「チカ・イトウ・パストーレは大事な友人でした。
亡命して何も分からなかった私やベンドリングを、よく助けてくれました。勿論、他の方々も。
あの頃の自由惑星同盟を非難する方々もいますが、身分のない社会というのは素敵だな、そう当時は思えたのです。
だって、あのような素敵な友人がもてたのですから!」
マルガレータ・フォン・ヘルクスハイマー「金星の追憶」ハイネセン中央出版より
1.二人の災難
「うわぁ!よせ!っていうか話そうよ、ね?」
「はいはーい。皆そういうんですよ、動かないようにしましょうねー」
そうして俗人は黄色い救急車に連行されていってしまった。
ふぅ、と溜息をつきながらチカは、その様子を見つめていた。
「本当に良かったのかえ?わらわは、これでよかったとは思えんが。」
隣のマルガレータ・フォン・ヘルクスハイマーがそういった。
彼女とチカはマルガレータが昨年に帝国から後見人のベンドリング少佐とともに亡命して以来の付き合いだ。
要するに近所の年齢の近い友人、そういった関係である。
「えぇ?マルちゃんが『心の病気』かもしれないって言ったから……」
チカは泣きそうな顔で言った。
「わ、わらわは、そなたから見せられた文章が帝国公用語ではない、
だから、精神錯乱というのもあるかもしれんのぅと言っただけじゃ。
そ、それにの。そなたの父ではないか。そなたが信じるべきではなかったのか?」
マルガレータは今更ながらに、後悔した素振りを見せると、何とか反撃した。
そして、その反撃は有効だったようだ。
チカは狼狽し、涙ぐみ始めた。
「だ、だって、父さん、本当に変だったんだもの。
それで、タナンチャイさんやブルックさんに電話したら、同じこというんだもの。
ひどいよ、ひどいよ……」
「うっ……すまない、すまなかったの。」
マルガレータは謝った。これも、こちらで習った慣習だった。
始めの頃、彼女に嫌がらせをした男子との間で掴みあいになり、
よくチカから「『けんかりょーせーばい』だからマルちゃんも、ごめんなさいしなきゃダメ!」と言われたものだ。
「……もういいよ。ベンドリングさんが御飯だって呼んでるよ」
ぐすぐす、泣きながらそう言った。
見ると、エプロンを付けたベンドリングが家から出てきて叫んでいる。
「そなたも来るか?今日も一人じゃろう?」
マルガレータは務めて明るく言った。チカはひとりぼっちだったので、よく伴食に預かっていたのだ。
しかし、チカは、そんな気分じゃないと断り帰っていった。
その頃、ユリアン・ミンツは当惑していた。
明らかに彼の保護者は不快感を露にしているし、
その彼がもっとも嫌いそうなタイプの議員が、この家に上がりこんでいるのだ。
おかげで、ヤンはさっきから「そこまでは言ってません!」とウィンザーとやりあっている。
その議論の内容はパストーレの責任に関するものだった。
ヤンが先ほど車内で言ってた内容は以下のものである。
要するに、第四艦隊は、位置として作戦の中央であり、情報も一番持っていた。そして、いざとなれば逃げ散ればよかった。
だからこそ『即時救援』をただ言うのではなく、もう少し具体的に指示をしても良かったかもしれない。
その意味ではパストーレ閣下が全面的に無責任とは言えない。自分は、そういっただけだ。
そういうものだった。
これをウィンザー夫人が、どうしても頑固にパストーレの責任を大きく考えたがるのだ。
ヤンはラップとパストーレの間の契約を知らなかったが、彼は基本的には誠実で公平な人間であろうとしていたから、
訂正にやっきになっていた。勿論、ヤンは勝手に上がりこんできたこの議員の態度にも腹立っていたが。
正直、早く帰って欲しかったが、妙に居座ろうとするのだ。
ここに至って、ヤンはウィンザーが何かを期待して居座っているようだと感づいた。
その期待が何かはわからないが……
と、突然、部屋の中を巨大な音声が震えさせた。
スピーカーで人の声を倍化させたものだった
『吾々は真に国を愛する憂国騎士団だ。吾々は君達を弾劾する!
ウィンザー議員、悲劇のヒロインを気取りたかったのか?
ヤン准将、君は戦功に驕ったのか?
君達は祖国の意思統一を乱す行動をした。』
それを聞きながらウィンザーは微笑んでいる。
ヤンは、これを期待してたのだな、と憎らしく思った。
しかし、一方ではトリューニヒトも軽率なことをしたものだ、と思った。
議員まで襲うとは不味いだろう。
いや、まてよ?とヤンは思った。トリューニヒトは唾棄すべき輩だが馬鹿ではない。
民主政治を愚弄してはいるが、無能ではない。ということは……
そうか!ヤンは、呑気にシロン茶を飲んでいるウィンザーを見て得心が行った。
彼女が憂国騎士団にリークするか、挑発するか等の手段で誘き寄せたのだ。
「まったく、迷惑な人だ。貴方は」
ヤンは、ウィンザーにそう言った。
「まぁ、そう言うものでもないでしょう。もう少ししたら解決するから」
ウィンザーは、そして、策があるから、と言った。
そう願いたいものですな、ヤンは呆れるように言うと、家屋破壊弾が飛び込んできた。
閃光が開き、全てが騒音と煙に包まれた。
『主張があるなら吾々の前に出て来たまえ。言っておくが治安当局への連絡は無益だぞ。
吾々には通報システムを縄乱する方法がある。出てこないともう一発打ち込むぞ?』
ヤンは流石に唖然とした。破壊力が最低とはいえ、軍用の兵器を民間団体が保有し、議員に向かって打ち込んだのだ。
あまり褒められた議員ではなかったが。
ヤンは、散水器で撃退しようとしたが、ウィンザーの秘書に止められた。
そして、その理由は直ぐにわかった。
マスメディアだった。幾つものマスメディアのヘリがサーチライトで憂国騎士団を照らしていた。
そして、報道車も駆けつけてきた。
流石に憂国騎士団は、慌てて退散して行った。
「これが狙いだったんですね。家には貴方の息子さんより幼い子供がいるんですがね。
それを危険に晒すと言うことが、同じ過ちだとは思わないんですか?。
もうこれで勘弁していただきたいものです」
ヤンは、そういう風に早く出て行ってくれといった。
「ごめんなさい。だけど、こうするしかトリューニヒトを出し抜くしかなかったのよ。
ま、お詫びにならないけどヤン准将は、負傷したということにしておくから、後は私に任せて。」
ウィンザーは深々と謝ると、マスメディアの閃光の中に消えていった。
2.Get Away
『これが愛国者のすることでしょうか?
アスターテの真の英雄であるヤン准将へ爆弾を打ち込んで負傷させるだけでなく、
議員である私まで襲撃したのです!もはや同盟の民主主義は危機に瀕しています。
今こそ、外部の敵の前に、国内の敵にこそ目を向けるべきではないでしょうか!』
役者だな、ウィンザー夫人は、そうヤマムラ医師はソリヴィジョンを眺めながら思った。
願わくば、これで聖戦論でも即時平和論でもない、現実的講和論が盛り上がって欲しいと思った。
彼は来月より少佐待遇で軍医として応召されることになっていたから、そう願わずにいられなかった。
かつての応召で、同盟軍の硬直性を見せ付けられていたから、余計にそう思うのだった。
そんな彼に看護婦が新しい患者が来たと知らせた。彼はヤレヤレ、とソリヴィジョンを消すと患者に向き合った。
患者はパストーレだった。
俗人は焦っていた。
もし仮に、正直に話したとしよう。
おそらく、自分は幽体離脱してやってきた異邦人なんです!と言った瞬間に措置入院は決定するだろう。
誰もがラップではないのだ。
だからといって、嘘を話したとしよう。自分はウィリアム・パストーレだと。
その場合も同じだろう。
残念なことにウィリアム・パストーレとしての記憶は人名などに関する部分以外は欠落しているから、
嘘発見器などのメンタル調査にかけられたら一発だろう。
そんな心の中はパニック状態、見た目は虚脱状態の俗人にヤマムラ医師は、とりあえず質問することにした。
「お名前とご年齢を」
「ウィリアム・パストーレ。40歳……あのう、先生、僕大丈夫なんですけど、家に帰してもらえないでしょうか?」
俗人は駄目元で言ってみた。
しかし、そうした陳腐な台詞は通じなかった
「みなさん、そういうんですよ。実は娘さんと近所の方から通報がありましてね。
で、ちょっと職場の方に確認したら参謀長も副官の方も認めるんですよ。
とりあえず検査だけしますんで、ま、ゆっくり治しましょう。」
「そ、そんなぁ……」
俗人は泣きたくなった。自分の運命に絶望したからだ。
おそらく、自分はこのまま異常者扱いされ、何年か後のルビンスキーの火祭りかラグプール事件で死ぬんだな、と。
その頃、チカは一人で晩御飯の用意をしようとしていた。
少し、昨日より寂しいがいつものことなのだ、と自分に言い聞かせると冷蔵庫を開けた。
あけると中くらいの鍋が入ってあり、置手紙があった。俗人のだった。
とりあえず、うんしょ、と鍋を出すと手紙を読んでみた。
「チカちゃん、昨日はびっくりさせてごめん。
いきなり、中身がいれかわったなんて言われてもしんじられないよね。
でも、父ちゃんのひとりよがりかもしれないけど、娘ができてうれしかったんだ。
正直、ここにくるまではめんどうだなぁとかおもってたんだけど、(ごめんな)
でも、きみにあったらなんとかしなくちゃっておもったんだ。
中身はかわったけど、父ちゃんはおまえを娘だとおもうし、
チカもそうおもってほしい。
無理なことをいうかもしれないけど、いっしょうけんめいやるので父ちゃんをしんじてほしい
おねがいします
これはタイのかす鍋というものです。
ちょっと、父ちゃんは帰ってくるのがもしかしたらおそくなるかもしれないので、
その場合は、あたためて食べてください。おいしいとおもいます。
冷蔵庫みたけど、れいとう食品ばかりたべないようにね。」
どうやら、これを遅くまで作っていたので寝坊したようだった。
空けてみるとじゃが芋、大根、蕪、人参にタイの切り身が入っていた。
野菜の切り口も大きさもバラバラだし、味もすこし濃そうだった。
温めてみて、器に盛って食べてみた。
西洋風の器しかなかったから凄く珍妙な見た目になったが、食べてみると美味しかった。
変わった味だし、塩が少しばかり濃いように思えたけれど満足すべきのように思えた。
ほとんどひとりぐらしだったから、きちんと野菜に切れ目をいれたりしているのがわかった。
タイも骨や鱗をきちんと取り除いていた。
チカはパストーレが不器用だし俗物だけれども、人の善さはなんとなく伝わってきたように思えた。
ベンドリングの作る料理も愛情があったが、それはマルガレータに向けてのものであり、チカの為ではなかった。
チカは始めて、自分の為だけに作られた料理を食べていた。だから本当に美味しく思えたのだ。
「今更、こんなことしたって遅いのに。ば、ばかじゃないの?」
俗人の行動は望んでいた反応を超えていたものだった。だから嬉しかったけど、正直、腹も立った。
今まで、自分を放置しておいて、と。
感謝はしているけど、一番欲しいものをくれなかったのに、と。
だが、
「馬鹿はあたしだ。なにやってたんだろう……」
今考えても、以前の父ではないのは明らかだった。
本当に中身がいれかわったのかもしれない。
ネットで調べても見たことのない料理は作るし、人格も完全に違う。
また、確かに父は発狂したのかもしれない。
誇大妄想に囚われているのかもしれない。
しかし、それが何か問題なのだろうか。
発狂していたとしても常識的な人間として振舞って、自分を娘として愛してくれる。
自分も、まだ一日も過ごしていないから分からないが、このしょうがない父親には自分が必要なのかもしれない。
それは事実だった。俗人は俗人で寂しかったのだ。信じられる家族が欲しかったのだ。
「どうしてこんなことをしてしまったんだろう……」
チカは後悔した。
マルガレータの言葉を切っ掛けにベンドリングに相談し、精神病院と児童相談所に通報したのは不味かったと。
だから、とりあえず逡巡したが、俗人のメモに”同志”とあった「ラップ」と”重要人物”とあった「ドールトン」に電話することにした。
もっとも、”重要人物”とはまだ言語が感覚的にはわかっていない俗人が”要注意人物”と書き間違えただけだったのだが。
「ン……ジャン、駄目よ」
ラップは二回目のお楽しみ中だったから、電話をとろうとしたがジェシカに止められた。
しかし、パストーレの自宅からだったから、何かあったのかと思い出ることにした。
もっとも、出るのに少し時間はかかったが。
そして、チカの話から緊急性を悟るとジェシカを何とか宥めてからパストーレ宅へ向かった。
勿論、心中では「娘に何てことを話すんだ、あの人は!」と怒りながら。
ラップ少佐が現場に着くと、私服のドールトン大尉が玄関で泣いているチカをあやしていた。
「状況は?」
敬礼するドールトンを不要だと抑えながらラップは聞いた。
泣く子には勝てないよな、とラップは怒りを少し減じた。
おそらく俗人は、この娘が泣く姿にうそをつけなかったのだろうな、と思ったからだ。
「……中々に深刻ですね」
ドールトンは説明を始めた。流石に有能だから、彼女は既に状況の把握と情報収集を終えていた。
構図はこうだった。
チカがマルガレータに話しているうちに不安になり、二人でベンドリングに相談。
ベンドリングは心配性な男だったし、正義感の強い男だったから普段のチカの扱いに腹を立てていたので、
児童相談所のトラバース法担当職員に三人で通報。
トラバース法担当職員は念のために、トラバース法で明記された権利を元に第四艦隊司令部に確認を取った。
トラバース法は未成年者を高級軍人の下に送り込む無茶苦茶な法律だったので、
バランスを取る為にそういった児童相談所職員の執行権限が保障されているのだ。
勿論、そうした権限の前に正直に答えたというのもあったが、タナンチャイ参謀長もブルックにも悪気は無かった。
ただ、トラバース法担当職員からの電話の前に、チカから電話がかかって相談を受けていたので、
正直に「ちょっとお疲れかもしれませんね」「少し変な言動があるかもしれませんな」と言ってしまったのだ。
トラバース法担当職員は正義の人だったし、自分の功績を挙げることにも熱心な方だから、それで先走って、
精神病院の救急車『黄色い救急車』を出動させてしまったのだ。
勿論、トラバース法で児童福祉利権にまで食い込んできた軍部への反発も大きかったのだろうが。
「そうか、それは不味いな」
ラップは悩んだ。
既にトラバース法第四項b条項「保護者の精神異常」に基づく児童相談所の介入がなされたとなれば、
医師が「正常」という診断を下さなければ難しいだろう。
しかし、今のパストーレは正直に話しても精神異常、嘘をついても相手はプロだから見破られておしまいである。
それに不名誉な記録も残ってしまう。
くそ、どうすればいいんだ!ラップは呻いた。
「ひとつだけ手があります。その代わり少佐にお聞きしたいことがあります」
ドールトンは、そう言った。
「馬鹿者どもがっ!」
トリューニヒトは荒れていた。
確かに、ヤン・ウェンリー君はどうしたんだろうねぇ?と憂国騎士団のスポンサーの一人には言った。
だから、ヤンに手ごろな圧力をかけてくれると期待していた。
もし圧力をかけるのに失敗しても良かった。それは家に子供を残すヤンへの十分なメッセージになるからだ。
しかし、ウィンザーが同席しているのに襲撃するとは馬鹿なのだろうか。
しかも、マスコミが待ち構えているにも関わらずだ。
おそらくウィンザーが挑発するか、彼女の騎士団内のシンパを使って襲わせたのだろうが……
ああいう連中は喜んでリスクを踏んでくれる代わりに、脳味噌が足らんのだっ!
そうトリューニヒトは苛立った。
勿論、彼がはっきり命令を下すような、十分な監視が出来る関係にしても良かった。
しかし、それではトリューニヒトの政治生命が危うくなってしまう。
関係を匂わせつつ、しかし決定的な証拠がないからこそ憂国騎士団は使えたのだ。
現に、だからこそ今回は責任は回避できそうなのだ。
「切捨て時かも知れんな、憂国騎士団。さて、次はその裏の地球教徒と組むべきか。組まざるべきか。」
それが問題だな、とトリューニヒトが思ったところで電話が鳴った。
ラップからだった。
「お、ラップ君どうしたのかね?」
使える手駒からの電話だった。
「ン!?それはいかんな、至急対策させよう。」
トリューニヒトは、ラップの報告に驚くと早速手を打った。
パストーレがウィンザーの謀略によって精神病院に担ぎ込まれたというのだ。
そこで、一通の文書が欲しいとラップは懇願していたのだ。
急がなければ他の諸勢力もよってたかって応じるかもしれない。
ラップからは、そういう内容だった。
これ以上、いいようにやらせたまるものか、トリューニヒトは、そう思うと、
急ぎ文書の発行に取り掛かった。
「これでいいんだな?」
ジャン・ロベール・ラップは車内で電話を切ると隣のドールトンに話しかけた。
後ろにはチカが眠っている。
「ま、状況からトリューニヒト閣下は信じざるを得ないでしょうね。
というより信じなくても、今回の憂国騎士団のスキャンダルでパストーレ閣下を手放せなくなった。
だから、彼は我々の期待通りに動いてくれるでしょう。」
ドールトンがラップにトリューニヒトから要求させたのは命令書だった。
その命令書とは、パストーレの査問会への出頭要請書だった。
この査問会議は同盟軍法にも記載されていないものであり、リューネブルク亡命事件やマルティン亡命事件などの
公に出来ない不祥事を取り扱う為のものであった。ドールトン自身呼ばれており、余り良い思い出はない。
だが、だからこそ、これを利用することでパストーレは自由の身になるのであった。
同盟軍法に記載はない超法規的措置だからこそ、診断書無しに俗人を救出する言い訳にもなる。
あとは俗人を救出した時点で査問会は中止すればいい。
それがドールトンの筋書きだった。
「お、ネットワークに来ましたね。」
ドールトンは自分の端末から国防委員会のサーバーにアクセスすると、
トリューニヒトから指示されたパスワードを打ち込んだ。
そうして、パストーレの査問会への出頭要請書をダウンロードし、表示した。
「後は一刻も早く向かうだけですが、教えてください。この娘の言ったことは本当ですか?
その……つまり、パストーレ閣下の中身がいれかわったというのは本当ですか?
馬鹿なことを言っているのを分かっています。」
でも、そうでないと説明が付かないんです、とドールトンは言った。
彼女とマルティンの事件、そして彼女が叛乱を起こそうとしたことを電子的詐術を乗り越えて察知したこと、
病院船での出来事、そして、何より新ドクトリンを生み出し、アスターテ会戦の動きを完全に読みきったこと。
「閣下の戦術的指揮能力は下がってます。艦隊指揮能力だってどうでしょう?
今の閣下の能力は、普通の人、そういったところでしょう。
しかし、あの軍事ドクトリンの発想と戦局の先読みは異常です。」
戦争の霧、という言葉がある。戦争とは不確定要素の塊であるという言葉だ。
実際、ナポレオンを打ち破ったウェリントンは
「軍人として過ごした歳月の半分は、あの丘のむこうに何があるのだろうと悩む繰り返しであった」とぼやいている。
勿論、そうした戦争の霧は、20世紀終わりの電子技術の発達によって戦場が三次元からサイバー空間も含めた四次元に
拡大したことで薄くなったこともあった。イラク戦争やアフガニスタン戦争等の一側面はそうだろう。
しかし、戦闘がほぼ二次元になってしまったこの時代では、戦争の霧は非常に濃くなり、
ヴァンフリート会戦のような出来事は普通になってしまった。
しかし、俗人はまったく連絡の取れない第二艦隊の動向まで完璧に読みきって見せた。
これは異常だ、そうドールトンは言いたかったのである。
そうしたドールトンにラップは、どう返事するか迷った
ラップも俗人も、俗人の正体については他の誰かに明かすつもりは無かったからだ。
誰もがわかってくれる話ではないし、俗人はこの世界の人間になろうとしていたからだ。
少なくとも俗人は、病院船で知ったのだ。もう他人事と言って逃げられないのだと。
だから、ラップは迷ったのだ。
しかし、
「私も聞きたいです、その話を。」
チカだった。
3.Run Away
「むーん……」
パストーレは疲れていた。
一日目の診断が終わって、病棟にいれられていたのだ。
ヤマムラ医師の話では、とりあえず三日ほど様子を見てから考えるという。
勘弁してくれよ、俗人はそう思った。
「あいつ、ちゃんと飯喰ったかな。書置きはしてきたが……非常に腹立たしいけど、無理もないか。」
俗人は溜息をついた。そりゃそうだ、いきなり義父が妄想に取り付かれたと思っても仕方がない。
しかし、問題なのはこれからだ。
今日のところはパストーレの振りをしたが、子供の頃の話を尋ねられたのが不味かった。
まったくわからないので完璧に適当な話をしてしまった。おそらく、嘘だとばれているだろう。
実際、ヤマムラ医師は怪訝な顔をすることが多かった。
外を見ると鉄格子の向こうに月が出ていた。いや、月にしては小さいから、アルテミスの首飾りだろう。
「月のない世界か。」
ふと寂しさを実感した。
前の世界に帰りたくなった。
でも、そんなことを考えても仕方がない、と被りを振って眠ろうとした時だった。
鍵の掛かったドアが開くと、長い銀髪が見えた。
ドールトンだった。
「ん?げっ!ド、ドールトン君じゃないの?」
パストーレ(田中)は慌てた。何故、彼女がこんなところにいるのだ。
慌てて俗人は跳ね起きた。
「ゆ、夢じゃないよな。どうしてまた?」
「私は貴方の夢の女ではないですよ。さ、これに着替えて」
ドールトンは没収されていた俗人の軍服を差し出した。
俗人は、ちゃっちゃっと着替えると、何が夢の女だ、と日本語で愚痴った。とんでもない話である。
しかし、ドールトンはニフォンゴで悪口は止めてください、とにらみつけたのだった。
俗人はびっくりして、何で……と言ったが、ドールトンは俗人を驚かせたことにニヤリとすると、
急いで付いてきてください、と言った。
病院玄関前ではヤマムラ医師とラップが押し問答していた。
「私は、患者に対して責任をもたにゃならんのだ。パストーレ氏はもう少し検査の必要があるんだがな。
それを勝手に……」
ヤマムラは不愉快だった。
たしかに現役の将官をここに措置入院させた、児童相談所及び上部組織の人的資源委員会の策謀は遣り過ぎだ。
どうも軍部とそのほかの省庁での権限争いに自分は利用されたようだ。
だが、明らかに精神の健全性に疑いが残る高級将校を前線に投入するのは危険だし、兵士にとっても不幸だ。
誰一人喜ばない選択肢を、ヤマムラは選びたくなかった。
彼自身が軍医として向かうことが約束されているならばなおさらだ。
だが、彼の抵抗は一通の文書の前には無力だった。
トリューニヒト委員長のじきじきの要求による査問会の開催と、パストーレの即時出頭要請。
軍における最高権力者からの超法規的要求の前には、児童相談所の木っ端役人では立ち向かえない。
たとえ、その木っ端役人の背後に誰がいようとも。
「まったく……来たか」
ヤマムラは嘆息した。
ドールトンに引き摺られて俗人が玄関まで来たのである。
「今日はいたし方ありませんが、後日必ず来てください。正常とも異常とも言えないのですから。」
精一杯の抵抗をヤマムラは言った。
おそらく無意味だろう。今頃、トリューニヒトが圧力をかけて、
トラバース法第四項b条項「保護者の精神異常」に基づく児童相談所の介入は無かったことにされるのだから。
勿論、ヤマムラは、そんなことは薄々わかっていたが。
「ははは、気が向いたら行きますよ、先生!」
俗人は、そう言うと、そそくさとラップの車の後部座席に乗った。一刻も早く帰りたかったからだ。
「後悔しないか。君は狂人かもしれない男に、百万の兵を指揮させるのだぞ」
ヤマムラは最後にそういった。
それに、ラップは何も答えなかった。
チカは、スカーフをだらしなく巻いた男が隣に乗り込んでくるとビクっとした。
だが、俗人は逆にびっくりしたようだった。
なんとなく、気まずい雰囲気のまま、車は走り出した。
「……ごめんなさい。」
「ん?いいさ、もう」
チカの発言に俗人は全てを許すことにした。
とりあえず、出れたのだから。それに、大よその事情もドールトンから引きずられているときに聞いた。
絶対に怒っちゃいけませんよ!そういう風にドールトンは俗人に事情を話しながら怒ったのだ。
正直腹立ちもしたが、所詮は子供のしたことだし無理もない。そういう風に諦めもついた。
「俺こそ、ごめんな。変なこと言って。」
俗人は済まなそうにした。俺は少なくとも、この子の父親を奪ってしまったのだ。
それが、どんな父親であってもだ。そう、俗人は思った。
チカは、そんな俗人に対して首をブルブル振った
「私こそ、私こそ、せっかく仲良くしてくれようとしたのに、こんなことしてごめんなさい。」
いいよ、いいよ、と俗人は頭を撫でて、あやしながらラップを見た。
ラップは、二人にはもう全て話しました、と目で語った。
「……なぁ、チカ。俺はたしかに狂人なのかもしれない。
もしかしたら、俺はウィリアム・パストーレが、田中太郎だと思い込んでいるだけの存在かもしれない。
だが、少なくとも、かつてのウィリアム・パストーレではないんだ。田中太郎であるパストーレなんだ。
だから、新しく親子としてやりなおしてくれないか?」
「新しい?」
チカはぐずるのを辞めて、顔を離した。
「そう、新しい。俺たちはやり直すんだ。もう一度、"父さん"は"父ちゃん"になったけど、新しくやりなおそう。」
チカは、うん、と頷いた。笑顔だった。
この奇妙な血の血のつながりない親子は、はじめて親子になった。
チカは、俗人が死んだ後も、後々そう思い出すのだった。
しばらくして、ラップの車は俗人の家に着いた。
チカは一足先に入ったが、俗人はラップから注意を受けた。
「誰もが分かってくれる話ではないですからね。もう他の人に話してはいけませんよ」
俗人は、ごめんと謝ったが、君だってドールトン君に……と言い返した。
それに対して、ラップは仕方がなかったんです、と事情を話した。
チカが最初に彼女に連絡したこと、そして、今回、俗人を救出するのに彼女の功績が大だったこと。
「それに、あの病院船での映像を流出させたのも彼女ですから。信用できるとは思えまして。そうだろう?」
にやにやしながら話を聞いていた、ドールトンはびっくりした。
え?そ、そうなの??ていうか、映像なんて録画してなかったよね、と事情が分からず俗人は、ドールトンに話を向けた。
ち、ちがいます!ちがいますったら!そんなんじゃないんです!と、ドールトンは言って慌ててエレカで去っていった
「よくわからないけど、これ以上の機密漏洩はなさそうだね。ラップ君、本当に今日はありがとう、助かったよ。」
俗人は、今日の一日の騒動で疲れたし、眠たかったので無理やりそう結論付けた。
そして、俺のエレカ持っていきやがった……と落ち込むラップに、タクシー呼ぶかい?と、俗人は肩を叩くのだった。
4.ターニングポイント
「ン、全て片がついたそうだよ。まったく苦労させるね。」
トリューニヒトは、俗人からの電話を切ると目の前のスダレ頭の男に向かい合った。
とあるレストランの個室の中だった。
「私が指示したわけじゃないさ。ま、無事解決してよかったじゃないか。
私も、こうして深夜に出向いた甲斐があるというものさ。」
そして、部下からの報告を聞いても止めようともしなかったわけだ。
トリューニヒトは、恩を着せようとするホワン・ルイに対して、そう心の中で呟いた。
彼らは、今ここで手打ちをしていたのだ。
トリューニヒトは人的資源委員会傘下の児童相談所による俗人への介入措置の撤回を要求し、
ホワン・ルイは婉曲に詫びたのだった。現場にいささかの手違いがあったようだと。
「だが、いい機会だから言っておくがね。もはや限界だよ」
ホワンは白ワインを飲み干すとそういった。
ヨブは、そ知らぬ顔で何がかね、と言った。
「戦争がだよ。」
お前だってわかっているだろう、ホワン・ルイはそう言いたげだった。
そして、彼は説明を続けた。
本来、経済建設や社会開発に用いられるべき人材が軍事面に偏りすぎている。
しかも、教育や職業訓練に対する投資も削減される一方だ。
実際、熟練労働者の社会における比率が低くなった証拠に、
ここ半年に生じた職場事故が前期と比べて三割も増加している。
ルンピー二星系で生じた輸送船団の事故では、400余の人命と50トンもの金属ラジウムが失われたが、
これは民間航宙士の訓練期間が短縮されたことと大きな関係があると思われる。
しかも、航宙士たちは人員不足から過重労働を強いられている。
「このままゆけば軍組織より早い時期に社会と経済が瓦解するだろう。
お前さんの好きな利権もろともな。
だからだ、この際だから言うが、現在、軍に徴用されている技術者、
輸送および通信関係者のうちから400万人を民間に返還して欲しい。
これは最低限の数値だ。」
ホワンは、小柄だが声は大きい。その声はトリューニヒトを、やや圧した。
「そうは言うが、それだけの人数を後方勤務から外されたら軍組織は瓦解してしまう。
今が国防の正念場なのだ。」
トリューニヒトは、過去150年間の国防当局者が繰り返してきた言葉を言った。
「そうかね?軍の後方組織がむやみに巨大化しているんじゃないのかね。
第十三艦隊の設立だってそうだ。おっと、誰から聞いたかは聞かないでくれ。
ともかくだ、何故、第六艦隊か第二艦隊として再建しない。何故、新しく艦隊を作るのかね?
どうして、第六艦隊、第二艦隊の後方組織と母港を再利用するか、解散させないんだ。」
「……」
「分かっているさ。お前さんだって出来ないんだろう。
一度、膨らんだ利権は転がすことは出来てもつぶせないからな。」
ホワンの指摘は正しかった。
実際、史実では約十個艦隊が消滅してもなお、第14艦隊、第15艦隊と何故か艦隊だけは増えていった。
史実(要するに原作)でのバーラトの和約後、やっとこの呪縛は消滅し、全ては宇宙艦隊の指揮下になった。
だからトリューニヒトは沈黙で答えたのだった。
「責めているんじゃない。お前さんが同盟の腐敗の元凶のように言われているが、
お前さんは引き継いだだけだからな。腐敗とはいきなり始まるわけじゃない。
ただ、気が付かない間に大きくなっているだけだからな。」
ホワンは、そういうことでヨブに発言を促した。半分はご機嫌取りの発言だったが。
「言いたいことはわかったが、それだけで私が動くと思うのかね?」
「思わん。思わんが、お前さんがなにやら策動していることで、私に相談があるんじゃないかと思ってね」
ホワンは、トリューニヒトが大幅な同盟軍組織の改編を目論んでいる、と知っていたのだ。
なぜならば、この二人、実は同じ派閥である。だから、情報をつかめたのだ。
事実、史実ではヤンの査問会ではホワンもトリューニヒト派の非主流派として出席している。
(大体、トリューニヒト派が一大勢力ならば、大臣ポストの割り当てが一つというのも変な話である。)
要するに、この二人は自由共和党のある派閥の後継者を争った仲なのだ。
もちろん、ホワンは派閥継承争いで敗北し、トリューニヒト派内の非主流派になってしまったが。
「やれやれ、お見通しかね?」
そして、トリューニヒトは俗人の発案を元に800万人以上の削減を目論んでいることをホワンに説明した。
ホワンは驚いた。最低限の数値として400万人の削減を主張したが、それは政治的駆け引きを前提に水増しした量だったし、
トリューニヒトがそこまで本気とは思わなかったからだ。
「800万人以上か……」
ホワンは、そうとだけ言った。それだけあれば、同盟の国力はかなり回復するだろう。
民生技術も回復するから、軍事力も間接的に高まるだろう。
これは驚きだな、しかも喜ぶべきだ。ホワンは、そう思った。
「ただし、私も旧来の愛国的な支援者を切り捨てることになる。
新しい支持者もほしいし、切り捨てたくない支援者には新たな仕事を回してやらなければならない。」
トリューニヒトは、そう言った。もし、後方支援組織を効率化し、併せて辺境の母港を削減すれば、
イゼルローン方面近くや「北西部」の星系は不満が貯まるだろう。軍需関係の一部も同じだろう。
だから、800万人以上を民需に返還する際に、ホワンの利権に自分も噛ませろ、ということだった。
「よかろう、お前さんのことだ。そういうと思ってたよ。」
ホワンは、何かを諦めるように言った。そして、心の中で、すまんな、レベロと言った。
彼の個人的かつ政治的盟友である、レベロは、この取引に不満を持つだろう。
レベロは、かつて「腐敗だけ」の議員から「清流派」に壮年になってから目覚めたから、
その反動で、かなりの潔癖な人間になっていたのだ。
もちろん、皆が皆、トリューニヒトでは歯止めが利かなくなるからそうした代議士も必要なのだが。
なにわともあれ、こうしてトリューニヒトとホワンの政治的同盟は俗人の騒動をきっかけに始まったのだった。
翌日、ホワンのトリューニヒト派の共同代表就任が発表される。
そして、これがトリューニヒト・ホワン国防組織再編成法案の第一歩だった。後の史家はそう語る。
勿論、その頃、トラバース法担当職員が
「あぁ まさか、まさか、重要な艦隊指揮官がこのような異常精神の持ち主だったとは
しかし、この男を解放する以外に、このホワン委員長とヨブの衝突を回避する手段が他にいないのも確かだ。
事態解決のため俺はあえてあえて社会道徳をかなぐり捨てて見て見ぬフリをしなければ!!
そう、これは超法規的措置!!
俺はこの非常事態のため一人の不幸な少女の人生を敢えて敢えて見て見ぬフリをするのだ。
あぁ、最低だ最低だ……、俺はなんて最低なトラバース法担当職員だ。
ふるさとの両親よ、別れた女房よ、再婚した巨乳美人妻よ
このアキヅキ・カオルの魂の選択を、笑わば笑えぇぇ!!
……うん、見なかったことにしよう!'`,、'`,、'`,、('∀`) '`,、 '`,、'`,、」
とか何とか言ってたが話の本筋には関係の無いことである。今のところは。
それから三ヵ月後、同盟軍の編成を一部変更する通達が発せられた。
第四艦隊と新設の第13艦隊の上位組織として第一機動艦隊を編成することになった。
指揮官は第四艦隊司令を兼任する形でパストーレ中将。第13艦隊司令にはヤン少将が親補された。
この第一機動艦隊は俗人の強い希望により半年の演習の後に攻略作戦を展開予定だった。
史実より半年遅い第七次ゼルローン攻略作戦の開始である。
勿論、史実より出兵が遅れたのはウィンザー事件の影響で予算通過が難しく、
足りない予算を補う為に予備費をかき集めるのに時間がかかったからでもあった。
(結局、ウィンザーは賛成したが、さんざんもったいをつけてからだっだ。)
なお、フェザーン自治領政府では、この動きを帝国にはほとんど伝えていない。
帝国に傾きすぎた勢力比を幾らか減らす為だった。
この奇妙な中立国家の勢力均衡政策は、現在のところ規定路線だった。
その頃、史実ではちょうど、イゼルローン攻略作戦が開始されていた頃、帝国側からイゼルローン回廊に侵入する艦隊があった。
その数は約9千隻。
先鋒はファーレンハイト中将、後衛はカイザーリング中将、そして、中央に位置するのは、フレーゲル男爵率いる艦隊だった。
そして、このフレーゲル男爵はヴェルトール貴族主義の権化、啓蒙貴族の先駆け、文化貴族等の異名で呼ばれ、
近年、若手貴族達をオルグしていることで有名だった。
彼のお陰でランズベルク伯等は「DOUJIN活動」に嵌ってしまった等と囁かれる始末である。
そんな彼は、彼の強い希望によって石柱が除去された艦橋で独語していた。
「おかしい。俺が知っている原作と展開が妙に違う。やはり、パストーレは田中の兄貴なのだろうか……」
つづく