後漢の首都、洛陽。
政務に関心を持たない皇帝、外戚と宦官の権力争い、私欲に走る官吏、疲弊した国土、怨嗟を胸に抱く民。
そうした問題を抱えつつも、大多数の者は、漢王朝の世がこのまま続くと考えていた……。
洛陽にある大学の図書室で一人、青年は机に書物を何冊も広げ、紙に書き写していた。
年の頃は十代の後半といったところか。長身ではあるが武人ほど鍛えられている訳ではない身体。平凡な顔立ちに茶色の髪。都の何処にでもいるような青年である。
「相変わらず、陰険そうな顔をしてるわね、伯業」
「……せめて、相変わらず真面目な顔をしてる、と言ってくれませんか? 孟徳さん」
「御免なさいね。私は世辞は言えない質なのよ」
そう言いながら、曹操は冷ややかな笑いを浮かべていた。
流石『治世の能臣、乱世の奸雄』である。曹操は青年より年下であるが、青年にはない風格を漂わせている。
「けど、折角学生という学べる身でありながら、そういった姿勢が見えない連中よりはましかもね。何処かの馬鹿女とか派手好きの高飛車女とか悪趣味の勘違い女とか」
「貴女が誰のことを言っているのか、おおよそ想像は付きますが、彼女は机で書物に注釈をつけるよりも別に学ぶことがあるんですよ」
従妹の高笑いを思い浮かべながら、伯業と呼ばれた青年は苦笑いを浮かべた。
「政治にしろ軍事にしろ、彼女の立場では自ら思案する必要はありません。配下の意見を聞く耳と、人を見る目。その二つが備わっていれば問題ないわけですから」
「上に立つ者の一つの形ではあるわね。で、麗羽にその素質は備わっているのかしら」
目の前に立つ曹操の口調は、明らかに青年の従妹にその素質はないと語っている。
だが、青年は直接には彼女の質問には答えなかった。
「上に立つ者には二つの形があります。先ほど言ったような形の代表は高祖であり、自らが優れた政治家であり将軍である形の代表といえば光武帝です。貴女は明らかに後者ですね」
目の前に立つ小柄な女性、曹操とはよく大学内で会うことが多かった。
それは二人とも貪欲に何かを学ぼうという姿勢の現れでもある。
それだけなら問題はないのだが、曹操は青年の姿を見かける度、こうして話しかけてくるのだ、挑発的に。
単なる嫌みか気まぐれか、或いは何か思惑があるのだろうか。
曹操、字は孟徳。青年の従妹である袁紹の友人である。
曹孟徳と袁本初、この二人は何かにつけて張り合っている。決して仲が悪い訳ではないのだが、互いに意識しあっていることは青年も理解していた。
いや、それ以前に青年は、この二人か後年覇業を賭けて激突するという事実を知っているのだから。
青年の名は袁遺、字は伯業、真名は恭介という。
彼は幼くして両親を失ったが、漢王朝屈指の名門である袁一族に連なる者として、不自由のない生活を送っていた。両親を亡くした後は、叔母である袁隗の元に引き取られ、幼少の頃から書に親しみ、武芸に励み、自身を磨くことを欠かさなかった。
当たり前である。
何せ、今後世が乱れることを知っているのだから。
最初は夢かと思った。
それまで日本で普通に大学生をやっていた自分が、目が覚めると赤ん坊になっていたのだから。無論、そんなことを言っても誰も信じないだろう。
そもそも自分だって信じない。
荘子の有名な説話として、胡蝶の夢、というのが知られている。自分が夢を見て蝶になったのか、あるいは蝶が夢を見ているのが自分なのか、というヤツである。
恭介には自分が夢を見ているのか、それとも日本で過ごしていた日々が夢だったのか、それは分からない。ただ一つ言えるのは、夢だと思っていたこの古代中国の生活がもう二十年も続いているということだ。
それにしても、何故に曹操がこんなちんちくりんな金髪少女なんだ……。
恭介が知っている曹操と、目の前に立つ曹操。
背が低い、才気と野心に満ちている、という点ではイメージ通りなのだが、何故か性別が女性であるのだ。尤もそれを言えば、従妹の袁紹も袁術も、大将軍である何進も女性であるのだが。
それに『真名』という存在も聞いたことがない。
恭介は高校時代は世界史を学んだし、大多数の男子と同様に、日本では戦国時代、中国では三国時代の知識は豊富に持ち合わせていたが、『真名』などというものがあることに関しては全く記憶にない。
『真名』とは、本人が心を許した証として呼ぶことを許した名前であり、許可無く『真名』を呼ぼうものなら、その場で叩き殺されても文句は言えないほどの無礼に当たるそうだ。恭介が真名を知る人物は、袁隗や袁紹といった一族と、ほんの僅かな友人達だけである。
因みに恭介の真名は、彼が日本で過ごしていたときの名前そのままであった。そのせいか、どうも他の者に較べると、真名に関する認識が薄い。
と恭介が考え込んでいる間、曹操は俊介が机の上に広げた書物を勝手に手に取り捲っていた。
「農業書に土木書。こっちは韓非子と地方からの耕作の報告書。随分と手広く読んでいるのね」
「先ほど孟徳殿が仰ったように、学べる身である内に多くの事を吸収しておかねばなりませんから。こうして大学の書庫で本を読むような贅沢が許されるのはあと僅かだですから」
「『蒼天已に死す』。反乱の治まる気運がないものね。今までと違って、一つを鎮圧しても次から次へと反乱が起きている。つまり集団的な、本気で漢王朝を倒そうと考えている者がいると?」
「ええ。民衆が蜂起するのは政治に問題があるからです。少しでも歴史を知っていれば自明のことですがね」
「そのことは司徒である叔母様にお話ししているのかしら? 今の朝臣と宦官、外戚の醜い権力争いこそ、反乱の原因であり、漢王朝の危機であると? 代々三公に就いている袁家には、今の腐敗しきった朝廷に対して責任があるのでなくて?」
「叔母は理想より現実を優先する人ですから。現状では、まず反乱の鎮圧を優先するでしょうね。それに、過去朝廷の腐敗を改めようとした方々は、宦官によって粛正されていますから」 曹操は皮肉そうに笑った。
「確かにね。それで現在の袁家は宦官と表だった対立はせずに政権の中心に居座っている訳ね。宦官の孫としては、将来的にもそうあってほしいものだけど」
「大きな話は自分には分かりませんが、少なくとも孟徳殿と争う事態は避けたいですね」
「そうね。私も無駄な争いは起こしたくはないわ。貴男が我が覇道の前に立たなければね」
「覇道ですか……。流石、『乱世の奸雄』は仰ることが違いますね」
暫し、二人の目線がぶつかり合う。
「まあいいわ。精々学んでおくことね。でないと、あの勘違い女の補佐など出来ないでしょうからね」
そう言うと、曹操は図書室から出て行った。
途端、恭介は溜息を吐く。
金髪少女が放つ覇気は流石に英雄というべきか、恭介は自然と疲労を感じていた。
「……はあ。将来はあの人と戦う可能性が高いんだよねえ」
その時、自分は生き延びることが出来るのか。いや、それ以前にこの後に起こる戦乱の時代を乗り越えられるのか。
曹操や袁紹といった有名な武将は兎も角、今の自分、即ち袁遺という人物が今後どのような道を進むのか、恭介の知識に思い当たる節はない。
その不安が恭介を学ぶことに駆り立てる。
なお、後年曹操は、「大人になってもよく勤めて学んでいる者は、自分と袁伯業だけだ」との言葉を残している。