<このWebサイトはアフィリエイト広告を使用しています。> SS投稿掲示板

SS投稿掲示板


[広告]


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

[37967] 【和風ファンタジー 人買い R-15】龍と人が催す、終わらぬ贄食の宴
Name: トファナ水◆34222f8f ID:82139271
Date: 2017/07/02 17:00
戦国時代の日本と似て非なる異世界の島国・和国。
皇祖神を奉じる神宮の社領・伊勢では、圧政に耐えかねた民衆が、天竺より来訪したという龍神の加護を受けて蜂起した。神宮を倒して下克上に成功し、一揆衆による新体制となった伊勢は、幕府や近隣州とにらみ合いつつも、特産品である医薬の交易を再開した。
「龍神様の霊験あらたかな伊勢の薬はいらんかね。労咳、疱瘡、蝮毒、癌、治らぬ病などありはせぬ。お代は一服百文也。少々値は張るが、命の代価と思えば安い物。銭がなければ、代わりに赤子一人でも結構だよ」
旅の薬売り兼人買いが主人公の、和風ファンタジーです。


初作品です。
アンモラルな要素、特に劇中人物が差別を肯定する場面を含む箇所がありますので、苦手な方は御注意下さい。
現実の差別を助長する意図はありません。
ストーリー上、若干の性描写が含まれる話もありますので、自主規制としてR-15表記を付記します。
中盤以後、ディストピア風味の内政要素も入れて行く予定です。

※「小説家になろう」「カクヨム」にも併載しています。レーティングは各サイトの基準に沿いますので、掲載先によって異なります。

Twitterのアカウントは右記です。 @69fighter




[37967] 1話「薬売りの女」その1
Name: トファナ水◆34222f8f ID:82139271
Date: 2013/06/30 22:06
 ここは街道から分岐した脇道の終端に位置している、総勢五十戸程の小さな農村である。
 元は農地を継げない冷や飯食いが開拓に入って興した集落なのだが、水源を人工の溜池に頼っている為に田畑を広げる余地が乏しく、現状の規模に留まっている。
 ここより先は、誰一人住んでいない未開の土地だ。
 百姓達が畦に腰掛けながらの粗末な昼食を終え、野良仕事に戻ろうと立ち上がり始めた頃。遠くから、車輪らしきガタゴトという音が響いて来た。

「牛車かのう、どこぞの商人かね」
「それにしちゃ、随分と音が早い様な…」

 自給自足の農村ではあるが、自給出来ない生活必需品は外部から購う必要がある。
 そういった需要を満たす為、この様な村にも、月に一、二度は商人が訪れる。
 代価は、副業として百姓の女房達が織った布や、編んだ草鞋といった工芸品との物々交換が主だったが、最近は貨幣を介した取引に置き換わりつつある。
 また、商人は他の地域の風説を伝える情報源でもあり、村にとって歓迎すべき来訪者であった。
 百姓達が音の方向に目をやると、徐々に荷車の姿が見えて来た。
 荷車は箱形で、貴人の乗る牛車に近いが、装飾の類は全くない。また、荷車を引いているのは、牛ではなかった。

「うへっ、ありゃ馬か? 随分とでっけえ!」
「馬に牛車を牽かせるなんて、聞いた事ねえ!」

 この時代の和国において、荷車の牽引は専ら牛が行っていた。馬は主に武士階級が使う騎乗用の家畜である。
 荷役に使う場合もあるが、荷は直接馬の背にくくり、荷車を牽かせる事はない。
 荷車を牽いている馬は巨大で、牛並の大きさだった。馬としては鈍重そうで早馬にはとても使えそうになかったが、それでも牛よりは遙かに歩みが早い。

「馬方がいねえな?」
「よく見れ。荷車の前に腰掛けとるのがそうじゃろ」

 荷車の前に乗った人物が、手綱を取っているのがわかる。
 通常、荷車を家畜に牽かせる場合、手綱を取る御者は先導して歩くのだが、この荷車は前部に腰掛けがしつらえてあり、御者はそこに座っている。

「ありゃ、戦に使う様なもんかいのう」
「もしかして、野盗の襲撃でねえのか?」
「庄屋様を呼んで来る!」

 百姓達に不安が広がる中、その内の一人が、高台にある庄屋の屋敷に駆けていった。
 程なくして、この村の庄屋を務める初老の男が、百姓に連れられて来た。万一の事を考えて、庄屋は腰に刀を携えている。数名の百姓も、武器代わりに鍬や鋤を手に構え、彼等は村の入り口で荷車を待ち構えた。
 荷車に乗っていたのは、御者の若い女一人だった。
 市女笠を被った壺装束という出で立ちで、武家の女の旅姿に近い上等な身なりだ。体格は細身でやや長身。
 青白い肌の色は屍の様だが、肌の艶や張りはしっかりしているので、生来の体色と思われる。肌の色とは対照的に血の様に紅い唇も、女の健康ぶりを示していた。細長く鋭い切れ目が、隙のなさを伺わせる。

「何かあったのかい?」

 女は待ち構える百姓達の前で荷車を止めると、不思議そうに首を傾げながら問いかけて来た。

「最近は何かと物騒でな。お前さん、一人かね?」
「そうだよ。見ての通りさ」
「荷は何かのう?」

 庄屋が荷車の中身に目をやると、幾つもの樽や木箱が積まれている。

「商品さ。後、あたしと馬の食い物だね」
「商品という事は、荷役ではなく行商人かのう。ともかく、馬なんて、専ら戦に使う物とばかり思っておったでな。てっきり、野盗の類かと思ったんじゃよ」
「ふふ、女一人じゃ何も出来やしないよ」
「その女一人で旅とは、肝が据わっておるのう」

 女の言い分は矛盾していた。
 抵抗力のない女一人で旅をすれば、たちまち野盗の餌食になりかねない。しかも、女は全くの丸腰に見えた。

「それにしても、守り刀の一振りも持っておらんとは。剛胆を通り越して無謀じゃな」
「無駄な物は持ちたくなくってね。それに、きっちり筋は通してるんだ。あたしの様な稼業の者を襲ったら、地の果てまで追いかけられて始末されるって事は、無頼者でもみんな知ってるからねえ」
「もしかしてお前さん、伊勢の薬売りかね?」
「解るなら話が早いね。こいつが鑑札だよ」

 女は庄屋に、懐から取り出した鑑札を見せた。庄屋はそれを手にとって改める。

「…本物じゃな」

 伊勢は、村のある尾州の隣州で、勢州とも呼ばれる。
 和国中の神社を総括し、皇家とも関係の深い伊勢の神宮の社領で、薬種商の拠点の一つとしても知られている。
 各地を行商して巡る薬種商は、伊勢の業界組織である”薬座”の鑑札さえあれば、州境の関所は容易に通行出来、通行税も取られない。
 医薬品の流通は死活問題に直結する為、薬種商は特に保護されていたのである。
 領内で薬種商が殺されれば、草の根を分けても下手人を捕らえて罰しなければ、薬種商が来なくなって、統治にも支障を来しかねない。
 女の自信はそこから来ているのだろうと庄屋は納得し、怪しい者ではなさそうだからと、警戒する百姓達に仕事へ戻る様に促した。

「失礼したのう。儂はこの村の庄屋を務めておる者じゃ。まずは屋敷においで下さらんか」
「それじゃ、商売やらの話はそちらでしようかね」

 女は庄屋の先導で、彼の屋敷まで荷車を走らせた。



[37967] 1話「薬売りの女」その2
Name: トファナ水◆34222f8f ID:82139271
Date: 2013/07/04 21:14
 屋敷に着くと、庄屋は馬を厩につなぐ様に勧めた。

「有り難いね。だけど、この村じゃ馬どころか牛もいない様だけど、何で厩が?」
「役人が乗って来る事があるでな。各村に厩を用意しておく様、触れが出ておるんじゃよ。飼い葉もあるから、食わせてやるといい」

 馬を厩に繋ぎ終えると、庄屋は屋敷に女を通した。
 庄屋の屋敷とはいっても、村の寄り合いが出来る程に広い他は、他の家々とさほど変わらない簡素な造りである。
 女は、庄屋に勧められるまま、囲炉裏ばたに腰を下ろした。

「どれ、とりあえず落ち着いたねえ」
「この前に来た薬売りは、違うもんだったがのう。行商の縄張りは厳しく仕切られておるんじゃないのかね?」
「伊勢で一揆があった事、知らないかい?」
「聞いておるよ。前の薬売りは巻き込まれたのかね?」
「さあねえ。あたしが鑑札を受けた時、与えられた庭場がこの辺りだったってだけでね」
「今の伊勢はどうなっておるのかね?」
「一揆があったという事は知っているのだろう?」
「前に話を聞いたのは二月程前じゃったか、それから村の外との行き来がなかったからのう。顛末を聞いておらんのじゃ」
「下克上が成ったのさ。今は、一揆勢が伊勢を治めてるね」
「まさか!」
「本当の事さ。それで神宮が免状を出していたこれまでの薬座は潰されて、あたしは一揆勢が興した新しい薬座から鑑札を受けたんだよ」

 一揆とは、治世に不満を持つ民衆の蜂起の事だが、大抵の場合はただ鎮圧される。
 交渉により要求が通ったとしても、見せしめとして首謀者は処刑されるのが慣習だった。
 一揆側が完全に領主を武力排除した例は殆ど無い。

「伊勢は、他州がどうせ攻めてこないとたかをくくってたからねえ。あそこの衛士は他州の侍に比べて、数も質も貧弱だったのさ。それに、今の幕府に、伊勢に援軍を出せる力が残ってると思うかい?」

 和国には現在、幕府と呼ばれる、君主である皇家に任じられた統一政権が存在する物の、その支配力は弱い。
 幕府の任命を受けていない、非公式の武装勢力に実効支配される地域も数多くあり、実質的な小国分立状態となっている。
 その為、皇家に縁の深い伊勢で一揆が発生しても、その鎮圧に幕府が援軍を出せる状況ではなかった。

「お伊勢さんが潰されちまうとは世も末じゃあ…」

 単に”伊勢”と言うと勢州を指すが、”お伊勢さん”と言う場合は、和国の神社を総括する伊勢の神宮の事となる。
 伊勢の民衆にしてみれば圧政者だったが、他地域の住民にとって、神宮は信仰の対象である。
 それが排除されたというのだから、暴挙に思えても当然だろう。

「末なもんか。百姓から搾り取るしか能のない強欲な神主に、龍神様の罰が下ったんだよ」
「龍神様?」
「ああ、一揆勢の頭目は、天竺から来たっていう龍神様が加護しててね。頭目にすっかり惚れ込んでて、夫婦の契りも交わしてるんだよ。おかげで、一揆側の討ち死には一人も出なかったのさ。いくら伊勢の護士がへっぽこだっても、龍神様がいなきゃ、そこまで圧勝は出来なかっただろうね」
「信じられん…」

 庄屋も、龍という聖獣が実在し、彼等を祭神として崇拝する地域もある事は知っていた。
 だが、龍は生贄を要求し、対価として作物の生育に適度の雨を降らせる他は、人間の治世に不干渉であるという。
 その龍が百姓一揆に荷担して、和国の信仰の中心である伊勢の神宮の転覆に関与するとは信じがたい事だった。

「そうかい? まあ、あたしも人間じゃあないんだけどねえ」
「法螺も大概にしてくれんかね?」
「これを見てもそう言えるかい?」

 女の頭からはいつの間にか二本の角が生え、口からは長い牙が覗いていた。



[37967] 1話「薬売りの女」その3
Name: トファナ水◆34222f8f ID:82139271
Date: 2013/06/30 22:45
「ひ、ひいい! 夜叉ぁ!」

 庄屋の顔面からは血の気が引き、その場にへたり込んでしまった。
 女は夜叉、あるいは般若、山姥等と呼ばれる、人間を捕らえて食べる妖(あやかし)だったのである。

「そう、あたしはいかにも夜叉だけどねえ。とって食いやしないから、怖がらなくていいさ」
「ほ、本当に?」
「夜叉が人間を食うのは年に一、二度で良くてね。常には普通の飯を食うのさ」
「ふ、普通の飯を食うのかね?」
「当たり前さ。毎日人間を食ってたら、いくらいても足りやしないじゃないか。そんななら、あたし達も人間も共倒れしちまうよ」
「それは、そうかも知れんが…」
「それに、伊勢の一揆勢にはあたし達みたいな夜叉やら羅刹といった人外の類が結構混ざってるけどね。食っていい人間は、罪人か敵兵だけって掟になってるんだよ」

 自分を襲うつもりはないと言われても、人外の存在を目の当たりにして、庄屋の恐怖は収まらなかった。

「何もないこんな村に、お、お前さん、何をしに来なすった!」
「だから伊勢の薬売りだって言ったろ? あたしは商売に来たんだよ。ま、ついでに伊勢の近況を広める役目もあるんだけどね」
「つ、つまりお前さん、伊勢の龍神様とやらの手下だと?」
「まあ、あたしは役人や兵って訳じゃないけどさ。鑑札を受けた代わりに色々と命じられて動くから、似た様なもんだね」
「そ、そうかね」
「伊勢では妖が大手を振って歩いてる事も、いずれ和国中に知れ渡るだろうけど。それまで、あたしの正体は村人には内緒だよ?」

 庄屋は、震えながらコクコクと頷いた。
 女は庄屋を通じ、村の各戸に前任者が置いていった配置薬を持って来させる様に告げた。
 伊勢の薬売りは、得意先の各家に一揃いの配置薬を置き、次回の訪問時に減っていた分の代価を請求する商法である。
 野良仕事が終わった夕刻頃には、薬箱を持ち寄った村人達が、庄屋の屋敷へと集まった。
 女は村人を怯えさせない様に角と牙はしまい、再び人間を装っている。
 集まった村人を前に女は、現在の伊勢は一揆衆が支配している旨を伝えると共に、前任者の属していた古い薬座は解体され、自分の属する新たな薬座との繋がりはないので、今回は代価を請求しない事を告げた。
 神宮が潰された事については、意外にもおおむね平静に受け止められた。支配者の末端である庄屋に比べ、一般の村民達は、圧政に怒った民衆が一揆を起こした事に理解を示したのである。
 薬座の一新についても、前任者が配置した薬の代価は請求しないと宣言した事で、深く追求する者はいなかった。

「そういう訳なので、いくら使っていても銭はいらないから、何が減っているか見せておくれよ。どういう薬が特に入り様なのか知りたいからね」

 配置薬の内容は腹痛、解熱、止血、駆虫の各薬品が一揃いとなっているが、どの薬箱も駆虫薬の他は殆ど減っていなかった。

「怪我も病もないなら結構な事だけどねえ。高すぎて迂闊に使えなかったかい?」
「売薬を使わずとも、腹痛は千振、止血は弟切草があるでな。熱は冷水を含ませた布で冷やしておる。ただ、虫下しだけはどうにもならんのじゃ」

 女の疑問には庄屋が答えた。村では虫下しを除き、自生している薬草で間に合っていたのである。
 配置薬に使う薬としては定番だったとはいえ、場所に応じた薬を置かないのは怠慢ではないかと、女は思った。

「それじゃ、虫下し以外は別の、そこらの薬草じゃ代用が出来ない薬を置く様にしようかね」
「どんな物があるかのう」
「そうだね、例えば、蝮の毒消しに使う丸薬。労咳に効く煎じ薬。疱瘡に効く水薬とかがあるね」

 集まった村人から、ざわめきが広がった。
 労咳も疱瘡も、死に至る難治の流行病だが、それが治るというのである。

「一体いくらなんだ?」

 持参した薬を見本として取り出し始めた女に、村人の一人から声が挙がった。やや若い男だ。

「お前様は?」
「この村で、若衆の頭を務めてるもんだ」
「じゃあ、この場での問答は、庄屋様とお前様に相手を絞らせてもらうよ。大勢から色々言われるとややこしくなるからね」
「わかった。で、値はいくらだ?」
「今回から置いていく薬はどれも、一回分で銅銭百文、銀なら一匁だね。虫下しはこれまでと同じ物だから、元の値段の十文でいいよ」
「百文? とても手が出ねえよ」

 薬の値を聞いて、村人達からはざわめきや溜息が広がった。
 百文は命の代価とすれば決して高いとは言えない。街の商人や職人であれば、一本立ちさえしていれば、何とか用意出来るだろう。
 しかし、自給自足で現金収入の乏しい農村では、とても高価な物である。

「こいつは、龍神様が処方した特製なんだ。使わなきゃ代価は取らないから、是非、置いておくれよ」
「本当に効くんかね? 使って効かずに、高い銭を払う羽目になったらたまらねえしよ」
「誰か、重い病で伏せっている者はいないのかい? そしたら、直に効能を見せてやれるんだけどさ」
「労咳病みなら去年いたけどよ、年の瀬に死んじまったなあ」
「そりゃ気の毒に。他に、誰かいないのかい?」
「そうだ、姐さん。蝮の毒消しがあると言ったろう?」
「ああ。あれは特に売れ行きがいい薬でね」
「酒に漬け込むつもりで、うちに蝮が捕らえてあるんだけどよ。姐さん、そいつに噛まれてみてくれねえか? 毒消しが本物だったら大丈夫だろ?」
「そいつはいい思いつきだね。早速だけど蝮を持って来ておくれ。こういう事は、皆の目の前でやらないとねえ」
「面白え!」

 若衆頭は家に戻り、すぐに壺に入れた蝮を持って戻って来た。

「じゃ、一丁やってもらおうか!」

 若衆頭はにやつきながら女の目の前に壺から蝮を置いた。
 いいぞ、やれやれ、と村人達がはやしたてる。
 誰もが本気ではない。効くかどうか怪しい薬を売りつけて、村人から暴利をむさぼろうとした女を、嘲って遊んでいるのだ。
 女の正体を知る庄屋のみが、ただじっと沈黙を守っている。

「はいよ」
「お、おい! やめろ!」

 女は周囲の制止の声を無視して、壺に右腕を突っ込んだ。
 数秒後に壺から腕を引き出すと、蝮が手首にかぶりついたままだった。
 それを見た村人達からは悲鳴やどよめきの声が挙がったが、女は全く平然としている。

「やっちまった…おい、姐ちゃん! 大丈夫か?」
「平気さ」

 女は噛み付いたままの蝮の顎を左手でこじ開け、壷へと放り込んだ。
 そして、見本として広げてあった薬の内にあった、蛇の絵が描かれている小袋から丸薬を一粒取り出し、口に含んで飲み込んだ。
 噛まれた後からは血が垂れているが、気にする様子も無い。

「さて、この毒消しの丸薬を飲んで、あたしが明日まで何もなければ薬が効いたって事で納得してもらえるかねえ」
「あ、ああ…」

 若衆頭以下の村人達は、言葉もなく呆然としている。

「血止めはしなくて良いのかね?」
「丸薬が効き始めりゃ血も止まるから、心配いらないよ」

 庄屋が尋ねると、女は落ち着いた様子で答えた。

「さて。毒消しを飲んで効き始めると眠気を催すんだ。今日はもう寝るから、明日を楽しみにしておくれよ」

 村人達が中身を詰め替えた薬箱を持って帰っていった後、女は薬の効きが悪くなるからと夕餉を断り、庄屋の家人が客間に用意した床へ入ると早々に寝てしまった。



[37967] 1話「薬売りの女」その4
Name: トファナ水◆34222f8f ID:82139271
Date: 2013/07/03 04:35
 翌朝。
 昨日集まった村人達は、女の様子を見に、再び庄屋の屋敷を訪れた。

「庄屋様、上がらせて下せえ!」
「何だね、朝早くから…」
「気になってよう。薬売りの姉ちゃんは、大丈夫だったかね?」
「ああ。自分の目で確かめるとええ」

上がり込んだ村人達が見た物は、囲炉裏端で朝餉を食べている女だった。

「飯を食ってる最中に来るとはねえ」

 女は朝餉を邪魔されて、やや不機嫌そうに箸を置いた。

「それで、大丈夫なのか?」
「ああ。腕も見るかい?」

女は、蝮に噛まれた右手首を見せた。
傷口にはかさぶたが張っているが、腫れたり膿んだりした様子は全くない。

「こいつあ…」
「信じるしかねえ…」

 村人達は、毒消しの薬効を目の当たりにし、一様に驚いた。

「さて。薬は百文と言ったのを覚えてるかい? お前様。早速だけど、お代を頂けないかねえ」

女は、昨日に蝮を持って来た若衆頭を指差した。

「な、何で俺が?」
「何せ、値の張る商品なんでね。元々お前さんの案なんだから、使った毒消しの代価を払うのは当然だろう?」
「俺一人か? お前等だって、乗ったじゃねえかよ!」

 若衆頭は狼狽して喚いたが、周囲の村人は目をそらしてしまう。若衆頭一人に責任を押しつけるつもりの様だ。

「本気じゃなかったんだよ! 止める間もなく、あんたが蝮に噛ませちまって…」
「商いは真剣勝負なんだ。取引の場で言った事には、責ってもんがあるんだよ。ねえ、庄屋様?」

 女は若衆頭の弁解を切り捨て、庄屋に同意を求めた。

「確かにそうじゃのう」
「しょ、庄屋様… 俺にゃあ、そんな銭はねえ…」

 男はその場にへたり込んでしまったが、庄屋としては薬売りの機嫌を損ねる訳にはいかない。
 話の筋は通っているし、何しろ、相手の正体は夜叉だ。

「そうだねえ。こんな村で百文をすぐに都合出来るのは、庄屋様位な事はこっちも承知してるんだ」
「なら、元々が無茶苦茶な値付けじゃねえかよう…」
「はるばる伊勢から運んでるんだし、元値が張るんだよ。けど、身を売って購えば、払えない額じゃないだろう?」
「俺に、奴婢になれってかあ…」

 男は嘆いたが、女の正体を知る庄屋は元より、その場の誰もが、彼をを庇おうとする者はいなかった。
 何らかの理由で借金を負い、身売りで弁済する事は珍しい話ではない。
 女なら女郎、男なら鉱山夫か富農の作男にされる事になるだろう。

「まあ、待ちなよ。何も、お前様自身を売れってんじゃない」
「まさか、女房か?」
「違うってば。まずは座って話を聞いておくれよ」

 若衆頭を始め、村人達は座って女の話に耳を傾ける事にした。

「この村に限った話じゃないけど、生まれた子は皆育てるのかい?」
「いや、産婆が取り上げてすぐ間引く事もあるのう」

 女の質問には庄屋が答えた。
 生活基盤である農地に限りがある為、農村においては、余分な子は出生後すぐに、”間引き”と称して殺処分するのが常だった。

「田畑にも限りがあるから、仕方ないねえ。でも、売り物になるのに勿体ない話だとは思わないかい?」
「赤子は無事に育つかどうかわからんし、せめて三つ位までは育てんと売り物にはなりにくいのう。じゃが、そこまで育てては飯の無駄じゃよ」
「情もわいちまうだろうしねえ」
「そうじゃよ。じゃから、いらん子はすぐに間引いた方が良いんじゃ」
「生かしておいてくれたら、何人でもあたしが買おうじゃないか。薬のお代にしてくれてもいいし、こっちが銭を払ってもいい。伊勢じゃ、赤子の引き合いが多いんだよ」
「赤子の守りは面倒じゃろ。どうやって連れて帰るのじゃ?」
「やり方があるのさ。真似しようたって無理だとは思うけど、深くは聞かないでおくれよ」

 行商人が乳児を連れ歩く等、かなりの無謀であるが、女には手段がある様だった。

「授かった子を間引かずに済んで、銭にもなるんだ。いい話だろう?」

 村人達は黙って目を伏せていた。理屈ではそうだが、割り切れない事でもある。

「さて、お前様だけど。買えそうな子はいるかい? いれば薬代にさせてもらうよ」
「……」

 女は若衆頭に向き直って尋ねたが、彼は無言のまま答えなかった。

「初子じゃからのう。躊躇うのもわかるが、お前の身には代えられんじゃろ?」
「庄屋様!」
「へえ、いるのかい? いないんなら、子が出来たら引き渡す証文を作ろうと思ったんだけど、手間が省けたねえ。じゃあ早速行こうか」

 女は若衆頭に、家まで案内させた。一介の百姓らしく小さく簡素な佇まいであるが、それなりに手入れは行き届いていた。

「おう。帰ったぜ」

 若衆頭の家では、女房が籠に入った赤子をあやしていた。

「あんた、出てったと思ったらすぐに戻って来て。忘れ物?」
「いや、客を連れて来てな。伊勢の薬売りだ」
「そういや昨日、村に来たって言ってたねえ。そっちの人?」
「ああ。お邪魔するよ」
「若い娘さんなのに、遠路はるばるご苦労様。顔色が良くないけど、旅疲れかい?」
「顔色は生来さ。早速だけど、ああ、その赤子がお前様達の子かい」

 女が籠の中の赤子に微笑むと、赤子もあどけない様子で笑った。

「跡取りかと思って期待したら女の子で。うちの人はがっかりしちゃって」

 女房は苦笑していた。
 跡取りになる男児に比べ、女児の価値は低い。
 それでも育てるのは、女児を間引いてばかりでは跡取りに宛がう嫁のなり手がなくなってしまうので、少なくとも長女は間引かずに育てるのが不文律となっている為である。

「…この姐さんがよ。うちの子を売って欲しいって言ってんだよ」
「何だって!」

 若衆頭が女房から顔を背けながら言うと、女房は叫び声を挙げた。

「あんた! どういう事!」
「どうもこうもねえよ。長女は間引いちゃいけねえって掟があるから仕方なく育ててるけどよ、跡取りにならねえ娘なんぞ穀潰しだぜ」
「情けない事を言うな、この甲斐性無し!」

 女房は激昂し、若衆頭の頬を張り飛ばした。

「痛てえな、何しやがる!」
「やかましい!」

 どなり返した若衆頭に、女房は一歩も引かない構えだ。
 赤子は双方の怒声に絶えかね、大声を挙げて泣き始めた。

「あのねえ、大事な話なんだ。夫婦喧嘩は後にしとくれよ」

 静かだが有無を言わさない響きの女の声に、夫婦の口論は止んだ。
 赤子も泣き止み、女の方をきょとんと見ている。

「帰っておくれよ。娘でも、大事なうちの子なんだ!」
「悪いけどね、お前様の亭主が、あたしの商品を使ったのさ。赤子はそのカタって訳さ」
「商品って、たかが薬一服でこの子を?」
「これまでの物とは効能が違うんだ。蝮の毒消しさ。一服百文也」
「蝮の毒消しって、そんなもん、聞いた事もないよ?」
「お前様の旦那と庄屋様、他にも昨日集まった村の衆が薬効の証人さ。値が張るけど、命の対価なら高いとは言えないねえ」
「本当かい? あんた」
「ああ…」

女房の問いに、男は力なく答え、事情を説明した。

「それで蝮の壺を持ち出したのかい。何て事してくれた!」
「済まねえ…」

 女房の責める様な視線に、男はうなだれた。

「で、薬屋さん。この子を買ってどうするんだい?」
「伊勢では赤子が引く手あまたでね。あたしの仕事は薬売りだけじゃない。子の仕入れも兼業なんだよ」
「お断りだよ!」
「それなら、お前様の旦那が身売りする事になるだろうねえ。あたしは大人を買わないから、庄屋様がひとまず薬の代価を立て替えて、旦那は別口の人買いに斡旋する事になると思うよ」
「そんな…」

 ”庄屋”の一言を聞いて、女房は気勢をそがれてしまった。
 この一件を庄屋が承知しているなら、逆らえば村中を敵に回す事になりかねない。

「悪い話じゃないと思うけどねえ? 何せ、お前様、次の子を孕んでいるのだろう?」
「な、何で、それを…」

 確かに女房は、次の子を孕んでいる。
 産後の養生が終わった頃に夫の求めに応じてまぐわった際に出来た様だ。

「同じ女だ、見りゃわかるさ。この子を産んですぐに次の種を仕込んだとは、お盛んだねえ?」

 女がクスクスと嗤った。

「孕んでるって本当か、おい!」
「驚かそうと思って黙ってたんだよう…」

 若衆頭が女房を問いただすと、消え入る様な答えが返って来た。

「二人目が倅ならともかく、次も娘なら養う余裕はねえからよ。間引く他ねえ…」
「そ、そんなあ! あんた!」

 間引きの事が頭にあったので、女房は男に懐妊を言いそびれていたのだろう。

「そうだろうねえ。無駄飯食らいを養う余裕なんてないだろう? だからさ、あたしがその子を引き取れば、次の子を間引かずに済むじゃないか」
「……」

 女房はしばらくの間、目を閉じて無言のまま、考えを巡らせていた。

「さて、どうするかねえ?」
「飢えさせたり、小突き回したりしないと約束出来るかい?」
「当たり前さ。大事に扱うよ」
「わかったよ。連れていっておくれ」

 女房は子を手放す腹をくくった。
 実際、女の言った事は正しい。二人の子を確実に守りたいなら、先の子を手放すしかないのである。

「おい、いいのかよ?」
「二人も育てる甲斐性がないって言ったのはあんたじゃないか!」
「そりゃそうだけどよ…」
「へえ、子を売る位なら自分が身売りするってんなら、あたしはそれでもいいんだよ?」

 戸惑う若衆頭に、女は畳みかける様に言い放った。

「い、いや、それはその…」
「じゃあ決まりだ。早速、その子を見せておくれよ」

 女は、籠から赤子を抱き上げた。
 赤子は黙って、女の顔を眺めている。

「初対面の相手に物怖じしないとはねえ。使い途がありそうで、育つのが愉しみな子だよ」

 涙ぐむ女房を尻目に、女はいかにも満足げに微笑んだ。



[37967] 1話「薬売りの女」その5
Name: トファナ水◆34222f8f ID:82139271
Date: 2013/07/12 05:21
 女が受け取った赤子と共に庄屋の屋敷へ戻ると、各々赤子を抱えた五名の女性が待っていた。
 いらぬ子を買って欲しいという事だ。
 赤子は全員三男坊以下の男児で、間引かれずに育っても農地を継げず、いずれ村を出るしかない立場だという。

「どれ、とりあえず品定めさせてもらうよ」

 女がそれぞれの子を抱き上げて見定めようとすると、どの子も母親から離されまいと泣き叫んだが、女が眼を合わせると黙りこくってしまった。
 母親達は、赤子をあやすのがうまいと女を褒めそやしたが、どの赤子も、安らいだ顔をしていない。恐怖で黙ってしまったのだ。
 女は、静かになった赤子を一人ずつ、手の平でなで回したり、口腔を開けて覗くなどして検分した。

「まあ、この子達は並って処かねえ」
「駄目…ですか?」

 あっさりした口調で結果を告げる女に、母親の一人が恐る恐る尋ねる。

「いいや、これが普通って事だから心配いらないよ。一人につき銀一匁でいいかい? 薬代の先払いって事にしてもいいけどねえ」

 母親達は全員、銀での支払いを望んだので、女は懐の財布から人数分の豆銀を取り出して庄屋に渡した。

「銀なんて庄屋様位しか見た事がないだろうから、検分しておくれよ」
「うむ… 確かに本物じゃな」

 庄屋は女から手渡された豆銀を検分し、本物と判断すると、母親達に配った。

「ほれ、これ一つで銭百文と等価じゃ」
「本当!?」
「やったあ!」

 母親達は嬌声をあげると、赤子の方を振り返りもせずに上機嫌で帰って行った。

「あっさりしたもんだねえ。後腐れがないのは結構だけどさ」
「大概はこんな物じゃよ。親が子を育てるのは情ではなく損得勘定じゃ。老いた身を養ってもらう為じゃからの」
「でも、若衆頭の女房は情が深かったねえ」
「揉めたのかの?」
「あの男には過ぎた女房でね。最初は売らないって言い張ってたけど、最後には折れたさ」
「そういう事かの…」

 庄屋は深い溜息をついた。

「さて。出発の前に乳を飲ませておくかねえ」

 女は胸をはだけて乳房を出し、赤子を一人ずつ抱き上げては乳を飲ませ始めた。
 恐怖して沈黙してしまっていた赤子達だが、眼前に差し出された乳首には素直に吸い付いている。
空腹には勝てないという事らしい。

「お前さん、乳が出るという事は、子を産んだか孕んでおるのかね?」
「いいや。伊勢には乳を出す薬ってのもあるのさ」

 乳を飲んだ赤子は、すやすやと眠り出す。女はそれを籠に収めては、荷車に積んでいった。

「そう言えば、伊勢ではどうしてまた、赤子を買い漁る必要があるのかね?」
「あの辺りは稲が立ち枯れて凶作でね。それでも年貢を容赦なく取り立てられたもんだから、一揆が起きた訳だけど。その時、口減らしの為に、七つを迎える前の子は全員”返した”んだよ」

 間引きを免れた子であっても、そのまま育てられるとは限らない。
 当時の和国では”七つまでは神のうち”と言われており、親の都合で殺しても罪には問われなかったのである。その様な幼児の殺処分の事を”子返し”と呼ぶ。
 飢饉等の際には、口減らしの為にしばしば子返しが行われた。

「伊勢が赤子を買い集めているのは、返した子の代わりという事かの?」
「そういう事さ。放っておけば丸七年分の子がごっそり欠けたままになっちまうからね」
「また凶作になったらどうするのじゃ?」
「心配はいらないよ。無理に年貢を取り立てられる事はもうないし、龍神様やあたし達が法術で加護するから、毎年豊作さ」

 人外の存在は、神通力や法術、陰陽術等と呼ばれる、人間にはない不可思議な力を使う。その力で豊作を保証されれば、飢饉の心配もなく子を養う事も出来るのだろう。

「ともかく、子を根こそぎ返さねばならん程の凶作と重い年貢が、一揆の発端になったのじゃな」
「そうさ。天竺から来て間がない龍神様は、伊勢の百姓達が子を返そうとしているのを知ってね。どうせ返すなら、自分の人身御供にすれば、神宮を滅ぼして代わりに守護神になってやろうと持ちかけたのさ」

 庄屋は、通常は人間の治世に関心を持たない龍が、伊勢の百姓を加護した理由に納得した。
 大量の贄と引き替えであれば、加護にも応じるだろう。
 百姓の側も、元々返すつもりだった子であれば、差し出す事にためらいも少ない筈だ。
 悪いのは、その様な状況に追い込んだ神宮であると自己正当化も出来る。

「子返しの童を得れば、当面は贄に困らんという訳じゃな」
「そうでもないさ。龍神様だけじゃなくて、あたし達眷族の食い扶持も確保しなきゃいけないからね。それに、子の肉は霊力が少ないからね」
「霊力とは何じゃ?」
「あたし達の様な妖に必要な、命の源さ。人間の脳味噌にはこれがたっぷり含まれててね。十八から二十半ば位が一番の食べ頃なんだよ。赤子だと三十人食らって、やっと十八の若人一人分の霊力にしかならないんだけどね」
「それでお前さん方は人間を食うのじゃな。食い手のない童とはいえ、数を集めればそれなりじゃからの」
「子返しの童は手付けさ。一揆につきゃ、神宮の連中を食う名目が出来るからねえ」

 庄屋は、伊勢の薬売りが赤子を買い集めるのは、妖の食用としてではないかと頭の片隅で疑っていたが、大人の方が食用に適しているという事を聞き、そうではない様だと判断した。
 食用なら大人を買う筈だ。
 一方で庄屋には、さらなる疑問もわいた。
 返した童の穴埋めとして余所から赤子を買い集める無駄を考えれば、子返しを止めさせた上で、最初から神宮の神職や衛士を食らった方が良い。

「龍神様も酷いのう。最初から神宮のもんを贄にすりゃあ、童を食わんでも良かろうに」
「まあ、色々とあるのさ」

 庄屋の問いに、女ははっきりとした答えを返さなかった。
 何か痛い所を突いたのではないかと思い、庄屋はそれ以上の追求を避けた。

「戦が終われば、食らってよい敵もないじゃろう。その先の贄はどうしておるのかの?」
「神職や衛士、それに神宮の側に立って民百姓を搾り取っていたと見なされた商人共は、一族郎党、妻子に至るまで殺さずに捕らえて、虜囚にしてあってね。こいつらを少しずつ必要な分だけ食えば、当分の間は大丈夫さ」
「贄となる虜が大勢捕らえてあるから、伊勢の民はお前さん方に食われる心配をせんでええという訳じゃな」
「そういう事だね。あたし達だって、堂々と人里に住んで、人間の街娘の様に着飾ったり、旨い酒を飲んだりしたいからねえ」
「夜叉も街の賑やかさを好む物かのう」

 夜叉は通常、人里離れた一軒家に、人間を装ってひっそりと暮らしている。宿を求める旅人を泊め、寝静まった処を襲って贄にする為である。
 だが、女の口ぶりでは、好きこのんでその様な生活をしているという訳ではない様だ。

「なら、お前さん方も人間と大して違わんという事じゃな」
「嬉しいねえ。伊勢の外で、庄屋様みたいに言ってくれる人がいるとは思わなかったよ」

 女は、庄屋の言葉に微笑んだ。
 辣腕の行商人らしからぬ、年頃の娘の顔だ。
 その様子に庄屋は、女が本気で人間と共に暮らしたがっている事を確信した。
 妖と人の共存が困難なのは、前者が後者を補食する為だ。
 それさえ何とかなれば、共生も不可能ではない。
 もしかして伊勢の龍神は、その様な世を造ろうとしているのだろうかと、庄屋は思った。

 
「しかし、いずれは虜にした者も食い尽くすじゃろ。その時、お前さん方は贄をどう得るのかのう?」

 女は、伊勢の掟では敵兵と罪人のみを贄として良い事になっていると話していた。
 ならば、贄となる虜を食い尽くせば、伊勢は近隣の州に戦を仕掛ける事も考えられる。

「頭目と龍神様が色々と考えてるよ。少なくとも、伊勢の民からは贄を出さずに済む様にね」
「そうなると良いがのう」

 ”伊勢の民から”贄を出さないという事は、他州の者なら構わないとも受け取れる。
 庄屋は不安に感じたが、ここで内情を話したという事は、そうせずに済む方法にあてがあるからだろうと思う事にした。
 どの道、龍が相手では、まともに逆らう事は出来ないのである。
 話しながら女は赤子を積み終わり、厩から馬を引き出して荷車へ繋いだ。

「それじゃあ、行くとするかね」
「達者でのう」
「いらない赤子は買ったげるから、なるべく間引かないでおくれよ?」
「儂等とて、子を手にかけんで済むなら、それに越した事はないでな。売った赤子達の事はくれぐれも頼むでのう」
「任せておくれよ」

 荷車に乗りこんだ女は、庄屋の見送りを受けて街の方向へと戻って行った。
 女は、村から一里程離れた場所で荷車を止めた。

「さっきの村で六人、それまでの分と合わせてこの旅では結構買い集めたというに。それで当たりはたったの一人とはのう」

 女はつぶやきながら、荷車に積んだ籠から赤子を取り出し、空の樽へと詰めて行く。
 赤子達は既に息をしておらず、脈も打っていない。その体は、色も堅さも石像の様になっていた。

「これで泣き叫ぶ事も腹を減らす事もなく、”物”同様に運べる訳じゃが。この様な運び方を思いつくとは、流石は妾が育てた自慢の倅、いや婿じゃな」

 赤子の荷造りを終えると、女は再び荷車へ乗り込み、馬を街へと進ませるのだった。

(第一話 了)



[37967] 2話「宿場街の飯盛女」その1
Name: トファナ水◆34222f8f ID:82139271
Date: 2017/07/02 17:00
※2話はストーリー上、若干の性的描写がありますので、R-15表記を付けさせて頂きました。


 統一政体である幕府の統治能力が衰え、和国は事実上の小国分立状態に陥っている。
 しかし、安定期に幕府によって整備された街道は生きており、それを利用した人々の往来も続いている。
 その様な旅人の需要に応える為、街道沿いには宿場街も栄えている。
 また、宿場の女給、いわゆる飯盛女は、宿泊客に春をひさぐ娼婦を兼ねている為、宿場街は廓街としての側面もあった。
 女が訪れたのも、その様な宿場街の一つである。
 ただ、女が宿泊するには、少々厄介な条件があった。
 まず、馬を繋げる厩があり、荷車を駐められる宿でなくてはならないが、条件を満たす宿は少なく空きがあるとは限らない。
 さらに、宿が廓を兼ねている為、女客を泊めたがらない宿が少なくない。
 廓としての機能が無く食事も提供しない、木賃宿と呼ばれる素泊まりの宿もあるのだが、この様な宿には厩はない。

「馬車は野宿なら雨風がしのげるから便利だけど、宿に泊まるとなるとかえって面倒だねえ」

 まず町外れに荷車を駐め、宿を物色しようかと思った処。
 羽織姿の壮年の男に呼び止められた。

「もし、そこの伊勢の方」

 男は旅装ではないので、一目で地元民と解る。
 また、体格は中肉中背で、食に困らぬ暮らしをしている事が伺われた。
 見た処、羽振りの良い商店主辺りといった処だろうか。
 女は、自分の素性を言い当てたこの男に興味を抱いた。

「へえ、一目であたしの邦が解るのかい?」
「馬に牽かせた荷車に乗っておるのは、伊勢の商売人か荷役位ですからな。件の龍神様がもたらした、天竺からの伝来品と聞いておりますが」
「馬車というんだよ。龍神様は天竺の出だけど、これは明国からの舶来品が元でね。伊勢で真似て造った物さ。和国じゃ馬に車を牽かせる事はないけど、明国じゃ当たり前だそうだよ」
「本邦では、牛以外の畜生に車を牽かせる事をはばかる向きがありますからな」

 和国では、外来の信仰である”仏道”の影響で、獣の殺生や酷使が忌避される傾向がある。
 その為、文明の発達度に反して、家畜による荷車や客車の牽引が普及していない。
 かろうじて、仏道伝来以前からある牛車が存在するが、それ以上の発展が妨げられたのだ。
 もっとも、和国に仏道をもたらした明国、あるいは仏道の広まったその他の国においてはその様な事はない。
 あくまで和国独自の仏道解釈によった物である。
 伊勢の一揆衆を束ねる頭目は、これをただの因習・偽善でしかないと喝破し、馬を牽引に積極利用する方針を出していた。

「馬鹿馬鹿しい事だよ。家畜は使う為に飼うのにねえ。牛は良くて馬が駄目って道理は通らないよ」
「全くですな。こういう荷車…馬車、でしたか。これがもっと広まれば、商いもやりやすくなりますからな」

 他州の民の中には、伊勢からの旅人が使う馬車を見て、馬を酷使する非道として眉をひそめる者もいる。
 直接に抗議する者がいないのは、商売相手としての伊勢の機嫌を損ねたくないという打算、そして一揆勢を加護しているという龍神を畏れている為である。
 だがこの男は、旧来の倫理感に縛られず、純粋に馬車の利便性を称賛している。
 慣習に囚われずに新しい物へと目をやる態度に、女は好感を覚えた。

「そう思うなら、伊勢で独占するつもりはないから真似りゃいいさ」
「他州でも馬車が増えれば、それが通りやすくなる様に道の手入れも進みますからな」
「わかってるじゃないか」

 馬車を運行しやすくする為には、道の整備が不可欠である。
 現状でも荷車が通れる程度の道幅はあるのだが、主要な街道を除けば馬車同士がすれ違える程ではない。
 また、道が充分に馴らされていないので、車輪が凸凹によって振動し、乗り心地も悪い。
 伊勢の馬車は、妖の能力として行使する”法術”で乗り心地を緩和しているが、それを使えない他州が馬車を導入するのであれば、必然的に道の改良も進むだろう。
 法術は便利な一方で代償もそれなりにある為、それを使わずに馬車を利用出来る環境が整えられるのは、伊勢としても望ましい。

「それにしても、伊勢の者がこいつを使って他州に出る様になってから、せいぜい一月だってのに。お前様は随分と知ってるねえ」
「ここは街道沿いですのでね。貴女は薬座の方とお見受けしました」
「伊勢でも行商人に女を使うのは、今のとこ薬座だけだからねえ」
「左様ですな」

 行商人は野盗にとって格好の餌食である。
 それにもかかわらず伊勢の薬座が女性も行商人に使うのは、薬種商に対する各州の保護が手厚く、往来の安全が保証されている為だ。
 他業種においては、伊勢と言えども行商人は専ら男性の職となる。
 つまり、女行商人がいれば、伊勢の薬種商とみてまず間違い無い。

「ところでお前様は?」
「申し遅れました。手前はこの宿場街で、宿座の元締めをしている者です」

 男は素性を名乗ると、改めて深く一礼した。

「へえ、なら丁度いい。馬車と馬を預けられて、女客を断らない宿を紹介してくれると有り難いねえ」
「では、手前が営む宿はいかがでしょうか。ご相談したい事もございましてな」

 女は元締めに案内され、彼の経営する宿へと馬車を向かわせた。



※付記
史実の日本において、馬車が発達・普及しなかった理由は諸説ある様ですが、本作では信仰に基づく因習が主因としました。
和風ファンタジーに馬車を出してみようと思ったのは、「風雲ライオン丸」という特撮時代劇からの思いつきです。同作の主人公一行は幌馬車で旅をしています。



[37967] 2話「宿場街の飯盛女」その2
Name: トファナ水◆34222f8f ID:82139271
Date: 2017/07/02 17:01
 元締めの宿は、馬を預ける厩がきちんと備わっていた。
 馬を利用する階層は主に武家だが、彼等を対象とする宿なら、装飾にも趣向が凝らしてある場合が多い。
 しかし、この宿は地味な造りである。
 宿場の元締めが直営している事を考え合わせて、どの様な客が利用する宿なのか、女には測りかねた。

「客筋はどんなだい?」
「手前の宿は、武家や商家が走らせる伝令を主な相手にしておりましてね」
「なら、銭払いも良さそうだね。それに大事な書状を携えてるから、うかつな宿には泊まれないってもんだ」
「良くお解りですな。お武家様を客筋にしますと、色々と格式やらうるさくて、商売としては旨味が薄い。そんな商売は、見栄を張りたがる新参に任せておけば良いのですよ。その点、身分としては小物の伝令が相手なら、格式に気を遣う必要も無いという訳です。それでいて、銭は持っていますからな」
「考えているねえ。いいのかい? あたしなんかが泊まっても」
「伊勢の薬座の方なら、特上のお客様ですとも。是非ともご贔屓頂きたい筋ですからな」

 女は宿の部屋へと通された。
 中は意外に豪華で、板間が多いこの時代にあって、総畳敷きである。

「こりゃあ…凄いねえ…」
「当宿の自慢でございますよ。くつろいで頂くには、部屋の中身をしっかりとしませんとな」

 女は素直に感嘆した。さぞ宿泊客の評判も良いだろう。宿代が高かろうと、伝令であれば自腹ではない。
 しかし、行商人の場合はそうはいかない。
 座の鑑札があるとはいっても、あくまで座は同業者の団体だ。かかる経費は行商人個人の自弁である。

「外側に比べて、中身は贅沢じゃないか。さぞ宿代も張るんじゃないのかい?」
「こちらがお招きしたのですからご心配なく」
「あたしの事じゃないさ。もし伊勢の者を客としてあてこんでるんなら、高いのは一寸ねえ。あたし達は自前で商いをしてるんだから、勘定を雇い主が持つ使い走りとは違うんだよ」
「今日のご相談次第で、伊勢の方については今後とも宿代を勉強させて頂きますとも」

 この宿場街は、一揆勢が治める伊勢の新体制に接近したい様だ。
 ともあれ、女は話を聞く事にした。

「それで、どんな案件だい?」
「手前どもの様な宿では、給仕をする飯盛女に、宿泊客の夜の相手もさせている事はご存知かと思います」
「ああ。宿屋がそういう女を用意してくれているお陰で、色欲に負けて通りすがりの女を手込めにする様な阿呆が減るんだから、文句は言わないよ」
「女人の方にそうおっしゃって頂けると助かります。ですが、春をひさぐ商売にはつき物の、困った事がありましてな」
「思い当たる事は幾つもあるけれど、薬座に話を持って来るという事は…花柳病(※性病)だね?」
「はい。大きな声では言えませんが、実の処、飯盛女の半数がこれにやられます。これまでは効能のある薬もなく、客も承知の上で女を抱くのだからと諦めておりましたが。龍神様が良い薬の処方をお伝えになったと聞きましてな。是非とも、お分け頂きたいのですよ」
「まあ、花柳病の薬は一応あるけれども」

 薬座は花柳病に効く薬も備えている。
 旅先で拾った花柳病を家に持ち込まぬ様、帰宅してすぐに飲むというのが、薬座の推奨する使用法だ。

「本当ですか! それは幸い」
「でもねえ。治してもすぐにまた移されちまうよ?」
「伊勢の薬は一服百文と伺っております。民百姓ならともかく、手前どもの様な商売なら手の出ない値ではありませんので、何度でも飲ませれば良い事です」
「どうせ薬代も、女の前貸し金に上乗せする気なんじゃないのかい? そんな事をしたら、年季明けがどんどん伸びちまう一方さ」
「そこは商売ですからな。そちらも、薬が多く売れれば儲かるではありませんか」
「商売とはいえ、同じ女としちゃあ切ないねえ。ちなみに龍神様も雌龍だから、同じ事を言うと思うよ」
「左様ですか…」
「年季明けで足を洗う時に飲ませてやるってんならいいけど、そこまで生き延びる女は少ないだろう?」
「はい。大概は病が進んで使い物にならなくなって、年季前でも解き放つ事になりますな」

 飯盛女は大抵の場合、前貸金で拘束されていて、五年から十五年が年季である。
 だが、花柳病の病状が進み、腫瘍が目立つ等して客を取れなくなれば、その時点で残金の返済を免除の上で放り出される場合が多かった。
 放り出された飯盛女は、程なく野垂れ死ぬ事となる。

「しかし、お分け頂けないとなると、病に斃れる飯盛女どもを見捨てる事になりませんかな? 龍神様もそれはお望みにならないでしょう」
「そうだねえ…」
「薬の代価は前貸金に上乗せせず、店側でもつ旨の約定を交わすという辺りでいかがでしょう?」
「銭の問題なら、その条件でいいけどね。もう一つ厄介事があるんだよ」
「何ですかな、それは?」

「あの薬には難点があってね。繰り返し飲むと効かなくなってしまうんだよ。せいぜい年一回。それより間を置かずに飲むと、二度と効かなくなっちまうのさ。だから飯盛女に与えるなら、解放する時位しか使い処がないんだ」
「あてが外れましたな…」

 元締めは明らかに落胆した様子だった。
 使い潰していた飯盛女を少しでも長く使える様に出来れば大きな利益になるのだが、目論見が崩れてしまったのだから無理もない。
 酷い時には、水揚げから一年も経たない内に花柳病が重くなり、前貸金を殆ど回収出来ないままに放逐せざるを得ない飯盛女すらいるのだ。

「まあ、別の手もあるけどね」
「本当ですか?」
「まずはこれを見ておくれよ」

 女は、手荷物として部屋に持ち込んだ包みの一つを解いた。
 中には、円筒状の漆塗りの器具が二十本程入っていた。
 長さ四寸、太さ一寸五分程。片側の先端は丸くなっていて、中央に小さな穴が空いている。

「何だか解るかい?」
「張型…ですな」

 張型とは男根を模した女性用の自慰具で、夫を失った寡婦を主な対象として小間物屋等で密かに売られていた。
 大量の張型を見て、元締めは怪訝な顔をした。

「こんな物を使うまでもなく、飯盛女どもは生の逸物を毎夜くわえ込んでおる訳ですが。それをどうするので?」
「慰める為に使うんじゃないさ。これの中には、さっきお前様と話していたのとは別の薬がつまっていてね。こいつを女陰に刺して、子袋に注いでやるんだよ」
「それが花柳病に効くという訳ですか。先の薬の様に、年一度しか使えないという事はないのですな?」
「というより、こいつはただ花柳病が治るだけじゃなくてね。およそ十月の間、花柳病にかからなくなる効能があるのさ」
「まさしく手前どもが求める薬ではないですか! 成る程、欠点を補った新薬という訳ですな?」
「本来、花柳病の薬じゃなくってね。ただ、今言った様な効能もあるってだけさ。これはこれで、本来の効能がちょいと面倒でね」
「治るんなら何があっても構いやしません。是非、お分け下さい!」
「龍神様に誓って二言はないね?」
「あの、それで値の方は如何ほど…百文でしたな?」
「威勢のいい事を言う前に、肝心な事は最初に聞くもんだよ?」
「いえ、つい…」

 元締めは冷や汗をかいた。
 他の薬が百文だからといって、この薬がそうとは限らない。値を聞く前に、商談の約定を交わしてしまうところだったのだ。
 女がその気なら、売買が成立した後出しで、売価を吹っ掛ける事も出来ただろう。
 口頭だからといって前言をひるがえせば、薬座の背後に控える龍神からどんな神罰が下されるかわかったものではない。

「喉から手が出る位に欲しいってのはわかるけどね。こいつも他の薬同様、一本百文さ。さっきの話通り、払うのは店側で、女の前貸金に含めるのは無しって事でね」
「ええ、勿論。で、では、効能の方をお見せ下さいませんかな?」
「そうだねえ。じゃあ、病気持ちで放り出すしかない様な女を一人用意しておくれ。そいつで試してみるからね」



[37967] 2話「宿場街の飯盛女」その3
Name: トファナ水◆34222f8f ID:82139271
Date: 2017/07/02 17:01
 元締めは、一人の飯盛女を連れて来た。
 年齢は十八歳前後で、やや小柄な体格だ。

「こいつです。ろくに稼がない内に病にやられちまって、まったく大損でしてな」
「お客様、一夜のお情け、有り難うございます」

 飯盛女は三つ指をつき、女に挨拶した。

「あたしは女なんだけどねえ」
「も、申し訳ございません!」
「どれ、顔をよく診せとくれ」

 女は、平謝りする飯盛女に構わず、その顔を覗き込んだ。
 頬や頭に、赤黒く大きな腫れ物が出来ていて、恐ろしげな醜女面だ。

「おやおや、顔も出来物が一杯じゃないか。これじゃあ、男が退いちまうのも無理ないねえ」
「全くですな。身体ならともかく、面がこれだけ化け物みたいになっちまったら、客なんて取れませんでな」

 元締めが”化け物”と言った途端に、女は険しい顔になった。

「化け物ってのが羅刹や夜叉といった妖の事を言ってんなら、伊勢に喧嘩を売ったのと同じだよ? 病気持ちなんかと一緒にしないでおくれ!」
「い、いえ、そんなつもりはありません… 伊勢の一揆衆に妖の方々が加勢したのは承知しておりますが、つい…」
「龍神様の眷族なんだから、これからは言葉に気をつけるんだね。とりあえず、その娘の服を脱がせて、布団の上に寝かせとくれ」
「おい、言われた通りにしろ!」

 八つ当たり気味に怒鳴った元締めに従い、飯盛り女は押し入れから敷き布団を出して床に敷き、服の帯を解き始めた

「元締めさん。悪いけど、席を外しとくれよ」
「いやしかし、どうやるのか立ち会わないと」

 元締めの頭には、立ち会わなければ何かのいかさまをされるかも知れないという懸念があった。
 一揆勢に支配されて以後の伊勢の新薬の評判が高い事はよく知っているし、その為にわざわざ自分の宿に招いたのではあるが、いざとなれば不安も出る。

「やる事は簡単。あれを中に入れるだけさ。いくら病気持ちの飯盛女っても、気を遣っておやりよ」
「…わかりました」

 女の有無を言わさないきつい口調に、元締めは渋りつつ部屋を出て行った。

「さて、邪魔な男は去ったから。あたしは伊勢の薬売りでね。病を診てやるから、早速裸になって、布団に仰向けになっとくれよ」
「はい…」

 飯盛り女は服を脱ぎ、腰巻を解くと、言われた通りに布団の上に横たわった。
 頭部や顔面と同じく、体中の至る処に、腫れ物が浮き出ている。
 丁度、梅干しをあちこちに張り付けたかの様だ。

「じゃあ、次だ、そのまま股ぐらを開いて、女陰を診せとくれ」
「え?」
「まぐわいでうつる病なんだから、一番肝心な場所を診なきゃねえ」

 飯盛女が両足を大きく開くと、女は股間に顔を近づけて覗き込んだ。
 陰毛は常に剃っている様で、生えていない。
 ばっくりと空いた亀裂からのぞく花弁には幾つものいぼが出来、変形してしまっている。
 子種を受け入れ、命を産み出す為の穴からは黄色い膿が鼻汁の様に垂れ、腐臭を漂わせていた。

「おやおや、随分と臭いじゃないか。女陰が腐りかけているねえ。こんなんじゃ魔羅も萎えるってもんだ」

 嘲る様な女の言葉に、飯盛女の目からは涙がこぼれ落ちた。
 歯を食いしばり、嗚咽を堪えている。

「さて。あたしの見立てじゃお前様、一年保つかどうかだねえ。それも、きちんと飯を食えての話さ。どうせ、行く当てもなく放り出される間際だったんだろう?」
「はい…」
「乞食に墜ちて、いずれ野晒しになって鴉についばまれる。そいつがお前様の最期さ。運が良きゃ、投げ込み寺で無縁仏として供養してもらえるかもしれないけどさ」
「い、嫌…」

 間近に迫った運命を聞かされ、飯盛女の顔には恐怖が浮かんだ。

「丁度、武家の女が自害に使う、楽に死ねる毒ってのを持っててね。元締めも、お前様を放り出して餓えに任せる位なら、いっそその方がいいだろうって言うんだけどさ」
「嫌、嫌ぁ! 死にたくないぃ!」

 この伊勢の薬売りは、役立たずになった自分を始末する為に呼ばれたのだ。
 そう思った飯盛女はたまらず悲鳴を挙げた。
 思わず立ち上がって逃げ出そうとしたが、腰が抜けて言う事を聞かない。
 脅しが効果を上げ、飯盛女が期待通りの声を挙げたのを聞き、女は口の端を愉しげに歪めた。

「どんなになっても死にたくない。お前様、そう思うんだね?」

 飯盛女はかぶりを何度も激しく縦に振った。
 女は、引き出したい一言を言わせた事で、満足そうに微笑んだ。

「じゃあ相談だ。そいつを治す事が出来る薬があるんだよ」
「ほ、本当ですか?」
「ああ、本当さ。それ、そこにある張方。あれの中には薬が入っていてね。女陰に刺して中身を注げば、明日には綺麗に治るんだよ」

 女は、部屋の隅に置かれている張方を指差した。

「え、え?!」
「で、十月の間は病気持ちとまぐわっても、うつらないで済むんだよ。凄い薬だろう?」
「でも、お薬って高いんじゃ… また、前借りの銭が増えちゃうかも…」
「元締めが勘定をもつ事になってるから、余計な気を廻さなくてもいいんだよ。お前様が花柳病にかからず年季をきっちり勤め上げる事が出来れば、それで充分なんだ。前貸金の元を取れない内に放り出したら大損だからね」
「そういう事なら… だったら何故、毒なんて?」
「お前様の覚悟を試したのさ。年季が開けるにはまだ何年もかかるだろう? 病気がうつらないとはいえ、惚れた訳でもない男共に股ぐらを毎晩開く位なら、死んだ方がましって思うかも知れないからねえ」
「そんなんなら、とっくに首を括ってます… それにここで働いていれば、腹一杯飯が食えますから」

 女には、飯盛女の答えが判っていた。
 春をひさぐ事を拒む程に矜持が高いなら、病に関係なくとっくに自ら命を絶っている。
 貧家の出であれば、衣食住の保証さえあれば、銭で男に身を任せる事を苦痛とはしないだろう。
 判っていた上で、あえて死という選択肢を形の上で与え、飯盛女が自ら運命を選んだ体裁を造ったのである。

「その根性は気に入ったよ。さて、お前様。月の障りは来るかい?」
「はい。それが?」
「月の障りが来ないままの女は、間違い無く仔を孕めない石女なんだけど、この薬は石女には効かなくてね。でも、そういう事なら、お前様は多分大丈夫だろう」

 女は張方の一つを持ち、飯盛女の女陰にあてがった。

「じゃ、早速やっちまおうかね。お前様がきちんと治れば、この街の宿はこぞって、この薬を買ってくれるだろうしねえ」

 飯盛女は、ゴクリと唾を飲み込んだ。
 作り物の張方ではあっても、男を受け入れる時には雌の本能が湧いてくる。
 それは決して、嫌な物ではなかった。

「もう一度だけ聞くよ? どんなになっても、生きていたいという言葉に偽りはないね?」
「はい!」

 飯盛女が力強く返事をすると同時に、女は張型をゆっくりと押し込んだ。

「痛ぅ…!」

 穴から漏れ出ている膿に赤い血が混じり出し、飯盛女は破瓜の生娘の様に顔をしかめた。

「女陰が病で弱ってるからねえ。でもこんな物じゃない。これからが本番だよ!」

 張型が根本まで押し込まれると同時に、先端の穴から液体が勢い良く子宮に向けて噴き出した。

「ぎゃあああああああああああああああ!!!!!!!!!!」

 花柳病でただれた粘膜に薬が吹き付けられ、染み込んでいく。
 その激痛に、飯盛女はたまらず悲鳴を挙げた。

「熱い! 熱い! お腹が、焼けちゃうう! 取ってよう!」

 たまらず股間の張方を引き抜こうと手をやったが、膣の奥深く食い込んだ張方はつまみ出せない。
 飯盛女はあまりの苦しさに手足をばたつかせ、身体を歪めて転げ回った。

「ねえ、後生だから取ってったらあ!」

 その見苦しい姿に、女は容赦なく怒鳴りつけた。

「薬が効いてんだ。半刻ほど耐えりゃ収まるから我慢しな!」
「死ぬう! 死んじゃうぅ!」
「やかましいねえ、じゃあ楽にしてやるよ!」

 女は左手で飯盛女の後髪を鷲掴みにして無理矢理立たせると、背後から右腕で首を締め上げた。

「さあ、おねんねしな!」
「モグゥゥウ!」

 女は少しもがいたが、程なく意識を失ってしまった。

 翌朝。
 飯盛女が目を覚ますと、布団の中にいた。
 胎内の痛みはすっかり退いている。股間に手をやると、張型も抜けていた。

「起きたかい?」

 耳元の声に横を向くと、飯盛女の隣には、女が同じ布団で横たわっていた。

「あ、あの、添い寝をしていてくれたのですか?」
「ああ。昨日は済まなかったねえ。取り乱した相手を落ち着かせるには、首を絞めて気を失わせるのがてっとり早いからね。大丈夫かい?」
「ええ。痛みもすっかり取れて」

 二人は床から起き上がった。
 女は寝間着だが、飯盛女の方は全裸のままである。

「さて。手鏡を貸すから、お前様、治ったかどうか見るといいよ」

 飯盛女は女から手鏡を受け取り、自分の顔を見た。
 腫れ物はすっかりなくなっている。

「治ってる…」
「素は別嬪だったんだねえ。女の私でもほれぼれするよ」

 戸が開き、元締めが部屋に入ってきた。

「失礼致します。朝餉の用意が出来ましたのでお持ちしました」

 朝餉の膳から、味噌汁と飯の香りが漂う。
 元締め自ら朝餉を運んで来るとは、余程丁重に扱われているのか、それとも不用意に他の飯盛女に見せたくないのか。
 恐らくは後者だろうと女は思った。

「旦那、私、治ってますよね!」
「ああ。大したもんだよ」

 元締めは、完全に腫れ物が退いた飯盛女の身体を見て、感嘆の声を挙げた。

「それにしてもだね。お前、朝から素裸のままで何だね」
「きゃあ!」

元締めに呆れた声で指摘され、飯盛女は思わず胸と股間を手で隠した。

「元締めさんがいきなり戸を開けるからだよ」
「こ、これは失礼を…」
「あたし達は身支度するから、悪いけど少し向こうで待ってておくれよ」

 女は元締めを部屋から閉め出した。



[37967] 2話「宿場街の飯盛女」その4
Name: トファナ水◆34222f8f ID:82139271
Date: 2017/07/02 17:01
 二人は身支度を調え、元締めと三人で朝餉の席を囲んでいた。
 味噌汁に焼き魚、沢庵、そして麦飯。
 この時代としては、比較的豪華な朝餉である。

「良かったじゃないか! これでまた、人気が出るだろう。身請けの口があるかも知れないし、頑張れよ!」
「そういう人を捕まえられるといいですよね!」

 元締めと飯盛女は、笑顔で盛り上がっている。
 昨日までは厄介者だったのが、治った途端に期待の稼ぎ手扱いである。
 手の平を返した様な元締めの態度に、女は内心で苦笑していた。

「喜んでいるとこを悪いんだけど。今後の事について大事な話があるんだよ」

 朝餉を食べ終えて湯を飲みながら、女は切り出した。

「…これには席を外させましょうか?」
「いいや。一緒に聞いておいて欲しい事だからね」
「それで、どういった話でしょうか」
「あの張型。元々は花柳病の薬じゃないって事は、元締めさんには話したよねえ?」
「ええ。しかし、効きさえすりゃ、手前どもとしてはどうでもいい訳ですが。どういう物なのです?」
「あれはねえ、種付け薬なんだよ」
「種付け?」
「そう。あれの中に詰まってたのは、男から絞った子種と、子を確実に孕んで無事に育つ為の薬が調合されてるんだよ」
「ブゥッ!」

 元締めと飯盛女は、同時に湯を吹き出し、ケホケホとむせ返った。

「何だい、汚いねえ」
「じゃ、私のお腹には…」
「あれで子が宿った筈さ。産まれるまでおよそ十月の間、薬の効能で花柳病とは無縁だね」
「そ、そんな…」
「お前様方、治るならどんなでも構わないと言った筈だよ?」
「中条流で流してしまう訳にはいかないのですかな?」

 中条流とは、いわゆる堕胎の事である。
 この時代の堕胎は、母体の死亡率も高い、危険な行為だった。

「駄目だね。その薬は、仔を守ろうとする母親の身体のしくみを徹底的に強めるのが効能でね。花柳病が治るのもかからなくなるのも、その内の一つだからさ。もし流したら、効能も消えるよ?」
「しかし腹が大きくなってしまうと、客がつきにくくなるのですよ」
「薬が効いている女を花柳病にかかった男が抱けば、男の側も治るんだよ。その効能をうたってやれば、客なんていくらでもつくさ」
「それは凄い。しかしそうなると、産ませた上で間引く他ないでしょうかなあ」

 元締めは善後策を冷静に考えているが、飯盛女の方はと言えば、先程の笑顔は消え、沈んだ様子である。
 治療の為とは言え、流す事が出来ず、産んですぐに間引かれる運命の仔を腹に抱え続ける事になるのだから無理もない。

「さあ、そこで。伊勢ではあたし達の様な行商人を使って、赤子を仕入れている事は知っているかい?」
「確か、飢饉のせいで七つまでの子を一人残らず”返して”しまって、その代わりと聞いております」

 流石に宿場街の元締めだけあって、情報には耳ざとい。
 一方、飯盛女の方は衝撃を受けている様だ。

「一人残らず”返す”なんて…そんな、酷い事を…」
「仕方なかったのさ。お前様だって貧しい暮らしを知ってりゃ解るだろう? 伊勢の百姓は耐えかねて一揆を起こし、下克上は成ったけど。食うに困らなくなっても、返した仔の事はどうしようもなくてねえ」
「身から出た錆ですよ、そんなの!」

 女は事情を説いたが、飯盛女はよほど腹に据えかねたのか、吐き捨てる様に言葉を返した。
 自分を口減らしの為に売った親と、子を返した伊勢の百姓を重ね合わせたのかも知れない。
 そうしなければ皆が飢えると解っていても、犠牲になる側としてはたまった物ではない。
 まして、食える様になったから代わりを買い漁るとは、身勝手も極まれりと思われて当然だろう。

「今は良くとも、二十年も経てば働き手が不足する訳ですな。今から産み始めても、七年の間が空いてしまっているのは苦しいでしょう」
「それで、一揆衆の指示であたし達行商人が、本職の傍らにいらぬ仔を買って廻ってるんだけど。全然足りやしなくてねえ…」
「成る程。それで、花柳病にも効能がある種付け薬を、手前どもの様な宿場に売り込んで、借り腹をしようという魂胆ですか」
「そういう事だよ。元締めだけあって察しがいいねえ。産婆は臨月の頃になったら伊勢の者をこちらへ寄越すし、産んだ仔は全て伊勢で引き取るって事でどうだい?」

 元締めは冷静に事情を汲み、女の狙いを言い当てた。
 女もそれに応え、交渉が始まった。

「そうですなあ…赤子一人につき、銀五匁も頂ければ」
「うーん、それじゃあ高すぎるよ。薬を只にする代わり、一人につき一匁でどうだい?」
「銭百文で銀一匁ですから、その条件なら実で二匁と等価になりますか。そちらが寄越した産婆の宿代は頂けるのでしょうな?」
「相談次第で、今後は薬座の者の宿賃を勉強するって言ってたねえ? それに含まれてるかい?」
「そうですな。産婆も含めて、薬座の方の宿代は三割引かせて頂きましょう」
「高いよ。半値だね」
「ふむう。ではその代わり、伊勢の薬を手前共に卸して頂けませんかな。客に売れると思いますのでな」
「百文で良ければ、卸す様に手配してもいいよ。利をどの位乗せるかは、お前様方の裁量さ」
「伊勢の薬を扱えるなら、願ってもない事です。では、その辺りで手を打ちましょうかな」

 女と元締めとの商談がまとまろうとした時、飯盛女が声を挙げた。

「待って下さい!」
「何だい? お前様だって花柳病の心配をしなくて済むじゃないか。損な話じゃないだろう?」
「誰の種やら解らない子でも、お腹を痛めて産むのは私達じゃないですか!」
「大切に育てるさ。龍神様がいるから、伊勢は豊作に豊漁が約束されてるんだ。二度と”子返し”なんてしないから安心おしよ」
「薬屋さん、これはそういう事を言ってるんじゃあないと思いますよ?」
「ああ、そういう事かい」

 元締めの指摘で、飯盛女が産んだ子の運命を思いやっているのではなく、実際に産む飯盛女の取り分を求めているのだと、女は理解した。
 口減らしを非難した同じ口で、我が子の値を交渉しようとするとはいかがな物かとも思うが、その位図太くなければ生き辛い世でもある事も解る。

「じゃあ、宿に払う銀一匁とは別にさ。産んだお前様にも、子との手切れとして五十文を払うとしようかね。それで納得するかい?」
「産んだ仔を売る外道に墜ちるんだから、もう少し色をつけてもいいじゃないですか?」
「お前様も言うねえ。そういうしたたかな娘は大好きさ。銀一匁だ。宿の取り分と等価だから、これが天井だよ?」
「…解りました。他の娘達も、同じ条件でお願いします」
「釘差しとはしっかりしてるねえ。約束するよ」

 朝餉を終えると、元締めの手配により、この店の飯盛女全員へ投薬する事となった。
 飯盛女達は皆、最初の一人が綺麗に治ったのを見て、花柳病の薬が出来た事を素直に喜んでいた。
 いずれ自分達も重い病を抱えて野垂れ死ぬ運命と諦めていたのが、健やかに年季明けを迎えられる希望が出来た為である。
 借り腹の事や、仔を買い上げる条件についても、特に異議は出なかった。
 春をひさげば妊娠はつき物で、出来た子に情を持つ飯盛女は希有との事だ。
 投薬の苦痛も、効能がはっきりしているので、飯盛女達はよく耐えた。
 また、張型の話を聞きつけ、他の宿の主達も売って欲しいと持ちかけて来た為、女が馬車で持参した全てがすぐに売り切れる事となった。
 条件は元締めの宿と同一で、やはり同様に、他の薬も宿泊客への販売用として卸す事になった為、この宿場街での女の商いは結構な売り上げとなった。

「子の対価は気前よくし過ぎたが、この宿場街をすんなり”赤子の畑”に出来た事は概ね満足じゃな。それに他の薬も売れる益を考えれば、銭の面でも儲けは充分出るのう」

 誰に聞かれるでもなく、女は本来の口調で今回の総括をつぶやいた。




[37967] 2話「宿場街の飯盛女」その5
Name: トファナ水◆34222f8f ID:82139271
Date: 2017/07/02 17:01
 宿場街での商談を終えた女が、馬車に乗り込もうとした時、旅姿の女性の一団が目に入った。
 彼女達は宿泊客ではなく、宿場の飯盛女の内、放逐される事になった者達である。
 関わる者の殆どが利益を得た張型の商談だが、恩恵からこぼれた者もいた。
 女が売り込んだ張型は、本来は種付け用の為、石女には効果がない。
 しかし、飯盛女全体の内およそ一割は、その様な体質だった。
 孕む事がないのでこれまでは飯盛女として適材とされ、年頃になっても月の障りの来ない娘を、通常より高値で宿が買い付けていたのである。
 しかし、張型の登場で事情が変わってしまった。
 石女は張型を使って花柳病の危険から免れる事が出来ない為、これまでとは逆に、春をひさぐには不向きな身体と見なされた。
 新しい物が世に現れると、そのあおりではじき出される者が出るのが世の常である。

「これからどうするんだい?」

 女が一団に声をかけると、口々に答えが返って来た。

「別の宿場に行くよ」
「うちは夜鷹でやってこうかな。使われるのはもうこりごり」
「湯治場で湯女なんかもいいかなあ…」

 殆どは、何らかの形で春をひさいで糊口を満たす事を考えている様だ。
 他の生き様を知らないのだから無理もない。
 拘束が思わぬ形で解かれたとはいえ、孕めぬ身体では、郷里に帰って嫁ぐという選択肢はないのである。
 次の世代を生み出せぬ身体では、妻としては欠陥品なのだ。

「さて、お前様方に餞別だよ」

 女は、一団の一人一人に、薬を一包ずつ手渡した。

「そいつは花柳病の薬だよ。張型と違って、飲んだ時にかかっている病が治るだけで、かかるのを防ぐ効能はないけどね」
「有り難うございます!」

 一団は女に礼を言った。
 症状が酷くないにしても、大半は花柳病を抱えているのだ。
 張型が効かないという事で諦めていたが、これで病の進行に怯える事はない。

「こいつは、年に二度を超えて使うと効かなくなっちまうからね。同じ薬を手に入れる機会があるかも知れないけど、気をつけなよ」

 女は警告を残すと、宿場街を後にした。
 あの娘達が春をひさぐ稼業を続ければ、薬で治したところで、再び花柳病にかかってしまうだろう。
 先がないが馴染んだ道に行くか、未知の希望に飛び込むか。
 いずれにせよ、決めるのは当人である。

「さて、あの娘達はどうするかのう。使える者がおれば良いがの」

 女は馬車を進めながら、石女達の行く末に思いを巡らせた。

(第二話 了)



[37967] 3話「地侍の女房」その1
Name: トファナ水◆34222f8f ID:82139271
Date: 2013/09/02 05:49
 女が次の目的地に向かうべく街道で馬車を進ませていると、道端で手を挙げて呼び止めようとする人影を見つけた。
 女同様の壺装束という事から、武家の女性と思われる。
 年齢は十八位か、同じ年頃の娘に比べてやや背が高く、女とほぼ同じ位である。
 背には赤子を背負っていた。

「何か用かい?」

 女は、呼び止めようとした武家らしき娘の横で馬車を止めた。

「もし、薬売りの方ですか?」

 どうやら、薬を求める客の様だ。

「よく分かったねえ」
「女性の御者が乗った、馬が牽く荷車なら、それが薬売りの看板みたいな物と伺っております」

 伊勢の薬種商が行商に馬車を使い始めたという噂は、当事者が戸惑う程の短い間に、尾州中に広まっていた。
 ”馬車に乗るのは伊勢の民、その内で御者が女であれば薬売り”というのは、尾州では常識になりつつある。
 女自身は、何故かそれを自覚出来ないままだった。
 
「そうかい。本来は得意先の家々を廻っての置き薬があたしらの商売のやり方だけどさ。誰か急病人でも出たんなら、お代さえ頂けりゃ薬を分けてあげないでもないよ?」
「いえ、そうではないのです」
「じゃあ何だい?」
「この子を買っては頂けませんか?」

 伊勢の薬売りは赤子を買うという話もまた、尾州で急速に広まっていた。
 七つまでは殺しても罪に問われないとはいえ、育てるつもりがなくとも我が子を手に掛ければ後味が悪い。
 銭になるのだから売ろうと思うのは、人情からも損得勘定からも自然な流れである。

「そういう事かい。しかしお前様、身なりも良い様だし、食うに困っている様には見えないけどねえ」

 貧しさから養えないという訳では無く、手元におけない事情が別にあるのではないかと、女は察した。
 相手は嫌がるかも知れないが、女は突っ込んだ話を聞く事にした。
 拐かされた子という事もあり得るので、子を買う前には一通り事情を確かめる必要がある。

「お前様、旅装束と言う事は、この子が原因で出奔でもしたのかい?」
「ええ、まあ…」

 武家らしき娘は、口を濁しつつ認めた。
 離縁されたというなら、子は嫁ぎ先に置いていくのが通常だから、その線は薄いだろうと女は考えていた。
 不義の子でも産んだのだろうか。
 望まれぬ子ならば、伊勢にとっては丁度良い。
 また女は、子だけでなく母親の側にも利用価値があると考えた。
 伊勢では、神宮側の知識層の多くが一揆勢による処断の対象となった為、教養を備えた人材が不足しているのである。
 武家の出身であれば、教養を身につけているだろう。

「もし良ければ…」

 女が言いかけた時、側道の方から、勢いよく蹄の音が響いて来た。
 騎馬とみて間違い無い。それも複数だ。

「き、来た!」
「追われてるのかい? とりあえず馬車に隠れておいで」

 武家らしき娘は赤子を抱えて馬車の奥に潜り込み、荷の後ろに隠れた。
 
 女は、厄介事に巻き込まれつつある事に心中で舌打ちしつつ、場合によっては追っ手と争う腹づもりを固めた。
 馬車では早馬から逃げ切れないが、女がその気になれば、人間の兵如きどうという事は無いのだ。
 後々の処理が面倒になる為、荒事を控えているだけである。

「いたぞ!」
 
 騎馬の集団は、馬車に駆け寄ると、騎乗したまま周囲を取り囲んだ。
 数は六騎。
 騎馬を乗りこなすからには雑兵の類ではない事はすぐわかる。
 また全員、大小の刀を腰に差し、揃いの胴丸を身に付けている。
 武具が整っている事から、野盗とも思われない。
 本職の武士、つまりは士分の身分を持つ者達だ。
 しかし、尾州領家の手勢である事を示す五瓜紋はない。
 それらの事から、女はこの武士達を、村落規模の荘園を自治支配する小領主、いわゆる地侍の郎党だろうと判断した。
 地侍は近隣の守護、この地の場合は尾州領家と盟約を結び、戦時の出征を条件に自領の自治権を保証されている立場である。

「女! 匿った母子連れを引き渡せ!」
「何の事だい?」

 馬車の前に回り込んだ統率役らしき武士が、居丈高に怒鳴りつけたが、女はすまし顔でとぼけた。

「とぼけても無駄だ。お前がその荷車に乗せるのを見た!」
「おや、お前様、遠目が利くのかい。でも事情が解らない内に、はいそうですかと渡す訳には行かないねえ」
「家中の事に、関わり無用!」
「馬車に乗せた以上、こっちにも責があるからさ」
「女、命が惜しくば従え!」
「あたしは伊勢の薬売りだよ? 手を出したらどうなるか、お前様方も知ってるだろう?」

 伊勢の薬種商に危害を加えれば、間違いなく死罪である。
 薬種商が訪問しなくなれば、治世に重大な支障を来しかねない為だ。

「我等は尾州殿から自治を保証されている。伊勢の薬座と言えども、逃亡者を匿えば処断するのみ!」
「この街道は尾州の直轄領だよ。お前様方の自治の外さ。あたし達相手に騒ぎを起こせば、お前様方の領地なんて取り潰しだよ?」

 自治権が保証されている以上、自領では伊勢の薬種商の特権を認めないというのが、地侍側の主張だ。
 しかし、ここは既に領外である為、尾州の法が適用される。
 
「尾州も、お前様方の様な地侍は目の上の瘤なのさ。領地を召し上げる機会があれば躊躇しないだろうねえ」
「女の分際で御政道を語るか!」

 守護にとって、完全に臣従する事を拒み盟約の関係に留まる地侍は、煩わしい存在でもある。
 図星を突かれた統率役は声を荒げたが、女は嗤った。

「違うというなら斬りかかってくればいいさ。あたしを斬れば、尾州がやらなくても、うちの龍神様がお前様方の領地を滅ぼしてしまうけどね」
「出来る物か!」
「龍神様なら伊勢からここまでひとっ飛びさ。後から治める事を考えないなら、丸ごと鏖殺しちまえば楽だしねえ」
「お、鏖殺とは?」

 ”鏖殺”の一言に武士達が狼狽えた処に、女はさらに追い打ちの言葉を放った。

「解らないかい? 女子供に至るまで領民もろとも皆殺しって事さ」
「龍神は、女子供も手にかけるというのか…」
「当然さ。なまじ見逃せば、後から仇討ちを企てるかも知れないじゃないか。神宮の連中は、赤子一人に至るまで処断したよ」
「酷い事を…」
「大昔の清盛入道とかいう奴は、敵方の幼子を助命した余りに、後から天下を奪われたって言うからねえ。先の例があるってのに二の舞を演じたら、阿呆も極まれりってもんさ」

 ”皆殺し”と平然と言い放つ女の言葉に、武士達は唾を飲み込んだ。
 一揆衆による伊勢の下克上が、異国から来訪した龍神の加護による物だという事は、彼等も承知している。
 女の話が大袈裟なはったりと受け止めてはいなかった。
 龍神にとって、加護を与えている民に危害を加えた者を、領民もろとも踏みつぶす事に何の躊躇もないだろう。
 だからといって母子を見逃す訳にもいかない。
 退くに退けない彼等は無言のまま、女とにらみ合いを続けた。

「こうしていても埒があかないねえ。まずはお前様方の屋敷に行って、両方の言い分を聞こうじゃないか。その上で決めさせてもらうよ」
「ご同道頂けると言うのか」
「こっちも、あまり派手な振る舞いはつつしみたいんだよ。交渉事でおさまるんなら、その方がいいじゃないか」

 女の思わぬ譲歩に、武士達は胸を撫で下ろした。

「お前様がこの中で格上と考えていいのかい?」
「如何にも。拙者は近隣の村を領地としておる。後の者は、当家の郎党共だ」

 女は統率役の答えに、少し驚いた。
 装備が他の者と大差がない為、単に筆頭格の郎党だと思っていたのだ。
 領主が自ら郎党を引き連れて追うという事は、よほどの訳ありなのだろう。

「言っておくけどさ。話を聞いた上であたしがお前様方の言い分を否としても、力づくでどうこう出来るとは思わない方がいいよ?」
「承知した。ところで、母子連れを改めさせて頂きたいのだが。手荒な真似はせぬと約束する」
「じゃ、荷の隙間から覗いておくれ」

 領主の求めに対し、女は、馬車に積まれた樽や木箱の隙間から覗く様に言った。
 それに従い領主が馬車を覗き込むと、確かに目的の母子連れがいた。
 母親は赤子を抱えたまま眠りこけている。

「よほど疲れていたとみえて、よく寝てるよ。起こさない方が面倒がなくて良いだろう?」

 伊勢の馬車には、盗難対策として結界が仕掛けてある。
 人間が不用意に馬車の中に入ると眠り込んでしまうのだ。
 入る場合は、結界に対応した呪府を携帯するか、予め対抗する法術を自分に掛けておく必要がある。
 また、人間のみを対象とした結界なので、女には全く影響がない。

「では、参ろう」

 母子の姿を確認した領主は、女に馬車へ乗る様に促した。





[37967] 3話「地侍の女房」その2
Name: トファナ水◆34222f8f ID:82139271
Date: 2013/09/01 23:48
 女の馬車は騎馬に前後を挟まれる形で、先導されるままに側道を進んでいった。
 母子が追われていた事情に関しては、交渉に予断を与えない為に着いてから話すという事になったので、道ながらの雑談は別の話題となる。
 領主がふったのは、馬車を牽かせている馬についてだった。

「車を牽かせている巨大な馬だが、これは伊勢の特産かな?」
「いいや。天竺よりも遙かな西方にある羅馬(ローマ)という国から伝わった種だよ。龍神様が、伊勢の為に持ち込んだのさ」
「羅馬? 聞いた事もない国だな」
「それだけ遠いって事さ。隊商を組んで、明国との間を何年も掛けて陸路で往来してるんだよ。それだけ交易が儲かるんだけど、全く御苦労な事だね」
「島国の和国で天下を争う我等にしてみれば、遠い異国の事等、気の遠くなる様な話だ」
「それだけ世は広いんだよ」

 和国の西方に位置する九州では、海を挟んだ隣国である明国や朝鮮国、琉球国との交易が行われているという事は、領主も知っていた。
 高価な珍品として、交易品が尾州で流通する事もある。
 しかし、彼等の様なある程度の知識や見聞がある武士階級でも、和国の民が実感出来る世界は通常そこまでである。
 仏道発祥の地である天竺についても、伝承が入り交じった不確かな伝聞から想像するばかりだ。
 まして、さらにその向こうに様々な国があるなど、彼等は思いも寄らなかった。
 女の話が法螺とは思えない。
 龍神が伊勢の一揆衆を加護しているのは紛れもない現実で、伊勢から尾州へ落ち延びた神宮の者が、その恐怖を触れ回っている。
 眼前にある巨大な馬や、”馬車”なる荷車も、和国にはなかった物だ。
 領主達は、女の話の大きさに圧倒されていた。

「ところでお前様、もしかしてこの馬が気に入ったのかい?」
「これ程立派なら、騎馬として相応しかろうな」
「うーん、早駆けは苦手だから、騎馬には向かないよ? こうやって車を牽かせたり、田畑を耕したりするには向いてるけどね」
「左様か。しかし、輜重には使いでがあろう。牛車では歩みが遅くてな。和国の馬では小さすぎて車を牽かせるのは難しかろうが、こいつなら…」
「輜重の事を気にしてるんなら、戦が近いと見ていいのかい?」

 領主が口にした”輜重”の一言を女は聞き咎めた。
 隣州である尾州が戦の準備を始めたのであれば、伊勢も相応の備えをする必要がある。
 尾州が直接に伊勢に攻め入る様な無謀に走るとは思えないが、標的が他州であっても、商業や物流への影響は必至となる為だ。

「そういう訳では無い。戦国の世故、いつ出征を求められてもいい様にせねばな」
 
 領主は女の懸念を察し、笑って否定した。
 話している内に川が見えて来た。
 荷車が通っても大丈夫そうな、屈強で幅の広い橋が架けられていた。
 川向こうには用水が引かれ、水田が広がっている。
 川岸の水田側のみに堤が築かれているのは、増水時に水田側が被害に遭わない様にしてあるのだろう。

「ここから先は我等が領地。心されよ」

 一行は領主の屋敷に着いた。
 出迎えの家人達は馬車を見て一様に驚いていたが、伊勢の薬種商である旨を説明すると納得していた。
 母子を降ろそうと、門の脇に止めた馬車に郎党達が近寄ったが、女は手を挙げて制止した。

「そいつには盗難除けに法術が仕掛けてあってね。不用意に入ると、この二人みたいに眠ってしまうよ」
「法術とは、狐狸妖怪の類が使うという妖術の様な物か?」
「ま、和国の術についてはあまり詳しくないけど。使う理は似てると思うよ。要は龍神様の加護だね」
「むう…」
「勿論、あたしは大丈夫な様にしてあるよ」

 女の解答に、領主は半信半疑だった。
 ただ車中で眠っているのを、人外の術のせいだと言われても、にわかには信じ難い。
 女は馬車の中に入り、まず赤子を抱え出して郎党に渡し、ついで武家の娘を抱えて連れ出した。

「はいよ、眠ってるだけだから、布団を敷いて寝かせてやるんだね」

 家人が用意した戸板に乗せられ、武家の娘は屋敷の奥に運ばれていった。

 軽々と人一人を抱える女に、周囲は驚いた。
 長身だが華奢な体躯の女に、とてもその様な力がある様には見えない。

「華奢な割に力があるな。百姓女ならともかく、行商でそこまで力がつく物なのか」
「そりゃ、人間の女と一緒にしてもらっちゃ困るよ」
「”人間の”とはどういう事だ?」

 女の何気ない一言に領主は怪訝な顔をし、女は慌てて口元を抑えた。

「あちゃあ…」
「詳しく聞かせて頂こうか」

 領主が厳しい顔つきで詰め寄ると、女の額からは二本の鋭い角が生え、唇からは牙が覗いた。

「まあいいさ、これがあたしの正体だよ」
「おのれ、夜叉風情が、たばかったな!」

 女の正体を見た領主は即座に刀を抜き、周囲の郎党も呼応して女を取り囲んだ。
 
「おやおや、あたしが人間じゃないからってその仕打ちかい。お互い言葉が通じるんだから、穏やかに行きたいもんだねえ?」
「夜叉と言えば人食いの外道。交わす言葉は持たぬ!」

 夜叉というだけで態度を一変させた領主の態度に、女は内心で落胆しつつも穏やかな口調で応じたが、領主は刀を向けたままだ。

「忘れたのかい? あたしは伊勢の者。龍神様の眷族だよ? そこらに潜んでる、野良の同族と一緒にしてもらっちゃ困るねえ」
「夜叉は夜叉!」
「その夜叉を相手に備えもなく、力づくで勝てると思ってるのかい、お前様方は?」

 龍神の名を出しても退かないなら、伊勢に弓を弾いたと同義である。
 女の側としても、実力行使は避けられない物となった

「問答無用! 斬り捨てよ!」

 領主の号令に、郎党達は一斉に女へ斬りかかろうとしたが、そのまま動けなくなってしまった。

「こ、これはどうした事だ?」
「お前様方の手足、動かないだろう? これも法術さ」
「卑怯な…」
「話し合う約定を反故にして、女一人に大勢で斬りかかって来るのとどっちが卑怯なのさ?」

 自分のした事を棚上げして罵る領主に、女は嘆息した。

「ここで我等を屠れば、尾州と伊勢との戦になるぞ…」
「尾州が馬鹿でないなら、勝てぬ戦を仕掛ける物か。お前様方が勝手にした事として始末をつけ、伊勢に詫びを入れるだろうよ。さっきも言ったじゃないか、守護にとって地侍は眼の上の瘤なのさ」

 自らも動きを封じられている領主は、絞り出す様に恫喝の言葉を放ったが、女は冷徹に相手の立場を指摘した。

「こうしていても埒があかないねえ」

 女が指を鳴らすと、領主以下の武士達の腕が勝手に動き、刀を鞘に収めてしまった。

「さて、もう動ける様になったろう。お前様方、二度目はないよ?」

 郎党達は身体の戒めが解けた事に気付いたが、呆然と立ち尽くしていた。
 再び斬りかかろうとする様な度胸はもちろんない。

「不覚…この上は、我が首で事を収めて頂きたい…」

 領主はうなだれるとその場に座り込み、郎党の一人に視線を送った。
 それを受けた郎党は、領主の背後に立った。
 領主は”切腹””割腹”等と呼ばれる、和国の武家作法に従った自害をするつもりである。
 自らの刀で腹部を割き、とどめとして介添人に首を刎ねさせるのだ。

「止めなよ。面倒なのは勘弁して欲しいからね」
「しかし、このままでは面目が立たぬ!」
「お前様の首を差し出されても、あたしにとっちゃ迷惑なんだよ。あたし達は一揆衆。お武家様とは物の価値が違うんだ」

 武士が命をもって償うという申し入れを、女は無価値として一蹴した。
 武士は命よりも面子を重んじる価値観を持つ。
 対して、一揆衆が支配する伊勢は実益を重んじる。

「では、どうしろと…」
「伊勢に刃向かえばどうなるか、お前様方が思い知ったんならそれで充分さ。勝手に死なれちゃ、誰も得をしないからねえ」

 クスクスと嗤う女に、人外の存在たる夜叉からすれば自分達は相手にならない事を思い知り、領主は無力を噛み締める他なかった。





[37967] 3話「地侍の女房」その3
Name: トファナ水◆34222f8f ID:82139271
Date: 2013/09/08 15:16
 領主は女を屋敷にあげ、客間へと案内した。
 夜叉など客に迎えた事のない家人達は怯えていたが、女が危害を加える気がないと解ると、落ち着きを取り戻して普段の仕事ぶりに戻った。
 ここは仮にも武家屋敷である。
 戦で相まみえた事もある仇敵をもてなす事もあり得るのだから、女の事もそういった手合いと思えば大差ない。
 
「改めて、数々のご無礼をお詫び致す」
「ああ、済んだ事はいいよ。早速だけど、あの母子について事情を聞こうじゃないか」

 客間で領主は深々と頭を下げたが、女はどうでもいいとばかりに応え、本題を切り出した。

「あれを連れては行かぬのか。我等に抗う力はない」
「訳を知りたいのさ。お前様方の言い分が正しいと思えば置いていくよ」
「左様か…」
「所詮は行きずりだから義理はないしね」

 領主は、女の答えを意外と思いつつも、事情を語り始めた。

「あれは、拙者の家内でな」
「つまり赤子の方は、お前様の子かい?」
「うむ。家内が逃げたのは、産まれた子が元なのだ」
「不義の子とかかい?」
「いや、決してそういう訳では無いのだが…」
「何か不都合があったんだね」
「生まれて半年になるというのに眼は開かず、音が聞こえる様子もないのだ。あれではまともに生きてゆけぬだろう」
「ああ、蛭子(ひるこ)だね」

 蛭子とは、不具として生まれた乳児を差す。

「蛭子が出たとなれば、当家と家内の実家双方の恥。故に、返さねばならぬ」

 蛭子は大抵、そうと解ってすぐに子返しされ、闇に葬られる事となる。
 働き手、稼ぎ手となれない事が判っている子を養う様な親は稀だ。
 しかし、情が深く、我が子を手にかけるに忍びない親も中にはいる。
 領主の妻は我が子を助けようとして出奔を謀ったのだ。

「それでお前様は子返ししようとして、嫌がった女房は子を連れて逃げ出した。そういう訳かい」
「概ね、その通りだ。見えず、聞こえず、恐らくは口もきけぬ子を抱えても、報われぬ苦労を背負うだけであろうに…」
「情が深すぎるってのも考え物だねえ」
「この様な事情につき、どうか願わくばご放念頂けぬか」

 領主は女に懇願した。
 家名に傷がつく事を、何としても避けたいのである。

「あたし等が薬を商う傍らで、いらぬ子を仕入れているのは知ってるかい?」
「承知しているが、蛭子でも購うのか」
「まあね。そういうのでも、使い途があるんだよ」
「家内が納得してくれれば良いが」
「そもそもお前様の女房があたしに声を掛けて来たのはね。赤子を売ろうとしたんだよ。子返しする位なら伊勢に売って助命したかったんじゃないかねえ?」
「ならば、受け入れるであろうな」

 事態は丸く収まりそうだと、女は一息ついた。
 女が出されていた茶に手をつけたところで、バタバタという足音と共に襖が勢いよく開かれ、いかにも慌てた様子の女中駆け込んで来た。
 
「何事だ!」
「奥方様が、奥方様が!」

 領主と女が駆けつけてみると、女房は寝かされていた部屋の欄間に帯を掛けて首を括っていた。

「よくお眠りでしたので、お布団を敷いてお休み頂いていたのです、それが、それが! 少し眼を離した間に!」
「何をしてるんだい! 早く降ろすんだよ!」

 女はうろたえている女中を怒鳴りつけると、ぶら下がっている女房を抱え、領主は腰の刀で欄間に掛けられている帯を斬った。
 女は女房の首から帯を外し、床に敷かれている布団に寝かせると、手首をとって脈をはかった。

「大丈夫か?」
「とりあえずは息があるね。少し手を施すから、この部屋には誰も入れないでおくれ」

 女は領主や女中を部屋から出し、襖を閉ざした。




[37967] 3話「地侍の女房」その4
Name: トファナ水◆34222f8f ID:82139271
Date: 2013/09/14 19:20
 およそ半刻後、女は襖を開けた。

「もういいよ」

 外で待っていた領主が中に入ると、女房は布団に寝かされ、寝息を立てて静かに眠っていた。

「命はとりとめた様で何よりだ。礼を言う」
「いや、何とか生きてはいるんだけどねえ…」

 領主の感謝の言葉に、女は難しい顔をした。

「どうしたと言うのだ?」
「首を絞めると、頭に血がいかなくなってね。ほんの僅かな間でも、脳味噌が壊れちまうんだよ」
「つまり?」
「気の毒だけど、お前様の女房はもう生ける屍で、二度と目を覚まさないよ。物も食えないから徐々に衰弱して、それ程長くはないだろうね」
「そうか…」

 女房の容体を宣告され、領主の声は取り乱す事もなく、静かに一言つぶやいた。
 女は領主の態度に、胆力があると内心で評価した。
 この様な時に取り乱す様であれば、御政道に関わる者として不適なのである。
 
「差し出がましいけれど、あの女中は不問にしてやっておくれ。早まった事をしない様に言い含めておくんだよ」
「承知している。この件でこれ以上の犠牲が出るのは忍びない。だが…」
「どうしたんだい?」
「家内は尾州領家の傍流でな。どうした物か…」

 領主の頭にあるのは、家門と領地の安泰をどう確保するかである。
 嫁ぎ先で廃人になったとあっては、実家筋である尾張領家は、罰という名目で領主に割腹を命じ、この領地を接収するかも知れない。
 
「ならさあ。そこで相談だけどねえ…」

 領主の思考を察した女は、さらなる取引を持ちかける事にしたが、それは領主を驚かせる物だった。
 
「何だと!?」

 女の申し出に、領主は声を荒げた。

「この手しかないと思うんだけどさ」

 女の提案は、伊勢が女房の替え玉を提供するという物だった。
 法術で、容姿を瓜二つに似せた女を用意出来るという。

「しかし、実家との行き来もある。記憶についてはどう取り繕うのだ?」
「重い熱病にでも罹り、以前の事を全て忘れてしまった事にすればいいさ。そういう話は結構あるからねえ」
「…替え玉は、いつ届くのだ? 周囲をごまかすにも限度がある」
「お前様さえ決断すれば、数日もすれば着く様に計らうよ」
「一体何が望みなのだ?」

 容姿は何とでもなるとしても、武家の妻の替え玉となれば相応の教養が不可欠な為、勤まる女は貴重だろう。
 それを供するというからには、相当の見返りが求められて当然である。

「まず、生きた屍となったお前様の女房をもらい受けたいのさ。どうせ始末に困るだろう? 替え玉を貸す代価はそれでいいよ」
「どうするつもりだ?」
「聞きたいかい?」

 女が意味ありげに微笑むと、領主は、人食いの夜叉故、贄にでもするのだろうと考え、詮索すべきではないと判断した。

「う、うむ、後には?」
「それと、さっき話した蛭子も頂くよ。どうせ返す気だったんだろう?」
「それは願ってもない事…それだけか?」
「この村は、伊勢と置き薬の商いがなかったねえ。あたしの庭場ではないから別の者を寄越すけど、宜しく頼むよ。こっちからはそんなとこだね」
「承知した」

 女の要求は領主にとって、実質、ほぼ無償に等しい物だった。
 本来、刀を向けて破れた時点で、何をされても文句の言えない立場である。
 それが、抱え込んでいた厄介事を引き受けてくれるというのだ。
 女にもそれなりに思惑はあるのだろうが、領主側に失う物は何もない。
 交渉がまとまると、女は、人が入る大きさの桶を求めたので、領主は不意の死者に備えて常備していた棺桶を家人に用意させた。
 土葬に向いた、円筒状の物である。
 女は眠り続ける女房を抱え、膝を折り曲げて座り込む姿勢にして棺桶に収めた。

「伊勢までの道中は長かろう。大丈夫なのか?」
「まあ、見てなよ」

 女は樽に収められた女房の瞼を開けて瞳を覗き込むと、自らの眼を一瞬光らせた。
 すると女房は、徐々に石と化していった。

「面妖な!」
「凶眼と言ってね。一部の妖が生まれついて備えている力なのさ、石にしちまえば、飢える事も老いる事もなくってね。ああ、ちゃんと元に戻せるから安心しな」

 領主は、改めて恐ろしい相手と関わってしまった事を実感した。
 女は軽々と樽を抱え、屋敷の前に止めてある馬車へと積み込み、次いで、籠に入れられた蛭子を受け取った。

「それじゃあ、あたしは行くよ」
「くれぐれも宜しく御願い申し上げる」

 角と牙をしまい人間の姿を取って馬車に乗り込む女に、領主とその家人は深々と頭を下げていた。



[37967] 3話「地侍の女房」その5
Name: トファナ水◆34222f8f ID:82139271
Date: 2014/02/16 20:28
 女が去ってから四日後。
 領主は出奔したまま戻らぬ妻子の行方を郎党達に捜索させていたが、ようやく吉報が届いた。
 領境に流れている川の上流から、小舟に乗って流れて来たのだという。
 女房は意識がなく、高熱を発していた。
 発見されたのは一人だけで、赤子の方は舟に乗っていなかった。
 領主は、赤子を誰かに託した後に舟で帰る最中、疲労で倒れた物ではないかと推察した。
 妻は二日の間、意識のないまま高熱を発して生死の境を彷徨ったが、三日目の夕刻に意識を取り戻した。
 看病に当たっていた女中の報を聞き、領主は女房の床へと駆けつけた。

「拙者がわかるか?」
「お館様でございますか?」
「そうだ、拙者だ…?」

 女房が普段の口調と違う事に気付き、領主は違和感を覚えた。

「二人きりでお話ししたい事がございます」
「そうか。では皆、下がれ」
 
 女房の言葉を受け、領主は侍っていた女中を下がらせた。
 二人きりになると、女房は床から起き出し、三つ指をついて礼をした。

「奥方様の替え玉として、主上の命で伊勢より参りました」
「替え玉? 主上? 何の事……!」

 女房の一言を聞き、領主は七日前の出来事を思い出した。

「思い出しましたか?」
「何故、今までこの事を忘れていたのか…」
「法術でございます。記憶を取り戻したのは、お館様のみ。後の者は真相を忘れたままですので、御安心下さいませ」
「では、熱も擬態か?」
「ええ。熱病で記憶を失ったという事にする、との事でしたので、その様に致しました」
「それにしても、家内によく似ておる。法術とやらか?」
「はい。素顔はこうでございます」

 替え玉は素顔を表した。
 先に訪れた薬売り同様、頭には角が、口からは牙が生えている。
 そして顔も、元の妻とは似ても似つかぬ物だった。
 色は黒く、堀の深い顔立ちで眼はやや大きい。
 夜叉である事を割り引いても、和国の民の容姿とは全く異なっている。

「随分と変わるのだな」
「驚きませなんだか」
「既に夜叉には一度会っておるからな。今更驚くまでもあるまい。その肌の色と顔立ち、異国の出か?」
「はい。私は、天竺より主上たる那伽摩訶羅闍(ナーガマハラジャ)…伊勢の民が龍神と呼ぶお方に従って来訪したのです。この顔はお嫌でしょうか?」
「常には家内の容貌を装っておれば、正体がどうであろうと構わぬ。くれぐれも本物の実家筋にはボロを出すなよ」
「では、お側に置いて下さいますか」
「天竺渡来の夜叉を娶る羽目になるとは思わなんだが…これも縁という物だろう」

「ではお館様。お願いしたい事がいくつかございます」
「なんなりと申せ」
「夜叉は女族。人間の子種で孕みますが、産まれるのは全て夜叉の女児となります」
「つまり、跡取りたる男児は産めぬのか」

 領主はそれを聞いて少し残念に思った。
 
「はい。ですから、私が産んだ子は、伊勢が買い付けている赤子の内、良さげな男児とすり替える事としたいのです」
「ふむ。拙者は構わぬが、お前はそれで良いのか?」
「はい。夜叉の娘は、同族の多くいる伊勢で養育された方が良いでしょうから」

 本来の妻は命を捨ててまで親子の情を示したが、替え玉の方はあっさりした物である。
 だが、武家は本来、我が子であっても情にほだされてしまってはならず、人材として使えるか否かで処遇を定めなければならない。

「では、子が産まれた際にはその様に致そう。後は何か?」
「夜叉は、年に一度は人間を食さねば生きてゆけませぬ」
「そうであったな」

 だからこそ、領主は薬売りの女の正体を知るや、約定を破って殺そうとしたのだ。
 しかし、屈した末に夜叉を娶った以上、贄の確保は主人たる自分に課せられる事となる。
 だからと言って領民を食わせろと言われても、応じられる筈もない。
 妖から加護を受ける代償に、くじで選んだ贄を差し出す集落もあると言うが、それは妖の存在が公然としているからこそ出来る事だ。
 妻の替え玉として、表向きは人間として暮らさせる以上、取れない方法である。

「しかし、領民を食わせる訳には行かぬ」
「善男善女を食らってはならぬというのが、主上のお定めになられた伊勢の掟です。当地でもそれは守りますのでご安心下さい」
「ならば伊勢ではどうしておるのだ?」
「咎人や敵兵ならば食して良い事になっております」
「ふむ、しかしこの村は平穏。死罪に値する罪人等、永らく出ておらぬ」
「ですから、お館様。死罪を申し渡された咎人を、尾州領家から下げ渡して頂ける様にお計らい願えませんか」

 領主は、どうした物かと考え、一つの案を思いついた。

「そうだな。生きたままでは難しいが、試し斬りの為という名目であれば、仕置きを終えた屍を手に入れる事も出来ような」
「それで結構でございます。死んでから二日程までであれば滋養として問題ありませんので、その様にお願い致します」
「う、うむ」
「当家に害なす輩は私が討ち滅ぼしましょう。御領内の田畑は毎年変わらず豊作となります。即ち、私がお仕えする限り、お館様は安泰でございます」

 夜叉は、ただそこに居るだけで農地を豊穣にする力を持つ。
 隠れ住む夜叉が所在を把握されても、積極的に討伐されないのはその為でもある。
 運の悪い者が捕らえられて贄となる事に目を瞑れば、夜叉が住まう近隣は豊かになれるのだ。

「それは…頼もしい事だ」
「では、今宵は御身の肉をもって、我が胎へ証を刻んで下さいませ」

 替え玉は帯を解いて裸体を露わにすると、舌なめずりして領主をいざなった。
 領主は逆らえぬままに衣服を剥がれ、絡め取られていった。
 その夜、替え玉が交合の歓喜で発する野獣の如きうめき声が屋敷中に響き、それに刺激された家中の郎党や女中達も、身体を貪り合うのだった。

(第三話 了)



[37967] 4話「夜叉の鎮守様」その1
Name: トファナ水◆34222f8f ID:82139271
Date: 2013/10/28 06:35
 龍神とその眷族が支える新体制の伊勢にとって、和国に住まう妖と接触して友好関係を築き、さらに自陣営に取り込む事は課題の一つである。
 だが、彼等の多くは潜んで生活している為、所在を掴む事は難しい。
 殆どの妖は人間を補食しなければ生きられない為、討伐を警戒して隠れ住んでいるのだ。
 個の能力では人間よりはるかに優れていても、数で押し切られたり、計略にかけられる、あるいは人間が使用出来る法術具を使われる等すれば討たれてしまう事もある。
 また、贄を補食するにも、隠れていた方が都合が良い。
 徒党を組んで贄となる人間を強襲する者達や、集落に祭神として奉じられて人身御供を得る者もいるが、あくまで少数派である。
 今回女が訪れたのは、その様な少数派に属する夜叉が、祭神として住まうという農村である。
 主目的は商売ではなく、龍神の使者として夜叉と接触する事だ。

「そこのお前様」
「ひ、ひいい!」

 村の入り口で目に付いた村人の一人に、道を尋ねようと声をかけると、泡を食った様に逃げ出してしまった。
 他の村人達も、決して女と目を合わせようとせず、顔をそらしてしまう。
 基本的に薬種商は歓迎される存在だ。
 信仰上の敵、あるいは明らかな利害の対立という事でもなければ、ここまで露骨な態度を示される事はない。
 伊勢の神宮から分社を受けている街や村落では、一揆衆や龍神に対する警戒心があって当然だが、この村は違う。
 村人達が馬車を遠巻きに見る中、一人の老人が馬車の前に立ちはだかった。

「あんた、伊勢の薬売りかね?」

 老人の頭は禿あがっており、顔の皺は深い。
 腰も曲がっていて杖をついていたが、口調はしっかりしていた。

「そうさ。お前様は?」
「ここの庄屋じゃよ」
「それは丁度いい。挨拶に出向かなきゃと思ってたんだ」
「申し訳ないんじゃが。今、村は立て込んでおってな。行商にはお引き取り願いたいんじゃ」
「立て込むというと、もしかして、”祭”が近いのかい?」

 庄屋は頷き、彼女の推測を肯定した。
 一般に祭礼とは、神仏に感謝の念を示すと共に、村人の娯楽行事でもある。
 だが、妖を奉じる村にとっては、繁栄の代償として村人の誰かが犠牲になる、忌まわしい日なのだ。

「近隣はそれを知っておるから、この時期にはこの村に近づかないのが不文律となっておる。逆に、村の者が外に出るのも控える事になっておるのじゃ」
「そりゃ、贄が逃げ出すのを手引きしないとも限らないからねえ」
「祭の邪魔を企てる輩が出ないとも限らんでな」

 夜叉が住まう村落は不作知らずで、それ故に村外からは妬みを受けがちである。
 また、贄にされた者の遺族の内には、夜叉を憎悪する様になった者もいるだろう。
 夜叉に直接立ち向かうのは困難にしても、贄を逃亡させる事で一矢報いようと企む者がいてもおかしくはない。

「伊勢の衆を疑う訳では無いのじゃが、特別扱いにすればきりがないでな」
「そうかい。でも、あたしがここに来たのは商いは二の次でね。ここの夜叉に会いに来たのさ」
「それこそ、余所者なんぞを鎮守様に会わせる訳にはいかん! 出て行ってくれんかのう!」
「龍神様の使いでもかい?」
「りゅ、龍神様じゃと?」

 女の要件を聞き、庄屋は口調を荒げて退去を要求したが、龍神と聞いて態度を怯ませた。

「庄屋様も知ってるだろう? 伊勢の一揆衆は、天竺から来た龍神様が加護してるのさ。あたし達の様な伊勢の行商人は、その使いを命じられる事もあるんだよ」
「何故、こんな田舎の鎮守様に…」
「龍神様の眷族には結構な数の夜叉がいてね。和国の同族とよしみを通じたいって訳なんだよ」
「同族という事は、あんたは… い、いや、あなた様は! ご無礼の程、平にご容赦を!」

 ”同族”の言葉を聞き、女の正体を夜叉と悟った庄屋は、慌てふためいてその場に平伏した。
 周囲の村人はあっけに取られたが、慌てて庄屋にならう。
 村の祭神と同じ夜叉に、無礼があってはならない。

 掌を返した様な庄屋達の態度に、女は内心で”またやらかした”と後悔した。
 自分の迂闊な一言のせいで、せっかく人間を装っているのに、あっさりと正体を暴露されてしまった。
 相応に霊力を消費するのでなるべく避けたかったが、村を出る時には村人達の記憶を封じる必要がある。
 霊力の浪費は、次に贄を食べねばならない時期が縮む事につながってしまうのだがやむを得ない。
 一度ならず二度までも、迂闊な一言で正体が露見し、法術による力技で糊塗する羽目になった事を国元の夫や師が知れば、今回の様な正体を伏せての巡行も難しくなるかも知れないと、女は思った。

「一寸、頭を上げとくれよ!」

 女の言葉に、庄屋を初めとした村人達は恐る恐る顔を上げた

「あたしの事は、そうだね。客扱いしてくれりゃそれでいいよ」
「しかしそれでは!」

 恐れ多いと言おうとした庄屋の声を、女は手を挙げて制した。

「ここじゃ神扱いかも知れないけどね。伊勢じゃ夜叉やら羅刹なんて、他州の士分程度の扱いなのさ。いくら人間にない力を持ってるっても、龍神様の従者に過ぎないんだからね」
「はあ…」

 庄屋や村人はまだ釈然としない様だったが、女は構わず話を進める事にした。

「とりあえず、ここの夜叉に会わせておくれよ。色々、話さなきゃならないからね」
「それがですな。鎮守様は元々、滅多に村人の前にはお出にならないのじゃが、ここ暫くはお社に籠もりきりなのですじゃ」
「自分から出て来なくても、こっちから出向きゃいい話じゃないか」
「いや… お社に近づこうとしても、敷地の中に足が進まんのです」
「結界だね」

 住居に結界を張っておくのは妖ならごく当たり前の事で、女の馬車にも施されている。
 ここの夜叉は、結界についての説明を村人にしていなかったらしい。
 優位性を保つ為、村人に余計な知識を与えない様に心がけていたのだろうかと、女は推測した。

「結界と言われると、厄除けの様な物ですじゃろうか?」
「概ねその通りだね。まあ、あたしなら破れなくはないけどさ。扉を蹴破る様なもんだから、それは止めておくよ。祭の時には結界は解かれるのだろう? いつだい?」
「実は、今夜となっておりますのじゃ」
「なら話が早いねえ。余所者を祭に関わらせたくないだろうけど、あたしは問題ないね?」
「は、はい…」

 微笑みながらも女の眼光は鋭く、庄屋はただ頷くしかなかった。




[37967] 4話「夜叉の鎮守様」その2
Name: トファナ水◆34222f8f ID:82139271
Date: 2013/11/03 05:53
 祭は夜になるとの事なので、女は庄屋の屋敷に馬車を預け、村の様子を見て廻る事にした。
 庄屋から案内としてつけられたのは、庄屋の一人息子という青年だった。

「今日は遠慮無く使ってやって下され」
「伊勢の夜叉様。宜しくお願いします」

 青年は、少女の様な顔立ちで、線が細い。
 髭をそった跡もないので、元々生えていないのだろう。
 声は男としてはかなり高めで、逆に言えばやや声の低い女の様だ。
 これで齢十八だという。
 庄屋の家だから耕作に携わらなくとも問題はないのかも知れないが、体格から見る限り、とても百姓は勤まらないだろう。

「お前様、随分と線が細いけどさ。若い衆に舐められたりしないかい?」
「賢しい倅なのですじゃが、どうにも男としては頼りなげですじゃ」
「……」

 女の指摘と庄屋の同意に、青年は俯いてしまった。

「まあ、百姓女はたくましい男がいいんだろうけどね。あたしは粗野なのが苦手でねえ。この子の様なたおやかなのが好みさ」
「そ、それは…」
「ふふ、その顔。良いねえ」

 青年は困惑を示し、それを見た女は微笑んだ。


*  *  *


 青年の案内で、女は村を見て廻った。
 普段の様子を知りたいので、自分と青年の姿が村人の目に映っても、存在を意識されない法術をかけている。
 村人は揃って肌の艶が良く、体格もしっかりしており、滋養の高い食事を食べている様だ。
 服装は上質で、家々も百姓屋としては立派である。
 夜叉の加護による不作知らずが功を奏し、衣食住が満ち足りているのがよく解る。
 肥満体は見当たらないので、よく身体を動かしている、つまり働きぶりも良いのだろう。
 村内では青年の線の細さが際だって目立つのだが、食生活のせいではなく、持って生まれた体質と思われる。

「この村には、小作人とか作男はいないのかい?」
「はい。どうして解ったのですか?」
「みんなしっかり食っているみたいだし、他の村に比べて身なりもいいからね。逆に言うと、貧相な者がいないのさ」

 小作人とは、他者の所有する農地を借りて耕す百姓を指し、作男とは、富農の家に住み込みで雇われる百姓である。
 いずれも、村の一人前の構成員としては認められない立場だ。
 当然、食事や服装も劣る筈なので、体格や服装に格差が見られない事から、この村にはその様な下層民が存在しないと判断したのである。

「子返しや間引きもないみたいだね」
「ええ。よく見ていますね」
「子供の数が多いし、男児と女児が同じ位の数だからさ」

 この村の大人の数を考えると、他村よりも子供が多い様に思われる。
 また、子返しが常態化している村ではいびつに男児の数が多くなりがちだが、この村の男児と女児の数はほぼ同数の様だ。

「間引きや子返しが皆無という訳ではないのです。働き手になれず、一生養われなくては生きて行けない蛭子は、返すのが情けですから」
「そりゃ当然さ。そうじゃなくて、五体満足の子を、養えないから返すなんて事をしてないなら立派なもんだよ」
「有り難うございます!」

 村の治世を褒められて、青年は誇らしげにした。
 
「でもさ、田畑には限りがあるだろう? 間引かなきゃ人が余らないかい?」
「ある程度の数は支度銭をつけて、他村の跡継ぎがいない家へ養子に出します。女の場合、やはり他村へ支度銭をつけて嫁に出します」
「なら、あたしの様な人買いの出る幕は乏しそうだね」
「この村では田畑を継げぬ子の行き先も世話出来ますから。申し訳ありません」
「そうかい。ま、それならそれで結構な事だよ」

 女としては、いらぬ子を買い上げるのも商売の内なのだが、この村では、蛭子以外にはその様な需要はない様だ。

 農地に目を向けると田畑は広く、川から用水が引かれている。
 また、牛が多く耕作に利用されているのが目立った。
 広い田畑を耕すのに作男を雇う事なく、農耕牛で賄っているのだ。

「牛が多いねえ。餌も馬鹿にならないだろう?」
「いえ、見ての通り田畑が広いですし、作男を養うよりずっと安上がりですからね。それに、村の中で格の上下があると、やりにくいですよ」

 女は、家畜の導入と、百姓間の格式の差を無くすというこの村の方針に感心した。
 伊勢の一揆衆と似通っている為である。
 不作知らずで、村民の間の上下がほとんどない。
 労力を家畜が補う為、疲労も少なくて済む。
 贄にされるかも知れない恐怖さえなければ、理想の農村と言えるだろう。
 だが、その恐怖こそが、龍神の理想に反する物だ。
 ここまで村の様子を見て、女は贄を捧げる祭が近いのに、村人には緊迫感がない事に気付いた。
 女が村の入り口で受けた対応は、あくまで余所者を警戒した物だった様だ。

(既に贄は選ばれておる様じゃな。自分が食われぬ事が決まれば、むしろ安堵しておるじゃろう)

「こちらが、鎮守様のお社になります」

 女と青年は、村の中程にある社へと着いた。
 神道の神社と同じ様な形状の木造で、鳥居もある。
 広さは庄屋の屋敷とほぼ同じ位で、やや古いが外から見た限り手入れが行き届いている様だ。
 周囲に術式が張り巡らされているのが、女には解った。
 彼女には馴染みのある術式である。

(和国の法術は明国由来の物が多いと聞くが、これは違うのう。妾達が使う術式じゃ。こ奴、補陀洛(ポータラカ)の者かや?)

 女は、結界に使われている術式から、この社に住む夜叉が和国の在来ではなく、自分と同じ補陀洛の出身であると判断した。
 補陀洛とは、古代の印度、和国で言う天竺を二分した勢力の一方で、仏道でいう阿修羅界を指す。
 補陀洛は古代において、香巴拉(シャンバラ)、仏道で天界と呼ばれる勢力と、印度の覇権を巡って長らく争っていた。
 仏道の開祖として知られる、瞿曇 悉達多(ガウタマ・シッダールタ)の仲裁により戦が終息して、二千年以上が経つ。

(妾達の来訪以前に和国へ来たのであろうが、何故この様な処におるのか問いたださねばならぬな)




[37967] 4話「夜叉の鎮守様」その3
Name: トファナ水◆34222f8f ID:82139271
Date: 2013/11/10 14:12
「どうかなさいましたか?」
「ああ、ちょいと結界を”読んでた”のさ。普通の人間には無理だけどね」

 考え込んでいたのを問われ、女はとっさに誤魔化した。
 確証がまだない時点で、迂闊な事を言えない為である。

「許しを得ない人間が入ろうとしても、何故か足が遠ざかってしまうのです」
「その様に仕掛けてあるんだよ」
「伊勢の夜叉様は、中に入れるのですよね?」
「まあそうだけど。戸が閉まっているのに破るのは非礼だろう?」
「そう例えられると、よく解ります。結界とは、錠をかける様な物なのですね」

 女の力であれば、社にかけられた結界は解除が容易な物だ。
 しかし、結界は”入ってはならない”という意思表示でもあるので、解除や突破は非礼であるというのが、妖の間での良識となっている。

「それにしても、鈴とか鳴らし物の類はないのかい? 火急の用がある時に困るだろう?」
「普段はお世話役の僕が取り次ぎますが、この時分はお休みだと思いますから…」

 人間の支配地域に住む妖は、昼に寝て夜に起きる者が多い。
 夜行性という訳では無く、人目につきにくい為である。

「ああ、祭の時に会うつもりだから、今はいいよ。成る程、お前様が、日々の面倒を見てるのかい」
「はい。日常の細々とした御用は、僕が承ります」
「仮にも祭神が、身の回りの事を何から何まで自分でやるってのも変だしねえ。庄屋の息子なら、祭神の世話役を任されていてもおかしくないけど、普通は女がやるんじゃないのかい?」

 夜叉は女族である以上、身の回りの世話は同性に任せそうな物である。

「僕は早くに母を亡くしたのですが、鎮守様がお乳を飲ませて下さいました。そのご縁で、そのままお側に置いて頂いています」
「いわば、育ての親って訳だね。母親を亡くした乳飲み子は、皆、夜叉が乳を与えてるのかい?」
「いえ。大抵は、誰かしら乳の出る村の女衆が、自分の子と一緒に飲ませます。僕の場合、鎮守様が是非にとお望みになったという事でした」

(こ奴のみに乳を与えて側に置くという事は、胤として見込んだ訳じゃな)

 この青年をいずれは子を為す相手として、懐かせるために側においていたのではないかと、女は考えた。
 夜叉は女族であり、人間の男性との間で子を為す必要がある。
 しかし、夜叉に限らず妖は人間を下等な存在として見下し、心を通わせようとしない。
 妖から見れば人間は弱く短命な劣等種という事もあるが、最大の理由は、補食の対象と親しくすれば心痛に苦しみかねない為だ。
 その為、夜叉が子を為す際には、法術でたぶらかした男と一夜を共にして子種を受けた後、寝入っている相手を殺して贄にするのが定石である。
 だが、中にはそうでない者もいて、拾ったり拐かす、あるいは見返りと引き替えに譲り受ける等して手に入れた人間の男児を、将来の夫として育てる場合もある。
 何故子供から育てるかと言えば、妖への恐怖心を持たせない為と、主導権を握る為、そして自らの伴侶に相応しい者として造り上げる為だ。
 百年も経たずに寿命で死に別れる事を防ぐ為、夫として養い子を育てる夜叉は、殆どが九百歳半ばを過ぎた高齢である。
 もっとも、高齢とは言っても外観は若いままだし、夜叉に限らず妖には閉経がなく、およそ千年の寿命が尽きる直前まで受胎も可能である。
 その為、女はこの村の夜叉をかなりの高齢と推測した。


*  *  *


 社を見終わって庄屋の屋敷に戻る道すがら、女は贄について尋ねてみた。

「この村の贄は、どうやって選ばれるんだい?」
「村人の入れ札(※投票)で、齢十五から三十の間の、子がない者から選ばれます」

 妖が人間を食べるのは、人間の脳に蓄積される霊力を取り込む為だ。
 人間の霊力は二十代半ば頃まで、体内で形成される量が消費される量を大幅に上回り、余剰は脳に蓄積される。
 三十代頃からは消費が形成を上回っていき、四十代後半から五十代頃では全く形成されなくなる。
 人間の老衰死とは、若年期に蓄積した霊力を使い果たした結果なのだ。
 よって、もっとも霊力の蓄積が多い十代後半から二十代の若年者こそが、贄としてもっとも食べ頃なのである。

「籤じゃなくて入れ札かい。厄介払いを兼ねて、放蕩者とか乱暴者とかが選ばれるだろうねえ」

 人身御供を選ぶ際、もっとも多用されるのは籤引きだが、死なれては困る者が引き当ててしまう事も往々にしてある。
 細工をされている場合もあり、それを疑う者が出て争いの元になりがちでもある。
 入れ札の場合、村全体としては望まない結果が出にくい。
 死んでも差し支えない者、言い換えれば村の厄介者が指名される事になるのだ。

「そういう者は、この村にはいません」
「そりゃ、贄にはなりたくないもんねえ。慎むのも当然か。じゃ、どういう奴が選ばれるんだい?」
「そうですね… 例えば、大怪我で不具になってしまった者とか、二目と見られない程の醜顔の行かず後家とかですね」

 入り札による贄の指名は、村人の秩序を保つしくみとして機能している様だ。
 だが、不埒な者が出なくても、毎年の様に贄は必要となる。
 結果、本人の日々の振る舞いのせいでなくとも村から疎まれる者、つまりは弱者が贄として選ばれがちである。
 そこまで考えて、女は贄に選ばれそうな者に思い至った。

「もしかして、今回の贄、お前様かい?」
「どうしてわかったのですか?」
「これまでの話を聞いてりゃ思いつくさ。お前様、父親から頼りないと思われていたのだろう?」
「ええ… 庄屋の跡取りとして恥ずかしいと、父から常に言われていたのですが…」
「跡取りを任せられないってんで、庄屋様が村中にお前様を選ぶ様に根回ししたんじゃないかねえ?」
「その通りだと思います…」
「いいのかい、それで?」
「せめて鎮守様の血肉になれれば、僕は本望です」
「当の本人は、お前様が贄だと知ってるのかい?」
「いえ、まだ…」
「そうかい…」

 青年は覚悟を決めていたが、この村の夜叉が激昂する事は想像に難くない。
 幼少より育て心を通わせた相手を、贄として差し出されれば当然である。
 だからといって夜叉が別の者を選び直す様に命じれば、村人は従うだろうが、青年が逆恨みされるのも明白である。
 いずれにせよ、当事者に任せて傍観すれば、紛議は必定と女には思われた。
 また女の立場としては、この村の夜叉が補陀洛の民であれば、和国において善男善女を贄とする事を禁じた、那伽摩訶羅闍の勅令を伝えた上で従わせねばならない。
 どうしたものかと、女は思案を巡らせ始めた。



[37967] 4話「夜叉の鎮守様」その4
Name: トファナ水◆34222f8f ID:82139271
Date: 2013/11/17 17:13
 庄屋の家に戻ると、羽織袴に身を包んだ庄屋が、家人達と共に出迎えた。
 祭に際しての正装である。
 青年は身を清める為として、家人に伴われて風呂に向かった。
 客間に通された女は、贄について庄屋に尋ねる事にした。

「今年の贄は、庄屋様の倅だってね」
「倅から話は聞きましたのじゃな?」
「ああ。入れ札だってね」
「札は全て、倅に入っておりましてな…」

 庄屋は哀しげに顔を曇らせたが、女の目は冷ややかだった。

「お前様の仕込みだね?」
「倅は随分と賢しいのですが、あの様に線が細くては、とても次代を任せる訳には行きませんのじゃ…」

 女の詰問に、庄屋の顔は青ざめ、額からは汗が流れ始めた。
 しかし、流石に村の束ね役だけあって、言葉はしっかりしている。

「でも、一粒種って言ってなかったかい? 跡取りはどうするのさ?」
「…実は最近、尾州領家の分家筋から、養子を迎える話がありましてじゃな…」
「最近ってのはいつ位だい?」
「一月程前のことですじゃ…」

 守護が分家の部屋住みを押しつけるにしても、普通は武家が相手だ。
 庄屋とはいえ、百姓が相手では格が違う為、通常ならあり得ない縁組みである。
 養子の話が出たのが一月前なら、伊勢を一揆衆が掌握して以後の事だ。
 尾州領家は、領内の妖が龍神と通じる事を警戒し、監視役としてこの村の庄屋に養子を出す事にしたのだろうと、女は推察した。

「それで、息子が邪魔になったって訳だね」
「い、いや、決してそういう訳ではありませんのじゃが」

 庄屋は言いよどんでいたが、その様子から、尾州領家から見返りを受けている事は明らかだった。

「まあ良いさ。逆らえる筈もないし、庄屋ってのは末端でも御政道に関わるんだから、情に流されずに物事を決めなきゃいけないからね」
「そういう事ですじゃ。おなごは情に流されがちじゃが、流石、伊勢の夜叉様はわかっておいでですじゃ」
「ただねえ、お前様の倅は、この村の夜叉のお気に入りみたいだけど。それを贄に差し出されたら、怒り出すとは思わなかったのかい?」
「…何故ですじゃ?」
「はぁ?」
「いや、情をかけておったのじゃから、鎮守様にはさぞ喜んで頂けるもんだとばかり思っておりましたのじゃが」

 庄屋の反問に、女は思わず声を挙げ、さらに続く言葉に憤怒を露わにした。

「呆れたねえ。本気で言ってるのかい?」
「ち、違いましたかのう?」
「当たり前だよ! どこの阿呆が、食い殺すつもりの相手を可愛がる物か! 人間から見ればあたし達は、情を解さぬ人食いの化け物、祟り神の類という訳かい?」
「ど、ど、どうすれば良いのですじゃあ! 今更、贄を選び直せば、村が揉めますじゃあ!」

 女に怒鳴りつけられ、庄屋はすっかり狼狽えてしまった。
 それを見た女は、表情を平易に改め、言葉を続けた。

「それに倅が生きたままじゃ、尾州領家からの養子を受け入れにくいだろうしねえ」
「そ、そうですじゃ! じゃから伊勢の夜叉様。何とか鎮守様に、今年の贄は倅という事で取りなして頂けませんかのう?」
「それは、村の総意と取っていいんだね?」
「勿論ですじゃ。入れ札は全員、倅を名指ししておりましたからのう」

(他の道を求めるか、妾に始末を一任するというなら助力せんでもなかったがのう。そんなに倅を食わせたいのかや?)

 庄屋の要請に対する憤りを抑えつつ、女は腹づもりを決めた。
 夜叉の加護に、この村は相応しくない。
 庄屋が主導したとはいえ、入れ札で贄を決した以上は村の連帯責任である。
 夜叉の加護を一度受けながら、それを絶たれた耕地はそれまでの反動で地力が衰え、数年の間は不毛の地と化してしまうが、女にとっては知った事ではない。
 夜叉と青年の保護こそが重要なのである。
 仮に夜叉が補陀洛の民でなかったとしても、青年と併せて二人を伊勢で受け入れる事には何の問題も無いのだ。

「確約は出来ないけど、一応は話してみるよ」
「わ、わかりましたのじゃ」

 見限られたと知らず、庄屋はほっとした表情となり、出ていた茶を飲んだ。




[37967] 4話「夜叉の鎮守様」その5
Name: トファナ水◆34222f8f ID:82139271
Date: 2013/11/24 21:13
 風呂で身を清め終わった青年が、白装束に身を包んで現れた。

「そいつが死装束だね」
「はい」

 青年は死に際しても落ち着いた様子である。

「祭ってんなら、最期に馳走を食う位の事はしないのかい?」
「いえ。腸(はらわた)や膀胱に便が残っていてはいけませんから。昨日から絶食しているのです」
「妖なら、臓物を綺麗にのけてばらす包丁さばきはお手の物だから、無用な事だよ」
「気持ちの問題ですよ。では、参りましょうか」

 青年が庄屋と女を伴い、家人達に見送られて玄関を出ると、辺りは暗くなっていた。
 提灯を持った庄屋が先導し、青年と女が続く。
 空は曇っており、月や星も見えない。
 人通りは全く無く、村人達は各々の家で身を潜めている様だが、灯りの付いた家が全く無いのが不気味である。

「飯時だってのに、静まり帰ってるねえ…」
「祭の晩は、贄の喪に服するのが習わしですじゃ」
「ま、本人が最期の飯も食えないのに、周りでどんちゃん騒ぎでもされたらたまったもんじゃないけどさあ」

 村の繁栄の為、他者が犠牲になる事に目を背けているのだろうと、女は思った。
 社に着くと、女には結界が解けているのが感じられた。

「儂は、ここまでですじゃ」

 女と青年が鳥居をくぐると、庄屋は手前で引き返そうとした。

「庄屋様、ちょいとお待ちよ」
「夜叉様は大丈夫という事じゃが、贄の装束をまとった者の他は、鳥居をくぐれませんのじゃ」
「通れると思うから、こっちに来なよ」

 女に呼ばれ、庄屋が恐る恐る鳥居をくぐると、何の抵抗もなく通る事が出来た。

「これは…どういう事ですじゃ?」
「結界が消えてるのさ。こんな事はこれまであったかい?」
「いや。覚えがありませんのう」

 庄屋は首を傾げて答えた。
 女は、餓えのあまりに夜叉が錯乱などして、結界が無効化しているのではないかと不測の事態を想定して、青年と庄屋に、密かに個人用の防御結界を張った。
 これで、普通の夜叉程度の力であれば、二人を傷つける事は出来ない。
 霊力に飢えた妖は急速に理性が衰えてしまい、猛獣の様に人間を襲う事があるのだ。
 
「ともあれ、お邪魔しようかね」

 平静を装った女が社の扉を開けると、中は板間になっており、ちょっとした集会が出来る程度に広い。
 外装が神道の社殿に近いのに比べ、内部の造りは仏道寺院に近いが、祭壇や仏像の類はなく、ただ殺風景な広間である。
 中は無人の様だ。

「鎮守様、僕です!」

 青年が呼びかけたが、返事がない。

「提灯の灯りじゃ見にくいねえ」

 女が指を鳴らすと、社の中は昼の様に明るくなった。

「ああ、済みません」

 青年と庄屋は、驚く様子もなく、自然にそれを受け入れた。

「驚かないのかい?」
「鎮守様が同じ事をしていましたのじゃ。同じ夜叉様なら、当然ですじゃろう」

 どうやら二人共、ある程度は法術を見慣れているらしい。

「出かけてるのかねえ?」
「いや、そういう事自体滅多にないのじゃが… 今日が祭という事も解っておられる筈ですじゃ」
「とりあえず、奥の間を覗きませんか?」

 青年に促され、三人が広間に続く奥の間に入ろうとすると、戸の前で血の臭いが漂って来た。
 青年と庄屋は、思わず顔をしかめた。

(もしかして、飢えに耐えかねて、余所で人間を捕らえてきたのかも知れんのう)

「鎮守様、僕です。どうなさいましたか?」

 青年が戸の前で呼びかけたが、反応がない。

「…どうしましょう?」
「お前様方は待っておいで。あたしが入るよ」

 女が警戒しながら奥の間を開けると、床一面に血がこぼれ、奥の壁際に人が転がっていた。
 和国の服装ではない。紗麗(サリー)と呼ばれる、印度の衣服を身につけている。
 紗麗は赤地の絹布に金の刺繍が施され、所々に貴石が縫い込まれており、素人目にも高貴な服だと感じられる物だ。
 両手には曲刀を握りしめ、その刃は自らの喉を貫いていた。
 髪は銀髪の長毛で肌は純白、見開いたまま光を失った瞳は碧眼で、和国人には見られない容貌である。
 さらに額の角と唇から覗く牙が、遺体が人間ではなく夜叉である事を示していた。

「鎮守様、鎮守様ぁ!」

 青年は遺骸に駆け寄ると、取りすがって泣き崩れた。
 庄屋は、祭神の死を目の当たりにして、呆然と立ちすくんでいる。
 その一方で、女は冷静に遺骸を観察し、補陀洛の女官であった事を確信した。

(顔に覚えはないが、確かに補陀洛の女官じゃな。服からすると宮中詰めかや)

「お願いです! 鎮守様をお救い下さい!」
「無理だね」

 青年は女に夜叉の蘇生を懇願したが、女は一言で否定した。

「何故です! 伊勢の薬売りに、治せない病も怪我もないのでしょう?」
「その曲刀は天竺で自害用に使われる物でね。敵に蘇生されて虜になっちまうのを防ぐ為に、確実に死ねる術式が込められてるのさ。ただ死んだだけなら代償も大きい代わり、手立てが全くない訳でもないけどね」

 女が指を鳴らすと、床と遺骸についた血の汚れは浄化され、臭いも消えた。

「そのままじゃあんまりだ。きちんとしておやりよ」

 青年は遺骸の目を閉じて、布団を出して来て床に敷くと上に寝かせ、握りしめられた曲刀の柄を手から外し、胸の上で手を合わせて合掌させた。

「刃も抜いておやりよ」
「でも、血があふれてしまいます」
「法術で血止めはしてあるから大丈夫だよ」

 青年は遺骸の喉に刺さった曲刀を引き抜き、女に差し出した。
 刃には、印度の文字である梵字が刻まれている。
 女はそれを読み、遺骸の所属を確認した。

(先代の那伽摩訶羅闍の側仕えかや。普通ならとうに寿命が尽きておる筈じゃが、石化でもして眠っておったのかのう)

「鎮守様はどうして、こんな事を…」
「大方見当はつくけどね。遺書とかはないかい?」

 見渡すと、部屋には巻物や本が並べられている。書庫としても使われていたのだろう。
 また、窓際には卓が置かれ、筆と硯、そして漢文の書き置きが置かれていた。

「あたしは読めるけど、お前様方、漢文の心得はあるかい?」
「儂は読めますじゃ」
「僕も、鎮守様に手習いを受けました」

 三人が書き置きを読むと、次の様な事が書かれていた。

 夜叉は遙か昔、天竺を二分していた補陀洛という国の女官だったが、戦で宮殿が陥落する際に、自ら石化して身を潜めた。
 定めていた時限が経って石化が解けた際、彼女は何故か和国のこの村で仏像として祀られており、飢饉を救う様祈願を受けていた。
 自らの能力で村を豊作に導く代わりに贄を受ける約定を村と交わし、神として祭られたのが、今から五百年程前の事。
 以来、村に君臨するも統治からは距離を置いていたが、近年、寿命が尽きかけている事を悟り、血を残す為に世話役として庄屋の一人息子を欲した。
 ところが、充分育ったので想いを遂げて契ろうとした矢先、青年が今年の贄となってしまった。
 とても食べる事は出来ないが、断れば村の治世に差し障る事を憂い、どうするか迷っていた。
 そこに、故国である補陀洛が、君主である那伽摩訶羅闍自らの親征によって伊勢に拠点を築きあげ、尾州とも交易を進めている事を知った。
 宮中を死守せずに生き恥を晒している自分がこの村にいる事が発覚すれば、那伽摩訶羅闍の怒りを受けて村もろとも鏖殺されると考え、青年が贄とされる事を拒む事を兼ね、自害を選ぶ事とした。

「そんな…」

(何と言う愚か者めが…)

 青年は、夜叉が自分や村を守る為に命を捨ててしまった事に衝撃を受けていた。
 女もまた、夜叉を帰参させられなかった事に対して悔やんでいた。
 苛烈で知られる先代の那伽摩訶羅闍ならば厳罰に処したかも知れないが、代の変わった今、二千年前の失態等はどうでも良い事だ。
 人間をと共存する意思を自ら持っていた”同志”を失なってしまった事こそ、大きな痛手である。




[37967] 4話「夜叉の鎮守様」その6
Name: トファナ水◆34222f8f ID:82139271
Date: 2013/12/08 23:02
「儂等はこれから、どうなるのでしょうなあ…」

 庄屋の現実的な嘆きが、女を我に返らせた。
 死んだ者は仕方がない。
 残された者は、これからの事を考えなければならないのだ。

「夜叉の加護を失った田畑は、半年も経たずに荒れ果てるね。数年は不毛の地だよ」
「そ、そんな…」

 女が冷たく言い放つと、庄屋はがっくりと膝をついた。

「お前様、これからどうしたい?」
「そ、それでは出来ましたら…」

 庄屋の言葉を、女は手を上げて遮った。

「庄屋様に言ったんじゃないんだ。あたしはこの子に聞いたのさ」
「ぼ…僕ですか?」

 涙ぐんでうなだれていた青年は、腕で目をぬぐうと顔を上げた。

「そうさ。お前様、もうこの村にはいられないんだろう? 伊勢へおいでよ」

 庄屋の後継として相応しくないとされた青年は、贄をまぬがれたとしても村に身の置き所がない。
 この村の夜叉が自害してしまった今となっては、青年の今後だけが女の気がかりだった。
 加えて、伊勢には教養のある人材が不足しているという事情もある。

「実の処、早まった真似をしなければ、二人とも伊勢に連れ帰るつもりだったんだよ」
「その…咎を…受ける為にですか?」

 青年が恐る恐る発した問いを、女は訝しんだ。

「咎?」
「だって、書き置きには、落城の時に逃げ出したから咎められると…」
「ああ、その事かい。件の戦はとっくに和睦が成ってるし、那伽摩訶羅闍、龍神と言った方が解りやすいかな。龍神様も代替わりしてるから。今上の龍神様は、大昔の事は気にしないよ」
「では、鎮守様は赦されるのですか?」
「ああ。そもそも、この村の夜叉が、まさか補陀洛の元女官とは思っていなかったしね。別に、捕らえに来た訳じゃないのさ」
「そうですか…」

 女の答えに、青年は安心した様だった。

「出来れば、龍神様の元に帰参させたかったのだけれど。こんな事になっちまって残念だよ」
「それで、僕の方はどうして?」
「伊勢は教養を備えた者が全く足りなくてね。龍神様に召し抱えられる様に計らうけど、どうだろう?」
「僕が、ですか?」
「お前様は同胞に良く尽くしてくれたからね。それにはきちんと報いるよ」
「お言葉ですが、倅は大事な跡取り…」
「贄にしようとしといて、今更何を言ってんだい! 跡取りだって? 尾州領家から養子を迎える事になってんだろう!」
「ひいい!」

 女の勧誘に庄屋が口を挟んで来たが、怒声を浴びせられ、怯えて縮こまってしまった。

「いえ… 多分、養子の話は破談になると思うのです…」
「どうしてそう思うんだい?」

 青年の予測の根拠に、女は興味を持った。

「尾州領家は鎮守様が恐ろしいから、見張る為に身内を村に置く事にしたのではと思うのですよ。必要がなくなれば、百姓身分との縁組なんて反故にするでしょう」
「お前様、”と思う”って事は、自分で考えたんだね?」
「はい」
「流石に、元の宮中女官に育てられただけあって、御政道をきちんとわかってるねえ。でも、龍神様の元での仕官を袖にするのは勿体なくないかい?」
「この村は苦しくなって行きます。見捨てる訳には行きません」
「お前様。線が細いからって、村の衆から小馬鹿にされていたんだろう? しまいには村の為に殺されかかったんだ。それでも義理立てするのかい?」
「…鎮守様は、僕の事だけでなく、御自分の咎に村を巻き込まない様、自害なさいました。ですから、僕も村に報いなくては」
「成る程ねえ… けど、夜叉の加護を失ったんだから、村の窮乏は免れないよ。どうする気だい?」

 女は青年の覚悟に感心したが、それだけでは称賛には値しない。
 この村の現状を維持するには、伊勢から新たな夜叉を招請するしかないのだ。
 女は、青年がそれを望むなら、彼の仕官と引き替えに応じるつもりでいたのだが、彼の答えは意外な物だった。

「一応、備えはあるのですよ」

 青年は書棚から、一冊の本を取り出した。

「これは?」
「鎮守様に何かあって加護が途絶えてしまった場合の案です。村の富が残っている内に、それを元手にして、機織りや牛飼いを主な稼ぎとするのです」
「誰の案だい?」
「鎮守様と二人で考えたのですよ。耕作に牛を使っているのも、自分達で使うだけでなく、殖やして売る為でもあるのです」
「成る程ねえ」
「牛を使って、他村での耕作を手伝ったり、牛方として荷役を担う事も考えていますよ」

 女はあてが外れた物の、出された案に感心した。
 この村の夜叉が子作りを考えていたのは、自分の寿命が尽きた後の加護を引き継がせる為であっただろうが、子種を得ても孕まない事も有り得た。
 次善の策を用意しておくとは周到である。

「難点として、機織りの糸も、牛の餌も余所から仕入れなきゃいけなくなるけどね」
「綿や麻、藁も、育たない訳ですからね」
「まあ、伊勢が便宜をはからないでもないよ」
「対価は、やはり赤子ですか?」
「わかってるじゃないか。余った赤子は売っとくれよ」
「そうですね。新しい稼ぎが順調になっても、これまでの様に裕福とは行かないでしょうから…」
「困りますな、勝手に話を進められては」

 話が進んだ処で、庄屋が再び口を挟んで来たので、女は不快を露わにした。

「もう一つ条件だ。お前様、隠居して倅に跡目を譲りな」
「ええっ!」
「お前様の倅は立派な考えを持ってるよ。あたしの同胞が見込んだだけの事はあるねえ」
「ですが、村の衆から軽んじられている倅に、庄屋が勤まるかどうか…」

 諦めきれない様子の庄屋に、女は業を煮やして襟首をつかみ、隠していた角と牙を露わにした。

「龍神様の名において命じるよ。これ以上グダグダ言うならお前様、八つ裂きにして晒してやるからね!」
「ひ、ひいいっ!」

 庄屋はへたり込んだが、青年は庇おうとせず、哀しげな目で見つめるだけだった。

「鎮守様のお弔いですが、どうしたら良いでしょう?」
「遺骸が腐らず、ずっと固まらない様に法術をかけてあるから、ここに祭壇でも造って、即身仏の様に祀ってやっておくれ。それが墓の代わりさ」

 この夜叉が勤めていた宮殿は香巴拉側の手に落ち、奪回がならぬままに和睦が成立している。
 遺骸を送り返す事が出来ぬ以上、故人に縁がなかった伊勢よりは、この村こそが葬る場所として相応しいと、女は考えたのである。


 翌日、庄屋と青年は村人を集め、祭神が自害した事を告げた。
 経緯はやや曲げて、これ以上村から贄を出すべきではないという、祭神の”遺言”を公表した。
 訝しむ者もいたが、夜叉である女が証人となった事で納得した。
 また、田畑への加護が失われるという事でかなり騒然となった物の、農耕から紡績と牧畜へ村の産品を移行させる方策を青年が示し、女が伊勢としても支援する旨を表明した為、落ち着きを取り戻した。
 女は自分の正体について、村人の記憶を封じない事にした。
 他の村と違い、この村には夜叉の存在が根付いており、伊勢の妖にも相応の敬意を払っている為、口止めすれば足りると考えたのである。


*  *  *

「色々と有り難うございました」
「こちらこそ、同胞の慰めになってくれていたお前様には感謝しきれないよ。ただ、」

村を出る女の馬車を見送る青年に対し、”出来ればお前様を伊勢に招請したかった”と言いかけたが、女は言葉を飲み込んだ。

「どうなさいましたか?」
「何でもないさ。達者でやっとくれよ」

 女は手を振り、馬車を走らせ去って行った。


(第四話 了)



[37967] 5話「養母を娶った若人」その1
Name: トファナ水◆34222f8f ID:82139271
Date: 2014/01/01 22:20
 尾州から伊勢へと向かう街道には、大河が集まっていて架橋が困難な難所がある。
 その対応として該当箇所は海路となっており、渡し船が運行されていた。
 航行距離から、通称”七里の渡し”と呼ばれている。
 尾州側の船着き場である熱田港は、伊勢での一揆衆による下克上が成って以後、大きく様相を変えていた。
 まず、伊勢側から来る船の一部に、帆に割り竹が差し込まれている異様な船が混ざる様になった。
 ”戎克(ジャンク)”という明国様式の船で、和船に比べて速度や安定性に優れている。
 明国との直接交易がない尾州においては、これまで見られなかった物だ。
 さらに、その乗員は人間ではなかった。
 筋骨逞しく長身で、肌の色は青または赤。口元からは鋭い牙がのぞき、頭部には角が生えている。
 彼等は”羅刹(ラークシャサ)”、和国においては”鬼”とも呼ばれる妖である。
 かつての和国において、羅刹は”大江党””美世夜党”といった、人間の軍に勝る徒党を組んで人里を荒し、住民を浚っては食する異形として恐怖の対象だった。
 しかし徐々にその数を減らし、現在では山奥や離島に隠れ住んでいる者が多いとされている。
 数が減った原因には諸説有るが、近親と交わって血が濃くなり過ぎた事で、新たな子が産まれにくくなってしまったのではないかというのが定説である。
 稀に人間の集落に住まい加護を与える羅刹もいるが、その場合でも代償として人身御供を求める為に、人間となれ合う事は決して無く、あくまで畏怖の的とされているのは夜叉と同様である。
 戎克を運航する羅刹達の多くは和国の出ではなく、伊勢の一揆衆を加護する龍神の従者として天竺より来訪したという。
 船を巧みに操り、荷の上げ下ろしも手慣れた物だ。

 また、伊勢の行商人や荷役が使うという”馬車”も多く持ち込まれており、熱田はその拠点となりつつある。
 馬の世話をする下働きや、馬車の修繕をする職人も伊勢から呼び寄せられて居住する様になり、熱田の賑わいは高まっている。
 ただ、彼等はあくまで伊勢の住民であり、尾州に移住した訳ではない。彼等は陸に住居を構えず、船上で寝泊まりしている者が多い。
 これは、万が一尾州と戦になった際に、素早く脱出する為という理由もあった。
 尾州の領主は、弱体化した幕府を退けた上で和国の支配権を握る”天下統一”の野心を露わにしている。龍を擁する伊勢と正面から敵対する事はないにしても、伊勢側としては警戒を解けないでいるのが現状である。
 一方、熱田港を警備している尾州の兵も、気が休まる事はなかった。
 いつ羅刹達が伊勢の先兵と化して戦端を開くか解らない。妖が相手では、人間の兵ではひとたまりもないだろう。事実、神宮の衛士は彼等に為す術もなく壊滅したという。
 尾州の兵達は、己が運命の無事を神仏に祈る事すら無駄に思えていた。何しろ伊勢の一揆衆は、天竺から来訪したという龍神の加護を受け、神道の中心たる伊勢神宮を攻め滅ぼしたのだ。
 神仏の一柱が民の願いを聞き届けて直に手を下したのだから、抵抗など無意味に等しい。
 伊勢神宮の神職による横暴に対し天誅を加えるというのが、龍神の掲げた大義名分である。尾州が圧政を敷いていると見れば、龍神は容赦なく牙をむくだろう。
 せめて出来る事は、彼等につけいる大義名分を与えない事である。尾州側の兵士達は、地元民から付け届けや袖の下の類を受け取らなくなり、これまで高圧的だった言動も抑制する様になった。
 だがそれは命惜しさの故であり、尾州兵の性根が改まった訳では無い。副収入を絶たれ、立ち居振る舞いに気を遣ねばならない鬱屈が、彼等の心身をじわじわと蝕んでいた。
 このまま彼等の不満を放置すれば、いずれ問題となるかも知れない。

 女は予定の巡回を終えて伊勢へと戻るべく、およそ一月ぶりに熱田を訪れた。
 まずは港の外れにある、薬座用に用意された厩に馬車を預ける。馬車は輸送に便利だが、滞在先で駐め場に困る事が多い。しかし、熱田ではその様な苦労はない。
 馬車は女個人の物ではなく薬座の共有となっており、整備が終わり次第、熱田から出かける別の行商人に貸し出される。
 積荷の方は、女が乗る船に運び込まれる手筈だ。
 乗船まで間があるので、女はしばらくぶりの熱田港を見て廻る事にした。

 当面は他州民の伊勢への来訪を認めず、商取引等の必要な交流は自らの側が他州に赴くというのが、一揆衆の方針である。かつては伊勢神宮に詣でる為の参拝客が多く訪れていた熱田だが、一揆が神宮を占拠して以後、そういった者の足は途絶えている。
 また、伊勢を経由してさらに遠方を目的地とする者の多くは、濃州へ迂回する様になった。
 熱田と和国西部との往来には、泉州の商都・堺まで向かう交易船に便乗する方法もあるのだが、乗客が海賊の手引きをする可能性が警戒され、有力者の紹介状がなければ難しかったので、伝手がない者には使えない。
 途絶えた旅客に代わって現在の熱田を賑わせているのは、伊勢の側から尾州に上陸する行商人や船方達だ。

 港に並ぶ屋台で、人間と羅刹達が共に呑み食いしているのが見える。呼び込みに誘われ、廓へ入っていく羅刹もいた。
 最初からこうだった訳では無く、地元民も当初は羅刹達を恐れていたのだが、徐々に彼等を日常の存在、さらには商売相手として認識する様になっていた。
 船方といえば大概は乱暴者なのだが、伊勢の羅刹達は規律正しく穏やかに接して来る事が大きい。
 むしろ、彼等の前で狼藉を働こうとする輩もいなくなったので、これまで船方が引き起こす喧噪が茶飯事だった熱田は、治安が大きく改善していた。

「ゆくゆくは和国全体、否、東洋全てを妾が版図とし、こういう世にしたいものじゃのう」

 羅刹の船方達が人間に混じり、普通に生活している光景は、女にとっても感慨深かった。
 こういった様子は和国は元より、世界的にも異例な風景である。
 人間が優勢な地域において、彼等が妖に対し取る態度は主に二つで、畏れて生贄を差し出すか、敵対して排除するかである。
 妖の多くは人間を遙かに上回る個体能力を持つとは言え、油断すれば討たれる事もある。実際、五百年程前に和国で猛威を振るった”大江党”の当時の盟主であった”酒呑童子”なる羅刹が、朝廷が差し向けた討伐隊の策略によって殺害されたという事例もある。
 妖の側もまた、自己の勢力圏では人間を支配下に置き、隷属民、あるいは家畜同様として扱うのが常だ。女の故国である補陀洛では、那伽(ナーガ)、いわゆる龍と阿修羅(アスラ)を頂点とした妖が”神属”を自称して支配層を形成し、人間は被支配層として生殺与奪を握られる立場に置かれている。西方の大国である波斯(ペルシャ)や哀提伯(エチオピア)もまた、神属が人間の上に君臨する国だ。
 女が知る限り、洋の東西を問わず、双方が対等に同胞として付き合う例はなかった。

「こちらにおられたか」

 港の様子を眺めながら物思いにふける女の背後から、羅刹の女が声を掛けて来た。
 人間の侍に近い男装という出で立ちで、腰には太刀を差して武装している。同族の例に漏れず筋骨逞しい長身で、銀色の髪を長く伸ばし、肌は青い。
 顔もいかめしいが、決して醜女ではなく、野獣の精悍さを思わせる。人間の美醜感からすれば、その体躯の為に男性からは敬遠されがちだろうが、女性の目を引きそうだ。

「茨木か」
「船の支度がととのった故、お迎えに参った次第」
「左様か、では、参ろうかの」

 女は茨木に先導されて、乗船予定の戎克が停泊する桟橋へと向かった。



[37967] 5話「養母を娶った若人」その2
Name: トファナ水◆34222f8f ID:82139271
Date: 2014/01/07 23:52
 女が茨木と共に戎克に乗り込むと、貴賓用の船室に案内された。
 貴賓用とはいっても華美な装飾や調度品があるという訳ではなく、広めの船室を独占出来るというだけの簡素な物だ。
 程なく、戎克は帆を揚げて熱田を出航した。貨物はほぼ満載だが、乗客の方は二人の他にいなかった。
 戎克は追い風を受け、順調に加速して行く。帆その物が追い風を呼び込む呪符となっており、自然の風向きや強さに関係なく、快速で航行出来る様になっている。

「茨木様、ご苦労様です!」

 出港してから少しして、船頭が自ら挨拶に赴いて来た。やはり羅刹だが、肌は赤みがかっており、禿頭に二本の角が生えている。
 人間と比べれば長身だが、羅刹としてはやや小柄だろう。
 伊勢にいる羅刹の大半は那伽摩訶羅闍に従って来訪した譜代の家臣団なのだが、和国在来の羅刹も下っている。
 その主体は、かつて和国を恐怖に陥れていた”大江党”の残党である。
 大江党の残党は頭目たる酒呑童子が亡き後、法術で人間に扮して正体を隠し、瀬戸内海の島に拠点を移した。以後は付近を航行する船を襲い、海賊を生業とする様になっていた。
 一揆衆と彼等が関わったのは、西方へ海路で落ち延びようとした神宮の落人達を捕らえ、高値で売り渡そうと接触して来たのが始まりである。
 那伽摩訶羅闍は海賊の正体が羅刹であると見破り、贄の供給を条件に水軍として登用したいと持ちかけ、大江党もこれに応じたのだ。
 大江党の当代の頭目は、先代頭目・酒呑童子の妻であった茨木童子である。
 彼女は、伊勢の水軍へ大江党が編入された事に伴い、補陀洛の将として那伽摩訶羅闍の臣下に収まっている。
 
「この者は初めて見るのう。大江の者かや」
「左様です。百戦錬磨の使える男にございます」
「ほう。そうかや。流石は海賊、手際が良いのう」
「補陀洛の船方は外海では達者でも、和国の近海にはまだ慣れておりませんからな。当面の間は各船共、大江の者に水先人を勤めさせる所存」
「ふむ。委細は任す故、譜代の船方も近海で充分使える様、しっかり鍛えてやるのじゃ」
「承知」
「お連れ様は、本当に薬座の方で?」

 船頭が怪訝な顔をした。
 茨木に対し、明らかに目上として接している女に不審を抱いたのだ。明らかに一介の行商人ではない。

「妾が不遜と思うたのじゃろうが、ならば薄々は解っておろう?」

 茨木と格が対等として遇されている那伽摩訶羅闍の側近や一揆衆の幹部は、十数名程いる。
 しかし、彼女が頭を垂れる相手はただ二人しかいない。
 一人は一揆衆の頭目。今一人は…

「ご無礼の程、平にご容赦を!」

 女の正体を察した船頭は、その場で膝をつき平伏した。

「面を上げよ。汝は貴重な古強者が一人じゃ。妾が国元では太平の世が続いた故、引き連れて来た家臣共は、こと戦に関しては今一つ頼りにならんでのう」
「勿体なきお言葉にございます!」
「では、己が職分に励むと良い。妾の事は内密にの」
「ははっ!」

 船頭は立ち上がると恭しく一礼し、船の指揮へと戻っていった。

「大袈裟な奴じゃ」
「大江党は皆、臣に加えて頂いた事に感謝しております故」
「それは良いのじゃが。あれでは国元の民と変わらぬ。何とも窮屈な事じゃのう…」

 女は深く溜息をついた。


*  *  *


 女の乗る戎克が桑名に向かっている頃。
 桑名港の埠頭には、白衣に赤い袴、いわゆる巫女装束を身にまとった、明らかに場違いな二十人程の集団がいた。全員不動の姿勢で横一列、広めの間隔で並んでいる。
 巫女達は全員漆黒の肌で、和国の民とは容貌が明らかに異なっており、那伽摩訶羅闍に随行して来た補陀洛の民という事が一目瞭然である。
 周囲からは好奇の眼差しを受け、遠巻きに人だかりが出来つつあるが、巫女達は全く意に介する様子がない。
 戎克が一隻、熱田の方角から徐々に姿を現して来た。船か近づいて来た事を示す銅鑼の音が、周囲に響き渡る。

「脱衣!」

 統率役の巫女の号令と共に、巫女達は一斉に服を脱ぎ捨て、一糸まとわぬ全裸となった。
 細身ながらも引き締まった、筋肉質の体つきである。

「おおっ!!」

 遠巻きに見ていた者達からは歓声があがるが、巫女達は無反応だ。

「化身!」

 再び号令がかかると、裸身となった巫女達は、一瞬の内に大きな白虎と化した。
 それを見た周囲からは、今度は悲鳴が挙がり、逃げ出す者や腰を抜かしてへたり込む者すら出る始末であった。

「あんさん方、聞きなはれ」
「虎がしゃべった!」
「何故、上方訛り?」

 統率役の化身した白虎が口を開くと、恐慌状態に陥りかけた者達は、唖然とした。
 巫女が全裸になったと思ったら虎に化け、さらに滑稽な響きの上方訛りで話し出すという異常な事態に、どう反応して良いかわからなかったのである。

「わて等は龍神様に仕えるもんだす。次に来る船でやんごとなき方が尾州からお帰りになりますよって。あんさん方、申し訳ないけどこの辺から散っておくんなはれ」
「は、はい!」
「すぐ、消えますぅ!」

 鋭い牙が覗く大きな口を開けて話す白虎の言葉に、野次馬達は這々の体で埠頭から逃げ去って行った。

「おなご相手に逃げんでもええやん。わて、にこやかに優しゅう言うたつもりだったんやけどなあ…」

 統率役の白虎は、やや落胆した様に顔を伏せた。



[37967] 5話「養母を娶った若人」その3
Name: トファナ水◆34222f8f ID:82139271
Date: 2014/01/12 23:56
 出航してからほぼ一刻程で、女が乗り込んだ戎克は伊勢側の桑名港に到着した。従来の和船に比べ、半分の時間である。
 戎克が接岸したので甲板に挙がった二人は、埠頭を一目見るや顔を見合わせた。
 ほぼ無人となった埠頭に、大型の白虎が横一列に並んで鎮座し、傍らに艶やかな装飾が施された牛車が停まっている。

「…何じゃ、あれは?」
「元来、和国に虎はおりませぬ。お国から連れて来た近衛ですな」
「そんな事は解っておる。何故、あ奴等がここにおる?」
「お出迎えでございましょう」
「あのたわけ者共が…」

 女は顔を引きつらせた。
 二人が船上から降り立つと、白虎達は頭を垂れて出迎えた。

「主上、お帰りやす!」
「この、うつけ共が!」

 女の怒声に、白虎達はきょとんとしている。

「何ぞ、粗相がありましたかいな?」
「汝等、妾が何の為に行商人に身をやつしたと思っておるのじゃ?」
「尾州のもんにばれへん様にって事でっしゃろ?」
「わかっておったら、仰々しく出迎えるでないわ!」

 女の叱責に白虎達は目を伏せて怯えたが、統率役の一頭のみは平然と受け答えた。

「もう帰って来はったんですから、ええやないですか?」
「英迪拉(インディラ)よ。伊勢の民にも、妾が忍びの外遊をしておった事は伏せておかねばならんじゃろうが! 警護ならば本性を出さず人型をとった上で密かにせい!」
「せやったんでっか? でも、人払いはしましたよって安心でっせ」
「近衛たる白虎が人払いをした時点で、誰が来るかは自明じゃろうが! その車もじゃ!」
「そういや、やんごとなき御方が来るって言ってまいましたわ」
「汝等…」
「お国は随分と太平であったのですなあ」

 英迪拉と呼ばれた統率役の返答に女は頭を抱え、茨木は苦笑していた。

「まあ良い。帰るのじゃ」

 女は茨木と共に牛車に乗り込んだ。
 これは神宮から接収した宮司専用の物で、今は女が利用している。
 ”牛車”ではあるが、牽くのは牛ではなく白虎だ。人と同等の知性を持つ白虎が牽いている為、御者はいない。
 すれ違う人々は皆、道ばたに土下座して平伏する者ばかりだった。その様子を見て、女は不服そうに顔をしかめた。

「道を譲ってくれればそれで良いのじゃがのう。敬意を示すにしても、辞儀か合掌で充分じゃ」
「神宮が、貴人に対する民草の礼儀をあの様に定めておったのです。まして、相手が龍神様とあっては、民の態度は当然でしょうな」
「それは解っておるのじゃが」

 女は故国で傅かれる事にも崇拝される事にも慣れきった身だが、それが不快だったのだ。

「補陀洛でもあんなもんでしたやん。人間で一番身分が高い婆羅門(ブラーフマナ)も、許しがなくうちら神属をまともに見たら、即座に手討ちなんでっせ」

 女の牛車を牽いている英迪拉が、二人の会話に加わって来た。

「その通りじゃが、英迪拉。汝は和国でもそれを是とするのかや?」
「怖がられてばっかりなのは面倒ですわ」

 問いに英迪拉はすっぱりと否定し、女は頷いた。
 だが、女の故国である補陀洛では、人間と共生すべきであると考える神属は少数派だ。”人間は神属に対して粉骨砕身で奉仕するのが当然”と考えている者が大半なのである。

「うむ、よう言うた。もっとも、旧弊に疑念を持つ者を選んで連れてきたのだから当然じゃがの。茨木はどうじゃ?」
「異邦の同族はともかく、大江党が人間を襲うのは、あくまで糧を得る為でしたからな。これまでの所行を罪とも恥とも思っておりませぬが、無益な殺生は好みませぬし、人間を侮ってもおりませぬ」
「贄さえ得られれば、人間と肩を並べて暮らすのを是とするのじゃな?」
「無論です。その約定で、吾等は主上に下ったのですからな」
「うむ。伊勢だけでなく和国全体を、妾達が暮らし良い地にするのじゃ」

 一行は港を出て、桑名の宿場街に入った。
 宿の経営者は皆、神宮支配から恩恵を受けていたとして捕縛され、建物は一揆衆が接収した。州外からの旅客が絶えた事もあり、現状では宿として機能していない。
 伊勢神宮とその門前町は陥落の際に焼失した事もあり、一揆衆による政務の中枢は暫定的にここに置かれている。
 宿場街には伊勢神宮の分社も置かれていたが、現在は、那伽摩訶羅闍と一揆衆頭目の居所”仮宮”となっている。
 牛車が仮宮の門を潜ると、鎧姿の兵士や巫女姿の侍女が、直立不動で道の両脇に並び出迎えた。
 総勢で百名程。全て羅刹や夜叉、その他神属に含まれる諸種族で占められており、人間はいない。また、今上の那伽摩訶羅闍は女帝の為、仮宮に詰める者は、兵を含めて全て女性で占められている。
 ここに住まう事の出来る男性は唯一、那伽摩訶羅闍の皇配でもある一揆衆頭目のみだ。
 門を潜り、敷地内に駐められた牛車から、女が介添えを受けて降りて来た。
 尾州で見せた様な角はないが、毒蛇の様な長い牙を生やし、下半身は蛇という異形。
 これが、那伽である女の本性である。
 出迎えた侍女が、素裸となっている女の上半身に、金糸で精巧な文様が刺繍された蒼く細長い紗麗を巻き付けて行く。

「御夫君様が御待ちでございます」
「うむ」

 女はそのまま、続いて牛車を降りた茨木と共に、社の本殿へと上がった。英迪拉や、女の着付けを行った侍女達は追従せずに外で控えている。
 中では、一人の人間の青年が、正座で女を待っていた。年齢は十八歳前後、色白で線が細く、男女のどちらともつかない中性的な顔立ちだ。彼こそが一揆衆の頭目にして那伽摩訶羅闍の皇配、伊勢の新たな統治者の片側である。




[37967] 5話「養母を娶った若人」その4
Name: トファナ水◆34222f8f ID:82139271
Date: 2014/01/19 19:01
「母上、お帰りなさいませ」
「もう母ではないというに。契りを交わし”つがい”となったのじゃから、妻として扱って欲しいのじゃがのう?」

 頭目の挨拶に女は苦笑した。
 今や一揆衆の頭目となった青年は、幼少の時に補陀洛に漂着したところを、女に保護され宮中で育てられた身の上である。
 和国に来訪するまでは、二人の間柄は頭目の言う様に”母子”の関係だった。
 和国への遠征を機に、夫婦として二人の関係を改めたのだが、いくら男女の関係を結んだからといっても、意識は改まらないらしい。

「一月も留守にすれば、妾への接し方を改めるかと思うたがの。あてが外れた様じゃ」
「頭目殿は主上が養育なさったのですから、無理もないかと」
「そうかも知れぬが、妾とこの子が夫婦として対等の立場に並ぶ事こそが、人間と他種族の共生の証となるのじゃからのう」
「ならば”この子”呼ばわりは不味いでしょうな」
「う、うむ」

 茨木の指摘に、女は気まずそうにした。
 女の側もまた、幼少の頃から十数年育て上げた頭目を、母の目で見てしまいがちなのである。

「もはや、息子として母上を慕う事はならぬのでしょうか?」

 頭目は女に、すがる様な目を向けた。

「二人きりの時は、これまで通り甘えても頼っても良いがの。頭目殿の願いを叶える事が妾の悦びじゃ。じゃが、人前では毅然とし、妾を妻として扱うのじゃ」
「どうすれば良いのでしょう?」
「そうじゃな。口調を丁寧にせず、妾の事も呼び捨てで呼ぶのじゃ。まずは呼んでみよ」
「う゛、弗栗多(ヴリトラ)…」

 女に従い、頭目は女の真名を、消え入る様に呼んだ。
 母として敬い慕って来た相手を呼び捨てにする事は、かなりの抵抗があるらしい。

「頭目殿。もっと胸を張り、堂々とした口調で呼ぶのじゃ。那伽摩訶羅闍を娶った漢を侮る輩など、和国、否、世界の何処にもおりはせぬ」
「しかし、母上を呼びつけにするのは、どうしても外道の振る舞いに思えてならないのです」
「妾が母の立場を取れば、頭目殿と立場に上下が生じるからのう。それでは、頭目殿は民から妾の傀儡と見なされてしまうじゃろう?」

 神属を束ねる那伽摩訶羅闍と、人間を束ねる頭目が、夫妻として対等の立場で双頭統治を行う事こそが、伊勢で始める新体制の要なのである。
 頭目一人の情で、それが損なわれてはならない。

「確かにそうですが…」
「では、今後は教えた通りに振る舞うのじゃ」
「はい、ははう…」
「頭目殿、口調を改めよと申した筈じゃ!」

 頭目の問いかけに、弗栗多は首を横に振り厳しい口調で叱責した。

「済みません…」

 頭目が消え入る様な声で謝罪したところで、茨木が割って入った。

「良いではありませぬか。兵や侍女共の前ならともかく、ここには三人のみ。頭目殿が萎縮してしまっては話が続きませぬ」
「茨木、甘やかすでない。いいつけを守れぬ子は躾けが肝心じゃ!」

 頭目に対して自分を”母”ではなく”妻”として扱えと言った筈の弗栗多自身が、完全に母の思考になってしまっているのだが、当人は矛盾を感じていないらしい。
 弗栗多のさらなる怒りに頭目は消え入りそうだったが、茨木は毅然として切り返した。

「なればこそ、臣の前で頭目殿に恥辱を与えてはなりませぬ。側仕えを許されていても、吾はあくまで臣ですからな」
「確かにそうじゃのう。頭目殿、以後は気をつけるのじゃぞ」

 納得し矛を収めた弗栗多に、頭目は胸を撫で下ろした。

「では、やり直しじゃ」
「改めて、弗栗多よ。尾州はどうだったか」

 弗栗多に促され、頭目は抑揚のない冷たい響きで言い直した。口調同様、目つきや表情も氷の様に冷たくなっている。
 弗栗多はそれに頷いて、我が子の成長を見守る慈しみの目で微笑んだ。

(やれば出来る子じゃからな)

 人間とはいえ那伽摩訶羅闍の養い子として多くの神属に傅かれて育ったのだから、頭目はこの様な言動が出来ない訳では無い。
 ただ、弗栗多に対しては躊躇っていただけである。

 弗栗多は、行商人としての尾州での活動を報告した。
 もっとも、経過を報告する文は伊勢に逐次送っているので、概要は既に伝わっている。
 街道沿いの行程だったので、通信の面で不自由はない。
 頭目が聞きたいのは、尾州全体についての所感である。

「うむ。尾州の治世は、まずまずの様じゃ。貧しい者、身売りする者等はそれなりにおる様じゃがの」
「隣接する他州も、内政は落ち着いていると報告を受けている。尾州が善政を敷いているというより、神宮の治世が周囲に比べて劣悪だったのだろう」
「乱世なればこそ、民の限度を超えて税を取る愚か者は稀じゃの」
「その様な事をすれば、敵対する他州が不満を持つ民を裏から扇動するのは明白」
「伊勢は皇家に安堵された社領という立場故に、民を如何に搾り取ろうと他州の介入は有り得ぬと考えておった訳じゃ。まさか異国の神属が、救民を大義名分に来襲するとは思わなかったじゃろうな」

 諸州が互いの隙をうかがっている状況で、領民への圧政は敵から足をすくわれる元である。
 伊勢の場合は社領という特殊な立場故に、他州からは不可侵と見なされており、州外の目を気にする事無く重税を課す事が出来た。
 しかし、国外の勢力である那伽摩訶羅闍一行にとっては、神宮への武力行使に何の躊躇も感じなかったのだ。

「茨木、州外の勢力は伊勢にどう出ると思うか」

 頭目は、外部勢力の行動予測を茨木に尋ねた。
 弗栗多が国元から連れて来た家臣は教養を積んではいるが、和国の情勢にさして詳しくない。
 一揆衆の幹部には、民衆を代表する立場として村々の庄屋も加わっているが、彼等は生活の向上ばかりに関心が向きがちであり、大局を見る視点に欠ける。
 結果、和国の出自で五百年以上の齢を重ねている茨木が、対外政策の相談役として重宝されていた。
 茨木が抜擢されたのは、その様な事情もある。

「皇家、幕府、そして諸州は、伊勢の一揆衆に対して使者を立てる事もなく静観しておりますな。今暫くは様子見と言うところかと」
「”触らぬ神に祟りなし”か。だが、いつまでもという訳ではあるまい」
「皇家にしてみれば、皇祖を祀る神宮を滅した一揆衆の伊勢統治を追認する事は出来ぬでしょう。皇家に任じられた幕府、そして諸州の守護も同様かと」
「では、戦となるかや? 妾を屠って伊勢を奪い、神宮を再興した勢力は、和国再統一に大きな一歩を踏み出せるのじゃしな」

 伊勢の内政安定に力を注ぎたい今、自ら戦を仕掛けるつもりはないが、攻めて来るならば受けて立つ。神宮に次ぐ見せしめとして、徹底的に叩きのめすまでだ。
 また、武力衝突は贄を得る為の良い機会でもある。中長期的に贄を確保する手段は講じつつあるが、備蓄が多いに越した事は無い。石化してしまえば、生かしたまま半永久的に保存が可能なのである。
 
「いえ。主上を討伐する力がない事位は自覚しているかと。故に、放置する他に道無しという訳でしょうな」
「もしそうなら、つまらぬが賢明じゃのう…」

 茨木の答えに、弗栗多は少し落胆した。

「では、こちらから使者を出し、伊勢の支配を認める様迫るかや?」
「その必要はないかと。他勢力は吾等と公的な交渉を持とうとしない一方で、通商を絶とうとはしておりませぬ」
「尾州に至っては、熱田に商売の拠点を構える事すら黙認しているからのう」
「左様です。報復を恐れての事もありましょうが、医薬が手に入らなくなって困るのは先方ですからな」

 伊勢は、皇祖を祀る神宮が治める社領という特殊性の他、医薬の産地としての一面も持っている。
 一揆衆による伊勢統治を公に認める事が出来ないからといって、完全に断交して後者も失う程、周囲の為政者は愚かではなかった。
 まして、那伽摩訶羅闍一行が持ち込んだ医薬は、従来の物に比べて効能が格段に高い。
 不治とされている病すら完治させる物もある為、どの勢力も喉から手が出る程欲しいだろう。

「交易に支障がない以上、あえて交渉をこちらから持ちかける必要もありますまい」
「では、現状を維持するのが当面は良いという訳じゃな」
「幕府や他州、そして皇家とは公の関係を持たず、商人同士による交易は続けると言う現状の維持を、このまま暗黙の落とし処とすべきかと」
「そうじゃな。こちらから譲る必要はどこにもないのじゃからのう」

 頭目は二人の言葉を受け、暫く目を閉じて考えた後、決断を下した。

「公の約定を交わせば、こちらも縛られる事になる。故にこの意見を是とする」
「いずれは廃する相手ですからな」
「時を要する。では茨木、下がって良い」
「では、後はご夫婦水入らずでごゆるりとお過ごし下され」
「うむ。大義であった」

 頭目の決断を受け、茨木は席を立つと、一礼して本殿を後にした。




[37967] 5話「養母を娶った若人」その5
Name: トファナ水◆34222f8f ID:82139271
Date: 2014/02/02 14:11
 茨木が退出すると、弗栗多は厳格な君主の表情を解き、穏やかな慈母の物に改めた。

「さて、もう肩肘を張らずとも良いのじゃぞ。どうか、母と呼んでおくれ」
「はい、母上」
「さ、もっと側に寄るのじゃ」

 弗栗多は、頭目に側へ寄る様に促すと、紗麗をほどいて裸身を露わにした。

「まずは乳を吸っておくれ」

 頭目は目線で頷くと、自らの服の帯を解いて脱ぎ捨て、両腕を弗栗多の背に回して抱き付き、赤子の様に乳首へ吸い付いた。

「良く飲むのじゃ、可愛い坊よ」

 目を閉じて喉を鳴らしながら、一身に乳を吸う頭目。
 弗栗多は、頭目の頭を撫でて慈しんだ。
 乳を飲み干した頭目の息は荒くなり始めている。

「は、母上! もう、堪えきれません!」
「よしよし。乳の滋養が行き渡り、盛りが付いて来た様じゃの」

 頭目の悲鳴に応じ、弗栗多が頭目の褌を解くと、いきり立った男根が跳ね上がった。
 華奢な身体に似合わず、節くれ立ちねじ曲がった異形の逸物が、先端から涎を垂れ流している。
 付け根に下がる陰嚢には鴨の卵程の睾丸が納まっており、無尽蔵の精力を産み出し続けている。
 頭目に備わった男子の証は、那伽摩訶羅闍の伴侶となるべく、幼少期より法術と薬物によって発達を促され、歪な姿と成り果てたのだ。

「さあ、坊よ。一つになるのじゃ」

 頭目は頷くと、弗栗多の人に似た上半身と蛇の下半身の境となる下腹部にまたがった。
 交合は夜半まで続いた。


*  *  *

 朝日が昇る頃、巫女服をまとった、夜叉の侍女が弗栗多を起こしに来た。

「主上。お支度が調いました」
「ん? もう朝かや」

 心地良い疲労から覚めた弗栗多の傍らでは、頭目が寝息をたて、安らいだ顔で眠っている。

「頭目殿は夫の勤めでお疲れじゃ。朝餉まで起こしてはならぬぞ」
「承知しております」

 頭目を起こさぬ様、静かに寝所を抜け出した弗栗多は、侍女を伴って隣室へと移った。

「いつも思うのじゃが、厠の方がし易いのじゃがのう」
「何をおっしゃいます。大切な御胤です。糞便と同じにしてはなりません」

 弗栗多の腹は、頭目の腎水(※精液)が充満し、獲物を飲み込んだ蛇、あるいは妊婦の様にふくれている。
 侍女は、弗栗多の下腹部に青磁の壺を押し当てた。

「さあ、参りませ」
「ふんっ!」

 いきみ声と共に、体内に貯め込まれた頭目の腎水が、弗栗多の女陰から壺の中に勢いよく吹き出していく。
 麝香(じゃこう)に似た臭気が、辺りに漂い始めた。
 ただの人間がうかつに嗅げば、恍惚に陥って発狂しかねない程強い物である。

「ふう… 子種はもうまり終わったぞ」
「失礼致します」

 排出が終わると、侍女は壺を弗栗多の下腹部から外した。
 壺の中には、粘性の強い白濁した液がなみなみと詰まっている。
 侍女は壺に封をすると、酒精を染み込ませた布で弗栗多の女陰を清めた。

「量はどれ程じゃ?」
「和国の尺貫法ですと、およそ一升程です」

 人間が一晩に放つ腎水の量としては極めて異常だが、幼少より睾丸に法術や薬物で手を加えられ、牡の機能を強化されている頭目としては並の量である。

「ならば良い。貯め込んでおらぬかと心配しておったがの」
「はい。お相手は…」
「頭目殿の口から、直に聞くので良い」

 侍女の言葉を、弗栗多は手を挙げて遮った。

「大方の見当はつくし、頭目殿が惹かれたのならば相当の女傑じゃろう?」
「はい」
「ならば良し。軟弱な小娘等、頭目殿が囲うには相応しくないからのう」
「その様な下らぬ者は、そもそも宮中にはおりません」
「そうじゃな」

 逞しい女に抱かれて喘ぐ頭目を想像し、弗栗多は愉しげに含み笑いを漏らした。

「御夫君様の御胤は、いつも通り薬座にて法術をかけ、薬物と調合した上で張型に仕込みます」
「うむ。妾は頭目殿とは異種故、二人の子を産めぬからのう。借り腹をせねば、頭目殿の血を残す事がかなわぬ」
「女としてお察し申し上げます」
「いや。妾達の造り上げる世には、血縁による親子の情は邪魔になる。むしろこの方が良いのじゃろうな」
「そうですね。活仏たる御夫君様の御胤で為した御子、あるいは弗栗多たる主上の産み落とされた卵より孵った御子であっても、優れているとは限りません。血統を盾に、劣った者が専横する様になってしまってはなりません」
「そうじゃ。汝もいずれ子を為すやも知れぬが。手ずから育てる事はまかりならぬぞ。肉親の情は、当人の資質に相応しき育成を妨げるからのう」

 幼い頭目を弗栗多が拾い育てたのは、情や憐憫による物ではない。
 人間の上位変種である”活仏”という希有な資質を持っていたからだ。
 只の拾い子であれば、適切な者に、手当銭と共に託せば済む事である。
 また、養育に際しては乳母や学師を付けており、決して甘やかしてはいなかった。
 
「心得ております。それこそが、我等が師の仰せられた理想の世」
「うむ。支度がととのうには数年はかかろうが、それが出来次第、触れを出す。譜代の臣はともかく、伊勢の民からは恨む者も出るやも知れぬが」
「やむなき事とはいえ、我が子を贄に差し出した者達です。何も言う資格はないでしょう」
「そうじゃな。衣食住に不自由させぬ以上、民草に不平は言わせぬ。全ては妾達に心地良い、新しき世の為じゃ」
「真なる補陀洛の建立の為に。では、朝餉の支度をして参ります」

 侍女は、腎水の詰まった壺を大事そうに抱えて立ち上がった。



[37967] 5話「養母を娶った若人」その6
Name: トファナ水◆34222f8f ID:82139271
Date: 2014/02/18 22:34
 頭目が目を覚ますと、枕元には夜叉の侍女が控えていた。

「お目覚めですか。朝餉(あさげ) ※朝食 のお支度が調っております」

 侍女に伴われて隣室に入ると、用意された食膳と、既に着席した弗栗多(ヴリトラ)が待っていた。

「よく眠れたかや?」
「はい。おはようございます、ははう…い、いえ、弗栗多」
「無理をせず、地を出して良いぞ」

 母に対する言葉遣いを、慌てて妻に対する物に改めようとした頭目だが、弗栗多は微笑みながらそれを止めた。

「宜しいのですか?」
「昨日はきつく言い過ぎた。宮中の者にとっては、妾と坊の間柄については今更じゃしの。宮中には伊勢の民がおらぬ故、楽にしておくれ」

 弗栗多は、昨日の頭目の様子と茨木の諫言から、厳しい態度をとった事を悔やんでいた。
 夫妻の体裁をとるのは公の席や伊勢の民の目に触れる場だけとし、それ以外では家臣の前であっても母子のままで良いと考え直したのである。
 
(この子を苦しめては元も子もないからのう。それに妾とて、本来は母であり続けたいのじゃ)

「主上の仰る通りです。些細な体裁にとらわれず、宮中ではどうかおくつろぎくださいませ。お二方の安寧こそが、臣一同の願いです」

 弗栗多の言葉に、給仕の為に控えている侍女も同意を述べた。

「坊よ、早く頂こうぞ」

 弗栗多に促され、頭目は彼女と差し向かいの食膳についた。

「本日の朝餉は、お饅頭でございます」

 侍女が、二人の食膳にかぶせられている銀製の蓋を取った。
 弗栗多の膳には、女の生首が乗っている。
 齢は二十歳前後。髪を剃られた上、頭頂を鋸で切られて脳髄がむき出しである。
 顔立ちは整っていたが、表情は苦悶に歪んでいた。

「この女は宮司の娘が一人。民草より絞った税で放蕩を尽くしていた愚者でございます。国元では、この様な者を主上がお召し上がりになる事はありませんでしたが…」
「善き人間を贄にしてしまうのは勿体ないじゃろう? 咎人ならば気兼ねなく食えるからのう」
「補陀洛(ポータラカ)の贄は皆、歓喜に満ちた顔で絶命しておりましたね」
「うむ。あれは良くない事じゃ。神属に都合が良い様に、食われる事を喜びと受け止める歪んだ教えを人間に広めてしまった故じゃからな」

 補陀洛での贄の様子を思い出して哀しげに話した頭目に、弗栗多が賛意を示した。
 補陀洛では、神属の贄にされる事は人間にとって最上の栄誉とされている。
 故に、人々の模範となる様な優れた善男善女が、行いに対する褒美として贄に選ばれる。
 頭目はそれを忌むべき事として嘆き、弗栗多も不合理と考えていた。
 まず、生かして活用すべき優れた人材を食べてしまっては重大な損失である。
 そもそも、贄として寿命の中途で生を終える事を至福と人間に信じ込ませている事自体が、全く欺瞞に満ちている。
 弗栗多はこの件を含め、様々な改革を試みようとしたが、旧弊に染まった補陀洛では逆らう者が多い。
 そこで弗栗多は実践の地を国外へ求めるべく、信頼出来る臣を引き連れて和国へ遠征を図ったのである。

「はい、しかし…」
「何じゃ、申してみよ」
「…贄がこの様な顔では、食が進まないと申す者もおります」

 侍女が躊躇いがちに、一部の家臣から出ている不満を代弁した。
 弗栗多の和国遠征に随行した家臣の神属達は、人間に対する接し方を改めたいと考えている者ばかりである。
 しかしそれ故に、罪人とはいえ、恐怖や苦痛を顔に浮かべた贄を平然と食べる事が出来ない者も多くいた。
 補食対象と心を通じれば自らが苦しむ事になるからこそ、多くの神属は人間を対等の存在として接しようとしないのである。

「妾はどうとも思わぬがの。仕置を受けた咎人ならば、苦しみや恐れを示した顔で絶命しておるのは当然であろうが。贄となる故に獄門首として衆目に晒されずに済むのじゃから、むしろ慈悲という物じゃろう」
「主上の仰せの通り、善き民を屠(ほふ)って食すべきでないと理屈では解るのですが…」
「ならば頭蓋より脳髄をえぐり出し、器に盛る様にすれば済む事」
「うむ。少々味は落ちるが、それも手じゃな」
「流石は御夫君様。では、その旨を皆に申し伝える事と致します」

 頭目の案に、弗栗多と侍女は関心した。
 贄が生首のまま食膳に供されるのは食味を保つ為であり、それ以上の意味はない。
 贄の顔を見るのが不快ならば、脳髄だけを食膳に出せば事足りる。
 簡単な事なのだが、長年続いて来た慣習を覆す発想は意外と出て来ない物である。
 この時の頭目の思いつきにより、罪人を贄とする事に抵抗を覚える神属の不快感は軽減されて行く事となる。


*  *  *


 頭目の方の膳には、小麦粉を練って造られた、生首と同じ位の大きさの蒸した菓子が乗っていた。円形で暖かそうな湯気が立ち、中には挽肉の具が詰まっている。
 饅頭とは元来、贄となる生首を指す語だが、こちらの菓子も饅頭と呼ばれる食物である。
 かつて明国では、神属が絶えて不在となった地域においても、慣例として贄が捧げ続けられていた。
 しかし、ただの慣例ならば本物の生首を供える必要がないとして、諸葛亮なる人物が考えた代用品がこの菓子の発祥だ。
 明国では露店で売られる手軽な軽食として広まっており、補陀洛にも伝わった。
 弗栗多が贄を食する席では、贄が必要ない頭目にはこちらの饅頭が供される事になっている。
 二人は、それぞれの食膳に手を付けた。
 弗栗多は贄の脳髄を、添えられた木製の匙(さじ)で すくって口に運ぶ。
 一口味わうと、彼女は満足そうに顔をほころばせた。

「うむ。霊力がみなぎるのう!」
「はい。脳髄に霊力が良く溜まっていると思います。幼少より贅(ぜい)に慣れ、良い滋養を得ていたからでしょう」
「ところで、首より下はどうしたのじゃ?」
「仕置に当たった者がその場で食らったとの事です」

 葬ったと答えたならば、弗栗多はそれを正させるつもりだった。
 人体の内、神属に必要な霊力が蓄積されるのは脳髄だが、それ以外の部分も通常の肉として食用になる。
 伊勢に随伴した家臣は、いずれも人間と近しく接する事を是としている為、罪人に対しても情けをかけて葬ったのではないかと弗栗多は疑ったのだ。
 しかし、贄は無駄なく利用されている様である。

「ならば良し。誰じゃ?」
「英迪拉(インディラ)殿でございます」
「近衛筆頭が手ずから屠る様な大者ではあるまいに」
「主上がお召し上がりになる贄だからと、仕置役を名乗り出ました」
「食い意地が張ったあ奴の事じゃ。どうせ役得の肉が目当てであろうが」
「そ、そうですね」

 弗栗多はカラカラと笑い、頭目も苦笑を漏らした。

 頭目も自分の饅頭に口をつけたが、食べ慣れた味と違う事に違和感を覚えた。
 よく煮込んであるが、元の肉がやや硬く、質があまり良くない様だ。

「普段と味が違うな」
「お気に召しませんでしたか?」
「いや、国元ではないのだから無理は申さぬ。煮込んでありこれはこれで悪くないが、中身は何か?」
「老いて役務に適さなくなった牛を潰した物です。本来でしたら豚か羊が適しているのですが、伊勢では飼われておりませんので、やむを得ず」

 侍女は申し訳なさそうに説明した。

「老いて衰えた牛を寿命が尽きるまで酷使するよりは、若い牛に換えた方が良い。食えばさらに無駄がない。和国では家畜を食用とする事が禁忌とされているが、下らぬ偽善。饅頭の他にも、獣肉を使った食を伊勢の民に広めよう」

 味としては今一つだったが、廃牛が食材と聞いて頭目は満足した。
 神属と人間の共存を図る一方で、智恵の無い畜生については、暮らしを楽にする為の財として使役するのが、彼の方針である。
 弗栗多や頭目、そしてそれに従う者達は、智恵の有無を、”民”と”獣”をより分ける基準としている。
 前者の暮らしを楽にする為、後者は屍に至るまで無駄なく活用するべき物なのだ。
 また、贄に供される咎人は、獣に等しき存在とみなす旨も定めている。

「肉食の禁は和国の帝(みかど)が定めた法度と聞いておりますが、宜しいのですか?」
「なればこそ。既に伊勢の地は和国にして和国にあらず。補陀洛の知行 ※統治下 であると知らしめる事にもなるではないか」
「御夫君様の詔(みことのり)、承りました。まずは一揆衆の女共にお饅頭の作り方を教える様、厨房の者に申しつけます」
「頼む」

 頭目にとって肉食禁は噴飯物の偽善であり、それを民に命じた皇家もまた、民より畜生を重んじる偽善者に映るのだった。
 この日の頭目の指示がきっかけとなり、伊勢の民の間に獣肉食が広まっていく事となる。


*  *  *


「ところで、昨晩はよく眠れた様じゃな。活仏といえど、一升も胤(たね)を絞った後はゆっくり休まねばの」
「…そうですね…」

 ”胤”と聞き、頭目の顔が曇った。
 自分が快楽の極みで股間から弗栗多の中に放った液は、命を育む子種である。
 それが、見ず知らずの女を孕ませる為に使われるのだ。
 
「どこの誰とも知れぬ女共に坊の胤を植え、子を産ませるのは辛いかや?」
「やはり、割り切れる物ではありません…」

 弗栗多の問いに、頭目は頷いた。

「”人間は世代を経ても人間であらねばならぬのか。いつまでも劣った種として神属に怯え、傅かねばならぬのか” そう嘆いたのは坊じゃぞ?」
「はい。人間の種としての力を強めるには、人間でありながら、神属を越える力を持つ”活仏”である自分の血を広めれば良い。師にはその様に御助言を頂きました」
「そうじゃ。人間が神属と互角の力を得るには、他にもいくつか手はあるし、そちらも進めては行くがの。いずれも力が備わるのは一代限りじゃ。種その物の力を強めたいのであれば、優れた血を濃くせねばならぬ」

 人間という脆弱な種を、偶然に強い力を持って産まれた上位変種”活仏”を原種とした掛け合わせによって作り替える。
 弗栗多や頭目に学問を授けた師が提唱した、多種族共存の方策の一つである。
 
「その大元となり得る胤は、自分しかいないのですよね…」
「うむ。和国はいずれ坊の子や孫、曾孫(ひまご)や玄孫(やしゃご)共であふれる事になるがの。血の繋がりを尊き物と考えてはならぬ。実の子に地位や財を継がせるのは、人間の悪しき因習じゃ」
「わかっております。伊勢の子は、誰の子であろうと才覚にあわせて養育され、道が定まる様にします。例え自分の胤から生じた子でも、情は一切加えません」
「よう言うた。伊勢の子は産みの親には属さぬ。真なる補陀洛の血肉となるべき、邦の子なのじゃ。勿論、人間だけではなく、神属もじゃぞ。例え坊や妾の子であってもじゃ」

 ”国は民によって成り立つ故に、その養育は国によって行うべきである”
 これもやはり、弗栗多や頭目の師が主張する思想だ。
 但しこれについては師やその門下が自ら考案した物ではなく、古代の人間国家である希臘(ギリシャ)から伝わった思想の影響をやや受けている。
 二人の師が率いる学派は人間国家を軽侮する事無く、優れた物と認めればその知識を取り入れる気風も持っていた。

「それにの。様々な種族を囲わねば、国を束ねる皇(すめら)として坊の器が問われる事になるのじゃぞ?」
「それは母上も…」
「坊の側女は妾の物でもあるのじゃから、問題ないじゃろう? 」

 補陀洛では、異種姦が推奨されている。
 様々な種族が混在する社会で、種族間が深く一体感を共有するには、快楽を分け合うのが良いと考えられている為だ。
 また、神属の数が増えすぎると贄が不足する事が懸念されていたので、一部の組み合わせを除いて子が出来ない異種姦は、避妊の意味合いもある。
 同様の理由で、同性姦も忌避されてはいない。
 それが行き過ぎた為に同種異性間の婚姻が激減した事が、少子による神属の衰退を招いてもいるのだが、およそ千年の寿命が尽きるまで老いを知らない神属には危機感が乏しい。

「で、妾の留守中にじゃな。坊の胤は誰が絞っておったのじゃ?」
「……」
「側女を見繕っておく様、申しつけておいた筈じゃ。よもや那伽摩訶羅闍(ナーガマハラジャ)の皇配が”せんずり”の様な見苦しい真似はしておるまいな?」
「いえ、その様な手慰みは決してしておりません」
「では、誰を抱いたのかや? 並の女では、坊の腎水を受けきれずに腹が裂けてしまうからのう。英迪拉かや?」
「は、はい」
「あれは元来、坊の乳母じゃからのう。妾がおらぬ時、坊を慰める役には適しておる。それでいて本性は猛々しき白虎じゃからの。民から見れば、猛虎を従える頼もしき頭目殿と映るのも良い」

 英迪拉は、幼き頭目に乳母として付けられていた。
 授乳の際は獣型を取っており、頭目は巨大な白虎の乳を吸って育ったのだ。
 母と慕う弗栗多を女として受け入れた頭目が側女を置くならば、まずは乳母としてやはり思慕の念を抱く英迪拉を選ぶのは当然と言えた。

「獣型でしたのかや? 人型でかや?」
「虎の姿…です」
「その方が坊は安らぐからのう。じゃが、英迪拉が坊と雌雄のつながりを持つのは当たり前じゃ。己の意で新たに選んだ女はおらぬのかや?」
「実は…茨木と…」
「かの名高き酒呑童子の後家を物にするとは、流石は坊じゃ!」

 うつむき加減で顔を赤らめながら打ち明けた頭目を、弗栗多は褒め称えた。
 出来の良い息子を自慢する、母の顔である。

「坊を庇う昨日の態度からして、もしやとは思っておったが。亡き夫へ操を立てておったあれを、よく口説いたのう?」
「あちらから寝所に忍んで来たのです。自分は子を持てなかったが、寿命の半ばを過ぎてそれが寂しくこたえる故、せめて母上の留守中は代わりにすがって欲しいと…」

 茨木は石女である。
 そして、今も生き残っている大江党の羅刹(ラークシャサ)の内、女は茨木のみ。他は全て、酒呑童子が源頼光なる朝廷の刺客の策略によって討たれた際、共に鏖殺されたという。茨木は若干の手勢と遠征に出ていた為、難を逃れたのだ。
 大江党が伊勢にあっさり下ったのは、次代に血を繋ぐ為には、補陀洛の羅刹から連れ添いを娶る他ないという理由もある。

「男としてではなく、童として坊を愛でたいと迫られたのならば納得じゃ」

 茨木には打算もあるかも知れないと弗栗多は思ったが、あえて警戒しない事にした。
 茨木の事は弗栗多も気に入っていたし、羅刹の手兵を率いて参じた功を考えれば、将の地位だけでなく側女の立場も与えて当然と考えた為である。
 また、羅刹の猛者と言えども、活仏たる頭目に害を為す事は出来ないだろうとも思われた。

(要は、妾と共に坊を支えてくれさえすれば良いのじゃ)

「で、ちゃんと出来たのであろうな? 人間の男なら、筋骨逞しい羅刹の女を前にすれば逸物が萎えてしまう物じゃがの」
「はい。逞しい腕に抱かれ、陽根を包み込む胎は暖かく、とても安らげました」

 頭目は男に抱かれて満足した女の如き感想を口にし、弗栗多は思わず溜息を漏らした。

「やはり坊は坊じゃな。女に漢として接する事は無理かや」
「自分の性根は、男子として頼りないのでしょうか…」

 弗栗多の溜息に、頭目はしょげ返ってしまった。

「そうじゃのう… 坊は男として女を征する事が出来ぬ気性じゃからのう。母性をくすぐる事で護られる、童の気性じゃ。男として女とまぐわるのではなく、童として母にすがらんと、胎に通じる女陰を求める訳じゃな」

 頭目は人間の内から極稀に生まれ出る上位変種”活仏”として、同じく那伽の上位変種である弗栗多ですら対抗出来ない程の強大な力を秘めている。
 かつての瞿曇(ガウタマ) 悉達多(シッダールタ)は、活仏として神属から畏怖されていた。補陀洛と香巴拉(シャンバラ)の和睦も、神属の戦に人間が翻弄される事を憂えた瞿曇に、調停と称した強制をされたのである。
 元来、活仏は神属にとって絶対的な上位者なのだ。
 しかし頭目は、拾われた身の上故に母性に飢えるという業を抱えている。
 その様な男子としてあるまじき欠点を持っているからこそ、神属、特に女達は彼を恐れず、庇護の対象として慈しむ。
 頭目が完全無欠の精神を備えていれば、決してその様に愛される事はなかっただろう。

「まあ、公の場で外面を堂々としておれば問題ないじゃろう。民が坊に求めるのは、御政道を司る智恵者である事じゃ。民を護る役は、妾や神属に求めておる。故に、妾やその臣たる神属の手綱を、坊が握っておると民が納得すれば、床の中での振る舞い等どうでも良いのじゃ」
「どこまで民をたばかれる物でしょうか…」
「たばかるのではない。現に、坊に手をあげる事の出来る女などおらぬからの。坊に願われれば、妾を含め、どんな女も命懸けで叶えようとするじゃろうな。坊は備わった気性を活かせば良いのじゃ」
「気性を活かす?」
「居丈高に命じても、甘えながらねだっても、要は相手が思うままに動けば結果は変わらぬ。体裁に拘らず柔軟に考えるのじゃ」
「は、はい!」

 弗栗多の言葉にうわずった声で答える頭目を、傍らで控える侍女が微笑ましく眺めていた。


*   *   *


 後日。
 茨木は水軍大将、英迪拉は近衛筆頭の地位をそのままに、頭目の側女となった旨が伊勢中に告知された。
 告知には街や村、主要な辻に高札が立てられたのだが、字を解する者が二十人に一人程しかいないという事で、絵図も添えられた。
 弗栗多自らが描いた原画を元に版を起こしたその絵図には、筋骨隆々とした羅刹女や猛々しい雌白虎と、美しい青年がまぐわう様子が描かれていた。
 枕絵の如き絵図は、伊勢中で話題となった。

「頭目様が、本妻の龍神様だけでなく、鬼の女大将や雌虎を囲ったっちゅう事じゃあ」
「仮宮の門番をしとる白い大虎、娘に化けて口もきけるっちゅうのは本当だったんじゃなあ」
「鬼の女大将は、あの酒呑童子の後家っちゅうこっちゃ! そげなおそがい女をこますとは、ごっつい方じゃのう!」
「流石に儂等に出来ん事をやってのけるお方じゃあ。次は熊女か狼女じゃろうか?」
「いやいや、鯱(シャチ)かも知れんじゃろ?」
「案外と鼈(スッポン)辺りかのう」
「鼈娘(スッポンむすめ)とは、しゃぶらせたら具合が良さそうじゃのお…」
「食いちぎられてしまうじゃろ!」

 頭目は、それまで”異邦から龍神を伴って現れた、謎の美しき若人”として神秘性を帯びて語られていた。
 それが”龍神様だけではあきたらず、悪名高き酒呑童子の後家、さらには雌虎にまで手をつけた好き者にして豪傑”として、民衆から妙な形で親しまれる様になった。
 いつの世も、性豪は英雄としてもてはやされる物である。
 弗栗多にとって、民衆の間で頭目への親しみが増した事に関しては好感を覚えた物の、それが目的ではない。
 多種族間の性の交流の輪に人間を加える事で融和・一体化を図る為に、興味本位でも良いので、伊勢の民が神属を性の対象として意識する様にしたかったのだ。
 しかし伊勢の民の多くは頭目の行為を雲の上の話として考え、自分達と無縁と思っている。
 それでは、頭目に側女を囲わせた上、わざわざ公表した意味が乏しい。

「焦る様な事でもないが、もう一工夫いりそうじゃのう…」

 人間と神属が悦びを分かち合う歓喜を夢想しつつ、次の施策を考える弗栗多だった。

(第五話 了)




[37967] 6話「阿修羅の学師」その1
Name: トファナ水◆34222f8f ID:82139271
Date: 2014/03/04 22:30
 一揆衆の仕置場 ※処刑場 は、仮の本拠である桑名の町外れにある。
 ここでは、贄を必要とする神属に供する為、神宮に連なるとして捕縛された虜達がほぼ毎日の様に屠られる。
 見渡しの良い大きな広場になっており、仕置の為に連行された罪人が石化を解かれた上で一時留置される牢と、獄卒の詰所がある他は付随する建築物がない。
 周囲には竹垣が巡らされていたが、見物人の視界を妨げない様に低くされている。
 一見、容易に逃走や侵入が出来そうにも見えるが、法術による結界が施されており、護りは万全である。また、仕置場の警護に当たっている獄卒は屈強な羅刹であり、彼等に逆らおうとする者はまずいない。
 仕置場は公開されている為、自分達を苦しめていた旧統治者達の最期を見届けるべく、大勢の見物人で賑わっている。
 見物人の多くは桑名を経由して州外との交易に携わる行商人や船方、港で働く沖仲仕や人夫といった面々だ。

「今日は打ち首じゃろうか、磔(はりつけ)じゃろうか」
「儂等をさんざんいびって来た連中じゃからのう。せいぜい泣きわめいてくたばれば良いんじゃあ」
「俺は二つ裂きっちゅうのを見てえなあ」

 彼等を目当てにして酒やつまみを売る露店も数件出ており、見物人達は、杯を手にして盛り上がりつつ、仕置をされる罪人が引き出されるのを待ちわびていた。
 伊勢だけでなく、古今東西を問わずに仕置は民にとって嗜虐心を満たす娯楽である。
 殺される者が咎人という事で、民は一片の良心の呵責も感じる事なく、安心して他者が苦しみ悶える様相を楽しめるのだ。
 仕置の刻を知らせる銅鑼(どら)が打ち鳴らされ、牢から仕置きされる罪人が引き出されて来た。
 歳の頃は十五、六。元服するかしないかの、まだ紅顔の若衆だ。
 両腕を後ろ手に縛られ、さらに腰縄を打たれた上で、獄卒に引き立てられて仕置場の中央に立たされた。
 獄卒の腰には、大振りの曲刀が携えられている。明国で言う青竜刀である。
 続いて、詰所から漆黒の肌をした巫女が現れた。
 彼女は近衛の一員であり、那伽摩訶羅闍(ナーガマハラジャ)の代理として仕置を指揮する立場にある。

「この者は神宮の神職として、民百姓の搾取に荷担していた。故に、那伽摩訶羅闍の名に於いて死罪に処す物也」
「ち、違います! 私は!」
「嘘をつけ!」
「お前、飢饉でも飢えておらんかったじゃろ!」

 巫女の口上に対し若衆は弁明を試みたが、観衆の怒号が打ち消した。
 歳から言っても神宮の統治で大した役を担っていなかった事は明白なのだが、神宮の側に属していた事、民百姓の困窮をよそに税で腹を満たしていた事こそが大罪なのである。

「窮屈だろう。縄を解け」
「しかし…」

 巫女の言葉に獄卒は戸惑ったが、鋭い視線を向けられると、仕方なく命令に従った。
 慈悲を受けたと思った若衆は、強ばらせていた表情を緩めてほっとした様子を見せたが、続く巫女の言葉に再び凍り付く。

「宜しい。では、着物を剥げ。褌もだ」

 獄卒は命じられるままに怯える若衆の衣をはぎ取り、褌も解いた。

 素裸にされた若衆は、思わず両手で股間を隠す。その様子に、観衆からは下卑た嗤いが広がった。

「男子たる証を隠すな!」

 巫女は若衆の手を股間から引きはがした。
 露わになった股間に下がった物は、随分と小ぶりで皮が被り、小さく縮こまっている。

「見目はなかなかに良い稚児だが…肝心の物がこれではな」
「何じゃあ、こりゃあ」
「貧弱な物じゃのう!」

 男根と呼ぶにはあまりに貧弱で粗末な物を見て、巫女は苦笑を漏らし、観衆からも再びゲラゲラと嘲笑があがった。
 若衆はそれに耐えきれず、しゃがみ込んでしまう。

「まあ良い。貴様、女はまだ知らぬか?」

 巫女の質問に、若衆は消え入る様に頷いた。

「ふむ。では!」
「ほおぅ…」

 巫女は装束を脱ぎ捨て、裸身を晒した
 たわわな乳に引き締まった胴、豊かな臀部という見事な体躯を見せつけられた観衆は、若衆の時とは打って変わって、関心する様な溜息を漏らした。

「せめてもの慈悲だ。私とまぐわい、今生の名残とするが良い」
「お戯れが過ぎます!」

 巫女の言葉に観衆は唖然とし、流石に獄卒も咎めたが、巫女は意に介さず続けた。

「絶頂に達したその刹那、首を刎ねる様にしてやる。苦しまず、悦びに満ちた最期だ。男子として本懐だろう?」
「い、嫌だ…」

 巫女の誘いに若衆はしゃがみ込んだまま、首を横に振った。
 悪意に満ちた民衆の視線に晒され、死の恐怖が迫る状況では、裸身の女に誘われても欲情する筈がない。

「貴様、女の側が誘っても役に勃たんか!」

 覚悟が決まらぬ若衆に巫女は激高し、怒声をあげると共にその姿を白虎へと変えた。

「すげえのう! 本当に化けるんじゃあ!」
「初めて見たけど、ぶったまげたあ!」

 龍神の近衛を務めている巫女は白虎が化身した仮の姿であるという事は、既に伊勢の民の間ではよく広まっていたので、観衆の多くは驚いた物の取り乱す事はなかった。
 また、白虎であろうと羅刹であろうと、龍神の眷属は自分達に危害を加えて来ないのが解っている上は恐れずとも良い。
 ただ一人、白虎と相対している若衆だけは、巫女が白虎と化した様に恐慌を来し、目を白黒させて喚き散らしている。

「ひ、ひいい! と、虎、とらあ! とらあ!」
「女に恥をかかせおって。慈悲を解さず、死に際を心得ぬ腎虚 ※性的不能 めが! このまま食い殺してくれようぞ!」
「やめ、やめ、やめてえっ!」

 白虎が怒りにまかせて言い放った死の宣告に、若衆はいよいよ怯え、必死に命乞いをする。
 観衆はその様子に盛り上がり、歓声を飛ばした。

「殺せ! 殺せ!」
「こ・ろ・せ! こ・ろ・せ!」
「こ・ろ・せ! こ・ろ・せ!」

 仕置場の周囲は、咎人の死を催促する”殺せ”の連呼に包まれた。

(ここで食い殺せば、贄が食い残しになってしまいますよ?)
(構わぬ。丁度、私も贄を食う時期だからな)

 嗜虐の期待に満ちた歓声の響き渡る中、獄卒が白虎に耳打ちした。
 仕置後の屍の内、役得として仕置役が食らえるのは首から下のみで、生首は贄として回収される。
 斬首せずに食い殺しては、回収される生首が”食べ残し”という事になるので、贄として生首を受け取る者に対し無配慮ではないかという指摘である。
 それに対し白虎は、”自分の贄として生首ごと食べれば問題ない”旨を、小声で返したのだ。
 いずれにせよ、ここまで観衆を盛り上げてしまったのだから、今更仕置の方法は変えられない。
 観衆は今や、哀れな若衆が、猛々しき雌白虎に食い殺される断末魔の悲鳴、そして飛び散る鮮血を、今か今かと待ち構えている。

「では、食うか」
「や、やだああっ! やだよおおっ!」

 座り込んで悲鳴をあげる若衆に白虎がかじり付こうとしたその時、上空から制止の声が降り注いだ。

「それは、間違いよ!」




[37967] 6話「阿修羅の学師」その2
Name: トファナ水◆34222f8f ID:82139271
Date: 2014/03/10 22:21
 その場にいる一同が空を見上げると、純白・無地の紗麗(サリー)を身に纏い、胡座(あぐら)をかいた妙齢の女性が浮かんでいた。
 髪は淡い金髪で瞳は碧く、和国で言えば、時折北方の海域で見かけられる魯西亜(オロシヤ)の民に風貌が近い。
 だが、両脇から生えた三対の腕が、彼女が人間でない事を示していた。
 那伽(ナーガ)と並び補陀洛(ポータラカ)の神族の頂点に立つ支配種族・阿修羅(アスラ)である。
 白い紗麗は、補陀洛に於いては学問に携わる者を示しており、和国遠征に際して弗栗多を学問の面から補弼(ほひつ)する為に随伴した学師、もしくはその門弟である事が解る。

「阿修羅だ…」
「阿修羅じゃあ…」

 那伽や羅刹、夜叉等と違い、これまで和国に阿修羅は住んでいた事はないとされる。
 だが、六本腕という彼等の特徴は、書画の類によって和国でもよく知られている。
 ざわついた観衆の視線を意に介さず、阿修羅はゆっくりと高度を下げて仕置場の中央に降り立った。
 獄卒達は阿修羅を合掌で出迎え、白虎は黙礼で敬意を示した。
 ざわついていた観衆もそれを見て、この阿修羅が龍神の眷属の中でも高位の身分であると察し、慌てて平伏した。
 ただ一人、今にも食い殺されかけていた若衆だけが、へたり込んで視点をさまよわせている。

「お集まりの皆様、どうかお楽になさいませ」

 阿修羅が観衆に声をかけると、彼等は恐る恐る立ち上がった。
 それを見て阿修羅はにこやかに微笑む。
 やや垂れ目で眠たげに見える阿修羅の顔立ちと柔和な表情に、観衆は緊張を解いた。

「これは、計都(ケートゥ)師。この様な処にお珍しい」
「ええ。何とか間に合いましたわね」
「間違いと申されましたが、もしや無辜の者を誤って屠るところでしたか?」

 無辜の民を誤って仕置したとなれば、民の信頼を損なう重大な失態である。
 危うく取り返しのつかない事をする処だったかと、白虎は肝を冷やした。
 だが、凶星の名を冠する阿修羅の学師は、白虎の想像とは異なる答えを返した。

「これは神職の嫡男という事ではありますけれども、未だ無位無冠。御役についた事はございませんのよ」
「神宮に連なる者であれば、それ自体が大罪。赤子といえども一律に死罪とし後の禍根を断つ様にとの、主上の御意でございます。この者を赦せばいずれ仇討ちを企て、牙をむくやも知れませぬ」
「そうですだ!」
「儂等の納めた年貢で、飢えを免れておったのが罪ですじゃあ!」

 白虎の答えに、観衆からの賛意の声が次々とあがる。

「ええ。敵対する者には一切の憐憫(れんびん)をかけずに鏖殺(おうさつ)する様、御政道の心得として弗栗多に説いたのは、他ならぬ小生ですもの」

 計都の言葉に、観衆は不安そうに顔を見合わせ、再びざわつき始めた。
 神宮の関係者は、女子供であっても民衆の憎悪の対象であり、鏖殺は望むところである。
 しかし、この阿修羅がそう主張したのが発端というのなら、今更変心したのは何故か。
 この若衆に、筋を曲げてまで助ける特別な価値がある様にはとても見えない。
 また、御政道に関与出来る程の側近が龍神を真名で呼び捨てにして軽んじているとなれば、民としてはそれも心配の種となる。

「この計都師は、主上や御夫君様に学問を説く御教授役として、臣下の礼を免じられている。故に不敬には当たらぬ」
「龍神様の先生様っちゅう事かあ」
「ほいたら、そういうこっちゃのう」

 観衆の不安を察した白虎が解説を加えると、観衆はやや落ち着きを取り戻した。

「確か和国にも、討ち滅ぼした敵将の嫡子に慈悲をかけて助命したが為に、後に成長したそれに滅ぼされた、平一門という愚かな一族がおりましたわね」
「何のこっちゃ?」
「ほれ。琵琶法師が語る、源平の戦の事じゃろ」
「天竺から来たばかりだっちゅうに、先生様はよう知っとるのう」

 計都が源平の乱を悪しき例として語ると、観衆はその博識に、流石は龍神様の先生様と感心した。

「ならば何故それを覆そうとなさるのです? 計都師といえども、主上の御意に背く事はなりませんぞ」
「赦す訳ではありませんわ。これには、より良い使い途がありますの」
「使い途…」

 白虎や獄卒達は”使い途”と聞き、計都に連れて行かれた咎人にどの様な運命が待ち受けているのかに思い至って身震いした。

「まあまあ、どうなさいましたの? 小生はただ、これに多少なりとも新しき世の建立に役立ち、罪を償う道を示したいだけですのに」

 白虎達の反応に、計都は首をかしげて意外そうな顔をする。
 穏やかな口調で、その顔には一片の悪意もない。
 だがそれ故に、若衆がたどる末路を予測する白虎達は、背筋に冷たい物を感じた。

「おい、貴様」
「は、はいい!」

 白虎がへたり込んだまま呆けている若衆に呼びかけると、彼は上擦った声で返事をした。

「師に従って少々命を長らえるより、この場で死んだ方が良いぞ」
「そんな事はありませんわよ。虎の餌として丸かじりにされても宜しいんですの?」
「い、嫌だ、丸かじりは嫌だああ!」

 ”丸かじり”の一言に若衆は激しく怯え、それを見た観衆からは嗤いがわき起こった。

「ほら、これもそう言っているではありませんの」
「もう食い殺すとは言わぬ。楽と思う死に方を選ばせてやるぞ?」
「そんなにこれを引き渡すのが嫌ですの?」
「私にも立場がございます故」
「確かにそうですわね…」

 計都は、正規の手順を踏んで咎人を身請けしに来たのではなく、事後の承諾で足りると考えていた。
 実際、弗栗多に対する彼女の影響力を考えれば、あっさり認められる事は確実である。
 だが、仕置役から立場を主張されれば、配慮しない訳にもいかない。

「小生の行おうとしている事に使うには、これが丁度良いと目を付けていたのですけれども。小生が弗栗多に話を通す前に仕置場に運ばれてしまった物ですから、慌てて止めに来たのですわ。どうしても”これ”でなくてはならない、という訳ではありませんの」
「仮にこ奴を師に引き渡さず仕置するとしたら、どうなさるおつもりか?」
「改めて、石化してある咎人の内から選び直すまでですわ」
「むぅ…」

 白虎は、少し考え込んだ後、再び若衆に声をかけた。

「おい、貴様」
「な、何でしょうかあ!」
「改めて言うが、私の知る限り、計都師の御用は死よりも惨たらしい物だ」
「そ、そうなんですかあ?」
「まあ、随分な事を言いますわね」

 計都が頬を膨らませて口を挟むが、白虎は構わずに続けた。

「それが嫌なら、ここでおとなしく仕置されるがいい。先程言った通り、望み通りの楽な死に方を選ばせてやろう」
「で、では…」

 若衆は即答しかけたが、白虎はにらみ付けて黙らせた。

「しかし。貴様が死を選べば、他の咎人の内から御用に選ばれる者が出る。それは貴様の親兄弟、親しき友かも知れぬ。それを踏まえ、心して選択せよ」
「あらあら。そんな事はありませんわよ。ここで見世物同然に殺されてしまってもいいんですの?」

 若衆は頭を抱え、土壇場で突きつけられた運命の選択に苦悩するのだった。



[37967] 6話「阿修羅の学師」その3
Name: トファナ水◆34222f8f ID:82139271
Date: 2014/03/16 19:24
 過酷な選択を突きつけられた若衆は、うずくまったまま悩み続けている。
 白虎はそんな彼を、侮蔑と憐憫の入り交じった眼で見つめていた。

「少し時を差し上げますから、その間にどうしたいかお決めなさいな」

 計都は若衆に声をかけると、仕置場の外につながる門の方へすたすたと歩いて行く。

「計都師、どちらへ?」
「少々、表の皆様と語らって参りますわ」

 獄卒の一人が慌てて計都に駆け寄り、護衛の為に付き添った。


*  *  *


 仕置場の周囲を囲む観衆は、羅刹の獄卒を従えて自分達の前に現れた計都に戸惑っていた。
 龍神様の先生様が用があるのは、仕置されかかっている若衆の筈だ。
 それなのに、ただの見物人である自分達に相対するのは何故だろうか。

「さて、皆様方。小生はずっと気になっていましたの。どなたか、教えて頂けないかしら?」

 何の事かと首を捻る観衆に、計都は疑問を投げかける。

「新しい伊勢の法で、死罪に値する咎人を畜生に等しいと見なす旨を定めた事は、皆様もご承知の事と思いますけれども。つまり、ここでは贄にする為に畜生をつぶしているだけですわ。屠畜のどこが面白いんですの?」

 計都の言い放った問いに、観衆は絶句した。
 大方の民は、罪人を畜生とみなすという新たな法を知ってはいた物の、仕置に罪悪感を感じない為の方便だろうと受け止めていた。
 だが、計都は明らかに本気で咎人を”畜生”と称している。彼女にとって、咎人はただの食物に過ぎないという事だ。
 仕置場で悩み続けている若衆にしても、白虎の言う通り、贄にされるよりましな結末が待っているとは思えない。

「そんなに難しい事を聞きましたかしら?」
「ひぃいっ!」
「お、お許しをっ!」

 誰も口を開こうとはしない様子に、計都がさらなる言葉をかけると、観衆は顔を引きつらせて必死に慈悲を請う。
 何か言わなければ罰を受けるかも知れない。
 しかし、うかつな事を言って機嫌を損ねたら、それこそ命がないのではないか。
 観衆の脳裏には恐怖が浮かんでいた。
 計都にしてみればただ質問をしただけで、望まぬ答えや態度が返って来たとしても観衆に危害を加えるつもりは全くない。
 だが観衆側にしてみれば、自分達に直接向けられたのではないとはいえ、人を獣同然に扱う計都を恐れるのも無理からぬ事だ。
 柔和そうに見える計都の顔も、かえって恐ろしさを引き立たせている。

「桑名を含め、伊勢には娯楽が乏しいからではないでしょうか」
「まあ、そういう事でしたのね」

 護衛についている獄卒が見かねて答えると、計都は納得した顔を見せ、観衆は助かったとばかりに激しく何度も頷いた。

「でも、どうしてかしら? 参拝客を目当てにした店の類はありませんでしたの? そういった店が、地元の民を客にすれば良いではありませんの?」
「廓や賭場といった遊び場は、神宮と結んでいた咎で悉く取り潰し、店主や使用人はその妻子もろとも捕らえております。さらに廓に関して言えば、身売りで縛られていた遊女が多く、自ら好んで身を投じた者はほとんどおりません。その為、路銀を与えて解き放ち里へ帰しました」
「そういえば、そうでしたわね… でも、”食と娯楽”は御政道の要ですもの。疎かには出来ませんわね」

 印度より遙か西方の大国・羅馬(ローマ)では、民衆に対する食と娯楽の提供が重要な施策と位置づけられている。
 計都もその知識を得て以後、統治の参考にすべきであると考えていた。
 民がよく働くには、憩いの為の娯楽が不可欠なのである。

「皆様、お詫び申し上げますわ」
「へ?」
「ど、どうして?」

 計都が観衆に対し深々と頭を垂れると、龍神の眷属らしからぬ腰の低さに観衆はただ唖然とした。

「愉しみがなくては、生きる意味がありませんものね。すぐには難しいかも知れませんけれども、皆様が気軽に愉しめる手立てを講じる様、弗栗多には言っておきますわね」
「は、はあ…」
「そりゃ、どうも…」
「さしあたり、今日はこれでお許し下さいませ」

 計都はどこからか銅銭の詰まった数個の袋を取り出し、立ち並ぶ露店に一つづつ置いた。

「店中の物のお代、これで足りますかしら?」
「へ、へい!」
「充分でさあ!」
「皆様、今日のお勘定は小生が持ちますわ。ささやかですけれども、存分に飲んで食べて下さいな」
「先生様、話せるだ!」
「ええ御方じゃのう!」

 気前よい申し入れに観衆はすっかり上機嫌になると、口々に計都への賞賛を述べ立てて、我先にと露店に酒を注文する。

「親父、一杯くれ!」
「俺もだ!」
「へいへい。たっぷりありやすから、どうか並んで下せえ」

(わかりやすい恩恵を与えさえすれば、無学な民は素直に喜びますのね…)

 観衆に笑顔を見せる計都だが、内心は無知蒙昧な民への哀れみで占められていた。
 彼女が好むのは、種族を問わず、知性と教養を備えた者だ。
 もちろん眼前の大衆がそれを持ち合わせないのは自らのせいではない以上、計都は侮蔑の対象としては見ていない。
 搾取され生きる事に精一杯で、教えを受ける師もいない環境に生まれついた者が、思慮浅く無教養なのは致し方ない事であると、計都は諦観していた。
 彼女が仕置場の方へ目をやると、若衆は観念したかの様に正座で静かに座っている。
 計都と目が合うと、彼は軽く一礼してきた。傍らの白虎も、同じく黙礼を示す。
 運命の選択は終わった様だ。

(まあまあ、覚悟が決まった良いお顔ですわね。あれは、いずれの道を選んだのかしら?)

 計都は返答を訊く為、護衛の獄卒と共に仕置場へと戻った。
 



[37967] 6話「阿修羅の学師」その4
Name: トファナ水◆34222f8f ID:82139271
Date: 2016/04/10 20:27
「お決まりかしら?」

 計都は若衆の前に立ち、微笑みながら回答を促した。

「私は、」

 若衆が答えかけた時、観衆が騒ぎ始めた。

「待った! その仕置、待ったあ!」

 一人の野良着を着た百姓らしき齢四十程の男が汗まみれで息を切らせ、仕置場の周囲にたむろする観衆をかき分けて仕置場の門へと進んで来る。

「何処の者か?」

 警備の獄卒が誰何すると、一揆衆に名を連ねる庄屋の一人から伝令として遣わされた百姓であると名乗り、書状を差し出した。

「”村で一番お前が足が速いから行ってくれ”っちゅうて頼まれただが、何とか間に合った様で、良かっただよ…」
「ふむ? ともあれご苦労だったな。書状は取り次ぐから、休んで行くといい」

 怪訝な顔をしながらも獄卒は書状を受け取り、伝令へ詰所で休む様に促すと、仕置場で待つ白虎に書状を差し出した。

「助命嘆願か? まず通らぬであろうが、近侍の者を介して、主上か御夫君様に願い出るのが筋であろうに」
「では、突き返しますか?」
「一揆衆の決議に参画できる庄屋格の書状だ。一応は目を通さねばならぬが… この姿では持てぬな」

 書状を読もうにも、白虎の姿では手が自由に使えない。
 白虎は目を閉じて集中すると、再び漆黒の肌の女性の姿を取り、獄卒から書状を受け取った。

「これは…」

 全裸のまま難しい顔で書状を読み進めている巫女に、観衆は視線を注いだ。

「また裸の黒坊女になりよった!」
「恥じらいもなく、ああまで開けっぴろげっちゅうのも何かのう…」
「元は虎じゃから、装束が窮屈なんじゃろうかなあ」

 計都は呆れ顔で、白虎への化身の際に脱ぎ捨てられたままの巫女装束を拾うと、書状を黙読する巫女の肩を叩いた。

「人型を取るなら、きちんと衣を纏いなさいな」
「ん? あ、ああ、これはどうも」

 巫女はあわてて巫女装束を受け取ると着衣し、周りに付いていた土埃を払った。

「それで、どうなさいましたの?」
「こちらを御読み下さい」

 巫女に書状を渡された計都は内容に目を通すと、困った様に肩をすくめた。

『梵語で話しませんこと?』
『わかりました』

 補陀洛出自の者が、和国の民の耳に入れたくない会話をする際には、本来の母語である梵語を使う事が多い。
 異国語を解する法術もあるが、法術を使えない人間に隠せばいいのであれば、現在の処は会話を秘匿する簡易な手段として有効である。

『この者は無位無冠で、神宮の役務に就いた事がないのは確かでしょうな』
『はい、それは間違いありませんわ』
『それを加味した上、この書状に書かれている事が真実であれば、免罪する理由にはなりましょうが』
『それはそれで、小生としては困りますわね…』
『そういう訳にもいきますまい』

 計都が考えている若衆の用途は、白虎や獄卒が想像した通り、死罪の代替になり得る内容で、とても自由意思で協力させられる物ではない。
 よって若衆が放免となってしまっては計都として都合が悪いのだが、無辜の者に苦役を強いてはならない事は彼女もよく承知している。

『それにこの者が御用に使えぬとあれば、他の咎人の内から代わりを選べば良いという事でしたが』
『こうなったから言いますけれども、あれはただの虚勢ですの』
『虚勢!?』
『これに代わる材は、なかなか見つかりませんわ』
『何故、その様な言を弄されました?』
『ああ言えば、貴女なら、あれが小生に従う様に促すと思いましたの。命惜しさではなく、身代わりになる者が出ない様に小生について行くという事なら、あれも面目は保てますでしょう?』

 ただ計都に言われるままについて行けば、死にたくないあまりに藁にすがりついた卑怯者と解釈されかねず、僅かでも矜持が残っていれば屈辱だろう。
 だが、自分が行かねば他の者が死に勝る苦役に晒されるとなれば、恥じる事なく計都に従う事が出来るという訳である。

『師はあいかわらず食えぬお方だ』
『で、どうなさいますの?』
『ともあれ、この者の始末については、主上の御裁可なしに決める事が出来なくなりました。無論、師にお引き渡しする事もです』
『では、本日の仕置は出来ませんわね』

 巫女は、目を閉じて数秒の後、深く頷いた。


*  *  *


「異例な事ではあるが、この者の始末について、今一度詮議を要する事となった。故に、本日の仕置は取り止める事とする」

 巫女の宣言に若衆は呆然とし、観衆は酒も入って気が大きくなっている事もあり、口々に罵声を飛ばし始めた。

「おい、どういうこっちゃ!」
「説明せんかい!」
「静まらんかぁ!」

 警備の獄卒達が刀を抜いて威嚇すると、観衆は雪崩を打った様にその場から逃走しようとした。しかし、足が固まった様に動かない。

「う、動かねえ!」
「助けてくれえ!」
「はいはい、皆様方、落ち着いて下さいな」

 計都は巫女を伴って再び門の外に出ると、観衆と向き合った。

『法術ですか?』
『ええ。逃げるにまかせますと怪我人も出たでしょうしね。妙な流言を広められたら、貴女達の立場がありませんわよ?』
『ご配慮、感謝します』

 小声で耳打ちした巫女に、計都は頷きながら肯定した。
 計都は観衆が恐慌に陥ったとみるや、仕置場の周囲に法術を放ち、その場にいた人間に金縛りをかけたのである。
 ちなみに対象を人間に絞ったので、獄卒には一切影響がない。

「詳しい事は申し上げられませんけれども、あれには助命嘆願が出ましたの」
「神宮のもんを助けたいっちゅう阿呆は誰ですかい!」
「どこの裏切り者じゃ!」

 計都の説明に再び怒号を飛ばしかけた観衆だが、身体の自由を奪われている事に改めて気付くと沈黙した。
 彼等の生殺与奪は、計都が掌握しているのだ。

「小生と仕置役で書状に目を通しましたけれども、那伽摩訶羅闍の御裁可を仰がなくてはならない、という事になりましたの。御納得、頂けますわね?」

 計都が邪気の一片もない笑顔で呼びかけると、観衆は皆顔面を蒼白にし、冷や汗を流しながら首を盾に振った。

「結構ですわね」

 計都が頷くと、観衆は身体の戒めが解かれた事を感じた。

「お、動くぞ!」
「助かったあ…」
「さあさあ、露店には酒も肴もまだありますわよ? 只なんですから、どんどんやって下さいな」

 計都の勧めに、観衆は半ば自暴自棄になって酒をあおり始め、仕置場の周囲は無礼講の宴会の様相を呈し始めた。

「…いかがしましょう?」
「民の矛先をそらす為の、計都師のはからいだ。やらせておけばいい。酔漢の間で喧嘩が起きない様に、適当に見張っておけ」

 巫女は獄卒に指示を出して仕置場の中に戻ると、一部始終をただ呆然と見守っていた若衆に向かって、改めて仕置の中止を告げた。

「覚悟を決めた処で済まぬが、聞いた通りだ。貴様の仕置は留め置く事となる」
「では、どうなるのでしょう?」
「子細は話せぬが、詮議に際しては貴様に訊かねばならぬ事も出るであろうしな。さし当たり石化はせず、今日は詰所で床と夕餉を用意してやる。明日にでも”お預け”という形になるであろうよ」
「お預け?」
「放免する事になるかも知れぬ故、貴様を牢に入れて罪人として扱うのもはばかられるのでな。主上の臣の内、適切な者に監視を命じ、その居宅に逗留という事だ」

 若衆は、とりあえず首がつながった事を素直に喜べなかった。
 民衆に関わる機会がなかった彼には、一揆衆の有力者からの助命嘆願に全く心当たりがない。
 計都の他にも、自分を何かに利用しようとしている者がいるのではないかという疑念が、彼の心に渦巻いていた。

「計都師も、本日の処はお引き取り願えませんか」
「…そうですわね。それの事は惜しいですけれども、仕方ありませんわ」
「先程、観衆を鎮めて頂いた件については、御礼申し上げます」
「ああいう時には躊躇なく法術をお使いなさいな。傷つけずに動きを封じるには、それが簡単ですわよ」

 計都は宙へと浮き上がると胡座を組み、来た時と同じ様に空へと去って行った。



[37967] 6話「阿修羅の学師」その5
Name: トファナ水◆34222f8f ID:82139271
Date: 2014/04/08 00:39
 翌日、朝日が昇り始めた頃。
 仕置場では、眠さを押さえながら 不寝番の獄卒が門番を務めていた。
 前日の騒ぎが嘘の様に、辺りは静まりかえっている。
 後半刻程で交代となるという時、桑名に続く街道の方から、獣の駆ける音が聞こえ始めた。
 不寝番が目をやると、一頭の白虎が土煙をあげて走って来る。

「急使か?」

 徐々に近づいてくる白虎の顔を見て、不寝番は胃に痛みを覚えた。
 近衛筆頭の英迪拉(インディラ)である。
 昨日に留め置きとなった仕置の件であろう事は容易に察せられるが、近衛筆頭が単騎で直に乗り込んで来る以上、ただ事ではない。
 英迪拉は仕置場の門前で足を止めると、憤怒の顔で不寝番を怒鳴りつけた。
 
「おい! おるもん全員、とっとと呼べやあ!」
「近衛筆頭殿、いかがなされましたか?」
「阿呆んだら、とっととせんかい!」
「は、はい!」

 不寝番は慌てて、短く何度も銅鑼を打ち鳴らした。非常呼集の打ち方である。
 詰所で眠っていた獄卒達、そして責任者である巫女は跳ね起き、着剣して門前に整列した。

「筆頭殿、何事でしょうか!」
「何事かやと、このダボがぁっ!」

 問いかけた巫女に、英迪拉は罵声を浴びせると同時に右前足で張り飛ばした。

「ぎゃあっ!」

 巫女は悲鳴をあげて勢いよくその場に倒れ、英迪拉はその腹を何度も踏みつけた。

「何寝とるんじゃあ、この穀潰しがあ! おらっ!」
「ぐえっ! げえっ!」

 巫女は踏みつけられる度にうめき声をあげていたが、やがて口から血の泡を吹いて動かなくなった。

「根性無しが、それで近衛が勤まるかい!」

 居並ぶ獄卒達は直立不動のまま顔を引きつらせていたが、英迪拉は彼等をにらみ付けると一喝した。

「お前等もや! どいつもこいつも、無能な雁首さらしよって!」
「し、しかし、計都師による下げ渡しの要請、さらに助命嘆願の書状と、何分にも異例な事続きで…」

 獄卒の一人が弁明したが、英迪拉は首を左右に振った。

「何も起きへんのやったら、仕置場に警護なんぞいらんのや。ちょっかい出すもんがおるかも知れへんから、手が足りへん中で、お前等を仕置場にはり付けとるんやぞ!」
「しかし、計都師の意向をないがしろにも…」
「センセの横やりに逆らえんのはよう解っとる。わてが言いたいのはやな、ざわついた見物人共を、よう鎮めんかった事や! センセが法術かけなんだら、どうなっとったと思うんや! お前等、兵として禄をもろうとるのに、学師はんに遅れをとってどないするんや! ああ?」

 英迪拉の指摘に、獄卒達は唇を噛みしめた。
 若衆の処遇にいきり立った観衆を鎮めるのは、獄卒達の役割の筈だ。
 だが、威嚇しようと獄卒が抜刀したのがかえって災いし、観衆は恐慌状態に陥って逃げだそうとした。
 それを押さえたのは、即断で法術を使って観衆に金縛りをかけた計都である。

「刀を抜いたんはどいつや?」
「お、俺です」

 獄卒の一人が、うつむきながら返事をした。

「おんどれか! どういうつもりや? 惚けがあ!」
「あれは…脅すつもりで…」
「抜かんと烏合の衆をよう抑えられんのか? 目力(めぢから)がありゃ一睨みで済むんや! センセのとろ臭い垂れ目で出来たっちゅうに、兵のお前等が出来んっちゅうのはどういう訳や!」
「とろ臭いとは失礼ですわね」

 頭上からの声に英迪拉と獄卒達が見上げると、八畳程の大きさの、精巧な文様で彩られた四角い敷物が浮かんでいた。
 波斯(ペルシャ)からの舶来品で”飛行絨毯”と呼ばれる法術具である。
 太古の戦乱で製法が喪失している為、貴重な品だ。
 その上には、計都が座っていた。

「セ、センセ。おったんでっか。い、今のは言葉のあやですわ…」

 絨毯は英迪拉と獄卒達の間に割って入る形で垂直に降り、地面から一尺程のところで止まった。
 計都は絨毯から降りると、倒れたまま動かない巫女に目をやった。

「昨日の事で罰を与えたのでしょうけれども。折檻も度を超すと、取り返しがつきませんわよ?」
「この程度でくたばる様なもん、近衛にはおりませんで。加減はしとりますわ」

 計都が一瞥した限り、巫女は頬の骨が砕け、臓腑にも損傷がある様に見受けられる。
 放置すれば命に関わるだろうが、およそ一刻以内に法術で治療すれば、程なく完治しそうな程度の負傷と計都は判断した。
 配下に即決で死罰を与える権限を持つ英迪拉が本気なら、一撃で屠っていただろう。

「それなら宜しいですわ。手遅れにならない内に、治してあげなさいな」
「わかっとりますわ。そこのお前、倒れとる阿呆を手当てしたれ」

 英迪拉に顎で指された獄卒が進み出て、倒れた巫女を抱え上げ、詰所へと運び込んで行った。

「それでセンセ、なんでまた仕置場に?」
「例のあれを引き取りに来ましたの」
「ああ、ほんで絨毯でっか」

 阿修羅(アスラ)は、法術を使わずに飛翔する能力を持つ。
 それにも関わらず、わざわざ絨毯に乗って来たのは、若衆を乗せる為だった様だ。

「免罪はあかんっちゅう御裁可が下って、死罪の代わりにセンセが下げ渡しを受けるっちゅう事になったんでっか?」
「いいえ、まだ詮議も始まっていませんもの。ただ、いつまでも牢に入れておけませんから、どうするか決めるまで小生が預かる事にしましたの。勿論、弗栗多には話を通しましたわ」
「お預けなら咎人として御用を課す事は出来まへんけど、ええんでっか?」
「承知していますわ」

 巫女を詰所へ運んでいった獄卒が、若衆を連れて戻って来た。
 若衆は再び現れた計都に戸惑っていたが、処遇が定まるまでは安全を保証し、放免と決まれば解放する事を告げられると、同行を承諾した。

「色々とお話したい事、お見せしたい物もありますのよ」
「私に、ですか?」
「ええ」

 計都の無邪気な微笑みに、英迪拉や獄卒達は背筋を寒くしたが、若衆はただ首を傾げるのだった。
 



[37967] 6話「阿修羅の学師」その6
Name: トファナ水◆34222f8f ID:82139271
Date: 2014/04/19 17:15
 絨毯に乗せられた若衆は、そのまま強い睡魔に襲われて眠りに落ちてしまった。

「さあ、起きて下さいませ。着きましたわよ」

 計都に体を揺すられた若衆が目覚めると、そこは見知らぬ屋敷の玄関先だった。
 その前には港が広がっており、漁港であれば網元、商港であれば大店の主、あるいは軍港であれば領主の住まいといった趣である。
 
「人間が空を飛ぶと、怖がる事が多いですものね。法術でお眠り頂きましたの」
「ここはどこでしょう? 桑名の港ではない様ですが」
「ここは、貴方達が答志島と呼ぶ島ですわ」
「答志島というと、九鬼水軍の本拠ではないですか」

 答志島とは、伊勢湾に浮かぶ島の一つで、九鬼水軍と呼ばれる海賊の根拠地である。
 九鬼水軍は伊勢神宮と盟約を結び、伊勢湾に入る船舶から通行税を徴収する権利と、社領を護る衛士の一員としての公の立場を得ていた。

「もしや、伊勢があっさり落ちたのは、九鬼水軍が寝返ったからですか?」
「いいえ。人間の水軍等、小生達には問題ではありませんもの。鬼を名乗っていても、本物にはかないませんものね」
「ここは無事なのですから、無血で開城した様にしか思えないのですが…」
「よくご覧なさいな。何かお気づきになりません事?」

 若衆は港を観察した。
 多くの船が停泊しているが、その大半は戎克(ジャンク)で、和船はおよそ三割程である。
 また、船方や沖仲仕(おきなかせ) ※港湾労働者 の多くは羅刹の男性と見られ、見る限り人間はいない様に思われる。
 元々の住民である九鬼水軍の者が見当たらない。下ったならば、共に働いている筈だ。

「地元の民が見当たりませんね…」
「そこから導かれる答えは何かしら?」
「つまり、九鬼の兵は寝返ったのではなく、為す術もなく破れたのですね」

 若衆の答えに、計都は満足そうに頷いた。

「ええ。赤子一人に至るまで捕らえて、石にしてありますわ。大事な贄ですものね」
「赤子もですか… 何故、そこまで…」
「昨日も言いましたわよ。禍根は根こそぎ断つべきというのが、小生の考えですの。見せしめにもなりますものね」

 阿修羅という種族は争いを好むと言うが、眼前の彼女からは武人の様な猛々しさを欠片も感じない。
 必要だと判断した事を冷徹に行う、軍師にありがちな手合いに特有の冷気もない。
 人間を軽んじていない事は、昨日、騒ぎ立てた観衆を傷つけずに鎮めた事から解る。
 それなのに、赤子一人も見逃さぬと微笑みながら語れる計都の性格はどの様な物か、若衆にははかりかねた。
 
「では、神宮の側である私を何故助命しようとしたのです?」
「少々の筋を曲げてでも、新しき世の建立の為に貴方が必要でしたの」
「新しき世?」
「ええ。小生達の様な神属、貴方達人間、そして数多の知恵ある種族が、共に暮らせる世。皆が幸せに暮らせる世の為ですわ」

 計都の瞳は、慈母の様な穏やかさに満ちている。
 若衆は、計都がいわゆる”狂信者”ではないかと思い至った。
 己の信じる物の為であれば、いかなる所行も悦びとして行う者だ。
 敵に廻すともっとも厄介な手合いである。
 微笑みながら話す計都に、若衆は薄ら寒さを覚えた。

(あの白虎は、死に勝る苦役が待っていると言っていたが… 何をさせる気なのだろう…)

「不安ですの?」
「え、ええ…」
「大丈夫ですわ。仮ですけれども、貴方は咎人ではありませんもの。無辜の方に無理強いしてはならない事は、小生も承知していますのよ」

 計都は、屋敷へと若衆を招き入れた。
 ここは九鬼水軍の首領の邸宅で、現在は計都が使っているという。
 家人は女性ばかりで、昨日の白虎が化身していた姿と同じく、肌が黒い。
 共通するのは、計都と同じく、白い衣服を着用している事だ。
 若衆が座敷へと通されると、程なく家人の一人が緑茶に餅を添えて供してきた。
 緑茶も餅も、庶民の口にのぼる物ではない。
 若衆は自分が虜囚ではなく、来客として遇されている事を実感した。

「皆さん、肌が黒い様ですが、白虎の方ですか?」
「いいえ。見ての通り人間ですわ。昨日のあれは、補陀洛の人間を模して化身していましたの。補陀洛の民は黒い肌の者が多くて、和国や明国の民とは見かけが異なりますけれども、この屋敷の者は貴方達と同じ人間ですわ。皆、小生の学徒ですの」
「”同じ人間”ですか…」
「婆羅門(ブラーフマナ)!」

 家人が突然声をあげ、若衆をにらみ付けた。
 若衆には家人が放った言葉の意味が解らなかったが、怒らせてしまった事は充分感じられた。
 人間と見られなかった事が、家人の気に障った様だ。

「し、失礼しました!」
「無知からの言葉ですわよ。貴女を卑しんでの事ではありませんから、赦しておあげなさいな」

 計都が静かに諭すと、家人は唇を噛みしめて一礼し、座敷を下がった。

「申し訳ありません、思わず…」
「いいえ。丁度宜しいですから、学師として少々説いて差し上げますわ。その前に」

 計都は出されていた緑茶に口を付け、餅を頬張った。

「朝餉はまだですわね? どうぞお食べなさいな」


*   *   *


 緑茶と餅で朝餉を済ませると、計都は若衆に向き直り、解説を始めた。

「同じ種でも、住まう地が隔たって血の交わりが途絶えたまま何百世代も重ねると、その土地に住みやすい様に特徴が変わっていきますの。和国と補陀洛で、人間の外観が異なるのはそういう訳ですの」
「何百世代ですか…」
「ええ。自然に任せればその位かかってしまいますけれども。家畜の”掛け合わせ”はそれを意図して短い間に行うのですわ」
「家畜の事はよく解らないのですが、例えばどの様な物でしょう?」
「そうですわね… 犬は御存知かしら?」
「ええ」

 犬は和国でも多く飼われている家畜で、防犯や狩猟への随伴、そして愛玩が主な用途である。

「犬は家畜として飼い慣らされた、狼の変種ですの。狼と犬がまぐわえば、普通に子を為しますわ」
「本当ですか!?」

 若衆は驚きの声をあげ、信じられないといった顔をした。

「では、狆は御存知かしら?」
「はい。神宮でも飼っている人がいました」

 狆は明国から和国に伝来した小型犬で、屋内での飼育に適した愛玩用の種である。
 その性質上、所有者は専ら富裕層で、豊かさを誇示する為に飼育される事が多かった。

「狆は犬の内、小柄で毛の長い物同士を掛け合わせて造った種ですわ。普通の犬とは随分と姿形が違いますけれども、あれも犬ですわよ?」
「狆は犬の内という事は知っていましたが…」
「それを知っていても、犬の元は狼という事には驚きますのね?」
「元々そういう物だと思っていた物ですから…」

 計都は滑稽そうに嗤い、若衆は恥ずかしそうにうつむいた。

「掛け合わせというのは、緻密に組み合わせれば、あれ程に本来の姿から特徴を変えてしまう事が出来ますのよ」
「凄いですね」
「この島でも行いますのよ。新しき世に有益な種を造り出す事も、小生が担っている役割の一つですの」
「どういった家畜でしょう。牛や馬、それとも天竺伝来の種でしょうか?」
「いいえ。人間ですわ」
「人…間…?」

 何かの聞き違いではないかと、若衆は自分の耳を疑った。
 



[37967] 6話「阿修羅の学師」その7
Name: トファナ水◆34222f8f ID:82139271
Date: 2014/04/30 10:32
「ええ、人間ですわよ。新しき世にはどうしても、人間から新たな変種を造りださなくてはなりませんの」
「もしかして、牛馬の様に使役する為でしょうか?」
「とんでもありませんわ」

 若衆の疑念に、計都は心外そうな顔を見せて否定した。

「民を酷使する事など、あってはなりませんのよ。伊勢では首陀羅(シュードラ)も旃陀羅(チャンダーラ)も廃しましたもの」
「何ですか? それは?」

 聞き慣れない言葉に、若衆は思わず聞き返した。

「ああ、つい梵語を混ぜてしまいましたわ。和語に直すと、首陀羅は奴婢 ※奴隷 を、旃陀羅は賤民を指しますわ。ちなみに、平民は吠舍(ヴァイシャ)、士分は刹帝利(クシャトリヤ)。そして貴方達の様な神職は婆羅門(ブラーフマナ)と呼ばれていて、人間の最上位であると共に神属の下僕として仕える身分ですわ」

 天竺には和国より厳格な身分が定められており、上位の者は下位の者を虫けら同様に扱うという話は、若衆も聞いた事があった。
 仏道の開祖である瞿曇(ガウタマ) 悉達多(シッダールタ)はそれを忌み嫌ったが、ついに正す事はかなわなかったという事である。
 今の話からすると、先程に茶を運んできた女性は、計都に属する婆羅門という事になる。

「それで、先ほどのお弟子様は、婆羅門として敬われなかった事に怒っていたのですね」
「逆ですわよ。あれは旃陀羅の出ですもの」
「え?」
「あれに限らず、小生の門下においている人間の大半は、首陀羅や旃陀羅の内から見込みのある者を選びましたの」
「天竺の身分は厳格と聞いていますが、そういう事が出来るのですか?」
「沙門(シュラマナ)といって、下位の瓦爾那(ヴァルナ)から神職に取り立てる事もありますのよ。もっとも、刹帝利や吠舍からが殆どで、首陀羅や旃陀羅からは異例ですけれどもね」
「瓦爾那(ヴァルナ)?」
「ああ、ご免なさいね。和語で言えば……ええ……種姓、身分の事ですわ」
「異例な登用は、境遇を哀れんでの事でしょうか」

 下位の身分からのむやみな抜擢は、定まった序列を乱す事になり、統治に支障が出る。
 あえてそれを行ったというのであれば、計都には理より情を優先する面があるのではないかと若衆は思ったのだが、計都の答えは違った。

「いいえ。少々の者をそうして救ったところで、何も変わりませんもの。新たな世を造る為には、古き世を憎む者こそが適材と思い、虐げられている者の内から選んだのですわ」
「先程おっしゃった、神と人が共に暮らす世ですか?」
「ええ。付け加えるなら、出自に関わらず、個々が己の才覚に合わせて遇される世。それこそが、小生の一門が望む新しき世ですのよ」
「それは貴女の主君も認めての事でしょうか」
「勿論ですわ。弗栗多を幼少より教え導いたのは小生ですもの。新しき世を造る新天地を得る為に伊勢親征を企図し、進言したのも小生ですわよ。あれは那伽摩訶羅闍という立場で、一門の悲願を成就させる為に働いているのですわ」
「貴女が……」

 神宮を滅ぼした黒幕が計都である事を知り、若衆は絶句した。

「小生が憎いかしら?」

 若衆の脳裏には、昨日の仕置場での観衆の様子が浮かんでいた。
 あの場に集まった民は皆、神宮による圧政に憤り、その怒りを咎人に対する殺意として向けていたのだ。
 民衆と隔絶した環境で育った若衆は、それまで圧政の実態を全く知らなかった。
 仕置場で怒号を浴びせられ、彼は初めて自分達の所行を思い知ったのである。
 龍神一行の側が、伊勢の民に対する純然な善意で神宮を誅した訳ではない。
 旧来とは異なる統治を実践する為の地を求め、圧政という状況を利用したのだ。
 だが、民にとっては自分達を困窮から救い出してくれる為政者でさえあれば、その真意はどうでもいいのである。
 神宮が圧政を続けていれば、龍神が来襲せずともいずれは他州から攻め込まれていただろう。

「いえ……神宮は滅びるべくして滅んだのですから……」
「それが御自分で解る様でしたら結構ですわ」

 声を絞り出す様に若衆は答え、計都は嬉しそうに目を細めて頷いた。



[37967] 6話「阿修羅の学師」その8
Name: トファナ水◆34222f8f ID:82139271
Date: 2014/05/04 13:03
「随分と話がそれましたけれども。まずはその眼で確かめてみません事?」
「宜しいのですか?」
「ええ。元々そのつもりでしたもの」

 若衆が計都にいざなわれて屋敷を出ようとすると、玄関口で、先刻に茶を運んで来た家人が声をかけて来た。

「和国の婆羅門様、卑しき旃陀羅めがいれた粗茶はお口に召したでしょうか?」

 家人の口調は丁寧だが、明らかな敵意がこもっている。
 若衆は、彼女が何故「婆羅門(ブラーフマナ)!」と叫んだのか理解した。
 和国の婆羅門に相当する自分から、賤民上がりとして見下されたと思ったのだろう。かつて彼女を虐げた者達の陰を、若衆に見たのだ。
 若衆が ”同じ人間…”とつぶやいたのは、”和国の民と天竺の民は、外観が違えども同じ人間である”との説明を受けての事なので、全くの誤解だ。
 それに客分の扱いとはいえ、若衆は実質的に未だ虜囚の身である。
 家人の側は、何を言われても”敗者の戯言(たわごと)”として悠然と構えていれば良い事なのだが、それだけ婆羅門に対する憎悪が深かったのだろうと若衆は推測した。

「ご馳走様でした。美味しかったです」
「穢れた手で運ばれた茶や食を喜ぶ程飢えていたとは、なんと哀れな」

 若衆の謝意に、家人は嘲(あざけ)りで返した。
 和国においても、賤民は穢れた存在として位置づけられ、その手から平民以上の者が食物を受け取る事は忌まれている。
 その禁忌を破った若衆を揶揄した、あからさまな挑発である。
 だが、若衆の続く言葉は家人の期待から外れていた。

「出自はどうあれ貴女は既に賤民ではなく、そも伊勢ではその様な身分は廃されたと聞きました。それに神宮は滅び、私はもはや神職……お国で言う婆羅門ではなく、敗残の徒に過ぎません」

 挑発に乗らず平静に答えた若衆に、家人は面食らった。
 神宮の虜囚は大抵、捕らえられた現実を認められずに虚勢を張るか、卑屈に媚びへつらうかであったが、若衆はそのいずれでもない。
 昨日、仕置場で取り乱したという人物と同じとは、家人には信じがたかった。

「それを拒まないのですか?」
「仕置場で民の怒りに晒され、神宮がいかに憎まれていたかを知りました。人心に見放され、護国の祭司など勤まりましょうか。これからは貴女方が覇者として新たな世を造り、民を導くのが道理かと」

 神宮の敗北と補陀洛の支配を認めながらも媚びずによどみなく答える若衆に、家人はかえって不審を抱き、計都に梵語で伺いをたてた。

『導師計都。殊勝な物言いですが、たばかっているのでは?』
『そうだとしても立場をわきまえていますわ。挑発に乗らなかったのは、貴女にとって不本意でしょうけれどもね』
『しかし!』
『貴女の懸念が事実としても、いくらでも手はありますわよ。いずれにせよ、これは必要ですの』
『……承知しました』

 計都の意を受けた家人は頷くと、若衆に向き直った。

「ならば、我等がここで何をしようとしているかを、是非その眼でお確かめになると宜しいでしょう」

 家人の顔に表情はなく、眼には暗い光が宿っていた。


*  *  *


 若衆が答志島に到着した頃。
 彼の助命嘆願を出した庄屋が治める村では、桑名の方向より訪れた馬車に百姓達が騒然となっていた。
 まだ台数は多くない物の、伊勢の民にとって馬車は輸送の手段として重宝されつつあり、決して驚く様な物ではない。
 だがこの馬車には補陀洛の紋章が描かれ、鎧に身を固めた羅刹の兵が御者を務めている。
 昨日に庄屋が出した助命嘆願の使者に対する、龍神側の反応である事は明白だった。
 馬車に乗っているのは御者のみで、使いを務めた百姓も、助命を願った対象である若衆も乗ってはいない。

「こりゃあ、もしかして……」
「仮にも神宮のもんを助けてくれっちゅうたんのが、龍神様の勘気にさわったんかのう……」
「だからやめとけって言うたに!」

 百姓達は、助命がかなわずに使いの百姓も罰を受けたあげく、庄屋をも捕縛しに来たのではないかと恐れていた。

「庄屋殿はどちらにおられるか」
「へ、へい。あちらのお屋敷に……」

 御者に庄屋の所在を尋ねられた百姓は、震える手で庄屋の屋敷を指さした。
 屋敷の前で馬車が止まると、庄屋自らが出迎えた。
 龍神への請願は一揆衆の権利として保障されているので、助命嘆願を行った事で罰を受ける可能性については、庄屋は心配していなかった。
 しかし、龍神の使者が直に出向いて来たという事で、額には汗が浮き出ている。

「お勤めご苦労様でございます」
「うむ。昨日の助命嘆願の件であるが、差し当たり、仕置は留め置きとなった」
「ええっ!」

 御者の言葉に、庄屋は驚きの声を挙げた。
 嘆願はした物の、神宮の虜囚が助命された事はこれまでただの一度もない。

「極めて異例の事ではあるが、一考に値すると主上は仰せられた」
「そ、それでは……」
「落ち着かれよ。本題はこれからである」

 声を震わせる庄屋に、御者は落ち着く様に促し、一呼吸置いて言葉を続けた。

「まだ助命と決まった訳ではない。処遇を決するにあたり、庄屋殿より詳しい話を聞きたいとの主上の御意である」
「ところで、使いにやった者はどうなりましたかの?」
「疲労が激しい故、昨日より休養させておるので心配無用である。庄屋殿、主上をお待たせしてはならぬ故、至急に支度を整えて御同乗願いたい」
「しばしお待ちを!」

 庄屋は謁見に相応しい衣に着替えるべく、慌てて屋敷へと駆け込んでいった。



[37967] 6話「阿修羅の学師」その9
Name: トファナ水◆34222f8f ID:82139271
Date: 2014/05/18 22:54
 若衆と計都は屋敷を出て、前に広がる港を見渡した。
 元々、海賊が使っていた軍港なだけに埠頭は広い。
 何隻もの戎克が接岸し、羅刹の手によって荷の積み卸し作業が行われており、沖合に投錨している船も多い。
 屋敷の近隣には倉が建ち並び、降ろされた荷が運び込まれている。
 荷はいずれも梵字で細かい区分が書き込まれた樽や木箱で、羅刹はそれを軽々と担いでいた。
 若衆は、港で働いているのが羅刹ばかりである事に着目した。
 操船はともかく、船荷の上げ下ろしの様な単純な力仕事なら、伊勢の民から雇うなり賦役を申しつけるなりすれば済む筈だ。
 わざわざ龍神の手勢である羅刹のみを使うという事は、離島という場所と考え合わせると、ここで行われている事はよほど信のおける者の他には見せたくないのだろうと、若衆は推測した。

(それを私に見せるという事は、私がここで行われている事によほど必要なのだろう。”無理強いする気はない”と言ってはいたが……)

 計都は倉の一つに若衆を招き入れた。
 倉の中には巨大な棚があり、運び込まれた樽や木箱はそこに上げられている。
 計都は中で働く羅刹に命じ、樽の一つを開けさせた。

「さあ、ご覧なさいな」

 開封された樽を若衆が覗き込むと、中に入っていたのは、膝を抱きかかえて座っている、裸身の若い女をかたどった石像だった。
 だが若衆は、これが石像ではない事を知っていた。

「これは!」
「見ての通り、法術で石にした人間ですわ。貴方も、仕置場に引き出されるまでこうなっていたのですわよ」
「ええ。元に戻されるまで、飢えず、歳も取らずにそのまま眠り続けるそうですが」
「”眠る”というより、”時を止める”と言うべきですわね」
「この人達は私と同じ神宮の虜囚……いや……違いますね……」
「何故かしら?」
「顔立ちが和国の民と異なるのですよ。お屋敷にいた、天竺の民に近いのです」
「よく見ていますわね。その通りですわ。これは国元から運び込みましたの。でもこれは、人間ですけれども、民ではなく畜生ですの」
「咎人か虜囚なのですか?」

 龍神が定めた新たな伊勢の法では、咎人や虜囚は畜生とみなす旨が定められている。
 だが、計都は若衆の問いを否定した。

「いいえ。これは、”生まれながらに”畜生ですの」
「賤民、お国で言う旃陀羅ですか?」
「賤民と言えども”民”の内ですわ。それに、その様な旧弊を改める為の実践の地として、小生達は伊勢を欲しましたのよ」
「どういう事でしょう?」

 若衆は困惑した。
 奴婢や賤民を廃し、貶められる民をなくそうという方針なら、生まれながらに畜生として扱われる人間の存在は矛盾と言う他ない。

「これは、種としては確かに人間ですけれども、民たり得る要件を備えずに生まれて来ましたの」
「な、何ですか、それは」
「人間も神属も、等しく持っている筈の物ですわ。勿論、小生にも貴方にもありますわよ」

 若衆は、人間と神属の差異と共通点について考えてみた。
 まず、姿形が異なる。比較的人間に近い夜叉でも角や牙があるし、阿修羅は六本腕だ。
 寿命も、人間は長寿の者でもせいぜい百年だが、神属は千年生きるという。
 法術なる力も、基本的には神属のみが使える物だ。陰陽師や行者の類にはそういった力を行使出来る者もいるが、希な資質に恵まれた例外的な存在である。
 また、神属は人間を贄としなければ生きられないというが、人間は同族たる人間を食べる必要がない。
 差異はいくつか頭に浮かんだが、共通点については全く無いように思えた。

「私には見当もつきません……」
「あらあら、貴方ならすぐに解ると思いましたのに」

 悩んだ顔で答える若衆に、計都は肩をすくめた。課題に悩む学徒を見守る師の顔である。

「”新しき世”で那伽摩訶羅闍(ナーガマハラジャ)の臣民として遇するに値しないのは、どういう者かしら?」

(咎人だろうか? いや、罪を犯した故に咎人とされるのだから、生まれながらの条件ではない。 血筋? 賤民を廃する方針ならそれでもない……)

 再び考え続ける若衆を、計都は愉しげに眺めている。
 しばらく考えた後、若衆は計都の言葉にあった”智恵ある”という点に思い至った。
 人間も神属も、言葉を解するという点は変わらない。
 だが中には、それが出来ない者も生まれてくるのだ。

「つまり、新しき世で共に暮らす民は、どの種族かではなく、智恵の有無で分けられると……」
「さあ、そこから導き出される答えを言ってご覧なさいな」
「……この人は、いわゆる”白痴”なのですね……」
「その通りですわ」

 若衆が恐る恐る発した推測を、計都はにこやかに認めた。
 出した課題に対し正しい答えを導き出した事に、満足した様子である。

「言葉を解さず、犬や猫程の智恵もありませんわ。自然に生まれ出る白痴同士を何代も掛け合わせて、確実に子孫が白痴となる様にしましたの」
「何故ですか? 何故そんな惨たらしい事を!」
「主には贄とする為ですわ。他にも、法術や薬物を試したりという使い途もありますけれどもね」
「……」

 淡々と答える計都に、若衆は絶句した。
 和国でも、白痴は働き手にならない穀潰しとして”返して”しまう。つまりは人間として生きるに値しないと考えられている点では変わらない。
 だが、食用として意図的に白痴を生み出すと聞けば、驚愕する他なかった。
 
「神属は人間を贄にしなければ生きられませんの。でも咎人や敵兵を食せば良いとは言う物の、数には限りがありますものね。自然に生まれ出る白痴を加えても足りなければ、殖やすしかありませんもの」

 若衆にも、計都の考え方が理屈として正しい事は解る。
 咎人や敵兵だけでは贄が賄えなくなっても、白痴を家畜として繁殖させれば、普通の人間に人身御供を差し出させる必要はない。
 神属と人間の共存策としては有効である。

「小生達は、人間の皆様と共に手を取り合って暮らしていきたいのですわ。でなければ、こんな手の込んだ事はしませんもの」
「それは、解ります……」

 微笑みながら語る計都の言葉を、若衆は認める他なかった。



[37967] 6話「阿修羅の学師」その10
Name: トファナ水◆34222f8f ID:ef08af38
Date: 2014/05/27 23:06
 庄屋の乗る馬車は、桑名の仮宮へ到着した。
 警護の兵に付き添われた庄屋は、本殿にある謁見用の広間へと通された。
 広間は三十六畳の板間となっており、上座のみに畳が敷かれている。
 上座には既に、半身半蛇の姿を取った弗栗多が、蜷局(とぐろ)を巻いて待っていた。
 その傍らには、近衛筆頭の英迪拉が、白虎の本性を出して控えている。
 庄屋は弗栗多に一礼すると、下座に敷かれた座布団に正座で着席した。
 臣下の礼にしては随分と簡素だが、非公式な席では仰々しい礼儀は不要というのが弗栗多の考えである。

「よく来たのう」

 弗栗多に優しげな声をかけられ、庄屋は内心で胸をなで下ろした。

「呼びつけたのは他でもない、昨日の助命嘆願の事じゃ」
「承知してございます」
「神宮に連なる者は老若男女を問わず、悉くを贄として、後の禍根を断つ。本来であればこれを曲げる事などまかり成らぬと一蹴するのじゃが……」

 弗栗多は言葉を切り、庄屋は唾を飲み込んだ。

「書状には、実に興味深い事が書かれておった故、汝の口から改めて聴かせてもらいたくてのう。こうして召し出した訳じゃ」
「あんさん、嘘こいたら食ろうてしまいまっせ?」
「は、はい! それはもう!」

 軽快な上方弁で警告する巨大な白虎に、庄屋は慌てて首を縦に振った。
 庄屋が落ち着いたのを見計らい、那伽摩訶羅闍(ナーガマハラジャ)直々の詮議が始まった。

「まず、件の者は、汝の嫡子という事で間違いないのかや?」
「左様でございます」
「男子に恵まれなんだ神宮の宮司に、養子として引き渡したのじゃな?」
「是非にと望まれ、逆らえる筈もございません」

 庄屋が昨日送った助命嘆願には、若衆が、宮司に強要されて養子として差し出した庄屋の実子である旨の事情が書かれていたのである。

「人質という訳かや?」
「当家との縁は絶たれましたので、そういう意味合いはございません」
「見返りは受けたのかや?」
「はい。その年の村の年貢は減免という事になりました」
「汝の家だけでなく、村全体かや。赤子一人に、神宮にしては破格の条件じゃの。そこまでの値打ちがある物かや?」
「さ、さあ……」

 疑問をぶつけられ、庄屋は困惑した様に口を濁した。

「薬座が近隣の州から赤子を買い付けている事は知っていようがの。値は百文が相場じゃぞ?」
「それは知っておりますが……」
「第一、家格を考えれば、養子は同じ神職、もしくは京の公家辺りから迎えるのが筋ではないかや?」
「そういう事になりますか……」
「つまり、件の者をそれだけ欲しておった訳じゃ。何故じゃ?」
「わ、儂には何とも……」
「では、それはひとまず置くとするかの。ともあれ、取り上げられた子を手元に引き戻したいという親の願いは当然じゃな」
「お解り頂けて、恐縮です」

 安堵を浮かべる庄屋に、弗栗多は鋭い視線を送った。

「じゃが、どうにも納得いかぬ事があってのう」
「ど、どういう事でございましょうか?」
「神宮が陥ち、件の者が虜になってより二月は経っておる。何故、これまで赦免を願い出なかったのかや?」
「そ、それは、その……」
「一揆衆の評議に加わる庄屋格には、妾への請願を保証しておるのじゃぞ? 仕置当日になって、仮宮ではなく仕置場に使いを出すとは妙じゃと思ってのう」
「…………」

 言葉に詰まった庄屋に、弗栗多は畳みかける様に詰問の言葉を続けた。

「汝、本心では倅を助けたくなかったのではないかや? 不人情のそしりを受けるのを怖れ、わざと間に合わぬ様に使いを出したのではないかの? そうだとしたら残念だったのう」
「け、決してその様な事はございません」
「心して答えるのじゃ。二言はないかの?」
「も、勿論でございます!」

 念を押す弗栗多に、庄屋は必死に返事をした。

「ところで、汝は入り婿で、件の者を産んで一年後に連れ合いは病没し、明くる年に他家から後添えを娶ったそうじゃの」
「ど、どうしてそれを知っておいでなのですか?」
「昨日の使いから色々と聞いてのう。後添えとの間には一男三女をもうけた事もじゃ」
「そうですが、それが……」
「今更、先妻との間の長子が戻って来ては、後添えや、家督を継げなくなる二男にとっては疎ましいのではないかの?」
「家長として説き伏せます!」
「ふむ。使いの者によるとじゃな。汝の先妻は、賦役で下女として神宮に出仕していた折、宮司に手込めにされて孕み、家に帰されたそうじゃの。汝は庄屋の跡取りとなる事を条件に、それを承知で入り婿になったという訳じゃ。宮司も実子なればこそ、破格の条件で引き取ろうとしたのであろう? 正妻との間に男子が出来れば放置していた物を、全く身勝手な事じゃがのう」
「で、でたらめでございます!」

 否定の言葉を聞き、英迪拉は舌なめずりしたが、庄屋は気が付いてない。

「腹が目立たぬ内に汝が婿に入った故、それを知るのは、汝自身の他は先妻とその身内のみ。身内で存命なのは此度の使いとなった、先妻の実弟ただ一人という事じゃ」
「ああ……」
「汝にしてみれば、自分の胤ではない子など疎ましいだけじゃろうがの。先妻の実弟としては、何としても甥を助け出したかった様じゃ。実に素直に話してくれたのう」

 事情を把握されている事を知った庄屋は、愕然としてうなだれた。
 証人を押さえられている上は、弁解の余地は乏しい。

「主上、食ってもええでっか?」
「そ、そんな! 確かに儂にも思うところはございましたが、請願は庄屋の権利ではないですか!」
「その事やおまへんで。あんさんの罪は、この場で主上に嘘こいた事や。食うてまうぞって言うたやおまへんか?」

 死罪の宣告に、庄屋は蒼白になりながらも抗議したが、英迪拉は呆れ声を返した。
 正直に事情を話していれば、請願の是非はともかくとして、庄屋が罪を問われる事はなかったのである。
 
「ひいい!」
「英迪拉、まあ、待つのじゃ」

 弗栗多の制止に庄屋は助かったと安心したが、続く言葉で再び絶望に突き落とされた。

「一揆衆と言えども、妾をたばかれば死罪を免れぬ旨、公に示さねばのう。それと、こ奴の妻子も連座とする故、捕縛の兵を差し向けるのじゃ」
「へい。ほんじゃ、後日に仕置場で食いますわ」
「にょ、女房子供は勘弁して下さい!」
「ならぬわ」

 懇願を一言で撥ね付けた弗栗多が瞳を光らせると、庄屋の体は石と化した。

「誰か、この惚け爺を運び出せや!」

 英迪拉の呼ぶ声に、広間の外で控えていた巫女が入って来て、石と化した庄屋を抱えて運び出して行った。

「ほんで主上。妻子も連座っちゅう事は、件のもんもでっか?」
「実際の血縁がない以上、連座には当たらぬ」
「ほいたら、元々の咎はどうしましょ? 宮司の実子っちゅう事なら、鏖殺(おうさつ)に含まれまっせ」
「師が望むならば赦免しても良い。あくまで咎人として使役するも良し。いずれにせよ、師が件の者を欲する上は助命せねばなるまい」

 若衆に対する処遇自体は、弗栗多は既に決めていた。
 計都が必要に応じて要請して来たのだから、引き渡す事には問題ない。
 弗栗多はむしろ、自分をたばかろうとした庄屋の行動を問題視し、一罰百戒の見せしめにするつもりで呼び出したのだ。

「その様にセンセへ使いを出しときますわ」
「うむ。庄屋一家の仕置も含め、委細は任す。それにしても気分が悪いのう……」

 弗栗多は庄屋の言動で感じた不快を鎮める為、茶を持って来させると一気に飲み干した。



[37967] 6話「阿修羅の学師」その11
Name: トファナ水◆34222f8f ID:ef08af38
Date: 2014/06/08 20:34
「しかし、これだけ多くの白痴を用意できれば、咎人を贄にしなくとも済みますね」
「白痴を育てて贄とする事を受け容れて下さったのは結構ですけれども。残念ながら、まだまだ足りませんわ。これを元にしてもっと殖やしませんと」

 若衆は告げられた事の衝撃を何とか良い方向へと解釈しようとしたが、計都からは期待に反する答えが返って来た。

「頭数が揃うまで、大体、どの位かかる物でしょうか?」
「およそ、二、三十年は見込まなくてはなりませんわね」
「そ、そんなにかかるのですか?」

 人の半生程の期間がかかると聞き、若衆は唖然とした。

「まず、人間が孕んで一度に産む数は、普通は一人だけですわ。それに、贄として食するに充分な霊力が溜まるまで育つのに、産まれてから十数年はかかってしまいますもの。ここまで殖やすにも、結構な時が掛かりましたのよ」
「そうですか……」
「神宮は、建て替えに備えて木を植えていたそうですわね。樹木が育って、丸太として切り出すまでにかかる年月に比べれば短いですわよ」

 人間は多くの畜生と違い増えにくく、育つのに時間がかかる。
 それを指摘されれば、若衆も納得する他なかった。

「もしかして、助命したい咎人がいますのね?」
「ええ……」

 若衆は計都の問いを認めた。
 自分の命が助かりそうだからといって、若衆はそれで安穏とは出来なかった。
 神宮の者が伊勢の民から、怨嗟を向けられている事は仕置場で骨身に染みた。
 だが、これまで受けた民の苦しみを考えても、圧政の咎を負うには酷な者がいる。
 助けられる者は助けたいと若衆は思っていたが、計都の答えは無情だった。

「無駄ですわよ。新たなる世の害となる者達は、たとえ贄にならなくとも死罪は免れませんわ。貴方はあくまで例外ですの」

 若衆は、落胆すると同時に、自分の推測が当たっている事を確信した。
 希な例外として助命される程に、自分は貴重な存在なのだ。

「何故、私なのですか?」

 宮司の子である若衆を、御政道の傀儡として利用したいという訳ではないのは解る。
 龍神は旧い体制の権威を必要としていないからこそ、虜囚の鏖殺を宣言したのだ。
 ここで計都の勤めを手伝わせたいという事なのだろうが、自分でなければ出来ない事というのが、若衆には想像出来なかった。
 なにがしかの貴重な資質を自分は持っているらしいという事までは推測出来るが、思い当たる事が全くない。

「ご歓談の処、失礼致します」

 倉の中に、巫女装束の阿修羅が入って来た。
 普通の巫女装束ではなく、阿修羅用に袖は三対となっている。 
 島に来て以後、若衆が巫女装束を見かけたのはこれが初めてだ。
 一揆衆の治世になって以後、巫女装束は龍神の側近である侍女や近衛が着る物とされているので、相応の身分である事が伺える。

「弗栗多の勅使ですわね。これについての詮議、結論は出ましたの?」
「はい。詳細はこちらに」
「ご苦労でしたわね」

 阿修羅の巫女は書状を計都に手渡すと、一礼して去っていった。
 計都は書状を黙読していたが、読み進む内に、顔に浮かべていた微笑が消え、目つきが鋭くなっていく。
 それを不安そうに見る若衆の視線に気付いた計都は、再び微笑を造って若衆に書状を示した。

「お読みになります? 梵語ですけれども」
「いえ。漢文はともかく、梵字の心得はありませんので」

 和国で梵語の読み書きに習熟しているのは、一部の仏法僧のみである。
 梵語を母語とする補陀洛(ポータラカ)や香巴拉(シャンバラ)、いわゆる天竺あるいは印度と呼ばれる地域を構成する国々と、和国との間には直接の交流がない。
 旧い仏典を読み解く他に用途がない為、和国では梵語は殆ど学ばれていなかった。
 教養を身につけているとはいえ、神道畑の若衆にとっても無縁の物である。

「差し当たり、貴方の処遇に関してですけれども、小生に一任という事に決まりましたわ。もう命の心配は要りませんわよ」
「そうでしたか。では、どうしてその様な顔を?」

 助命についてはほぼ確実と思っていたので、それについては若衆は意外に思わなかった。
 だからこそ、計都が厳しい表情で書状を読んでいた理由がわからなかった。

「貴方、色々と込み入った事情を抱えていた様ですわね」
「深窓で育った身ですので、自身のあずかり知らぬ処で色々としがらみがある様です。差し障りがないのでしたら、教えて頂けませんか」
「仕置場に、貴方の助命を願った伝令が来ましたわよね」
「ええ。心当たりがありませんでしたので、不思議に思っていたのですが」
「弗栗多が、書状の主を召し出して詮議にかけましたの」

 計都は、若衆の助命嘆願を出した庄屋の事と、その詮議の顛末を話した。

「そ、そんな……」

 自分の出自を知った若衆はその場に崩れ落ち、膝を付いた。

「私は妾腹で、生母は既に亡き者と聞かされていたのですが、まさか父の不徳の為に生を受けた身とは……」
「貴方の責ではありませんわよ。さあ、お立ちさないな」

 計都は若衆に慰めの言葉を掛けると、手を差し伸べて立ち上がらせた。

「その、生母の夫であった庄屋とその一家ですが、死罪は覆らないのでしょうか?」
「小生としては、貴方の助命だけでも随分と筋を曲げさせましたもの。これ以上、弗栗多に無理は言えませんわ」

 師弟関係を利用して勅意を曲げさせる事は可能だが、むやみに行うべきではない事は計都も承知している。
 まして、庄屋一家の処断については一罰百戒の好機として、計都にとっても支持できる物だったので、それを撤回させる必要は感じなかった。

「庄屋は貴方を案じてなどおらず、むしろ疎んでいたのですわよ。嘆願も体裁を取り繕う為だけにした事ですわ。貴方が庇う必要などありませんのに、何故ですの?」
「形だけでも、私を救おうとしたのです。私のせいで苦しむ者が出るのはもう沢山です!」
「貴方の助命を願った事が咎という訳ではありませんわ。那伽摩訶羅闍の詮議で偽りを答えた事が万死に値すると、弗栗多は判じましたの」
「きっかけが私だった事に変わりありません。いっそ、あの時仕置を受けていれば……」
「それは困りますわ。小生にとって、そして新しき世にとって、貴方はとても役に立ちますもの」
「それですが、一体私に何をさせようというのですか? ここで行われるという掛け合わせには、門外の徒である私は全く役に立たないでしょう」

 若衆は、勅使の来訪で遮られた問いを、今一度計都に尋ねた。

「いいえ。知識はこれから身につければ良いのですわ。小生が目を付けたのは、貴方の身体ですの」
「身体? しかし、私は男子としては……その……」

 若衆は、自分が求められている理由に思い当たり、驚くと共に戸惑った。
 若衆の男根は包皮を被り、大きさも小指程もなく、これまで隆起した事が全くない。
 また、子種を生み出す睾丸も備わっておらず、牡としては不具の身体だったのである。
 戸惑っている若衆を見て、計都は可笑しそうに笑いながら否定した。

「貴方が思い浮かべたのは、掛け合わせの胤として使われるのではないかという事ですわね? 違いますわよ」
「え?」
「貴方が男子として不能という事は存じていますわ。だからこそ、貴方には常人にない資質がありますの」
「どういう事でしょう?」
「ついていらっしゃいな」

 計都は若衆を連れて表に出ると、倉の建ち並ぶ一画を抜け、長屋の様な建物へといざなった。
 堅牢そうではあるが、構造は簡素で全く飾り気がなく、下級の船方や沖仲仕が寝泊まりする為の物にも見えるが、長屋の特徴である、建物正面にいくつも並んだ玄関口がない点が目立つ。
 中央と左右の両脇の三カ所のみに出入り口がある為、共同の住居という訳ではなさそうだ。
 また、真新しい為、九鬼水軍の手による物ではなく、龍神側の手によって建てられた事が伺える。
 役場の類であれば多少なりとも装飾に気を遣って威厳を持たせそうな物だが、そういった配慮がこの建物には全くない。
 余計な手間を掛けず、安価に早く建てる事を主眼としている様に思われる。

「これはどういう物でしょう?」
「まずは中をご覧なさいな」

 計都に促されて若衆が建物の中に入ると、そこは一面の板間になっており、大勢の裸体の女が敷かれた布団の上に横たわっていた。





[37967] 6話「阿修羅の学師」その12
Name: トファナ水◆34222f8f ID:ef08af38
Date: 2014/06/17 21:19
 女達は全員、天竺の民の特徴である、漆黒の肌をしていた。
 歳は三十代半ばから四十代前半位の壮年に見え、子を孕ませるにはやや薹(とう)が立っている様である。
 背丈は小柄な者もいれば長身の者もいるが、極端な肥満や痩身はなく、中庸な肉付きだ。
 無表情のまま、焦点の合わない濁った眼を天井に向け、口を開いて身動きをせずに仰向けとなっている様子は屍を思わせるが、胸が上下し呼吸をしている事で、生きている事がはっきりと解る。
 頭と下腹部が剃毛されているのが目を引くが、手入れの面倒を防ぐ為だろうと若衆は推察した。

「これが、白痴を産ませる為の牝贄ですわ」
「牝贄……」
「これは人間ですけれども、言葉も解さぬ畜生ですわよ。貴方とは違いますわ」

 ”牝贄”と称した計都の言葉を聞き、若衆は横たわる女達があくまで家畜として扱われている事を実感したが、今ひとつ割り切れる物ではない。
 だが、計都に念を押された事で、若衆は気持ちを切り替える事にした。

(贄を食さねば、神属は生きられない。民の内から人身御供を出さずに共に暮らす為には、仕方のない事なのだ……)

 若衆は、白痴の家畜化自体は受け容れざるを得ない物として、気になった点を尋ねる事にした。

「元服している子がいても可笑しくない位に齢を重ねている様に見受けられますが、孕ませても大丈夫ですか?」
「ええ。この贄舎にいる牝は、掛け合わせの末に、確実に白痴を産み出す様になった最初の代ですの。齢十五から孕ませますから、既に二十年、国元で子を産ませ続けていますわね」

 感情を整理して実務的な質問をした若衆に計都は感心し、情より理を重んじる事が出来る人材であると満足した。
 情に流される者には、重要な役割を与える事が出来ない。

(贄舎の中を見て取り乱すかと心配しましたけれども、これなら見込みがありそうですわね)

「さらに若い人……いえ、牝贄もいる訳ですか」

 ”人”と言いかけ”牝贄”と正した若衆に、計都は微笑んだ。

(それで良いのですわ)

「ええ。飼う上で、同じ棟には同じ歳の贄を固めていますのよ。まだ贄舎を建て始めたばかりですから、旧い代の牝贄から先に石化を解いていますの」
「何故、旧い代からなのでしょう?」
「後四、五年もすれば、早い物は月の障りが閉じて、子を産めなくなりますの。役目を果たせなくなった牝贄は屠って食する事になりますわ。白痴の贄が充分殖えるまでは、捕らえてある咎人の蓄えでしのがなくてはなりませんから、多少なりとも足しになりますの」

 母胎として使えなくなれば、処分を兼ねて贄として食われるという。
 和国では家畜の寿命が尽きるまで飼育するのが普通なので、天竺とは家畜に対する考え方が根本から違うと改めて思い知らされた。
 天竺では、家畜はあくまで”道具”であり、畜生と言えども生ある物として憐憫の情を抱くという様な事はないらしい。
 この白痴達は、贄を産み出す、ただその為だけに生かされているのだ。

「眼を開いたままですが、眠っているのですか?」
「法術で意識を抑えていますのよ。気ままににさせておくと面倒ですもの」

 確かに一日中寝かせておいた方が、養う側としては楽で良い。
 食事の量も少なくて済むであろうし、行動に眼を光らせる必要がない。
 飼う側の都合を優先し、わずかな自由すら与えない。龍神の徹底した合理性が伺えた。
 しかし、生きている以上、食事や排泄は必要である。眠ったままではかえって不都合ではないのかとの疑問が、若衆に生じた。

「眠ったままで、食や便はどうしているのです?」
「丁度、その問いの答えが見えますわよ」

 計都が指さした先で、寝ている牝贄の内の一人が起き上がり、ゆっくりと歩き出すと、玄関から外へ出て行った。
 無論、裸体のままである。

「どうしたのでしょう、あれは?」
「厠ですわ。便が溜まった時は自分から起きて用を足す様に、脳に法術で植え付けてありますのよ。餌も一日二回、起き上がって自分で食べる様になっていますわ。汗や垢を落とす為の沐浴も、毎日させていますのよ」
「法術とは、人の動きを操る事もできるのですか」
「ええ。決まった日課をこなさせるだけなら、予め、脳にどう動くか、何をするかを植えれば済みますの。智恵が乏しい白痴であれば、とても容易ですわよ」
「手間を掛けずに贄を養えるしくみが整っている様ですが、私は本当に必要なのでしょうか?」

 若衆は白痴を飼う様子を見て、自分が何故ここに必要なのかが全く解らなくなった。
 しかもそれは、自分が男子として不具であればこそ出来る事なのだという。

「貴方には、牝贄へ胤を付けるお手伝いをして頂きたいのですわ」
「ですから、私は胤としては不具で……」
「貴方自身の胤ではありませんわ。牡贄から胤を搾り、牝贄の胎へと注ぎますの」
「つまり、贄の牡牝は直に交合させず、牡贄から手慰みで腎水を放たせ、それを集めて牝贄の女陰に注ぐ訳ですね。しかしその位の事は誰でも出来るのではないでしょうか?」
「確かに、従来はそうしていましたわ。けれども、法術を行使出来る資質と、男子として不具の身体。希有な二つの才を併せ持って産まれた貴方がいれば、より良い手法を採れる様になりますの」
「私が……法術を?」

 法術、神属が使う不可思議な力を使う才覚があると聞かされた若衆は、怪訝な顔をした。

「確かに法術を行使出来る程の強い霊力を持つ人間は少ないですけれども、それ自体はそれほど驚く様な事ではありませんわ。修験者や陰陽師という人間の術者が、和国にもいる事は御存知ですわね」
「ええ……」

 確かに、その様な存在は知っているし、実際に会った事も幾度かある。
 また、龍神の夫という一揆衆の頭目に至っては、妻を越える力を備えているとも聞いていた。
 自分もまたその様な、常人ならざる者の一人だと言われれば、助命されて厚遇を受けている事も納得がいく。
 だが、それと男子としての不能とが、何の関連があるのだろうか。

「貴方の様な身体でなければ行使出来ない法術があって、それが胤付けに大いに役立ちますの」
「陰陽道には男女の交合によって行う秘術があるとも聞きますが、その類ですか?」
「術の体系としては異なりますけれども、多分似た様な物ですわね」
「昨日の白虎が、死よりも辛い事だと言っていましたが、一体どの様な……」
「どう受け取るかは、貴方次第と思いますわよ」

 意味ありげに微笑む計都に、若衆はどの様な術を使わせられるのかと不安を覚えた。




[37967] 6話「阿修羅の学師」その13
Name: トファナ水◆34222f8f ID:ef08af38
Date: 2014/07/05 11:01
 計都と若衆が屋敷へと戻ると、先程の家人が出迎えた。

『施術の間は使えるかしら?』
『はい。では、この者を?』
『答え次第ですけれどもね』
『応じるでしょうか?』
『これは理を重んじる質(たち)ですわ。ですから、応じると思いますわよ』

 梵語で短くやり取りすると、計都は家人と共に、若衆を屋敷の脇にある小さな離れへといざなった。
 離れの扉を開くと、およそ十二畳程の室内の床は石畳となっており、壁の三方に置かれた棚には多くの瓶や壺、書物、そして小間物の類が並べられている。
 そして中央には敷き布団程の大きさの、長方形の卓が鎮座していた。

「ここはどういった部屋でしょう?」
「”施術の間”ですわ。重い病や怪我に冒された患者に、治癒を施す為の部屋ですの」
「では、この卓はいわゆる寝台ですか」

 寝台とは、寝床として使う為の卓である。
 床面に直に布団を敷くのが慣習の和国ではほとんど見られないが、舶来の珍品として、物好きな富裕層が明国産の寝台を愛用する事もある。

「ええ。これに患者を寝かせた方が、床に寝かせるよりも施術し易いのですわ。床が石畳なのも、血で汚れた時に掃除しやすい様にする為ですの」
「よく考えられていますね」

 若衆は、用途に併せて工夫された合理性に感心した。

「導師計都。早速ですが、これを診させて頂きたいのです」
「そうですわね。この場は貴女が仕切りなさいな」
「導師を差し置いて、宜しいのですか?」

 計都の言葉に、家人は困惑した様子を見せた。
 貴重な素材を、一門の長である計都が自ら扱わずに、若輩の学徒に任せるのは珍しい事である。

「ええ。小生が何もかも自ら指図しなくてはならないというのでは、困りますものね」
「承知しました。では、貴方。衣を脱いで、寝台で仰向けになりなさい」
「裸、ですか?」
「身体を診たいのです。脚を大きく開いて、股間をよく見せなさい」

 若衆は言われるままに素裸となり、寝台に仰向けで開脚する姿勢を取った。

「ふむ、ふむ……」

 家人は若衆の股間に顔を近づけて凝視すると、下腹部、そして陽根に指を這わせて弄りはじめた。
 用をなさない矮小な陽根を弄ばれているにも関わらず、若衆には羞恥心がわかなかった。
 家人には嘲りも発情もなく、ただ医師として診察する様子が感じられた為である。

「どうかしら?」
「導師のおっしゃられた通り、彼はまさしく適しています」
「どういう事でしょう?」

 若衆が挙げた疑問の声に応え、家人は説明を始めた。

「交合の用を為せぬ程に小さいとはいえ、陽根が備わっているという事で、貴方はこれまで男子として扱われていましたね」
「はい」
「だが、実はそうではないのです」
「ええっ! で、では、私は女だとでもいうのですか?」

 驚きの声を挙げた若衆に、家人は首を横に振った。

「いいえ。貴方は極めて希有な、いずれの性も持たぬ身体なのです」
「男でも女でも、ない……」

 家人の宣告に若衆は呆然となり、次いで己が出来損ないの不具であるという思いが、心に重くのしかかってきた。

「……その様な身体が、何の役に立つのでしょう?」
「我々が贄とする為に、人間の白痴を造り出して殖やそうとしている事は御存知でしょうか」
「つい先刻、計都師から教えられました」

 若衆の言葉に、計都も無言で頷いた。

「ならば結構です。我々は掛け合わせによって、人間の亜種として贄たる白痴を造り上げました。次に為すべきは充分に増やす事ですが、このままではさらに長い時を費やさねばなりません」
「人間は育つのに時を要するからですね」
「その通りです。ですが、胤に対して法術によって手を加える事により、ある程度それをやわらげる事が出来るのです。失われた技ですが、古文書を読み解く事によってその片鱗を蘇らせる事が出来ました」
「どの様な事でしょう?」
「まず、腹の子を割って増やす事が出来ます。流れない様に育つには三つに留めた方が良いかと思いますが、理屈ではいくらでも割れます」
「つまり、三つ子を身ごもらせるという訳ですか」
「ええ。次に、胎の中で子が早く育つ様に出来ます。常ならば孕んでから産まれるまで十月余りかかるのが、五月程に縮める事が出来るのです」

 腹の子を三倍に増やし、さらに産まれるまでの期間を半減させる事が出来れば、牝贄一体で、本来の六倍の子を産ませる事が出来る事になる。

「本来はもっと様々な事が出来た様ですが、残念ながら古文書から読み取れたのはそこまでです。ですがこれだけでも、大きな事なのです」
「私に、そんな事が出来るとは……」
「ええ。そのままでは無理ですから、少々、貴方の身体を作り替えたいのです」
「作り替える?」
「牡贄から搾った腎水を取り込み、貴方の体内で法術によって手を加えて牝贄に注ぐ。その為には、交合が出来る身体になる必要があるのです」
「私に、あの白痴達とまぐわい、子を為せというのですか?」

 男子として交合出来る身体となる。
 不具としての劣等感を抱えて生きてきた若衆だが、その目的を考えれば、決して喜ばしい物ではなかった。

「ええ。しかし胤が違うのですから、貴方の子という訳ではありません。貴方は”術者”として、神属と人間が共に暮らす”新しき世”の為に贄を増やす役割を担う。ただそれだけです」
「それだけ、というのは語弊がありますわね。那伽摩訶羅闍の民を養う贄、その生育に欠かせない、とても大切な役目ですわよ」
「も、申し訳ありません!」

 計都の指摘に、家人は慌てて謝罪した。
 資質を要する事でなければ、虜囚に任せる事などあり得ない位に、神属の命の糧である贄の繁殖は重大な役割なのだ。
 
「必要な事だとは解りますが……」

 理では解っても、言葉もままならない女性達と交わり、食われる運命の命をはぐくむ役割を担う事に対して、若衆には戸惑いや迷いがあった。

「一揆衆に加護を与えるにあたり、齢七歳までの童を贄として差し出させたのは御存知ですわね?」
「え、ええ……何とも惨い事とは思いましたが……そこまで民を追い込んでしまったのは神宮ですし……貴方方が生きる為に贄を欲するのも摂理としてやむなき事ですが……」

 計都が唐突に切り出した話題に、若衆は口を濁しつつも答えた。

「神宮から得られた虜囚を全て費やしても、このままでは、白痴の数が揃うまでには贄の不足が生じますの。留め置きしていますけれども、差し出させた童の石化を解き、白痴同様に眠らせたまま贄として育てる事も考えねばなりませんわね」
「それは!」

 若衆が協力しなければ、龍神が民に差し出させた幼子達が、さらなる犠牲として加わる事になる。
 若衆に決断を促す為、計都が加えた恫喝である。
 民を思う優しい性分であり、神宮の悪政に責任を感じている若衆であれば折れるであろうと計都は見込んだが、意外な答えが戻って来た。
 
「お国から贄を運んで来る訳には行かないのですか?」
「なる程、和国の婆羅門様は、他国の民であれば食われても良いとおっしゃいますか」
「い、いえ……そんなつもりでは……」

 家人が当てこすると、若衆はしどろもどろになってうつむいたが、計都はにこやかに応じた。
 追い詰めてもなお、材料を探して切り返して来る若衆の態度に感心したのである。
 
「貴方が小生の門下に加わった上で、贄への胤付けに助力して下さるなら。童達を贄とせずに新しき世の民として相応しくなる様、一門の手で大切に養育しますわ」

 若衆次第で助命する、言い方を変えれば童を助けたければ従えとの答えだったが、彼には別の事が気にかかった。

「童を親元へは返さないのですか?」
「ええ。集めた童は全て、新しき世の民。那伽摩訶羅闍の臣民ですもの」

 若衆は、龍神が贄を差し出させた目的が、彼女達の欲する世を造り上げる為、これまでの世に生きてきた親から幼子を引き離し、世代の連鎖・継承を断ち切る事にあると理解した。
 今の民が老いて死に絶え、龍神達の手で育てられた民で占められる様になった後の伊勢は、現在とは全く異なる様相になっているであろう。
 それを踏まえ、自分の価値が龍神にとってかなり高い事を確信した上で、若衆は自らの望みを取引として持ち出す事にした。

「ならば、一つお願いがあります」
「何かしら?」
「私が従う代わりに、新しき世には贄として民から集めた童の他、捕らえられている神宮の子女も加えては頂けませんか。このまま親の罪に連座させるのは、あまりに辛いのです」
「貴方が助命したいというのは、神宮の童達の事でしたのね?」
「はい。悪政に何の責もない幼子には、どうか御慈悲を!」
「当人にはお気の毒ですけれども、駄目ですわね」
「竜神……那伽摩訶羅闍の意に背くからでしょうか」

 計都の回答は先程同様に冷淡だったが、若衆は諦めず、さらに問いただした。

「そも、弗栗多にそうする様に説いたのは小生ですもの」
「幼子が何をするというのです!」
「平治の乱の折。破れた源氏側の将の嫡子は、慈悲をかけられて助命された後、平家の世に不満を持つ者に担ぎ出されて天下を奪い返しましたわね。同じ事を起こさない為に、禍根は断たねばなりませんの」
「当人の意思に関わらず、神宮に縁(ゆかり)あるというだけで、御輿として担ぎ出されかねないという訳ですか……」
「お解り頂けたなら、諦めもつきますわね」

(何か……何か手はないか……)

 若衆は計都の答えを受け、神宮の子女が生き得る道がないかを少し考えた後に、言葉を続けた。

「ならば、今でなくとも後の世、貴方方の下で天下太平となった後であれば、神宮の復権を目論む者も絶えていましょう。その様な世でも、一介の民草としての末席すら、神宮の子女と言うだけで与えられないのでしょうか?」
「立場を弁えなさい。己が助命され、さらには門下に加われるだけでも過分な報いというのに、なんという大それた望みでしょう」
「その様な事を言ってはなりませんわ。これはただ懇願するだけでなく、考慮に値する案を示して来ましたのよ」

 食い下がる若衆を家人は責めたが、計都はそれをたしなめた。

「小生達は幕府、そして皇家をいずれは廃し、和国全土を版図に加えますわ。それが達せられた後に百年を経た暁には、齢一つに満たない赤子については石化を解き、新しき世に迎えても宜しいですわよ」
「民に差し出させた童は七つまで。神宮の子女にも、同じ歳まではどうか御寛恕を」
「物心がついている童は、成長した後に自ら仇討ちを企てるかも知れませんわ」
「”三つ子の魂百まで”という諺(ことわざ)があります。故に、それに満たぬ幼子には、物心が備わっているとは言えません」
「そうですわね。では、齢三歳に満たぬ幼子で線を引きますわ。この件に関して貴方が求める対価は、それで宜しいですわね?」
「解り、ました……」

 計都の示した回答を、若衆は言葉をつかえつつ承諾した。
 譲歩を引き出し、多くの神宮の幼子を連座から救った若衆だが、切り捨てる事になった齢三歳より上の者を思うと心が痛んだ。

(私にはこれが精一杯だった。どうか許しておくれ……)

「では、これをお飲み下さい」

 家人が若衆に、大きな杯を差し出した。

「何でしょう?」
「芥子の実から造った眠り薬です。そのまま施術すると痛みが伴いますので。眼が覚めた時には、貴方は新たな身体となっています」
「新たな身体……」

 杯を飲み干した若衆は、程なく眠りに落ちていった。


*  *  *


 三日後。
 寝台の上で目覚めた若衆の眼に、顔を覗き込んでいる家人の顔が映った。

「お目覚めですか?」
「ええ……施術は、その、どうなりました?」
「成りました!」

 若衆が恐る恐る問うと、家人は上機嫌に答えた。
 これまで若衆には怒りや侮蔑の顔ばかり見せて来た家人が、初めて見せる明るい表情である。
 若衆は股間に手をやったが、陽根は元の小さい寸のままだ。

「どこといって変わった処は……」
「もう少し下を触ってみて下さい」

 言われるままに、若衆が陽根の付け根からさらに下へと手を伸ばすと、ぬめりの感触が指に伝わると共に、股間に奇妙で心地良い刺激が加わった。

「な、何ですか、一体!?」
「これでよくご覧下さい」

 渡された手鏡を股間に向けた若衆は、映された物を見て仰天した。
 小さな陽根の付け根が、牡蠣(かき)や鮑(あわび)の殻を開いた中身の様になっていたのである。

「私はどうなったのですか? この貝のむき身の様な、面妖な股は……」
「牡贄と交合し、胤を体内に取り込む為に女陰を開けたのです。交合出来る身体にすると言いましたよ?」
「…………」

 考えてみれば、交合が出来る身体にするという話だったが”男子として”とは言われていなかった。
 一応は男子として生育していた若衆は、己が身に起こった事に、しばらくの間無言で呆然としていた。



[37967] 6話「阿修羅の学師」その14
Name: トファナ水◆34222f8f ID:ef08af38
Date: 2014/07/07 06:11
「落ち着きましたか?」
「ええ……」

 家人の声に、若衆は力なく答えた。
 和国に限らず、大抵の国では男子の導きに女子が従うのが常だ。
 神宮においても、神職に就く資格があるのは男子のみで、巫女たる女子は補助的な立場におかれている。
 女にされたという事は、赦免されたとはいえ、社会的に従属的な立場に置かれた事を意味すると若衆には思えたのである。

「では、これを着てついて来なさい」

 若衆は差し出された白無地の浴衣を着せられると、家人に案内され、施術前に見せられた贄舎に隣接する同じ形をした建物へと入った。
 外観同様、中の造りも先日の贄舎と同じで、やはり裸体で剃髪された、漆黒の肌の天竺の民らしき贄が十体程横たわっている。
 異なるのは、それらの贄が十歳前後の童であろう事、そしてその股間に陽根が備わっている事である。
 陽根は成年の男子と変わらぬ寸で、先端の包皮も被っておらず、幼い身体に不釣り合いな逸物だ。

「こちらの贄は、男、いえ、牡ですか」
「はい。こちらの棟は、胤を搾る為の牡、いわば胤贄を飼っています」
「牝贄と違って、随分と幼いですね。大人でなくて大丈夫ですか?」
「牝は充分に育つ前に孕ませると子が流れやすいのですが、牡は胤を搾るだけですから、早ければ齢八歳程から用をなすのです」

 人間は早熟であれば八歳頃から、男児は腎水が漏れ出す様になり、女児は月の障りが始まる。 
 幼少の女児が孕んだ場合、母子共に危険が高いのだが、男児の方はその心配がない。
 夫を失った後家が、肉欲を満たす為に幼い息子と交合して孕んでしまうという話は時折耳にする物だ。
 だが、贄の幼さに若衆が感じた疑問は、用を為せるかどうかではなく、先日受けた説明との矛盾にあった。

「使えるとは思いますが、先日の話では、老いて用済みとなれば贄とする為、年嵩(としかさ)の白痴から先に目覚めさせているという事でしたので」
「牡と牝では条件が異なるのです。白痴を人間の亜種として確立された後も、胤贄は、さらに世代を経て厳選した物を胤として使います。随時入れ替えて、子孫がより優良な贄となる様にしている訳です」
「用の済んだ胤贄はどうなります?」
「掛け合わせの調整を行う場合に備え、石化して保存してあります。ここの胤贄達も、次の世代と入れ替える際には石化して、使う時のみ元に戻して歳を取らぬ様にしますから、役目を果たせなくなって贄とされるのは当面先……早くても数百年の後でしょうね」
「胤の選に漏れた牡が贄となるのですね?」
「はい。専ら食卓に供する為として養われ、齢十六から十八歳の間で屠畜します」

 若衆にも答えは解ってはいたが、あまり気持ちの良い物ではなかった。

「今日は、この胤贄を搾ります」

 家人は、部屋の最も隅に寝ている胤贄を示した。
 他の胤贄と違い、この一人だけは陽根が隆起している。

「体内の胤が満ちると、牡はこの様に勃ち、交合を欲する様になるのです」

 家人は若衆に、胤贄の下腹部に顔を近づけ、よく観察する様に指示した。
 若衆が言われたままに牡の象徴を間近で見ると、反り返って逞(たくま)しくそそりたち、激しく脈打つ様子がよく解る。
 根元に下がった陰嚢には大きな二つの睾丸が収まり、ゆっくりと動きながら胤を造り続けている。

「触れてごらんなさい」

 家人に言われるまま逸物に触れ、その熱さと堅さを指に感じた若衆は、複雑な思いに囚われた。
 白痴ですら立派な物が生えているというのに、自分には備わっていなかった。
 男子としての不具に悩み続けたあげく、ついには女にされてしまったのだ。

(私に、この様な立派な物が生えていれば……)

「欲しい……」
「では、早速始めましょう」
 
 陽根を羨(うらや)むあまりに若衆が発した一言を、家人は聞き逃さずに、すかさず指を鳴らした。
 その瞬間、若衆の浴衣はほどけ、彼の身体は独りでに四つん這いの姿勢を取った。

「な、何をしました!」
「今よりこれと交合して、胤を搾り取ってもらいます」
「いきなりは酷いですよ!」
「”欲しい”と言ったではありませんか。こういう事は、気分が向いている内にした方が良いのです」
「い、いえ、それは……ひっ!」

 突然に背後から尻をつかまれた若衆は、思わず悲鳴をあげた。
 振り返ろうとしたが、法術で拘束されているらしく身体が動かない。

「胤贄の脳には交合の動作が刻んであります。そのまま身を任せなさい」

 抵抗もかなわぬままに若衆は、幼い胤贄から腎水を体内に注がれ続けた。
 交合はおよそ一刻に及び、若衆は女陰から生じる快楽をこらえきれずに、獣の様なうめき声を挙げるのだった。


*  *  *


 腎水を出し切った胤贄は、しがみついていた若衆の尻から離れると、床に戻って元通りに横たわった。体力を使い果たしぐったりとした様子で、逞しかった陽根もすっかり萎えている。
 それと共に身体の自由を取り戻した若衆は、傍らに落ちていた浴衣を拾うと、立ち上がって着衣した。
 その際、下腹部が拳程に盛り上がり、梵字らしき文章が書かれている事に気付いた。

「私の腹はどうなったのでしょう?」
「貴方の腹には、牝の子袋にあたる部位が設けられています。子を孕む為ではなく、中に搾った腎水を溜める為の物です。文字は、胤に手を加える為の術式を透かし彫りにした物で、人間と交合した時にのみ浮き上がり、作用する様になっています」

 術者として胤付けを手伝えと言われていたのだが、法術を学ばずとも役務には支障がないらしい。
 持って生まれた資質のみが必要だったのだと、若衆は理解した。

「神属等の異種が相手ならば作用しませんが、普通の人間と交合する際には注意して下さい。そういう場合は、術式を一時的に無効にする呪符をはるのです」
「私は男として育ちましたので、役目としてならともかく、望んで男子と交わりたいとは思いません」
「その辺りは好き好きですが、では今の交合はどうでしたか?」
「どうにも見苦しい処をお見せしました……交合があまりに心地良い物だったとは……」

 心で嫌悪を感じながら、肉体で快楽を感じてしまった事を、若衆は苦しげに吐露した。

「肉の快楽は、生きている証ですから恥じる事はありません。私を含め、健やかな者であれば誰しもそうなのです」
「貴女も?」
「ええ。一門に生娘はいません。それに純潔、不犯を尊ぶ風習は補陀洛の神属にはなく、快楽は大いに愉しむべきとされています。ですから、今の事で身が穢れた等とは考えない様にしなさい。役割の余録の様な物ですから」

 若衆としては、”女としての”交合で歓喜を得てしまった事で自己嫌悪を感じていたのだが、女性である家人にそれを言うのははばかられた。

「それよりも、今の交合で贄に情はわきましたか?」
「いいえ」

 厳しい顔で尋ねる家人をいぶかしみながらも、若衆は率直な感想を口にした。
 当人の意思ではないといえ、自分を女として犯した牡に、情などわくはずがない。
 また、激しく交わった後では、贄の備える陽根に、ますます嫉妬を感じている。
 若衆の返答に、家人は是として頷いた。

「ならば結構です。交合の事を情交、即ち、肉の交わりをもって心を通わせるとも言いますが、贄はあくまで畜生。そうですね、後家が手慰みに使う張型の様な物とでも思っておけば良いかと思います」
「ま、まあ、そう考えれば多少は気が紛れますね……」

 ”贄は畜生であり人間ではない”との認識に、若衆は徐々に追い込まれていた。




[37967] 6話「阿修羅の学師」その15
Name: トファナ水◆34222f8f ID:ef08af38
Date: 2014/07/20 23:08
 胤に手を加える術式が効果を終えるまでには、およそ半刻程かかる。
 若衆は”施術の間”に家人と共に戻ると、寝台に横たわって休む様に指示された。
 
「私は女になったのですよね……」
「そうですね。今後は、女として過ごしてもらう事になります」
「そうですか……」
「不満かも知れませんが、貴方の身を護る為、導師や一門の主だった者と相談して決めた事です」
「身を護る?」

 性を変えられた事と、己の身を護る事に何の関係があるのかと、若衆は訝しんだ。

「貴方が赦免され、生かされている事を快く思わない民は多いでしょう。ですから、貴方はこれより宮司の嫡男ではなく、別人として生きるのです。その為には、女である方がより都合が良いでしょう」

 身体の変化にばかり意識を向けていた若衆は、改めて己の立場を思い出した。
 仕置場に集まった観衆達は、若衆の死を心から喜んでいたのだ。
 赦免され、門下として計都の庇護を受ける様になっても、神宮に対する怨恨を抑えきれずに危害を加えようとする者がいるかも知れない。
 ”名を捨て、性を変えて別人となれば、民からの害意を避けられる”という、計都達の配慮だが、若衆にはさらなる不安がよぎった。

「名と性を変え、女の装いを纏っても、私の顔は仕置場で衆目を浴びています。見咎める者がいるかも知れません」
「勿論、それも考えています。顔をご覧なさい」

 先刻、股間を見る為に使った手鏡を、再び手渡された若衆は、自らの顔を見て絶句した。
 そこに映っていたのは自分ではなく、年頃こそ同じだが、見覚えのない若い女の顔である。
 酌婦や遊女であれば多くの客筋がつくであろう、男の色欲をかきたてる艶やかな顔立ちだ。

「これは、誰、ですか…… わ、私の顔は一体?」
「ご覧の通り、貴方です。女陰を開ける施術の際、顔にも手を加えて作り替えたのです」

 やっとの思いで言葉を発した若衆の問いに、家人は事も無げに答えた。
 確かに、女にされた事を考えれば、顔を作り替える事が出来ても不思議ではない。

「この様な事も、出来るのですか……」
「はい。私達一門は、施術で容貌を作り替える技を持ちます。これは本来、醜く生まれついてしまった者や、怪我や病で二目と見られなくなった者の為に編み出された技です」

 若衆は、顔を作り替えられた事については、嘆きも怒りも感じなかった。
 別人になる為に必要と言われれば、確かにその通りである。
 民から憎しみの目で見られずに済むのであれば、甘受すべき事と若衆には思えた。

「ん?」

 若衆はふと、陽根が腫れ上がっていくのを感じた。
 皮膚が突っ張り、痛みが走る。
 目をやると、浴衣の股間が大きく盛り上がっていた。

「どうしました?」
「あの……股が腫れて来て……」

 家人の問いに、若衆は言いにくそうに症状を訴えた。
 裸どころか交合まで見られた相手であっても、下の事は話しにくい。

「問題ありません。術式が腎水に手を加え終わって、胤付けの手筈が整ったのです」
「胤付けの手筈、ですか?」
「わかりませんか? 女陰と交合して胤を胎に注ぐ為に、男根が隆起したのです」

 首をかしげる若衆に、家人はやや呆れ声で説いた。
 健全な男子であれば陽根の勃起は自然に起こる事なので、その様な問いを返して来る若衆があまりに無知に思えたのだ。
 しかし、生まれついての不能である若衆にとっては、初めての体験である。

「しかし、私の物は用を為せる様な代物では……」
「ほら、立派な印が生えていますよ?」

 家人は若衆の浴衣の裾をまくり上げ、男根を露わにした。
 先刻まで矮小な肉芽に過ぎなかった若衆の陽根は、赤子の腕程の太さとなって寸も伸び、反り返って屹立している。

「私は……女に造り変えられたのではなかったのですか?」
「暮らしの上では女となってもらいますが、肉体はそうではありません。女陰を開ける施術と共に、男根も交合が出来る様に手を加えたのです。いわゆる二形(ふたなり)ですね。胤贄から搾って体内に取り込んだ腎水を牝贄に注ぐには、男女を一身に併せ持つ必要があるという訳です」
「………」

 艶やかな女の顔に、乳房を持たず平たいままの胸。
 股間には女陰と陽根を併せ持つ。
 若衆は今や完全に、白痴を殖やす為に造られた異形となり果てていた。
 



[37967] 6話「阿修羅の学師」その16
Name: トファナ水◆34222f8f ID:ef08af38
Date: 2014/08/03 22:33
 若衆が施術による眠りから目覚めた頃。計都は仮宮に弗栗多を訪ねていた。
 座敷に通され、出された茶を飲みながら四半刻程待つと、緊張した顔つきの弗栗多が姿を現した。
 
「師よ、お待たせしたのじゃ」
「あれの身柄を下さった事、感謝していますわよ」
「うむ」

 要請に応えた事に対する師の謝意に、弗栗多は君主らしく鷹揚に答えつつも、内心では安堵した。
 行商人を装っての尾州行脚の際、弗栗多は重大な失態を犯していた。
 香巴拉との戦から落ち延びて和国に流れつき、祭神としてとある農村に落ち着いていた、先代那伽摩訶羅闍に仕えていた宮廷女官を庇護出来ずに死なせてしまったのである。 ※4話「夜叉の鎮守様」参照
 計都はその報を受けた際、哀しげで鋭い視線を弗栗多に向けて押し黙ったままだった。
 直接に罵声を浴びせる事は決してしない計都だが、内心は怒りと落胆に満ちていた事は疑いなく、弗栗多は血が凍る思いをした。
 計都の怒りは単なる感傷ではなく、戦乱当時の補陀洛を直に知る者を庇護出来れば、失われた情報や技術を回収するきっかけになり得たのだが、それを逃してしまった事を学者として惜しんだ為である。
 その様な事があったばかりなので、弗栗多は、この世で唯一畏怖している師からの不興を、再び被る事だけは何としても避けたかったのだ。
 
「師の申し入れとあらば断れぬでな。それに使い途を考えれば、少々の筋を曲げるのもやむを得ぬじゃろう」
「無辜の民を食さずに贄を得る仕組みは、出来うる限り速やかに整えるべきですものね。あれが手に入ったのは僥倖でしたわ」
「贄が足りねば、他州へ戦を仕掛けて虜囚を得る事も考えねばならぬからのう」
「他州もいずれ併呑し、和国全土を版図に加えるとは言う物の、贄の不足で戦を仕掛けざるをえなくなるのは好ましくありませんものね」
「救民、世直しという大義が通らぬ戦はしとうないでな」

 那伽摩訶羅闍は、単に力強い覇者として恐怖されるのではなく、和国を慈悲深く善導する存在として民から畏敬されなければならない。
 元々圧政が敷かれていた伊勢では大義が成ったが、救民を掲げて他州との戦に臨むには入念な仕込みが必要である。
 飢えに追われて戦端を開いてしまえば、仕込みが不足な上に真の事情を糊塗せねばならなくなってしまう。
 伊勢の民から差し出させた童に手を付ける、あるいは補陀洛本国から贄を運び入れるという手段もあるが、弗栗多としてはそれも受け容れがたい。
 だが、特異な資質を持つ若衆を白痴の繁殖に就かせるという計都の発案により、贄の確保の為に不本意な施策をせずとも良い見通しが立った。

「それにしても、二形に造り変えるだけでなく、人相まで変えてしまうとはのう」
「当人の為ですわよ。養子とはいえ、宮司の嫡男ですものね」
「公には”養子”となっておるがの。宮司の落胤、即ち実子と知れれば、流石に民も黙ってはおるまいでな」
「それですわ。処断する庄屋一家は良いですけれども。仕置場に駆けつけた、あれの実の叔父にあたる百姓も真相を知っていますわよ。どうなさいますの?」
「箝口を命じた上、登用して新たな荘園の開拓を申しつける事とした。先代庄屋の嫡男故、読み書きや算術といった教養も身につけておるしの。あ奴も甥の助命に恩義を感じておるから、忠義を期待出来ようしな」
「取り込むのは結構ですけれども。本来であれば先代の後継はその百姓だったのに、次代の庄屋には就けませんの?」

 計都は、若衆の助命嘆願の為に使いとして散じた百姓、つまり若衆の実の叔父を、口封じを兼ねて登用するという弗栗多の方針を是としながらも、与える役目には疑問を感じた。
 元々、宮司の元で下女として働いていた先代庄屋の娘が孕まされた上で家に戻され、その事実を伏せる為に、孕んだ子を自分の子とする条件で今代の庄屋が婿入りしたという経緯がある。
 婿に家督を譲る為、嫡男として本来の継承者であった若衆の叔父は家を出されていたのだ。
 しかし庄屋一家を仕置する以上、家督の継承権は彼にある。
 空席となる庄屋の後継に据える方が、新村開拓の指揮を執らせるよりも自然な措置だ。

「”龍神様の威を借りて家督を奪い返した様に民に映りかねない”と固辞したのでな。あの村の自治は召し上げて妾が荘園とし、代官に夜叉を置く」
「固辞という事は、庄屋の評判は村の民からはさぞ良かったのでしょうね」
「養子を差し出したが故に、あの村だけは凶作にあっても徴税は手加減されておった様じゃからの」

 件の村は、”養子”として若衆を差し出した経緯から、神宮の圧制下においてもやや優遇されていた。
 一揆衆から攻撃の対象とされなかったのは、いち早く寝返って一揆の側についた為である。

「そういういきさつなら、慕われていた庄屋の後を受けられないのは当然ですわね。仕置に対する村の民の反発もあるでしょうし、代官を置いて睨みを利かせるのは妥当と思いますわ」
「うむ。夜叉を置けば豊作じゃしの。民の反発も、徐々に薄れていくじゃろう」

 一揆衆に属する村々からは弗栗多の元へ、豊作を司る力を持つ夜叉を遣わして欲しいとの請願が多く寄せられている。
 だが、現在の処は夜叉の頭数が限られている事もあり、庄屋が置かれずに弗栗多の私有領とした”荘園”のみ、統治の末端を担う代官として夜叉を配置するのが当面の方針だ。
 荘園の民のみが夜叉の加護を受けられるのは、自治を認められない代償という意味合いもあり、村々も一応の納得を見せている。

「ところで師よ。あの者は従順かや? 頑迷であれば法術で心を歪め、無理に従わせる事も考えねばねの」
「立場を弁えてはいますけれども、なかなかに強(したた)かですわよ。施術を受け、胤付けの役を受けるにあたって、見返りを求めた位ですもの」
「仕置場で醜態をさらしたと聞いておるが、よほど肝が据わっておるじゃのう」
「ええ。そして賢しいですわ。己の値を充分解っていた様ですわよ」
「して師よ。それを認めたのかや?」
「ええ。一門の長として、しかと認めましたわ」

 計都の来訪が、若衆の求めた見返りを認めた事への事後承諾を得る為と知り、弗栗多は思わず顔をしかめた。

「……難儀な物ではあるまいのう?」
「察しが良いですわね」

 若衆の要求が金銭や贅沢品の類であれば、下らぬ相手ではあるが与しやすい。
 だが、統治に関わる様な事柄の場合、おいそれと聞き入れる訳にはいかない。
 計都が仮宮まで出向いて来たからには、弗栗多の裁可を要する条件、即ち後者であるのは間違いない。

「どの様な物なのかや?」
「虜囚の内、齢三歳に満たぬ童の助命ですわ」
「童に罪がないとはいえ、傀儡に使おうとする輩が出るやも知れぬ。それは、師が妾に御教授下さった事じゃぞ?」

 計都の答に、弗栗多は困惑した。
 将来に禍根を残さぬ為、赤子に至るまで敵方を鏖殺するというのは、和国遠征に際しての原則であり、そもそも計都の教示に依て策定された物である。
 若衆の助命については、あくまで例外と位置づけていたのが、齢三歳までの童を全てというのでは、原則を根本から歪める事に繋がってしまう。

「ええ。ですから童達の石化を解くのは、和国を全て支配してより百年の後。神宮の落人や縁者が全て死に絶えてからの事ですわ」
「成る程、師も考えたのう」
「いえ。あれが言い出した事ですわ」
「ほう…… それは面白い者じゃのう。件の者もなかなかにやるではないか」

 弗栗多は、しかめていた顔を崩してカラカラと笑った。
 計都が、政の筋を曲げてまで、取るに足らぬ者の戯言に助力する等あり得ない。
 幼子を何とか救おうとして、虜囚の身でありながら計都との交渉に臨み、智恵を絞って条件を呑ませた若衆に対し、弗栗多は好感を覚えたのである。
 
「神宮に連なる虜囚の内、齢三歳に満たぬ童の助命じゃな。そういう事であればあい解った。石化を解いた後は他の童に混ぜ、分け隔てなく養育すべきじゃろうな」
「感謝しますわ」

 弗栗多の言質を得た計都は、満足そうに笑みを浮かべた。

「じゃが、件の者が賢しいならば、それ故に確実に取り込んで置かねば、いずれ叛意を抱くやも知れぬぞ」
「ええ。その為にも、今一つお願いがありますの」
「申してみよ」
「あれを縛る為の鎖が要りますの」
「鎖とな?」

 思わぬ言葉に、弗栗多は怪訝な顔をする。
 ここまでの話では、若衆は条件と引き替えに従う意思を見せたという事なのに、あえて鎖で縛り付けて使役する必要があるというのだろうか。

「ええ。那伽摩訶羅闍の世に尽くす様、あれの生涯を通じて縛る為の”鎖”を。剛にして柔な、信のおける鎖が欲しいのですわ。勿論、活仏を縛りつけている鎖程に強い必要はありませんけれどもね。」
「成る程、合点がいったわ」

 自らの夫、そして息子である一揆衆頭目を意味する”活仏”の語を聞いて、”鎖”が何を指すのかを察し、疑問が解けた弗栗多は頷いた。

「して、鎖に心当たりはあるかの?」
「目星はつけてありますわ。後は勅意として、貴女に筋を通して頂くだけですの」
「良かろう」

 弗栗多は師のさらなる要請については、先の件と異なり快く応じた。
 脅威となり得る者を取り込むにあたり、最も有効な手段である事を、身を以て熟知していた為である。


*  *  *


 弗栗多との会談を終えて仮宮を下がろうとした計都を、門前で呼び止める声がした。
 白い紗麗を身に纏った、阿修羅の学徒である。

「け、計都師、こちらにおられましたか! すぐに、すぐに島までお戻り下さい!」
「まあまあ、どうしましたの?」

 息を切らせ、上擦った声でまくし立てる学徒に、警護の兵を務める羅刹が何事かと駆け寄る。
 計都は右腕の一本を挙げて羅刹を制し、学徒に先を続ける様に促した。
 学徒は、胤付けの最中に若衆が危篤に陥った事を告げた。

「あれは今や、伊勢の治世を支える為の宝。失う訳には……!」
「大丈夫ですから、落ち着きなさいな。石化を施したのなら、差し当たり命に別状はありませんわよ」
「は、はい……」

 補陀洛に於いて石化は、重篤に陥り手を施せない患者に対する応急措置としても使われる。
 若衆の症状は、島に滞在する一門の学徒達の手に余る物だったが、石化してしまえば死に至る事は防げる為、慌てる必要はない。
 計都に穏やかな口調でそれを指摘された学徒は、やや落ち着きを取り戻した。

「その症状であれば、あるいはそうなるかも知れないと思っていましたの」
「御承知だったのですか……」
「小生がここに来たのは、手立てを講じる為でもありますのよ」
「では、目処が立っているのですね?」
「弗栗多には話をつけました。後は英迪拉から受け取るだけですわ」
「近衛筆頭殿から? 一体何でしょう?」
「ええ。あれの管轄ですもの」

 英迪拉の名を聞いて首を傾げる学徒に、計都はにこやかに微笑んだ。



[37967] 6話「阿修羅の学師」その17
Name: トファナ水◆34222f8f ID:ef08af38
Date: 2014/08/17 21:48
 若衆が目覚めると、闇の中だった。

(ここは……)

 傍らには、生暖かい毛皮の壁がある。体温と呼吸が感じられるので、生きている獣だろう。
 若衆はどうやら、これに寄り添う様にして眠っていた様だ。
 大きさからすると牛馬の類の様だが、それにしては体毛がやや長い。

(何なのだろう、この獣は? それにここは……)

 地面は板間となっているので、屋内と思われる。
 だが犬や猫ならともかく、この様な大きな家畜を屋内で飼うというのは考えにくい。
 藁等は敷かれておらず糞尿の臭いもないので、厩ではない様だ。
 何故、自分がこの様な場所で、得体の知れない獣といるのか、若衆には全く解らなかった。
 ともかく起き上がろうとすると、身動きが取れない。
 緩くではあるが、獣の脚で抱きかかえられているのが解った。
 しかし、若衆は不安を感じなかった。
 この獣が仮に肉食だとしても、食べるつもりの獲物を生かしたままにしておく筈がない。
 抱きかかえているのは、若衆を護ろうとしている為ではないかと思えたのである。

(仲間、いや、子供のつもりだろうか……)

「目を覚ませてしまったか?」

 若い女の声がしたので、他に誰かいるのかと辺りに目をやったが、闇に遮られて解らない。
 聞き覚えがある声だが、誰の物だったのか若衆には思い出せなかった。
 
「まだ癒えてはおらぬ。時は充分ある故、今しばらく眠れ」

 女の声が優しげに響くと共に眠気が生じ、若衆の意識は落ちていった。

*  *  *

 再び若衆が眼を開けると、まぶしい光がとび込んで来た。
 部屋の戸が開けられており、ほのかな風がそよいで来る。
 部屋は広めの板間となっており、奥に襖があるので続く部屋がある様だ。
 若衆は、敷かれた布団の上に寝かされていた。
 傍らにいた獣は、寝ている間にいなくなっていた。

「あれは夢……ではないか」

 夢の中の出来事かと思ったが、床に獣の毛が落ちていたので、現実だった様だ。
 
「起きた様だな」

 襖が開き、大きな白虎が入って来た。

「と、虎? それに話す?」
「話す虎は、初めてではあるまい?」

 女の声で話す白虎に唖然とする若衆に、白虎は呆れた様に応じた。
 若衆は数秒程、首を傾げて考え込んだが、その様な存在に出会った覚えがない。

「記憶がおぼつかぬとは、まだ頭がすっきりとせぬ様だな」
「ええ……」

 若衆は、ここ数日の間の出来事が全く思い出せなかった。
 ただ、この白虎に敵意や害意の類がないという事は感じられる。

「貴様は重篤に陥り、三日程伏せっていたのだ。無理もなかろうがな」
「じゅ、重篤?」

 命が危ぶまれる状態だったと知り、若衆は驚いた。
 記憶こそあやふやだが、身体には苦痛も気だるさもない。

「医術は施した故、もう心配は要らぬ」
「もしかして、添い寝して下さっていたのですか?」
「うむ」

 白虎が頷いたのとほぼ同時に、若衆の腹が鳴った。

「す、済みません……」

 顔を赤くして恥じ入る若衆に、白虎は微笑んだ。

「滋養を取らねばならぬが、臓腑が弱っておる。まだ普通の飯は受け付けぬだろう。私の乳を吸え」
「乳……ですか?」
「そうだ。腹に乳首がある。遠慮なく吸い付くと良い」

 白虎は若衆に腹を向けて寝そべり、乳を吸う様に促した。
 若衆は僅かにためらった物の、言われるままに、白虎の腹に並んでいる肉の突起の一つに口を近づけて含んだ。
 強く吸うと、生暖かく甘い液体が口の中にほとばしって来る。

(美味しい!)

 喉を鳴らして乳を吸う若衆を、白虎は優しげな眼で見守っていた。

*  *  *

 若衆が乳で腹を満たし終えると、疲労した脳髄に滋養が行き渡り、様々な事が思い出されて来た。
 百姓一揆へ、天竺から来た龍神の軍勢が加勢し、神宮は為す術もなく陥落。
 そして若衆は虜囚となり、一度は死罪になりかけるも助命され、龍神の師という阿修羅・計都に、答志島へと連れて来られた。
 与えられた役割は、龍神やその眷属の贄となる白痴の種付けの補助。
 神宮の虜囚の内、幼子の助命と引き替えに若衆はそれを承諾し、身体を造り変えられたのだった……
 短い間に色々な事が起き重大な決断を迫られた事で、心も体も疲れてしまい、物事を思い出せなくなっていたのだろうかと若衆は思った。
 そこまで思い出したところで、若衆は白虎が誰なのか気が付いた。
 
「貴女は、もしかして仕置場にいた……」
「思い出したか。和国の民にとっては、見慣れぬ白虎の顔は見分け辛いだろうからな」
「どうしてこちらに?」
「無論、貴様を仕置にかける為ではないので安心せよ。貴様の後見をする様、主上より拝命したのだ」
「後見、ですか?」

 白虎の答に、若衆は首を傾げた。
 計都の一門に加えられた自分に、わざわざ近衛の一員であるという白虎が後見につく必要があるのだろうか。

「まあまあ、お目覚めですわね」
「計都師、お早うございます」

 白虎が頭を垂れて挨拶し、若衆もそれにならう。
 計都は二名に合掌を返した。

「いきなり白虎が隣に寝ていて驚いたでしょうけれども、これは小生が呼び寄せましたの」
「貴女が、いえ、計都師が、ですか?」

 ”貴女”と言いかけた若衆は、呼び方を改めた。
 既に一門に加わる事を承諾した以上、計都と若衆は師弟として接するべきである。

「ええ。貴女、一時は大変な事になっていましたのよ」
「重篤に陥っていたとは聞きましたが、私の身に何があったのです?」
「貴女はまず牝として胤贄と交合し、その胤を体内に溜め込みましたわね。そして下腹に刻まれた術式で胤を作り替えた後、牡として牝贄と交合して胤を注ごうとした。それはよろしいかしら?」
「……そこまでは思い出しましたが……」

 若衆は牝贄をあてがわれ、計都の門下である家人に命じられるままに交合した。
 仰向けになった白痴の女の股を開き、割って入った刹那。
 そこから、若衆の記憶は途切れている。

「自分の物を牝贄の女陰に差し入れて…… そこから何も覚えていないのです」
「女体と交わる事で、貴女の心に秘められていた欲が噴き出し、術式が狂ってしまったのですわ」
「やはり私も、心の奥底で色欲にまみれていたのでしょうか?」

 若衆の問いを、計都は首を横に振って否定した。

「色欲は生きている証ですから恥じる様な物ではありませんけれども。貴女から噴き出した欲はそれではありませんでしたの」

 計都は問いを否定し、一度言葉を切ると、若衆の眼をまっすぐ見つめた。
 重い言葉が続く予感に、若衆は唾を飲み込む。

「これまでの生育を調べさせて頂きましたけれども、貴女は”母の情”を知りませんわね」
「ええ……」

 若衆は、生母が既に死んでいる物として育てられ、父である宮司の正妻は、彼を冷たく扱った。
 若衆は母のぬくもりを全く知らずに育ったのである。

「牝贄と交わる事により、貴女の心はそれを、母として欲したのですわ」
「牝贄をですか?」
「ええ。ですが、牝贄が孕んでしまっては、胎内の子に”母”を奪われてしまいますものね。貴女はそれを防ごうとして、無意識の内に胤を猛毒に変えてしまいましたの」
「も、猛毒ですか?」

 猛毒と聞き、若衆は驚いた。
 自分に刻まれた術式は、完全に不随意という訳ではなく、心の状態が影響して効果が歪んでしまう事があるらしい。

「ええ。母たる牝贄を独り占めする為、ひと思いに殺してしまおうとしたのですわ」
「それで、どうなったのです?」
「猛毒を胎内に注がれた牝贄は、一刻の間もがき苦しんで絶命しましたわ」
「!」

 自らの行いで交合の相手を死に至らしめてしまった事に若衆は絶句したが、計都の言葉は淡々としていた。

「その事は気に病まずとも宜しいですわ。貴重とはいえ、贄は畜生ですものね」
「骸は私が食したのでな。無駄にはしておらぬ。ああ、この毒は白虎には効かぬ故に問題ない」
「そうですね……」

 贄である以上、不慮に死ねば食肉とされるのは当然なのだが、若衆は心の痛みを感じた。
 計都、そして続く白虎の言葉は、白痴は贄であって人間としては扱われないという事を受け容れて慣れる様、促している様に若衆には思われた。
 神属との共存を選び、協力に際して相応の対価も約束させた若衆としては、受け容れる他ないのである。

「そして貴女自身も、自ら生じた毒が身体に廻りかけましたの。直ちに石化しましたから、死なずには済みましたけれどもね。重篤に陥ったのはそういう訳ですの」
「そうでしたか……」
「交合の際”贄と心を通わせてはならない”と言われましたでしょう? それはこういう事を防ぐ為でもありましたのよ」
「わ、私は、口もきけぬ白痴と心を通わそう等とは……」
「ええ。でも、心の奥底の欲、母に縋りたいという童の欲には逆らえませんでしたわね。それは仕方のない事ですもの、責めたりはしませんわよ」
「……」

 己の求めていた物を一言で示された若衆は、言葉が出なかった。
 何かにすがりたい、頼りたいという欲求を満たされぬままに、ただ宮司の嫡男として相応しくある様、周囲の求める姿を演じ続けた。
 だが、自分でも気付かぬ心の奥で、童の様に泣き叫び、縋り付く慈母を求めていた様だ。
 それに気付かされれば、ただ黙ってうな垂れる他なかった。

「とは言え、このまま貴女を胤付けに使えば、同じ事の繰り返しですものね。そこで連れて来たのが、この白虎ですわ」
「どういう事でしょう?」
「……ああ、その、何だ」
「はっきりおっしゃいなさいな」

 若衆の疑問に白虎は視線を反らし、言いにくそうに口ごもったが、計都に促されて意を決して若衆に告げた。

「私が貴様の母として、生涯を通じ護ってやろう。遠慮なく甘え、頼るといい」



[37967] 6話「阿修羅の学師」その18
Name: トファナ水◆34222f8f ID:ef08af38
Date: 2014/09/21 22:57
「貴女が、母……?」
「う、うむ。ふ、不服か?」

 唐突な申し入れに対し怪訝な顔で問い返す若衆に、白虎は狼狽気味に答えた。

「小生が弗栗多に申し入れて、これを後見として貴女に付ける様にしましたの。貴女は補陀洛の大切な宝にして、宮司の子として神宮の継承権を持つ禍の種。万が一にも過ち無き様、那伽摩訶羅闍の名代たる近衛を後見として付けるのは当然ですわよ」

 つまりは監視役という訳なのだろうが、ならば養母である必要はない。

「それは解りますが…… 何故、”母”と? それも勅命ですか?」
「だ、断じて、断じて違う! 私は……」
「やはり、小生が話した方が良さそうですわね」

 勅命として養母となるのかと問われ、白虎は声を荒げて否定したが、計都はそれを制して言葉を引き継いだ。

「弗栗多を通じてこれに命じたのは、後見役として貴女を護る事のみですわ。母子の縁という物は、例え主君であっても命じて結ばせる様な物ではありませんもの」
「……どういう事でしょう?」
「つまりは、これ自身の望みなのですわ」

(もっとも、これがそれを望む事を見越して、後見を命じたのですけれどもね)

 計都としては、単なる保護・監視役に留まらずにより深い関係を構築し、補陀洛への叛意を妨げる”鎖”として若衆を縛り付ける事が出来る者という事で、仕置場での経緯を考慮した上でこの白虎を見込んだのである。

「何故、私を……」
「ああ、何というか、その、貴様を見た刹那、妙に惹かれる物があってだな……」

 若衆は、仕置場での白虎の振る舞いが、若衆への軽侮と民衆への受けを狙っての事だと思っていたので、返って来た答えが信じられなかった。

「あれは、観衆をもり立てる為の戯れだとばかり思っていましたが……」
「そ、それもあったのだが。思わず貴様を欲しくなり…… つい、欲のままに……」
「これは元来、近衛の内でも峻厳で通っていましたけれども。とある訳で心に隙間が開いていましたの。その様な折に貴女を見て、理の箍(たが)が緩んでしまったのですわ」
「計都師、それは!」

 消え入りそうな弁明に計都が補足すると、白虎は血相を変えた。
 よほど痛い事を突かれた様である。

「貴女が母の情に餓えている様に、これもまた、抱くべき子を失って、それに代わる物を欲していますのよ。これと貴女とで心の隙間を塞ぎ合えば、双方の安寧につながると思いましたの」
「お子様を亡くされていたのですか」
「………」

 若衆の問いに白虎は黙して答えなかったが、認めたも同然の態度だった。

「当たらずとも遠からず、ですわ」
「どういう事ですか?」
「産まれた子は生母から直ちに引き離されるのが、補陀洛の神属に定められた法ですの。例えそれが、那伽摩訶羅闍の子であっても、一介の臣民であっても同様ですわ」
「何故、その様に酷な法が定められているのです?」
「親の地位や財、職に関わらず、子自身の才覚や器量を見極め、それに併せた上で那伽摩訶羅闍の民に相応しく育て上げるべきというのが小生の考えですの。その為に、子は生みの親に任せず、一門の手で育てあげる旨を、弗栗多が即位した折に定めさせましたの」

 昔からの伝統という訳ではなく、計都が考える御政道に基づき、比較的近年に定めた制度の様である。

「師のお考えに基づいた法なのですね」
「一から小生が思いついた訳ではありませんわ。斯巴達(スパルタ)という、遙か西方にあった人間の小国で行われていた策を参考にしましたの。小国ながらも、幼少から国の手で鍛え上げられた強兵に恵まれていたそうですわよ」

 童を”国の物”として養育するというのは、親子の情を切り捨てた、非情かつ大胆な政策である。
 その様な事を考え実行するのは、自らの思想に狂信的と思しき計都の他にはいないだろうと若衆は思ったのだが、人間の国が先達らしい。
 斯巴達なる小国は、さぞ過酷な状況に置かれていたのではないかと、若衆は想像した。

「伊勢の民から贄という名目で童を差し出させたのも、その一環という訳ですか」
「ええ。今のところ、補陀洛の人間にはこの法は適用しておりませんけれども。まず伊勢で試した後、種族を問わず那伽摩訶羅闍の民全てに広げますわ」
「異を唱えられる立場ではありませんが、旨く行く物でしょうか?」
「首陀羅や旃陀羅として苦しむ民を救う為にも、やらねばなりませんの。逆らう者は廃するだけですわ」

 若衆は、自分の施術を行った家人の他、一門の門下にある人間の大半が、奴隷や賤民の出自である事を思い出した。
 彼女達にしてみれば、計都の方針は身命を賭してでも絶対的に支持すべき物である事は疑いない。
 親が賤民であろうと士分であろうと、親から切り離された上で才覚に応じて相応しく育てられるのであれば、血統を理由に尊ばれたり卑しまれる様な世は次代において改まるだろう。

「子を持つ親の情を砕く非情な策とは思います。なれど、底辺で虐げられる民を救い旧弊を改める為とあらば、やむを得ぬかと」
「お解り頂けて幸いですわ」

 若衆の意見に、計都は満足そうに微笑んだ。

「しかし、養育を終えた後であれば、親子の再会もかなうのでしょう?」
「私を気遣った上での言かも知れぬが、無用だ。貴様こそ、我が子に相応しい」
「しかし……」

 一門による養育を終えて成年となれば、親子の再会もかなうのではないか。
 その時、自分が養女として白虎の元にいれば、実子の帰る場所を奪ってしまうのではないかと、若衆は心配した。

「かなわぬ事ですわよ」
「成年してもなお、親子の再会を禁じているというのですか」
「親子双方が望めば、特に禁じてはいませんわ。身分、特に官職は一代限りとしましたから、継がせる事は出来ませんけれどもね」
「ならば……」

 今は寂しいかも知れないが、自分を養女とするより、産んだ子の成長を待ってはどうかと若衆は白虎に言いかけたが、計都の続く言葉がそれを遮った。

「那伽摩訶羅闍の臣民たる要件、お解りですわね?」
「種族を問わず、智恵ある者……でしたか」
「これが産み落としたのは智恵無き獣。故に、臣民ではなく畜生ですの」

 人間だけでなく、神属もまた、白痴は臣民として扱われないという。
 理にはかなっているが、その冷徹ぶりに、若衆は思わず唾を飲み込んだ。



[37967] 6話「阿修羅の学師」その19
Name: トファナ水◆34222f8f ID:ef08af38
Date: 2014/10/05 22:47
「人間だけが、智恵の有無で民と畜生に分けられるというのでは、公正さに欠けますものね」
「確かにそうですが……」

 計都の言葉に戸惑った若衆が白虎に目をやると、さも当然であると言う様に白虎も頷いていた。

「何故、その様な顔をする。和国でも、白痴と判じた子は贄にはせぬまでも”返す”そうではないか?」
「……」

 白虎もまた、白痴として産まれた我が子が、臣民ではなく畜生として扱われる事を当然として受け止めている事に若衆は衝撃を受け、沈黙する他なかった。
 理性で考えれば、当然の事ではある。
 しかし、自分を産んで死んだという生母に対して思慕の念を抱き続けていた若衆は、母が子に持つという”母性”を幻想として喝破された様に感じられたのだ。
 
「私は、言葉も操れぬ白痴しか産めぬ身であったのだ……」

 白虎のつぶやきを聴いた若衆は、彼女の内心を思いやれなかった己を恥じた。
 計都が”心に隙間が空いている”と言っていたではないか。
 白痴を産んだという辛い現実を受け容れるまでには、相応の葛藤があったのだろう。

「これの様な話は、補陀洛では、珍しい事ではありませんわ」
「……もしかして、神属は人間に比べて、白痴が多いのでしょうか?」
「御明察ですわ。人間では、白痴の産まれる率はおよそ二分 ※2%。しかし今や、補陀洛の神属が産み落とす子の八割は白痴ですの」
「何ですって?」

 人間に対して圧倒的な優位で君臨している存在が、実は五人に一人しかまともな智恵が備わっていないという。
 あまりに重い事実に、若衆は思わず聞き返した。

「元からこうだった訳ではありませんけれどもね。殆どの神属は血が濃くなりすぎて、種としては滅びに瀕していますのよ。親子を引き離す法を定めた理由の一つでもありますわ」

 確かに、子の多くが白痴として産まれるのであれば、生母から一律に引き離した方が良いだろう。
 親子を引き裂く非情な法の背景には、計都が唱える理念以上に、切実な事情があったのだ。

「勿論、種の衰えに対して、座して滅びを待っている訳ではありませんわ。国外に遠征し、他国の神属の血を混ぜる事で種の強さを取り戻す。和国遠征もその一環ですの。既に、大江党は補陀洛に恭順を示しましたのよ」
「あの悪名高き大江党! 滅んではいなかったのですか!」

 大江党は、源頼光率いる討伐隊によって殲滅されたというのが、これまでの和国での認識であった。
 神宮が陥落してすぐに捕らわれ、石化されて獄中にあった若衆は、大江党が組織として生き延びており、かつ補陀洛に臣従して正体を露わにした事を知らなかったのである。

「ええ。討伐を免れた残党が、人間に扮して瀬戸内で海賊を生業としていましたの。今では補陀洛の水軍として働いていますわ」
「水軍というと、もしかして表の港にいる羅刹達は……」

 若衆は、答志島の港で働いている者の殆どが羅刹であった事を思い起こした。

「半分は国元から来た譜代の臣ですけれども、後は大江の者ですわ。生き残りの大江党は、頭領の茨木童子を除いて男ばかりで、やはり滅びを待つ身でしたけれども。補陀洛の者と血が合わさる事で、次代の羅刹は種の活力を取り戻す事でしょう」
「無頼の輩を取り込んで大丈夫でしょうか?」

 若衆は、和国を荒らした大江党が、伊勢の民衆へ危害を加えるのではないかと心配したが、計都はそれを一笑に付した。

「大丈夫ですわよ。大江党が人間を襲っていたのは、あくまで生きる為ですわ。伊勢に参じれば、民草を殺し奪わずとも贄を得られますもの」

 ”衣食足りて礼節を知る”という道理は、かつて和国で恐怖されたという大江党にも当てはまった様である。
 ならば大江党同様に和国の各地で人間を脅かす妖の類も、贄を供するという条件を示せば、補陀洛に取り込んで共存を図る事が出来るだろう。
 だがそれも、白痴を殖やして贄にするという方策があってこそ成り立つ。
 若衆は、この島で行われている事の重要性を改めて思い、自らの責を感じた。
 自分は今、贄の繁殖という勤めを果たせない状態に陥っている。
 神宮の童達の助命も、神属と人間との共存も自分にかかっているというのに、何というていたらくであろうか。

「私の勤めが極めて重い事であるのは改めて解りました。ですが、私は卑しい心根を秘めているが故に、牝贄と交われば、再び胎に毒を放って殺めてしまいます……」
「その為のこれですわ」
「……」

 計都は白虎を指し示したが、若衆は沈痛な顔のまま答えなかった。

「貴様の傷は、私が塞ごう。さすれば、贄如きに母を求めてすがり付く様なこともあるまい。どうか、私をこそ母として頼って欲しいのだ」

 白虎は、猛々しい外見に反し、若衆を慈しみの眼差しで見つめている。
 若衆はそれに、添い寝を受けた時と同じ暖かみを感じた。
 自分がこれまで求めてやまなかった母の情とは、この様な物ではなかろうか。

「私の様な、心根の腐った輩で良いのですか?」
「否。腐ってなどおらぬ」

 若衆の言葉を、白虎は力強い口調で否定した。

「確かに仕置場での貴様の取り乱し様には幻滅し、我が眼が曇ったかと思ったが。だが聞けば、貴様は己の安寧だけで是とせず、多くの童を救う為に計都師と駆け引きを演じたと言うではないか。尊き心を宿しておる証だ」
「そうでしょうか……」
「私は血統が濁りすぎ、幾名もの胤を試しても悉く白痴しか孕めなかった。故に、血を残す事を禁じられた身だ。だからこそ、貴様の様な賢しく優しき子を手元で育みたかった。胎が役立たずでも、心は母足り得る事を示したかったのだ」

 改めて、若衆は白虎を見た。
 恐ろしい猛虎その物の姿ではあるが、その鋭い爪や牙が自分を害するのでなく護る為に振るわれると解った今は、一切の恐怖は感じない。むしろ、頼もしく感じられる。
 また、その瞳には獣にない知性の輝きがあった。

「どうか、今後の生を私と共にあっておくれ」
「……はい」

 彼女なら逞しき母として、若衆の餓えた心を埋め、護ってくれるだろう。
 そう確信した若衆は、白虎の願いに深く頷いた。

「さあさあ、まとまりましたわね。では、双方の和合をもって、母娘の縁を結びなさいな」
「わ、和合ですか?」

 和合と聞いて、若衆は驚いた。
 それは番(つがい)ですべき事であって、親子で行う事ではない筈である。

「私と同衾するのは嫌か?」
「いや、そういうことではなく! 夫婦の契りではないのですから」

 いかにも傷ついた様子で尋ねる白虎に、若衆は慌てて答えた。
 異国、かつ異種族の風習であれば、それがどの様な物であっても可笑しくはない。
 

「血の繋がりがないのですから、肉体の結びつきで絆を深めるべきなのですわ。では小生は席を外しますから、母娘水入らずでゆっくり愉しみなさいね」

 計都は珍しくも浮かれた様子で部屋を後にし、後には二人が残された。

  



[37967] 6話「阿修羅の学師」その20
Name: トファナ水◆34222f8f ID:ef08af38
Date: 2014/10/27 00:41
 計都は若衆と白虎の為に供した居宅を出ると、少し離れた場所に建っている大きな講堂へと向かった。
 ここは、計都が一門全体に対し講義を行う為に、新たに用意された建物である。
 答志島を占拠後に急造されたのは贄舎と同様だが、補陀洛の学究の中核としてふさわしく、漆喰の壁は精巧な鏝絵(こてえ)によって彩られている。
 鏝絵は仏道の曼荼羅図に似た意匠で、那伽摩訶羅闍と活仏の交合を中核とし、何十対もの男女が同様に快楽に身を委ねている様子が描かれている。
 種族の組み合わせは多様だが、いずれも異種同士である。
 例えば、阿修羅と白虎、那伽と牛頭、人間と羅刹といった具合だ。
 中には同性同士や、三名以上の組み合わせもある。
 これは一門の掲げる”諸族協和””皇道楽土”の理念を表した物だ。
 計都が中に入ると、集まっていた三百名程の学師や学徒達が一斉に立ち上がって合掌した。
 九割程は漆黒の肌を持つ補陀洛系の人間で、残りは羅刹、夜叉、乾闥婆(ガンダルヴァ)、そして補陀洛皇家の一員たる那伽、阿修羅といった神属である。
 人間は全て旃陀羅か首陀羅出身の女性で、”新しき世”を導く一員となるべく計都に身分を引き上げられた学徒達だ。
 神属の方は男女が半々程で、その内の数名は学師として計都を補佐する立場である。
 いずれも、和国遠征に随伴した補陀洛の臣民で、和国出自の者は皆無である。
 計都は出迎えた一門の者達に合掌で返礼すると、着席を促し、自らも用意された上座へと座った。

「さて皆様。今回は、和国の民として初めて一門に加わる事となった者についての事ですわ。あれを迎えるに辺っての諸々の事情は、皆様も御承知ですわね?」
「是!」「是!」「是!」

 計都の問いかけに、全員が肯定の答えを唱和する。

「それについて、何か御質問がある方はいません事?」

 計都の問いかけに、一人の学徒が挙手をした。
 彼女は齢十三。一門の中でも五本の指に入る若年であり、それ故に年配者にありがちな遠慮がない。

「贄の繁殖に要するのは、あくまであれの特異な身体のみの筈。我等が一門へ迎えるに相応しい者でありましょうか?」
「小生も、あれをどう処遇するかについては考えましたの。取るに足らぬ者であれば、あくまで咎人として使役するつもりでしたけれども。知性、品格共、一門へ迎えるに申し分ありませんわよ」

 計都の答えに、若き学徒は納得いかぬとばかりに食い下がった。

「しかし、あれは婆羅門であり、それが故に咎を受けようとしていた者! 新しき世の建立を企てる中核たる一門に加えるべきでしょうか?」

 若き学徒の叫びに、十数名の学徒が相槌を打つ等して同調の意を示した。
 下層民の出自である学徒達にとって、婆羅門とは憎んでやまない敵なのだ。
 一方で、大半の学徒、そして学師達は顔をしかめている。
 下層民として虐げられた怨念が学究の原動力となる分には良いが、理よりも情を優先させる様では困る。

「心配ありません」

 憤る若き学徒を諫めたのは、若衆に施術を施した家人だった。

「普蘭(プーラン)姉様! 姉様もあれの事を、咎人として遇すべきと言って門下に迎える事には反対していたのに!」
「導師計都の仰る通り、あれは賢しい者です」
「なればこそ、相応の立場を築いた後、我等を再び賤しき身分に戻そうと企むかも知れないではないですか!」

 普蘭と呼ばれた家人の諫めにも若き学徒は納得せず、彼女に同調した者達も同様だった。

「あれは心優しい質ですから、その様な事は出来ませんわよ」

 再び口を開いた計都の言葉に、若き学徒は数秒の間を置いて、再び反論を試みた。

「……我等は”新しき世”の建立の為に、幾億もの首を刎ね、血を流す事になります。心優しき者と言うならば、それについて来られずに造反に走る事も考えられます」
「あれはもはや、補陀洛に刃を向ける事はかないません。裏付けもありますわよ」
「どの様な物でしょうか?」

 計都は、若衆が協力の条件として、神宮の虜囚の内、幼子を助命する様に求め、計都が応じた事を説明した。
 それを聞いた若き学徒は、思わず声を荒げた。

「何という図々しい奴! 婆羅門の血など、絶やして当然なのに!」
「勿論、虜囚の幼子を助命するからといって、婆羅門にはしませんわ。他の者と混ぜた上で、一律に吠舍 ※平民 として育てますの。それに、人質として有効ですわよ」
「……当面は良くとも、それらの幼子が成年して巣立てば人質として使えません。その後はどうするのでしょう?」
「ええ。ですから、今一つの裏付けも用意しましたの。むしろそちらが本命ですわ」

 若き学徒の更なる問いに、計都は微笑んで答えた。

「それは何でしょう? 導師」
「あれの心を、とても強くしなやかな鎖で縛り付けている真っ最中ですのよ」
「鎖ですか?」

 若き学徒に限らず、過半の者が怪訝な顔をした。
 普蘭の他、事前に聞かされている数名の者だけが頷いている。

「本日の本題ですけれども、その様子を皆様に御覧頂く為、御集まり頂きましたの」

 計都が目線を正面の壁に向けると、講堂の窓が一斉に閉まり、室内は闇に閉ざされた。
 数秒の後、壁一面に映し出された光景に、講堂内の一同は目を見張る。
 そこには、絡み合う白虎と若衆が映し出されていた。



[37967] 6話「阿修羅の学師」その21
Name: トファナ水◆34222f8f ID:ef08af38
Date: 2014/11/16 23:43
「何という見事な……」
「これを実現させたのですか!」

 次々と挙がる賞賛の声に、若衆へ施術を施した普蘭は誇らしげに胸を張った。

「これは、羅馬(ローマ)地方に生息する、夢魔種の生態を参考にした施術で……」
「幻灯の復元、全くお見事です!」

 一門の者達の関心は壁に映し出された光景よりも、映し出す為に使用された技術の方に向けられていた。
”幻灯”とは、映像・音声を拡大投影する技術の事だ。
 広義にはさらに、捉えた映像や音声を記録して後に再生したり、遠方に瞬時に送り出す周辺技術、今日で言う録画や放送、通信技術をも包括する語である。
 太古印度の神属社会においては普遍的な技術であり、他地域の神属文明においても同様だったが、うち続く戦乱がそれを失わせた。
 各勢力共、敵対勢力の保持する幻灯技術の妨害や破壊に明け暮れた結果である。
 また、それは単に幻灯技術の喪失に留まらず、それによって記録されていた知識や技術全般をも衰退させる結果を生み、神属による古代文明が衰退する一因ともなった。
 よって幻灯の復元は一門にとって重要事の一つなのだが、手がかりを得られないが為に未着手のままだったのである。
 白痴の繁殖促進の為の施術も重要なのだが、幻の技術が唐突に出現した事で、学徒達の関心がそちらにそれてしまったのは無理からぬ事であった。

「………」

 賞賛が自らに向けられた物でないと知った普蘭は、解説を中断すると俯いて黙りこくってしまい、周囲もまた普蘭の様子に、本来これが何の為の集まりかを思い起こした。
 白虎と若衆の交合が壁面に映され続ける中、室内は気まずい雰囲気となる。
 
「あらあら。本題ではない小道具の方に注目がいってしまいましたわね」
「申し訳ございません、この様な席を設けて頂きながら、私が不甲斐ないばかりに!」
「ど、導師! 決して普蘭姉をないがしろにするつもりでは……」

 苦笑する計都に普蘭は落涙して詫び、それを見た学徒達からも弁解の声が発せられる。
 自身の発表の場において、同様な目に遭ったらどう思うか。
 それを想像出来ない程の愚者は一門に皆無である。

「小生はただ、丁度便利な物が出来上がったから使ってみようというつもりでしたの。本題がそれる事は望みませんわ」
「いえ、導師計都。確かにこれは、大方の者にとっては、幻灯の方が関心事でありましょう。施術の事は後回しにして、まずはそちらの方をお聞かせ頂きたく思います」
「そうですわね」

 普蘭の申し入れを受け、計都が指を鳴らすと、映し出されていた映像が動きを止めた。

「幻灯に関する質疑を終えた後、これは後でゆっくり見ましょうか」

 計都が質問を募ると、学徒の一人が、早速挙手をした。

「これまで着手されていなかった幻灯が、いつの間に出来たのでしょうか?」
「太古の喪失した技の内、幻灯はその復元が行き詰まっていた物ですけれども。これは、神宮の宝物の内にあった物を見つけて修繕し、いくつか同じ物を真似て造っただけですのよ」
「何と! 和国には幻灯が現存していたのですか!」

 人間国家である和国に重要技術である幻灯が残っていた事を聞いて、学徒達は驚きどよめいた。

「ご覧なさいな」

 計都は、映像が映し出されているのと反対側、つまり聴衆の背後側にある壁を指さした。
 壁の上方に円形の銅鏡が掛けられており、そこから光が放射状に広がって、聴衆の正面側の壁に映像を映し出しているのが解る。

「あれは、銅鏡……」
「ええ。今では用途も忘れ去られ、ただの宝物として扱われていましたけれどもね。”八咫鏡”と呼ばれ、皇祖神の神体として祀られていましたの」
「有用で貴重ではありますが、所詮は道具。それを用途も解らずにそれをただ崇め奉るとは、何と愚かしい…」
「所詮は劣等文明ですな」

 貴重な法術具をただ神具として崇拝の対象としていた神宮を侮蔑する言葉が、学徒達から嘲笑と共に発せられた。
 
「仕方ありませんわよ。並の人間程度の霊力では、これを動作させられませんもの。活仏や、今映し出されているあれの様に、特異な才を持つのであれば別ですけれどもね」
「確かに使えない者にとっては、ただの鏡ですなあ」

 学徒の一人が漏らした言葉に講堂は再び嗤いに包まれたが、計都はそれを制した。

「しかし、かつては使えた者がいたのですわ。それが和国で言う”神”、即ち和国皇家の祖先にあたる者ですわね。和国に朝廷を打ち立てた当初においては、龍や阿修羅並の神属とも互角に戦える一族であったと思われますわ」
「要は、かつての釈迦(シャーキャ)族の様な一族という事でしょうか?」
「ええ」

 釈迦族とは、印度にかつて存在した人間の部族で、仏道の開祖である活仏・瞿曇 悉達多を輩出し、他にも他部族に比べ潜在的な霊力が強い者が多く生まれた事で知られている。
 仏道の開祖である瞿曇やその門弟達は高い霊力を奮い、印度に於ける神属の二大勢力であった補陀洛と香巴拉を封じたのだ。
 釈迦族は衰亡して久しいが、屈服させられた補陀洛にとって、未だにその名は畏怖の対象である。
 和国皇家がそれに勝るとも劣らぬ一族と聞いて、学徒達は戦慄した。
 和国併合は容易と考えていたのが、前提が全く覆ってしまう事になるのだ。

「安心なさいな。今や和国皇家の血は薄まり、殆どの者は常人並みの霊力しか持ちませんの。神宮の神職は皇家の傍流ですから、幻灯で映し出されているあれは希な例外ですけれどもね。あれが並の羅刹程度の霊力ですから、それを超える者はまずいませんわよ」

 計都の言葉を聞いて、学徒達は安堵した。
 考えてみれば、和国親征に際しては予め入念な調査が行われており、伊勢の一揆に乗じる事が出来たのもその成果だ。
 和国皇家が強力な障害となり得るならば、その対策を講じぬままに親征を行う筈がないのである。



[37967] 6話「阿修羅の学師」その22
Name: トファナ水◆34222f8f ID:ef08af38
Date: 2014/12/08 06:06
「この画ですが、現在の光景がそのままこちらに送られているのでしょうか?」

 別の学徒から、幻灯についての質問が出る。

「ええ。あちらにも銅鏡が置いてあって、それに映し出された画がこちらに伝わって来ますの。今は画が止まっていますけれども、送られ続けている画は銅鏡が蓄えていて、いつでも観る事が出来ますわ」

 現代風に言えば、銅鏡は撮影、通信、投影だけでなく、記録・再生の機能も備わっているという訳である。

「音や声は出ていませんでしたが、扱えるのは画のみでしょうか?」
「まだ調整が出来ていませんけれども、音も出せる筈ですわよ」
「如何ほどの距離まで伝わる物でしょうか?」
「相応の霊力を要しますけれども、国元までは充分届くと思いますわ」

 計都(ケートゥ)は事も無げに答えたが、通信可能な距離の長大さに、それを聞いた学徒達は驚愕してどよめいた。
 国元との往来には、飛行絨毯を使う等しても片道五日はかかる。
 それが、情報の伝達のみであれば瞬時に行える様になるというのだから、政(まつりごと)に及ぼす影響ははかり知れない。
 
「羅馬(ローマ)では確か”豚に真珠”と言いましたか。和国皇家も神宮も、正に豚に等しき劣等なり!」

 ある学徒が発した軽口に、講堂は爆笑の渦に包まれたが、計都は発言の主に対して冷ややかな瞳で微笑みかけた。

「……その様に敵を侮ったからこそ、和国皇家と争った者達は破れたのですわよ。邪馬台国、熊襲(くまそ)は言うに及ばず、大江党も、那伽(ナーガ)の上位変種として弗栗多(ヴリトラ)と同じ力を備えた八岐大蛇(やまたのおろち)すらも」
「ひぃい!」

 発言した学徒は顔を引きつらせて悲鳴を漏らし、屋内の空気は凍り付いて静寂となる。
 計都の不興を被る事は学徒、特に下層民出自の者にとって死に勝る恐怖だ。

「補陀洛(ポータラカ)とて、慢心が過ぎれば同じ事。心しておきなさいね」

 計都が穏やかに諭すと、講堂の緊張はやや収まったが、当の発言の主は口から泡を吹いて卒倒した。
 それを隣席の者が襟首を掴んで引き起こし、気付けの為に頬を数度張り飛ばす。

「あ、あう……」
「このたわけが! 導師の前で何たる失態か!」
「その位にしておきなさいな」

 頬を押さえて呻く学徒に、張り飛ばした隣席の学徒から更に叱責の怒声が放たれたが、計都はそれを制して着席を促す。
 それを受け、二人は計都に合掌して座った。

「幻灯については、改めて場を設けますわね」

 場の雰囲気が引き締まったのを見て、計都は本題である若衆へ施した施術へと話を戻す事にした。
 再び指を弾くと、制止したままの画が動き出す。
 それを受けて普蘭(プーラン)は頷き、解説を再開した。

「改めてこちらの画をご覧下さい」

 壁には若衆が背後から白虎の尻にしがみつき、腰を前後に振っている図が写されている。
 獣同士の交尾に似た姿勢だが、人間に比べて巨軀の為、白虎は膝を曲げて若衆と自分の陰部の高さを合わせている。  
 また、若衆の陽根は施術の効果によって、白虎の玉門に合わせて腕程に太く、長く肥大していた。
 音声は伝わって来ないが、双方の息づかいの荒さ、快楽の深さが手に取る様に伝わってくる迫真の画像だ。
 学徒達は艶事としてではなく、学問上の観察の対象として冷徹な視線を向けていた。

「被術体は、元々は無性という事でしたね?」
「はい。局部には形ばかりの陽根が備わっていましたが睾丸はなく、雌雄いずれでもありませんでした。それに加え、人間としては希な霊力を備えていたのです。今回の施術は、理屈の上では可能でしたが、この様な希有な体質を併せ持つ被術者の存在が前提でしたので、これまでは机上の空論とされていたのです」

 ほう、と学徒達から関心の声が漏れる。
 無性体の人間はそれだけで貴重な畸形であり、しかも強い霊力を兼ね備えているとなれば、存在その物が奇跡に等しい。
 若衆の重要性は、この場の誰もが認識していた。

「施術後三日目に覚醒した後、早速、贄との交配を試しました。牡贄から腎水を採取し、胎内に刻んだ術式によって手を加える。ここまでは順調だったのですが……」
「例の差し障りがあった、と」

 言葉を濁した普蘭に指摘を入れたのは、医術を司る学師の一人で、種族は那伽、つまり皇族の一員でもある。
 若衆への施術の際には、医師として島外に出向いていた為に立ち会う事が出来ず、彼女はそれを悔しがっていた。
 
「はい。被術者の胎内で変質した腎水を、牝贄と交合して受胎させる。そこで、思わぬ事が生じました。腎水は猛毒と化しており、交合した牝贄は苦悶の末に絶命。被術者もまた自ら生じた毒によって重篤となり、石化を施した上で導師計都の診療を仰ぎました」
「被術者に刻んだ術式に、誤りがあったという事は?」
「無論、それをまず疑って調べましたが、術式は正確でした」
「牝贄に石化を施さず、死ぬに任せたのは何故か?」
「毒が何であるのか見極める為、あえて何も施さずに観察しました」
「賢明だ。贄如き、被験者に比べれば全く惜しくはない」

 ややきつい口調で那伽の学師から放たれる追求にも、普蘭は淀みなく答える。
 だが、次の問いに普蘭は言葉を詰まらせてしまった。

「施術の模様は、幻灯で録ったのか?」
「え、その……」
「貴重な施術だ。幻灯が復元出来ているならば、後々までその光景を残すべきではないか?」
「それは……」

 普蘭は幻灯の復元について、施術の時点で聞かされていなかったのである。
 学師も恐らくはそうだろうと推測し、その上での問いだ。
 つまり、施術の記録に幻灯を活用しなかった、計都への間接的な批判である。

「大丈夫ですわよ。施術の間の壁に、銅鏡をかけておきましたの。きちんと録れていましたわよ」
「ならば結構ですな。後程、医術を修める学徒共とじっくり見させて頂きましょう」

 微笑みながら話す計都の答えに学師は頷いて矛先を収め、普蘭は胸をなで下ろした。
 計都は何か事を起こすにあたり、周囲への説明や根回しを怠りがちな欠点を持つ。
 阿修羅として皇族の一員であり、また那伽摩訶羅闍(ナーガマハラジャ)と活仏の師たる立場故に、大抵の事は事後承諾で認められてしまう為だ。
 今回の幻灯に関わる件もまた、その一例である。

*  *  *

 学徒達は再び、壁面に映る画に注目した。
 白虎と若衆の交合は未だ続いている。

「獣型と人型の交合とは、また難儀な事を。近衛が人型に化身すれば良いではありませんか」

 学徒の一人が感想を漏らした。
 異種姦が推奨される補陀洛だが、種族の組み合わせによっては体型、体躯の違いが障害となる。
 その様な場合は化身して双方の姿を同種、大抵は人型を取るのが常で、無理に本性で交わる者は少ない。
 講堂の壁面に施された曼荼羅には、その様な組み合わせの交合も描かれているが、あくまで社会理念を説く為の物である。

「活仏と近衛筆頭も好んで同じ事をしていますわよ?」

 近衛筆頭の英迪拉は、側女として一揆衆頭目の夜伽を勤める一人でもある。
 頭目はその際、あえて白虎のままの英迪拉とまぐわう事を好んでいた。
 それを表した絵図が”諸族協和”を伊勢の民に知らしめる為に出回っていたりもする。
 
「あれは諸族協和を宣撫する為にあえて行っているのでは?」
「いいえ。活仏が望んでしているのですわ」
「いかに陽根と女陰の寸を合わせても、体躯が合わなくては苦しいでしょうに」

 快楽を分かち合うのに、わざわざ相性の悪い体型同士でまぐわうのは、この学徒に限らず、大抵の補陀洛の民にとって奇異に映る。

「英迪拉(インディラ)が活仏の乳母だった事は御存知でしょう?」
「はい。牝白虎は幼子の養育に最適という事で選ばれたと聞いています」
「乳を与える時も英迪拉は白虎の姿でしたの。幼き活仏に、神属を怖れず親しむ様に刷り込む為だったのですけれども。それが高じて、あれは白虎に甘える事に安らぎを覚えますのよ」
「そう言えば、幼子の頃の御夫君様は、主上に叱り飛ばされた時には、泣きながら近衛筆頭殿にすがりつくのが常でした」

 懐かしそうに那伽の学師がつぶやくと、楽しげな微笑が講堂のあちこちに広がった。
 活仏として強大な力を秘める頭目だが、補陀洛の神属、特に女にとっては、慈しみ庇護すべき対象として認識されている。
 くだけた言い方をすれば、”やれば出来る子なのは解っているが、どうにも頼りなくて護ってあげたくなる坊や”という訳だ。

「もしかしてこれは、本性で契りを結ぶ様、意図あって近衛殿に指図したのでしょうか?」
「良い問いですわね。勿論ですわよ」

 先とは別の学徒の問いに、計都は満足そうに頷いた。




[37967] 6話「阿修羅の学師」その23
Name: トファナ水◆34222f8f ID:ef08af38
Date: 2014/12/21 20:17
「あれの胎内で腎水が毒に変質した理由は解るかしら?」
「術式の誤り……ではありませんでしたね」

 計都の問いかけに学徒の一人が答えかけたが、普蘭に睨まれると慌てて撤回した。
 その可能性は、普蘭が否定したばかりである。

「もしや、被術者が自らの意思で行ったのでしょうか?」
「やや近いですわね。意思と言うよりも、心の奥底で望んだのですわ」

 今一人の学徒の答えに計都は頷いて補足を加え、学徒達はざわついた。

「自害を試みた……のでしょうか……」
「あれ自身にも毒は廻りましたけれども、自らの命を絶つ為ではありませんわよ。あくまでまぐわった牝贄を屠らんが為ですわ」
「白痴の胤付けを命じられたのを、屈辱と感じての事でしょうか?」
「いいえ。むしろあれは、悦びを感じていましたわ。それが為に、あの様な事になりましたの」
「悦びとは。嗜虐の性根を持つ者を一門に迎えるとなると、なかなかに厄介ですな」

 那伽の学師が懸念を漏らす。
 他者に危害を加える事に快楽を感じる、いわゆる嗜虐性を持つと見なされた者は、配下や民を虐げやすいとして要職に就ける事を忌避される。
 補陀洛では、神属であれば人間を、人間であれば下位の身分の者を痛めつけて欲求を満たす事が容認されていた為、嗜虐性はさして問題とならない。
 しかし”新しき世”の実践の場である伊勢に於いては、例え軽輩に対してであっても、無辜の者を己の快楽の為に傷つける事は許されないのである。
 その様な振る舞いを欲する輩を迎え入れるのは、一門として論外であった。

「まあ、贄は畜生であります故、快楽の為に屠ったとてさしたる罪にはなりませぬが。性根の件を置くとしても、被験者の役目は贄を殖やす事。交合の度に牝贄を殺めてしまう様では、その本分を果たせましょうか?」
「あれは心優しき者。嗜虐とはほど遠いですわよ」
「導師よ、では何故?」

 那伽の学師は、納得いかぬとばかりに計都に問いを重ねる。

「あれは”童の気性”を持ちますの。まぐわう牝に対し、牡として支配しようとするのではなく、乳飲み子の様に甘えすがりますのよ」
「成る程、まるで御夫君様の様ですが。しかしそうであれば、母としてすがらんとした牝贄を屠った訳ですから、道理が通りませんな」

 一揆衆の頭目が、生母を知らぬ孤児であるが為に母性に餓え、弗栗多や英迪拉がそれを与え続けている事は、補陀洛の神属には広く知られている。
 本来は人間の庇護者として神属に立ちはだかる筈の活仏だが、母性という”鎖”で縛り付ける事で御しているのだ。
 だが、若衆も頭目同様の”童の気性”であれば、交合の相手である牝贄を手に掛けたのは、いわば”母殺し”という事になってしまう。
 母と慕う相手を殺めるとは、いかなる心情なのか。
 計都の説明には、この会合の前にに子細を聞いている普蘭を除いて、誰もが首をひねった。

「あれは活仏と比して、その業が奈落の様に深いのですわ。牝贄が孕めば、宿した子に”母”を奪われると感じ、それを防ぐ為に”母”を殺めて独占しようとしたのですわね。勿論、あれが意図したのではなく、無意識の内に行ったのですわ」
「なんと浅ましい…… 婆羅門崩れの卑しき性根が露呈したのですね」
「身分に関わりなく、誰もが、心の奥底に何らかの傷を抱えていますの。貴女達も、活仏も、弗栗多も、そして小生も」
「……そういう物でしょうか……」

 若衆の処遇に異を唱えていた若き学徒が、勝ち誇った様に嘲った。
 それを計都は静かに諭し、若き学徒も神妙な顔になる。
 ここまでならは、教え子の暴言を窘めるありきたりの説諭なのだが、計都の論旨はここではない。

「心を操る為には、相手の傷心を探り、掌握する事が肝要ですわ。あれが心に秘めている脆さ、弱さを見つけたのですから、最早、意のままに操るのは容易ですわよ」
「!」

 若き学徒だけでなく、その場の全ての者は、”相手の傷心を把握し、操る為に活用せよ”という冷徹・非情の策を、穏やかな顔で説く計都を畏れた。

(これでこそ、導師)
(うわべの善良を自認する輩では言えぬ事だが、師だからこそ言える)
(主上も御夫君様も、師にだけは背けぬ……)

「これまで不犯だったあれが、初めて肉の快楽を味わう事によって、箍(たが)が外れてしまったのですわね。母性を求める業故に、まぐわう女を殺めるならば、ふさわしき母をあてがえば事足りるという訳ですわ」
「成る程。相性の合う養母をあてがえば、それを通じて被術者を御するは易いですな。ですがそれならば、人間にあえて白虎を添わせるのは不自然ではありませんかな?」

 様々な異種族が共存する補陀洛本国ならともかく、大方の和国の人間にとって、神属は異形の妖である。
 養母を通じて情で操るならば、同じ人間が適切だろう
 頭目の場合は、物心つかない赤子の内から神属の手で育てられたので、既に十代半ばとなっている若衆とは事情が異なるではないか。
 那伽の学師は、再び計都に疑問をぶつけた。
 彼女が計都に問いを重ねているのは、自身の疑問を解決する為でもあるが、問答を学徒に聞かせるのが主旨である。

(学を究めるならば、師に盲従するな。疑い、問わねばならぬ)

「一つには、あれが国の運命を左右する存在である以上、弗栗多の名代たる近衛を監視につけるべきという御政道の都合ですわね」
「御政道の都合ならば、あえて獣形で接する必要もありますまい。被術者の心を縛るなら、人型の方が親しみが生じるのではありませんかな?」
「子が母に求める物、それは生きる為の庇護ですわ」
「然り。なればこそ、人間から見れば猛々しき白虎を、母と慕うとは思えぬのです。見る限り、被術者は近衛になついておる様ではありますが、法術で心に細工でも施しましたかな?」

 法術には、相手の精神を操って傀儡と化す物もある。
 だが、継続的にそれを掛け続けられると、徐々に心身を蝕んで痴呆に成りはててしまう。
 人間であれば、およそ十年が限界だ。
 貴重な人材に施すには、代償が大きい手段である。

「いいえ、そんな無粋な真似はしませんわよ。猛々しき外見だからこそ、庇護を受ける側からすれば頼もしく感じる物ですわ。故に、童の気性を持つ者は、猛々しき姿の庇護者を得る事こそが、心の安寧につながりますのよ。白虎など、正に相応しいですわよ」
「師のお考えは、交合の様子を見る限りは納得せざるを得ませんが。普通、子は優しげな母を好む物ではありませんかな」

 那伽の学師は、これが若衆の特殊な嗜好に由来する物であり、童の気性を備える者全般に当てはめられる物ではないのではないかと正した。

「いいえ。それは、牝を征しようとする牡の気性が求める物。健やかな成年の男子が持つ欲求ですわね」
「成る程。男は女を従えようとし、か弱き女を好む物。優れた女、逞しい女を嫌う物ですからな」

 那伽の学師の言葉に、その場の者達は頷く。
 講堂に集う者の大半は女で占められるが、学問を究め世の変革を志す様な女を、通常の男は好まない事を彼女達はよく知っていた。

「ええ。自らより優れ、逞しき女を求める男も時折いますけれども。それは、童の気性が牡の気性より強いのですわ。それに、あれは男として育ったとはいえ無性でしたから尚更ですわね」
「何と情けない奴!」

 若き学徒が再び悪態をついた。
 牡の気性を備え女を従えようとする通常の男こそ、学徒達にとっては相性が悪い筈なのだから、矛盾する感想である。
 だが彼女にしてみれば、神職だった若衆が同門に加わるのがどうにも気に入らない。

「活仏も童の気性を持ちますわよ。だからこそ、皆は活仏を慈しんでいるではありませんの」
「御夫君様は穏やかですが、決して唾棄すべき軟弱ではありません。臣民の為、御政道に日々勤しんでおられます。あんな、伊勢で何が行われていたかも知らぬがまま、飢饉をよそに無為徒食を重ねていた婆羅門とは違うではないですか」
「無知は確かに罪ですわね。しかし、あれもまた、ただ母に護られる安穏に浸るのみでなく、弱き者を庇う気概はありますわよ。小生に対して、虜囚の幼子を助命する様に求めたのですもの」
「それは、近衛殿が後見につき、増長したからではないでしょうか」
「取引はその前の話ですわ。貴女は先程”図々しい”と言いましたけれども。あれの生殺与奪を握る小生に、幼子を救わんと、危険を顧みず取引を持ちかけた勇を認めておあげなさいな」
「……」

 若き学徒は唇を嚙んで沈黙した。
 計都は若衆の行為を高く評価しており、これ以上それを批難しても自らを貶めるだけと思ったのである。

(新しき世に仇なす婆羅門め。いずれ馬脚を現した時は思い知らせてやる!)
 
「自らのみの安寧で満足する様な軽輩であれば、貴女だけでなく、この場の多くがあれを侮蔑しましたわ。しかしあれは、仮にも為政者の側にいた者として、担うべき責をわかっていましたの。伊勢の神職が皆あの様な心根であれば、飢饉に見舞われようと一揆など起きず、補陀洛も攻め入る大義を得られなかったでしょうに」

 計都は深く溜息をついた。



[37967] 6話「阿修羅の学師」その24
Name: トファナ水◆34222f8f ID:ef08af38
Date: 2015/01/14 22:19
 計都と学徒達の話が続く中、壁に映された白虎と若衆の交合は絶頂に近付きつつあった。若衆は腰を前後に激しく振り、白虎は突き入れられる陽根を恍惚として受け止めている。

「快楽が旨く双方で共有出来ている様ですわね」
「導師の選んだ母役は、被術者の心情の安定の為、正に適切でした」

 計都と普蘭の言葉に一同は頷く。
 交合に於いて、片側のみが快楽を貪り他方が苦痛を受ける事は、補陀洛では特に忌まれている。
 交合による快楽の分かち合いこそが、国家統合の源であると考えられている為だ。

「そろそろ、達しますかな。再び腎水が毒液と化せば、被術者・近衛の双方が危険ですが、大丈夫なのですかな?」
「勿論です」

 那伽の学師の懸念には、普蘭が答えた。

「対応しているは思ったが、いかなる手段を施したか?」
「件の毒ですが、人間にのみ作用しますので、異種との交合には支障ありません」
「成る程」
「また、被術者は自らの体内で腎水を造る事が出来ず、牝として牡贄と交わる事で腎水を胎内に取り込み、それを牡として放ちます。今回の交合に際して、被術者の胎内には腎水を取り込まぬままなのです」
「故に、毒と化す事もない…… つまり被術者は今回、腎水が空虚の状態で交合に及んだのか? よく陽根が隆起した物だ。法術かね?」

 体内の腎水を放ち尽くしてしまった男性は、充分な量が満たされるまで、陽根が萎えたままとなる。通常であれば、引き続いての交合は著しく困難だ。

「必要であればそうする様にと、近衛殿には事前に伝えました。しかし無用であった様です」
「ほう?」

 思わず首を捻った那伽の学師に、計都が解説を加えた。

「あれの童の気性は、猛毒を無意識に生じてしまう程に、深淵の如く深いのですわ。母にすがる為であれば、腎水の空虚など物ともせずに陽根を勃たせますわよ」
「成る程。萎える事なき陽根は男子の誉れとされますが、その様に深き業が元では、よほど屈強な女子でなくては魂を貪られてしまうでしょうな」
「ええ。屈強な肉体、そして白痴しか産めぬ身と知りながらなお、母たらんと欲する深き業。それを併せ持つあれこそが、母として相応しいと見込みましたの」

 画の中の若衆は、腰を益々激しく突き動かし、肌からは汗が噴き出ている。
 白虎の方も恍惚の極みとなり、口を痴呆の様に開け、鋭い牙をむき出しにして涎を垂れ流している。
 銅鏡から、荒い息吹が聞こえ始めた。

「何事!?」
「面妖な!」
「大丈夫ですわよ。伝声の機能が目覚めたのですわ。快楽が高まって行くに従って双方の霊力が循環し、周囲に漏れ出したのが影響したと思いますわよ」

 驚く学徒達に、計都は落ち着く様に促した。
 説明を聞き、学徒達が幻灯の機能に改めて感心したのもつかの間。
 若衆が腰を止め、白虎の尻に押しつけたまま痙攣を始めた。
 ついに絶頂に達したのだ。

「は、母上! 母上ぇ!」

 絶叫した若衆は、安らぎに満ちた顔で放心し、そのまま崩れ落ちた。
 白虎は数十秒程の間、恍惚となったまま口から牙を覗かせて涎を垂れ流していたが、我に返ると、倒れている若衆の身体を舐めて清め始めた。

(私を母と呼んでくれたか、愛しき娘よ)

 白虎の顔は、慈愛と歓喜に満ちていた。
 それを観た学徒達もまた、交合の様を讃える。

「素晴らしい情愛!」
「諸族協和を体現した、正に美しき有様!」

 ただ一人、若衆の処遇に疑念を呈した若き学徒のみが、悔しげに歯を食いしばっていた。

(あれは、私達を虐げた婆羅門の同類だというのに! 皆、畜生同然に扱われていた恨みを忘れてしまったの? あれをこのまま受け容れてもいいの?)

「さて皆様。ご覧の通り、双方は母子として心身共に結ばれましたわ。補陀洛の新たな宝は、強固な鎖で縛り付けましたわよ」
「是!」「是!」「是!」

 講堂が賛意の声で満たされる中、若き学徒が一人放った疑念がそれを止めた。

「それでも、万が一という事がありましょう!」
「またお前か。控えよ、若輩の分際で導師を疑うとは何という不遜か!」
「いいえ。盲従こそ凡夫の所行ですわ。学究の徒にあるまじき姿勢ですわよ」
「は、はい……」

 咎める声が挙がった物の、計都はそれを諭し、講堂は再び静寂に還った。

「万が一の為に置かれている後見役ですものね?」
「無論です、計都師」

 計都の問いかけに、画の中の白虎が返答すると、学徒達はまたもや驚いた。
 白虎の側にも、幻灯で講堂の様子が伝わっている様だ。

「私の導きが至らず、万が一にもこれが皇国に災いを為したならば。直ちにこの手で斬り捨てた上、返す刃で自刃して自らを裁く所存です」
「この場の皆が、しかと聞き届けました。その言葉、二言はありますまいな」
「那伽摩訶羅闍の近衛たる身に、二言はない」

 述べられた覚悟に対し、若き学徒が口を挟んで念を押したが、白虎は力強く言い切った。

「この場を借り、私からも一言述べさせて頂きたいが。計都師よ、宜しいでしょうか」
「ええ、何なりと」
「これを不当に扱う者、さらには害を与えんとする者は、それが誰であろうと許さぬ。主上の勅命を受けた後見役として、そして子を護る母としてだ」

 計都から発言の許しを得た白虎は、獲物を前にした猛獣その物の獰猛な眼光を光らせて宣告した。
 講堂の中には思わずへたり込む者すらいた程の迫力だったが、若き学徒は画の中の白虎を睨み返していた。

(近衛ともあろう者が情に目が眩んだか。その時が来たら、母娘共々に無様な屍を晒せばいい!)
 
「では、くれぐれも宜しく御願い申し上げる」

 白虎が深々と一礼すると共に画はかき消え、講堂は闇となった。



[37967] 6話「阿修羅の学師」その25
Name: トファナ水◆34222f8f ID:ef08af38
Date: 2015/02/04 22:49
 若衆と白虎が母子の契りを交わし、幻灯を通じて計都を初めとする一門がその様子を観察している頃。
 桑名では頭目の召集により、一揆衆の評議が開かれていた。
 一揆衆が民の代表として御政道を話し合う場として設立された会合で、伊勢にある農村の庄屋、漁村の網元、商工業者の座長といった者達に参加の権利がある。
 ここで取りまとめられた意見が那伽摩訶羅闍に上奏され、裁可を経て実施されるのだ。
 議題は、先の庄屋捕縛に至った経緯の説明と、妻子もろともの死罪という龍神の裁きに対する賛否である。
 頭目は、伊勢の新体制が始まったばかりのこの時期に、一揆衆の幹部たる庄屋の内から粛清者を出せば、伊勢の民が萎縮してしまうのではないかと懸念していた。
 また、先に赦免した若衆の”身代わり”と解釈されてしまうのも不味い。経緯はどうあれ、神宮に属する者を救う為に一揆衆の庄屋が死罪を受けたとあっては、龍神が命の軽重を取り違えているとも曲解されかねない。
 那伽摩訶羅闍が直に申し渡した死罪と言えども、頭目が異を唱えれば、評議に掛けずとも覆す事は可能である。弗栗多が庄屋をその場で処断しなかった以上、再考の余地は残されているのだ。
 だが、安易な慈悲を掛ければ、弗栗多による処断が軽挙であったと伊勢の民に映りかねない。一度断罪した者を免罪するには相応の名目が必要と言う事も、頭目は承知している。
 そして、庄屋の偽証を一罰百戒の好機とした弗栗多の考えも否定出来なかった。
 判断に迷った頭目は、評議に掛ける事で民意を問い、件の庄屋一家に対して、慈悲を掛けるなにがしかの理由が出て来る事を期待したのだ。
 しかし、集った一揆衆の面々から出る言葉は、頭目にとって芳しくない物ばかりであった。

「あ奴の首を刎ねるっちゅうんなら、結構な事じゃ!」
「虎の巫女さんの餌になってしまえ!」
「そも、あの村の寝返りを受けたんが間違いじゃあ!」

 挙がる言葉は死罪に賛同する物ばかりで、擁護の声は聞こえてこない。
 問題となっている庄屋の村は、若衆を養子(真実は宮司の落胤なのだが)に差し出して以後、貢納の軽減等で優遇されており、飢饉にあっても餓死者までは出していなかった。
 その為に神宮側と見なされて襲撃に遭いかけていたのだが、一揆衆へ加わる事で難を逃れたという経緯がある。
 寝返りを受け入れず、神宮もろともに討ち滅ぼせという強硬な意見も出ていたのだが、あくまで少数派だった。同じ民草同士で血を流したくない、神宮との戦に集中すべきという穏健な意見が大勢を占めた為に、一揆衆は彼等の合流を認めたのである。
 龍神の来訪はその直後であり、頭目がその地位に就いたのは、弗栗多が加護を与える条件の一つとしてである。故に弗栗多や頭目は、寝返りの受け入れに関与していない。
 その為、補陀洛は件の村を他村と同じ様に「一揆衆の一員」として扱っていた。
 頭目も、今回の評議に際してその経緯は把握しているので、声の大きい強硬派が死罪に賛意を示す事については予測していた。
 しかし、大多数と思われる穏健派が全く声を挙げないのはどういう事かと、頭目は訝しんだ。
 そんな中で、遠慮がちに声を挙げた者がいた。彼は網元の一人、つまり漁民であり、件の村とは接点が殆ど無い。

「お頭、龍神様の御機嫌を損ねたら、儂等にも咎めがあるんじゃないですかのう?」

(やはり、宮司の子に助命嘆願を出した事が、母上の勘気に障ったが為の死罪と思われているか)

「それはありませんよ。弗栗多の夫たる私が保証します」
「しかしのう……」

 頭目は神属に対しては皇配として接するが、伊勢の人間、特に年配者には丁寧な言葉遣いを心がけている。若輩の余所者という事で配慮している為だ。
 この時も頭目は穏やかに告げたが、なおも網元はためらいを持っている様である。
 頭目が集った者達を見渡すと、大方の者は網元同様に伏し目がちで、死罪を声高く主張する一部の者ばかりが堂々としている。
 頭目はそれを見て溜息をつくと、居並ぶ一揆衆を前に厳しく告げる。

「弗栗多はむしろ、いちいち顔色をうかがい、正しいと思った事を言わずに口をつぐんでしまう相手を忌むのです。一介の民草ならば萎縮するのも仕方ありません。しかし、ここに集う皆様方は、村や座を束ねる立場です。それをお忘れなき様」

 丁寧ながらも口調と表情が一変して氷の様に冷たくなった頭目に、一揆衆は驚いて目を見はる。

(黙っておっても、持ち上げても頭目さんは怒りよるんかい……)
(腹割って話さんもんは認めんっちゅうこっちゃろうか……)

「思った事をよう言わん腑抜けはいらん、そういう事ですかいのう、頭目!」
「その通りです。まして今回は、人の命が掛かった話です。賛否いずれの方も、どうか忌憚ない御意見を願います」

 死罪に賛意を示している庄屋の一人が放った言葉に頭目は頷き、一同は唾を飲み込んだ。
 一揆衆が引き締まったのを見て、頭目は元の柔らかで儚げな顔に戻る。

「事前に告示した事ですが、誤解無き様に改めて申し上げます。件の者は、宮司の養子となった我が子の助命を願い出た事によって勘気を被ったり、身代わりとして死罪を申し渡された訳ではないのです。あくまで、弗栗多による詮議に際し、偽りを申し立てた事が咎という訳です」
「ほんま……ですかいのう?」
「それが証拠に、仕置場に駆けつけた、件の庄屋の義弟、宮司の養子から見れば実の叔父にあたる方は一切のお咎めなしです。それどころか弗栗多は彼を褒め称え、新たな荘園を開拓する為の普請役として取り立てました」

 頭目による説明の言葉にも、大半の者は半信半疑という様子だったが、庄屋の義弟に対する処遇を聞き、警戒していた者達もようやく安心した。

「龍神様の家臣になったっちゅう事ですかい」
「はい。家督を返して次代の庄屋にと思いましたが、固辞されましたので。代わりの職という事です」
「そんなら、えかったのう」
「先代さんの倅は立派でしたからのう」

 若衆の叔父にあたる百姓は、他村からも評判が良かったらしく、その無事を皆、口々に喜んでいた。

「家督を義理の兄貴になった入り婿に奪われても、文句一つ言わずに家を出なすった。今度の事でも、赤ん坊の時に別れたきりの甥っ子を助ける為に、必死で走りよったしのう。先代さんも何で、あんなええ倅を外に出して婿に跡を取らせたんじゃろうか」
「家中の事は色々ありますからね…… 先代の方とは不仲だったのかも知れませんし」

 頭目は事の真相を知らされているが、それを言う訳にも行かずに口を濁した。

「さて皆様。改めて問いますが、弗栗多が申し渡した庄屋一家の死罪につき、御意見のある方はいませんか」
「儂等、先代さんの倅が連座に含まれるんじゃないかと思っておったんですわ」
「そうですだ。それだけが心配事だったんじゃが」

 頭目の呼びかけに、先程まで沈黙を守っていた、穏健派とおぼしき者達の一人が声を挙げた。それをきっかけとして、穏健派からは、若衆の叔父の処遇を案じていたとの声が次々と出た。

「先程申しました通り、かの人の心配は無用です。荘園の開墾を無事やり遂げれば、さらなる栄達も見込めるでしょう」

 改めて、若衆の叔父が厚遇を受けていると頭目が告げると、穏健派の者達からは安堵の声が出た。しかしそれには、頭目の期待に反するの意味が含まれていた。

「そんなら、まあええですわ」
「せやなあ。一件落着っちゅう事で」

 穏健派の発言に、頭目は落胆しつつも確認した。

「つまり、慎重に考えていた皆様も、義弟の方の連座がなければ、件の庄屋の死罪について異議を唱えないという事ですか?」
「へい。一揆の時も、村の百姓連中をどうこうするのは嫌じゃったから、寝返りを受けたんじゃけれども。あんなもんの事は助けとうなかったですわ」
「あんなもんがおらなくなれば、伊勢はもっとすっきりしますだよ」
「頭目さんはお優しいけれども、あれに情けなんぞかけんで下され」

 どうやら、件の庄屋本人は、穏健な者達からも憎まれていた様である。
 穏健な者達も、単に巻き添えを出したくなかっただけで、当人の死罪については望むところらしい。

「随分とまた嫌っている様ですが、何かあったのですか? 命を奪うまでもなく改めさせる事が出来るのであればその様にはからいますし。それで溜飲が下がらぬのであれば、全くの放免ではなく何らかの罰を与えてけじめとする事も出来ますが」

 穏便な解決を考えている頭目が再考を促すと、場の中で最も老いていると思しき一人の庄屋が答えた。

「先代さんと、あれの嫁になった娘さんが相次いでぽっくり逝った後で、あっさり後妻を迎えましたじゃろ。なんぞ、あれに都合が良すぎるんじゃないかっちゅうて、噂になっとったんですわ」
「謀殺というのですか?」
「あくまで噂なんじゃけれども……」
「噂で人の生き死にを左右してはいけませんよ」

 もし件の庄屋が、先代と先妻を手に掛けていたというのであれば、赦免どころの話ではないが、噂に留まっている話だ。
 先代の急死によって庄屋の跡目を継いだ入り婿に対する妬みや、本来後を継ぐ筈だった、若衆の叔父に対する同情から生じた周囲の疑念が、その様な噂の元となり、件の庄屋の評価を引き下げているのかも知れないと、頭目は思った。
 疑念が晴れれば、赦免の道も開けるだろう。
 或いは噂が真実というならば、頭目としても仕置を躊躇う理由はもはや無い。妻子の連座をどうするかという問題は残るが、少なくとも当人は死罪の他あり得まい。

「つまらん事を話しましたかのう」
「いえ、そういうお話を聞きたかったのです」

 頭目が手元にある鈴を鳴らすと襖が開き、控えていた巫女姿の侍女が現れた。
 背からは大きな翼を生やし、鳥の足という姿だ。
 乾闥婆(ガンダルヴァ)と呼ばれる有翼の神属である。

「御夫君様、お呼びでしょうか」
「捕縛してある件の庄屋一家に対し、改めて詮議したい事がある。獄舎へ伝え、手筈を整えよ」
「畏まりました」
「な、何もそこまでせんでも……」
「そうですじゃ、たかが噂ですからのう」
「こういう事は真偽をはっきりさせねばなりません」

 神属を呼びつけて再度の詮議を命じる頭目に、一揆衆達は狼狽えた。
 しかし、彼はきっぱりと決意を告げる。

「その、龍神様のお遣いに、そげな事をお願いしちゃならねえですだ!」
「私は弗栗多の夫、補陀洛皇国の皇配。妻の臣は私の臣でもあります。即ちこれは”お願い”ではなく”主命”なのです。何の遠慮がありましょうか?」
「御夫君様の仰る通りです。それにここにお集まりの皆様方は、各々の村や職にて民を束ねる役を担っておられます。私共神属に引け目など見せず、もっと堂々となさいませ」

 乾闥婆の巫女は一揆衆の態度を窘めた上で恭しく合掌し、表に出ると主命を果たすべく空へ舞い上がった。



[37967] 6話「阿修羅の学師」その26
Name: トファナ水◆34222f8f ID:09f74951
Date: 2015/03/22 21:25
「さて、件の者の処遇は再度の詮議次第という事になりますが、宜しいですか?」

 一揆衆達は頭目の確認に対しても、ただ頷くのみだった。
 人間でありながら龍神の眷属を主君として使役する頭目を見て、畏れをなしてしまったのである。
 その様子に、頭目は不満げに目を細める。
 
(頭目さん、怒っとるんじゃろうか?)
(いかんいかん、そうじゃった!)

 強者にただ媚びへつらう者は不要であると言われたばかりである。
 ここでただ平身低頭するばかりでは、自分達の立場も危うい。
 しかし、どうにも言葉が続かない。
 単に賛意を示すだけでは卑屈と受け取られかねず、かといって迂闊な事も言えないのだ。

「……先代や嫁の事は潔白だったとしても。龍神様をだまくらかそうとした事は、お咎めなしですかい?」

 口を開いたのは先刻、「思った事をよう言わん腑抜けはいらん、そういう事ですかいのう、頭目!」と叫んだ、強硬派の一人である。
 
「そうも行きません。少なくとも、庄屋の職は免じる事になるでしょう」
「龍神様が頸を刎ねろってんのに、その程度でいいんですかい?」
「件の者とて、盟約によって補陀洛が庇護を与えた民の内ですからね。偽りを申し立てた事に対する罰のみであれば、今回はそれで済まそうと思うのです」

 穏当な処置を告げる頭目だが、”類似の事案が発生したとしても、今後は庇うとは限らない”という警告の意が”今回は”との語に込められている。
一揆衆の内、それに気付いた耳ざとい者達の額には冷や汗が浮かんだ。

(甘い様に見えて、やっぱり龍神様の婿殿じゃあ)
(おそがいのう、くわばらくわばら)

「身上(しんしょ) ※財産 はどうなりますかい?」
「先代から継いだ財については皇国が召し上げ、見合った銭を本来継ぐべきだった先代の長子に渡す事にします」
「それはええんじゃが。あ奴が自ら稼いだ分はそのままっちゅう事ですかい」
「はい。既に勘定方に命じて見積もりをさせているのですが、妻子を養うに足る程度の田畑は残るかと思います」
「ぬるいんと違いますかい? 慈悲は首が繋がるだけで充分ですぜ」

 頭目の答えに、質問の主は不満げに言葉を続けた。 
 彼だけでなく、二十名程の者が同調の様子を見せる。いずれも件の村の近隣に位置する農村の者達だ。
 その半数以上が穏健派と目される者であった事に頭目は疑問に思ったが、顔には出さずに説明を続ける。

「これは罰ではなく、あくまで相続についての裁定ですから」
「本当にあ奴が殺ったっちゅう事なら、当然身ぐるみをかっぱぎますわな」
「無論です」
「そうですかい。どうせまあ、そうなると思いますけどな。そん時はきっちりお願いしますぜ」

 庄屋一家の処遇についての話はそこで終わり、議題は伊勢の治世についてへと移っていった。


*   *   *


 評議が終わり、ほっとした顔で帰途につくべく屋外に出て来た一揆衆達を待ち受けていたのは、ずらりと並ぶ馬車の一群だった。
 いずれも行きに乗って来た乗用の物ではなく、二頭立ての大きな貨車で、御者となる補陀洛の兵が控えている。

「何じゃあ、こりゃあ……」
「まずは馬車の中をご覧下さい」

 一揆衆達は一様に唖然としたが、頭目に促されて馬車の中を覗くと、そこには木綿の反物が満載されていた。

「こいつは……! すげえお宝じゃあねえですか!」
「儂等、なんぼ働いても、こんな反物買えねえですだよ!」

 貧農の衣類は麻を使う事が多く、しかも何度も継ぎをあてて修繕し、ボロ布同然になるまで着つぶすのが常である。
 彼等にとって、木綿の衣類はとても手が届かない代物だった。
 流石に、評議へ来た庄屋達は上等の衣類を纏っていたが、それとて特別の時に着る一張羅である。

「これを村の皆に配り、新しい衣を仕立てる様にして下さい」

 高価な土産に、一揆衆達は戸惑った。
 例え豊作で懐が少々豊かになったとしても、百姓が余裕ある振る舞いをするのは分不相応な”悪”であるというのが、彼等の常識だった。
 慎ましく質素に暮らし、そして身を粉にして働くのが民草の美徳とされていたのである。

「こ、ごげな贅沢なもんもろうたら、罰が当たっちまうだよ……」
「罰とは、誰が当てるのですか?」

 一揆衆の一人が発した不安の言葉に、頭目は首を傾げて問い返した。

「そりゃあ、神さんが……」
「天照大神なる神宮の祭神が、真に力有る存在ならば、補陀洛の軍勢を退けた筈でしょう? それが出来なかったのですから、畏れるにはあたりません」

 皇祖神を崇めるに値せずと言い放つ頭目に、一同は返す言葉がなかった。
 確かに頭目の言うとおり、神宮の危機にも皇祖神は何も起こさず、下克上は成ったのだ。
 また神宮に弓を弾いた上は、その祭神を否定した事に他ならず、もはや皇祖神への信仰を持ち続ける事は矛盾である。
 しかし、長年畏れていた物、そしてその名の下に教え込まれていた常識は容易に否定出来る物ではない。
 重苦しい沈黙を破ったのは、御者の羅刹の一喝だった。

「天照なる偽神など、我等が主君・那伽摩訶羅闍には、風の前の塵に同じ。各々方、その旨を心得られよ!」
「そ、そうじゃ!」
「龍神様の方がずっと強いんじゃあ!」
「龍神様こそ儂等の神さんじゃあ!」
 
 羅刹の一喝に、一揆衆達は慌てて弗栗多への讃辞を口々に叫ぶ。
 頭目はそれに頷きで返した。

「皆様方が”龍神”と呼ぶ私の妻。那伽摩訶羅闍たる弗栗多が、”伊勢の民は身綺麗に装う様に”と望んでいるのですよ。庇護を与えている民がいつまでも粗末な格好をしていれば、弗栗多の沽券に関わるのです」
「へ、へい……」
「そういう事なら、頂戴しましょうかいのう……」

 龍神がみずぼらしい民の姿を嫌うという事であれば、遠慮はかえって不興を被る事につながりかねない。
 一揆衆達は、贈り物をありがたく受け取る事にした。
 彼等が馬車に乗り込んで帰途につくと、見送った頭目は傍らに控えていた侍女の一人に向き直った。

「御者についた者達には、然るべく申しつけたか?」
「はい。御夫君様の仰せのままに」
「うむ…… 此度の事で一滴の血も流さずに済めば良いのだが……」
「お察し申し上げます」

 頭目の顔には憂いが浮かんでいた。



[37967] 6話「阿修羅の学師」その27
Name: トファナ水◆34222f8f ID:09f74951
Date: 2015/03/30 00:05
 頭目が評議を終えて仮宮へと帰ると、既に夕餉が用意されており、弗栗多が席に着いて待っていた。その両脇には、給仕として夜叉の侍女が控えている。
 卓上には、水揚げされたばかりの海の幸が並べられていた。
 海産物づくしなのは、一揆の原因となった凶作の影響がまだ残っている事が主因である。
 補陀洛の本国は遙か遠く、まとまった量の糧食を伊勢へと運び込むのは難しい。
 医薬を売りさばいた代価の一部を充て、近隣の州から穀類を購ってもいるが、銭にあかせて買いあされば相場の高騰を招いてしまう為に限度がある。
 海から魚介を糧として得るのが、海を持つ伊勢として残された道なのだ。
 大型の戎克(ジャンク)の導入や、法術による風向きの調整によって、これまで漁場としていなかった沖合への出漁も容易となった。
 漁民が水揚げの一部を上納させられていた海賊・九鬼水軍も、神宮と共に討たれており、搾取に怯える事もない。
 仮宮のある桑名に限らず、伊勢の漁港はいずれも活気に満ちあふれていた。

「母上、ただいま戻りました」
「うむ。ところで坊よ、評議はどうじゃったかや?」

 頭目の挨拶に弗栗多は鷹揚に頷くと、評議の報告を求めた。
 頭目が評議の内容を伝えると、弗栗多はそれに聞き入った。

「ふむ…… 先妻と義父を殺めたのではないかという風評があり、それが為に誰一人としてあ奴を庇わなんだかや」
「はい。それにつき、真相を正す為、捕らえてある件の一家を再度の詮議にかける事としました」
「真実であれば、最早あ奴の助命はかなわぬぞ?」
「はい。されど願わくば……」

 妻子への連座だけは撤回して欲しいと頭目は強く求めた。
 容易には了承されないだろうと思っていたが、弗栗多からは意外な答えが返って来た。

「咎に問われた夫、父を見限る態度を自ら示すのであれば、それもまた良しじゃろう」
「宜しいのですか?」
「但し、決してこちらから促してはならぬぞ。免じて良いのは、自らその意を示した時のみじゃ」
「”伴侶や親であっても咎人には容赦せぬ”という姿勢を重んじるのでしょうか」
「そうであれば殊勝な事じゃ。じゃが、その様な態度を示す者の多くはそうではなかろう。己の命惜しさに身内を見捨てたに過ぎぬのじゃ」

 頭目の問いに弗栗多は首を横に振って否定し、皮肉げに唇を歪めて嗤いながら解説した。
 頭目は顔を曇らせ、さらに反問する。

「……それで宜しいのでしょうか?」
「力に屈し身内を見放す、確かに醜いのう。その様な匹夫は重き役には付けられぬな。じゃが一介の民草であれば、罰を怖れて悪さをせぬ、それで充分なのじゃ」
「では、身内を庇う方が、徳を備えているとは言えますまいか」
「本来であれば褒め称え、褒美の一つも取らすべきかも知れぬがの。情深く徳を備え、咎人を庇い通そうとする係累こそ、連座に問うて当人と共に屠らねばならぬ。いずれ仇討ちを企てるやも知れぬじゃろう?」
「はい…… 計都師の教えは片時も忘れておりません。清盛公の慈悲が遠因となって、復興成った源氏により平家一門は滅んだ……」

 源平の乱の顛末は、和国遠征に際しての教訓として、計都師により繰り返し説かれている。勝者の傲りによる敗者への慈悲は、いずれ盛り返した相手によって仇で返されるかも知れないのだ。
 主君の一方として臣下に範を示さねばならぬ立場の頭目は、弗栗多の非情な言葉にも同意する他ない。

「かの者は世を変革せんと企てた傑物と聞く。僧兵を擁して刃向かう寺院を容赦なく焼き払う非情さを備えておったというに、敵将の跡取りへ情けをかけたが為に台無しじゃ。実に惜しかったのう」

 命惜しさに身内を見放すのであれば取るに足らぬ者として赦しても良いが、庇おうとするならば報復を企図するかも知れぬ。
 故に殺すべし。
 連座に対する方針が弗栗多により示された事で、罪人の係累を一律に連座に問わなくとも良い事にはなった物の、頭目は素直に喜べなかった。

「ところでじゃ。一揆衆の者共を送る馬車じゃがの、御者を入れ替えたと聞いたが、意図あっての事かや?」

 頭目の指示により、送迎の御者を勤める兵は急遽、別の兵に入れ替えられていた。
 鍛錬は積んでいるので御者を務める事に問題はないが、本来は別の役務を担う者達だ。

「はい。評議の際、腑に落ちない物がありました。調べさせる為に適した者を、御者の名目で各村にやる事にしたのです」
「腑に落ちぬとは?」
「件の者が仕置される事を、特に強く望む者が二十名程おりました」
「身内殺しに対する義憤、神宮側から寝返ったという経緯からの不信。訳などいくらでもあろう」
「それもあるでしょうが…… それだけとは思えないのです」
「ほう?」
「件の者の財をどうするのか、問うて来た者がいたのです。そこで、厳罰を望む者達には、財物に関わる損得の勘定が絡んでいるのではないかと考えました」
「情だけではなく、見るべきところは見ておる。そうでなくてはのう」

 弗栗多に褒められ、頭目は頬を紅潮させてはにかんだが、続く言葉で笑みを消した。

「事と次第によっては、刎ねる首が件の一家のみでは済まなくなるやも知れぬが、良いのかや?」

 真実を追究する事で、新たな罪が暴かれるかも知れない。そしてそれは、咎を受ける者が増える事を意味するのである。

「……警句はそれとなく与えてあります。素直に話せば良し。偽りを申し立てればそれまでです」
「良い覚悟じゃ。その言に従い、此度の始末では為すべきを為すのじゃぞ」

 頭目は無表情のまま頷き、給仕に控えている侍女に目をやった。
 それを合図として、侍女が大盃になみなみと酒を注ぐ。
 赤米を醸した濁酒で、血の様に紅い。大江党の羅刹が好んでいる酒で、”大江山の鬼は女の生き血で造った酒を呑む”という、和国の民に伝わる伝承の元になった物だ。
 差し出された大盃を頭目は一気に飲み干し、二杯、三杯とあおる。

(涙を流す代わりに呑むかや、優しき坊よ。ここで泣けぬ分、夜の床では充分にすがらせてやらねばのう)

 弗栗多は苦悩する愛息に愛おしげな視線を送りつつ、自らも盃を干すのだった。



[37967] 6話「阿修羅の学師」その28
Name: トファナ水◆34222f8f ID:ad16c46f
Date: 2015/05/20 06:02
 日が沈みかけ、辺りが暗くなり始めた頃。
 評議に参加した内の一人、頭目に対して物怖じせずに発言した強硬派の庄屋を乗せた馬車は自村へと着くと、まずは百姓達の家を廻り、託された反物を配った。
 豪勢な土産に百姓達は仰天したが、身綺麗にせよという弗栗多の勅意を聞くと、恐る恐る受け取っていた。
 一通り配り終え、庄屋の屋敷へと着く頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。
 庄屋の屋敷とはいえ質素な家で、それなりに広い物の使用人の類はいない。
 この村に限らず、搾取が厳しかった伊勢では富農層が育たず、庄屋がようやく他州の本百姓 ※自作農 にやや劣る程度の暮らし向きなのである。
 だが、御者を務める羅刹は、それを考慮しても、明かりもなく人の気配が全くしないのは奇妙であると訝しんだ。

「誰か、家人はおらぬのか?」
「親父もお袋もとうにいねえです。女房は今年の飢饉で滋養が取れずに逝っちまって。寂しいもんですぜ」
「左様であったか。しかし……」

 御者は子の有無を尋ねかけたが、いる筈がない事に気付いて言葉を呑み込んだ。
 補陀洛は一揆衆に加護を与える代償として、齢七歳までの童を全員、贄として差し出させたのである。
 未だ若い庄屋の歳から考えて、八歳を越えた子がいるとは考えにくいのだ。

「何ですかい?」
「いや、何でもない」

 口を濁した様子に庄屋は首を捻ったが、御者は顔に出さぬまま別の事を考えていた。

(一人暮らしの若いやもめであれば、口を割らせるにはあの手が良い)

「さ、上がって下せえ」
「では、失礼する」

 御者は庄屋に勧められるまま、屋敷へと通された。
 清掃は施されているが、殆ど家財もない殺風景な部屋で、神宮統治下での苦しかった生活が見て取れた。
 一揆衆が伊勢の統治を掌握して以後、飢饉によって疲弊した伊勢の各農村には、漁村で採れた海産物を主体とした糧食が配られている。
 故に食の不自由はなくなったが、伊勢の農村が自力で余裕ある生活を得るまでには未だ一、二年を要すると見込まれていた。

「庄屋とは名ばかりで、恥ずかしい有様ですがね」
「今後、各村の庄屋に対しては、皇国より禄 ※給与 が出る事になっておる。役に見合った暮らし向きが出来よう」
「お手当まで頂けるたあ、これまでとは奈落と浄土程違いますぜ」
「それだけの責を負っておるのだ。主上の御期待に背く事は許されぬぞ」
「わかってまさあ」

 示された処遇の良さに喜んだ庄屋に、御者は責が伴う旨の釘を刺した。
 庄屋が頷くと、御者は盃を二つ取り出し、腰に下げた大ぶりの瓢箪を外して中身を注いだ。

「ならば良し。今宵は呑み明かそうではないか」
「頂きやす。百姓が酒を呑める世の中になったってのは、全く龍神様々ですぜ!」

 勧められるままに深酒をし、いつの間にか眠りこけてしまった庄屋が目を覚ますと、そこは床の中だった。
 傍らに、もう一人が横になっている。
 大ぶりの乳房に、筋骨隆々とした体躯。立ち上がれば、庄屋より頭二つ程高そうな程の長身であろう。
 和国ではまず見られぬ、茶色い巻き毛の頭髪。
 さらには、人間にはあり得ない蒼い肌。
 口元からは二対の鋭い牙が覗き、頭にはやはり二本の角。
 それらの特徴が、人間ではない異形、即ち羅刹である事を示している。
 床を共にした相手は、御者の羅刹だった。

「やっちまった……」
「今更何を言うか。昨夜は散々、吾の胎に胤を放ったではないか」

 いつの間にか目を覚ましていた御者が、床の傍らに散乱する布を指さした。
 腎水 ※精液 と淫水 ※愛液 の入り交じった、生臭い臭気を放っている。

 庄屋は、昨晩の出来事を思い出していた。
 酒が深まる内、御者は暑いと言い出して衣を解いた。
 露わになった乳房に、酔いの回っていた庄屋は思わずしゃぶり付き、そのまま御者を押し倒して交合に及んだのである。
 一般に男は、自らより体躯の優れた女を好まない者が殆どである。故に、羅刹の女に惹かれる人間の男は希有だ。
 だが、酒の酔いに加えて、御者が密かに盛った媚薬によって庄屋は盛り付き、眼前の女が羅刹であるのも構わずに飛びついて同衾するに至ったのである。

「吾とまぐわったのを悔やむか? 己より長身で逞しい女は嫌か?」
「あ、いや、そういう訳じゃ……」

 御者が傷ついた娘の口調で詰問すると、庄屋はしどろもどろに否定した。
 御者はそれを嗤うと、一転して冷徹な口調で宣告する。

「それよりも、御前の心配しなければならぬ事は別にあるぞ」
「な、何でやしょう?」
「昨日の評議に於ける、御前を初めとした二十名の態度が妙であったと、御夫君様が気にしておられたのだ。議題となった者の罪について、何か隠し事をしておるのではないかとな」
「お、俺は何も悪いこたあしてねえ!」

 自分に疑いが掛けられていると知り、庄屋は慌てて否定するが、御者は懐から銅鏡を取り出し、庄屋に示した。計都によって造られた、八咫鏡の複製品である。

「これを見よ」
 
 そこには、御者の股に腰を突き入れながら、呆けた顔で問われた事に次々と答える庄屋の姿が映し出されていた。

「快楽で頭が虚ろになっている者は、隠し事が出来ぬ様になる。まぐわいながらの詮議に、御前は夢うつつのまま色々と話してくれた。帰村早々だが、再び桑名に連れて行くぞ」

 己の置かれている立場に庄屋はたちまち顔を青ざめさせ、その場にへたり込んだ。
 御者は脱力した庄屋を後ろ手に縛った上、自害を防ぐ為に猿轡を施す。
 そして軽々と担ぎ上げると、屋敷の外へと運び出し、そのまま馬車の荷台へと手荒く放り込んだ。

「御役目は果たしたが、御夫君様はさぞ御嘆きになろう。全くおいたわしい事だ」

 御者は嘆息すると、桑名への帰路についた。



[37967] 6話「阿修羅の学師」その29
Name: トファナ水◆34222f8f ID:fd9cd362
Date: 2015/06/15 06:20
 時は若干遡り、宮司に養子として差し出していた息子の助命嘆願の為に、件の庄屋が仕置場に義弟を遣わした翌日。
 龍神が直に話を聞きたいとして庄屋を仮宮に召喚した事で、村人達は事態が良い方向に向かうと喜んでいた。
 だがその日の夕刻、状況は一変した。
 騎馬や馬車に乗った羅刹の兵達が村に押しかけ、あれよという間に庄屋の屋敷を取り囲んだのだ。

「な、何事でございましょう……」

 震えながら応対する庄屋の女房に、鎧姿の兵卒の中にあって、唯一人巫女装束を身につけた夜叉が宣告した。彼女は武人ではなく、那伽摩訶羅闍の統治を補佐する為の文官である。

「汝の夫は、詮議の場で畏れ多くも那伽摩訶羅闍に偽りを申し立てた。これは万死に値する大罪である! 故に妻子も連座する物として捕らえよとの仰せだ。神妙に致せ!」

 夜叉は、和文と補陀洛の母語である梵文が併記された書状を女房に示した。
 そこには、庄屋が詮議の場で偽証を行った為、妻子を連座の対象として捕縛せよという勅命が書かれていた。

「読め」
「い、いえ…… あの、字は……」
「明き盲(めくら) ※文盲 でよく、庄屋の妻が勤まった物だ」

 庄屋自身は役目柄、読み書きを身につけていた。しかし女房の方は全くの無学で、梵文はもとより、仮名交じりの和文も解さなかった。
 普通の百姓であれば明き盲で普通だが、統治の末端を担う庄屋の妻としては問題である。庄屋の家に嫁いだからには、読み書きを学んで夫の助けになるべきなのに、それが出来ていない。

「一介の百姓であればともかく、末端とはいえ御政道を司る庄屋の伴侶が無知蒙昧とは」
「全くですな」
「穀潰しとは、この様な者を指すのでしょう」

 夜叉は女房の無学を面罵し、兵卒達も追従して嘲笑の声を浴びせる。
 恐怖と屈辱に、女房は震えながら耐える他なかった。

 夜叉と女房が応対している間に、屋敷内に押し入った数名の兵卒が、腰縄を打たれた庄屋の子供達を引き立てて来た。

「嫌だよお! 助けてよお!」
「やかましい、きりきり歩け!」

 兵卒は泣き叫ぶ子供達を怒鳴りつけ、刀の柄で小突いて馬車へと押し込む。

「やめて下さい!」

 思わず子供達に駆け寄ろうとした女房を、夜叉は平手で頬を張り飛ばした。

「夫の罪は妻子の罪である。咎人として立場をわきまえよ!」
「………」

 女房は頬を押さえながら、涙目で夜叉をにらみ付けた。

「申し開きも慈悲を乞うのも、桑名でするが良い。連れて行け!」

 夜叉の命を受け、兵卒達は女房にも縄を打ち、子供達が詰め込まれた馬車へと載せる。
 そして夜叉一人を残し、桑名へと咎人を連行していった。
 一行の出立を見送った夜叉は、騒ぎを遠巻きに見ていた村人達に向き直った。

「さて、お集まりの諸君。事と次第を伝えよう」

 夜叉は、村人達にこれまでの経緯を語った。
 助命嘆願の対象であった、宮司の養子となっていた庄屋の長男が助命され、身柄は御教授役の計都師預かりになった事。
 そして、甥を助ける為に必死で仕置場に駆けつけた庄屋の義弟を弗栗多が賞賛し、家臣として召し抱える事になった事。
 それを聞き、村人達には疑問が浮かんだ。
 仕置が取りやめになり、助命嘆願の遣いに向かった庄屋の義弟が褒められて仕官するというなら、何故、庄屋一家は罰を受けるのか。

「ほいたら何で、庄屋様と、嫁や童(わらし)共は捕まったんですだか?」
「そうですだ! 里子に出した長男坊が仕置されるっちゅうんで、龍神様の慈悲を乞う様に言い出したのは庄屋様ですだよ。それが通るんなら、何で庄屋様は罰を受けにゃならねえんですだ!」

 村人達は口々に抗議の声を挙げる。

「請願の権利は、主上が伊勢の民と交わした盟約の内に定められておる故、それが罪という訳ではない。庄屋は、助命の可否を決する詮議の場に於いて、己に都合の良い虚偽を申し立てた。故に厳罰に処する物である」
「虚偽っちゅうと…… 嘘っぱちを言うたんですかい?」

 挙がった問いに、夜叉は頷いた。

「かの者は、後妻やその間に生まれた子達がいる以上、先妻の残した長男を救うつもりは全くなかったのだ。しかし、見捨てれば人非人であるとの風評が立つのではないかとも怖れていた。そこでわざと間に合わぬ様、仕置の当日になって助命嘆願の遣いを出したのだ」

 夜叉の解説に、村人達は神妙に聞き入っていた。
 彼等にも薄々は解っていた事である。
 周囲の村々は、神宮と近しかった庄屋の事を快く思っていない。
 長男の助命を願えば、神宮の者を助けようとした事を責められるだろう。仕置を静観すれば、神宮が滅びて用済みの長男を見捨てた薄情者となじられる。
 どちらにせよ足をすくう口実とされるのであれば、間に合わぬ様に遣いを出し、体裁を取り繕うのがましな選択である。

「それが卑怯っちゅうて、龍神様がお怒りになったんですじゃろうか……」
「否、それは良い。家長としても庄屋としても、難しい立場であろうしな。だがかの者は、畏れ多くも主上直々の詮議で、取り繕う為に虚偽を重ねた。妻子共々、一命をもって償わずばなるまい」
「言いにくい事だっちゅうのは、龍神様もおわかりでしたじゃろ……」
「詮議を始める前に、偽証は死に値する旨の宣告をしておる故、酌む余地はない。正直に事情を申し上げれば、主上も決して悪い様にはなさらなかっただろうよ」

 村人達は、夜叉の言葉にうなだれた。
 遣いに向かった庄屋の義弟が褒められたのだから、龍神は決して無慈悲でも横暴でもない。庄屋も詮議の場で龍神を信じ、頼る姿勢を見せれば、物事は丸くおさまったのだ。

「儂等にはええ庄屋様じゃった。あんまりですだよ……」
「ただ、御夫君様は、今回の件を穏便に済ませたいとお考えだ」
「本当ですだか?」

 村人達は、頭目が庄屋を庇っていると知り、まだ希望が失われた訳ではないと顔をあげた。

「この件で、一揆衆の評議を執り行うと仰っておられる。庄屋が首を刎ねるには惜しい者ならば、評議の結果次第で赦免もあり得よう」

 かすかな希望に縋ろうとしていた村人達からは、諦めの溜息が漏れた。
 飢饉にあっても餓死者を出さずに村を良く治めた庄屋だが、他村からは神宮の手先、義父殺しとの風評が立ち評判は芳しくない。
 評議の場で厳罰が覆る可能性が低いであろう事は、容易に察せられた。

「さし辺り、庄屋様の勤めはどうなりますのかのう?」

 一同の内から、村の今後を心配する現実的な声が挙がった。
 取りまとめ役たる庄屋を失ったままでは、村の治世がままならない。庄屋の義弟は龍神の家臣として仕官する事になった為、村には戻らないだろう。
 ならば、一体誰が職を引き継ぐのか。

「罰が軽く済んだとしても、庄屋はその職を解く事が決まっておる。この村は今後、主上の荘園として、補陀洛の代官が治める事となる。諸君の身分は変わらぬ故、安心せよ」
「お代官様はいつ頃おいでますじゃろう?」
「私だ」

 夜叉は、自らを指さした。
 彼女は代官として赴任するのを兼ね、庄屋の妻子を捕縛する兵に同行したのである。

「夜叉様、ですだか? ちゅう事は……」
「うむ。私の力により田畑は豊穣間違いなし。税の額は田畑一反当たりの定免  ※定額課税 で変わらぬ故、他村より豊かになるぞ?」

 神属の内でも、夜叉は農作物の豊穣を司る異能を備える。
 その為、伊勢の村々は夜叉を招致しようと龍神に請願を重ねているが、数が限られる為に断られ続けている。
 現状では龍神の荘園のみが、夜叉の恵みを受けられるのだ。

「荘園は主上の直轄。故に自治を失い、以後は一揆衆の評議に人を送る事が出来ぬ。その点に異議ある者は、荘園入りを望む者と家作や田畑を交換して、一揆衆の自治が及ぶ他村へ居を移せる様に計らおう」

 荘園の住民は那伽摩訶羅闍の完全な庇護下となり、一揆衆の構成員から外れる為、国政に参加する権利を失う事になる。税額の改定や、治水や設道といった身近な行政についても、関わる事が出来ないのだ。
 豊穣の力を持つ夜叉の配置は、その代償という意味合いも含まれている。

「そんな阿呆はいねえですだよ」
「御政道なんて面倒臭い事は、どうでもええですだよ。儂等、飯が腹一杯食えればそれでええんですだ」
「ここにおった方が、毎年豊作なんですじゃろ? 自治なんぞより、そっちの方がずっとええですわ」

 夜叉の加護を得られる事に浮かれ、自治に未練を見せない村人達の姿勢に、夜叉は内心で哀れんだが、顔には出さず着任にあたっての所信を告げる。

「那伽摩訶羅闍の御名において約そう。諸君が日々の職に励み、法度 ※法律 を守る限りに於いて、暮らしに不自由はさせぬ。荘園の民として恥ずかしくない様、旨い飯を食い、清い衣を纏い、立派な家に住まえる様にする」
「ええぞーっ!」「やったあ!」「お代官様、万々歳じゃあ!」

 新たな代官の口上に、百姓達は歓喜の声を挙げる。
 先程まで心配していた、庄屋の運命の事等、頭から消し飛んでしまった様だ。
 もし仮に、庄屋が赦免の上で復帰し、荘園化が撤回されるとなれば、彼等は困惑と不満を露わにするだろう。
 
(食うに困らねばそれで良しと、新たな主に尾を振るか。与し易い民だが、全く哀れな……)

 夜叉は百姓達の歓びを、複雑な思いで眺めるのだった。




[37967] 6話「阿修羅の学師」その30
Name: トファナ水◆34222f8f ID:fd9cd362
Date: 2015/07/07 23:55
「以後、どの様にこの荘園を治めるかは明日以降に沙汰する。諸君、今日の処は御引き取り頂こう」

 日が沈みかけ、辺りが暗くなり始めた事もあり、代官は村人達に解散を促した。
 しかし百姓達からは、代官を気遣う声が挙がった。
 身一つの代官は、差し当たりどの様に過ごすつもりなのか。

「……お代官様、お一人、ですだか? 後の鬼侍(おにざむらい)様達は?」
「急な話だったのでな。共に来た兵卒は咎人を捕縛し、桑名へ連れて行くのが役目。私の配下となる者は、後日来るという事だ」
「その、今日はどうなさいますだか?」
「庄屋の家作は那伽摩訶羅闍の御名において差し押さえ、私の居宅とする。故にここで過ごす事になろう」
「夕餉のお支度は……」
「既に用意されておる」
「へ?」

 何の事やらと首を傾げた村人達に、代官は庄屋の屋敷を指さした。
 屋敷の中から、焼き蛤(はまぐり)の匂いが漂っているのに気付き、皆の合点がいった。
 村に到着したのが夕刻だった為、庄屋の家では丁度、夕餉の支度が勧められていたのだ。
 一家は捕縛され、後には食べられるばかりの据え膳がただ空しく残るのみだ。

「私が食わねば、折角の飯が無駄になるではないか。明日の分まではこれで充分だ」
「何とまあ…… しっかりしたお代官様じゃあ」

 村人の一人が半ば呆れた声を漏らすと、周囲は笑いに包まれ、代官も牙を剥き出して高笑いした。


*   *   *


 数日後、荘園とされた村の百姓達は、すっかり代官を慕う様になっていた。
 着任早々の大言通り、赴任の翌日から、馬車によって次々と物資が運ばれて来た事が大きい。
 新品の農具。木綿の反物。そして農耕用の牛。
 百姓達はこれまで夢にも思わなかった豪華な代物が、惜しげもなく供される事にすっかり気を良くしており、庄屋一家の行く末を案じる者は誰一人いなかった。

 ”新しき世”を築く為には、民衆から不評を受ける施策も行わねばならない。
 故に、利を与えて民心を掴む一方で、逆らう者には容赦なく厳罰を科す。
 現代風に言えば”飴と鞭の使い分け”が、計都の説く御政道の要であった。
 今回の場合は、庄屋一家の捕縛、自治の召し上げという鞭に対し、豊穣をもたらす夜叉の配置や、高価な品々の供与が飴という訳だ。
 代官の見た限り、この荘園の民に関しては、少なくとも表面上は従順であり、その方針は間違っていない様に思われる。
 ただ、”新しき世”の建立を企図した計都率いる一門は、為政者を畏れ盲従する民を、決して理想としてはいない。
 人間を、神属と対等の立場で共に世を頂く種族と位置づける為には、幼少期より智恵を養う必要があるというのが、彼等の考えである。
 一門の手によって育てられる次代の民こそが”新しき世”の真なる臣民であり、”旧き世”の民は、那伽摩訶羅闍の庇護下で生活を安堵されているだけの、いわば仮初(かりそ)めの民に過ぎない。
 弗栗多、一門共に、無知と貧困の中で生まれ育った民百姓が、衣食住に不自由がなくなったからといって臣民として相応しくなるとは思っていない。彼等が安寧の内に老いて死に絶えるのを、恩恵をあてがいつつ静かに待っているのである。
 現在の和国の民の内、新しき世に迎えられる者は、能力と徳を兼ね備えているとして、特に認められた者のみだ。
 皮肉な事に、今回の件の発端となった若衆、そして彼を救おうとした叔父は、その内に含まれる事になったのだが……


*  *  *

 庄屋を死罪に処す事の是非について、頭目の招集により桑名で一揆衆の評議が行われた。
 その際、庄屋が先妻や義父を殺害したとの噂があり、彼への不信の一因となっているという話が出た為、頭目は事の真偽を確かめるべく、代官にも村を調べる様に下命した。
 報を受けた代官は、早速、自らに気を許しつつある村人達から、庄屋一家についての評判を聞き出していった。
 まず、庄屋が先妻や義父を殺害したとの噂については、神宮からの優遇を快く思わない他村による陰口として広まった物とされ、村内でその噂を信じる者はいなかった。
 また、庄屋による村の統治は、養子を差し出した事による神宮とのつながりの為、税の減免を受けられていた他は、可不可無く凡庸であった様だ。神宮の搾取に苦しんでいた百姓達にとっては、税が軽くなる事こそが肝要であり、故に支持を集めていたのだろう。
 代官の興味をひいたのは、庄屋本人よりも、連座に問われている後妻についてだった。
 庄屋の後妻は、桑名の宿場で春をひさいでいた飯盛女で、尾州の貧農の出自だったという。
 年季明けの落ち着き先として、斡旋されて先代庄屋の息子に嫁ぐ事となっていた。既に今代庄屋となる男が入り婿として家に入っており、実子である息子は、実家の田畑を借りて耕す小作という立場だった。後を継げない彼は村から軽んじられつつあり、嫁のあてもなかった。それを案じた先代庄屋が、年期は明けたものの行く当てのない飯盛女に目をつけ、あてがう事にしたのである。
 この時代、娼婦の経歴を持つ為に疎まれる事はまずなかった。馴染みの娼婦の前貸銭を肩代わりし、身請けして妻にする事も頻繁に行われている。さらに年期が明けた後であれば前貸銭を肩代わりする必要もないので、費用がかからない。薹が立った元飯盛女としても、落ち着き先として百姓に嫁ぐというのは悪い話ではない。
 だが、村に連れ帰って一月も経たぬ内に先代庄屋、そしてその娘である今代庄屋の先妻が相次いで急死。
 義父の後を継いだ今代庄屋は喪も明けぬ内に、義弟の嫁になる筈の女を、自らの後妻として迎えたいと言い出した。
 義弟の方は元々乗り気でなかったのか、義兄に逆らえなかったのか、全く異議を唱えなかった様だ。
 村での振る舞いに関する風評も、無学ではあるが純朴に働く良い女房であると、決して悪くない。健脚で、近隣の村への遣いも、一人でしばしばこなしていたという。
 代官の頭には、釈然としない物が浮かんでいた。
 庄屋の手による殺害という噂だが、父娘の死で最も益を得たのは、後妻に収まった女だ。
 下手人は後妻と考えた方が筋が通る。あるいは、今代庄屋が女に唆されたか。
 いずれにせよ、死因を殺害と断定する為には、埋葬されている父娘の遺骸を検分する必要がある。代官は一門に対し、医学に詳しい者を派遣する様に要請する事とした。



[37967] 6話「阿修羅の学師」その31
Name: トファナ水◆34222f8f ID:fd9cd362
Date: 2016/04/10 20:28
 代官が一門に対し、遺骸を検分する為の医術者を寄越す様に要請する文を出した翌日の朝。
 明け方は快晴だったのが、北西の方角から黒雲がわき出して曇り空になった。程なく雨が勢いよく降り出し、雷も鳴り響き始める。

「やれ、有難い、雨じゃあ」
「ここの処、日照りが続いておったからのう」

 百姓にとって、適度の降雨は死活問題である。
 恵みの雨を歓び空を見上げた彼等は、驚きの声を挙げる事となった。

「何じゃあ、こりゃあ!」
「お代官様に報せねえと!」

 慌てふためいた百姓達は、代官の居宅へと押しかけた。

「お代官様、大変でごぜえますだ!」

 未だ寝床でぼんやりとしていた代官は、戸を激しく叩く音で起こされると、巫女装束を纏って玄関口へと出た。

「何事だ、騒々しい!」

 眠い眼をこすりいかにも不機嫌そうな代官に、百姓達は構わずにまくしたてる。

「寝ている場合じゃねえですだよ、空をご覧なせい!」

 百姓達に促されて代官が見た物は、黒雲の切れ目から覗く、鱗に覆われた長大な物がうねっている様子だった。

(皇家の方だな。医学を修めた一門の学師となると、和修吉(ヴァースキ)師辺りか)

「ありゃあ一体何ですだ? どこぞの妖(あやかし)が悪さでも……」
「諸君、怖れる事はない。空におわすのは那伽、和国で言う龍のお方故、心配はいらぬ」
「龍神様ですだか? こ、こいつはとんだ御無礼を……」

 百姓達は説明を聞いて恐縮したが、代官は気にするなと手を振った。
 和国の民にとって見慣れぬ怪異を目の当たりにして、騒ぎ立てるのは無理もない事である。

「それにしてもお代官様。仏画の龍はあんな感じじゃけれども、儂等の龍神様は、半分が人間で、腹から下が蛇、でもって大きさはあんなでっかくねえ筈ですだよ」
「常日頃は諸君の良く知る半身半蛇だが、大きな力を使う時はあの様な姿に変化する。例えば、雲を操り雨を降らせる時だな」
「儂等に雨を恵んで下さる為に、わざわざ骨折って下さったんですかのう……」
「う、うむ」

 上空にいる那伽は、答志島からこの荘園へ飛来する為に変化したのであって、降雨は余技に過ぎぬのだろうと代官は思ったが、口には出さずに相槌を打った。
 感謝しているのに、水を差す事はない。

「有難や、有難や……」

 百姓達が空を拝んで、龍神に感謝の意を示し始めた時。
 ひときわ大きな雷鳴が轟くと共に、稲妻が彼等の眼前に落ちた。
 眩しさに目が眩み、思わず瞼を閉じた一同が、恐る恐る眼を見開くと、そこには人間で言えば齢三十頃と思しき半人半蛇、即ち那伽の女、そしてその傍らに二人の娘子が立っていた。
 娘子の一方は齢十七、八の年頃に見え、他方は童と言って差し支えない程のあどけなさが残る。角や牙、多腕と言う様な人外の特徴はないが、半人半蛇の女同様、漆黒の肌から、補陀洛の出自である事が見て取れた。
 三名共、学問に従事する者の衣装である、白地の絹で仕立てられた紗麗(サリー)を身に纏っている。
 いつの間にか黒雲は消えて青空が戻り、雨も降り止んでいた。

「りゅ、龍神様のお出ましじゃあ!」
「仰々しく出迎えるには及ばぬ。皆、面を上げよ」

 百姓達は慌てて平伏したが、那伽の声に従い顔を上げる。

 代官は三名に向かって恭しく合掌して出迎え、三名も同じく合掌で答礼した。それを見た百姓達も慌てて真似る。

「和修吉(ヴァースキ)師、お久しゅうございます」
「うむ、伊勢へ向かう船中を共にして以来であろうか」
「ええと…… 龍神様、ですだか?」

 弗栗多の姿を見た事がある百姓が、恐る恐る問いかけた。
 眼前の女性は、死人の様に青白い肌の弗栗多と違い、漆黒の肌である。
 顔つきも、弗栗多は切れ長の眼だが、この女性は大きくはっきりとした眼が、左右だけでなく額にも付いている。いわゆる三つ眼だ。

「いかにも我は那伽、お前達の言う龍だが。お前達が”龍神様”と呼ぶのは、弗栗多皇、那伽摩訶羅闍の事であろう? 補陀洛から来訪した那伽は、皇(すめら)のみではないのだがな」
「そ、そうだったんですだか?」

 村人達は、伊勢に来訪した龍が弗栗多の他にもいると知って驚いた。
 伊勢の民にとって、龍神とは弗栗多とほぼ同義であり、彼女が同族を引き連れていたとは思わなかったのだ。
 補陀洛がその存在を伏せていた訳ではないのだが、弗栗多以外の那伽が、殆ど伊勢の民の前に出てこなかった事が主因である。

「ええと、龍神様。何とお呼びすれば良いですじゃろ? 」
「我が名は和修吉(ヴァースキ)。一門、即ち学問を修める徒党で医学を修める学師であり、補陀洛皇家に名を連ねる身である。以後見知りおきたまえ」

 和修吉は、若衆の施術を発表する一門の会合において、計都と質疑を重ねていた学師である。
 ちなみに、那伽と阿修羅は補陀洛の頂点に立つ支配種族であり、その全てが皇家の一員とされる為、彼女が那伽の内で特別の立場という訳ではない。

「お連れ様はどの様なお方ですだか?」
「これは一門の学徒で、年長の方が普蘭(プーラン)、幼き方は奥妲(アウダ)という。見ての通り年若き人間だが、神属同様に法術を操れる。今日は我の介添えとして連れて来たのだ」

 奥妲は、若衆の処遇について疑念を呈し、異議を唱えていた学徒の名である。
 今回は、姉同様に慕う普蘭が和修吉に同行すると聞き、無理を言って付いて来たのだ。 和修吉もまた、会合で計都にも臆さぬ態度を取った奥妲の姿勢を高く評価しており、医術の助手としては未熟だが、広く世を見せる為として願いを聞き入れたのである。
 和修吉が人間の学徒を連れて来た事に、代官はやや不安を感じていた。
 一門の学徒として学ぶ人間達はその出自故に、伊勢の民との間で摩擦を起こすかも知れないとして、以前より懸念されていたのだ。
 学徒と民衆をむやみに接触させない為というのも、離島である答志島に一門の本拠を置いた理由の一つである。
 補陀洛の下層民から選抜し、沙門として身分を引き上げた上で伊勢遠征に同行させた学徒達が和国で為すべき事は、新たなる世の臣民となるべく集められる赤子達の育成。
 故に、懸念を顧みずに、旧き世の民衆、即ち仮初めの民と接する必要はない筈だと、代官は考えた。

(介添えなら神属を連れてくれば良い物を……)

「お前の言いたい事は察しがつくが、神属のみでは手が足らぬのでな」
「承知しております、和修吉師」

 懸念を口にする前に和修吉に先回りされ、代官は頷くより無かった。
 だが代官の不安は、後程に的中する事となる。



[37967] 6話「阿修羅の学師」その32
Name: トファナ水◆34222f8f ID:fd9cd362
Date: 2016/04/10 20:29
「皇の新たな荘園に出向かねばと思っていた矢先、お前の依頼があって丁度良かった。検分はこちらの用向きが終わってからにしたいのだが、構わぬか?」
「何なりと、和修吉師」

 和修吉は代官を通じ、代官の居宅前に老若男女を問わず悉く、半刻後に集まる様、百姓達へ命じた。
 彼等が急いで家人を呼びに各々の家へ戻っていった後、和修吉は介添えの二人に目配せする。
 普蘭が頷いて、身につけていた象牙の腕輪を外して宙に放り投げると、先程まで百姓達が集まっていた辺りに、瞬時にして小屋程の大きさがある天幕が張り巡らされた。
 中には寝台、そして卓に椅子が備えつけられている。
 普段は腕輪に封じてあり、必要に応じて本来の大きさに戻せる法術具だ。

「して、どの様な御用向きでありましょうか?」
「百姓共が皆、健やかかどうか確かめねばならぬ。見た目が良くとも、密かに病が巣くっている場合もある故にな」
「折角、医師たる和修吉師に御足労願ったというのに、差し当たりの主命を果たす事ばかりに囚われ、そこまで考えが至りませんでした」
「良い。代官として何を為すべきか、経験を積みたまえよ」

 住民が健康であるか診察し、病んでいる者がいれば治療を施すというのが、和修吉が荘園を訪れた用件であるという。
 本来であれば自らが要請すべき事の筈が、配慮が足りなかった事を代官は恥じ入った。

「人別改 ※住民台帳 はございますか?」

 奥妲に問われた代官は居宅に戻ると、これまで庄屋が管理していた人別改を持ち出して来た。
 代官が手渡した帳簿を奥妲はめくり、内容を一読する。
 そこには各戸の家族、生年に加え、身の丈やおよその特徴が書かれていた。

「誤りや漏れはございませんね?」
「面通しして照らし合わせてある。記載に不備はない筈だ」

(この娘は一門の内でも、才覚は有望なれど、感情を露わにしがちな”跳ね返り”という風評であったが…… この様は和修吉師の御指導による物か?)

 氷の様に無表情で抑揚のない声の奥妲に違和感を覚えつつ、代官は人別改の内容を説明した。
 その間に和修吉は普蘭を伴い、天幕の中で支度を調えている。
 それが終わったのは、百姓達が家人を伴って戻り始めて来た頃だった。

「うぉっ! 何じゃこりゃあ!」
「いつの間にこんなもんこしらえたんですだか!」
「我等にとっては造作も無き事。いちいち驚くにはあたらぬ」
「へ、へい……」

 天幕に驚く百姓達の様子に代官は微笑んだが、奥妲は無表情のまま彼等を観察していた。

「名を呼ばれた者から順に、天幕へと入りなさい。和修吉師が体に悪いところがないか、診て下さいます」
「和修吉先生様は、お医者様ですだか。でも儂等、銭なんぞねえですだよ……」

 伊勢は医薬の産地だが、神宮統治下に於いてはあくまで他州との交易品であり、百姓がそれを使って病を癒す事は許されなかった。
 まして、医師にかかる等、貧しい民には思いもよらない事である。

「他州の民に薬や医術を供する際は相応の対価を取るが、諸君には税を課しておる。故にこれは庇護の一環として行う事だから、何も取らぬ」
「た、只なんですかい?」
「当然です。民が貧しさにあえぐ事、ましてそれ故に病に斃れる等、主上の庇護下であってはならない事なのです」

 無償であるという代官の言葉を問い返した百姓に、奥妲は冷ややかな眼を向けて答えた。

(さ、逆らっちゃなんねえ……)
(若い娘っ子でも、龍神様の家来はおそがいがや……)

 百姓達は、奥妲の様子に、代官の言葉を疑った事で怒らせてしまったと思い、背筋に冷たい物を走らせた。

「老いている者から先に呼びます」

 人別改から奥妲が最初に選んだのは、齢七十の老婆だった。
 当時の平民階層としては、かなりの高齢である。
 老婆が恐る恐る天幕に入ると、蜷局(とぐろ)を巻いた和修吉が出迎えた。
 中には大きな寝台があり、その傍らにある帳面と筆・硯が置かれた卓に普蘭が向かっている。
 窓や灯火が無いにも関わらず、内部は昼の様に明るい。

「よ、宜しくお願いしますだ……」
「まずは衣を脱いで裸になりたまえ。そしてその台の上に仰向けで横たわりたまえ」
「へ、へい……」

 やや怯えた様子の老婆が衣を脱ぐと、萎み垂れ下がった乳房と、皺だらけで染みがあちらこちらに浮かんだ肌が露わになる。
 寝台に仰向けになった裸身を和修吉はくまなくまさぐり、状態を確かめていった。
 手足を曲げて見たり、全身の皮膚を掌でなで回す。
 目、鼻孔、口腔はもとより、女陰や肛門までも覗き込む。

『左眼に白底翳(しろそこひ) ※白内障 の兆候あり。加齢で体力も衰えているが、他は問題なさそうだ。霊力の残量から判断するに、食に不自由がなければ余命はおよそ十五年だろう』

 老婆に聞かれぬ様、和修吉は梵語で診察の結果を話し、普蘭はそれを帳面にやはり梵文で書き留めていく。

『阿羅漢(アルハット)でしょうか?』
『否。常人だな』
『まずは外れでしたか』
『そうそういる物でもなかろう』

 阿羅漢とはこの場合、法術を行使する素養を生まれながらに持つ人間の変種を指し、普蘭や奥妲、若衆もそれに該当する。
 ちなみに阿羅漢の内、極めて力の強い者が如来(タターガタ)、和語で言う活仏と呼ばれる存在で、一揆衆頭目や、かつての瞿曇(ガウタマ) 悉達多(シッダールタ)はそれである。

「どうですかいのう?」
「左目がよく見えていないだろう。治す故、案ずるなかれ」

 梵語のやり取りが解らない老婆が不安げに尋ねて来たので、和修吉は和語で症状を説明した。

「目が治るんですだか?」
「ああ。後は体が軽くなる処置も施しておく」
「ありがとうごぜえます! ありがとうごぜえます!」

 加齢によって目が病んでいき、最終的に失明するのは珍しい事ではない。
 あきらめていた目が治ると言われ、老婆は和修吉の言葉に感謝する事しきりだった。

「では、少々辛抱せよ」

 和修吉は言うが早いか口を大きく開き、牙に薬物を塗りつけると、老婆の首筋にかみ付いた。
 苦痛と恐怖に悲鳴をあげかけた老婆だが、薬が効き始めると共に徐々にその眼は濁り、恍惚とした表情を浮かべて涎を垂れ流し始めた。

『いきなり新薬を試すとは、慎重な師にしてはお珍しいですね』
『心外な。事前に丸太で何度も試しておる』
『何本潰しましたか?』
『十本程使ったか』
『十本とは豪気な。銭で購えない物ですから、勘定方が目をむきそうですよ』
『新薬の効用を考えれば惜しくはない』

 丸太とは、法術や薬物の試しに使う、咎人や贄人を指す符丁である。
 一門にとって、それらは人間ではなく素材に過ぎない。
 恍惚となり呆けていた老婆は程なく意識が戻り、よく見えなかった左目の視力が戻っている事に気が付いた。
 また、全身に力があふれ、心臓の鼓動が強くなっている事も感じられる。
 
「何だか、若返った様ですだよ」
「よく解ったな」
「本当ですだか!?」

 驚く老婆に、普蘭は銅鏡を差し出し、自身を見る様に促した。
 老婆が鏡面を見ると、そこには齢三十半ばの、熟れ盛りの女の顔が映っていた。
 美形とはお世辞にも言えぬ、垢抜けない田舎の女房という見てくれで、顔立ちが整った者が多い神属の女とは比べるべくもないが、それでも百姓の男衆から見れば充分そそるだろう。
 
「これが……儂?」

 胸に目をやると、垂れ下がっていた乳房は張りを取り戻している。
 体のあちこちにあった染みも消え、皺一つない体だ。

「我等はこの様な事も出来る」
「すげえ御利益(ごりやく)ですだ!」
「命を砥石で研ぐ様な物だ。それ故に寿命が数年縮んだが、それでも十年余りは保つだろうよ」
「よぼよぼの婆よりずっとええですだよ。有り難うごぜえます!」
「礼には及ばぬ。お前達は帝や御夫君様がお召し上がりになる作物を育てる、大切な働き手だ。老いぼれたままでは野良仕事もままならぬからな。寿命が尽きるその日まで、お前の若さは保たれるであろう」

 若返った老婆は衣服を身につけると、何度も頭を下げ、天幕を後にした。

「誰だ、あんた? 婆様は?」

 天幕から出てきた壮年の女を見て、順番を待っていた百姓達は訝しんだ。

「儂じゃ、儂じゃ。先生様が若返らせて下さったんじゃ!」
「本当ですかいのう?」

 女の返事を信じられない百姓達が奥妲に問うと、黙って頷いたので、辺りは騒然となった。

「若返りじゃ! 若返りじゃ!」
「先生様の神通力じゃあ!」

(一千年の命を得た私達学徒や御夫君様と違い、寿命は常人のまま。いや、むしろ縮んだ。老いで隠居する事なく、命が尽きるまで働かせる為に若返らせたというのに、それを喜ぶとは哀れな愚民達……)

 喜び騒ぐ百姓達を、奥妲は無表情のまま内心で侮蔑するのだった。



[37967] 6話「阿修羅の学師」その33
Name: トファナ水◆34222f8f ID:fd9cd362
Date: 2015/08/07 23:04
 和修吉による村人の診察と治療は続き、正午に小休止となった。
 伊勢を掌握して以後に補陀洛が民衆に与えたこれまでの恩恵は、主に食糧や生活物資の提供、治安の維持といった物で、財政が豊かで善政が敷かれている地域であれば珍しい事ではない。
 しかし今回の治療は違う。従来の伊勢で産出していた薬類では勿論の事、和国のいかなる医術をもってしても、欠けた歯や手指を生やしたり、老人の曲がった腰を伸ばしたり、まして若返り等は到底不可能だ。
 この世の物ならぬ神属の力をまざまざと見せつけられた百姓達は、それにすっかり魅了されていた。
 小休止を入れると聞き、順番を待っていた百姓達は、恩恵を受けそびれるのではないかと思い込み、必死に騒ぎ出した。
 代官が一喝しようとしたが、その前に奥妲が鋭い視線を向けた事で静まる。

「和修吉師はお疲れです。村人皆を癒すまで去る事はありませんから、半刻後に来る様に」
「へ、へへ。お代官様、学徒様。儂等はこれで失礼致しますだ」

 奥妲の氷の様に冷たい視線、そして抑揚がない言葉に畏れを感じた百姓達は、卑屈な笑いを浮かべて手揉みしながら、各々の家へと戻っていった。

「法術も使わず、一睨みで黙らせるとは見事な物だ。近衛に属する武官でも中々出来る事ではない」
「意志薄弱にして無知蒙昧、力におもねる事しか知らぬ惰弱等、どうという事はありません」

 代官の賞賛に、奥妲は百姓達に対する蔑みを淡々と述べた。

(この娘は、やはり吠舍(ヴァイシャ) ※平民 をも憎んでおるか。村に来てからの態度は、理で情を抑える為、心に面を被っていたのだな)

 一門の学徒は旃陀羅(チャンダーラ) ※賤民、或いは首陀羅(シュードラ) ※奴隷として虐げられた過去を持つ為に、虐げる側であった上位の人間を憎悪する傾向がある。
 支配階層である婆羅門(ブラーフマナ) ※神職 だけでなく、刹帝利(クシャトリヤ) ※士分、吠舍もやはりその対象だ。
 特に吠舍は下層民と直に接する機会が多く、鬱憤の対象として日常的に虐待を加えて来た為に、学徒によっては婆羅門以上に憎んでいる者もいるのである。
 和国の階層は補陀洛よりも緩やかだが、それでもかつての自分達と同じ様な立場の賤民がいると知り、学徒が抑圧者の側として百姓を見てしまうのも無理はない。
 与えられる恩恵をただ貪り、少々の事で不満の声を挙げ、怒りを買ったと思えば途端に卑屈となる村人達を見て、奥妲の心に穏やかならぬ物が生じている事は、代官にも容易に察せられた。

「しかし、正午の前と後で、予め百姓共を振り分けておけば、あの者共を無駄に待たせず済んだのではないか? 田畑を耕す手が無闇に止まるのは、荘園を預かる身としては好ましくないのでな」
「私が至りませんでした」

 代官の指摘に、奥妲は自らの無配慮が百姓の騒いだ一因であった事を認め、眼に浮かんでいた暗い光も消えた。

「これより打ち合わせをしたく思います。その間、代官殿も御休息を」
「同席は出来ぬか?」
「和修吉師の御意向です。御遠慮頂きたく」
「なれば、無理は言うまい」

 皇族でもある和修吉に無理を押す事は憚られる為、代官は一抹の不安を覚えつつも、一時の休息を取りに居宅へと戻っていった。


*  *  *


「百姓共の相手、ご苦労様でした」
「姉様こそ」

 天幕に入った奥妲は、普蘭と互いをねぎらった。
 二人とも既に無表情ではなく、やや疲れを浮かべつつも笑顔を浮かべている。
 淡々とこなしてはいたが、やはり嫌悪する対象を相手にした仕事は、精神的に疲労が溜まる物なのだ。

「お前が耐えきれずに一騒動起こす事も想定していたが、よく堪えたな」
「主上が庇護する民を故なく害する等、臣たる身にあるまじき……」
「ああ、建前は要らぬ。いつも通り、正直に思う事を述べたまえ」

 和修吉に褒められ、奥妲は神妙に形通りの言葉を返したが遮られた。
 和修吉が奥妲を気に掛けているのは、例え一門の長たる計都に対しても憚ることなく自らの意思を述べる為だ。
 神属と同等の地位まで引き立てられた恩義から、計都に盲従しがちな学徒の中にあって、その様な個性は貴重な存在であると和修吉は考えていた。

「所詮、新しき世には迎えられぬ仮初めの民。手を下す値打ちもない、取るに足らぬ惰弱です」
「そうだな。だが、あれらが無知蒙昧なのは、長きにわたる抑圧と貧困に依る物。己の責ではないのだ」
「わかっています」
「ならば、あれらが寿命を全うするまで善導するのが、力と智恵を備えた者の務めと心得たまえ」
「仮初めの民は致し方ないでしょう。されど、愚かさを次代に引き継がせてはなりません」

 百姓を見下す本音を吐露した奥妲に、和修吉は上に立つ側の心得を諭す。
 しかし奥妲は決意を込め、力強く言い放った。

「当然だ。荘園へ参じたのは、その為でもあるのだからな」
「それは…… どういう事でしょうか?」

 和修吉の答えに反応したのは、普蘭の方だった。
 荘園を訪れる目的が、住民の診療と、殺害の疑義がある遺骸の検分の他にもあったとは、彼女は聞かされていない、

「元々の目的ではありません。ここに来る前、私が師にある提案をしたのです」
「奥妲、どういう事か話しなさい」

 奥妲は自らの案を普蘭に説明したが、普蘭は疑念を呈した。

「数年の内に行う事は、既に主上の勅意として一門に示されています。無理に早めねばならない物でしょうか?」
「急遽だが、導師計都の諒解は取り付けた。この荘園の規模なら、伊勢全土で施行する前の”試し”を行うのに丁度良いではないか。主上の直轄地で、一揆衆へ配慮する必要がない事も好都合だ」

 一門にとって、計都の意思は弗栗多の勅意も同義である。
 実際、計都が独断で行った事に、弗栗多が事後承諾を与えなかった例はない。
 しかし、普蘭は今一人、弗栗多の傍らにいる心優しい青年を悲しませるのではないかと危惧した。
 
「主上はともかく御夫君様が何とおっしゃるか……」
「お優しき御夫君様の事。新しき世に必須と解っていても、民に辛い施策を行うには躊躇するであろうな。なればこそ、我等が先行すべき事なのだ」
「先程、百姓共の浅ましさを見て確信しました。悠長に数年も待っていてはなりません! 停滞で引き起こされる不都合こそが新たなる世の妨げ、ひいては御夫君様の憂いとなりましょう!」

 和修吉の所見、そして奥妲の強い意志が込められた叫びに、普蘭は眼を閉じて考え込み、頷いた。

「新しき世の建立の為に」

 小休止は皇道楽土の実現を誓う唱和で締めくくられ、和修吉達は診療を再開した。



[37967] 6話「阿修羅の学師」その34
Name: トファナ水◆34222f8f ID:fd9cd362
Date: 2015/08/14 20:52
 先に老齢の者から診ていた為、再開された診療は壮年以下の者が主体となった。
 若返りは必要ない年代だったが、身体の欠損や不調のあった者は勿論、気付かぬままに病が進んでいた者もその指摘を受け、投薬や法術を施されている。
 並ぶ列も徐々に減り、天幕の外では紅顔の若人達が残るばかりとなった。

「これで、残りは齢十六に満たない者ばかりですか」
「うむ」

 人別改をめくりながら奥妲が確認すると、代官は頷いた。

「代官殿より御依頼の件を行うにあたり、その者達は診療を終えた後もこの場に残る様にお命じ下さい」
「八十名程いるが、手伝わせるにも数が多すぎないか?」
「皆の内から募ります」

(報償を出すなら、申しつけられた者が後で妬まれかねぬ。それを防ぐ為、選ぶ過程を公正にするか。なる程、配慮したな)

 代官は奥妲の言うままに、並んでいる若人達に指示を出した。
 彼女は奥妲の配慮に感心したが、全くの誤解であった事が後程明らかになる。

『ところで、代官殿』
『うむ?』

(順番を待っている者に聞かせたくない話か?)

 奥妲が梵語に言葉を切り替えた事を代官は怪訝に思ったが、とりあえず自らも梵語で応じた。

『老齢の者を若返らせた事で、従来と比してどの位の働き手が増すでしょうか?』
『農耕に牛を供した事を考え合わせれば、実質でおよそ五割増しであろうか』
『是。こちらの試し算用とも合います。田畑が増えた訳ではありませんから、生じた余裕を無駄にしてはなりませんね』
『荘園としては、灌漑や開墾に活用するのが常道であろうが、一門は何か考えているのかね?』
『それについては後程』

 一門の助けにより余裕が生じた以上、その意向は無視出来ない。
 計都に逆らえる筈もなく、代官に出来る事は、あまり無茶を言い出さねば良いがと願う事だけだった。
 診療が全て終わると、その場に残る様に命じられていた齢十六以下の若人達へ、代官は役務を説明した。

「先代庄屋とその娘の死因が、後を継いだ入り婿である今代庄屋による殺害との風評がある事は、諸君も知っての事と思う。それを御夫君様…… 諸君の立場から言えば一揆衆頭目が聞き及び、真相を確かめよとの命が下ったのだ。ついては、埋葬された遺骸を掘り起こす為、諸君の内の誰かに手を貸して欲しい」

 代官の言葉に、若人達は騒然となった。

「ちゅうと、墓を暴けっちゅう事ですかい!」
「左様。諸君、庄屋が下手人ではないと示し、疑いを晴らす為にも必要な事なのだ」
「そりゃ、そうですけんども…… 亡くなったのは随分昔の事ですだ。ここらは土葬だけんども、骸はとっくに土の下で骨になっちまって、調べようがねえですだよ」
「問題ない。我はそういった事を調べる為の法術を修めておる。我が来たのはお前達を診るだけでなく、遺骸の検分を代官殿から請われた為だ」

 骨を調べたところで何も解らないだろうという指摘に、和修吉が自分なら出来ると返す。
 超常の力を持つ龍ならばと、その点では皆が納得したが、若人の内からは別の疑問が出た。

「でも、墓掘りなんぞは隠亡(おんぼう)、かわたもんの仕事ですだよ。百姓がするこっちゃねえですだ」

 隠亡とは、遺骸の埋葬、荼毘に従事する寺社詰めの雑役人を差し、地域にもよるが賤民身分とされる事が多い。
 また”かわた者”とは、この地域に於ける賤民の呼称で、家畜の死骸を利用した革細工職人が主な生業である。
 この村では専従の隠亡がいない為、死者が出た際には近隣の”かわた者”に埋葬を依頼するのが慣例だった。

「今、何と言いました?」
「へい。まっとうなもんがやると穢れちまうんで。墓掘りは、かわたもんにやらせるのが、ここらの習わしですだ」

 奥妲が聞き返すが、若人の一人は悪びれもせずに答えた。
 異国出身の奥妲が、伊勢の常識を知らないが為に聞き返したと思い込んだのである。

「代官殿、これはどういう事ですか?」
「い、いや、これは……」

 若人の暴言について奥妲に問われ、言葉を詰まらせる代官に、和修吉がさらなる詰問をする。

「賤民の身分はこれを廃し、平民の列に加える。以後、彼等を賤しんだ者は厳罰に処すとの主上の勅令、申し伝えておらなんだか?」
「……勅令が発されたのは、村の自治を召し上げて荘園とする前の事。捕縛されて獄中にある庄屋が在任しておりました故、あれが当然に周知しておる物とばかり思っておりましたが……」
「ならば、お前の責は問わぬ」

 数秒の沈黙の内、弁明を絞り出した代官に、和修吉は皇族として免責を与えると、何事かと狼狽えて硬直している若人達に向き直った。

「諸君に問う。賤しき者とされていた民を、以後は百姓・町人と同様に扱い、蔑む事まかりならぬという詔(みことのり)、もしや庄屋から知らされておらなんだか?」
「んにゃ、庄屋様からは聞いとったけども。墓掘りは昔から、あれらがやると決まっとる仕事ですだよ」

 ここで”知らなかった”と答えれば、勅令を村に周知しなかった庄屋に責任がある事となる。
 だが、彼等は捕縛されている庄屋に責任を押しつける様な機転を利かす事は出来なかった。
 そもそも、卑しまれている役務を、解放された元賤民に従来通り担わせる事が罪に問われるという自覚すらなかったのである。
 代官は、学徒二人が怒りも嘆きも見せず、微笑みさえ浮かべて黙っている事で、これが仕組まれた流れである事を悟った。

(何を考えている……?)

「ふむ。では今回は彼等に任すとしようか」
「そうですだ。それがしきたりですだよ」
「元賤民の集落は半里 ※約2km 程先だったな。では、お前。遣いに走って彼等を呼んで来たまえ。今からなら夕刻に間に合おう」
「あの、その……」

 答えた若人は、物知らずの異国の龍神に常識を教えてやったとばかりに胸を張ったが、続いて発せられた和修吉の提案に、顔を青ざめさせて震え出した。

「どうしたのかね?」
「掘りますだよ! 俺等が掘りますだ! その方が早いですだ!」

 わざとらしく首を傾げた和修吉に、不平を述べていた若人は前言を翻し、いかにも焦った様子で自分達で掘る旨をまくしたてた。
 それに対し、普蘭が苦笑しながら窘める。

「穢れた事をやりたくないという貴方達を思いやって、師が折角、今回はあちらに頼んでも良いと仰っておられますのに。御心遣いを無になさるとは何という不遜でしょう」
「あ、あないなとこに行ったら……」
「行ったらどうなるというのかね? これまでも弔いの時は彼等を呼びに行ったのではないのかね?」
「そ、それは…… ”あっち”のもんを、村の若いもんが粋がって小突くんは、当たり前だったもんで……」
「神宮が潰え、賤民が解放された事で、報復を受けるのではないかと言うのだね?」
「へ、へい……」
「勅令が出る前にお前達が彼等にした狼藉(ろうぜき)について、勝手に報復等すれば罰を下すと主上の勅意を申し伝えてある。安心して行きたまえ」
「ど、どうしても、ですだか?」

 すがる様な目で哀願する若人に、和修吉は満面の笑みで頷いた。

「後生ですだ! 俺だけで行ったら、かわた共にぶち殺されちまうだよぅ!」

 若人は平伏して喚き散らし、周囲の者達も顔を見合わせて落ち着かぬ様子を示しはじめた。

「和修吉師よ、何か御存知なのでしょうか」

 代官は、若人による元賤民への虐待を告発するのが和修吉達の思惑ではないかと思い至り、詳細を聞く事にした。
 恐らく、埋葬された屍の発掘が賤業であると若人達が拒むのも、彼等の想定の内で、その言葉を引き出す為に命じたのだろう。

「過日、我は元賤民の集落へ医師として、今日この荘園で行ったのと同様、民の診療に赴いた。丁度、重篤な患者が五名程いて、いずれも若年の孕んだ女だった。臨月で子が流れかけておってな。手を施したが既に遅く、いずれも助けられたのは母親のみだった」
「何と哀れな。ですが、せめて母側の落命を防げただけでも良しとすべきでしょう」
「ただの流産であればその通り。だが話を聞くと、この村の若人達によってたかって手込め ※強姦 にされた為という事だった」
「……もしかして、この者達が下手人というのですか?」
「驚くにはあたりません。国元でも、私達は吠舍(ヴァイシャ)共からその様な事をされ続けて来たのですから」
「そうであったな……」

 普蘭の言葉で、代官は改めて、下層民だった学徒達が、抜擢される前に補陀洛でおぞましい虐待を受けていた事を思い起こした。
 補陀洛に於ける下層民の女は、幼少時よりほぼ例外なく上位の者から陵辱され、父の解らぬ子を産み落とす。
 望まれずに生を受けた嬰児の大半は道端にうち捨てられ、野犬や鴉の餌として果てるのが常だ。
 僅かに育てられる子も、いずれ老いた身を養わせる為にのみ生かされるのである。

「しかし、臨月というのであれば、陵辱されたのは十月程前の事。その時分は未だ神宮の治世であります故、罪には問いがたいかと存じます」

 神宮の治世下に於ける、平民による賤民への虐待を厳格に追求すれば、民百姓の大半を罰さねばならない。
 その為、賤民を解放する際、過去の虐待に対する免責を一揆衆との協議で取り決めてあった。
 慰撫する為に多くの財物を贈ると共に、諸悪の根源は神宮であるという事にして賤民を納得させたのである。

「否。手込めにされたのは先日、即ち勅令が発された後の事。いずれも腹の子は夫の胤であった。孕ませるのを避ける為、わざわざ妊婦を狙ったのであろうな」
「それが事実なら、何とも小賢しい事ですが」
「うむ。惨い有様で、全身至る所に殴打の痕であろう痣が出来、眼球は潰れ、鼻は曲がり、顎は砕け、手足の骨は折れ…… 女陰と肛門は裂け、傷口から漏れ出した糞便が元で、胎内の子にはその毒が廻っておった」
「その様な惨い事を…… この者達が?」

 色欲に負けて女を手込めにする輩は、残念ながら珍しくはない。
 しかし、ただ犯すに留まらないその仕打ちの残忍さに、代官は耳を疑った。
 眼前の若人達は恐怖に震えるばかりの小心ぶりで、その様な凶事を引き起こす様な邪悪さは全く感じられない。
 短いながらも彼等と共に過ごした代官には、ただの純朴な百姓にしか見えなかった。

「下手人の容貌を聞き取って似顔を描いてあるから、とくと見るが良い」

 和修吉が銅鏡を取り出すと、鏡面から多くの細い光が末広がりに伸び、辺り一面の中空に肖像を映し出した。
 その数は丁度六十。それぞれ、この場にいる若人達の顔に似た物ばかりである。

「こ、これは、おめえでねか?」
「ち、違うって! それよりこいつは、おめ様に瓜二つじゃあ!」

 映し出された数々の似顔を見た若人達は、自分に似た物を違うと言いはり、他者に似た絵をそっくりだと言い立て、罪のなすり合いを始めた。

「あたしらは女ですだ! 逸物も生えてねえのに、手込めなんて出来ねえですだよ!」
「男共が事を済ませた後、放置されて倒れ伏せている孕み女に対し”かわたの分際で村の男衆をたぶらかした”等と称し、嗤いながら激しい殴打を加えたと聞いておる」
「かわたと百姓はまぐわっちゃなんねえですだよ! 血が汚れますだ!」
「ならば、手込めにした側の男に罰を与えるのが道理であろう。お前達は男共の愚行を止めなんだばかりか、口実を元に賤民をいたぶって愉しんだに過ぎぬ」
「……」

 若人の内にいる娘達は、女である事を理由に無実であると抗弁したが、暴行についての罪を問われると自己正当化を図り、それも一蹴されると黙りこくってしまった。
 一言の謝罪も反省もなく、ただ無実を訴え、あるいは友に罪を押しつけたり、正当な行為であったと言い張る若人達の妄言に、学徒二人は憎悪に満ちあふれた歪んだ嗤い、奈落の使者の如き顔を露わにし、代官は頭を抱えてしまった。

「醜悪な…… せめて殊勝な態度を示せば、慈悲のかけ様もあろうに……」
「所詮、無知蒙昧な愚民共の振る舞い。この様な屑は早々に始末せねば、新しき世の妨げになりましょう。勿論、任じられる前の事ですから、代官殿に責はありません」
「これ程多くの民を一度に仕置すれば、耕作にも支障が出かねぬぞ」
「牛を供し、年寄りを若返らせたのですから、その程度の事で困りはせぬ筈です」

 労働力の減少を理由に寛大な処置を求めようとした代官だが、家畜の提供や老人の若返りで補えると奥妲から指摘されて鼻白んだ。

(先程の話は前振りという訳か。どこまでも勘定に入っておるとは抜け目がない……)

「ささ、咎人の裁きは代官殿のお役目。果たして下さいませ」
「う、うむ」

 奥妲から弾んだ口調で愉快そうに促されて代官は頷き、その場にいた者の内、手込めに関わっていない齢九から十二程の幼少の者に声を掛けた。

「そこな童共。那伽摩訶羅闍(ナーガマハラジャ)の御名に於いて裁きを下す故、すぐにこの者達の親兄弟を呼んで来るのだ。さあ急げ、これが今生の別れになるやも知れぬぞ!」
「た、大変じゃあ!」
「兄様姉様に、龍神様がお怒りじゃあ!」

 それまでのやり取りを、いわば蚊帳の外で呆然と眺めていた童達は、兄や姉の急を知らせるべく慌てて駆け出して行った。




[37967] 6話「阿修羅の学師」その35
Name: トファナ水◆34222f8f ID:fd9cd362
Date: 2015/08/23 23:46
 童達の報せによって、治療が終わって帰宅していた村人達が戻って来た。
 彼等が見たのは、厳しい顔つきの代官に平伏している、六十名の若人の姿だった。
 代官の傍らでは和修吉が意味ありげな微笑を浮かべ、二名の学徒は憎悪に顔を醜く歪めている。
 
「お、お代官様…… 若造共が何か、無礼を働いたんですだか?」

 尋常ならざる様子に、恐る恐る村人の一人が尋ね、代官は事のあらましを語る。
 それに対する村人達の反応は、代官の期待に反し、若人を擁護する者ばかりであった。
 
「若いもんの”やんちゃ”ですだ、大目に見て下され!」
「たかが”かわた”の娘っ子ですだよ、そんな大げさにせんでも!」

 村人達は倅や娘を救わんと必死に代官へ訴えるが、その内容はと言えば、若人達の罪を軽く見る物ばかりだった。
 那伽摩訶羅闍の勅令に反した事への畏れも、被害を被った女達への反省や謝罪もない。
 それだけ、賤民に対する蔑視・虐待が民百姓へ染みついている事の表れである。

「……もう良い!」
「差し出がましい様だが、我からも問いたい事がある。良いだろうか?」
「何なりと」

 聞くに堪えない百姓共の言葉を代官が遮ると、和修吉が発言を求めて来た。
 代官が申し出を受けると、和修吉は、大人達のやり取りを不安げに見守っていた童達に問いかけた。
 
「童共に問う。お前等の兄姉が行った事をどう思うか?」
「当たり前の事をしたのに、何で怒られるんですだか?」
「ほう? 当たり前かね」
「”かわた”っちゅうのは、時々はしばいて躾けてやらねえと、つけあがるんですだよ」
「んだ。龍神様、かわたは畜生みてえなもんですだよ」
「それは、親兄弟から教えられた事であろう? お前等は自分でそう思っているのかね?」
「んだ! あんなもん、人じゃねえですだ。ばっちい虫けらとおんなじですだ!」

 和修吉の問いに、邪気の一片もない無垢の顔で答える童達の言葉を聞き、代官は衝撃を受けた。
 年端もいかぬ童達が、旧来の価値観に反した意見を自ら持つ筈がない。
 親兄弟の行為に対する批判や、被害者に対する謝罪を引き出そうとしても無理であろう事は和修吉師も解っているだろうに、何故あえて尋ねるのか。
 ふと見ると、二人の学徒の顔からは、先程までの憎悪に満ちた嗤いは消えていた。 
 童達の言葉に相槌すら打ち、穏やかで満足そうに微笑む二人に、代官の背筋に冷たい物が走る。

(童共をも根こそぎ始末する為に、わざと尋ねたのか……!)

 平伏の姿勢を取らせたままの若人達は解らないが、言い分を話し終えた年配の村人達、そして童達は安堵した様子を示している。
 どうやら、和修吉や学徒二名の穏やかさから、寛大な処置が取られる物と思っている様だ。
 三名の意図が、荘園の民全てを処罰する事であると悟った代官は、その様子を内心で哀れんだが、このままでは全員に極刑を申し渡さざるを得ない。

「皆の者。言いたい事は他にないか」
「へい」
「もおええですだよ」

(やむを得ぬ…… 一片の悔悟も無しでは慈悲のかけ様がない……)

 せめて反省の言葉を述べてくれればと最後に尋ねた代官だが、望みはあっさりと絶ちきられてしまった。
 覚悟を決めた代官は、平伏する若人達に向き直る。

「畏れ多くも那伽摩訶羅闍の詔に背き、元の賤民に対する乱暴狼藉。老若男女を問わず、罪に対して一言の自省も無き諸君には、全く以て失望した。那伽摩訶羅闍の御名に於いて裁きを申し渡す。下手人は全員死罪。この場の者全ても、その言動が詔に反する故に同罪。また、同居の家族・親類も連座する物とする」
「何故ですだ!」
「儂等、そげな極悪人ですだか?」
「黙れ、愚か者共めが!」

 極刑の宣告に騒ぎ立てる村人達だが、代官が一喝と共に放った金縛りの法術によって静まり返り、身動き一つしなくなる。
 静寂の中、意外にも和修吉から再考を求める声が挙がった。

「代官殿、待たれよ」
「……しかし、この上は命を以て償わせねば、示しが付きませぬ。重罪犯については連座が原則。さらには童を含め、百姓共が下手人を庇う為に申し立てた言は、それ自体が元賤民への蔑みを含んでおります故」
「被害を被った者共には、一門から相応の見舞いを渡そう。是非再考願いたい」

 解放された賤民には、神宮統治下に於ける平民からの虐待を免責する代償として、相応の財物が既に支払われている。
 しかし、今回の件は一揆衆の下克上が成った後の事である為、一門が改めて支払うというのだ。

「どうしろとおっしゃるか」
「助命と引き替えに、”御試し御用”を申しつけたい」
「初めから、そのおつもりだったのでありましょうか」
「是」

 和修吉は、一門の実験台、丸太として村人を欲していたのだ。
 直接の下手人だけなら、手の込んだ事をせずとも、捕縛して裁き、御試し御用を申し付ければ事足りる。
 だが、彼等の親兄弟をも挑発し、賤民への蔑視を棄てていない事を放言させた上で、それを罪状として根こそぎ罰するとは、やり過ぎではないのか。
 代官は梵語で和修吉に苦言を呈した。
 
『荘園の働き手を奪われるこちらの身にもなって頂きたい物ですな』
『元々は、犯された上に子が流れた娘共の願いを受け、直の下手人への罰を兼ね、丸太とするのみのつもりだったのだが。これが、それでは足らぬと申して来てな』

 和修吉は奥妲に目線をやると、彼女は頷いて言葉を引き継ぐ。
 
『勅令を出したところで、仮初めの民は、表向きはともかく心の中では賤民を蔑視し続けていると考えたのです。それが露わになったのは大きな収穫でした』
『見せしめにしても、村全てを捕らえてしまう事もあるまい』
『”逆らう者は、赤子であろうとも悉く鏖殺せよ”との主上の勅意、代官殿も心得ておりましょう』
『承知しておる故、死罪を申し付けざるを得なかった! だが、荘園はどうなるか! 御試し御用でも、耕し手を損ねる事は死罪と変わらぬぞ! 何故、寝た子を起こしたのだ!』
『無論、耕し手がいなくなってしまわない様に心得ております。今回、答志島へ持ち帰るのは、直接の下手人共、及び童共のみ。残りについては、心を歪める法術を掛けた上で放免致します故、その者共が耕せば、荘園は成り立ちましょう』

 奥妲の得意げな口ぶりに、代官は思わず喚いた。
 しかし奥妲は全く動じる事無く、荘園の労働力は損ねない旨を説明した為、代官も矛を収めるざるを得なかった。

『我がこれの案を容れたのは、咎人を引き続き市井で働かせる為に有効と考えた為だ。命で償わせるに及ばぬが、過料や鞭打ちで済ますには重い罪を償わせるには妥当であろう』
『……呆けて使い物にならなくなってしまう事は無いでしょうな』
『掛けるのは新たに造り上げた術式でな。それを確かめる為の御試し御用という訳だ。見込みでは、元々の余命が短くなければ、およそ二十年は保つと考えておる』

 心を歪め、施術者に都合良く思考を矯正する法術は以前から存在する。
 それを掛け続ける限界はせいぜい十年で、それを過ぎれば脳が壊れて痴呆と成り果てるのだが、新たな術式はその期間を倍に延ばすという事の様だ。

『賤民の出自としては、百姓共を八つ裂きにしても足らぬであろうに。学徒殿はそれで満足かね?』
『私達は正に学徒であるが故に。ただ始末するよりは、学究の糧として役立てる方が、より意義ある事かと存じます』

 平民以上の身分の人間へ向ける学徒達の憎悪の深さを知る代官は、意外に思って尋ねたが、奥妲は力強く答える。

『奥妲は成長しましたものね』
『はい、姉様。ただ憎しみを晴らしたところで、それが何になりましょうか。全ての事象は、新しき世の建立の為に活かす様に仕向けねばなりません』

 普蘭は、復讐心を満たすより罰を大義名分として、罪人を理想実現の糧とする事を自ら提唱した門妹を褒め、奥妲はそれに誇らしく胸を張った。

『しかし、直接の下手人はともかくとして。童を獄へひきたてる一方で、成年に達している者を荘園に残すのでは、端から見て罰の釣り合いが取れますまい』

 代官としては、年端のいかぬ童の運命が気がかりである。
 荘園に残る親や祖父母よりも苦しむ様な事になってしまうのであれば、あまりに不公正である。

『童共を連れ帰るのは、一から、否、零から育て直し、性根を入れ替える為である。幼少の時期に限るが、脳髄に負荷を掛けずともそれが出来る術式を組んでおってな。それを試すべく、性根がねじ曲がった童の丸太を多く欲しておったのだ』
『贄として差し出させた、あるいは薬座が買い付けている他の童共と肩を並べ、新しき世に迎え入れる事はかないましょうか?』
『無論。性根が入れ替わりさえすれば、それ以前の咎を責め立てる様な事はせぬ。これがうまく行けば、今後は敵対した者の子弟であっても、幼少の者なれば助命する事が出来よう』
『御夫君様がさぞお喜びになりましょう。以前より、咎人の子であろうと幼き者については、何とか慈悲を与える事は出来ぬかと、常日頃から心を痛めておいででしたからな』

 ”敵対者は赤子といえども慈悲を与えず鏖殺せよ”との計都の教えに、頭目は理では納得していた物の、常に悩み苦しみ続けていた。
 それが解消されるのであれば、彼に慈愛の念を向ける補陀洛の女の一人として、代官にとっても喜ばしい事である。
 学問の為ならばどこまでも冷酷非情と怖れられる一門だが、それでもその様な配慮を忘れないのだと思い、代官は和修吉の思惑を受け容れる事とした。

『なれば、師の御心のままに』

 代官は頷くと再び百姓達の方を向き、判決を訂正する。

「聞け、咎人共よ! 諸君等は万死に値する大罪人ではあるが、和修吉師の慈悲深き申し入れにより罪一等減じ、御試し御用、即ち一門の法術や医薬を試される役を申し付ける事とする!」

 金縛りを掛けられたままの村人達は、助命の宣告に対しても、声を挙げる事も身動きする事も出来ず、ただ静まりかえるのみだった。



[37967] 6話「阿修羅の学師」その36
Name: トファナ水◆34222f8f ID:fd9cd362
Date: 2015/08/30 21:33
 村人の処遇を決した後、二人の学徒は和修吉の監督の下で必要な作業をこなしていた。
 まず、答志島へ連行する、下手人の若人六十名と、二十名の童の石化。 
 生まれついての凶眼を持つ弗栗多と違い、普蘭・奥妲共、石化には法術を使う必要がある。
 流石に二人では厳しかろうと代官は手を貸そうとしたが、和修吉はそれを制止する。
 
「こういう事は学徒にやらせなくては、修練にならぬ」
「しかし、これだけの人数を……」

 和修吉と代官が見守る中、学徒二人は黙々と咎人達に手をかざして念じ、石像へと変えてゆく。
 連続しての石化はかなりの疲労が伴う筈だが、その様なそぶりは全く見せていない。

「大した物ですな」
「あれらを支えておるのは、己を虐げた旧き世、そしてそれを支え続けた平民以上の民への激しい憎悪だ。同じ賤民に暴虐を奮った仇を前にして、これしきの事で音を上げたりはせぬ」
「”憎悪が生み出す力を昇華させれば、大いなる力となる”というのが、下層の人間から学徒を登用するにあたっての、導師計都のお考えでしたな」
「是。だが、それ故に難点もある」
「憎しみの余り暴虐に走るのではないかという事ですか? 故に、一門は答志島へ本拠を置き、伊勢の民とむやみに接するのを控えたのでは?」
「否。あれだけ悪態をついている奥妲ですら、実際の行動では理が情に勝っておる故、その点では心配いらぬであろう。それが出来ぬ愚者の席等、一門には無い」
「では、どの様な?」
「見ておれば解る」

 和修吉と代官が話している内に、石化の作業が終わる。
 金縛りがかかったままでの処置なので、若人は平伏したまま、童は立ちすくんだままの姿勢で石像と化していた。
 石化が及ぶのは肉体のみの為、着衣についてはそのままである。

「二人とも、御苦労だったな」
「はい。引き続き、荘園へ残す成人達の心に枷をはめる作業へと移りま……」

 労いの言葉を掛けた和修吉に、奥妲は報告を言い終える事なく、その場に崩れ落ちた。
 
「あ、奥妲!」

 傍らの普蘭が助け起こすと、奥妲は白目をむき、口から泡を吹いた状態で失神している。

「霊力を行使し過ぎたのだ。まだまだ未熟だな」
「師よ、何故止めなかったのです!」
「己の限界を知り、律するのも力量だ。こればかりは、身を以て覚えなくてはならぬ。意気盛んなだけでは使えぬのでな」

 冷静な指摘に代官が抗議するが、和修吉は意に介さず、指導の一環として敢えて見過ごした事だと告げた。
 憎悪を力としている学徒達は、限界を無視しての精神や肉体の酷使をいとわない。
 よって、適切な休息の重要性を肌で理解させなければ、早々に潰れてしまうのだ。
 現代風に言えば”過労死”が待ち受けているのである。

「普蘭、お前も限界が近いのではないか?」
「しかし、これしきの事で……」
「後は我が行う。奥妲を天幕の寝台に寝かせ、お前も暫く休んでおれ」
「くっ……」

 強がる普蘭に、和修吉はややきつい口調で休息を命じる。
 普蘭は奥妲を両腕で抱えると、いかにも悔しそうに眼に涙を溜め、歯を食いしばりながら天幕へと入っていった。

「なる程、あれが難点ですか。なかなかに気合いが入っておる様ですが、あれでは血気にはやって死に急ぐ若兵と同じですな」
「その通り。憎悪を学究への意欲へと変える故、どうにも歯止めがかかりにくいのだ。潰れてしまわぬ様、監視の下で痛い目に遭わせて限界を覚えさせねばならぬ」

 代官の感想に、和修吉は唇を歪めて苦笑した。

「さて、続きを済ませてしまおう」

 和修吉はそう言うと、放免する事になっている二百五十名余りの村人に、精神を歪める法術を掛け始める。
 死罪を申し渡された事で騒ぎ立てている姿のまま金縛りを掛けられている彼等に、和修吉は一人づつ、その額に右の掌を押し当てて行く。
 掌を離した後には、細かな梵字による、法力を持つ者だけに見える呪文が浮かび上がっていた。
 これを施された者は以後、私欲、煩悩といった欲求が消失し、ただ命じられるままに働く様になる。
 一切の不平を感じる事がない忠実無比な奴隷、いや、言葉の通じる従順な家畜に等しい。

「これまでの術式とはどの様に異なるのでしょう?」

 代官の質問に気を良くした和修吉は、手を休める事なく作業を続けながら、学徒に対する様に解説を始めた。
 学師の常で、技術に関する問いを向けられれば悦びを感じる物である。

「従来の方式では欲求を”抑えて”いたのだが、これではいずれ無理が生じてしまう。故に新たな術式では、”抑える”のではなく”無くす”様にしたのだ。これにより、せいぜい十年しか保たせられなかった物を、倍の年月まで延ばす事が出来るのだよ」
「例えば、色欲を無くす為に、睾丸を取り去って去勢する様な物でしょうか」
「左様。肉体を切り刻む事なく、それを術式で行う訳だな。色欲だけでなく、あらゆる欲求に対して有効となっておる」

 代官の理解に、和修吉は満足そうに頷いて補足した。

「それでも二十年しか精神が保たないのですか」
「術式を維持するのに、被術者の脳に蓄えられている霊力を費やすのでな。通常の人間が対象であれば、現在の処はそれが限界であろうよ」

 四半刻も経ずに全ての者に術式を施した和修吉だが、学徒二人と違って全く疲れを見せていない。
 強力な霊力を誇る那伽という事もあるが、霊力の消費を必要最小限に留めて疲労を抑えている為でもある
 資質があるとはいえども法術を学び始めてせいぜい数年の二人と、百年以上に渡って学究に身を費やしている和修吉との間の、術者としての熟練の差がはっきりと現れていた。

「さて、仕上げといこう」

 和修吉が両手を打つと、村人達は一斉に目覚めた。しかしその瞳は一様に濁っており、知性が全く感じられない。
 彼等の側には石像と化した若人や童もいるのだが、我が子達の変わり果てた姿に関心を向けるそぶりはない。
 彼等はただ、主である代官の方を、良く躾けられた犬の様に黙って向いている。

「何でも命じたまえよ。主命を達成する事のみが、彼等にかすかな満足感をもたらすのだ」
「恐ろしい…… これは死罪に勝る極刑ではないでしょうか……」
「否。あれ等は最早、いかに酷使しようとも苦痛も恐怖も全く感じないのだ。我等はそれを労力として活用すれば良い。官吏ならもっと理で考えたまえ」

 代官は村人達の様子に戦慄したが、和修吉はそれを嗤いながら窘めた。



[37967] 6話「阿修羅の学師」その37
Name: トファナ水◆34222f8f ID:fd9cd362
Date: 2015/09/06 20:29
「しかし、これでは……」

 百姓達の瞳は意思の力を失い濁っており、とても役に立つ様には見えない。

「知性や経験はそのまま残っておる故、指示の範疇では自立して動ける。まずは、これまで通りに働く様に命じたまえ」
「では…… 諸君。今後とも、己の勤めに精励せよ」

 和修吉に言われるままに代官が命じると、百姓達の目に輝きが戻り、顔には法悦の表情が浮かぶ。

「それで良い。百姓共は働く事にのみ悦びを覚え、身を粉にして新しき世の礎として尽くすであろう」
「……本日は皆、ご苦労であった。明日よりの働きに備え、帰って休むと良い」

 代官が百姓達に帰宅を促すと、彼等は悦びを顔に貼り付けたまま代官に一礼し、皆、一言も発さずに戻って行った。
 複雑な思いで見送る代官だったが、和修吉に声を掛けられて我にかえった。

「何か忘れていないかね?」
「どういう事でしょうか、師よ?」
「遺骸の発掘を手伝わせたかったのだが、全て帰してしまって良かったのかね? 」
「あっ……」

 代官が一門を招請した当初の目的は、殺害の疑いがある先代庄屋父娘の遺骸を検分する事だった筈だ。
 しかし、勅令に背いた咎で住民全員を処罰するという深刻な事態が生じた事で、彼女はすっかりと忘れていた。

「まあ良い。墓地に案内したまえ」

 和修吉は、慌てて百姓を呼び止めようとした代官を制止すると、墓地への案内を促した。


*  *  *


 代官は和修吉を、村外れの墓地に案内した。
 雑草が生い茂る中、時を経て朽ち果てかけた物から真新しい物まで、木柱の墓標が建ち並んでいる。

「こちらが先代庄屋、その傍らが娘の墓となります」
「ふむ。では早速掘るとしようか」

 代官が指し示した墓標を前に、和修吉は両耳の耳飾りを取り外して地面に投げつける。
 土に刺さった二つの耳飾りは急速にふくれ、それぞれ八尺程の丈の骸骨となった。
 これは龍牙兵と呼ばれる法術具で、生え替わりの際に抜け落ちた那伽の牙から造られる、一種の自動人形である。
 元々は古(いにしえ)の希臘(ギリシャ)に住んでいた那伽の同族が、住まいを警護する兵卒の代用として生み出した物が発祥なのだが、その戦闘力は熟練した人間の兵とほぼ互角程度に過ぎない。
 速度や力は優れている物の知性が乏しいので、相手の反応に応じて、あらかじめ定められた動きを取る事しか出来ない故の限界である。
 また那伽の牙を用いて造られる為、補陀洛ではこれを使役出来るのは皇族、もしくはその代理権を与えられた者のみと法で定められており、滅多に見かける事はない。

「墓標の下にある、地中の棺桶を掘りだしたまえ。お前はこちら、もう片方はそちらだ。道具はそれを抜いて使うといい」

 二体の龍牙兵は和修吉に合掌して拝命を示すと、それぞれに墓標の木柱を引き抜いた。それを道具代わりにして、器用に地面を掘って行く。

「良いのですか? 墓標をこの様にして」
「構わぬ。遺骸は持ち帰るし、ここに改葬する事もないのでな」

 和修吉の言葉からは、葬られている死者に対する悼みが全く感じられない。
 人間と神属との対等な共存を訴え、”諸族協和””皇道楽土”の理念を提唱したのは他ならぬ一門である。
 その指導者の一員でありながら、罪人はともかく、死者とはいえ無辜の民に対してまでこの様な態度を取る和修吉に、代官は憤りを覚えた。

「失礼ながら申し上げます。死因が病死にせよ、殺害にせよ、咎無き死者に対する礼という物があろうかと存じます」
「その言は賞賛しよう。されど、これらも先刻の者共同様に、礼には値せぬ咎人だ」

 皇族に対する真っ向からの諫言は、即決による死罰を下される事もあり、相応の覚悟を伴う。
 意を決した上での一言に対する、和修吉のきっぱりとした回答を聞き、代官は疑問を抱いた。

(確かに、訳もなくこの様な振る舞いをする様な方ではない。この一件、既に調べが相当進んでいるというのか?)

「どういう事です?」
「順を追って話す。まずは掘り出した後だ」

 程なく、円筒状の棺桶が二つ、地中から顔を出した。

「開けてみよ」

 龍牙兵が命じられたままに、封をしていた縄を解いて蓋を開けると、中にはひからびた木乃伊(ミイラ)と化した遺骸が、膝を折り曲げた形で納められていた。
 一方は老いた男、他方は若い女である。
 和修吉はまず、男の木乃伊から毛髪を一本引き抜くと、手先に精神を集中して検分を始める。霊力を通過させて、反応を見ているのだ。
 それが済むと、女の木乃伊の毛髪も同様に調べる。

「ふむ。供述通りだな」

 検分を終えた和修吉は、重々しく頷いた。

「供述とおっしゃるならば、やはり殺害でしょうか?」
「是。死因はいずれも毒殺。鉱毒から造られ、暗殺に適する無味無臭の逸品だ。托法娜(トファナ)水と言ってな。羅馬(ローマ)で産出する物故、中々に手に入る物ではない」
「羅馬の毒薬が何故、和国に?」
「本来の用途は、婦女子の無駄毛を剥がす化粧水でな。羅馬から陸路で運ばれた物が、明国からの交易品として僅かに和国へも入って来る。無論、とてつもなく高価だが」
「そんな物が、伊勢の農村にあったとは……」
「それを手に出来る立場の者が、下手人に供したのだよ」
「神宮が?」

 高価な交易品を入手出来るのは、伊勢に於いては神宮の他にない。
 娘を孕ませた宮司は、生まれた子を”養子”として差し出させた。
 養子が、実は宮司の落胤であるという真実を覆い隠す為だろうかと、代官は推察した。
 だが、それでは、先代庄屋父娘が、骸を辱められても当然の咎人という事にはならない。

「当たらずとも遠からず、だな」
「どういう事でしょうか?」
「まず、毒薬を下手人に手渡して唆したのは、今代庄屋の後妻となった女だ。詮議には随分と手こずった様だが、何とか吐かせたという」

 先代庄屋の娘、即ち今代庄屋の先妻の死によってもっとも益を得たのは、後妻に収まった女である。動機は充分と言えた。

「手を焼かせたと言うならば、素人ではないのでしょうな。苦痛に鍛錬を積んだ、その筋の者でしょうか?」
「是。あれは間者だ。伊勢に対する仕込みで己が動き易くなる様、庄屋の妻という立場を欲したのだよ」
「伊勢への仕込みという事は、主は神宮ではないと?」
「是であり否。あれの背後に居たのは、伊勢ではなく熱田の神宮だったのだよ」

 熱田神宮とは、一揆衆の対外交易の拠点となりつつある、尾州の港湾・熱田にある神宮である。
 伊勢神宮が、和国皇位を示す三種の神器の一つである”八咫鏡”を擁していたのに対し、熱田神宮は同じくその一つである”草薙剣”を擁する。
 しかし社格に於いて、熱田は伊勢の一段下とされており、また独自で伊勢全体を治めている伊勢神宮に比べ、熱田は尾州の一画である門前町及び港周辺を領有するに過ぎない。
 武力に於いても、伊勢は独自の衛士を保有していたが、熱田は尾州の庇護下にあり事実上の属領と化している。

「熱田が伊勢から和国神道の主導権を奪わんと、一揆を扇動しておったのだ。熱田の背後には、さらに天下統一の覇を狙う尾州がおろうがな」

 補陀洛が伊勢に来訪した時、既に一揆衆は蜂起していた。
 補陀洛はそれを利用して、一揆衆の加護と引き替えに伊勢を手中に収めたのだが、元々は熱田神宮と尾州が画策した謀略を、そうとは知らずに横から奪っていたらしい。
 また、庄屋の後妻は尾州の出自である事が、代官自身による調査でも明らかになっている事からも、頷ける話だった。
 それはそれとして対処されるべき事だが、代官の気がかりは別にある。

「今代庄屋の後妻は、毒を渡したという事ですが、肝心の下手人は誰なのです? やはり今代庄屋でしょうか?」
「否。先代庄屋の嫡男、今代庄屋から見れば義弟だ」

 和修吉の言葉に、代官は耳を疑った。
 庄屋の義弟は、死罪を受ける甥を必死に救わんとした事が弗栗多の目に留まり、伊勢の民として初めて官位を与えられた程の者である。

「主上も御認めになった、情深き者ではないですか。何故それが、父と姉を手に掛ける様な真似を……」
「深き情故に、その様な行為に及んだのだ。そしてそれに至った経緯故に、ここにある二体の骸は、咎人のそれとして扱われるべきなのだよ」

 和修吉の顔に、僅かながら曇りが見える。荘園に来て以来、初めて見せる表情だ。
 それを見た代官は、冷徹な一門の学師が庄屋の義弟に同情を示し、殺された側をこそ断罪する理由が強く気になった。



[37967] 6話「阿修羅の学師」その38
Name: トファナ水◆34222f8f ID:8d83a7ad
Date: 2015/09/14 21:12
「とりあえず戻るか」

 和修吉は龍牙兵に命じて墓を埋め戻させると共に、身につけていた象牙の腕輪を外して宙に放ると、封じられていた荷車が現れた。
 大型馬車とほぼ同じ大きさだが、牽引する家畜を伴っていない。
 前部には取手が着いており、人力で引く様に出来ているのだが、車体は強力の羅刹でも難儀をするであろう大きさだ。
 龍牙兵二体は、指示を受けた通りに二つの棺桶を荷車に積み込んだ後、荷車を引くべく前部へと廻って取手を握る。
 龍牙兵の牽く車は専ら皇家御用だが、大抵は白虎等の獣形種族が近衛として牽引役を務める為に殆ど使われない。これを好んで車を牽かせる和修吉は、皇族でもやや変わり者の部類だ。
 和修吉は代官と共に車中へと乗り込むと、車を出す様に龍牙兵へと命じた。


*  *  *


 二体の龍牙兵は、大型の車体を物ともせずに力強く牽いて行く。速さはほぼ、人間の歩みと同じ程だ。
 車中で和修吉は代官に、先代庄屋父娘が殺害されるに至った経緯を語り始めた。

「今回の件で被害を受けた者達が住まう、賤民の集落だが。そこにもやはり、農村の庄屋に相当する立場の者がいてな」
「確か”かわた頭”と称しましたか。新たな呼称を考えねばなりませぬでしょうが」
「是。近隣という事もあり、この村の庄屋との間では交渉事で度々往来があった」

 賤民の集落も、農村と同じく自治を束ねる役が存在する。
 ”かわた頭”は、正確には皮革職人の座長に相当するのだが、実質的に集落の長を兼ねていた。

「十八年程前。先代庄屋の息子が遣いで、かわた頭を訪ねた事があってな。先方には同じ年頃の娘がいて、二人は惹かれ合う様になった」
「成る程、身分違いの色恋ですか。どうなりました?」

 色恋沙汰と聞いて、代官は思わず身を乗り出した。
 官吏とは言っても妙齢の女の常で、その様な話題には興味が強い。
 目を輝かせた代官に、和修吉は苦笑しながらも話を続けるが、その内容は陰惨な物だった。

「逢い引きを重ねる内に、娘は孕んだ。息子は庄屋と姉に打ち明け、かわたに落ちて娘と一緒になるから勘当してくれと訴えたのだがな。当然、聞き入れる筈が無い」
「そうでしょうな」
「そして数日後、かわたの娘は川で溺死しているのが見つかった。洗濯していた処を、足を滑らせたのではないかという事だった」
「……悲観しての身投げでしょうか?」
「否。庄屋の意向を受けた姉が、川辺で洗濯をしていた処を襲って殺害し、水難を装ったのだ」
「先代庄屋の息子は真相を知ったのでしょうか?」
「当の父姉が、”お前をたぶらかした女は始末した”と当人に告げたそうだ。賤民を殺したとて、罪の意識など微塵もないであろう事は、先程の者共を見て理解出来よう?」
「……旧来の秩序に従った上の事とはいえ、看過は出来ませぬな」

 身分の異なる男女の恋愛を、互いの家が引き裂くのは、洋の東西を問わず良くある話だ。
 国によっては下位の身分側の者が殺害されたり、自害を強要される事もある。
 補陀洛の人間社会においてもしばしば聞かれる話なので、代官は意外には思わなかった物の、不快を隠さなかった。

「それを恨んでの殺害という事ですか」
「結論から言えばそうだが、すぐには行われなかった。自分の女を守れなかった無力感から、およそ二年の間、父の言うがままに働く人形と化していたという。外面から見れば”働き者の孝行息子”と映った様だ」
「時を挟んだ上で事に及んだきっかけは何だったのでしょう?」
「かわた頭の娘の死から程なく、庄屋の娘は神宮へ賦役として出自し、宮司に孕まされて家へ戻される。今代庄屋となる者を表向きの”父親”として婿に迎えた上で子を産み、それを”養子”として宮司に戻したというのは既に知っているだろう」
「はい。その”養子”が、巡り巡って今回の件の発端でしたな」
「子が産まれたのとほぼ同じ頃。先代庄屋は、腑抜けてしまった倅にあてがうべく、年期が明けた飯盛女を身請けして来た。これが実は熱田神宮の間者だった。春をひさぎつつ伊勢の情勢を探っていた訳だが、年期が明けて次の潜伏先を探していた処に、先代庄屋からの、倅の嫁にという身請け話を受けたのだ」
「渡りに船という訳ですな」
「しかし、当の倅は失った女に気持ちが残っており乗り気ではなかった。そしてこれまでの事を許嫁としてあてがわれた間者に打ち明けたのだ。”かわた娘と逢い引きをしていた様な男の嫁にならぬ方が良い”とな」
「そこで、間者は一服盛って仇を取れと、毒を渡してけしかけたのですな」
「是。庄屋とその跡取りたる娘が死ねば、入り婿は家を出されて弟が後を取るのが本来。だが、間者は自分が後妻となり婿が後継となる事を認めよと、取引を持ちかけたのだ」

 状況を利用し、相手の求める物をちらつかせて要求を呑ませるのは交渉の基本である。
 代官は、間者であった今代庄屋の後妻の手際に舌を巻いた。

「今代庄屋はその事を?」

 元々、先代庄屋父娘殺害の嫌疑を掛けられていたのは今代庄屋であった。
 実際に手を下したのが義弟とは言え、彼が主体的に関わっていたならば共犯という事になる。

「知らなんだ。ただ、先代庄屋父娘が相次いで死んだ後。義弟からの、”自分には器量がないから、自分が許嫁にあてがわれた女を後妻にした上で、庄屋の跡目を継いでくれ”という申し入れを有難く受けたのみだ」
「かわた頭の娘が死んだ経緯についても知らぬと?」
「是。実の処、あれも間者ではないかと疑った。しかし、ただ読み書きが出来る賢しい者という事で婿に迎えられただけの、一介の百姓に過ぎぬ様だ」

 和修吉の解説では、今代庄屋は、知らずに巻き込まれた形である。
 次いで代官が気になったのは、後妻の立場を得た後の、間者の動きだった。

「そう言えば、今代庄屋の後妻は健脚で、近隣の村々との遣いも自らこなしていたと言います。一揆を煽る周囲への仕込みも、そこで行っていたのでしょうか」
「是。それもまた、夫の預かり知らぬ事だ。伊勢神宮もよもや、優遇していた村の庄屋の女房が、熱田の差し金で一揆を煽っていたとは思わなかったろうよ」
「でしょうな。ところで、下手人の処置について、御意は下されておりましょうか?」

 親や姉といった尊属の殺害は、補陀洛においても大罪である。
 代官も同情はする物の、下手人は罰さねば筋が通らない。
 一方、庄屋の義弟は、既に官職に任じているという事情もあり、早々に罷免して処罰するのも体裁が悪いという見方もある。
 何しろ、那伽摩訶羅闍による直々の勅任だ。それを考えれば事実を揉み消すという選択も考えられた。

「庄屋父娘はいずれも病による急死であったと、我の検分で判明した事とする。遺骸を持ち帰るのは、万が一にも、それに疑いを持つ者が再度検分を試みる事を防ぐ意図である」
「先代の倅は不問という事ですな。真実を曲げて、かの者を救う意図は、やはり面目でありましょうか?」
「否。その様な物はどうとでもなる。それより、あれは思い人を奪った旧き世を心から憎んでおる。故に、新しき世に相応しい者だ。これは主上、御夫君様双方の御意である」

 賤民の女を愛したが故に失った者であれば、その様な世を変えたいと希求するのは必然であろう。
 非力故に抗する事が出来なかった彼に、官職という力を与えれば、粉骨砕身して新しき世の為に働くと期待出来るというのが、弗栗多や頭目の考えであるという。
 代官としても積極的に罰したい訳ではないので、それには同意出来た。
 一方、義父と妻を殺した嫌疑が晴れた筈の今代庄屋の処分について、和修吉の見通しは厳しい物であった。

「今代庄屋についても無実であった以上、職は解く物の放免ですな」
「……それについては難しいであろうな。元賤民への狼藉を働いた百姓共は一人や二人ではない。多くの者を罰した上は、村を束ねる庄屋にもその責を問うのは必定であろう?」
「確かに……」
「それに、熱田の間者であった女房の処遇もある。主上は利用すべきか仕置すべきかで、未だ決めかねておられる」

 村人の指導は庄屋の役割である以上、勅命に反して、旧賤民への虐待が続いた責は重い。
 また、その女房については、御政道の上で考慮の余地があるという物の、甘い処理とはならないだろう。
 頭目は先代庄屋父娘の死について、今代庄屋の無実を晴らした上で穏便な解決を願っていた。
 ところが、無実は晴らされた物の次々と新たな事実が明るみとなり、より多くの者に厳しい処分を下す結果となりつつある。

「私が御預かりしている荘園の民を悉く罰した件、御夫君様に何と申し上げれば良い物か……」
「我が皇家の一員として御報告申し上げる故、心配は無用である。御夫君様は確かに御嘆きになろう。だが、目をそらさず膿を出し切ってこそ、新たなる世の建立は成るのだからな」

 頭目の心情を思いやる代官に、和修吉は冷徹に言い放った。




[37967] 6話「阿修羅の学師」その39
Name: トファナ水◆34222f8f ID:fe21483a
Date: 2015/10/05 21:19
 和修吉と代官が戻る頃には日が沈みかけ、周囲は暗くなり始めていた。
 天幕の前には四台の馬車が止まっており、御者を務める羅刹の兵達が、学徒二名の指示によって、石像と化した若人や童を積み込んでいる。
 羅刹はいずれも男子だが、体躯は人間の成年とほぼ変わらず、顔も幼さが残る。年の頃は奥妲と同じ若兵だ。
 ”人間との対等な共存を望む”という条件を満たす神属を伊勢親征に際して集める為に、この様な若輩をも兵として登用せざるを得なかったという補陀洛の実態が垣間見える。

「ご苦労。二人共、もう良いのか?」
「はい、和修吉師。霊薬が効いた様です」

 和修吉達が車から降りると、彼等は作業の手を止め、合掌して出迎えた。
 奥妲・普蘭とも、僅かな休息で体調は回復している様子だ。
 
「裁きを下した即日で馬車が四台も来るとは、随分と手回しが良いですな」
「いえ。これは、遠方の村落に荷を運び終えて桑名へ戻る便です。荘園の付近を通過する処を、皇族たる和修吉師の代理の権限で私が呼び止めました」
「なるほど、復路は空荷だからな。無駄が無い処は、全く一門らしい事だよ」

 訝しむ代官に、普蘭は淡々と事情を説明する。
 全く合理的な答に、代官は当てこする以上の事は言えなかった。


*  *  *


 翌日朝。
 和修吉の指揮する車列は、桑名の港へと到着した。
 石像と化した咎人達、そして骸の収まった二つの棺桶を答志島へ向かう戎克(ジャンク)に積み込む様、御者の羅刹兵達に命じた和修吉は、作業に立ち合う普蘭を残し、頭目への報告の為に奥妲を伴って仮宮へと向かった。

「良いのですか、姉様を差し置いて、私如きを謁見に帯同しても?」
「是非とも申し上げたい事があるのだろう? 政(まつりごと)を動かさんと欲するなら、堂々としたまえよ」
「そうですが…… 御夫君様は民を思いやる方。私の為した事を御許しにならぬやも……」
「此度の件で万が一不興を被ったとして、その責は学師たる我にある。学徒に過ぎぬお前が心配する事はあるまい」

 珍しく不安げにする奥妲に、和修吉は気楽にする様にと諭した。


*  *  *


 仮宮に着いた二名は、侍女に案内されて座敷へと通される。
 中では、頭目が一人で待っていた。
 弗栗多や英迪拉の姿が無いのは、この件は頭目が一人で決めるという意思表示である。
 
「御夫君様、早朝の訪問にて失礼致します」
「和修吉師、お待ちしておりました。奥妲も、随分と久しぶりだね」
「は、はい!」
「この席は公ではないのだから、余所余所しくせず、共に学んでいた時の様に名で呼んでおくれ」

 上擦った声で返事をする奥妲に、頭目は落胆した様子を見せた。
 頭目は素養を身につける為に一門で学んでいた時期があり、奥妲は妹弟子に相当する。
 頭目にとって同年代の学徒は気を許せる貴重な”学友”であり、他者の目を気にしなくて良い場所でまで臣下として畏まられるのは不本意極まりない。
 
「で、では。言仁(ときひと)……兄様……」
「それでいいのだよ。この場では同門として話そう」

 奥妲が戸惑いつつも、和国の民としての本名で頭目を呼ぶと、頭目は微笑んでそれに応えた。
 
「和修吉師も臣下の礼は免じられているのですから、その様になさって下さい」
「我はそうも行きますまい。構わず、奥妲には兄妹として接して下さいます様」

 和修吉は頭目の申し入れを辞し、あくまで君臣として応対する旨を告げる。
 御政道の話をする以上、進言はする物の、決断の責が頭目にある事をはっきりさせる為である。

「では、奥妲。御夫君様に此度の件を御報告申し上げたまえ」

 和修吉に促され、奥妲は声を震わせながら、荘園での顛末を報告した。
 先代庄屋父娘殺害の真相については、真の下手人であった息子の告白を元に、今代庄屋夫妻の詮議が済んでおり、遺骸の確認はその裏付けに過ぎない。
 その過程で明らかになった、庄屋の後妻が熱田の間者であり、一揆を扇動していた黒幕である事についても、別途調べが進んでいる。
 頭目が特に欲していたのは、和修吉が賤民から聞いたという、解放の勅令以後に起きた虐待の処置についてであり、報告の内容もそれに重点を置いた物となった。
 賤民解放の勅令に賛同していないであろう村人を挑発して本心を露呈させ、それを理由に直接の下手人以外、住民全員に厳罰を与えた事。
 代官は死罪を下したが、一門による被害の弁済を酌量の理由として罪一等減じ”御試し御用”とした事。
 咎人の内、成年かつ直接の下手人ではない者は、心を歪める新式の法術を施し。傀儡と化した上で荘園で使役する事。
 童は心身を還元し、零から造り直す術式の実験に供する事。
 そして、下手人のみならず村人全てに賤民を侮蔑する心が残っているのではないかと疑い、挑発して試す様に和修吉に提案したのは奥妲である事。
 
「……い、以上が、本件の始末と……」
「そうか……」

 直接の下手人のみならず荘園の民を悉く罰するという結末に、頭目は顔を曇らせた。
 奥妲は叱責を怖れて怯えたが、続く言葉は彼女の予想とは違った。

「良くやってくれたね」
「え? い、いいの? 言仁兄様? 本当に?」

 哀しげな顔のままではあるが、思いもかけぬ頭目のねぎらいの言葉に、奥妲は目を丸くする。

「奥妲も賤民の出として、百姓達の振る舞いが許せなかったのは良く解るよ」
「でも……」
「折角、補陀洛の国庫から元の賤民に償いの贈り物をして、虐待を水に流す様に計らったのに。それを無下にしたのは百姓達の方だからね。厳しい罰を与えて当然だよ」
「立派な御覚悟ですな。非礼を承知で申し上げれば、狼狽するかのではないかと心配でした」
「はい、和修吉師。勅意の無視を看過すれば、御政道がままならなくなってしまいます。それに、此度の件で最も苦しんだのは旧賤民達ではありませんか」
「それでこそ、那伽摩訶羅闍の伴侶たるお方ですな」
「兄様……」

 頭目の判断に和修吉は満足そうに頷き、奥妲は感涙を目に浮かべた。

「賤民解放の勅令に対し、民百姓が決して心から受け容れた訳では無い事は解っていたのです。長年の因習が、簡単に改まる筈がありませんからね」
「瞿曇 悉達多(ガウタマ シッダールタ)ですら、印度の瓦爾那(ヴァルナ) ※身分 を廃する事は出来なかったのですからな」
「はい。故に罰を怖れてだけの事であっても、形だけでも旧賤民への迫害が無くなれば良い。新たなる世の到来までは、ひとまずそれで良しとしようと思っていましたが……」
「残念ながら民草は、自らが咎を受ける等とは全く思っていなかったという事ですな。あれだけ神宮の者共を仕置場で屠っても、民草への見せしめとはなっておりませぬ」
「はい。不本意ですが、一揆衆の内からも見せしめを晒さねば解らぬ様です」

 厳しい顔で和修吉に決意を述べた頭目は、奥妲に向き直った。

「ところで、奥妲。新たに一門に加わった、宮司の子息の事だけれども。随分と嫌っているそうだね」
「だってあいつ、婆羅門の癖に私達と席を並べるなんて! 嫌だよ、そんなの!」

 若衆の事を持ち出され、奥妲は嫌悪を露わにして喚くが、頭目は意に介さず言葉を続ける。

「これはあくまでお願いだけれども。同門として、仲間として認めてあげてくれないかな」
「兄様! それは!」
「彼は自分から、神宮の過ちを認めたというからね。最後まで一片の反省もなかった、今回の百姓達とは雲泥の差だよ」

(兄様、怒ってる……)

「……解りました、兄様……」

 静かながらも有無を言わせない口調で諭す頭目に、奥妲は首を縦に振らざるを得なかった。

「いい子だ。さて、今回の褒美だけれども、何か欲しい物とか、して欲しい事とかないかな?」
「じゃあ……」

 一転して、優しげな兄の顔となる頭目。
 機会を得た奥妲は己の望みを打ち明けたが、それは頭目を当惑させた。

「何だって!?」

 奥妲の望みは、ある事案の即時執行である。
 以前より考えられていた事ではあるが、時期尚早を名目として、その実は民草の強い反発が予想される為に棚上げにされていたのである。

「兄様。民が悲しむのを見たくなくて、先送りにしてたでしょ?」
「そ、そんな事はないよ。だが、一門の準備に後五ヶ年はかかると聞いている……」
「万全を期せばそうですが、前倒しで行うというならば対応策はありますな」

 頭目は準備に時間がかかる事を持ち出して断ろうとしたが、和修吉師にそれを塞がれてしまった。
 和修吉師も、奥妲に賛意を示している様である。

「奥妲。何故、それを望むのかな?」
「今回の事で、伊勢の民の根性を思い知ったでしょ? あんな奴等に任せておいちゃ駄目だよ! 先延ばしにしたら、新たなる世で暮らせない子が増えちゃうんだよ?」

 頭目は眼を閉じ、奥妲の提案を実行した場合の、民の嘆き悲しむ姿を思い浮かべた。
 安易に行うべき事ではない。
 しかし、奥妲の”新たなる世で暮らせない子が増えちゃうんだよ?”という一言は、頭目の胸に重く響いた。

「怨恨からの望みではないのだね?」
「新しき世の建立の為に」
「……解ったよ」

 一門の誓いを口にした奥妲の強い意志を受け、頭目は提言を受け容れる事を決断した。



[37967] 6話「阿修羅の学師」その40
Name: トファナ水◆34222f8f ID:1f096b06
Date: 2015/10/17 08:22
 和修吉と奥妲から訪問を受けて数日後、頭目は再び一揆衆を招集した。
 一同の通された大広間には、空のままの座布団が十五席ある。
 前回招集の翌日に、二十名の庄屋が個別に召喚され、未だ戻っていないままである事は伊勢中に知れ渡っている。空席はその分であろうが、戻らぬ者の人数に比べて五席足りない。
 集まった一揆衆達は皆、出されていた茶にも手をつけず、不安げな様子で頭目の入来を待っていた。

「お待たせしました」

 一揆衆が大広間に通されて四半刻程経った頃。
 普段は一人で一揆衆との会合に臨む頭目が、獣型の英迪拉(インディラ)を伴って現れた事で、場内にざわめきが広がった。
 あくまで話し合いの場である会合に、あえて身辺警護の任にあたる近衛を臨席させるのは異例である。
 猛々しい白虎を前にして落ち着かない様子の一同に、頭目はまず、先に一部の者を召喚した事情を説明した。
 前回の会合の際、先に捕縛した庄屋の財物は召し上げられるのかと問いただした者、そしてそれに賛意をしめした者が二十名程いた事に不審を感じた為であるという内容に、一同は耳を傾ける。
 万が一にも、裏切り者が一揆衆にいたという事であれば一大事だ。

「別に、件の者の財物が公の蔵に収められたからといって、彼等に何の得になる訳でもありません。ですから何か、やましい事情でもないのかと思った訳です」
「ほんで、どうなりましたかの?」
「要は、彼等は件の者に借財があったのです。財が公に召し上げられれば、自分達の借り分も棒引きになるであろうと考えていたとの事でした」

 養子を差し出した事で優遇されていた件の庄屋であれば、他村の者に銭を貸す余裕もあったかも知れない。
 高利を貪って他村を食い物にしていたのではないかと、件の庄屋に対して怒りを露わにする者がいる一方で、疑念を持った者もいた。
 自給自足の農村で、わざわざ借財をするとは余程の事である。

「その…… 借りた銭を一体何に使ったんですかいのう?」
「神宮の役人に対して賄賂を贈る事で、税の取り立てを軽くしていたそうです」

 役人一人に幾ばくかの銭を掴ませても、村全体の税が多少なりと軽くなる事を考えれば遥かに安上がりである。
 役人にしても、懐が暖まるばかりでなく、誤魔化した作柄を基準として定められた率の税をすんなりと取り立てた方がやり易い。
 税の徴収が滞れば神宮から罰を下される立場なのは、役人も同様だったのだ。

「ほんじゃあ、借りた銭で自分の村だけ手心を加えてもろうとったっちゅう訳ですかい」
「なんちゅう奴等じゃ!」
「私欲ではなく自村の百姓の為に行った事なのですから、責めてはなりません。皆様方も、もし思いついたなら同じ事をしたかも知れませんよ?」
「……ん……まあ……」
「そうじゃのう……」

 事情を聞いた一揆衆達は一転して、借り手の側を批難し始めた。
 だが、口々に挙がる憤りの声を頭目は宥め、発言の主達もばつが悪そうに同意する。
 それを見た頭目が頷いて手元の鈴を鳴らすと襖が開き、中からは、召喚されたまま帰宅していなかった一揆衆の面々が現れた。
 平伏して謝罪の意を示す彼等に、頭目は優しく諭す。

「皆様方が、各々の民を思っての所行であるという事は承知しております。ですが、一言私に御相談下されば良かったのですよ。借財がかさんだからと言って、安易に貸し手の死を願ってはなりません」
「全く…… 恥ずかしい事でございます……」
「お頭、皆様方、誠に申し訳なく……」
「まあ、ええじゃないか」
「さ、さ、あんた方。早う席につきなされ」

 悔悟を口にする者達に、広間の一同は胸をなで下ろして慰めの言葉をかける。
 だが、未だ姿を現さない者が残っている事に、一揆衆の一人が気付いた。
 空席の座布団が全て埋まったという事は、残る五人の出席は予定されていなかったという訳だが、一体どうなったのか。

「その…… 頭目。何人かまだおらん様じゃが、どうしたんじゃろうか……」
「ああ、それならこちらです」

 頭目が再び手元の鈴を鳴らすと、襖の奥に控えていた羅刹の侍女が、大きな行李を抱えて運び込んで来た。
 行李の蓋が空けられて中身がさらされると、それを見た一揆衆は一様に仰天する。

「何じゃあこりゃあ!」

 行李の中から出てきたのは、六つの生首であった。
 まず、先に召喚された一揆衆二十名の内、赦されて席に着いた者に含まれなかった五名。先の会合で件の庄屋の厳罰を強く主張した者を筆頭に、一揆衆の強硬派ばかりである。
 そして、件の庄屋本人。

「ひゃああ!」「ひいいっ!」
「あんさん方、いい加減にしなはれ! 大の男が、首の五つや六つで何ですかいな!」

 室内には悲鳴や絶叫が響き渡ったが、それまで沈黙を守っていた英迪拉の一喝によって静寂が戻った。
 猛々しい白虎から、若い女の声による滑稽な響きの上方訛りで諫められた事で、狼狽えていた一揆衆は思わず平静に引き戻されたのである。
 正気に返った一揆衆が、恐る恐る六つの生首を改めて見ると、いずれも苦悶の表情で絶命していた。仕置に先だって相当の責めがあった事が伺われる。
 また、髪を剃られた上で頭頂には大きな穴が空けられ、頭蓋の中は空洞だ。
 神属が人間の脳髄を滋養としている事は、一揆衆の間で周知されている為、食用としてくり抜かれたのは一目瞭然である。

(脳味噌を食われてしもうたんか……)
(惨いのう……)

 とうとう一揆衆の内からも首を刎ねられた者が出たという重い事実に、部屋中の者が押し黙る。
 だが、あまりの事にたまりかねた一人が声を挙げた、

「ぜ、銭を貸し付けとった件のもんは、と、ともかくとして。村の為に銭を借りた側のもんまで、何でここまでされにゃあならんかったんですかいのう?」

 命まで奪うとは罰が過ぎるのではないかと、勇気を振り絞って問いただす声に対し、頭目の答えは意外だった。

「銭の貸借は罪状に含まれておりません。また、件の者にかかっていた義父と先妻の殺害に関する嫌疑についても、無実であった事が明らかになりました。これらが首を晒しているのは全く別の、許されざる大罪を冒したが故なのです」
「大罪っちゅうて、一体何をやらかして首を刎ねられてしもうたんですじゃ?」
「こいつらの治めとった村のもんが、”かわた”っちゅうたかな、元の賤民をどつきまくったり、手込めにしたりしよったんですわ。村を治めるもんとして、不始末の片を命でつけるんは当然でっせ」

 さらなる問いに対する英迪拉の説明に一揆衆は絶句したが、それは罪の重大さに対してではない。
 これまで鬱憤晴らしとして良心の呵責なく行われていた賤民への暴行が、死を以て償うべき大罪として裁かれた事への驚愕による物だ。
 確かに龍神の名で禁令は出ていた物の、まさかいきなり死罪になるとまでは思っていなかったのである。
 それを見透かした頭目は表情を硬くし、氷の様な視線を一同に浴びせる。

「元の賤民を卑しむ者あらば厳罰に処すと、以前に申し渡した筈です。よもや口先だけとでも思っていたのでしょうか?」

 頭目の言葉は静かではあったが冷然と重く響き渡り、一同の内に言葉を返せる者はいなかった。




[37967] 6話「阿修羅の学師」その41
Name: トファナ水◆34222f8f ID:001f5fc8
Date: 2015/10/25 21:03
「どうしました? この場であれば、何を仰っても不問と致しますよ?」

 頭目の呼びかけにも、一同は沈黙を守ったままだ。
 頭目が何と言おうと、迂闊に口を開けば自分の命が危ないと思っているのである。

「あんた等。黙っとたら、坊が勝手に決めてまいまっせ? ええんでっか?」
「ぼう? どなたの事ですかい?」

 次いで英迪拉も発言を促したが、一揆衆はその内に含まれた、”ぼう”なる聞き慣れぬ名に疑問を持った。

「坊っちゅうたら坊の事やがな。目の前におるやん」
「ああ、英迪拉は元々、私の乳母でして、その時の呼び方が……」

 坊が頭目を指すと聞いて、一同は彼を注視した。
 頭目は頬を紅潮させて説明するが、その内容は、さらに一揆衆を驚かせた。

「その、そっちの虎…… 英迪拉様は、頭目が囲っと…… ああいや、頭目の”ええ方”と伺っとるんですがのう?」
「そういう事になりますか……」

(頭目さん…… 自分を育てた乳母にまで手えつけたんかい……)
(やっぱし、天竺もんは違うのう……)
(乳を吸った相手とまぐわうとは、どえらい好き者じゃあ)

 近衛筆頭の英迪拉が、頭目の夜伽を務める側女でもある事については、弗栗多の意向で伊勢中に知れ渡っている。
 だが、只でさえ人外の白虎であるというのに、さらにそれが元は頭目の乳母であったと聞き、一同は頭目の女性趣味の埒外ぶりに唖然とした。
 しかし結果的に硬直した場を和ませる事ともなり、それをきっかけとして、発言を求める者がようやく出た。
 
「儂等一揆衆は龍神様の御加護を受ける為、童を贄に差し出しましただ。かわた共は何も出さんかったっちゅうに、何でひいきされるんですだか?」

 抗議の声に、一同の内からも賛意を示す者が五人、十人と出始める。誰かが口を開きさえすれば、尻馬にのる者が次々と現れるのだ。
 それに頭目は頷くと、一同を見渡して答えた。

「神宮の財物は補陀洛が召し上げました。それに異議はありませんね?」
「勿論ですだが、それが何か関わりがありますだか?」
「賤民の身柄もまた、召し上げた財物の内に含まれます。故に、彼等を平民の身分に引き上げたのは、新たな主となった弗栗多の裁量という物です」
「それは…… ひっ!」

 発言の主はさらに不満の言葉を続けようとしたが、英迪拉が自分に眼差しを向けたのに気づき、思わず悲鳴を挙げた。
 人語を解する知性ある者の眼ではない。餌食を見る野獣のそれだ。

「この場での自由な発言は保証してある故、食らってはならぬ」
「へい」

 頭目の制止を受けて英迪拉は発言の主から視線を離したが、彼は恐怖の余りにその場で卒倒した。

「休ませておく様に」
「畏まりました」

 頭目は、生首の入った行李の脇に控えていた、羅刹の侍女に命じる。
 侍女は失神している発言の主を軽々と抱え上げると一礼して、広間から運び出していった。
 残る一同は、呆然とそれを見送るばかりだった。
 頭目は一同に向き直るとさらなる発言を促したが、再び恐怖を感じた彼等は、眼を伏せて貝の様に口を閉ざしてしまった。

「補陀洛による皆様への庇護の盟約には条件として、皆様が補陀洛の定めた法を守るという事が定められております。元の賤民に対する扱いについて異議あるならば、何故、勅令を発したその時に唱えなかったのでしょう?」
「それは、まあ、その…… 建前じゃと思うて……」
「んだ……」
「そうだがや……」

 縮こまったままの一同に苛立ちを隠さぬ頭目の詰問に、一人が弁解じみた呟きを漏らすと、やはり追従の呟きが湧き始めた。

「主上の詔をなめとんのか、あんた等」

 那伽摩訶羅闍の発する勅令を軽んずる一揆衆の意識に、英迪拉はあきれ果てるばかりだったが、そもそも主君の定める法の峻厳さという概念が、伊勢の民には欠けていた。
 神宮の統治は税の取り立てこそ過酷だった物の、日々の暮らしについては村々の自治に任されていた。要は放任されていたのだ。
 民衆の間では長年の積み重ねによる慣例、しきたりが重視されており、賤民への虐待がまかり通っていたのもその一つである。
 故に、悪弊を正すとして弗栗多が勅令を出しても、一揆衆の誰もがそれを聞き流し、民草に周知徹底する事を怠ってしまったという訳だ。

「では、ここに改めて宣します。弗栗多の発する勅令に背いた者には、容赦なく厳罰が下ります。只の脅しでない事は、そこの哀れな首を見れば解りますね?」

 苦悶の表情で息絶えている六つの生首を頭目が顎で示すと、一揆衆達は顔を引きつらせて激しく頷いた。

「勿論、万が一にも弗栗多が無体な事を言う様なら、発布する前に私が止めますので御安心下さい」

 結局は別の理由で斬首する事になってしまったが、弗栗多が偽証の罪で件の庄屋に下した死罪を留めたのは頭目である。
 その事からも、過酷な勅令が問答無用で出される事はないという自分の保証は説得力があるだろうと頭目は考えたのだが、一揆衆は彼の期待に応えなかった。

「ほいたら何で、かわたを平民にするっちゅうのを反対して下さらなんだ!」
「皆様、それで何か不都合でもおありですか?」
「儂等に、かわたもんと同じ身分になれっちゅうんですだか!」
「逆ですよ、賤民を平民身分に引き上げたのです」
「どっちにせよ、儂等より身分が低いもんがおらなくなるのはおんなじですだ!」

 賤民の解放が、死罪を見せつけられてもなお、耐えられない悪法だというのか。
 頭目は嘆息しながらも、理を以て説得を試みる。

「皆様には充分な衣食が行き渡り、税も軽くなりました。怪我や病も無償で癒されます。日々の暮らし向きは今後も良くなって行くでしょう」
「そりゃあ有難てえこってすが、なんぞ関わりがあるんですだか?」
「”衣食足りて礼節を知る”という諺があります。神宮の治世だった頃、貧しさ故にその鬱屈を賤民にぶつけていた事は、あえて責めません。しかし、皆様はもうその必要はない筈ではありませんか?」
「だども、今まで見下しとったもんが儂等に並ぶっちゅうんは面白くねえですだよ……」
「んだ。生意気っちゅうもんですだよ 」
 
 頭目は、自らの考えが未だ甘かった事を痛感した。
 力におもねる民草ならば、見せしめの首を晒せば従うだろうと思っていたが、賤民を見下す心は余程根が深い様だ。

「皆様の御気持ちはよくわかりました。十日差し上げます。賤民解放の勅令以後に、彼等に乱暴狼藉を働いた者にはその間に名乗り出させる様にして下さい。今回に限り、軽い罰で済ませましょう」

 頭目は一同を見据え、裁定を告げた。
 その声は穏やかな物で、あくまで穏便に済ませたいという頭目の意思を感じた一同は安心したが、次いで放たれた一言で奈落へ引き戻された。

「それと、名乗り出ようとしない不埒者を教えて下さった方には報償を差し上げますから、それも周知して下さい」

 密告を奨励する言葉を受け、一同は頭目の信用を失っている事を痛感した。
 もはや、後はない。
 誤魔化してほとぼりを冷まそうとすれば、容赦なく死罪が待っているだろう。
 だが、自分達すら納得しきれていない賤民解放を、民草にどう説き伏せるというのか。

「不正直なもんが出て、後で露見しよったら、楽に死ねると思うなや?」

 牙を剥き出しての英迪拉の警句に、一揆衆は絶望に沈むのだった。
 

*  *   *

 会合が終わり、一揆衆が帰途についた後。

「英迪拉、英迪拉! 私は何と惨い事をしてしまったのか!」
「坊のせいやあらしまへん。あの阿呆共が腐っとりますんや」

 泣きながら縋り付く頭目を、英迪拉は乳児をあやす様に慰める。
 そして衣服を解いて裸となる様にいざない、怒張から滝のように放たれる白濁の涙を胎で受け止めるのだった。





[37967] 6話「阿修羅の学師」その42
Name: トファナ水◆34222f8f ID:8ad515c5
Date: 2015/11/21 06:49
 ある農村。
 桑名で行われた一揆衆の会合の話を聞くべく、戻って来た庄屋の屋敷に集まった村人達は、その内容に激昂していた。

「冗談じゃねえ! かわたを小突いた位で死罪かよ!」
「何であんなもんを俺等と同じ身分にしてえんだ! 龍神様も頭目も、何考えてやがるんだ!」

賤民解放の勅意に背いたとして、六名もの一揆衆を一度に斬首に処した頭目の処置を聞き、村人達は次々に怒号を挙げた。

「と、ところでよ。俺等も他人事じゃねえぞ。身に覚えのあるもんはこの村にも仰山おるぞ?」

 怒りと不満が渦巻く中、一人が漏らした不安に、部屋中は静まり返る。
 処罰を受けた者の村同様、この村においても、賤民解放の勅令は全く意識される事なく、賤民への暴行は続いていた。つまり、明日は我が身という事である。

「頭目は”十日の内に名乗り出れば軽い罰で済ます”っちゅうとったが……」

 庄屋は不安の声に対して、頭目が猶予を与えた上で出頭を促している事を改めて告げた。
 しかし、それにも猜疑を唱える者が出る。

「嘘をこけ! のこのこ出て行ったら、首と胴がおさらばってもんだ!」
「じゃあ、どうするだ?」
「黙っときゃ解りゃしねえよ! 銭がもらえるからっちゅうて、村のもんを売る奴はいねえよな?」

 ”密告に報奨を与える”という布告に従う者が出ない様に釘を刺す声に、皆が頷く。
 桑名の様に大きな街であればともかく、狭い農村で捕縛される者が出て、一方で急に羽振りが良くなった者が現れれば、誰が密告したかは明白である為、一時の利益に目が眩む者は出ないと思われた。
 だが、それに対しても庄屋が否定した。

「阿呆が! 村のもんが口をつぐんでも、かわたの側から龍神様に訴え出りゃ終わりなんじゃ!」
「んじゃあよお、かわた共がある事ない事言い立てたら、龍神様は……」
「そうじゃ。御触れを無視されて頭目は御立腹じゃあ。恐らく龍神様も同じじゃろ。あの分じゃ、かわたの言い分を全部呑みかねん……」

 加害者が出頭しなくても、被害者が訴え出れば、当然に捕縛の兵が差し向けられる。
 そして疑いを掛けられた者は、白状するまで容赦ない拷問に掛けられるだろう。
 それが真実かどうかは問題ではない。問う側が聞きたい答えが返ってくるまで、責めは容赦なく続くのだ。

「どっちにしろ、俺等は終わりって事かよ……」
「”逆らうもんは鏖(みなごろし)、赤子一人とて見逃さぬ”っちゅうのが、龍神様の口癖じゃからのう……」
「そ、そんな事もないじゃろ、庄屋様。頭目は今回も、豪勢な土産を持たせてくれたでねえか。俺等の言い分だって聞いて下さるじゃろ」

 沈み込む皆に、一人の村人が希望を口にした。
 会合に参加した一揆衆には、前回同様、帰途につく際に豪勢な土産を持たされていた。
 今回は、尾州で買い付けたという酒と餅だ。正月でもなければ、百姓が食する事等かなわなかった物である。
 滅ぼすつもりの相手に、そんな贅沢な物を渡す筈がないというのが、希望を口にした者の根拠である。
 実はそれが正しい答だったのだが、場に渦巻く疑念がそれを打ち消してしまった。

「罪人が仕置場に引き出される前によ。未練を残さねえ様、馳走が振る舞われるってのを聞いた事ねえか?」
「じゃあ、あれは……」
「間違いねえ。”村ごと死罪にするから覚悟せい”っちゅう前置きだ。気前がいいのも無理はねえ」

 頭目としては、厳しい事を申し付けた事もあり、民をなだめる意図での土産だった。
 しかしこの村では、それがかえって疑念を抱かせる元となってしまったのである。

「だ、だけんども。かわたをどついた事でいちいち死罪にしとったら、伊勢の百姓は鏖(みなごろし)じゃあ。誰が田畑を耕すだよ?」
「龍神様にしてみりゃ、儂等がくたばった後に天竺から百姓を連れて来て、主がなくなった田畑を与えて代わりにすりゃええんじゃ。田畑を継げん次男・三男なんぞは、天竺にもいくらでもおるじゃろうしのう」

 働き手としての百姓の価値を指摘する声をも、首のすげ替えがきく物として庄屋は否定した。
 だが、庄屋の予測に反し、弗栗多は、自国の民を伊勢に入植させる事には慎重だった。
 旧弊を改める実践の地として和国を欲したのだから、和国以上に過酷な身分制度に意識が囚われた本国の民衆は、改革の妨げになると考えている為である。普蘭や奥妲の様な学徒は、才覚によって選ばれ、かつ一門によって徹底的に思想を植え付けられた知識層として、あくまで例外という位置づけだ。
 だが、弗栗多のその様な思惑を知らないこの村の者達は、悪い方へと連想を走らせて行く。

「掟を守らんもんはいらん、そういうこっちゃろ。約定を軽んじたのは、伊勢の百姓の側なんじゃ……」
「ほんじゃあ、尾州でも美州でも、伊勢の外へ皆で逃げるべえ! 命あっての物種じゃあ!」
「どこへじゃ! 街道も州境(しゅうざかい)も、鬼侍(おにざむらい)が目ぇ光らせとる! 海も水軍の船が巡っとるぞ!」
「逃がさんぞっちゅう事かよ……」

 前回の会合以後、伊勢では軍による巡回が厳重になっている。
 件の庄屋の妻が熱田の間者であった事を受け、領外に通じる者が他にいないか、侵入を企てる者がいないかを警戒しての事なのだが、一揆衆を含めて伊勢の民にその理由が知らされる事はなかった。
 その為、勅令に反した事への懲罰を怖れた民が他州へ逃亡する事を防ぐ為ではないかと、この村の民は受け取ったのである。

「八方塞がりっちゅう事かい!」
「名乗り出て慈悲にすがりゃあ、仕置きされるにしても、ちったあましかも知れんぞ……」
「首を刎ねられたもんは、どれも苦しみ抜いた死に顔じゃった。きっと、散々に責められたんじゃろうなあ……」
「ほんじゃあ、どうすりゃええだよ!」

 刎ねられた首を見た庄屋は、出頭すればせめて楽に死なせてくれるのではないかという希望すらも否定した。
 進退窮まった村人達を前に、庄屋は意を決し、傍らの女房に声を掛けた。

「おい、こういう時にこそ使うあれがあったじゃろ。持って来てくれい」
「でも、御前さん。あれは……」
「ええから!」

 女房は躊躇した物の、庄屋に強く求められた為、隣室の押し入れから木箱を持ち出して来た。

「庄屋様、こいつぁ!」
「ああ、一揆衆が神宮に対して決起した時なあ。はっきり言って勝ちの目は薄かったんじゃ。負けて捕らえらりゃあ、惨い責めが待ち受けとると思ってのう」

 木箱の中身は、一服分づつ紙に包まれた劇薬である。
 神宮の治世下で、農村は穀物や菜物の他、薬売りの商品として薬草を栽培させられていた。
 薬草は神宮の専売とされ、僅かな銭で強制的に買い上げられる為、百姓の利益には殆どならなかったのだが。
 これらの内には、薬効が高い代わりに、熟練した者が扱わねば死に至る劇薬もあった。
 一揆衆は決起する際、敗北に備えてその様な劇薬を自害の為に用意していた。
 捕らえられて責め苦を受けぬ為、そして耕し手である自分達を滅ぼす事で、為政者側の神宮を道連れにしようと考えていたのである。
 龍神の加護を得た為に一揆衆は勝利し、劇薬は使う必要が失せてしまい込まれていた。
 よもやこれを使う事態になるとは、村民の誰もが思いもしなかっただろう。

「これで…… 死ねってかあ!」

 死を目前に突きつけられた村人の悲痛な叫びに、庄屋は黙って頷いた。

「龍神様の責めと来りゃあ、神宮のそれとは比べもんにならんじゃろ。何せ、奈落で罪人を責め立てとるのと同じ、赤鬼青鬼が何百も側に侍っとるんじゃからなあ」
「で、でもよう……」
「潔うせんかい! 儂等は博打に負けたんじゃ。龍神様の造りたい世は、儂等の望むもんじゃなかった。かわたと百姓を対等に扱う世なんじゃ!」

 庄屋の怒声に村人達は絶句し、そして誰ともなく嗚咽を漏らし始めた。
 やがて一人が、家族の数だけの毒、そして酒と餅を受け取ると、うつむききながら屋敷を後にして行く。
 それを見て、一人、また一人と村人が続き、最後に庄屋夫妻が残された。
 帰途につく村人達を見送った庄屋は女房に盃を二つ用意させ、酒を注がせると、それに劇薬を溶かす。
 
「御前さん…… これで良かったのかい……」
「邪神に縋った因果応報かのう。これも運命じゃ……」

 二人は毒杯を煽り、半刻程もがき苦しんだ末に息絶えた。


*  *  *


 翌朝。
 ひっそりと静まり返った村で、羅刹兵の一隊が家々を廻っている。

「全戸の屍を人別改と照合しました。相違、漏れ共ありません」
「よし。腐らぬ様、法術で処置したな?」

 家屋から遺骸を担いで出て来た兵達の報告に、指揮する武官が確認する。

「勿論です」
「うむ。死ねば田畑は耕せぬが、贄として神属の腹を満たすにはまだ使える。毒をあおいだ様だが、神属には効かぬ種だ」

 兵の答えに武官は満足そうに頷いた。
 那伽摩訶羅闍に忠誠を尽くす彼等にとって、勅令に背いた民の遺骸を糧食とみなすのは当然の事である。
 労働の役に立たなくなったのだから、最後には食して利用すれば無駄がない。

「御夫君様の御慈悲を受ければ、軽い罰で済んだ物を……」
「哀れむ値打ちなどない。詔を軽んずる様な輩、生かしておいてもいずれ皇国に仇為すのは必定だ。皇国の兵たる者、背いた民に情けは無用と心得よ」
「申し訳ありませんでした!」

 一人の兵が哀れみの言葉を漏らすが、武官がそれを打ち消す。
 羅刹達は次々と遺骸をむしろにくるんで簀巻(すまき)にすると、馬車へと積み込んで行くのだった。



[37967] 6話「阿修羅の学師」その43
Name: トファナ水◆34222f8f ID:93af4666
Date: 2015/11/09 03:47
 頭目が一揆衆に申し付けた、賤民を虐待した者が自ら出頭する日限の当日朝となった。未だ、自発的に出頭する者は皆無である。
 先に一例として挙げた村と同様に、頭目の慈悲を信じず集団自害に及んだ村落は、現時点で三十二村に及ぶ。
 また、旧賤民の集落に対し、自分達の虐待を訴えない様、集団で脅迫に及んだ村落が十二村あるが、いずれも程なく鎮圧された。住民は全て石化された上で、成年は獄中にて死罪を待つ身、幼少の童は答志島で還元の被験体とされる事となっている。
 集団逃亡、いわゆる逃散をはかった村落は五村。これも全て州堺にて取り押さえられ、やはり成年は死罪、童は被験体である。
 ちなみに、密告については殆ど機能しなかった。民衆の結束、言い換えれば相互監視は思いの外強く、密告が発覚した場合の報復を怖れ、銭で隣近所を売ろうとする者が出なかったのである。
 無論、賤民の側からも被害についての聴取は行っており、このまま名乗り出ないのであれば、下手人を捕縛した上で予告通りに厳罰に処さねばならない。
 しかもその対象は、元賤民を除き、伊勢の民の九割八分に及ぶと目されている。重罪犯として家族・親類への連座を適用する為だ。
 英迪拉が会合で”名乗り出なかった者は楽に死ねると思うな”と言い放った事もあり、ただ首を刎ねるのではなく、見せしめとして苦痛に満ちた手法をとる必要がある。
 愚行に走る村が出たとの報が次々と届く事で、頭目はすっかりやつれ果てていた。食も受け付けず、英迪拉の乳を吸って滋養をとらねばならないありさまである。

「御夫君様。こちらから民草に、名乗り出る様に改めて促してはいかがでしょうか」
「それでは意味がない! 自ら悔い改めるのでなければ、勅令に背くという大罪を赦せる物か!」

 見かねた侍女の一人が進言したが、頭目はそれを退けた。
 これ以上甘い顔をしては、勅令の重さが民衆に伝わらない。慣例に固執して新たな秩序を民意が拒む以上、恐怖をもって従わせるしかないのである。
 一揆衆の会合以降、頭目はあえて弗栗多と顔を合わせていない。
 件の庄屋一家を捕縛した際、”罰する対象が広がろうとも為すべき事を為す”と覚悟を示した手前、意見を求める訳にも、まして甘える訳にもいかなかったのである。
 英迪拉に夜の床ですがる事のみが、彼の唯一の慰めだった。
 日に日に憔悴していく頭目を英迪拉は憂いたが、身辺の警護や儀典といった近衛としての職務には長けている物の、御政道が苦手な彼女は、良き相談相手になる事が出来ないでいる。
 英迪拉は弗栗多へ現状を報告した上で助言を求めようとも考えたが、頭目自身がそれを避けているのを頭越しに行えば、彼の面目を潰す事になりかねない。
 計都、そして一門の学師達は相談先として論外だ。”皇道楽土”実現の為ならば微笑を浮かべて平然と殺戮を行える計都ならば、更なる苛烈な提案を行い、頭目を余計に苦しめる事になるのではないかと英迪拉は警戒していた。
 那伽摩訶羅闍の権威を保ちつつ、粛清の対象を極力抑え、かつ元賤民への蔑視を改めさせる。その様な提案を頭目は欲しているのであろうが、それに応えられそうな者は陣営に全く見当たらない。

「英迪拉」
「何でっしゃろ、坊?」

 正午に達し、時を知らせる銅鑼が鳴り終わると、頭目は傍らの英迪拉に声を掛ける。
 続く言葉は、非情な決断だった。

「明日となったら直ちに兵を差し向けられる様、配下の将兵へ支度を整えさせよ。抵抗も逃亡も許してはならぬ。夜が明けぬ内に、迅速に各村を襲い、対象となっている全ての民を法術で拘束せよ。数が膨大だ、回収は後で良い」
「坊、坊! どないしはったんですか!」

 頭目の抑揚がない口調に、尋常ならざる物を感じた英迪拉は思わず声を挙げる。
 顔を見ると、その瞳は濁り、感情が全くこもっていない。悲痛の余り心を閉ざし、理のみで動いている事が察せられた。

「悔い改める機会は充分に与えた。もはや寛恕の余地はない。救民が我等の大義であれば、最も弱き賤民の庇護こそがそれである。旧き世に固執する民百姓は、神宮やそれにおもねっていた者共同様に、討ち懲らすべき害悪となり果てた」
「……」
「英迪拉。近衛筆頭として我が意を果たせ」

 民衆を鏖殺する決意を、まるで棒読みの様に淡々と述べる頭目の言葉に、英迪拉は無言のまま呆然と立ち尽くして躊躇する。だが叱責を受けると、動揺を覚えながらも主命を果たすべく退席した。

(主上もセンセもあかん。誰か他におらへんのかいな。このまま伊勢の民を鏖殺っちゅう事になろうもんなら、坊がいかれてまう……)

 心優しき頭目が変わり果ててしまうのではないかと焦りを抱きつつも、捕縛の隊を編成する為、英迪拉は室外に控えていた近衛に声を掛けた。

「おう、非番のもんも含めて、動かせる近衛全員に集合かけい。坊を困らせとる阿呆んだら共を、根こそぎひっ捕まえるんや」
「漁村や船大工や船方、沖仲仕 ※港湾荷役 の座といった、河や海に関わる民については水軍の所轄ですが、いかがしましょうか?」

 伊勢の沿岸部や海洋・河川の治安は、茨木童子の率いる水軍が担う。
 また、補陀洛が漁村に供した新式の船舶である戎克(ジャンク)の習熟指導や、法術を使用した漁獲の向上といった活動にも水軍は深く関わっている。
 近衛は那伽摩訶羅闍の名代たる特権を持つ為、水軍を介さず直接に沿岸部の住民を捕縛しても越権とはならないが、確執が生じない様に筋を通しておく必要がある。

「手が足らんよってな。そっちは水軍に任せるさかい、茨木の大将に遣いを出しい。海から他州へ逃げだそうとしたもんは土左衛門にせいっちゅうたれ!」
「承知しました!」

 英迪拉の指示を近衛が受けた処へ、門衛を務めている羅刹兵が駆け寄って来る。

「どないした?」
「近衛筆頭殿。水軍大将殿が、御夫君様に目通りを願っております」
「捕縛の命が下るんを待ちかねて、自ら来たんかい。手間が省けたけども、全く血の気が多いやっちゃで」

 今日が賤民を虐待した者の出頭日限という事は、茨木童子も承知している筈である。捕縛の命が水軍にも下る事を見越して参内したのだろうと英迪拉は思ったが、その用件は全く異なっていた。

「いえ。それが、一揆衆の内、水軍の所轄にある者共を引き連れております。旃陀羅(チャンダーラ) ※賤民 への虐待を行った者を説得し、引率して来たとの事です」
「ほんまか! ほいたら坊を呼ぶさかい、広間に通しときい」

(茨木の大将に一本取られてしもうたが、これで坊もちっとは楽になるで!)

 この十日間、頭目がずっと待っていた物が、ようやくもたらされたのである。
 英迪拉は吉報を届けるべく、再び頭目の元へと戻って行った。



[37967] 6話「阿修羅の学師」その44
Name: トファナ水◆34222f8f ID:48f9f5d8
Date: 2015/11/22 16:40
「御夫君様が、御会いになられるとの事です」
「かたじけない」

 茨木童子は引率した一揆衆と共に、夜叉の侍女に案内されて大広間へと通された。
 先の一揆衆の会合で使われた部屋なのだが、今回は漁村の網元等、海や川に暮らす民を代表する立場の者のみで、一揆衆総勢の二割程しかいない。
 彼等にとって、十日ぶりに入った大広間は随分と広く感じられた。

「補陀洛(ポータラカ)皇国皇配にして、伊勢一揆衆頭目の御入来!」

 侍女が頭目の入来を告げると、茨木童子は平伏し、網元達も一斉に倣う。
 頭目、弗栗多共に、民から格式張った仰々しい態度を取られるのを好まない事は、この場の誰もが承知している。
 しかし今回は罪の許しを請う立場である為、彼等はあえて平伏してその意思を示した。

「皆様、よく来て下さいました。面をお上げ下さい」

 普段通りの優しげな呼び掛けを受けて網元達は顔を上げるが、半病人の如くやつれた頭目の有様に、彼等は当惑した。
 肌は土気色で張りが無く、目の下には隈が出来ている。頬はやせこけ、食もまともに取れていない様だ。伊勢の民が賤民解放の勅令を拒んでいる為による心労が原因という事は、一目瞭然である。
 頭目の傍らには、英迪拉が心配そうに寄り添い、さらにその脇には一同を案内して来た侍女が控えている。

「頭目殿。水軍に任されている海・河の民草共ですが、皆、前非を悔い許しを請うております。各村、そして座を治める者共を、その代表として連れて参りました」
「茨木。あくまで、この者共が自らの意志で名乗り出たのであろうな?」
「左様にございます」

 頭目の真正面に座する茨木童子が、不安げな一同に代わり口上を述べるが、頭目は不審げな顔をする。強いられた出頭では意味がないのだ。
 しかし、茨木はきっぱりと頭目の問いに答え、自発的な出頭であると言い切る。地道に茨木や配下の兵が説得を続けた結果ではあるが、決して強制はしていなかった。
 説得が好調だったのは、沿岸部の民は水軍の神属と接する機会が多い為、気心が知れていた事も大きい。

「なれば問います。如何なる心境で、過ちを御認めになったのでしょう?」
「儂等漁師は、海に泳ぐ魚を捕らえ、殺めて糧食として供する事を生業としております。魚と獣の違いこそあれど、屍から皮を剥いで細工物をこしらえる者達を卑しむ道理はありませんでした……」
「それに気付いたならば結構です」

 頭目が長老格の網元に問うと、彼は淀みなく答える。筋の通った答えに、頭目は満足そうに頷いた。
 ただ勅令だから、命が惜しいから渋々従うというのではなく、理屈としてなぜ賤民を卑しむべきではないのかを理解した上での出頭ならば、より好ましい。

「こちらが、水軍が所轄する民の連判状にございます。御査収下さいます様」

 茨木は、携えていた紙の束を差し出した。村や座ごとに、一揆衆たるその長が纏めた、賤民を害した罪を認める連判状だ。
 大半の民は文盲の為、署名は長の代筆だが、当人の証として血判が押されている。

「後程、改めさせて頂きます」

 頭目は英迪拉の脇に控えている、夜叉の侍女に目配せする。侍女は茨木童子の前に進み出ると連判状の束を受け取った。

「ところで、儂等の他に、誰ぞ来たもんはおりますでしょうか」
「それがなあ。あんさん方が最初なんや」
「今し方この英迪拉に、名乗り出なかった者を日限が尽きたと同時に捕らえる為、将兵に支度を調えさせる様に命じたところなのです」

 長老格の網元の問いに、英迪拉は嘆息して答え、頭目が言葉を続ける。
 それを聞いた一同の額に、冷たい物が流れた。茨木童子の説得に応じなければ、自分達も危うい処だったのだ。

「どの位のもんが、かわたに手え出した咎を犯したんですかのう?」
「元の賤民を除いた伊勢の民全ての内、およそ九割八分程になります」
「な、何じゃとう!」「い、いくら何でもそんな仰山……」「無茶苦茶じゃあ!」

 伊勢の民のほとんど全てが捕縛の対象となるという頭目の答に、一同は驚愕した。

「七割位は、やらかした当人やのうて連座やけどな。身内を残すと、逆恨みするもんが出かねんよって。綺麗さっぱり始末するんが、皇国のやり方やで」

 英迪拉は何でもない事の様に軽い口調で話すが、それだけに一同は強い恐怖を抱く。
 この龍神の忠実な眷属は、主に逆らう者の命など、田畑に生える雑草にも劣る物としか思っていないのだ。彼女が案じているのは、あくまで憔悴しきった頭目の心身のみなのだろう。
 民の大半を捕らえられた末に鏖殺する事になれば、伊勢はこれからどうなってしまうというのか。
 このまま半日が経てば、それは現実になる。

「ほ、ほんで、儂等の他に、来る様子はないんですかの?」
「残念ながら……」

 恐る恐る一人の網元が発した問いに対し、頭目は寂しげに否定して目を伏せた。

「失礼致します」

 声と共に、乾闥婆(ガンダルヴァ)の女武官が襖を開けた。
 翼を持ち飛空が出来る乾闥婆は、軍では伝令や斥候の役を担う者が多く、彼女も斥候の一隊を任されている一人である。

『誠に申し訳ございませんが、急ぎ御報告申し上げたき事がございます』
「日限を控え、民草に動きがあったのであろう? ならば、梵語ではなく和語で申せ」
「まさしく、その件でございますが…… 宜しいのですか?」
「如何なる事態であろうと、この者達も知らねばならぬ事である」

 梵語で報告しかけた女武官に、頭目は和語を使う様に命じた。
 女武官は戸惑った様子で、何事かとざわめく網元達に目をやった。彼等に聞かせれば動揺を与えるのは必定なので、梵語で報告しようと考えていたのだ。
 だが、頭目はあえてそれを伏せるなと言う。
 女武官はどうした物かと、その場に同席している英迪拉、次いで茨木童子の顔を伺った。

「坊の言う通りにしい」
「然り。ここで伏せても程なく露呈する故、包み隠さず語るべきであろうな」
「畏まりました」

 二人の将はいずれも頭目の指示を是とした為、女武官は配下の兵から得た、伊勢各地の状況を取りまとめた書状を取り出した。

「日限を控え、この桑名を始め、亀山、四日市等の街部では、徐々に役場、或いは兵の屯所まで出頭する者が現れております。主には商人や職人の座長が、配下の民の連判状を取りまとめる形となっている様です」
「本当か! 間違いないのだな!」
「相違ございません」

 予想外の報告に、頭目は思わず声を挙げ念を押す。半ば、諦めていたのだ。
 返ってきた答えには頭目だけでなく、その場の者達が一様に安堵した。

「様子を見ていた者達も、厳罰を科される事はないと納得すれば後に続くでありましょうな」
「どうなる事かと思うたけど、何とか収まりそうやないか」

 茨木童子、そして英迪拉も楽観的な見通しを口にする。
 だが、続く報告により、広間には再び緊迫が走った。

「しかしながら、農村に於いては全くその様な動きがみられません。それどころか、既に十五村、集団自害に及んだ村が新たに見つかりました」
「集団…… 自害っ……!」「何ちゅう早まった事をしよる!」「阿呆のどん百姓共が!」

 農村の百姓達による愚挙に、網元達は口々に、驚きや罵倒を口にする。

「十五もの村が心中をやらかしたっちゅうのは、本当ですかいのう?」
「事実です。本日の分を足して、これまで五十七の村が自害に及びました」
「五十…… 七じゃと……」
「それだけではございません。逃散を試みた村が五村。旧賤民の集落に対し、被害を訴えぬよう脅迫に及ぼうとした村が十二村。これらはいずれも造反として取り押さえました。極刑に処される事となりましょう」

 長老格の網元が問い直すと、女武官はそれが事実である事を再度告げると共に、昨日までの状況を付け加えた。
 自ら滅びを選んだ農村の多さに、網元達は絶句する他なかった。
 頭目が憔悴していたのは、単に出頭する者がいなかった為ではない。命を賭して、あるいは棄ててまで勅令を拒絶する態度を示した民が、あまりに多かったからなのである。

「ご苦労。引き続き、不穏な動きを見逃さぬ様」
「御意」

 女武官が合掌して下がり、大広間には重苦しい沈黙が流れる。それを破ったのは、一人の網元が挙げた悲痛な叫びだった。

「お頭! はよ何とかせんと!」
「御安心下さい。不届き者が逃げおおせぬ様、州境は兵が見張っております。また、元の賤民が自暴自棄になった輩に襲われぬ様、集落の護りも万全です」
「い、いや、それも大切だけども…… ”意地張っとらんと、早よ詫びを入れい”っちゅうて百姓共に遣いを出せんもんですかい? まだ間に合うと違いますかい?」

 逆らう者への対処は怠りないと話す頭目に、それだけではなく説得の使者を出す様にと網元は訴える。だが、頭目は厳しい顔で首を横に振った。

「皆様方が来る前にも、家臣の内にその様に進言する者がおりました。しかし、それはならぬ事です」
「なんでですかい?」
「勅令が軽んじられたのです。加えて言えば、虐待を受けた側の賤民にしてみても、頭を垂れて許しを請うのは百姓の側でありましょう。ここまでも、私は大きく譲りました。平民・賤民の別なく豊かな暮らしを享受するか、それを否として鏖(みなごろし)となるか。後は、各々が決める事です」

 古今東西、いかなる国に於いても、君主の勅令に背くという事は死を以て罰せられるべき大罪である。
 まして、今回は猶予を与えた上での事だ。これ以上の譲歩は、補陀洛皇国の権威に傷がついてしまう。

「最後まで逆らい続けた者への対処の支度があります。わざわざ御足労下さったところ申し訳ありませんが、本日はこれにて失礼致します」

 頭目は立ち上がり、英迪拉を伴って大広間を後にする。
 網元達はそれを、黙って見送る事しか出来なかった。




[37967] 6話「阿修羅の学師」その45
Name: トファナ水◆34222f8f ID:4add32de
Date: 2015/11/29 23:07
「御集まりの皆様で御歓談等なさる様でしたら、そのまま広間を御利用下さい」

 夜叉の侍女の申し入れにより、頭目が退出した後も網元達は大広間に留まって話し合いを続ける事にした。自分達は安泰とはいえ、このまま百姓達が死に絶えるのを見過ごすのは流石に躊躇われたのだ。
 立場上、口を挟む訳にはいかない茨木童子は、所用を口実に退席した。
 無論、彼女も今回の処置を穏便に済ます様に望んでいる事は、網元達も良く解っている。
 しかし、茨木童子が統治者側としての立場に縛られている事も承知している為、ここで頼る訳には行かなかった。

「街の衆は何とかなりそうじゃと言うが…… 百姓と何が違うんじゃ?」

 話し合いでまず問われたのは、自分達だけでなく町人も多くが罪を認め始めたというのに、百姓達には何故それが出来ないのかという疑問だった。

「商売人は、良くも悪くも利に聡いからのう。頭を切り換える事が出来たんじゃろうなあ」
「街には商人の他にも、職人やら人足やらもおるじゃろ」
「海や河に水軍様がおるのとおんなじで、街にも鬼侍様が結構おるからな。俺等と同じ様に、街の衆も取りなして下さったんだろうよ」

 伊勢に住まう補陀洛の神属は、その数が限られていることもあり、多くは市街地や港湾、州境といった重要箇所に配備されている。
 対してもっとも手薄なのが、大幅な自治が認められている農村部である。数日に一度、糧食や衣類といった生活必需品を供与する為の馬車が来る他には、神属と接する機会が殆ど無い。
 故に目が行き届かず、賤民蔑視を改めさせる為の啓蒙が疎かになってしまった面は否めなかった。

「百姓共の身近にも鬼の方々がおったら、腹を割って話し合えたのかも知れんなあ」
「そうだな。だが、今それを言うても始まらん」
「心配せんでも、間際になりゃ大概のもんは観念して詫びを入れるだろうよ。命あってなんぼなんだしよう」
「阿呆が! 自害するもんが相次いどるっちゅうから、こうして皆でどうにか出来んもんかと悩んどるんじゃ!」
「死にたいもんは勝手に晒せばええ!」

 楽観する声が挙がるが、長老格の網元はそれを一喝する。
 怒鳴られた者は思わず暴言を返したが、それを聞いた場の雰囲気は凍り付いた。

「あんた、人としてそれを言うてはならんじゃろ」
「やらかしたもんは仕方ないかも知れんが、連座を食らうもんは哀れじゃぞ?」
「……」

 次々と叱責され、暴言の主は俯いて沈黙してしまう。
 議論は続けられたが、良い策も出ないままに四半刻が過ぎた頃。一人が挙げた案に一同は耳を傾けた。

「儂等が直に行って百姓共と談判すれば、聞く耳を持つかも知れんのじゃなかろうか」
「おお!」
「そうじゃな。儂等も百姓共も同じ一揆衆、伊勢の民草じゃからのう。お上が言うより、幾分かは聞きやすいかも知れん」

 既に出頭した者達が”軽い罰で済む”という保証を、迷う百姓達にしてやれば良いという案に皆は思わず手を打った。

「しかし今からじゃと、この近隣がせいぜいじゃぞ?」
「それでも、やらんよりはましじゃろう!」
「そうじゃ、何もせんで連中を見捨てたら、一生の間、俺等は悔やむ事になるぞ!」
「決まったのう。手分けして向かうんじゃ」

 農村に直接赴いて説得するとの案に皆が傾き、長老格の網元による締めの一言で一同の意が固まった。
 皆が立ち上がったその時。襖が開き、一頭の白虎が現れた。

「話はまとまったか」

 和国の民にとって白虎の顔の見分けはつきにくいが、英迪拉でない事は、縞模様が異なる為に解る。
 その背には、誰かを乗せる為であろうか、騎馬の様な鞍が据えられていた。

「へい。儂等、手分けして百姓共を説き伏せる事にしましたのじゃ。今から行って、どんだけの村に間に合うかも解らんけども、同じ一揆衆としては捨て置けんのです」
「そうか。我等近衛は、勅令を最後まで拒み続けた者を捕縛する為、日をまたぐ半刻前までに、各々が所定の場所に赴く様に命を下された。今から向かう処だ」
「左様で……」

 白虎の言葉に、網元達は唾を飲み込む。
 龍神は着々と、背く者を処分するべく支度を調えている。もはや一刻の猶予もない。

「ついては、不案内なのでな。近衛一頭につき一人づつ、この場の者に案内として同道願いたい」
「ちゅうても、儂等も陸の村の事なんぞ、案内出来る程大して知らねえですが……」

 白虎の依頼に、網元達は首をかしげる。
 村や街を結ぶ道は神宮統治下で整っており、大まかな地図もある。余程の事がなければ迷う事は無く、道案内は不要と思われた。
 まして、内陸の農村部に土地勘のない、沿岸部の民に道案内を依頼するのは不適切である。網元達は白虎の意図をはかりかねたが、続く言葉で真意を悟った。

「各々の命じられた配置に着くまでの間、数回は途中の村に立ち寄って小休止を取る。その間に、お主等は村の者共を説き伏せれば良かろう」
「ちゅうと、儂等を乗せて行って下さるっちゅう訳ですかい? ええんですか?」
「近衛が直に動く訳にはいかぬのでな。それに、同じ伊勢の民が話す方が、百姓共も受け容れ易かろう」
「そういう事なら、お言葉に甘えましょうかの」

 白虎は道案内の名目で、網元達を農村まで背に乗せて同行させ、説得の便宜を図ろうというのだ。
 思わぬ申し出に、網元達は”渡りに船”と承知した。

「言っておくが、行く先々で奈落の様な光景を見るやも知れぬ。間に合わなんだ村では屍が累々としておるであろう。また、自暴自棄となって刃を向ける者が現れれば、即座に屠る事となる。覚悟は良いか?」
「応!」「応!」「応!」
「補陀洛の兵に劣らぬ良き覚悟の声、確かに聞いた。では、ついて参れ」

 白虎に先導され、網元達は仮宮の門前へと出る。
 そこには、やはり白虎からなる一群が、横一列に並んで鎮座していた。その背には、揃いの鞍を据えている。

「諸君、そこな一揆衆の者共とは話がついた。各々、彼等を背に乗せて所定の場へ向かえ」
「承知!」「承知!」「承知!」

 案内の白虎の命に一群は勢いよく唱和する。
 網元達も促され、一人、また一人と相方となる白虎を選んでいった。
 馬と違い、騎手が乗り易い様に自ら伏せる白虎には、素人であっても介添えは不要である。
 騎手となる網元が恐る恐る鞍にまたがったところで、白虎達はゆっくりと立ち上がる。

「鞍は法術具で、乗り心地を保つ様になっておる。ころげ落ちる心配もない故、安心して身を任せるが良い」

 案内の白虎が言う通り、鞍はよく尻に馴染んで安定感があり、初めての騎乗にも関わらず、網元達は不思議と不安を感じなかった。
 全員が騎乗し終わったのを見届けると、案内の白虎もまた、長老格の網元を背に乗せる。

「いざ行かん。万難を排して主命を果たせ!」

 網元を背に乗せた白虎達は、号令と共にそれぞれの目的地へと駆けて行った。



[37967] 6話「阿修羅の学師」その46
Name: トファナ水◆34222f8f ID:46137904
Date: 2015/12/13 16:31
 仮宮にある、一門の者が来訪した際に用いる控えの間では、純白の紗麗を纏った人間の学徒が、焦った様子で鏡に向かっていた。
 これは遠隔地との会話にも用いる事が出来る八咫鏡の複製品で、映っている相手方は、一門を率いる計都である。

「導師。面倒な事になりました」
「まあまあ、どうしましたの?」

 困惑を隠さない学徒に、計都は普段通りの調子で優しく問いかける。
 学徒は、農村の説得に動こうとしている網元達に協力しようと近衛が動いている事を、苛立ちを隠そうともせず報告して指示を仰いだ。

「看過すれば、折角の試しに水を差す事になりましょう。止めさせる様に動きますか?」
「放っておきなさいな」
「宜しいのですか?」
「説得を試みる者の存在もこの際、達成を妨げる要因として考える事にしましょう」
「成る程。他州でこの策を行うのであれば、その様な事も考えませんと」

 計都の即答を聞いて学徒は意外に思ったが、理由を聞いて納得する。
 民の自滅を促す今回の試策を他州攻略に使える様、より効果的に洗練するには、阻害要因も考慮しておくべきなのである。

「貴女達はいっそこの際、百姓共は死に絶えてしまえばいいと思っているのでしょうけれどもね」
「ええ…… しかし皆が自害してしまっては、それはそれで困りますから。和修吉師の、心を縛る新式の術についても丸太が多く要ります」

 賤民の出自である学徒にとって、解放の勅令に抵抗する百姓は生かすに値しない。咎人どころか害獣、害虫に等しい存在である。
 だが一方で、一門には法術の実験台、いわゆる丸太が多く必要な事も解っている。許し難い咎人と言えども、ただ滅ぼしてしまうには貴重な資源なのだ。
 冷徹な合理性が、憎む仇の鏖殺を望む心を抑えているのである。
 学徒の感情を抑えた理性的な答に、計都は満足した。

「そうですわね。そういう意味では、日限を超えるまでに態度を決められないまま捕らえられる百姓が多く出るという結末が望ましいですわね」
「しかしそれでは、導師としては不本意ではありませんか?」
「元々あの仕込みを農村に施していたのは、件の庄屋の後妻となっていた熱田の間者とやらですもの。その思いつきに関心した物ですから、本当に旨く行く物かどうか、見てみたくなっただけの事ですわ」

 熱田の間者である事が発覚した庄屋の後妻は、さらに徹底して尋問された。
 強力な媚薬を盛られ発情した後妻は、詮議役の羅刹によって逞しい怒張で貫かれ続ける内、農村へ施した工作について快楽の中で漏らしたのだ。
 その内容を知り発想に関心した計都は、奥妲が頭目に願った施策に便乗する形で、眠っていた工作が発動する様に仕向けたのである。この事は頭目も知らされていない。

「成ればそれで良し。成らずとも元々。どう転んでも、導師としては構わないと」
「ええ。それに仕向けたとはいえ、自害を決めたのは百姓共自身ですもの。捕らえられるのも自害も嫌なら、素直に前非を悔い慈悲を請えば良いだけの事ですわよ」

 計都は穏やかな口調を崩さず、自害した百姓の運命を自業自得と言い放つ。一門の思い描く皇道楽土には、旧弊に固執する者達が臣民として身を置く場所は無いのだ。

「そうですね。いずれにせよ、明日になれば汚らわしい害獣共は除かれ、伊勢もより住み易くなりましょう」
「愉しみになさいな」

 学徒と計都は共に、クスクスと嗤いあった。


*  *  *


 頭目は英迪拉、そして数名の侍女を伴い”軍議の間”に詰めていた。
 中心に置かれた机上には、伊勢の地図が置かれており、沿岸部の漁村には恭順を示した印として、丸印が付けられている。
 一方、少なからぬ農村にはバツが付けられており、これは集団自害、元賤民への圧力、あるいは逃散といった理由により住民が死滅や捕縛に至った印である。
 斥候が入室して報告する度にバツ印は増え続け、丸の数は変わらないままだ。
 頭目は落ちくぼんだ瞳で、地図を食い入る様に見つめ続けている。

「坊、まだ名乗り出て来るかも知れまへんで」
「そうかも知れぬ。だが、既に多くの者が、自らの命を絶った。これこそが現だ。目を背けてはならぬのだ……」

 英迪拉が気遣うが、頭目は自らに言い聞かせる様に覚悟の程をつぶやく。
 頭目には百姓達の自害が、慣例を顧みない、受け容れがたき”非道”に対する最後の抵抗、痛烈な抗議として、自らに突きつけられた物と思えてならない。
 ”かわたが自分等と同じ身分になる世の中なら、死んだ方がましだ”という、皇道楽土の理念に対する真っ向からの否定である。
 瓦爾那 ※種姓、身分 による厳格な区分が根付く補陀洛よりも、まずは自らの出生の地である和国で改革を試そうという自分の考えは甘かったのかと、頭目の苦悩は続く。

「圧政から解き放っても、衣食を供しても、刑罰で脅しても! 百姓共は何故、賤民を卑しみ暴虐を振るおうとし続ける! 友とまでは言わぬ、せめて隣人として対等に付き合っていこうと、どうして思えぬか!」
「御夫君様、どうか気をお鎮め下さいませ!」
「貶められていた旃陀羅は皆、御夫君様を讃えております! 御威光の賜物でございます!」
「坊、落ち着きなはれ」

 頭目が挙げた悲嘆と憤怒の入り交じる絶叫に、侍女達は狼狽えながらも必死に慰めの声を掛ける。
 英迪拉は頭目に寄り添いながらも、配下の近衛に思いを馳せた。

(あいつ等、旨くやってくれよるかいな……)

 近衛の白虎が、百姓の説得を試みる網元達に助力を申し出、彼等を背に乗せて農村へと向かった事については、頭目の耳には入っていない。
 英迪拉の示唆によって、近衛に属する個々が、あくまで私的な立場で勝手に行ったという方便の為である。
 もし万が一にも咎められれば、英迪拉は自らの一身で責を負う覚悟だった。


*  *  *

 長老格の網元は白虎と共に、既に四ヶ所の村を訪れていたが、どこも手遅れで村中の者が死に絶えていた。
 遺骸の体温から推察し、どの村でも正午頃に村で寄合いを開いた上で、自害を決行したのではないかというのが白虎の見立てである。

「出るのが遅すぎたんですかのう……」
「今はそれを言う時ではない。急げばまだ、間に合う村があるやも知れぬ」

 陰鬱とした気分を抱えつつも、二人は五ヶ所目の村に急ぐ。迷いや悲嘆に暮れる暇はないのだ。
 二人は五ヶ所目の村に到着したが、人の気配がなく静まり返っている。

「人っ子一人おらん。ここも駄目ですかのう……」
「いや、待て。人の声…… 大勢集まっておる様だ」

 白虎は、かすかに聞こえる声に耳をそばだてた。
 人間の物よりも遥かに優れている白虎の耳は、網元に聞き取れなかった音をも逃さない。
 声がする方へと向かうと、周囲に比べて大きな家がある。
 恐らく庄屋の屋敷で、中では今後について話し合う寄合いの最中なのであろう。

「何とか間に合いましたのう……」

 戸が開いたままの屋敷に二人が入ると、中では大勢の百姓達が、結論の出ないまま、議論を続けていた。誰もが来客に気付く様子はない。

「御免」

 白虎が声をかけると百姓達は誰が来たのかと一斉に顔を向け、次いで口々に悲鳴を挙げた。日限を待たず現れた龍神の遣いに仰天したのである。

「ひゃああっ!」
「き、来たあっ!」
「慌てるな。まだ日限は尽きておらぬ故、捕らえに来た訳では無い。吾はこの者を乗せてきたに過ぎぬ」

 慌てる様子に白虎が説明すると百姓達は落ち着きを取り戻し、網元へと目をやる。

「取り込み中に済まんが、勝手に上がらせてもらいましたわい」
「爺様は確か、網元の中で一番年嵩のもんだったなあ。何の用ですかい」

 一揆衆の会合で一応の面識がある庄屋が用向きを尋ねると、網元は一呼吸置いてまくしたてた。

「聞いて下され! 儂等漁師は皆、頭目に詫びを入れたんじゃ。街のもんも後に続いとる! じゃから悪い事は言わん! お前様方も、早うそうしなされ!」

 網元の話を聞く限り、名乗り出た余りに斬首されてしまう様な恐れはない様だ。
 軽い罰で済むのは本当であろうと、その場のおよそ半分程が納得しかけたところで、異論を唱える者が出た。

「俺達はなあ。”上見て暮らすな、下見て暮らせ”っちゅうてよう。ボロを纏って腹をすかせても、まだ下のもんがおるもんだから我慢出来たんじゃあ!」
「そうじゃ! かわたなんぞに並ばれるのは我慢なんねえ!」
「いつまでそげな事を言うておるんじゃ。龍神様のお陰で、皆でええ衣を着て旨い飯を食らえる世になったんでねえか! それなのに、かわたをいつまでも小突くっちゅうんじゃ、神宮の屑共と一緒じゃぞ!」

 主にに若い者からなる十数名が賤民解放の勅令に対する不満をぶちまけたところで、網元が一喝する。
 蔑視を続ければ、百姓を搾取した神宮と同じであるとの辛辣な言葉は、不満を挙げた者達の幾人かを揺らした。
 だが、それとは別の懸念を訴える者も現れた

「向こうがどう思っとるかは知れたもんじゃねえ。たまに道でかわたに行き会うと、鬼侍がぴったりくっついててよ。奴等はこっちを見て得意げにしよる。”手ぇ出せるもんなら出してみい”っちゅう顔をしよって!」
「龍神様の御威光を笠に着て、俺等に仕返ししようと企てとるんじゃあ!」

 百姓達の脳裏には、賤民が報復を企てているのではないかとの疑念もあった。
 その背景としては、賤民の集落に羅刹兵が常駐し、遠出の際には必ず警護として随伴する様になった事がある。
 これは賤民に対して、虐待を告発しない様に脅迫に及ぶ百姓が多く出た事による措置だ。
 賤民へ一切手を出せない様になった百姓達は、今度は自分達が虐待されてしまうのではないかとの恐れを抱き始めたのである。

「かわたもんを今まで散々どついたり、手込めにしたんじゃろうが。鬼侍様に護られんと、安心して道も歩けんのは向こうじゃぞ!」
「弁済として充分な財物を渡すと共に、賤民の側から決して手を出さぬ様にきつく戒めてある。羅刹の兵で彼等を護っておるのは、その様な事を防ぐ為でもあるのだ」

 網元の反論に、白虎が補足を加えた。
 羅刹兵は単に賤民を護るだけでなく、報復を思いとどまらせる為の監視を兼ねており、決して一方的に賤民を擁護する為ではないのである。

「百姓がどうなろうと、漁師の爺にゃ関わりねえ。放っといてくれ!」
「そうじゃ! 余所者は帰れ!」
「去ねや糞爺!」

 次々と疑念を否定された末、百姓の内からは言葉が尽きて暴言を放つ者が現れた。
 最早、余所者に言い負かされたくない余りの感情的な反発に過ぎないが、村の運命に関わる話し合いでの見苦しい態度に、網元は思わず怒りをぶちまけた。

「お前様方、下克上が成ってから今日まで、何を食ってた! 儂等が採った魚や貝でねえか! お前様方がどうしても首を刎ねられたいってんならしょうがねえ。だけどな、その前に食わせてやった恩ぐらいは返さんか!」

 神宮の搾取と凶作で疲弊した農村の糧食として、漁村からは多くの魚介類が供出されていた。その負担は決して軽くなかったが、同じ一揆衆と思えばこそ、不平を言わずに応じていたのである。
 それを無下にされれば、流石に怒ろうという物だ。
 食の恩を持ち出され、不満を漏らしていた者達もそれ以上は何も言えなくなった。

「まあええわ。言うだけは言うた。後はお前様方が決めい! 次の村に行かにゃならんからのう」

 押し黙る百姓達に、網元はきびすを返して出て行こうとしたが、白虎はそれを押しとどめた。

「ああ、その前に。神宮に対して決起した際、敗北に備えて自害に使う毒を用意してあったと聞く。出せ」
「へ、へい……」

 白虎がにらみ付けて命じると、庄屋は恐る恐る床板の一枚を外して、下から木箱を取り出した。

「こげな物があったんですかの!」
「元々は、薬売りの商品の一つとして、神宮より命じられて百姓が造っていた薬草でな。扱いを誤れば猛毒となる代物だ」
「わしゃあてっきり、自害したもんは蝮にでも嚙ませたか、毒茸でも貪ったんじゃないかと思っとったんですじゃ……」

 長老格の網元は、この村が一揆の際に自害用の毒を用意していた事に驚いた。
 敗北が決定的となった際に毒をあおいで自害するというのは、神宮の圧政に反抗した一揆衆全体の方針ではなく、個々の農村の判断で用意した物である。但し、殆どの農村は、口伝えによってそれを備えるに至ったのだが。
 一方、薬草を栽培していない街や沿岸部ではその様な物はなく、一揆に際して農村が毒を用意した事すら知られていなかった。
 今回、農村のみで自害が横行している理由の一つは、自害用の毒の有無だったのである。

「滅!」

 白虎が毒薬の納められた箱を睨むと、それは一瞬の間青白く光り輝き、砂の様に崩れ落ちた。

「これで効力は失せた。最早その毒は只の粉に過ぎぬから棄ててしまえ」
「な、何で……」
「”楽には死なせぬ”と筆頭殿が一揆衆の会合で仰られたであろう? 咎人として極刑に処す前に、勝手に死なせたくはないのでな」
「なら…… 何故、俺達を今捕らえないんで? 神通力で石に変えちまう事も出来るってのに……」
「御夫君様が切った日限までは、決して手を出さぬ。日を超えれば直ちに捕らえよとの詔でな」

 戸惑いつつも、庄屋は白虎に問い返す。
 罪人には自害すら許さぬという答を返されると、百姓達は龍神の怒りの深さを感じて震え上がった。

「お前様方、ぐずぐずしとる暇はないぞ! 早う詫びを入れなされ!」
「す、すぐには決められん……」
「ならば話がまとまった後、名は代筆でよいから、名乗り出る者の分の血判状をしたためた上で狼煙をあげよ。日が暮れた後であれば篝火を炊け。さすれば直ちに空より兵が舞い降りて改める」

 網元が促すが、庄屋は煮え切らぬままである。
 この場で話をまとめられなければ、この村にばかり時はかけられない。
 白虎はやむを得ず、意を決した際にどうすればいいかを語った。
 伊勢の上空では、乾闥婆の斥候が、村々に動きがないか監視の為に巡回している。従う意思を見せた者への迅速な対処もその任に含まれていた。

「賤民からの訴えにより、捕縛すべきが誰かは把握しておる。名乗り出なければ当人は勿論の事、家族・縁者も悉く連座に処すであろう。既に州境は固められておる故、逃げようとしても無駄だ。以上を承知の上、心して決めよ!」

 白虎は最後に警告を残し、網元と共に屋敷を後にする。
 進退窮まった百姓達は、呆然と見送るのみだった。



[37967] 6話「阿修羅の学師」その47
Name: トファナ水◆34222f8f ID:46137904
Date: 2016/07/14 23:21
 長老格の網元と白虎は、目的地への道中にある農村を訪ね続けた。既に自害に及んでいた村と、間に合った村はおよそ半々である。
 しかし間に合った村でもその場での恭順は皆無で、意思が定まった際の申し出をどの様にするかを伝えるに留まっている。
 長年の因習による賤民への蔑視、そしてその裏返しである報復への恐怖が深い事を二人は改めて思い知らされていた。
 桑名を発ってから四刻半程。対象の農村を全て訪ね終え、白虎は網元を背に乗せたまま、英迪拉に命じられた本来の目的地へと向かっている。
 日はとうに沈んで夜中となっているが、月光が周囲を照らしていた。夜目の効く白虎には何の不自由もなく、夜間の漁に慣れている網元も同様である。
 虫の鳴き声が響く中、白虎は疲れを微塵も見せずに走り続けている。

「どこぞで日を超えるのを待ってから、詫びを入れなんだ村のもんをしょっ引きに行きなさるっちゅう事ですがの、まだ遠いんですかの?」
「今少しで着く。今宵はそこに逗留すると良かろう」

 四半刻程さらに走ると、目的地らしき明かりが見えて来た。
 龍神の兵が張った陣幕だろうかと網元は思ったが、徐々に近づく内、そんなちゃちな物ではない威容が明らかになって来る。

「こ、こりゃあ……」

 道の遥か真正面、開けた平原の中に、高い土塀が張り巡らされているのが解る。
 その周囲には篝火が炊かれており、神宮統治下の門前町の如く、不夜の明るさを誇っている。
 塀は高く、内部をうかがい知る事は出来そうにないが、四方に一本づつ、高い塔の様な物が伸びている。周囲を警戒する為の、いわゆる物見櫓である。

「神宮がこげな処に、砦を築いておったんですかの……」
「否。これは吾等の手で新たに築いた物。そして、砦という訳でもない」

 そのまま道を行くと、そこには大きな門があった。仮宮のそれよりも巨大な一方、飾り気は全くなく無骨な造りとなっている。
 周囲には鎧に身を固め、矛を手にした羅刹の兵達が護っていた。

「仮宮詰めの近衛殿、それに一揆衆の網元殿ですな」
「うむ」
「へ、へい……」
「ご苦労様です。開門!」

 来訪者の身元を確認した羅刹兵が命じ、閉ざされていた門が静かに開かれる。
 二人が門をくぐると、中には大きな天幕が何棟も建ち並んでおり、やはりそれぞれに羅刹の兵達が警護していた。

「塀はしっかりしとるっちゅうに、中に建っとるもんはでっかいけど、何っちゅうか……」

 塀の堅牢さ、そして警備の厳重さに比べ、建ち並ぶ天幕は大きいばかりで何とも頼りなく、慌てて用意した物の様に見える。

「塀についてはしばらく前に築いたのだが、倉代わりの天幕は急遽用意した物だ。よもやここまで足らなくなるとは思わなかったのでな」
「倉っちゅうと、中に何ぞしまっておるんですかの?」
「見るか?」

 首を傾げる網元を、白虎は天幕の一つに招き入れた。
 天幕の中には板が一面に敷かれており、その上には何本もの簀巻が横十列程で横たえられている。およそ、四百本程だろうか。
 そして簀巻の端からは、人間の足がのぞいている。

「こ、こりゃあ…… 屍でねえか……」

 網元は簀巻の中身が、既に自害に及んだ百姓達のなれの果てであると知り、思わず立ち尽くした。
 ここに並ぶ屍は咎人として、神属の贄に供される事となるのだろう。

(阿呆共が。生きておりゃ、ええ思いが出来たじゃろうに…… 神宮に散々に搾り取られた分を、龍神様が補って下さるっちゅうに…… そんなに、かわたもんと並ぶのが耐えられんかったんじゃろうか……)

「ある程度救えただけでも、それで良しとせねばなるまい。汝等が動かずに見捨てれば、この数倍の者がこうなっておった」

 沈痛な面持ちで立ち尽くす網元だったが、白虎に促されて天幕を出ると、外には提灯を持った齢三十程の女が待っていた。
 背中まで延ばした髪を後ろでまとめ、小袖を纏っている。手にした提灯には、蝶を表した紋が入っていた。
 神宮の治世で言えば衛士の女房といった装いで、簡素ではあるが民草のする様な格好ではない為、相応の立場であると思われた。
 侍女・女官であれば巫女姿、学者であれば白い天竺衣装を纏うのが常なので、そういった類の宮仕えとは違うのだろう。
 また天竺の民は肌が漆黒だが、この女は和国の民と思しき容貌である。神属が人間の姿に化身する場合は天竺の民を模するのが常なので、この女は恐らく、伊勢の民の内から登用された人間だろう。どこかで見覚えがある顔の様な気がするのは気のせいだろうか。
 一体何者であろうかと、網元は女の身元が気になった。

「お話は伺っております。本日はご苦労様でございました」
「い、いや、こちらこそ……」

 女の丁寧な挨拶に、網元は恐縮して頭を下げた。
 仮宮に出向いた時に侍女や羅刹兵と相対した時もそうだが、自分より上等な身なりで教養もありそうな相手から丁寧に応対される事に、彼も含めて一揆衆の面々の大方は未だに慣れていない。

「さて、吾は今一つ役目が残っておるのでな。この者をもてなしてやってくれ」
「承りました、近衛殿。網元殿、夕餉と宿を用意してございます。御案内しますので、どうぞこちらへ」

 網元は日を超えると共に、最後まで恭順を示さなかった者を捕縛しに向かうという白虎と分かれ、女に従ってその場を後にした。
 天幕が建ち並び、羅刹や乾闥婆といった神属の兵達が巡回する一帯を抜けると、大きな造りの屋敷が建ち並んでいた。村というよりは町の様な趣である。この地に駐屯する者達の為の住まいであろう。
 どの家も真新しく大きな造りで、神宮が栄華を誇っていた頃に護士が住んでいた武家屋敷に似ている。
 特に目を引くのは、屋根がいずれも瓦葺きな事だ。
 瓦は火災や雨漏りによく耐えるが、高価な物であり、武家屋敷であってもそれを用いるのは上級の者だけである。

(ここは砦じゃないっちゅうが、龍神様の肝いりで造ったんじゃろうなあ。流石に豪勢じゃのう……)

 龍神の権勢を知る網元は、目の前に広がる豊かさに目を見はった。
 ただ、いかにもな豊かさぶりに反し、どの家もひっそりと静まり返り、巡回の羅刹兵の他は全く通りに人影がないのが薄気味悪い。

「さあ、どうぞお上がり下さいませ」

 女は最も立派な屋敷の門前で立ち止まり、網元を招き入れた。
 門をくぐると、幾名もの女中が出迎えて来る。
 いずれも年の頃は三十前後で、使用人としては上等な服装。顔立ちが整った綺麗所揃いである。

「お方様、お帰りなさいませ。お客人、ようこそおいで下さいました」

 網元は女中に屋敷を案内され、ややこぢんまりとした客間に通された。

「これはまた、立派な……」

 床には畳が敷き詰められており、襖には提灯と同じ蝶の紋が描かれている。
 床の間に掛けられた、赤無地の幟を掲げた軍勢を描いた軸が、網元の気をひいた。

「赤い幟っちゅう事は、大昔の平家じゃな」

 清盛公が頼朝・義経の兄弟に情けをかけて助命したが為に、成長した彼等によって平家が滅ぼされたという源平の戦の顛末は、”逆らう者は赤子一人とて容赦せぬ”という方針の根拠として弗栗多が度々語る。
 一揆衆たる網元もよく心得ており、屋敷の主も知っていると思われるのだが、ならば何故この様な絵を飾るのか。

「また酔狂じゃが、戒めっちゅう事かいのう」

 窓の外には白州を基調とした庭がしつらえてあり、緋鯉の泳ぐ池の水面には満月が映っている。
 網元は出された茶を飲みつつ窓の外の景色を眺めながら、女の素性を考えていた。

(”お方様”っちゅう事は、武家の様じゃが。神宮の衛士の内に赦されたもんがおったとして、こんな贅沢な家で暮らす事は許されんじゃろう。やっぱり人間ではなく、夜叉様辺りが化身しとるんじゃろうか……)

 四半刻程経った頃。女中の手によって二つの食膳が運ばれて来て、次いで女が現れた。

「お待たせしました」

 網元と女が差し向かいに置かれた食膳に付くと、女中は一礼して客間を下がる。
 食膳に据えられた白磁の大皿には、一杯に盛られた白米の飯に黄身ががった汁がかけられており、香ばしく刺激的な匂いをあげている。
 箸ではなく木製の匙が添えられているので、これで食べるのだろう。

「さあ、どうぞお召し上がり下さい」

 女が勧めて来た物の、嗅いだ事のない異様な匂いに手をつけかねた網元は、まずはこれが何であるのか尋ねる事にした。

「こりゃあ、何っちゅうもんですかのう?」
「天竺で良く食べられている、咖哩と申します。この黄色い汁は、様々な薬味を混ぜ合わせて造られる物で、一種の薬膳です」
「薬膳っちゅうと、体にええっちゅう事ですかのう」
「ええ。神宮が百姓に造らせていた薬草は、効能が遥かに強い天竺由来の薬が出来る様になりましたので、薬としては使い途がなくなりました。ですが、咖哩の薬味の素材としても使えますので、以後はその為に造るという事です」

(儂の体を気遣って薬膳を出して下さったんじゃ。我慢して食わねばのう)

 女の答えに網元は意を決し、汁の掛けられた米飯を怖々と口にした。
 一口含むと、舌の上に心地良い辛みが広がって行く。

「こ、こりゃあ!」

 山葵や味噌とは全く異なる、初めて味わう辛みだ。白米のほのかな甘みと良く合い、一口、また一口と食が進んでいく。
 具材もよく煮込まれていて汁の味が染み渡っている。魚ではなく肉の様だ。雉か鴨だろうか。

「旨いですのう! 旨いですのう!」

 咖哩に舌鼓を打つ網元を満足そうに眺めつつ、女も自らの咖哩を味わった。
 大皿は程なく空になり、網元は満足そうに出された咖哩を称賛した。

「こんなええもん、初めて食いましたわい」
「近い内に当たり前に食べられる様になるという事ですので、ご期待下さい」
「白米を腹一杯食うだけでも贅沢だっちゅうに、咖哩とやらもですかいのう?」
「はい。それを贅沢ではなく日常にする事が、補陀洛の加護の一つなのです」

(こんなもんが普段から食えるなら、それだけでも浄土の様じゃ! くたばった百姓共は、こんなええ目を捨てよったんじゃのう……)

 網元は、龍神が民に与える恩恵の深さに心を振るわせた。
 民草の身分でも、これまで味わった事のない旨い物が、いつでも食える様になるというのだ。

「あの黄色い汁もええが、具に入っておった鳥も、良く味が染みこんでおったのう」
「いえ、あれは鳥ではありません。老いて働きの悪くなった牛を屠った物です」

 女の答えに網元は固まり、数秒の後に恐る恐る聞き返した。

「う、牛? 屠る? 家畜を食うのは御法度ですじゃろ?」

 和国に於いては、家畜はあくまで農耕や荷役に使用する物であり、肉を食する事は朝廷によって禁忌とされていた。
 獣肉食は命の尊さを弁えない蛮行というのである。

「いいえ。帝はそれを、偽善と仰っておられます。鳥や魚を食らうならば、獣も食らっても良いではありませんか。働けなくなった牛馬を寿命まで生かしておいては、餌の無駄という物です」

 女のいう”帝”とは和国の天皇ではなく、補陀洛の龍帝、つまり龍神の事だろう。確かに、今の伊勢は事実上、補陀洛の領地に等しいのだから、和国の朝廷が発した勅令に従う必要はない。
 実際、猪を”山鯨”と称したり、兔を鳥とみなして何羽と数えるのは、法に触れずに食う為の詭弁だ。それがまかり通っているのは、獣肉食を本心から禁忌と思っている者がほとんどいない証である。
 女の言う理屈は全く正しいと、網元は思った。皆がこれまで、目を背けて来ただけなのだ。

「それにしても、牛の様なでっかい畜生をよく捌けましたのう」

 獣肉食の禁忌が解けたからといっても、大型の獣である牛を解体して食肉にするとなると、中々に大変な筈である。
 漁師として鮪や鯨の解体を心得ている網元がその事を指摘すると、女からは意外な答えが返って来た。

「はい、手慣れておりますから」
「手慣れとるっちゅうと、お前様方はもしや……」
「お察しの通りです。私達はいわゆる”かわた”。牛馬の屍から皮を剥ぎ、鞣して細工にする事を生業としております」
「なる程のう……」

 賤民解放の勅令に従えと百姓達に説いて廻っていたばかりの網元は、女の素性を聞いても特に騒ぐ事はなかった。
 確かにかわたであれば、牛の解体は従来から手慣れているだろう。
 だが、かわたが武家と思しき上等の衣を纏い、豪勢な屋敷に住んでいるという事に、網元は驚いていた。貧しい平民よりも、かわたはさらに惨めな暮らしを送っているという印象があった為だ。
 過去の迫害を慰撫する為に龍神が多くの財物を賤民へ贈ったという事は聞いているので、豊かな暮らしぶりについては納得のしようがある。屋敷が真新しい事から、龍神の手配でかわたの為に建てられたのであろう事が伺えた。
 だが立ち居振る舞いについては、一月や二月で上品になる様な物ではない。急に豊かになった成り上がりは、むしろ銭にあかせて露骨に欲望を満たす様になりがちだ。
 賤民達は解放されるよりずっと以前から、武家の様な丁寧な振る舞いを身につけていたのではないか。

「お前様方、ただの”かわた”っちゅう訳でもないじゃろ。武家の女房の様な振る舞いなんぞ、衣装や屋敷を変えたところで、簡単には身につくもんじゃないからのう」
「源平の乱で破れた平家の隠れ里が、和国のあちこちにあるという伝承を御存知ありませんか?」
「まあ、話半分に聞いた事はあるがの。ここがそうじゃと?」

 源平の乱に破れた平家の落人が、僻地へ逃れて隠れ里を造ったという伝承は、和国のあちこちにある。網元を含め、多くの者は与太話の類だと思っていた。
 よもや、このかわた村がその一つと言うのだろうか。

「はい。その昔、伊勢のかわたは、逃げ延びてきた平家の落人を匿いました。革を材とする武具を、平家に納めていた事から縁があったのです。匿われる内、落人達とかわたはまぐわって子を為し、混ざり合いました。それが私達の祖になりました」
「それじゃあ、お前様方は、平家とかわたの間の子孫っちゅうことじゃな」
「はい。世の目を忍ぶ為、平家の血をひく事を隠し、表向きはあくまで賤民として振る舞っていたのです。ですが、侍としての矜持は心に秘め、武芸や作法、教養は密かに伝えておりました」

 女の話を聞く限り、平家の落人が伊勢のかわたに匿われたという事については、ある程度の信憑性がある様だと網元は考えた。
 あるいは、平家の末と称するのは騙りにしても、応仁の乱より続く戦国の世で、いずこかから流れてきた敗軍の落人という事もありえる。
 いずれにせよ、彼等が武家の血筋をひき、備えていた物を子々孫々まで密かに伝えていたというのであれば、彼等の有様についても合点がいく。

「侍は同じ人間を戦で殺める事が役目。なれば、かわたよりもさらに穢れている忌まわしき身分の筈なのに、民百姓の上に立つ物とされております。故に、殺生や屍に関わる事が穢れというのは、全く笑止千万でございましょう? 侍もかわたも、そして魚を殺める漁師も、紙一重の生業とは思いませんか?」

 女は士分、賤民、そして漁師の所行は等しく殺生であり、その間に貴賤の差はないと説く。これはまさしく、龍神の語る”皇道楽土””新しき世”の思想であった。



[37967] 6話「阿修羅の学師」その48
Name: トファナ水◆34222f8f ID:46137904
Date: 2016/01/04 12:29
「確かにそうじゃのう…… 侍もかわたも、漁師も同じ人じゃ。卑しむ方がどうかしておるんじゃ」
「言葉では何とでも言えます故、御身にて示して頂きたく存じます」

 女は立ち上がり、帯を解きはじめた。
 突然の事に唖然とする網元に構う事なく、一糸まとわぬ裸体となる。

「な、何じゃ?!」
「私達を穢れておらぬとおっしゃるならば、肉の交わりをもって示して下さいませ。私は後家。操を立てる夫は既に亡く、何の気兼ねも要りません」

 女は微笑んで誘うが、うすら寒い気配を感じた網元は、その場にへたり込んでしまう。

「かわた女は不浄と仰られるのですか?」
「わ、儂は逸物なんぞ勃たなくなって久しい爺じゃぞ?」
「そうでしたか。あの時は、私の体を貪り尽くしたというのに、随分と衰えたのですね」

 怯える網元に構わず、女は網元へと歩み寄る。
 その眼差しは冷たい光を放ち、口調は丁寧ながらも声の音は侮蔑の響きが含まれている。
 
「し、知らん…… 儂はお前様を抱いた事なんぞ……」

 女はへたり込んだままの網元の頭上をまたぎ、仁王立ちとなる。
 黒く茂った女陰が、網元の眼にくっきりと映った。

「まだ五十年程前の事ですのに、身に覚えがないと仰るのですか?」
「ご、五十年前……」

 女の詰問に、網元は言葉を詰まらせながら、若かりし頃の行いを思い出していた。
 採れた魚を村で干物や塩漬けにして、商人に売り渡す為、桑名の港へ出向いた際。
 色欲を満たす為、通りすがりの若いかわたの女を、仲間数人で取り囲み、船へと連れ込んで洋上で手込めにする事がしばしばあった。
 かわたであれば、周囲は見て見ぬ振りをし、衛士に訴えられても門前払いが関の山の為に狙い目だったのである。
 自分だけでなく、気が荒く血気盛んな漁師であれば大概の者が行っていた事だ。
 穢らわしいと蔑視する一方で肉欲の対象とする事からも、穢れなる概念のいい加減さが現れている。
 網元は、かつて犯した中で、特に印象に残っていた女を思い出した。
 歳が三十程、やや薹が立っていた人妻らしき女だ。
 鞣した革を荷車で運んでいたので、かわたである事は一目瞭然だったが、それにしては上等な身なりだったのが印象に残っている。
 後で聞いた話では、どうやら桑名近郊のかわた頭の女房という事で、身なりが良かった事にも納得したのだが……
 網元は、自分の顔をまたいで迫る女の顔が、それと瓜二つである事を思い出した。
 どこかで見た顔だと思ったのは、気のせいではなかったのである。

「お、お前様、あの時の……」
「ようやく思い出しましたか?」
「い、いや、確かに若い頃は散々悪さを働いたが、しかし、それは…… 五十年も前じゃ。お前様、何であの時のままなんじゃ?」

 年月を経たにも関わらず、女の容姿が全く変わっていないのは何故なのか。

「つい先日までは仰る通り、老醜を晒す身でした。ですが、私達は帝に不老長寿を賜り、この様に若返ったのです」
「あ…… あ……」

 疑問に対する答えは明快だった。龍神の力であれば、老女を若返らせる事も出来るであろう。
 確かにこの女は、若き日に手込めにした相手であると網元は確信した。

「儂は…… 儂は……」
「私は一日たりとて忘れた事はありませんでした。ようやく、相対する事が出来たのです」

 女は腰を下ろし、凍り付いたままの網元から袴を脱がし、褌を解く。
 皺だらけの股の付け根に生えた逸物は、男子としては大きめである物の、力なくしなびたままだ。
 
「私の胎を容赦なく貫いた強蔵が、何とみずぼらしくなったのでしょう」

 女は、かつて自分を害した物が用を為さなくなった有様を冷ややかに嘲る。
 それは、どの様な罵倒よりも網元の胸を抉った。
 欲望に任せて暴れた肉棒も、いまや役に立たぬ代物だ。一方、女が見せつけている女陰は、牡を迎え命を育む力をすっかり取り戻している。

「儂を…… どうしたいんじゃ……」
「先程も申しました通り、ここで男子として私とまぐわって頂ければ、それを和解の証と致しましょう。一方が他方を貪るのではなく、互いに快楽を与え分かち合う事こそが、補陀洛での諸族共和の源、皆が共に暮らす為に肝要であるのです」

 網元は下腹に力を込め様としたが、十年以上も交合に及んでいない男根は、眼前の女陰を求めようとせず縮んだままだった。

「だ、駄目じゃ…… 勃たん……」
「なれば、帝のお裁き通り、軽いとはいえど罰を受けて頂かねばなりません。それを以て、辱めに対する溜飲を下げる事と致しましょう」

 女が網元の不能を承知で和解の交合を持ちかけたのは、赦しの機会を形式的に与える事によって、網元に躊躇なく制裁を加える為の前置きである。
 争いを収める為の交合に応じられないのは、補陀洛の作法では侮辱に等しいのだ。

「い、一体、どうやって償うのかの?」

 賤民に対する暴虐の罪は、名乗り出る事によって全く赦された訳では無い。軽い罰で済ますと言われている以上、けじめとして罰を課される事については網元も覚悟していた。加えて、網元には統率者としての責もある。
 鞭打ちか、重くとも懲役か財の没収であろうと思っていたのだが、女の口から出たのは聞いた事のない罰の名であった。

「宮刑です」
「き、宮刑とは何じゃ?」
「睾丸を潰し、或いは切り落として胤を断つ事です。死罪に次ぐ罰として、明国では盛んに行われております。網元殿に対しては私が執り行う様、帝より勅使を通じて承りました」
「儂の金玉を、つ、潰すちゅうて、そげな恐ろしい事を!」

 男子の証を奪うという、とても軽いとは言えぬ罰に、網元は仰天した。
 確かに命には関わらないが、まぐわいも子を為す事も出来なくなってしまう。

「本来であれば、帝の詔に背けば死罪。それを、睾丸を潰すのみで償ったとして解き放つのですから、格別のお計らいでありましょう?」
「い、嫌じゃ、嫌じゃあ!」
「どうせ腎虚 ※不能 なのですから、睾丸があろうとなかろうと変わりません。さあ、潔くなさいませ!」

 腰が立たぬまま喚き散らす網元に構わず、女は再び立ち上がるが早いか、右足を振り上げ、踵で網元の陰嚢を勢いよく踏みつけた。
 胤を造る為の牡の器官が破壊される感触が、心地良く女に伝わる。
 股間に走る耐え難い激痛に、網元は声もなく口から泡を吹いて失神した。
 そのみじめな有様を見た女は、高らかに嗤って成し遂げた報復に満足するのだった。



[37967] 6話「阿修羅の学師」その49
Name: トファナ水◆34222f8f ID:46137904
Date: 2016/01/24 23:10
 日限まで四半刻となった頃の、仮宮・軍議の間。
 卓上に置かれた地図に記された農村には、その全てに彼等が選んだ運命を示す印が記されていた。
 新たに自害に及んだ村は刻限の三刻前以降は報告されておらず、また、最後まで態度を決めかねた村も皆無である。
 最終的に、農村の七割は謝罪と恭順を示した事が報告されると、室内の張り詰めた様子は一気に緩んだ。

「えかったやん。どん百姓共がみんなくたばりよったら、一年やそこらじゃ食いきれんとこやったで」

 英迪拉が漏らした軽口に、室内の侍女や武官からは同調の笑いが起こる。
 だが唯一人、厳しい顔のままの頭目を見て、雰囲気は再び引き締まった。

「確かに、民の悉くを始末せねばならぬという、最悪の結果だけは避けられた。だが、多くの民を善導出来ぬままに死なせたのは、全く口惜しい限りだ」

 法術による補助や家畜の導入を考慮すれば、三割の百姓が欠けても耕作には支障がない。
 労働力の損失という面では、伊勢の統治に与える影響は限定的である。
 また、賤民の解放という大方針に反し続ける様な者は、いずれ粛清する必要があった事も確かだ。
 だが頭目は当初、見せしめの首を晒しさえすれば大方は従うだろうと考えていた。よもや三割もの百姓が自害に及んでまで、賤民が自分達と対等に扱われる事を拒んだのは全くの見込み違いだった。

「無知蒙昧な民に広範な自治を認めた事が、愚行を見過ごす事につながってしまった……」

 伊勢の一揆衆は補陀洛の臣民ではなく、盟約による庇護の関係に留まる。その為、各村に対しては広範な自治、言い換えれば日々の生活に対する不干渉を保証しており、結果、悪習の矯正については後手にまわってしまっていた。

「これからは野放しにせんときっちり見張っとけば、阿呆共も従いますやろ」
「うむ。だが、賤民への狼藉が当然として育った者達の性根が改まるのは期待出来まい。あくまで抑えるに過ぎぬのだ。世を正すには禍根を断たねばならない」
「では、先に我等が門妹たる奥妲が願った通りに」

 頭目の発言を受け、部屋の隅で一門への伝令役として控えていた一人の学徒が、その意向を確認する。
 頭目は重々しく頷いて勅意を示した。

「うむ。遣わした将兵には、既に命じてある。恭順を誓った者とて、此度の咎に問われた者が児を産み育てる事は、以後あいならぬ」

 先日に奥妲が頭目へ願ったのは、伊勢の民に対し、勅令に背いて賤民への虐待を続けた罪を問い、罰として宮刑に処する事であった。
 補陀洛の神属は、産まれてすぐに実親から引き離され、一門の手によって養育される。 伊勢に於いては神属のみならず人間に対しても同様の制度を適用するのが、弗栗多、そしてその背後にある計都の統治方針である。
 神属に多く生まれる畸形の赤児を排し、また親から子へ悪習が伝わるのを防ぐと共に、世襲ではなく個々の才覚に相応しい教育を施して有能かつ忠実な臣民とする為だ。賤民の階層を完全に廃止する為にも必須であり、一門、特に自らも賤民の出身である学徒達はその早期施行を強く望んでいた。
 一揆衆と盟約を結ぶ際、齢八歳に満たない童を贄の名目で差し出させる事によって、現在の世代と断絶する処置は既に取られている。
 次の課題は、今後に伊勢の民が産み落とす赤児についても、引き続き親元から引きはがす旨を制度として定める事である。
 しかし、当然ながら民衆の反発が予測されており、頭目もその施行には躊躇していた。
 だが、勅令にも関わらず賤民への蔑視・虐待が続いている事を聞きつけた奥妲は業を煮やし、伊勢の民を悉く宮刑に処す事で、新たな子が産まれない様にすべきであると迫り、頭目もそれを是とした。刑罰としての断種なら大義名分が充分立つし、次代を担わせる為に必要な赤子は他州から購う経路もある。
 六名もの庄屋を斬首に処した上での一揆衆に対する強硬な最後通告は、本来であれば勅令に背いたとして死罪に処すべきを、自ら名乗り出れば罪を減じて宮刑とするという事で民衆に受け容れさせる為でもあったのだ。

「造反、或いは逃散を企てた末に捕縛された者共については、和修吉師の御試し御用 ※実験台 として存分に活用して頂こう」
「承知しました。後は、自害に及んだ屍の処置ですが」
「差し当たり集めておく様には命じた物の、どうすべきであろうか」

 頭目は深く溜息をついた。
 腐敗が進まぬ様に法術で処置はした物の、自害した民は余りに多過ぎ、糧食に充てるだけでは消費出来ない。
 重罪犯の骸を弔うという発想は、頭目を含めてこの場の者にとって論外だが、ただ廃棄するには惜しい資源だ。
 あえて言えば、命を無駄にしない様に活用する事こそが、せめてもの弔いである。

「ならば、一門として案がございます」

 学徒が屍の利用について一つの案を示すと、室内の者全てが称賛の声を挙げた。

「おお!」
「それはええやん!」

 頭目も満足そうに頷き、学徒に同意を与える。

「今の案を是とする。計都師にも左様にお伝えせよ」
「畏まりました。既に支度を調えてございます」
「相変わらず手際がええこっちゃで」

 英迪拉の苦笑にも、学徒は微笑んで応じた。
 一門の独断専行は今に始まった事ではない。弗栗多も頭目も、導師たる計都の意向に正面から異を唱える事はまずないからだ。
 形式的な報告と確認を行った学徒は恭しく合掌し、計都に勅意が下った旨を伝える為に控えの間へと急いだ。


*  *  *


 宮刑の激痛に悶絶した網元が目覚めると、通された客間だった。
 寝間着に着替えさせられ、布団に寝かされていた様だ。
 外は既に明るく、日が高く昇っている。

「そうじゃ、わ、儂の金玉は!」

 股間に触れてみると、睾丸の手触りがない。
 空になった陰嚢も垂れ下がる事なく縮みきり、衰えて久しい男根だけがしなびたまま生えているのがわかる。
 股間に痛みは全く無いので、気を失った後に、法術の類で手当を施されたのであろう事が察せられた。

(やっぱり、潰されてしもうたんじゃのう……)

 睾丸を潰された事への喪失感、過去の悪行を責められた事への痛みが、網元を苛む。
 網元が床から起き上がった処で襖が開き、巫女装束を纏った漆黒の肌の若い女が入って来た。

「目が覚めた様だな。迎えに来てやったぞ」

 姿形は異なるが、昨晩に自分を乗せて走った白虎が人間に化身した姿である事は、声で網元にもわかる。

「白虎様ですだか……」
「間に合った村は全て、前非を悔い罰を受けると誓った。昨日の労苦は報われたぞ」
「そりゃあ良かったけども…… 儂は何とも情けない事になっちまちまいましてのう……」

 網元はやるせない口調で昨晩の出来事を語ったが、聞き終えた白虎は静かに告げる。

「それだけの事をしたのだと知るが良い」
「へい……」
「それに以後、咎人として扱われる事はない。罰を与えたのは、遺恨を残さぬ為でもあるのだ」
「わかっとります……」

 低く落ち着いた白虎の声に、網元は自分達の罪深さを却って思い知らされた。
 白虎もまた女性であり、手込めを働いた網元への女の憤りに共感していてもおかしくはないのである。

「それに悪い事ばかりではない」
「へ?」

 首を傾げる網元に、白虎は窓の障子を開けて外の庭を示す。
 
「水面を見よ」

 言われるままに網元が庭の池を見ると、そこには齢三十程の壮年の男が映っていた。

「わ、儂?」
「御夫君様は、一揆衆に属する民悉くに不老を与えよと仰せられた。寿命はそのままだが、もはや老いる事は無い」

 若返った己の姿に戸惑う網元は額をなでる。深い皺が刻まれていた筈の肌は、みずみずしく滑らかだった。

「お、おおお……」

 咎人に与えられる筈がないであろう処遇に、自らが罪を償い終え赦しを得たのだと実感した網元は、思わず声を挙げてうち震える。
 その眼からは涙がこぼれ落ちていた。



[37967] 6話「阿修羅の学師」その50
Name: トファナ水◆34222f8f ID:46137904
Date: 2016/02/08 21:04
 長老格の網元が、平家の末裔たる元賤民の屋敷で目覚めた頃。
 彼の村では、血判状を取りまとめて桑名へ向かった物の、一夜明けても帰らぬままの網元を心配する漁師達が、浜辺に集まっていた。
 咎を認める日限はとうに過ぎ、日が昇っているのだが、龍神からは未だ何の音沙汰もないままである。

「赦して頂けなんだのじゃろうか」
「俺等、鬼侍様に討伐されちまうんか?」

 口々に不安を漏らす漁師達は、出漁もせずに網元の帰りを待ちわびている。

「おい、桑名の方から車が来おったぞ!」

 一人の漁師が、桑名の方角へ続く道から、荷車が村へ向かって来るのに気付いて叫ぶ。
 漁獲を内陸に運び出す為の荷車は、毎日の様に漁村を訪れる為にさして珍しくはない。だが、この時向かって来た荷車は、異様を放っていた。
 その数は六台。しかもそれを牽いているのは馬や牛ではなく、あろう事か骸骨だ。
 骸骨の牽く車列は、馬にも劣らぬ速さで村へと近付いて来る。沙汰を告げに来た、龍神の遣いである事は誰の目にも明らかだった。

「き、来やがった……」

 普段使っている馬ではなく、わざわざ神通力で動かしているのであろう骸骨に車を牽かせている。あたかも罪人の魂を奈落へと引き込む為の車であるかの様だ。
 この様な遣いの告げる内容が寛大である筈がない、きっと重い罰を下しに来るのであろうと漁師の誰もが思った。
 
「俺達を捕らえに来たんでねえか?」
「いっそ、駄目元で闘うべ!」

 破れかぶれの反抗を主張する者もいたが、年配の漁師が一喝する。

「滅多な事を言うもんじゃねえ! ええか、絶対に無礼があっちゃなんねえぞ!」

 龍神の兵に只の人間がかなう筈もないのは、一揆衆たる漁師ならば誰でも知っている事だ。無駄な抵抗をすれば、せめて斬首で楽に死ねる処を、苦しみ抜いた末のなぶり殺しになりかねない。
 車列は漁師の集まる浜辺へと達して停まり、牽いていた骸骨はそのまま身動き一つしなくなった。
 車はその殆どが屈強かつ簡素な造りの荷車で、普段から荷役に使われている物と大差ない。
 先頭の一台のみ乗用で、黒塗りの車体に金箔で補陀洛皇家の紋章が描かれている。
 何を意味するか、それを見た内の何名かは即座に理解した。
 ここに来たのは一介の兵ではなく、龍神の代参たる勅使という事である。龍神自らが足を運んだ物として遇さねばならない。

「龍神様の紋じゃ! 皆、頭を下げえ!」

 年配の漁師の声に慌てて皆が平伏する中、車中から骸骨の介添えを受け、白い紗麗を身に纏い漆黒の肌をした二人の女が姿を現した。
 一人は三十路程に見える女。毒蛇の様な鋭い牙を唇から覗かせ、額にも瞳を持つ三つ眼、そして腰から下は蛇身という異形である。今一人は童女といっても差し支えない年頃の娘で、肌の色を除けばさして和国の民と変わらない。
 和修吉(ヴァースキ)、そして奥妲(アウダ)である。

「出迎え、誠に大義である。面を上げよ」

 平伏から直った漁師達は和修吉の姿を見ると、その恐ろしげな容姿に打ちのめされた。
 筋骨隆々とした水軍の羅刹兵ならば彼等も見慣れているが、それとは全く異なる妖艶な禍々しさを放っている。

「我は和修吉。補陀洛皇家に連なる那伽(ナーガ)、即ち龍にして、学問を司る一門に籍を置く学師である。こちらは一門の元で学ぶ学徒の奥妲。本日は那伽摩訶羅闍(ナーガマハラジャ)の代参たる勅使として、沙汰を申し渡しに参った」

 和修吉は名乗りの口上に続き、怯える漁民達へ裁きを宣告する。

「汝等、賤民解放の勅令に反する事甚だしく。本来であれば村落もろともに滅するべき処である。なれど、前非を悔いる旨の血判を差し出した故、慈悲により罪を減じ、宮刑に処する物也。刑に服した後は放免し、日々の営みに戻る事を許す。左様、格別の計らいと心得よ」

 とりあえず、日限までに申し出たかいがあって命は助かった事に、漁師達は胸をなで下ろした。
 だが、宮刑とは一体何なのだろうかと一同は首をひねる。

「宮刑って、何じゃあ?」
「百叩きの様なもんかのう?」
「男子は睾丸を潰す。女子は子袋と真子 ※卵巣 を腹から引きずり出して玉門 ※膣口 を塞ぐという刑です」

 奥妲が宮刑の事を説明すると、漁民達からは悲鳴が挙がった。

「じょ、冗談じゃねえ!」
「金玉がなくなったら、男じゃなくなちまっちまう!」
「睾丸の代わりに首が良いなら、その様に致しましょう」

 奥妲が言い放つと、漁師達は己の立場を思い起こして、命があるだけでも儲け物ではないかと再び静まりかける。
 だが、一人の壮年の女が勇気を奮って懇願の叫びをあげた。

「わ、儂等はともかく、童達は御勘弁を! 童達には何の罪もねえです!」

 女の願いに、奥妲は顔を変えぬまま内心で冷笑するが、和修吉は重々しく頷いた。

「和国の武家の風習では、齢十六で元服であったな。準用する故、それに満たぬ童は男女を問わず前に出よ」

 和修吉に命じられるまま、三十名程の童が恐る恐る不安げに、群衆の中から進み出て来た。
 和修吉は彼等に、衣を脱いで裸身を晒し、縦一列になって奥妲の前に並ぶ様に命じた。
 漁村に於いては裸同然で働く事も日常的に行われる為、童達は大して恥じらいを感じずに応じる。

「これより検分を行います。否と評された者は成年と同じ処遇としますから、衣を着て親の元へ戻る様に。可と評された者は残りなさい」

 奥妲は一糸まとわぬ童達を一人ずつ、男子は睾丸を軽く握り、女子には女陰に指を軽く差し入れて検分していく。

「可、可、否、可、否、否……」

 奥妲に”否”とされた童はほっとした表情で再び衣を纏い、親の元へと駆け寄って戻る。
 少なくとも、命まで奪われる事は無い。睾丸や子袋を差し出せばそれで済むのだ。
 一方”可”とされた童達は、他の者よりもきつい罰を与えられるのではないかと顔をひきつらせている。
 検分を終えた後、可とされた二十名の童達に和修吉は微笑んで運命の選択を示した。

「さて、お前等には選ばせてやろう。父母を捨て村を去り、我が一門の元に来れば宮刑を免じる。読み書きや算術も教えてやろう。意思が有れば、武芸や学問、芸事等も才覚に応じて伝授する。那伽摩訶羅闍の造る新しき世では、身分は世襲にあらずして一代限りなのだ。仕官して刹帝利(クシャトリヤ)、和国で言う侍となるのも夢ではないぞ?」

 咎人の子とは思えない厚遇の申し入れであったが、童達は反発した。

「おっ父、おっ母と暮らせるんなら、金玉なんぞいらん!」
「嫌じゃ! 侍なんぞならんでええ!」
「村で漁して暮らして何が悪いんじゃ!」

 幼い彼等にとって、将来の栄達を示されてもその価値が解ろう筈もない。父母と引き離されたくない一心だったのである。

「あえて罰を受け、終わり行く旧き世の末席に留まり、せいぜい八十年程のはかない命を全うしたいというなら、それもまた良いでしょう」

 和修吉の誘いを拒む童達に、奥妲は唇を歪めて嗤う。
 だが童達は、奥妲から向けられた強烈な害意にも怯まず、悪態をついて挑発し始めた。

「そんな目えしても怖かねえぞ!」
「さっさとやってみろってんだ! この黒ん坊女に蛇の三つ目!」
 
 奥妲は内心が沸騰している物の、挑発に乗る事なく嗤いを顔に貼り付けたまま童達を鋭くにらみ付けている。
 和修吉は、童達の様子に戸惑っている漁師達に視線を向け、困り顔で対応を暗喩した。
 和修吉の意向を察した一人の壮年の漁師が頷いてそれに応じ、童達の中にいた倅、最初に声を挙げた男児の頬を張り飛ばした。
 
「ええ加減にせえ!」
「おっ父、何するだあ!」
「龍神様のお遣いに、は、刃向かう様な阿呆は、か、勘当じゃ! もう、手前なんぞうちの倅じゃねえ!」

 突然の殴打に頬を抑えて抗議する男児から父は顔を背け、肩を震わせながら絶縁を言い放つ。
 それを見た他の漁師達も、追従して次々に我が子との決別を宣言した。

「丁度ええ口減らしじゃあ! 連れていって下され!」
「う、うちに童なんぞいらん!」

 童達は、親から突然に勘当を宣告された事に呆然と立ち尽くす。

「と、父ちゃん……」
「何で……」

 和修吉はすかさず指を鳴らして金縛りをかけ、童達が再び騒ぎ出す前に拘束した。
 童達はその場で像の様に固まってしまう。

「龍牙兵共。この童共を車に積み込んでおきたまえ」

 車の側で身じろぎ一つせずに控えていた骸骨は和修吉に命じられ、硬直して動けない童達を次々と抱えて荷車へと運び込んで行く。
 漁師達は涙を堪えながらその様子を見守っていたが、奥妲はそれを冷ややかな目で眺めていた。

(己が身可愛さに子を見限ったというのに、この愚民共は何故泣くか。全く笑止な……)

「その…… どうやって童をより分けたんですだか?」

 先程、童への慈悲を懇願した女が、涙ぐみながらも疑問を口にした。
 ちなみに彼女の童は二人いたが、いずれも”可”とされており、宮刑は免れた物のこれが別れとなる。
 ”可”とされた童の多くは陰毛が生えておらず、女子の場合は胸の膨らみも乏しい。年齢もおよそ年少に偏っている事は、漁師達にも察せられた。
 だがそれが絶対という訳では無く、齢十五で陰毛が生えていながらも”可”とされたり、逆に無毛で齢八歳でありながら”否”とされた者もいた。
 性格も、手の付けられない悪童から孝行者まで可否双方に混ざっていた為、何をもってより分けたのかが解らなかったのである。

「男子は男根より胤が漏れ出る前、女子は初潮を迎える前の者です。一門で学びを授ける前に”還元”という術式を施すのですが、子を為せる様になった身には効きにくいのです」

 先日、荘園とした村の民の悉くを咎人として罰した際、齢十六に満たない童については一律に”還元”の御試し御用 ※実験台 とした。
 その結果、幼少であっても性が機能し始めた者は還元に絶えきれず、畸形と化して死に至る事が判明したのである。
 和修吉としては慈悲を兼ねたつもりだったのだが、思わぬ結果となった。勿論、あくまで咎人に対する罰なのだから、彼女に後悔は微塵もない。

「連れて行くか残すかに、罪の軽い重いは関わりねえという訳ですだか?」
「その通りです」

 可否を分けたのは公正な裁きではなく、あくまで龍神側の都合に合う者を選んだのだ。
 奥妲の説明に、問いを発した女は苦い思いにとらわれる。 
 我が子を奪われて気落ちする漁師達に和修吉は、先に贄として連れ去った幼少の童の現況を語る事にした。

「さて、一つ良い事を教えてやろう。盟約の際にお前等が贄として差し出した、齢八歳までの童。我等はあれを、食わぬ事としたのだ」
「本当ですかい!」

 思わぬ吉報に沸き立つ漁師達だが、和修吉の次なる一言は彼等を落胆させる物だった。

「今連れて行く事とした童、そして他州より買い集めている赤子と共に、新たなる世に相応しくなる様、我等一門の手で養育する」
「……結局、返してはもらえんのですかいのう……」
「それこそが伊勢の民に対する報いです。皆様方が育てたら、読み書きもままならない無知蒙昧として終わってしまいます。それに、賤民を蔑む愚かな因習も引き継いでしまうではありませんか」

 漁師から漏れる嘆きに、奥妲は冷たく告げる。その蔑みのこもった声に彼等は鼻白み、絶句して立ち尽くした。
 そこへ、一人の壮年の男がひょっこりと現れた。

「おお、皆の衆。心配をかけたのう。先生様にお供の方も、御苦労様でございます」

 男の挨拶に、和修吉と奥妲も合掌で応える。
 一方で漁師達は余所者の来訪を訝しむが、老齢の者達は彼の容貌に見覚えがある事を思い出した。

「あんた、もしかして網元か? えらく若返ったもんだが、土産代わりに神通力でもかけてもろうたんか?」
「よう解ったのう。その通りじゃよ」

 網元は、昨日の顛末を漁師達に話す。
 多くの農村が日限を待たずに悲観して自害に及んだ事、それを止める為に網元達は手分けして説得に向かった事。
 賤民は龍神の手によって築かれた、砦の様な村に移り住み、羅刹兵によって護られている事。
 そして、伊勢の賤民は平家の落人の末であり、龍神の臣として、父祖の頃の暮らしに戻っている事。
 いずれも普段なら漁師達を驚かせるに充分な内容だったが、彼等にはそんな事より差し迫った一大事がある。

「網元! 儂等、宮刑っちゅうて、金玉や子袋を取られちまうだよ!」
「おう、これか!」

 網元は袴を脱ぎ、褌を解いて股間を晒す。
 しなびた逸物を持ち上げると、睾丸を失ってすっかり縮んだ陰嚢が漁師達の目に入った。

「金玉なんぞ邪魔っけなだけじゃぞ! ちいと痛いが、これまでの落とし前がそれでつくなら充分じゃ! それにな、皆の衆も儂の様に若返らせて頂けるんじゃぞ!」

 軽い調子で話す網元に、漁師達にも宮刑を受け容れる雰囲気が広がって行く。
 済んでしまえば終わりというなら、むやみに怖れる事はないのだろう。しかも、若返りという見返りもあるのだ。

「若返りと引き替えなら、それもええかのう……」
「んだなや。よぼよぼの爺婆のままより、そっちの方が有難えだよ」

 老人は言うまでもなく、衰えが見え始めた四十過ぎの者達からも、次々に歓迎の声が出始めた。
 だが、若い男達からは不安が出る。

「網元さんよ、俺等の様な若いもんはどうなるんじゃ。童にされちまうんか?」
「童にはなりゃせんが、死ぬまで歳を取らん様になるんじゃと」

 網元の答えに、若い女からも歓声が挙がった。いつまでも若くありたいのは、女の性という物である。

「けどもよう…… 儂等、童を連れて行かれて、胤を断たれて赤子を授かれん様にもなって、これからどうすればええんじゃ……」

 なおも不安を漏らす者がいたが、網元は明るい声でそれを打ち消した。

「老いん様になるんじゃ! 倅に養われんでも、寿命が来るまで元気に働けるんじゃぞ!」
「その通りです。逆に、養う口がいなくなるのですから、働いて稼いだ分は皆、自分で使えるのですよ?」
「酒でも、着物でも、好きな物を購える様になるのだ。もっと喜びたまえよ」

 網元に続く奥妲と和修吉の甘い言葉に、若い男達も思わず手を打つ。

「そう言えば、そうじゃのう!」
「童を養わなんでええなら、その分呑めるんじゃ!」

 ”どの道逆らえぬのだから、物事は良い方に考えるべきである”との逃避が、この場を支配していった。

「皆、納得出来た様で大いに結構である」

 全ての者が宮刑に恐れを抱く様子を見せなくなった事に、和修吉は満足そうに頷く。そして耳飾りの一つを外して放り投げ、封じられていた天幕を張った。

「一人ずつ入って来たまえ。皆の覚悟に免じて、痛みの無い様に施術してやろう」

 和修吉と奥妲が天幕の内へと入っていった後、漁師達は誰から行った物かと戸惑った。
 若返りも伴うとはいえ、いざ胤を断たれるとなると躊躇する物である。

「お前、どうじゃ」
「いや、あんたこそどうじゃ」

 皆が尻込みする中、網元と歳の近い老婆が意を決した。

「儂からじゃ!」

 老婆が天幕に飛び込んで、軽く茶を飲む程の時が経った後。中からは齢十七、八程の器量好しの娘が現れた。老婆は若かりし頃の姿を取り戻したのだ。

「ば、婆様! 大丈夫かの?」

 心配する漁師達に、先程まで老婆であった娘は胸を張る。

「おお、見てみい! おそその穴はなくなっちまっただが、若い娘っ子に戻れたんじゃ!」

 それを見た漁師達は一転して我先に天幕へ入ろうとし、網元の一喝によって歳の順に宮刑を受ける事となった。
 全ての漁師達が宮刑を終えた頃には、既に昼下がりとなっていた。
 今や全てが若人となった漁師達は、天幕を片付けて車へと乗り込む二人を満足げに見送る。その頭からは、胤を断たれた事や、童を連れ去られる事への嘆きは一切消え失せていた。


  



[37967] 6話「阿修羅の学師」その51
Name: トファナ水◆34222f8f ID:46137904
Date: 2016/02/21 19:43
 和修吉や奥妲だけでなく、一門の内で高度な医術を心得た学師・学徒の多くが、咎人とされた民に断種と若返りを施術する為に駆り出されていた。
 若返りという”飴”を用意した事もあり反抗する者は出ていない物の、対象全ての施術を終えるのはおよそ二十日を下らないとの見込みである。
 逃散や元賤民への襲撃を試みた村については、先の例に倣って直轄の荘園とされた。その住民は精神を拘束する新式の法術の被験体を兼ね、元は自分達の物であった田畑を懲役として耕すのだ。ただ命じられるままに粉骨砕身して働いた末に、およそ二十年の後は法術の反動で廃人と化すのが彼等に待ち受ける末路である。
 だが心を縛られる故に、当人は不平や苦痛を感じる事はない。
 懲役の内容も元々従事していた農作業であり、重罪犯に与える罰としてはやや寛大と周囲には受け取られた。他州では、鉱山での採掘や大型船の漕ぎ手といった苦役を課すのが通常で、大半は五年と持たずに力尽きて息絶える。
 その裁定を聞いた学徒の一部には、逆らった者への罰が生ぬるいと不満を漏らす者もいた。学徒達の中でも奥妲に歳が近い、若手というよりは童女と言っても差し支えない者達が主体である。若衆の処遇を伝えた先の会合で、異議を唱えた奥妲に同調したのもほぼ同じ面々だ。
 同年代では突出して技量が高い奥妲のみが、本人の要望もあって年長の者に混ざり施術に従事していたのだが、対象の余りの多さに術者が不足した為、一門の中でも幼少の彼女達も動員する事となり、伊勢本土へと渡る様に命が下った。
 術者としては半人前にも満たない幼少の学徒についても補助として使わざるを得ないのが、伊勢統治の現状である。
 答志島の軍港で、本土へと向かう水軍の戎克(ジャンク)を待つ間にも、幼き学徒達の口をついて出るのは裁定に対する憤りばかりであった。

「那伽摩訶羅闍にまつろわぬ者は生かすに値せず! 鏖殺が定めであるのに、何故、即刻に首を刎ねぬのか!」
「いや、責め苦と癒しを繰り返し、寿命が尽きるまで生かさず殺さず弄ぶべき!」

 賢しき童女達は、幼い容姿に全くそぐわない口調で、憎悪を吐き出しあっていた。
 彼女達の脳裏に浮かぶのは、本国の貧民窟で幼い自分達の肉体を欲望のままに犯した、吠舍(ヴァイシャ) ※平民 のおぞましい形相である。和国の百姓もその同類と彼女達は受け止めていた。
 ”何度も慈悲を踏みにじった極めつけの愚者を何故屠ってしまわぬのだろうか”との思いが、学徒達の心に禍々しく渦巻いている。

「皆様、ご苦労様ですわね」

 夢中になって悪態をまき散らしていた学徒達が振り向くと、そこには計都がいた。
 全員、慌てて姿勢を正して合掌する。

「お話は聞かせて頂きましたわ。皆様、とても優しいのですわね」

 漏らした不満を叱咤されるかとばかり思った学徒達は、いつもの穏やかな調子で計都が放った一言に唖然とした。

「導師、私達はあ奴等に厳しい罰を望んでいるのですが……」
「だからこそですわ」
「え?」
「皆様はあれ等を、まだ”人”として扱っていますもの。怒りも哀しみも、相手が”人”であると思えばこそ生じる情ですわよ」

 童女達は、事も無げに非情な言葉を語る計都に衝撃を受ける。
 伊勢の統治に際しては、重罪犯は民として扱わずに獣とみなす旨が定められている。牛馬同様に”家畜”として使役され、あるいは贄として食される為にのみ存在を許されるのだ。
 家畜は生きた道具だ。それに憤りを感じ、報復を与えても詮無き事である。
 屠畜して贄とするも良いが、農耕の為に使役するのもまた、家畜の使い途としては通常の事だ。自害した者が続出した事で贄は有り余っているのだから、急いで潰す必要はない。
 
「牛馬に鞭をふるうのは苦しませる為でなく、よく働かせる為ですわ。出来ればそれをせずに済ませば、傷を付けずにより長く使えるでしょう?」

 冷徹な心得を微笑んで説く計都に、学徒達は目を輝かせて頷くのだった。


*  *  *


 自害によって果てた百姓達の骸の現状だが、伊勢各地に設けられた砦の如き村々、通称”平郷”の敷地に、巨大な天幕を張って仮置きされている。
 平郷はその護りの堅さから、急遽、集団自害によって発生した大量の屍を臨時に保管する場所に充てられたのだ。
 特に先日、長老格の網元が赴いた処は伊勢に十数ヶ所ある平郷の内でも別格で、平家の末裔達の内、ある目的に任じられた寡婦が主に住んでおり、伊勢の平家全体を束ねる主家の別邸も置かれている。
 当代の当主は、先代の後家である”お方様”こと、平時子。賤民としての名は”とき”と称していた。
 亡き先代は郎党筋からの婿の為、平家の血統は妻である時子の方が濃く、かつての平一党の首魁・清盛公の妻の名を受け継いでいる程の立場である。
 賤民の境遇にあっても雅を嗜む事を忘れなかった淑女だが、先日には手ずから網元を宮刑に処した様に、武家を束ねる烈女の一面も見せる。
 伊勢中が宮刑の執行で慌ただしい中、時子の別邸を、頭目の勅使として阿修羅(アスラ)の女官が訪れていた。

「帝(みかど)が私共をお召しに?」
「はい。平家に連なる皆様方の帰参に際し、三百五十余年もの長きに渡る御労苦を是非とも直にねぎらいたいとの仰せにございます。主立った方々と御参内頂きます様、御願い申し上げます」

 勅使の阿修羅は自らも皇族の一員であるにも関わらず、人間、しかも先日まで賤民とされていた相手に敬意をもって主君の意を伝えていた。
 時子の側も、勅使の言葉を噛みしめ、重く受け止める。
 主君から召されての参内が叶うというのは、賤民の身に甘んじていた彼等にとって特別の意味を持つ。
 穢らわしいとされていた自分達が宮中へと上がる事で、名実共に士分へと戻った事が示されるのだ。

「全く有難き幸せ。どんなに待ち望んだ事でしょう……」
「ただ、それに際し…… 今一つ御願いしたき事がございます」

 勅使は言いにくそうに続く用件を切り出し、それを聞いた時子も怪訝な顔をした。

「帝がその様な事を?」
「いえ、導師計都の意による物でございます。導師は時折、奇矯な事を仰る事がございまして……」

 勅使の口調からは、彼女が皇道楽土の思想には共鳴しつつも、計都の専横を快く思っていない様子がうかがえる。
 また時子も、計都が主君に対しても、教えを垂れた師としての立場で強い影響力を与え続けている事は承知していた。
 だが、そもそも計都が和国親征を企てなければ、平家の復権もなかったのだ。いわば平家は、計都から大恩を受けているのである。

「導師が帝を御導き下さったからこそ、賤民に甘んじていた私達の帰参が叶ったのです。お話の件ですが、喜んでお受けする旨、宜しくお伝え下さいませ」
「よ、宜しいのでしょうか?」

 難色を示されるとばかり思っていた勅使は、時子の快諾に驚く。

「平家は元来、武士(もののふ)なのです。その程度の事で怯みましょうか? いえ、これこそが一興という物でありましょう」

 時子は勅使に、武家の当主に相応しい不敵な笑みを見せた。


*  *  *


 時子の承諾により参内の支度は進められ、勅使の訪問から三日後の夜に桑名へと向かう事と決まった。
 出立の日の夕刻頃。迎えの車が列をなし、時子達の住まう平郷へと訪れた。
 古の風習にならって歯を黒く染め上げ、仕舞い込まれていた父祖の代より伝わる豪奢な十二単衣を纏って身支度を調えていた平家の女達だが、車を見るなりその多くが顔を引きつらせた。
 神宮より接収した貴人の為の牛車なのだが、牽いていたのは牛馬ではなく、大柄な骸骨…… 龍牙兵だったのである。

「お、お方様! これは一体!」

 牛ではなく骸骨が牽いている事に、武家の女の矜持として悲鳴こそ挙げない物の、一門の女達は震え上がる。
 顔をこわばらせた女達に、骸骨がどの様な物か勅使から事前に聞かされていた時子は、笑いながら落ち着く様に促した。

「これは人の骸ではありません。抜け落ちた龍の牙に術を掛けると、この様な姿となるという事です。龍牙兵と称し、足軽や従僕の代わりに使役するのだとか」
「そ、そうなのですか?」
「これの使役が許されるのは、天竺の皇(すめら)一族たる龍と阿修羅の方々、そして帝のみとの事。ですから、これを迎えに遣わされたのは、とても誉れな事なのです」

 ”自分達の目には怪奇に映ろうとも、帝の育った天竺では当然の事なのだ”と、女達は時子の説明に納得する他なかった。
 羅刹の兵が郷の警護に就く様になって暫く経つが、共に暮らす内、恐ろしさは既に感じなくなっていた。龍牙兵とやらにも、程なく慣れて行くのだろう。
 女達が落ち着きを取り戻した頃、先頭の車から普蘭(プーラン)が降り立った。
 この平郷の女達に不老長寿の術を施したのは彼女であり、皆とは既に顔なじみである。
 迎えの車列は彼女一人で操っていた。今回の始末の為の動員によって、伊勢中で神属の手が足りないのだ。通常なら近衛の白虎が車を牽くべき処だが、龍牙兵を使役しているのもその為である。

「これは普蘭殿、御苦労様です」
「しばらくぶりです。早速ですが、あれに術を施したいのですよ」

 時子達は一斉に礼をして出迎える。だが普蘭は挨拶もそこそこに、屋敷を警護している羅刹兵に案内させ、屍を収容している天幕の一つに入った。
 中に入ると、簀巻を解かれた屍が白い死装束を着、包まれていた筵の上で仰向けに横たえられていた。その数は二百体、十代から四十代半ばの女で占められている。
 瞼が開き、虚ろな瞳を天井に向けて並ぶ屍の顔に、普蘭は一体ずつ、漢字で書かれた呪符を貼り付けていく。
 全ての屍に呪符を貼り終えた普蘭が両手を打つと、死した女達は一斉に起き上がった。



[37967] 6話「阿修羅の学師」その52
Name: トファナ水◆34222f8f ID:46137904
Date: 2016/02/28 23:40
 天幕に入って四半刻程経った後、屍の群れを引き連れて出て来た普蘭に、平家の女達は仰天した。
 どの屍も顔に呪符を貼り付けられ、歩くのではなく一斉に足首を使って跳躍して進んでいる。また、一様に両腕を前に真っ直ぐに伸ばしていた。

「ぷ、普蘭殿、これは如何なる術なのでしょう?」
「咎への報いとはいえ、何とも面妖な……」

 賤民として埋葬を司る隠亡(おんぼう)の役も課せられていた為、女達には屍その物には全く抵抗感がない。まして、これまで自分達を迫害して来た者達のなれの果てに、憐憫の情などあろう筈もない。
 だが流石に、屍が列をなして一糸乱れずに飛び跳ねて進むという異様な光景には、戸惑いを隠せなかった。

「”道術”なる明国の法術の手法を記した書物を入手したので、手を加えた上で試したのです。この様に、術で動かす屍を”殭屍(キョンシー)”と称し、郷里から離れた地で客死した者を家へ帰す為、自ら歩かせるというのが本来の用途という事です」

 女達は、参内に際して屍の一部を運び出すとしか事前に聞かされていなかった。元々、百姓の屍を保管しているのは神属の贄とする為と認識していたので、供物を持参するのだろうと思い、それ自体は何ら訝しむ事はなかった。
 だが、運ぶには荷車の類に積んでいくのだろうとばかり考えていたのが、よもや術で操って自ら歩ませるとなれば驚く他ない。

「明国は広大と聞いております。故に、その様な術が広まったのでありましょう」
「御伝えしてあったとはいえ全く動じないとは、流石、武門を束ねる女傑」
「ですが、懸念がございます」

 狼狽える女達の中にあって、事前に話を聞いていた時子のみは平然と眼前の有様を受け止めた。
 普蘭はその態度を讃えたが、続く時子の言葉は懸念を訴える物だった。

「その殭屍とやら。見た処、息を吹き返している様ですが、よもや慈悲として蘇らせたのではありますまいな?」

 時子の指摘通り、殭屍と化した屍はどれも肌に赤みが差し、微かながら呼吸の息づかいも聞こえる。許し難い仇が生き返ったとなれば、平家としては心穏やかではない。

「よく御覧になっておられますね。確かに、これの肉体は生者へと戻っておりますが、決して慈悲等ではありません」
「なれば如何なる目論見でしょうか?」
「我が一門が”還元”の母胎として使役する為です」

 一門が法術の為に使うと聞き、時子を始め大方の女達は納得したが、不服そうに眉を潜める者も一部にいた。
 使役している内、改悛が見られるとして恩赦が下る事もあり得る。自分達を長きに渡って辱めた者共が、万が一にも赦される事があってはならないと思った為だ。

「それと今一つ。蘇ったのは肉体のみ。脳髄は痛み、最早、智恵の欠片もありません。これは生きた傀儡、肉人形に過ぎません故、赦されるのかも知れぬという御懸念は全くの杞憂にございます」
「ほほ、ならば宜しゅうございますわ」
「帝の御為に、骨の髄まで無駄とせぬ様に朽ち果てるまで御役立て下さいませ」

 平家の女達は、死してなお赦されず使役される咎人達の末路に満足し、屍に向けて嘲りの笑いを漏らすのだった。

*  *  *

 とある農村の外れでは、泥酔した百姓の男が、月光に照らされながら上機嫌でふらついていた。

「酒を下さる様になったんはありがてえのう! 嬶(かかあ)とおめこは出来んくなったけんども、腐って緩い古穴にぶっこむよりゃ、酒のほうがええ!」

 交合の快楽を奪った事により生じるであろう不満を抑える為、補陀洛はこれまで飢饉対策として供給していた食糧に加え、酒類を民衆に供給する様になっていた。
 法術によって強引に短期で醸し、しかも材料は屑米や雑穀という急造の代物であるが、それまで滅多に酒を口に出来なかった民草は充分に満足出来たのだ。
 この素朴な懐柔策は驚く程効果的で、”龍神に逆らえば恐ろしいが、言う事を聞いていさえすれば食うに困らず、酒までもらえる”という認識が民衆に広まっていったのである。
 勿論これは、与えられた恩恵だけでなく、多くの者が自害に追い込まれ、自分達もまた我が子と引き裂かれた上に宮刑を受けた事による”恐怖”、神宮とは比べ物にならない圧倒的な龍神の力に対する屈服感・諦感も大きく作用していた。

*  *  *

 余談ではあるが、伊勢に始まる皇国膨張期の新領地に於ける、旧来の住民への処遇、断種・親子分離という”鞭”と、食糧・嗜好品の安定供給や娯楽の提供という”飴”を使い分ける政策については、現代に於ける歴史的評価が各国によって全く異なる。
 まず、皇国内では概ね肯定的ではある物の、より穏健かつ寛大な方針をとれなかったのかという批判も、旧明国等を源流とした、国学たる計都派に対抗する一部学派にある。
 列強を構成する主要他国の内、皇国との友邦ではある物の、未だ神属が支配階層をほぼ占める哀提伯(エチオピア)帝国では、統治に従わない人間を鏖殺しなかったのは優柔不断であったとの批判が強い。
 逆に、五十年程前にようやく不可侵協定が成立した物の、人間種至上主義を掲げる為に仮想敵とされる羅馬(ローマ)帝国では、皇国の非道の一つとして語られている。同じく人間種至上主義国家であり、皇国・羅馬双方と激しく対立する土耳古(トルコ)帝国でも同様である。
 伝統的な同盟国であり、皇国と類似した多種族共存体制に落ち着いた波斯(ペルシャ)帝国は、”問題もあるが当時の事を考えればやむを得ぬ措置”として、主要国では唯一、好意的な見解を示している様である。

*  *  *

 酔漢の百姓に話を戻す。
 飲み慣れぬ酒をたらふく煽った末、騒がしいとして妻に家から叩き出されたこの男は、それでも上機嫌のままに村外れを徘徊していた。

「あぁ? もうねえのかあ?」

 持ち出した瓢箪が空になったのに気づき、一転して不機嫌になった百姓は、多くの車らしき車輪の音、そして大勢の足音の様な物が遠方から聞こえてくるのに気付いた。
 村落間を繋げる道の、僻地に続く側の方角である。

「こんな夜更けに、御苦労さんなこっちゃのう」

 物資を運ぶ荷車だと百姓は思ったが、近付いてくる車列がよく見えてくると、酔いが一気に覚めてその場にへたり込んでしまった。

「ば、ばけもん……」

 骸骨が牽く、漆塗りで金箔によって彩られた何台もの車。さらに彼を驚かせたのは、車の後に付き従う人の列である。
 死人の様な白装束に身を包み、顔面には奇妙な呪符を貼り付けている。全員が女の様だ。両腕を前に延ばし飛び跳ねて進む様は滑稽だが、恐慌に陥った百姓は笑うどころではない。
 その内の何人かに見覚えがあった事で、百姓の恐怖は頂点に達した。村もろともに自害したと聞いた隣村の住人で、親しく交流していた者も含まれている。

(屍じゃあ! 神通力でひっぱりまわされとる…… 咎人は死んでも許してもらえないんじゃあ!)

 声も挙げられずにへたり込んだままの百姓の前で、進んでいた行列が一斉に停まる。
 最後尾の車の窓が開き、中から、いかにも豪奢な出で立ちをした女が顔を覗かせた。時子である。

「この様な夜更けにどうされましたの?」
「ひ。ひいい! どうか命だけは御勘弁下せえ!」

 ただ声を掛けただけというのに怯えて命乞いをする百姓を、時子は不思議そうに眺めていたが、同乗する側近が耳打ちすると穏やかな口調で再び語りかけた。

「これは私共平家が帝の元に帰参する、目出度き列なのです。御見送りに来て下さった貴方にも、ささやかですが御祝いの品を差し上げましょう。どうぞ、御召し上がり下さいませ」

 時子が窓から白磁の徳利を差し出すと、車を牽いていた龍牙兵がそれを受け取り、百姓の前へと進み出る。
 百姓が震える手で徳利を受け取ると、龍牙兵は車の前へと戻り、列は再び桑名の方向へと進んでいった。
 一行が通り過ぎた後、百姓が徳利の封を開けてみると、中に入っていたのは血の様に赤い濁酒であった。大江党伝来の、赤米を使った物である。
 気味が悪い為に捨ててしまおうかと思ったが、飲まなかったと知れれば後難が無いとも限らない。ままよ、と思い切って飲むと、無償で配られている安酒とは比べものにならない、何とも喉越しの良い美酒だった。
 家に戻った百姓は朝になると、昨晩の面妖な行列の事を村中に触れ回った。
 当初は酔漢の戯言として聞き流されるばかりだったが、程なく近隣の村々から同じ様な話が伝わって来た為に信じられる様になっていった。
 百姓達は龍神に逆らって死を選び、屍になっても使役されている者の末路を憐れんだ。そして、平家の末裔である事を明かして龍神の臣下となった元賤民の怒りを再び受ければ、今度こそ自分達も終わりだと怯えるのだった。



[37967] 6話「阿修羅の学師」その53
Name: トファナ水◆34222f8f ID:46137904
Date: 2016/03/13 10:27
 時子の一行が桑名の仮宮へ着いたのは、日の出まで半刻程残した頃だった。
 引き連れてきた殭屍は、答志島へ向かう戎克に積み込む為、立ち寄った港で水軍に引き渡したので、龍牙兵の牽く車列のみとなっている。
 車から介添えを受けて降りた時子達の目に映ったのは、門前を固めている羅刹兵達だ。仏像の十二神将や四天王に似た意匠の鎧に身を固め、矛や曲刀を携えている。
 その殆どが幼さを残す顔立ちの為、時子はそれを元服前の若兵ではないかと推察した。神属は寿命こそ一千年と長いが、成長するまでの速度は人間と変わらないという。
 つまり、彼等は法術を扱う力を備え、人間を上回る体力を誇りこそすれ、経験に於いては、人間の内で幼少より教養を積む機会があった者と比べれば大差がない。つまり人間の将兵でも、知略次第で手玉に取れるであろう弱兵だ。
 伊勢中で民草の宮刑と若返りを執行している最中で手が足らぬとはいえ、仮宮の警護すら百戦錬磨の兵ではなく、この様な見るからに未熟な者を充てている辺りに、統治を支える陣容が不足している窮状が見て取れる。
 自分達平家を召したのは、かつての旧臣としての忠義に対する物だけでなく、伊勢統治の即戦力として見込まれている為でもあろう。
 平郷に寄越されている警護の羅刹兵は皆熟達の者ばかりだったので、自分達がいかに厚遇されているのか、時子には身に染みる様だった。

(再び帝をお手伝いする事こそ、我等平家の宿願にして本懐)

 時子は主君への忠誠を、改めて誓うのだった。

*  *  *

 大広間では既に、他の平郷から着いた、多くの平家の者達が通され、最後の到着となった時子達を待っていた。
 平家の総勢はおよそ千名にも及ぶ。男子は束帯、女子は十二単という古風な正装に身を包み、かつて栄華を恣にした頃の姿そのままである。
 ただ、女子の白粉については、天竺の民の多くは肌が黒い事から、平家の女衆もこれを廃する事とし、地肌を美しく整える為の法術による洗顔で代えている。
 また、女子は実年齢に関わらず、いずれも不老化によって十代半ばから三十位までの若い容姿となっており、醜顔に生まれついてしまった者については施術で整った顔立ちを与えられている。
 一方男子は法術的な処置を施されておらず、年齢も見た目のままであり、皺を重ねた老齢の者も少なからずいた。施術者が不足している現状から、まずは女子を優先して欲しいと固辞しているのである。
 時子の席は平家達の最前列、その中央。主と直に向かい合う位置となる。そこから左側が男子、右側が女子の列だ。
 広間内の両脇は神属達が席を占めている。全員女性で巫女姿の者が多いが、一門に属する学師は純白の紗麗である。
 右は文官や学師の列であり、最前には一門の長たる計都が座している。
 対して左は武官の列で、最前には水軍大将である茨木。彼女は側室でもあるのだが、ここでは武官の最上位の立場である事を優先している。
 侍女による主君の入来を告げる声が響き、室内の一同は全員平伏した。

「一同、面を上げよ。まずは大義であった」

 優しげな声に顔を上げた面々の目に入ったのは、皇国を司る異形の夫妻の姿であった。
 彼等から見て向かって右側には、紫地に金糸で精巧な刺繍をあしらった紗麗を纏う半人半蛇の若い女が蜷局を巻いている。その肌は死人の様に青白く、鋭い眼光を放つ切れ長の眼差し。唇からは毒蛇の如き牙が覗く。
 美しくも恐ろしげなこの人外こそが、補陀洛皇国の君主たる那伽摩訶羅闍、和語で言えば龍帝の座にある弗栗多である。
 さらにその脇には、近衛筆頭である白虎・英迪拉が獣形で、主君の剣に代わる者として控えている。
 だが、平家達が主君として仰ぎ、第一の忠義を向けるのは弗栗多ではない。
 弗栗多の傍ら、平家の側から見て中央左に座する、黄色に赤みを加えた黄櫨染の束帯を纏った、中性的で線の細い青年。和国の伝統ではただ一人にしか許されぬ衣に身を包んだ、一揆衆頭目を仮の身分として名乗る彼こそが、平家の者達が長きにわたって待ち焦がれていた主である。
 さらに平家達の目を引くのは、青年の脇に控える、学師と同じ純白の紗麗を纏った肌黒き童女が捧げ持っている三尺ほどの剣である。鞘に収まっているが、見たところ、現在和国で主流の刀とも、羅刹兵が好んで使う曲刀とも異なる直剣だ。あれこそが恐らくは…… 壇ノ浦で失われたとされる和国皇家の宝剣”草薙剣”であろう。

「帝の御戻りに際し、心より御祝い申し上げます。我等平家一同、御待ち申し上げておりました」

 時子が主の帰国を祝う言葉を述べると、青年も鷹揚に頷く。

「うむ。朕の帰国まで三百五十余年、よくぞ雌伏の時を耐えた。随分と待たせた事を、朕・言仁も汝等に詫びねばならぬ」

 青年は、普段は使わない真名を名乗り、国主が自らを指す”朕”と称した。
 彼の真名は、源平の乱の決戦の地たる壇ノ浦にて、海の藻屑として果てたとされる、幼少の天皇の名だ。安徳という追号の方が、月日を経た戦乱の和国ではよく知られている。
 だが彼は祖母である二位尼、即ち初代の時子が最後の力を振り絞った法術で石と化し、ただ一人舟に乗せられて逃がされた。
 この経緯を知る平家の落人の内の極一部は、言仁、或いはその子孫がいずれ捲土重来を期して和国に戻って来ると信じ、屈辱に甘んじて雌伏の時を送ったのである。
 三百五十余年を経て、彼等の念願は成就した。異郷の地から強力な神属の一行を従えた言仁が、ついに戻って来たのである。

「壇ノ浦で帝を御護り出来なかった無能の末に対し、勿体なき御言葉にございます」
「幼少の朕を奉り、国政を恣にした末に敗れた、かつての平家の所行。思う処がない訳では無い」

 源平の乱での父祖の敗北を恥じる時子に、言仁は意外にも、父祖の失態を許してはいないという含みを持つ厳しい答を返す。平家一同に冷や汗が流れた。

「僭越ながらそれにつき、平家の末を称する皆様へ問いただしたき事がございます」
「申してみよ、奥妲」

 口を開いたのは、太刀持ちの童女を務めている奥妲である。太刀持ちを幼少の小姓が務めるという和国の慣習があると聞き、計都の推挙を得て臨時に役を任されていた。
 天皇の地位を示す宝物の一つを預かる重要な役とは言えども、この場では軽輩。通常なら発言が許される様な立場でない筈だが、言仁が先を促した事で、平家の者達は戦慄した。

(あの娘は、明らかに帝の御意を酌んで口を開いている……!)

「”平家にあらずんば人にあらず”と皆様方の父祖が放言したと聞いております。事実ならば捨て置ける物ではございませんが、真偽は如何に?」

 奥妲の詰問に、広間の一同は凍り付く。
 沈黙を破ったのは英迪拉の間延びした、半信半疑の声だ。

「ほんまにそげな事を言うた阿呆がおったんかいな?」
「血統の上で活仏の母方の叔父にあたり、関白を務めた平時忠の言ですわね」

 計都の答に、広間の神属達は時子を注視する。

「…… 真に…… ございます……」
「何という傲慢か! 自らの一族のみを至上と奢り、他を卑しむ様な輩が臣下の列に加わる等、到底許す訳には参りませぬ」

 事実として消え入る様な声で認めた時子を、奥妲は容赦なく面罵した。

「朕は敗北の責を問いたいのではない。だが、そもそも民心の離反、源氏の蜂起に至ったのは、時の平家が驕り高ぶった故ではないか、そう思うておるのだ」
「仰せの通りで…… ございます……」

 言仁の静かで重い問いに、時子は唇を噛みしめて同意する。その口元からは、一筋の血が滴り落ちた。

「皇道楽土の理念に相反する妄言、よもや、未だ奉じてはおりますまいな?」
「それこそが一族の恥、全く慚愧に堪えませぬ」
「ならばその件は良し。父祖の轍を踏まぬ様に心がけよ」

 奥妲の詰問に、時子は父祖の暴言、そして失策を恥じていると明言する。
 言仁はそれを受け容れたが、奥妲の責めはこれで終わらなかった。

「それと今一つ。私は先日、伊勢の賤民たる皆様方への民百姓の暴虐は許し難いと、厳罰に処する様に御夫君様へ言上申し上げました。その結果は皆様がよく御存知と思われます」

 奥妲の発言に言仁は頷いた。
 賤民解放の勅令に反した者への宮刑はこの童女が進言した結果と知り、平家達からは驚愕のどよめきが起こる。
 時子が手を挙げて制すると、再び静寂が訪れた。

「我等学徒の多くは、旃陀羅 ※賤民、あるいは首陀羅 ※奴隷 から身分を引き上げられた者。故に、伊勢の同胞を助ける為ならば、詔に背く愚民共の鏖殺も厭いませぬ。我等にとって同胞一人の命は、万の愚民共よりも重く尊い。そう思うておりました」

 奥妲はいったん言葉を切ると、時子を真っ直ぐ見据える。

「故に問います。皆様方は平家の末であると共に、賤民として貶められた民の血も牽いておられる。帰参に浮かれ忘れてはおられませぬな? 血の半分を恥じてはおられませぬな?」

 落ち延びた平家を匿った賤民と交わった末が、今の彼等である。
 家臣として帰参が叶う事で、もう一方の父祖を恥じて否定するのであれば、自分達は平家を支持しないと奥妲は迫ったのだ。

「勿論でございます。獣の皮を剥ぎて細工物とする、あるいは死者を葬る。いずれも世を支える生業であり、恥じる様な物ではございません。また、選りすぐりの俊才たる学徒の方に同胞と評されるは、身に余る誉れと存じます」 
「なれば新たなる同胞の皆様方。どうか、若輩の無礼を御許し下さいませ」

 淀みなく答えた時子に奥妲は矛先を収め、非礼を詫びた。
 納得のいく言葉を平家から公の場で引き出せた事で、奥妲としては満足である。

「では、平家の末裔たる者達よ。朕の元に戻り仕えるに際し、何か望みの職があるか」
「では畏れながら、我等平家の男子一同、帝に御願い申し上げたき事がございます」

 言仁から官職の希望を問われ、時子の臨席に座する、平家男子の筆頭たる老人が口を開く。時子から見れば亡き夫の弟、即ち義弟にあたる人物だ。

「申してみよ」
「どうか我等男子には、自裁の詔を賜りたく存じます。父祖が帝を蔑ろにし、御政道を私した罪は償われなければなりませぬ」

 老侍の言葉と共に、平家の男子達は一斉に平伏した。

「それは問わぬと申したばかり。父祖の過ちを認めた上は、子孫がその責めを受ける道理もあるまい」

 言仁は彼等に罪なしと改めて言い渡すが、老侍は頭を横に振って言葉を続けた。

「父祖の家門故に帰参が叶うならば、その罪も背負うのは当然の事。主君を蔑ろにし、国を損ねたという大罪に対し、何ら罰を受ける事無く遇されては、末代まで平家は誹られましょう」

 ただ赦されるには、かつての平家の罪はあまりに大きい。その清算なくしての厚遇はむしろ立場を損ねる物だと、老侍は訴えた。



[37967] 6話「阿修羅の学師」その54
Name: トファナ水◆34222f8f ID:46137904
Date: 2016/03/26 22:57
「”男子に”と申したな」
「左様でございます。父祖の罪は我等男子に、功は女子に報いて下さいます様」

 言仁の確認に老侍は是と答え、罪は男のみが背負いたいと望んだ。

「僭越ではありませぬか。平家の今代当主は私。父祖の罪に対する咎は、まず私が負うべき物」
「平家が天下を預かっていた際に国の導きを誤ったのは、専ら男子の所行。故に、女子がその責めを受けるのは道理が通らぬかと」

 時子は老侍を諫めるが、彼は退かなかった。
 社会の運営に於いて男子が導き女子が従うのは、和国に限らず、この時代では洋の東西や構成民族・種族を問わずに一般的であった。補陀洛(ポータラカ)の様に、高官に女子が目立つのは珍しい例である。
 故に、一族全体の罪はまず男子が被るべきという主張には、当時の常識に照らして一つの理があった。

「百姓共から婦女子を護れなんだ我等の如き弱兵は、帝が和国を取り戻すには足手まといになりましょう」
「それは!」

 苦しそうに言葉を続ける老侍に、時子は思わず叫ぶ。
 賤民として雌伏の時を送っていた平家は素性を伏せる為、官憲は元より民草にも一切逆らってはならぬという戒めを定めていた。その為、女達が辱めを受けても男達はそれを護る事が出来なかった。
 賤民解放の勅令が出た後も正体を隠し続ける為として、彼等は暴虐への無抵抗の方針を貫いた。平家にとって龍神は、身分解放の恩を受けたとはいえ、決して仕えるべき主ではなかったのである。
 彼等が正体を明かしたのは、主君が帰国した際に備えて隠していた武具を補陀洛(ポータラカ)側が発見した事による。補陀洛(ポータラカ)の側も、言仁の旧臣たる平家の末裔が、賤民に身をやつして主君を待ち続けていたのは想定外だった。
 頭目の正体が待望の主君その人であったと知らされ、平家はようやく自分達の本来の姿に戻れたのである。
 よって、女達が犯されるのを守れなかったのは、男達の惰弱や臆病の故ではない。生き延びて主君を迎える為、汚辱にまみれてでも事を構えてはならなかったのだ。
 だが、密かにではあるが侍としての武芸と矜持を仕込まれていた彼等にとって、それは耐え難い屈辱の日々であった。
 賤民として獣の皮を剥ぎ、死人を葬る事を恥とは思わぬが、婦女子を護れない事は武士(もののふ)として、男子として全く許されぬ事だ。
 民草に手込めにされて孕まされた女が産んだ子の首を絞めて返す日常は、直接の陵辱を受けた女よりも、手出しを禁じられ何も出来ぬ男達の方に、より暗い情念を育てていった。
 そして、言仁に従う逞しき異形の軍勢を見て、彼等は思った。
 屈強な神属の兵がいるならば、自分達が御仕えせずとも安心だ。帝の立派な御姿を見届けて思い残す事はない。ようやく、死して汚辱を濯ぐ事が許される。恥多き身で生き続ける事が出来ようかと。

「帝、どうか、どうか! 何卒、愚臣の最期の願いを御聞き届け下さいます様!」

 嗚咽を漏らしながら訴える老侍、そして揃って同様に悲痛な面持ちの男子一同に、時子を始めとした平家の女衆は何も言えないでいた。
 重苦しい沈黙を破ったのは、言仁の決断である。

「良かろう。それを望むならば、汝等平家一党の男子には死を賜る。但し、この場におらぬ元服前の者については、それに及ばぬ事を承知せよ。成年男子の自裁を以て平家の罪は一切が償われた物とし、以後、それを責め立てる事は叛意とみなす」
「有難き、幸せに存じます!」

 主君自らによる死罰の宣告は、貴人に対する栄誉刑と解される。
 それを聞いた老侍以下の平家男子達は、法悦とした顔でそれを承った。至上の誉れをもって、欲してやまなかった死の安らぎを迎えられるのだ。

「なれば、男女を問わず、平家一党全ての成年に罰をお与え下さいませ!」

 ”止める事が叶わぬならばせめて共に死を”と時子は主張するが、計都(ケートゥ)はそれを、微笑みながらもすげなく否定した。

「婦女子の皆様には、既に御役目がありますわよ? 果たして頂かねば、和国の完全な掌握が二、三十年は延びてしまいますの」
「時子とやら。命長らえさせるばかりが情ではない。ここは平家の長として、男子の面目を立ててやれぬか」
「……承知、仕りました」

 計都(ケートゥ)の拒否に続き、それまで沈黙を守っていた弗栗多(ヴリトラ)が呼びかけると、時子は意を決して承諾せざるを得なかった。
 神属達は成り行きを平静に見守っていたが、奥妲(アウダ)はただ一人強い衝撃を受けていた。

(何故? どうして? 兄様は赦すと言ったのに、何で自分から死罪を望むの? 何の為に苦労して生き延びて来たの?)

 彼女は言仁に再考を促すべく声をあげようとしたが、計都(ケートゥ)が微笑みを自分に向けているのに気付く。
 ”動くな”という導師の意思を感じた奥妲は、発しようとした言葉を呑み込む他なく、場に相応しくなる様、表情を人形の様に消した。

「和国の武家に於ける自裁の作法は割腹であるが、朕はそれを好まぬ。毒杯を用意させる故、それを用いよ」

 言仁が手元の鈴を鳴らすと、程なく二十名程の侍女が襖を開けて入って来た。
 侍女達は平家の男子達に、金杯を渡し酒を注いで廻る。和国皇家を示す菊の紋が掘られた純金の杯に、男子達は感激して打ち震えた。
 杯が行き渡ったところで、言仁は死にゆく忠臣に語りかける。

「思い残す事はないか」
「時子殿、そして一族の婦女子の皆様方よ。平家の再興の事、くれぐれも御頼み申す」
「わかり申しました」

 老侍の最期の言葉に、時子は重く頷いた。

「それでは帝、おさらばにございます。乾杯!」
「乾杯!」

 老侍の号令を唱和し、男達は一斉に杯を飲み干す。
 そして十も数えぬ内に、眠る様に次々と崩れ落ち、物言わぬ骸と化して逝く。その顔はいずれも歓喜に満ちた物であった。
 静寂が場を占める中、奥妲(アウダ)は眼前の異様で凄惨な光景に打ちのめされていた。
 自分が父祖の罪を責め立てた余りに、彼等はその責を取るとして死を望んだというのだろうか。もしそうならば、自分は何という事をしてしまったのだろうか。
 彼等こそが、共に皇道楽土を築くに相応しい和国の民だったというのに……
 歯を食いしばって耐えてはいるが、その頬を涙がつたった。
 自責にかられる奥妲(アウダ)に、計都(ケートゥ)が優しげに諭す。

「心配いりませんわよ。活仏の忠臣を無為に死なせたりはしませんわ。新しき世の建立に参画するに相応しく仕立てるには、こうする必要がありましたの」

(まさか、この人達を殭屍(キョンシー)に!?)

 およそ五百名もの忠実な臣の死を前に微笑を崩さず、死んだ方が使い易いと言い放つ計都(ケートゥ)に、奥妲は初めて言い様のない恐怖を感じた。




[37967] 6話「阿修羅の学師」その55
Name: トファナ水◆34222f8f ID:46137904
Date: 2016/04/05 23:26
「さあ、皆様。御願いしますわね」

 計都(ケートウ)の指示を受けて、毒杯を注ぎ終えて部屋の脇に控えていた侍女達が、頽(くずお)れた侍達の屍を抱えて運び出して行く。
 師の非情さへの恐怖に駆られていた奥妲(アウダ)だが、その様子を見て理性が蘇ると共に、新たな疑問が涌き起こった。

(この場で殭屍(キョンシー)にして、自分で歩かせれば済む事なのに。何故わざわざ運ばせるの?)

 何事にも合理的で冷徹な計都(ケートウ)らしからぬ処置で、いかにも不自然だ。
 顔から哀しみが消え、思考を巡らせ始めた奥妲(アウダ)に、計都(ケートゥ)は満足そうである。
 
「いかなる時でも、情に囚われずに考察する。それでこそ学問の徒ですわ」
「導師、もしかしてこれは、致死性の毒ではないのですか?」

 時子を始めとした平家の女達は、男達の死を看取っても全く悲嘆にくれるそぶりがなく、いかにも安堵した様子である。武家の矜持があるにせよ、流石に奇妙だ。
 何より、言仁自身があっさりと自裁を認めた上に、忠臣の死に様を眼前にしても落ち着き払っている。温和な彼の人となりからは考え難い事である。
 もしかして、予め示し合わせた上で、毒杯と偽って偽薬を飲ませたのだろうか。

「いいえ。貴女にもお解りでしょうけれども、眼前のこれらは既に事切れていますわよ」

 斃れ伏した平家の男達がいずれも息をしていない事は、奥妲(アウダ)にも一目で解る。
 淡い期待はあっさりと崩れたが、奥妲(アウダ)は次の可能性を尋ねてみた。

「遺骸は殭屍(キョンシー)ではなく、別の蘇生術を試みるおつもりですか? しかしそれでは……」

 意思を持たない殭屍(キョンシー)ではなく、知性を保ったまま死者を蘇らせる事も、補陀洛(ポータラカ)の法術であれば不可能ではない。だが、余命が大幅に縮んだり、身体能力を大きく損ねる等、手法によっても異なるが生前よりも力が劣ってしまう難点がある。
 
 ”新しき世の建立への参画に相応しくする”という、計都(ケートゥ)の言葉とは全く矛盾してしまう。知性が保たれたにしても、並の人間より劣る武士等、戦力にはならないのだ。
 わざわざ一度死なせた上で蘇生させ、能力を損なった状態で仕えさせる等、合理性を重んじる計都(ケートゥ)からは考えられない無駄の極みだ。

「従来なら……」
「センセに奥妲(アウダ)はん。今は仮にも謁見の最中でっせ。普段の調子では困りますわ」
「も、申し訳ございません、近衛筆頭殿!」
「まあまあ、そうでしたわね」

 二人の質疑応答を、呆れ果てた英迪拉(インディラ)が遮った。
 奥妲(アウダ)は慌てて謝罪したが、計都(ケートゥ)は全く意に介する様子がない。

「構わぬ、続けよ」
「ええんでっか、坊?」
「一番粗忽なのは汝じゃろうが。いくら元は乳母だったからと言うても、謁見の場で”坊”はなかろうて」

 言仁の言葉に思わず聞き返した英迪拉(インディラ)だったが、今度は彼女が弗栗多(ヴリトラ)から窘められる。
 ばつが悪そうに縮こまる猛虎の姿に、神属と平家の女衆の双方から、しのび笑いが漏れた。
 重苦しかった大広間は一転して、陽気がすっかり支配していた。

「本当に補陀洛(ポータラカ)の宮中は、主従揃って仲睦まじゅうございますな」

 思わず感想を漏らした時子も、眼がすっかり笑っている。

「もう良い。面倒じゃから皆、普段通りに話そうぞ。此度の件については、腹を割って話すべきであろうしのう」

 弗栗多(ヴリトラ)の提案に言仁は頷き、今回の事態について奥妲(アウダ)にも語る事とした。

「奥妲(アウダ)。たばかる様で済まなかったが、朕…… ああ、いや、私には元より彼等を失う気などないのだよ。呑ませたのは新式の不老長寿の薬でね。骸に適切な処置を施せば問題なく蘇生し、神属に並ぶ寿命を得られる。勿論、放置すれば屍のまま朽ち果てるから、毒というのも全くの嘘ではないけれども」
「ほ、本当!」

 言仁の口からはっきりと、平家の男達が力を得た上で問題なく蘇ると聞いた奥妲(アウダ)は思わず、年相応の喜びの声を挙げるが、すぐに我に返ると、時子の方を向く。

「時子殿は、この事を始めから御存知だったのですか?」
「はい、奥妲(アウダ)殿。平家の男共が帝から、自裁のお許しを賜らんと欲している事を知った私は、どうした物かと宮中へ御相談申し上げていたのです」
「じゃ、侍の皆様も知っていたのですね?」

 皆が承知の上で、一度死して平家の罪を償ったという事にする為、先程の様な一芝居を打ったのかと奥妲(アウダ)は納得したが、時子はそれを否定した。

「いいえ。男共は薬の正体を知らぬまま、正に命を絶つ為にあれを呑んだのです」
「ただ赦すばかりでは、拒むのが目に見えていたからね。彼等自身の心を救う為には望み通りに罰を与えた方が、けじめがついて良いと思ったのだよ。一端絶命させた上で不老長寿に体を造り変えるという新薬の作用は、まさに丁度良かった。死を賜るとは言ったが、蘇らせないとは言っていないしね」
「”馬鹿は死ななきゃ直らない”と言いますもんなあ」
「馬鹿は汝じゃ! 真面目な話に下らぬ冗句をはさみおって!」
「えろう、すんまへん……」

 言仁の言葉に続けて英迪拉(インディラ)が軽口を放ったが、弗栗多(ヴリトラ)に一喝されて再び身を小さくする。
 それを見た一同からは、遠慮無い笑いが涌き起こった。

「この場で知らなかったのは、平家の男共と奥妲(アウダ)だけだよ。前者については何故教えなかったかは今話した通りだけれども……」
「私については、解っております」
「そうだね。直に言うべき事ではないし、自ずと気付かない様では困るよ」

 言仁の言葉で、奥妲(アウダ)は何故、自分には予め事情が知らされていなかったかを悟った。
 この謁見は平家の為ばかりではなく、自分への試問の場も兼ねていたと言う事なのだろう。では、その評価はどうだったのだろうか。

「先程、奥妲(アウダ)殿は我等平家の末を同胞(はらから)と評して下さるばかりか、男共の自裁に際し涙して下さいました。全く、嬉しき事にございます」

 時子が謝意を述べると、言仁と弗栗多(ヴリトラ)も頷いて同意する。
 奥妲(アウダ)はそれを良き評価を与えられた印と解釈し、思わず微笑みを漏らした。



[37967] 6話「阿修羅の学師」その56
Name: トファナ水◆34222f8f ID:46137904
Date: 2016/04/10 20:37
 平家の男達の骸に不老長寿化の最終的な処置を施すには、およそ一月程安置しておく必要がある。その頃には伊勢の民に対する宮刑と若返りの処置も終わり、一門の主要な学師がそちらへ手を回せる様になる為、丁度良いと言えた。
 彼等は殭屍(キョンシー)にされた百姓女達と共に、答志島へと運ばれた。
 勿論、両者の扱いは全く異なり、前者は言仁の臣として蘇るべく丁重に扱われる。後者は咎人の童を”還元”する為の母胎、即ち”道具”として朽ち果てるまで繰り返し使役されるのだ。


*  *  *


 一門に所属する学師・学徒の多くが、伊勢の民への宮刑執行と若返りの施術に従事する中で、奥妲(アウダ)は和修吉(ヴァースキ)の指導の下で別の業務を担っていた。
 伊勢の民の全てが宮刑に処された訳では無く、勅令を守り賤民へと一切手を出さなかった為に免れた者も存在する。選良と位置づけられた彼等の多くは、自害によって滅んだ為に荘園として接収された廃村へと、元の村を去って慌ただしく移り住んでいった。
 統治上、無人の村を荒れるままに放置したくなかったのと、処罰を受けなかった事で、宮刑を受けた民との軋轢が生じるのを防ぐ為だ。
 二人が行うのは、彼等に必要な医術を施す為の回診を兼ねた巡察である。
 龍牙兵の牽く車に載り、師弟は目的地となる新荘園の一つへ向かっていた。

「良民たる彼等をいかに処置すべきか。考えたかね?」
「はい、和修吉(ヴァースキ)師。この様に行いたいのですが」

 奥妲(アウダ)は自らの案をしたためた文書を、和修吉(ヴァースキ)に手渡す。
 目を通した和修吉(ヴァースキ)は、それを及第、かつ許容範囲であると判断した。

「成る程、では思った通りにやってみたまえ」
「ありがとうございます、和修吉(ヴァースキ)師!」

 奥妲(アウダ)は、自らの思い描く図が認められて上機嫌となった。


*  *  *


「お待ちしていましただ」

 荘園に着いた二人は、元は庄屋の屋敷だった村役場で、元服して程ない年頃に見える、紅顔の代官に出迎えられた。
 見かけ通りの歳ではなく、実年齢は既に四十過ぎである。仕官により不老長寿を得て、この姿となっていた。
 その素性は、宮司の嫡男を助命する為に仕置場に駆け込んだ、実の叔父だ。その行為を弗栗多(ヴリトラ)が誠実であるとして称賛したのと、表沙汰に出来ない事の真相に対する箝口を兼ねて家臣の列に加わる事となり、ここに赴任して来た。

「民が死に絶えた村を急遽引き継げと、上意とは言えども無体を申す事になって済まぬな」
「仕官した最初は開墾を仕切れっちゅう話だったし、それに比べりゃ、出来合いの田畑ですから随分楽ですだよ。それに、田畑を耕すもんが皆くたばって、放ったらかしで荒れてくっちゅうのは何とも辛いですだ」

 代官の顔立ちは女と見まがうばかりに美しいのだが、口から放たれる言葉は百姓訛りで、士分格としての直垂(ひたたれ)姿も全く似合っていない。
 だが言葉には柔らかみ、そして荘園の運営に対する意欲が感じられ、二人は好感を持った。現場で采配を振るうには、むしろこの方が民から親しみを持たれるだろう。

「本来であれば、荘園の代官には夜叉(ヤクシャ)を充てるのだが…… 何分にも数が足りなくてな」

 皇族の私有財産である荘園では、豊穣の力を備えている夜叉(ヤクシャ)を常駐させるのが原則である。特にここは、皇配たる言仁の物だ。
 だが、勅令に背いて反抗したり逃散を試みた村の自治を召し上げ荘園とし、さらに懲罰として住民の意思を法術で操り使役する事となった。
 その為、伊勢親征に随伴した夜叉(ヤクシャ)の内、農政に明るい者はそちらの代官として優先的に任じられる事になってしまったのである。同じ荘園という括りではあるが、そちらは懲役の為の獄としての性格が強く、住民は家畜同様の生産力でしかない。
 獄としての荘園を管理する為に、優良な住民を住まわせる、本来の意味での荘園にしわ寄せが生じたのは皮肉としか言い様がない。

「伊勢には龍神様がおわすんですから、風や水、日照りなんかは気にしなくてええですし。大丈夫ですだよ」

 申し訳なさそうな和修吉の言葉にも、代官は楽観的に応じた。
 牛馬を使役出来る事と、那伽(ナーガ)による天候の調整があるだけで、夜叉(ヤクシャ)の力がなくとも従来より遥かに耕作の条件は向上しているのだ。

「此度の始末では、多くの者が罰を受けた。お前の義兄は斬首に処された。村人は悉く心を縛られ、咎人として終生使役される。恨んではおらぬか?」
「……惨い事をして来たっちゅうに、お赦しを頂けても懲りなかったのはあいつ等ですだ」

 代官自身を除き、彼が住んでいた村の住民は、その全てが厳罰に処されている。
 神宮統治下での賤民への虐待は当初、弗栗多(ヴリトラ)によってその一切が免責されていた。それにも関わらず、解放の勅令を軽んじて同じ事を続けたあげくに罰を受けたのだから、それは自業自得と言う物である。
 情を交わした賤民の女を、家の恥として家族に殺された過去があり、身分の貴賤を不当な物と考えていた代官にとって、同郷の者の末路は全く同情に値しなかった。
 吐き捨てる様に突き放した言葉を吐いた代官を、奥妲(アウダ)も同感だと頷く。

「甥っ子は大丈夫ですだか? 神宮の跡取りだったっちゅう事で、虐められておらんかと心配しとるんですが」
「問題ない。あれは赦免され、有用な者として一門に加えた上、近衛の後見をつけて庇護しておる」
「そうですだか」

 和修吉(ヴァースキ)は安心する様に言うと、甥を案じる代官も胸をなで下ろした様子だった。

「学徒様も、宜しくお願いしますだよ」
「え、ええ……」

 代官の言葉に、奥妲(アウダ)は当惑しつつも応えた。
 当初は神職であった若衆を嫌っていた奥妲(アウダ)だが、ここ数日で随分とその感情は薄れている。
 兄として慕い敬愛する言仁から、受け入れよと直に申し渡された事もあるが、賤民解放に不服を申し立て己の行為を顧みなかった民草達の態度を目の当たりにしたのが、奥妲(アウダ)の心境の変化をもたらしていた。
 自分達の行いを悪であったといつまでも認識出来ない下卑な愚民に比べれば、無知を反省し恭順の意思を示している若衆の方が、人として遥かに真っ当ではないかと思えていたのである。
 とは言え、彼女自身が認識を改めるだけでは済まない。歳の近い学徒達を煽って同調させてしまった始末を付けねばならないのだ。

(自分の蒔いた種だけどさあ、困ったなあ……)

 後見役の近衛がいるので滅多な事はあるまいが、焚き付けた同門達をどう説き伏せた物かと、奥妲(アウダ)の胃は痛んだ。



[37967] 6話「阿修羅の学師」その57
Name: トファナ水◆34222f8f ID:46137904
Date: 2016/04/24 10:55
「早速だが、仕事を始めさせてもらおう」

 和修吉は村役場の前の広場で腕輪を放り、封じられている天幕を広げると、奥妲(アウダ)と共に診療の準備を始めた。
 半刻程で準備を整えて天幕から出ると、外では総勢で百名程の民が並んで待っていた。 彼等は異形の神属に対し、不安や怯えは一切見せていない。多くの者が宮刑の罰を受ける中、無辜の民として扱われている事ですっかり信を置いている様だ。
 八割程が女といういびつな性比だが、ここにいるのは賤民への陵辱や虐待を行わなかった者なので、男が少ないのは必然と言える。 
 彼等は天幕から現れた和修吉(ヴァースキ)と奥妲(アウダ)に恭しく頭を垂れた。二人も合掌で応える。

「先生様に御弟子様。この度は御苦労様でごぜえます」
「うむ」
「御忙しい中、御足労頂き有り難うございます。御夫君様の田畑を耕す方々が健やかに暮らして頂ける様に微力を尽くしますので、宜しく御願い申し上げます」

 荘園を束ねる立場として、代官が改めて挨拶する。
 和修吉(ヴァースキ)は一言を返したのみだったが、奥妲(アウダ)は丁寧な口上を述べた。

「へ、へい……」「こりゃ、どうも……」

 村人は、奥妲(アウダ)の挨拶に戸惑った。神宮の治世下における横暴な役人とは違うとはいう物の、龍神の家臣ともあろう者が、一介の百姓風情にとるとは思えない腰の低さだった為である。

(無知・無学の輩として民を見下す事無く、働き手として尊重する姿勢は良し。だが、それ故にこの試問は辛いやも知れぬ。さて、これは如何なる答えを出す物か……)

 これまで伊勢の平民を相手にしていた時の様な刺々しさを全く見せず、とても穏やかな奥妲(アウダ)の様子に 、和修吉(ヴァースキ)は内心でつぶやいた。


*  *  *


「おねげえしますだ」

 診療が始まり、最初に入って来た初老の男に、奥妲(アウダ)は裸となって寝台に横たわる様に指示する。
 さして疑問を持った様子もなく言われた通りにした男の裸身を、和修吉(ヴァースキ)は手をかざして探って行く。
 最後に額に掌を当てて診た時、和修吉(ヴァースキ)は表情は変えない物の、唇の端を僅かに歪めて奥妲(アウダ)に目線を送った。

『……これは駄目だな…… 軽愚だ』

 男に聞かれない様に梵語でつぶやいた和修吉(ヴァースキ)の言葉に、奥妲(アウダ)は険しい顔となる。だが、男が自分の顔を見ているのに気付くと、平易な表情を造って改めた。

(危ない、患者に心配させちゃいけないよね)

「あの、どっかわるいんだか?」
「いいえ。命に別状はありませんから御心配なく。御歳の割に、身体の方は健やかです」

 男が挙げた不安に、奥妲(アウダ)は優しく答える。

「そっかあ、ならえがっただよ。ありがとうございましただ」

 診療が終わり男は礼を言い、衣を着て天幕を出て行った。

(確かに命には関わりないんだけど……)

 奥妲(アウダ)は男の抱える疾患に、複雑な思いに囚われると共に、どうすべきか施策を巡らせ始めたが、和修吉(ヴァースキ)に声を掛けられて我に還る。

「思う事はあろうが、まずは次が来る。気を引き締めたまえよ」
「は、はい、和修吉(ヴァースキ)師!」

 師の叱責を受け、奥妲(アウダ)は次に入ってくる民を診るべく心を整えた。


*  *  *


 今回の診療では、これまで他の村で行っていた身体の不自由や疾病に対する治療のみを行い、若返りの処置を施していない。勿論、年配の者には労働に支障ない程度に衰えを緩和する治療は施したが、外観はそのままとなっている。
 その事について問う者もいたが、寿命が縮むという副作用を聞かせると、それ以上の不満を漏らす者はいなかった。
 既に不老長寿を得た代官については、彼と同村の出身者が皆無で本来の年齢を知る者がいない為、村人はその点で疑問を持ってはいない。
 診療を終え、村人達が口々に礼を言って戻って行った後、代官を交えて三人との懇談となった。
 代官から真っ先に出たのは当然ながら、この荘園の民に何故、若返りを施さなかったのかという疑問と不満である。

「咎人が若返って、ここのもんには老いていけっちゅうのは道理が通らねえですだよ」

 代官は支配下の民の利益を代弁せねばならない。皇族たる那伽(ナーガ)の和修吉(ヴァースキ)にも臆する事無くそれを訴えた事に、二人は感心した。

「当初は若返らせるつもりだったが、奥妲(アウダ)の案で今回は取りやめたのだ」
「御弟子様の?」

 首を捻る代官に、奥妲(アウダ)が解説する。

「あの様な見せかけの若さではなく、代官殿の様な、本物の不老長寿を与えたいのです。うかつに若返らせてしまうと、長寿を与える為に処置をし直すのが大変ですので。身体を造り変える訳ですから」
「それを、今日やる訳にはいかんかったのですだか?」
「奥妲(アウダ)が今日になって出した案を容れた為、支度が調っていない。それに加えて、神属に並ぶ不老長寿を人間に与えるには条件がある」
「条件?」
「お前の様に、読み書きの心得を身につける事だ。これが出来ねば、千年の命を得るに値せぬ」

 代官は庄屋の家に生まれた為に、読み書き算術を修得している。登用されたのも単に行いが弗栗多(ヴリトラ)に称賛された為だけではなく、能力を見込まれての事だ。
 だが、この時代の和国の識字率は低く、特に百姓は殆どが文盲だった。

「百姓が読み書きですだか?」
「左様。触れ書きの書かれた高札も読めぬ様な無知の民を、皇国は欲さぬ。今、生きておる者については寿命が尽きるまで”仮初めの民”として、庇護を与え暮らしを安堵する。だが寿命を延ばすとなればそうもいかぬでな」
「これまで学には縁がなかったもんに、無理ですだよ……」

 代官はうな垂れて嘆くが、和修吉(ヴァースキ)はそれを否定した。

「否、並の智恵があれば出来る。荘園の民に於いては、読み書きの修練を賦役として課す事とした」

 賦役、即ち税の一部たる労役として、読み書きの修得を義務づけるというのだ。ただ習えと奨めても百姓に学はいらないと言う者が大半だろうが、賦役となれば否応もない。

「賦役…… ですだか。だども、おら一人で教えるっちゅうのはきついですだよ」
「荘園の警護にあたっている羅刹兵も和語の読み書きが出来る故、手伝わせると良い。修練の為の紙や筆、墨や硯も供しよう。主には稲作の刈り取りを終えた後に行う。故に、裏作の作付けを免ずる」
「ただの百姓に、そこまでして下さるんですだか……」

 高価な紙や筆記具を与え、学ぶ時を作る為に裏作を行わないという。
 手間も銭もかかるというのに、百姓をそこまで思いやって下さるのかと、代官は感銘を受けた。

「荘園の皆様は、善良な心根を持っております。故に、新しき世に御迎えしたいのです」

 奥妲(アウダ)は和国支配に際して、その全てを補陀洛(ポータラカ)の色に染め上げるのではなく、良き物を伝える為に品行方正な民をある程度残しておく必要があると和修吉(ヴァースキ)に訴え、それが容れられたのである。
 また、彼女は賤民への虐待に加わらなかった民に深く感謝しており、不老長寿を与える事で恩に報いたいとも考えていた。

「うむ。不老長寿を得られるなら、大いに励むであろう」
「そういう事なら、大丈夫ですだな」

 代官は納得したが、奥妲(アウダ)が言いにくそうに懸案を口から漏らした。

「問題は…… その、並の智恵を備えていない者が、この村の三割を占めている事なのです」
「どういう事ですだか?」
「先程の診療で、脳を調べて解ったのですが。これが、それに該当する者です」

 奥妲(アウダ)は、三十名余りの名が記された名簿を代官に示した。
 名が朱書きされた者と、通常の墨で書かれた者がほぼ半分づつ混ざっているのが代官には気になった。男女の区分かと思ったが、名を見るとそうでない事はすぐ解る。

「そういや、ここに載っとるもんは”抜け作”っちゅうか、どうにもしまらねえとこがありますだよ」

 確かに、この名簿に名を挙げられている者は働きぶりが良くないことに代官は気付いた。言われた事をこなすのが精一杯で機転が利かず、複雑な事が出来ない。また動作も鈍い。
 決して怠惰ではなく、むしろ勤勉なのだが、熱意ばかりが空回りして成果に結びつかず、倍以上の労力を使ってようやく半人前の仕事ぶりである。
 幼い時に間引かれてしまう事が多い白痴と違い、”少々頭の出来が悪い愚鈍な者”は時折見られ、それ程珍しくはない。こういった者は小馬鹿にされ続けてひねくれたり、周囲の顔色を伺って常に怯える小心者になりがちなのだが、この荘園にいる者についてはそういった事はなかった。

「その様な者を”軽愚”と称する。全く言葉を解さぬ”白痴”は獣として扱うが、軽愚は言葉を解する故に、一応は民の範疇に入る。だが、文字の習得は無理であろうな。故に、不老長寿は与えられぬ」

 補陀洛(ポータラカ)は様々な種が混在する社会の為、民と獣の区分を、種ではなく、個々の知性の有無で行っている。人間から産まれても言葉を理解出来ない白痴なら”獣”として食用になり、逆に鳥獣から産まれても、言葉を解するならばそれは”民”なのだ。
 だが、その区分は綺麗に分かれる物ではなく、中間に位置する者も多くいる。それが”軽愚”と呼ばれる存在である。

「色分けはどういう意味ですだか?」
「まず、熱病や頭を打った、幼少の頃に充分な滋養を得られなかった等で脳を痛めた者が”黒”。この者達には、脳を治す様に法術を掛けましたので問題有りません。二月もすれば、常人に智恵が追いつくでしょう」
「ほいたら、朱書きのもんがあかんっちゅうことですだか。どういうもんですだか?」
「生来、即ち生まれながらの軽愚です」
「朱書きのもんは治らんのですだか?」
「術はあります。ですが皇国の法では、智恵を備えず、あるいは足りずに生まれた者に、後から施術でそれを補ってはならないと定められているのです」

 代官の問いに、奥妲(アウダ)はいかにも不本意そうに答えた。

「……どうなりますだか? 神属の方々が白痴のもんを贄にするっちゅうんは聞いとりますだが、こいつ等も食われちまうんですだか?」
「それはない。軽愚は離島や僻地に築いた悲田院 ※福祉施設 に固めて住まわせ、あてがい扶持で老いて死ぬまで養う事になっておる」

 要するに補陀洛(ポータラカ)は、生まれつき智恵が足りずに読み書きが覚えられない者を一応は民として扱うが、国を担う働き手としては見ていない。慈悲として、老いて死ぬまで世間と隔絶した場所で養うというのだ。

「勿体ねえ。頭の回るもんが指図してやりゃあ、足りんとはいえ一応は働けますだよ」
「手間がかかる。それに常人と混ぜて暮らせば、軽愚を見下し、暴虐や搾取の対象にする様な風潮が世に広まりかねぬ」

 和修吉(ヴァースキ)の言う通りである。実際、軽愚に相当する者達が侮蔑の対象になっているのは、代官自身もよく目にしていた。
 この荘園ではその様な事がないかと言えば、からかいの類こそない物の、愚鈍さにしびれを切らした者がどやしつけたり、失敗の折檻として鉄拳や平手打ちを食らわすといった事がどうしても起こってしまう。

「私としては、生来の軽愚に対しても法術で智恵を補った上で不老長寿を与え、皇道楽土を謳歌させたいのですが。代官殿はどう思われますか?」
「おらとしちゃあ、いくら抜け作っちゅうても、こんだけごっそり連れて行かれたら耕し手が減って困りますだよ。神通力でまともな智恵がつくっちゅうなら、是非そうして欲しいですだ」

 代官にしてみれば半人前にも満たないとはいえ、多くの働き手を失うのは困る。
 ただでさえ、伊勢は多くの百姓が自害して人手不足なのだ。ましてここは無辜の民のみを集めた皇配の荘園という性格上、他からの労力の補填は期待出来ない。
 代官の賛同を得られた事で、奥妲(アウダ)は和修吉(ヴァースキ)に同意を請う。

「代官殿もこう申しております。師よ、如何でしょうか?」
「人手については勘定方が策を講じておる様だが、すぐには難しいな。故に代官の要望はもっともだが、さりとて特例をむやみには造れぬ」
「なれば、賤民解放の勅令に従った褒美という名目ではいかがでしょうか?」
「勅令は従うのが当然である。逆らう者が多かった事がおかしいのだ」

 ”特例を認めるに値する名目を出してみよ”という和修吉(ヴァースキ)の暗喩を察した奥妲(アウダ)は早速、一案を示した。
 すげなく否定されたが、諦めずに次案を示す。

「新式の術の御試し御用という事では?」
「ふむ…… 平家の男子に施す尸解仙(しかいせん)の術式以外にも、試してみたい不老長寿の術式は幾つかある。咎人ではない故に無理強いは出来ぬから、当人に選ばせよ」

 新たな提案に和修吉(ヴァースキ)は少し考え込み、条件を示して同意した。

「当人にですか?」
「当然だ。命が短くとも、不労で衣食を安堵される方が良いと言うかも知れぬであろうしな」

 和修吉(ヴァースキ)の指摘通り、幸福の形はそれぞれなのだから、どちらを選ぶかは本人次第である。
 奥妲(アウダ)は一抹の不安を覚えつつも、生来の軽愚と判じられた者達を改めて個別に訪問した上で、要望を尋ねる事にした。

「馬鹿のままで普通に歳を取る代わりに、死ぬまで働かずに飯が食べられるのと。馬鹿が治って若いままずっと長生き出来るのと。どちらがいいですか?」
「ば、ばかがなおるだか?」

 丁寧に解りやすく、ゆっくりと話した奥妲(アウダ)の質問に、問われた男は目を輝かせた。

「ええ。賢くなれますよ」
「おら、ばかをなおしてえだ。いちにんまえになりてえだ!」
「良い御返事です。御任せ下さい」

 男の訴えに、奥妲(アウダ)は微笑んで応えた。
 荘園に住む生来の軽愚全てに意向を尋ねた結果、彼等はいずれも知性の強化と不老長寿を選んだ。
 奥妲(アウダ)はその結果に喜びつつも意外に感じた。短命でも安楽に生きたいと願う者が多いのではないかと予測していたのだ。
 軽愚達は、頭が悪く働きが悪い事を周囲から責められがちだった為、それを治したいと心から願う者が多かった。
 また、これは軽愚に限った事ではなく和国の民百姓全般に言える事だが、幼少の頃より”額に汗して働け、怠惰は悪だ”という価値観に染まっている為に、働かずに安穏とした暮らしを選ぶ事を考えられなかったのである。
 尚、後日に巡回した他の荘園でも同様に意向の聞き取りが行われたが、やはり同様の結果が出た。それを踏まえ、弗栗多(ヴリトラ)・言仁双方の承認の下、荘園の軽愚全てに対し、新式の知性強化及び不老長寿化の施術が施される事となった。



[37967] 6話「阿修羅の学師」その58
Name: トファナ水◆34222f8f ID:46137904
Date: 2016/06/07 23:38
 老侍が目覚めると、見知らぬ部屋に敷かれた布団の中だった。
 褌(ふんどし)に至るまで全ての衣は脱がされ、全裸である。

「毒が効かずに死に損じたか、何と無様な……」

 自分達は毒で自裁し果てた筈だが、ここは地獄や極楽の類ではなさそうだ。
 開けられていた窓からは星空が見える。一方で夜にも関わらず、室内は昼の様に明るい。灯火ではなく、補陀洛(ポータラカ)の法術で照らしているのだろう。
 波の音と潮の匂いで、ここが仮宮ではなく海辺である事も解る。

「御目覚めの様ですわね」

 枕元からの声に老侍が顔を向けると、そこには謁見で見かけた、純白の衣を纏った阿修羅(アスラ)の女が座していた。和国の女ではまずしないであろう、胡座(あぐら)である。

「貴殿は確か、計都(ケートゥ)殿…… でしたな。帝(みかど)に学問を説かれたという」
「ええ。その通りですわ。ここは答志島にある、小生の屋敷ですの」
「答志島……」

 九鬼水軍の本拠だった答志島が、現在は補陀洛(ポータラカ)で学問を司る”一門”の支配下にあるという事は老侍も知っていた。自裁の後、運ばれて来たらしい。
 
「拙者が飲んだあれは、毒ではなかったのですかな?」
「いいえ、あれはまさしく毒でしたわ。貴方は骸となり、一月の後に蘇りましたの」
「一月ですと?」
「ええ」
「貴殿は冷徹な方と伺っております。何故、我等の如き無能を助命なさったか?」

 計都(ケートゥ)の冷徹非情ぶりは伊勢中の噂になっていた。それがなくとも、理由もなく慈悲を掛ける様な女ではない事は一目で解る。
 穏やかに微笑んではいても、その眼光からは揺るぎない信念が見て取れる。己の理想の為ならば、数多の命を屠る事をも厭わないであろう狂信者である。

「いかにも小生は冷徹ですもの。ですから手が足りぬ現状では、皆様方の死を願う御気持ちを叶えて差し上げる余裕はありませんのよ」
「補陀洛(ポータラカ)は強大な国と伺っております。手が足りぬとは?」

 老侍の問いに頷いて答えた計都(ケートゥ)の”手が足りず余裕がない”という意外な理由に、老侍は当然の疑問を持った。

「一門が造ろうとしている新しき世の理念に賛同する者は、残念ながら多くありませんの」
「帝は生き仏の力で妖(あやかし)、ああ、御無礼を。神属の方を魅了出来るという事でしたが、それに抗しえる者がいるという事ですかな?」
「あの力は活仏が相対した者にしか効きませんの。決して万能ではありませんわ。ですから、貴重な信頼に足る臣の内、過半は遠征に加えず国元に残しておかなくてはなりませんでしたの」

 老侍にも思い当たる節はあった。補陀洛(ポータラカ)の者は将兵・文官共に女が多く、数少ない男子は元服を迎えるかどうかの若輩ばかりが目立つ。水軍の兵はそうでもない様だが、あれは帰順した大江党で、譜代の兵ではない。
 計都(ケートゥ)の説く思想に賛同する者はと言えば、男中心の世にあって抑えられていた、才覚ある女。そして幼少より、一門の教えを絶対視する様に染め上げた若年の者という事なのだろう。
 しかし、寡兵でありながら補陀洛(ポータラカ)は伊勢を苦もなく手中にしている。
 平家の男子が、自分達の出る幕はないと考えたのもその為だった。補陀洛(ポータラカ)に正面から対抗出来る軍勢等、和国の如何なる勢力も持ってはいない筈だ。

「しかしながら、和国に於いて対するであろう、人の軍勢如き問題にならぬのでは?」
「単に戦に勝つのみならば。ですけれども、広げた版図を治めるにも手は要りますもの」
「確かに……」

 士分の役目は戦のみではない。むしろ平時にあって政を担い、治安を維持するのが本分である。無闇に領土を広げても、治める者が足りなければ重荷でしかないのだ。
 通常、戦で得た領地を治める為には、下した敵の内から従順な者を召し抱えるのだが、計都(ケートゥ)は謀反への警戒からそれを好まない。その用心深さが人材登用の枷となっていた。

「そこでまずは伊勢を掌握し、一揆衆の内から見込みのある者を登用、育成して力をつけさせた上で和国全体を併呑するつもりでしたの。おおよそ五ヶ年で支度を整える筈でしたのに……」
「殆どの民百姓を処断する事になり、目論見が崩れたという訳ですな」
「ええ。圧政から救い出した恩を以てしても、卑しき身分とされた者を虐げる悪弊を正すには至りませんでしたわ」

 伊勢の内政が落ち着いた後、家畜や法術の導入で余剰となった人手から足軽を募って和国併呑に活用するというのが、一門が画策した当初の企てだった。
 だが、賤民解放の勅令に抗する一揆衆の姿勢を受け、計都(ケートゥ)は”価値観が共有出来ず、かつ従順さに欠け信頼が出来ぬ”と早々に見切りをつけた。
 言仁が一揆衆へ勅令に従う様、厳罰を示して強く迫ったのを機に、計都(ケートゥ)は熱田の間者が残した仕込みを利用して、相容れぬ民を鏖殺すべく自害に追い込んだのである。
 働き手としての価値よりも、皇道楽土の障害を廃する方を優先したのだ。勿論、穴を埋める算段も考えていた。
 しかし水軍と近衛が一揆衆の説得に動いた事で、一揆衆の多くは自害を思い留まり改悛の意を示した為、鏖殺は不充分に終わる。
 だが、宮刑に処した上で放免はする物の、一揆衆を和国併呑の先兵として登用する程の信頼はもはや出来ない。彼等は同志たり得ない事がはっきりしたのだ。
 平家の末たる賤民達は、それを補う為にも貴重な人材なのである。

「伊勢の賤民が平家の末と知ったのも丁度その頃ですの。皆様方であれば、政(まつりごと)に携わるに申し分ありませんわ」
「帝(みかど)に御仕えするには、人の身ではあまりに非力ではありませぬか?」
「なればこそ、皆様方には新たな力を供しましたの。あの薬は、皆様の身体を”尸解仙(しかいせん)に造り変える為の物ですわ」
「尸解仙というと確か…… 肉体が朽ち果てた後、不老長寿を得て仙人と化した道術使いの事ですな」

 老侍は合点がいった。
 尸解仙は、一度死した後に蘇って成る物という。ならば、それと化す為の仙薬は毒であって然りだろう。
 人間のままでは弱いならば、それを超える力を与えれば済む。補陀洛(ポータラカ)にはそれが出来るのである。
 死を望む自分達の願いを聞き入れて自裁を認め、力を得て蘇った後に仕えさせる。
 自分達は蘇る事を知らされていなかった為、あれで父祖の罪を購ったという体裁は整ったという事にもなる。
 見事な頓智(とんち)としか言い様がない。

「不老長寿だけでなく、夜叉(ヤクシャ)に比する力と速さ。そして法術を使うに足る法力。勿論、学ばねば法術は扱えませんけれども。それにしても、よく御存知ですわね」
「読み書きを学ぶ為に幼い頃読んだ御伽草子(おとぎぞうし)に、その様な物語がありましてな。よもや真の事とは思いませなんだ」
「御伽草子等、街で余裕のある層でのみ出回る物。幕府の力が落ちて乱世となって以後は殆ど描かれなくなったと言いますけれども、どの様に入手なさいましたの?」
「平家が天下を握っておった頃の物です。落ち延びる際、子弟の為にはこういう物も入り様であろうと、捨てずに残しておいたという事です」
「それは素晴らしい慧眼ですわね」

 御伽草子で読み書きを学んだと聞き、賤民に身をやつし雌伏の時を送る最中でも幼子に教養を伝える具を保ち続けた平家の姿勢に、計都(ケートゥ)は学師として感心した。

「ところで、他の者はいずこに?」

 老侍は、共に自裁に及んだ五百名程の者が心配になった。自分一人だけが残されたという訳ではあるまいが、どの様な処遇を受けているのだろうか。

「こちらを御覧なさいな」

 計都(ケートゥ)は、部屋の壁に掛けられた銅鏡を示した。幻灯を映し出す機能を持った、八咫鏡(やたのかがみ)の複製品である。

「!」

 そこに映し出された異様な儀式の光景に、老侍は絶句した。
 板張りの広間に、何百名もの全裸となった男達が仰向けで横たわり、その腰の上には漆黒の肌を持つ若い女が、やはり全裸でまたがり、身体を上下に振っている。
 男の側は平家、女の側は一門である事が見て取れる。
 一見、交合の様に見えるが、男は氷の様に固まったままで身じろぎ一つしない。
 女の顔も座禅を組む禅僧の様に乱れがなく、ただ一心不乱にいきり立った陽根を女陰から抜き差ししている。

「道術でいう”房中術”ですわ。仙薬で一月かけて造り変えられた屍に、男女の交合により霊力を循環させる事で再び生命を吹き込みますの。あれが仕上げですわね」
「術と言えども男女のまぐわい。あの様な事をして、子を為した場合は如何するおつもりか?」

 自分達に不老長寿を与える為、学徒が夫でもない男の胤を孕むというのであれば、老侍としては何とも心苦しい。
 また、妻帯の者も多い為、子が産まれたとなると、平家の女衆と一門との間で確執が生じる事にもなりかねない。

「尸解仙に限らず、不老長寿の為に身体を造り変えた人間は、男女を問わず子を為せぬ身になりますから無用の心配ですわね」
「何ですと!」

 老侍は思わず声を荒げた。不老長寿と引き替えとはいえ、子孫を残せぬとは一大事である。

「子を為せぬと言っても、宮刑を受けた百姓共と違って交合には差し障りありませんわ」
「その様な事ではなく、帝も胤を断たれてしまったと申されるか!」

 老侍の頭に真っ先に浮かんだのは自分達の事よりも、既に不老長寿を得ている言仁の事だった。
 千年の命があるとはいっても、言仁もいずれは寿命が尽きる。そうなれば皇統が絶えてしまうではないか。
 かと言って、現在の京にある朝廷は、言仁から見れば偽朝にあたる。禍根を残さない為に敵は鏖殺すべきと唱える計都(ケートゥ)が、血統を保つ為にその存続を許すとは思えなかった。

「活仏や一門の者の様な、生まれながらに法力を持つ阿羅漢(アルハット)は大丈夫ですわ。身体を造り変えずとも、十日に一度程、神属の乳を飲むか、あるいは腎水 ※精液 を胎に受ければ、不老長寿を保てますの。そういった霊力の素を得なければ常人と同じ様に老いますから、和国に限らず、阿羅漢(アルハット)であっても不老長寿の者は希ですけれどもね」
「左様であったか……」

 言仁が子孫を残せると聞いて老侍は胸を撫で下ろしたが、ふと気が付いた。
 尸解仙を目覚めさせるには術者が交合して房中術を施す必要がある。ならば、自分にそれをしたのは誰なのか。

「ところで、拙者に房中術とやらを施したのはどなたですかな?」
「小生ですわ。こんな綺麗な子とまぐわえるとは役得でしたわよ」

 事も無げに応えた計都(ケートゥ)に、老侍の目は点になった。
 補陀洛(ポータラカ)の神属社会と和国では貞操感が全く異なる事は、老侍もある程度の話を聞いて知っていた。特に計都(ケートゥ)であれば、必要とあらば情を交えず誰とでも躊躇なく同衾に及ぶだろう。
 だが、自分の様な老人を”綺麗な子”とはどういう事だろうか。長命な阿修羅(アスラ)にしてみれば自分は童に等しいかも知れないが、見てくれはこちらの方が遥かに老いている。

「こんな老いぼれが相手では、世辞にもなりませんぞ」
「そんな事はありませんわよ」

 老侍が苦笑すると、計都(ケートゥ)は指を鳴らして八咫鏡に映っていた光景を消し、改めて鏡面を覗く様に促す。
 老侍が鏡に映る己の顔を見ると、そこには齢十五前後の、女と見まがう様な若人が映っていた。
 先に不老長寿を得た女衆を見ていたので、若返っている事自体は驚くにはあたらない。それを忘れて己を”老いぼれ”と称したのは、計都(ケートゥ)も心外だっただろう。
 確かに顔立ちは、若かりし頃の自分の面影がある様にも思う。だが、端々に現れている特徴が、単純に若さを取り戻したのではない事を示していた。
 まず、薄くなっていた髪は白髪のまま、ふさふさと繁って肩まで伸びていた。
 肌は血の気がない蒼白と化し、対比する様に瞳は血潮の様に紅く染まっている。そこまでなら、希に生まれる”白子”に近く、人間から外れるという程ではない。
 しかし、唇から伸びる夜叉(ヤクシャ)の如き鋭い牙を持つ人間はいないだろう。

「姿が少々変わりましたけれども、とても綺麗ですわよ」
「これが…… 尸解仙……」
「皇国には様々な種がいますもの。腕が六本ある小生の前で、牙が生えた位で狼狽える様ではいけませんわよ?」

 人外に変化した己の姿に呆然とする老侍を、計都(ケートゥ)はさも可笑しそうに笑うのだった。



[37967] 6話「阿修羅の学師」その59
Name: トファナ水◆34222f8f ID:46137904
Date: 2016/11/05 08:25
 老侍は、着替えに差し出された直垂(ひたたれ)を身につけ、用意された夕餉(ゆうげ)を口にした。
 挽いた獣肉を練った麦粉の皮で包み蒸かした”饅頭”である。
 異国の珍味に老侍は舌鼓を打ち、腹は充分に満たされたが、まだ何かが物足りない。
 飢えとも渇きとも違うが、身体がまだ足りぬ何かを欲しているのが解る。
 差し向かいで共に食事を済ませた計都(ケートゥ)にそれを訴えると、彼女は満足そうに頷いた。

「尸解仙の身体を保つには、これまでの食や水に加えて、霊力を外から補わねばなりませんの。身体がそれを欲しているのですわ。大丈夫、術式が成った証ですわよ」
「……それは、神属の方々が食している、人間の脳髄ですかな?」

 霊力を補わねばならない身体になったと聞き、老侍の頭に浮かんだのは、神属が”贄”と称して食している、人間の脳髄の事だった。
 自分達もそれを食わねばならぬのかと彼は覚悟したが、計都の答えは違った。

「いいえ。並の人間に不老長寿を与える手法はいくつかありますけれども、なるべく贄の食い扶持を増やさずに済む物にしませんとね。皇国の臣民を皆、その様にするのですから」

 不老長寿を得た人間は神属に体質が近付く分、体内で造られる霊力だけでは身体が維持出来なくなってしまう。
 不老長寿を得た人間が霊力を補う為、神属同様に贄の脳髄を食する様になると、白痴の畜産が順調に進んでも、需要を満たす事は到底困難となるのは間違いない。
 その為、不老長寿を与える際には、人間の脳髄以外の物から霊力を摂取出来る様になる手法である事が望ましいのだが、その殆どが大古の戦乱で失われて久しい。
 捜索の末、ようやく探り出した幾つか手法の内の一つが、”尸解仙”化である。補陀洛(ポータラカ)では馴染みの薄い”道術”の系統に属する物だが、ふとした偶然で秘伝書らしき書物を入手したので、若干の改良を加えた上で平家の男子に使ってみたという訳である。

「御苦心なさっておられるようですが、そこまでして人間に不老長寿を与えるべきものでしょうかな。人の身に生まれた上は、備わった寿命で満足すべきかと拙者は思いますがな」

 計都(ケートゥ)の解説を聞いた老侍は、その思慮に感心しつつも疑問に思った。
 一度(ひとたび)生を受け、滅せぬ物等ない。身体を歪めてまで生に執着すべき物であろうか。
 自分達は侍の務めを果たす為に尸解仙とされた。それはやむなき事だろうが、闘う為の力は有用でも、長寿については蛇足に思われる。

「そういった考えに立ち、不老長寿を求める者を浅ましいと忌む向きもありますけれども。寿命が並ばぬ限り、いつまでも人間は神属に組み敷かれたままになってしまいますもの」

 老侍の様な疑問を持つ者は初めてではない。有史以来、不老長寿を求める者、対してそれに異を唱える者は双方とも数多いる。
 不老長寿を欲さぬ老侍の心情を計都(ケートゥ)は静かに受け止めつつ、自分達の意図を語った。
 和国統治に際して、臣民と認められた人間には不老長寿を与えるのが補陀洛(ポータラカ)の方針である。
 寿命の長短は知識・経験の蓄積の差に直結し、神属と人間が隔てなく暮らす”諸族協和”の最大の障害と考えられている為だ。

「寿命が著しく異なる種が共に暮らせば、優劣が生じて当然ですわ。それを無くす事こそ、活仏の望みですのよ。小生がその様に説くまでもなく、あれが自ら唱えた事ですわ」

 主君たる言仁の意思とあれば、平家はその実現に邁進する事こそが務めである。
 明らかに過ちであれば諫める事も臣の役割であろうが、計都(ケートゥ)の説明は全く理にかなっており、否定する様な物ではなかった。

「帝(みかど)の御慈悲あふれる御意なれば、万難を排して果たしましょうぞ」
「結構ですわね。ならば早速、体の内から湧き出る渇望を満たしに参りましょうか」

 計都は老侍を、屋敷の外にある”施術の間”の前へといざなった。
 宮司の嫡男を二形(ふたなり)に造り変える時にも使われた、高度な医術を施す為の離れである。
 その前には齢十歳程の、剃髪された少年が全裸で座らされており、傍らには、学徒らしき若い女が介添えとして控えていた。普蘭(プーラン)である。
 少年は眼を閉じ、静かに寝息を立てている。薬か法術で眠らされているのだろう。
 この場で何が行われようとしているか、自分が何を担わさせられるのかを老侍は察した。
 罪人の仕置である。

「もしや拙者に、この者を斬れと申されるか! この様に幼き者を!」
「ええ。見事、首を刎ねて下さいませ」

 思わず声を荒げた老侍に、計都(ケートゥ)は動じる様子もなく淡々と応じた。
 罪人であれば屠る事に躊躇はないが、この幼子自身が死罪に値する咎を犯した訳ではないだろう。恐らくは神宮に連なる者としての連座という事なのであろうが…… 
 眠らせてあるのは、せめてもの慈悲であろうか。
 老侍は躊躇ったが、計都(ケートゥ)が自分達の覚悟を試しているのは明白である。
 ここで自分が拒めば、平家その物の忠節を疑われかねない。

「わかり申した」
「こちらをお使い下さい」

 意を決した老侍が頷くと、普蘭(プーラン)が太刀を手渡してきた。
 老侍が愛用していた古太刀で、馬上から振るうのに適した長尺で厚手の刃である。
 公家の如く雅を尊んだ平家の好みではなく、実用を重んじた板東武者、即ち源氏が好んだ無骨な造りだ。
 伝わる由来ではかつての平治の乱の際、討った敵から奪った物という。
 老侍は童の背後に廻ると、愛刀を振りかぶって構えたが、心にはまだ迷いが消えていない。
 手元が狂ってし損じてはならないと、平静を取り戻す為に彼はそっと眼を閉じ、涅槃(ねはん)経の一節を口ずさんだ。

「諸行無常、是生滅法、生滅々己」

 経文により瞬時に頭が澄み渡った老侍は、再び目を見開いた。

「寂滅為楽ッ!」

 最後の一言と共に刃を振り下ろすと、瞬時に童の頭部は落ち、前のめりに崩れた躰の切り口からは鮮血が吹き上げる。
 太刀を振り鞘に収めた老侍は、童の骸に合掌して悼んだ。
 普蘭(プーラン)は首を拾い上げると愛おしそうに抱きかかえ、施術の間へと入って行く。脳髄を贄に供する為、頭蓋から抉るのだろうかと老侍は思った。
 だが、尸解仙は脳髄を食する必要はないという。ならば自分は何の為に、童の斬首をさせられたのだろうか。

「では、骸の血抜きを行いましょうか」

 計都(ケートゥ)に示されるまま、老侍は用意してあった縄で骸の両足を縛り、”施術の間”の軒下へとと吊す。その下には、やはり用意してあった大瓶を置いた。
 したたり落ちて瓶に溜まった血潮を計都(ケートゥ)は柄杓(ひしゃく)ですくい上げて老侍へと差し出す。

「お飲みなさいな」

 老侍が怖々と柄杓に口を付けると、甘美な味が口いっぱいに広がった。
 たまらず一気に飲み干した後で、思わず我に還る。

「拙者の体は……」
「ええ。人間の生血こそ、尸解仙の霊力の源ですの」

 計都(ケートゥ)から、自分達が生血を啜らねばならぬ異形となったと聞き、老侍は思わずうな垂れた。
 補陀洛(ポータラカ)は、善男善女を贄とする事を厳しく禁じている。無分別に他者を襲わず、然るべき者だけを贄とする限り、恥じる様な事ではないと頭では解る。
 だが、容易に割り切れる物ではなかった。

「十日に一度、一合 ※約180ml 程で結構ですわ。神属が脳髄を得る為に贄を潰せば、当然に血が出ますわよね。それを尸解仙が飲めば無駄がありませんわよ」

 打ちひしがれる老侍をなだめる様に、計都(ケートゥ)が解説を加える。
 確かにそういう事であれば、尸解仙の為だけに贄が屠られる事がない。これまで無駄になっていた生血を、無駄なく活用するだけだ。また、一合程度であれば、相手を必ずしも死なせずに血を抜く事も出来るだろう。
 計都(ケートゥ)の策は常に理にかなっている。情で一時は反発しても、結局は納得するしかないのだ。
 老侍は、師の立場で実質的に言仁の上に立つ阿修羅(アスラ)の女に、底知れない畏怖を感じざるを得なかった。



[37967] 6話「阿修羅の学師」その60
Name: トファナ水◆34222f8f ID:46137904
Date: 2016/05/29 11:06
 東の空が白みがかって来た。間もなく日の出である。頭を出しつつある旭光に、老侍は絶えきれない眩しさを感じた。
 とても眼を開けてはいられない。

「こ、これはどうした事だ!」
「とりあえず中にお入りなさいな」

 目を瞑り呻く老侍を、計都(ケートゥ)は手をひいて”施術の間”の中へといざなう。

「もう大丈夫ですわよ」

 計都(ケートゥ)は入り口の戸を閉め、老侍に眼を開ける様に促した。
 眼を開いた老侍に映ったのは、石畳の床に、多くの壺や書物が並べられた棚であった。
 部屋の半分は白い衝立(ついたて)で仕切られており、向こう側からはがさごそと物音が聞こえて来る。
 先に入室した普蘭(プーラン)が、刎ねた首の処置をしている事は容易に察せられた。

「あそこまで旭を眩しく感じたのは、どういう訳でしょうかな?」
「尸解仙の難点ですわ。陽光の下では瞳が耐えられなくなりますの。肌も同様に、およそ半刻を超えて長く陽光に晒すとただれてしまいますわよ」
「つまり、拙者達は不老長寿と引き替えに、御天道様の下では生きられぬと……」

 人の身を歪め不老長寿になるには相応の代償を伴うと言う事を、老侍は改めて思い知った。生血を飲むだけではなく、千年に引き延ばされた長い生涯を通じ、太陽を仰ぎ見る事が出来ぬ身と成り果ててしまったのだ。

「大袈裟ですわね。笠と面布を被り、肌を出さぬ衣を纏えば日中の外出も容易ですわよ」
「左様でありましょうがな……」

 老侍の嘆きに、計都(ケートゥ)は簡易で有効な対処法を示す。
 だが、老侍にしてみればその様な問題ではなく、太陽に拒まれる躰になってしまった事自体が嘆かわしかった。

「その代わり、夜目が効く様になっていますわね」
「ふむ?」
「お気づきになりませんでした? 先刻の斬首を行う際、夜明け前でしたけれども。灯りは使いませんでしたわよ?」

 全く不自由なく見えていたので、灯りがない事に老侍は全く気付かなかった。
 だが思い返せば、辺りは暗いままだったにも関わらず”見えていた”のだ。

「小生達は夜目を効かせる法術を使っていましたけれども、貴方は自然に見えたままですわ。それも、尸解仙の力なんですの。貴方も侍ならば、それを如何に活かすかを考えた方が賢明ですわよ」
「全く、貴殿にかかってはかないませんな。悉くが理にかなっておられる」
「恐縮ですわ」

 老侍は改めて計都(ケートゥ)に感嘆した。
 夜目が利く兵は、夜襲がし易く有利である。日中に於いて被る欠点も補う手段がある以上、今の体質は決して損ではない。
 計都(ケートゥ)の言う通り、嘆くよりも前向きに考えるべきなのだ。

「施術の下処置を終えました」

 衝立の奥からの普蘭(プーラン)の声を聞き、計都(ケートゥ)は頷くと老侍に向き直った。

「これから何を行うか、貴方にも見て頂いた方が早いですわね」
「一門に属さぬ拙者が拝見しても宜しいのですかな?」
「貴方は活仏の忠臣ですもの。とくと御覧になって下さいませ」

 計都(ケートゥ)は普蘭(プーラン)に命じ、衝立を取り払わせる。
 老侍の眼にまず映ったのは、大きな寝台、そしてその上に仰向けで寝かされている裸身の女だった。
 歳の頃は二十五、六頃か。大きく股を開かされ、両肢を縄で固定されていた。
 先程の童と同じく眠らされている様で、顔立ちは整っている物の、呆けた様に口を開いて涎を垂れ流している。

「この者は!」

 老侍はこの女の事を見知っていた。
 老侍が暮らしていた集落にほど近い農村の住人で、見目は麗しいが、どうにも頭が足りないという風評だった。
 嫁の貰い手もないまま、智恵が足りぬ故に男達の求めには簡単に応じ、父の定まらぬ子を何人も孕んでは産み落とし、その度に産婆が”返して”いたという。
 要は身持ちの悪い痴れ者なのだが、賤民に身をやつしていた平家の女が百姓に手込めにされそうになっているのを見かけると、代わりに自分を犯せと言って庇い、逃がしてやる事がしばしばあった。
 当人にしてみれば、強い色欲を満たしたいが為の行動だったのだが、それでも結果的に救われた事には変わりがない。

「平家はこの者に恩があります故、他の百姓共同様に咎に問われているのでしたら、どうか慈悲を願いたい」
「その辺りの事は小生も承知していますわ。なればこそ功に報いる為にも、皇国の民として相応しくなる様に造り変えますのよ」

 この女は咎人という訳ではないという答えに、老侍は安堵した。
 功に報いるというという事は、不老長寿を与えるのだろうか。

「尸解仙……ですかな?」
「いいえ。これを新しき世に住まわせる為には、臣民となる為に足りぬ物を補わねばなりませんの。その為の施術ですのよ」
「この者に足りぬ物と言う事は、智恵を常人並に引き上げるのですかな?」
「御明察ですわ」
「ううむ……」

 ”馬鹿に付ける薬はない”と昔から言うが、補陀洛(ポータラカ)にはそれが出来ると聞き、老侍は思わずうなった。
 どの様に行うのかは皆目見当がつかないが、流石に”ちちんぷいぷい”等と呪文を唱えて終わりとはいかず、見る限り相応に手間がかかる様ではある。

「では、施術を始めたく思います」

 普蘭(プーラン)は、壁面の棚に置かれていた大きな壺の一つを軽々と持ち上げ、寝台の脇へ置いた。
 円柱状の壺は、和国では珍品として重宝される玻璃(はり) ※ガラス で出来ており、中身が透けて見える。
 その中は薬液で満たされ、先程の童の首が漬けられていた。

「咎人の脳は食すると聞いておりますが、この様な場で使い途があるのですかな?」
「この首は咎人ではありませんわよ?」

 計都の言葉に老侍は思わず激昂し、太刀の柄に手を掛けた。

「無辜の童を手に掛けさせるとは、帝(みかど)が御承知の事とは思えぬ所行!」
「御待ち下さい! 誤解です!」

 いきり立った老侍に、普蘭(プーラン)は慌てて弁明した。計都(ケートゥ)はそれを手で制して言葉を引き継ぐ。

「死んではいませんわよ。貴方には只、これから行う術式の支度を手伝って頂いただけですわ」
「では、この童は生きておると?」
「ええ」

 計都(ケートゥ)は穏やかな口調で説明し、老侍は訝しげな顔ながらも柄から手を離した。
 
「この童もまた、寝台に横たわるそれ同様、智恵が足りずに生まれた者ですの。首から下は今後無用となりますから、切り離しましたのよ」
「無用と言うと、首だけで生きて行く様にすると?」

 怪談の類には、刎ねられた首が生きているという様な話もある。補陀洛(ポータラカ)の医術なら出来るかも知れない。
 首だけで生きるとは、尸解仙とは比較にならない程に不自由と思われるが、智恵を延ばす代償はそれ程に重いのだろうかと老侍は考えた。
 だが、計都は彼の問いを一笑に付して否定する。

「まさか。臓腑もなく、首だけで生きていける訳がありませんわよ。これはあくまで一時の処置ですわ」
「どういう事ですかな?」
「施術を執り行いますから、直に御覧なさいな」

 計都(ケートゥ)の指示を受け、普蘭(プーラン)は童の生首を壺から取り出した。
 薬液に濡れたそれの頭頂を、両肢を開かされた姿勢で眠り続ける女の女陰に押し当てる。
 陰門は赤子を産み出す時の様に大きく開き、普蘭(プーラン)の手で押し込まれるままに生首を呑み込んでいった。
 生首がすっかり納まった女の腹は、孕んで半年程の妊婦の様にふくれている。

「智恵の足りぬ二人を一人として繋げる事で、並の智恵を得られますわ。それぞれの記憶は保ったまま、自我は一つに混ぜ合わさった新たな物に。貴方の持つ概念の内で言うなら…… 前世の記憶を保ったままでの”輪廻転生”に近いですわね。童の側の躰が無用と言ったのはこういう事ですの」

 異様な施術を前にして、老侍は言葉を発する事が出来ずに立ち尽くす。
 命を造り変える所行を平然と行う計都(ケートゥ)達に、目的の正しさを知っても猶、何とも言い様がない禍々しさを感じるのだ。
 咎人の屍を殭屍(キョンシー)と化しての行列は、見せしめを含めての事として理解した。
 自分を含む平家の男子を尸解仙としたのも、力を与える為と解る。
 だが流石に”智恵が足らぬ者は、二人を一人にすれば事足りる”と思いついたあげくに実行してしまう一門の所行を、そのまま受け止める事は難しかった。

(こうせねば、この二人は愚者として軽侮され続けねばならぬ。救う術を知らぬ拙者に、この所行を忌む事は許されぬ……)

 嫌悪感をどうにかねじ伏せようと、老侍は理を心の中で呟き続けた。




[37967] 6話「阿修羅の学師」その61
Name: トファナ水◆34222f8f ID:46137904
Date: 2016/06/05 17:31
 施術が終わり、女は普蘭(プーラン)によって身体を清拭された上で寝間着を着せられて行く。
 後処置が終わると、計都(ケートゥ)は両耳の耳飾りを外して床に投げつけ、二体の龍牙兵を呼び出した。

「寝台に寝ているこれを、養生棟に連れてお行きなさいな」

 龍牙兵は合掌して主命を受け、壁際に立てかけてあった一畳程の大きさの板に女を載せると二体でそれを持ち上げ、普蘭(プーラン)に付き添われて運び出していった。

「この者はどうなりますかな?」

 後処置が行われている間に何とか嫌悪感を理性でねじ伏せた老侍は、女の行く末を案じた。これからまた、面妖な処置を受けるのだろうか。

「およそ五日程は眠り続けますわね。目覚めた時には精神が融合し、一人の人格となっていますわ。その後は、適切に学を修めさせれば常人よりも賢しくなって行きますわよ」
「ほう? ただ常人に智恵が追いつくだけではないのですかな?」
「常人の脳が持つ智恵の力を十とすると、女側の智恵はおおよそ七、童の方は六ですわね。足せば十三になりますの」
「一人足りませぬが”三人寄れば文殊の智恵”という訳ですな」
「飲み込みが早いですわね。どうせ智恵を延ばすなら、より賢しく使える様にすべきですもの」

 禁忌とされた施術を許された上は、単に並の臣民として世に戻すのでは勿体ない。より秀でた人材に仕立て上げるべきというのが計都(ケートゥ)の考えである。

「ならば、並の智恵を持つ者同士をつなぎ合わせれば、より賢しくなりませんかな?」
「良い質問ですわね」

 この狂信の学師なら、さらなる知性を求めてこの施術をより広く行うのではないかと、老侍は懸念した。
 計都(ケートゥ)は老侍の不安に構う事なく、技術に対する問いを受けた事を悦び、満面の笑みで応える。

「試みはありましたけれども、被験者は狂い死にしましたわね」
「く、狂い死に……」

 懸念は払拭した物の、笑顔で凄惨な答えを返された老侍は息を呑んだ

「智恵が高い脳同士をつなぎ合わると、人格の融合がうまく行きませんの。およそ、足して十六が限界ですわね。余裕を見て、十二から十四に留める様にしていますの。勿論、限度の試しに際しては咎人を用いましたわよ」
「限度を見極めたという事は、しくじった者ばかりではなく、成った者もおりましょう。その者は?」
「御心配なさらずとも大丈夫ですわ。別の術の試しに、絶命するまで使い廻しましたわよ。新しき世に相応しからざる者を解き放つ等、あり得ない事ですもの」
「左様か……」

 咎人の仕置をし損じた場合、天恵として咎人を解き放つ例は古今東西よく見られる。
 だが、補陀洛(ポータラカ)の治世では、その一縷の望みすらないのだ。

「先の問いに戻りますわね。この施術は、軽愚に生まれついて世に役立てぬ者をつなぎ合わせ、皇国の民に相応しく仕立てる事にこそ意義があると小生は考えていますの。言葉を解する故に獣ではなく民として遇さねばならず、さりとて並の働きも出来ない。ならば治して役立てる方が理にかなっていますわよ」

 軽愚の処遇について、計都(ケートゥ)の主張は合理的だが、彼女の考えの内では珍しく、一門にも慎重な者が多い為に必ずしも賛同を得られていない。
 今後に生まれ来る赤児については、脳を診察すればすぐに解る。一応は”民”の範疇に入る為、贄として飼育する事は許されないが、苦しまぬ様に”返せば”事足りる。
 問題は、既に生まれ育っている軽愚の処遇をどうするかだ。
 劣った血統が残るとの懸念もあるが、一方の胎内に他方の頭部を格納・融合するという手法を取るので、被術者は受胎出来なくなる。
 さらに元々、人間の不老長寿化は生殖機能の喪失を伴う為、実質的には二重に断種する事になり、軽愚の子孫は生じない。
 合理的には反対する理由がない筈だが”生来の軽愚に知性を補う施術は、霊長と鳥獣の境界を脅かす”との懸念が根強い。
 言仁も知性の補完には消極的で、軽愚が周囲に”役立たず”として疎まれる事が無い様、悲田院を設立して養う旨を定めたのは彼である。それを税と労力、土地家屋諸々の無駄として、軽愚は成年も童とみなし”返す”べきと諫言する家臣もいたが、言仁に哀しげな瞳を向けられると強くは言えなかった。
 今回は”賤民の虐待に加わらなかった軽愚に恩義を返したい”という奥妲(アウダ)の願いを利用し、和修吉(ヴァースキ)が技術的興味を満たすべく、数百年来の間封印されていた施術を持ち出した。
 さらには学師へ昇格すべく功績を欲する普蘭(プーラン)もそれに乗り、軽愚の知性を改善して臣民に加えるべきと以前から考えている計都(ケートゥ)が認可を与えたのである。
 言仁はやはり躊躇っていたが、軽愚自らが選んだ事であると和修吉(ヴァースキ)に示され、さらには計都(ケートゥ)の持論に賛同する弗栗多(ヴリトラ)にも強く迫られた為に、結局は追認せざるを得なかった。

「貴方はどう思われます? 思う処を御聞かせ下さいな」

 経緯を聞かされた老侍は、考えた末に口を開く。

「愚かに生まれついた者は、周囲の慈悲なくば生きられませぬからな。独り立ち出来る智恵を与える事自体については意を違える事はありませぬ。二人をつなぎ合わせるという手法については如何かと思いますが、他に無ければやむなきかと存じますな」

 熟慮された答えは計都(ケートゥ)を納得させたが、彼女はさらに問いを続ける。

「活仏は甘いと思います?」

 主君たる言仁の意向を批判する問いに、老侍は思わずうなった。

「……民に余計な税を掛けずに軽愚共を養えるのであれば、慈悲の内ではありましょうが……」
「ええ。公で面倒を見るとはいう物の、結局の処は税を費やします物ね」
「然り……」

 主君の方針を否とする言葉を発し切れず、老侍は口を濁した。しかし、続く計都(ケートゥ)の言葉には頷く他なかった。
 天災等による一時の救済ならともかく、自力で生きられないからと言って税で生涯を通じ養うのは、民に不満が生じるだろう。
 まして治す手法があるのに、それをせずにただ養うというなら、偽善のそしりは免れまい。

「貴方、よく解っていらしゃいますわね」

 老侍は、冷徹な理を微笑んで説くこの畏怖すべき阿修羅(アスラ)に、自分の考え方が好ましいと見込まれた事を素直に喜べなかった。


*  *  *


尸解仙と化した平家の男子達は、学徒達との交合で霊力を注ぎ込まれてから二日程過ぎた夜半に、寝かされていた講堂で次々と目覚めた。
 死ねなかった事や身体の変化に戸惑う者も多かったが、皇国に人材が不足している事、そして”一度死して償ったのであるから、蘇った後は生きて仕えよ”との言仁の勅意を伝えられると、それ以上異を唱える者はいなかった。
 彼等は少人数に分けられ、さらには一人づつ呼び出されて行く。
 何があるのかと訝りながら、案内役の学師、あるいは武官に連れて来られた先に待ち受けているのは、眠らされた哀れな童。
 童の首を命じられるままに刎ねられるか否かが、先の老侍同様、彼等に課される試問である。
 平然と童の首を刎ねる者。
 躊躇しながらも命に従う者。
 まずは童の素性を尋ねる者。
 中には、童の首は刎ねられぬと頑として拒む者や、死を以て主君の暴挙を諫めんと自害を試みる者もいた。

 案内役は逆らった者にも決して無理強いする事は無かった。ただ、自害を試みた者についてのみは金縛りの法術で拘束して止めている。
 個々の対応を見定めた上で与えるべき職分を判じているのだ。
 案内役は、試問を終えた者に童が軽愚であり、首を刎ねるのは智恵を与える施術の前処置である事を説明した上で、与えられる役目に対応した宿舎にいざなっていった。
 尸解仙の身体に馴染む事を兼ね、平家の男子達は半年の間、ここで修練を積む事になる。


*  *  *


「如何でしたか?」

 試問を終えた報を八咫鏡で受けた時子は、その結果を鏡面に映る計都(ケートゥ)に尋ねる。
 彼女は予め、軽愚の童を斬首させるという試問の案を知らされ、承諾を出していた。

「童の首は刎ねられぬとする者が、存外と多かったですわね。およそ三割程ですわ」
「人としては正しくとも、武士(もののふ)にあるまじき覚悟のなさ。侍は主命のままに仏に逢うては仏を斬り、親に逢うては親を斬らねばなりませぬ。童であろうと然りというのに、何とも情けなや……」

 童を前にして非情に徹しきれなかった者の多さに、時子は平家の長として悔しさを露わにする。時子であれば、躊躇無く童の首を刎ね、例え赤児であっても平然とくびり殺しただろう。

「心根の優しき者は、それはそれで長所ですもの。文官の職もありますから、士分の男子といえども、剣を取らねばならぬわけではありませんわ」

 武人には向かなくても、性格にあった官職は用意されているという計都(ケートゥ)の言葉に、時子は安堵した。

「なれば、どうにも使えぬ者はおりませなんだか」
「ええ。皇国、ひいては活仏が忌むのは、殺戮を好む嗜虐の性根。斬首を愉しむ兆候が見えた者がいれば、困った事になりましたけれども、そういう者はいませんでしたわね」

 試問の重点は、嗜虐性を持つ者を見つけ隔離する事にあった。
 戦は政(まつりごと)の都合で行う手段であって、それ自体を目的とする様な者は平時に持て余す。また、配下や民草に横暴な者も、為政者としては欠格である。

「その様な狂気を潜めた者は、幸いにも一族にはおりませなんだか。もしいれば、どの様に始末をつけるおつもりでしたか? 咎を犯さぬ限り、処断する事はかないますまい」

 いかに困った者でも、罪人でなければ排斥は難しい。
 時子の疑問に、計都(ケートゥ)の答えは明快だった。

「一応、使い途はありますわよ。討ち死にを見込み、戦の度に先頭で斬り込ませる事になりましょう。当人はそれで幸せでしょうしね。使い捨てる矢と同じですわよ」
「それは、それは。流石は計都殿、全く無駄がございません事」

 二人は互いに通じ合う物を感じ、鏡を通して笑い合った。



[37967] 6話「阿修羅の学師」その62
Name: トファナ水◆34222f8f ID:46137904
Date: 2016/06/12 09:28
 二人の軽愚を一人に合わせる事で、智恵を改善する。
 眉を潜める者も少なからずいるが、この施術の有効性は明白であり、計都(ケートゥ)に一任された和修吉(ヴァースキ)の主導の下、一門によって進められて行く事となった。
 だが実施に先立ち、この施術の難点も幾つか言仁から指摘されている。
 まず、一体の身体で脳を二つ持たせる特徴から、この施術を受けた者には、法術を行使する才を持たせる事が困難となる。体内に於ける霊力の循環が複雑化してしまう為だ。
 これについては、日常の暮らしで法術が必要な場面では、法術具を使えば足りるという事で決着が付いた。
 そも、将兵や医師、あるいは法術具を作成する職工等の特殊な職を除けば、法術を使わねば生きられない訳ではない。例えば部屋に灯りをともすなら、法術を使わずとも油を燃やせば済むのである。
 一方、今一つの指摘は重大だった。
 施術の手法上、被術者の一方は必ず女、かつ孕める程に身体が成長していなくてはならない。だが、生来の軽愚は女一人に対しておよそ男二人の比率で生まれて来る。全ての軽愚に施術を行うには、これをどうにかしなくてはならない。
 渋々ながらも追認を与える際、言仁が最後まで懸念していたのはこの点だった。
 智恵が足りぬ軽愚への恩恵として行う以上、受けられない者が出てはならないというのが、言仁の出した条件である。
 智恵の合算が十六を超すと狂い死ぬ事が解っているので、不足する女子を補う為、あえて健常の者を加える事は出来ない。
 まず、先行して五百名の実施にはこぎつけた物の、本格的に推進するにはこの点を解決しなくてはならなかった。
 五百名の経過が良好である事を受け、和修吉(ヴァースキ)は自らの下で学ぶ、医術を専攻する学徒達を集めて討議した。

「国元からも軽愚を連れてきては?」
「当初は伊勢の民から始めるにしても、いずれは施術の対象として国元の民も含める事になります。なれば、男女の数の差を埋める事にはなりませんぞ」

 一人の学徒が意見を述べるが、別の学徒から反論が出る。伊勢だけでなく、補陀洛(ポータラカ)本国の軽愚も全て施術出来る様に考えなければならない。

「それ以前の問題として、伊勢の民は和語、補陀洛(ポータラカ)の民は梵語で思考する。言語の異なる者同士の脳を繋げると、自我の融合が難しくなる」
「翻訳の法術があるではないですか」
「あれは”他者が話した異なる言語が、自己の解する言語で聞こえる”物だ。つまり、自我を融合させた状態では効かぬ」

 和修吉(ヴァースキ)が技術的な困難を指摘し、本国からの移入案は退けられた。

「なれば薬座に、赤児に加えて軽愚の女子も他州から買い付けさせては? 他州であっても和国の民同士であれば良いかと思われます」
「同じだ。当座は凌げようが、いずれ和国全体を併呑するのだから、男女の数の差に対する根本的な解決にはならぬな」
「それを置いても、軽愚の女は淫売としての需要が強く、故に値が高いとも聞きます。勘定方が首を縦には振りますまい」
「勘定方か。御不興を被るのを顧みず、御夫君様に”成年であろうと軽愚は始末してしまう様に”と申し上げた位だからな」

 次に出た提案も、やはり和修吉(ヴァースキ)が難色を示す。加えて、学徒の内からも、費用面での不安が指摘された。
 勘定方とは、現代で言う財務部門を意味する。仕事熱心が過ぎて生命を財貨で評価する事を厭わず、一門とは別の角度から非情な一面がある。
 ちなみに、水軍が漁民に賤民解放の勅令に従う様に説得に動いたのは、鏖殺による労働力の激減を食い止めるべく、勘定方が根回ししたのも一因である。
 水軍を率いる茨木童子は元々、日頃から漁民に接している事もあり穏便な事態収拾を模索していたのだが、介入の決断に至ったのは勘定方の依頼も大きい。
 しかし勘定方は、漁民を救った同じ口で”軽愚を始末せよ”と主張した。
 彼等とて皇道楽土に賛意を示した為に和国遠征に加わっているのだが、それ故に、新しき世の建立に役立たない軽愚を排除せんと目論んだのだ。
 勘定方の価値観では、賤民を虐待した平民は、罰による恐怖で縛ればまだ使役出来る。
 一方で軽愚は、当人に責無しとは言えども、無駄に飯を食らう足手まといだ。施術で使える様になるなら、他の臣民と区分せずに遇する事に何の問題もないので、一門による施術の提案には諸手を挙げて賛意を示したのである。
 だが、足りぬ軽愚の女子を他州から高価で買い付けて補うとなると、話が変わって来るかも知れない。
 
「勘定方が施術に同意したのは、軽愚を優良な臣民に仕立て上げる事が出来るという点に尽きます。その為の出資であると言えば、他州からの軽愚の女子の買い付けも通るのでは?」
「悲田院で無為徒食の日々を送らせる事に比べれば、勘定方としても遥かに有益であろうしな。他に良案がなければ、それを当座の策として御夫君様に上奏してみよう。だが、問題を根本から解決する策は他にないか?」

 提案した学徒は屈せず、買い付けに費用が掛かろうとも、智恵を与えて働き手とすれば見合う筈と主張する。
 和修吉(ヴァースキ)も、他州からの買い付けは問題の先送りに過ぎないが、施術を採用させる事が先決と考え、次善の策として留保する事とした。
 さらなる提案を求めるが、医術を学ぶ学徒の中心となっている普蘭(プーラン)が席を外している事もあり、議論はそれ以上進まない。
 良策とは言えないが一応の案が出ているので、思い切った発言をする者が出ないのだ。

(あの跳ね返り娘ならどう言うか……)
(小生意気だが、あれならば定石に囚われずに案を出すだろうに……)

 奥妲(アウダ)の事を思い浮かべる者も数名いたが、彼女の本来の専攻は政(まつりごと)の為にこの席にはいない。
 また、奥妲(アウダ)一人が学徒の内で突出するのが好ましくはない事も解っているので、その名を口にする者は誰もいなかった。

「失礼致します。お茶をお持ちしました」

 議論が空転する中、襖をあけ、色白で和国人の顔立ちの学徒が入って来た。二形化の施術を受け、学徒の列に加わった若衆である。
 学徒の内、奥妲(アウダ)に煽られた幼少の者の一部は、未だ若衆に訝しみの眼を向ける。だが、ここにいる者達は学徒の内でも年配で分別を弁えている為、神宮の出自であるからと言って若衆を嫌悪するそぶりは見せなかった。
 室内の一同にに緑茶を差し出して退出しようとした若衆を、和修吉(ヴァースキ)が呼び止めた。

「海吉拉(ヒジュラ)。お前は何か案がないか」

 海吉拉(ヒジュラ)とは、補陀洛(ポータラカ)で二形(ふたなり)を示し、同時に身分を示す語でもある。
 補陀洛(ポータラカ)を含む印度では、二形として生まれた人間は階層を問わず、すぐに親元から引き離されて神属の従者とされる。
 かつては時折誕生したが、この数百年来は見られない物だ。
 今は本名を捨てた若衆の呼び名として、いつの間にか一門の間で広まっていた

「宜しいのでしょうか、新参の私如きが申し上げても」
「構わぬ。学究の徒たる者、序列を意識しての沈黙こそが罪悪と心得たまえ」

 和修吉(ヴァースキ)から促された海吉拉(ヒジュラ)は、何も難しい事はないとばかりに口を開く。

「女が足りぬなら、私の様に、性を変える施術を施せば如何でしょうか?」
「お前に埋め込んである男女の器官は、羅馬(ローマ)に生息する夢魔種の標本を流用した貴重な物だ。おいそれと手に入る物ではない。加えて二形化の施術は、お前が阿羅漢(アルハット)にして無性という、希有な体質を備えていたからこそ出来たのだ」

 一門なら造作もない事だろうと海吉拉(ヒジュラ)は考えたのだが、和修吉(ヴァースキ)はあくまで特殊な処置だと言う。

 夢魔とは羅馬(ローマ)方面に生息する神属で、現地では信仰の敵たる”悪魔”の一種として忌み嫌われている。
 彼等は自種族のみでは生殖能力がなく、女性に化身した上で人間の男性を魅了して交合し、腎水 ※精液 を受ける。
 そして胎内で自らの物に造り変えた胤を、今度は男性に化身して同じく魅了した人間の女性に注いで孕ませるのだ。
 生まれた赤児は成人期に己の正体に目覚め、真の同族の元へと去って行く。
 その生態から二形(ふたなり)化は普蘭(プーラン)によって着想され、かつ施術に際しては手元にあった夢魔の性器標本を移植したのである。

「私に行われた施術の内容は承知しています。ですが、私の様な特異な使い途の為に造られた二形(ふたなり)ではなく、只の男を、同じく只の女にする事は難しいのでしょうか?」

 軽愚の施術で一方が女でなければならないというのは、片方の頭部を納める為に、もう片方は子袋を備えている必要があるというだけである。
 子を為す事が目的ではなく、まして海吉拉(ヒジュラ)の様に、特殊な目的がある訳でもないのだ。

「男子からその証を抉り、女子のそれにすげ換える事は出来よう。だが、大量に必要となる子袋をどう調達する?」
「勅令に背いた民の宮刑はもう終わってしまいましたか?」
「九割方は済んでいるが…… 成る程、宮刑で抉った子袋を使えば良いか。ならば問題なかろう」

 和修吉(ヴァースキ)の問いに、海吉拉(ヒジュラ)は事も無げに問い返す。
 宮刑で切り取った性器は、珍味として酒の肴に費やされていた。だが、移植に使う方が遥かに有意義である。
 宮刑を宣告されながらも、まだ刑を終えていない者は全体の一割。女はさらにその半分で、老齢の者を除くとさらに目減りする。
 だが、術を施す軽愚に行き渡らせる数は充分確保出来そうだ。
 海吉拉(ヒジュラ)がその様な提案をした事で、和修吉(ヴァースキ)は彼女の心情の変化に満足した。

「旧来の良識に囚われず、理によって物事を判じ、益をもたらさんとするお前の思考。一門の学徒として結構である」
「有り難うございます!」

 和修吉(ヴァースキ)に褒められ、海吉拉(ヒジュラ)の顔がほころぶ。
 元は重罪人だった自分の発言が、一門に相応しいとして認められたのだ。

「しかし…… 施術の後、被術者は女として生きて行く事になるのです。子を為さぬとは言っても、陰部を女子に代えたのみで見てくれが男のままでは……」

 話がまとまりかけたところで、学徒の一人が懸念を漏らした。
 補陀洛(ポータラカ)では、肉体の交合による交流が重んじられる。
 施術を受けた後の元軽愚達もそれを嗜む事になるが、外観が男で股間のみが女というのでは、自分も相手も違和感がぬぐえないだろう。
 生活の質を考えると、その辺りも考慮しなくてはならない。

「私の様に、顔を女として造り変えれば良いのではありませんか? 必要ならば胸や腰つきも」
 再び、海吉拉(ヒジュラ)は事も無げにいう。
 技術による問題の解決こそが、学府たる一門の考え方だ。
 和国で生まれ育った彼女が、短期間の間にその思考に染まった事に、和修吉(ヴァースキ)だけでなく、この場の全員が感心した。

「その通りだ。我等一門にはそれが為せるのだから。海吉拉(ヒジュラ)の案を容れようではないか」
「是!」「是!」「是!」

 和修吉(ヴァースキ)の言葉に全員が賛意を示し、一門としての上奏案はまとまった。



[37967] 6話「阿修羅の学師」その63
Name: トファナ水◆34222f8f ID:46137904
Date: 2016/06/27 00:13
 和修吉(ヴァースキ)は上奏の為、仮宮に参内した。
 今回帯同したのは、学徒の中でも幼く未熟な、奥妲(アウダ)に年頃が近い童女達が十名だ。
 この年代の学徒達は皆、言仁を”兄”と認識して慕い、周囲もそれを許容している。言仁にとっても、近しく育った貴重な存在である。
 最近、奥妲(アウダ)ばかりが持ち上げられる事に、同世代の彼女達が不満をくすぶらせているのではないかと考えた言仁が、連れてくる様に和修吉(ヴァースキ)に申し入れたのである。
 奥妲(アウダ)は今回、あえて加わっていない。同席すれば、突出した能力を持つ奥妲(アウダ)がどうしても同世代を代表する立場となってしまうからだ。

 龍牙兵の牽く馬車の列が仮宮へと着き、和修吉(ヴァースキ)、そして童女達が次々と降りて来る。

「御苦労様でございます」

 門衛の羅刹兵は、口々に挨拶して門をくぐる幼い珍客を、ほほえましく出迎えていた。 下級の兵に比べ、立場的には一門に学ぶ学徒の方が上なのだが、末端の実務に携わる者を見下さぬ様に躾けられている童女達は、礼儀正しく門衛に合掌している。

「ここは、本当に主上や御夫君様のお住まいなのですか?」

 初めて見る仮宮に童女達が感じたのは、その簡素さである。
 強大さを体現した補陀洛(ポータラカ)の皇宮とは、比べ物にならない貧弱さだ。

「飢えに窮する程に民を搾取していたというのに、この程度の物しか造れなかったのですか? いかに劣等とはいえ、神宮がここまで無能とは……」
「然り、然り」「全く愚か」
「ここは分社、要は離宮の様な物だ。本殿は焼失したのでな。分社は伊勢のあちこちに大小合わせて結構な数がある。無傷で占拠出来た内ではここが最も程度が良く、港も近くて便利な為に仮宮としたのだ」

 童女達は、旧統治者たる神宮の無能ぶりが、仮宮とされた社屋の簡素ぶりにも伺えると嘲笑する。
 だが、それは思い違いであると和修吉(ヴァースキ)は訂正した。
 仮宮としている桑名の社は、あくまで分社として建てられていた物だ。本殿の方は、神職達が住まう大きく豪奢な住居が併設されており、無傷で占拠出来なかった事が悔やまれている。
 神宮を蔑むのは構わないが、誤った認識は正されねばならない。

「あちこちというと他にもあるのですか?」
「うむ。使える物は兵の屯所等に活用しておる」

 伊勢神宮の分社は、無人の粗末な祠から、神職が常駐する物まで大小取り混ぜて伊勢中に散在しており、桑名の分社、現在の仮宮はその内でも最大級の物である。

「それにしても、御夫君様も主上も、この様な処でよく我慢しておいでですね。皇国の宮としては余りにも…… 民草の負担を考えての事ではありましょうが……」
「あくまで仮住まいだ。それに、どうせ造るなら堅牢で美しい物にせねばならぬが、それには相応の支度が要る。資材も調達せねばならぬし、何より腕の立つ職工が足らぬ」
「はい……」

 童女達の声に、和修吉(ヴァースキ)は窮状を隠さず答える。
 現在の補陀洛(ポータラカ)には、皇宮を始めとした数々の大規模建造物があるが、そのどれもが古に建てられた物を維持しているに過ぎない。
 伊勢に在住していた宮大工であればその様な技術も持ち合わせていたであろうが、彼等は神宮に与した者として悉く処罰された。
 屋敷や蔵、砦程度の物を建てる程度の事は、補陀洛(ポータラカ)より随伴した者でも可能だが、新帝都に相応しい本格的な宮城を建てる為には、他州から信頼出来る職工を集めねばならない。
 現在の補陀洛(ポータラカ)は決して、人間社会に対して絶対的に優位な存在ではない。長い時を経て緩やかに衰亡した結果、技術によっては人間国家に劣る物すらあるのだ。

「大丈夫でしょうか……」
「既に、然るべき者が動いておろうしな。我等が焦っても仕方あるまい」

 自分達の置かれている現状を再認識させられた童女達は、不安を口にする。
 和修吉(ヴァースキ)はそんな彼女達を、微笑んで諭した。


*  *  *


 謁見の広間に通された一同は、言仁、そして弗栗多(ヴリトラ)の入来に平伏して出迎える。
 堅苦しい事を嫌う二人だが、幼少の学徒の研鑽を兼ねての事であるとして、和修吉(ヴァースキ)は今回、あえて形式にこだわった。

「面を挙げよ」

 聞き慣れた声に一同が顔を挙げると、上座には久しぶりに見る門兄、そしてその養母にして妻である弗栗多(ヴリトラ)の姿があった。
 心労からやつれ果てていたという言仁だが、ここしばらくの間ですっかり体調が回復している。
 二人とも柔和な表情で、童女達は歓迎されている事を肌で感じた。
 
「さて、和修吉(ヴァースキ)師。諸々の件じゃが、どの様な案配かや?」

 弗栗多(ヴリトラ)の問いに和修吉(ヴァースキ)は、民への宮刑の進展状況、平家男子の尸解仙化、親から引き離した童達の”還元”処置、軽愚の知性向上の施術に関する経過等を報告する。
 弗栗多(ヴリトラ)と言仁は、所々で頷きながら聞き入っていた。

「おおむね順調な様で何よりじゃ」

 弗栗多(ヴリトラ)は満足そうに感想を述べるが、言仁はその後を受けて本題に入った。

「ところで、軽愚の事ですが。女子に比べ、男子がおよそ倍。この件につき、何か良き手は見つかりましたか?」

 軽愚二人を融合させる事で智恵を改善する施術を、本格的に推進する為の条件。これが達成出来る目処が立っているかどうかが、言仁がもっとも聞きたい事である。

「はい。それにつき、医術を学ぶ学徒の内から案を募った処、妙案が出ております」

 和修吉(ヴァースキ)は、軽愚の男子の内、一部を女体化する案を示した。

「さして難しい施術ではありませんが、軽愚に植える為に、大量の子袋を要するのが難点でした。これは、宮刑に処す百姓女共からえぐり出した物を活用すれば良いかと存じます」
「ふむ……」

 言仁は、眼を閉じて若干考え込む。
 賤民を虐待した咎で百姓女共から取り上げた、命を宿す為の部位を使い、智恵が足りずに軽んじられていた軽愚を常人とする。
 宮刑がただの懲罰に終わらず、他の者を救うにつながるならば全く善い事だと、言仁は好感した。

「良いでしょう。推し進めて下さい」
「妾も異存はない」
「では、その様に取りはからいます」

 快諾を確信していた和修吉(ヴァースキ)は、二人の答えを淡々と受け取った。

「ところで、誰が思いついたのかや? 和修吉(ヴァースキ)師かや? この娘共のいずれかかや?」
「海吉拉(ヒジュラ)…… 件の宮司の嫡子ですな」
「神宮の幼子を救う為、虜囚の身で計都(ケートゥ)師とも駆け引きを演じた、あの者かや! やはり見所があるのう」

 発案者を問う弗栗多(ヴリトラ)に和修吉(ヴァースキ)が、宮司の子息であった者の通名を答える。
 弗栗多(ヴリトラ)は大いに感嘆したが、ふと和修吉(ヴァースキ)の後に控える童女達の、遠慮がちではあるが何か言いたげな顔に気付いた。

「ふむ。汝等には異論があるのかや? 遠慮などせず申してみよ」
「い、いえ…… 決してその様な……」
「宜しき案かと、お、思われます!」

 弗栗多(ヴリトラ)に水を向けられた童女達は、しどろもどろになってしまう。
 その様子に弗栗多(ヴリトラ)は和修吉(ヴァースキ)と顔を見合わせて苦笑した。

「どうしたのかや? 汝等の同輩たる奥妲(アウダ)であれば、妾に向かっても己が意を申すぞ?」

 奥妲(アウダ)の名を出され、童女の内一人が、思い切って心中を話す。

「あれは神宮の者。恭順を示し、有益な施策を唱えようとも、それを以て直ちに信を置くのは、危ういかと存じます!」
「考えを申したのは良い。じゃがの、妾はそこまで軽率ではないぞ。あれが皇国に害為すとあらば処断するまでじゃ。その為に近衛を後見として付けておる」

 警戒の為、海吉拉(ヒジュラ)を近衛に監視させているという答にも、発言の主を含め、童女達は納得仕切れない。
 海吉拉(ヒジュラ)の養母でもある近衛が、本当に監視役として毅然と出来ているのか疑問なのだ。端から見ると、仲睦まじい母娘にしか思えないのである。

「汝等、あれ等があまりに仲が良いので妬いておるのかや?」
「そ、それは……」

 弗栗多(ヴリトラ)が意地悪い笑みを浮かべて図星を突くと、不満げにしていた童女達は俯いてしまう。
 貧民窟で浮浪児として這いずり、あるいは実の親がいれば虐待や搾取を受けていた彼女達は、解け合う様に密着している異形の母子の有様に嫉妬していたのだ。

「あれは、万が一にも逆らわぬ様、心を”鎖”で縛っておるのじゃ。心地良く過ごしておるならば、かの者が皇国に背く事等あるまいて。計都(ケートゥ)師が仰っておらなんだかや?」
「さ、左様でありました……」

 有為だが叛意を示す怖れがある者を従わせる策として、計都(ケートゥ)は”情”によって拘束する事を好む。
 海吉拉(ヒジュラ)は、その生い立ちから母親の愛に餓えている事を見透かされ、情深き養母をあてがわれたのである。つまり、冷徹な計算の元に行われているのだ。
 当事者の海吉拉(ヒジュラ)自身もそれを知っているが、それ故に”母の愛を受け続けたくば、皇国に尽くさねばならない。役目に励む程、母が喜んでくれる”という思考に至っている。
 母の愛という無上の報酬を得る為、海吉拉(ヒジュラ)は牝として牡贄に股を開き、牡として牝贄に胤を植え続けるのだ。
その事は一門では周知の筈なのだが、嫉妬の余り童女達は失念していた。

「学究の徒たる者、理を以て物事を判じたまえよ」
「は、はい……」

 和修吉(ヴァースキ)にも窘められ、童女達は意気消沈してしまう。

「あくまで、あれ自身が信に足るか否かという話なのだね。案その物は、容れるのかな?」
「是!」「是!」「是!」

 言仁が門妹達の発言の意図を確認すると、彼女達は必死に声を張り上げて肯定する。
 敬愛する門兄にまで見損なわれてしまってはならない。

「そうだね。気に入らぬ者の出した案というだけで、それに反対するというなら、きつく叱らねばと思ったのだけれども。そうでなければ良いのだよ」
「若輩と言えども、この者達は御夫君様にとって門妹。もっと御信頼頂きたい物ですな」
「ええ。私の大切な門妹達です」

 和修吉(ヴァースキ)の苦言に言仁が頷くと、童女達は感激の余りむせび泣きを始めた。
 皇配である言仁の同門、即ち実質的な係累である事は、賤民の出自である事で苦悩し続けている学徒達にとって心の重要な支えなのである。

「に、兄様!」
「兄様ぁ!」
「あれの事は、どうか長い目で見ておくれ。皇国には必要な者なのだよ」
「是!」「是!」「是!」

 言仁の呼び掛けに、童女達は嬉々として承諾の声を挙げる。
 満足そうにする言仁に、弗栗多(ヴリトラ)と和修吉(ヴァースキ)は再び顔を見合わせて苦笑した。


*  *  *


「ところで、私からも一つ相談があるのですが」
「何なりと」

 童女達が落ち着いたのを見計らい、言仁は和修吉(ヴァースキ)に次の話題を出す。

「軽愚を荘園から答志島に引き揚げて、知性向上の施術を行った事に絡んでなのですが。”戻してもらわねば人手が不足して困る”と、代官達から陳情が来ているのですよ」
「……あれ等をすぐに戻すのは難しいですな…… 二つの自我を混ぜて一つにしました故、しばらくは静かな環境で養生させませぬと」

 言仁が切り出したのは、軽愚がいなくなった事により、荘園で生じた人手不足の件である。
 早く働かせたいという現場の要望は当然だが、和修吉(ヴァースキ)の主張通り、しばらくは無理をさせる訳にはいかない。それについては言仁も承知していたので、あくまで確認だ。
 また、仮にすぐ復帰させられるとしても、人数が半分に減っているので、その埋め合わせはしなくてはならない。

「皆も何か、案はないかな?」

 門兄に問いかけられた童女達は、声を潜めて相談を始めた。
 言仁、そして弗栗多(ヴリトラ)と和修吉(ヴァースキ)は、それをほほえましく見守っている。
 話がまとまった様で、童女達は上座に向き直った。
 口を開いたのは、先に海吉拉(ヒジュラ)の扱いについて疑念の声を挙げた童女だ。

「な、なれば…… く、国元よりのた、民を…… 荘園の百姓として迎えて頂きたく……」
「百姓となると、吠舍(ヴァイシャ) ※平民 をかや?」

 二度までも弗栗多(ヴリトラ)に意見する為か、声は途切れ、消え入りそうだ。
 補陀洛(ポータラカ)の人間を和国へ本格的に入植させる事について、弗栗多(ヴリトラ)はこれまで否定的な態度を貫いていた。
 和国と比較にならない程に厳しい、階層社会の因習を持ち込ませない為である。
 また、補陀洛(ポータラカ)で耕作を担うのは平民階層であるが、下層民の出身である学徒達は、自分達を虐げた平民を蛇蝎の如く嫌っていた。
 あえて仇敵を迎え入れる案を出して来た事に、弗栗多(ヴリトラ)は首を傾げて訝しんだ。

「無理をせずとも良いぞ? 汝等が憎む者共を、わざわざ連れて来る事もあるまいて」
「い、いえ! 吠舍(ヴァイシャ)如きではなく! し、虐げられし我等が同胞を! ひ、一人でも多く、新しき世へ! 田畑の耕し方は、伊勢で覚えれば良い物かと、ぞ、存じます!」

 上擦った声で主張する童女の意図に、弗栗多(ヴリトラ)は納得がいった。
 幸運と能力で選ばれ、賤民の境遇から一転して一門の庇護下に入った彼女達は、故郷に取り残されたままで苦しむ同胞の事が気がかりだったのだ。
 今回の人手不足を利用して、少しでも救い出したいのである。

「汝等の望みは解る。なれど、異邦の地で慣れぬ鍬や鋤を手にとって、満足に働ける物なのかや?」
「み、惨めな境遇を脱する為ならば! 皆喜んで、身を粉にして働くでありましょう!」
「荘園に住まう和国在来の百姓の指導の下であれば、問題なきかと」

 疑問に対し童女は必死に訴える。
 和修吉(ヴァースキ)が見解を添えた事で、弗栗多(ヴリトラ)は従来の方針を修正しても良いと思い始めると共に、未熟な学徒達を引き連れてきたのが”仕込み”なのではと思い至った。
 傍らの言仁を見ると、同胞を助けたいという門妹達の願いに聞き入っている。

(全く、妾の首を縦に振らせる為に、童の口から願わせるとはのう。これで退ければ、坊が嘆くではないか)

「ふむ。道理じゃな。では、どの様な者が良いかや? 多くは入れられぬし、最低でも読み書きを含めて和語は覚えてもらわねばならぬからの。才に乏しき者、あるいは虐げられた余りに性根が捻れてしまった者は受け容れられぬぞ?」
「わ、解っております! 才有る者、心清き者を選りすぐり、む、迎え入れたく!」

 同胞を救いたいとする学徒達にとって、人員を厳選する事は辛い作業ではないかと思い弗栗多(ヴリトラ)は試したが、童女はどもりながらも断言した。
 国造りに役立たない者、極限生活の中で生き延びる為に歪んでしまっている者については、見限らざるをえない事は彼女達もとうに覚悟している。皇道楽土にその様な者はいらないのだ。
 童女達の、救うに値する者達を選別し至らぬ者は切り捨てる覚悟に、弗栗多(ヴリトラ)は感心した。
 言仁の方は若干ながら顔を曇らせているが、やはりやむなき事と堪えているのが伺える。

「それは良いが、差し当たりの人手をどうするかの? 人選もあるし、船では時がかかる。今年の作付けには間に合わぬぞ?」
「そ、それは……」

 具体的な問題をぶつけられ、童女は戸惑ってしまう。
 それに手を差し伸べたのは和修吉(ヴァースキ)だった。

「備えの者がおります故、活用すべきかと」
「何じゃ、それは?」

 弗栗多(ヴリトラ)は、自分の聞き及んでいない”備えの者”なる存在を聞きとがめる。

「不意の災害等が起これば、復旧の普請 ※工事 の為に多数の苦力(クーリー) ※人夫 が急遽必要になりましょう。その備えとして、和国親征に際し、旃陀羅(チャンダーラ)から募った者がおよそ一千名程、石化した上で伊勢に持ち込まれておりましてな」
「ほう? 妾は聞いておらぬが、誰の目論見かや?」
「勘定方ですな。帳簿には調度品の扱いとして載せたと聞いております」
「あ奴等…… 勝手な真似をしおって!」

 自分の方針を蔑ろにして独走した勘定方に、弗栗多(ヴリトラ)は怒りを露わにした。
 和修吉(ヴァースキ)は動じていないが、童女達は怯えてしまっている。
 勘定方を擁護したのは言仁だった。

「いえ、これは私が認めた上での事であります故、勘定方に責はありません」
「ほう…… 妾が、補陀洛(ポータラカ)の民を極力、和国に入れたくないという事を承知でかや?」
「はい。和国遠征に際し母上は、学徒の他にも国元の人間を随行させたいという私の願いを聞き入れて下さいませんでした。そこで丁度、勘定方からの要望がありましたので、私が墨付きを与えたのです」
「そうかや……」

 言仁が自分に黙って事を進めていた事に、弗栗多(ヴリトラ)は若干ながら気落ちする。
 だが、自分の意に反してでも、少しでも国元の賤民を救いたいという言仁の思いを受け止める事にして、心を切り替える事にした。
 責のない童女達の怯えにも心を配り、表情を平静に戻す。

「して、どの様な者かや?」
「品行方正かつ身体は頑健、学徒にはとても至りませんが、異国の言語を習得するに足る程度の知性は備えているとの事です。常人の智恵を十として、かの者共は十から十一半程であると聞いております」
「ふむ。歳の頃合い、男女の別はどうじゃ?」
「苦力(クーリー)として集めた故に全員男子、歳の頃は十二から十四程です」
「苦力(クーリー)にしては、ちと無理な歳ではないかの?」
「成年と張り合える位の膂力を持った者共です。胤としても、身体頑健な良き子孫を期待出来ましょう。和国の女子とまぐわい、二、三人程、子を為した後で不老長寿を与えるには、この位が丁度良い年頃です」

 言仁は、石化して運び込んだ者達が、有為な人材である事を強調し、弗栗多(ヴリトラ)もその点は認めた。

「苦力(クーリー)と言えども、皇道楽土に相応しき者を選りすぐっておるのじゃな」
「勘定方の値踏みは、良くも悪くも冷徹です。それにかなったのですから、必ずや良き民となりましょう」

 勘定方は、虐げられて不遇な者に対しては、相応しい境遇を与えて活用する事を是とする。その一方で真の意味での弱者、能なき者に対しては極めて冷淡である。
 その彼等が役に立つと認めた以上、無能な筈がなかった。

「良き民というからには、勤勉なれど純朴な一介の百姓で終わる様な者ではあるまい?」
「育て方次第では、七、八年程で村落の庄屋を任せられる位には育ちましょう」

 単に人手の充足だけでなく、統治の末端を担う人材として育てられるなら、なお有益である。何分にも、現状の伊勢では民を束ねる知識層が不足しているのだ。
 一時の情ではなく先まで考えている言仁の答えに、弗栗多(ヴリトラ)はひとまず納得した。

(情を重んじてはいても、きちんと理で考えておるのじゃな)

「なれば良し。和修吉(ヴァースキ)師、本日は以上かや?」
「左様にございます」
「では、昼餉を共にしたい故、支度が出来るまでひとまず下がるが良い…… いや、待て」

 和修吉(ヴァースキ)と童女達が広間を退出しかかった処で、不意に弗栗多(ヴリトラ)が呼び止める。

「何でありますかな?」
「和修吉(ヴァースキ)師。一千名もの苦力(クーリー)の件。いつから知っておったのかや?」
「それは先日、私の方から師に御相談したのです。後の者達は、本日まで事の次第を知らなかった筈です」

 答えたのは和修吉(ヴァースキ)ではなく言仁だった。
 つまり、今回の上奏前に、言仁が和修吉(ヴァースキ)に事情を話して根回ししていたという事である。
 和修吉(ヴァースキ)も頷いて肯定する。言仁に責を押しつける様な性格ではないので、弗栗多(ヴリトラ)は真実と判断した。
 童女達が同胞を迎え入れる様に願った事も、事前に言い含めていたのではなく、彼女達なら機会を逃さずその様にするであろうとの”見込み”の様だ。

「そういう事かや。では、後程、昼餉を愉しもうぞ。宮刑の睾丸が多く入っておるでな。和国の味噌を使って、厨房が旨く調理すると申しておった」
「わあ、金玉! あれ、美味しいんだよね!」
「久しぶりの金玉!」
「これ、お前等。まだ御前(ごぜん)である。一門の学徒たる者、品位を崩すなかれ」

 昼餉の品目を聞き、珍味を期待してはしゃぐ童女達を和修吉(ヴァースキ)が窘め、一行は退出する。
 童女達の無邪気な様子に微笑む言仁の傍らで、弗栗多(ヴリトラ)は思案顔だった。



[37967] 6話「阿修羅の学師」その64
Name: トファナ水◆34222f8f ID:46137904
Date: 2016/07/10 22:05
 上奏を終えて半刻程。
 座敷で円卓を囲む皇帝夫妻と和修吉(ヴァースキ)、そして童女達の席前に、巫女姿の侍女によって昼餉(ひるげ)が運ばれて来た。
 各自の食膳に供されたのは、米飯で満たされた上に、味噌漬けにされた睾丸が、これでもかとばかりに具材として盛りつけられている丼だ。
 現代の目から見ると、宮中の食事としては質素に思われるかも知れないが、そうではない。
 白米自体、この時代で常食するには高価であり、庶民層は雑穀類を主食としていた。さらに伊勢では一揆直前の凶作の影響により、米穀は次の収穫までの間、他州から買い付けねばならない。
 また人間の睾丸は、贄の一体に対して二個しか取れない珍味だ。それが豪勢に盛られているのは、宮刑によって伊勢の殆どの平民から睾丸を抉ったという状況があるにせよ、やはり宮中ならではの贅沢である。
 好物を目の前にして、童女達は一様に目を輝かせた。

「うほぅ!」
「金玉いっぱい!」
「御馳走だあ!」

 その子供らしい様子に、弗栗多(ヴリトラ)は目を細めて悦ぶ。
 言仁もやはり、門妹の歓声を聞けば気分が良い。

(賢しくともまだまだ童じゃのう)

 和修吉(ヴァースキ)のみは、別の物が供された。
 大皿に被せられている白銀で造られた半球状の蓋を、給仕を務める乾闥婆(ガンダルヴァ)の侍女が取り去る。
 中から現れたのは、美しく整っていながらも絶望に歪んだ表情で息絶えた、齢十一、二程の少年の首であった。贄の常として、剃髪されて頭頂の頭蓋は切られ、脳髄が寒天の様にみずみずしく震えている。

「師はそろそろ贄を食す時期じゃろうと思うてな。上等の物を見繕う様、厨房に言うておいたのじゃ」
「御心遣い、感謝します」

 和修吉(ヴァースキ)もまた女であり、美しい少年となれば食欲が増すという物だ。

「歳若い様だが、罪状は何か? ”還元”は出来なかったのか?」

 言仁は、贄の若さを見て給仕に尋ねる。
 性が芽生える前の童ならば、”還元”によって赤児へと戻して記憶を消し、始めから養育をやり直す事が出来るのだ。
 その技法が先日、一門によって確立した為、今後は罪人と言えども”還元”が可能な童は助命せよ、との勅令が言仁によって出されたばかりである。
 見た処、それが出来たかどうかは微妙な歳だ。

「厳密には咎人ではございません。勅令を拒んで自害した村の者でございます」

 給仕の答えに、言仁は思わず顔をしかめた。

「当人が覚悟を決めた訳ではあるまい。親に道連れにされたのであろうな……」
「この者は村の童共を率いて、しばしば、賤民に身をやつしていた平家の子弟に石つぶて等を投げつけていた悪童であったとの証言が得られております。御夫君様の御心痛には値しません」
「そうか……」

 童自身が相応の罪を冒していたと聞かされた言仁は、同席する門妹達に目をやった。
 童女達は、同胞(はらから)に暴虐を働いた悪童の苦しげな死に顔に、いかにも満足そうである。

(当然の報い)
(死して楽になっただけ慈悲)
(食が進むという物)

 言仁は、同世代の無残な死に対しても一切の憐憫を見せず、むしろ悦んでいる彼女達に哀しみを覚えたが、あえて口には出さなかった。
 虐げられていた者としての憎悪が奈落の如く深い事を、よく知っていたからである。

「坊よ。この上はせめて食ろうてやり、命を無駄にせぬのがせめてもの慈悲であろう?」
「そうですね。食前に、いらぬ感傷でした」

 弗栗多(ヴリトラ)に言仁は微笑みを返したが、僅かな曇りが含まれていた。


*  *  *


 昼餉(ひるげ)に舌鼓を打つ一同。童女達は愉しげに睾丸を口に運ぶ。

「美味しい!」
「金玉を切られた奴等、もうまぐわいが出来ないもんねえ」
「ははっ、いい気味!」

 童女達が睾丸を好むのは、美味である事だけでなく、彼女達がいずれも国元で陵辱された経験を持つ為でもある。
 咎を犯した男共の睾丸を抉り、肉体の悦びを奪った上に血統を断つ。抉った睾丸を食らい味わう事で、その達成を実感出来るのだ。
 とろける様な睾丸の味は、童女達だけでなく、言仁をも唸らせた。

「味噌の味が、睾丸の素材をよく引き立てている。咖哩(カリー)とはまた違う、和国ならではの味わいか!」
「御言葉、厨房に伝えておきます」

 憂いを漏らしていた言仁が昼餉(ひるげ)へ讃辞を与えた事で、給仕は内心で胸をなで下ろした。
 宮刑については助命と引き替えなので、言仁もさして罪悪感を抱いていない。素直に睾丸の珍味を愉しんでいた。
 和修吉(ヴァースキ)も、少年の脳髄を匙ですくいながら味わっている。
 脳を食べ終えた和修吉(ヴァースキ)は、副菜として首の脇に添えられていた、男子の証に手を付けた。
 童らしく皮が被ったままの小ぶりな男根に、小さな睾丸を包んでいる陰嚢。
 子象の首を思わせるそれを、和修吉(ヴァースキ)は素手で掴んで口に含み、ゆっくりと嚙み砕いた。

「いかがでございましょうか? 女を知らず、精の一滴すら漏らした事のない無垢の物は」
「生殖の能が備わると、体内の霊力の循環が変わる。その前にもいだ物は、独特のさっぱりした、水菓子の様な味わいで良い。この様な物は、今後はおいそれと口に出来ぬであろうな」

 自信を持って供した食材の感想を問う給仕に、和修吉(ヴァースキ)も頷く。
 精通前の男子は”還元”の対象となる為、今後は死罪に処される事は無い。また、贄として育てられる白痴も、食膳に供されるのは成長後だ。
 唯一、知性強化の施術で首を落とした、軽愚の童の躰から取れる物についてのみは今後も食べられるであろうが、これまでと比べれば遥かに貴重な食材となってしまうだろう。
 その様な美味を用意した厨房、そしてそれを指示した弗栗多(ヴリトラ)の心遣いは、和修吉(ヴァースキ)をとても喜ばせた。


*  *  *


 和修吉(ヴァースキ)達が宮中で上奏に臨んでいる頃。
 普蘭(プーラン)は、今回の参内に加わっていない奥妲(アウダ)を伴い、答志島から運び込まれた荷を積む馬車の列を指揮して、時子の別宅がある平郷(たいらごう)へと着いた。今回車を牽いているのは、やはり護衛を兼ねた龍牙兵である。
 屈強な土塀に、見張りの為の物見櫓(ものみやぐら)。周囲を巡回する羅刹兵は、選び抜かれた古参の者ばかりである。
 砦の如きこの厳重な警戒は、賤民とされていた平家の者達を、民百姓の迫害から護る為という名目で造られた物だが、真の目的は違う。
 今回の馬車に積み込まれている荷を使って行われる事こそが、強固な護りを要する理由なのである。
 羅刹兵の礼を受けて門をくぐり、馬車の一行はそのまま時子の屋敷へと向かう。
 屋敷の前では、時子、そして平家の女達が整列して出迎えていた。
 今回は十二単衣でなく、伊勢での女官の官服と定められた巫女装束を纏っている。

「御待ち申し上げておりました」

 時子達と普蘭(プーラン)・奥妲(アウダ)は、互いに合掌の礼を交わす。

「まずは一つ降ろしなさい」

 普蘭は龍牙兵の一体に命じ、積荷を持って来させる。
 龍牙兵が先頭の馬車の荷台から、竹で編まれた駕籠を取り出して抱えて来た。
 
「まあ、これが……」
「はい。御夫君様の御胤を受け、我等、一門の学徒が胎で育み産み落とした子です」

 駕籠の中には、石と化した赤児が、物言わぬままに収められている。

「何とまあ、愛らしい事」
「賢しそうな御子でありましょう」
「父君に似て、端正な顔立ちですわ」

 中を覗き込んだ平家の女達は、口々に褒めそやした。
 この赤児は、他ならぬ普蘭(プーラン)が言仁と交わって産んだ息子である。
 産みの親としても、世辞と解っていながら悪い気はしない。

(姉様、姉様)

 顔がほころびかけたところで奥妲(アウダ)に肘でつつかれて我に返り、自らの使命を思い起こした。

(……これが、親の情という物か。やはり、子を手元に置いてはならぬという掟は正しい)

「子は産みの親から引き離し、情ではなく理を以て、当人の資質を冷徹に見定めた上で相応しい養育を施すのが皇国の掟。臣民たる赤児の養育は一門の役目ではありますが、一門の者自身が産んだ子については、自身が育てる訳には参りません。故に、平家の内、夫を亡くされた寡婦の皆様方をここに集め、養育役に任じたという次第です」

 一門の学徒はいずれも言仁を門弟として愛おしく想っている。
 彼が幼少の頃から”門姉として肉の悦びを教える”と称し、代わる代わる交合を持ち、その結果多くが懐妊して子を為すに至った。
 言仁の養母である弗栗多(ヴリトラ)は、優秀な彼女達と言仁の間で子孫を為す事を有益と考えており、止めるどころか大いに推奨すらしていたのだ。
 だが、生母による養育を否定する国法の下で、誰が産まれた子を育てるかという問題が生じてしまう。
 新たに生まれ来る赤児の養育を、一門は一手に担う。ならば、一門の者自身が産んだ赤児は誰が育てるというのか。
 産まれた赤児等は、言仁の落胤に相応しい養育の体制を整えるまで石化されていたが、平家の帰参により、その女衆に養育を任せるという案が出て、時子も快諾したのである。

「帝の御子の養育とは、何という誉れでございましょうか。ですが、生母たる皆様方としては、我等がその御役目で宜しゅうございますか?」

 時子の問いに、普蘭(プーラン)はきっぱりと答える。

「はい。我等が直に育てれば、いらぬ情が生じます。それは決して、子の為になりません。苦難に耐え忍びつつも誇りを捨てず、雅を忘れなかった皆様方なればこそ、是非養育を御任せしたく存じます」
「解り申した。きっと、立派に育て上げましょうぞ」

 時子の力強い返事に、普蘭(プーラン)も頷き返す。
 
「残りも、こちらへ」

 命じられた龍牙兵達は、次々と石化した赤児が収められた駕籠を降ろしては、平家の女達に一つずつ手渡して行く。
 赤児の総数は百名。これは初便で、数次に渡って引き渡す事になっている。

「明朝頃、元に戻る様に法術がかけてあります故、その時分になったら乳を与えて下さいませ」
「最後の名残に、今晩はお泊まりになっては如何でしょうか?」
「否、未練はありません。折り返し、平家方の御子息も、道中の平郷に寄って引き取らねばなりませんし」
「左様でございましたね」

 時子の申し入れを、普蘭(プーラン)は帰りの予定がある旨を告げて謝絶した。
 平家方の子弟も、他の民草同様、実親から引き離し一門の手で養育する事になっている。 ただ特例として、ある程度育っている童であっても、赤児に戻して記憶を消す”還元”は施さない。
 これは、平家の手によって読み書き等、初等の教育が施されている事や、賤民として虐げられていた過去を記憶する者達を”同胞(はらから)”として多く残しておきたいという賤民出自である学徒達の意向、そして潜伏中も言仁への忠義を受け継いで来た平家への恩典である。
 無論、今後に生まれて来る赤児は全て”公(おおやけ)の子”という位置づけになって他の赤児と混ぜて育てられるので、あくまで既に生まれている童に対してのみの対応という事にはなるが。
 平郷は十数ヶ所有るが、言仁の落胤を養育する為に寡婦を集めたここには、童は全くいない。往きから別路になるが、桑名まで戻る帰りにその内の一つに寄って、対象の童を連れ帰る事になっていた。

「普蘭(プーラン)殿。お互い、女として辛い物がございますが、これも御国の為、帝の為とあらば忍ばねば」
「はい、時子殿。これが今生の別れという訳ではありません。子等が立派に育つ姿を思いましょう」

 平家一同の見送りを受け、馬車の列は平郷を後にする。
 車中で、普蘭(プーラン)は沈黙したままだ。

「姉様、どうしたの?」
「……私は、まだ学徒に取り立てられる前にも、子を産んだ事があるのです」

 賤民出身の学徒は、まだ貧民窟であえいでいた頃に、ほぼ例外なく陵辱された経験を持っている。奥妲(アウダ)も例外ではない。
 当然、出産に至った者も少なからずいたので、珍しい話ではない。

「その子は?」
「陵辱した男の胤で孕んだ子です。産み落としてすぐ、この脚で頭を踏み潰しました」

 子返しは和国特有の風習ではなく、補陀洛(ポータラカ)でも普通に行われていたので、奥妲(アウダ)は特に驚かなかった。
 それに一門に加わる際、手元で子を育てていた者は皆無だった筈だ。

「悔やんでる?」
「何故? 私の腹に寄生した、穢れた胤を始末しただけの事です」

 普蘭(プーラン)は強い口調で言い放ち、そのまま、目的地に着くまで口を開かなかった。



[37967] 6話「阿修羅の学師」その65
Name: トファナ水◆34222f8f ID:46137904
Date: 2016/07/17 21:12
 普蘭(プーラン)と奥妲(アウダ)が率いる車列は、目的の平郷(たいらごう)に到着した。
 ここは先の場所とは違って、砦の如き屈強な塀も、物見櫓(ものみやぐら)もない。
 ただ、周囲には深い堀が巡らされ、一本の橋のみによって外界と繋がれている。
 この堀は”かわた集落”であった頃からあり、住まう民を護る為ではなく、彼等を隔離する意図で神宮の命により築かされた物だ。
 当初の意図はどうあれ、外部からの防護や用水としても機能している為、解放された後も堀を埋めようという声は挙がらないままに活用されている。
 他の平郷もそうだが、成年の男子は全て尸解仙(しかいせん)として答志島に逗留している為、期限の開ける半年先までは女子供、そして警護の為に駐留する若干の羅刹兵のみが暮らす。
 士分に任じられた現在では組頭(くみがしら)と呼ばれる、元の”かわた頭”の妻が、留守を預かる屋敷へと二人を案内する。
 中では、上は十二から下は赤児までの童達が、それぞれの母親に付き添われて待っていた。
 男児は直垂(ひたたれ)、女児は紗麗(サリー)を纏っている。言仁からとして事前に贈られた物で、いずれも一門を示す純白だ。正規の学徒は絹布なのに対し、童のそれは木綿である点が異なる。
 男子が和装なのは、現在の一門は殆どが女子で占められている為、数少ない男子については服装がまちまちであったのを、伊勢に拠点を構えた事を機に定めたからだ。
 まだ歩く事もままならぬ乳児については、肌着を着せられて籠で眠っている。

「さ、学徒殿に御挨拶なさい」
「み、、帝の臣として、立派に御奉公出来る様、勉学に励みたく、ぞ、存じます!」
「存じます!」「存じます!」

 最年長と思われる男児が傍らに控える母親に促され、緊張した面持ちで挨拶する。年少の者達も慌ててそれに倣った。
 そのぎこちない様子に、普蘭(プーラン)と奥妲(アウダ)は優しく微笑む。
 童達は緊張をほぐせないままだが、母親達は我が子の晴れ姿に満足げだ。

「よく申せましたね。男児十名、女児七名ですか…… ん?」

 人数を確認した普蘭(プーラン)は怪訝な顔つきになる。

「如何なさいましたか、普蘭(プーラン)殿?」
「以前、診療の為にこの平郷へ来た時、臨月の若い方がいたかと思いますが。子は流れてしまったのでしょうか?」

 組頭の妻が尋ねると、普蘭(プーラン)は厳しい顔で問いかけた。

「は、はい。今朝方に産まれたのですが……」
「嬰児であっても対象の一人。今回の御召し以後に産まれた赤児は、市井から集める赤児と混ぜて”公(おおやけ)の子”として扱われ、平の姓を継げなくなってしまいますよ?」

 皇国の制度下では原則的に身分は一代限りであり、血統によって保障される物ではない。 例外は種族その物が皇族とされる那伽(ナーガ)と阿修羅(アスラ)、そして言仁の実子だが、彼等の場合、皇族としての資質に乏しい凡庸な童は石化され、種族絶滅の危機でも生じない限り眠り続ける事となる。さらに軽愚、白痴ともなれば容赦なく”返されて”しまうのだ。
 ただし平家の場合、特別な恩典として、これまで産まれている童に限り、親同様に士分としての身分が保障される事になっている。
 つまりこの機会に一門に預けなければ、童の辿る運命には大きな開きが出る。今日生まれたというなら、すんでの処で間に合ったのだ。

「その事についてですが、是非とも御相談頂きたい事が」

 組頭の妻の申し入れを、童には聞かせられない不穏な内容であろうと感じた普蘭(プーラン)は、場を替えて話を聞く事にした。
 不安げにやり取りを見守る童達に、普蘭(プーラン)は笑顔を造って声を掛ける。

「出立まではしばし間があります。母君と別れを惜しんでおきなさい」
「学徒様、有り難うございます!」「有り難うございます!」

(私達には、この様な母は……)

 童達、そして母親達の感謝の言葉に、二人の学徒は微笑みつつも、その胸中には苦い思いが生じる。
 親に売られた者、棄てられた者、虐待を受け続けた者。
 貧民窟で虫けら同然に這いずっていた自分達の境遇を思い、二人は心で涙した。


*  *  *


 組頭の妻に案内され、二人は屋敷の離れへと入る。専ら出産に使われる為の”産屋”である。
 通された八畳程の板間には、寝床でよく眠っている齢十五、六程の若い娘と、傍らで籠に入れられてやはり眠っている嬰児がいた。
 側には産婆役であろう、齢三十歳程の女が控えている。

「事情を伺う前に、まずは医師として診させて頂きましょう。奥妲(アウダ)、赤児の方を。私は母の方を診ます」

 普蘭(プーラン)は、眠り続ける母親の上布団をはぎ、寝間着を脱がせると全身にくまなく掌を這わせて触診する。
 母親は体をまさぐっても目覚める事はなく、深く眠りについたままだ。

「体は健やかです。処置は宜しきかと」
「左様ですか」

 診察の結果を告げられ、出産の介添えをした産婆、そして組頭の妻は安堵の息を漏らした。

「奥妲(アウダ)そちらはどう?」
『姉様、この子、女の子だね。健やかで、それと……』
「ん?」

 普蘭(プーラン)は赤児を診た奥妲(アウダ)に結果を尋ねるが、何故か答えは梵語で返って来た。
 普蘭(プーラン)は一瞬怪訝な顔になるが、言語を変えたのは聞かれたくない話の為だろうと気付き、すぐに表情を戻す。

『阿羅漢(アルハット)だよ……』
「何ですって!?」

 あまりの事に、普蘭(プーラン)は和語で驚きの声を発してしまう。
 人間の上位変種として、希に産まれる阿羅漢(アルハット)。人間でありながらも法術の行使が可能な程の霊力を持ち、特に施術をせずとも神属の母乳か腎水 ※精液 を定期的に摂取する事で不老長寿を保つ事が出来る。
 普蘭(プーラン)や奥妲(アウダ)達、人間の学徒はその殆どが貴重な阿羅漢(アルハット)であるが故に登用された。平家では時子他の数名のみが、その才を持つ事が判明している。
 一門の目的の一つとして、いずれ新たに産まれてくる人間の臣民全てを阿羅漢(アルハット)とし、特別な施術をせずとも神属と対等の力を持たせる事がある。
 その為、一人でも多くの阿羅漢(アルハット)を確保し、多くの子孫を造らせる事が課題となっていた。

「何事ですか?」
「い、いえ。少々小ぶりで育ちにくい様ですが、一門の手であればさして問題とはなりません」

 組頭の妻に問われた普蘭(プーラン)はとっさに誤魔化した。
 この赤児を巡る事情を聞く前に、その特異な価値を明かす訳にはいかない。

「ところで、訳ありの子の様ですが。御聞かせ願えませんか」
「はい。申し遅れましたが、私がこの娘の母でございます」

 産婆は、赤児を産んだ娘の母であると素性を話し、今回の事情を語り始めた。
 端的に言えば、近隣の百姓から陵辱された末に孕んだというのだ。

「憎き相手の胤を育て、平家の一員とする等、到底あり得ぬ話。これまでも同様の事は多々ございましたが、いずれも”返して”おりました。ですが、伊勢は帝の治める地となりました。旧来の通りにして良い物かどうかと、御伺い致したく存じます」

 ”七つまでは神の内”といい、和国の慣習では、齢七歳までの童は、口減らしといった親の都合で殺しても罪には問われない。まして、陵辱されて産んだ赤児なら尚の事である。
 だが、為政者が変われば法も変わる。
 主君たる言仁の治世で”子返し”は認められる物かというのが、相談だったのである。

「まずは、御意向を伺いましょう」
「はい。主の留守を預かる身としては、この赤児は恥辱の極み。早々に土に還したく存じます」
「同じく。穢らわしき無知蒙昧の輩の血を、我が孫として受け容れる訳には参りません」

 組頭の妻、そして赤児の祖母は、慣例通りに赤児を”返し”たい様だ。
 自らも子返しの経験がある普蘭(プーラン)も、それに頷いて同意した。

「当然でしょう」

 赤児の命を絶つ事で合意した彼女達の会話を聞き、赤児の側にいた奥妲(アウダ)は血相を変え、籠に覆い被さる様にして庇う姿勢を見せる。

「駄目ッ!」
「どきなさい、奥妲(アウダ)。一時の情に流されるとは、学徒にあるまじき醜態ですよ!」
『姉様、でもこの子は! 阿羅漢(アルハット)なんだよ! 姉様こそ情に流されてるよ!』

 普蘭(プーラン)の叱責にも、奥妲(アウダ)は怯まずに梵語で反論する。
 普蘭(プーラン)もまた、梵語で再び奥妲(アウダ)を責めた。

『奥妲(アウダ)、貴重な血と言えど、替えの利かぬ物ではありません! 御夫君様や私達が多く子を為し、阿羅漢(アルハット)の血を広めれば良いのです! 貴女も辱められた女の心が解るでしょう!』
「でも、でも、それを言ったら私達も! いらない子だったんだよ!」

 和語に言葉を戻して叫ぶ奥妲(アウダ)に、平家の女二人は顔を見合わせる。
 奥妲(アウダ)は二人に向き直り、自分達学徒の生い立ちを語った。

「私達は貧民窟で、賤民として産みの親に顧みられずに生きてきました。その日の糧を得る為に、男共に股を開き…… あるいは対価すら得られずに陵辱され…… そうして生じた子なんて、生みの母にとっては、邪魔でしか、なく! 育てたのだとしても、稼がせて、老いた身を養わせる為だけに!」

 顔を紅潮させ、言葉を詰まらせながら涙目で語る奥妲(アウダ)に、平家の女二人はじっと聞き入る。
 自分達は賤民に身をやつしていても、誇りを保ち、助け合って生きて来た。賤業ではあっても糧を得る事は充分に出来、飢饉に際しても百姓程には飢えなかったのだ。
 それに比べれば、補陀洛(ポータラカ)の賤民であった学徒達は、まさしく餓鬼道の如き境遇である。
 
「この子は私達と同じ! この子には、何の罪もないんです! この子には! この子を返しちゃったら、御夫君様が、言仁兄様がきっと悲しむよ!」

 奥妲(アウダ)は赤児を護ろうとして必死に訴える。
 当然の様に返すべきと考えていた普蘭(プーラン)だが、赤児が自分達と同じ立場だと言われた事で、理を以て自説の再考を試みた。

(確かに、矛盾ではあるか…… それに、優良な種を情にかまけて屠ってしまうのも、一門にあるまじき愚行かも知れない)

 組頭の妻、赤児の祖母の双方もまた、平家にとっても主君である言仁の名を持ち出された事もあり、無言で考え込んでいた。
 言仁の人となりから察するに、罪無き赤児を返したと聞けば、大いに嘆くだろう事は想像に難くない。
 八半刻 ※約十五分 の沈黙の後、組頭の妻が重い口を開いた。

「学徒の方々の御立場、よく解りました。なれど、平家としては、辱めの証を一族として受け容れる訳には参りません」
「そんな!」

 非情な答えに奥妲(アウダ)が悲痛な声を挙げるが、普蘭(プーラン)がそれを手で征する。

「故に、公(おおやけ)の子”として、市井の民同様に遇されます様。絶縁については、帝より安堵の書状を賜りたく存じます」
「あ、有り難うございます!」

 組頭の妻の続く言葉に、奥妲(アウダ)は深々と頭を下げる。
 当事者たる赤児、そしてその生母は、己の預かり知らぬ間に運命が決された事に気付かぬままに眠り続けていた。


*  *  *


 奥妲(アウダ)の訴えにより、風前の灯火だった赤児の命は救われた。
 後に成長した赤児は阿羅漢(アルハット)として優れた才を示し、軍へと進む。そして和国併呑を終え更なる外征へと向かう拡張期の皇国に於いて、大きな勲功を打ち立てた。
 言仁から直々にねぎらわれ、望む恩賞を問われた彼女は、栄誉有る平姓の下賜を望んだ。
 平姓は、賤民として伊勢に潜伏していた者達の他、他州に隠れ住み後に名乗り出た平家、そして平家に養育された言仁の落胤が名乗る姓という位置づけとなっていた。
 それに加え、多大な功績を挙げた者への勲功として与えられる事もあり、今回もそれに値すると誰もが思っていた。
 しかし、平家の女が陵辱の末に産み落とした子である事が詮議によって判明し、絶縁を安堵する言仁の書状を盾にした生母の強硬な拒否によって、それは果たされなくなる。
 判明した己の素性に絶望した彼女は、莫大な財貨、豊かな領地、さらなる地位といった、言仁から代わりに示された恩賞の悉くを拒み出奔してしまう。
 消息を絶った彼女は更なる後の時代、羅馬(ローマ)帝国の将として、勢力圏を拡大する皇国の前に立ちはだかる。
 多くの皇国将兵を戦場で屠り続ける彼女に、重鎮となっていた奥妲(アウダ)は若き日にかけた情を悔やみ、心を凍らせて行く。
 その詳細はまた、別の機会に語られるであろう。



[37967] 6話「阿修羅の学師」その66
Name: トファナ水◆34222f8f ID:46137904
Date: 2016/07/31 23:52
 平家の子弟達を乗せ、二人の学徒が率いる車列が桑名港へ着いたのは夕刻だった。
 和修吉(ヴァースキ)と一門の童女達は、共に答志島の船に乗るべく、既に着いて待っていた。

「無事に一門の子等を送り届けた様で、二人とも御苦労だった」
「普蘭(プーラン)姉、奥妲(アウダ)、御疲れ様です!」

 童女達と共に、車から降りた二人にねぎらいの言葉を掛けた和修吉(ヴァースキ)は、続いて降りてきた平家の子弟達に向き直った。

「お前等が平家の童共か。我が名は和修吉(ヴァースキ)。補陀洛(ポータラカ)皇家の一員たる那伽(ナーガ)、即ち和語で言う龍にして、皇国の学問を司る”一門”の学師である」
「よ、よ、宜しく御願い、します……」
「お、おねがい、します」

 平家の子弟達は挨拶するも、その声は震えていた。
 流石に武家の矜持を叩き込まれているだけあって泣き出したりはしない物の、半人半蛇の那伽(ナーガ)、しかも三つ眼である和修吉(ヴァースキ)の姿に怯えてしまっている。

「我の異形が恐ろしいか。島には六本腕の阿修羅(アスラ)、鳥の翼を持つ乾闥婆(ガンダルヴァ)、透き通る不定形の阿普薩拉斯(アプサラス)といった、様々な種族がおる。何、すぐに慣れるであろうよ」

 和修吉(ヴァースキ)から、自分達が向かう島には、人間ならざる異形が多くいると聞き、平家の子弟達はすっかり引きつってしまった。
 これが平民の童であれば、一門の童女達があからさまな侮蔑を見せる処だが、同胞と看做している平家であったので、逆に安心させるべく微笑みを見せている。
 彼女達とて、貧民窟で這い回る賤民だったのを、一門の神属に見いだされて宮殿へ連れて来られた際には、恐怖に震えていたのだ。
 何より、一門の年少組であり末席だった自分達に、正式の学徒ではない物のようやく出来た門弟・門妹である。嬉しくない筈がなかった。

「島ではお父君が待っていますよ。恥ずかしくない様にしなさい」
「は、はいっ!」

 平家の成年男子は、尸解仙の身体に慣れ、新たに与えられる職に向けて鍛錬する為に答志島に滞在している。その内には、この子弟達の父も含まれていた。
 普蘭(プーラン)の言葉に、子弟達はそれを思い起こして自らを叱咤し、やや無理気味に顔を引き締める。

「では、参ろうか」

 和修吉(ヴァースキ)に促され、一行は戎克(ジャンク)へと乗り込むべく桟橋を渡って行く。
 平家の子弟達にとっては、異形の神属に加え、初めての海に、初めての船である。
 不安は大きかったが、父に恥ずかしくないようにと、幼い侍の卵達は必死に堪えて後へと続く。
 最後に乗り込んだ奥妲(アウダ)の腕には、自らが庇護した赤児が抱かれていた。


*  *  *


 出航後、平家の子弟を童女達に任せると、普蘭(プーラン)と奥妲(アウダ)は和修吉(ヴァースキ)に貴賓室で事態を報告した。
 問題の赤児は、奥妲(アウダ)が我が子の様に抱きかかえたままだ。

「畏れ多くも、御夫君様の御名を私してしまいました。申し訳ございません……」
「否、問題ない」

 赤児を庇う為、言仁の名を持ち出し、書状による絶縁の安堵をも約してしまった事を詫びる奥妲(アウダ)だが、和修吉(ヴァースキ)はそれに及ばぬと言う。

「結論から言えば、奥妲(アウダ)の処置が正しい。阿羅漢(アルハット)の確保は、何にも勝る事項である。御夫君様へは我から話を通しておく故、心配せずとも良い」
「良かった……」

 奥妲(アウダ)が胸を撫で下ろす一方で、”返す”事に同意した普蘭(プーラン)が謝罪を口にした。

「師よ、貴重な人材を損ねようとした軽挙を御詫び申し上げます」
「いや、良い。一門の多くは、普蘭(プーラン)の意を是とするであろうしな。並の赤児であれば、産みの母を説き伏せる事もあるまい。あくまで、阿羅漢(アルハット)なればこそだ」

 和修吉(ヴァースキ)は、母の意向による子返しを覆した今回の件は、あくまで特例であり、普蘭(プーラン)の判断の方が原則に従っている事を付け加えた。
 同様の場面に再び遭遇しても、むやみに子を庇わず、生母による生殺与奪権を尊重する様、奥妲(アウダ)に対して釘を刺したのである。

「し、しかし、公(おおやけ)の子になってしまえば、親子は関係ないのでは?」
「否。地位を継ぐ事は出来ずとも、実親が誰かを手繰る事は出来る。血統の管理は劣悪な子孫を防ぐ為に必定だからな」

 神属に白痴が多く生まれるのは、個体数の少なさから近親による交配が進みすぎたのが一因である。
 その為、皇国に於いては臣民全ての系図の管理を徹底し、当人にもそれは開示する事となっている。血の近過ぎる者との間に、子を為さない様にする為だ。
 法術によって、父が誰であるかの鑑定も容易である。

「陵辱によって産んだ疎ましき子が成年後、自らの所在を知って尋ねてくるのではないか。その恐怖に終生怯えよと言うのも酷であろう?」
「それはそうですが……」
「勘定方が苦力(クーリー)として用意した千人。あれは全て、一門の学徒と血縁がない事を確かめてある。学徒の内には、産んだ子を棄てた者も多くいる故にな。産みの母を恨み、所在を突き止めて報復しようとする者がいないとも限らぬ」

 産みの親と望まれぬ子の確執による紛議の恐れは摘んでおくべきである。
 自分を棄てた母親に複雑な思いがある奥妲(アウダ)は、和修吉(ヴァースキ)の言葉に沈黙せざるを得なかった。


*  *  *


 一行を乗せた戎克(ジャンク)が答志島に着いたのは真夜中だった。
 篝火が炊かれた埠頭には、水軍の羅刹兵の他、直垂姿の人間の男が二十名程待っていた。
 我が子を出迎えに来た、尸解仙と化した平家の男達である。
 平家の子弟達は父親を見つけ、桟橋を降りるなり駆け寄って行く。
 青白い肌に白髪、牙を生やした異形の姿に変わった父の姿を見ても、子弟達は動じなかった。
 予め聞かされていた事もあるが、しばらくぶりに会えた嬉しさが大きかったのである。
 父親の側も我が子の無事な姿を見て、歓喜の声をあげていた。

「父上!」
「ちちうえー!」
「良い子にしておったか?」
「母上は息災か?」

 賑やかにはしゃぐ父子の再会を、一門の童女達は複雑な思いで眺めるが、和修吉(ヴァースキ)から宿舎へと戻って休む様に促されると、やや沈んだ面持ちでその場を後にした。
 それを見送った和修吉(ヴァースキ)は、普蘭(プーラン)、そして母に拒まれた赤児を抱える奥妲(アウダ)と共に、阿羅漢(アルハット)という思わぬ収穫を報告し、今後の処遇を協議すべく計都(ケートゥ)の屋敷へと向かった。



[37967] 6話「阿修羅の学師」その67
Name: トファナ水◆34222f8f ID:46137904
Date: 2016/08/10 00:50
 港の真向かいにある計都の屋敷の前を通る太い道には、殭屍(キョンシー)の大群が跳躍して行進していた。
 勅令を拒んで集団自害した百姓女のなれの果てで、平家が仮宮へ初参内する際に随伴した物と同じである。
 だがその時と異なり、いずれの殭屍(キョンシー)も腹が異様に膨らんでいるのが目立つ。
 臨月の妊婦のおよそ倍もある布袋腹だ。かといって躰が肥え太っているのではなく、腹だけがはち切れんばかりの大きさである。
 胎内に納まっているのは、殭屍(キョンシー)自身の子ではない。贄として召し上げられ、あるいは勅令に反した旨を問われた百姓の童、そして神宮の子弟だ。
 童達は殭屍(キョンシー)の胎内で、およそ半年をかけて滋養として吸われる事で、肉体が赤児へと戻っていく。脳からも滋養が吸われる為、記憶もすっかり失われてしまう。
 これが、歪んで育った童を、無垢の赤児へと再生する”還元”だ。
 滋養を消費させて”還元”を促進する為に、殭屍(キョンシー)は活動が可能な夜間を通じて、島を周回させられているのである。
 一門の者達にはすっかり馴染みとなった光景であり、三人はさしたる感慨を持つ事もなく、計都(ケートゥ)の元へと歩みを進めた。
 一方、平家の子弟達は殭屍(キョンシー)の群れを見て唖然としたが、自分達を虐げていた百姓女達が、帝(みかど)の怒りに触れて死後も罰を受けているのだと、尸解仙となった父親達に説明されると頷いていた。

「帝(みかど)の御威光によって皆が豊かになれたというのに、何故あの百姓共は、私達を卑しむ事を止めなかったのでしょう、父上?」

 子弟の内で最年長の男子が、傍らの父へ問う。

「長年に染み渡った因習は、富を分け与え、理を説いただけでは改まらぬ。大抵は、力でねじ伏せねば治まらぬのだ。だがそれは新たな憎悪を生む。故に”従わぬ者は赤子一人とて見逃さず禍根を断て”というのが、帝(みかど)が導師から授かった御政道である。帝(みかど)の手足としてそれを為す事は、武門たる我等平家の務め」

 哀しげに話す父を、子は不思議そうに眺めた。
 帝(みかど)に背く者なら斬られて当然なのに、何故、そんな顔をするのだろう。
 父は子の疑問を察したが、あえて答えなかった。
 口で説いても解るまい。侍なれば、己が身を以て知らねばならぬ事なのだ。


*  *  *


 真夜中ではあるが、計都(ケートゥ)は三人を自ら出迎えて来た。
 報告を受ける為、わざわざ起きていたのではない。元々、夜の方が仕事がはかどる質なのであり、その代わり朝が弱い。
 早朝に訪問される方が、彼女にとっては不快なのである。

「御苦労様でしたわね」

 挨拶もそこそこに、三人は学徒へ講義を行う為の座敷へと通される。
 概要については既に、和修吉(ヴァースキ)が船上から八咫鏡によって報告していた為、改めて詳細を聞く必要はない。
 計都(ケートゥ)はそれよりも、新たに見つかった阿羅漢(アルハット)の乳児を直に確かめてみたかったのだ。

「それが、例の赤児ですわね」
「早速ですが、こちらを御覧下さい」

 和修吉(ヴァースキ)に促され、奥妲(アウダ)は抱えていた赤児を、不安げな様子で計都(ケートゥ)へと手渡した。

 計都(ケートゥ)の腕の中で目覚めた赤児は泣き出す事もなく、ただ己を抱く六本腕の異形の瞳を凝視する。
 氷の如き冷たい視線で計都(ケートゥ)が見返すと、赤児は微笑みを表した。計都(ケートゥ)もまた、柔和な顔へとなる。

「ふふ、まさしく阿羅漢(アルハット)ですわ。それも、かなり力の強い」
「導師の眼力を受けても、全く恐れを見せぬ。素晴らしいですな」

 赤児は本能的に、計都(ケートゥ)の強さを見極めようとしていた。そこで計都(ケートゥ)は視線で力を示したのである。
 自分の庇護者が極めて強力であると悟った赤児は、安心して微笑んだのだ。
 力を持たない並の赤児なら、視線に込められた恐怖を浴びて、心が壊れてしまっただろう。
 赤児の様子に、二人の学師は共に満足そうである。

「さあ、お飲みなさいな」

 計都(ケートゥ)は胸をはだけると、赤児の顔を乳首へと近づけた。
 赤児はそれを口に含み、力強く吸い始める。
 優しく力強い計都(ケートゥ)に、赤児はすっかり自らを委ねていた。

(相変わらず、心を掴むのが巧みな方だ)
(ひとまず安心かな……)

 赤児を懐かせた計都(ケートゥ)に和修吉(ヴァースキ)は感心し、奥妲(アウダ)は安堵する。
 一方で、陵辱されて産んだ子を拒む母側に心情を寄せていた普蘭(プーラン)は、理で情を抑え込み、何とか平静を装っていた。

(まだ情が理に勝る事が多い様ですわね)

 計都(ケートゥ)は慈母の様に赤児へ乳を与えながら、期待を掛けている普蘭(プーラン)の精神が乱れている事に、内心で嘆息していた。



[37967] 6話「阿修羅の学師」その68
Name: トファナ水◆34222f8f ID:46137904
Date: 2016/09/11 09:45
 翌日。
 日が高く昇っても、普蘭(プーラン)は未だ計都(ケートゥ)の屋敷に与えられている自室の寝床で眠りこけていた。
 学徒にあるまじき態度だが、大きな仕事を終えた後という事もあり、休養を許されているのである。
 その傍らには歳若い羅刹兵の男子が二人、裸体のまま寝息を立てている。
 平家より引き取った阿羅漢(アルハット)の赤児の処遇について、普蘭(プーラン)が割り切れぬ思いを抱いているのを見て取った計都(ケートゥ)が、心を癒させる為、非番の新兵に夜這いを掛けさせたのだ。
 普蘭(プーラン)は少年兵達から思う存分に精を搾り取り、満足そうに涎を口から垂らして眠っている
 肉体の快楽に興じ、深く眠る。悩みを和らげ、心を落ち着けるには簡易で良い方法である。

「普蘭(プーラン)姉、起きて下さい」
「ん、ああ……」
「普蘭(プーラン)姉! 御夫君様から八咫鏡で通信が入っております!」
「御夫君様!?」

 計都付の当番である門妹から耳打ちで起こされ、普蘭(プーラン)は数秒の間寝ぼけていたが、”御夫君様”の一言で目をかっと見開いた。
 そのまま跳ね起きかけたが、傍らで休んでいる一夜の相手に気付き、静かに寝床を抜ける。

「この子達は寝かしておいてあげなさい。眼が覚めたら朝餉(あさげ)を出してあげて」
「……普蘭(プーラン)姉。これ、今晩は私が使っていいですか? 随分と立派な物……」
「確か、今日はこの子達が港の警護で不寝番の筈です。今宵の相手が欲しいなら別の子を見繕いなさい」

 寝息を立てている若き羅刹の股間にちらちらと目をやりながら尋ねる門妹に、普蘭(プーラン)は苦笑して答えると、八咫鏡がある計都(ケートゥ)の居室へと急いだ。


*  *  *


「導師、失礼致します!」

 普蘭(プーラン)が勢いよく計都(ケートゥ)の居室の襖を開けると、中では部屋の主が待っていた。

「まあまあ、その勢いなら昨晩はゆっくり休めた様ですわね」
「し、失礼しました!」
「小生は場を外しますから、活仏とゆっくり語らいなさいな」

 計都(ケートゥ)は微笑んで、壁に掛けられた八咫鏡を示すと自室を後にした。
 普蘭(プーラン)が鏡を覗くと、そこには言仁、主君の一方にして愛しき門弟が映っていた。

「お早うございます、御夫君様。何用でございましょうか」
「普蘭(プーラン)姉、昨日は私達の子等を無事に送り届けて頂き、御苦労様でした」

 普蘭(プーラン)は臣下として頭を垂れて挨拶した。
 だが言仁は君主としてではなく、門弟として、そして肉体の交わりを持ち子を為した相手として語りかけて来た。
 暖かい瞳、そして”普蘭(プーラン)姉”という呼び掛けが、それを表している。
 普蘭(プーラン)は取り繕うのを止め、立場上なかなか会えない門弟の顔を見て綻んでいた。

「子の親として、直にそれらしい事をしてやれぬのは辛い事です。ですが、手ずから育ててしまっては、肉親の情が養育に歪みを生じさせます。平家が帰順した事で、一門の外であの子等を育て上げる目処がたったのは幸いでした」
「はい…… 時子殿であれば、託すに相応しいと思います」

 自分達の子の事を話しているにしては、他人事の様に淡々とした会話だ。
 だが、一門の元で、血縁による親子の絆を否定する思想を刷り込まれた言仁にとって、彼が出来る精一杯の気遣いである。
 また普蘭(プーラン)だけでなく、一門の学徒はその殆どが、我が子に強い思い入れは抱いていない。
 学徒達が一門の思想に心酔している為だけではない。実の親から虐げられたり、また自らが産んだ望まぬ子を棄てたり”返し”たりといった経験を持つ彼女達にとって、血縁を強い絆として重んじる旧来の価値観は苦痛でしかなかったのだ。
 その為もあり、自分達が産んだ子の養育を平家に委ねる事については、一門の学徒達全てが賛意を示していた。
 皇国の為、立派な人材に育って欲しい。ただそれだけが、一門の学徒が血を分けた子に抱く願いなのである。

「計都(ケートゥ)師にも申し上げましたが。一門が預かった平家の子弟達の教導を、学師の皆様方や、他の姉上達、妹達と共に宜しく御願いします。丁度、父親たる平家の男子達が自身の鍛錬の為に在島中です。方針については先方とよく相談して下さい」
「はい。あの童達が補陀洛(ポータラカ)と和国の良き面を併せ持ち、皇国の礎となる役を担える様、立派に育て上げてみせます」

 既に生まれている者に限るとはいえ、平家の子弟へ身分を安堵する事について、一門の学徒には疑問の声を挙げる者もいる。世襲を廃し身分は一代限りという、皇国の方針に反する為だ。
 だが、普蘭(プーラン)はその様な不満を抑える側に廻っている。彼女とて思う処はあるが、平家との関係を良好に保つには必要な措置である事も、充分に理解出来ていた。
 その上で自分達に出来る事は、託された子弟を、身分に相応しい様に仕上げる事である。士分としての器量がない童については、冷徹に廃嫡を平家に求め、還元して赤児に戻した上で平民として育て直せば良いだけの事と、普蘭(プーラン)は考えていた。

「それと、件の阿羅漢(アルハット)たる資質を持つ赤児の事ですが」

 問題の赤児の事に話が及び、普蘭(プーラン)は思わず身を固くする。

「平の家門より放逐し、公(おおやけ)の子として遇するという件は承知しました。絶縁を安堵する書状を、生母に対して送った処です。今日はその事を直に御伝えしたかったのです」

 現地で話をつけた通りの処置を言仁が承諾した事で、普蘭(プーラン)はひとまず安心した。言仁が赤児の側に同情して、平家の一員とする様に主張する事を怖れていたのだ。

「……それで、宜しいのですか?」
「子に罪はないとは言えども、辱めで望まぬ子を産んだ母側の事も、思いやらねばならぬのは当然です。落とし処としては申し分ないでしょう」
「なれば養育はどの様に致しますか?」

 母側への配慮に普蘭(プーラン)は感謝しつつも、実際に赤児をどの様に処遇するかは難しい問題と考えていた。
 阿羅漢(アルハット)として特別扱いすれば、平家としては決して心穏やかではあるまい。
 といって、凡百の童と同様に扱い、希有な才覚を伸ばさないで済ますのでは庇護した意味がない。計都(ケートゥ)もそれは否とするだろう。

「幼少の内は、市井より買い集めている赤児と混ぜ、共に菅島で育てれば宜しいでしょう。阿羅漢(アルハット)としての鍛錬は、齢五、六才位からで充分に間に合います」
「菅島…… あそこの統括は阿瑪拉(アマラ)師でしたね」
「はい。既に和修吉(ヴァースキ)師が奥妲(アウダ)と共に、件の赤児を託す為に向かっている筈です」

 普蘭(プーラン)は、問題の赤児の処置が完全に自分の手を離れたと実感し、肩の荷を降ろした思いがした。


*  *  *


 和修吉(ヴァースキ)は、問題の赤児を抱えた奥妲(アウダ)を伴って、菅島を訪れていた。
 菅島は答志島に隣接する島で、神宮の統治時代はやはり九鬼水軍の支配下にあった。
 こちらに住んでいたのは海賊ではなく、その隷属化にあった漁民である。しかし彼等も補陀洛(ポータラカ)の軍勢に抵抗の意を見せた為、答志島同様に住民は全員捕縛されてしまった。今は石化されて獄中で贄となるのを待つ身となっている。
 計都(ケートゥ)は、外部からの影響が一切絶たれた離島こそが、養育の場として最適であると考えている。その為、伊勢沖に浮かぶ居住可能な離島は全て、一門の用地として押さえられていた。
 答志島が一門の本拠であるのに対し、菅島の方は皇道楽土に相応しい臣民を、無垢の赤児から育て上げる為の場だ。
 新しき世を担う子供達は外の世界を知らぬまま、ただ一門の師範が垂れる教えのみを真実として育つのである。

「答志島の講堂には鏝絵(こてえ)が施されているのに、こちらは飾り気がないですね。童が育つ場なのですから、もう少し華やかさがあっても……」
「そう言うな、職工の手が全く足りぬのだ」

 乳児舎を見た奥妲(アウダ)が溜息混じりに漏らした感想を、和修吉(ヴァースキ)が窘める。
 これは一號棟であり、年に二棟づつ建て増す事になっている。
 建てられたばかりの乳児舎は実用のみを考えた造りで、大きく堅牢ではあるが一片の装飾もない。白一色の屈強な壁面は、獄舎の様にすら見える。
 雅を尊ぶ平家の者であれば、”赤児が育つにしては風情が無い”として眉をしかめてしまうであろう代物だ。
 二人が中に入ると、板張りの床には所狭しと小さな寝台が並べられ、その上には産着を着せられた赤児が一人づつ寝かされている。
 周囲では、乳母を担う女達が忙しく立ち回っていた。
 乳母達は和修吉(ヴァースキ)を見て、慌てて姿勢を正す。だが、その要無しとして和修吉(ヴァースキ)が手を振ると、一斉に黙礼して仕事に戻った。
 乳母は母親に代わり、赤児を育てる重要な役目を担っている訳だが、大半の者は答志島の学徒と容貌が随分と異なっていた。
 肌の色は黄で、和国の民から登用された者である事が一目瞭然だ。一門の証である純白の紗麗(サリー)を着けてはいるが、布地は絹でなく木綿である。
 また、下腹部が妊婦の様にふくれているのが目立つが、胎内に入っているのは児ではなく”第二の頭”だ。
 彼女達は、二人分の頭を持つ事で常人並の智恵を得た、元軽愚である。常人の智恵を十として、元は七を切っていたのが、施術によって十二から十四の智恵を与えられたのだ。
 彼女達は正規の学徒から初等の教育を受けながら、乳母として勤めている。
 現状ではあくまで静養を兼ねた一時の処置という建前だが、当人達はここで働き続ける事を望んでいる為、近く正式に任じられる事になるだろう。
 静養と言いつつも働いているのは奇異な事だが、これも当人達の希望による。”怠惰は罪”という道徳律が骨身に染み渡っている和国の民草は、只のんびり休んでいる事に罪悪感を感じてしまうのだ。後の世で列強他国から”働き蜂”と揶揄される気性である。
 漆黒の肌を持つ者が数名混ざっているが、彼女達は下腹が膨れておらず、着用する紗麗(サリー)も絹製である事から、乳母の指導を担う正規の学徒である事が解る。
 二人が屋内の乳児達を見て回っていると、背後から野太くのんびりした口調の女の声がした。

「和修吉(ヴァースキ)師、御無沙汰しとります」

 振り返ると、そこには白く大きな狼の姿があった。
 顔つきはいかにも獰猛だが瞳には理性が宿り、躰の大きさはほぼ白虎と同じ程だ。神属の一種族”人狼”である。
 白虎同様、人狼の女性は乳幼児の養育に高い適性を持つとされ、神属の間では乳母の役を担う事も多い。
 彼女が阿瑪拉(アマラ)。一門の学師であり、児童養育の統括を任されている重鎮の一人である。
 言仁の乳母役を決めるにあたり、阿瑪拉(アマラ)も有力な候補の一人であった。
 一門と近衛という”組織”、そして賢狼と白虎という”種族”。将来にわたる多大な影響力を得るであろう役を巡り、水面下での駆け引きが激しく演じられ、言仁の乳母役を得たのは近衛筆頭の英迪拉(インディラ)である。
 それと引き替えに、阿瑪拉(アマラ)は次代の臣民養育を担う地位を得たという訳だ。
 裏方の役回りではあるが、皇国への影響力という面では、言仁の乳母役と比べても遜色ない。阿瑪拉(アマラ)は実を取ったのである。

「阿瑪拉(アマラ)師、突然に押しかけて申し訳ない。件の赤児を早々に引き渡したかったのでな。長く答志島に置いておく訳にもいかぬ」
「ええですよ、儂も例の赤児を早う見たかったんですわ」

 阿瑪拉(アマラ)は、奥妲(アウダ)が抱く赤児の顔を覗き込んだ。
 赤児は怖がる事無く、肉食獣たる阿瑪拉(アマラ)の顔を撫でてはしゃぐ。
 その無邪気な態度に阿瑪拉(アマラ)は感心し、抱く奥妲(アウダ)は内心で胸を撫で下ろす。どうやら、赤児は阿瑪拉(アマラ)に懐きそうだ。

「儂を全く恐れないとは、全く剛胆な児ですわ」
「うむ、導師の眼力を受けても微笑んだ程だ。人間はもとより、並の神属では手に余るだろうが、阿瑪拉(アマラ)師ならば任せられる」
「まずは、乳を与えんと」

 阿瑪拉(アマラ)は、部屋の奥にしつらえてある、獣形の種族、要は自分の為の寝座へと二人をいざなうと、そこに寝転んで腹を見せる。

「さあ、その児を儂の腹へ」

 奥妲(アウダ)は言われるまま、抱いていた赤児を阿瑪拉(アマラ)の腹に添わせた。
 赤児は腹をすかせていた様で、すぐに巨大な狼の乳首の一つに吸い付き、喉を鳴らして乳を飲み始めた。

「力に惹かれる子の様ですわな。人間は元より、神属であっても弱いもんは歯牙にもかけんでしょう」
「傲慢な性根を持っているのでしょうか……」

 乳を飲ませながら、赤児に対する見立てを語る阿瑪拉(アマラ)に、奥妲(アウダ)が心配そうに尋ねる。なまじ強い資質を持つだけに、皇国臣民にあるまじき心を備えているとなれば、将来の災いになりかねない。

「その気もありますけど、育て方次第ですわ。無闇に威張らず、弱いもんを護る風に躾ければ、きっと良い武官になりそうですわ」
「ほう、武官。そう見立てたか。詳しく聞かせて欲しい」

 女児に対し、あえて武官に向いているというならば余程の適性があるのだろう。
 和修吉(ヴァースキ)は先を促した。

「智恵は常人が十に対して、この児は十五。一門の学徒も充分勤まりますけど、躰も頑健で、夜叉(ヤクシャ)並の膂力もありますわ」
「素で、ですか? 法力を使わずに?」
「勿論ですわ」

 奥妲(アウダ)の疑問に、阿瑪拉(アマラ)は頷いて肯定する。
 夜叉(ヤクシャ)は人間と同じ体格だが、膂力は倍以上に強い。阿羅漢(アルハット)であれば法力を使う事で、一時的に怪力を振るう事も出来なくはない。だが、この赤児はそれをせずとも夜叉(ヤクシャ)と互角だというのだ。

「ですから、この児は学者や文官より武官に向いとります。水軍も近衛も、きっと欲しがると思いますわ」
「そこまでの資質であれば、導師も放したがらぬだろうな」
「解っとらんなあ、和修吉(ヴァースキ)師」
「ふむ?」

 思わぬ同僚の言葉に、和修吉(ヴァースキ)は怪訝な顔をする。

「ここで育てた子はどこに行こうと、一門の紐付きですわ。赤児の内から一門の教えを刷り込むんですからなあ。有為なもんを一門自身で独り占めするより、むしろ適当に散らした方がええんですわ」
「成る程。いずれ皇国の臣民は、その殆どが一門の育てた者となる。さすれば……」
「そういう事ですわ」

 子の養育を支配する者は、実質的に国の将来を握ったも同然である。
 弗栗多(ヴリトラ)・言仁の皇帝夫妻すら、計都(ケートゥ)の教え子として、説かれた教えに添う形で政(まつりごと)の采配を振るっているのだ。
 阿瑪拉(アマラ)と和修吉(ヴァースキ)は、互いの顔を見合わせて不敵に唇を歪めた。
 一門こそが皇国なり。
 それを側で見る奥妲(アウダ)もまた、学師達が見せる野心に心酔する。
 赤児は大人達の目論見を知らぬまま、満腹して寝息を立て始めた。


*  *  *


 眠った赤児を乳母達に任せると、三人は乳児舎を出て、阿瑪拉(アマラ)の屋敷へと場所を変えた。
元は菅島の網元の屋敷だった建物で、伊勢本土の揃って粗末な庄屋屋敷よりは、幾分か立派な造りである。
 屋内の部屋は、精巧な刺繍が施された絨毯(じゅうたん)が敷き詰められている。波斯(ペルシャ)の産物であろうが、当然ながら貴重な飛行絨毯ではなく只の豪華な敷物だ。
 これは九鬼水軍の蔵にしまわれていたのを押収した物で、要は戦利品である。恐らく、元は陸路で波斯(ペルシャ)から明国に運び込まれた交易品が、さらに和国へと流れて来たのだろう。
 絨毯へ寝転んだ阿瑪拉(アマラ)は、客人二人にも座を勧める。
 和修吉(ヴァースキ)は蜷局(とぐろ)を巻き、奥妲(アウダ)も胡座(あぐら)でそれにならった。
 三人共が落ち着いた処で阿瑪拉(アマラ)の口から出たのは、溜息交じりに苦境を訴える言葉だった。

「まあ、さっき言った様な、景気がいい皮算用はともかくとして。養育の統括としては問題が山積みですわ」
「というと?」
「はっきり言って、手が足らんのですわ」

 一門による当初の目論見では、次代を担う赤児の養育に際し、必要な乳母の多くは一揆衆の女子から選抜する事になっていた。
 しかし、その殆どが勅令に反したとして処罰された事で、そこから人員を調達する事が出来なくなってしまったのである。多くの者は罪一等減じて宮刑で済ませたが、信頼が置けない者を養育に関わらせる訳には行かない。
 平家の女子については、一門自身が産んだ赤児を任せる事になっているので、乳母を募る先としては除外されてしまう。
 また、勅令に従い罰を免れた荘園の民についても、耕作の人手不足を申し立てて来る様な現状では、女子を引き抜いて来るのは無理筋だ。

「乳母の不足は計都(ケートゥ)師も承知しておいでだ。故に、先日に施術して智恵を与えた、元の軽愚。あれらを阿瑪拉(アマラ)師の下につけたであろう?」
「三百名余りですわな。んで、登用した乳母への指導役として用意してあった学徒が五十名ですけど、これは勘定に入れません。赤児四名に乳母一名をあてがいますから、一千二百名の赤児しか見れん訳ですわ」
「差し当たりはそれで充分ではないか?」
「齢十二まで育てるのに? 育て終わるまで新たな赤児の石化が解けなくなりますわ」
「つまり、毎年、新たに石化を解く乳児の為に三百名程の乳母を登用せよという事か」
「最低でもそれだけいりますわ。三百を十二で掛けて、三千と六百。それだけの乳母を十二年掛けて揃える訳ですわ。その後は育てた童の内から、乳母として残るもんを募って増やすというのが、儂の目論見ですわ」
「ふむ…… 乳母をどこから持って来たものかな」

 他州から連れて来るにしても、賤民を蔑視しないという絶対の条件にかなう者は多くないだろう。
 加えて、弗栗多(ヴリトラ)は他州や幕府、朝廷等からの間諜が紛れてくる事を警戒している為、触れ回って人材を募る訳にもいかない。表向きは伊勢を他州から閉ざしたまま、眼を着けた者を密かに一本釣りするしかないのである。

「で、では! 先に苦力(クーリー)として千人登用し、荘園に送り込む事と決まった男子の様に、国元の旃陀羅(チャンダーラ)から募っては如何でしょう?」

 二人の学師の話を黙って聞いていた奥妲(アウダ)が、すかさず声を出す。本国の同胞を少しでも救い出す機会を、彼女は決して逃さなかった。
 これまで弗栗多(ヴリトラ)は本国の人間を伊勢へ入植させる事に否定的だった。しかし、勘定方の独断専行と言仁の追認によって、既に先例が出来ている。和修吉(ヴァースキ)がそれに手を貸していた事もあり、奥妲(アウダ)は二つ返事が得られる物と確信していた。
 だが、和修吉(ヴァースキ)の口からは、意外にも渋る言葉が出る。

「乳母となると、一門に名を連ねる事になる。苦力(クーリー)の様な訳にはいかぬぞ。既に補陀洛(ポータラカ)では、阿羅漢(アルハット)の資質を持つ旃陀羅(チャンダーラ)や首陀羅(シュードラ)の女子は、あらかた学徒として登用してしまったからな」
「駄目ですか……」

 意気消沈する奥妲(アウダ)だが、阿瑪拉(アマラ)の見解は和修吉(ヴァースキ)とは異なっていた。

「阿羅漢(アルハット)の才は無くてもいいですわ。実際、導師が廻してくれた、元の軽愚。あれらは法術を使えんけれども、それで乳母の役目に不自由はないんですから」
「そ、そうですよ、和修吉(ヴァースキ)師!」

 奥妲(アウダ)は阿瑪拉(アマラ)の言葉に縋り付き、和修吉(ヴァースキ)を必死に説得しようとする。その様子に和修吉(ヴァースキ)は苦笑した。

「説得すべきは我よりも導師であろう? 阿瑪拉(アマラ)師はこの案、どう思われるか?」
「元は当人の罪でなくとも、心が荒んでしまっておるもんは使えませんわ。既に受け容れたもんの実の子も、棄てられたとかの怨恨が絡むかも知れんから駄目ですわ。その辺は原則通りに行きたい処ですなあ」
「資質はどの様に問われるか?」
「躰が丈夫なのも当然として。少なくとも十二位の智恵は欲しいですわな。乳離れした童に、読み書きや算術の手ほどきをするのも乳母の役割ですから、ただ乳を飲ますだけのもんはいりませんわ」

 登用される乳母の大半は無学の為、赤児の世話の傍らで、一門の正規な学徒によって初等の学問を教えられる。
 当人の為だけでなく、島で育つ童達に読み書きや算術、そして修身等を説く師範を務め、また後進の乳母を先達として指導出来る様にする為だ。
 皇国において、”公(おおやけ)の子”を預かる乳母は、決して人間社会の上流層が雇う”子守り”の様な末端の下働きではない。
 初等教育を担う、優れた智恵なくして出来ない職であり”皇道楽土”建立の要とすら言える。その重要な役をかき集めるのに苦心惨憺しているのが、伊勢統治の現状なのだ。

「ふむ。阿羅漢(アルハット)でなくて良いなら、そこまで絞っても数は揃うであろう。導師にはその様に申し上げる。主上はあまり良い顔をするまいが、先例もあるし、他に良策も見つからぬ故にな。後は我と導師に任せるがいい」
「助かりますわ」
「有り難うございます!」

 補陀洛(ポータラカ)本国の賤民を導入する案は、阿瑪拉(アマラ)も考えてはいた。しかし、弗栗多(ヴリトラ)の不興を恐れて言い出せずにいたのだ。
 皇族であり、計都(ケートゥ)への苦言も辞さない和修吉(ヴァースキ)が同意見であれば心強いという物である。


*  *  *


 和修吉(ヴァースキ)は答志島に戻ると共に、”公の子”の乳母として本国から賤民の女子を入植させる様、計都(ケートゥ)に提案した。
 計都(ケートゥ)もまた同様の案に至っていた為にそれはあっさりと通り、翌日には弗栗多(ヴリトラ)の裁可を求めるべく、桑名の仮宮へと自ら赴いた。
 弗栗多(ヴリトラ)は謁見に応じた物の、見るからに不機嫌そうな顔をしていた。

「良かろう。その様にせよ」

 弗栗多の態度から難色を示すのではないかと思っていた計都(ケートゥ)だが、二つ返事での承諾に、不満は別の点にあったのではないかと推察する。

「何かあったのかしら? 話してごらんなさいな」

 計都(ケートゥ)の問いかけに、弗栗多(ヴリトラ)は渋々と口を開く。

「乳母の不足の件、坊の耳にも届いておった様でな。先刻の事じゃが、宮刑に処した者の内、若年の女子を充てられないかと戯言を吐きよったのじゃ」

 伊勢の民の大半は、賤民解放の勅令に反した罪で宮刑に処されている。刑を終えた上は日々の暮らしに戻っているのだが、前科のある彼等を次世代の乳母に任じる等とはあり得ない話だ。
 それでは子を引き離し、世代を区分する意味がない。悪しき因習、旧き価値観は、彼等が寿命を終えると共に滅ぶべき物だ。
 
「真子 ※卵巣 と子袋をえぐり取って女の機能を奪ってあっても、胸から乳が出る様には出来ますわ。けれども、小生は賛成出来ませんわね」
「そうじゃろう? あの様な屑共を乳母にすれば、下らぬ因習を次代の童に植え付けかねぬではないか! 全く、それが解らぬ坊ではあるまいに……」
「でしたら、国元から使える者を連れてきた方が良いですわね」

 微笑んで自案への賛意を確認する計都(ケートゥ)に、弗栗多(ヴリトラ)は改めて同意する。

「うむ。坊の愚策と比べるべくもないわ」
「では、その様にしますわね。ところで、活仏はどうしていますの?」

 当初の要件を片付けた処で、計都(ケートゥ)は言仁の事を尋ねる。

「拗ねて寝室にに籠もっておるじゃろうて」

 弗栗多(ヴリトラ)は顔を背けてそっけなく答える。もはや為政者同士の見解の相違による争いではなく、只の母子喧嘩だ。
 理は弗栗多(ヴリトラ)の側にあるにせよ、褒められた態度ではない。

「あらあら。では小生が行きますわね」
「うむ。きつく叱ってやってほしいのじゃ」

 言仁をなだめるべく、計都(ケートゥ)は皇帝夫妻の寝室へと足を向けた。


*  *  *


 寝室の前では、いかにも困った様子の英迪拉(インディラ)が、襖の前で控えていた。

「ああ、センセ。坊がむずかっとるんですけど、主上が放っておけというもんで……」
「入って宜しいかしら?」
「まあ、センセならええですやろ。御願いしますわ」

 計都(ケートゥ)が襖を開けると、言仁は部屋の隅で、置かれている机に伏し、むせび泣いていた。

「あらあら。世を統べる活仏ともあろう方が何をしていますの?」

 計都(ケートゥ)が優しく問いかけると、言仁は袖で涙を拭い、顔を向ける、
 眼は真っ赤に充血し、髪も乱れている。

(静かに理を説けば聞き分ける子なのに。弗栗多(ヴリトラ)は頭ごなしに怒鳴ったのでしょうね)

 ここに至る状況を推察し、内心で嘆息しながらも、計都(ケートゥ)の顔は微笑んだままだ。

「私は、私は…… 国の頂点にありながら、機会をとらえて過ちを犯した民を許してやる事もならぬのでしょうか……」
「貴方は優しいですものね」

 計都(ケートゥ)は言仁の慈悲を認めながらも、優しく諭す。

「でもね、虐げられていた平家の者、そして旃陀羅(チャンダーラ)から抜擢された学徒達の事を考えなさいな。愚かな民を安易に許してしまっては、あれ等はどう思うかしら?」
「は、はい…… ですが、乳母が足りぬ事は……」

 計都(ケートゥ)は、補陀洛(ポータラカ)の賤民を乳母として導入する案を、言仁にも説明する。

「そうすれば、先の千人の少年達に加えて、より多くの旃陀羅(チャンダーラ)が救われますわよ。それに比べて、宮刑を受けた者達はあのままでも寿命を全う出来ますし、飢えることもありませんもの。どちらを救うべきかしら?」
「わ、わたしが…… 間違っておりました……」

 落涙して詫びる言仁に、計都(ケートゥ)は頭を撫でながら、残る腕で自らの衣の帯を解き始めた。

「さあ、聞き分けた御褒美ですわよ。貴方がいた場所に還っていらっしゃいな」

 素裸になった計都(ケートゥ)に言仁は縋り付き、そのまま二人は床へとなだれ込んだ。

*  *  *


 計都(ケートゥ)が言仁と語らう間、英迪拉(インディラ)は寝室の前で近衛として控えていた。
 やがて二人のあえぎ声が聞こえ始めたが、英迪拉(インディラ)は悶々とした気分になりつつも、立場上動けないでいる。
 そうしている内に、弗栗多(ヴリトラ)が様子を伺いに訪れた。

「どうじゃ?」
「聞こえますやろ。乳繰り合っとりますで」

 英迪拉(インディラ)は物欲しそうな視線を、寝室の襖へと向ける。

「センセにはかなわんなあ。坊はすっかり機嫌を直しとりますわ」
「師も妾達と同じく、坊の母の一人じゃからのう。全く妬けおるわ」
「坊を育てたんは主上とわてやけど、腹を痛めて産み直したんはセンセやもんなあ」

 言仁の養母は弗栗多(ヴリトラ)、乳母は英迪拉(インディラ)である。
 加えて、計都(ケートゥ)は第二の生母というべき存在だ。言仁にとっては師弟の立場を超えて甘えられる相手でもあった。
 十七年前、言仁が補陀洛(ポータラカ)で庇護されて石化を解かれた時。
 壇ノ浦で味方が次々と討たれていく様を目の当たりにしていた彼は、すっかり心が壊れて狂気に陥っていた。
 計都(ケートゥ)は自らの胎内に言仁を収め、”還元”で赤児に戻し記憶を吸い取る事で癒したのだ。

「わて等、今からでもまぐわいに混ざったらあかんですやろか」

 浅ましげに涎を垂らす英迪拉(インディラ)の頭を、弗栗多(ヴリトラ)は掌ではたく。

「あたっ!」
「汝にも女の矜持があるじゃろうが!」
「せやけど、やりたいですやん……」

 叱責を受けても、英迪拉(インディラ)はいかにも諦めきれない様子である。

「御愉しみは師が帰った後じゃ。今宵は二人で、坊のだらしない逸物に折檻しようではないかや?」
「んほうっ! んじゃ、今はセンセに坊を貸しといたるわ」

 にたりと唇の端を歪める弗栗多(ヴリトラ)に、英迪拉(インディラ)も同調する。
 すっかり牝の目になった二人は、夜に備えて胸を高鳴らせていた。


*  *  *


 およそ二月の後。補陀洛(ポータラカ)から、乳母として登用された賤民の女達を載せた戎克(ジャンク)の船団が菅島へと到着した。
 一門の長である計都(ケートゥ)、そして学師や学徒達だけでなく、皇国の頂点である弗栗多(ヴリトラ)・言仁の二人も出迎えに訪れていた。水軍大将の茨木童子、そして平家の家長たる時子の姿もある。
 儀典という事で、港の周囲は英迪拉(インディラ)が率いる近衛の白虎達が警護を固めていた。
 桟橋を渡る漆黒の肌の娘達は、虫けら同様に底辺を這い回っていた自分達を、皇国の中枢が揃って出迎えて来た事に動揺を隠せないでいる。
 その初々しい姿を見て、皇国の重鎮は揃って満足そうだ。
 皇道楽土に相応しい臣民を、無垢の赤児から育成する体制。その本格的な構築が、この人員補充により始まる事と成る。
 旧き世に生きる者の殆どは、いずれ皇国の敵として討たれ、あるいは捕らえられて贄となる。服従し”仮初めの民”として生きる事を認められた者も、人間の短い寿命を全うして世を去って行き、ここで育つ者達に街や村を明け渡す事になるのだ。
 和国だけではない。琉球、朝鮮、そして明、満刺加(マラッカ)、暹羅(シャム)…… 東洋に存在する国々はその悉くが皇国に呑み込まれる事となる。
 貪欲な龍の巨体が西洋に及んだ時、皇国を出奔した末に羅馬(ローマ)の将として立ちはだかる事になる赤児もまた、自らの運命を知らぬままに乳児舎で寝息を立てていた……。



[37967] 7話「樵に育てられた人狼」その1
Name: トファナ水◆34222f8f ID:46137904
Date: 2016/09/13 21:55
 美州、即ち美濃とは、伊勢の北方で境を接する州だ。その南端に位置する州境に、石津という村がある。
 ここは半年程前まで、伊勢神宮へ参拝に向かう旅人が利用する宿場の一つとして栄えていた。しかし、伊勢が一揆衆の支配となった為、現在は参拝客の足が途絶えてしまっている。
 一方、他州からの入境を閉ざす伊勢は、美州との交易拠点を州外のここに構える様になった。その為、石津は以前よりもかえって多くの人で賑わう様になっている。
 港があり多くの商船が訪れる、尾州の熱田とは比べるべくもないが、ここ石津も伊勢が他州に開く窓口の一つなのだ。
 主な交易の品は、伊勢からは医薬の他、魚介の乾物、そして海を持たぬ美州で貴重な塩。美州からは木材や石材、そして記録や通信に欠かせない紙である。
 また、交易の拠点ともなれば、出入りする者に酒を供する商売もある。
 店を構えた居酒屋も数件あるのだが、零細な行商人や馬丁にとっては懐が心許ない。
 その様な者達が飲み食いをするのは、安くあがる屋台である。石津では百姓の女房による副業として、雀や鮎、山女魚(やまめ)等の串焼きを肴に、自家で仕込んだ濁醪(どぶろく)を供する屋台が数多くある。
 同業者の座によって利権が固められている店舗と違い、屋台・露店の類については、日払いの場所代を元締めに払えば、場所を割り当てられて店を出す事が出来る。それを利用し、補陀洛(ポータラカ)の間諜が数名程、一揆衆の通行手形を受けて州外での商売を許されたと称し、人間を装って地元の衆に混ざり屋台を営んでいた。
 間諜は客に安酒や肴を供しつつ、彼等の話題に耳を傾ける。酔漢による噂話は玉石混淆ながらも、時として貴重な報を得られるのだ。


*  *  *


 ある昼下がり。
 荷を運び終えて石津に戻って来た初老の馬丁の前には、いつもの様に屋台が建ち並んでいる。
 馬丁は帰る前に一杯引っかけようと馬を木に繋ぎ、馴染みとなった一件に席を取った。
 まだ混み合うには早い時分で、客は彼一人である。

「姉ちゃん、一杯くれや!」
「はいよ」

 馬丁が懐から取り出した銅銭を勢いよく机に置くと、屋台主の若い女 ……正体は齢五十程の羅刹(ラークシャサ)。もっとも、神属としては若年だが…… は、樽に詰まった濁醪(どぶろく)を、柄杓(ひしゃく)で木椀に酌んで差し出した。
 年貢米に使えない様な屑米を仕込んだ物で、清酒を飲み慣れた者ならばとても口に出来ない代物だが、しがない民草にも手が届く安値が取り柄だ。
 ささいな事だが、この屋台の椀は他よりも少々大ぶりで、かつ一杯の値段が余所と同じであるというのが、馬丁が贔屓にしている理由である。
 他の屋台では、器が小さめな代わりに質の良い濁醪(どぶろく)を出す処や、肴を一串つけて出す処もある。だがこの男は、とにかく酒が安く、多く呑めればそれでいい。
 馬丁は差し出された白く濁る液体を、喉を鳴らして一気にあおる。
 
「かあーっ! うめえ! こいつの為に生きてるって気がするぜえ! 姉ちゃん、もう一杯!」

 馬丁は袖で口を拭うと、再び懐に手を突っ込んで銭を出し、二杯目を注文する。

「あんた、銭は大丈夫かい?」
「おうよ! しばらく前まで食うので手一杯だったのが、ここんとこは手間賃が良くなってきてよお。こうして呑む位の余裕はあるってもんだ!」
「稼いでるんだねえ」

 客の懐具合を心配する屋台主に、馬丁は威勢良く答える。
 屋台主は空の木椀に、柄杓(ひしゃく)で二杯目を注いだ。

「あんたは確か、専ら切り出した丸太ん棒を山から運んで来るんだっけねえ」
「ああ。山道で馬に丸太を牽かせるってえのは、結構難しくってよう。付け焼き刃で出来る仕事じゃねえ。馬も急には増えねえしよ。引く手数多で、龍神様様ってもんだぜ」

 馬丁は自らの仕事を自慢げに答えた。
 伊勢は復興に使う為の木材を、近隣の州から多く買い付けている。その為、伐採した木材を山林から運び出す荷役の需要も高まっていた。
 結果、荷役に従事する馬丁の立場が強くなり、手間賃が徐々に上がっているという訳だ。
 一揆衆の背後にいる龍神とその眷属について、”景気を盛り上げる有益な存在”として、近隣州の民草の間で好印象が広まっているのは、美州も尾州と同様である。

「ところで何か、面白い話はないかい?」
「そうだなあ……」

 屋台主の問いかけに馬丁は少し考えると、これはどうだと口を開く。

「俺が出入りしてる、樵(きこり)の集落だけどもよ。そこの組頭の倅が、そりゃもう別嬪(べっぴん)でなあ」
「倅? 娘じゃないのかい?」
「それがまあ、どう見ても娘っこにしか見えんけれども、倅なんだわ」

 ”別嬪”とは普通、女に対する褒め言葉だ。屋台主は聞き返したが、馬丁は確かに男児だと言う。屋台主は興味を持ち、先を促した。

「歳は幾つ位だい?」
「実の子じゃなくて、十と三年前に拾ったと言うとったがよ。赤児だったってえから、歳もそんなもんじゃねえかな」
「拾ったって、樵(きこり)だろ? 里にたまたま下りてきた時にかい?」

 山中で樹木を伐採して生計を立てる樵(きこり)は、滅多な事では自らの集落を離れて人里へ降りてこない。切り出した木材を運び出すのは、樵(きこり)自身ではなく荷役の役割だ。

「それが、不思議ないわくがあるんだわ……」

 馬丁は、樵(きこり)に拾われたという少年について、聞いた話を語り始めた。
 十三年程前の事。
 子の出来ぬ事で悩んでいた樵(きこり)の組頭夫妻は、集落に祀っている祠に毎朝、願を掛けるのが日課だった。
 祠に祀られているのは狼。猪や熊といった害獣を除けるというのが御利益である。
 ある朝、夫妻が願掛けに祠を訪れると、一頭の白い雌狼が事切れていた。またその遺骸の側には、臍の緒が付いたままの人間の嬰児が泣き声をあげていた。
 組頭夫妻は驚くと共に、その嬰児を神からの授かり物として喜び、我が子として育てる事とする。
 雌狼の遺骸は神の遣いとして、丁重に神社へ葬られたという。

(和国にも在来の人狼がいたか!)

 白い体毛は、智恵を備える狼”人狼”の特徴だ。また、人狼の赤児は時折、狼ではなく人間の型を取って誕生する事もある。
 重要な情報を得た屋台主は、表情に出さぬままに内心でほくそ笑み、さらなる話を引き出そうとする。
 今聞いた話から考えるに、死んでいた人狼は”神”として祀られてはいても、存在を露わにし、加護を与えて人身御供を受けるという様な盟約を結んでいた訳では無い様だ。

「狼が人の子を産んだってのかい?」
「まさか、狼が人の子を産む筈もあるめえ。浚ってきたっちゅうか、棄ててあった子を食おうとして運んで来たんだろ」

 馬丁が一笑に付した事で、屋台主はさらに考察する。

(人狼という種の存在は、この地では知られていない様だ…… 狼が祀られているというのは人狼ではなく、単に益獣の狼への感謝からか? 或いは、大古には人狼がいた物の絶え、世代を経て忘れられたか……)

「姉ちゃん、どうした?」

 考え込んでいた屋台主だが、馬丁に声を掛けられて我を取り戻した。

「あ、ああ、ごめんよ。三杯目いくかい? 話が面白いから、この一杯は奢りだよ」
「ありがとよ!」

 空の木椀にお代わりを注がれ、馬丁はすっかり上機嫌だ。
 客を諜報の為の耳目として”飼い慣らす”には、この様にちょっとした褒美が効果的である。

「その童の養い親は樵(きこり)の組頭だってね。となると、跡取りなんだろうね」
「それがよう、出家するっちゅうんだわ」
「出家?」
「石津にある寺の和尚から、前々から小僧に欲しいって請われておったらしいんだわ。これまでは跡取りだからっちゅう事で、養い親が拒んでおったんだけどもなあ」
「住職から小僧にしたいって見込まれるんなら、頭が回る子なのかい?」
「読み書きが達者で、帳簿も付けられる子だけどよ。ありゃあ、坊主っちゅうより、器量に目を付けて色子にするつもりじゃねえかって評判だわ。あそこの和尚は全く、好色な狒々爺(ひひじじい)でよう」

 色子というのは、男色の相手を務める少年を指す。一部の宗派に例外はあるが、通常、仏法僧は女人との交合が禁じられている。その為、代用として少年を囲うのである。

「色子ねえ…… 坊主っても随分と生臭なもんだねえ。養い親もそりゃ拒むだろうよ。なんでまた今更、受ける気になったんだろうね? 銭を積まれたのかい?」
「それもあるかも知れねえけど。去年、組頭に実の子が出来てなあ。跡目はそっちに継がせたいんじゃねえのかな」
「用済みの養い子はさっさと売るって訳かい。随分と薄情なもんだ」
「まあ、狭い集落だからよ。家を継いで残れるのは一人ってのは仕方ねえ」

 屋台主は嘆息したが、馬丁からはあっさりと割り切った答えが返って来た。
 跡継ぎ以外の子が家を出されるのは、どこの家も同じなのである。
 件の少年が家を出されない場合、後に生まれた赤児がいらぬ子として間引かれたという事も充分に考えられる。双方を生かしたのだから、養親が薄情であるとも言い切れなかった。

「ま、尻を差し出して掘られてりゃ、白い飯も食えて可愛がってもらえるからよ。言う程悪い話でもねえ。最初は痛えけど、その内”けつめど”も馴染んで具合も良くなって来るからよう。そしたらもう、毎晩が極楽浄土だわ」
「あんた、衆道の気があったのかい?」

 まんざらでもなさそうな馬丁の口調に、屋台主はもしやと問うと、返って来たのは予測通りの答えだった。

「おうよ。これでも昔は、俺も寺の色子だったのよ。村一番の美童で通ってたんだぜ?」
「あんたが?」

 目の前の冴えない初老の男が、かつては美しかったと聞いて、屋台主は耳を疑った。

「頭が良けりゃ、そのまま寺で一生食えて、坊主丸儲けって奴だったがよ。顔と尻の具合だけが取り柄で、経文どころか読み書きも覚えられねえ阿呆なもんだから、坊主としては落ちこぼれだ。薹(とう)が立ったところで還俗させられて、今じゃ馬丁なんぞで飯を食ってる有様よ」
「顔が取り柄、かい…… 年月の流れは残酷だねえ」
「言うねえ。けどよ、姉ちゃんだって、歳を食えば梅干し婆だぜ!」

 呆れた顔の屋台主に、馬丁は豪快に笑った。



[37967] 7話「樵に育てられた人狼」その2
Name: トファナ水◆34222f8f ID:46137904
Date: 2016/09/19 17:19
 人狼が産み落としたと思しき童が、樵(きこり)の集落で養い子となっており、近々に石津の寺院へ小僧 ……実質的には色子として囲われる…… に出されるという話は、屋台主に扮している間諜によって仮宮へと伝えられた。
 報を受けた弗栗多(ヴリトラ)と言仁は早速、主立った者を集めて対応を協議する事とした。
 補陀洛(ポータラカ)に住まう神属は、その大半が血統の濃さによる衰亡へと向かっており、他国の同族の血統を導入して血を薄め、種の活力を取り戻す事が他国遠征の動機の一つである。現に、和国在来の羅刹(ラークシャサ)の徒党である、茨木童子率いる大江党が臣従した事は大きな成果となった。
 とは言え、第一の征服対象となった和国に存在が確認されていない種族も多く、人狼もそこに含まれる。
 その為、今回の報せは補陀洛(ポータラカ)にとって吉報とはいえ、全くの想定外であったのだ。

「人狼は主に羅馬(ローマ)の東部に於いて、人間に紛れ生息する種じゃ。現存する数も少ないと聞くがの。補陀洛(ポータラカ)におるのは、太古の戦乱期、落ち武者として異邦から流れて来た者の末裔と伝わっておる。それが和国にもおったとは意外じゃのう……」
「古代からおったのか、何時の頃にか和国へ渡来したのかは解りませぬが。羅馬(ローマ)同様、僅かな者が人知れず潜んでおるのでしょうな」

 弗栗多(ヴリトラ)の感想に、茨木童子も同意する。彼女にとって、人狼なる種の存在自体、補陀洛(ポータラカ)との接触によって初めて知った事だ。

「和国中に畏怖された大江党でも知らぬとなると、本当に希なのであろうな」
「ですが、確実にいる事は確かですわ。少なくとも一人は、こちらの手に届く処に」

 人狼の希少さを確認する弗栗多(ヴリトラ)に、計都(ケートゥ)は、すぐそこにいる一人が重要なのだと説く。
 その一人こそが、血統が濃く濁った補陀洛(ポータラカ)の人狼種を破滅から救う鍵なのだ。

「ともあれ、遠征に従った者と国元の者を併せても、補陀洛(ポータラカ)の人狼で、智恵をまともに備えた者は五百を切っていますのよ。濁った血を蘇らす為に、その童の身柄を押さえなくてはなりませんわ」
「それもありますが。このまま育っていけば己の正体を知らぬまま、いずれ霊力に餓えて理性を失い、食欲に任せて人間を襲ってしまう事になります」

 計都(ケートゥ)は、人狼の胤として、報告の童を確保する必要性を強調する。
 加えて言仁は、人間の中で童が暮らし続けた場合の危険を指摘した。
 神属は成長すると、霊力の不足を補う為に人間を食わねば生きていけない。当人が己の正体に気付かぬままならば、いずれ本能的に獣化して人間を襲う様になってしまうだろう。

「生母が生きておれば、人狼としての生き方を教え、子もそれを受け入れていたのでしょうがな」

 茨木童子が嘆息する。集落に子を産み落として息絶えたという母狼が、生きて子を育てていたならば。きっと必要最低限の人間を密かに捕食し、その他は波風を立てずに人間に紛れて暮らす事を覚えただろう。
 もっとも、その場合は和国で生息する人狼を、補陀洛(ポータラカ)が発見出来なかった可能性も高いのだが……

「出家が決まっていると言うが、庇護するにはどうした物かの」

 庇護して伊勢へ連れて来る事については、協議を始めた時点でほぼ既定である。
 問題は、どの様にそれを行うかだった。

「寺の側はどうとでもなりますわよ。要は、養親や当人に角を立ててでも連れて行くか、ですわね」
「近場の寺へ行くのとでは訳が違いますからな」

 弗栗多(ヴリトラ)の問いかけに、計都(ケートゥ)と茨木童子が応じる。出家とはいっても、近場であれば実家との往来は難しくなく、今生の別れという訳では無い。また、寺の跡取りになるというなら、社会的にはむしろ出世とも言えるだろう。
 一方、伊勢で人狼としての生を歩むのであれば、それまでの縁を絶ち切る事になる。寺という行き先が既にある以上、素直に応じる物だろうか。
 伊勢の民に対しては勅命として親子の引き離しを行ったが、今回は州外の事である。

「人狼の血統を保つ為の胤として迎える上は、なるべく当人に納得させねばの。強引に浚って、不信を抱かれては困るでな」

 弗栗多(ヴリトラ)の言葉に一同は頷くも頭を悩ませる。どの様にすれば、円満に迎え入れる事が出来るのか……

「その少年が人狼である事を打ち明け、人間と共に暮らせぬ身であるという事を正面から話せば良いでしょう」

 無言のまま皆が考え込む中、口を開いたのは言仁である。

「……信じますかな?」

 案に対し、茨木童子が疑問を呈する。人狼という種の存在は、和国では殆ど知られていない。その様な物がいると聞いても、容易には納得しないだろうと考えたのだ。

「養い親は母狼の遺骸を見た訳ですし。必要なら法術で、当人を真の姿に変化させれば否応なく信じ、袂を分かたねばならぬ事を受け入れるでしょう」
「確かに、その目で見れば、納得せざるを得ないでしょうな」

 返す言仁に、茨木童子も納得する。

「はい。その上でこれまで育てて頂いた事への謝意を、亡き生母に代わって養親に示し、相応の代償を渡せば良いかと思います。末寺の破戒僧が用意したであろう支度銭、少なくともその倍程は包みませんと」
「坊は優しいのう」

 養親に対する配慮を怠らない言仁に、弗栗多(ヴリトラ)は眼を細めて関心する。
 その場の多くが同意する中、計都(ケートゥ)から物言いが付いた。

「こちらの素性を明かしてはいけませんわ。伊勢が和国の神属を集めている事を、美州を含め他州に知られれば警戒を招きますわよ」
「では、皇国の遣いである事は伏せ、あくまで同族として迎えに来た事にしましょう」
「結構ですわね」

 師の懸念にも萎縮せず対策を返す言仁に、計都(ケートゥ)は満足そうに同意を与える。

「ならば、遣いの者は人狼という事になりますから、阿瑪拉(アマラ)を出しますわ。あれは、伊勢に於ける人狼の最年長としての立場もありますもの」
「阿瑪拉(アマラ)師をですか。しかし、菅島の方は…… あそこは新しき世を担う、大切な赤児達が多くいるのです」

 使者として阿瑪拉(アマラ)の名を挙げた計都(ケートゥ)に、言仁が心配そうに尋ねる。
 菅島の乳児舎は、次席の統括者が空席のままだ。万が一、留守中に不測の事態が起こればどうなるかと、彼は懸念したのだ。

「心配が過ぎますわね。その間は勿論、菅島の統括を小生が直に預かりますわよ」
「ならば安心です」

 胸を撫で下ろした言仁の様子に、一同は心を和ませた。
 その様な心根の優しい男子であればこそ、女達は言仁を慈しむのである。

「良かろう。この件の委細は計都(ケートゥ)師に任す。坊もそれで良いな?」
「はい、母上」
「温厚な阿瑪拉(アマラ)師であれば滅多な事はあるまいが、こじれた際には手を選ばぬ様に伝えよ。自分が何者か知らぬままの人狼の童を、人間の世へ放置しておく訳には行かぬからの」
「勿論ですわ」

 弗栗多(ヴリトラ)の裁可に言仁も同意する事で、今回の方針は定まった。
 計都(ケートウ)は勅意に微笑んで応えつつも、その瞳には冷徹な光が混ざっていた。



[37967] 7話「樵に育てられた人狼」その3
Name: トファナ水◆34222f8f ID:46137904
Date: 2016/10/09 09:17
 二日後。
 計都(ケートゥ)の意を受けた阿瑪拉(アマラ)は、人狼の童が住まうという樵(きこり)の集落へと向かった。
 姿は人型を取らず、狼の本性を出したままだ。道を通らずに山林の中から州境を抜けて目的地に向かうのだが、それには本性の方が遥かに動き易い。
 先方にはただ童の同族として迎えに来たとのみ告げ、伊勢の者である事は伏せる。帰りもまた、山林をくぐって人目を避けるのだ。
 全ては、伊勢が和国の神属を積極的に集めている事を他州に伏せ、警戒が強まる事を防ぐ為である。
 首には養育の代償となる財貨を入れた袋が括り付けてある。結構な重量なのだが、人狼にとってはどうという事は無い。

「儂を同胞(はらから)と思い、素直に従ってくれれば良いけどなあ。まあ、いきなり口をきく狼が押しかけて”倅の正体は人狼だから、仲間の儂に引き渡せ”言うても、すんなりとはいかんわなあ…… といって、人間の姿じゃますます信用されんだろうし…… 銭で片がつけばええなあ……」

 阿瑪拉(アマラ)は童をどの様に説き伏せようかと思案しつつ、目的地へ向かって木々が茂る薄暗がりの中を進んでいく。
 山に住まう獣達は、突如現れた狼を警戒しているのであろうか、姿を全く見せようとしない。阿瑪拉(アマラ)の進む先は、ただ静寂に包まれていた。

 州境を越えて二刻半 ※五時間 程歩いた頃、木々の向こうから目指す集落らしき物が見えて来た。二十戸程の粗末な家々が、切り開かれた平地の中に点在している様だ。
 木々に紛れて少しずつ近付いて行くと、大勢のざわめきがかすかに聞こえて来る。人数は恐らく三、四十名程。集落の規模から考えて、成年のほぼ全員だ。

(普通は働いている時分だろうに。何かあったんかな?)

 訝しんだ阿瑪拉(アマラ)が更に様子を伺うと、かすかに獣…… 狼の匂いが漂って来たのに気が付いた。

(狼、件の童か! もしや間に合わなんだか?)

 体内の霊力が乏しくなった神属は、理性を失って本能のままに人間を襲ってしまうのである。その際、人間等に化身していても解けてしまい、本性を露わにする。想定の内でも最悪の事態だ。

 阿瑪拉(アマラ)はもはや姿を隠そうとせず、声のする方へと急いで向かう。
 そこにあったのは、小さな鳥居を備えた祠。その前には村人達が、若い白狼を囲んで集っていた。
 村人達は狼を恐れる風でもなく、いかにも当惑した様子である。白狼もまたうな垂れて鎮座していた。姿形は狼でも、その様子は飼い慣らされた忠犬を思わせる。
 村人達は、阿瑪拉(アマラ)に全く気が付いていない。それだけ、童が狼に変じたという異常な事態に意識を囚われているのだろう。

(本性を現してはいるけども、周囲に襲いかかる様な事にはなっておらんのは幸いですわな)

 阿瑪拉(アマラ)は、狼と化した童が理性を保ち大人しくしているのを見て、ひとまず胸を撫で下ろした。

「こりゃ、お集まりの処、申し訳ないけれども皆の衆」

 阿瑪拉(アマラ)が集まりの輪の外から声を掛けると、議論していた村人達は一斉に顔を向け、大きな狼がいるのに気付いて仰天した。

「で、でっかい狼じゃあ!」
「お助けぇ!」

 村人達は皆、叫び声をあげ狼狽して腰を抜かしてしまう。神属と出会った者の、お定まりの反応だ。その様子に、阿瑪拉(アマラ)は思わず失笑した。

「そう驚かんでもええですわ。ここは狼を祀る祠ですわな?」
「こ、これは御遣い様。とんだ御無礼を!」

 代表格らしい初老の男が、阿瑪拉(アマラ)が言葉を操る事に気付き、降臨した祭神の眷族とみなして平伏する。

「皆、やりにくいから頭をあげなされ。お主が組頭で間違いないですわな?」
「へ、へい」

 阿瑪拉(アマラ)に声を掛けられた初老の男は顔をあげて、自らの立場を認める。

「そちらにおる、儂の同胞(はらから)の事で集まっているんですわな?」
「実は、その。これは俺の倅なんですが、つい昨日までは人間だったのが、何故だか今朝方、狼になっちまって…… 皆で集まって、どうしたもんかと話しておったのです」

 阿瑪拉(アマラ)が、村人に囲まれて座ったままの若い狼に顔を向けると、組頭は何が起こったのか事情を説明した。
 恐怖に陥ったりしなかったのは、童が狼の落とし子である事を知っていたからだろう。ずっと人間の姿のまま育っていたのが、よもや今更、狼の姿になるとは思っていなかっただろうが……

「それが本来の姿なんで、案ずる必要はありませんわ。十三年前、儂の同胞(はらから)が命と引き替えに産み落としたという童ですわな?」
「左様です。授かり物と思って育てておったんですが、よもや狼になっちまうとは……」
「狼の産んだ児であれば、人間の赤児の様に見えても本質はまた狼で当然ですわ。だけども智恵は備えておりますで、決して畜生ではありませんわ」

 姿形が変わろうとも、智恵まで獣並になってしまった訳では無い事を阿瑪拉(アマラ)は告げるが、組頭は合点がいっていない様子で問い返す。

「それが…… 御遣い様と違って口がきけん様で、吼えるばっかりなんですわ。本当に智恵は保っておるんでしょうか?」

 組頭の言葉に、若き狼もまた、途方にくれた様に俯いている。

「儂等と人間とは喉の造りが異なるもんで、慣れんと本性の姿では言葉を話せんのですわ。儂の様に、幼い頃から狼の姿と人間の姿を使い分けていれば自然に身につくんですけどなあ。ずっと人間の姿のみで育って来た身では、狼の姿で話すには相応の修練を要しますわ」
「その、人の姿に戻れるんですか?」

 修練次第で話せる様になると話した阿瑪拉(アマラ)だが、組頭は別の処に飛びついた。
 正体が狼でも、人間の姿になれるなら問題がない。

「儂等にとって、人型もまた己の姿なもんで、変化する事は出来ますけどな。やはり少々修練がいりますで、すぐには無理ですわ」
「そうですか……」

 即効の対策がないと知り、組頭、そして若き狼は再び肩を落とす。

「まあ、寺へ小僧、というより色子に出すには、狼の姿では困りますわな」
「御…… 御存知で……」

 童を寺に送る事を阿瑪拉(アマラ)が知っていると聞き、組頭と村人達は狼狽する。

「そこの仔は、同胞(はらから)が命と引き替えに産み落とし、狼を祀る村へと託した大切な童ですわ。それを、事もあろうに”けつめど”目当ての肉欲坊主に売り渡そうとするとは、落とし前を付けてもらわんとなりませんわな」

 阿瑪拉(アマラ)が牙を剥き出して舌なめずりすると、組頭を始めとした村人達は、蛇に睨まれた蛙の様に固まってしまう。
 相対しているのは神の眷族だ。やましい事を責められ、抵抗など出来よう筈がない。
 阿瑪拉(アマラ)の側は本気ではなく、童を連れ帰り易くする為に軽く恫喝しただけなのだが、村人の側は恐ろしさで一杯である。

 村人達が恐怖に囚われる中、それまでじっと座っていた若き狼が進み出て、養父と阿瑪拉(アマラ)の間に割り込んで来た。
 そしてすがる様な目で阿瑪拉(アマラ)を見つめ、必死に首を横に振る。話す事が出来ないので、何とかして意思を通じさせ、養父を庇おうとしているのだ。

「売り飛ばされかけたっちゅうに庇うとは、何とも孝行息子で結構ですわな」

 阿瑪拉(アマラ)は若き同族に表情を和らげると、組頭の横でやはり顔色を青くして固まったままの妻、童にとっては養母が背負う赤児に目をやった。
 赤児は周囲に構わず、気持ち良さげに寝息を立てている。

「生まれた弟御に組頭の跡取りを譲る為、自ら出家に応じると言い出した。そんな処ですわな?」

 間諜から伝えられている報に基づいて阿瑪拉(アマラ)が問うと、若き狼は首を縦に激しく何度も振る。

「まあ、それなら仕方ないですわな」

 不問に付すという阿瑪拉(アマラ)の裁可に、組頭以下の村人達は硬直が解けて脱力し、へたりこんでしまう。
 彼等が落ち着いたのを見計らって、阿瑪拉(アマラ)は要件を切り出した。

「さて、儂がこの村落へ来た用向きですけどな。要は同族の童がおると聞きつけて、迎えに来たんですわ」
「迎えに…… と仰いますと、倅を連れて行くと?」
「さいですわ。儂等の様なもんが人間の村で暮らすのも、まして寺で坊主なんぞになるのは無理ですわな」
「森の中で、獣として暮らすという事でしょうか?」

 組頭は、倅がどうなるのかと尋ねる。
 阿瑪拉(アマラ)の指摘通り、最早、倅が人間の中では暮らせない事は一目瞭然だ。だが、野山で畜生として生きるというのでは何とも不憫である。

「儂等、姿は狼でもそんな夷(えびす) ※蛮族 ではありませんわ」

 阿瑪拉(アマラ)は、組頭の問いに如何にも心外そうに語気を強めた。それに反応して村人達は再び萎縮してしまう。

「儂等のようなもんが住まう里がありましてな。そこでは本性をさらけて人間と同じ様に暮しとるんですわ」
「ち、近いんでしょうか?」
「悪いけど、そいつは語れませんわ」

 伊勢の者である事は伏せる事になっていたので、阿瑪拉(アマラ)は住まう場所を問う組頭への答えを拒んだ。
 常人がうかがい知れぬどこかに、人狼の隠れ里があると思わせておけば良い。

「寺への約束をどうした物でしょうか……」
「どの道、この姿では無理ですわな。まあ、先方へ支度銭を返せば済みますわな」
「それが…… 受け取った銭は税やら、樵(きこり)仕事の用具やらに費やしてしまって……」

 次に組頭の頭に浮かんだのは、色子に出すと約束した寺に対する始末をどう付けるかだ。
 阿瑪拉(アマラ)は事も無げに、銭を返せば済むと告げるが、既にその大半は組頭の手元に残っていなかった。
 もっとも、阿瑪拉(アマラ)としてはそれも予測の内である。

「銭の事なら、心配せんでもええですわ」

 阿瑪拉(アマラ)は、首から下げていた巾着袋を右前足で器用に外して落とし、口で咥え直して組頭に差し出す。

「これまでの食い扶持と、儂等からの支度銭ですわ」

 組頭が巾着袋を受け取って恐る恐る口を開けると、中には豆銀が詰まっている。集落の全員が二、三年は働かずに食える程の額だ。

「ぎ、銀だ! 仰山詰まっとる!」
「銀だと!」
「お宝じゃあ!」

 これまで見た事もない大枚を積まれ、村人達は色めき立つ。寺からの銭とは比べ物にならない額だ。

「まずは寺へ支度銭を返す事ですわ。余った分は、半分は養い親であるお主等夫妻に。残り半分は村のもんで公平に分けて貰えばええですわ」
「わ、解りました……」

 組頭は戸惑いつつも、阿瑪拉(アマラ)の申し入れを受け容れる。
 
「話がついたっちゅう事でええですわな。では、同胞(はらから)。儂と共に来て貰いますわ」

 阿瑪拉(アマラ)が声を掛けると、若き狼は覚悟を決めた様に頷く。

「何も心配する事はありませんわ。やっと見つけた同族を、里の皆が心待ちにしとるんですわ」

 若き狼は、突然に訪れた運命の急変に、どうにか自分を納得させようとした。
 持参した銀の袋が示す様に、狼の里はきっと豊かなのだろう。
 何も恐れる事は無い筈だ…… どの道もう、ここにはいられない。

「行きましょか」

 阿瑪拉(アマラ)に促され、若き狼が四つの足で立ち上がる。
 村を去ろうと歩み始めた二頭を、村人の一人が呼び止めた。歳の頃が十五、六の若い娘である。若き狼は十三というから、やや歳上だ。

「その、御遣い様。ちと、訪ねたい事が……」
「言ってみなされ」

 阿瑪拉(アマラ)が応じると、娘はもじもじとして口を開く。

「その…… 狼と人の間に、子は出来るんじゃろうか?」
「中々に良い質疑ですわ」

 学師の癖で、相手が学徒でなくとも若者に質問をされると悪い気はしない。
 ついつい、阿瑪拉(アマラ)の口調は学師のそれになる。

「例え人型を取っていても、儂等と人間は種が異なるもんで、まぐわっても子は造れませんわ。つまり、この同胞(はらから)は、出家せずに村に居続けて人間の嫁を取っても、子が出来んっちゅう事になるんですわな」
「そうですだか……」

 娘は、安堵と落胆が入り混ざった、複雑な表情を浮かべた。

「その様な問いが出るという事は。お主、身に覚えがありますわな?」

 阿瑪拉(アマラ)が問うと、若き狼は一瞬の間凍り付くが、小さく首を縦に振り、この娘と交わった事を認めた。

(何でいきなり本性が出たか、これで合点がいきましたわ。まぐわいで霊力を循環させた事で、化身が解けてしまったんですわな)

「う、うちの方が床に忍んで強引に迫ったんですだよ…… このまま寺に行ったら、女を知らんままで終わっちまいますだから……」

 娘は慌てて、自分の側から迫ったのだと阿瑪拉(アマラ)に訴える。二人の様子に、阿瑪拉(アマラ)は思わず苦笑した。

「この辺りは確か、若いもんが夜這いをすると聞き及んどりますが。まあ、男女が乳繰り合うのは悪い事ではありませんわな」
「へい……」

 娘は顔を紅潮させて、俯きながら答える。
 阿瑪拉(アマラ)は、狼となって去ろうとする思い人を諦めきれない娘の心情を察し、関係を持った事を認めた意図を読んだ。

(あわ良くば押しかけて添い遂げる腹ですわな。中々に逞しくて結構だけども、そうは行きませんわ)

「ま、儂等ならこの仔の胤で子を産めますからな。この仔の事は儂等に任せて下され」

 優しげな口調ながらも有無を言わせずに言い切る阿瑪拉(アマラ)に、娘はそれ以上言葉を続ける事が出来ずうな垂れてしまう。
 狼の児を孕めない人間の女は、彼等の里で迎えられる筈がないのだ。

「さ、名残惜しいけど、思い切らんといけませんわ」

 おろおろとする若き狼を、阿瑪拉(アマラ)はせかす様に尻をつつく。
 木々の中へと分け入って去り行く二頭を、養親、そして村人達は、何も言えずに見送るばかりである。
 只一人、男女の情を交わしていた娘のみが、今生の別れに涙を堪えていた。



[37967] 7話「樵に育てられた人狼」その4
Name: トファナ水◆34222f8f ID:46137904
Date: 2016/10/30 08:34
 阿瑪拉(アマラ)は若き狼の姿と化している樵(きこり)の童を連れ、薄暗い山林の中を歩んで行く。
 若き狼は不安げにしつつも、ただ阿瑪拉(アマラ)の先導に従っていた。
 若き狼の躰は並の同族よりも小振りで、やや大きめの犬に等しい。対して阿瑪拉(アマラ)は白虎に等しい程の、野生の狼にはあり得ない大きさだ。
 その為、端から見れば二頭は番(つがい)ではなく親子に見えるだろう。実際、年齢は親子どころか、曾祖母(そうそぼ)と玄孫(やしゃご)程に離れているのだが。

「疲れたかも知れんけど、あと少しで休める処に着きますわ」

 声を掛けられ、本性の喉に慣れていない為に口がきけない若き狼は小さく頷くと共に、未だ疲れを感じていない事に気付いた。村を出てから三刻 ※六時間 程は歩き通しの筈である。
 樵(きこり)の子として育ち、山歩きには慣れている。とはいえ、狼の姿で動き廻ったのは今日が初めてだ。また、今進んでいるのはまた踏み入った事のない山の深淵である。

(俺は人間じゃなくて化けもんになっちまったんだなあ……)

 疲れを感じない躰に、若き狼の心中は不安が生じつつあった。


*  *  *


 さらに四半刻程進み、木漏れ日が陰り始めた頃。木々の中に伐採された切株が見られる様になり、そして山道が現れる。

「ここからは、道に添って行けばええですわ」

 半刻程、山道に沿って進み、辺りがすっかり暗くなった頃、二頭は開けた場所に出た。
 満月の光に照らされ、十数件の民家らしき建物が見える。若き狼は、自分が育った村落を思い出した。
 だが、暗くなったというのに家々には全く灯りが無い。それどころか、人の気配が全くなく、辺りは静まり返っている。

(ここが狼の隠れ里? それにしちゃあ、随分と寂しいもんだ)

「儂等はここに住んどるんじゃないですわ。ここは以前、お主の村と同様の樵の村だったんだけれども。ここ暫くは誰も住んでおりませんで、まあ廃村っちゅう訳ですわ」

 若き狼の不審そうな眼に気付いた阿瑪拉(アマラ)は、ここがどの様な場所かを語る。

「そんな訳で、気兼ねのう休めますわ。あばら屋ばかりだけど、今日の寝床には使えますわ」

 阿瑪拉(アマラ)は、廃村の中でもやや大きめな家の前に立つ。空き家ではあったが、戸は固く閉められていた。

「開け」

 阿瑪拉(アマラ)が一言唱えると、戸は勝手に開く。

「照らせ」

 さらに続く一言で、家の中は昼の様に明るくなった。面妖な光景に、若き狼は口を開けて呆然とする。

「これが”法術”っちゅう技ですわ。和国だと”神通力”と言った方が通りがええかな。人間は限られたもんにしか素養がないけど、儂等なら誰でも使えますわ。勿論、修練すればお主にも使えますで」

 神として祀られていただけあり、狼にとって、この程度の事は普通に出来る様だ。
 自分にも同じ力があると言われた物の、若き狼には今一つ実感がない。既に人ならざる者へと姿が変わり、疲れを知らぬ躰となっている事は解るのだが、頭がついてこないのだ。

「とりあえず、今晩はこの中で休んで、出立は明日ですわ」

 阿瑪拉(アマラ)は若き狼を促し、空き屋へと上がりこんだ。


*  *  *


 空き屋の中は質素ながらも整然としており、埃も積もっていない。今でも誰かが暮らしているかの様である。
 玄関先には盥(たらい)があり、水が張られている。

「空き屋っちゅうても、土足のままは気分が悪いですわな。きちんと洗って上がらんと」

 阿瑪拉(アマラ)は盥(たらい)に四肢を入れて濯ぎ、部屋へとあがる。拭いてもいないのに、脚は全く濡れていない。
 若き狼も倣って盥(たらい)に脚を入れると、中は水ではなく、濃い油の様に粘りがある液だ。

「それは、明国では太歳(たいさい)、羅馬(ローマ)という遠方の大国では史萊姆(スライム)という物で、水に似とるけど生きとるんですわ。垢やら汚れを餌にするもんで、洗濯物とか、飯を食うた後の器なんかも漬けておけば綺麗になるっちゅう、優れもんなんですわ。洗い終わった後に水を切ったり乾かしたりせんでもええっちゅうのも、これのええとこですわな」

 阿瑪拉(アマラ)の説明に、若き狼はそういう物かと受け止める。
 不可思議な物を幾つも見せられたので、もはや感覚が麻痺し、何があってもおかしくない、と思えて来たのである。

(便利というか何というか。狼の世では当たり前の物なんだろうな……)

 二頭が上がり込んだ家は間仕切りがなく、部屋は大きめの一間のみ。中央には囲炉裏がしつらえてある。
 什器の類は殆どなく、部屋の隅に竹で編まれた大きめの行李(こうり)が於かれている位だ。

「ふう。何とか落ち着きましたわな。とりあえず、今日は御苦労さんですわ。お主も立っておらんと、こっちに来て座るとええですわ」

 阿瑪拉(アマラ)は囲炉裏の前で犬の様に鎮座し、若き狼にも傍らに座を勧める。
 若き狼は言われるままに座った物の、獣の姿での慣れぬ姿勢に、どうにも落ち着かないでいた。

「さて。今夜はここで明かしますけどな。この廃村から目指す場所へは道が通じておるから、明日は人間の姿で歩けますわ。お主も、その方が具合がええですわな?」

 人間の姿に戻りたいかと言われ、若き狼は一も二もなく頷く。
 修練がいると言われていたので、当分はこの姿のままかと観念していたのだ。すぐに戻れるなら、こんな嬉しい事は無い。

「で、お主はまだ自分で化身するのは無理だもんで、人型になるには儂が繋がって法力を貸さなあかんのですわ」

 どう言う意味かと首を傾げる若き狼に、阿瑪拉(アマラ)は牙を剥き出して微笑み、尻を向けて腰を突き出す。

「牡として儂とまぐわうんですわ。それで、化身の法術をかけやすくなりますわ」

 若き狼は、牡を受け容れる姿勢を取る阿瑪拉(アマラ)を前に、何も出来ないでいる。

「ささ、早う逸物を勃たせて、儂の女陰(ほと)を貫きなされ。若い牡なら、まぐわいたい盛りですわな。何も怖い事はありませんわ」

 阿瑪拉(アマラ)は優しい口調で誘ったが、若き狼は尻込みしたままだ。

(始めてならともかく、女の躰は知っとるっちゅうとったのになあ。何でかいな?)

 阿瑪拉(アマラ)は少し考え、自分の姿の事に思い至った。

「儂が獣の姿で、女として見られんのですわな」

 若き狼は首を横に振って否定するが、その瞳は指摘が真実である事を示していた。

「ほんじゃ、儂が化身しますわ」

 阿瑪拉(アマラ)が眼を閉じて念じると、大柄な白狼の姿はまばゆい光に包まれる。
 閃光に眼が眩んだ若き狼が視界を取り戻すと、そこには裸体の女が立っていた。
 歳は三十程に見える。身の丈は五尺八寸 ※約176cm 位で、当時の和国では男であってもかなり長身の部類となる。
 肩幅は広く、腕や脚は筋がついて、樵(きこり)の男の様に逞しく太い。また腹も筋によって割れ、引き締まっている。
 対して肌は雪の様に白く、胸は無尽の乳が湧き出て来そうな程に豊満で、女としての特徴も現れている。
 これだけならば只の逞しい大女だが、さらなる特徴が人ならざる者である事を示していた。
 長く伸びた髪や、股間の茂みは、燃える様な紅毛。瞳は金。顔つきは高く尖った鼻に、やはり尖った顎の細面で、若き狼がこれまで見た人間とは随分と人相が違う。
 そして唇からは鋭い牙が覗き、何より、獣の耳が頭から生えていた。

「これが、儂の人型ですわ。顔つきは、和国の民とは少々違いますけどな。儂等の先祖が住んでおった羅馬(ローマ)という遠い異国では、人間は大概こんな人相っちゅう事ですわ。耳も人間の様に出来ますけど、人狼…… 智恵ある狼だっちゅう事を廻りに解り易い様に、儂が人型を取る時はわざとこの様にしとるんですわ」

 若き狼は阿瑪拉(アマラ)の説明に、心ここにあらずという様子で、只こくこくと頷くのみだった。

「さ、これでやる気になりましたわな? って、ありゃあ……」

 阿瑪拉(アマラ)が若き狼の股間に眼をやると、未だに盛りが全くついていない為、思わず溜息を漏らしてしまった。

「ま、人間の姿っちゅうても、羅馬(ローマ)人の人相ですからな。得体の知れんもんを相手に、牡の勤めを果たせっちゅうても無理っちゅうもんですわな」

 裸体の女が如何にも気落ちした風なので、若き狼もまた、思わずしょげかえってしまう。

「けど、まぐわってもらわんと始まりませんで。済みませんな」

 阿瑪拉はしゃがみ込んで若き狼の瞳を覗き込み、自らの眼を一瞬光らせる。相手の発情を催す”魅眼”である。
 すると程なく、若き狼は陽根をいきり立たせ、涎を垂らして阿瑪拉(アマラ)にすり寄って来た。
 その眼からは知性の欠片も伺われず、ただ色欲に支配された牡の欲望に染まっていた。

「ほれほれ。若人らしく、元気よう胤をぶち込みなされ」

 阿瑪拉(アマラ)は四つん這いになって尻を振り、若き狼を挑発する。
 若き狼はむしゃぶりつく様に阿瑪拉(アマラ)へ覆い被さり、牡の印を突き入れて腰を振り続けた。



[37967] 7話「樵に育てられた人狼」その5
Name: トファナ水◆34222f8f ID:46137904
Date: 2016/10/29 22:29
 若き狼が目覚めると、床板の冷たさが感じられた。
 昨日、日が暮れた頃に廃村へと着き、この家に上がり込んだ処までは覚えているのだが、いつの間にか眠りこけてしまっていたらしい。
 自分を連れてきた牝狼によって神通力で灯された光は消えており、代わって天窓から日が差し込んでいる。
 物音は殆どせず、屋根の上から数羽の雀が戯れる鳴き声だけが聞こえてくる。
 空き屋での雑魚寝で一夜を過ごしたせいか、それとも山林を歩き通したせいか、何となく躰の節々が痛く感じられる。しかも素裸で眠ってしまった様で、これが冬だったら凍えていた処である。

(素っ裸……?)

 若き狼がふと自分の右腕を見ると、人間のそれに戻っている。
 立ち上がって見ると、普通に二足で立てた。
 玄関先には水が張られた大きな盥(たらい)があり、覗くと元の自分の顔が映っている。 男児というのに少女の様な顔立ちで、村の者達から揶揄混じりに”器量良し””別嬪(べっぴん)さん”と評される度に情けない思いをしていたが、狼の姿になった後では、戻れた事に安心した。

「人間に…… 戻った……」

 思わずつぶやいた一言が、喉から声として出た事で、若き狼であった童は、自分が元の姿を取り戻している事を実感した。
 
「そういえば、あの狼はどこに行ったんだろう?」

 童は、自分をここまで連れて来た雌狼の姿が見当たらない事に気が付いた。屋内を見回してみても、ここにいるのは自分だけだ。
 どうしたものかと戸惑っていると、玄関の戸が音を立て開き、童は思わず身構えた。
 入って来たのは、長い赤毛に色白、筋が付いて引き締まった長身。白一色の布を躰に巻き付けた様な衣を身に纏い、頭からは獣の耳、口からは牙が覗いている、見るからに異形の女だ。人型をとった阿瑪拉(アマラ)である。

「あ、あの。もしかして、ここの人、です、か?」
「儂ですわ、儂。昨日、村へ迎えに行った、お主の同族ですわ」
「え、え?」

 童の戸惑う様子に、阿瑪拉(アマラ)は呆れ声で自分が何者であるか話す。

「儂等が人間の姿にも化身出来るというのは、迎えに行った時に教えた筈ですけどな」
「す、すみません……」

 魅眼で理性を奪って発情させた為、昨晩の記憶がおぼろげであろう事は阿瑪拉(アマラ)にも解っている。だが、迎えに行った村で、人狼が人間に化身出来る事は話してあったのだがら、眼前の女が自分である事に気付けなかった事には少し落胆した。
 やや強い口調の阿瑪拉(アマラ)に、若き狼は萎縮してしまう。

(夕べまぐわいながら探ったら、頭の出来はおよそ十三だったもんで期待しとったんですけどな。推し量る力は少々弱いかも知れんわ。ま、突飛な事が起きた時、頭が鈍るんは仕方ないですわな)

「まあ、ええですわ。とりあえずですな、寝とる間にお主の身の丈の寸を測りましてな。この村に残っておる衣の内から、着られそうなもんを見繕ってきたんですわ」

 そう言いながら阿瑪拉(アマラ)は部屋へ上がると、手に持っていた一着の衣を、童へ手渡した。
 童は衣を受け取って広げたが、思わず引きつってしまう。
 麻で仕立てられた小袖、即ちこの時代の和国における、女物の衣である。

「これは…… おなごの着るもんで……」
「済みませんがな。お主の体格に合う衣で程度のええもんが、それしか無かったんですわ」

 躰をわなわなと震わせて不満を漏らす童に、阿瑪拉(アマラ)は申し訳なさそうに告げる。
 阿瑪拉(アマラ)の言う通り、この小袖は真新しく程度が良い。元の住人が残していった中で、童の寸に合う内から最良の物を選んだというのは本当だろう。
 頭では解る物の、女物の衣を着よと言われると、童にはやはり抵抗がある。

「どうしても嫌なら、狼の姿に戻って街まで下りるのでもええですけどな」
「そ、それは……」
「ほんじゃ、着て下され。そのまま裸ん坊という訳には行きませんからな」

 阿瑪拉(アマラ)に言われ、自分が裸体という事に気付いた童は、慌てて両手で、股間の小振りな物を隠す。その恥じらう様子に、阿瑪拉(アマラ)は牙を剥き出して微笑んだ。


*  *  *


 渋々ながら小袖に袖を通した童を、阿瑪拉(アマラ)はまじまじと見つめる。

「これは…… 中々に別嬪ですわ……」

 この童はどう見ても、可憐な娘にしか見えないのだ。元々、神属の男子は中性的な容貌が多いのだが、それを考えても別格である。
 感嘆した阿瑪拉(アマラ)の顔を、童はにらみ付けた。

「何か、不味い事がありましたかな?」
「そう言って、俺は村の若い衆にずっとからかわれて……」
「あ、ああ、済みませんな」

 眼に涙を溜めて悔しそうにする童に、阿瑪拉(アマラ)は褒め言葉のつもりで言った言葉を揶揄として受け止められた事に気付く。
 皇国の美醜感と異なり、人間の世の多くは男子に逞しさを求める。それに当てはまらない容姿を持つこの童はきっと、心ない軽口に傷つけられていたのだろう。

「儂等の間では、顔立ちの美醜は男女とも代わりませんでな。その容貌は十二分に誇れる物ですわ。お主の仔もきっと美しゅうなると思うと、今から楽しみですわ」
「児? 俺の…… 児ですか?」

”お主の児”と言われ、童は胸中に湧き上がった黒い物を思わず忘れ、聞き返す。

「そうですわ。夕べ、儂とまぐわって胤を注いでくれましたもんなあ」

 自らの下腹をさする阿瑪拉(アマラ)に、童の頭には昨晩の出来事が徐々に蘇って来た。

 瞳を見つめられた途端、股間が激しく熱くなって、求められるままにこの女に覆い被さり……

「首尾良く孕んで、立派な児が産まれるとええですなあ」

(この人は…… 俺を婿にするつもりで……)

 童の頭に浮かんだのは、命を育み父となる事への戸惑い、不安ではなかった。
 夜這いの習俗がある村では、孕んだ女の側が児の父が誰かを指名し、名指された者が夫となるのが掟である。
 また、女の側が同時に二股、三股をかけるのも普通の事だ。何しろ、人生を委ねる相手を定めるのだし、体の相性はまぐわってみなくては解らない。
 結果、第一子は夫の実の子でない事も往々にしてあるのだが、元々、村内全てが縁戚にあるので、大して気にはされていないのだ。
 童もこの慣習は当然に受け容れており、経緯はどうあれ、まぐわった相手に名指しされれば受けるのが男子の勤めであると考えていた。
 それに元々、寺の色子として衆道の相手を務める筈だった事を思えば、曲がりなりにも婿入りという事であれば悪くない話でもある。
 一財産程の銀を支度銭として積まれた事から考えても、この牝狼が相当の身代(しんしょ)持ち ※資産家 である事は疑いない。
だが、どうかすると親子程も歳が離れた相手と、出会ったその日の内にまぐわって児を為そうとする牝狼の思惑を、童は測りかねた。

(狼の里には他にも仰山、牡狼がおるだろうに。何で俺なんだ?)

 童が己の置かれた状況にただ従うだけでなく、背景に疑問を持ち始めた様子を見て、阿瑪拉(アマラ)は好感を持つ。

(儂にただ素直に従うだけなら、つまらん凡百だったけれども。この仔は自ら考える事が出来る様ですわ)

「そろそろ出立しますわ」

 促された童は阿瑪拉(アマラ)と共に、一夜の宿とした空き屋を後にした。


*  *  *


 廃村を出て、山道を道なりに進む。切り出した樹木を馬で運び出す為の道なだけに、ある程度の道幅があって歩き易い。
 山林を抜け、平地に出て暫くすると、両脇に松並木が植えられている太い道へと出た。

「ここからは街道になっとりますわ。南の方が、儂等が向かう側ですわ」

 阿瑪拉(アマラ)は方角を指し示し、二人は目的地へと再び歩を進める。
 道には荷車が通った轍がくっきりと刻まれ、往来が盛んな事を伺わせた。だが、その割には通行人が全く見当たらない。
 村から殆ど出た事が無い童だが、流石にこれは奇妙に思えた。
 歩きながら、童は阿瑪拉(アマラ)に疑問を投げかける。

「街道って、こんなに寂しい物なんですか?」
「半年程前までは参拝客で賑わっておったそうですけどな。一揆で神宮が潰されて、州境も閉ざしてからはこんなもんですわ。もっとも、荷を運ぶ車は通りますから、大切な道というのは変わりませんけどな」
「……ここは、伊勢なのですね?」

 神宮と聞き、童はここが、一揆による下克上が成って以後、州外からの入境を拒んでいる伊勢の領域である事を悟った。
 童の問いを阿瑪拉(アマラ)は認めると共に、自らの素性を語る。

「そうですわ。伊勢の一揆衆を加護した龍神様、正しくは那伽摩訶羅闍(ナーガマハラジャ)と仰るんですけどな。儂はその配下なんですわ」

 天竺から来訪し、伊勢で興った一揆に味方して下克上を成就させたという龍神は、眷族として鬼や夜叉といった様々な妖を率いているとの話が、美州にも伝えられていた。その内に、人間に化身出来る狼がいてもおかしくはない。

「どうして、村を出る前に教えてくれなかったのです?」
「儂等が伊勢の外におる、和国在来の同胞(はらから)を引き入れておる事を、他州に知られたらいかんという訳ですわ」
「隠さねばならない事なのですか?」
「他州の大名やら、幕府やらが伊勢をますます警戒しますからな。戦を仕掛ける支度じゃないかと思われては、交易に差し障ってかないませんわ」

 伊勢は他州に侵攻して天下を統一する気がなく、ただ自分達の領地を守りたいだけなだろうと童は思い、少し安心した。
 戦など、民にとっては迷惑でしかないのだ。兵糧や矢銭 ※戦費 として税は上がり、賦役として足軽や荷役を村から出さねばならないのである。

「儂等の数は、それ程多くないのですわ。今の数でも、幕府や他州の大名を全て滅ぼして、和国を丸ごと盗る事は出来ますけどな。盗った後に治める事が出来なければ、何の意味もありませんわ」
「余所に隠しておる様な事を、俺に言っちまって良いんですか?」
「お主は既に儂等の身内ですわ。それに、伊勢で暮らしておれば、じきに解る事ですしな」

(もう村には戻れないから、隠し事を打ち明けてもいいという事なんだな……)

 牝狼が当然の様に返した言葉に、童は衝撃を受ける。
 解りきっていた事ではあるのだが、童は改めて思い知らされ、胸が締め付けられる様な心の痛みを味わった。



[37967] 7話「樵に育てられた人狼」その6
Name: トファナ水◆34222f8f ID:46137904
Date: 2016/11/15 00:26
 二人が街道を南へ向かって暫く歩くと、街道に沿って植えられている松並木が途切れた処があり、一件の茶屋が建っていた。

「迎えがここに来る事になっとりましてな。それまで休みましょか」

 勧められるまま、童は阿瑪拉(アマラ)にならって茶屋の席に腰掛ける。
 これまで銭で飲食を供する店に入った経験は全く無かったが、他に客が全くない事が童には気になった。

「こんな寂しい処で、商売になるんですか?」
「今は、商売でやっとる訳ではないんですわ。一揆の前、参拝客相手にやっとる茶店を差し押さえましてな。今は、荷役や巡回の兵が休む為に続けとる訳ですわ」
「差し押さえって、ここは神宮のものだったのですか?」
「神宮におもねって稼いでおったもんは、全て一揆衆の敵として、儂等の兵が捕らえましたからな」

 民が揃って神宮に逆らった訳では無いだろう。神宮の支配下で充分に食えていた者が一揆に加わる筈もないという事は、童にも容易に推察出来る。そういった者は神宮もろともに始末されてしまったのだ。
 童は、龍神の機嫌を損なえば自分も命がないと、内心で身震いした。

「御役目、御苦労様でございます」

 店の奥から給仕らしき女が現れる。顔立ちが整い小綺麗にしてはいるが、街中に行けば普通にいそうな若い娘である。
 だが腰の脇差が、只の給仕でない事を示している。ここは兵の休息所というから、この給仕もその様な身分らしい。

「何か、お召し上がりになりますか?」

 給仕に問われ、童は昨晩から何も飲み食いしていない事に気付く。言われなければ恐らく、暫くは空腹に気付かなかっただろう。
 この時代の庶民であれば、一日、二日は食えない事態に陥る事も珍しくない。童もまた、その様な生活に慣れていたのである。

「じゃ、さいぼしを頼みますわ。お主もそれでええですかな?」

 阿瑪拉(アマラ)の注文に、”さいぼし”が何か解らぬまま、童も黙って頷いた。

「畏まりました」

 程なく出て来たのは、大皿に盛られた、短冊の様に薄く細長い干物だった。軽く炙られていて香ばしい。
 添えられた湯飲みには、緑色の暖かい湯が注がれている。

 童は”さいぼし”なる干物よりも、湯飲みの中身に眼が行った。

「これ、もしかして茶って物ですか?」
「左様ですわ。そも、ここは茶屋ですからな。乾き物を食らうと喉が渇きますで」

 事も無げに言う阿瑪拉(アマラ)だが、木を切り出して細々と暮らす樵(きこり)として育った童にとって茶は、白米以上に縁のない高価な物だった。

(贅沢だなあ。けど、”龍神様の遣い”ならこれが当たり前なんだろうか)

 狼が龍神の眷族というなら、その様な物を出されても当然なのかも知れない。
 だが、質素を美徳とし驕奢を忌避する和国の庶民として育った童には、茶を平然と口に運ぶ事が出来なかった。

「茶は元々、伊勢で造っておりましてな。採れた葉は全て安値で買い上げられて、造っておる百姓が口にする事は許されんかったけれども、一揆が成ってからはそういう事はなくなりましたわ」
「そうでしたか……」

 贅沢な飲食に躊躇いを見せた童だが、阿瑪拉(アマラ)から事情を聞くと納得して茶を口にし、”さいぼし”にも手を出した。
 嚙めば嚙む程、口の中に旨味が伝わって来る。

「こりゃあ、いい!」

 昨晩からの絶食もあり、童は”さいぼし”に次々と手を伸ばす。大皿はみるみる内に空になった。

「お気に召しましたか」
「ええ、旨いです。これ、何の魚でしょう?」

 給仕の問いに童は上機嫌で答え、干物が何であるかと尋ねる。

「これは魚ではございません。牛でございます」
「う、牛?」
「左様です」
 
 獣肉食は、和国では禁忌とされている。
 干物の正体が牛と聞いて思わず問い返した童に、給仕は静かに頷いた。
 童が続ける言葉によっては、彼の処遇を考えねばならない。

「牛って、畑を耕したり、荷運びに使うのに、食べてしまうのですか?」

 童の口から放たれたのは獣肉への嫌悪でなく、理にかなった疑問だった。
 問いに応じたのは阿瑪拉(アマラ)である。

「勿論、使えるもんを食うてしまっては勿体ないですわな。そんな事はしませんわ」
「なら、老いて死んでしまった物ですか?」

 牛が病や怪我を得たなら、伊勢であれば造作もなく癒せるだろう。
 だが、寿命を迎えた物ならば、財産たる牛を始末する事にはならないのではないかと童は思う。
 しかし、童の答を阿瑪拉(アマラ)は否定した。

「それも勿体ないですわな。何故か考えてみなされ」

 阿瑪拉(アマラ)の返しに、童はすぐに応じる。

「働けないのに生かしておいては、餌が勿体ないという事ですね」
「正にその通り。全く素晴らしいですわ。始末した上は、角、皮、骨、そして肉も隅々まで使いませんとな」

 望ましい回答を即時に返されて阿瑪拉(アマラ)は感心する。だが、その場で考えたのではなく、その様な常識が備わっていたからこそ即答出来たのではないかと気が付いた。

「ところで、その様な考えに至ったのは何故ですかな?」
「俺等の様に山に住むもんは、歳を食って働けん様になったら、お山に行くんです。穀潰しになったら、家のもんの迷惑ですから」
「いわゆる姥棄て、ですな」
「はい。人間でも口減らしで老いたら死ななきゃならんのですから、畜生なら尚更だと思ったんです」

 和国では老人が敬われる。そんな中でも、暮らしが厳しい地では、働き手から外れてしまった者を排除せざるを得ないのだ。
 姥棄ての因習が一部にある事を、阿瑪拉(アマラ)は知識として知っていたが、それを実際に行う地の住人と接したのは初めてだった。

(成る程。その様な心構えがあるから、使えん牛を屠って食うと聞いても、何とも思わん訳ですわな)

 それに元々、和国では獣肉食が禁忌とは言っても、猪を”山鯨”と称して食するのだから、牛肉についても実は大して嫌悪を抱かないのかも知れない。

「なれば結構ですわ。ちなみに言うておきますけど、伊勢では年寄りの人間をそうやって始末する事はありませんからな」
「人間は、ですか? 俺等は大丈夫ですか?」
「勿論、儂等もですわ」

(”俺等”とは。自分が人狼である事を受け容れましたな)

 念を押した童に、阿瑪拉(アマラ)は思わず笑みを漏らした。



[37967] 7話「樵に育てられた人狼」その7
Name: トファナ水◆34222f8f ID:46137904
Date: 2016/11/29 01:17
「今の伊勢は、民にとって楽になったんですね」
「まあ、そういう事ですわ」

 姥棄ての慣習がないという事は、きっと伊勢は豊かになったのだろうと童は思った。
 子返し・間引きといった、乳幼児の殺処分に比べ、姥捨てについては和国でも行っている地域は多くない。年長者に敬意を払う習俗が、それを妨げていた。
 搾取が厳しかった伊勢でも姥棄ては行われていなかった。逆に言えば、神宮統治下の伊勢に比べれば幾分かはましな童の村では当然の事として行われていたのである。
 童の認識は”美しい誤解”に基づく物だと阿瑪拉(アマラ)は感じたが、あえて正す事はしなかった。

「食後に、もう一杯どうぞ」

 給仕が、飲み干されて空となった二人の湯飲みに熱い緑茶を注ぐ。
 伊勢では百姓も飲める様になっていると聞かされた後なので、今度は童も遠慮無く、湯飲みを手にする。肉の濃い味が緑茶ですすがれ、口内がさっぱりとした。

「あんな旨いもん、初めて食いました」

 童の感想に、給仕もにこやかに応じる。

「私が屠り、捌いて干した物をお出ししたのですが、お口に召して頂けた様で何よりです」
「その細腕で牛を殺してばらしたんですか。それは凄い!」

(ほう?)

 給仕は自分が四つ足の獣を解体した、つまり”かわた”である事を暗に示した。
 彼女は平家の一員であり、童を試す為、予め阿瑪拉(アマラ)と示し合わせてあったのである。
 阿瑪拉(アマラ)は童が給仕に対し、賤民への蔑みを吐く事を予測していたのだが、素直な感嘆の声を聞いて意外に思った。

「……私の生業を聞いて、何とも思わないのですか?」
「ああ、百姓とか馬丁は牛馬を大切にするから、そういう生業を嫌うもんが多いかも知れんですね。でも、山奥に住んでおる俺等は関わりがあまりないですから」

 同じく罵声を浴びせられるであろうと思っていた給仕も、やや拍子抜けした様子で問い返した。
 答によると、どうやら童のいた村では、かわたと接する機会が乏しかった為、賤視する事があまりなかった様だ。
 童はかわたが賤視される理由を、家畜を使役する百姓や荷役と、その屍を得て加工するかわたとの間の利害の対立による物と考えていた。確かにそれも一因ではある。
 死んでしまった牛馬の屍を、村外れの捨て場へ泣く泣く百姓が棄てに行く。かわたはそれを当然の権利として持ち去り、解体して細工物にし、商人に売って銭を得る。
 大切な財である牛馬の死という不幸が、かわたにとっては飯の種なのだから、どうしても忌々しく思われてしまう面があるのだ。所詮は逆恨みという物だが……

(結構ですわな。法術で傀儡にせず、躾(しつけ)のみで曲がった根性を叩き直すのは、結構な手間ですからな)

 阿瑪拉(アマラ)は童の性根を正す必要無しと判断した。
 給仕もまた、阿瑪拉(アマラ)に対して軽く頷き、平家として童の受け容れに依存無しとの意を示す。
 だがこの童も、かわたと日常で接する機会があったなら、どうなっていた事か。
 直に利害が対立せずとも貧しい平民の常として、自分達より身分が低いとされるかわたに鬱憤をぶつける様になったかも知れない。
 山奥で暮らしていた為に、その様な悪習を身につけずに済んだのは童にとって全く幸運だったのである。


*  *  *


 二人が茶屋に着いてから一刻は経った頃、桑名の方角から一台の馬車が到着した。
 漆で塗られ、金箔で縁取られた車体の両横に、古(いにしえ)の宮殿をかたどった補陀洛(ポータラカ)皇家の紋章が描かれている。
 牽いているのは馬ではなく、一頭の白虎。英迪拉(インディラ)である。
 虎、そして乗用の馬車のいずれも見た事がなかった童は、その威容に唖然とした。

「でっかい縞模様の猫が、豪勢な荷車を牽いておる……」
「わては猫やおまへんで。虎ですわ!」

 童が漏らした言葉に、英迪拉(インディラ)は思わず強い口調で言い返す。
 童は”猫”が返事をした事に一瞬驚いたが、口をきく狼が居るなら、その様な獣が他にいても可笑しくないと思い返す。
 そもそも、自分自身が人間ではないのだ。
 
「す、すいません。俺は田舎者な物で」
「和国では元来、虎がおりませんでな。知らん者がおってもおかしくはありませんわな」
「……まあ、ええけど」

 慌てた童の弁解に続き、阿瑪拉(アマラ)が補足すると、英迪拉(インディラ)も渋々と矛を収める。

「それにしても、主上の名代として近衛が来るとは聞いておりましたが、よもや筆頭殿が直々にお出迎えとは」
「めんこい童っちゅう話やもんだから、わても早う見たくなったんや」

 異例の対応を訝る阿瑪拉(アマラ)だが、英迪拉(インディラ)は事も無げに答える。
 改めて、童を舐める様に見る。
 
「ほんま、良さげな子やなあ、阿瑪拉(アマラ)はん。もう手は付けたんかいな?」
「当然ですわ。夕べ、儂の胎に胤を仕込みましたで、良くすれば子が宿ると思いますわ」
「幼い様に見えて、胤の役目はきっちり果たせるっちゅう事ですな。ええ牡が来て、ほんま羨ましいなあ」

 下腹をさすりながら自慢げに答える阿瑪拉(アマラ)に、英迪拉(インディラ)は羨望を隠そうとしない。血統が濃厚になりすぎて種の危機に瀕し、外の血を欲しているのは、白虎も人狼と同じなのである。
 事情を知らない童は、龍神の眷族は女であっても色事に対して明け透けなのだろうと考えた。神に近しい存在であっても、色欲を隠して体裁を繕う様な事はしないらしい。

「ともあれ、桑名に行きますよって、乗ったってんか」

 英迪拉(インディラ)に促され、二人は馬車に乗り込んだ。


*  *  *


 街道を南へしばらく進み、桑名に入った馬車が向かったのは、元の宿場街だ。
 一揆衆により主が悉く捕縛され、建ち並ぶ宿屋も接収されている。
 州境を閉ざして参拝客が途絶えた為、建物の多くは皇国の兵や官吏が住まう官舎に転用されている。
 山奥暮らしだった彼は、これまで街と言えば石津しか見た事がない。宿場も簡素な物が多かったのが、桑名のそれは幾分か立派で、数も倍以上ある。
 通行している者の殆どが人間ではない事に、童は気付いた。
 筋骨隆々として角の生えた、恐らくは”鬼”が多いが、他にも六本腕の者、鳥の様な翼を背に生やした者、車を牽いているのと同じ白く大きな虎、全身が水の様に透けた者といった、様々な異形が闊歩している。
 人間らしい者もいない訳ではないが、数はさして多くない様だ。

「ここが、お主の身の振り方が決まるまでの当面の宿ですわ」
「こ、ここですか!?」

 駐められた馬車を降りた童は、目を点にした。
 馬車が横付けした建物は、周囲と比べて特に豪勢だ。一門が桑名で活動する際の詰所として確保していた、最も上等の旅籠である。

「何、一揆の戦利品ですから遠慮はいりませんわ。建っておるもんはきっちり使いませんとな」
「は、はあ……」

 阿瑪拉(アマラ)に言われても、童は唖然としたままだ。

「ほな、わては行きますよって。無事に連れ帰った事は、主上に一報を入れときますわ」
「今日は御苦労さんです。ほんじゃ、中に入りますかな」

 英迪拉(インディラ)が車を牽いて仮宮へ戻って行くと、阿瑪拉(アマラ)は童を旅籠の中へといざなった。


*  *  *


 旅籠の中で二人を出迎えたのは、阿瑪拉(アマラ)同様に獣の耳を頭に生やし、口から鋭い牙を覗かせた十人程の女だった。歳の頃は上は三十程から、下は十五、六位に見える。
 肌の色もやはり白く、背丈も高め。衣も阿瑪拉(アマラ)と揃いの、異国の物と思しき物だ。ただ髪については阿瑪拉(アマラ)と同じ紅の他、金、銀、茶と多様となっている。
 これが阿瑪拉(アマラ)の同族であるという事は、童にも一目で解った
 彼女達は人間が多数を占める一門の学徒にあって、数少ない人狼である。

「阿瑪拉(アマラ)師、御苦労様です。そしてようこそ、若き同胞(はらから)」
「は、はい。宜しく御願いします」
「まずは疲れを癒し、体を清めると良いでしょう。さ、こちらへ」

 童は学徒の一人に案内されるまま、建物の奥へと入っていった。
 通されたのは、大きな岩風呂である。

「こちらが、当宿のお風呂となっております」
「す、凄い! これが風呂ですか!」

 当時、入浴の習慣は必ずしも一般的でなかった。体の汚れを落とすのは、数日に一度の行水や清拭き程度に留まる地域も珍しくはない。
 童の暮らしていた村でも同様であり、風呂という物は知っていたのだが、自分が浸かるのは夢のまた夢だった。庶民にとって入浴は、水や焚き物を費やす、贅沢な行為なのである。

「御入浴の間に、御召し物は新しい物を用意させて頂きます。ごゆっくりどうぞ」

 童は早速、間に合わせで着せられていた女物の衣を脱いで、素裸になって湯へと浸かってみる。
 少しぬる目の湯は、昨日からの疲れをほぐし、童の肉体を優しく包み込む。
 初めての入浴に、童はすっかり虜になってしまった。

「風呂って、気持ちいいなあ…… こんな贅沢をさせてもらっていいんだろうか……」

(齢十三の割には、随分と小柄ですねえ)
(でも、とても可愛らしいではありませんの)
(愉しみ、愉しみ!)

 心地良い気分に浸っている童は、戸の隙間から学徒達が色欲にまみれた視線を注いでいる事に、全く気付かなかった。



[37967] 7話「樵に育てられた人狼」その8
Name: トファナ水◆34222f8f ID:46137904
Date: 2016/12/09 00:34
「いいお湯だった……」

 童が風呂から上がり、脱衣所に用意されていた浴衣に袖を通して出て来ると、裸身を覗いていた学徒達は何事もなかったかの様に迎えた。

「お湯加減は如何でしたか?」
「あ、はい。気持ち良かったです」
「では、夕餉(ゆうげ)の支度が出来ております」

 続いて座敷に通された童を待っていたのは、桑名の港から水揚げされる海の幸である。
 海老や鮑(あわび)といった、これまで正月位にしか食べられなかった様な珍味の刺身が盛られた大皿に、童は生唾を飲み込んだ。

「本当にええんですか? こんな大御馳走を」
「伊勢は飢饉でしたから、米や菜物は他州から買わねばならないのですよ。幸い、海の物は充分採れますから、次の収穫までの間はこういった物が主な食になるのです」

 決して豪勢という訳では無く、飢饉が元でこの様な物ばかりを皆が食べているのだという学徒の説明に、童は安心して箸を付けた。

「旨い! 旨いです!」

 目にした事のない馳走の山を前に、彼はまたたく間に皿を空にしてしまった。
 すっかり腹が膨れて満足した童だが、程なく体に変調を感じ始めた。
 心臓の鼓動が激しくなり、股間が固く熱く膨らむ。鼻からは鮮血が垂れて来る。

「いかん、慣れんもんをたらふく食ったせいだろうか」
「早速、薬が効いてきた様ですね」
「め、飯になんか、入れたんですか」
「はい。牡の色欲を引き出し、精を無尽に放つ為の薬です」

 慌てた童へ答えると共に、給仕役の学徒は自らの紗麗(サリー)を脱ぎ捨てて裸身を露わにした。そして指を鳴らすと、座敷奥の襖が開く。中には九人の学徒が、裸のままで控えていた。

「昨夜、我等が師へなさった様に、私共にも御胤を授けて下さいませ。それ、かかれッ!」
「んほぅ!」「ひょっひょお!」「ぐへへへ!」「きしゃあ!」
 
 号令と共に、学徒達は目を輝かせて奇声を発し、一斉に童へと飛びかかる。

「ひいぃ!」

 童は悲鳴を挙げるも、抗する事も叶わずに浴衣をはぎ取られる。そして代わる代わる覆い被さって盛り狂う女達に、股間から精を搾り取られ続けた。


*  *  *


 翌朝。

「そろそろ起きなされ」

 柔らかな布団の中で眠っていた童は、阿瑪拉(アマラ)の声で眼が覚めた。

「よう眠れましたかな?」
「ええ…… あ、俺、とんでもない事をしちまって……」
「どういう事ですかな?」

 童は昨夜、十人の学徒達に薬を盛られて同衾した事を、口ごもりながら打ち明けた。

「その、契った相手があるというのに…… 他の人と……」
「ああ、それを仕向けたのは儂ですで、気にせんでええですで」
「仕向けたって、貴女が?」

 阿瑪拉(アマラ)は困惑する童に、補陀洛(ポータラカ)の方針を説明した。

 神属の多くは決まった連れ合いを持たず、種族を問わず様々な相手と交合を持つのが普通であり、国は民同士の親睦を深めるとしてそれを奨励している事。
 連れ合いが居ても、その合意があれば他の者とまぐわってもかまわない事。
 多くの男と交わって孕んでも、産まれた子が誰の胤かは法術で容易に鑑定出来る事。
 赤児はすぐに親から引き離され、成年まで税によって国が養う事。
 そして人狼を含む大半の神属は、血統が濃くなりすぎた為にまともな子が産まれにくくなり、滅びに瀕している事。

「そういう訳で、血が離れておる同胞(はらから)が見つかって、狼の皆が喜んでおるんですわ。これで、まともに産まれる狼の子が増えますからな。お主には、同族の女共をどんどん孕ませてもらわねばなりませんでな」

 自分が歓待される理由を示され、童は納得すると共に複雑な思いに囚われた。

(養わなくてもいいとは言う物の、俺の子がうじゃじゃ産まれてくるんだなあ…… 俺みたいな、女の腐ったみたいな面のちんちくりんの樵(きこり)が親父で、本当にいいのだろうか……)

「今日は、主上、つまり龍神様と御夫君様に謁見しますで。仕立てさせた衣が出来たんで、持って来ましたわ」

 童は阿瑪拉(アマラ)と朝餉(あさげ)を済ませると、真新しい直垂を着せられ、共に仮宮へと参内した。


*  *  *


 二人が通された広間では、例によって弗栗多(ヴリトラ)・言仁の夫妻が待っていた。

「よく参ったのう。まずは、伊勢に来てどう思ったかの?」
「樵(きこり)の倅の分際で豪勢にもてなされて、びっくりしました」

 半身半蛇の弗栗多(ヴリトラ)を見ても、予め姿形を聞かされていた童はそれ程には動じなかった。ここに来るまで、様々な異形を伊勢で見た事もあり、今更に驚く程ではない。
 また、二人の表情が温和であった事も、童の気分を和らげた。

「あの程度が豪勢と言われる様な、貧しき世であってはならぬ。旨い物を腹一杯食ろうて、風呂で体を清め、仕立ての良い衣を纏う。妾が民なれば、これが当たり前の暮らしとなるのじゃ」
「そ、そいつは凄いです!」

 弗栗多(ヴリトラ)の豪語に、童は思わず感嘆した。人ならざる龍神なら、民を等しく豊かにする事も出来そうに思えたのだ。

「ところでじゃな。今日呼んだのは、汝を皇国でどう遇するべきかと思うてのう。胤を付けるだけなら、盛りの付いた畜生の牡と変わらぬでな。是非とも、生まれ来る汝の子等が誇れる様な勤めをしてもらいたいのじゃ」

 弗栗多(ヴリトラ)は、童の処遇について切り出した。
 貴重な血統と言えども、無為徒食は許されない。なにがしかの職につくのは当然である。
 童は知性の資質も高い為、充分に学徒として通用するだろう。
 だが、一門が彼の身柄を確保してしまう事については、計都(ケートゥ)の専横を警戒する一部の者から懸念する声も出ていた。
 阿瑪拉(アマラ)もそれを承知しており、主君の前で本人を交え、童の扱いを協議するつもりでこの場に臨んでいる。

「勤めって言っても、俺は樵(きこり)ですから……」
「組頭の家に育って読み書きは会得しておるのじゃろう? その様な者を一介の樵(きこり)に留め置く程、伊勢に余裕はないのじゃ」
「は、はい」

 識字者が多くないこの時代にあって、この童はそれだけでも有為な人材である。某かの官職の見習いに付け、活用するのは皇国として当然だった。

「まあ、急に言われても戸惑うとは思うけれども。やってみたい事は無いのかな? 何、知らない事でも一から覚えれば良いのだよ」

 言仁に促され、童がふと気になったのは、自分と同じ狼がどの様な職を得ているかだった。

「俺と同じ狼の男衆は何をしておるんですか?」
「男はほぼ、兵を務めているのう。その内で秀でた者は武官として遇しておる」

 弗栗多(ヴリトラ)から兵と聞いて、童は顔を曇らせた。
 人間同様に智恵があっても狼は肉食獣である以上、戦に出るのが主な仕事であろうという事は、童にもおおよその見当がついていた。

「俺は…… 戦なんぞ、しとうないです……」

 兵を忌避すれば、男にあるまじき臆病者とそしられる事は想像に難くない。
 だが、童は戦で恨みもない相手と殺し合うのは、どうにも嫌だったのだ。

「成る程。正直で結構じゃな」
「い、いいんですか? 臆病と仰らんのですか?」

 弗栗多(ヴリトラ)があっさりと認めたので、童は逆に戸惑った。

「汝、養父を阿瑪拉(アマラ)の責めから庇おうとしたのであろう? いきなり現れた狼を前にして、臆病者に出来る事ではないわ」
「いや、あれは。俺も狼なんだから、聞く耳を持ってくれると思って……」
「怯えず、落ち着いてその様に振る舞えたのであれば、やはり大した物じゃな」
「は、はあ……」

 弗栗多(ヴリトラ)は既に、阿瑪拉(アマラ)が村で行ったやりとりについて、既に英迪拉(インディラ)を介して報告を受けていた。
 養父を守ろうとした童の行為を好ましく評価した弗栗多(ヴリトラ)は、それが捨て身ではなく冷静な判断の上と本人の口から聞いた事で、さらに興味を持った。

「ともあれ、兵は嫌なのじゃな。なれば、そうじゃな。侍従にならぬかや?」
「ああ、それもいいかも知れませんね」

 弗栗多(ヴリトラ)の言葉に、言仁も同意する。
 言仁もやはり童が気に入り、手元に置きたいと考えた様だ。

「じじゅう、って何でしょうか?」
「宮中、要はここで私達の側仕えをして欲しいのだね」

 聞き慣れぬ言葉を問い返した童に、言仁が説明する。

「下男という事ですか?」
「いやいや、立派な官職だよ。勿論、相応の智恵も必要だけれども。君なら大丈夫と思うよ。最初は見習いとして、仕事は徐々に覚えていけばいいからね」

 童が傍らの阿瑪拉(アマラ)を見ると、彼女は黙って頷いた。
 懸念する者が宮中にいると解っている以上、自分から一門に誘う訳には行かないのである。
 人狼の長としては当然に関わりを持ち続ける事が出来るので、阿瑪拉(アマラ)としては御政道の上での角を立ててまで、童を一門に加える利益に乏しい。
 計都(ケートゥ)もまた、阿瑪拉(アマラ)を介して間接的に影響力を保てればそれでよしと考えており、童を一門に加える事に拘泥しない旨を事前に伝えていた。

「主上も御夫君様も、随分とこの子をお気に召した様ですわな」
「良い子ではないかや」
「ええ。それに、私は女子ばかりに囲まれて育ちましたから。愛でる弟がいれば、と今でも思うのですよ」
「お、弟、ですか?」

 ”弟”と言われ、童は思わず聞き返した。
 皇帝の夫が、自分を弟代わりにしたいとは。本気だろうかと耳を疑わざるを得ない。

「ああ。勿論、君が良ければだけれども。側にいてくれると嬉しいと思うよ」
「ええと……」

 さわやかな言仁の微笑みに、童は頬を赤らめてしまう。

「どうかな?」
「は、はい。ここに…… 置いて頂けると…… 嬉しいです……」

 さらに迫られ、童は侍従になる事を承諾した。

「結構じゃな。では、祝いとして何か、望みはないかの? 多少の無理なら聞くぞ?」

 上機嫌な弗栗多が、童に気前良く問う。

「お、俺は、置いてもらえるだけで充分です……」
「遠慮するでない。そうじゃな、汝、郷里に契りを交わした娘を残したのではないかや?」
「ど、どうしてそれを?」

 夜這いをかけられて応じた幼なじみの事を言われ、童は狼狽した。

「汝等を茶屋迎えに行った虎、英迪拉(インディラ)と言う名じゃが。あれと桑名に着くまでの間、車中で阿瑪拉(アマラ)を交えて話しておったじゃろ。その辺りの事は、英迪拉(インディラ)からすっかり聞いておる」
「は、はい……」

 村でのやり取りは、筒抜けだった様だ。童はすっかり観念した。
 
「汝が望み、当人が受けるなら、ここに迎えて番(つがい)としてやっても良いぞ? 牝人狼との胤付けに妬かれては困るがの。じゃが、夜這いをする村の出であれば、汝が他の女とまぐわっても大丈夫ではないかや?」
「た、多分……」

 幼なじみが自分以外の若い者数名ともねんごろになっていた事は、童も知っていた。村の慣例であり、それに嫉妬心を抱く様な事は無い。
 だがそれ故に、幼なじみがあえて、人外の自分の元に来るとは思えなかった。

「姉ちゃん、俺なんかでいいんだろうか……」
「勿論、当人次第じゃがの。汝を欲しておったからこそ、狼の本性を現しても未練を残しておったのじゃろうな」
「そうでしょうか……」

 童は村を出るその日まで、自分が幼なじみの意中だったとは思っていなかったのだ。
 今になって思い返してみれば、夜這いをかけられたのは、自分が出家に応じる意向を出した直後である。もしかして、子を為して引き留めたかったのだろうか。

「全く、朴念仁じゃのう。のう、阿瑪拉(アマラ)師?」
「左様ですわ」

 戸惑う童の様子に、弗栗多(ヴリトラ)はいかにも可笑しそうにクスクスと笑い、阿瑪拉(アマラ)にも問う。
 童の幼なじみの心情を察していた阿瑪拉(アマラ)もまた、主君に同意した。

「お主、昨晩に学徒共とまぐわって達する時”姉ちゃん、姉ちゃん”と声を漏らしたそうですな。学徒共は心配しておりましたで」
「……」

 昨夜の情事の様子を話され、童は言葉を継げなくなった。学徒達に快楽を強いられた中、頭に浮かんだのは、幼なじみとの初めての夜の事だったのだ。

「あの時は連れて来んかったけども。そこまで想いが強いんなら、いっそ連れて来て番にした上で、儂等人狼を交えて一緒に愉しめばええと思いましてな」

 阿瑪拉(アマラ)は当初、元の村で通じていた女とは手を切らせ、同胞の女共で童の心を掴んでしまえば済むと考えていた。
 だが、昨夜の交合の様子を学徒達から聞き、童が幼なじみに寄せる想いが未だ強いと知ると、方針を変えた。
 むしろ幼なじみを呼び寄せて味方につけ、童にはめる枷として使えないかと算段していたのだ。

「それはいいのう。大いにやると良いわ」

 弗栗多(ヴリトラ)も阿瑪拉(アマラ)に賛意を与える。
 一対多、多対多の乱交は、補陀洛(ポータラカ)では推奨される娯楽である。
 より多くと交合し、快楽を分かち合う事こそが民の融和につながるという、国是その物なのだ。

「ううん……」
「君、欲した相手を連れて来る機があるのに棄ててしまっては、一生涯の間、悔やみ続ける事になると思うよ? 先方が拒んだとしても、はっきり言われれば諦めがつくからね」

 答えを詰まらせていた童だが、言仁に強く尻を押されて決心する。

「狼の俺でいいと言ってくれるんなら、一緒に暮らしたいです」
「良いね、漢の顔だよ」
「ええと……」

 決断を言仁に褒められ、童は再び赤面するのだった。



[37967] 7話「樵に育てられた人狼」その9
Name: トファナ水◆34222f8f ID:46137904
Date: 2016/12/18 22:22
 侍従見習いとして宮仕えが内定した童だが、当面は引き続き、旧宿場にある一門の詰所へ逗留する事となった。
 人間として育った為、獣形での会話や人型との自力による変化もままならない身という、神属としてはやや特異な状態である。故に同族たる人狼の学徒達によって初歩の修練を受けさせる必要があると、阿瑪拉(アマラ)が主張した事による措置だ。
 ちなみに現在の伊勢で一門に属さない人狼の殆どが、山中での行動に適している特性を活かし、州境を警護する兵として任に就いている。種族その物の数が少ない事もあって、侍従等の文官として勤める人狼は、伊勢遠征の陣中には皆無である。その為、宮中には童に人狼としての教導を行える者がいないのだ。
 阿瑪拉(アマラ)に伴われ詰所に戻って来た童を、学徒達は心配そうに出迎えた。だが、皇帝夫妻に気に入られ侍従として仕官する事になった事、郷里に残した幼なじみを伴侶として迎える様に奨められた事を聞き、一様に喜びの声を挙げる。

「良かったですね、主上と御夫君様の御許しが出て!」
「私等が無理矢理引き裂いたみたいで辛かったけど、嬉しいよお!」
「は、はい……」

 自分が人間の女と番(つがい)になるつもりだと知った同族の娘達から、”睨まれるのではないか、怒らせるのではないか”と恐れていた童は、浮かれはしゃぐ学徒達にしばし戸惑った。
 一種の雑婚制に近い貞操感を持つ彼女達にとっては、童が本妻を持つ事は、全く忌々しい事ではない。自分達の性の輪に加わる仲間が増える事になる為、むしろ歓迎すべき事なのである。
 
「心配はいりませんわ。お主の連れ合いを含めて、皆でまぐわって気持ちようなればええ事ですからな」

 童の肩に手を置いて優しく告げる阿瑪拉(アマラ)に、童は少し安心した。
 人狼達は自分だけでなく、幼なじみの事も歓迎してくれそうだ。

「ああ、主上と御夫君様を悦ばすんも、侍従の職分の内ですで。牡として気張らんといけませんで、覚悟しなされよ。男子の力の鍛錬を兼ねて、今晩も仔造りしますでな」
「是!」「是!」「是!」

(俺、腎虚になってしまう……)

 安堵を得たのもつかの間。
 好意と欲望が入り交じった気勢を挙げる学徒達に、童は顔を引きつらせた。


*  *  *


 翌日、阿瑪拉(アマラ)は菅島へと一旦戻る事になった。乳児舎の統括者として長く留守にする事が憚られたのと、今後の方針について計都(ケートゥ)と協議する為である。
 菅島へと戻った奥妲(アウダ)は、留守を預かっていた計都(ケートゥ)に経緯を報告した。
 計都(ケートゥ)はその内容を、普段通りの微笑を浮かべつつ静かに聞いていた。

「宮中、それも侍従見習いとして遇されるのであれば、人狼としては良かったですわね」
「儂等の一族は、智恵の高いもんは大方、女は一門、男は武官でしたからなあ」

 補陀洛(ポータラカ)の人狼は、祖先が他国から落ち延びてきた将兵という事もあり、尚武の気風が強い。また、女は乳母に向いているとして重宝されている。
 結果、政(まつりごと)に関われそうな程に賢い者は、阿瑪拉(アマラ)を含めて女は次代の育成を担うべく一門、男は兵を率いる武官として軍に進む者ばかりとなり、宮中の官吏となる者がいなかった。
 人狼という種族の影響力を保つには文官も必要なのだが、望む者がなければ仕方がない。

「幼なじみとやらを連れて来るのは構いませんけど。その為には今一度、樵(きこり)の村へ行く必要がありますわね」
「そうなりますわな。もしかして何ぞ、差し障りがありますかな?」
「いいえ。その件がなくとも、再訪はいずれ必要でしたの。ですからついでに、そちらの用も済ませて頂きたいのですわ」
「……生母の骨ですな」
「ええ。和国の人狼について手がかりを得ませんとね」
「先に行った時は、童が本性に変化しておったもんだから、身柄をさっさと押さえて連れ帰る事だけを考えておったもんで。しかし、確かにあれ一人だけでは、血を薄めたといっても不十分ですわな」

 和国在来の人狼が他にもいないか捜索する必要については、阿瑪拉(アマラ)も考えていた。
 童の胤で産まれた人狼の仔は血が薄まった事により、多くが健常に生まれつくだろう。しかし、外からの血が一人だけでは、結局、その仔達の代で再び血が淀んでしまう。
 そうならない為には、和国在来の人狼を他にも探し出さねばならない。
 村の祠に葬られたという童の生母は、その手がかりとして重要だ。実の子である童が、新たな居へ改葬するとして遺骨を持ち帰る事は、さして難しくはあるまい。

「隠れ住んでおらんか、周辺の山林も探りませんとな。だけども、越境して隠密に動くっちゅう事になると、学徒共では荷が重いかも知れませんで。そういう事に長けた兵を動かせりゃあええんですけど」
「そうですわね。山の捜索には、美州との境を巡回している人狼の兵を使える様、弗栗多(ヴリトラ)に話をつけておきますわ」
「助かりますわ、導師」
「当然ですわよ。荒事になるかも知れませんもの」
「美州のもんに越境が知れたら面倒ですもんな」
「それもありますけれども。件の子の母親が何故、人間の村で子を産み落とし息絶えていたか、考えてごらんなさいな」
「……確かに、不自然ですわな」
「もしかすると、共に暮らしていた同族に迫害されて逃亡した、もしくは放逐されたのかも知れませんわね」

 計都(ケートゥ)は、童の生母が、元いた集団から排除され、仔を産み落とした末に野垂れ死にしていたのではないかという推論を示した。
 充分にあり得る事だけに、阿瑪拉(アマラ)も顔をしかめる。

「もしそう言う事だったんなら、和国在来の同胞(はらから)を見つけたとしても、一悶着あるかも知れませんわな」
「ええ。万が一の事を考えれば、捜索に動かすのは学徒より兵の方が良いですわね」
「追い出したもんの忘れ形見を儂等が庇護したとなると、面白くはない筈ですわな」
「件の童を迎えたのは、那伽摩訶羅闍(ナーガマハラジャ)の勅意。例え亡き生母に非があったとしても、それを理由に童を責め立て、身柄を庇護した皇国への臣従を拒むのであれば、始末するしかありませんわね」

 童自身が皇国から見ても重大な非を犯し、それを隠していたというならば別だが、そうでないのであれば、一旦受け容れた者は臣民として庇護しなくてはならない。
 例え、より多くの人狼を臣民に加えるという益を損ねてもである。

「まあ、童の立場を安堵した上で、先方の面目を立てる方向で交渉がまとまるのが一番ですけどな。その為には精強な兵を見せつけて、力を示しておくのが一番ですわ」

 逆らうかも知れぬ相手には、圧倒的な力を誇示して恫喝した上で交渉に臨むのが、補陀洛(ポータラカ)の常套手段だ。
 もっとも、武断的な国であればどこでも行っている事ではある。

「あくまで従わなないなら、それはそれで簡単ですわよ。法術で傀儡にして、牡からは胤を絞り、牝は孕ませれば良いのですもの。人狼の血を薄めるだけなら、傀儡で充分役に立ちますわ」
「そ、そうですわな…… 儂等が用があるのは、胤と胎ですもんな……」

 計都(ケートゥ)の冷徹な目論見に、阿瑪拉(アマラ)は納得しつつも背筋が凍る思いがした。


*  *  *


 阿瑪拉(アマラ)を見送った後、童は一門の詰所に逗留を続け、後事を師阿瑪拉から託された人狼の学徒達より様々な教えを受けた。
 獣型と人型との化身や、獣形のままでの人語の話し方の鍛錬。宮中で必要となる礼儀作法。補陀洛(ポータラカ)についての歴史、伊勢の現状、そして国是である”諸族協和”の理念等々。
 説かれた内容は無学な者でも理解しやすい様にかみ砕いてあり、高い智恵の資質を持つ童は、紙が水を吸い取る様に身につけて行った。
 日中の修練や座学を終え、腹一杯の滋養豊富な夕餉(ゆうげ)を食した後は、胤付けを兼ねた交合三昧だ。
 だが、学徒達の肉体に溺れつつも、童の頭からは、姉弟の様に育ち体を許した幼なじみの事が離れる事は無かった。
 もうすぐ一緒に暮らせる様になる。姉ちゃんに不自由ない暮らしを用意するには、自分が周囲から認められる様、勉学に勤しまねばならない。この真摯な思いこそが、童の励みになっていた。
 童の一途さに学徒達が覚えたのは嫉妬では無く、前向きさへの感心である。
 ”この様な献身の対象になる娘であれば、幼なじみとやらはきっと皇国臣民に相応しき良い女なのであろう。共になって童を床で責め立て、精を搾るのが愉しみだ”と、学徒達は未だ見ぬ相手に、若干妄想混じりの期待をふくらませつつあった。
 そして約束の半月が経った後。
 桑名港に着いた阿瑪拉(アマラ)、そして出迎えに赴いていた童と学徒達の下へ、上空から乾闥婆(ガンダルヴァ)の兵が舞い降りた。

「阿瑪拉(アマラ)師、急報であります!」
「御苦労さん。んで、何ぞあったんですかな?」
「お耳を……」

 怪訝な顔の阿瑪拉(アマラ)に、乾闥婆(ガンダルヴァ)の伝令兵が耳打ちする。

「確かですかな?」

 阿瑪拉(アマラ)の問いに、伝令は黙って頷く。

「何があったのでしょう?」

 童が尋ねると、阿瑪拉(アマラ)は厳しい表情で童の方に向き直る。

「ええか、気を確かに持ちなされよ。お主の村が、逃散したそうですわ」
「ちょう…… さん?」
「要は、もぬけの空になっとるっちゅう事ですわ」
「そ、それは…… わかるんですけど…… 何で……」

 圧政に耐えかねた住民が村を捨てて逃げ出すというのは、さして珍しい事ではない。
 だが、童の村は貧しいながらも食えないという程ではなく、伊勢による木材の需要が高まった事もあり、僅かずつながらも暮らしは上向いていた。
 それに、童が去る際に阿瑪拉(アマラ)が支払った、大枚の支度銭がある筈だ。
 逃げ出す理由が、童には全く思い当たらなかった。

「その話はどこからですかな?」
「石津の間諜からです。村に出入りしておる馬丁の報により、既に美州の役人が村を検分したそうで、逃散と判じたとの事」

 逃散した民は、領主から見れば罪人である。捕まれば、悪くすれば斬首に処せられるだろう。

「美州は山狩りをしたのですかな?」
「山林に長けた樵(きこり)を捕らえるのは困難であろう事から、美州領家は捨て置くつもりの様です」

 村の樵(きこり)達が、何かの著しい困難に見舞われたが為に逃げたという事はほぼ間違いない。
 山賊の襲撃等、逃散の意図がない不可抗力の避難という事も考えられるのだが、美州はその可能性を考慮しても、捜索に値せずという判断を下したのだろう。
 領主にとって樵(きこり)等、所詮はその程度の価値でしかない。逃散と決めつけてしまえば、助けずともそれで片がつくのである。

「す、すぐに向かいましょう!」

 童は、養父母、そして幼なじみ達の無事を何としても確かめたいと、阿瑪拉(アマラ)に願った。
 郷里の村人を救えるのは、自分達しかいないのだ。
 
「そうですな。元々、お主の村の近隣に同胞(はらから)が潜んでいないか探る為、軍から人狼の兵を借りる手配はしておりましたでな。それらを動かしますわ」
「お願いします。俺も行きたいです!」
「私達も!」
「あかんですわ」

 童は軍だけに任せず、自らも捜索に加わる事を求め、学徒達も追従する。だが、阿瑪拉(アマラ)は重々しく、一言で拒んだ。

「何故です!」
「村人が皆、消え失せるっちゅうのは尋常ではありませんで。人狼の血をつなぐ胤のお主を、危ない目に遭わす事は出来ませんわ。お主等学徒の胎に宿っておるかも知れん仔等もですわ」
「……わかりました……」

 食い下がる童と学徒達を、阿瑪拉(アマラ)は諭す。
 敵対者として想定される最悪の存在は、美州の兵如きでなく和国在来の人狼だ。彼等が村人を襲撃し食い尽くした、あるいは浚ったという事も考えられる。鍛錬した兵ならまだしも、学徒では危険である。
 普段は大らかな阿瑪拉(アマラ)が滅多に見せない厳しい表情に、学徒達は従う他無かった。

「待機しておる人狼兵の隊に伝えなされ。予定では明日から美州の山中を探る筈だったけど、儂が合流次第、今日すぐに動くから支度しておけと!」
「承知!」

 控えていた乾闥婆(ガンダルヴァ)の伝令は、阿瑪拉(アマラ)の命を受けて飛び立つ。
 阿瑪拉(アマラ)はそれを見届けると、自らは紗麗(サリー)を脱ぎ捨てて全裸となり、狼の姿へ化身した。

「儂も行きますで。何ぞ解ったら一報を入れますわ」
「御願いします、どうか村の皆を!」

 懇願する童に阿瑪拉(アマラ)は頷くと、州境へと急ぎ走り去った。



[37967] 7話「樵に育てられた人狼」その10
Name: トファナ水◆34222f8f ID:46137904
Date: 2017/01/01 20:32
 阿瑪拉(アマラ)は、先日に童を連れ帰った際に一夜を明かした、州境の伊勢側にある廃村へと向かった。
 出発してから休みもせずに駆け続けているが、学者と言えども戦闘種族たる人狼の彼女は、疲れを全く見せない。
 廃村に到着した時には、手配していた人狼兵達は既に集結しており、獣形で整列して阿瑪拉(アマラ)を出迎えた。
 男女はほぼ半数づつで、全員、齢五十より下の者達だ。旧弊に凝り固まった本国の年寄りを見限って和国遠征に参じた、皇国の衰亡を憂う若き世代である。
 彼等は本国に残る老いた族長ではなく、一族で最も智恵者である阿瑪拉(アマラ)を自分達の代表と考えていた。

「族長代殿。州境巡回の人狼兵、総勢百名。欠員無く集結しております」
「御苦労さん」

 人狼兵を統括する上級の女武官の報告に、阿瑪拉(アマラ)もねぎらいの言葉で応える。

「美州へ越境しての山中の探索は、本当は明日からっちゅう事だったけれども。悠長な事を言っておれんくなりましてな」
「族長代殿。大方の状況は、伝令から聞いております」
「ならば話が早いですわな。儂等の同胞(はらから)が潜んで暮らしておらんか探るっちゅう当初の目的の他、行方知れずになった村のもんも探さんとならんのですわ。むしろ、そっちの方が重いですわな」

 阿瑪拉(アマラ)と女武官のやり取りに、一人の兵が声を発する。齢四十程の、この中では比較的古参の男で、女武官よりも年配である。

「族長代! 伊勢の良民ならともかく、他州の人間なんて放っておいてもいいんじゃないですかい?」

 あからさまな不平に、周囲は一斉にその兵をにらみ付けた。

「お、おい。俺、何か変な事言ったか?」

 厳しい視線を浴びせられて戸惑う兵に、女武官は憤怒の表情を浮かべて無言で歩み寄り、右前足で頬を張り飛ばした。

「愚か者めが!」
「痛ぅ……」

 顔をしかめる兵に、女武官は容赦なく罵声を浴びせる。

「貴様にとっては只の人間でも、庇護した童にとっては養われた恩者。なれば皇国の人狼全てにとっての恩者ではないか! それを見限れとは貴様、恥を知れ!」
「その位にしておきなされ」
「族長代殿。配下の妄言を御容赦下さい」

 阿瑪拉(アマラ)の制止に、女武官は一礼して元の場へと戻る。
 叱責された兵も、所在無げながらも姿勢を正した。

「村民の失踪は”逃散”というのが美州領家の見立てという事ですが、本当でしょうか?」

 女武官は阿瑪拉(アマラ)に向き直ると、今回の事態についての疑問を発する。
 圧政にあえいでいた神宮統治下の伊勢と違い、美州の治世はおおむね良好だ。一介の油売りから身を興したという、美州領主の評判も悪くない。
 材木の需要が高まり、寒村とは言えども徐々に暮らし向きは良くなっていた筈だし、童と引き替えに渡した支度銭は、当面遊んで暮らせる程の額だ。
 村人達は本当に村を捨てて逃亡したのか?

「お主はそう考えておらんのですわな?」

 阿瑪拉(アマラ)が問い返すと、女武官だけでなく、その場の兵達も頷いた。

「儂も同感ですわ。一人二人が行方知れずになったというならまだしも、集落が丸ごとですからな。庇護したあれも心当たりはない様だったし、十中八九は違いますわな」
「拐かされたか…… あるいは……」
「始末されたかですわな」

 女武官は口を濁すが、阿瑪拉(アマラ)はあっさりと言葉を引き継いだ。
 奴婢として売却する等の為に拉致するにも、山奥から大人数を連行するのは無理がある。もし連れ去られたのだとしても、商品価値の高い若者の他は殺されているだろう。
 童や学徒に話さなかっただけで、阿瑪拉(アマラ)は報を受けた時点で既に、村人が無事でいる可能性は低いだろうと冷徹に考えていたのである。それを童や学徒に言わなかったのは、余計な心配をかけない為の配慮に過ぎない。
 彼女の眼は村人の安否よりも真相の解明、そして彼等に手を下したであろう者へと向いていた。

「族長代殿。下手人は山賊、野盗、野武士の類でしょうか?」

 先程とは別の兵の一人が問うと、阿瑪拉(アマラ)は残念そうに首を横に振る。

「違うのでしょうか?」
「いや、その線もあり得ますけど、それならまだええですわ。そも儂等は、明日から何を探すつもりだったのか解っておりますわな?」
「……まさか…… 美州に潜んでいるかも知れぬという、和国在来の同胞(はらから)が?」

 兵の推測に、周囲は顔を見合わせる。

「そういう事ですわ。おるかおらんかは、はっきりせんけれども。同胞(はらから)がこの地におるんなら、充分あり得る事ですわ」

 阿瑪拉(アマラ)の言葉に、兵達からざわめきが上がった。

「訳なら色々と考えられますけどな。童の母親が件の村で息絶えておったんは、和国の同胞(はらから)から放逐されたのではないかっちゅうのが、計都(ケートゥ)師の見立てなんですわ。そういう事なら、追い出したもんの忘れ形見を養った村の衆も、連中にとって腹立たしい筈ですわな?」
「それでは……」
「もし和国の同胞(はらから)が、童の村のもんに手を出したという事なら、仇として捕らえねばばなりませんわ」
「人狼が滅びに瀕しているのに、同胞(はらから)と相打つのですか!」

 阿瑪拉(アマラ)の示した方針に、女武官は思わず声を挙げた。

「勿論、同胞(はらから)を見つけても、決めつけてはいけませんわ。あくまで詮議した上で、仇と知れたらという事ですわ」
「し、しかし! 人狼の濁った血を薄めるのは一族の悲願!」
「だから、もし争う事になっても、なるべく殺さんで法術で拘束する様に心がけなされ。儂等と子作りして血を混ぜる為、傀儡とせにゃなりませんからな」

 女武官や配下の兵達は冷徹非情な答えを聞き、気さくさで慕われる阿瑪拉(アマラ)もまた、冷徹非情で恐れられる一門の学師なのだと身震いした。

「同じ人狼なら皆が仲間って訳じゃねえのに、みんなおめでてえんだよ。皇国で迎えた坊主の養い親の仇ってんなら、気兼ねなく傀儡にして、逸物をぶち込んで何度でも孕ませてやれるってもんだ」

 最初に不平を漏らした兵が威勢良く暴言を吐き、嫌らしく嗤う。
 智恵の値が並の底辺である九に留まり、また皇国で忌まれる嗜虐の気性も見られる彼は、末端の兵として終生を過ごすであろうと軽んじられていた。
 だが今回は、その言葉に皆が頷かざるを得ない。

「そ、そうだな」
「ああ、無辜の民に手を下したというなら許せんな。人狼の恥だ」
「お前の癖に、たまにはいい事を言うじゃないか」

 周囲の戸惑いつつの同調に、発言の主は得意げな顔で胸を張る。
 阿瑪拉(アマラ)と女武官は、無言のまま顔を見合わせる他に無かった。



[37967] 7話「樵に育てられた人狼」その11
Name: トファナ水◆34222f8f ID:46137904
Date: 2017/03/05 09:30
 百名の人狼兵は十名づつに隊を編成し、分散して美州の山中を捜索にあたる事とした。
 当初は五名づつという案だったのだが、和国の人狼と遭遇・衝突した場合でも圧倒出来る様、倍の人数となったのである。
 また、各々の隊を指揮する者には八咫鏡が貸与された。
 動画や音声による同時通信、そして撮影・録音記録が可能な八咫鏡は、州外へ持ち出す際に弗栗多(ヴリトラ)もしくは言仁の裁可が必要とされている。前回、阿瑪拉(アマラ)が童を迎えに行く際に携帯しなかったのはその為だ。
 今回は言仁の方から、円滑な連携、そして不測の事態に備えて持って行く様にと、特に申し渡されたのである。

「此度の件は主上・御夫君様共、とても心配しておられますでな。お主等、きばって下されよ」

 出立に際しての阿瑪拉(アマラ)の言葉に、一同は気持ちを引き締めていた。
 最悪、他の神属と初めて相討つ事になるのである。


*  *  *


 阿瑪拉(アマラ)が廃村へ到達した頃の石津。
 童の村が逃散したという報を送った間諜は、引き続き詳報を得るべく、普段の様に人間の女に扮して濁醪(どぶろく)の屋台を出していた。
 まだ日暮れには間があるというのに、半分程の屋台に客がついている。逃散した村に出入りしていた馬丁達が、荷を運べずに暇を持て余している為だ。
 間諜の屋台にも、童の話をもたらした初老の馬丁が訪れて、濁醪(どぶろく)を煽っている。

「やってられんなあ、全くよお」
「元気出しな。あんたは贔屓にしてくれてるし、今日は半値でいいからさ」
「うほっ、済まねえなあ! んじゃあ、もう一杯!」
「はいよ」

 やるせない顔で溜息をつく馬丁だが、間諜が慰めると”半値”の言葉に反応し、すぐに機嫌を直すと空の椀を差し出した。
 間諜は苦笑しながら、柄杓(ひしゃく)でお代わりを注いでやる。

(安酒さえあれば幸せとは、全く扱い易い輩だ。それでいて話をよく集めて来る)

「馬丁は景気が良くて、引っ張り蛸(だこ)じゃなかったのかい? すぐに次が見つかると思うよ」
「そう簡単じゃねえんだわ。各々の縄張りって物があるからよう。座の方で新しい行き場を割り振ってくれるまでは勝手が出来んのよ」

 馬丁にも座が存在し、仕事には上納銭を払って鑑札を得なければならない。また、誰がどこで荷を運ぶかも仕切られている為、自分で新たな仕事を勝手に受ける事は許されないのである。

「それによう。空になった村もまあ、早けりゃ五、六日で別の樵(きこり)が移り住んで来るって、今朝方に石津の代官所から触れが出てな。だから座も、俺等があぶれているからと言って、迂闊に余所へ割り振る事が出来ねえんだわ」
「余所の樵(きこり)で、後を継げない次男坊、三男坊とかを空いた村へ連れて来るんだね」
「そう言う事だわ。お上にとっちゃ、下々なんて幾らでも換えがきくからよ」

 ”幾らでも”は大袈裟に過ぎるが、後を継げない次男坊以下の男子はどの身分でもいる。樵(きこり)にもその様な者はいる訳で、逃散した村に入植する話があれば、すぐに飛びついて来るだろう。
 美州領家が早々に逃散と断じたのも、いなくなった樵(きこり)達の代わりをすぐにあてがって伐採を再開する為に、村の接収を早くしたかったであろう事が伺われた。

(仮に行方知れずの樵(きこり)共を皇国の手で無事に見つけたとして、最早、元の村へは戻せまい。越境させて伊勢へ受け容れる他ないか…… 万が一にも美州側に捕らえられば、見せしめを兼ねて全員が仕置されてしまいかねない)

 美州が新たな住人の入植を決断した以上、事の経緯は最早、詮議される事はないだろう。不可抗力であったとしても、元の村人が現れれば問答無用で、逃散を試みた咎により死罪は免れない。
 美州側に捕らえられた場合、皇国は表だって直に介入すべきか否か、決断を迫られる事になる。極力、その様な事態に陥る前に決着を付けねばならない。
 非情だが、既に村人が死に絶えていたと言うのも、皇国にとっては悪くない結末の一つではある。童との信義上、見つければ縁者である村人達を救わねばならないのだ。

「逃散したっていうけど、村の衆が行きそうな心当たりとかないのかい?」
「役人にも訊かれたけどよ、見当もつかねえや」
「そうだろうねえ」

 思い当たる様な処であれば、とっくに見つかっている筈だ。

「ただ、銭廻りが良くなったみてえだけどよ。ほれ、前に話した、出家する事になっとった組頭の倅。それを取りやめたいっちゅうて、支度銭を色つけて寺に返して断ったっちゅうんだわ。しかも、銅銭でなくて豆銀でだわ」
「豆銀で色をつけたとは凄いねえ。どこで稼いだんだろうねえ?」

 童を引き取りに行った阿瑪拉(アマラ)が支払った銭が返済の出所である事は、間諜は同然に解っている。だが、石津周辺ではどう認識されているか探る為、間諜は素知らぬふりで馬丁に訊いた。

「倅が狼の落とし子だっちゅう話は前にしたろ。仲間の狼が迎えに来て、これまでの食い扶持だっちゅうて豆銀の袋を置いてったと、組頭は言うとったんだわ」
「へえ、狼ってのは祀られてるだけあって、随分と身上(しんしょ) ※財産 持ちなんだねえ」
「狼が銭を持って引き取りに来るなんて、そんな眉唾を誰が信じるもんかよ。大方、どこぞの商人とか、侍とか、とにかく寺より余分に銭を積んだもんがおるんだろ。あの倅は結構な器量だったからなあ」

(童を迎えに来たという話が伝わっても、人狼の存在をこの馬丁は未だに信じずに法螺話だと思っているか。”誰が”と言う事は、こ奴だけでなく、大方の住民も恐らくはそうなのだろうな)

「寺はそれを受けたのかい?」
「何か一悶着あったらしいけどよ。童がいないんじゃ仕様がねえってんで、渋々ながら銭を受け取って破談にしたそうだわ」
「一悶着ねえ。物騒な事になったのかい? 証文を盾に代官所へ訴えるとか」

 ”一悶着”の一言を、間諜は聞き逃さなかった。揉め事があったなら、それが逃散騒ぎのきっかけかも知れない。

「そう言う事じゃねえけどよ。あの寺は真言宗でな。寺に入れた倅を本山へ修行に出すって事で高野聖が迎えに来とったんだわ。それも、五人ってんだからただ事じゃねえ」

 高野聖とは、和国仏道の一派・真言宗に属し、全国を行脚する下級の修行僧である。
 出家した小僧を本山で修行させる事や、その為に迎えが来る事自体はさして不自然ではない。
 だが、たかが童一人の迎えの為に、五名も遣わすとは尋常ではない。それだけ童を重視していたという事になる。

(真言宗が人狼の仔を狙っていた? 仏敵として滅する為か、手懐けて使役する為か?)

 寺が件の童を欲していたのは、色子として慰み者にする為ではない。真言宗の本山、即ち高野山が人狼の仔の存在を知り、石津にある末寺へ身柄の確保を命じたのだろうと、間諜は推察した。

「まあ、あんだけ器量がええ童を差し出しゃ、和尚も本山の覚えがめでたくなるってつもりだったんじゃねえのかな」

 ”出世の為に本山へ美しい童を色子として差し出したのだろう”と、人狼の事を信じていない馬丁は自分の推量を話す。

「それで、一悶着ってのは何だい?」
「高野聖共がよ、”連れて帰れぬとあっては本山に申し開きが出来ぬ”って、組頭に迫ってよお。仕方ねえんで、そっちにも豆銀を握らせて黙らせたらしいわ」
「へえ…… それで、そいつらはもう帰ったのかい?」
「ああ、一昨日に発ったみてえだな」

 村人の失踪が解ったのが昨日、間諜がそれを知ったのは今朝方、石津の噂になっていたのを聞いての事だ。
 高野聖が寺を発ったのは、失踪が知れた前日という事になる。

(村に手を下したのも、恐らくは高野聖。童や迎えに来た阿瑪拉(アマラ)師の行方を吐かせようとしたか、それとも釣り出す為に人質にでもするつもりで浚ったか……)

 いずれにせよ、五名の高野聖、そして高野山は人狼を狙っている可能性が高い。村人の失踪にも関わっているだろう。十三年前に行き倒れていた童の生母も、彼等に追われていたのかも知れない。
 ともあれ、人狼を本山へ護送する為に来たという事は、この高野聖は法術を行使出来る阿羅漢(アルハット)か、もしくは法術具等の神属に対抗する手段を用意しているのは間違いない。
 その様な者であれば一当百の強者として、女子供を含めても百名足らずの村人を捕縛する事は造作もないだろう。

 自分が高野聖ならこの状況で、手に入れ損ねた童を捕縛、もしくは抹殺する為にどうするか……
 村が行方知れずになった話が届けば様子を確かめに再訪するだろう。それを見込んで待ち受け、罠をはる。
 いや…… 童が現れてもその場では襲わず、村人の捜索を諦めて戻って行くのを尾行して居所を突き止め、より多くの兵を引き連れ充分な支度の上で襲うか。
 美州領家については、空となった村へ余所から民を送り込む決定を早々に下した事から、関わっていないであろうと思われる。
 入植までの数日で、童が様子を見に戻って来るとは限らない。待ち伏せるなら長丁場を覚悟で張り込みたいだろうから、美州領家と高野山が組んでいるならば、矛盾する動きだ。
 無論、補陀洛(ポータラカ)の兵は、法術を使う相手も想定して行動している。高野聖の不意打ちを受けても、遅れをとる事は無いだろう。
 だがその場で手を出してこず、密かに後をつけられた場合…… まとまった数の人狼が伊勢に属し、和国在来の同族を集めている事を知られてしまう事になりかねない。

(いずれにせよ不味いな。一刻も早く報告せねば。阿瑪拉(アマラ)師の事だ、きっと明日からの捜索を繰り上げて、既に美州へ越境しているかも知れない)

 表情に出さないまま焦る間諜だが、ここには同時通信に不可欠な八咫鏡がない。
 州境を越えた、伊勢側の関所までいかなくては、報せを阿瑪拉(アマラ)まで届けられないのだ。

「姉ちゃん、もうねえかあ?」
「ごめんよ、さっきので樽の中身が尽きたんだ。今日はこれで店じまいさ」
「そっかあ。んじゃなあ!」

 濁醪(どぶろく)のお代わりを求める馬丁に、間諜は屋台を閉めると告げる。
 上機嫌で帰って行く馬丁を見送りつつ、屋台を手早く片付ける。現代と違い、この頃の屋台は肩に担げる簡素な物だ。
 ちなみにこの間諜は人間の女に扮してはいるが、あえてやや肩幅を広くして並の人間の男程度の体格を取っていた。男並みの力仕事をしても、不自然に思われない様にする為だ。
 勿論、本来はもっと長身かつ筋骨隆々とした、羅刹(ラークシャサ)に相応しい体格である、

「さて……」

 周囲を見渡すと、丁度、道端に停まっている伊勢の荷馬車が目に付いた。交易品の塩を石津まで運んで来た便である。荷を降ろして空荷になった処で、休憩している様だ。
 間諜は、馬車の御者を勤めている若い男に声を掛けた。この御者は元々の伊勢の人間だが、賤民の虐待に加わっていなかった為に皇国臣民として認められ、美州との交易に従事している。

「兄さん、伊勢に戻るんなら乗せてっておくれよ!」
「悪いな、塩を売った銭で紙をぎっしり仕入れて戻る様、荷主から言われてんだ。お前さんを乗せる余裕なんてねえさ。夕刻に出る、人を乗せる為の車まで待ちな」

 御者はすげなく断るが、間諜はにこやかな顔で御者に腕を絡ませ、豊かな胸を押しつけて迫る。

「そんな事言わずにさあ。何なら、車賃代わりに今夜……」
「お、おいおい。そんな事されてもよぅ」

 戸惑う御者の耳元で、間諜は自らの正体をささやいた。

(皇家御用につき至急、伊勢へ戻りたい。紙の件については、こちらから荷主へ話を通す故に心配無用)
「お、お前さん、りゅうじ…… もぐっ!」

 屋台主の正体が龍神の眷族であると知った御者は、驚きの声を挙げそうになったが、すぐに口を塞がれた。

「いいよねえ、兄さん!」

 にこやかなままだが有無を言わさない間諜に、御者は頷く他なかった。

「ありがとさん!」

 御者の承諾を得た間諜は、空となっている馬車の荷台に、屋台を軽々と持ち上げて積み込む。そして自らもその傍らに乗り込み、御者に出発を促した。

「急いどくれ!」
「へ、へい……」

 席に座った御者は顔をやや引きつらせながら、馬車を桑名の方向へと向けて進ませた。





[37967] 7話「樵に育てられた人狼」その12
Name: トファナ水◆34222f8f ID:46137904
Date: 2017/01/29 23:45
 間諜が徴発した荷馬車は、伊勢との州境にある関所に到着した。
 この関所は元々、出入りの通行税徴収や領民の逃亡を防ぐ為に神宮統治下の伊勢が設けた物で、美州側は一切関わっていない。
 一揆衆が接収した後は他州からの入境を一切拒む様になった為、警護はより厳重になっており、美州の民は羅刹兵を恐れて全く近寄ろうとしない。交易が行われている石津から州境の関所に至る街道を往来するのは、通行手形を交付された伊勢側の者ばかりだ。

「あ、姐さん。着きましたが……」
「御苦労」

 間諜は馬車から降り、積み込んだ屋台を軽々と荷台から降ろすと、銅銭が入った巾着袋を御者に手渡した。ここ三日程の濁醪(どぶろく)の売り上げである。
 あくまで屋台は偽装として行っている商売で、元手は全て皇国持ちだ。さらに本来の俸禄は別途受けているので全く惜しくはない。

「心付けだ。くれぐれも今日の事は他言無用」
「へ、へい」

 御者は巾着袋をそそくさと懐にしまうと、軽くなった荷馬車で逃げる様に桑名へと向かって行った。
 間諜はそれを見送る事無く、関所を指揮する武官に声を掛け、八咫鏡が置かれている部屋へと急いだ。


*  *  *


 百名の人狼兵を十人づつの隊に編成した阿瑪拉(アマラ)は、個々に捜索する領域を割り当て、自らは直轄する一隊と共に童の住んでいた村へと向かっていた。
 仮宮に詰めている間諜の上司を通じ、八咫鏡によって高野聖の動向が知らされたのは、阿瑪拉(アマラ)の隊が美州へと越境して、村までの行程を半ば過ぎた頃である。

「面倒な事になりましたね……」

 報を聞き、阿瑪拉(アマラ)を補佐するべく同行している最先任の女武官が懸念を漏らす。彼女は百名の人狼兵の内、最上級にあたる立場である。
 人間に仇為す妖(あやかし)であるとして、神属を狩る仏法僧や神職、あるいは在野の祈祷師の類が和国に存在する事は把握している。
 皇国兵はそういった相手との交戦も充分に想定しており、戦闘になった処で後れを取る事は考えにくい。そも、神属同士の衝突の方が遙かに危険なのだ。
 問題は今回の件が、真言宗という”組織”と伊勢との抗争に発展しかねない事である。

「ま、穏便に片をつけたい処だけれども。その高野聖共が村人を殺めておったなら、落とし前はきっちり付けにゃなりませんわな」
「それですが、仮にも仏法僧が民草を殺める物でしょうか? 我等神属を”仏敵”として討つ事はありましょうが……」
「言われてみればそうですわな。けれども現に、村はまるごと行方知れずですからな。ともあれ確かめるのが先決ですわ」

 女武官はさらなる疑問を口にし、人狼兵達の中にはかすかに動揺を見せる者もいた。阿瑪拉(アマラ)は疑問の内容を心に留めながらも、まずは村に向けて歩を進める様に促した。


*  *  *


 樵(きこり)の村を伺える場所まで近付いた阿瑪拉(アマラ)達がまず行ったのは、待ち伏せや罠の確認である。
 村人を拉致もしくは殺傷した何者かが、逃散の話を聞きつけて様子を見に村へ戻って来た童を捕らえようと狙っているのではないかと考えたのだ。
 人狼兵達は手慣れた様子で村の周囲を探って行ったが、半刻程の捜索の結果、特に怪しいところは見つからなかった。

「村の外周に伏兵・斥候の類は存在しません。また、結界、罠、あるいは遠見の法術の類を仕掛けられている様子もありません」
「ほなら二名を一組にして、まずは個々の家を家捜しですな。くれぐれも気をつけなされよ」

 女武官の報告を聞いた阿瑪拉(アマラ)の指示により、村内に人狼兵達が入って行く。
 無人の村内は静まりかえり、物音一つしない。
 点在する家々を手分けして捜索した物の、やはり村人は見つからない。
 衣類や什器といった物はそのまま残され、整然と片付いているのがかえって不自然ではあった。 また、何かをしている最中、例えば食事や就寝中に突然襲われたという様な痕跡も全く見られない。
 屋内の捜索を終えた人狼兵達はは、村の中央に集まって女武官に報告する。

「族長代殿。荒らされた様子はない様です」
「ふむ…… 財物、銭はどうですかな。村には仰山の豆銀を渡したのですがな」
「そんなもん、なかったです」「同じく」「ありません」「ねえっす」
「今一度探せ!」

 女武官は結果を阿瑪拉(アマラ)に告げるが、受けた指摘に対する人狼兵達の答を聞くと、再び屋内の捜索を命じた。
 だが家々からは渡したはずの豆銀どころか、鐚(ビタ)一文すら出て来なかった。
 金銭が残っておらず、家が片付いているとなると、やはり村人自身の意思による逃散という事なのだろうか。
 再度の捜索の結果を受け、阿瑪拉(アマラ)は首をひねる。

「銭だけを携えて逃散、という事ですかな…… けれども童に聞く限り、この村は治世に不満があった風でもなし。そもそも行く当てがあったのやら」
「仕掛けた者が、村の者をたぶらかしたやも知れません」

 逃散であったとしても真に村人の意思による物ではなく、詐術にのせられた、あるいは法術で意思を操られたという事もある。
 童をおびき出す為に逃散を装うなら、その様な手段もありえない話ではない。
 
「っていうか、そこまで面倒な話じゃねえでしょ。族長代が大枚積んで童を引き取ったってえのが、外に伝わってんなら。それを聞きつけた山賊とかが村のもんをぶっ殺して、銭を奪ったんじゃねえですか? 寝込みを襲えば訳はないですぜ」
「山賊なら銭はともかく、いちいち襲った家を片付けませんわな」

 口を開いたのは、出発前に女武官から殴られた古参兵である。阿瑪拉(アマラ)はその意見を軽く流したが、彼は言葉を続けた。

「だからですぜ。きっちり片付けとけば、役人が調べても、村が襲われたんじゃなくて逃散と思うでしょ。屍はまあ、山の奥にでも埋めときゃいいんですぜ」
「高野聖はどう見ますかな?」
「そんなもん、偶然の別口ですぜ。人狼の童がいなくなったのを聞いて、坊主共はとっとと引き揚げたんじゃないですかい?」
「まあ、別口だとしても油断は禁物ですけど、確かに一理ありますわな。今日はお主、冴えておりますなあ」
「うへへ、”俺ならこうする”ってのを考えてみたんでさあ」

 阿瑪拉(アマラ)に褒められ、古参兵は得意げに胸を張る。
 普段は軽く見られているだけに、評価されたのがよほど嬉しいのだ。

「御見事、御見事」
「!?」

 突然、この場の者ではない称賛の声が拍手と共に響いた。人狼兵達は一斉に聞こえた方向に首を向ける。
 そこには、編笠を被り墨染の衣を纏った僧形の男が立っていた。
 歳は三十半ば程であろうか。日に焼けて逞しい顔つきで、やや短身だが肩幅が広く腕や脚の筋は太い。白い歯がまばゆい光を放っているのが目立つ。
 女武官の目配せで、人狼兵達は即座に僧を取り囲んだ。だが、僧の側は全く動じる様子がない。

「お主、高野山の者ですな?」
「如何にも」

 阿瑪拉(アマラ)の問いに、僧は自分の素性を認める。

(認識を誤魔化す結界を張っていましたな。儂等が見破れなんだとは、こ奴、相当の手練ですな……)

 自分達に接近を気付かせず、さらには十一名もの人狼を前に恐れることなく姿を現した剛胆な相手に、阿瑪拉(アマラ)は和国に来て以来、初めての焦りを感じた。




[37967] 7話「樵に育てられた人狼」その13
Name: トファナ水◆34222f8f ID:1ae795b4
Date: 2017/03/04 15:11
「そう身構えずとも良かろうて」

 僧は警戒を解く様に促してきたが、余裕に溢れる態度に、阿瑪拉(アマラ)達はかえって疑心を強めた。

(高野聖は五人いる筈。ならばこれは囮で、他の四人が潜んでいて襲って来る、という事もあり得ますな)

 阿瑪拉(アマラ)だけでなく、その場の誰もが伏兵を疑い、眼前の僧だけでなく周囲へも注意を払っている。
 今回の探索に加わった人狼は皆、個々に簡易な防御結界を張っており、法術による攻撃を受けても数撃は絶えられる筈だ。通常の飛び道具であれば問題にもならない。
 だが、自分達に接近を気付かせなかった相手の力量を考えれば、決して油断は出来なかった。
 女武官の首には巾着袋に入れた八咫鏡が下げられているが、取り出して僧の目に晒す事は憚られる。伊勢神宮が秘蔵していた和国皇家の神器にして、今や補陀洛(ポータラカ)の手中にある八咫鏡。その複製を見られれば、自分達の素性が露呈しかねない。
 これを使って状況を他の隊や桑名へ伝える事が出来ないのが、阿瑪拉(アマラ)にはもどかしかった。

(写しを造る時にはせめて、形を元の鏡と変えておくべきでしたな……)

「人に仇為す化生(けしょう)として、儂等の様なもんを討たんとする仏法僧は多いですからな。不利を承知で、何故に姿を現しましたかな?」
「そちらが村を検分する様子を、先程からうかがわせてもらった。会話の内容から、人間への害意がないとみなした故。拙僧は争う気は毛頭無い。ただ、幾つか尋ねたい事があるのでな」
「訊きたい事があるんは儂等も同様ですわ。智恵ある者同士、穏やかに行きたいですわな」

 阿瑪拉(アマラ)の申し入れに、僧も頷いて承諾した。

「良かろう。では、まずこちらから一つ。先日、拙僧等はこの村より寺へ出される筈だった狼の仔を引き取りに、石津まで出向いたのだが。そちらが養親に金子を積んで破談を促し、引き取ったのだな」

 僧がまず尋ねたのは、自分達が手に入れ損ねた、いい替えれば阿瑪拉(アマラ)に横取りされた形となった童の扱いについてである。

「左様ですわ。貴重な同胞(はらから)の仔ですからな」
「連れてはおらぬ様だが、童はどうしたか? 」
「既に、儂等の里に送り届けましたわ。人狼の本性に目覚めれば、人の世で暮らし続ける事は出来ませんでな。育て親を襲ってしまう前に、儂等が所在を知ったのは幸いでしたわ」
「里とやらは何処に?」
「それは言えませんわ」
「まあ、そうであろうな」

 遭遇した相手に身元を問われた場合。自分達が伊勢の者である事は伏せ、隠れ里に住まう和国在来の人狼と偽る旨は、今回の探索にあたって事前に決められていた事である。
 住処の場所を答えなかった阿瑪拉(アマラ)に、僧は深く追求しなかった。討伐を恐れる妖(あやかし)が所在を素直に教える等とは思っていなかったのだろう。

「次は、儂からですわ。童を高野山はどうするつもりでしたかな? よもや、禍の芽として始末するつもりだったのではありませんわな?」

 阿瑪拉(アマラ)の問いに、僧は首を横に振った。

「始末とは心外な。仏道に帰依させた上で、護法の担い手として育て上げるつもりであった。人間に害為す妖(あやかし)を討つには、同じ妖(あやかし)を充てるのが良いからな」

 高野山は人狼の童を始末するつもりではなく手駒として欲していたというのは、阿瑪拉(アマラ)の予測通りである。
 人間が神属と共に暮らすには厄介な問題があるのだが、それをどうするつもりだったのか

「儂等は人間を贄として喰らわねば生きられん身ですわ。それを如何に養うつもりだったのですかな?」
「寺は死者を弔う事も勤めだからな。引導を渡した後の屍は食しても差し障りなかろうて。荼毘に付すのも、喰ろうて血肉にするのも供養の内という物であろう」

 伊勢の住民ならともかく、通常の人間が聞けば驚く様な僧の答えだ。
 勿論、人狼達は全く動じていない。むしろ、生者を贄とするよりも遙かに良識的であると彼等は考えた。だが、神属の贄は、人間であれば何でも良い訳では無い。

「弔った後の屍と言っても、寿命を全うした年寄りや、大病を患って死んだもんの屍では、霊力が殆ど残っておりませんでな。活きのいい屍でないとならんのですわ」
「問題ない。檀家からは、その様な死者も少なからず出る」

 阿瑪拉(アマラ)の問いに、僧はよどみなく淡々と返した。
 無辜・善良な信者を贄として命を奪うのではなく、助けられなかった者をせめて有意義に扱う。冷徹で理にかなった高野山の目論見に、阿瑪拉(アマラ)は一門を率いる計都(ケートゥ)の説く思想に通じる物を感じて頷いた。
 
「結構ですわな。寺院なればこそ、弔う屍を贄とする事が出来る。故に妖(あやかし)を僧兵として囲えるという訳ですな」
「左様。そちら方が総勢でどれだけおるかは解らぬが、数百程であれば飢えぬ様に贄を供する事も出来よう。どうだ、そちらの里に住まう狼、全てを丸ごとに高野山が召し抱えても良いぞ?」
「折角の申し入れですがな。今は乱世ですからな、善男善女を襲わずとも贄には窮しませんで、遠慮させて頂きますわ」
「ほう、食らう者は選んでおると?」
「それが儂等の矜持ですわ。害獣として狩られてはたまりませんでな」
「ならばどの様な者を贄とする?」

 誘いを謝絶した阿瑪拉(アマラ)に、僧は念を押す。敵意は無いと言えども、人間を襲う妖を見過ごす訳には行かない。善人は襲わないというならば、一体どの様な者を食うというのか。

「世が乱れている今の時分は、野盗・山賊といった、始末しても民草から文句の出ない無頼の輩が幾らでもおりますでな」

 阿瑪拉(アマラ)は、悪人退治で贄を得ていると称した。伊勢では罪人が神属の食卓に供されるので、全くの出任せという訳でも無い。但し、悪事の内容は野盗・山賊ではなく、悪政を敷き民を搾取した咎ではあるが。

「ふむ、善人を襲わずに悪人のみを食うとは殊勝な心がけ。なれば、いざ食えぬ様になった時には高野山を頼ると良い。決して悪い様にはせぬ」
「まあ、天下太平となって無頼に墜ちるもんが乏しくなれば、寺の世話になる事も考えますわ」
「良かろう」

 阿瑪拉(アマラ)の答えに、僧は満足そうな笑みを見せた。戦国の乱世は何時までも続く物ではない。情勢が落ち着いた時分に、旨くすればこの人狼の群れを丸ごと、高野山の力とする事が出来るかも知れないのだ。
 そうなれば目先の仔狼を一頭手に入れ損ねた事より、はるかに利が大きいという物である。
 互いに敵対の意思がない旨を認めた後、話は消えた村人の件へと移った。

「ところで儂等は、同胞(はらから)の童を育て上げたこの村の者が行方をくらませたと聞き、その身を案じて来た訳ですわ」
「拙僧も同じく。一旦は高野山へと帰山の途に就いたが、狼の仔が住んでいた村が逃散したとの話を聞きつけ、もしや童を連れて行った狼の仕業ではないかと思って様子を見に来たのだ」

 自分達が疑われていたであろう事も予測の内だったが、阿瑪拉(アマラ)は如何にも不満そうに語気を強めて反論する。

「そのつもりなら、支度銭を渡して童を引き取る様な面倒をせんと、最初から力づくで襲いますわ。同族の童を養ってくれた恩義がある相手だからこそ、心配して探しに来たんですわ」
「そうであろうな。屍を見て、狼の仕業でない事は確信している。疑った事は申し訳ない」

 憮然とした顔で嫌疑を否定した阿瑪拉(アマラ)に、僧は深々と頭を下げて詫びる。だが人狼兵達は、”屍”の一言を聞き咎めてざわつき始めた。

「お主等、静まりなされ」

 阿瑪拉(アマラ)の一喝で、人狼兵達は一斉に沈黙する。沈黙の中、僧は再び口を開いた。

「屍を見た、という事は、村人は既に?」
「うむ。先刻、連れの僧が山中で打ち棄てられていた多くの屍を見つけてな。この村の民と見て間違いあるまい」

 村人の安否を元より絶望視していた阿瑪拉(アマラ)は、予測の的中を静かに受け止めた。以後の展開は下手人の特定・報復という動きになるだろうが、その為にもまずは状況を確認する必要がある。

「御同輩はどちらにおられますかな?」
「現場にて弔いの経をあげておる」
「御案内を願えませんかな」
「良かろう」

 案内の求めに応じ、僧は阿瑪拉(アマラ)達を山中へといざなった。



[37967] 7話「樵に育てられた人狼」その14
Name: トファナ水◆34222f8f ID:5adf83d0
Date: 2017/03/19 13:09
 阿瑪拉(アマラ)と人狼兵達は、僧の案内で村外れから続く山道を歩む。
 山道とは言っても、馬匹によって切り出した樹木を運び出す為、道幅はそれなりに広く歩き易い物になっている。
 半刻程歩くと、道沿いの片側が岸壁となっている見晴らしの良い場所に出た。
 そこでは四名の僧が揃って岸壁の下を向き、合掌して経を唱えていた。
 いずれも年頃は丁度、奥妲(アウダ)と同じ位の若年と見受けられる。背丈も年相応に低く、まだ声変わりもしていない。
 小僧達は阿瑪拉(アマラ)達の方には目もくれず、ただ一心に読経している。経文は終盤に差し掛かっていた様なので、阿瑪拉(アマラ)達はその様子を黙って見守った。
 読経を終えた四名は、同輩と狼の方へと向き直ると合掌する。阿瑪拉(アマラ)達を引率した僧も、やはり合掌で応えた。

「上人様。その狼の群れは、件の仔を連れ去ったという?」

 四名の筆頭格らしき小僧が、人狼達を指差して尋ねた。四名とも人狼の姿に怯える様子は全く無く、平然と受け止めている。
 彼が”上人”と呼んだ事で、阿瑪拉(アマラ)達も、自分達が相対していた相手が下級の修行僧等ではなく、高位の人物であると気付いた。

(高野山が、人狼の童一人をそれだけ欲しがっておったという現れですわな)

「うむ。人ならずとも智恵ある者である事は変わらぬ。善男善女は襲わぬとの戒めも守っておる。故に非礼はまかりならぬぞ」
「ああ、これは御無礼を」

 上人に叱責され、指さした小僧は慌てて詫びて来た。

「こちらはこちらで、行方知れずの樵(きこり)共を捜しておったそうでな」
「同胞(はらから)の仔を育ててもろうた恩義がありますでな。災難におうたなら救わねばと参じた物の…… 残念な事になってしもうた様ですな」

 上人の説明に阿瑪拉(アマラ)が補足し、四名の小僧達も納得した様に頷いていた。
 人狼共が村人を襲ったのではないかと疑っていたが、むしろ心配して探しに来たという。その様な善性を持つのであれば、確かに人間と同様に接するべきだろう。

「仔の事は如何なさいますか、上人様?」
「この者等とは話がついておる。童の件について、此度は退こう。無辜の民を襲わぬのであれば、仲間の元で暮らした方が良い」
「……やむを得ません」

 小僧の筆頭格は、若干ながら気落ちした風に上人へ同意した。

「亡うなった村の衆を見つけてくれた事と、経をあげてくれた事は有難いですわ」
「え、ええ。これも僧の勤め」

 阿瑪拉(アマラ)からの謝意に、小僧達は戸惑いつつも応じた。彼等にとって妖(あやかし)は討ち懲らす相手であり、穏当に話し合った経験等なかったのだ。

「村の衆は、この下という訳ですな」
「うむ。高さが十丈 ※約三十m 程の岸壁で、下は岩場となっておる。落ちればまず命がないので気を付けられよ」

 阿瑪拉(アマラ)は、道の縁から下を覗き込んだ。数名の人狼兵もそれに倣う。
 上人の言う通りに真下にあった岩場には、老若男女を問わない多くの人間が転がり、周囲は茶色に乾いた血に染まっていた。その数は、ざっと数えても百体を超える。
 人狼の視力であればこの高さからでも顔の見分けは容易だが、先日に阿瑪拉(アマラ)が初めて村を尋ねた際に見た顔は殆どある。屍の中には、童の養父母、そしてまだ乳児である義弟も含まれていた。
 自らの眼で最悪の結末を確認した阿瑪拉(アマラ)達は、一様に険しい顔つきで上人へと向き直る。

「確かに、これでは生きてはおりませんわな」
「うむ。埋葬するのが本来なれど、この様な断崖の下では難しいのでな。野ざらしは惨いが、どうか御容赦願いたい」
「鳥獣が糧としてついばむなら、かえって功徳かも知れませんわ」
「かたじけない」

 屍を葬れなかった事を詫びる上人への阿瑪拉(アマラ)の対応に、小僧達は感心した。

(屍を獣に与えるは釈尊の”捨身養虎”に値する追善供養となろう。凡百の人間より、余程この狼の方が仏道に添うておる)
(全く、畜生にしておくのが惜しい傑物よ)

「死した者は還らぬ以上、それがせめてもの事でしょう。しかし、我等が幼き同胞(はらから)に、この結末を何と話した物か……」

 女武官が思わず漏らした一言に、人狼兵達の気は重くなった。義理があるとは言え、眼下に散らばる屍の山は所詮、人狼にとっては他人である。だが、同胞(はらから)の童が嘆き悲しむ姿を見たい者は誰もいなかった。

「……偽る訳には行きませんでな。族長代として儂が話しますわ」

 重い役目を自ら引き受けるという阿瑪拉(アマラ)の言葉に、人狼兵達は安堵の溜息を漏らした。そんな中、軽輩の古参兵が、仲間の態度が情けないとばかりに気勢を挙げる。

「腑抜けてねえで、仇を討ってやりゃあいいんだよ! 族長代、楽に殺さなねえでせいぜい弄んでやりましょうや!」

 威勢のいい古参兵に、他の人狼兵は彼を一斉に無言でにらみ付けた。

「お、俺、何か変な事言ったか?」
「下手人に報いを与えるのは当然ですわ。ですけどな、”誰が””何の為に”この様な事をしたのか突き止めんと、仇討ちもままならんっちゅう事は解りますわな?」
「へ、へい……」

 阿瑪拉(アマラ)の指摘に、古参兵は身を小さくする。

(血に飢えた愚か者めが)
(その程度も解らんとは、全く無駄に歳を食っておるな)

 他の兵は意気消沈した古参兵を、あからさまな態度には出さない物の内心で侮蔑した。闇雲に蛮勇を叫ぶばかりの無思慮な者は、皇国では軽んじられるのである。

「それにしても、何とも面妖ですわな。殺された後で棄てるには、運び込むのも難儀ですしな」
「自ら身を投げたと解するのが自然であろうな。この辺りには、姥捨ての慣わしがあるそうでな。老いて捨てられた者は、ここから身を投じていたのであろうよ。それ、真新しい屍ばかりでなく、朽ちて久しい骨もいくらか転がっておる」

 上人の指摘通り、岩場には屍に混ざり、白骨も点々と散らばっていた。ここは、樹木を切り細々と暮らす樵(きこり)が最期を迎える、まさに冥府への入り口だったのである。

「年寄りはともかく、何で若いもんまで皆で心中せにゃならんのやら。食うに困っていた訳でもないっちゅうに」

 投身する理由がないのに、何故彼等は死したのか。不可解な状況に、阿瑪拉(アマラ)と上人は共に首をひねった。

「何者かに強いられたか、あるいは唆されたか……」
「儂等は違いますで。法術で惑わせば、村の衆を揃って身投げさせる事位は出来ますけどな。儂等なら貴重な贄を、手をつけずに放っておく事はありませんわ。大体、いちいちこんな事をせんでも直に襲えば、この程度の数なら鏖殺に四半刻もいりませんでな」
「然り。拙僧等もこの有様を見て、妖(あやかし)の仕業ではないと確信した訳だ」

 神属にとって人間は貴重な糧食だ。殺しておいて屍を放置するとは考えにくい。

「ともあれ、妖(あやかし)の仕業でなくば、拙僧等の出る幕ではなかろうな。仇(あだ)を捜して討つも道、代官所に報せて任せるも道。あえて赦すもまた道の内。無辜の民を傷つけぬ限りに於いて、拙僧等は関わらぬ。そちらの気が済む様に始末をつければ良かろう」

 上人は事態への不干渉を告げ、小僧達と共に麓(ふもと)へと引き上げていった。
 彼等の姿が見えなくなったのを見計らい、阿瑪拉(アマラ)は八咫鏡で他の隊や仮宮へと状況を報告する。
 そして自らは人狼兵達を率い、検分の為に断崖の下へと飛び降りて行った。



[37967] 7話「樵に育てられた人狼」その15
Name: トファナ水◆34222f8f ID:84828ee4
Date: 2017/03/25 22:41
 人狼達は十丈 ※約三十m もの下の岩場へ難なく着地した。法術の力である。
 ちなみに法術を使えば、如何なる種族でも一刻 ※二時間 程度なら飛行が可能だ。だが霊力の消耗が激しい為、人狼を含め、法術無しに飛行出来ない種族は滅多に飛ぶ事がない。
 大空を征するのは、那伽(ナーガ)や阿修羅(アスラ)、乾闥婆(ガンダルヴァ)といった、飛空の力を生まれながらに持つ種族なのである。
 百体余りの老若男女の屍は岩場に叩き付けられた事で、いずれも頭が割れたり腹が裂ける等の損傷を負っていた。脳漿や臓物、糞尿といった中身がはみ出し、流れ出た血で周囲は染まり、悪臭も漂っている。
 凄惨な様を間近に見ても、兵である人狼達は動じていない。周囲を警戒しつつ阿瑪拉(アマラ)を中心に置いて円形に集結した。

「誰がやったか知らねえけど、勿体ねえ……」
「腹が減ったなら、顔の判別が出来る程度に脳髄を食ろうてもええですわ。さっきも言うたけど、血肉にしてやるんも弔いの内ですからな」
「残念ながら、くたばってから日が経って霊力も抜けてますぜ」

 軽んじられている古参兵がつぶやいた一言に他の兵は顔をしかめたが、阿瑪拉(アマラ)はあえて屍を食う許しを与えた。だが、古参兵は首を横に振る。
 神属が人間の脳髄を食するのは、含まれている霊力を摂取する為だが、保存処置をしないままの屍は霊力を急速に失ってしまう。食べ頃は死後二日程までだ。
 眼前の屍は、それより半日程は過ぎている。まだ霊力はある程度残っているだろうが、風味は失せているだろう。飢えに瀕していなければ、不味い肉に手を出す事はない。
 
「こんなもんを拾い食いする程には落ちぶれちゃいませんぜ。とても食えませんや」

 古参兵が吐き捨てる様に言うと、その前に女武官がツカツカと歩み出る。そしてそのまま右前足を振り上げ、力任せに横面を殴打した

「痛ゥ……」
「貴様、幼き同胞(はらから)の縁者達に向かって”こんなもん”とは何事か! だから貴様は足りんのだ! 敵はともかくも、身内の縁者に無礼を働くなら容赦はせんぞ!」
「死んじまったら抜け殻でしょうがよ……」

 叱責する女武官に、古参兵は納得いかない顔で口答えした。だが、その態度が更なる怒りを呼ぶ。

「まだ言うか、貴様ァ!」

 激昂した女武官が、古参兵の喉笛を咬み千切ろうとした刹那、阿瑪拉(アマラ)がそれを制止した。

「止めなされ! 今は御役目の最中ですわ」
「……失礼しました」

 女武官は、古参兵から数歩離れて姿勢を正す。

「た、助かりましたぜ、族長代……」

 安堵した表情でへたり込む古参兵に、阿瑪拉(アマラ)は静かに諭す。

「お主。己の言が正しいと思うておるなら、童の前で同じ事を言うてみなされ」
「そ、それは……」

 阿瑪拉(アマラ)の一言に、ようやく古参兵は己の言葉が誰を悲しませる事になるのか気が付いた。この軽輩も、件の童が種族の大切な宝という事は良く解っている。

「そういう事ですわ。口を開く前に、よう考えなされよ」
「へい……」

 神妙にかしこまる古参兵に対し、周囲の人狼達は怒りと憐憫の入り交じった視線を注いでいた。
 腹立たしい暴言だが、これは生来より頭が軽い不憫な者。怒りを向けても詮無き事だ。むしろ、悪しき振る舞いを正す様に周囲が善導してやらねばならない。

「しかし、遺骸の様子は明らかに妙です」
「……確かに妙ですな」

 気を取り直した女武官の指摘に、阿瑪拉(アマラ)も同意した。屍が浮かべている最期の表情は、恐怖や絶望といった物ではなく、呆けて緩みきった顔をしていた。自害に追い込まれた者の顔とはとても思えない。

「法術で惑わされた様ですね…… 当初に想定していた通り、近隣の地に潜んでいるかも知れぬ、和国の同胞(はらから)の手による物でしょうか」

 法術による幻惑となると、行える者は限られて来る。だが、女武官の問いかけを阿瑪拉(アマラ)は否定した。

「和国の同胞(はらから)なら、村の衆を手にかける動機は、童の件での報復しかありませんわな。なら、さっきも言うた通り、こんな事をせんと直に襲いますわ。折角の贄を食わんのも妙ですしな」
「贄にしなかった事を考えると、別口の神属という事もありませんね」

 女武官と阿瑪拉(アマラ)は、先程、僧との間で話していた”神属の仕業ではない”という推論を改めて確認する。

「そうなると、下手人は和国の阿羅漢(アルハット)ですね。一体どこの手の者か……」
「いや、それは早計ですわ。心を惑わして操るには法術の他に今一つ、簡便な手法がありますでな」

 阿瑪拉(アマラ)の指摘に、女武官もはたと気付く。麻薬だ。

「薬……ですか。では、下手人は術者とは限らないと?」
「そういう事ですわ。きっちり検分してみんと解りませんけどな。もし薬なら、一服盛るんは術が使えんでも出来ますで、下手人を突き止めるのはちと面倒になりますわな」

 二人が話している間に他の人狼兵達は、状況を八咫鏡で撮影した上で、屍を集めて並べている。また、組頭宅に残されていた人別改との照合も併行して行われていた。
 およそ一刻後、日の傾きかけた頃に作業は終了した。

「族長代。個々の屍と人別改の記載を照らし合わせた結果、一人が足らぬ他は全て合いました。村の民であった、我等が幼き同胞(はらから)による検分があれば、より確実になると思われますが、如何しますか?」

 兵の報告を受け、阿瑪拉(アマラ)は思わずうなった。村人の全滅という報はともかく、惨い有様の遺骸に対面させて良い物か。
 嘆き悲しむ童の顔を思い浮かべ、阿瑪拉(アマラ)は陰鬱な思いに囚われる。計都(ケートゥ)の様な達観に至るには、まだまだ自分は程遠いと思わず内心で自嘲した。
 だが、確実な確認という実務上の必要と、何があろうとも現実を直視させるべきという人狼の長としての方針が、迷いを断ち切った。それにあの童は、那伽摩訶羅闍(ナーガマハラジャ)夫妻の側近となるのだ。これ位の事で心が折れる様では困る。

「……明朝、警護をつけてここに呼びますわ。それと、足りん一人ちゅうのはどんな者ですかな?」
「人別改の記述では、齢十六歳の女子とあります。これに当たる者だけが見当たりません」
「!? よもや?」

 阿瑪拉(アマラ)は自ら、遺骸を一体ずつ見て回る。やはり、思い当たる者が見当たらない。童の幼なじみという、あの娘だ。

「村から出ていて難を逃れたというなら、運が良かったですね」

 女武官の言葉に阿瑪拉(アマラ)も頷く。

「薬が効かなんで、別に殺されたっちゅう線もありまけどな。しかしまあ、生き死ににかかわらず捜さにゃなりませんでな」
「逃げ延びて山中で迷っているかも知れません」
「下手人に連れ去られておるというのもありそうですわな。売り飛ばされたんなら、むしろ所在が掴みやすいですわな。そん時は買い主を銭でひっぱたいて買い戻せば済みますでな」
「いずれにせよ、すぐに手を回しましょう」
「そうですな。まずは野営の支度をしますわ。忙しゅうなりますで」

 阿瑪拉(アマラ)は象牙で出来た首輪を前足で外し、屍を動かした後の岩場へと置く。
 すると数秒の後、封じられていた大きな天幕が出現した。

「行方知れずの娘の顔を知っておるのは、童の他は儂しかおりませんでな。人相書きを造って、他の隊や桑名にも八咫鏡で廻しますわ。その後は屍の検分、んで童が明日ここへ来る前に、見せてもええ位に屍の傷みを修繕せにゃなりませんわ」

 阿瑪拉(アマラ)はそういって天幕に入ると、筆を取りやすい様に人型へ化身する。
 天幕の中は法術の光が灯されており、机、そして紙や筆といった文具も備え付けられているが、衣の類は置いていない。
 阿瑪拉(アマラ)は全裸のまま筆を取り、先日に村で言葉を交わした、童の幼なじみである娘の容貌を思い出して似顔を描く。

「我ながら上出来ですわ」

 精巧な似顔を描き上げた阿瑪拉(アマラ)は、八咫鏡で他の九隊、そして仮宮へと写しを送る様に女武官に命じた。

「生きておるなら、早う庇護せにゃなりませんでな。もし抗って来たり逃げたんなら、説得に手間をかけんと、傷つけん様に法術で拘束してしまう様に伝えなされ。身柄さえ無事で押さえられれば、後でどうにでもなりますわ」

 抵抗を想定した上で手荒な手段を許したのは、とにかく娘の身の安全を確保したいという理由の他に、深刻な懸念が生じた為である。

「この娘が万が一、村の衆の鏖(みなごろし)に関わっておったら……」

 阿瑪拉(アマラ)とて、同胞(はらから)と通じ合った相手を疑いたくはない。だが一人だけ姿を消している以上、この娘が下手人である可能性は排除出来なかった。
 例えば、豆銀に目が眩み、独り占めしようと村人を鏖殺して逃亡。あるいは外部の者に弱味を握られる等して、手引きを強いられた。動機は他にも幾らでも考えられる。

「田舎娘一人で、薬を使うて村を丸ごと滅ぼす様な事は難しいでしょうがな。もし娘が関わっておるなら、唆されたにせよ、脅されたにせよ、ほぼ間違いなく糸を引いたもんが村の外におりますわな……」

 勿論、今の段階では、娘に対する疑惑はあくまでも可能性の一つに過ぎない。
 ともあれ、手元の人狼兵では込み入った捜査は難しい。それに慣れた者が要ると考えた阿瑪拉(アマラ)は、今回の件で本格的に間諜を動かす様、弗栗多(ヴリトラ)に請う腹を固めた。



[37967] 7話「樵に育てられた人狼」その16
Name: トファナ水◆34222f8f ID:3e653f7a
Date: 2017/04/16 22:23
 日がすっかりと沈み、辺りは静まり還っている。
 女武官は人狼兵達に、交代で歩哨を立て、残る者は天幕の中で食事を取り仮眠する様に命じた。まだ先は長く、休める時に休んでおかねばならない。
 下手人達による夜討ちの可能性も、当然に想定していた。天幕には強力な結界が張られているし、就寝中であっても即時に跳ね起きて応戦する鍛錬も全員が受けている。
 天幕に入った兵が糧食の干肉で腹を満たして寝息を立てる中、阿瑪拉(アマラ)は一人、遺骸の検分を黙々と行っていた。手が使える様、先刻に変化した人型の裸体のままである。
 兵達は法術による傷病の治療はある程度なら心得ているが、こういった検分で助手が務める程の知識は持っていなかった。
 学徒達は桑名へ残して来たので、死因を特定出来る程に医術を学んでいる者は、ここには阿瑪拉(アマラ)しかいないのである。
 数体の遺骸を検分した結果は、”麻薬が使われたのであろう”という阿瑪拉(アマラ)の推論を裏付ける物だった。いずれの遺骸からも、薬物の痕跡が認められたのだ。

「やはり、術ではなく薬で呆けさせて、甘言でも吹き込んで操ったのでしょうな」

 使われたのは印度を原産とし、明国を中心とした東洋に広く蔓延する”阿片”という麻薬である。
 酒を遙かに超える酩酊をもたらす効果があるが習慣性が強く、常用者の精神を徐々に冒して崩壊へと導く毒物だ。一方、効力の強い鎮痛薬という側面もあり、一門もその目的で使用している。要は使い方次第で、毒にも薬にもなる代物だ。

「さて、このままでは屍を童に見せられませんでな」

 阿瑪拉(アマラ)は、備え付けの備品として天幕に置かれている龍牙兵を五体起こすと、樵(きこり)達の屍を清拭きして筵(むしろ)を被せておく様に命じる。
 検分に一区切りついた処で、阿瑪拉(アマラ)は少しでも休んでおこうと獣形に戻り、躰を床に横たえた。


*  *  *


 翌日の早朝。空は曇天で、雨は降り出さない物の雷鳴が鳴り響き、稲妻が数回に渡って山中に落ち始めた。

「やかましいですわな……」

 轟音で目覚めた阿瑪拉(アマラ)が、眠い目をこすりながら起き上がるとほぼ同時に、天幕が光る。そして、それまでの雷鳴とは比べ物にならない強烈な音が襲って来た。
 さらに、天幕に施されていた結界も破壊された様だ。次撃が来れば吹き飛んでしまうだろう。
 自然の落雷ではなく強力な法術による攻撃だと、その場の誰もが瞬時に悟る。

「敵襲! 族長代を御護りせよ! 歩哨は無事か?」

 女武官の叫びと共に、仮眠していた人狼兵は跳ね起きて身構えた。龍牙兵達も曲刀を構えてそれに従う。
 また、天幕の外にいた歩哨からは返答がない。

「殺られましたな……」

 阿瑪拉(アマラ)の呟きに、女武官も黙って頷く。

「この程度で結界を破られて倒れるとは、何とも不甲斐ないな」

 天幕内で人狼兵達が臨戦の構えをとる中、外からは呆れた様な女の声がした。

「愚弄するかっ!」

 女武官は思わず激昂し、人狼兵達も威嚇の唸り声をあげるが、阿瑪拉(アマラ)には馴染み深い同僚の声だった。

「皆、落ち着きなされ。和修吉(ヴァースキ)師ですわ」

 阿瑪拉(アマラ)の口から出た名を聞き、人狼兵が警戒を緩めるのとほぼ同時に、三つ眼に漆黒の肌を持つ那伽(ナーガ)が入って来た。

「阿瑪拉(アマラ)師、そして人狼兵の諸君。御役目、真に御苦労である」

 皇族たる那伽(ナーガ)に対する礼として人狼兵が不動の姿勢で出迎える中、阿瑪拉(アマラ)は顔を引きつらせて抗議する。

「お主、何のつもりで電撃を食らわせたんですかな? 軍用の結界がなかったら儂等全員、消し炭になってましたで!」
「丁度曇っておったのでな。美州の者共に見られず、飛翔して来る事が出来たが…… 降りる時に目測を少々誤ってしまった様だ」
 
 和修吉(ヴァースキ)は同僚の怒りを意に介さず、淡々と事情を説明した。
 いわゆる”龍”の姿をとり、雲に紛れて飛行して来たのだが、化身を解いて着地する為に雷光を落とした場所が運悪く天幕だったというのである。

「表の者はどうなっておりますかな?」
「雷撃を至近に受けた事で、兵が個々に身体へ張っていた結界が消し飛んだ。身体には別状ないが、気を失って表で転がっておる。霊力の消耗を惜しんで結界を強くしなかったのであろうが、あれでは護りにならぬぞ。我が敵なら命がなかった処だ」
「私の指導の不足であります、和修吉(ヴァースキ)師!」

 和修吉(ヴァースキ)の指摘に、女武官は自らの責任であると進み出る。

「なれば、栄えある皇国の武官として猛省したまえよ。この件は以上である」
「はい……」

 女武官はすっかり恐縮してしまっていた。
 天幕に雷撃を落としたのは自分の失態である筈が、逆に歩哨の警戒が甘いと叱責する和修吉(ヴァースキ)の厚顔ぶりに、阿瑪拉(アマラ)は舌を巻いた。

(食えんなあ、相変わらず)

「ところで、和修吉(ヴァースキ)師はお一方ですかな? 幼き同胞(はらから)を呼んであったのですが、別途来るんですかな?」
「否。当然、連れてきておる。入って来たまえ」

 和修吉(ヴァースキ)の呼び声に、二体の龍牙兵が戸板に乗せた若き狼を運び入れて来た。
 やつれ果てた顔でぐったりと横たわっている童の様子に、故郷の壊滅を嘆き悲しんだせいであろうと思った人狼兵達も表情を暗くする。
 屍の群れには眉一つ動かさなかった彼等だが、身内の少年が悲嘆する様はとても辛いのである。

「これはまた、惨い様相ですわな。村のもんがあかんかった事で、一晩中泣き明かしたんですかなあ……」
「いや、まだ伝えてはおらぬが?」

 阿瑪拉(アマラ)の問いに、和修吉(ヴァースキ)は首を傾げる。

「ほんじゃ、何でまたこんな有様に?」
「これが、主上と御夫君様の御側使え見習いに登用されたと聞いてな。夜伽も勤めの内なれば、那伽(ナーガ)の抱き方を仕込んでやろうと思ってな」
「つ、つまり…… 先生が搾り取ったから精魂尽き果てたって事ですかい?」

 古参兵が恐る恐る尋ねると、和修吉(ヴァースキ)はそれを認めた。

「うむ。まだ若いというのに、たかが十回で伸びてしまった。さらに鍛えてやらねば、主上には御満足頂けぬな」
「じ、じゅっかいですかい……」

 古参兵だけでなく牡の人狼兵は皆、和修吉(ヴァースキ)に畏れを感じ、思わず目を反らしてしまった。
 那伽(ナーガ)は色欲が凄まじく強いが為に、満足するまで相手を決して離さない。他種族が迂闊に交われば、絶命に至る事も珍しくないのだ。
 人狼兵達はひそひそと、那伽(ナーガ)の恐ろしさをささやきあう。

(惨え…… 全く容赦ねえ……)
(悦びどころかとんでもねえ責め苦だぜ……)

「儂等の大事な胤を、簡単に潰さんで欲しいですわな」
「その辺りは見極めておる。さて、目覚ましだ」

 苦言を呈する阿瑪拉(アマラ)に構わず、和修吉(ヴァースキ)は戸板に乗せられているままの童に近づくと、首筋に牙を突き立てて薬液を注入した。

「おっおっおっおぅ!」

 数秒もしない内に目をカッと見開いて雄叫びを挙げて跳ね起きた童は、和修吉(ヴァースキ)の顔を見るなり固まってしまった。

「ひ、ひいぃ! も、もう幾ら絞っても白いもんは出ません! 出るのは、ち、血潮だけです! 堪忍をぉ!」
「今回はこの位にしておいてやろう。男子として相手を満足させられる様、より精進したまえよ」

 あまりの怯えぶりに苦笑して許しを与える和修吉(ヴァースキ)に、童は首を激しく縦に何度も振って応えた。
 人狼兵達は、その様子を呆然と眺める他なかった。

「こりゃ、まずは落ち着きなされ。全くえらい目に遭いましたなあ」

 阿瑪拉(アマラ)が童の頭を軽く小突いて声を掛ける。
 我に還った童は辺りを見回して、ここが和修吉(ヴァースキ)と交わっていた寝室と異なる場所だという事にようやく気が付いた。

「その…… ここは? 阿瑪拉(アマラ)師…… それに見慣れない人狼の皆さんが大勢……」
「ここは美州。お主の村に程近い山中ですわ。お主に検分して欲しいもんがあって、寝ておる間に和修吉(ヴァースキ)師に運んで来てもろうた訳ですわ」

 童に状況を説明した阿瑪拉(アマラ)は、天幕の中に累々と横たわる、筵(むしろ)を被せられた骸の群れに目をやった。

「村に残っておった人別改とは照らし合わせましたけどな。直に顔を知っておるお主にも、
確かに村の衆か否か検分して欲しいんですわ」
「……そういう、事ですか……」

 村人達が手遅れかも知れないと覚悟していた童は頷くと、そのまま阿瑪拉(アマラ)に付き添われながら、かけられている筵を一体ずつめくり遺骸が誰かを確かめていった。
 義父母や義弟の骸を見ても童は取り乱すことなく、黙々と検分を続けて行く。
 
「間違いなく、みんな村のもんです」

 全ての遺骸を見終わった童は、阿瑪拉(アマラ)に結果を告げる。

「左様か。それにしても立派でしたで。組頭の子として、人の上に立つ様に育っただけはありますわ」
「そ、そんなんじゃ、ないです……」

 阿瑪拉(アマラ)のねぎらいに、童は頭を横に振ると、がっくりとうな垂れてしまう。悲しみの現れというよりは、落ち込んでいる様子だ。

「大丈夫ですかな?」
「俺、どうして泣けないんだろう…… この姿になって、人の心まで無くしてしまったんだろうか……」
「そんな事はありませんで。人も神属も、心は大して変わりませんわ。急な不幸で悲しみが出んのは、神属でも良くある事ですでな」
「そうなんでしょうか……」

 親兄弟や隣近所の者達の死を悲しめないのは何故、としょげ返る童は、阿瑪拉(アマラ)の慰めにも納得出来ないでいる、
 次いで言葉を掛けたのは、古参兵だった。

「お前さん、もしかして村でいびられてたとかじゃねえの?」
「え? そ、それは、その……」

 図星を突かれて言葉が続けられない童に、古参兵は追い打ちをかける。

「お前さんの身の上、俺等も多少は聞かされてっけどな。大方、女みてえに生っちろくて頼りねえとか、そんなんで組頭の跡取りが勤まるかとか言われて小突かれてたんじゃねえの?」
「そ、その…… あの……」
「貴様、幼き同胞(はらから)に何という事を!」
「隊長は黙ってて下せえ!」

 女武官は、考え無しに放言した愚かな部下を叱責したが、古参兵は面と向かって反抗した。

「貴様!」
「言わせてやりなされ」

 女武官はいきり立ったが、阿瑪拉(アマラ)がそれを制した為、古参兵をにらみ付けながらも沈黙した。
 周囲の人狼兵はと言えば、古参兵の意外な反抗と、阿瑪拉(アマラ)がそれを容認した事に驚きざわめいている。

「い、いいんです。その通りですから……」

 童の言葉を受けて、古参兵は辛辣な指摘を続けた。

「自分から出家するって言ったんだってな? 弟が生まれて、親からも邪魔にされだしたもんだから、村から逃げたかったんだよな?」
「え、ええ……」
「俺ぁ頭わりいもんだから、隊じゃいつも小馬鹿にされててよう。時々、皆をぶっ殺してやりてえって思うもんよう。でも戦場(いくさば)じゃあ、後からバッサリ殺ってもばれねえからよ。そういう機がねえもんかと、俺ぁずっと伺ってんだぜ?」

 古参兵が口を歪めて同僚達の方に目をやると、鬱屈した内心をぶつけられた彼等は皆、恐怖の目を返して来た。
 ”味方”とされた者から、ここまで明確な悪意を突きつけられた事が無かったのだ。

「なあ、お前さん。ぶちまけて楽になれよ。村の衆はみんなくたばった。でも前さんは生きてんだ。悲しいふりなんてしなくてもよ、誰も咎めねえんだぜ?」
「俺、俺…… うわああああっ!」

 これまで村の者、特に若い男衆から軽んじられて来た悔しさが一気に噴き出し、童はくずおれて大声で泣き始めてしまう。古参兵はそれを黙って見守っていた。
 これまで”下卑で軽率”と軽んじていた男の意外な一面に、人狼兵達は複雑な思いを抱かざるを得なかった。
 やがて泣き止んだ童に、阿瑪拉(アマラ)が静かに語りかける。

「落ち着きましたかな?」

 童は前足で涙を拭うと、阿瑪拉(アマラ)に顔を向ける。頭の中は、唯一の気がかりについてだった。

「亡骸の中に、姉ちゃんがいないけど…… 生きとるんですよね?」
「それが…… まだ見つかっておらんのですわ。山中で迷うておるか、石津の里へ出ておるか。兵や間諜を出して、皆で捜しておるところでしてな」
「姉ちゃん、姉ちゃんだけは!」

 村で最も慕い、躰を委ねた相手の安否を気遣う童に、それまで黙っていた和修吉(ヴァースキ)が口を開く。

「那伽摩訶羅闍(ナーガマハラジャ)の御名に於いて、汝の伴侶たるべき娘の行方について、皇国が最善を尽くす事を約そう」
「お願いします!」

 童の願いに、和修吉(ヴァースキ)は微笑んで応える。
 行方知れずの娘に下手人の嫌疑がかかっている事は、あえてこの場では誰も童に伝えようとはしなかった。



[37967] 7話「樵に育てられた人狼」その17
Name: トファナ水◆34222f8f ID:b7003820
Date: 2017/07/13 06:34
 場は収まりかけた物の、女武官は只一人、古参兵をじっと睨みつけたままだ。反抗されたのが余程、腹に据えかねたのだろう。古参兵の側はそれを、小馬鹿にした様に眺めている。

「お主等、いい加減に……」

 叱責しようとした阿瑪拉(アマラ)を、和修吉(ヴァースキ)が手で制する。

「収まりがつかぬか。情を露わにして隊の結束をおろそかにする武官、上司を嘲笑する兵。共に皇国には不要である」

 和修吉(ヴァースキ)は冷たく言い放ち、対立する二人の人狼へ瞳を向けて光らせる。二人はたちまち、物言わぬ石像と化してしまった。

「何て事を!」

 和修吉(ヴァースキ)の冷徹な裁定に皆が慄然とする中、童は思わず声をあげた。

「殺してはおらぬ。後で戻せる故、心配無用。この者共への沙汰については、此度の件の片がついてからとする」
「その…… 俺の事が元で、重い罰というのは……」
「お、おい! その方は皇家の姫君!」

 恐る恐るながらも寛恕を求める童を、人狼兵の一人が慌てて静止しようとする。だが和修吉(ヴァースキ)が冷たい視線を向けると、不動の姿勢で押し黙った。

「問答無用で首を刎ねるつもりなら、この場で手を下しておる。石化はあくまで緊急の措置だ」
「そういう事ですわ。無体な事はせえへんけど、今は州外で御役目の最中ですでな。いがみ合いを見過ごしたり、仲裁をしとる余裕はありませんでな」
「わかりました……」

 和修吉(ヴァースキ)に続き阿瑪拉(アマラ)が諭すと、童は納得して首を縦に振った。
 理で説けば受け入れる童の姿勢に、二人の学師は好感を持つ。
 一方、人狼兵達は顔をこわばらせたままだ。
 皇族の不興を被った以上、少なくとも女武官の側の処断は免れまいと彼等は考えた。軽輩として馬鹿にしていた古参兵の思わぬ反抗が、この事態を引き起こしてしまったのである。

「ところで和修吉(ヴァースキ)師。わざわざ直に来たっちゅう事は、興味をひく事があったんですかな?」

 話を探索の事に切り替えようと、阿瑪拉(アマラ)は和修吉(ヴァースキ)に尋ねる。 学師の阿瑪拉(アマラ)が陣頭指揮を執っている今回の件で、一門からさらに和修吉(ヴァースキ)が来るのは異例の事だ。

「八咫鏡で送られて来た、この場所の風景を見たのだが。阿瑪拉(アマラ)師が、この場所の異様さに言及しなかったので気になってな」
「まあ、老いて捨てられた村の年寄りが身い投げる場所ですから、異様と言や異様ですけどな」
「やはり気付いておらぬか、まずは見たまえ」

 首をひねる阿瑪拉(アマラ)に、和修吉(ヴァースキ)は手招きして天幕の外に出る様に促す。
 言われるままに和修吉(ヴァースキ)と天幕の表へ出た阿瑪拉(アマラ)と人狼兵、そして童の目に入ったのは、切り立った崖と、広がる平坦な岩場だ。
 広さにして、およそ武家屋敷の数件分はある。大型の天幕を展開している事を考えると、実質にはさらに三割増しだろう。
 歩哨に立っていた人狼兵が二人、先程の落雷を受けて失神したまま寝転んでいる。

「全く、よう寝とりますわ。連れて行きなされ」

 阿瑪拉(アマラ)の指示を受けた龍牙兵が彼等を抱え、天幕の中へと運んで行った。

「ここは自然な岩場にしては、妙に平坦と思わぬか? しかも、この周辺が一つの巨岩の様だ」

 和修吉(ヴァースキ)の指摘を受け、阿瑪拉(アマラ)達は周囲を改めて見渡す。

 言われてみれば、この様な場所は自然にはまず考えられない。昨日は大量の遺体が転がっている有様に気を取られ、周辺の観察を怠ってしまっていた様だ。

「”造られた”っちゅう事ですかな? しかし、石畳という風でもなし」
「うむ。巨大な岩石を削ったか、法術で継ぎ合わせたかであろうな」

 この岩場が加工されて出来たというのであれば、法術を使ったと考えるのが妥当だろう。

「神属の墳墓の類でしょうかな」
「そうかも知れぬが、それの生母に関わっているのではないかと思えてな」
「お、俺の?」

 和修吉(ヴァースキ)に指さされ、童は戸惑った。一体、何が関わっているというのか。

「いずれにせよ、調べる価値はあろう」

 童の生母がどこから来たのか。手がかりが乏しい以上、神属が手を加えたらしいこの岩場に何か関連するのではないかと期待がかかるのは当然の流れだった。

「差し当たり、只の広場でなければ、どこからか岩の中への入り口がありそうな物ですけどな。まずはそこから探さんと」
「その必要はない。崖の下部を見よ」

 阿瑪拉(アマラ)達が崖に目をやると、その付け根にはぽっかりと穴が開いていた。
 高さ・幅共に、人狼が二人程度なら充分に入れそうである。

「き、昨日はあんなもんありませんでしたで!? なあ、お主ら?」

 村人の屍の山の検分に気を取られていたとは言え、幾ら何でもあの様な大穴を見逃すはずはない。阿瑪拉(アマラ)は仰天して釈明し、人狼兵達もそろって相槌を打つ。

「うむ。実に巧妙な偽装が施されていたと見えるが、先の雷撃で解けたのだな。まともに調べたところで丹念に探さねば見つからなかったであろうが、怪我の功名という物だ」
「偽装が解けたのは結構ですけどな。さっきのあれは、わざとではありませんわな?」
「狙ったなら、わざわざ天幕には落とさぬよ。さて早速、中を検分しようではないか」

 疑わし気に見る阿瑪拉(アマラ)に、和修吉(ヴァースキ)は涼しい顔で答えると、洞穴の内部へと蛇体をうねらせる。

「ほいたら、お主とお主、来なされ。残りはこの辺を見張っていなされよ」

 阿瑪拉(アマラ)は童の他に人狼兵を一人警護に指名し、和修吉(ヴァースキ)へ続く。
 童は、何か不吉な予感がしながらも、自らの出自を探る為と心に言い聞かせていた。


*  *  *


 法術で明かりを灯すと、暗闇も昼の様に明るい。
 照らし出された洞穴の壁面はやはり石で出来ている。奥は階段となっていて、地下へと続いていた。

「墳墓にしては、飾り気もなく地味ですなあ」

 有力者の墳墓であれば相応の装飾が施されている物なのだが、ここは全くの殺風景だ。阿瑪拉(アマラ)は、実用一本やりで急造した、菅島の乳児舎を思い出した。

(あそこもその内、壁に絵を描くとか、花を植えるとかした方がええなあ)

 階段を下りた先は広間となっていた。やはり石肌がむき出しの石室である。
 入り口には大きな石の破片が転がっている。ここを塞いでいた岩を法術か何かで無理やり吹き飛ばしたのであろう事が、童を除く三人にはすぐに分かった。

「内側からの様ですわな」
「その様だな」

 岩に、僅かな獣毛がついていたのに阿瑪拉(アマラ)が気付く。彼女達と同じく、白い狼の物の様である。

(当たりの様ですわな)

 阿瑪拉(アマラ)はそれを、そっとつまんで興味深げに見始めた。

「どうしたかね?」
「ちと気になった物を見つけましてな。先に入っていて下され」

「ふむ。では残りの者よ。中に入ろうではないか」

 和修吉(ヴァースキ)は阿瑪拉(アマラ)をそのままにして、童や警護の人狼兵と共に石室へと足を踏み入れた。
 室内は広間といって良い程の広さで天井も高く、家一軒程は楽に入りそうだ。そして壁や天井、そして床にもくまなく、梵字が浮き彫りになっているのが異様だった。

「な、何でしょうね、ここ?」
「壁面を見たまえ」
「いえ、あの、何やら字みたいなもんが掘ってあるのは解るんですけど……」

 不気味さを感じた童の問いに、和修吉(ヴァースキ)は壁を示すが、彼はそもそも梵字を学んでいない。意味が解らないからこそ、気味悪く感じるのである。

「そうか。あれは梵字といってな。我々、補陀落(ポータラカ)の者が本来使う文字だ。あれを和国で使えるのは、一部の仏法僧のみだろう」
「何が書いてあるんです?」
「この場に囚われた者を逃がさぬ様、石と化して封じ続ける呪文だな。先程、我が人狼兵に行ったのと同じ事を法力の乏しい人間が行おうとすると、この様に大掛かりな物を作ることになる。ここは恐らく牢獄の類なのだろう」
「のんびりしている様ですけど、今は大丈夫なんですね?」

 この広間に封印が施されていると知っても慌てず、落ち着いて効力を確認してくる童の態度に、和修吉(ヴァースキ)は感心した。

(やはりこれは、那伽摩訶羅闍(ナーガマハラジャ)の従者に相応しき者だ)

「うむ。既に壊れておる様だし、仮に動いていても、我であればこの程度の物、力づくで破る事は容易である。まあ、これが和国の人間が作ったというならば、中々によく出来ているとは思うがね」

 和修吉(ヴァースキ)の様な那伽(ナーガ)を封じるのは容易な事ではない。彼女にとって、この仕掛けは力不足の様だ。
「そうでしたか……」
「ほんでですな」

 童が安心した処で、背後から阿瑪拉(アマラ)が声をかけてきた。検分が終わった様だ。

「何か解ったんですか?」
「人狼の毛が、入り口に少し落ちておったんですわ。儂等のもんじゃないけど、法術でざっと見ると、女で、お主の血縁のもんらしいというところまでは解りましたで」
「じゃ、じゃ、ここに捕まっておったのは……」

 童の声に、和修吉(ヴァースキ)が頷いて答える。

「うむ。お前の生母はここに囚われていて、何とか抜け出したのであろう。既にお前を身籠っていたのか、獄を逃れた後にお前の父たる者と出会ったのかは解らぬが」
「俺の、俺の本当のおっ母さんは、こんなとこで……」

 童は、自分の実の母が囚われていた事に少なからぬ衝撃を受けたが、和修吉(ヴァースキ)の言葉はここで終わりではなかった。

「もう一つ、興味深い事がある」
「な、何でしょう?」
「この広間に掘られた呪文は、霊力を適度に足してやらねば力を失う。つまりここに囚われた者を封じ続けるには生贄、即ち人身御供が要るのだ。そして、お前の村で老いて捨てられた者は、ここで身を投げて命を絶つというではないか。これは偶然だろうかね?」

 あまりの指摘に、童の頭は真っ白になってしまい、しばらく口を開く事が出来なかった。

「じゃ、村の衆は、俺の本当のおっ母さんを閉じ込める為に、姥捨てをしとったんですか!」

 童がようやく絞り出した言葉は、叫びに近い物となってしまう。

「村の者が、どこまで真実を知っていたかは解らぬ。現に、組頭の子であるお前も知らなかったのだろう? 真の意味を忘れられたしきたりが、口減らしの為としてずっと続いていたのかも知れぬ」
「そうですか……」
「まあ、全ては推し量った事に過ぎませんでな。某かの証拠が出てこんか、お主の村を再度検分してみたいけれども、ええですわな?」
「え、ええ!」

 童は、村を再び調べたいという阿瑪拉(アマラ)の申し入れを二つ返事で承諾する。彼は自分にまつわる諸々の因縁を、確かめずにはいられなかった。



[37967] 7話「樵に育てられた人狼」その18
Name: トファナ水◆34222f8f ID:b7003820
Date: 2017/05/31 22:09
 石津。
 報告をする為に関所へと戻った間諜は、翌日には何事もなかったかの様に、再び人間に化身して普段通りに屋台を出していた。但し今回は、急報を送る為に八咫鏡の持ち出しを許されている。
 これまでの経緯は全て間諜にも知らされ、行方知れずの娘の人相書きも見せられた。石津で見かけた場合は庇護する様にとの通達も受けている。
 例によって、仕事を再開できずに暇を持て余している常連の馬丁が、上機嫌な様子で訪れた。

「おう、姉ちゃん。お蔭さんで一応、仕事をまた始める目途が立ってよ! まずは祝いの一杯をくれや!」
「はいよ」

 間諜は銭を受け取ると、いつもの様に柄杓(ひしゃく)で木椀に濁醪(どぶろく)を注いで差し出す。
 馬丁は喉を鳴らしながら一気に飲み干した。

「かーっ、うめえ!」
「仕事に目途がついたって言うけどさ。逃散した村に、他所の樵(きこり)が移り住むって話が決まったのかい?」
「ああ。代官所から座に話があったみてえでよ」
「あっちこっちからかき集めたのかねえ」
「いんや。それが全部、同じ村からなんだわ。余ってる次男坊、三男坊が大勢いたってえから、とんとん拍子に話が決まったみてえでよ」
「へえ、よく間引かずに養えたねえ」
「村で冷や飯食いをしてる訳じゃねえよ。外へ出稼ぎに出す為に生かしてんだ。親が奉公先から受け取った前貸し銭で縛られて、年期が空けても長男坊に何かあった時でもなきゃ村へは戻れねえ。それを、お代官様に声をかけられたってんで、急いで呼び戻したみてえだな」
「前貸し銭はどうしたんだい?」
「多分、税に上乗せして返すって事で、代官所が立て替えたんじゃねえのかな。材木の切り出しを早く始めてえって焦ってた節もあるからよ。俺等の様な馬丁にしても、いつまでもこのままじゃあ困るしなあ」
「なるほどねえ」

 相槌を打ちながらも、間諜は疑問を持った。
 通常であれば、逃散した村への入植を募る場合、あちこちの村へ割り当てを決めるだろう。何しろ好条件の”居抜き”である。広く声かけしなくては後々の不満につながりかねない。
 あえて一つの村からのみ入植を拙速に受け入れるという事は、代官とのつながりが深い村という事だろうか。あるいは……

「その衆が、あんたの出入りしてた村に入るのはいつ頃だい?」
「明明後日(しあさって)ってこったな」

 さらに二杯程の濁醪(どぶろく)を呑み干して馬丁が帰って行くと、間諜は屋台の内側に隠してある八咫鏡を使い、周囲に聞かれぬ様に声を出さず、かすかな唇の動きで桑名へ報告を入れた。

(常連の男には悪いが、既に多くの血が流れた上は、恐らくこの件……)

*  *  *

 童の母とおぼしき人狼が捕らわれていたと見られる、牢獄のある岩場。
 阿瑪拉(アマラ)は山中で捜索に当たっていた九隊の人狼兵の内、八咫鏡による通信で一隊をここへ呼び寄せていた。
 およそ一刻の後に彼等が到着すると、阿瑪拉(アマラ)は周囲の確保と警護を任せ、自らは和修吉(ヴァースキ)や童、そして直轄の隊と共に、事の発端である童の村を調べるべく向かった。
 村へ着いた後に阿瑪拉(アマラ)達がまず目指したのは、狼が祀られている祠である。
 寒村の物らしく、祠は粗末で小さな物だ。ただ、掃除や手入れは欠かさず行き届いていた様で、村人の祭神への信心や畏怖が解る。
 それでいて童を色子として寺へ売ろうとしたのは、祭神の申し子とは本気で考えていなかったのであろう。
 童は何とも言えない複雑な顔つきで、無言のまま祠を見つめていた。

「お主の母御が埋められたのは、どの辺りですかな」

 阿瑪拉(アマラ)に声をかけられて童は我に返ると、祠の傍らに生えている、しめ縄が結ばれた杉の巨木を示した。

「御遣い様が…… 本当のおっ母さんが葬られたのは、この御神木の根元って聞いてます」
「遺骨を調べたい。掘り返して良いか?」

 和修吉(ヴァースキ)の問いに童が無言で小さく頷くと、随伴していた二体の龍牙兵が指示を受け、調査の為に用意してあった鍬で御神木の根元を掘り返し始めた。

「急がずとも良い。遺骨を傷つけぬ様、慎重にやれ」

 和修吉(ヴァースキ)の命令通りに、龍牙兵は静かに鍬を振り続ける。やがて二尺 ※約六十cm 程掘った処で、骨らしい物が姿を現した。
 龍牙兵達は鍬を置き、一体が素手で土を払いのけ、もう一体が骨を拾い集めて地面に敷かれた布の上に置いていく。
 無造作に置かれた骨は、和修吉(ヴァースキ)の手によって、獣の形に並べ直されていく。
 その間に阿瑪拉(アマラ)は、手を使う為に人型へと化身する。衣がないので全裸のままだが、周囲には身内ばかりなので全く気にしていない。

「紗麗(サリー)は用意しておきたまえよ」
「街中や改まった場と言う訳でなし、面倒なんですわ」

 和修吉(ヴァースキ)が窘めても、阿瑪拉(アマラ)は全く意に介する様子がない。
 人狼に限らず白虎等、知性を持つ獣形の種族、即ち”霊獣”は、裸体に全く無頓着なのである。人型に化身した際に衣を身につけるのは、あくまで身だしなみに過ぎないのだ。
 阿瑪拉(アマラ)は祠の扉を開け、中を探ると、一冊の書物らしき物を取り出した。

「この祠の由来とか、書いてあるみたいですわ。まあ、読んでみますで」

 和修吉(ヴァースキ)が骨を並べ直して検分している間、阿瑪拉(アマラ)は書物の内容に目を通していた。
 人狼兵達は周囲に目を配って警戒し、童の方は、和修吉(ヴァースキ)の作業の方を中止している。

「おおよそこの位か」

 およそ一刻 ※二時間 の作業の末に、布の上には、牛程の巨体の狼の骨格が並んでいた。

「これが、俺の…… おっ母さん……」
「うむ。骨を並べながら法術で検分したが、ほぼ確実にお前の御母堂であろう」
 
 和修吉(ヴァースキ)は答えると共に、遺骨に合掌で礼を表す。書物を読み終えていた阿瑪拉(アマラ)も、人型の裸体では無礼であると考えて獣形へ戻り、頭を垂れて黙礼した。人狼兵達と童もそれに倣う。

 死者への追悼を終えると、和修吉(ヴァースキ)は童へと向き直る。

「骨の様子から、御母堂の最期の様子がある程度解った」
「ほ、本当ですか?」
「うむ。死因だが、大勢に袋叩きにあった様だな。骨のあちらこちらに、砕けたり罅(ひび)が入っておる。殴打による物であろう」
「おっ母さん、誰かに襲われて、俺を連れてここまで逃げて来たのか……」

 和修吉(ヴァースキ)の説明を聞き、童の胸に痛みが走る。
 だが、阿瑪拉(アマラ)はその解釈に異を唱えた。

「書物に書かれとる事によると、ちと違う様ですわな」
「何が書かれていたんですか?」
「要は、祠の由来が書かれておるんですけどな。十三年前の事ですわ。飢えて弱った様子の白くて大きな狼が、人間の赤子と一緒に祠の前で横たわっておったのを、組頭、つまりお主の養い親が見つけたそうですわ。んで組頭は、村の若い衆を連れて来て、弱っている内にと狼を皆で打ち殺したと」
「そ、それじゃあ、本当のおっ母さんは、俺を養ってくれたお父っつあんや村の衆に殺された!?」
「そういう事ですわな」

 驚いて聞き返す童に、阿瑪拉(アマラ)はきっぱりと認めた。

「え、だって、この村では狼は神さんなのに……」
「そもそも、この村で狼が祀られておるのは”祟り神”としての様ですわな」
「祟り神……」

 祟り神とは、人に災いなす存在を封じ、神として祭り上げた物である。

「随分と大昔、村を襲う人食い狼を、偉い仏法僧の法力であの岩場に封じたっちゅう事ですわ。そんで、祟らない様に拝む為にこの祠を建てたんですわな。それが封印を破って抜け出たとなりゃ、弱っておる内にとどめを刺したんも仕方ないですわ」
「し、仕方ないって、阿瑪拉(アマラ)師は納得出来るのですか?」
「食うか食われるかですもんなあ」

 淡々と話す阿瑪拉(アマラ)の口調に疑問を抱いた童は思わず聞き返したが、返ってきた答えは、割り切った物だった。

「人を食らうは神属の宿業。そして人もまた、黙って食われる道理はない。故に、この事で村人を恨んではならぬ」

 和修吉(ヴァースキ)は、村人を生母の仇として考えてはならないと童を諭した。人間と共存しようと考えているからこそ言える事である。

「人狼なら、人間を蹴散らす事など簡単だったろうに…… おっ母さん、ここにたどり着くまでに、何で弱っておったんだろう…… 」

「これはあくまで推察だが、石化が溶けて牢獄から抜け出た物の、お前を産み落とした事で力を使い果たしていたのであろうな。この村に来たのは、お前を託すつもりだったか、何とか村人を食らって力を取り戻すつもりだったのであろう。今となってはどちらかは解らぬが」

 自分を封印した村に頼る筈がない。きっと報復を兼ねて村人を食うつもりだったのだろうと和修吉(ヴァースキ)は考えていたが、それを言えば酷に過ぎると思い、あえて今一つの仮説を併せて童に示した。

「じゃ、そんな人食い狼が連れてきた俺を、どうして養ってくれたんだろう……」
「本によると、狼が食う為にどこぞから浚って来たと思った様ですわな。人食い狼の子と考えておったら、お主はきっと”返されて”おりましたで」
「そうですね……」

 自分の出自を巡る重い事情を突きつけられた童は、それを耐えて受け止めた。
 自分一人の為に、生母、養親、そして村人の悉くが命を落としてしまった。なればこそ、ここで逃げてはならないと思ったのである。



[37967] 7話「樵に育てられた人狼」その19
Name: トファナ水◆34222f8f ID:b7003820
Date: 2017/06/11 18:08
「ところで御母堂が捕らえられ、祟り神として祀られた経緯について、書物には書かれていないかね?」
「残念ながら、その辺の事はありませんでしたわ」

 和修吉(ヴァースキ)の問いに、阿瑪拉(アマラ)は手を振って惜しそうに答える。

「そうか。あの牢獄は、建造されてからおよそ三百年は経っておるからな。その辺りの事が書かれておるかと思ったのだが……」
「もしかして、昨日会うた坊主が何か知っておるかも知れませんわな。あの牢獄を造れそうなのは、和国では仏法僧位ですわ」

 三百年も前であれば、あの僧が封印を施した本人という事はないだろうが、高野山に属する僧が行っていたのであれば、事情を知っていたからこそ、封印を破った人狼が産み落とした童を手中にしようとしたのではないか。
 身を投げた村人達の屍の山を見つけられたのも、牢獄の所在を知っていたからではないのかと、阿瑪拉(アマラ)は考えた。

「うむ。あれは我等から見れば稚拙である物の、印度由来の様式が源流であろう。陰陽師であれば、また別の流儀で造るであろうしな」
「ほんじゃ、追いつける内に……」
「待て。高野山の者という素性が割れておる上は、急がずとも良かろう。先にやらねばならぬ事もある。それに、かの者が高野山の高僧という事であれば、和戦いずれにせよ、慎重にあたらねばならぬ。これは導師の御意思である」

 仏法勢力は、神属への対抗手段を有している可能性がある為、幕府や大名以上に慎重に当たるべき相手である。
 きっかけが何であれ、高野山との糸口は生かすべきと計都(ケートゥ)が考えていると、阿瑪拉(アマラ)は推察した。

「要は、導師が直に、皇国の者としてあの坊主と話したいんですわな?」
「その様だな。だが阿瑪拉(アマラ)師が戻らねば、菅島の乳児舎の留守を預かっておる導師は身動きが取れぬ」
「なら、坊主の事はとりあえず置きますわ。なるべく早う下手人に落とし前をつけさせて戻りませんとな」

 阿瑪拉(アマラ)とて、本来の職分である乳児舎の統括については気がかりである。
 だが、人狼の縁者を殺めた下手人を突き止め、報復する事も族長代としてやらねばならない事であった。


*  *  *


 和修吉(ヴァースキ)と阿瑪拉(あまら)が話している間、童は生母の遺骨を前に座り込み、じっと考え込んでいた。
 話し合いを終えた阿瑪拉(アマラ)が声を掛けようとした時、童は立ち上がった。眼には生気が籠もっている。

「おっ母さんも、村の衆も。みんな、死んじまった…… でも、それはもう、どうしようもないです」

 決意のこもった童の言葉に、その場の皆は感嘆した。

(流石、主上と御父君様が認めた童だ)
(武を嫌い侍従の道を選んだと言うが、嘆くばかりの軟弱ではない様だな)

「うむ。なればこそ、その様な事が起こらぬ様、人間と我等が手を取り合う世、即ち”新しき世”の建立を進めねばならぬ。汝にも精励してもらわねばな」
「はい。けど今は、先にやらなきゃならない事があるんです」
「汝の伴侶たるべき娘の事だな」

 皇国の統治こそが最良の道であり、それに協力せよと説く和修吉(ヴァースキ)に、童は頷きながらも、村で唯一生死が判明しないままに行方不明となっている、幼馴染みの捜索を促した。

「無論、こうしておる間にも多くの者が動いておるのだが……」
「未だ、見つけたっちゅう報は入っておりませんわな」
「そうですか……」

 和修吉(ヴァースキ)は渋面で口を濁し、阿瑪拉(アマラ)が言葉を引き継いで捜索の状況を童に伝えた。
 目下の願いである幼馴染みの無事が確認出来ない事に、それまで気丈だった童は目に見えて意気消沈してしまった。

「お主、心辺りはありませんかな?」
「心辺り、ですか? いえ、全くそんなもんは……」

 阿瑪拉(アマラ)の問いに、童は困惑して首をひねる。

「逃げ延びておるなら、どこぞに匿われておるかも知れませんからな。親類縁者は村の外におりませんかな?」
「うちの村は、夜這いで添い遂げる相手を見繕いますから。村の外から嫁を迎えるって事はないです」

 村外との通婚がなく、故にいざという時に頼れる様な親類が村外にはいないという童の答えに、阿瑪拉(アマラ)は疑問を持つ。

「狭い村の中だけで何代も子造りしておると、血が濃くなり過ぎて、子が流れ易くなったり、蛭子(ひるこ) ※奇形児とかが生まれやすくなりますでな」
「ええ…… 赤児が生まれても、半分は蛭子(ひるこ)とかの出来損ないだって返されちまってました」

 村の惨状に、阿瑪拉(アマラ)は溜息を漏らす。
 昔からよくわかっている相手の方が、余所者よりも伴侶として具合が良いのは当然である。だが、それを何代も繰り返すと、子孫の肉体や知性が徐々に衰えてしまうのだ。
 皇国の神属はまさにそれで滅びかかっているのであり、それが国外遠征の大きな動機となっている。

「そうでしょうなあ。大概、近隣の村とは適当に嫁なり婿をやり取りして、出来損ないが生まれにくい様に血を薄めるもんですけどな」
「里のもんは、しんどい樵(きこり)の家に嫁になんて来ないです」
「樵(きこり)を生業にする村は、他にも美州にありますわな?」
「近場だと山の反対側にありますけど…… あんまり仲が良くないもんで……」

 阿瑪拉(アマラ)の指摘に、童は言いにくそうに口を濁す。

「何か、訳があるんですかな?」
「この村は税を余計に納める代わりに、戦の時にも足軽を出さんでええっていうのが取り決めなんです。でも、向こうの村はそれを腰抜けだと言って馬鹿にして来るんです」

 庶民にとって、戦にかり出されるのは迷惑千万、というばかりではない。手柄を立てれば恩賞も出るし、”乱取り”と称して敵方の町や村の略奪が許される事もある。いわば一稼ぎの機会なのだ。
 童の村は”命あっての物種”と、税を余計に納めて戦を免れる道を選んだのだが、見方によっては、わざわざ銭を払ってまで機会を捨てている愚か者に映ってしまう。善悪と言うよりは価値観の違いである。

「族長代、桑名からです」

 八咫鏡を預かる人狼兵が、阿瑪拉(アマラ)に通信が入った事を告げる。
 それを受けて応対に出た阿瑪拉(アマラ)は、間諜から桑名へもたらされていた状況の報告を聞き終わると、童へと向き直った。

「何か解ったんですか?」
「明明後日(しあさって)、無人となっておるこの村に、代官所の斡旋で新たなもんが移り住んで来るそうですわ」
「どういう素性のもんです?」

 故郷が縁もゆかりもない余所者に取られると聞き、童は厳しい口調で問い返した。

「今、お主が話しておった村のもんで、跡を継げん次男より下の若い衆ですわ」

 阿瑪拉(アマラ)の答に、童は呆然とする。よりによって、自分達を見下していた連中が、苦労して維持していた山林を易々と奪っていくのか。
 一方、和修吉(ヴァースキ)は合点がいった顔で頷いた。

「成る程。この村の者が滅んで得をするのは、その者共だった様だな」
「まさか、連中がそんな大それた事を!?」

 指摘に童は驚くが、和修吉(ヴァースキ)は冷徹に続ける。

「戦に嬉々として馳せ参じる命知らずの者共なのであろう? 見下していた相手の命等、塵芥程度の物としか思わぬであろうよ」
「で、でも、それは戦だからで…… 何の罪もないもんを鏖(みなごろし)にして、ばれりゃ死罪になるってのに……」
「ふむ……」

 狼狽する童の口調に、和修吉(ヴァースキ)は少し考え込む。

「先方の村は、戦の際には足軽を出す訳だが、平時はどうか?」
「次男坊、三男坊とかが、お代官様の下で何人か、常詰めの足軽とか下男をしてるみたいです」
「他村の者は? 普通なら、不満が出ない様にまんべんなく集めるであろう?」
「お代官様は元々、あちらの村の出の足軽上がりなんです。手柄を立てて士分に取り立てられて出世して…… それで、身の回りはあの村のもんで固めておるんです」
「ふむ。いわば子飼の村という訳だ」
「まさか、あちらの村の衆にこの村をくれてやる為に、お代官様が承知の上で鏖(みなごろし)に!?」

「状況として、そう考えるべきだろうな。そも、逃散を受けて、一度はこの村を代官所が調べた筈なのだが、ほとんど荒らされた様子がないのは妙だろう?」

 和修吉(ヴァースキ)の指摘通り、阿瑪拉(アマラ)達が検分に入った際、村は全く荒らされた様子がなかった。
 言われてみれば、代官所が検分したならば、それなりに痕跡が残っている筈である。

「しかし、鏖(みなごろし)の手口として、阿片を幻惑に使うた訳ですからな。素人ではなかなか出来ませんわ」

 和修吉(ヴァースキ)の推論に、阿瑪拉(アマラ)が疑問をぶつける。阿片を鎮痛に使うだけならまだしも、村中を惑わして自害に追いやるといった使い方は、相応に習熟していなければ出来る事ではない。

「ふむ。この近隣で、ああいった薬物の扱いに慣れておる者はいるだろうか?」
「そりゃまあ、一門のもんなら阿片の扱いは心得ておりますわな。後は、行商しとる薬座のもんとか…… 和修吉(ヴァースキ)師、身内から不埒もんが出た事を疑うておるんですかな?」

 阿瑪拉(アマラ)の訝しむ声に、和修吉(ヴァースキ)は苦笑して否定する。

「そうではない。神宮の治世下にいた、旧い薬座の者共だ。伊勢の内にいた者は捕らえたが、州外で行商していた者は、多くが逃げおおせている」
「石津の代官が残党を匿っておると?」
「匿ったか、一時雇ったに過ぎぬかは解らぬが。いずれにせよ、この近隣で阿片を扱える技量を持つ者は、我々の他は、神宮統治下の旧薬座の者が真っ先に挙げられる」

「それは、それは…… 」
「うむ。如何に扱うか、我々のみでは決められぬな」

 代官が関わり、かつ神宮の残党も絡むとなると、慎重な対応が求められる。迂闊な事をすれば、美州との戦端を開く事にもなるのだ。
 今回の件は、弗栗多(ヴリトラ)の勅命により、計都(ケートゥ)に権限が委ねられている為、二人はその意向を仰ぐ事にした。



[37967] 7話「樵に育てられた人狼」その20
Name: トファナ水◆34222f8f ID:b7003820
Date: 2017/06/18 21:07
石津。
夜も更けた頃、代官の居宅では、旅支度を調えた若い女が代官と別れを惜しんでいた。

「兄上。これまで龍神の追っ手から匿って頂き、有り難うございました」
「伊勢が龍神の手に落ちて以後、神宮の免許を受けて州の外で商っていた薬座の行商人を、奴等は探し求めていたからな。ようやくその手も緩んで来たという訳だ」
「はい。船で西国に逃れようとした者達は、悉くが海賊に捕らわれた末、龍神に売り渡されたと聞きます。でも、竜神共とて、いつまでも人手を割くわけには行かないでしょうし」

 女は、神宮支配の下で薬座に属していた行商人であった。州境近くにある石津の代官である実兄のつてで就いたのだが、州外で商いをしている内に一揆が起き、伊勢に戻る事が出来なくなった。
 彼女は、州外に逃亡した神宮の関係者に対して各方面に追っ手がかかる事を見越し、実兄宅に匿われて追跡の手が緩むのを待っていたのである。

「賢明だったな。お前の言う通り奴等とて、いつまでも逃げた者を追い続けてばかりはおれぬ。伊勢を治める事に集中したいだろう」
「口惜しい事ですが。それにしても、私の話を受けて頂いたのは大いに助かりました」
「いや。何しろ今は戦国の世だ。事ある毎に兵が要るというのに、あの村は昔からの約定で、足軽を出さんで良い事になっておる故な。目障りだったのだ。お前の話は、実に丁度良かった」
「郷里の衆も、後を継げぬ者にあてがう地が出来て、とても喜んでおりますね」
「ああ。お前も、路銀が稼げただろう」
「逃げた先で身を立てるには、何よりも銭。あの村の者共を始末した後、豆銀を総取りして良いとは全く助かりました」

 この女は、狼の申し子とされる童に迎えが来て、代償として多額の豆銀を養親が受け取った事を聞きつけ、それをせしめる事を画策した。
 そこで実兄である代官に、阿片によって童の村を鏖殺する企てをもちかけた。
 士分たる代官にとって、いざ戦と言う時の兵の動員力は死活問題である。代償として税の割り増しが課されている物の、足軽の拠出が免除されている村の存在は疎ましかったのだ。といって、自分が任じられる前からの約定を、軽々しく無下にはできない。妹の企てに、代官は乗る事にした。
 代官は鏖殺を揉み消して”逃散”として処理すると共に、郷里で後を継げない次男坊以下の者を入植させる事に利益を見た。

「なあに。お前の御陰で、郷里の皆も幸せになるという訳だ。いやいや、全くの名案」
「全くですね」

 二人は清々しい笑顔になったが、それは一瞬で凍りついた。
 突然、襖が乱暴に開かれ、二頭の白い狼が眼前に現れたのである。一頭は牛程の巨体、もう一頭は大きめの犬程である。阿瑪拉(アマラ)と童だ。
 阿瑪拉(アマラ)は、童の幼馴染みの手がかりを得るには、鏖殺を実行したとおぼしき旧薬座の行商人の身柄を押さえるべきと考えた。だが、幼馴染みが生存していても、時が経つ程に身柄の庇護が難しくなるのは明白だ。そこで強攻策として、実行犯とつながっていると思われる代官の屋敷へ踏み込み尋問する裁可を計都(ケートゥ)から得たのである。
 代官についても、鏖殺への関与が明らかになれば、家族郎党共々に処断して良しという事となっている。
 本来ならもっと調べてから行うべき処置だが、童が大切に思う幼馴染みの命がかかっている。身内一人を救う為なら、万の敵の殺戮も厭わないのが皇国の価値観だ。
 それに、もし間違いであっても…… 代官の記憶を封じ、踏み込んだ事を揉み消せば済む事である。
 幸いにして、見込みは当たった様だ。行商人が屋敷に滞在していた事で、代官共々に身柄を押さえられたのは上出来と言う他ない。

「ば、化け物ぉ! 出会え、出会え!」

 代官が叫ぶが、配下が応える様子は全く無い。

「無駄ですわ。屋敷に詰めておるもんは皆、黙らせましたでな」
「あ…… あ……」

 抵抗は無駄だと思い知らされた代官は、妹と共にへたり込んでしまった。

「まさか、本当におるとは……」

 代官兄妹は、人狼の実在を信じていなかった。羅刹(ラークシャサ)等の他の妖(あやかし)と異なり、この時代の和国では実在例が殆ど知られていなかった為である。
 間諜の屋台の常連客である馬丁が話していたのと同じ様に、”豆銀は童を欲した士分なり商人なりが払った物。狼の迎えというのは誤魔化すための方便”と考えていたのだ。
 本当に童が人狼の子だと信じていたら、鏖殺を企む事もなかっただろう。

「お前等が俺の村をやったんだな!」
「し、知らない! 知らない!」
「とぼけても無駄ですわ。すっかり聞きましたでな」

 牙を向きだして詰め寄る童に、女は狼狽しながらも必死に否定する。
 だが、阿瑪拉(アマラ)はがそれを一蹴すると、恐怖を顔に張り付かせたまま黙りこくってしまった。

「さし当たりですな。特にそっちの姉さんには聞きたい事があるんですわ。死ぬより惨い目に遭いたくなければ、正直に答えなされよ?」

 女は、震えながら頷く他なかった。

「姉ちゃんはどこにいる?」
「だ、誰の事?」
「ああ、こういう顔のもんが、村におりませんでしたかな?」

 童に”姉ちゃん”と言われても、当然ながら女には誰の事やら解らない。
 阿瑪拉(アマラ)は首にさげた八咫鏡に、童の幼馴染みの似顔を映し出した。

「ん…… 確かに…… そういう娘が村にいた様な……」
「ど、どこへやった?」

 女の答に、童は恐る恐る先を促す。

「どこって、山の奥にある崖の下へ飛び降りて……」
「嘘をつくな! とぼけやがって!」」

 単調に話す女に、童は声を荒げる。口調にも腹が立ったし、遺骸が崖下になかったからこそ尋ねているのだ。

 激昂した童は右前足を振り上げて張り飛ばそうとしたが、阿瑪拉(アマラ)はそれを押しとどめた。

「本当、本当です! 亡骸が崖の下にある筈!」

 童の殺意に晒された女は、恐慌状態に陥って弁解する。阿瑪拉(アマラ)はそれに頷いて肯定した。

「これが嘘を語る益がありませんわな。時を稼ぎたいなら、どこぞに売り飛ばしたとか言うて、生きておる事を仄めかしますで」
「じゃ、こいつが言ったのが本当として、姉ちゃんはどこへ行ったんです?」
「先に身を投げたもんの上に落ちて助かった、という事もあり得なくはないですけどな」
「ほ、本当ですか?」

 訝しげに尋ねられ、阿瑪拉(アマラ)が幼馴染みの生存の可能性を示すと、童は思わず身を乗り出した。

「けれどもあの高さですわ。普通、それでも無傷では済みませんで。深手を負って、山奥へ必死に逃げたとなると、そう遠くに行けない筈ですわな。そのまま力尽きておる率が高い、と見るべきですわ」
「そ、そんな……」

 かすかな希望を砕かれた童は、縮こまっている二人をにらみ付ける。

「この女、それにお代官さ…… いや、代官! 許さねえ!」
「ど、どうするつもりだ?」

 そこまでのやり取りを何も言えず見ていた代官だが、童の口から自らの名が出た事で、思わず聞き返す。

「お主。儂等が手を下さんでも、無辜の領民を鏖殺して、郷里の縁者に村を与えようとした事が美州殿に知れれば、一族郎党共々、打首獄門は免れませんで?」
「そ、それは困る!」

 武断的な領主であれば”戦に兵を出さぬ村など潰してしまえ”として、代官の行為を追認したかも知れない。
 だが美州領家は下克上で成り上がった油売りの出自で、民草の人気も高い。それ故に、民の鏖殺という暴挙を許す筈がないのは明白だった。

「士分の面目を保ちたくば、事のあらましを一筆書いた上で腹を切りなされ。お主の家族や郎党にも、儂等が因果を含めますでな」
「ぐぬぬ……」
「明朝まで待ちますで。屋敷には結界を張りましたで、逃げられるとは思わん事ですわ」

 阿瑪拉(アマラ)の宣告に、進退窮まった代官はうな垂れる他なかった。


*  *  *


 代官とその妹たる旧薬座の行商人を断罪した阿瑪拉(アマラ)と童は、結界で封じた屋敷を出た。
 夜半で周囲には人通りがない。また、周囲の認識を阻害する法術を使っているので、仮に姿を見られても問題はない。
 下手人を罰した物の、肝心の幼馴染みがほぼ絶望的である事が解り、童はすっかりしおれている。
 捕らわれているとか、人買いに売られたという事であれば救い出せたのだが、崖から身を投げた末に行方知れずという事がはっきりしたのだ。
 唯一良かった事と言えば、女の口ぶりから、”幼馴染みが村の鏖殺に関わっていたのではないか”という、阿瑪拉(アマラ)達の抱く疑念が晴れた事である。只、この疑念については童は一切聞かされていないままので、彼の心が多少なりと軽くなる要因にはならなかった。

「娘の事ですけどな。岩場へ落ちて生きておったとして、周りをきっちり探し直しますわ」
「お願い、します……」
「まだ全く望みが無い訳でもありませんしな。例え虫の息でも、生きておりさえすれば、どうとでもなりますで」
「はい……」

 まず助からないと解っても、せめて遺骸を見届けたい。捜索の継続は有り難いが、童の声は消え入る様に小さい。望みが潰えた訳ではないという阿瑪拉(アマラ)の言葉も、気休めにしか感じなかった。

「ともあれ、これであれらは自分の始末をつけますわ。残るは、あれらの郷里ですわな」
「どうするんですか?」

「連中もお主の村を鏖殺して乗っ取ろうとした一味ですからな。お主の村の様に、鏖殺してやりますわ」
「でも、事の次第を知らないかも知れませんよ?」
「そうだとしても、代官も女も、あれらが身内ですわな。なら、連座して然るべきですわ。敵は赤児まで後腐れ無く鏖殺するのが儂等のやり方という事は教えましたわな?」
「は、はい」

 皇国の非情な方針は、童も教えられている。かつての平家が辿った運命…… 勝ち戦で敵将の子を助命した為に、成長した相手に政権を奪い返された轍を踏まない為だ。
 しかし理屈では解っても、いざ、その渦中に自分がいるとなると心がかき乱されてしまうのも当然である。

「既に、連中の村には人狼兵を差し向けましたでな。一応、先方の組頭を詮議はしますけど、結果に関わらず、村のもんは鏖(みなごろし)ですわ。情けをかけたら逆恨みして、仇討ちで儂等を狙って来るかも知れませんでな」
「せめて、組頭の他は寝てる間に……」
「まあ、その位の慈悲はええですわ」

 童が短い間に精一杯考えた穏健策を、阿瑪拉(アマラ)はあっさりと受け入れた。相手を苦しめる必要は必ずしも無い。要は、この世から消せれば事足りるのだ。

「ちと、鏡を持って下され」

 相手の村を殲滅する為に差し向けた人狼兵の隊に指示を出そうと、阿瑪拉(アマラ)は自分の首に掛けてあった八咫鏡を外し、童の首へ掛けさせた。手が使えない獣型は何かと不便な面がある。
 阿瑪拉(アマラ)が先方の隊を呼び出そうと鏡を覗いて念じた時、丁度、相手側から通信が入って来た。鏡に映る人狼兵は、いかにも困惑した様子である。

「こっちは済みましたわ。で、どうしたんですかな?」
「目的の村ですが。我々が到着した時には、村人は既に…… 別の隊を向かわせていたのですか?」

 相手の村が鏖(みなごろし)となっていたという報に、阿瑪拉(アマラ)も首を傾げる。

「はて、そんな筈はないですわ。行き違いかも知れませんで、一応、桑名と導師にも聞きますけどな」
「皇国兵とは異なる、別口の者でしょうか?」
「山賊の類かも知れませんな。敵の敵だからというて、味方だと思わんことですわ。用心しなされよ」

(また話がややこしくなりおる……)

 通信先に注意を促しつつも、阿瑪拉(アマラ)は内心で頭を抱えてしまった。



[37967] 7話「樵に育てられた人狼」その21
Name: トファナ水◆34222f8f ID:b7003820
Date: 2017/09/21 23:03
 代官兄妹の郷里を殲滅する為に差し向けられた人狼兵達が見た物は、何者かに襲撃され、住民が死に絶えた集落の惨状だった。
 報告を受けた阿瑪拉(アマラ)は、自らの知らぬ処で皇国の別働隊が動いた可能性を疑ったが、八咫鏡で軍に照会した結果、それは否定された。
 皇国が関わっている場合、残る可能性は計都(ケートゥ)による独断専行なのだが、一門から二名の学師を送り込んでいるのに、その頭越しで動くとも考えにくかった。
 とはいえ、一応の確認、そして想定外の事態の発生は知らせねばならない。
 阿瑪拉(アマラ)からの通信を受けて状況を知った計都(ケートゥ)は、童の村の検分を終えていた和修吉(ヴァースキ)を現地へ向かわせる事にした。
 代官の郷里の村へ向かった人狼兵達はいずれも医術の心得がなく、遺骸の細かい検分に慣れていないのである。

*  *  *

 代官の郷里の村。そこから若干外れた場所に、星の光を遮る厚い雲の上から、轟音と共に雷光が突き刺さる。和修吉(ヴァースキ)の到着だ。

「人別改 ※住民台帳 は押さえたか?行方の知れない者は?」

出迎えた人狼兵に、和修吉(ヴァースキ)は開口一番、行方知れずの住民の有無を尋ねた。

「照合しました。皆、遺骸を確認しております」
「結構、手間が省けた様だ。早速だが案内してもらおう」
「畏まりました」

 逃れていた者がいれば、直ちに捜して捕縛せねばならなかったが、その必要はなかった様だ。
 出迎えの人狼兵の先導で、和修吉(ヴァースキ)は村の状況を見て回った。
 点在する粗末な家々は、童の村と大差ない。屋内外を問わず、あちこちに住民だった屍が転がっており、死臭が漂っていた。
 逃げ出そうとしたと思しき者もあれば、鍬や鎌、包丁といった得物を携えて戦った様子の者もある。
 特に屋内には、子供の変わり果てた姿が目に付いた。いずれも首を絞められたり、あるいは頭を踏みつけられる等して殺害されている。
 略奪を受けた痕跡が一切無く、山賊・夜盗による襲撃ではない事が見て取れる。
 また、屍の状態から、鏖殺は昨晩から今朝未明にかけて行われたと思われる。

「銭目当ての賊ではなく、勿論、皇国の者でもない。一体何者の仕業でしょう、和修吉(ヴァースキ)師?」
「よく見たまえ。この者達は、外の者から襲われたのではない。村の者同士で互いに争っていたのだ」

 和修吉(ヴァースキ)の指摘に、人狼兵達はそこかしこに転がっている遺骸の様子を改めて観察した。
 確かに良く見ると、斃れている者の傷口は、別の者の持つ得物で傷つけられた様である。

「さて諸君。明白な証拠を示して見せよう」

 和修吉(ヴァースキ)が刃にこびりついた血に法術をかけ、別の屍と照合してみると、いずれも一致する物があった。
 さらに和修吉(ヴァースキ)は、斃れている者の内、特に若年や壮年の女の手や足が、自らの物でない血にまみれている事も指摘した。

「家々の中で死んでいた幼き者は、自らの母や祖母、姉といった身内の手にかけられた様だ」

 殺戮が住民同士の殺し合いによる物である事は、疑う余地がなくなった。
 次に問題になるのは、そのきっかけである。

「件の代官の企てに関わる事で、村の中でいさかいが生じたのでしょうか?」

 人狼兵達の頭に浮かんだのは、無人となった童の村への入植に関わる争議があったのではないか、という疑いである。
 後を継げない次男坊以下の者を入植させるとは言っても、規模から考えれば全員という訳にはいかないだろう。そうなれば、誰が行けるかという事が争いの元になる。
 和修吉(ヴァースキ)はその疑念を、静かに否定した。

「その程度で、ここまで惨い事にはならぬな。それに代官が無能でないなら、新たな村へ行けない者にも良い雇い口をあてがうなり、銭をつかませるなりして不満が出ない様にするだろう」

 家柄ではなく、足軽から抜擢され、交易地の代官にまでなった男だ。無能な筈はない。

「それに、村中の紛議が元であれば、女達が我が子を手に掛けた事までは説明が付かぬ」
「確かに。そうなると、一体何が……」
「我の見立てでは、これらは狂わされていたと考える」
「幼き同胞(はらから)の村同様、麻薬ですか?」
「否、これは法術による物だろう。麻薬では酔った様に夢うつつになるからな。崖から身を投げる様に仕向ける事は出来ても、この様に殺し合わせるのは難しい」
「成る程……」

 狂わされていたと聞き、人狼兵達は童の村で使用された例を思い浮かべたが、和修吉(ヴァースキ)は否定した。

「住民は脳髄に強い恐れを送られ、周囲の者全てが敵に見えてしまったのだ。見たまえよ、どれもこれも、狂い歪みきった顔で息絶えているではないか」
「ふふ、愚民の末路には相応しいですなあ」
「いやいや全く、和修吉(ヴァースキ)師の仰る通り!」

 和修吉(ヴァースキ)は死者を嘲る様に嗤いを浮かべ、人狼兵達も追従して笑い声が広がった。彼等にとって、この村の民は憐れむ対象ではなく、自分達が処断すべきだった罪人なのである。

「それにしても、法術となると一体誰が? 皇国の者の筈で無し……」
「もしや、族長代の隊が出会ったという、高野山の僧!」

 人狼兵達の一人が、高野聖の存在に思い当たる。だが、和修吉(ヴァースキ)はその説を否定した。

「阿瑪拉(アマラ)師に気配を悟らせなかった位だ。確かにそれだけの法力は備えているであろうが、理由がない」
「では、和修吉(ヴァースキ)師は如何にお考えで?」

 自説を否定された人狼兵が思わず聞き返す。

「人別改の記載で、ここ一年内に死者が出ているか解るかね?」
「はい。目を通した限り、その様な者はいませんでした。一昨年に齢十の童が病で死んでいるのが、最も近い物です」
「ふむ……ではやはり……」

 人別改を検分した人狼兵の回答に、和修吉(ヴァースキ)は考え込んだ。

「今回の件と絡むのでしょうか?」
「死者を蘇らせ使役する術がある。伊勢に来てから我々が導入した、殭屍(キョンシー)もその一つだ。だが希に、自然にも起こりうるのだ」
「それが、この村を鏖殺したと?」
「是。自然に蘇った死者は、術による操作を受けていない為、意識が混濁したままに徘徊する。さらに、その者に阿羅漢(アルハット)の資質があれば、朦朧としたままに法力で周囲に怪異を振りまく事になる。丁度、衰えて呆けた年寄りが、戯言をわめき散らしてうろつく様な物だな」

 最後の一言に、人狼兵達からは再び笑いが巻き起こったが、和修吉(ヴァースキ)が片手を挙げて制すると一斉に静まった。

「この有様は、蘇った屍が、朦朧としたままに行ったと?」
「是。念の為、この村の者が蘇ったという事も考えて聞いたのだが、それはない。となると、やはり……」
「和修吉(ヴァースキ)師には元より、心辺りがおありなのですね?」

 和修吉(ヴァースキ)は指摘に頷いた。

「是。我々が庇護すべき娘、そのなれの果てかも知れぬ。崖から身を投げて落命した後に蘇り、山林を彷徨った末にこちらの村へたどり着いたのだろう。そして、住民はまき散らされた法力で正気を失い、互いに殺し合ったという訳だ。俗に”死霊の祟り”等と称される事象だな」

 和修吉(ヴァースキ)の推論に、人狼兵達は絶句した。幼き同胞(はらから)が捜し求めていた娘が、既に落命していたばかりか、生ける屍として彷徨っている。さらには法力を振りかざして一つの村を滅ぼしたというのであるのだから無理もない。

「娘は自らを襲った下手人を知り、報復に訪れたのでしょうか?」
「知性を失っているだろうから、それはないと思われるな。この村は、単に運が悪かったのだ。まあ、これが無くてもどの道、諸君の手にかかっただけであろうがな」
「以後、どの様に取り計らいましょうか?」
「今述べたのは、あくまで仮説だ。神属、あるいは生きた人間の阿羅漢(アルハット)という事も、全く無いとまでは言い切れぬ。ともあれ、これを行った者を放置は出来ぬ。即刻探し出し、身柄を押さえねばならぬな」
「はい。別の隊も、こちらの周囲へ増援として呼び寄せましょう」
「是。直ちに八咫鏡で通達せよ」

 増援を求める提案に和修吉(ヴァースキ)は即答し、提案した人狼兵は八咫鏡で他の隊への通信に取りかかった。

「諸君、霊力の消耗を惜しまず、個々の結界を強く張っておきたまえよ。一村をあっさりと滅ぼした相手だ。神属と言えどもまともに対峙すれば、この村の者共同様に、法力で心を壊される事もあり得るからな。知性を備えない”力”は、それ故に厄介なのだ」

 和修吉(ヴァースキ)はいつになく真剣な顔で、人狼兵達に警告する。普段の余裕ぶりからは考えられない態度に、人狼兵達は、捜す相手の手強さを想起して身を引き締めた。

「”捕縛”ですね? ”殺害”はならぬのですね?」
「是。特に天然の蘇生者なら貴重な標本だ。絶対に壊すなよ?」

 人狼兵の一人から、和修吉(ヴァースキ)に、対象の取り扱いについての問いが出る。童の慕う相手をなるべく傷つけたくないという思いからの確認だったのだが、返された答えに一同は鼻白んだ。和修吉(ヴァースキ)の声と瞳には、明らかに学師としての”期待”がこもっている。加えて”壊すな”と言った事から、理性を失った蘇生者を、人として考えていないのも明らかだ。
 和修吉(ヴァースキ)はやはり、皇国の内でも、理を尊び冷徹非情として畏れられる”一門”の学師なのだ。

「学問の上ではその様な見方となるのでしょうが、あえて申し上げます。幼き同胞(はらから)の心情を鑑みるべきかと。もし件の娘が生ける屍と化してしまっているなら、むしろ一思いに屠り、葬ってやるべきではないのでしょうか」
「ふむ……」

 たまりかねた人狼兵の一人が再考を促す。和修吉(ヴァースキ)は少し考え込んだ後、方針を修正した。
 
「一理あるが、”庇護に最善を尽くす”との約定もあれと交わしているのでな。”壊すな”と言ったのはその意味も含めての事だが…… 宜しい。捕縛した後にあれを呼び寄せ、慕う娘の変わり果てた姿を見せた上で決めさせよう。学究の礎にするも土に還すも、あれ次第だ」

 和修吉(ヴァースキ)の酷な判断は、人狼兵達を更にたじろがせたが、その内の一人は真意に気付く。

「この機に、幼き同胞(はらから)の資質を試す…… そういう事ですか」
「是。御夫君様の御側に侍る事を認められた、才覚ある童。あれが如何なる決を下すか、実に興味深い物だよ」

 和修吉(ヴァースキ)の意図に、人狼兵達は戦慄する。万が一、一門の重鎮にして皇族でもある和修吉(ヴァースキ)の意にそぐわない判断を、童が示せばどうなるか…… 言仁はそれでも庇うだろうが、童の栄達に傷がつく事は想像に難くない。宮中では、例え皇帝夫妻の寵愛を受けていても、有力な家臣の機嫌を損ねれば立場が危うくなる事もあるのだ。
 そうならない事を願いつつ、人狼兵達は捜索へと出向いていった。



[37967] 7話「樵に育てられた人狼」その22
Name: トファナ水◆34222f8f ID:b7003820
Date: 2017/07/17 05:44
 和修吉(ヴァースキ)が計都(ケートゥ)の指示で、検分の為に代官の郷里へと向かった頃の石津。
 代官兄妹に自害を迫った阿瑪拉(アマラ)は、後の監視を以前から石津に配置されている間諜達に任せると、童と共にひとまず休息を取る事にした。指揮所として馬車を、薬座の行商に偽装して村外れに待機させてある。
 ちなみに、屋敷の外に住まう代官の配下の始末についても、間諜達の手で、夜が明ける前に行われる。
 始末するのは代官が郷里から登用した者だけで、代官の赴任前から務めている者や、美州領家から寄越された者は除いている。個々の区分については、今回の件に関わりなく間諜達が以前から把握していたので、全く問題ない。
 これらの者に手を出さないのは、代官の地元贔屓から起こった今回の件と関わっている可能性が低い事と、為政者の不在で石津が無秩序に陥るのを防ぐ為である。
 二人が村外れまで行くと、しっかりした造りの大型の馬車が駐まっていた。薬座が使用している物と同様の型で、今の美州では珍しがられる物ではない。

「阿瑪拉(アマラ)師に、そちらは新たな侍従見習殿でしたね。御苦労様です。音は一切漏れぬ様になっておりますので、しっかりとお休み頂けるかと思います」
「世話になりますで」「宜しくお願いします」

 人間の女に変化している羅刹兵の御者に出迎えられた二人は、自らも人型を取って中へと乗り込んだ。本来の姿で入るには車体が小さい為なのだが、衣がないので例によって裸体である。
 中には荷物の類が殆ど無く、代わりにゆったりと休める様に寝具が整えてある。枕の傍らには”後始末”の為の紙も備え付けられていた。
 御者が周囲を警戒し、さらには人間除けの結界も巡らせてある。緊急時には即時の発車も可能だ。安全には十二分な配慮がなされているので、仮の宿としては申し分ない。

「しっかり寝ておきなされよ。和修吉(ヴァースキ)師の検分次第で、あちらの村まで出向くかも知れませんでな」
「あの…… 営みはいいんですか?」

 早々に横たわり布団を被る阿瑪拉(アマラ)に、童は思わず聞き返す。
 支度も調っている事から、寝る前にまぐわう物だとばかり思っていたのだ。皇国の女の荒淫ぶりは身にしみているし、自分も徐々に染まりつつある。

「胎に赤子が宿りましたで。流れてしまわん様、もう少し腹が大きゅうなるまでは慎みませんとな」
「え、赤子が!? 俺の?」

 阿瑪拉(アマラ)が孕んでいると聞き、童は仰天した。まぐわえば子が出来るのは自然な事なのだが、自分の胤で命が生じたと聞かされて慌てるのは男の常である。

「そうですわ。生みの親が手元で育ててはいかんというのが皇国の掟なもんで、生まれたらすぐ、子育てをする処へ引き渡さんといかんのですけどな」
「え、阿瑪拉(アマラ)師は確か、島で赤児を育てるのを仕切っているんじゃ?」

 阿瑪拉(アマラ)が菅島の乳児舎を統括している事は聞かされていた童は、意外な顔をする。

「ああ、一門のもんが産んだ子は菅島では育てんで、平家の女衆がやっとる別の乳児舎で育てる事になっとるんですわ。儂等が手ずから育ててしもうては、いらん情をかけてしまいますからな」

 権力の側にある一門にも法を厳格に適用する為、複数の乳児舎を用意する皇国の徹底ぶりに、童は納得した。

「だからこそ、産むまでは儂の胎できっちり育てませんとな。成年するまで、しばしの別れになりますで」

 阿瑪拉(アマラ)は愛おしそうに、子の宿る下腹を撫でている。童もそこを凝視したが、まだ膨らみはよく解らない。

(こん中に、俺が胤を仕込んだ子がいるのか……)

 養い育てる責が無いといっても、血を分けた子が出来るのだ。童は否応なく父となる事を自覚せざるを得なかった。

「おっ母さんが族長代で立派な学師様でも、親父が情けない様じゃいかんですよね……」
「なれば儂等の子に恥じん様に、今回の事はきっちりとしなされよ」
「はい。村の仇は討ちました。後は、姉ちゃんがどんなになってても取り戻します」

 力強く頷く童を、阿瑪拉(アマラ)は愛おしく抱きしめる。彼女が童に抱く情は、牡に対する物というより、子に対するそれに近い。
 本来ならいつもの様に、強張りを胎に迎えて繋がりたい処だが、中で座している命の為に阿瑪拉(アマラ)はこらえる。
 食事の様に交合を嗜む皇国の女にとって、禁欲は少々辛い事なのだが、もう少し育つまでの辛抱だ。

「お主は本当に、心根が優しくて強い、とてもええ子ですわな……」

 そして二人は、そのまま泥の様に眠りに落ちていった。
 代官の郷里が壊滅した状況の詳細や、幼馴染みの娘が蘇って徘徊している可能性が高い事、そしてその捜索の進展を二人が知るのは、目覚めた後となる。


*  *  *


 翌朝。
 代官所では、代官を始め殆どの者が出自して来なかった。
 普段通りに出自してきた次席の役人が不審に思い、代官の屋敷を訪ねると、中では凄惨な光景が広がっていた。
 奉公人、そして警護の足軽等、務めていた者達は皆、物言わぬ骸となって斃れている。ある者は刃物で喉をつき、別の者は欄間に縄をかけてぶら下がっていた。息をしている者は一切いない。

「一体何が……」

 狼狽しつつも刀を抜き、警戒しながら役人は奥座敷へと進む。
 そこには、屋敷の主、そして妙齢の女がやはり自害して果てていた。
 書机の上に遺されていた文を見つけた役人はそれを読み、昨晩に何が起きたかを知る。
 人狼に企てを暴かれて責め立てられた末、故郷の民に報復の牙が向かぬ様、代官は自らの命で始末をつけたというのだ。
 畳の上に、若干の獣の毛が落ちている事が、人狼の来訪が事実であろう事をうかがわせる。
 伊勢の例もあり、人外の妖(あやかし)が人の治世に干渉して来た事については、大いにありえるとして、役人は疑義を持たなかった。まして文面にある通り、人狼が加護を与えていた村を害した事への報復を受けたのであれば尚更である。
 代官だけでなく、屋敷の者が悉く自害しているのは、彼等がそろって代官と同郷の者で、一蓮托生の立場だったからだろうと役人は推察した。
 彼自身は代官に登用されたのではなく、元々、下克上で成り上がって以来の美州領家の直臣である。その為、樵(きこり)の村を滅ぼして奪う企てについても知らされなかったのであろう。思えば、代官所に今朝、出自して来なかったのはこの屋敷の者同様、代官の伝手で任じられた同郷の者、要は子飼いばかりだ。

「もしや!」

 嫌な予感を覚えながら役人がひとまず外へ出ると、出自していない他の者の家へ様子を見にやった代官所詰めの奉公人が、息を切らして走って来た。

「え、えらい事です! どいつもこいつも皆、首くくったり喉を突いたりしてくたばってます!」

 奉公人は慌てふためいて、身振り手振りを交えながら惨状を報告した。

「誰か、何が起こったのか聞けそうな者はおらなんだのか?」
「それが、当人だけじゃなくて女房も童も、みんな逝っちまってて! 何が何だか!」
「そうか……」

 最悪の状況を聞いた役人は、深く溜息をついた。

「あの、もしかしてお代官様も?」
「うむ、屋敷に詰めておる者、皆がそうだ。面妖と言う他ない……」

 奉公人が恐る恐る尋ねると、役人は重々しく頷いて認めると共に、侍として次の行動に映るべく頭を切り替えた。

「さし当たり”疫病が出た”という名目で、代官所、そして各々の家は出入りを差し止める。残る足軽や奉公人を集めて直ちにかかるぞ! それと早馬を支度せよ! 殿へ一刻も早く知らせねば!」
「は、はい。でも殿様が知ったら俺等、もしかして……」
「咎めがあれば拙者が一身で引き受ける故、貴様等は余計な事を考えるな! さあ行け!」

 不安を口にしかけた奉公人だが、役人に叱責されると、慌てて残る者達を集めに走って行った。

「……愚かな事をしてくれた、あの成り上がりめが!」

 奉公人が走り去った後、役人は忌々しげに代官への悪態を一言こぼし、美州領家への報告の口上を考え始めた。

(さて、美州領家はどう動く?)

 代官所や屋敷で慌ただしく動く者達の様子を、人間に化身した間諜達は陰から監視していた。




[37967] 7話「樵に育てられた人狼」その23
Name: トファナ水◆34222f8f ID:b7003820
Date: 2017/07/30 21:10
 代官所の動きは、監視していた間諜の一人によって直ちに阿瑪拉(アマラ)と童の馬車に伝えられた。
 二人はまだ眠っていたが、御者に起こされた阿瑪拉(アマラ)は、童を起こさぬ様にして床を抜け、詳細を聞いた。

「成る程、代官共は皆、きっちり始末したと。で、見逃してやった次席の役人は”疫病”という事にして当座を誤魔化す訳ですな。そんなら直ちに石津を発ち、州境を越えて伊勢側へ戻りますわ」
「宜しいのですか?」

 検分の進展次第で代官の郷里にいつでも向かえる様、石津に待機しておくのが元々の予定だったので、間諜は阿瑪拉(アマラ)に確認する。

「”疫病”となれば石津は封じられ、出入りが困難となって面倒ですわ。間を置かずに、美州領家の手勢も来ますで、その前に退きませんとな。お主は配置に戻りなされ」
「ははっ!」

 間諜は合掌し、認識を阻害する法術を自らにかけ直して姿を消した。

「侍従見習殿には、お知らせせずとも宜しいので?」
「いったん退くのに納得せんで、ひと揉めするかも知れませんでな。州境を越えるまで寝かしておきますわ」

 御者は、眠っているままの童を気に掛ける。何しろ、今回の件の当事者なのだ。
 だが阿瑪拉(アマラ)は、童が納得せずに飛び出そうとするのではないかと懸念した。普段なら難なく止められるのだが、思い詰めた者は何をしでかすか解らない。

「ああ、それと、和修吉(ヴァースキ)師や他の人狼兵共に、美州の兵から身を隠す様に鏡で伝えんと。昨晩の検分の事も聞かにゃなりませんしな。後、菅島の導師にも一報を入れておかんと。まあ、それは儂が直にやりますで」
「畏まりました」

 御者は阿瑪拉(アマラ)の命に従い、馬車を伊勢との州境へと向けた。


*  *  *


 阿瑪拉(アマラ)達の馬車が州境に達し、伊勢側の関所へ着いた頃。
 代官所、そして代官を筆頭に勤めている者の殆どの者が昨夜の内に疫病で倒れたという話は徐々に石津の住民達に伝わって行き、日が高く昇る前には大騒ぎになった。
 村から外へ続く街道は、疫病が広がるのを防ぐとして、足軽に指揮された馬丁達によって封鎖されている。
 大半の足軽が死んでしまった為、役人が馬丁座へ人を出す様に命じたのだ。
 馬丁達の内、材木の切り出しが滞って稼ぎがなかった者が充てられたが、僅かではあるが日当が出る事もあり、彼等は素直に応じている。

「どうなってるんですだ!」「商売になりゃしねえ!」
「悪いが出せねえ。疫病が広まったら困るでよう」

 外部との往来を差し止められた住民や滞在者は、道を封じている足軽や馬丁と押し問答をするが、埓があかないとなると、今度は代官所に押し寄せた。
 こちらには、臨時に加えた馬丁達はおらず、代官所付きの足軽や奉公人のみで警戒にあたっている。
 彼等はいずれも口を布で覆っており、押し寄せた者達も、疫病が出たのだという事を実感させられた。

「静まれ、静まれい!」

 建物から出てきた次席の役人に、群衆は慌てて平伏した。その様子に役人は、まだ秩序が失われていない事を感じて、内心で胸をなで下ろす。
 ここで自分が威厳を保たねば、石津はたちまち恐慌に陥ってしまうだろう。

「お、お代官様や他の方は!」
「皆、伏せっておる。峠を越せるかは、何とも言えぬ」

 代官達の病状を問われた役人は、重々しく、予め定めていた偽りを語った。

「お、俺達は大丈夫でしょうか?」
「美州殿には使いの早馬を出してある故、一両日中には手が打てよう。それまでは各々の家で、静かに過ごしておると良い。それとなるべく、ここや武家屋敷には近寄るでない」
「へ、へい……」

 役人の言葉に群衆は従い、ひとまずは家路についたが、皆、やはり不安げな顔を隠せない。

「そ、そうだ、薬、伊勢の薬じゃあ!」
「そうだ、あれがあった!」

 そんな中、ある者が伊勢の薬の事を言い出し、人々は希望を取り戻す。だが、命の対価と思えば安い物とはいえ、一服百文とあっては気軽に使える物ではない。持てる銭全てを費やしても、手が出ない者も少なくなかった。

「一服百文だ、手が出ねえ……」
「大丈夫だ。銭の代わりに赤児でもいいっちゅうぞ!」
「駄目だ、うちにゃどっちもねえ!」

 銭の代わりに赤児を対価として引き渡す事も出来るのだが、そうそう都合良く赤児がいる家も一部だ。
 銭も赤児もない者達は、いつもの様に人間の女に扮して屋台を出している皇国の間諜……ちなみに代官所に張り付いている者達とは別動である……の元へと泣きついて来た。

「あ、あんた、伊勢のもんだろ? 何とかならねえか? 死にたくねえよお!」
「そういう事は薬売りに言っておくれよ。銭も赤児もなきゃ、証文でも受けてるそうだけどねえ」
「そ、そうか……」

 涙目で訴える者達に対し、間諜の答えはあっさりした物だった。しかし、とりあえず銭がなくとも何とかなりそうだという事で、皆は落ち着きを取り戻した。
 返すあてのない銭の証文を書けば、返済の期限と共に破滅が身に降りかかってくる事は解っている。だが、今死ぬよりは余程いい。

「今日は多分、薬座の馬車は正午頃に来ると思うよ。まあ、今日はどうせ仕事にならないんだろ? とりあえず一杯やってきなよ。気が滅入った時は、こいつが一番さ」
「姉ちゃん、一杯くれ」「俺にも」「こっちもだ」

 馬車が来るなら、薬が足りないという事もないだろう。
 気分直しに一杯引っかけた者達は、先程までの恐れはどこへやらで、ほろ酔い気分で引きあげていった。


*  *  *


 美州領主の住まう稲葉山城。
 早馬による石津からの使者は、震える声で領主に事の次第を語る。領主は落ち着いた様子で静かに耳を傾けた。

「責を取るべき者共は自害し、己を裁いたか。残っておる者には然るべき詮議を要するが、なるべくならばこれ以上の血は流しとうない」
「殿、それは甘いのでは? おめおめと生きておる者についても、きつい御沙汰を下すべきかと」

 穏便に済ませたいとの領主の意向に対し、側近の一人が異を唱える。だが領主はそれを否とした。

「かような愚者を取り立て代官に任じた、儂の目が曇っておったという事よ。ともあれ、すぐに石津へ参るぞ。供回りを参集して、馬を支度せい」
「と、殿が御自ら?」

 側近達は、領主が石津へ出向くと聞いて驚いた。普通なら、家臣に任せておく程度の事件に過ぎない。

「あそこは州境に近い交易の地。故に伊勢の龍神がどう動くか解らぬ。あれらは圧政からの救民を大義名分として、神宮を滅したのだ。美州領家が神宮同様に民を損ねる”うつけ”と見なせば、容赦なく我が美濃へ襲いかかって来るやも知れぬ! あくまで此度の件は代官の不始末として、領主たる儂が収める姿勢を見せねばならぬのだ!」

 伊勢が美州につけ入る隙を与えてはならないとの領主の弁に、側近達は聞き入っている。

「肝心の人狼共は如何しますか?」
「さしあたり、代官やその郎党以外への敵意がないのであれば捨て置く。もしさらに暴れるとなれば、伊勢に助力を求めるも止むを得ぬ」
「龍神に? しかしそれは……」

 人狼を討つならば伊勢に兵を乞うとの言に、側近達はどよめく。
 皇祖神を祀る神宮を滅ぼした龍神は、朝廷から見れば許しがたい賊徒である。それと結べば、京に参じて天下統一の詔を得る道を捨てる事に直結してしまうのだ。
 それどころか、朝廷を仰ぐ他州に、美州へ攻め込む大義を与える事にもなりかねない。

「では、妖(あやかし)を斬れる強者が、我が手勢におるとでも?」
「いえ……」

 反対を口にしかけた者は、口を濁らせた。人外の妖(あやかし)は一騎当千。とてもかなう者などいないだろう。

「そうであろう。それに龍神との戦となれば、滅するが人の側であるのは必定。なれば、いつまでも睨み合う訳にも行くまいて」
「発端となった人狼とやらが、そも、伊勢の仕込みかも知れませぬぞ?」
「成る程。だが、その様な絡め手を使うのであれば、それはそれで問答無用で襲って来る相手ではないという事にもなろう。それだけでも幾分かはましと言う物だ」

 領主は、人外の勢力に抗する事がかなわない以上、場合によってはこれを奇貨として龍神との対話を試みる腹を固めていた。


*  *  *


 童が目覚めると、そこは馬車の中ではなく、見知らぬ広間だった。
 羽毛の詰められた柔らかな布団の上に、彼は横たわっている。
 
「お目覚めですわね」

 枕元からの声に顔を向けると、そこには、初めて見る女がいた。
 阿瑪拉(アマラ)と同じ様に白い肌だが、金色の髪に、垂れた碧眼。そして三対の腕を持ち、白い紗麗(サリー)を纏っていた。人間ならば歳は三十程に見えるが、神属の歳は見かけでは解らない。
 女が皇族とされる阿修羅(アスラ)で、服装から一門の者だと言う事は解るが、桑名で見覚えのある顔ではなかった。
 相手が皇族と知り、童は慌てて起き上がろうしたが、阿修羅(アスラ)の女はそれを止めた。

「まだ疲れていますでしょう? 今少し休んでいらっしゃいな」
「あの、ここは?」
「美州と伊勢の州境にある関所ですわ」

 どうやら、眠っている間に馬車が伊勢まで戻っていた様だ。
 童は傍らにいた筈の、我が子を宿した相手がいない事に気付いた。

「阿瑪拉(アマラ)師はどうされました?」
「飛行絨毯…… 空を飛べる敷物に乗せて、菅島へ戻しましたわ。あれの胎には、貴方との間の児がいますもの。無理はさせられませんわよ。小生は、入れ替わりで今回の事を引き継ぎましたの」

 阿瑪拉(アマラ)が身重なので帰したと聞き、童は不満を述べる事が出来なくなった。幼馴染みが大切とは言う物の、我が子を身籠もる阿瑪拉(アマラ)に無理をさせる訳にも行かない。

「それで、貴女は?」
「申し遅れましたわね。小生は計都(ケートゥ)。一門の長として、皇国の学問を預かる身ですわ。ようやく、会えましたわね」
「ああ…… 導師の事は、阿瑪拉(アマラ)師から伺っております」

 計都(ケートゥ)については、童は一通りの事を阿瑪拉(アマラ)や、宿で同衾した人狼の学徒達から聞かされている。表面は穏やかだがとても冷徹で、皇帝夫妻を含め、皇国中から畏れられているという事だった。
 優しげな顔だが瞳は決して笑っていない狂信の学師を見て、童はむしろ頼もしさを感じた。自分が害される事はまず無い以上、恐れる必要はないのだ。
 卑屈な者、媚びへつらう者を嫌う計都(ケートゥ)もまた、恐れを見せぬ童には良い心証を持った。

「代官達が死んだ事で、石津を出入りする街道が、疫病が出たという名目をつけて、残る兵によって塞がれていますの。そうなる前に、貴方が寝ている間に馬車をここまで下げましたのよ」

 阿瑪拉(アマラ)の体の事だけでなく、石津を巡る状況が悪化する事を見越しての脱出であったなら、尚の事、童は納得せざるを得ない。

「姉ちゃんはどうなったでしょう?」

 続く童の問いに計都(ケートゥ)は、代官の郷里を和修吉(ヴァースキ)が検分した結果、鏖殺は生ける屍と化した童の幼馴染みによる物と推察している事、そしてその行方が未だ掴めていない事を話した。

「生ける屍になっちまった…… 治らないんですか?」
「その様な事になっているという事自体、あくまで推測ですわ。なっていたとして、診てみないと解りませんわね」
「まだ、駄目と決まった訳じゃないんですね!」

 童の言葉が絶望や諦めではなく、望みが残っていないかの問いであった事に、計都(ケートゥ)は感心した。常に前を向いているこの少年は、宮中に相応しい気質を備えている。弗栗多(ヴリトラ)と言仁の双方が気に入り、手元に置く事を決めたのも当然だろう。

「ええ。でも、覚悟はしておきなさいな」
「わかって……います」

 いかに計都(ケートゥ)と言えども、知性が失われた蘇生者を回復させるという確約は出来ない。状態にもよるが、望みはかなり薄いだろう。
 また、幼馴染みの娘が蘇生していたという推測が誤りだったなら、やはり生存の望みは殆ど無い事になる。
 童もまた、皇国が決して万能ではない事は理解出来ていた。その上で、出来うる限りの手を尽くすしかない。自分は皇国の中枢に近い場所から、その力を求める事が出来る。それだけでも希有な幸運なのだ。

「落ち着いたら、石津へ戻りますわよ」
「え? 今は入れないと仰ったばかりではないですか?」
「薬座がいなければ”疫病”はどうにもなりませんもの。薬座として乗り込めば通さない訳には行きませんわよ」

 確かに、代官所の封鎖する名目として”疫病”を騙った以上、それを癒やす事が出来る薬座を門前払い等出来る筈がない。

「それと、面白い事になって来ましたわ」
「何でしょう?」
「石津より北側に配している間諜からの報では、美州のお殿様が来る様ですわ。丁度いいですから、この際、色々とお話出来ると良いですわね」

 計都(ケートゥ)は童に、穏やかながらも愉しげに目論見を語る。
 生娘の様な無垢の笑顔で政(まつりごと)を語る彼女に、多くの命を碁石の様に弄ぶ魔性を感じ、童は初めて畏れを抱いた。



[37967] 7話「樵に育てられた人狼」その24
Name: トファナ水◆34222f8f ID:b7003820
Date: 2017/09/07 22:35
 領主は重臣達との評議をしめると、稲葉山城まで早馬で来た伝令を案内に、三十騎の郎党を引き連れて直ちに石津へと発った。
 城下の者達は、領主自らが騎馬を駆る姿を、何事かと不安げに眺めていた。

「蝮(まむし)様は大勢を引き連れて、慌てて何処へ行きなさるんじゃろう?」
「南は伊勢の方角じゃ。つ、ついに龍神様と、戦が起こるんかのう……」
「馬鹿をこけ、あげな数で戦なんぞ出来る物かよ」

 戦では無いかと怯える者達の声を、足軽の経験がある者が笑い飛ばす。戦はもっと遙かに多く千、万の兵が動く物だ。

「何でも石津で、疫病が出たっちゅうとったで?」

 疫病により石津の手前で街道が閉ざされているという話は、城下にも知れ渡り始めていた。耳ざとく噂を聞きつけていた者が、その事を口にする。

「疫病じゃと? 悪くすると広がらん様、石津を民ごと焼き討ちかも知れん……」
「ひい、そんならそれで、えらいこっちゃ!」
「仕方なかろうが! 手前が死にてえかよ!」

 疫病が発生した際、まだ生きている者もろともに周辺を焼き払うのは、感染の拡大を防ぐ為にしばしば取られる処置だった。
 酷いが、より多くの民を救う為にはやむを得ない事でもある。誰も、疫病をうつされたくはないのだ。

「皆の為とはいえ、嫌な御役目じゃからのう。手ずから仕切るとは、蝮(まむし)様も辛かろうなあ……」

 土煙をあげて走り去る騎馬の列を見送る民達は、名君として慕う領主の心中を思いやるのだった。


*  *  *


 美州との州境にある、伊勢側の関所。
 計都(ケートゥ)は童と共に人間へ化身すると、用意させてあった薬座の馬車へ乗り込んで石津へと向かった。
 化身と言っても、金色の髪に蒼い瞳を和国人の様に黒くしたのと、三対の腕を一対にしたのみである。阿修羅(アスラ)は元々人間の姿に近い為、それで充分なのだ。
 服装は、伊勢の薬売りが主に用いる壺装束である。
 童の方はと言えば、人間としての姿は普段通りなのだが、計都(ケートゥ)と揃いの衣装を着せられていた。
 彼が女装を纏うのは、阿瑪拉(アマラ)に連れられて桑名入りしたときに続き、二度目となる。当然ながら渋ったが、専ら女が従事する薬売りに扮する為の都合だと計都(ケートゥ)に諭され、不承不承ながらも袖を通した。
 馬車を牽いているのは馬では無く、近衛に属する白虎である。第一には警護が目的だが、皇国による密使である事を、美州側へ暗に示す為でもある。
 童は車中で終始、うつむいて無言のままだった。
 幼馴染みの事を案じているのだろうと、あえて計都(ケートゥ)は声を掛けていない。
 昼下がり頃、石津の建物が遠目に見える辺りに差し掛かると、その出入口に数名の男達が立ち塞がっているのが、白虎の眼に映った。

「計都(ケートゥ)師、如何しますか」
「そのままお進みなさいな」

 ”疫病”の名目で石津が閉ざされている事は、計都(ケートゥ)も承知している。
 意向を確認した白虎は、そのまま歩みを進めた。
 人間の眼でもこちら側の姿がはっきり解る辺りまで近づくと、道を塞ぐ者達が慌てている様子が見え聞こえて来た。

「伊勢の馬車が来たぞ!」
「と、虎だ! いつもの馬じゃねえ!」
「代官所に知らせい!」

 恐ろしげな顔つきの白虎に彼等は震え上がりつつも、その場に積みとどまり槍を構える。逃げ出せばきつい咎めが待っているのだ。

「御役目、誠にご苦労。無辜の者を襲ったりはせぬので安心せよ」
「しゃ、しゃべったあ!」

 若い女の声で話す白虎に、足軽や馬丁達は目をむいた。

「伊勢に白虎が住まう事は知っておろうに、何を驚くか。これは薬座の車なれば、通しては頂けぬか」
「だ、駄目だ! 疫病が出たで、石津の出入りを封じる様にとの、代官所のお触れが出ておるんだ! い、伊勢へ帰ってくれ!」

 統率を任されているらしき足軽は、腰がひけながらも槍の切っ先を白虎に向けて引き返す様に命じる。

「疫病ならば猶の事ではないか。伊勢の薬を求める者は多かろうに」
「お、俺達では、勝手に決められん……」

 落ち着き払っている白虎と、震え声の足軽達が向き合って問答している処へ、石津の側から相応の身分らしき侍が慌てて駆けて来た。
 
「そこの車、伊勢の薬座とお見受けする。早速だが、殿がお召し故、同行願いたい」

 流石に侍は、相手が白虎であっても臆する事が無い。戦場で敵として相対したならともかく、この場では話が通じる相手だと承知しているのである。

「”殿”とはもしや、御領主殿の事であろうか」
「左様。此度は石津で疫病が出た旨の報を受け、駆けつけて来られた」

 美州領主が石津に来訪する事は把握しているが、白虎はあえて侍に尋ねる。
 その問いに侍は是と答えると共に、白虎の態度からみて、州外との交渉に高い裁量が与えられている立場なのであろうと推察した。

「そちらも疫病が出た事を知っているからこそ、常の馬車では無く貴殿を遣わされたのでは?」
「然り。石津が閉ざされる前に伊勢へと戻った者から報せを受け、この地の民の為に入念な支度を調えて参った次第」
「成る程」
「疫病となれば、我等の医薬が多く入り用になろう。だが高価な物である故、その辺りの事を御領主殿と相談出来るなら申し分ない。申し入れの件、承ろう」
「では、拙者に付いて来られよ」

 侍の先導を受け、馬車は石津へと入った。
 日中というのに村の中は静まりかえっていて、出歩く者が見当たらない。

「民が見当たらぬが、よもや疫病で?」
「疫病は代官所に勤める者の間で出て、民には広まっておらぬ。閑散としておるのは、出歩かぬ様に触れを出した故なので心配無用」

 これが疫病ではないという真実は承知しているが、白虎はあえて周囲の様子を不審そうに尋ねた。事前に状況を把握している事を、この時点では悟られたくない為である。
 案内の侍もまた、淀みなく答えた。

「伊勢の者が若干、商売で逗留しておる筈。どうしておるか気にかかるが……」
「石津の中にいた者は、木賃宿等へ投宿しておる。村外の北側から石津を抜けて伊勢側へ向かおうとしていた者は気の毒だが、村外の美州の民同様に引き返させた」

 白虎は、伊勢の民の安否について口にした。実際には間諜達の手によって無事は確認されているが、美州への牽制である。
 案内の侍はこれについても、申し訳なさそうながらも威厳を保ち、はっきりと答えた。

「さし当たり無事であれば、それで結構である」
「かたじけない」

 話が通じる相手とはいっても、伊勢の妖(あやかし)を怒らせれば破滅が待っている事は明白である。
 伊勢の民の処遇に対し、白虎が問題として来なかった事に、案内の侍は表情を保ちながらも、内心では胸をなで下ろしていた。


*  *  *


 案内されたのは、石津の北側の外れにある寺院である。
 周囲は領主の供として随伴した侍達によって、厳重な警戒が敷かれていた。
 領主の直衛なだけあって、彼等は白虎の姿を見ても微動だにしない。だが流石に、その内の若年者の顔には、若干の緊張が見て取れる。

「ささ、伊勢の御客人。奥で殿がお待ちである」

 案内の侍は寺の門前で、白虎を招き入れようと促す。

「否。自分は警護を兼ね車を牽いてきたに過ぎぬ。薬座として参ったのは、車に乗っておられる方だ」

 車から降りて来たのは、壺装束の二人の女だ。一人は齢三十程の女、いま一人は齢十三、四程の娘である。
 若い娘の方は緊張した様子で顔を強ばらせている一方、年長の方は場慣れた感じで、人の良さそうな笑みを浮かべている。
 武装した侍に囲まれながらも悠然と微笑む女が、一介の薬売りの筈が無い。人語を解する白虎に警護されている事を考えても、伊勢の密使であろう事が察せられた。

「御苦労様。用を済ませるまで、休んでらっしゃいな」

 年長の女は白虎にねぎらいの言葉をかけ、若い娘と共に、案内に従って門をくぐった。
 境内には、処せましと、筵(むしろ)をかけられた骸らしき物が並べられている。その数は、おおよそ百二、三十程だ。
 死臭を打ち消すための香の匂いが、境内には立ちこめていた。
 真っ当な女であれば悲鳴を挙げるところが、二人はいずれも動じていない。
 年長の女は、微笑みを崩さず眉一つ動かさない。一方、若い娘の方は、緊張を忘れて忌々しげに骸へと厳しい視線を向けていた。
 その態度を見て、選りすぐりの直衛である筈の侍達は血が凍る思いだった。

(見た目通りの女じゃない…… 恐らくは人ですらなかろう……)
(こりゃ、海千山千の手合いだろうて……)

 案内の侍は、奥にしつらえてある座敷へ二人を通す。そこには、二人の男が座していた。
 一人は、侍の主君たる初老の男。一介の油売りから立身出世の末、下克上によって美州を手中にした、蝮(まむし)と通称される美州領主。
 そして今一人は、筋骨たくましい壮年の僧侶だった。

「お初にお目にかかる。儂は、美州領家の当主を務める者。そしてこちらが……」
「和尚様、じゃない!?」

 若い娘…… 童が思わず声を挙げる。ここは、自分が仕える筈だった寺だ。住職も見知っていたが、眼前の僧は別人である。

「ふむ、娘御は住職を知っておるか」
「あ……」

 僧の指摘に、童は口を塞いだが後の祭りである。
 ”和尚様”という敬称を使った事からも、寺の檀家の一員であった事が知れてしまった。さらに、正体が露見したかも知れない。

「住職は先程、任を解いた。あれは堕落しておった故、荒行によって鍛え直さねばならぬ」
「そうですか……」

 住職は恐らく、童の身柄を確保し損ねた責を問われたのであろう。その事について、童は全く同情しなかった。

「御住職を一存で免じる事が出来るなら、高野山からいらしていたという上人様ですわね? 御戻りになったと聞いていたのですけれども、引き返して来られたのですか?」
「いかにも。そちら方も姿通りの者ではあるまい?」

 年長の女……計都(ケートゥ)の問いを受け、僧は自らの素性を認めると共に、眼前の二人が正体を伏せているであろうと指摘する。

「申し上げて宜しいんですの? 小生の事は”薬売り”という事にしておきませんと。神宮を滅した朝敵と通じたとあっては、美州殿の御立場が危うくなりますわよ?」
「この場はあくまで密議。周囲の目をはばかる事もなかろうて」

 和国にとって朝敵たる補陀落(ポータラカ)と会談を持てば、美州もまた朝廷や幕府から敵視される事になりかねない。
 それを踏まえての計都(ケートゥ)の確認に、美州領主は頷いて構わぬ旨を返す。
 美州側にとって最大の脅威は、朝廷や幕府、それを支持する他州等でなく、補陀落(ポータラカ)である。
 故に、この対話の機を逃してはならないと領主は考えていた。これが成らねば天下取りどころか、今日の命すら危うい。

「では、御信頼頂く為にも」

 領主の意を受けて計都(ケートゥ)が右手で顔を撫でると、髪の色は本来の金、そして瞳は碧眼へと戻った。

「小生は計都(ケートゥ)。当代の那伽摩訶羅闍(ナーガマハラジャ)に幼少より学問を説いた阿修羅(アスラ)ですわ。本来の腕は三対ですけれども、衣を破いてしまう訳には行きませんから、真の姿は顔だけで御許し下さいませ」



[37967] 7話「樵に育てられた人狼」その25
Name: トファナ水◆34222f8f ID:b7003820
Date: 2017/09/11 06:18
「大して変わらぬ物だのう……」

 美州領主・上人の双方共、相手の髪と瞳の色が変じた程度では全く動じない。
 人に害を加える妖(あやかし)と幾度も戦ってきた上人は当然として、美州領主もまた、熱田で堂々と活動している伊勢の羅刹(ラークシャサ)を目撃した事がある為だ。

「して、そちらの若い者が女装を纏っておるのは、天竺の習俗であろうか?」

 少女の様な顔立ちの童だが、美州領主はその正体を男子であると見抜いていた。

「いえ。伊勢の薬売りは専ら女が務めておりますから、それに扮する都合ですわ」
「左様か。して、若い者は人間であろうか? 」
「これは人ではございません。知恵ある狼、即ち人狼の仔が化身した姿ですわ。衣を脱げば正体に戻れますけれども、御所望ですか?」
「いや、それには及ばぬ」

 美州領主への計都(ケートゥ)の申し入れに、童は不安げに彼女を見る。
 その様子に、美州領主は苦笑しつつ否定した。

「それにしても人狼とな。なれば、伊勢も此度の件に関わっておるのか?」

 美州領主は、”人狼によって企みを暴かれた末に自害を迫られた”という代官の遺書に目を通している。
 また今回の件に、伊勢の関与がある事も疑っていた。

「ええ。境内に横たわる骸が疫病による物ではない事も、存じておりますわ」
「……子細を聞かせては頂けぬか」

 疑いを自ら認めた計都(ケートゥ)に、美州領主は先を促した。どの様な意図があったのか、まずはそれを確かめねばならない。
 計都(ケートゥ)はそれに応じ、これまでの経緯をかいつまんで語った。
 石津近くの村に拾われた人狼の仔が住まう事を知り、成長して人を食らわねば生きられぬ身になる前に、本国から随伴してきた伊勢側の人狼を遣わして庇護をはかった事。
 童を庇護してしばらく後、件の村が逃散したと聞き、安否を確かめに人狼の隊を密かに向かわせた事。
 村近くで、逃散を人狼の仕業と疑って調べに来た上人と出会い、人間への害意はないと示した上で、崖から身を投げて果てた村人達の骸を見つけた旨を教えられた事。
 骸を検死した結果、阿片で朦朧としたところを操られていたと断定。それが出来るのは、神宮支配下であった旧薬座に属していた者であろうと推察。
 また、村を巡る利害を鑑み、対立する村の出身である代官が怪しいと睨み、調べた結果、代官の実妹は旧薬座に属しており、匿われていた事。
 逃亡の路銀を得る為、童の村を阿片で鏖殺する事を実兄の代官に持ちかけて結託。代官は鏖殺を揉み消す為に”逃散”と公表し、無人となった村を、自分の郷里の者に与えようとした事も判明した事。
 補陀落(ポータラカ)における人狼の長・阿瑪拉(アマラ)は童と共に代官の屋敷に踏み込み、代官兄妹に自害を求めた事。
 さらに代官所詰めの足軽・奉公人の内、代官の縁故で起用されていた者は同様に自らを裁かせた事。
 縁故なき者は、関わりが薄いとみなして見逃した事。
 計都(ケートゥ)の話を、美州領主と上人は、神妙な顔で聞いていた。

「……件の村については、上人殿に伺った話と矛盾は見られぬな。その後の事も、確かに筋が通っておる」

 語り終えた計都(ケートゥ)に、美州領主は納得した旨を答える。だが、理では解っても、情として信じたくないのが顔つきから見て取れた。
 見所がある故に抜擢した者が、愚行に走った末に破滅したと認めるのは、やはり苦しいのである。
 計都(ケートゥ)は持参した包みを解き、八咫鏡を取り出した。

「言葉のみでは信じられぬでしょうから、こちらを御覧下さいませ」

 鏡面には、阿瑪拉(アマラ)と童が踏み込む直前の、代官と実妹の会話の様子が、声と共に映し出されている。

『郷里の衆も、後を継げぬ者にあてがう地が出来て、とても喜んでおりますね』
『ああ。お前も、路銀が稼げただろう』
『逃げた先で身を立てるには、何よりも銭。あの村の者共を始末した後、豆銀を総取りして良いとは全く助かりました』

「うむう……」

 代官兄妹による謀議の動かぬ証拠を見せつけられ、美州領主の口からは呻きが漏れる。

「お殿様が、あんな奴を代官に取り立てなんだら、こんな事にはならんかったんです!」

 童は思わず喚いた。美州領主に会いに行くと聞いて、”元”領民として直に言いたかった事だ。顔は紅潮し、眼には涙が溜まっている。

「これはまさしく儂の不徳。我欲の為に領民を害する様な輩に、この地を任せておったとは」

 童の様相に、美州領主は非を認めざるを得なかった。

「なれば美州殿。これの養父母を始めとした村の者達の命を損ねた非はそちらにあると、お認めになりますわね? 伊勢から逃げ出した旧薬座の者を匿った末、それにたぶらかされ愚かな企てを目論んだ者共の末路も、当然の報いであると」

 計都(ケートゥ)は静かな口調ながら、冷然と言い放つ。
 だがそこで、上人が異議を唱えた。

「しかし、計都(ケートゥ)殿。そちらもまた、美州で兵を隠密裏に動かしておったであろう?」
「ですから、人狼兵は獣の姿形で向かわせましたの。人の姿ではありませんもの、人の法に縛られる道理もありませんわよ?」
「それは詭弁であろう!」

 姿形が獣なら人の法に縛られないと、計都(ケートゥ)は平然と開き直る。そのあまりに身勝手な主張に、上人は思わず声を荒げた。

「なら、そちらがいう妖(あやかし)を人が切り捨てたとして、美州では罪に問われますの? むしろ、豪傑として称えられるのではありませんかしら?」
「確かに……」

 計都(ケートゥ)の指摘に、上人も口を濁す。
 美州に限らず、和国では特に朝廷等から庇護を受けている一部の者を除いて、妖(あやかし)を殺しても罰される事は無い。そも、簡単に斃せる相手ではないのだが……

「法の庇護を受けられぬのであれば、こちらも守る道理がありませんもの。勿論、ここで人ならぬ小生達を屠るも、そちらの自由ですわ。出来る物ならですけれどもね」

 さしもの上人も、戦神として畏れられる阿修羅(アスラ)に正面からの勝算はない。万が一にも討てたとして、龍神の軍勢による報復を受け、美州と高野山は灰燼に帰するだろう。
 これは元より、対等の話し合いではないのだ。

「されど…… 此度の件で、今ひとつだけお聞かせ願いたい」

 やっとの事で声を絞り出した美州領主に、計都(ケートゥ)は首を傾げた。

「何でしょう?」
「代官の郷里たる村が、後ろ盾を失った事で騒ぎはせぬかと、儂が石津へ向かうのと同時にそこへも兵を差し向けたのだが。つい先刻、村が一人残らず滅していたという報せが来た。これも伊勢の仕業であろうか?」
「代官の謀議に関与していたかを詮議する為、昨晩に人狼兵を差し向けたのは確かですわ。でも、既にその時には、村の者は皆、骸と化していましたの。互いに殺し合った様子でしたわね」

 始めから滅ぼすつもりだった事は伏せた上で、人狼兵を向かわせた事と、手を下すまでも無く村が滅んでいた事を計都(ケートゥ)は語った。

「ならば一体誰が?」
「こちらこそ、知りたいですわ」

 互いに殺し合うとは、いかにも面妖な滅び方だ。しかしここに至って、計都(ケートゥ)が白を切る理由がないと美州領主は考えた。

「その様な事であれば、心当たりはなくもない」
「ほう?」

 上人の言葉に、美州領主は関心を示して先を促す。

「高野山に帰山する拙僧がこの寺に引き返したのは、道中で一体の”黄泉返り”を捕らえた故」
「”黄泉返り”とな?」
「死にきれずに迷うておる屍を、俗にそう呼び表す。強い怨念をまき散らし、常人は側に寄っただけで狂うてしまう。代官殿の郷里は、彷徨っておった”黄泉返り”に出くわしたのではなかろうか」

 話を聞いて、童の顔は蒼白となった。

「そ、その”黄泉返り”というのは今、何処に?」
「さし当たり呪符を貼って力を封じ、この本堂の地下にしつらえてある牢に入れたのだが。完全に滅する術式を組むには、相応の支度を要するでな」
「まさか、まさか……」
「もしや、知己では無いかと考えたのかね?」

 童の狼狽ぶりに上人が尋ねる。
 童に視線を向けられた計都(ケートゥ)は頷き、答えても良いと承諾を与えた。

「は、はい。俺の村で、一人だけ骸が見つからんもんがおったんです。もしかして……」
「それが若い娘なら、恐らくそうであろうな」
「ああ……」

 上人の言葉に童は顔を伏せ、大粒の涙をこぼした。予め計都(ケートゥ)から覚悟する様に言われていたとは言え、聞きたくなかった結末である。



[37967] 7話「樵に育てられた人狼」その26
Name: トファナ水◆34222f8f ID:b7003820
Date: 2017/09/18 20:22
「導師、姉ちゃんを助けて下さい!」
「ええ。解っていますわよ」

 涙を袖で拭い、すがる眼で懇願する童に、計都(ケートゥ)は優しげに頭を撫でてやる。
 程なく落ち着きを取り戻した童は、姿勢を正して座に着き直した。仮にも皇室御教授役たる計都(ケートゥ)の随員として来ているのだから、見苦しい態度は示せない。

「上人殿、”黄泉返り”と化した娘の身柄を引き渡して頂けませんかしら? この人狼の仔が想いを寄せる娘の救済こそが、那伽摩訶羅闍(ナーガマハラジャ)の詔(みことのり)であり、小生がここに来た目的の一つですの」
「ふむ。なれば娘が”黄泉返り”と化しておった事も、最初から全て承知だったと?」

 上人は目を細め、訝しむように計都(ケートゥ)を睨むが、彼女は静かに首を横に振って否定した。

「いいえ。身を投げたであろう崖の付近で骸を捜しても、一人だけ見つからなかった物ですから、もしや”黄泉返り”と化したのでは、という位には思っていましたわ。運良くその場に居合わせずに逃げ延びたのではという望みも含め、美州殿には、美州内で娘を捜す御許しを頂くつもりでしたの。よもや、仇の村を滅ぼした末、こちらに捕らえられているとは思っていませんでしたわ」
「成る程」

 上人は、計都(ケートゥ)の説明に納得した様子を示したが、求めについては簡単には応じられない。何しろ、一村をいとも容易く滅ぼす”黄泉返り”なのだ。

「しかし、もはや娘は”黄泉返り”。引き渡してどうするのか? 天竺の阿修羅(アスラ)なれば、拙僧如きが及ばぬ法力によって元に戻す事も出来ると?」
「診てみないと断言は出来ませんけれども、そのつもりですわ。力及ばずに叶わぬなら、せめて安らかなる最期を迎えさせましょう」
「むう……」

 計都(ケートゥ)が娘を回復出来ると断言しなかった事で、上人はかえって彼女の慎重さと誠実さを感じた。
 もっともその誠実さは、上人や美州領主ではなく、身内である傍らの童に向けられた物であろうが。

「いずれにせよ、かの哀れな娘の処遇は、小生に委ねて頂きたいのですわ」
「拙僧としては、人に害為さぬ様に出来るならば異論はないが……」

 上人は美州領主に目をやった。
 上人は”人に害為す仏敵を滅する”立場であるが故に、引き渡しに応じる事もやぶさかでは無い。だが、領主の立ち位置はまた異なる。

「死に損ねて狂うた末の事とは言うが、村一つを滅ぼした大罪人を罰せずに引き渡せとは、領主として認めがたい」

 領主としては、咎人を罰さずに見逃す訳には行かない。力の差は歴然としているが、為政者としての筋を通さねば、かえって伊勢から軽侮されてしまうだろう。

「これは異な事を仰いますわね。滅んだのは、代官の企てで利を得る筈だった同郷の者共。境内に横たわる骸共の同胞(はらから)ですわよ?」
「全てが謀議に関わっていたとは限らぬであろう。幼子もいたのだから、無辜の者が含まれておらなんだとは言わせぬぞ」
「敵対する者は一族郎党、赤児に至るまで鏖殺するのが、補陀落(ポータラカ)のやり方ですわ。そうしないと、見逃した者が仇討ちを企てるかも知れませんものね」
「赤児までも容赦なく処断すると言いきるか……」

 計都(ケートゥ)が事も無げに語る伊勢の方針に、美州領主は戦慄した。
 確かに御政道の上では一理ある考え方なのだが、冷徹に実行できる者は多くない。

「ええ。補陀落(ポータラカ)は決して、無益な殺生は好みませんけれども。敵として向かって来るかも知れぬ者を根絶やしにしておけば、枕を高くして眠れますもの。それは、とても大きな益ですわ。此度、代官の郷里に手を下したのは補陀落(ポータラカ)ではありませんけれども。それを行った件の娘に美州が罰を与えるつもりなら、否と言わせて頂きますわ」

 微笑んで続ける計都(ケートゥ)の言葉を、美州領主は事実上の恫喝として受け止めた。
 神宮の先例がある以上、それは空虚な脅しでは無い。
 美州領主は眼前の阿修羅(アスラ)に対し、上辺の威厳を崩さないのが精一杯となっている。

「それと、件の娘を美州で咎人として裁くというのなら、事を公にしなければなりませんけれども。それは宜しいんですの?」
「それは困る!」

 計都(ケートゥ)の指摘に、美州領主は思わず声を挙げる。
 罪を裁き罰を加えるのは、民への見せしめの為である。だがその為には、当然ながら今回起きた事の真相をも明らかにせねばならない。
 逆に言えば隠蔽するなら、罰を与えるのは必須ではなくなる。

「でしたら、民に知られぬ様に事を始末する為、手を取り合わねばなりませんわね。美州が乱れる事は、伊勢にとっても利になりませんもの」

 計都(ケートゥ)は見透かした様に畳み掛ける。
 美州領主もまた、美州の混乱を望まないという言質を得られただけでも良しと考える事にした。
 最悪の状況は避けられそうなので、後は折り合う為の条件である。

「なれば…… 若い者の村であるが、”逃散”という事にしておいて頂きたい」
「代官の悪事を見逃せと?」
「その代わり、娘については責を問わぬ。処遇は任す故、伊勢へ連れて行くが良い」
「……」

 美州領主の切り出した条件に、童が噛みついた。彼にしてみれば、養父母や村人を死に追いやった代官達の骸を公に晒し、溜飲を下げたいのである。
 だが幼馴染の身柄を渡すと言われ、童も黙って頷き、引き下がる事にした。
 死んだ者は還らない。これからの事こそが重要なのである。

「結構ですわね。境内にある骸の死因は、病死という事で宜しいですわね?」
「うむ…… 代官の郷里たる村が滅んだ件も、疫病位しか名目がなかろうが……」

 現在の石津は、代官所から疫病が出たという偽りで住民を誤魔化している。それを通した上で領民の安寧を取り戻すには、万病を癒やせる、伊勢の薬座の協力が不可欠だ。
 だがそこに、一抹の疑念がある。

(偽りの疫病にかこつけて、高価な薬を売りさばいて利を貪るつもりか?)

 顔に疑心を浮かばせて答えかねている美州領主を前に、計都(ケートゥ)もまた、彼が何を疑っているのを察した。
 伊勢としてはこんな処で少々の銭を稼ぐ気等、全く無いのだ。

「では、こうしましょう。疫病では無く、代官の郷里たる村で茸が多く採れたが、これに強い毒があり、村の者は一人残らず斃れた。郷里から贈られた茸を食した事で、代官や同郷の配下も同様に死した、という筋書きでは如何かしら?」
「それはいい。矛盾はないし、疫病という事ではないから、広まるのではないかという民の心配も打ち消せる」

 計都(ケートゥ)の案に、美州領主の顔も明るくなる。毒茸にあたって死ぬというのは珍しい話ではなく、充分にあり得る事だ。

「茸の毒はうつりませんものね。嘘偽りを使って、疫病の薬を買って頂くつもりはありませんわ」
「左様か……」

 美州領主は、疫病に怯える民につけこんで利を貪ろうとする意思がないと聞き、己の疑念に内心で恥じ入った。

「ですけれども、代わりに頂きたい物がありますの」
「何であろうか」
「小生達”神属”は不老長寿と引き換えに、人間の脳髄を年に一度は贄とせねば生きられませんの。伊勢の者は無辜の民を食らわぬ様、専ら咎人や敵兵を贄としていますけれども、丁度ここに、贄となるその様な屍が多くありますわね」
「つまり、境内にある代官やその配下の骸を寄越せと!」

 今回の件を公にせず、代官所の者達の死因を毒死とする代わり、その骸を食うから引き渡せと言う計都(ケートゥ)の言葉に驚愕した。
 ”食うために骸を渡せ”とは、人間同士であれば、決して出てこない条件である。
 一服百文の薬を売りつけるのとは、とても比べ物にならない苛烈な要求だ。

「ええ。本来は全身、美味しく頂けますけれども。車に積むにはかさばりますから、首だけで結構ですわ。ああ、代官の郷里についても、斃れている村人の首を取りに行かせますわね」
「……良かろう。首より下は、供養しても宜しいか?」
「お好きにすると宜しいですわ」

 遺骸の残る部位を葬りたいとは、美州領主のせめてもの抵抗だったが、計都(ケートゥ)はどうでもいいとばかりに即答した。彼女にとって、それは只の肉塊に過ぎない。

「では、弔いは上人殿に御願いしたい。愚かな者共ではあったが、公には毒死とする上は、葬儀も出さねばなるまいて」
「承ろう」

 上人は合掌すると、美州領主の申し入れを受けた。


*  *  *


 再び髪と瞳を黒くした計都(ケートゥ)は、車の脇で待っていた白虎に後事を任せると、童、そしてつき添う役人と共に、石津の中で宿場が集まっている通りに出た。

「皆様、伊勢の薬座ですわ。今回の事で大事なお話がございますから、どうかお集まり下さいませ」

 計都(ケートゥ)の声は決して大きくはないが、法術の補助で周囲に良く響き渡る。
 それを聞き、各々の家、あるいは泊まっている宿にいた民達は、一人、また一人と出て来ては計都(ケートゥ)達の周囲に集まった。
 充分に人が集まった頃合いで、計都(ケートゥ)は事情を説明した。
 疫病にかかったとされる代官所の病人達は、自分が着いた時には既に全員事切れて手遅れだった事。
 検分した処、死因は疫病では無く毒茸を食した為という事が解った事。
 そして、代官の郷里たる村もまた、全員が毒茸で斃れていた事。

「恐らくですけれども、代官殿の郷里の村で、山で多くの茸が取れたのを代官所の係累にも送ったのですわね。それが毒茸で、この様な事になってしまったのですわ」
「……ほんで、毒茸には、伊勢の薬は効かないんですかのう?」

 一人の民が尋ねる。伊勢の薬は万病に効くのではなかったのか。

「生きている内なら、毒消しもありますわ。けれども、事切れてからおよそ三刻も過ぎてしまっていては、何とも出来ませんわね」

 計都(ケートゥ)は苦笑して答えた。法術であれば、死して半日程なら死因によっては手立てが皆無と言う訳でもないが、あえてそれをここで言う必要も無い。

「ともあれ、疫病ではないので、余所へ広がる心配もない事が解った。石津の出入りは解禁するので、皆の者は普段通りに暮らすが良い。但し、寺は骸が安置してあるので、弔いの支度が調うまで近づかぬ様にな」

 役人の言葉を受け、民は常の生業に戻るべく、各々の職場へと散って行った。


*  *  *


 計都(ケートゥ)達が寺へと戻ると、門を守る侍は神妙な顔つきをしていた。

「ご苦労様ですわね」

 計都(ケートゥ)が声を掛けると、いずれも若い侍達は、いかにも恐ろしい物を見る目つきを向けて来る。

「貴方達、戦へ出た事はありますの?」
「い、いえ……」
「あれを見た位で平静でいられぬなら、とても戦で人は斬れませんわよ」

 計都(ケートゥ)は門の奥、境内を指さす。
 そこでは龍牙兵が、並んでいる骸から、首を曲刀で淡々と切り落としている。切り口から血が流れて来ないのは、白虎が法術によって下処理をしておいた為だ。
 また別の龍牙兵が、落とした首を麻布に包み、車へと積み込んでいる。
 白虎はその様子を見守りつつ、時折、龍牙兵に指図していた。
 遠巻きに数名の侍が見張っているが、いずれも顔をしかめている。戦で人を斬った事がある者もいるが、”白虎に指図された骸骨が、次々と骸の首を刎ねる”という異様な光景には、流石に畏れを抱かざるを得なかった。

「例のあれは、より分けておいて頂けました?」
「はい。ああ、そこの。例の物を出して、導師へお渡しせよ」

 計都(ケートゥ)の言葉を受け、積み込みを行っている方の龍牙兵に白虎が命じる。
 龍牙兵は、一つの包みを計都(ケートゥ)へと差し出した。

「八咫鏡で顔は撮りましたわね?」
「勿論です」

 白虎の答えに計都は頷いて包みを解く。中から現れたのは、いかにも悔しげな顔で絶命している若い女の生首だ。代官の実妹のなれの果てである。

「これこそが此度の元凶。忌まわしき旧薬座の一員でありながら皇国の手を逃れ、兄たる代官を甘言で惑わして、無辜の村を我欲の為に鏖殺した、まさに大罪人ですわね」
「こいつ…… こいつのせいで……」

 童は、代官の実妹の首を睨み、怒りを抑えきれずに肩を震わせていた。
 計都(ケートゥ)は首を抱えたまま、童に顔を近づけてささやく。

「憎いかしら?」
「当たり前です! 仇ですよ?」
「なら、これの脳髄を食して、せめてもの慰めとなさいな」
「これを…… 食えと?」

 突然の計都(ケートゥ)の言葉に、童は驚いた。

「貴方は神属たる人狼。成年となれば、人の脳髄を食して霊力を補わなければ生きていけぬ身である事は、既に学徒から習いましたわね?」
「は、はい……」
「とは言え、人として育った貴方に、そういった物を食せというのも難しいですものね。でもこれなら、良心の痛み無く食せませんかしら?」

 いつか自分も神属として、人間の贄を食わねばならない事は童も解っていたが、今日だとは思ってもいなかったのだ。
 しかし、計都(ケートゥ)は始めからそのつもりで連れて来たのである。

「それはそうですけど……」
「幼馴染を救う術には、長年を共に暮らしていた、貴方の手を借りなければなりませんの。そしてそれには、充分な霊力を補いませんとね。自然の摂理を歪め、命を失った者を呼び戻すには、それ相応の贄が要りますもの」

 思い切れずに戸惑ったままの童に、計都(ケートゥ)は幼馴染の事を持ち出した。
 実際、”黄泉返り”と対峙し、かつ回復を試みるのであれば、相応の霊力を消耗するのは間違いない。

「姉ちゃんを助けたければ、食えと言う事ですか……」
「ええ。これは、貴方自身が皇国で生きていく為、そして万難を排して大切な人を救う為の儀礼でもありますの」

 計都(ケートゥ)は普段の微笑みを消し、有無を言わせないとばかりに生首を突きつけて童に迫る。

「さあ、お食べなさいな。この卑しき女の脳を噛み潰し、飲み込み、胃で溶かして、糞尿としてひり出して差し上げなさい。それこそが、亡くなった貴方の村の方達への手向け!」

 童はその気迫に飲まれそうになったが、歯を食いしばってこらえた。
 計都(ケートゥ)に認められるには、自らの意思で答えねばならないと感じた為である。
 そして息を大きく吸い、心を落ち着けた上で両腕を差し出して、生首を受け取った。
 計都(ケートゥ)が再び微笑むのを見て、童は自らの判断が正しかった事を悟るのだった。



[37967] 7話「樵に育てられた人狼」その27
Name: トファナ水◆34222f8f ID:b7003820
Date: 2017/10/01 20:50
「ところでこれは、どうやって食べればいいのでしょう?」

 生首を受け取った童は、戸惑った様子で首を傾げて計都(ケートゥ)に尋ねる。
 食べなければならない脳髄は、頭皮の下、頭蓋に収まっている。人狼の顎ならかみ砕けそうだが、今の童は人の姿だ。

「あらあら、御免なさいね」

 計都(ケートゥ)はどこからか、手の指ほどの太さがある、長さ一尺程の鉄の管を取り出した。片側の先端は、竹槍の様に斜めになっている。

「これを、こうするのですわ」

 計都(ケートウ)は管の尖った先端を、童が持つ生首のつむじの辺りにあてがって押し込んだ。
 管は、盛った飯に箸を刺した様に、半分程の長さを残してするりと入ってしまった。
 

「管を使って、中の脳髄を吸い出すのですわ」

 童は言われるままに、生首に刺さった管を加えて中身を吸う。すると、どろりとした物が口の中に入って来た。

「如何かしら?」
「う、旨い! 旨いです!」

 童の想像とは違い、それはとても甘く心地よい舌触りだった。
 生まれて初めての美食に、童はそれが何であるかを忘れ、夢中になって喉を鳴らして吸い出す。程なく頭蓋は空になってしまった。
 童は物足りなさを感じ、龍牙兵が骸の首を黙々と刎ねている方へと目をやる。

「脳味噌、もう一つ食ってもいいですか?」
「人の脳髄は神属にとって大切な霊力の源ですわ。伊勢にいる神属の皆が贄に困る事が無い様、貪ってはいけませんわよ」
「は、はい……」

 珍しくも自分から欲求を露わにした童を、計都(ケートゥ)は静かにたしなめる。
 童は己の言葉を恥じ、顔を紅潮させた。
 計都(ケートゥ)の言う通り、贄となる”食べて良い人間”は貴重である。例えどんなに美味でも、無駄に食してはならないのだ。
 人間として育った童に、贄を食す事を受け入れさせ、かつ、むやみに求めてはならない事も同時に説く。石津を来訪した目的の一つが達せられ、計都(ケートゥ)は満足そうに頷いた。
 一方、計都(ケートゥ)と童の様子を遠巻きに見ていた侍達は、一部始終をただ呆然と眺めていた。
 ただ骸の首を刎ねるだけならば、人同士の戦でも行う事だ。だが、脳をすすり、さらには美味と舌鼓を打つ等、到底あり得ぬ鬼畜の所業である。
 あの美しい童は人の姿だが、やはりこの世の物ならぬ人食いの妖(あやかし)。深く関わってはならぬと、彼等は無意識に理解を拒んでしまった。
 神属が無辜の人間を食さず済む様にという計都(ケートゥ)の考えもまた、彼等には察する事が出来なかった。
 
「計都(ケートゥ)師、積み終わりました」

 龍牙兵が境内に横たわる骸全ての首を刎ね、馬車へと積み終えた事を白虎が報告して来た。

「御苦労様。さて、お二方。こちらの始末は済みましたけれども、胴より下はどうなさいますの?」

 計都(ケートゥ)は、丁度、様子を見に出てきた美州領主と上人に向き直る。
 彼等は流石に、首を刎ね終わった骸を見ても全く動じていない。

「先程も言うた通り、葬ってやらねばなるまいが…… この数は難儀だのう」

 美州領主は、首を奪われた骸を見て溜息をつく。百三十余りの棺を用意するだけでも一苦労である。

「さし当たり、骸が腐ってしまう前に荼毘に付すのが良かろうな」
「そうであろうな。薪であれば、まだ調達も容易であろう」

 上人の提案に、美州領主も頷く。

「薪は無用ですわ。皆様、お下がり下さいませ」

 計都(ケートゥ)の声に、侍達は何事かと慌てて境内の隅へと下がる。

「では、参りますわ」

 計都(ケートゥ)が右手の指を弾くと同時に、境内は紅蓮の炎に包まれた。
 だが、激しく燃えさかっているにも関わらず、周囲には全く熱が伝わって来ない。
 美州領主や上人、そして侍達は、呆然と見守る他なかった。

「この位ですわね」

 しばらく後、計都(ケートゥ)が再び指を弾くと、炎は瞬時にかき消えた。
 後に残るは、燃え残った人数分の遺骨ばかりである。

「焼いてしまえば、後は面倒がありませんわね。後はどうぞ、満足がいく様に葬儀をあげて下さいませ」
「う、うむ…… 者共、骨を拾ってやれ」

 美州領主は、呆然としたままの侍達に、遺骨を拾い集める様に命じた。
 さしもの彼も、法術を初めて目の当たりにして顔が青ざめている。これを戦で使われればどうなるかは、赤児でも解るだろう。

(この様な人外に、人間が勝てる道理がない……)

 一方、上人は、眼前で振るわれた超常の力に惹かれる己を感じていた。
 自分が長年の修養でようやく身につけた法力を遙かに超える術を、この阿修羅(アスラ)は事も無げに使う。

(素晴らしい、これこそが……)

 力を欲する心を示す上人の眼光を、計都(ケートゥ)は見逃さなかった。



[37967] 7話「樵に育てられた人狼」その28
Name: トファナ水◆34222f8f ID:b7003820
Date: 2017/10/26 21:26
「先に荼毘に付した訳ですが、法要はどうなさいますかな?」
「明後日に行い、骨はこれらの郷里の村へ葬るとしよう。宜しいか?」
「では、その様に」

 代官達の弔いについて上人に問われ、美州領主は意向を告げる。
 上人は承諾したが、計都(ケートゥ)が異議を唱えた。

「郷里の村で弔うというのは結構ですけれども。墓を造るに及びませんわ。骨の始末は、散骨として下さいませ」
「首を刎ね、食すだけでは飽き足らず。墓を建ててやる事も許さぬと言われるか……」
「それもありますけれども。滅した村に墓を建てても無縁仏ですもの。後から移り住んで来る方にとっては、そんな物があっても迷惑ですものね」
「ふむ……」

 計都(ケートゥ)がつけた物言いの内容に、美州領主は補陀落(ポータラカ)の価値観を見た。
 彼等は苛烈と言うよりも、冷徹なのだ。共存が互いに益である限りは、その矛先を向けてくる事はないだろう。

「墓という物は、残された者が故人、祖先を偲ぶ為にある。故に、計都(ケートゥ)殿の言にも一理あろう」
「結構ですわね」

 上人の同意を得て、計都(ケートゥ)の話は、代官の郷里の村自体へ及ぶ。

「ああ、そうそう。代官の郷里の村に転がっている、住民の骸の始末もありましたわね。そちらが差し向けている検分の兵ですけれども、いったん退かせて下さいませ。本日中に皇国の者共が、骸の首を刎ねて持ち帰りますわ」

 美州領主は、計都(ケートゥ)の要求を受け、少し考えた末に承諾した。
 
「良かろう。残る体もく捨て置けぬ故、出来れば荼毘に伏しておいて頂けると助かる。代官共と併せ、法要はこの寺でなく、村の方でまとめて簡素に行おう。上人殿には御足労願う事となるが……」
「経緯が経緯ですからな。確かに、弔いは石津で行うよりも、人目に付かない郷里の村でまとめて行った方が賢明でしょうな」

 代官達は、同じく全滅した郷里の村の者とまとめて葬儀を行う。対外的には筋が通っており、かつ人目に触れさせずにも済む。
 単にこちらの顔色を伺うのみの迎合では無く、利点を見いだした上での二人の合理的で迅速な結論に、計都(ケートゥ)も大いに満足した。

「では、その様に。早速ですけれども件の村へ、その旨の伝令を立てて下さいませ。小生も、こちらの手の者にその旨を伝えますわ」
「心得た」

 美州領主は合意を受け、侍の一人に声を掛けると早馬を出す様に命じた。


*  *  *


 差し当たりの収拾の目処をつけた為、美州領主は稲葉山城へと引きあげる事にした。
 引き連れてきた手勢の大半は、代官所の者達の弔い、そして石津の統治を暫定的に任せる為に残し、直衛として五騎のみを伴っての帰城である。

「此度の会談は凶事がきっかけとなってしまいましたけれども、今後は互いの安寧を願いたいですわね」
「計都(ケートゥ)殿、その言葉、有り難く承る。そして上人殿。痴れ者と言えども我が配下の者共の弔い、宜しく御願い申し上げる」
「心得ましたぞ」

 計都(ケートゥ)と上人の見送りを受け、美州領主は直衛と共に騎馬を駆って寺を後にした。


*  *  *


 残された侍達は遺骨を拾い、あり合わせの袋や壺、桶等へと詰めている。計都(ケートゥ)との和議で定められた通り、後日の弔いの際には散骨される事になる。
 軽く触れただけでもろく崩れてしまう骨に、侍達は計都(ケートゥ)の法術の威力を思い知らされていた。

「では、例の娘の元へ案内して頂けるかしら?」
「着いて来られよ」

 上人は本堂の裏側へある土蔵へと、計都(ケートゥ)をいざなった。童もそれに付き従う。
 蝋燭の灯りがともされた室内の中心では、四名の若い僧が、横たえられた裸身の女を囲んでいた。僧達は、上人と共に石津へ来訪していた高野聖である。
 女は焦点の合っていない眼を開き、呆けた様に口を開いたまま身じろぎもしない。肌は血の気を失った土気色で、息も絶えているので、屍である事はすぐに解る。
 高野聖の内の一名は、筆を手に、女の体にくまなく梵字による呪文を書き込んでいる。彼が、この内で最も力量を持つ筆頭格だ。
 また残る三名は、それぞれ女に向かい、数珠を手に合掌して読経していた。拘束の術式を書き終えるまでの間、”黄泉返り”の行動を抑える為である。
 程なく術式を書き終えた筆頭格は筆を置くと、上人達に向き直った。残る三名も、読経を終えてそれに倣う。

「上人様。封印を施し終わりました」
「御苦労」

 筆頭格の報告に、上人も合掌で応える。

「そちらのお二方は?」

 上人が”黄泉返り”を封じる場に客を通した事に、筆頭格は怪訝な顔で尋ねた。その表情に、童は思わず声を荒げた。

「ね、姉ちゃんに、姉ちゃんに、何をしてた!」
「姉ちゃん? もしかして、この娘の知り合いかな?」

 高野聖達は”黄泉返り”と化した娘を捕らえて寺に運び込んで以後、掛かり切りで封印を施していた。
 その為、今回の件に関わる一連の事情を全く知らないままだった。当然に、娘、そして童や計都(ケートゥ)の素性も彼等は知らぬままである。

「そうだ! 答えろ!」

 童の言葉に筆頭格は、この哀れな娘の知己を、上人が見つけ出して連れてきたのだろうと、当たらずとも遠からずな理解をした。

「聞いているかも知れないけれども、残念ながら、既に亡くなっているよ。亡骸が死にきれずにさ迷っていてね。放っておくと、多くの人に祟りをなしてしまうから、仏様の力で封じたんだよ」

 子供に説いて聞かせる様な筆頭格の口調は、童の心をさらに逆撫でした。

「そんな事は知ってる! 姉ちゃんが苦しんでるなら、すぐに止めろ!」
「その点は大丈夫ですわね。その術式なら、”黄泉返り”の混濁した意識は閉ざされていますわね。夢を見ずに眠っているのに近いですわ」
「そうですか…… そう仰るなら……」

 計都(ケートゥ)の解説に、童も落ち着きを取り戻して引き下がった。
 元々、幼馴染が、周囲に怪異を振りまかない様、封じざるを得ない状態である事は童にも解っていた。だが、いざ目の当たりにして、理性を失いかけてしまったのである。

「よく御存じですね。そちらの方は、祈祷の心得でも?」

 封印の特性を語る計都(ケートゥ)に、筆頭格は不審を感じた。封印の知識等、素人が持っている筈がない。

「まぐわいで生じる和合水を混ぜた墨で、呪文の効果を高める。その様な術を和国で使う皆様は、高野山の内でも、立川流に属する方々ですわね」
「!」

 計都(ケートゥ)に自分達の素性を喝破され、高野聖達は絶句した。
 立川流とは、男女の交合によって仏と一体となると説く、真言宗の一派である。仏道は一般に不邪淫戒として僧侶の交合を禁じる為、立川流は特異な立場なのだが、快楽を肯定する教えや強い法力によって、かつては強い権勢を誇っていた。
 だが、朝廷が分裂した南北朝の乱に際し、破れた南朝方に組した為に、この時代では既に衰退してしまっている。高野山に於いても主流派からは邪道と見なされ、かろうじて命脈を保ってはいる物の、あえてその教えを志す僧は少ない。
 彼等が妖怪変化の懲伏に従事するのは、法力の実力、そして有用さを示して高野山での立場を保つ為でもある。

「……知っておられたか」
「あるいは、と思っていましたけれども。呪文の墨を見て確信しましたわ」

 流石に上人は、立川流の教義を奉じていると知られても動じなかった。

「しょ、上人様。そちらの方は一体……」
「申し遅れましたわね。小生は計都(ケートゥ)。伊勢を支配する補陀落(ポータラカ)皇国で、那伽摩訶羅闍(ナーガマハラジャ)へ学問を説く阿修羅(アスラ)ですわ」

 狼狽えながら尋ねる筆頭格に、計都(ケートゥ)は邪気のない微笑を浮かべて名乗る。
 その無垢な顔はかえって、高野聖達に畏れを抱かせた。



[37967] 7話「樵に育てられた人狼」その29
Name: トファナ水◆34222f8f ID:b7003820
Date: 2017/11/05 20:28
「如何にも、拙僧等は立川流。なれば、現在の様な体たらくを晒しておる事情は御存知であろうか」
「ええ。立川流は南朝方でしたものね」
「そこまで御存知であったか……」

 計都(ケートゥ)は和国遠征に先立ち、南北朝の乱の顛末についても把握していた。立川流が南朝に与していた事についても、知識の内に含まれている。
 計都(ケートゥ)の指摘に、上人は嘆息する他なかった。
 相手方の事を深く知っている旨を仄めかし、主導権を握るのも、計都(ケートゥ)の好む手段である。

「何故…… 此度の件、他州の営みに関わろうとするのですか?」
「これの身内ですもの。助けない訳には参りませんわ」

 戸惑いながらも皇国の意図を尋ねる筆頭格に、計都(ケートゥ)は傍らの童を視線で示した。

「お連れ様は、どの様な方でしょう?」
「これは、皆様方が欲していた人狼の仔が化身している姿ですの」

 計都(ケートゥ)の答えに、高野聖達はどよめいた。何故、件の人狼の仔が、伊勢の阿修羅(アスラ)と共に、ここにいるのか。

「しかし、我々が出会った人狼達に、里へ連れて行ったと聞かされたのですが……」
「ええ。皆様方が出会った人狼の隊もまた、先に補陀落(ポータラカ)が遣わした者共。里というのは即ち、伊勢の事ですわね。もっとも、暮らしているのは人狼だけではありませんけれども、偽りではありませんわよ?」

 高野聖達も、人狼の件で伊勢の関与を全く疑わない訳ではなかったが、先に阿瑪拉(アマラ)達に出会った時には、あえてその場で口にしなかった。
 余計な詮索をすれば、確実にその場で屠られかねないと考えた為である。

「いずれにせよ、そこの童は安寧の地を得て、贄を欲して人を襲う恐れもなくなった。先に約定を交わしておるし、拙僧としてはそれで良い」
「そういう事ですわ、皆様」

 高野聖達は黙して頷き、従う意思を見せた。今更に一頭の人狼を欲しさに話を覆すつもりはない。
 到底、逆らえる相手ではないし、童自身の意思もある。

「では、その娘の事に話を戻しますわね。小生に診せて頂けません?」
「良かろう」

 上人の許諾を得た計都(ケートゥ)は、横たえられている娘の骸の前へ進むと、衣を解いて、一糸まとわぬ裸体となる。

「な、何を?」

 驚く高野聖達に構う事無く、計都(ケートゥ)は全身を光り輝かせる。
 室内の全員の目がくらみ、視力が戻った時には、三対の腕に金髪碧眼の垂れ目という、計都(ケートゥ)本来の姿がそこにあった。
 衣は纏わず、裸身はそのままである。

「おお……」「何という……」

 高野聖達、そして上人は、阿修羅(アスラ)の本性を前にして感嘆の声を挙げる。
 眼前の異形は彼等にとって、欲してやまぬ超常の力を備えた存在だ。
 仏像や仏画でその姿を知ってはいたが、実際に目にしたのは初めてである。これまで相対して来た狐狸妖怪等とは、とても比較にならない神々しさだ。

「では、失礼しますわね」

 計都(ケートウ)は三対の腕を使い、骸の全身をまさぐり始めた。
 つま先から頭頂までをくまなく撫で回し、穴という穴に指を差し入れては、時折頷いている。
 特に、頭部、乳房、下腹、そして女陰といった箇所を丹念に診ている様だった。
 その辺りに変異を感じているであろう事は、素人目にも容易に察せられる。

「ど、どうですか?」
「ええ、大まかなところは解りましたわ」

 心配そうに尋ねる童に、計都(ケートゥ)は微笑んで応えた。
 その眼は、希有な物を診ることの出来た悦びで輝いている。

「これは、いわゆる”産女(うぶめ)”ですわね」
「御見事。貴殿もそう診たか」
「何ですか、それは?」

 計都(ケートゥ)の見立てに、上人も頷く。
 聞き慣れぬ言葉を聞き返す童に答えたのも彼だった。

「”黄泉返り”の内、子を孕んだまま命を失った女を”産女”と称する。この場合、胎で育んだ命を産み出せなんだ無念故に、死にきれぬのであろうと言われておる」
「じゃ、姉ちゃんは……」
「ええ。子を孕んでいますわね。勿論、人狼の貴方の胤では孕みませんから、他の男との間に出来た子を」

 村の若い男が皆、幼馴染みの元へ通っていた事は、童も知っていた。
 誰の胤であろうと、女の側が父を名指しするのが村のしきたりなので、孕んでいた事については童も平静に受け止めている。

「およそ、二月半位ですわね。貴方とまぐわった時には、自分でも解っていたと思いますわよ」
「もしかして、俺の子だと言うつもりで……」

 幼馴染みが、出家する筈だった童を引き留めるならば、子の父だとして指名するのは有効な手段である。勿論、それが通ったとして、寺から受け取った支度銭を返済しなくてはならないという問題が出るのだが……

「ええ。貴方を迎えに行った際、人狼の胤で人間は孕まぬと阿瑪拉(アマラ)が言ったそうですわね。それがなければ、貴方の子を宿していると称して、共について行くつもりだったのだと思いますわ」

「姉ちゃん……」
「阿瑪拉(アマラ)を責めてはなりませんわよ。よもや、この様な事になるとは思いませんでしたもの」
「解って……ます…… 悪い奴は、成敗したんだ…… けど……」

 幼馴染みが自分に向けたであろう想いを知り、童はうつむいて肩を震わせる。
 何故、阿瑪拉(アマラ)に連れられて村を去る時、共に連れて行きたいと強く願わなかったのか。その後の自分の扱いを考えれば、それ位の我が儘は通ったかも知れないのに。

「して、その娘を生者として引き戻す見込みはあろうか? 拙僧如きでは到底叶わぬが」
「これなら、何とかなりそうですわね」
「おお……」

 上人の問いに、計都(ケートゥ)は自信ありげに答える。
 その口調に、高野聖達は感嘆の声を漏らし、童は哀しみを抑えて平静を取り戻した。

「伊勢には小生の他にも医術に長けた学師がいますから、どの様な施術を行うかは、そちらとも話し合って決めますわ」
「支障なくば見届けたいが、構わぬか?」

 上人の申し入れに、計都(ケートゥ)は彼の眼を正面から見つめる。

「それは、人に災い為す”黄泉返り”を委ねる責からかしら? それとも、秘術の一端なりと見たいという、術者としての欲かしらね?」

 引き込まれそうな瞳に見据えられた上人だが、阿羅漢(アルハット)の資質を持ち、精神を修養している彼はどうにか耐える事が出来た。

「……両方……である」

 額に脂汗をにじませながらも何とか言葉を絞り出す上人に、計都(ケートゥ)は、和国支配の駒として充分な資質であると判断した。

(これなら、使えそうですわね)

「正直ですわね。なら、まずは此度の葬儀をつつがなく執り行いなさいな。その後、伊勢への迎えを出しますわ」
「う。うむ……」

 魂を握りしめる様な視線から解放された上人は、賽が放られた事を実感した。

(龍神の元で往年の隆盛を取り戻すか、あえなく滅するか。どの道、退路は無い……)



[37967] 7話「樵に育てられた人狼」その30
Name: トファナ水◆34222f8f ID:b7003820
Date: 2017/11/21 06:31
 幼馴染みの状態を診終わった計都(ケートゥ)は再び人間に化身し、衣を纏って身支度を調えた。

「今日、姉ちゃんを伊勢へ連れて行けますよね?」

 不安げに口を開いた童に、計都(ケートゥ)は首を傾げる。

「勿論ですわよ。何故かしら?」
「車、首で一杯になっちまってますけど……」

 計都(ケートゥ)と童が乗って来た馬車は、代官所の者達の遺骸から刎ねた首が積み込まれている。
 帰りに二人が乗れるかどうかすら怪しい満載なのに、さらに娘をそこへ乗せるのは無理ではないかと、童は心配になったのだ。

「ああ、そんな事でしたの。きちんと考えてありますわよ」

 丁度その時、閉ざされていた入口の戸が叩かれた。

「こちらに導師はおられるか?」
「少しお待ちを」

 外から聞こえる女の声に、高野聖の一人が戸を開けた。現れたのは、二体の骸骨、即ち龍牙兵を従えた白虎である。

「!? …… いえ、失礼しました……」

 高野聖達は一瞬、驚いた顔をした物の、眼前の異形が計都(ケートゥ)の配下である事をすぐに理解した。合掌して挨拶を交わした後、中へと招き入れる。

「導師、車の調達が出来ております。桑名から着いた荷車が商いの品を降ろした処で”皇家御用”として召しました。そちらの案配は如何でしょうか?」
「件の娘は、法術で動かぬ様にしてありますわ。伊勢へ連れ帰るには差し障りありませんわよ」
「そちらに横たわっている娘ですね。ではお前等、板へ載せて運び出せ。くれぐれも丁重にな」

 白虎の命令に従い、二体の龍牙兵は、予め用意してあった畳大の板に童の幼馴染を移し載せ、表に用意された荷車へとそのまま表へと運び出して行く。
 戸のすぐ外には、行きの物とは別の馬車が駐まっていた。牽いているのは、伊勢で使われている通常の大型馬で、御者も皇国臣民たる良民ではあるが、普通の人間だ。
 封鎖が解け、ようやく石津入りして荷を降ろして一休みしている処を、唐突に現れた白虎に引っ張って来られたのだ。
 この御者はしばらく前にも、皇国の間諜から伊勢へ急行する為に徴用された事があり、再び身に降りかかった珍事に顔をこわばらせていた。

「御苦労様ですわね。戻りの荷が多くて、行きの車だけでは積みきれなくなりましたの」
「は、はあ…… どうも……」

 身分が高いと思しき阿修羅(アスラ)から三対の腕で合掌され、御者はただただ恐縮する他なかった。

「あ、あの、俺は何を運ばされるんで!?」

 竜牙兵が二体がかりで持つ板の上に横たえられている、全身に経文を書かれた若い娘の屍を見て、御者は狼狽した。
 どう見ても、只の気の毒な死人という訳ではなさそうな”訳あり”である。

「小生と連れが一人。それと、伊勢で処置しなければならない病人ですわ」
「病人っていうと、この娘っ子は、仏さんじゃなくて生きてるんですかい?」
「ええ、一応は。このままでは助かりませんけれどもね」
「そいつは大変だ。伊勢でなきゃ治らねえなら、早く連れ帰ってやらねえと!」

 重い病人の救護が呼ばれた目的と知り、御者はの顔から不安が消え、張りが出てきた。
 素人に”黄泉返り”の概念を解説するより、重病人と説明した方が早いと計都(ケートゥ)は考えただけなのだが、思わぬ効果をもたらした様だった。

(純朴な善性。皇国の民に相応しい、結構な心根ですわね)

 計都(ケートゥ)は、苦しむ者を助けようと張り切る御者の反応を見て、大いに満足を感じている。

「では、そろそろ、おいとましますわね。後日にお招きする際には、色々な事を御相談させて下さいませ」

 計都(ケートゥ)は童を促し、調達した馬車へと乗り込むと、首を満載した白虎の牽く車と共に、伊勢側への帰路へとついた。

「上人様、行きましたね…… 阿修羅(アスラ)等、この眼で見るのは初めてでした」
「うむ。知己を得られた事を、我等にとって僥倖とせねばならぬ。この機を逃せば、本山の愚物共に屈したまま、立川流は滅する事を免れぬ」

 座して衰退を待つばかりだった立川流を立て直すには、知己を得られた皇国の助力が必要である。後ろ盾となれば、心強い事は間違いない。
 上人だけでなく、高野聖達の誰もがそれを理解していた。


*  *  *


 童は、幼馴染みを何とか取り戻した安心感からか、車中で眠り込んでしまう。
 目覚めた時には、桑名の宿場町にある、一門の詰め所で与えられている自室で寝かされていた。

「お目覚めですわね」
「う、あ…… おはようございます…… 長姉様……」

 障子が開き現れたのは、童がこの詰め所に初めて訪れた際、最初に出迎えた人狼の学徒だ。人狼の学徒の内の最年長者であり、他の人狼の学徒と共に、ここに逗留し続けて童の教導を担っている。
 正規の学徒ではない童にとっては、本来なら門姉ではないのだが、周囲に倣って彼も長姉と呼んでいた。
 眠い目をこすりながら、童は床から起き上がった。

「村の皆様の事は残念でした。然れども、見事に仇を討ち、大切な方を庇護出来ましたね。それでこそ人狼の漢」
「俺は、ただそこに行ったってだけで…… 阿瑪拉(アマラ)師や人狼兵の皆さん、和修吉(ヴァースキ)師、それに導師がおらなんだら、俺は何も出来なんだです……」

 長姉は童の快挙を褒めそやすが、当人は戸惑っていた。捜索や事態の解明、そして報復といった一連の始末の殆どは、自身がが行った訳ではないのだ。

「いえ。任せきりにせず、自らそこに赴いた事こそが立派なのですよ。生まれ来る仔等にも、父の所業として誇れましょう」
「阿瑪拉(アマラ)師が孕んだ事、知っとったんですね。それと”等”って、何です?」

 童は、僅かな言葉尻も聞き逃さなかった。もしかして……

「ええ。師だけではなく、私を含め、この詰所に逗留する人狼の学徒五名は皆、胎に赤児が生じました」

 長姉は、満面の笑みで童に懐妊を告げる。
 手元で養い育てる訳ではないとはいえ、一度に六人の子持ちとなる事となった童は、口を半開きにして無言のまま、しばらく呆然と立ち尽くしていた。



[37967] 7話「樵に育てられた人狼」その31
Name: トファナ水◆34222f8f ID:b7003820
Date: 2017/11/28 05:06
 長姉は通信用として壁に掛かっている八咫鏡を外して手に取り、童へと向ける。
 珍妙な姿を撮り、後々まで残しておく事を思いついたのだ。

(生まれた子達が成年した時、祝いの席で映したらきっと受けますわね)

 皇国では国法により、生まれた子はすぐに実親と引き離して育てられる為、再会が叶うのは成年して後の事になる。
 その時、懐妊を知らされた際の実父がとった滑稽な姿を仔等に見せれば、成年を祝う宴席が大いにわくであろう。
 長姉は八咫鏡を手にしながらその光景を夢想し、童の無様な姿を笑いをこらえながら見守っていた。
 少しすると、窓から陽が差し込み、時を告げる鐘の音が辺りに響き渡り始めた。

「そろそろ、しっかりして下さいな。もう夕餉(ゆうげ)の頃合いですわよ」
「え、夕餉(ゆうげ)?」

 長姉の声に、我にかえった童が窓の外を見ると、陽が西に沈みかけていた。

「朝ではなかったんですか!?」
「何を言ってるのです。昨日に着いた時に車の中で眠り込んでいたのを、降ろしてこの部屋へ寝かせてから、ずっと目覚めませんでしたわよ」
「す、済みません!」

 あろう事か一日半は眠りこけていたと聞き、童は慌てて頭を下げて詫びる。
 早く侍従としての務めが果たせる様に、学問や礼儀作法の鍛錬に励まねばならない半端物の身なのに、時を無駄にしてしまった。
 これではまるで穀潰しではないかと、童は恥じ入るばかりである。
 和国の民にとって、怠惰は許されざる罪なのだ。生きて動ける内は、粉骨砕身して働き、家族や共同体に尽くさねばならないと、殆どの者が考えていた。
 まして童は、老いて働けぬ者を口減らしする”姥捨て”の慣習がある村の出である。怠ける者には生きる値打ちがないという考えが、骨の髄まで染みこんでいるのだ。

「いいえ。短い間に色々とあって、心も体も疲れていたのですから当然です。貴方はよく頑張っていますよ」
「で、でも……」
「貴方が疲れのあまり倒れでもすれば、それこそ御夫君様が御嘆きになられます。休める時に休むのも、御側仕えの心得ですよ」
「わかりました、長姉様……」

 休息を罪悪として責める和国の風潮について、民を苦しめている悪癖と考えている長姉は、童の頭を撫でてなだめながらも溜息を漏らすのだった。


*  *  *


 夕餉(ゆうげ)の席は、長姉の他、四人の学徒も交えた賑やかな物だった。
 懐妊の祝いの馳走は、童が計都(ケートゥ)と共に車で持ち帰った、代官所の者共の首である。
 膳に乗せられた生首はいずれも断末魔の苦しみを浮かべた顔だ。食べやすい様に髪を剃られて頭頂の頭蓋を切られ、脳がむき出しになっている。

「腹の仔の良い滋養になります。本当に良いお土産ですね」
「気が利いてるよねー」
「うん、甘くて美味しい!」

 長姉を始め、学徒達は脳髄を匙ですくい、霊力の詰まった濃厚な甘みに舌鼓を打っている。
 一方の童は、添えられた白米の盛り飯や、副菜の漬物を口に運ぶばかりで、贄には口を付けようとしない。

「どしたの、食べないの?」

 人として育った為に、贄を食べる事に抵抗があるのかと思った学徒の一人が、心配そうに尋ねた。

「いえ、石津で食ったばかりな物で。贄は大事なもんだから、むやみに食っちゃいけねえって導師が仰ってて……」
「大丈夫ですよ。確かに、ただ美味を味わう為に贄を貪ってはなりませんけれども、貴方は霊力をもっと蓄えておかねばなりませんもの」

 長姉が促すと、童は安心した様に、自分に出されている贄の脳を匙ですくい口に運ぶ。

「如何ですか?」
「昨日は鉄の管を刺して吸ったけど…… こっちの方が食った感じがあります」

 先日に味わったのと同様の甘味に加え、吸ったのでは味わえない食感を得て、童は満足そうに答えた。
 夕餉(ゆうげ)を終え、食後の茶を飲みながら皆がくつろいでいる処で、襖が開く。

「うむ、愉しんでおる様だな」
「う゛ぁ、和修吉(ヴァースキ)師!」
「ああ、そのままで良い」

 現れたのは和修吉(ヴァースキ)だった。その場の全員が慌てて姿勢を正して合掌するが、和修吉(ヴァースキ)はそれを止める。

「さし当たり、汝の伴侶たるべき娘について、検分が終わったのでな、報せに来た。その上で、今後の事を決めたいのだが」
「ど、どうだったんです?」

 童だけでなく、学徒達も身を乗り出す。

「結論から言えば、蘇らす事は出来なくもない」
「本当ですか!」
「喜ぶのは早い」

 童は思わず歓喜の声を挙げたが、和修吉(ヴァースキ)はそれを押しとどめる。

「但し、蘇生した後の余命はもって三月。最期の心残りを果たさせてやる位しか出来ぬであろうよ」
「それじゃ、腹の子も…… 助からんですね……」

 童は力なくうなだれた。
 計都(ケートゥ)は”何とかなりそう”と言っていたが、それがたった三月の事とは…… 偽りではないにせよ、あまりに酷いではないかと思えてくる。
 それに、母体が僅かしか生きられぬのであれば、当然に胎に収まる仔も運命を共にするしかない。
 自分の胤ではないとはいえ、幼馴染みの子だ。童としては、そちらも何とか助けたかった。

「だが、仮初めの蘇生をあきらめ、自我を持たぬ殭屍(キョンシー)となる様に施術すれば、腹の子はそのまま育ち、生まれ出る事も出来よう」

 女の咎人の骸が殭屍(キョンシー)と称する”心持たぬ生き人形”にされた上で、やはり咎人とされた幼少の者を胎に押し込め、無垢の赤児に戻す”還元”という術の為に使役されているという事は、童も既に知っていた。

「俺に、選べという事…… ですね……」
「是」

 突きつけられた命の選択。
 逃げる事が出来ぬ重き試練に、童は何が最良かと考える他なかった。



[37967] 7話「樵に育てられた人狼」その32
Name: トファナ水◆34222f8f ID:b7003820
Date: 2017/12/12 22:13
 学徒達は童を心配そうに見守っているが、和修吉(ヴァースキ)の鋭い視線に阻まれ、声を掛けられないでいる。
 和修吉(ヴァースキ)による試問に、水を差す事は許されないのだ。
 童は四半刻 ※約二十五分 程うつむいたまま考え込んでいたが、不意に顔を上げると、意を決した様に和修吉(ヴァースキ)へと向き直った。

「意は定まったかね?」
「姉ちゃんの事、すぐに決めないと手遅れになるんですか?」

 童が覚悟を決めて決断したかと思いきや、優柔不断と思える問いを返された和修吉(ヴァースキ)は、思わず溜息を漏らした。

(いずれの道をとるにせよ、熟慮の末に強い意思を示すかと思っていたが、あてが外れたか?)

「否。このままでも数年は保つが、それでは只の先送りに過ぎぬであろう?」
「いえ。一門の皆様なら今は駄目でも、時さえかければ、もっといいやり方を編み出せるんじゃないかと思うのです」
「ふむ、そう来たか。あの娘と胎の仔、双方を救う手法を探求せよと? 皇国の英知を司る我等一門をもってしても叶わぬと申したばかりの事を?」

 和修吉(ヴァースキ)は、童の続く言葉を聞いて、わざと責め立てる様にきつい口調を浴びせる。

「那伽摩訶羅闍(ナーガマハラジャ)の御名にかけて、最善を尽くして頂けるんじゃなかったんですか!? それとも一門ってえのは、その程度の?」

 童は眼に涙を浮かべ、必死に和修吉(ヴァースキ)へと迫る。幼馴染み、そして胎の児の双方を救う為には、ここで何としてでも首を縦に振らせねばならない。

「く…… くく…… くくくく……」
「う゛ぁ、和修吉(ヴァースキ)師?」「おかしくなられた!」

 童の形相に、和修吉(ヴァースキ)はこらえ切れぬとばかりに嗤いを漏らし始めた。
 普段は見せる事のない異様に、学徒達は驚き焦る。一門の重鎮から不興を被ったとあっては、如何に童が言仁のお気に入りであっても、只で済むとは思えない。
 だが、程なく静まった和修吉(ヴァースキ)は、片手を挙げて、狼狽える学徒達を制した。

「ああ、済まぬ。あまりに上出来なのでな、ついつい嗤ってしまった」

 和修吉(ヴァースキ)は穏やかな顔で、童に向き直った。

「相手から得た言質を盾に無理筋を通すのは、御政道の定石だ。故に、此度の汝の言は大いに善し。侍従として、よく心得ておきたまえよ」
「で、では!」
「うむ」

 期待に瞳を輝かせる童に、和修吉(ヴァースキ)も頷く。

「普蘭(プーラン)、聞いていただろう。出来るか?」

 和修吉(ヴァースキ)の呼びかけに、隣室を隔てる襖が開く。
 医術を学ぶ学徒の内でも上位に位置する普蘭(プーラン)は、黄泉返りの診療と施術を補佐する為、急遽、答志島から呼び寄せられていたのである。

「しばらくの時、そして相応の財貨と丸太を費やさせて頂ければ、施術の探求について充分に見込みはございます」
「うむ。見事に成れば、学師の称号が得られよう。銭も丸太も、要るだけ使いたまえ。勘定方には、主上の御意として話を通す」
「が、学師とは!」「ついに、普蘭(プーラン)姉が……」

 ”学師”の一言に、室内の学徒達はどよめいた。
 一門の学徒は大半が人間だが、名誉的に認められた言仁を除いては、学師に昇格した者が皆無なのである。
 騒ぐ周囲とは対照的に、強く望んでいた昇格の機会を前にしても、普蘭(プーラン)は至って平静だった。

「有り難き事です。しかし、お引き受けする前に、侍従見習殿に確かめておかねばならぬ事がございます」
「な、何でしょう?」

 漆黒の肌を持つ才媛の言葉に、童は思わず唾を飲み込む。
 
「既にお聞きお呼びでしょうが、学徒の内、私共の様な人間は、そのほぼ全てが賎民、あるいは奴婢 ※奴隷 の身でした。導師に認められて身分を引きあげて頂き、今の席にあります」
「はい。一門にはそういう方が多いという事は、長姉様から習いました」

 童の答えを受けて、傍らに座している長姉も普蘭(プーラン)へ頷き、その通りであると示す。

「結構ですね。故に、その様な出自を見下す様な輩を、我等は決して許しません」
「伊勢では、生まれは問われんのですよね? なら、そんな事は気にせんで、皆で仲良う暮らせばええと思っとりますけど。それではいかんのですか?」
「残念ながら、それが出来る者は和国に多くはないのです」

 普蘭(プーラン)は言葉を切り、童をまっすぐに見つめた。

「勿論、貴方が心正しき事は承知していますが、あの娘自身はどうなのでしょう? 我等が救い、栄えある皇国臣民として受け入れるに値するのでしょうか?」

 虫けら同様に虐げられた半生を送り、この世の奈落を知る者のみが持つ哀しげな瞳が、童の心をえぐる。
 正直、幼馴染みが賎民についてどう考えていたのか、童は全く知らない。
 確かに、樵(きこり)である自分達の村と賎民との接点は殆ど無かったが、幼馴染みは自分より歳上な分、多少なりと世を知っているだろう。
 貧しい暮らしの中、自らを慰める為に、より立場の弱い者を蔑む心を持っていたとしても、全くおかしくはないのだ。
 ここで軽々しく”大丈夫だ”等と言ってしまい、後でそうではないという事になれば……

「……わ、解りません……」

 童は弱々しく、そう答えるしかなかった。
 普蘭(プーラン)にとっては、予測した内で最良の答えであった。ここで軽率な返答を返されたら、学師の座を不意にしてでも、矜持にかけて今回の話を断るつもりだったのである。

「正直ですね。では、もし貴方の大切な方が蘇った後、賎民の出自を見下し、蔑む様な真似をしたら、貴方はどうなさいます?」
「……そん時は…… 俺が姉ちゃんを斬って、始末をつけます!」
「ちょ、一寸、それで本当にいいの?」

 学徒の一人が童に再考を促そうとしたが、長姉はそれを押しとどめた。
 神属である自分達と、普蘭(プーラン)達人間の学徒とでは、賎民への蔑視に対する憎悪の度合いは比べるべくもない。
 こで迂闊な事を言えば、一門の内で、人狼と人間の学徒の間で、反目の芽が生じかねないのである。
「出来れば丸太にしたい処ですが。まあ、慈悲として一思いに楽にする事は認めましょう。それで宜しいですね?」
「は、はい!」
「さすれば約定が成った旨、那伽摩訶羅闍(ナーガマハラジャ)に代わり、ここに宣する。然るに双方、誠をもってこれを果たせ」

 合意が成立した事を受け、和修吉(ヴァースキ)も皇族として、その証となる旨を告げた。

「承知いたしました。侍従見習殿、皇族たる和修吉(ヴァースキ)師の証によって交わした約定は、国法に等しき物となります。違えようとすれば、極刑は免れません。くれぐれもお忘れなき様」
「わ、解りました……」

 これで、姉ちゃんと腹の子は助かる。
 だが、もし万が一、助かった後で姉ちゃんが、賎民、要は”かわた”を見下す様な事を言ったら、この手で姉ちゃんを殺さなきゃならない。
 普蘭(プーラン)は姉ちゃんを試そうと、かまをかける等して、そういう言葉を引き出そうとして来るのではないか。
 この場ではああ言わざるを得なかった物の、先の事を考え、童の心は重かった。



[37967] 7話「樵に育てられた人狼」その33
Name: トファナ水◆34222f8f ID:b7003820
Date: 2018/01/05 10:46
「では、我は普蘭(プーラン)と共に、汝の伴侶たるべき娘を連れて答志島へ引きあげる。しばしの別れを惜しんでおきたまえ」
「はい……」
「侍従見習殿。こちらへ」

 童は普蘭(プーラン)に促され、座敷の奥に寝かされている幼馴染みの枕元へと座る。
 幼馴染みは全裸のまま、敷布団に横たわっていた。
 土気色の肌には全身に呪文が書かれ、息もしていない。まさしく死人その物だが、表情は穏やかな物となっていた。

「姉ちゃんと腹の子を…… 宜しく御願いします……」
「御任せ下さい」

 普蘭(プーラン)は頷くが、童の表情は硬いままだ。
 もし幼馴染みが蘇生後に、賎民を蔑視する言動を示そう物なら…… 嬉々として、彼女は童に約定を果たす様に迫るだろう。

「普蘭(プーラン)の下には、学徒を五名つける。汝が良く知っている者だ」
「というと…… 島に戻っている姉様方ですか?」
「うむ」

 童が伊勢へ来た当初、この詰所には十名もの人狼の学徒がいた。だが、本来の職が手薄になってしまう為、半数は童の面識を得た後、すぐに答志島に戻っていたのである。
 自分の近しい同族が幼馴染みに付くと聞き、やや気が楽になった処で、童はふと気が付いた。

「あ、そ、そうだ。和修吉(ヴァースキ)師」
「何かね?」
「村のもんの亡骸、どうなってますか?」
「荼毘や埋葬はまだだ。此度の諸々が片付いてから葬れる様、さし当たり、腐らぬ様に法術を施し、あちらに張った天幕に安置したままとなっておる。あの一帯は、強い結界を張って人間が入れぬ様にしてあるので心配無用だ」

 事態がめぐるましく動く中、童の村の者達に対する弔いは未だ行われていなかった。
 上人による簡素な読経は行われていた物の、きちんとした形で行いたいのは、遺族として当然であろうと和修吉(ヴァースキ)は考えた。

「姉ちゃんと違って、どうにもならんのですか……」
「あれ等の蘇生は、流石に無理だ。脳が砕けておらねば殭屍(キョンシー)には出来ようが、それは望まぬだろう?」
「それは出来るのですか?」

 和修吉(ヴァースキ)が確認の為に言った言葉に、童は眼を輝かせた。

「良いのか? 殭屍(キョンシー)は意思のない生ける人形だ」

 驚いた和修吉(ヴァースキ)は、重ねて念を押す。
 殭屍(キョンシー)は、ただ死者の肉体を利用した”道具”に過ぎないのだ。

「もし、女衆で、姉ちゃんみたいに孕んでおるもんがおったら、腹の子だけでも助けられんもんかと思って」
「ほう……」

 和修吉(ヴァースキ)は、童の意図を聞いて感心した。
 幼馴染みの事ばかりでなく、他にも助けられる者がいないかと考え、他の女にも胎に子がいるかも知れないと気がついたのだ。
 全く見上げた心遣いである。

「阿瑪拉(アマラ)の検分だと、妊婦は確か四名いた筈だな。胎の子だけならば、既存の術でも救えるであろう」
「是非、御願いします!」
「良かろう」
「有り難うございます!」

 童は和修吉(ヴァースキ)に、深々と頭を下げた。
 
「貴方はどこまでも前向きで、そして優しい。御夫君様がお気に召すのも、よく解ります」
「は、はい」

 普蘭(プーラン)からも静かな口調で褒められ、童もようやく彼女への緊張を解きかけたが、次の一言で再び、心に冷や水を浴びせられる。

「御夫君様がお悲しみにならない様、くれぐれも精進なさいね」

 口調は穏やかだが、その眼からは、言仁を悲しませる様ならば許さないという強い威圧が放たれていた。

「勿論です」

 童の側も、気迫に呑まれない様に力強く言い切る。
 幼馴染みの命を預ける以上は感謝をすれども、決して軽侮されてはならないのだ。

「期待していますよ」

 普蘭(プーラン)は童の態度に、計都(ケートゥ)譲りの意味ありげな微笑を浮かべ、それに応えた。
 二人のやり取りを、傍らの和修吉(ヴァースキ)は満足そうに見守っている。
 人狼の学徒達もまた、普蘭(プーラン)の責めに屈しなかった童に安堵していた。


*  *  *


 翌日の石津。
 今回の騒動で死した代官やその配下、そしてその郷里の村の住人達を弔うべく、上人と高野聖達は、件の村へと向かった。後には、遺骨を積んだ馬の列が続く。
 事の経緯を知らぬ馬丁を使う訳には行かない為、新たに代官所へ詰める事になった侍達が、荷を背負わせた各々の愛馬を牽いていた。
 山道を登り村へと着くと、所々が壊されたりしている物の、村内はすっかり片付けられており、殺戮が行われた後とは思えなかった。

「狼共が片付けていったとみえますな」
「憎き相手であったとは言え、和議が成った上は、遺恨を残さぬ為にも後始末をして行ったという事であろう」

 遺骸が散らばり蠅がたかっている様を想像していた侍達は、皇国の意外な律儀さに感心していた。
 庄屋の屋敷へ入ってみると、中には所狭しと多くの包みが置かれている。
 上人がその内の一つを開けてみると、中から出てきたのは遺骨だった。ただ、頭蓋がない。他の包みも同様だった。

「まさに和議の約定通り。贄として頭部を得た後、荼毘に付しておる。伊勢は確かに、信に値しましょうな」
「上人殿はそう見立てられるか……」

 約定を守っている皇国を信用出来そうだと話す上人だが、侍の一人は疑わしげな顔をしていた。
 だが、皇国と敵対すれば確実に破滅が待っている。彼等と共存するより他に、生き残る道がない事は、この場の誰もが承知していた。

「では、こちらも約定通りに弔いを始めよう」

 葬儀といっても、罪人のそれである以上、簡素に読経を行うのみである。
 経を唱え終えた後、上人は高野聖達と共に、遺骨を砕いて村内に撒いた。
 やがて土に吸われ、還っていく事だろう。

「この様な形でも、葬る事が出来るだけ、幾分かましと言う物か……」

 皇国を疑った侍は、遺骨が撒かれる様を眺めながら、誰に言うでもなくつぶやいた。


*  *  *


 一行が葬儀を終え、石津へ着いた頃にはすっかり日が暮れていた。
 侍達と別れて寺へと戻った上人と高野聖達が、一汁一菜の簡素な夕餉(ゆうげ)を済ませた処で、外から来訪を告げる声がした。
 上人達には聞き覚えのある、若い女の声だ。

「来た様だな」

 上人が戸を開けてみると、一昨日に訪れた白虎だった。

「夜分に済まぬが、伊勢の遣いとして上人殿を御迎えに参った。数日は御逗留頂く事になろうかと思われる故、その様に御支度頂きたい」
「心得た」

 上人は身支度を調え、白虎が牽いてきた車へと乗り込んだ。
 立川流にとって、既に退路はない。補陀落(ポータラカ)という強大な後ろ盾を得る機会を逃してはならないのだ。

「では、しばらく後を頼む」
「上人様、どうか御無事で」

 不安げに見送る高野聖達に、上人は穏やかな顔で後事を託して発った。



[37967] 7話「樵に育てられた人狼」その34
Name: トファナ水◆34222f8f ID:b7003820
Date: 2018/02/10 21:08
「着きましたぞ、上人殿」
「う、うむ……」

 車中でいつの間にか眠り込んでいた上人は、白虎の声で目覚めた。
 潮の匂いがするのに気付いて窓から外を見ると、何隻もの大きな船が停まっていた。その多くは、一揆によって神宮が廃された後、熱田にもよく寄港する様になった明国様式の船…… いわゆる戎克(ジャンク)である。
 まだ夜は明けていないが、辺りにはあちこちにかがり火が焚かれ、鎧に身を固めた羅刹(ラークシャサ)の兵達が巡回している。
 上人はここに見覚えがあった。皇国が占拠する前、神宮が伊勢を統治していた頃に幾度も訪れた事がある、桑名の港だ。

「ここからは、船に乗り換えて頂く」
「伊勢の外に行くのかね?」
「いや、伊勢に含まれる島だ。導師やその門下は、外部との往来をなるべく持たずに済む様、そこで暮らしておる」
「成る程……」

 俗世を離れた山寺の様な物か、と上人は思った。高野山にも通じる物がある。
 秘術を探求するならば、民の目に触れさせたくない事もあろう。ましてそれが、死者の蘇生も含まれるならば尚更だ。
 上人は車を降りると、船方らしき羅刹(ラークシャサ)にいざなわれて戎克(ジャンク)へと乗り込んだ。


*  *  *


 目的の島に着いたのは、夜が明けた早朝だった。
 ここも、上人には見覚えがある場所だった。九鬼水軍の本拠地だった答志島だ。
 神宮もろともに滅ぼされたと聞いていたが、どうやら今は、計都(ケートゥ)達がこの島の主らしい。
 港では、計都(ケートゥ)が自ら出迎えてきた。
 本来の六本腕の姿に、純白の絹布を体に巻き付けた様な異国の衣を纏っている。

「お待ちしていましたわ」

 上人は早速、港の真正面にある屋敷へと案内された。
 主を変える前のこの屋敷にも、上人は訪れた事がある。

「ここは確か、九鬼の本家でしたな」
「ええ。九鬼水軍に連なる者は皆、虜としましたわ。いずれ贄として食す事になるでしょうね」
「左様か……」

 九鬼家の主立った者とも面識のある上人は溜息を漏らすが、それ以上の追求をしなかった。
 戦の敗者をいかに扱うかは、勝者の裁量である。それは、和国のどこでも同じ、戦国の世の常だ。
 一族郎党を鏖殺する、あるいは奴婢として売り払う。それは別段、驚くに値しない。
 また、人間を食わねば生きられない妖(あやかし)の軍勢が、支配下の庶民に手を出さない為に、敗軍の虜を贄とするのは自然な発想である。
 神宮と盟約を結び民草から苛烈な税を取り立てていた九鬼水軍の者達が、その報いを受けた…… 伊勢の民草から見れば、全く因果応報であろう。
 圧政を知りつつも傍観者であった自分に、一体、何が言えるというのか。
 九鬼家を訪れた折には、せめて諫言の一つも出来たであろうに……
 上人の心中に、苦い物がこみ上げてきた。


*  *  *


「導師、御帰りなさいませ。そしてようこそ、真言密教を奉じる仏法僧の方」

 屋敷の前では、計都(ケートゥ)と同じ衣の若い娘達が数名、合掌で出迎えてきた。
 人間の様だがいずれも肌が漆黒で、和国の民でない事は上人にも一目で解る。
 いずれも丁寧な物腰だが、表情を消している。さらにその瞳の奥に、激しい憤怒の情を秘めている事が上人には感じられた。

(僧と言えども男だから警戒しているのか。いや、恐らくはもっと根深い……)

 戦で焼け出された女子供も、似た様な瞳を持つ事がある。だが、この娘達のそれは、これまで上人が目にした物とは比較にならない程に深かった。
 上人は、そうなるに至った経緯に思いを巡らせるが、自らを案内する計都(ケートゥ)へと意識を切り替えた。
 自分の相手はまず、この阿修羅(アスラ)なのである。


*  *  *


 上人が通されたのは、港が見渡せる座敷だった。
 この部屋も、九鬼家が支配していた頃と殆ど変わらない。調度品も殆どそのまま使われているのが、上人には意外に感じられた。
 異邦の遠征軍であれば、自らの好みに合わせて染め上げそうな物だが、和国の様式が気に入ったのか、もしくは使える物は使っておくという無頓着か…… 或いは、遠征ゆえの物資の欠乏かと、上人は思考を巡らせる。

「実は、少々、お詫びしなければならない事がありますの」

 計都(ケートゥ)は、上人が立ち会いを希望していた、童の幼馴染みの蘇生が、より完全な術式を探求する為に先延ばしになった事を告げた。

「そういう訳で、早くとも半年。遅ければ二、三年の後という事になってしまいますの」
「それは残念。だが、自然の摂理を曲げる方策の探求なれば、やむを得ぬ処であるな」

 上人は、補陀落(ポータラカ)が決して万能ではない事を改めて認識した。
 確かに強大ではあろうが、人智の及ばぬ存在とまでは言えぬのだろう。

「代わりと言っては何ですけれども、御覧になりたい物、問いたい事ははございません?」
「ならば、この島…… 答志島では、そも、何が行われているのか?」
「秘術の探求だけでなく、次代を担う者の教導・修練も行っていますわ。むしろ、そちらが主たる物ですわね。かつて空海が建立したという、綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)に近いとお考え下さいな」

 綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)とは、高野山の祖たる弘法大師こと空海が、身分や貧富に関わりなく、あらゆる思想や学芸を総合的に学べる場として設立した教育施設である。
 和国としては画期的な物だったのだが、空海の死後は閉鎖され、その志は途絶えてしまっていた。
 その名を持ちだした事から、上人は、計都(ケートゥ)が和国の事情にかなり通じている事を再認識する。

「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)に近いという事は、貴賤を問わず学べるのであろうか?」
「勿論ですわ」
「それは素晴らしい!」

 先達たる空海がかつて為そうとした、何人にも学ぶ機会を与える場。
 それに近い物を築き上げた計都(ケートゥ)に、上人は思わず感嘆の声を挙げた。

「民草が学問を身につける事を無駄、さらには身の程知らずとして忌避する様な考えを持つ輩は、古今東西を問わず多いのですけれども。貴方は違う様ですわね」

 上人は知らぬ間に一つ、計都(ケートゥ)の試問を乗り越えていた。当時の和国では貴重な、この様な考え方が出来る開明的な知識層をこそ、計都(ケートゥ)は求めていたのである。

「是非、学び舎の様子を拝見させて頂きたい」
「では、朝餉(あさげ)を済ませたら、学びの様子を見ましょうか」

 白米に味噌汁、香の物。
 簡素ではあるが美味な朝餉(あさげ)を済ませた後、計都(ケートゥ)が指を弾くと、雨戸が閉められて室内が暗くなる。

「そちらの襖に、学び舎の様子を幻灯で映しますわね。声も聞こえますわよ」

 壁に掛けられていた銅鏡から、対面にある襖へと光が伸び、屋敷とは異なる場所を映し出した。
 およそ四十畳程の板間で、二十名程の児童が、並べられた卓について座学に臨んでいる光景である。齢はいずれも十歳前後と見受けられ、男女は半々だ。
 肌の色や顔つきから、補陀落(ポータラカ)ではなく、和国の児童と思われる。異性を同席で学ばせる学問所は、和国では極めて珍しい。
 そして、児童達と真向かいになって教卓についている学師は、羅刹(ラークシャサ)の女性だった。実際の年齢は不明だが、人間の十七、八程に見える。長く伸ばした銀髪からは一対の角が覗き。蒼い肌に筋骨隆々とした堂々たる体躯。まさしく、民が恐れる鬼その物だが、その顔は穏やかである。

「今行われている講義の一つですわ。とくと御覧下さいませ」
「うむ、拝見させて頂こう」

 上人は、言われるままに幻灯によって映し出される様子を注視した。


*  *  *

 計都(ケートゥ)と上人が幻灯を介して見守る学舎では、羅刹(ラークシャサ)の学師による講義が進んでいる。

「”霊長”とは何か。その定義を述べなさい」
「言語を解し、知恵を持つ種を指します」

 学師に指された男児が、簡潔に答えた。

「正しい認識ですね。では、次に君。霊長を十種挙げてみましょう」
「那伽(ナーガ)、阿修羅(アスラ)、羅刹(ラークシャサ)、夜叉(ヤクシャ)、白虎、人狼、阿普薩拉斯(アプサラス)、乾闥婆(ガンダルヴァ)、億而富(エルフ)、妖狐です」

 次に当てられた女児もまた、淀みなく答える。
 
「億而富(エルフ)を除き、いずれも皇国にいる種ですね。では、他にはないですか? 次の人、もう十種挙げてごらんなさい」
「は、はい。牛頭、狢(むじな)、人熊、猫又、雪精、獅子、迦楼羅(ガルーダ)…… ええと……」

 馴染みのある種は既に挙げられてしまっているので、次に答える事になった男児は、七種答えた処で詰まってしまう。

「どうしました?」

 学師が問いかけると、男児は顔を紅潮させてさらに考える。

「独拉根(ドラゴン)…… 鎮尼(ジン)…… 後は…… 済みません……」

 何とか絞り出した二種は、いずれも和国では全く知られておらず、補陀落(ポータラカ)にもいない異国の種だ。
 もう一種という処で、男児は根を上げてしまった。

「あら、もうお仕舞いですか? 肝心の種が抜けているというのに」

 学師の言葉に、答えられなかった男児だけでなく、教室にいる全ての児童が、顔を見合わせたり、首を捻る等して疑問を示した。
 皇族たる那伽(ナーガ)、阿修羅(アスラ)は真っ先に挙げられた。その二種の他、”肝心の種”とは何だろうか。

「それは人間、即ち君達です。皇国に於いて、人間は数に於いてその過半を占める種なのですよ」

 誰も答えられない様子に、学師はいかにも残念そうに解を示す。

「し、しかし自分達、人間は…… 数ばかり多くて取るに足らぬ……」
「否!」

 最初の問いに答えた男児が戸惑いながら発した言葉を、学師は鋭い一言で遮った。

「確かに人間は、法力を振るう素養を持つ者はごく僅かで、寿命もせいぜい百年という脆弱な種です。ですがそれは、施術によってどうとでもなる事。皇国の臣たる良民には不老長寿と法力を与えるのが、那伽摩訶羅闍(ナーガマハラジャ)の御意。故に、肉体の優劣は問題では無いのです」

 児童達は学師の言葉に聞き入っている。

「知恵を持ち言葉を操る事こそが”霊長”たる唯一の条件。皆さんと私は種こそ違いますが、こうして話が出来、共に暮らす事が出来ます。あまねく霊長が手を取り合う”諸族協和”を達成する為、皆さんは勉学に励み心身を鍛えているのです。宜しいですか?」
「是!」「是!」「是!」

学師の弁に、児童達は一斉に声を張り上げて応えた。



[37967] 7話「樵に育てられた人狼」その35
Name: トファナ水◆34222f8f ID:76fd4a64
Date: 2018/03/07 05:35
「如何かしら?」

 講義が終わり、児童等が学師に一礼している処で計都《ケートゥ》は幻灯を消すと、上人に感想を求めた。

「説いておる事については納得がいく。それが貴殿等の治世ならば善政と言えようが……」

 異なる種が偏見なく共生するのは難しい。
 それを覆すには、幼少からの刷り込みがかかせないだろう事は、上人にも解る。
 だが、講義の様子には、どうにも気になる不自然さがあった。

「何でも遠慮無く仰って下さいな」

 言いよどむ上人に、計都《ケートゥ》が先を促す。

「あの子供等だが。よく躾けられており、とても民草の出とは思えぬのだ」

 上人は、児童を見て感じた違和感を述べた。
 師に相対する児童達の姿勢は、取ってつけた様な物では決してない。
 高野山支配下の寺でも、民草の口減らしとして、幼少の児童の出家をいわゆる”小僧”として受け入れる事は多いのだが、貧家の粗野な児童を躾けるのは一苦労なのだ。

「では、何だと思いますの?」
「もしや神宮の子弟であろうか。”龍神は刃向かう者を一族郎党、赤児一人も見逃さぬ”と巷では言われておるが……」
「いいえ。学んでいる子等はまさしく、神宮の圧政から私共が庇護した側に属していますわよ」

 幼少の者だけでも助命されたのだろうかと期待した上人だったが、それは脆くも砕かれてしまった。

「よく思い出して御覧なさいな。見覚えがある子等ではありません?」

 上人が先に伊勢を巡ったのは、四年程前の事だが、それについても計都《ケートゥ》は調べ上げている事を伺わせた。
 上人は、補陀落《ポータラカ》の力を改めて感じざるを得ない。
 ともあれ、以前に伊勢を訪れた際に立ち寄った町や村の子等という事なのだろうが、大人ならともかく、幼少の子の成長は早い。面影も変わってしまうだろう。
 上人は記憶を探ったが、全く思い当たらなかった。

「導師、失礼致します」

 襖が開き、入って来た学徒が計都《ケートゥ》に耳打ちする。

「先程、学んでいた子等が、是非とも貴方に会って御挨拶したいそうですわよ」
「ほう?」

 どうやら、先方には覚えがある様だ。
 ともあれ、上人は計都《ケートゥ》と共に、児童達が待っているという玄関先へと向かった。


*  *  *


 玄関先では、幻灯に映っていた児童達が集まっており、上人を見ると揃って深々と一礼した。

「上人様、お久しゅうございます!」
「う、うむ」

 揃っての挨拶に上人は一瞬戸惑ったが、すぐに合掌を返す。

「卑しまれていた私達の村を哀れみ、父祖の墓前にて読経して下さった御恩。決して忘れた事はございません」

 最年長らしき女児の言葉に、上人は心あたりを思い出した。

「貴殿等は、もしや、かわたの村の……」
「はい。私共は源平の乱に敗れた、落人の末裔。落ち延びた父祖の代から世を忍び、かわたに身をやつして、正統な帝《みかど》を御待ち申し上げておりました。念願が成就し、再び士分に戻る事が出来たのです」

 四年前に上人が伊勢を行脚した際、幾つかのかわた集落に立ち寄り、墓前ににて追善の読経を行った事がある。
 伊勢は神道の頂点たる神宮の社領だったのだが、穢れを忌む彼等は、賎民の弔いに関わろうとしなかったのである。
 上人は旅先で出会った賎民達の願いに応じ、彼等の父祖の冥福の為に供養を施したのだ。

「そういう事であったか……」

 ”和国のいずこかに、平家の落人村がある”という伝承は、上人も知っているが、ただの伝承であろうと思っていた。
 だが、矜持の高さで知られ「平家にあらずんば人にあらず」とまで吹聴していたとされる平家が、賎民になってまで追求の目をかわしていたとまでは思い至らなかった。
 確かに、先程に見た、学びに際する児童の姿勢は、士分の子弟と考えれば納得がいく。
 臥薪嘗胆の思いで耐え忍びながらも、捲土重来を子孫に託す為、研鑽を怠らなかったのだろう。

「上人殿。聞けば、神宮の愚か者共に虐げられていた同胞《はらから》に御助力下さったとの事。どうか、御迎えにあたっての非礼を、平に御容赦下さいませ」

 計都《ケートゥ》の傍らに控えていた学徒達が、申し訳なさそうに上人へ謝罪の言葉を述べた。
 その瞳からは、既に憤怒の情は殆ど感じられない。決して消えた訳ではないが、よく抑えられている。

「同胞《はらから》、であるか? 貴殿等も、もしや平家ゆかりの?」
「いえ。そういう意味合いではございません。私共もまた、国元では旃陀羅《チャンダーラ》※賎民 や首陀羅《シュードラ》※奴隷 として虐げられていたのを、身分を引きあげて頂き、学徒として登用された身なのです。故に、和国にて同様の境遇にある者は、私共の同胞《はらから》と考えているのです」

 上人は、学徒達が秘めていた物が何であったか、腑に落ちた様に感じた。天竺に於ける身分の差は、和国のそれとは比べ物にならぬと聞く。
 学徒達は常世でありながら、餓鬼道に等しい思いで生きてきたのだろう。境遇を脱した今も、自分達を見下し虐げる者達への敵意が、骨の随まで染み渡っているに違いない。
 賎民を不憫に思い追善供養を施した事を知った事で、学徒達は上人への心証を改めた様だ。
 行いが自らに還る。即ち因果応報を、上人は心中でかみしめた。

「ならば問おう、平家の幼き末裔よ。かつて治世を担っていた頃の所業を否とするのかね」
「はい。老若男女を問わず、一族の皆が、父祖の愚行を悔いております。士分とは、民を善導すべき者。己が栄華の為に民を虐げ貪る様な振る舞いは、許されざる事です」

 上人の問いに、年長の女児がよどみなく答える。
 傍らでそれを聞く学徒達も、満足そうに頷いていた。

(素性を隠し、周囲から蔑まれて代を重ねる内に、驕りへの強い戒めを自らに課したか)

「上人様。新しき世、皆が手を取り合って暮らせる”諸族協和”の世造りに加わる為に、はせ参じて下さったのですね! 有り難うございます!」

 児童達は皆、上人へ期待の眼差しを向けている。
 上人が横にいる計都《ケートゥ》を見ると、その顔は意味ありげに微笑んでいた。

(補陀落《ポータラカ》へ従う様に促す為、庇護する子供等をも使うか…… 全く、容赦なく攻めて来る……)

 児童等との対面が、計都《ケートゥ》の筋書きであろうと、上人は悟った。



[37967] 7話「樵に育てられた人狼」その36
Name: トファナ水◆34222f8f ID:76fd4a64
Date: 2018/03/25 23:34
「まずは、拙僧に何が出来るか、見極めねばならんでな。色々と見せて頂こうと思っておる」
「宜しく御願いします!」

 児童達は、上人が皇国へ協力する事を微塵も疑っていなかったが、上人はあえて結論をぼかし断言を避けた。
ここにつれて来られた以上、上人の退路は既に無いのだが、立ち位置についてはまだ考慮の余地がある。故に、うかつな言質を取られてはならない。
 一方、計都《ケートゥ》は、その慎重さに好感を持った。ただ力におもねる者は、重き責を委ねるにはふさわしくないと考えていたのである。


*  *  *


 次の講義があるとして児童達が一礼して辞した後、計都(ケートゥ)は上人を、屋敷に隣接する蔵へと案内した。
 これは上人の記憶にない真新しい建物で、補陀落(ポータラカ)が答志島を占拠した後に新築された事が窺える。
 大きさはと言えば、通常の蔵の三倍程もある。
 中に入り、法術の灯りがともされると、そこには幾つもの真新しく大きな棚がしつらえてあり、数え切れない程の書物が丁寧に並べられていた。
 書棚はとても高く、およそ二丈 ※約六m 程。人間はおろか、羅刹《ラークシャサ
》でも背が届かないだろう。その為だろうか、見るからに屈強な梯子も備えられていた。

「これは!」
「ここは書庫ですの。まだ一部ですけれども、一門の蔵書を国元から運び込みましたのよ」
「これ程の書物が……」

 上人は、書庫に収められている蔵書の量に驚嘆した。仏典を多く所蔵している高野山でも、全くかなわないだろう。
 通常の本や巻物の他、木簡や竹簡、獣皮や布が使われた書物もある。よく保存されているが、相当の年月を経ている事は一目で解る代物だ。
 紙が考案されたのは後漢の代である事を知っていた上人は、それが使われていない書物は、よほどの古書なのだろうと考えた。
 漢文や梵文だけでなく、見たことも無い異国の文字らしき物で書かれている物も多くある。
 ”皇国の智を司る”と称するだけの事はある様だ。

「特に興味がおありなのは、仏道の経典でしょうね。あれは、世代を経て広く伝播すると共に、独自の解釈が加えられ…… 和国で用いられている物の多くは、原典とは大きく変わっていますもの」
「では、ここには、原典があると!」
「勿論ですわ。写本ですけれどもね」
「お…… おお!」

 釈迦入滅直後に、十大弟子を中心に編纂された原初の経典。仏法僧なら誰でも、垂涎の代物である。
 示された棚に上人は駆け寄り、並べられた巻物を恍惚の眼でみつめた。

「敵ながら、とても興味深い考察が纏められていますわね」
「敵……!?」

 剣呑な言葉を聞き、上人は我に返ると思わず振り返り、計都(ケートゥ)を凝視する。

「ええ。提婆達多《ダイバダッタ》を籠絡したのも、善星《スナカッタ》を陰から師事したのも、補陀落《ポータラカ》の手の者ですの。はっきり申し上げれば”仏敵”ですわね」

 提婆達多《ダイバダッタ》とは、瞿曇《ガウタマ》 悉達多《シッダールタ》の従兄弟にして、弟子の一人である。後に分派を率いて袂を分かった末、悉達多《シッダールタ》の殺害に失敗して無間地獄に墜ちたと言われている。
 善星《スナカッタ》とは、瞿曇《ガウタマ》 悉達多《シッダールタ》が出家前にもうけた三子の一人で、弟子として実父に従うも、悪心が生じて無間地獄に墜ちたとされる。
 ちなみに、十大弟子として著名な羅睺羅《ラーフラ》は、善星《スナカッタ》の異母弟にあたる。
 つまり、原初の仏道教団で、開祖に近い者から造反者が現れたのは、皇国の仕業だと計都《ケートゥ》は語っているのだ。

「何故…… その様な事を……」

 自らは仏道の開祖へ敵対する立場であると、穏やかな顔で淡々と告げる計都《ケートゥ》に、上人はやっとの事で問いを絞り出した。
 暴虐に明け暮れる悪鬼、妖《あやかし》の類が、仏道を軽侮し罵るのは珍しい事ではない。
 だが、この思慮深き阿修羅《アスラ》が、父祖の悪行を是とするとは、上人には信じがたかった。

「補陀落《ポータラカ》は、瞿曇《ガウタマ》 悉達多《シッダールタ》に力で抑えられ、封じられたのですもの。あれの教団は、強力な阿羅漢《アルハット》を多く要していましたから、正面から闘うのは厳しかったのですけれども。ならば、こちらに都合の良い者へ首をすげ替えようと考えたのですわ」
「補陀落《ポータラカ》は仏法に帰依したのではなく、あくまで釈尊の力を恐れて従っていた、いわば面従腹背であったと申すか」
「その通りですわ。神属は人を贄にしなければ生きられませんもの。それを”悪”とされれば、共にある事は出来ませんわね」

 生きる為と言われれば、上人もそれを真っ向から否定する事は出来ない。
 人間と捕食関係にある神属が共存するのは、やはり至難の事なのだ。
 だが、それが解っていたからこそ、釈尊は補陀落《ポータラカ》をあえて完全に封じなかったのではなかろうか…… 上人はそうも考えた。
 
「成る程…… ならば何故、仏典をこの様に集めておるのか。憎き敵の教え等、唾棄して然るべきであろう?」
「争った相手の全てを否定するのではなく、探求し、優れた点を取り入れる事こそ、賢しき姿勢と思いません?」
「ふむ……」

 敵に学ぶ。理にかなってはいても、なかなかに出来る事ではない。
 上人は、計都《ケートゥ》の度量の広さに感心する。

「それに、ここにあるのは、原初の仏典だけではありませんわ。仏道各派による後代の物は元より、古今東西、神属・人間を問わず、様々な賢者が探求した学術の成果を集めていますの」
「ほう?」
「例えば、印度よりも遙かに西方の国である、希臘《ギリシャ》の哲学書。羅馬《ローマ》の将軍による手記。ああ、貴方が御存知であろう物でしたら、儒学書の類や、兵法書の”孫子”もありますわよ」

 仏道者の多くは、発祥の地たる天竺を、英知の中心と考えている。
 だが、彼の地から来訪した計都《ケートゥ》は、より広い世界を感じているのだ。
 未知の領域からの知識をも貪欲に集めている彼女に、上人は改めて畏敬を感じた。

「そういった様々な知識を学んだ上で、自らの考えを定め、御政道、即ち民草への導きへ活かす事が肝要なのですわ」
「耳の痛い話であるな……」

 浮世離れした理想を説くばかりでは、衆生の心へは届かない。民が欲するのは、暮らしをいかに良くするかという”現世利益”なのだ。

「皇国の世造りがいかなる物か。興味がおありでしょう?」
「是非、御聞かせ願いたい」

 上人の求めに、計都《ケートゥ》は頷いた。

「結構ですわね。でも、その為にはまず、無心になって頂く必要がありますの」
「曹洞、臨済が行っておる”禅”の様な物であろうか?」
「似て非なる物ですわね」

 計都《ケートゥ》は、書庫の奥へと進み、指を弾く。
 すると床の一角に穴が開き、地下へと続く階段が現れた。中は薄暗い物の、法術による物らしい灯りがともされている。
 上人は手招きされるままに計都《ケートゥ》へ従い、階段を降りていった。
 丁度、百八段を降りた処で、屈強そうな鉄扉が正面に立ちはだかる。

「こちらへ」

 扉を開いた計都《ケートゥ》に促され、上人が中へ入ると、そこは畳四畳半程の小部屋だった。
 調度品は何もない。四方の壁、天井、そして床も無地の板張りという、殺風景な部屋である。
 上人が部屋を見回していると、背後で扉がきしむ音がした。
 振り返ると扉は閉ざされ、計都《ケートゥ》の姿もない。
 上人は扉を開こうとしたが、重く閉ざされたそれは、全くびくともしなかった。

「計都《ケートゥ》殿、これは何の真似か!」

 上人は扉を激しく叩き叫んだが、答える声はない。

「閉じ込められたか……」

 囚われの身となった事を悟った上人は、己の迂闊さをかみしめると座り込んだ。



[37967] 7話「樵に育てられた人狼」その37
Name: トファナ水◆34222f8f ID:76fd4a64
Date: 2018/04/15 20:10
 彼は床に座し、状況を再考する。
 殺すつもりならすぐにでも出来ただろう。捕らえて虜にするにも、もっと簡易な方法があった筈だ。
 計都《ケートゥ》は恐らく、静かにこちらを観察し、値踏みしているのだと、上人は推察した。

(見苦しい処を見せてしまったか……)

 そして彼はそのまま、静かに瞑想へ入った。


*  *  *


「まあ、とりあえずはこんな物ですわね」

 屋敷へ戻り、八咫鏡で上人の様子を観察していた計都《ケートゥ》が、傍らの和修吉《ヴァースキ》に微笑む。

「修養を積んでいても、とっさの事では慌てる物ですな。しかし、落ち着くのも早かったですし、見限る事もなかろうかと」
「まだですわよ。これからが仕込みですもの。さし当たり、五昼夜程は放置しておきませんとね」

 空の室内に閉じ込め、一切の刺激を与えずに放置する。
 大抵の者は一刻も持たずに根をあげて刺激を欲し、二、三日も経てば「何でも良いから見聞きしたい」と渇望する様になる。
 心をそこまで追い込んだ後、刷り込みたい事を説いていくのだ。
 法術に依らずして人心を操る、現代では「洗脳」と呼ばれる技法の一つである。

「仮にも上人と呼ばれる程の仏法僧ですからな。屈せぬかも知れませぬぞ」
「勿論、それも見込んでいますわよ。この程度に耐えられないなら、使い物になりませんもの」
「屈したならば、道理を刷り込んだ上で傀儡として用いるのですな」
「そういう事ですわ。多分、大丈夫とは思いますけれどもね」

 責めに耐え強靱な精神を持つ事を示せば、厚く遇し、治世に対して物申す立場を与えても良い。
 それに値せぬなら、高野山を御する為の傀儡として使役する。
 計都《ケートゥ》は、冷徹な方針を事も無げに語った。


*  *  *


 法術で灯りがついたままの部屋で、上人はずっと瞑想に浸っていた。
 昼も夜も解らず、何日経ったのかは見当も付かない。
 物音一つせず、風もそよがず、ただ静寂のみが支配する。
 上人は既に空腹も感じなくなっていた。
 突如、灯りが消され、室内が闇に包まれたのを瞼ごしに感じた上人が目を開けると、程なく、正面の壁一面に、農村で田畑を耕す百姓達の光景が映し出された。

(これは幻灯とやらか。今度は何を見せる気だ?)

 上人は眼前の光景に注視する。
 百姓達は皆、十代半ばから三十位までと働き盛りの若さの男女だ。
 血色が良く、食に不自由してない事が窺えた。身なりも、ボロではなく真新しい衣である。
 また、耕作は人力ではなく、馬を使役している。伊勢の薬売りや荷役で使用されているのと同じ大型の馬で、和国の在来種でない事は一目で解った。
 牛馬の類いは便利だが、富農でなければ維持が難しい。いわば豊かさの象徴の様な物だ。

「これが、神宮の圧政から解き放たれた、伊勢の百姓の今だというのか……」

 確かに、百姓の暮らしぶりとしては、裕福な様子が窺える。神宮の圧政から脱した一揆衆は、補陀落《ポータラカ》の庇護の下、安定した暮らしを得ているという風評は、どうやら本当の様だ。
 だが、上人にはどうにも気にかかる点があった。
 皆の瞳が一様に濁っているのだ。知性の光が失われ、呆けた様な顔でただ黙々と野良仕事にいそしんでいる。

「衣食は充分足りておる様だし、馬を使役して仕事も楽になっていよう。だが、あの眼からは喜びの一切が感じられぬ。あれではまるで、亡者ではないか……」

 訝しんだ上人がつぶやくと、どこからともなく計都《ケートゥ》の声が響いた。

「あの者達からは、法術によって煩悩を取り払いましたの。あれ等は確かに、喜びは感じませんわ。けれども、苦しみも哀しみも一切を感じる事無く、平穏に生涯を過ごしますの」
「馬鹿な事を。あの有様はどうした事か。全く人とは呼べぬではないか!」

 上人は思わず叫ぶ。あんな物が、煩悩を捨て去った”解脱”である物か。

「あらあら。仏道は煩悩を捨て去り、解脱に至る事を説いていますのに」
「何も感じぬとはあの様な物なのか。しかし、釈尊は……」
「あれは、後世の者が美化していますわよ。一切の煩悩を取り払った者は、心は清らかで穏やかでしょうけれども、自ら考え動く事は出来ませんもの」

 仏道の開祖たる釈尊は解脱し、涅槃の境地に達したと上人は反論したが、計都《ケートゥ》はそれを一笑に付した。

「瞿曇《ガウタマ》 悉達多《シッダールタ》は確かに、私共神属でも叶わぬ法力をもった”活仏”にして”賢者”でしたけれども。あれが説いた”解脱”は、自我を保つ限り到達する事が叶わぬ理想ですわよ。当人も解っていた筈ですわ」
「むう……」

 計都《ケートゥ》の見解に、上人はうなる。

「ところで貴方は、あれ等の暮らしぶりを否としますの?」
「衣食が満ち足りていようとも、人の至るべき姿とは、あの様な物とは思えぬ」

 上人はきっぱりと否定した。

「では、これは如何かしら?」

 農村を映した幻灯がかき消え、新たな場所の光景が現れる。
 答志島とは別の、いずこかの沿岸だ。
 海には何艘もの舟が浮かび、それぞれには漕ぎ手であろう全裸の若い男が一人づつ乗り込んでいる。
 時折、やはり全裸の若い女が水面から顔を出しては、海底で拾った鮑《あわび》や栄螺《さざえ》といった貝を舟上に上げ、再び潜っていく。
 いわゆる「海女漁」と呼ばれる漁法である。
 全裸なのは泳ぐ為だ。潜る海女だけでなく舟上の漕ぎ手もそうなのは、いざという時に助けに入る事を考えてである。
 漁は順調な様で、いずれの舟も、水揚げの貝が見る間に溜まっていく。

「あの者達の脳髄には、法術を施していませんわ」

 計都《ケートゥ》の言う通り、先に映されていた農村と違い、漁民は皆、眼が生き生きと輝いており、職に誇りを持ち暮らしに満足している様子が窺えた。

「夫婦《めおと》舟か。実に微笑ましいが…… 補陀落《ポータラカ》は、漁師を百姓より重んじておるのかね?」

 漁民を百姓の上に置いて差をつけるというのであれば、上人としては認めがたい。

「そういう訳ではありませんわ。農村でも、法術で煩悩を取り払った者は、極一部の咎人のみですの」
「咎人というと、神宮に与しておったのかね?」
「その様な者は、問答無用で贄ですわよ。そうではなく、あれ等は一揆衆の内から出た者共ですわね」
「ふむ……」
「改悛すれば慈悲を与えると言っても聞かず、他州へ逃げ出そうとしたり、那伽摩訶羅闍《ナーガマハラジャ》へ矛を向ける程に性根が曲がっていましたの」

 先に映っていた農村の有様は、罪人の労役という事だった様だ。
 一揆衆に加わっていた者の内にも、中には不満を持つ者や、罪を冒す者はいるだろう。

「本来ならば首を刎ね、贄として神属の食卓に供するのですけれども。那伽摩訶羅闍《ナーガマハラジャ》の寛恕をもって罪一等減じ、煩悩を取り払った上で働かせる事にしたのですわ」

 死罪とせず、あの様に使役しているという事であれば、必ずしも重い処遇とは言えない。
 上人もひとまずは納得した。

「一部の咎人に過ぎぬか。まあ、多くの者が、この漁師共の様に生き生きとしておるならば貴殿等の治世も…… ん?」
「どうしましたの?」

 上人は、幻灯に映る舟の一艘に目を留めた。
 乗っている漕ぎ手の股間、男根の根元にある筈の陰嚢が見当たらない。

「あの男…… ふぐりがぶら下がっておらぬな。怪我でも負ったのだろうか?」
「流石ですわね。こちらから示す前に、良い処に目をつけられましたわ」
「というと?」

 上人は怪訝そうに聞き返す。

「この漁村の者は、男子は睾丸をもぎ、女子は子袋と真子 ※卵巣をえぐった上で玉門※膣口 を塞いでありますの」
「それでは、交合の悦びもなく、子を為す事も出来ぬではないか!」
「まさにその為ですわ。色欲の元を取り去る事で、あれ等は交合を欲しなくなっていますの。子も生まれませんから、いずれ村も絶える事になりますわね」
「一体何故、その様な仕打ちを!」

 立川流は、男女の交合による精神の昇華を重視する。色欲を取り去るとは、それを真っ向から否定するに等しい。
 また、子孫を残させないというのは、長い目で見れば鏖殺も同然である。
 皇国の辛辣な行いに、上人は声を荒げた。

「最初にお見せした百姓共は、”改悛しなかった”咎人ですの。この漁師共は悔悟しましたから、あれで済ませたのですわ。明国風に言えば”宮刑”ですわね」
「一体、何の咎と言うのか……」

 本来ならば死罪というのだから、余程の事に違いない。神宮に与した咎ではないというならば、何をしたというのだろうか。

「賎民に暴虐を振るい、特に女を手込めにした罪ですの。加護を与える際、一揆衆にはそれまでの事に赦しを与えた上で、厳しく禁じたのですけれども。神宮を倒した後も、隠れて行っていた者が多かったのですわ」
「……左様か……」

 一揆衆は、自分達が神宮の圧政から解放される事は願っても、より低い身分の賎民達を虐げる事は改めなかったのだ。補陀落《ポータラカ》が賎民を憐れみ、解き放つ事は拒んだのである。
 まさに自業自得である。上人も、皇国の与えた罰を非道として責める事は出来なかった。

「皇国も甘かったのですわ。暮らしが楽になれば、立場の弱い者を虐めて鬱憤を晴らす様な真似を止めると思っていましたのに…… 長年に染み渡った性癖は改まらず、殆どの者がこれを密かに破りましたわね」
「殆どとは。なれば、いか程の民が同様の罰を受けたのかね?」
「一揆衆の内、およそ九割五分ですわね。無辜の者は、僅かに五分。これは、賎民自身を除いての事ですわ」
「何、だと!」

 罰を受けた者の数を聞いて、上人は驚き絶句した。
 今や、伊勢に住まう民の殆どは咎人というのだ。
 話を聞く限り筋は通っているが、あまりに苛烈ではないか。このままでは、伊勢が数十年もすれば滅びてしまう。

「旧き世の因習を絶つには、その悪癖に染まった者共に子を育てさせてはなりませんの。贄として一揆衆に差し出させた子等、そして各地より買い集めている赤児等は、新たな伊勢の民として一門の手で正しく養育しますわ」
「それが、貴殿等の望みか……」
「ええ。新しき世の建立の為に」

 今を生きる者達が死に絶えた後、自らの理想に染め上げ育てた若者達によって、新たな国を造り上げる。
 その壮大な構想と、そして単なる鏖殺よりも遙かに狡猾で非情な手段に、上人は慄然とした。



[37967] 7話「樵に育てられた人狼」その38
Name: トファナ水◆34222f8f ID:76fd4a64
Date: 2018/05/13 19:38
「しかし、これではそちらから他州へは手を出せぬな。闇雲に領地を広げた処で、兵も役人も足りぬであろう?」

 計都《ケートゥ》の語る構想は壮大だが、瑕疵があるのではないかと上人は気付いた。
 現在の伊勢の民の殆どに信頼を置けぬならば、人材を募る事もままならないだろう。

「ええ。今の赤児が育ち、修練を積んで統治に加われる様になるまで…… およそ三十年は難しいですわね。それが過ぎた後、なおも乱世が続いているならば、皇国による平定に乗り出しましょう」

 計都《ケートゥ》はそれを認めると共に、時が至れば和国平定に乗り出す事も示唆する。

「その前に、他州から戦を仕掛けられればどうするかね?」
「勿論、その様な愚か者は滅するのみですわ」
「では、三十年の間に、和国の天下統一が為されたならば?」
「……そうならない様に願いたいですわね。和国を統一した者が誰であれ、残る伊勢に牙を向けるのは必定ですもの」

 仮に天下が統一されれば、残る伊勢は目の上の瘤だ。和国の軍勢が総力を挙げて奪回に動くのは想像に難くない。
 そうなれば、皇国の逆襲によって和国中が焦土と化すだろう。それだけは、何としてでも防がねばならない。

「元より、貴殿等にしてみればこの地は異邦。天下を取った者に和国を任せ、退く事は考えられぬか」

 そも、補陀落《ポータラカ》が和国に目を付けた理由は何か。彼等のいう”皇道楽土”は、ここで無ければならないのか。
 和国の民草の大半が計都《ケートゥ》にとって”期待外れ”であったなら、無理にこの地に拘る必要もあるまいと上人は考えた。

「異邦ではありませんわ。和国は元より、皇国が擁する活仏の物ですもの」
「活仏?」
「那伽摩訶羅闍《ナーガマハラジャ》の養い子にして伴侶たる、一揆衆頭目。あれこそは、瞿曇《ガウタマ》 悉達多《シッダールタ》に比肩する力を持つ活仏ですの」
「本邦を統べるべき者というならば、もしやそれは、皇統に連なる者であろうか?」

 立川流自身、かつて南北に割れた朝廷の内、南朝方を支持していた。敗れた結果、今の凋落に至っている。
 だが、天下統一を目指す勢力の一部は、現在の朝廷である北朝を廃し、南朝の残党から自らの意のままになる天皇を担ぎ出そうと目論む者もいると聞く。
 上人の知る限り、もはや南朝の末裔には、和国の頂に君臨する気概が失せて久しいというのに……
 補陀落《ポータラカ》もまた、傀儡として立てるべく、南朝の血統を確保していたのかと、上人は考えた。
 だが、皇統を主張出来そうな南朝の末裔については、元の南朝方たる立川流として、おおよそ動向を掴んでいるつもりだったにも関わらず、上人には心辺りが無い。

「ええ。でも、貴方がもしやと思っているのは南朝の事ですわね? それとは違いますわ」
「ほう?」

 予想に反した計都《ケートゥ》の言葉に、上人は思わず聞き返す。

「源平の乱の際、言仁帝…… 追号で言う安徳帝は、壇ノ浦で身罷る事無く、西方の海へ落ち延びていたのです。それを、小生が庇護しましたの」
「よもや、安徳帝の血筋を庇護しておったか!」

 安徳帝と聞いて、上人は思わず声を挙げた。
 南北朝が分裂するより以前の人物である。確かに、安徳帝の血統であれば、和国の帝位を主張する根拠となり得るだろう。

「血筋というより、当人ですわね。落ち延びる際、二位尼殿に石化を施された事で、朽ちる事無く時を超え、私共の国元へ漂着していたのを拾いましたの」

 二位尼とは、言仁の母方の祖母である、初代の平時子を指す。

「安徳帝が壇ノ浦から落ち延びていたという伝承は、和国にもある。だが、遙かに遠き天竺の地まで流れておったとは、にわかに信じ難い。証拠はあろうか?」
「言仁帝と共に失われたとされる、草薙剣の形代《かたしろ》がありますわ」

 形代《かたしろ》とは、簡単に言えば模造品の事である。和国帝位を示す三種の神器の内、草薙剣は熱田神宮に、八咫鏡は伊勢神宮に祀られ、宮中にあったのは形代だったのだ。 よって壇ノ浦で失われたとされ、今は言仁の手元にある草薙剣は「本物」ではない。
 ただし、源氏が政権を握った後に改めて宮中に収められた形代と違い、言仁の持つそれは、熱田神宮に祀られている本物に準じた力を備えている。

「ふむ……」

 上人は目を閉じ、如何にすべきかに思いを巡らせた。
 実物を知らぬ以上「草薙剣」を見せられても、それを以て真なる安徳帝の証と判じる事は出来ない。
 判断が難しい安徳帝の真贋よりも、帝位に相応しい人物か否かの方が重要と思われる。
 活仏と称する位に法力の強い人物である事は確かだろう。
 扱い易い傀儡として育て上げられたか、和国の帝位に相応しき教養と意思を自ら備えているのか……

「是非一度、貴殿等の擁する「安徳帝」に拝謁を願いたい。その上で、立川流としての決を下したいのだ」
「……そうですわね……」

 上人が申し入れると、計都《ケートゥ》は一言漏らした後、沈黙したまま答えない。
 流石に、即断しかねている様だった。
 四半刻程の沈黙が続く中、唐突に、固く閉められていた筈の扉が開く。
 入って来たのは、年の頃十六前後の、中性的な顔立ちをした青年である。
 絹の直垂を纏い、いかにも身分が高そうな出で立ちだ。
 いかにも儚げで、元服したばかりの公家の男子といった印象を感じさせる。
 肌の色から見て、補陀落《ポータラカ》ではなく、和国の出であろう。
 ならば彼もまた、伊勢でかわたに身をやつしていたという、補陀落《ポータラカ》が解放した平家の末裔だろうか。
 
「この度は計都《ケートゥ》師が、大変に失礼な事を致しました」

 青年は上人に、深々と頭を下げて謝罪した。

「貴殿は?」
「申し遅れました。一揆衆の頭目を務めております、言仁と申します」
「今し方、計都《ケートゥ》殿に貴殿との目通りを願ってから、随分と早いが」
「初耳です。師とは、その様な話になっていたのですか?」
「知らぬと申されるか?」

 言仁の言葉に、上人は首を傾げる。

「別の件で、島には今着いたばかりでした。よもや上人殿がこの様な処遇を受けているとは知らず、出迎えた兵に聞いて港からここまで駆けつけた次第です」
「ふむ……」

 言仁の口調から、上人はそれを真実と判断した。どうも、上人への対応について、補陀落《ポータラカ》の内部でも行き違いがあったらしい。

「聞こえておいでですね、師よ。この場は私に!」
「……活仏よ、仰せのままに」

 言仁が顔を上げ、外見に似合わぬ強い口調で叫ぶ。丁寧ではあるが、目下の者に命じる様だ。
 対して、返ってきた計都《ケートゥ》の答えは、主君に対する臣下のそれの様に聞こえた。

(ほう…… これは……)

 そのやり取りから、上人には二人の力関係が垣間見えた。
 安徳帝とされる青年は、計都《ケートゥ》を師と仰いではいるが、ただ意のままに従っている訳ではない様だ。
 また、計都《ケートゥ》の側も、少なくとも形式的には、彼を主君の伴侶として立てているらしい。

「貴殿の素性については、計都《ケートゥ》殿から伺っているが、未だ半信半疑。真贋を判じない事には、答えを出せぬ」
「そうでしょうね。身分の証としては草薙剣が桑名にあるのですが……」
「拙僧が見ても、力の強い霊剣である以上の事は解らぬでな。その様な物、補陀落《ポータラカ》なれば新たに作れぬでもあるまい?」
「確かに……」

 証拠の品を示された処で、言仁が本物であるという決め手にならない
 平家の者達があっさりと言仁を認めたのは、石化して落ち延びた事が代々伝わっていた為為である。
 
「故に、貴殿の力を見極めさせて頂きたい。”活仏”と称するに値する力を持つならば、皇統であとうと無かろうと、和国の玉座を求めるに相応しいであろう」
「……良いでしょう」
「失礼する」

 上人は、言仁の資質を見極めようと、真正面から向き合った。
 確かに、人間としては考えられない程に強い霊力の循環が感じられる。
 上人自身を含め、ここまで強い法力をもった人間に出会った事はない。計都《ケートゥ》が”活仏”と称するのも頷ける。
 だが、法力の強さは、精神の修養と必ずしも一致する物ではない。魂の器量は瞳を観察する事で測れるのだが、視線を合わせた言仁のそれは、凡庸な常人の物と変わらない様に見える。
 だが、上人がさらに眼を凝らして奥をのぞき込むと、秘されていた本性が暴かれた。
 瞳の奥から見える言仁の心は、若年にも関わらず、慈母の様に深く穏やかで全てを包み込む様なまどろみを感じさせる。
 心地良さに我を忘れそうになった刹那、上人は言仁の眼力に気が付いた。

「よもや…… み、魅眼! しまった!」

 眼を閉じ視線を遮ろうとするが、既に遅い。
 正気を失った上人は、法悦とした表情を浮かべてその場に立ち尽くした。



[37967] 7話「樵に育てられた人狼」その39
Name: トファナ水◆34222f8f ID:76fd4a64
Date: 2018/06/10 23:13
「いけない!」

 言仁は、恍惚として立ち尽くしたままの上人の魅了を解こうとしたが、術が発動しない。

(封呪!)

 いつの間にか、言仁の法術が封じられていたのだ。彼にこの様な事が出来る者は、皇国にはただ二人しかいない。
 
「御苦労様でしたわね」

 背後からの声に振り向くと、いつの間にか計都《ケートゥ》が立っていた。

「油断はならないと、常日頃から言っているでしょう? 封呪は放っておけば、一刻 ※二時間 も経てば解けますわよ」

 計都《ケートゥ》は時折、警戒を怠るなという戒めとして、門下の者へ、封呪を不意打ちでかける事がある。
 それを受けてしまった者は未熟として、封呪が解けるまでの間、他の学徒達が折檻を加えても良いというのが一門の慣習だ。
 流石に、封呪されてしまったからといって、言仁に手を出す者はいないのだが。

「しかし、上人殿が! 魅了を! 早く解いて下さい!」
「あらあら、魅眼ですわね。でも、丁度良いではありませんの」

 計都《ケートゥ》が言い放った一言に、言仁はこれが仕組まれた流れだと悟った。

「もしや、上人殿がこうなる事を解って、わざと私を引き合わせた……」
「勿論ですわ。元々、転ばせる為にこれを弱らせていたのですけれども。貴方が島へ来ると聞いたものですから」

 計都《ケートゥ》は平然と、言仁の疑念を認めた。

「何と言う事を! 私がこの忌まわしい力を好まぬ事は、師も御承知でしょう!」

 言仁は、自らの眼に備わっている魅了の力を使わぬ様に心がけている。
 周囲の者が皆、傀儡の様に意のままになってしまうのでは、孤独と同じ事だからだ。
 皇配としての権力によって命を下すのとは訳が違う。

「必要でしたもの」

 言仁が怒気を師に向けるのは珍しい事だが、計都《ケートゥ》はあっさりと受け流した。

「それに貴方も、魅眼は封じていたのでしょう? だからこそ、力を探らせる事をこれに許したのですわね。それを無理にこじ開けたのは、これの側ですわよ」
「確かに……」

 計都《ケートゥ》の指摘に、言仁も冷静さを取り戻して頷く。
 瞳を覗いて力量を測ろうとしても、並の術者であれば、言仁の魅眼を発動させてしまう事は無い。ただ、途方も無い力がある事が解るだけだ。
 上人は、言仁の深淵を覗こうとして、心を囚われたのである。

「これは、貴方には大きく及びませんけれども、人間にしては稀な力がありますわね。才覚は奥妲《アウダ》に比肩する程ですわ。並の神属では、一対一では力負けしますわよ」
「そうですね。阿瑪拉《アマラ》師や配下の人狼兵共が遅れをとってしまったのも、納得出来ます」

 計都《ケートゥ》の見立てによれば上人の資質は、一門の擁する阿羅漢《アルハット》の学徒の内でも、特に才覚の高い天才児・奥妲《アウダ》と匹敵するという。
 もし、幼少の頃から補陀落《ポータラカ》で学んでいたならば、油断すれば阿修羅《アスラ》や那伽《ナーガ》すら脅かす力量を備えていただろう逸材だ。

「上人殿が、私の魅眼の力に囚われる様に仕向けたのは、逆らう事を恐れてですか? 咎を冒したならばともかくも、恩義ある方ですよ?」
「恩義とは、人狼の童の件ですわね。それがあればこそ、小生は重く用いたいと考えているのですわ」
「ならば何故です?」

 上人を高く評価しているならば、数日にわたって幽閉したあげく、言仁の力で魅了して心を奪ってしまったのは筋が通らない。

「和国遠征に際し、小生が立ちはだかる主な敵として考えていたのは、幕府や諸州の大名では無く、仏道諸派の勢力ですわ」
「仏法僧の一部は、法術を使う阿羅漢《アルハット》ですからね」
「ええ。その中でも高野山は、最も恐るべき相手ですもの」
「ならば、高野山の主流から外れた立川流であれば、皇国としては同盟を組むには良い相手では?」
「皇国の信用を得た上で寝返り、貴方や弗栗多《ヴリトラ》の首を手土産に、凱旋しようと企てるかも知れませんわよ?」
「なればこそ、まずは信を醸成する事が肝要かと私は考えます! 高野山よりも厚く遇し、民を慈しむ姿勢を見せれば上人殿もきっと……」
「これとて仏法僧ですもの。仏道を捨て、皇国に付く覚悟が出来ますかしら?」
「それは……」

 言仁の期待を、計都《ケートゥ》は甘いとして退ける。
 主流に反するとは言えども、上人は地位を築き上げた仏法僧だ。
 これまで信奉していた物の敵に与するのは、流石に躊躇するのではないか。

「皇国の民を預かる身として、貴方はどう考えますの?」

 計都《ケートゥ》は皇配としての冷徹な決断を促したが、言仁はなおも抗弁した。
 
「……計都《ケートゥ》師や、他の学師の方々の智力を以てしても、上人殿へ皇道楽土の思想を説き、理によって”こちら側”へ染め上げる事は叶わぬのですか? それこそが本道でしょうに……」

 すがる様な瞳で正論を訴える言仁に、計都《ケートゥ》は深い溜息を漏らして苦笑した。

「宜しいですわ」
「有り難うございます!」
「但し、条件がありますの」
「何でしょう?」
「魅了を解く前に、高野山の内情を包み隠さず話して頂きませんとね。素のままでは、隠し立てする事もあるでしょうし」
「師よ、何か御懸念でも?」
「ええ。小生が懸念している物が万が一、まだ高野山に潜んでいるのなら、皇国の、いえ、貴方にとっても脅威ですもの」
「ああ…… もしかして、あれの事ですか」

 計都《ケートゥ》の懸念について、言仁には思い当たる物があった。

「確かに、高野山の”奥の院”で、未だ行を続けているという事にはなっていますね。しかし、七百年も前の人物です。伝承に過ぎぬのでは?」
「あれが諸州を行脚して、妖《あやかし》を退治したり、法術で民に助力したと言う話がかなり伝わっている様ですの。しかも個々の逸話が起きたとされる時期に、二百年以上の幅があるのですわ」
「二百年、ですか……」

 言仁もそれを聞き首を捻る。通常の人間ならば、とうに寿命が尽きている期間だ。

「あれが阿羅漢《アルハット》である以上、若さを保ち存命という事は大いにあり得ますわ」

 人間の内、法力を生まれ持った阿羅漢《アルハット》は、神属の乳か精液を摂取し続ける事で、不老長寿を保つ事が出来る。
 あまり知られていない知識の為、それを実践している阿羅漢《アルハット》は和国にはほぼ皆無と思われた。現に、これまで和国で見た術者は、例外なく普通に齢を重ねている。
 だが、計都《ケートゥ》が警戒する物が、その知識を得て実践していないとも限らないのだ。

「茨木や大江党の者共は何と?」
「あれの逸話は風聞で知るのみで、直に相対した事が無い為に確証は持てぬとの事ですわ」

 和国在来の羅刹《ラークシャサ》である大江党なら、詳しい事を知っているのではないかと言仁は考えたのだが、既に計都《ケートゥ》は尋ねていた様だ。
 確証はないが、あり得ないとまでは言えないという処であろうか。

「私の様に、石化して時を超えているという事もありそうですね」
「ええ。石化の術は和国では絶えてしまっている様ですけれども、かつてはそれを使う者がいましたもの」

 言仁自身、三百五十余年程も過去の生まれである。幼児のまま石化され、補陀落《ポータラカ》に漂着していたのを解かれたのは、二十年足らず前の事だ。
 石化の法術は、不老長寿と違い、使いこなせる術者が和国にいてもおかしくない。実際、言仁の実の祖母である、初代の時子は使えたのだ。
 件の人物ならば、自身にそれを施す事も出来たかも知れない。
 その可能性も考慮すれば、計都《ケートゥ》が危惧する人物が、長い時を経て生き長らえている事は充分にありそうだと、言仁にも思えてきた。

「あれが…… 弘法大師こと空海が、今も生きながらえているのか、それとも滅しているか。それを確かめるには、それを知り得る高野山の高僧の一人である、あれに聞くのが一番と思いましたの」
「もし、生きているならば?」
「もし空海が存命で、皇国に膝を折らぬとあらば…… 滅する他ありませんわね」

 和国に真言密教を広め高野山を開いた、弘法大師 空海。和国の行く先々で、法術によって民を救い続けたという空海は、彼自身が広く信仰の対象になっている程だ。
 敵対すれば、補陀落《ポータラカ》による和国支配にとって、大きな障害となるのは間違いないだろう。

「補陀落《ポータラカ》の頂くべき活仏は、小生が手塩にかけて大切に育てた、貴方一人のみですもの」

 計都《ケートゥ》は、言仁の頭を撫でながら微笑みかける。
 優しい口調だが、その瞳は冷たく光を放っており、言仁へ覚悟を決める様に迫っていた。

「ともかくも、疑念の件について上人殿に問いませんと……」

 額から流れる汗を袖で拭いつつ、言仁は呆けたままの上人へと向き直った。



[37967] 7話「樵に育てられた人狼」その40
Name: トファナ水◆34222f8f ID:76fd4a64
Date: 2018/07/22 23:19
 言仁から問われた事を、上人は夢うつつのままに答え続ける。
 計都《ケートゥ》はその傍らにあって、八咫鏡で記録しつつ、言仁を通じて新たな問いを発している。
 尋問は夜半に及び、望んだ情報を得られた計都《ケートゥ》は大いに満足した。

「もう、宜しいですわよ」

 計都《ケートゥ》に言仁は頷くと、瞳を濁らせ呆けている上人の額に、掌を当てて念じ、魅了を解く。
 恍惚とした顔のまま、失神してその場に崩れ落ちた上人は、控えていた龍牙兵に抱え上げられて運び出されていった。

*  *  *

 屋敷へ運び込ませた上人の介抱を詰めていた学徒に任せ、言仁と計都《ケートゥ》は、得られた情報について話し合った。

「やはり空海は没していましたか。二百年程の間、市井で活動していたというのも、高野山の僧を民草が”大師様”と称していただけの事。師の御懸念は杞憂でしたね」

 結論としては、空海は物故していた。存命していれば和国制覇の障害となり得た高僧は、やはりこの世の物ではなかったのである。

「ええ。奥の院にあるのは、即身仏として祀った遺骸。それをあたかも、生きているかの如く奉るとは…… 全く理解しがたいですわね」
「人心を纏める為なのでしょうが。人も神属も、生を終えればそれまでというのに……」

 計都《ケートゥ》は呆れた様に溜息を漏らし、言仁は顔を曇らせた。
 全ての生者は、死ねばそれで滅する。輪廻も冥府も、人心を操る為に太古の神属が説いた偽りに過ぎないというのが、皇国の認識である。

「高野山の現況も明らかになりましたね。阿羅漢《アルハット》の力を持つ者は、殆どが立川流が押さえている様子」
「上人を見ていれば解りますけれども、立川流は人を超えた力を欲する者が集う流派ですものね」
「ならば、上人殿を筆頭に立川流を説伏し、その上で力を与えれば、荒事によらずとも、高野山その物を傘下に組み入れる事も出来そうですね」

 言仁の楽観に、計都《ケートゥ》は首を横に振る。

「勿論、立川流を取り込みはしますけれども。高野山主流の仏法僧共は、法力を備えておらずとも、侮る訳にはいきませんわよ。弗栗多《ヴリトラ》とも相談しますけれども、”あらゆる手”を尽くしませんとね」
「はい……」

 皇国が、高野山を含む寺社勢力を警戒する最大の理由は、法術を操る阿羅漢《アルハット》を擁するからである。
 だが、その力を持たない一般の僧は取るに足らないかと言えば、決してその様な事は無い。法力の有無に関わらず、寺社勢力は知識階層であり、また多くの信者をも擁している。
 それを切り崩す為には、謀略・奸計も多く用いなければならないだろう。
 しかしそれは、民に慈愛を施す「活仏」たる言仁が、自ら決を下すべき事ではない。
 政《まつりごと》の闇は、龍帝・弗栗多《ヴリトラ》が、師たる計都《ケートゥ》の助言を元に采配を振るうのだ。
 一任を求める計都《ケートゥ》へ、言仁は静かに頷いた。

「それと、そもそもの発端となった人狼の件ですわね」

 計都《ケートゥ》は、人狼の事へと話を移す。
 人狼の童が石津近隣の村で見つかった事から、他にもいないかと周辺を捜索しようとしたのが、今回の件の始まりとなったのだ。

「上人殿のお話からすれば、あの辺りに別の人狼が潜んでいる事はないでしょう。人狼兵による捜索は解いて良いと思います」
「そうですわね、残念ですけれども。でも、人狼については望みも出て来ましたもの、ひとまずはそれで良しとしましょうか」

 上人から聞いた、童の生母たる人狼の由来。それは、和国より北にある未開の地・蝦夷を発祥とし、とある落武者に従って蒙古《モンゴル》へと渡った人狼の兵だという。

「蝦夷地、そして蒙古《モンゴル》…… 今の我々には、そちらまで捜索をやる余裕はありませんね…… 阿瑪拉《アマラ》師や人狼共が、気を落とさねば良いのですが」
「望みさえあれば、後、数十年位は待てますわよ」

 新たな血を欲している人狼達が、当てが外れて落胆する様子を思い浮かべ、言仁は彼等の心情を思いやる。
 だが元々、和国にいないと思われていた人狼の童を手中にし、その子種によって新たな命が芽生えているだけでも、思わぬ僥倖なのである。
 その位の事が解らぬ阿瑪拉《アマラ》でもない。
 
「ところで、生母の出自ですけれども、あれには伝えますの?」
「はい」
「貴方や平家とも因縁がある相手、という事になりますけれども、宜しいんですの?」
「隠しても、どこからか知れてしまうでしょう。その位なら、話しておいた方が良いという物です」

 生母が何者だったのかという点は、童も気にかけているだろう。
 だが、その正体は、言仁や平家にとって、最大の仇とも言える人物の眷属だったのである。

「それに、昔の事です。それに、あれの生母が、平家を滅した将に付き従い、さらにはその孫が企てた”元寇”に加わっていた事は、あれ自身の罪ではありません」
「平家はどうしますの?」
「当主たる時子殿には、私から話します」

 平家もまた、童の生母の素性を知れば、穏やかならぬかも知れない。
 だが、言仁ならば、平家に対して抑えが効く。

「いずれあれが、自分の血族の側を選び、皇国に仇為すかも知れぬ、とは考えませんのね?」

 用心深さのあまり疑心が強いのは計都《ケートウ》の悪癖だが、言仁は充分な自信があった。

「大丈夫でしょう。生母を殺した仇と知っても猶、あれは育ての父母や村人の死を、悼み悲しんでいました。それに今やあれは、阿瑪拉《アマラ》師を始めとした皇国の人狼とまぐわり、子を為した身でもあるのです」
「……そうでしたわね」
「故に、皇国に出来た多くの縁者を振り捨ててまで、あれが血族の元へと走る事は無いと考えます」
「宜しいですわ」

 根拠を示された事で、計都《ケートゥ》も納得した様子を示す。

「では、その様に。私はそろそろ、普蘭《プーラン》姉の元へ参りませんと」
「島へ来た、元々の用ですわね」
「はい。術式にあたって、力添えが欲しいとの事でしたので」

 言仁は、上人と会う為に答志島へ来た訳ではない。普蘭《プーラン》から、蘇生術に際しての助力を乞われたのである。

「いいですわ。久々に悦びを分かち合いなさいな」
「は、はい!」

 頬を赤らめ、うわずった声で返事をする言仁に、計都《ケートゥ》は思わずほころんだ。



[37967] 7話「樵に育てられた人狼」その41
Name: トファナ水◆34222f8f ID:76fd4a64
Date: 2018/09/14 03:24
 計都《ケートゥ》の屋敷を辞し、馬車に乗り込んで言仁が向かったのは、答志島の東側にある、普蘭《プーラン》の新居である。
 一門では学師の称号を得ると、探求の拠点として、自らの屋敷を構える事が許される。
 普蘭《プーラン》は、学師に昇格する為の試技を兼ねて今回の課題に挑む為、仮ではあるが、九鬼水軍から接収したまま、ここに空いていた屋敷の一つを与えられたのだ。
 答志島には二つの港があったのだが、皇国が島を占拠して以後、主に使われているのは本土の対岸となる西側の港で、ここに一門の主立った施設が集中している。
 対して、沖に面した東側の港、そして付随する集落は、警備の兵が若干駐屯している他は、一門は殆ど利用していない。
 普蘭《プーラン》がここに配されたのは、一門による再開発の第一陣を兼ねての事でもある。


*  *  *


 普蘭《プーラン》が与えられた屋敷は、元は、九鬼水軍の船頭格の一人が住んでいたという。そこそこ広い他は、堅牢ではあるが、飾り気のない質素な作りである。
 馬車から降りた言仁を、普蘭《プーラン》が合掌で出迎えて来た。

「御夫君様、ようこそおいで下さいました」

 普蘭《プーラン》が一人だけだった事に、言仁は怪訝な顔をした。
 ここには他にも人狼の学徒が五名、普蘭《プーラン》の補佐として同居している筈だ。

「普蘭《プーラン》姉、人狼の姉上方はどうしたのです?」
「今日は、所用で席を外すとの事でした」
「……気を遣わせてしまいましたか」
「ええ。あの子達には、後で埋め合わせを御願いしますね」
「勿論です」

 人狼の学徒達には、普蘭《プーラン》を言仁と二人きりで過ごさせてやりたいという遠慮が働いている。
 学徒は誰もが言仁を愛おしく思っているが、学徒の筆頭格である普蘭《プーラン》に優先権があるというのが、暗黙の了解となっていた。

「ところで早速、例の物を見たいのですよ」

 言仁が答志島を訪れたのは、産女と化した、人狼の童の幼馴染みの処置について、普蘭《プーラン》から助力を求められた為だ。
 彼もまた、一門で幼少から教育を受けた身で、皇配に対する儀礼的な意味合いが強い物の、学師の称号も得ている。

「どうぞ、こちらへ」

 言仁は奥の客間に通される。そこには、全身に梵字の呪文を書かれた全裸の若い女が、敷布の上に寝かされていた。
 呼吸はなく、肌の色も血の気を失ってはいるが、肉体は朽ち果てる様子がない。典型的な”黄泉返り”である。

「では、失礼致します」

 言仁は、女の裸体に手を這わせ、検分を始めた。
 特に念入りに見ていたのは、下腹の他、頭部である。
 言仁としては、蘇生に際して最も重要な、脳の状態が気がかりだった。
 半刻 ※約一時間 程の検分の後、顔をあげた言仁は、首を横に振った。

「これは…… 母子を共に蘇生するのは、難しそうですね……」
「ええ。和修吉《ヴァースキ》師も、そう仰っておられました」
「そうでしょうね……」

 和修吉《ヴァースキ》の下したという診断は、言仁にも納得がいく。

「ちなみに御夫君様であれば、どう処置されます?」
「本来であれば母の側を蘇らせたい処です」

 普蘭《プーラン》の問いに、言仁は少し考えた末に口を開いた。
 厳しい選択だが、童がどちらを望むかと言えば、他の男との間に出来た子よりは、幼馴染みの側を救う事を選ぶだろうと考えたからだ。

「本来…… つまり、それは難しいと?」
「はい。憤怒の情が強すぎて、脳の痛みが激しい。これでは、尸解仙《しかいせん》にする等して蘇生させても、三月と保たないでしょうし…… ならば、胎の子を生かすべく、母を殭屍《キョンシー》とする施術を行う方が……」
「堅実な見立てだと思います ……それにしても御夫君様、心配そうではありませんね?」

 普蘭《プーラン》は、言仁の様子に違和感を感じた。
 普段の言仁なら、救えぬ命を目の当たりにすれば、悲嘆に暮れる事は間違いない。
 だが、今の彼は、残念そうにしている物の、重苦しさが全く見られないのだ。
 あえて言えば、勝負事で負けた時の様な顔である。

「当然です。普蘭《プーラン》姉が、双方を救う施術を考案したというのですから」
「まあ、御自身の見立てに関わらず、私を信じて頂けるのですね?」

 言仁から得た信頼の言葉に、普蘭《プーラン》の顔は華やいだ。

「医学に関しては、一門の姉上方の中でも、普蘭《プーラン》姉が随一ではありませんか。計都《ケートゥ》師を始め、学師の方々も御認めになっておられる程の……」
「御上手ですわね」

 言仁にとって普蘭《プーラン》は、賞賛と羨望の対象である。
 学徒の内でも、還元や殭屍《キョンシー》といった実績を次々と重ねる普蘭《プーラン》が、今また、さらなる難題を乗り越えようとしているのだ。
 学究に専念したいと思いつつも、立場上それが出来ない言仁にとっては、誇らしく輝く門姉から助力を求められた事がとても嬉しいのである。

「それで、どの様な施術を行うのでしょう?」

 言仁は子供のように顔を乗り出して、普蘭《プーラン》が考えている施術の解説を求めた。その眼は知識欲に輝いている。

「では、お話ししましょう」

 普蘭《プーラン》は、嬉々として、術式の解説を始め、その熱弁は一刻 ※二時間 にも及んだ。
 言仁は頷きながら、その理論に感心する事しきりだった。

「面白いですね。確かにそのやり方なら、母子共に”救う”事になります」
「胎の児に、まだ自我が芽生える前でなければ、使えない手法ですけれども。此度は有効でありましょう」

 言仁の賛意を得て、普蘭《プーラン》も満足そうである。

「この術式は、普蘭《プーラン》姉が考案されたのですか?」
「残念ながら、そうではないのですよ。例によって、新たに入手した古文書に書かれていた術式の復元です」

 言仁の質問に、普蘭《プーラン》は苦笑して答えた。
 これまでの彼女の実績は、かつての皇国に存在しながら忘れ去られていた、あるいは異文明の産物として入手した術式の再現である。
 もっとも、手がかりさえあれば、それを易々と行えてしまうのが、普蘭《プーラン》の非凡な点だ。
 
「しかし……産女《うぶめ》を母子共に蘇生させる、そんな術式が既にあったのですか?」
「元々の用途は違うのですよ。本来は、尸解仙《しかいせん》と同じく、人間の不老長寿を目指して造られた術式だった様です」
「成る程…… しかし、そのやり方では、肉体を若返らせる事は出来ても、不老長寿は無理ですね」

 普蘭《プーラン》が語った手法では、不老長寿を達成することは不可能である事は、言仁にもすぐに察せられた。

「仰る通りです。その為”目論見が達成出来なかった”として使われずに忘れ去られていた様なのですが、この母子の蘇生には使えるのではないかと考えました」
「”考えた”…… まだ、試してはいないのですね?」

 言仁は、効果を確かめていない術式を、いきなり使うのではないかと懸念を感じた。
 万が一にも、し損じられては困るのだ。

「はい。”丸太”を数本費やして、確かめねばなりません」
「……良いでしょう。ただ、丸太は罪人ではなく、贄人《にえびと》にして下さい」

 法術の実験台、いわゆる”丸太”にされる人間には、死罪に処される罪人と、白痴を掛け合わせ食用の家畜として作り出された”贄人《にえびと》”の二種がある。

「何故ですか? 和修吉《ヴァースキ》師から”何本使っても良い”と御許しは頂いているのですが」

 賎民として虐げられていた一門の学徒は、平民以上の身分の者に対する憎悪が強い。
 そういった出自の罪人を、丸太を名目に屠るのは、学徒の愉しみの一つでもあった。
 当然の役得を否定された普蘭《プーラン》は、思わず反問する。

「罪人と言えども、胎の子には罪はないのです。親の仕置に巻き込んではなりません」

 術式の性質上、丸太は妊婦に限られる。言仁は、そこを懸念したのだ。
 元々、皇国は重罪に対して連座制を敷いていて、親の罪によって幼子も処断される事になっていた。
 それを改めさせたのは、他ならぬ言仁である。

「配慮が至りませんでした ……贄人《にえびと》ならば構いませんね?」
「あれは元々、喰らうために造りだした畜生。人ではありません。術式の効能を確かめる為なら、何本でも存分に費やして下さい」
「……此度は、それで良しとしましょう」

 言仁が情をかけるのは、あくまで知恵を持つ”霊長”のみだ。種が何であろうと、智恵を備えない物は、皇国では”畜生”として扱われる。
 そんな物を屠っても、普蘭《プーラン》は全く悦びを感じないのだが、言仁の要望とあれば、従わざるを得ない。

「それと、施術に際して、御夫君様に助力を御願いしたい事ですが」
「何なりと仰って下さい」
「この術式は強い霊力を要します。私の力では、とても及びません」

 阿羅漢《アルハット》としての普蘭《プーラン》の力は、さして強い物ではない。
 学者としては優れているが、術者としては霊力の弱さが足枷になっていた。
 鍛錬は欠かさぬ物の、ようやく、半人前の神属程度である。
 彼女の立場は、あくまで並外れた智力によって築き上げた物だ。

「ええ。ですが、人狼の姉上方が補佐についています。術式の行使は任せて、普蘭《プーラン》姉は指揮に徹すれば宜しいかと」

 和修吉《ヴァースキ》が人狼の学徒達を補佐につけたのは、童を安心させる為でもあるが、術者としては霊力に劣る普蘭《プーラン》に代わり、実際の施術を行わせる事を想定しての事でもあった。

「此度の課題は、私の昇格がかかった物です。矜持にかけて、施術は是非とも手ずから行いたいのですよ」
「……そういう、事ですか」

 言仁は、普蘭《プーラン》が何を自分に求めて島に呼んだのかを察した。

「はい。私とまぐわり、子を為して下さい。胎に子がいる間は、その子が私に力を貸してくれるでしょう」

 強力な阿羅漢《アルハット》の男子と交合して胤を宿すのは、霊力を増強する手段として、一時的ながらも簡易かつ有効である。
 言仁は微笑んで頷くと、普蘭《プーラン》を強く抱擁した。



[37967] 7話「樵に育てられた人狼」その42
Name: トファナ水◆34222f8f ID:76fd4a64
Date: 2018/09/24 22:35
 言仁が普蘭《プーラン》の元へ向かい、二刻 ※四時間 程経った後。
 計都《ケートゥ》の屋敷に運び込まれ、奥の間に寝かされていた上人が、ようやく目を覚ました。

「お目覚めですわね」
「う、うむ…… ここは?」

 読書をしつつ、枕元で見守っていた計都《ケートゥ》が声をかけると、上人は起き上がり、辺りを見回した。
 閉じ込められた玄室から再び移された様だと、彼は理解した。

「小生の屋敷に戻って来ましたわ。活仏の深淵を迂闊に覗く物ですから、貴方は心を奪われていましたのよ」
「こ、心を……であるか……」

 はっきりしない頭で、上人はうめく様につぶやく。

「活仏のせいではありませんわ。あれが自ら封じていた力を、貴方が無理にこじ開けたのですもの。迂闊でしたわね」
「あれが、安徳帝の力であるか……」

 活仏と称するだけの事があるのは、上人にも実感出来た。
 夢うつつの内に、問われるままに高野山の内情を話してしまった事も思い出したが、あの力を前には、とてもかなう筈が無い。

「ええ。でも、あれだけではありませんの。面白い物をお見せしますわね」

 計都《ケートゥ》が指を弾くと、壁に掛けられた八咫鏡から光が伸びて、襖に幻灯が映し出される。
 そこには、裸身で絡み合う、言仁と普蘭《プーラン》の姿があった。
 座した言仁の上から、普蘭《プーラン》がまたがる形で結合している。
 激しい動きにも関わらず、双方ともその顔は穏やかで、新たな生命を創造する至福に満ちていた。

「如何かしら?」
「こ、これは…… 歓喜仏……」

 上人から見た二人の姿は、秘仏として立川流の寺院が所蔵している”歓喜仏”に生き写しだった。
 男女の交合による修行を繰り返し、真理へと至る。
 立川流で説く修練を、言仁と普蘭《プーラン》は理想的に体現していたのだ。
 これこそが、長年にわたって立川流が追求しながら、完全には為しえていなかった奥義である。

「ええ。これこそ、我等が活仏の真なる姿。憎悪と愛欲の結合により、至高へと進む修養ですわ」
「憎悪とな? いや、安徳帝から感じられたのは、むしろ包み込む様な……」

 ”憎悪”と聞き、上人は首を捻った。
 あの穏やかな青年からは、微塵も感じられない物だ。

「通常、憎悪は男の、愛欲は女の気性とされますけれども。我等が活仏は、幼くして生母や一族を失い彷徨った事から、愛に飢えていますの。故に、その相方は、卑しまれ虐げられた事から憎悪の気性を持つ、旃陀羅《チャンダーラ》や首陀羅《シュードラ》より拾い上げた娘共が最適なのですわ」
「つまりあの二人は、通常の男女と気性が逆なのであるか……」
「面白いでしょう? けれどそれ故に、より強い結びつきとなりますのよ」
「うむう……」

 通常と気性を逆にした組み合わせで、修養の効果を高める試みに、上人は斬新さを感じた。

「安徳帝の相方を務めておる女人も、貴殿の門下であろうか?」
「ええ。活仏とまぐわっている相方は普蘭《プーラン》という名の学徒ですわ。他にも人間の学徒共が二百名余り、一門にはいますの。幼い者を除いて皆、活仏と交わり、子を為していますわね」
「ふむ……」

 一門は単に勉学の場に留まらず、活仏の相方として資質に優れた者を育成し、子を産ませる為の”後宮”の様な役割もある様だと、上人は理解した。

「しかし、安徳帝は、龍神の伴侶なのであろう?」

 権力者が正室の他に女を囲うのは特に珍しい事ではないが、言仁は龍神の庇護下で、弱い立場にある筈だ。
 自分の夫が多数の女を抱き、子を為しているのを認めている龍神の心情が、上人には気になった。嫉妬を感じたりはしないのだろうか。

「弗栗多《ヴリトラ》も那伽《ナーガ》の寵童を幾名も囲って、多くの子を産んでいますもの。皇国では、多くの相手と交わりを持ち子を為すのが当たり前で、誇らしき振る舞いなのですわ」
「成る程……」

 国が違えば、男女の関わり方も異なる。皇国でそれが大らかなのだと、上人は考えた。

「ともあれ、活仏の胤によって、阿羅漢《アルハット》の資質を持つ者を殖やす。ゆくゆくは皇国に生まれてくる人間を皆、阿羅漢《アルハット》にして、神属と同じ力を持たせる。諸族協和の世を造るには、それを為さねばなりませんの」
「それはまた、随分と壮大であるな…… だが、安徳帝と、貴殿の門下たる二百名余りで、それが達成されようか?」

 上人の問いを、計都《ケートゥ》は笑って否定した。

「まさか。その為にも、活仏や学徒共だけでなく、和国在来の阿羅漢《アルハット》を多く皇国に集めたいと思っていたのですけれども。立川流の皆様であれば、申し分ありませんわね」
「つまり、我等の胤も、皇国に加えたいと申されるか」

 遂に、計都《ケートゥ》からの立川流への要求が出された事に、上人は身構える。

「ええ。無論、それだけではありませんわ」
「と言うと?」
「立川流を率いて皇国に臣従し、その総力をもって和国支配の為に働きなさいな。そうすれば、知識も、地位も、そして、精神の高みへと至る道をも与えましょう」

 計都《ケートゥ》は微笑んで、上人を誘う。
 魅惑と威圧が入り交じった瞳は、逆らい得ない輝きに満ちていた。



[37967] 7話「樵に育てられた人狼」その43
Name: トファナ水◆34222f8f ID:76fd4a64
Date: 2018/12/16 23:28
 上人が伊勢へ向かってから後の石津。
 街はすっかり落ち着きを取り戻し、伊勢との交易で賑わっていた。
 ただ、主に商われていた物の内、材木のみは、樵《きこり》の集落が二つも滅んでしまった事で、随分と品薄になっている。
 無人となった集落への入植については、代官の職が空位となっている為、話が全く進んでいない状態だ。
 寺では、留守を預かる四名の高野聖が、上人の帰りを待ちわびていた。

(上人様、いつお戻りになるんだろうか……)

 黙々と日々の勤めを続ける彼等だが、胸中の不安は徐々に増す一方だった。
 いずれも上人に才覚を見込まれ拾われた身の上で、術者としての資質は、一門の学徒の平均を上回る程だ。
 だが精神の未熟さ故に、頼るべき存在から切り離されてしまうと、気が弱くなってしまう脆さもあった。
 もし、このまま上人が戻らなければ、自分達はどうなるのか。
 各々、口には出さないが、考えている事は同じである。

 そして、七日目の夜明け頃。
 ようやく、迎えに来た時と同じ、白虎の牽く車が寺へと現れる。
 車から降りて来た上人の無事な姿に、高野聖達は皆、我先にと駆け寄って出迎えた。

「上人様、お帰りなさいませ!」
「よ、よくぞ御無事で!」
「うむ、うむ」

 すがりついて来る高野聖達を、上人は鷹揚に頷きながらなだめる。
 彼等が落ち着きを取り戻すのを見計らい、上人は高野聖達に、本堂へ入る様にと促した。

「立川流の進むべき道を話さねばならぬが、ここでは落ち着かんでな」

 高野聖達は戸惑いながらも、上人の後に続いた。


*  *  *


 本堂に入ると上人は、答志島で計都《ケートゥ》から聞かされた一門の思想を、高野聖達に語った。
 生は一度限りの物として輪廻を否定し、故にその輪から抜け出る解脱を至高の目標として目指す事もない。あくまで、現世に於ける繁栄を重視する。
 そして、知恵を持つ数多の種族が分け隔て無く暮らし、生の愉しみを謳歌できる楽土の建立を目指すというのが、一門の説く〝諸族協和〟〝皇道楽土〟だ。
 また、それを実現する手段として、出自の貴賤を問わず子は親から引き離し、全て公で育成するという補陀落《ポータラカ》の制度にも理解を示していた。
 仏道寺院は基本的に、口減らしの子供を受け入れ教育を施す事で、新たな世代を賄っている。
 補陀落《ポータラカ》の施策はそれを国全てに広げ、いわば〝住民総出家〟にする様な物だと好意的に解釈したのである。
 高野聖達は、異邦の妖《あやかし》がもたらそうとする世界の有り様を、興味深く聞き入っていた。

「拙僧はこの際、立川流は龍神の庇護の下に入るべきであろうと思う。戦国の世で苦しむ衆生を救済するには、今の我等は余りにも非力である」
「しかし…… かの阿修羅《アスラ》の説く道は、仏道を志す者として、忌むべき外道ではありますまいか」

 高野聖の筆頭格が、上人の示した方針に疑念を呈した。
 この場合の〝外道〟とは、古代印度に於いて、仏道と対立した諸々の思想、宗門を指す。

「今更何を言うか。仏道は諸派に割れて対立しており、釈尊から見れば、立川流を含め、現存する仏道諸派のいずれもが外道であろうよ。己の姿を顧みよ」

 上人は、筆頭格の疑念を一笑に付した。
 瞿曇《ガウタマ》 悉達多《シッダールタ》の没後、仏道はその解釈を巡って様々に分派して現在に至っている。真言密教もその一つであり、立川流はさらにその支流に当たる。

「如何に民を導くかこそが肝要であろう? 補陀落《ポータラカ》にはその力があり、従うならば我等にもそれを分け与えると言っておるのだ」

 〝力を分け与える〟という一言に、高野聖達は色めき立った。彼等が修養を重ねているのは、ひとえに超常の力を欲しての事なのである。

 しかし、筆頭格は再び不安を口にした。

「確かにそうですが…… 龍神は、逆らう者を容赦なく鏖殺するという風評です。我等がその先棒を担がされるのでは……」
「なればこそ、龍神が暴挙に及ぼうとしたならば我等が諫め、抑える事も出来よう。その立場を得る機を、みすみす棒に振る訳には行かぬのだ」

 上人の一言に、筆頭格は衝撃を受けた。
 龍神に近づける立場を得れば、誤りがあれば正す事が出来るかも知れない。
 勘気に触れて処断される事もあり得るが、それを恐れて何とするのか。

「上人様、そこまで御覚悟でしたか…… ならば、どこまでも御一緒致します」

 筆頭格は合掌して上人への恭順を示し、他の者もそれにならうのだった。



[37967] 7話「樵に育てられた人狼」その44
Name: トファナ水◆34222f8f ID:76fd4a64
Date: 2018/12/01 23:56
 上人が石津へ戻ったのと同じ頃。
 言仁は八咫鏡を使い、桑名で待つ童へ連絡を入れた。
 幼馴染みがどうなるかと気をもんでいた童だが、普蘭《プーラン》が示したという蘇生の術式について言仁から聞かされると、その内容にしばし呆然とした。
 幼馴染みがすっかり元通りになり、赤児も無事に生まれるという様な、手放しで喜べる様な物ではなかったのだ。

「それしか、手はないんですか……」
「唯一にして、最善の手法と思うね」

 戸惑いながら尋ねる童に、言仁はきっぱりと言い切る。双方を助けるならば、他に考えつく手段が無いのは確かなのだ。
 童は、しばし無言でうつむいたまま、考え込む。
 言仁の示した施術が、本当に、幼馴染みや赤児の為になるのか……
 自ら望んだことだとはいえ、世の理《ことわり》を歪める行いに、畏れを感じてしまったのである。
 言仁は、鏡の向こう側の童が悩む様子を、静かに見守っていた。


*  *  *


「……解りました……」

 半刻 ※約一時間 の後、童は答えを出した。

「良いのだね?」
「姉ちゃんと腹の子が、どんな形でも助かるんなら…… 御任せします」
「では、その様に計らうよ」

 童の決意に、言仁は微笑んで応えた。元より、解っていた答えである。

「それで…… どの位かかるんですか?」
「およそ三年、かな」
「そうですか……」

 三年という期間は、決して短くはない。童は思わず、口から溜息を漏らしてしまう。
 その様子に言仁は、暖かい眼差しで声を掛けた。

「一人前の漢として大切な人を迎えられる様、己を磨くには丁度良い頃合いと思うよ」
「は、はいっ!」

 励ましを受け、慌てて姿勢を正す童の姿に、言仁は〝兄代わり〟として満足げだ。
 だが、童にはもう一つ伝えねばならない事がある。

「それと。君の実の母君の事だけれども……」
「何か、解ったんですか?」

 言仁は、上人から聞き取った、童の生母について解っている事を語った。
 元々は北方の地・蝦夷に住んでいた部族だったという。
 その一部が、源平の乱に勝利したものの、源氏の長たる異母兄に疎まれて失脚し、匿われていた奥州からも落ち延びて蝦夷へと渡った武将・源義経に臣従し、共に蒙古《モンゴル》へと渡った。
 義経は蒙古《モンゴル》を束ね、皇帝・成吉思汗《ジンギスカン》として君臨、一大帝国を築き上げるのだが、その最精鋭の親衛として、人狼の隊が付き従っていた。
 成吉思汗《ジンギスカン》の孫である第五代皇帝・忽必烈汗《フビライカン》が和国遠征、いわゆる元寇を企てた時、先遣として人狼兵が送り込まれた。
 元寇は失敗し、人狼兵も悉く討ち死に、あるいは自害したが、ただ一人の女兵が捕らえられ、珍しさから助命され、鎌倉へ護送れる事になった。
 女兵は隙を見て逃走し、美州の山中へ潜んで数年の間、近隣を荒らしたという。
 これを、討伐を依頼された高野山の僧が捕らえ、石室に封じたというのが、事のあらましだった。

「そんな事が……」
「元寇で捕らえた敵兵を取り調べて聞き出した事が、幕府から、人狼を封じた高野山にも伝えられてね。上人殿が子細を知っていたのは、そういう訳なのだよ」

 経緯を聞き終えた童は、しばし呆然としていたが、頭の中で話が整理されると、一つの不安が持ち上がった。

「でも、それが本当なら、俺の本当のおっ母さんは、帝《みかど》や平家の仇って事じゃ……」

 源義経は、源平の乱で軍勢を率いて平家を滅亡に追いやった、いわば最大の仇だ。
 その家臣の息子である自分は、言仁の側に仕えていても良い物だろうか。

「いや、蝦夷の人狼が義経に従ったのは、源平の乱の後の話だよ。それに元寇は、源氏が開いた鎌倉幕府との戦だから、私や平家にしてみれば、仇同士で争ったという訳だね。どの道、君には何の責もないから、安心したまえよ」
「良かった……」

 言仁の言葉に、童は胸をなで下ろした。

「そういう訳で、美州の辺りに他の人狼はいないと思われるから、探索の方は引きあげさせたよ。蝦夷や蒙古《モンゴル》には期待出来ると思うけれども、遠方まで捜しにやる余裕がなくてね」
「それは、残念です」

 童は答えに反し、内心ではそれで良いと思っていた。新たな人狼が見つかったとして、皇国へ好意的とは限らない。だが、闘う様な事にはなって欲しくないのだ。

「さて、私は答志島に今しばらく逗留するけれども。そちらにいる人狼の姉上達から、よく学んでおいて欲しいね」
「はい。精進致します!」

 童が声を張り上げると、言仁は頷いて通信を切った。

「終わりましたか」

 童が背後からの声に振り向くと、指導役として同居している人狼の学徒の一人と共に、巫女装束を纏った、齢三十程の女性がいた。
 巫女姿なので宮中の女官と思われるが、童には見覚えがない。肌の色からすると和国の民に見えるので、新たに登用されたのだろうか。

「あの、そちらの方は?」
「これは申し遅れました。平家の家長を務めております、時子と申します。侍従見習殿、どうかお見知りおき下さいませ」
「!」

 驚く童に、時子は深々と頭を下げた。



[37967] 7話「樵に育てられた人狼」その45
Name: トファナ水◆34222f8f ID:76fd4a64
Date: 2018/12/17 06:40
 案内の学徒が座を薦め、時子と童は相対して座った。無論、時子が上座である。
 学徒もまた、童の傍らへ付き添って座る。この場合、彼女は童の庇護者たる言仁の名代という位置づけだ。

「あ、あの、時子殿。本日はどの様な御用件で……」
「和国では希有な人狼にして、宮中で帝《みかど》の御側に侍る事を許された初めての男子という物ですから。どの様な方かと気になりましたの」

 遙かに格上の相手に頭を下げられ、童は思わず狼狽してしまった。
 その様子に、時子は思わず笑みを漏らして答える。

「は、初めて、ですか?」
「ええ。補陀落《ポータラカ》から見れば、今上の那伽摩訶羅闍《ナーガマハラジャ》は女帝ですから。あちらのしきたりで、女帝のおわす宮中に、男子が勤める事ははばかられましたの」

 言われてみれば、宮中の者は女ばかりである事に、童は今更ながら思い当たった。
 警護の近衛や兵卒も、屋内にいるのはやはり女兵ばかりで、男子は専ら外回りに配置されている。

「俺は…… 良かったんですか?」
「新たな者を登用していくのに、それでは面倒ですものね。貴方の事は、帝《みかど》が大層、お気に召している様ですから、丁度良いきっかけでしたわ」

 ちなみに、平家が帝《みかど》と呼ぶのは言仁の方である。彼等はあくまで、和国の〝正統な〟天皇たる言仁の臣なのだ。

「じゃ、これからは男も増えてくるんですか?」
「ええ。平家の男子も、これで宮中詰めへと推し易くなったという物。貴方も、男一人では色々と面倒でしょう?」
「ええ。まあ……」

 自分が侍従見習いに登用された事を使って、めざとく平家の利を図った事を愉しげに語る時子に、童は舌を巻いた。

(導師や和修吉《ヴァースキ》師もだけど、政《まつりごと》に関わる偉い人は、皆こうだなあ……)

 時子の満足げな様子に、童は思い切って、先程言仁から聞いたばかり自らの素性について、どう思っているのか尋ねてみる事にした。

「時子殿、俺の血筋の事、御存知でしょうか」
「ええ。先刻、私も帝《みかど》から伺いましたわ。面白い縁ですわね」

 童の生母が蝦夷地の出で、蒙古《モンゴル》に渡った源義経に臣従していたらしいという事については、やはり、時子も知らされていた様だ。


「平家としては、俺が帝《みかど》に御仕えしてもええんですか? 俺は…… 仇の家来の倅って事です」
「帝《みかど》が良いと仰せですもの、平家としては是非もありませんわ」

 言仁が問わないと言っている以上、平家も追求出来ないのは童も解っている。だが、彼としては本心を聞きたいのだ。
 続く時子の言葉は、ある意味で童の望み通りの、重く厳しい物だった。

「ですが、やはり筋という物もあります。納得出来ぬ者も多くおりましょう」
「筋…… ですか……」

 主命には従うが、やはり平家の本音としては不快という事なのだろう。
 何しろ、平家の男子は言仁に拝謁した際、父祖の罪を償うとして一斉に自害した経緯がある。
 彼等は尸解仙《しかいせん》として蘇ってはいる物の、蘇生が可能な事は知らずに自らを裁いたのだ。
 そうである以上、生母の事で何のけじめもなく、言仁の側近に収まった童の事を、快く思わなくても当然である。

「では、どうすれば何とか収めて頂けるんでしょうか」

 生まれてくる童の子供達は、母親から引き離され、平家の元で養育される事になっている。童としては、我が子が万一にも不利益な扱いを受けない様、平家の不興を被る訳にはいかないのだ。
 不安げに尋ねる童の眼を見つめながら、時子は重々しく答えた。

「交合をもって和議の証とするのが、補陀落《ポータラカ》の習わし。なれば、平家の長たる私自ら貴方とまぐわい、もはや遺恨なき事を示さねばならぬでしょう」
「ま、まぐわい、ですか?」

 時子の切り出した条件に童は戸惑うが、傍らの学徒は頷いた。

「承知致しました、時子様。床の御支度は、既に整ってございます」

 学徒が隣室との間の襖を開けると、中には厚手の布団が敷かれ、強い匂いの香が焚かれていた。
 男子の色欲を高める媚薬の効果を持つ香にあてられ、童の逸物はたちまちいきり立つ。
 目は血走り、吐く息も荒くなり始めた。

「俺、おれ…… こらえらねえです!」

 肉欲に耐えきれず、童は傍らの学徒に抱きつくが、法術で金縛りを掛けられてしまう。

「申し訳ございません。色欲を高めた若い牡は、抑えが効きませんので……」
「まあまあ、元気があって宜しいですわ」

 学徒は詫びながらも、童の衣を解いて行く。時子もその間に一糸まとわぬ姿となった。

「時子殿。人と狼、いずれの姿と致しましょう?」

 童を裸にむき終えた学徒が尋ねると、時子は少し考え込んで答えた。

「これは遺恨に対する和議のみならず、人狼の皆様と平家とのよしみを通じる為の席。故に、仮初めの姿では無く、本性こそが相応しいでしょう」
「承知致しました。はぁっ!」

 学徒は気合いと共に、固まったままの童の頭に手刀の一撃を加える。
 するとたちまち、童の姿は化身を解かれ、狼の正体を表した。

「ウオウッ! ウオウッ!」

 本性に戻ると共に金縛りが解けた童はすっかり理性を失い、涎を垂らしながら獣の様に雄叫びを挙げている。

「ささ、いらっしゃいませ」

 隣室の床の上で、四つん這いになって尻を向けた時子が、舌なめずりしながら童を誘った。こちらもすっかり、盛り付いた牝である。

「オンオンオン!」

 童はそれを合図に、狼というよりは主人に呼ばれた犬の様に、尾を振りながら時子の背に飛びかかった。両の前足で相手の胸を抱えつつ、後ろから腰を突き入れる。

「んほうーっ!!」

 時子もまた、久方ぶりに迎え入れた牡に鼻息を荒げ、野太い声で歓喜を叫んだ。



[37967] 7話「樵に育てられた人狼」その46
Name: トファナ水◆34222f8f ID:76fd4a64
Date: 2019/02/09 14:07
 仮宮では弗栗多《ヴリトラ》と計都《ケートゥ》が、八咫鏡を介して、時子と童が交わっている様子に見入っていた。
 狼に背後からのしかかられた時子は、惚けてたるみきった顔で白目をむいて、涎と鼻水を垂らしながら尻を前後に激しく振り、悦びに身を委ねている。

「あの荒々しいまぐわい。全く良い物じゃのう」
「時子殿も、久々に女の欲を満たしている様で、大変に結構ですわね」
「うむ。時子があれならば、平家の方は大丈夫じゃろうな」

 童の出自を知った平家が、新たな侍従に加える事を受け容れるかについては、弗栗多《ヴリトラ》はさほど心配していなかった。
 童が賎民を卑しまない態度を示していた事を、平家が高く評価していた旨を承知していた為である。
 交合による和解の座を用意させたのは、童の側の不安を払う為の配慮という面が大きい。

「ぐはぁっっっっ!」「おほぅぅぅーっ!」

 童と時子が絶頂に達し、共に絶叫を放って倒れ込み失神した処で、弗栗多《ヴリトラ》は指を弾いて八咫鏡に映る画を消した。

「牡としても逸材ですわね」
「ふふ、愉しみじゃのう。坊が見込んだだけの事はありそうじゃ」

 皇帝夫妻とまぐわい、悦ばせるのも侍従の役割の内である。
 童のまぐわいを見た事で、弗栗多《ヴリトラ》の期待はより膨らんだ。

「ところで、此度の一連の件。他にもおおむね、順調に推移しておる様じゃな」
「ええ。立川流を掌握した事で、高野山、ひいては和国仏道を手中にする糸筋がつきましたわ。美州についてもこれを機に、武力を用いる事なく飼い慣らしていけましょう」

 
 童の村が滅んだのは不幸だったが、立川流の介入や、美州領家との対話という思わぬ僥倖に恵まれたのは大きい。

「美州を〝こちら側〟に入れられれば、和国併呑への大きな一歩じゃろうな」
「では、美州と高野山には、仕込みを進めていきますわね」
「うむ」

 計都《ケートゥ》の確認に、弗栗多《ヴリトラ》は満足げに頷いた。

「肝心の人狼じゃがの。結局、あれ一人であったのは、いささか残念じゃのう」
「ええ。けれども、阿瑪拉《アマラ》や学徒達が、あの童の胤を受けて孕みましたわ。さらに胤付けを進めて子を為していけば、人狼の血の濁りはひとまず薄らぎますもの、さしあたりはそれで良しとしませんとね」

 人狼の血統の濁りを根本から治すには、牡一人では根本的な解決にはならない。より多くの新たな血を加えなければ、次々代頃には元の木阿弥となってしまうだろう。
 もっとも、神属の寿命は長い。さし当たり、童の胤で生まれる子供達が健常であれば、充分に時間が稼げるのだ。

「ふむ。実は以前より、北方…… 蝦夷地へ物見 ※偵察 を出したいと思うておったのじゃが。この機に、人狼の探索を兼ねて、誰か出せぬ物かの?」
「手が足りませんわ。伊勢の地歩固めに加え、美州や高野山への仕込みも始まりますもの」

 弗栗多《ヴリトラ》の要望に、計都《ケートゥ》は首を横に振った。

「計都《ケートゥ》師にしては、珍しく控えめではないかの?」
「化外の地での探索行となると、迂闊な者には任せられませんわ。その様な者を割く程の余裕はありませんわよ」

 皇国に不足しているのは、何よりも人材である。計都《ケートゥ》としては、貴重な人材を、分の悪い賭に費やす様な無駄は認めがたかった。
 蝦夷地での人狼の存在は、元より〝見込み〟に過ぎない。また、蝦夷地その物についても、計都《ケートゥ》はさほど重視はしていなかった。
 文字を持たぬ夷《えびす》 ※蛮族 が点在する極寒の地というのが、彼女にとっての蝦夷地の認識である。いずれは版図に収めるにしても、後回しで良いと考えていたのだ。

「しかし、時は待ってはくれぬぞ。和国併呑については少々伸ばせようがの。手がかりを得ながら手をこまねいておっては、いずれ人狼共の忠義にも関わろうて」

 血統の濁りを解消するのは、補陀落《ポータラカ》に住まう神属にとって、種を問わない悲願である。それを棚上げしてしまっては、人狼に不満が出る恐れがあると、弗栗多《ヴリトラ》は懸念しているのだ。

「何か、阿瑪拉《アマラ》が直に貴女へ申し上げましたの?」

 計都《ケートゥ》は鋭い目つきとなって、弗栗多《ヴリトラ》に迫る。
 学師たる阿瑪拉《アマラ》が僭越な真似をしたとあれば、一門の結束に関わるのだ。

「阿瑪拉《アマラ》師ではのうてな。美州での人狼捜しを打ち切る命を下した折、差し向けておった人狼兵が随分と落胆したと、耳に入って来てのう。捨て置く訳にもいかんでな」
「そうでしたの……」

 末端より不満の芽が生じたとなれば、計都《ケートゥ》も配慮せざるを得ない。
 基板が盤石とは言い難い和国遠征で、足下をすくわれる事態は防ぐ必要がある。

「誰ぞ、使えそうな者はおらんのかや?」
「そうですわね……」

 計都《ケートゥ》は無言のまま目を閉じ、熟考に入った。
 その間に、弗栗多《ヴリトラ》は侍女を呼び、茶を入れさせる。
 弗栗多《ヴリトラ》が茶碗の中身を飲み干えるのとほぼ同時に、計都《ケートゥ》は再び目を開いた。

「……丁度、一名いましたわね。使い潰しても惜しくない、それでいて重き責に耐え得る者が……」
「手が足りぬというに、使い潰しても良いとは。全く穏やかでは無いのう? 何者じゃ?」
「若い武官ですわ。失態を冒した為に、和修吉《ヴァースキ》の勘気に触れた様ですわね」
「なれば、その者を蝦夷地へ遣わそう。任を果たせば、汚名を晴らす機ともなろう?」
「承知しましたわ」

 計都《ケートゥ》は普段の様に微笑み、自らの茶に口をつけた。



[37967] 7話「樵に育てられた人狼」その47
Name: トファナ水◆34222f8f ID:76fd4a64
Date: 2019/03/10 23:26
 上人が石津へと戻った翌日。美州領主は遣いを出し、彼を稲葉山城まで召していた。

「伊勢は如何であったかな」

 美州領主は広間にて、主立った側近が脇に控える中、正装を纏った上人に尋ねる。
 上人は、伊勢の民衆が餓える事無く平穏に暮らしている事や、神宮の神職や衛士、そしてそれにおもねっていた商家等は悉く捕らえられ、贄とされる運命にある事等を語った。
 一通りの解説が終わると、美州領主は本題を切り出した。

「さて、御足労願ったのは他でもない。美州として如何に龍神と相対するべきか、合議がまとまったのでな。上人殿にも御助力願いたいのだ」
「伺おう」
「先の法要での布施を兼ね、石津一帯を、寺領として上人殿に寄進させて頂きたい。無論、統治も御任せする」
「これは剛気な申し出であるが。如何なる思惑でありますかな?」

 高野山の内でも立場の弱い立川流としては、石津を拠点と出来れば申し分ない。だが、伊勢との交易地であり、大きな利益を生み出している石津の支配権を差し出すというのはどういう訳か。

「美州が戦国の世で生き残る為、伊勢と縁を深めるのは必定。だが他州の目もある故、石津を緩衝の地としたいのだ」
「ふむ。さすれば美州としては、はばかる事無く交易が出来ましょうな。伊勢の塩や魚介は、海を持たぬ美州にとって必須」

 裏で繋がりを深めるにせよ、表向きは朝敵たる龍神と距離を置いた形にしたいというのが、美州の意向だった。

「加えて、上人殿としても益があろう。龍神を〝封じておる〟という事になる」

 実際には、補陀落《ポータラカ》の軍勢と相対すれば、上人の率いる立川流の術者のみでは到底、対抗出来ない。
 だが、外の目から見れば、立川流が石津に拠点を構えれば、伊勢に対する睨みをきかせる為と映る。
 また、龍神という対処困難な相手を、どうにか立川流が〝押さえ込んでいる〟状況であれば、高野山の本流からも迂闊に干渉は出来ないだろう。

「如何か?」

 美州領主の申し入れに、上人は少し考え込んだ。
 近い内、龍神の側から密使を美州に出し、その様な要求をするつもりである事は、計都《ケートゥ》から示唆されている。それを美州側から差し出してくるとは、全く好都合だ。
 この際、美州支配の予定を前倒し出来ないかと、上人は目論んだ。

(美州殿には申し訳ないが、この際、足下を見させてもらおう)

「お受けしても良いが、今一つ条件を加えさせて頂きたい」
「申されよ」
「宗派を問わず、美州領内の仏道寺院を、拙僧が説伏して門下に加える事をお認め頂きたい」

 説伏とはこの場合、他宗派の者に教理問答を仕掛け、自宗に転向させる事である。上人はそれを認めよというのだ。
 当然に宗派間の紛議となる為、領主としては座視しがたい。
 また、領内の宗派が一色に染まるというのは、領主にとって危険な要素でもあった。民に対する支配がゆらぐ事にもなりかねない。
 上人の申し入れに周囲がざわめき始めたのを、美州領主は手で制し、再び室内は静寂を取り戻す。
 
「領家としては手を貸せぬ。だが、あくまで上人殿が自ら行うのであれば、世俗としてはそれに口をはさむまい」

 美州としては、何としてでも石津を伊勢との緩衝地としたいのである。美州領主は、黙認の言質を上人に与え、密約を交わす事とした。

「結構ですな。なれば、石津の件、承ろう」
「有り難い」

 上人は重々しい表情をしながらも、内心でほくそ笑んだ。
 この会見により、石津一帯は事実上、上人を通じて補陀落《ポータラカ》の勢力圏に収まる事となる。
 また、美州内の仏道寺院を通じ、領民が徐々に掌握されていく事も確定的となった。



[37967] 7話「樵に育てられた人狼」その48
Name: トファナ水◆34222f8f ID:76fd4a64
Date: 2019/04/24 21:17
 答志島から戻った言仁は、仮宮で待つ弗栗多《ヴリトラ》の元へと向かった。

「母上、ただいま戻りました」
「久々に、門姉共との戯れはどうだったかや?」

 弗栗多《ヴリトラ》は、久々に見る言仁に、慈母の顔で応じる。

「はい。皆、元気そうで。久しぶりに甘えて参りました」
「うむ。胤を仕込んだのは普蘭《プーラン》だけかや?」

 一門に属する学徒の内、人間の女子は、言仁の胤を宿し、阿羅漢《アルハット》の資質を持つ子孫を殖やす事も役割である。

「いえ。他にも三十名程……」
「それだけかや? 坊の胤は無尽であろう? 学徒全てを孕ませる位、造作もないであろうに」

 言仁と学徒達の交合は、通常の男女のそれとは趣が異なる。
 一対一で言仁と交われるのは、筆頭格である普蘭《プーラン》のみというのが、学徒の間での不文律である。そういう事にしておかねば、奪い合いになって収拾がつかなくなる為だ。
 では他の者達はどうするのかというと、一度に十人、二十人といった大勢の餓えた学徒が、代わる代わる言仁にまたがって思うがままに肉体を貪り、胤を絞るのである。
 言仁の節くれ立ちねじ曲がった異形の陽根は、そそり立ったまま萎える事は無く、門姉達の求めるままに幾度でも胤を放ち続けるのだ。

「そうですが、一度に皆を孕ませてしまっては、一門の活動に差し障りが出てしまいます。それに、養育を担う平家の事も考えませんと」
「そうじゃな。じゃが、偏りがあってはならぬからの。今回我慢させた者共にも、機を見て順番に胤をつけてやるのじゃぞ」
「解っております」

 嫉妬から来るいさかいが学徒の間で生じない様、弗栗多《ヴリトラ》は言仁に念をおした。

「ところで、黄泉返りの娘を蘇生させる件。どうなっておるかや?」
「贄人を使った試しを数度行った上で着手する手筈を、普蘭《プーラン》姉、そして補佐としてついた人狼の門姉方と整えて参りました」

 童の幼馴染みを蘇生させるにあたっての助力を普蘭《プーラン》から乞われたのが、言仁が答志島に赴いた用件である。
 それについて問われると、言仁は淀みなく答えた。

「旨くいきそうかや?」
「大丈夫でしょう。ただ…… 蘇生が成った後の事で、心配事が……」
「何じゃ?」

 言いにくそうに口を濁した言仁だが、弗栗多《ヴリトラ》に問われて言葉を続けた。

「和修吉《ヴァースキ》師立ち会いの下で、かの娘が賎民を見下す心を示した際には、手ずから切り捨てると、母上の御名にかけて普蘭《プーラン》姉と約定してしまったというのです……」
「その件は既に、妾の耳にも届いておるがの。普蘭《プーラン》に限らず、学徒共の心情を考えれば、安易に反故には出来ぬぞ。妾の名代として約定の証に立った和修吉《ヴァースキ》も、快くは思うまい」

 那伽摩訶羅闍《ナーガマハラジャ》の名にかけて結ばれた約定を無効にするには、弗栗多《ヴリトラ》が詔を出せば良い。
 だが、普蘭《プーラン》、そして和修吉《ヴァースキ》の面目を潰す事にもなる。

「あれが気に病んでいるのです。その心労を解いてやる訳には参りませんか?」
「普蘭《プーラン》の挑発に乗せられたとはいえ、皇《すめら》の侍従たる者、約定を軽んじてはならぬ。それをわきまえさせるのも躾《しつけ》の内じゃろうに、坊は甘いのう」

 那伽摩訶羅闍《ナーガマハラジャ》の名にかけて約定を結ぶというのは、滅多な事では行われない。童も侍従の列に加わる以上、それを心がけなくてはならないのだ。

「では、蘇生したかの娘が、賎民を見下す様であれば、約定通りに首を刎ねさせよと?」
「当然じゃ。かような者を皇国に置く事は出来ぬであろう?」
「そんな……」

 懸念をあっさり切り捨てた弗栗多《ヴリトラ》の一言に、言仁は思わず顔を引きつらせる。

「あるいは、件の娘の性根が曲がっておったとしても、強引に正す手はあろう。それを施すならば、不問にしたとて普蘭《プーラン》も納得するじゃろうな」
「どの様な手段ですか?」
「簡単じゃ。坊の魅眼を使えば良いではないか」

 言仁の眼力を受けた者は心を奪われてしまう。その上で、賎民を卑しんではならぬと刷り込めば良いのだ。
 だが言仁はこれまで、他者を魅了し心を操るその力を忌み嫌い、決して使おうとしなかった。
 先日、計都《ケートゥ》の目論見により、上人に対して意図せずその力を使ってしまい、怒りをみせたばかりである。

「しかし、あれは……」
「力に溺れてはならぬがの。正しく使う事をなぜ恐れるのかや? 国の頂に立つ帝《みかど》がそんな事でどうするのじゃ」
「……」

 弗栗多《ウリトラ》の叱責にも、言仁はうつむいたままだ。

「まあ、良い。まずは蘇生させる事が先決じゃからな。件の娘が、童と同じく心が清ければそれでよし。曲がっておれば、坊の眼力で正すか、童に斬らせるかじゃ。どうすれば良いか、考えておくのじゃぞ?」
「解りました、母上……」

 消え入る様な声で苦しそうに答える言仁に、弗栗多《ヴリトラ》は深い溜息を漏らした。


*  *  *


 言仁は書院にこもり、弗栗多《ヴリトラ》との問答について考え込んでいた。
 約定の撤回は難しいだろう。
 為すべき事は示された通りである事も、頭では解っていた。
 だが、魅眼を自ら使ってしまえば、その後も、周囲はその行使を求める様になるかも知れない。
 言仁は、それがたまらなく恐ろしかったのである。
 その力を使い続ける内、気に入らぬ者、逆らう者を次々と操る様になり、気がつけば周囲に傀儡しかいなくなってしまうのではないか……

「帝《みかど》、こちらにいらっしゃいましたか。宜しいでしょうか?」
「ああ、君か…… 入りたまえ」

 襖を隔てて、童の声がした。言仁は表情を穏やかに戻し、静かで落ち着いた声で招き入れる。
 襖が開き、若い白狼が姿を表した。
 
「答志島から御戻りと聞いて、御挨拶に伺いました」
「今日は狼の姿か。何かあったのかな?」

 普段、童は一門の詰め所で、人狼の学徒達から座学や、立ち居振る舞いの躾を受けている。その為、日常は人の姿でいる事が殆どだ。
 珍しくも本性を出している事に、言仁は首をかしげた。

「今日は鍛錬を兼ねて、近衛の方々と獣の姿で狩りに出かけていたのです。その足で来ましたので、衣を纏っていませんでした」
「狩り?」
「はい。百姓の村から、猪が田畑を荒らして困るという申し立てが上がっていて」

 伊勢の農村からは、刀剣や槍、弓矢といった武具が全て接収されている。害獣の駆除も自分達では許されず、庄屋を通じて軍へ願い出る事になっていた。
 宮刑 ※去勢 に処してけじめをつけさせたとはいえ、賎民解放の勅令に背いた伊勢の民を、弗栗多《ヴリトラ》は全く信頼していない為である。
 例外は、賎民虐待に加わっていないとされた一部の者のみで、そういった良民は言仁の私有地である荘園に住まいを移して優遇されている。

「近衛というと英迪拉《インディラ》が声をかけたのかな?」
「はい。兵でなくとも、宮中に仕える身ならば鍛えねばならぬとおっしゃって。筆頭殿と、他に非番の方が二名程」

 童の処遇について、言仁の側近は例外なく、侍従に相応しく育成する様、己の立場から心がけている。
 特に英迪拉《インディラ》の場合、童の後見である阿瑪拉《アマラ》との間で、どちらが言仁の乳母になるかを巡って争った過去があるだけに、かなり気を遣っていた。

「ふむ。狩りはどうだったかな?」
「先に近衛筆頭殿が手本を見せて下さいました。最後の二頭は俺が先陣をまかされて、喉笛を食いちぎって仕留めました」
「それは大した物だよ!」
「あ、有り難うございます!」

 言仁は、人狼としての本性に慣れつつある童に喜び、頭を撫でて褒めた。
 童も、尾を振ってまんざらではない様子である。狼というよりは忠犬の様だ。
 兵になって戦をするのは嫌だと言って侍従の職を選んだ彼だが、獣を狩り屠る事については、全く抵抗が無かった。
 樵《きこり》として生活していた頃でも、腹の足しに鳥獣を狩る事はあったからだ。
 また、人間にとって、猪は返り討ちにされる事もある危険な相手だが、人狼や白虎にしてみれば手頃な獲物である。

「獲物の内、二頭は仮宮の厨房に納めたんで、召し上がって下さい」
「いいね、猪鍋にでもさせようか。明国風に叉焼《チャーシュー》でもいいかな」

 童が狩ってきた成果が食卓にのぼると聞いて、言仁の顔がほころぶ。

「この後は座学があるんで、これで失礼します」
「そうか、では頑張っておいで」

 童が辞した後、言仁は再び、卓に向かって思索に向かう。
 慕ってくれる童の苦しむ顔を見たくはない。
 賎民を蔑視する者に対する、普蘭《プーラン》を始めとした、一門の学徒達の激しい憎悪も解る。彼女達を傷つけたくもない。
 自分は、双方の安寧を護らねばならぬ。

「備わった力を使うべき時に拒むなら、私は帝位にあるまじき、愚かな臆病者。そういう事か……」

 言仁は、先刻に弗栗多《ヴリトラ》から言われた事を思い返すのだった。



[37967] 7話「樵に育てられた人狼」その49
Name: トファナ水◆34222f8f ID:f5d2bc63
Date: 2019/08/07 22:55
 一門では、黄泉返り《よみがえり》 と化した娘を蘇生させる為の準備が、普蘭《プーラン》の指揮によって進められていた。
 だが、彼女自身は、言仁から受けた胤がある程度育つまで、直に法術を行使するのを控えなくてはならない。
 普蘭《プーラン》の性格上、無理を押してしまうのは目に見えていたので、当面は与えられた居宅の自室で安静に過ごす様、近衛の監視を付けられた上で計都《ケートゥ》から命じられているのだ。
 その為、蘇生の法術に先立って行う〝試し〟については、補佐として付けられた人狼の学徒達が、手足となって動いていた。
 何しろ、今回の蘇生は古文書から得た知識を再現するのだから、万が一にも本番でしくじらない様、入念に試しておかねばならない。



 答志島の東に浮かぶ、歌島。
 神宮の治世では流刑地とされていた小島だが、皇国に占拠された後は無人のまま放置されていた。今回の蘇生術は、試しから本番までここで行う事になっている。
 支度を調える為の先遣として、普蘭《プーラン》の補佐としてつけられている人狼の学徒の内から二名が向かったのだが、彼女達は大きく嘆息を漏らす事になる。
 元が流刑島なだけに、小さな港の側に集まっている家々は、いずれも粗末なあばら家だった。しかも、皇国が伊勢を占拠してから一年以上放置されていた為、朽ち果てかけており、とても住めたものではなかったのだ。

「ねえ、次姉《つぎねえ》……」
「何です? しばらくは片付けですよ?」
「折角、普蘭《プーラン》姉が貰ったお屋敷をみんなで綺麗にしたってのにさあ…… 私等は何で、こんなとこで寝泊まりしなきゃなんない訳?」
「黄泉返りは危ないからです」

 荒れ果てた集落の様子を目の当たりにし、不平を漏らす年少の学徒に、次姉と呼ばれた年長の学徒は、諭す様に答えた。

「答志島では、法術を使って身を護る事が出来ない、平家から預かった子弟達も多く学んでいるのです。あの子等に何かあったら、申し開き出来ないではありませんか」

 阿羅漢《アルハット》の才を持たない通常の人間、しかも子供が多く住まう様になった答志島では、それまでの様に危険な研究を無造作に行うべきではないというのが、普蘭《プーラン》の主張であり、計都《ケートゥ》もそれを是とした。
 何しろ、〝黄泉返り〟と化した娘は、山中をさまよった末に村を一つ壊滅させているのだ。
 蘇生の施術の際に、〝黄泉返り〟を制し切れずに暴走させてしまう危険を考えると、答志島で行う訳にはいかない。
 そこで、無人のまま放置されていた歌島が、危険な法術を試す場として整備される事となったのだ。

「解ってるけどさあ……」
「とにかく、少しでも心地良く過ごしたいなら、文句を言う前に働きなさい!」

 猶も不平を漏らす年少の学徒を、次姉は強く叱責した。
 だが、年少の学徒は気にした様子は無い。

「次姉、腕輪に天幕を封じてたじゃん。あれ、使おうよ?」
「一応はもっています。でも、この島のどこに広げるというのです? あんな大きい物を」

 次姉の腕輪に封じてある天幕は、元々は軍の野営に用いる為に造られた物で、広げるにはそれなりの敷地を要する。
 歌島は小さく、住めそうな処には既に空き家が建っている為、とても使えそうにはない。

「んじゃ、邪魔っ気なボロ家は、ちょいちょいっと始末しちゃうね。せぃっの!」
「たわけ者!」

 年少の学徒が無人の集落めがけ、法術で火炎を浴びせようとした刹那、次姉は鉄拳で頬を殴りつけた。
 
「痛ぁ! 何すんの!」

 殴られた頬をさすりながら、年少の学徒は次姉をにらみ付けるが、返ってきたのは厳しい叱責だった。

「歌島の集落は、港に面したこの一画だけ。すぐ奥には山林が広がっています! 燃え移ったらどうするんです!」
「加減するってばさあ」
「貴女の技量で、術の制御が目分量で出来る物ですか! 下らない事を考えずに、家の片付けをなさい!」 

 叱責を受けても不服そうに口答えをする年少の学徒に、次姉は胃の痛みを覚えた。

「面倒臭いなあ…… じゃあさあ、延焼しない様に、ボロ家を囲んで結界張るね。二刻 ※四時間 はかかるけど、次姉が言うんじゃ仕方ないかなあ。あぁ、面倒……」

 年少の学徒は持参していた矢立から筆を取り出し、ぼやきながらも結界の呪符を造る支度を始めた。

「呆れましたね、どうあっても家を燃やすつもりですか」
「だって、あんなばっちいボロ家に住みたくないもん」

 賎民出身である人間の学徒と違い、神属の学徒、特に若輩の中には、質素な一門の暮らしに不平を抱いている者も多い。
 実家では多くの人間に傅かれ、贅沢な暮らしを当たり前として生活していたのだから、無理からぬ事である。
 人間と神属を対等にするという〝諸族協和〟の理念に賛同して和国遠征に加わった物の、どうしても不自由無い暮らしを懐かしんでしまうのだ。
 学師の目もあり、普段は分別をわきまえているが、放棄された無人島のあばら家で寝泊まりせよと言われれば、我慢しきれずに我を通したくもなる。

「使える物はなるべく使え、というのが一門の方針なのですけどね。どうしてもというなら、貴女が気が済む様になさいな。私は手伝いませんよ!」

 次姉は言い放った物の、放置する訳にもいかない。
 結界に不手際があれば、それこそ大惨事という事もあり得る。
 次姉は、年少の学徒が必要な分の呪符を四苦八苦して書き、集落の周囲に張っていくのを、手を出さずに見守った。

「出来たあ……」

 三刻 ※六時間 程かけてようやく張り終わった結界を、次姉は確認して廻る。
 特に問題はない様だ。

「ど、どうかな?」
「まあ、良いでしょう」

 心配そうに尋ねる年少の学徒に、次姉は頷いて及第を告げる。

「んじゃ、火ぃつけるねっ!」
「ここでは駄目です。舟を出して、海からになさい」
「念がいってるなあ。結界張ってるんだから、巻き込まれる事はないってば」
「法術を破壊に用いるには、細心の注意を払いなさい!」

 慣れた術者なら、念じるだけで強力な結界を張る事が出来、自らの放った法術の効果に巻き込まれる事はまず無い。
 だが、不慣れな年少の学徒が身につけるべきは、まず安全への配慮だ。その点が欠落している事を目の当たりにし、次姉は内心で頭を抱える羽目になった。

(情けない…… 滅び行く運命だった人狼に、光明が見え始めたというのに……)



「FLAMMA!」

 次姉が隣で見守る中、年少の学徒は海上の舟から法術の炎を放った。
 集落に向けた腕より青白い灼熱の火炎が瞬時に伸び、朽ち果てかけた家々は程なく燃えさかる。結界の効用により、集落の外へ燃え広がる様子は全く見られない。
 無人の集落は、およそ一刻 ※二時間 で完全に焼け落ち、後には白い灰だけが残された。



[37967] 7話「樵に育てられた人狼」その50
Name: トファナ水◆34222f8f ID:f5d2bc63
Date: 2019/09/11 23:19
 朽ちた集落がすっかり灰になったのを見届け、次姉は年少の学徒へ厳しい顔で向き直った。

「あれを片付けなければ天幕は張れませんよ? どうするのです?」
「次姉、龍牙兵を持ってたでしょ。貸して?」
「あれは、不測の事態に備えて和修吉《ヴァースキ》師からお借りした物で、雑役に使う様な物ではありません!」

 龍牙兵を使役出来るのは、皇族、もしくはその代理権を持つ者と定められている。一門の学徒が使役する場合もあるのだが、あくまで使役権を預託されての事だ。
 それをどう扱うかの裁量を含めての預託なので、雑役に使ったからといって罰を受ける訳ではない。所詮は道具である。
 だが、次姉は、皇族の特権たる龍牙兵を粗末に出来ないという思いが強かった。

「自分で何とかしなさいね」

 次姉は冷たく言い放った。どうにもならないと泣きついて来た処で、きつく戒めた上で龍牙兵を使おうと思ったのだが、年少の学徒は平然と次善の策を取ろうとした。

「そっか。んじゃ、島に大雨を降らせて海に洗い流しちゃおう! GRAVIS PLU……」
「止めなさい!」

 降雨の法術を使おうとした年少の学徒を、次姉は頭頂に鉄拳を加えて制止した。

「痛い! 次姉、また殴ったぁ!」
「何も考えなく、無闇に法術を使うなと言ったばかりだというのに貴女は!」

 しゃがみ込んで頭を抱える年少の学徒に、次姉は呆れるばかりだった。
 結局、次姉の装身具に封じてあった四体の龍牙兵に命じ、集落の燃えかすを片付けさせて天幕を張る事になったが、作業を終えた頃には日が暮れかけていた。



「次姉、お休みー」

 持参した干し肉で夕餉を終えると、年少の学徒はすぐに天幕備え付けの寝台に潜って寝てしまった。疲れが溜まっていた様だ。
 どの道、試しに使う〝丸太〟が届かない事には、以後の作業は進まない。
 寝息を立てて熟睡している門妹の横で、次姉は八咫鏡で普蘭《プーラン》に報告を入れた。
 鏡面に映る普蘭《プーラン》は、岩風呂に浸かっている。言仁のはからいで、屋敷に備え付けられた物だ。

「御苦労様です。どの様な案配ですか?」
「島に残置された家屋は痛みが進んでおり、使用に耐えないと判じて焼き払いました」
「焼き払うとは、随分と思い切った手段に出ましたね」

 普蘭《プーラン》も、集落を取り壊す許可を求めて来るのではないかとは思っていたが、上陸の初日に独断で火を放つとは想定外だった。

「実はその、桑妮雅《ソニア》が、どうしても嫌だから焼いてしまえと……  当面は持参した天幕を張って対応しますが……」

 桑妮雅《ソニア》とは年少の学徒の名だ。印度由来の名ではないが、人狼は自らの祖先の出自である羅馬《ローマ》風の名を持つ者もいる。
 法術が掛けられた天幕は、そのままでも百年は使用出来、充分に建物の代用となる。
 だが、資源節約の観点から、なるべく神宮から奪った戦利品を活用するというのが、皇国の施政方針だ。

「相変わらず、桑妮雅《ソニア》には甘いですね」

 桑妮雅《ソニア》が駄々をこねたからだと聞き、普蘭《プーラン》も苦笑しつつ納得した。
 知性はどうにか一門に加わる事を許される程度で、法術を行使するにあたって配慮が足りない迂闊者、というのが、桑妮雅《ソニア》に対する、一門内部での評価である。
 一般には才女と評される程度の知性は備えているが、一門の基準で言えば劣等生だ。現代風に言えば、名門校の落ちこぼれである。
 年長の同族として、次姉は厳しくしているつもりなのだが、賎民や奴隷として過酷な環境で育ってきた人間の学徒から観れば、甘やかしている様に映る。

「あれの我が儘を抑えきれず、申し訳ございません……」
「まあ、良いでしょう」

 深々と頭を下げて詫びる次姉だが、普蘭《プーラン》はあっさりと行動の追認を与えた。

「……宜しいのですか?」
「桑妮雅《ソニア》は、奥妲《アウダ》に良くしてくれていますから」

 普蘭《プーラン》の答えに次姉は思わず聞き返したが、続く言葉に合点がいった。
 学徒としては劣等生の桑妮雅《ソニア》だが、多くの学徒から〝優秀なれど生意気な跳ね返り〟として睨まれている奥妲《アウダ》とは親しい。
 その為、普蘭《プーラン》としても、桑妮雅《ソニア》には寛容だった。目に掛けている奥妲《アウダ》にとって、貴重な友の一人なのである。

「それに、資材も銭も惜しまない旨、和修吉《ヴァースキ》師から確約を得ています。すぐには無理ですが、次月までには、新たな舎屋の建築にかかれる様に手配しておきましょう」
「有り難うございます!」
「早速ですが、試しに使う丸太を、明日には届けさせます。良い結果を期待していますよ」
「御任せを。では、新しき世の建立の為に」

 合掌して通信を終えると、次姉は精神の疲れから、その場に崩れる様にして眠り込んでしまった。



 翌日。
 朝日の光が天幕の隙間から差し込み、二人がまどろみから覚めかけた頃。
 突如、まばゆい閃光と共に、轟音が鳴り響いた。

「何事!?」

 跳ね起きた次姉は慌てて辺りを見回すが、桑妮雅《ソニア》は寝ぼけ気味ながらも状況を瞬時に判断した。

「朝っぱらからうるさいなあ…… 雷なら多分、和修吉《ヴァースキ》師だってば…… もう少し寝るね……」
「たわけ者!」

 桑妮雅《ソニア》はそのまま寝直そうとしたが、次姉に頬を張り飛ばされた。

「次姉、またぶったあ!」
「和修吉《ヴァースキ》師がいらっしゃったのなら、起きなければ駄目でしょう!」

 桑妮雅《ソニア》はぶたれた頬を押さえてにらみ付けるが、次姉は憤りを隠さない。

「良い。寝かせておけ」
「こ、これは和修吉《ヴァースキ》師、お見苦しい処を……」
「あ、和修吉《ヴァースキ》師。お早うございます!」

 天幕に入って来た和修吉《ヴァースキ》を、次姉は恐縮しながら合掌で出迎えた。
 いつの間にか起きていた桑妮雅《ソニア》もそ倣うが、こちらは何事も無かったかの様に明るい挨拶である。

「普蘭《プーラン》から話は聞いたが、派手にやったな」
「ええと、駄目ですか?」
「否。その位で良い。学究を果たす為ならば、元の流刑島の廃村如きを焼き払うのに躊躇してどうするか」

 首をかしげて尋ねる桑妮雅《ソニア》に、和修吉《ヴァースキ》は微笑んで応えた。
 皇国の伊勢統治は、節減の為に戦利品を活用すのが原則だ。
 しかし、和修吉《ヴァースキ》はそれを軽んずる傾向があった。目的の為なら金銭も資源も惜しむべきでないというのが、彼女の考えである。

「そうですよね!」
「和修吉《ヴァースキ》師、これをあまり増長させては……」

 満面の笑みで桑妮雅《ソニア》は調子づくが、次姉は渋面で和修吉《ヴァースキ》に苦言を呈する。

「だが、周囲への配慮を軽んじていては、いずれ命を落とすやも知れぬ。わきまえたまえよ」
「はーい」

 和修吉《ヴァースキ》の戒めに、桑妮雅《ソニア》は能天気に頷くのだが、反省のかけらも見られない態度に、次姉は頭痛を覚えた。

「さて、本日の用向きだが。お前等の待ちかねていた物を持ってきた」

 和修吉《ヴァースキ》が指を弾くと、龍牙兵が、裸体の女の石像を抱きかかえて入って来た。石化した〝丸太〟である。

「さて、蘇生の術式を試すに先立ち、この丸太を一度、生身に戻した上で生命を絶つ必要があるのだが。どの様な処置にて行うのが適切と考えるかね?」

 和修吉《ヴァースキ》は学師として、二人に問いを投げかけた。



[37967] 7話「樵に育てられた人狼」その51
Name: トファナ水◆34222f8f ID:f5d2bc63
Date: 2019/10/06 07:57
 通常、神属の贄として食する贄人の屠殺は首を刎ねる。
 だが今回は、〝黄泉返り〟を再現した上で、さらに通常の状態へと蘇生させる為の試しである。頭部を切り離すのは論外だ。
 ならば、どの様な手法が最も相応しいのだろうか。
 二人は悩むが、桑妮雅《ソニア》の方は徐々に瞼が下がり、立ったまま居眠りを始めてしまった。
 次姉はそれに構わずしばし考え込み、考えがまとまった処で口を開いた。

「阿片で酩酊状態にさせた上で、殺害の現場である崖から飛び降りさせるのが宜しいかと」
「ふむ。意図は何か?」
「死に至り、〝黄泉返り〟となった経緯の再現です」
「成る程。では桑妮雅《ソニア》、お前ならばどうするか?」

 和修吉《ヴァースキ》は頷き、残る桑妮雅《ソニア》に回答を促す。
 立ったまま口を開け、まどろみの中にいた桑妮雅《ソニア》だが、呼ばれた刹那、しっかりと目を見開いて答えた。

「別にそんな事しなくても、濡れた布を口にかぶせておけば、息が詰まって死ぬんじゃないですかぁ?」
「貴女ねえ! 真面目に答えなさいな!」

 安易な答えに次姉が怒鳴りつけるが、桑妮雅《ソニア》は意に介さない。

「だってさあ、どんな風に〆ても、五体満足な屍なら〝黄泉返り〟に出来るんでしょ? ね、和修吉《ヴァースキ》師?」
「是」

 和修吉《ヴァースキ》は一言で肯定したが、その眼は愉快げに笑っている。

「なら、細かい事に拘るだけ面倒だよ。それに、崖から落として、もし頭が砕けちゃったら〝黄泉返り〟に出来ないじゃん」
「是。故に、此度は桑妮雅《ソニア》が正しい」

 桑妮雅《ソニア》の解を是とした和修吉《ヴァースキ》に、次姉は戸惑う。

「しかし…… それでは、件の娘がどの様に〝黄泉返り〟となったのかの解明が出来ないのでは?」
「詳しく調べたくもあるがな。だが、此度の目的に照らせば、細かい再現は手間の無駄だ」
「目的……ですか?」
「それ。私達はさ、嫁が生き返って、あの子が喜ぶ顔が見られればいいんだってば。そうすれば普蘭《プーラン》姉も任を果たして学師になれるし、私達にも箔がつくし、皆が幸せじゃん」

 桑妮雅《ソニア》の言葉に、次姉は衝撃を受けた。
 まず考えねばならないのは、次代の胤たる童の安寧。〝黄泉返り〟の蘇生は、その為に行うのだ。それを考えれば、事象の再現に拘る必要は無い。
 軽挙が目立つ桑妮雅《ソニア》だが、今回の試みの目的をきちんと踏まえている。
 それに比べて自分は、学問上の興味に気を取られてしまっていた……

「自戒を含めて言うのだが、学究の徒は何でもとかく、箱の隅までつつこうとするのが癖だ。しかし、何を何の為に行うのか、これを明確にしておかねばならぬ」
「はい、和修吉《ヴァースキ》師……」
「智も技も、ただ蓄えれば良い物ではない。世を豊かにするべく、使う為にある。覚えておきたまえよ」

 和修吉《ヴァースキ》に諭され、次姉は深くうな垂れてしまった。



 朝餉《あさげ》を終え、二人は和修吉《ヴァースキ》が見守る中、術式に取りかかった。
 まず、石化されている贄人を生身に戻す。
 意識が無いままだが、贄人は静かに呼吸を始めた。

「じゃ、濡れた布で、息をつまらせて〆るね」
「待ちなさい」

 贄人の命を絶とうとした桑妮雅《ソニア》だが、次姉はそれを制止した。

「その前に、金縛りをかけなければいけません」
「何で?」
「贄人には知恵が無いと言っても、生きているのですから。息が出来なければ目を覚まし、布を手で払う位の事はします」
「そっか。まあ畜生だからって、黙って殺される訳は無いもんね。PARALISI!」

 桑妮雅《ソニア》は金縛りの法術をかけた。横たわったままの贄人には変化が無い様に見えるが、これで寝返り一つ打てなくなった筈だ。

「これでいいよね?」
「ええ」

 次姉が頷くと、桑妮雅《ソニア》は濡れた布を贄人の顔にかぶせる。
 贄人は身動きしないままに息を詰まらせ、少し後に胸の鼓動は止まった。

「では、術式を施します」

 屍と化した贄人の躯に、次姉は梵字の呪文を書き込んで行く。使っている墨は、言仁の腎水 ※精液 を調合した特製だ。強い霊力がこもっており、術式を維持しやすくする効果を持つ。
 麝香《じゃこう》をさらに濃くした様な、かぐわしくも強烈な匂いを放っている為、普通の人間ならば正気を失って恍惚に陥ってしまうだろう。
 次姉が書いた呪文を、桑妮雅《ソニア》が針を用い、刺青として彫り込む。呪文が消えない様にする為の措置だ。
 贄人の躯に全身くまなく、精緻な呪文の刺青を施し終えたのは、昼下がり頃だった。



「終わったねえ。これで、彫った呪文を発動させれば〝黄泉返り〟になって、同時にゆっくり蘇生していくんだっけ?」
「その筈です」

 額の汗を袖でぬぐいながら桑妮雅《ソニア》が尋ねると、神経を集中させ続けて疲労困憊した次姉は、ただ一言で応じた。

「その前に、二つ措置を忘れておる」

 和修吉《ヴァースキ》の指摘に、二人は思わず顔を見合わせる。
 まだ何か足らないのだろうか。

「まずは拘束だ。金縛りは、死した時点で解けているからな。〝黄泉返り〟は夢うつつのままに徘徊するから、拘束は必須である」
「術をかけ直すという事でしょうか?」
「否。〝黄泉返り〟には金縛りの効力が薄い。故に、これを用いる」

 和修吉《ヴァースキ》が指を弾くと、側に控えていた龍牙兵の一体が、天幕に備え付けの鎖を持ち出し、贄人の手足を寝台にくくりつけた。

「こうして縛るのが確実だ」
「その程度で大丈夫でしょうか?」

 不安そうな次姉に、和修吉《ヴァースキ》は解説を加える。
「今回のこれの屠畜でもそうだが、単純な手法の方が、より堅実な事は多々ある。〝黄泉返り〟が危険なのは、狂気の思念を周囲に放射する為だ。膂力については、生前と変わらぬ故に問題ない」
「思念! それでは私達にも、相応の備えが要りますね」

 危険性を指摘されて、次姉はもう一つの必要な措置が何なのか思い当たった。

「私達の脳を護る為、結界を張らねば!」
「そう、それが今一つの措置だ。〝黄泉返り〟が放つであろう思念に脳を冒されぬ様、強く張っておきたまえよ」

 次姉と桑妮雅《ソニア》は、各々が携帯している法術具を使い、脳を護る様に特化した結界を張った。結界は強く張ると、自らによる法術の行使も困難になってしまうのだが、効果を限定しておけばその影響を抑える事が出来る。

「これが術式を作動させる鍵だ」

 和修吉《ヴァースキ》が次姉に手渡したのは、陽根をかたどった張型だった。これ自体が精巧な法術具であり、蘇生の進行に合わせて術式を制御する役割を持つ。

「形状から見て、女陰に挿せば作動するのですか」
「是。単に術式を作動させるだけでなく、それを制御し促進する効果もあってな。目論見通りなら、およそ一月で蘇生が完了する見込みだ」
「一月、ですか? それは早いですね!」

 次姉は驚嘆の声を挙げた。
 贄人に施した元の術式では、蘇生の完了まで、半年程度の見込みである。それが一気に短縮されるのだ。

「普蘭《プーラン》が新たに考案した物を預かって来た。我が考査した限り、理論の上では問題ない」
「それでこそ普蘭《プーラン》姉です!」
「でも、大丈夫かな?」

 次姉は感心するばかりだが、桑妮雅《ソニア》は不安げな顔をする。

「その為の試しだ。まずは使ってみなくては解らぬからな。目論見がうまく行かずに丸太が一本潰れたところで、何も惜しくは無い」

 和修吉《ヴァースキ》は事も無げに答えた。知恵を持たぬ白痴として生み出された贄人は、皇国にとって只の家畜、あるいは材木と同じだ。
 財物としての価値は確かにあるが、命を尊ばれる事は無い。



[37967] 7話「樵に育てられた人狼」その52
Name: トファナ水◆34222f8f ID:f5d2bc63
Date: 2019/11/03 20:09
「それじゃ、ぶち込みます!」

 桑妮雅《ソニア》は張型を手に持つと、寝台に鎖で四肢を拘束され、仰向けで力なく横たわっている贄人の股を開くと、女陰にあてがい一気に突き入れた。

「えい!」

 押し込まれた張型を女陰が飲み込むと、術式が発動し、贄人の全身に施した刺青が青く光り始める。
 程なくして、知性なく眠っている筈の贄人は目を見開き、口を大きく開けて呻き始めた。

「んおぅ! んおぅ! んおぅ! んおぅ!」

 口からは涎がしたたり落ち、知性があるかの様に、顔は悦楽に歪んでいる。

「こいつ、贄人の癖に、凄くいい顔してるよねえ」
「そうですね。通常であれば考えにくい……」

 桑妮雅《ソニア》と次姉は、贄人の様子を興味深そうに観察している。

「お前等は頭に結界を張った故、解らぬかも知れぬが。術が発動して、この贄人からは牝の肉欲に満ちた思念が放たれ始めた」

 和修吉《ヴァースキ》の解説に、二人は思わず顔を見合わせた。

「もし結界を張ってなかったらどうなったんだろ?」
「強力な媚薬を盛られた様になり、淫欲で理性が吹き飛ぶであろうな」
「危ないなあ」

 疑問に帯する和修吉《ヴァースキ》の答えに、桑妮雅《ソニア》は顔を引きつらせる。
 一方、次姉は首をかしげた。

「これから放たれている思念が解るという事は…… 師はもしや、結界を張っておられぬのですか?」
「是。並の神属ならともかくも、この程度の思念、那伽《ナーガ》には効かぬ」
「凄いですね……」

 黄泉返りの思念は、一村を滅ぼす程の強さという。それを受けて平然としている和修吉《ヴァースキ》の力に次姉は感嘆した。

「不測の事態が起きるやも知れぬから、術式の完遂まで、丸太から決して目を離すな。交代で見張っておれ」
「えー、一日中ですかあ? 二人じゃきっついですよ」
「一門の学徒ともあろう者が軟弱な!」

 文句を言う桑妮雅《ソニア》を次姉は叱責したが、和修吉《ヴァースキ》は手を振ってそれを抑えた。

「良い。明日にも、普蘭《プーラン》の屋敷に残っている三名が来る。お前等と合わせて五名なら、輪番を組むのに問題あるまい。それ等が来るまでは、我もここで待つ」
「しかし、それでは普蘭《プーラン》姉の補佐と身の回りの御世話は誰が…… 学徒の他にも、近衛から警護が一人ついてはいますが、それだけでは不足かと」

 次姉としては、術式の試しも大切だが、言仁の子を宿した普蘭《プーラン》の身も心配である。
 何しろ学師昇格がかかっているだけに、無理をするかもしれない。

「人狼の胤たる童の教導を担っていた五名を桑名から引き揚げて、普蘭《プーラン》につける。それと入れ替わりだ。あれ等も児を宿しておるしな。それを鑑みても、そろそろ答志島へ戻す頃合いだ」
「長姉様達を全て戻すとなると、人狼の胤たるあの子はどうなりますか?」
「あれは侍従見習として登用された以上、いつまでも一門の庇護下に置く訳にも行くまい。後の事は仮宮の女官共や、近衛共が引き継いでくれよう」

 和修吉《ヴァースキ》の説明に次姉は納得していたが、桑妮雅《ソニア》は心配げだ。

「あの子、大丈夫かな? 宮中詰めで男って、あの子だけでしょ?」
「あれも、児を持つ父となるのだ。いつまでも童として扱う訳にはいかぬぞ」
「解ってますけど……」
「主上も御夫君様も、あれの事は随分と目に掛けておられる様子だ。心配せずとも良い」
「なら、いっか」

 近侍として位置が定まれば、ひとまずは安泰である。それに、童の職務はあくまで、皇帝夫妻の身の回りの世話だ。少なくとも当面、政《まつりごと》に関わる事はない。
 言仁を信頼しきっている桑妮雅《ソニア》は、あっさりと納得した。

「んおぅ! んおぅ! んおぅ! んおぅ!」

 三人が話している間も、贄人はうめき声をあげ続けている。

「これ…… 一月もずっとこのままなのは、やかましいよね?」
「確かに……」

 蘇生が完了するまでの間、このうめき声に我慢しなければならない事に気付き、桑妮雅《ソニア》と次姉は揃って顔をしかめた。

「そういう問題を洗い出し、対応を考えるのも試しの内だ。さて、どうするかね?」

 和修吉《ヴァースキ》は、悩む二人を前に微笑んでいる。

「喉に呪文を書き足して、うめかない様にしましょうか……」
「それしか無さそうだよねえ」

 次姉の案に、桑妮雅《ソニア》も同意する。
 そこに、どこからか普蘭《プーラン》の声がした。

「それでは、肝心の蘇生の術式を阻害しかねません」
「ぷ、普蘭《プーラン》姉? どこに?」
「上を御覧なさい」
 
 二人が上を見上げると、天幕の天井すれすれに、八咫鏡が浮遊していた。
 鏡面は下を向き、そこに普蘭《プーラン》の姿が映っている。

「いつの間に……」

 唖然とした次姉に、普蘭《プーラン》は可笑しそうに答えた。

「貴女達が、術式の支度を始めた時からです。和修吉《ヴァースキ》師が、その様子を録る為も兼ねて、八咫鏡を上に浮かべていていたのですが、気付きませんでしたか?」
「何でずっと黙ってたの!?」
「和修吉《ヴァースキ》師がいらっしゃいますから滅多な事は無いでしょうし、黙っていた方が色々と面白い物が観られるかと思って」

 普蘭《プーラン》は、二人の様子を観察する為に、施術の最中はあえて黙って見守っていたのである。
 上位の者は下位の者を不意打ちで試すのが、一門全体の気風だ。
 
「普蘭《プーラン》姉。さし当たり、この丸太を沈黙させる良い手法は無い物でしょうか? 一月もこれでは、耐えがたく思います」
「寝台を、音を遮断する障壁で囲いなさい」
「へー、それいいじゃん。簡単だしさあ」

 次姉の訴えに普蘭《プーラン》が示した案はいたって単純な物だった。桑妮雅《ソニア》は素直に感心したが、次姉はすぐに問題を指摘する。

「それでは、中の様子が窺えません」
「そうですね…… 蚊帳《かや》を使いましょう。あれなら大きさも丁度良いし、中も透けて見えます」

 少し考えて、普蘭《プーラン》は解決策を出した。
 蚊帳とは、蚊を防ぐ為に当時使われていた、目の細かい網で寝床を囲う道具だ。現在の皇国では殆ど目にしないが、皇国に敵対する人間至上主義の土耳古《トルコ》、また友邦ではあるが神属優越体制を維持する哀提伯《エチオピア》等では今でもよく使われている。

「あんなんじゃ、音が漏れちゃうよ?」

 今度は桑妮雅《ソニア》が疑問を呈する。確かに、網では音は防げない。

「ですから、蚊帳に音を封じる術式を施せば良いのです。丸太へ直に法術を使う訳ではありませんから、蘇生を阻害する事は無い筈です」
「あ、そっか。納得」

 桑妮雅《ソニア》は再び感心していた。道具と法術を、互いの特性を活かす形で組み合わせれば良いのだ。

「でも、ここに蚊帳なんてあったっけ?」
「この天幕は本来、軍が野営に使う為の物ですから、蚊帳も備えつけでありますよ」

 次姉はそう言うと、贄人が寝かされている寝台の下から蚊帳を取り出した。蚊帳は天井から吊り下げる物が多いが、これは骨組みを組み立てて網を張る形状である。
 二人は寝台を覆う様に蚊帳を組み立て、防音の呪符を書いて網の四方と天井に貼った。これで、蚊帳の外部へ音は漏れ出す事は無い一方、網は透けるので中の様子は見える。

「とりあえず、何とかなったねえ」
「一件落着ですね」
「うむ。我が口出しするまでもなく、生じた問題について有効な判断をした。普蘭《プーラン》、見事である」

 桑妮雅《ソニア》と次姉は安心した様子を見せ、和修吉《ヴァースキ》は普蘭《プーラン》の采配に賛辞を贈った。

「師よ、大袈裟です」

 普蘭《プーラン》は謙遜したが、続く和修吉《ヴァースキ》の言葉は穏やかながらも重い物だった。

「否。蘇生については、以後も予期せぬ事態が起こり得る。この様に些細な事とは限らず、速やかに適切な処置をせねば、悲惨な状況に至る物も無いとは言えぬからな。普蘭《プーラン》、本件は試問である以上、舵取りはあくまで汝だ」
「承知しております」
「だが…… 手に余ると判じた時は、躊躇せずに我なり導師を頼れ。決して意地を張るな。その見極めもまた、汝が学師に足る器量か否かを示すと心得よ」
「はい」
「施術中、ずっと観察していたのであろう。そろそろ休みたまえ」
「では、失礼致します」

 普蘭《プーラン》は合掌して通信を切った。



 桑名港では、指導に当たっていた長姉達五名の人狼の学徒が、童と別れを惜しんでいた。
 童は長姉の下腹を愛おしそうにさすり、他の四名にも同じ様にする。

「俺達の子、少し育ちましたね……」

 懐妊を告げられて以後、童は五名の誰とも交合を持っていない。
 しばらくぶりに触れる下腹はいずれも、膨らみが目立ち始めていた。

「ええ。菅島に戻られた阿瑪拉《アマラ》師と併せ、貴方の胤を受けた六つの命は、順当に育っています」

 長姉の言葉に、童は改めて身が引き締まる思いがした。
 ただ一人の子でも、親になるというのは大変な事なのに、自分は一度に六人の子を持つ事になる。

「姉上方。子供等の事、それと姉ちゃんの事も…… くれぐれも宜しく御願いします」
「貴方も。立派な侍従として、子供達が誇れる父となる様に励んで下さいね」
「はい!」

 力強く頷く童に満足し、長姉達は桟橋を渡っていった。



[37967] 7話「樵に育てられた人狼」その53
Name: トファナ水◆34222f8f ID:f5d2bc63
Date: 2020/01/12 05:22
 蘇生の術式を施してから二十八日後の、歌島。
 贄人の様子は、次姉を始めとした五名の人狼の学徒が、交代で観察していた。
 胎の児によって腹は膨れ上がり、通常の臨月の三倍以上の大きさとなっている。対して母体は徐々に痩せ細っていき、現在ではすっかり骨と皮ばかりだ。
 飲食を一切与えられる事無く、滋養を児に吸われ続けている為である。この有様でも、昼夜を通して歓喜のうめき声を出し続けているのは相変わらずだ。
 ここまでの経過は予測された通りで、術式は順調に推移している。

「ここまで何も無いと、退屈なんだよねえ……」

 不寝番として観察している桑妮雅《ソニア》は独りごちる。
 後の四名は寝台でぐっすりと眠っていて、起きているのは桑妮雅《ソニア》だけだ。異常が生じたら自分では手を出さず、すぐに次姉を起こす様にと指示されているのだが、見張り以外にやる事がない。

「この二、三日の内だと思うんだけどなあ……」

 蘇生の術式はそろそろ完遂する筈だ。その瞬間に当たれば、直ちに行動を起こさねばならない。気を張っていなければならない大事な時期なのだが、桑妮雅《ソニア》は今一つ緊張感を保てないでいた。

「お茶でも飲もうかな」

 眠気を覚ます為、桑妮雅《ソニア》は緑茶を入れた。
 眠気覚ましとして緑茶は飲み放題、茶菓子も食い放題なのが唯一の楽しみだ。京の落雁が、特に桑妮雅《ソニア》のお気に入りである。この時代では貴重かつ高価なのだが、言仁が差し入れとして歌島へ届けさせた物だ。

「酒は駄目、男もいない。茶と菓子は上物だけど、これだけじゃねえ。私、どこまで頑張れるだろ……」

 桑妮雅《ソニア》が茶に口をつけた時、蚊帳の中から紅く点滅する光が放たれ始めた。

「え、何々?」

 光っているのは、贄人の股間に刺さっている、張型状の法術具だ。
 桑妮雅《ソニア》が慌てて蚊帳に入って贄人の状態を確かめると、昼夜を問わず放っていた、歓喜のうめき声が止まっている。
 それだけでなく、呼吸もしていない。

「……死んでる……」

 桑妮雅《ソニア》は指示を仰ぐべく、次姉の寝ている寝台に駆け寄った。
 次姉は大きな口を開けて涎を垂らし、股を開いて大の字で熟睡している。

「次姉、起きて!」
「はあ? ああ……」

 揺り動かされた次姉は目を開けた物の、その顔は呆けたままだ。
 起きないと見るや、桑妮雅《ソニア》は次姉の頬を何度も平手打ちする。

「何寝ぼけてんの! この馬鹿姉!」
「あぅっ! おぅっ!」

 次姉はうめき声をあげるが、覚醒する事無く、されるがままになっている。

「夜中にどうしたの、騒々しい」

 次姉が目覚めない他の三名が起きてきた。
 桑妮雅《ソニア》は助かったとばかりに

「あ、みんな起きた? 丸太の様子が変わったんだけど、次姉がぼけてて起きない!」
「あんたが苦労を掛けるから、疲れてるんでしょ。放っときなさい。で? どうなったの?」
「息をしてない! 法術具が紅く光ってる!」

 三名は桑妮雅《ソニア》と共に、贄人を診察した。

「これ、死んでるね……」

 見開いたままの瞳をのぞき込み、脈を取った学徒が、贄人の死亡を宣告する。

「でしょう? どうしよう……」
「すぐに腹を切って、児を取り出そう!」

 狼狽える桑妮雅《ソニア》に、診察した学徒は対応を提案する。
 その場の全員が頷き、支度に取りかかろうとしたところで、頭上からそれを止める声が響いた。

「その必要はありません」
「普蘭《プーラン》姉!」

 四名が一斉に叫んで見上げると、宙に浮かんだ八咫鏡に、普蘭《プーラン》の姿が映っている。

「光は、術式が完了した事を示す物です。紅で点滅ならば、術式は無事に完了しています」
「んじゃ、この後どうするの?」
「指示は出してあるのですが…… 聞いていませんか?」

 四名の学徒は、揃って顔を見合わせ、首を横に振った。

「いつも偉そうにしてる癖に、次姉の役立たず! 叩き起こしてやる!」
「ちょっと、待ちなさい!」

 いきり立って蚊帳を飛び出そうとした桑妮雅《ソニア》を、残りの三名が押さえつける。

「全員に処置を周知しておく様、あれに厳命しておかなかった私の手落ちです」
「でもさあ、普蘭《プーラン》姉! 次姉、ぶったるんでるよ!」

 普蘭《プーラン》は自らの責であると告げるが、桑妮雅《ソニア》は頬を膨らませて不満げに言い返した。

「施術の場で揉めるのはおよしなさい。和修吉《ヴァースキ》師であれば、貴女を即座に石化していますよ?」

 続く普蘭《プーラン》の警告に、学徒達は顔を引きつらせた。
 美州での捜索の折、いさかいを起こした人狼兵二名が、和修吉《ヴァースキ》によって石化されてしまった事は学徒達も聞き及んでいる。
 だが、肝心の桑妮雅《ソニア》だけは、全く意に介していない。

「桑妮雅《ソニア》、言いたい事はあるでしょうけれども、不和はなりません。いいですね?」
「解ったよ……」

 普蘭《プーラン》からきつい口調でたしなめられると、桑妮雅《ソニア》は渋々ながらも引き下がった。
 
「んで、普蘭《プーラン》姉。とりあえず、丸太をどうするの?」
「張型を引き抜きなさい。役目を終えた母体は朽ちていきます」
「ほいっと」

 桑妮雅《ソニア》が贄人の女陰から張型を引き抜くと同時に、紅い点滅も消えた。
 そして、贄人の体も、砂の様に崩れ落ちていく。
 腹部の位置に残ったのは、胎内にいた児だ。通常の胎児と同じ様に、身を丸めてうずくまっているが、齢十歳程に成長していた。性別は女だ。
 産声をあげたりはしないが、静かに呼吸をしているのが解る。

「まずは児を診なさい」

 普蘭《プーラン》の指示に従い、先に母体の診察を行ったのと同じ学徒が、童女の全身を掌でなで回して状態を確認した。

「身体については問題ない様です」
「おめでとうございます、普蘭《プーラン》姉!」
「みんな、喜ぶのはまだ早いってば」

 無事に試験が完了したと喜び、拍手する学徒達だが、桑妮雅《ソニア》の発言がそれをさえぎった。

「これ、母体の自我がちゃんと移ってなきゃ意味ないじゃん」
「桑妮雅《ソニア》の言う通りです。まだ、試術は終わっていませんよ」

 桑妮雅《ソニア》の指摘を、普蘭《プーラン》も肯定する。
 盛り上がっていた学徒達は、一転して顔を見合わせた。いずれも、困惑の表情を浮かべている。

「……どうやって確かめましょう、普蘭《プーラン》姉?」

 贄人は、言葉も知恵も持たない白痴である。どうやって確認すればいいのか、学徒達には見当もつかない。
 
「やはり、咎人を使うべきでしたね……」

 学徒の一人が漏らしたつぶやきを、普蘭《プーラン》は聞き逃さなかった。

「貴女は、御夫君様の御意に異を唱えると言うのですね?」

 普蘭《プーラン》とて、咎人の方が試術に都合が良い事は解っていた。だが、〝親の罪に胎の子を巻き込んではならない〟という言仁の慈悲心を受け入れ、白痴の贄人を使う事を承知したのである。
 経緯を知っているにも関わらず、それに不平を漏らした発言に、普蘭《プーラン》は憤りを隠さない。

「御夫君様の御心痛を考えなさい! 事と次第によっては……」
「お、お許しを!」

 普蘭《プーラン》の詰問に、発言した学徒は脅えて平伏する。

「普蘭《プーラン》姉、ちょっと口を滑らせただけなんだから、大目に見てあげてよ。いちいち怒ってたら、きりがないってば」

 桑妮雅《ソニア》の呼びかけに、普蘭《プーラン》は落ち着きを取り戻した。

「そうですね。しかし、次はありませんよ?」
「以後、留意します。申し訳ありません……」

 許しを受け、平伏していた学徒は立ち上がると改めて謝罪する。

「一つ貸しね」

 桑妮雅《ソニア》の耳打ちに、助けられた学徒は顔をしかめながらも小さく頷いた。

「でもさ、普通の人間なら、話してみりゃいい訳だけど。白痴の場合、どうやって自我が移ったか確かめられるかな?」
「贄人の脳に焼き付けてある、基礎の動作が移っているかどうかで解ります」

 贄人は、食事や排泄、運動と言った動作を自分で出来る様に、術式で脳に行動が焼き付けてある。
 母体に施してあった焼き付けが童女に移っていれば、試しの確認が出来るという訳だ。

「あ、そうか。納得した」
「その辺りの手筈は全て、現場を統括するあれに伝えてあったのですが。まだ起きませんか?」
「ちょっと見てくるよ」

 桑妮雅《ソニア》が次姉の寝台を覗くと、いまだ呆けた表情で涎を垂らし、大の字になったままだ。

「いい加減に起きなよ、次姉?」
「んあ? ああ……」

 桑妮雅《ソニア》が呼びかけても、次姉の反応は先程と変わらない。

「起きないねえ…… いくら何でもおかしくない?」
「結界が解けていないか、確かめなさい」

 黄泉返りの放つ思念は、周囲の者を狂わせる。それを防ぐ為、歌島の学徒達は全員、脳を結界で護る法術具を身につけていた。
 普蘭《プーラン》の指示を受けて桑妮雅《ソニア》が確認すると、普蘭《プーラン》の危惧通りに結界が解けていた。

「何で!? 壊れちゃった?」

 戦場で兵が身につける事も考慮した物だ。滅多な事で壊れる様な代物ではない。
 首を傾げる桑妮雅《ソニア》に、他の三名も寄ってくる。
 その内の一人が、床に落ちていた法術具を見つけて拾い上げた。

「ねえ、これ……」

 いかに頑丈な法術具でも、外してしまっては効力を発揮しない。

「次姉、寝ぼけて外しちゃったのかな?」

 桑妮雅《ソニア》の指摘に、その場の全員が頷いた。

「成る程、次回から対策が要りますね。着脱が容易では、同じ事が起こりかねません」
「あの、普蘭《プーラン》姉。まずは次姉を正気に戻すにはどうしたら……」

 淡々と次回の課題を告げる普蘭《プーラン》に、学徒の一人が次姉の処置について指示を仰ぐ。

「母体が朽ちて思念は絶えていますから、既に結界は不要です。それは半日程寝かせておけば、正気を取り戻すでしょう。直らなければ、和修吉《ヴァースキ》師にお願いします」
「大丈夫でしょうか……」
「通常の人間であれば、完全に狂っていたでしょう。神属の貴女達なればこそ、その程度で済んでいます」

 学徒達は、隔離された歌島で試術を行っている理由を、身をもって思い知った。
 神属と言えども油断すれば、この様な醜態をさらす事になるのである。



[37967] 7話「樵に育てられた人狼」その54
Name: トファナ水◆34222f8f ID:f5d2bc63
Date: 2020/02/23 23:56
 学徒達は、生まれ出た女児に命じ、贄人の脳に焼き付けてある一通りの動作をさせ、朽ち果てた母体の記憶が継承された事を確認した。
 これでようやく、試術の成功が確定したのである。

「食事、排便、散歩。きちんと出来たね」

 学徒の一人が、裸体のままで直立不動の女児の頭をなでる。
 学徒の側は満足そうだが、女児の方は全くの無表情だ。
 贄人は、喜怒哀楽の感情を縛られている為である。

「そういや、お腹すいたねえ」
「何、いきなり?」

 桑妮雅《ソニア》の唐突な言葉に、女児の頭をなでていた学徒は怪訝な顔をする。
 
「それ、つぶして食べてもいいかなあ?」
「何考えてんの、あんた!」

 学徒は思わず、女児を抱きしめてかばう。だが、今度は桑妮雅《ソニア》が首をかしげた。

「だって、用済みじゃん。一仕事終わったんだし、活きのいい贄をさばいて、みんなで食べようよ。お肉がぷりぷりで、きっと美味しいよ?」

〝お肉がぷりぷり〟と言う言葉に、他の学徒達も唾を飲み込んだり、耳を動かして反応した。
 補陀落《ポータラカ》の神属にとって、贄人はあくまで、食用の家畜なのである。

「駄目に決まってるでしょう! 普蘭《プーラン》姉が、腑分け ※解剖 にかけるって。聞いてない?」
「なあんだ、がっかり」

 女児をかばった学徒の言葉に、桑妮雅《ソニア》は気の抜けた返事をする。

「後は、それだけど……」

 桑妮雅《ソニア》は、次姉が寝たままの寝台に目をやった。
 昼下がりになっても未だ、目を覚ます様子がない。

「もう、半日経ったよね? 流石にまずいんじゃないかなあ……」
「そうだね。鏡で普蘭《プーラン》姉に言って、迎えに来て貰おうよ」

 学徒の一人が応じて、天井近くに浮いている八咫鏡を使おうとしたその時、天幕の入り口から光が差した。

「呼びましたか?」

 入って来たのは普蘭《プーラン》である。

「大丈夫なの? こっちに来ても」

 言仁の子を宿している普蘭《プーラン》は、無理をしない様に近衛の監視をつけられた上で、屋敷での安静を命じられていた筈である。

「胎の児は安定しています。つい先刻、和修吉《ヴァースキ》師から、禁足を解くお許しが出たばかりです」

「でね、次姉が、まだ起きないんだけど……」
「解りました。診ましょう」

 桑妮雅《ソニア》の言葉に普蘭《プーラン》は頷き、寝台の上に仰向けで眠ったままの次姉を診始めた。
 瞼を開いたまま焦点の定まらない次姉の瞳をのぞき込んで、意識を読み取る。
 高い霊力を要する技法で、普段の普蘭《プーラン》ではとても無理なのだが、胎に宿した言仁の児に力を借りる事で、一時的に可能となっている。
 診察は、四半刻 ※約三十分 に及んだ。

「どうですか?」

 診察を終え、顔が汗まみれになっている普蘭《プーラン》に、学徒の一人が濡れた手ぬぐいを差し出しながら尋ねる。

「身体には問題ない様ですが…… 口惜しいですが、私では及ばないでしょう。和修吉《ヴァースキ》師に御願いせねば」

 顔を拭いた普蘭《プーラン》は、唇を歪めて答えた。
 自分の実力が及ばない事が目の前にあると突きつけられれば、それをどうにかしようと思うのが、彼女に限らず学徒の性分だ。
 だが、配下の体の事だけに、意地を張って助けを求めない訳には行かない。事前に、和修吉《ヴァースキ》から釘を刺されてもいる、

「答志島に連れ帰って、診て貰うんだね?」
「ええ」

 桑妮雅《ソニア》の問いに頷く普蘭《プーラン》だが、それが不本意なのは顔にありありと出ている。

「貴女達も、天幕を引き払って一緒に戻るのですよ。答志島で休養している間に、この歌島では、仮では無い恒久の舎屋を建てる手筈になっています」
「建てるって、どの位かかる訳?」
「和修吉《ヴァースキ》師のお計らいで、多くの職工を廻して頂けました。突貫でやりますから、十日もあれば大丈夫です」
「早いねえ!」

 桑妮雅《ソニア》は感嘆するが、工期の短さは、それだけ今回の試みが重視されている現れである。成功すれば学師への昇格だが、失敗すれば、普蘭《プーラン》の立場が失墜するのは確実だ。
 能天気な桑妮雅《ソニア》を除き、他の学徒達はその重みを感じて不安に囚われてしまった。

「普蘭《プーラン》姉、それは……」
「貴女達も上を目指すなら、もっと堂々となさい。此度の件、銭も資材も惜しみなく投じて良しと、和修吉《ヴァースキ》師からお言葉を得ているのですから」

 学徒の一人が不安を口にしかけたが、普蘭《プーラン》は微笑んでそれをたしなめた。
 学徒達は、普蘭《プーラン》に備わった胆力に感嘆する。

(普蘭《プーラン》姉、お強くなられた……)
(流石は、学師昇進の機会を与えられた方……)

 経験を積み自信にあふれ、それでいて自らの力量でかなわぬ事は手を借りる。
 賎民の身から選ばれたという矜持が強すぎるあまり、その調和が取れない者が人間の学徒には多く、それが弱点となっていた。
 故に、強い障害が立ちはだかり、どうあっても自力で解決出来ないとなると、脆さを露呈して挫折する者が多いのだ。
 普蘭《プーラン》は、見事にそれを克服していた。



 答志島に戻った普蘭《プーラン》達は、長姉達の待つ屋敷へと向かった。
 
「まずは、試術が成って幸いでした。ですが、これの有様は何とも情けない……」

 一行を出迎えた長姉は、戸板に載せられた次姉の姿を見て、深い溜息を漏らす。
 呆けた顔で涎を垂らし、股を開いて眠りこけている有様は、知性の欠片もない。

「結界が解けて、黄泉返りの放つ思念にさらされたのです。残念ながら、私の力量では癒やす事が叶わず、和修吉《ヴァースキ》師に御願いしたのですが。師はどちらに?」
「先程まではいらっしゃったのですが、仮宮から入り用な物を借りて来るとおっしゃって」
「仮宮?」

 高度な法術に使う法術具や薬物の類は、一門の本拠である答志島に一揃いある。
 仮宮にわざわざ出向くならば、弗栗多《ヴリトラ》か言仁の所有する宝物、もしくは換えの効かない人材が必要という事だろう。

「愚妹の失態で、何とも恐れ多い事になってしまいました……」
「責は、試術を統括する私にあります」

 普蘭《プーラン》は嘆く長姉を促し、同行した人狼の学徒達と共に、次姉を屋敷の奥へと運びこませた。



 仮宮では人狼の童が、和修吉《ヴァースキ》の急な訪問を受けていた。
 丸太を使って行った試術の経緯の説明を、童は満足そうに聞き入っている。

「試術がうまく行ったなら、姉ちゃんが蘇る見込みも立ったんですね!」
「是。だが今回、お前を訪ねたのはそれが本題ではない」

 和修吉《ヴァースキ》は続けて、次姉が試術中の事故で、脳を思念に冒され、目覚めぬままである事を告げた。

「次姉様が、その様な事になっているのですか!? 治る見込みはあるんですか?」

 喜んでいた童は一転して、慌てて和修吉《ヴァースキ》に問いただす。

「是。だが、お前の助力が要る。御夫君様の御許しは得た故、これから答志島まで同行して貰うぞ」
「俺、何か出来るんでしょうか?」

 次姉を助ける為というなら是非も無いが、何故、自分が呼ばれるのかが童には解せなかった。答志島には、法術に習熟した学師や学徒が大勢いるのである。

「是。お前でなくてはならぬのだ」
「そうですか…… まあ、それで次姉様を治せるんなら……」

 首を傾げながらも童が承諾すると、教導を受けている侍女が行李を手渡してきた。
 侍女の内でも格が高い一人で、言仁の身の回りを任されている古株の夜叉である。

「当面入り用な物はこちらへ入っております。御夫君様へ恥じぬ様、あちらでも御勤めを立派に果たされませ」
「あ、有り難うございます……」

 手際の良さに、童は舌を巻いた。自分が話を聞く前に、既に手筈は整っていたのだろう。
 身支度を整えた童は、飛龍の姿へ化身した和修吉《ヴァースキ》の背に乗ると、答志島へと飛び立って行った。



[37967] 7話「樵に育てられた人狼」その55
Name: トファナ水◆34222f8f ID:f5d2bc63
Date: 2020/05/10 12:37
 普蘭《プーラン》と人狼の学徒が、答志島の屋敷へ戻ってから一刻程経った頃。
 突如、凄まじい雷鳴が鳴り響くと共に、近場へ稲妻が落ちた。
 だが、誰一人として驚く者はいない。飛空する那伽《ナーガ》が化身を解いて地へ降りる時に伴う現象で、答志島では日常の一部なのである。

「あ、和修吉《ヴァースキ》師が戻って来たねえ」

 茶を飲みながらのんびりとつぶやく桑妮雅《ソニア》に、長姉は頭上に鉄拳を加えた。

「お出迎えしなくては駄目でしょう!」
「ぶったあ! 長姉様も、次姉《つぎねえ》とおんなじだあ! このおこりんぼ!」
「ほら、立ちなさい! 他の皆も行きますよ!」

 長姉は、頭を抱えてわめく桑妮雅《ソニア》の腕を掴み、玄関へと引きずっていく。

(全く。歌島での、あれの苦労が少し解った気がしますよ……)

 長姉は、目上に全く気を遣わない桑妮雅《ソニア》に、次姉が手を焼いていたであろう事を思いやった。



 和修吉《ヴァースキ》と童が降り立ったのは、答志島の東にある港だ。
 
「ここが、答志島ですか……」

 童は周囲を見渡すが、舟は一艘も無い。
 また、港に面して家々が点在しているが、そちらにも人影は全く無い。
 動く物と言えば、空を舞う鳥。後は、巡回の龍牙兵が目立つ位だ。
 一門が本拠を構えている筈の答志島で、この寂しさは何なのだろうか。

「誰もいない様ですが、一門の方々は?」
「一門の主要な舎屋は、本土側に面した、島の東側の港近隣にある。西側に位置するこの村は、これまで無人のままで放置されていた。普蘭《プーラン》の試問を機に、手を入れ始めたばかりだ」
「元々住んでいた人達はどうなりました?」
「九鬼水軍か。敵としてことごとく捕らえ、今は石化して獄中だ。順次、我等の贄として供される事になる」
「ことごとく……」

 敵対する者は禍根を断つ為に鏖殺するという、皇国の非情な指針は童も承知だ。だが、未だに割り切れていない面がある。

「心配せずとも、幼少の者は御夫君様の慈悲として、〝還元〟で赤児に戻して記憶を消し、菅島で育て直す」
「阿瑪拉《アマラ》師のお手元ですね。そういう事であれば安心です」

 安堵した様子の童に、和修吉《ヴァースキ》も思わず心が和む。

「さて、あの屋敷だ」

 和修吉《ヴァースキ》が指さしたのは、小高い位置にある屋敷だ。そこそこ広い他は、堅牢ではあるが、飾り気のない質素な作りである。
 門の前では、長姉以下の人狼の学徒達が出迎えに出ていた。

「お帰りなさいませ、和修吉《ヴァースキ》師」
「うむ」
 
 学徒達の唱和に、和修吉《ヴァースキ》は鷹揚に頷く。

「今度はこちらで御世話になります」
「我等人狼の胤《たね》たる同胞《はらから》よ。ようこそ、答志島へ」

 童の挨拶に対しても、人狼達は一斉に唱和する。
 また、和修吉《ヴァースキ》が童を連れて来た事で、人狼の学徒達は一様に得心した。次姉の回復の為に行う施術がどの様な物か、察しがついたのだ。
 ただ一人、桑妮雅《ソニア》だけが、不思議そうに首を傾げていた。

「あれ? 君、何で一緒に来たの?」
「何かよく解らないのですが、次姉様の回復に俺の手がいるという事で」
「ふうん。そっか」

 疑問を深く掘り下げない桑妮雅《ソニア》に、他の学徒は呆れ顔だ。
 自ら推察が出来なかったのは仕方ないにせよ、解らない事をそのままにする様では、一門の学徒として問題である。

「ところで、普蘭《プーラン》はどうした?」
「申し訳ございません、和修吉《ヴァースキ》師。奥の間で、寝かせたあれについております」

 出迎えの中に普蘭《プーラン》がいない事を訝しんだ和修吉《ヴァースキ》に、長姉が釈明する。本来ならば、場を統括する普蘭《プーラン》が出迎えるのが礼儀なのだが、状況的にやむを得ない。

「ならば謝罪に及ばぬ。では、行こうか」

 和修吉《ヴァースキ》に伴われ、奥の間に入った童が見た物は、敷き布団の上に、全裸で大の字になっている次姉だった。
 呆けた顔で口から涎を垂らし、知性の欠片も感じられない。
 枕元に座る普蘭《プーラン》は身じろぎもせず、次姉の様子を観察している。
 集中しているらしく、二人が入って来た事にも気付いていない。

「普蘭《プーラン》殿、しばらくぶりです」

 童が声を掛けると、普蘭《プーラン》は驚いた様に顔を向けた。

「今回はこれを使う」

 和修吉《ヴァースキ》の一言で、普蘭《プーラン》は、その目論見を理解した。

「私も考えたのですが…… 宜しいのですか? それは人狼の貴重な胤。危険にさらせば、阿瑪拉《アマラ》師が何と仰るか」

 誇り高く強気そうな人だと思っていた普蘭《プーラン》がためらいを示した事で、自分は一体何をさせられるのだろうと、童は思わず身を固くした。

「問題ない。これは充分に鍛錬を積んでおる故、間違いなく耐えられよう」
「鍛錬? 俺、何かしてましたっけ?」

 和修吉《ヴァースキ》の自信ありげな言葉に、身に覚えの無い童は怪訝な顔をする。

「宮中で御夫君様へお仕えする様になって以後、お前は何をしていたか?」
「見習いとして勤めながら、勉学に励んでおりました」
「それだけではなかろう? 一人で寝た夜はあったか?」
「それは、その……」

 和修吉《ヴァースキ》の問いに、童は口ごもる。
 仮宮では毎晩の様に、宮中に詰める女官や近衛が夜陰に紛れ、童の床にまぐわいを求めて来たのだ。
 中には、皇族たる那伽《ナーガ》や阿修羅《アスラ》までもいた。この二種族は特に激しく牡の身を貪るので、最初の内は、まぐわいの度に童は憔悴しきっていた。

「すんません、俺、元服前の見習いの身で…… 仮宮は、男が乏しいもんで……」

 童の釈明に、和修吉《ヴァースキ》は苦笑して手を横に振った。

「咎めているのではない。そも、あの夜這いは我が差し向けさせた」
「ええ!?」
「前に、主上の夜伽が務まる様、もっと鍛錬しておく様に申しつけた筈。並の神属では、間違いなく絶命するであろうからな」

 童は思い出した。以前、和修吉《ヴァースキ》と交わりを持った時に言い渡されていたのだが、戯れ言の類としてすっかり忘れていたのである。

「そういう事でしたか…… 俺如きが妙にもてはやされて、変と思ったんです」
「御夫君様の直近でお仕えする誉を賜った身が〝俺如き〟とは何事ですか。自らを貶める事は、主君を貶めるに等しいと知りなさい」
「は、はい……」

 童がこぼした言葉を、普蘭《プーラン》が聞きとがめる。
 責められた童は、頭を下げる他ない。

「以後、留意したまえ。それはそれとして、今のお前は、女の求めにいくらでも応じられる体となっている。腎水は幾度放っても尽きず、逸物も萎えぬであろう?」
「そう言えば……」

 和修吉《ヴァースキ》の指摘通り、仮宮に居を移し侍従見習として勤め始めてから、童の躯、特に牡としての機能はたくましく変わり始めていた。
 特に陽根は太く節くれ立ち、禍々しくそそり立つ異形に変わり果てている。
 一晩で放つ腎水の量は言仁には全く及ばないが、それでも二合 ※三百六十ml は下らない。
 育ち盛りなのだし、人狼とはこんな物なのだろうと思っていた童は、それが鍛錬の結果だとは思っていなかったのである。

「それで、何をすれば……」
「解らぬか? これと交わり魂を通わせ、淫夢に囚われている心を引き戻せ」
「そんな事でええんですか?」

 何をさせられるかと覚悟していたのが、童は一気に拍子抜けしてしまった。
 何しろ、仮宮に上がるまで、次姉を含む人狼の学徒とは、子作りとして毎日の様にまぐわっていたのだ。彼にとっては日常の戯れである。

「甘く見てはならぬ。これは、黄泉返りの思念で狂わされている。並の牡なら、陽根を女陰に差し入れた刹那、自らも共に狂ってしまうのだ」

 交われば狂うと聞き、童は次姉に怖々と目をやった。

「お、俺なら、大丈夫なんですね?」
「今のお前なら滅多な事はあるまいが、絶対とは言えぬ。気を抜けば危ういやも知れぬな」
「そ、そうですか……」

 声をうわずらせた童に、すかさず普蘭《プーラン》が嘲笑を浴びせる。

「まあ、侍従見習殿は何と意気地のない事。御夫君様に恥ずかしくないのですか?」
「だ、大丈夫です!」

 挑発に乗った童に、普蘭《プーラン》は内心でほくそ笑みながらも、顔には出さずに表情を引き締めた。

「その意気や良し。なれど、より万全を期したいと思います」
「ほう? 何を目論む?」

 和修吉《ヴァースキ》は興味深そうに問う。普蘭《プーラン》が童に対し、試問にかこつけて辛辣な何かを仕掛けるのではないかと察したのだ。

「私の試問であります故に、委細はお任せを」
「是。まあ、良かろう」

 何を考えているのか話させる事も出来たが、和修吉《ヴァースキ》はあえて強く問わずに許しを与えた。
 和国の平民として育った童に、普蘭《プーラン》が未だ含む物を持つ事は承知している。

「では、侍従見習殿。これの解呪は、夕餉の後に行います。私は手筈がありますので、後程に。それまでは、どうかおくつろぎ下さいませ」

 普蘭《プーラン》の微笑に、童は嫌な予感を覚えて身震いした。


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

SS-BBS SCRIPT for CONTRIBUTION --- Scratched by MAI
2.2861499786377