってことでどうです?」
「そちらの支払いは、戦働きでのみ受け付けておりますわ」
「手厳しいですが、軍艦もその方が冥利に尽きるでしょうな。……もっとも、しばらくは救援物資の受け渡しに国内を往来することになりましょうがね。では」

 書類を拾いなおして手渡し、嫌味も卑しさも感じさせない、堂々たる海軍式の敬礼とともに、彼もまた去っていった。
 これでようやく解放され、ひとりに……というわけにもいかなかった。

「実のところ、御身にご助勢を賜りたかったのですが? 陛下」

 背を向けた一室に声を投げると、その戸口が開く。顔の半分を覗かせて、赤国流花は悪戯っぽく目を細めた。

「余が出ると余計にカドが立つだろう」
 というのが彼女の弁。

「あえて申し上げます。網草殿の越権、命令無視、増長はもはや譴責で済むような域を超えております。恐れながら、一切の権益と領地の没収の後、一庶民に戻すべきかと存じますが」
 順不同となった資料をまとめ直しながら、カミンレイは苦々しさを抑えて上申した。

 だが、返って来たのは困ったような苦笑だけだった。

「勝敗は兵家の常。たしかにあの時は腹を立てたが、そこまで大それた罪を犯したわけでもあるまい」
「その采配にしても、いささか器量不足が目立ちます。何故あのような者を見込まれま、簪などを渡されたのですか」
「……見込んだわけではないよ」

 答えは、意外なものだった。

「あのな、いくら余とて、幼少のみぎりに人材収拾をしているわけがなかろう。本当に、ほんの他愛ない礼と、約束、そして今に続く夢だ」

 なるほど、と抑揚なくカミンレイは頷いた。
 無感情かつ適当に捉えられるかもしれないが、一応の理解はしている。
 幼き日の他愛ない約束。その時点ではここまで時代が転回するとは知らず、絵空事以前の状態だった気宇。おそらくそれを初めて口にしたのが、網草英悟だったのだろう。そして、約束の品を渡すというのはむしろ彼の方が原型と言うべきだろう。

 今に続く夢。彼女の原点。その象徴であるがゆえに、網草英悟はまがりなりにも特殊な立ち位置であり、女王にとっては切り離せない存在なのだろう。

「……ですが、その夢はすでに遠きものとなりました。重ねてお諫めいたしますが、あの少年は命のやりとりに耐えうる精神の骨格を持ち合わせていなかったのです」

 カミン。愛称で呼ばれ、背筋を正す。
 全身を表した赤国流花は、覇気に満ちた眼を細めて言った。

「いやにあいつを拒むではないか。……そこまで余に直属の兵を持たせたくないか?」

 背を向けてすれ違い、女王は去っていく。
 その足音が遠のくのを瞑目して楽師は聞いていたが、その優れた聴覚からも足音が消えた時、ようやく振り返ってその残影に望む。

「……たしかに、その方が都合が良いのですがね。これはあくまで、友誼からの忠告ですよ。『お姫様』」

 彼女は、そして彼女の祖国にとっては、ただ現地人と竜双方を噛み合わせていれば良いのだから、本来であれば無用の諫言だ。別にそのことをどう解釈されようと、知ったことではないが。

 それから数歩歩いて、窓べりを叩く。
 ふっと音もなく沸いて出た気配と影に、カミンレイは窓越しに、ひとつの決断とともにある指示を飛ばした。



[42755] 最終章:鉄血の宰相 〜網草英悟の乱〜(四)
Name: 瀬戸内弁慶◆eabf7a64 ID:fa083409
Date: 2020/08/30 07:07
「んもー、みんな大袈裟だなぁとちょっと倒れただけなのに」

 碧納新館。
 その病床にて上半身をもたげようとするシャロンを、ジオグゥと星舟の両名は左右より押し留めた。

「それでも、状況が状況です。どうかご安静になさってください」

 そう忠告すると、足早にその場を去ろうとする星舟の耳朶を、向けた背側より衣擦れの音が打ち震わせる。

 反射的に踵を返した先に、手を掛け布団の下より差し伸ばしたシャロンの姿があった。
 完全に向き直る刹那、切なげで心細げな表情を見せていた彼女は、だがすぐにその未練を引っ込めて、毅然とした表情を見せる。

「こっちも闘病頑張るから、セイちゃんもお願いね」
「大任なれど、全身全霊にて当たります」

 そう微笑んでから、星舟はあらためてジオグゥとともに部屋を出た。

 もとより親しい仲ではない。並び歩く間の無言は慣れたものだが、それでもその重さはいつにも増していた。ややあって、星舟は侍女長に尋ねた。

「……実際のところは、どうなんだ?」
「本当は甘えたいのだけれども、『セイちゃん』と『ジオちゃん』の務めの障りとなることは明白。ただでさえ自身の容体を案じてもらっているのに、これ以上は迷惑をかけられない。そう健気に涙を呑まれたのでしょう」
「……いや、内面的なことじゃなくてな。ていうかあんたを『ジオちゃん』って呼んだの聞いたことねーよ」

 珍しい軽口に、思わず突っ込んでしまう。
 だが、あまりにもジオグゥらしからぬその言動こそが、事態の深刻さを雄弁に伝えていた。

「例の病か」
「医師の見立てでは、おそらくは」

 その事実を突きつけられた瞬間、星舟の前頭葉には鋭い針が刺し込まれたようだった。彼女の肌に触れた瞬間の高熱が、今なお手を炙るようでもあった。
 喪われるというのか。あの爛漫な輝きが、あの日あの夜に見出した、慈愛に満ちた月光のごとき包容が。

 だが、感傷の度合いであればジオグゥも負けてはいまい。ましてや、日に日に身を崩していく様子を間近で見なければならないのだ。

「ただ幸いなことか、症状は比較的軽い方と言えるでしょう。これも、神の裔の血の成せる業かと」

 神の裔。真竜種の中でも最上位たる、龍帝の血統。
 その流れを汲むがゆえに、アルジュナもシャロンも、命までは蝕まれずに済んでいる。そうジオグゥは希望的観測と知りつつ唱えたいのだろう。

「これが、せめて人間であれば良かったのに」

 ふいに放った一言に、星舟は足を止めた。

「ジオグゥ。思わなくもないがそれは……軽口でも吐かして良い言葉じゃねぇぞ」

 シャロンの障りとならぬよう静かに、だが確実に語調を荒げて星舟は諫めた。
 本人も口にしてからどうかと思ったのだろう。「そうですね」と打った相槌には、強い後悔を感じさせた。

「まぁあんたも気をつけろよ。半分は、あんただって真竜だ」

 一定の分量の気遣いを見せた星舟は、渡り廊下で待つシェントゥとリィミィの元へと戻った。

「あの、姫様のお加減は? 何かお手伝いできることは?」
「あー……じゃあ領内の様子を探ってきてくれるか。あと、開いてる店があったらなんか滋養のいい食いもんとか頼む」

 使命感に燃えて問いを重ねてくるシェントゥに、星舟はややぎこちなく笑って駄賃と置き傘を握らせ命じて、外へと向かわせた。

 それから一つ、重い息をつく。

「何かあったのか……などと聞くまでもないか」
「いや、シャロン様のお身体以外にも、この状況に色々と思うところがあってな。お前好みの話ではあるのだが」

 そう前置きしてから、リィミィを師としてあらためて問う。

「神って、なんだ?」

 リィミィの反応は容易に想像がついた。
 まず細眉を極限まで歪め、

「とうとうありもしない信仰にでも縋りたくなったか?」
 などと、正気を疑い毒を吐く。

 発狂扱いされるのは承知のうえだが、自覚の及ぶ限りでは星舟は正気そのものだった。

「いや、だからふと気になったんだよ。……なんで、国連の神なんだ?」
「質問の意図が分からない。もっと頭の中を整理してから言え」

 これはまったくもって正論だった。自分でも、なんだかとりとめのない、身もふたもないことを問わんとしている気がする。

「いやだからさ。言語の違いこそあれ、異国の者らも皆それに属する神々の集団を信仰している。それだけならまだ分かる。だが竜も……隔絶された世界にいたお前らも、信仰するのは元よりそれらだ」

 リィミィが足を進めた。まるでその話題について答えが見つからずに避けるように。幾度となく自分と同じ戦場に立っているとは信じがたいその小さな背に、彼は畳みかけた。

「おかしいじゃないか。伝承にしてももっと派生していても良いはずだ。なのに……まるで、それが揺るぎようのない確定事項であるかのように、そこだけは起源が同じだ。いや、宗教や伝承に限った話でもない」
 
 人には遠く及ばぬ生命力を竜が持っていることは痛感している。霜月のごとき特異な例を除けば、未だ破れぬ無双の外殻のことも。

「だが対話ができる。同じ食物をもって腹を満たし、同じ形をし、同じ色の血や涙を流し……時として、交わり、子を成すこともできる」

 星舟は身を渡り廊下の手すりを越え、軒の外へと踊らせた。
 勢いは弱まれども、絶えず降りしきる雨を浴びながら、かき消されない声量で質す。

「人と竜を分け隔てるものは、いったいなんだ?」

 リィミィは無表情でかつての教え子を、わずかに引いたような目つきでもってじっと見つめていた。
 だが、ぐいとその手を童子か何かのように、軒下へと引き戻す。

「その問いには、おそらく誰も答えられないだろうさ。少なくとも、今の段階では」

 にべもなく、だがはぐらかすことなくそう答える旧師に、星舟はほろ苦く笑った。

「まぁそれこそ、『神のみぞ知る』ってわけか」
「冗談としては落第点だな」

 対話能力というものが欠如した女に、冗談を|丙《へい》と評される、この不本意さ。
 ぐぬ、と軽く臍を噛む星舟の下に、シェントゥが舞い戻ってきた。
 あまりに早く、かつ傘も差さず、息せき切り、狼狽しきった様子で帰還した。
 軽く面食らった星舟だったが、耳打ちされた内容をもって、今度は内憂ではなく外患が生じたことを知った。



[42755] 最終章:鉄血の宰相 〜網草英悟の乱〜(五)
Name: 瀬戸内弁慶◆eabf7a64 ID:fa083409
Date: 2020/09/17 22:58
「剣呑! 実に剣呑!!」
 組み上げられた論壇の上、帳の下でバシバシと瓦版を叩きながら、巻物のごとき独特の結い方をした前髪を振り乱して汗露を飛ばし、涎を垂らしながら弁を振るう。不特定の群衆を対象に集会を

「真竜種はこの苦難の折、人竜一致して事に当たるべしと吹いている。だがどうだ? 彼らが何をしてくれたというのだ? 元は誰の物でもない、いや人の所有地であった汚染されていない水源や氷室を独占しているという。無辜の民草には赤き毒水を呷れという。これこそが奴らの正体ではないのかっ! 強き時には寛容に振る舞っていても、いざその足下が危ぶまれるようなことがあれば、浅ましい獣の本性を露わとする!」

「それは、人間だって同じじゃねぇのか」
 その様子を最外周で見遣っていた憮然として星舟は呟いた。
 怪訝そうな顔をする部下一同に、問うまでもないことをあらためて尋ねた。

「あれか」
 シェントゥはコクコクと肯んじた。
 商業地区に突如として現れたその弁士は、そうやって奇抜な髪型と繰り返し雑言を振りまいて人々を焚きつけている。
 この一帯で見た顔ではない。一度見たら忘却こそ難しかろう。

「この千代転音技風ぎふうは弾劾する! 彼らの傲慢を! 矛盾を! 現に雨を遮断するための地下施設を作るため、我ら人はその労役に駆り出され、この雨の中我が身をさらされて竜のために従事させられるという。水のみならず土地までもが召し上げようという計画があるとの噂であるっ! それに先んじて我ら……」

 殊更に状況を引っ掻き回すがごとく風聞の類を撒き散らす。その熱量に比してその弁舌は拙劣そのものだが、病とは、たとえその魔自体が微弱であろうとも、肉体の抵抗力が弱まれた重篤につながる。行政処理能力が衰えたことに付け込んで、好き放題に悪意と言う名の病原をまき散らしている。

 現に調子の良い何人かの眼が、同調の向きを示している。
 とかく人とは、自身の衰退に対し他人や世間の不首尾に責任を求めたがるものである。今小さく頷いているのは、

 だが、それよりももっと悪辣な者が群衆の中に入り混じっている。
 それは、識者面で善良な庶民に接近し、なるほどいちいちごもっともと弁士に賛同しながら彼らに同意を求め、翻意を促す連中。大方は、壇上に立つ男とつるんでいるに違いない。

 経堂と子雲に彼らを捕らえるよう指示を飛ばし、自身はリィミィらを伴って人と傘の垣を分けていく。矮躯痩躯と言えども、女獣竜の存在は畏れとともに彼らに自然、道を開かせていった。
 無理に捕らえることもできるが、それは余計に疑念を招き、禍根を残そう。
 なので正面から対決すべく、星舟らは壇上に身を乗り上げた。

「我らが、なんだ? 先に寝返ろうとした爺どもの例に倣おうというのか?」

 印象重視でやたら呼びづらい名を用いるその弁士が、役人の登場にも動じない。
 むしろ、星舟らを待ってこそいた風さえある。

「ほう、これはこれは! みなさん、竜の走狗となった夏山星舟殿のご到来ですよ!」

 ――やはり、か。

 その挑発的な眼差しを見た時、星舟は感情の重さを自覚した。

「この男の言っていることはでまかせだ。大規模な敷設や移住なんぞ、この状況下で出来るはずもない」
「ホホ、父母より頂いた眼玉を代償に竜族に媚を売った男が、何をほざいても無駄無駄」

 いったい風評と妄想の果てにいったい自分の過去はどうなっているというのか。
 いちいち否定するのも馬鹿らしいので呆れながらも無視し、言った。

「では目に見えている事象について言わせてもらおう。現にこの雨水の毒は、我々には通用しない。むろん早急な浄水には努めるが、言われてもいない無理強いにそこまで目くじらを立てる問題でもないだろう」

 だが言葉少なな反論が、窮したためによるものと認識されたらしい。
 ますます嵩にかかった様子でまくし立てる。

「それは己が竜の寵愛を受けた、増長よりの言! そしてその寵を喪うがゆえの必死の方便であろう。真実は、行動で示すが良いぞ」

 あらかじめ用意していたのだろう。雨水を溜めておいたと思われる井戸桶を取り出し、星舟の前に置く。
 波を打つ水面は毒々しい赤の輝きをたたえて、まるでそこに毒のみならずそれを汲んだ人間の悪意までも映し取ったかのようだった。

「無害なのであろう? されば、己が身をもって証明せよ」
 嘲るように男が囁く。
 ――要するに、コレがやりたかったわけだ。
 誘い込まれてすでに包囲済み。
 衆人環視とはよく言ったもので、環を作る群衆の眼差しは、星舟の隻眼の動作にさえも注目している様子であった。
 あるいは、この弁士の言うところの走狗が、無様に主人のもとへと逃げる醜さを期待しているか。

 自然、唇が歪む。
 ……笑いで、歪む。

 そうではないか。笑うしかないではないか。
 何しろそれは、いずれ突きつけられたであろう、命題。
 行わなければ、ならなかったことだ。
 まさか向こうから、最善の形で提供してくれるとは。

 星舟は桶を片手に捧げ持った。
 そしてためらいなく、軽い手取りでもって、まるで盃でも干すかの如く、喉奥に毒水を流し込んでいく。

 一流れ、また一流れと我が身に流し込んでいく。
 桶から水が抜けていくその様子を一同が、そして傍らのリィミィさえもが唖然とした様子で見守っていた。
 投げおろした桶が湿った音を立てて、技風の足下に転がる。
 恐怖したわけではなかろうが、大きく狂った予想に動揺を隠しきれない様子で、あたかもそれが首か何かのように声を引きつらせて飛び退いた。

「……昔、六ッ矢でこれよりもひどい代物を飲まされてた」
 彼の醜態を無視して、呼吸を整えて口を拭う。

「斉場のクソどもが牛耳ってた頃の水道は上下の別もろくになかった。羽虫が浮いてるどころの騒ぎじゃねぇ。小便が混じってようが、誰ともしれない人間の指が入ってようがおかまいなしだ。ただ生きるために、オレはそれを呑んで少年時代を過ごしてきた」

 不幸自慢をするつもりはない。ただそれよりは、はるかにマシだ。そのことを彼らと、そして自分自身に戒めるためにあえて言葉にした。

「それを改善したのが竜たちだ。そして、万民がその恩恵にあやかれるようにした。それは、水とは自然からの施しであって特定の何者かの所有物ではないというのが、彼らの思想だからだ。そしてこれは、彼らが窮したとしても変わらない。無論、手の打ちようがないというのが正直なところだが、彼らの矜恃が、あなた方の生活を我から脅かすことを良しとしない」

 あえて軍靴の音を立てて技風に接近する。疾病によって喪われた眼窩を寄せる。

「もっとマシな役者を寄越せと、あの楽師殿に言っとけ」

 外周に待機させていたクララボンの拍手を皮切りに喝采があがるのと、軽く呻きながら弁士がそそくさ退避するのとは、ほぼ同時だったように思える。

 悠然と壇上を降りた星舟に、散らしていた経堂らが報告に来る。

「本命には逃げられました。端役は捕まえましたが、どいつもこいつも金で間接的に雇われただけのようです」
「あの弁士はどうしますか?」
「まぁあのちよころナンタラも似たようなだろうよ。放っておけ」
「にしてもあんた」

 リィミィが身を乗り出して話に割り込んだ。

「良いのか。あんなこと表明して。状況が悪化すれば、この先どう転ぶかなんて」
「先の見通しなんて誰にもわかんねぇよ。不公平だと対案もなく喚き立てて事が解決できる訳でもないし、国家転覆させて『人智』とやらで雨が止むなら止ませてみろってんだ。……ハッタリでなんとか綱渡りしてくしかねぇだろ」

 人には聞かせないよう低くぼやく星舟は、足を速めた。このような雑事に煩わせられている場合ではない。

「おい、どうした」と常と変わらない様子で問うリィミィ。やはりどうにも、知識はあってもその引き出しの扱いには不慣れというのが彼女らしい。

「……この時期に敵の出兵はない、とお前の懸念を否定したよな」
 とは言え今回は自分の見立ての甘さにも問題はあった。

 今まではあくまで、意図を含んだものか、それとも自然発生的なものか微妙な程度の風評が流れるのみであった。
 だが今回の技風とやらは違う。雇われ者であろうが、行われたのは明確な扇動である。それも、危険の伴う竜の膝下で。
 背後に切り崩さんとする何者かの存在がいる。経堂、子雲を撒くほどの諜報員が紛れていた。

「すまん、あれは間違いだった」

 本腰を入れての、内部工作。それも、どちらにとっても不安定なはずのこの時期に。まさか、ありえないと今もってなお思うものの、この性急さの意味するところは、ただひとつ。

「出来る限りの戦支度を進めろ。……おそらく、この雨の中敵が攻めてくる」



[42755] 最終章:鉄血の宰相 〜網草英悟の乱〜(六)
Name: 瀬戸内弁慶◆eabf7a64 ID:fa083409
Date: 2020/09/27 12:08
 夏山星舟が困惑の中、権限の及ぶ限りの軍備を整えていく。
 だが、王都秦桃では同じくして困惑と動揺を極めた者がいた。

「……今、なんと言った」
 自身が議長を務める王宮の小会議場。
 かつては夏山とも論戦を繰り広げたその場において、その女王が今対しているのは自身が音楽教師、この国が宰相。

 無垢な少女人形のような造詣のその女は、淡々と、硬くも美しい声音で告げた。

「今朝、金泉領総督代行、網草英悟殿が出立。周辺の諸藩を扇動し、その軍勢を吸収。総計二万を率いて、帝国へ進行中です。すでに国境に焦土作戦を展開……むろんこれはあくまで軍事的かつ好意的な表現であって、実情はただの略奪といった狼藉行為です。またその直前、我らの兵舎より討竜馬を強奪し、被害が出ています」
「な、なにを……」

 おもむろに立ち上がった赤国流花はよろめき、背と掌とが後ろに控えた壁に行き当たった。

「いったい何をやっているのだッ、あの馬鹿は!?」

 激発する。その音声が大なることは常の如くではあるが、それはすべて演出であり、自身の王としての威格を高めるための手段でしかない。感情をここまで露呈させることは、稀であった。

「彼を王勅の伝令要員として配したことが裏目に出たようですね。どうにも王命を偽り周辺を半ば恫喝気味に説き伏せたようです」
「何を悠長な……すぐに呼び戻して撤回させろ!」
「……その前に」

 その王の怒情を浴びても、氷の面は揺らぐことがない。
 わずかの乱れもおのれに許さぬがごとき指の動きでもって帳簿を引き抜くと、それをまくり上げて女王へ披瀝する。

「今日に至るまでに網草英悟の言動を各関係者より聴取し、まとめ上げました。それによれば、五十鶴での戦以降、彼は命令無視、指示するにおいてそれぞれの部署を通さず越権行為に及ぶことしばしば。今回の災害においても救援物資を独自に徴発。そしてこれら一連の行為に反発する者があれば女王の名を挙げて抑えつけているとのこと。にも関わらず、自分自身は女王への不平や聞くに堪えぬ悪態を放言して回っている。これら一連の言動は、いたずらに女王の権威を貶めるものでありましょう」

 よって、と帖を閉ざしてカミンレイは続けた。

「今回の独自行動と合わせ、帰国の後に彼ら一党を国家反逆罪にて拘束。裁判にかけます。おそらくは満場一致で死罪となりましょうが……よろしいですね」
「……貴様ァッ!」

 流花は怒る。だが対象はその場に在らず暴走を続ける英悟に対してではない。
 事が起こるまでに無視し続け、自分には何も告げていなかった、自身の参謀に向けてであった。
 自身の議席を飛び降りて彼女に掴みかかる。

「最初からそのつもりだったな!? そのつもりで、あいつを野放しにし続けていたな! でなければ、これほどの調書を短時間で仕上げられるものかッ! そればかりか貴様、遠回しに英悟を焚きつけて……」
「…………すでに何度も申し上げたッッッ!」

 女王の言を、楽師はこの政府に参画して初めて遮った。
 初めて声を荒げ、烈しさとともに表情を歪めた。
 その声量はおのれの比ではなかった。それでも流花はビクリと後ずさった。

「何度となくお諫めしてきたではないですかッ! 間接的にも、直接的にも! あの者を重用すべきではないと、過ぎた厚遇は彼自身のためにならぬと! それを情に打算に流されて夢に溺れ、しかも無責任に野放しにしてきたのは陛下御自身ではないのかッ!?」

 今まで甕に油を垂らすがごとく、音もなく蓄積していったカミンレイの怒り。その中に、流花自身が激情の火を不用意に投げ入れたのだった。

 それを理性の内に隠していたカミンにも非はあろう。だが、その論は正しく、責任を問われるべきは、すべてに王命をもって反対意見を封じて断行してきた女王、赤国流花なのだ。

 流花はカミンレイより離した手を柵について押し黙った。それを見て、カミンレイも静かに息を整えていく。
 口を先に開いたのは、楽師の方であった。

「……これより開かれる議会において、わたくしは貴女を弾劾します。誰よりも早く、誰よりも激しく。これら確たる証言と物証をもって。ともすれば、陛下にご退位をお勧めする覚悟でもあります」

 氷柱のごとき眼差しが、流花を睨みつける。

「ですが陛下にはそれらを喝破していただきたい。その位格をもって、理屈を飛ばし論拠を跳ね除け、ただ己の責任の痛感を声高に叫びつつ、一番に殺意とともに網草英悟の極刑を主張していただきたい。……頃合いを見て、わたくしも折れて責任の追及を撤回いたしましょう。そこまでしてようやく、貴女の追い落としを図る者どもの口を封じることが出来ます」

 それが最後の分水嶺となる献策であろう。おそらくそれさえも退ければ、彼女と彼女の祖国は、完全に流花を見限るだろう。
 一礼とともに退座せんとするカミンレイに、流花は下問する。

「……英悟は、どうなる?」
「議会の進行次第ではありますが、霜月公に捕縛に向かわせましょう。わずらわしい外向きのことは一切わたくしどもにお任せになり、どうか陛下は身の安寧のみお考えください」

 それはここに至るまでの皮肉を最大限に込めた意見

「……助けられるのか?」
 そう問うおのれの声は、過去最大に弱々しい語気となった。
 カミンレイはその問いに答えなかった。おもむろに握りしめた帳簿ごと拳を壁に叩きつけ、その衝撃音に明答を代弁させる。

「……しばらく好き放題に泳がせ、帝国領内を荒らしに荒らさせましょう。かつ居留する反乱分子をその動きとは別に扇動させ、その暴走に拍車をかけます。そのうえで、勝とうと負けようと責任をすべてあの者に押し付けて葬ります。……どうせ拾うところなど何も持たぬ廃物です。せいぜい厄災を敵地に蒔いて、あわよくば敵に処理してもらいましょう」

 謳うがごとき韻を踏んだ提言の端々に、殺し切れぬ感情が染みのごとく滲む。
 ゆえにこそ、その策は普段に増して、冷酷に響く。



[42755] 最終章:鉄血の宰相 〜網草英悟の乱〜(七)
Name: 瀬戸内弁慶◆eabf7a64 ID:fa083409
Date: 2020/10/10 22:40
 かくして将来有望と嘱目されていた少年将校は、独断で女王を裏切った。いや、本人それ自体は裏切られたと思ったがゆえの凶行であっただろう。

 国境の人色なる入江のほとりにおいて、参集させた兵士たちに閲した。
 止まぬ凶雨の中、むしろこれを幸いの雨だと唱え、今こそ只人が竜を打倒せよという天意だと告げた。

 熱意は本物だった。ゆえに弁が拙くとも、今まで不遇をかこっていた藩兵たちを主役として壇上に立たせるがごとく錯覚させ、奮起させるには十分であった。

 ただ惜しむらくは才も経験も、これより先を遮るであろうあの男に及ばぬということ。その優劣は過日すでに決している。

 ――だからこそ、自分はここにいる。

 最後列において汐津藩兵を率いる令料寺長範はそう内心で決意を固める。
 この大将の不足分を、自身の兵力と経験で少しでも埋め合わせなければならぬ。彼はそう考え近隣を率先して説き、半ば独断に近い形で自藩より予備兵を余さず供出させた。

 網草英悟が大将の器ならざるを知っている。おそらくは王命というのが真っ赤な偽りであることも、薄々は察しがついている。

 ――だが、それがなんだというのだ。

 もし戦後に罪が問われたとしても、それは英悟ひとりに被せれば良い。自分たちは知らぬ存ぜぬ騙されましたと遁辞をかますだけで良い。

 そこまでしてでも、無理を通さねばならぬ。
 おそらくはこれが、あの悪漢、夏山星舟と互角以上の状況下で戦える最後の機となるだろう。あの普段は、竜威の影に隠れた男との。

(隆久……ッ!)

 義弟を想い、目頭を熱くさせる。
 普段は情に流され、ほだされることなどなかったが、彼だけは別だ。
 忘年の友であり、自分の家にはもったいないほどに出来た妹婿であった。

(無念であっただろう、辛かっただろう)

 五十亀の露と消えた彼に対し、英悟にも責任がないと言えば嘘になる。
 だが憎悪は彼を手にかけた星舟に、そして世の不条理を対象とする。

(どうして我々だけがこんな目に遭わねばならない!? どうして我々だけが労苦を押し付けられるのだ!?)

 もう貧乏くじは御免だ。今こそ他人に不当に背負わされていた重荷を乗せ、竜も女王も異人も関係ない、己が信念のままに戦える時が来たのだ。

「地獄を見るが良い……! 竜ども、そして夏山ァ……ッ!」

 汐津藩家老は、今まで築き上げてきたものすべてを投げ打って、復讐の炎に身を焦がす覚悟で其処に立つ。

 ~~~

「降伏、いたす」
 国境を超えて本格的な侵攻を始める前、道中の村で降伏する者があった。そしてその者の素性を知った網草雄藩連合軍は驚喜した。

 剥鞍村の顔役であった真竜種、ルゥオアワレブであった。
 まだ若く体つきもしっかりしている彼ではあったが、すでにその身は例の病魔に冒されており、本来であれば白かろうその肌は、赤斑を発さぬところがない。
 両手を泥にまみれて人に首を垂れる。その屈辱やいかほどのものか。だが、もはや彼はこの山村どころか我が身を支えることさえ怪しかった。

「我はどうなっても良い。宿も食べ物も及ぶ限り提供する。だが、村の者と我が家族にはどうか慈悲を頂きたい」
 
 息も絶え絶え、という様子で口上を述べるそこに、虚偽はない。そもそも、吐けるような種族ではないという。
 英悟は優越感とともに少しばかり溜飲を下げた

「この降伏は、歴史を変えるぜ……英悟」
 弥平が少なからぬ興奮とともに震える声で耳打ちする。
 決して誇張ではない。これで、竜でさえ人に降るという前例が出来たのだ。竜は人には決して屈さぬという不文律が崩れた今、ここから先は人も竜も、我先にと庇護を求めてくることであろう。

「あなた!」
 寛恕をくれてやろうと頷きかけた矢先、彼女はやってきた。

 自身の裾や股に泥が跳ねるのもいとわず、地を滑るようにしてルゥオアワレブの下に駆け寄る。その身を支える。
 これも竜か。否、人である。彼や英悟の中間ほどの年頃の婦人が、黒髪を振り乱し名が真竜を支えんとした。

「どうか、どうかご無理をなさらないでください! 今は御身の方が大切です!」
「か、構わぬ……それよりも中にいなさい……お前まで病んではかなわぬ」

 真竜の言う通りである。
 この雨が、人に影響を及ぼさぬと決まったわけではない。
 にも関わらず、この竜は我が身を毒されながらも人を憂い、この女人は、この支配者を慕い、頬を寄せる。

 ――なんだ、これは?

 黒が、渦巻く。
 雨降って固まるはずだったおのが土壌に、ふたたび荒涼とした亀裂が入る。

「お願いです、どうか主人の命ばかりは、お助けくださいましッ」
 主人、だと?

「い、いえ……我はどうなっても良い、せめて妻だけは……」
 妻、だと?

「……ふざ、けるな」
「え、英悟……?」

 ――僕は、誰にも愛されなかった。
 他には何も要らなかった。地位も兵も名誉も。ただ優しく名を呼んでくれればそれで良かった。
 触れてさえもらえれば、それで幾万の敵とも戦えた。

 だが、そのわずか愛さえもらえなかった。
 淡い思慕さえ許してはもらえなかった。

 赤国流花からは、一方的に与えられ、そして根こそぎ奪われた。

 ――なのに、何故こいつらは?
 ただせせこましく村暮らしをしているだけの連中が、自分たちより心が通じ合っている。
 下人と女王どころではない。人と竜と言う絶対に超えてはならぬ種の垣根を超えて想い合えるのだ?

 赦せない。
 このようなことが、事象が、展開されていることなど、在ってはならない。

 ――どうして、僕が、僕だけが、許されない? 愛されない?
 こんな世界は、狂っている。壊れている。

 だから彼は、網草英悟は、その流儀に従って、壊れることにした。

 それは、あるいは人の時よりも容易だったかもしれない。
 据え物斬りよりも。

 五指が無事な方の手で軍刀を抜く。そして一気に、ルゥオアワレブの首を刎ねた。
 時間をかければ抵抗されるだろうから、一気に切り落とした。苦痛を与えられなかったのが、残念だった。

 夫人はしばし何が起こったか分からぬようだったが、やがて半狂乱になって夫の名を呼び、そして憎悪いっぱいに英悟に飛びかかってきた。
 英悟は笑いたくなった。竜を殺した男に、いったい徒手の女子供が何ができるというのか。

 だからこれも余裕で斬った。
 まず邪魔な手首を落とし、ついで足の腱を斬って逃げられ無くしてから、うつぶせに転がってその背より、心臓を一突き。加減が分からなくて背骨に突き当たってしまったから、今度間違いないよう足で抑えつけて、肋骨の合間を通して肺腑から一気に切っ先を刺しいれてきちんと絶命させた。

「お、おまえ……」
 弥平はその成り行きを傍観するしかなかった。

「お前っっ! 自分が何したかわかってんのかぁっ!?」
 なにか、よく分からないことを言っているが、要するに自分の行いに驚嘆しているということだろう。
 当然だ、この偉業はこの有史の中、そう肉眼で拝めるものでもないだろう。

「斬った。はは、斬ったぞ! 僕は真竜を殺した!!」

 僕だってきちんと殺せるじゃないか!
 見たか赤国流花! 知ったか霜月信冬!
 僕こそが竜殺しだ。

 お前らは要するに竜を殺せば誰だって良いんだろう。何をしたって許されるんだろう。
 この程度で誰にも股を開く淫らな女なのだろう。

「じゃあ期待に応えてそうしてやるよ! 竜も人も、いっぱい殺してやるから、都の閨で待っているがいいさ流花ァ! ヘヘヘヘヘハハハハ! ギャアアアアハハハハハハァァァ! イヘヒヒヒヒヒヒハハハハハハァ!」


 もはやそれは、対尾港の英雄ではなかった。人類救済の義勇軍ではなくなった。
 藩王国と竜帝国の亀裂を決定的なものとし、互いに帰順する可能性を皆無とした少年は、もはや独りの狂人でしかなく、その彼にすべての罪を被せるつもりで略奪と個人的復讐に奔る、暴徒賊徒の集団でしかなかった。



[42755] 最終章:鉄血の宰相 〜網草英悟の乱〜(八)
Name: 瀬戸内弁慶◆eabf7a64 ID:fa083409
Date: 2020/10/25 22:09
 さてこそ、敵がこの災禍の中で動いた。
 その事実は事実として星舟は受け止めるとして、呆れもした。

「お前らのクニ、どうかしてんじゃないのか」
 まず国家としての正気を疑い、
「察するに、網草英悟の独り相撲でしょう。もしくは、それを担ぐ者の責任です」
 という子雲の弁護をもって、今度はその者個人の正気を疑い、結局はそれを起用した流花や王国の正気を問う。

「……ん? 『察するに』?」
 碧納政庁の前で、星舟はその二律背反の者を顧みた。
 恒常子雲は飄々と肩をすくめた。
「えぇ、あちら側よりの連絡が途絶えまして。どうやら見限られた模様ですなぁ。なので、そこは星舟殿に責任を取っていただかなくては」
 ぬけぬけとそう言う彼に、かっと痰のごとく呼気を吐く。
 そもそも、その見限られたという言葉自体、どこまで信じて良いものかさえ定かではない。

「しかしながら、まだこの顔は利くと思います。心当たりを探ってみて、扇動者の巣だけでも探ってみましょう」

 だが、もし彼の小指とカミンレイのそれとが未だ糸でつながっていたとして、これ以上の英悟や諸藩の増長は、彼女らにしても好まざることこの上ないはずだ。
 とりあえずの利害が一致しているように思える、というよりも不渡り手形を押し付けて処理させようとしているというのが星舟の感触だ。

「頼む。動かせるのは第二連隊だけだ。雑事に兵は割けん」
 その勘を信じてこの表裏の者の智に半身ほどを委ねる気になった。
「しかしながら」
 それを受ける姿勢を取りつつ、子雲は続けた。
「シャロン様やアルジュナ様より命令書だのお墨付きを頂き、他の連隊や周辺諸領主を傘下に収めた方が、動きやすいのでは?」
 その進言の前で、星舟は止まった。
 子雲も、ふいな停止にも関わらずぶつかることなく身を留めた。

「それをすれば、言われるだろうな。『病床のお二方が正常な判断力を失っているのを良いことに、夏山星舟が兵権の簒奪を始めた。すわ謀反か』とか」
「……考えすぎでは?」
「かもしれねぇけど、状況が状況だ。痛くもない『ほう』の腹は探られたくないな」

 すでにどれほどの往復となっただろう。
 星舟が玄関口に入り、子雲が笑みを含んだ吐息をこぼす。あるいはそれは、呆れや失望であったのかもしれない。

「奇妙なものですなぁ」
 間延びした感想とともに、彼は言った。
「竜とは、もっと超常の存在。神秘的なものかと思いました。だがこうして彼らの社会に踏み込んでみてそれが誤りであったと気づかされました。虚栄の張り合い、過剰に気にされる建前……同じですよ、我々の言うところの宮廷闘争や権力の争奪と」
「まったくもってその通りだ。反吐が出る」

 全面的に彼の意見を認めた言葉は、床板と敷物を踏みしめたまま立ち止まった星舟のものではない。
 その見開かれた目線の先、中央階段にだらしなく腰掛けた碧眼の青年……半竜サガラ・トゥーチのものだった。

「人間にしちゃあ良いこと言うじゃない、そいつ」

 と指先で示された子雲も、当然その面貌を存じているらしく、やや委縮したかのように歩を止めた。星舟は彼を庇うようにして、後ろへと追いやった。

「……ご無事で何よりでした。サガラ様」
「なに、どこぞで野垂れ死んでたほうが良かった?」

 この状況下で、相も変わらずの軽口減らず口である。
 だが、実際のところは彼とてかなり消耗していることが見て取れる。
 階を背もたれとしつつも傍らのグルルガンが支えていなければ今も崩れてしまいそうで、漏れ聞こえる呼吸は手負いの獣のごとし。その黒髪の分かれも常になく乱れている。

 あぁその通りだよ、とはまさか言えるはずもなく、星舟は黙して頭を下げた。
 下した視線の先に、一枚の紙切れが流し込まれた。
 走り書きや紙くずの類ではない。整えられた装丁。明確な印字に捺印や署名が列す。

 まぎれもなく、公文書だ。
 それも、今まさに自分が求めていた類の、出撃許可書と召集状。

「それが欲しかったんだろ?」
 機嫌が悪そうにサガラが言葉を落とす。まったくもってその通りだったが、この男に素直に頭を下げるのはシャクだ。

 拾うことさえためらわれる彼の前で、アッとグルルガンが声をあげた。
 それが何に由来するものなのか。確かめるよりも早く、サガラが立ち上がって、病人とは思えない膂力で星舟の軍服をねじり上げた。

「今お前と化かし合いやってる気分じゃないんだよ」
 ついぞ、聞いたことのない声だった。いや、はるか前に横暴な折檻をした時に、似たような声調をしていたと思う。たしかあの頃、この男の生母が死んだ。人間の母が。

「グエンギィあたりに任せても良かった。けど、あいつはおちゃらけているように見えて、なまじ危機に対する嗅覚が鋭いせいで自分から火中に飛び入らない。……お前ぐらいだよ。こんな状況で、汚れも顰蹙も振り切って栗を拾おうなんて馬鹿はな」

 虚飾も挑発的な物言いもすべて取っ払って、サガラは碧眼を眇めて

「けど、足を止めてる連中は、そんな馬鹿に進んで灰や火の粉をかぶってもらいたがってる。そうなれば、ようやく足が進められる。そうでなければ、足を進められない。お前はそういう連中を取りまとめて、迎撃にかかれ」

 そう命じてから、ふと視線をそらす。忌々しげに顔を歪め、あらためて言う。

「……いや、頼む。俺は、このまま終わるつもりはない。お前だってそのはずだ。互いの遺恨を超えてな」

 頭を垂れて。
 あのサガラ・トゥーチが、懇願している。

 幼き頃、そういうことを夢想したことはあった。
 この野郎、いつか泣いて詫びさせてやると。
 だが、今この光景を前にして、愉悦は覚えなかった。
 それが、自分の力量以外の要素で叶ってしまったことへの苛立ちのようなもの。そして、この気位の高い悪魔をこうまで卑屈にさせる、現状への危機感。

 ――おそらくは、雨雲の根源たる都は、真竜種が住まうあの本拠は、今さながら地獄の様相であろう。
 そこに行く道中、供回りを連れていたというが、今残っているのはこの強面の鳥竜だけだ。

 星舟は息をついて天井を仰ぐ。
 真竜種の身の丈に合わせて造営されたそこは、いつもなら高く感じているのに、今ではそうではなかった。梁の塗料の奥の木目さえ透けて見えてしまいそうだ。
 見えるな、と念じながら視線を外す。

「悪くない気分ですよ、あんたに頼み事されるのは」

 やや口調を崩し、あえて感情とは真逆のことを吐き捨て、書類を拾い直す。
 その一連の動作を見届けたサガラが不敵に唇を歪めると、額に汗を流したままに星舟の下を離れた。
 グルルガンが凶相を心配そうに曇らせつつ、慌てて彼の後を追従する。

「どちらへ?」
「もう一度、都へ戻る。あそこには、俺でなけりゃやれないことが山ほどある」
「なっ……無茶ってもんですそりゃあ! せめて一度お休みをッ」

 諌止せんとするグルルガンを、逆に星舟が押しとどめた。

「御武運を、サガラ様」
「……お互いに」

 それ以上の辞令は無意味であった。互いに口を出す領分ではなかったし、気遣うような間柄でもない。むしろ互いの失態を求め合っているが、同時に最低限の仕事をしてくれるようにも祈っている。

 我ながら難儀なことだと、星舟は苦笑した。
 そして互いに、それぞれの道へと進むべく背を向け合って行動を始めた。



[42755] 最終章:鉄血の宰相 〜網草英悟の乱〜(九)
Name: 瀬戸内弁慶◆dce7c687 ID:60aea034
Date: 2020/11/13 09:30
 戦場に長く身を置き、弾に向かいて我が身を天運に差し出すことしばしば。
 そんな星舟だが、その新築の部屋の前に行くと、物怖じしてしまう。緊張がはしり、肉体が本能的な忌避感と拒絶を示す。

 別にその中にいる相手が嫌いなわけではない。現にその兄であるサガラ・トゥーチには「なにくそ」という気分でむしろ負けん気が生じて竜であることさえ忘れてしまう。他の竜にしても、大概は分かりやすい好悪を見せてくるので付き合い方は分かる。

 だが、無償の慈悲を見せる『彼女』は、自分でもどういうわけか人や竜を超えて少しとっつきにくい相手ではある。ふだんの饒舌が、彼女を前にすると彼方へと吹っ飛んでいく。
 理由は、自分でも分からない。それについて考えないように必死に逃避することに決めている。

 まぁそれも今更の話ではある。
「シャロン様、よろしいですか」
 竜の聴覚をもってしても様式を整え、戸を拳で叩く。

 その内側より、けたたましい物音が聞こえてきた時、星舟の背筋が凍った。
 思えば、こうるさい侍女長の姿がどこにもない。どうして今少し早くその違和感に気が付くことができなかったのか。
 この非常事態にあの女が主の許を離れるなど、自分の接触を許すなど、どう考えても不自然な状況ではないか。
 元より、領内いたるところに不穏分子が乱入し、加えて領主代行たる彼女は本調子ではない。さらなる混沌に陥れんがため、よからぬ輩がその生命を狙うことは十分にありうる。

「失礼っ!」

 一言にて詫びを入れ、戸を蹴り破る。
 破砕音と共に、戸板が倒れ、その拍子に埃の幕が立つ。
 そしてその先に、シャロン・トゥーチが立っていた。顔を紅くし、瞳は丸まり、背筋には汗。
 なぜ背の様子まで分かったかと言えば、要するに背をこちらに向けているからだ。そしてほぼ裸であるからだ。

 上下一体型の寝間着を裾から脱ぎ掛けて、もはや腕に引っかかるのみの状態で、見返り真竜はその間抜けな『不穏分子』の前で凝固していた。

「あ、ほんとに失礼しました」

 星舟は蹴破った右脚を下げないまま片足立ち。シャロンはほぼ痴女じみた格好で。
 お互いに奇妙な体勢のまま数秒見つめ合った後、すべてを察した星舟が言えたのは、せいぜいそんな詫び言ぐらいであった。

 ~~~

「ごめんねごめんねっ、汗拭こうとしててその……御見苦しいところをばお見せしました」
「いやいや、自分の方こそ、とんだ醜態を……」

 未だ拭い去れない狼狽のため、シャロンは奇妙な言葉遣いとなり、自分の迂闊さを呪い続ける星舟は、視線を娘の裸体より外しつつ底まで気落ちしていた。
 この非常時に何をしているのかと自身の心身が情けなくなってくる。

 やはりどうにも、相性が悪い。
 相手にとって良かれと思って行動すればするほどに、歯車のズレたような成果となって、馬鹿を見るのはいつも自分だ。

 それは分かっているのに、だからできるだけ遠ざかろうとしているのに、この御仁の方こそがぐいぐいと踏み込んでくる。

「セイちゃん」
「はい」
「背中、代わりに拭いてくれない?」

 ……そう、今のように。
 衣擦れの音が止んだ。それを背越しに耳が捉えていた。

 沈黙、思考、そして観念。
 溜息とともに踵を返した星舟は、シーツをかき抱くようにして前の半身を隠すシャロンに「お望みとあれば」と苦く請け負った。

 かくして背を清水と布とで磨く。
 きめ細やかな肌地に背を丸めることで浮き出した欠陥や背骨や肩甲骨の造形。ともすれば白磁の大名物、一種の美術品と見まごうほどだが、それに陶然としたり神聖視するよりも、指に触れるその温度の高さに驚く。

「星を掴んだ気分はどう?」
 冗談めかしく言われたが、それに対する返答は差し控えた。口にすれば、その感慨は現実のものとなる。なった瞬間、ただの石くれに変じてしまうのではないか。そう恐れた。
 シャロンも、それ以上の追及はしなかった。

「……手慣れてる」
 代わり、どことなく恨めしげな様子で呟いた。「はい?」と動揺を隠しきれずに問い返すと、「何でもないでーす」と口を尖らせる。

 自身の不調を隠す健気さに、苦み走った笑みが星舟の口からこぼれた。

「ところでセイちゃん、わざわざ乙女の寝所に夜這いに来たってことは、なんかあった?」
「夜でもないし這ってもないです。……実はこの度綸旨を頂戴いたしまして、サガラ様やシャロン様に代わって討伐軍の指揮を執ることとなりました。不貞なる賊ども、背信の凶徒どもを余さず誅する所存です。お見舞いがてらその報告をと」

 そう言うと、シャロンの見せる横顔は、浮かぬ表情である。まぁいつもの数奇者根性博愛主義が発動したのだろうが、浅慮な愚民や俗物どもに温情をかける余地などあろうはずもない。

「セイちゃん。私ね、人間が好き」

 そりゃあ知ってますよ。でも情けをかけるつもりはないですからね。
 そう言いたくなるも躊躇われるような、儚い面持ちで、深い息遣いとともに語る。

「そりゃ確かに、色々と食い違いもあって、どうしても傷つけあわなきゃいけない時もあるけど……それでも、知恵を持ち合って新しい者を生み出せる力は、竜には遠く及ばない。竜は結局、その模倣をしているだけで何かを生み出したことがないかもしれない」

 この時勢がそうさせるのか。病がそんなことを言わせるのか。
 竜種そのものへの自虐ともとれる呟きを、星舟は背をぬぐいながら聞いていた。

「……大それた話なのでオレには答えられませんが、それでもシャロン様のことは知っています」

 手を止めないままに、星舟は言った。

「貴女はオレに、名をくれた。すなわち夏山星舟。ホシのフネ。とても気に入っています」
「……ありがとう」
「つまり名を与えられた瞬間、オレはこの世にようやく生を見出しました。竜がどうかは知りません。しかしトゥーチ家は、オレという人間を生み出してくれたのです。何人が、貴女自身がそれを否定しようとも、オレの中でその事実だけは確かです」

 シャロンは一つ礼を言ったきり、何も言わずに肩で呼吸をしていた。
 星舟も別に残念がりなどしなかった。元より、見返りを求めての返答ではなかった。

「ねぇ、セイちゃん」
 シャロンは茫洋とした口調で、もう一度だけ問うた。

「じゃあセイちゃんは……人間が嫌い?」

 ……瞬間、全身の経穴を突かれたかのように痺れがはしった。
 息を詰まらせ、見えざる何者かによって唇が軽く空気を吸い取る。

 シャロンは、それ以上何も言わずに、星舟にかかる重みがぐっと増す。
 自分自身を支えていた彼女の力が、抜け落ちたのだ。眠った、というよりも失神したと言ったほうが正しい。
 反射的に腕を取って分かったことだが、だいぶ痩せている。もはやその肉体は、限界の最高頂に達していた。

 星舟はそっと寝かせてやり、あらためて仰向けにして体の前半分も押し拭う。清めた身体を、着替えを整える。
 シャロン自身が揶揄したとおり、今彼は自分が手に届かぬ星と思い定めたはずの肢体に、誰に咎められるでもなく触れている。きっと思いのままなのだろう。

 だがそれでも星舟はただの一度も言葉を発さず、事務的に手を動かし続ける。
 その表情は最後に問いを向けられ瞬間のまま、凍り付いていた。眉の一本さえ、動かすことができずにいた。



[42755] 最終章:鉄血の宰相 〜網草英悟の乱〜(十)
Name: 瀬戸内弁慶◆eabf7a64 ID:fa083409
Date: 2020/11/19 22:50
 ずっと、このままでいる訳にもいくまい。呆けている場合ではない。
 後の世話を適当な侍女を捕まえて任せて、星舟自身は部屋を退出した。

 その出入りを咎める者はいない。まして不埒者、お嬢様にたかる毒蟲と見做して殴り殺しに飛びかかってくる女など。

 入る時に感じていた違和感がそこで再び蘇る。
 その理由を考察する。

「……あーもう」

 そしてある理由に行き着く。
 その上で考慮する。果たしてするべきか、せざるべきか。

 どうせ行ったところで感謝などされることなどあるまい。むしろ無償の善意を無闇矢鱈に疑われ、積年の確執をさらに拗らせるだけに違いない。損と嫌な思いをするしさせるだけの虚しい結果を生むだけだ。

 そのはずだ。だが、

「あーッ! もう!!」

 星舟の足は、本人が望まぬままに自然、心当たりのある方向へと向けられていた。

 〜〜〜

 夏山星舟ジオグゥの関係性は、差し引きなしに不倶戴天の敵と言って良いだろう。

 一方が右を向けば左を向き、天を仰げば地を眺め、面罵すれば背に悪態をつき、殴れば蹴る。
 そんな泥水で洗われるような間柄である。
 
 だがそれは翻せば、相手の思惑や向きを知るが故でもあろう。果たして日常の彼女の巡回経路。それを逆に辿っていくとその光景に行きあたった。

 地下倉庫へと続く小階段。その降りた先で彼女は居た。立てなくなっていた。見るからに体調が悪そうで、二本足で身体を支えているのがせめてもの矜恃であろう。
 もっとも星舟が第一発見者というわけでもなく、すでに使用人達がいた。

「ねぇ、どうする?」
「どうするったって……」

 死角から遠巻きに彼女の孤影を伺う彼らは、気遣う素振りこそ見せるものの、積極的に介助に向かう者はいなかった。

 元より腕っぷしと眼力で皆を従わせてきた女である。信望などあろうはずもない。それに加えて彼女の異変はそのまま外部の疫病と合致する。

 真竜であれば向後の報復を恐れて助けに向かう者もいただろう。
 だが、なまじ混血であるばかりに、皆に接触をためらわせていた。

 すなわち病の素となっているのは真竜の要素か、獣竜の血統か。あるいは通説は誤っておりあらゆる生物に罹患するのか、と。

 くだらない。もしそれが事実でかつジオグゥが人と獣竜のまざりものであれば、その暴論に一考の価値ありと存分に恐れるが良い。
 もしくは最悪の想定どおりの顛末だとすれば、どのみちもう手遅れだ。今更恐るべき何物もなく従容として死滅を受け入れるだけだろう。

 星舟は自分でも過ぎた考え方だと思ったが、それはそうと日和見連中が通行の妨げである。

「この危急時に侍女長殿の観察とは精が出るな。あとで日記を提出しておいてくれ」
「げっ、夏山……さま」
「気遣いや遠慮のフリする半端者なんぞ、いても邪魔なだけだ。自分の仕事に戻るか、さもなくば家に籠って嵐が過ぎるのを待つんだな」

 ジオグゥに彼らの存在を示唆するかのごとく、大きめの声量で叱責する。野次馬をそうして散らした後、星舟は宿敵に歩み寄った。

「……立てるか?」
 良い格好だな、という言葉はどうしたことかそう変換されて出た。

 舌打ちとともに、侍女長はそっぽを向いた。言葉なりとも、目の前の男に助けを求める素振りさえ起こさない。
 やはり『内心で思っていたことを率直に』口にすれば良かったと、軽く後悔する。

「……あんたな、意地張ってる場合じゃないだろう」
 星舟は息を吐きながら屈み込んだ。
「オレが嫌いなのは良く知ってるが、なんでそこまで徹底するんだか」

 ぼやきとも取れる星舟の発言に、ジオグゥの柳眉が吊り上がる。
 しばし何かをためらうように、脇へと向けた視線を左右させた後、彼女は言った。

「知りたいですか」
「あ?」
「何故自分が貴方を忌むか。シャロン様のお側に置くことを危惧するか」
「……さぁな。聞きたくもないし、さほど興味もない。不用意なこと言って勘違いさせて悪かった」

 その言葉はどこか逃げている、という風に我ながら感じている。そしてその逃避を、ジオグゥは聞いた以上は許さなかった。

 腕を掴まれた。病身であろうに、それを感じさせない竜の渾身の握力は、そのまま星舟の腕骨を折るかというほどであった。

 だが、星舟も生来の気性ゆえに泣き言は口にせずに耐え忍ぶ。
 自然、隻眼は鋭く研がれてしまい、望まずして遭遇戦じみた睨み合いに突入する。

「今これこそが……さね」
「は?」
「……さっき、あの連中を半端者呼ばわりしたがな、星舟」
 口調を本来のものに戻した侍女長は言う。初めて、下の名を呼び捨てにされた。

「あたしに言わせりゃ、テメェの方こそがだッ」
 混血児は気炎とともに星舟の襟元を握り潰し、睨み上げた。

「人でありながら竜に加担する。それは良い。立場も目的もあるだろう。けど何もかもが中途半端なんだよテメェは! 野心も情も捨てきれない! 誰かを愛し抜くことも憎み切ることも出来ない! ブラジオ・ガールィエがテメェを煙たがった理由も察しがつくってもんさ! そんなどっち付かずの態度が、周りを不幸にさせてんだよっ!」

 一気に爆発させたその啖呵こそが、最後の残火だったのだろう。星舟を掴んだままにズルズルと膝から崩れていく。

「頼むよ」
 一転してジオグゥの語気が弱くなっていく。

「シャロン様の側から消えてくれ。死ぬにしろ生き抜くにせよ、あの方には、穏やかに日々を過ごして欲しい。これ以上、彼女の心を乱さないでくれ」

 胸に押し当てられた額から、高熱を感じる。
 おそらくはそれによる朦朧とした意識の中で発せられたものではあったろうが、それゆえに慇懃無礼ではない、剥き出しの星舟への悪感情、否憐憫であったのだろう。

 接した心の臓が焼けるようだった。
 嚢のままに胸に押し込めていた、シャロンの問いがそれによって突き破られて、ジオグゥの真情と化合する。冷たい鉄塊となって、星舟の胸中に重圧を加え、刃となって突きえぐる。

 酸い。
 苦い。
 痛い。
 奥歯を噛みしめる。涙ぐむがごとく、右眼が歪む

 そしてそれらを飲み下して、体外に突き出そうになる刃を必死に押し込め、星舟は完全に膝を突く前にジオグゥの萎えた細脚を抱えあげた。

「はっ、離せ……」
 掠れた声で彼女が言うのも、じたじたと猫のごとく暴れ狂うのも気にせず、すたすたと歩き始める。平素尋常ならざる鬼気を発揮している混竜も、いざ弱体化ともなれば思いのほか軽かった。

 目的とするべき場所まで、それなりの距離はあった。もしここで誰ぞに行き会ったら最大限の打撃的羞恥を与えることに成功していただろうが、誰にとっての幸か不幸か、誰とも出くわさなかった。

 そして彼女の発生地点、巣穴、もとい自室に運び込むと、そのまま寝台へと臥させた。

「着替えぐらいは自分でしろ。あんたの服を脱がすほどに礼儀知らずでも命知らずでもない」

 薄闇の中、彼女の殺意に光る眼など正視できようはずもなく、極力侍女長が視界に入らないよう苦心する。
 その性質から容易に想像がついたような、生活必需品と最低限の家具以外は存在しないその部屋から退出する間際、答えてやった。

「あんた……お前に言われるまでもねぇよ。でもそんな半可通のおかげで、今トゥーチ家が立ち回れてることを忘れるなってんだ。……この一件が片付いたら、身の振り方でも考えるさ」

 多分に矛盾を自覚しつつ、それでも星舟は前進を止めない。
 竜の住処、竜の国において、人として、人間であるからこそできることを模索する。
 その果てに掴めたものがあるならば、きっとそれこそが夏山星舟という男の根底となるもの、彼を彼たらしめるものなのだから。



[42755] 最終章:鉄血の宰相 〜網草英悟の乱〜(十一)
Name: 瀬戸内弁慶◆eabf7a64 ID:fa083409
Date: 2020/12/06 20:58
 雨が降って後、初めて東部領内において集団的反抗が興ったのは美雪田(みゆきだ)なる六ッ矢南部の庄である。

「竜どもはこれを予見し、我らを見捨てたもうたのだ!」
「それを彼らは黙秘していたっ」
「おのれらは碧納の清水を確保し、我々に赤く汚れた毒水を食らわせんとしておるのだっ!」

 誰がどう吹聴したものか。というかたかだが数十吉路の隔たりに差異などあるまいに、その妄言を妄信し、腕を振り上げ非難囂々。
 星舟の説得の甲斐なく……というか元より恒久的な効果など期待していなかったが、反乱は起こり、店や民家。竜族に関係あるなしに関わらずに火を放ったり略奪をしたりなど、正義と解放の看板の下、実に奔放にその本性を剥き出しに暴れていた。

 竜が整備したその大路を堂々とひしめく彼らの前に、星舟らの一隊が着到した。
「やめなさーい。こんなことをしても誰も得なんてしませーん。すみやかに解散してくださーい」
 手で作った筒でもって拡声し、そう促す。
 だが集団的な狂乱に奔った相手に、理詰めの冷静な説得が通じるはずもなく、大股で同じ口上をくり返す。
 すなわち、「自分たちの土地を返せ」「国を藩王国へと返上し、元の巣穴に帰れ」というご大層なお題目。

「でなければ、これが火を噴きますー」
 だが布に覆われていた大筒を外気さらすと、彼らは言葉を失い、前進を止めた。
 まるでおのれらが砲口を向けられることなど想定していなかったかのように。

「皆、騙されるな! それはただの見せかけだ!」

 その先頭に、どこぞで見た胡散臭い書生がいた。
 以前も民衆を扇動していた千代転音技風である。
 例の奇抜にして目を惹く容姿と物言いをもって、人々の中心に立つ。

「この雨天で撃てるはずがあるまい! そもそも、なんだその骨董品に片足を突っ込んだような旧式は! それこそ竜の陣容が凋落した証拠ではないか! 見せかけなればもはや我々の反乱さえ抑え切れぬという。もし実物であったとしても、兵備も満足に用立てられぬ、砲の扱いさえ分からぬ者を起用せねばならぬという!」
「えー、もう一度でも言います……退け。オレは撃つと言えば本気で撃つぞ」

 答えはない。
 代わり、どこから飛んできた礫が星舟の額に当たった。打ちどころが思ったより悪く、血が流れた。

 最終警告は済んだ。
 先制攻撃も我が身をもって確認した。その証拠
として生傷も出来た。
 何よりこんな連中に付き合って下らぬ謳い文句に耳を傾け忍耐の上に説得すること自体、精神衛生上よろしくない。

「よし分かった、死ねっ!」

 次の瞬間、経堂が砲を吹かせた。
 砲身を震わせた空気の塊に内包されたものが、ある程度の指向性を保ったままに『敵』の集団へと衝突する。
 瞬間、声にならぬ断末魔が彼らより上がった。
 痛みではなく、物理的の発声を封じられた者もいるだろう。
 その最たる例が、意気揚々と先頭を切っていた技風であった。

「あえ……あんだ……っ、こえは!?」

 鉄片に頬を貫かれ、舌と上顎を縫い合わされ、それでも喋らんとする姿勢は大したものだが、如何せん言葉として成立していない。それでも訴えんとしていることは伝わったから、星舟は淡々と答えた。

「釘だよ。あと鋲とか木片とか適当なもん。お前らが打ち壊しまくったせいで材料はいくらでも転がってたしな。どうせお前の言ったとおり使い物にもなりゃしねぇ青銅製のオンボロ砲だ。ブッ壊れても構わないから適当に詰め込んで撃たせとけってな」

 相手は聞こえているのかいないのか。それに関わらずに星舟は話を続けた。

「民衆反乱ごときにやれ最新鋭の高射砲だ野戦砲だの持ち出す訳ねぇだろ。この程度で十分なんだよ。もっとも」
 薄く嗤って隻眼の将校は言った。
「破れかぶれゆえに、どこへ飛んでいくか分かんねぇぞ」

 その言葉を聞いた瞬間、どっと叛徒どもが背後から土塀のごとく崩れて逃げ散った。残されたのは生死不明の弁士とその周囲の死体であった。
 それを追うことはしない。何しろ、こちらの手勢は実のところ五十人弱。それが侮られた原因の一つではあったが、別段兵力不足というわけでもない。ただ、弾圧というのは要するに汚れ仕事だ。やりたい者など夏山星舟ぐらいしかいないのだ。

 そこにおいては経堂は優れた射手だ。何しろちゃんと支払うものを支払ってさえいれば、事の是非に関わらず、撃つべき相手と時機とを過たない。
 ただ、同類相憎むということらしく、同じ公私を明確に線引きする気質を持つ恒常子雲とは感情的には相性が悪い。これが組めば絶妙な連携を発揮するのだから複雑ではあろうが。

「すぐに街の被害状況を確認。その被害額を算定のうえ、こちらで負担しろ。ただし、そして当然! この処置は、反乱に参加していない者に関してのみのものだ!」
 そのもう一方の子雲に、星舟は命じた。周囲で様子を見守る連中に聞こえるように。

 ――しかし、見れば見る程に奇妙な雨だ。
 この疫病とも中々長い付き合いとなり、過剰に騒ぎ立てる連中以外は皆ある程度の付き合い方を心得てきたようだ。

 そこで気づいたのが、雨それ自体に持続性はなく、通常のそれよりも早くに揮発し、乾燥するということだ。それこそ、降っている最中にさえ炸薬が湿気らないほどに。
 衣類を干すにも支障はなく。勢いが一定以上衰えることはあっても増すことはなく。作物にも影響が出ていない。
 ただそれは、真竜を殺す。その一点においてのみ機能していた。

 星舟はふと足下を満たす血潮に目を遣る。
 真紅の水鏡に、隻眼の人間が映り込む。今しがた害した者たちの恐怖の表情。
 水面が揺らぐ。
 次いで、おぼろげな肉親たちの虚像。自分を拉致した『相談役』の増長。傲慢な慈悲を見せかける斉場繁久の無残な死にざま。

 それらにいびつな笑みを投げかける。だが、軍靴が目に入った時、孤影が脳裏に閃いた。。
 ……血の表面に投影されたのではない。おのれの脳裏に、六ッ矢で出会った靴磨きの少年の戸惑う姿、それが右目の裏にいつまでもこびりついている。
 あるいはそれは、かつての名もなき己自身であったのか。

『セイちゃんは、人間が嫌い?』
 その影が、シャロン・トゥーチの声音で再度問うた。

「……好きでありたいとは、思っていますよ」
 苦渋を噛みしめ、人間は人間として虚空に答えた。



[42755] 最終章:鉄血の宰相 〜網草英悟の乱〜(十二)
Name: 瀬戸内弁慶◆eabf7a64 ID:fa083409
Date: 2020/12/22 02:10
「……では、軍議を始める」
 東部領第一から第七連隊の隊長副長が野外にて広く陣取った天幕の下、顔を突き合わせていた。
 人間である第二連隊長夏山星舟、既に病死した真竜の第四連隊長を除けば、皆いずれも若く勇猛で明晰な獣竜鳥竜たちである。
 そこにツキシナルレの家宰ブアルスゥら諸氏族の当代名代が加わり、総勢五千あまり。内憂外患を各方面に抱え、それらを鎮圧せねばならないことを考えればやや心もとない戦力ではあるが、それでもなんとか揃えられた数ではある。

「一応名目上ではあるが、サガラ様のご推挙により、不肖夏山星舟が総大将を務めさせていただく。異存あれば発言もしくはご退席願おう」

 皆、黙々として手を動かしている。
 ある一点に視線を集中させ、煮えたぎる水音に耳を傾けて、誰も退出する者はいなかった。

「……結構。では次に今後の方針についてだが、これについても何か意見のある者は危急時ゆえ、身分種族門地いずれにも拘らず、腹蔵なく申し立てて欲しい」

 そう言うと湯気の中より挙がる手があった。
 そして甲高い女の声でいうのだ。

「今からお前の分よそうけど嫌いな野菜とかない?」
「あー別に嫌いなものないからいいけど……ってウォイ」

 星舟は思わず声音を低く濁ったものに転じた。
 気が付けば口上の間にも皆でワイワイと大鍋囲んで好き放題に自分たちの碗へと運んでいく。

「誰だよ鍋食いながら軍議しようとか言い出したの!? あとでかい蟹入れた奴! 喋らせる気あんのか!?」
「我が名はグエンギィ(わたしです)」
「あぁだと思ったよ!」

「まぁそう怒りなさんなっての。こんな状況じゃなきゃ、雨天決行の鍋会とかできないだろ? 飯食う時間も惜しいし」
「すげぇ前向きだな!」
「というか私らどのみちもう詰んでんだから最期ぐらい好きなもん食って死のうぜ」
「……すげぇ後ろ向きだな」

 グエンギィのはさすがにテキトーに言い放った極論ではあるが、もしやこれは天意によるものかと、人のみならず竜たちの間でも不安が広がりつつあるのは確かだ。

「……そうさせないためにオレらが来たんだろうが」
 自分にもそう言い聞かせるように、星舟は言った。

 とりあえずは腹を満たすことである。
 持ち寄った山海の具材を味噌を溶いた湯にぶち込むという雑……もとい野趣あふれる料理を、無心で食べていく。

「……おい、なんか味薄くないか?」
「えー、星舟の味覚が変になっただけだろ?」
「そうかなぁ」

 という感想会もそこそこに、いい塩梅に腹もくちたところであらためて本題へと突入する。

「ひとまずはこのくだらない戦いだけは終わらせる。腹案がなければこのまま、ちゃんと説明に入らせていただく……リィミィ」
「了解……現在、各所で起こる反対運動、武力蜂起は一応のナリを潜めつつあります」
「初撃の鞭と飴が利いたんだろうねー」

 余計な茶々を入れるグエンギィを、ポンプゥと星舟自身が睨んだ。

「サガラ閣下ならそう言うかなって。今上洛の途だろう? こう、皮肉が寂しいかなって」

 誰の代わりに穢れ仕事をやったと思っているのか。そう言いたかったが、別にしてしまったことに対して今更恨み節をぶつけたところでどうともなるまい。
 黙した星舟の代わりに、第三連隊のアンデェが応じた。亀を信仰とする、それこそ甲羅のごとき強面の持ち主である。

「あれのおかげで、おれたちは……やらずに済んだ」
 おまけに弁も鈍重で朴訥と来た。あまりに印象通りの様相に、初対面で星舟が吹き出しそうになったのはいい思い出だ。
 今では守戦に長けた武才、かつ良識派の言動を頼みとしている人物だ。

 礼の代わりに、大量の具と汁を彼の碗に盛ってやる。
 そのうえで話を切り戻し、星舟は続けた。

「もっとも、帝都より長い手を伸ばしてしきりに扇動している奴がいる。その連絡線を絶つことは困難かつ雑多で、放置するよりほかないのが実情だ。またぞろ反乱の芽が出ることだろう。その前に敵の主力を叩く」

 諸将頷き、その基本方針に従事する意を示した。

「敵は汐津、分良を主軸とする藩と残りは網草英悟で、これはもはや軍隊とは言えない。先と同じ暴徒の群れだ。見境なく境を侵し、家や村々を焼く外道畜生の類だ。討つことにためらいもなかろう」
「悪態つくのは結構だが、具体的には?」
 グエンギィが問う。

「奴らの行動にはもはや一貫性もなにもあったものじゃない。逐一追うことはしない。この軍にそれぞれの役割を持たせて分け、迎撃に当たらせる」

 そう言って星舟は手を挙げた。
 書面を携えてララ姉弟が連隊長や諸将の間を巡り、それら詳細な計画書を配っていく。

「まずはご足労頂き恐縮なことながら、諸氏族、豪族の皆々様には、そのまま領地任地の守りを固めていただく」
「……我らは、役立たずと?」
 気色ばみかける彼らを制し、星舟はゆったりとした口調を意識して続けた。

「先に申しましたとおり、これは迎撃戦となります。いずれ彼らは貴方がたの地を焼くべく殺到しましょう。そこを迎え撃ち、かつ各方面の中継地点へと連隊を派遣。その援護に向かわせます」

 口頭でそう説いたうえで、彼は書面を一読するよう促した。

「第五連隊キマジィは北部、尾根州担当」
「あらら、まァ~た冬場にクソ寒いとこに連れてかれるのね。懐炉でも持っていこうかしらン」
「いや、無理に個性とか出さなくて良いから。第七連隊ヒノノトンはその東に在って各山主と連携。敵を山間の懐に誘い込むのが目的だ。キマジィの部隊は手が開けばその背後に回り込んで誘い込んだ部隊の退路を断て。また、鳥竜を高所より飛ばし出来うる限り敵の動向を探れ」
「わかったでごわす!」
「だからトンチキな語尾とかつけんなっ! 良いの!? お前ら最初の印象付けがそれで後悔とかしない!? ……で、アンデェは比良坂方面に進出。ブアルスゥ殿と鷹羽加の兵力を糾合し相手の出鼻をくじく。かつ敵本土からの増援に一応の備えをしてくれ」
「お、おれもなんか目立つことしたら、いいのかな」
「その顔と図体だけで十分だよ。……で、グエンギィの隊は葵口へ進出。これは各間の遊撃ならびに連絡網として機能させるのでそのつもりで」
「おいっす分かったオッチョンボイ!」
「やると薄々分かってたけどお前にはこれ以上の個性付け必要ねぇだろ! もうそれで口調定着させっぞ!」

 星舟が各々に大喝を入れていくなか、干した碗を片手に立ち上がる男の姿があった。
 ナテオの腹心、ブアルスゥである。
 痩せぎすの獣竜はククと喉奥を鳴らし、湯気で曇る眼鏡のツルに指を当てて薄い唇の両端を吊り上げた。

「読めましたよ夏山殿、貴方の狙いが。いやぁ、貴方はやはり策略家であらせられる」
「あ、そうですか」
「つまりは……突撃でしょう?」
「あ、ハイ。もうそれで良いです」

 謎の得意満面で再び喉で笑った彼との会話らしきものを打ち切った。

「というわけでブアルスゥ殿にご指摘いただいたとおり、これは敵の総大将網草英悟を孤立させ、かつ決戦に引き摺り込むための準備でもあります」
「おい、突撃以外の何か言ったか?」

 聞こえよがしにポンプゥに耳打ちするグエンを無視して、星舟は続けた。

「そして展開させた一角にあえて穴を開けて誘い込み、そこを第二連隊と在地の領主で撃退する。さすがにこの頭を潰せばそれでこの乱は下火となるだろう」
「……それで、その穴というのはどこに?」

 不安げに問うポンプゥに、星舟は淀むことなく答えた。

 他の賊どもはともかくとして、英悟自身は功名心の餓鬼となっている。
 となれば狙いは藩王国にとって巨利となるであろう地。鉄を産出し、真竜の亀鑑にして代替わりして日が浅く、かつ今病床に付しているであろう名家。
 あえて誘い込まずとも、元より敵の破壊目標の対象とはなっているだろう。

「細州。ガールィエ家。かの居館に拠り、あの餓鬼を撃ち殺す」



[42755] 最終章:鉄血の宰相 〜網草英悟の乱〜(十三)
Name: 瀬戸内弁慶◆eabf7a64 ID:fa083409
Date: 2021/01/07 00:53
「貴方が無理を我々に押し付けるのはいつものことだが……ふざけんじゃないよ」
 カルラディオ・ガールィエには、病床に在っても若さゆえか未だ元気があるようだった。
 少なくとも、夏山星舟を睨み上げるだけの余力はある程度には。

 細州大岩戸(おおいわど)。ガールィエ家居館兼州庁。

「決戦に使うからここを貸してくれ? 花見のために庭を借りるのとは訳が違うんですがね」
「ですがすでにそう仕向けてしまったことですし、敵はすでにタガが外れたけだものどもです。遅かれ早かれこの地の資源に目をつけることでしょう。その時迎撃するのは重病人の指揮官と半農の兵士たちですか? ここは遺恨を忘れて持ちつ持たれつということで、どうか妥協いただきたい」

 カルラディオは隠さず舌打ちする。
 どこぞの侍女長を彷彿とさせるが、一方で父親からは聞いたことのない音ではある。

「一つ確認したい」
「何なりと」
「先に殴ったことを根に持ってるのか?」
「いいえ? 毛ほどもそんなつもりないですが?」

 我ながら抜け抜けと言ってのけると、若き当主はため息とともに人知れず握りしめていた拳を解いた。

「情勢が情勢だ。無用の張り合いをしている場合ではないことは重々わかっている。それに、元より貴殿への加勢を願い出る家臣がいたからな……でなければもう一度ブン殴ってるところだ」
「加勢?」
「……もう良いぞ、入って来なさい」

 末端の言葉は徹頭徹尾無視して聞き返す星舟の前に、促されて現れたのは十数人程度の屈強な男たちだった。
 単に見せかけの筋肉ではない。明らかに荒事に慣れた佇まいと、元より恵まれた長身。それが星舟の周囲に並び立つ。その圧迫感に、星舟は覚えがあった。
 おそらくは純血の獣竜種。それも、猛獣を力の由来とする最精鋭。

「お察しの通り、対尾の退き口の生き残りです。彼らが迎撃戦の参加を求めています」
「彼らが?」

 猛者たちの視線から逃れるように、星舟は枕に後頭部を埋める少年に視線を投げる。
 カルラディオの申し状ではないが、彼らにしてみれば星舟は長く旧主ブラジオと確執を繰り広げてきた挙句にその彼を見殺しにした憎き敵ではないのか。
 それが如何なる宗旨替えか。

 訝る星舟に、そのうちのひとりが答えた。
「……今時分になって、其方がブラジオ様を亡き者とした、などとは思ってはおらん」
 ほかのひとり、またひとりと唱和するがごとく続く。

「貴殿がガールィエ家に、そしてその他氏族にしてくれた取り計らい、公正さを持った処置であった」
「それゆえに信じよう」
「討つべきはあの時の敵軍、聞かば敵将網草英悟も仇の一人だという」
「せめて一矢報いんとは思うが、如何せん我らだけでは太刀打ちできぬ」
「恥を承知でお頼みいたす。我らを使っていただきたい」

 なるほど、と星舟は鷹揚にうなずいた。
 情報をざっと解釈するに、仇討ちしようにも当代のガールィエ家は彼らを活かす陣容ではあるまい。先に推察したとおり、変革を余儀なくされたカルラディオの下では、むしろ彼ら旧臣は厄介者でしかないのだろう。
 死に場所を逸し、そして今また生き場を喪いつつある。
 肉体の壮健さに比して目元が暗澹としているのは、おそらくそのためであろう。

「わかりました」
 星舟は悩む様子を見せず承諾した。
 そのうえでしかし、と付け加える。

「我々は死兵ではありません。多くを活かすために、身命を擲つのです。どうかその点のみ心に留めていただきたい」
 獣竜たちのうちの何人かが、息を呑む。その多くは星舟の見立て通り、死に場所を求めての志願であったのだろう。
 だが、低く笑う者もいた。

「相も変わらず、慇懃無礼な申しようだな」
「だが、ただいまにおいては妙に頼りに思えるわ」

 頭上へ振り下ろすがごとく、彼らのたくましい腕が星舟の眼前に突き出される。
 星舟は自分の柄ではないなと思いつつも、苦笑とともに彼らの動きを真似て互いの腕を重ね合わせた。

 ~~~

 彼らが本当に自分の忠告を遵守するかはともかく、一応釘を刺すことでブラジオへの義理は立てられたはずだ。

「……しっかしオレだけ部屋住みってのもな」
 カルラディオに充てがわれた当面の指揮所兼私室へと向かう中、星舟は軽くぼやいた。

「皆と同じように野営で良い」

 先行していたリィミィがそれを聞くや、鋭く踵を翻した。

「あんた、体調はどうなんだ?」
「あ?」
「過日の鍋の時あんただけ言ってただろ。味が薄いのなんのと」

 あの乱痴気騒ぎの中よく聴いて、覚えているなという感心もそこそこ「それがどうした」と尋ね返す。

「微妙な感覚の鈍磨は本格的な衰弱の兆しだ。そうでなくとも、この激務続きだ。皆には私から上手いこと言っておくから、今のうちに養生しておけ」
「激務も不調も、オレに限った話じゃないだろ」

 なお食い下がらんとする星舟に、副官はズイと華奢なその身を寄せた

「今最前線に立つあんたに倒れられては、指揮系統が混乱するだろう。それに『やはりあの雨は皆に等しく毒性であったのか』なんていうことにもなれば、軍全体が崩壊しかねない」

 もっともな正論。いかにもな直言。
 意地の張り合いをしている場合ではないと痛感しているのは他ならぬ自分で、反論の余地などなく、その薦めに従うほかなかった。

 そして彼女の読み通り、果たして星舟はきちんとした床についた久々の夜、著しく体調を崩すことになった。

 船に酔うがごとく視界はひとりでにグルグルと回り、嘔吐感はひどいのに吐瀉物の一滴も吐き出せないほど気分が悪い。関節も熱を持ってギシギシと痛む。
 文字通りの餓鬼であった頃にもついぞ感じたことのない不快さが、彼の総身に雪崩を打って襲いかかってきていた。

 それは久方ぶりの休養に張り詰めていた神経が一気に撓んだがゆえか。それともリィミィに指摘されたがゆえに自覚してしまったためか。

「水……」
 ひりつく喉を少しでも鎮めんと、手元にないのを承知で、水分を手探る。
 だが、指先が行き当たったのは、冷たい鉄の反響。反射的に刺客疑い、悪酔いも吹っ飛んで起き上がり、布団をめくれ上がらせる

 だが、その正体が、銀色の閃きが宵闇の中で浮かび上がった時、星舟は唖然とした。

「なんだ、これは……?」
 知れず呟いた問いと彼の疑問とは、大いに齟齬があった。

 それが何なのかは、星舟はよく知っていた。
 真に質すべきは、理由。

「何故、コレがここにある……!?」

 夜這うが如く手元に忍んでいたのは、月光の如く閃く細身の刃と華の鞘。
 唯一無二の意匠と存在感。
 見忘れるはずも見間違えるはずもない。

 シャロン・トゥーチの『牙』が、彼女の腰を離れて星舟の側に在った。



[42755] 最終章:鉄血の宰相 〜網草英悟の乱〜(十四)
Name: 瀬戸内弁慶◆eabf7a64 ID:fa083409
Date: 2021/01/24 16:38
 他の遊撃軍に追い立てられるかたちで、網草英悟の本隊はカルラディオの本領へと侵攻した。
 その報に触れても星舟の武人としての魂は揺さぶられず、むしろ不快の念が強かった。

 肉体的には、一朝夕のうちに快癒していた。
 むしろ、本調子を遥かに超えて絶好調を迎えていた。だがその勢いと軽さが、まるで自分を支えているのが別人の脚のように感じられて、逆に星舟を落ち着かせてくれない。
 何よりの悩みの種は、今彼自身の腰元だ。

「……おい、どうしたんだそんなもの」
 リィミィがギョッとしたように両目を瞠った。

 あえて披歴するまでもなく、彼が軍刀代わりに佩いているモノがシャロン・トゥーチの『牙』であると気がついたようだった。

「……碧納を発つ際にシャロン様から貸してもらったんだよ。ご自分の名代の証としてな」
「そんなものがあるなら、さっさと公表すればもっと楽に兵が集まっただろ」

(そーね)
 リィミィの指摘は尤もだった。もし語ったことが事実であれば、そう利用しただろう。
 だが突然超自然的に湧いて出たのだから、どうしようもなかろうし、そう説明するよりほか術はない。

 問題は、何故これが自分の手元に現れたかだ。
 誰かが星舟を貶めるために置いた? だが、そんなことをして何の意味があるのか。最大の政敵であるサガラでさえ、今の状況がどれだけ薄氷の上であるかは承知しているだろう。
 ならば敵が置いたか? だとすれば工作員は本拠に侵入して最重要の品を奪取した後、今最前線の拠点を侵してわざわざそれを手放したことになる。
 離間の計にしては利点と危険性が伴っていない。

 ――シャロン・トゥーチに、何かがあったか?
 その念がよぎった瞬間、星舟は自身のこめかみを拳で殴りつけた。
 寸時たりとも想像してはならぬことだ。あってはならないことだ。

 杞憂と見なしたいその『迷い』を振り払うようにして、閲兵の儀に出た。
 総勢一万。指揮系統もまがりなりの一統化はしていたが、それでも烏合の衆。
 されども迎撃、防戦には十分すぎる兵力であった。

 真竜を除く全種の竜。そして人。様々な身分、様々な出自の混成軍。
 それらに対し、このどっちつかずの総大将は如何な鼓舞をするのか。
 はたまたありきたりな訓辞か、あるいは真竜への恩義を声高に主張し、その忠誠心を刺激せんとでもするのか。
 このたびの戦、天意と正当性の在り処はいずれに。
 期待と疑念の眼差しが物見櫓に上がった星舟に注がれていた。

 星舟は小さな呻き声を一つ漏らし、喉の具合と、声の通り、そして将兵の反応を確かめた。
 大きく息を吸いあげて、荒げることなく宣った。

「こう思っている者のいるのだろう? 『この度の疾病は奢れる真竜種に下された天罰なのではないか』と。『これは竜に代わり人がこの地を治めよという天意なのではないか』と」
 ……いや、だしぬけに問いかけた。

「たしかにそうかもしれない」
 続いてその論をかなり消極的ながらも肯定したこともあって、顔を見合わせる者、耳語する者、反応はまばらに分かれた。

「だが自分の頭で考えろ、おのれらが目撃したことを顧みてもみろ! 自分たちに天意が与えられたと口にする、今ここに来ようとしている連中のやりようを!」

 自身を高揚させ、言葉を重ねるたびに自分でも名状しがたい感情に突き動かされていく。星舟の意志を超えて、論は溢れ出てくる。

「家を焼き、墓を暴いて財を奪うあの火事場泥棒どもが、諸君らに破壊以外の何をもたらした!? 困民救済に動いたか!? あんな連中に天が大義を示すというのかッ」

 否。断じて否である。
 それが主観と偏見によるものではなく客観的な物言いであることは、ちらほらと見える首肯から確かめられた。

「この病に意味があるとすれば、それは問いだ。そして問われているのは我ら全員に対してだ。人も竜も関係ない!」
 病に限らず、ここに至るまでに考えてきたこと。
 飢餓。鬱屈。折檻。差別。敗戦。そして野心。
 それらを経た夏山星舟の総決算が、今解き放つ心の叫びだった。

「この危難に際し、己が何者であるのかという問いッ! 背信忘恩の徒となるか! 個人的欲望をむさぼる略奪者となるのか!? あるいは自分の信じた生き方を貫く義士のか!  過去の行いに縛られることもない! 誰かの気まぐれで道が閉ざされていいはずもないっ! 今、自分自身の判断し、選択するのがこの戦いだ! 皆にはそれぞれの信念と誇りに従って、剣と『牙』を取って欲しいっ! それがオレの本心からの願いだ!!」

 地平の果てに、星舟は敵影を遠望した。
 まだ本格的に動く気配はないが、その足を止めたのは兵士たちの気炎であった。
 声量も、高低もまばら。だが皆一様に吼えた。それが、一瞬だが敵を留めた。少なくとも星舟の隻眼にはそう見えた。

 爽風で肺を満たす。
 その上で皆を見、そして敵を見、鋭く号令を放った。

「くり返す! これは己が何者かを定める戦いだ! 自分の在り方を、あの顔の無い畜生どもに示せッ!」



[42755] 最終章:鉄血の宰相 〜網草英悟の乱〜(十五)
Name: 瀬戸内弁慶◆eabf7a64 ID:fa083409
Date: 2021/02/07 22:37
 大岩戸館は政庁であると同時に元は平山城を改築したものであり、その防御機構もまた流用されていた。
 幾重にも空堀水堀が巡らされ、そこに急ごしらえで造られた遮蔽物や逆茂木が設置されていた。

 そこに攻め来る敵軍は、暴徒を糾合して合計三万。
 兵力は三倍。攻者三倍。攻城戦における基本則に沿っている。
 逆に言えば、遮蔽物で数的不利を補うことのできる防衛側は、白兵戦、射撃戦においては攻撃側より優位に立っている。

 だが、攻める時と場所とを選べるのは寄せ手である。
 したがって基本戦術的選択肢と先手は攻める方にこそある。そしてその精神が自身の偽善と欲求に食い潰されたとしても網草英悟は機動戦の巧者であった。

 玉石混交の軍を南北に素早く展開し、射程外より銃を射合わせた後、突撃を敢行。それが昼ごろのことである。
 こと熾烈を極めていたのが北部を攻める網草直属の精兵たちで、当初星舟の企図していた防衛線である丘陵に猛攻を仕掛けて押し込んでいく。
 その激戦たるや、硝煙で近くの味方の顔や手、あるいは生きているかどうかの様子さえも覆い隠してしまうほどであったという。

 だが一方で戦力を集中した弊害、それによる英悟の誤算も生じつつあった。
 いや、そもそもこの戦、どこからどこまでの範囲に正気だの計画性だのがあったのか。
 そんな先の見えない侵攻に末端の兵士たちの士気は衰え、物理的な距離が本隊より離れれば離れるほど、縁遠い勢力になればなるほど、それは顕著となっていく。
 したがって南部の戦線は三分の一にさえ満たぬ経堂、恒常の支隊と精密射撃によって阻まれ、最外円の水堀を挟んで膠着していた。

 現時点で決め手に欠けるは両者とも同じ。だが、それでも互いに光明は存在していた。

 英悟にしてみれば北部の要所を抑え込めればそれで勝ったも同じ。真竜種の精鋭という編成であるはずのガールィエ家にそれ以上の抵抗勢力など存在するはずもなく、若く経験に乏しく骨細というカルラディオなどたやすく討ち取れよう。そしてこの地の豊富な金属資源があれば、女王も己を見返し、自身に泣いておのが非を詫びることになるだろうという。

 一方で星舟はこの場において決着がつかずとも、二、三日間耐え忍べばよかった。
 さすれば周辺の反乱を駆逐した他の連隊がこちらに集結し、敵を背後から包囲しにかかるだろう。

 その願望に違いがあるとすればそれは、状況から判断した理性を伴うものか、ただの妄想か。
 見通したその先に未来があるか、否か……

 だが、この場合の軍配は前者に上がった。
 夕方ごろになるとついに北部の戦線は突破され、丘地は占領されるにいたった。
 狂喜した英悟は鋭く号令を出した。

 曰く「突撃せよ。非戦闘員であろうとなんだろうと、戦力として投入せよ」と。

 だが、北部戦線の指揮官たる弥平は、それに難色を示し、足を止めた。
 突破には成功したものの、被害は大であり、彼自身も右の肩骨に流れ弾を一発食らっていた。
 よって高所を取ったことで良しとし、留まった。

 彼は復讐心や虚栄心に凝り固まったこの陣中において、もっとも理性的な判断を下した得難い人物ではあっただろう。
 だが、かえってそれがこの場合は災いした。
 あるいは彼の部隊を犠牲に強行していれば、館の門を打ち破りなだれ込むことも可能であったかもしれない。
 だが、上記の理由を並べ立て停滞したことは後続の部隊の障りともなり、今日の攻めはそれ以上の成果を上げることはできなかった。
 そればかりではなく、孤立を恐れた南部の攻勢はさらに怠惰なものとなり、

 そのことに安堵しつつも、守将夏山星舟は淡々と被害状況を確認しつつ、空堀の前に二次防衛線を展開した。
 もっとも、それも想定どおりではあったが。

 弥平が与えた時間的猶予は結果として竜軍に再生の機を与えたばかりか、さらなる誤算を招いた。

「いよぅ、楽しんでるかー?」

 ……その次の日の夜明けには第一連隊がいちはやく着到し、南部に展開。治安維持に副将ポンプゥ以下半数を割いた寡兵なれども、圧迫に成功する。

 ここに来て、網草英悟は自身の友を難詰。その負傷に触れることなく惰弱と罵倒し、彼を前線から更迭。代わり報復戦を求めていた令料寺長範を先鋒に委ねた。

 苛烈なこの陣替えは暴走でしかないが、守勢に回る側にとって恐るべきは被害を考慮せずこちらに出血を強いる無理攻めであろう。
 元来長範も堅実な用兵をする男ではあったが、ここに来る前に彼も義弟の仇討ちとばかりに焼き働きに加担し、かつ強引に藩主を押し切って参戦していた。
 それがおのが政治生命を完全に断絶させる暴挙であることも覚悟のうえ。すでにその心中は背水に陣している。

 南の失態を補い、かつその怠惰を咎めるがごとく、長範は弥平よりも激しく攻めかかった。
 だが、今まで精彩を欠いていた星舟の采配は、ここに来てにわかに色づいた。

「塹壕」
 と淡々と告げることによって。
 指し示したのは、空堀である。否、敵にそうと思い込ませていた地点である。

 すでに其処こそが本命の防衛線と定めていた。
 勇んで攻め寄せ、うかうかと射程内に入ってきた敵は、その内に潜んでいた鳥竜部隊の斉射を受けて甚大な被害をこうむった。
 空堀と見まごうばかりに掘り下げたそれは、実のところ巨館へと続く塹壕であった。
 獣竜種の怪力と技巧により急ごしらえで造られたそれは、だが並みの人間が詰めればその行き来に難儀したことだろう。退避、後退も容易ではなかっただろう。
 あるいは鳥竜を上空を滑空させれば、敵の弾幕の良い的となったはずだ。

 だから星舟は、鳥竜を地下に伏せた。
 滑空や跳躍の能力を上から下への急襲ではなく、下から上への奇襲や移動に使わせるために。

 ここに至って、かの少年大将はこの攻城戦が予想を超えて困難であることを察した。とても、粘り強いこの抵抗は、とても病人の指揮ではなかった。
 否、彼はそこまで、何者と対峙しているのか知らなかったのである。
 そして網草英悟は知った。
 櫓に立つその指揮官の姿を見た。

 忘れもしない、あの黒髪。あの隻眼。
 当然のことながら銃弾の届かぬ間合いである。煙幕も張っている。だがそれでも、しかと目視できた。

「…………お前かぁぁぁっ!!」

 夏山星舟を認識した瞬間、網草英悟の理性は完全に飛散した。



[42755] 最終章:鉄血の宰相 〜網草英悟の乱〜(十六)
Name: 瀬戸内弁慶◆eabf7a64 ID:fa083409
Date: 2021/02/23 21:12
 敵陣深くより少年の声が聞こえる。
 幾度となく聞き覚えのある声。
 その都度彼の発する感情の色は異なったが、それらすべてが幼稚さの抜けない、甲高い声であった。

 今回の場合は、ほぼ狂乱に近い怒声であって、衝動のままにまくしたてるものだから話の内容を汲み取るに容易ではないが、察するに自分に宛てられたものらしい。
 断片的に拾い上げて曰く、

「お前にさえ負けなければ」
「お前とさえ戦わなければ」
「お前さえいなければ」

 と来たものだ。

「え、なんで」
 星舟にしてみれば訳がわからなかった。この時ばかりは完全に素で問い返してしまった。
 たしかに彼、おそらく網草英悟とは一度戦闘し、さんざんに打ち負かした。
 だが勝敗は兵家の常であって、軍人である以上いずれは敗北を喫さずにはいられないはずだ。そのことを覚悟して戦場に立っているのではないか。
 ゆえに、ここまで過剰に恨まれる憶えは彼にはなかった。

「なんのこっちゃ」
 思わずぼやいた星舟に、南部の戦線が安定したことで報告に来ていた子雲がいわくありげな眼差しを送っていた。
 どうやら心当たりがありげな彼に尋ねる。
「なんかすごい恨まれてるんだが、何か知ってるか?」
「さぁ」
 あからさまにこの男はすっとぼけて肩をすくめた。

「……まぁ良い。それよりも連中、いよいよ本攻めに入る」
「あぁ、そのようですな」

 気の抜けたような調子言った後、しかしその踵の切り返しは鋭かった。

「おそらくはそれと連動し、討竜馬の別動隊を後背に回そうとするでしょう。グエンギィ殿が来られたことで、南には余裕があります。……迎撃に行きましょうか?」

 星舟はじっと隻眼でもってこの面従腹背の男を見た。
 だが、打算のできる男でもあった。いまさら戦略的にも戦術的にも絶望的、人としても終わっている少年に、先を見出して鞍替えすることはあるまい。

 今更にすぎる気もする判断とともに、星舟は首肯した。

 ~~~

 果たして子雲の予言は現実のものとなり、その働きは首尾良く運んだ。

 起死回生の奇手であったであろうその迂回攻撃は、北東の防備を厚くした子雲の部隊に阻まれ、死に体と化した。死兵に非ず、死に体である。
 士気はすでになく、進退ままならず、骸のごとき停滞を続ける。

 その奇襲と同時に、敵本隊が動き出す。
 様子を遠望していた星舟に抜かりはない。それも織り込み済みでカルラディオの供出した少数精鋭部隊に下知をあらかじめ飛ばしている。

 葛藤があるとすれば、それは己自身の気質だろう、とリィミィは傍らで青年の横顔を見つめた。

 この見栄坊は、常時、潜在的に視線を恐れている。自分が他者にどう見られているかを無意識化に気にしている。それは根の部分に定着した、成長してもなお拭い難い本質であろう。それが軍事における慎重さ、竜中の人という微妙な立場における政治感覚の土壌となっている面もあるが、逆にそれを極端に恐れ、単身細い橋を渡る危うさと隣り合わせでもある。

 単純に、お人よしの世話焼きということでもあろうが。

 とかく、常の彼であれば陣頭指揮を執っていただろうが、それをリィミィが諫めた。おそらくは星舟が考えている以上に、この戦いは今後の人竜の在り方を決定づける転換点であろう。その場において万一のことがあってはならず、星舟にとっても自身のその危うさと訣別し、大将として殻を打ち破れるかの瀬戸際であろう。

 手柵にかける指が、過度に張り詰めている。
 常より安全な場に陣取る彼に、臨死の恐怖などあるまい。彼が恐れ、そして嘆いているのは、坐したままの自分の差配によって、命が奪われることへの嫌悪感からでもあるだろう。
 リィミィは、その指先を解いたやりたくなった。いや、むしろ、分不相応な野望などかなぐり捨て、今からでもどこか安泰な場所へ突き放してさえやりたくなった。

 だがその腕を伸ばすより先、その無用の気遣いを天を拒むがごとく、情勢が動じ始めた。
 これが最後ぞと決死の覚悟を伴った敵集団が、一つ塊となって正面突破を図る。
 狂える網草英悟自身に率いられた彼らは、さすがに精悍である。生半の獣竜でさえかくやという勢いがあった。

 生半の、獣竜であれば。

 そこで星舟が大手を振った。それを見て中継の使い番が旗をもって合図を送る。
 塹壕伝いに敵本隊の脇をすり抜け、背後に回ったのは例のカルラディオの部隊であった。
 彼らはようやく得たその機と、そして敵を逃すまいと、すでに突破されていた高所を再奪取する。その退路の口を閉じた。
 むろん、それはともすれば孤立の危うさを伴っていた。現に、そのことを気づいた本隊の一部が、それこそ死に物狂いで突破せんとする。

 が、ブラジオの形見たる彼らの勇猛さは言うにおよばず、死を期する、という点では彼らとて負けぬ、劣らぬ。
 時間遅れの『殉死』を求めていた彼らは勇躍し、危地へと飛び込んでいく。

 それに合わせて星舟は二度目の断を下した。
 前面の塹壕に伏せていた獣竜種が、人間が、別なく跳ね起き、敵正面を火砲で穿った。

 網草英悟は、それでも一定にこちらを目指すべきであったのかもしれない。ともすれば、肉薄できたかもしれない。望みの極薄な、仮定の話ではあるが。

 だが、分かれた。おそらくは彼が命じたことではない。もはや統率を欠いたその兵士たちは、生死にかかわりなく味方を見捨て、散り散りに逃げていた。

 しかしそこに副将とおぼしき、例の常道にして堅実を行っていた兵士が、それらをかなぐり捨てて飛び込んできたため、英悟自身は取り逃がした。

 だが、もはや勝敗と優劣はここに完全に決した。
 それまで、星舟が櫓から下りることは一度もなかった。

 ~~~

 この日の攻勢も、失敗に終わった。
 いや、この失敗がおそらくは最後のものとなるだろう。あるいは無断出兵の時点で、夏山に敗けた時点で、すでにこの少年の武運は断たれていたのか。

 着崩した軍服。そこから除く裂傷に手ぬぐいの当てたりして止血しながら、鵜飼弥平は頭を抱えたままの英悟を冷ややかに見下ろし、それは令料寺長範も同様であった。

 もはや、無茶攻めを強いる気力さえ残っていない。
 ぶつぶつと繰り言を続ける。甲が悪い、丙のせいだと自身に連なる無数の関係者に責任を擦り付け、髪をかきむしっていた。散々に硝煙と土煙を浴びたその髪色は真っ白になって、朽ち果てた老人のようでもある。

「英悟、各地の反ら……義挙も鎮圧されつつある。数日もすれば完全に俺らは包囲される。もはや、これまでだ」
 これよりどうすべきかは、進言した弥平のみならず一兵卒でさえ明らかであったろう。
 撤退する。どれほど生き残れるかは定かではないが、各地の敗残兵を収容しつつ帰国し、女王の下に出頭して沙汰を仰ぐ。
 まず間違いなく首脳陣の生命はあるまい。だがせめてこんな愚かな行為に従ってくれた残兵の命ぐらいは、一人でも多く救わねばならぬ。
 せめて星舟の首を獲れれば、と思っていたが、ついにそれも叶わなかった。
 間違いなく、義弟の仇は今この先にいるというのに。

「いやだ」
 駄々をこねた、と長範は視た。
 ――誰の、指揮のまずさのせいでこうなった? 義弟の時も、そうだ。
 朱色に変じた彼の横顔を見て、弥平は止めようとした。だが止まらない。長範自身にも。軍刀の口に指をかけ、ぎらりと鉄光が夕陽に煌めく。

 だが、がしがしと頭をかきむしる英悟の言わんとしていたことと、長範の見解とでは齟齬があった。いや、現実逃避には違いないが、この戯言が

「いやだいやだいやだ……どうして僕ばかりがこんな目に遭うんだ……っ、どうして、僕ばかりが貧乏くじを引かされるんだ」

 と続いた時……貧乏くじという単語が耳に届いた時、長範の手は停止した。
 それ以上は誰も、何も言わなかった。ただ、英悟のすすり泣く声だけが響いていた。

 長範は怒気を収めてじっと彼を見下した。敵要塞を睨み上げた。
 次いで、はらはらとした様子で落ち着かない弥平を見、そして陣幕の内に彼を手招きした。

 当惑しながらも自分に追従してきた彼に対し、長範は説明の手間を惜しんで切り出した。

「もはや一刻の猶予もなく、司令官殿があの様子では指揮もままならない。よって、各藩の、生存している最高位の指揮官の判断をもって撤退してもらう。そして其方の上官は我が手勢が責任をもって国元へ送り届ける」
「え、でも……」
「分かっている。別にこれは温情などではない。しかるべき手順を踏んであの小僧には罪を贖ってもらう」

 だが、と完全に副官の方へと向き直り、長範は言った。

「私には、もはや帰ったところで居場所などない。貧乏くじ。もはやそれも引き飽きた。私は唯一残った方法で、我らにそのくじを掴ませた男に清算をさせてやる」

 それは、と問いかけて弥平は黙った。目の前に立った家老の眼光に、尋常ならざる妖気が帯びていたからだ。

「鵜飼弥平」
 長範は彼を士としての名で呼んだ。

「其方には、友のため、あんな廃人大逆人となった愚者のために、義理を果たす腹積もりはあるか」

 浴びせられた気迫と、具体性を伴わない問いかけ。その両者でもって、弥平は彼の思惑を察した。
 一度は目に見えて動揺しつつも、やがてはふっと脱力し、一歩進み出た。
 はにかみながら、答えた。

「そうだなぁ……ふつうじゃ、こんな時代じゃ、あいつと一緒に村を飛び出さなきゃ、考えもしなかっただろうなぁ」
「……」
「ぜったい勝てるわけねぇって思ってた竜ども相手に一矢報いるばかりか、一度は大勝ちしてさ。その功で侍になって白い米食って、綿の衣なんざ着て、上等の女買って抱いて……まぁあんなだけどさ……そんでもお釣りがくるぐらい、良い夢見させてもらった、のかな」

 どこか寂し気な様子で、名残惜し気に息を吐く。さらに一歩分、長範の間合いに進み出る。
 そうか、と長範が口内で呟くのと、強く踏み出すのは、ほぼ同時であった。

 一度は納めた刀。それが鞘走り、鵜飼弥平の心臓に突き立てられた。



[42755] 最終章:鉄血の宰相 〜網草英悟の乱〜(十七)
Name: 瀬戸内弁慶◆eabf7a64 ID:fa083409
Date: 2021/03/09 07:54
 敵が退いていく。担当地域を鎮圧したとおぼしき味方が増援を寄越してくる。
 すなわち、勝利であった。
 無敵の装甲と強靭な膂力を持つ真竜の力ではない。その威に頼らぬ、確かな手ごたえがあった。

 安堵とともに萎えそうになる我が身を柵に寄りかかって支える。
 逃げ散る敵を、味方が追撃していく。大義は元よりなく、勝機も完全に消失した今、もはや伏兵も反撃もあるまい。

 そう判断すると同時に、またぞろ肉体を倦怠感が襲った。髄鞘にも不純物が混ざり、視界と思考とが、紙に染み込む墨汁がごとく黒く鈍く滲んでぼやける。

 だが今倒れるわけにはいくまい。自身を叱咤した星舟が立ち上がった。

「……あんたはしばし休んでおけ。後始末は私がやっておくから、せめて勝鬨を上げる体力気力は回復させておくことだ」
「でも何にもしてないだろ、今回オレは」
「十分だよ」
 それを見届けたうえで、様子を見守っていたリィミィは言った。いつになく優しげな語調ながらも、有無を言わせない圧力があった。

 仕方ないのでそのまま櫓の上でへたり込んでいると、シェントゥが階下より顔の上半分を覗かせた。

「あの、投降者が面会を求めていますが」
「投降者だぁ?」
 連絡要員として塹壕中を駆けずり回っていた彼もとい彼女は、おずおずとその名を告げた。

 令料寺長範。
 言わずもがな、汐津の家老である。
 すでに幾度となくやり込めた相手であり、それ以上の感情は、鈍った頭では抱けない。

「敵副頭目の首級を手土産に、身の安泰を求めているとのことです。すでに腰のものはお預かりしておりますけども……」
「分かった。こちらに来るよう言ってくれ」

 もはや勝敗は決したうえで、しかも味方を手にかけてまでの寝返りである。その首級が偽者でないのなら、まして兵も伴わずに単身やってきたと言うのならば、偽装であるとは思いがたい。そもそもこの状況で何の策を講じられるというのか。講じて、今更人の側に回天などあるものか。

 だがこの時、彼は肉体の不調もあって著しく認識を欠いていた。
 かつて彼を欺いた時も、相手に自分がそう思われていたという、その一事を。

 〜〜〜

「長範にござる」
 刀を預けて櫓にやってきた男はみずからと立場や矜持同様の、底まで落ちた低い声で改めて名乗った。

 ――こんな顔だったか?
 と星舟がぼんやりと追憶したのは、無理らしからぬことであっただろう。

 それほどに、かつて見た切れ者の家老の姿とこの『卑怯者』との姿は乖離していた。
 なるほど儀礼は故実に従った、折り目正しい所作であった。
 だが表情はどんよりと、暗澹としている。にも関わらず、目だけは獣のごとく炯々と光を湛えているものだから、なお一層のこと不気味だ。

 最初は影武者かとさえも疑ったが、それでも面影はきちんと残していたので、狼狽もそこそこに星舟は不調を隠すべく居住まいを直した。

 その彼の膝下に、濡れ音とともに手ぬぐいにくるまれた球体を差し出した。
 結び目を解けば、少年の生首がそこにはあった。

「網草が腹心、鵜飼弥平の首にございます」
 星舟は隻眼をもってそれを凝視した。
 あまりにも鮮やかな不意打ちであったのか。その鵜飼なる少年の死相には、悔恨や無念の様子は見受けられない。殺されたこそさえ気づいておらず、今も意識はつながれているのではないかと思えるほどだった。

「今日にいたるまでに散々に打ち負かされ、赤国やカミンレイ、あるいはこの者らに酷使され、ようやくおのが不明を悟り申した。貴殿さえも持て余す藩王国です。竜に勝てる道理などございませんでした。このうえは星舟殿の下、愚かなるその者らを誅することで、我が罪を雪ぎたく存じます」

 と、おのれの心情の推移を長範は語った。
 なるほど筋は通っている。だが、気にかかる点がないでもない。

「何故、網草本人の首級じゃない?」
「討ち漏らしました」

 彼は平然とみずからの不首尾を認めた。

「されどあの小僧めは既に廃人。国に運良く戻れたとして、待っているのは打首でしょう。しかし鵜飼はその残兵をまとめてその後継となるでしょう。この少年は実務に長け、手堅い戦をします。この戦においても彼は、高所を取ることに成功しています。後日、竜の災いとなることは目に見えることゆえに実を取り、その芽を摘んだこと、聡明な夏山殿にはお分かりいただけるはずですが」

 これもまた理にかなっている。
 だがその弁が用意されていたかのごとく流暢であるあたりが、星舟の猜疑心をわずかながらに刺激した。

「……分かった。トゥーチ家には自分より取り計らっておこう。以後、忠勤に励め」
 が、微細な己が直感に逐一律儀に応じていられるほどに、今の星舟に余裕はない。
 それを勝者の奢りと捉えて責められようが、どうしようもないことだった。

 注意と顔をわずかに逸らした転瞬の出来事だった。
 弥平の首をつかみ上げた長範が、やおら立ち上がった。その首の後ろに手を差しいれると、血濡れの小刀が露わとなった。おそらくは、頸骨の一部を差し替えていたものであろう。無惨にして非業の死を遂げた死体をさらに辱めるがごとき真似までして、シェントゥらは検めることをしなかったのだろう。

 星舟の対応が一瞬遅れたのは、不調のせいもあったが、何より隻眼の死角を突かれたからでもあった。ふだんは己の不具を補う立ち振る舞いをしている彼が、完全に油断しきっていた。いや、久方ぶりに、思わぬところで足をすくわれる、その悪癖が出たというべきか。

 そして動揺した彼は、思わず刀の柄に手をかけた。かけたつもりで、最悪手を踏んでいた。
 何しろそれは決して抜くことの出来ない刃。シャロン・トゥーチの『牙』であったのだから。

「人奸、覚悟ぉぁっ!!」
 瞠るその隻眼の寸前に、夕陽を照り返した刃が迫りつつあった。



[42755] 最終章:鉄血の宰相 〜網草英悟の乱〜(十八)
Name: 瀬戸内弁慶◆eabf7a64 ID:fa083409
Date: 2021/03/24 01:12
 星舟の命の灯が天運というなの嵐にさらされていたまさにその瞬間、同じくして生命の終わりを迎えようとしていた者がいた。
 碧納にて病臥していた、シャロン・トゥーチであった。

 苦し気に喘ぎその総身は燃えるような熱に蝕まれ、その血肉さえも焼き溶かすのではないか、というほどであった。
 もはや意識はなく、甲斐甲斐しく医師が面倒を見てはいるが、その献身もただ空転するばかりで徒労に終わっているという有様だった。

 その不甲斐なさに苛立つジオグゥではあったが、かと言って荒事しか出来ぬ彼女に医療行為など従事できようはずもない。まして、原因不明の治療法不明。唯一分かるのがその対応不能という絶望感のみであった。

 それでもつい病床を抜け出して出張って、おのが不養生をかえって詰られる結果となる。
 そして、シャロン自身の肉体とはまた別に、異常が発生していることをここで知った。

 『牙』が、ない。
 シャロンの武器。彼女自身を脅威の兵器たらしめるモノが。
 
 彼女自身はその力を忌避する向きがあったが、それでも真竜の至宝たるには違いない。トゥーチ家令嬢の危篤の裏でその事実を知った者は皆血相を変えて息を荒げている。

 そのことを秘密裏に報せてくれた侍女は、さらにこんなことを青ざめた顔と瞠った眼と震える唇で告げた。

「その、お嬢様の手元よりなくなったと思われるのは、夏山様が出陣した頃合いに前後すると」

 ジオグゥは低く笑った。

「それであの者が理由もなく盗み去ったと? ずいぶんと余裕のある妄想ですわね。……こういう与太話を吹聴し、そして信じる者が、かえって今の事態を混乱させていると分からないのか」

 夏山の天敵が、珍しく彼の肩を持った。
 無論、彼が目の前に居たのならば、相手が必死に否定すること込みで侍女の方に与し、憎き男を共に苛んだだろう。
 だが、この時ばかりは無用の疑惑を避けてやるだけの分別ぐらいは、ジオグゥにもあった。

 だが皮肉にも、常日頃何かにつけて夏山星舟の陰謀を疑う彼女が信じたこの一事に関してのみは、その読みを外していた。

 図らずも実際、『牙』は彼の手元にあったのだから。

 それとの因果性は知るべくもないが、見る見る内にシャロンは衰弱していった。
 寝台の上から転げ落ちないように押さえつけるのに苦労していた彼女の身柄はやがてその激しささえ失い、呼吸もしだいに収まっていく……否、収束していく。まるでどこか一つの道の、終点にたどり着いたかのごとくに。

 息を、とジオグゥは小さく声をあげてシャロンへと歩み寄った。
 息をしてくださいと、生きる者には欠かすべからざる行為を催促した。
 だが侍女長の願うのとは裏腹に、息遣いはもはや耳を側立てる者にしか聞こえない、糸を引くようなものになっていく。

 その糸が、ぷつり、と絶えた。

 まだ血の気と高熱の残る手の首を取り、脈を測っていた医師が、無念そうに、かつ助けられなかった己に降りかかる後難に恐怖し、首を振る。
 と同時に、ジオグゥの内部よりもまた、何かが底より抜け落ちた。
 その底があればこそ、怒りもあれば憎悪もあった。
 だがもはや、それらの感情も己が内を素通りするばかりだ。完全な、虚であった。

 立つことさえ能わぬ。膝より崩れ落ちる彼女を支えるのは、寝台の縁のみ。

 その精神的空白が、体勢の不均衡が、鋭敏な女獣竜としてはありえない事態を引き起こした。

 廊下より無数の靴音が響き、大小に分かれた悲鳴が散らばって聞こえる。
 身を起こす間も無く白の死装束と白い軍服をまとった兵士たちが室内に踊り込んでくる。

「見つけたぞ! シャロン・トゥーチだ!」
「斉場が遺臣と、『神聖騎士団』が、その命頂戴つかまつるゥ!」

 なんという、茶番か。
 すでにして命が絶えたまさにその際に、そうとは知らぬ愚者どもが殺しにかかってくるなど。

 届かぬか届くか微妙な間合いに至った刹那、彼らのひとりが、彼女の骸をさらに損なうべく、大刀を振り上げた。

 〜〜〜

 サガラ・トゥーチが帝都に至ると、そこはすでに死都と化していた。
 人の踏み入れぬ領域から竜が絶えれば、そこはまさしく虚ろな地獄だ。

 もはや防衛機能のない城門を単身くぐり抜ける。
 首都機能も持ち得ない居住区はグルルガンらに任せて、自身は禁中に踏み入れていく。それらの道々、累々と折り重なった死屍を乗り越えていく。

 いかなサガラとて少なからず動揺していた。いたが、それでも「まぁこうなるわな」とひどく冷淡な感想も持っていた。

 元よりここに住まう者どもに、それほど愛執があるわけでもない。皆いずれも、『混ざり者』であるサガラを侮蔑し、いくら忠勤に励み遁辞をさせぬほどの功を挙げてもなお、その視線の抜けきらなかった臣民である。

 今回こうして虫のように死んでいくのも、まぁ自身らの脆さに気づかず驕り、脚の痩せ細った椅子に安居していた分の清算と言ったところだろう。

 それならそれで、良い。

 滅びるなら滅びれば良い。
 だが、なによりも許せぬものが目前に迫っている。

 人間が、まだのさばっている。
 際限のない分不相応な欲を持ち、その卑小な命惜しさに保身に奔ればどんな非道なこともしてのける。それを正義と定義づけて己さえも欺く。

 こんな醜い生物が、自分たちの去った後に霊長の頂点に収まるのか。獣竜たちが残ったとて、いずれ技術の進歩は彼らを凌駕する。そうでなくても、数を増やしてのさばり、この紅い雨こそが自分たちに地上を治めよという天意である吹聴する様が、容易に想像できる。

 それが何より、我慢がならない。

 ――まったく、蕩けた頭で余計なことばかり考えるもんだ。
 サガラはそう自嘲した。

 病魔に身を焦がし、業で我が身を焼くようにしながら、ふらつく身体で奥殿まで足を踏み入れる。
 苦痛の峠は越え、いよいよ視界までそろそろどうにかなってきたらしく、自分が歩む先に亡者の行が見える気がした。
 自分もまた、その列に並ぶというのか。

 だがその幻惑も、玉座の前で側女に囲まれるようにして倒れ伏した貴人を見た瞬間、ハッと醒めた。

「陛下ッ」
 駆け寄ったサガラが助け起こすと、息も絶え絶えに彼は臣を見上げた。
 父と同じく、神の血に近いとされる龍帝である。ゆえにここまで延命しえたのだろうが、いかんせん自身が病弱にして不摂生であった。この疾病がなくとも、いずれは破滅していたとは思う。

「しっかりなされませっ、今我らが玉体を喪うことがあってはならぬのです」

 今でなければ良いのか。
 我ながらそんな意地の悪いことを考えていると、助け起こされた帝は自身の身柄よりも、サガラよりも、めくれ上がった御簾と玉座の後ろに視線を投げた。
 そこから、わずかながらに風を感じた。

 ――なんだ、何があるという?
 風聞によらば、神々の霊廟が宮殿のいずこかにあるというが、もしやそれではあるまいか。
 この奥にあるものが何物であるにせよ、秘中の秘であることに違いはない。
 帝のその眼がその証明をするかのようだった。

「自分の代わりに行ってくれ」
 とも伝えるようでいて、
「其方だけは決して立ち入るな」
 という牽制であるかのようだった。

 その本音を帝に質すようなことはしなかった。だが予感はあった。早鐘を打つ心臓は、何も病状のためだけではないはずだ。

 踏み入れて、この雨の、病の、いやそれ以上の存在にまつわる真実の一端に触れたが最後、決して後戻りはできなくなるであろう、という。

 だがその歩みに、躊躇はなかった。
 惜しむような命ではない。惜しむような世界ではなかった。
 ただ弱く悪しき物が世を統べる未来、その理不尽に対する怒りだけが彼を突き動かしていた。

 そっと玉体を寝かせたサガラは、やや埃っぽい、鉄の匂いを孕んだ風に誘われるままに、その奥へと、薄闇の中へと入っていった。

 ――やっと、雨が上がった。



[42755] 最終章:鉄血の宰相 〜網草英悟の乱〜(十九)
Name: 瀬戸内弁慶◆eabf7a64 ID:fa083409
Date: 2021/04/03 15:25
 雨が止んだ。止む時も異常そのもので、一雫さえ残さず乾き、ある瞬間を境にフツリと絶えた。
 だが星舟はそこに気づくことがしばらくできなかった。

 一つには彼が外の聴覚情報を正確に受け取れる心理状況ではなかったことに起因し、そしてもう一つ、身近の別の水音が彼の耳を占めていたからだった。
 彼の陣羽織を、軍服を、したたる紅雫が濡らしていく。

 彼を組み敷く長範は、荒い呼吸とともにそのまま固まっていた。否、見る者に分かるか分からないか程度に小刻みに震えていた。その身が、唇が。

 そして大きく目が見開かれていた。
 ちょうど、星舟自身がそうであるように。

「き、さま……」
 やがてその口端から、血とともに言葉が漏れる。



「人間では、なかったのか……っ!?」



 え、と呼気が漏れる。
 とっさの出来事ゆえに停滞していた処理が頭の中で再開され、世界は鮮明となっていく。
 自分が死ぬはずだった。つまらない末路が思い描かれていたはずだ。
 だがその予想は外れ、首級から外れた刺客の刃は、星舟を殺害することが能わず、依然彼の手に握られていた。

 代わり、血で濡れていたのは星舟自身の刃だ。そして腕だ。
 決して抜けるはずのなかった『牙』が銀刃を剥き出して、男の肉体を穿ち抜いている。

 その柄を縋るように握りしめていたおのが腕が、二の腕、肩口と……未知の金属で、覆われていた。侵食されていた。

 汐津藩家老は、自身のすべてを擲った最期の賭博に負けた。
 無念の形相のまま崩れ落ちて、おぞましき問いがその遺言となった。

 と同時に、星舟は恐懼した。
 腰を擦るように後ずさり、まだ熱の残る骸の下から抜け出て、肺腑で過剰な量の外気を取り込み、やがて縁へと行き当たってそこにもたれ込んだ。

「ちが、う……!」
 硬直した指を剣の柄を一本一本外していく。その動きだけが、我ながら妙に丹念であった。
 金音を立てて『牙』がこぼれ落ちると、虚脱感とともに、腕の異形化が解けた。
 夢か、幻か。否、人ならざる力によって無惨な令料寺長範の死体は、偽り様もない現の事象であった。

「オレ、は……オレは!!」
 黒髪を、隻眼を掌で覆い包み、喉をひくつかせて、出かかった言葉を呑み込む。
 もっとも、それは言語化できようはずもなかった。
 何かを肯定する証も否定する裏付けを、おのれの内に持たないことを悟った。
 己は、いったい何者だ……?

 ~~~

 雨は止んだ。だが、碧納の新館、シャロンの私室には水音が断続的に響いていた。
 ジオグゥ、シャロンと敵の間に割り込んだ大柄な影が、前のめりに傾く。

「……アルジュナ、さま……」
 刃の突き出た前当主の名を、愕然とジオグゥは呟いた。
 その背に、幼き日、去りゆく父の面影を見た気がした。

 その病身を刃に貫通されてもなお、老竜は背を伸ばし直して屹立し続けていた。
 そして思いがけない腕力でもって刃を抜き取り、その凶手を絡めとる。

「若いな」
 と彼は凶徒どもの面々を見回しつつ先ず言った。
「親もおろう、ともすれば子もあろう。だがサガラが戻れば、其方らからすべてを奪い去る。……疾くこの場を去れ、生きて本来の分に戻るが良かろう」

 まるで噛んで含めるかのごとく説得した。
 それを耳が届いているかどうかさえ、衰えたと言えども真竜の威圧感にさらされた今の彼らには分からない。
 がちがちと歯の根を鳴らし、必死の面持ちで身を退いていく。アルジュナもそれを咎めず、腕を解放した。

 彼らに理解できることがあるとすれば、この襲撃は混乱を突いた『急ぎ働き』なればこそ通用したこと。そして時とともにアルジュナの警告が現実味を増していくであろうということ。
 本能が鳴らす警鐘に突き動かされるかのごとく、逃げ散った。
 そもここにいるのは戦闘要員ではなく、追わんとする者はいなかった。

 その気配が完全に霧散するのを皮切りに、アルジュナがようやく膝を折った。
「アルジュナ様!」と駆け寄るのを押しとどめ、なお立ち上がらんとする彼だったが、すでにその痩躯は限界に近く、ふたたび

「どうして、雨の中こちらへ……」
 立て続けに襲ってきた凶事につい後回しにしていた疑問を、ジオグゥは呈した。
「サガラも星舟も発った。シャロンも病臥……とすれば何者かが、留守を……守らねばならぬと思った。……どうやら、間に合ったようで何よりだ」

 澄んだ宝石質の視線に見返されて、シャロンは唇を噛んで俯いた。
 間に合ってはいない。一足遅かった。
 彼が身を挺して救わんとした娘は、すでに泉下へと旅立った。咎めることなど出来ようはずもないが、せめてあと一歩到着が早ければ、死に目に立ち会えることもできただろうに。

 ……そう我がことのように悔いるジオグゥではあったが、その背で咽こむ音が、彼女の暗澹たる心を切り裂いた。
 女官のむせび泣く声とも違う。まして男衆が場の空気を読まずにしわぶきしたものであろうはずもない。たとえ声を発さずとも、息遣いを聞き間違えるはずもない。

 恐る恐る顧みれば、さらに、死んだはずのシャロンが二度三度、遅れが生じた心肺の調子を取り戻すがごとく、咳き込んでいた。

「シャロン様っ!」
 ジオグゥがその名を再度おのが舌に上らせたとたん、場は困惑や合理性をかなぐり捨てて歓喜と安堵に満ちた。

 されども、まだ完全に魂が戻ってきたわけでもないらしい。
 喘ぎ喘ぎつつ、陶酔するがごとく瞼を薄く持ち上げたシャロンは、
「セイちゃんが」
 ふたたび頬に紅をのぼらせながらもジオグゥに夢見心地の調子で言った。

「セイちゃんが、いじめられそうになってたの。だからあっちに行って、一緒に戦ったの」
 常よりひときわ幼く舌っ足らずで、かつ現実味に乏しい繰り言に苦笑しつつ、ジオグゥはその髪を撫でつけた。

「今はどうぞ……お休みください。あの粗忽者には、しかとこの不首尾への譴責をいたしますゆえ」

 そして負傷したアルジュナが介助され、シャロンの、そして他の真竜の容態も時を待たずして安定して快方へと向かっていった。
 理ではなく、肌身で判る。
 竜にとっての悪夢が、ようやくに終わったのだった。

 ~~~

 雨が止んだ。されど、喪われた命は戻って来ない。
 取り残された骸を静かに数えながら、グルルガンは慄然とした。
 だが、奇跡めいた、あるいは運命めいたものもまた、感じ取っていた。
 何しろみずからの主が登殿した直後に、この紅雨が、黒い雨雲がいずこかに引き上げていったのだから。

 やがて、サガラが宮殿の前へと戻ってきた。
 グルルガンはそれに駆け寄り、

「如何で」
 と尋ねた。
「残念ながら、陛下はすでに身罷られていたよ」
 サガラは、事もなげにそう告げた。

「さ、さようで」
 かける言葉も見つからず、強面の鳥竜は曖昧にうなずいた。
 帝の崩御など、卑賎の身には遠く如何ともしがたい悲報であるがゆえ、実感が沸かないのいうのもある。
 だがそれ以上に、この黒竜が言った以上は、そうなのだろう。その理非はともかくとして、信じるよりほかないのだ。

 なのでこの時、別段グルルガンは何の疑問をも持たなかった。
 彼が初めて危機感を覚えたのは、サガラが宮殿の、高く伸ばされた柱にもたれた時だった。

 笑っていた。

 それも忍んでさえいなかった。しきりに呼気を震わせるそれには、自制せんという意志も一応には感じ取れたが、それをも突き破って、やがてはどこか壊れて外れたような声音で、サガラは大笑いし始めた。

「こんな、こんなものが……こんなことがッ」
 だがそこには、常の如く他者を見下し、貶めるような悪意は感じられない。

「さ、サガラ様……!?」
「なぁグルルガン、こんなことがあってたまるか!? あんなものに……いや、あんなものが、この世界の真実だと!!」
 おろおろとする従者に大声を発し、肩を掴む。
 だが、グルルガンに何か答えや反応を期待している様子には見えない。
 おのれは、ぶつけ処だ。行き場のない感情をただぶちまけるだけのはけ口だ。

 そう、この感情はおそらくは、付き合いの長いグルルガンの可能な限り察せられる限りでは……怒り。

「じゃあもうこの世界は……とうに壊れて狂って終わっているじゃないかっ!」
 古今かつてない激怒と憎悪を以て、サガラ・トゥーチはいつまでも笑い続けて、グルルガンの胸の内に崩れて折れた。



[42755] エピローグ:魂の縄張り(藩王国)
Name: 瀬戸内弁慶◆eabf7a64 ID:fa083409
Date: 2021/04/07 00:02
 かつては、そして彼自身の仮想の中では意気揚々と凱旋していたはずであった、王都。
 だが現とは無常である。
 網草英悟は帰途、七尾藩兵に捕らえられた。彼に従っていたわずかな供はその場で即殺され、本人は護送車によって見世物のごとく大路を運ばれて、すでに彼が進行先で略奪や虐殺をくり返してきたことは周知となっており、そんな大罪人が自分達と同じ道を渡ることさえ穢らわしい、とでも言いたげに顔をしかめ、背け、あるいは露骨に罵声や石を投じる者さえあった。
 そのいずれにも、虜囚、網草英悟は反応しなかった。すでに細州にて命を落としたかのごとく、がっくりと項垂れたまま車輪付きの監獄の中で黙していた。

 その彼が反応を示したのは、車が道中で留まった際である。
 ――さては衆人環視の中、見せしめに首を刎ねるつもりか。

 自身の死が間近に迫っていても、少年はやはり何の感情も沸いては来なかった。
 実感が薄いわけではないが、もはや命に執着する理由がなくなっていた。

 だが、並び立った風の薫りを、格子越しに見えた影を、感じ取った彼の死魂はにわかに現世へと引き戻された。

 深く編み笠をかぶり長刀を携えた、すらりとした輪郭。
 一見すれば涼やかな美剣士、あるいはそれに扮する役者のようでもあるが、それが彼の重く強く慕う娘……尊崇する女王であることは彼の眼には瞭然としていた。
 車を遮ったその貴人を咎めんとした番兵も、さすがに間近で見ればその面立ちを知っていたのだろう。
 くれた一瞥をもってすべてを察し、そして恐懼して引き下がり、突然の休憩を御者へと命じた。

 もしや自分を助けにきてくれたのか。
 ……などと甘い幻想は、もはや抱くまい。
 そうであれば、常のごとく王号を所かまわず下し、とうにこのような獄など解いていただろう。
 そうは出来ぬから人目を忍び、節や道理を曲げてここに来た。そうまでして、逢いに来てくれた。

 女王は何も語らない。質すべき罪過があろう。友としての別辞があろう。だがそれらを飲み下し、理智と情念として双眸に宿し、格子に指の一本さえ近づけずないままに、見据える。

 対し英悟にもまた、伝えるべき慕情がある。これまで重ねた無道を、彼女の前途を大きく狂わせたことを、詫びねばならない。だがついには一言も出なかった。発声器官を、敗走の果てに取り落としたかのごとく。

 役に立たぬ唇をぐっと押し込め、代わり痩せたその手を袷へと突っ込んだ。
 抜き取ったのは、擦り切れた袱紗。そしてその中に入れた蘭蕉の簪。それほど厳密に検められなかったのが幸いし、持ち込むことができた。

 たしかに折った。情愛反転し憎みもした。だが捨てられなかった。未練がましいとは自覚しつつも。
 あるいはこれで自害も抵抗もできただろうが、どれももはや意味のない用途だ。

 もう良い。捨てられなかった。虚飾虚勢の剥げ落ちた今となっては、ただその一事のみが真実だ。

 女王はかつてみずからが下賜したそれをじっと見下ろしていたが、ややあって初めてその手が動いた。
 返上された簪を握り返し、その刹那だけ指先が触れる。
 それが最後の交流となった。

 赤国流花は踵を返す。目敏くそれを察した護送兵は、あらためて進発した。
 その後二度と英悟を顧みることなく、みずからの王道へと立ち返っていった。

 〜〜〜

 裁判所へ。そして日を待たずして刑場に向かうであろうその車を背に、女王は歩き出した。
 その背にいつの間にか、音もなくひっそりと影のように、カミンレイが寄り添っていた。
 彼女の存在に気がついたがしばし流花は無視して歩き出した。女楽師も、さほど反応を期待していない様子であった。

 その日初めて流花がカミンレイに声掛けしたのは、王殿に至る間際であった。

「あの者、何と言ったかな」

 いつ、どういう席での、何者であったのか。
 それはあえて口に上らせなかった。

 だが、カミンレイは即座に答えた。
 対尾の撤退戦での異様な食い下がり。議場においては己に噛みつき、八十亀での局地戦にて英悟の出鼻を挫いて狂わせ、そして今また彼の命運に終止符を打った愚かな犬の名を。

「夏山です。夏山星舟」
「……此度こそ覚えおこう」

 かの青年が全ての元凶という訳ではないことは承知している。寧ろその責めは流花自身にあるということも。

 だがそれでも、やはりケジメはつけておくべきではあろうと思う。
 ただ在るがために巡り巡って己が覇業を躓かせたあの小石めを、粉々に踏み躙らねばならぬ。

 ふと、何故だか、自身が処した葛城陽理の無念そうな顔が思い浮かぶ。
 あの者はこの状況を、獄中で嗤っているだろうか。
 ……いや、そもそも自分はあの時、何とあの者を喝破したのか。
 近頃のことであったはずだったが、とうに忘れた。

 ……現というのは、如何な天才をもっても完璧な立ち回りを良しとさせない。

 この後、網草を大抜擢しつつもその暴走を防げなかった流花はやはりその信望を大きく損なった。
 議事においては女王退任を要求する声は絶えず、対抗馬を立てるものあり。
 それぐらいであればまだ可愛い方であった。
 小藩には、体制そのものに見切りをついえて竜国に鞍替えする者あり。さらには連合より離脱して別の寄り合いを形成して対抗する者が出始め、しばらくは流花たちは国内の再統一に注力することとなった。

 皮肉にも網草英悟の暴走と奇病という二つの厄災は、竜が洞より出し今日に至るまで、ついぞなかった束の間の停戦を生じさせたのであった。



[42755] エピローグ:魂の縄張り(リィミィ)
Name: 瀬戸内弁慶◆eabf7a64 ID:fa083409
Date: 2021/04/25 11:36
 網草英悟を退け、死間と化して最後の執念を見せた令料寺長範を単身返り討ちにして後、夏山星舟の行動は迅速だった。
 否、性急である……とその副官のリィミィは見ていた。

「校正、出来てるか!?」
 戦勝の喜びも取り敢えず捨て置き、彼女らの内で温めていた草案をここにて一気に形にし建白書として表し、それをサガラに提出するという。

 主命ゆえに一応は終えた仕事の成果を差し出すと、奪うがごとくに手に取られる。
 その必死の隻眼をつらつらと眺めつつ、
「時期尚早だろう。もう少し戦後処理が落ち着き、根回ししてからの方が良いんじゃないのか?」
 と懸念を口にする。
 だが隻眼がそれに否意を如実に示していた。

「いや……混乱している今だからこそ、その隙に付け入る余地が多分にある。勲功だって誰の記憶にも新しい。褒章がわりにコイツを受け入れさせることだってできるさ」

 それじゃあ、と止める間もなく彼は退出した。
 ――まさかとは思うが……
 その足で、今まさに時間を縫って帰郷しているサガラに談判に持ち込む気なのではないだろうか。

「だいじょうぶでしょうか? 隊長」
 物陰からそっとこちらを覗きこんでいたシェントゥにもその異常は伝わっていたぐらいだから、第三者から見ても相当に焦っていたのだろう。彼女が文字校正などを手伝っていたことを言いそびれる程度には、時を惜しんでいたはずだ。サガラがその弱みを見逃してくれているとは、思えないのだが。

 ――何を焦っている? いや、何を恐れている?

 今の星舟には何か、幽霊めいた、得体のしれない者に追尾されているような気分さえ見受けられる。それは戦勝による逸りなのか、あるいは完全なる別物なのか。それはリィミィにさえ分からないが。

 ふと、リィミィは視線を窓硝子に投げた。
 わずかにそこに写し取られた彼女の現身は、戦に書類の取りまとめにと、連日に等しき徹夜の日々のせいもあってか、そろそろ衰えのようなものを感じさせた。シワが増えたとか容色に劣化が見られるなどということはなさそうではあるが、それでもどこか、疲れのようなものが総身にのしかかっている。
 部分的な、あるいは一時的なというものではない。慢性的かつ全体的に、具体性の欠ける憔悴があった。言葉にも、力や熱が籠らない。かつてであれば、せめて昨年の今ごろの時期であれば、頬を張ってでも星舟を諌止しただろうに。

「もう、良いのかもな」

 首をかしげて聞き返すシェントゥには何も言わず、リィミィもまた部屋を退出した。

 ~~~

 自分の留守を狙った襲撃者たちは、アルジュナの挺身と引き換えに逃げていったというが、その傷跡は今も碧納新館のあちこちに生々しく残っていて、事務と修繕両面から後始末が慌ただしく続いていた。
 ゆえに功労者たる夏山星舟へも挨拶もそこそこ、作業に従事する者はそれぞれがそれぞれの役割に没入していた。

 その合間をくぐり抜けるようにして、星舟は膨大な紙束を抱えて、廊下を速足勇み足にて通り抜けていく。

 もっとも、星舟とてこのすべてが裁可されるとは思っていない。
 最初にやや大げさに過ぎるほどに吹っ掛けて、次に妥協案を捜していく。交渉事の常套手段だ。最低限の線として、星舟が帝都に召されれば良いのだ。

 中央政府に大きく空いた穴。その新枢軸になんとしても己をねじ込む。そこを橋頭保として、人間を政権に参画させ数で竜を支配する。
 惜しむらくは、『人材』と呼べる者が今なお恒常子雲ぐらいということで、その子雲にしても単身大略を担うには荷が勝ちすぎる。

 だがまずはハコを用意しなければならない。中身を集め、育てるのはその後からでも遅くはないはずだ。

 ――だが……
 という声が、聞こえてくる。
 ――人のためのハコだと?
 内なる部分から聞こえてくる。
 ――笑止、お前は、すでに人では……

「違うっ!!」
 胸中より涌き出でる嘲笑に、星舟は否定の一喝を呉れた。
 周囲に誰かが通れば、当然突如として大音声を発した星舟に不審の眼を向けたことだろう。
 だが聞かれたとて、埒もない冗談と一笑に付されたことだろう。
 ……人が、竜になるなどと。

「オレは人間だ! 人間のはずだっ!!」
 それでも星舟は必死にその事実を拒む。

 現実的に考えて、夏山星舟が実は真竜の落胤であったなどということはありえない。
 生母はどうしようもない夜鷹のひとりで、母の自覚さえ持てぬ、劣悪な環境下で壊れた人間のひとりだった。そこに真竜の知遇を得る機など皆無だし、その子たる自分が左眼を腐り落とすことなどなかったはずだ。
 父も、ろくでなしだった。血筋確かな家族などどこにもなかった。名前さえもなかったのだから当たり前だ。

 ゆえに、考えられるのは自分の気の迷いによるただの妄想か……だがその結論を、長範の惨死体という現実が阻む。
 であれば何かを契機として、自分の身体が置き換わった、あるいは置き換わりつつある、ということか。

 ……たとえば、あの断続的な、そして今も時折ぶり返す、原因不明の強烈な目まいや、その後に続く異常な快調などを経て……

 しかし星舟は否を示す。

「人間でなきゃ、ダメだろ……ッ」

 己が人でなければこの人竜融和の構想が根底から崩れていく。すべてが水泡に帰す。
 自分のここまでの苦難の道も。その道の中で散った命も、散らした命も、何もかもが。
 それだけは、あってはならないのだ。

「御免!」
 と言うや、サガラのいるであろう執務室の扉を開けた。

「おめでとう!!」
 その戸口の向こう側に、サガラはいた。
 不躾を承知で、奇襲がごとく機先を制して主導権を握るはずだった。だが、あらかじめ示し合わせていたかのようにこの黒竜は待ち受けていて、歓待とともに部屋へと誘い入れた。

 そこにいたのは、サガラのみではなかった。
 肩身が狭そうに片隅にグルルガンがいた。それはまだ良いが、他にも大勢。
 皆、いずれも年若く利発そうな……おそらくは今回の騒動を生き抜いた真竜や上位獣竜、あるいはその混血児たちであろう。

 呆然とする星舟の手より書類を奪い取り、それを適当な感じで作業机に放りだすと、その肩を抱いて中央へ。

「皆、この星舟は俺の命を受けて、忠実にその指示のとおりに動いて乱を収めてくれた。今回の最大の功労者と言って良い」

 と、星舟の軍事行動が自分の指図であったかのごとく、さりげなく……だが印象を強めて吹聴し……屈託のなさそうな笑みを浮かべていた。

「その功を報いるため、このようなものを用意した」
 サガラはそう宣うや、星舟の前面に回り込み、胸元に屈みこむや、軍服がわりの陣羽織に金具を食わせ、針で縫い合わせた。
 狼、もしくは犬の彫金が施された楕円形のそれを、星舟は憮然と見下した。

「いわゆる勲章、というものだ。異国ではこれをもって生涯の誉れとするらしく、今回俺もそれに倣ってみたというわけだ」

 そうは言ったものの、感触としては牛が軛を取り付けられるような、あるいはそのまま犬が首輪で小屋に繋ぎ止められるような不快さがあった。
 だが、同時にあることも理解して、さっと頭の先から血の気が失せる。

 この瞬間、自分の褒美は、それに付随する計画は、こんな鉄片ひとつで処理されたということ。
 そして身を尽くし戦ったという名声はすべてサガラに掻っ攫われて、代わりに自分は嫉妬を買い、褒美欲しさに人を売った、サガラ走狗の汚名を負うはめになったということだ。
 周囲からは喝采があがり、拒む前にそれが確定されてしまった。

「お前ごときを帝都に連れていくわけないだろ」

 隣に並び直し、手を振りながらサガラは言った。
 当然、この論功賞は露見していなければ出来ない。こちらの動きは、すべてこの男には筒抜けであった、ということなのだろう。

「今、俺には明確な目的がある。いちいちお前のなんぞにかかずらっていられないんだよ
 他者に見せる表情はそのままに、彼らに聞こえぬ小さな恫喝。軍靴を爪先で踏みにじられながら、肩に手を置く。
「まっ、今後も俺のために頑張ってくれな……『野心家ごっこ』をテキトーに楽しみつつ、さ」

 ~~~

 夏山星舟が徒手で、肩を落として夏山の本宅とは別に碧納にあてがわれていた官舎に帰ってきた。
 リィミィはそれを読んで執務室からここまで身を移していたわけだが、その予想以上に星舟は悄然としていた。

 戸を締めぬままに部屋の中央に棒立ちとなった彼を前にしては、せっかく用意していた慰めの言葉のいずれも、その効果が期待できない。

「外、誰かいるか」
 出逢ったころのように縮こまった青年の背が、おもむろに尋ねた。
 自分で確かめれば良いだろう、とは返さず、言われたとおりにリィミィは戸より顔を覗かせて目視したし、獣竜の鋭敏さを使ってそれを見た。
「……今の時分から仕事を切り上げて帰って来るほど、暇を持て余したような者などいるはずもないだろう、あんた以外」
 確かめた後、鍵を掛けてリィミィは答えた。
 そうか、と言ったきり、星舟は俯いたまま何も言わず、何事も起こさなかった。

 だがリィミィがその場の沈黙に慣れてきた一瞬後のことである。

「クソがぁっ!!」

 星舟は突如として吼えた。机を蹴り上げ、そこに積み重ねられていた、資料の数々が宙を舞う。乱暴に陣羽織を脱ぎ捨てて、床に叩きつけ、それでもなお収まらないのか壁に拳を叩きつける。

「あの野郎ふざけやがって! 誰のために戦ってやったと思ってる!? 何のために多くの者たちがこの戦と病で死んでいった!? 病気で潰れてたお前にいつオレが言いなりになってたっていうんだ!? こんなゴミで、あんな一言で、あいつの気分ひとつでっ、ここまで積み重ねてきたものがすべてご破算だってのか!? 畜生!!」

 荒れ狂う星舟を止める手立てなどない。外聞を気にする様子もない。いや、一応確かめたうえでそれをしているわけだから、ぎりぎりのところで理性はまだ彼のところで引っかかってはいるのだろう。
 だが、いっそ本当に狂を発して人生を破綻させたほうが、いくらかは救われたのかもしれない。

 ひとしきり騒いだ後、力なく星舟は寝台に座り込んだ。やがて半身さえ支える気力を喪ったものと見え、身体を横たえた。

「どこから漏れた……いや、出所は分かっている。自分に手いっぱいであいつの動向を見落としていたオレの手落ちだ」

 などとよく分からない反省をしつつ、寝転がってリィミィに背を向ける。
 そして一言、地の底まで落ち込んだ声で、

「もう、終いだ」
 と零した。

 正直に言えば、リィミィにはこの青年が何故これほどまでに深く絶望しているのかも、何をあそこまで焦り、怯えていたのかも理解できない。打ち明けてさえもらえない。それは信頼されていないからではなく、彼がそういう域にまで達してしまったがゆえだろう。立ち止まっていたのは他ならぬリィミィ自身だ。

 もはや、してやれることも、捧げられるものも多くはなかった。
 それでも、覇道を突き進むにはあまりにも優しい甘ちゃんを修羅道へと進ませてしまった発端として、最後の務めぐらいは、今の彼に必要とされることぐらいは、果たさねばならない。
 理智的な助言者ではなく、リィミィ自身として。

「じゃあ」
 リィミィは、壁と彼の間に身を割り込ませた。寝台の上に横たえ、彼の隻眼に双眸の視線を注ぐ。
 その行動には絶望の淵に立つ星舟さえも、いささか驚いたように瞠った。

「諦めるか? すべてを投げ出すか?」
 重ねるようにしてリィミィは問う。星舟は乾いた唇を微動だにさせない。
 だが、残されたその眼が彼の心を代弁する。
 すっかり気力の失せた眼。だがその奥底でなお、熾のごとく、消えようのない意志が燃え続けている。

 彼の黒髪を、リィミィは安堵とある種の諦めとともに腕の中に招き入れた。

「諦めるわけにはいかないのだろう。諦めたら、そこまで切り捨ててきた命が無為になるのだろう。それだけは……自分で許せないのだろう?」

 だから彼は突き進み続ける。折れようとも壊れようとも、どんな敵が目の前に阻んでもどれほど愛した者たちが引き留めても、きっと暗闇の中に星の輝きを求める。自分の道に、自分で散らした者たちに、意義を見出せるその瞬間まで。

「ならば進め。今は立ち止まって、くすぶっても良いが、必ずその先へ行け」
 止められぬのならば、彼の活路はきっとその暗澹の中にしかないのだから。

「そこには、もう私は居ないだろうけどな」
 名残りを惜しむがごとく、自身の胸に彼の鼻面を押し当て、より強くかき抱く。確かな熱を感じる。

 ――あぁそれにつけても。
 怒りも荒れもすれ、こんな時でさえ泣くことだけは決してしないこの餓鬼の、なんと可愛げのないことか。

「……硬い」
 と、星舟は感想をこぼした。だろうな、とリィミィは返した。
「何しろ初めて、女であることを行使している」

「……いや、所作だけの話じゃなくて、肉薄いし骨ばってて痛ぇんだけど」
 リィミィは腕の内にある脳天に音が鳴るほどの肘鉄を食らわせた。

 ~~~

 そして明くる朝。
 星舟は着衣を整え、身を起こした。
 すでにそこにリィミィの姿はない。部屋もきれいに片付いている。よもやそのまま出奔、ということなくごく普通に出仕し、寝坊してくると見て星舟の代わり分も働いているのだろう。自分の体調は押し隠して。

 ――代わり。
 その言葉に行き当たって、星舟は強烈な自己嫌悪に今更ながらに駆られていた。
 再び布団の上に身を崩し、枕でみずからの厚顔を埋める。

 自分がリィミィに求めていたのは、助言者、共同事業の相棒ではなかったのか。それはリィミィとて同じではなかったのか。

 その彼女に、最後の最後で自分は女であることを求めた。母の役割をさせてしまった。そしてそれを自分から受け入れたリィミィは、学者としての夢も世界に向けた理想もこの世の理不尽に対する報復も諦めて道から降りたのだろう。
 それこそ、降りることの出来ない自分の代わりに。
 理屈ではないのは分かっている。だが、まぎれもなく、代償行為だ。リィミィが最後に示した献身だった。

 リィミィの香の残る枕の生地に吐いた息は、深く、重い。
 折れられぬとて、退けぬとて、ここから先に何を目指せば良いというのだ?
 幼少の星舟と若き日のリィミィが目指したその道は、逸れるしか、術はないというのに。

 戸が叩かれた。

「あの、お目覚めですか?」

 声の主はシェントゥである。
 一瞬、強烈に顔をしかめた星舟だったが、枕から顔を持ち上げた瞬間には、深呼吸のうえで平常心を取り戻し、
「ちょうど良い、オレもお前に用があった。入れ」
 と招く。

 失礼しますと折り目正しく入って来るシェントゥは、わずかに緊張した様子を垣間見せた。
 一応はリィミィが片づけていった室内ではあったが、それでもわずかな痕跡や、完全ならぬ星舟の状態から何かしら察せられるものはあるのだろう。
 いつも以上にせかせか様子を見せつつ、

「あの、副隊長から言われて朝餉をお持ちしました……ほかにも、入り用なものがあれば」
 と早口で言って、開けられた机の上に粥と梅干を置いた。足早に退散しようとする。
「まぁ待て。用があるっつったろ……どうせ、そっちには急ぐ必要も最早ないだろうしな」
 その彼女を、星舟は呼び止めた。

「けどせめて、最低限ここだけは、ハッキリさせとかないと気持ち悪くてな」
「……なんでしょう?」

 シェントゥはあどけなく小首を傾げてみせる。
 声にして苦笑をこぼしながら、星舟は一筋の視線を注ぎながら、彼女に質した。



「お前、サガラの間諜だろ」



[42755] エピローグ:魂の縄張り(シェントゥ)
Name: 瀬戸内弁慶◆eabf7a64 ID:fa083409
Date: 2021/04/30 00:58
 お前はサガラの間諜であろう。
 確信めいた調子で問われた侍従は、シェントゥという少年として入隊してきた女は、何も答えなかった。

 逃げもしない。いつものようにワタワタと動揺しない。あるいは冤罪だと、信じてほしいと情に訴えるかとも思ったが、そうもしなかった。

 ただ色が抜けた。感情が抜けた。輝きが抜けた。今目の前にいるはずなのに気配が薄れ、一切の『個』というものを出さなくなった。

 おそらくはそれこそがこの情緒豊かな面の奥に潜ませていた、この女の『素』なのであろう。かの侍女長殿の不愛想にはこちらへの敵意と嫌悪という単純明快な理屈があったが、この女にはそもそもこちらに興味があるかどうかさえ定かではない。

「まぁ良い。それじゃあその考えに至った経緯を、順を追って説明してやる」
 起き上がって粥を覗き見ながら、星舟は続けた。

「まず切欠は、お前がオレに懸想をしてるって馬鹿姉弟のドタバタだった。その時に男装をしてるってわかったわけなんだが、それがなおさらオレには不審だった。何故男の恰好をする必要がある? リィミィにしろキララにせよ、れっきとした女性でも軍務は果たせる」

 だから考えた。そのバカみたいな嘘には、もっと大きな虚偽が隠されているのではないか。
 多少の不審な行動には可愛らしい隠し事秘め事があったから、と皆が合点するように。

「ひょっとしたらそれはオレの杞憂に過ぎず、過去の境遇から男装せざるをえなかった、とも考えもした。……が、そもそも入隊に至る前後までの略歴は追えたが、ある時を境に完全に途絶えた。そしてお前が入ってきたのは、サガラが東部に帰ってくるすぐ前のことだ」

 その段階で可能性を考慮すべきだった。気づかなければならなかった。
 それもすでに取り返しのつかない後悔でしかないが、それでもその失敗を清算する意味合いも兼ねて、星舟はシェントゥの背後に回り込みつつ語り続けた。

「で、サガラとお前との絡みをカルラディオ様に調べてもらった。オレの知らない接点があるとすればそれは、東部周辺ではなく奴が駐在していた帝都あたりでのことだからな。そしたら拍子抜けするぐらいアッサリ分かったよ。奴の指揮下の近衛の縁者に、お前と同じ、狐の獣竜種の系統が。つながりが判明すれば後は簡単に追跡できた。…………というかお前、オレより年上じゃねぇか」

 その調査においてもっとも驚いた事実を噛みしめるように呟きながら、星舟は戸に鍵をかけた。

「今の説明で、何か間違ってることあるか?」
 問う星舟に、シェントゥは虚空を見上げたままだった。

「ひとつ」
 と、声は少年めいたそのままに、平坦な調子で女は答えた。

「大きな間違いがあるとすればそれは、そのことに気づいてもなお、自分を排除できなかったことでしょうね。遠ざけは、していたみたいですけど」
「……そりゃあ、直後にあの雨が降ったからな。あれさえなけりゃ今頃フン縛って、首を斬ってサガラの鼻先に」
「無理ですよ」

 即応であった。
 シェントゥは冷ややかな眼差しに、感情の色が浮かぶ。軽侮由来のものが。

「たとえ病が流行らずとも、貴方にはできません。少なくとも、殺せなかったでしょう? それこそが、サガラに貴方が勝てない最大の理由ですよ」
「……どういうことだよ」

 シェントゥはくすり、と声を鳴らす。
 あまりに自然過ぎて、本当に可笑しがっているかどうかさえ分からない、生理的な嫌悪を誘う笑みであった。

「凶暴な熊を果敢に狩る猟犬でも、狼には決して挑みかからない。それは、全ての点において、犬が狼に劣るがためです」

 なるほど熊を相手にするのであれば数で襲えるだろう。連携や知恵、あるいは機動力でその圧倒的な攻撃性や体格差を覆すこともできるだろう。
 だが、それらいずれも勝る上位種相手には、犬は尾を巻いて逃げるのみ、というわけだ。

「言わずもがな、サガラは狼、貴方は犬です」
 綺麗に畳まれた羽織の胸元。その勲章を眺めながら、シェントゥは言った。

「もしサガラが逆の立場であれば、真っ先に殺すか、でなければ素知らぬていで上手いこと操り、骨の髄まで利用し尽くしたでしょう」
 そのいずれにも踏み切れなかったあたりにもやはり、自分の半端さが表れているということか。
 それを見抜いていたからこそ、あの『狼』は『犬』の行いを野心家ごっこと揶揄したのだろう。

「まして、女の胸に縋りついて慰めてもらうような惰弱な男に打ち倒せるものでしょうか」
「……そうだな」

 自身の弱さ醜さを、星舟は率直に認めた。
 おのれにそれ以上の変化と凶兆が起こりつつある今となっては、散々に指摘され切ったことに頑なに否定を入れたり、憤慨する気にもなれなかった。

「……似ている者、か」
 星舟はしみじみと呟いた。

「思えばあいつも、同じ半端者なりに苦しい思いを、ともすれば今のオレ以上に味わって、闘い抜いてきたのに、オレのように誰かに縋れる立場になかったんだよな……そう考えると、少し可哀想だな」

 それをシェントゥは無表情で聞き流す……かと思っていたが、彼女の表情は劇的なものだった。
 そこまでの中性的魅力のある愛嬌とも、その虚飾を取り払った人形じみた無感情、いずれとも程遠い。
 左目は驚嘆に見開かれ、対の目は呆れに眇めら、口の端では嘲りの色合いを作りつつも、どこか苦み走ったものを感じさせた。

「貴方、今ものすごいおこがましい物言いしてるっていう自覚がありますか?」
 ここに来るまで押し殺していた感情がすべて暴発したかのような彼女の面持ちに、星舟は当惑を見せた。
 蹴り上げて小石が、南方の椰子の実に当たってその強固な皮殻をふいに打ち砕いた。そんな感じに。

「……なんだよ、別に皮肉や負け惜しみで言ってるわけじゃねーって」
「だからこそなおさらタチが悪いですよ。なまじ挑発するよりサガラが怒り狂いそうですね」
「で、このことをそのサガラ様には伝えるか?」
「まさか。そんなことを告げれば、自分があの男に殺されるぐらいの冒涜ですよ、今のは」
「そんなに」

 いまいち自覚のない星舟ではあったが、ふっと息を吐いた後、施錠を解いて戸を開けた。

「そら、もう行っていいぞ」
「……許すと、自分を? 何のために戸を閉じたのですか?」
「そりゃ、話の途中に逃げられても困るしな」
「言ったすぐそばからこれだ。本当に、吐き気がするほどに、甘い……」

「お前のおかげでオレの前途は断たれたし、さっき言ったが、その用済んだ以上はお前もオレの相手をする必要なんてないだろ」

 そんな段になって殺す殺さないもないもんだ、と締めくくり、さっさと出ていくようにアゴで促す。
 冷ややかな目で見返したシェントゥは、やがて大義そうにため息を吐いて、

「それでも、たしかに」
 と言葉をつぎ足した。
「分をわきまえず吼えかかり、かと思えば馴れ馴れしくすり寄って来る。そんな訳の分からない狂犬ほど、狼にとってはわずらわしいものもないでしょうね」
「そりゃどうも」
「あぁ、むろんこちらとしても、今の貴方には殺すほどの価値など微塵も見出してはおりません。その粥にも毒など入れてませんので、どうぞ快くお召し上がりを」

 などと辛辣に言い置いて、サガラの間諜はごく当たり前の権利を用いるがごとくに退出した。
 別れの挨拶ぐらいは欲しかったが、まぁ敵にそれを求めるのも間抜けは話だ。
 すっかり必要以上の水を吸ってぐでりと溶けた米を立ったまますする。梅干しを含んで塩気が舌と喉を介して臓腑の中に染みわたっていくのを感じながら星舟は、

 ――こんな体、こんな心でも、どうしようもなく腹は減るな……
 と独り胸中に漏らしていた。



[42755] エピローグ:魂の縄張り(アルジュナ・トゥーチ)
Name: 瀬戸内弁慶◆eabf7a64 ID:fa083409
Date: 2021/05/09 22:33
 多忙な、だがどことなく窮屈でどこか味気ない日々を送っている。
 渾身の改革策も霧散し、名ばかりの勲章と引き換えに信用は低迷し、新帝擁立のために奔走するサガラに代わって雑務に従事する奴隷。それが今の夏山星舟であった。

 まるで石を飴玉代わりに口に含んで、舌で延々と転がしているかのような心境で、星舟はいまいち情熱を欠かしたままに戦後の事務処理を続けていく。
 目眩がするような被害状況を算出し、そういう経済面、人員面でも壊滅的という現実を数字的に目の当たりにしていく。

 アルジュナ・トゥーチに呼び出されたのは、そんな折であった。
 政治的機能を完全に碧納へと移し終えた六ッ矢の居館は、アルジュナの隠宅となっており、かの老竜と最低限の世話役が寝泊まりするぐらいとなってしまっていた。

 かつてここで起こった爆破事件も、その前の栄華の宴も、もはや見る影も形もなく、虚無的なほどに広さが目立つようになっていた。

「失礼します」
 と断りを入れると、先にサガラに出し抜かれた時のことを思い出して、一瞬手が止まる。その心傷を振り切って、戸を開いた。

「来たか」
 星舟を迎えるべく声をあげた前当主は、腰を上げて出迎えることなく、私室に備え付けられていた外洋式の暖炉の前に腰を下ろし、背を向けていた。
 その背は、数月前よりもずっと痩せ衰えていて、代わりぐっと増した、名状しがたい雰囲気に息を呑む。

 年の瀬ではあるが、老君が薪を焚いているのは暖を取るためではないようだった。
 その周囲には、火にくべるべく積み重ねられた、無数の書簡があった。

「……先の暴動においては、こちらの手抜かりゆえに無用の傷を負わせてしまい、申し訳ありませんでした」
「気にすることはない」
 一端はそちらに気を取られかけながらも、いきなり踏み込むのは礼を失しているかと思い、まずは詫びから始まった。
 その後で、視線をその紙束へと振り向ける。

「諸々の機密よ」
 問われることを承知したうえで、それをあえて眼前にて火中に投じているのだろう。
 事もなげに言った。

「……意外です。公明正大であられた御隠居様でも、そのようなものをお持ちとは」
 かつての星舟であれば、野心の炎に燻られるがままに、その情報の一端なりとも掴もうと企んだであろう。しかし今となってはそれもむなしい。

「長く生きると、そういうことも多くなる」
 と細く尖った声音で老人は言った。

「多くのことを隠匿してきた。それがために、多くの者を傷つけてきた」

 そう述懐して我が身を漠然と振り返るその様は、まるで

「そしてそれらを抱えたままに、私は遠からず泉下へ旅立つこととなるだろう」
 死を待つのみであるかの、ようで……

「そう驚くことでもあるまい。今回の厄災で多くの年寄が逝った。私も、腹に風穴を開けられた。ならば、私だけが例外というわけにもいかん」
「それは、私が……っ」
「お前のせいではない」

 それはたしなめる、というよりも拒むがごとき強い口調であった。

「お前はとかく、過ぎた荷を頼みもせぬのに負い過ぎる。私がやらずとも、侍女長がやったであろう。あの娘がやれずとも、他の者が身を挺したであろう。私があえてそれをしたのは……まぁ、そうだな。あの時点で自身の命脈に見切りをつけておったがゆえ、最期に親らしいことでもしたくなったか」

 苦笑とともにそう締めくくり、ふたたび火中に文書を投じ始めた。
 ばちばちと音を爆ぜさせ黒く融けていくそれをじっとふたりで見つめていた。
 肝心の用向きというのも、聞く機を逸し続けたままに。

「星舟」
 だがそれは、老竜の方より言われた。
「余計なことにさえ首を突っ込みたがるお前にしてはずいぶん反応が薄いが、何かあったのか」

 言われぐっと息を詰まらせる。
 失意の原因は大別して二つ。だがいずれともトゥーチ家前当主に打ち明けられることではあるまい。
 黙秘を決め込まんとする星舟ではあったが、

「では質問を微妙に変えよう……お前の身に、何が起きた?」

 というさらに踏み込んだ問いかけに、思わず隻眼を開いてしまった。

 ――この方は……
 どこまで見抜いている? どこまで知っている?
 そういう想いを載せて見返す星舟に、宝石質の眼光が差し込まれ、その意を汲んだように言葉は発せられる。

「確信は持てぬ。だが今のお前には、他の者には感じ取れずとも、老いた真竜に感覚的に伝わる変化がある。そして推察するだけの状況と知識も持ち合わせている」

 だが、と巨木に空いた洞より抜け出るがごとき重い息遣いで語句を区切り、

「それを伝えるにあたっては、相応の真実を負うことになる」
「……」
「思いがけず踏み込んでしまった深淵は、その者にとって不幸な結果しか生まぬ」
「……ご隠居、アルジュナ様も同様ではありませんか」
「ん?」
「自分自身、今この体がどうなっているのかなど分かるべくもありません。ですが、アルジュナ様の知る『何か』と結びついた時、それは御身にとっても思いがけず深淵に踏み込んでしまう結果とはなりませぬか」
「私は良いのだ。冥途へ持っていく重荷がひとつ増えるだけのことだ」
「狡いですね」
「今更気づいたのか? 今までもさんざん、お前を利用して矢面に立たせてサガラに噛みつかせていただろう」

 諧謔半分自虐半分、と言った調子で老公は口端をわずかに吊り上げる。
 それによって星舟の肩もわずかながらに緊迫が解けた。代わり、肚も据わった。
 どのみち、すでに閉ざされた道だ。ならばせめて、どこで躓いたのかぐらいは知りたい。シェントゥと同じく。

 星舟はちらりと眼を脇へと移した。
 そこにはアルジュナの『牙』が無造作に置かれている。
 断りを入れれば拒まれるのは目に見えているがゆえに、おもむろに星舟はそれを握りしめた。
 瞬間、電流のようなものが総身を奔った。構わずに鞘の口に親指を当てて抜いた。

 抜いた右腕に黒鋼色の金属片が生じる。いや、不揃いな『鱗』が腕を喰らう。
 その現象そのものを、人間の部位が必死に否定する。その齟齬が、強烈な吐き気となってこみ上げてくる。
 慌てて『牙』を納め直し、元に戻りはすれど一瞬で汗みずくとなった腕を振り抜くようにしてそれを机上に返した。

 老竜の眼に驚きはあっても動揺はない。
「……なるほどな、やはりか」
 と、わずかながらに強張った声を吐き出したのみである。

「後からシャロンの『牙』が一時的に消えたと聞いて、そうではないかと思っていた」
「……なぜ、そこでシャロン様の御名が出るのです?」

 たしかにシャロンの『牙』から、異常は表出したはずだ。
 だが、今アルジュナのものでも同じ反応が顕れた。とすれば原因は自分自身の中にしかないはずだった。

「……どこから話せば良いものやらな」
 一通りの焚書を終えると、アルジュナは時間をかけて、椅子に依りつつ立ち上がった。

「我々は、それぞれに『虫』を飼っているという」
 と、老竜は言った。

「虫? 寄生虫とか、そういったものですか」
 ほぼ手探りゆえに間の抜けた問いにならざるを得ない。アルジュナはそれに対してかぶりを振った。

「羽虫よりも、ボウフラよりも極小なもの。眼に見えぬほどのもの。糾える縄の如く絡み合うそれを、人であろうと竜であろうと、それこそ虫であろうと宿している。それが生物を形作っている……いわば、肉体の縄張りを、それが描いているのだ」

 まさか、と嗤って否定する材料を、星舟は持たなかった。
 彼の語るものは、すでに星舟の理解の範疇を越え、手に余る。

「彼らが種を千差万別し、その一個一個に特徴を色づけ、血統によって受け継がれていきつつもそれ自体も少しずつ変容していく。かつて我らの創造主はその虫の力を操る術を得たことで、彼らに似せた我々を既存の種を滅ぼした後にこの地に産み落とした」

 知らぬ神代の咄である。
 その出典や何れ、と問わんとしても、老竜の炯眼にはそこから先へは踏み込ませぬ冷たさを帯びていた。

 とはいえ、途方もないところから始まったものだ。
 ほぼ忘我、天寿を迎えつつある老人の恍惚のごとき心地で立ちすくむ星舟に、あえて理解を求めずアルジュナは続けた。

「そして我ら真竜の場合は、『牙』や『鱗』の管理者として獣竜や人よりも濃く神々の『縄張り』を受け継いでいる」

 多くを識るアルジュナの物言いに、麻痺した脳がわずかに反応する。
 その口ぶりはまるで、『牙』や『鱗』の方が存在の主軸であるかのような……

「そして中でもシャロンのように色濃くその適性を隔世的に受け継ぐ者が帝族の中に生まれることがある」

 机上を撫でさする指つきに、次第に弱まっていく語気に、わずかながらの逡巡が感じ取れた。
 それから少しの空が、対話の中に生じた。
「星舟」
 意を決するがごとく、下問された。

「お前は、そのシャロンの血を吸ったであろう? その中に、シャロンの『縄張り』があった。お前はそれを取り込んだのだ」

 そんなわけがない。
 真竜が血を流し、それを口に含むなど、そんな機会などあるはずもない。

 ……そう言い切れれば、あるいは忘却できていれば、どれほどに楽にこの場を受け入れることが出来たのか。

 その時は、忘れ得ぬ月夜にあった。
 最初の邂逅。運命の引き合わせ。
 名さえもなかった浮浪児が、その意味を贈られた瞬間。
 彼女から食物を与えられた。その拍子に、自分は、歯をその手に……

「そんなはずは、ない」
 自身の根幹と体幹がぐらつく。

「血は飲んだとしてたかが知れた量だ。それにこの十年間、何ともなかった。あの程度で竜になれるのなら今頃この世は真竜まみれだ。今更それがきっかけに、なるはずが」
 否定、否定、否定……だがそんな過去の行為に言論で反証したとして何の意味があるというのか。

「そうだな」
 一端は老竜はその事実を容認した。そのうえでさらに星舟の知らぬことをもって彼の精神を追い立てていく。それが覚悟ということだと、言わんばかりに。

「たとえ人竜ともに神を源とした近しい『縄張り』を持っていたとして、凡人がまかり間違って竜の血液を取り入れたところで、大半は受け入れられずに肉体を持ち崩すか、でなければ何事もなく体外に排出されていたであろうよ。だがお前個人の体質か、娘の血がそうさせたのか……お前の身体にシャロンの、神より受け継ぎしその絵図面は流れることなくお前の身に焼き付いてしまった。むろん、それとて普通は眠り続けたままであろうがな」

 しかし実際に因子とやらは覚醒した。己を竜と組み換えつつある。
 そこには何か引き金となる出来事があって、例外の上にさらに例外が生じた。
「……あくまでここからは漠然とした憶測でしかないが」
 その考察に至れば、もはや鈍磨した星舟の脳裏にも明確にして鮮烈な記憶が蘇った。

「……わかったか、あの雨だ。奔走するお前はあの赤い水を大量に摂取した。そしてお前の中の『虫』になんらかの変異をもたらした。これが原因のひとつと考えられる」
「まだ、何かあると」
「シャロン自身だ」

 もはや終わってくれと願うも、足が動かない。恐怖のあまりではなく、それを受け入れると自分で決意したがゆえの、せめてもの不退転であった。

「あの雨の影響で娘は衰弱しきっていた。それこそ、いつ死んだとしておかしくないほどにはな。その生死定かではない状態で、『牙』は主を見失った」
「見失った?」

 まるで自我を持つ生物のごとく言う。
 だがアルジュナ自身も知覚しえぬことであったのか、あるいは知ってても墓下まで抱えていくべき極秘事であったのか。
 まるごと無視して続ける。

「……そしてあの瞬間、自身に養分を供給する管理者を、同じ因子を持つお前とシャロンを誤認し、己のお前とを結び直した。言うまでもなく、あの娘の『牙』は特殊だ。神代の原初期に創られた五本のうちの一口」

 そう、言われるまでもなく知っている。
 浮遊する銃砲。人を融かす怪液。
 なによりも天に座す『なにものか』に雷矢のごときものを落とすよう命ぜられる権能。
 超人的な運動能力や、強固な鎧などから派生したもにではない、明らかに他とは隔絶した何か。

「それが、お前を主と認めたのだ。自身の都合の良いようにお前を『書き換える』ようお前自身の肉体に命じたとして、不思議ではない」
「……そんなの、ふつうじゃない……」
「そうだ、尋常ではない」

 アルジュナのすぐ横で、くすぶる火が燃え粕を舐めながら音を立てる。
 それが、続いた老竜の言葉が、星舟の中で、彼の意思を介在させずに大きく反響していた。

「いくつもの起こり得ぬ偶然が重なった結果、お前は埒外の手段で真竜となった。だが、それは神々が組み立てた摂理から大きく外れたものだ……ゆえに、その変容は完全なものではなく、いずれその齟齬と負荷をお前自身が支払うことになることになるだろう。……一体いつまで生きていられるか、いやそもそも、ヒトの形を保っていられるかさえ」

 そう言いかけた時、アルジュナの細長い腕が伸びた。
 己では知らず、星舟の身体は骨子から大きく崩れようとしていたからだ。
 そして支えられる現状にさえ気づかず、星舟は、

「なんだ、それ……」
 と乾いた声で笑った。

 ――つまり、何だ?
 自分の目指したものは、夢は、端緒から詰んで、大きく道を外れていたものだったのか。
 その絶無の望み、見当違いの方角へ邁進するために、切り捨ててきたもの、すべてが報いることができない徒労であったというのか。
 そのうえで、何も果たせずに死ぬのか?

 ――生き方どころかその存在まで、どっちつかずの中途半端だったってわけか?

 否定したかった。何を言われようと、どれほど説得力を持つ仮説を打ち立てられようとも。

 だが、それを否定できる何かは、ないのだ。
 与えられた家名、教えられてきた学、養われてきた才。
 最初からおのれの内に在ったものなど、何一つとして……

 ――為すべきを為せ。
 ――在るように在れ。

 闇の中に沈みかけていた、頭、意識。
 その上より、声が降ってきた。

 それは眼前のアルジュナ・トゥーチの言であったのか。
 それともすでに去った何者かの言葉であったのか。

 アルジュナは顔を上げた星舟を支えたままに、その懐に書状を差し入れた。
 雑多に処分されようとしていたものとは体裁からして違う。
 公的な効力を持つようしつらわれ、丁寧な筆遣いで署名と捺印の施された、対外的な文書。
 星舟はその書面を検めて、隻眼を見開いた。

「ラグナグムス家への推薦状だ。対尾と今回の一件で当主以下多くの者を喪って家中
を差配する者がいなくなったと後家殿が泣きついて来られてな。そこで、お前を推挙しておいた……トゥーチ家を出ろ、星舟。ここではお前の望みはもはや叶うまい」
「しかしオレは……オレの、望みは」

 すべて、分かっている。
 その本意も、それが絶たれたことも。

 そう言いたげに重く頷いた老竜は、シャロンにも受け継がれた美しい輝きの眼を、陽光を浴びたがごとくに細めて言った。

「なるほど、人外のものへ化変した。いつ果てるやもしれぬ」
「……」
「だがそのすべてがお前ではないか。お前の苦悩が、それを超えた先にあった決断と行動が、その星巡りが、他者との縁が、良くも悪くも今のお前自身を形作った。……すべてが無駄になることなどあるまい。切り捨ててこられなかったからこそ今のお前がいるのだ」

 突き放すでもなく、寄り添うでもなく、ゆえにこそ聞こえ様によっては何よりも過酷に、アルジュナは予言めいた助言を星舟に与えた。

「そのすべてが、魂の縄張りとなって夏山星舟を生んだ。肉体が何者に成り果てようとも、今は前途が闇夜に沈もうとも、最後の瞬間までその天命を背負い続けて星舟にしか出来ぬ行動を取れ、選び続けろ。さすれば、やがて行き着くべき場所へと至るはずだ」

 それが、犠牲にしてきた者たちに報いることのできるだけの、満足のいくような答えであれ、あるいはつまらない徒死であろうとも。

 星舟は緩やかに下肢に力を取り戻しつつあった。それと合わせるようにして、するりと彼の身体から朽ちた老竜の手が滑りぬけて、代わり肩へと置かれる。

「……話し過ぎた。今まで、そして今も、お前に不相応の荷を負わせてしまったのはトゥーチ家だ。辛い思いをさせてしまったな」

 それはおそらく今まで、為政者として、そして多くの秘密を抱えた者として肉親相手にさえ押し殺してきていた惻隠の情であったのだろう。そして彼は己がしたかったことを多くの愛した者たちに伏せたままに、死んでいくのだろう。
 その手の重みを感じ、その痛みを噛みしめながら星舟はかぶりを振った。

「……ご遺命、そしてご厚情、謹んでお受けします。……しかし、それでもせめて、貴方の最期の時までは、この家に居させてください」

 これから先、ラグナグムスに就いたとして何をすれば良いのか見えてこない。己が何者であるか、終生見定められないかもしれない。
 それでも、この目の前で厳しくも暖かな老爺が自分にとって、家中多くの者にどういう存在なのかぐらいは分かっているつもりだった。

 濡れた声を絞り、アルジュナ・トゥーチを、星舟は初めてこう呼んだ。



「父さん……っ」



[42755] エピローグ:魂の縄張り(サガラ・トゥーチ)
Name: 瀬戸内弁慶◆eabf7a64 ID:fa083409
Date: 2021/05/27 18:38
 年明けを待たずして、アルジュナ・トゥーチは旅立っていった。
 それほどまでに衰弱していたものか。あるいは先帝に殉じたいという意志力が働いたものか。あまりに呆気のない、東方の盟主の死であった。

 すでに真竜の死者が全体の過半を超えると言う危機的状況にあって、またそれがゆえに
「豪奢な葬儀など無用」
 というアルジュナ自身の遺言もあり、生前の恩徳に比すれば簡素な弔いが行われた。

 鋼の陵墓。
 ブラジオの空棺が納められたのと同じ霊山ではあるが、それよりも高く、深い場所へと、アルジュナは眠りに就くこととなった。
 はや、不心得者が暴きにくることなどあるまい。と同時に、他家へ辞する星舟など触れられぬ位相へと、彼は行ってしまった。

 霧のかかった峰を細めた隻眼で見上げながら、星舟は唇を噛みしめた。

「実の倅より辛そうな顔するんじゃないよ」
 その背後より声をかける者がいた。
「まるで俺が悲しんでないみたいじゃない」
 喪服をまとった、サガラ・トゥーチである。
 その衣の色もまた黒であるからして、普段見慣れた軍服と、印象の差異はない。
 ただ父より移譲された銀色の『牙』が、釣り合ってなくて強烈な違和感を放っている。
 言葉でこそ嘆いてみせるが、それこそ深い悲しみに暮れているようには、とうてい思えなかった。

 気配は背越しに通じ取っていたのでさして驚きもせず、星舟は反応もなく顧みた。
 その所作に面白くなさげに鼻を鳴らしながら、サガラは星舟に並び立った。

「で、もうこの後すぐに発つんだって?」
「はい、トゥーチ家には長らくのご厚情を受けておきながら、心苦しいことではありますが、竜全体の向後を鑑みればやはり南部の海軍および東部との紐帯の強化は必要不可欠であり、そのために微力を尽くせればと」
「だったらその薄気味悪くて白々しい敬語はやめろって。お前はトゥーチ家とは関係のない人間になるんだからな」

 用意していた表向きの理由を一蹴し、今まで互いに薄々は気づきつつも深入りしてこなかったおのれらの関係に、この時サガラは踏み込んできた。

「それともなに? やっぱ止めて俺の犬になるの?」
「……では遠慮なく」

 星舟はふっと息を吐いて、自分でも吐き気がするほどの甘い表情を、辛く苦みを持たせた挑発的な笑みへと転向させた。

「あんたのために働くことは金輪際御免だ。あんたを超えるために、オレは犬以外の何者かになれる場所に行く」

 言った。言ってやった。
 今まで折檻と恫喝にさらされるたび、何度とそう声を荒げようと思ったか知れぬ。
 だが体面と直接的な死や痛みへの恐怖が、それにずっと歯止めをかけてきた。だが口に出してしまえば何のことはない。あるのは透き通った痛快さだけである。

 対してトゥーチの新しい主は、碧眼を「へぇ」と眇めたばかりである。

「シャロンは良いってのかい」
 と、その場におらず弔問客のあいさつ回りに奔走している妹の名を挙げた。

 ……それで、脅しているつもりなのか。
 考えなかったと思うのか? 悩まなかったと思うのか?
 暇乞いを告げた時のシャロンの表情を正視して、虚心でいられたと。少しでも後ろ髪を引かれなかったとでも。

 そうした煩悶を乗り越えたから、今こうしてすべての支度を終えて服喪しているに決まっているというのに。

「そもそもお前さ……逃げ出したところで俺に勝てると思ってんの?」

 極め付きは、この問いかけである。
 もちろん、星舟の中にはなお、自分もサガラを喝破できるだけの材料など今なお持ち合わせていない。
 かつてのしがらみにまみれていた自分であれば、そのいずれかのみであっても二の足を踏んでいただろう。

「……さぁてな。正直、ラグナグムスに行ったところで何ができるかも分からない。あんたに勝てる道理もない」
 だが今の星舟などは、とうにすべてが破壊されている。
 根底から支えていた価値観も、それに付随する判断基準も。

「でも、裏を返せば何もできない道理もなければ、あんたに負ける証もないんでな」
 だから精一杯に虚勢を張る。張り倒して、前進し続ける。
 事情も知らず、あるいは知ってもなおむやみやたらに背を押してくる者たちのためにも。

 そして夏山星舟は、自分の足と決心とで、霊前より発っていった。

 ~~~

 星舟が去った後も、サガラ・トゥーチはその場に留まっていた。
 ただし霊山からは目線を落とし、地を見つめる。

「あいも変わらず、半端な男だこと」
 と去っていった男のことを評しつつ、
「まぁ、同じくどっちつかずの半端者には似合いの『息子』でしょうよ、父上」
 などと毒づく。その深い緑の眼差しの先に、父の骸を視た。その幻視と並行し、夕暮れの、親子の最後の対面を追憶する。

『何しに来た、サガラ』
『ひどいなぁ、別れの挨拶ぐらいちゃんとさせてくれても良いでしょう、父上』

 六ツ矢の隠宅。
 父は苦い顔をして横を向いた。だが意識だけは、サガラの方を剣呑ではあるものの向けていた。

『ま、俺やシャロンとの接触を過度に避けるのも道理ではあります。ヘドが出るだけでね』
『……なんのことだ』

 ――アイアンチャンセラーシステム

 その名を告げても、衰え切った父の貌に驚きはなかった。
 それはそうだろう。自分が上洛してにわかに終息した怪雨。その関連性に気づかないほうがおかしいというものだろう。

『陛下に、何をした?』
『別に何も。いや、本当に何も危害は加えていませんよ。むしろその理由があるのは、父上の方へでしょうに。よくも今まで皆を欺いてきたものだ』
『では、討てば良かろう。それでお前の溜飲が下がるのであれば』
『まさか、今更死にゆく者にくれてやるものなど何もありませんよ』

 これは本心からの言葉だった。
 むしろ、この瞬間だけであった。
 神とそれに近しき血統を持ち、その特権をもって真実を隠匿してきた彼らに、感謝の念を抱いたのは。

『俺は、世界の真実を見た。自分が何をすべきか知り、この命の意味がようやく分かった。たとえ何者であろうとも、奪わせはしない』
『……お前の見たというものなど、真実ではない』

 父は自分の考えを、詳らかにせずとも真っ向から否定した。

『そんなものは過去の残滓に過ぎぬ。今、我々がこの世界に生まれ落ちて、こうして言葉を交わしていること。それ自体こそが真実であり、奇跡なのだ』

 などと分別くさいことを言って。
 今にして思い返せば、きっとそれがおそらく、生まれて初めてサガラが父親より受けた説教であったのだろう。

 そして今、サガラの足下には父の骸の幻影が横たわっている。
 その父の他界。帝の崩御。そのいずれにも、サガラは少なからぬ嫌疑の目が向けられている。

「実際、殺ってないですよ。俺は」

 自分がやったことは、せいぜい半死半生の帝の玉衣を絞り上げて、あの玉座に在ったものがなんなのかを確認しただけだ。べらべらと喋り立てて、勝手に心臓を弱らせて死んだのは向こうの方だ。

 彼らの死もまた、自分がその道を突き進むための星巡りとして受け入れていた。これからしようとすることは、正当化されない行いではあるが、あえてそれをするだけの舗装が自分の前途にはすでに施されている。

 表情なく凝視する彼に、亡者は静かに目を開いて言った。

「だがいずれ、お前の前に夏山星舟が立ち塞がる。その奇跡に奇跡を重ねたような存在が、お前とは違う真実を手にして」

 それは最後の父の言葉。何故そこであの出奔者の名が出るのか。それは察知している。『観ていた』。
 父が奇跡と言った理由も、必ずその前途に立ちふさがるであろうという予言も、間違ってはいないだろう。

「なぁ星舟」

 すでにその場にない徒手空拳の出奔者に、サガラは静かに笑いかけた。そこでようやく、父の幻より目を外し、天を仰いだ。

「お前は、そうやっていつも俺から奪っていくんだな」

 常日頃に奴は一方的に奪われ、理不尽を強いられてる考えていそうな様子にだったが、サガラから言わせればあの餓鬼の方こそだ。本人がそのことに無自覚で無神経というのもなお憎らしい。

 だがこればかりは絶対に譲れない。この半端な命にようやく見出した意味までも、奪わせはしない。

 どうせ避けては通れないというのなら、いずれ来るその時には、

「その半端な存在ごと、跡形もなく消し飛ばしてやるよ」

 そう低く告げる。踵を返す。
 そして霊山に背を向け、目的も見出せない星舟が旅立ったのとは真逆の先へと、その足を進めて行ったのだった。

 霧がかかるが、不思議とサガラには果てまでも見通せている気がした。



[42755] エピローグ:魂の縄張り(第二連隊)
Name: 瀬戸内弁慶◆eabf7a64 ID:fa083409
Date: 2021/05/30 11:58
 そして、星舟の出立の刻が来た。

 その日の中天に陽光が持ち上がった時にはすでに、引き継ぎそれ自体は他愛もなく終わっていた。
 紋付の陣羽織をはじめ、トゥーチ家ゆかりの物品はすべて返還し、残ったのは外洋式の行李に収まる程度の私物とライデン一頭。
 そのあまりの少なさと、さしたる手続きも必要としなかったことが、夏山星舟がこの家でしたことの乏しさ、その半生の薄っぺらさを物語っているかのようでもあった。

 だがそれでも、確かに残したものはある。
 碧納の館を出た星舟。その敷地の先に、見慣れた面々が立っている。
 すでに指揮権は返上したが、第二連隊の部下たちと、そしてグエンギィである。

「よう、見送りか? それともついて来てくれるのか? あるいはついてきてくれるのか?」
 特定の誰かに向けた問いではなかったが、代表的に答えたのは、ルル姉弟であった。

「いや、冷やかしです」
「貴方に惜しむような信望や器量があるわけないですよ」
「……鬼か、お前ら」
「鳥竜です、ルル家の」

 ――自分が何者か迷いなく答えられる奴らは良いよな。
 皮肉な呟きを胸中に落とした星舟だったがしかし、リィミィにはあえてそのことを尋ねなかった。
 聞くまでもなかった。繰り上げ的に彼女が後釜となり、星舟去りし後の連隊を指揮することになる。戦局的にも政治的にも苦しい立場になるであろう部下たちの面倒や夏山の家のことを一切引き受けてくれるという。

 そして責任があるのは、憎まれ口を叩いた姉弟を始め多くの者とて同じだ。

「というか、行こうにも行けませんて。三流一家と言っても、ララ家の家名は東方領あってのものでしょうよ」
 とのクララボンの言のとおり、いかに外れ者の集団とは言っても守るべき家がある、血統がある、肉親がいる。財産がある。
 今の自分のごとく、身軽になれる者など居はしないのだ。

 そしてこの場に、シェントゥはいない。あの私室での暴露以降、サガラの間諜は姿を見せなくなった。
 そのことを不思議がっている元部下たちに、星舟は彼女が内通者であったことも、そして役目を果たして去ったことも告げてはいなかった。当然、ここに戻って来る道理はない。

「お前の腹心の面倒は私がしっかり見てやるよヌヘヘヘ」
「……せめてお前がいなくなってから感傷的になるべきだったよ、第一連隊長」

 とは言え、このグエンギィの第一連隊とは一蓮托生となった。梯子を外され、星舟の協力者と見做されサガラにそっぽをむかれている以上、今後も何かとその肩を持ってくれるだろう。
 そもそも、今こうして見送りに出ていること自体が、変わってゆくであろうトゥーチ家に対する反逆行為ではないか。あえてそれをしたということは、その覚悟と友好を彼女なりに表したことに他ならない。

 とは言え今のサガラは中央に意識が向いている。自分から歯牙にもかけぬ相手、という態度を取った星舟の、そのまた残滓のごとき一集団に嫌がらせをすることもないとは思うが。

「……じゃあ、世話になったし、面倒もかけたな」

 やり残したことはあるような気もするがが、それでも彼らのためにしてやれることは、もはやない。
 星舟はきびすを返し、彼らに背を向けた。
 二人分の足音が、その星舟の背に追従した。

 しっかりと地を踏みしめた、いずれもそれなりの身の丈と重みを有する男のもの。星舟は見切りをつけて進みだしたばかりの足を止めて、ため息をついた。

「ついて来ないんじゃなかったのか?」
「訊く相手が悪いでしょう」
「そうそう、我ら両名、郷里を捨て妻子さえ持たぬ持たぬ天下の漂泊者。一度貴方に賭けた以上は、その七転八倒ぶりを特等席にて見物させてくださいな」

 ――八面六臂と言え。
 得意げにうそぶく恒常子雲と、その彼の『妻子』なる単語に反応して暗い音調で舌を打つ経堂。
 確かに彼らの言う通りなのだが、その力量は竜に退けをとるものではない。ないがゆえに自分と共に竜と功を競っていた。その抜けた穴は大きかろう。
 星舟は一語も発さず、リィミィを見た。

「連れていけ」
 次期連隊長は間を置かず星舟の意を汲んで答えた。
「金にうるさい陰気者に、面従腹背の卑劣漢なんて、どうせ私の手には余る。あんたにしか扱えない」
「……すまん」
「良いさ。私が言ったことさえ、脳の一片にでも焼き付けていてくれたらな」

 そう言って、任官中にはついぞ見せなかった、やわらかな苦笑を浮かべている。
 それ以上の言葉は、この男女の間には発生しなかった。
 両者の間に醸される微妙な空気感に、若者たちは顔を見合わせるばかり、生の経験の豊富な者は何事かを察して、肩をすくめた。

 ~~~

 というわけでちゃっかり旅支度を整えていた二人の年長者を馬丁として、館を出た。
 昼下がりの街道筋は、むろん人どおりが少ないわけではなく、傍目には区別がつかないが獣竜も鳥竜も、そしてそれに従属しつつも本心では見切りをつけて逃散の算段でもしているであろう人間も、用向きに合わせて各々の旅装をしつらえて慌ただしく往来している。病という堰によって留められていた流通という波が、一気にあふれ出したかのように。
 ただそれでも、先までの喧しさには勝るものではない。

「思えば、あいつらとの馬鹿騒ぎも、あれで終いなんだなぁ」
 星舟が独りごちた。だが、反応はと言えば

 ――何を今になって。
 だとか、
 ――そんな生娘めいた感想を。
 だとかそう言いたげな男どもの視線である。

「まぁ」
 頭の上にあった雲が後ろへ流れていく頃合いに、経堂が言った。
「今から行く南方領もあったかくて酒肴も旨い、良い場所だって聞きます。住民もおおらかで豪放……ってありがちな感じらしいですから、寂しい思いなんざ忘れるでしょう」
「それに、病気から快復したナテオ様が、先の手柄と引き換えにラグナグムス家への帰参を許されたとの由。いやぁ、知己もちゃんといらっしゃるじゃありませんか」
「知らん、二度と会いたくもねぇ」

 星舟、己が何者か分からなくなれども、ナテオ・ツキシナルレへの辛辣さは不変のものであった。

「あ」
 ふいに行き先に目を向けた子雲が、声をあげた。
 それに釣られて見れば、その地点に覚えのある小柄な影があった。
 星舟にはそれが誰だか分かったが、経堂も子雲も、一瞬それが誰か分からなかったようだ。
 無理もない。彼女の立ち振る舞いも腰回りも、それが分かる上下一対の服も、もはや女性のそれであった。見せかけの男装をしていた頃とは、がらりと雰囲気が一変している。

「よう」
 その少女……のごときシェントゥ……と名乗っていた女に、星舟はぶっきらぼうに声をかけて下馬した。

「髪、伸びたな」
 手綱を経堂に握らせつつ零した星舟に、「えぇ」と彼女は耳元をかき分ける仕草を見せる。

「で、サガラに言われて最後の経過観察ってところか?」
「そんなわけがないでしょう。貴方はもはやトゥーチ家にとってもサガラにとっても用済み。見届ける価値などない」

 そのあまりに『シェントゥ』らしからぬ剣呑な返しに、男二人も何事かを察したようだった。彼女から間合いをとり、それとなく遠回りに背後に出んとする。

 だがその女は、見れば自分たちと同じく旅荷を提げている。
 経堂らの動きをけん制していた女狐の眼は、ふと自嘲めいた感じに歪められる。

「そしてわたしもそれは同じ。暇を出されました。まるで貴方という毒に汚染された部分を切り捨てるように、ね。でもいいんです。そういう竜だって、よく分かってますから」
「家族はどうするんだ?」
「意地の悪い質問をするんですね。すでにそこまで調べはついてるでしょう? 兄は対尾以降の戦いで討たれました。今は独り身です」

 それは過大評価というものだ。兄がいたことまでは追跡できたが、それが死んだことまでは、その直後のごたつきで踏み込めてはいなかった。

「悪かったよ、その詫びと言っちゃなんだが」
 と、星舟は通り過ぎようとする女に向けて言った。

「もし行く宛もないなら、オレらと来るか?」

 ……当然というか、返事はなかった。
 まぁ即答などは難しかろうと、星舟自身も軽い気持ちで誘ってからあらためて思った。
 何しろ自分を少年とも年下とも信じてまんまと騙されているような、内心では無能者と嘲笑っていたような男がなお懲りずにその相手を引き込もうとしているのだから、間抜け以外の何者でもなかろう。
 刹那で断らないあたり、まだ温情というものだ。

「許すというのですか? わたしを」
 笑いもせず、女は言った。
 笑いもせず、男は持ち上げた。

「許すもなにもねーだろ。お前は仕事をしてただけだ。そしてその時の腕を、今度はオレが買い直す。何か問題があるか」
「貴方に、今更就くような利得があるとでも?」
「ないな。微塵もない」

 背中合わせに問答の末、
「でも」
 と星舟は逆に問い返した。

「楽しかったろ。一緒にいて」

 少なくとも、自分はそうだったと、別れた今となっては思う。
 寄せ集めたる第二連隊たちにもし、他の連隊や、あるいはサガラの近衛トルバ隊に勝るものがあるとすれば、隊長相手にも忌憚なく文句を言い合ったり下手すれば組み合って罵り合ったりできる、その空気の軽さ、居心地の良さだったろう。

 加わってくれるかどうか、彼女にとって……シェントゥにとってその偽りの日々は充足したものであったのか。その答えをもらえないまま、
「本当に、どこまでも……」
 わずかに息を呑む音ともに、彼女は呟いて、そして声音を変えて続けた。

「まぁ、気が向いたら行きますよ。……その賑やかさに当てられて、今は一人旅を楽しみたい気分なので」
「それで構わん」

 星舟としても強いては求めない。何しろ先が読めないのは星舟も同じだ。
 刹那的に生きてるような男衆はともかく、本来関わりのないシェントゥまで、無理にこの暗夜行路に同行はさせられなかった。

「では、用事も済みましたのでこれで」
「ん? お前オレに用だったのか?」
「用がなければわざわざこんなところで待ち受けていませんよ」
「見送りにでも来たのか?」
「そんなわけないでしょう。出立する直前に捕まって、引き合わせてくれと頼まれたんですよ」

 いまいち要領を得ないやりとりに星舟が苦心するなか、従者たちは彼よりも先に察知したことがあるらしい。
 まず経堂がその目付きの良さでもって何かを見出し、そして子雲に耳打ちして肩を押して距離を置こうとする。
 そんな彼らの様子に訝っているうちに、まともな別辞もなくシェントゥが去っていき、取り残されたのは星舟のみである。

 ……否、誰かが背に気配を忍ばせている。
 その気配がふいに浮き上がって、すぐ間近にまで身を寄せている。

 近頃鋭敏になっている星舟がここまで接近を許すとは、只者ではない。
 やはり明確に害になる自分という禍根を絶つべく、サガラが刺客なりとも遣わしたとでも言うのか。

 もはやここに来たら、逃避は能うまい。顧みてその正体を暴く以外の手はあるまい。
 意を決し、思い切って首を後ろへと捻ると、

「やっと見てくれた」

 シャロン・トゥーチの突き出した指が、星舟の頬へとめり込んだ。



[42755] エピローグ:魂の縄張り(双星):完
Name: 瀬戸内弁慶◆eabf7a64 ID:fa083409
Date: 2021/06/07 00:00
 振り返りざま、トゥーチ家令嬢に頬を刺されたという自覚をした瞬間から、痒みとも痛みともつかない感覚が静かに寄せる。

 呆れたように遠のく経堂たちをよそに、しばらく両者は固まったままその間に微妙な空気を流していた。

「……あの、そろそろ離してほしいんですけど」
 そう懇願する星舟を、シャロンはつんと鼻を逸らして無視した。あからさまにふてくされた、小娘のそれだ。本当に、長じてもそのあどけなさばかりはどうしようもならなかった。

 仕方なしにやや強引に腕を取り除き、正しい位置に戻そうとする。
 こんなところをシオグゥになど見られたら、それこそ進路を冥府の底へと切り替えられてしまう。

「お見送りはありがたいのですが、このようなところを誰ぞに見られたら」
「今日はお忍びでーす。というか、もうトゥーチ家とは関係ない人だから別に良いんです」

 唇を尖らせながらの論調は、正直に言えば支離滅裂だ。
 すでに無関係の者がこれからのトゥーチ家を支えて立つ者に触れているなど、なおさらに誰ぞ……というかかの侍女長殿に粛清の格好の口実を与えることになるではないか。

「シャロン様」と呼ぶ声は、我ながらにどこか情けない。
 その言外の訴えを無視して、シャロンはみずからくるりと背を翻してみせた。

「いやになっちゃった? トゥーチ家と、私たちと一緒にいることが」
 いかにもシャロンらしい、率直な問いかけとそれに追従するかのごとき、寂しげな声調だ。

「兄上だって、態度には見せないけど、きっと悲しんでる」
 ――ねーよ。

 そこにはすかさず否定を入れる星舟だった。結局この認識の誤りは、最後まで訂正する機会がなかったが、兄と星舟とが実のところ犬猿の仲だと知らずに済んだのは、彼女にとって幸福であったのかもしれない。

「それについては先に説明したとおりり南部自体の強化ならびに東部との連携は不可欠であり、そのために微力なりとも協力できればと考えた次第で」
 星舟の口に、胃液のごとき苦酸が混じる。
 そう、先にサガラに説明したのとまったく同じ言いぐさではないか。
 この世でもっとも嫌いな男と、この世でもっとも尊き娘とに、何故通り一遍の言い繕いをしなければならないのか。

『だったらその薄気味悪くて白々しい敬語はやめろって。お前はトゥーチ家とは関係のない人間になるんだからな』

 その際に言われた一言一句、星舟の耳に今もまとわりついている。
 顔を伏せる星舟に、さらなる問いが覆いかぶさる。

「それは、ここじゃできないことなの?」
 星舟は言葉もなく首肯した。他は曖昧でも、たとえシャロンたちと袂を別つことになったとしても、今のトゥーチ家では自分の道は辿れない。たちの悪いことにそれだけは判然としている。

 そう、と乾いた笑いと声が、胸を苛んでくる。
「じゃあ、仕方ないね」
 と、むしろシャロンの方が申し訳なさそうに眉根を下げる。

「私が何か言うまでもなく、いっぱい悩んだよね。よく分からないことに、苦しんで決めたんだよね……ごめんね、何もしてあげられなくて」
 という詫びの言葉を耳にした瞬間、奥底に秘めた火が彼の内で爆ぜた。
 衝き動かされて、本能のままにその手を掴む。

「違い……違う、それは」
 本当は抱きしめたかった。もっと早くにそうすべきだった。言葉にして伝えるべきだったと思う。
 しかしままならぬ。ままならぬものをすべて受け入れて、進み続ける。

「きっと名前のなかった時のオレのままでいたら、他者からただ物足りないと求め続け、奪い続けるだけだったと思う。あるいは何もできずに死んでいたと思う」
「セイちゃん……?」
「君が、教えてくれたんだ。誰かに生きる力を、名を、血を、命を……与えることの意味を。伸ばされたその手を掴み返すことの意義を! だから、今度はオレが誰かに与えるんだ!」

 一度とて吐くことはあるまいと思っていた、青臭い少年じみた科白。
 これが今生の別れか。風前の灯火にも似た自身の人生にも夢にも見切りをつけた。それゆえの、この大胆さか。
 その自問に否を叩きつけるがごとく、星舟はさらに強く掴み、右眼を輝かせて咽頭を震わせる。

「だから君にも、いつか与える。オレがもらったものも、これから手にするものも、あげられるだけの力を手に入れて必ず戻って来る。だから、それまで待っていてほしい」

 あるいはそれは、分不相応な願いなのかもしれない。漠然に過ぎる不安に、今でさえ押しつぶされそうになる。
 それでも星舟は表情を強く保ったままに、シャロンに誓った。

 一度は敬語をかなぐり捨てて感情を吐露した星舟に、驚きによって、シャロンはその宝珠の瞳を瞬かせた。
 時と共にそれは柔らかいものへと変じていく。
「しょうがないなぁ」
 と唇が綻ぶ。

「それじゃあ、待っていてあげる。君が追い求めるその答えの先で」
 手の内の細腕が、そろりと滑る。それだけで強烈な印象を星舟の触感に焼きつけつつも、指を絡ませ、その胸板に頬を寄せる。早鐘ながらも確かに動く、彼の鼓動を聞く、浅く息を吸う。

「だからちゃんと、辿りついてきてよね……星舟」
「あぁ、絶対に」

 それ以上の言葉も、接触も要らない。
 守るべき居場所へ。進むべき道へ。
 それぞれに託されたもののために。
 彼と彼女は歩み始める。

 ――生きよう。
 星舟は足を速めながら、強く心に誓う。

 竜は人が手を下すまでもなく滅ぶかもしれない。あるいは自分の方が先に命運に追いつかれるのかもしれない。
 だがそれがなんだというのだ。この野望の道へ足を踏み入れた時から、すでに決めていた。竜と、シャロンたちと心中する覚悟を。彼女らが滅ぶ時は自分もまた滅ぶ時だと。

 もう迷わない。闇の中だろうとおそらくその道は一筋に絞られた。
 そしてその道を、きっと彼女が照らしてくれる。先に答えとともに待っていてくれる。
 あの星の宵のように、手を差し伸ばして。
 だから自分も一生懸命に進み続ける。身も心も朽ち果てようと、彼女の手に届くその刻まで。

 夏山星舟と名付けられたかつての少年は、蒼穹へと手を伸ばす。
 太陽に透かされた掌。そこに交ざって流れる竜の血を見つめ。やや苦みばしった微笑を浮かべて。

 広げた五指が、虚空をつかむ。
 彼らの影を乗り越え、彼らの放っていた栄光の輝きを辿り、ただ一筋に目指す。
 むろん、それを視るべくもない。烈しく燃える陽光の前にかすみ、分厚い雲に覆われてどこまでも遠い。

 ――それでも、きっと。
 その星は必ず、伸ばしたこの手の先にある。



 竜星の宰相……第一季;完



[42755] あとがき
Name: 瀬戸内弁慶◆eabf7a64 ID:fa083409
Date: 2021/06/07 00:01
というわけで足掛けウン年、やっとこさひとまずの閉幕です。
何やら打ち切りエンドみたいな感じになっていますが、実はこれでもまだプロットの三分の一しか終わっていないという悪夢。
まぁここまで来たら生涯の事業と肚をくくり、長くやっていきたいと思います。

正直なところ、このパートさえ終わらせられるか微妙なところでした。
はっきり言って本当に何も考えずに書き始めました。
というか、ぶっちゃけシャロンの名前さえもキャラも書き始めの時点で決めてませんでした。
今でこそ完結までの筋書きができていますが、ほぼほぼ後付けです。

そんな行き当たりばったりな拙作がこうして軟着陸と言える程度にはなんとかまとめることが出来たのは、ひとえにここまで根気強く読んでくださった方、ご声援、ご紹介いただいた方々に拠るところが大きいです。

返す返すも、ありがとうございました。
この場を借りて、厚くお礼申し上げます。

また折を見て、第二部の南部戦線編をスタートできればなと考えています。
その場合は、さすがに100話超えているので別枠を設けることにはなるかと思いますので、どこかでチラと見かけたらまたお声がけいただければ幸いです。

それでは、またいつかのどこかでお会いしましょう!


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