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[35772] 【習作】処女はお姉さまに恋してる 季節外れの迷子(フェアリー)
Name: パオパオ◆a94e6367 ID:ac1e60c3
Date: 2012/11/13 22:16
初めまして、パオパオと申します。

拙作は、以前にじファン様に投稿させて頂いていたものです。
まだ小説に書き慣れていなかった頃に書き始めたため、原作からの会話引用が多く存在しています。
作中で七月以降は可能な限りオリジナルになるよう心がけております。

※本作は女性オリ主、ガールズラブなどの描写が存在します。ご注意ください。
※感想、ご指摘など宜しくお願いいたします。
※本作はハーメルン様にも投稿させて頂いております。


更新履歴
12/11/08 序話・第一話投稿
12/11/09 第二話、第三話投稿。
12/11/11 第四話、第五話、第六話投稿。
12/11/12 第七話、第八話投稿。
12/11/13 第九話、第十話投稿。





後書き的なもの。
12/11/13
ストック完全放出。次回からは不定期更新になります。
それにしても、久々におとボク2をプレイして、自分の中のキャラ像との違いに悩まされました。
少しづつ、原作っぽいキャラにしていければな、と思います。
……ケイリは無理。何考えてるのか解りません。


















 私、連城梓(れんじょうあずさ)の日常が日常でなくなったのは、一体何が原因だったんだろう。考えても仕方がないことだが、今の私はそれを考えていた。

 母親の再婚、父親の死亡、連城の家の凋落。様々な要因が思い浮かぶけれど、どれも私にどうにか出来ることではなかった。
 母が新しい幸せを求めたのは素直に嬉しかった。それまで亡き父への想いに捕らわれていた母の姿は、見ていて辛かったから。
 父親の死は、運が悪かったとしか私には云えない。アジアの国のどこかに出張していた時に起きた、反政府デモに巻き込まれてしまったと聞いているが、運がない以外にどう云えるだろうか。
 母方の実家である連城の家。かつては国内でトップクラスの宿泊産業を担っていたという我が家は、私が生まれる直前に幹部達の汚職が次々に発覚して一気に没落した。だから私が知っている連城の家とは、大きなホテルをいくつも経営する、借金まみれの一族という認識でしかない。

 別に現状に不満がある訳じゃない。
 母は女手一つで私を育ててくれている。所謂お嬢様だった母が、慣れない家事を家政婦と見間違うまでに熟練する位には、母に迷惑を掛けてしまっている。
 母から寝物語で聞かされた父の話は、愛していたのだということが子供の時分だった私にも如実に伝わってきた。頬を染めて語らう母を見て、父に軽い嫉妬を覚えてしまう程には。
 連城の家には私の生活費を捻出して貰っているため、感謝の念が堪えることはない。血とお金の関係しかないが、それでも私があの家のお世話になっていることに変わりはないのだ。

 そう。
 だからたとえ、私が突然学校を辞めることになったとしても、私に云えることは何一つないのだ。住み慣れた土地を離れることを勝手に決められても、それが覆されることはあり得ないのだ。
 けれど、やはり私が思うに、せめて事前に一言だけでも、私に云っておいて欲しかったと思う。
 来週から別の学校に行くことになっていると、義父が食事の席で思いついたように云うのは、まだ十六歳の私にはキツいものがあるのだから。
 連城の家がオーナーを勤める高級レストランで、私がステーキをフォークで刺し、あんぐりと大きく口を開けたまま固まってしまったのは、仕方のないことだと思う。
 その時の私は、端から見ればとても間抜けに見えただろう。淑女としてではなく、年頃の少女としてかなり致命的な姿を曝していた私は。

 ああ、主よ。貴方は何故私をお見捨てになったのですか(エリ・エリ・レマ・サバクタニ)?

 ……ちなみに、冷めてしまったステーキも十分美味しかったとここに追記しておく。



[35772] 一話 六月上旬、転校前日までの経緯。
Name: パオパオ◆a94e6367 ID:ac1e60c3
Date: 2012/11/08 23:13
 六月。旧暦――太陰太陽暦においては水無月とも呼称される、日本人なら云わずと知れた梅雨の月。
 私が此処、聖應女学院高等部に入学することになったのは、その初めのことだった。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 私がいきなり転校を告げられた日から一週間。
 あの日、帰宅してからの義父との見苦しいやりとりは、疾うに記憶から抹消しているので説明は省く。義父を問い詰めて知ることが出来た事情なんて微々たるものだけど。
 簡単に云えば、義父の転勤が事の発端らしい。連城のホテル会社で代表取締役補佐をしている義父は、仕事柄か出張が多い。まだお爺さまが壮健な今の内に、将来のために経験を積んでいるのだ。

 いつもは単身赴任で済ませている義父が今回に限って私を連れて行こうとしたのは、赴任先の近くに有名な女学院があるからだ。
 聖應女学院。明治十九年に創建された、幼等部から大学院までの一貫校。しかもそこに通うのは、所謂お嬢さまと呼ばれる人種の人々だ。
 私も一応はお嬢さまと呼ばれるような立場ではあるが、如何せん連城の家は今では小金持ちレベルだ。借金があることを考えると、小金持ちでも怪しいかもしれないが。
 連城の家を再興するための看板、それが私だ。けれど私は連城の跡取りにはなれない。連城の家は未だに男尊女卑が徹底しているので、どこぞの家から婿を迎えて、その男に家を継がせるのだろう。
 しかしながら、今の私はその看板としても不相応なのだ。幼い頃から中流階級の子女と付き合ってきた私は、とても奔放に育ってきた。暇があれば外に出て遊び、習い事は長続きした例(ためし)が無い。
 私のことを義父が苦々しく思っているのは知っているが、母に止められないので自分を変えるつもりは無かった。家族になって日の浅い義父なんかに、私の人生に口出しされるつもりは無かった。
 だからこそ、義父は私の転校を決めたのだろう。私に人並みの落ち着きを付けさせるために、名高いお嬢さま学校である聖應女学院への転入を決めていた。迷惑にも程があるが、既に必要な書類はどちらの学校にも受理されてしまっているという。私は諦めるしか無かった。

 翌日の朝、担任から私が転校する旨が伝えられ、クラスは一時騒然となった。友人達からどうして云ってくれなかったのかと詰め寄られたが、私も転校を知ったのは昨日だと答えると、気の毒そうな顔で一歩引かれた。
 友人や部活動の先輩後輩に別れの挨拶をしたり、転校先の無駄に豪華なパンフレットを読んだり、引っ越しの準備をしている内に、慌ただしく一週間は過ぎていった。

 そして今、私はこの学院の校門の前に立っている。
 日曜日ではあるが、敷地内から人の声が聞こえてくる。運動系の部活が精を出しているのだろう。疼く体を抑えながら、迎えの人を待っていた。
 事前に聞いた話では、高等部の生徒会長が私の迎えに来てくれるらしい。態々学校に来て貰うのも、と初めは断ったのだが、今年の生徒会長は寮生だから気にしなくて良いと云われてしまった。

 腕時計を確認する。予定の時刻の十分前だった。気が逸って三十分前に着いてしまったので暇を持て余していた。

「あ……あれ、かな」

 一人の女生徒が、こちらに向かってパタパタと駆けてくる。頭の後ろで縛られた髪が激しく左右に揺れ、急かしてしまっていることを申し訳なく思う。
 肩が膨らんだ、ロングスリーブの白い制服に身を包む、小動物のような印象を抱かせる女生徒だった。走っていたせいか、若干息が切れ気味だったけど。

「こ、こんにちは。えっと、貴女がこの度聖應女学院に転入される、連城梓さんで間違いありませんか?」

「多分、その連城梓です。あの、貴女が生徒会長さんですか?」

「ああ、自己紹介が遅れてごめんなさい。生徒会長をやっています、三年の皆瀬初音です。宜しくお願いしますね」

 一つ年上の生徒会長、という割には可愛らしい感じがする。私の通ってたところの前の会長の姿と比べると、うん、やっぱり可愛い。
 それにしてもこの人、正に美少女という形容詞が相応しいと感じる人だ。
 栗色のくりくりとした瞳に、後ろで纏められたポニーテールのような髪。ほんわかとした雰囲気を放ち、見ているだけで癒される感じがする。
 ……凄いなお嬢さま学校。こんな人がバリバリ仕事をする姿とか思い浮かばないって。

「こちらこそ、宜しくお願いします。えと、皆瀬先輩、で良いんですか?」

 そう云った途端、生徒会長さんは少し困ったような表情を浮かべた。あれ、何か失敗したのか?

「私、何か変なことを云ってしまいましたか?」

「いえ、そんなことはありませんよ」

 そう云って生徒会長さんは朗らかに笑った。

「梓さんもこれから知っていくと思いますが、この学校では先輩のことをお姉さまと呼ぶ慣わしなんですよ。ですから私のことは、初音お姉さまと呼んでくださいね」

 お姉さま、って。突っ込みそうになる自分を必死に律し、不審に思われないよう笑顔を取り繕った。

「は、はあ、そうなんですか。なんと云いますか、お嬢さま学校は凄いですね」

「そうでしょうか? 梓さんもすぐに慣れると思いますよ。千早ちゃんも早かったですから」

 慣れませんよ、そんなもの。慣れてたまりますか。というか、その新しい人は誰ですか。

「千早……さんですか? その方も三年生なんですか?」

「はい! 千早ちゃんも私と同じ三年生です。今年度の初めからこの学校に来たんですけど、すぐにみんなの人気者になったんですよ!」

 ずい、と一歩踏み出してきた生徒会長さん……って近い、顔が近いです!ええと、何か違う話題を……。

「そ、そういえば、此処って一貫校ですよね。私やその、千早……お姉さま、みたいな、外部編入の人って少ないんじゃないですか?」

「そうですねぇ。幼等部や初等部から順に上がってくる人は多いのは確かですけど、それでも編入してくる人も少なくは無いですよ。薫子ちゃんもそうだし、あと優雨ちゃんもそうなのかな?」

 また知らない人の名前が出てきた。多分生徒会長さんの友達なんだろうが、顔も解らない相手のことを覚えておくのは無理ですって。きっと三年生だろうから、そんなに私と関わることも無いだろうし。

「ああ、話し込んじゃいましたね。それじゃあ梓さん、そろそろ学園長室に行きましょう」

「あ、はい。解りました」

 背を向けて歩き出した生徒会長に追従するように、私は一歩足を踏み出した。
 これから私も、この聖應女学院の一員となる。そのことを心に刻むように、力強い一歩を。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 コン、コン。

「生徒会長の皆瀬初音です。転入生の連城梓さんをお連れしました」

「どうぞ、入って頂戴」

「失礼します」

「し、失礼します」

 生徒会長さんが開けてくれた扉を潜り、学園長室に入った。開けた部屋の中にいたのは、やり手の女社長といった雰囲気の女性だった。

「ご苦労さま。皆瀬さん、休日なのに時間を使わせちゃって悪かったわね。ありがとう、もう戻って良いわよ」

「いえ、私も気になっていましたから。それでは失礼します」

「ありがとうございました、初音……お姉さま」

「うん、梓さんもまたね」

 そう云うと生徒会長さんは退出した。これでこの場には、私と学園長だという女性だけ……あれ?
 事前に貰ったパンフレットに載っていた学園長、お婆さんだったような気がするんだけど。じゃあこの人って……誰?

「さて、連城梓さん。何か気になることもあるみたいだし、お互い自己紹介から始めましょうか」

「へ? あ、はい。えっと、お城を連ねる梓弓と書いて、連城梓です。一九九一年五月十五日生まれの十七歳です。趣味はのんびりすることと、力尽きるまで運動することです。好きな食べ物は冷や奴です」

「……なんていうか貴女、意外に個性的な娘(こ)なのね。少し驚いたわ。私の前でそれだけ流暢にしゃべれるなら、クラスでも浮いたりはしなさそう……いや、どうかしらね」

 学園長(?)は苦笑しながら席を立つと、態度を真剣なものを変えて話し始めた。

「私は学園長代理の梶浦緋紗子です。本来なら此処に座っているべき美倉学院長は、昨年より入院加療中で未だ戻られる目処は立っていません。それと、高等部三年C組の担任も務めています。それから、そうね、好きなお菓子は飴です。勿論、rainじゃなくてcandyの方ね。これくらいかしら」

 ネイティブっぽい発音で英単語を発音するのもどうなんだろう。解りやすいのに解りにくいと云うか……。
 というか、こんな若そうな先生が学園長代理? しかも教師と掛け持ちで? やっぱりこの女性(ひと)、見た目通りのやり手の女史って感じだ。

「連城梓さん。貴女も明日からこの聖應女学院の一員となります。そうなる以上、私達は貴女もこの学院の淑女として相応しい振る舞いをしてくれることを望みます」

「……はい!」

「良い返事ですね。貴女のクラスは二年C組になります。明日の午前八時前には、職員室の方に来て下さい。そこでいくつか必要な連絡をします。以上です」

「解りました。お手数をお掛けしました。失礼します」

 頭を下げ、部屋の扉を開けた。学院長代理は笑顔のまま、私を見送った。
 ガチャリ、と音を立てて扉が閉まる。中に聞こえないよう、小さく息を吐いた。

「あー、緊張した。此処の空気、ホント今までと違うなー。肩凝りそう」

 小さく肩を回しながら、学院長室の前を離れる。
 やっぱり社会的地位のある人との会話ってのは疲れる。もっと気楽に生きていたい。
 誰も見ていないの良いことに、ぐっと伸びをする。強張っていた体が解れ、何とも云えない快感に頬を緩める。
 そんな姿を、通り掛かった女生徒に見られた。

「んー、良い気持ち……あ」

「……」

 沈黙が場を支配する。そそくさと体裁を整え、何事も無かったかのように振る舞う。女生徒の無言の視線が辛い。
 良く見ると、この女生徒も美少女だった。背は低めで、ヘッドドレスを被っている、黒髪ショートの人形のような可愛らしい美少女だ。
 この学院には美少女しかいないのか、と密かに慄いていると、黒髪ショートの美少女はその場で一礼した。

「……ご機嫌よう」

「え、あ、ご、ご機嫌よう……?」

 女生徒はそれだけ云って去っていった。目を瞬かせる私は、独りその場に残された。

「ご機嫌よう……か。現実で聞ける日が来るとは思わなかったな……」

 そんな場違いなことを口にしながら、私も帰宅の途に就いた。

 校舎から出るのに使った時間が、帰るまでの大部分を占めていたということは、云うまでもない。あんな大きくて複雑な構造の建物、私が迷わない訳が無いだろう。
 尤も、職員室の場所が確認出来たので、一概に悪いこととも云えなかった。これで明日は大丈夫、だと信じたい。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 私の今の住処には、母と二人で連城のホテルの一室を使わせて貰っている。一室と云っても、そこは一応高級ホテル。安いアパートなんかより大分広かったりする。
 3LDKな上、風呂、トイレ完備。本気でマンションと変わりない。しかも食事の用意を始めとして、掃除や洗濯といった家事の一切を従業員がやってくれるので、プチセレブな感覚を味わっていた。
 広いとは云っても、今まで住んでいた連城の家とは、比べようのない差が存在している。一戸建てとホテルの一室を比べる方が間違っていると云えば、その通りなのだけど。

 無駄に時間を掛けて家に帰ってきた私が何をしているのか。端的に云えば、明日の準備だ。
 物的なものでは無い。持ち物の用意なんかは五分で済ませてある。届いていた教科書類を鞄に詰めるだけの作業に、大した時間は掛からない。
 では、何をやっているのか。それは。

「どんな方向性で行くべきか……清楚系? ううん、違うよなあ。あっちは素でお嬢さまやってるんだから、私が演じても滑稽なだけだろうし。と云うか、私が清楚とかただのネタでしょ」

 明日の自己紹介をどうするか、その思索中なのだ。

 第一印象というものは意外に重要である。前の学校で最初に付いてしまった『変人』という称号は終ぞ無くならなかった。今回は同じ轍(てつ)を踏まないように、自己紹介には万全を期さなければならないのだ。
 まあ、折角転校したんだから、自分を変えようという気があるのも否定出来ない。けれど、私という十七年間培ってきた自己は早々変えられないことも解っている。表層だけ取り繕ってみても、私という本質は変わらないし、変えられない。

 ともあれ、明日の自己紹介をどういう方向性でするか位は決めておかなければならない。私と違って生粋のお嬢さま達相手に、いつもの軽いノリでいく訳にもいかないのだ。
 うんうん唸っていると、母が食事の準備が出来たと声を掛けてきた。なんだかんだ云って長く家事をやってきた母は、料理をするのが趣味になったらしい。だからホテルの提供する食事ではなく、三食全てで母の手作り料理が食べられるのだ。偶にはホテルの料理も食べるけど。
 私は即座に返事して、ダイニングに向かった。さっきまで考えていたことを、思考の片隅に投げ捨てて。


 夕食後、風呂から出ると程無くして眠りに就いた。何か考えなければならないことがある気がしたが、襲ってくる睡魔には勝てなかった。



[35772] 二話 六月上旬、転校日のあれこれ。
Name: パオパオ◆a94e6367 ID:ac1e60c3
Date: 2012/11/09 22:02
「突然ですが、今、私達のクラスの前に転校生が来ています」

 二年C組の扉の向こうで、担任の先生がクラスメイト達に私の存在を伝えていた。緊張しながら待つ私の耳に、女生徒達のざわめきが聞こえてきた。
 お嬢さまと云ってもやはり騒ぐ時は騒ぐらしい。頭のどこかでお嬢さまとは自分とは違う種類の人間なんじゃないかと考えていた私には、少し落ち着ける要素だった。
 大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出す。何度か繰り返し、緊張を緩和しようとする。その最中、無情にも担任の声が掛けられた。

「静かにしてください! ……コホン。それでは、入って貰いましょう。連城さん、入って下さい」

「は、はひ!」

 緊張のあまり裏返ってしまった声に、頬が赤くなるのを自覚する。逃げてしまいたいという欲求が高まるが、当然そんなことは出来る筈がない。
 息を吸い、体の中に留める。心を決め、扉を開ける。
 予想よりも大きな音を立てながら扉が開き、途端に四十対の視線が突き刺さる。喉がカラカラに渇き、上手く呼吸が出来なくなる。

 ――落ち着け、私。何をそんなに緊張する必要がある?私を見ているのは、高々四十人の私と同じ人間だ。お嬢さまだからと云って、気負う必要なんて無いんだ。
 これまでだって何度も人前に出てしゃべったことはあったじゃないか。その時と違って今向けられているのは、悪意なんて欠片も感じ無い、私に対する興味本位の視線なのだ。そんなものに怯えるような人間か?そんな訳がないだろうよ。

 ……時間にして、数秒と云ったところだろうか?
 自己暗示を終え、いつの間にか閉じてしまっていた目を開ける。視界に映るのは、四十人の心配そうな表情。
 息を吸う。吐き出す。足を一歩踏み出し、教室の境界を無造作に越える。こんな簡単なことも出来なくなっていた直前の自分が信じられない。
 顔を上げ、胸を張る。おどおどとしていた印象を払拭するように、声を張り上げて云った。

「皆さま、初めまして! 不肖、連城梓、本日より聖應女学院にて皆さまと共に学ばせて頂きます! 宜しくお願いします!」

 云い切った。下げた頭のせいで、周りの様子が解らない。
 失敗の二文字が思考の片隅を過(よぎ)った瞬間、パチ、と手が叩かれた。
 パチ、パチパチ、パチパチパチパチ、パチパチパチパチパチパチパチパチパチパチ!
 教室の至るところから拍手の音が聞こえてくる。顔を上げてみると、皆が優しい表情で私を見ていた。

「はい、皆さん、拍手はそれくらいにして下さいね。連城さんも緊張していたみたいだけど、良く出来ました。あそこの空いている席が、この一年間の貴女の席になるわ。もうすぐ授業が始まるから、着席して頂戴ね」

「はい、解りました」

 荷物を持って、教室の隅にある無人の席へ向かう。私の表情は、随分晴れやかだったことだろう。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 授業が始まり緊張感も若干収まってきた頃、私はクラスの中を見回していた。流石お嬢さまだとでも云えば良いのか、髪を染めたりしている人はあまり居ないようだった。
 そう。あまり、である。つまり少しは居るのだ。
 例えば私の前に座っている金髪さんだったり、私とは逆の端っこに座っている茶髪さんだったり。
 あ、今茶髪さんと目が合った。って、碧眼? 顔つきも違うようだし、茶髪さんは外人さんなのか。
 考えてみれば、お嬢さまなんだから髪を染めるなんて親に許される訳無いか。そもそも、非行なんて考えもしないのだろう。
 ……今の私、お嬢さまというものを偶像化し過ぎている気がするな。少しは自重した方が良いかもしれない。

 キーンコーンカーンコーン。

 ……あ、チャイム鳴った。まずいな、先生の話全然聞いてないや。まあ聞いてても理解出来なかったんだけどさ。
 いや、さっきの古典の授業が、さ。いきなり源氏物語の桐壺の解説されても意味が解らないんですよ。私が最近やってたのって、そもそも源氏物語じゃなくて方丈記だったから。
 古典作品の内容を途中から説明されても、どうしろって云うのか。これが数学ならまだ……いや、もしこの学校の方が進んでたら、私は詰むしか無いな。

「今日は皆さん、あまり授業に集中出来ていませんでしたね。転入生が来たばかりですから、無理も無いと思いますけど。週末にはテストですから、気を引き締めてくださいね。委員長、号令を」

「起立、礼」

 ……テスト、だって? 一コマ目の授業で絶望を覚えていた私に追い打ちを掛ける気か? 先生達にそんな気はないんだろうけど……いや、ね。
 古典だけでこれなんだ。他にも社会科目……流石に、公民であることは変わらないよね? 後は理系科目も心配だ。理系科目はそもそも理解出来てないんだけどさ。
 それにしても、テスト、ねぇ。私、テストの傾向を読んだりする以前の問題で、授業の内容すら理解出来そうにないんだけど、どうしようね。あは、あはははは。

「えっと、連城さん、でしたよね。初めまして。あの、大丈夫ですか?」

 机に突っ伏したまま声を殺して自嘲していた私に、前の席から声が掛けられた。私の前に座っていたのは、ああ、金髪さんだったっけ。
 顔を上げて、こちらを見ている金髪さんの顔を観察する。やっぱり美少女だよ、この人も。
 太陽の光を浴びて輝く黄金の髪に、意思の強さを窺わせるぱっちり開いたブルーアイズ。夏の薄い制服だからこそはっきり見て取れる、すらりと伸びた細い手足。うん、文句無しに美少女だ。
 私がじっと見詰めていたことに気付いたのか、金髪さんは少しむっとしたような表情を浮かべた。

「あっと、ごめんなさい。初めまして、連城梓です。それで、その、大丈夫ってどういうことですか?ええっと……」

「ああ、自己紹介がまだですね。私、冷泉(れいぜい)淡雪(あわゆき)と申します。それでですね、先程、連城さんが小声で何か仰っていたようでしたから、気になってしまいまして」

 うわあ、凄い名前だ。名字の漢字がまるで思い付かない。そもそも、金髪さんって外人さんじゃなかったの? 凄く日本人らしい名前だし、もしかして日本人なのかな。
 と云うか、私の笑い声が聞かれてたのか。うーん、どうしようかな。このままじゃテストで赤点必至だし、金髪さんに頼ってみようか?

「恥ずかしい話なのですが、授業に全くついていけなくてですね……このままでは、テストで赤点を取ってしまうのではないかと危惧していまして」

 金髪さんは少し考えた後、納得したように頷いた。

「……? ああ、なるほど。連城さんの学校とは授業の内容も違うでしょうからね。古典なんて、教科書の中でもやらない話も多いですし。そんな状態でいきなりテストなんて、何と云うか……ご愁傷様です?」

「その通りですけど、見捨てないで欲しいかもです……」

 あはは、と苦笑する金髪さん。私にとっては笑い事ではなくとも、貴女にとっては笑い事ですよね。当然、解ってましたとも。
 だらしなくも机に突っ伏した私のことを不憫に思ったのか、金髪さんはありがたい申し出をしてきた。

「宜しければ、私のノートでも貸しましょうか? 字は読み辛いかもしれませんけ――」

「是非に!」

「ひゃっ!?」

 ガバッと起き上がった私に驚いて、金髪さん――いや、冷泉さんが可愛い悲鳴を上げた。こう、グッとくるものがあったが、今は努めて気にしないようにする。
 感謝の意が伝わるように、少し仰け反った冷泉さんの手を取って、机から体を乗り出して礼を云う。

「ありがとうございます、冷泉さん! これで私もきっと大丈夫です!」

 目を輝かせる勢いの私を見て、冷泉さんは軽く引いているようだった。いや、いきなり手を取られたからかもしれないが。

「そ、そうですか。あの、連城さん、出来ればその手を放して欲しいかなーなんて」

「っと、すみません。いきなり慣れ慣れしかったですね。以後、気を付けるようにします」

 困った様子の冷泉さんを見て、慌てて謝罪の言葉を口にする。昔から、調子に乗ると人に触れたがるのは私の悪い癖だ。改めるつもりもないけれど。

「や、別にそういう意味じゃないんですけど」

「え?  それじゃあ、どうい――」

 キーンコーンカーンコーン。

「……もう先生が来ているので、授業の準備をしないといけなかったんですけど。少し、云うのが遅かったですね」

「それは、大変失礼致しました……」

 すぐ側でこちらを見下ろしている教師に、二人揃って頭を下げた。持っていた名簿で順に軽く頭を叩かれて、冷泉さんに対して申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
 教師が教卓の前に戻り、二コマ目の授業が始まった。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 四コマ目の数学が無事に終わり、昼休みになった。教師が教室を出ていくのを見送って、息を吐いて机の上に体を投げ出した。

「あー、疲れたー。何なのこの気疲れする授業。息が詰まるってばー」

「連城さん、言葉遣いが乱暴ですよ」

「あっ……とと。失礼しました、冷泉さん」

 冷泉さんに窘められる。慌てて姿勢を直し、着衣の乱れを整える。一応、周囲の目を気にして取り繕ってみたが、どうにか誤魔化せたようだった。

「やっぱり、慣れない内はすぐに敬語じゃ無くなりますね」

「あはは。まあ、慣れない内は大変だと思いますけど、慣れてしまえば気にならならないものですよ」

「そんなもの、ですかねぇ……」

 ぐるりと周りを見回す。教室内には、鞄から取り出した弁当箱を突いている生徒が、全体の半分程残っていた。
 ……教室を出ていった生徒達はどこに行ったのだろうか。気になったので訊ねてみた。

「あの、皆さまはどちらへ行かれたのですか?」

「うん? ああ、学食じゃないでしょうか」

「学食?」

 そう云えば、貰ったパンフレットにあるって書いてあったかも……。

「美味しいんですかね?」

「そうですねえ。他のところがどれくらいかは知りませんが、ここの学食はかなり美味しいと思いますよ。料理の種類も豊富ですし、値段もリーズナブルですから」

「なるほど……」

 一度、行ってみるのも良いかもしれない。とりあえず今日は母特製のお弁当があるので、また次の機会にしよう。

「今日は私も学食に行くつもりなんですけど、連城さんもよければ一緒にどうですか?」

「生憎、今日はお弁当がありますので……それに、こんな時間だと席も空いてないでしょうから」

 冷泉さんは私と話していて出遅れてしまったのだ。昼休みも五分が過ぎ、そろそろ席もなくなっている頃合いだろう。

「席は間違いなく余っていると思いますよ? 何せ、全校生徒を一度に収容出来るくらいの広さがあるらしいですから」

「はい!? それはまた、広いですね……」

 全校生徒、って何人だ? 少なくとも、百や二百じゃきかないだろうけど。一体どれだけ広いんだ……?
 ともかく、それなら折角のお誘いを蹴る必要は無い。独り寂しく食事を取らないで済むのはありがたいし。

「そう云うことなら、私もお供させて貰います。あ、お弁当の持ち込みは大丈夫ですよね?」

「勿論。さあ、行きましょうか」

 そろそろ行かないと食事の時間が無くなりそうだ。同時に席を立った私達に、横から声が掛けられた。

「やあ、貴女達も学食に行くのかい? 良ければ私も混ぜてくれないかな」

 声を掛けてきたのは、例の茶髪さんだった。どうしますか、と私が視線を送ると、冷泉さんは先に答えた。

「私は構わないです。連城さんは?」

「勿論大丈夫です、けど。ええと、貴女は……」

「ああ、自己紹介がまだだったね。初めまして。私はケイリ・グランセリウス。夜に在り、数多(あまた)星々を司る、星の王女だ」

 ……ロイヤルな人!? え、何、この学校ってそんな人も通ってるの!? そこまでは流石に考えて無かった!
 驚きを隠せない様子の私を見て、冷泉さんが戸惑ったように云った。

「ケイリさん? ええと、それは冗談か何かでしょうか」

「ええ、まあそんなところです。何はともあれ、これから仲良くしてくれると嬉しいですね、二人とも」

 笑いながらそんなことを云う茶髪さん。どうやら冗談のようだ。そりゃこのご時世に王族なんてそうそう居ないですよね。
 それに、近くで見て気付いたけど、この人もかなりの美人さんだ。
 茶色、と云うより僅かに褐色がかった肌に、それを濃くした頭髪の色。エメラルドグリーンに妖しく光る双眸(そうぼう)は、日本人には決して出せない魅力を醸し出している。
 この学校に入るのに容姿の基準ってあったかなあと思わず考えてしまうくらいに、逢う人逢う人皆が綺麗だ。並の容姿でしかない私では、少し気後れしそうになる。

「はい、こちらこそ宜しくお願いします。グランセリウスさん」

 そう云うと、茶髪さんは微かに嫌そうに眉をひそめた。

「グランセリウスさんはやめて欲しいかな、梓。私のことは、ケイリと呼び捨てにしてくれると嬉しいな。敬称で呼ばれるのは好きじゃないんだ。それが友達になろうとしている人からなら、尚更、ね」

「そうですか? では私のことも淡雪でいいですよ、ケイリさん」

「同い年なんだから、もう少し砕けた言葉の方が好みかな。私には、そうお願い出来るかな?」

 パチリとウインクをしてみせる茶髪さん。いや、ケイリ。有象無象がしても滑稽でしかないそれは、ケイリにとても似合っていた。
 だから私は、お返しとばかりに、自分の精一杯の笑顔を浮かべて云ってしまった。今までの習性が抜けきっていなかったことを、直後に後悔することになるが。

「解りました、ケイリ。でしたら私のことも、あずにゃん♪とでもお呼びくださいね?」

 ――沈黙。他の人も居る筈の教室内が、何故か一瞬完全な沈黙に包まれた。冷や汗が私の頬を伝って流れ落ちる。

「ぷっ、くっ、あはははははっ! いや、梓、貴女はユーモアのセンスもあるみたいだね。良いね、うん、良いよ、ぷっ。こんな時期に転校してくるからどんな人かと思ってたけど、存外に面白い人じゃないか! ああ、本当にこれからが楽しみだよ」

 静寂を破ったのはケイリの笑い声だった。ケイリに続くように冷泉さんが、更には教室内にいる人達が次々と、くすくすと笑い声を零していった。
 その間、私は笑みを浮かべたまま微動だにしなかった。阿呆なことを云ってしまった自分が恥ずかしすぎて、体が硬直していたのだ。
 新たな黒歴史が、私の中に生まれた瞬間だった。

「……二人とも、そろそろ学食行かないと、ご飯食べてる時間無くなるよ?」

 まだ少し笑いを堪えながら、冷泉さんが私達に云った。時計を見れば、先程よりまた五分、時計の針が進んでいた。ケイリは口元を手で隠しながら、肯定の意を示した。

「うん。じゃあ、行こうか。淡雪、あずにゃん。ふふっ」

「それはやめて! 冗談なんだから! それ以外なら何でも良いからさ!」

 あははは、と淑女らしくない笑い声を発しながら、私達は食堂へ向かった。騒ぎながら廊下を歩く私達は、良くも悪くも注目の的だった。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 キーンコーンカーンコーン。

「これでホームルームを終わります。それでは皆さん、ご機嫌よう」

 六コマ目の授業も無事に済み、たった今ホームルームも終わった。いや、授業の方は無事かどうか定かではないけれど。何せ六コマ目は、公民だったのだ。
 幸いと云って良いのか、内容は既に前の学校でやったところだった。五コマ目の数学ももう前の学校でやった内容だったし、これならテストも何とかなるんじゃないか、と淡い期待を持つことが出来た。
 ……尤も、その期待も今粉々に打ち砕かれているのだが。

「あははは……」

 冷泉さんが苦笑を浮かべている。その苦笑が向けられている先は、云うまでもなく私だ。その私が何をしているのかと云うと、まあ絶望しかしていないんだが。
 私の手には、冷泉さんから渡されたテストの範囲が書かれたプリントが握られている。折れ目が付かないよう気を付けてはいるものの、本心では握り潰したくて仕方が無かった。
 プリントから教科書の該当ページを確認する作業を終えて、私は頭を痛めるしか無かった。二ヶ月分の授業の集大成だけあって、その範囲は広大だ。特に暗記系科目は、一から覚えることが多過ぎた。

「こんな量、どうしろって云うのよー……死ぬ気で覚えないと無理じゃないのー……うだーっ!」

「いや、ホントに辛そうだよね、連城さん。流石に同情するわ」

 言葉遣いの悪さを窘められることも無い。そうなっても仕方ないと傍から見て解る程に、今の私は追い詰められていた。
 人の減った教室内とは云え、それでも人はまだ残っている。そんな中で、髪を掻き乱し、時折奇声を発する私はどう見ても危険人物だった。

「数学や公民の一部が勉強しなくて済む分、まだマシだと思おう。無理矢理でもボジティブに考えないとやってられないって……」

「ノートは貸すけど、あんまり期待しないでね。字も下手だし、板書を写してるだけで、特別纏めたりとかはしてないんだから」

「いえ、授業のノートがあるだけで大分違います……ホント、感謝してますって」

 借りたノートを捧げ持って、ヘコヘコと頭を下げてみせる。パラパラとめくった限りでは、ノートは読みやすい文字で綺麗に纏められていた。これで字が下手とか、ひどい謙遜だと思う。
 けれど一つ、気に掛かることがある。それは取りも直さず、私の手に冷泉さんのノートがあることだ。

「それにしても、借りてる私が云うのもなんだけど、テスト直前にノートが無くて大丈夫なの? 勉強、しなくて良いの?」

「うーん、別にしても良いとは思うんだけどね。なんと云いますか、既済の勉強分だけの方が自分の実力が計れる気がしない?」

 その勉強しない理屈は耳に新しいことでもない。当然、褒められたことじゃないのは解っているのだろう。

「その考え自体は解らないでもないけど……それで良い点は取れないよね?」

「あははは……」

 冷泉さんは笑って誤魔化そうとした。私は先生じゃないんだし、強く出れるような立場でも無いから良いんだけど。

「ま、良いんだけどね。そのおかげで私はノートが借りられたんだし。それじゃあ私は、一人寂しく勉強漬けさせて貰うよ。ご機嫌よう、冷泉さん」

「ご機嫌よう、連城さん。頑張ってね。私は図書室で読書でもしようかな。でも混んでるだろうし……」

 ブツブツと独り言を云い始めた冷泉さんと別れ、私は帰途に就いた。待ち構えている苦行に、今からげんなりとしつつ。



[35772] 三話 六月上旬、テスト初日。
Name: パオパオ◆a94e6367 ID:ac1e60c3
Date: 2012/11/09 22:03
 転校直後だと云うのに勉強漬けの毎日を送る羽目になって、早四日目。遂にテストの日がやってきた。
 やれるだけのことはやったつもりだ。睡眠時間は半分近く削ったし、趣味に割いた時間なんて一時間と無い。そのおかげか、少し自信を持てる位には勉強できた。

「ご機嫌よう、連城さん。今日は早いですね。勉強は捗りましたか?」

「ご機嫌よう、冷泉さん。そうですね、おそらく恥は掻かない程度には勉強してきましたよ」

「それは良かったです。結果が残せると良いですね」

 冷泉さんが着席し、軽く言葉を交わす。冷泉さんもテスト前で緊張しているのか、言葉少なに会話は終わった。
 程無くして、担任が入室する。教室内を見回して、私と目が合うと何故か驚きの顔を見せた。私は首を傾げた。

「……それでは、ホームルームを始めます。本日の連絡事項は特にありません。テストを頑張ってください。それと、連城さんはこの後私のところまで来てください」

 何事も無かったかのようにホームルームが始まる。普段と比べて短いその途中、私の名前が呼ばれた。

「ねえ、何かやったの?」

「心当たりは無いんだけど……」

 ヒソヒソと小声で冷泉さんと話をする。この四日間、教師に目を付けられるようなことをした覚えはまだ無い。品行方正とはいかないまでも、悪くない振る舞いをしていた筈だった。

 結論が出ないままホームルームが終わり、私は担任を追って廊下に出た。テスト前だからか、廊下に出ている生徒は居なかった。

「あの、連城さん。梶浦先生からテストに関する連絡が来ていませんか?」

 そう訊ねてきた担任に、私は首を横に振って答える。

「いえ、来てませんけど。えっと、何かあるんですか?」

「寧ろ何も無いと云いますか。その、もし勉強していたら非常に悪いと思うのですが……」

「あの、はっきり仰ってくれませんか。いまいち事情が飲み込めませんので」

 言葉を濁す担任に、私は業を煮やして訊ねた。云いにくそうにしながらも、担任は口を開いた。

「連城さん。貴女は今回のテストを受ける必要はありません」

「……は、い?」

 目を丸くしながら、私は云われた言葉の意味を咀嚼する。テストを受けなくて良い。それは、どうして?

「えっと、連城さんは、この学校に来る前に一度テストをしましたよね?」

「あ、はい。義父(ちち)に受けさせられましたけど。それが、何か……?」

 やらなければ高校生じゃなくなると脅され、渋々受けたテストのことだろう。実際はそのせいでここへの転入が確定したらしいのだが。

「それが連城さんの今回のテスト結果として反映される予定だったんです。まさか、いきなり転入したてで他の生徒達と同じテストを受けさせる訳にもいきませんから」

「それじゃあ……私の勉強って、無駄だったんですか?」

「……どうやら連絡の不備があったようですね。申し訳ありません。けれど、無駄な勉強、というものはありませんよ。貴女が身に付けた知識は、きっと貴女を助けてくれます」

 頭を下げた担任を見ることもせず、私は顔に手を当てた。果てしない徒労感が私を襲う。

「はあ……」

 ため息が出る。この三日間、勉強しないといけないから、とクラスメイト達と話さなかったことを思うと、申し訳なく感じる。話しかけてくれた人も居たのに、すげなくあしらってしまっていた。
 元より確認しなかった私も悪いのだ。担任を責める訳にもいかないし、勉強ばかりしていたのは私に責任がある。少し人と話していた位で、頭の良くない私の成績に変動は無かっただろうに。
 まあ、そう後悔出来るのも心に余裕が生まれたからだ。今までの、特に一昨日辺りの私に余裕なんてまるで無かった。近日に迫ったテストへの焦燥が、私の目を曇らせていた。
 ……過ぎたことを考えても仕方が無い。少しでも建設的なことを考えよう。とりあえずは、折角勉強した分が無駄にならないようにしようか。

「……あれだけ勉強しておいてテストを受けないって云うのも勿体無いので、私もテスト受けて良いですか?」

「はい、勿論構いませんよ。こちらの不手際が原因ですから、私が責任を持って他の先生方に伝えておきます」

「ありがとうございます、先生」

 ペコリ、と軽く頭を下げる。心なんて少しも込めていない形式的な礼だ。教師の前なので、形だけでも敬意を表さないといけない。
 何だかんだ云っても、私が徒労させられた原因の一端はこの人にもあるのだ。少しは心証が悪くなるのも仕方が無いと思う。

「それでは連城さん、早く教室に戻りなさい。もうすぐテストが始まってしまいます。私もテスト用紙を持ってこないといけないので、ここで」

「あ、はい。それでは失礼します」

 担任は気持ち早歩きで職員室へ向かった……私もさっさと戻って準備しないと。
 教室に入ると冷泉さんにどうしたのかと訊ねられたが、時間が無いから後で、とだけ云って私自身の準備をした。鐘が鳴る直前に、どうにか準備を終えることが出来た。
 さて。テスト、頑張りましょうか。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 本日のテスト、問題無く終了。
 と云う訳で、先生から聞いた事情をを冷泉さんに説明した。ここ三日間の私の憔悴振りを知っている(と云っても、そもそも普段の私を知らない)冷泉さんは、流石に呆れていた。
 いや、私としても今回の件は呆れるしか無いと云うのが本音だ。目に見える実害は……無い?のだし。

「それで今日からはもう勉強しないんだ。いやー、災難だったねー」

「あれだね。冷泉さん、ああもう、淡雪って呼んで良い? 冷泉(れいぜい)って何か発音し辛くてさ」

「うん、良いよ。私も梓って呼ぶね。にしても梓ってさ、クラスの中じゃ私とばっかり一緒に居るけど、何で?」

「え? だってさ、席近いし、転校直後は勉強漬けだったせいでまともに会話した人極少数だし、あと一緒に居て楽しいから。それに淡雪見てると目の保養になるし」

「始めの方は良いとして、最後のは何よ……?」

 じと目を向けてくる淡雪に、私は苦笑してはぐらかす。これで誤魔化せるとは思っていないが、追及の手は止むだろう。多分。
 いや、冗談だって……一割位は。何せ私、美少女ウォッチングとか好きだし。私みたいな凡庸な見た目だと、可愛い娘(こ)を見つけると嫉妬より先に羨望が来るんだよね。

「話を戻すと、私も淡雪と一緒で勉強しない理屈作ったから良いの。休み時間に先生に聞いたら、赤点は何があろうと取れないらしいから。ほぼ自己満足のためのテストになるんだよねー」

「うわー……良いなー、って本来なら云えたんだろうね。赤点取る程、私の成績も悪くはないんだけどさ。まあ、あれだけ必死に勉強してた姿思い出すと悲惨だけど」

「そうなんだよねー。正直、今から勉強しなくても良い点が取れそうな位にはもう勉強終わってるんだよね。何と云うか、複雑ですよ」

 頬杖を突きながら愚痴を零す。人に絡むのは止めるべきだと理性では解っているが、感情の方で絡みたくなってしまっている。淡雪には悪いが、これ位は勘弁して欲しい。

「それで、今日はこれからどうするの? 私は図書室にでも行こうかなって思ってるんだけど」

「淡雪、図書室なんて行って勉強でもするつもり? 前言撤回するの?」

「いやいや、勉強はしないって。図書室なんだから読書しに行くの。家帰ってもやること無いしね」

「ふーん……傍から見てると現実逃避してるようにしか見えないよね。テスト真っ最中に悠々と読書なんてさ」

「……それも間違ってはいないんじゃないかな? 実際、勉強しないんだし。それで、梓はどうするの? 良ければついて来る?」

 少し考える。あまり活字は得意じゃないから、行っても楽しめなさそう。だけど。

「……行くだけ行ってみようかな。ここの図書室ってどんなものか見てみたいし。でもまあ、用事もあるから長くは居られないだろうけど」

 折角のお誘いなんだし、断るつもりはない。
 それに、用事があるというのも本当だ。購買部に行って、そろそろ届いているだろう私の体操服とかを受け取りに行かねばならない。
 ……決して、図書室という空間が息苦しくて、長時間居たくないと云う訳じゃないんだ。うん。

「そうなの? それじゃあ行こうか。勉強してる人達で席が埋まってないと良いけどなー」

 そう淡雪がぼやきながら、私達は連れ立って図書室へと向かった。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 図書室には数えきれない程の人が居た。

「うわ、凄い人の数。図書室ってこんなに人が居るものなんだ」

「いつもはもっと少ないって。っと、空いてる席見っけ」

 丁度良く二人掛けの机が空いていた。他の人達に取られる前にと、荷物を置いて確保する。運が良かった。

「ま、そうだよねー……ここじゃあ流石に、口調を改めた方が良いのかな?」

「そもそも、図書室で騒ぐこと自体駄目だと思う。小声で相談するくらいなら大丈夫だと思うけど……うるさくしてると、図書委員とかにつまみ出されるし」

 つまみ出されるのか……と云うか、あの物静かなお嬢さま達が騒いでる姿が思い浮かばない。
 いやまあ、人が多いせいか今正にうるさくなってる最中なんだけどね。ヒソヒソからザワザワへと変化中です。

「それじゃあ、私は読みたい本があるから探してくるね」

「うん。行ってらっしゃい」

 小さく手を振って淡雪を見送る。さて、これからどうしようか。勉強してる人達を見ながら考えてみる。
 図書室の場所も解ったし、中の様子も見た。やはり、折角来たんだから一冊位読んでみるべきか?何か面白そうな本があれば良いんだけど。

 ぶらぶらと歩きながら本の背表紙を眺めていく。時折ドラマの原作本とかを見つけつつも、いまいち食指が動かない。文学作品なんて云わずもがな。
 ――と、何か変なタイトルを見た気がする。数歩戻って気になった辺りを探していく。この辺は、聖應女学院の歴史とかのコーナーのようだ。

 見つけた、けど、これは……。
 手に取ってみる。タイトルは、「聖應女学院高等部 定期テスト問題集~二〇〇五年度版~ 発行:聖應女学院新聞部」。帯には、「解答と解説、教師ごとの問題傾向も掲載! エルダーのお姉さまも推薦!」と書かれている。
 ……突っ込み所しか無い代物だ。え、これ、学校側が許可して図書室に納入してるの?何そのカオス。てかエルダーって誰? 外人さん?
 因みに、他の年度の物は軒並み借りられているらしく、その周囲には不自然な空白があった。空白の大きさから察するに、結構歴史があるらしい。
 ……私には、何とも云えない。とりあえず、これでも読んでおくか。勉強しないと云っておきながらテストの過去問読むのも、意志薄弱とか云われそうだけど。

 戻ってみると、既に淡雪は読書を始めていた。視線が左右に忙しなく動いている。近付いた私に気付かず、黙々とページをめくっていく。
 凄い集中力だよ。私が対面に座ったのに、本から顔を離して無いんだもの。と云うか、私が来たことに気付いているかも怪しい。
 邪魔しちゃ悪いし、私も過去問読むか。しかし、ネタ代わりに持ってきたのに、反応が無いのは虚しいな。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


「ご機嫌よう、二人とも」

「え、あ……はい、ご機嫌よう」

 意外と出来の良い問題集についつい夢中になっていると、突然横から声を掛けられた。淡雪は丁度切りの良いところだったらしく、本から顔が上げられていた。
 キョトン、としていた淡雪から視線を外し、私も挨拶を返しながら、声の方に顔を向けた。

「ご機嫌よ――」

 云いかけて、途中で言葉を失った。私と淡雪に声を掛けてきたのは、見慣れない美女だった。それも、異常なまでの美女だ。
 およそ日本人らしく無い白銀(ぎん)の髪と碧(あお)い瞳に、均整のとれたプロポーション。そしてその佇まいから滲み出る、優然とした雰囲気。
 物語から飛び出してきたような、偶像の具象化たるお姫さま。そんな銀髪さん――いや、銀姫さまが、何故か私達の前で立っていた。

「あの、大丈夫ですか?」

「は、はい! 大丈夫、です?」

「そう? だったら、良いのだけれど」

 心配そうな顔を向けてくる銀姫さま。緊張するので、その綺麗な顔でこちらをじっと見るのは止めてください。でもその綺麗な顔を見ていたいので止めないでください。ああ、何と云うジレンマ!
 軽く混乱している私を置いて、淡雪と銀姫さまが話し始めた。どうやら銀姫さまが私達に声を掛けたのは、淡雪の金髪を以前に見て覚えていたからだとか。淡雪、グッジョブ!
 淡雪が千早お姉さまと呼んだ女性――銀姫さまは、どうやら二年生の間で名高いらしい。この容姿と立ち居振る舞いなら当然だろう思う。でも、二つ名がどうとか、私にはわからない単語を話す淡雪が少し遠く感じた。
 いや、私がもう少し違う人とも世間話とかをすれば良いんだろうけど。でもまだちゃんとした会話が成立した人って、五人しか居ないんだよね。教師も含めて。

「ところで、貴女のお名前を聞かせて貰っても良いかしら?」

 淡雪が自己紹介をした後、銀姫さまの視線がこちらに向けられる。くっ、二度目だと云うのに、何たる破壊力だ! 思わず魅了(チャーム)されかけたじゃないか!
 ……とまあ、冗談を挟まないと正気を保っていられない位には、銀姫さまの美人振りは凄まじかった。いや、そんなこと考えてる時点で正気とは云い難いんだけど。

「ちょっと梓、どうしちゃったのよ? 千早お姉さまに話しかけられてからフリーズしちゃってるけど」

 ちょんちょんと突っつく淡雪の指で、私はようやく正気に戻ることができた。銀姫さまも少し怪訝そうな顔をしてしまっている……まずい、何か云わないと!

「あ、ああ! 申し訳ありません、えと、千早お姉さま。私は連城梓と申します。今週の頭よりこの聖應女学院へと編入して参りました、文字通りの新参者です! なのでこれからご指導ご鞭撻の程、宜しくお願い致します!」

 頭の中に浮かんだ敬語っぽい文言を適当に口にして、深々と頭を下げた。自分が口にした内容を思い返してみると、どう考えても一先輩に言う台詞じゃ無いなと理解できる。先生や部活の先輩方に云う台詞だろう。
 しかしそんな私にも、銀姫さまは優しい物腰で接してくれた。

「梓さん、ですね。それでは改めて、初めまして。私は妃宮(きさきのみや)千早(ちはや)と申します。貴女も転入したばかりで戸惑うことも多いと思いますが、もし何か解らないことがあれば、私や他の先輩に気軽に訊ねてくださいね。私も春にこの学校に来たばかりなので、梓さんの苦労も少しは解ってあげられると思いますから」

「あ、ありがとうございます! 千早お姉さま!」

「それと、図書室では静かにね? 元気なのは良いけれど、周りで勉強している人たちの迷惑になってしまいますから」

 銀姫様に穏やかに注意される。気が付くと、いつの間にか周囲の視線が私達に集中していた。私が大声で自己紹介したせいかな、多分……。

「も、申し訳ありません……」

「解ってくれれば良いんです。私も偉そうなことを云ってしまってごめんなさいね」

「い、いえ、悪いのは私ですから。頭を下げないでください、千早お姉さま」

 頭を下げようとする銀姫さまを慌てて止める。こんな綺麗な人に頭下げられたら、罪悪感で酷いことになりそうだし。

「そう云えば、千早お姉さまは何故私達に声をお掛けになったのですか?」

 淡雪が話題の転換を図ってくれた。淡雪にはさっきからお世話になりっぱなしだ。後でお礼を云わないと。

「そうですね。見覚えのある金髪の娘(こ)を見つけて……周りと違って、その場所だけは静かに読書している二人が居たものですから。気になってしまいまして」

 銀姫さまが私たちに声を掛けてくれたのは、どうやら淡雪のおかげのようだ。まあその理由も、他愛の無いものでしかないのだけど。

「ああ……私、試験期間中は、部活がありませんから、代わりにいつもここで本を読むのが習慣になっているんです。梓さんは、私の付き添いのようなものですけど」

「淡雪さんの云う通りですね。私はまだ図書室に来たこともありませんでしたし、帰っても勉強しませんから。本当は、ここで勉強するつもりも無かったんですけど」

「えっと……お二人は、試験勉強はしないのかしら?」

 そう問い掛けてくる銀姫さま。テスト真っ最中の日に、読書してる人と、勉強しないって云った人達を見れば疑問に思いますよね、そりゃあ。
 って云うか、淡雪は部活に入ってたのか。何の部活に入ってるのか、後で聞いてみようかな。

「私はしても良いんですけどね。そんなに成績が良い訳ではないし……ですがまあ、今更感が強いとでも云うんでしょうか。既済の勉強で獲得した分で勝負しようかと」

「転入が最近だったので、私はそもそもテストが関係ありませんでしたから。先生方のご配慮で、一応実力を計る意味でもテストを受けてはいるんですけど」

 淡雪から何云ってるの? 的な視線が飛んでくる。ええい、別に本当のことを云って恥をかく必要もないでしょうが!

「梓さんの方は理解したけれど、淡雪さんの方は……今更試験勉強なんて潔しとしない、という意味?」

「いえいえ、しない方が自分の純粋な学力を計れるのではないか……と、プラスに考えては頂けないものですか」

 納得したように頷いて見せる銀姫さま。いや、今の説明で納得できるんですか!?

「なるほど、解りました……そうそう淡雪さん、雅楽乃に伝えて頂ける? 『試験が終わったら、久し振りに華道部にお邪魔します』と」

 ……雅楽乃という人は、おそらく淡雪の知り合いなのだろう。もしくは同じ部活の人かな? だとすると、淡雪は華道部なのか……ちょっと想像できない。

「えっ、千早お姉さまはうたちゃ……御前とお知り合いなのですか? しかも、呼び捨てになさるような」

「え、ええ……ちょっとした偶然の引き合わせなのですけれど」

 何故かどちらも驚いている様子だった。そして御前って何なの? 人の名前には聞こえないけど。ニックネーム?
 何だか気まずい空気が流れていた所へ、一人の女性が近付いてきた。

「あ、千早こんなところに居た!」

「薫子さん」

 ……何と云うか、またレベルの高い美人だ。千早お姉さまが美女だとすると、この人は美人さんと呼ぶのが相応しく思えた。
 腰まで伸びた長い黒髪に、赤みがかった切れ長の瞳。凛とした雰囲気を放つその立ち姿は、騎士か何かを思わせる。
 騎士(ナイト)の君……とか、淡雪も呟いてるくらいだし。にしても随分と詩的な表現だな、それ。

「もう、人にさんざん苦労させておいて、自分は可愛い後輩たちとおしゃべりなんてさ」

 ……かと思うと、今度は銀姫さまに子供のように突っかかっている。さっきまでの姿とのギャップに、胸がキュンとなる。うわ、可愛いなこの美人さん。多分先輩なんだろうけど。

「ふふっ、申し訳ありません……ですが薫子さん、ここは図書室ですからもう少しお静かに」

「うわっと……」

 銀姫さまが自分の唇に指を立てて美人さんを窘める。美人さんはハッとして口元を手で覆う。それを見て、銀姫様は微笑みを浮かべる。
 ……銀姫さま、美人さんの手綱完璧に握ってるなー。二人の容姿のコントラストが凄く絵になるから、出来ることなら写真に撮っておきたい。

「では淡雪さん、梓さん、これで失礼しますね」

「はい。御前には伝えておきますね……ご機嫌よう、お姉さま方」

「ご機嫌よう」

 銀姫さまと美人さんが去っていく。図書館から出ないところを見ると、これから試験勉強でもするのだろう。
 ……あー、緊張した。綺麗な人と話すのは、嬉しいけど疲れる。淡雪の顔をちら見して癒されよう。

「……ちょっと。梓、何じろじろ見てるのよ?」

「目の保養ー。あの綺麗な先輩方と話してて、気疲れしたし。可愛いものを見て癒されてるの」

 素直に答えると、淡雪は仄かに頬を赤く染めた。

「面と向かって可愛いとか云われると、流石に照れるわね……そう云えば梓、貴女用事はいいの? ここに来てから結構時間経ってるけど」

「え?」

 壁に掛けられている時計を見る。午後三時四十五分。予想以上に時間が経っていた。

「ええと、確か購買部が空いてるのは……」

「四時までだよ。もしかして、用事って購買部に?もう時間無いけど、急がなくていいの?」

 猶予は十五分。迷う可能性を考えると余裕は無い。

「……良くないです。ごめん、この本返して貰っておいて良い? 学園の歴史関係のコーナーにあった本だからさ」

「あー、うん。それ位はやっておくよ。行ってらっしゃい」

「ありがと、淡雪。それじゃあお願いします」

 快く引き受けてくれた淡雪に礼を云って、本を差し出す。タイトルを見てじと目を向けられたが、私は苦笑するしかない。
 こんなところでネタになってもしょうが無いんだけどなあ……まあ、内容が意外と面白かったから良いんだけど。

「それじゃあ淡雪さん、ご機嫌よう。また明日ね」

「うん、また明日。ご機嫌よう」

 取り繕った別れの挨拶をして、私は足早に購買部へと向かった。



[35772] 四話 六月上旬、テストが終わって。
Name: パオパオ◆a94e6367 ID:ac1e60c3
Date: 2012/11/11 06:48
 キーンコーンカーンコーン。

「終わったー!」

 鐘の音と同時に、どこかのクラスからそんな声が聞こえてきた。私も云い掛けたが、担任が監督していたので自重した。
 テスト用紙を回収し、担任に渡す。担任が用紙を確認していき、それを終えると職員室に戻っていった。
 いやあ、やっと終わった。今になって思うと、何でわざわざテストなんて受けようと思ったんだろう。やらないならやらないままで良いのに。

「お疲れさま、梓。出来はどう?」

 晴れ晴れとした表情で、淡雪が声を掛けてくる。テストが終わった解放感を、勉強しないと自称していた淡雪も感じているらしい。

「お疲れさま、淡雪。全体的にそれなり、って云ったところかな。そっちは?」

「少なくとも赤点や追試にはならないかな、って感じ。それにしても、テスト、疲れたー」

「……碌に試験勉強もしていない癖に」

 ボソッと呟いた私の台詞は、淡雪の耳には届かずに済んだらしい。ホッとする私に、心の中でだったら云うなよと思う私も居た。だが、自他ともにボケ&ツッコミと称されていた私としては、云わずにはいられなかった。
 いや、ツッコミは自称じゃんって云われることも多かったんだけど……私はボケじゃないってば。ボケでツッコミなんだって。

「ねぇ、百面相してて見てて面白いんだけど、どうかしたの?」

「……何でも無いよ」

 云いながら顔を逸らす。恥ずかしい……何やってるんだか、私は。

「んー、と。私はこの後部活に行くけど、そう云えば梓って部活どうするの?」

 その問題もあったか。流石にこの学校に「運動部」は無いだろうから、考えないといけないな。

「先生からは何も云われて無いんだよね。全く、どうすればいいのやら。ま、やるとしても色々見て回ってから決めるつもり。前の学校で無かった部活とかもあるだろうし」

 それこそ漫画だのに出てくるような、お嬢様っぽい部活もあるんじゃないかと密かに期待している。

「そっか。だったら、今からうちの部の見学に来てみる? 本当なら今日は休みだから他の部員は居ないと思うけど、どんな部か紹介する位なら出来るからさ」

「部員一人で紹介になるの? まあ、誘われたんだし断るつもりもないけど。それで、何部なの?」

「云って無かった? 華道部だよ、私」

 華道部……ああ、図書室で銀姫さまと話していた時に話題になってた……んだっけ? あんまり印象に残って無いな。

「聞いた覚えが……あるような、無いような。華道って、花を剣山に刺してハサミで切ったりするやつだったっけ?」

 華道って、確かそんな感じだった筈。どこかで蒲公英の一輪挿しとか見たことある気がする。何だったっけ?
 そんなことを考えていると、淡雪は微妙な顔をしていた。どうやら、私の云ったことは専門の人からすると変に感じるようだ。

「間違いじゃ無い、と思うけど……ま、いいや。それじゃあ、修身室に行こうか。そこが部室だから」

「ん、解った。場所解らないから道案内宜しくね」

「うん、ついて来てね」

 そういう訳で、私の部活動見学は華道部から始まることになった。多分、華道部に入部することはないだろうけど。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 全体的に西洋風の校舎の中にあって、修身室はとても和風だった。畳敷きの床に、部屋の奥にある床の間。古き良き日本と云った風情が、どことなく漂っていた。
 藺草の匂いが鼻を突く。やはり私も日本人ということなのだろう。その香りを嗅ぐと、不思議と心が落ち着く気がした。
 早速入ろうとした私を、淡雪が声を掛けて止めた。

「あ、修身室に入る時は、台帳に名前を書いてね。もしここで盗難とかが起きた時に、参考にするらしいからさ」

「え? ……この学校でも、盗みとかって起きたりするの?」

 純粋に疑問に思う。お嬢様が盗みなんてする必要があるのだろうか……反社会的行為とか?無いな。
 しばらく考え込んだ後、淡雪は首を横に振った。

「……修身室でそういうのが起こったって云うのは、私は聞いたことが無いかな。でもまあ規則だし、ここにあるのってかなり高価な物もあるから。用心するに越したことは無いんでしょ」

 失敗から学ぶのでは無く、そもそも失敗を起こさないように努める、というのは凄い。思わず感心してしまった。

「それはまた、凄いね。えっと、連、城、梓、っと。書けたよ。これで良い?」

「うん、問題無いよ。それじゃあ、どうぞ、お入りくださいな」

「……失礼します」

 何となく、気持ちが引き締まる気がする。足の裏に感じる慣れない畳の感触や、未知の部屋への好奇心のせいだろうか。悪い気はしない。
 思わず背筋がピンと伸びる。そんな私を見て、淡雪は微かに笑っていた。

「緊張してるね、梓。別に誰かに見られてる訳じゃないんだから、もっと気楽にすればいいのに」

「いや、初めてじゃ無理だってば」

 この部屋独特のしんとした空気に、私が慣れることは無いだろう。私はもっとこう、人の声に溢れている空間の方が好みだし。

「それじゃあ、準備するからちょっと待ってて。その辺りの物に触って壊したりしないでね」

「解ってるよ。勿論、解ってるって」

「そう? ごめんごめん。梓なら好奇心に負けて何かやっちゃいそうでさ。子供じゃないんだからやる訳無いよね」

「……」

 ついと視線を逸らす。その私への評価は妥当過ぎる。
 もし前の学校だったら、フリだと思ってやらかしていた可能性は否定できない。と云うか実際、ここに来てからも前科があるし。

「ちょっと、梓ー? 信頼して良いんだよねー?」

「だ、大丈夫。高価な物があるって解っててやる程私は馬鹿じゃないから。うん、その筈。きっと、多分」

 そう。百円単位の物なら壊してもいいかなと思うけど、それより二つも三つも桁が上になってくると、小市民としては流石に手を出す気にならない。弁償代的な意味で。

「安心できない……まあ、冗談だと思って流すけどさ」

「あははは……」

 この芸人体質っぽいのも、この学校で直ると良いな……やっぱり無理な気がする。
 ちらちらとこちらの様子を窺う淡雪を眺めながら、そんなことを考えていた。信用無いね、私。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 無駄話に興じているせいか、淡雪の準備は遅々として進まなかった。私としてはただ淡雪と交流を深めにきただけのつもりなので、それでも構わなかった。
 そんなまったりとした空気を変えたのは、外部からの侵入者だった。正確には、この場所の主だったのだけど。

「さ、どうぞ千早お姉さま」

「ええ、お邪魔するわね……あら、淡雪さんと梓さん」

 聞き覚えのない声とともに修身室の扉が開かれた。そこに居たのは、黒く長い髪の美少女と銀髪の美女だった。と云うか、片方は銀姫さま――千早お姉さまだった。

「あ、千早お姉さま……ってもしかしてうたちゃ……じゃないや御前、わざわざ迎えに行ったの!?」

「ふふっ、だって待ちきれなかったものだから」

「どうして……」

 淡雪が驚きと疑問に満ちた声を漏らし、黒く長い髪の美少女はそれに答えていった。それも何故か、その豊満な胸を誇るように、堂々と。

「千早お姉さまはこの学院で唯一、私を甘やかしてくださるお姉さまですから」

「へ……甘や……かす?」

 淡雪はぽかんと口を開けたまま、その美少女を見詰め返した。私も驚いているのと、黒く長い髪の美少女の観察で声が出せずにいた。銀姫さまが、何とも云えない表情で苦笑いしていたのを見逃しながら。
 腰まで伸びた濡れ羽色の髪に、茶色がかった大きな瞳。落ち着いた物腰からは、銀姫さまに似た風格が感じられる。大和撫子という形容がこれ程相応しい女性は、おそらく他に現存していないだろう。その豊かな双丘は、あまり日本人らしく無いが。
 その美少女――御前?さんは、私と目が合うと静かに一礼した。始まりから終わりまで洗練されたその動作からは、どことない優雅さが感じられた。
 ――と、そこまで見届けたところで、ようやく目の前の美少女が私に礼をしたのだと気が付いた。慌てて礼を返した私を見て、銀姫さまが心なしか笑った気がした。

「そちらの方は、初めまして、で宜しいですよね。私は華道部の部長を務めております、二年の哘(さそう)雅楽乃(うたの)と申します」

「は、初めまして! 先日この学院に転入してきました、二年C組の連城梓です! 宜しくお願いします!」

 少し高めのテンションで、御前?さんに自己紹介する。軽く見惚れていたせいか、声が上擦ってしまった。

「こちらこそ、宜しくお願いします。それで連城さんは、本日はどのような用件でこちらに?」

「えと、淡雪さんが私に華道部の紹介をしてくれるとのことで……もしかして、何かマズいことでもありましたか?」

 不安げに訊ねた私に、御前?さんは笑顔で答えた。

「いえ、勿論歓迎致します。梓さんは雪ちゃんのお友達のようですし、是非ご覧になっていってください」

「ありがとうございます」

 私がぺこりと頭を下げると、淡雪はちょうど放心状態から戻ったのか、御前?さんに食ってかかるように話しかけていった。

「ちょっと御前、どうしちゃったの……いつもの威厳はどこに置いてきちゃったの?」

「威厳と云われても……特に私が持とうと思ってそうなっている訳ではないでしょう」

「それはまあ、そうなんだけど……でもなんか、凄く違和感があるって云うか」

 遠慮の無い言葉をぶつけ合っている二人を見て、不覚にも羨ましく思えた。

「あ……千早お姉さまは、そんな顔をなさらなくても良いのです」

 ――と、いつの間にか蚊帳の外にされて表情を曇らせていた銀姫さまに、御前?さんが苦笑混じりに微笑んだ。その笑みは私に向けられている訳でも無いけれど、私の眼にはとても魅力的に映った。

「私は、自分の行動の責任を……他人様に押しつけるような真似は決して致しません」

「……そう。貴女、面白い子ね」

 そして、御前?さんの笑みに応えるように、銀姫さまもまた微笑みを浮かべた。思わずため息が零れてしまう程の、美麗なまでの笑みを。
 銀姫さまに見惚れていたのだろう。御前?さんはハッとして佇まいを直すと、改めて銀姫さまを部屋の中に招いた。

「さ、どうぞお上がりになって下さい。今お茶をお淹れしますから」

「ええ、ありがとう」

 銀姫さまを中に案内すると、御前?さんはとても嬉しそうに部屋の奥に消えていった。お茶を淹れるだけなのに、何故そんなに嬉しそうなんだろうか。
 御前?さんが聞いていないことを見計らって、淡雪が銀姫さまに心底不思議そうに訊ねた。

「あの……千早お姉さま」

「何でしょう、淡雪さん」

「一体、お姉さまは御前に何をなさったのですか?」

「……む、難しい質問ですね」

 困った顔で苦笑いしながら、銀姫さまは淡雪の質問の答えを考えているようだった。

「本当、何をしたんでしょうね?」

 ……結局思い付かなかったのか、更に困ったように銀姫さまは苦笑した。

「お、お姉さまがご存知でなかったら、私が知ってる訳が無いじゃないですか……」

 まあ、それも当然だよね。そして私の存在感の無さに脱帽する。いや、何となく話に入りにくいんだよ。空気的に。

「淡雪さんとしては、雅楽乃にどうして欲しいのですか?」

「どう……って云うか。まあ、いつも通りで居て欲しいかなって思いますけど」

「けれど、雅楽乃に甘えたい、迷惑は掛けない……と云われたら、私はそれをとがめたりすることは出来ないわね……あの子、みんなに尊敬されて、『二年生のご意見番』って云われているのでしょう?」

「そうです。それなのに、急にあんな風に……」

 会話は続く。手持ち無沙汰に指を絡めたりしながら、淡雪と銀姫さまの話を耳に入れていく。ちらちらと御前?さんが消えていった方を見て、早く戻ってこないかな、と考えつつ。

「そうね。けれど、みんなが頼っている雅楽乃には……そんな風に威厳のあるあの子には……誰かを頼ったり、甘えたりしてはいけないのかしら?」

「えっ……そ、それは」

 淡雪が口籠もる。ずっと正座していたせいで足が痺れてしまった私には、淡雪と銀姫さまの話していることは解らない。

「そう考えたら、例え私が雅楽乃よりも頼りなかったとしても……雅楽乃のことを解ってあげていなかったとしても、あの子に『甘えるな』なんて云えないもの。そうお思いにならないかしら?」

「千早お姉さま……」

 云い聞かせるようにそう訊ねた銀姫さまに、淡雪はむすっとした表情で応えた。銀姫さまは困惑しながらも、微かに笑みを浮かべて続ける。
 いつもならもっと楽しめるのに、足に気を取られて二人の会話に集中できない自分が憎い。ここで足を崩したら、空気読めないにも程があるし。
 だから私は、私以外の誰かがこの会話を終わらせてくれるのを期待する。そろそろ、真面目に限界が近いから。空気は読みたいから。

「私は雅楽乃に出逢ったばかりだから、そんなことが云えるのかも知れないわね」

「雪ちゃん、雪ちゃんもお茶菓子食べますか?」

「あるの!? もっちろん食べますとも!」

「ふふっ、はいはい」

 ようやく救いの一声が部屋の奥から掛けられる。密かに足を崩し、何とも云えない感覚に恍惚とする。正座も率先してやりたくはないけど、偶にやるとかなり良い。
 今の私には、いきなりテンション上がった淡雪も、そんな淡雪を見て少し驚いた様子の銀姫さまも気にならない。

「梓さんはお茶菓子如何ですか?」

 ――と、気を抜いていたところで御前?さんから声が掛けられる。一瞬体をびくつかせた後、慌てて返事をする。

「あ、はい! 貰えるのでしたら、お願いします」

 返事をした私の横で、銀姫さまに見られていたことに気付いたのか、淡雪はまた頬を膨らませた。ああ、リラックスしてる今だとそんな淡雪が可愛くてしょうがない。

「……ご、御前が楽しそうにしてるから、とりあえず何も云わないでおきますけど」

「ふふっ……はい」

 言い訳を口にする淡雪に、それを簡単に肯定する銀姫さま。意外とこの二人、良いコンビなんじゃないだろうか。まあ、まだこの二人が話しているところなんて二度しか見たことがないのだが。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


「ご馳走様でした」

「はい、お粗末様です」

 お茶と一緒に出された水羊羹を、ペロリと平らげた。これだけでも華道部に見学に着た甲斐があるな。
 満足感を覚えて良い心地になっているところで、ふと気になっていたことがあるのを思い出した。

「ところで、華道部には何の関係も無い話で申し訳ないのですが」

「何かしら、梓さん」

 私の突然の開口にも銀姫さまは和やかに応じた。以前と同じく、銀姫さまの対応は優しい。私も来年にはこんな人になれるだろうか。
 っと、関係ないことはひとまず置いておいて。

「あの、千早お姉さま、淡雪さんが哘さんを呼ぶ時の『御前』とは何なのでしょうか? 渾名のようなもの、と考えれば良いのですか? もしそうでしたら、私も哘さんのことは御前とお呼びした方が良いのでしょうか?」

 銀姫さまは少し考えるように、組んでいた手の片方を顎にかけた。ちらりと横目で御前?さんの方を見て、次いで淡雪の方へと視線を向けた。

「そうね……私もあまり詳しいことを知っている訳ではないのだけれど、渾名とは少し違うと思うわ。二つ名、と呼ばれていて、特別に優れたところがある人に付けられるもの、なのかしらね」

「二つ名……ですか……?」

 凄く、十四歳病っぽいような……。

「そうね……以前に雅楽乃の『御前』という二つ名には、才色兼備でお姫様みたいだ、ということで付けられたと聞いたことがあるわ。そう考えると、二つ名は公式の愛称のようなものと考えて良いのではないかしら」

「成る程……説明ありがとうございます、千早お姉さま」

 要するに、お嬢様学校だけあって、独特の慣習があるらしい。それも普通の学校じゃあり得ないような、雅?な感じのものが。
 いやあ、探せばもっと面白いことがありそうだ。少しばかりわくわくしてきた。

「まあ。千早お姉さまは、私のことをそうお思いになられているのですか? 私は千早お姉さまからそう評価していただける程、殊勝な人間では無いのですが」

「そんなことはないと思うわ。私はまだ雅楽乃と知り合ってから日が浅いけれど、それでも貴女がそう呼ばれているのは納得できるもの」

「あ、ありがとうございます。千早お姉さまからそう云われるなんて、光栄です」

 仄かに頬を紅潮させながら、御前さんが銀姫さまに礼を述べる。はにかんだその顔が、私の琴線に触れて悶えそうになるのを必死で自制する。うあ、じたばたしたい。

「そう云えば、今日は華道部はお休みですか?」

「ええ、ですから千早お姉さまと御前が入って来て、ちょっとだけびっくりしたと云うか……」

 銀姫さまの質問に、淡雪が答えを返す。まあテストが終わったばかりだし、普通は部活休みだよね。私たちが今ここにいるのがイレギュラーなんだし。

「淡雪さんは梓さんに華道部の紹介をしに来た、と云っていましたね」

「あー、千早お姉さま。私のことは、雪って呼び捨てで良いですよ。御前が呼び捨てなのに私がさん付けされてると……その、何と云うか私が落ち着かないし。それに、淡雪って呼びにくいと思いますし」

 淡雪がそう云うんだったら、私も続かないと駄目だよな。さん付けされてること自体、あんまり好きじゃないし。

「雪ちゃん、大胆で積極的……でも、千早お姉さまは私のお姉さまですから。取っては嫌ですよ」

 ……少し云い遅れたら、御前さんが爆弾発言をしやがりました。私の……お姉さま? 何、それ?

「別に張り合おうとか、そういう意図は無いんだけど……」

「ふふっ、じゃあ私も雪ちゃんって……そう呼ばせて貰うわね」

「え、いえ、ちゃん付けは……まあいっか」

 呆然としている私を置いて、いつの間にか話は進んでいた。って、私だけ銀姫さまにさん付けとか耐えられないですから!

「あの、千早お姉さまと御前さん。出来れば私のことも、さん付けでは無く、梓と呼んでくれませんか? さん付けで呼ばれますと、私はこう、背筋がむずむずしてしまうので」

「解りました。これからは、梓ちゃんと呼ばせて貰いますね」

「そうですね。では私も、千早お姉さまに倣って、梓ちゃんと呼ばせて頂きます。構いませんか?」

 名前にちゃん付けされるのも子供っぽくて微妙に嫌だが、さん付けよりはまだ良い。名字にさん付けならまだしも。

「はい、それでお願いします」

「それから、そうですね……梓ちゃん、私のことも、御前では無く雅楽乃と呼んで下さい。あまり、御前と呼ばれるのも好きではありませんから」

 少し意外に思ったが、よく考えれば当然かもしれない。銀姫さまの云ったような意味が『御前』に込められているのなら、私だったら恥ずかし過ぎる。
 ……けれど、御前さんが放つ威厳のような何かが、彼女を呼び捨てにすることをためらわせる。同年代の筈なのに、まるで先輩と話しているかのような錯覚を覚えてしまう。

「解りました。それでは雅楽乃さん、改めて宜しくお願いします」

「こちらこそ、宜しくお願いします」

 互いに頭を下げあって、私の疑問はやっと一つ解けたのだった。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


「……ところで、何の話をしていたんでしたっけ」

 お茶を啜りながら、淡雪がふと呟いた。

「確か……雪ちゃんが梓ちゃんに華道部の活動を見せようとしている、ではなかったかしら」

 湯呑みを盆の上に置きながら、銀姫さまが答える。ああ、そう云えば私って、部活動の見学に来たんだっけ。お茶菓子も食べたし、もう気分的には十分だけど。

「……そうでした。それじゃあ御前、始めませんか?」

 淡雪が思い出したようにそう口にする。まあ、見せて貰えるのなら見せて貰いましょう。興味が無い訳じゃないし。

「ええ、始めましょうか……そう云えば、千早お姉さまも華道を嗜んでいらっしゃるとか?もし宜しければ、腕前をお見せ頂いても?」

「まあ、私のは真似事のようなものですから、それでも良いのなら構いませんよ。尤も、雅楽乃には遠く及ばないでしょうけれど」

 どう見ても謙遜だと思うけど、銀姫さまはそう云って生け花をすることになった。それにしても、御前さんが『お願い』したせいなのか、淡雪の顔が少しむくれていた……嫉妬かな?

「御前、千早お姉さま、早く始めましょう!」

「あら、雪ちゃん。そう焦らなくとも良いと思うのですけれど……ああ、梓ちゃん。もしかして、何かご用事がございましたか?」

 淡雪の様子を見て、御前さんが私に確認をする。言葉自体は何もおかしくないけど、少し意地が悪そうな笑みを浮かべているのは、きっと淡雪の反応を期待してのことだろう。

「い、いえ、今日は帰っても特にやることがありませんから大丈夫です。そもそも私は見学させて貰う側ですし、皆さんの都合の方を優先して下さい」

「そうですか? 千早お姉さまと雪ちゃんも、何か不都合がありましたら仰って下さいね」

 御前さんの問い掛けに、銀姫さまと淡雪がすぐに答えを返す。

「教室でも云ったように、私は何も用事はありませんよ」

「わ、私だって別に、何も無いですよ」

「でしたら、そう焦らなくとも良いではないですか」

 淡雪にどこか挑戦な笑みを向けながら、御前さんがそう云った。不満そうにする淡雪を見て、私は笑い声が出てしまうのを抑えるのに必死だった。横を見れば、銀姫さまも口元を手で隠しながら微笑んでいた。

「……とは云いましても、時間に限りがあるのも事実ですから……始めましょうか」

「そうですね」

「……むー」

「あははは……」

 あっけらかんと生け花の準備を始める御前さんと、その場で微笑んでいる銀姫さま、そして頬を膨らませている淡雪を見て、私は何とも云えずに笑うしかなかった。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 ――パチン、パチン。

「……」

 ――パチン、パチン。

「……ふわぁ……」

 思わず感嘆の息が零れる。言葉に出来ない感覚に、私は息を吐くことしかできない。と云うより、声を出してはいけない気がしている。
 御前さんが、淡雪が、そして銀姫さまが、手元にある花々を、切り、しならせ、形を整えていく。似たようなことをしているようでいて、そこに出来ていくものは大きく違う。

 ――パチ、パチン。

「……こんな感じで、どうでしょうね」

 握っていた鋏を下ろすと、二度三度と見直して、銀姫さまはそう呟いた。

「千早お姉さま、もう出来たんですか!?」

「まあ、早いですね、千早お姉さま……それに、とてもお上手です」

「そうですか? ありがとうございます」

 賞賛の言葉を受けて微笑む千早お姉さまに、私は珍しく反応しなかった。華道に疎い私でも解る程に、銀姫さまの作品には人を引き付ける魅力があった。
 別段、煌びやかという訳ではない。逆に慎ましいという形容の方が合っている。けれど、派手とは云えないその花々が、とても魅惑的に見えるのだ。
 横にある淡雪の花々に視線を送る。花の彩りで云えば、こちらの方が断然鮮やかな筈だ。その筈なのに、銀姫さまの花々の方が華やかに見えるのは何故だろうか。
 ……まあ、素人が考えても解らないことだけは確かだ。

「……私も、これで完成ですね」

 パチン、という鋏の音を最後に、御前さんが鋏を置いた。そうして完成した花を見て、私はまた息を飲んだ。
 脈打つような躍動感、とでも云えばいいのだろうか。本来無機物である花とは懸け離れた雰囲気が、御前さんの花々からは感じられた。

「うわ……凄……」

「うん、やっぱりうたちゃんは上手いね……」

 思わずこぼれた呟きに、淡雪が反応を返した。淡雪も華道部の一員としてある程度の実力はあるのだろうが、御前さんはやはり別格なのだろう。
 何と云うか、御前さんの花はそれこそ作品と呼べるような、一学生レベルのものだとは到底思えないのだ。いくら華道部の部長とは云え、普通はこんなに凄い作品が作れはしないだろう。

「やはり雅楽乃は上手ね。流石は華道部の部長と云ったところかしら?」

「ありがとうございます。けれど、そう仰る千早お姉さまも、とてもお上手でいらっしゃいますよ」

「あら、ありがとう」

 銀姫さまと御前さんが視線を絡め合う。御前さんの頬が少し赤らんで見えるのは、きっと初夏の暑さのせいだろう。修身室は風通しが良いので、私としてはまだ涼しい位なのだが。

「むー……」

 淡雪は手元をパチパチと動かしながら、面白くなさそうな表情で二人を凝視していた。そんな淡雪を見て、私は不覚にも吹き出しかけた。
 今までの二人の会話からして、おそらく淡雪と御前さんは仲が良いのだろう。その御前さんが銀姫さまに懐いているのを見て、友達を取られたような気にでもなっているのだろう。
 ……しかし、刃物を扱うときに集中していないのは危なくないか?

「痛っ!」

 淡雪が上げた声で、全員の視線がその手元に集まった。花に添えられていた指先から、一筋の赤い線が垂れていた。

「あはは……やっちゃった」

 淡雪は苦笑しつつ、逆の手に持っていた鋏を下ろした。その刃が僅かに赤く濡れているところを見ると、あれで指を切ってしまったのだろう。

「もう、雪ちゃん。刃物を持っている時は手元を疎かにしてはいけませんよ。特にその鋏は切れ味が良いのですから、指を切り落としかねませんし」

「うん、気を付ける……ええと、絆創膏ってあったかな……?」

 ゴソゴソと鞄の中を漁っている淡雪に、私は財布の中から取り出した絆創膏を差し出す。まさか、私が使うより先に誰かにあげるとは思わなかった。

「使って、これ」

「あ、ありがと、梓。使わせてもらうね」

 柄の無い実用本位の絆創膏を、淡雪は片手だけで器用に傷口に張り付ける。赤い染みが広がるも、直ぐにその勢いは衰えた。

「本当は消毒した方が良いと思うけどね……鋏にもばい菌とか付いてるだろうし」

 傷口が化膿したらと思うと、恐ろしくて堪らない。例えそれが、自分のことじゃなくても。

「あー、うん、別にこれだけで大丈夫だって」

「そう? ならいいけど」

 でもまあ、淡雪が気にしてないならいいや。切り傷一つで騒ぐつもりも無いし。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 キーンコーンカーンコーン。

 下校を促す鐘の音が、修身室にも届いた。

「もうこんな時間でしたか。それでは、これで終わりにしましょう」

 御前さんはそう云うと手際よく茶器等を片付け始めた。そんな彼女に銀姫様が声を掛ける。

「雅楽乃、今日はありがとう。楽しい時間を過ごさせて貰ったわ」

「いえ、こちらこそありがとうございました。もしよろしければ、これからも華道部にいらして下さい。華道部一同、歓迎させて頂きます」

「そうね、考えておくわ」

 会釈を一つして御前さんが部屋の奥に消えていく。遠くで水の流れる音を背景にして、銀姫さまがこちらに顔を向ける。

「雪ちゃんと梓ちゃんも今日はありがとう」

「いえいえ、私も楽しかったですから……あの、千早お姉さま、お願いがあるんですが」

「何かしら?」

「都合がついたら、で良いんですけど、私と華道で勝負してくれませんか?」

「……構いませんよ」

 淡雪のお願いを銀姫さまは快く引き受けた……ように見えた。

「けれど、勝負、というのはよく解らないわね。そもそも華道とは競ったりするものではないでしょう? 明確な点数が付く訳でもないのだし、どうやって優劣を付けるつもりかしら」

「そこはほら……御前とか、他のみんなに聞けば解りますって、多分」

 頭を掻きながら、淡雪は銀姫さまから視線を逸らす。徐々に自信を失っていく淡雪の言葉に、私は口元が緩むのを自覚した。

「それじゃあ、次に来た時は一緒に花を生けましょうか、雪ちゃん」

「あ、はい! お願いします!」

 銀姫さまの言葉に、淡雪は喜びを隠せないようだった。あれだけ上手い銀姫さまと一緒にやれるのが嬉しいのだろう。もしかしたら、単純に銀姫さまと一緒にいる口実が出来て嬉しいのかもしれないが……まあ、こっちは御前さんの領分だと思う。

「それでは、そろそろ帰る支度をしましょうか」

 銀姫さまはそう云うと、正座の姿勢から立ち上がった。

「そうですね。と云っても、特にすることもありませんけど……」

 淡雪もそれに続いて腰を浮かせた。別に鞄から何かを取り出している訳でも無いので、帰る支度なんてそれこそ鞄を持つだけで終わってしまう。

「淡雪は雅楽乃を待ってる今の内に、鞄の中を整理しておけば? さっき絆創膏探し――ッ!?」

 立ち上がろうとした私の体が、勢いよく無様に倒れ込んだ。咄嗟に手を出して顔だけは守ったものの、打ちつけた痛みで這うような体制のままでいるしかなかった。

「梓ちゃん、大丈夫ですか?」

 心配そうな声を掛けてくる銀姫さまとは裏腹に、淡雪は呆れたような視線を向けてくる。私が倒れた原因を良く理解しているのだろう。

「あー、千早お姉さま、心配しなくても大丈夫ですよ」

「そうですか?でも、いきなり倒れるなんて……」

「多分ですけど……梓、足が痺れたんでしょ?」

「え?」

 目を丸くしているだろう銀姫さまの方は見ずに、私はコクコクと頷きを返した。ぶつけた痛みのせいか、まだ声がうまく出せずにいた。頭の奥から熱いものが込み上げてきているので、おそらく涙目になっている私の姿は、事情が解っていればとても滑稽に見えるだろう。

「ほら、さっきも足を崩してくねくねしてましたし、畳に慣れていないんでしょう」

 ……よもや見られているとは思わなかった。注目が集まらない時を狙ったのに……恥ずかしいから。

「私も普段はあまり正座をすることは無いのだけれど……」

「そう云った体質の方も居るそうですから、千早お姉さまもそうなのではないですか?」

「あら、雅楽乃。片づけは終わったみたいね」

「ええ、お待たせしました」

 手元をハンカチで拭いながら、御前さんが部屋の奥から戻ってきた。未だにプルプル震えている私のことは、一瞥しただけで反応しなかった。事情は理解していたのだろう。

「それでは、帰りましょうか」

「はい、千早お姉さま」

「千早お姉さまは寮生でいらっしゃいましたよね。でしたらそこまでご一緒させて貰ってもよろしいですか?」

「勿論良いわ。ええと、それで梓ちゃんはどうするの?」

「放っておいて大丈夫ですよ。きっとあれ、もう直ってますから」

「……そうなんですか?」

 三人の視線が集まり、震えを止めてすっくと立ち上がった。何とも云えない空気が流れる。

「そう云えば、もう倒れてからそこそこ時間も経っていたわね」

「だからきっと、あれってネタ振りだったんですよ」

「成る程……」

「……突っ込み待ちだったんですけど、そもそも淡雪以外には伝わっていませんでしたか」

 それと、ボケを納得で潰すのは心情的に辛いものがあるので止めてください。泣きたくなります。
 三人の生温かい視線を浴びながら、私も修身室を後にした。



[35772] 五話 六月中旬、私の日常。
Name: パオパオ◆a94e6367 ID:ac1e60c3
Date: 2012/11/11 06:48
 キーンコーンカーンコーン。

「今日はここまでにします。委員長、号令を」

「起立、礼」

 教師が退室するのを見送って、小さく息を吐いた。手元の紙に視線を落とす。赤く目立つ六十五の算用数字。もう少し良い点が取れそうな手応えだったのだが、詰め込みではこれが限界だったのだろう。
 授業が終わったのとは別に、精神的に疲れるものがあった。場所が変わればテストの傾向が変わるのも当然だが、成績に悪影響が無くとも、もう少し良い結果を残したかったのだ。

「梓、次は体育だから、早めに更衣室に行こう」

「はぁーい」

 前の席に座っていた淡雪が鞄を持って呼び掛けてくる。おざなりに返事をしつつ、私も着替えを持って立ち上がる。
 因みに、さっき返却された淡雪のテストは七十三点だった。勉強しないと公言していた癖に、私より高得点なのは納得しがたい。まあ、ある意味いつものことなのだが。
 私の僻みに満ちた視線に気付くこと無く先を進む淡雪を見て、私はもう一度息を吐いた。

「私って、やっぱり頭悪いんだろうな……色々な意味で」

 呟きが私の口から零れる。顔を上げた私の瞳が振り返った淡雪の姿を映した。

「梓ー、どうかしたのー?」

「ごめん、今行くー」

 頭を振って心持ちを新にし、小走りに淡雪に近付いていった。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


「はい、整列!」

 ピー、という笛の音が体育館に反響し、二クラス分の生徒がぞろぞろと集まっていく。私達二年C組と、お隣の二年D組を合わせた八十人近い女生徒が整然と並んでいるのは、個人的に物珍しさがあった。そもそも、徹頭徹尾男性が排除されたこの学院内では、そういった光景は日常的に見られるのだが。

「テストも終了したことですし、後数回で今やっているバスケも終わりになります。説明している時間ももったいないので、早速始めましょう。それぞれのグループに分かれて、各自で準備運動を済ませておいて下さい」

 先生が簡単に説明を終えたところで、私は元気良く挙手した。

「はい! 先生、質問があります!」

「何でしょうか、えっと……」

 云い淀んだ先生を見て、その理由が思い当たった。私に見覚えがないのだろう。

「先日転入してきました、二年C組の連城梓です! それで、私はどこのグループに入ればいいのでしょうか」

「ああ、貴女が連城さんですか。そうね……ああ、相澤さん達のグループは他より一人少なかったわね?そこに入って下さい」

「はい、解りました……?」

 相澤さん? ……誰?

「私も相澤さんと同じグループだから、一緒だね」

 ……とりあえず、淡雪と行動を共にすれば大丈夫だろう。後ろを向いて小声でそう云った淡雪に頑張ろうと伝え、気を付けの姿勢を意識した。

「他に質問はありませんか? ……無いようですね。それでは皆さん、準備を始めて下さい」

 はい、と揃った返事が返され、女生徒達は散らばった。数人のグループに分かれて談笑しながらストレッチしたり、ボールを取りに行ったりと様々だった。

「いや、一緒のグループになれて良かったよ。何分、友達の少ない身なものですから」

「クラスの中じゃ私とケイリだけじゃない? もう少し交友関係は広げなさいよ……」

「だから、これがいい機会になるんじゃないかな、って思ったり」

「そういえば、梓って運動得意なの?」

「それは見てのお楽しみ、ってね。ま、期待していて下さいな」

「あの……」

 ふと気が付くと、私と淡雪の周りに三人の女生徒が集まっていた。クラスメイトとの交流が壊滅的な私では、彼女たちの名前が解らない。胸元に縫いつけられた名札を見なければ。

「えっと……相澤さんと、早瀬さん。それに、櫻井さん、だよね? これから宜しくお願いします」

「あ、はい。こちらこそ宜しくお願いします、連城さん」

 差し出した手を、黒いおさげ髪の少女が恐々と掴んだ。軽く力を入れて握ると、きゃっという悲鳴が少女の口から零れ出る。パッと手を放すと、申し訳なさそうな顔で頭を下げられた。

「宜しくお願いしますね、連城さん。まだあまりお話したことはありませんから、これから仲良くしましょうね」

 早瀬という名札を付けた茶みがかった髪の女性が、空いた私の手を握りながら微笑み掛けてくる。私も笑顔を浮かべて、はいと答えを返す。

「宜しく、連城さん。私はあまり運動が出来ませんので、頼りにしていますよ?」

 同じグループの最後の一人である、華奢な体躯の櫻井という名の少女は、冗談っぽくそう云って手を差し出してきた。

「はい、精一杯頑張りましょう! 負けるつもりはありませんから!」

 私はまだ外様と変わらないけれど、頑張ろうと思う。特に、体育なんていう絶好の活躍の場なんだから、自重する必要も無い筈だ。
 とは云っても、正直ブランクがそれなりにあるのも確かだ。引っ越しの手続きやらテスト勉強やらで、最近碌に体を動かしていなかった。これでどこまで動けるか疑問は残るが、とりあえずストレッチだけはガッツリやっておかないと。

 櫻井さんの小さな手をしっかり握り締めながら、闘争心が燃え上がっていくのを感じた。
 ……痛い痛い放してー、と軽く涙目になっている彼女や、私の手を外そうとしている淡雪にも気付かずに。

 ……要、反省だ。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


「それでは、AグループとEグループ、CグループとGグループの試合を始めます。用意」

 ピー!
 笛の音が高らかに響き渡ると同時に、審判役の女生徒がボールを高く放り投げた。それに続くようにして、相澤さんと相手側の女生徒が垂直に跳ぶ。

「やぁっ!」

「きゃっ!」

 背の高さの違いが大きかったせいか、ボールは相手側に回った。あのDグループの女子、目算でも百七十センチはある。そんな相手を相澤さんに任せたのは失敗だっただろうか。いや、今は考えるよりも行動しないと!

「このっ」

「ふっ!」

 止めに行った淡雪がするりと躱される。ボールを持っている女生徒の動きが、どう見ても経験者のそれだった。こっちには現役運動部員なんて居ないんだから、少しは自重してくれればいいのに、なんてことを考えたりする。

「えいっ!」

 抜かれかけた早瀬さんが伸ばした指の先が、相手の女生徒の持つボールを掠めた。ボールの跳ねる方向が変化する。

「あっ……と、ナイス、おっさん!」

「おっさん云うな! 馬鹿山ぁっ!」

 危なげなく相手側の生徒がボールを回収し、そのままゴールへ突き進む。軽口を叩けるあたり、二人には余裕が感じられた。

「止め――」

「っ、はぁっ!」

 立ちはだかった櫻井さんを見て、おっさんと呼ばれた女生徒はすぐさまドリブルを止めてシュートを放った。美しい放物線を描いて落ちるボールがリングを通過する。

「よし!」

 ボールが床を小刻みに跳ねながら、馬鹿山と呼ばれた女生徒をマークしていた淡雪の足にぶつかる切り込んできた二人がハイタッチを交わすと、観戦していた生徒たちが歓声を上げた。

「まずは一点、ってところか?」

「そうね。少し大人げない気もするけれど……」

「いやいや、バスケ部員として、これくらいはやらないとな。折角の活躍の機会なんだしさ」

「そうかな? そうだね。そうだよね」

 おっさんと呼ばれた女生徒がうんうんと何度も頷く。いや、そこは自重しようよバスケ部。って云うかバスケ部員が固まってるとかどんな悪夢だ。
 同じグループのクラスメイト達を見ると、やはり少しは気落ちしている様子だった。けれど殊の外悔しそうに見えないのは、こうなること予想していたからだろうか。

「ドンマイ! 次頑張ろ!」

「う、うん! そうだよね。次、頑張りましょう」

 敵陣の奥からやっと戻ってきた私を相澤さんが迎える。相澤さんはまだやる気に満ちている。

「流石にバスケ部なだけあって、あの二人は上手いわね」

「せめて一点くらいは取りたいけど、五分じゃ難しいかなぁ」

「あっさり抜かれてしまいましたし、難しいでしょうね……」

「あぅ……」

 早瀬さんと淡雪、それに櫻井さんが気勢を削ぐような言葉を並べる。そう思ってしまうのも仕方が無いのかもしれないけど、諦めるには早過ぎる。

「んー……ねぇ淡雪、こっちにボールくれない?」

「へ? あ、うん。はい」

 足下に転がっていたボールが差し出される。

「そうじゃなくて、試合中に私にボール回して、ってこと」

「ああ、そういうこと? うん、解った」

「宜しくね、淡雪」

 流れを変える。そのための一手を考えながら、体を解していく。

「とりあえずは、一点、かな。後は追々考えていこう」

 口の中で呟きながら、私は戦いの準備を進めていった。勝てるかどうかは解らないが、全力は尽くす。その精神もまた、私の中に未だに根強く残っていた。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


「せー、のっ!」

 エンドラインの奥にいる淡雪が投げたボールが、相手のバスケ部二人を避けて私の元へ届く。意外と力はあるらしく、ボールは中々に速さが乗っていた。
 まあ、その分コントロールは損なわれているようで、私の近くに張り付いていた相手チームの女生徒へ向かっていったのだが。別に問題も無いので、動くとしよう。

「えっ?」

 ボールを奪取し、そのままドリブルして女生徒の脇を抜けた。彼女は反応出来なかったらしく、手を伸ばした体勢で立ち尽くしていた。

「っ! 水仙寺さん、萩原さん、止めてっ!」

 馬鹿山?さんが鋭い声を発し、それと同時に二人の女生徒が私の前に立ちはだかる。ジャンプボールをした背の高い女生徒と、それとは逆に小柄な女生徒の二人だった。
 身長差が二、三十センチもあるときついが、本職相手じゃなければどうにでもなる、かな?流石にこの二人までバスケ部なんてことは無いだろうし。

「……」

「やあっ!」

 フェイントを軽く入れ、大柄な女生徒と私の間に小柄な女生徒を挟む。至近から伸ばされた手をひらりと躱し、そのままゴールに向かって直進した。

「くぅっ!」

 大柄な生徒は小柄な生徒の体が邪魔になってその手を届かせることが出来ない。でも、直ぐにゴール下に戻ろうと判断したのは称賛に値すると思う。残念ながら、それより先に私はレイアップ投げられるんだけどね。
 走る勢いに乗って軽く跳躍し、バスケットに載せるようにボールをふわりと投げる。リングの上で二度三度と跳ねる音を耳にしながら、足を揃えて着地する。

「っぶなー! 危なかったー!」

 おっさん?の言葉通り、残念ながらボールはリングを通らず落下していた。その言葉に私は即座に失敗を悟り、次の行動に移った。
 落ちている最中のボールを右手で掴み取る。そういえば、前の学校の女子連中でこれが出来た人って多くなかったな、等と関係ないことを思い出しながら膝を大きく曲げた。そして、溜めたエネルギーを爆発させ、飛翔した。

「なぁっ!?」

「へっ?」

「えぇっ!?」

「はぁっ?」

 其処彼処(そこかしこ)から驚愕の声が聞こえる。別に不思議なことでは無い。今の私は、一メートル以上も垂直跳びして空中に居るのだ。

 私は運動が得意だと公言できる程度には、自信の能力に自信を持っている。その中でも特に得意な"跳躍"という行為は、昔から他の追随を許したことは無かった。そしてそれは、かつての運動が得意な仲間内でも変わらなかった。
 だからこそ、私は自分が図抜けて"跳べる"ということを自覚しているし、それに対する他の人の反応も慣れている。と云うより寧ろ、狙ってやっている。

 しかし、ああ、懐かしいこの感覚。運動の最中に注目が自分に集まった時の、この昴揚感。背筋に電流がビリビリ走るようなこの快感は、何度経験しても堪らない。病みつきになるのも仕方が無いだろう。
 こうして、人の視線を浴びて性的興奮にも似た感覚を覚えるのは、私がマゾヒストだからなのだと、以前相談した友人に聞かされた。それも、ドが付く程の、らしい。
 そんなことを云われた当時は勿論反発したが、こうして今、絶頂にも似た興奮を覚えている私は、確かに変態だと認めなければならないだろう。だがそれも私の一部であり、私のアイデンティティーを構築するパーツなのだ。否定する気はまるで起きなかった。

「っやあああぁぁぁっ!」

 右手でしっかりと握り締めているボールを、力の限りリングに叩きつける。ダンクシュート。バスケのシュートの中でも、特に見栄えがするものだろう。乱暴になりがちなのは、流石にどうしようもない。何せ今は、興奮しっぱなしで自制が効きにくいのだ。
 普段ならもう少し押さえられたのだろうが、いくつかの条件が重なっていてそうもいかない。百人近い生徒が私一人に注目し、またここ最近運動出来なかったので鬱憤が溜まっていて、なお且つそれが発散出来る場が与えられた。
 そんな状態でまだ自制が効かせられる程、私は大人ではなかった。と云うか、大人の方が箍(たが)が外れたときは酷いんじゃないだろうか。

 勢い良くネットを揺らしたボールが床を跳ね、ダンという着地音が続く。小刻みに跳ねるボールの音を最後に、体育館から音が消えた。怪訝に思うも、そんな間は無かった。

 きゃあぁぁあああぁぁぁぁあああああっ!!

 耳を劈(つんざ)くような歓声が大音量で響き渡った。地面が揺れたような錯覚を覚え、爆音から守るように反射的に耳を塞いだ。

「は、え、何? 何なの?」

 いきなりの状況の変化に付いていけず、目を白黒させながら辺りを見回す私の元に、興奮した様子の淡雪達が駆け寄ってきた。

「凄いじゃない、梓! 何? 元バスケ部だったりするの?」

「連城さん、凄いです! 三人も抜いて、ダンクシュートを決めるなんて!」

「確かに、あのダンクシュートは格好良かったわね。それにしても、本当に驚かされたわ。連城さんって、運動神経が良いのね」

「連城さん、良いものを見せて貰いました。期待に応えてくれてありがとうございます」

「あ、ありがと……?」

 流石に、ここまでの反応が返ってくるとは思っていなかった。いや、心のどこかでは予期していたのかもしれないが、それにしてもこの反応はどうだろうか。
 高々一発ダンクを決めただけなのに、こうもベタ褒めされると奇妙に感じる。第一、バスケ部員と競った訳でも無いのに。

「はーい、そこ、静かにー! ちょっと騒ぎ過ぎですよー! いい加減にしないと、成績下げますよー!」

 先生の言葉が聞こえるが、喧噪の熱はまだ冷めそうも無い。どうしたものかと思いつつ、私は頭を掻きながら苦笑を浮かべた。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 直に狂騒も収まりを見せ、互いに配置に就いていった。擦れ違ったバスケ部の二人の顔が引き締まっているように見え、思わず口角が吊り上がった。

「……」

「……」

 ダンクを決めた時とはまた別の意味で、コートが静寂に包まれる。お互いに真剣味が先程までとはまるで違う。楽しい試合が出来そうだと思った瞬間、大柄な女生徒が奥まで下がった馬鹿山?さんにボールを投げ渡した。
 試合、再開だ。地面を蹴ってバスケ部の二人組を抑えに行く。私とは別に桜井さんがおっさん?へ、淡雪が馬鹿山?さんへとそれぞれ妨害に向かった。
 しかし、相手もやはりバスケ部なだけはあった。二人の妨害を物ともせず、小刻みにパスを回しながら凄まじい速さで突き進んでいる。だが、私の勝機はそこにある。

「あっ!」

 高めに投げられたボールを、私は苦も無く奪取する。ボールを抱えて着地し、すぐ傍まで相手が近付いていることを見て理解する。バスケ部のダブルチーム相手にドリブルで抜く……流石に厳しいか。
 そう判断すると、即座に体勢をシュートのものに切り替えた。スリーポイントラインどころかセンターラインより遠いが、相手を抜くよりは現実的だ。
 頭上に上げた手から放られたボールが、弧を描いてバスケットに近付く。ガン、とリングの端にぶつかって落ちた。

「……やっぱそう上手くはいかないか」

 内心で舌打ちを鳴らし、素早く次の行動に移る。相手側は既にリバウンドを済ませた大柄な女生徒から、戻ってきた馬鹿山?さんへとボールが回っている。こちらを見る視線が更に厳しくなっているので、警戒が強まっているのだろう。
 とりあえず馬鹿山?さんを止めようと近付いたが、手の届かない位置への鋭いパスがおっさん?へと通った。バシンと良い音が鳴り、痛そうだなと余計な考えが脳裏を過(よぎ)る。
 駆け出そうとした体を、寸前になって止める。私が今動いたところで、出来ることは何も無い。
 自陣の深くまで入り込んでいるおっさん?は既にボールをシュートしているし、バスケット下では早瀬さんが待機している。寧ろ今は、切り返しのために前に出ておくべきだ。そう判断した私の視線の先で、リングを潜ったボールがネットを大きく揺らした。

「ぅしっ! どうだっ!」

「うん、上手いと思うよ。バスケ部なだけはあるね」

 誇らしげな馬鹿山?さんにそう云う。若干上から目線になってしまったのは意図したところではない。シュートを決めたおっさん?なのに、馬鹿山?さんが自分のことのように喜んでいるのが羨ましく思ったからでは、ない。
 ……本当は、その姿に懐かしさを覚えていた。かつての友人達とのやりとりを思い出す。あの小さな集まりの中で私は弄られる側だったものの、とても心地良かったものだった。

「……はっ」

 自嘲しながら頭を振って感慨を追い出す。今の私が居るのはあそこでは無い。聖應女学院というお嬢様学校だ。もう関係無いとまでは云わないが、思い出にするにしても早すぎるだろう。
 それよりも、と思考を戻す。今は試合に集中するべきだ。視線を送ると、淡雪達の表情からは自信が無くなりかけていた。まあ、あっさりと点を取られたのが響いているのだろう。そちらに向かいながら、考える。
 私が点を取るのは、それ程難しいことでは無いと思う。身体能力に関しては私の方が上だろうし、本職ではないにしろ私もバスケの心得はある。
 転がっているボールを拾い、立てた人差し指の先で回転させる。こういった小ネタはかなり練習したので失敗するようなヘマはしない。指先で回るボールを見て、淡雪達は見入っていた。

「んー……それじゃあ次、ちょっとやってみたいことがあるんだ」

 淡雪の顔を見て、私は微笑みを浮かべる。

「……え、何? 私?」

「うん。淡雪にちょっと頑張って貰おうかなって」

 回転していたボールを早瀬さんに渡す。

「時間も後二分切ってるし、作戦を話したら直ぐ始めるからよく聞いててね。勿論三人にもやって貰うことはあるから」

「う、うん。解った、聞かせて」

 ペロリと舌舐めずりをして、唇を湿らせる。そして、緊張している四人に考えたばかりの作戦を伝えた。
 ……上手く行くと良いけど、こればっかりは保証出来ない。最善を尽くしても、失敗するときは失敗するものだ。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 早瀬さんからボールを受け取る。作戦を伝えるのに時間を割いたため、相手は完全に配置に就いている。前に出ているのは馬鹿山?さんと最初に抜いた一人。おっさん?は中央でこちらを凝視していた。
 警戒されてるなと若干呆れ混じりに思うが、仕方が無いかとも思う。バスケ部が二人も揃っているグループが、運動部員すら居ないグループと得点で一時的に並んでいたのだし。相手がそのことを知ってはいないと思うが。
 じりじりと距離を詰めてくる相手を前に、私はその場でドリブルをしたまま動かない。いや、体勢は変えているものの、足を動かそうとしていない。ギリギリまでそれを続ける。
 相澤さんと桜井さんがそれぞれバスケ部員をマークしているが、やはり効果は薄い。薄くとも効果があるだけ十分だと考える。素人なんだし、実際大して期待していない。
 限界が近付くも、把握していた状況から成功も近付いていることを知る。体の向きを早瀬さんの方に動かし、注目がそちらに逸れた一瞬で跳び上がった。

「淡雪っ!」

 叫んで、思い切りボールを投擲する。全力で投げられたボールは、一度二度と跳ねて勢いを削がれながら淡雪の腕の中に潜り込んだ。

「っ痛ぅ」

 痛みで顔を僅かにしかめながらも、ボールを取り落とさない淡雪を心の中で称賛する。勢いの乗ったボールを受け取るのは、慣れていないと存外に痛い。特にあんな、胸で受け取るような真似をすれば、私でも痛みを感じるだろう。

「萩原さん、止めて!」

「解った……!」

「うわっ、待ってよっ」

 ぎこちないドリブルで進み始めた淡雪に、奥に居た残りの一人が立ち塞がる。焦った様子を見せる淡雪に、内心で不安が募っていく。

「うっ……もう、ええい!」

 何を思ったのか、淡雪はドリブルを止めてシュートを撃った。少し遠いように思うが、大丈夫だろうか。不安になりながら、ボールの行方を見守った。
 少し歪な放物線を描いて進むボールは、バスケットではなくボードにぶつかった。そして、跳ね返ったボールがリングを通過する。その光景を見届けると、私は声を張り上げた。

「淡雪、ナイス!」

「あ……うん!」

 嬉しそうな声音の淡雪にサムズアップする。こちらに気付いた淡雪も、サムズアップして返す。晴れ晴れとした笑顔の淡雪は、とても魅力的に見えた。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 結果としては、三対四で敗北した。メンバーの地力の差が露骨に出た形になる。
 私一人をバスケ部の片割れともう一人で抑え、残った相手が総力で攻めてきたのだが、それを守る力がこちらには無かった。後で聞いた話だが、相手は五人とも運動部員らしい。私一人居たところでどうにかなる訳が無い。
 それにしても、たったの五分とは云え、久々に思い切り運動出来たのは良かった。やっぱり体を動かすのは気分が良いと、改めて思い直した。
 ……試合が終わった直後に、やたらと部活勧誘されたのが面倒だったけど。一つの競技に熱中するのは柄じゃないんだよなあ。自分が不真面目なのは解っているけど、どうしたものかな。
 興奮の中に僅かな憂慮を残して、更衣室への道を歩いていった。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


「……これは、酷い」

「その、さ。梓って、テストとか苦手な人?あれだけ勉強してたのに、その点数って……」」

「云わないで……馬鹿なのは自分でも解ってるからさ……」

 三コマ目の授業が終わって、私は頭を抱えていた。既に体育の後の興奮は冷め、上がっていたテンションは底辺まで落ち込んでしまっている。
 理由は単純極まる。返ってきたテストの点数だ。五十二と赤い斜体で書かれた数字は、見る度に溜め息を吐きそうになる。
 発表されたクラスの平均点は六十四点。再考査が五十点未満だと伝えられて、点数が取りやすいテストだったと理解させられる。
 因みに、淡雪の点数は六十八点。いまいちだった、と云う淡雪が白々しく感じられた。淡雪に悪気は無いのだろうし、勉強していない癖に、と悪意を持ってしまう自分が嫌になる。

「っと、先生来た!」

「え、うわ、まだ授業の準備してないって!」

 ぼんやりと眺めていたテストを仕舞い、慌てて授業の用意を取り出していく。途中、紙が潰れる感触がするも、気にせずそのまま奥に押し込んだ。あんなテストがどうなろうが、知ったことではない。

「はい、授業を始めます。委員長、号令を」

「起立、礼」

 チャイムが鳴ったのは、皆が席に着いたのとほぼ同時だった。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 今日は母が珍しく寝坊したため、昼食は学食で取ることにした。同席するのは、同じく弁当を持ってきていない淡雪とケイリの二人だ。
 もし弁当を持ってきたとしても、今日は教室内で食べようとは思えなかった。何というか、自意識過剰で無ければ、私へと向けられる視線が痛いのだ。あれでは折角の食事が美味しく食べられそうにない。

「それにしても、大活躍だったね、梓」

 スパゲッティーをフォークでくるくる巻きながら、ケイリが話しかけてくる。そんな動作一つとっても行儀良く見えるあたり、本当にお嬢さまなんだな、と改めて思い知らされる。

「うん?ああ、二時間目のこと?そこまで大活躍、って訳でも無いでしょ、あれくらい。普通だよ、普通」

 お腹が空いたのでとりあえず肉、と頼んだハンバーグを口に運び、その味の良さに驚く。いつも家で食べている肉よりも質が高そうだ。うむむ、と唸る私を、二人が少し呆れたように見た。

「いや、無いわ。あれが普通ってあり得ないでしょ。梓って前は何やってたの?」

「そうだね。普通の人はあんなに高くジャンプなんて出来ないから……梓?」

「……週二、いや週一くらいで学食にして貰おうかな? でも家計に余計な負担かけるのもなあ……って、うん?何?」

 考え事から戻って顔を上げると、何故か駄目な子を見るような視線を向けられた。何も云わないようなので、ハンバーグをもう一切れ口の中に放り込む。もぐもぐと口を動かす私を見て、二人は揃って小さく溜め息を吐いた。

「だから、前は何か部活とかやってたのか、っていう話。部活じゃなくても、何かスポーツはやってたでしょ?」

「……うん。運動を少々、ね」

 付け合わせの人参のグラッセをフォークで突き刺し、噛(かぶ)りつく。強過ぎないバターの風味が広がり、人参の甘さに目を細める。

「運動って……また曖昧な答えね。じゃあ、具体的には?」

「んー……」

 一度持っていたナイフとフォークを置く。ナイフの使い方は未だにぎこちないが、練習ということで使っている。開いた両手の指を十本とも立てる。

「バスケ、サッカー、ソフト、バレー、水泳、卓球に、ハンドボール、ドッジ、テニス、それと陸上もそうかな? まだあるけど、パッと思い付くのはそれ位かな。ああ、剣道とか柔道とか、後は新体操とかのルールが面倒なのは殆どやってないね」

 立てた指を順番に折っていく。視線を手元から上げると、二人の動きが止まっていた。

「どうかした?」

「いや、どうかしたじゃなくて。何なのよその数は? 普通、一個か二個じゃないの?」

「好きな時に好きなものをやってたからね。それが『運動部』クオリティーってやつですよ」

「『運動部』、か。察するに、運動部の助っ人みたいなことでもしていたのかな」

「イエス、その通り!」

 ナイフの切っ先をケイリに向ける。銀の刃が肉の脂でぬらぬらと照っている。

「ナイフを人に向けるのは行儀悪いわよ」

「あ、それはごめん」

 注意され、直ぐにナイフを下ろす。そもそも人に向けるものじゃないしね、これ。一応ナイフだから、万が一のこともあるかもしれないし。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 各自の食器の上にある食物が残り僅かとなった時、不意にケイリが口を開いた。

「ところで梓、貴女は自分が噂になっていることに気付いているかい?」

「はあ? いくら何でもそんな訳は無いでしょうに」

 思わず手を止めて反論する。だが、ケイリは澄ましたような表情を崩さずに続ける。

「そんな訳があるんだよね。ほら、耳を澄ませてみなよ」

 拒む理由も無いので、云われた通り意識を周りに向ける。騒めきの中から漏れ聞こえる、丁度近くに居た生徒達の声を拾っていく。

――今日、二年のバスケで――

――一メートル近くもジャンプしてダンクを――

――嘘?あり得ないでしょ――

――でもうちの後輩が見たって――

――じゃあどんな娘なの――

「……結局、皆さんは何を話していらっしゃるのですか? あまり意味が汲み取れませんでしたが」

 何故か変な敬語になった。

「多分、梓のことだと思うよ?あれだけ派手なことをしたんだ。閉鎖的なこの学院の中なら、噂になって広がるのも時間の問題だとは思っていたけど……予想以上だね」

 誇張でも何でも無いように云うケイリに、私は一縷の望みを掛けて聞き返す。

「……マジで?」

「マジで、だよ」

 クスリ、とどこか悪戯っぽく見える笑みが、こちらを眺めるケイリの口元に浮かぶ。冗談のように告げられた言葉は、とてもじゃないが冗談には聞こえなかった。

「はぁー……お嬢さま学校って凄いね。たかが体育の授業で少し目立った位で学校中に広まるとか……驚いた、としか云えないかな」

 息を吐いてそう云った私に、淡雪は変なものを見たかのような顔を向けてきた。

「あのねぇ……梓のアレは、たかがで済むようなものじゃないでしょうに。どこにメートル単位で垂直跳び出来る女子高生が居るのよ」

 呆れる様子を隠そうともしない淡雪の視線を受けて、右手に持ったナイフで自分を指す。ケイリと淡雪が更に呆れたような気がしたが、私は気にせず手を動かす。
 左手のフォークに刺さった最後の肉片を口の中に入れる。うん、やっぱり美味しい。今度から母に頼んで週一位は学食に行かせて貰おう。

「梓はさ、自分が没個性な一般人だとか思ってる?」

 じと目で睨まれる。当然のように首を横に振ると、淡雪は額に手を当てた。ケイリは口元を押さえているが、体が小刻みに振動しているところを見ると、笑いを堪え切れていない様子だった。

「自覚してるのに、どうしてそれが表に出てこないのよ……」

「だって私、変人だとは自覚してるよ? それに、昔から諦めるしかないと自覚する程度には、頻繁に騒ぎに巻き込まれてたしさ。前の学校で合計何枚反省文書いたか解らないしね」

「……梓って、意外とやんちゃだったりする?」

「私が引き起こしてる訳じゃ無いよ。幼馴染やらの姦計に嵌められて、毎回毎回連帯して責任負わされてたの。私の意志なんて関係無しに巻き込まれるから、ただ罰を受けるよりも楽しもうと思ってただけ」

「何と云うか……ご愁傷さま?」

「その結果、今の私があるんだけどね」

 頬杖を突いて視線を中空に送り、ぼんやりと回顧する。いつも私に責任を押しつけていた友人達の姿を。傍観者から始まって、最後は必ず当事者になっていた昔を。刺激に満ちていても、決して嫌では無かった日常を――

 キーンコーンカーンコーン。

 ――思い出そうとして、丁度予鈴が鳴った。ハッとなって周りを見渡すと、もう学食に残っている生徒は殆ど居らず、その数も急速に減っていた。

「っと、いけない! ケイリ、梓、急いで片付けるよ!話はまた今度ね」

「そうだね。何、時間はまだまだあるんだ。急ぐ必要なんて無いしね」

「解った。じゃ、えっと」

「ほら、分担して作業しないと授業遅れるよ! こっちに食器重ねて!」

 パンパンと手を叩いて指示を出す淡雪を見て、私はどこか懐かしさを感じた。そのことに気付き、軽く頭を振って思いを逃がす。どうやら、私らしくも無く望郷の念に駆られているらしい。
 ここでの生活が始まって、やっと落ち着いてきたということだろうか。何せ日常の中でそういったことを考える余裕が生まれたのだから。それ自体は良いことの筈だ。
 けれど、昔のことを思い出さなかったことは良かったのか、それとも悪かったのか。未だ判断は付かず、また付けるつもりも無い。彼ら彼女らはただ対面することが難しいだけで、文を送ることも、声を聞くことさえも出来るのだから。
 過去にするには、少し早過ぎる。



[35772] 六話 六月下旬、不思議な活気。
Name: パオパオ◆a94e6367 ID:ac1e60c3
Date: 2012/11/11 06:49
 特筆すべきことも無く漫然と日々を過ごしていると、学院内が日に日に騒がしくなっていくのを感じた。特に、聞き慣れない単語を耳にする機会が明らかに増えた。
 現在時刻、午前八時五分。学院の門を足早に通り過ぎると、近くに居た集団の会話が耳に入る。その内容は、最近よく聞く事柄に関係があるようだった。

「今年度のエルダーはどなたになるのかしら」

「私は断然王子を推しますわよ」

「あら、私は騎士(ナイト)の君にこそ、是非ともエルダーになって頂きたいですわ。あの凛々しいお姿が、エルダーに相応しいと思いませんこと?」

「初音会長も魅力的ですし、ああ、千早お姉さまも正にエルダー、といった風格が感じられますし……」

「今年は素敵なお姉さま方が多くて悩んでしまいますわね」

 ここ最近、最上級性の先輩の名前を頻繁に聞くようになった。今見たのも珍しい光景ではなく、教室に入れば同じような話が繰り広げられているのを目にすることが出来るだろう。
 何がきっかけでこうなっているのかは私には解らない。エルダー、というのはどこかで見たような覚えがあるが……生憎、思い出せそうもなかった。
 小骨が喉に引っかかっているような煩わしさを感じる。まあ、それ程気になることでもないし、覚えていたら淡雪に訊ねる位の気持ちでいいだろう。

 ……それにしても。

「王子って……ここは女学院だったよね?男子学生なんて居ない筈だけど、どういうことだろ」

 『王子(さま)』という男性を表す単語に、私は暫く首を傾げていた。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 教室に入る時、最前列右端に座る女生徒から一枚のプリントを手渡された。確か、この席に座る生徒は受付嬢とか云うんだったっけ? 淡雪からそんな話を聞いた覚えがある。

「……これは?」

「え? ああ、梓さんは知りませんでしたか。もうすぐエルダー選挙があるので、その投票用紙を配っているんですよ。選出委員会から届けられましたので」

「はあ、それはどうも、ありがとうございます……?」

「いえ、お礼を云われるようなことではありませんので」

 貰ったプリントに目を通しながら席に向かう。書かれていることは少ない。学年、組、番号、記入者名、そして推薦者名を書くスペースしか無い。それ以外には『エルダー』という単語があるだけで、注意書きさえ無かった。

「エルダー……って、最近話題になってるあれかな? いまいち意味が掴めないんだけど。この用紙の形式からして選挙みたいなものだとすると、エルダーってものは生徒会長みたいなものなのかな? いや、生徒会長はあの皆瀬さんが居た筈だし……」

「おはよ、梓……どうしたの?」

 ううむと唸っていると、いつの間にか来ていた淡雪に挨拶された。

「んむ? ああ、おはよう、淡雪。いや、これがよく解らなくてさ」

 ひらひらと投票用紙を揺らして見せる。それが何か思い当たったようで、ああと理解した声を出した。

「そっか、梓はまだここに来て一月も経ってないしね。それじゃあ、梓の解らないことをこの淡雪さんが説明しましょう」

「まずエルダーって何?」

「そこからか……」

 あからさまに苦笑する淡雪に、私はじと目を向ける。ごめんと軽く謝った後、咳払いを一つして、淡雪の説明が始まった。

「エルダーっていうのは、簡単に云っちゃえば全学生の見本になる最上級生に与えられる、称号みたいなものだね。民主的に投票で決まった生徒がそう呼ばれるの。梓が持ってるその紙は、書かれてる通り投票のための用紙だね」

「そのエルダーってさ、生徒会長みたいなもの?」

「いや、生徒会長は別にちゃんと居るよ? 初音会長って……知らないか」

「転入する前に一度学校見学で会ったから、知ってはいるよ。あの小動物っぽい人でしょ?」

 特に接点も無いので、あれ以来会ってはいない。学年も違うし、普通はそんなものだろうけど。

「あれ、知ってたんだ。ええと、エルダーはそもそもエルダーシスターの略称で、全生徒の七十五%以上の票を得た生徒がなるものなの」

「……七十、五?」

 普通は過半数とかじゃないの?

「うん。それ未満ならその年のエルダーは空席になるんだ」

「それ、厳し過ぎない? 選挙活動もしてないんでしょ? そんな状態で七十五%なんて、出るものなの?」

「案外大丈夫だよ。何せ、空席になるのを防ぐための規則もあるからね。この学院の伝統なんだし、そうそう空席なんて出来るものじゃないけど」

「規則?」

 鸚鵡(おうむ)返しに訊ねる。生徒手帳も碌に読んでいない身には、知識が絶対的に足りていない。特にエルダーなんて、普通の学校にはないものに関しては。

「そう。譲渡って云うんだけどね。二十%以上の票を得た候補者が、任意で他の候補者に票を譲り渡すことが出来るの」

「それで、結局七十五%を越えるってことか……成る程、良く出来てるね」

 感心していると、ふと疑問に思うことがあった。

「そう云えば、エルダーになったらどうなるの? さっきは見本とか云ってたけど、まさかそれだけってことは無いでしょ。何かしら、義務なり権限なりはあるんでしょ?」

「いや、多分、無かったと思う……あ、強いて云えば、行事なんかで主催者側に回ったりする位かな?」

 少しの間、私は絶句していた。口をぱくぱくと開閉させるだけで、言葉が音になることは無かった。

「……エルダーって、本気でただの名誉職じゃない」

「云ってなかったっけ? この学院の伝統だけど、エルダーって実際明文化もされていないんだよ。まあ、明文化されていないからこそ、純粋にみんなの憧れの対象になるんだけど」

「はぁー……うん。色々と疑問は解消したかも」

 説明ありがと、と感謝の言葉を続けて、私は手元の薄い紙に視線を落とした。さて、誰の名前を書こうか。転入からまだ日が浅いので、知っている先輩の名前など限られている。
 文面を読み直す。注意事項なども一切書かれていない簡素なものだ。この学院の中では公然のこととなっているからだろうが、正確な規則が解らない私は不安で仕方が無い。
 少し考えた後、ペンを動かした。『ちはやお姉さま』と書き、自分の情報の欄を埋めていく。フルネームは思い出せなかったし、漢字は解らなかった。『千早』だとは思うが、間違っていたら失礼過ぎる。
 そもそも、思いついた先輩なんて銀姫さましか居なかった。実際、皆のお手本としては相応しいと思う。あの女性(ひと)の佇まいは思わず見惚れるくらいだったし。

「これでいっか。ま、エルダーなんてよく解らないし、この位の適当さでいいでしょ」

「梓、書けたの?」

「うん。それで、これどうすればいいの?」

「あー……梓って、相模陽子さんって解る? 委員会の人なんだけど」

「……クラスメイト、でいいの?」

「……いいわ、それ頂戴。代わりに出しておくから」

「あ、うん。ありがと」

「本当に、少しぐらいはクラスメイトと話したりしなよ?」

「あははは……」

 淡雪の心配そうな視線を笑って誤魔化す。これでも、体育で一緒になった三人の顔は覚えている分、良くなっている筈だ。相原さんと、水瀬さんと、櫻井さん……あれ、何か違う気がする。
 紙を裏向きで淡雪に渡すと、自分の記憶力の悪さに溜め息を吐いた。いや、悪いのは頭か。記憶力云々の問題じゃなく。
 何となく、窓の外に視線を送った。誰も居ない校庭が、燦々と照り付ける陽射しを浴びて輝いている。整然と立ち並ぶ木々は、青々とした葉に覆われて夏の到来を感じさせる。
 詩人か、と自嘲する。どうやら夏の暑さで頭がやられているらしい。こういう時は、頭を空っぽにして運動するに限る。
 鐘の音とともに入室してきた担任を眺めながら、放課後の予定を考えていた。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


「……思っていたより、微妙だったかな。皆気分が浮ついてるみたいだったし、エルダーとやらが決まることがそんなに関心を引くことなのかな? 解んないなあ……」

 火照った体の熱を軽くストレッチして解しながら体育館を出る。今日はバスケ部の見学券仮入部に来たのに、いまいち歓迎されていなかった。と云うより、私に興味がないのか、ほとんど相手にされなかった。

「D組のあの二人とかの、レギュラーの人達はまだマシな方だったけど、他が酷かったな。三年の先輩が居るのに規律が守られてないって、問題なんじゃないかな。ま、私には関係無いけどさ」

 ぶつくさと文句を吐き出しながら歩いていく。レギュラーの人達の練習はそれなりだったが、控えになるともう見られるものじゃなかった。ボールに触ることさえせずに友人と喋ってばかりで、試合形式の練習でさえ真剣味が感じられなかった。

「バスケ部は……もういいや。失礼だけど、もう少しやる気ある人とやりたいんだよなぁ……あ、確か家の近くでバスケのコートがあった気がする。ストバスとかやってないかな? 今度見に行ってみよっと」

 別段、趣味の場を態々学校に限定する必要はない。学校でしか出来ない、人数が必要な競技はあるものの、そういった特定の競技が特別やりたい訳ではないのだ。ただ体を動かせて、楽しめれば何だって良かった。

「やっぱりお嬢さま学校はお嬢さま学校なんだよな……ストイックさに欠けると云うか、お遊びな感じがするんだよな。ま、フラフラしてる私が言えた義理じゃないんだけど、ね」

 組んだ両腕を思い切り伸ばしつつ、ストレッチを締める。やはり出来ることなら、真剣にやっている人たちとスポーツに励みたい。そっちの方が燃えるし、簡単には勝てないということが堪らない。
 負けから始まり、努力して勝利をもぎ取った時の達成感。運動しているときの注目をはるかに越える快感は、何事にも代えがたいものがある。

「とりあえずは、体を戻さないとね。半月もサボっていた分、体力とかの低下が著しいだろうし。早朝ジョギングとか始めようかな? 早速、走って帰ってみよっと」

 心地良い筋肉疲労を味わうために、家までの道程を走り抜けた。



[35772] 七話 六月下旬、エルダー決定。
Name: パオパオ◆a94e6367 ID:ac1e60c3
Date: 2012/11/12 04:54
 六月最後の平日。教室に入った私は、ざわざわとした話声にかき消されて気付かれていないようだった。

「今日はいつにも増して騒がしいな。登校する時間を変えたからって訳じゃないだろうし……あぁ、エルダーが決まるのって今日だったっけ?」

 生活サイクルに手を入れたため以前よりも遅く学院に着いたが、その騒めきは今までで一番だった。廊下に居た時、ほぼ全ての教室からから聞こえてきた『エルダー』やそれに関する単語。エルダー選挙が行われる詳しい日付は覚えていなかったが、どうやら今日らしい。

「皆元気だね。それだけ楽しみにしてるってことなんだろうけど、私はあんまりノれないからなあ。結局、よく解らないし」

 解らないと云うよりは知ろうとしなかったのだが、大して変わりは無いだろう。私に関係してくることは無いだろうし。

「そう云えば、私の書いたやつって無効票になったんだっけ? フルネーム漢字で書けとか知らないってば」

 後で淡雪に聞いたことだった。伝統だけあって、意外と基準は厳しいらしい。解らないんだったら聞いてよ、と淡雪に少し怒られたが、態々聞くのは恥ずかしかった。あと、面倒だった。

「ま、本音を云えば、単に興味が無いんだよね。そんな人間の票は、入らない方が健全でしょうよ。そう思わない?」

「うん?」

 私の前の席で座っていた淡雪に問いかける。いきなりの質問に、きょとんとして訊ね返された。

「何の話なの?」

「いや、独り言。何でも無いっす」

「何それ? じゃあ聞かないでよ」

「何故かそんな気分だったんだって。気にしないでおいて」

 呆れていた淡雪は、何かに思い当たったように声を漏らした。

「あぁ、梓もわくわくしてる訳ね。かく云う私も、結構楽しみにしてるけどさ」

「何を、って聞くまでもないか。エルダー戦でしょ?」

「勿論。皆もそうだろうね」

「……選挙、サボっちゃ駄目かな?」

「当り前でしょ。授業時間使ってるんだから、一応、授業の一環になるんだし」

「ま、私は授業が潰れるだけでもありがたいや」

 私がそう云うと、淡雪は嫌そうに顔をしかめた。

「……あんまり楽しみじゃなさそうね」

「そんなことも、あったり無かったり」

「何それ」

 何でも無いと答えると、丁度担任が扉を開けたところだった。手振りでそのことを淡雪に知らせると、淡雪は渋々前を向いた。最後にチラリと見えた横顔は不満そうだった。

 頬杖を突きながら、お喋りを止めて席に着いていくクラスメイト達の姿を眺める。普段と変わらないように見えるが、やはりいつもより話し声が聞こえてくる。話題は云うまでもなく、どこも変わらなかった。

「皆さん、静かにしてくださいね」

 珍しく担任が注意をしたが、それでも話し声は止みそうにない。人望がどうとかの話ではなく、純粋に生徒たちが興奮し過ぎているのだろう。担任もそれが解っているのか、早々に委員長に声をかけた。

「気持ちは解りますが……委員長、号令を」

「起立、礼」

 いつもより多い連絡事項を話す担任の声に耳を傾けながら、私は窓の外に広がる空を眺めた。快晴の空に微かに浮かぶ薄く小さい雲が、今の私の状況を如実に表している気がした。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 昼休み。
 淡雪とは気まずいままだったので、一人で食事場所を探していた。学食も覗いてみたが、あまりの人の多さと騒がしさにうんざりしてしまった。いくら静寂よりも喧騒の方が好みだと云っても、度が過ぎれば好ましくは思えない。
 軽い探検気分で学院の中を彷徨っていると、いくつもの未知を見つけた。これから何度もお世話になるであろう保健室、第一の場所を知らない第二音楽室、そして鍵の掛かっていない、屋上への扉。

 そういう訳で、私は今屋上で立ち尽くしている。

「何っにも、無い。自由に入れるみたいだけど、ベンチも無いし、人が寄り付きそうな感じもしないな。まぁ、一人になりたい時には丁度良さそう」

 辺りを見回して視界に入るのは、転落防止用のフェンスと給水塔に架かる梯子だけだった。砂利や蜘蛛の巣などはそんなに見当たらないので、適度に掃除はされているようだった。
 しかし、フェンスが低い。一メートルあるか無いかでは、ちょっとふざけていると誤って落ちてしまいそうだ。

「にしても、ここは暑いなぁ。遮る物が無いから風通しはいいけど、だからこそ陽射しも厳しいし。季節によっては快適だろうけど」

 燦々と降り注ぐ日光が、遮蔽物の無い屋上を満遍なく照らしている。髪がじりじりと焼けるように熱くなる。ここは色々出来そうな広さのスペースがあるが、スポーツをするなら熱中症とかに気を付けないといけないだろう。

「秋になったら、日向ぼっことかしたら気持ち良さそうだし。適当に色々持ちこんでみようかな? あんまり人も来ないだろうから丁度良いし……給水塔の上にでも隠しておけばばれないかな」

 給水塔の上に登るための梯子は、ほこりを被っていて暫く使われていないことを感じさせた。登りたい衝動に駆られるが、ふと取り出したケータイに表示された時刻を見て諦める。いい加減に昼食を取らないと、五コマ目に間に合いそうにない。

「近い内に、また今度来るとしようか。とりあえず、日陰行ってご飯食べよっと」

 南中に近いせいでひどく小さい建物の影で、取り出したお弁当箱を広げた。シンプルながらも味が保障された母特性のお弁当に、口の中で唾液が湧いてくるのを感じた。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


「そろそろ始めたいと思います……皆さん、宜しいですか」

 壇上に立つ、学院長……代理?の声が講堂内に響いた。抑え切れない生徒たちの興奮が溢れ出し、ライブ会場のような熱気を作り出している。

「問題無いようなので、発表を開始します……静粛に」

 学院長代理の宣言とともに、三学年総勢七百人を超える生徒が水を打ったように静まり返る。喋り声がまるで聞こえない今の光景は、朝や昼のことを思い出せば信じられない。
 だが、実際にそうなっているのだ。これだけ統率されている以上、思っていたよりも皆の関心が格段に高いことが窺える。もう放課後なんだから、正直帰らせてほしい。全員出席するのが不文律になっているみたいだけど。
 先程までとは空気が違う。作り上げられた厳粛な雰囲気の中に、今にも爆発しそうな期待感が隠れている。だからこそ、この空気に馴染めない私は、どうしようもない居心地の悪さを感じていた。

「エルダーシスター選考委員会による集計結果が先程確定しました。選考規約に基づき、得票数が二十%を超えた生徒を呼びますので、壇上に上がってください」

 学院長代理はそこで一旦言葉を切った。言葉には出ていなくとも、周りの興奮が高まっていくのが嫌でも感じられる。
 それにしても、やはり二十%という得票率には驚きを隠せない。選挙のように立候補者が明確に存在する訳ではなく、直接の投票で全体の二十%も票が入るなど、並大抵のことではない。
 そう云えば、最近何度か目にした投票宣言というものは、ある種の選挙活動なのだろう。支持者が周囲に投票を宣言することで、周りとの意識の擦り合わせも兼ねていたのだろう。そうでもしなければ、票が分散し過ぎて二十%に満たない人が続出するだろうし。

「有効得票総数七百五十二票。その内百七十七票を獲得……真行寺茉清さん、壇上に」

 眼鏡をかけた長身の女生徒が、数多くの歓声に押されて壇上に向かう。青みがかった短髪やきびきびとした所作が、その女生徒を凛々しく見せている。成る程、格好良い女性と云った雰囲気に、どこか男性らしいクールさが混在するその姿は、人気が出るのも頷けた。
 しかし、どうにもあの眼鏡さんは戸惑っているようだ。足取りはしっかりとしているものの、落ち着かなく周りの生徒たちに視線を送っている。その視線を受けて歓声が強まるのにも気付いていないようだ。
 と云うか、二十%を超える票が入っているということは、投票宣言を受けている筈なんだから、この事態は予測出来ただろうに。そんなよく解らないアンバランスさが、眼鏡さんから感じられた。

「百七十九票を獲得、皆瀬初音さん」

 歓声に押されて、どこか見覚えのある後ろ姿が壇上へ上がっていく。後頭部に付いている尻尾が左右に揺れるが、その体は全くぶれていない。生徒会長なだけあって、人前に立つのは慣れているのだろう。

「百八十九票を獲得、七々原薫子さん」

 眼鏡さんを更に上回る長身の、腰までかかる長い黒髪の美人が、周りの声に押されて壇上へと向かう。さながら絶望でもしているかのようにとぼとぼと歩く姿からは、哀愁すら感じさせられる。あの人、どこかで見たことがある気がするが、誰だったか。

「最後に、百九十一票を獲得、妃宮千早さん」

 一番の歓声とともに、銀姫さまが壇上へ上がっていく。渋々といった感じなのが遠目にも解る。銀姫さまならエルダーとやらに相応しいと思うのだが、何か不服なのだろうか。
 ……って、ああ。あの黒髪の女性(ひと)、前に図書館で千早さんを呼びに来た美人さんだ。何だったか、淡雪が騎士だの呟いていた気がする……格好いいな、あの美人さん。

「残り票の獲得者に関しては、後日生徒会の掲示板に掲示されますのでそちらを確認するようにして下さい……では副会長、後はお願いします」

「……承知しました。梶浦先生、ご協力ありがとうございました」

 学院長代理が降壇し、代わりに副会長と呼ばれた女生徒が段を上る。眼鏡をかけていることくらいは解るが、何となく仕事人間な気がした。いや、外見と声からの第一印象に過ぎないけど。
 教師と云う最後の楔から解き放たれ、生徒たちの歓声は一際大きくなった。波とでも表すべき黄色い声に、私は少し耳が痛くなってきた。やっぱり、馴染めないかな……?

「では、これから得票上位者である皆さんに、自身の持つ票を譲り渡す意思の有無を確認します……意思無き場合は、沈黙を以て応えて下さい」

「私は……」

 副会長の言葉に、一人の女生徒が即座に反応して声を上げた。壇の下で喋っていた生徒たちが一斉に口を閉ざす。しかし壇上では、何故か副会長が驚いているようだった。

「私がこうして生徒会長を務めることになったのは、ひいては今、こうして横に居る大切なお友達……七々原さんが私にくれた勇気のおかげです」

「は、初音……?」

 そうして、驚愕している騎士(ナイト)の君へと向き直ると、会長さんは顔を綻ばせた。

「私、皆瀬初音は、敬愛する七々原薫子さんに……私の得た全ての票を譲渡させて頂きます」

 会長さんがひざまづいて、騎士(ナイト)の君の手の甲辺りに口付けた。それと同時に、無言で見守っていた生徒たちが割れんばかりの歓声を上げる。
 そんな中、私はただ見惚れていた。煩いと感じていた周りの声も気にならない。それだけ、今見ている光景に心を奪われていた。
 あの二人の関係は知らない。精々が、会長さんが云った通りに二人は友達なんだろうな、ということ位しか知らないのだ。私はあの二人と会ったといえるのだって、一度あるか無いかだ。
 なのに、その二人の姿が、どうしても胸を震わせる。気持ちに整理が付けられない。体がゾクゾクするのを感じる。

「……これを以て、皆瀬さんの票は全て七々原さんに譲渡が行われました」

 呆然としている内に、二人は元の位置に戻っていた。ハッとして頭を軽く振る。少しの間、意識が飛んでいたように思う。
 周りの空気に飲まれたのか、と自問する。そんなことは無い筈だ。さっきまでは寧ろ、この空気に馴染めなくて悩んでいたのだから。

「……私は」

 考え事をしている内に、眼鏡さんがその口を開いていた。

「私は、この場所には相応しくない。そもそも自分勝手に生きてきた私のような人間が、人の規範になるような真似も出来ない。だから私は、自分に託されたこの票を……私の大切な友人に預けることにする」

 周りから、悲鳴にも似た歓声が巻き起こる。眼鏡さんの支持者の声だろうか。彼女たちの気持ちが、少しだけ解るような気がした。
 その中で、眼鏡さんは銀姫さまの手を取った。二人きりで二、三の言葉を交わした後、眼鏡さんは改めて宣言する。

「私は、私の持つ全ての票を……妃宮千早、貴女に委ねます」

 屈んだ眼鏡さんの唇が、銀姫様の手の甲に触れたように見えた。その瞬間、今度は興奮しきった女生徒達の、叫び声のような声が響き渡った。
 私は上げそうになった声を、どうにか自制していた。こういう場なら別に大声を出しても良いのだろうが、やはり淡雪にあんな態度をとった手前、恥ずかしさの方が勝った。何せ、私の立ち位置は淡雪の背後だから。
 そして、残った二人の女生徒は、互いに見つめ合っていた。二人は何も云わず、ただ時間だけが過ぎていく。誰もがその姿を固唾を飲んで見守り、茶々など一つも入らなかった。

 先に口を開いたのは、どちらだったのだろうか。七百を超える視線に見守られ、壇上で二人は互いに譲り合い始めた。どちらも自身の主張を覆そうとはせず、話は平行線を辿っているようだった。
 そんな中で、喋り出す生徒が周りに出始めた。注意をする生徒もいたが、何故かすぐに注意した生徒も話に加わっているようだった。不思議に思っていると、淡雪が振り返って話しかけてきた。

「ねえ、梓……二人の票数って覚えてない?」

 会が始まる前までの微妙な距離感は既に消えていた。だから私は、何となく覚えていた数字を口にする。

「銀ひ……千早お姉さまがいちきゅういち、薫子お姉さまがいちはちきゅう、だったと思う」

「百九十一に、百八十九か……じゃあ、もう二人の票は……?」

「生徒会長さんがいちななきゅう、あの真行寺って先輩はいちなななな、だった筈だよ。それがどうかしたの?」

 首を傾げる私の耳に、横に居た生徒の呟きが聞こえてきた。

「百九十一足す百七十七、百八十九足す百七十九、と云うことは――!?」

 何かに驚いたようなその言葉の真意を訊ねる前に、生徒会長さんがマイクをハウリングさせた。喋っていた生徒たちはすぐに静まり、皆の注目が一気に壇上へと戻る。
 その様子を確認してから、生徒会長さんは悪戯を思いついた子供のような表情で口を開いた。

「生徒会長である私、皆瀬初音から……皆さんにご提案があります」

 そこで一旦言葉を区切り、生徒会長さんはもう一度生徒たちを見回した。

「再計算の結果、七々原さん、妃宮さん……ともに得票数は三百六十八票で同点です」

 その言葉を聞いて、静かだった周りが少し騒つき始めた。

「このままお二人がどちらかに票を譲ったとしても、これでは支持者の間に亀裂が生じることも考えられますし……円満な結末は望めないのではないでしょうか……」

 何人もの生徒が無言で頷いている。今や生徒達の関心は、生徒会長の発する言葉に集束されていた。

「そこで、私は今ここに、お二人をエルダーとしてお迎えさせて頂くことを……皆さんに提案させて頂きたいと思います、いかがでしょうか!」

 ――空気が固まった。だが、次の瞬間。

 きゃああああああぁぁぁぁあああぁぁぁあああぁぁぁっっ!!

 講堂を揺さぶる程の、歓声の爆発が引き起こされた。数秒間は続いたそれは、声を枯らした生徒から順に拍手へと移っていく。

「だって、お二人とも……エルダーになる自信が無いのでしょう? だったら、二人で一人だったらいいんじゃないかなって、そう思いまして!」

 生徒会長の言葉に賛同する声が幾つも壇上へと届けられる。渦中の二人のお姉さまは、少し顔を引きつらせているようだった。けれど、そんなことは私達には関係が無い。

「いかがですか……皆さん、賛成の方は拍手をお願い出来ますかぁっ!?」

 その言葉に応えるように、元々散発的にあった拍手の音が、万雷のように講堂に響き渡った。

「どうやら満場一致のようですね……では本年度のエルダーは、七々原薫子さん、そして妃宮千早さん……お二人に決定致しました……!」

 鳴り止まない拍手、飛び交う祝辞、日頃の鬱憤を晴らすかのように叫ばれる歓声。音の嵐は、いつまでも立ち退く様子を見せなかった。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 祭りの後。
 熱気も冷めやらぬ様子で、生徒達がぞろぞろと退場していく。誰もが二人のエルダーの誕生を喜び、話の種にしている。私も例に漏れず、淡雪と話していた。

「いやあ、今年も随分と盛り上がってたねえ。まさか千早お姉さまがエルダーになるとは思わなかったよ。生徒会長のあの提案にも、みんな驚かされたしね」

「あー……うん、そうだね」

 要領を得ない返事。視線をついと淡雪から逸らす。

「梓さあ……今更恥ずかしがっても仕様が無くない? さっきまであれだけはしゃいでたじゃない」

「ぐはぁっ」

 大袈裟に仰け反った振りをする。そうなのだ。何だかんだと云っていたが、最後の方は私もシュプレヒコールに加わっていたのだ。私の前に居た淡雪は、私が嫌々講堂に来ていたことも、熱狂的に歓声を上げていたことも、全て知っている訳で……。

「それにしても、梓はお腹からしっかり声が出てたよね。『きゃあー! 銀姫さまー!!』ってさ。銀姫さまって千早お姉さまのことでしょ? 良いセンスしてるじゃない」

「止めてー! 私が悪かったからさ!」

 耳を塞ぐ私に、淡雪はニヤニヤと意地の悪い笑みを向けてくる。漏れ聞こえてくるからかいの言葉に、私の痴態が脳裏に蘇らされる。
 ……この記憶がどこかへ消えるか、もしくは私のしたことを取り消せるような魔法はないだろうか。そんな益体も無いことを考えてしまう程、今の私は恥ずかしさでいっぱいだった。

「あはははは! ……まあでも、実際良い結果に終わったんじゃないかって思うね。何て云うか、かなり奇跡的な結果だったじゃない? もしあの四人の内、誰かの票数が一票でも違ってたら、こんな結末はあり得なかっただろうし。あの状況、下手すると暴動の一つでも起きそうな剣呑さがあった感じがするし」

「確かにね。一票の価値の高さを初めて実感した日だったかも……うん? ってことは、私が無効票だったのが結果的には良かったのか?」

「あー。梓って、被投票者の名前、平仮名にして出したんだっけ。別に梓に限った話って訳でも無いけど、そうだろうね。あの四人に綺麗に票が割れてたのも凄いことだしさ。票の上下差が、たったの十四票なんてね」

「私みたいな無効票除いたら、もしかしたらほぼ全校の票を等分したんじゃない? そこまできっぱり派閥が分かれてるのも、珍しいと思うし」

「ま、何にせよ、良い結果だったってことで!」

 淡雪は晴れ晴れとした笑みを浮かべる。私の顔も自然と綻んだ。

「ところで、さ」

 淡雪はまた表情を一変させた。

「何?」

 訊ね返すと、淡雪は何故かまた、ニヤリと口角を吊り上げていた。嫌な予感が背筋を這い上がった。

「梓が叫んでた『銀姫さま』ってあるじゃない? 梓は気付いてなかったみたいだけど、あれ、周りの人達も同調して結構叫んでたよ。みんなしっくり来たみたいだった」

「……ホントに?」

 確認の意味も込めて訊ねると、コクリと頷かれた。

「もしかすると、二つ名にも何かの形で使われるかもしれないね。エルダー二人の内、騎士(ナイト)の君と違って、千早お姉さまの方には二つ名がまだ無いし。前々から話題にはなってたし、意外とすぐに決まるかも」

「……正直、今、現実感無い……けど、聖應なら、とも思えてきた」

 感慨を込めて呟くと、淡雪はぐっと体を寄せてきた。避ける間も無く、二人の間の距離が零に近付く。

「いい感じだね……それじゃあ改めて、歓迎しましょうか」

 一歩後ろに下がると、満面の笑みで私へ告げた。

「聖應女学院にようこそ! ……ってね」

 その淡雪の笑顔は、私の心を揺さ振る程に魅力的だった。紅潮した頬がばれないよう、私も精一杯の笑みで淡雪に応えた。




[35772] 八話 七月上旬、運動と私。
Name: パオパオ◆a94e6367 ID:ac1e60c3
Date: 2012/11/12 04:55
 七月。旧暦で云えば文月に当たる、梅雨明けの月。七夕などの夏祭りを始めとして、男女の仲を進展させる様々な機会に満ちた季節だ。
 先日、世間での海開きに先んじて、我らが聖應女学院ではプール開きが行われた。体育の授業も水泳に移行し、楽しみで胸が熱くなる。
 ……別に、彼氏(おとこ)が居ないからって僻んでいる訳では無い。無いったら無い。極一部のクラスメイトが幸せそうに語るお付き合いの話になんて、全然興味を抱いていないのだ。

 ……嘘じゃないよ?


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 走る。

「はっ、はっ、はっ、はっ、はっ」

 走り続ける。

「はっ、はっ、はっ、はっ、はっ!」

 一定のペースを保ったまま、公園の中を駆け抜ける。

「はっ、はっ、はっ、はぁっ! ……ふぅっ、はぁっ、ふぅーっ……」

 切れ切れになった呼吸を、ゆっくりと整えていく。足に溜まった乳酸が、心地良い疲労を感じさせる。流れ落ちる汗が唇に入り込み、塩辛さに顔がにやける。
 やはり、この運動特有の感覚は堪らない。ありとあらゆる要素が、私をどんどん興奮させてくれる。

「はぁーっ! やっぱ、本気で体力、落ちてるなっ。まだ三十分も、走ってないのに、もうバテかけてる、よっ!」

 運動から離れていたのはかれこれ一月弱だが、自分でも驚く程に身体能力が落ち込んでしまっている。以前なら一時間は優に走り続けられたし、そのペースも速かった。露骨に解るのはそれ位だが、実際は他にも影響が出てしまっているだろう。

「あれだな。一日休んだら、三日頑張らないと、って云うし。今は地道に、努力の時だ」

 持参した水筒の蓋を開け、程良く冷えた水を飲む。水分が体中に浸透するような感覚を覚える。ただの水道水が、どんなジュースよりも美味しく感じる瞬間だ。

「っぷはぁっ! ……あ、おはようございまーす! そちらもジョギングですかー?」

 通りがかった青年に挨拶する。眼鏡をかけた、知的な感じのするイケメンさんだった。きっと大層おモテになっていることだろう。

「ん、ああ、おはよう。俺はそうだが……あんたもジョギングか?」

 持っていたタオルで汗を拭きながら、眼鏡のイケメンさんはハスキーな声をかけてくる。怜悧な印象に似合った、低い美声だった。

「はい! 最近この辺りに越して来まして、ここ暫く体動かしてなかったから、また始めようかなって思ったんですよ。眼鏡のお兄さんも、よく体動かしたりするんですか?」

 眼鏡のイケメンさんは少しだけ考える素振りを見せた後、また元の表情に戻って云った。

「お、良い心掛けだな。俺は体が資本の仕事してるからよ、毎日体動かしてないと鈍っちまうんだ。ま、精々三日坊主にならないようにしろよ」

「はい、ありがとうございます」

「おう、それじゃあな」

 そのまま走り去っていく眼鏡のイケメンさんを、見えなくなるまで見送った。その場に残る汗の匂いが、私の鼻を刺激した。

「いやあ、格好良い男の人だったな……さて、休憩終わり! 丁度良い時間だし、早く帰ろっと」

 腰を下ろしていたため少し固まった筋肉を、軽く解していく。木漏れ日の中から照り付ける夏の陽射しへと、自らの体を飛び込ませる。じりじりと肌が焼かれるような感覚を振り切るように、軽快なペースで走り出した。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


「水泳、かぁ。久し振りだなあ。実際いつ振りだろう? 確か……一昨年の夏に、幼馴染み達と海に行って泳いだのが最後か。いやあ、あれは今思うと何やってたんだろうと思うな。受験勉強の息抜きに三泊四日のお泊まりを決行するとか、馬鹿みたいだったよなぁ……」

 学園でプール開きが行われてから二日後。遂にやって来た水泳の授業を前に、私は傍目からでも解る程に興奮していた。

「ちょっとは落ち着きなよ、梓。今日の体育は一年の後輩と一緒なんだから、少しは先輩の威厳を見せないと」

 苦笑気味に淡雪が声をかけてくる。流石に、少しはしゃぎ過ぎていたらしい。それにしても、気にかかる言葉があった。

「威厳……? 何それ、私のどこにそんなものがあるの?」

「それって自分で云うこと? うーん……体育に関してカリスマ染みてるところとか? 一年の間じゃ結構噂になってるみたいだよ」

「うわぁ……それは、また」

 云いながら、口元が引きつるのを自覚する。授業で目立ったことがまだ尾を引いているとは思わなかった。思わず足を止めると、淡雪が何かを思い出したように声を張った。

「あ、そう云えば聞いたよ! 梓さあ、最近運動系の部活を荒らして回ってるんだって? 豪気だよねえ」

「……は? それって、何の話?」

 一瞬、絶句した。しきりに目を瞬かせる私に、淡雪は逆に驚いたように訊ねてきた。

「え? バスケ部を皮切りに、次々に球技系の部活に体験入部して、そのレギュラー達と互角かそれ以上の結果を残して去っていってる、って。新聞部の娘(こ)から気合い入れて取材してるって話を聞いたんだけど……」

「……ああ、確かにやった覚えがあるかも。とは云ってもここの球技系の部活、軒並み弱小なんだよね。まあ、運動部もまだ陸上部とかソフト部とか、有望そうなところは残ってるから良いんだけど」

 バスケ部の他に、既にいくつもの部活の体験入部を済ませていた。その結果は散々だったが。やる気の無さがどこも顕著だったのだ。

「そうそう、一部じゃ『部活(クラブ・)荒らし(パニッシャー)』なんて呼び名もあるらしいよ?」

「何よその称号は……」

 頭の悪い二つ名を聞かされ、軽い偏頭痛に襲われた。淡雪はからからと笑っている。

「うん、センス無いよねえ」

「いや、そういう話じゃなくてさ」

「そういう話だって。否応無しに知名度が上がるのは前から解ってたことじゃない。そうなったら二つ名もいずれ付くことになるだろうし、だったら良さそうな二つ名が付けられる方が良いでしょ?」

「そう、かな? 正直云って、いまいち理解出来てないんだけど……」

 うむむ、と考え始めた私の腕を、淡雪は三度突っついた。

「とりあえず、今は急ごうか。話してたせいで着替える時間もギリギリだよ」

「っと、そうだね。あ、走ると怒られるんだったっけ? だったら早歩きとも云える位の速さにしておこうか」

「シスターさんに見つかったら説教確実だからね」

 適当な軽口を交わしながら、更衣室へと向かう足を速めた。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 ……この学院内の建物は総じて新しくて綺麗だから、薄々そうじゃないかとは思っていたけど。

「うっわぁ……広いなぁっ! その辺の市民プールとか目じゃないでしょ、これ!」

 二十五メートル六レーンのプール。無駄にしか思えないガラス張りの天井。そして全体的に、広過ぎると云える程にゆとりのある空間。
 全部で一体どれだけのお金がかかっているか、想像も出来ない。いや、寧ろしたくない。寄付金の正しい使い道と云えばそうなのだろうけど。

「学校の設備とは思えないよね。と云うか本当に、何故にここまで広いのか。プールが狭い訳じゃないのに、対比で小さく見えてくるから不思議だ」

「消毒の臭いとか懐かしいなー。うーん、一年振り位かな?」

 プールサイドで立ち尽くす私の背後から淡雪が近付いてくる。ぐっと伸びをして自主的に体を解している辺り、やはり楽しみにしていたのだろう。

「それにしても、梓の肌って結構焼けてるね。健康的な感じが梓らしくて良いと思うけどさ。体もかなり引き締まってる感じがするし」

「ん? ありがと。これでも色が薄くなったんだけどね。ここ一ヶ月は外で体動かしてなかったからさ」

 小麦色、と呼ぶには些か茶味が足りていない肌を晒す私とは対照的に、淡雪の肌は新雪のように白かった。まあ、周りはお嬢さまばかりなので、私のように陽に焼けている方が少ないのだが。
 それでも淡雪の白さは周りと一線を画していた。金色の髪と同様にどこからか西洋の血でも紛れ込んでいるのか、黄色人種(モンゴロイド)の日本人にしてはありえない白さを誇っている。

「淡雪の肌、滅茶苦茶綺麗だよねー……何なのその驚きの白さ。某攻撃の洗剤でも使ったみたいじゃない」

「あー、そこまで気合い入れてケアしてる訳でも無いんだけどね。それはまあ乙女ですから、最低限のことはしてますけれども」

「むぅ、これが白色人種(コーカソイド)の余裕か……やっぱ妬ましいわ」

「……本当の白色人種(コーカソイド)の人達はもっと白いんじゃない? 欧米の人とかテレビで見るとそう思うんだけど」

 苦笑しながら云う淡雪の言葉は、謙遜なのか事実なのか判別しにくい。最近はテレビもご無沙汰だし。

「そんなものかな? ……どっちにしろ、淡雪の白さが羨ましいことに変わりは無い!」

「声を張って断言することかなあ……?」

 無駄に叫んだせいで、先にプールサイドに集まっていた生徒達が奇異の視線を向けてきている気がする。流石に恥ずかしい。

「ほら、そこの注目を集めてる二人組。そろそろ並ばないと遅れるよ」

「あ、ごめん。今行く――」

 返事をしながら振り返ると、そこには唯一の褐色肌のクラスメイトが立っていた。その肉付きの良い体を惜しげも無く晒せるのは、日本人特有の過剰な慎みとやらが無いせいか、それとも恥じるような体ではないと云う自負でもあるのか。
 どんな理由にしろ、眼福であることに変わりは無かった。言葉を失った私がじろじろと観察しているのに、隠そうとする素振りも見せない。生唾を飲み込む時に、喉が鳴らないように注意を怠ることはしなかった。

「……うわ、ケイリのスタイル凄いね」

「そうかい? それはありがとう。そう云うとても淡雪も均整のとれた体つきをしていると思うよ」

「あはは、ありがとね。ともかく、行こうか」

 ぺたぺたとクライスメイト達の方へ歩いていく二人を、私はその場で見送った。見送ったと云うよりも、見惚れていたの方が正しいだろうが。
 ……ああ、二人の水着姿が是非とも見たい。今のぴっちりと張り付いているタイプの学院指定の水着も捨てがたいが、ここはやはり個性と肌の出る私服|(?)の水着姿が見たくてたまらない。夏休みにプールに行く計画でも立てるべきか……?
 何とは無しに自分の貧相な体を見下ろす。胸も、お尻も、腰回りも、この二人に勝てる要素が見当たらない。隣の芝は青く見えるものらしい。我が家の芝はまだ伸びきっていないと信じているが……。
 内心で溜め息を吐きながら、数歩遅れて二人の背中を追った。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 ピーッ!

「そこまで! それじゃあ準備運動も終わったことだし、体を慣らす意味で二十五メートルを好きに一本泳いで貰うわ。二十五メートル泳げない娘(こ)も、足を付いても良いから何とか泳ぎきってね。あ、二年生は一年の娘(こ)をいじめたりしちゃ駄目よ? ……それでは、順番に始めて下さい」

 笛がもう一度鳴ると同時に、各列の先頭の生徒達が入水して思い思いに泳ぎ始めた。後ろから眺めている分には、皆それなりに泳げるように見える。毎年こうしてプールの授業があるなら、それも当然かと納得する。カナヅチの生徒だって、幼い頃から授業を受けていればそれなりに泳げるようになる筈だ。
 そう云えば、体育の授業が選択式では無いことにも、前の高校との違いを感じて驚かされた。体育教師が出来る種目が少ないからだろうか。理由は解らない。

「次、行くよー!」

 高らかに笛が鳴り、私の前に並んでいた淡雪が壁を蹴って泳ぎ出す。と、横で並んでいた二年D組の生徒が勢い良く飛び込んだ。他にした人が居なくて解らなかったが、どうやら飛び込みで始めても良いらしい。
 まあ、まだ肩慣らしの段階だから飛び込みをする人が居なかったのかもしれないが。ともかく、飛び込みをして良いのならするまでだ。

「さて、と。適当に頑張りましょうか」

「その適当は適切という意味かな?」

「イエスと答えておくよ、ケイリ」

 ニヤリとした私の横で、私と同じように台に上って飛び込む準備をしているケイリ。その顔にはどこか挑戦的な笑みが浮かんでいた。

「次ー!」

 号令がかかった瞬間、ケイリは勢い良く水の中へ飛び込んだ。ケイリを見ていて反応出来なかったが、一拍遅れて私も飛び込む。先に水に浸かっていた人達も順に壁を蹴っていくのが見えた。
 大きく水飛沫を上げて私の体が水の中に潜り込む。久し振りでうろ覚えだったせいか、飛び込みのやり方を失念してしまっていたようだ。水面に打ち付けた体がじんじんと熱を帯びている。

「ぷはぁっ!」

 潜水の状態から顔を出して、失った酸素を吸い込む。その際にちらと横目で見たケイリは、私より五メートルは先を泳いでいた。

「……っ!」

 負けず嫌いを発揮して、私も全力で泳いでいく。足は水面を力強く打ち、両の手は我武者羅に水を掻く。力の限り動作を速くして、ケイリとの差を徐々に詰めていく。

「ごほっ、はっ」

 バシャバシャと水柱を立てながら追い縋ろうとするが、始めに出来た五メートルの差は大きかった。結局追いつけないまま、私とケイリは二十五メートルを泳ぎきった。

「ぜっ、はっ、はっ、はっ……」

「……ふぅ。大丈夫かい、梓? 適当とか云っておきながら、かなり無茶な泳ぎ方をしていたようだけど」

 水に浸かったまま呼吸を整えることに必死な私を、プールサイドに上がったケイリは心配そうに見守っている。落ち着きを取り戻すにつれて、私は自分の泳ぎ方を思い出して頭が痛くなっていた。

「……あー、色々と思い出してきた。水泳って力尽くでやる競技じゃなかったね。力を込めるよりも寧ろ脱力の方が大事でしょうに。それに勝てなかったし。だー、もう、無駄に疲れたー!」

 ぶんぶんと頭を振る私を見て、ケイリは苦笑していた。段々勢いが弱まっていく私とは逆に、ケイリの笑みは深まっていく。私は羞恥で紅潮した頬を隠すように、ひっそりと水の中に潜った。

「――――!? ――――!!」

 何やらケイリの声が聞こえるが、水中ではその正確な内容は聞き取れない。どこか慌てたような感じだが、まあ気のせいだろう。ぶくぶくと口から泡を吐いていると、突然後頭部に激痛が走った。

「がぼぼっ!?」

 肺の中に残っていた空気が一気に鼻と口から飛び出す。酸素を失って息苦しさを感じる前に、後頭部に残る鈍い痛みが私の意識を混濁させた。訳も解らないまま、私は反射的に失った酸素を取り戻すために口を大きく開いていた。

「ごはっ!?」

 水の中でそんな事をすれば、当然大量の水が口の中に入り込んでくる。意図せずして大量の水を飲み込み、息苦しさが加速する。パニック状態に陥った私は、立つという簡単な行為すら出来なくなっていた。

「――――っ! ――――さぁっ!」

 誰かの叫び声と近くへ飛び込んでくる音を最後に聞いて、私の意識はブラックアウトした。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 思い浮かぶのは、母の顔。
 艶のある長い黒髪に、痩け気味の頬。必要以上の外出をしないために病人のようでさえある体の線の細さ。いつもどことなく陰のある笑みを浮かべているところが、男性の琴線に触れるのだ、とは私の幼馴染みの言だった。彼女に何が解ったのかは知らないけれど。

 母は、強くて弱い。
 私が物心付いてすぐの頃に血縁上の父親が亡くなったために、母は私を自分一人で育てなければいけなくなった。
 最愛の人を失った悲しみに浸る時間も無かっただろう。尤も、父の遺体は原型を留めていなかったそうだし、現実味が無かったから大丈夫だったのかもしれない……いや、それは無いか。
 実家を頼るという選択肢もあった筈だが、母は資金的な問題以外で連城の家を頼ることは無かった。その理由を訊ねたことはない。
 聞かなくとも、お金のことで昔から融通をして貰っていたのに、それ以上の負担を連城の家にかけたくないという思いがあったのだと推測できる。もしかしたら違うかもしれないが、昔から会話の端々にそれを予期させる言葉はあったので、大筋では合っているだろう。
 やれ連城の子会社が一つ潰れただの、やれ分家の長男がどこそこの女性と駆け落ちしただの、やれ誰々という幹部が夜逃げしただの、と。子供には解るまいと散々に愚痴っていたが、意外と記憶には残っているものだ。
 今でこそ連城の家もある程度盛り返してきたが、数年前まではいつ破産してもおかしくはなかったらしい。そんなところに余計な心配をかけまいとした母の心情は、少なからず理解出来る。
 それからの十年間、女の細腕一つで私を育て上げてきたのは執念と云っていいだろう。何せ育児の傍らで、かつて父が行っていた家業の一部も行っていたのだ。当時の母を知る人は、今の母を見ると変わったという言葉をまず云う位だし。
 だからこそ、今の義父(ちち)と再婚した後の母は弱くなったと云える。張り詰めていた糸が千切れてしまったかのように、今の母はのほほんとした雰囲気を崩さない。穏やかになったと云えば聞こえはいいが、単に覇気を失っただけではないかと思っていた時期もある。
 どこかの企業の社長の次男だったという義父は、その出自が真実であることを実績を以て証明した。傾いていた連城の家を立て直したのは、紛うこと無く義父のおかげなのだ。
 数年振りに安定を取り戻した連城の家には、経済界の重鎮達もそれなりに驚いたらしい。珍しく酔っ払う程に酒を飲んだ母から喜色満面にそう伝えられただけなので、事実かどうかは知らないが。
 義父の働きによってようやく家業から完全に離れることが出来た母は、それまで以上に私に構うようになった。それと同時に、母は義父に対して何か意見を述べることは減っていった。意識的にか無意識になのかは判断が付かないが、それは家族内でのカーストを決定付ける要因になった。
 義父が家庭内暴力を振るわない人であったのは幸いだった。しかし、義父の存在は私にとって煩わしくなっていく一方だった。私のなすことに一々口を挟み、また母もそれを止めようとしないため、義父に干渉される日々は私にとって面倒で仕様が無かった。
 義父は確かに出来た人なのだろう。けれどそれは公人としてだけであって、私人としての義父は駄目な人だ。結婚したてなのに家には帰ることすら稀で、帰ってきた時ですら母と二言三言話しただけで仕事場に戻っていってしまっていた。昔は私のことを気にかける素振りも無かった。
 そんな、家庭を蔑ろにする義父は、わたしにとってどうでもいい人へと変化していた。母は義父に感謝しきりだったが、自分の生活に関係ない相手が親だと云われても、実感なんて微塵も生まれてこない。母の部下だという若い人の方が、まだ私と母が暮らす場所に来る機会が多かった。
 それが私の反抗期と時期が重なってしまったこともあって、その頃は家のことが鬱陶しくて堪らなくなっていた。休日は家から離れる口実を作るために、どこぞのスポーツクラブに顔を出して夜まで帰らず、鬱屈した感情を吐き出すように汗を流していた。また義父が家に居るようになった最初の頃は、子供らしい稚拙な反抗心で幼馴染み連中の家を泊まり歩いたりもした。
 そうしているために義父からはまた叱られ、母はそれを見て陰で悲しむだけで何もしない。義父が本格的に家業を継ぐために、出向して家から離れるまで、私は母との関係改善を図る気すら無かった。


 ……そろそろ目が覚めるらしい。ふわふわと深くを漂っていた意識が、遠くに輝く光源に引っ張られるような感覚がある。
 引っ張られる間に一瞬だけちらついた義父の後ろ姿を深く考えないようにしながら、私の意識は光へ向かって飛んでいった。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 胸への強烈な圧迫感を受けて、私の意識は急速に浮上していった。骨が折れるんじゃないかと思う程重い衝撃に、私は咳き込まざるを得なかった。

「がっ! ごっ、ほっ! ごほっ、ぐふっ」

「先生! 梓さんの意識が戻ったみたいです!」

「解っています……ああ、良かった」

 淡雪のものらしき悲痛な声が耳に届いた。酷く重たい目蓋を開けると、何十人という生徒がこちらの様子を窺っている。何故だか解らないが、彼女達は総じて安堵しているようでもあった。

「何、が……ごほっ」

 込み上げてくる異物感、と云うより凄まじい吐き気をどうにか抑えつつ、自分が横になっているということを理解する。現状を把握しようと努めるが、酸素の足りていない頭では満足な思考が出来ない。

「連城さん、楽な姿勢で構いませんから、聞いて下さい。今がプールの授業中だということは解りますか?」

 口を動かすのも億劫なので、首を小さく縦に振る。それを確認すると、先生は話を続けた。

「それでですね、貴女は先程まで溺れて意識を失っていました。事の推移を見ていた人達によると、どうやら貴女の後に泳いだ生徒が、まだプールサイドに上がっていなかった貴女に勢い良くぶつかってしまったようなのです」

 ……つまりは、ケイリとのお喋りに興じていた私の自業自得なのだろう。水場での事故は特に気を付けないといけないものだと知っていても、それを実践出来ないようでは意味が無い。

「あ、あの、すみません! い、一年の宮藤陽向(くどうひなた)と云います。さっきは私、その、先輩に――」

 見覚えのない短い茶髪の女子が一人、こちらを向いて何度も頭を下げていた。起き抜けの頭は彼女の言葉を日本語に翻訳してくれない。と云うかそろそろ、今まで堪えてきた体調不良が深刻なレベルになってきている。

「……あ、の」

「は、はい! 何でしょう!?」

 ビクッ! と跳ねるように顔を上げた茶髪の女子の顔は、見てるこっちが可哀想になる程に蒼白だった。別に私が死んでしまった訳じゃ無いんだから、そこまで怯えなくともいいと思うんだけど。だって自業自得だし。

「……謝罪は、もう、いいから。それより、誰か、トイレまで、肩、貸してくれない……? ここで、吐く訳には……ぉえっ」

 いい加減に限界が近かった。息も絶え絶えに、か細い声で言葉を紡いでいく。云い終える前に、私の体は上方に力強く引っ張り上げられた。

「私も原因の一端は担っていましたから、責任を持って彼女を連れていきますね。先生、それで構いませんか?」

 首を傾けると、褐色の肌が視界に入る。その細腕からは想像も出来なかったが、ケイリも結構力はあるようだ。それなりに重い筈の私の体がしなだれかかっているのに、ちっとも辛そうにしていない。

「……それと、一応保健室までもお願いします。時間は短かったとは云え、意識が無かったんですから。もし何か問題があってはいけませんし、ちゃんと送り届けて下さい」

「はい、解りました。それじゃあ行こうか、梓」

 そう云って私の体を支え直すと、力強く一歩を踏み出した。危なげないその姿に、下級生達が微かに騒がしくなる。私は不謹慎だとは思わないが、同級生達から向けられる視線で下級生達の声は静まった。

「……次は、負けないよ?」

 プールサイドから出る直前になって、無意識に言葉が口から零れる。そんな私に、ケイリは呆れたように苦笑する。

「……程々にしておいてくれるとありがたいけどね。また今回のような事態になっては堪らないからさ。まあ、そんなことが云えるってことは大丈夫かな。私も貴女のことは好きだから、とても心配だったので」

「……ありがと」

 さらりと恥ずかし気も無くそう云ったケイリから顔を逸らすように、私はますます体を預ける。密着した体から伝わる肉体の温度が、冷えた私の体には心地良く感じる。顔だけではなく、体も熱を帯びていく。
 まるで全て解っているとばかりにクスクスと笑い続けるケイリの温かさを感じながら、私は保健室へと運ばれていった。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 保健室の扉を開く音で、微睡んでいた頭が平静を取り戻す。

「失礼します」

 返答は無い。どうやら、養護教諭は席を外しているらしい。

「……先生は居ないようだね。となると、どうしたものかな」

 ケイリは私の体を支えたまま僅かに逡巡すると、保健室の中に入っていった。一直線にベッドの並ぶ区画へと向かい、閉ざされていたカーテンをおもむろに開ける。先客が居ないことを確認して、そのまま私をベッドに寝かせた。
 養護教諭の許可無くベッドを使用して良いのかと不安がる私に気付いて、ケイリはクスリと微笑した。

「心配しなくても大丈夫だよ。今の梓を見れば病人じゃないなんて思えないし、置いてある紙に必要事項を書いておけば問題無いからね」

「……顔に出てた?」

 自分の顔にペタペタと触れながら訊ねるが、ケイリは余裕のある態度を崩さない。

「どうだろうね?」

 はぐらかすようにそう云うと、ケイリは私に背を向けて保健室の中を見回した。何か探しものでもしていたのか、事務机の方に向かい、程無くして紙とペンを持って戻ってきた。

「さて、それじゃあ書いていこうか。順に質問していくから、眠る前にちゃんと答えてね」

 私は無言で頷きを返した。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 簡単な質疑応答を数度繰り返して用紙の空欄を埋めた後、私は不意に口を開いた。

「これで、私の威厳も無くなった、かな」

「何の話だい?」

 用紙を事務机に置きに行っていたケイリの耳に入ったようで、近付くなり興味深そうに私の顔を覗き込んでくる。造りの良い顔が迫ってきて、何となく恥ずかしくなった

「んー……いや、ちょっとね。全然大した話じゃないんだけどさ。プールの前に、淡雪とそんな話してたの。だらけてた私を見て、淡雪がそんなんじゃ先輩としての威厳がどうのこうの、って」

「ふうん、成る程。それで?」

 どこか楽しそうに話の続きを求めてくるケイリに、首を横に振ることで応える。

「……それだけ?」

「それだけ」

 軽く呆然としているケイリの顔が、いつもと違っていて少し面白く感じた。飄々としているケイリの驚いた顔は、私も初めて見るものだった。
 ばつが悪そうに頬を掻くケイリに、私は別の話題を振った。

「ところでさ、私が病人っぽいって話があったでしょ」

「うん?」

 いきなりの話の転換に、何のことか解らないと首を傾げるケイリ。私も云い方が悪かったかと思って云い直す。

「ほら、今の私は誰が見ても病人に見えるとか、そんな感じにケイリが云っていたじゃない」

「ああ、そうだったかな。それがどうかしたのかい?」

「いやさ、実際、今の私ってどうなってるのか気になって」

「うーん……どう云えば良いのかな」

 ベッドに横たわる私の横で、小声で唸りながらケイリは考え込んでいる。良い表現が思い浮かばなかったのか、端的な解決策が提示された。

「言葉で云い表すのは少しばかり難しいかな……そうだ、鏡でも見てみますか?」

「ん、お願い」

 ゴソゴソと懐を探ってコンパクトミラーを取り出すと、ケイリはそれを私に向けた。そこには、げっそりと血色の悪い、青紫色の唇をした少女の顔が映っていた。

「……これは、確かに病人だね。自分じゃないみたい」

「病気の時なんてそんなものでしょう。正確には病気という訳でも無いと思うけれど、一度病院に行った方が良いんじゃないかな」

「ご忠告ありがとう……ちょっと、眠くなってきたかも。私は少し寝るから、ケイリも体が冷える前に戻ったら?」

「そうだね、そうしようか。それじゃあお休み、梓」

「うん、ここまでありがとう」

 静かに保健室を出ていくケイリを見送る。廊下を遠ざかっていくケイリの足音が聞こえなくなるのを待って、私は口元を押さえた。保健室に来る前に寄ったトイレで一度吐いてきたが、まだまだ吐き気は残っていた。

「あ゛あ゛ー、きっつ。先生戻ってきたら早退させて貰おう」

 込み上げてくる嘔吐感を何度も送り返しながら、授業の終わりを知らせる鐘の音を聞いていた。
 養護教諭が戻ってくるまでの一時間が、私には無限の時に思えた。



[35772] 九話 七月上旬、休む私。
Name: パオパオ◆a94e6367 ID:ac1e60c3
Date: 2012/11/13 22:18
 ――トクン、トクン、トクン、トクン。

 白を基調とした小さな一室で、一組の男女が密接して女の心臓の鼓動を聞いている。時間の経過とともに、二人の耳に入る女の動悸は激しくなっていく。それを妨げるのは、微かな電子機器の動作音と遠い人の声だけだ。
 女は薄い紅色のシャツをたくし上げ、その下の黄色いチェックのブラまで外している。つまり、女のほんのり膨らんだ母性の象徴が外気に晒されていた。男の指が剥き出しの胸部に感触を伝え、女の頬は恥じらいで紅潮していた。
 電灯と窓から射し込む陽光が、男と女の姿を克明に照らしている。男は無言の女に何かを云おうと、その口を開いた。

「はい、OKです。これで診察は終わりですので、服を下ろして下さい。お疲れさまでした」

 聴診器を外した先生が云い終える前に、露出していた私の肌は既に隠されていた。いくら相手が医者とは云え、若い男の人に胸を見られるのは恥ずかしくて仕様が無かった。

「特に異常はありませんね。至って健康です。溺れて気を失っていたという話ですが、今のところどこにも後遺症は見られません。ご自分で何か不調などは感じられませんか?」

 年若い乙女の――それも女子高生というステータスまで付属した――肌を見たというのに、顔色一つ変えないで私に訊ねてくる先生。そりゃあ私の体が魅力に乏しいのも自覚しているし、相手は女の裸も見慣れているんだろうけど、それでも納得出来ないものがある。別に欲情して欲しいとまでは思っていないけど、無反応なのも乙女も尊厳が深く傷つけられる。

「いえ、どこにも問題は無さそうです。ありがとうございました、先生。多忙なところを、態々申し訳ありません」

「いえいえ、健康で結構です。水場での事故は万が一の事態に繋がりやすいですから、気を付けて下さいね? この季節は熱中症などの危険性も高まりますし」

「気を付けます。それでは、失礼致しました」

「ええ、お大事に」

 ガラガラと引き戸を開くと、次の患者の名前が看護婦さんによって大声で呼ばれた。今は看護士って云うんだったっけ? ……どっちでも良いか。
 待合室で暫く待ち、会計を済ませて病院を出る。燦々と輝く太陽の眩しさに、思わず眉をひそめる。

「暑……」

 ミンミン、ミンミンと喧しく騒いでいる蝉の声。吹き抜ける風が運ぶのは生温い空気。肌にまとわりつくような湿気を感じ、そのに立ち尽くしたまま夏を想う。

「……帰ろ。あー、学校行きたくない。夏なんて無くなってしまえ」

 誰に云った訳でも無い呟きが私の口からポツリと零れ出る。

「ふぅ……間に合うかな?」

 現在時刻、午前十時十三分。急げば三時貫目の開始には間に合いそうな時間だった。なまじそんな希望が生まれてしまうために、急がなければいけない気にさせられる。
 気怠い気分を入れ替えるように大きく息を吸い込むと、軽くむせた。空気の気持ち悪さが最悪だ。無駄に加速した不快感に苛立ちを募らせつつ、私は家路を走った。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 三コマ目の終わりを知らせる鐘の音が鳴って一分後、私は教室の後ろの戸を開いて足早に自分の席に向かった。こちらに向けられる心配や興味の視線を受け流し、無言で引いた椅子に腰かける。はぁ、と息を吐いた後、前に座る淡雪に声をかけた。

「お早う、淡雪」

「梓、お早う。今日は遅かったね?」

「んー、病院行ってた。昨日は休みだったから、朝一で行ってきたの。昨日プールで結構な量の水飲んだから、一応病院に行っておきなさいって先生にも云われてたしね。まあ、何も問題は無かった訳ですが」

「それは良かった……って云って良いんだよね?」

 こちらを少し窺うように聞いてくる淡雪に、私は笑って答える。もう体調は万全であると伝えるように。

「勿論ですとも。何か障害でも残ってたらヤバイけど、どこも問題ないって云われたからね。それに、序(つい)でで健康診断もやったんだけど、結果は健康体だってさ」

 そう云うと、淡雪はクエスチョンマークを浮かべるように首を傾げた。

「今朝やったんでしょ? 結果出るの早くない?」

「いや、お医者さまの見立てでは、って話。正確な結果はまた週末に取りに来てってさ」

「ああ、成る程ね。まあ、色々とお疲れさまでした、って感じかな?」

 苦笑する淡雪に、私も軽く笑いながら答える。

「云っちゃえば原因からして自業自得だからね。あんまり気にしてないんだよ」

「そういえば、ケイリもそんなことを云ってたっけ。私はその時見てなかったけど、潜水中に後続の一年生と頭をぶつけたって聞いたよ」

 淡雪の口から聞かされて、プールでの情景が蘇る。後頭部に走る衝撃、水を飲んだ息苦しさ、目眩が起きる程の吐き気。過ぎたこととは云え、思い出すだけでも不快感が込み上げてくる。

「あー……そんな状況だったんだ。混乱してて覚えてないや。辛かったことは思い出せるんだけど……って私、あの一年の娘(こ)に謝ってないかも」

「誰だっけ。えっと……そう、宮藤陽向って名前じゃない? 昨日の一件で悪い意味で名前が広がっちゃったよね、あの娘(こ)」

「確かそんな感じだったと思う……って、え? 噂にでもなっちゃった? そうだったら、少し申し訳ないかも」

 いくら水の中にしろ前方不注意だった彼女にも少しは過失があるだろうが、私にとってあれは私の自爆のようなものなのだ。前途ある一年の生徒に不名誉な称号を下手に付けさせたくはない。
 そして連鎖的に彼女とのやりとりを思い出し、地味に後悔した。いっぱいいっぱいだったとは云っても、少し礼を失した振る舞いだったかなと自省しなければならない。謝罪を無碍にして放置するなど、人として駄目じゃなかろうか。

「そういえば私、その一年の娘(こ)にかなり失礼な態度取ってた気がするんだけど」

「気になるんだったら、お昼休みにでも謝りに行ったら?」

「そうする。ありがとね」

 タイミング良く鳴った鐘の音を聞いて意識を切り替え、そそくさと授業の準備をしていった。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 四コマ目の授業が終わり、昼休み。
 お弁当を携えて、私と淡雪は一年生の教室の前に立っていた。

「別に、保護者は要らなかったんだけど……」

「何の話? いや、私はただ梓とお昼一緒しようと思っただけだから。今日はうたちゃ――御前も用事があるって云ってたし」

「ふぅん。まあ、下級生とは云え、見知らぬ相手に一人で声をかけるのは心細かったから、ありがたいけどさ」

 若干ツンデレかな? と自分の吐いた台詞のことを思わないでも無い。か、勘違いしないでよね! なんて、少しどもりながら云えばもう完璧だろう。いや、凄くどうでもいいことだが。

「さて、えと、すみませーん! 宮藤陽向さんはいらっしゃいますかー? もし居たらこちらに来て――」

「ちょっと、梓!」

「え、何、ちょっと痛いって!」

 緊張も解れたので探している相手を呼ぼうと声を張ると、何故か淡雪に止められた。腕を抓るように引っ張られたため地味に痛い。

「いきなりどうしたのさ、淡雪」

「いや、直接呼んじゃ駄目で――って、梓は知らないのか」

「自己完結されても意味が解らないんだけど……」

 困惑する私に、淡雪は軽く笑いながら謝罪の言葉を口にする。

「えと、ごめん。梓は転入生だな、って改めて実感したの」

「それって、どういうこと?」

「うん。この学院では、他のクラスの生徒を呼ぶときは、『受付嬢』っていう生徒に呼んでもらうのが決まりなの。『受付嬢』のことは前に話したよね?」

「確か、前の扉に一番近い席の生徒のことでしょ? 後は……他のクラスの人への案内がどうとか云ってたよね。ああ、それがそういうことなのか」

「淑女たるもの、人に呼ばれて直接出向いてはいけません! ってことらしいけど」

「何というか、面倒だね。それぐらい良いじゃん」

「まあ、そんなことが積み重なってこの学院の伝統を形作ってる訳だから、それ位は慣れないと駄目だって」

 愚痴愚痴と文句を云う私に、苦笑する淡雪。そして、そんな私たちの様子を窺っている、周りに居る一年の女子達。その中でも、教室の中で『受付嬢』の座る席に居た娘(こ)が、恐る恐ると云った感じで話しかけてきた。

「あの……梓お姉さまと、淡雪お姉さまですよね? 私達のクラスに何がご用でしょうか」

「ああ、ごめんなさい。人を呼んで欲しいのですが」

 反射的に答えた淡雪に感謝しつつ、私は首を捻っていた。目の前にいる女生徒を見た覚えが無いのだ。うむむ、と小さく唸っていると、受付嬢らしき少女が私に声をかけてきた。

「梓お姉さま? どうかなされましたか?」

「んー、いや、ごめん。ちょっと気になったんだけど、私と貴女ってどこかで会ったことあるかな?」

「いえ、無いと思いますが……」

「梓さん?」

 疑問の目を向けてくる淡雪に、私は手を振って応える。

「単に、何で私の名前を知ってるのか気になっただけだってば」

「成る程ね。でも、受付嬢だったら不思議じゃ無いでしょ」

 納得した風の淡雪。しかし、受付嬢らしき少女の答えは少し違っていた。

「二年のお姉さま方の中でも、お二方の名前は有名な方でいらっしゃいますから」

「へ? どういうこと?」

「淡雪お姉さまは、その、金色の髪がとてもお目立ちになりますし、梓お姉さまは体育の授業でのご活躍は聞き及んでいますから。特に昨日の一件で、ここと隣のクラスは梓お姉さまのお顔を知らない生徒は数える程になりましたから」

「は?」

 間抜けな声を上げた私に、少女は簡単な説明をしてくれた。それでも返せたのは短い疑問の声だけだったけど。そんな私を見兼ねたのか、淡雪が元の話を進めた。

「……ともかく、人を呼んでもらっても構いませんか?」

「あ、はい。それで、どなたをお呼びすればよろしいでしょうか」

 一度振り返って教室内を見回してから、少女はこちらに問いかけた。それに答えたのは私だ。

「宮藤陽向さんをお願い出来るかな」

 そう云うと、受付嬢らしき少女はすまなそうに謝った。

「申し訳ありません。陽向さんは今席を離しております」

「それでは、どこに行ったかは解りますか?」

 続けて淡雪が訊ねると、少女は頷いた。

「はい、おそらくは学生食堂に居ると思います。先程、いつも通りに三年のお姉さまを迎えに行かれましたので」

「そうなんだ、ありがとうね」

「はい。それでは、失礼します」

 戻っていく少女を見送って、淡雪はポツリと呟いた。

「梓、もう少し言葉遣いとか気を付けようよ。下級生相手とは云え、少し粗雑だったよ」

「あー、ごめん。出来るだけ気を付ける」

 後頭部を軽く掻きながら、淡雪の呟きに反応する。淡雪やケイリに対する言葉遣いは、ここの初対面の生徒にするものでは無いだろう。

「まあ、時間も少なくなったし、早く学食行こうか」

「お昼食べてる時間あるかなぁ……」

 ぼやきながら、気持ち早歩きで学食へと向かった。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


「えっと、どこに居るかな……あ、居た。多分、あの娘(こ)がそうじゃない?」

 食堂に着いてすぐさま淡雪が指差した先には、二人の女生徒がテーブルに向かい合って談笑していた。大勢の女生徒が思い思いに喋っている食堂の喧噪の中でも、その二人の声は入り口まで微妙に聞こえてきていた。
 とりあえずその二人の座る席まで近付くと、忙しなく回っていた茶髪少女の口が丁度休まる。この機会を逃さぬように、私は急いで声をかけた。

「ごめんなさい、ちょっと時間を貰ってもいいかな」

「はい。何でしょ――」

 こちらへと見覚えのある顔を向けた茶髪の女生徒。予想通り、昨日私にぶつかった娘(こ)だ。非常に元気そうな第一印象を受ける。
 まどろっこしいのは嫌いなので早速本題に入ろうとしたが、茶髪っ娘の様子が変だった。持っていたフォークを取り落とし、その手は小刻みに震えていた。

 「ま、まさか、これが噂に聞く、お礼参りって奴ですか!? そ、そのですね、私もまだ覚悟が出来てるとは云い難いので、少しは加減してくれますとああいえ別に私がしでかしたことを有耶無耶にしようなどとは考えていませんからええと――」

 矢継ぎ早に言葉を重ねる茶髪っ娘を見兼ねたのか、隣に座っていた女性が助け船を出した。

「少し落ち着きなさい、陽向。そちらの二人は貴女が云う程険悪な様子は無さそうだから、一度リラックスしなさい」

「は、はい! 解りました、香織理お姉さま! えっと、ひっ、ひっ、ふー。ひっ、ひっ、ふー」

「……まあ、貴女がそれで落ち着けると云うなら、私に云えることは無いわね。存分におやりなさいな」

 明らかに狼狽した様子の茶髪っ娘に、ふわふわとした――視覚的な意味で、おさげの付いた髪の毛とか、少女とは到底呼べない豊満に過ぎる胸部とかが――大人っぽい雰囲気の女性が、呆れたような声をかける。
 ……ラマーズ呼吸法って、本当にリラックス出来ているのか甚だ疑問だ。大勢の女生徒が食事をしているここでそんな奇行をしている茶髪娘に、否応無しに視線が集まってくる。
 そんな周りの興味深げな視線が私にも向けられるのを、冷や汗が流れそうな背中でひしひしと感じる。ああもう、居心地が悪い。本来、食堂には疲れを感じる要素の欠片も無いだろうに。
 ……はあ、おかしいな。私はちょっと下級生の女子に謝ろうとしてここに来た筈なのに、何故こうも注目されているのだろうか。
 確実に唇の端が引きつっているだろうな、と他人事のように思いながら、私はこの奇特な状況の解決方法を必死に模索していた。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 結局、グダグダのノリが延々と続いてしまい、昼休み中に用件を済ませることは出来無かった。それどころか、食事をとる時間も無かったため、私と淡雪は次の短い休み時間中に急いで食べる羽目になった。特に私は朝食をマトモに食べていなかったので、五コマ目の授業は鳴き声を止まないお腹が憎くて仕様が無かった。
 一応、茶髪っ娘には今日の放課後に我がクラスへ出頭するよう脅しつけてきたので、問題を明日に持ち越すことはないだろうとは思う。首が千切れるんじゃないかと心配になる位ぶんぶんと振っていたので、忘れて帰ってしまうことはないだろう。

「はぁっ……! やっと終わったー」

「うん。お昼が食べられなかった分、五時間目の授業は長く感じたね。でも、梓は三限目からだからまだ良かったんじゃないの?」

 六コマ目の授業が終わって、クラスメイトの何人かが一斉に伸びをする。私や淡雪もその中に含まれていた。

「いや、朝健康診断してきた、って云ったじゃない? そのせいでさ、朝は殆ど何も食べてないのよ」

「え? 健康診断なのに朝食抜かないといけなかったの?」

 机の上から勉強用具を片付けながらも、淡雪は疑問に思って訊ねてくる。こちらに視線を向けてくる彼女から、私はそっと顔を逸らした。

「いやさ、ちょっと勘違いしてて……」

「ああ、成る程。自業自得な訳ね。何とも梓らしい感じがするボケね。すっごくしょうもないもの」

 そんな短い言葉だけで解ったらしく、淡雪は納得したようにうんうんと頷いていた。その顔には、呆れたような苦笑が浮かんでいた。
 頬の紅潮をそっぽを向いて隠しながら、私はせっせと掃除を始める準備を進めていった。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


「し、失礼します! あの、あ、梓お姉さまをお呼びして貰っても宜しいでしょうか?」

「ええ、解りました。梓さん、一年の娘(こ)がご指名ですよ」

「あ、はーい、今行きます」

 帰りのHRも終わり、淡雪が部活の方に行ってしまったのですることもなく、ぼぅっと空を見上げていると、ようやく私のお客さまが来たらしかった。
 突いていた肘を外し、おもむろに立ち上がる。くるりと体の向きを変えて、教室の入り口に独り立つ茶髪っ娘に視線を送る。かち合った視線は、相手に即座に逸らされた。
 ――嫌われたかな? そんなことを思いながら、つかつかと茶髪っ娘との距離を詰めていく。心なしか、その肩が震えているように見えるのは気のせいだろうか。気のせいだろう。

「お待たせしました……ええと、その、ありがとうございました」

「何に対しての感謝でしょうか、梓さん? ……もしかして、私の名前をご存じありませんか?」

「あはは、すみません……何分、交友関係も狭いもので。淡雪とケイリ以外では、体育で一緒になった三人ならどうにか名前を覚えているのですが」

 体育と云った瞬間に、茶髪っ娘の体が跳ねたような気がした。立ち位置の関係でそれが見えていない我がクラスの受付嬢|(らしき人)は、気づかぬまま話を続ける。

「いえ、こちらも自己紹介をしていませんので、お気になさらないで下さい……改めてまして、真鳥蓮芭(まとりはすば)と申します。宜しくお願いしますね」

「あ、はい、こちらこそ。連城梓です。宜しくお願いします」

 茶髪っ娘の目の前で、私達は互いに頭を下げ合っている。端から見ると、さぞかし奇妙な光景ではないだろうか。事実、教室の隅からヒソヒソと話し声が聞こえてきているし。

「……あら、申し訳ありません。私としたことが、梓さんのお客さまを差し置いて話し込んでしまいました。私はこれで帰宅しますので、後はお二人でどうぞごゆっくり」

 それは何か違わないかと思いつつも口には出さず、こちらに頭を下げて教室を出ていく蓮芭さんを見送った。そして残るのは、頭を掻く私と、恐る恐る私を上目遣いで見る茶髪っ娘。
 無意識に溜め息を吐きたくなったが、ぐっと堪えた。今そんなことをすれば、茶髪っ娘がより一層怯えかねない。苛立ちを吐き出して掻き乱すように頭を擦り、結果として茶髪っ娘を怯えさせることになった。

「あー……本当、そんな大した用事でも……いや、そんなこともないかな?」

「は、はい!」

 明らかに緊張している茶髪っ娘を見て、本当にどうしたものかと頭を悩ます。何気なく周りを見回して、教室に残る生徒達の注目を集めていることに気が付いた。
 ――ビクビク怯える下級生を呼び出した、不機嫌そうにする上級生。特別親しくもない生徒がその光景を目にしたら、一体どう思うだろうか?
 傍目から見ると、私が悪役にしか見えないだろう、これは。流石にクラス内で今以上に立場を悪くしたくはないんだけど。

「そう畏まって欲しくないんだけどね……そうだ、ここじゃ人目もあるし、ちょっとついてきてくれる?」

 名案を思いついたとばかりに提案すると、茶髪っ娘は何故か更に絶望したように顔色を青くした。とりあえず頷きはしたので、先導するために先に教室を出る。

「人気が少ない方が、貴女にとっても良いでしょう……?」

「そ、そうです、かね……? あは、ははは……」

 安心させるように声をかけるも、引き攣ったような笑みを浮かべられる。尻すぼみな声の茶髪っ娘をいよいよ不審に思いながらも、階段へ向けて廊下を歩いていくのだった。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


「良い風……まだ初夏だから陽射しもキツくないし、もう少し人も集まりそうなものだけど。いや、時間を考えれば暑すぎるのかしら?」

 予想通り鍵の開いていた屋上へ出て、地平線に沈む夕焼けを見ながら深呼吸。夏の湿った空気もここまでは届かず、吹く風の心地よさに思わず目を細める。

「あ、あのー、勝手に使っちゃって大丈夫なんでしょうか……?」

 私に続いて屋上へ出てきた茶髪っ娘が不安そうに訊ねてくるが、笑って返す。

「大丈夫だって。使用禁止なら鍵がかかってる筈だしさ。最近見つけたばかり何だけどさ、結構穴場なんだよ、此処。もし注意されたらその時はその時って事で」

「そ、そうなんですか」

 うーん。気を遣わせないように人気のない場所まで連れてきたのに、まだ緊張が抜けないか。そこまで自責の念が強いとは思ってなかった。
 失敗したかと内心で反省を終え、長く拘束するのも相手に悪いと思い本題に入る事にする。私とは違って、部活もあったかもしれないし。そっか、茶髪っ娘が遅れたのはその辺りの調整もあってかな?

「さて。今日呼び出しのは他でもない、先日のプールの件について、です」

「……はい!」

 どこか決意でもしたかのような茶髪っ娘の表情。そう言えば、謝ろうと思ってはいたが、何に対して謝るべきだろうか? 不味い、何も言葉を考えてなかった。

「んー、何て言うのかな」

「…………」

「この間は御免ね? 私のせいでちょっと悪目立ちさせちゃってさ」

「…………はい?」

 茶髪っ娘はぽかんとしたような顔をした。もしかして、改めて私に詰られるとか考えていたのだろうか。だとしたら、本当に申し訳なく思う。

「あれは私が悪いでしょう。泳いでいる人が多い中で潜水するとか、殆ど自業自得じゃない」

「え、いや、でも! 私が前方不注意だったから、その!」

「あー、もう謝罪とかいらないけど、取りあえずこれだけは言わせてね」

 混乱しきった様子の茶髪っ娘へと、真剣に頭を下げる。これだけは、競技射としての私のケジメなのだ。人の邪魔をしておいて、人に謝らせるなんて真似は、どうあっても許容出来るものではない。

「――貴女は悪くないから。迷惑かけて御免なさい」

「いえいえ、そんな! えっと、何て言いますか……」

 私が頭を下げている間に、茶髪っ娘の挙動不審も治まってきているらしい。バタバタと何かをしている音が止み、落ち着きを取り戻すためか咳払いが聞こえた。

「頭を上げて下さい、梓さま。そのですね、やはり私も悪かったと思っていますし、そこまで謝って頂くのは私が申し訳ないです。だから、その、此処は喧嘩両成敗という事で如何でしょうか!?」

 最後の言葉に思わず苦笑し、私はゆっくりと頭を上げる。

「何だか若干言葉が違うかな、とも思うけど。ニュアンスは伝わって来るからいいのかな? それじゃあ今回の件は、私達にとっては此処で終わり、でいいのね?」

「はい!」

 元気のいい返答に、苦笑ではない笑みが浮かぶのを自覚する。この娘結構好みかも、と浮かんだ思考をどうしようか悩み、食堂で会った先輩の姿が浮かんできた。
 あの先輩は何と云うか、同類……いや、私以上に、である可能性がある。横取りするような真似と云うか、下手に手を出したらマズイのはこちらになるだろう。

「もしかしたら、って事もあるよね……」

「何か仰いましたか、梓さま?」

「ううん、何でも無い。そうだ、良ければ一緒に帰らない? 貴女の事、個人的に気に入ったかもしれなくて、ね」

 流し目気味に視線を送ると、茶髪っ娘は一瞬きょとんとした後、顔を真っ赤にして狼狽を始めた。こういう反応をしてくれるあたり、誰かの毒牙にはまだかかっていないらしい。

「え、えーっ!? それは所謂、百合とか云う奴ですか! あわわっ、まさか私が餌食になるとはっ!?」

「いやいや、そこまではいかないってば…………まだ」

「すっごい不安になる言葉を付け加えないで下さいー!?」

 あくどい笑みを浮かべているんだろうな、と他人事のように思いつつ、この愉快な後輩との時間を楽しむのだった。
 ……後で、溜まってるな、と自己嫌悪した。



[35772] 十話 七月中旬、私の再戦。
Name: パオパオ◆a94e6367 ID:ac1e60c3
Date: 2012/11/13 22:24
「そう云えば、先日お姉さまを介抱したんだけどね」

「お姉さま……誰のこと? 淡雪の姉?」

「いや、違う……って、ああ、梓は知らないか。名前無しでお姉さまって呼んだら、それは基本エルダーのお姉さまのことを指すの。でも、今年のエルダーは二人居るから、どっちにしても解んないか」

 成る程。今月に入ってから『お姉さま』って云う女生徒が多くて若干気味が悪かったんだけど、そういう事情があったのか。やっぱり、もう少し交友網は広げるべきだな。ここでの常識を知るためにも、それが一番良いだろうし。
 ……転入してから一ヶ月以上経ってやっと学院に馴染もうとするのは、少々遅い気もするけど。思わないよりはマシだろうと考えて、そこで思考を振り払った。

「それでね、珍しくケイリと二人一緒だった時に、酷く顔色の悪いお姉さまが廊下を歩いてたんだ。休むところを探していたみたいだから修身室へ連れていって、そこで眠ったお姉さまの顔を見ながらケイリと喋って仲良くなってたんだ」

「あれ、二人って元から仲良かったんじゃないの? てか、それって秘密にしとかなくても大丈夫?」

 今一つ実感は湧かないが、『エルダー』という存在はこの学園における象徴のようなものらしい。そんな相手と一緒に居たと知られたら問題なんじゃないか、と不安気に訊ねるも、淡雪は大丈夫だと笑ってみせる。

「廊下で何人かに見られてるしね。少し耳の早い娘(こ)なら、大体知ってると思うよ。えと、まあ梓と三人でなら結構喋ったりはしてたけど、私とケイリの二人ってのはあんまり無かったんだ。ほら、ケイリって休み時間とか教室に居ないでしょ?」

「んー、そう云われれば、そうかもね」

 淡雪の言葉は真実なのだろう。記憶を探ってみるも、教室内でケイリが友達と喋っていたりする光景が浮かばなかった。

「ケイリは彷徨してるのが趣味らしいんだけどね。まあ、そんな訳で、時間もあったから色々喋ってたんだよ……主に梓のネタで」

「ちょっと、聞き捨てならないことを仰いませんでしたかな!?」

「冗談だってば」

 クスクスと朗らかに笑う淡雪を見て、二の句が継げなくなる。あー、うー、と唸った後、大きく息を吐いた。

「まあ、仲が良いのは美しいらしいから、良い事だったんだろうね。私がネタにされてなければ。異論はないさ……私じゃなかったのなら」

「あはは、御免ってば」

 不貞腐れています、とポーズするのもいい加減止め、頬杖を突いて淡雪を少しだけ見上げる。

「別に良いけどねー。実際、陰口叩かれてたって訳でも無いだろうし、目くじら立てても仕様が無いし」

「んー、盛り上がりはしたよ、とだけ。それより、梓はあの一年の娘とはどうなったの?」

 軽い口振りとは裏腹に、かなり気にしていたのだろう。淡雪の顔には真剣味があった。

「そっちは万事解決。確執も多分無し。寧ろあの面白い娘と出会えた分、溺れただけの価値はあったかなって思うよ」

「……今日の水泳では、また溺れたりしないでよ?」

「大丈夫だって。前回はちょっと体の動かし方忘れてただけだから。今日こそはケイリに勝つ!」

「うーん、どうかな?」

 微妙そうな表情をした淡雪の反応が気になった。

「どういうこと?」

「梓が運動出来るのは知ってるけど、ケイリもかなり出来るじゃない? それに、ケイリって水泳部所属だって聞いたよ。梓が勝つのは難しいんじゃないかな?」

「む……」

 確かに、現役の水泳部員相手は厳しいかもしれない。聖應の運動部はそれなりに仮入部して部員の運動技能を見て回っているが、今の所は私の得意な競技ばかりだ。それだけを見て聖應の運動部のレベルを判断するのは愚かでしかない。
 特に、一度練習風景を見たフェンシング部の熱気は凄かった。フェンシングは一度もやったことがないので何とも云えないが、上手い部類だと素人目にも解る人が多かった。
 そもそもの話、運動不足で体力に欠けている今の私は、ごく短時間にしか万全のパフォーマンスを発揮出来ない。本来運動部の部員に求められるのは継続して運動を行う能力なのだから、私とは力の使い方が違うのも当然なのだ。前の高校のような助っ人としての働きも、今の私では満足に出来そうもない。

「それでも、負けたくはないんだよね……」

 競技者の一人として、負けを前提にした戦いなど名折れも良いところだ。やるからには全力を尽くす。

「とりあえず、最初の授業は数学なんだから、そのやる気は抑えておきないさいよ。当てられたら答えられないでしょ?」

「う……はい。体育まで体力を温存しておきます」

 同年代なのに何故に窘められているんだろうかと疑問が浮かぶが、入室してきた先生を見て考えが霧散した。やはり、勉強は苦手だ。脳筋で何が悪いと云うのか。
 内心で文句を吐きながら、鞄から数学の用意を出していった。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


「さあ、ケイリ。リベンジマッチをしよう!」

「梓さん、私の指示を無視して勝手に泳ごうとしないで下さい!」

「すいません!」

「気が逸り過ぎだよ、梓」

 四コマ目、水泳の授業。溜め込んだやる気が抑えきれず、教師からの叱責を受ける羽目になった。呆れたようなクラスメイト達の視線が痛い。
 今日の水泳は二年B組との合同だ。体育は基本的にD組と一緒に行うので、見知らぬ面々がその肢体を露わにしている。お嬢さまだけあって、非常に眼福である。
 特に目を惹くのが、小柄な黒髪の美少女だ。どこかで見た覚えはあるのだが、イマイチ思い出せない。何と云うか、あるべきものが無いような、そんな物足りない感覚があった。

「やる気があるのは喜ばしい事ですが、まずは準備体操をして下さいね、梓さん。皆さん、各自でペアを作って体を解していって下さい!」

 はーい! と元気な返事が返り、それぞれが親しい者と一緒に体を解し始めていく。私も淡雪とペアで体の筋を伸ばしていき、泳いでいる最中に万が一が起こらないように努める。
 互いに体を引っ張り合ったり、背中を合わせて仰け反らせたりと十分に準備体操を終え、教師の号令で集合する。

「それでは順番に泳ぎ始めて下さい。今日は授業の後半で二十五メートルのタイムを取りますから、それを念頭に置いておくように。それと、くれぐれも事故が起こさ無いよう、きちんと気をつけて泳いで下さいね」

 教師の視線が完全にこちらを向いていたが、反応に困る。無茶するなとのお達しなのだろうが、生憎今日は無茶しかねない。勿論の事、溺れたりなど無様を晒すつもりはないけれど。

「さ、ケイリ。今日の勝負は、タイム計測の時でいい?」

「そうだね。それまでに十分、体を温めておくとするよ。今日も負けるつもりはないからね」

「言ったね? 吠え面かかせてやるから、楽しみに待ってなよ」

 無意識に獣性が発露する。抑えられない昴りが体に熱を帯びさせ、疼きが肉体に運動を促す。嗚呼、良い。素敵な気分だ。

「梓、口調が崩れてるって」

「んー……ごめん。ちっと抑えられそうにないから、暫く黙るわ」

「何それ? よく解らないけど、ケイリとの勝負に集中するって事でいいの? まあ、頑張りなよ」

「ありがと」

 淡雪には悪いけれど、集中した私は周囲に気を遣えないのだ。端的な感謝の言葉の後、意識を泳ぎにだけ向ける。

 乱暴になった言葉遣いは口を閉ざす事で解決する。興奮を少しでも留める様に。
 耳から入る情報を絶つ。内へと精神を潜り込ませ、昔日の経験を思い出す。
 泳ぎ方を思い出す。手の伸び。指先の形。足の動かし方。呼吸のタイミング。脱力。
 以前の我武者羅で、無駄な力が入っていた泳法を捨てていく。淡々と泳ぎを繰り返し、ぎこちない動作を減らし、スマートなフォームを形成していく。

「それでは、今からタイムを取っていきます。準備が出来た生徒から、順番に並んでいって下さい。見学の娘達は、先程云ったように計測をお願いします」

 個人的に満足出来るレベルには程遠いが、納得は出来る位に取り戻した。最低限、惨めな姿は見せずに済む。

「いや、梓。私は貴女を見誤っていたらしい。泳ぐ度に洗練されていくフォームを見ていると、心胆寒からしめるものがあるよ」

 ケイリが近付いてくる。水中には既にタイムを測っている生徒が居るが、ケイリはまだ泳ぐつもりはないのだろう。私としても、折角だから最後に皆が見ている前で、と思っていたので丁度良い。体力回復がてらに、軽く雑談をして時間を潰すとしよう。

「まだまだ、とも思うけど。やっぱ体力とか衰えてるし。夏は本格的に鍛え直さないと」

「それはそれは。けれど、調子が万全じゃないからって、負けた事に文句は云わないで欲しいね」

「そんな醜態は晒さないさ。負けないし、万が一でも負け惜しみなんて云うものか」

「おやおや。前回、あれだけの差をつけて負けながら、どこからそんな自信が湧いてくるのやら。精々、私と競える事を期待しているよ」

 やけに発破をかけられる。それは何となく、ケイリらしくない気がする。まだ一月少々の短い付き合いでしかないが、彼女は悪意を持って人を貶める質ではない事位は知っている。
 ……まあ、良い。どんな意図が隠れていようが、所詮は勝負の前の舌戦だ。勝負の結果に関わる訳でも無い。私は、ただ最善を尽くすのみ。
 
「まだタイムを測っていない生徒は居ますか?」

「すみません、今からやります!」

 ケイリとともに飛び込み台へ上がり、先端に足の指をかける。残っている生徒は、もう私とケイリの他に一人だけだった。黒髪が視界の端を過るも、気にならない。

「用意――」

 教師の声を受け、手を台に触れない位置へ下げる。今更に気付いたが、私は飛び込みの練習をしていない。事態の不味さは何一つ対処法が無く、私に取れる手段は一つしか無かった。

「――儘よっ!」

 ピー! と甲高い笛の音が鳴り、私とケイリは同時に台を蹴った。刹那の浮遊感。直後、全身を水面に叩きつけ、轟音と激しい水飛沫が引き起こされる。予期していたとはいえ、痛みで一瞬身動きが取れなくなる。

「ああっ!」

 その一瞬で、ケイリが頭一つ抜きん出る。彼女の飛び込みは、水面を波立たせることも無い綺麗なものだった。稼がれたアドバンテージは大きい。
 だが、私は負けたくない。焦りを抑え、崩れそうになるフォームを修正する。体は熱く、頭は平静に――。

「はっ」

 一度目の吸気。水面から上げた視界には、少しだけ先を行くケイリの姿が見えた。その距離は、確実に縮まっている。
 頭を潜らせる。手は大きく水を掻き、振られる足は強く水を蹴る。ストロークの度に体が引っ張られるように前進し、ケイリに迫るのを感じさせる。

「はぁっ!」

 二度目の呼吸。疾うに半ばを越えた勝負に、僅かに息苦しさを感じさせる。頭を上げる回数を減らす事で少しでも速く進もうとしているが、なまじ今回は距離が短い。追い上げにも限界がある。
 負けられない。連城梓としての意地が、矜持が、私の体を動かしていく。意識は体の動作から離れ、無意識が体の動きを効率化していく。
 加速する。ギャラリーの歓声が耳を通り抜け、ただ泳ぐ事に専心する。一掻き。また一掻き。水面を蹴り上げ、少しでも前へ――!

「がふっ!?」

 突然の激痛。頭頂部に生じた鈍痛は、思考を掻き乱して体を沈ませる。残っていた空気を吐き出し、反射的に立ち上がる。

「痛っ――あ?」

 頭を擦りながらの目の前には、壁。それが意味するものを理解した瞬間、手の動きも止まり、横を向く。

「ははっ、梓、凄いね、君は」

 息を乱したケイリ。上下する胸を押さえながら、笑って私を見ていた。

「ケイリさん、23秒8!」

「梓さん、22秒4です!」

 計測係をしていた二人の女生徒の声が聞こえた。耳を通り過ぎかけたそれは、その意味を咀嚼して理解するのに数秒を必要とした。
 ギャラリーが歓声を上げる。声が染み込んでいくように、微熱が体を覆い尽くす。

「っしゃあぁぁっ!!」

 拳を突き上げ、絶叫する。間違いなく淑女らしくない声を上げてしまったが、許して欲しいと思う。

「お疲れさま。凄かったよ、二人とも。見てるこっちが興奮する位の接戦だったし」

 中腰になって見下ろしてくる淡雪。私とケイリの興奮が伝播したのか、頬が微かに紅潮している。

「あー、うん。ありがと。何とか勝てた、っぽい」

「ありがとう、ユキ。私ももう負けるとは思わなかったよ」

 勝った、と実感を得た途端、どっと疲労が押し寄せてくる。じわじわと全身に痺れるような痛みも感じ始め、身を浸す冷水の心地よさに目を細める。
 ケイリは既に水中から上がり、気付けばもう一人もいつの間にか台を上っていた。海月のように水面に浮かぶのを止め、慌てて水中を出る。

「疲れたー。体力落ち過ぎだ」

 云いながら、プールサイドに寝転がる。荒く息を吐くのに合わせ、薄い胸が上下する。濡れた髪が潰れ、水滴が涙のように流れ落ちる。
 顔を上げると、上下逆の淡雪の水着姿が見えた。今日は気にする余裕が無かったが、やはり眼福である。

「ほら、寝転がってないで立ちなって。もう授業終わるから、皆整列してるし」

「ん、ありがと。っと、ごめん」

 差し伸べられた淡雪の手を取り、引っ張られる形で立ち上がる。勢い余って抱きつく形になってしまったのは、勘弁願いたい。しかし、絡み合う肌から伝わってくる体温が心地良い。
 密かに淡雪の体の感触も堪能していると、緩やかに体を放されてしまった。やはり、女同士と云えども、肌と肌との密着は気色悪く思ってしまうものか。まだ見極めが出来ていない。
 遊んでいると思われたのか、教師から咎めるような視線が飛んできた。先程は寝転がっていた事もあってか、その視線は厳しい。淑女らしからぬ振る舞いになってしまった事を反省せねば。

「ほら、行くよ。次はお昼休みなんだから、そこで体を休めなって」

「そうだね。早くお昼食べたいや」

 タイミング良く鳴った私のお腹に笑い合いながら、整列するクラスメイトたちの元へ向かった。疲労と痛みに、顔を綻ばせながら。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 待ちに待った食事の時間。混雑の中、見つけた座席を確保し、直ぐに弁当箱の蓋を開ける。

「頂きます! っと」

「梓、お祈りはちゃんとしなよ」

「ごめん無理。私のお腹は限界です。正直な話、食堂来る途中に弁当開けて食べたかった位だもん」

 一緒に来た淡雪がじと目を向けてくるが、反論せざるを得ない。四コマ目に多くのカロリーを消費したため、空腹で頭がどうにかなりそうなのだ。

「……廊下で食べてるとこ見られたら、シスターに説教されるよ? 多分一時間コースは確定じゃないかな」

「しないってば。と云うか、説教って真面目に?」

「真面目じゃない説教って何?」

「意味違うけど、まあ、そうだよね……」

 云いながらも箸を動かしている私を見て、淡雪が溜め息を吐く。淡雪が自身の弁当箱を開けると、もう一人の同行者が食事の載ったプレートを置いて席に着いた。香しい鰻のタレの香りが胃を刺激する。

「何だ、梓はもう食べ始めているのか。少し位待っていてくれないのかな」

「限界だったんだってさ。お祈りも無しにがっついているわよ」

「全く……」

 呆れたような様子のケイリ。淡雪もそれに同調し、少しばかり肩身が狭くなる。二人は律儀にお祈りの言葉を云った後、自分たちの食事に手を付け出した。

「それにしても、梓の運動神経は凄いね。あまり熱心にしていた訳ではないけれど、曲がりなりにも私も水泳部の一員だったから」

「私も吃驚したよ。バスケの時とか、噂に聞く部活荒らしで良いとは思ってたけど、改めて驚かされるよ」

「それだけが私の取り柄だし。てか部活荒らしなんて、やってるつもりは無いんだけど……」

「実際、二年の転校生が幾つもの運動部に体験入部して、レギュラーを悉く打ちのめしている、っていう噂はかなり広がっているよ」

 以前も聞いた覚えがあるが、何だか進化してないだろうか。私がやった事なんて、精々がレギュラーの練習相手をした程度なのに。そりゃあ、ちょっとした試合で私が勝ったのも事実ではあるけど。
 実際、私が体験入部した部活は県大会に出場すら出来ない弱小ばかりだった。加えて、エルダー選挙が近いという事で、部活全体の雰囲気が浮ついていた頃だ。少し前に偶然見かけた時、見違えるような練習をしていた。
 ……考え方によっては、私に負けてやる気が出た、とも云えるかもしれない。自惚れは程々にしておかないと、後で損をするのは自分になるから、自重はするけど。

「そこまでやってないってば。噂に尾鰭付きすぎじゃないの?」

 若干憂鬱になってしまう。新しい学校に来て、再び悪名が広がってしまうのは避けたかった。強ち悪名とも云えなかったりするのだろうか? 勇名だとは思えないけど。

「噂だからね。勝手に広がっていくものだから、信憑性はどうしても落ちてしまうだろう。今日の梓が噂になるかは、微妙かもしれないけれど」

「そうかな? 私としては、泳いでいる梓はかなり格好良かったし、噂の一つ位にはなりそうかなって思うけど」

「けれどユキ、最近のプールと云えば、お姉さまの事があるだろう?」

「そっか、そっちのインパクトの方が強いよね」

 二人だけで解り合っている様子の会話に首を傾げる。お姉さま、って事はエルダーの二人のどちらかだよね?

「梓は聞いてない? 千早お姉さまがプールの授業がある日は、楽しみで人が変わったかのようになってしまうってやつ」

「……は?」

 ぽかん、と口を開けて、箸で摘んでいたミニトマトを取り落とした。赤玉が生姜焼きのタレに漬かるのを見送る。

「え、それ本当?」

「んーと、今朝も云ったと思うけど、昨日ケイリと千早お姉さまの看病みたいなことしたんだ。その原因がプールが楽しみではしゃぎ過ぎたから、とか何とか。本人が云ってたから、多分本当だと思うよ」

「……何か、信じ難いものがあるわ。えっと、黒髪のエルダーのお姉さまの方では無いんだよね?」

 個人的な第一印象では、銀姫さまよりも黒髪美人のエルダーの方が活発そうに思える。銀姫さまは寧ろ、女性の鑑のような淑やかな印象を受ける。不思議と、銀姫さまも運動が不得意だとは思えないけど。

「薫子、いや騎士(ナイト)の君は、体育を楽しみにはするだろうけど、プールだから人が変わる程では無いだろうね。あの女性(ひと)は、良くも悪くも自然体だから」

「へぇ……」

 ケイリが不思議な表情で語る。裏の事情を知っているような、そんな謎めいた顔をして。
 それと、何となく黒髪のエルダーの方への云い方が知り合いへのもののように聞こえるが、気のせいだろうか。

「話変わるけど。ケイリ、貴女と私との勝負の前のあれって、もしかしなくても挑発?」

「うん? ああ、その通りだよ。梓が運動が出来るとは知っていたから、少しばかり奮起させてみようかな、という試みだったのだけど。まさか、最初の再戦で敗北を喫するとは思っていなかったよ」

 苦笑するケイリの表情には、必中の予想が外れたというような驚きがあった。勝負の時は自分でも驚く位上手く泳げたのだから、対戦相手としての驚きはそれ以上なのだろう。

「梓には、予想を覆す程の『勝負強さ』があるね。それは得難いものだ。大切にしていく事をお勧めするよ」

「それは、まあ。手放すつもりもないし、手放せるものでもないけど」

 自惚れではないけれど、私は勝負強さが人並み外れている。勝負所と言われる状況において、私は練習の成果を十二分に発揮できるのだ。その代償か、スタミナの消費も著しいから、短時間しか活躍出来ないのだけど。

「私も競技者の一員だからね。梓の資質は素直に凄いと思うよ。これからはもう少し真剣に部活に取り組んでみようかな?」

「……ちょっと、照れるわ」

 熱くなった頬を、二人から顔を逸らすようにして指で掻く。微笑ましげな視線が向けられているのを自覚する。瞼をぎゅっと閉じて、一秒でも早く火照りを無くそうと試みる。

「とは云え、次も負けるつもりはありませんよ、梓」

「ん? あ、そっか。まだ水泳の授業はあるんだっけ。今日に集中し過ぎてて、すっかり忘れてた」

 当たり前の事だが、ケイリとのリベンジに勝利したからと云って、次も勝てる訳ではない。寧ろ挑まれる側になる以上、今日よりも厳しい戦いになるだろう。勝利に浮かれていたせいか、すっかり失念してしまっていた。

「いやいや、梓。水泳の授業ってまだ二回目だよ?」

「あはははは……」

「笑って誤魔化せる事じゃ無いでしょ」

 呆れを滲ませる視線を空笑いで流し、ふと視線を壁の時計へ向けた。もう数分で、予鈴が鳴る時間だった。
 手元に視線を下ろす。先に下品になりかねない勢いで食べただけあって、もう残りは少ない。が、悠長に食べていれば昼休み中には間に合わないだろう事は明白だった。

「またか! ああもう、早く食べないと!」

「え? うわ、もう時間無いじゃない! 私、まだ半分近く残ってるんだけど!?」

「梓もユキも、話すのに夢中になってたからね。それでは、私は先にこれを片付けてくるよ」

「って何時の間に!? そう云えば、ケイリの淡雪の呼び方――ああもう、時間無い!」

 ケイリが米粒一つ残っていない鰻重のプレートを返却口へ運ぶ間に、私を淡雪は流し込むように弁当の残りを食べ進めていった。味わう余裕なんて当然無い。咀嚼し、飲み込む作業を繰り返す。
 気が付いたケイリの呼び方への言及も出来ぬまま、折角昼食を用意してくれた母へ謝罪しつつ、私は兎に象られた林檎を真っ二つに噛み千切った。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


「さて、話を聞かせてもらおうか、二人とも!」

 放課後の教室。教室を出ていこうとしたケイリと淡雪を捕まえ、三人で机を囲む。

「話と云われても……何の事?」

「ユキの云う通り、少し要領を得ないかな」

 二人が互いに視線を向け合い、同時に首を傾げる。ああもう、その態とやってるような感じが!

「それだよ! ケイリが淡雪を『ユキ』って呼び捨てにしてる事! 昨日まではそうじゃなかったじゃん!」

「テンションたっかいなあ……」

 淡雪が机に頬杖を突きながら、隠そうともせず息を吐いた。
 ……何だか、ちょっとぶっきらぼうと云うか、今までとは違う印象を受ける。気安い? のだろうか。

「それで、梓は何が云いたいんだい?」

「私もあだ名呼びに混ぜて欲しいって事、だけども……」

 喋る勢いが落ちていく。今更ながらに、自分が何を云っているのか解らなくなった。いや、学園内で唯一の友達から疎外されているような錯覚を受けていたからなんだけど。所詮は錯覚と理解した。

「そうだね。なら、ここは梓の事を『あずにゃん』と――」

「ごめんやっぱ無しで!」

「突っ込みが早いね」

「黒歴史だから、あんまり弄らないで……」

 クスリ、と軽く笑う淡雪には、やはりどこか存在していた壁が減っているように感じた。一月も付き合ってきて、漸く遠慮が無くなってきたという認識で、きっと問題無いだろう。

「まあ、梓が呼びたいなら、好きに呼べばいいと思うよ。別に私は、余程変じゃなければどう呼ばれてもいいから」

「って云われても、うーん……」

 あだ名を考えろと云われても、パッと思いつくのは碌でもない。ペスとか、諭吉とか、人間に使うのはどうだろう。ケイリに至っては、何一つ思いつかない。

「んー……」

「ま、何か浮かんだら云ってね。それじゃあ、私は部活に行くから」

「私も校内を回ってくるよ。じゃあね、ユキ、梓」

 考え込んでいると、二人が鞄を持って出ていく所だった。そう云えば、二人に用事の有無を確認していなかった。

「あ、ごめん。部活とかあったのに拘束しちゃってて」

「少しくらいだから大丈夫だってば。じゃあねー、梓」

「ユキの云う通り。私はただ、校内を彷徨くだけの事だからね。それでは、また明日」

「うん、また明日」

 手を振って二人を見送る。誰も居なくなった教室に一人というのは、名状し難い寂寥を覚えさせる。沈みかけの黄色い陽射しに視線を向け、目を閉じる。

「んー? 何だか、ちょっと空回り気味。体動かして、発散させとこうか……参ったな、今日はどこの運動部にも体験入部する旨伝えてなかった」

 呟きながら、体を伸ばす。水泳の疲労は残っているが、運動に支障が出る程では無い。寧ろ、スタミナをつけるためにも動くべきだろう。

「飛び入りでも大丈夫な所無いかな? 顔見知りが居ればOKかもしれないけど、淡雪は華道部だし、ケイリは水泳部に行くって感じじゃなかったし……」

 とは云え、ここで考えているのも時間の無駄だ。当たって砕け位の気持ちで行くべきだろう。砕けたらアウトだが。
 鞄を手に取り、教室を出る。聞こえてくる運動部のかけ声。僅かな憧憬を覚えながら、小走りに廊下を駆けた。


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