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[34743] エンジニア(精製士)の憂鬱【現代風異世界ファンタジー】
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2016/10/27 12:37
現代日本に良く似た、しかし魔物が跳梁跋扈し、ダンジョンが発生し、魔法が飛び交う、そんな世界に生きる、手に職を持った技術職サラリーマンの男が、踏んだり蹴ったりされたりしたりしながら送る日常模様。

小説家になろう様にも投稿しています。

2016年10月27日
今回のエピローグを持ちまして、この物語はおしまいです。
これまで本当にありがとうございました。
少しでも楽しんでいただけたのならうれしいです。

2014年2月27日23時04分
87、蠱毒の壷 その二十一にウンチクを追加しました。

2013年8月29日
今朝方記事にアクセス出来ずアップが遅れてしまいました。
申し訳ありませんでした。


8月28日
エラーで投稿出来ないと思っていたら、登場人物の一人の名前がNGに引っ掛かってた…。
彼の名前はこちらでは封印される事になったようです。←大丈夫になった模様(2013年1月現在)←またダメになった(^^;)(2013年3月7日現在)


9月5日
書き溜めてあった分の移動が終了しました。
今後の更新は週一になります。
遅筆で申し訳ない。


2013年12月12日
なろうさんのあとがき機能で付け始めた追記をこちらでもウンチクという形で追加してみました。
どうなんでしょう?あった方が良いですか?



[34743] プロローグ、エンジニア(精製士)の里帰り
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2012/08/21 20:32
 滴り落ちるような朱髪。
 そんな風に表現すると、なんだそりゃ?と言われそうだが、そう表現するしかない髪が目前にある。
 その相手の目は黄色。
 金色とか茶色とかじゃなくてぺったりとした黄色だ。
 口元に貼り付けたような笑みと、緩慢でやる気のなさそうな動き。
 見たままに表現するならそういう相手が、今、目前にいた。
 それはいわゆる『鬼』と呼ばれるモノだ。

 一方で俺は、ぜいぜいと荒い呼吸を繰り返しながらくずおれそうな膝を騙し騙し動かしている。
 なんでこんな事になっているかというと、これがうちの成人の儀だからだ。

 え?何?鬼と対面するのが成人の儀?へぇ、とか、友人のながれ辺りならそんな変な納得をしそうだが、断じて違う。
 なんと、こいつを倒せとか言われてるんだ。いや、マジで。
 
 そりゃあさ、うちが代々続く鬼伏せの血筋だってのは知ってるし、色々一族の武勇伝は聞いてるよ、うん、そりゃまあ、自分の家族の事だし。
 でもさ、違う進路を選んだ俺までなんでこの試練やらんといかんの?意味が分からないんですけど。

 俺はいわゆるエンジニアだ。
 水晶針を組んでカラクリの仕掛けを弄ったり、融合の触媒に金粉を変質させてその割合を計ったり。そういうのが専門で鬼退治はいたしません。
 そんな危ないまねを誰がするか!

 だというのに、中央都市で就職してバリバリやってた俺の元に連絡が来て、親が言う事には、「お前もそろそろ一人前だろう。お祝いをするから戻って来なさい。会わせたい人もいるし」というお定まりの言動に、つい、おお!嫁さんを世話してくれるのか?とか思ってしまったのが運の尽き。
 正装させられて放り込まれたのはお見合いの席じゃなくて仮想山脈の祠前、試しの鬼の御前でした。とか、そりゃあないだろう?

『おお、良き仔じゃ、どれ、ひとつ我れが食ろうてしんぜよう』
 頭の中に汚水のような意識が流れ込む。
 暗部種独特の精神汚染だ。
 これを聞き続けると気力が萎えて戦うどころの話じゃなくなる。
 といっても聞かない訳にはいかない。
 なぜかというとそれは音では無いからだ。
 共振という作用で直接精神に流し込まれる声なのだ。

「黙れ!しゃべるな!シャラアアアプ!!」
 言った所で聞きはしないのはお約束というもの。
 何しろこの鬼は一応本物の依り代を使って作り出したレプリカなんだけど、ほぼ本物と同じだし、ずっと食事抜きで空腹状態という、敵ながら同情してしまいたくなるほど酷い扱いで放置されているのだ。
 うん、だからといって同情したりはしないけどね。

「覚えてろよ、親父、お袋、ジジイにババア!俺が稼いだ金は今後一切実家には入れないからな!」
 ささやかな復讐を誓って、目前の相手に向かう。
 いや、実家の稼ぎの方が俺より上なんて分かりきった事は考えに入れない。何しろ連中はがめついから、あればあるだけ欲しいと思ってるからな、きっと、おそらく。

 ざわりと、周囲の空気が撓んで、陽炎のように鬼の姿がにじむ。

 -…来る。

 ひと呼吸。それだけの間で、鬼は俺の鼻先に移動した。
 咄嗟にクロスした腕でその牙を退けるも、拳をちょっと齧られて痛い。おおっ、血が出てるぞ!

「野郎、俺を食うなんざ数億年はええんだよ!!ばぁか!」
 言葉だけは負けない!って訳じゃないが、自分を鼓舞する為にも勢いは大事だ。うん、勢いは大事。

 飛び退いた俺はポケットから銀色の細い鎖を出すと、それを右腕に撒き付ける。
 チャリリと澄んだ音がして、暗く淀んでいた風景に、“穢れ無き乙女”を意味する銀の輝きが散った。

 色には様々な意味がある。
 そして物にも様々な意味がある。
 それらを組み合わせて一つの何かを生成するのも俺達エンジニアの仕事の一端だ。

 銀は堅牢なる乙女の意思。
 そして我が身は命の砦。

「貴なるを破るは邪悪也。その業をその身を以って識るが良い!」
 銀鎖は描く、無垢ゆえに残虐な守り手を。
 一角の獣降り立ちて、世界は白に染め上げられた。



「おや、おかえり。どうだった?中々手強かったでしょう?」
「おお、思ったより時間が掛かったじゃないか、どうした、腕が鈍ったのと違うか?」
「ああ、隆志、今夜はお前の好きなから揚げだよ、たんと食べてね」
「お前、中央の方で上手くやってるのか?いい加減こっちで家業を手伝ったらどうだ?そもそも弟と妹に任せっきりというのは兄貴として恥ずかしくないのか?」

 俺が条件折り込みの幻想地図から命からがら帰還して、うちの家族がそれぞれに開口一番に言いやがったのがこれだった。


「お前ら!もう二度と実家になんか帰ってこねぇ!!」

 怒鳴りながら裏山に走り込んだ俺を誰が責める?責めないよな。

「あらあら、また反抗期かしら?」
「いや、あれはきっと戦い足りなかったに違いない」
「そういえば裏山にはお隣のさっちゃん家のダンジョンがあったわね」
「全く他人さまのダンジョンにいきなりお邪魔するなんて、礼儀のなってない奴だ」


「う、腹減った」

 突っ込んだ先がどうも迷宮だったみたいなんだけど、これっていつ出来たんだ?もう早く都会の我が家に帰りたいぜ。

 泣き言を言った俺の頭に洞窟ダンジョンお決まりのコウモリが食い付いて来る。

「うっとおしいんだよ!」

 ばしっと叩き落して考える。
 これって食えるのかな?

 とにかく、ここを出られたら俺はもう故郷には二度と帰らないつもりだ。
 故郷ふるさとなんてだいっきらいだ!!



[34743] 1、友人は時に敵である
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2014/05/22 21:57
「そりゃあ、大変だったな」

 カランと、いかにもな音を立ててデカイ氷の入った蒸留酒精ウィスキー硝子杯グラスを回しながら、ながれは俺の苦労話をそう一言で片付けた。
 別に大げさなねぎらいを期待していた訳でもないし、そういう間柄でもないので、俺的にもそのぐらいが丁度良い。

「大変だったよ、もう田舎には二度と帰らねぇ」

 今年の初め、ぶっちゃけて言うと正月休みに、俺は実家の両親の「成人祝いをしてやる」との甘言を真に受けて、ノコノコと数年前に飛び出してそれ以降帰ってなかった田舎の実家に里帰りした。
 成人といっても社会的な成人である二十歳の祝いではなく、“ど”田舎の故郷ならではの独特な感覚での成人イコール一人前の事だ。
 俺は今年二十六歳になる。社会的には立派に自立した大人ではあるが、故郷的な考えからすれば、一人立ちして自分の能力だけで生活を切り盛り出来るようになる事が成人の証なのである。
 まぁ他にも色々と、田舎ならではの条件はあるが、家から自立して生計を立てていた俺は、当然既にその辺の条件はクリアしたと思っていたし、「いい相手がいるんだ」との親の言葉に、てっきり嫁の世話をしてやろうと思い立ったんだと思い込んで、その手の出会いに縁が無かった焦りも手伝って、つい、喜んで飛び付いてしまった。

 そして、帰ってみれば、

『いくらなんでもそろそろ証を立てねばならんだろ』

『まぁ、行って来い』

 という、軽い言葉と共に幻想地図バーチャルマップに突っ込まれて鬼と戦う羽目になったのだった。
 しかも古典的な条件達成式開放錠セキュリティロックが掛かっていて、その鬼を倒さないと出られないという非道な代物だったのである。

「しかし、鬼を調伏する家系とは聞いていたが、未だにそんな因習があるんだな」

「田舎は時が止まってるからなぁ」

 なにしろ未だに天然ダンジョンが存在し、いや、それどころかちょくちょく発生すらしているような辺境なのだ。
 うん、今回の帰郷の時も思いっきり迷い込みましたよ。なんかちょっと遠い目になりそうになるが、もう大人だからね、泣いたりしません。

 そういやガキの頃も、なぜかしょっちゅうダンジョンに突っ込んでたなぁ。
 俺が泣きながら大なめくじスライムを殴ってると、決まってお袋が魔除け灯を掲げて迎えに来てくれたもんだ。

「家族ってのはどうしてだか、みんなが同じように家族の一員である事にやたらと拘るからなぁ」

 流もしみじみと洩らす。
 こいつの家族もこいつの今の仕事には大いに不満があるらしい。
 博士号を持ち、うちでも特に高給取りなのだが、元々国を動かす立場の一族なのだそうで、こいつのやってる仕事など下賎なものにしか思えないらしい。
 家格の違いというやつか、恐ろしい話ではある。
 俺とこいつが仲良くなったのも、全く逆の家柄ではあるが、家族から今の職場で働く事を反対されているという一点で立場が共通しているのがきっかけだった。
 
「一応憲法で職業選択の自由が保証されているんだから好きにさせろってんだ」

「正にその通りだ。時代錯誤も甚だしい」

 二人で家族へのレジスタンス魂を盛り上げていると、流の傍らに女性が一人近付いた。

「なぁに?難しいお話?男二人で顰めっ面してないで、一緒に楽しいお酒を飲みましょうよ」

 隣の店の人気ホステスのミキちゃんだ。
 流はあちこちの店に顔が利き、しかもモテモテで、あまり二人だけでじっくり飲んでいたりすると一定時間でこういう風に牽制が入る。
 どうやらこの店にいる事がさっそくバレてお迎えが来てしまったらしい。

「ああ、後で顔出しするからあっちで待っていてくれ、ママさんによろしく言っておいて」

「はぁい。お邪魔しました」

 可愛らしい仕草でペコリと頭を下げると、俺とマスターにも一礼して戻る。
 彼女は軽いようでいてこういう細かい所で礼儀を忘れないので人気があるのだ。
 ここで俺に対して舌を出したりあからさまな態度を取る女の子は、夜の世界では一流にはなれない。
 まぁどうでも良い話だけどな。

「相変わらずモテモテで羨ましいよ。夜の帝王って感じだな」

 あれ?なんかこう、胸の奥からどす黒いモノが湧いてくるよ。イケメンで金持ちで家柄良し、改めて考えるとムカツク男なのだ、こいつは。
 なんだ、同じ境遇とか俺の勘違いじゃね?イケメンは滅びれば良いのに。
 実際、流は男の俺から見ても文句の付け所の無いイケメンだ。付け焼刃じゃ身に付かない洗練された挙動、いかにも上流貴族らしい上品でありながら男らしい顔立ち、特権階級を表す一部色変わりの髪も玉の輿狙いの女にはたまらないだろう。

「馬鹿言うな、これで色々と苦労も多いのさ。行く店や遊ぶ女の子に偏りが出ると恨まれかねないからね」

 うん、そうだね。イケメン爆発しろ。

「へぇ」

 俺の嫉妬の炎が酒と共に臓腑を焼く。
 そんな俺の気持ちを知ってか知らずか(いや、知るまい、こいつなんだかんだといってお坊ちゃまだからな)流は、ふと思い出したように話を変えた。

「そうそう、こないだ言ってた、調整を頼みたい物なんだけど」

 言いながら腕から外したそれは、俺も先程から気になってた物だ。
 おおお、カタログやテレビジョンとかじゃなくてナマの本物を初めて見たぜ!

 それはゴツイ造りの時計ウォッチだった。
 もうほとんど装具ブレスレットに限りなく近い見掛けだが、中身は精度世界一を誇るゲルマン帝国の「シン」ブランドだ。
 この会社は創立者が空軍パイロットだった事もあって精度や機能性を追求したゴツいモデルばかり作っていたメーカーだったが、最近やや装飾を加味したデザイン時計を作り始め、それの最新タイプがこれのはずだ。
 装飾といっても華美な物ではなく、あくまでもいぶし銀の本来のブランド的な魅力を捨てていない実用的な物で、なにより重要なのはその装飾部分の機能である。
 なんと、アタックサバイブと呼ばれる最新の防御術が施されていて、装着者に突然の物理的危機が生じた場合、瞬間的に展開してそれを守るというセーフティ機能なのだ。
 流石現役ミリタリーウォッチの面目躍如といった所だ。

「ん?これ」

 以前カタログで見たのと色合いが微妙に違う。もしかして密かにオーダー品なんじゃないか?

 流にその皆を聞くと、「いや、プレゼントだから良く分からない」と返された。
 イケメンと金持ちという二大属性を併せ持つ友人に思わず呪詛を掛ける所だった。危ない。

 まぁいい、おかげでこんな凄い時計を分解出来るんだ。それで相殺しておこう。

「隆、お前なんか時々怖いぞ」

「顔が怖いのは生まれつきだ、ほっとけ」

「いやいや、そうじゃないから。それに別に怖くないし。こないだの店のユキちゃんなんか『野性的で素敵なお友達ね』って言ってたぞ」

 なんだと……いや、無駄な期待は止すんだ俺。ユキちゃんはきっと、将を射んと欲すれば先ず馬を射よとの諺通り、こいつを落とすのに周りから攻めただけなんだ、期待すればきっと傷付く、……でも、ちょっと今度ユキちゃんのいる店に顔見せてみるかな。

「うん、じゃあ、いつものように調整しとく。愚痴を聞いてくれてサンキュ」

「ああ、もう帰るのか?お前いつも早いよな。もしかして家に同棲中の彼女とか?」

「いる訳無いだろ!ボケェ!」

「アハハ、じゃあ、また明日職場で。お疲れさまでした」

「せっかく浮世離れした場所に来てるのに仕事の挨拶とか、ちょっと空気読めよ、お前」

「よく言われるよ。どうも切り替えが苦手な質でね」

「顔は派手なのにワーカーホリックだよな、大概」

「派手は余計だ。お前だって趣味と仕事の線引きが出来無いくせに」

「むっ、俺は楽しんでるから良いんだよ」

 ほどほどの酔いを楽しみながら夜道を歩いて帰る。
 そこかしこの暗闇には薄い邪気がたゆっているが、それはちょっと『暗い』だけで実害が有る訳じゃないので安心だ。田舎とは大違いである。
 なにしろ大都市には全て大掛かりな結界が張られているので、人に悪さをするような凶悪な怪異マガモノは入り込めないのだ。
 偶に精神が不安定な輩がそんな薄い邪気でも引っ掛かって事件を起こしたりしているが、そんなものは優秀な警察がなんとかしてくれる。俺はのんきな一般人、無力な都民なのだ。

 うん、やっぱ中央は良いな、都会万歳!田舎は俺には合わないんだよ!

「もう田舎にゃ帰らねぇからなぁ!!」

 明々とした街灯に霞む夜空に思いっきり叫ぶ。
 もちろん都会であるからには周囲には人がいる。うん、物凄く見られてるな。これはあれだ、凝視ってやつだ。
 とりあえず怒られる前にさっさと帰るか。

 あちこちの店から流れ出している流行りの歌をなんとなく口ずさみながら、俺は狭いながらも楽しい我が家へと帰路を急ぐのだった。



[34743] 2、カラクリ仕掛けの蝶々は舞う
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2014/05/22 21:57
 玄関のスイッチを入れて微かな光が灯ると、途端にパタパタという微かな音が聞こえた。

「ただいま、蝶々さん」

 2DKのごく普通のアパート、社宅扱いで家賃は6万円。俺ぐらいの年代の男の一人暮らしには十分過ぎる城である。
 流なんかはもっとマシな住居に移れとか言うが、あいつの感覚に合わせてたら破産する。絶対にだ。
 何しろ将来の為に地道な貯蓄もしているのだ。まだ見ぬ可愛い嫁さんと我が子よ、俺は頑張るよ。

 元々大家族で生活していた俺にとって一番堪えたのは実は孤独だった。
 ぶっちゃけて言うと誰も迎えてくれない家という物の物悲しさにヘコみそうになったのだ。
 といってもペットとか買う訳にもいかず(アパートはペット禁止だ)その代わりといっちゃなんだが、フルハンドメイドで作ったのが部屋をパタパタと飛び回るこの蝶々さんだ。
 実は何気に俺の初めての完全オリジナル作品でもある。

 白雲母の薄い羽と有機発光体と極軽量の光源電池、そして基板となる水晶針チップとセンサーを組み込んで作った単純な蝶の自動機械カラクリだ。
 これは照明が灯ると舞い始め、センサーを使って障害物を避けながら金色の淡い光を纏ってふよふよと飛び続ける。
 記憶野に簡易守護陣形を入れてあるので、障害物にじゃまされない限りはその光で守護陣を自動的に張ってくれるという、セキュリティ機能もある、なかなか優秀で可愛いカラクリなんだ。
 だから、別に生物相手でも無いのに名前を呼び掛けるという不毛な行動をしても変じゃあるまい?変じゃないさ。うん、変じゃない。

 なにより、ふよふよしているこいつに話し掛けると寂しさを感じないで済むという特典もあるのだ。というか、そもそもはそのつもりで邪魔にならない電子ペット代わりに作ったんだよな。
 貧乏性が災いして、なんか実用本位の感じになってしまったが。

 このパタパタという羽の動きには俺の今の職種に至る根源的な記憶が反映されてもいる。

 俺が小学生の頃、うちの学校にカラクリ士なる人物が訪れて実演イベントをやった事があった。
 羽ばたき飛行機なる物を皆で作って飛ばしましょうという、ごく単純な工作イベントだ。
 だが、割り箸と輪ゴムと針金と障子紙という身近な物を使って、鳥のようにとはいかないまでも自力でパタパタと飛ぶそれは、幼い俺の心を鷲掴みにしてしまったのだ。
 単純明快な性格の持ち主である俺は、将来の進路をその時決めたと言って過言ではない。
 暴力と怪異に塗れた生活をしていた俺にとって、科学と文明という純粋な人の知恵の結晶であるカラクリなる存在は、輝かしい光の道のように思えたのだった。

 ふよふよと、しかし俺の行動を妨げない距離感で周囲を飛び回る蝶々さんを眺めてそんな過去の感傷を思い浮かべていると、脱いだ上着のポケットに硬く重い物を感じた。

「あ、そうか。流から預かったんだったな」

 腕時計ウォッチの件を思い出した俺は、それをポケットから取り出すと詳細に見分してみた。
 セキュリティコードは既に打ち込み済みなので、いきなり攻撃的防御陣を展開する事は無いので安心して調べられるが、このメーカーのウォッチは分解し難い事でも有名だ。
 とりあえず風呂場の換気扇を回し、その間に道具を用意する。
 今までも度々この手の依頼は受けたので専用の道具を揃えてあるのだ。

「おっと、今回はモノがモノだから念を入れないとな」

 俺は新しい透明のゴミ袋を取り出すと、それも携えて風呂場の換気扇を切り中へと入った。
 ちょっと寒々とした狭い風呂場に作業台と椅子と可動式ライトを持込み、新しいゴミ袋を開いてその中に作業用具一式を展開する。
 精密部品には埃が禁物なので、専用ルームの無い自宅では普段から湿気が多い為埃の少ない風呂場がその代わりなのだ。
 更にビニール袋内での作業は念の入れすぎな気もするが、馬鹿高い新品の時計だ、そのぐらい気を使った方が良いだろう。



 裏蓋を外すと、小さく緻密な部品が重なり合っているのが見える。
 その様はまるで一つの芸術品のような美しさだ。
 実を言うと、部品を組むという作業は俺の仕事的には専門外の部分で、アマチュアの趣味の領域である。
 そんな未熟な身で、このような一級品のプロの仕事に手を触れるという事には一種の罪悪感さえ感じてしまう部分も確かにあった。
 だが、その一方で、人の知恵が創り上げたカラクリという仕組みの素晴らしさに直接触れられるという高揚感も確かにある。
 その双方は矛盾しているようで俺の中で混ざり合い、下手をすると、倒錯的と言われるような喜びを感じながら、俺はそっと竜頭を抜き取った。



 腕時計の部品という物は、蓋を外しただけではひっくり返してもバラバラにはならない。
 この竜頭によって全ての部品が纏められているのだ。なんともはや、凄い仕組みである。
 竜頭を抜いたら注意してブレスレット型の枠から中身を外す。
 このブレスレットの防御陣はオフにしてあるとはいえ、なんとなく心臓に悪い。何しろ軍で使われるような物だからちょっとびっくりするとかいうような可愛らしい物では無いのだ。
 ドキドキしながら基本的な解体を終え、いよいよ心臓部に当たる水晶針まで上に被さった部品を剥がして行く。
 機械の部品というよりまるで装飾品のように磨き抜かれ、細かく加工された部品の奥に、隠された宝石のように鎮座しているのが水晶針機関、通称振動部だ。
 その名の通り、それは針のように細い水晶を何本も並べて敷き詰めた部品で、ほとんどのカラクリの心臓部にあたる重要機関だ。
 そして、これの取り扱いこそが俺の本職でもある。




 およそこの世界のあらゆる物には固有の波動があり、それは一定条件下において互いに干渉する。
 その原理を利用して動力としたのが、現在のカラクリの心臓部であるこの仕組みだ。
 波動はもちろん人間にもある。
 通常、条件が揃わない限り、生物の波動と非生物の波動は干渉し合わないものだ。
 それはいわゆる波長の長さが違うからなのだが、世の中にはこれが規格外の人間がいる。
 全てに干渉する波動を持った人間。魔導者だ。
 
 彼らは意識してあらゆる物に干渉して影響を与える力を持っているが、その一方で無意識状態でもあらゆる物に干渉しているのだ。
 そのせいで水晶針動力と相性が悪く、常にある種のシールドか専用の調整を必要としていた。

 つまり、流はその魔導者であり、このウォッチをそれ用に調整しなければならないという事だ。
 ちなみ世界の権力者のほとんどはこの魔導者である。
 通常、彼らはカラクリ式の装身具を購入する場合は、その店に赴いて調整するか(いわゆるオーダーメイド)、職人を呼んで調整する(いわゆるチューンナップ)のだが、実家からほぼ勘当状態の流の場合そういう訳にはいかず、安上がりな友人の俺に毎回頼んでいるという次第だ。




 ん?あれ?もしかして俺、利用されてるだけ?
 いやいや、あいつがそんな常人の考えるような思考をする訳がない。
 何しろマッドサイエンティスト一歩手前の変人なのだ。そんな常識的な利益を追求するような男なら、そもそも実家から飛び出して発明家になろうとか考えないから。うん。




 一時的に友を疑った事に罪悪感を感じつつ(といっても別に親友とかじゃないけどな)、俺は気合を入れ直してその綺麗に並んだ水晶針機関を眺める。

 美しい。
 さすがは一流メーカーだ。全ての針が均一で、その波形にブレがない。
 この波形を測るのは専用の器具もあるのだが、一部の先天的な視界の持ち主はそれが実際に見える。
 いわゆるオーラ眼と言われている視界で、実は人類の半数近くはこれを持っていて、見える才能はあるのに伸ばしていないので見えない場合が殆どだ。

 まぁそれはそれとして、俺は裸眼で見えるタイプなので、そのまま視界に透明な揺らぎを見る事が出来る。
 水晶は最も他に干渉しない波動なので、(ダイヤモンドもそうだが、価格的に利用し難い)細かいカラクリのエンジン部は殆どがこの水晶針だ。
 細い針状の水晶を何本も重ねるのは動力幅を上げる為の仕組みで、あらゆるエンジンは基本的にこの作りに準拠している。
 そんな水晶機関だが、干渉波動を持つ魔導者たる流の奴が、その身につけた状態で本来の精度で動かすには補助が必要だ。
 そう、本来この調整を行うのが俺たちエンジニアなのだ。






 細かい砂金粒を吸引手というスポイトのようなツールで一粒一粒を摘み上げ、針の一本一本に乗せる。
 本来、この2つの物質はそれぞれ鉱物であり、混ざり合う事は無い。
 だが、世界に思い込ませる事によって、それを可能にするのが精製と呼ばれる技術だ。

 この原理には世界という物の構造が深く関わっている。
 世界は多様存在の思考によって出来ているのだ。
 もちろんそれは個人のだけでも、人間種族だけのものでもない。
 この世界に或る思考する全ての物の思考が世界を成している。
 概念理論というやつだ。
 この概念は時折局地的に変動する事がある。
 怪異マガモノと呼ばれる化物が生まれるのもその影響で、一時的な意識の揺らぎや強い想念がその根源だというのが最も新しい学説だ。

 で、その概念を狭い範囲で変えるのが精製という技術であり、それを使ってチューニング(調整)は行われる。
 難しく言ってみたが、もう殆どね、詐欺師の世界なんだよな、精製士エンジニアって。もうね、騙しのテクニックなんだよ、要するに。
 これには才能は必要なく、ひたすら訓練で身に付ける。
 『理屈は後から付いて来るんだ!』ってのが教官の言でした。


「さてと」
 集中する。
 言の葉は俺から出て世界に溶ける。
 それは波のように広がり、そこに閉ざされた場を作る。
「“水晶はすなわち水の結晶、水は全てを受け入れる。黄金はすなわち陽光のカケラ、全ての物に恵みを与える”」
 簡単だが、定文化された精製式。
 世界を揺らがせるその揺らぎの中で、水晶針は砂金の粒を受け入れた。
 この僅かな波動の上乗せが、流の魔導に干渉されないギリギリのラインだ。

「よしっと」
 上手く定着したのを確認すると、もう一度手早くウォッチを組み直す。
 これで頼まれ仕事は終わりだ。

 ぐったりした俺は、せっかく風呂場にいるにも関わらず風呂に入る気力も無くし、ベッドに転がり込む。
 パタパタと軽く綺麗な羽音を響かせる蝶々さんが頭上で紋を描く中、手元のスイッチで灯りを消した。

 やがてベッドサイドのテーブルの上に置いてある花の蕾の形をしたスタンドがゆっくりとその花弁を広げ、蝶々さんがそこに舞い降り、羽の色が銀色に変わる。

「おやすみ」

 しかし、なんだ。
 カラクリ相手に挨拶するような生活はやっぱり不健全かもしれないな。
 吸い込まれるように眠りに落ちながら、俺はぼんやりとそんな事を考えたのだった。



[34743] 3、弟は氷雪のごとく
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2012/08/23 21:26
 夜になると住宅街は暗い。
 点々と道を示す街灯と街灯の隙間から覗く夜空は、都会ながらもささやかに煌めく星を散らして一人の帰路を慰めてくれる。
 その先にポウと浮かび上がるコンビニは、さながら砂漠で旅人を潤すオアシスのようだった。
 上司と回路設計の件で激論を交わしていささか荒れ気味だった心には、その小さな温もりは有難く映ったのである。

「いらっしゃいませ!」
 いつもの店員さんが元気よく挨拶をしてくる。
 どうでも良いがこの時間に女性店員が一人というのはどうだろう?危なくないか?
 昨今の男女平等の流れを受けて、深夜業務に女性が従事しているのを目にする事も増えたのだが、いつもそんなひやりとした気持ちになってしまって落ち着かない。
 しかしまぁ、考えてみれば夜の仕事の多くには昔から女性オンリーの仕事も多いし、余計な心配なのかもしれないが。

 この時間ガラガラになっている弁当コーナーを一瞥する。
 自分で何か作る気力は無いし、特に食いたい物もない。強いて言えば肉が食いたいが、こういう所の弁当には殆ど肉は入っているのであえて考えなくても大丈夫だ。

「う~……ん」
 目当ての焼肉おにぎりが今日も絶賛売り切れ中だったのを確認すると、俺は溜息を吐いたのだった。




 カンカンカンと甲高い音を立てる階段を、やや遠慮がちに踏みながら(1階の住人に乳幼児がいるのだ)自室に辿り着くと、何気なく鍵を取り出そうとして、次の瞬間そこから飛び退いた。
 ドアノブに影で出来た蛇が絡み付いて威嚇していたのだ。

「おいおいおい」
 その硬質で冷たい感じには覚えがある。
 そもそも影呪使いで俺に対して呪を放ちそうな相手は一人だけだ。
 いや、普通は呪なんか放たないんだろうけど。

 ともあれそのままだと中に入れないので、手に持った鍵を礫を放つような形で構え、小さく文言を呟く。

「月光の銀矢、闇をつらぬけ」

 細い三日月と銀色に鈍く光る鍵を視界上で重ねると、極小さな光が跳ねた。
 劇的な何かが起こる訳でもなく、ふいっとその影の蛇は掻き消える。滅びるなら諸共になどという物騒な何かを込めたりはしていなかったらしい。
 いや、本格的な呪を込められても困るけどね。ははは……。


 今の気持ちを端的にどう言い表したら良いのだろう?
 ドライアイスを素手で掴まなければならなくなったような時の覚悟みたいな?
 いや、もはや相手には気付かれているのは確定なんだから、こんな所でグズグズしているとまた何か俺の大事な威厳(?)のような物が剥がれ落ちて行くような気がするので、覚悟を決めてドアを開ける。
 ん?あれ?これ俺の部屋だよね、なんで覚悟がいるんだろう?マジで泣ける。


「た、ただいま……」
 既に灯りが点っていて(暗闇だったらそれはそれで怖い)、うちの蝶々さんがのんきに羽ばたいている音がする。
 無事だったか、マイハニーよ。

「おかえり、兄さん」
 帰宅の挨拶に、可愛らしい人工の羽音だけではなく、さながら夜明けに降りる霜のごとくひやりと温度を下げる声が応じた。
「浩二、来てたのか」
 玄関を上がって直ぐがいわゆるダイニングキッチンになっているのだが、なぜかそのフローリングに正座している我が弟。
 いや、来てるのは分かってましたよ。玄関の蛇的に。
 とぼけた方が物事がスムーズに行く事もあるのさ、人生いくばくか生きてると学ぶ事がね。

 思わず遠い目になってしまった俺を訝しげに見やると、うちの弟くんは足が痺れた様子もなく自然な挙動で立ち上がった。
 どうでも良いが都会でその服装はかなり浮いてるんじゃないか?
 いや、むしろ都会だからなんでも有りでいけるのか?
 一見した外装は、白と紺で織られた作務衣風味だが、袖口から黒のアンダーが覗いてたり、よく見るとびっしりと怪しげな曼荼羅(と言っても仏様が描かれているのじゃなくていわゆるさんまやーという奴だ)が描かれていたりと、下手するとどっかのコスプレ野郎に見えなくもない。
 顔立ちは、野性味溢れる俺と違って、どこか硬質な、ぶっちゃけて言ってしまえば二枚目に分類されるようなタイプの生真面目顔で、服装と顔立ちの両方が合わさって、どこかの新興宗教か武道を修行中の青年といった感じにも見える。
 うん、こいつは母方の爺さんに似てるとかで、俺とは系統が違う顔なんだよな、あえて言えば妹も母方の顔立ちだ。

 ……オノレ、ウンメイノカミメ、オボエテロヨ。

 何か心の声が呪いを放ったようだが、気にすまい。

「兄さん、聞いていますか?すっとぼけても無駄ですよ」

 おおっと、何か説教が始まる気配に、俺の脳にエマージェンシーシグナルが点滅した。

「そ、そうだ、そんな所に座り込んでたんだ。冷えただろう?あっちでお茶でもしないか?」

「兄さん」

「あ、ああ?」

「その買い物袋は夕食ですか?いわゆるコンビニ弁当という物ですね?」

 まさかそんな方面から攻めて来られるとは思ってもいなかった俺は、思わず壊れた首振り人形のようにガクガクとぎこちなく頷いた。
 やたら潔癖な所があるうちの弟殿はそんな俺に向かってまるで今から刻む鬼を見るような冷厳な眼差しを向けている。

「そんな栄養の偏った物を食するなど、自分を貶めているようなものですよ。食は即ち身命の基です。それをないがしろにするなど、兄さんには一人暮らしは早いのではないですか?ざっと見た所世話をしてくれるお相手も居ないようですし」

 恐ろしい。
 何が恐ろしいかというと、この弟殿は正論を展開している時程“気”が漲っているという事がだ。
 なんというか、こやつは説教しながら敵を倒すタイプなのだ。まぁ怪異に向かって説教するのもどうよ?とは俺も思うのだが。

 弟殿の周りに何か怪しげな閃きが時々見えるが、あれを飛ばして来たりしないよな?一応お兄ちゃんなんだぜ?俺。

「聞いているのですか?」

「うあい!」

 思わず気をつけをしてイイ返事をしてしまう。ちょっと上ずったのはご愛嬌だ。

「それになんですか、その袋は?今や世はエコが常識でしょう?現代人たらんとした兄さんがそのような事でどうするのですか?」

 コンビニの袋をそのまま貰って帰って来た事にまでツッコミが入った!
 田舎の方ではそんな分別ゴミとか普及してないと思っていたが、甘かったようだ。
 でも、これはこれで色々便利なんだよ?溜めすぎると始末に困るのは確かだけどさ。
 そう思っても口に出せないヘタレっぷりで、俺は大人しく4つも下の弟の説教を項垂れて聞いている。

「兄さんがとうとう戻って家を継ぐつもりになったと聞いて安心して家を開けて仕事に出ていたら、試練を終えた後はさっさと中央に戻ってしまうとか、僕や由美子を待ちもしないで。あまりにも酷いのではないですか?」

 いや、家を継ぐ云々は思い込みだ、俺は一言も言ってない。

「会わずに帰った事は悪かったと思ってる。その、お前や由美子に別に思う所があった訳じゃないんだ」

 とりあえず謝り倒す、これしかない。
 下手に言い訳をすれば俺の人生は終わる。恐らく、きっと。

「当たり前です。兄さんがそんな風になっているならきっと何か良からぬモノに取り憑かれているに違いありませんからね。せめて僕の手で葬ってさしあげます」
「いきなり葬るな!」

 流石に思わずツッコんで、ひやりとした目で見られて口を閉ざす。
 怖い。たかだか22の若造の癖にとんでもない迫力だぜ。

「それで、兄さんは家に帰らないつもりなんですか?」
「それは家を出る時にさんざん話し合っただろう?今の時代に家業に縛られるなんてナンセンスだ」
「……それで、こんなオモチャを作って暮らすというのですか?」
 
 部屋を飛び回る小さな蝶を模したカラクリをチラリと見やると、弟は切って捨てるような勢いでそうなじる。
 だが、

「オモチャを馬鹿にするもんじゃあない。文明と共にオモチャは育って来たし、人はオモチャに触れて育って来た。オモチャを作って楽しむ事が出来るっていう事は人が人であるあかしでもあるんだ」

 これだけは譲れない。
 俺が心動かされ、道を選んだ、その象徴が玩具カラクリだからだ。

「そうですか。しかし、その志と仕事は少々離れているようですけど」
「うっ」

 グッと詰まる。
 実際俺が今務めている会社はそこそこ優良企業とはいえ家電の会社なのだ。
 俺が大見得切って飛び出した理由から微妙に離れている事は否めない。

「基本は同じだよ。機械カラクリである事には変わりない。それに人の役に立つ仕事だしな」
「物は言いようですね」

 ヤバイ、納得してない。まぁそりゃあそうだよな、うん。実は俺も納得してないからな。
 だって就職先の選り好みなんか出来る状況じゃなかったんだよ。
 特殊技能持ちって言ったってまだまだひよっこだしな。

「ところでお前はどうして中央ここに来たんだ?それって仕事着だよな?」

 話しを逸らす為というより、気になっていた事を切り出してみる。

「兄さんが家業を投げ出したとしても誰かがそれをやらなければならないでしょう。怪異マガモノは常に新たに発生しているし、一度発生してしまえば自然に消滅したりは滅多にしないものですからね」
「いやいや、そういう事じゃなくってさ。ここは結印都市じゃないか、ここに仕事なんか無いだろう?」

 ふうっと、浩二は妙に深い溜息を吐いてみせた。
 うん、俺に対する嫌味だよな、あれ。

「これが平和ボケというものなのですね。仮にも鬼伏せの家の長男たる者が情けない限りです」
「あー、情けなくて悪かった」

 弟殿の言葉に、急激に不安が押し寄せる。
 俺は何かを見落としてる?そういえば、俺は“どうして”蝶々さんに結界を仕込んでいるんだろう?

「アレを飛ばしているのですから、とっくに分かっている事だと思っていましたけど、そうですか、いつものアレですね。無意識というか野生の本能というか」

 弟殿、浩二は、まるで俺の思いを読んだように蝶々さんを示すと、何やら酷い言いがかりを口にした。

「兄さん、怪異の生まれる仕組みを覚えていますか?」

 怪異の生まれる仕組み、か。
 怪異は存在するものの意識から生まれる。いわば夢と現実との間に生まれた忌み子のような存在だ。
 より強固でより強い意識が最も強大な怪異を生むと言われていて、最悪の怪異はこの星の夢から生まれたと言われている。
 ちなみに、最悪の怪異とは煉獄の事だ。
 まぁこれは今回関係ないだろう。
 つまり……なるほどな。

「あ~、なるほど、人間がこれだけ寄り集まっているんだ。外部の怪異は防いでも、内部で新たに生まれる分があるって事か」
「“人間”だけでは無いですけど、まぁそのような物です」

 俺は今までこっちで形を持つ怪異に遭遇した事が無かったからすっかり安心していたが、理屈的には確かに有り得る話だった。

「それに、結界で守られているといっても、それで外の怪異が消える訳ではないのですよ。放置された外の怪異が固定化して成長したら、やがてはこの結界も持たなくなるでしょう。我らが必要では無くなる事は無いのです」
「それは違うな」

 自分で思った以上に、俺は固い声を発していた。
 浩二がぎょっとしたように俺を見る。

「人類を甘く見るな。今や人間は個人の勇を頼らなければならないような弱い種族ではなくなった。人間はその気になれば能力者に頼らずに巨大な怪異を倒すだけの力がある。軍隊や兵器が、な」

 そうだ、つい同族同士の戦争の道具にしか思われないそれらだが、それは怪異マガモノにも力を発揮する。
 今や人類は非能力者でも怪異を倒せる力を得たのだ。

「一発で国費を揺るがすようなミサイルを使ってですか?」

 だが、浩二はそれを冷笑でもって迎えた。
 その道を真っ直ぐ進んできた弟にとって、たかだか数十年で台頭してきた兵器なぞと自分たちを比べられるのは業腹なんだろう。

「そうだ。それだけの代償を持ってすれば、俺たちじゃなくても戦えるんだ。誰かが犠牲にならなければならない時代はもう終わったんだよ」

 それでも、俺は伝えたかった。
 ほんの一握りの、勇者と呼ばれた者達が死力を尽くした犠牲の上に平和を築く時代はもう終わって良いのだと。

 弟は一瞬眉をしかめると、俺を一瞥して息を吐いた。
 呆れたとか苛立ったとかいう顔では無かったが、正直どういう感情がこの一本槍で生真面目な弟の中に生じたか俺には知りようもない。

「とりあえず兄さんの話は聞かせてもらいました。これで失礼します」

 よくよく考えると、台所でいい年した男二人が向い合って話しをするってなんか嫌な図だよな。

「おい、茶ぐらい飲んでけよ」
「いえ、最終に間に合いませんので。それから……」

 浩二はごそごそと襷掛けしたカバンから何やら取り出すと俺に手渡した。

「今後の買い物にはこれを使ってください。ちゃんと防水加工もしてありますからね」

 押し付けられたのは濃紺のデカイ風呂敷だった。
 ちょ、お前、これで俺に買い物をしろと?そう言うのか?

「ちょ、浩二!」

「ああ、そうそう」

 文句を言おうとする俺の機先を制するように、弟殿は振り向いた。

「僕には由美子を止められませんから、せいぜい注意してくださいね」

「う?え!?」

「怒っていましたからね。……ものすごく」

 ドアを閉める間際にニィと笑ってみせる。
 その笑顔に、背中に氷柱が生じるような思いを抱きながら、俺は弟が去る足音をただ聞いているしかなかったのだった。



[34743] 4、職場はストレスの溜まり場だった
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2012/08/24 21:19
「まあ、うちがもっと大手だったらその考えもアリかもしれんけどな」
 課長が疲れたようにそう締めくくった。
 残念ながら俺の構想は正式に却下となった訳だ。
 よくある事だけどな、うん。

 今、世は省エネ時代。
 人間が掘り起こしてエネルギーとして使っていた、太古の魔法生物の化石燃料や鉱物などがやがて尽きるであろう事が大々的に取り沙汰されるようになって久しい。
 ついでに言えばそういう採掘の時に掘り出される悪夢の遺産と呼ばれる封印が、事故や手際の悪さでいくつか開放されて、その度に世界に大打撃を与えるのも前々から問題になっていて、燃料採掘はもっと縛りを入れた方が良いんじゃないかという世論を高めている。

 魔竜が顕現した時には真面目に人類の歴史が終わり掛けたからな。まあ、あれは主に宗教的理由で睨み合っていた中東と新大陸の連中が悪いと思うんだ。うん。
 せめて人類の敵に対しては協力すれば良いものを。なんで相手にけしかけるん?理解不能だわ、マジで。

 つまりは人類はヤバイものに手を出すよりは慎ましく生きてみないか?という雰囲気になっていた。
 それには俺も同意だ。

 それでその世の流れに倣って、うちの会社も省エネ家電を大々的に売り出し始めた。
 より少ない電力、より少ない水晶で動作する商品。自ら出力の調整をしながら動作する商品。そんな家電が現在の人気商品なのだ。
 具体的に言うと水流を工夫して僅かな電力でより綺麗に洗える洗濯機とか、一定の温度に保温する為に外装に結界を発生させて電力をあまり使用せずに使えるようになったポットとかだ。
 といっても大手はもっと大々的な工夫をしているので、うちの省エネ家電程度では話題にすらならないけどね。
 そこで俺が提案したのはトータルコントロールである。
 家電相互で通信して、全体でも省エネを計ろうというものだ。
 例えば冷蔵庫なんかの常に通電してないといけないような家電と、一時的に電力を使う電磁調理器レンジのような家電、それらをリンクさせる事によってトータルでの消費量を抑えようという設計思想だ。
 しかし、それも課長の、「うちの家電だけで揃えてくれる家庭がどのぐらいあるのだろうね?」という自虐ネタで終わりを告げたのだった。

 ふう、と息を吐いて手元の資料をどうするかと考える。
 やっぱ破棄して分解処理シュレッダーかな?

「それ、こっちで預かりましょうか?」

 ふいに柔らかな声が俺の思考を遮った。
 机の上にコトリと小さな音を立てて専用カップが置かれる。
 何気なく見やると、課長の机にもどっかの寿司屋のような魚偏文字の模様の入った“コーヒーカップ”が置いてあった。
 課長の趣味はともかくとして、どうやら話が一段落付いたのを見計らってコーヒーを淹れてくれたらしい。

「ありがとう。ええっと、預かるって?」
「却下された草案も、また何かの折に必要になる時があるでしょう?その時の為にリスト化してるんです」
「へぇ、そんな事までしてるんだ、ご苦労様。じゃあ、頼もうかな?よろしく伊藤さん」

 彼女は伊藤優香という、うちの課の同僚でデータベース管理をやっている。入社時期的には二年程後輩だ。
 と、あれ?ちょっと待て。

「あれ?伊藤さん、お茶当番昨日もやってなかった?」

 うちの課に女子社員は三人いて、彼女らが毎日交代でお茶当番をやっている。
 女の子だけにお茶当番をやらせるのは男女差別的にどうなのか?とか思わないでもないが、彼女達がそもそも男性にやらせたくなさそうなのだ。
 どうも給湯室にお菓子とかを持ち込んでいるっぽい。いや、いいけどね。
 その毎日交代のはずが考えてみればここ数日ずっと彼女がやってる事に今更ながらに気付いた。
 まさかと思うが、虐めとか?……なにそれ怖い。

 俺が戦々恐々としていると、伊藤さんは突然真顔になって持っていたお盆を抱きしめた。

 おお、俺もお盆になりたい!あの胸にギュッと!いや、違う、何?深刻そうなその様子、まさか当たり?
 いやいや、女の戦いに巻き込まれたら俺はお終いだ。
 それとも覚悟を決めるか?「木村隆志、26歳童貞、彼女の無いまま女の争いに首を突っ込んでその生命を散らす」う~ん、残念な生涯だな俺。

「実は、木村さんに相談に乗って欲しい事があるんですけど」

 ゲエェェ!俺終了のお知らせ来た!終わった、何もかもが終わった。

「ああ、俺で出来る事なら」

 しかし、俺の口から出るのは調子の良い安請け合いの言葉のみ。
 仕方あるまい、若い同僚の女の子からの相談を断れる男がいようか?いや、いまい。ならば俺の進むべき道は決まっているのさ。ふふふ。

「良かった!実は給湯室の事なんですけど」
「給湯室?」

 いささか肩透かし気味の相談に、俺の頭は疑問が一杯。
 もしや給湯器の修理?
 いや、それは業者の仕事だろ、さすがに俺には頼むまい。

「他の子達があそこを気味悪がって近付かないんです。だから必然的に私がお茶担当になっているんですけど」
「なんか、でる・・って事?」

 彼女は小さく頷いた。どうやら人間関係の話じゃあ無いようだ。
 だからといってホッとして良いのか?って事だけど、てかなんで俺に話を持ってきたんだろう?

「そういうのって流っと、一ノ宮博士に相談した方が良いんじゃないか?」

 流は魔導者だ。
 それはもはや名前からして隠しようのない事実である。
 なにしろ有名な一族だからな。
 だから普通超常の現象の相談なら流に行くのが筋だ。
 俺は会社で自分の一族の家業なんか明かしてないし、何かをやってみせた事もない。

「それが、園田さんが博士に相談したら、自分だと一つ間違うと悪化させてしまうから、木村さんに相談してみてくれって言われたらしくって」

 あんにゃろ、何言ってくれちゃってるの?
 いや、待て、これはもしやチャンス?
 女の子達に俺をアピールするチャンスを貰ったという事なのか?

「分かった、じゃあ昼休みに見に行ってみるか。ああ、それじゃあ伊藤さん大変だったね。お昼のお茶汲みも一人でやってたんだ」
「流石にお昼の準備を一人では大変なので、みんな給湯室の外で待機しててくれてリレー方式でやってました」

 そう言ってにこりと笑うと彼女は年齢より若く見えるぐらい愛嬌がある。しかしなるほど、そこまで女の子達も薄情じゃないわけだ。いくら体質的な物だと言っても、一人に丸投げするような事はしないらい。

 実は彼女も流とはほぼ逆な意味で体質的な少数派だ。
 いわゆる霊的不感症。波動透過体質ってやつだ。
 実体を伴わないあらゆる現象をスルー出来る体質と言えば良いだろうか?
 彼女は固定化してない怪異や人や魔があやつる魔術、魔法の類を一切感知しないのだ。
 彼女自身の波動は内向きに発生していて、他のあらゆる波動と干渉しない。
 これは血筋的な物ではなく、いわゆる突然変異というか特異体質の一種で、珍しいが、そこまでいないというものでもなく、数百人規模の小学校に一人か二人はいるぐらいの特異性を持つ体質だ。

 少し前の戦争が盛んだった頃は、この体質の人間は魔的なトラップや攻撃を無効化する手段として問答無用で前線送りにされていたらしいが、現在は特別差別も無く普通に存在している。
 俺からするとちょっと羨ましい体質だ。
 だって見る事も干渉する事も出来ないなら、そもそも家業は継げないからな。

「引き受けてくださって良かった。ありがとうございます」
「ああ、でも期待しすぎるなよ、何しろ素人なんだから」
「え、期待しちゃいますよ?」

 冗談混じりの会話を女子社員と交わせるとは、なんか俺の人生ちょっと運気上昇中?
 しかし都会の真ん中の我社の近代的なビルで怪異騒動か、浩二の奴の言ってたように、結界内部だからってのほほんとしてるのはきっと間違いなんだろうな。

 でも、だからといって、危機感を持って日々の生活を送るのは断じて嫌だ!お断りだ!どんなに馬鹿にされようと俺はのんびり平和に生きたいんだよ!
 数歩歩いただけでダンジョンに迷い込むとか、学校帰りに怪異が毎日のように待ち伏せしてるとか、そういうのはもう御免です。
 名有りネームド怪異モンスターから付け狙われるとか、意味が分かんねぇ。
 あの頃まだ小学生だったんだぞ?何この変態?とか思っちまったぜ。

「ふぅ」

 嫌な記憶を彼方へと押しやり、とりあえず課長とのやり取りでヘコんでいた気分も回復した事だし、俺は既存の仕事の一つに取り掛かった。
 昼休みはそう遠くないが、気負っても良い事は無いからな。




 昼休み、うちの課は圧倒的に弁当派が多い。お茶を配る女の子達三人組も大忙しだ。一部女の子と言って良いかどうか分からない方もいらっしゃるが、下手な差別は我が身を危うくする。あくまで“女の子”三人である。
 その女の子達が俺へお茶を配ってくれる際に、「よろしくお願いします」とか言われちゃって、ちょっとほんわか気分になりながら色気の無い自作弁当を食べ。
 いざやゆかなん給湯室へ。

 まあ、ちょっと舞い上がった。だってさ、こんな扱い一生に一度の事かもしれんし、ちょっとぐらい浮かれても罰は当たらないと思う。

「ご案内しますね」

 伊藤さんがいささか緊張した面持ちで俺を案内してくれた。
 彼女には一切見たり感じたり出来ないのだから緊張しなくても良いと思うんだが、きっと生真面目な性格のせいなんだろうな。

 給湯室はフロアの真ん中に小部屋を設けて設置されている。
 ここは、そのフロアの課が共通で使うようになっているのだ。
 待てよ、そういえばうちの課以外はどうしてたんだろう?

「なぁ、他の課の人たちはどうやって使ってるの?」
「私も他の課の事までは良く分からないのですけど、何度か給湯室からこわごわ出てくる人は見たことありますよ」

 なるほど、怖いけど我慢して使っているんだな。
 そもそも霊障と言っても固定化していないものがほとんどだし、その場合は余程精神状態が悪い状態じゃなければ実害はない。

「ここです。ここで作業していると人の泣き声が聞こえてくるとかでみんな怖がっちゃって」
「分かった、ちょっと見てみるね」

 “人”の泣き声ね。
 って事は場所柄生霊かな?水場だし寄りやすいんだろうな。
 そういうのって一度浄化してもまた舞い戻ってきて同じ事が起きるんだよな、結構面倒くさい。
 流のやつ、そういうのが嫌で俺に振りやがったんだろう。

 女子の聖地であり、男には禁断の地、給湯室に踏み込む。
 中は細い蛍光灯が一つであまり明るくない。まずはこれを変えるべきだな。
 しかし、割りと狭いな。
 課名のラベルが貼られた棚、真ん中にドンと存在感を主張する洗い場、洗い物用の湯沸かし器と飲み物用の給湯器が並べて設置してある。
 隅の方にはゴミ箱が置いてあるデッドスペース。光が届いてなくて暗い場所が数カ所存在した。
 てかもういるんだけどね、隅の方に。

「なるほど」

 見た目はかなりはっきりしていて、もうすぐ危険領域にさしかかりそうだ。
 顔無しって事は個人の意識の産物ではないな。そして、ずっとジメジメ泣いている所から見て、範囲汚染タイプか。
 ソレは、俺が近付いても全く動かない。
 それも当然、怪異というやつは固定化するまで意識が無いのだ。
 一見まるで意識があるかのように反応するやつがいたりするが、それはほぼ反射行動であって、そこに意思は無い。
 固定化、つまり顕現して初めて生物と対等の存在になるのだ。

「とりあえず、掃除しとくか」

 “それ”に手を突っ込み、触感ではなく本能じみた感覚で核を探る。
 少し固い感じのナニかを探り当てると、それをぎゅっと握り潰した。
 うん、まあ、所詮力技だ。俺ってこのジャンルでは繊細な技とか術とか苦手なんだよな。
 見掛けも相まって、まるでけだものみたいとか言われてショックを受けた思春期の俺、ご愁傷様。

 僅かな手の中の抵抗を感じたが、呆気無くソレは消え去った。
 途端に給湯室のどこかどんよりしていた空気が解消される。

 よく空気の淀んだ場所というが、そういう条件に合致した場所があると、そこに負の感情が自然に溜まって怪異マガモノへと変化してしまう事がある。
 これは別に人間の周囲に限った事じゃあない。
 どんな存在でも魂持つ限りは感情を持つものだが、その感情が負に傾くと陰気を、陽に傾くと陽気を発する。
 陰は集積、陽は開放の性質を持っているから、当然陰気は溜まるのだ。
 それは自然の摂理であり、道理でもあった。
 しかしやっかいな事に、怪異は、成長して固定化すると世界に顕現してしまう。
 一概に全ての怪異が危険という訳ではないが、肉体が無い分成長に制限の無い彼らは、驚くべき能力を持っている事が多い。
 そんな存在が、往々にして生物の存在を脅かす強大な敵になってしまうのである。
 何しろ元が負の感情なのだ、圧倒的に破壊に傾く性質のモノが多いのは自明の理だろう。
 ならば固定化する前に始末するのが一番良い方法なのは間違いない。

「終わったよ」
「本当ですか!良かった、みんな喜びます。でも、木村さんって退魔持ちだったんですね。知りませんでした」
「あ、ああ、昔ちょっとかじっただけだから、あんまり期待されても困るけど、まあ固定化してない怪異ぐらいなら、ね」
「そうなんですか、意外な感じです。技術の人って陰陽学オカルトとは相性が悪いみたいに思ってました」
「そうでもないさ、精製ってのは突き詰めれば本質は神秘学オカルトだしね」

 伊藤さんと俺の言うオカルトという語感に僅かなズレを感じたが、いつもの事なのでそのまま軽く流した。
 一般の人は学問の大系とか興味ないだろうしね。

「それと、この件は課長に報告して給湯室の環境改善を上申してもらおう。そうしないとまた同じ事が起きるし」
「あ、じゃあ霊って訳じゃなかったんですね?」
「うん、普通の怪異だから、他のみんなにもそう怖がらなくても良いって言っておいて。怖がるとまた溜まるし」
「そうだったんですね。じゃあみんなが怖がったから急にはっきり見えるようになったのかもしれませんね」
「ああ、そういう経緯だったのか、うん、まあ怪異なんてそういうものさ」

 霊というのは人の妄執が具現化したもので下手な怪異よりやっかいな場合がある。
 人間を害する為に生まれた、いわば天然の毒のようなものだからだ。
 だからなのか、普通の人は怪異を猛獣と同じような自然の脅威のようなモノと捉えているが、霊に関しては本能的な恐怖を感じるらしい。一般的に普通の怪異より霊の方が苦手な人は多いのだ。
 しかもこの二つの現象をごっちゃにしている人もかなり多い。まあ、別にどうでも良い事なんだけどね。


 その後、課長に事の顛末を報告して、給湯室の改善要求を上申するように頼んだのだが、その際、仕事上の提案をした時よりも熱心に聞いてくれたのが、なんとなく俺の気持ちをブルーにしたのだった。
 いや、単なる被害妄想かもしれないが……。

 給湯室の改修はその二週間後に始まった。
 驚きの速さの裏には同じ給湯室を使っている女子社員連名の嘆願書の存在があったらしい。



[34743] 5、妹急襲
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2012/08/25 20:51
「おまえ、こんなのが怖いのかよ!そんなんでお役目なんかやれんのか!?」
 少年達は各々手に持ったガマ(怪異に接触したカエル)やクチナワ(怪異に接触した蛇)を少女に押し付けていた。
「やめて!やめてよ!」
 彼らより一回り小さい少女は半泣きになりながら拒絶の言葉を吐いている。
 俺は「またか」と思いながらそこに駆け付けた。
「こら!何やってんだガキども!」
 俺の姿を見ると少年達はニヤニヤ笑いを更に大きくしながら、それでも素早く撤退していく。
 うん、さすがに逃げ足が早いな。
「鬼タカシが来たぞ!」
「まぁた兄貴に庇われてんの!バーカ!」
「タカシ!これ食うだろ!プレゼントな!」
 口々に言いながらくだんのガマやクチナワとかを投げ付けて撤退する少年達。
 誰が食うか!!ボケが!生でこんなもん食ったら腹壊すわ!……多分。
「にいちゃ…」
 俺の服の裾を掴んで少女が呟く。そのか細い声で、啜り上げながら悲しげに訴えた。
「あいつらに根腐れの呪を掛けても良いよね?」


「ダメだ!ユミ!」
 がばあっとばかりに勢い良く起き上がると、目前に今の今まで眺めていた少女が急成長した姿があった。
 何かを手にしたまま驚きに固まる姿はどこか滑稽だが、その手の“何か”は少し物騒なモノだった。
 チキチキというか、ギチギチというか、そんな怪しげな音を立てて蠢いている複数の細い足。
 全身を鎧うヌメヌメとした黒っぽい外殻と、哺乳類とは全く違う身体構造を見せ付けるように細かく分かれた全身の関節でグネグネと動いている。
 いわゆる虫だ、しかも人の頭程もあるようなデカさの。

「兄さん、おはよう?」
「言いたい事は一杯あるが、とりあえずそれを仕舞いなさいユミ」

 妹よ、兄ちゃんは凄くびっくりしたよ。


 俺は冷静に冷静にと、脳内で唱えながら妹を隣の部屋に追い出し、布団を畳み、顔を洗って歯を磨いた。
 ここまで終えてから時計を見るとまだ午前3時だった。
 うん、俺、全然冷静じゃなかったね。
 コーヒーメーカーにフィルターと豆をセットしてスイッチを入れる。
 これはうちの社製のやつで、コーヒー豆をセットするとその場で挽いて淹れてくれる優れものだ。もちろん粉から淹れる事も出来る。
 コーヒーの香りには脳を活性化させる成分があると物の本で読んだ事があるが、そのおかげか、それを嗅いでいる内に俺の意識も覚醒したようで、それに伴って精神もなんとか安定を取り戻した。
 そのまま妹が座ってテレビを眺めている部屋へと足を運ぶ。

「で、なんでこんな時間にお前が家にいるんだ?」
「兄さんが酷いから」

 おおう、取り付く島もないってやつか?さっきからニコリともしないぞ。

「酷いって、お前さっき俺に蟲を憑けようとしてなかったか?」

 そう蟲、怪異に触れて変化した虫だ。
 うちの妹は使い魔を使役するタイプの破魔師である。
 破魔師ってのは何かというとうちの家業だ。怪異を滅するのがそのお仕事。
 んで使い魔というのはその細かい仕事をサポートするいうなればツールのようなモノだ。
 単純な怪異に術式という名のプログラムを上書きして、その命令通りに動かして使う。
 蟲は小さい物は米粒より小さく、大きい物はちょっとした小屋程あるのまで様々なタイプがいて、使い勝手が良いのだが、相性があるらしく使える者と使えない者がいる。
 その適性が高いのが今目前にいる妹であり、全く適正が無かったのが俺だ。

 蟲には様々な使い道があるが、それを人相手に使う場合、憑かせて操る事が出来たりする。
 外道技として禁じ手ではあるが、ちゃんとそういうものが技として伝わっていたりする、油断ならない我が家であった。

「だって、蟲を憑ければ兄さんも素直に帰ってくるでしょう?残念だわ」

 いや、蟲を憑けた時点でそれ俺の意思じゃねぇし、むしろそれは俺じゃねぇよ!見掛けが俺ならどうでも良いのか?妹よ。

 うちの妹はヤバイ。
 何がヤバイかっていうと物凄く可愛い。
 可愛さ加減を例えると満月や朝日が綺麗だったりするのと同等に可愛い。万人が認める可愛さだ。
 そんなに可愛いもんだから家族全員が総出で可愛がった。
 妹に手を上げる家族はいなかったし、何をしても怒って怒鳴ったりする事も無かった。
 その結果、妹の性格はなんかヤバくなったのだ。
 まあ可愛いから良いんだけどな。

「いいか、ユミ。蟲を人間に憑けちゃ駄目だ。習っただろう?蟲を憑けた時点でその人間は怪異に侵される。元の人格は破壊されてしまうんだ」
「だって、兄さんはもう元の兄さんじゃないじゃない」

 な、何だって!俺はいつの間にか違う人間に入れ替わっていたのか!って違うから、兄ちゃん泣いちゃうぞ?

「俺はずっと俺のままだ何も変わってないぞ」
「嘘、兄さんは今まで私が泣いて頼めば絶対にうんって言ってくれたじゃない。それなのに家を出る時はどんなに泣いて頼んでもうんって言ってくれなかった。あの時私の兄さんは死んだの」

 殺すな!
 いや、殺さないでください、お願いします、妹よ。

「どうしても譲れない事だってあるんだ。俺は別の可能性に賭けたかったんだ、お前だって今からだって他の道を選べるんだぞ。何もかも親の決めた通りにやる必要は無いんだ」

 由美子は俺の言葉にスッと表情を消した。
 今までのどこか拗ねたような表情はまだ可愛げがあったが、その顔には鋭利な殺気じみた気配が漂っている。

「私に別の道なんて無いよ。兄さんだって分かってるはず。要領が悪くて弱虫でいつも他人の顔色を見ながらビクビクして、それでもたった一つだけ人より適正があったのが使い魔を使役する能力だったんだもの。それ以外の価値なんて私には無いの」

「何言ってるんだ!」

 流石にこれは聞き逃せない。
 こいつどんだけ家族に愛されてるか分かってないのか?
 うちの家族で一番ぞんざいに扱われてたのって俺じゃないか。

「お前は大事な俺の妹だし、うちの家族の誇りだぞ!古代呪を読み解くのは得意だし応用印も作ってたりしたじゃないか。それはお前が頭が良いって事なんだ。頭が良い人間はどこだって歓迎される。お前はもっと自信を持って良いんだよ。それになによりお前は可愛いから誰からも愛されるぞ、大体弱虫なんて決め付けるのはおかしい。慎重さは時に弱さに見えるし、勇気なんて普段は見えるようなもんじゃない。普段勇気があるように見える奴なんてほとんどが蛮勇を見せてるに過ぎないさ、本当の勇気ってのはもっと見え難いもんだと俺は思うぞ」
「兄さん……」

 柄にもなく説教じみた事を言ってしまって、現在進行で物凄く恥ずかしいが、その甲斐があって少しはその心に響いたのか、由美子はうつむいてそう呟いた。
 そして唐突に胸元から小さな細い竹筒を取り出す。

「ありがとう、やっぱり兄さんは兄さんだった。これはもうしまっとくね」

 そう言ってウゴウゴしているデカイ蟲を細い竹筒にシュルンと仕舞った。
 ちょ、お前、まだそれ仕舞ってなかったの?隙を見て憑けるつもりだったんだね?お兄ちゃんは哀しいよ。
 蟲の大きさと竹筒の大きさが合ってないが、そもそも怪異という物は肉体を分解したり構築したり出来るのが基本的な能力なので、大きさというのはある程度能力の範囲内で自在に変えられるのがデフォだ。
 高位の使い手ともなると髪の毛一本程の隙間に使い魔を仕込んで呪として放ったりも出来たらしい。
 いや、今はそういう呪法は法律で禁止されているんだけどね。
 やっちゃ駄目だよ、妹よ。うっかりやりそうでお兄ちゃんは怖いです。

「そ、それでお前なんでうちに来たんだ?学校はどうした?」

 どうやって鍵の掛かった部屋に入ったか?とか無駄な質問はしない。
 こないだの浩二にしろこの由美子にしろ、封印もされてない普通の鍵なぞ無いも同じなのだ。

「学校は冬休みだし、私は今年受験だよ」

 なんだと!
 俺は慄いた。まさか実の妹が受験生である事を忘れてたなんてどんな甲斐性のない兄貴なんだ。
 てか由美子は大学行くんだろうか?うちの家業からすれば別に大学とか行く意味が無いと思うんだけど。

「大学行くのか?そりゃあすごいな、俺はてっきり高校卒業したらそのまま家業を継ぐのかと思ってたよ」
「うん、私もそのつもりだったけど、文部省の奨励官って人が中央の古道学部で勉強すると仕事に役に立つって言うから」
「え?政府の役人が直接来たのか?凄いじゃないか?何かで賞を取ったりしたのか?」
「封印符の解析助手をやったからかも?うちに依頼が来て地脈の一部を使った術式の解析と解呪の手伝いをしたの。なんかその時の先生が大学の偉い先生だったみたい」

 ほう、とするともしや推薦入学か?そりゃあ凄い。
 なんだ、それで他に能が無いって落ち込んだりしたら研究者目指してる連中が怒り狂うような話だぞ。
 それに研究者になれば実地で戦闘する必要も無いし、安全で良いんじゃないか?

 俺は心からの笑顔で妹を祝福した。

「良かったな!ユミ!お前の才能が認められたんじゃないか。お兄ちゃんは鼻が高いぞ、職場でも自慢しちゃうかもな」
「えっ、そうかな、そんな、凄い事?」

 今までの暗い様子が一転して、由美子はモジモジと赤くなって照れ始めた。
 思うに家族からは進学について良い顔されなかったんだろう。
 何しろ下手すると戦力が一人減る事になるし、うちの一族って学問とか今一馬鹿にしてる節がある。
 それでもお国の要請って事で断り切れなかったってのが本当の所だろう。

「私も兄さん達のように強くなれるかな?」

 やっぱりお前の価値観はそこか、田舎の因習の業の深い事だよな。

「ユミは十分凄いよ。俺なんか呪を解呪するの苦手だからいっつも真正面から食らってたし、浩二だってお前程深度の濃い怪異を解する事なんか出来ないだろ?」
「でも兄さんは呪なんか気にしないじゃない」

 はっ、また暗くなりかけてる。
 あんなにチヤホヤされて育ったのになんでこんなに劣等感が強いんだろう?
 そのくせ我儘を通す術は心得てると来てるし、いったいどこで間違えたのかなぁ。

「気にしないのと影響が無いのは別の話だ。ちゃんと俺は痛い目を見てる。だからもうああいうのは嫌なんだよ。俺には向いて無いんだ」
「それは違う。兄さんは間違ってる!」
「待て、ユミ。その話はもう終わりだ。俺はもう選んだし、それは変わる事は無い。その話をするんだったらもう帰れ」

 心を鬼にして断固として宣言する。
 ここで情に流されては大変な事になると思ったからだ。
 既に社会的基盤を築いている現在、今更家業を継ぐ継がないの議論からやり直すつもりはさらさら無いのだ。

 由美子はまたもムッとした顔に戻ったが、そういう顔は先程の暗い顔よりずっと可愛げがあるので全然問題ない。
 うん、うちの妹は可愛いな。

「じゃあ、その話はやめるけど、実は今日はお願いがあって来たの」
「お?なんだ受験のサポートか、これでもそこそこ顔が利くぞ言ってみろ」

 田舎から中央に受験に来るんじゃ勝手が分からなくて大変なのは間違いない。
 安くて安全なホテルとか、そういうのに詳しい友人もいるから兄貴面しても大丈夫だ。

「うん。あのね、受験の間、兄さんの部屋に泊まらせてください」
「ぶっ」

 あまりにも在り来たりで悲しいぐらいだが、俺は飲みかけていたコーヒーを吹き出した。
 ゲホゲホと言いながらタオルを引っ張り出す俺の後ろで、由美子が真剣な口調を崩さずに言い募る。

「兄さんの寝室は隣の部屋だから、私はこっちで寝れば良いよね」
「良くない!ちゃんとしたホテルに泊まれ!」
「なんで?兄さんの部屋があるのに無駄にお金を使う事はないよ。勿体無い」

 くっ、浩二と良い由美子と良い、お前ら勿体無いブームか?
 ちょ待て、いくら妹でも年頃の女の子、しかも受験でピリピリしてる時に同居とか、俺の繊細な神経が持たないぞ。

「いや、受験ってのは神経を使うもんだろ、しかもお前お年頃じゃないか、いくら兄とはいえむさい男と一緒の狭い部屋で生活とか無理だろ?」
「何言ってるの、昔はみんな大部屋で一緒に寝てたし、部屋なんか分けた事すら無かったじゃない?今更気にするような事ではないよ。唯一彼女でもいたら遠慮するつもりだったけど、全然その気配は無いみたいだし」

 くう、俺に彼女の居ない事がすっかりバレバレだ。
 そりゃあ、彼女がいるような部屋じゃないよな、殺風景だし、食器も殆ど無いし。

「だ、だが……」

 俺は何か理由を見付けようと必死で頭を絞った。
 しかし、何一つ出て来ない。

「それとも兄さんは私の顔を見るのも嫌だった?」

 上目使いでじっと俺の顔を見る由美子。
 くっ、これはいつもの手だと分かっているのに、どうにもこの攻撃を躱せない。

「い、いや、そうだな。確かに別に宿を取るのは無駄だよな……」

 嗚呼、俺の馬鹿。

 精神的ノックダウンをした俺は、立ち上がれないままテンカウントを意識の奥で聞いた。

「ありがとう。暫くの間お願いします、兄さん」

 下げた頭を持ち上げた時、由美子の口元に怪しげな笑みが浮かんで見えたのはきっと幻だろう。

 頭上では蝶々さんがパタパタと空間を移動していた。
 その羽音はまるで俺を慰めるように優しく響いたのだった。



[34743] 6、妹を毒牙から守ろう
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2012/08/26 19:55
 サラリーマンの朝はそれなりに早い。
 何しろ通勤に会社まで徒歩三十分と電車で十五分、合計四十五分掛かる。
 それに俺は自炊派だし、会社には自作弁当持参だ、といっても中身に凝るような事はしないけどな、いや、昨日まではしなかった。
 なので食事の支度諸々に三十分は必要だ。
 余裕を持って四十分という所か。
 そして我が社の始業時間は九時、余裕を持って八時四十五分ぐらいには到着しているのが望ましい。
 そこから逆算すると七時二十分には起きなければならないのだ。
 俺はギリギリに時間に追われて何かをやるのは嫌いなので目覚ましは七時にセットしている。
 と言っても、俺はいつも目覚ましのベルが鳴る前に起きるんだけどな。
 友人に言わせると神経質なんだそうだ。いや、どう考えても違うと思うぞ。

「さて」

 普段は仕切りをオープンにして二部屋続きで使っていたので、蝶々さんが半分になった部屋を窮屈そうに飛び回るのを申し訳ない気分で眺めながら、起きて布団を畳んで顔を洗って米を砥ぎ炊飯器をセットする。
 鍋にお湯を沸かし、もう一方のコンロでフライパンを熱して油を引き野菜を炒め、そこに溶き卵を入れてかき混ぜ、それに塩で簡単に味付けした。
 卵とじ風野菜炒めだ。いつもより量は多め、これは弁当用なので少し冷めるのを待つ。
 その間に弁当箱を用意するのだが、とりあえず俺のは良いとして、妹のは当然無い。
 仕方ないので生来の貧乏性で捨てずに取っておいたおかずパックの簡易トレーを用意した。なんでも取っておくものだな。これでまた俺の貧乏性が加速するぜ!

 鍋のお湯が沸いたのでだしの素を入れて野菜の残りを投入、その後野菜炒めを弁当とトレーに盛り、空いたフライパンでソーセージを炒める。
 炒めたソーセージを弁当とトレーに突っ込んだ頃に鍋に味噌を投入。
 その後大活躍のフライパンに卵を二個割り入れて目玉焼きを作り、朝食のご飯と味噌汁目玉焼き付き完成。

「ユミの奴、まだ寝てるのか?」

 妹の寝ている部屋からカサリとも音がしない。
 あいつ現役学生だろ?俺が学生時代はもっと早く起きていた気がするぞ。
 いや、きっと遠出して慣れない部屋で寝て疲れてるんだろうな。うん。

「ユミ、お~い。ユミさん?」

 む?寝返りの気配。起きた?

「ユミちゃん?おはよう?」

 返事なし。

「ユミ、朝だぞ、飯が冷めるぞ~」
「ご飯は何?」

 おお、起きたか?

「目玉焼きと野菜の味噌汁と白ご飯」
「味噌汁に卵落として」
「卵二個は多くないか?」
「良いの、育ち盛りだから。でも眠いから後から起きて食べる」

 育ち盛りってお前十八だろ?成長期終わってないか?良いのか?太るんじゃないか?言ったら怒るから言わないけどさ。
 しかし、良く考えたら夜中に到着したんだよな、そりゃ眠いか。

「あ~じゃ、温めなおして食べるんだぞ?それから鍵をテーブルに置いておくから外出する時はちゃんと施錠してくれよ。一個しか無いから無くすなよ?」
「ん、分かった」

 おかしい、物分りが良いぞ、大丈夫か?寝ぼけてないか?
 不安だが、それ以上どうにもならないし任せる事にする。
 俺は自分の分の味噌汁を椀に注ぐと、残った鍋に卵を落とし沸騰させない程度に弱火で加熱した。
 味噌汁に入れた卵を固めるのって結構難しいんだよな。

 テーブルに鍵を残して部屋を出たのは良いが、年頃の女の子を一人で残しているんだから施錠せずに出掛ける訳にもいかない。
 しかし、合鍵は作ってない。こんな事なら面倒臭がらずに作っておくべきだったな。
 俺は素早く左右を確認すると今から部屋の鍵を掛けますよという感じに扉の前に立った。
 もちろん防犯カメラの類はこの廊下には無いので大丈夫だ。
 この手の事は苦手なんだよな、浩二や由美子はもっとスマートにやるんだが、俺はもうほぼ力技である。

 意識をぎゅっと絞るとそれを右手に集めた。扉の冷たい感触、空気の流れ、気体と固形物の感触の差をゆっくりと消していく。
 ふっと“境界”が消えた感覚を掴んだと思った瞬間に腕を突っ込み扉を透過させ、指先だけ意識を通してノブにあるツマミを捻った。
 意識の集中を乱さないようにそっと腕を引きぬく。
 昔は何度か途中で集中を乱して、透過対象の物体を内部から破壊するという間違った技術に発展させた俺だが、既に職業人として細かい作業を行う事に慣れた集中力に乱れは無い。社会人の風格だな。
 どうやら、扉は無事のまま、鍵だけを掛ける事に成功した。
 やったぞ、俺!あんまり使わなかった技だからまともに成功したの、これが初めてかもしれん。
 はは……社会人の風格だよな?うん、そういう事にしておこう。





「へえ、妹さんがね」
「念のため実家に連絡してみたんだが、妹の心身の保護を厳しく念を押されたのみで俺へ事前連絡が無かった件への謝罪は一切無しだった」
「それだけ信頼されてるって事だろ」
「お前、うちの実体知ってる癖にどの口が言うかな?」

 昼休み、会社の休憩室になぜか設置してある盤上サッカーゲームで競いながら俺は流に愚痴を零した。
「いやいや、家の風習とかそういうのは置いといて、長男ってそういうものじゃないか?」
「そういやお前長男じゃないんだよな」
「ああ、上に兄と姉がいるよ」
「だから甘ったれなんだな」
「ほう?」
「あっ、くそっ!」
 うちのDFの駒の脇を抜いて、流のFWの駒がボールをゴールへと叩きこむ。キーパー反応出来ず。フェイント上手すぎだろ、こいつ。
「今度はこっちが抜いてやる!」
「君は力技過ぎるんだよ、仮にも頭脳職なんだからもう少し考えて動くべきだろ」
「馬鹿か、お前相手に下手に考えて動いて勝てるもんかよ」
「君は賢いのか馬鹿なのか分からないな、ホント」
「こういうのは勢いも大事なんだよっと」
 無謀なロングシュートを打ち込む、当然のようにディフェンスされるが、跳ね返ったボールをディフェンスごと押し込む。
 一度クリアする為にバーを捻った状態から戻すのに僅かに時間が必要だ。その股下を抜いて、ボールはゴールへと入った。コンマ何秒の攻防である。
「な?」
 流の眉がぴくりと動いた。こいつ、普段はいかにも淡々としている風に装っているが、とんでもない負けず嫌いで頑固者だ。
 そりゃあそうだよな、そうじゃなきゃ格式高い実家の反対を押し切って自分の決めた道を突き進むという無茶は出来ないだろうし。
 たかがゲーム、されどゲーム。それから俺達は昼休みの殆どを費やして勝敗を決した。
 まぁ勝敗は時の運だからな。負ける事もあるさ。うんうん……。

 ……くそが!顔も頭も良くて金もあって家柄も良くて女にモテモテの上にゲームに勝てたからと言って驕るなよ、ボケ!
 なんだ、あの駄目な弟でも見守るような生温い笑顔は!
 と、俺が憤っている真っ最中に、
「そういえば、お前の妹さんの名前を聞いて無かったな」
 などとほざいた流は思いっきり間が悪かったといえよう。
 そう、結果として俺は無言でやつの腹に拳を叩き込んだ。半ば本気で。

「ぐっ!……が」
 腹を押さえてそのまま倒れる流。開いた口が何かを言いたそうに動いたが、それは言葉にならずに意味不明の音になる。
「きゃー!」
「社内で殺人事件が!」
「木村、とうとうお前やっちまったのか」
 最後になんか言った奴、とうとうってなんだ、とうとうって、……後でシメる。
「流、お前のような女ったらしに妹を紹介すると思うか!てか自力で癒しヒーリング使えるだろうが!そもそもセキュリティシステムどうしたよ」
 実の所、俺もちょっと焦った。
 こいつは例の時計でも分かるように色々と守護の小物を見に付けているのだ。当然暴力を振るえばカウンターが来る。と、思っていた訳だ、俺としては。
 俺の言葉が終わるか終わらないかで流から超高周波の波動が放たれる。
 これは魔導者独特の波動で、これが外向きに放たれる場合は攻撃が来るという事だ。大概は感知してから動いても避けられない。魔導者半端ねぇ。
 当然今回は内向きなので癒しに使われているんだろう。しかし魔導者の体の仕組みってどうなってるんだろうなぁ。
「ふう、」
 流は大仰な溜息を吐くと立ち上がった。
 回復はええな。
「身の回りの防犯システムの対象からは君を外している。使い捨ての護符もあるし、頭に血が昇りやすい馬鹿相手に無駄にするのは勿体無いからな」
「馬鹿で悪かったな、馬鹿で!」
 流はニィっと笑うと、溜め無しの左フックを俺の顎目掛けて繰り出した。
 けっ、優等生のヘナヘナパンチなんざ軽く避けるぜ。と、思った俺の体がぴくりとも動かない。
 何ィ?と思ってる間に俺の顎に野郎のパンチがヒットした。
 しまった、さっきの癒しに紛れてなんかやりやがったなこいつ。
「俺は借りは作らない主義でね。きっちりお返ししておくよ。ちょっと足りないだろうけどその辺はオマケしておいてくれ」
「いってぇ、俺はお前と違って癒しとか使えねぇんだぞ」
「癒せるからといったって痛くない訳じゃない。さっきは本気で死ぬかと思ったよ。君はアレだな、力加減という物を知るべきだ」
「ちゃんと加減したぞ!」
「残念な見解の相違だな。そもそも俺は子供に興味はない。君の心配は杞憂だ」
「へぇ、子供ね、ところで流先生的に女子大生は子供でしょう?大人でしょう?」
「ふむ」
 一瞬考える馬鹿男。もはやそれだけで答えは十分だ。
「微妙だな」
「死ねや!」
 ブンと振り上げた拳は空振った。
 一歩を離れた流に追撃が出来なかったのだ。おのれ、まだ動けないのかよ!
「てめぇこら、これいつ解けるんだ」
「大丈夫、十分程度だ」
「昼休み終わるだろ!」
 俺が吠えるように抗議すると、
「木村さん、お仕事さぼって遊んじゃ駄目ですよ」
「ったく仕事ちゃんとしろよ」
「給料泥棒か、ふっ」
 等と同じ課の連中が温かい励ましのお言葉を残して休憩室を後にしていく。
 別の課の女子社員が廊下から俺の方を見て何やらクスクス笑い合って楽しそうに通り過ぎた。
「じゃあ、そういう事で」
「てめぇこら!流!流先生!ちょっと、おい!」
 結局俺は無人の休憩室に昼休み終了後五分ぐらい一人立ち尽くす羽目になったのだった。
 戻った俺を課長がギロリと睨んだのは余談である。

 くそっ、誰もフォローしてくれなかったのかよ、世の中は無常だ。



[34743] 7、美味しい食べ物は人を幸福にするものだ
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2012/08/27 20:51
 家に帰るのが怖い。
 仕事が終わり、周囲が帰宅ムードにモードチェンジした途端、俺に押し寄せた感情はそれだった。
 妹が待っている家に帰る。
 字面だけ見るとなにかほのぼのした雰囲気だが、俺にとっては地雷原へと踏み込むような覚悟が必要な言葉なのだ。
 俺が固まっていると、それを察した流が声を掛けて来た。

「なんだ、妹さんと二人きりでどう過ごして良いか不安なのか?まぁお前が女子高生を理解出来るとは確かにカケラも思えないが」

 ニヤリとして見せる優男面にじわりと殺意が沸くが、正直それどころではない。
 ムカツクがここは素直に助言を受けるべきか?

「妹さんですか?」

 モテ男の余裕に、何か理不尽な憤りを感じていると、同じ課の同僚である伊藤さんが話に加わった。
 以前は俺の野性的な見掛けのせいか(段々この言い回しも辛くなってきた)、なんとなく女性陣には敬遠されている感じだった俺だが、給湯室の一件以来同僚らしく気軽に話し掛けて貰えるようになったのだ。
 面倒な案件だったがこの点だけはありがたかった。
 そういえば、あの件も流が俺に回したんだったな。自分が面倒だから俺を紹介するとか友達甲斐の無い野郎だが、少しは感謝しても良いかもしれない。絶対口にはしないけどな。

「実は妹が受験の為にこっちに出て来てて、うちに泊まってるんだ。お年頃の女の子の上に受験生だろ?もうどう扱って良いかお手上げだよ」

 俺は情けなくもバンザイの形に両手を上げて見せる。

「それは大変ですね」

 伊藤さんは俺を笑いもせずに真剣に相槌を打ってくれた。なんて良い娘なんだろう。

「若い女の子なら食べ物で懐柔するのが一番よ」

 更にお局様……っと、うちの課のもう一人の女性、園田女史が話に加わった。
 どうやら女性は思ったより好奇心が強いようだ。

「食べ物ですか?」

 俺は夕食の献立をレベルアップしてみるかと考える。が、

「あ、それは良いですね!駅前のケーキ屋さんのミルフィーユとか良いんじゃないですか?あそこなら午後からの分が会社帰りでも残ってると思いますよ」

 女性陣の言う食べ物とは主食の事では無かったらしい。

「そうだね、花とケーキは女性への贈り物ではまず間違いが無い物だよ。ダイエット中だったりすると逆効果の場合もあるけどね」

 流も太鼓判を押している。ケーキか?確かになるほど、あれは美味いよな。
 俺なんか高校ぐらいまでケーキは偉い人しか食べられない物だと思ってて、依頼を持ってくる政府の担当者が手土産に持ってきたりする事があれば、思わず食べる前に拝んでたぐらいだ。
 いや、うちの家族連中がいけないんだけどね、主に両親とかジジイとか、世間の常識からわざと遠ざけてたんじゃないかという節がある。

 誕生日ケーキとかの存在を社会人になってから初めて知るとかどんだけ恥ずかしかったか。
 でもそうか、ケーキか。由美子もあんま食った事無いんだろうし喜ぶかな?

「おかげで家に帰る気力が湧いてきた。ありがとう」

 思わず女性陣に心からのお礼を言うと、

「家に帰るのが嫌だったんですか?恐妻家ならぬ恐妹家?」
「顔に似合わず神経の細い男ね、そんなんじゃ妹さんの方が不憫だわ」

 等となぜか吊し上げを食らったのだった。なんか理不尽だぞ!



 そんなこんなで作戦を決め、行動に移した俺は準備万端だった。が、それでもあえて硬質な音を響かせる階段を、普段以上に緊張して音を立てないように上がる。
 階段を上り切った所で一通り装備の確認をしてみた。
 右手にケーキの入った箱。左手に仕事用のカバンと食材を詰め込んだ風呂敷を手提げ仕様に包んだブツ。
 ケーキだけ別個に持っているのは、その余りにも繊細な作りに、下手な衝撃を与える事を恐れた結果だ。
 うんよし、問題ない。問題ないはずだ……多分。

 自分の部屋の扉の前に立つ。
 内部に気配あり。というか近い……。

 荷物を一旦少し離れた床に置き、コンコンとノックをして「ただいま」と声を掛けドアノブを捻る。

 ……開かない。

 おかしい、何も間違った事はしてないよな?うん。
 もう一度同じ事を繰り返す。
 しかしドアノブはガチャリと引っ掛かり、無情にも回る気配が無い。
 これはあれか、今朝やったように非常時的手段で開けろという事か?
 だが、妹の気配がかなり近い。具体的に言うとドアの真ん前玄関口にいるような気配だ。
 これは、不用意に手を突っ込めば俺の何かが失われる気がする。
 主に右手とかそういう感じの物が。

 しばしの沈黙。
 そうだ!今こそ助言を活かすべき時だ!

「あ、ゴホン、ユミ、ドアを開けてくれないかな?今日は腕によりを掛けて夕食を作るつもりで色々買ってきてるからドアが開けにくいみたいなんだ」

 中の気配が少しだけ揺らぐ。
 いける!
 確信を得た俺は最後の切り札を繰り出す。

「実は美味しいと評判のケーキを買ってきたんだ。昔は滅多に食べれなかったろ、ケーキとかさ」

「……ケーキ」

 今度ははっきりとした反応があった。
 直後にガチャリと扉が開く。

「ドア開けてくれてありがとう。すぐに飯作るからな。あんまレパートリーが無いから偉そうな事言ってもカレーなんだけど、良いだろ?」

 ドキドキしながらまくし立てる。
 ちらちら様子を伺うが、由美子は別に気分を害した風では無かった。
 どちらかというと戸惑っている感じがする。

「私、誕生日でも無いのに、なんでケーキ?」

 なるほど、そこか。
 そして俺と違ってまだ高校生なのに既に誕生日ケーキの存在を知っていたんだな、さすがだ、兄ちゃんはちょっとお前を自慢したい。

「そこはほら、こっちに来てうちにしばらく泊まるだろ?その初日のお祝いというか、お前が来てくれて嬉しい気持ちを表してみたんだよ」

 嘘じゃないぞ。
 確かにちょっと何考えてるか良く分からない上に我を曲げない性格の由美子に対してどう扱って良いか分からない部分はあるが、大事な妹である事には違いない。
 可愛い妹が頼って来たと思えば、嬉しく無い訳が無いんだ。

 由美子は白っぽかった顔色に少し赤みを浮かべてやっと表情を和らげた。

「そうなんだ」

 そしてその言葉と時間差で、由美子のお腹がキュウと鳴る。

「……。」
「聞こえた?」

 またも急激に冷え込んだ由美子の声とは別に、俺の脳内にはある疑問が浮かんだ。

「なあ、ユミ。お前お昼はどうした?」
「兄さんが作ってくれたご飯を食べた」
「え?あれ朝食だぞ、何時に食べたんだ?」
「お昼前」
「……寝過ぎだろ、いくらなんでも。味噌汁と目玉焼きはちゃんとあっためたか?冷めてたろ?」
「お味噌汁は温めた、目玉焼きはそのまま」
「え?なんで?電磁調理器レンジの扱い分かるよね?俺、実家に送ってたし」

 うちの実家は別に貧乏ではない。
 仕事の度に転がり込む大金の殆どは仕事道具に費やされるとは言え、残った分でもそこそこ中流家庭程度の生活をするぐらいの余裕はあったはずだ。食うに困った覚えは無いし、必要な物を買い渋られた覚えもない。
 だが、文明的にやたらと遅れた地域であるのは間違い無い。
 何しろ電気が通ったのが俺が小学生の頃なのだ。
 ざっと五十年は中央付近の都市から遅れていると思って良いだろう。
 そんな事もあって、俺は中央に就職してからというもの、実家に社割で安く買える家電製品とかを送っている。
 当然詳細な使用方法を手書きで付けてだ。
 その中にはもはや一般家庭では必須アイテムともいえる電磁調理器レンジもあった。
 うちにあるのと実家に送った物は同じ製品なので当然妹も慣れているはずだ。そうだよな?

「電磁調理器って、あの箱型の危険物の事?」
「え?何ソレ?怖い」
「おじいちゃんが試しにゆでたまごをあっためようとしたら爆発が起きた」
「なぜそこでゆでたまご?どうしてピンポイントで高等なコントみたいな事をしでかすかな?じいちゃんは」

 なるほど、理解したくないが理解した。
 今後は危険な使い方を詳細に説明した文章も足さねばなるまい。常識で判断した俺が悪かったんだ。
 よし、ここは一発安心させる言葉をば。

「爆発するのはゆでたまごだけだから大丈夫だ。普通の食品は温められるだけで害は無い。元々の発想が兵器からだったとしてもこれは兵器じゃないから平気だよ~とか」

 うおおお!さむっ!一瞬で周囲の温度が五度は下がった気がする。
 冷ややかな妹の視線がダイレクトに心臓に刺さる!
 下手なギャグ言ってごめんなさい。そんな心底軽蔑したような顔を向けないでください妹よ。

 崩れ落ちた俺を一顧だにせず、妹は俺の空振ったギャグには全く触れることなくその場を離れた。

「そういう訳だから、その豪華な夕食とやらをお願い……もちろんケーキも」

 うん、兄ちゃん、食べ物で名誉を挽回するよ。させていただきます。

 俺の包丁捌きは思いっきり素人のそれだ。なので細かい作業は無理。野菜は大まかなぶつ切りだ。
 普通隠し味的に使う玉ねぎはみじん切りにして使うらしいのだが、俺は食感重視で玉ねぎは乱切りにして、重なってる部分を全部バラして炒める。
 肉は牛だがあえてすじ肉を使う。ちょっと時間が掛かるがカレーの場合蛋白な肉より濃厚な味わいがある物の方が合うからだ。
 だが今回はあまり時間を掛けると妹の機嫌が急下降してしまいそうな予感がする。
 こういう場合には肉を包丁の背なんかで叩いてから使うと煮込む時間が結構短縮出来るんだよな。
 あと、すじ肉は野菜みたいにアク取りが必要だ。アク取りというより本来は脂を抜くって感じなのかな?それをしないと独特の臭みがあるんだ。
 アク取りといえば野菜もそうだ。結構ちまちまやる必要がある。でも、実は俺、アク取り作業は結構好きなんだよな。癖になる感じ?がある。
 とにかく、そういう手間が必要な料理なのでいくら頑張っても時間は掛かる。本来作るのに二時間弱は欲しいカレーなのだ。
 しかし、敵は本日軽い朝食を一食分しか摂取していない若き腹ぺこ妹だ。忍耐には限界があるだろう。
 だからといっていきなりケーキを食わせる訳にはいかない。
 甘いものは食事の後というのは常識だ。両方をより良い状態で味わう為の先人の知恵なのだ。
 という事で、3個入パック売りだったせいで1個残った玉ねぎと、冷蔵庫に備蓄している卵を使って簡単なオニオンコンソメスープ溶き卵掛けを用意しよう。
 実はこのスープもそこそこ時間を掛けた方が美味しくなるんだが、さっと仕上げても十分美味しいので大丈夫。
 そうだ!それと、女の子はサラダが好きだって以前聞いた事がある。
 以前奮発してファミレスでカレーを食べた時にセットで小さなサラダが付いてたしな。
 だがしかし、レタスなんてしゃれたもんうちの冷蔵庫には在庫が無い。
 仕方ないからカレーに使った野菜の残りでなんとか凌ごう。
 玉ねぎを水でさらして……あー人参とジャガイモは一回茹でないと駄目だよな。やべえコンロが開いてない。
 よし、今こそ電磁調理器だ!
 一番茹でにくいジャガイモを最初にやらないとな。
 電磁調理器は水分を振動させて熱を発生させる仕組みなので、その調理には水分を少し多めに必要とする。
 ジャガイモは洗ったまま水を切らずに密封皮膜ラップで覆って4分弱、人参は同じ要領で2分弱で良いだろう。
 アチアチとお手玉しながらもなんとかサラダ完成。
 スープは最低でも15分は弱火でコトコトやった方が良いんで、もうちょっと。
 想定してなかったがなんとなくコース料理っぽくなってきたな。いや、メインがカレーだけど。

「兄さん、どのくらい掛かりそう?」

 うぬ!?何か平坦な声が催促してるぞ。
 やばい、あれは妹の危険サインだ。忍耐力がキレる前に対処しないと俺がヤバい!

「ああ、ごちそうだけあってちょっと時間が掛かるんだ。だからメインの前にまずは温野菜のサラダから食べてくれ。空腹状態には消化の良い物が良いからな」

 ドレッシングは市販の物だ。
 どこぞの料理マニアじゃないので手作りのドレッシングなんぞ作ったりしない。作り方も知らんしな。
 俺のお気に入りはロマネスクドレッシングというやつで、コンビニのサラダ用に冷蔵庫に常備してある。
 由美子の舌に合うと良いんだけどな。

「なんでも良いから、早く」

 うおおお!カウントダウンに入ったぁあ!
 そして、我が家にサラダ盛るような皿がねえ!!
 一人暮らしだったからな、くそ。
 あ、そうだ、確かパンのシール集めて貰った皿があったはず。

 手際悪くドタバタしながらもなんとかサラダを皿に盛ってドレッシングを掛け、食卓にも作業にも使える便利なちゃぶ台の上にドンと置く。
 今まで使わずに溜めてたコンビニの割箸を手渡し、「とりあえず食っとけ」と言い渡した。
 その途端、「いただきます」の一言と共に、俺を一瞥もせずにサラダに食らい付く我が妹。
 お前、いくらなんでも飢え過ぎだろ?
 ますます慌てるが、俺がいくら慌てても料理の進行は時間に支配されている。
 一分一秒を彼方の事象のように感じながらもなんとかオニオンスープ溶き卵入りを完成させ、一人でサラダを完食した由美子がまた物足りなさを感じる前に差し出しす事に成功した。
 そして、今度はゆっくりとふうふう吹きながら食べ始める我が妹。

 ふ、あやつは猫舌よ、俺の作戦勝ちだな!!

 何か俺も変なテンションになりながらカレーの様子をみる。
 うん、当然まだまだですね。
 そもそもご飯も炊けたばかりで蒸らしもまだだぜ。
 そうこうしている内に、食事をする場所を作る為に仕切りを外し開け放っていた俺の部屋から蝶々さんがパタパタとこちら側にやって来た。
 熱を感知したのかキッチンの手前でUターンをして、妹のいる部屋へと入り、落ち着いたのか守護陣を描き始める。
 スープを冷ましながら食べていた由美子は、パッと顔を上げるとその様子をどこか微笑ましげに眺めていた。
 後は時間を待つばかりとなった俺は、自分の分のスープを抱えて、そのどこかほのぼのとした場へと乱入する。

「ところでユミ、入試いつからなんだ?」
「全予が明日から」

 ぐぅ、もう少しで口に入れたスープを吹き出してしまう所だったぜ。
 流石にそんなお約束はヤバイ、俺の妹内地位的な意味で。

「明日って、大丈夫なのか?勉強とか?」
「試験の前日に慌ててやらなければならないようなら元々それを受ける実力は無いって事よ。試験範囲を軽く通し読みするぐらいで問題ない」

 な、なんという強者の言。
 受験前日まで必死に詰め込みをしていた俺を全否定!

「ん?そういえばお前は推薦枠だから予備試験で合格したら後は面接だけなのか?」
「そう、だから兄さんのところにお泊りするのは三日だけなの、寂しいでしょうけど我慢してね」
「いやいや、……えっと」

 否定をしようとした途端、押し寄せるプレッシャーに俺は言葉を失った。
 いかん、穏当な返事をしなければ危険だ!

「そうだな、お前のいない部屋は凄く寂しくなると思うよ」
「凄く、閑散としてる部屋だものね」

 う、確かにあんまり物は無いけど、一応少しは家具はあるんだからそう閑散とはしてないと思うんだが。
 何か訳の分からん物で溢れている実家と比べられれば確かに閑散としているかもしれない。

「あ、ところでちょっと聞きたいんだが。俺、鍵を置いてったし、腹が減ったならなんで外でご飯食べなかったんだ?ご飯じゃなくても何か口に入れる物を買ってくるだけでも良いし、まさか金が無い訳じゃないよな?」
「お金は、これを使いなさいってお父さんが」

 言って、由美子がポケットから出したカードフォルダーに入っていたのはなんと取引端末札クレジットカードだった。
 しかも何か光沢のある黒いカードなんだが、これって、流が持ってたのと同じタイプの引き出し制限無しの支払い端末じゃないか?しかも名義はちゃんと由美子になってるぞ、オイオイ。
 長男の俺には普通の端末札さえくれなかったんだけど、どういう事なの?

「そ、そうか、だったらどうしてなんだ?」

 動揺を抑えて、とりあえず目先の疑問を優先する。
 もしかしてうちって俺が思ってるより金があんの?いやいや、邪念を払うんだ俺!

「だって、兄さんがいないじゃない」

 うん?質問と答えの関連性が分からないぞ。

「俺がいないと何なの?」

 由美子はモジモジと何か恥じらってる風だ。
 うん、凄く可愛いです。
 いや、違うから、由美子が可愛いのは当たり前だから。

「兄さんの気配が無いと戻って来れないもの」
「ほへ?」

 俺の返事マヌケだね。いや、本当に。
 こういう時に浩二がいればなぁ。うちの弟は話の筋道を纏め上げるのが得意なんだよな。
 話しがこんがらがって収集が付かなくなった時にいつも要点を纏めて俺に示してくれたっけ。
 てか、あいつこうなる事分かっててこないだ俺に忠告しに来やがったんだろうな。
 いやいやイカン、問題をすり替えて逃げちゃ駄目だ、俺。
 ちゃんと解決しようぜ。

「ええっと、それってどういう事かな?」
「私、ここまで来るのに兄さんの気配を探って来たの。だからすっかり遅くなっちゃったの」

 そういえば、由美子がうちにやって来たのは昨夜の深夜だった。
 考えてみればそんな時間に列車がある訳がない。
 おいおい、いったい何時間掛けて辿り着いたんだ?
 それにしてもなんて俺は間抜けなんだろう。突然の事でパニック状態だったとしてもその辺の判断力が足りないのはいつもながら致命的だ。
 やっぱりそういう部分は浩二がいつもフォローしてくれてたから駄目なのかな?
 いや、むしろ駄目だからフォローしてくれてたのか?
 何か自分に痛いぞ、この仮定は。

 とりあえず俺の判断力の無さの話は置いておいて、ここは由美子の事だ。

「電話してきたら良かったんじゃないか?」
「予告したら不意打ち出来ないじゃない」

 え?抜き打ちの間違いじゃなくて本気で不意打ち?
 そういえば蟲を憑けようとしてたな、我が妹よ。

「うちの住所は知ってただろ?地図データに接続して道案内ナビゲートしてもらえば良かったんでは?」
「私は配布の仕事とかに就いてないから、座標情報を使ってのジャンプなんか出来ない」

「……え?」
「え?」

 いきなり何を言ってるんだ?うちの妹は。
 そして小首を傾げたその顔は可愛すぎるだろ!画像記録フォト起動、間に合わねぇ!

「い、いや、そんな専門職の特殊装備の話じゃなくて、普通に地図を使って歩いてくれば良かったんじゃないか?駅からなら二十分程度だし、乗り継ぎ分からなくても中央駅からなら歩いて一時間は掛からんだろう。そうだ、カードあるならタクシーに乗ればすぐだろ?」
「だから、座標軸認識図や座標特定情報なんか私には使えないし、タクシーに乗ってもそもそも場所が分からないのだから案内出来ないでしょ?」

「……え?」
「え?」

 どうしよう、妹と話が通じない。
 同じ言語を使用してるはずなのにおかしいな……。

「……ユミ、地図の見方分かる?」
「だからずっと言ってるでしょ?そんな特殊情報図面、私には使えない。ジャンプ装備は配送員の資格が無いと使えないんでしょ?」

 おいおい、地図って小学生の時に習った気がするぞ。
 どうなってんだ、義務教育!うちの妹の知識がおかしいぞ!
 女は地図見るのが苦手って言うけどそんなレベルじゃねぇぞ!なんで変な誤解してんだ?
 だがしかし、短期間にこの誤解を修正するのは俺には無理だ。
 しかも受験前だしいらん事に頭を悩ませるような事態には陥らせたくない。

「その辺はまた今度話し合うとして、それじゃあ俺が居ない昼の間外出が出来ないって事か?」
「変な兄さん。うんそう、慣れたら大丈夫だけど、それまでは目印無しで帰って来れる自信は無い」
「そりゃあマズいだろ。試験を受け終わったら俺が帰るまで外をうろついてるつもりか?そういう訳には行かないだろ?」
「それもそうだね。う~ん、と」

 由美子は何やら考えるように部屋の中を見渡すと、ふと呑気に頭上を舞っている蝶々に目を止めた。

「あれ、兄さんの式?」
「いやいや、あれは単なるカラクリだよ?」

 由美子はちょっと首を傾げたが、何やら頷いて懐から懐紙を取り出した。
 それへ袖の隠しから取り出した筆ペンを使って、何やらサラサラと書き込んでいく。
 ちらりと見た限りだと簡易術式だな。
 式神と言う、精霊と呼ばれるマガモノの一種で害が無い奴を無機物に宿らせて擬似生物を作成する為の術式で、それも極々単純な物だ。
 しかし、なんだ、今時は筆ペンを使うんだ。まああれ便利だしな。

 由美子はその二つ折になった式神の元を両手にかざすと祝詞を詠った。

 ――明けぬ夜の
    
    光かそけき野辺なれど

       月の光に蝶ぞ舞いけり――

 詠い終わりにフッと手の中の懐紙に息を吹きかけると、懐紙はまるで本物のような蝶へと化身した。
 金色の淡い光を零しながらパタパタとどこかぎこちなく舞う俺のカラクリの蝶の傍らに、重さも感じさせぬ幽玄の銀白をした式神の蝶がひらひらと優雅に舞う。

「一匹じゃ寂しかったし、目印に丁度良いでしょ。この子を目掛けて戻って来れる」
「あ、あ、そうだな」

 仮初にも擬似生物である式神と違って、うちの蝶々さんは機械仕掛けなので寂しいとかとは無縁なのだが、そこはいわゆる乙女回路というものだろう。突っついてはいけない。
 それに確かに二匹の蝶の舞いはどこか微笑ましく見えた。

 台所でピッピッとタイマーが鳴る。
 どうやらあれこれやってる間にカレーも大丈夫な感じになったようだ。
 一応味を見てみたが、普通に美味しいので問題ない。
 もちろん、このカレーは明日の方が格段に美味いけどな。

 サラダを入れるような上品な皿は無くてもカレー皿は五枚組のを揃えてるとか、無駄に思えたが持ってて良かったな。

「よっしゃ、お待ちかねのご馳走カレーだぞ、明日の分を残してるからおかわりは無いけど、これの後にケーキがあるから良いよな?」
「うん」

 由美子はふうふう言いながら懸命にカレーを食べる。
 可愛い、携帯の画像記録で保存しておこうかな?

「兄さん、何ごそごそしてるの?ご飯の時は集中して」

 気配を察した由美子に怒られる。
 くっ、無念。
 でもまあなんか凄い幸せそうに食べてくれたから満足かな?うん。

 物凄く黙々と二人してカレーを食べた。
 気まずくならない沈黙ってあるもんなんだな。
 まあ食ってるから気にならないだけか。

「ご馳走様でした」

 皿を綺麗に制覇した由美子は行儀良く食後の挨拶をした。

「いや、まだケーキがあるだろ、それとももう入らない?明日にするか?」
「食べる!」

 速攻で返事が来た。
 しかも俺の言葉の最後にやや被り気味だった。
 うん、分かるぞ、妹よ。ケーキの魔力には勝てないよな。
 兄さんはプリンも好きなんで明日はプリン買ってくるよ。

 セットしておいたコーヒーと時間合わせで温めておいた牛乳を使って由美子のカフェオレを作る。
 俺はもちろんミルクちょっぴりのコーヒーだ。ケーキ食うから砂糖はいらん。
 由美子の方は六グラムスティック一本で足りるかな?あいつ甘党なんだよな。
 お待ちかねのケーキを慎重に皿に置く。
 このケーキ、繊細過ぎて怖いぞ。崩したら俺はきっと妹に殺られる。
 ふ、ケーキ皿とフォークのセットは気付いて帰りに買って来ていたんだ。
 サラダは予定になかったから慌てたが、本来俺は準備は滞り無くやるのが好きなんだよな。

「どうぞ、お嬢様」
「どういたしまして」

 格好を付けて皿を差し出したらあえなく軽くいなされた。
 ノリが悪いよ、お前。
 だがしかし、そのケーキを目にした途端、我が愛すべき妹の全身が硬直したのが分かった。
 無言で目前のその洋菓子を注視している。
 心なし顔が紅潮しているようだ。

 そうだろう。
 実は俺もそのケーキを見た時は驚いたものだ。
 ほの淡いピンク掛かったクリームと、いかにもサクっとしてる風のパイ生地で作られた段重ね。
 クリームの中には赤いベリーが透けて見える。
 そして全体を覆う白い粉砂糖と上部にこれでもかと飾られた幾種類かのベリー類。
 表現として使い古された感があるが、正に宝石箱という言葉がぴったりなケーキなのだ。
 ほんと、これ、食い物なのか?

 暫くして、やっと硬直が解けたらしい由美子は、しかし何やら困惑したようにフォークを手にしたまま再び固まった。

「どうしたんだ?」

 流石にこれは助け手を出してやった方が良いだろう。
 俺はそう判断すると、精一杯頼もしさを体現した声を掛けた。

「兄さん、これ、どうやって食べれば良いの?勿体無くて崩せないよ?」

 滅多に見れない情けなくも可愛らしい顔で上目使いにそう言う妹に、俺はあえなくノックアウトされ、妹の困惑を解決する何の役にも立たなかった事は言うまでも無いだろう。



[34743] 8、前奏曲は優しく静かに奏でられる
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2012/08/28 22:48
「おはよう」

 いつも通りの挨拶も少し弾んでいる。
 何かこう重荷を下ろした気分ってのはこういう事なんだな、としみじみ思った。

「おはようございます。妹さんもう帰っちゃったんでしたっけ?」
「おおお、気力を使い果たした四日間だったよ」
「お疲れ様です。でもいいじゃないですか、可愛い妹さんの為だったんでしょう?お兄さんらしく頑張るのは当たり前です」

 女性陣が気軽に話し掛けて来るようになったのは良いが、何かいつも駄目出しされている気がする。
 まぁでも女性の柔らかい口調だと、あんまり嫌な気分にならないのは不思議だな。

「木村、新プロジェクトのカウントダウン始まってるからな、よろしく頼むぞ」
「へいへい、ってかそっちこそよろしくな。そっち終わらないとこっちも進められんだろ」

 野郎の同僚が浮ついていた気分に水を差す。
 新製品の開発は一に体力、二に気力である。
 才覚や能力なんぞはやりながら取得すれば良いという感覚で、理解出来ないとかの泣き言は終わってから言えという、いっそ清々しいまでの体育会系だ。
 ほんと、こっちが忙しくなる前に妹の受験終わってくれて良かったよ。

「それで、どうだったんですか?妹さん」
「へ?」

 頭が仕事モードに移行していたので、つい話に付いて行けなかった。なんとも素っ頓狂な返事をしてしまう。

「もう、受験ですよ。その為に上央してたんでしょう?」
「さあ?発表はまだなんだろう?」
「それはそうですけど、自信有り気だったとか、落ち込んでたとか何かあるんじゃないんですか?」
「いや、うちの妹はそういうのあんまり表に出さないもんで」
「もう、駄目なお兄さんですね」

 な、なんだと!うちの妹の喜怒哀楽が薄いのは俺のせいとでも言いたいのか?
 違うぞ!断じて違う、俺のせいじゃないんだからな。気が付いたらああなってたんだ!
 あれだ、能力主義のあの集落で、弱っちいって事で小さい頃虐められてたのが悪かったのかもしれん。
 う~ん、やっぱり少しは俺が悪いのかな。
 
 とりあえず雑談を切り上げて自分の机に座る。
 電算記録機械パソコンを起動させて共有プロジェクトBOXを開いた。
 駄目だ、あんまり進んでねぇ。
 退社の時に確認して出社してすぐだから当たり前だが。 

「この基板周りの耐熱カバーの素材は何だ?」
「アルミにホーロー加工で」
「おい、それは製品の本体仕様だろ?内部回路の密閉パッキングはどうなってんの?」
「電源周りの熱に関しては放熱板で対応するみたいですよ、基板は防水を兼ねて嵌め込みで」
「省エネ仕様であんまり発熱は無いって話しだけど、ディスプレイ部分の必要電力は分かってての話しなのか?これの仕様はこっちで把握してないだろ?空調積まなくて本当に大丈夫なのか?」

 なんかちょっと揉めてるな。
 どうやら今回の新製品は我が社としてかなり力を入れて行くらしく、上から色々言われている部長の真剣さが怖い程だ。
 煮る、焼く、炊く、蒸す、といった調理を一見レンジのような見た目の装置で行うって事だが、それだけなら他社製品にも似たのがある。
 今回の目玉は、リアルな画像を配した画面表示ディスプレイによる、視覚で確認出来る調理システムという事だった。
 この表示システムが、流率いる開発室の作り上げた物で、特許取得済み。
 そのおかげで、ブランドとしての独自性を保てるのが強みだという訳でトップも期待しているらしい。
 期待する方は気楽だよな。ほんとに。
 しかし、気楽と言えば、ごく気楽に付き合っちゃいるが、流ってうちの会社にとっては金の卵っていうか、無くてはならない奴なんだよな、こういう商品が回って来るとつくづく思うけど。

 流と俺等は、実を言うと、開発室と商品企画開発課という、似て異なる部署の所属だ。
 しかも流は室長なんで、実はお偉いさんである。ちょっと違うが比較すれば課長と同等かそれ以上。
 博士号持ってるとはいえ、地位的にはちょっと若すぎるぐらいだが、そこは実力主義って事なんだろうな。
 何しろ既に会社に貢献する特許をいくつか取得していて社長から表彰されたぐらいだ。
 特許を個人で所有する事を主張したりしないのも会社にとっては有難い存在なんだろう。まあ金持ちだからどうでも良いだけなんだろうけど。
 あいつの言うには潤沢な設備と人材を提供して貰って好きな研究をやれて、しかもそれが即社会に商品として反映されるというのは、研究者にとって何ものにも代え難い環境なのだそうだ。
 生粋の研究者肌なんだろうな、ああいう所は好感が持てる。女癖が悪くなきゃ良い奴なんだけどな。

 それで、なんでこの毛色の違う部署同士が親密かというと、うちと開発室とは使ってる部屋が同じなんだ。
 一応部署を分ける仕切りパテーションがあるんだが、お互いにあんまり気にせずに気楽に出入りしている。
 そういう環境なので、この二部署は非常に仲が良いのだ。

 俺が流とウマが合うという事が分かったのも時々一緒にやる合同レクレーション(の名を借りた飲み会)のおかげでもあったし。
 こんな風に、うちと開発室が同じ部屋を使っているのにはちゃんと理由がある。
 実験を行うクリーンルームへの入り口がこの部屋にしか無いからだ。
 しかもあっちの部署側にあるんだよな。
 利用するにはお互いの予定の摺り合わせが必要になって来るし、自然と親しくなっていくという訳だ。

 さて、それはともかく、今新製品用の回路図描いてるんだが、収納サイズがまだ不明とかで、全然先へ進めない。
 仕方無いので省エネ調整に使う水晶針機関をちまちま弄る。
 これの波動弄ってる時が一番気持ちが落ち着くんだよな。
 未練だろうけど、やっぱり玩具作りがやりたいなあ。就職に贅沢は言えないのは分かってるから、これは単なる愚痴だけどさ。

「木村くん」

 と、ごそごそ弄ってたのがサボってる風に見えたのか?部長がやって来て呼んでいる。
 いや、サボってる訳じゃないですよ?単にやる事が無いだけで。

「はい、部長なんですか?」
「今何をやってるんだね?」
「あ、はい。ベースになる回路図を効率重視と省エネ重視で作ってみたんですが、何しろ仕様が固まってないようなのでここから先に進めない状態ですね」
「なるほど」

 言いながら部長が何やら書類入れを取り出した。
 手が空いてるなら別の仕事をって事かな?まあ暇を持て余しているよりは良いかもしれない。

「それならちょっと頼みがあるんだが、タケタは知っているだろう?」
「今回の共同開発の相手ですね」

 そう、実は今回の商品開発には協力会社が在った。
 というのも、うちの会社は主にキッチン周りの家電専門なんで、今回の商品に使用するようなディスプレイ表示システムを組む経験が無いのだ。
 なので、今回映像、音響系機械カラクリの老舗であるタケタに協力をお願いしてうちとタケタの二社での共同開発という事になっている。

「そこにこの仕様書を持って行って相手方と打ち合わせをして来てもらえないだろうか?」

 ん?どういう事?
 打ち合わせはとっくに終わってるんじゃなかったかな?

「えっと、先月の開発会議の時に摺り合わせは終わったんじゃなかったんですか?」
「ああ、いや。電圧調整の為に微調整中なんだが、回路周りの設計について専門家同士で話しを詰めたいらしんだ。電話やメールでは埒があかないので直接話し合って来て欲しいんだ」

 ははあ、なるほど、さっきから揉めてたのはその辺りが上手く話し合いが出来て無いって事か。

「分かりました。一度仕様書を確認して良いですか?」
「ああ、頼むよ。担当の技術主任と問題無い部分まで打ち合わせてからで構わない。相手方への訪問時間は15時だ」

 十五時って微妙な時間だよな。これは残業決定か?直帰OKなのかな?確認しておこう。

「長引いた場合は直接帰宅出来るんでしょうか?」
「あー、すまないが仕様書を持ち帰って欲しい。あまり遅くなるようだったら相手方も困るだろうし18時を超えるようなら切り上げてくれて構わないから」

 直帰は不可。
 でも時間厳守で切り上げOKっと。了解。

「分かりました。それじゃあ早速掛かりますね」
「ああ、よろしく」

 早速、何やらグループ協議を進めていた担当者を捕まえて俺の関わってない部分の説明を受け、行くならついでにと相手方への確認事項を付け足され、期待の篭った目で送り出されたのだった。

 タケタはこの街でも有数の巨大な高層ビルの中の五フロアを借り切って本社事務所としている。
 元々関連企業が出資し合って建てたビルで、研究施設が充実しているらしい。
 なにしろ郊外の広い土地にその手の施設を作るには独自に強固な結界設備を作って維持しなきゃいかん訳で、その費用を考えると地代の高い中央の一角にビルを建てた方が安く付くという考え方だ。
 結界維持の電力消費は永続でかなり高いし、多くの企業はこの方針でやっている。
 なので中央では高層ビルを見ると研究施設があると思うのが普通なのだ。
 また、宣伝を兼ねた玄関のオープンラウンジに最先端の機器を展示して、実際に体験出来るようにしてたりするんで、休日にはそれ目当てでこういう企業ビル巡りを楽しむ若者も多いって話だった。
 その結果、企業ビルの一階は、殆どの場合喫茶コーナーがあるオープンスペースになっているのだ。

「お、あのオーディオセット、限定のみで発売したやつだよな、なんだっけ、バーチャルスペースの中で音楽と映像を楽しめるとかなんとか、良いなぁ」

 それ程音楽や映像に傾倒していない俺ですら、稼働する装置のモニタリング画面とか、点滅する装飾性の高いチェックランプとかを見ていると、そのままそれを楽しみたい気分になってしまう。
 休日のデートスポットとして人気があるのは当然なんだろうな。
 あー、俺も彼女と来てみたいもんだ。

「良かったらお土産付きの体験チケットをお持ちしませんか?」

 受付の上品な美人さんが手続きを済ませて照合待ちの俺にそう声を掛けてくれた。
 こ、これは、もしかして恋の始まり?

「えっ?良いんですか?」
「はい、ただいま春の新生活フェアを行っていますので特典付きの体験チケットを配っているんです。良ろしければご友人やご家族をお連れになっていらしてください」
「あ、そうなんですか。ありがとうございます」

 ふ、どうやら単なる営業だったらしい。
 いやいや、ここで思い切って「貴女のような方と体験出来たら光栄です」とか言ってみたら案外いけるかもしれないぞ、俺。
 などと馬鹿な葛藤をしている間に照合が終わり、チェックカードを渡されてしまっていた。

「ではこちらをどうぞ。いってらっしゃいませ」

 チェックカードをクリップでポケットに装着すると、貰った体験チケット付きのちらしをブリーフケースに突っ込み、何事も無かったようにその場を離れた。
 いや、意気地が無いとかじゃない、俺は仕事中なのだ、女性を口説く訳にはいかん。
 公私の区別を付けない男は女性にウケないだろうからな。

 言い訳だか自己暗示だか分からない脳内思考でグルグルしながら、ほぼ無意識の動きで二基並んだ高速エレベーターの待ちボタンを押し、籠が降りて来るのを待つ。
 午後の十五時ともなると中途半端な時間なのでエレベーターも普通の時よりは開いているらしく、一緒に待つのは台車を押した配送の人だけだった。

 とは言え、台車という物は邪魔な存在だ。こういう場所を取る物を持ってエレベーターに乗るのって気を使うだろうな。
 もしかするとわざわざ開いてる時間を狙って来ているのかもしれない。
 そんな風に思いながら乗り込んだエレベーターの入り口で、一瞬、どこか懐かしい気配を感じた。
 その感覚を掴もうとした瞬間には既に消えていたが、それはなんとなく俺の心に引っ掛かる。

 なぜなら、それは……。

「迷宮?……な訳ないか?」

 有り得ないと思う俺の意識の片隅で、弟、浩二が告げた言葉が蘇る。
 それに以前にうちの会社の給湯室で起きた怪異現象。

 ―……人の意識がある限り、そこに怪異は生まれ続ける。

 ドキリと心の臓が鳴る。
 いつもいつも俺を誘い込む者達。
 泣きながら取り縋る俺にジジイが告げる言葉。

 ―……それは鬼伏せの血の宿命よ。我らがご先祖はお役目を果たすためならばいかような事も行った。なれば我ら……。

 チン、と、余りにも軽快な音を立てエレベーターが停まる。
 見れば俺の目的の六階だった。
 俺は配送業者の人に会釈をするとエレベーターを降りる。
 配送の人はすかさずエレベーターの一旦停止ボタンを押すと荷物を下ろし始めた。
 なるほど、俺が降りるのを待ってたんだな、被って悪かったなぁ。

 ふうっと息を吐くと意識を広げてみるが、特に何も異常は感じられなかった。
 気のせいならそれに越した事はない。
 時計を見ると約束の時間の五分前、丁度良い頃合いだ。
 何はともあれまずは仕事である。
 夢と少しズレているとはいえ、願った仕事に近い場所に俺はいるのだから頑張らないと罰が当たるぜ。

 ブリーフケースを抱え直し、慣れないネクタイを直しながら、ふとブリーフケースの中身、今さっき突っ込んだチラシに思い至った。
 気になるなら今度の休みに来てみるか。
 なんでも無くても楽しむ事は出来るしな。

 そう決めると、やや気持ちと共に軽くなった足取りで、俺は新製品の仕様打ち合わせに向かったのだった。



[34743] 9、迷宮(ダンジョン)は悪夢の顕現・前編
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2012/08/30 01:43
 休日に遠出するのは久しぶりだ。
 なにしろ今まで休日と言えば自宅で何かカラクリを弄ってるか、電気街に行って部品を調達してくるかのほぼ二択だったんだよな。
 考えてみれば不健康極まりないな、我ながら。

 くだんのビルは皇城にほど近い中心市街地にある。
 といっても皇城の周りは広大な鎮守の森の敷地に囲まれているので、いかに高層ビルの最上階に上ろうとも城そのものを視認する事は出来ないが。
 一方でその鎮守の森の外周に添うように造られている政府機関、各省庁の建物は良く見える。
 特に、翼を広げた鶴をイメージしたという国会議事堂の建物は文化的価値もある、古いが頑丈で美しい黎明期様式の建物で、カレンダーや絵葉書で人気の場所でもあった。

 うん、まあどうでも良いな、今は。
 それに今の俺にとっては政府のお役人とかは鬼門でしかないし。
 いや、色々良くはしてくれるんだが、その“良く”に裏が透けて見えるというか、ぶっちゃけあからさまに復帰を促して来るというか、何かこう、身に覚えのない罪悪感を突き付けて来る感じがするので苦手なのだ。
 俺、何も悪いことしてないよな?
 普通に国民としての権利を遂行してるだけだし。

 よくよく考えてみると、昼間にこうやってのんびり真中央地区に向かうのって、実は俺、初めてじゃないか?
 いつもは夜に飲みに行く時に通るか、昼間仕事の時に通るぐらいで、休日の昼にこの辺りに来た事は無かった。興味無かったしな。
 しかし、なんというか、呆れるぐらい人が一杯だ。
 若い奴らや俺ぐらいの年代、もっと上のいわゆるおじさんおばさん達、そしてお年寄り達。
 それぞれがそれぞれのテンションで存在し交差している。
 まるで何重もの渦を巻いているような混沌の場だ。
 これって、集約すれば高濃度のエネルギーを発生させられるよな?なのにこのまま拡散するに任せているんだろうか?それともこっそりどっかに集めて何かに利用してるのかな?
 方向性さえ調整すれば色々な事に使えそうだが、もし本当にそんな事を密かにやってるとしたら、それはそれで自分の国がちょっと怖い。
 いや、こんな不毛な事を考えるのはよそう。そもそも俺に全く関係無いしな。

 ところで往来で腕組んだり、更には抱き合ったりしてる男女がいるんだが、ありゃあなんだ?
 いつから我が国はこんな風俗の乱れた国になったんだ?

「シアワセナカップルナンテホロビレバイイノニ」

 ん、何かこう、胸の奥から滾滾と湧き出した真実の声がつい口に出てしまった気がするが、気のせいだよな。
 これ以上人混みの中にいると思わず怪異マガモノを生み出してしまいそうな予感がする。
 いかんいかん、早く目的地へ行こう。

 予想通りというか、予想外にというか、タケタのビルは盛況だった。
 なんとなく二十代から三十代の男が多い。
 やっぱオーディオルームとか映像環境構築とかは男の方が浸れる世界なのだろうか?
 一応ちらほらと女性もいるようだが、圧倒的な人数差がある。
 ともあれカップルが少ないのは幸いだ。……あえて誰にとってとは言わないが。

 それにしても、帰りに展示を楽しめる余裕があるかどうか分からないので、ちょっと先に覗いてみる事にする。
 俺もこういうのは結構好きなんだ。金食い虫だから手を出せないだけで。

 順番に回って見ると、まず正面にドンと3Dディスプレイで模型が展示してある、没入型映像世界バーチャルリアリティの体験コーナー。ここは当然のように長蛇の列となっていた。
 なんか二時間待ちとか案内板に貼ってあるんだが、……うん、無理だな、涙を飲んで諦めよう。
 仕方無いのでオーディオルームへ。
 防音ドアを開けて中へと入ると、ドン!と腹に響くサウンドが聴こえて来る。
 エレキのキュイーンという独特の鳴りにドラムの激しい連打、それに被せるように跳ねまわる電子音。
 俺もそう詳しい訳じゃないが、十年から前に一世を風靡したアナテクと呼ばれるロックサウンドの一種だと思う。
 うちの爺さんが好きだったんだよな。

 あの爺さん案外新しい物好きで、アナログレコードのLP版とかゴールドディスクとか飾ってあった、な。
 ふと、もの凄く嫌なあれやこれやの出来事を爺さんの顔と一緒に思い出してしまった。思わず目眩がする。不覚だ。

 俺が一人遠い目をしていると、このスペースの担当者らしき女性が寄って来た。
「チケットをお持ちですか?ただいまチケットによる喫茶サービスとくじ引きを行なっております」
 すらりとしたスタイル、爽やかで、しかも媚の無い声音。
 素敵だ。
 ここの女性社員のレベル高すぎる。
 それともこの娘はイベントのみの臨時スタッフなのかな?
「チケットはあります。えっと、このチラシで良いんですよね?」
「はい、ありがとうございます」
 彼女はにこやかに微笑むと綺麗に整えられた爪も美しい指先でチラシの一部をピリリと破った。
「こちらの二つを預からせていただきます。お席はオーディオ体感ルームでよろしいですか?映像ルームに致しましょうか?」
 映像ルームがこっちにもあるのか、どういった内容なのかな?
 そういやチラシに何か書いてあったっけ。
 今更ながらに流し読みをしてみたチラシの説明では、映画を連続で流しているルームと近代映像芸術を流してるルームがあるらしい。
 映画が3D、ドルビーデジタルサラウンドEX。近代映像は広視野型リアリティ映像でドルビーデジタル5.1chサラウンドと。
 お、広視野型リアリティ映像ってあの例の立体ホログラム映像の進化版だよな、どうせ映画全部観る程のんびりは出来ないし、こっちにするか。
「映像ルームで、この近代映像芸術っていうのでお願いします」
「承りました。ご案内いたします」


 うん、俺、近代映像芸術舐めてた。
 すげぇ、理解出来る気がしねえ!
 コーヒーと一口ケーキが美味かったのが唯一の救いです。
 あ、でもあの花びらから水が生まれて世界に広がっていく感じの奴は良かったな。
 唯一なんとなく理解出来た。
 もうね、全体的に視覚のジェットコースターって感じでした。
 BGMまでなんか変に尖ってるもんだから益々混沌としてたしね。
 アンケートについ、『もっと優しい感じのプログラムもお願いします』って書いてしまった。ヘタレですまん、だが、こういう意見も大事だろう。
 そういえばくじを引かせてもらったが、残念賞、メーカーのイメージキャラクターデザインのボールペンって、凄くどうしたら良いか分からないアイテムを貰ってしまった。
 まぁ、俺、まともにくじとか当たった事無いし。いつもの事さ。ははは……。

 そうこうする内に時間的に食事時ムードになって来た。
 このホールにも一応喫茶コーナーがあり軽食も摂れるが、多くの人は好みの食事を求めて外へと繰り出す。
 タイミング的に今がチャンスだろうな。
 休日でも一応エレベーターは稼働している。
 といってもテナントがある階には停まらずに最上階の展望フロアへの直行便だ。
 展望フロアは望遠装置とベンチがあるだけのガラス張りの簡素なスペースで、その場での飲食は禁止されているのでさすがのロマンチストなカップルも殆どが昼時には降りて来る、……らしい。
 うん、まあ、ここの会社の人に聞いたから間違い無いだろう。

 心配は杞憂に終わり、想定通り、昇りボタンを押して乗り込んだのは俺一人だった。
 さてさて、楽しい(訳がない)迷宮探検ツアーの始まりだ。



[34743] 10、迷宮(ダンジョン)は悪夢の顕現・中編
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2012/08/30 22:48
 空気が押し出されるような音と共に扉が閉まった途端、その気配は濃厚に押し寄せて来た。
 密閉されたせいで淀んだ馴染みの空気が、更にどこか生臭いような臭気にランクアップする。
 うん、とにかく嫌な匂いだ。
 空間ごと帯電しているかのようなチリチリとした感覚と共に、俺の腕の産毛が揃って立ち上がり皮膚を引っ張った。

「そりゃあ確かめに来たんだからさ、空振りよりはいいかもしれないんだけどよ、俺を待ってたかのようなこの成り行きはどうなの?こう、一つの人生としてさ」

 まるでそれが当たり前だと言うような成り行きに、ぼやかないとやってられない気分になって来る。
 俺は現在まっとうなサラリーマンであり、最先端技術に関わり続ける技術屋だ。
 古き時代に戻ったような混沌とした出来事に関わるのは正直おかしいんじゃないかと思うんだ。どう考えても筋違いだろ。
 なら放っておけば良いのかもしれないが、それで放っておいた挙句、誰か犠牲者でも出たりしたら寝覚めが悪いしなあ。うん。
 対策部門に連絡を入れるという手もあるが、生成前のダンジョンなど感知出来ないのが普通だ。
 絶対またしても勧誘に近い聞き取り調査を受けた挙句に、結局は俺自身が確認する羽目になるに違いない。ほぼ確信出来る。
 結果が同じなら連中の手を借りない方が遙かにマシだ。泥沼すぎる。

 エレベーターのデジタルによる階数表示の文字がいい具合にバグって数字じゃない文字を表示する。

“E”

 これはエマージェンシーのEなのかな?初期型ダンジョンで知識深度は低いはずだが意外と芸が細かいな。
 ああいや、これはもっと単純にエラーだな。
 いかん、技術屋なのにいつの間にか意識が対怪異に切り替わってたようだ。
 むちゃくちゃ恥ずかしいぞこれは。自分の本分を忘れるなよ、俺。

 そんな俺の内心の葛藤はそのままに、エラーが起きているというのに緊急停止ではなく普通に停止したエレベーターは、やけに明るい電子音を合図に空気の吐き出される音を伴いながら扉を開いた。


 一歩を踏み出した途端に、近代ビルからむき出しの土壁に風景が切り替わる。
 予想通り、初期も初期、天然洞窟タイプの迷宮ダンジョンだ。
 普通の洞窟は都会のビルのエレベーターから入れたりしないから何のカモフラージュにもならない無意味な装飾だが、まあお約束ってのはそういうものなのだから仕方ない。
 そしてそのお約束に従って、振り返ると既にエレベーターの扉は消えていた。
 今この瞬間から、俺という獲物を狩り終わるまで、この迷宮ダンジョンは口を閉ざす。出口が生成されるのは、俺が死ぬか、逆にこの迷宮ダンジョンのボスを俺が倒した時だ。

 俺の思うに、ダンジョンという存在はあまりにも自由すぎると思うんだ。というか適当過ぎるだろ、色々と。

 迷宮ダンジョンという物は、実は現実にはどこにも存在しない。
 出口やら入り口やらが好き勝手に出現するのはそのせいだ。
 ダンジョンは、概念世界理論で言う所の、無意識ネットワーク層の意図的混線によって発現する。
 無意識ネットワークというのは、世界が己の内包情報を整理する為の場所で、ここに世界中の全存在の意識の一部が接続されているのだ。

 生物は夢を見るが、実は夢というのは無意識状態でこのネットワークに接続する事によって発生する幻覚みたいなものとされている。
 そしてこのネットワークのバグのような“夢”こそが問題なのだ。

 通常、生物はこのネットワークに己の意識の一部を無自覚に接続している。
 その接続している意識の一部というのが記憶リング、つまり回想回路だ。
 夢はこの回想回路の読み込みバグから発生する。
 共有空間に発生した夢という代物は、想念と概念の間の存在だ。そのままならネットワーク上を彷徨って自然消滅する。
 だが、意識を持つ存在は、時として悪夢を見る。これは限りなく怪異に近い存在だ。
 単体意識によって生まれた悪夢は一晩で消える儚いものだが、稀にそれが共通認識によって無意識ネットワーク上に固定化されるという事態が発生する。これが迷宮の種だ。
 固定化された悪夢は成長を願う。
 そして、悪夢であったモノは、自らテリトリーを形成する事によって迷宮を生成し、それが現実世界のどこかの入り口と繋がる事によって、あたかも地上に存在する場所であるかのように顕在化する。
 それが迷宮ダンジョンだ。
 その入り口はほとんどの場合これといった決まりは無く、ランダムに選ばれる、負荷ストレスが大きく、多くの意識体が入り口や扉と認識している場所に固定化されるのが普通だ。

 そんな、共通認識の産物である迷宮ダンジョンには、共通認識であるがゆえに決まり事(お約束)がある。
 迷宮ダンジョンは、その迷宮ダンジョンのボスを倒すか、または特定条件の達成クリアをするかしなければ出られない、などというのもその一つだ。
 みんなが“そういうものだ”と思った途端、それが決まり事(お約束)になってしまう訳だ。
 実を言うと、このお約束をキャンセル出来る脱出アイテムなる物も存在するのだが、べらぼうに高いし、自作するとしても材料があまりにもレアな為なかなか作れないというアイテムなので、これは無視して良いだろう。いや、無かった物として無視するしかない。
 だって、そんなもん、国やら世界クラスの金持ちしか持ってないだろ!

「って事で、入った以上はボスを倒さないと出られないんだよな」

 呟いた声は響く事なく闇に吸い込まれるように消えた。

 迷宮は真の闇に沈む事はない。
 恐怖とはそれを見せる事に意味があるからだと言われているが、俺は逆に悪夢を見る者がそれを見ようとしているからじゃないかと思っている。いわゆる「怖いもの見たさ」ってやつだ。

 元々が悪夢とはいえ、ダンジョンは幻想ではない。
 嫌味な程リアルな存在感。
 カビ臭さと腐臭。ぬめりを帯びた岩肌。
 確かにそれが現実の一部であると知らしめる記号に満ちている。
 
 俺にとっては特に懐かしくも馴染み深い場所だ。

「よっと」

 ぺたりと天井から落ちかかって来た大蛞蝓スライムを躱し、頑丈な軍用ブーツで踏み付ける。
 それに対抗し、平たく広がり腐食性を帯びた粘膜でこちらの足を逆に覆おうとするスライムを、筋肉に沿って走らせ、発した“檄”によって焼いた。
 焼ける時の嫌な匂いすら毒性を持つが、それを軽くバックステップで避けると、凹凸激しい床を蹴って奥へと駆け出す。
 本来、ダンジョンでは慎重に行動しなければならないが、雑魚に一々付き合っているとやたら時間が掛かるのだ。
 もちろんダンジョンでの時間というのは夢と同じなので、現実での時間とは合致しない事が多い。
 1分1秒が1時間、それ以上に引き伸ばされたり、その逆だったりするのだ。
 その辺りは、ダンジョン探索のプロは最近では道具を使って調整するらしいが、俺の場合は基本、勘だ。
 このダンジョンは深度が浅いからだろう、差異ラグ濃度も薄く、それ程時間差は感じられない。
 こういう部分もダンジョンのやっかいな所だ。ヘタをすると体内時間が混乱して体調を崩したりする者もいるのだ。
 現実世界とシンクロして生きている生命体にとって、異次元ダンジョン体験はそれ自体が毒であるという事なんだろう。

 キイキイと、人の耳には鋭い軋みのように聞こえる声が響く。
 迷宮につきもののコウモリだ。
 なんかこいつを見ると、こないだ実家に帰った時の事を思い出して苛っとしてきた。

「成仏せいや!」

 迷宮内の怪異は生物との合体ではなく純粋な怪異であり魂なるものは存在しない。
 ゆえに俺のこの叫びは単純なノリの産物であって意味は無いのだ。
 まあ、怪異にも何らかの発生の故郷はあるのかもしれんが、生憎と俺は知らん。そこでの安寧なんかは祈ってやれんのでこれで勘弁してもらおう。

 走り抜けながら放った俺の拳は、血肉あるモノに喰らいつこうと集った黒き飛翔物を微塵に飛ばし、その分空いた空間をすり抜けるように更に走る。
 洞窟は、まるでそのもの自体が生有るモノででもあるかのように不気味に律動している。
 その律動に合わせて雑魚怪異が湧く。
 俺はほとんど物を考える事もなく、足元、天井に蠢くそういったモノ共を或いは踏み付け、或いは殴り、そうやって奥へと突き進んだ。



[34743] 11、迷宮(ダンジョン)は悪夢の顕現・後編
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2012/09/01 00:25
 天然洞穴、腐臭、生息怪異は生物系。
 タイプを知れば自ずとこの迷宮の主の青写真が出来上がる。
 おそらくは巨大生物系。
 不潔な場所を好む動物の姿を模したボスだろう。

 洞窟内を駆け抜け、下へと続く階段を降り、わらわら寄ってくるモンスター共を適度にいなし、或いはほぼスルーして突進する。
 そんな感じで突き進む俺の背後には、いわゆる怪異列車トレインと呼ばれる群れが追いすがるが、相手にしてると時間が掛かるし、出来たばかりの迷宮だから他に人も居ない。という事はトレインが他人に接触して迷惑を掛ける事もない。放置しておいても別に問題は無いだろう。

「だがうざい!」

 最初はボス部屋まで完全スルーのつもりだったんだが、いい加減金魚の糞状態で連なっている化け物共(主構成、コウモリ、ナメクジ、クモのようなモノ)がウザったくなり、俺は力任せに真後ろの一匹を殴り飛ばした。
 吹っ飛んだ子供の頭程の大きさのコウモリは、天井を這っていた数匹の単細胞なナメクジ巻き込むと壁にぶつかってひしゃげる。
 一声「ギャア!」と鳴くと、ボロボロと繊維が解けるように消えた。
 ダンジョンのモンスター達は見た目は顕現した怪異のように見えるが、その実体は固定された概念でしかない。だから実際には肉体は存在せず、倒されると夢の残滓を残して解けて消えるのだ。
 一回実力行使して腹が決まった俺は、初期ダンジョンらしく最下層であろう地下3階へ向かう階段の入り口で振り返り、その狭い入口へ入って来ようとするやつをひたすら殴りつけるという簡単なお仕事を何度か繰り返して、面倒ながら後顧の憂いを取り払った。そして改めて、その、最後の階段を降りた。

 幾種類かの腐った何かが混ざり合ったような、具体的には最近は衛生管理が厳しくなった為あまり見なくなったドブのような匂いが周囲に漂う。
 ピタン、ピタン、とやたらゆっくりとした間隔で落ちる水滴の音。
 何気なく壁に触れると、そのぬるっとした感触が更に嫌悪感を増幅させた。
 
 いかにも気味が悪くそれ以上に気分が悪いが、実はこういうあからさまな嫌悪感を押し付けて来るようなタイプのダンジョンは、まだまだ危険は少ない。
 最も恐ろしく、用心しなければならないのは、一見、普通の生活の一場面を切り取ったような場所や、やたら美しい風景を見せてくるようなダンジョンだ。
 ダンジョンで生成される人の夢の結晶を得ようと、あえてダンジョンに潜る事を生業とする冒険者なる連中が、一番恐れている“還らずの迷宮”と呼ばれるダンジョンの入り口は、ほとんどが日常の一場面から始まるのだそうだ。
 “ダンジョンで安心したら死ぬ”というのが連中の不文律だ。
 まあ、世の中には見るからに危険バリバリで、実際に危険なダンジョンも山ほどあるから、あんまり当てにもならん話だけどな。
 むしろ癒しの泉とかがあるダンジョンだってあるんだし、あんま色々考えすぎるのもどうかと思うんだな、俺なんかは。

 などとどうでも良い事を考えている間に、闇なのに周囲が見える謎空間の行き止まり、そこに扉が出現した。
 それは腐れ落ちた木製の扉で、このダンジョンのボスの格が分かるお粗末さだ。

「たのもー!」

 あまりにも陰気なので、つい勢いに任せて扉を蹴破って元気良く侵入してみた。
 勢いよく吹っ飛んだ扉が部屋の中で宙に舞って消える。
 その消滅を感じたせいか、それとも別の理由か?部屋の中からはもの凄い注目度だ。

 そこに展開していたのは、正に一部の人間にとっては悪夢のような光景である。

 みっしりと、うごめく黒っぽいネズミで地面が埋まっていた。キイキイとかバリバリとか鳴き声やら何かを齧る音やらが重なりあって響いている。
 そして、その奥には、親玉の大ネズミが鎮座ましましている。
 大ネズミと言っても、ネコほどの、とかいうような可愛らしいものではない。
 なにしろ俺よりもデカイ。
 当社比1.5倍ってとこか。
 野ねずみなんかは良く見ると案外愛嬌のある可愛い顔をしているものだが、こいつらにはそれは無い。
 ダンジョンのネズミは、飢餓と病の象徴だ。
 飢えと死を予感させる無数の赤い目が闇に爛々と光り、ただその存在だけで世界を病ませているかのようにすら見える。

「獣が人の地の豊かさを求めて里に降りるようになったとは聞いていたが、結界の中に穢れた巣穴を掘るのはいただけないなぁ、俺はさ、安心してのんびり暮らしたいんだよね。個人の栄光は必要ない、人という種の叡智が全てを決する。そんな世界を信じて未来を託したい訳だ。……うん、我ながら良い言葉じゃないか」

 一人迷宮ボスに立ち向かうなんてホント、俺の柄じゃない。
 数字と理論による正しさに導かれて、小さくとも夢のある楽しい機械からくりを作り、それを動かすあの瞬間の喜びを味わうのが俺の望みだ。
 そんで、俺以外の誰かも笑顔になってくれれば、それ以上の至福は無いだろう。
 そんな平和な未来に怪異の出番は無い。

「なあ、場違いなんだよ、お前さん達。とっとと闇の揺り籠の中に帰っちまいな!」

 俺の手に得物は無い。
 元々無手が俺のスタイルだしな。
 堂々と言い放った俺の言葉が通じたかどうかは分からないが、言い終わるか終わらないぐらいのタイミングで、地面を埋めたネズミが一斉に動く。
 敵さんも面倒な事は嫌いらしい、作戦とか連携とか何も無く、単純にひたすら押し寄せて来たのだ。
 雑魚ネズミは小さいといっても、その数がとんでもない。
 正確に数えろと言われても無理な話だが、三十畳近くはあるこのボス部屋を埋め尽くすような数だ、生半可な数ではないのだけは確かだ。
 しかも連中はおそらく毒か疫病をその歯に宿しているはずなので、噛まれると最悪まともに動けなくなる。噛まれないように戦わないとヤバイのだ。

 波打つ黒い絨毯のようにも見えるその集団を俺は一定のリズムを刻む軽いフットワークで迎え撃つ。
 腰より上に来るジャンプ攻撃は軽く腕で払い退け、足元の集団を数匹纏めて掬い上げて蹴り出す。
 丁度サッカーのボレーシュートみたいな感じだ。
 ゴールがどこかというと、ボスネズミ様のお体になる。
 ボスネズミの体毛は、その一本一本がぶっとい針のように硬質で鋭いんで、吹っ飛ばされてぶつかったネズ公共は悲鳴を上げて突き刺さり、見事、俺とボスネズミの共闘の如く始末されていく。ボスはカンカンに怒って死骸を振り払う。その繰り返し。
 ボス自身がどうにかしようとしても、床を埋め尽くした雑魚共が邪魔で素早く動けない上に、雑魚ネズミの流した血を浴びてべったりと貼り付いた体毛によって体のキレも悪い。
 雑魚達がなぜこうも軽々と始末されているかというと、俺が足を地面に下ろす度に震脚を使って周辺のネズミ達に脳震盪を引き起こさせているからだ。
 悲しいかな、本来生物では無いはずの怪異達は、しかし、姿形を定めた瞬間からその生物の業を背負う。
 つまり擬似的な肉体を持つ事で、そのイメージを強固にする事により、偽りのはずの肉体が実際に機能し、彼等自身もそれに縛られてしまうという事だ。
 だから脳が無いはずなのに脳震盪を起すし、ボスによって存在を保っている直下の雑魚達は死んでも消え去らず、流れていないはずの血を流す。

 嫌悪感という余計なおみやげを伴ってはいるが、それは確かに一つの付け入る弱点ではあるのだ。
 そして一方で、俺がその場でこのネズミ達を踏み潰さなかった理由でもある。
 それらの血肉は擬似的ながら現世うつしよの法則に従う。
 ここで踏み潰せば床は血と肉に埋め尽くされ、靴底に貼り付いたそれらは今度は俺の自由を奪うのだ。

 さて、すっかりおかんむりになったボスは、『ギイイイイィィ!!』と泣き喚くと、雑魚ネズミを消し去った。
 リアルに縛られるといっても実際にはリアルでは無いのでこういう事も可能なのが悪夢の所作。
 真面目に戦ってた奴程、こういうのはイラっと来る事だろうな。
 だが怪異マガモノ相手にそういう感情は危険だ。
 怒りや憎しみや悲しみや痛み、全て負の感情は悪夢の糧となるのだから。

「ひでえ匂いだなおい、ちゃんと風呂に入ってんのか?」

 俺はボスネズミ野郎にニヤニヤ笑って挑発した。

「ああ、ドブネズミだもんな、ヘドロで入浴してるんだろ?」

 この手の下等な怪異に言葉が通じるかどうかは未知数だが、とりあえず感情は通じる。
 ネズミ野郎は『ケケケケケケ……』というような笑ってるのか単純に牙をこすりあわせてる音なのか、不快な鳴き声を上げ、全身の体毛を逆立てた。

「こいよ、優しくしてやっから」

 俺は物心付いてから慣れ親しんだ怪異共にいつもそうしているように親しげに笑い掛ける。そうする事で、逆に決して歩み寄らない事を表明するのだ。

「消え去れ」

 感情を凍りつかせた低い声。その己の声により、俺の頭の奥で世界が切り替わる。

 トンと軽く蹴った地面を深く抉り、放たれた矢のように敵に迫った。
 ネズミ野郎は後ろ足で立ち上がり、元々の巨体を更に大きく見せ、俺を威嚇する。

 馬鹿だな、威嚇なんかしている暇は無いってのに。

 二歩目で奴の目前の地面を踏む。
 飛び上がりながら、不潔で危険な体毛を左右の手に掴み、それを起点に体を引き起こし膝を上方に打ち出した。

 奴は最期まで何が起こったのかを理解出来なかったのだろう、『ギィ?』と、少し間の抜けた声を上げて、打ち抜かれた喉から鮮血を噴き出しゆっくりとその体を傾ける。
 ボスであろうと他の怪異と同じでしかないその肉体は、滅びを受け入れてばらりと解れると、形を無くし、夢のカケラとなって辺りに漂った。

「生まれた所に還るが良いさ」

 俺は不思議と美しいそのカケラを眺めながらそう言い捨てると、ボス部屋を後にした。

 やがてボス部屋の外の通路の先に、近代的なエレベーターの扉が浮かび上がる。
 迷宮は攻略されて意義を失った。

 ようやく大嫌いな迷宮攻略が終わったぜ。何の因果で結界内部でこんな目にあわにゃならんのだ。
 そんな気持ちでトボトボとそちらへと向かっていた俺の首筋が、突然チリチリと強烈な痺れを帯びた。
 見ると腕の産毛がまたことごとく逆立っている。

「おいおい、追加オーダーはしてねぇぞ?」

 カチリと、現実ではない何処かで何かが重なる音がした。

「ああ、やっと、ああ、やっとお遭い出来ました、愛しい方」

 壁に黒々とした穴が空き、巨大で濃密な何かがズルリと這い出して来る。

「来るな!招いてねぇぞ!」
「ふふふ、ご存知でしょう?迷宮は存在しない場所。ゆえにどこにでも通じるのです」

 無理矢理存在を上書きしやがったな。力技すぎるぜ、最悪だ。
 俺は泣きたい気持ちを抑えてそいつに対峙する。

「よくもまあ辿り着いたものだな」
「恋する乙女の一途さゆえ……と言ったらお喜びになりますか?」

 誰が喜ぶか!ボケッ!
 ずるりと、長い胴体をおっくう気に引き摺って、一見魅惑的な女の上半身がその裸身を惜しげもなく晒す。
 太古の昔に顕現した蛇女の怪異、名を持つ恐るべき一体だ。

「それはご苦労だったな、だが、残念。まだ空間は繋がりきってはいないぞ」
「この程度のゆらぎ、わたくしに抑えきらないとでも?」

 俺は白々しくも驚いてみせた。

「ほほう、それじゃあ俺は助からないな」
「お戯れを、そのような事を信じてもいらっしゃらないくせに。ねえ?」

 真っ赤な、女の口にあたる部分が大きく開かれ、そこから同じく真っ赤な舌がチロチロ覗く。

「さあ、さあさあ、この胸に、わたくしの胸に抱かれましょう?そうして二人は一つになるのです。誰であろうと我等を引き離す事は出来ませぬ」

 豊満な、いかにも男の夢に出て来そうなたわわな胸が、隠される事もなくその弾力を示すかのように揺れる。

 だが、これは女でもなければ胸でもないのだ。
 全ては擬態。感情すらも人を寄せる為の罠にすぎない。

「残念だがお断りだ。俺は人間の女の方が好みでな」
「あらあら、それならば……」

 蛇女、その銘清姫は、大きく口を開いた。
 いや、それはもはや開いたというより裂いたと言った方が良いだろう。
 メリメリと嫌な音を立てて出来上がった口は、およそひと呑みで俺程度は納まる大きさだ。

「わたくしの胎内でゆっくりと溶かしてさしあげましょう!」

 カパリと開いた口が迫る。
 俺は手の中でこっそり作り上げた“モノ”を示した。

「表でも無く裏でも無く、入り口でも無く、出口でも無い。永遠の回廊を彷徨うが良い!」

 ほとんど習慣で、いつも懐に忍ばせている懐紙を細長くちぎって一捻りして繋いだだけの物。
 つなぎ目を閉じているのは俺の血だ。
 その紙の上に、あのくじの残念賞で貰ったボールペンで終わりもなく始まりもないひと連なりの呪文を書き記す。
 昔どっかの誰かが発見した真理、メビウスの輪の呪文。
 封印の呪いだ。

 俺はそのリングをふわりと浮かせると、一足でエレベーターの扉を潜る。
 追い縋ろうとした清姫はその観念的永遠メビウスに絡めとられた。

 ―……ジジジ

 背後で何かが焼き切れようとする音がする。

「わたくし諦めません。きっといつか一つに……」

 追い縋る声を途中で切って、エレベーターの扉が閉まった。
 相手は仮にも名持ちの怪異、あの程度の呪文は直ぐに無効化されるだろう。
 しかしあの迷宮はもはや崩壊した。そうなれば結界の内部に怪異の渡る術は無い。

「くそっ、嫌な相手に遭遇したぜ!あー気分ワル!」

 巨大ネズミとやりあった時でさえ上がらなかった息がゼイゼイとせわしない。足りないのか多いのか分からない酸素が苦しくてフラフラする。いっそ吐き気がするぐらいだ。
 頭がガンガンぶっ叩かれてるみたいだし、くそっ。
 まだガキだった俺を着けまわしてた連中の一匹、あの蛇が結界内に現れるとはな。
 もちろんこの街の結界が破られた訳じゃない。
 どこでもない迷宮だからこその荒業だ。
 問題は、こんな出来立ての迷宮に、偶々俺が関わった事をどうやって感知したのかだ。

 あいつらの本能は人とは違う。
 いや、根底は同じなのかもしれないが、方法は違うのだ。
 代を重ねて命を繋ぐ生き物達とは違い、連中はより希求する己になる為に変化を求める。
 やつらは個と集に対する価値観が同じなのだ。
 それぞれ個々に個性を持ってはいるが、自分と他の怪異との境界が薄い。
 だからこそ容易く存在を重ねて膨れ上がる。
 そして、多くの怪異はより強くを望む。

 チン、と可愛らしい音を立てて展望フロアへと続く扉が開いた。
 広く取られた窓には明るい街の様子が映し出されている。

「大丈夫、俺はもう普通の会社員なんだ、最先端を模索する技術屋だ、過去の因縁なんかに追い付かれたりはしないさ」

 いつもいつも俺が自分に掛ける言葉。真言、それは汗と努力で勝ち取ったからこその力を持つ言葉となる。

 俺は窓際に近付くと、望遠鏡に小銭を投下してそれを覗き込む。
 遠くの店舗の一角で笑い合う見知らぬ人々の表情に、胸の奥でわだかまっていた闇がゆっくりと解けていく気がした。

「闇の時代は終わったんだ」

 明るいこの場所でなら、それは確かに真実の響きを帯びていた。



[34743] 12、古民家は要注意物件 その一
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2012/09/02 20:22
 それなりに身近な、同級生とか同僚とかが、普段と極端に違う挙動をしていると誰だって気になるだろうと思う。
 しかもそれが、普段は明るく元気で部署のムードメイカー的存在だったりすると尚更だ。
 そんな訳で、俺はここの所元気がないというか、心ここに在らずといった同僚の様子を心配していた。

 その不信な挙動を具体的に挙げてみる。
 ぼんやりと電子記録機械パソコン表示画面モニターを何をするでもなく眺めていたり、昼食中に口に何も入れないで箸を止めたまま休み時間を終えそうになったり、或る日なんかそもそも弁当に中身を詰めるのを忘れて来たりと、普段しっかり者で評判の彼女らしくもない行動が続いたのだ。

 そして、その同僚伊藤さんが、本日の昼休みに思いつめた顔で俺に話し掛けて来て、仕事が終わったら少し付き合ってくれないだろうか?と言ったのだ。
 この場合、誰だって一も二もなく応じるだろう。当然の話だ。
 別に、『もしや俺に告白するのに悩んでいたのか?』等と期待していた訳では決してない。
 そう、絶対にだ。

「実はオカルトの事で相談したいんです」
 彼女が恥じらう乙女のごとき態度で切り出したのはその言葉だった。
 いきなりまた専門用語ですか?ってかオカルトって一般ではどういう意味で使われているんだろう?俺の知ってるオカルトってのはなんというか謎学問の事なんだが、彼女達の言い方はなんか違うよな?

 しかし、こないだの件とかを経て、雰囲気でなんとなく理解は出来る。
 あれだ、ほら、異常現象ってやつだ。うん。

 ……なるほど、相談ってその事なんだ。
 いや、まあ、俺だってそこまで馬鹿じゃない。ある程度は予想していたさ。
 給湯室で怪異の元みたいなモノを追い払った件以来、俺が怪異関係の専門家であるとのまことしやかな噂が社内に回ってしまったらしいしな。実に遺憾な事に。

「ちょっと、待ってくれ。どうも誤解があるようだから一応言っておくが、いいか?この間のはあれだ、まだ怪異になる前のもやもやなもんだったから俺でなんとかなっただけでだな……」
 途中で言葉に詰まる。
 彼女はどうやらこっちの言葉を上手く飲み込む余裕を失っているようだった。
 俺の返答を聞いた伊藤さんは、まるで手酷い暴力でも食らったかのような痛々しい表情になっている。
「そう……ですよね。こんな馬鹿馬鹿しい話、聞いてもらえるはずないですよね」

 うお!やっぱり、俺の返事を単なる拒絶の言葉と判断したんだ。
 え、何?もしかして今、同僚の、それもいつもお世話になってる女の子を泣きそうな顔にしてるのって俺か?これって他人だったら殴っても良いよな?って事態だよな。

「いやっ!違うんだ!そうじゃなくてだな、ほら、馬鹿馬鹿しいかどうかなんてちゃんと聞いてみなきゃ分からないじゃないか」
 ああ、やっちまった!馬鹿か、俺は。いや、でもこれは仕方ない、仕方ないんだ。
 心の中で頭を抱えるものの、顔は笑顔を彼女に向けている。うん、笑顔のはずだ。
 若干引かれている気がしないでもないがきっと大丈夫。

「え、ええ」
 そこで言葉が途切れ、微妙に固まった空気のこのテーブルに、別に気を利かせた訳でも無いだろうが良いタイミングで注文の品が運ばれて来た。

 可愛らしい制服の店員さんと目が合うと、どこか困惑したような色が浮かぶ。
 仕事上がり、伊藤さんに連れられてやって来たここは、一人では俺は絶対に入らないと断言出来るような店だ。
 白いテーブルにレースのクロスが掛かり、メニューに並ぶのはカラフルで腹に溜まらなさそうな料理やデザートばかり。
 というか、ほとんどがデザートで、申し訳程度に軽食が載っている。
 男が入店する事を端から考えていないとしか思えないような店なのだ。
 そんな店に、野性的でステキと評判の俺が入って浮かない訳がない。
 当然のように俺は浮きまくっていたが、下手に色々考えては負けだと思って堂々としていた。椅子にちょっとふんぞり返り気味。いや、やりすぎかな?
 周囲の視線はそんな俺の虚勢など在って無きがごとくすり抜けて、爽やかで可愛い店内に紛れ込んだ異物を不審に思っているのが丸分かりだ。
 今運ばれて来て彼女の前に置かれた可愛らしいアイスベースのデザートと、俺の前に鎮座する堂々としたカレーとのミスマッチ感も考えてみれば不味かったのかもしれない。
 こういう時はいっそ、郷に入っては郷に従えという事で、可愛らしいデザートを頼むべきだったのかもしれなかった。
 だがしかし!アイスのデザートは、このカレーよりも高いのだ。食いでという観点から比べたら、どう考えてもカレーだ。俺は間違ってない。
 いや、しかし、ほんと、価値観が崩壊しそうな世界だ。

「あの、それじゃあ詳しい話をさせていただきます」
 甘い物を口に入れて、最初のショックから立ち直ったのか、伊藤さんは少し笑みさえ浮かべて話を戻した。
 いや遠慮しますとは話の流れ上言えなくなってしまった俺は、カレーを慌てて掻き込むと、咀嚼しながら話を促す。
「実は、つい先日、父が念願だったマイホームを購入したんです」
「へえ、それはおめでとう」
 自分の城である自宅を持つというのは、俺たちのような雇われ者にとっては憧れであり、一種のステイタスだ。
 一般男性の一生の内に叶えたい夢ベストテン入りは間違ないだろう。
 だからこそそれを叶えたというなら祝うべきだ。すごいな、伊藤さん父。

「それが……」
 彼女は俺の祝福の言葉にたちまち顔を曇らせ、アイスを掬う手を止めると、アイスの周りを彩る複雑な模様を描くソースとアイス本体を混ぜて、描かれた模様を意味の無いぼやけた色彩に変えた。
 ぶっちゃけて言うと、スプーンでアイスをぐちゃぐちゃにしてしまった。
 ちょっと怖いぞ。

「その新しい家で暮らし始めてから両親の様子がおかしいんです」
「おかしいって?」
 家が原因でオカルト事例が起こっているという事なのだろうか?でもなあ。
「その家は正規の不動産屋を通したんだよな?担当者には連絡してみたのか?不動産屋には売買時に顧客に対する物件の霊障開示義務があるし、もし、販売後にその物件が原因でなんらかの霊障事例が起こってそれを放置すれば法規違反になるんだぞ」
「そうなんですか?」
 お?そんなに知られてないのか。まあ実家住まいの彼女にはあんまり関係ない話か。
「ああ、不動産屋は必ず専属の風水士と契約しているんだ。ほとんどの場合霊障事例についてはアフターサービスがある。契約書にも書いてあるし、口頭説明もあったはずだ」
「そうだったんですか?私、家の購入の時に直接関わってないんでよく分からなくって。そうですね、それなら早速調べて連絡を取ってみます」
「うん、それが良いよ」
 よしよし、良いぞ、常識的に事が収まりそうだ。
 昔から足袋を仕立てるなら呉服屋って言うからな。専門家が一番だ。
 ホッとした俺は、だからつい聞いてしまった。
「それで、ご両親はどんな具合なんだ?」
 好奇心は甘い毒であると言ったのは誰だったかな?
 うん、実にその通りだった。

「それが、あの家に移ってから両親が朝、顔を洗わなくなったんです」
「へっ!?」
 俺の思わず上げた声にどう思ったのか、伊藤さんは顔を赤らめてうつむいた。
「やっぱり、そんな事と思いますよね?」
「あ、いや、こういう事は身内が一番異常を察知しやすいんだ。ささいな事も大事だよ」
「木村さんにそう言っていただけるとちょっと安心しますね。ありがとうございます」
 伊藤さんはちょっとはにかんだように笑った。
 おお、可愛い。
 彼女、美人という訳じゃないんだけど、ほんわかしてて優しげな顔立ちで、笑うとこう、見てるこっちがほっとするような子なんだよな。
「実は自分でも馬鹿馬鹿しいと思ったりもしたんです。母が化粧をしなくなったのだって、もう若くないからなのかもしれないし」
「おかあさんが化粧をやめた?他には何か気付いた事がある?」
「はい。実は父も髭を伸ばすようになって、今までそんな事なかったからびっくりして両親に問い質したんですけど、二人はちょっとした心境の変化で心配無いって言って。でも私はなんだか、あまりにも急に人が変わってしまったみたいな気がして不安で……」

 確かにちょっとした心境の変化でずぼらになったと言ってしまえるような事かもしれない。
 だが、彼女の挙げた変化には共通項がある。
 かなり分かり易い共通点だと思うのだが、彼女は気付いていないのだろうか?いや、家族の事というのはとてもデリケートな問題だ。あまり深く考えないように本人が無意識にブレーキを掛けているのかもしれない。
「うーん、しかし、そっか、それはちょっと不動産屋はキツいかもしれないな」
「そうなんですか?」
「ああ、不動産屋のサポートはあくまでも土地建物の異常、もしくはそれが原因の異常だ。そんな風に住人の嗜好が突然変わったと主張しても取り合ってくれないか、下手すると言い掛かりを付けたと逆に訴えられる可能性がある」
 商売人というのとにかく評判を気にする。
 だからこそサポートを厚くするのだが、同時に証拠がない漠然とした事柄を自分達の過失と認める事は滅多にないのだ。
「……そんな。私はただ両親が心配なだけで」
 途端にまた不安そうになった彼女に、俺は慌てて安心させるべく請け合ってみせた。
「要するにだ、原因が家であるという根拠を提示出来れば良いんだ。俺で良かったら一度見てみようか」
「本当ですか!?助かります!」

 言っちまった!!
 俺、何やってるんだろう。軽く自己嫌悪が入る。
 あれだよ、ことわざで言うところの、藪に突っ込むから蛇に噛まれるってやつだな。
 うん、自業自得だ。



[34743] 13、古民家は要注意物件 その二
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2012/09/02 20:21
「さてと……」
 相談を受けたからと、即彼女のお宅に訪問という訳にもいかない。
 平日の仕事が終わってからになると、当然夜になるから怪異絡みは条件が悪いし、しかも相手は嫁入り前の娘さん。俺は年齢的には付き合っておかしくない男だ。ご近所やご両親に変に思われてもマズいだろう。
 だが、今は週の始まりで、日中に自由に動ける週末まで間が空く。
 やっぱり事が事だから事態が取り返しがつかないぐらいに進行してしまうのはまずい。
 そこで特技を生かしてひと工作してみる事にした。

 まず用意するのは生卵。
 一応一人暮らしでも卵は頻繁に料理に使うので冷蔵庫に常備してある。
 望まれれば主夫でもなんとかいけるんでない?という程度には生活力はあるつもりだ。
 アピールする相手がいないけどな。

 さ、さて、気を取り直して、次に極々細い銅線を引っ張り出す。
 しょっちゅう何か作ってたり修理したりするんで、我が家には小規模なジャンク屋程度の部品類が転がっている。
 物作りに流用するんで整理整頓も大事だ。
 やんないと探すのが面倒だからな、果てしなく。

 さて、問題の銅線だが、本当はこれは銅よりも金が良い。だが、短期間だし偽りの金と言われる黄銅なら十分間に合うはずなのでこれを使う事にした。
 まあなんだ、しゃれを言う訳じゃないんだが、さすがに金を手軽に使えるようなかねが無いんだよな。

 金という物質は、魔術的にも貴重な素材で、太古の昔から変わらず値が張るという脅威の普遍価値素材だ。
 おかげで安全な資産として購入する投資家までいて、人類滅亡まで価値が下がらないであろう物質と言われている。……恐ろしい。
 一介のサラリーマンがホイホイ使うのは無理な素材って事だ。
 俺が金持ちではない事を再確認したところで黄銅だが、これは綺麗に磨かれた物は淡い金色で、とても加工しやすい金属だ。
 黄金もまた同じような特徴がある。
 この、金に表面上の性質が似ているという所が肝心だ。
 それこそがオカルト学で偽りの金と言われる所以でもある。
 そして、そういう相似点を取っ掛かりに、世界の認識をごまかすのが、俺たちエンジニアの真骨頂というものなのだ。

「それじゃあ、楽しく巻き巻きするかな」
 一人で作業をすると、なんとなく寂しいのでつい声が出てしまう。他人に見られると恥ずかしいが、ここには他人どころか人は俺しか居ないから大丈夫だ。……大丈夫なはずだった。

 だが、しかし、そうやって、俺が生卵に丁寧に銅線を巻き付けていると、軽い羽音が頭上でずっと聞こえているのはどうしてなんだろう?

 この羽音の主は、機械カラクリと式という、相容れぬ技術を元にそれぞれ作られた二匹のちょうちょさん達だ。
 本来、少なくともカラクリの方は簡易守護陣を編みながら部屋の中を巡回する設定のはずなのだが、何故か二匹共に俺の頭上で戯れている。

「お前か?」
 おもむろに問い掛けてみるものの、当然返事などない。

 この片方、式の蝶の主は妹なので、本来ならば当然この式を通して妹はここでの状況を見聞出来るのだが、今、妹はまだ実家にいるはずで、そうなると都市級結界の中と外となる。
 結界は外部意識の流れである道を一旦遮るので、妹とこの蝶の接続は現在不可能で、こいつは今のところ自立行動中のはずなのだ。
 もし、非常識にも、結界を挟んで見聞可能だったりしたら、凄く困る……そう、凄く。

 だって、ずっと監視されているようなもんだぞ?人としてそれはいかがなものかと思う次第だ。
 決して見られて困る事をしている訳ではないが。

 しかしなあ、あいつならやりかねん……。

「気にしたら負けだ」
 頭を振って、気を取り直す。
 そのまま、不自然に頭上に留まるちょうちょさんズを放置して、俺は黄銅線の巻き付けを続けた。
 巻き方はいわゆるカゴメ巻きというやつで、目が六芒を形作るという良く見る籠の編み方だ。
 底辺を丸く残して編み上げ、ほどなく外の形は完成。
 完成したら底の穴から卵をつついて割り、中身をボールに出し、それでとりあえず卵焼きを作った。

「いや、卵焼きは関係無いんだが、早く使わないと鮮度が落ちるから使ってみました」

 って、付き纏っているちょうちょズが、おもむろに、取り出したフライパンで料理を始めた俺を不思議そうに眺めていたので(いや、まあ、雰囲気だが)、つい言い訳じみた事を口にしてしまった。
 いや、いかんいかん、あれは無視だ。

 その後、黄銅籠の内側に残った空の卵の殻を突いて崩し、丁寧に取り出すと、次に、特殊な鉱物を鉱物棚から引っ張り出す。

 粘石と呼ばれるこの鉱石属は、水を含むと粘性を持つ事で知られる。
 だが、利用範囲が限られている為、一般にはあまり普及していなかった。
 それでも、子供用の玩具の原材料になっている事が多いので、そういう物の商品名で聞くと、いきなり知名度が跳ね上がるが、原材料としての名となると、もはや、それなんの呪文?レベルだ。
 だが、こういう一時凌ぎには存外と相性が良い。

 俺は粉末状の青色粘石を乳鉢に大さじ一杯入れ、部品洗浄用に常備している純水を少しずつ加えながら混ぜていく。
 最初白っぽかった粉が水を含んで藍色に変わり、粘土と液体の間ぐらいの粘度になったところでストロー状のガラス管の先端に小指の先程度を掬い取った。
 それを先程作った卵型の銅籠の中に突っ込み、思いっ切り息を吸い込むと、そのガラス管に口を付け、ただひたすら吹いた。

 はっきり言って、この液状粘石を膨らませるのには、ゴム風船を膨らませる程度の比ではない肺活量が必要である。
 具体的に例えれば、ダンプのタイヤを人間の息で膨らませようとするぐらいだろう。いやまあ、そんな経験無いから知らんけどな。
 ともかく、
「エアーコンプレッサー、せめて手押しポンプぐらいは買っとくべきだよな」
 息をひたすら吹き込み続けた為、酸欠による酷い頭痛を引き起こし、床に転がりながらそう決意した。
 うん、いや、いつもこんな事がある度にその直後には購入の決意をするんだけどな……。

 さて、そんな俺の献身的な作業によって、黄銅籠の内側に瑠璃色のガラス状の膜が出来あがった。
 この膜から、急ぎ過ぎない時間を掛けて水分を飛ばす為、扇風機の前にそれを吊す。
 決して送風機が無いからその代わりではなく、扇風機が作業に最適だから使っているのだ。
 これは本当だ。
 この過程に大体一時間掛かるので、その間に延び延びになっていた飯を食う事にする。
 伊藤さんの相談を聞いた店のカレーは、プリンみたいな形にご飯が可愛く盛ってあって、別容器のカレーをそれに掛けて食うみたいな上品なやつで、なんか食った気がしなかったからな。
 しかもあんな話ししながら掻き込んだもんだから味すら覚えてない。

 冷めてしまってはいたが、一品、卵焼きは既に作ってあるので、後は飯を炊いて、簡単に春キャベツをツナ缶の中身と一緒に皿に盛り、それに密封皮膜ラップを掛けて少し電磁調理器で熱を通し、最近人気のマヨネソースで和える。
 これで夕食兼夜食の出来上がりだ。一応カレーを既に食ってるからこの程度で良いだろう。

 飯を食い終わると、ガラス状になった粘石が乾いて、見た目は正にガラスそのものとなっていた。
 こうして見ると、簡単で綺麗なのでガラスの代用品として良さそうに思えるのだが、残念ながら何事も良いばかりという事は無い。
 この粘石は劣化が早く、ひと月も持たずに剥離が始まるのだ。
 まあ、性質を考えれば当然だけどな。
 だが、黄銅と同じように短期間なら十分だ。

 これをもうちょっと吊るして乾かして置いて、俺は部品の半端物を纏めている引き出しを開け、古くなった水晶機関から捨てる前に外して回収しておいたまだ使える水晶針を探す。
 透明度と大きさが近い物(そもそも国際規格として規格化されているので基本サイズは統一規格になっている)を二本取り出し、古いケースの端を切って加工したリサイクルケースに据え付けた。
 そのケースの端子から延びたコードを丁度良い長さに切って、裸の線を発光球と接続。
 その頃には大体いい具合に乾いた卵型籠の中に、この発光球を仕込んだ。

 六芒の星を描く卵型の黄銅籠は生命と太陽を表し、瑠璃の偽ガラスは空を表す。
 すなわち、内部からの光は、空を透かして太陽を照らすという、有り得ない状態を体現している訳だ。

 そう、つまりこのランプは、世界の逆転の象徴なのだ。

 怪異は、その成り立ちから概念の影響を強く受ける性質を持つ。
 特に、まだ実体を持たない時にはそれが顕著だ。
 まあ、実は、この手の仕掛けは、概念を認識出来る人間をも少々不安にするという機能を持つのだが、怪異と比べれば気のせいという事でごまかせるレベルなので、大丈夫だろう。
 別に体調に影響したりもしないしな。
 で、これを、問題の家の中心で作動させておけば、怪異は逆転世界の気配を感じ取って混乱を来たし、その混乱により活動を沈静化出来るという、極々単純な仕掛けアイテムなのだ。


「伊藤さん」
 翌朝、会社に出社した俺は、早速彼女にそのランプを手渡した。
「あ、木村さん、おはようございます。あの、これは?」
 突然の事に戸惑う姿がちょっと良い。
 あ、いや、それはともかくとして、説明しなきゃな。
「新居の中心にある部屋で使ってみてくれないか?おそらく、しばらくの間異変を抑えられると思う。せっかく相談してもらったのに、行くまでに何かあると俺の寝覚めが悪いしな」
 あまり期待されないように、少し冗談っぽく軽く言ってみたのだが、伊藤さんはこっちが驚くほどぱっと顔を明るくした。
「ありがとうございます。凄く助かります」
「いや、ごまかし程度なんで、正式の対処は別にきちんとしないと駄目だからね。それは間違えないように」
 こういう混乱系のアイテムは、相手に耐性が付いてしまうと効果がほとんどなくなるという使い難さがある。
 本当にその場凌ぎの為だけの道具なのだ。

 目的を果たすと、軽くお互いに頭を下げあって席に戻った。
 その直後、男のくせに噂好きの先輩同僚がすすっと俺の席に寄って来る。

「おいおい、伊藤ちゃんと抜け駆けで付き合いだしたのか?まあうちは社内恋愛禁止じゃないけど、仕事に影響させるなよ」
 なんでちょっと話してただけで速攻そっちの方向へ持っていくんだ?否定せざるを得ない俺のハートが傷付くのを考慮とかしてくれよ、マジで。

「違う、相談受けて届け物しただけ。色っぽい話じゃない」
 内心の動揺を押し隠し、俺は淡々と答えた。

 いや、ちょっとだけ、社内の噂になってしまったら、逆に意識し出して、なし崩し的に既成事実になるんじゃないかとか、単純で邪な思いが頭をよぎったが、それをやっては男として人として終わってしまう気がした。
 やっぱ男たる者、女の子を困らせるのは駄目だ。
 惚れられて困らせられるのは大歓迎だけどな!

「ちぇー、でも分かってたさ」とか、さり気に俺のハートに追撃を加えて、彼は自席に去った。
 この人これで俺より十六も上で、奥さんと子供もいるはずなんだけどな。良いのか?こんなんで。

 とりあえず一難去った俺は、ちらりと伊藤さんの方を見る。
 彼女はにこりと笑うと、軽く頭を下げてくれた。
 ちょっと嬉しい。
 しかし、なぜかうちの部署のお局様の園田女史が彼女の隣から俺を睨んでるんだが。
 
 ん?俺、なんかした?



[34743] 14、古民家は要注意物件 その三
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2012/09/03 21:02
 本日、土曜日の午前中、北路線駅の東口で、かの同僚の女性、伊藤さんとの待ち合わせだ。
 だが、当日になってふと気付いたんだが、こういう時ってどんな服装で行けば良いんだろう?
 表向きは同僚の家に遊びに行くというシチュエーションなんだよな?
 友人宅を訪問する経験というのは、実は俺、社会人になってからの、流のとこに飲みに行った経験ぐらいしかない。
 あいつは男で、しかも一人暮らし。どう考えても全く何の参考にもならない。

 待て待て、落ち着いて考えよう。
 今日は休日で会社じゃない。だから、通勤の時のようなワイシャツにズボンっていうのはちょっと違う気がする。
 しかし、だからといってあまりにもラフな格好は、社会人としてマズいかもしれない。
 だがしかし、うっかり気合いを入れて服なんか選ぶと、されてはいけない勘違いをされそうな気もするし。
 何しろ相手は年頃の未婚の女性。勘違いされたら洒落にならない。

 くっ、まさかたかだか服選びでこんなに苦労する羽目になろうとは!?
 今になって悟った。他人の目を気にするような場合は、着るもの一つないがしろに出来ないんだな。
 昔、ちょっと外出するのに何十分も準備に掛けると言って怒って悪かったな、妹よ。

 結局、下手にめかしこむよりは気軽な感じの方がまだ良いだろうという結論に達して、ラフだけど小汚くはない感じに纏めてみた。
 女性を相手にする場合は何よりも清潔感と、大学時代に出来た貴重な女友達が言ってたのを参考にしてみたのだ。

 選んだのは黒っぽい単色のカーゴパンツにわさび色の綿シャツなんだが、着てしまってからもやっぱりラフすぎないかと不安だ。

 そもそもこんな服装一つでぐらぐらするなんてどういう事なんだろう?有り得ないよな?
 心臓なんかかつてない勢いでガンガン脈打ってるんだが、一体なんでこんなになってるんだ俺?
 まさかと思うが、もしかして、自覚が無いながらデートみたいな気持ちなんじゃないだろうな?なんだか段々自分が信じられなくなっていく。

 よく考えろ、今から行く所は浮かれ気分で良いような場所じゃないぞ。
 相手は怪異マガモノだと思われる。それなら、どんな弱い相手であっても油断は禁物だ。
 物心付いて以来、いや、物心付く前から、その事は“骨身にしみて”知っているはずだろ?

 そうやって自分に言い聞かせると、ようやく心臓のリズムが平常運転に戻る。
 念のため、鏡の中の自分の目を見て濁りが無い事を確かめた。
 うん、まあ、精神汚染とか自覚なしにやられるはずは無いんだけどな。ちょっと精神状態に不安があったんで念の為だ。

 あと、都市内は非武装地帯なんで少し迷ったが、攻守、雑用に何かと便利な狩猟ナイフを内着の上に装着したベルトに挿し、透明度の高い水晶と針入り水晶の基本二種の結晶体をそれぞれ二本、染みのない新しい懐紙を三十枚、所定の場所に収める。
 武器を装備したので、今まで仕舞い込んでいたチェーンを通した金属のライセンス板を引っ張り出して首から下げた。

「あー、なんでこんな事になっちまったかな?」

 もう二度と足を突っ込まないと決めた場所にまた飛び込もうとしている。
 嫌で嫌でしょうがなかった昔の無茶な修行とか、家の事情とか諸々を思い出してちょっとヘコんだ。



 俺に時間を操作する力など無いので、準備に手間取った分はきっちりと時間に反映される。
 到着した時間はどう見ても待ち合わせ時間を過ぎていた。まずい。

 しかも待ち合わせの場所へと近付くと、性懲りもなくまたも胸が高鳴って来た。
 何期待してるんだか、馬鹿だろ俺。
 頼りにされてそれが愛情に変化するとか、物語では王道だけどさ、世の中そんなに上手くはいかないぞ。
 いや、そうかな?よくよく前向きに考えてみると、王道と言うのはそういった流れになりやすいって事だよな。
 うっかりそんな風に考えた途端、心臓が痛いくらい張り切り始めやがった。
 どんだけ単純なんだ、俺の体。

「木村さん、こっちです!」

 その声に、どきりと、かつて無い激しさで心臓が鼓動した。

「お!おおう!丁度今来た所だ!」

 な、何言ってんだ俺!?
 彼女が先に来ててこっちを見付けたんだから、俺が今来たのは分かり切ってるだろ?馬鹿か?
 案の定、彼女、伊藤さんは「ぷっ」と噴き出す。
 しかし、
「私も今来た所です」
 そう言って、自分の言葉にウケたのかもう一度笑った。

「あはは、木村さんって案外楽しい人なんですね。私、うちの課の人達ってみんな凄い技術者で、難しい人ばっかりだと思ってました」
 なんか、スベらずに済んだ?フォロー入れてくれたのか?
「いや、そうでもないだろ。みんな結構お気楽だし。それに伊藤さん、いつもビシビシ俺たちに指示出してるじゃないか。書類の提出とかデータのバックアップとか」
「それは仕事ですから、そういう所で遠慮とかできませんし。でもみなさんいつも暗号みたいな会話していて、到底私には入り込めない世界だって思ってました」
 そんなもんなのか?
「伊藤さんて情報処理と経理を修めてるんだろ?俺はそっちに疎いから、逆に尊敬するけどな」
「なるほど、隣りの芝生は青いって事ですね」
「そうだな、そういう事か」
 そんな会話の内に、遅刻した上にテンパッて変な発言をした俺の気まずい思いはいつの間にか払拭されていた。
 これって分かってて伊藤さんが空気を変えてくれたのだろうか?
 もしそうなら凄い気遣いだ。自然すぎる。
 会社でもいつも元気が良くてフォローが上手い人だなって思ってたけど、こうやって一対一になると特にそういう部分に助けられるな。
 これは、彼女を拝んだら御利益がありそうな予感がする。ナム……。

「ええっと、木村さん、なんで私に向かって手を合わせているんですか?」
 あ、やばい、つい。
「いや、拝んどけばその処理能力のご相伴に預かれるかな?と」
「あは、じゃあ私も木村さんを拝んでみようかな?難しい事がわかるようになるかも?」
 おお、綺麗に俺のポカをフォローした。
 うん、これはあれだな。
 伊藤さんは基本的善性の持ち主なんだ。きっと。
 無能力である事も関係してるのか?いや、それは無いか。
 しかしちょっと羨ましい。

 そうやって色々と考える一方で、今日の彼女の服装を横目でチェックした。
 淡いサーモンピンクっていうのか?鮭の切り身の色のワンピース、模様として白い大振りの花柄が描かれている。
 その上に七分袖の白のカーディガンらしき物を羽織っていた。カーディガンのレースが細かくて、いかにも可愛らしい。
 いつもの仕事場での雰囲気と違って、彼女の小柄で可愛らしい雰囲気を全面に出した感じだった。

 これってもしかしておしゃれして来てる?
 えっと、……ちょっとは期待して良い……とか、ないよな。
 いや、有りか?

「あの、隔外になりますけど、良いですか?」
 自分の人生における重要問題で懊悩していた俺に、彼女は遠慮がちに声を掛けて来た。
 俺より背が低いのでちょっと上目使いになって、凄く良い。
「ああ、全然問題無い。ドーナツ地帯だろ?」
「そうなんです。土地付きだからどうしてもそうなっちゃったみたいで」
「いやいや、中央の隔外って一等地だろ、個人なんだし」

 そう、中央都は結印都市なので当然ながら結界に囲まれている。
 だが、常設の結界があるという事はその維持には巨費が掛かるという事だ。
 そうなると結界内の土地には固定資産税の他に守護基金という特別税みたいな物が必要で、ここに住むとなると馬鹿高い維持費を徴収される。
 なのでそんな余裕の無い一般都民は、結界のすぐ外の土地に家を建てて住む事が多い。
 それを上空から見ると、住宅地が都市を囲んでドーナツ状に固まっているのでドーナツ地区という通称が使われているのだ。
 都市用結界は、最近では地下に埋められたケーブルによって作られている。
 ケーブルで結界陣を作って、そこに常時電気を流しているのだ。

 これは昔によく使われていた結界陣と違って、線引をした内側だけに効果があるのではなく、そこから発する波動によってある程度の範囲までそこそこの効果を発揮する。
 なので、人々はこの範囲内に新たな外側の街を作り、そこで生活しているのだ。
 ちなみに、ドーナツ地区も住所的には中央都になっている。
 ややこしいんだよな。

「内寄りの200m以内なんです」
「へぇ、じゃあやっぱりそれなりに良い場所だな」
「そうなんです。だからうちのお父さん自慢しちゃって、恥ずかしいったら。……あ!そうだ」
 シャトル鉄道の改札を通りながら話しをしていた伊藤さんは、突然何かを思い出したように声を上げた。
「あのランプ、凄く効果ありました!両親共前みたいに戻って、私、凄くホッとして、今日木村さんに会ったら一番にお礼を言おうと思ってたんです。すっかり忘れてて、私ったら」
「あ、いや」
 彼女の勢いに、俺は少々焦る。
 何しろあのランプはあくまでも仮留めに過ぎない。
 しかも解除されると現象は以前より更に悪くなる可能性が高いのだ。
「あれはあくまでも一時的な処置だから、実際は何も事態は好転してないんだ」
 慌てて抗弁する。
 質の悪い仕事をして評価されるとか、これ程バツの悪い事はない。
 しかも、今回の件、正直俺は嫌々だったので尚更申し訳なかった。
「いえ、それでもお礼を言わせてください。だって、木村さんは本来何の関係も無いのに親身になってくださったんですから。本当にありがとうございました」
 駅の通路、衆目の中で連れの女性にペコリと頭を下げられるという、非現実的な光景。

 も、もしかして、これは俺のいい加減さに対する罰なのかも?
 オタオタとする俺の心の声は誰にも届かず、伊藤さんのフォロー能力はここでは発揮されないようだった。



[34743] 15、古民家は要注意物件 その四
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2012/09/04 21:33
 駅からほぼ30分定期で出ている北部方面のシャトルに乗り込み、結界外へと向かう。
 結界とは言っても、実の所壁のような明確な物がある訳では無い。
 上空から見下ろせば、建物の密集した都市と住宅地の間を、何もない帯状地帯が円を描いているという事が分かるだろうが、それだけだ。

 昔、といっても、まだ百年そこそこだが、その頃ぐらいまでは、人口の多い都市部の周辺には本当に強固な壁があり、人や獣、そして災害クラスの怪異モンスターから人々を守っていた。
 壁で防げるのは、体を持った怪異、俗に言うモンスタークラスだが、実際にはどのくらい効果があったのかは不明だ。
 しかも実体化をしていない怪異マガモノはほぼ放置状態で、街中ではしょっちゅう連中の絡む事件が起こっていたらしい。
 だが、今やそんな古典的な防壁に頼っている大都市は存在しない。
 地方都市のいくつか、貧しい国々とかはまだまだそういう防壁も現役らしいが、かの錬金学修士であり、物理学の権威でもあった、アイシタイとかアルバムとかいうゲルマン人が、コイル状光粒子振動帯なる力場の発生プロセスを確立させて以来、人類は、ついに自らをも封じていた不自由な壁から開放されたのだ。

 この結界素材は、常時通電の必要はあるものの、それまで結界と言えば術者が行使する強力だが短時間しか効果が無い物、鉱物を使った消耗率の激しい物、象徴を使った自意識があるモノにしか効かない物、そんな、一長一短で決して使い勝手の良いものでは無いという認識を、根本から考え直させる革命的発明だったのである。

 これが発表されるやいなや、たちまちいくつかの国の首脳達によって議論され、防衛部隊によって実践に生かされ、その有効性が確認されていくと、あっという間に世界中に広まる事となった。

 しかしまあ、これだけポピュラーな技術なんで、これの勉強は随分やった。
 高校の基礎理論、大学で応用技術として苦労しながら習ったものだ。
 あの頃、決死の覚悟でやった勉強は、忘れようとしても忘れられない記憶として残っている。
 そして、いらん事を思い出したせいで、釣られるようにゴボゴボと汚水のごとく記憶が溢れて来た。

 家族の総反対の中、自力で大学に入る為には成績上位での奨学生枠を取る必要があった。
 今考えると、当時は結構無茶な詰め込み学習をしていたと思う。
 おかげで今や、当時の勉強の事を考えると気分が悪くなるようになってしまった。

 俺は頭を振ってそれらを一緒くたに脳内ゴミ箱に放り込んだ。

 シャトル列車の前方で、レールを伴った跳ね橋がゆっくりと下りる。
 結界の中と外を繋げる道の完成だ。

 そこ・・を通り過ぎる刹那、列車内で思い思いに交わされていた会話が途切れ、僅かな緊張の混ざる静寂が訪れる。
 この電気的結界は、決して人体に影響しないと保証されてはいるが、どうも、誰もがなんとなく緊張してしまう何かがあった。
 実際、ケーブルの上の帯状の土地も、建物を建てる事は禁じられているものの、別に立ち入り制限はされていない。
 だが、その上に人影を認める事は極めて稀だ。
 せいぜいが反抗期の若い連中が原動車バイクを転がしているぐらいだろう。
 やはり、なんとなくだが、誰もがそれに畏れを感じるのだ。

 結界とは断つ物。
 怪異とは本質的に思念であり、想念だ。
 それを断つという事は、人の意識をも断ってしまえるのではないか?
 そんな風にまことしやかに囁く声が絶えない。

 といっても、そんな不安は一瞬の物。列車は何事も無く当然のように繋がった跳ね橋を渡り、そして僅かな時間で渡りきった所、そこはもう隔外だ。

 そこからは、風景が一変する。
 鬼瓦に守られた瓦屋根の家々。
 一時代前のこの国では極一般的だった都市部の風景がそこには広がっていた。
 現在中央の都に立ち並ぶ巨大なビル群など、昔なら災厄を招くだけの物として、誰もあえて建てようなどとは思わなかった時代があったのである。
 なんといってもバベルの塔の災厄の話は有名だったしな。

 だが、常時発動の結界に守られて、人はその反動のように技術の粋を凝らして頑丈で高いコンクリートのビルを次々と建てた。
 そして人々は、結界の加護の下に急激に文明を発展させ、生じた文化を謳歌するようになったのである。

 もはや闇の時代は終わったと誰もが思っていても、それは責められるべき事じゃないだろう。

 さてさて、うん、窓越しに眺める街の風景はちょっとだけ故郷を彷彿とさせるような風景だけど、所々に粗が見えるんだよな。
 一度もメンテナンスしてなさそうな鬼瓦とか、庭にある欠けた灯籠とか。
 まあでもそれは、この辺りでは大して守護は必要とされてないって事を表しているんだろうから、喜ばしい事なのだろうなぁとは思うのだが、なんとなく釈然としない。
 危機感の喪失だけならまだ良いが、先人から受け継いだ知恵が失われてしまうような時代が近い内に訪れてしまいそうで不安になるのだ。

 人が守られる事に慣れたからと言っても、世界のことわり自体は変わらずに存在し、怪異は生まれ続けている。
 今になって、浩二の奴が何を心配していたのかが分かるような気がした。


「木村さん、あそこです」
 隔外ニ番駅に降り、延々と続く、似たような風景で迷路さながらの住宅街に恐々としながら歩いていた俺に、伊藤さんが声を掛けて来た。
 顔を上げて示された方を見ると、この辺りはそれまでと趣を変えて、田舎の風景風にデザインされた一画なのだろう。
 様式はバラバラだったが、本格的な造りの田舎家が並んでいた。
 その中に在って、伊藤さんの示した家屋はごく普通に見える。
 だが、それは何も知らない奴が見た場合だ。

「おいおい、こりゃあ不動産免許一発取り消しクラスのポカだろ」
「どういう事ですか?」
 俺の呟きに伊藤さんが不安げな顔になる。
 一瞬しまったかな?と思ったが、ここは下手に隠すよりも問題点をはっきりさせておいた方が良いだろうと思い直した。

「伊藤さん、この家は実際にどっかの村から運んだ物だと思うんだけど、間違いないかな?」
「あ、はい。それも父の自慢で、凄く良い状態の古民家が手に入ったって……喜んでて、」
 言葉が不安そうに途切れる。
 つまり古民家風ではなく、実際にどこかにあった古民家をここまで持って来たって事だ。ご苦労様。
 まあ状態はそりゃあ綺麗だったろうな。実際に人が住む事などなかっただろうし、状態維持の呪いがあちこちに使われているはずだ。
 しかし、不動産屋専属の風水師は何やってたんだ?
 急いで納品したんで確認しなかったとか、そんな間抜けな事情じゃないだろうな?

「えっとだな、僻地の集落では時々あるんだが。その、いわゆる対怪異バケモノの害虫捕獲器みたいな物だと思ってもらえば分かり易い、かな?」
 しばしの沈黙。

「えっ!ええっ!台所の黒い悪魔を捕獲するのと同じという事ですか?」
「うん、まあその、ゴキブリさんいらっしゃ~いじゃなくて、怪異バケモノさんいらっしゃ~いって所か」

「そ、そんな」

 ショックのあまりに絶句。
 正にそんな感じで固まる彼女の様子に、もうちょっと言い方が他にあったかもしれないと反省する俺なのだった。



[34743] 16、古民家は要注意物件 その五
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2012/09/12 22:31
 屋根を見る。
 本来鬼瓦が乗るべき所に鯉を象った瓦がある。
 一見すると、城などの屋根にあるしゃちほこを思い起こさせるが、両者は似て異なる物だ。
 鯉はその音の響きから招きの意味を持つし、やがて龍に変ずるの古事から貪欲に力を望む怪異に通じる。
 観念が現象と直結するというこの世のことわりから見れば、その意味する所は明確だ。

 一方で、門はこの古民家と共に移動して来た物では無く、新たに作られた物らしく、門柱は左右対象に、門扉も両方を合わせれば守護の型が完成するように、きちんと造られていた。
「ここは問題無いな」
 だが、俺はその門の守護印に何か引っ掛かりを覚えた。
 洋式なのは最近の流行なのでまあ良い。
 古民家の門扉としてはどうかとは思うが、そこは好き好きだしな。
 ただ、聖光印という少し独特な物を使っているんだよな。
 この印を使うのはとある宗教関係者が多い。
 別に因縁があるとかじゃないが、あちらからは一方的に嫌悪されている身なんで、もし連中が絡んでるならやり難いな。

 うー、嫌な予感しかしねえ。

「木村さん?」
 おっと、考え込んでいたら伊藤さんが不安そうに声を掛けて来た。
 やばい。
「いや、大丈夫。立派な門だなと思ってただけだよ」
「そうですか」
 声が暗い。
 そりゃあ自分家じぶんちが害虫捕獲器と同じとか言われたらショックだよな。
 ちょっと言葉を選ぶべきでした。すみません。
 こういう気を回せない性格をいっつも弟には怒られてたんだが、正直油断してた。
 何かフォロー入れたいけど、そんな事が出来るようなら最初からやらかしてないんだよ。
 俺ってほんと、駄目だよな。

 門を入って庭へと続く道には鹿威ししおどしもあって、ちゃんと稼動しているし、手入れもされているようだ。
 だが、家の床下が素通しで、柱に付いている鼠返しに大きな切れ目があったり、ちょっと見ればおかしいと気付ける要素がそこらに転がっている。

 取り扱った業者に、知識があるのか無いのかよく分からない対処だ。
 下手すると知識が偏っている、一番使えないタイプの専門家か?

「あっと、とりあえずお邪魔しても良いかな?」
 困ったように俺を見ている伊藤さんに遅まきながらフォローっぽいごまかしを入れてみる。
「あ、はい、大丈夫です。どうぞ。……ちょっと、お母さん!いる!?」
 言うが早いか、伊藤さんは俺を玄関に導いて、自分で引き戸をカラカラと開けると、母親を呼びながら広い玄関のたたきに靴を揃えて上がり、俺の為のスリッパを用意してくれた。
 スリッパとか、他所の会社でしか履いた事ないぞ。

 玄関には花瓶がある。
 しかし、残念ながら外国産の花が飾ってあり、位階の高い梅やら菊などは全く見当たらない。
 せめて百合とか、いや白い花や紫の花があるだけでも違うんだがな。
 玄関に飾られているのは何の力も持たない、優しいパステルカラーのただ可愛らしいだけの花だ。

 ……ああいや、違う、そうじゃないんだ。
 彼女は、彼女達家族は、周囲に配置する物一つ一つにも神経を尖らせて身を守らなければならないような環境に生きた経験などないに違いない。
 だから、ただ単純に綺麗だから花を飾って楽しむ。
 それが当たり前の環境で生きて来たのだろう。

「良いなあ、こういうのは」
「え?」
 思わず口走った俺が見ていたのが花瓶の花だと気付いて、伊藤さんは照れたように笑った。
「あ、この花ですか?ちょっと雑誌を参考に飾ってみたんです。ずっとアパート暮らしでこんな広い家初めてで、やっぱりこういう家の玄関には何か飾らないとおかしいでしょう?」
 な、何?この娘?

 女の子ってあれだよな?可愛いけど打算的で、常にこっちの隙を窺っているような。
 手の中に切り札を隠し持ってて、絶対にそれをオープンにはしないような、そんな生き物だよな?

 これじゃあまるで、無邪気な子犬みたいだ。
 自分でそう判断しておいてあれだけど、本当に本当で根っこが善性なんて人間がマジに実在していいものだろうか?
 いや、いるのかもしれない。偏見は駄目だ、世界を悪い方へ傾ける愚行だ。

「か、可愛くて良いんじゃないか?」
 あくまで花の話だぞ。
「そうですか、家族以外の人に褒められるのは嬉しいですね。たとえお世辞でも」
 自分でそう落としてアハハと笑うと、彼女は俺にぺこりと頭を下げて、改めて奥へと顔を向ける。
「お母さん、いないの?」
「はいはい、もうこの娘は忙しないったら。……あら、いらっしゃいませ?」

 奥からゆっくり現れたのは、いかにもご近所のおばちゃんという感じの女性だった。
 少しぽっちゃり気味だが太っているという程じゃない。
 そのにこやかな丸顔が伊藤さんによく似ていた。
 まあ家族なんだから当たり前だが。

「あら?ってお母さん、昨日言ってたじゃない、会社の人が古民家に興味があるから今日は見に来るよって」
 うん、そういう打ち合わせなんだよな。
 あんまり交流の無い会社の同僚が家に遊びに来る言い訳としては順当な所だろう。
 興味があるんなら詳しくて当然だし、色々言い易いってのもあるし。

 それはそうとして、
「あら?そうだったかしら。最近どうも忘れっぽくってごめんなさいね」
「もう、しっかりしてよね」
「あの」
 会話している親子の間に割り込むという多少の不作法ぶりを発揮して、俺は伊藤母に声を掛けた。
「お母さんはもしかして背中から肩に掛けて重いとか痛いという感じはありませんか?」
 割り込んで来た上にいきなり変な事を聞いた俺に、二人は怪訝な顔を向けた。

 まあそれは当然と言えば当然だ。
 俺だって突然そんな事を言い出す奴がいたら怪しく思う。
「そ、そうね。そういえば最近背中が酷く痛む事があるわ」
「そうでしょう。見た感じ少しズレがあるみたいですよ。良かったらちょっと診せて貰えませんか?これでも少々心得があるんです」

 どうやら伊藤母は、娘の同僚という事で拒絶するのをためらっているようだった。
 こういう場合は畳み掛けるに限る。
「凄く簡単なんですよ。痛くもないですし」
 言いながらするりと背後に回ると、有無をいわさずに人差し指の第二関節と親指を両肩に押し当て、そこを起点に背骨の第四胸椎の両脇まで線を引くようにやや強めに押しながら移動させ、その両手を素早く外すと、形を手刀とした左手で軽く十二、肩甲骨の下を斬るように叩く。

「どうですか?」
 俺の行動があまりに無遠慮に行われた為、反応が返せずにいた二人がようやく我に返る。
「あ、あの木村さん?」
「あら、ほんと。なんだか凄くすっきりしたわ。凄いのね」
 我ながらちょっと言い訳のし辛い行動だったが、伊藤母に取り憑いていたもやのような怪異は陽光の下の雪の一片のように解け消えた。
 迷宮ダンジョンによくいる惑わしガスという怪異だが、通常空間では本来存在すら出来ない儚い怪異だ。
 逆に言えばこんな奴が人にとりつける程、この家の瘴気が濃いという事だろう。
「少し囓った程度ですけど、お役に立てたのなら良かったです。そうそう、今、伊藤さん……娘さんとも話してたのですけど、ちょっと気になる事がありまして」

 伊藤母は明らかに畳み掛けに弱い。
 ここは一気に行くべきだと判断した俺は、伊藤さんに目配せをした。
 なぜか戸惑ってワタワタしていた彼女だったが、この合図に、俺の意図を汲み取ってうなずきを返してくれる。

「気になる事ですか?」
「はい、このお宅の事なんですが、少しおかしい部分が見受けられるんです。出来れば詳しい事を聞きたいので、この家を建てた時の不動産屋さんを紹介していただきたいのですが」
「ほう、それは私も興味があるな。是非聞きたいものだ」

 たたきを上がってすぐの所で話しをしていた俺たち、いや俺を、じっと睨むように見ながら、玄関の引き戸を手早く開けて入って来たのは、やたら体格の良い男性だった。
 うちの弟の戦闘仕様の作務衣も大概あれだったが、この男の場違いぶりも凄い。

 今時和服を着て過ごしているのも違和感があるといえばあるが、なにより薄い茶髪に青っぽい目、やたら白い肌に胸元から覗く胸毛が、恐ろしいぐらいのアンマッチ感を醸し出している。
 そう、その男は和服を着こなしたごっつい外国人だったのだ。

「お父さん!」

 え?伊藤さんハーフだったんだ。
 その言葉でおれが最初に思ったのは、そんなのどうでも良いだろ!?ってツッコみたくなるような、そんな感想だった。



[34743] 17、古民家は要注意物件 その六
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2012/09/12 22:31
「そうか、うちの娘と同じ職場の方でしたか」
 伊藤父の登場で、玄関で停滞していた俺達は、立ち話もなんだからとぞろぞろと揃ってリビングに移動する事になった。
 リビングと言っても、囲炉裏を囲んだ板間で、燻られ磨かれた黒艶の美しい床板に、イグサで編んだ座布団が敷いてある。
 古民家と言っても、室内は現代風にアレンジするのが一般的だが、この囲炉裏端と良い、この家には徹底したこだわりが感じられた。
 なんとこの囲炉裏もちゃんと実用に耐えるらしい。起こした炭の上には鈎に掛けられた鉄瓶が湯気を吐いていた。
「私はジェームズ・伊藤、その娘の父だ」
 そんなに激しくお父さんを強調しなくても分かりますよ?
 というか、伊藤ってどっちの姓なんだ?普通に考えればお母さんの家にお父さんが入ったって感じなのか?
 もう分かりましたので値踏みするように眺めるのは止めてください、伊藤父改めジェームズ氏。
 なんか雰囲気に呑まれて、つい、「お嬢さんをください」とか言い出してしまいたくなるぞ。

「それで、この家の問題点とはなんだ?」
 ズバリと直球。
 ちょっとだらけかけた気持ちが叩き起こされる声の鋭さだ。
「はい。俺の見た所、この家は元々は集怪所、怪異を集める為の住居です。しかも、その仕掛けの多くがまだ生きていて、大変危険な状態です」
 伊藤さんのご両親は、俺の言葉に酷く驚いた顔になる。
 まあ、そりゃそうだろう。
「ふむ、それはしかしおかしいな」
 伊藤父、ジェームズ氏は、鋭い目付きで俺を推し量るように見据えて来た。
「というと?」
「私は実は若い頃は冒険者をやっていてね」
 ピクリと自分の口元がひきつるのを感じる。
 伊藤父もそれに気付いて苦い笑みを浮かべた。
 あー、俺、腹芸とか出来んから、ここは勘弁して欲しい。でも、失礼だったよな、申し訳ない。

「どうやらご存じのようだが、一応説明しておくと、怪異を倒して世界中を周る仕事だな。業界内では“死肉漁り”とも呼ばれているような、まあ、嫌われ者だった」
「お父さん?」
 その自虐的な言葉に、伊藤さんは不思議そうな顔で父親の顔を見た。
 どうやらその手の昔の話を娘にはしていなかったっぽい。
 なんかつくづく申し訳ない。今回の件で伊藤さんに恨まれなければ良いけどな。
 なんか溜め息を吐きたくなって来た。

「私はそれ程実力のある冒険者では無かったから迷宮ダンジョンに挑んだりはしなかったが、オープンフィールドにおいて何度も連中とは戦った経験がある。その私が連中の気配に気付かないとでも言うのかな?」
 なるほど、確かに分かる理屈だ。
 怪異という存在には、一種独特の気配がある。
 命のやり取りの中でそれを感じていたというのならそう考えてもおかしくは無いな。

「それでは逆にお尋ねしますが、あなた方は何かおかしいと思われた事は無かったのですか?」
「おかしいと思った事だと?」
「そうですね。たとえば鏡を見るととてつもない恐怖を感じて近付けなかった、とか」
 その俺の言葉に、伊藤さんのご両親それぞれの顔色が変わった。
 洗顔、髭剃り、化粧。それらに共通するのは鏡を覗き込む行為だ。
 “人”は鏡に普段恐怖を感じたりはしない。だが、怪異は違う。
 さすがに、伊藤父は理解を示し、直ぐに表情を改めて俺の顔を見る。
「なるほど“障り”か。日常の中で起これば、本人にすら違和感を覚えさせないと言うが、……今思い返してみると、確かに自分でも私の行動はおかしかったと思える。なるほどな、こういうものなのだな、不思議な物だ」

 “障り”。
 怪異として存在し始めた意識だけが形を持った物に一時的に入り込む事を言う。
 疳の虫、魔が差す、様々な言い回しがあるが、ともかく怪異の初期も初期の段階で起こる軽い事故のような事柄だ。
 
「最近は経験しない人の方が増えてきたと言いますし、周囲に勘の良い人間がいなければ見過ごされるようなほんの僅かな変化ですからね。そもそも怪異とも言えない程度の些細なもののしわざですから」
「それで、なんで鏡なんだ?」
「怪異の存在というのは初期は酷く薄い物です。彼らは鏡面に映る世界と現実の世界の区別がつかない。だから、彼らもそれに本能的な恐怖を感じるのです。実際に鏡は素人でも使い易い封印具でもあります。昔、いえ、今も、山間部の隔離された小さな村では怪異の脅威を自分達の知恵と工夫でなんとかしなければなりませんからそういう弱点は良い狙い目なんです。実際田舎の方に行けば今でも鏡にまだ自我の薄い怪異を封じる罠があります」
 ジェームズ氏は苦々しい顔になる。
「なるほど封具か、迷宮組なら絡め手も常套手段。連中なら思い付きもしたのだろうな……」

 え?いやいや、オープンフィールドの冒険者だって封具ぐらい使うよね?
 まさか全然使わないでやって来たのかこの人達?脳筋も過ぎるだろ、まさか前衛アタッカーしかいなかったとか?
 ……いや、まあそれでやっていけてたんだから問題無いのか?
 今まで思っていたよりアバウトそうだな冒険者ってのは。

「つまり、私達が訳も無く鏡の前に立つ事を拒絶していたのは、知らぬ内に怪異に汚染されていたから、という事か」
「やはり心当たりがお有りなんですね」
 ジェームズ氏は俺の問いに獰猛な笑みを浮かべてみせる。
「さすがに今更白々しいだろう。君は娘から私達の様子を聞いたからこそ来たのではないのかね?」
 う……っ、まあ、ばれるよなそりゃ。

「ええ、実はそうなんです。ご両親がなにか様子がおかしいという事で相談されましてね。それで見に来てみたのですが、あまりにもはっきりと仕掛けが残っていて驚きました。これは明らかな不動産屋の手落ちですから、ちゃんと相談すれば良いと思います」
「なるほどな、それで不動産屋と連絡を取るようにと言っていた訳か」
 ジェームズ氏は鼻を鳴らすと、小さく悪態を吐いた。
 って、あれ、今のって、極軽いけど呪いの文句じゃないか?もしかして俺、呪われた?
「あの」
 そんな俺達のやり取りの最中に、それまでじっと話しを聞いていた伊藤さんが手を上げて発言を求めた。
 いや、ここ学校とかじゃないから、別に手を上げる必要は無いと思うんだが、いやいや、もしかするとこの家の独特の決まりなのかも?
 そう思ってご両親の顔を窺うと、その顔にそれぞれなりの苦笑が浮かんでいる。
 なるほど、この娘さんはまごうかたなき天然なのですね。
「どうした?」
 そんな、小学生か!?とツッコミたいぐらい、おずおずとした態度で手を上げ続けている娘を見かねたのか、ジェームズ氏が話を促した。

「あ、はい。その、今までのお話しの流れだと、父さんと母さんに怪異が憑依したみたいなんですけど。悪い影響は無いんでしょうか?」
 そうか、気になるよな。
 伊藤さんにとっては自分が全く感じ取れない世界の出来事、いわば異次元の世界のお話のような物だ。
 逆に俺の側からしてみても、波動の影響を全く受けないという事がどういう事か全く分からない。
 日常生活ならさしたる問題はない。
 伊藤さんは自動ドアに触れないと動かせないし、一部の特殊な芸術を観賞する事も出来ない。
 だが、その程度だ。
 なので彼女は日常で不便を感じるような事はあまり無いだろう。
 なにしろ無能力者、霊的不感症の人はそこそこの数が存在するし、現代社会は少数派を切り捨てないで良い程度の余裕がある。
 だけど、オカルトの世界にあっては、何一つとして彼女には触れる事が出来ないものばかりなのだ。
 固定化して存在を固めたような連中はともかくとして、一般的な怪異では、彼女は見る事も影響を受ける事もなく、目前で怪異が踊っていたとしても、決してそれを見る事は無い。
 それだからこそ、他人がどれだけ怪異の影響を受けようと、それを伊藤さんは理解する事が出来ないのだ。

 給湯室の時もそうだったが、自分以外が訴える、恐怖も嫌悪も伊藤さんには届かない。
 もしかすると、伊藤さんはそれを経験の共有を拒絶されているようにも感じてしまっているのかもしれない。
 頭では自分の体質を理解しても、感情が納得できるかは別だ。
 親しい者同士、特に家族であればそれは大きな不安に繋がっているのではないだろうか?

「大丈夫、伊藤さんが気付いたのが早かったおかげで憑依には至ってませんでしたよ。この程度なら昔はよくあった“障り”程度でしかありません」
「じゃあ心配は無いんですね」
「伊藤さんのお手柄ですね」
 俺がそう言うと、心からホッとしたように伊藤さんは頬を緩めた。
「あ、お茶しか出してなくてすみません!何か持って来ますね」
 ションボリが治ったと思えば、なんという軽やかな動き。
 正しい客人としては、ここは一度は遠慮するものなのだろうが、そんな隙もなかったぜ。

「それであの、不動産屋さんの方は?」
「ああ待ってくれ。すぐ契約書類を出して来る」
 うん、こっちはさすが元冒険者、普通に行動が早い。
 それは伊藤さんとは違うベクトルでの隙の無さだ。
 しかもジェームズ氏、一目見ただけで分かる外国の人なのに、倭国語ペラペラだ。
 冒険者は職業柄、数か国語は母国語同様に操るって話も聞くが、それってそれなりのクラスの人達の話のはずだし。

 ううむ、伊藤父侮り難し。まだまだその懐は深そうだ。

「お茶のお代わりどうですか?」
 伊藤さんのお母さん(そういえば名前を聞いていなかった)が、ほんわかとした笑顔でそう言った。
「あ、はいありがたく」
 うん、良いご夫婦だな。ちょっと羨ましい。



 という訳で後は業者に任せて俺の役割は終わり。の、はずだったんだがなあ……。




「キャアア!お母さん!伏せて!」
「ヒイイ!た、助けてくれっ!」
「きさまっ!なんとかしろ!」
 眼前で繰り広げられる平穏とかけ離れた場面シーン
 うん、これは正しく阿鼻叫喚の図だな。

「ふう」
 溜め息が重い。
 ……どうしてこうなった。



[34743] 18、古民家は要注意物件 その七
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2012/09/19 22:56
「これから直ぐに来るそうだ。すまないが説明の為に同席して貰えないか?」
 不動産屋に連絡を入れた伊藤父、ジェームズ氏がそう言ったのは、まあ想定内だった。
 おそらく俺にしか説明出来ない部分もあるだろうからだ。
 だが、こういう契約の履行やサポート内容の確認なんかは、結局の所契約者当人が主体であって、弁護士でもない限り他人の出番などないもんだ。
 という事は、俺の立場は単なるサポートに過ぎないので、実際はあまり気にしなかった。
「それにしても今直ぐですか、なかなか対応は悪くない感じですね」
「ああ、この家を建てる時もかなり色々と便宜して貰ったからな。今回不備があったとしても出来るだけ穏便に済ませられればその方が良いと思っている」
「そうですね。それに裁判になったりするといろいろ面倒ではありますし」
 まあ物的証拠は有り過ぎる程なので敗訴は有り得ないが、一般家庭でそういう面倒事は敬遠するのは当たり前だろう。
 と、そこまで考えて、冒険者という職種がそういう裁判沙汰のスペシャリストである事を思い出した。
 そういや何とか言う互助組織があったような。
 元冒険者のお父さん的にはその辺は平気なのかもしれないな。
 そんな様々な事を考えながらお茶とお茶菓子をいただき(このお茶菓子が伊藤さんの用意していた手作りのクッキーで、伊藤父の視線が痛かった)、暫くまったりした頃に、くだんの不動産屋が来訪したのだった。

 その相手を一目見た途端、俺は最初に門を見た時に感じた嫌な予感が現実のものになった事を知った。

 不動産屋自体には問題は無かった。
 正に平身低頭の見本のような低姿勢で主人であるジェームズ氏に対応している。
 問題は一緒にやって来たその不動産屋のアドバイザーだ。
 胸に下げられた木製の聖印、両手の守護印入りの黒皮の手袋、間違なく正統教会の牧童シープドックだ。
 普通は不動産屋のアドバイザーといえば風水士がやるものだが、それ以外でも総合呪術の正規資格があれば資格的に問題は無い。
 しかし、こいつらの教義は極端で、我が国の風土とはあまり馴染まず、社会に溶け込んでないのが現状で、これはかなりのレアケースと言って良い。
 なにしろ彼等の教義では怪異マガモノは全て悪魔ゆうわくしゃと呼ばれ、絶対的な悪として断罪される。
 それに対して我が国は、自然発生系の怪異せいれいを土地神として信仰対象にしている地方が多々あるのだ。
 いや、そもそもがこの国の国神からして、彼等からすれば悪魔の一体に過ぎないというのだから、どう考えても上手く行くはずが無かった。

 そのレアなアドバイザーの男は、最初からあからさまに苛立っていて、ちらちらと周囲に走らせる視線がいかにも粗を探していますよ的でむちゃくちゃ不安である。
「なるほど、変わった飾り瓦だとは思っていましたが、まさか呪物だとは。うちの落ち度に違いありません。本当にご迷惑をお掛けしました」
 不動産屋が恐縮しきりにそう言っているのを聞いて、さすがに俺の杞憂だったかと安心をしたその時を狙っていたかのように、その男は口を開いた。
「確かに集魔の仕掛けを見逃したのはこちらの手落ち、言い訳はいたしますまい。しかし、床の間にあった要の魔鏡はきちんとした処理を終えています。そのように人に仇なす程、この家に魔物が集まるはずがない」
 なんだこいつ。
 はずがないって、実際に被害にあってるんだから現実を見ろよ。
 正直俺はカチンと来た。
 謝っているのは口先だけで、最終的な責任をこっちに持たせようとしているように聞こえたのだ。
 見た所、この男は純粋な倭人にほんじんだ。
 倭人でシープドックというのは余程優秀でないとなれないはずで、つまりこの男はそれなりに優秀なのだろう。
 デスクワーク専門の公務員のような陰気な風貌だが、牧童シープドックというのは正統教会における戦闘部門、いわゆる悪魔払いエクソシストだ。
 文字通り教えを守護する番犬である。
 多くが先祖代々正統教徒で、頭が堅く血の気が多い連中がそろっているのだ。
 そこへ割り込むのだからかなりのものだろう。
 プライドが高いのも当然だ。
 だが、だからといって不当な言い掛かりをしていいはずもない。

 しかしどうでもいいが、シープドックを牧童と誤訳して、更に訂正なしにそのまま使われているのはなぜなんだろう。
 どうでも良い事なんだろうが凄く気になる。

「その鏡が封具なんだから当然だろう。集められたは良いが封じられる事の無くなった怪異が障りを成すのはむしろ自然な流れだし、その程度で済んだ事に感謝すべきじゃないのか?」
 俺はイライラした気持ちのままつい口を出してしまった。
 案の定、その正統教会の男がこちらをぎろりと睨んで来る。
「極めて専門的な話しをしているのだ。素人は口を挟まないでくれ」
 神経質に顔面を強ばらせているその顔を見て、唐突に俺は悟った。
 こいつは"謝れない"人種なのだと。
 このタイプは技術屋に多いが、自分の間違いを絶対に認める事が出来ないのだ。
 きっと認めたら死ぬと思ってるんじゃね?ってぐらい謝らない。
 そう理解すると、今度はちょっとそいつが哀れになって来てしまった。
「こういう隔離された地域で発展した呪法については知らなくても別段おかしくは無いですよ。資料として纏められてもいないし、経験で補って行く方面の知識です。そういきり立たずに今回の事は勉強だと思えば良いじゃないですか」
 ところが、どうやらこれが決定的に悪かったらしい。
 きっとど素人に嘗められたと思っちまったんだろうな。
 奴は青筋を立ててがばりと立ち上がると、あろう事か部屋に飾ってあるある物に一直線に歩み寄り、それをいきなりぐしゃりと握りつぶした。
「これだ!いかにもな邪悪な異教の呪物!これが原因だ!」
 そう叫んでそいつが壊したのは、そう、例の一時的な魔除けの為に俺が作ったランプだった。
「おい!」
 器物破損とか他術士の呪具破壊とかそれだけで立件できそうな現行犯罪はともかくとして、それはあまりにも馬鹿げた行ないだった。

 それについて何か文句を投げつける暇すらなく、それまで霞みのように薄く散っていた気配が急激に高まる。
 ぞぞっと体中の産毛が逆立つ感覚がする。
「きゃああああ!」
 ただ一人、本来怪異の影響を受けないはずの伊藤さんの悲鳴が響き渡った。
 そう、彼女にも見える状態に、それはなりつつあったのだ。


 それはそら恐ろしく、同時に、たとえようもなく美しい光景だった。

 千差万別の色合いと形を持った怪異共が、絡まり綾なし、一つの形を作り上げて行く。
「ちっ!」
「天の高きにおわす我らが主神よ……」
 伊藤さんの悲鳴と前後するように、二つの意思を持った声と動きも捉える。
 舌打ちは伊藤父のジェームズ氏である。
 思わず腰にやった手が空振った事に対するものだろう。
 冒険者時代に培った反射的な動きで戦闘に備えようとしたものの、平和な自宅で武装しているはずもなく、得物の無い状態を確認してしまったのだ。
 こうなったら無手で対処せざるを得ない。
 顕現した怪異相手にそれがどれだけ無謀か、実戦経験があるだけに骨身に染みて知っているに違いない。

 もう一人は当然あの犬野郎だ。
 こっちは攻撃より先に防御を選んだらしい。
 あの聖句の出だしからすると、完成すれば庇護の祈りになるはずだ。
 野郎、自分だけ守られようとしやがったら、後で生まれて来た事を後悔するような恥ずかしい目に遭わせてやるからな!

 ほぼ完璧な一般人である伊藤さん、伊藤母、不動産屋は、それぞれが茫然自失の体で、まだしも悲鳴を上げられただけでも伊藤さんは肝が座ってる部類だろう。

 周囲の、それらの状況を頭の片隅に置いて、俺は目前の怪異から目を離さずにいた。
 それにしても、怪異が固定化けんげんする瞬間を生まれて初めて目撃する事になったぞ!
 大気とことわりが歪められ、息苦しい。

 この、腹の底からふつふつと沸き立つのは敵意だろうか?
 血の深く、細胞の一片までに刻み込まれた本能が、“それ”を敵だと認識する。

 鮮やかに織り上がったその姿は、まるで空中を泳ぐ魚だ。
 ヤイバのような鱗とヒレ、大きく開いた口には、肉を噛み裂く鋭い歯がびっしりと並んでいる。
 ヤツ・・も紛れも無い敵意を宿し、天井スレスレの高みから居並ぶ人間共を睥睨した。
 ギラリとまなこを光らせた次の瞬間、弱そうな獲物と見てとった相手に襲いかかる。

「お母さん伏せて!」
 意外な気丈さで、伊藤さんは母親に指示を飛ばす。
 だがそれより早く、完成した正統教会の聖句が、非戦闘員と見なされた三人を包む護法の光となって攻撃を弾いた。
 良くやった。なるほどワンコも実は悪い奴じゃないんだろう。
 よしよし、後でボコボコにするぐらいで勘弁してやろうじゃないか。

「全く、冗談じゃない」
 ぼやきが口から漏れる。気分は最悪、最低だ。
「こんなことなら色々無駄に考えずに最初からやっとけば良かったよ」
 シャリンと僅かな擦れの音を発し、黒打ちのナイフが鞘走る。
 鈍い色のその刃は、それでもその役割を示すように薄く光を弾いた。
「消えろ、バケモノ」
 冷えていく頭の奥、冷徹で残酷な本能の囁きを聞きながら。
 それでも俺の本質の一部は、今から起こる戦いを面倒くさいと思ってしまっていたのだった。



[34743] 19、古民家は要注意物件 その八
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2012/09/27 00:51
 怪異モンスターの銀鱗が手の中のナイフよりも鋭い輝きを放つ。
 どうやら武器を持つ俺に気付いて攻撃の優先順を変えたらしい。
 弱さよりも危険性を優先する。
 それはいかにも死に怯える生物らしい選択だ。

 怪異は、固定化されるまでは不滅の存在だ。
 散らしたり封印したりは出来るが、一度発生した怪異はその元となる概念が滅びない限りは消え去る事はない。
 だが、固定化し顕現した怪異は、肉体を得るのと同時に生物の業をも背負う。
 そう、固定化した怪異モンスターは死ぬのだ。

 とは言っても、連中には寿命が無いし、滅ぼしたはずなのに復活した例など枚挙に暇がない程ある話なので、やっかいな事には違いは無いが、ともかく、連中は死ぬからこそ本能的にそれを恐れる。

「よしよし良い子だ。来いよ、相手してやるぜ」
 怪物然とした魚野郎の、体と同じ銀色をした目に狡猾な光が浮かぶ。
 先ほどのようにすぐさま突進する事なく、グッとその全身をたわめると、その周囲に光のもやのような物が渦巻き始めた。

「気をつけろ!魔法が来るぞ!」
 昔取った杵柄、伊藤父、ジェームズ氏が素早く気配を察知してこちらに警告を飛ばす。
 固定化した怪異モンスターのやっかいな所はこれだ。
 人間は道具や文言に頼らなくては魔法を使えないが、こいつら固定化した怪異は意識したのみで超常の力を使いやがる。
 なんというか、とことんフェアじゃない存在だ。

 俺は胸のベルトホルダから、素早く針入り水晶の結晶を抜き出した。
 所持している二種の水晶にはそれぞれ違う役割がある。
 透明度の高い水晶の結晶は、完成された調和を表し、高い精度の封具になる。
 既に怪異が固定化した今回は使えないが、それ以前の状態なら、この小さな結晶で半径100mぐらいの薄い怪異なら軽く封印出来るのだ。
 そしてもう一つ、この針入り水晶は攻撃に使う。
 針入り水晶というのは、結晶化の際に不純物が入り込み、あたかも内部に針を閉じ込めたように見える水晶の事だ。
 これの発する波動は全く予測が付かない上に強力で、精密部品を扱う界隈では乱結晶として嫌われていた。

「ちょっとうるさいが我慢してくれよ!」
 俺はそう断りを入れると、手の中の針入り水晶を軽く投げ上げて、それをナイフの背で叩き砕いた。
「ぐっ!」
 途端、くぐもった、或いは声にならずにただ空気を吐き出すのみの悲鳴が満ちる。
 一瞬視界が歪んで見える程の不協和音、世界を遮るノイズが走った。
 分かっていて構えていた俺ですら、ぐらりと足元が揺らいだ気がしたぐらいだ、予測していなかった者はたまったものではなかっただろう。
 俺と、一切の外部波動を受け付けない伊藤さん以外は、その場の全員が地に伏せてしまった。
 良い子は真似してはいけませんという注釈が付きそうな場面である。

 だがそれだけの意味はあるのだ。
 魚野郎の発しようとしていた魔法は、この乱れた波動を受けて強制キャンセルを食らい、本体も受けた衝撃に身悶えしている。
「ふん!」
 俺は強い呼気による自身の波動で体内の歪みを瞬時に調整すると、やや捻りを加えた踏み切りでその場から跳んだ。

 怪異は固定化して既存の何かを模した形態を取ると、弱点もそのベースとなったものに準拠するという特長がある。
 これは連中が概念そのものの化身である弊害なのだろう。
 とは言っても、元となった存在からは比べ物にならない程強化されてはいるんだが。

 俺の僅かな捻りの入った跳躍は、ナイフを構えた右手を魚野郎の側頭部へと導く。
 魚類の弱点は、むき出しの呼吸器官であるエラだ。
 やや赤み掛かったいかにも硬質な銀色のそこへ、俺は思い切り狩猟用のゴツいナイフを叩き込んだ。

 刃先が触れた刹那、弾くような感触と、逆に何か軟らかい物が肌を這うような感触が等しく腕に伝わる。
 俺はそれらを一切無視して、捻った体の回転を利用して、更にエラを深く抉るように力を込めた。

 ギシャアァ!という車の事故の時に金属同士がぶつかってひしゃげるような音がこの魚モンスターの苦鳴の声だと気付いた時には、着地した片足で更にもう一度跳んでいた。
 傷付いたエラを庇うように思わず仰け反った相手の動きに合わせて、残った反対側のエラも潰す。

「馬鹿か!祝福も無しに接近戦をやるなど!」
 かすれたような耳障りな声はかのワンコである。
 俺はその声をきっぱりと無視すると、両エラをやられてのたうっている銀鱗の魚体をじっと観察した。
 奴はその場の分厚いテーブルを叩き割り、床をぶち抜いて最期の足掻きを続けている。
 くそっ、弟が、浩二がいればこんな無様な破壊を許しはしなかったものを。
 自分の力不足が情けない。

 そんな俺の自責を他所に、怪異モンスターの凶器のような歯を並べた口が、今は酸素を求めて激しく開閉していた。
 生まれ立てのこのモンスターは、今、未知なる死を学んでいるのだ。

 やがてヤツはビクリと一回大きく体を震わせて動きを止め、その存在を解きほぐし始める。
 その、キラキラと光る怪異の残滓を、俺はベルトホルダから取り出した透明な方の水晶に絡め取った。

ばく

 輝く想念の切れ端は、色の無い水晶を淡く銀に染めて封印された。
 俺は懐から懐紙を取り出すと、やたら面倒な折り方でその水晶を包み込み、自分の髪を一本抜いてそれを縛る。

 ……痛え。
 しかも髪が勿体ねえ。
 じじいが禿げてる原因って封印のし過ぎじゃないだろうな?

「貴様!なぜ都内で武器を携帯している!犯罪行為だろうが!」
 とりあえず落ち着いたのか、ワンコが元気になぜか俺に突っ掛かって来た。

 お前、ごめんなさいはどうした?
 俺はともかくとしてここの住人にまず謝れよ。
 色々言いたい事はあったが、とりあえず面倒なので先に相手の疑問を解消してやる事にした。

 首から下げて服の中にしまっておいた小さな金属プレート状のライセンスを引っ張り出してそれを示す。
「ハンター?」
 それを見て、意外にもすぐに反応があったのは伊藤父の方だった。
 いや、冒険者だったというその経歴を考えれば当然か。
 あくまでも自称であり公的な立場を持たない冒険者と違って、ハンターは国際ライセンスだ。
 当然そこには義務と権利が生じるが、その特権の一つに武装判断がある。
 ハンターは、それが必要だと判断した場合、それがいかなる場所であろうとも武装が認められるのだ。
 もちろん対怪異の資格である以上、怪異に備える意味での武装に限るけどな。
 なので非武装地帯で帯剣する為に、今回わざわざもう使わない予定だったライセンス証を引っ張り出したって訳だ。

「くっ、た、たとえハンターでも、いや、ハンターだからこそ、祝福無しで接近戦など正気の沙汰とは思えないぞ。精神汚染が恐ろしくは無いのか!?」
 ワンコ、凄くしつこいです。
 もしかして俺を心配してくれてんの?感激だなあ。
 棒読みの台本のような馬鹿なセリフを、自分の頭の中で転がしながら、俺はかなり投げやりでいい加減に応えた。
「幸い俺は汚れにくいたちなんだよ」
「ふざけるな!」
 ふざけるなとは俺が言いたい言葉だ。
 奴の大事な事を置き去りにした言動に、そろそろガツンとかまそうかと思っていた俺の背に、
「木村さん!」
 少しうわずった、慌てたような声が掛けられる。

「大丈夫でした?あれってモンスター化した怪異なんですよね?ごめんなさい!こんな事に巻き込んでしまって」
 あれ?謝るべき奴が謝らないのに、謝る必要の無い人が謝ってるよ。
 世の中って不思議だな。

「いや、伊藤さんは何も悪くは無いですよ。むしろ被害者じゃないですか、謝らないでくださいよ」
 溜め息混じりにそうなだめる俺の耳に、ぽつりと、独り言のようなその呟きが飛び込んだ。

「なるほど"木村"か……」
 声の中の見下すような響きに、すうっとコメカミの奥に血が集まるのを感じる。
 俺は伊藤さんから犬野郎に向き直り、無言で奴に歩み寄ると、きっちりと締められたその首のネクタイを掴み上げた。
「な……、」
 何をする!と言いたかったのだろうか?一言だけ吐き出された音のみを零して、その口がパクパクとただ動く。
「いいか」
 俺はゆっくりと言い聞かせるように告げた。
「ここはお前たちの奉じる神のおわす神聖王国じゃない。ここは日本だ、大日本帝国だぞ。この国にはこの国の法があり、それに照らして罪がある。これ以上罪に罪を重ねるのはやめる事だな。既に怪異の顕現という大罪を負った身で、それでも足りないというのなら別だけどな」
 俺の言葉を理解したのだろう、奴の顔が青く染まる。
「失敗から学べる事もあるだろうさ。受け入れる事が出来れば、お前は今よりきっと強くなれる」
 言いたいだけ言うと、俺は奴から手を離した。
 奴はいかにも今まで息が出来なかったかのようにゼイゼイと荒い呼吸をして咳き込んでみせる。
 わざとらしい、嫌味な奴だ。

 一つ息を吐いて振り返ると、伊藤さんが物凄く困ったような顔で俺を見ていた。
 どったの?
「も、申し訳ありません!」
 突然の第三者の声に驚くと、すっかり忘れ去られていた不動産屋の人が頭を床にこすりつけていた。
「今回の損害は全て当社が見ます。この家の建て直しについても、伊藤様にご負担をお掛けする事はありませんので」
 そうそう、これがまっとうな社会人の態度だよな。
 営業はいかに頭を効果的に下げる事が出来るかで決まると言って良いと、外回りの連中がいつも言ってるし。
「ふむ、しかし、まあ、怪異がモンスター化したにしては随分と小さな被害に留まったものだ。ハンターというのは凄いものだな。……優香、彼氏の紹介にしてはやたらと派手なお披露目になったな」

 どきりと胸が激しく鼓動を刻む。
『彼氏』だ……と?
 伊藤さんはその父親の言葉に溜め息を吐くと、
「違います。言ったでしょう?会社の同僚でこういうオカルト関係に詳しい人なんだって、木村さん、父が変な事言ってごめんなさい。ただでさえこんな事になってしまって申し訳ないのに」
 照れる事すらなく、心から申し訳なさそうに謝ってくれた。
 
 ……いや、分かっていたさ。本当は分かっていたんだ。
 でもさ、男ってほら、期待してしまうもんだろ?
 色々それらしい事があると、ちょっと期待するよな?
「いえ、気にしないでください」
 何か凄く気力が萎えた俺は、その後駆け付けた対策室の武装班相手への説明も酷く億劫で、つい、長年の知り合いを頼ってしまう事にした。

「何から何まで本当にごめんなさい。それからありがとうございました」
 鳴り響くサイレンと武装した大勢の人間に恐慌状態に陥りかけていた彼女とお母さんを落ち着かせて必要な手続きをして、とにかく伊東家の人は被害者という事で本日の所はどこかゆっくり出来るホテルを不動産屋が手配してくれたようだった。
 いきなり事情聴取とかにならなくてほっとする。
 正統教会のワンコは当然の事ながらしょっぴかれた。
 ざまあみろ。
 ぺこぺこ頭を下げる伊藤さんは、ちょっと荒んだ俺の心に癒しをくれた。
 いい娘だよなあ、くそったれ。
 彼女の後ろで、父親のジェームズ氏が同情の目で俺を見ていたのが凄くむかついたのだった。



[34743] 閑話:日常の片隅で、語られる事無く続く物語(三人称)
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2012/10/04 05:49
 空気の中に、その近代的な見た目に似つかわしくない、半田のものと思われる焼けた松脂の香りが漂うオフィスに、一人の男のどんよりとした雰囲気が、梅雨時の空気もかくやという具合にたちこめていた。
 普段は肉体的にも精神的にもタフ過ぎるぐらいタフな男だが、そんな男がどんよりと暗いと、周囲もなんとなく引き摺られてしまう。
 しかも、雰囲気がおかしいのはこの男だけでは無かった。
 この男以上にこの職場のムードメイカーである、元気で一生懸命な女子社員も、何かに悩んでいる様子で、どこか心此処にあらずといった具合なのだ。
 その二重の暗雲が、ただでさえ気重な休み明けの職場を葬儀場さながらの陰鬱な場へと変貌せしめていたのである。
 彼らの上司は、部下との年齢と性別の違いを考慮した末に、それぞれに適任と思われる相手に状況改善を、あくまでもそれとなく依頼した。
 しかし、どう言い繕おうと、それはいわゆる敵前逃亡には違いなかった。
「若い者の事は若い者に任せないとな」
 自分に言い訳をする彼の呟きを聞く者は居ない。

「で、どうしたんだ?」
 昼休み、早々に食事を済ませ、自分のデスク前でぼんやりとしていた木村隆志の肩を叩いたのは、隣接する部署のチーフであるところの、友人の一ノ宮流であった。
 隆志は、その友人に対して、うっとおしそうにしっしっと犬でも追い払うかのような動作をして言った。
「お前に心配される程の事はなにも無い。自分のデスクに帰れ」
 そっけない拒絶である。
 しかし、相手はそこいらの通常な神経の持ち主ではなかった。
 流は、友に拒絶されたなどとはカケラも感じられない気軽な口調で、そのまま隣のデスクの椅子に居座ると勝手に話しを進めだす。
「その様子だと女性に袖にされたという所か。確か二年前、散々貢がされた挙句に、仕事上の付き合いだったと宣言された美晴というホステスの女性の時も三日ぐらいそんな調子だったよな。あれ以来ホステスがいるような店に決して足を向けなくなったお前の意思の強さには感心させられたものだ」
 しみじみと語り出した。
 さすがに堪らず、隆志は猛然と抗議する。
「いらん事を覚えてんな!しかも嫌な感心の仕方はよせ、自分が哀しくなるわ!」
 ひとしきり文句を言った隆志は、一つ溜め息を吐くと、諦めたように傍らのケロリとした顔の流に内心を吐露した。
「失恋がどうこうって事より、俺は自分のそういう所が情け無いんだよ。前の時も今回も勝手に思い込んでさ、相手に非がある訳でもなんでもないのに、相手の顔を見るのが嫌だなんて、どう考えても勝手が過ぎるだろ?なんで俺ってこうなんだろうと思うと情けなくって」
 ぐしゃりと掴んだせいで、ただでさえきちんとしているとは言い難いその頭髪がみっともなく乱れる。
 傍らの、整髪剤を使っているようにも見えないのに見苦しさとは無縁のすっきりとした髪型の流と並ぶと、その有り様は尚更情けなさが強く感じられた。
 そもそも、隆志の髪は普段から、頑張ったのは分かるという感じの、社会人としては少し奔放な髪型だったのである。
 全体をトータルで見ると、ヘタをすると学生気分が抜けないと揶揄されそうな外見なのだが、開発という内向きの部署なのでさほど気にされずに過ごして来たので、本人的にはそんなに気にしていないがゆえの行動かもしれなかった。

「そうかそうか、分かった。落ち込んだ時は飲むに限るぞ。という事で今晩お前のおごりでどっか飲みに行こう。厄は賑やかな場所で落とすのが良いそうだからな」
「厄なんか憑けるか!それになんで俺のオゴリなんだよ、こういう場合はお前が奢るもんじゃないか?」
「こないだは俺がおごっただろう?順番だよ」
 流はしれっと答える。
「お前、金持ちのくせにせこいぞ」
「いや、お前が考え違いをしている」
 流は真剣な顔になると、隆志に真っ直ぐなまなざしを向けた。
「俺たちは友人同士だろう?友人というのは実質はどうであれ気持ちの上では対等でなくてはならない。そうでなければ単なるタカリになってしまうぞ」
「タカリとはなんだ!人聞きの悪い!」
「だろう?そういう訳でお前の奢りだ。ああ金額的対等は求めないからな、安心しろ」
 もはや流のペースである。
 隆志は自分の悩みの事を一時的に忘れ去ると、本気でその理不尽に応じた。
「当たり前だ!お前のクラスの飲み屋なんぞ行ったら破産するわ!……くっ、それなら居酒屋はどうだ?」
「良いな、適度に雑多で混沌としていて楽しい場所だ。俺は好きだな」
 居酒屋と言えば庶民の飲み屋という感じだが、この見た目からいかにも血統書付き、育ちの良さそうな男は、そんな場所ですら浮く事無く、それでいて華がある存在でいられるのだ。
 恐るべき順応性である。
 おそらく、その辺の有象無象とは根本的な素材自体が違うのだろう。

 思いっきり脱力しながらも、まあいいかと、隆志は思う。
 この友人の傍若無人さになんだかんだと言いつついつも救われているのである。
 なんとなく釈然としない思いを抱きながらも、隆志は自分自身に対する苛立ちを酒で流せればと考えた。
 何と言っても彼が顔を合わせ難く感じている相手は同じ職場にいるのだ。
 いつまでも引きずっていては相手にも迷惑を掛けてしまうのだから。
 


 さて、時間という物は、違う場所の違う顔ぶれにも同様に流れるものだ。
 男達が仕事場であるオフィスで友情を温めていた同じ頃、休憩室のテーブルでは女性陣が食後のささやかなティータイムを過ごしていた。
 持ち込みで給湯室に備えている紅茶を淹れ、各自持ち寄りの菓子を交換し、量としては少なくとも、華やかな見た目になったテーブルはいかにも女性陣らしい。

「それで伊藤ちゃん、いったいどうしたって言うの?課長が心配して私にそれとなく聞いてくれって言うし、いつものシャキシャキした伊藤ちゃんじゃないとみんな心配しちゃうでしょ?」
 全然それとなくではないが、この女性は腹芸の出来るタイプではない。
 彼女にそんな物を求めた課長の人選ミスであった。
「伊藤さん、何か困っているのじゃないの?」
 同じ席でお茶を飲む、おつぼね様こと園田久美が、真剣な顔で身を乗り出して優香を見る。
「え?ええっ?」
 当の本人、伊藤優香は、思わぬ事態に困惑気味だ。
 本人としては自分の内心は隠してちゃんと仕事を頑張っていたつもりなのだ。

「もしかすると、あのけだもの男、木村くんが何かしつこく迫ってるのではないの?どうもこのあいだから伊藤さんを見る目がおかしかったし」
 そんな優香に構わず、同僚達はどんどん話を深刻に進めて行く。
「え?なに?ストーカーですか?セクハラですか?サイテーですね、恥を知るべきです!」
 たちまち優香の友人の幸奈がその話に同調した。
 この手の話題に対する女性の食い付きは恐ろしい程である。
 後数秒もあれば、彼女等の脳内で木村は恐るべき女性の敵としてバラバラに分解されていただろう。

「ち、違います!やめてください!木村さんは私と家族の恩人なんです。そんな酷い中傷、冗談でも絶対に許せません!」
 その優香の過剰とも言える反応に、同僚の二人は驚き、次いで何かを期待するかのような笑みを浮かべた。
「何?ナニナニ?いつの間にそんな事になっていたの?」
「え?付き合っていたのあなた達。意外な組み合わせね。正に美女と野獣というべきね」
 そんな二人の反応に、優香はうんざりしたかのように首を振る。
「またそうやってみんなすぐ茶化すんですから。そんないい加減な話じゃないんです。本当なら大金を掛けないと受けられないようなサポートをしてもらったのに、木村さんは一切謝礼はいらないって言うんですよ。同僚に相談されて手助けしただけなのに金銭を要求とかしたら最低だろうって言って。私もう申し訳なくって、いったいどうしたら良いのか分からなくって困ってるんです」
 そう悩ましげに眉間にシワを寄せる様子は、真剣であればあるほど、どこか困惑する小動物を彷彿とさせた。
 同僚達は心の中で(伊藤ちゃんは可愛いな)等と感想を呟く。
「ほほう、それはあれよ。金はいらないから体を寄越せとか」
 そんな、普段仲の良い幸奈の、ノリで発言したような度を越したからかいに、とうとう優香は顔を真っ赤にして席を立った。

「そういう破廉恥な事を言うような人とはもう口を聞きません!」
 周囲で休憩時間を思い思いに過ごしていた社員達が、何ごとか?と彼女達を注目する。
 年長の園田が、落ち着いた笑顔で周囲に何でも無いと会釈をし、幸奈が慌てて伊藤を宥めた。
「まあまあ、熱くならない、からかったのは悪かったからさ」
「伊藤さんが凄く真剣になやんでいるのは分かったから。でも、破廉恥なんて言葉、ここ何年も聞かなかったわ」
「ほんとですよ、絶滅危惧種クラスですね」
「二人とも、酷いです」
 場を和ませる為か、軽い調子のからかいを挟んで、幸奈は言葉続けた。
「でもまあそれはそういうものだって流してあげた方が良いよ。男にはなんていうの?プライドみたいなのがあってさ。おなか空いてるのに空いてないって言ったり、喉から手が出る程お金が欲しいのにいらないって言ったりするのよ。そういうのをちゃんと受け止めてあげるのも女の度量ってものよ」
「そうね、うちの旦那も時々くだらない見栄をはったりするけど。でもね、そういう矜持が無い男は最低な奴よ。そういう意地を張れるだけ木村くんはまともな男って事なんだし、良い事じゃない。伊藤さんだって男と付き合った事ぐらいあるんだろうし、その辺分からなくも無いでしょう?少々気持ち的に負担かもしれないけど、そういうのを汲んであげるのも優しさだわ」
 その園田の言葉に、優香は困ったように「そうですよね」と呟いたきり赤くなってもじもじし始めた。
 その様子に、流石に付き合いの分思い当たる事があったのか、幸奈がずばりと指摘する。
「まさか、男と交際経験が全く無いとか?別に清い交際でも良いんよ?ホレホレ、言ってみなさい」
 うっ、と、明らかに言葉に詰まる優香に、同僚二人は何か眩しい物を見る目を向けた。

「なんて事、正真正銘のネンネちゃんとは」
「凄いわ、そのままのあなたでいてね」
 二人の目にはどこか遠い清らかな場所を見ているようだった。
 彼女達の余りなリアクションに、優香は抵抗を試みる。
「ち、違うんです!父の仕事の都合で大学に入るまで過疎地を転々とする生活だったから、出会いとか、そんな余裕が無かっただけで!」
 苦しいが事実でもある。
 ちなみにその父の仕事を、つい先日まで土地開発関係の仕事だと思っていた彼女であった。
 父親が職業についてはっきりとそう言った訳では無いので、優香としても責めるような事も無かったが、その事実も彼女の中に、どうにも収まりの付かないもやもやとして残っている。
 だが、一方で腑に落ちる部分もあり、優香としては今のもどかしい気持ちを整理して、そんな共有する話題の家族に話せない部分を木村に聞いてもらいたいという気持ちもあった。

「まあまあ、ふ~ん、なるほどね。大体の事情は分かったわ。さっきも言ったけど、男が意地を通そうとしている時に無理に何かを受け取らせるのは感謝の押し付けでしかないわよ。そうね、伊藤さんの気持ちがずっと変わらないような物なら、今後彼が困っている時にさりげなく助けてあげるのが良いと思う。男の意地も良いけど、女の意地も通させて貰うって感じでね」
「おお、流石オシドリ夫婦で二十余年。年季の光るお言葉ですね」
 園田の旦那持ちらしい提案に、いかにも感心したように幸奈が頷く。
「でも、それって、機会が無ければずっと恩返しが出来ないんじゃないでしょうか?」
 言い募る優香に、同僚二人はニッコリと微笑む。
いやつよ、そのへんはじっくりこの経験豊かなおねえさんが教えてしんぜよう」
「チーフ、ノってきましたね?いや、こういう話は良いですね、もっとじっくりイジリ倒したいです」
 モロに自身の欲望が垂れ流し状態の幸奈であった。
「そうね、こういう話はいくつになっても良い物ね」
 もはや四十を過ぎた落ち着きのお局様であるはずの園田の声も心なし弾んでいる。
「そうと決まれば今晩何か美味しい物でも食べながらじっくり作戦会議ね」
「お姉様、今流行の居酒屋で平日三人様以上三割引きサービス期間に突入いたしましたよ!」
「流石お主マメよのう」
「ククク、このチラシハンター御池幸奈に見逃しはありませんぞ」
「あの……」
 すっかり別世界へと旅立った二人へ、優香は遠慮がちに声を掛けた。
「まあ悪いようにしないから。まかせなさい」
 ドンとお局様こと園田が胸を叩いた所で、社内放送の音楽が切り替わり、業務へ戻る時間を示す穏やかなチャイムが響く。
 すっかり時間を忘れていた三人は、慌ただしく片付けをする事となった。
 
 そうしつつも伊藤は不安を禁じ得ない。
(私の求めていた助言とは違う気がするのは気のせいかな?)

 彼女の不安は更に変化球として的中する。
 その夜、奇しくも合流した二組が、当初の目的を見失ったグダグダな飲み会に突入するのは、自明の理であった。
 だが、何が幸いとなるか分からない物で、そのおかげでそれぞれの悩みを無理矢理うやむやにされた隆志と優香の二人は、なんとか元通り、通常勤務を行えるようになったのである。

 いや、元通りというには語弊ごへいがあるかもしれない。
 それは未来のどこかへと続く、細い道が生まれた物語でもあったのだから。



[34743] 20、思い出は甘い香りと共に 前編
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2012/10/18 20:52
 春も深まり、まだ朝夕は肌寒いものの、最近は夜道を帰るのもそれなりに悪くない。
 ふとした拍子に、どこからか漂って来る香りに気付き、見えない花の姿を脳裏に鮮やかに浮かび上がらせてくれたりするからな。
 古来、人が植物の生み出す怪異せいれいと相性が良いのは、人の多くが緑や野花を愛して来たからだと言われている。
 想念の世界では赤裸々に好悪が反映されるのだ。
 俺はまだ見た事は無いが、人が丹精込めた庭には植物に由来するのに人の姿をした怪異せいれいまで現れる事があると聞いた事がある。

 そんな俺らしくない風流な気分のまま、いつものようにコンビニに寄ると、いつもと違い今日は男の店員さんだった。
 いつもの女性店員さんを期待していた俺は、上がっていたテンションがやや下がる。
 しかし、諦めていた生姜焼き弁当が残っていた事でまた上がった。
 プラマイゼロ、悪くは無いな。
 安いテンションだと人には呆れられそうだが、他人は他人、俺は俺だ。

 だが、アパートの前に辿り着いて何気なく自分の部屋の前を見た瞬間、そんなのんびりとした気分は何処かへ消し飛んでしまった。
 外から丸見えの二階通路、俺の部屋の前に誰かがいる。
 どう見ても、それは幽霊等では無く実体を持つ人間だった。
 弟やら妹やらに続いてまたもやという気分だが、今回は鍵の掛かった部屋の中で待つような非常識な相手では無いらしい。
 こっちの気分的には中で待っててくれた方が良かったかもしれないが。……ご近所さんの評判を気にする部分においても。


「驚きましたよ」
 いや、実際そんな生易しいもんじゃなかった。
 正に度肝を抜かれたというのが正しい。
 人影に慌てて帰れば、相手はとんでもない人物だった。
 なんで夜も遅くに、自分のアパートの部屋の前に怪異対策庁のお偉いさんが突っ立ってなきゃならないんだ?
 どこぞのドッキリ企画かよ!?ホント、止めて欲しい。

「いや、悪かったね。最初は連絡を入れてからと思っていたのだけどね、君の驚く顔が見たくなってしまって、つい」
 いや、ついじゃないから、政府のお偉いさんが俺を驚かして何の良い事があるんですか。
 苛めですか?もしかして?
 そう心中で思ってはいても、なんというか、文句は言えないのだ。
 俺はこの人に弱い。
 “俺は”というより“俺たち兄妹は”、というべきか。
 なぜなら、この人は、若い頃うちの担当官で、訪問時には俺達兄妹に必ず珍しいお菓子を持って来てくれたからだ。
 ケーキやクッキーそしてチョコレートを初めて口にしたのは、全てこの人のお土産だったのである。
 今でもあの数々の味覚の衝撃は、他の何よりもはっきりと覚えている。
 その衝撃の大きさを物語るように、子供時代の俺たちは、この人を“お菓子の人”と呼んでいた。
 今思えば失礼な話である。
 流石に本人を前にしてそんな風に呼ばなかったと思うのだが、自信がない。
 もしかすると、「お菓子のおにいちゃん」ぐらいは口に出した事があるかもしれなかった。

「それにしても補佐官殿がわざわざ出張って来るなんて、どんな大事なんです?」
 カチャリとガラスポットのセット音を確認して、コーヒーメーカーのスイッチを入れる。
「お、良い香りだな。本格的だね」
「酒匂さんのおかげですっかりコーヒー党ですからね。以前と同じようにガイア産ストレートの荒挽きで良いですか?」
「良く私の好みなんか覚えていたな」
「何言ってるんですか、俺にコーヒーのウンチクを話して聞かせたのは酒匂さんじゃないですか」

 怪異対策庁長官補佐官、酒匂太一さこうたいち
 現場叩き上げの出世組だ。
 元々家柄も良いらしいので、出世自体は予定調和なんだろうけど、統括している部署が部署なだけに現場を知っているのは頼りになる。
 ハンターにとって国との連携は命綱に近いので、組織の上部にこういう人がいるのは歓迎される事なのだ。

 混ざりの無いコーヒーのすっきりとした温かい香りが広がる中、お菓子の人、もとい、酒匂さんが俺の最初の質問に答えた。
「用件は実は複数あるんだが、まあ慌てる事はない。まだまだ宵の口だしな。順番に片付けて行こう。まずはお土産だ。このシュークリームは美味いんだぞ」
 もうすっかり大人になってしまった俺相手なのに、お菓子の人は健在だったようだ。
 こんな大物が突然訪ねてくるという嫌な予感しかしない事態に尻込みしがちな俺の気持ちも少しだけ安定する。
 いや、人間誰でも手土産に弱いはずだ。
 俺だけがゲンキンなんじゃないぞ。
 あれ?そういえば、お役人である酒匂さんが手土産なんて持って来ると贈収賄に当たるんじゃないかな?大丈夫なんですか?


 誰にでも分かりやすくコンビニ弁当を下げていたせいで、酒匂さんは俺に先に食事を済ませるように勧めてくれたが、さすがに自宅前でどのくらいの時間か知らないが、おそらく長時間帰宅待ちをしていた相手を前にそこまで俺も厚顔ではない。
 とりあえずお互いの前にコーヒーとシュークリームを並べて出し、話を続けた。
「まずはおめでたい話だ。まあ心配はしていなかったが、由美子ちゃんの大学合格おめでとう」
 この情報は、俺にとって予想しない事ではなかったが、当の本人から音沙汰が無く心配していたらこれか、まさかの本人以外からの報告とか……どうしちゃったんだ?由美。

 そんなやや挙動不審の俺に、
「まさか知らなかったのか?もう先月には大学の寮に早々に入ったらしいぞ」
 追い打ちをする酒匂さん。

 な、なんだと!
 やっぱり先月感じた視線はあいつだったんだな!?
 というか、引越し大変だっただろうに、手伝いとかなんで俺を頼らなかったんだ、由美!?
 そんなに俺は頼りにならない兄貴なのか?
「あー、隆志くん。大丈夫かい?良いニュースだとおもったんだが悪かったかな?」
 いかん、酒匂さんのまなざしが凄く同情的だぞ。
 そんなにショックを受けたように見えたのか?
「あ、や、ちょっと俺のアイデンティティーが……じゃない、いえ、凄く嬉しいですよ!良かったなあ由美」
 俺は慌てて取り繕うと、コーヒーを飲んでごまかした。
 酒匂さんは良いニュースを先に、悪いニュースを後に持って来るタイプだ。
 本当に一緒に喜ぼうとこの話題を出したのに違いない。
 ここで落ち込んでどうする?
 確かに由美が大学に入れたのは良い話だし、何より、これで鬼伏せの直系から二人も大学に進学したという実績が残る。
 後に続こうとする者に道を示せるのだ。

「それで他に何かあったんですか?」
 何とか気持ちを落ち着けて先を促す。
 そうだ、実家からの電話を着信拒否にしているせいかもしれないぞ。
 住所や地図を特殊職用のサポートシステムと勘違いしていた由美の事だ、きっと自分用の携帯電話の扱いも良く分からないに違いない。
 びっくりするぐらい頭が良い癖に妙にボケてる所があるからな。
 まあそんな所が更に可愛いんだが。
「あー、隆志くん。聞いているかな?」
 ハッと気付くと酒匂さんが苦笑しながら覗き込んでいた。
 まずい、どうもこの人は身近な相手過ぎて気がゆるんでしまうな。
「す、すいません、ちゃんと聞いてなくって」
「まあ私にそう気を使う事は無いよ。なにしろ君が産まれた時にだって立ち会っているんだ。もはや家族同然だろう?」
 これだ。
 付き合いが長過ぎる相手が腹の探り合いの相手というのはどうにもやり難い。
 絶対なにか俺にとって都合の悪い案件を持ち込んで来ているに違いないのに、聞く前から断れる気が全くしない。マズすぎる。

「次の話は、まあこれも私用に近いんだが、一応確認しておきたくってね。そう、君の報告した迷宮の件だ」
 ぐっ、
 俺は驚きをコーヒーのカップで隠した。
 待て待て、迷宮の件は一般通報だぞ、そんな些細な件が、なんでこの人まで上がってて、しかも俺ってバレてるんだ?
 名前名乗って無いぞ。
「隆志くん。まさかと思うが、自分の通報だと発覚しないと思っていたのかい?出来たてとはいえ迷宮を単独で攻略しておいて」
 酒匂さんのどこか意外そうな言葉に、俺は猛然と反論した。
「いや、でも、一層のみでボスは少し大きなネズミだったでしょう?そのぐらいなら別にハンターじゃなくても問題ない規模の迷宮ダンジョンじゃないですか」
 さすがに一般人に二層の大ネズミは無理だろうと思ったのでサバを読んだのだ。
「いけないな、迷宮報告を誤魔化しては。それはまあ置いておくとして、一層のネズミでも猫程の大きさの上に麻痺、病持ちだよ?しかもボスには必ず取り巻きが少なくとも三匹はいるんだぞ?そんなものが一般人にたおせると?」
「えっ?でもその程度避けながら蹴飛ばせば終わるでしょう?キングじゃなくてビッグですよ?子供だって楽勝でしょう?」
 酒匂さんは大きく溜め息を吐くと、自分の前に置いてあるシュークリームを一口口にしてコーヒーを飲んだ。
「いいか、普通の人間は迷宮に迷い込んだ時点でパニックだ。君の村なら確かに子供でも楽勝かもしれんが、普通はボスに挑戦しようとかまず思わない」

 そうか分かった。
 これは引っ掛けだったんだな。
 いくらなんでも子供が楽勝な相手を、一般人といえど必死で戦って倒せない訳がない。
 なにしろボスを倒さなければ出れないんだし。ボスに挑まないとか有り得ないだろ?
 そりゃあ高額のダンジョン脱出用のアイテムはあるが、新車並の値段で使い捨てだぞ、一般人が携帯してるとは思えない。
 きっとこうやってうっかり俺が自白するのを誘って、俺の余裕を削っていく作戦なんだ。
 そうして追い詰められた俺に最後の難題を突き付ける。
 怖い程完璧な作戦だ。
 弟達に散々うっかりがすぎると叱られ続けても結局性格が改善出来なかった俺を知り尽くした上での作戦だ。
 そう考え付いて、俺は急遽甘い物が欲しくなった。
 話しの早々に自爆をしていた自分に気付いたせいで、恐らくはあまりのストレスに脳が悲鳴を上げているのだろう。

 ここはとりあえず落ち着いて目の前のシュークリームを食うべきだろう。
 改めて酒匂さんが持って来たシュークリームをじっくり見ると凄く美味しそうだしな。
 普通のシュークリームの二倍近くあるんじゃないか?
 昔はシュークリームと言えば上の方に切り込みがあって、それを外してスプーン代わりにある程度クリームを減らしてから本体を攻略したものだが、なぜか最近の物はむしろ切り込みがある方が珍しくなった。
 シュークリームはそのままかぶりつくと下手すると大惨事になるのに何故なんだろう?
 噛み付く事で、片側からの圧力に押されたクリームが反対側の薄皮を破り、スライムより柔らかなその流体が、もうどうしようもないぐらい手とか服とかに零れてしまうのだ。
 そうなった時のショックといったら筆舌に尽くし難いものである。

 俺は酒匂さんお土産のシュークリームに、圧力を掛け過ぎないように注意しながら噛み付いた。
 お?なんかサクッとしているぞ?
 いつもの頼りない薄皮ではない。
 パイ皮とボーロを程よく合わせたような食感。
 それに中のクリームが凄い!
 黄色い甘味の強いカスタードとは少し違うようで、その甘味はあっさりしている。
 そして口に入るとフワッとなにかの香りがした。
 特徴的な香りだけどシュークリーム全体の調和を壊したりしない絶妙な香りだ。
 馴染んだ香りだよな、なんだろう。
 そうだ、ちょうどアイスを食べた時みたいな……ん?箱になんか書いてあるぞ。
 何々、『クリームの中の黒い粒はバニラビーンズです、埃の混入ではありません』なるほどバニラか!白いアイスだな。
 白いのに本当は黒いのか、世の中不思議な事が多い。

「そういう顔は子供の時と変わらないな」
 気が付くと、酒匂さんがにこやかな笑顔で俺を眺めていた。
「君達はお菓子を食べている時、本当に幸せそうに食べてくれたから、私はいつも出向が楽しみだったよ。本庁勤務の時は、次はどんなお菓子が良いかなとそんな事を考えながら街を歩いたものだ」
 にこにこと笑う顔は、俺にとっても、昔の、好青年だったこの人を思い出させる。
 怪異の隠れ場を無くす為、焼き払われた黒茶けた道を、まるで騒音を撒き散らすように走る、魔除けを施したメタリックな車。
 虫を飛ばして監視していた由美が、まるで飢えた獣のような目をして飛び出し、それで察した俺が続く。
 車を追い掛けて家に戻ると、呆れたような顔の浩二がタオルを手に井戸で手と顔を洗って来るように言うのだ。

「そうそう、そのシュークリーム、由美子ちゃんも大好きだって言ってたから、もしなにか気まずい事があったのならそれを持って仲直りに行くと良い。お店を教えておくよ」

 ああ、これは駄目だ。もう勝敗ははっきりしている。
 だけどな、何もかも知られている相手を交渉相手にしなきゃならんってちょっと酷くないか?
 俺は誰とも知らないお国のお偉いさんに向かって、心の中で愚痴っていたのだった。



[34743] 21、思い出は甘い香りと共に 後編
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2012/10/18 00:33
「それでだね、これが本題なのだが」
 来た来た。
 俺がシュークリームを食べ終えたのを見ると、酒匂さんはいよいよ本命の話題を切り出して来た。

「君は都会のど真ん中、しかも近代ビルの中で迷宮ダンジョンに遭遇した理由を考えたかな?」
 静かで穏やかな口調。
 酒匂さんのそれは、かなり真剣な内容という徴だ。
 俺の迷宮突入体質がどうこうという揶揄的な話の流れではないだろう。
「そうですね。あの辺りは都内でも休みとなれば人が多く集まる界隈です。しかもあのオフィスビルは周辺で一番高い建物でもありました。バベルの塔の例は有名な話ですから、いわゆる煙突効果というやつなのでしょう?」
 煙突効果とは、バベルの塔の研究者が打ち出した理論で、吹き抜けの空間を持つ背の高い建物は、その内外で強力な怪異現象が起きやすいという理屈の事を言う。
 バベルの塔以降、同じ事を試みる者がいなかったので、その理論の真偽は未だ確認されていないが、ビルディングのエレベーターでそれが実証される事態になるかもしれないな、と、失敗した笑い話を聞いたかのように白けた意識が思った。
 俺の言葉に、酒匂さんは頷くと、コーヒーを口にする。
「そう判断すると言う事は、問題の大元にはとっくに気付いていたのだろう?」
 酒匂さんはどこか疲れたような表情で、話しを進める。

「都市を覆う電気を用いた結界は、普通の結界の概念と大きく異なる部分がある。普通の結界はいうなれば排除の法だ。指定した物、又は人を、特定の条件変化から守る為の術式で、その対象全体に効果がある。しかし都市結界は違う。あれは結界の名を持つただの壁に過ぎない」
 俺はその言葉にうなずいた。
 つい、言葉の響きに騙されそうになるが、都市結界は壁の発展系なのだ。
 結界そのものは怪異を寄せ付けず、周辺にも及ぶ強大な排魔の力を持つものの、その囲まれた都市の内部は、実は無防備だ。

「施工から五十余年、半世紀以上だ。むしろよく持ったと言うべきだろうな。もちろん政府も予測され得る災害に無策でいるつもりはない。それなりに対応策を講じてはいるのだが、それでもやはり漏れは出る。だが、そんな事態を一般の人々に悟られる訳にはいかないのだよ。パニックにでもなれば更に事は深刻化するだけだからね」
 お国の事情はどうでも良いが、要するに結論は明らかだ。
「最近、都内で怪異発生が多発しているって事ですね」
 まあある意味懸念通りの話だ。
 尤も、つい最近まで結界という言葉に騙されていた俺が、ここで偉そうに予測出来ていたとか言えるもんじゃないが。
「そこまで分かるなら私の頼み事も予想出来ただろう?」
 酒匂さんは背筋を伸ばすと、俺をまっすぐに見て言い放った。
「木村隆志殿、貴君にハンター活動の再開を依頼する」

「ダメです」
 対する俺の答えは決まっている。
 こればっかりは受け入れる訳にはいかないのだ。
「どうしてなのかな?」
 対する酒匂さんは、その俺の言葉に全く動じる事なく聞き返して来る。
 ううくそ、これはヤバイぞ。一体どの辺りまで織り込み済みなんだ?

「うちの会社の服務規定に反します。うちの会社、特にうちの部門は副業は厳禁なんです」
 なにしろ開発部門だ。
 大前提としては、アイディアや技術の流出を防止する為の規定なんだろう。
 まあこの際理由は何でも良い。
 どう考えてもハンターとサラリーマンの両立が出来るはずがないんだ。
 断るしかない。

「なるほど、仕事か」
 酒匂さんのその重々しい口調に、俺は急に不安になって思わず聞いた。
「まさか今の仕事を辞めろとか言いませんよね?」
 そもそも反対だらけの中を押し切って就職したんだ。
 もしそれがどうしても無理な願いなら、その時点で俺の望みは潰されていただろう。
 でも、それが可能になったのは、俺が法を盾に取ったからだ。
 職業選択の自由。
 その国法の前提項、国の大義である部分に記された条項こそ、俺の寄って立つ唯一の頼りだった。
 法に従わせる側が法を無視する事は出来ない。
 その理屈を最大限に利用したのだ。

 だが、これが国家の一大事、超法規的措置を発動する事態なら彼らはいくらでも強権を行使出来るのだ。
「まさか、私達は君達に頼る立場なのだよ。それに、私は君を応援してもいる。新しい道を切り開くのは若者の権利でもあるのだからね」
 その、明確な立場の表明にほっとした俺に、しかし酒匂さんは続けて尋ねる。
「だが、君が自分の自由を守りたいなら、どうしてハンター権限を使ったりしたんだい?」
 安心した所に加えられた一撃に、俺は返す言葉に詰まった。
 この話題は絶対に来ると思って最初から身構えていたのだが、こういう流れで来られるとかなり厳しい。
 大体言い訳の出来るような話では元から無いのだ。
「そうしないと同僚とその家族を守れませんでしたから」
「怪異の固定モンスター化か。確かに普通なら現場にいたというだけでも取り調べは免れない所だろうな。しかも無罪放免に成り難い状況だ。……しかしまあ、珍しいというか、特殊な状況に遭遇したものだね」
 その場にいたというただそれだけで罪に問われる可能性の高いのが固定化した怪異、一般で言う所のモンスター関連の事件だ。
 モンスターが顕現した場合、その場の誰の意識、想いがトリガーになったかが、事が起こった後では殆ど確認出来ないというのが大きい。
 怪異の固定化は人類にとって恐るべき脅威であり、それに対する、特に国家側の対応はヒステリックになりがちだ。
 法廷における大前提である、『疑わしきは罰せず』が適応されないのが怪異関連事件の恐るべき所でもあるのだ。
 まあ伊藤さんの家で起こった件に関しては、その場には免許持ちの証言者が俺以外にも二人いたんで、そこまで面倒になる事も無いと思えたんだが、ここで、お父さんが元冒険者というのが少し引っ掛かる。
 ハンター自身はともかくとして、ハンター周りの関係者は冒険者に強い警戒心を持っている事が多い。
 純粋な対人戦闘では、実はハンターは冒険者に劣ると言われている。
 ハンターはあくまでも怪異関係に特化した戦いしかしない。
 だが、冒険者は、時に犯罪者を狩ったりもするし、中にはそれこそ犯罪者そのものだったりするのもいるからだ。

 そして、彼らは時にハンターを襲う場合があるのだ。
 ハンターは資格試験を経て得る資格だが、その中に一種独特の特殊免除項目がある。
 勇者血統の者はその受験に年齢による制限が付かない。
 つまり、この血統に連なる者は子供だろうが試験を受けてハンターになれるのだ。
 こんな特例があるのは、主に為政者側の都合によるものだ。
 その為に産まれた者達を一刻も早く現場に投入したいという、常に怪異の脅威にさらされていた頃の必死さが垣間見える特例だ。
 それが、誰の迷惑になる訳でも無いという理由でそのまま残っている。
 その為、若年のハンターがいたら、それはすなわち勇者血統である。という図式が出来上がった。

 勇者血統と呼ばれる、対怪異用に代々積み上げられた知識と能力を持った認定血統は世界中に存在するが、その絶対数は実は少ない。
 国内に殆ど在籍していない国もあるのだ。
 そういう国、そして一部の好事家達にとって、勇者血統を手に入れるという事は、大金と引き換えても惜しくない事なのである。

 まあなんだ、そういう一部の需要を満たす為、子供のハンターを狩る者がいるという事だ。
 デビュー仕立ての若年のハンターは、そういう冒険者に狙われ易い格好の獲物でもある。
 おそらく表に出ない歴史に色々あったのだろう。
 ハンターのサポートをする関係者の間で、冒険者は第一級の危険分子なのだ。
 実際、俺たちも子供の頃、冒険者のパーティと狩り場でバッティングした事があるが、その時、なんとも言えない目で見られたものだ。
 同じ人間に向けるものではない、金目の物に向ける視線。
 今ならそう評する事も出来るが、当時はそんなに人生経験など無い身、ひたすら気持ちが悪かった事だけを覚えている。
 とりあえずその場では、彼らのリーダーが仲間を制して何事もなく、お互いにとって不幸な事は起きなかったが、そういう事態も有り得た訳だ。

 当時の酒匂さんによると、島国である我が国では攫った相手を国外へ連れ出すのが困難な為、滅多な事は起きないらしいが、注意をするように口うるさく言われたものだ。
 その話の時の、「そんな事をしでかす連中がいたら、生まれて来た事を後悔するとはどういう事か経験してもらうけどね」との怖い笑顔が印象深過ぎて、忘れられない思い出となっている。
 そんな訳で、伊藤宅で起きた一件では、対策局に直接連絡してハンター権限で伊藤一家を嫌疑外にして貰ったのだ。

「しかも、重大容疑者の酌量措置申請も出している。天敵たる正統教会の牧童相手にどうした風の吹き回しか知らないが」
 そう言う酒匂さんは笑い含みだ。
 何が楽しいのか分からないが、その笑みは俺を不安にさせる。
 どうも、段々のっぴきならない状態に追いやられているような気がしてならないのだ。
「人間同士で敵対とか無いですよ。俺たちの敵はあくまでも怪異ですからね。それにあのワンコ、じゃなかった、あの彼に関しては、正当な申請です。あの場に彼がいなければ確実に怪我人が出ていました。咄嗟に防護結界を展開した手並みは見事でしたし、そういう手練を長年刑に服させて腐らせるなど人的資源を無駄にするだけでしょう?」
「ああ、君は術系統は苦手だったからな、特に守護は。なるほどね、今回の事の大きさに対して被害が少なかったのはあの正統教会の牧童の貢献もあるという事だね」
「ええ」
 俺が説明を終えると、酒匂さんは良く分かったという風に深く頷く。
「なるほど、事情は分かった。その状況下では仕方のない判断だっただろうな。……しかしだ」
 そう言って、酒匂さんは俺を憐れむように見詰めた。
「君がその存在を声高に主張してしまったもので、もはや、身を潜めるなどという事は出来ない事態になっているのだよ。都内に優秀なハンターがいるのならそれを使わない理由は無いだろうとね。拒み続ける事が出来ないとは言わないが、そうした場合、私でも必死な一部の者達の暴発を止められるとは思えないのだ」

 最悪だ。

 もう、色々とタイミングが最悪だ。
 都内に怪異の不安が広がりだした真っ只中に自ら名乗りを上げたハンター。
 誰だってそりゃあそいつを使えってなるよな。当然だ。馬鹿でも分かる。
「……もういっそ、無報酬なら仕事しても良いですよ」
 なんとなく投げやりな気持ちになった俺はそんな言葉を吐き出してしまった。
 相手を困らせるだけだって分かってるのに最低な話だ。
「それは、出来ないよ。ハンターを無報酬で働かせたりしたら我が国がハンター達から見捨てられる事になってしまうからね」
 酒匂さんは俺の苦悩を理解しているのだろう、まるで自分が責められているかのように肩を落とす。

「そうだ、こういうのはどうかな?」
 やがて、ふと良いアイディアが閃いたとばかりに、酒匂さんは俺に提案した。
「由美子ちゃんが大学の寮に入っただろう?都内だから当然その仕事としては、主に都内の任務に着く事になる。しかも今までサポートとして付いていた浩二君は村に残るから、彼がサポートに付けないし、そうなるとソロでの活動になってしまう。だが、彼女のような術者はやはりソロは大変だ。そこで、君が代わって由美子ちゃんのサポートに付くようにしてはどうだろう?報酬は君達二人に対して支払われるんだから、その配分は君達二人の間での話になる。そこで報酬を由美子ちゃんに全部渡せば良いのではないかな?そうすれば君の会社への名目としては、家族の手伝いと出来るだろう?」

 なるほど、確かに筋が通っている。
 どこにも問題の無い、全てが丸く治まる提案だ。
 
 だけどなぜだろう?
 俺はこの提案に一瞬戦慄を覚えた。
 なにかこう、迷宮よりも恐ろしい出口の無い罠にハマってしまったような、そんな気持ちになる。

 そして、この提案の一番恐ろしい所は、俺はこれを受ける以外どうしようもないという部分なのだった。



[34743] 22、計画的に行動しよう! 前編
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2012/10/24 22:47
 室内には異様な緊張感が漂っていた。
 だが、どうやらそう感じているのは俺だけらしく、俺以外の二人、特に感じ取るべきであろう当人は、全く何も感じている様子もなく、至ってリラックスしている。
 緊張感の中心地、テーブルの中央には、中くらいの平皿があり、そこに一個のシュークリームが鎮座していた。
 俺が手土産に持参した二個の内の残り一個であり、現在の俺のストレス元でもある。
 そう、俺は現在進行形で激しい葛藤にさいなまれていたのだ。
 取るべきか取らざるべきか……。

 だが、そんな俺の内心など全く考慮もしない男は、無造作にそれを掴んで口に入れた。
 しかも、あろうことか大して味わう事もせずに、たった二口で口に押し込み飲み込んでしまったのである。

 許し難き暴挙だ。

 だいたい、なんで妹との面会に他人が割り込んで来るんだ?
 意味が分かんねえよ!?
「素晴らしいですよ。平安の世に鬼を薙ぐように退治たと言われるあの英雄の直系のお二人にこうしてまみえているなど、まことに夢のようです」
 顔合わせからこっち、ずっとこの調子で全く肝心の話が出来ないし。

「ユミ、友達を作るなとは言わないし、むしろ積極的に作って欲しいぐらいだが、もうちょっと相手を選んでくれるとお兄ちゃんは嬉しいな」
「違う、友達じゃないから。教授の助手の一人。付け加えるなら英雄フリーク」
「なんだ?その牛乳かけて食うと美味そうなのは」
「フレークじゃなくてフリーク。教授によると熱狂的なファンって事らしい」
「なるほど、要するに理解しようと思っては駄目な相手か」
「そうだね」
 相も変わらず我が妹の説明は簡潔過ぎて詳細が分からない。
 しかし、ようやく相手の正体がおぼろげながら判明した。
 なぜこの場にいるのかは分からないままだが一遍に全部を説明させようというのがどだい無理な話なのだ。
 もういっそ放置して二人で話を詰めようかとも思ったが、さすがに部外者を横に置いてハンターとしての内々の話は拙いだろうしな。困った。

「あの……」
 いっそ面倒だが外出届けを出して外で打ち合わせをするか。
「ええっと、お二人共、聞いておられます?」
「なんだ?食い物の価値の分からないやつ」
「兄さんは昔から洋菓子類を一個の芸術だと思って崇めているんです。それを粗末にされると、その相手は怪異と同等の存在とみなしてしまうぐらい」
 ちょ、由美子さん何言ってるんですか?
 いくらなんでもそこまで極端に拘ってねえよ!
「わ、私はなんという事を!いくら好きな研究に没頭して来たとは言え、人としての道を踏み外すとは!」
 由美子の見当違いの断罪に、男は頭を抱え、崩れるように椅子から落ちると床に伏して嘆き出した。
 どんなノリの良さだよ。
 呆れた俺の眼前で、その男はいきなり姿勢を正し土下座をすると、涙ながらに訴え始める。
「知らぬ事とはいえ、いや、知らぬ内にやったからこそ、そんな外道に墜ちてはもはやこの世に生きてはおれません。それに、名高き木村の鬼伏せに成敗されるならいっそ本望!どうぞ一思いにお裁きください!」
 ナニコレ怖い。
 俺は妹に縋るような視線を向けた。
 だが由美子は、無情にも自分は紅茶を飲んで視線を逸らしてやりすごそうとしている。
 なんでだ!?元はと言えばお前が連れて来たんだろ、これ。


 本来この面会の目的は、この間、俺のアパートの部屋に、今や政府のお偉いさんとなった古馴染の酒匂さこうさんが尋ねて来て、その説得でハンターとして活動する妹の由美子のサポーターとして動かざるを得なくなってしまい、その打ち合わせと、なんだか疎遠になりつつあった妹との関係修復を兼ねたものだ。
 それなのに、なぜかその来客用の応接室に変な男がくっついて来ていたのが現状である。
 そして、手土産のシュークリームは当然二人分しかなかったのに、この変な奴が俺の分をご高説の合間に何の断りもなく食いやがったのだ。
 しかも無感動に。

 考えれば考える程腹が立ってきた。
「やっぱり外に行くか?外出許可が必要なら記入するぞ」
 到底この眼前の男の相手をする気になれないので、完全に無視して由美子に聞く。
「外泊じゃないなら許可はいらない。大丈夫だよ」
 あ、そうなんだ。
 俺の時は尋ねて来る相手もいなかったから、外泊と外出をごっちゃにして覚えていたんだな。

「あの……申し訳ありません。そうですよね、ご迷惑でしたよね。わざわざ外に行かれる必要はありませんよ。私が失礼致します。真に申し訳なく」
 床に這いつくばっていた男は、俺たちの会話に慌てたように立ち上がると、ペコペコと頭を下げ、追われるようにドアからまろび出た。
 しかし、出たは出たんだが、尚も外からドアを僅かに開けて涙目でこちらを窺っている。
 うっとおしい。
「なんなんだ、アレは?」
「だから言った。英雄フリーク。教授によるともっと症状が進んでストーカーに進化するのもいるとか」
「それって犯罪者予備軍って事か?」
「実際、勇者血統関係の誘拐事件に個人で関わるのはああいう病気持ちが多いと聞いてる」
 由美子の言葉に、思わずドアの方を睨み付けると、まだ開いている隙間越しに必死で首を横に振っているのが見えた。
 その内、ガツン!と鈍い音が聞こえ、ドアがゆっくりと閉まる。
 どうやらあんまり振りすぎて、ドアノブか何かに頭をぶつけたらしい。
 あれがドアに倒れ掛かっていたりすると出るのが大変そうだな。

「取り敢えず変態の事はこの際置いておくとして、打ち合わせの本題なんだが、まず、お前はどのくらいの頻度で依頼を請けるつもりなんだ?」
 やっと本題に入れるとほっとした俺だったが、由美子はじっと俺を見て返事をしない。
 これは何か納得がいかない事があるという合図なのだ。
 しかしな、そういうのは口で言うべきだと思うぞ。
 俺達家族が悪かったのかもしれないけど、お兄ちゃんはお前の対人関係が不安でならないよ。
「なにか言いたい事があるのか?」
 由美子はこくんと頷くと、俺を真っ直ぐに見て言った。
「正直、兄さんは今回の話を断ると思っていたの。大学進学や就職の時、誰が何を言っても聞かなかったでしょ。あの時、兄さんは何もかも捨てて行くんだと思った。それなのに、今こうやってハンターに復帰するなんて、どういうつもりなの?」
 おおう、妹よ、なんか言葉遣いが浩二に似て来た気がするぞ。
 う~ん、それにしても俺も若かったとはいえ色々強引だったよな。
 親父やおふくろ、ジジババはともかくとして、妹や弟を不安にさせてしまうなんて、駄目な兄貴だよな。
「俺もあん時は意固地になってたからな、言うべきじゃない事まで口走った自覚はあるんだ。だがな、別にハンターの仕事を馬鹿にしたり軽んじていた訳じゃないんだぞ?ただ、職業選択の自由が万人に認められている時代に、それしか出来ないみたいに縛られるのはおかしいと思っていただけなんだ」
 俺も意地になって強引に何もかもを推し進めてしまった。
 あの頃の自分を思い出すと、なんていうか怒鳴りつけてやりたい気分になる。
「わかった。兄さんは節操無しなんだね」
 自己嫌悪に陥りかけていた俺は、その由美子の言葉に、もう少しでお約束のように紅茶を噴き出しそうになった。
 いや、ちょっと、いくらなんでもその言い様はなんか違わないか?

「いや、待て、違う。というか、俺は違うつもりだ。実はだな、ここの所望まずに怪異関連の事件に関わる事がちょくちょくあって、それで思い知ったんだ。結局さ、手の届く所に自分の身に着けた技能で何とか出来そうな事があったら、何もしないよりやった方が楽なんだよ。ハンターとかエンジニアとか関係無くって、出来る事をやらないのは気持ちが悪いんだ。だからどうせ関わるなら立場をすっきりさせておいた方が良いだろ?そう考えるようになってさ、それで今回の話を承諾したのさ。知ってるだろ?俺は昔っから何も変わっちゃいないよ。良い格好しいで、本当は嫌な事は見ないふりして、楽な方に全力で突っ走ってるだけなんだ。そりゃあ確かに意思薄弱と言われればそうかもしれないけどさ、節操無しとか言われるとちょっとヘコむというか、ユミにそういう風に思われると辛いな」
 由美子は、少し考えるように俺を見ると、
「そうなんだ。それなら安心した」
 にこにこと笑顔になってそう言った。
 いや、笑顔は凄く可愛いけどな、今、俺、何か安心出来るような話をしたっけ?
 兄として非常に情けないぶっちゃけ話をしたような気がするんだが……。
 お前時々分からないよな、我が妹ながらさ。

 ふと嫌な気配に振り向くと、ドアの隙間から変態男が涙にむせびながら何かを称えるように親指を立てているのが見えた。
 イラっとした。
 何か分からんが、変態が喜んでいるのを見るのはこんなにムカツクものだったんだな。
 俺の戸惑いはたちまちの内に怒りへと変換された。

 ドカッと足でドアを蹴り飛ばす。
 ドアの向こう側で、先程より鈍い音が響いた。

「兄さん。その人まだ何もしてないんだからやっちゃったら罪になるよ。もしうちどころが悪かった場合は、私が虫でしばらく操って証拠隠滅してあげるけど」
「いやユミさん。そういう考え方は怖いからやめようね」
 俺ももうちょっと感情的にならないようにしないとな。
 俺のこういう短絡的な行動のせいで由美子もちょっと変わったものの考え方になっちゃったのかもしれないし。
 廊下の気配はちゃんと息がある。
 俺だっていくらなんでもいきなり人殺しはしないぞ。

 俺達はそのまま応接室のソファーに戻ると、話し合いを再開したのだった。



[34743] 23、計画的に行動しよう! 後編
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2012/10/31 23:33
 打ち合わせは淡々と進んだ。
 なにしろ高校までは日常的にこれらのやりとりをやっていたので、今更戸惑ったりする事もない。
「そうなると基本的にはフリーの依頼は受けない方向だな」
「そう。教授の手伝いが主体。元々その為に無理を押して大学に入ったんだし」
 由美子の説明に俺達のチームの基本方針が決まる。
 大学生に成り立てである妹は、当分は学業が優先だ。
 なので基本的にハンターとしての仕事は、指名や特定の物だけという事になりそうだった。
 これは俺としても助かる。
 しかし、話を聞いて思ったが、その教授、由美子を大学に迎えた事に打算があったんじゃなかろうか?
 現地調査の為にハンターにガード依頼を出すと料金がかさむ上に内容に関しての詳細を報告しなければならない。
 だが学生として課外授業の一環としてハンター資格を持つ者を連れて行けば、費用も掛からないし内容も秘匿出来る。
 金銭的な事はもちろん、成果を競い合っているという研究室にとって、自分達の研究内容が外に漏れないのは重要に違いない。
 と言っても、ここの教授がそんな打算オンリーで由美子を受け入れようとしたんなら、対策室の連中が進学を許すはずもないから、由美子の才能云々の話は事実なんだろうな。
 何しろ、由美子の奴は我が家の古文書も当主のみが見れるという秘伝書以外は全部読み解いたらしいし。

 その才能を恵まれているという者もいるかもしれないが、こいつは決して天才型じゃない。とことん努力家だ。
 勇者血統の直系本家に生まれながら、特殊な力は一切持たなかった。
 おかげで由美子は小さい頃は随分苛められていたものだ。
 俺達が庇うにも限度があるし、小さい村社会、しかも弱肉強食が掟のような所だから仕方なかったのかもしれないが。
 おかげでその分、身内は際限なく甘やかす事になった……。
 今は他にやりようがあったんじゃないかと反省しているが。子供だった当時にはその程度しかしてやれなかったしな。
 しかし、大人共は、もうちょっとこう、どうにか出来なかったのかな?子供の世界の事は口出し出来ないってのはあったのかもしれないけどよ。

「来週は教授が幻影迷宮トレースダンジョンで実験するとか言ってた」
 俺が一人感慨にふけっていると、由美子が不意打ちをかましてくれた。
 ゲフッ、茶が気管に!
 じゃねえよ!なんだって!?
「ちょ、待て!最近の大学は冒険者の真似事までするのか?」
 幻影迷宮は過去に踏破された迷宮を幻術で再現した仮想の迷宮ダンジョンだ。
 実際の迷宮は高価なアイテムを使うかボスを倒すまで脱出不可能なのだが、そんなもんにいきなり挑戦して生還出来るのは、桁外れの強さを持った連中かむちゃくちゃ運が良い奴か一部の金持ちぐらいだろう。
 そうなると迷宮のほとんどは放置され、増え放題って事になる。
 さすがにそれは困るので、考え出されたのがこの幻影迷宮だ。
 この仮想の世界なら、うっかり死んでも仮想世界での話、現実には生きて経験を積める。
 ただ、痛みや恐怖はそのままなので、時々ショックで本当に死ぬ奴もいるというまことしやかな話もあったりするが、まあ俺は誇張されたただの噂話だと思うけどな。
 なにしろボスを倒すとかの条件設定でもされていない限り、解除ワードでいつでも離脱可能なんだから、普通死ぬ前に逃げるだろ。

 ……条件設定といえば、年の始めに嫌な出来事があったな。
 俺が突っ込まれたのは普通の幻影ですら無かったしな!
 大人になったお祝いとか言って、封印捕獲した名有りの怪異ネームドモンスターとタイマンさせるとか、うちの家族のクレイジーさには涙が出るね、マジで。
「兄さん、臨戦時の気配になってる。そんなに怒る事じゃないよね?」
 由美子の指摘に我に返った俺は慌てて意識を切り替えた。
「あ、いや、ちょっと嫌な事を思い出しただけだ。それより幻影迷宮なんてハンターや冒険者が修行に使うもんだろ?よくもまあ使用許可が降りたな」
 俺の言葉に由美子は一瞬きょとんとすると、
「初級の迷宮は小学校入学のお祝いの定番だよね?」
 と、不思議そうに聞き返して来た。
「いや、うちの村の常識を世間一般に当て嵌めたら駄目だから、な」
 やばい、こいつ友達作らないから、せっかく一般常識を学ぶ機会だった高校時代もその辺スルーしちまったんだな。
 これは、その教授とやらと合わさると凄くマズい気がするぞ。
「そっか、だから他の人達がなんだか不安そうだったんだ。でも、心配いらないと思う」
 由美子は、世間の常識と自分の常識との剥離に少し驚いたようだったが、すぐに納得したようにそう言った。
 飲み込みが早いのは由美子の美点だよな。その調子で常識を身に着けて欲しいと、お兄ちゃんは切に願っています。
「というと?」
「うん。怪異と積極的に戦わないのと、外部モニタリングによるサポートが使用条件だから」
 それは確かに安全そうだが。
「怪異と戦わないって?なおさら迷宮に潜る目的が分からないんだが」
 そっちが戦う気が無くとも、相手は委細構わず襲って来るだろうけどな。
「発掘された碑文に記されていた術式が、迷宮内でのみ発動するんじゃないかって事で、実地で発動実験をするんだって」
「おいおい、それって大丈夫なのかよ。まあ対策室の連中がOK出したんなら大丈夫なんだろうけど、お前から見てその術式はどうなんだ?」
 そういう謎の術式の構成については由美子に聞くのが一番だ。
 それこそものごころついた頃には既にうちの古文書を絵本代わりに読んでいたし、昔の暗号じみた記述も普通に読み取れたりするからな。
 大学への推薦理由もその辺だったっぽいし、どうやら切実な問題としてその才能が求められていそうだ。
「ビバーク用の術式だと思うけど、連動要素があるみたい。夢の欠片と」
 ん?その場合、幻影でやっても意味が無いんじゃ?
「幻影迷宮で出現する夢の欠片は、それこそ実体の無いものだろ?実験の意味があるのか?」
「夢の欠片は別持ち込み」
「ああ、なるほど……条件としてはそれで大丈夫なのか?」
 なんとなく全容は読めた。
 幻影で環境を整えて、資材を持ち込んで本物に近付けた状態を作り出そうって事だな。
「教授は本物の迷宮に入りたかったらしいけど、許可が下りなかったみたい」
「そりゃあそうだろ」
 なんか話を聞く毎に、由美子を推したその教授に不安しか感じないんだが、大丈夫なのか?学校の活動は俺にはどうしようも無いから尚更心配だぞ。


「あの、お話しは終わりましたか?」
 遠慮がちなノックと共にうっとおしい顔が覗いた。
 どうでも良いが、相手の応答を待たないノックに意味があるのか?
「あ?今度は本気で蹴られたいのか?」
 どうやら変態が懲りずに現れたようだ。
 手加減が過ぎたらしい。
「いえ!あの!先程は申し訳ありませんでした!憧れの方々が、しかも兄妹でいらっしゃって舞い上がってしまったのです!決して不埒な想いでお邪魔した訳では無いのです!実は私の論文のテーマが勇者血統の在り方についてなので、まるで奇跡のようなタイミングで入学してくださった木村さんにご協力を仰ごうと伺いましたら、なんとお兄様がお見えだと聞いて、興奮して……いや、我を忘れてしまいまして!」
 ……うざい。
 いや、いかん。
 確かにうざいが、とりあえず我慢だ。
「正気か?勇者血統を研究テーマなんかにしたら確実に検閲が入るだろ?」
「今まで提出して来たレポートで、大体の許可範囲は理解しています。ご安心ください!」
 この大学どうなってるんだ?
 確か国内最高の才能を育てる大学だと聞いた覚えがあるが。
「あ、あの、私は本気です!研究の為にはいかなる難関も突破る気概もあります!命を掛けて研究をしています!」
 なんだか対処が良く分からずに放置している間に、俺と妹のしらっとした態度に危機感を覚えたのか、やばい方向にヒートアップし出した変態は、おもむろに自分のカップに指を突っ込むと、テーブルに魔方陣を描き出した。
 俺は半ば反射的に身を引き、素早く由美子に視線を送る。
 だが、由美子は平然とソファーに腰掛けて暇そうにしているだけで、全く動じた風も無い。
 どうやら危険な術式じゃないらしい。
「私の情熱は、どんな困難にも打ち勝つのです!」
 お近付きなりたくない情熱を垂れ流しながら、やがて変態は描き終えた陣の外周を繋ぎ、魔方陣に意思を通す。
 術式が起動して、込められた効果が発動したようだった。

 それにしてもこいつ、魔術士として実践クラスじゃないか?
 普通魔方陣と言うものは人間には記憶出来ないように出来ている。
 図形として鋳型だけを記憶する事は出来るのだが、肝心の術式をどうしても覚える事が出来ないらしいのだ。
 学者によると、魔方陣を完全な形で覚えてしまうと、意識野で発動状態になってしまう為、無意識のセーフティが掛かるのだとかなんとか、良く分からん理屈を言っているらしい。
 ともあれ、そういう事情で、普通は魔方陣は書物や紙片に記した物を持ち歩いて使う。
 だが、学者が立てた仮説を元に、自らの記憶をコントロールして、逆転の発想で枠と術式を分けて記憶する者が現れて、魔術師は格段に強化される事になった。
 そらで魔法陣を描けるという事は、真似事とはいえ、その手法が使えるのだから到底一般の研究者の技量とは思えない。
 変態恐るべし。
 俺は初めてこの男に脅威を感じた。

 出来上がった魔方陣の上に光が現われ、そこに人物の姿が浮かび上がる。
「これを入手するには大変な苦労がありました。ですが、勇者血統の研究者としては当代最高と言われる術者を外す訳にはいかないと決死の覚悟で入手したのです!」
 無駄に熱い。しかもなんか怖い。
 魔法陣に浮かんだ人物は女だ。
 プラチナブロンドの髪、白人種独特のピンクっぽい肌、顔立ちはグラビアアイドルでも通るくらいには美人だとは思う。ちょっとキツめだけどな。
 というか、当代最高の術者だって?……。

「そう、彼女こそ、ロシアの誇る神秘の血統。召喚術士のジーヴィッカ・ニェーバですよ!」
 げえっ!
 今度こそ心底たまげた俺は、慌てて部屋の四隅に視線を走らせる。
 監視カメラの有無を確認したのだ。
「お兄さん、大丈夫ですよ。この部屋は安全です」
 変態が自信満々に胸を張って見せる。
「何言ってるんだ!それを早く消せ!それ、ロシアの国家機密じゃねえか!僅かでも外に情報を漏らせば極刑と聞くぞ!」
「そうなんですよ。警戒が厳しくて、たかだかポートレート1枚手に入れるのに魔法陣の脳内保存の秘技を覚えなければなりませんでしたよ。それにしても召喚能力はどういう風に使われるのでしょうね、実際にこの目で見られたらどれ程素晴らしいか。いえ、私は諦めるつもりはありませんが」
 馬鹿だ!馬鹿過ぎる!フリークってのはみんなこんなイカれた奴なのか?
「兄さん、とりあえず虫を数匹放って覗き見防止のジャミングを展開しておきますね」
 あまりの事にフリーズしてしまった俺の耳に、異様に冷静な我が妹、由美子の言葉が、溶けた氷水のようにひんやりと滑り込んだのだった。



[34743] 24、昼と夜 その一
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2012/11/07 22:13
 進行中のプロジェクトが途切れて通常業務モードになると、途端にうちの部署は怪しくなる。
「なになに?炊飯器でチーズケーキを焼くとスイッチが切れた時にはまだ生焼けです。自由度のあるタイマーを設定してもらえませんか?と、……うん、なるほど、それは困るね。でもそれ炊飯器だから、ご飯を炊きたいだけの人にはそういうのって手間なだけだよな」
 俺の電算機パソコンのディスプレイに表示されているのは、サポートセンターから借りて来たクレームの記録ログだ。
 実の所、商品開発のヒントとして最も役に立つのは、こういうクレームやお客様相談の内容なのだ。
 特にクレームは、極端に利己的な物を省けば、開発のキーアイテムと言われているぐらい貴重な物で、いっそ余所の家電メーカーのも買い取りたいと課長が零す程だった。
 しかし言うは簡単だが、クレームの内容を読むのはかなり精神的疲労を伴う場合が多い。
 この炊飯器チーズケーキなどむしろ読んで楽しい類の物である。
 うん、いいなあ、楽しそうだ。
「仕方なく二度炊きをしようとするとなぜかスイッチが入りません。……うん、まあ感熱センサ入ってるしね」
 うちの炊飯器は、ご飯が美味しく炊けるように熱によって炊き具合を調整しているのだ。
 あまり熱いとスイッチ自体が入らないので、少し冷ましてからスイッチを入れ直すと大丈夫だと思うよ。

 普通に考えれば、ご飯もケーキも一つの家電で作りたいなら万能調理器使えよって話だが、わざわざこういう事をしでかすお客様には、その人なりのなんらかの拘りがある事が多い。
 そんな拘りの内側に眠る欲求の意味を解き明かして、新商品に向けたニーズを探り出すのが俺たちのお仕事な訳だ。
「しかし、炊飯器でチーズケーキか……今度作ってみるか」
 ワールドワイド回線にアクセスしてレシピを検索してみる。
 色々出て来た。
 炊飯器って結構色んな料理が作れるんだな、ちょっとびっくりだ。

「よし!完成したぞ!」
 向かい側のデスクでは、限り無くノリの軽い一児の父がなにやら一人で盛り上がっている。
「ジャーン!なんとアイディア自動生成システム、“これだ君”完成!」
「アイディア自動生成?」
 良い大人が『ジャーン!』とか口に出すとは、ある意味偉大な男だ。
 何故なんだろうか?この人って、やる事なす事駄目な予感しかしない。
 結構優秀な人なんだけどな。
「なんと、今まで廃棄されてきたスリーピングなアイディアをセンテンス毎に分割、再構成するという画期的なシステムなんだぜ!」
 その自慢げな男、サトウの方を見て、俺と同時に伊藤さんが溜め息を吐いたのが見えた。
「それで過去の企画書のデータベースが必要だったんですね」
 どこか諦めの窺えるその様子に、俺は軽く励ますように笑みを向ける。
 せっかくのデータベースをそんな物に使われたのか、そりゃあ脱力するよな。
 彼女はこちらに気付くと、少し嬉しそうに笑った。

 一時、俺の勝手な勘違いから(一方的に)気まずくなっていた伊藤さんとの関係だが、偶然居酒屋で合流し、遅くなった彼女を俺が駅まで送った際に、なし崩し的に元の関係に落ち着いた。
 彼女のさりげない気遣いと屈託の無さに、俺の中のこだわりが昇華され、救われた形だ。
 その際、もう変な勘違いで今の心地良い関係を崩すまいと決意を新たにしたのである。
 ほんと、良いだよね。……正直まだちょっと胸が痛いんだけどな。

「どうよ木村、ちょっとこれ使ってみないか?」
 一方でこっちは、とても40代に見えない軽さだ。
 そんな姿を見せたら、遅くに生まれて溺愛している乳飲み子の息子に嫌われるぞ?
「いや、俺は良いよ」
「なんだチャレンジ精神の無い奴だな、開発たる者常に先陣を切るぐらいの気持ちが必要だぞ!」
 うん、考え方そのものは良いと思うんだ、この人も。
 なんか変な方向に突っ走り易いだけでさ。
 なにしろ、ウチの課でアイディアの商品化でヒット商品を一番出しているのは実はこの人だし。
 没企画の数も社内一だけど。

「あー、木村くん」
「あ、はい?」
 急に課長に呼ばれてそちらに意識を向ける。
 ん?課長の隣に流がいるな。
 もしかしてなんか厄介事か?
「隣からヘルプ要請だ。手が空いているようならヘルプに入ってくれんか?」
「良いですけど、どんな内容ですか?」
「実験用に試作機を組んでいるんだが、上手く行かなくってね」
 流が少し照れ気味に説明する。
 うちの女性陣の視線を独り占めだぜ。……おのれ。
「なるほど分かりましたヘルプ入ります」
「ああ、よろしく頼む」
 うちと流の所とは仕切りがあって無いようなもので、この手のヘルプ連携はしょっちゅうだ。
 元々そういう意味合いで隣り合わせているんだろうし、同じテーマをやっている技術屋と理論派って感じである。

「ちょっとこの試作機なんですけど、配線が上手く行かなくてスイッチが作動しないんですよ」
 隣のベースに行くと、いきなりわらわらと実験着の連中に囲まれた。
 見ると凄く適当なアルミケース(凄く弁当箱な感じ)に、手作りっぽい基板が嵌め込まれた機械からくりがあった。
 これはあれだ、小学生の発明品。
 というか、すげえよ、半田同士が全部繋がっているんだぜ。
「……とりあえず、なにがやりたくてこうなったか教えてくれ」
 オーライ、最初からやり直そう。
 多分それがクリアへの一番の近道だ。







 一日の仕事が終わると一気に気だるい気分になるのはどうしてだろう?
 なんだかんだ言ってそれなり仕事中は緊張してるのかな?
「んーと、確か卵と牛乳がそろそろ無くなりそうだったな」
 プロジェクトが走ってないおかげで定時退社が出来たんで、久々に何か作ろうかなと考える。
 といっても、気力的な部分のせいで、チャーハンにニラ玉炒めとスープみたいな感じになりそうだが。
 スーパーが開いてる時間に帰れる事は珍しいんで、色々補充品も買っておきたい。
 プロジェクト明け独特のなんとなく浮き立った気分でいた俺の背広の内ポケットで、突然携帯電話が跳ね上がるように振動した。

「……ふ、大体予想は出来ているぜ」
 嫌な予感を振り切るように一人ニヒルに決めてみるが、ショッピングカゴを持ったおばちゃんに大きく迂回されただけだった。
 いや、別に良いんだ。ちょっと自分をごまかしてみたかったんだよ!

 トボトボと肩を落として家に帰りながら、携帯電話から由美子に電話を入れる。
「あ、ユミか?準緊急が入ったがどうする?」
 準緊急は緊急よりは余裕がある。
 今日急いで取り掛からなくても咎められたりはしないのだ。
『今箱開けてるとこ。まだ寮管さん起きてるから許可貰えると思う。今夜済ませる』
 しかし、由美子は今夜の内に終わらせるつもりだ。
 お互い日中忙しい身だしな、俺もその方が良い。
「分かった。俺も帰ったら電算機パソコンで詳細を開示確認してから出る。現地集合で二十時三十分ふたまるさんまるで良いか?」
『……遅い』
 由美子がいきなり不機嫌モードになった。
 いやいや、戦いになるかもしれんのに空腹じゃ無理だから。
「まだ帰宅途中で飯もまだなんだぞ?」
『遅い、不健康』
 今度の遅いは退社時間への文句だな。
 プロジェクトピーク時とかになると家に帰れなかったりするとか言ったらどうなるんだろうこれ?……こわい。
「ええっと、ごめん。それで、OKかな?」
『仕方ないから、分かった。今度ご飯食べに行くからちゃんと作って』
 待て待て、そこは作りに行くから、とかじゃないのか?とか思ったが、俺は賢明にも口の中でその言葉を消し去った。
「今度来る時は余裕を持って先に連絡をくれ。そしたらなんか手の込んだのも作れるし、デザートも用意出来るからな」
 ぴくりと電話の向こうの由美子のまなじりが上がるのが見えた気がする。
『デザート……分かった』
 うん、我が妹よ。
 兄としてはお前が素直な事を喜ぶべきか、単純な事を悲しむべきか複雑な気持ちだ。

 電話を切るとアパートに急ぐ。
 走りたい所だが、卵が心配なので走れないのだ。
 俺はとにかく力加減が苦手である。
 ちょっと油断すると軟い物なんかは壊してしまうのだ。

 部屋の前にも中にも誰も居ない事を確認して、急ぎ中に入ると、慌てて電算機パソコンを起動する。
 それが立ち上がっている間に、買い物して来た物品をそれぞれの定位置に放り込んだ。
 それから急いで封印シールドケースを個体認証で開け、そこから記憶端子メモリチップを取り出し、こっちにも個体認識させる。
 立ち上がったパソコンにチップを読み込ませ、クローズ回線経由の依頼書を開いて読み込んだ。
 開いた依頼書から事件の概要を確認する。
 脳内で内容を反芻しながら急いで茶碗に飯をついで卵を乗っけて醤油を垂らしてかっこんだ。
 そして片付けもそこそこに着ている服を脱ぎ捨てると冷水のシャワーを頭から浴びる。
 お湯は意識をぼんやりさせるので、こういう時は駄目なんだよな。

 クローゼットから装備一式を引っ掴み、順番に確認しながら身に着けて行く。
 合皮を特殊加工したツナギのような上下、両肩からクロスするように引っ掛けるベルトと腰のベルトをがっちり装着し、ずらりと並んだそのホルダーに、ナイフや触媒を詰め込んでいった。
 そして仕上げに怪異モンスター素材を織り込んだジャケットを羽織る。
 この素材、かなりの貴重品なんだよな。
 本来倒せば解けて消えるはずの怪異モンスター達だが、極稀に存在強化素材と呼ばれる素材を残す事がある。
 この素材は魔法の類を一切通さないという稀な性質を持つ為、ハンターの多くは装備のどこかにこれを使っているのだ。
 まあ、むちゃくちゃ高いんで本当にポイント的にしか使えないんだけどね。

 絶対に忘れてはいけないハンター証を首に掛け、その裏側の差し込みに記憶端末メモリチップをセットする。
 その途端、チッチッと小さな赤い光が点滅し出した。
 わざわざ地図を見ずとも、これが現場まで誘導してくれるようになっているのだ。
 靴底に鉛を仕込んだ戦闘用ブーツを装着すると準備完了だ。

「急がないとうちのお姫様が気分を害するからな」
 少なくとも待ち合わせ時間より10分は早く到着しないとヤバイ。
「せっかくの定時帰宅だったんだよな」
 しみじみと未練がましく呟いて、俺は振り切るように玄関を後にしたのだった。



[34743] 25、昼と夜 その二
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2012/11/15 00:33
 ピピピ…と続く連続音は、目的地に近付く程間隔が短くなる。
 ビーッという警告音は向いている方向が違うというお知らせ。
 そして、無音は……。
「到着っとな」
 街角。
 基本的に、住宅地と言えば“高級”が付く中央都において、薄給の庶民が住居を求める場合、主に二つの選択肢がある。
 郊外の持ち家か郭内の貸し家か、だ。
 俺の辿り着いたこの辺りは、その貸し家のファミリー層向け大規模集合住宅地域、すなわち団地区域と呼ばれる場所の一画だった。
 夜尚賑やかな繁華街と違って、この辺りは、まだ21時前だと言うのに既に人の気配が薄い。
 到着して一息ついた俺の耳に、ふいにジィ…、という虫の羽音が届いた。
 どうやら由美子が先にこっちを見付けたらしい。
 優秀な妹を持つと楽が出来て良いな。
 合流を待つ間に周囲の気配を探りながらオーダー内容を検証してみた。

 事の起こりは三日程前らしい。
 この近所に設置してあった自販機がおかしな壊され方をした。
 叩き壊されたのでも切断されたのでもなく、バラバラになっていたのである。
 具体的に言うと、その自販機は、まるで組み立て前の状態にに戻ったかのように、綺麗にパーツ毎に分断されて壊されていたのだ。
 その時点では、誰かの手の込んだ悪戯だろうという事で、器物破壊事件として警察があまり気のない捜査を始めただけだった。
 だが、次の日。
 今度は地域の小公園の、ベンチや遊具が"バラ"された。
 ここに至って、やっとこれは普通の事件じゃないと判断した捜査部は、案件を保安局送りにし、保安局は怪異対策庁に依頼を出して、俺達に割り振られたって訳だ。
 準緊急だったのは、これまで人的被害が出てないせいだな。

 しかし、これは……。
「兄さん、半径50m範囲の屋外に人はいません」
「おうユミ、早速ご苦労様。まあ相手も同じ場所をうろうろしているとは限らないしな、」
「そうだけど、一昨日、昨日の二件共、近隣で起きている事を考えると、この犯人は、ここに土地勘があって、その範囲で事を行なっている可能性の方が高い」
「その言い方だとお前の考えも同じか」
「犯人についてという事なら、高い可能性で怪異では無いと思っている」
「だよな」
 由美子はコクコクと首を動かした。くっ、ちょっと可愛い。

 いや、それはそれとして、妹よ、その装備で今後も都内で活動するつもりなのか。
 白い胴着に紺袴、って、物凄く浮いてるぞ。
 まあ、弓道部とか合気道をやっているとか思ってくれる可能性があるか?
 いや、胸を三角に覆っている黄金の胸当てはさすがにやばいだろ、その派手な装備のせいで、もはやどう見てもコスプレの類と化しているぞ。
 表面に文言が彫り込んであるし、素材も特殊な感じがするから、何らかの強力な術具だとは思うが。
 あ、裏から符を出した。
 仕込みも出来るのか。

「兄さん、視線がエロい」
「馬鹿か!妹の胸なんぞをそんな感情で見るか!というか、女の子がエロいとか言うな!はしたないだろうが!」
 とんでもない言い掛かりを全力で否定する。
 そもそもエロい思いを抱けるような胸でもないだろうが!
「兄さん……今度こそ何か良からぬ事を考えた。ね?」
「知らん!」
 冷え冷えとした視線が俺に突き刺さる。
 くっ、まさかまだ正月に会えなかった事を根に持っているのか?
 再会してからこっち、なんか俺の扱いが酷くないか?

「探索範囲を広げてみる」
 悶々とする俺を放置して、由美子はふいっと話を打ち切ると、符を手に乗せて息を吹き掛け、真っ白な大きな蛾を出現させてそれを放った。
 この虫は由美子の得意技の一つだ。
 約半径100m範囲の情報を細かく拾うという高性能な能力があるらしい。
 その代わり少数精鋭で、他の虫のように数を放てないのがネックだとか。

「明らかに時間と場所にそぐわない存在がいる」
 由美子がふと目を閉じたと思うと、そう報告してくる。
「はえーな、おい」
 なんか昔にいや増して情報精査の能力が上がっているな。
 そもそも、虫がどれだけ情報を拾おうと、それを分類判断するのは術者だ。
 術式をどれほど繊細に使いこなせるかで、その術者の力量が決まると言って良い。
 それから考えると、身贔屓抜きにしても由美子は超一流と言って良いだろう。
 我が妹ながら、恐るべき術者に育ったもんだ。
「対象の概要は?」
 誘導に従って走りながら細かい情報を聞く。
「男の子、小学生高学年ぐらい?」
「塾帰りでたまたまそこに居た、とかの可能性は?」
「車上荒らし中だから違うと思う」
「おいおい……小学生が車上荒らしかよ、世も末だな」
 別に俺等は警察とかじゃないんで、これが普通の犯罪だったら警察に任せて通報して終わりだ。
 だが、
「車を解体して車上荒らしは新しいな。これって車の残骸荒らしとかで良いんじゃね?」
「残骸製造荒らしの方が現状にふさわしいかも」

 怪異というのは、無意識下の渇望、或いは特定の個による激しい感情によって結ばれる存在だ。
 なので、顕現したばかりのソレは、その渇望にひたすらつき動かされる。
 長い歳月を生きた怪異モンスターの中には、理性に似たナ二かが宿る事もあるが、現状ではその手の手強い怪異フィールドボスの存在パターンは解析がなされていて、そんな化け物が都市部に進入したらその瞬間に警報が鳴り響いているはずだ。
 そういえば、エレベーターの時に俺を追おうとしていた清姫が、もし迷宮外に一歩でも踏み出していれば、あの時中央始まって以来の大規模怪異災害が起きていたのか。
 改めて考えると恐ろしいとこだったな。

 ともかく、今回の小規模連続破壊は、同じ物に拘りがない事、壊された物の周辺は無傷である事から考えると、理性ある生物、“人間”の異能者である確率が高かったのだ。
「子供の異能者か、うまい事怖がらせないで捕獲出来るかな?」
「兄さん、そういうの得意だから大丈夫」
 由美子がなにやら確信の籠った口調で断言してくれた。
 だがしかし、俺はかつて人の子供を捕獲した事は無い。
「何を根拠に?」
 嫌な予感しかしないが、とりあえず聞いてみる。
「だって、兄さん昔から変なのとか凄く変なのとかとんでもないのとか最悪なのとかにモテモテだったから」
「あれとアレとアイツらの事か!」
 こんな会話で通じるのは流石兄妹って所か?
 いやいや、逃げるな、俺!
 ここはしっかり否定しておかないと、俺の今後の人生にも関わる評判だから!
「あれはモテるとは言わん!特にアイツらはな!」
「兄さん変なのと縁が深いから仕方ないよね」
「いや、しみじみと言うのはマジ止めて、こう見えてけっこう繊細なんだよ、俺」
 ちょっと泣きが入った所で、
 前方から金属を派手に放り投げたような音が響く。
「当たりだな」
 無駄口を止めて、丹田に気を溜めた。
 軽い戦闘準備だ。

 目前にあるのは常夜灯にほの淡く照らし出された駐車場だった。
 その僅かな灯りの端で、異様な光景が展開している。

 灯りの届かない駐車スペースに、闇に沈む、積み重なった何かで形作られた子供の背丈程の山があった。
 それを小さな影が、どうやってか上から順にその山の欠片を弾き飛ばし、掘っていた。
 これが外なら、小鬼と間違うような奇怪さ加減だ。
「とりあえず声を掛けてみるか。挨拶は人付き合いの基本だしな」
「間合いがはっきりしないから気をつけて」
「バラされた時には組み立てよろしく」
「やだ」
 愛する妹にすげなくされてしまった傷心な俺は、ふらりと駐車場に滑り込んだ。
 まだ少し遠い、黒くて小さな影に向かって声を張り上げる。
「おーい!こんばんは!」
 夜だけど他に人の気配も無さそうだし、このぐらい大声出しても良いよな。
 そうやって頑張った俺の声は、どうやら相手に届いたらしい。
 黒い影は面白いぐらい慌ててガラクタの山から飛び退き、一目散に逃げ出した。
「ちょっ!挨拶しただけなのに逃げ出すってなんだよ、待てって!」
 逃げた子供の進行方向に、突如として巨大な影が湧き出す。
 由美子の操る虫で出来た影だ。
 大きな人影のようなそれに、小さな影は一瞬怯んだかのように見えた。

 しかし、
 ドン!っと、大気を揺るがして、通せんぼの大きな影は、その真ん中に穴を開けられる。
 たまらず虫達は制御を失い、殆どが核となった紙片を散らして消えた。
 だが、その犠牲は無駄では無かったようだ。
 更に逃げようとする子供の真後ろ、その空中に、光る虫が寄り集まり、光の文字を作り上げた。
『攻撃は衝撃波』
「ユミか、了解した」
 車の屋根を幾つか飛び越え、逃げる子供に追い付く。
「待つんだ、暗い所で走ると転ぶぞ!」
 常夜灯の明かりに照らされ、振り返る顔がくっきりと見えた。
 その目は大きく見開かれ、追い詰められ、狩られるモノの色を宿している。
「つっ!」
 皮膚の感覚が放たれた力を感じ取った。
共鳴ともなれ!」
 咄嗟に抜き取った透明な水晶が俺の手前ギリギリで砕かれる。
 透明の水晶から放たれた波動は、一瞬だけ世界に薄い膜を張った。
 そこで幾分か吸い取られた衝撃の残りが、胸元から顎を叩き、俺は堪らずもんどり打って後ろへと転がる。
 首にチリチリする痛みがあった。
 やべえ、首かよ、これってもしや水晶の破片の自爆?
 これで死んでたら物笑いになってたな。
 くそ、やっぱ浩二がいないと守りが弱くてキツイ。
 さて、と、容疑者A君に怪我は無いかな?

「おい、大丈夫か?怪我してないか?」
 俺が声を掛けた先。
 光と影を半分に割って、こちらを見詰めたまま立ち尽くす子供がいた。
 小学生の高学年っていったら十歳ぐらいだっけ?もっと上か?
 そのぐらいの時といったら、俺は一人で外で狩りをする事を許されて、ワクワクしながら戦ってたっけな。
 まだあの頃は、何の疑いもなく生きてた気がする。

「うっ、えっ、ご、ごめんなさい、ご、めんなさい」
 影から体を光の中へと移したその少年は、なぜかいきなり謝り、泣き出した。

 ……やべえ、子供ってどう扱えば良いんだ?
 泣きだした子供という最終兵器を前に、俺は途方にくれたのだった。



[34743] 26、昼と夜 その三
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2012/11/21 22:30
「お腹が空いて、車の中にお金が見えて、駄目だって思ったんだけど、我慢出来なくって」
 泣き出した容疑者Aをなんとかなだめすかして事情を聞いてみると、どうやらそもそもの原因は、典型的な能力発現による異能者養育拒否だったようだ。
 そういうのを防止する為に、政府の広報番組を日曜にガンガン流してるのに、どうやらこの家族には無駄だったらしい。
 ったく、税金を無駄に使いやがって。
 容疑者A、いや、この場合少年Aか。
 その話を要約すると、少年Aの異能の力が度々発現して、それを見た母親があんまりにも怖がったんで、こいつは自分から家を出たらしい。
 んで、腹が減ったりなんたりで、つい力を自分から使ってしまった。と。
 行動力がありすぎるだろ、小学生。
 だが、年齢が若すぎる事を除けば、破壊タイプの異能者が辿るパターン中の最多パターンだ。
 破壊タイプが犯罪に走る事が多いのは、周囲に理解を得るのが難しいからでもある。
 俺は大きく溜め息を吐いた。
「まあ空腹は辛いわな。んで、自販機と公園もお前?」
 容疑者から犯人に昇格した少年Aは、少しためらった後素直にうなずく。
 うんうん、自分から親を思いやって家を出た事と良い、こいつすれて無いし、更生余裕じゃね?
 てかこのぐらいの年頃って、刑法適用出来んの?
「そっか、自販機はまあ、ジュースが飲みたかったんだろうけど、公園はなんでやっちゃったんだ?」
 少年Aは俺の言葉にしばし無言で、破壊されて落ちたキラキラするガラスのカケラをいじっていたが、ぽつりと言葉を零した。
「みんな帰るから」
 それだけ言うとまただんまりに戻る。
「そっか」
 とりあえず分かったような返事をした俺だったが、正直あんまり分からなかった。
 こんだけのヒントで理解しろってのが無理だろ。
 つまり、凄く家に帰りたかったって事なのかな?うん、そうなんじゃね?そういう事にしとこう。分からんし。
 どうせこれ以上はカウンセラーの仕事だ。
「おじさんも、」
 頭の中で事件の真相っぽい何かをこねくり回していたら、ふと何か聞き捨てならん言葉が耳に入った。
 俺はわざとらしい咳払いをしてみせると、目前の少年Aの頭をグシャグシャに撫でてやる。
 困惑した風だが、それに対しては嫌がる素振りを見せなかった暁生だったのだが、俺が顔を寄せるとぎょっとしたように体を固くした。
「お兄さん、な、まだ二十代だから、お兄さん」
 よく凶悪な、と言われる笑顔全開でニヤッと笑ってみせる。
 やや引き気味にはなりながらも、少年Aは大きく頷いた。
 こりゃあなかなかの猛者だぞ。

「兄ちゃんも僕が怖くないの?こんな風に簡単に物を壊すし、さっき兄ちゃんにも……」
 律儀に言い直して、しかし途中でグッと言葉を止める。
 おいおい勘弁してくれよ。
 ガキが泣くのを堪える図とか、ちょっと大人としては見たくないもんなんだぜ。
「坊主、ちょっと見とけ」
 俺はそう言って、そこに転がっていた根元からもがれた車のミラーを摘み上げる。
「坊主じゃないよ、僕、暁生あきおだよ」
 おお?さっきのお返しか?どうしてなかなか男の子だな。
「そうか、俺は隆志ってんだ、よろしくな」
 答えながらも、俺はミラーの根元の金属部分を親指と人差し指で摘んで、よく見えるように持ち上げて見せる。
 暁生は、そんな俺の行動によく分からないって顔をしながらも、言われた通りミラーを見た。
 俺がゆっくりと力を込めていくと、指の間の金属は徐々に歪み、やがてひびが入った。
 ひびは瞬く間に全体に及び、やがて鈍い軋みを上げて崩壊する。
 砕けた破片を逃さずに、更に力を込めると、それは更に崩壊を極め、やがては細かな金属の粉となった。
 暁生は、惚けたようにその一部始終を見届け、やがて見間違えようの無い恐怖をその面に浮かべる。
 恐らくは、さっき撫でられた頭の事でも考えているんじゃないかな?
「分かったか?俺も異能者だ」
「……いのう?」
 おいおい、そこからか?広報仕事しろ!
 てか、最近の学校って異能の事教えないの?
「ほら、日曜の朝にさ、やってるだろ?ヒーロー物」
「あ、あのダサい番組」
 ……広報。
「そのダサいやつとかCMみたいなやつでさ、見たことないか?異能者支援団体とかってさ」
 暁生の顔は、全然知らないと語っていた。
 ち、と軽く舌打ちして、俺は苦手な説明を始める事にする。
 おのれ広報、後で山のように改善要望送ってやるからな、覚悟しとけよ!

「あー、ようするにだな。こういう、ちょっと風変わりな力を持ってる連中は、世間にそれなりにいるんだが、そういうのが単独で頑張って生活しても、まあ大体、差別とか生活面とかでごたごたした挙句にわりいことやらかす事が多い。だから普通に暮らせる程度に社会に順応出来るようにしてくれる政府の支援団体がある訳だ」
 俺のグダグダの説明を非常に熱心に聞いてくれていたらしい暁生だが、その顔に理解の色はついぞ浮かばなかった。
 ポカーンとして俺の顔を見てる。
 説明下手で悪かったな!
 気を取り直して俺は続けた。
「ええっとだな、つまりだ、……んー、俺が怖いか?」
 暁生は俺をまじまじと見る。
「うん、少し」
 そしてそう答えた。
「そうかそうか、正直でよろしい。んで、ちょっとおっかないかもしれんが、俺と握手出来るか?」
 差し出した俺の手を少し見詰めて、暁生はおずおずとその手を取る。
 緊張して汗ばんでいるその小さな手を、そっと握り返した。
 暁生はびくりとしたが、それでも手を離す事は無い。
 偉いな、こいつ。

「分かるだろ?加減さえ覚えてしまえば何も考え無くても体がちゃんとふさわしく力を込めるんだ。人間は案外上手く出来てるもんだぜ?……で、だな。そういうのを考えずにやれるように訓練する場所がある」
「本当に?僕、僕は、時々我慢出来なくて物を壊しちゃう事があるんだ。お母さんは段々僕を見ると怖がるようになって」
 握った俺の手を自分からもっと強く握って、暁生はうなだれた。
「おう、ちゃんと自然に力を制御出来るように訓練出来るんだぞ」
 暁生は、俺の言葉にやっと少しだけ緊張を解いて、うなずいた。
「よく分からないけど、とにかくお兄ちゃんみたいに出来るようになるんだね」
「おおよ、それだけ分かれば十分だ」
 体から力を抜いて、ちょっとだけ笑った暁生だったが、ふいに顔を上げて、少し目をすがめた。
「誰?」

 暁生が目にしたのは、もちろん、ほとんど足音を立てずに近寄って来ていたうちの妹である。
 由美子は暁生の問い掛けを完全に無視すると、俺に向かって声を掛けた。
「担当部局に連絡済み。当直があんまりいないみたい」
 そう、今まで由美子は当局に顛末を連絡していたのである。
 役割分担って事だな。
「呑気だな中央は」
 少し呆れてそう返した俺の手を、暁生が横から引っ張った。
「誰?綺麗だけどなんか怖い」
 やっと灯の下に踏み込んだ由美子の顔を確認したのか、なかなかませた事を言いやがる。
「俺の可愛い妹だ。美人だろう、そうだろう」
 子供にもどうやら美人は分かるらしい。
 俺の言いようが自慢気になったのは勘弁してくれ。
 それにまあ、俺からすればどっちかというと綺麗というより可愛いって感じの顔立ちだと思うけどな。
「うそ、兄ちゃんと似て無いよ」
 お前、それはちょっと正直過ぎないか?泣くよ、俺。
 だが、暁生の言葉に激しく反応したのは由美子の方だった。
 強い視線を受けて、暁生は身を震わせて硬直する。
「こらユミ、やめないか。大人げないぞ」
「甘えて、なんでも許されると思って平気で考えずにものを言う、だから子供は嫌い」
 どうも由美子は子供時代の経験のせいか、子供があまり好きじゃないらしい。
 仕方ないかもしれんけど、将来的な事もあるし、これはなんとかしてやりたいな。
 俺に出来る事なんか僅かだろうけどさ、兄貴なんだし。
 それに、人を嫌うてのは、実は自分が一番苦しいんじゃないかって思うんだよな。
 それにしても、暁生は暁生で、なんかやたら大げさに震えてるし、もしかして母親の事を思い出したとかじゃなけりゃ良いが。

 とりあえず俺は話題を逸らす事にした。
 弱腰とかじゃないぞ。
「ユミ、さっきはありがとな。おかげで咄嗟に衝撃を相殺出来たし」
「兄さんはその場任せ過ぎるから、いつも苦労する」
 うん、どうやら矛先は俺に向いたらしい。
 あんまり良くないが、良かった。
 人生は矛盾だらけだな。
「大体、事前におおよその見当がついていたのだから、先に当局と連携してジャマーをし掛けておくべき。そういう準備が本来のサポーターの役目。なのに自分が一番に突っ込んで、あまつさえ確保した容疑者となあなあに語らって、事後連絡を私に任せるとか」
 うおお、マズい。
 なんというお説教モード突入!
 まさかこれ、担当官が到着するまで続くのか?
「そもそも子供の頃から兄さんの戦い方は一切変わってない。とにかく突っ込むだけ。コウ兄さんがいるならまだしも防御の薄い時も同じ。単に何も考えていないと表明しているようなもの」
 マズい、なんかこいつ自分の言葉で更に怒りを掻き立てるという似非トランス状態になっているぞ。
 助けを求めるように傍らを見ると、暁生は口を半開きにして、途切れなくまくしたてる由美子を眺めていた。
 そうか、子供には刺激が強過ぎたな。
 なんとなく申し訳なく感じた俺は、見ちゃいけませんと言うようにその目を手で覆ってやる。と、周囲の気圧というか、温度というか、正確に言うと気配だが、それが一気に寒々しく変化する。
 ごくりと生唾を呑んだ俺は、恐る恐る振り返った。

「聞いてる?兄さん」
 やべ、俺の心拍数がなんか物凄い事になってるぞ。
「お、おう聞いてるぞ」
 俺がやっと絞り出した声は、
「どうだか」
 冷え冷えとした一言に打ち落とされたのだった。



[34743] 27、昼と夜 その四
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2012/11/28 23:40
「なあ、衝撃波で金属製品の接続部がバラけるって、どういう作用だと思う?」
 昼休みに食堂を久々に利用したら流がぽつねんと隔離状態で飯を食っていたので、なんとはなしに相席して話を振ってみた。
 うちの会社の食堂はあまり人気がないのは確かなんだが、こいつ自身も家柄のせいか割りと遠巻きにされるんだよな。
 昔はアタックしていた女子社員もいたらしいんだが、こいつが時々連れ歩いてる女のレベルが高い上に、ころころ相手が変わるもんだから身持ちの固い女子からは逆に敬遠されるようになったらしい。
 全部伝聞だけど、ありそうな話だ。
 ちなみにうちの食堂に人気がないのは不味いからという訳じゃない。
 味はそこそこだ。
 ただ、この会社はなんとなく弁当派が多い職場なのだ。
 流は弁当を作るのも外に食いに出るのも面倒らしく、比較的食堂を使っている方なんだが、そんなこいつでもかなりの頻度で洒落た弁当箱を持って来ている。
 恐ろしい事に、それもほぼ毎回違う弁当箱だ。
 イケメンは色々遠慮するべきだと思う。
 食堂のおばちゃんの為にせめて弁当は断れ。

「超短間隔の多重波、その対象の全面に同時にそれを発生させればやれなくは無いかもな」
 流は、サトイモを器用に箸で摘みながら事もなげに答えた。
「全面?」
 多重波だろうという事は俺でも思い付いたが、面に作用か。
「全面に作用するのでなければ衝撃は作用点を中心に歪みを生じさせる。そうなった場合、接合部の剥離は難しいな」
「なるほど」
「なんだ?資源再生の為の分解器でも作る気か?コスト的に現実的じゃないぞ。それだけの出力を得るにはデカすぎて施設規模にするしかないからな。到底うち向けの案じゃないな」
 俺のアイディアに関する相談だと思ったのだろう、流は理論整然と駄目出しをしてくれた。
 まあそりゃあそうだ。
 爆弾爆発させてその衝撃を均等に対象にぶつけろみたいな話だし。
 可動物に対してメーカーが行なう耐久試験で、振動耐久は割とポピュラーな物だ。
 つまりは、接合部分を持つ可動機械類はそういう力には強く設計されているって事なんだよな。
 要するに接合部を一瞬にしてバラすにはとんでもない力が必要だって話だ。
 それを容易く実現させたんだから、暁生の異能はかなり強力な力なんだろうな。

「いや、単なる発想の遊びだよ。現実的な事ばかり考えていても発展性はあんまないし、面白そうな考えを真剣に検討してみるのも偶には良いだろ」
 いくらこいつがお上のお偉いさんの家系でも、事件の概要を明かす訳にもいかないので、俺の疑問の理由は適当にごまかした。
「それはそうだな、出来ないという前提で考えてしまえばそこでそのルートは行き止まりだ。もしかしたら細い道筋を見逃しているのかもしれないのにな。そうか、なるほど」
 う?うちの発明王様、マジな顔になってるけど、まさか本当に衝撃破砕器とかに取り組んだりしないだろうな?
 うちは家電メーカーだから、そこは押さえとけよ?
 その発想は発展すると武器っぽい方向に行きそうだからヤバイよ?
 俺が悪いのか、これ。
 いや、俺は悪くないよな?取り敢えず責任は取らんからな。
 とろろ昆布うどんとたくあんで腹を満たした俺は、何かテーブルに書き込み出した流を放置して急いで課に戻ったのだった。


 どうも、昨夜の事がまだ尾を引いている。
 破壊的異能者である暁生をなんとか確保した後、担当官と回収車両の到着まで約四十分掛かった。
 その上、なんと係官が二人しか来なかった。
 確かに規約上の最低人員は二名になっている。時間も定時外だから決まりの上では何の問題も無いだろう。
 しかしだ、もし確保者が反抗的だったらどうするつもりだったんだ?運転手一人、監視者一人で異能者を保持しつつ移動出来る程係員は有能だって言うのか?
 あんまり心配だったもんだから、つい収容施設まで付き合ったら、施設とは言っても高級ホテル並に立派で、違う意味でも驚いたけどね。
 そしたら、カウンセラー資格を持つケアサポーターが常時詰めて無いって聞いてまたびっくり。
 収容施設の意味あんのかよ?お役所仕事にも程があんだろ?
 結局精神的な不安を抱えた子供一人をあんなとこに残して置けないから由美子を帰して俺がまた強権使って残ったけど、出勤までに担当官が来やがらないから申し送りも満足に出来なかったんだよな。
 地方じゃ考えられない程、なんていうかマニュアル通りというか、危機感が無いのに驚きを通り越して呆れてしまった。
 上に酒匂さんみたいな叩き上げの人がいてもあれってどういう事なんだろう?今度詳しい話を聞いてみるか。
 前に浩二が言ってた事やこないだ酒匂さんが言ってた事も頭の隅に引っ掛かってるし、ハンターとして動いてみると、途端に今まで見えてなかった事が浮かび上がって来るもんだな。
 結界強固な結印都市である以上は怪異案件はそりゃあ少ないだろうけど、異能者はそれなりにいるだろうに、このなんとも言えない使えなさはおかしい気がする。
 なにしろ人口的にも国内最大の都市だ。
 単に人口割合から計算しても異能者は地方都市より出現率が高いはずだよな?それともまた違う法則があるのか?

「伊藤くん、二時からのミーティングの資料はどうなっている?」
「あ、はい。共有BOXの中に入れておきました」

 おっと、考え込んでる場合じゃなかった。
 部門ミーティングがあるから資料整理しないとな。
 課長と伊藤さんの会話でようやく気付くってのはまずいぞ。
 電算機パソコン表示画面デスクトップから共有BOXを開いて……と。

「さすが伊藤ちゃん、分かりやすく整理されてるなあ」
「ありがとうございます」

 課長の言う通り、いつもながら分かり易いよく整理された資料だな。
 専門用語や特殊機材名には補足説明まで添付されてるし。
 うちの部署は主観で企画書作る人間が多いから、恐らく彼女がいないと他部門との意思疎通が図れなくなって仕事が回らなくなるぞ、マジで。

 政府機関にも彼女みたいに、記録を整理して問題点を炙り出すみたいな人材はいないのかな?
 暁生のとこは母子家庭で、母親は昼間働いてるらしいから本格的な話し合いは夜になるらしいが、カウンセラーが上手い事お互いの不安を解消してやって、施設預かりじゃなくて家に帰れると良いんだけどな。



「木村さん、凄く上の空でしたね」
 思った以上に仕事に身が入らなかったおかげで大事な部門ミーティングの内容をほとんど覚えていなかった俺は、ここはこっそりと伊藤さんに泣き付く事にした。
 しかし、どうやら俺がボケッとしていたのはバレバレだったらしい。
 笑い飛ばすでもなく心配そうに言われて、なんというか大変居心地が悪かった。
「悪い、昨夜あんま寝てなくってさ」
 おお、口に出してみるとなんか弁解がましいぞ。
「そうですか。何かあったら無理しないで、私で出来る事があるようでしたら言ってくださいね。今日の議事録は共有BOXに入れてありますから、心配いりませんよ」
「あ、そうか。あんま議事録確認した事無かったから忘れてた。助かったよ」
「そうなんですよね。うちの人達って独自にメモを取るからあんまり記録を利用しないんです。私の記録が読み難いのかなとか色々考えて工夫とかしているんですけど、ちょっと、自分が役に立っているか不安になってしまいますね」
 俺の言葉にがっくりと肩を落とす伊藤さんに、俺は慌ててフォローを入れた。
 てか、自分の価値が全然わかってないんだな、彼女。
「いやいや、記録ってのはさ、正しく蓄積されるから意味があるんだよ。大概においてそれが必要となるのは記憶が薄れてしまった後の事だし」
「そうでしょうか?」
「ほら、変な利用法ではあったけど、例のアイディア製造機とか言うのだって膨大な資料があったからで」
 俺の言葉に伊藤さんは噴き出してしまった。
 うん、自分で言っててそりゃないよと思ったし。
「あはは、これだ君ですよね。あれは面白かったですね。私達個々の端末から接続出来るようにさせてもらったんですけど、凄くウケて他の部署の子にも配布頼まれたりしたんですよ」
 なんだと!あれがウケたっていうのか?
 世の中何がウケるか分からないな。
 いや、まて。本人はあれをウケを取る為に作った訳じゃないはずだ。
 しかも内容は今までのボツ案のランダム組み合わせだろ?
 下手すると開発部門の恥が流出したって事じゃ?
 俺の顔に不安がそのまま浮かんだのか、伊藤さんは安心させるようににっこりと笑った。
「大丈夫です。いくらなんでもうちの課の資料をそんなに簡単に外に出す訳にはいきませんからね。全部お断りしています。それに本体システムも課長にすぐにアンインストールされてましたし。ちょっと残念でしたけど」
「そ、そうなのか、サトウもがっかりしただろうな」
「いえ、なんか文章の形式がイマイチだったから外に出されたら恥ずかしかったとかおっしゃってました。プログラムのバックアップは取ってあるような話でしたよ」
 課長直々に削除したののバックアップを取ってるのか、さすがだなサトウ、俺には到底真似出来ねぇよ。
「でも本当に面白かったんですよ。『給電しながら跳ねまわる掃除機』とか『カーペットを折りたたむかつら剥き器』とかみんなでお腹抱えて笑っちゃいました」
「なるほど、面白そうだな」
 笑いのネタ的には有りかな?アイディアとして真面目に考え出すと会社を潰しそうだけど。
 ともあれ伊藤さんの落ち込み気分は回復したらしい。
 そのまま簡単に礼と挨拶を済ませると、俺は帰宅準備をするために私物用のロッカーから荷物を取り出しトイレへと向かった。
 この会社、女子の更衣室はあるが、男子の更衣室は無いんだよな。
 うちや隣は実験や外回りと結構着替える機会も多いのに、男女差別も甚だしい話だ。
 まあ、別にトイレで着替えても良いけどね、会社のトイレ綺麗だし。

「あ、」
「お、」
 階段を使ってこそこそと退社していた俺は、途中でばったり伊藤さんに出くわした。
 これは縁があると喜んで良いのか?
「今日は随分ワイルドな服なんですね」
 俺を上から下まで眺めて、伊藤さんはそう感想を述べた。
 あうう、だからこっそりほとんど社員が使わない階段を降りたのに。
 出社の時も階段使ってあんま同じ部署の連中と出くわさないようにしてたんだが、まさか伊藤さんが階段を使うとはな。
「あー、ちょっと事情があって、着替える暇なく出社する羽目に」
「あ、もしかして、お仕事ハンターの?」
 会社に外回り用の背広一式が置いてあったから出社してからはそっちに着替えたんだが、昨夜は家に帰らなかったから戦闘服でそのまま来ちまったからなあ、これって通常空間だと激しく浮くんだよな。
 浩二や由美子に比べれば遥かに常識の範囲内だけどな。
 まあ伊藤さんは俺がハンター資格持ってる事知ってるし、ここは事件の内容を除いた事情をぶちまけるか。
 それにしてもなんで階段使ってるんだろう伊藤さん。
 美容の為?



[34743] 28、昼と夜 その五
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2012/12/06 05:09
「実はですね、」
 階段で鉢合わせした彼女側の理由を聞くと、伊藤さんは少し恥ずかしそうにしながら話してくれた。
「私、エレベーターが苦手で」
 なるほど。
「エレベーターが苦手な人って結構いるみたいですよね」
「そうなんですか?」
 俺の言葉に、伊藤さんはほっとしたような、嬉しそうな顔を見せた。
「良かった、私、ずっと自分が変なのかと思っていて」
 とはいえ、いくらエレベーターが苦手でも、七階のオフィスとの往復に階段を選択する人間は少ないに違いない。
「いつも階段なんですか?」
「いえ、流石に急ぎの時なんかはエレベーターを使うんですが」
 逆に言えば急いでなければ階段なんだ。
 半端ないな。
「高層ビルの展望台とか行けませんね」
 こないだ昇った展望台を思い出し、ふと口にしてしまったが、口にした途端に、これって誘ってると思われてもおかしくないセリフじゃ?と思い至って口が引きつるのを感じた。
 そして急に今のシチュエーションが気になり出す。
 ビルの内部非常階段という公共的オーブンな場所ではあるが、認識出来る範囲ではほぼ密閉空間に二人きりという状態なのだ。
「そう思うでしょう?実は私、高層ビルの階段を既に幾つか制覇しているんですよ」
 だが、伊藤さんの答えは俺の懸念の遥か彼方を行っていた。
 その得意気な顔を凝視した俺は、僅かにずれたタイミングで驚愕の声を上げる。
「へえ!?」
 なんかちょっと間抜けな声になってしまった。
 ばつが悪いので慌てて言葉を繋ぐ。
「あっ、と、高層ビルとか五十階とかあったりするよね?」
「はい、この間はついに世界第五位のエンタメビルを制覇しましたよ!」
 おいおい、いやいや、それって趣味なの?趣味のカテゴリーで良いの?
 エレベーターが苦手って話からなんでそんな壮大な趣味に行き着くんだ?
「伊藤さんには色々驚かされますね」
「それを言うなら木村さんの方こそじゃないですか。複雑な配線をデザインしたり調律術を使いこなしたり技術の最先端で働いているのに、オカルトに詳しかったり、映画とか物語の中の存在だと思ってたハンターだったり、今日だってぼうっとしていたなと思っていたらそんな格好で階段を駆け降りて来るし、本当驚かされてばっかり」
「あはは、お互い様って事かな?」
「そうですね」
 そうやって話をしていたら、そこそこ長いはずの階段があっと言う間だった。
 しかし、後半階分で降り切るというその時、携帯に緊急コールが入る。
 高い音の断続コールは、密閉されたコンクリート打ちの空間ではあまりにもうるさく響いた。
「失礼」
 俺は慌てて伊藤さんから距離を取ると応答ボタンを押す。
「はい、なんでしょうか?」
 通話先からピッという電子音が聞こえる。
 おなじみの声紋照合の作動音だ。
『緊急案件が発生しました!すみやかに現場に向かってください!』
「場所は?」
『桜坂住宅地区です』
 桜坂?
 桜坂と言えば確か暁生の家の近くじゃないか?
 むちゃくちゃ嫌な予感がするんだが。
 まあいい、今は詮索は後にして急ぐべきだ。
 だが、自宅に戻ると大回りになるし、ここから直行となると指令コマンドがハンター証に落とし込めないのが痛い。
 指示を仰ぎながらじゃ携帯電話の地図アプリも使えんし。
「詳しい依頼内容をメールで送ってくれ。急行しながら確認する」
『了解した』
 装備がそのままだったのは幸いだが、詳細が来るまで大雑把な位置しか分からない。
 タクシーを捕まえるしかないか。
 帰宅ラッシュのこの時間帯じゃ厳しいかもしれないが。

 急いでビルの玄関を抜け、人の行き交う大通りを見回す。
 間が悪いのか空車どころか客を乗せたタクシーすら見当たらなかった。
「くそっ、」
「あの、」
 思わず毒づいたのに被せるように、間近で声が聞こえてぎくりとする。
 振り向くと、肩が触れ合う程近くに伊藤さんの姿があった。
 おお、驚いた!
「急いでどこかへ行きたいのですよね?」
「え、あの実は」
 依頼内容は他人に話せないし、どう説明するべきか口篭った俺を置いて、伊藤さんは更に畳み掛けた。
「私、都内の交通網はほとんど把握しています。どこに行かれるのですか?」
 なんだろう、この勢い。
 なんか伊藤さん、目力が凄いんだが。
 一体どうしたんだ?
「あ、ああ、桜坂住宅地区に」
「桜坂なら車より、地下鉄の環状線が……」
 おもむろに腕時計を確認すると、伊藤さんは笑みを浮かべた。
「後五分程で到着します。行きましょう」
 え?
 俺の疑問が具体的な言葉になる前に、伊藤さんは俺を引っ張って走り出した。
 そういえば、伊藤さんって、あんまりヒールの高い靴履いて無いよなと日頃から思っていたんだが、こんなに活動的なら確かに高いヒールは動き難いかもな。

 っていうか、なにが起こってるのかよく分からない。
 俺は自分よりどう見積もっても半分も力が無いだろう相手に引き摺り回される羽目に陥っていた。
「あの、木村さん」
「あ、はい!」
 おおう、急に呼ばれてびびった。
 俺の思わず出た学生時代のような返事に若干引きながら、伊藤さんは俺の手の携帯を指差す。
「なんか携帯震えていますよ」
 あ、電車に乗った際にマナーモードにした携帯が振動しながら光っている。
 いかん、緊急出動中に惚けてる場合じゃない。しっかりしないとな。
 それにしても、やっと詳細が来たのか?もう五分以上経過しているぞ。
 間違っても内容を見られる訳にはいかないので、伊藤さんから少し離れてメールを開く。
 あれ?そういえばなんで伊藤さん一緒に地下鉄乗ったんだ?
 気にはなるが、まずは詳細確認が先だ。
 メールを開き、そこからリンクされた資料を一瞥する。

 記載されていた詳細は、俺が覚悟をしていた状況よりも更に悪かった。
 あまりの事に、一瞬湧き上がった怒りを必死に押し殺す。
 この資料には、肝心のその状況に至った理由がない。
 今はまだ怒るべき相手が判然としない。怒っても仕方が無い状況だ。
 とりあえず今は現状をどうするかだ。
 今はっきりしているのは、暁生が怪異に憑依された状況で破壊衝動に駆られるままに一区画を崩壊し、それを抑える為に出動した機動部隊が無力化されつつあるという事だ。
 リアルタイムに更新される状況を見ると、どうもジャマーの波動を相殺しつつ発生源を破壊しているらしい。
 このやり方って、もしかすると俺とやり合った時の経験を生かしているんじゃないかな?
 もしそうなら、思考が生きているという事だ。
 思考が生きていれば汚染の深度は浅く、怪異は容易く切り離せる。
 上手く切り離せば精神もほぼ無傷で沈静化出来る可能性がある。

 それにしたって、なんだって暁生の母親があいつの目の前で自殺するような事態になったんだ?
 カウンセラーはいったい何をやらかした?
 いや、自宅で発生したのなら、カウンセラーじゃなくて普通に交渉員かもしれないが。

 昨夜、与えられた部屋の隅で一人で泣いていた暁生に、俺は約束した。
 明日には一度家に帰れるはずだ。
 その時にお前がちゃんとお母さんと仲直り出来たら良い物をやるぞ、と。
 あいつは「絶対」と言ったんだ。
 だから住所や連絡先をお互いに交換した。
 詳細事項で送られて来た住所の、団地の部屋番号は、あいつの帰りたかった場所である事を俺は知っている。
 どうして世の中は上手くいかないんだろう。

「木村さん、大丈夫ですか?降りますよ」
「あ、すいません、大丈夫です。あの、伊藤さん」
 電車を降りて小走りに進みながら、なぜか既に俺を先導しようとしている伊藤さんに声を掛けた。
 いくらなんでも危険地帯と化している現場に連れていく訳にはいかない。
「はい?」
「ここまでで大丈夫です。住所が送られてきましたので、後はナビで行けます」
 伊藤さんは振り返ると、少し小首を傾げてみせる。
「桜坂周辺は住宅地区で、しょっちゅう建物や道路が変化しているんです。徒歩ならナビより私の方が役に立ちますよ?」
「いや、あの、ちょっと危ない状況になっている場所に行くんで、伊藤さんを連れて行く訳にはいかないんです」
 少し強めに言ってみたが、彼女はきょとんとした顔をするばかりだった。
 なに?どうなってるんだ?伊藤さんって普段あんまり自分を主張するような人じゃないんだが。
「だって、木村さん、凄く急いでいるって顔をしていたから。間に合わないととても大変なんでしょう?私、幸いこの都内の事ならかなり詳しいんです。父に自分の住んでいる場所の周辺は目を瞑っても把握出来るようにしておけって小さい頃から躾けられていて」
 さすがは元冒険者って所だな。
 いや、今の問題はそこじゃなく……。
「ここを抜けますよ」
「え?ここ道じゃないですよ?」
「この家の人が私有地を開放して小さな公園を作ってて、そこを抜けると三分程度短縮出来るんです」
 詳しすぎるだろ、伊藤さん。
 いや、そうじゃなくて、手を離してもらわないと。
「あの」
「次は神社を抜けますね、板垣の間を通るから注意してください」
「え?ええっ?それって通って良い場所なんですか?」

 結局現場まで引っ張られてしまった。
 おかげで色々鬱々と考える暇もなかったのは、これから事に当たるには良かったのかもしれない。
 まあ、伊藤さんはどうせ封鎖線で締め出されるし、今回はありがたく思っておくべきなのだろう。
 なにしろオフィス街からこの住宅地区まで、本来三十分以上掛かるはずなんだが、僅か十二、三分で到着したんだからな。

「危ないですから、こちら側に入らないでください!」 
 現場に近付く程に混迷とした状況が分かり始める。
 遠巻きに何事かと窺う人々と、それを整理する警察官。
 現場からかなり遠いはずの封鎖線の外まで響いてくる号令と轟音。
 ズンと、地面が揺れる感覚がしたと思うと、家々の間から覗いていたジャマー装備の特殊車両が消え去った。

「伊藤さん、ありがとうございました、おかげでかなり早く到着出来ました」
「いえ、お役に立てたなら良かったです。頑張ってくださいね」
「はい!」
 ぬくもりを伝えてくれていた手を離し、ハンター証を提示しながら封鎖線を抜ける。
 思いもかけない協力によって稼いだ時間は、間違いなく事態を左右する程に貴重な力になるはずだ。
 だからまだ大丈夫。
 約束はまだ果たされる時を待っている。



[34743] 29、昼と夜 その六
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2012/12/13 05:13
 大破したジャマー搭載の装甲車が二台。
 本来現場を囲む四方に配置してあったであろうそれは、片側二辺が全壊した事によって向かって右方に二台残すのみという、既に本来の包囲陣としては意味の無い代物と化している。
 事の中心地、破壊の実行者がいるであろう場所には、捲り上げられたアスファルトの壁が丁度海岸にいるフジツボのような形で囲っていて、肉眼で様子を窺う事が出来なくなっていた。
「なかなかに賢いぞ、こりゃ」
 俺が現場に踏み込むと、途端にざわりと集団の気が動く。
「君は?」
 機動部隊の制服ではなく、組織の階級証も付けていない怪しい男が突然現場に現れればまあ誰でも驚くだろう。
 しかし、俺は現場から十分距離を取った封鎖線を抜ける時に身分を提示しているんだが、こっちに連絡が入って無いってのは、いくら現場が切迫していてもいただけない話だった。
「ハンターの木村です」
 ハンター証を提示する。
 この特殊な金属プレート状の端末は、示す事で基本情報を相手の網膜上に表示するという傍迷惑、じゃなかった便利な機能があり、まさしく否応無く相手に俺がハンターである事を知らしめるようになっている。
 つまり、このハンター証を提示された時点で、相手は俺の立場を誤解しようが無くなる訳だ。
「中央にハンターが……」
 どこか唖然とした呟きに、どうにも居心地の悪い思いを味わうが、今はそういった事に構っている場合ではない。
 さっさと本題に入るべきだろう。
「すまないが、今からこっちの指示に従ってもらう」
 通信機の前で全体を把握して指示を出していた、現場指揮官だろう、殺伐とした場に似つかわしくない雰囲気の、どこか茫洋とした壮年の男が顔をしかめながらも素直に頷いた。
「で、どうするんですか?大魔法でもぶっ放します?」
 冗談を言う余裕があるのは評価したい。
「ジャマーを切るんだ」
 簡潔に指示を告げた。
「は?おいおい、あの化け物を野放しにしろってか?」
 表面的な敬意を放り出して、反論して来た。
 結構骨があるおっさんらしい。
「よく状況を見ろ。今や身動きが取れなくなっているのはあんたたちの方だ。ジャマーのバランスが崩れたから左翼を盾持ちで固めざるを得なくなったんだろ?このまま放射を続ければ必然的にあの防衛部隊に攻撃が向かうぞ」
「そのような事は言われずとも分かっている。だが戦う術の無い国民の為の盾になるのが正しく我々の役割だ。それを厭う者などこの場にはいない」
 うん、物凄く立派な意見だ。
 無辜むこの民の一人としては頼もしい話だね。
「無駄死は名誉じゃないぞ。良いから怪異に関しては専門家に任せなさいって」
 俺はその見知らぬおっさんの肩を気軽に叩いた。
「な、」
「憑依ってのは深度によって対処が変わる。今の状態で力押しは逆効果だ」
 俺の言葉に僅かに逡巡を見せたものの、その指揮官は口の端を歪めてうなずいた。
「どちらにしろハンターには現場での裁量権がある。ここはお任せするしか無い訳だがな」
 笑い混じりにそう言うと、その男は部下に指示を飛ばした。
「一機、三機、波動ネット展開止め!準戦闘態勢で待機!」
 指示直後、波の押し寄せる波頭のように乱れていた空間の電子が通常状態に戻る。
 緊張感を孕んだ静寂が現場を包んだ。
「本官は本庄ニ等武官だ。まさかハンターの指示で動く事になるとは思わなかったが、よろしくお願いする」
「こちらこそ。と言ってもそちらにやって貰うのは、万が一の場合の尻拭いになるんで申し訳ないが」
 俺がそう告げると、本庄武官は痛い程強いまなざしを向けて来た。
「具体的な指示いただきたい」
「ジャマーを目標を挟んで相対位置に、発射角を五度ずつずらして散乱波を発生させ得る態勢で再配置」
「な!敢えて基本的なエラーを起こさせると?」
 まあ普通はそう思うよな。
 散乱波ってのは乱反射波動の事で、その挙動が発射した当人にも把握出来ないのでやってはいけない操作として教えられているはずだ。
「もし、俺達が失敗して、あの子供が憑依最深度に達して転身メタモルフォーゼが生じたら、それで一時的な撹乱を起こさせる。それと同時に射撃を行い、正確に頭を潰すんだ。通常装備で魔物を倒せる可能性があるとしたらそれぐらいだ。あと、そうだな、光学兵器なんかはあれには搭載してないのか?」
「出力的に無理ですね」
「そうか、機銃は?」
「既に接地が終わっています」
 機銃では厳しいかもしれないな。
 せめてレーザーがあれば万一の場合もなんとかなったかもしれないが。
「まあ、万が一は無いけどな」
 笑って、相手にというより俺自身に宣言する。
 助けられないなんて情けないバッドエンドはごめんだ。
 うぬぼれではなく、その程度の力は俺にあるはずだから。

「ところで、あいつの、憑依者の母親がどうなったか知っているか?」
 肝心要の情報を確認した。
 これが分からないと暁生に対しての呼び掛けが出来ない。
「報告によると一命を取り留め、現在病院に収容されているとの事です」
「そうか」
 それならなんとかなるか。
 状況次第だが。
「その事を呼び掛けてみたのですが、芳しい反応はありませんでした」
 一応既にそれなりの対処はしているって事か。
 色々問題はありそうだが、決して無能じゃないって事だな。
「事件の詳細は分かるか?」
「現場にいた目撃者の詳細報告があります」
 寄越されたA4サイズの表示端末を受け取った。
 だが、現場は動いてる。
「目標に動きあり!」
 素早く視線を送ると、フジツボのように閉じられていたアスファルトの防壁がカラリと開いていく所だった。
「出たか」
 ジャマーが止まったので一気に攻勢に出るつもりだろう。
 ふと、馴染んだ気配が寄る。
「兄さん、遅くなりました」
 俺より現場に近い大学から向かっていた由美子が到着。
 いや、お前が遅い訳じゃないんだ。伊藤さんが凄すぎた。
 しかしこれで時間が稼げるか?
「物体を個として認識するにはやっぱり視覚だと思うか?」
 ほんの子供の時分から一緒にやっていた妹だ。
 こちらの言いたい事はすぐに把握してくれる。
「人の五感の中ではそれが一番可能性は高い」
「賢い奴の分析によると、基本攻撃は個々に対する衝撃波を使っての超高速シェイクらしい」
「確認してみる」
 由美子は、ポケットからびっしりと何事か書かれた紙を束で取り出すと、それをほっそりとした指でビリビリと引き裂いた。
 あれって単純に破っているように見えるが、ちゃんと法則があるらしい。
「天覆うモノ、雲霞なり」
 宙に撒かれた紙片に向けて素早く印が切られる。
 風や重力に逆らうようにそこに留まっていたそれらの紙片は、その途端、火に炙られたように端からチリチリと黒く染まり、大気を染める黒雲となる。
 夏場に天に向けて聳え立つ羽虫の柱がそうであるように、それは小さな虫の集合体だ。
 現場に詰めていた機動部隊の面々から息を呑むような声が漏れ聞こえる。
 うん、ちょっと怖い光景だよね。
 意志を持ったその黒き雲がうねり、一個の生命のようにアスファルトの殻から姿を表した少年へと殺到した。

 少年。
 そう、それはかろうじてそう見える外見を残していた。
 青黒く染まった皮膚の下で、まるで熾き火のように赤い光が蠢く。
 憑依から侵食へと深化が始まっているのだ。
 時間はない。
 とにかく今は事の詳細を確認しなければならない。
 俺は手早く表示端末を操作して内容を読んだ。

 十八時頃、交渉員が暁生を伴って自宅へ訪問。
 暁生を施設に保護する皆を母親に告げると、興奮状態に陥った母親が包丁を自らの首に突き立て自殺を図る。
 暁生の異能が発動して部屋の一部が崩壊。
 幸いにも中から外へと弾き出すように力が作用した為、ベランダ方面に大穴が開いただけで被害は留まった。
 その時、母親が手にしていた包丁も分解された為、幸い母親の傷は軽傷だったが、自失状態で病院に搬送。

 そうか、暁生、お前……。

 ここまでは恐らく暁生は正気だった。
 だが、母親が自殺しようとしたのを目撃して気持ちが昂
たかぶ
っていたのだろう。
 ショック状態だったのかもしれない。
 その感情がきっかけとなって生じた怪異に憑依されたのだ。

 怪異の元となるモノはどこにでも潜んでいる。
 それが長年凝縮して存在を得るか、急激な激情に触れて指向性を持つかしたモノが怪異となるのだ。
 憑依はその激しい感情に同調した者に対して行われる。

 憑かれた暁生は、外に飛び出し駐車場の車を破壊し、アスファルトを捲り上げ、フェンスを破壊し、通報を受けた機動部隊と睨み合いに入った。

「兄さん、当たり」
 ドン!という大気を揺さぶる振動と、由美子の冷静な声が俺の意識を現場へと戻した。
 どうやら球状に囲んでいた虫で出来た雲は暁生の力に弾かれ、或いは崩壊させられたようだ。
 暁生の両脇から前方へ掛けて、虫の姿は全く無い。
 だが、背後には黒い靄のように塊が残っていた。
 振り返った暁生は、その背後の塊も吹き飛ばす。

「うあああああああ!!」
 幼い声が、そのトーンに似つかわしくない這うような叫びを上げる。

「相手が照準に要する時間は?」
「六秒を超えない」
「少し範囲が広い、足場を頼む。相手の利き手は右だ」
「了解、左目死角ぎりぎりに囮を、右側面に地中から足場を出す」
「カウント五」
「四、」
「三、」
「二、」
 交互に告げるカウントの最後の一つで同時に動く。
「堅固たる鎧、力強きモノ」
 暁生の左側面目指して飛ぶのはカブトムシに似た巨大な甲虫だ。
 怪異に乗っ取られ掛けてはいても意識を残した暁生の目が、死角に潜り込もうとするそれを、興味と警戒を伴って思わず目で追った。
「地を潜る視覚無きモノ」
 スタートを切っていた俺の眼前、暁生の左側面に突如として土が盛り上がり、這い出た軟体の紐のようなモノ等が絡み合ってボールのような塊を創りだした。
 固いゴムのようなそれを蹴る。
 動きの気配を感じた暁生が右を振り向く直前に、その背後を取る事に成功。
 着地と同時に、構えていた水晶四つを暁生の眼前に向けて放り投げる。
「固く静止せし水性は、それすなわち鏡」
 魔術や魔法とは方向性の違う神秘科学である、俺の本業の一部、調律チューニングの応用だが、術式の使えない俺には唯一の技と言って良い。
 重力に従い落下していた四つの小さな六角柱の水晶結晶体は互いに干渉して四方に広がり、その囲った空間に凍結した鏡を発生させた。
 鏡は当然ながら暁生の今の姿を等身大で映し出す。
 人としての在り方を外れつつあるが、それでもまだ人である面影が色濃い今の姿。
 自らのそれを目にした暁生は、それに対して激しい怒りを爆発させた。
 刹那の間だけ存在を許されていた鏡は、その力により仮の存在を粉々に砕かれる。

 時間は十分に得た。
 俺は背後から暁生の首を腕の中に収める。
 締めあげられた力に、小さな体が酸素を得る術を失い小さく引き攣るのを感じた。

「聞こえるか、暁生」
 そうか、お前、そんなに自分が憎かったのか。
「お母さんは無事だぞ。お前が守ったからな」
 だけど、死のうとしたお母さんを救ったのはお前だろ。
「でもな、お前がそいつに負けちまうと、もうお母さんを守る人はいなくなるぞ。それでも良いのか?」
 少しは自分を認めてやれよ。
「そんな実体も無いお化けに勝てないようじゃ、お前、お母さんを助けられやしないぞ、お母さんと仲直りするんじゃなかったのか?」
 俺と約束をしただろうがよ。
「目え覚ませ!暁生!」

 一瞬、びくりとその体が震えるのを感じた。
 皮膚の下、踊っていた赤い光が悶えるようにのたうちながら引いていく。
 お前、マジすげえよ。

 怪異の憑依は、基本的には脊髄の乗っ取りから始まる。
 つまり怪異が潜むのは背骨に添ってという事だ。
 びくりともう一度震えた瞬間、外見は変わらぬままに、その背中に瘤状の見えない何かが浮き上がった感触が来る。
 剥離だ。
 俺は手に残った最後の透明な水晶を取り出し、その瘤に充てがう。

「縛!」
 依り代を追い出された形を持たぬ怪異など、儚い抵抗すら微々たるものだ。
 水晶は見る間に黒く濁り、暁生は子供らしい姿に戻る。
 疲れ果てたらしいそのぐったりとした体を抱え上げ、本庄武官に目を向けた。
 彼は、明らかにほっとした顔でぴしりとした敬礼をしてくれたのだった。

 誰だって子供を殺したくないもんな。
 お疲れ様でした。



[34743] 30、昼と夜 その七
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2012/12/20 05:26
「お疲れ様でした」
 封鎖線を越えた俺達に柔らかい声が掛かった。
「伊藤さん、待ってたんですか?」
 まさかまだいるとは思いもよらず、探す事もしなかったのだが、伊藤さんの方が、目敏く中から出て来た俺達を見付けたらしく、駆け寄って来た。
 それは正に驚きの安心感。
 なんというか、顔を見た途端ほっとした。
「誰?」
 当然ながら、隣に並んでいた由美子が不審気に聞いて来る。
「会社の同僚で伊藤さんって言うんだ。ここまで近道を案内してくれたんだぞ。……で、伊藤さん、こっちはうちの妹で由美子って言います。今年大学に入ってこっちに出て来たんです」
 由美子は初対面の相手に酷く警戒して、伊藤さんをジロジロと不躾に見た。
 いや、凄く失礼だからな、その態度。
「あ、噂の妹さんですね。そっか、やっぱりご兄妹ですね、凄く雰囲気が似てる」
 えっ!それって無茶じゃないですか?
 全然似てないから、俺達。
 だが、どうやら由美子の意見は違ったようだった。
 最初酷く驚いたような顔をした由美子は、なんと、瞬く間に花が綻ぶように笑顔になった。

「あ、ありがとう」
 うちの妹が、笑顔ではにかんでいる。
 ……なんだ、この天使。
 驚天動地。
 奇跡の瞬間が訪れた。
 ここ何年も、由美子の笑顔とか見てなかったんだよな。
 いったいどんな魔法を使ったんだよ、伊藤さん。
 俺がひとしきり感動に打ち震えていると、伊藤さんは俺が抱えているもう一人に視線を向けた。
「その子は兄さんの息子」
 由美子が何かとんでもない事を口走る。
「えっ!?そうなんですか?」
「ちょ、ユミ、何言ってんの、お前!」
 突然のぬれぎぬを慌てて否定した。
 いや、無いから、マジで無いから。
 しかし、伊藤さんはどこか感心した風に俺と暁生を見比べている。
 え?そこは笑って流す場面だよね?
「待ってくれ、どう考えても無理があるだろ、こんなでかい子がいる訳無いっしょ!?」
 俺を真剣な顔でじいっと見ていた伊藤さんは、次の瞬間、急に噴き出して笑い出した。
 由美子も悪戯っぽい顔でニィと笑って見せる。
「君達……」
「あはは、ごめんなさい。だって、木村さんったら凄く必死に否定するからおかしくて」
「名誉の問題ですから」
 俺がそう言うと、収まり掛けていた笑いがぶり返したらしく、伊藤さんはまた噴き出した。
 くそっ。
 いいんだ、人々の笑顔の為にガンバルんだ。

「今からこの子を病院に送って行くんですが、こっからどう行けば良いか分かります?」
 なんとなく考えるのが面倒になってきた俺は、伊藤さんにそう尋ねた。
 そう、今回の二の舞は御免なので、俺は暁生を問答無用で引き取って来たのだ。
 もうね、ここ最近強権発動しまくり。
 きっと管理局のブラックリスト入りしたに違いない。
「え!その子怪我をしているんですか!?」
 病院という単語に反応して伊藤さんが慌てる。
「あ、いや、母親が怪我して運ばれたんです。中央総合病院ってとこらしいんですが」
「そうなんですか、中央総合なら省庁地区ですよ。この都市のほぼ中央に当たりますから道は凄く分かり易いですね」
「省庁地区か、ありがとう」
「ここからなら巡回バスに乗ればすぐですよ。行きましょう」
 ん?あれ?『行きましょう』?
「由美子ちゃん、用事が終わったら一緒にケーキの美味しい喫茶店に行きませんか?いつも行きたいなって思ってるお店があるんですけど、一人だと少し勇気がなくって」
「ケーキ……行く」
 ああ、うん、そうか、由美子に対するお誘いか。
 女の子同士で何か相通じる物がある訳なんだな。
 良かったな、由美子、伊藤さんは良い人だぞ。友達いない歴が年齢と同じという黒歴史をここで亡き物にしてしまえ。
 俺もケーキは気になるが、喫茶店というと、また、男には針の筵の場所なんだろうしな。
 ……いや、羨ましくなんかないぞ。
「んじゃ、俺がこいつ連れてくから、二人はそっちへ直接行けば良いんじゃないか?」
 提案してみると、二人は顔を見合わせ、なにやら無言の内に合意が成ったのか、揃って頷いた。
 息ぴったりだな。羨ましくなんかないぞ……。
 所詮男には女の世界は分からないのさ。
 微妙に疎外感を味わった俺を残して、二人はどこかへと去って行った。
「また明日」
 あいも変わらず俺にはクールを貫く我が妹の隣で、微笑んで手を振ってくれた伊藤さんが唯一の癒しでした。



 バスでも、病院受付でも、ハード装備の男がボロボロの服の子供を抱えた図というのは目立ち過ぎていたらしい。
 思い切り周囲から距離を取られる事となった。
 しまった、女子二人を帰すべきではなかったか。
 しかも途中で目を覚ました暁生が、事態を把握して泣き出したりもしたんで、絶対何人かは警察に通報したに違いない。
 病院出たら包囲網とか洒落じゃなくてマジでありそうでヤバい。

 まあ、未来への不安は置いておいて、取り敢えず暁生を落ち着かせると母親の病室を訪ねた。
 事が事だけに個室に隔離されていたのは幸いだ。

「失礼します」
 暁生が不安からか酷く怖がるので、一度は喫茶室で待たせる事も考えたが、ここで逃げ癖を付けるとマズい気もするし、結局一緒に病室に入った。
「どうぞ」
 応答があった。どうやら起きてるようだ。
 ナースセンターの看護担当員からは、今は落ち着いているが、絶対に興奮させるなと言われたんだよな……どうなる事やら。
「えっと、こんばんは」
 いかにも病院らしい、清潔で整った淡い色合いの室内。
 ドアからベッドへの直接の視線を遮る衝立から外れた、視線の通る室内には、警察官の制服姿の女性がいて、バイプ椅子から立ち上がって俺達を迎えた。
 俺がハンター証を示すと、既に聞いていたのか、黙って会釈すると部屋を出てくれる。
 その途中、表情は変えなかったものの、暁生を大きく避けて擦れ違ったところを見ると、もしかすると現場を見てからここに来ていたのかもしれない。
 言いたい事はあるが、仕方のない話だ。
 とりあえず顔に出さなかっただけマシな方だろう。
 暁生は幸いにも母親に意識が集中しているらしく、それに気付いた様子は無かった。

 カチャリというドアの閉まる音を背後に、俺は衝立を迂回してベッドに身を起こすその女性と向かい合う事となった。
 換えの服が間に合わなかったのだろう、彼女が身に着けているのは病院の検診用のガウンだ。
 首に巻かれた包帯が痛々しいが、身動きが出来ないような怪我では無いのは明らかで、それはむしろ安心材料だろう。
 表情には自棄の気配は無いが、酷く疲れているようだった。
 彼女の視界の中に暁生が入り込むと、はっとした表情となり、その目からは涙が溢れ出す。
 暁生は、顔を上げて母親の顔を見る勇気がまだ無いのだろう、うつむいてじっとしていた。

「暁生のお母さんですね?」
「え、……ええ」
 答える声が細い。
 今の暁生と同じような、拒絶される事への恐れをそこに感じた。
「私、私、申し訳ありませんでした。本当に、私、母親の資格が無いって、分かって、います」
 ああなるほど、交渉員が何を言ってこの騒ぎになったか大体分かったぞ。
 この人に母親の資格が無いから子供を施設で預かるとか言ったんだろう。

「実はですね、」
 俺は彼女の言葉を思い切り遮ると、いかにも自分勝手に言葉を投げ掛けた。
「え?」
「俺は、暁生と約束をしていまして。……ほら、暁生、お前ちゃんと言えるって言ったよな?」
 暁生にとって母親は世界でただ一人の人だ。だから、拒絶されるのが怖いのだろう。
 暁生は俺のズボンを掴んで、中々顔を上げようとしなかった。
 その様子を、母親はじっと見守っている。
 急かす事も、声を掛ける事もなく、ただ、見守っていた。

 やがて、静寂に耐えられなかったのか、暁生は顔を上げて母親を見た。
 首に包帯を巻いて、やつれたような顔の母親は、こいつの目にはどう写ったのだろう。
 暁生は思わずといった風に「お母さん!」と呼び掛けると、バッと駈け出した。
「お母さん、ごめんなさい!ごめんなさい!」
 泣いて、母親の布団にすがりつくと、ひたすら謝り続ける。
「あ、あきくん?」
 きっと暁生は、今までこんな泣き顔を母親に見せた事が無かったのかもしれない。
 ずっと色んな事を我慢して来たんだろう。
 母親の戸惑いが、そんな風に俺に感じられた。

「お母さん、実は、家出していた暁生を昨夜保護したのは俺なんですが。その時、怖かったんでしょうね、俺に攻撃して来て」
 俺の言葉に、彼女はぎょっとしたような顔になった。
「申し訳、」
 謝ろうとする彼女を留めて、俺は先を続ける。
「まあ大したことなかったんですが、暁生もすぐに我に返ったんですね。そしたら、すぐに今みたいにごめんなさいって謝って来たんです。それでですね、俺は思ったんですよ。きっとこの子の親は、きちんと子供を躾けられる立派な人なんだろうなって」
 無意識に、なのだろう、彼女は暁生の背中を撫でてやりながら、不思議そうに俺を見た。
「いや、俺なんか昔っから強情っぱりで、悪いことをしてもなかなか謝れない人間で、その、そういうのは駄目だなって思うんですけど、なかなかちゃんと出来なくってですね。だからでしょうか?俺は、謝れるって凄い事だと思うんですよ。だって、自分が悪いって認識するのって結構辛い事じゃないですか?ましてや子供がちゃんとそれを出来るって凄いな、ってね。なので、俺は暁生についてはあんまり不安には思ってないんです」
「どういう、事でしょうか?」
 つくづく説明下手だな、俺。
 不安と期待、彼女のまなざしはその二つに揺れている。
「暁生は、確かに力を持っていて、それをうっかり振るったんですけど、今まで、俺に対して反射的に攻撃した以外は、人や生き物を傷付けた事は無いんです。今日の一件だって、最初、あなたを助けようとしたんでしょう?優しい子ですよね?」
 そして、母親が自殺しようとしたという事実に激しいショックを受けた暁生に、事件で不安を感じた人々の強い感情に反応して依って来た怪異が憑依したのだ。
 暁生の母は、初めて僅かに笑みを浮かべる。
「ええ、本当に、この子は優しい子です」
「親の資格とか、他人が決めて良いものじゃないと俺なんかは思うんです。それに、一人で頑張る必要もない。子育てだって、異能者育成だって、ちゃんと相談する場所はあるんですから。特に異能者は、世界規模で手厚い保護があるんです。知っていました?」
「いえ、ごめんなさい。あんまり」
「まあ、異能者なんて普通周りにいませんもんね。えっとですね、その力の度合いによって周囲とのトラブルが心配されるような異能の場合、専門的な育成施設もあってですね。希望すれば家族でその保護プログラムを受ける事が出来るんです。今回の件でご住居も失った訳ですし、この際それに乗っかってみませんか?」
 暁生の母は、俺の話にぽかんとして、次いで、不安気に俺を見る。
 ああ、うん。
 ちょっと怪しいよね、俺、こんな格好だしね。
「あの、でも、うちに来られた方は、私はあまり良い影響を与えないからあきくん、……暁生を引き取ると」
「ああいう機関のマニュアル的にはですね、問題行動を起こした若年の異能者の場合、保護者から一旦引き離すというのがありまして。でも、それって強制じゃなくって要望なんですよ。あくまでも親権があなたにはありますから、ちゃんと理性的に対処すれば、無理に親子を引き剥がしたりは出来ないんです」
「そうなんですか?」
 どうやら、彼女は俺の話で落ち着きを取り戻したようだった。
 真っ直ぐ顔を上げて俺を見、そしてベッド脇でしがみついている暁生を見る。
「私、この子を取り上げられると思ったら、何もかも終わったみたいな気になって、馬鹿な事をしてしまいました。今、凄く恥ずかしいです。母親としても、こんな風では何と言われても仕方がないと思います。でも、私は絶対にこの子をちゃんと育て上げるつもりです。完璧な親じゃないですけど、ちゃんと一緒に生きて、ずっと……」
 どうやら腹は決まったらしい。
 彼女は、母親独特の、柔らかで、それでいて強い目をしていた。
「今日はもう、お二人共色々ありましたからゆっくり休んでいただいて。明日また係官が来ますから、そこでちゃんと話し合いをしてみてください。異能者育成については本当に手厚い救済システムがありますんで、かなり突っ込んだ事も聞いておいた方が良いと思いますよ。一応、暁生については憑依状態になったって事で、除染と検査もあると思いますが、その辺は俺がチェック済みなんで一応という感じなんで心配はいらないでしょう」
「分かりました。本当に色々、ありがとうございました」
「いえいえ、これも仕事の内というか、まあ役割の内ですから」
 俺がハンター証を提示すると、暁生の母はびくりと体を強ばらせ、珍獣の類を見るような目で改めて俺を見た。
 ……中央の人って、実は、ハンターって実在してないとかって思ってるんじゃないかな?段々そんな気がしてきたぞ。
「それでは、これで。……暁生、あ、あれ?」
 暁生の奴、いつの間にかまた寝てやがる。
「ごめんなさい、起こしましょうか?」
「あ、いや、そのままで、起きたら、約束楽しみにしてろよって伝えておいてください」
「約束ですか?」
「ええ、暁生に聞いてやってください。きっと色々話を聞いて欲しがると思いますし」
 俺の言葉に、暁生の母は笑顔で頷くと、そのまま深く頭を下げた。

 優しくて美人なお母さんだな、暁生。
 これから色々あるだろうけど、大事な人と一緒なら頑張れるよな、お前。

 無邪気に眠る顔にホッとしながら、俺はそんな風に心の中で暁生に言ってやったのだった。



[34743] 31、昼と夜 その八
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2012/12/27 05:18
 ピッというセンサーの音が正常な動作を告げる。
 よし、ここはOKと。
「だからですね、上が怠慢なせいじゃないかって話なんですけどね」
 ハンズフリーにしている電話に向かって少しだけ嫌味な口調で会話を続ける。
 まあ自分でも八つ当たりっぽいとは思うんだけど、実質上の最高責任者ではあるんだし、愚痴ぐらいは聞いてくれるだろうと、お菓子の人に先日教えていただいた私用回線で電話をしてみたんだが、……忙しい人なのにワンコールで出やがった。
 待ってたんじゃなかろうな?怪しい。
『その見解は、正しくもあり、違ってもいるな』
 謎掛けか!?
 おっと、思わずテスターのチェック場所をミスる所だったぜ。
「分かりやすく、噛み砕いて頼んます」
 ジジジ……という半田の融ける音が僅かな静寂を埋めて行く。
『別に謎を掛けたつもりも無かったんだが、この間も言っただろう?半世紀を越える平穏と、いわばその平穏が人々から危機感を奪ったのだよ』
「つまり、怪異事件の発生が殆どないから対応部門が腐ったと言いたいんですか?」
 物が物だ、ベースになる基板もなるべく軽くしないとならない。
 感覚としては蝶々さんを作った時の繊細さが必要だ。
『隆志、怠慢という物はどういう時に発生すると思う?』
 ぬ?質問した言葉についての質問を返すとか、もうほんとこの人って読めない人だよな。
「怠慢ですか?要するにさぼりですよね。うーん、そうですね、働いている人間にやる気が無い時ですか?」
 光ファイバーを、薄く丈夫な貝殻石で作られた受信板に埋め込んで行く。
 これも細かい作業だ。
 好きなからくり作りに熱中してるせいで、段々酒匂さんとのやりとりがおざなりになっていってる気がするが、仕方ないよな。

『緊張感の欠如だ』
 そんな事を考えている時に言われたその言葉に、ドキリとして、思わず受信機を見るが、画面付きの電話じゃないので当然そこに相手の顔が見えようはずも無かった。
「ええっと、それってやる気が無いのとどう違うんですか?」
 なんとなくヤバイ予感がして来たので、作業を一時中断して会話に集中する事にした。
 俺の気にし過ぎかもしれないが、この人のしっぺ返しは、こっちが気付かない内にいつの間にか嵌められている事が多い。
 ちゃんと相手をしなかったからと臍を曲げられたら大変だ。

『どんなに真面目な人間でも、必要が感じられない物の為に労力や予算を割く事には疑問を抱く物だ。その分の余力で他の事が出来る。それは抗いがたい誘惑だし、一見社会的に正しくも思える』
「それは分からなくはない……ですね」
『だが、それは過ちを正当化させる落とし穴だ。若しくは錯覚を起こさせると言って良い』
「まあ、そうですよね。外ではあいも変わらず怪異との戦いは続いているんですから」
『実際、多くの都市部では長年必要にならなかった条項を削り続け、今や大都市程無防備な有様だ。覚えているか、五年程前に新大陸連合で起こった終末の魔竜事件を』
「あれはむしろ忘れられる人間の方が少ないんじゃないですか?」
 あれは、あの国だけじゃなく、世界中が終わりを予感した事件だった。
 あの事件以降、古い地層からのエネルギー採掘自体の見直しまでされ始めたのである。
『あれこそが怠慢、いや、怠惰の災禍の最たるものだ。アレがどうやって持ち込まれたか知っているか?』
「確かテロリストが巧妙に偽装して持ち込んだという話では?」
『それは表向きの話だ。実際は国際便の手荷物として持ち込まれた悪夢の遺産から顕現したのだよ。むき出しの状態のな』
「まさか、国際便の手荷物検査は厳しい事で知られていましたよね」
 呪物検査さえちゃんとやっていれば有り得ない話だ。
 何しろ、悪夢の遺産という奴は、封印状態でも空間に歪が出る程の呪を纏っている。
 というか、古代の遺物は呪を呪で封印している物が多いのだ。
 おかげで取り扱いが厄介なのである。
『五十年の、いや百年近い平穏が、大都市の住人から怪異に対抗して来た生存本能を奪っていったのだよ。彼等にとってモンスターは御伽話の、いや、コミックスの中の存在に過ぎなかったという事さ』
 酒匂さんの話を聞いていて、俺は段々笑いがこみあげて来るのを感じた。
 漫画コミックスだって?
 現実から目を逸した挙句世界が滅び掛けたとか、傑作な話だ。
『だからこそだ。ここにハンターが必要な理由がそこにある。社会が惰性に墜ちた時、目に見える奇跡は人の心に世界の真の姿を思い出させる切っ掛けとなるはずだ』
「……いや、なんかかっこよく纏めて誤魔化そうとしてますよね?奇跡とかより地道な組織改革が一番必要なんじゃないですか?頼みますよ、本当に」
 俺達にナニやらせる気なのさ。
『一度固まった考えを変えるには、何らかの現実的な刺激が必要という事だよ。迷宮に引き続き異能者への対処、リアルな記録は人の目を覚まさせる。助かるよ』
 ……ん?
 これってもしかして俺達はダシにされたって事?
「……酒匂にぃ?」
『怒らない、怒らない。今度南へ行く仕事があるんだが、白珠羊羹をお土産に買って来てやろうな。君はあれが好きだっただろう』
「食い物で誤魔化そうとかすんなよ。俺はもう大人だぞ!」
『いらないのかい?』
 くっ。
「いるけど」
『二人で仲良く分けるんだぞ』
「だから、子供扱いすんなって」
 ふう。
 なんだかどっと疲れたぞ。
 だけど、そうか、平和や平穏は怠惰や堕落の温床になるって事か。
「じゃあ、全部無駄だったという事なのかな?人が積み上げた文化や技術、長い平穏が育んだ色んな物は、現実を見ないで描かれた愚かしい幻想であって、あのバベルの塔のようにいつか崩れる物でしかないのか?少数の犠牲で大勢の命を贖っていた時代こそが正しかったって事なのか?」
 スピーカー越しに、はっきりと溜め息が聞こえた。
『本当にお前は昔から単純だな。いいか、何かを推し進める場合、全部がクリアな事なんて滅多にあるもんじゃないだろう?お前だって仕事をしてるなら分かるだろうが』
「うん。それは、うん、分かる」
『失敗して学ぶんだ。そうやって物事は強固になっていくものなんだ。大事なのは失敗に気付く事であって、失敗をしない事じゃない。我々は永遠の絶望と戦っているんだ、この長い平穏は、確かに我々の勝利の一つの形ではあるんだよ。それはそれで存分に味わえば良いんだ。お前が望む物は、決して砂上の楼閣なんかじゃない』
 “お前”とか、なんかいつの間にか昔の気持ちに戻ってるんじゃないか、酒匂さん。
 もう良い年で偉いさんになったってのに、しょうがない人だな。
「ああ、うん。まあ駄目だって言われても仕事は辞めないけどな」
『お前はそれで良いよ。取り敢えず私の都合で振り回しはするが、思うがままに生きる分には大した問題ではないだろう』
「いや、そんな堂々と振り回すとか言われてもね。……お土産よろしく」
『ああ、朝一で並んで買って来るよ』
「並ぶな。一応国のお偉いさんなんだから」
『あはは、じゃあおやすみ。あまり夜更かしするな』
 やっぱ作業してたのバレてるな、これは。
「了解しました」
 プツンと切れた電話の通信ボタンを押してスピーカーを切る。
 やれやれ、あの人の中では俺はまだ子供なのかな?
 良いようにあしらわれている内はそう思われても仕方ないかもしれないが、悔しいのは悔しい。
 今に見てろよ。

 まあとにかく、考えるだけ不毛な事は考えないのが一番だ。
 途中で手を止めたからくりの組み立てを再開する。
 暁生達親子は、関東異能者養護施設に居を移す事にしたとの事だった。
 家族ぐるみでそういう施設で生活する異能者は多い。
 むしろそこからちゃんと社会復帰して普通の街に居を構える異能者の方が少ないぐらいだ。
 それは、異能者がどうしても社会的少数である為の差別があるせいも多少はあるんだが、何より一番の問題は、この手の一代限りの異能者の殆どが、能力と肉体のバランスを自分の意志だけで調節出来ない事が圧倒的に多いからなんだ。

 実を言うと、俺は暁生に少しだけ嘘を付いた。
 突然変異的な異能者が普通の人間のように自然に振る舞えるようになるには、先天的な能力と肉体のバランスと、努力と、両方が必要なのだ。
 努力だけではどうにも出来ない壁が確かに存在する。
 暁生がそれに恵まれているかどうかは、調査と研究を重ねて探っていく他は無いのだ。
 だが、もし自身で制御不能な力でも、今の時代には極々小型の制御装置がある。
 俺の言葉は完全な嘘にはならないはずだ。
 うん、いや、誤魔化しちゃだめだな。
 嘘は良くない。

 肉体から、いや、細胞単位で既に能力に合わせて組み上がっている事、これこそが勇者血統と言われる者達の特徴だ。
 そう考えれば、俺と暁生は異能者ではあっても“同じ”ではない。

「よし、テストといくかな?」
 簡略化された銀色の龍の意匠が巻き付く、小さな卵のような黒い金属体。
 スイッチ代わりの龍の頭をぐいと下げると、卵のてっぺんからポンというシャンパンを開けるような音と共にキラキラする塊が発射される。
 1m程度飛んだそれは、放射状に広がり半透明のマリモのような球体となる。
 次々と、鮮やかな赤、青、緑、金色、そしてレインボーと彩りを変えるその様は、夜空の花火をなんとなく思い起こさせた。
 光ファイバーを使った良くある光るおもちゃだが、このからくりの真骨頂は宙に浮き続ける所にある。
 ベースの金属の卵から発生する指向性を持つ波動が、光ファイバーの埋め込まれた仕掛けの中心のコアにぶつかると、共鳴作用によりクロス状に嵌め込まれた貝殻石の薄いチップに磁界を発生させる。
 この二つのエネルギーの場が、反発と補足の両作用を引き起こして、ベースと仕掛けとを等距離に安定させるのだ。
 互いの違う力場が絡み合っているせいで、それは立体的な作用となり、作用点がズレるとはじき出されて墜落という事もない。
 実を言うと、暁生がジャマーに仕掛けたやり方から思い付いたのだ。
 おもちゃらしく、宙に浮く仕掛け側にはセンサーが仕込んであり、光ファイバーの色合いの変化と、なんだか変で可愛らしい電子音が周囲の音によって発生するようになっている。
 俗に言う、子供に喜ばれるおもちゃの基本の二つの物、光と音を仕込んでみたという訳だ。
 この仕掛けはベースと一緒に移動するので、この卵状のベースを持っていればどこにでも付いて来るし、卵の底部に収納してある足で固定すれば床にも置ける。
 どうだろう?暁生は喜んでくれるかな?

 とりあえず、これは約束のプレゼントなんで、見送りにはなんか普通の手土産も必要だろうな。
 あ、しまった、酒匂さんに美味いお菓子のお店とか聞いておけば良かった。
 あの人やたら詳しいんだよな。
 まあ良いか、明日会社で伊藤さんに聞けば案外なんとかなりそうな気もするし。

 それにしても、……あの調子じゃ、俺には当分堕落出来るような平穏も無いんだろうな。
 やれやれ。



[34743] 閑話:子どもたちは野に遊ぶ(弟視点)
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2015/07/09 11:24
 視覚、聴覚、嗅覚、そしてそれ以上に必要なのは身に宿った世界を認識する力。
 その全てを駆使して危険を炙り出す。
 "外"はいつも緊張を強いる場所だ。
 それなのに。

「それっ!」
 薄い雲の掛かる空を背景に異質な小さな玩具が視界を横切った。
「兄さん……」
 自分でもはっきりと分かる不機嫌な声。
 しかし、それは兄さんには負の印象を与えずに上滑る。
 そんなのいつもの事だから今さら不思議にも思わないが。
「なあ、浩二、これを最初に作ったのってどんな人だったのかな?竹を削って組み合わせただけでこんなに飛ぶなんてどうやって考えついたんだろう?」
 言いながら、上空からゆっくりと落ちてくる竹トンボを何でもないように指先で捕えて見せる。
「仕事中だよ、今」
 重ねて注意すると、悪びれない顔で笑ってみせる。
「だって、相手が見付かるまで別にやる事も無いだろ?」
「気を抜き過ぎって言ってるんだ。兄さんは外に出るといつもそうだよね」
「だって、うるさい連中もいないしさ、伸び伸びするだろ?」
 いや、それは兄さんだけだよと、心の中で呟いた。
 人里に程近い山の中、それは怪異マガモノの巣に等しい。
 人に関わりの無い怪異せいれいなんかは、それ程脅威ではないとはいえ、一つ何かを間違えて彼等の怒りに触れれば、それは天災並の脅威となるだろう。
 それより力としては劣るとはいえ、人由来の怪異マガモノは、人里を追われてひっそりとこういう山に潜み、人に害を成す怪異モンスターに成長しているものだ。
 そういう連中は、こちらを見付けた途端に襲って来る。
 人の手が入っていない場所は、いわば怪異あやかしの領地。
 到底人間が伸び伸び出来るような環境では有り得ない。
 そんなの、学校の初等教育で最初に習うぐらいの、基本中の基本だ。

 しかし、兄さんにとっては、ここより村の方がよほど神経を使う場所なのだろう。
「そんなにピリピリしなくても、ユミが探索に虫を放ってるんだから、この近辺に奴等がいないのは分かってるだろ?」
「そうだね」
 確かに兄さんの言う事も間違ってはいない。
 妹の由美子の策敵は優秀だ。
 待機場所の周辺に何かが潜んでいればとっくに気付いているだろう。
「隆志にい、あたしがさっさと敵を発見出来ないから退屈なんじゃない?ごめんね」
 飛ばした虫に意識を乗せているくせに、こっちの会話も気になっていたのだろう。
 由美子はおずおずと兄さんに謝った。
 こんなふうに、謝る必要も無い時に謝るのは由美子の習性のようなものだ。
 由美子は、いつも不安で仕方が無いのだから。

「何言ってるんだ、お前のおかげでこんなのんびりと楽が出来るんだろ?それぞれバラけて策敵とかになったら、いくら脳天気な俺でも意識を尖らせて軽口も叩けないじゃないか?ユミがいてくれて最高最強だぜ」
「えへへ」
 不安気だった由美子の顔が一瞬で明るくなる。
 悔しいけど、こういう所は僕は到底兄さんに敵わない。
 僕は何かを言う時には必ずその内容を推し量ってから口にする。
 勘の鋭い由美子はそれを敏感に感じ取って、僕の言葉を信用仕切れないのだ。
 分かっているのに、僕は兄さんのように思った事を思ったまま口にする勇気がない。
 いや、恐らく僕の性根は小賢しく出来ていて、由美子はそれを感じ取っているに過ぎないのかもしれない。
 自分を卑下する訳じゃないが、自分の事だからこそ、僕は自分の在り方から目を逸す事が出来ない。

「浩二」
「いた?」
 兄さんの鋭く、でも抑えた声が戦闘準備の合図だ。
 いちいち細かい指示は必要ない。
 僕たちは兄妹なので生まれた時から一緒だし、その上訓練も一緒にやっていた。
 俗に阿吽の呼吸と言うけれど、僕たちはちょっとした視線のやり取り、下手すれば相手の足音だけで、お互いが何をすべきかが、言葉として浮かぶ以前に分かるのだ。
 怪異と戦うハンターのパーティとして、これほど理想的な組み合わせは無いだろう。
 そう、まるで悪魔が図ったように理想的だ。
 その事について色々思う所はあるけれど、そんな、僕たちの在り方が本当に図られたものなのかどうかを知るには、家長だけが見る事が出来るという家伝之書を見るしか無い訳だし、どうせ家長を継ぐのは兄さんで、一生僕の知る所ではないだろう。
 そう思うと、興味が無いとは言わないが、それを知るとしたら僕は僕自身より兄さんの方が良いんじゃないか?と思いもするから。
 悔しいけど、僕は自分の心の強さを信じられない。
 あ、くそ、兄さんに対して悔しいってもう二回も思ってしまった。
 コンプレックスか?バカバカしい。

「七、六、五……」
 由美子のカウント、敵を誘導しているんだ。
 今いるのは山の中の、倒木によって出来た空間だ。
 邪魔な腐った倒木は、兄さんが蹴飛ばして粉砕してしまい。足場としてはまずまずの状態に均してある。

「三、二……」
 木々の合間から敵の姿が見えた。
 以前見たヒグマより二回りぐらい大きい程度か。
 由美子のカウントが早い事から気付いていたが、かなりのスピードだ。
 数は二、いや三体か。
 顕現怪異モンスターの識別名で言うところの狒狒ヒヒだ。
 本能に忠実で、理性をかなぐり捨てた、人を元に成った怪異モンスター
 力が強くスピードがあり、連携の真似事をする厄介な敵。
 既に被害が出ていて、女子供が随分無残な殺され方をしたらしい。
 特に妊婦が狙われて、その殺し方を聞いた時には流石におぞけが走った。
 そんな厄介な相手に僕らのような子供を当てるのは正直どうなの?という気がするんだけどな。
 まあ仕事だから仕方ない。
 それに現実はマニュアルとは違う。それが僕たちにとってはそう厄介とも思えないのは確かだ。
 戦闘開始までの僅かな時間に、今いる空間を一度ざっとさらう。
 と、兄さんが鋭く振り向いた。
「浩二!」
 咎める、そして心配する声。
 なんで気付くんだ?兄さんは術適性は無いはずなんだけど。
 空識適性は高いからそのせいなのかな?
「大丈夫だよ!」
 敵を目前に振り向くような事じゃないだろ?
 上っ面を撫でた程度だ、圧迫感すら感じない。
 カウントゼロで飛び出て来る醜く欲望に歪んだ人間に酷似した容貌の猿。
 見た目が在り様に直結する。怪異というのはそういうモノだ。
 時間差で次々飛び込んだ狒狒ヒヒに向かい、兄さんが低く地を這うように接近する。
 奴らはバラけて、一体が由美子、残る一体がこっちに来た。
 猿知恵でも各個撃破とか考えても良さそうだが、所詮はまだ顕現してから年数の短い怪異モンスターだ。そこまで知恵は無いらしい。

 俺はすかさず認識した空間に線を引く。
 由美子と狒狒の間に一線、自分との間に一線。
 兄さんには必要ない。
 キーとかヒーとか高く気味の悪い声で笑いながら突進して来た狒狒が、まるで透明な壁に阻まれたかのように弾かれた。
 実際の所はそれは壁ではないが、相手からすればその辺は別段気にする部分ではないだろう。
 俺の脳の一画、この力を使用する為の領域が網目のように脳の全域に広がった感覚。
 移り変わる事象を演算し、空間を変化させ続ける為に出力を続ける為の制御。
 描かれた線は展開と収束を繰り返して、敵の襲撃を阻む。
 僕自身はこの間ぴくりとも動けない。全ての身体の制御系が能力の制御に振り向けられているからだ。
 だが、例え棒立ちであろうとも、事、防御方面での不安は全く無い。
 僕の認識している空間は、全て僕のキャンバスのようなものだからだ。
 ふと気付くと、由美子と対峙している狒狒が、何やら淫猥な言葉を投げている。
 糞が、下等な化物のくせしてうちの妹に何してやがる。
 そうか、早く消え去りたいんだな?よし分かった。
 由美子の虫が狒狒の目を潰した瞬間、僕が操った線が狒狒の体を切断した。
 これで一体。
 と、思ったが、既に兄さんが一体片付けていた。
 早い。瞬殺か?。むかつく。
 残るは僕の前で唇をまくりあげてギャーギャー文句を言っているこいつだけか。
「ニンゲンシネ!バラバラ!バラバラ!」
 会話にならないな。
 残念ながらお前がもっと賢くなるまで待ってやるつもりもない。
 「バイバイ」
 兄さんの手を煩わせるまでもない。
 くるりと円を描いた線が、そいつの首を切断した。
 化物のくせしていっちょまえに血が噴き出る。
 ウザイ、あっちへ行ってしまえ。
 こうやって線を引けば、死体も血も僕に触れる事は出来はしない。

「浩二、大丈夫か?」
 死んだ狒狒から注意深く怪異マガモノの元を抽出して水晶に封印した兄さんが、僕の方へ歩いて来ながらそう言った。
 封印された狒狒は血も死体も跡形もなく消え失せる。
 何度見ても不思議な感じがするな。
「この程度でどうにかなる方がおかしいよ」
 兄さんは心配性すぎる。
 こんな簡単な戦いで、いや、戦いとも言えない作業で、僕の脳が焼き切れたりするはずがない。
 そんな事分かっているはずなのに。
 僕が無理していないかという、あからさまに探る視線を向けた後、心底ほっとしたように「そうか」と言って笑う。

「あたし、あんまり役に立たなかった。浩二にいに無理させてごめん」
 その上またしても不安持ちの由美子が、自力で一体倒せなかった事を気にして項垂れている。
「ユミ、適材適所だろ?」
 僕は言葉足らずだ。
 そんな事は分かっているが、こういう時、どんな事を言えば良いか考えすぎて言語野がフリーズしてしまうらしい。
「そうそう、大体そんな事言ったら俺達索敵じゃ全くの役立たずじゃないか。妹に頼りきりの兄貴ズでごめんな」
 兄さんが由美子を見て、目を細めながらそうフォローしてくれる。
 そのまま抱きしめて頭を撫で回したいという欲求が見え見えの兄さんは、由美子が可愛くて仕方がないのだ。
 その由美子に対して、役立たずとか考えた事すらないだろう。
「兄さん達が役立たずとか有り得ないし!」
 一応僕を含めて擁護してくれている由美子だが、目線は兄さんにがっちり固定されている。
 何しろこの世で信じられるのは兄さんだけぐらいの勢いでいそうなのが我が妹クオリティだ。
 僕や他の人間は言葉を紡ぐ時にちょっと考えてしまう。
 由美子からすれば、そこに嘘の入り込む余地があると思ってしまうのだろう。
 だから何も考えずにモノを言う兄さんの言葉は、由美子にとってほとんど神託同然だ。

 兄さんは、由美子が人嫌いなのは苛められていたからだと思っている。
 確かにそれも正解の一部ではあるだろう。
 でも、僕は知っている。
 由美子が恐れているのは苛められるというそれ自体では無い。
 苛められた時に言われた『貰われっ子』という言葉を恐れているのだ。
 由美子は家族の誰にも似ていない。
 能力を持っていない事は元より、まるで掃き溜めの鶴のような可憐な容貌すら、由美子にとっては嫌悪の対象なのだ。
 どれ程僕達が間違いなく実の家族だという事を保証しても、由美子の中には常に一片の恐怖が居座っている。
 物心付いた頃には古文書を読み漁り、誰よりも多くの術式と、その核にあるものを学び取ったのも、家族として相応しくあろうと、ほんの小さな頃から既に思っていたからに他ならない。
 いじらしいと思うし、なんとかしてその不安を払拭してやりたいとも思うのだが、由美子は下手に賢いせいで、他人の言葉を勘ぐってしまい、何を言ってもその裏を探ってしまうようなのだ。
 だから僕や、家族の言葉でも、由美子は丸々飲み込んで安心してはくれない。
 ただ一人、裏など存在しない兄さんだけが、由美子を安心させられる唯一の相手だった。
 それに、悔しいけど、僕もきっと兄さんに依存しているんだと思う。
 あ、また悔しいって考えた。
 なんかむかつく。
「うおっ!いてえ!浩二、なんで足踏んだんだよ!」
「別に」
「別に、じゃねぇよ、反抗期か!?」
「なんで兄さんに反抗しなきゃならないんだよ。馬鹿なのに」
「馬鹿じゃねぇよ、学校の成績はそんなに悪くないだろうが!」
「誰が学校の話をしてるのさ」
「お前なあ、」
「喧嘩しないで!喧嘩駄目!」
 由美子が涙目になっている。
 可愛い……じゃなかった、いけない、宥めないとな。
「喧嘩なんかしてないよ、ほら、仲良しだろ?」
 兄さんと肩を組むふりをしてヘッドロックをかます。
「ちょ、お前!あ、ああ、いや、ほら、仲良しだぞ!」
 そんな風に由美子に良い顔をしてみせて、兄さんは「ギブギブ」とか言いながら僕の腕を叩いているが、知った事ではない。
「仲良しならあたしも混ぜて!」
 由美子が兄さんのお腹に突進してぎゅうと抱き付く。
 羨ましい。
 兄さんはゲホッとかわざとらしく息を詰まらせて悶えているけど、きっと喜んでいるに違いない。
 もう少しぐらい力を入れても良いよね?
「ば……か、おまえ……ら、俺を殺す気……か?」
 いくら口をパクパクさせたって、騙されはしない。
 兄さんがちょっとだけ力を込めて振り払えば、僕たちの力なんて何の脅威でもないんだ。
 なんだか兄さんの限界を試したい気分になってきた。
 それとも兄さん、本当に僕達になら殺されても良いとか思っているんだろうか?
 いや、何も考えて無いよね。
 何も考えずに僕達を振り払わない。
 本当に馬鹿な人だよな、兄さんは。



[34743] 32、終天の見る夢 その一
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2013/01/10 05:01
 その日、俺は職場でさして急ぎではない仕事を片付けていた。
 具体的に言うと、新規のプロジェクト自体は決まったものの、デザイン部門と設計部門が揉めていて、お馴染みのブランク状態に陥っていたので雑務をこなしていたのだ。
 どうでも良いんだが、デザイン部門が無茶なデザインを最初に打ち出して来るのは絶対わざとだと思う。
 最初に無茶なのを出せば、後からそこそこ無謀な物でも通り易いと踏んでるに違いない。
 そのせいでいつもスケジュールが押すんだからいい加減腹の探り合いは止めて欲しいんだけどな。
 ともあれ、その時の俺は新商品の開発コンセプトを流し読みしながら今日何するかな?と考えていた訳だ。

 予告なく目の前の画面が消えた時には、俺は大して驚かなかった。
 読みに入っていて暫く操作をしていなかったんで休止モードになったんだろうと軽く思った程度だ。
 その時感じた疑問と言えば、待機時間こんなに短く設定してたっけ?という事ぐらいだろう。
 だが、同僚の中にはそんな呑気な反応では無い者も当然ながら居た。

「あれ?」
「ああっ!」
 疑問や驚愕の声がチラチラと耳に入り、何かあったのかと顔を上げ、やけに暗いなと思った。
「停電?」
 どこか愕然とそう呟いたのは佐藤だったか。
 その頃にはオフィスの照明が全部落ちているのに気付いて、俺は思わず窓から外を見る。
 停電と聞くと外を確認したくなるのはなんでだろう?
 そもそも昼間に外を見たって夜程異常は分からない。
 それでも、流れの悪い車の列を辿ってその先に目をやると、信号機が沈黙しているのが確認出来た。
「信号止まってるぞ」
 なんとなくそう漏らす。
「おいおいおい!俺の最高得点!」
 後ろから聞こえる絶叫の内容が酷い。
 何やってたんだ?佐藤よ。
「一時間掛けて整理したデータが……」
 こっちは至極マトモなだけに同情心の刺激される呟きだ。
 声の方に目をやると、伊藤さんががっくりと机に突っ伏すのが見えた。
 可愛い。
 じゃなかった。

「後で手伝うよ、今日は手が開いてるし」
 チャンスだ。
 ここは売り込んでおくんだ、と、俺の本能が叫んでいる。
 以前はっきりとアウトオブ眼中だと宣言されたにも関わらず、悲しい男のサガだった。
「ありがとうごさいます。助かります。でも、うちはまだ良かったですね」
 にこりと笑ってお礼を言う伊藤さんは、薄暗いオフィスでも輝いて見える。
 ちょっと自分の打算が嫌になった。
「そうだな、プロジェクトの追い込みの時期だったらと思うと恐ろしいな」
 俺達の会話に課長が割り込む。
 しみじみとそう言うのを聞いて、ふとその状態での停電を想像したら背筋が凍った。
 おそらく現在絶賛稼動中の部門では悲鳴が響いてる事だろう。
 ご愁傷様です。うん、頑張れ。

 それにしても……。
「なんか復旧遅くありませんか?」
「変だな」
 この都市の電力は結界に直結している事もあって、何重もの安全装置が組まれている。
 何らかのトラブルが原因で局地的な停電が発生しても、長時間に及ぶ事はまず有り得ないのだ。

 ぞっとするような幻視が、唐突に俺を襲った。
 突然結界を失う平和しか知らぬ結印都市。
 それが辿る運命は容易く予想出来る。
 パニックの末怪異の大量発生で破滅。
 十中八九、そんな終わりが来るだろう。
 不安が作り出す新たな怪異マガモノ、大量の人の怯えの気配に寄り集まる怪異モンスター
 かつて一夜で滅んだ、きらびやかな栄華を誇った都市のように、そこはただの巨大な墓場となる。
 歴史を知る者なら誰もが思い至るであろう不安、本能的な恐怖が、ゆっくりと周囲の人々の胸に広がり始めるのを感じた。
 
「課長、ちょっとエレベーター見て来ます」
 空気を変えよう。
 俺は現実的な提案で場を動かす事にした。
 それに、実際万が一にも長時間の停電になれば、エレベーターに閉じ込められた人がいた場合大変だ。
「ああ、そうだな」
 課長もはっとしたように俺を見て、少し考えると頷いた。
 そうやって許可を得て部屋から出ようとした時だった。
 唐突に何事も無かったように照明が復活した。

 誰もがほっとして顔を見合わせる。
「やれやれ、驚いたな」
 そう言って、課長は俺に手で席に戻るように合図をよこした。
 確かに、電力が戻れば外に出る必要もない。
 俺は軽く肩を竦めると自分の席へ戻った。
 再び窓の外を見れば、道路は車が団子状態になっていたが、とりあえず事故などは発生していないようだ。
 時計を見ると大体五分程度の停電だったらしい。
 少し長いとは感じるが、危機感を覚える程の時間ではないだろう。
 どうも最近過敏になっているようだと思いながら、俺はほっと息を吐いた。

「木村さん、申し訳ありませんけど新規格のコンデンサの対比表の方お願い出来ますか?」
「あ、へえ、メーカーから案内が来てた奴か」
 短時間の停電。
 それはあろう事か都市の全域で発生したものだったが、中央都市の住人の心を一時的に騒がせ、幾許かの経済的な損失を叩き出したのみで、数多の事件や事故と同様、過ぎる時間の中に埋もれて忘れ去られる些細な出来事にしか過ぎなかった。
 その本当の意味が分かるまでは。




 停電騒ぎから一ヶ月余が過ぎ去った頃、それは起こった。 
 いつも通りの帰り道。
 俺は何故か咄嗟に全身を緊張させて身構えた。
 その本能的な行為に、俺自身、自分が感じているものが何なのか分からずに戸惑う。
 会社帰りの通い慣れた夜道、車通りも少ないし、今迄不安など一切感じた事の無い道だ。
 だが、今、周囲を探る俺には、まるで氷の滝にでも突っ込んだかのように恐ろしい冷気が押し寄せていた。
 しかも、その感覚には覚えがある。

 カツンカツンと、背後から響く靴音が、物理的な圧力を伴って俺の動きの一切を封じた。
 俺はギリリと奥歯を噛み締めると、まるで悪夢の中のようにままならぬ体を動かして、無理矢理背後を振り返る。
「ちっ!」
 何もない。
 真の暗闇だけがそこにあった。
 街灯も建物の影も足元の道路すら、そこには存在しない。
「なかなかによく出来た虫籠だ。暫くはただ愛でるのも良いと思えるぐらいにな」
 嫌な予想が確信に変わる。
 懐かしいと馴れ合う事の出来ない最悪の古い馴染み。
 全身に走る震えを、今更怯える訳ないだろ?と、我が身に嘯いて無理矢理止める。
「やあ、良い夜だな」
 どこか深い洞の内で陰々と響くような声。
 それは決して人の持てる音ではない。
「なんであんたここにいんの?」
 俺はわざと高圧的に、刺々しい詰問口調でそう言った。
 この相手を前にして弱気になる訳にはいかない。
「こないだ清姫が渡っただろう。全く、女の執着心たるやたいしたものだな、気味の悪い女だが、そういう点は評価出来る」
 なるほどな、こいつは清姫の動向に網を張って、俺の行き先を突き止めたって訳だ。
 相も変わらず狡猾なこった。
 姿は別に見せなくて良いんだが、暗闇で声だけが聞こえるってのは酷く苛つく。

「何か感動的な挨拶は無いのか?久し振りだろ」
「うぜえ、こんなとこまで入り込みやがって、消え失せろ」
「そう言うな、これでも結構気を使ったんだぞ?壊してしまうのは簡単だが、虫籠の中で安らいでいる儚いモノ達が憐れでな。だからそっと門を潜ったのさ。どうだ、俺だってやろうとすれば静謐を乱さないぐらいの事はやってのけれるんだぜ?」
「御託を並べに来たのか?それとも今度こそ俺と決着を着けに来たのか?やり合うってんなら俺は構わないぞ」
 奴はハハハといかにも楽し気に笑う。
 ふと、上空から光が差した。
 月がいきなりそこにあった。
 闇の中のホオズキのような満月。
 まあ、今日は下弦の月のはずなんで、これも本物じゃないんだろうが。
 どうやら長年生きたせいでいらん芸ばっかり増やしているらしい。
「お前はいつも元気が良くて良いな。生憎今のところ戦いたい気分ではないんだ。残念だよ。昔なら存分に楽しんだものだが、ずっとそればかりじゃあ流石に飽いてな」
 イライラする。
 こいつの繰り言はもうたくさんだ。
「なら俺に用は無いだろう。もう帰るぞ」
 どっか気配の薄いとこは無いか?
 いっそ特等濃いとこでも構わない。
 こいつの封印を破るにはこの暗闇の世界の安定を揺らがせるしかないのだ。
「ははは、相変わらず気が短いな。まだそんな事を言っているのか?ずっと言っているように、お前にこそ俺は用があるんだよ。お前は人間共が力を尽くして辿り着いた答だからな。なあ、教えてくれよ、一体どうやってそれを成した。俺達と同じ因子を持ちながら人として命を繋ぎ得るその存在。それさえ分かれば、俺達も自らの存在を継ぐモノを生み出せるんじゃねえの?」
 満月がどろりと溶けて上弦の月に変わる。
 それはニヤリと笑った奴の口だ。
「俺が知るか。勝手に死人にでも聞け」
 バカバカしい、怪異が後継だと?自分を継ぐモノを望むだと?
 ただ個として在るのが怪異だ。
 奴等はそれのみで完結してしまっている。
 そこから先など存在しない。
 少なくとも今迄は考える事すら有り得なかったはずだ。

 こいつは長く生き過ぎ、人と交わり過ぎたのだ。
 夢が夢を見る。
 それは滑稽と笑えるような話だろう。
 だが、だからこそ、それは恐るべき事だった。

 終天童子しゅてんどうじ、かつてそう呼ばれた鬼は古き時代に一度は滅んだはずだった。
 だが、そもそも千年を超える大怪異モンスターだ。そう簡単に消滅はしない。
 ひっそりと再び蘇っていたソレは、ガキだった俺の前に現れて問いかけた。
 お前の存在は何なのか?と。

 そんな事、俺が知るはずもない。



[34743] 33、終天の見る夢 その二
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2013/01/17 06:22
「まあ良いか、本日は取り敢えずはご挨拶ってやつだ。どうだ、俺は案外礼儀正しいだろ?」
「てめえで自慢か?」
 ゾッとするような強大なプレッシャーが時と共に重く伸し掛かる。
 こいつに攻撃の意思がないのは確かだが、閉じた空間内でこいつの放つ瘴気を浴び続けるのは、いかに耐性の強い俺でも負担になる。
 耐性の無い者なら気が触れてもおかしくない凶悪さなのだ。
 だがしかし、色々考えたが脱出の方法が見えない。
 こういう場合、考えても分からないんなら、とりあえず一番なんとかなりそうな方向に一度突っ込んでみるというのが俺の身上だ。
 という事で、俺は足に力を溜めた。
「よーい、……ドン!」
 口の中でカウントを取り、ダッシュする。
「おい、いきなりどうした?新しい遊びか?」
 呑気な問い掛けを無視して、ヤツの気配が濃いと見当を付けた辺りにひたすら突き進んだ。
 やがて来るやんわりとした抵抗。
 閉じられた場が内側へと押し戻そうとする条件反射のようなもの、細かい理屈はともかくとして結界の臨界点と思えば良い。
 その抵抗の最中に、俺は懐から札を一枚引っ張り出すと、それに気を通した。
「つっ、」
 手の中でたちまち燃え上がったそれを前方に叩き付ける。
 あちい。
 発生している術力と発生した術力とが接触した。
 この程度の術なぞ、ヤツにとってはぶつかった小石にも劣るだろう。
 だが、どんなに僅かでも揺らぎは揺らぎ、振り子の最初のひと押しになる。
「破!」
 片足を引き、足場を押しやったその力を、身体を捩じりながら臍を経由して腕に巻き付けた。
 ガアアアン!と、いつか戯れに殴り付けた鐘撞き堂の鐘のような音と手応えが来る。
 耳と手の痺れに閉口していると、押し包む空気が変わった。
 ふわと風が流れ、風景が戻る。

「呆れたもんだ。力ずくかよ」
 そう言ってクックッと喉を鳴らして笑う声。
「うるせえよ」
「他人を巻き込まないようにというこの俺の優しさを無下にするもんじゃないぞ坊や。まあいい、今夜はさっきも言ったが挨拶だけだ。丁度退出の時間だあな。じゃあな」
 厚みのあるバリトン、すらりとした長身。無駄の無い、いかにも俊敏そうな肉体。伝承に伝わる、たちどころに万人を虜にしたと言われる顔形。
 尊大な、いかにも王候然とした風格と謳われた姿が、街灯のほの青い光にちらりと照らし出される。
 仕立ての良い今風のスーツに包まれて、まるで人間と変わらない風体だが、だからこそ異質さは拭い切れなかった。
 その姿が垣間見えたのは一瞬で、宣言通りその姿はたちまち掻き消えた。

「最悪だ」
 俺はどこともしれぬ壁に寄り掛かると、ぐったりと脱力した。



 俺は別に真面目一徹じゃないが、一身上の都合で仕事を休む日が来るとは思って無かった。
 しかも詳しい事情は話せないで押し通したし、明日の出社が憂鬱だ。

「まさか有り得ない」
 そんな憂鬱な気分のままに発言者を見る。
 連絡係的ポジションの公務員には珍しく、いかにも現場の人という雰囲気のゴツいおっさん。
 これは俺達の担当官だ。
 驚くべき事に、俺達の担当のくせにどうやら勇者血統が嫌いらしい。
 酒匂さんの何らかの企み……じゃなかった、思惑が透かし見えるようだ。

「こないだ全域停電があっただろう。あの時に入り込んだんじゃないかな?」
 テーブルの反対側からの発言。
 俺もかねがね同意だ。
「あの停電はほんの数分の話だったはずだ。そんな短時間で入り込める訳がない」
「そもそも全域停電自体が本来有り得なかったはずでは?保安システム的には」
 相手の言葉に返事に詰まるその男を眺めながら、実の所、俺も同じように考えていたのだから気が重い。
 停電を奇妙に感じはしても、あの時、全く危機感は抱かなかったのだ。
 それはそれとして、目下の問題はこのカチカチ頭ではない。

「それにしても酒天童子とは因縁ですね」
 なぜか当然のように会議に混ざっている変態野郎がいるんだが、どういう事だ?
 こいつは確か大学教授の助手やってるんじゃなかったのか?
 隣の由美子に目で問い掛けると首を横に振られる。
 知らないから聞くなという事だ。
 由美子が知らないなら仕方ない、まあ良い、発言は良いとして存在は無視しとこう。
 変態の投げ掛けた話題に誰も反応を返さなかったので、場に不自然な沈黙が落ちた。

「酒天童子つったらあれか、大江山の。あれはとっくに退治されてたんじゃなかったか?」
 変態のパスはスルーして、肝心な部分を確認しようとするカチカチ頭。
 実に役人の鏡だ。
「怪異担当官としてその認識はいささか不見識なのではないでしょうか?」
 ところが、場など読まない変態は、ずばっと指摘してカチカチ頭の顔色を赤黒く変色させた。

 驚いた。
 いかにも研究畑の年を取り過ぎた学生といった感じの線の細い男が、肉体言語で生きてるような強面相手に堂々と非難を浴びせるとは。
 俺はフリークとやらを舐めていたのかもしれん。
 そうだ、こいつは国家機密をアイドル画像のような気軽さで持ち歩くような変態だった。

「なんだと」
 怒りを耐えているような低い声で唸るカチカチ頭を今度は変態がスルーして、滑らかにその口を動かし始める。
「酒に天、或いは酒に呑むと書く大怪異酒天童子、その真命を終わりの天と書く終天童子は、我が国の建国の頃には既に存在したと言われる大怪異であり、伝承に伝わるヤマタノオロチがその本来の姿であるという研究者さえ存在するような化け物です。もしそれが事実なら、この化け物は千年とは言わず二千年近く存在する事になるのですからね。怪異は古いモノ程強大な力を持つのは周知の通り、千年を超えたモノになると到底人間の力でどうこう出来るような相手ではありません。しかして、平安時代に一度討たれた事になっている。これは一体どういう事なのか?と史書を紐解けば、平安の世に存在した英雄達が、旅人に化けてその館に潜入し、油断をさせて毒酒を盛り、首を落としたとある。まあ化け物相手に堂々とやる必要は無いのでこれは良いでしょう。しかし、首を落としてもその化け物は死ぬ事なく術を使って彼らを苦しめた。そこで仕方なく首と胴体を別々に封印した訳です。つまり全く退治などは出来ていないのです。滅びてはいない上に、こんな大怪異に人間の封印ごときがどの程度意味があったか……。その直後にそこらを闊歩していたとしても、私は全く不思議には思いませんね。ちなみ、この騙し討ちで酒天童子を討伐した英雄のお一人が、こちらの木村殿のご先祖でもあります」
 あまりに滔々と語るので、カチカチ頭はいっそ呆気にとられたらしい。
 怒りを忘れてなんと質問をした。
「真命とはなんだ?」
 これには流石に俺も驚いた。
 この人、怪異担当の部署にいて大丈夫なのか?
 事務方だから知識があんまりなくても問題無いのかな。
「真命はその響きの通り真の名前です。むしろこの場合聞くべきは隠し名の方ではないのですか?よくもまあその程度の知識で、勇者血統の、しかも我が国が誇る木村の本家の御血筋に関わろうとか思われましたね」
 駄目だ、こいつヤバイ。
 引き合いに出されて大いに波打った気分を紛らわそうと、俺はこの会議の出席メンバーの顔を目視で一巡した。
 議長席には怪異対策庁のお偉いさんらしき壮年男性。
 どこかフリーダムなところがある酒匂さんと違ってぴしっとした印象の人だ。
 ずっと苦虫を噛み潰したような顔をして変態男を目の端に捉えている。
 その右手側にいるのがその下位機関、いわゆる現場担当の怪異対策室の室長さん。
 なんか額に脂汗が浮いてる。お疲れ様というかお気の毒様な中年男性。
 そして、反対側に国家機動部隊の制服を着用した、階級章からすると将官クラスの人。
 雰囲気からすると現場の人ではなさそうだ。
 その人を筆頭に、俺から見てテーブルの反対側に、制服の軍属さんが他に三人並んでいらっしゃる。
 一方のテーブルのこちら側は、室長さんの隣にカチカチ頭、変態、俺、由美子という、実に精神衛生上良くない席順だった。
 まあ変態が由美子の隣よりは良いか。
 ちなみに由美子が一緒に呼び出されているのは、ハンターの活動は登録されている単位で行うのが基本だからだ。
 つまりハンターとして由美子と俺は一蓮托生なのである。

 この会議は俺の昨夜の報告によって招集された緊急会議だ。
 いかにも急場という感じで、面子は対処部門しかいない。
 本来は都市運営方面との打ち合わせこそが重要なんだが、そっちにはこの会議で決まった事を文書で回すそうな。
 良いのか?大丈夫なのか?それで。
 まあ俺らハンターは実の所、全くの外部組織であり、こういう場ではオブザーバーに近く、国や地方組織の運営や決定事項に口を出す事は出来ない。
 逆に事、怪異に対する対処に於いてはハンターの行動に国や地域組織は口出し出来ないので、その辺はイーブンだろう。

「隠し名が存在するのは真命に強い影響力が認められた場合です。或いは逆に真命によって影響が出るのを避ける場合もあります。今回の酒天童子の場合は隠し名に相手を倒した決め手である酒を被せる事によって、その威力を削ぐ意味がある訳です。まあ実際は人間側の心情的な意味合い以上の効果があるかどうかは微妙な所ですけどね。それとは逆に影響力を避ける為の隠し名は、そこの木村の一族の方々がそうです。彼らは一様に真命を持たず隠し名で一生を過ごすと言われています。一説によるとその生誕の際に真命を身体に刻むとも聞きますね」
「おい」
 変態がとんでもない事を言い出した。
 こんなオープンな場で言って良い話じゃないぞ。
 俺の呼び掛けに振り向いた変態は、たちまち顔を青くして、いきなり、こともあろうに床にひれ伏した。
「申し訳ありません!どうも私は考えた事を口にしないといられない質でして、我が不明、どうかこの卑賤の身に御手ずからの御処罰を賜りたく!」
 変態過ぎる。どんだけブレ無い変態だ。
 俺は当然のようにそれ以上関わるのを止めた。

「議長、質問よろしいでしょうか?」
「あ、はい、どうぞ」
 議長もさすがに動揺したのだろう、一瞬びくりと体を震わせてそう返答した。
「この会議の目的は、終天童子の中央都市侵入による影響に対する対策を検討するという事だと伺ったのですが、どうも話が前提の確認から進んでいません。我々からの要望としては、一刻も早く対応策をお願いしたいのですが、まず前提条件を肯定した上での議事進行をお願い出来ないでしょうか?」
 ざわっと、制服組と、カチカチ頭が不穏な気配を纏う。
 言われて嫌ならさっさとすれば良いだろうに。
「その前提が信じられないからこその確認だろうが」
 さすがに軍部に口を開かせる訳にはいかないと思ったのか、カチカチ頭がやや高圧的な物言いでそう言った。
 俺はすっと立ち上がると、誰もが怖いという顔で居並ぶ面々を見渡す。
「こと怪異案件に於いて、ハンターの言動はあらゆる組織的判断に優先される。というのが国際法に明記されたハンター条約の一項ですが、その発言は私の資格をお疑いであると判断してよろしいのですか?」
 カチカチ頭はぐっと言葉を呑んだ。
 色々とあって赤黒かった顔から段々色が抜けていく。
「分かりました。ご提案を容れて議事進行をいたしたいと思います」
 議長が場を納めるようにそう言った。

 早くしてくれよ。マジで。
 こんなことやってる間にもヤツの瘴気の影響で通常の何倍かのスピードで怪異が成長してるに違いない。
 初期の初期段階のでも鬼が顕現したらとんでもない事になるぞ。
 苛立つ俺の脳裏に酒匂さんの言葉が蘇った。
 平穏な時代による危機感の無さか、……確かに恐れるべきは人間の中の怠惰なのかもしれない。

 ただでさえ頭が痛いのに、隣の変態が何やら熱い視線を送ってくる。
 お前らどんだけお気楽なの?
 反対隣の由美子が気の毒そうに俺を見ているのもまた胸中に寂しさを生む。
 いや、お前、ひとごとみたいに突き放すのは止めてくれ。
 そりゃあ、アイツは昔から俺に付き纏っていたけどね、アレ以外の怪異はお前にも関わって来るからね。

 俺は会議室の窓を呆っと眺めて今頃会社の連中はどうしてるかな?と、埒も無い事を考えたのだった。



[34743] 34、終天の見る夢 その三
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2013/01/24 04:27
 前門の虎後門の狼、役人達の会議は踊り、サボった会社は心理的に遠い。
 それでも朝はやって来る。
「おはようございます」
「おはよう。あ、木村君、あとでちょっと良いかな?」
 出社早々課長にそう声を掛けられて、ただでさえ重い気分が更に重くなった。
 もはや気持ち的には深海に漂うと言うマリンスノーだ。
 聞いた話だが、あれって生物の死骸らしい。
「はよー!木村ちゃん、昨日は風邪でもひいたん?」
 そう言って、何故か親指を突き出してみせた佐藤がウザイ。
 だが、迷惑を掛けたのは確かなので無視するのは勘弁しておこう。
「佐藤さん、俺、実は……」
 眉間に皺を寄せ、苦悩を滲ませた口調で応えておく。
 オフィスが禁煙なのに火が点いてないとはいえ咥え煙草でいつものお気楽な調子だった佐藤は、まるで間違って死人に石でも投げたかのように凍り付いた。
 びっくりするような想像力の持ち主だし、もしかしたらこの瞬間、こいつの中で俺は不治の病を患っている事になったのかもしれない。
 気軽に声を掛けたのを後悔している真っ最中らしい固まった顔を見ながら、どうやらこいつの中にも人並みに罪悪感というものが存在したらしい事を知った。
 驚くべき発見だ。
 恐らく数秒後にはそんな物は異次元の彼方にでも消え去っているんだろうけどね。





 朝礼の後、課長に呼び出された俺は、極偶に正式な用途で使われる事も無いではない手狭な接待室で課長と向かい合っていた。
 途中の休憩室で紙コップコーヒーを奢ってもらい、それを手にした状態での話し合いである。
 上層部からの話とかではなく、あくまでも課長の権限内の深刻ではない軽いスタンスの話だという表明なのだろう。
 課長はその紙コップのコーヒーに口を付け、おもむろに話を切り出した。
「俺もあまり詳しくは無いが、お前実家を飛び出して一人暮らしなんだろ?昨日の件はその実家がらみか?」
 学生時代の生活指導の先生を思い出すな。
 もしかして社会人になってまで説教されんのかな、俺。
 憂鬱だ。
「ええっと、昨日もお話しした通り、ちょっと詳しい事情は明かせないんです。身勝手な話で仕事に支障をきたして申し訳ありませんでした」
 まあでも考えてみれば俺も社会人の言い訳じゃないよな。
 課長だって困るはずだ。
「そうか。うん」
 課長は少し何かを言いよどみ、紙コップのコーヒーを再び啜ると改めて口を開いた。
「実はだな。昔、俺は随分な仕事人間でな。帰宅は家族が寝てからが当たり前だった」
 ん?なんだ?どうして課長の打ち明け話が始まったんだ?
「うちには息子が一人いるんだが、中学生の時になぜだかグレてしまってな。妻はあちこちに頭を下げに行ったり息子とぶつかったり、随分大変だったようだ。それで当然の話だが、俺に手助けを求めて来た訳だ。だが、俺は仕事を理由に全てを妻に任せた」
「はあ」
 俺の困惑を余所に、課長の打ち明け話は続いた。
「だがある日、弁当を開けて見たら、弁当箱一面に梅干しが敷き詰めてあってな。ご飯は無くて梅干しだけだぞ?これはやばいと流石に思った。真面目で冗談なんか口にしない妻でな、ともかく俺は仰天した。こりゃうちのかみさんそうとう追い詰められている!そう思った途端に背中がぞわっと冷たくなってな。そういえばここんとこ目を合わせた事があったか?と、思い浮かべてみたんだが、前夜も、朝に弁当を渡してくれた時も、言葉は交わしたはずなのに、妻の顔をはっきり思い浮かべられないんだな、これが。思い出せるのは新婚の頃とか、息子が産まれた前後の頃の穏やかで幸せな顔ばかりだ。さすがに自分が何か間違っている事に気付いてな。それで、翌日会社を休んで、起き出して来た息子を捕まえて、今迄迷惑を掛けたという相手に片端から頭を下げて回ったのさ。暴れて俺を罵り続けていた息子も、夜に帰宅する頃には疲れ切ってグッタリしてたな。今考えると良くもまあやれたもんだと思うが、あん時は必死だったからな。それで、最後に二人して妻に土下座してね。俺はやっとかみさんの顔を正面から見れた訳だ。たった一日のそれで何もかも解決には当然ながらならなかったが、それを切っ掛けに少しずつ家族らしくなっていけた。と、まあ俺にもそんな経験があった訳なんだが」
 かなり気まずそうに課長は口を噤んで間を置いた。
 だが、聞いてる方はもっと気まずい。
 上司の家庭問題とか、知りたくない情報の最たるものだ。
 しかし、話の流れとして課長が何を言わんとしているかは分かって来た。
「自分がそんな経験をしたからな。俺は仕事が全てに勝るとは思っていないし、人には色々な事情があるもんだと知ってるつもりだ。その上でだな、聞いて欲しいんだが。会社組織において、社員は全ての要だ。だから、他の部署においても勿論社員は全員大事な戦力なんだろうが、うちは特に一人一人の占める重要度が高い。一人抜けたら仕事が足踏みする事すらある。君も経験があるだろう」
「はい」
 誰とは言わないが、うちの課には気分で仕事をしている奴がいるからな。
 しかし、やっと仕事の話になってほっとした。
 他人のプライベートに触れるにはそれなりの覚悟が必要だ。
 それだけにどうしても身構えてしまう。
 いや、今されてるのは、間違いなく俺に対する注意なんだから、ここでほっとしちゃいけないんだろうけどさ。
「今後また何かあるようなら、良かったら事前に相談してくれないだろうか?俺でもそこそこは年取った分の頼り甲斐ぐらいはあるだろう。ともかく一人で煮詰まって、突然辞表を出すような真似だけはしてくれるなよ」
「それは勿論です。社会人としての常識ぐらいはあるつもりです」
 言って、昨日の休み方はあんまり常識ある社会人ぽくは無かったなと省る。
「……なので、出来得る限りは今回のようにならないようにします」
 うわあ、自分で言っておいてなんだが、駄目な社員だよなあ、これじゃ。
 課長もせっかく自分の家庭事情まで持ち出して腹を割って話してくれたってのに、俺の事情が明後日の方にあるせいで無意味な物になってしまっているし、本当に申し訳ない気持ちで一杯になる。
「そうか、ともかくちゃんと相談するんだぞ」
「今の所は大丈夫です。本当にご心配をお掛けしてすみませんでした」
 もうね、穴があったら入りたいってこういう気持ちなのかな。
 課長のご心配は全くの見当違いですとか、言える訳ないしなあ。
「ところでその後息子さんはどうされたんですか?」
 あんな話を聞いた者の義務としてこれは聞いておくべきだろうと思った俺はそう尋ねた。
 なんにもコメントしないと聞き流したみたいに思われるかもしれんし。
「ああ、あれも高校に上がる頃には落ち着いて、今じゃすっかり大人になってな。良縁に恵まれて去年はとうとう俺もおじいちゃんになってしまったよ」
 なるほど、ハッピーエンドは俺も大好きだ。
 語られない様々な事があったのだろう人生の先輩に、心からの尊敬の念を抱く事が出来たのが、ここ最近災い続きの身としては最大の収穫なのかもしれないな。

 怪異にかまけて地道な人生を投げ捨てる気はさらさら無いんだし、ちゃんと仕事頑張らないとな。



[34743] 35、終天の見る夢 その四
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2013/02/18 20:10
 今回の件ではどうしても注意しておくべき相手がいる。
 そいつの活動範囲と奴の行動範囲が被る可能性が高いのだ。
 俺はそいつ、流と話しをしておくべく、終業と同時に隣のフロアに突き進んだ。
「こんちは、流は?」
「チーフなら今固まってるので外部情報入りませんよ」
 開発室の一人が馴染んだ笑顔で気安く教えてくれる。
 お互いの部署でしょっちゅうヘルプを出しあって行き来しているし、その一方で部署が違うせいで競争意識がない。
 隣り合った部署同士、下手すると自分の課の同僚より気安かったりするんだよな。
 おかしなもんだと思う。
 ところで、彼の言うところの固まっているというのは、流の状態パターンの内の一つで、何かに熱中していて外界を遮断している状態の事を言う。
 決してフリーズの魔法とかではない。
 流は天才肌の変人らしく、他人から見ると理解し難い状態に陥る事があり、同じ開発室の人間はそれをパターン化してお互いに囁き合い、災いを呼び起こすのを避けているのだ。
 固まってる、即ち話しても無駄な状態の流は、どうやらクリーンルームではなくオフィス内の簡易ブースに籠っているようだった。
 クリーンルームは出入りに記録が残るし就業時間外に使用するとうるさい。
 なので簡単な実験は手軽に出来るようにと、一畳程度の実験用ブースを流が持ち込んで設置したのだ。
 つまりこれは完全な私物なんだよな。
 太っ腹過ぎる。
 エアカーテン、三十ミリの透明アクリル、全面ガラスの間仕切り、三重に隔てられたその向こうで、微かに事象が揺らぐ。
 どうやら魔術の類が使われたっぽい。
「今度はなにやってるんだ?」
 純粋な好奇心からブース内を覗き込むと、作業台の上ではアームを使って棒状の物を電極ケースの窪みに嵌め込もうとしている所のようだった。
 棒状の何かは一見すると円筒の氷の棒に見える。
 だが、よくよく見ると、メタル系鉱物独特の光沢が表面にあった。
「金属?でもあれ透過してるよな」
 掴んだアームやその物質の周辺には霜が散っている。
「これはもしかして氷結術式?おまけに分子結合に干渉仕掛けてる?」
 術式を重ね掛けしているのではないか?との疑いが沸き起こる。
 術式の重ね掛けは定理術式以外は危険が大きい為禁止されていた。
 ものすごく嫌な予感がする。
 俺は自分の勘に従い、ジリジリとその場から後退した。
 勘をおろそかにすると生き残れないのがハンターの世界である。
 いや、今は関係ないけど。

 ブン!と、可聴域に達する波動が、目の前にきらめく光として認識された。
「うわあっちゃ!」
 目前でフラッシュを焚かれたかのように、ショックを伴って感覚の全てを持っていかれてしまい、俺は悲鳴とも雄叫びともつかない声を上げてへたりこんだ。
 あの野郎、また変な事思い付いたんだな?実験馬鹿めが。
 すぐには立ち上がれない俺に影が近付く。
 目を凝らしても周囲がぼんやりとしか見えない。
 おい!と、喉に力を込めて怒鳴ったはずなのに自分の声が自分の耳に聞こえて来なかった。
 やられているのは喉か耳か、その状態を咄嗟に判別はつかない。
 そんな戸惑いの中、目前の影が動き、すうっと体中を清涼な何かが流れるのを感じた。
 それだけで、何事も無かったように身体の全ての機能が回復する。

 どこが悪いか分からないのにそれを回復させる魔術など存在しないので、これはあれだ、あの胡散臭い魔道の波動なんだろう。
 全く非常識な力だ。
「すまん。いるのに気付かなかった」
「そうでしょうとも」
 元より固まったこいつが周囲に配慮するはずもない。
 やばいと思ったら即避難、が合言葉なのだが、俺がうっかり逃げ損なっただけの話だ。
 流は、魔道者ならではの絶対に近い防御のせいで危険に対する意識が低い。
 こいつが未だ実験の巻き込み事故で犠牲者を出していない事こそがむしろ謎なぐらいだ。
 部下達が自己判断で対処しているんだろうな。優秀でなによりだ。
 そしてこいつは自分の危なさを学習せず、いつか起こる悲劇まで延々とそれが続くのだろう。
 いかん、なんか真実味がある想像だった。
 俺は自分の考えにぶるりと身を震わせる。

「兵器でも開発してたのか?」
「まさか、単に電導効率について簡単な実験をやってみただけだよ。本来超電導にならない銀に分子組み替え措置を行って、氷結によって絶対零度とする単純極まりない実験だ。いけると思ったんだけどな。どうも分子配列が安定しなくて超振動が発生してね。ダブルクラッシュで崩壊した分子が周辺に飛び散ってしまったよ」
 言ってる事は良く分からんが、とりあえずやりたかったらしい事は見えた。
「電導効率ね、発想は分からなくも無いけど、既存物質以外の超電導実験とか、どう考えてもそんな簡易実験ブースでやるこっちゃないだろ。下手したらオフィスが吹っ飛ぶぞ。そもそも分子を組み替えたらそれは銀じゃないだろうが」
「大丈夫さ、一応物的損傷は及ばないように事前にカバーしているからな。それよりなんだ?用か?」
 物的損傷は無くても俺の神経系にはなんかの影響があったみたいだけどな。
 怖いから深くは考えないが。
「ああ、今日どうだ?俺の奢り」
 酒を煽るしぐさで伝えれば、軽くうなずいて乗って来る。
 こいつ、呑むのが純粋に好きなのだ。
「良いぞ。だけど今回は俺じゃなかったか?」
 奢りの順番を飛ばした事を気にしてかそう聞いて来る。
 普段大雑把に見えて、こういう所は妙に律義なんだよなこいつ。
「ん、俺の用件なんでな」
 そうか、と応えて、流はのんびりと片付けを始めた。
 見ると、呆れた事に、実験用の簡易ブースには本当に傷一つ付いていない。
 こういう非常識ぶりを見ると、魔導者が一般人との接触を極力避けているのは正しい事のような気がするな。



 賑やかな音楽が暴力的に流れる場末の華国料理店風の飲み屋。
 見た目も中身も良質からは程遠いが、狭い座敷の個室が二つ、いつ行っても大体空いてるので便利だ。
「ちは、座敷使うね」
 ムスッとした主人がムスッとした顔で頷く。
 左右どちらかに顎をしゃくらないのは、どっちも空いてるから好きにしろという事だ。
 俺達の他にはカウンターに爺さんが一人、美味くもなさそうに小皿をつついて白い細首の酒を啜っている。
 見覚えがある容器にニヤリとしてしまう。
 あれはとんでもない度数なんだよな。
「注文、俺と同じので良い?」
「あ、ああ」
 ボロっちい店によほど驚いたのか、毒気を抜かれたような顔で流が首肯した。
 無理も無い。
 こいつは普段上品な飲み屋しか行かないだろうしな。
 そもそもこんな小汚い通り自体に近付かないだろう。
「おやじ、ピータンと回鍋肉、酒は軽めの地のやつで二人分取り皿付けて」
「あいよ」
 舌打ちに近い声で承諾を告げられ、俺達は座敷に上がり込んだ。
 古いスピーカーが雑音と共に吐き出す音は、古いロックナンバーで、ますますこの店の怪しさをいや増している。
「エキゾチックな店だな」
 おい、その表現は実情からとんでもなく剥離してるぞ。
 いっそ異界のようだ、とぐらい言ってくれた方が小気味良い。
「場末だからな。だが酒だけは良いんだ」
「そうか」
 セルフで掴んで来た水の入ったコップの曇りを疑わしそうに見た流は、それに口を付けない事に決めたらしかった。
 俺は気にせずに生温いその水をグビグビ飲んでみせる。
「普通華国料理といえば真っ先に麺が思い浮かぶもんだけど、この店は麺が酷いんだ」
「そうか」
 こいつさっきから「そうか」しか言って無いけど大丈夫か?
 自分で連れて来てなんだけど、ちょっと不安になった。
 育ちが良いからなあ、こいつ。
「あんちゃん、上がったよ」
 カウンターの中の主人がぼそりと声を上げ、俺は一度脱いだ靴を再び履いて料理と酒を受け取ると、手慣れた流れでそれらを席に運び込み、揃った所で障子戸を閉め、その席を形ばかりの密室に仕上げた。
 まあ実際は障子には影が映るし声も聞こうと思えば聞けるかもしれない。
 だが、普通に話すのも困難な騒音のせいで、話し声は潰されるし、障子越しに人影を隠して様子を伺うのは無理な話だ。
 結果としてこの店は下手な防音遮光の密室よりプライバシーが守られるようになっている。
 別に密談する訳じゃないけどな。

 流は、怪しげなピータンをひとかじりして手酌で酒を注いだ。
「お?」
 嬉しそうな声。
 どうやら酒は当たりだったらしい。
 良かった。
 俺も無骨な作りのぐい呑みに四角い陶器の容器に入ったその酒を注いでみる。
 いつもはもう少し強めの、さっきのカウンター席の爺さんが呑んでたぐらいのをやるんだが、今日は話がメインなんですぐには酔わないような物を出してもらった。
 というか、実はこれは全く初めての銘柄だ。
 この店は大陸に散らばる華国統治の少数民族に伝わる地酒を色々扱っていて、見たことも聞いた事もない酒を出してくるのである。
 くんと、鼻孔から入り込む香りは果物の酒のように柔らかい。
 だけど、果実酒独特の甘さは感じないし、かといって米や芋の酒ではなさそうだ。
 色はほんのり赤い。
 花の香りに似ているが違う。
 どちらかというと、そうだ、桜の葉の香りに近いかもしれない。
 口に含むと、口の中全体にうっすらと漂う霧のように香りが広がり、喉を降りる柔らかい冷たさがやがてほんわりと熱に変わった。
「うん、良いな。でもこの酒には付け合せの味が濃すぎたかもな」
「いや、そうでもない。やってみろ」
 連れてきたのは俺なのに、いつの間にか流の方が呑み方を指示しようとしている。
 負けず嫌い過ぎるだろ、お前。
 さて、この負けず嫌いの友人に、どう話せば危険を回避して貰えるのか、頭の痛い話ではあった。



[34743] 36、終天の見る夢 その五
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2013/02/18 20:15
「実はだな、とんでもない事が起こった」
 回鍋肉にはほんの一口口を付けただけでそれ以降全く手を付けずに酒をぐいぐいやり始めた流に、俺はそう切り出した。
「そうか、人生は驚きの連続だな」
 流の反応は素っ気無い。
「どこの人生訓だよ。いや、マジでとんでもない事になってんだ」
「そうか、じゃあ話せ」
「だからなんでそこで威張るんだよ。つまりだな、実はこの都市に伝説レジェンドクラスが入り込んだんだ。おそらくこないだの停電の時にな」
 こんな酒の席で明かすにはかなり衝撃的な内容のはずだが、聞いている流はというと、天気の話より興味が無さそうだった。
 やっぱ国の中枢部の一族だし、実家から話が来てるんだろうな。
 本来なら個々人に守護ガードも必要な要人なんだし。
「話は分かったが、それは一般には告知されない類の事件じゃないのか?なんでお前がそんな話を持ち出す?それともなにか?お前、今の仕事を辞めて現場に復帰しろとでも圧力でも掛けられたとかか?……ふん、そういえば非常招集とかいう制度もあったか」
 あ、そうか、そう言えばこいつにはまだ現場復帰している事言って無かったな。
 この際全部話しておきたい所だが、そっちを詳しく説明すると下手すると今回の件の要点がぼやけちまうし、とりあえずそっちは後回しにするしかないか。
「実はだな、その怪異と俺には少なくない因縁がある」
「そういえば、鬼という話だったな。もしかして前に聞いたお前を付け狙ってるという化け物の片方か」
 鬼だって事は知っている訳ね。
 思った以上に詳しく話が通ってるな。
 お偉いさんには最優先で情報を回したのか。
 その割にはお偉いさんの家族が中央を脱出したという話は聞かないが。
 流石に相手が終天童子とは言ってないのか、それとも怪異の脅威に対する意識が鈍すぎて実感が無いのか、判断に困る所だな。
「ああ、酒呑童子と言えば分かるだろ」
 今後は呪の効果もあるし、口に出す時には通称で通した方が良いだろう。
 どんだけ効果があるかはさっぱりだけどな。
「……それはまた、大物だな」
 やっと酒から話の方に感心が移った。
 流石我が国三大怪異と言われる相手だ、名前の通りが良い。
「ある程度は知っているだろうが、詳しく説明すると。こいつは本体より周囲がヤバいタイプの怪異だ。求心力カリスマが突き抜けている」
「それはそうおかしな話ではないだろう。元々我が国は精霊信仰の盛んな土地柄だ。人間側がどう分類しようと、化け物も精霊も本質は同じだからな。精霊は百年で高位の霊格を得るといわれているが、それが千年ともなれば神として崇められるには十分だろうし」
 分かってるというか、理解力が高いな。
 専門外でもやっぱ頭が良い奴は理解が早いんだな。……くそ。
「そうだ。頭の痛い事にあいつがその気になればそれこそ神のごとく事象を歪めて現実世界に反映させるのは容易いだろう。こっちからしてみれば正に邪神だ」
「で、それで?」
 流は酒をゆっくり煽ると、俺に向かって鼻を鳴らしてみせた。
「俺に何をさせたいんだ?もしくは何をさせたくないんだ?」
 こいつのこういう先手先手を打つ所が時々ムカつくんだよな。
 口の達者さでは確実にこいつが上だし、知能程度を今更比べる気にもならんが、ここで下手な口実を引っ張り出せばすぐに看破されてしまうだろう。
「小学校の時ぐらいに習わなかったか?あいつは良い酒に目がない。居場所を定めて巣を作るまでは、平気で表をうろつき回って派手に遊ぶだろう。だがむかつく事に、こっちはその段階では手出しが出来ない」
「なぜだ?派手に目立つというなら格好の的だろう?憑依者や犠牲者、信奉者が増えるのも事前に防げるんじゃないのか?」
 そうだよな、一般の人間からすれば、相手から居場所を教えてくれているような状態なんだからそこを叩けば良いと思うよな。
 ましてや相手の巣が出来てからそこで戦うとなると一方的に不利な状況になるんだし。
「怪異という存在は人間とは全く感性が違う。やつらは自らの消滅に対しては恐怖はあまり持っていない。だが、自身の欲求を妨げられる事は極端に嫌うんだ。楽しく遊んでいた所を妨げられた奴が癇癪を起こせば、消し飛ぶのはこの都市程度で済めば御の字ってとこだからな。普通の怪異狩りのように簡単に挑戦する訳にもいかないのさ。賭けるには犠牲が大きすぎる。だからやるなら巣に籠ってからだ。巣には幸いにも強固な結界が張られるし、外に影響は殆ど無い。だから、それまではひたすら対処療法を行なう事になるんだ」
「つまり敵の戦力をちまちま削る弱者の戦い方か」
 流が何かに納得したようにそう言った。
 弱者で悪かったな。
 ってか人類全体が怪異に対しては弱者な訳だけどさ。
「そうだ。具体的には奴に入れあげていると噂になった者を確保して逆洗脳を掛ける」
 流の眉がぴくりと動いた。
「結構非道だな」
 まさしくそうだ。
 自由に生きたい流からしてみれば、人の思考を勝手にコントロールするという話が面白いはずもない。
「これに関しては他にしようが無いからな。いっそ魅了か何かの術のせいなら解呪も可能だろうが、ほとんどはそういう訳じゃないから厄介なんだ」
「本人の本心からの帰依って事か」
「ああ、だが、さすがにいくら本人の自由意思とはいえ、こればっかりは好きにやらせておく訳にもいかないだろ?人類に敵対する勢力を、当の人類の中から増やす訳にはいかないしな。今回の、あいつに入り込まれる原因となったあの停電だって、どう考えても内部に協力者がいなきゃやれない事だしな」
 しばし考えていた風の流は、突如として取っておいた俺のピータンをかっさらい、自分の口に放り込んだ。
「あっ!てめえ!何しやがる!」
 油でギトギトの回鍋肉の口直しにと取っておいたのに!
「率直に話を聞かせろ。俺に何をさせたいんだ」
 はいはい、俺が核心の話をしないからなんだかイラッときてやったんですね、分かります。
「おそらく放って置いても、お前が出入りしているような業界で近々派手に噂が聞こえ始めると思う。それを収集して欲しい。新参の派手に遊んでいる男に入れあげている女の子とか、その派手な男のバックには何かの組織があるらしいとか、まあそういう噂だ。間違っても気取られないように、お前の方から積極的に調べない事。絶対にかち合わないように噂だけ拾って教えて欲しい」
 ここが肝心だ。
 あえてやつを探らせる事でむしろ接触を避けさせる。
 普通に過ごせば、やつの良質な酒と女を好むという性質から、絶対にこいつとやつはどこかで遭遇するはずだ。
 こいつが何でもない普通の人間ならそうなった所でやつにうっかり入れあげる以上の危険はない。
 だが、魔導者はマズい。
「お前、やっぱりハンターに復帰したんだな、馬鹿が」
 吐き捨てるような口調に思わず言葉がつまる。
 まあ、こんな依頼をすれば分かるよな、当然。
 だけどまあ、遠慮ねえな、ったく。
「そうだけど、仕方なかったんだよ。でも今の仕事は辞めないからな」
「当たり前だ。そんな事になったらこれからはお前を"負け犬"と呼んでやる」
 くそっ、言葉が痛え。
 なまじ似たような立場の相手なだけにぐうの音も出ない。
「えっと、それで、どうかな?……協力してもらえますか?」
 ジロリと見られて思わず尻すぼみになった俺の言葉に、流は溜め息を吐いた。
「分かった。俺も憩いの場を荒らされるのは業腹だ。正直に言わせてもらえば、信奉者に関しては勝手に崇めてろと思わないでもないが、知っている相手がみすみす外道に墜ちるような事になれば我慢ならんし、その場合、見知らぬ相手だったら見捨てるというのも俺の身勝手だろう。何か分かればお前に情報を流そう。正し、報酬はいらん。俺の主義に合わん。だからその代わり、もう少しマシな見栄えで気軽に呑めて、酒も料理もちゃんと美味い店を教えろ。半端は許さない」
 あー、やっぱここの料理は口に合わなかったんだな。
 てか口が奢ってるこいつに合うような気軽な店って存在するのか?
 そんな店があるなら俺が知りたいわ!
「承知。念を押して悪いが、相手は百戦錬磨、人間相手の手練手管に長けている怪異の中の怪異だ。間違ってもわざわざ自分から情報を集めたり、直接接触したりはするなよ」
「ああ、分かった」
 んー、これで当面直接の対面は避けられるかな?まだ不安は残るがこれ以上は俺の頭じゃ思い付かない。
 危ないから接触するなと言えば、こいつは絶対に接触する。
 馬鹿みたいに負けず嫌いなのだ。

 終天童子の行動動機は“知識欲”だ。
 かの時代、やつに討伐命令が下ったのは、老若男女、あらゆる立場の人間を捕らえては腑分けして、人間の有り様を調べ尽くしたからだと聞いている。
 その数、数百人とも数千人とも言われているが、封印された頃には既にその衝動は収まっていたらしい。
 とりあえず殺し尽くして調べたい事は調べ終えたからだと言われている。
 奴の言うところの人間に対する愛情は、所詮は子供が昆虫の蝶やカブトムシを愛するのと同じなのだ。
 この都市の事を虫カゴと呼んだように、奴にとっての人間は、観察し、鑑賞し、戯れにバラバラにして愛でる対象にすぎない。
 そして、過去に腑分けされた者の中に魔導者がいたという話は聞かなかった。
 魔導者は本来国のトップに数人存在する程度しか居ないし、彼らについての情報統制は厳しい。
 積極的に情報を集めたとしてもなかなか出て来ない名前だ。
 やつが知らないとしてもおかしな話ではない。
 だからこそ、万が一にも流と出会う事によって、あのやろうの探求心を刺激するような事になってはならないのだ。
 全く、こっちは俺自身に関してだけでも一杯一杯だってのに。頭が痛い。

 ……くそっ!
 俺が今あいつにバラされていないのは、単に同じタイプが他にいないからに過ぎない。
 おそらくあいつは俺が子供を作るのを待ってやがるんだ。
 俺と同じタイプの子供が生まれたら、俺かその子供かのどちらかを解体して調べるつもりなんだろう。
 だからこれは千載一遇のチャンスかもしれない。
 都市封印の中、やつを完全に封じ込める事に成功すれば、今後に何の憂いもなく過ごせる訳だからな。

「おい、飲み直すぞ。次の店は俺が奢る」
 どうやら酒が終わって流の辛抱も切れたらしい。
「へいへい」
「人間が夢を求める事の意義を、じっくりお前に叩きこんでやる」
 うわ、やべえよ、こいつ、俺がハンターに復帰したのがよっぽど腹に据えかねたみたいだ。
 明日も仕事なんだから、二日酔いにならない程度にお願いします。
 ギャンギャンがなってるスピーカーの音を背負いながら、俺はとぼとぼと座敷席から降りて主人に精算を頼んだのだった。



[34743] 37、終天の見る夢 その六
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2013/02/18 20:22
 良い酒だったんだけどな。
 口直しにと、流に連れて行かれたのは、カウンター席のみのカクテルバーで、内装が渋過ぎて若者のカップルとかは寄り付かなさそうな店だった。
 たぶん隠れ家的な店というのは、俺が流を引っ張っていったああいう本当にヤバい店ではなく、こういう雰囲気のある店の事だと言いたくて誘ったんだろうな。
 遠回しな嫌味だ。
 ともかくそのカクテルバーで、ジンベースの強いやつをやった訳だが、残念ながらお馴染みのとろりとした酩酊感は一向に訪れなかった。
 身体が臨戦態勢になっているのだ。
 地上の星に喩えられる夜のネオン街には、普段からある程度の澱みがある。
 しかし、今周囲に薄く微かな香りのように漂っているのは間違いも無く瘴気だ。
 まるで怪異を育む温く穏やかな揺籃のように、この街は静かに変貌を始めている。
「まあ、瘴気に関しては、携帯電話や取引端末札カードを利用して呪防ガードシステムを立ち上げると聞いているからなんとかなるだろうが。……ごくわずかだが、もう悪夢の気配がありやがる」
 チリチリと皮膚の表面に静電気が走るような不快感。
 馴染みきった迷宮ダンジョンの気配だ。
「やろう、早速巣作りを始めたか」
 予想より早い。
 これはもしかすると外では狩りを行なわないつもりなのかもしれない。
 行政府からしてみれば有り難い話だろう。
 一般市民からは犠牲者が少ない方が良い。
 冒険者が迷宮ダンジョンで野垂れ死ぬのと一般人が街角で怪異に食い殺されるのでは、治安への不安に天地の差があるからな。
 終天のくそったれやろうの言う所の、かそけき虫共の平安を守るって訳だ。さぞや得意顔でご高説を垂れるだろう。

「ねえ、貴方。ちょっと死んでくれないかしら?」
 繁華街の雑踏を抜け、ネオンが減って、代わりに上着を肩に引っ掛けただけの薄着のお姉さんがこちらの懐具合と酔いの加減を見計らっているような場所で、いかにも気の強そうな女性が親しげに声を掛けて来た。
 いや、口調だけは親しげだが、内容はちょっとヘビーだったんだけどね。
「残念ながらまだ予定には無いなあ」
 俺の言葉に女は艶然と笑うと、さらりと自分の前髪を掻き上げて見せた。
 その額には小ぶりのツノがあり、たちまちの内に真っ赤に塗られた女の口が酷く大きく広がって、指先の爪が鋭く伸びる。
「鬼か、」
 この国で鬼というのは、怪異に憑依された挙句異形に墜ちたモノを指す。
 これらが厄介なのは、普通の怪異が目的意識以外はまっさらで単純である所を、鬼は宿主の知識を利用しようとすれば利用出来るという所だ。
 しかも、その中でも最たる厄介な相手は、自ら怪異を受け入れた者。
 そういう鬼は、人間としての知識と能力を失わず、意識だけが人外に切り替わったモノとなる。
 怪異の信奉者の殆どは、遅かれ早かれそういった鬼に変化するのだ。
 なにしろ怪異の傍で過ごすという事は、漏れ無く間近で瘴気を浴び続けるという事なのだから、それは当然の帰結だろう。

「おいおいお嬢さん、結界も無しでやり合うつもりか?あんたの主の主義に反するぜ」
 終天の主義からいって、街中の襲撃があるとは思わなかった。
 もしかしなくてもこのお嬢さんの独断専行だろうか?
「生憎、私は我が君のようにお優しくはないの」
 お優しい、ね。
 怪異に対して人間のように表現する言い方に、思わず鼻で笑うと、馬鹿にされたと思ったのだろう。
 人の面影を纏っていた顔が一気に鬼面に変貌した。
 手足に走る赤い呪紋はしゅてんから与えられたものだろう。
 固有魔術を増幅させているのか、いくつかの寄与魔術を持っているって事だ。
「死ね!」
 鬼女の、一切の装飾を廃した直裁な言葉が呪となって押し寄せる。
 まるで地面を引き裂く鉤爪の跡のような三叉の炎が俺に向けて殺到した。
 人目なんぞ気にせずに仕掛けて来る。
 本当に見境ないなこいつ、鉄砲玉かよ。

「きゃああ!火よ!」
「女が火の術式を放ったぞ!」
「無理心中だ!」
 場所が場所だけにどうやら周囲には痴話喧嘩か何かと思われているらしい。
 というか、魔術使って心中とかどうよ?
 呪符とかって正式ルートでも一枚数万円するんだぜ?
 しかも一般人からすればハジキなんかより入手難しいし、どんだけレアケースな心中だ。

 周囲の騒ぎを背景に迫って来る炎をサイドステップで避けながら、この先の展開を考える。
 取り敢えずハンター証によるメンバー招集コール機能で由美子には緊急事態の通達と、対策本部への事件通達エマージェンシーコールは発信済みなので、問題になるのは周囲の安全確保だ。
 幸いな事に、火を見た野次馬連中は危険を避けて大きく距離を取ってはいる。
 それですぐには危険は及ばないが、相手がどんな魔術を行使するのか不明な以上、この程度だと完全な安心は期待出来ない。
 もし範囲魔法を使われれば、極低位の物でも半径5m程度には被害が及ぶ。
 つまり、その程度の物であってすら、ギリギリ巻き込みそうな距離に人がいた。
「おい!お前ら避難しろ!この女爆発物持ってやがるぞ!」
 腹に気を溜めて言い放つ。
 ただでさえ大声は人の判断力を殺ぐもんだ。
 その上、気が籠った声には一種の強制力がある。
 周囲にいた野次馬達は我が身が大事と悲鳴を上げて逃げ出した。

「あらら、逃がしちゃったの?二、三匹巻き添えにして夜食か朝御飯として持って帰ろうと思ってたのに」
 物騒な事をさらりと言ってのける鬼女に、俺は獰猛に笑って見せる。
「安心しろ、お前は帰れない」
 俺の言葉に、鬼女は長い舌でゆっくりと己の口元を舐め上げて見せた。
「その自信は神狩りの血ゆえ?ふん、勇者血統とか綺麗に言葉を飾って言い繕ってみせても、貴様らなど、人の手で作られた生きた道具に過ぎぬくせに!もし異形が悪だと言うのなら、人の手によって造られた歪な貴様らこそが天に仇なす存在であるだろうにね。そんな化け物が、神として生まれたあの方を煩わせるとは、身の程をわきまえるんだね。まあ、せめて我らに貪り食われる栄誉に浴する事で満足しておくがいいよ」
 火の弾が、言葉の一つ一つに呼応するように生じると、不規則な曲線を描き、舞うように乱れ飛ぶ。
 それは、こんな場合じゃなきゃ実に綺麗な光景だ。
 しかし、これ、下手すると火事になるんじゃないか?
 やべえぞ、対策室の結界師早く来い!
 頭の中で色々と考えながら、四方八方から襲い来る火の弾を無意識の領域で避けて走る。
 二呼吸で、術行使の為に制止状態の鬼女に触れ得る程に接近した。
「な、貴様!」
 鬼女が慌ててのけぞると、周囲を埋めていた火の弾が消滅する。
「こういう複雑なコントロールを必要とする術は、身動きが取れなくなるのが泣き所ってね」
 弟がいつもそれでぼやいてたもんだ。

 勢いに乗せた掌を、押し出すように鬼女の喉の直下、胸の中心辺りに叩きつける。
「ぐっ、」
 例え怪異と交わった化生であろうと、呼吸をする生物である事は変わらない。
 そして、呼吸をする生物は、息が詰まれば反射的にその動きが止まるものだ。
 俺はそのまま体を半分捻り、同じ箇所に肘を打ち込む。
「がっ!」
 鬼女は、自らの意思とはかかわりなく体内の空気を吐き出し、そのまま地面に転がった。
「おのれ!汚らわしき呪われた道具め!」
 怒りに歪んだ顔は、既に元の面影などどこにもない。
 亀裂と歪みだけに覆われた人型をした化け物は、ゆらゆらと陽炎を通した風景のように揺らいだ。
「私が!私が!お前の血肉をあの方に捧げてお褒めの言葉をいただくのだ!」
 その全身から火を吹き出す。
 彼女は、もしかしたら人間の時は炎の異能者だったのかもしれない。
 異能の力を持つ者で最も多いのが火を操る力だ。
 なんでも、人間の体の細胞は、元々熱を発する機能を有するので、それが発展した力だからだそうだ。
 だが、その一方で、自滅をし易いのもこの力を持つ者なのだ。
 人の体は燃えるのだから。
「そうか、あいつに相手にされなかったんだな?それで俺に八つ当たりか。良いんじゃないか?俺はそういう情熱的な女は嫌いじゃないぜ」
「うるさい!お前が死ねばあの方は私を見てくださるさ!」
 うん、俺の口説き文句は綺麗にスルーされたな。
 まあいいさ、昔から女にモテた事とか無かったし、予想はついてた。
 でも残念だったな。
 終天は、絶望にのたうちまわる生気の薄い人間が好みらしいぞ。あんたみたいな前向きで情熱的な女は歯牙にも掛けないだろう。
 全身炎の生きた松明のようになった鬼女は、火に包まれながらも壮絶に笑った。
 熱くないんかな?
 咆哮が上がる。一瞬の硬直を狙った特殊効果持ちの咆哮だ。
 どうやらこちらの動きを封じて、そのまま抱きついて来るつもりのようだ。
 女性との熱い抱擁って、長年の憧れではあったんだけど、ちょっとだけ夢見たのと違う気がする。
 あんまり嬉しくないのは俺が贅沢なのかな?

「自らの愚かさを他者に押し付けるとは、笑止ですね」
 場違いなぐらいに涼やかな声が鬼女の背後から響いた。
「な!あっ、」
 振り向こうとして、炎の影は崩折れる。
 本人にも何が起こったか分からなかっただろうが、俺には見えた。
 拳大程に巨大な蜂のようなモノが、鬼女の真後ろからその首に針を打ち込んだのだ。
 怪異の弱点はその姿に依存する。
 人から變化した鬼も当然同じだ。
 中枢神経に凶悪な毒となる呪を流し込まれ、その鬼は一瞬にして滅びたのである。
 動かないその体を、自らの火が燃やし尽くす。
 コールに応えて駆け付けてくれたのであろう由美子に、礼を言おうと顔を向けると、その眼差しは酷く冷ややかに俺に向けられていた。
 あれ?
「兄さん、そんな鬼なんかと戯れて」
 え?なに?どういう事?俺、遊んでたんじゃないよ?ちゃんと戦っていたよ?
「情熱的に迫られて、嬉しかった?」
 あ、ああ、聞いてたの?俺の口説き文句。
 あれはほら、油断を誘おうとしていただけで、別に本気で口説いてた訳じゃないからね。
「いや、ちょっと待て」
 言い訳をしようと口を開けた俺を、由美子はもう一度めつけた。
「寝入りばなに起こされて眠いので帰る。後はお願い」
「ちょ、由美!あ、あのな」
 帰り掛けた由美子がちょっとだけ振り返った。
 不機嫌そうな顔が俺の言葉を促す。
「夜遅くに呼び出してすまなかった。ありがとうな」
 由美子は俺の言葉にため息を吐くと、「うん」とだけ返事を残して踵を返した。

 いつの間にか張られていた結界が周囲の喧騒を遮断して、都会の只中とは思えない静けさが周囲に満ちる。
「ご苦労様です。処理対象はそちらですか?」
 由美子と入れ替わりに近寄って来たのは、対策室の担当官だ。
 まさかこいつ一人か?いや、結界が張ってあるから結界師はいるよな?
「お疲れ様です。鬼です。黒焦げの死体に見えても迂闊に近寄らないでください。例え切り刻んでもちゃんと処置をするまでは安心出来ない相手ですから」
「承知しています」
 なんかものすごくそっけないな。
 俺よりむしろ戦士っぽく見える、“鋼のような”肉体という形容詞がまさにぴったりな巌のような体つき。
 状況次第では荒事も担当する怪異対策室処理班の制服は、軍の制服よりも実践的で、なんとなくSF映画に出て来る未来の戦士のようだ。
 その男の後を付いて来ていた自走式の担架からアームが伸びると、鬼女の成れの果てを回収し、プシュという微かな音と共にゼリー状の物質がそれを包んでコーティングする。
 さすがは中央だけあって、設備は最新式だ。こんな高性能な物初めて見たぜ。

 男は俺に顔を向け、唇を歪めて笑いのような表情を作ると、囁くように告げる。
「こんな有様でも顔色一つ変えられないのですな。さすがと言いますか、やはり鬼の隠し名を持つ一族は違いますな。いわば同族殺しでも平気なのですから」
 思わずその顔を見直したが、既に寸前の嫌な笑みは消え、厳しい顔付きに戻っていた。
「そういう事を公言すると困った事になるのではないですか?」
 侮蔑や嘲り、畏怖に恐怖。そんな物はこちらの正体を知る輩から向けられる慣れ親しんだ感情だ。この程度では怒りすら湧かない。
 だが、秘すべき事を気軽に口に出すようでは、むしろこの男の首が危険だ。
「そうですな、申し訳ありませんでした」
 まるで軍人のようなきっちりとした礼をして、男は歩み去る。
 やっぱこの担当官、うちの血族が嫌いなんだな。
 その手の事を律儀に真正面からぶつけて来る相手は少ないので、なんとなく新鮮な気分だ。

 ふと、さっきの鬼になった女を思い出す。
 人として生きていたらさぞ溌剌とした良い女だっただろうに。
 終天とか、ひとでなしな化け物なんかに引っ掛かりやがって、馬鹿な女だ。
 イライラする。
 怪異に対してはただひたすらに憎しみしか抱けないように出来ている感情の奥に、人がましい何かを探ってみても雨粒一つ落ちてはいない。
「くそっ、」
 早く帰って蝶々さんと由美子の式神が綺麗な羽根で舞う光景を見たいな。
 何気なく自分の手を見ると、袖口が少し焦げているのに気付いた。
「くそっ、」
 俺はもう一度悪態を吐くと、結界の消えた雑踏の中を家に向かって歩き出した。



[34743] 38、終天の見る夢 その七
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2013/04/02 06:10
 トン、と、軽い音に目を向けると、打鍵盤キーボードの横に湯飲みが置かれていた。
 顔を上げるとお盆を持った伊藤さんが笑顔をこちらに向けている。
「あ、ありがとう……って、あれ?伊藤さん、今日お茶当番だっけ?」
 うちのオフィスでは、個々人の飲み物は休憩室に色々なタイプの飲み物の提供器サーバーがあり、自分で淹れる事が出来るようになっている。
 だが、朝や昼の定時のお茶淹れはおつぼね様のたっての希望で、女子社員が入れてくれる事になっていた。
 なんでも、女性の魅力を磨く為とかなんとかいう理由だとか……なんでお茶淹れが魅力に繋がるのか俺には理解出来ないんだよな。きっと女の子達がなぜかこっそりと給湯室でお茶とお菓子を楽しんでいるらしい事とは関係なのだろう。うん。
 まあ淹れて貰えるのは嬉しいから良いけど。
 ともあれ、それは当番制となっている。
 なので、二日続けて同じ人間がお茶を淹れてくれる事は無いはずだった。
 しかし、俺の記憶が確かなら、伊藤さんは昨日もお茶を淹れてくれたのだ。
 うむ、なんか既視感デジャヴ、またあの給湯室で何か発生したのか?
「木村さんが最近ずっと元気が無いみたいでしたので、ちょっと代わって貰ったんです。これ、我が家秘伝の元気が出るお茶なんですよ」
 笑顔が眩しい。
 ん?もしかして俺の為に当番代わってお茶を淹れてくれたのか?
 こんな純真な笑顔とか見てしまうとなんだかもやもやしてしまう。
 もういっそ、この街はヤバいから早く避難した方が良いとか言ってしまいたい。
 だが、この街の外がここより安全かと言うとそうでもないんだよな。
 ここより封印が強固な結印都市は国内には存在しないし、ましてや伊藤さんの家族は家を購入したばかり。
 伝説級レジェンドクラスの怪異の縄張りには眷属以外の怪異はまず近寄らないし、もし、あいつが一般人を狩りの対象にするつもりが無いのなら、一般の住人にとっては瘴気による汚染以外の不安はほぼ無い事になるのだ。
 そもそもこの話は行政府の判断で一般人への流布は禁じられている。
 当局はパニックを恐れているんだろうな。
 俺達ハンターは怪異についての判断はその土地の政治的意思に左右されない自主裁量権を持ってはいるが、行政府の都市防衛構想にあまり横槍を入れるべきでは無いのもまた当然の話ではあった。
「また溜め息」
 俺の様子に伊藤さんが苦笑する。
「あ、悪い。お茶貰います」
 普段のお茶より茶色が強いお茶を口にする。
 フワッと香るのは薬草っぽい枯れた匂いだ。
 口に含むと、最初は仄かに甘く、じわじわと苦味が広がる。
 しかし、苦いと言っても、決して飲めない程の苦味ではない。
 子供なら辛いだろうが、大人になった今はこのぐらいの苦味なら忌避する程のものではなかった。
 むしろこの程度なら薬湯としては美味しい内だ。
 我が家の秘伝の薬湯なんぞは、飲むとしばらく喋れないぐらい口が痺れるのだ。
「ありがとう」
「苦過ぎませんでした?私は慣れているので感じないんですけど、たまに苦手な人もいるみたいで」
「全然大丈夫。うちの田舎なんかこの百倍は苦い薬湯を飲まされるからね」
「あはは、うちも熱が高い時とかは酷いのが来ますよ。飲んだらプリンを食べさせてくれるって言われて必死で飲んだものです」
「あ、それはちょっと羨ましいな」
 うちもプリンが貰えたならどんなに良かったか。
「プリンお好きです?」
「それはもう、バケツプリンは男のロマンです」
 いつか挑戦してやるんだ。
 といっても我が家の冷蔵庫にバケツは入らないけどな!
「うおっほん!」
 薬湯を飲みながら、プリン談義になだれ込もうとした俺達の斜め後方から、わざとらしい大きな咳払いが聞こえた。
「あ、課長」
「君達、ここが会社だという事を忘れて無いかな?」
「も、申し訳ありません!」
 伊藤さんが慌てて謝り、女性陣が打ち揃った(二人だが妙な迫力がある)待機場所へ逃げ込んだ。
 なぜかそのままおつぼね様を始めとしたうちの三人娘(一部語弊あり)がそこに勢揃いして佇んでいる。
 そしてこっちを睨んでいる。
 ……怖いんですが。
「課長、伊藤さんは気遣ってくれただけで」
「分かってる」
 課長はちらりと女性陣に目をやった。
 課長も怖いんですね、分かります。
「それより今回の企画商品の回路周りは特殊な機構になるんだろう?間違いないようによく詰めてくれよ」
 話題を無難に仕事内容で纏めた課長は、大きく溜め息を落とすと電算機パソコン打鍵盤キーボードに向かった。
 どうでも良い事だが、課長のタイピングは一本指打法である。
 あれで書類とか作成しているんだから逆に凄い。いつも見る度に感心してしまう。

 ちらりと先程の女性陣のいた場所を窺うと、話が穏やかに収まった様子に満足したのか、女性陣は固まり状態を解除してそれぞれの席へ戻ったようだ。
 早めに抜けていたのか、既に席に着いていた伊藤さんに視線を向けると、軽く目礼されたので薬湯の湯呑みを掲げて見せる。
 おし、良い笑顔を貰ったぞ、仕事するか。

 今回の開発商品は給湯ポットだ。
 これは謳い文句を「置いとけポット」と言って、水を入れる必要が無い事を売りにしている。
 とは言っても、お湯が無くなって直ぐに次を沸かしたいという場合にはやっぱり自分で入れないとちょっと時間が掛かるんだよな。
 忙しい時にはその限りではないとかどっかに注意書きを入れておかないと訴えられるんじゃないか?まあ俺の考える事じゃないけどさ。
 結局の所どういう性能かと言うと、ある一定量より減ると、組み込まれた術式によって生成された水が補給され、それを電気で沸かすという仕組みだ。
 そう、魔法のポットなのだ。
 うん、本当の事なのになにか響きがいかがわしいぞ。
 術式とか言い出すと何故か途端に胡散臭い仕様に思えて来るが、それもそのはず、こういう日用品に魔術式を組み込むのは実の所あまり行われない事で、いうなれば画期的なのだ。
 要するに今まで家電には魔術要素はあんまり無かったのである。
 そう、何事も馴染みのないモノというのは胡散臭いものなのだ。

 なんで魔術が日用品に使用され難いかと言うと、基本的に術式符は武器に分類され、武器は一般市場では取り引き禁止品目であり、流通には乗せられないからだ。
 つまり、筆記、或いは印刷、または刻印された術式の商取引は法律で禁じられているのである。
 そこで魔術的な商品を売りたいメーカーは、主に形式術式、つまり形状による認識魔術を組み込む事で商品化を図った。
 健康器具メーカーの開発した肩こり解消器具の握り珠なんかはその代表的なヒット商品だ。
 だが形状魔術では複雑な指定が出来ない。
 そこでうちの発明王流様の出番だ。
 今迄に他社でも基板の電子回路を使って術式図を作ろうという試みが無かった訳では無いだろう。
 しかし下書きで術式を描くプリント基板を作ると法律に引っ掛かるし、電子部品の配置のみでそれを形作ろうと思っても、それを可能にする為に製品を歪み無く統一に配置するには膨大なコストが掛かる、といった具合に、なかなか上手く行っていないのが現状だった。
 それを、流は全く違うアプローチで解消し、まんまと特許登録したのだ。
 流が考えたのは、絶縁体カバーという方法だ。
 電子回路の上に術式陣を象ったカバーを被せ、その内側を流れる電流によって術を発動させようという考え方である。
 これの特許取得自体はかなり前の話になるが、俺もヘルプとして実験に散々付き合わされた。
 そもそもあいつは発想は良いが実機試験では抜けている部分が多々あるので、フォローに疲れるのだ。
 それにしてもやっと商品化か、やっぱり術式の選択に苦労したんだろうな、家電としては。
「木村くん、スイッチの位置だけど、これだと従来の上蓋の部分には組み込めないよな」
 おお、佐藤がお仕事モードだ。
 やる気になれば仕事出来る人なのに滅多にやる気にならない所がどうしようもない人なんだよな。
「ええ、術式カバーが結構かさ張りますからね。底部に入れ込むしか無いでしょうし、電源のみのスイッチでよければサイドに線を通して繋げれば良いんでしょうけど、この術式カバーのオンオフの切り替えが案外厄介で」
「電源とは別系統に纏めれば良いんじゃないの?センサー連動っしょ?」
「デザイン部門からは術式の発動はユーザーの任意に出来るようにと指示書来てましたよ。読んで無いんですか?」
「あっちはあっち、こっちはこっちで良いじゃん」
「いやいや、それやったら確実に出戻って来ますから」
「両方出して市場調査するとか」
「大企業でもやりませんよ」

 いつもこんな風なやり取りになるんだが、佐藤は恐らく既に図面を描き終えているはず。
 そしてグダグダ言う割にはちゃんと要点を押さえているのだ。
 つまり俺は意味の無いやり取りをさせられている訳だ。
 ……全くこの人は。

 それにしても、こうやって仕事に没頭していると、今迄と何も変わっていないような気持ちになる。
 ふと視線を窓へ移すと、学生時代に憬れた高層ビルの立ち並ぶ風景が変わらずそこにあった。
 この先、この風景が変わるような事があるのだろうか?
 政府お抱えの預言者辺りなら何かを見ているのかもしれないが、一介の平サラリーマンたる俺には、この時点では全くもって未来への展望などなかったのである。



[34743] 閑話:天上と地上の間で
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2013/02/28 05:53
 明るいネオンとその足元にわだかまる闇。
 一ノ宮流は、そんな光と闇の狭間を悠々と、まるで王者のごとく進んだ。
 実際、周囲にはべる着飾った女達や、彼が目前を行き過ぎるのを見送る客引き達のおもねる態度は、彼のこの場所での立場を、君臨する者のそれとしている。
「今日はうちの店の番よね。実は店長がすっごく良いお酒用意してるの。楽しみにしててね」
 まだ若いホステスが、流の腕にそっと手を添え、その若さを前面に出して元気の良いアピールをしてみせた。
 周囲のベテランの夜の女達は、それを内心はどうあれ、表面上はにこやかにやり過ごす。
「先生、うちはゆっくり出来る席をご用意してるから、疲れたらどうぞお寄りになってくださいね」
 若いホステスは、その言葉の中に己に対する揶揄を嗅ぎ取ってムッとするが、さすがにそれなりの店の派遣だけあって、若くとも場を弁えて突っ掛かったりはしなかった。
 その代わり流の背後で、目線だけは挑むように交わし合う。
「良い酒も雰囲気のある場所も楽しみだが、君達がこうやって生き生きと僕を手玉に取ってくれるのが一番楽しいよ。さて、今日の僕は君達の良い獲物でいられるかな?」
 女性達はやや剣呑な雰囲気になりかけていたお互いの顔を見合わせると、クスクスと笑った。
「先生、あんまり冗談ばっかり言ってると本当に襲っちゃうから」
「それは恐ろしいな。それじゃあ今夜はおとなしくこのハンターに捕まっておくかな?上手く逃げ出せたら他の罠に掛りに行くかもしれないよ」
「もう。一ノ宮先生ったら」
 さり気なく腕を絡ませた若いホステスは、流に顔を向けるとニコリと笑った。
「それじゃあ私、捕えた魔物に逆に食べてもらおうかな?」
 そのままやや強引に自分の店へと流を引っ張って行く。
 他の女達も、また順番が回ってくれば流が自分の店に来るのは分かっているので、それ程ごねる事もなく二人を見送ったのだった。


「ねっ、良いお酒でしょう?店長はオーク樽がどうのって言ってたけど、能書きよりも味わいよね」
 流は先程の若い女性から手渡された水割りを口にしていた。
 この店は内装も明るめで若いホステスを揃え、ステージでも元気な出し物が多い。
 基本的に接待や宵の口の飲み始めに来る店だ。
 そのせいか客層も賑やかで、良く言えばフレンドリー、有り体に言えばじっくり腰を据えて飲む雰囲気ではない。
 そして、こういう店ならではの特徴もあった。
「お、一ノ宮さんじゃないですか?先頃は業務提携で面白い仕事させていただきまして」
 仕事関係の人間が偶々来合せた体だが、実はこれは店側のセッティングである。
 事前に互いの都合を擦り合わせて、偶然のように気軽な歓談を演出するのだ。
 明るくオーブンなこの店の雰囲気から、密談などの勘ぐりを受ける危険も少ない為、異業種間の顔繋ぎの場としてそれなりに有名な店となっている。
 流の今回の相手は、以前の提携先の開発担当者であり、話は挨拶と顔繋ぎ、それとちょっとした探り合いに終始し、それらはごく短時間で終わった。
「難しいお話しはお終い?」
 空気を読んで離れていた担当のホステスがすかさず席を埋める。
「ああ、退屈させて悪かったな。お詫びに何か奢ってあげよう」
「やった!じゃあマルガリータにする」
 ここでドンペリなどと言わないのがこの店らしいが、カクテルと言えども軽くスタンドバーの三倍程の値段はする。
 うっかり新入社員などがホステスに言われるままに一時間も楽しめば、初任給の半分は一晩で使ってしまうだろう。
 実際、流の友人の某技術者は、うっかり一晩でその月の生活費をばら蒔いてしまい、給料日までモヤシご飯だったという悲しい過去があった。
 米の備蓄があって幸いだったと言うより他ない。

「そうそう、ちょっと聞きたいんだが、最近新顔で羽振りの良いやさ男の噂を聞かないか?」
 流はそう言って、ほどほどの金額の折り畳んだ紙幣を自分の空いたグラスの下に挟んで差し出した。
 ホステスの娘はそれを手の中に握り込んで、グラスに新しい氷と酒を注ぐ。
「そうね、かなり派手な人がいるわ。どっかの大会社の社長さんとかじゃないかって噂になってるけど、あれはそういう感じじゃないわね」
 彼女は滔々と語り出した。
 元よりこの店の主力は情報である。
 ここの店員はどれほど脳天気に振る舞おうと、皆、情報収集には長けているのだ。
「ここへも来たという事か」
「ええ、でも店の雰囲気が性に合わなかったんでしょうね、落ち着いた店に腰を据えたみたい」
「なるほど」
 この店経由で行くとしたら、系列の会員制のクラブだろうと当たりを付けて、流はホステスの女性へのチップを追加した。
「繋ぎを付けたいならゆかり姉さんが良いと思うな」
 裏付けの後押しをもらい、流は彼女に微笑んだ。
「ありがとう。近いうちにまた寄るよ」
 気前が良く、無理やりなサービスを強いたりせず女当たりが良い上客である流は引きが多い。
 その彼から確約に近い来店の約束を取り付けて、若いホステスは満足そうに笑みを浮かべた。


 そのビルは、繁華街に在って他の雑居ビルとは違い、外観から特別だった。
 ネオンの類は一切無く、柔らかな間接照明に象牙のような滑らかな姿を浮かび上がらせている。
 一階のフロントには、上品な出で立ちながらいかにも屈強な守衛が待機していて、客のカードを端末で照合し、同時に店に来店の通達が行くといった仕組みになっていた。
「どうぞごゆっくり」
 流は常連だが、ここフロントでは決して名前は呼ばれない。
 入店迄の客のプライバシーを守るためにあえてそうしているのだ。
 入口には監視カメラすら設置してない。
 エレベーターのカードスロットにカードを通し、開いた扉から乗り込んだ流は、直通で店内に到着した。
 扉が開くと出迎えが流れるような所作で荷物を受け取る。
「紫さんをお願い出来るかな?」
「はい、ただいま。お席はいつもの場所でよろしいですか?」
「ああ、構わない」
 窓側のボックス席へと案内されながら、流は店全体の様子がやや浮ついているのを感じ取った。
 奥のカウンターバー風の席に、元来静かなこのクラブには似合わない程の熱気がある。
(図らずもかち合ったか。まあ俺が意図した訳じゃないから仕方あるまい)
 友人の渋い顔を思い浮かべて流はニヤリと笑った。
「まあ、悪いお顔。何を企んでいらっしゃるのかしら?」
 グラスを二つ手にして流の席にやって来たのは、艶やかと言うより理知的と言う表現の似合う女性だった。
 間違いなく美人だが、夜の街よりも明るいオフィスで社長秘書などをしている方が似合いそうな印象の美女である。
 実際、彼女はこの店のママの右腕と言われており、やり手のアドバイザーでもあると知られていた。
「いや、僕が企む必要もないぐらいに簡単に騙されてくれる友人の事を思い出していただけさ」
「まあ、一ノ宮先生ったら。知っていますよ、噂の、お顔は怖いけど可愛らしい方の事でしょう?」
「君たちの言う可愛らしいは怖いな。うっかり目を付けられたのなら、あいつも気の毒に」
「先生ったら勘ぐりすぎです。ああいう正直な方は私達だって酷い事をしたりはしないものよ。たんとサービスさせていただきますわ」
「なるほど、今度連れて来たら優しくしてやってくれ」
「ええ、心から。それで先生がヤキモチでもお焼きになってくださるならとても嬉しいんですけど」
「おいおい、僕たちの友情を壊すつもりかい?」
「まあ先生ったら、そうやって私がいかにも怖い女のようにおっしゃるんですから」
 店は全体的に照明が抑えられ、暗い店内のそれぞれのテーブルの上に並べられたグラスキャンドルが淡い金色の光を揺らす。
 ビルの八階に位置するこの店の大きな窓から眺めれば、繁華街と夜尚多い車のライト、ビルの屋上ガーデンの灯りが、宝石箱の中のように綺羅びやかに映しだされていた。
「だいぶ向こうが盛り上がっているようだが、あれが噂の御仁かな?」
「先生、うちはお客様の詮索無用って知っているでしょう?でも、確かにどうしたって目に入りますね。騒がしくってごめんなさい」
 騒がしい程ではないのだが、ゆったりとしたくつろぎ売りにするこの店では異例な程に、その席の周りはざわめいている。
「君が謝る事はないさ。遊びは人それぞれだし、僕は気にしてないよ」
「ふふ、そうやって言われてしまえば何も教えない訳にもいかないと分かってらっしゃるのでしょう?いいわ、他ならぬ先生のお耳に入れるのなら。私共としても日頃のご贔屓にお応えしなければなりませんし」
「おやおや、まるで僕が無理強いしたみたいじゃないか。全く君は話が巧みだな」
「どうぞ言ってらっしゃい。ママに先生に迫られたって言いつけてさしあげるから」
「そういう事なら本当に迫った方が僕は得って事になるよね?」
「もう」
 ひとしきり笑い交わし、恋人同士のようにひっそりと身を寄せ合って、ゆかりは流の耳に囁く。
「恐ろしい程の魅力の持ち主よ。しかもいったいどんな立場の人なのか全く掴ませないし。うちの目端の利く娘は、もしかしたら伝説のハンターなんじゃないか?とか夢みたいな事を言っていたけれど、……実は私は、ちょっとあの人が怖いの」
 言ってそっと目を伏せると、紫はブランデーを口にした。
「怖いもの知らずの君がかい?」
「ええ、そうなの。おかしいでしょう?私は、とてもあの人の目を覗き込む気にならないのよ。覗き込んだら最後、どこかとても遠い場所に連れて行かれてしまうような、そんな予感がして、とても恐ろしいの。おかしいわよね、気前の良い大事なお客様なのに」
「いや、君の人を見る目は確かだ。僕は自分自身よりも君を信じるよ」
「また、本当にお上手だこと」
 そう言って、より深く身を寄せた紫に、流は微笑み掛けた。……そのはずだった。


「よお、どうやら俺に用があるみたいだから挨拶に来てみたんだが」
 誰もいないフロアの真ん中に立つ男がいる。
 流はその男を一目見て、背筋に電流のような物が流れるのを感じた。
 まさか同性をそう形容する事があろうとは、それまで流は夢にも思わなかったが、実感としてその男は美しかった。
 だが、それは愛でる対象としての美しさではない。
 野生の獣に最高の知性を付与したらこうなるだろうという美しさだった。
 そこにあるのは、その姿を見、言葉を交わした者が虜になるのは仕方がないと思わせる、強烈な魅力である。
 ふと、流が我に返ると、隣にいたはずの紫も、店内の他の人間も姿を消し、今、彼はその男と一対一で向かい合っていた。
「さて、どんな魔法を使ったのかな?」
 そんな異様な有様に、流は尚不敵に笑ってみせる。
 実は、流は今まで怪異と対峙した事がなかった。
 彼の一族は強大な守護を持ち、怪異や悪意持つ者を近寄らせさえしないからだ。
 それらの防壁を易易と無視して、男は流に気付かれもせずにこの場を作ってみせたのである。
「難しく考える事はない。実の所、人は起きていても夢を見る事が出来る。幻想とか幻覚とかいうあれだ。ここはそういう類の場所だ」
「ふん、どうやら貴様、人外の化け物のようだが、この街に何の用だ?自分の縄張りにズカズカ入り込まれて黙っている程俺も優しくはないぞ」
 流は挑発するように言い放った。
 相手が危険である事は、流も百も承知の上だが、こんな場合におとなしく引き下がるような性格をしてはいないのだ。
「ははは、元気が良いな。だが、俺も耳元でうるさく飛ぶ虫はあまり好きでは無いな」
 その瞬間、流は自分に向かって何かが放たれたのを感じ取った。
 咄嗟に、ほとんど反射的に魔導者の力をそれに向けて開放する。
 ぴしりと、空間に亀裂が入り、まるで卵の殻がひび割れるようにパリパリと音を立てながら風景が剥がれて行った。

「きゃあ!」
 ドン!と、強い揺れに店内の者達が悲鳴を上げる。
「いやだ、地震?もう、収まったみたいだけど」
 パリンと目前のグラスが割れ、流は血の滴る指を抑えた。
「先生!お怪我をなさったの?待っててすぐに手当をしますから。あなた!直ぐに救急箱を、それからこの席の割れたグラスを片付けさせて頂戴。怪我に気をつけてね」
 寄り添って座っていた紫は、その指を見て自分のハンカチを出してそれで流の指を包み込む。
 そして、矢継ぎ早に店員に指示を飛ばした。
「ガラスが入り込んでいるかもしれません、一応お医者様に診ていただきましょう」
「いや、大した事ないよ」
 流は既に我を取り戻し、何事も無かったように肩をすくめてみせた。
「駄目。こういう時は大げさなぐらいが丁度良いの。うちの掛かり付けのお医者様がいらっしゃるからそこに行きましょう、私が付き添います」
「紫さん、救急箱です」
 受け取って、シュッと消毒液を吹き付け、紫は流を伴って席を立つ。
 その頃には店のママも流の席に来ていた。
 上得意が怪我をしたのだ、当然の対応である。
「ママ、後はお願いします」
「ええ、大丈夫心配しないで。先生、この度は申し訳ありませんでした」
 店のママは、流の上衣と荷物を紫に手渡しながら深々と頭を下げた。
「おいおい、自然現象にまで責任を取ってたら身が持たないぞ。気にするな、また寄らせてもらうよ。すまないが、紫さんを借りるね」
「はい、ありがとうございます。紫さん、今日はそのまま捌けて良いから、先生をよろしくお願いしますね」
 慌ただしく連れられてエレベーターの前まで進み、流はちらりとカウンターバーの方へと目を向ける。
 しかし、そこには既にあの男の姿は無かった。



 男、終天は機嫌良く階段を上っていた。
「なるほど、あの力には覚えがある。確か世界クラスの迷宮の最奥にあった力だな。代を重ねて尚受け継がれるとは、正に生命の神秘だな」
 口元が、笑みの形に歪む。
 キイっと扉を押し開けて、終天は優しい声で告げた。
「ただいま帰ったぞ。ほっとしたか?それともがっかりしたかな?」
 青々とした畳が独特の香りを漂わせる漆喰壁の白い部屋。
 その只中で、一人の少女がパチリと音を立てて花の茎を断っていた。
 終天の声に少女は動作を止めると、手に持つ全てを一時床に置き、すっと立ち上がって自らの主を迎える。
「お帰りなさいませ、ぬし様」
「どうだ?ここは気に入ったか?天に仰ぐはずの星が地上にある、人間の作り上げた箱庭だ」
 少女は不思議な容貌をしていた。
 淡い、桜色に近い色合いの髪、その目の色も夕焼けのようなオレンジだ。
 彼女はその容貌のせいで、昔は周囲の人間から鬼子と呼ばれ忌まれていたが、今となってはその名も真実となってしまっている。
 額に生えた真珠のような白い角は、人から人外の鬼へと転化した証なのだ。
「私に否やはありませぬ、全ては主さまの思いのままに」
 その儚げな姿のままの魂は周囲の全てを諦めのままに受け入れる。
「ふふ、そなたはい奴だ。白音しらねよ」
 終天は、つっと彼女の顎に手を掛けると、軽く持ち上げて唇を合わせた。
「そなたが愛し、憎みし人の世が終わらんとしているぞ。さて、我が成す事を共に見てみるか?それとも他に望みはあるか?」
「主様の御心のままに」
 白地に薄紅の花片の舞う着物を肩から落とし、少女は笑みも泣きもせずに主を見上げる。
 その心は、ただ静かに積み重なった歳月に埋もれてしまったかのように動かない。

 最も天に近くそれゆえに最も昏い場所で、長い歳月を生きる怪物は静かに笑ったのだった。



[34743] 39、おばけビルを探せ! その一
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2013/03/07 04:14
 自宅で電算機パソコンを起動して怪異関係の噂を拾う。
 広域網ワールドネットの情報はゴミとお宝が混在している穴掘りのようだと言ったのは、ハンター時代に懇意にしていた情報屋の一人だが、今やネットの利点はもう一つ、他に類を見ない即時性がある。
 最近はネットにリンク出来る携帯電話の普及で、リアルタイムに様々な情報が貼り付けられるようになって来たのだ。
 おかげで更に情報の信頼性は混沌として来ていて、内容の真偽は著しく怪しくなってはいるのだが、それだけに世間に害があると思われる情報をバッサバッサと狩りまくる当局の検閲に引っ掛かる前に、とんでもないネタが紛れ込む事すらあったりもするんだよな。
「中央都市、異変、っと」
 電算機パソコンのツールの一つである検索箱に、目的に関連すると思われる単語を放り込むと、その単語に関連する項目一覧が時系列の最新から表示される。
 その表示された膨大な項目を更にふるいに掛ける為に検索箱のサブ機能の種類選択をチェックして判別を待つ間、頭上で戯れている蝶々さん達の気配がしたので、ちょっと新機能を試してみる事にした。
 パン、パン、パンと、拍子を取って手を鳴らすと、スタンドライトから登録した音楽が鳴り始め、蝶々さんは、その音楽に合わせてクルクルと舞い始めた。
 ふっ、案の定由美子の式の方の蝶が戸惑っているぞ。
 式の行動能力は、主に術者の労力次第だが、短時間で適当に仕上げたこいつに上等な自己判断が出来るとも思えない。
 こいつが放たれてからこっち、せっかくの一人暮らしなのに妹に監視されてる俺の鬱憤を考えれば、この程度じゃあ大した気晴しにもならんが、蝶々さんのダンスは想像したよりかわいらしかったので、一応良しとしよう。
 てか、式の方も混乱から立ち直って、蝶々さんに追随するという基本命令に従って行動様式を変える事にしたらしい。
 思ったより能力が高い。
 由美子よ、こいつ、どの程度の性能なんだ?お兄ちゃんはなんか怖いです。
 しかも悔しい事に、この二匹互いにクルクル回ってなんだか楽しそうに踊ってやがる。
 いや、べ、別に羨ましくないぞ!
 いいさ、もういい加減本題に戻るし。別に虚しさから逃げてる訳じゃないんだからな!
 誰に言い訳してるんだよ、俺。

 振り分けられて出て来た情報の、民間の場所で収集された『一般』の方を読んでみる。
 民間だとやっぱり自由交流広場オーブンチャット痕跡ログが多い。
「なになに、影踏み鬼に知らない子供が混ざってる、か。これは昔からある噂の類だよな。そもそもこの遊び自体がまじない事だしな。子供たちの遊びに巧みに厄払いのまじないを紛れ込ませて危険を避けさせるのは、いつから始まったか分からない程古い習慣だし。……全く、あのやろうが早々に表に出るのを止めたもんだから手掛かりが少ないっての。ったく、姿が見えないとなると探り難くて困るし、出て来れば周りの人間を惑わして迷惑だし、本当に始末に負えないやろうだよな」
 終天の事を考えると本能的な憎悪に支配されるのでただでさえイライラする上に、更にちまちました探索でイライラさせられるとか、どうにもやってられない気分だ。
 と言っても、由美子の方はずっと探索虫を複数放っているんだから、俺がこの程度で音を上げる訳にはいかないよなあ。
 やっぱお兄ちゃんとしては頑張らないとな。

「ん?これはなんだ?おばけビル?」
 それはグループチャットのタイトルらしかった。
 幸いな事に内部痕跡ログ公開オーブンの形式になっていたので、一般訪問で潜ってみる。

(俺俺):俺も見た!やっべ、センタービジネスビルとトーゴーの間に別のビルがある!って叫んだら、ツレはしらっとしててさ、嘘ならもっと上手くつきなよって言う訳よ、写真撮ってもうつんねえし、マジやべえって
(昼の蛍):またまたそうやって噂に便乗して都市伝説を作ろうとして、俺俺さんはふかすから信用ならない
(俺俺):ふかしてねえし、俺は確かにお調子者かもしんねーけどよ、人をだまそうとして嘘をついたりしねーよ!バーカ
(愛マイ):まあまあ、今度表でまた探索会をしませんか?目撃報告もそれなりにありますし、この件は実にうちらしいテーマですからね。

―告知―
謎々探検隊では来たる十月十八日に「表で裏を探そうぜ!第十二回集会」を行います。一般参加OK!

 語られている内容は分かるが、どうもお遊び感覚だよな。
 噂を調べるって、休日に仕事でもないのにこういう事をするのって何が楽しいのだろうか?
 う~ん、さっぱり分からん。
 世の中には変な連中がいるもんだな。
 それはともかく、この噂はなんとなく気になるな。
 幻覚の類は怪異の十八番おはこだ。
 古くからある都市伝説の一つって訳でもなさそうだし、少し、探ってみるか。
「え~っと、確か噂は『おばけビル』だったな」
 改めておばけビルという単語を入れて検索箱を起動する。
 時系列トップは例のチャット広場なのでそこを無視して下へと進んだ。
 そうやって追って行くと、最初にこの話題が出たのは九月の頭ぐらいと判明した。
 時期的にぴったりだ。ますます怪しい。
 こうなったら面倒だが目撃情報をリスト化してみるか。
 う~ん、マジで面倒くさい。
 ぼやいても始まらないな、頑張ろう。



 結局、あれからリストを作り上げるまでに時間掛けちまったんで、今の俺は精神的疲労がMAX状態だ。
 なんかこのところずっと、ハンターの仕事が本業に支障をきたしてる気がする。
 いかんな、もっとしゃんとしないと。

 今日は机仕事じゃない分、眠気も抑えられる。
 製品とその部品のサンプルをみんなで検分しながら、俺はこっそり欠伸を噛み殺した。
 ポットの本体デザインは女性を意識して丸っこくなっていて、うちの女性陣が可愛いだの大き過ぎるだの感想を述べている。
 絵柄は定番の花柄で無難に纏めてあったが、なんとなく全体的に野暮ったい雰囲気があるんだよな。
 皆の総意を纏めると、女性が使う日用品としてはちょっと重いのではないか?という結論に達した。
 重心の置き方によって重さの感じ方は変わるものだが、安定性を考えれば底部に重心を置くしかない。
 底部をぼってりさせている原因の絶縁体カバーをもう少し薄くするのはどうだろう?現実的かな?
 後で改善をテーマに部門会議か。
 いや、先に改善案の各自提出だよな。今から考えておかないとまとめるのが大変だ。
 課長がまだ顔色を悪くしてないから日程にゆとりがあると分かる。
 追い立てられる事はないだろう。
 女性陣はいつの間にか製品見本のスイッチを入れて水を生成してみているようだ。
 なんかあっちは楽しそうで良いな。女性陣はみんなバックアップの仕事だから開発責任は無いもんな。
「木村ちゃん、これってさ、姫ダルマに似てないか?いっそもっと大きくして底にバランサー入れて起き上がりこぼし的な売りにしたらどうよ?」
「あんまりぼってりしてると使う人はお湯を注ぎ辛くないですか?」
 安定のサトウ案が炸裂する。いつも突拍子もない。
「そこだよ!」
 どこだよ。
「持ち上げて注ぐものだと決め付けるから発想が不自由になるんだよ。このポットは基本動かさないんだから、置いたまま注ぐ事を考えるべきなんだよ」
 む?なるほど、言われてみれば一理あるかも?
 しかしこれにポンプを組み込むとなると、外装デザインから全部考え直しだぞ?
 俺はちらりと課長を見る。
「確かに大型の既製品には良く見る仕組みですね」
「そおそお。木村ちゃんが行けそうと思うなら二人で詰めちゃう?」
「そう、……ですね」
 うん、改善案を出すのは社員としての義務だし、別に案を出すだけなんだから良いよな?
 ……みんなから恨まれないと良いな。

 結局、嫌な予感はしたものの、方向性としては面白いと思ったので、俺は佐藤と案を詰めて詳細な改善案を提出したのだった。
 提出したら、たちまち課長の顔色が悪くなったのは、見なかった事にするべきだろう。
 文句は発案者に言ってください。



[34743] 40、おばけビルを探せ! その二
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2013/03/14 04:08
「おばけビルの噂なら知っていますよ、今ネットで話題なんです。この間は週刊誌がちょっとだけ取り上げていました」
 にこやかに伊藤さんが俺の質問に答えてくれる。
 うん、思った通り、伊藤さんはこっちの聞きたい事に的確に答えてくれてありがたい。
 しかし、だ。
 なんで俺達の周囲に他の女性二人まで寄って来ているんだろう?
 よ、よし、状況を端的に整理してみるか。
 俺は情報に強いと思われる伊藤さんに軽い気持ちでおばけビルの話題を振ってみた。
 だが、それがなぜか女性陣に囲まれる結果となった。
 ……駄目だ、なんでこうなったのか改めて考えてみても分からない。

「私も聞きました!有名ですよね!小学生なんかがよくビルとビルの間を見上げてるのを見掛けますよ!」
 テンション高いな。
 御池みいけさん、この娘はうちの経理なんだけど、実の所あんま接点無いんだよな。
 そもそも女性陣は、庶務の、お局様と呼ばれている園田さんを始めとする事務方である彼女達の内部で日常の仕事を回しているんで、こっちからは、特別に交通費とか機材の予算をお願いする時ぐらいしか接点が無いんだよな。
 それでも伊藤さんはデータ管理をしてくれているんで俺達開発のメンバーとけっこう会話があるんだけど。
 あと、別に差別意識とかは無いはずなんだが、性差による近付き難さというのはある。
 女性が固まっていると、何かこう近寄り難いんだ。
 会話が成立しないというか、共通の話題が見つからないし。
 なんせ俺は妹とも上手く会話出来ないしな……。

「昔からオカルトは人気のあるジャンルだものね。誰だって一度は冒険者やハンターに憬れるものだし、子供がそういう不思議な現象を調べる事に夢中になるのは分かるわ」
 意外な事に、お局様が結構話題に乗っている。
 案外そういうのが好きだったのか。
 しかし、冒険者という言葉が出た途端、一瞬、伊藤さんの肩がビクリと震え、僅かに硬直したのが分かった。
 ああうん、お父さんが(元)冒険者だもんな。
 気まずそうな伊藤さんを助ける為に、俺は意を決してお局様に話を振った。
「お……園田さんもそういうのに憬れた事があったんですか?」
 やべえ、つい口が滑りそうになった。
 お局様は、何もかもお見通しという目でぎろりと俺を見たが、何も言わず話に乗ってくれる。
 ド、ドウモアリガトウゴザイマシタ。
 生きた心地がしないぞ、おい。
「そりゃあ、私にだって子供時代があったし、あのころは『冒険者サキガケ!』って漫画が流行っていて、誰もかしこも冒険者に憬れていたものよ。まあある程度成長すると何の補償もないような生活のリスクが分かって来るから夢も醒めるのだけど」
 ああっ!冒険者の現実に言及されて、伊藤さんがますます困ったような顔に!なんてこったい。
 でも、冒険者のリスクの最大の物は、命のリスクなんだよな。
 そんな過酷な仕事をやって、ちゃんと生き延びて、家庭持って家まで建てたんだから、伊藤さんのお父さんは実は凄い人なんだと思うぞ。
 誇る事はあっても、恥じる事は無いと思うんだけど。
 まあ冒険者は犯罪に関わってる連中がやたら多いから、公言すると変な目で見られる事があるらしいんだよね。
 それがあるからお父さんも伊藤さんに本当の事を黙ってたと思う。
 実際、あの人は冒険者らしくなくてマトモそうだったし。

「それであの、さっき聞いたおばけビルって、具体的にどういう噂なんです?」
 これ以上話がそっちに逸れるのも困る。
 伊藤さんの事もだが、俺の情報収集においてもせっかくこんな思いをして聞き込みしている意味が無くなるからな。
 そういう訳で、俺はほぼ強引に話題を引き戻した。
 伊藤さんが、そんな俺の奮闘に気付いてくれたのか、俺をちらりと見てにこりと笑う。
 う、これってもしかして好感度が上がってる?
 上手くしたら、単なる同僚からランクアップ出来るとか?
 期待しちゃうよ?俺。
 なんとなく以前も同じような事を感じて勘違いに突っ走った気がするけど、気のせいだよな。
 ううっ……。

「えっとですね」
 相変わらずテンションの高い御池さんが、更に気持ちのギアを切り替えたかのように、思い切りテンションを上げて説明を始めた。
「高いビルと高いビルの間にですね、本来無いはずのビルがもう一つ見えるんですよ!」
 御池さんは伊藤さんと逆のタイプっぽいな。
 言葉の中に、欲しい情報がほとんど無いぞ。
「それで、その両側の高いビルってのはどこなんですか?」
 仕方ないので重ねて聞いてみる。
 昨日、ネットの会話記録チャットログで見たビルの名前で確定なら探索範囲も絞れるが。
「それは決まって無いんだそうです」
「決まって無い?」
 おいおい嫌な予感がするぜ。
 場所の特定が出来ないって事は、下手すると固定化されていないって事だ。
「それじゃあもしかして蜃気楼とか、ビルの映り込み反射を間違えたとかなんじゃ?」
 そんな神出鬼没な場所探しはキツすぎる。出来れば見た人の勘違いという結果が良いな。
 こういう大掛かりな事をあの終天がやっているとしたら、どう考えてもこれは前触れ、やつにとっては食前酒ですらあるまい。
 ろくでもない大騒ぎが始まる予感が、雨天を告げる黒雲のように俺の胸に沸き上がってきた。
「違いますよ!沢山の人が見ているんですから」
「でも、そういうのって、集団心理とかあるんじゃないの?そもそも貴女は見たの?」
 話題には乗るが冷静なお局様の突っ込みに、御池さんはうっと詰まりタジタジとなった。
「わ、私はまだ見て無いですけど」
「それじゃあ本当だとは自信を持って言えないでしょう?」
「う……じゃ、じゃあ今度の日曜、探検会に行きましょうよ!」
「へ?」
 俺は、突然の展開に付いて行けず、一瞬戸惑った。
「私、そういう謎を解明しようとするサークルに入っているんです。そこで今度おばけビル探しをするんで、一緒に行きましょう」
 なんだと?もしや君はあの怪しいチャットグループの一員なのか?
 万が一あれとは違ったグループだとしてもあれと同類項か?
「な、何言ってるの。私は関係者じゃないし行く訳にはいかないでしょう?」
 さすがのお局様もやはり困惑している。
「誰でも参加OKですから!……そこ!」
 なんだか唖然とした心地で二人の話を聞いていた俺は、突然指差されて思わずのけ反った。
「お、おう?」
「我関せずみたいな顔してないで木村さんも参加ですよ!もちろん伊藤さんも!」
「ええっ!!」
 どうやら完全に油断していたらしい伊藤さんが飛び上がるように驚いた。
 同士よ!
「なぜだ?解せぬ」
「もう、変な言い回しで誤魔化しても駄目です。そもそもこの話題を振ったのは木村さんでしょ?」
 ああ、伊藤さんにな。
 などと心で思った所でそれを言える程俺に女子耐性がある訳もなく。
「う、ああ」
 などという謎のうめき声のようなものを押し出せただけであった。
 頑張れよ、俺。
「こういう事は後々まで引き摺っちゃ駄目なんです!みんなで行って真偽をはっきりさせましょう!」
 いや、一日探したぐらいではっきりする真偽なのか?
 激しく問い詰めたい気持ちに襲われるが、こんなテンションの女子に俺が逆らえる訳もなかった。
「あの、私がそういう所に行っても意味が無いと思うんです。私は無能力ブランクですし」
 伊藤さんがおずおずと申し出る。
 確かに無能力の人間は外的な波動の変化に影響されないので、異常現象を認識する事が無い。
「だから伊藤さんは重要なんですよ。その現象が普通の物理的現象かオカルト的事象かの判断基準になるじゃないですか」
 おおなるほど。
 思わず感心してしまったが、彼女の言っている理屈は確かに納得出来た。
 だかしかし、伊藤さんにとってはこれっぽっちも納得出来ない話であるだろう事も予想出来る。
 なにしろ人間テスター扱いされて嬉しい人はそうはいまいから。

 しかし、結局の所、俺達は妙に熱の入った彼女の提案に逆らえぬまま、来たる日曜の怪しげなイベントに参加せざるを得ない事になってしまったのだった。
 なんというか、不安しかないが、大丈夫なのか?



[34743] 41、おばけビルを探せ! その三
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2013/03/20 11:24
 せめて雨が降ればと願った俺の気持ちを裏切って、当日は晴天だった。
 ……気が重い。
 明らかに合わない人種の集まり、しかも会社の人間が一緒なのだから何かあった時の対処が限られる。
 悪あがきだと言われようと俺にだって守りたい物があるからな。
 やっぱそう考えると完全装備で行く訳にはいかないだろう。
 考えた挙げ句、一見普段着っぽいアーミー系ジャケットの隠しポケットに、特殊な趣味を持っていれば一般人が持ち歩いてもおかしくない程度の装備を突っ込む。
 まあこんな心配せずとも何も無いとは思うが、念の為ハンター証だけは首に下げてシャツの内側に隠しておこう。

 高層ビル群は、都心の官公庁地区を囲む一画、商用地区の中のビジネス街にある。
 そしてこれらを一望するにはビジネス街に隣接するセンター街が一番だ。
 なので、今回の集合場所はセンター街になっている。
 気が向かないまま、そこに行く為に最寄り駅に行くと、何故かそこに伊藤さんがいた。
「あれ?なんでここに?」
 伊藤さんの家は隔外なので、隔内に入る為のシャトルで商用地区まで直行出来るはずだ。
「えへへ、あの、一人で行くのが、ちょっと怖いというか、その、苦手で」
 モジモジしながらそう言う姿は、いつものハキハキとした伊藤さんとは違う新鮮な姿だった。
 そう言えば前に一人で喫茶店へ入れないとか言っていたっけ、そっか、意外にそういう所があるんだな。
 うん、でも、これってなんか無駄にドキドキするシチュエーションだぞ。
 待てよ?まさか会社の連中が仕掛けたビックリドッキリ作戦とかじゃないだろうな。
「お、おう。それにしてもよくここが分かったな」
「あ、はい!木村さんの住所から待ち合わせ場所に行く場合、この駅から電車を使うのが一番手軽ですから」
 ああ、こういう時に一番安上がりと言わないのが伊藤さんだよな。
 この優しい声でみみっちいとか言われちゃったら俺は憤死するかもしれんし。
 いや、この場合恥死って言うべきなのか?
 しかし、やっぱ分析力あるなあ伊藤さん。
 そんな気持ちを込めてしげしげとその姿を眺めていると、伊藤さんのモジモジ度が更にアップした。
「あ、あの、じゃあ行きましょうか?」
「ああ」
 まあでもなんだかんだ言って、二人で行動するのに照れが無くなって来たな。
 プライベートでも色々あったし、元々同僚だし、普通の友達みたいな感じだ。
 そういや大学時代にも女友達(彼女ではない)がいたし、俺もそこそこ慣れているのかな?
 そう考えれば伊藤さんも同じで、俺相手なら気楽だからここに来たんだと理解出来る。
 分かってしまうと、ちょっと残念というか複雑な気分だ。

「それにしてもとんでもない話になりましたね」
 無言でいると場が持たないので、取り敢えずこれからの事を話す。
 なんか良い香りがするんだけど、これってシャンプーかな?
「ごめんなさい。私がちゃんと彼女に断っていればこんな事に巻き込んだりしなかったのに。木村さんはお仕事でこの件を調べていたんでしょう?なのにこんな遊びみたいな話になってしまって」
 ああ、やっぱ気付いてたんだな。
「あ、いや、ほら、おかげで普段あんまり縁の無い女性社員のみんなと親しくなれたし、苦あれば楽あり……じゃなかった、縁は異なもの味な物とかって、違うか」
 何言ってるんだ俺?
 ごまかしきれずあははと笑った俺を、なぜか伊藤さんはじっと見て、悄然と肩を落とした。
「御池さん、可愛いですよね。明るくて元気だし、顔立ちもくっきりしていてモデルさんみたいで」
「へ?」
 なぜか御池さん推しを始めたぞ。
 いきなりどうした?
 俺はああいう化粧がっつりの派手めな感じよりナチュラルメイクのあなたの方が好きですよ、とか。
 あ、好きとか考えちまった。照れるな。
「俺は伊藤さんの方が話しやすくて良いよ。どうもあんまり女の子っぽい人だと気後れしちゃうしね」
 女の子力って凄いよな。おかげで押し負けてこの始末だよ。
 ……ん?待てよ、もしかして今、伊藤さん、御池さんにヤキモチ焼いてた、とか?
 これはもしかしてもしかする?
 俄かに期待に胸弾ませて顔を上げた俺の目に、ひやりとした雰囲気を纏った伊藤さんが映った。
 え?あれ?
「そうですよね、私、可愛くない上に女性らしさのカケラも無いし」
「え!?そんな事ないですよ、伊藤さんは十分可愛いですよ!」
「良いんです、分かってますから。高層ビルの階段トレッキングが趣味とか言っちゃってて、今さら女性らしさもないですよね」
 どうしよう?なんか凄くションボリしてるよ!
 ヤバい!俺、女心とかさっぱりだよ!空気の読めない男でごめんなさい!
 心の中でどんなに謝っても仕方ない。
 といっても、どうして良いか分からん!
 ヘルプ!ヘルプ要員は何処だ?
「ごめんなさい」
 俺がパニック寸前に焦りまくっていると、伊藤さんはそれまでの難しい顔を崩して笑顔になってそう言った。
 そしてぺこりと頭を下げる。
「え、なに?」
 伊藤さんが謝るような事が今の会話の中に何かあった?
「私、駄目だな。本当は木村さんと同じ場所に立ってお役に立ちたいなあって思ってるのに、全然駄目で、困らせてばかりですよね」
「いや、いつも助けて貰ってるよ。本当に」
「ありがとうございます。さ、早く行きましょう」
 何かふっきれたように伊藤さんは元気になった。
 うん、本当に女の子って分からんね。

「あ、来た!って、どうして二人一緒なんですか?」
 御池さんが目敏く俺達を見付けて声を掛けて来る。
「駅で一緒になったんです」
 うむ、間違いは無いな。
 上手いぞ、伊藤さん。
「そうなんですか?大丈夫ですか?何もされなかった?伊藤ちゃん」
「俺が何するってんだ?」
 失礼な。
「え?だって、木村さんってケダモノっぽいですから」
 ちょ、それって酷くね?
「ゆきちゃん、酷いです。訂正してください。木村さんはとても紳士な人ですよ」
「あーはいはい、こんなののどこが良いんだろ、理解に苦しむ」
「もう!」
 あー、完全に女の子の会話だ。分からん。
 お局様こと園田女史はっと、あ、傍観者に徹して我関せずって感じだ。
 この怪しい集団から一歩離れて関係ない人を装っているぞ。
 気持ち的には俺もそうしたい。

 周囲には老若男女、思いもかけないぐらい人がいた。
 まさかこんなマニアックイベントにこんなに人が集まるなんて思いもしなかったが、暇な人間って多いんだな。
 ざっと三十人前後?年代的にはやっぱり二十代ぐらいが一番目立つ。
 しかし、上は六十歳前後っぽい老紳士や下は小学生だろ?って感じの男の子がいる。
 なんかこれだけ見ると普通の週末のイベントのようだ。
 このままゴミ拾いとか始めた方が社会的には貢献出来そうだな。
 観察していると、このイベントの主催者らしき集団に見当がついた。
 園田女史と反対側の端っこ、ベンチに荷物を置いて、どうやら打ち合わせをしていると思われる男三人女二人の小集団がそれっぽい。
 置かれた荷物の中に、今時めずらしい大型の録画用カメラがあるなと眺めて見て、それが分析機能の付いた研究用の物である事に気付いた。
 すげえ、あれ車一台分ぐらいの値段するんじゃね?
 もちろん手持ち用の物だから分析機能と言っても限界があるが、波動や音波、対象の表面温度の分析記録とか最低限の事は記録してくれる。
 恐ろしい。
 金持ちの道楽だろうか?遊びに本気ってやつか?
 感心していると、その集団の一人が御池さんに気付いて声を掛けたようだった。
 そして御池さんが一緒にいた伊藤さんを紹介している。
 そいつらの中心らしい優男がにっこり笑って手を差し出したりしていた。
 死ねば良いのに。

 イラッとした俺の肩をぽんと誰かが叩いたのに気付いて振り返り、思わず上げそうになった声を飲み込む。
「てめぇ」
「感激です!お兄さん、やっぱりこういう事に興味がありますよね?それとも今日は潜入調査とかですか?こういうシロウトに毛が生えたような連中が暴走すると危険ですからね。も、もし僕でお役に立てるならなんでもおっしゃってくださいね!」
 そこにいたのは、あの英雄フリークとかいう大学院生だった。
 最悪だ。
 俺は心の内で唸り声を上げて、運命を司る何者かに呪いの文言を吐き出したのだった。



[34743] 42、おばけビルを探せ! その四
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2013/03/28 04:31
「いやあ、以前たまたまこの連中の活動を見掛けましてね。素人が安易に怪異に触れるような事があってはならないと、それ以来この探検会とやらには参加するようにしているのですよ。無知なる者を正しく導くのはいわば知ある者の義務ですね。しかし、まさかそのおかげでこうやってお兄さんに出会えるとは、これはもう運命でしょう!天のよみしたもうた宿命に違いありません。ああ、なんという感動でしょう。私は人に作られし神の歴史を知りしゆえ、神の幻想には懐疑的ですが、こうも奇跡を突き付けられると、思わず信仰心が芽生えてしまいそうです」
 そうか、俺は悪魔の実在を信じてしまいそうだけどな。
 というか、ツッコミ所が多すぎてツッコめないわ!
 もし本当にこいつとの出会いが運命というならそんなもんは断固として断ち切ってやる。絶対にお断りだ!

 変態のあまりの浮かれっぷりに、俺の精神がヤスリに掛けられたかのようにザリザリ削られていくのを感じる。
 まだ何も始まって無い内に、早くもギブアップしたくなって来たぞ。
 ほんと、俺もう帰って良いかな?
「先生!」
 主催者らしき優男がこっちに向かって来るのが見えた。
「先生、そちらの方は?」
 その男が声を掛けたのは、まごうことなき変態に、であった。
 ちょっと待て、こいつ大学教授じゃなくてただの助手だったよな?
 なんで先生呼ばわりされているんだ?まさか身分詐称か?
「いやあ、先生なんて分不相応だとは思うのですが、彼等が私の知識に敬意を表してそう呼びたいと頼まれてしまいましてね」
 俺の訝しげな視線に気付いたのか、変態は照れたようにそう説明した。
 照れるな、キモイわ。

「良く聞き給え、こちらは……」
 得意げに俺を紹介しようとする変態の靴の上からすかさずその足を踏みにじった。
 もちろん理由はある。
 何か嫌な予感がしたからだ。
 痛みのあまりか、絶句する変態を横目に、俺は自分の紹介を引き継ぐ。
「実はうちの妹が彼と同じ大学の研究室に所属していて、それで顔見知りだったんです」
 営業スマイル。
 まあ、俺は営業じゃないから意味などないかもしれんが。
「そうなんですか、それは心強い!やはり怪異や霊に興味がおありなんでしょう?よろしく!同士はいつでも歓迎しますよ!」
 う、こいつもテンション高い。
 当然と言えば当然だが、御池さんと同類の匂いがプンプンとするぞ。
 やばい、そうじゃないかとは思っていたが、どうやらここは人外魔境だ。
「あれ?木村さん、先生と知り合いだったんですか?」
 そこへ御池さんが伊藤さんと園田女史を引っ張ってやって来た。
 気の毒に、お局様は酷く居心地が悪そうだ。
「みっちゃんもこちらの方を知っているんですか?」
「知っているもなにも、木村さんを連れて来たのは私ですよ」
 なぜか威張る御池さん。
 ていうかみっちゃんって……小学生のあだ名か?
「ほほう、君はこの方と親しいのかね」
 変態はいつの間にか復活し、なぜか険しい顔で御池さんを見た。
「え?はい!会社の同僚なんです」
 元気の良いお返事だ。
 なんでこんな変態に対してその態度なんだろう。不思議でならない。
「なんだと!」
 そう叫ぶと、変態はまるで背後から不意打ちでも食らったかのようにふらついた。
 おいおい、今度は何を始める気だ?
「か、会社だと!下賤な奴隷の棲み家ではないか!」
 思わず俺は奴の襟首をひっ掴むと、仔細構わず引き摺ってその場を離れる。
「ちょっと内々の話があるので失礼します」
 一応断りを入れると、
「あ、はい」
 事の経緯が分かっているのかいないのか、代表らしき優男が毒気を抜かれたような顔で俺達を見送った。
 うん、その素直さは好感が持てる。

 ズルズルと変態を引き摺って、集団から離れたベンチまで辿り着く。
 どさりとそこに変態を放り出すと、ぐったりとしたまま動かなかった。
 嫌がらせか?
「おい」
 触るのも嫌だが、仕方なく襟首をもう一度掴んで仰向かせると、目は半分開いているものの焦点が合っていない。
 あのぐらいで意識が朦朧とするとか、どんだけ虚弱体質なんだ、面倒臭い変態だな。
「おいこら起きろ!」
 取り敢えず揺さぶってみる。
「あ……?おお!ここが鬼伏せの隠し里ですか!」
 意識が戻ったと思ったらいきなり訳の分からない事を叫びだす変態。
「正気に戻れ、ここはのどかな日曜の公園だ」
 俺の言葉に、ようやく周りを見回した変態は、なぜか幸せが束になって逃げ出しそうな溜め息を吐いた。
 まあこいつが不幸になる分には何の問題もないから良いんだが。
「おい、貴様、何のつもりだ?」
 とにかく話を進めよう。
「ええっ!?それはもちろん、隠し里で英血の方々に囲まれて、そのお力を間近で味あわせて頂きたいと望んでいます!」
 おいおい、なんだその特殊な趣味は?嫌な自殺志願者だな。
 死ぬなら一人で勝手に死ねば良いだろうが、うちの里に迷惑掛けるな。
「お前の変態な最期の望みなんぞ聞いて無いわ!てめえ、さっき俺の同僚に向かって何言おうとしやがった?」
 俺の言葉に突然夢から覚めたように、カッと目を見開いた変態は、やにわにベンチの上に立ち上がった。
「やめろ、馬鹿!」
 叫ぶなり、今度は胸倉を掴んで引き倒す。
 目立ち過ぎだろ!どんだけぶっ飛んでるんだこいつの頭は!
 しかし、変態はへこたれる事なく熱く語った。
「選ばれし者を家畜のごとき生を生きる者の集う会社などという名の畜舎に放り込むなど正気の沙汰ではありません!その作戦の意義は一体どこにあるのですか?私としては立案者に真意を問いたい所です!」
 会社員が奴隷から家畜にランクダウンしている事についてはともかくとして、ここは、「お前どんだけ社会を舐めてるんだ?この消費社会の礎をいったい誰が築いていると思ってる?」とでも思いっ切り説教したい所だが、今はそれどころじゃない。
 どうやら俺達の様子を訝しく思ったらしく、先程の連中がこっちをじっと窺っているのだ。
 まあ当然と言えば当然だろう。
 下手するとすぐにでもこっちへやって来そうな雰囲気だ。
「良いか、俺は自分の意思で働いているんだ。職場を侮辱するのは許さないからな」
 声を低めに脅し付けるように言う。
 経験上、この手のタイプは言葉も感情もはっきりと示さないと、自分勝手に解釈してこっちの意思が正確に伝わらない場合が間々あるのだ。
 なので言葉に誤解が生じる余地があってはならない。
 しかし、それでも俺は甘かったようだった。
 変態は、しばし俺の言葉を理解しようとしてか、沈黙していたが、やがて真剣な顔をこちらに向け、噛み締めるように言ったのである。
「なるほど、怪異を知るには世情を知る必要があるという訳ですね。なんと深いお考え。浅慮な我が身が恥ずかしいです」
 くっ、駄目だ、これでも言葉が通じてねえ。
 なんかものすごい敗北感が湧き上がって来やがるぜ。
「あ、ああ、もう好きなように考えてくれ。ともかく、仕事や同僚を悪く言うな!ついでに俺の血統やハンターの仕事の事は他人に言うな」
「はい、不詳この木下真、粉骨砕身の覚悟でご期待に応えます!」
 いや、何の期待もしてないから。
 余計な事だけはしてくれるなよ。

「あの、お話は終わりました?」
 思った通り、すぐにやって来た優男君が心配そうに俺達に問い掛ける。
 そりゃあ、突然ベンチの上で立ち上がったり片膝ついて頭を地面に押し付けたりしてたら不審に思うよな。
 それにしてもこんな奴を先生呼ばわりするとは、どんだけ肝が座ってるんだ、こいつら。
「あ、はい。どうも飛び入りなのにお邪魔をしてしまったようで申し訳ありません」
 実際、彼らは何も悪いことはしていない。
 多少変わっていようとも趣味は趣味。
 休日に趣味を楽しもうと思うのは普通の事だし、少々その趣味がおかしくても、ちゃんと社会のルールを守っていれば問題ないのだ。他人がどうこう言うような事ではない。
 それなのにせっかくの楽しみに水を差したのはこっちの方だ。思えばちょっと悪い事をしたな。
 なんて、多少好意的に思えたのはこの時までだった。
「いえ!それで、実はみっちゃんに聞いたのですが、木村さんはオカルトに詳しいとか。なんでもお一人であっさりと悪霊を退治した事もあると伺いました。素晴らしいです!我ら『謎謎探検隊』一同、心から歓迎いたします。今後ともよろしくお願いしますね!僕は『愛マイ』こと坂上一郎と言います。どうかよろしくお願いします!」

 ……。

 えっと、御池さん、何をこの人に吹き込んだのかな?
 この日、人外魔境においては、変態を一人抑えたぐらいで決して油断してはいけないのだという事を俺は学んだのだった。



[34743] 43、おばけビルを探せ! その五
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2013/04/04 05:40
「それでは資料は行き渡りましたか?マップ上のチェック箇所がこちらの把握している目撃情報のあった場所になります。携帯をお持ちの方はマップ裏の記憶印章をカメラでチェックしていただけますと、データが衛星マップとリンク出来ますので更に便利だと思います。基本的に探索は私達が管理するのではなく、それぞれ各自の責任で行なっていただく事になります。イベントとして行うのは、この情報提供と、報告情報の集計、我々の探索の中継の三点のみです。独自探索を行われる予定の方は、中央都民としての常識の範囲内で行い、侵入禁止区域などには入り込んだりしないよう、よろしくお願いいたします。くれぐれも楽しいイベント中に、参加者逮捕などという事態にならないようにお気を付けくださいね。今後の予定としましては、我々サークルメンバーは二班に別れ、メイン班はリアルタイムでネット上のサークル広場にて映像を配信致しますので、ご自分で探索する事が面倒だとお思いの方はそれを見るだけでも雰囲気は味わえると思います。成果報告と反省会は十八時を予定しています。報告にはなんら義務は発生しませんので、それ以前に帰宅なさっても全く問題はありません。反省会後のオフ会に関しましてはお店の予約がありますので、今から十五分後までに私かそちらのみっちゃんまでお申し出ください。尚、サークルへの入会申し込みはネット上、サークル広場からのみ受け付けております。それでは、都市城壁という檻の中でうつつと夢の狭間を彷徨う冒険をお楽しみください。ご静聴ありがとうございました」
 コンサートや演劇公演のような熱狂はないものの、心から楽しそうな拍手が起こる。
 中には口笛を吹いてる連中もいた。
 どうやらイベントと言っても、全部を彼等が管理する訳ではなく、資料だけを配って後は自主性に任せるものらしい。
 あれだな、学生時代にやった、都会に一泊しての社会見学に似ている。
 班ごとに自主的調査をして、後でレポートを提出するやつだ。
 そういや、あん時うちの班は一目散に遊園地に行ったんだっけな。
 楽しいひと時だったが、後から先生にレポートは絵日記じゃないし、社会見学は遊びではないと大目玉を食らったものだ。

「木村さん、大丈夫ですか?」
 ふと、伊藤さんが心配そうに声を掛けて来る。
 大丈夫ですよ、単に現実を直視しないようにしているだけですから。
「ええ、恐らくもうちょっとだけ現実逃避させていてくれたら、きっと何もかもが終わってるんじゃないでしょうか?」
 今直面している状況が現実だと認めるのはあまりにも辛すぎるじゃないですか。
 俺の答えに、伊藤さんは首をブンブンと激しく振ると、縋るように俺を揺さぶった。
「わ、私が付いてます。一緒に頑張りましょう!」
 カワイイ。
 そうか、これが話に聞くところの子犬のような目か。
 あ、なんか癒されるな。
 これで目前で展開している事態が夢幻ゆめまぼろしならもっと言う事無いんだけどな。
 いつの間にか俺達は場所を移動していた。
 都民の憩いの広場である公園の駐車スペースに、思いっきり場違い感を振り撒きながら停まっているゴツい装甲車のようなワゴン車の中は、まるでテレビジョンの中継車のごとき有様で、びっしりと機材が張り巡らされていた。
 先程アジテーションさながらの演説をかまし、日曜の公園を異空間に変えた優男と、車内で機材を弄っているレスラーと見まがうような大男が細かい打ち合わせらしきものをしている。
 そしてそれを遠巻きに眺める先程の聴衆。
 お前らアイドルの追っかけかなにかか?

「えっと、すいません。お兄さんは弐班に入っていただけますか?」
 いつの間にか、恐らくあの変態の影響で、ここの連中は俺をお兄さんと呼び始めていた。
 そういえば、俺はあの変態にお兄さんなどと呼んで良いとは言っていない気がする。
 場所柄を配慮してか、お兄様などと呼ばないだけマシか?いや、根本的な問題はそういう事じゃないよな、多分。
「壱班はネット中継で姿を流しますので、立場的にあまり顔を出したくないメンバーは弐班に固めているんですよ。先生は壱班に来ていただきますので、お兄さんは弐班の指導をよろしくお願いしますね」
 いや待て、おかしいだろ?
 俺はそのサークルとやらのメンバーじゃないんだぞ?
 なんで当たり前のように頭数に入れられているんだ?
 しかも指導とか、俺はオカルト学の権威とかじゃないからな。
「それは困る!」
 流石に現実逃避している場合ではないと、抗議しようとした俺の、正にその機先を制するように、変態野郎がなぜか猛然と抗議を始めた。
「これは私に与えられたチャンス!いや、使命とも言えるであろう機会なのですよ!彼をサポートし、導くのは私の崇高な役目なのです!それを棒に振るのはむしろ罪と言わざるを得ない!なので断固として木村氏と同じ班を希望いたします!」
「先生、しかし、先生の解説は今やうちの中継動画の要です。それを失うのはこちらとしては痛いのですが」
 優男は困惑を隠し切れない。
 さすが変態は変人とは格が違うようだ。
 こんなおかしな事に情熱を傾けているような連中をも困惑させるとは、半端のない空気の読めなさである。
「俺からも言わせてもらうが」
「お兄さん」
 俺の言葉に、変態は何か縋るような目を向けて来たが、こいつが子犬のような目を向けるとキモイのはなぜだろうか。
 俺の記憶の中の先程の伊藤さんの純真なまなざしが汚れるから速攻やめて貰いたい。
 ともあれ、俺は俺本人を無視したまま決定しそうな事態に割り込みを掛けた。
「あんたは彼等とずっと一緒にやって来たんだろ?私情でその信頼を放り出すような真似は感心しないな」
 俺がそう言うと、変態はまるで感電でもしたかのように大袈裟に体をびくりと震わせた。
 もうここまで来ると、こいつはわざと大袈裟に振る舞っているようにしか思えない。
 こんな天然の変態が存在するはずが無いからだ。
 いや、存在してはならないからだ。
 しかし、何が楽しくてそんなフリをしてるんだかしらんが、何かヤバい精神疾患を患っているように見えるから速攻止めた方が良いぞ。
「そうでした。そう言えばハンターは決して仲間を見捨てないものと聞きます。彼らを信奉する者として、仲間を見捨てるような言動は唾棄すべき行為。……なんという恥ずべき行いを私はしようとしていたのか。我が身を恥じるばかりです」
 変態のやや大袈裟な反省に、リーダーの優男はあからさまにほっとして俺に感謝の目を向けて来た。
 感謝などいらんから俺に変な期待をするのを止めろ。
「それでは弐班の代表のみっちゃんは、これをお願いします」
 御池さんにヘッドフォンとマイクが一体になった、いわゆるヘッドセットのような物が手渡される。
 コードは無いので無線タイプか。
「これは?」
 御池さんに聞いてみる。
「携帯だとリアルタイムの情報交換に不便でしょう?これは指向性のある同一波動帯で相互通信可能な……」
「ああ、単結晶分体通信ですか。最近のは随分コンパクトなんですね」
 俺が感心していると、御池さんは気軽にそれを寄越してくれた。
 手に取ると、見た目より結構軽いのが分かる。
「よくご存じですね。最近はすっかり使われなくなってしまいましたが、僕が子供の頃は少年探偵団の秘密道具などとして随分流行ったものです。通信範囲は1kmに満たないのですが、他と干渉しないのでこういった込み入った都市空間ではけっこう使えるんですよ」
 それを見ていた優男が嬉々として解説を始めた。
 この手の物も好きなんだな。
「確かにこういう場合には威力を発揮する通信道具ですね」
 よくある電算機パソコン音声通信ボイスチャット用と言われても納得するような最近の流行のデザインのそれは、結晶体の格納部分が、デザインにもなっているグリーンラインの中に上手く組み込んである。
 見た目と機能性を両立させた良い造りだ。
 以前はトランシーバーと呼ばれていた手持ちの四角いタイプで、せいぜい範囲は100m程度が一般的だったと聞いていたが、すっかり廃れたと思っていてもちゃんと進化していたりするもんなんだな。
「木村さんはうちの会社の凄腕エンジニアですからね。機械からくりには一家言あるんですよ」
 なぜか御池さんが自慢げに説明している。
 そんな大層な話じゃないだろ、ちょっと興味があるだけの話だ。
 そう思って、件のヘッドセットから視線を外すと、なぜかその場の視線が俺に集まっていた。

「ほう、システムエンジニアとかですか?」
 優男くんが感心したように言うが、それは違う。
 というか、今の話の流れでどうしてそっちに行くのかな?
 まあ今はエンジニアって言ったらそっちのイメージが強いか。
 電算機パソコンや機械言語を組み込んだシステムが社会に浸透しているもんな。
「違います。木村さんは調律師なんです」
「おお!魔法使いですか!」
 古い!
 今時調律師と聞いてそんな称号を連想する奴なんかそうはいないぞ。
 こいつせいぜい二十歳そこそこにしか見えないくせにえらく感覚が古臭いな。
 この単結晶分体通信と良い、もしかしてあれかな?懐古主義者クラシックマニア
 そういう方面なら俺も嫌いじゃないので、ちょっとだけこの優男に好感を抱く。
「是非実技を見せて貰いたいですね。最近は一般の機器には人造鉱石が使われるようになって魔法使いは激減していると聞きました」
 うん、その称号恥ずかしいから止めて欲しい。
「最近は省エネが叫ばれる関係もあって、また調律の需要が増えて来てはいるみたいですね」
 調律師はそれこそ誤差範囲の調整が得意なので、同じ構成でも消費効率を上げたりとかにはお役立ちなのだ。
「時代が変わったならではの需要もまたあるという事ですね」
 ふむふむと、付き合いではなく熱心に聞いている。
 やっぱりそういう物全般に興味があるようだ。
 よくよく考えれば、オカルト学も流行ったのは一昔前という話だし、嗜好において一貫性があると言うべきなのかもしれない。

「愛マイさん、そろそろ行きますよ!」
 さすがに焦れたのか、変態野郎がその優男を急かして、話はそれまでとなった。
 くそ、現実を思い出させやがって。
 出来ればずっと技術系の話をしていたかったな。
 なぜか怪しい集団の相談係になってしまった現実とか直視出来ないぞ、俺は。

「私達の担当はビジネス街近くの方ですね。実を言うと目撃情報は高層ビル街を遠景で見れる場所の方が多いんです。近いと却って見えないみたいなんですよね、不思議です」
 御池さんがそう説明するが、その“おばけビル”とやらが結界に囲まれているのなら近くからの方が確認し難いのは当然だ。
 むしろ問題なのは、遠景からとはいえ、“見せている”という事の方である。
 わざわざそうしているのには当然ながら理由があるはずだ。
 この場合一番ありそうなのが撒き餌としての効果を狙っているという線だ。
 こうやって興味を惹き、探させる事によって、何か事を起こそうとしている、或いはおびき寄せようとしていると考えれば、今回のイベントとやらが危うさを孕んでいる事が分かる。
 さすがに嫌だからと言って放置する訳にはいかないだろう。
 同僚が絡んでるとなれば何かあったら寝覚めも悪いしな。

 今のところ周囲に漂う陰気や瘴気は薄い。
 都市機能として、なんらかの方法で賑わいのある場所のそういった負の気を散らしているようで、この都市は全体的に人口密度の割には瘴気が薄い傾向にあった。
 ただ、今となっては終天が入り込んだせいでその機能が上手く働いているかは疑問の残る所だが、休日の賑やかさに比して考えればほとんど清浄とも言えるような空気が周囲を漂っている。
 どうか何事も起こりませんように。
 案外と楽しそうに壱班の中継を見ている御池さんと園田女史を一瞥し、どうにもイベント内容的に場違い感のある若手インディーズミュージシャンのようなカップルに冷ややかな視線を流し、なぜかずっと俺の傍にぴったり寄り添っていて俺を硬直させている伊藤さんを注視する。
 今日のワンピースはふんわりとした生地で、触ったら柔らかそうだなとか思ってしまうので、出来れば離れて欲しいような、離れて欲しくないような……いや、そうじゃなくって。
 何かあった時にこの人達を守りきれるのだろうか?と自問するも、答えは出ない。
 俺は守る為の戦いはあまりやった事がないのだ。
 どう考えても不得意分野である。
 ここは一応由美子に連絡入れておくべきだろうな。

 本当に、何事も無く過ぎてくれれば良い。
 そんな願いなど無駄な事を心のどこかでは知りながらも、やはり願わずにはいられない。
 そういう諦めの悪さが、俺というものの本質なのかもしれないと、そんな風に思いながら。



[34743] 44、おばけビルを探せ! その六
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2013/04/11 04:46
 センター街からビジネス街に向かう道は飲食店と落ち着いた衣料品、それに書店、雑貨を扱っている店の多い比較的落ち着いたエリアだ。
 区画整理を免れた古い商業地区でもあるので、この都市が結界に護られる前から営んでいるという店も多い。
 いわば日常的な空間だが、それでも休日ならではのどこか楽しげな人々が数多く通りすぎて行く。
 そういえば、こっちに出て来てから趣味の機械からくりの材料を買う以外で昼間に外出ってほとんどしてなかったんだよな。
 会社帰りとか飲みに行くとかは大概夜だし、昼に賑わう街というのは最近になって知った気がする。
 俺の世界って結構狭かったんだな。

 などと、ゆっくり感慨に耽っている暇は実は無かった。
「まずはそこの路地からはどうでしょうか?」
「俺の勘が告げている!おばけビルはこっちだ!」
「あ!駄目ですよ。ちゃんとチェックしながらじゃないと!……あ、はい、こちらの位置は今E5からF5方面に向かっています。今の所新たな発見はありません」
 見た目は少しヤバげなのに無邪気にはしゃぐガキ共と、ヘッドセットを着けて、まるで独り言のようなものをはっきりと口にし続ける若い女性。
 どっからどう見てもおかしい。
 ここにテレビジョンの中継用カメラでもあれば、良くあるバラエティ番組の収録なのかと思って安心出来るのだろうが、周囲の目は受け入れ難いモノを見る、すごく冷ややかなものだった。
 自然と部外者三人組は距離を空けて他人を装う事になる。

「ここはあれですよ、園田さん、年の功で今の状況から逃れる為の方策を授けていただけないでしょうか?」
 面倒な状況を打開するのに必要なのはなにより経験だと思う。
 そこで、俺はこの中で一番年長の園田女史に頼った。
「それはもしかして当て付けですか?」
 園田女史は眼鏡をくいっと持ち上げて俺を睨む。
 いやいや、年齢を重ねる事にそんなネガティブにならんでも良いと思うんだけどな。
「割りと切実です。変な意味は無いですよ?」
 そもそも腹芸とか俺無理だから、裏読みとか無駄ですからね。
 園田女史は、はあっと息を吐き、俺に向かって首を横に振った。
「私の経験上、こういう場合は事が始まってからキャンセルすると互いの感情的に最悪の結果を招きます。この場は最後まで付き合うしか無いでしょう。次からはきちんとお断りすれば案外と禍根は残らないものです」
「……すごくためになりました」
 よし、とにかく今回は無難に凌ごう。
 ヤバそうな所はパスすればむしろ危険は避けられるだろうし。
「路地は全部確認するんすか?」
「何言ってるの!路地だけじゃないわよ、ビル街まで見渡せる隙間は全部よ!」
「やっべえテンションだね、このお姉さん」
 十mそこそこは距離を置いてるはずなのに前方の三人の声がここまではっきりと聞こえる。
 恐ろしい。
「あ!みんな何しているんですか?遅れていますよ!」
 どうやら見付かってしまったようだ。
 そして、その僅か一声と共に、周囲の人達からの視線が、俺達も同類と認識されたものへと変わる。
「あ、ええ、ごめんなさい。直ぐに行くね」
 伊藤さんが俺達を出来るだけ庇う為か、自ら前へ進み出た。
 いやいや、そんな無理しなくても俺だって腹は括ってるから。
 俺はその伊藤さんの手を取ると、一緒に異空間へと突入したのだった。

「もう、デートじゃないんですから二人の世界を作らないでくださいよ!」
 二人の世界だと!?デート!?
 あ、いやいや、それは嫁入り前のお嬢さんに向かって言っちゃ駄目だろ。
 俺は嬉しいけど。
「御池さん、園田さんも一緒にいるんですが、無視ですか?」
「あら、おじゃまなら帰りますよ」
 俺のツッコミに便乗してのまさかの園田女史の裏切り。
 さっき言った事と違う。
「もう、遊びじゃないんですからね。真面目にやってください」
 そんな俺達のこまごまとした気遣いのやり取りをまるっと無視した御池さんのその言葉に、俺はかつてない程の衝撃を受けた。
 遊びじゃ、無い……だと?
 え?いや、君達趣味でやってるんだよな?これ。
 まさか命掛けてるとか言わないよな?

「みっちゃんさん。そいつ本当にオカルトに詳しいんですか?なんかそれっぽくないってか、はっきり言って嘘くせえ」
 口が悪いこいつは、一見売れないミュージシャンのような見た目で、派手な化粧の彼女を伴って来ていた。
 中身も見た目に違わぬガキな野郎のようだ。
 どうやら俺が見た会話記録チャットログで、『俺俺』とかふざけたチャットネームを使っていたのがこいつらしい。
 それと併せて聞いたんだが、御池さんの呼び名の『みっちゃん』もチャットネームとの事だった。
 道理でなんか違和感があると思ったんだよな。
 なのでこいつみたいにみっちゃんさんなどというふざけた呼び名でも厳密にはおかしくは無い訳だ。
 いや、実際に耳にするとおかしいけどな。
「本当なんですよ!木村さんがやっつけたあのおばけ、すっごい不気味だったんですから」
 あれね、うん、正確に言うとおばけじゃないんだけどね。
 思えばあの時会社でカケラとは言え、怪異に関わってしまった事が俺の運の尽きだったのかもしれない。
 家を出る時はあれ程二度と怪異に関わらないと、無難で普通の人生を過ごす事を堅く誓ったのにな。

「じゃあ、何か不思議現象を発見するコツとか教えてくれよ」
「そーねー、ユージのゆーとーりだね」
 何故か急に俺に絡み出すガキ。
 彼女の前でいきがりたいのか?ああん。
「き、木村さん」
「あんた何子供相手にマジでガン飛ばしてんの?」
 伊藤さんがそっと俺の袖を引き、園田女史が俺の頭をはたく。
 ちょ、お局様何をなさるんですか?
 しかし、女史の言葉にカチンと来たのはガキの方だったらしい。
「おばはんはすっこんでな!」
 なんと、命知らずにも女史に噛み付いたのだ。
「なんですって!?」
 オフィスでの地味さとは違って、少し若い印象の装いをしている今の園田女史にとって、それは許し難い言動だったらしい。
 押さえた赤に彩られた唇が、怒りの為にギュッと持ち上がる。
「待ってください!お二方共落ち着いてください。それにそちらの貴方、そもそも木村さんは本来あなた方のグループとは関わりは無いんです。たまたま会社の同僚に誘われたからと純粋にご好意であなた方に協力して下さっているんですよ。そういう言い方は失礼ではありませんか」
 一触即発の二人を押し止めたのは伊藤さんだった。
 しかも彼女はいかにも理屈より暴力といった見た目の「俺俺」くんに向かって、キッパリとした口調で俺を擁護したのである。
 なんかちょっと感動的だ。
 その言葉に、「俺俺」くんは少し怯んだものの、納得したという顔ではない。
 更に何か言って来そうな様子だ。

「ちょい待ち。あのさ、えっと、俺俺、くん?」
 ここで行かなきゃ男としてちっと恥ずかしいよな。
 という事で、俺は伊藤さんとガキの間に割って入った。
「あんだよ」
「君はさ、このオカルト探検ってのが好きでやってるんだろ?」
「そうだよ!だからマジだしよ、いい加減な奴はムカつくんよ」
 しかしトゲトゲしてるな。若いって言ってももう大学生ぐらいだろうに、この年頃ってのはこんな風に大人に突っ掛かるのが普通なのか?
 俺ももしかして学生時代こんなんだったのかな?親に反抗はしてたよな、確かに。
 そう考えると、こいつを見てるのがなんとなく恥ずかしくなる。
「今の君を見ていると到底そうは思えないな。少なくとも好きな事やってる奴の顔じゃないね」
「んだと?」
「気持ちは分からないでもないよ。自分の大事な場所にそれを理解出来ない奴がズカズカ入り込んだみたいで嫌なんだろ?」
 俺の言葉に「俺俺」くんはむっとしたように黙り込んだ。
 そういう気持ちは俺にだって分かるつもりだ。
 なにしろ高校までは世界の中心だった家族に、俺の求める事に対しての理解者はいなかったからな。
「好きな物を安く見られたくないならまず自分が楽しんでみせろよ。たとえ本当はつまんない事でもな」
「つまんなくねえよ!」
「へえ?」
「くそっ、おっさん、見てろ!」
 そう吐き捨てると、「俺俺」くんはダッシュで建物と建物の隙間を確認し始める。
 どうやら一刻も早くおばけビルを発見して自慢する方向に意識が向いたらしい。
「あ、待ってよ、ユージ」
 そういえばさっきも呼んでたけど、そっか、「俺俺」くんの本当の名前はゆうじと言うんだな。
 変な渾名(チャットネーム)よりはそっちの方が良いんじゃないか?

「ふ、木村さん、人付き合いは苦手だと思っていましたが、結構やりますね」
 それまで傍観していた御池さんがニヤニヤしながらそう言って来る。
 え?なにそれ、俺、会社で普通に同僚と会話しているだろ?
 そりゃ女子社員とはほとんどしゃべらんけど、それは他の男連中も同じだろ?佐藤以外……。
 えっと、気付かなかったけど、俺ってもしや付き合いの悪い地味で暗い奴とか思われてた訳?
 ……うわあ、笑えない。

 そんなふうに悶々としていると、えらい勢いで突っ走っていったはずの前方の賑やか組が、更に賑やかに何か騒ぎ出していた。
 気付いた御池さんがそれを確認に走る。
 凄く嫌な予感がするぞ。
 万が一の不安につき動かされるように続いて走り出した俺の後に二つの軽い足音が続く。
 あー、出来ればこっちの二人には離れて待機していて欲しかったんだけど、仕方ない、取り敢えず確認が先だな。

「どうした?」
 騒いでるカップルはひとまず放置で御池さんに尋ねる。
「あ、木村さん、俺俺さんの彼女さんが、あそこに路地があるって言うんですよ」
 御池さんの示す場所には、古い八百屋と酒屋が軒を連ねている昔からの商店街といった感じの一画があった。
 長屋造りのそこには、一見隙間などなく、ただ店舗を分ける為の壁が二枚分の厚みで仕切りを作っていて、その曖昧な場所にお互いの店の商品が箱やケースに入った状態で積んであり、下手に触ると崩れ落ちそうになっている。

「マジ、ここに通路があるんだって!狭くて汚いけどあっちまで抜けれそうなんだよ!」
「おいおいマジか?俺にはどう見ても荷物と壁にしか見えねぇぞ。ほら、箱にだって触れるし。って、やべえ、グラついてる。あのさ、お前またあのなんとかってヤベー煙草やってるんじゃねえよな」
「あれはユージがヤベーってゆーからやめたじゃん。アタシの言う事が信じらんねーの?」
「お前だってこないだ俺がおばけビル見えたって言った時嘘だって言ったじゃんよ」
「だってアタシには見えなかったし、アタシ嘘言ってないよ」
「俺だって嘘なんかつかねえよ!」
 なんか段々険悪なムードになっているんだが、大丈夫か?
 通行人は異様な集団に関わり合いになりたくないのか、かなりの距離を空けて道の向こう側を流れていて、このままでは営業妨害にすらなりそうだった。

「あ、あの」
 おずおずと伊藤さんが手を上げる。
 殺伐とした空間に一服の清涼剤だな、マジで。
「どうしたんですか?」
「私もそこに通路が見えます」
「本当に?」
 俺の確認に伊藤さんはコクンと小さく、しかしはっきりと首を縦に振った。
「おい、そこの彼女」
 何かお互い日頃の不満をあげつらい始めたカップルの女の方に声を掛ける。
「何?」
 いかにも苛ついた返事が返って来るが、俺に当たるなよ。
「もしかして君、無能力者?」
「そだよ」
 俺の問いに軽く答える彼女。
「おっさんだせえ、ブランクって言いなよ。それって差別入ってるっしょ?」
 今の今まで喧嘩していた「俺俺」ユージ君が彼女を庇うように突っ掛かってくる。
 はいはい、仲が良くて良いですね。
 無能力者ブランクである二人に見えていて俺達には見えないという事は、この目に見えている荷物と壁は何らかの術で作られた偽りの物という事になる。
 マズイ、お遊びで済まない場所にぶち当たったっぽい。

「そっか、まあ喧嘩しててもしょうがないだろ。とりあえずもう少し先に進んでみるか?」
 なんとか無かった事にしたい俺だったが、さすがにこれは苦しかった。
「木村さん!ホンモノですね!」
 御池さんの目が輝いている。
 いや、本物って何の本物よ。
 ダメだから、マジで。
 ブルブル首を横に振る俺に構う事もなく、彼女は例のヘッドセットのスイッチを入れて何事か向こうと交信を始めた。
「ええ、そうなんです!俺俺さんの彼女さんが発見して、ええ、はい、はい、これから突入してみます。そうです、確実になったら合流で、ええ、はい、とにかく調査を続行します!」
 ヤバイ、どうしよう、場を外して由美子に連絡していたらその間にこいつらだけで突入してしまいそうな勢いだ。
 さすがにこいつらだけ行かせる訳にもいかないし、衆目の中で堂々と事情を説明する連絡を入れる訳にもいかん。
 とりあえず胸元を探ってハンター証の追跡信号ビーコンのスイッチを入れるが、事前連絡無しでこれが意味を持つかどうかは分からない。
 なんともマズイ状況になった。
 出来ればなんとか足止めをしたい所なんだがな。

 しかし、現実は過酷だった。
「へへーんだ、アタシ入っちゃうよ?捕まえてごらんよ!」
 俺がそんな考えにとらわれている間に、自分の言葉を身を持って証明しようとしてか、「俺俺」ユージくんの彼女がその見えざる路地に突っ込んで行ったのだ。
「おい、待てよ~」
 続いて「俺俺」ユージくんが突入。
 頼むよ、そんな恋人同士のじゃれ合いは、夏の砂浜ででもやってくれよ!

 そうして、恐らく何者かの術によって隔離された場所へと、間の抜けた突入が開始されたのだった。



[34743] 45、おばけビルを探せ! その七
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2013/04/18 05:04
「う、本当にここに通路があるの?」
 園田女史は、不安定に積まれたビールケースをつつきながら不安げに言った。
 気持ちは分かる。
 不思議大好きで勢いで突入しやがった連中と違って、女史は大人で常識人だ。
 目に見えて触感まではっきりしている物を、いくら理屈では分かっても、幻影だとは思えないに違いない。
 むしろ躊躇なく飛び込んで行った連中がおかしいのだ。
「園田さんはここに待機していて貰えませんか?全員が入ってしまうと何かあった時に助けも呼べなくなってしまいますし」
「な、何かあった時って」
 む?声がうわずっている。
 不安にさせちゃったか。
「不自然な目眩ましですし、万が一、魔術テロとかの可能性もあるかもしれません」
「魔術テロ!?」
 新大陸連合が終わりの魔獣によるテロリズムで甚大な被害を被ったのは記憶に新しい。
 園田女史はゴクリと音を立てて唾を飲んだ。
 あ、益々緊張させちゃったよ、こういう交渉事とか駄目だよな、俺。
「ですから、もし一時間程経っても音沙汰無いようでしたら、うちの妹に連絡していただけませんか?いきなり警察っていうのも事件の確証がありませんから厳しいかもしれないでしょう?その点うちの妹なら、オカルト関連の大学に通っているので、専門家に囲まれています。誰に相談するにしても、万が一通報する事態になっても、専門家ならより正確な判断が出来るでしょうし。あ、これ、うちの妹の携帯番号です」
「え?ええ」
「一時間は長いですけど、ほら、そこに喫茶店があるじゃないですか。あそこからならここも見えるし、なんとかお願いします。一時間も待てないようなら三十分でも良いですから」
 迷っている人間というのは、より心が傾いている方向に行かざるを得ないよう誘導すれば、心理的な負荷を負う事なくあっさりと動いてくれる、というのがうちの弟の言だ。
 その考察通り、最初はどこか納得し切れていないようだった園田女史も、案外簡単に待つ事を受け入れてくれた。
 むしろホッとしているようにすら見える。
「伊藤さ……ん?」
 園田女史と一緒に待っていてもらおうと呼び掛けた俺の言葉は、しかし途中で勢いを無くした。
 彼女は今まさに問題の通路らしき場所に体を滑り込ませようとしていたのである。
「他の人達を見失うといけないから先に行きますね」
 そう言い残し、するりと姿を消した。
「うわあ、待った!」
 慌てて後を追う。
 ああもう、これじゃああのお馬鹿なカップルをとやかく言えないな。
 体当たりで商品の山を突き崩すような、気分的にも嫌な感覚を一瞬感じながら、目眩ましの入り口を通り過ぎると、途端に空気が切り替わる。
 季節的にまだ早いひやりとした冷気が押し寄せ、まるで舞台演出のドライアイスのように、瘴気が重く足元に漂っていた。
 普通の人間ならすくみ上がって足が止まってもおかしくない状況だが、その入口周辺には既に人影はない。
 どんだけ勇猛果敢なんだ?全く面倒な連中だ。

「木村さん、こちらです。急ぎましょう」
 伊藤さんが通路の先からきびすを返して戻って来ると、ギュッと俺の手首を掴む。
 周りの冷気に冷やされてか、その手は酷く冷たかった。
 通路には、狭い隙間にありがちのなんだか分からないゴミや破片が散らばっていて、歩きにくい事この上ない。
 おまけに全体的に薄ぼんやりとした通路の中で出口はそこだけ明るく、もうすぐそこにあるように見えるのに、なかなか辿り着かないのだ。
 まるで騙し絵の中を走っているような現実感の無さである。
「もうすぐです」
「そう願いたいね」
 正直うんざりだった。
 足元でガラガラとかバキバキとか派手な音が聞こえるのを丸々無視して駆け抜け、ようやく通路を抜けると、見慣れたビジネス街が目前に現れた。
 随分長い通路だと思ったら、間道二つぐらい抜いて直接隣の区域にまで続いていたようだ。
 そりゃ長いわ。

 休日のビジネス街は酷く静かだった。
 普段働いている人間がいないのだから当たり前だが、それにしても静か過ぎた。
 人っ子一人いない。
「先に入った連中はどこに行ったんだ?」
「こっちです」
 伊藤さんが俺の腕を強く引っ張った。
 ……いや、それは伊藤さんでは有り得ない。
「他の連中をどこにやった?それにその姿はやめろ、不愉快だ」
 さすがに我慢の限界だった。
 俺はそういう騙し方をされると酷くむかつくのだ。
 こういう場合に、相手の手に乗ったフリをして奥深くまで侵入するとかは絶対出来ないし。
 俺がその細い手首を逆手に掴むと、伊藤さんの姿をした相手はそれを軽く振り払う。
 いや、その軽く振ったように見えた手に籠っていた力は恐ろしいくらいに強かった。
 それなりに構えていたはずの俺が思わず後ろによろめいたぐらいだ。
 普通の人間なら弾き飛ばされていただろう。
「どうしてお分かりに?」
「相手を騙すつもりなら親しい人間に化けるのは止めておくんだな。どうしたって違和感がある」
 だがその一方で、違うと分かっていても攻撃を仕掛ける事が出来ないという効果はあったけどな、教えてはやらんが。
「そうですか、参考にいたします」
 しなくて良いぞ。

 そいつはびっくりするぐらい素直に、しかし一切無表情のまま、表面を覆っていた伊藤さんの姿を消し去る。
 やりにくさが解消されたと思ったのもつかの間、姿を現したその相手に驚きを禁じ得なかった。
「おまえ、」
「お久し振りでございます。以前お会いした時はお小さかったのに、すっかり大きくなられましたね」
「そりゃあ、人間は成長するからな」
 その全身に纏う色合いの全てがほの淡く、ただその両目だけが夕陽が宿ったようにあかい。
「白音、か」

 俺がほんのガキの頃、終天の結界に誘い込まれた事がある。
 白音とはそこで出会った。
 その見掛けはただの色が薄いだけのあどけない少女だが、その実態は人から転身して数百年を経た鬼であり、なによりも終天の腹心中の腹心である。

「あんたが出て来るって事は、これは奴の仕掛けって事だよな。で、それで、他の連中はどうしたんだ?俺が気が短い事は知ってるだろ?隠し立てしないでくれるとお互い嫌な思いをせずに済むぜ」
 尤もこいつに嫌な思いが出来るだけの感情があるかどうかは知らんが。
「こちらから他の方々をどうにかしたりはしていません。あの方達は、自分から迷宮ラビリンスに入り込んだだけ」
「ラビリンス、……迷宮ダンジョンだと!?」
 途端にぞっとした。
 背中に嫌な汗が噴き出る。
「はい。ここはぬしさまのお造りになられた救済の迷宮です」
 感情の窺えない淡々とした声が告げる内容は絶望を示す。
 人の手で作られた幻想迷宮ニセモノではない、伝説級レジェンドクラスの怪異によって作られた迷宮。
 そんなものを攻略した話など、それこそ伝説にしか存在しない偉業なのだ。

「ただ、」
 白音は俺の驚きなど意に介する事なく、更に言葉を続けた。
「この迷宮の最下層であるここは、現実の世界に単に被せたのみの構造になっています。なので、無反響むのうりょくの方は、重なりあった現実の方に抜けてしまわれました」
「無能力者はこの迷宮には入れないって事か」
 という事は伊藤さんは無事か。
 そう考えて、ついホッとしてしまった自分を、俺は心中で激しくののしった。
 あのカップルの女の方も無能力者だったから、今、この迷宮にはおそらく「俺俺」のユージ青年、それと俺の同僚でもある御池さん、少なくともこの二人が先に入り込んでいるのである。
 安心して良いはずがないのだ。

 迷宮は現実となった悪夢。
 何の訓練も受けておらず、何の用意もしていない一般人には一歩歩くだけで死の危険が付き纏う場所だ。
「お連れの方々がご心配なのですね?ですが、一人で闇雲に走りだす前に私の話を聞かれた方がよろしいかと思いますよ」
 思わず走り出そうとした俺の背に、白音は静かにそう呼びかけた。
 その声には無視出来ないだけの力もある。
「どういう事だ?」
「この迷宮は、これまで存在した他の迷宮と全く違う性質を持っているのです」
 そうして白音は説明した。
 千年を超えて存在する伝説級の怪異、終天童子の創り上げたその傲慢さの現れのような迷宮、奴の言う所の「救済の迷宮」の在り方を。



[34743] 46、おばけビルを探せ! その八
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2013/04/25 05:30
 目前の少女の姿の鬼が、まるで幽き巫女が託宣を告げるかのように、半眼となって言葉を紡ぐ。
 実際、彼女には元々巫女の資質があったのだろう。
 そうでなければ、鬼であるはずの彼女の、その特異な有り様は説明が難しい。
 あの、感情がないようにも見える白音という少女は、しかし、人間であった時そのままの自我を保っているのだ。
 本来、怪異に汚染され変化した人間は、なんらかの欲望に特出し、元の人格を歪ませる。
 彼女からは、その歪みが全く感じられない。
 元々歪んでいたという見方もあるかもしれないが。

「この迷宮は、人がビルと呼ぶ建物を参考に造られています。階層毎に区切られた空間、その間を小さく密閉された部屋を接続すさせる事によって移動する。つまりこの迷宮は個々の層が独立していて、それぞれを各個に攻略出来るのです。但し、下層を攻略してからでないと上層へ上がる資格を取得出来ません」
 ……なんだって?
 俺は相手の言葉をすぐには飲み込めず、しばし考える羽目になった。
 迷宮ダンジョンの常識として一番に挙がるのは、その迷宮のボスである怪異モンスターを消滅させなければ脱出出来ないという点だ。
 なぜならその迷宮は、その怪異の発する想念で形作られた悪夢であるからだ。
 だが、今こいつは各層が独立していると言った。

「それはもしかして、各層ごとにそれぞれボスが存在するという事か?」
「そうです。そしてそれらは最上層に迷宮の王であるぬしさまがいらっしゃる限り無限に再生されます。……いえ、もちろん一度の撃破ごとにリセットされ、内部の人間は排出される仕組みです」
 まさか無限に戦わせるつもりかと気色ばんだ俺の顔を読んだのか、白音は最後に言葉を足した。
 どうもよく飲み込めないが、つまり、段階的な強さに対応した迷宮ダンジョンを高層ビルのように積み上げたという事か?
 下の弱い層を突破する事で、下を飛ばしてその上に直接挑めると?
 それじゃあまるで、上層へ挑む為に挑戦者を鍛えているみたいじゃないか。
 いや、今大事なのはそんな事じゃない。

「つまりそれは、この階層のボスだけ倒せば他の連中も出られるという事だな?」
 俺の言葉に、白音は珍しく戸惑ったように見えた。
 違うのか?
「そう、それで間違いない。ええ、今はそれで良いのかもしれない。ただ、覚えていてください。人は今滅びへと向かっている。この迷宮はそれを止める為の一つの道」
「滅びか。あんたはさ、別に人が滅びようとそれを憂いたりもしないだろ?借り物の、おためごかしの言葉じゃ相手に響かないぞ」
 吐き捨てるよに言う。
 何を言っても響かないのはこっちも同じ。
 心を持たない、いや、持とうとしない相手に何を言っても虚しいだけだ。

「私には元より我などないけれど、主さまの意思は私の意思でもある。……だから」
 白音は、その儚げな面差しに似合わない、どこか硬質な笑みを浮かべて見せた。
「だから、ちゃんと話を聞いたご褒美をあげよう」
 そして、途中からその声音は男のものに変わる。
 それは何度か聞いた聞き覚えのある声だった。
 つい最近も聞いたよな。

「終天てめえ!女の影に隠れて覗き見か?最低だな、相変わらず!」
 ニィと、少女の顔が更に似合わぬ笑みに歪む。
「仕方あるまい、俺を前にして貴様が冷静になれるはずも無いからな。まったく、手の込んだ仕掛けよ。いや、いっそ呪いと呼ぶべきか」
 揶揄するようなその口調に苛立ちが募った。
 その苛立ちは、奴が言う所の呪いの血のせいではなく、俺自身の感情によるところだと俺は信じる。

「……主さま?」
 切り替わった細い少女の声が、何かを確かめるように問い掛けを発し、その問うた本人が頷いた。
 おもむろに、白すぎる程白い手が、その懐から古風な横笛を取り出す。
 それを見て、俺は思わず身構えた。
 巫女の能力と言うものは色々と特殊だが、その最たるものが音による世界への干渉だ。
 俺たち精製士の技術理論は、元々巫女の研究から生まれた成果なのだ。
 その多くの場合は歌や祝詞を用いるが、中には楽器を奏でる者もいる。
 そう、白音は笛によって力を発揮する鬼なのだ。

 白音の吹く笛が、高く低く曲を奏でる。
 その曲は、掴めそうで掴めない不思議な旋律だ。
 その響きで、世界はその貌を塗り替える。

 周囲のビジネス街の風景はそのままに、その雰囲気だけが切り替わって行く。
 先程まで、閑散としながらも、"今"の姿を映していたビル群が、たちまち生気の失せた、崩れた廃墟の姿へと変わる。
 やがて音が途切れると、いつの間にか白音の姿は消え失せていた。

「ち、あの野郎、女の後ろに隠れやがって」
 苛立ちから、足元の地面を蹴りつけた。
 連中の干渉が消え、周囲の音や風や匂いが明確になっている。
「ん?」
 微かにどこかから人の声が聞こえた。
 怪異の誘いの可能性もあるが、先に入った連中かもしれない。
 もしそうなら急がなければヤバイ。
 どう考えても予断を許さない状況だ。
 急がないとな。

 声の方向に走り出す。
 時折そこらの草むらからツタが伸びて来て、腕や足を絡めとろうとするが、面倒だから全部手で弾いて押し通った。
 舗装が割れて異様に盛り上がったそこらの地面が更に盛り上がって、なんかボコボコと変な音がしているが、とにかく全部無視だ。

「うわっ!」
「ひやっ!」

 声というか、悲鳴がはっきり聞こえた。
 どうやら第二製薬ビル辺りか。
 あの辺には大きな駐車場があったはず。

「あっち行け!」

 甲高い声と共に瓦礫の一部とおぼしきコンクリート片が左手の角から飛び出した。
 そこか!?
 用心しながらその角を覗き込む。
 それは業者ビルにありがちの、裏手の搬入口へと続くゲートの跡、錆び崩れた門扉の残骸とコンクリの塊を積んで、急場を凌ぐためにこしらえたらしきバリケードが出来ていた。
 おお、素人にしちゃあ冷静に対処してるじゃないか。さすがはオカルト好きといった所か?
 その急場凌ぎのバリケードの向こう側に、かの「俺俺」くんとうちの御池さんの姿を確認してホッとする。
 どうやら大怪我とかもしてなさそうだ。
「ゆきちゃん、投げちゃだめだよ、隙間に詰めないと!」
 その二人の向こうから聞こえて来た声に俺は驚愕した。
 伊藤さん、現実側に抜けたはずじゃ?なんでいるんだ?まさかまたしてもニセモノ?
 いや、ともかく今は目前の状況をなんとかしよう。

 彼らのこしらえたバリケードの前には、初級迷宮の定番とでも言うべき大ナメクジスライムが群れていた。
 生き物であるナメクジと違って、こいつらはうぞうぞと蠢きながら合体したり分裂したりうねったり、なんだかふにゃふにゃした触手をのばしたりと、眺めていると気分が悪くなる事請け合いの行動を繰り返している。
 生き物をその体内に閉じ込めて捕食する怪異モンスターであるスライムは、生物にとって最も身近で、最も恐れられている、原始的な飢えを体現していると言われていた。
 そう言われるのにふさわしく、こいつらは生きてるものならなんでも食う。

「おい!無事か!?」
 声を掛けると、その団子状態のスライム塊がざわざわと波打ってこっちに向き直る。
「木村さん!」
「おっせえよ!何やってたんだよ!それとうちのさっちゃん見なかったか?」
 伊藤さんの弾んだ声、う~ん、やっぱり本物っぽいんだよな。
 どういう事だ?連中が嘘を言った?
 いや、怪異ってのは意識して嘘を言うって事はまず有り得ない。
 もちろん人間から変化へんげした連中や、人間を取り込んだ連中はそうとも限らないが、終天には少なくとも嘘を言う理由がないはずだ。
 
「木村さん!危ない!」

 ひゅん!と、音を立てて、スライムの野郎が細く伸ばした触手で俺の頭を狙って来たのを躱して、通り過ぎながらも方向を変えて再び襲おうとしているそれをピシリと弾く。
 そして、ちぎれ落ちた断片を靴底で踏みにじった。
 うん、ちゃんと戦闘用のブーツにしてきて良かったな。
 普通の靴でこれやったら靴底に穴が開いてたよ。
 ジャケットのポケットから手袋を取り出して両手にはめると、特殊合皮独特の硬く突っ張った感触が指を包んだ。

「ちょっとこいつを引き付けてそこから引き離しますけど、こいつがいなくなっても出て来ないようにお願いします!」
「え?大丈夫かよ?」
「大丈夫ですよ、こいつら足が遅いんです」
「ああ、それは確かに」

 どうやらスライムとの追いかけっこを経験したらしい「俺俺」ユージくんは、なんとなく俺の言葉に納得したらしい。

「木村さん気をつけてくださいね?」

 俺がハンターだと知っている伊藤さんは、俺を案じてくれるが反対はしないようだった。
 てか、やっぱり本物っぽいな。う~ん?

 俺はひょいとスライムの鼻先に接近すると、表面が波打つのを確認して飛び退く。
 ぶわっと、まるで水面に大きな何かを投げ込んだかのような飛沫が噴き出し、それがボテッと塊で落ちる。
 そうやって生成された小さめのスライムがいくつも俺を目指して伸びたり縮んだりしながら攻撃して来た。
 鬱陶しいそれらを躱しながら、その誘いを何度も繰り返すと、完全に狙いを変えたスライム群は一斉に動き始める。
 こいつは、目的によってその姿を自在に変える特性を持つ。
 小さく分裂したスラムは大きいスライムと違って素早いのだ。
 デカイのが力押しの形態、小さいのが素早さの形態ってとこだろう。
 細長く伸びたその姿は、まんまナメクジそっくりだ。

 俺は近付いて伸びて来た所を軽く叩いては躱すという、ヒットアンドアウェイ戦法でそいつらをビルの裏手から引き剥がし、表側に誘導すると、軽く息を吸い込み、一気に攻勢に出る。
 こいつらへの攻撃を有効打にするには少し工夫が必要だ。
 普通に叩くだけでは分裂させるだけでほとんど効果がないのだ。
 だから、こすり上げるように叩く。
 いわゆる摩擦熱でもって内部を焼くという戦法だ。
 こいつらは、実は案外と熱に弱い。
 と言っても、それは内部の話で、表面は熱も冷気も通さないやっかいなものだ。
 ではどうするか?と言うことで俺が編み出したのが、この至極単純な方法だった。
 外から高速で表面を擦り上げるように殴る事で、内部に熱を発生させるのである。
 まあこいつらは全体に強力な酸を纏っているので、普通にそれをやろうとすると負けるのは人間の側の皮膚になるんだけどね。
 という事で、その際には頑丈なグローブを用意してください、っと。

 ううむ、それは良いけど、この弾け飛んだ後の悪臭はどうにかして欲しいかも。
 ……たまらなく臭いぞ。



[34743] 47、おばけビルを探せ! その九
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2013/05/02 05:32
「くせえ、あんたくせえよ、生ゴミ置き場にでも突っ込んだのかよ!?」
 俺俺のユージくんが盛大に顔をしかめて苦情を言う。
 確かに臭いのは同意だが、そういう風に言われるとなんだか不快だ。
 素直さは人の美点とは限らないのだという事をつくづく感じる。

「あの、木村さん、この匂いはもしかしてスライムの体液ですか?」
 伊藤さんが何故か真剣な顔でそう聞いて来た。
「あ、はい、そうですけど」
「良かった!あの……」
 伊藤さんはなぜか喜びの声を上げると、なにやら持ち物を探って白い、可愛らしい刺繍入りのハンカチを俺に差し出す。
「これにその匂いを付けて来ていただけませんか?」
 え?ユージくんの感想に難癖付けといてあれだけど、この匂い半端なく臭いですよ?そんな上等そうなハンカチに付けて良いの?というか、ええっと、もしかして伊藤さんって悪臭フェチとかじゃないよね?
「今、……何か凄く失礼な事を考えませんでした?」
「あ、いえ!」
 鋭い!
 そして伊藤さんのじとっとした目が怖い。
 もしかして好感度下がった?ああ、いっそこの伊藤さんが偽者なら良いのに。
「ちょ、何のフェチかしんねえけどよ、勘弁してくれよ!鼻がへんになっちまうよ!」
 君は本当に自分の気持ちに正直な奴だな。ある意味尊敬するよ、俺は。
 しかしまあ、俺俺ユージくんの主張は当然と言えば当然だろう。
「あたしも、そういう匂いは嫌だな」
 御池さんさえも同意見だし。
「いえ!違うんです!」
 伊藤さんはあわあわしながら否定した。
 可愛いな。
「父から教わったんですけど、スライムの体液は化け物避けになるって。なぜだか分かりませんが、この周辺、化け物だらけになっているみたいですし」
 なるほど熟練の冒険者の知恵か、さすがだな。
 俺なんかは怪異を避けるって発想がそもそも無かったし。
 聞く所によると、冒険者は未開地で狩りや採掘を行なうのに数ヶ月単位、場合によっては年単位でキャンプを設置したりするらしい。
 だからそういう方面の知識は豊富なんだろう。
 正当派の冒険者というのは侮れない存在だ。

「へえ~でも優香ちゃん、どうしてそんな事詳しいの?意外」
 あ、やっぱりそこにツッコまれたな。
 そりゃそうだよね、一般的に知られてる知識とは言えないし。
「うちのお父さん、昔冒険者だったから」
 にっこりと、少しだけ誇らしげに伊藤さんはそう言った。
 おお、いつの間にか伊藤さんはお父さんが隠していた冒険者の過去を受け入れたらしい。
 良かったなあ、お父さん。良い家族だよね、伊藤さんのとこ。
「へえ、かっけえな!なあなあ、今度その親父さん俺に紹介してよ!」
 俺俺のユージくん、君少しなれなれし過ぎるんじゃないか?
 だいたい自分の彼女と離れ離れの状態なんだから、そっちをもっと心配してしかるべきだろ。
「そっか、そう言えば伊藤ちゃんって帰国子女だもんね。大学入る直前に帰化したんだっけ?」
「ううん、お母さんの籍に入ってたから元々国籍はこっちだったの。ずっと海外だったから義務教育を受けそこねただけで」
「へえー」
 俺も心中でへえーと感心しながら、思わぬ情報取得に御池さんに感謝をする。
「それじゃあ、ちょっと行って来るか」
 そうは言ってみたけど、本当にいいのかなあ。
 真っ白いハンカチからは実に良い匂いがして、俺が触れるのさえ悪い気がするんだけどな。
 かつて感じたことのない種類の罪悪感を覚えながら、既に元の形が崩れて消滅し掛かっているスライムの体液にハンカチを浸した。

 伊藤さんは、俺がそうやって精神的苦痛を乗り越えて作成した悪臭を放つハンカチを、どこからか拾って来たらしき棒に括りつけ、バリケードの一画に設置した。
 しきりに自分の手の匂いを心配そうに嗅いでいるのが可愛い。
 うん、でも、まあなんだ、間違いなく伊藤さんにも移ってると思うぞ、その匂い。
 そんな悪臭から距離を取りつつ、俺俺のユージくんがバリケードを解体しようとし始めていた。マズイ。
「ちょい待て。今周辺を確認したが、ここは危険が低いようだし、とりあえずここに待機していた方が良いと思うぞ」
 なんとか止めないと。
「なんだよ、ちょっと化け物が出たぐらい大した事ねえだろ?むしろ謎が深まったじゃねえか。スライムだっけ?こんな化け物滅多に見られ無いぜ!カメラ班が来て現地レポとかやってみろよ!たちまち人気者だぜ、俺ら。そうとなったらどうしてこんな風になったのか調べてみないとな」
 ある意味すげえよお前、思ったより肝が座ってるな。
「いや、後続は恐らく来ないぞ」
 俺は出そうになる溜め息を飲み込んで、なんとか苦手な説得に努める事にした。
「どうしてですか?」
 俺の言葉を聞きとがめて、横合いから御池さんが恐る恐るという感じで聞いて来る。
 こっちは一応怖がっているのかな?
 いや、安心は出来ない。
 何かに傾倒している人間はヤバいからな。
 なにしろ呪術魔法系統の大家である某国から国家機密を趣味の為だけに盗み出す変態とかいたし。
 想像の外の行動をやらかす輩だ、油断は禁物だろう。
「御池さん、その通信装置を試してみました?」
「え?あ、そっか」
 どうやら今迄思い付かなかったらしい。
 必死に逃げ回っていたのだろうから仕方ないよな。

 逃げるのに邪魔だったのか、首に掛けていたヘッドセットを再び耳に装着すると、御池さんは本体サイドにあるデザインロゴを何度か触った。
「アロー、愛マイ、マスター、聞こえますか?アロー?」
 暫くマイクに向かって確認を撮り続けていたが、やがて御池さんは強張った表情で首を振ってみせる。
「全然通じない。それどころかノイズも入らないの。こんな事今迄無かったのに」
「通信装置の故障じゃないのか?ちょっと貸してみろ」
 俺俺のユージくんが御池さんからヘッドセットを取り上げた。
 今更だけど、年上に対しての態度がなってないなこいつ。
 まあ仲間内の遠慮のなさなのかもしれないけどさ。
「スイッチ切り換えの音はするから壊れてはいないと思うけど」
 不安そうな御池さん。
 こういう時こそ押せ押せ理論である。
「それに、」
 俺は畳み掛けた。
「周りの様子が変だとは思わないか?いくらなんでも一日でこんな風にはならないだろう?」
 何しろ昨日まで通っていた仕事場の周辺だ。
 いくらなんでもこの廃墟化は異常すぎると分かるだろう。
「それは私も思っていました。でも、無能力ブランクの私にも同じように見えているんですからこれって幻想じゃないんですよね」
 伊藤さんが不安そうに言う。
 そこは俺も困惑してるんだけどね。
 いや、迷宮自体は人間が仮に作る幻想の迷宮と違って実体化した本物だから、無能力者でも囚われる事はある。
 しかしだ、あの白音の言葉を信じるなら、この迷宮に入り込むには元の場所に被せた幻影を通過しなくてはならないはずなのだ。
 つまり通路が見えている人間は、そもそも迷宮に入れないという事になる。
 まあ、今それを言っても仕方ないし、情報の出処について話す訳にもいかないが。

「あまり知られて無い事なんだけど、実は本物の迷宮は実体化した怪異と同じで、無能力の人でも認識出来る物なんだ」
 どういう拍子か分からないが、ともかく入り込んでしまった以上、無能力者であっても迷宮の脅威は平等に降り懸かる。
 ここは覚悟を決めて貰わないと却って危険だ。
 迷宮という物についてちゃんと話しておくしかないだろう。
「おいおい、まさかここが迷宮だって言うのか!?有り得ないだろ!だってここは結印都市なんだぞ?そういう人外のモノに対しては世界で一番安全な場所だろう?」
 ヘッドセットをしばらくいじって諦めたらしい俺俺のユージくんが俺の言葉にすかさず噛み付いた。
 でもその気持ちは分かるよ。
 俺もね、ちょっと前まではこんな事有り得ないと思っていました。
 専門家なのにこんな体たらくなんだから、この件に関しては君を馬鹿にする事は俺には出来ない。
「しかし、他にこの状況の説明が付かない。迷宮っていう存在は、空間としては独立しているんだ。だから内部から発生したとすればそこに怪異が入り込むのに結界は何の障害にもならない」
 さすがに白音や終天の事を明かす訳にはいかないから、ここは申し訳ないが自然発生の迷宮という線で、俺の推測として押し通すしかないだろう。
 根拠としては弱いが、実態を体感してるせいで説得力はあるはずだ。
「そんな、嘘だろ……あ、さっちゃんはどうしたんだよ!あいつ一人だけはぐれたんだとしたら!」
 ここの危険性を本格的に認識したせいで、自分の彼女が危険だという事に思い至ったのだろう。
 ユージくんは、一度止めた手をまたバリケードの一画に掛けて、抜け出す為の道を作ろうとし始めた。
 男としては正しいが、生き残る為には無茶な行動だ。
 今時は都市部に住むほとんどの人が怪異の脅威を遠いものと思っている訳だが、迷宮の危険については、むしろ昔より周知が進んでいると言って良い。
 おそらくは、その在り方がドラマティックに人の目には映るのだろう。
 迷宮をテーマにした架空の物語や映画などが世には溢れている。
 しかも真偽入り交じっておかしな風にデフォルメされた知識がばら撒かれているので、どこをどう誤解しているのか分からないという始末の悪い状態になっているのだ。
 その辺の教育が上手くいってないのは、一重に迷宮踏破者が極端に少ない事に所以するのだろう。
 出来立ての初級迷宮ですら、踏破される物は世界中で一年に二桁あるか無いか、ある程度年季の入った迷宮など、踏破記録として確認された物は片手に余るという惨憺たる状況なのだ。
 人が迷宮に対して抱く感情は、絶望に他ならない。

 俺は断固として彼を押し留めた。
「とにかく君達は出来るだけ安全地帯を作って待っていて欲しい。おばけビルの噂が出てからの期間を考えれば、ここはまだ初級も初級の迷宮のはずだ。やりようによっては攻略出来なくはないと思う。だけど、それは怪異に対抗する為の知識を持たない人間を同行していては無理なんだ。知っての通り、迷宮は攻略さえしてしまえば中の人間は全て開放される。頼む、ここは俺にまかせてくれないか?」
 この説得の成否に全てがかかっていると言って良い。
 彼らを連れて階層支配怪異(エリアボス)と戦いになど行けはしない。
 どう考えても途中で絶対に誰かの犠牲が出るだろう。
 それどころか、下手をすると、いや、まず間違いなく全滅する予感がある。
「あんた何様だよ!さっきからああしろこうしろとか!何もかも分かったような事とか言っちゃってさ!ここが迷宮だ!?冗談もほどほどにしろよ!ここは高層ビル通りだろ?時々遊びに来るから知ってんだよ!俺はさっちゃんを探しに行くからさ、あんたそこどけよ!」
 心配した通り、ユージくんは納得してくれなかった。
 そりゃあそうだろう。
 俺の言動は色々怪しすぎる。
 俺が彼の立場でも信用しなかったはずだ。
「待って!待ってください!」
 その緊迫した状況に割って入ったのは伊藤さんだった。
「木村さんのご実家は代々祓い師さんなんです!だからオカルト関係の事をたくさんご存知なんです!」
 伊藤さんの言葉に、ユージくんは驚いて彼女の方を振り向き、そして改めて俺を見る。
「本当なのか?」
「あ、ああ、そうだ」
 まあ嘘ではない。
 鬼伏せというのは祓い師と言えなくもない。
 祓うんじゃなくて退治なんだけどね。
「あ、そういえば私も噂で聞いた事がある。一ノ宮先生がおっしゃったとか」
 と、御池さん。
 うんうん、そう言ってあいつ俺に厄介事(給湯室の怪現象)を押し付けたんだよな。
 てかこんな事になっている元凶ってもしかしてあいつじゃね?
 全く、持つべきは悪友だよな。ほんとに。
 まあいいや、とにかく今は噂でもなんでも利用するしかないだろう。
「俺は幻想迷宮シミュレーションダンジョンに入った事もあるんだ。いわば経験者だ。だからここは俺にまかせて欲しい。絶対に全員無事にここから脱出出来るようにするから」
「……全員?さっちゃんもかよ」
「ああ」
 ここで彼女が無能力者だから迷宮には入ってないと言えれば良いんだが、伊藤さんが来ている以上、それは何の確証もない話になってしまう。
 だから、俺が責任を背負ってみせるしかない。
 ユージくんは苦悩に満ちた顔をしていた。
 彼は実は凄く真面目な性格なのかもしれない。
 そういえばさっきは自分の彼女に危ない薬を止めさせたみたいな話をしていたし。

「分かった、あんたを信じて待つ事にする」
 どこか苦々しい顔で、それでも彼は俺にそう言ってくれた。
「ああ、ありがとう」
 心から俺もそう応える。
「だけど!」
 そう言って、ユージくんは俺を真正面から睨みつけて続けた。
「長くは待たないぞ!俺は気が長い方じゃないんだからな!」
 うん、それは見れば分かる。
 だからこそ俺に任せてくれるとは思わなかった。
 最悪、当て身でも食らわせて意識を刈り取る覚悟もしていたのだ。
 俺、加減が下手だからちょっと怖かったんだけどね。
 ふと伊藤さんを見る。
 ユージくんを慰めるようにその背を叩いてる御池さんと違って、彼女は話の最初からずっとまっすぐ俺を見つめていた。
 きっと、彼女のこのまなざしのようにまっすぐな信頼が、他の人達にも伝わったのだろう。
 そうでなければ、俺のような人間の言葉で人の心が動くはずもないのだ。
「それじゃあ行って来る。必ず脱出出来るようにするから」
 伊藤さんは無言でにこりと笑うと、ただ頷いてみせる。
「木村さんすみません。よろしくお願いします」
 御池さんが、自分自身の動揺を押し隠すようにユージくんを宥めながらも、俺にすがるような不安げな目を向けた。
「いいから早く行けよ!失敗でもしてみろ!俺は一生許さないからな!」
 うん、なんか段々こいつが可愛く思えて来たぞ。
 デカイ図体してるくせに子供なんだな、やっぱり。
「任せろ」
 俺はそれぞれの思いを受け止めてそう一言告げると、軽い調子で走りだす。
 実を言うと、あの魔物避けがいつまで有効なのか不安でしかたない。
 俺がボスを倒した時に、現実に戻ったその場に現れるのが彼らの無残な姿だったら?いや、姿さえ無かったら?
 考える程に恐怖に支配されそうになる。

 だけど、
 
 伊藤さんのあのまなざしを思い浮かべると、恐れてばかりはいられない気持ちになる。
 あれほどの信頼を裏切る訳にはいかないだろ?
 そして、だからこそ、俺自身も彼らを信頼しなければならないのだと思うんだ。



[34743] 48、おばけビルを探せ! その十
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2013/05/16 03:49
「ラビリンスと言ってたっけな」
 周囲を見回してぼそりと呟く。
 迷宮の基本として、プレッシャーの強い方へと走り出した俺は、やがて嫌な感じに様子が変化している事に気付いた。
 かなり廃墟化が進んでいるとは言え、この迷宮のモデルとなっているのは職場としても馴染んだビジネス街だ。
 その思いがやはりどこかに油断を生んでいたんだろう。
 気付けば方角を見失っていた。
「まあでも、どう考えても目標はアレだよな」
 視線をやや高い位置に向ける。
 そこには崩れ掛けた高層ビル群にまるでかしずかれるように屹立する、一つだけ傷一つ無いビルがある。
 光の角度で色が変化して白にも黒にも見える外観、他のビルが現実のそれの似姿であるというのに、それだけが本来はそこに存在しない物だ。
 おまけにどんなに回り込んでも必ずビル群の中心に見える。
「つまりアレが噂のおばけビルってこったな。幻を透かして"表"に影を投影していたって訳だ」
 その幻影で釣って誘い込む仕掛けなんだろう。
 しかし理屈は分かっても、迷宮ラビリンスを突破出来る訳ではないのが厄介だ。
 迷宮の中でもラビリンスの名を冠するのは、特殊な物だ。
 入り込んだ者を惑わす仕掛けが施されていて、先へ進むためには複雑に仕組まれたその仕掛けを解きほぐさなければならないのだ。
 正直、俺はそういうのに向いてない。
 由美子か浩二を呼び付けて丸投げしたいぐらいだ。
 それに、とにかく時間を掛ける訳にはいかない。
 あの三人がいつまで無事でいてくれるか分からないからだ。
 その事を考えると、胃の辺りがキリキリと痛む。
 くそ、終天の野郎覚えてろよ、お前を倒す事になったらご先祖のように首と胴体とを切り離してただ埋めて安心するような事は絶対にしないからな。
 埋めるにしたって頭は汚物の中だ。

 一つ角を曲がる度に周辺の店舗やビルの並びが変わる。
 この迷宮仕立てのビル街に入り込んだ時には見知っていたはずの通りも、もはや見知らぬ街も同然の有様だ。
 辛うじて看板を見るとそれに見覚えがあったりして、知っている店だと分かるような感じだ。
 しかもここの怪異は植物系、特にツタがウザい。
 どこにでも生えているし、突然地面を割って現れたりもするのだ。
 ともすれば絡み付いてこっちの動きを封じようとするし、うっかり絡まるのを許したら途端に大蜘蛛が走りよって来る。
 まあ、ツタも蜘蛛も案外と外皮の柔らかい怪異なので、単純に殴ったり蹴ったりで済むから倒す時にいちいち考える必要が無いのは良いが、うっかり立ち止まれないおかげで考える為の時間を作れないのが問題だった。

「大都銀行か」
 ビジネス街の一画を大きく占める都市銀行があった。
 隣接するはずの新社ビルが無く、旧本社のみがぽつんと独立して建っていたので最初違和感があったが、その優美な外観は見間違えようもない。
 年季の入ったその建物は、ほとんど崩れずにそのままの姿を残していた。
 そういえばこの建物は天然の石材だけで作られた守護印持ちの建築物だったな。
 この中央都市が、まだ電気的結界で囲まれる前、分厚く高い壁に囲まれていた頃に建てられたので、万が一の為に怪異対策が施されていたのがそのまま残されているのだ。

「……まさかそこまで再現してないよな?」
 古代神殿じみた大理石の柱が立ち並ぶ玄関を抜けてホールに入る。
 予想に反して、その床には本物と同じように黒瑪瑙、柘榴石、長石なんかを使った魔法陣の素地があった。
「マジか?自分達に不利なもんまでそのまま再現してるとか、どんだけ凝り性なんだあいつ」
 中学校で習うような事だが、電気的結界が発明される前、大都市では重要な建物に封魔の陣を仕込んでいて、いざという時に発動出来るようにしてあったらしい。
 実際に作動した所を見た事は無いが、これは単なる模様ではなく、完成すれば怪異を封じる機能を持った魔法陣になるのだ。
 いっそ三人をここに誘導出来れば良いんだが、既に戻る道すら分からない状態だし、それは望むべくもないだろう。
 だが、これは利用出来るかもしれない。

「緊急作動の仕掛けがあるはずだよな」
 当然ながらこの魔法陣を完成させる仕組みが残っているはずだった。
 ここまでやってまさかそれは無いとかやらんだろうし。
 やってたとしたらやつの性格の悪さが際立つけどな。
「あるとしたらカウンター内か」
 この場所が見通せるカウンター内の位置から推し量ると、奥に大きな柱が見えた。
 窓口の端、半自動ロック式の押し扉を飛び越えてそこへ行ってみる。
 強盗などを相手にするのと違って、怪異相手だとカモフラージュをする必要などないのだから、作動させる仕組みはそれなりに分かりやすくしてあるはずだ。
 変な偽装などはされていないと見て良いだろう。
 案の定、柱には緊急用の札と共にスライド式のパネルがあり、それを開くと大きなレバーが設置してあった。
 それを手前に引くと、ガコンという音と手応えがあり、ホールの床面が一部入れ替わる。
 途端に大気が活性化したかのように細かい光の粒が乱舞し始めた。
 魔法陣が起動したのだ。
 この光の粒に見えるのは活性化した波動で、俺にはこういう風に見えるが、人によってその感じ取り方は様々であるらしい。
 ホールに戻って魔法陣を観察してみると、案の定捕獲系の陣のようだ。
 魔法陣は全体を見ると視覚にセーフティが掛かって模様がぼやけて見えるが、一部分を注視すればくっきりと見る事が出来る。
 そうやって見ていくと、中心近くに封印や捕獲によく用いられる特徴的な文様化された二重螺旋が描かれていた。
 捕獲の魔法というのはいわゆる停止命令コードだ。
 怪異の波動に干渉して、停止命令を書き込むという、能動的な魔法なのだ。

「これをなんとかしてこの階層エリア全体に作用させられないかな?」
 魔法陣を形作っているのは天然石で、人造石などの混ざり物は無い。
 かなり上位の造りだし、少々効果は薄れるかもしれないが、出力的には問題無いはずだ。
 迷宮とは広義で言えばそれ自体が怪異であるとも言える。
 怪異の発する波動と、迷宮それ自体の保有する波動は同質なのだ。
 まあ、怪異を内包しているんだから当たり前と言えば当たり前の話かもしれないが。
 その考えでいくと、迷宮それ自体に対して、この魔法陣の効果を及ぼす事は可能なはずなのだ。
 さて、そうなると問題はその方法だが、普通この手の魔法陣は、屋外で発動する場合は座標を書き込んで範囲特定をするのだが、密閉された屋内の場合はそうではなく空間を指定するのだと、ついこの間、術式を利用した湯沸かしポット作成の時に聞いたばかりだ。
 密閉空間においては一々座標数値を書き込むのではなく、天地四方の内壁を元に範囲を割り出して、そこに存在する該当物を対象として特定するという話だった。
 という事は、この場合、範囲指定を迷宮全体にする為には、どこか一辺なりとも、迷宮の内壁を銀行の壁と誤認させる必要がある。
「四方と下はまあ無いよな。横だと隣の壁とかあるし、下は地面だし」
 俺はちらりと天井を見た。
 豪華なシャンデリア風の照明を吊ったそこは吹き抜けになっていてやたら高い。
 そこから窓口へと続く天井は、低くはなっていたが、その段差部分に柱を入れて、仕切りなしでそのまま一つに繋がっていた。

「これってあれだな、犯罪を犯してるような気分になるな」
 銀行の屋根を目指して外壁を登る。
 さすがに犯罪防止の為か外壁に取っ掛かりが無いので、指を突き刺して穴を穿ってそれを手掛かりにしてひたすら登った。
 気分はロッククライミングだ。
 大理石は流石に堅くて、穴を穿つにも力加減が難しい。
 やりすぎて割ってしまっては建物全体が倒壊しかねないし、そうなると積み重なる瓦礫で魔法陣まで壊してしまう恐れがあった。
 俺がそんな風に苦労しているというのに、空気の読めない奴というのはいるもので、ブウンと耳障りな羽音を響かせて、なにやら黒いカタマリが襲って来た。
「うっせえ!」
 左手で払うも手応えがない。
 生意気にも避けやがったらしい。
 ったく羽のある奴はこれだから嫌いだ。
 ドンと無防備な背中にぶつかられ、イラっと来た俺は、思わず左腕を後方に振り抜いてしまった。
 当然ながら反動で体が泳ぎ、危うく壁面から落ちそうになり、咄嗟の貫手ぬきてでもって壁に大きく穴を開けて、なんとかそれに掴まって事無きを得た。
 ヤバいな、確実に昔よりこの手の技能が劣化している。
 大雑把な力技は問題無いんで気にしてなかったが、こういう細かい作業をやってみると一目瞭然だ。
 ここに由美子や浩二がいればあからさまな冷たい視線を向けられたに違いない。
 考えるだに恐ろしい話である。
 右手一本でぶら下がりながら足元を見ると、半分に分断されたカブト虫だかカナブンだかに似た怪異が、夢のカケラへと変化していく所だった。
 その周りに、何か見慣れない新しい瓦礫が転がっているのは見なかった事にしたい。
 ちらりと横を見ると、まだある程度ちゃんと建っていたはずの隣の建物が、見る影もなく崩れ落ちていた。
「老朽化してたんだな。まあ廃墟だし仕方ないよね」
 誰に言い訳してるんだ、俺は。
 気持ちを切り替えて体を半回転させると、再度壁に取り付く。
 また邪魔が来ない内に急いで登ろう。

 さて、屋根に辿り着いた訳だが、問題はここからだ。
 本来ならホールの上、吹き抜け部分を壊すのが簡単だが、それだと確実に天井の破片や照明が魔法陣に降り注ぐだろう。
 だからと言って金庫室なんかはそこだけ別個の密閉空間だ。
 最初から作用範囲から除外されている可能性が高い。
「狙うとしたらカウンター内の天井か」
 しかし、銀行の外壁は、防犯の為に特別頑丈な造りになっているという話だし、たしかホールは吹き抜けだったが、カウンター内の天井は低く、おそらく中二階になっているようなかんじだった。
 時間も無いし、出来れば一発で抜いてしまいたいんだがどうするかな。
 そんな事を考えていると、あの嫌な羽音が大音量で聞こえて来た。
「団体さんかよ」
 やれやれ、ますますのんびり出来なくなったぞ。
 仕方ない。
 覚悟を決めてへその下に力を込めた。
 筋肉はみしみしと音を立てて体を押し広げ、皮膚が柔らかさを失い硬質な照りを帯びる。
 一瞬、昔あの野郎に言われた嫌な事を思い出しそうになるが、意識してそれを振り払い、やるべき事を思い描いた。
 屋根をただ打ち壊せば、それはホールの天井にも及ぶ恐れがある。
 だから、この屋根の片側だけを切断して切り崩す必要があるのだ。
 硬く、鋭く、大事なのはそれだけ。
 俺は真っ直ぐに右手を振り下ろした。
 かつんと、頼りない程の軽い音がして、次の瞬間手前の屋根が崩れ落ちる。
 ホールと窓口との間の太い柱の手前で屋根の崩壊は途切れていて、どうやら無事成功したらしい。
 ……まあ俺も一緒に落ちたけどな。
 よく考えたら俺の立ってたのがカウンター側だったよ!
 瓦礫が積み上がっているが、なんとかホールからの空間は繋がっている。
 這い上がってみるとブンブンうるさい虫共が空中で静止したまま羽を動かしていた。
 微妙に上下には揺れているが、大きく動く事は出来ないようである。
 ざまあみろ、今はとどめを刺す暇が無いからそこでずっと反省してろ。
 後は実地テストあるのみ。
 俺は大都銀行から離れると、おもむろにそこらの角を曲がってみた。
 風景に変化なし。

「よっしゃ!一昔前に流行った立体パズルじゃあるまいし、ガチャガチャ動きやがって!これでまっすぐそこに向かえるぜ、とっととここのボスを倒してこっから出るからな!てめえなんかに付き合ってられるか!ばーか!」
 うっぷんを晴らすようにそう宣言すると、俺は中心のビルに向かって走り出す。
 そして、ツタに足を絡まされておもいっきり転んだ。
 どうやら魔法陣の弱まった効果では、怪異はその場を動けないだけで攻撃は出来るようだった。
 教訓。油断は禁物だ。



[34743] 49、おばけビルを探せ! その十一
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2013/05/16 04:16
「くそムカつく!」
 思わず悪態を吐く。
 迷宮をラビリンスたらしめていた仕掛けを、ほとんど無理矢理解除したものの、おそらくボスが存在すると思われるおばけビルへの道が見付からないのだ。
 仕方ないので目視で直進ルートを進む事にしたんだが、塀を乗り越えたり平屋の屋根に上がって走ったりしている内は良かったのだが、デカいビルや店舗、そしてその崩れた瓦礫が進行方向に立ち塞がっている割合が段々増えて来ていた。
 まあそうだよな、周囲を高層ビルだった物に囲まれて立っているんだ、近付けばそうなるのは当たり前だろう。
 しかし、これが地味にきつかった。
 隙間なんかを通り抜けられるようならなんとかして通り抜けるが、そうでない物がかなり多い。
 力任せに破壊しても瓦礫が増えるだけで何の解決にもならないのだ。
 結局その度に障害物を回り込んで、立ち止まって方向を確かめて進む羽目になる。
 そうやっていても進むべき方向を見失う事も多くなった。
 なにしろ眼前に崩れかけとはいえ、デカイビルが建っているのだ。見通しがやたら悪い。
 しかもそこそこ元の姿を留めているビルなどは、回り込まずにその中を通り抜けて移動距離を短くすませようとすると、術の範囲として認められていなかったのか、元気に動き回っているデカイ蟻とかがいたり、その建物に根を張っている葛みたいなのがいたりして、焦る気持ちとは裏腹に急速に進行速度が落ちる事となった。
 しかもどうも距離感がおかしい。
 例のビルに近付いているのは確かなんだが、目測で感じる距離と実際の距離には差があるようだった。
 つくづく造った奴の性格の悪さが滲み出ている迷宮ではある。

「やれやれ、馬鹿力という言葉があるが、ものを考えない奴ほど力が有り余っているという事なのか?せっかくの楽しいアトラクションを力づくで破壊するとは趣きの無い奴だな」
 それはどこから聞こえたとしても思わず振り向いてしまうような声だった。
 気温が急速に低下する。
 どうやら文句を言うべき相手がノコノコ出てきてくれたらしい。
「おいおい、序盤でラスボス登場とか、子供向けのゲームでもクソゲー呼ばわりは免れないぞ」
 見上げた視線の先には、肉食の獣の持つ威圧と優美さを極めたかのような鬼神が、ビルの鏡のような壁面にその身を映しながら空中に佇んでいた。
 全身に走りそうになる震えを抑え込み、挑発じみた言葉を投げつける。
「それを言うなら、お前は癇癪を起こしてゲーム機を放り投げる、力だけは有り余っている子供だな」
 声を聞いているだけで、ふつふつと体の奥から身を食らうような憎しみが這い上がって来る。
 俺は呼吸を整えると、青空に飛ぶ羽ばたき飛行機を思い浮かべた。
 本能は理性で抑え込める。
 相手が大物すぎると、ときたまこういう暴走に近い状態になるのだ。
「そうだな、このゲームの本体でもあるてめえを倒せば迷宮の最初も最後もない。ここで全部終わりに出来るな」
「ほう?」
 終天は、いかにも我が意を得たりという笑みを浮かべた。
 こいついちいちムカつく。
 血がどうのとかそういう問題じゃないぐらいに嫌な野郎だ。
 まあ分かってて挑発してんだろうけど。
「ようやくその気になったか。いいぞ、相手をしてやろうじゃないか。お前の全力を見せてみろ」
 思わず舌打ちをする。
 この野郎。
「どうした?お前達の血に仕掛けられた、“作られた本能”がお前を駆り立てるのだろう?無理をする必要は無い。戦い食らう、それこそが命の在り方だ。遠慮はいらないぞ?そう、その身に宿る力の果て、その先を見たくはないか?ここならば誰をはばかる事もない、その持てる全ての力を尽くして戦ってみるが良い」
「はっ、」
 鼻で笑ってやる。
 これだからいくら頭が良かろうと怪異は怪異なんだよ。
「ご高説を賜って申し訳無いが、俺は力とやらには興味は無いね。そういうのはどこぞのバトルマニアにでも聞かせてやるんだな。俺は戦って相手を倒す事、それ自体には何の魅力も感じない。俺がてめえをぶっ飛ばしたいのはな、今迄も今現在もそしてこれからも、俺に迷惑を持ち込むのが分かり切ってるからだ。人を好き勝手に動かそうとしやがって、いい加減にしてほしいんだよ、この若作りじじいが」
 冷静に考えればこいつに構っている場合では無いのが分かる。
 今、この一瞬一瞬ですら、伊藤さん達は慣れない攻防を強いられているに違いないんだ。
 この階層のボスを倒せば彼女達をここから開放出来るのなら、まずやるべきはそっちである事は明白だろう。
 こいつは放っておいてもどうせまた湧いて出るに決まっているんだからな。
 だが、勇者血統に仕込まれた血の枷というのは融通が効かずに厄介な部分がある。
 目前に怪異がいて、それが人類にとって脅威であればあるほど、その相手に背を向ける事を良しとしないのだ。
 怪異に対する無条件の憎しみ、人に対する無条件の愛情、大雑把に言えばそういう仕掛けなんだが、これのせいで上手く立ち回れない場合がちょくちょくあった。
 まあ危険な武器には安全装置を付けたかったっていうその気持ちは分からんでも無いから仕方ないけどな。

「俺が特別という訳ではないだろう?人の子もやるではないか。強そうなカブト虫を見付ければ捕まえて自分の物として、他人の持つカブト虫と戦わせてみたくなる。それと同じ事だ。じつの世界の覇権を得た人間が、虚界をも征そうと生み出したのがお前たちなのだろう?ならば知りたいと思うのが当然ではないか、それが虚実全ての世界の頂点に立つ存在か否か」
 何言い出してんだ、こいつは。
「ねえよ、馬鹿か?人間はてめえらみたいに戦いなら戦い、好奇心なら好奇心みたいに思考が一方向だけ向いてるんじゃねえんだよ。普通に安全に生活するために、自分たちの身を守る力が必要だっただけだ」
「だから身を守る必要が無くなったら戦わぬと?愚かだな。命とは戦って贖うものだと言っただろう。戦う事をやめた命は遠からず滅びを迎えるぞ」
 段々この野郎がこの迷宮を作った理由ってのが分かって来たぞ。
 奴の皮肉気に吊り上がった口の端にイラッとしながら、俺は反論する。
「勝手に言ってろ。なんと言われようと俺は自分から戦いを求めたりはしねえよ。どうしてもやりたいならそっちから来るんだな。まあ俺も忙しいからてめえに構ってやるかどうかは分からないけどな」
 くそが、奴は人類を見守る神様気取りか?所詮は気まぐれに壊し奪う化け物のくせに。
 このばかげた問答の時間が惜しい。
「なるほど、あくまでも戦わぬと言うのだな?ならば世のことわりをしろしめすまで。抗う力を持たぬ弱き者から死を得る事となるだろう」
 そう言うなり、奴は視線を何処か別の方向へと転じ、軽く上げた片手の指を動かそうとした。

 伊藤さん達をどうにかする気だ。
 そう考えた瞬間、そこから僅かな間、俺の記憶は消し飛んだ。
 次に気付いた時には、目前に終天がいて、その片手で俺の拳が防がれていた。
「あとひと押しといった所か?いや、そう単純でもないか」
 そんな呟きを聞いたと同時に体が沈む。
 ……いや、落ちていた。

「うおっ!?」
 ビルの壁面が見える。
 反射する窓ガラスと、鏡のように磨き上げられた壁面に、落ちる自分の姿が映り込む。
 下を見れば、かなりの距離が現在地点と地上との間に存在した。
「ちょ?え?」
 膝を抱え、前転の要領で空中でくるりとまわる。
 回転の勢いで近付いた壁面を横に蹴った。
 落下の勢いを己の力で横に逸らした俺は、そのままゴロゴロ転がって着地した。
 な、何がどうした?
「やはり呪縛の力は強力だな。人間を殺傷する示唆をしただけで猟犬のように飛び掛かって来るのだからな」
 ああ、そうか、伊藤さん達にこいつが危害を加えるかもしれないと思った途端、後先考えずに殴りかかっちまったんだな。
 くそ。

「まあこのぐらいにしておこう。そもそもここのルールを定めたのは俺だしな。今回はお前があまりにも横紙破りに事を進めるんで、少しペナルティを与えてやるつもりで出て来た訳なんだが、結果的には手助けになってしまったな」
「てめえ何抜かしてやがる!あいつらに手出しをするならお望み通り相手してやるぞ!」
 終天は口許を歪めて笑うとそのまま空中を高く昇って行く。
「ご期待にそえなくて残念だが、俺は弱く儚いモノはあまりいたぶらない事にしているんだ。しかし、俺がどうこうしなくてもそろそろ危ないんじゃないかな?迷宮の住人は常に飢えている、連中も己の生を繋ごうと必死だろうからな。さて、お前はか弱き者達がどうにかなる前に、このステージを攻略出来るか?まあ、せいぜい楽しんでくれると造った身としては嬉しいけどな」
 そう言い捨てると、終天はさも楽しげな笑い声を響かせながら上空に消えた。
 やろう、人の邪魔をして楽しんで行っただけか?馬鹿にしやがって。
 ムカついた気分のまま視線を地上に戻す。
「……マジか」
 そうしてようやく気付いた。
 俺の立っている目前には、艶やかに磨きぬかれた外観を持ってそびえ立つ、噂の"おばけビル"の威容があったのだった。



[34743] 50、おばけビルを探せ! その十二
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2013/05/23 04:22
 黒光りする壁面に幾筋かの白い光の走査線。
 その白い光が集まって浮かび上がったのは人の手の形をした印だった。
 何をしたいのか分からないが、取り敢えずそこに自分の掌を押し当ててみる。
 スウッと沈み込む感覚と共に周りが闇に包まれ、いきなり現れた巨大な二つの光のリングが、交差するように周囲をぐるぐると回った。
「どういう演出だ?」
 この迷宮ダンジョンはありとあらゆる部分が癇に障る。
 意味があるのかないのか分からない無駄な演出が多すぎるのだ。
 まあ作った奴からして相性最悪な事だけははっきりしているんだけどな。

 地面に足が付いた感覚と共に闇とリングが消え去り、新たな光景が目前に広がった。
 空間転移エリアチェンジだ。
 迷宮のボス部屋というのは、迷宮を形成する為の意識の在り処であり、迷宮それ自体とはまた別の空間になっている。
 なので、ボス部屋へと入る時には必ずこの空間転移エリアチェンジが行われる。……んだが、
 しかし、普通は扉を開けるという代替え行為によって空間の切り替えが行われるだけで、こんな派手な演出はない。
 まあ、この演出なら誰でも別空間だと分かるだろうな。

 俺が動けるようになると同時に、前方に闇のような黒い煙が渦巻き、それが凝って巨大な怪異が姿を現した。
 この階層のボスだろう……な。
 演出についてはもう突っ込まないからな。
 現れた怪異は、キシャー!とかグギャー!とかいう叫び声を上げて体をくねらせて全身を見せ付ける。
 いくつもの関節と脚を持ち、金属の光沢を帯びた外骨格に鎧われたムカデ、それがコイツの姿だった。
 虫系の怪異はハンターや冒険者には敬遠されがちだ。
 痛みに対して怯まない上に、恐ろしくタフなヤツが多いのである。
 その中でもムカデタイプは特に面倒だ。
 堅くてタフな上に毒持ちなのである。
 正直、武器の無い状態でやり合いたい相手ではなかった。

「チッ、せめてナイフぐらい持って来るんだったな。ってぼやいても仕方ないか」
 唯一、持って来た武器をベルトポケットから取り出して装置する。
 繋がった武骨な指輪のようなそれは、いわゆるメリケンサックと呼ばれる拳闘用の武器だ。
 だが、もちろんただそれだけの物が怪異に通用する訳がない。
 これは、俗に言うところの呪器、呪いを帯びた武器なのである。
 怪異は想念の化身。ならば呪いをぶつけて対消滅させようという発想の下で開発された武具類があり、これもその一つなのだった。
 もの凄く使い勝手が悪いが、武器らしくない武器といったらこれぐらいだったんだからしょうがないよな。
「忌まわしきえにしよ、解き放たれよ」
 呪言と共に茨のような波紋様が浮かび上がる。
 しかしどうでも良いが、付与の呪いのほとんどが茨の波紋様なのはどうしてなのだろうか?
 イメージの問題か、伝統なのか、はたまた開発者の趣味なのか。
 そんな事を考えながら右にステップを踏む。
 このムカデボス、本体が平たくて長いんだから平面移動をすれば間合いが取りにくいものを、わざわざ半身を立ち上げて突っ込んで来る。
 まるで避けてくれと言わんばかりだ。
 まあ多層構造である迷宮の最下層という事らしいから、序盤としてはこんなものなのかもしれない。
 とりあえず、時間を掛けて小突き合いをする気はさらさらないので、相手の隙がデカイのはありがたい話だ。
 床を穿って突っ込んだ相手の、動きの止まったその頭に体の回転を加えたストレートを食らわした。
 バキッと、堅いものが割れる手応え。
 頭にひびを入れる事に成功したようだ。
 そして、その傷口に呪いの茨の波紋様が、黒々とした影の生き物のように絡み付く。
 呪いが想念を侵食しているのだ。

 キキキ……と、列車の車輪がレールを削るような音を立て、ムカデ型の怪異はのたうつ。
 痛みには怯まない怪異であっても、己の存在の根幹を食い荒らされるのはさすがにこたえるらしい。
 悶えてぐっとのけ反ったところを、その顎下に潜り込み、捻りを加えたアッパーを顎と胴の継ぎ目に叩き込んだ。
 腹側の方が背中よりは柔いとは言っても、動物タイプと違ってやはり堅いんだが、当たり所が良過ぎたのか、拳がそのまま相手の体内に潜り込んでしまった。
 ギクリとして即左の拳を叩き込み、浮いた相手の体から右手を抜くと、バックステップで逃れる。
 ちらりと右の拳を見やるが異常は無いようだ。
 いくら耐性が高いとは言え、あまりにも深い接触はさすがに少し怖いものがある。
 情けない事に、無意識にハンター証に触れていた。
 もしも、汚染されても、いざとなったらこれが始末を付けてくれるはずだ。
 そう信じていないとやってられない。

 ムカデボスは頭と腹とに呪いを受け、上半身を茨に絡みつかれた形になっている。
 その姿はまるで縛られているようだ。
 無駄にデカイ体がなんとか逃れようとあがくせいで、そこそこ広いボス部屋のあちこちは抉り取られ、酷い有様となっている。
 飛んでくる破片をはたき落とすのも面倒くさい。
「苦しいのならこれで終わっとけ!」
 今や緩慢な動きとなった巨体の、その頭を一息に叩き潰す。
 ビクビクと、生き物じみた痙攣をした後、ムカデボスはゆっくりと崩れ落ちた。
 同時に、俺の拳に嵌っていたメリケンサックもバラバラに崩れ落ちる。
「十八万が一回でパァか」
 普通の武器として使うならかなりの耐久がある得物なんだが、呪いを開放した場合は、対象と共に消滅するのだ。
 呪いを開放したままだと危なすぎる為の安全措置である。
 うん、まあ、個人の懐具合より人類の平和だよな。
 なんの慰めにもならないけどな。
 いやいや、素晴らしきかな人類、人間万歳。
 ……依頼じゃないけど、経費で落ちないか一応聞いてみるか。

 俺がそんな個人的悲嘆に暮れている間に、階層ボスであった怪異の姿は崩れきり、後には独特の美しく淡い光を放つ夢のカケラが残された。
 本来、経済的な話をするならこれ一個あれば十八万の武器の消耗など問題にならない実入りとなる。
 冒険者ならこれ一つで文字通り数年は遊んで暮らせると小躍りするらしいが、いかんせんハンターは怪異関係の物品の個人取得は出来ないので、拾った所で自分の物にはならないのだ。
 本部に連絡して、どう取り扱うかの指示を仰がないとならんし、そうなると何があったのかの報告も必要で、はっきり言って拾うのが面倒臭い。
 しかし、ボス部屋まで到達する途中で放置した分は不可抗力で通用すると思うが、これを放置したらきっとあちこちから文句が出るだろう事は明らかだ。
 なにしろ、この都市ぐらいだったら向こう五年ぐらいの電力がこれ一つで賄えるのだ。
 でも提出したら最後、嫌になる数の報告書を書かされる羽目になるんだろうな。
 どうにかこれ見なかった事にして、事の顛末を探検隊とかなんとかいう連中に押し付けられないものだろうか。

 たっぷり五秒は迷った挙げ句、溜め息と共にそれを拾い上げた。
 周辺の風景は既に崩壊を始めていて、どうやら迷宮の解放は成ったらしい。
 やつらもやはり嘘は言ってなかったようだった。






「こおら!なにしとるんじゃ!」
 怒鳴り声。
 全身に痛みと重圧がある。
 咄嗟に状況を判断しようと顔を上げて固まった。
 あまりにも近く、目と鼻の先に伊藤さんの顔がある。

「きゃああ!」
 悲鳴を上げられた。
 ……なんか凄くショックです。
 伊藤さんは勢いよく身を起こそうとして失敗した。
「あいた!待って、優香ちゃん動かないで!」
 自分の上にいる御池さんから苦情を言われたのである。
 よくよく見ると、俺達はビールの空き瓶とケースに埋もれるように転がっていた。
 しかも、見事に折り重なるように。
「いてえ!早くどけよ!」
 うん、俺俺のユージくんよ、一番下で良かったな。
 女性二人の間に挟まれでもしていたら、俺はお前を一瞬でオトしていた自信がある。
 そんな不穏な思いを吹き飛ばすように、最初に聞こえた怒鳴り声がもう一度響いた。
「はやくどいてくれ!まったく良い大人が馬鹿な真似をしくさって!」
 怒りつつ呆れているという感じのおじさんの声だ。
 察するにこのビール瓶の持ち主、酒屋の店主か従業員なのだろう。

「え?あれ?」
 御池さんは山のてっぺんにいて、この集団の命運を握っているのだが、まだ現状を把握しきれていないっぽい。
 さすがに全員分の体重を受ける事となったら俺俺ユージくんが洒落にならない状態になるので、さり気なく重心を逸らしてやりながら、改めて伊藤さんと顔を見合わした。
「酷い目に遭いましたね」
「木村さんが無事で良かったです」
 同時に言った互いの言葉に苦笑する。

 しかしなんだ、こう顔が近いとなにやら良からぬ気持ちになるものだな。
 具体的に言うと、唇に目が吸い寄せられる。ヤバイ。
 伊藤さんの唇に塗られた口紅はすごく淡い色で、それにちょっとツヤツヤしている。
 触ったらどういう感触がするのだろう?
 ほっぺたもなんだか柔らかそうだな。

 俺が犯罪に走る前に、御池さんのパニックが収まるか、通りの向かいから慌てて走り寄って来るお局様による救出が始まってくれると良いな。
 うん、いや、正直に言うと、このままでももうちょっとは良いような気がしないでもないんだけどな。



[34743] 閑話:根回しは酒席にて行われるもの
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2013/05/30 04:49
 その日、国中のあらゆるメディアを通した宣言が行われた。
 曰く、中央都市に多層再生型迷宮が生成された。知恵と力に自信の有る者はそこで自らを試すが良い。と。
 人の目を惹き付けてやまぬ魅惑を持ったその男の言葉を、何の根拠もなく、人々は信じた。

「やれやれ、とんでもない騒ぎになったな」
 初老の男が冷酒を啜りながらぼやくように言った。
「国内だけならまだしも、早速各国からの問い合わせという名の圧力と来た。せっかくの酒も不味くなろうというものだ。そう思わんかね?酒匂くん」
 呼ばれた、その男の対面に座る相手は、噤んでいた口許を緩め、温度の低い、と感じられる声を紡いだ。
「私としては呼び出された理由をお伺いするまでは、酒に口を付けたくもありませんね」
 口調からは、明らかに迷惑だという思いが汲み取れた。
 しかし、相手はその酒匂の感情には全く頓着せずに、一人手酌で替わりの杯を重ねると、相手のグラスにも注ぐ。
 元々ある程度次がれていた物に、口が付けられないまま継ぎ足されたせいで、そのグラスの中の液体は、表面張力の実験のような様相を呈していた。
「そういう事をされると困ります。……いかにも嫌な役割を押し付ける気が透けて見えますから」
 初老の男は笑って尚も酒を薦める。
「どちらにしろ断れない物ならば、貰える物は貰っておくほうが得だろう」
 酒匂は諦めたような溜め息と共に、その美しい切子細工のグラスを手に取った。
 慎重に掬い取るように口にする酒は、冷たさと熱を秘めた、正にスピリッツのごとき喉越しである。
 それはそうだろうと酒匂は思う。
 この一杯を作り出す為に、人類は数多の神のごとき精霊と交歓、使役し、時として封じ、土地そのものを大きく作り変えて来たのだ。
 そしてその貪欲さこそが、人類の天敵たる凶悪な怪異を生み、彼等人類を滅亡寸前まで追い詰める事となった。
 自らの行いは自らに帰る。
 それは皮肉で平等な世界の在り方だ。
 そして、人類は更にその罪深き業を露わにした。
 恐るべき天敵に対抗する為に、命そのものすら作り変える神の御業に手を延ばしたのだ。
 人造人間ホムンクルス異種族合成キメラ、更には命の樹いでんしそのものに呪を打ち込み、命を変質させていった。
 多くはただただ悲劇を生み、あたら才ある者を大勢失う事となる。
 だが、その末に人は勇者と呼ばれる異能者を手に入れたのだ。

「まあ、予想は付いているだろうが、君に中央都迷宮に関する対外部門の責任者を任せたい」
 酒匂が酒を口にするのを待っていたように、初老の男は口火を切った。
「諸外国からやって来るであろうハイエナ共と丁丁発止ですか。光栄のあまり涙が出そうですな」
 酒匂は小さく笑う。
「難易度を選べる、幾度も復活する迷宮か。どれほどの利益を産むか想像出来るか?」
 男の声はどこか苦々しげだ。
「無謀な者達の自殺の名所にもなりそうですな」
 男二人は上品に造られたアテを摘みながら、淡々と国家の今後の方針に言及する。
「空と海の海外便についてはそれぞれの港の税関で不法入国者はチェック出来る。今後の問題はゲートだな」
「違法ゲートですね」
「これまでは掛かる費用の膨大さとその手間ゆえに、違法ゲートを使おうとする者などほとんどいなかった。しかし、今後はどれほどゲートに掛かる手間や費用が膨大でも、迷宮に潜って成果を上げる事が出来れば割に合ってしまうからな」
「生きて戻れれば、の話ですけどね。聞きましたよ、一次先行部隊が戻らなかったという話。なぜハンターに協力を仰がなかったのですか?」
 酒匂のやや強い語調に、初老の男は苦虫を噛み潰したような顔をしてみせた。
「彼はやりすぎたのだよ」
 今度は酒匂の方が顔をしかめてみせる。
「彼とは鬼伏せの長兄ですか?」
「そうだ。彼がほぼ単独で第一層を短時間走破してしまったものだから、軍部は迷宮の一層目を軽く見た」
 酒匂はピクリと眉を動かした。
「愚かな事です。彼らを自分達の物差しで計ろうとは」
「仕方あるまい。今や勇者血統の記録など、誇張された読み物程度の扱いだ。いや、それ以前に怪異というモノの恐ろしさを実感出来る者などこの中央にはもはやおるまい」
「それほどですか」
「だがまあ、それだけの話でもない。今回の暴走は欲と二人連れといった所か」
 初老の男の言葉に、酒匂は鎮痛な面持ちになる。
「そのような思惑のせいで犠牲になった部隊員達はたまったものでは無いでしょうな。ですが、そういう事なら、むしろ大手企業肝入りの大火力兵器の実践テストとして、装甲車や戦車、戦闘機などは動員されなかったのですか?」
 酒匂の問いに、初老の男はどこか達観したような視線を中空に向けた。
「どうやらかの迷宮には入場制限があるらしくてな。入口は現在九か所見付かっているが、そのどれもが狭いのだよ」
「狭い?」
「そうだ。最初の報告の入り口は路地だっただろう?」
「ああ、なるほど」
「他も下水道から続いていたり、飲み屋街の一角だったり、到底大型兵器を突っ込む余地は無かったのだ」
「周辺の建物を買い取って道を広げたりはなさらなかったのですか?」
「当然行った。しかし、そうすると入り口は消えてしまうのだ」
「敵さんも考えましたな」
 初老の男はやや皮肉げに嗤ってみせる。
「それでもかなりの装備は持たせたようだ。重火器や機銃の類もなんとか持ち込んだようだしな。それになけなしの呪器や軍属の魔術師や異能者も付けて一個小隊だ。しかし、先頭の十二人が入った時点でゲートが閉じた」
 酒匂は唸り声を上げた。
「収容人数に限りがあるのは迷宮においては常識でしょうに」
「圧倒的に知識不足だよ。その上指揮官が狭量で、専門家に助言も求めなかった」

 酒匂を小さく息を吐いて杯を置いた。
「分かりました。長官が私に押し付けようとなさっている役職が、いかに体と精神に多大なる負荷を与え得るものなのかという事は」
「うむ、分かってもらえて嬉しいよ」
 初老の男は悪びれもせずにそう応える。
「まずは違法ゲート取り締まりの強化から手を付けましょう。地道で堅実な仕事で成果を積み重ねて行くのが組織固めの近道ですからね。ところでその部署の規模はどのくらいになさるおつもりですか?」
「国家防衛省と連携して新設する特別なセクションという肝いりで設立される予定だ。安心しろ、予算は潤沢に供給されるだろう。なにしろ目の前に吊された餌がある」
「国防省が付くという事は、大臣が利潤を取り纏めるという事ですね。そしてその餌の調理方法を示してみせて更に煽っているのがあなた方という訳だ」
 酒匂の指摘に、初老の男はどこか満足気に答えた。
「我々だけではないぞ。あの方々も動いておられるようだしな」
「あの方々が?」
 酒匂は少し驚いたように確認する。
「今回の仕掛けの主酒呑童子は、元々精霊であったものが人と交わった為に歪んだ存在だ。つまりは相手は堕ちたりとはいえ神格持ち。人族だけの話ではなく、この世界自体の行き先に関わるとの判断なのやもしれん。まあ推し量るのは不敬ではあるが」
 あまり畏れ入った風でもなく、初老の男は口の端を上げる。
「つくづく……いえ、止しましょう。それより長官に手酌をさせたとあってはうるさがたに何を言われるか分かりませんからな、不肖の身ですが、酌をさせていただきます」
「なにを今更」
 初老の男は苦笑いをすると、卓上の遮蔽符をはがし、軽く手を叩いた。
「花を届けてくれ」
 それまで静寂に包まれていた障子の向こうに人の気配が現れる。
 軽く告げられた言葉に明確な返事が返り、待ち兼ねたようにすぐさま和装を着こなした美しい女性達が入り込み、屏風を立てて華やかな場を作り上げた。
「武骨で面白みのない男と差し向かいなどという試練を終えたのでな、優しくしてくれよ」
 初老の男はその女性の一人に笑い掛けた。
「まあ旦那様、わたくし程度の労りでよろしければ、如何ほどでも」
 さざめく笑い声を聞きながら、酒匂は先程その胸に呑んだ言葉を胸中に漂わせる。
(乱を好む者はこの機に乗じて立場を押し上げようとするだろう。内ばかりの話ではない、諸外国がわが国に資源の独占を許すはずもない)
 頭の痛い事になりそうだと、そう思う酒匂の口元は、彼自身は気付かぬままに、獰猛に嬉しげな笑みを描いていたのであった。



[34743] 51、迷宮狂騒曲 その一
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2013/06/06 05:01
 ここの所毎日が慌ただしい。
 先日の日曜が、おばけビル探しから始まった騒動で平日よりもヘビーな休日となってしまったせいで、全く休んだ気がしなかった。
 その上、休み明けで出勤してみれば職場界隈も騒がしい。
 装甲車やジープが一般道路を行き交い、そこかしこに封鎖区画が出現し、電車の運行に乱れが生じた。
 会社の方には政府から電源工事による一時通電ストップの通達があったとかで、電算機パソコンの稼動もままならない為、ほとんど仕事にならない。
 停電とかこないだの悪夢の始まりを彷彿とさせて気分悪いし、職場に来てまで向こうの世界の事が関わって来るとか、最悪すぎるだろ。
 他のみんなも色々落ち着かないし、仕事にならないしで、オフィスは雑談の場と化していた。
 しかも話題はそれしかないのか?と言いたいぐらいに同じ内容がループしている。

「驚いたね!まさかこの時代にあんな有名な化け物にお目にかかろうとはね」
 サトウ氏はノリノリだ。
 あの口を粘着テープで塞いでやったらさぞやスッキリするに違いない。
「ああ、お伽草子の世界だな。なんというか、現実感がない」
 課長、あなたもですか。
「私、現場にいたんですよ!あの謎謎探検隊の!」
 御池さんが興奮しながら口走る。
 おいおい、まさか迷宮の件は他人に口外しないってお達しを忘れた訳じゃないだろうな?
 大丈夫と分かっていても、あの勢いで口を滑らせてしまいそうでヒヤヒヤするんだが。
 御池さんの後ろでは、お局様と伊藤さんが、俺と同じように困惑してあたふたしているのが見えた。
 口に出して止める訳にもいかないし、どうしたもんかな。

 そう、あの後、さすがに事が事なので当局に届け出るという話になった。
 迷宮攻略の細かい内容は適当に誤魔化したが、まあ俺が知恵を絞らなくても、彼女と無事再会して元気いっぱいになった俺俺ユージくんが必要以上に武勇伝を語ってくれたおかげで、なんとなく俺の事は流されてしまい、助かったような、素直に喜べないような、複雑な気持ちを味わってしまった。
 その俺達の報告を、最初全く取り合ってもくれなかった派出所の警官だったが、そのやり取りの中で、ユージくんが、なんと証拠として夢のカケラを提示した。
 完全に信用していない様子で、渋々それをチェックした担当官の顔色がたちまち変わるのを間近で見た俺達は、それが疑惑へと急変質するのをも目撃する事となった。
 つまりはお調子者の俺俺くんを始めとしたこの面々が、どこかからお宝をちょろまかしたんじゃないかと疑った訳だ。
 まあ無理もない。
 夢のカケラなんて代物は、高名な冒険者かハンターによってもたらされる物であって、間違ってもいかにもヒョロヒョロのバンドの兄ちゃんみたいな若者が取得出来るようなものではない。
 民間には好事家が宝石のように加工して所持している物もあるらしいので、それを奪ったかどうかしたと思われでもしたのだろう。
 さすがにこれは俺がハンター証をここで見せるしかないのか?と思ったが、その前に高圧的に出ようとした警官に待ったを掛けた者がいた。
 謎謎探検隊、その彼らのリーダーである愛マイ氏である。
 彼は、俺達の話の途中からなぜかあらぬ方を見ていたのだが、おもむろに、そこにいた全員に派出所の一角にあるモニターを指し示した。
 そこにあったのは、この手の派出所に記録用に設置してあるカメラからの映像を映し出す変哲もない監視モニター画面だったのだが、なぜかそこには俺達ではなく、映っていてはならない相手が映っていた。
 あの時の俺の驚愕たるや、どんな戦いの記憶も霞むような激甚たるものだった。
 終天の野郎が、大規模電波ジャックなどというとんでもない事をやらかして、中央都迷宮都市宣言という勝手な演説をぶち上げだしたのだ。
 おかげで、その場はもはや俺達の報告の真偽について云々するような状況ではなくなってしまったのである。

「あの騒ぎに便乗してテレビジョンでやってたあれか?おばけビルがダンジョンでしたってやつ。まあ素人映像にしちゃドキュメント形式で面白かったけどさ、迷宮そのものはチラッとも映ってなかったよね」
「う、それは映像に撮れるようなものじゃないですから」
 どうやら御池さんも会話する中で誓約の部分を思い出したらしい。
 たちまち勢いが萎んでいくのを感じた。
 良かった良かった。

 結局、終天のびっくり演説の後、唖然としたしばしの時間を経て、俺達の報告はあっさりと認められ、それどころか大事おおごとだと気付いた警官によって手配されて警察本部に場所を移す事となったのである。
 これ幸いと、俺は個別聞き取りの場で立場を明かして怪異対策室に連絡を取って貰った。
 というか、なんで警察本部に連れて行かれたんだろう?報告窓口としてはともかく、事実確定してからの話は管轄違うんじゃないか?いや、俺も中央の組織にそこまで詳しい訳じゃないけどさ。
 結果として、街中や警察本部同様、対策室も上を下への大騒ぎだったようで、連絡しても話がまともに通じるような状態じゃなかった。
 仕方ないので正式な報告は後にして、担当になった警官に迷宮規約文書を埋没したデータの中からなんとか掘り出して貰い、今回の騒動に関わった全員に、迷宮内に入った人の身元やその内部での事についての口外禁止の誓約文に署名をさせたのである。
 これは迷宮踏破者を守る為の制度で、迷宮踏破者の情報がオープンになると、その後色々な意味で狙われる事となるので保護的意味合いのある処置だった。
 強い拘束力があり、話そうとするとたちまちろれつが回らなくなるので、酔っ払って口を滑らせるという事もない。
 てか、俺が言い出すまで書類探そうともしなかったし、今後絶対増えるだろう需要に備えて組織の意識を変えて行かないと大変な事になるんじゃないか?
 それはともかくとして夢のカケラである。
 俺がいなくなった後に、残った彼らが夢のカケラを手にしているという事は、つまりは怪異と戦ったという事だ。もはや過ぎた事とはいえ、俺は肝が冷えるのを感じたものだった。
 だが、それはどうしたのか?と聞いた俺に対して返ってきた返事は、もはや、驚きなどという生易しい事態ではなかった。
 彼等が地上から来る連中をバリケードで防ぎ、そこを這い上がってくるヤツをスライムの体液付きのハンカチを巻いた長い棒ではたき落としていたら、上空から羽根のあるデカい虫に襲われ、もはや万事休すと思ったそうだ。
 しかしその時、急にそれらが動かなくなった。
 あの魔法陣の力が丁度及んだのだろう。
 間に合って良かった。
 だが、問題はそこではない。
 なんと、無力化された怪異を、ユージくんがそこらに有ったパイプみたいなので殴ったらしいのだ。
 すんげえ堅いんでやんの、とか文句を言った彼の顔を、俺がマジマジと見つめたのは仕方のない事だろう。
 そして、汚染怖くないのか、無茶するなよと言った俺に対して、「なにそれ?」とか真顔で返されてびっくりする事となったのだ。
 前にも思ったが、どうも中央は小学校での教育がうちの村と違うらしく、カルチャーショックが多い。
 しかし、いくら地方自治が基本だからって、違い過ぎないか?……というか、大丈夫か、そんな教育で。
 その殴ろうとした時に、伊藤さんは「危ない」と止めたらしい。
 まあ普通そうだよな。
 俺が変じゃないと分かってホッとする。

「それにしても迷宮かー、いよいよ終末の予言が真実味を帯びて来ましたね」
 御池さんが精神的な立て直しを果たしたのか、すぐに楽しそうに別口の話題を振った。
 なんでこの子等はこんなにタフなんだ?
「あーあれか―、でもあれってさ、典型的な観念誘導でしょ」
 サトウはどうも今は天才モードらしく、終末の予言なるものを鼻で笑った。
「えー、それって、結局ニワトリが先か卵が先かみたいな水掛け論でしょう」
 御池さんも負けてはいない。
 なんかこういう会話って大学のミーティングを思い出すな。
「とんでもない。人類宗教学を習わなかったのか?人類は後期宗教では既に集団意識による事象変革に取り組んでいるぞ」
「サトウさん理系大学出でしょう?なんで宗教学やってるんですか?」
 尤もな意見に、サトウはふんぞり返って答える。
「世の中には通信講座という便利なものがあるじゃないか。知識は貪欲に、だよ」
 電化製品の設計とか考えるお仕事の人が何やってんの?雑学すぎるだろ、あんたは。
 紙一重の方に呆れていると、真の天才の方がやって来た。

「やあ、盛り上がってるな」
 仕事着でもある白衣姿の流が、まるで休み時間に世間話でもするように話し掛けて来る。
 この状態で言うのもなんだが、今現在就業時間なんだよな、うちの会社。
「発明博士さん、自分の部署はどうしたんだ?」
 嫌味っぽく指摘してやる。
「ここと同じで手持ちぶさたなんだが、俺がいると気が抜けないみたいだからこっちに避難してきた」
「それ、避難と違う」
 そんな風に言い合っていたら、
「まあ上司がいると気詰まりだよね」
 いきなり、普段影の薄い今年入社の新人くんが空気を読まずに口走った。
 おいおい、うちの上司が目前にいるのに何言っちゃってるの?
 しかし、空気が読める課長はゴホンと咳払いをしてみせる。
 余裕だ。
「その点うちの課長は親しまれているという事ですね」
 お局様がすかさずフォローを入れる。
 うん、良い連携だな。
 でもきっと課長気にしてるよね。
 しかも流に対する嫌味にすらなっている。まあそれはどうでも良いけど。
 しかしこないだのユージくんにしろこの新人くんにしろ、我が道を行くって感じだな。
 俺も昔はこんなんだったんだろうか?と、またしても考えてしまう。
 少しはマシだったら良いな。
「それにしてもあんな大物が自ら顔出しをして人類に挑戦状とか、神話の時代さながらだな」
 流が何か腹にありそうな顔でそう言った。
 きっと終天が嫌いなんだろう。
 うん、分かるぞ、絶対お前敵愾心持ちそうだよな、アレに。
 まあ男ならだいたいの奴は嫌うよな、あんなのは。
 カリスマ持ちの怪異とか、早く滅びるべきだと俺も思う。

「先生はどう思います?終末の予言」
 御池さんが果敢に流にまで先程の話題を振る。
 この恐いもの知らずっぷりは偉大だ。
 しかもちょっと頬を染めているのはどういうことだ?
「終末の予言というのはあれか、連合国に終わりの魔獣が現れた時に流行った」
「不謹慎ですけど流行りましたね」
 御池さんが同意する。
 終わりの魔獣を使ったテロ事件は、当時あまりにも多くの犠牲者が出たので自粛ムードが大きく、そのせいもあって、表では声高に唱える者は少なかったのだが、あの時は色んな刹那的な物が流行った。
 当時のうちの大学の先生によると、事件を見聞きした事によるショックを滅びや死といったマイナス方向の思想に触れる事によって緩和しようとする人間の防衛本能による反射的な嗜好の偏重なのだそうだ。
 つまり怖いのを紛らわす為により怖い物を見たいって事らしい。
 俺にはさっぱり理解出来ない話だ。
「俺は予言の類は別の意味での危険を感じるから極力目にしないようにしているな。人類宗教のようなある程度コントロールされているものはともかくとして、人が無意識に選択する物の中に滅びとか終末とかがあるのはちょっと怖いからね」
 おお、流も天才モードのサトウと同じ意見なのか。
 俺はその手の概念とか観念とかで構築される世界の事を深く掘り下げていくと混乱してしまうので、なるだけ深くは考えないようにしている。
 人知れずため息を吐いてしまった俺だったが、ふと温かい気配を感じて振り向くと、伊藤さんがにっこりと笑ってお茶を差し出してくれた。
「どうぞ」
 多くを語らずに手渡されたお茶だったが、課長や流より先に俺に持って来てくれた気遣いが身に染みる。
 俺がストレスで胃をやられる前に、この騒ぎが終わってくれると良いんだがな。
 無理な願いと知りながらも、人は願わざるを得ない時があるのだ。
 口にしたお茶は熱すぎず適温で、少しだけ気持ちが休まるのを感じたのだった。



[34743] 52、迷宮狂騒曲 その二
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2013/06/13 05:33
 昼休み、残り物を突っ込んだ感じの弁当を食い終えた俺に伊藤さんが話し掛けて来た。
「良かったらちょっとガーデンに行きませんか?」
 彼女の言うガーデンとは、社ビルの屋上庭園の事で、男子社員仲間はもっぱら屋上と呼んでいるのだが、女子社員の間ではガーデンと呼ばれている場所だ。
 うちの課は七階にあるので、階段を二階分昇れば直ぐに出れる為、女子社員は天気の良い日は昼食をそっちで摂っていたりする事が多いらしい。
 あと、煙草族もよく行ってるようだ。
 そのどっちでもない俺だが、だからと言ってその場所を全く訪れないという事もない。
 人工物の多い場所で働いていると、時折自然物が恋しくなる事があるのだ。
 それが例え人の手で整えられた緑や花々であったとしても、自然物には違いないからな。
 それに公共の公園なんかでは安心して熟睡出来ないが、ここなら関係者以外来ないので安心して昼寝出来るという事もある。
「え?ああ、うん」
 ちょっとドギマギしながらそう答えた俺の背後で不穏な気配が沸き起こった。
 場所は休憩室、周囲には同僚達と今迄隣の席で飯を食っていた流がいる。
「伊藤さん、なにもこんな野獣のような男を選ばなくても」
 佐藤、てめえぜってーいつか泣かせてやる。
「社内で逢引とはなかなか堂々としたものだな」
 流よ、自分を基準にものを考えるのは止めろ。
 うん?いや、しかし、もしかしてこれが冷やかしというヤツなのか?
 学生時代盛大に冷やかされるカップルを横目に、「羨ましくなんてないからな」と呟いた思い出が鮮やかに蘇る。
 俺、今、ああいう風に周りから見えてるのか?
 そんな俺の感動を遮るように、伊藤さんの声が響いた。
「そういうんじゃありませんから、変な噂をしたら怒りますよ!」
 いつもながらキッパリとした否定をありがとうございます。
 少しで良いから夢を見る余地を残してくれても良いんですよ?
 そんな俺の魂の嘆きなど、世界の片隅すら動かしはしないんだけどね。

「すみません、もっと人目の少ない所で声を掛ければ良かったですね」
 自分の不注意だったと思ったのか、伊藤さんは申し訳なさそうにしていた。
 その様子は、さながら雨に濡れた子犬のようで可愛らしい。
「いやいや、そんな事をしたらかえって変な噂になっちゃいますよ。やましい事がなければ何事もオーブンにするのが一番です」
「そう言っていただけると助かります」
 うん、ちょっと照れたように笑うのも良いな。
 個人的にはいっそ秘め事っぽくこっそりお付き合いしたいです。
 と言ってもうちの会社、社内恋愛はむしろ歓迎の方向だからな。
 秘める必要なんかないんだが。
 特に隣はあからさまに綺麗どころが事務方に揃っていたりするし。
 社長、万が一にでも流を余所に取られたく無いんだろうな、きっと。

 屋上へと昇る階段は非常用階段で、扉を開けて中へ入るとほぼ密閉空間になる。
 ちょっとだけ不謹慎な事を考えている身としては、こんな場所で二人きりになるのは辛い。
 悶々とするぐらいなら、もういっそ玉砕しても良いから伊藤さんに告白してみようか?
 恐らくだけど、まだ付き合ってる相手はいないようだし、俺に対して一定以上の好意は持っていてくれそうだし、……あれ?いや、これって、もしかしなくてもいけるんじゃね?
「あの、木村さん」
「うお!あ、はい!」
 よからぬ妄想にふけっていた俺は、突然声を掛けられて慌ててしまった。
 ためらいがちに声を掛けたらしい伊藤さんは、俺の大仰な反応に目を丸くしたが、すぐに微笑みながら言葉を継ぐ。
「階段終わりましたよ」
 言われて、大きく上げていた足を下ろした。
 うっかり階段を昇りきったのに気付かなかったらしい。
 ヤバい恥かし過ぎる。
 キィと軽く金属の軋む音がして扉が開かれ、外部からの光が密閉空間を切り開く。同時に俺の妄想も泡沫のごとく消滅した。

 緑の匂いがする。
 俺の故郷は、もっと土臭かったり、年を経た大木の放つ独特の強い香りに満ちていたが、たとえ故郷とは違っているとしても、植物の放つ香りはなんとなく気持ちを穏やかにしてくれる不思議な力がある。
 うちの会社の屋上は、なにやらプロの造園家に頼んだとかで、西洋風の造りになっていた。
 小振りの水車小屋に小川、西洋柳にハーブ園、そのあちこちに小綺麗な四阿あずまややベンチが点在している。
 どうせなら自国文化に誇りを持って日本庭園風にすれば良いものをと、俺なんかは思ってしまうが、西洋風庭園は社長の奥方の趣味らしいので仕方ない。
 仕事人間の社長に対して奥方は多趣味で有名だったからな。
 そんな事を考えながらぼーっと癒しの空間を見ていたら、腕に手を置かれて、反射的に顔をそちらへ向けた。
「そこの四阿が空いてるみたいです。座りましょう」
 伊藤さん、顔が近いよ。
 途端に先程感じたもやもやとしたやましい気持ちが蘇って来てどぎまぎしてしまった。
 いや、十代のうぶな少年じゃないんだから、しゃんとしろよ俺。
「はい。そうですね」
 なにぎくしゃくしてんだよ!と、自分で自分にツッコミを入れて、どこかはしゃいでる風にも見える先へ行く伊藤さんに付いて行く。
 雨ざらしだから頑丈さを優先したのか、合成石材コンクリートで作られたテーブルと椅子を木目塗装で覆って丸太風に見せている四阿は、壁が無く風が通り抜け放題で、少しひんやりしている。
 ちょっと寒くなってきた今の季節は、あまりここに人気が無いのは当然なのかもしれない。

「あの、」
 伊藤さんが遠慮がちに声を掛けて来たのでなんとなく振り向くと、プラスチック製らしきカップをテーブルに並べていた。
「お菓子も持って来ているんですけど、もし食事の後で入らないようならお茶だけでもいかがですか?」
 その言葉に視線をずらすと、可愛いレース模様の縁取りのあるペーパーナプキンの上に焼き菓子らしきものが並んでいる。
「いただきます!弁当ごときで満腹になるようなやわな胃はしていませんから!」
 我ながら何を言ってるのか分からない事を口走って、その菓子に手を延ばした。
 それは葉っぱの形をした焼き菓子で、普通のクッキーのように柔らかくはなく、パリッとした噛み応えのある菓子だった。
 味はあまり甘くなく、僅かにニッキの香りがする。
「どうですか?男の人だからあんまり甘くない方が良いと思って、シナモンと蜂蜜だけ使ったんですけど」
「美味しいですよ。薄焼き煎餅みたいですね」
「え、やっぱりもう少し甘くした方が良かったでしょうか?」
 あれ?なんでしゅんとしてるんだ?
 ちゃんと褒めたよな、俺。
 大学時代の友人が、女性に好かれようと思うなら褒めるのが大事とか言ってたんだが、実の所あんまり上手くいった事がない。
 騙されたんだろうか?それとも俺の褒め方に問題があるのか?
「そうだ、お茶もどうぞ。こっちは少し甘味のあるお茶なんですよ」
「あ、ありがとうごちそうになります」
 気を取り直して紙コップに注がれたそれを手に取った。
 我が社の『いつまでも熱々で!ホット!』というイマイチな謳い文句を掲げられたその保温ポットに入ったお茶は、文字通り熱々で、多少舌先がしびれたものの、砂糖などとは違う程よい甘味が口の中に広がり、なるほどさっぱりとしたさっきの菓子と合っていた。
「うん、良いね。このお菓子にぴったりだ」
「そうですか?良かった」
 伊藤さんはほっとしたように微笑む。
 よし、どうやら挽回は成ったようだ。
 なんだかルールのはっきりしないゲームをしているようで気が抜けない。
 よく考えてみたら、今のシチュエーションって、学生時代憬れた、好きな子に手作りの差し入れをしてもらってそれを一緒に食べる場面そのものじゃね?
 これって端から見ると完璧にカップルだよな。
 うおお、また気持ちが勝手に盛り上がってるぞ。落ち着け、俺。

「ここから見えますか?」
 俺が一人心の中で悶えていると、伊藤さんがそう話し掛けて来た。
 彼女の視線は高層ビルの立ち並ぶ辺りに向けられている。
 そこには、今ははっきりと、かつて"おばけビル"と呼ばれた物が見えていた。
 だが、彼女の視線はそれからちょっとずれていて、どうやら伊藤さんには相変わらずその姿が見えていないらしい。
 そういえば、無能力者は入れないはずの迷宮にどうして伊藤さんが入り込んでしまったのかは分からないままだったな。
 例の俺俺ユージくんの彼女は、ちゃんと普通のビジネス街の方に出たらしいのに。
「迷宮か」
「はい。私には見えませんけど波動視カメラに映った映像は見ました」
 そう言って、伊藤さんは改めて俺へと向き直った。
「私、木村さんがいなかったらまた死んでいましたね」
 真剣な顔でそう切り出されて、俺は言葉に迷った。
 違うともそうだとも答えられない。
 伊藤さんはそんな俺に微笑み掛けて、言葉を続けた。
「私、子供の頃はずっと、冒険者だった父に着いてあちこち転々としていました。と言っても、その頃は土地開発の仕事だと思っていたんですけどね。行く所行く所、ほとんど人なんか住んでないような場所で過ごして、それなのに一度も怪異と出会った事は無かったんです。父やそのお仲間の人達から、怪異と出会ったらどうするか?という注意や実践テストみたいなのは受けていましたけど、実際は何も無くて、無能力者だからというのもあったんでしょうけど、だから、全然実感がなかったんです。でも、安全なはずのここに住むようになってからその時の経験が役に立つなんて皮肉ですよね」
 ちょっと自嘲っぽく笑った伊藤さんは、もう一度俺を見ると真剣な顔に戻る。
「私、木村さんに助けてもらって、次は私が何か出来ればと思っていたのにまた足を引っ張って、命を助けてもらって、どうして良いか分かりません」
「ええっと、いや、伊藤さんは十分頑張ったと思うけど」
 実際、あの迷宮に伊藤さんがいなかったら、俺は仕方なくあの素人連中と一緒に行動しただろう。
 バリケードを作ったのも伊藤さんの案だったらしいし、他の連中だけで放置しておいて生き残れたとは思えない。
 だが、そんな事をしていたらボスと戦えたかどうか怪しいものだ。
 下手をしたら同行した彼等を結局は死なせていたかもしれない。
「考えたんです。恩返しをするって、結局は私の自己満足じゃないですか。もしかしたら木村さんには迷惑な事なのかもしれない。いっそ私なんかが関わらない方が、木村さんにとって楽なのかもしれないなって。でも、やっぱり自己満足でも、私、何かしたいなって思うんです。何もせずに自分は迷惑になるからって離れていくのは、それもやっぱり勝手な判断に過ぎないし、同じ勝手ならもっと積極的に関わった方が良いんじゃないかって思って」
 よく考えたら伊藤さんって不思議な人だ。
 頭が良くて電算機パソコンとか軽々使いこなすのに、義務教育は受けてないらしいし、冒険者の娘なのに無能力者で、優しくてふわっとしてるかと思えば、高層ビルの階段や街の抜け道を知り尽くしていたり、お菓子作りが好きでいろんなお茶を上手に淹れてくれるし……。
「私に木村さんの事を教えてください。今、私は木村さんの事を断片的にしか知りません。腕の良い精製士で同時にハンターである事、お家が退魔のお仕事をしている事、ハンターのお仕事は内緒にしてる事、すごく可愛い妹さんがいる事、私の知っているのはそれぐらいなんです。……私、父や父のお仲間から昔さんざん言い聞かせられた事があるんです。中途半端は知らないのと同じ。何かを知ろうとするなら徹底的に調べ上げろって。だから、私に木村さんの事を教えてください。でも、もしご迷惑なら、もううるさくしませんから、そうはっきり言ってもらいたいんです」
 伊藤さん、顔が真っ赤だ。
 うん、これってすごく勇気がいる言葉だよな。
 だって、普通の告白だってここまで相手に踏み込まないもんだと思うし。いや、体験した事ないから知らないけどね。
 あなたの全部が知りたいって、そういう事だよな?これ。
 やべえ!なんか俺も頭に血が昇ってきた。
「あ、ああ、その……」
 すごくガン見されてる。
 なんか経験した事のない汗が流れ出す感じがするぞ。
「俺なんかで良かったら、よろしくお願いします」
 何言ってるんだ?違うだろ?しっかりしろよ、自分!
 伊藤さんはちょっとキョトンとしていたが、にっこりと笑って頭を深々と下げた。
「はい、こちらこそよろしくお願いします」

 あれ?これって、何をよろしくしたんだろう?
 お付き合いするって事じゃないよな?だってこれ恋愛関係ない話だし。
 え?俺、何を承知したんだろ?
 
 なぜだろう、何かをすごく間違えた気がしてならない。



[34743] 53、迷宮狂騒曲 その三
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2013/06/20 04:59
 電算機パソコンの通信回線ランプの光が激しく瞬くのを横目に、俺は溜め息を吐いた。
 俺がハンター協会本部に今回の迷宮事件の詳細を文書通信メールで送ったのは当日の夜。
 ことがことだけにすぐさま確認が来るだろうと思っていたが、案に相違して本部から連絡が入ったのはその二日後だった。
 分割されたディスプレイの中で、ハンター協会アジア担当職員と、翻訳フィルターを通したラグによって、微妙に言葉と表情がズレる本部事務局長、そしてなぜかお菓子の人とうちの妹、総勢四人の画像が、様々な表情でこちらに目線を向けている。
 ゲートによる認証通信、いわゆるゲートウェイ接続を利用した空間転送通信なので通信自体にはラグはない。
 つまりリアルタイムで俺の目前でお偉いさんがしゃべっている訳だ。
 半日も時差があるのにご苦労な話である。
 今すぐパソコンの電源を落として、不測の事態を装って、俺だけ抜けてしまいたい誘惑に駆られる。
「敵前逃亡をしたりすると、妹君に嫌われるよ、隆志くん」
 そう思った瞬間、酒匂さんから個別の文章チャットが届く。
 くそっ、だからガキの頃から知られてる相手ってのは嫌なんだよ!

『NK1、報告書は検討され尽くされたが、新しい事柄が多すぎて、組織としては対応に慎重にならざるを得ない。今回、貴君の所属国家の対策担当長に同席願ったのは、事によっては国家の利益に関わる問題になるからだ。ハンター協会としての対処は、現時点においては静観となるが、個々の情報開示については、通常任務に準拠すると思ってくれて良い』
 免許ナンバーで人を呼ぶハンター協会の担当官は、そう生真面目に告げた。
 ハンター本部としては基本ルールで対処不能な事態にならない限り通常運行という事だろう。
 まあそりゃあそうだろうさ、今までもっととんでもない事態を捌いてきた組織なんだから、なんか起こる度に変更しなきゃならん程融通の利かないシステムだったら、ハンター協会という組織自体が早々に立ち行かなくなっていたはずだ。
 なにしろメンバーが規格外ばっかりなんだからまずそこで躓くだろ。

『我が国の中枢都市で起きた事件だ。対処の為の知識と資料が必要です。一段階深い特別措置、正確に申し上げれば緊急時特例法による対処を要求したい』
 事務局長の言葉に抗議するかのような発言だが、内容的には資料の要求である。
 酒匂さんの言葉は過激なのかそうでないのかちょっと聞いただけだと判断がつかない。
 というか、いやいや酒匂さん。
 特例法ってあれだろ?世界的危機における特例に対して用いられる特殊な条件下の措置。
 それって、あの連合国の終わりの魔獣事件の時だって発動されなかったよな?
 それを要求するのって無茶すぎるだろ。
 俺がそんな天上の戦いさながらのやりとりを気にしていると、
『NK1、貴君の報告内容に幾つか整合性を欠く部分が見受けられるが、これはいかなる事か?』
 油断を突くように、担当官が切り込んで来た。
『私も確かめたい事があります』
 なぜか由美子まで堅い声で言って来る。
 なんだ?どうした?
 確かに報告内容は詳細さとは無縁だったかもしれんが、嘘はないぞ。
「えっと、何でしょう?」
 恐る恐る聞いてみる。
『まず、一番肝心な点だが、なぜ迷宮内で一般人を置き去りにしたのかね?』
 なるほど、そこを気にするんだ。
 この人ら、一般人とハンターならハンターを生き残らせろとか豪語してやまないくせに、一応常識的な事も考えるんだな。
「一般人が迷宮に入り込んだのは俺の力の及ぶべくも無い突発事象です。俺も彼等の後を追ってその空間に入り込むまでは、そこが迷宮である事すら分かりませんでした。迷宮である以上は統括存在ボスを倒さなければ脱出出来ない訳ですが、その際素人を三人も連れての移動は危険すぎました。ご存じの通り、迷宮内の怪異は担当ポイントに待機していて、索敵範囲に移動する者を感知すると攻撃スイッチが入り襲って来ます。時間を掛けて移動すればする程危険は高くなる。幸いその場には怪異への対処をある程度学んでいた人がいましたから、彼らには移動せずに守りに徹して貰ったんです」
 まあこの説明は報告書に書いたままなんだけどね。
 画面の向こう、新大陸南部の住人独特のくっきりとした眉が持ち上げられた。
 ハンター本部は国際組織だが、本部の建物がインカにあるせいか、その辺りの人種が内勤にも多い。
 翻訳術式も使わずにアジア方面の言語を網羅しているこのアジア方面担当官の彼は、現地のエリートという域を楽々飛び越え、もはや変人の類だけどな。
『その情報は報告書に記載されている通りだが、私の問題にしているのは、なぜ、直後に突入したはずの君が、一般人が彼らのみでバリケードを築くまで合流出来なかったか、なのだよ。その空白時間、君は何をしていたのだ?』
 あーはいはい、なるほどそうですね。気になりますよね。ち、出来るなら話したくは無かったんだけどな。
「……途中で足止めをくった」
『ほう?』
 なにが「ほう?」だ、くそったれ。
 大体分かってやがったくせに。
『なんでまたその部分の報告を省いたのかね?』
 しつこいな。
「逆に聞くが、今回の件は任務外、プライベートで遭遇した事件の自主報告だろうが。なにもかも報告しなきゃならない義務はないはずだぞ?」
『おや、私は報告漏れについて君を責めたりしたかな?もしそうなら申し訳ない。ただ単に興味があったから尋ねただけなんだが』
 こいつ、いつか本部に乗り込んで締め上げてやる。
『ペテル担当官、兄さんはあいつにトラウマを持ってる。仕方ない』
 そんな俺の様子を見てどう思ったのか、由美子がフォローなのかなんなのか分からない合いの手を入れた。
 は?心的外傷トラウマだと?
 馬鹿を言うな。
 俺は単にあいつの話をしたくないだけだ。
『そうか、シュッテンだったか?』
 他は流暢な日本語で話すくせに、なぜか名詞になると途端に外国人っぽいしゃべりになるアジア担当官は、何か愉快な発音でヤツの名を告げる。
 良いなそれ、俺も今後奴の事をシュッテンって呼んでやろうかな?
「トラウマなんぞない。単にあいつが嫌いなだけだ。そう、足止めをしたのはこの迷宮を仕掛けやがった化け物、酒呑童子だ」
 まあ実際はその配下の白音な訳だが。今ここで白音の話は出来ない。
 白音と俺が顔見知りである理由とかを話す羽目になれば、子供の頃の出来事までさかのぼって聞かれる可能性がある。
 情けない話だが、俺自身が未だに消化しきれてない事を他人がどう判断するか、考えるのが恐ろしいのだ。

『その酒呑だが。人類救済の為の迷宮だと言ったらしいな』
 いつの間にか天上の戦いを終えたらしい酒匂さんが、こっちの話に加わって来た。
 というか、その会話はボス戦突入前の話なんだけど、時系列を飛ばしてしまって構わないのかな?
 俺としてはありがたいんだけど。
「いつもの大言でしょう。やつら世紀を越えて生きる怪物達は大仕掛けな遊びをしたがるものですから」
 長く存在し続けた名有りの怪異の言葉など、真に受けると大変な事になる。
 なにしろ大半がチャームやカリスマ持ちなので、その言葉ひとつで踊らされる人間は多く、ここ最近の話でも、世界がもう少しで大戦に突入し掛けた事例すらあるのだ。
『だが、人類が戦う術を忘れ始めているのは事実だ。僅か一世代分の時間で人間は安らぎに慣れすぎた』
 酒匂さんの言う事は確かに俺も感じている。
 でも、それは決して悪い事ばかりじゃないはずだ。
『確かに君達ニッポン人や新大陸連合、諸島王国はそうかもしれんな』
 ハンター本部事務局長が、いかにも我が国は違うというニュアンスでそう言った。
 まああんたらの国は未だに石積みの都市城壁だもんな。
 頑なに電気式結界を使わないんだよな。
 兵器とかはうちの国より遥かに近代化してるみたいなんだが。

 インカ帝国は実体化した怪異をテイムして戦わせるというやり方をしている国だ。
 もちろん詳細は明かされてないが、選ばれた戦士が血の盟約によって代々受け継がれる怪物を使役して戦うらしい。
 何度か記録映像を見たが、あっちは敵の怪異もとんでもなく巨大で危険な存在が多く、まるで怪獣大決戦の様相を呈していた。
 恐るべき神々の地である。

『平和を希求するのもまた人の正しき姿でしょう。実際、この五十年の人類の繁栄は、過去千年に勝ります』
『程度の問題だ。戦いと安寧は拮抗すべきなのだ。堕落を生み出せば滅びへと突き進むのは必然であろう』
 酒匂さんに向かってニヤリと笑う精力的な顔。
 ハンター協会は、言わば人類の持つ暴力を体現する組織でもある。
 武器や兵器によって、間接的な暴力が主体となった軍と違い、何百年もほとんど変わらずに直接的な個人の暴力を主体としているのがハンターであり、それを組織として運営しているのがハンター協会なのだから、その思想が肉体言語寄りなのは仕方がないと言えばそれまでだが。
 だからこそ、組織の中には力こそ正義じみた感覚の者が多い。
 昔から囲い地で精霊に守られていた農耕民族である我が国とは、根本的な部分に考え方の違いがあるのがむしろ当然なのだろう。
『しかし何にせよ、化け物に教えを乞う気はありません』
 酒匂さんが断言する。 
 理事長もイイ笑顔を返した。
『当然だ』
 どちらも人類の誇りを持っている。
 終天ごときに自分たちの築いてきたものを否定させる気は無いのだろう。
 なんとなく安心した。
『だからこそ私は人類の叡智にこそ頭を垂れたいのですよ。ハンター協会の長年蓄積された知識を頼りにしています』
『仕方がない。が、特例措置は適用出来ない。情報開示の条件付与、手続きの資料を送るので、正規の手続きを踏んでもらうぞ』
『はい。ありがとうございます』
 どうやら何か折衷案がまとまったらしい。
 あっちの話に首を突っ込むのはどう考えても自殺行為なので、聞き流そう。

『兄さん、迷宮内に同行した一般人の資料をこちらに渡してください。今回の件は依頼を受けての対処ではないので協会本部に詳細を知らせる必要がないのはその通りですが、共闘関係にある相手とは情報を共有するのが当然だと判断します』
 由美子がなぜか厳しい口調で要求して来た。
 まあ確かに正論だ。
 パーティとは形式が違うとはいえ、共に協力し合うハンター同士に齟齬があると拙い。
「分かった。詳しい話は今度会って話そう」
『兄さん、少し事の重要性が理解出来ていないようですね。“今度”などと悠長に言っていられませんよ?』
「へ?」
 由美子の強い口調に疑問が湧く。
 どういう事だろう?
 しかし、俺が乏しい想像力を働かせる前に、酒匂さんから答えが投じられた。
『この場に私がどうして同席していたと思っているんだ?国からの正式な依頼だ。木村隆志、木村由美子、両者に長期契約での協力依頼を要請する。ちなみにこれは緊急事態発令に伴う国家としての協会への依頼だ。断るという選択肢は無いと思ってくれ』
 なんだって!?
 それは、俺の中でもう終わった話として片付けられていた迷宮の一件が、実はまだ始まったばかりだったのだと、ようやく気付いた瞬間だった。



[34743] 54、迷宮狂騒曲 その四
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2013/06/27 04:44
 恐ろしい事に、俺本人の意思など全く反映されぬまま、色々な事が決まってしまった。
 由美子のサポーターとして登録しているんだから仕方がないと言えば仕方がないが、釈然としない気分なのもまた仕方がない事だろう。
 翌日、未だそのショックが残ったままだったのが伝わったのか、周りがなんとなく気遣っているのを感じた。
 俺が分かり易いのか周りが聡いのか、俺の自尊心のためには後者であって欲しい所だ。
 とにかく、プライベートを仕事に持ち込む訳にはいかない。
 俺はきっぱり頭を切り替える事にした。

「木村ちゃん、新しい地図見た?」
 切り替えた所で、何から手を付けようかと思っていた俺に、なぜか佐藤が真面目モードで話し掛けて来た。
 この男が真面目だとそれだけで不安になるのはなぜだろう。不思議だ。
「地図?まだ見て無いけどどした?」
「早めに見といた方が良いぞ。だいぶ立ち入り禁止地区が増えてる」
「マジでか?」
 思わず口調に地が出てしまった。
 佐藤は真面目な顔でそれに頷く。
「マジだ」
 くそっ、オウム返しにされるとむちゃくちゃ恥かしいぞ。
 相手に悪意がなさそうな分、余計にヘコんだ。
「あ、それならブリントアウトしておきましたよ。それと共有ボックスに入れておいたので手元のパソコンでも見れます。オーブンファイルに設定してあるので、ご自身の端末や携帯電話とかに送っていただいても構いませんよ」
 伊藤さんが大判のフルカラー地図を連絡パネルに貼り出しながらそう言った。
 おお、うちは外回りは滅多にないけど、全く無い訳じゃないから助かるな。
 それに私用に使えるのはもっと助かる。
 色分けされた地図には立ち入り禁止地区が赤く、立ち入り制限地区が黄色で枠取りされていた。
 主要道路やよく利用していた抜け道、駅の近くの商店街の一画にも該当地域があり、慣れるまで不便そうだ。
 俺達があのおかしな連中と発見したような迷宮入口ダンジョンゲートは、その後続々発見されて、その所在はセンター街側だけでなく、住宅地域や官庁街にまで及んでいたらしいから、政府もさぞや頭の痛い思いをしている事だろう。
 それにその周辺に住んでいた住人や商店主はおそらく立ち退きになっただろうから、いい迷惑だったに違いない。
 もちろん補償はあったのだろうが、人の気持ちというものは収支で割り切れるものではないだろうしな。
「さてみんな、迷宮騒ぎはお国に任せて、俺達は本来の仕事に気持ちを切り替えるぞ」
 課長が手を叩きながら宣言した。
 ここの所迷宮関連の大きな工事やら政府のお達しやらでほとんど仕事が進まなかったので、そろそろきっちりと通常業務に戻したかったのだろう。
「こっちの実績グラフを見てみろ、迷宮だなんだと浮ついている場合じゃない。うちの主力商品の大型の湯沸かしポットの売上は相変わらず目に見えて落ち込んでいる」
 課長は地図の隣に貼ってあるグラフを指し示して、会社の方針の説明を始める。
 そうだな。
 確かに今回の件はむやみに不安を煽ってパニックを起こされるよりは、日常の中へと埋没させた方がマシに違いない。
 今のところ迷宮の瘴気は外界を侵す事は無く、あれ以来終天の気配も消え去った。
 それが、相手の手心次第の酷く危うい薄氷の上の安全だとしても、人々が恐怖に駆られ不安にさいなまれるような事になれば、巷はたちまち限界を越えた瘴気に溢れ、怪異の温床となってしまう。
 その点に関して政府の手際は見事であると言えるだろう。
 まあ、元々結印都市に住む人々が危機感に薄いという事はあるのだろうが、それにしたって、迷宮を降って沸いた資源のように扱うとか、思いも及ばぬ方策だ。
 ものは考えようとは言うが、よくもまあそんなポジティブ思考に至れるもんだ。
 だが、そのおかげで、人々は突然の大事件である迷宮についての話を、面白おかしい日常の茶飲み話にしながら通常通りの毎日を過ごせるのだから、大したものだと思わざるを得ない。
 まあちょっと危機感無さすぎなんじゃないかとは思わなくはないけどな。
 なにしろ終天がちょっと気分を変えて迷宮を開放状態にするだけで、この都市はたちまちの内に滅ぶかもしれないのだから。
 そこまで酷い事にならなくとも、少なくとも、今の平穏な日常は二度と取り戻せないだろう。

「木村くん、聞いてるか?」
 と、余計な事を考えていたら課長の不意打ちを食らった。
「うわ、すいません!」
「都市部では大家族で住んでいたりとかは滅多に無いですからね。こないだの魔法瓶はその辺を狙った商品なんでしょう?」
 そこへ新人くんが間髪入れずに意見を述べる。
 別に助けてくれたつもりは無いんだろうけど助かったぜ。
 魔法瓶というのはあの術式内包のポットのシリーズ名なのだが、びっくりする程ストレートで、聞いた時にちょっと笑ってしまったものだ。
 構造の技術特許を取ったので、しばらくはうちの独占商品となる。うまくすればうちの看板商品になるかもしれないな。
「そうだな、おかげであれは今年度の売れ筋商品になりそうだ。しかし利益率が悪いのがネックだな」
「一人暮らしの若い層狙いですからね、そういう顧客は日用品にそう金を掛けたりはしないでしょうし、イメージの問題もありますから、営業部の価格設定は妥当だと思いますよ」
 俺もそう意見を述べた。
 大体の原価を知ってる身としてみれば、今の販売価格がどれだけ薄利かは予想がつく。
 単純な原価だけではなく、俺らの給料や流通コストが乗ると、売れたからと単純に喜べはしないだろうな。
 やはり会社としては、値段が少々高くても顧客が納得出来る商品が欲しい所なんだろう。

 ……と、そんな風に、職場ではその後顧客の意識調査などの資料を元にしたセッションが行われたのだったのだが、


「あの、木村さん、どうかしました?」
 問題は就業後だった。
「あ、ああ、なんだっけ?」
「お夕食はなんにしますか?実はあんまりレパートリーが無いので少し恥かしいんですけど」
 そう、さんざんその事を考えないようにしていたのだが、無情にも時の進みは止まる事は無かった。
 二日前、「あなたの全てを知りたい」という衝撃の告白を受けた俺は、あろう事か、自宅にお伺いしたいという伊藤さんの言葉をいつの間にか了承していたのだ。
 いや、別に家に来て欲しくないとかそういう事じゃもちろんないんだが、……マズい、マズいよな?マズいだろ!?
 だって、彼女、俺を命の恩人だと思ってるんだぞ?
 何かあっても拒絶出来ないだろ?
 何かって、その、ほら、だって俺、伊藤さんの事良いなあと思ってるし、その、女性として。
 って事はこう、雰囲気によってはムラムラとする事だってあるだろ?やっぱり男と女なんだしさ。
 何とも思ってない相手にだって、隣に座って酒でも飲んでればそんな雰囲気になる事もある訳で……って、いや、だから伊藤さんの事はなんとも思ってない訳じゃないんだから、ああ、何か混乱して来た。
 どうしようか?

「あの?リクエストありませんか?」
 ちょっと軽い混乱状態に陥っていた俺に、伊藤さんが話し掛ける。
「うおう!あ、ああ飯の話?そうだな、カレーで良いんじゃないか?」
「あう、カレーですか?それって私に気を使ってくださったんですよね。まず失敗しない料理ですから」
「え?いや!そんな事は無いですよ?カレーは奥の深い料理じゃないですか」
 俺が悶々としている間にも、刻々と時は進んで行く。
 自宅で手料理とか、それ、彼女持ちの定番シチュですから、本当にありがとうございます。
 何かが根本的に間違っている気がするのに、なんとなくこのまま流されても良いかな?と思っている俺もどこかにいて、尚更焦る。
 俺達色々と間違ってないですか?そんな風に聞けるわけもなく。
「スーパーとかもう開いて無いんじゃないかな?」
 気持ち的に逃げ腰なので、言葉もどこか消極的になってしまう。
「大丈夫ですよ。夜十時までやってる所とか、最近は二十四時間開いてるスーパーもあったりしますし、手前の駅でちょっとだけ降りる事になりますけど、良いですか?」
「へえ、コンビニみたいだな」
「きっとコンビニに対抗しているんだと思いますけど、私達みたいに仕事で遅くなる人間にはありがたいですね。コンビニにも最近はカレーの材料ぐらい置いてありますけど、やっぱり安さと新鮮さ、品揃えはスーパーの方が上ですから」
「確かにそうですね」
 受け答えは普通に見えるが、内心は未だに焦りまくっている。
 事が決まった日に由美子に文書通信メールを入れておいたんだが、全く返信が来ないし、電話すればいつも伝言サービスだし、どういう事なんだ妹よ。
「あの、」
「おわっ!」
「……やっぱりご迷惑だったのでは?」
「いやっ!ご迷惑では無いですよ!ちょっと緊張してるだけで!」
 ど、どうするよ、据膳がなんとかって先人が言ってたような気がするが、それって人として許されない事なんじゃ?
 少なくとも俺じゃない男がそういう立場を利用して女性を好きにしたら俺は絶対に許さないだろう。
 そう、絶対に、だ!
 もし俺の目の前にいたら、生まれて来た事を後悔させてやる!と、断言出来る程だ。
「お肉はやっぱり牛ですよね?うちの父なんかワニが一番とか言って母に殴られたりしてますけど」
「ワニというと鮫ですか?美味いですよね、あれ」
 上の空でうっかり考えもせずに返事をしてしまい、言葉の内容に気付いて、はっとして伊藤さんの顔を見る。
 伊藤さんは最初意味が分からなかったようだった。
 そういや彼女、帰国子女だし、外国人とのハーフだし、ワニ=鮫とか分からないよな、同国人でも分からない奴は分からないだろうし。
 うちの村は内陸の山間部にあって、鰐料理という名前で鮫を祝い事に食うのが定番になっていたのだ。
 なので、つい、ワニと言われて故郷の料理を思い出してしまった。
 だが、伊藤さんはおそらくこれが俺なりのジョークだと判断したのだろう。
 くすっと笑ってみせると、楽しそうに応えてくれた。
「木村さんもゲテモノ好きだなんて、きっと父と話が合うと思いますよ」
 それってお父さんにご挨拶に行かなきゃいけないって事なんでしょうか?
 いや、いかん、俺は色々気楽に考えすぎてる気がするんだ。
 これってもっと重大な問題じゃないのか?

 伊藤さん、本当に良いのかな?
 というか、危機感全くないですよね?
 ヤバイ、何かあったら俺は罪悪感で死ねる。
 ……うう、どうしたら良いんだ。

 散々悩み抜いて、二人きりの夜道だというのに何も楽しむ事も出来ないままアパートに辿り着けば、部屋にはちゃっかり由美子が上がり込んでいた。

 テンパっていた俺は室内の気配に気付かないまま、鍵が上手く刺さらないのを焦りのせいにして、なんとなくドアノブを回したら開いてしまったのだ。
 室内は明るく、奥の部屋でテレビジョンが楽しげな話題を振りまいている。
 振り向いた我が妹は、驚きすらしないで立ち上がると出迎えに寄って来た。
 うん、受験の時に合鍵作ったもんな。
 でもさ、連絡しようぜ、主にお兄ちゃんの心の平安の為に。

「あ!ユミちゃん、こんばんは!」
「ゆかりんこんばんは」
 俺の気も知らぬげに、女の子二人は楽しげだ。
 お前らいつの間にそんな親しくなってたんだ?
 ゆかりんってなんだよ!
 
 手際よく進められていく夕食の準備を見ながら、俺がようやく思考出来た事といえば、食器セットを新たに買い入れておいて良かったという、そんなどうでも良い事だけだった。



[34743] 55、迷宮狂騒曲 その五
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2013/07/04 04:10
 台所から良い匂いが漂って来ている。
 誰がどう考えても空腹状態の人間なら気になるのは当たり前だと思うんだ。
 だが、なぜか、俺は現在自分の家の台所の覗き見禁止を食らっているのである。
 なので仕方なく、漏れ聞こえてくる会話を聞くとはなしに聞いているのだが、
「どうして肉や玉葱を先に炒めるのですか?」
「そうね、玉葱は炒めると甘くなるの、玉ねぎの甘さはカレーにコクを出すのよ。長く炒めて、飴色になるぐらいまで炒めるのが一番美味しいって言われているわね。お肉は、先に表面に火を通しておくと美味しさの成分が逃げないの」
 実に楽しそうだ。
 なんとなく母と子のお料理教室になっているような気がするが、まあ由美子が料理を勉強などした事が無いのは俺も良く知っている。
 あいつは時間があれば呪符や術式の勉強と研究に明け暮れていたからな。
 女の子としては少々遅めのような気もするが、こういう家事なんかに興味が出て来たのなら良い事には違いない。
「この茶色い泡みたいなのはなに?食べられるのですか?」
「それはアクだから掬って捨てるの。そのままにしておくとえぐみになっちゃうから」
「アク?悪者なのか?」
「う~ん、美味しさを邪魔するんだから悪者ではあるかもね」
「ならば滅殺の陣で!」
「こら!ユミ!小学生かお前は!」
 思わず台所に飛び込んだら、伊藤さんがびっくりしたように俺を見た。
 由美子の手には何も無く、ニヤリと悪戯っ子のような顔で笑ってみせる。
「冗談に決まっているのに、兄さんは心配性なんだから」
 くっ、ひっかけやがった。
 由美子は普段は生真面目なのに、時々考えられないような事をやらかすんだよな。
 それもその標的は主に俺だ。
 嫌われているのか?俺。
 しかし、そのやりとりがどうやらツボにハマったらしい伊藤さんは、ターナーを片手に口許を押さえて笑いを堪えていた。
「それに、女同士の会話に聞き耳をたてるなんていやらしい」
 追い打ちを掛けるように、由美子が軽蔑したような眼差しでそんな風に言って来る。
 な!
「別に聞き耳たてなくても聞こえて来るだろ!うちは狭いし部屋の仕切りに防音なんかないんだぞ!」
「兄さん、冗談で言ったのにそんなにムキになるなんて、」
「あのな!」
「あはは、ほんとに兄妹仲が良いんですね。良いな」
「いやいや、どう見ても俺が虐げられていますよね?」
「いわれの無い誹謗中傷を兄さんから受けた」
「あはは、あ、いけない、そろそろ火を弱めてルーを入れましょう。木村さんはお部屋で待っていてくださいね」
 くっ、追い払われた。
 ここの家主は俺のはずなのに……。
 しかも、蝶々さんまで由美子の式である蝶につられて台所の中を巡回してるし、前にも疑ったが、あの式神、本当に命令コマンドの書き換えが出来るんじゃあるまいな?
 ともかく、そんな感じで俺はひとりでぽつんとテレビジョンを観る事となってしまった。
 うう、周囲に誰もいないのは辛いな。
 しかもテレビでは今話題沸騰だとかで例の迷宮を特集していて、不愉快この上ない事を思い出させてくれるし。
 なんかこう、天国と地獄をいっぺんに味わっているような心地だ。

『鉱物資源や化石燃料の埋蔵量の乏しい我が国としては、この迷宮は正に降って湧いた恩恵ですよ』
『しかし、危険な場所には違いないのでしょう?そんな場所が都内の中心部に存在するというのはやはり問題があるのでは?』
『そこは、政府がきっちりと管理すれば良い話ですよ。中に入るのはハンターや冒険者、軍隊に任せておけば良い』
『そこですよ!軍隊はともかくそんなゴロツキが街中を闊歩するようになるんですよ!治安の問題があるでしょう!』
『治安こそ、警察や軍の管轄ではないですか』
『なにもかも軍まかせですか?ならあんたの老後も軍に面倒を見てもらえば良いんじゃないですかね?後腐れの無いように始末してくれるかもしれませんから』
『なんだと!』
『まあまあ、お二人共落ち着いて』

 最近のテレビは過激だな。
 コメンテーター同士が取っ組み合いを始めるとか、テレビを観ている子供に、大人は自分の意見が通らないとすぐ暴力に訴えるとか思われたらどうすんだ?
 しかしそうだよな、誰が考えても分かる話だよな。
 消滅せずに段階的に攻略出来る迷宮。
 フリーのハンターや腕に覚えのある冒険者にとっては垂涎の的となるに違いない。
 一稼ぎしようとこぞって集まって来るのは間違いない事だろう。
 確かにそうなると治安については頭の痛い問題になるはずだ。
 連中は軍の工作部隊程度には武装しているし、個々の戦闘能力は高い。
 どう考えても現在の警察では荷が重いだろうな。
 そう言えば、酒匂さん、ハンター協会のお偉いさんとやり合ってたが、その辺の事を交渉してたんだろうか?
 そういやあの人、迷宮関連の責任者になったっぽいけど、出世したという事なのかな?
 補佐官から長になったんだから出世だよな?
 よし、今度お祝いになんか美味い物でも持って行ってやろう。
 と、頭の中で物色したのが悪かった。
 食い物を思い浮かべたせいで猛烈に腹が減って来たのだ。
 飯、……まだなんだろうか?

 既にカレー独特の刺激的な匂いと、若い女性独特の炭酸の泡が弾けるような笑い声が、引き戸一枚向こうから漂って来ていて、俺の飢餓状態を煽りまくっている訳なんだが、……もはやこうなると拷問である。
 思い余った俺は、キッチンとの間を隔てている薄い引き戸をそっと開けてみた。

「何をしているんですか?」
 丁度その戸を開けようとしていたらしい伊藤さんと真正面から向かい合う事となり、硬直してしまった俺を伊藤さんは不思議そうに見つめる。
「兄さんのムッツリ」
 由美子よ、お前、どこでそんな言葉を覚えたんだ!
「あ、頃合いを見て戸を開けてくださったんですね。助かります」
 伊藤さんは善意に解釈してくれたようで、納得したように頷くと、両手で鍋を抱え込み、こっちへとやって来た。
 慌てて小さく開けていた戸を大きく開く。
 カレーと伊藤さん、二種類の異なる香りが俺の傍らを通り過ぎた。

「兄さん手伝って」
 ちょっとの間惚けていたのか、気付くと由美子が微妙な笑みを浮かべながら俺を促していた。
 なんだその顔は、言いたい事があるならはっきり言ったら良いだろ?
 いや、ごめんなさい、嘘です。
 今はっきりナニカを言われたら色々拙い気がする。
 俺は大人しく言われるがままにライスの盛られた皿を運ぶ。
 しかしなんだな、俺に好きな相手が出来たら由美子はやきもちぐらい焼いてくれるかと思ったが、さすがにそんな事は無かったぜ。
 ああいうのはきっと架空の世界のロマンなんだろう。

「お皿は五枚あるのにスプーンは二本しかないね」
「あ!」
 しまった!カレースプーンは盲点だった。
 コーヒースプーンならカップとセットで付いてたんで五本あるのだが。
「良いよ、俺はフォークで食う」
「これはいかに兄さんに友人が少ないかを如実に現していると思う」
 なんだと!?その件に関してはお前の方が酷いだろうが!
 由美子は余程俺を同類認定出来たのが嬉しいのか、途端に機嫌が良くなった。
 鼻歌らしきものまで聞こえて来たんだが、お前、それ、呪歌じゃなかろうな?
「私が無理矢理お邪魔したんですから、私がフォークで良いですよ。昔は自分の食器ぐらいは持ち歩いていたものですけど、私もすっかり都会に馴染んでしまったみたいで、最近は水筒とナイフぐらいしか携帯してないんです。申し訳ありません」
「駄目ですよ、お客様に不便を掛けるなんてとんでもない話です」
 というか、マイ食器を持ち歩かないのは普通の事なので、謝る必要はありません。
 伊藤さんって一見大人しそうなのに色々けっこうアグレッシブだよな。
 まあ親御さんがハンターだったんだから当たり前か。
 しかし、そうか、ナイフを携帯するぐらいは割りと普通の感覚なんだな。
 俺も妙な遠慮をせずに今後は持ち歩く事にしておくか、この先、何が起こるか分からんし。

 伊藤さん(と、由美子)の手作りカレーは驚く程美味かった。
 特に肉が、びっくりするぐらい美味い。
 確かスーパーで買ってたのはそんなに高くもない普通のブロック肉だったはずだけど、どうやったらこんな風に化けるのだろう?
「お肉とお野菜が少し余っていたので、明日の朝食とお弁当用のおかずも作って冷蔵庫に入れておきましたから食べてくださいね」
 伊藤さんがにっこりと笑ってそう言った。
 女神か!?この世に女神が降臨したのか!?
 俺はかつてない戦慄に体が震えるのを止められずに目前の女性をしげしげと見つめ、そうしてすっかり食事の手が止まってしまったのを見咎めた妹に、思い切り腕をつねられるハメになったのだった。



[34743] 56、迷宮狂騒曲 その六
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2013/07/11 04:09
 結局の所、この日の夕食は久々に賑やかな食事となって、ここに居を構えて以来、うっすらと俺を苛んでいた孤独感はすっかり解消される事となった。
 我ながら調子の良い事だと思う。
 ありがたい事だよな。ここに至った事情はともかくとして、二人には感謝をするべきだろう。
 片付けを終え、いよいよというか、敢えて考えるのを避けていた本日のメインの時間がやって来た。
 こんな事なら時間稼ぎの為に何かデザートを用意するべきだった。
 いや、悪あがきは止そう。問題を先延ばしにしても仕方が無いしな、ちゃんとしないと。

「お茶はチャイ風紅茶で良いですか?」
 伊藤さんが洗い物が終わってもキッチンでなにかしていると思ったら、どうやら鍋を使って本格的な飲み物を用意していたらしい。
「あ、ありがとうございます。俺も妹も紅茶とか全く分からないので伊藤さんにお任せで」
「じゃあ任されました」
 弾んだ声が返り、キッチンから良い匂いが漂って来る。
 洗い物も手伝うと言ったのに追い出されたしまったし、なんというか俺の方がお客様扱いされてるよな?情けないぞ。
「あー、ユミ、メールに書いて送ったから大体の話は分かっていると思うが……」
 それにこの時間は伊藤さんの心遣いだろう。
 先に話を合わせるなら相談しておけという事だと思う。
「兄さんの好きにすれば良い」
 だが、由美子はこっちの機先を制するように、そう一言で切って捨てた。
「え?おい」
「だって、兄さんはいつだって自分の思うままにしてきた。今更私や家とかに遠慮したりしりごみするのはおかしい」
 う、確かにここで責任の一端を由美子に握らせるのは卑怯かもしれない。
「私は兄さんがうっかり本能に従って暴走しないように来ただけ。それ以外の事に関しては居ないものと思って」
 由美子のその言葉に思わず咳き込んでしまった。
 飲み物がまだ出てないのは幸いだっただろう。
 妹よ、そういう話をあまりにも赤裸々に語られると、俺の心が取り返しの付かないダメージを負うので、出来るだけやんわりとお願いします。
 うう、由美子の脳内では、俺はどんだけ駄目人間なんだろう。
 真実を知ったら立ち直れないかもしれないな。

 この場のどんよりとした空気をどう思ったのか、その話の少し後に現れた伊藤さんは、カップに注ぎ分けたチャイ風紅茶とかいう物をそれぞれに配ると、狭いちゃぶ台の向かいに再び座った。
 そういえばほとんど疑問に思わなかったが、こっちの狭い部屋じゃなくてキッチンのテーブルに座ってれば良かったんじゃないか?
 しかし既にカレー食った後に思い付いても遅すぎるよな。機を逸してるなんてもんじゃないぞ。
 なんだか家族の団欒を思わせる距離で顔を突き合わせ、やや気まずい状態で本題に入る事となった。
 いや、気まずいと思っているのは俺だけだったのかもしれない。
 二人ともなんだかやけに嬉しそうにニコニコしている。

「伊藤さんは、その、俺の事情を全部知りたいという事だったですけど、実の所、俺には俺だけの気持ちでは明かせない事情もあります。それは大丈夫ですか?」
「はい、お仕事上秘密にしなければならない事があるだろうという事は承知しているつもりです。木村さんの判断で私に教えていただける範囲で構いません。私がわがままを言っているのですから、実の所、こうやってそういうお気持ちを示していただけるだけで、とても、嬉しいんです」
「あ、はい」
 なんだろう、どう言ったら良いんだろう。
 俺の事を知るのが嬉しいとか言われてしまうと、決まり事とかそういう小難しい理屈を全て投げ捨てて、俺自身を全てさらけ出したくなる。
 こんなちっぽけな俺だけど、それでも良いと言ってくれるのなら何もかもこの女性に捧げても良いような、そんな気持ちだ。
 これもまた、俺達の本能がゆえなんだろうか?
 それともこの想いこそが、世間で愛と呼ばれるものなのだろうか?
 そんな事も分からない自分が情けない。今この時、俺自身が一番俺を知りたいと思っているのかもしれなかった。
「それじゃあまずは家族の事かな」
 気分を切り換える為にも、用意してくれた飲み物を口にする。
 うん?これってミルクティーじゃないのかな?あ、でも僅かにビリッとする辛味がある。
 口に残ったカレーの辛さをその僅かな辛味が甘さと馴染ませてくれるようですごくすっきりするな。
 あ、やばい、間が長すぎた。
 こほんとごまかすように咳払いをする。
「会社でも別に隠してはいないし、ある程度は知っているとは思いますけど、うちは山奥の隠れ里みたいな所で続いて来た払い屋の一族です。田舎には祖父じいさん祖母ばあさん両親揃って未だピンピンとしていますね。兄弟はこの由美子が末っ子で、あと間に浩二という弟がいます。うちは、本来伝統的に家業を継ぐのが習いという古臭い家なんですけど、俺は玩具からくり作りに憬れて家を飛び出して来た不良息子って感じです」
 この内容は真実ではないが事実ではある。
 これ以上突っ込んだ事は身内と関係機関以外に明かす事は違法となるのだ。
 冗談じゃなく、俺達の一族の事は法的に保護された情報なのだ。
「そうなんですか。大家族だったんですね。一人暮らしとか寂しくないですか?」
 しかし、そんな古めかしい秘密だらけの生い立ちにどこか緊張していた俺を笑い飛ばすかのように、伊藤さんはそんな物々しいあれこれを軽々と飛び越えると、俺自身の気持ちへと切り込んで来た。
 全くの不意打ちを食らって、俺は考える前に頷いてしまう。
「そうですよね。私なんかちゃんと家族と暮らしているのに時々凄く寂しくなるんですよ。子供の頃は父の仕事仲間の人が一杯周りにいて、色々教えてくれたりしていたんです」
 ああ、そうか、伊藤さんは大家族ではないけどお父さんのパーティ仲間がいつも一緒だったんだな。
 冒険者のパーティってのは下手すると家族以上に強い繋がりがあると聞くし、大人の中に子供がいたんだ、さぞかし可愛がられたんだろうな。
「私は一人暮らしとかとても無理ですね。木村さんは偉いです」
 いやいや、そんな所を褒められても仕方ないし。
 しかも他にどうしようもなくてそうなっただけだしなあ。
 しかも平気じゃないし。
 そして、俺は気付いたのだ。
 伊藤さんが知りたいと言ってくれたのは、俺の秘密なんかじゃないんだと。
 本当に俺自身を知りたいと思ってくれているのだ、と。
 そう気付いてしまうと、俺は柄にもなく照れてしまった。
「いえ、やっぱり寂しいからこいつとか作って寂しさを紛らわしているんですよ」
 照れ隠しも兼ねて、頭の上でパタパタしている蝶々さんを示して視線を誘導してみる。
「あ、その子、ずっと気になっていたんですよ。可愛いですよね」
「そうでしょう。ほら、あそこのスタンドとも連動しているんですよ、これ」
 蝶々さんの話になって、ちょっと口調が自慢げになってしまうのは仕方ないだろう。
 誰だって自分の作品は可愛いもんじゃないか?
「あ、もしかして木村さんがお作りになったんですか?そういえば前に頂いた卵のランプも凄く可愛かったし、木村さん、センスが良いんですね」
 な、なんだと!?「センスが良い」?
 伊藤さんの言葉は俺の魂の奥底を、轟く楽の音のように掻き乱した。
 実を言うと、手慰みで作って来た玩具からくりを正面から褒めて貰ったのは初めてだったのだ。
 俺は自分の作品に自分なりの自信はあったのだが、所詮は素人の趣味の域を脱しない物だ。
 手酷い評価を貰う可能性もあるだろうし、覚悟もしていた。
 だが、やはり心のどこかで誰かに褒めて貰いたいという気持ちがあったんだと、今ならはっきりと分かる。
「あ、ありがとう」
 俺はまるで思春期のガキのようにドギマギしながら礼を言った。
 伊藤さんはそんな俺をニコニコと嬉しそうに見ている。

「私、帰る」
 次の瞬間、いきなり由美子が帰り支度を始めた。
 いや、待て、いったいどうした?
 ほら、伊藤さんも困ってるだろ。
「待った!いや、いてくれないと困るから、お願いします」
 この雰囲気で二人きりにされたら絶対まずいから、俺の理性が。
「なんか、私邪魔?」
「いやっ!そんな事ないから!ねえ、伊藤さん?」
 焦る。
 伊藤さんに助けを求めて視線と言葉を投げてしまった。
 伊藤さんも良く分かってなさそうながらも、妹を引き止める事に異論は無かったのだろう、一緒に引き止めに掛かってくれる。
「そうよ、お邪魔しているのは私の方だから、帰るなら私が帰ります」
 えーと、うん、なんか話が更にややこしくなりそうな予感もするぞ。
 由美子は、そんな俺達をじっと見ると、憮然とした口調で言った。
「仲の良い男女のお邪魔をすると、馬に食われると聞いたから、馬に食べられるのは嫌」
 馬に蹴られるの間違いじゃないかな?
 それとも肉食の馬か?
 海外にはいるらしいけど我が国にいるという話は聞いた事ないぞ。
「ユミちゃんは全然邪魔じゃないわ。実を言うとまだ二人きりだと緊張しちゃって失礼な事をしちゃうかもしれないし。もし、嫌じゃなければいて欲しいんだけど、迷惑だったかな?」
 伊藤さんが恥じらうように由美子に言った。
 え?なに、それ。
 もしかしていずれは二人きりでも緊張しないような仲になりたいという告白なんでしょうか?
「う、ん。分かった。ゆかりんがそう言うなら仕方ない」
 ふ、由美子よ、お前、俺の制止は無視するつもりだったんだな?
 兄の威厳とかもう俺には無いのか。
 ちょっと……いや、かなりのショックです。
 うん、いや、でも、ちょっと色々な事が今俺の中でぐるぐる回っているんだけど、どうしようか?これ。

「実を言うとゆかりんの紅茶?が美味しいからお代わりをしたかった」
 妹よ、ハテナマークが伺える口調はちょっと恥ずかしいぞ。
「え、ホントだ、いつの間にかカップが空になってるね。気付かなくてごめんなさい。まだあるから温めて容れて来るね」
 伊藤さんが由美子のカップを持って、いそいそとキッチンへと消えた。
「兄さん、顔が赤い」
 ほっとけ。
 今、お前の兄は平常心を取り戻す戦いに忙しいのだ。



[34743] 57、迷宮狂騒曲 その七
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2013/07/18 04:49
 なんだか変な気を張っていたのが馬鹿らしくなるぐらい、俺達は普通の会話をした。
 もちろん普通とは言っても、子供の頃の思い出がほとんど鍛練と討伐の俺と、大森林や山岳地帯で育った伊藤さんなので、どの程度普通の範疇に引っ掛かっていたのかは判然としないが。
 基準の無い普通っていわゆる空想の産物のような気もする。
 その上、由美子が結構話に加わって来たのが、意外と言えば意外だった。
 以前は家族以外の前では置物のごとく沈黙していたものだが、さすがは大学、我が妹も全く未知の他人との交流を経て、社交的に変貌しつつあるのかもしれない。
 未知との交流という事で、うっかりあの変態を思い出してしまったが、急いで脳裏から消し去る。

 話も後半になると、なぜか由美子と伊藤さんが結託して、俺に対して返事に困る質問ばかり投げて来始めたのも、微笑ましい。

 ……いや、謝るから勘弁してください。女の子って集まるとなんで凶悪な連携を取り出すんだろうな。

 そんな楽しい時間も、実の所そんなに長くは続かなかった。
 郊外向けのシャトルに関しては、自走式で二十四時間運行されているんだが、妹の寮の門限は二十四時という事だったし、そもそも由美子はともかくとして、伊藤さんをあまり遅い時間に帰宅させる訳にはいかない。
 あの親父さんに殺されてしまう。
 もう既に遅いかもしれないけどな。
 話は尽きないが、早々に二人を送って行く事にした。
 いや、決して追求が激しくなって来たのでそれを逃げ道にした訳ではないぞ。

 本当は家の玄関前まで送るつもりだったのだが、「子供じゃないんですから」と固辞されてしまい、三人で駅まで行って、伊藤さんを見送った。
「なんで抱き合ってチュウをしない?」
 と、謎の言語を発して俺を困惑させた妹が、本来道じゃないはずの場所を辿って帰るのを見送り、精神的な疲労とふわふわとした幸福感を同時に感じながら帰宅したのは、もう日付も変わろうとする時分だった。

 玄関を上がって、何気なく携帯を見た俺は眉を潜めた。
 OFF状態に設定していた携帯に、留守番メッセージがいくつか入っていたのだ。
 そして、記録されたその相手の番号に見覚えがない。
 流でも会社の誰でもなかった。
 部屋に戻って音声を再生させると、落ち着いた男の声が、慎重にゆっくりと告げた。
『協会から連絡は行ったかな?良い返事を期待しているよ』
 お菓子の人、じゃなかった、酒匂さんだ。
 協会と言ったのは誰に聞かれても良いようにとの気遣いだろう。
 間違なくハンター協会の事だ。
 受信OFFってたのにお気遣いさせちゃってすんません。
 嫌な予感に襲われながら、俺は戦闘道具と一緒にしまい込んでいたハンター証を引っ張り出した。
 案の定、ハンター証はチカチカと通信ランプを瞬かせている。
 俺は、今までのほの甘い幸せな気持ちが、急激にどこかへと消え去るのを感じながら、ハンター証からチップを外して電算機パソコンに接続する。
 認証印が描かれて、すぐさま本部に繋がった。

『やれやれ、やっと繋がったか、君はハンター証の装着義務をないがしろにしているだろう?』
「いえ、依頼行動の時は必ず装着していますよ」
 アジア方面担当官のうんざりした顔を見て、俺もうんざりしながら答える。
『いいか、ハンター証は非常時の首輪でもなければ処刑道具でもない。日常的に装着しておくべきライセンスなのだぞ。ったく、お前達ときたらどいつもこいつも』
 愚痴を聞かせる為に連絡してきたんだろうか?
『空しいものだな。どうせ聞いてくれないと分かっていながら君達に常識を問うのは。まあ良い、本題に移ろう』
 俺がそんな疑いの元、ややひんやりとした目で画面を眺めていると、どうやらやっと愚痴を零すのに飽きたらしい相手が話題を変えて来た。
 あ、帰りにビールを買えば良かったな。
 俺、自宅にあんまり買い置きしないんだよな。

『本題だが、貴君の母国、大日本帝国より我が協会に正式なオファーがあった。自国に属するNK1から3の構成するパーティに対する指名依頼だ』
「ちょ、」
 え?何言っちゃってんの?この人。
「待ってください。俺達の昔のパーティは既に解散していますよ?今は浩二と由美子のそれぞれソロ登録だけのはずですが?」
 つまり俺の立場は現在由美子のサポーターであって、実の所、仕事の決定権は由美子にある。
 よくよく考えれば、そもそもこうして俺が依頼について話を聞いている時点でおかしかったのだ。
「いや、君達のパーティの解散届けは提出されていない。提出されているのは待機届であり、待機解除条件は君がハンターの仕事に復帰する事となっている」
 なんだと、どういう事だ?
 大学受験前に確かに……浩二に、任せた……な。うん。
 あの野郎!
「ともかく指名依頼だ。断るにしろ、相手方と話さない訳にはいかないぞ。あの、サコウとかいうジェネラルはなかなか食わせ物のようだからな、まあせいぜい頑張るように。資料はいつものように端末に転送しておく。言っておくが、うちとしては新しい条件を持った迷宮に関して、手出しをせずに指を咥えて見ているつもりは無い。ショバを荒らされたくないのならせいぜい本格復帰を大々的に内外に示すんだな」
 いかにも腹に何かありそうな顔でにこやかに言ってみせる。
 酒匂さんは将軍じゃねえよとか、とっくに餌付けされてんだよ、とかの言葉はこっちも腹に納めて、表面上愛想良く、しかし別れの挨拶もせずに断固として通信を切断した。
 野郎、翻訳術式を使わずわざわざ語学を学んだのは、絶対随所にわざとらしい嫌味をちりばめる為に違いない。
 本当に本部の連中はどいつもこいつも始末に負えない曲者ぞろいだ。
 しかし、今はとにかくまず浩二だ。
 あいつ、いったいどういうつもりなんだ?

 俺は携帯を取り出すと、前にうちに来た時に登録していった弟の番号を通話対象としてセットした。
『はい?』
 って、ちょ、おい、今、呼び出しコール前じゃなかったか?
 あいつ、コール前に電話が掛かって来たのが分かるのかよ!?
「俺だけど、ちょっと良いか?」
『俺さんですか?今流行りの詐欺のように思えますが、申し訳ありませんが間に合っています』
「誰が俺さんだ!それに詐欺が間に合ってるってのはどういう事だ!?」
 あまりといえばあまりな弟の言い草に思わず切れそうになる。
 いかん、落ち着け、クールだクールになるんだ。
『うるさいですね。大体電話のマナーも知らずに社会人として自立していると言い張るつもりですか?社会人というのも案外いい加減な人種なんですね』
 社会人は人種じゃねえし、お前絶対相手が俺だと分かってるだろ?
 くそっ。
「悪かった。隆志だが、ちょっとお前に確認したい事があったんだ」
 俺は努めて冷静に話を進めた。
『それで、こんな時間になんの話です?』
 言われて、よく考えたら突然電話をするには随分遅い時間である事に気付いた。
 そういう周囲の状況を考慮出来てないのだから浩二に悪し様に言われても当然なのかもしれない。
 自分の駄目な所に気付いて、かなりヘコんだものの、話を続けない訳にもいかないので聞いてみる。
「悪い、明日かけなおそうか?」
『いえ、家を出て以来まともに連絡一つ寄越さない兄さんがわざわざこんな時間に電話をしてきたんですからよほどの事なんでしょう。たとえ忙しくても時間を作りますよ』
 そういう遠回しに俺を責めるような事はやめてくれ!俺の精神の耐久値はもうギリギリだ!
「その、色々悪かったよ。俺の身勝手で」
『それは兄さんとしては自分の選択が間違っていた事を認めるという事ですか?』
「いや、そうじゃなくて、お前達に、その、嫌な思いをさせたと思うから」
『そうですね。兄さんの身勝手にははっきり言ってムカつきましたね。いえ、過去形ではなく、今もムカついています』
 だめだ。
 この話題は果てしなく不毛だ。
 喧嘩になる前に話を変えよう。
「それは今度じっくりと話し合うとして、今回突然電話した要件なんだが。お前、俺がハンターを辞めるって言ったのに、パーティ解散を申請してなかったそうじゃないか。どういう事なんだ?」
 俺の言葉を受けて、通話口の向こうで浩二が鼻で笑ったのが聞こえた。
 この野郎。
『人は時々、自分でも思いもよらない行動を取るものです。兄さんがいざ正気に戻った時に、戻る場所が無くなっていたとなったら困るでしょう』
「俺が自分の夢を叶えようとしたのが気の迷いだったと言うつもりか?」
 もう何度繰り返したか分からないやりとりに、苛立ちがつのる。
 この件に関して、お互いの間に理解が存在しない事は分かっていたのだが、身内の甘えなのか、理解して欲しいと思ってしまうから苛立ってしまうのだ。
 分かっていても、やっぱりどこかに期待があるんだろうな。
『現にこうやって復帰したではないですか。僕にそのことを聞いて来たという事は、つまりはそういう事でしょう?』
 ぐっと言葉に詰まる。
 成り行きとはいえ、確かに俺は捨てたはずの場所に戻ろうとしていた。
 どうしようも無かったと言い張る事は出来るだろう。
 しかし、絶対に避けられなかったか?と言われると即答出来ないのも確かだ。
 だが、だからと言って、俺が選んだ未来を、気の迷いと言われてうなずく事は出来ない。

「今回は仕方ないからハンターとしてやるべき事をやるつもりだけど、だからといって元に戻ったつもりは無いぞ」
 はっきりと断言する。
 こいつに迷いがあるなどと思われる訳にはいかない。
『兄さんはあの頃、何かを恐れているようでした』
 突然の浩二の言葉にギョッとする。
 何を言い出すつもりだこいつ。
『そしてそれを誰にも、家族にすら相談もしなかった。僕も由美子も気付いてはいたけれど、いつかきっと兄さんの気持ちが落ち着いたら僕達を頼ってくれると思っていました。それなのに、突然、ハンターを辞めて一般人として生きると宣言した。結局、兄さんは逃げる事を選んだだけではないのですか?』
 身内ならではの、鋭すぎる指摘だった。
 だが、それは真実ではない。
 その二つの事はそれぞれに別の問題なのだ。
 そう言いたいのに、とっさに言葉が出て来ない。
 おいおい、まさか、俺自身もそう疑っていたとでも言うのか?
 違うだろ?
「それは違う。絶対に」
 浩二が溜め息を吐く。
『そうですか。なら、そういう事にしておきましょう。ともかく、僕は拘束時間の長い仕事は受けていません。パーティとしての要請があるならいつでも大丈夫ですよ。中央もきな臭くなっているようですしね』
「分かった。ともかく詳しい話は日を改めてしよう。遅くに突然悪かったな。おやすみ」
『社会人とやらになって、前よりは分別が付いてきたのは確かですね。あっさり謝られるとは思いませんでしたよ。それではおやすみなさい』
 最後まで嫌味を振り撒いて電話を終えやがった。
 だが、まあそうだよな。
 浩二や由美子には本当に悪いことをしたという思いは前からあった。
 なので俺はどうしても二人には引け目がある。
 何もかもを上手い具合に収めるのは本当に難しい事なんだと思う。

 あ、酒匂さんどうするかな?夜中に連絡するのはさすがに不味い気がするし、逆に連絡しないのも不味い気もする。
 俺は電話をしばし睨んだ後、下手に考えるよりは行動した方が良いとの結論に達して、リダイヤルで酒匂さんに電話を入れた。
 そして、俺は今までの悩みなど、むしろ贅沢な部類の出来事だったのだと、思い知る事となるのだった。



[34743] 58、迷宮狂騒曲 その八
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2013/07/25 04:38
 酒匂さんはまだ起きていた。
 起きていたというかまだ仕事をしていたらしい。
『やあ、丁度良かった。一息つきたいと思っていたところだったんだ』
 今、一部業界で言う所の二十五時過ぎなんですが、それは一息ついてまた仕事するという事でしょうか?
「あんまり上が無理するのは良くないんじゃないですか?」
『心配はありがたいが、残念ながら逆だな、無理をせずに済むように時間配分をした結果、この時間まで仕事が食い込んでしまったのだよ』
 いやいや、意味が分からないんですけど、それって無理してるって事じゃないんですか?という言葉を、俺はなんとか飲み込んだ。
 元々がむしゃらに頑張るような人ではない。
 常に冷静に物事を判断する人なのだ。
 その酒匂さんが計画的に仕事を割り振ってこの状態という事は、本当にどうしようもないんだろう。
 とりあえずここは関係のないやりとりで時間を更に削らない事が肝心だ。
「じゃあ本題に入りますけど、国名を冠しての依頼という事は、内容について口外禁止という事ですね」
『ああ、まあ君達自身が国家機密のようなものだから今更な話だが』
 ん?酒匂さん、何か歯切れが悪いな、なんだろう?
「あの、何かありました?」
 分からない事は聞くのが一番である。
 俺は酒匂さんに水を向けた。
『いや、すまない。結局君の耳にも入るんだ。私からちゃんと説明しよう。まずは依頼の内容だが、実は迷宮探索チームに加わって貰いたい』
 ん?
「レクチャーではなく同行ですか?そちらは軍でしょう?ハンターと軍隊では戦闘のやり方や行動の仕方が根本的に違いすぎますよ?それに、迷宮には普通人数とゲート開放時間の制限があるはずです。俺達三人を加えたら、良くて後九人、下手すると六人ぐらいしか同時突入出来なくなってしまうんじゃないですか?それだと軍隊としての本領が発揮出来ないのでは?」
 色々と疑問はあるが、とりあえず依頼内容について俺が疑問を呈すると、受信機の向こうから微かな溜め息が聞こえた。
 なんだ?
『本来は最初に君たちの指導を受けるべきだったのだよ。しかし、世の中には道理の分からぬ輩がいてね。実を言うと、既に一度軍隊による迷宮探索作戦は決行されているのだ』
「え?」
 俺はしばしその意味を把握し損ねて言葉を失った。
 既にって、俺の方に迷宮踏破の詳細確認は来なかったぞ。
 警察で簡単な調書取って、詳しい話は後日という事で連絡先を記入して、そのままだ。
 政府側も混乱しているようだからなかなかこっちまで話が来ないのだろうなと思っていたんだが……。
 既にって、終わったって事だよな?
 無事に軍が探索を終えたのなら、プライドの高い軍部からこっちに同行依頼が来るだろうか?
 俺は嫌な予感に急激に体温が下がるのを感じた。
『すまない。これは政府の責任だ。そしてそれを把握していなかった私の責任でもある。一部官僚と軍部が先走ったのだよ』
 酒匂さんの口調には明らかな気遣いがある。
「酒匂さん」
『うん』
「何人生還したんですか?」
 ようやくそれだけ聞けた。
 だが、帰って来た答えは、最悪を極めていた。
『……生還者はいない』
「っ、どうして」
 俺も詳しくはないが、軍隊の戦い方はどちらかと言うと冒険者に似ていると言われている。
 ベースキャンプを設置して、周囲の状況を把握しながら行動範囲を広げて行くらしい。
 速さには劣るが、安全を優先させた堅実な方法だ。
 それに一国の軍隊の装備が下手な冒険者に劣るはずもない。
 聞き及んだだけでも、簡易式の電磁波結界や対波動兵器類、さまざまな対怪異用の最新兵器を持っているはずなのだ。
 たとえ事前に情報収集を怠ったとしても、いくらなんでも第一層で全滅するはずがない。
 それに、万が一があったとしても、情報を持ち帰る為に脱出符の一枚ぐらいは持っていたはずだ。
 確かに個人で持つには高価すぎる代物だが、情報の大切さを知る国家機関が出し惜しみをするはずもない。
「脱出符は?無かったんですか?」
『脱出符は指揮官が所持していたとの事だが、指揮官のいた後方車両部隊は取り残され、そもそも迷宮に入れなかったらしい』
 迷宮の入り口ゲートには必ず制限がある。
 ほぼ常識として知られている事を、知らないまま数を揃えて、その結果指揮系統と分断された前衛部隊のみが迷宮に入り込む事になった、という事だった。
 にわかには信じ難い話である。
『中央に駐留する部隊に、怪異の集団との交戦経験はない。幻影迷宮シミュレーションでの訓練もメニューには含まれてはいない。事前に情報を仕入れる事もせずに自分達の常識で判断して挑もうとした。明らかに命令を下した者、作戦立案者のミスだ』
 いや、俺のせいだ。
 苦い思いが腹の底から沸き上がって来る。
 軍部が迷宮を甘く見たのは、おそらく俺のせいだ。
 ハンターが一人混ざっていたとはいえ、一般人が踏破出来たという事を知って、甘く見たに違いない。
 非常時に脱出を目的とした踏破と、調査を主眼に置いた攻略は全く別物だ。
 しかし、何も準備をしていなかった民間人に踏破出来た場所であるという先入観が、事前の準備を怠らせたのは間違いないだろう。
 経験の不足もそれに拍車をかけたのだろうけど。
「それで、何人犠牲に?」
『気にするなと言っても無駄だろうな。……十二人だ』
 酒匂さんは溜め息と共にそう教えてくれる。
「そうですか」
『逸った連中は処分を受けた。過ぎた事はどうにもならん』
「ええ、俺達に求められているものも理解しました」
『ああ、二度と今回のような考えに至らないように、目を覚まさせてやってほしい』
 酒匂さんはそう言うと、俺の返事を確認するでもなく、穏やかに就寝の挨拶だけをして電話を切った。
 相手の心の機微を察するのが仕事のような人だ、恐らく俺の状態に気付いていたのだろう。
 いや、話をする前からどう思うか気付いていて気遣ってくれていたのだ。
 そんな事が頭の一部では理解出来てはいたが、俺はそれどころではなかった。

 十二人も人が死んだのだ。
 くそっ、どうして、どうしてそんな事になった。
 俺が無理矢理でも担当官に詳しい報告をしておくべきだったのか?
 だけど、それでもほぼ俺一人で迷宮を踏破したという、表面上の事実は変わらない。
 報告を見て今回の事態が避けられた、という可能性は低いだろう。
 それなら、もしあの時、あの場所に俺がいなかったら?
 いや、駄目だ。
 そうしたら誰か一般人が犠牲になっていただろう。
 そうではなく、犠牲を出す前にヤツが発表をしたかもしれないが、それは考えるだけ無駄な話だ。
 そうだ。こんな風に色々と考えたってもはや過ぎた事はどうにもならない。全ては無駄な事なのだ。

 だからこそ、酒匂さんは俺をこの件に組み込んで来たんだ。
 俺がどう思うか分かっていたからこそ。
 だけど、くそっ、だけど……。

 頭を抱え、馬鹿みたいにうずくまった俺の頭上で、小さな羽音が彷徨い、ためらったような動きの後、まだ部屋が明るいにも関わらずスタンドランプに留まった。
 充電無しの稼働時間の限界に達したのだろう。
 蕾のように閉じていたランプシェードは、小さな蝶々を迎えてその花びらを綻ばせ、淡い金色の光をこぼす。
 何かを考える事を放棄して、それをぼんやり眺めながら、俺は胸に沸き上がる怒りを噛み締めていた。

 犠牲を防げなかった俺自身を許せない。
 そして、犠牲に大義名文を振りかざし、それに絡め取られて足掻く人間を眺めて悦に入っている終天が許せない。

 これは罰なのだろうか?
 本来戦う為だけに作られた俺みたいなモノが自由に夢を追おうとしたせいでこんな犠牲が出たのだろうか?
 平穏は人を腐らせる?
 平和に慣れた人類は滅びようとしている?
 そんなはずはない。
 そんな事が事実なら、世界はどれほど残酷な場所なのだろう。

 優しい時間をくれた小さな暖かさが闇に呑まれる悪夢が俺を苛み、結局俺は一睡も出来ずに朝を迎えたのだった。



[34743] 59、迷宮狂騒曲 その九
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2013/08/01 04:34
 まいった。
 何がまいったかというと、女性を泣かし掛けている現在の状況である。
「木村さん、どこからどう見ても具合悪そうにしか見えませんよ。やっぱり昨夜のカレーか紅茶の香辛料が悪かったんでしょう?」
 朝からずっと社内の視線を集めてるなあとは思ってたんだよな。
 そしたら昼休みに伊藤さんの襲撃にあいました。
 そんなに酷い顔してるんかな?俺。
 困った。
 さすがに昨夜眠れなかった訳は話せないし。
 機密情報だらけだしな!
 しかし隠し事をしないと言った昨日の今日に話せないような話が飛び込んで来るというのは、運命というやつの悪意を感じるな。
 なんというか俺の目指していたはずの一般人から大きく逸脱している気がする。
 うん、いや、俺だって分かってはいるんだ。
 ハンターに復帰した時点で、もう一般人の道を大きく踏み外してしまったという事は。
 だけど、だからと言って、はいそうですかと悪足掻きしないでそれを受け入れられる程俺は出来た人間じゃない。

「ほんと、俺、香辛料平気ですから。昨夜あの後あっちの仕事関係で嫌な事があったんです。それだけです」
 言い訳は辛い。
 しかも内容を丸々隠したままってのが酷い。
 なるべくなら出来るだけ正直にいきたいと思ってもそれは叶わない事だ。
 そういう気持ちは単に楽をしたいだけなのかもしれないとも思うけど、こうやって心配してくれる人に対しては出来るだけ誠実でありたいと思うのは、極々普通の事だと思う。
 俺は俺の出来るだけの誠実さでもって答えたつもりだけど、それをどう受け止めるかは相手次第。
 正直、愛想つかされてもおかしくないと思うんだよな。
 伊藤さんも無理に俺に付き合う必要はない。
 そんな事を頭の表面では考えながらも、俺は不安でいっぱいになって彼女を見ていた。
 風が伊藤さんの顔に髪を吹き寄せてしまって彼女の表情が読めない。
 俺はどきどきしながら沙汰待ちの罪人のように神妙にしていた。
 大丈夫、どんな罵倒でもどんと来いだ。
 伊藤さんはふいに顔を上げると、ちょっと拗ねたような上目遣いで俺の顔を窺う。
 うっ、無意識なんだろうけど、そういうのは反則だと思います。
「そうだったんですね。なんか、私、いつもこうやってよけいな事をしでかしてはただ木村さんにご迷惑を掛けているだけみたいで、自分が嫌になります。少しでも何かのお役に立ちたいと思ってやっている事全てが裏目に出てるみたいで、こんなんじゃ押し掛け恩返しじゃなくて、押し掛け迷惑ですよね」
 怒られるかと思ったら、逆に落ち込んでしまった伊藤さんに、俺は慌てて言葉を掛けた。
「そんな事ありません。昨日来てくださって凄く嬉しかったですよ。賑やかな食事なんて久し振りでしたし、それに、あれが無かったら、俺はもっと落ち込んでどつぼに嵌まっていたと思います」
 実際、あの部屋に二人の気配が残っていた事でどれだけ助けられたか分からない。
 朝方、痛む頭を抱えて冷蔵庫を開けたら『温めて食べてください』とメモの貼られた保管容器を発見して、どれだけ励まされたか。

「ほんとうに?」
 おおう、だから不意打ちみたいにまっすぐ目を見つめるのをやめて欲しいです!
 特に二人きりでいるシチュエーションはヤバいから、マジで。
 まあ二人きりとはいえ、またくだんの屋上庭園な訳で、ちょっと離れた場所からの視線が痛い程あるんですけどね。
 いくら気持ちが弱っていても、この場で変な事とかやりようもない。やったら間違いなく社会的に殺される。
 女性陣の絶対防御の視線がすごく怖いです。
「本当に。正直言うとですね、こうやって伊藤さんに弱音みたいなのを吐いている方が、実は精神的に辛いというか、男としてですね、見栄を張りたいというか。ええっと、我が儘ですいません」
 こう、女の子の前では格好良くいきたいなと思うじゃないですか。
 情けない自分をさらけ出すってのは、けっこう辛いものなのです。
「我が儘なら私も負けませんよ。本当は木村さんに弱音を吐いて頼ってもらいたいだけなのかもしれません。だからこうやって困らせてしまうのかも。ほら、我が儘でしょう?」
 まいった。
 本当に勝てないな。
 いや、勝負ごとじゃないんだから勝ち負けもなにも最初から無い訳で。
「あの、ですね」
 伊藤さんが遠慮がちに次の言葉を探すように俺を見る。
「今思いついたんですけど、もし良かったら、二人でたまに、叶えなくて良い我が儘の言い合いっこをしませんか?」
「え?」
 意味が分からずキョドる俺に伊藤さんは真っ赤になりながら説明した。
「我が儘って案外聞いて貰えるだけですっきりしたりするでしょう?だから、聞き届けない事を前提にお互いに言い合うんです」
 赤くなりながらきちんと言うべき事を言って、伊藤さんは俺の顔を伺い見た。
 なにそれ、すごく高度なプレイですか?って、何考えてるんだ?俺。
「叶えない前提でも叶えたいと思った我儘は叶えてしまっても良いんでしょうか?」
「えっ!?」
 俺の口走った言葉にますます赤くなった伊藤さんは大変可愛らしかった。



「これが格差社会というものか」
 週末、可愛らしいお誘いをお断りして出頭したら遭遇した男臭い連中に、思わずそう口走った俺を誰が責められよう。
 傍らにいたゴツさのキングオブキングのような奴がぎろりと俺を睨む。
 チキンなハートの俺にはしんどい状況だった。
「上層部の考えはともかく、俺は貴様らがこの作戦に必要だとは思っておらん。だが、むざと仲間を勝算の見えぬ場に送り出したやつらを処罰したのはお前達のチーム入りを提唱した一派だ。その働きには報いたくてあえて反対はしなかった。しかし、迷宮の、しかも最下層のみというこの条件にハンターの手を借りたとあっては、我が国の武威を疑われる事態となろう。ゆえに俺は貴様らと迷宮に潜るつもりはない」
 キッパリとした宣言。
 軍部がこっちを嫌っているのは最初から明らか過ぎる程だったが、これで逆に俺の気持ちは楽になった。
 もし彼等が俺達を頼るようなら、共に迷宮入りするのは元から限り無く無謀な作戦でしかなかっただろう。
「ええ、俺もあなた方のみで作戦を決行した方が成功率は上がると思いますよ。人数に制限がある以上、軍隊らしい戦い方は異分子を抱えてではやり辛いでしょうし」
 俺の言葉に、傍らの男は、ぐわっと目を剥いて迫って来た。
 こわっ!
 俺もさんざん強面とか言われて来たけど、このおっさんは格が違った。
「分かっているならなぜ引き受けた?しがらみか?首輪付きは主人の命に逆らえんか?」
 首輪付きというのはハンターとしての立場にではなく、血統に対する揶揄だろう。
 分かりやすすぎる挑発だ。
 色々手配があるとかで由美子も浩二も今日は来ていないが、こういうご挨拶があるのなら来なくて正解だったろうな。
 二人がバックレたと知った時にはちょっとショックだったけど。
 気心が知れてるからって、直前に言わなくても良いんじゃね?一応打ち合わせぐらいしようぜ?と思うのは、俺の贅沢なのだろうか?
「あなたは先程勝算の見えぬ場で仲間を失ったとおっしゃいました。それは情報の意味を知っての言葉と思いましたが、それは思い違いで、あなたも同じ轍を踏むつもりなのですか?情報の価値を認めないと?」
「そのような事はない。貴様の持つ情報をないがしろにするつもりではない。しかしなるほど、貴様も旧世代の猟犬のくせにただ吠えるだけではないという訳だな」
 ええっと、このおっさんは俺を怒らせたいのかな?
 俺としてはいい加減ブリーフィングに移りたいんだが。
「橋田曹長、その辺にして彼を開放してくれないか?彼も君も言った通り、我々には情報が必要だ」
 と、状況を打破する鶴の一声が掛かった。
 といっても救い主という訳でもなさそうだ。
 その顔にはありありと俺に対する侮蔑が刻まれている。
 ほんと、軍人には嫌われてるな俺達。
 俺の方は別に嫌ってないんだが、噛み合わないって悲しい事だな。 



[34743] 60、迷宮狂騒曲 その十
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2013/08/08 05:27
「それでは認識を統一させよう。よろしいかな?」
 十名越えの隊服の兵士。
 士官クラスとおぼしき制服が三名。
 外部協力者とおぼしき私服が二人。
 兵士の中には女性も二人いる。

「まず、先走ったとはいえ、先行部隊は貴重な情報を残してくれた」
 今壇上に立って今回の特殊部隊の意義を述べているのが佐官クラスか?
 まだ若いが階級章にラインが三本入っている。
 彼がこの作戦の指揮官なんだろう。
 さっきは絡まれているのを一応止めてくれたが、俺に向ける視線には好意のカケラすらない。
 とは言え、誰に対しても愛想は無いのでそういう性質なのかもしれない。
 まさかと思うが、任官してこれが初任務で緊張しているとかじゃないよな?
 やめよう、自分の勝手な推測で不安になって来た。
 指揮官からは迷宮の許容人数、大火器は持ち込めない事、脱出は最終手段であり、記録を携えた一人のみに限られる事等の説明が行なわれる。
 脱出符がもうちょっと気軽に作れるようなものなら良かったんだが、製法は門外不出だし、かなり材料に問題があるらしいからどうにもならないんだろうな。
 区切りが良いと見て取った俺は、質問をぶつけてみる事にした。
「一つ、良いでしょうか?」
「なんだ」
 相も変わらぬ冷淡な声にめげずに俺は続けた。
「今回の作戦部隊構成員の選考基準をよろしかったら伺いたいのですが」
 ざっと眺めた所、構成に変な偏りがあるような感じがしたのだ。
 予備役間近という感じの古参軍人、入隊から間もないであろう若者、この両極で部隊が構成されている。
 基準がよく分からない。
「……志願だ」
「へっ?」
 変な声が出た。
「今回の迷宮探索は自主的志願兵による混成部隊だ。なので多少癖が強い」
 志願兵?
 それは、まさか死んだ時に上が責任を取らなくて済むようにとかそういう理由じゃないだろうな?
 俺の顔を見て、なぜかギョッとしたその指揮官は、こほんと咳払いをして続けた。
「誤解無きよう言っておくが、志願になったのは、迷宮内ではなにより気力が大きく影響するという専門家の指導を受けての事だ。決して初期と同じ末路を辿る事を見越しての事ではない。いや、それどころか今回は決して失敗は許されないと思え。事は国の大事である。今回、万が一にでも失敗すれば、諸外国が軍事的に介入して来る事は明白だ。なにしろ上手くすれば巨大な富を生むであろうモノだからな。やつらは我々の失敗を虎視眈々と狙っている。貴様らは我が国の首都に他国の軍を踏み込ませて良しとするのか?ましてやこれは我が国待望の独占的資源確保の場となるであろう存在。それがいかに大きな意味を持つか分からない者は今この場にはいまい?良いか、納得する必要はない。理解するのだ。我々は失敗を許されてはいない。決して、決死隊だの特攻隊だのの風評に惑わされてはならないのだ」
 途中からは俺に対してではなく、部隊員全員に対する薫陶もどきのものになっていた。
 なるほど、やっぱり色々言われているようだ。
 しかし、この指揮官、ぶっきらぼうだから冷徹タイプかと思ったら意外と熱い男だったらしい。
 面白いな。

「先に表明しておくが、俺は志願じゃないぜ。だからといってやる気がないって事はない。何度か化け物連中とやり合った経験があるから、それを生かした教官、牽引役ってとこかな?まあ柄じゃないが」
 先程俺に突っ掛かって来た軍曹殿が部隊員に向かってそう挨拶した。
 なるほど、立場的には俺達に近い立ち位置なのか。
 といって、さっきのはライバル視という感じじゃなかったな、なにか訳有りかもしれない。
 なんとなくこの部隊の性格は分かって来たが、志願兵って事は元の所属はバラバラなんだよな?
 その辺りの配分は大丈夫なんだろうか?
 聞いた話によると、準備期間がかなり短い感じだが。

「流れ的に丁度良い。この機会にお互いに自己紹介をしておこう。もっともハンターの方々はまだお揃いでは無いようだが」
 うおお、油断していた所にいきなり嫌味が来た!
 やっぱこの指揮官殿も俺達に含みがあるんだろうな。
 そりゃあまあ大事な初顔合わせに全員揃わないんじゃ言われても仕方が無いけどな。
 仕方ない、ここは前に出るべきだろう。

「ご紹介に預かったという事で俺から自己紹介をさせていただいてよろしいでしょうか?」
 まあ俺も営業ではないとはいえ働く社会人だ。
 この程度の分かり易い当て擦りぐらいどうって事はない。
 むしろ問題点がはっきりしている分対処しやすいぐらいだ。
「どうぞ」
 指揮官の男が僅かに眉を上げて了承する。
 俺より少し年上ぐらいか?
 士官としては若すぎるぐらいだろう。
 この態度にはその辺りの事情もありそうだな。
 あ、そういやこの方の自己紹介はまだだな。お偉いさんは最後という事なのかな?
「俺はハンター協会を通した依頼を受けて参加している、木村隆志だ。よろしくお願いする。他に後二人パーティメンバーがいるが、今回の仕事の準備の為本日は不参加となった。その件に関して不快に感じられたのなら申し訳ない」
 まばらな拍手。
 いくつかの好奇心に満ちた目を感じるぐらいで一般兵からは別に敵意じみたものは感じない。
 なにやら古参方からチクチクした痛い視線はあるが、敵意とまでには至ってはいないようだ。
 どうやら懸念したように軍全体がハンターに偏見があるという話とかではなさそうだ。
「それと一つ言っておきたい。この迷宮の発見時に民間人と共に迷い込んだハンターというのは俺だ」
 途端に、一般兵の幾人かから熱く見つめられた。
 これも敵意とまではいかないが、良い感情ではなさそうだ。
 おそらく第一陣の中に知り合いがいたとかその辺だろうな。
 それにしても軍の方では迷宮の初踏破者としての俺はどういう立ち位置になっているんだろう?
 協力を拒んだせいで失敗したとかにされていなけりゃ良いけど。
「なのである程度具体的な提案が出来ると思う。協力は惜しまないつもりなのでよろしくお願いします」
 頭を下げる。
 うん、なんとなくトゲトゲしい雰囲気は薄れたかな?
 主に軍曹殿の。
 その軍曹殿が口を開く。
「それでは向かって右前列から順に氏名と元の所属を述べよ!」
 正に直立不動の見本のような気をつけの姿勢から、こっちの体がビリビリ痺れるような命令を下した。
 自己紹介でいきなり命令か、軍隊式ってごっついな。
 すぐさま向かって右の一番前の席にいた青年が立ち上がる。
「はっ!今村明!元歩兵科所属!よろしくお願いいたします!」
 さすが兵隊さん元気が良い。
 その彼の言葉が終わるが早いか次が立つ。
 正に流れるような作業感。軍隊すげえ。

 纏めると、歩兵科三人、通信兵科から二名、銃火器五名、特殊工兵三名という取り合わせだった。
 衛生兵とか補給系はいないんか?
 いや、ハンター的に考えるからおかしいが、普通一つのグループ内で支援系は必ず必要とされるはずだ。
 なので一般兵でもその手の訓練は当然受けているのではないだろうか?
 いくらなんでも傷の応急処置や飯炊きが出来ないって事はないだろう。
 人数的に無駄な人員は配備出来ないはずだし、だれもかれもがある程度オールマイティーである必要がある。
 知らない事を勝手に不安がるよりは、ある程度信頼しておいた方が良いだろう。俺の精神安定的に。
 それと、同期が前回犠牲になって志願したのは歩兵科と特殊工兵科だったらしい。
 その二科からかなりの数が志願したらしいが、ほとんど振り落とされたとの事だった。
「落とされた者に理由を開示していただけないでしょうか?」
 なんで俺がそこまで知ったのかというと、なんとその件で上官に食い下がった奴がいたのだ。
 規律にうるさい軍隊でそういうのって大丈夫なのか?と不安になる中、案の定軍曹殿が怒鳴りつけた。
「愚か者!軍人になぜは必要ない!」
 その声に机が目に見えるぐらい振動したんでマジでビビった。
 だがなんと指揮官殿はその軍曹殿を制すると、あの淡々とした声で説明してやったのだ。
 これには軍曹の怒鳴り声より驚いたかもしれない。

「諸君は怪異というものが何であるかを知っているか?専門家によるとあれは意識ある存在がその精神内に溜める澱(おり)のような物が物質化した存在であるらしい。精神が不安定であればあるほどその澱は沈殿し、やつらを肥え太らせる。故に精神に安定を欠く者は、敵に利する者となりえるとの判断で外されたのだ」
 つまり今集められている者は、多少の憤りはあるものの、それが精神に影響を与えていないという事か。
 これは朗報だった。
 そこから考えれば、この指揮官がこうやってほとんどの情報を明確に開示しているのは、その辺の精神的な部分を不安にさせない為なのかもしれない。
 軍関係者の自己紹介は一般兵、伍長、軍曹と進み、最後に指揮官となったのだが、彼が自己紹介を最後に回した理由が分かった。
 その名前のインパクトが強すぎたのだ。
「自分は本作戦の総指揮官、武部である。階級は少佐となる。本作戦において皆の奮闘努力を期待している」
 言葉自体は簡潔だったが、与えた衝撃は大きかった。
 場内は一瞬、各自が息を飲むような間があり、その後、戸惑うような拍手が響いた。
 武部というのはこの国では有名な武門の名家だ。
 皇家とすら縁があると言われているその家が、こんな危険な作戦に一族を送り込んで来るとは、誰にしたって予想外だったのである。
 軍曹殿と伍長殿は落ち着いているので、既に知っていたんだろうな。
 しかし、それでありながら我らが軍曹殿は苦虫を噛み潰したような顔をしている。
 面倒事の予感があるのだろうか?
 そういや軍曹殿だけ志願じゃなく命令による配置だったな。
 もしかして、この少佐殿のお守り役なのか?
 そう気付いて、思わず同情のまなざしを向けたら、なぜか恐ろしい勘の良さでそれに気付いた軍曹殿がギロリとばかりに睨んできた。
 いや、マジで怖いから、止めてください。



[34743] 61、迷宮狂騒曲 その十一
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2013/08/15 07:41
 自分の立場を明らかにした後に、武部部隊長(正式称号は陸軍特殊調査部隊長というらしい)は、私的質問の一切を封じ、そのまま外部協力者の紹介と共に、彼らからの技術説明に移行した。
 あまりにもはっきりとした話題封殺だったので、彼の血統に関する話題は誤解すら許されないタブーとなるだろう。
 微妙な雰囲気の中、外部協力者として、まず紹介されたのが魔術師だった。

「私は魔術の秘儀を学ぶ者。東雲の灯しののめのひと呼ばれし者です」
 兵士の何人かが精神的に引いたのを感じたが、別にこの男はヤバ気な妄想に溺れている訳ではない。
 魔術師という存在は、その道を選ぶ時に最初に名を捨てるものらしいのだ。
 その後は師匠に貰った贈り名なるものを名乗るらしいから、それがあの怪しげな名乗りなのだろう。
 なので、そういう胡散臭いものを見るような目はやめてあげた方が良いんじゃないかな?
 ただ、魔術師という奴らは変人揃いなのは確かなので、距離を置くのは間違ってないと思う。
 うちの国、というかアジア圏には、実の所極端に魔術師が少ない。
 アジア圏の主流は法術と呼ばれるもので、根本部分の考え方が違うっぽい。
 おそらくは宗教哲学的な問題なんじゃないかと思われる。
 神(人為システム)と精霊(他者依存型)の差というか。
 おまけに本来俺達精製士が使う術式理論の元を作ったのは法術師なのだが、なぜか精製術は一時期魔法と呼ばれた事があり、この辺りで魔法や魔術に対する概念がおかしな事になってしまった。
 そのせいで翻訳術式も混同して翻訳するようになってしまったため、この国では魔術という物が今ひとつ理解されない傾向がある。
 それにしても、よくもまあ物事に没頭しすぎるせいで存在確認さえ危ういぐらい出不精という事で有名な魔術師達の一人を引っ張って来れたもんだな。
 さすがは国を背景に持つ軍隊の面目躍如といったところか。

「今回、私が協力させていただくのは、主にサポート方面になります。この度、迷宮内と外との相互通信とマッピングを可能とする技術開発に成功しましたので」
 マジでか!?
 今迄、幻想迷宮バーチャルダンジョンでは可能だったが、実際の迷宮では到底不可能と言われていた技術だ。
 一見同じに見えるバーチャルとリアルだが、本来は根本の部分が違うので、同じ発想からは理論構築が出来ないとの事だった。
 まあ、バーチャルダンジョンはその名の通りただの幻影な訳だから、それは当たり前の話だよな。
 しかし、マジならこの魔術師は確実に歴史に名を残すだろうな。
 そうなるとこの魔術師が自分の巣穴から出て来た理由も分かる。
 実地でテストをしたかったんだろう。
 そして今、この戦術企画室ブリーフィングルーム内でも、その技術の価値が分かる一部の者達がざわめき出していた。
 あ、若いのが手を挙げた。

「ふむ、まだ具体的な話に移っていないので本来は質問は受け付けないのですが、向上心は大事ですからね。よろしい、発言を許しましょう」
 魔術師の男はなにやら前置きをすると頷いてその兵士に発言を促した。
「このような質問は良くないとは思うのですが、答えをいただかずに流してしまうと雑念が残ると考え、敢えて問わせていただく事としました。……お尋ねしたいのですが、なぜ前回の作戦の際、その技術が用いられなかったのでしょうか?」
 おいおい、一歩間違えれば上層部への批判だぞ?まあ、当の上官達はスルーするようではあるが。
 少人数による困難な任務になるんだから、部隊内に余計な波風は立てたくないのかもしれない。
「それは私にするべき質問ではありませんね。前回の作戦立案者に問うべきでしょう」
 魔術師の男はいっそ冷淡な程無関心にその問いを切って捨てた。
 まあ魔術師なんてもんは浮き世のしがらみに興味が無いのが普通だからな。
「そうですか、申し訳ありませんでした」
 質問者は追求を重ねる事なく簡単に引き下がった。
 こいつ、もしかして上官の反応を試したのか?

「それでは続けましょう。まず、迷宮とはなんであるか?という問いに答えられれば、この魔術式の基本となる部分は自ずと明らかになります。そう、迷宮とは即ち、一つの閉じた界なのである、と。そして魔術の基本はまさしく界と界を繋ぐ事にあるのです」
 うわあ、すげえ、何言ってるか全くわかんねーや。
 魔術の基本で説明されるような理論なら、とっくの昔に誰かが構築してるだろうに、まさかと思うが、一般人に理解させる為に基礎魔術理論から始めるのか?
 聞いてる兵士も明らかに困惑しているぞ。

「魔術師殿、彼らはあなたの弟子ではない。なので理論は必要ない。使い方のみを教えてやって欲しい」
 淡々とした口調のまま、武部部隊長は魔術師の講義を遮った。
 賢命だ。
 ちょっと感謝したくなったぐらいに。

 魔術師は少し不服そうだったが、そこまでこだわる所でもないのか、その言葉に素直に従った。
 一つ溜め息を吐いて、懐から球体を取り出す。
 そして、その、大きさはテニスボール程度の物体をおもむろに宙に浮かべた。
 まるでマジックの手管のようだ。
 そういや、見世物のマジシャンも職種としては同じ魔術師カテゴリーなんだよな。
 あっちは器用さを極めて相手に誤認させるのが商売だけど。

 さて、空中になんのしかけも無く浮いている球体にどよめきが上がるが、その程度は当然序の口に過ぎなかった。
 右手に指揮棒に似た杖を手に、ブツブツ呟きながら小さな魔方陣をいくつか球体の上下に配置し、それぞれを連結する。
 この辺りになると、もはや理解しようとするのは間違っていると思えて来る。
 見物人も既に声も無くただその成り行きを見詰めているようだ。
 魔術師は、またおもむろに懐から透明のアクリル板らしき物を取り出すと、それに杖で触れ、それ自体を発光させる。
 ……あの懐どうなってるのかな?気になるんだが。
 ちなみにこっちも浮いている。
 モニター代わりなのだろうか?

「この球体の中には立体的な迷路が作られており、中には蟻が数匹入っています。そしてその上で結界で閉じました。理論上は、これと迷宮は同じ物となります。つまり、本来ならばこれでいかなる方法であってもこの球体に干渉する事が出来なくなった訳です。そこの君、」
 真ん中先頭の兵士が指名された。
「は、はい!」
 頑張れ!あからさまに怪しい相手だがビクビクすんな。
 何か間違っても突然お前を燃やしたりはしないさ。……多分。

「前に出てその球体に触れてみたまえ」
「は、い」
 兵士は嫌そうに、だが指示通り球体に触れようと、恐る恐る手を延ばした。
 恐るべき緊張感。
 今誰かがちょっと脅かせば、この兵士はきっと深刻なトラウマを抱える事となるに違いない。
 しかしまあ、世界はそれほど残酷ではなかったらしく、そんなイベントは起こらないまま、兵士の手は、その球体を突き抜けた。
 「ひっ!」と言う悲鳴じみた声が聞こえたが、ここは礼儀正しく聞かなかった事にしてあげるべきだろう。
「ありがとう。座りたまえ」
 魔術師殿は素っ気なくそう言って説明を続けた。
「この通り、異なる界同士は接触が出来ない」
 そうですね。
 なんかこう、マジックショーを見ている気分になってきたが、気にしない。
「だが、出来ないからといって諦めるのは進歩を否定する者のみ。内部の様子をどうしても知りたいと思えば、知る事が出来るようにするしかないのです。そこでこの隔離された空間に私の開発したサポートシステムを使用します。すると内部情報が画像処理をされてこちらのモニターに表示される訳です」
 やっぱりモニターなんだな。
 そのモニターとされたアクリルらしき透明の板に、なんだか3Dな画像が浮かんだ。
 おい、それ、平面体にどうやって描写してるんだ?
 いや、魔術師のやる事をいちいち考えては駄目だ。
 考えるな、感じろ!

 画面には球体内部の立体構造をワイヤーフレームで描画した物が浮かび上がり、そこに輝点がいくつか見える。
 この輝点が蟻か。

「情報はリアルタイムで表示されますが、残念ながら音声通信は出来ません。なので、通信はモールス形式でやりとりされ、お互いの受信機にて言語翻訳される事となります」
 なるほど。
 しかし、これはだいぶありがたいな。
 尤も、相手が意図的に邪魔をしてこなければ、だが。
 この迷宮は前例がない事だらけだが、迷宮の主人である終天が内外共に干渉可能であるって事が最もやっかいな点だろう。
 システムに頼りすぎるのは危険と考えた方が良いかもしれない。
 それにしてもこれはかなり本腰を入れてくれている。
 あとはこの部隊の練度次第って事になりそうだ。



[34743] 62、迷宮狂騒曲 その十二
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2013/08/22 05:14
 もう一人の協力者は大学の教授との事だった。
 怪異行動学と古代呪文の権威らしい。
 どこかで聞いた肩書きだが気にしない事にする。
 そうか、このおっさん、じゃなかった、この人がフィールドワークと称して幻想迷宮ヴァーチャルダンジョンに潜った人か。

「歴代の迷宮の中には、一度攻略された後に復活した物が無かった訳ではない。マヤ歴で12.13.15、西方諸国で名を馳せていた冒険者ギルド、ゴールデンドーンのメンバーの記録に出て来るグリーントラップの迷宮がそれだな。この迷宮はいわゆる世界迷宮で悪夢の具現と言われるモンスター型とは違い、核となった夢のカケラを最奥から取得する事で攻略出来るタイプだ。と言っても危険なものである事は間違ない」
 教授は魔術師のように自前のモニターを使ったりはせず、ブリーフィングルームに備え付けのプロジェクターを使って資料を表示した。
「ここにその当時のマップの写しがある。一回目、二回目、地図が全くの別物である事が分かるはずだ」
 そうか、復活型の迷宮の事例で言えば毎回迷宮内の地理が変わってしまう可能性もある訳か。
「ちなみにどうやらここは精霊核の発生するパワーポイントがあり、それによって迷宮が生成される物だったようだ。このゴールデンドーンというギルドはそのパワーポイントの情報を独占する事で巨万の富を得た訳だが、その後何者かの襲撃を受け、一夜にして壊滅する事となる。襲撃者が何者であれ、彼らの握っていた情報の奪取には失敗したらしく。この迷宮は未だに再発見されていない」
 ゴクリと誰かが喉を鳴らす音が響いた。
 資料的扱いとはいえ、迷宮を巡る血なまぐさい現実の一端を知ったせいだろう。
 古今東西迷宮を自分達で発見した冒険者は何人か存在するが、ほとんどがその場所を攻略後に報告している。
 例外は自分たちでは攻略出来ないと判断した迷宮を情報として売る場合ぐらいだ。
 その点、いち民間団体ではなく国家管理となった今回の迷宮がいったい何をもたらすのか、考えるとそら恐ろしくもある。
「迷宮は悪夢の具現という言葉があるように、一度中に入ってしまえば何が起こるか分からない場所でもある。決して固定観念に足を取られないよう、臨機応変に対応出来るように行動する事が肝要です」
 なんとなく遠足の心得みたいになっているな。
 まあ大学で学生を教えているんだろうからそういう語り口になるのは仕方ないか。

 説明を終え、下がった協力者二人に礼をして、武部部隊長は自ら壇上に立った。
「さて諸君、今までの話で戦術構想は見えて来たかな?大変残念な事に我らには試行錯誤を行なう時間が無い。ここからのスケジュールは文字通り分刻みになるだろう。諸君にはこれからまず適性検査にて各々の適性を再度見直した後、所属分け、班単位訓練、連携訓練、模擬戦と、短期間で使い物になるべく血反吐を吐いて貰う事になる」
 彼は、全員の顔を見渡すとニッと笑ってみせた。
「くれぐれも訓練で死なないように!軟弱者に見舞金を出すほど軍も優しくはないぞ」
 脅しのように聞こえるが、これは本音だろう。
 国としての権威を示す為には短期間で作戦を成功させねばならない。
 現在の情勢で個人の権利を尊重出来るような余裕は無いと思うべきだろう。
「それでは本日のこの後は橋田軍曹が諸君らの指導を行なう」
 部隊長の言葉により、軍曹が今後の予定を発表し、集合場所を指定して移動となった。

 さて、外部協力者も帰した後に居残りをさせられた訳だが、がらんとしたでかい部屋に武骨な軍人さんと二人きりというのは、思ったより悲しい情景だな。
「どうぞ、お好きな席にお掛けください」
 部隊長殿が丁寧なのか慇懃無礼なのか分からない堅苦しい物言いで椅子を勧めて来る。
 それならと、俺は真ん中の一番前の席に座った。
 部隊長殿は少し迷った後、右の通路を挟んだ座席に着く。

「残ってもらったのは他でもない。唯一現場を見て来た者として答えて欲しい。我々は迷宮を攻略出来ると思うか?」
 おいおい部隊長さん、直球すぎないか?
 まあ本来武人なんだろうからそういう気質なんだろうな。
 それなら俺も直球で返すか。

「楽勝でしょう」
 俺の軽い言葉に意外そうに目を見開いているけどさ、ちょっと考えれば分かる事じゃないか。
 段階を踏んで攻略出来るように造られた迷宮の第一層目。
 兵の士気は高く事前情報はばっちりだし新技術まで投入してる。
 これで攻略出来ないなら、試練と言った終天が偽りを告げていたか、余程不運だったかという事になるだろう。
 怪異という存在は、嘘をつく性質に生まれたモノ以外はほとんど偽りを口にしないもんだ。
 肉体より先に意識が生成されるせいだか、圧倒的に強者だからか知らんが、やつらは偽るという感覚がよく分からないらしい。
 それはともかくとして、
「もちろん油断は禁物ですから兵士の皆さんには危機感を煽るぐらいで良いと思いますが、指揮官ともなれば問題はその先にある事はお分かりでしょう?」
 俺の言葉に武部部隊長の顔が真剣なものとなる。
「これは始まりでしかない。という事か」
「そうです。階層式である事、常設である事、対応を一歩間違えれば消耗戦になる。現場指揮官であるあなたの今後の苦労は俺には想像もつきませんね」
 相手は不敵に笑ってみせた。
「先の事など上が勝手に考えていれば良い事。我々は目先の作戦を成功に導く事こそが最優先だ。その上で再び愚かな作戦を立案しようとする者があるようならば、その実績を提示すれば良いだけの話」
 いやあんたもその"上"とやらじゃないのか?
 別に武人だからって脳筋キャラを貫かなくったって良いんだぜ?
 真の脳筋なのか、実は腹黒な計略家なのか、不安に苛まれる俺を余所に、部隊長は話題を変えて来た。
「そういえば貴君のパーティメンバーが準備しているという幻想迷宮バーチャルダンジョンだが、本当に明後日には準備出来るのか?」
 そう、うちの二人が遅れているのは訓練用の迷宮を準備しているからだった。
 しかもその件では実戦部隊幹部とひと揉めあったらしい。……俺抜きで。
 事後報告やめてください。

「今朝入った連絡によると大丈夫そうですよ。ですが、本来、幻想迷宮の設定はかなり複雑な手間を掛けますし、いわば一つの世界を創造する訳ですから時間が掛かるのは当たり前の話です。今回は特別な方法で用意するだけですんで、くれぐれも誤解しないようにしてくださいね」
 部隊長殿がムッとした顔になる。
「分かっている。専門家とやらの話も聞いたからな」
 依頼してみたんだな?
 どんな優秀な職人でも簡易な物を造るだけでもひと月は必要だろうに、数日とか、さぞや鼻で笑われた事だろう。
 それなのになぜうちの連中に用意出来るかというと、うちの村には調整済みのがごろごろしているからだ。
 なにしろうちの村では幻想迷宮は子供の成長祝いの定番だからな……。
 もちろんそのままの設定では使えないが、設定変更程度なら、空間認識と記述術式の手練たるあの二人ならなんの問題もないだろう。
 元々、この幻想迷宮調達依頼は、酒匂さんから入ったものだったらしいのだが、なぜか俺の頭を飛び越してうちの弟と妹に直で行ってしまった。
 酒匂さん曰く、「平日の仕事の邪魔をしてはいけないと思ってね」との事だったが、どうやらその設定段階の通信による打ち合わせで現場担当と揉めたらしいと事後連絡が入った時の、俺の困惑とやるせない気持ちはどうしたら良いのか。
 そりゃああの手の術式とかさっぱり分からないけどね、俺は。

「我々は知らない事が多すぎる。百年の平和は我らから戦う為の牙を削りとってしまったのだろう。だが、それでも勝たねばならん。そうやって勝てると断言するのなら、その言った口の分の働きはしてもらうぞ」
 武部部隊長殿はまるで脅しのようにそう言った。
 これはあれだな。
 他人に対して「よろしくお願いします」とか「力を貸して欲しい」とか言えないタイプの人なんだな。
 俺は溜め息を押し殺すと、にっこりと笑って「こちらこそよろしくお願いします」と手を差し出した。
 まあ、結局握手はスルーされたんだけど。

 二週間後、軍の精鋭部隊は無事迷宮の第一層を攻略したのだった。
 ちなみにラビリンスにはちゃんと法則性があったらしい。

 いや、最初から分かってたから、あの時は時間がなかっただけだから!



[34743] 閑話:幻想迷宮(バーチャルダンジョン)
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2013/08/29 19:58
「基本構造は廃墟で良いのかな?」
「高層ビルの廃墟だからふつうの廃墟だと高さへの対応が今一つかも?」
「高さなら断崖フィールドが良いかもしれないな」
「ラビリンスにもなっているらしいし、洞穴も組み合わせて立体的なフィールドにしてみては?」
「分かった。要素を組み合わせて対応させてみるか」
「じゃあ私はモンスターデザインに移る」

 古式ゆかしい田舎家の離れ。
 広い敷地の一画である蓮池の前にある十畳程の板間のお堂のような建物の中で、この家の兄妹が作業を行なっていた。
 彼らの作業する部屋の真ん中には、両手で覆ってしまえるぐらいの大きさの黒いピラミッド状の物体があり、それに各種コードが繋がっている。
 その物体を据え置いた台座には、びっしりと曼陀羅が描かれていて、サイエンスとオカルトの融合した今風の魔道具のようだった。
 兄である青年が向かっているのは最新の電算機パソコンであり、間に機器を介してピラミッド状の物体に繋がっていて、イメージ的な混沌具合に更に拍車を掛けていた。
迷路ラビリンスか、技巧的迷宮となるとやはりトラップも必要だな。空間を二重構造にしてスイッチを押した者だけ別空間に飛ばす。すぐそこにいるように見えるのに助ける事が出来ないというのが良いかな?怪異のトラップは精神的負荷を掛けるタイプが多いし」
「コウ兄さん性格悪い」
「違うぞユミ、訓練用の迷宮は少し厳しめに調整した方が良いんだ。本番で死なない為にね」
 兄の木村浩二は淡々と正論を口にする。
「分かった。それじゃあモンスターもそれ用に考える。軍相手だから群れで行動するものが良いかもしれない。地上は蟻タイプ、空中は蜂タイプにして、哨戒範囲に漏れがないようにするだけで難易度はかなり違うはず。後は広場には蟻地獄と建物に擬態した食人ウツボカズラを配置」
 まだ少女っぽさの残る妹である木村由美子は、話しながら次々と呪符用に特別に作られた和紙に細かい術式を書いて行く。
 別に書く素材は何であろうと術は発動するのだが、専用紙は意識の通りが良いので細かい設定がやり易いのだ。
「さて、ボスはどうするかな?」
「兄さんの話だとムカデだったらしいけど」
「そうだな。本来人間は低い位置からの攻撃に弱いんだが、件のムカデはわざわざ立ち上がったらしいな」
「最初の層は簡単にして油断を誘うやり方かな」
「巨体に上からのし掛かられるのも慣れてないと捌き難くはあるけどね。うん。ここは同じタイプで難易度が高い蛇タイプが良いかもしれないな」
「じゃあサイドワインダーはどう?動きがトリッキーで楽しんで貰えるかも?」
「お祝い品のデザインしてる訳じゃないからな?楽しませる目的じゃないんだぞ。まあでも良いんじゃないかな?単純な敵では脅威にならないかもしれないし、出来れば何回か死んで覚えるぐらいがバランスとしては良いだろう」
「そう言えば」
 兄の浩二の言葉に反応して、由美子はふと疑問を口にした。
「擬似体験で本当に死んでしまう人もいるらしいけど、大丈夫?」
 浩二は妹の優しさに笑みを浮かべる。
「利用者は全員軍人だぞ。そんな心配なんかしたら逆に怒られてしまうだろ」
「そっか、そうだね」
 浩二は目を細めて妹を見た。
 最初は心配もしたが、大学に入ってから他人に対して随分気遣いが出来るようになった事が喜ばしいのだ。
 全く家族を顧みなくなった兄とは違い、由美子は思いやりに溢れていると浩二は考え、連想した弾みで薄情な兄を思い浮かべる。
 あれ程啖呵を切って自分の血のしがらみから逃げ出したくせに、結局はこの世界に舞い戻る事になった情けない男。
 昔パーティを解散する時に浩二が言った通り、結局宿命からは逃げられはしないのだ。
「昔から、馬鹿ではあったけどね、あの人は」
「コウ兄さん」
「どうした?ユミ」
「隆志兄さんをあまりいじめては駄目。この世には呪いでは縛れない物もある」
 勘の良い由美子は下の兄の考えを読んだらしい。
「ユミ……」
「私が村の外に出られたのは兄さんが派手な先例を作ってくれたおかげ。そうでなければ私みたいな出来損ないを一人で外に出すはずがない」
「ユミ!そういう言い方は駄目だって言っただろう?能力が発現しなくてもユミは自分の実力でハンター検定をクリアしたんだ。能力者でも通らない者は多いんだぞ。出来損ないであるはずがない。もっと堂々としていろ」
「うん。ありがとう、コウ兄さん」
 由美子は頷いたが、その中に降り積もった劣等感は容易には消えるものではない事を浩二は知っている。
 溜め息を吐きつつ浩二は幻想迷宮のデザインに戻った。
「悪かった。兄さんの悪口はもう言わない。パーティも再始動する事だしな」
「うん」
 会話する間にもフィールドデザインが組まれて行く。
 それは、ゲーム等で使われる一般的な機械語ではなく、見た目からは曼陀羅を描いていくような作業だ。
 一つ一つの形、隣り合う図式の位置、色合い、その全てが意味を持ち、一つの架空世界を形作って行く。
「じゃあモンスターを読み込ませる」
 由美子が書き上げた符を持って、ピラミッド状の物体に触れる。
 すると黒いピラミッドは縦半分に割れて中身を晒した。
 そこには虹色に煌めく小さな宝石のような物が置かれている。
 その光に符を翳すと、融けるように次々と符が消えて行った。
「モンスターセット完了。配置による行動の微調整は大丈夫?」
「大丈夫なはずだ。後は実際に潜って確かめないとな」




 そこは正に戦場だった。
 整然と見事な隊列を組み、空と陸から波状攻撃を仕掛けて来る虫型のモンスター。
 トラップに引っ掛かり、すぐそこに見えているのに手の届かない場所で無残に倒れ逝く戦友。
 道は行けども先に繋がらず隊員達の気力は恐ろしい程の勢いで尽きて行った。
 そこ以外のどこを指して地獄と言うのだろうと、選ばれし精鋭達は心に呟いた。

「このシミュレーターの設定は本当に適切なのか?」
 武部部隊長は協力者として在るはずのハンター達に噛み付いた。
 幻想迷宮を使用した訓練によって、実に八割の隊員が深刻な精神的ダメージを負ったのだ。
「もちろん俺も事前に潜って試してみました。確かに実際のあの迷宮の一層目よりは厳しく設定してあったようですけど、訓練にはそれぐらいの方が良いんじゃないかと思ってOKを出したのですが、いけなかったでしょうか?一応怪異やフィールドの傾向は、俺の体験したものと方向性を合わせてありましたし」
 ハンター達のリーダーである木村隆志は、その肉食の獣を思わせる風貌に似つかわしくないほのぼのとした口調で説明した。
 危機感とか緊張感とかいう物をどこかに忘れ去ったような物言いである。
 ある一定以上の地位を持つ者にはなんとなくカチンと来る態度だ。
「でも確かに初心者向けとは言えなかったかもしれませんね。今からでも設定の難易度を下げますか?」
 武部は思わず奥歯を噛み締めたが、爆発したのは別の人間だった。
「馬鹿を言え!あの程度、すぐにあくび混じりに攻略してみせるわ!」
「橋田軍曹、控えろ」
 作戦立案、決定権は武部にあるが、実践指揮の要は軍曹である彼にある。
 隆志の言葉に、侮られたとの思いがあったのだろう。
 だが、軍の序列は絶対だ。
 上官の会話を遮る行為など言語道断の行いである。
 しかし、心情的には救われた思いの武部は言葉上でたしなめるに止めた。
 橋田軍曹も武部に礼をするとすぐに退く。
「失礼をした。しかし私とて彼と同意見だ。経験者である君が適切と判断するなら、それは我らの認識が甘かったという事なのだろう。その程度の訓練をこなせないのでは実戦で大事な部下を死なせてしまいかねん」
「そうですね。幻想迷宮は途中離脱も簡単ですから、崩れた時は一度離脱して再挑戦という手もありますし」
 会話に潜ませた毒をものともせずに、飄々と更に屈辱的な提案までしてのける相手に、武部は怒鳴りつけたい気持ちを抑えて鷹揚に頷いてみせた。
「いきなり無理をさせずに離脱を繰り返して攻略するという訳か。なるほど期間に余裕があるのならよさそうだが、生憎と余裕は無い。残念だな」
「それならうちのパーティと合同で潜ってはどうでしょう?ある程度サポートもできますし、幻想迷宮なら人数制限も解除出来ますからね」
 何を思ったか、隆志は更に別の提案をして来る。
 暗に軍だけでは力不足であると言われている気がして、武部は頑なにそれを拒んだ。
「いや、結構。今迄通りモニタールームからチェックをお願いする」
「分かりました。今迄で隊員の方達も大体のコツは飲み込んだでしょうから、次はいけるでしょう」
「ええ、ありがとうございます」
 苦痛など感じる事なく軽く共闘を提案して来るのも、当然のように彼らの実力への信頼を語るのも、武部には全てが苛立たしいばかりだった。
 現在彼等武闘派は政治的に微妙な立場に立たされている。
 軍など税金泥棒でしかない。いざとなったら人々を守る実力もありはしないのだからと、したり顔で語る穏健派共の顔が思い浮かび、武部は拳を固める。
 今回の穏健派の暗躍は陰険で執拗だ。
 いつも通り武闘派の力を削ぐ目的以外に、どうやら外国との密約による後押しも見え隠れしている。
 彼等は目に見える武闘派の無能さを求めていて、もしこのシミュレーションでの醜態を知ればそれ見た事かと口を極めて攻め立てるであろう事は明らかだった。
 なので、武部は決して弱さを見せる訳にはいかない。

「ですが、軍人はいけるという考え方はしません。我々は、やり遂げるのですよ」

 この特別仕様の幻想迷宮バーチャルダンジョンを用いての実践訓練は、かつてない過酷な訓練となった。
 しかし志願兵である彼等に挫折は許されない。
 文字通り死ぬ思いを乗り越えて、彼等の技術は磨かれ、戦闘能力は鍛えぬかれた。
 そして、彼等は見事期限内に迷宮の第一層を攻略し、内外に国軍の力を示したのである。

 祝杯と休養の後に行われた、攻略後ブリーフィングは全員の意気も高く、誰もが一流の戦士としてそこに在った。
「いよいよ第二層に挑む訳だが、だれか質問や意見はあるか?」
 指揮官としての貫禄を増した武部部隊長が重々しく告げる。
 そこに挙手をする者があった。
 全員の注目を浴びて伸びやかに手を上げているのは、ハンターの一人で紅一点の木村由美子である。
「何かご意見がおありでしょうか?」
 その兄に対するのとは違い、武部はしごく穏やかに彼女に対した。
 しかし、彼女が一同に与えたのは、あらゆる爆弾に優る衝撃だった。 
「あの、第二層用に幻想迷宮の設定を変更したいのですが、何かご希望はありますか?」
 静寂がその場を支配した。
 しわぶき一つ聞こえない完全なる静寂だ。
「あの?」
 うら若く、美しいハンターの女性が言葉を重ねる。
 武部はごくりと喉を鳴らした。
「いや、お待ちください。我々はどうやら大切な事を見誤っていたようだ。我々の使命は迷宮を攻略する事ではない。迷宮を調査し、資源の収拾とそれにともなうメリットデメリットを知る事こそが国の兵士としての役割でありました。我々はただ一度の成果で、それをうかつにも忘れてしまう所でした」
 武部は由美子を手で制すると、部隊員に向けて言葉を続ける。
「我らは更に迷宮第一層の探索を深く行い、調査を進める事を第一義としたい。この件、上申しておく」
 そして、彼はそのまま由美子に向き直ると、笑顔のまま告げた。
「そういう事なので、まだしばらくはあの設定はそのままで問題ありません」
「分かりました」
 由美子はぺこりと頭を下げると着席する。
 場内からいずこからともなく拍手が起こり、それはやがて自らの指揮官を称える万雷の拍手と歓声となってブリーフィングルームを埋め尽くしたのだった。



[34743] 63、帳尻合わせは人の業 その一
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2013/09/05 04:23
「木村さん、領収書の提出忘れとかないですよね?」
「昨日も確認しましたよね?ありませんよ」
 じっと俺を探るように見た後、お局様こと園田女史は席を移動して隣にも同じように問い掛けた。
 事務方がピリピリしていて怖い。
 現在会社の決算時期なのだ。
 決算業務なんか、開発部門であるうちには関係なさそうな話だが、案外そういうものではない。
 予算を司る総務部がこの時期ほぼ動かなくなるのだ。
 それに各部門もこの時期は事務方に負担を掛けないように突発的な企画は立ち上げない気遣いをする。
 おまけに、仕事の内容的に、アイディアを形にしてみて廃棄を繰り返すうちなんかは、予算ありきで動いている総務とは相性が悪く、なにかの拍子にうっかり逆鱗に触れないように、必要以上にひっそりと過ごす。
 気の毒なのはうちの事務で、いい加減な連中揃いのうちの課の諸経費や、いつ必要になるか全く予測が付かない予算案をなんとか取り纏めて総務に説明したり頭を下げたりしているようだった。
 申し訳ない限りである。

 しかし、なんだな、すっかり通常運行だよな。
 国の中心である都心に、迷宮などというとびきりの異物が出現したにも関わらず、人々は逞しいもので、既に関連ニュースすら日常の事件に埋没するようになっていた。
 慣れと言うものは恐ろしいものだ。
 俺としてはもうちょっと緊張感を維持してほしかったが、むしろパニックが起こらなくて幸いと政府側は思っているようである。
 まあ、関連して起こった事を見れば、政府内部が安定に走ったとしても仕方ないのかもしれない。
 なにしろ初期の失敗はどこからかリークされ、大々的に報道された後、関わった大物議員が辞任したり、公開審問会に引っぱり出されたりと散々ゴタゴタしたのだ。
 挙句、新組織の立ち上げと人事発表で、今迄影で暗躍してたっぽい酒匂さんが、血統、学歴やこれまでの実績をオープンにされるという鳴り物入りで表に出て来た。
 今後は責任の全てがあの人にのしかかる事になるんだろうな。
 人身御供かよ、全く。

 頭の痛い事はまだある。
 その迷宮攻略の実行部隊たる特別調査部隊なのだが、現在第二層を目前にして進行が止まっているのだ。
 なにしろ一度の失敗が取り返しのつかない事態を招くとあって、情報なしでの突入を避けている為だ。
 各種探査装置の投入がことごとく失敗に終わってしまい、それでも俺達が先行するという主張は退けられ続けている。
 これじゃあ何の為の長期専任契約だか分からないだろうに。
 税金の無駄遣いも極まれりって感じだ。

 ……税金と言えば、もはや俺の副業は決定的となってしまった。
 色々考えたが、俺が考えた所で良い案が浮かぶはずもない。
 こうなったら正直に課長に相談するしかないだろう。
 まあ今は会社全体がバタバタしてるから決算が終わってからだな。
 はあ、気が重い。

「なに溜め息吐いてんだ?良かったら話を聞くぞ、お前のおごりで!」
 佐藤よ、家庭持ちなのに変わらず我が道を行くお前が時々うらやましいよ。
「けっこうです」
「ぬお!即断すぎる!」
「君達、経費を私用で使う相談かな?」
 うお!?
 びっくりした。
 誰だ?
「おいおい誰だ?俺様にあらぬ疑いをかけるのは?」
 誰が俺様だよ。
 佐藤、相手が誰とも知れないのに無茶しやがって。
 聞き慣れない揶揄の声は、どうやら入口に立っている紳士然とした男からのようだった。
 明らかに高級な背広で、身だしなみに隙が無い。
 私服が当たり前の開発部門周辺ではついぞ見掛けないタイプだ。
「こら佐藤君、失礼だろう。申し訳ありません水沢部長」
 部長さん?
 お偉いさんだけど、どこの部長さんかな?
 うちはセクション的には独立部門だからどうも余所の部署とは縁が薄いんだよな。
「なに、肩書きが付いてもこうやって使いっぱしりをさせられるんだから、実の所そう大した者ではないのだよ。彼の言いように腹を立てるような事はないさ」
 口を開くと案外気さくな感じだ。
 思うに、さっきの第一声はこの人なりのジョークなんだろう。
「お忙しいのですね」
 課長が恐縮しながら気遣うようにそう言った。
「手近にいれば社長でも使いそうなぐらいには殺伐とした場所と化してる程度かな?」
 はははと課長は冗談で流そうとしたが、相手の部長さんの目はマジである。
 恐ろしい。
 どうやら決算時期の総務部は、考えた以上に魔窟であるようだ。
「ところでここへ来た理由だが、この購入伝票なんだが、同じ日付で全く同じ内容の物が二枚ある。どういう事か説明して欲しい」
 うお!監査か!?
 お局様がきりりとした顔で伝票を受け取ると、「今年の五月二日の伝票ですね」と呟いた。
 五月って半年近く前じゃないか?
 おいおい、そんな前の話じゃ、購入記録はあっても、なんで同じ発注がダブったのかの理由なんか分からないんじゃないか?
 一応俺も業務日誌をめくってみるけどさ。
 課長も同じ思いだったのか、日報を広げている。

「伊藤さん、その頃手掛けていた製品内容を調べて。御池さんはこちらの購入伝票のデータと照らし合わせてみて」
 お局様の指示がテキパキと飛ぶ。
 さすが事務方、頼もしいぜ。
 と、電算機パソコンをいじっていた伊藤さんが声を上げた。
「分かりました。当日、急遽役員プレゼンで試作機を稼動可能状態で使用するとの連絡が入って、テスト機と別にもう一台同じものを作製する事になったんです。既に部品は発注済みだった為、時間差での発注となってしまい。相手方の処理の関係上伝票が二枚発生する事になったようです」
 えええ?発注前後の理由とかも記録してんのか?
 事務って大変な仕事なんだな。
 しかし言われてみれば、そんな事もあった。
 というか、うちは仕事の性質上、そういう流れになる事は多いから、むしろよくある事として全く思い出しもしなかった。
「そうか、当時の役員会資料を当たれば裏付けも取れるだろう。すまない。手間を掛けた」
 水沢部長は丁寧に謝罪すると、ファイルを閉じて一礼した。
 と、部長さんの携帯が点滅を始める。
「失礼」
 一言断って携帯を操作しだした。
 この場で操作するって事は社内連絡かな?画面を見ていた部長さんは、なぜかたちまち顔を曇らせる。
「どうかしましたか?」
 課長も何事かと思ったのだろう。
 操作を終えた部長さんに声を掛ける。
「すまない。緊急事態だ。技術者を一人ヘルプに借りたい」
 何事だ?
 この時は、まさか自分に火の粉が降り懸かるとは思わないまま、俺は呑気にそんな風に思っていたのだった。



[34743] 64、帳尻合わせは人の業 その二
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2013/09/12 05:29
 現場はなんとも言い難い雰囲気に満ちていた。
 三階の半分以上のフロアを占めるのがが総務で、同じ階に人事部もある。
 つまりは事務方の総本部のような階なのだが、シンとしたフロア全体にただならぬ緊張感が満ちていた。
 なんとなく俺自身も緊張しながら水沢部長に付いて行く。
 部署名の入ったドアを開くと、鬼気迫る雰囲気のオフィスの状況が目に飛び込んで来た。

 ずらりと、整然と並べられたデスクに向かって、ほとんどの社員は黙々と脇目も振らず自分の仕事に集中している。
 うちの何倍もの人数がいるにも関わらず、誰一人として私語一つとしてしていない。
 そんな中、やたら目立つ一群があった。
 まるで魂の抜け殻のようにイスに座り込んでいる男性社員と、それを囲むように立っている数人の男女。
 まるでそこだけ異質な空間であるかのように、殺気立った慌ただしい動きがある。
 水沢部長は、まっすぐそこへ向かって歩いて行った。

「どうだ?業者とは連絡取れたのか?」
「しましたけど、やっぱり状況的に無理だそうです」
 悲壮感ただよう顔で、その場の女性社員の一人が報告する。
「部長申し訳ありませんでした!私の不注意で」
 一番ショックを受けていた風の男性社員が、水沢部長の顔を見るなり立ち上がって深々と頭を下げた。
 つい先日軍隊の訓練を見て来た俺には、なにか強い既視感のある光景だ。
 なんという責任感。到底うちの課と同じ職場には思えない。
 見た目的にも全員背広とかスーツ姿だし、ドラマの中に出て来る大手の会社のオフィスのイメージそのままである。

 それにしても、この最も忙しい時期に電算機パソコンをおシャカにするとは、運が無いというか、キツいだろうな。
 たった一台とはいえ、共有化していない処理前データが入っていたらしいし。
 しかし、だからといって俺連れて来ても役に立つかどうか分からないぞ。
 ハードウェアエンジニアというと、機械類からくり全般に万能みたいなイメージがあるのかもしれないが、当然ながら得意不得意はある。
 俺はどちらかというと機構的な部分が得意ジャンルだし、電子機器的な分野は佐藤の方が数段得意だと言ったのに、どうも初対面での印象のせいで、佐藤は信用を得られなかったようだった。
 佐藤は、性格には圧倒的な難があるが、守備範囲と能力だけは馬鹿みたいに凄い人なんだけどな。
 まあ、慣れないと話してるだけでイライラしてくる相手ではあるから、仕方ないか。
 でも俺、電算機パソコンはカバーを開けた事すらないんだが、プロが投げたという代物をどうにか出来る訳無いと思うぞ。

「木村くん、すまないが見てやってくれないか?」
 水沢部長さんが、そんな俺の心境も知らずに手招きしている。
 仕方ない、やるだけやるしかないな。
「よ、よろしくお願いします」
 やらかした当人らしき青年が、色の失せた顔でおどおどと頭を下げて来た。
 うわあ、年代的に同じぐらいの相手からそう下出に出られると落ち着かないな。
 すまん、正直力になれるかどうか微妙なんで、そんなに恐縮されると逆に申し訳ないのでやめてください。
 まあ頑張るけどさ。

「とりあえず電算機パソコンが壊れた経緯を説明してもらえますか?」
「あ、はい。と言っても凄く単純な話なんです。私がうっかり中身の入った紙コップをパソコンの上に置いて、それがひっくり返って、そしたらパソコンから火花が散って電源が落ちてしまったんですよ」
 うあ、こぼしただけじゃなくショート済みか。
 もはやいかんともし難いな。
「なるほど事情は把握しました。とりあえず、保存をしていない状態で作業中だったデータは諦めてください」
 俺がそう言った途端、悪夢にうなされでもしたかのようなうめき声が上がる。
「ああっ、一時間分の作業が無駄に……」
 気の毒だけど、もうそれはどうしようもない。
 既に存在しない物を復活させるには、生贄を伴う大魔術でも行使するしか方法はないのだから。
 それに、逆に一時間程度なら運が良いと思うんだけどな。
「午前中の分は保存したのね」
 集まっている社員の内、うちのお局様に似た雰囲気の女性が確認するように聞く。
 うちのお局様より少し若いが、おそらくこの部署のまとめ役のような人なんだろうな。
 いわゆる"絶対に逆らってはならない"相手だ。
「はい。昼食で席を外したので、決まり通り画面を閉じる時に一度保存しました」
 お局様的女性はうなずくと、そのまま視線を俺へと移動させる。
「さっきの言い方だと、保存してあった分は無事のように聞こえましたが、そういう認識で構いませんか?」
「はい。データはMDDミスリルディスクドライブに保管されています。今回のダメージは電源と基板には深刻ですが、逆に言うと、記憶領域は無事な可能性が高いのです」
「それはいますぐ取り出せるものなの?」
 更に畳み掛けて来る。
 ちょっと怖いです。
「そうですね。もう一台電算機パソコンを止めても良いならなんとかなるかもしれません」
「この上もう一台か。どうする?石谷くん」
 水沢部長さんがお局様的女性に確認した。
 彼女はほとんど迷わず即決する。
「この電算機パソコンに入っていたデータが無いと、他のデータとの照らし合わせが出来ません。そうなればかなりの時間をロスする事になります。もし、更に一台止めても、短時間で使用が可能になるなら、そちらの方が遥かに良いでしょう」
 言いながらちらりと俺を見る。
 うん。
 これは短時間で終わらせろという無言の圧力ですね。分かります。
「とりあえずまずはMDDを取り出しましょう」
 言いながら、持って来た工具で壊れた電算機パソコンを解体し始める。
 なんだかんだ言っても、こうやって機械をいじれるのは楽しい。
「分かった。それでは作業量の少なそうなデスクから調達して来るか」
 水沢部長が即行動に移ろうとするのを見て、俺は慌てて釘を刺した。
「あ、前提条件があるのでそれに適合したものをお願いします」
 俺は持ち歩いている懐紙を内ポケットから取り出すと、手早く条件をメモって渡した。
 水沢部長は和紙を用いたメモが珍しいのか、受け取ってしばし戸惑ったような顔をしたが、すぐに頷いて行動に移る。
 なんというか、ほんとにこの部署の人、理解と行動が早いな。

 この部署は膨大なデータを扱うからか、使っている電算機パソコンは全てタワー型だ。
 スリムタイプも混在してはいるが、多くが場所を取ると最近敬遠されがちな大型のタワーである。
 このタイプならMDDを増設可能なはず。
 そんな事を考えながら問題の電算機を見ると、電源の端子部分が焦げ付いて、その周辺から苦甘い匂いが漂っていた。
「うわあ、火事にならなくて良かったな」
 いや、それよりも火気センサーに引っ掛かって水気散布陣が発動しなくて良かったな。
 下手したらフロア中の電化製品が全滅しかねなかったぞ。
 まあ運が良いか悪いかの判断はおいておくとして、ネジを外してカバーを開く。
 開けて見ると、早々に電源が落ちたおかげか、母基板や附属基板はコーヒーが入り込んではいるものの、ショートはしていなかった。
 これなら電源変えるだけで、他はクリーニング用の純水で丸洗いして、余分な物質は分解すれば問題なく復帰出来るはずだ。
 その辺はどうするか確認してみるか。
 MDDと端子接続用のコードを外してとりあえずこっちで出来る事は完了。

「木村くん、これで大丈夫かな?」
 言って、部長さんが持って来てくれた電算機パソコンは、たしかに頼んだ通り大型だが、今解体したものより年季が入っている感じだった。
 あまり古い型だと大容量のMDDを認識出来なかったりする場合があるらしいけど、大丈夫かな?
 俺の知識じゃそういう所まではカバーしてないんだよな。
 とりあえず解体した電算機パソコンの横にその本体を並べてもらうが、肝心の物がない。
「あの、これの電源コードはありませんか?こっちのはショートしたやつなので代用利かないので」
「あ!すまない、気が利かなくて」
 いや、別に謝らなくて良いですから。
 まあ電源コードなくても作業は出来るので、まずは始める前に持って来てもらった方の空きドライブベイを確認する。
 うん、ちゃんと拡張用のスペースがあるみたいだ。
 最近は読み取りディスクが次々と新しく開発される関係で、ユーザーが手軽に新しい読み取り用ドライブを拡張したり、既存の記憶容量では物足りない場合にMDDを追加したり出来るように、ある程度最初から拡張性を持たせている物が多い。
 特に大型タワータイプはほとんどがそうなっているという話だった。
 外装から確認出来たので、大丈夫そうだと当たりを付けてネジを外していく。
 周囲の見物人は一人増えて、例の男性社員とはまた違う雰囲気で、凄く心配そうに見ている人物が加わっていた。
 この移動先の電算機パソコンの担当の人かな?
 しかし、こうも周囲から見られていると緊張するな。
 そんな風に思いながらカバーをカパッと外すと、……そこにはボヘーッとくつろぐ小人がいた。

「……」
 何気なく顔を上げたという風情のその小人と一瞬目が合う。
 マズイ。
 俺は慌ててその小人から目を逸らした。

 すげえ、俺、本物初めて見たよ。
 本当にいるんだなあ、小人。



[34743] 65、帳尻合わせは人の業 その三
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2013/09/19 04:06
 小人は見られている事に慌てた後、もう一度こっちを窺って、今度は視線が合わない事を確認してほっとした風だった。
 まあ横目で見てる訳だが、この手の怪異ようかいは妙に純真というか表面上の事柄にこだわるので、とりあえずまっすぐ視線が合わなければ安心出来るようだ。
 と、小人は再び慌て出した。
 その視線を追って顔を上げると、周囲の見物人が小人をガン見している。
 俺は慌てて小人から視線を逸らすようにジェスチャーと小声で指示した。
 どこか唖然とした感じで小人を見ていた人々は、俺の指示に気付くと、慌てて小人から目を逸らす。
 その複数の熱い視線が外れても、小人は少しの間動揺していたが、やがてビクビクしながらMDDミスリルディスクドライバの影に隠れた。
 ……って、おい、そこ増設用ドライブベイだから。
 いやまあ、お前ら質量無いから別にそこに新しいMDD突っ込んでも気にしないだろうし良いんだけどさ。
 そう思いながらも、俺は電算機パソコン本体のカバーをそっと閉じた。
 そうして、まだ若干固まっている見物人の中から水沢部長に声を掛ける。
「ええっと、これどうします?」
「あのっ、これ、小人ですよね?靴屋さんのお手伝いとかの」
 しかし、硬直を解いて最初に声を上げたのは、水沢部長ではなく、この電算機の元々の担当だったらしい女子社員だった。
 凄くワクワクしているのが見ただけで分かる。
「あ、はい。我が国では妖怪、西国の方ではフェアリーと呼ばれる類の存在ですね」
「驚いたな。まさか都会の真ん中でこんなモノを見るとは」
 水沢部長は彼女のテンションに巻き込まれる事なく、冷静に感想を述べた。
「えっ?えっ?小人?なんですかそれ?見て無いです私」
 ん?あれ?この人、確かお局様的ポジの人だったよな?
 なんでいきなり頬を染めて女の子モードになっているんだ?
 しかしそうか、見えないって事はこの人は伊藤さんと同じ無能力者なんだな。
「妖怪は怪異と基本は同じモノですから、むの……ブランクの方には見えないんですよ」
 無能力と言い掛けて、以前出会った俺俺くんの言葉を思い出して言い方を変える。
 確かに無能力という言い方は配慮に欠けるかもしれないと思ったのだ。
 実際は無能力の方が一般的に浸透している呼び名であり、ブランクというのは俗語に過ぎないのだけど、彼の言うように、みんながそう言っているからと相手の事も考えずに使うのは良くないだろう。
「えー、そうなんですか。残念です」
 総務部のお局様は、ちょっとだけがっかりしたようだったが、すぐに先程の女子社員に小人がどんな姿だったかを聞き始めた。
 小人に興味があるんですね?タフな人だな。

「小人ね。実際はあの童話のように人の窮地を救ったりはしないのだろう?」
 一方、現実的な水沢部長は俺に確認するように聞いて来た。
 冷静で助かるけど、なんで俺に情報を確認しようとするのだろう?
 聞いてみるととんでもない事が分かった。
 どうやらうちの課から例の給湯室の件が広まって、それに尾ひれが付き、他所の部門ではいつの間にか俺がオカルト博士だという話になっているらしいのだ。
 おいおい、いったい何者なんだ、俺。
 博士とか言われる程詳しくないからな、マジで。
 ああいう専門的な研究者って大体変人マッドだし。勘弁して欲しい。
「いえ、俺は実家や妹の関係で他よりちょっと詳しいぐらいですからね?」
「そうか。それで小人というのは本当に"良い隣人"なのか?」
 おお、さすが部長知識人だな、よくそんな古い西の言い回しを知ってますね。
 それと俺の名誉的な問題がさらっと流された気がするけど、気にしたら負けなんでしょうか?
「そうですね。ぶっちゃけこいつらには人間的な善悪の意識なぞありませんよ。エルフやドワーフならともかく。いえ、彼らとて倫理感は独特で人とは違いますしね」
「なるほど、そうするとやはり単純に良きモノという訳でもないのか」
「ただ」
 こいつら小人においてはまた別の話がある。
「ん?」
「部長は座敷童をご存じですか?」
「あ?ああ、有名な地方神だな」
 え?なに?あいつら神様扱いなの?マジ最近の教科書どうなってんの?って、部長さんは俺よりずっと年上だから最近の教育って事じゃないよな。
 単純に中央の人の感覚なんだろうか。
「その座敷童と同じ系統なんですよ。こいつらは存在するだけで場の因果率を整える事が出来るんです」
「因果率?」
「ええっとつまり、普通因果には揺らぎというか偏りがあるんです。頑張っても報われないとか、良かれと思った事が裏目に出るとか」
「そうか、つまりそれを整えるという事、イコール幸運という訳か」
「まあ小人の場合、職人気質の濃い場所に現われて仕事の効率を上げるというのが公式見解のようですが」
 周囲の見物人から「おお」という感じのどよめきが上がる。
「そ、それじゃあ仕事が忙しいのに不思議と残業しなくて済んでるのは……」
 さっきはしゃいでた小人在中の電算機の担当の女子社員が嬉しそうにそう言った。
 いやいや。
「仕事はあくまでも皆さんの力ですよ。だからこそ小人が住み着いたんでしょう」
「え?どういう事ですか?」
「物語でもそうでしょう?小人は自分の仕事に誇りを持った職人の家に住んでいる」
 全員が驚いたように俺の顔を見た。
 いや、童話の内容を知っているなら分かる事だと思うのだが。
「つまり君はこう言っているのかな?我々が仕事に誇りを持った職人集団だと」
 なんだか少し緊張したように水沢部長が言った。
「ここに小人が発生した以上、それは事実でしょう」
 そう答えたが、誰もそれに言葉を返さない。
 なに?なんでシンとしてるんだ?俺、何か地雷でも踏んだ?
 奇妙な静寂の中、俺は困惑して周囲の顔を見回した。
「ああ失礼。うちの部署は嫌われる事はあってもあまり他の部門から評価される事が無いんでね。つまり、皆あまり褒められ慣れてないんだ」
 なるほど。
 言われてみればみんな、あの紙コップコーヒー君すら嬉しそうな様子だ。
 てか、そうなのか?驚きだな。
 俺は事務方がいないとまともに仕事が進行出来ない自信があるぞ。
 特に伊藤さんがいなかったらうちの課の仕事の効率は今の半分以下になるね。間違いない。
 こういう一見地味な部署って、誰も言わないだけで評価はされていると思うけどな。
 まあ確かに口に出して言われないと本人達に実感は無いのかもしれない。

「あの、それでこれどうしますか?連中はある程度年季の入った物が好きなんでこの電算機に住み着いているんだと思うんですが、このままいじってうっかり目が合ったり意識したりする事が続くと逃げ出してしまうかもしれませんし」
「なるほど分かった。すぐに替えを探そう」
 言うが早いか水沢部長はすぐに動き出した。
 切り替えと行動の早さはやはりさすがだ。

「その子、見られるのが嫌いなのですか?」
 お局様的女性がおずおずと聞いて来た。
 凄く興味があるんですね?……その子って、こいつの顔はおっさんですよ?まあ見えてないからイメージなんだろうけど。
「見られる事というより存在を認識されるのを嫌うようですよ。話題に上っただけで姿を消した例もあるようですし」
「えっ?話題にしても駄目なんですか?じゃあお礼とかどうすれば良いんでしょう」
 ああうん。
 精霊信仰文化だと働きには対価って考えるよね。
「それは勝手に持っていくようです。弁当になぜか端っこが掛けたおかずがあったり、少し残っていたはずの飲み物が見てみたら無くなっていたりした事はありませんか?」
「あ!」
「そういえば」
 どうやら思い当たる節があるらしい。
「分かりました。難しいけどなんとか頑張ります」
 何を頑張るんだか知らないが、うん、まあ女の人達楽しそうだし、……良いよね?
 仕事(?)に対するモチベーションが高いのは良い事だし。

 ……もの問いたげな視線が痛い。
 質問責めにされそうな予感がする。
 俺は小人入りの電算機のカバーのネジを止めながら、溜め息を吐いた。
 はやく開発課うちに戻りたいです。



[34743] 66、帳尻合わせは人の業 その四
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2013/09/26 04:32
「おっ!それ去年出たモデルだよね。SAGAシリーズの最新モデル!やったあ!俺が使って良いよね」
 戻った途端賑やかな佐藤に絡まれた。
 ウザイが開発課うちらしい賑やかさにほっとする所もある。
 総務部のようにいかにも整然としたオフィスみたいな場所は俺にはどうも向いていないらしい。
 てか、その位置から型番見えねえだろ?ケースの型だけでどのモデルか分かるのかよ。
「おかえりなさい木村さん。大荷物ですね。そっちの工具セット預かりましょうか?」
 絡んできた佐藤に比べ伊藤さんは、俺が電算機パソコン本体と手の間に挟んでぶら下げていた工具入れをバランスを崩さずに手早く抜き取るという手際を見せると、にっこりと微笑んだ。
「木村さんのデスクの上に置いておきますね」
「ありがとう」
 癒される。
「それで、それが修理品か?」
 課長が電算機パソコン本体を担いでいる俺に、分かっている事の確認を入れた。
「ええ、そうなんですけど、データ自体は別の本体で使えるようにしてあるので緊急性はないんです。なので修理出来れば御の字ぐらいの気持ちみたいですよ。何しろコーヒーをぶちまけて電源がショートしているんで、どちらにしろ電源は交換しなきゃ動きませんからね」
「そりゃまたやらかしたな。本体生かすつもりなら急いだ方が良いぞ。酸化の進行ってのは人が思うより早いからな」
 課長に説明しているのに、電算機にロックオンしている佐藤が話に食い付く。
 だが、まともな助言ではあった。
 この手の技術ではなんだかんだ言って一番頼りになるのは確かなんだよな、こいつ。
「純水でクリーニングした後に、分解で異物と腐蝕部分を削ってしまおうと思うんですが、」
 俺の提案に佐藤は眉をしかめた。
「それやると下手すると回路を切断しちまうぞ。同時に修復もしちまえよ」
 え?
「ちょっと待ってください。精製文言チューニングのダブル起動は禁止されてますよね?」
 俺達精製士の使う干渉文言チューニングには細かい規定があって、一つは基礎文言は一字一句変更不可である事。
 もし現行のものより効率の良い文言を発見しても、登録許可が出るまでオーブンに使う事は出来ないのだ。
 そして同じように、文言の二重起動も禁止されている。
 これらはどれも暴発防止の措置であり、その昔、無軌道な錬金術師が世界のことわりを局地的に書き換えて、生死の理すら変貌させ、生物災害バイオハザードという地獄絵図を引き起こした実例を踏まえているのでかなり厳しく制定されている。
 しかし、俺のそんな指摘に、佐藤は平然と言い放った。
「追詠唱は認可されているんだ。ブレスの差で結果的に重なったのなら仕方があるまい」
 き、詭弁すぎる。無理だし。有り得ないし。
「……佐藤くん」
 課長がゴホンと咳払いして注意を促す。
 しかし佐藤は止まらなかった。
「総務部には修理は無理だったと報告すれば良い。考えてもみるんだ、このパソコンは処理速度がうちの古臭いのとはダンチなんだぞ!なにしろうちの古物ときた日には、俺が作った造形シミュレーターを動かすだけで処理落ちしやがるんだ。仕方ないからわざわざ最適化プログラムを作って同時稼働させている始末だぞ!そのパソコンならそんな無駄な事をしなくても快適に動いてくれるはずだ」
 清々しい程の俺様理論だな。
 さすがの課長もお手上げという顔だ。
「それならそれで総務部に報告して正式に貰い受ければ良いんじゃないですか?どっちにしろ予算にうるさい総務部の事ですから見付かったら買い取りになりますよ、きっと」
「うぬ、それはまずいな」
 佐藤はやっと電算機に対するロックを外した。
 まあこう言っておけば無茶はすまい。
 家庭持ちのせいか、こいつは意外としぶちんなのだ。
 貢献賞与とかかなり稼いでいるはずなんだが、家庭というのはそこまで金が掛かるものなのか?

 俺は電算機を抱え上げると、そのまま隣へと突き進んだ。
「よお、実験室クリーンルーム空いてる?ダメなら室長のブースでも良いぞ」
「お前が良くても俺が良くない。なんだ、また厄介事か?」

 俺の問いに流が応える。
「おい、人聞きわりいな。それじゃあまるで俺がしょっちゅう厄介事に首を突っ込んでるみたいだろ?」
「自覚が無いのは重症だぞ。一度人生を考え直してみる事を勧める」
「はいはい。じゃ、実験室使うから。総務のヘルプだかんな」
 流相手に軽口を叩きながら実験室クリーンルーム使用の記録端末に用途を書き込んでおく。
「へー、総務のヘルプって珍しいですね。何があったんです?」
 開発室の若手が興味津津といった顔で食いついて来るのを「守秘義務」の一言で封じて中に入った。

 うちの実験室クリーンルームは、医療や食品の物に比べればずっと簡単な造りだ。
 電子部品の敵である微細な埃だけを主に防ぐ目的だからである。
 まあ、商品が家電なんで、ここでどれだけテストしても、発売までには劣悪な環境での性能や耐久のテストがあるから、ここは本当に開発実験で使う為の場所でしかない。
 と言っても、流たちのチームは機構ギミックやシステム周りの新しい発明や改良を行なっているので、健全な環境下でのデータ取りはかなり重要な工程ではあるのだ。
 俺はロッカーから洗浄用の純水をボトルで引っ張り出し、プールと呼ばれている桶でざぶざぶ洗う。
 物がコーヒー、しかも砂糖クリーム入りというやっかいな物なのでこれでも完全に安心は出来ない。
 業者が断ったのは当たり前で、不純物の入った液体は、その時は良くても後々故障の遠因になったりするので、クレームを恐れて関わりたがらないのだ。
 その業者が、「精製士がいれば綺麗に直せるかもしれませんよ」などと余計な事を言ったせいで俺が引っ張り出された次第である。
 おのれ、面倒を押し付けやがって。

 あらかた洗って、引き上げると、ここからが精製術チューニングの出番だ。
 佐藤の言う同時起動は論外だが、文言を連結するのは良いかもしれない。
 連結するメリットとしては術の範囲指定が一度で済む事、強制力が僅かにアップするという利点がある。
 術の精度が自動的に均一化される事の判断は場合によりけりだが、今回は問題無いだろう。
 デメリットとしては術者に負担が掛かるというのがある。
 術的な話ではなく、ブレス一つミスると発動しないから単純に息継ぎが苦しいのだ。
 それと繋ぎに韻を踏んだ接続詞を入れる必要があるんだよな。
 詩句で韻を踏む文化は日本には無いだろうに、国際規定の馬鹿野郎!
 まあ大学で応用文としてさんざんぱらやったから良いんだけどな、なんか学生時代を思い出すぞ。




「それで修理終わったんですか?」
 もはや恒例行事化した伊藤さんの用意してくれたお弁当を食べながら、話題は総務の電算機と小人の事となった。
 別に総務から口止めはされなかったんだが、やはりどこででも吹聴する話でもないので、話す相手を選ぶとしたら彼女しかいないという結論に落ち着いたのだ。
 まあ流にも話して問題ないけどな。
「後は電源と電源コード待ちかな。新品並みに綺麗にしたから問題無く使えると思う」
「凄いですね。私の友達なんか携帯をうっかり洗濯しちゃって使えなくなったって言ってましたし、携帯なんかよりもっと精密な電子部品の塊のパソコンを洗って直すとか普通考えませんよ。そっか、でも、小人かあ、良いな、私も見たいけど無理なんですよね」
 伊藤さんが俺を賞賛してくれた後、溜め息混じりに嘆いた。
 なぜ女性陣はそんなに小人が好きなんだ?おっさん顔だぞ?

「特殊なカメラを通せば見えますよ。ほら映画館とかでサポート眼鏡とか貸し出してるでしょう?」
「あ、あれもそうなんですか?」
無能力者ブランクの場合は本人は魔術を一切受け付けませんけど、物品を魔術で変質させた物なら利用出来ますからね」
「あれ?でも魔法的な品物は私達には使えませんよね?」
「品物自体が魔法を発動するものは駄目ですけど、あの眼鏡はガラスの間に一定波動に最適化するように魔術加工された水晶体を挟んでいるんです。なので波動幅が一定の映像ならその表面に反射させる事が出来るという仕組みです」
「ああそうなんですね。という事は調整された波動幅だけしか見えないのか、残念です」
 たちまち映画用サポート眼鏡の問題点に気付いてちょっとがっかりする伊藤さんもとても可愛い。
 実際、映画用の狭い波動幅だけじゃ、一般的な怪異を見るのは難しいだろうし、そもそもあの眼鏡、個人で気軽に使用出来る程お手軽価格ではないんだよね。
 そっか、でもそんなに観たいなら、今度専用ビデオで誰にでも見えるような状態で撮ってきてあげようかな?小人は逃げるかもしれんから総務部の連中に顰蹙ひんしゅくを買いそうだが。

「でも、」
 伊藤さんはポツリと言った。
「ん?」
「私、ここに来てそういう話は初めて聞きました。外だと小人とか森の人エルフとか普通に話題に出て来ますけど。ここってそういう存在を見たって人も噂も聞いた事なかったので、少し意外です。もしかして、あの迷宮のせいなんでしょうか?」
 ああ、俺の懸念と同じ事を彼女も考えたらしい。
 明らかにこの都市が怪異の発生する場を形成し始めているという懸念。
 大して害をなさない怪異ようかいは、簡易結界を張った村や小さな集落によく出没する存在だ。
 簡易結界は大物や害を成す存在にのみ反応するので、その手の小物は網の目から溢れる小魚のようにすり抜け放題なのである。
 まあ、うちの村なんかは、ある程度害のあるものもわざと通してたりしてたけど。さすがにうちは特殊だったらしいから比較対象からは除外すべきだろう。
「まあ、あんなのが出来たんだから、何も変わらないって事はないよね」
「やっぱりそうなんですね」
 伊藤さんは俺の顔をちらりと見る。
「あの、木村さん」
「なに?」
「木村さんは責任を感じてたりはしてませんよね?自分がなんとかしてやる、とか考えてたりとか」
 急に不安そうに伊藤さんが言い始め、俺は逆に彼女のその心配に、気持ちが暖かくなるのを感じた。
 なんとなく、その気持ちのまま、彼女の右手を握ってみる。
「あ!」
 たちまち伊藤さんの顔が真っ赤になった。
 って、そんなに反応されると、俺もなんか恥ずかしくなったぞ。そこまで他意はなかったのに。
「あ、あのですね。俺は家業から逃げ出したような無責任な奴ですよ?そんなに奴がバケモノのやらかした事に責任を感じるはずないでしょう?」
 えっと、かっこつけて言っちゃったけど、伊藤さん聞いてる?
「あ、はい、あ、あの、ありがとうございます!」
 どうしてそこでお礼?ってかやっぱり聞いてなかった?トホホ。
 だが、どうやら聞いていた相手もいたらしい。
 背後で茂みが不自然にガサガサいってるが気にしない。
 気にしたら負けだ。

「いけ!そこで熱烈な口づけよ!」
「何言ってるの、御池さん、仮にも職場でそんなはしたない事、許される訳ないでしょう?」
「主任、古いです。今時の恋人達は場所なんか選ばないんですよ!ましてや、あのケダモノですよ」

 やめろお前ら、俺の精神的なポイントが削られてるから。
 真っ赤になってもじもじし始めた伊藤さんを前に、俺は繋いだ手をどうしたら良いか、真剣に悩みはじめたのであった。



[34743] 閑話:光と影のノクターン
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2013/10/03 04:35
 静かなこじんまりとした空間に、柔らかなタッチのピアノの生演奏が流れている。
「良い店だろう?」
 カウンターに座った二人組の内の片方が自慢げな口振りでもう一人にそう言った。
 言われた方は軽く笑うと「そうだな」と同意する。
 カウンターの向こう側の店の人間は、現在素通しに見える厨房で料理に余念がない様子だった。
 ホールの中央部に設置されたのはグランドピアノではなく電子ピアノで、プランターのエキゾチックな植物に遮られて見えにくいものの、まだ若い女性が一心不乱に演奏を続けているのが分かる。
 どう見てもプロという感じではないが、実はマスターの娘で音大生なのだそうだ。
 思いっ切り練習しても近所迷惑にならないので、この店で時々弾いているらしい。

「実を言うと伊藤さんのつてなんだよね、ここのマスター引退した冒険者なんだってさ」
「ああ、だからか」
 気付き難いが、この店のマスターの片足は義足であった。
 実際、伊藤父のように五体満足で引退出来る冒険者などほんの僅かでしかない。
 ほとんどが負傷や精神的な疾患を患ったり、なんらかの理由で冒険者を続けられなくなって引退を余儀なくされるのだ。
 だが、それすら幸運な一部だけというのが冒険者の過酷な現実ではある。
 冒険者協会はそんな冒険者達をサポートしていて、その一環として引退者の商売の後押しもしていた。
 ネット上には協会配布の情報マップが無料で提供されていて、引退者の店舗はそこに宣伝費を掛けずに表示させる事が出来るようになっている。
 もちろん、それが元冒険者の店である事は明かされないが。

 父の昔の仕事を知った優香は、そんなマップを調べていて、この店が元冒険者の物と知り、親近感に近いものを覚えたのか、最近はほぼ常連と化しているのだと隆志に語った。「隠れた名店って感じですね。あんまりひっそりしているからマップがなかったらお店と気付かない所でした」とは優香の言である。
 なにしろこの店は雑居ビルの並びにあって、レンガ造りの倉庫のような建物で、あまり食堂らしくないのだ。
 実際、元倉庫だったからな。とはマスター談である。
「伊藤嬢と言えばどうなんだ?」
 二人の男の内のもう一人、一ノ宮流は、親友である木村隆志にズバリと切り込んだ。
 彼は、見た目は脳筋そのもののこの男が、実は意外と繊細でロマンチストであると知っていて、その恋路の行き先を実は心配していたのである。
「どうって?」
 隆志は陶器のぐい呑に口を付けてさりげなく視線を逸らした。
「社内ではすっかり公認の仲だぞ?」
 途端に、隆志はぐぷっという怪しい声を発して咳き込む。
「いや、あれだけ親密に行動しててそれはおかしいだろ。むしろ伊藤嬢に謝れ」
「いや、お前こそなに言ってんの?なんでそういう話になるのさ」
 むせた分をごまかすように隆志は皿に盛られた料理を口にする。
 この店は酒場ではなく多国籍食堂で、マスターが渡り歩いて覚えたあちこちの料理を出している為、見覚えの無い料理も多い。
 今隆志の食べているバナナのフライも、当初の予想に反して甘い物では無く、サトイモに近い食感で普通に酒に合った。
 今彼等が飲んでいる酒もベトナムの物、マスターの奥さんの地元の酒で、米を原料にしているせいか日本人にウケが良いらしい。

「あっちはさ、俺の事を恩人と思い込んでるんだぞ?」
「素晴らしい事じゃないか。彼女はお前に強く心を惹かれたという事をお前に対してアピールしたんだろ?恩人なんてのは普通自分の中にとどめておくような言葉だ。それを敢えてお前にぶつけたという事は、そうでもしないとお前は彼女を心の中へは踏み込ませないと判断したという事だろう?『あなたの全てを受け入れますから私を受け入れて』と迫られているんだぞ?分かっているのか?」
「すげえ都合の良い解釈だな」
「お前は察しが悪すぎるんだ。たとえそれがどれほどの恩人だろうと女は気の無い相手と二人きりになったり手作り弁当を用意したりしないぞ。女は決して妥協はしない」
「お前の彼女っていう方々はそうだろうけど彼女がそうとは限らないだろ」
 異国情緒溢れる店内にモーツアルトが流れている。
 もしかしたら大学での課題曲なのかもしれない。
 誰もが名前は知らなくても聞き覚えのある曲三パターン程がずっとローテーションで弾かれているようだった。
「あれだな、お前は女にとって最悪の相手だ。優しいふりをして実は自分を守っているのさ。伊藤嬢も気の毒に」
「おい!」
「なんだ?怒る意気地はあるのか?」
 流の挑発するような言いように、隆志は溜め息を吐いて振り上げた手を引っ込めた。
 弾き手もさすがにモーツアルトに飽きたのか、ピアノの曲相が変わって、ショパンの優しい響きでピアノが歌い始める。
「まあ、確かに怖いのかもな、俺は」
 ぼやくようにそう言うのを、流は勝手にしろとばかりに聞き流した。



「さすがにかなり冷え込んで来たな。そろそろコートの出番かな?」
 店を出てそぞろ歩きの姿もやたら目立つ友人を横目に見て、隆志は何度目か分からない溜め息をこぼした。
「気持ち良く飲みに来たのに説教を食らった」
「拗ねるな。男が拗ねても全く可愛くないからな」
「モテ野郎は砕け散れば良いよ」
 ふと、二人の視線が汚れた雑居ビルの壁に向く。
 ネオンの灯の下、そこに小さな影が素早く動いたのだ。
「ん?虫か?」
「いや戸影トカゲだな」
「トカゲ?あの背中がテラテラしたやつ?」
「生き物じゃないやつだ」
「おいおい」
「大丈夫。このサイズなら人間にとってはむしろ益になる類のやつだ。人の吐き出した昏い想いを食うからな。澱みが生まれ難くなるんだ」
「ほう、それで、でかくなるとどうなる?」
「邪念の多い人間に取り憑いて精神を食い荒らす」
「なかなかシュールだな、妖怪の一種なのか?」
「どちらかと言うと精霊に近い。家守ヤモリとほとんど同種だがこいつらは一箇所に留まらないから、たまに同族で交わって集合体になっちまうんだな」
 隆志は建物の影の部分に何気なく指を這わせるとピンとその指を跳ね上げた。
 すると先程の小さな影がその指に姿を現し、慌ててまた壁の影に逃げ込む。
「おい、大丈夫なのか?」
「だからこの大きさなら害は無いって」
「しかし、すっかり古代ロマンが蘇った感じだな」
「ロマンとか呑気に言ってられるような状況で済めば良いんだけどな」
 彼等がそんな風にのんびりと出来たのはひときわネオンの派手な通りに出るまでだった。
「あ、せんせ。やった!私が一番に見付けたから今日はうちの店に来てくれるんですよね」
 流に駆け寄る女の子を見ながら隆志は呆れた声を上げた。
「なんだまた怪しげなゲームでも始めたのか?」
「失礼な。女の子達が自主的に決めたルールだよ」
「……女の子“達”とか、一度痛い目を見れば良いのに」
「男の嫉妬は醜いぞ」
「言っとけ」


 その頃、木村隆志に少々虐められたトカゲは、賑やかな夜の影を渡っていた。
 より昏い匂いを追って雑居ビルの地下へと入り込む。
 廊下の照明もところどころ点滅しているような場末の飲み屋街、移り変わりの激しい店舗に囲まれて、表から扉の打ち付けられた店があった。
 何か酷い破損があるのか、それとも水商売にありがちな縁起担ぎか。
 気にする者はいても、あえて深く探る者はない。
 そんな、よくある見過ごされた場所。
 その扉の内側へ、厚みを持たないトカゲは入り込んだ。
 誰もいないはずのその場所には、なぜか明かりが点っている。

「ようこそ、我が主の統べる試練の場へ」
 唐突に発せられた声は、しかし影の中の存在に向けられたものではなかった。
 数人の、いかにも暴力を生業とする人間の気配に、小さなトカゲは彼なりの期待を感じる。
 それはご馳走の気配と似ていたのだ。
「しっかし、よくもまあ考えたもんだな。入国ゲートと迷宮のゲートを一つの部屋に並べちまうとはな。普通は場が安定しないもんだが」
「……あまりお口が軽いと、命も軽いと言いますよ?」
「おいおい、どこででもしゃべったりはしねえさ、ちゃんと毒杯の誓いを交わしただろうが」
「まあよろしいでしょう。それでは、よい戦いを行って主を楽しませてください」
「ああ、お宝をがっぽりいただいてみせるぜ。じゃあ、世話になったな」

 空間のゆらぎと共に、部屋の中には静寂が満ちる。
 小さな影の獣は、“匂い”を嗅いで、この場所の淀みが自分の好みより濃厚過ぎると感じた。
 いつもの、酔っぱらいがゲロと共に吐き出すご馳走がある路地の方が良いかもしれないと、そう思ったトカゲは、淀みに沈むその場所に、もはや何の未練もなく影の中をするすると移動して地上の世界へと戻って行った。



[34743] 67、蠱毒の壷 その一
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2013/10/10 04:43
 その第一報はなんとネット上のオーブンスペースからもたらされた。
 グローバルネット上には、民営の投稿広場がいくつかあり、動画や画像、音楽や文学など、さまざまなプロアマ問わない投稿者がそこで凌ぎを削って切磋琢磨している。
 その中の世界的有名投稿広場で独自にニュース放送を営むグループの元に提供されたのが、記録映像を含む日本の注目迷宮ダンジョンの第二層の攻略情報だったのだ。
 しかもそれは日本軍によるものではなく、一介の冒険者の手によるものだったのである。
 この一連のソース情報と共に流されたマイナーなネットニュースは、その後、瞬間的には全世界のメディア上に報道された程に広まった。
 一方で立場を無くしたのは日本軍、ひいては大日本帝国という我が国だ。
 それを受け、議会が責任問題で紛糾する直前に持ち込まれた議案があった。
 いわゆる迷宮開放オープンダンジョン法案である。

「んで結局どういう風に落ち着いたんだ?」
 俺は自分の分の皿を片付けると、ビールを片手に尋ねた。
「ニュースを見てないんですか?」
「お前から聞いた方が確実で分かりやすいだろ」
 俺の言葉に、浩二の奴は騙されないぞとでも言いたげなうろんな目付きを向けて来る。
 こいつも昔は兄さん兄さんと懐いてくれていて可愛かったのにな。
 まあきっと俺が悪いんだろうけど。
「政府は迷宮ダンジョン『摩天楼』を自国土内領土と正式認定し、それを登録認可制の開放型探索地と指定したんです。登録は国民でなくても渡航証明パスポートと一定の能力認定証明さえあれば受け付けるという事です。但し迷宮内取得品の個人持ち出しは一探索一人一個まで、それ以外は政府の正式な認可を持つ買い取り店で現金化を義務付ける事としました」
「資源を独占的に一次取得する事は諦めた訳か」
「おそらく効率と損耗を考えたんでしょうね。今回のようになんらかの手段でゲートを突破、あるいは管理外のゲートを使われるリスク。そして意気の上がらぬ国軍に任せて成果よりも消耗が限界を超える事を恐れた。そもそも我が国は製品加工技術において世界の上位を占めている訳ですから、原材料を輸入せずに国内で取得出来るだけでも十分国益には適うという判断でしょう」
「意気が上がらないってのはどういう理屈だ?特務部隊の隊員はやる気はあっただろ?」
 さすがにそこは直接関わった者として抗議しておきたい。
「表面上はそうですね。いえ、迷宮を脅威と見ていた時には確かに熱意があったでしょう。しかし、それが単なる危険な資材採掘場だと気付けば変わります。実際彼らは第二層をなかなか攻略しようとしなかった。なぜと言えばこの五十年程の我が国の軍事教育では、ひたすら自国土と民の守護者たれと教えてきたからです。軍人から見れば迷宮攻略は大義ある戦いではないのですよ。いわば劣悪な金山や炭鉱に近い。そんな現場で死にたいとは思わないでしょう。少なくとも深層の心理下では」
 浩二の滔々とした弁舌にただうなずくだけだった俺だが、唐突に部隊長の苦々しい顔を思い出した。
「だが武部部隊長は相当に悔しがっていたな」
「そりゃあそうでしょう。一層を攻略して上げた名声をどこの誰とも知れない冒険者に叩き落とされた訳ですからね。あれで怒らないのは聖人君子と馬鹿だけです」
 辛辣だ。
 ここが我が家で本当に良かった。
 本人には絶対に言わないで欲しい。
 事態発覚後のミーティングで、すげえショック受けて凹んでたんだからな。

 名も知れぬ冒険者に出し抜かれて一週間。
 一時紛糾した議会は、どうやら罵り合いをやってると資源は流出し放題だぞという示唆おどしを酒匂さん辺りから受けたらしく、異例の早さで法令を新設すると、特別区画庁という迷宮の管理と探求者登録の為の省庁を新設した。
 と言っても、これは例の特別局を繰り上げ昇格しただけなので、組織的にはさして大きな変動は無い。
 俺達を驚愕させたのは、そのせいで酒匂さんが大臣に昇格してしまった事だ。
 文書通信メールによると、不始末で出世したのは前代未聞だとさんざん嫌味を言われたとの事だ。
 すげえよ俺も意味が分からないよ。もしかして人類初じゃね?
 箱が変わったのには当然意味がある。
 今回勝手に迷宮ダンジョンへ侵入されてしまったせいで、とうとう他国の突き上げを突っ撥ねられなくなったのだ。
 つまり探索者としての名目で、他国から迷宮担当駐在員として送り込まれて来る連中がいるのである。
 それを受け入れるのに、貧相ないち部局では役不足だった訳だ。
 酒匂さん、ストレスで倒れないと良いが。

「タカにい、スパゲティおかわり」
 それまで俺達の話に全く関わらなかった由美子が口を開いたと思ったら飯のおかわりの要求だった。
 由美子よ。
 今日はいつになくだらけているな。
 まあお前が政治に興味が無いのは分かるけどな。
「じゃあ僕もミートソースを追加してください」
 浩二、お前もか?
 てか、なんで麺だけそんなに残ってるんだ?
「ミートソースは十分掛かっていたはずだぞ」
「足りません。ソースはヒタヒタ、それが麺料理の基本でしょう」
「ラーメンじゃねえよ!お前はミートソースをすするのかよ!?」
 うぷ。
 自分で言ってなんだが、ちょっと気持ち悪くなった。
「おかわり……」
「……ソース」
「お前らときたら」
 いらっとしながらも席を立った俺は、わが社自慢の万能調理器に、専用容器にスパゲティの麺2.1mmを一掴みと水を入れ、ミートソースのパック三袋から出したソースを密封容器に景気よく入れ、その両方を同時にセットした。
 材料を画面から入力して画像選択チョイス、分量は本体が勝手に計測してくれる。
 ボタンをポチッと押すと、チャララ~ンと軽いオルゴールの出だしのような音がして調理が開始された。
 調理中は、調理器の表面に中の様子とテレビジョンの画面が二画面分割で表示され、好きな方を拡大しても観れるようになっている。
 というか、調理していない時もこれ、テレビを観れるんだよな。
 これは映像機器会社と提携した副産物で、せっかく画面があるならもっと有効利用しようという事になり、こうなったのだ。
 しかも無駄に先進的で、普通のテレビジョンと違って有線コードを使わずに、電波放送をコンセントを通して受信している。
 画面も、波動遮断用銅線網をガラス体で挟んだ三重構造である事を利用して、奥行きのある画像表示で3D映像のように立体感のあるものとなっていた。
 最初、その価格から売れ行きはゆったりした物だったが、ネット上に動画が上がったりで評判となり、なにか当初予想と違う方向でメガヒット商品となったのだ。
 おかげで賞与ボーナスが増えたので、その嬉しさの勢いで俺もつい、社内割で購入してしまったのである。
 使ってみると、調理器として普通に便利で、もうコンロいらなくね?という感じになってしまった。
 確かにちょっと高いが、値段分の価値は十分あると思う。
 しかし俺はキッチンでテレビジョン観ないけどな。

「タカにいの作った魔法の箱№2だね」
 由美子が皿を抱えてやって来ると、万能調理器を眺めてそう言った。
 どこからツッコめば良いのか分からない。
 俺が作った訳じゃないし、魔法とはほとんど関係ない。
 そもそも皿抱えて来るな、どこの欠食児だお前は?
「その言い方だと№1は家に送った電磁調理器レンジかな?」
「うん。あの箱は魔法が切れたから今は物入れになってる。虫が入らないから凄く良いって母さんのお気に入り」
 ……電磁調理器レンジが危険物扱いとなって活用されてないと聞いていたんで実家にこれは送らなかったんだが、高かったし、しかしそれで正解だったな。
 うちの家族はうちの会社に謝るべきだと思う。
 むしろ俺が会社に謝りたい。

 価値の分からん連中に心血注いで開発した商品を使わせてしまってごめんなさい。



[34743] 68、蠱毒の壷 その二
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2013/10/17 04:07
 パララッパララッ!
 独特な警告音を鳴り響かせながらモンスターバイクが交差点を駆け抜ける。
「な、なんだ!」
「あれだろ、迷宮探索の冒険者」
「ああ」
 なんというか、当初の予想通り冒険者が大挙して押し寄せた訳だが、意外にも現在の所は一般人との間にさほど摩擦は起きていなかった。
 しかし、だからといって両者の間が良好である訳ではない。
 一番の問題は、俺も時々感じるお互いの常識の違いだろうな。
 今のように、冒険者の多くはゴツいマシンを所持している事が多い。
 なぜなら彼らが行く探索地の多くが人里離れた荒野であり、そういう場所でモンスターや野生動物を相手にする為に馬力のある乗り物が必須となるのだ。
 そしてまた、連中の多くは他人を見ると無自覚で威嚇して来る。
 新しいショバでは必ずやる儀式のようなもので、どうやらそれで序列を確認しているらしい。
 野生動物かよ。
 まあ、俺の冒険者に関する知識は、そのほとんどがハンター協会とかうちの家族とか故郷の元ハンター連中とかからの受け売りなんだけどな。
 そんなほとんど別の生き物のような都民と冒険者連中との間に摩擦を起こさせない為に政府が取った手段は単純な物だった。
 物理的に住空間を隔離したのである。
 政府は迷宮ゲート管理の為にその周辺区画を買い上げたのだが、その区画を迷宮特区として、迷宮探索者はその中で行動する事が義務付けられたのだ。
 届け出があれば外出も出来るから完全な隔離ではないが、少なくとも日常的に顔を合わせる事は回避されている。

「冒険者さんは嫌われていますね」
 伊藤さんがどこか寂しそうに言った。
 あー、そうだよな、伊藤さんのお父さん元冒険者だもんな。
「違う環境で生きて来た相手だから急に馴染めないのは仕方ないさ。とりあえず大きなトラブルさえなけりゃしばらくしたらお互い馴染むんじゃないかな?」
 しかし、伊藤さんは俺のフォローに頬を膨らませた。
 伊藤さんってこうやって拗ねてる時が凶悪に可愛いんだよな。
 いやいやそうじゃなくて。
「どうしたの?」
「私を慰める為に自分が信じてもいない事を口にするのはどうかと思います」
 なん……だと、心を読まれただと……。
「違いますよ!私が鋭いんじゃありません、木村さんが分かりやすすぎるんです。そういう所凄く心配です」
 おおう、うん、よく周囲の人間から言われます。
「大丈夫、腹芸が必要な営業じゃないんだし。うちでは考えている事がバレバレでも問題ないよ」
 否定出来ない自分が悲しい。
「そっちじゃありません。もう一方の方です。また、あそこに行くんでしょう?」
 ええっ!?なんで知ってるんだ?
 さすがにその情報は一般人に入手出来るような物じゃないよな。
 いくら俺が顔に出る性質たちだからってピンポイントにバレるような話じゃない。
 あ、お父さんを通して冒険者協会から情報を入手したとかかな?
 待てよ、由美子という線もあるぞ。
 別にこの情報に関して緘口令が敷かれたという訳じゃないからな。
「いや、そっちはもっと心配無いですよ。なにしろ怪異は嘘を吐かない存在ですからね」
 伊藤さんは俺をぎろりと睨む。
 なんだ?
「私、調べたんです。人間に関わった怪異は人を騙す事があるって。それに……」
 伊藤さんは一瞬言い淀んだが言葉を続けた。
「昔、あの酒呑童子を曲がりなりにも封印出来たのは、人間が騙し討ちをしたからなんでしょう?」
 やばい、伊藤さん、やたら怪異関係に詳しくなってるぞ。
 もしかして勉強してるのか?
 この分だと経験以外の知識はいずれ越されるんじゃね?
「そんな心配しなくても大丈夫だよ。とりあえず二層目と三層目の地図が必要なだけだし。奴とやり合う訳じゃないんだから」
 俺は汗だくで言い訳をした。
 嘘が通じる相手ではないのだから全部本当の事だ。

「それより、ほら、早く買い出しして来ないと、みんな待ってるし」
 伊藤さんは俺の言葉にハッとしたように周りを見回した。
 横断歩道の片側に止まったまま三回程信号をやりすごした俺達は、人にジロジロ見られはしたが、みんな青信号で渡ってしまうので全ての会話を聞いていた物好きな通行人はいない。
 尤も誰もが帰宅を急ぐ時間帯だ、他人に長々構おうなどと思ったりはしないんだろうな。
 みんな早く帰ってゆっくりしたいんだろう。
 俺も出来るならそうしたいよ。

 そう、こんな時間に買い出しをしている俺達は、というかうちの課は、本日は残業なのだ。
「あ、信号変わりました。渡りましょう」
 伊藤さんが俺の言葉に慌てたのか、逆に俺を急かして来た。
 弁当と飲み物六人分、それが買い出しの内容だ。
「あのさ、伊藤さんは弁当食べたら帰って良いんじゃないか?」
 事務方の他の二人は既に仕事を終えて退社している。
 お局様は家庭があるし、御池さんは仕事がないので残る必要がないからだ。
 そもそも女性を夜まで(下手すると朝まで)残業させるとか、色々とマズいだろ。

「でも、こないだ私抜きで残業したら、資料捜しで余計な手間が掛かったって佐藤さんが」
 おのれ佐藤、後で覚えてろよ。
「まあ、それはそうだけど」
「仕事に男とか女とか関係ないですよ。社会人なんだからやるべき仕事はちゃんとやらないと」
 うーん、確かにそうなんだけど、今回は明らかにキツそうだぞ?
 納期が既におかしいし。
 しかもこの商品、くだんの冒険者向けなんだよな。
 うちは家電メーカーなんじゃなかったのか、と。

 事の発端はこうだ。
 迷宮特区内に大型ショッピングモールを作った政府が、公募で中に入るショップを募って、審査と抽選で選ばれた中にうちが力を入れている家電チェーン店があった訳なんだが、そこが集客の為の目玉を各メーカーに依頼して来たのだ。
 無茶振りすぎんだろ。
 なにしろ箱は既に出来ていて、開店まで二か月切ってんだぞ?
 アホかと。
 まあ客にそんな事言えない営業は、安請け合いをしてこっちに丸投げしたのである。
 逆算すると三日で製品の仕様、基礎設計デザインを完成させなければならないのだ。
 草案無しでいきなり完成品とか、ヤバすぎるだろ。
 間違ってもリコール品を出さない為には今までの製品のバリエーションで行くしかない。
 そう方向性のコンセプトだけは決まっていた。

「まあ、伊藤さんがいてくれた方が心強いのは確かだけど、駄目だろやっぱり。男だらけの中に年頃の女の子一人で深夜近くまでって、内外的に拙すぎるよ」
「じゃあ資料を抽出してその一覧を作ったら帰りますから、それまでは良いですよね」 
 まあ妥協点かな?
 てか良く考えたら本来俺がそんな事言う権利は無いんだよな。
 言うとしたら課長だ。
 でも、なんか俺に責任がある気がするんだよ。
 うちの連中、何かと言えば俺と伊藤さんをセットで行動させるし、今回の買い出しだってそうだ。
「仕方ないか」
「お弁当分は働かないと食い逃げになりますからね」
「食い逃げって」
 俺は苦笑して足を早めた。
 冗談ではなく時間が無いので遅れを取り戻す必要があったのだ。

「あ、そうだ」
 ふと思い出して今の内に言っておこうと俺は口を開いた。
「今度引っ越すから」
「えっ?」
 伊藤さんはまるで鳩が豆鉄砲食らったような顔で俺を見る。
 いや、そんなに驚く事かな?
 そしてなんでそんなに不安そうにしてるんだ?
「ほら、ハンターとして活動もしてるだろ?全員でのミーティングに俺んちを使う訳だけど、今の状態だと手狭なんでうちの弟に強制的に決められてしまったんだよね。社宅手続きしてるから変更が面倒なんだけど」
 俺の言葉に伊藤さんはホッとしたような表情になる。
 何を心配してたんだろう?女心ってさっぱり分からんな。
「そっか、そうですよね。そういえば会社側がOKを出してくれたんでしょう?良かったです」
「ほんとに。課長と社長には感謝してます」
 決算のバタバタが終わって通常業務に戻った頃に、こっそりと、ハンターとして活動せざるを得なくなった事を課長に相談したんだが、課長は驚きながらもちゃんと話を聞いてくれて、社長に掛けあってくれたのだ。
 社長の言う事には開発の服務規程は主に情報漏えいを警戒しての物なので、国家政策に絡んだ物ならば仕方が無いという事で特例として認めて貰えたのである。
 しかし、条件として通常業務に支障をきたさない事と、社内で俺がハンターである事を公言しない事を約束させられた。
 いや、それはむしろ俺が頼みたいぐらいだったので、ありがたいけどね。
「でも、無理はしないでくださいね。本当に」
 ありがとう、伊藤さん。
 そういう風に普通に心配してくれるのって貴女ぐらいですよ。

 会社に戻ると、なぜかみんながニヤニヤしていた。
「なんだ、もっとゆっくりして来ても良かったんだぞ?」
 などと佐藤が馬鹿な事を言って来たのでとりあえず軽く膝蹴りを食らわしておく。
 なんかもう、悩みが増えすぎて俺の脳の処理速度ではおっつかなくなって来たな。



[34743] 69、蠱毒の壷 その三
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2013/10/24 03:52
「これは、また」
 まだ迷宮特区がそれと宣言されてから一ヶ月程、施設設備も整っていない状態だ。
 彼らの宿舎も一部を除いてはテント村のような有様で、野外で寝るよりはマシといった感じだろう。
 それなのに、もはやその場所は経験した事のない熱気に満ちていた。
 例えて言うなら古い映画の西部劇の世界のようだった。
 いや、歴史で習ったゴールドラッシュというやつだろうか?
 むしろ昔友達から読ませて貰ったバイオレンスな漫画の世界観の方に近いか。
 なにしろここでは護身武装がある程度認められているのだ。
 もはやそれだけで、同じ国内とは思えない。
 だが、それはある意味仕方がない措置ではあった。
 冒険者の中には異能者もいれば魔術師もいる、道具によってしか彼らに対抗出来ない者達から武器を取り上げるのは別の意味で危険すぎたのである。
 かと言ってそこが無法地帯という訳ではない。
 特区の各所にはセンサーがあり、暴力沙汰の気配を感知するとカメラが作動し、関係者にペナルティが架せられる仕組みらしい。
 まあ冒険者を武力で制圧しようと考えなかったのはある意味正しいのかもしれないが。

「おい、兄ちゃん達も迷宮探索か?少人数攻略じゃ序盤は良いがすぐに行き詰まるぜ」
 おお?なんか凄いゴツいお兄さんが声を掛けて来たぞ。
 顔が怖いと言われてる俺だが、さすがに西洋系のコワモテの威力には負けるな。
 顔の下半分には髭が生い茂っているし、しかもその色も赤銅色、顔もなんか赤いし。もしや昼間っから酒呑んでんのか?
「おい、兄ちゃん、返事はどうしたよ?」
「あー、わりぃ。俺は冒険者じゃねえんだわ」
 言って、ハンター証が見えるように正面に向き直る。
 ここではハンター証を見えるように出しておけという上からの指示は、軍関係施設に出入りするからと思っていたが、案外とこういう面倒事を避ける為なのかもしれないな。
 などとのんびり思っていたら、勧誘だったであろうそのお兄さんが目を剥いて迫って来た。
「ああん?なんでハンターが俺らのショバを荒らすんだよ?この野郎!」
 なぜ怒る?
 しかも今の翻訳術式、ファックとかいう言葉をすっ飛ばしたよな。
 なるほど、こういうのにも規制があるんだな。勉強になる。
「んな訳ないだろ?俺らは依頼を受けてそれをやり遂げるだけ、自由探索とかはやらないよ。どっちかってえーとお前らの露払い的なお仕事だよ」
「ぬ?」
 巨漢の兄さんが態度に迷ったように動きを止めると、その後ろから仲間なのか、今度は魔術師らしき男が顔を出す。
 ん?杖持ちって事は魔法使い?
「兄さん、もしかして上層マッピングをやってくれるハンターか?」
 ……なるほど、その噂、もうオーブンなんだな?誰でも普通に知ってるのかよ。
「まあな。と言っても、迷宮ダンジョンでマップがどこまで当てになるか分からんぞ。なにしろ一層からして変動式のラビリンスだったし」
「いやいや、変化しても傾向が分かると分からないとは大違いだ。それに怪異モンスターの種類が分かると各段と戦いが楽になるからな」
「そりゃあそうだな」
「兄さん、そろそろ行かないと時間に間に合いませんよ」
 ドンと、俺の背中に拳を突き入れた浩二がそう言って急かす。
 そもそも口とは別にその目が『なに馴れ合ってるんですか?』と語っていた。
 弟よ、そこのコワモテの冒険者がお前の一瞥で悲鳴みたいな声を上げたがどういう事だ?
 みてくれは明らかに浩二より俺の方が強そうだろ?
 謎の敗北感に苛まれそうだから詳しくは追求しないけどな!
「じゃあ急いでるんで」
 軽く挨拶をしてそそくさとその場を後にする。
 周りではひっそりとその場でのやり取りを窺っていたらしい冒険者達が俺達を無言で目で追っていた。
 噂には聞いてはいたが、冒険者達の雰囲気は独特なものがある。
 到底同じ現代社会に生きている人間とは思えない程だ。

「昼から酔っ払うとか最低」
 由美子がボソリと言い捨てる。
 別段ひそめてもいない声だったので下手すると聞こえたかもしれないんだが。
 トラブルを起こさないように、ってくれぐれも言われているんだから勘弁してくれよ、お前達。
「あんまり挑発するなよお前ら」
「何言ってるんです。冒険者相手に穏やかな対応なんかしていたらたちまち舐められて却ってトラブルになるんですよ。兄さんは現場を離れて鈍ってるんじゃないですか?」
「それはいくらなんでも極端すぎないか?」
 そう言いながら由美子を見ると、思い切り首を振られた。
 俺が間違っているという事らしい。
「コウにいが正しい。冒険者は野生の獣と同じ。侮られたら面倒なだけ」
 なんてこった。
 俺がハンター辞めて八年程の間に妹達との間に埋まらない溝が出来た気がする。
 そ、そうか、俺は鈍ったのか?
 なんかショックが続いていっそ泣けて来る気がするわ。

「その様子だとさっそく連中の毒気に充てられたか?」
 武部特殊部隊隊長が面白そうに揶揄するが、残念、毒気を吐いたのはうちの身内の方ですから。
「ところで仕事の話良いですか?」
「もちろん。それが本題だからな」
 武部部隊長はなぜか上機嫌だ。
 迷宮を巡る一連の変転は、軍部にはいささかプライドを傷付けられる流れだったのではないかと思うのだが、なんらかの納得する役割に落ち着いたのかな?
「打診した通り、君達には二層目、三層目のマッピングをお願いする事になる。その際の相互通信用にうちの通信兵、雑務管理に衛生兵を伴って貰う」
 正直同行者はウザいが、ハンターの仕事ではよく付いて来るものでもある。
 むしろ素人でないだけマシなぐらいなんでそれ自体には別に異論は無い。
 しかし雑務で衛生兵っておかしくね?
 まあ俺も軍隊について詳しい訳じゃないからなんとも言えんが。
「承知しました。予定としては二層目に五時間、三層目に十時間を充てるという事でしたね」
「そうだ。だが必ずしもタイムスケジュール通りに行なう必要はない。なにせ相手は何が起こるか予想もつかない迷宮だ。まあ今更お前達には言うまでもない事だろうが、重要なのはそのエリアの把握だ。冒険者に提供する地図もそうだが、資源確保としての意味合いもあるからな」
 うんうん、本音を言えるのは良い事だね。
「はい。取り敢えず同行メンバーを紹介してもらえませんか?あまり時間もありませんし」
 あんた達は時間はどうでも良いかもしれんが俺達はそうはいかんのだ。
 俺は会社があるし、由美子は大学があるからな。
「ああ、それでは紹介しよう。と言っても何度か顔は見ていると思うが」
 武部部隊長が手元のボタンを押すと、小規模会議室といった感じだったその部屋の壁がスライドして別の空間が現われる。
 そこはどちらかと言うとガレージに近い雰囲気があった。
 色々な機材や小型の乗り物が並べられ、ツナギを着た人間が行き交っている。

「大木、山田、同行するハンターの方達に改めて自己紹介をしておくように。10時30分ひとまるさんまるにそのまま作戦行動に移れ」
「りょーかいしました」
「はっ!」

 それは、受け答え、答礼の姿勢、そして性別も、まるで逆のひどく対照的な二人だった。



[34743] 70、蠱毒の壷 その四
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2013/10/31 04:33
「通信班の大木伸夫上等兵です。まあお見知りおきを」
「衛生班の山田明子二等兵であります」
 自己紹介も個性が出てるな。大木は腰に手を当ててニヤニヤ笑いながら、山田さんはピシリと敬礼をしながらだ。
 いい加減な方が階級は上なのか。
 大丈夫か?このコンビ。
 いや、個性が違う方が案外合うのかもしれない。……そうだと良いな。
「ハンターの木村隆志だよろしく」
「同じく木村浩二です」
「木村由美子」
 由美子よ、いくらなんでも省略しすぎだ。
 というかお前らよろしくしないのか?
 ちゃんと挨拶ぐらいしなさい。
 と言っても、既に大人である弟達に兄貴風を吹かせるのもなんだし、注意は口にはしないが、今度それとなく人付き合いについて話し合いの場を設けようと思う。

「なあ、あんたらあの"木村"だよな?ずっと気になってたんだけどさ。なあなあ、火を吹いたり一撃で山を崩したりするってほんと?」
 大木通信兵が興味津津という感じで聞いて来た。
 こういう風に直球で聞いて来る相手って実は少ないんだよね。
 ねちねちしてない分嫌な感じはあまりない。
「大木上等兵!任務中ですよ!」
 あー、やっぱり君達合わないんだな?
 そんな予感はしていました。
「何を言ってるんだめいちゃん、作戦開始は十時半って隊長がおっしゃられただろう?上官の話はちゃんと聞いておいた方が良いよ」
 ははあ、お主煽っておるな?
「何を言う!作戦は準備時間も含めて任務の一環だ!それに私をそんな俗称で呼ぶな!」
「いやいやめいちゃん、軍は階級社会だよ?そんな上官を怒鳴ったりすると問題になるかもしれないよ?いや、もちろん小官は告げ口したりしないけどさ」
「どうぞご随意に、報告は兵の義務でもありますからね。それなら私も貴官をパワーハラスメントで訴えるかどうかの悩みに決着が付きますから有り難いくらいです」
 これは放っておくと長引きそうだ。
「ええっと、楽しそうな所悪いんだが、そっちの準備は大丈夫なのかな?」
 お邪魔する訳じゃないけど、一応これから危険地帯に突入する訳なんで、何か不備があると困るしね。
 もし準備をせずに突っ込むつもりなら遠慮せずにこいつら置いて行こうと思う。
「おう。それそれ、これ見てくれよ、どう思う?」
 基本的に屈託がないのか、大木という男はすぐに切り替えて、「ジャーン」とか言いながらずっと傍らにあったでかい物体のカバーを外した。
 そこにあったのは小型のジープのような車体だった。
 しかし、いわゆる外装部分を削ぎ落としたような、骨組みだけの整備中か製作中の車のように見える。
 下手をすると遊園地にあるゴーカートのガワを外してをそのまま大きくしたような印象だ。

「凄く……小さいな」
「いやいやいやいや、小さくないから!迷宮探索に特化した装甲車なんだぜ?」
「いや、装甲ないだろ?それ」
 タイヤだけはゴツいが、他はまるで車の骸骨のように見える。
「説明が悪いからそんな風に思われてしまうのです。いえ、もっとはっきり言ってしまえば説明をする人間に問題があるのです」
 山田さん、確かめいちゃんと呼ばれていたな。明子だからめいちゃんか、安直だが分かりやすくて良いな。
 その衛生兵の女性が呆れたようにそう言った。
 しかし仲が良いな、この二人。

 迷宮に持ち込める兵器類は、大体一間いっけんつまり約1.8mの幅がぎりぎりらしい。
 人間サイズで考えると大きく感じるが、戦車なんかで考えると辛いものがあるようだ。
 ちなみに高さも一間なのだそうだ。
 人間にだってそれを超える身長はいるんだが、まあ人間は屈めば良いからな。
「ふ、これの実力は見てのお楽しみですよ。馬力も意外とあるから機材が色々積めて俺は楽なんすよ」
 フレームの中には座席や意外と複雑なディスプレイパネル付きの計器類、後部には積載物固定用のガッチリとした荷台もあり、思うよりは実用的なようだ。
 しかし、
「だけど例の映像情報が正しいとすると、第二層は樹海、ジャングルだぞ、どれほどスリム化したところで車で踏破は無理だろ」
 場所が場所である。
 使えない装備程無駄なものはない。
 もしそれを捨てる必要が出てきた時にためらうようでは危険ですらある。
「まあまあ安心したってください。きっと役に立ちますよ」
 大木という男は自信たっぷりだ。
 そこまで言うならまあ任せる事にしよう。
 確かにそのバギーのような装甲車に積み込まれた機材は重量がありそうで到底人が担げるような代物に見えないしな。

 ゲートは違和感を薄める為か、見た目そのまま門として境界部分に入口が設けられていた。
 分かり易さ重視という所か。
 迷宮ゲート手前を物理的なゲートで塞いで管理する事で迷宮の入口そのものを管理出来るのは確かに便利だ。
 見た目的には今迄実際に使用されて来た移動用ゲートはほぼ全て円筒状の施設だったから、アナログチックな門はちょっと不思議な感じがするが。

 けたたましいブザーの音と同時に各種ロック開放の電子音声アナウンスが流れる。
 どうでも良いが物々しすぎないか?
 まあお上が関わるとこうなるという見本のような有様だな。
 鈍い音と共に分厚い扉が開き、閉門までのカウント予告が流れる。
 俺達が踏み込んだらカウントを始めるのだろう。
 別に大した感慨もないまま俺達はそこへ軽く足を踏み入れた。
 周囲の風景が掻き消え、濃密な霧のような物に包まれると、目前にいつか見たような黒い壁があった。
 電光板の表示さながらそこに光で文字が刻まれる。

『エリア1orエリア2?』

 舐めてんのか?と言いたくなるぐらいシステマチックだ。
 少しイラつきながらエリア2と書かれた箇所に触れる。
 ピッという電子音のSEまであった。
 奴としてはゲームでもやっているつもりなんだろうな、クソが。

『認証をお願いします』

 表示と共に手形マークが現われる。
 ダメだ、いちいち腹を立てていたら身が持たん。
 俺は無の境地でそこに手のひらを押し付けた。
 拳を叩き付けたい気持ちをグッとこらえるのが大変だった。
 フッと唐突に壁が消失し、途端に周囲から熱気が押し寄せる。
 熱帯はこんな大気なのかもしれないなと思わせる暑さだ。
 もう秋も終わる頃だってのに、ったく。
 傍らでエンジン音が響き渡る。

「乗ってください。しばらくは木々もそれほどではないようですし」
 大木上等兵が呼び掛けて来た。
 乗っているのは先程の不格好なバギーだが、なんかちょっと大きくなっているような?
 しかも車高が高くなっている。
「ああ。しかし形が変わってないか?この車」
「ふふ、このぐらいは序の口ですよ」
 俺が助手席側へ乗り込むと、大木はパネルに指を走らせた。
 すると、ブーンという共振音と共に各フレームから被膜のようなものが張り出し、車体を覆ってしまう。
 それを軽く拳で弾くと、紛れもない金属の感触だった。

「どうです?驚いたでしょう?実はこれ、魔法使いのあの変な人が技術提供してくれて、新たに開発された魔装兵器なんですよ」
 マジでか?
 てかやっぱり魔法使い連中はかなりの技術を秘蔵してやがるな。
 あいつら自己満足主義だからな。
「しかし魔装兵器って事は燃費がやばいんじゃないか?」
 魔装兵器というのはその発動エネルギーに精製された怪異の封印体又は夢のカケラを使う。
 大概において強力だが、比例して恐るべき予算食いの兵器なので滅多な事では実用配備されたりしないものなのだ。

 ……ああ、なんか読めたぞ。

「まあ予想は付いているでしょうが、燃料は現地調達です」
「なるほど」
 うん、分かって来た。これも魔法使い殿の実験の一つなんだな。
 なんか、あの野郎、予算と場所を提供してもらって実験が出来ると思ってはっちゃけてないだろうな?
 大丈夫だろうな?東雲のなんとかさん。
 魔法使いって常識とかことわりとかを無視出来るようになって一人前とか怖い話聞くからなあ。

「あ、納得したら運転お願いします。俺は通信とマッピングの任務を開始しますので」
「え?」
 ちょ、俺がこれ動かすのかよ?マジでか!?



[34743] 71、蠱毒の壷 その五
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2013/11/07 03:54
「大丈夫です。これのAIは軍の戦略ブレインシミュレーターを組み込まれた学習型なんですよ。突発事態以外は地形や状況から自己判断して動きますので、とりあえず声紋登録して操縦席にいてもらえばOKですから」
「むしろ迷宮で突発事態以外の何が起こるんだよ」
「え?そういえばそっか」
 そっかじゃねえよ。
 作戦オーダー通りの迷宮とか無いから。
 ああ、幻想迷宮ですね、はいはい。
「声紋登録ってどうするんだ?」
 文句言っても仕方が無いので前向きに考えよう。
「そのパネルに顔を向けて指をタッチしながらコマンド、ボイスセーブと言ってください」
 それ絶対登録するのはボイスだけじゃないだろ。
 心の中で悪態を吐きつつ言われた通りに登録する。
 俺達が前部座席でそうやってゴチャゴチャやっている間に、後部座席は後部座席で動きがあった。
 明子さんが特殊カメラを車体に設置したのだ。
 それで記録を撮りつつなにやら凄い勢いでメモを取っている。
 手書きで記録を取る人って久々に見た気がするな。
 てか雑務ってこれか。

「もちろん手動操縦にも対応しているんで大丈夫、安心してください」
 大木が何が嬉しいのか良い笑顔でそう言った。
 これが対応してても俺が対応してねえよ!
 しかし、悪態吐く暇もなく配置が替わり、隣には浩二が滑り込んだ。
「なに仏頂面しているんですか。こういった物は兄さんの得意分野でしょうに」
「全然ちげえし。お前の言いようは符と御守りは同じ物みたいな言い草だぞ」
「……まあだいぶ違いますね」
「だいぶ違うんだよ!」
 軍部の感覚がどうなっているかしらんがこれ壊しても弁償とか言い出すなよ。
 突如ピコーンとどこか間の抜けた音が響き、操作パネルに表示が浮かぶ。
 同時に電子音声が酷く冷静に告げた。
『敵性反応多数。個体質量微小。対応を選択してください』
 見るとパネルに『逃走、斉射、待機、手動』とある。
「ユミ、相手は?」
「軍隊蟻タイプ、小型、本来スルー対象」
 本来ってとこが肝だな。
 今回ただクリアするんじゃなくて資源探索も兼ねた任務な訳だし。
「素材サンプルをお願いします」
 案の定明子さんから要望が入った。
 てか国軍のお二人さん、軍隊蟻と聞いた途端に一瞬動きが止まったのはなんでだ?
 もう散々幻想迷宮シミュレーターでやって慣れた相手だろうに。
 まああっちはだいぶ大型だったから小型相手だと対処もだいぶ違うけどな。

「捕獲なら私が」
 由美子がふわりと式を生み出した。
 それは真っ白な蜂だ。
 いかにも好戦的に羽根と顎を鳴らすと、一直線に正面の草むらへと飛び込んだ。
 次の瞬間、白い式蜂は、自分と同じぐらいの大きさの黒い物体をまるで地面からゴボウでも引き抜くように抱えて戻って来た。
「ここへ!」
 明子さんはビー玉のような見た目の封緘を三つ、綺麗な正三角形に並べる。
 その中心にぽとりと蟻の怪異が落とされた。
 既に蟻はピクリともしない。
 死んではいないのだからおそらく麻痺毒かなにかにやられたのだろう。
 明子さんは口許を若干引きつらせながら、三角形の等辺の頂点にもう一つの封緘を置いた。
 空中であるにも関わらずそのままそこに浮いた玉とそれぞれの玉が互いに向かって白光の線を延ばす。
 形としては正三角錐になるのかな。
 それが結び終わると小さく点滅し、互いに中央に集まり、やがてただ一つの玉として転がった。
 俺達が水晶やそれに近い結晶体に怪異を封じるのに似ているが、これは変化した怪異本体の方を目的とした封印だ。
 怪異の変化体は通常の自然界にない特殊な構造をしているので、時折人類社会にとって有意義な発見があるらしい。
 だが普通は怪異の姿は、核を封じて倒されると解けてしまう。
 それを止め封印するのがこの封緘だ。正に人類の貪欲さの象徴のような道具だな。
 それと、これにはもう一つ別の使い道もあるのだ。
 実は形を残すと言う事は、怪異の場合そこからまた復活出来ると言う事でもある。
 上位の怪異などが何度討伐しても蘇るのはこのせいで、どれほど切り刻もうと焼いたり溶したりしようとも、連中は消滅する事なくやがて蘇る。
 なにしろ核を封じて結晶化しようにも、長年生きて強大になりすぎた連中の核を封印出来るような結晶体は存在しないため、一般的にはその血肉を封じて復活を阻止する事となる。
 しかし、終天を見れば分かるようにそういう方法だと結局は復活されてしまうのだ。
 それを逆手に取って、素材確保とはまた別に、危険の少ない状況で怪異を帰属テイムさせる道具として封緘が使われる事があるのである。
 俗に猛獣使いと呼ばれるテイマーだが、戦闘中のテイムはほぼ命懸けで、成功率三割以下とも言われていて、昔はやたら死亡率が高かった。
 しかし、これを使う事によってその成功率は段違いに上がったらしい。
 その封印玉を収納ケースにしまった明子さんは、ふと顔を上げて怪訝な顔をした後、唐突に悲鳴を上げた。
 どうやら目前の蠢く黒い地面が全て蟻の怪異だという事に今更気付いたらしい。

「さてと、とりあえず、こいつの性能とやらを試してみるか」
 俺はパネルの逃走を選択した。
『コマンド了解、逃走モードに移行します』
 電子音声が律義に復唱して、すぐにモーター音が響く。
 車体の前面、バンパーに当たる部分が突出すると、魔法光がそこに満ちた。
「へえ」
 浩二が面白そうに呟き、後ろを見ると由美子が座席から身を乗り出して眺めている。
「ユミ、車から乗り出すな。危ないだろ」
 今現在、この特殊装甲車とやらは誰が操縦している訳でもないのだ。
 動きが読めない味方程始末に負えないものはない。
 なにしろこいつは機械だから、その判断基準、コアとなる命令が分からない限り、こっちからは何をやらかすかさっぱり分からないのだから。
「過保護」
 隣からぽつりと呟かれた。
 え?過保護とかないだろ?これは普通だろ?こんな状況なら普通誰でも心配するだろ?
 心の中で言い訳をしながら恐る恐る浩二を見る。
 等の本人は既に我関せずと明後日を向いていた。
 いや、せめて今は前を見ろよ。
 収束した魔法光は正面広範囲に放たれた。
「スタン」
 由美子が簡潔に解説する。
 光が撫でた一帯の蟻の動きが止まった。
 途端に、俺達を乗せた装甲車は予告なしにいきなりトップスピードに達してそこを突き進む。

「ちょ!」
「口開くと危ないでつっ!」
 なんというお約束な奴だ。
 大木は我が身をもって危険を示してくれた。どうやら舌を噛んだらしい。
 傷は浅いと良いな。
 てかお前、これ知ってたなら事前に警告しろ。
 地面は整備などされていない高低差の激しい大地だ。
 何かの訓練かというぐらい車は撥ねまくった。
 てかもうこいつから降りても良いかな?俺。
 怪異の前に自分達の乗ったマシンに殺されないだろうな?俺ら。
 しばらくするとやっと停止して再び電子音声が問い掛けた。
『回避不可能の樹木密集地帯です。このまま進む場合は二足歩行モードを選択ください』
 なんだって?
 言っている意味が分からないぞ。二足歩行ってなに?
 俺はうんざりした顔で後ろを振り返ると、なぜか親指を立てて得意げな顔をした大木がいた。
 ……うぜえ。



[34743] 72、蠱毒の壷 その六
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2013/11/14 04:44
 こんな時になんだが、兵士にマニアックな趣味の持ち主が多いと聞いた事があったが、本当かもしれないなと思った。
「なんだって?」
「だから、チェンジ!ウォークモード!というコマンドワードを入力してください」
 ……なんでコマンドを叫ぶ必要があるんだ?どこのお子様向け番組だよ。
 俺はゲッソリとして問題を丸投げする事にした。
「よし分かった。お前運転代われ」
「駄目ですよ。声紋登録しましたから。少なくともそれを解除するまでメインパイロットはあなたです!良いじゃないですか、あなた方は実在するヒーローなんですからそれらしくって!カッコイイっすよ」
 何言ってんだこいつ。
 起きて寝言言わないように一度現世とあの世の境でも見て来てもらうか?
 そんな俺の不穏な考えを読んだ訳でもないだろうが、由美子がふと顔を上げた。
「兄さん、来る。十時の方向」
 淡々とした声で警告を発する。
 どうやら由美子の式による斥候に怪異が引っ掛かったらしい。
 示された方向を見ると風もないのに樹木がざわめいている。
「俺達は降りて戦う。こいつには何か防御機能があるのか?」
「え?あ、迷彩結界(ハイド)がありますけど」
 大木が慌てたように答えるのを聞きながらそれをそのまま入力した。
「コマンド、ハイド」
『コマンド了解しました。ハイドモードに移行します。一次選択を未決のまま保留いたします。尚、ハイドモード時はエンジンを停止し磁界駆動に移行します』
 相変わらずの調子だが、とりあえず問題なく移行したらしい。
 一つの問題を保留したまま他の命令を受け付けるとは流石と言うべきか。
「突発事態だ手動で対応しろ」
 俺はパネルの手動操作を選択してそのまま外へ飛び出した。
「ええっ!ちょっと!」
 追いすがる声をガン無視して怪異の気配を辿る。
 てかあっちもこっちも気配が濃いな、おい。

「目標形態、蛇、全長十メーター程度、およそ二十秒でこの場に到達します」
 続いて車から飛び降りた由美子がナビをする。
「小物ですね」
「二層目から大物でも困るんじゃないか?」
「それはそうですね」
 浩二がさして面白くもなさそうに答えた。
「な、コウ。この程度の相手ならお前はあっちのフォローをやった方がよくないか?」
 と、装甲車の方を顎で示そうとするが、さすがハイドモード、どこにあるか既に分からんな。
「確かにそうですね。じゃあ車に戻っておきます」
「よろしく」
 浩二は迷いない視線を背後に向けると、あっさり見えないドアを開けて装甲車に戻った。
 うん、さすがに空間把握の専門家には最新鋭装備と言えど見破られてしまうらしい。
 敵の能力があいつよりずっと劣っている事を祈ろう。
 車中から「えっ?」とか「うわっ!」とか聞こえたが、まあ気にしなくて良いだろう。

 さて、はっきり言おう。
 俺はこの世で一番蛇の怪異が嫌いだ。
 なぜかと言うと、清姫アレのせいだ。
 あのキモい蛇女にさんざん追い回されたせいで、長い物が道に落ちているのを見るだけでいらっと来るようになってしまった。
「ナメクジ使う?」
 由美子が尋ねて来た。
 概念攻撃だな。
 蛇はナメクジに弱いという概念を元に仕掛ける、一種の弱体化狙いだ。
 終天の当て字が酒呑であるように、概念による縛りは昔から人間が使って来た武器の一つだ。
 しかし、
「蛇にナメクジは最近廃れて来てるよな」
「確かに十全な効果は期待出来ないかも」
 概念は広めて意識させ続けなければいずれ廃れる。
 結印都市で平和を謳歌した歳月は、人間から多くの力を削いだが、古い概念の喪失もその一つだ。
 人間が長い年月を掛けて育んだいくつかの弱体化概念は、もはやそれ自体が弱体化しているとか、笑えない話だよな。
「まあ動きを牽制するぐらいの効果はあるだろ。一応仕掛けてくれ」
「分かった」
 指示出ししていると、現役だった学生時代に戻ったような気持ちになる。
 しかし、あの頃からすれば俺の体のキレ自体は鈍っているはずだ。
 頭の中のイメージが十年近く前から更新されていないというのはマズい。
 せいぜい今回の仕事で記憶と現実との溝を埋めて調整させてもらうとしよう。

 バキバキとへし折れる木々の音が身近に迫る。
 やや後ろに位置した由美子の手がサッと動くのをちらりと確認し、そのまま前へと駆け出した。
 シャー!、という独特の威嚇音を響かせてようやく姿を現したそいつは、毒々しい緑色をした姿で、頭だけでゆうに俺の上半身程はあった。
 こちらに頭を向けて、青黒い舌を探りを入れるようにさかんに出し入れしている。
 そして俺を見据えて、ニタリと笑った。
 普通の蛇は笑わないが、怪異連中は結構こういう表情を見せる事がある。
 奴はすぐさま体をSの字に構えると、こちらに飛び掛かる機会を窺いだした。
 だが、その緊張状態を遮るように、その頭上、天蓋となった緑の蔦と互いに絡まるように伸びた木々の間から、パラパラと白い物が奴に落ち掛かる。
 シチュエーション的にはヒルっぽいが、それはただのナメクジだ。
 ただし式で造られたモノではあるが。
 ナメクジに貼り付かれた緑の蛇野郎は鬱陶しそうに体をくねらしたが、やはり大したダメージはなさそうだ。
 やっぱ蛇にナメクジは今時流行らないらしい。カエルに蛇はまだちゃんと効果があるんだけどな。
「まあ、足止め出来りゃ上等!」
 ふっ、と息を吐くと、俺は大地をねじるように踏切った。
 緑の蛇野郎の目がギョロリと動いて俺の姿を捕らえる。
 感情の見えない冷ややかな視線に向かって、俺は思いっ切り歯を見せて笑ってやった。
 直線ではなく緩い曲線、俺が辿った軌道は奴にとってはその程度の予想外に過ぎない。
 しかし、ナメクジに意識を向けていた緑の蛇野郎は、見えてはいても咄嗟に方向を修正出来なかった。
 刹那の交差。
 バサッと、大きな枝でも落ちたかのような気の抜けた音を立てて、緑色のデカい蛇野郎の頭は地面に転がった。

 あ、やべ、普通に倒したけど、これサンプルが必要だよな?封緘ふうかん間に合うか?
 既に残った意識の薄い胴体の方は解けるように消え始めている。
「ユミ、これ、保存出来るか?」
 俺は慌てて蛇野郎の頭を示して由美子に尋ねた。
 妹の呆れたような視線が痛い。
「リーダーのくせに後先考えないのは駄目だと思う」
「お、おう、……ごめんなさい」
 ガーン、妹に説教されてしまったよ。
 由美子は懐から白い懐紙を取り出すと、何やらサラサラと書いて蛇の頭に向かって放り投げる。
 懐紙は蜘蛛の巣のように広がると、蛇野郎の頭を包んで凍りついたように固まった。
 触っても冷たくないので氷ではないっぽい。
 良かった。プロとして依頼内容を忘れるのはほんと、駄目だよな、反省。

 さて、安心した所で、車……どこかな?
 俺は弟とは違い空間の差異を感じる才はない……なんちゃって……いやダジャレは心の中ですら寒すぎる、やめよう。
「えっと、おーい?」
 車がありそうな方向にちょっと手を振ってみる。
 応えがないようなら放置して行って良いかな?浩二がいれば防御面はほぼ完璧だし。
「兄さん、今面倒だから置いて行こうと思ったでしょう?」
 由美子がぼそりと指摘する。
 鋭い。
「コウ兄に恨まれると長いよ?」
 いや、既に死ぬまで恨まれてそうな気はするんだ。うん。
 その時、真後ろからドアの開く音がした。
「考えずに行動するから結果がグダグダになるんですよ」
 降りてすぐ文句か、なんでそんなに冷気を発しているんでしょうか?弟よ。
 振り向けねえよ。
「お前を信頼してたんだよ」
 おもいっきり堂々と言ってみる。
 おお、冷気が増したぞ!なんでそこで怒るんだよ。
「兄さん、分かりやすいから」
 由美子がふう、と溜め息混じりにそう言った。
 やめて、俺が氷漬けになりそうだから。車内の二人、傍観してないでなんとかしろよ。

「戦闘、なんか良くわからない内に終わって残念です。よく見えなかったし、記録もほとんど撮れなかったみたいで」
 大木が空気を読まずにがっかりしたように言って来た。
 その向こうでは「ちゃんと保存してくださったのですね。ありがたいです」などと明子さんが蛇のお頭に近付いていた。
 腰が引けているのは怖いからか?気持ち悪いからか?意外と女の子らしいな、あの人。
 ま、まあとにかく二人のおかげで空気が変わって良かった。
 浩二の視線はまだ痛いけど、大丈夫、耐えられる。慣れているからな!
 
 ざわり、と気配が動く。
「明子さん!左に飛んで!」
 ほとんど勘に任せて出した指示は、しかし反応しろという方が無理だった。
 え?と顔を上げた彼女の方へしゅるっと伸びた緑色の蔦が襲い掛かる。
「めいちゃん!」
 大木の叫び声に被さるように甲高い悲鳴が上がる。
 油断が過ぎるだろ、俺!ほんと妹達に怒られて当然だな。
 明子さんが高く跳ね上げられるのを追い掛けながら、俺は自分に喝を入れたのだった。



[34743] 73、蠱毒の壷 その七
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2013/11/21 04:16
 蔦は明子さんの片腕と胴体に絡み付いて、恐ろしい力で空中を引っ張り上げている。
 いわば人間の一本釣り状態だ。
 語感はおかしいが、実際笑えない事態である。
 蔦が首に絡んでいなかったのが不幸中の幸いだったな、首だったら釣り上げられた時点で終わっていた可能性もあった。
 樹海に踏み込むと、四方八方から濃厚な瘴気が押し寄せる。
 これのせいで個々の怪異の判別が付かなくなってしまうのだ。

 気配を探る間もなく、ギャッギャッ、と、耳障りな叫びと共に、小さな鳥のような怪異が集団で降るように襲いかかって来る。
 まともに相手をしていたら明子さんを見失ってしまうので、顔面をガードしながら強行突破した。
 まあだいぶなぎ払ったが、ほとんどが中途半端に残っているだろう。
 そういう破壊しきれなかった連中は、しばらくすれば完全復活をしてしまう。
 しかも自分が受けた攻撃を学習して復活するので中途半端な攻撃は不味いのだが、今はその辺に構ってはいられなかった。
 しかし、こちらの焦りなど怪異側からすれば知った事ではない。
 無防備に突っ込んで来る人間など飛んで火に入る夏の虫であるに違いなかった。
 目前で木々の枝がしなり、下生えの草が意思を持ってうねる。
 盛大な歓迎の気配だ。
 人気者は辛いな。
 何もかも蹴散らすのはそう難しくはない。
 だが、その僅かな遅滞が、今は致命的な遅れになりかねなかった。
 焦りと怒りでカッと目の奥が熱くなり、気が付いたら俺は叫んでいた。
「退けっ!雑魚共!」
 空間に逆巻く波のような動揺が走るのを感じる。
 一瞬で、正に波が引くように、目前に進路が大きく拓かれた。
 ちっ、と思わず舌打ちをしてしまうが、今更だ。
 自分が何者であるかで思い悩むようなナイーブな時代はとうに通り過ぎた。
 大事なのは目の前の現実だ。
 俺はあれこれ考えるのは止めて、これ幸いと拓かれた道を突き進み、視界の片隅で明子さんの消えた方角を測る。
 急がなければ。

 到着までそれ程間は置かなかったはずだが、それでも見ただけで事態が切迫しているのが分かった。
 彼女の全身に蔦が食い込んでいる。
 もちろん首にもだ。
 しかし、蔦と思ったが、そいつの本体はとうてい蔦という感じの姿では無かった。
 イソギンチャクのように木の枝に貼り付いたソレは、おびただしい数のツル状の触手をうねうねと揺らしている。
 しかもこいつナメクジが這うようなやり方で、なかなか速い速度で移動してやがる。
 その頭上で触手に締め上げられている明子さんの様子は、表情が面防越しで良く分からない。
 まだ弱々しく手足が動いているので、なんとか大丈夫だろうと思いたい所だ。
 幸いにも生真面目な彼女は、この蒸し暑い環境下にも関わらずコンバットスーツをぴっちりと着込んでいた。
 軍部の触れ込み通りなら、あれは相当な性能らしいので、それを信じるならまだ無事なはずだ。
 しかし、その触手に絡みつかれた部分から怪しげな白煙が上がっているので全然安心出来ないけどな。
 俺はそいつの貼り付いている木と、その隣の木を三角跳びの要領で交互に蹴り登ると、一気にその陸上イソギンチャク野郎に肉薄した。
 ヒュッと風切り音を立ててツル状の触手が伸びて襲って来るが、これ幸いとそれを引っ掴み、その反動で上空に持ち上げられている明子さんの所まで跳ぶ。
 しかし、実際掴んでみて分かったが、こいつのこの触手の力は、細っこい見た目とまるで違って恐ろしく強い。
 まるで太い鋼材を掴んだような感触だったぞ。
 こんなんで締め上げられるとか冗談じゃないんだが。
 明子さん大丈夫か?ほんとに。
 と言っても、ここで焦っても仕方が無い。
 俺は明子さんの胴を横抱きにすると、絡み付いてもはや緑の繭状態になりかけているその触手を一気に引き千切った。
 案の定それらからは溶解成分のようなものが分泌されていたらしく、手袋から煙が上がる。
 明子さんよりだいぶ装備の薄い俺は、むき出しの腕や顔がヒリヒリし出した。
 これはやばい。
 絡み付くのと千切るのとの攻防で遅々として進まなかった作業だが、時間にして五秒後ぐらいに国軍色であるモスグリーンというかカーキグリーンというか、そのような色合いのコンバットスーツの形が浮かび上がった。
 表面はかなり溶けているが、何重かの構造で作られているであろうそれはまだまだ機能としてはきちんと本来の役割を果たしているようだ。

「大丈夫か?」
 面防の向こう、外からはあまり中が窺えないようになっているので分かりにくいが、僅かに動きが見えた。
「だ、大丈夫。オールグリーン、問題ありません」
 空気穴から聞こえる声はひどく弱々しい。
 おいおいオールグリーンって、それって触手まみれっていう状態を表現したシャレの一種か?冗談言えるなんて余裕があるな。
 と一瞬思ったが、この生真面目な人がここで冗談もないだろう。
 おそらく真面目にそう言っているのだ。
 いや、今現在あなたはレッドゾーンに片足突っ込んでいますよと指摘しても仕方がないので本人の主張をそのまま流す事にした。
 この人、ハンターから一番嫌われるタイプのクライアントだな。
 逃げるべき時にちゃんと逃げてくれない責任感の強すぎるタイプは死にやすい、それが俺達の常識だ。
 取り敢えず、千切っても千切っても触手を伸ばして来るウザい陸ギンチャクをなんとかしたかったので、彼女の頭と手足をなんとか開放した時点で明子さんを片手に掴んだまま無理矢理飛び降りた。
 飛び降りた、ん、だが、……やばい、思った以上に装備に深刻なダメージが及んだ。
 お国自慢のコンバットスーツの胴体部分が裂けやがった。
 あの野郎の溶解物質のせいだな。
 俺は陸ギンチャクへの怒りを露に、夏のビーチぐらいでしかお目にかからない露出した白い肌から目を逸らした。

「きゃあ!」
 自分の状態に気付いてやたら女の子らしい声を上げた明子さんから急いで離れ、こちらへと這いずって来ている陸ギンチャクの伸ばして来る触手を引き千切りつつもう一度接近すると、その本体を力任せに蹴飛ばした。
 ズバン!と車のタイヤがパンクした時のような破裂音が響く。
 ベチャベチャと飛び散ったそれは、しばし強烈な刺激臭を撒き散らし、小さな破片から消滅して行った。

「あ!サンプルが!」
「うおっ!直接触るのは危ないですよ!」
 汚物のような肉片に果敢に飛び付こうとした明子さんの腕を慌てて掴んで引き戻す。
 どさりと、柔らかで温かい感触が、先程手袋が溶けて素手になった俺の手に押し付けられた。
 おおう、役得。

「……兄さん」
 ……なんでお前らこのタイミングなのさ。
 すっかり油断して身内の気配に気付かなかった馬鹿な俺が悪いのか、ガッションガッションと妙な音を響かせるなんだか怪しげな物体に乗ったパーティメンバープラスワンが、それぞれの表情で半裸の女性を抱え込んだ俺を見下ろしていたのだった。



[34743] 74、蠱毒の壷 その八
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2013/11/28 05:05
 問答無用で俺が明子さんを襲ったと思われたようだ。
 まああの状況じゃあなあ、俺だって誤解するけどさ。
 妹と弟の冷たい視線に晒された挙げ句、大木の馬鹿からは敵に認定されたっぽい。
 いや、大木くんは別にどうでも良いんだが、うちの連中の軽蔑は到底許容出来ない。
 明子さん、早く泣きやんで事情を説明してくれないかな。
 俺は思わずゲッソリとした気分で天を仰いだ。

 そう、明子さんは安心したのか、他の連中を見た途端泣き出してしまったのだ。
 女の子らしくて良いんだけどね。
 ……うん。
 おかげで言い訳も出来ない状態で女の敵認定された俺の心はクラッシュ寸前です。

「めいちゃん、大丈夫、俺が付いてるから。頼りないかもしれないけど君を守れる男になるから」
 すげえよ、大木。たとえどさくさ紛れでも俺はお前を見なおしたぞ。
 ああいう台詞、マジで一回で良いから言ってみたいな。
「兄さんゆかりんに言い付けるから」
 由美子がぼそりと脅迫の言葉を零す。
 これが俺の現実だ。
 ゆかりんというのは伊藤さんの事だ。
 どうやらいつの間にか愛称で呼び合う仲になっていたらしいんだよなこれが。
 ああ、いや、現実逃避している場合じゃないぞ。
「いや、伊藤さん関係ないから。というか何でもかんでも彼女に情報流すのは止めなさい」
「だって、姉様だから」
 なんだと……?
 さり気なく落とされた爆弾に俺は愕然とする。
「兄さん、いつの間に結婚したんですか?」
 浩二が邪気の無さそうな声で聞いて来る。
 怖いぞ。
 いや、聞きたいのは俺の方だから。
「ユミ、どっからそんな話になったんだ?」
 さすがにこれは俺一人の話ではない。
 ちゃんと訂正しておかないと、伊藤さんの名誉に関わる。
「ゆかりんが、兄さんとなんでも見せあえる間柄になったって嬉しそうにしてたから。それってつがうって事だよね?」
 待った!
 なんかだいぶおかしい。
 でも言ってる事は間違ってない気がする。
 いや、まだ番ってないから!
 って、まだって何だよ俺!?
「何だと!そんな相手がいるのにめいちゃんに手を出したのか?いくら英雄色を好むと言ってもモラルというものがあるでしょう!」
 俺が大混乱に陥っているのに、横から大木が口を挟んだ。
 いらっとする。
 家族の問題に口を挟む馬鹿はそろそろ集まり始めた怪異共に食わせてやっても良いかな?

「ち、違うの。いえ、違うのです」
 グスグスと鼻をすすり上げながら明子さんがようやく落ち着いて来たらしく弁解してくれた。
「木村リーダーは私を救助してくださったのです。装備が破損したのはモンスターの攻撃のせいで、リーダーに責任はありません。むしろ私の迂闊な行動でチームにご迷惑をお掛けして、それに取り乱してしまって申し訳ありませんでした」
 大木に上着を借りたのか、際どい所を隠しながら立ち上がる。
 明子さんは先程少女のように泣いていたのが嘘のようなしかめっ面で敬礼をしてみせた。
 でも俺軍人じゃないから答礼とかしないからな。
 大木はそれでもちょっとばかり疑いが残ってそうな顔だったが、同じように敬礼すると、「変に疑ってすんませんでした!」と謝罪した。
 ピシッと出来ない男のようだった。
「五時と一時の方向から中型の怪異接近探知」
 もはや気持ちを切り替えたのか、しれっと由美子が報告を入れる。
 浩二も驚きもしていない。
 お前ら便乗して俺を虐めたかっただけか?
「謝罪や詳細については取り敢えず後だ。先へ進もう」
 解けた怪異の肉があった場所から残ったモノを拾い上げる。
 親指の先ほどの大きさの夢のカケラだ。
 色合いがあまり綺麗じゃないから力自体はそんなに大きくはなさそうだが、ガソリンなんかと比べたらエネルギー効率は段違いに良い。
 まあ変換エネルギーの基準自体が違うから単純に比較するのが間違いなんだけどね。
 どうやらこの陸ギンチャクはそれなりに力ある個体だったらしい。
 俺は手にしたそれを大木に放った。
「へ?あ!うわあっ!」
 大袈裟な奴だな、全く。
「え?ちょ、これ!なに投げてんですか!」
 泣きそうになるな。
「その怪しげな乗り物に燃料がいるんだろうが」
 俺がそう言うと、やっと思い至ったようで、「これは思ったより罰当たり、末端価格いくらだ」などと呟きながら恐る恐るソレをポーチに落とし込んだ。
 アホか、末端価格とか意味ないだろ、許可証が無ければ業者でも扱えないんだぞ、個人で市場に持ち出せる訳がない。
 そもそもここでなに見付けても俺達の誰一人として懐に入れらんないからな。
 国有財産だ、馬鹿め。

「ユミ、ボス部屋への入口がありそうな場所があるか?」
「この樹海の中心に石造りの大きな建物があるからそこかな?」
「了解。んじゃ進みますか」
「分かりました」
 俺の言葉に浩二が頷く。
 細かい事は言わずにさっさと話が進むのは俺達が元々パーティで役割分担が出来ているからだ。
 という事で、俺がうっとおしい藪のような場所を強引に薙ごうとした時、後ろから声が掛かった。
「ちょ、何やってるんですか、早く乗ってください」
 大木だ。
 ちっ、うるさい奴だな。
「嫌だ」
「なに言ってんすか。徒歩で先に進むなんて自殺行為っすよ」
 いや、どうみてもその怪しい乗り物の方が危険度は高そうだろうが。
 離脱前まで一応車っぽいシルエットをしていた特殊装甲車なる物は、今や出来損ないのウサギのオモチャのような姿に成り果てていた。
 いや、ウサギよりもっとそっくりな動物をテレビジョンで観た事あるぞ。
 そうそう砂漠の跳びネズミだ。
 尻尾はないが。
「そいつ、どう見ても乗り心地がやばそうだろ」
 俺は冷静に指摘した。
 大木はふるふると首を横に振って否定する。
「大丈夫、大丈夫ですよ。本機にはジャイロセンサーが搭載されていて、乗り心地は問題ありません」
 怪しい。
 そも機械からくりという物は、いかにカタログスペックが高かろうと設計思想がまともでないとそれを活かせないものだ。
 魔法使いクレイジー軍属のメカニックマニアックが設計したというこの機体を信用しろと言う方が無理だ。
 俺は大木から目を逸らし、妹と弟に視線を投げた。
 俺の視線を了解して二人は口を開く。
「そんなには揺れなかった」
「酷くは揺れませんでした。遊園地の乗り物に似ていますね」
 なるほど了解。 
 それから浩二、それ揺れない証明にならないからな。
「とにかく遠慮する。それにサンプル集めをいちいち降りてやるのは手間だろうが。俺がやってやるから封緘を渡せ」
 ここは理屈で押し切るべきだろう。
 大木もさすがにこの理屈は分かるのか、渋々頷いた。
「登録解除しないままマニュアル設定したんで、まだこいつの性能、限定解除なんですよ。はあ、……仕方ないですね」
 そもそもそういう特殊車両とかは環境が判明してからが活躍の場だろうが。
 未知のフィールドで全力出せって方が無理だろう。
「それじゃあ役割的に僕はあっちに行きますね」
 浩二が自主的に装甲車に乗り込む。
 ちらりと口元に笑みを浮かべていたのは面白がっていたのか?
 ほっとけ!そんな飛び跳ねそうなもんに乗れるかよ!
 そんな風に俺らが揉めている間に車内で装備変更して来たらしい明子さんが大木に上着を返しながらベルトに装着するタイプの小型ケースをこちらに寄越した。
「封緘ひとセットです。オートポイント設定に戻したので少しもたつきが出ると思いますが、大丈夫でしょうか?」
「了解。周囲の安全確認してから使うよ。ありがとう」
 やっぱ彼女目視で正確な位置取りが出来るらしい。
 封緘使うには最適の人材だよな。
「接敵まで約五十秒、カウントしますか?」
 由美子が報告を入れて来る。
 いやいや、こんな樹海の入口で団子状態の戦いとかごめんだぞ。
「進もう。撹乱かくらんたのむ」
「分かった。撹乱します」
 由美子が数枚の式を飛ばし、俺の合図と共に怪しげな跳びネズミロボもどきが進み出す。
 二本足が上手いことバランスを取りながら歩いている。
 外から見る分にはなかなか良い機体だ。
 シュンと、空気を軽く裂く音がして、跳びネズミロボもどきの行く手の草木が刈り取られた。
 前面が光ったという事は、あれは魔術の一種か。
 エアーカッターとかそんなんかな?
 うん、絶対あれの前には出ないようにしないとな。

「兄さん乗って」
 さすがに徒歩は不味いと思ったのか、由美子が式で出したのは巨大で真っ白なムカデだった。
 二匹いるけど俺は徒歩でも良かったのにな。
 まあ良いか。
 その姿はここの一層のボスを思い出すが、色というのは不思議なもので、白いだけでイメージが変わる。
 と言っても由美子の式がことごとく白いのは、単に色などに設定を割きたくないからなのだそうだが。
 ムカデ型の式は、乗るとほとんどベルトコンベアに乗っているような感じになる。
 上下震がほとんど無いのもそう感じる原因だろうな。
 本物のムカデと違って、こいつにはたてがみのようなものがあり、そこに掴まって立ったまま乗ると見晴らしも良くて面白い。
 水上スキーというスポーツがあるが、姿勢的にはあれに似ているかもしれない。

 しばらく進むと由美子が眉を寄せて報告して来た。
「兄さん、この樹海、動いてる」
 またか。
 終天の野郎がやりそうな事だ。
 詳しく聞くと、中心の建造物を巡るようにゆっくりと回転しているらしい。
 おいおい、樹海って言っても海じゃないんだからな、ったくいい加減にしてくれよ。
 俺はこの迷宮の設計者に向かって口の中で思いつく限りの悪態を吐いたのだった。



[34743] 75、蠱毒の壷 その九
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2013/12/05 04:05
 明子さんがデータ端末を操作して記録を編集している。
 ここまで撮り溜めた映像なども添付して、一度外部に送信しておくらしい。
「しかしこれってどうなってるんだ?界が隔たっているのにデータ送信が出来るとか」
 言ってる間にも正面ディスプレイには外から送られてきた通信が解析されて表示されていた。
 通信の方はモールスとは言え、トン・ツーなどと人が手で打つ必要はない。
 電算脳コンピュータが文章を解析して発信と受信をしてくれるのだ。
 まあモールスだからあんまり複雑な文章は送れないが。
「双子石通信は知ってるっしょ?」
 大木が説明する。
 双子石通信というのは単結晶分体通信の俗称だ
「知ってるが、あれは通信可能域はかなり狭いだろ。ましてや界越えなんて出来るはずもない」
 単結晶分体通信とは同一結晶から分かたれた鉱石が持つ共振作用を利用した通信の事だ。
 既にローテクだが、現在の全ての通信の元となった技術と言って過言では無い。
 使い方によっては電気などの外部エネルギーに頼らなくても通信が出来るので、緊急時の通信手段として未だに公共施設には備えられていると聞く。
「その双子石に魔法使いの人が直接術式を書き込んで、通信出来るようにしたらしいっすよ。ほら、接点を持つ界同士には必ず共鳴が起こるとかなんとか言ってたっしょ?まあ俺もあんまり分からなかったけど」
 うん、分からんな。
「まあそれは納得するとして、データが送れるのはどういう訳だ?あれは到底共振通信で送れるようなものではないだろう?」
 俺の言葉に大木は盛大に眉を寄せた。
「それについては俺もほとんど理解してないっす。どうもあの魔法使いの人の説明によると、コイル状に加工したミスリルによって立体起動の魔法陣がなんたら」
 要領を得ない説明だが、突然ピンと来た。
「おい、それって携帯式の転送陣、ゲートじゃないか?もしマジならとんでもない発明だぞ」
 もし移動式のゲートが実現して、それを大型化出来れば迷宮からいつでも脱出可能になる。
 通信やナビなどと比べ物にならない革新的発明だ。
 あの馬鹿高い札に頼らなくて良いのだ。

「それがそう上手く行かないのです」
 データ転送を終えた明子さんが残念そうに言った。
「この転送システムはラグが酷いんです。早くて一時間、遅い時には数日掛かります。その上、魔法使い殿によると、物質転送の場合は再構成にほとんど失敗するそうです」
「う……」
 転送失敗と聞いて、俺はゲートの試運転で起こった痛ましい事故の事を思い出した。
 大々的に世界同時中継で行われたそれは、現在年齢制限付きのグロ動画としてグローバルネットの海を漂っている。
 ゲートの便利さに対して利用者が極端に少ないのはこの事故が尾を引いているからだ。
 現在は安全性はほぼ保証されていて事故る確率は航空機より遥かに少ないと謳われているのだが、不安は根強く残っている。
 その安全性の説明がまた、「失敗の確率が高まったら空打ちをして解消する」とかいうのなんで、いまいち信用しきれないというのもあるだろう。
 空打ちってなんだよ、空打ちってのは。
 単純に料金が高いってのもあるんだろうけどな。
「なるほど、そういう不安な方法でもデータ転送が出来れば一種の保険にはなるという事か」
 いつ届くか分からない情報でも、事前に送っておけば、たとえこのチームが全滅しても次の為の資料に出来る。
 全体主義の軍らしい考え方だ。
 冒険者なら絶対にそんな風には考えないだろう。


 俺達は現在、中心にあった石造りの建物、仮に「遺跡」と呼んでいる場所の入り口をくぐった所で休憩かたがた簡単なミーティングをやっている所だ。
 この遺跡と外の樹海はエリアが切り替わっていて、エリアチェンジ直後のこの場所は一応セーフティゾーンっぽくなっているのでちょっと一息が出来た訳だ。

「取り敢えずこれで第二階層の樹海部分の攻略も固まりそうです」
「へえ」
 明子さんの説明に全員が意識を向けた。
「樹海部分はこの遺跡を中心に、外側に向かって渦を巻くようにゆっくり回転しています。ここまでは良いですね」
 全員が頷く。
 嫌な仕掛けだ。
 うっかりすると気付いたら樹海の縁に逆戻り、一からやり直しという事になってしまうのだ。
「これの攻略方は高い視点を持つ事だと思います。迷宮では方角を知るにはマッピングしかない訳ですが、あの樹海では意味を成しません。しかし高所に視点を置けさえすればひたすら直線で中心を目指せば良いだけですから」
「ちなみに第一階層の攻略はどんなかんじなんだ?」
 俺がそう聞くと、明子さんも大木も不思議そうに俺を見た。
 んー?
 あ、そうか、一階層を最初に攻略したのが俺だと思ってるからだな。
 踏破と攻略ってのは違うんだけどね。

「一階層目は迷路ラビリンスになっていますけど、これはごく単純な仕掛けでした。角を曲がった時に向いている方向と曲がった方向に従ってブロックが組み変わるのです。変わったブロックを元に戻すには同じ方向を向いて違う側、つまり前に右に曲がったのなら今度は左に曲がれば良い訳です」
「確かに分りやすいが、普通にのんびり歩いてるならともかく戦闘しながらなんだから意図せずに角を曲がる事もあるだろう。それで慌てて戻ったらどうなるんだ?向きが逆で角も逆になるわけか」
「もう一度ブロックが同じ方向にずれますね」
「……地味に嫌らしい仕掛けだな」
「全くだ。幻想迷宮シミュレーターで散々分断された状態での戦闘訓練やってなければやばかったぜ」
 大木が遠い目をしてそう言った。
 かなり苦労したのだろう。
 そこへ今まで自分の装備などを確認していた浩二が声を掛けた。
「役立ってなによりです」
 満足げに言われた言葉に軍人二人が顔色を悪くした。
 うん、まあ、きつかっただろうけどさ、でも訓練は一度は全滅するぐらいが丁度良いんだよな。
 部隊長殿は酷いトラウマを負って軍を辞めた者まで出たとか大袈裟な事を言っていたが、訓練がぬるくて実戦で全滅なんぞしたら目も当てられないし。
「実はリーダー殿の懸念通りこの第一階層で冒険者の損耗が当初の計算より多く出ています。なので軍では現在ラビリンスの攻略を組み込んだオートナビを開発して販売する予定となっています」
 そうか、ナビが自動で方向を指示してくれれば一々記録を取って攻略する必要はなくなるから不慮の事故も防げるという事か。
 少々過保護な気もするが、国家としては資源調達が目的なんだから損耗が激しくて人が集まらないのは困るんだろうしな。

「あの、リーダー殿。疑問があるのですがよろしいでしょうか?」
 明子さん、堅すぎだろ。
 まあ仕方ないか。
「なんですか?」
「リーダー殿は第一階層をお一人で攻略なされたと伺っております。しかし迷路の仕組みはご存じ無かった。いったいどうやったのですか?」
 まあ当然の疑問だわな。
 大木も興味津津という顔でこっちを見ている。
「まあなんだ。攻略はしてない。単に踏破しただけだ」
 二人共訳が分からないといった顔になった。
「ええっと、つまりだな、あそこはビジネス街を忠実に再現していただろう」
「まあ、廃墟化してたけどな」
 大木がそう言いながら頷く。
「旧都銀本社に緊急用の大仕掛けの魔法陣があったのは知っているか?」
「文化遺産として有名ですから存じています」
「あれを発動させた」
 俺の言葉にそれでもピンと来なかったんだろう。
 二人共全く理解していない顔だった。
「あれは屋内用だったと記憶していますが?」
 明子さんがその疑問を晴らそうと質問を重ねる。
「あー、だから天井を壊した。迷宮だって閉じた空間だしそれ自体が怪異と言って良いだろう?それで仕掛けを停止させて強引に突破した」
 しばしの沈黙が落ちる。
 い、居心地が悪い。
「あの建物、盗難防止の為に重機ですら壊せない分厚い天然石で建ててあって、その為自重で潰れないように、当時の天才的な設計師に依頼して建てたのだと聞いています。だから文化遺産になった訳ですが」
 明子さんのちょっと引き気味の言葉が悲しい。
 うん、だから俺も割りと本気出さないと壊せなかったんだよね。
「おいおい、そりゃあ当たり前だろ!勇者なんだし!」
 突然大木が大声を出して立ち上がった。
「今まで、こう、普通の人っぽくて実感しにくかったけど、やっぱ鬼より強き鬼の力を有しし勇者なんだよな。俺、感動したっす!」
 お前……ここをどこだと思ってるんだ。
「しっ!今ので近くを哨戒中の怪異グループが周囲を窺いだしました」
 由美子が飛ばした式からの情報を口にする。
「うっ、すまん」
 大木は自分の口を抑えて小さくなった。
 しばし硬直したように全員がその場で沈黙する。
「警戒を解いて通り過ぎたようです。音に鈍感なタイプで良かったですね」
 淡々とした物言いだが、由美子は別に嫌味を言ってる訳じゃない。
 こういう言い方が通常なのだ。
「本当に申し訳ない」
 そうとは知らない大木は地面に沈みそうに落ち込んでいる。
 まあそのまま反省しとけ。



[34743] 76、蠱毒の壷 その十
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2013/12/12 05:02
 天井、壁、床、あらゆる方向から押し寄せる蜘蛛もどきの群を両手のナックルガード付きのナイフで始末しながらも、俺が最も脅威を感じているのは背中方面だった。
 背後の、現在装甲のない装甲車が怖い。
 なにしろアレには訳の分からない魔法が搭載されているのだ。
 うっかり援護と称した誤爆フレンドリーファイヤを食らったらと思うだけで冷や汗が出て来る。
 しかも操縦を担当しているのは身内ではなく今日組んだばかりのクライアントである、いくら母国の職業軍人だからと言って、安心して背中を預けられる訳がない。
 周辺に散らばった蜘蛛もどきだったモノは、ほとんどが完全に解けて消える。
 こんな小物では夢のカケラが残る方が稀だ。
 サンプルも既に採っていたのでそれには構わずに先に進んだ。
 背後の特殊装甲車の音はやたら静かで、時折空気の漏れるような音がする程度、隠密走行中ハイドモードとは言え、金属の塊が移動しているというのに不気味過ぎる静けさである。
 しかもこっちの意識は戦闘モードなので、相手が気配を消せば消す程そっちが気になるという悪循環。
 まあお互いにうっかり攻撃してしまっても、浩二がいる限りは大事は無いだろうが、気疲れはするんだよな。

「お、この迷宮ダンジョン初の人型か」
 階段を上がった先の小部屋には死体もどきマミーが数体固まっていた。
 どうも遺跡の中はあまり強くない怪異が小集団で纏まって行動しているようだった。
 軍隊で言う所の小隊単位で巡回しているか、持ち場を守っている感覚だ。
 もしかして拠点防衛の真似事なのだろうか。

「キャー!ミイラ!」
 うん、実に女性らしい叫びだ。
 明子さんは虫は大丈夫でもマミーは駄目らしい。
 死者もどきは大概はその心臓に当たる部分が弱点で、そこには小さな壺が納められている。
 まあようするにそれが心臓なのだが、それを破壊すれば倒せるという訳だ、普通は。
 が、
 マミーの胸部に手応えを感じた次の瞬間、そこから黒くて小さい虫が溢れ出した。

「うはあ!」
「ひいっ!」
「もういやああああ!」
 俺を含めた悲鳴が響き渡る。
「燃えろおお!」
 次いで大木の物騒な叫び声が響き、骨組みだけの車の前方が赤く光った。
 ちょっ、待て、こんな小部屋でなにする気だ!
「兄さん、動かないで」
 決して大きくはないが、混乱した場でも通りが良い浩二の声に、咄嗟に並んだ石棺に飛び込もうとした足を止める。
 次の瞬間、赤い炎が目前で踊った。
 俺も随分色々な経験をして来たが、まさか味方の魔術の真っ直中に放り込まれる日が来ようとは。
 同士討ちフレンドリーファイヤとか半分冗談で思ってはいたが、マジで食らうとは思いもしなかったよ。

「木村リーダー!」
 一拍遅れて驚愕といった悲鳴が響く。
 明子さん、大木の奴を是非殴ってくれると嬉しいです。
 炎が収まると、炭化した物体が部屋のあちこちに転がっていた。
 凄い火勢だな、おい。
 半ばゾッとしながら生焼けでまだ動いている奴を見付けて踏みつぶした。
 黒い虫は数匹出て来たが、ヨロヨロしていたので問題なく床の模様に変えてやる。
 まあすぐに消える模様だけどな。

「おお!さすが、無事でしたか」
 フレーム装甲車からあっけらかんとした顔を出した大木の頭を、無言で跳躍して殴る。
「いてえ!」
 頭を押さえてうずくまるのを放置して、俺は後部座席の上部のフレームに直接腰掛けている我が弟殿に礼を言った。
「ありがとう、助かった」
「役目の内ですからね」
 うむ、いつも通り冷ややかで結構。
「あの、えっと、リーダー、今のは弟さんが火を防いだのですか?」
 明子さんが目を丸くして俺と浩二を見比べてそう言った。
「何か術式を起動したようには見えなかったのですが」
「ああ、コウは、そいつは異能持ちなんだ」
「障壁の異能ですか、凄いですね」
 言われた浩二が一瞬嫌そうに眉を上げたのが見えた。
 俗説で障壁の異能者は対人スキルが低いとか言われているから否定したかったのかもしれない。
 実際、浩二の能力は障壁ではないので否定しても良いのだが、そうすると自分で自分の能力を説明する流れになる。
 思い直して押し黙ったのはそれが面倒だったからだろう。
 だからと言って俺が解説してやる必要もないので俺もそのまま放置した。
 明子さんと早々に復活した大木はしきりに感心して浩二を見ている。

 障壁とは、言わば見えない盾を作る能力だ。
 この能力の場合、攻撃側との力比べのような所があり、相手の攻撃が強ければ突破される事もある。
 一方で浩二の能力は薄いガラス板のような"界"を作る能力なのだ。
 その力によって隔てられた空間は文字通り世界が違うという事になる。
 ゆえにどれほどの力が込められた攻撃だろうと、それに隔てられたら最後、そこを貫いて届くはずもないのだ。
 明子さんは物体同士の位置関係をほぼ正確に認識出来るようだが、浩二の場合、変化し続ける世界の間に界を差し込むという神業的な認識と発動を自前の脳だけで処理している。
 よくもまあオーバーヒートしないもんだと我が弟ながら感心するね。

 ともあれ、せっかく装甲車もどきに飛び乗ったので、ついでにマッピングの確認をする事にした。
 いくら調査が主目的とは言え、この複雑な遺跡内部を実際に動きまわって網羅するのは無駄過ぎる。
「遺跡内部の通路のマップ作製状況はどうなってる?」
 後部座席におとなしく座って情報収集していた由美子が空いたシートに白いテントウ虫を並べて図面を描いた。
 と、
『マスター、こちらのスキャンニング情報と照合する事でより詳細な分析が可能です』
「ん?今の変な声は誰だ?」
 急に聞こえて来た聞き覚えの無い声に驚いて声を上げれば、すっかり立ち直ってまたもや自慢げな顔をした大木が操作用のディスプレイを指差した。
「こいつっす試作型可変式ダブルゼロ。学習タイプとは聞いてたけどすげえ成長っぷりすよね」
 以前の機械音声丸出しの声から、どこか女性的な人間に近い声に変化している。
 待てや、成長って、この短時間でか?色々おかしいだろ?
『マスター、指示コマンドを願います』
「ほらほら、ご指名ですよ」
 こいつ……、さっきは優しく撫ですぎたか。
「なんで俺なんだよ!」
「忘れたんですか?登録したじゃないですか」
 まだ解除してなかったんかよ!
 仕方ない。
 というかこいつスキャン機能があったのか。
「照合してくれ」
承認オーダー。走査開始します』
 チー、という電子音と共にテントウ虫の上を赤い光の線がなぞる。
 同時にディスプレイに3Dワイヤーフレームが表示され、遺跡の立体画像が描写されていった。
 三層目付近のグリーンの点滅は俺達か?
 という事はこのグリーンの光の線は俺達が踏破済みの通路って事だな。
 それで白い線で描かれているのが未踏破部分。
 この遺跡の内部の通路は、一つの階にいくつかの階段があって、それぞれが上下の層の違う場所に繋がっているんだが、そこから行ける同じ階の通路同士が交わっていない部分があったりする。
 つまり本来全部の通路を探査するには上がったり下がったりを何度も繰り返す必要があるのだ。
 所々に黒く描かれた空間がある。
 これは通路ではなく部屋という事か。
「今まで通って来た通路にも隠し部屋があるようですね」
 浩二が早速全体を把握したらしく要点を掻い摘んで指摘していく。
「まあ隠し部屋とかは後からの冒険者の楽しみにとっとけば良いだろ。とりあえずボス部屋に行こう」
 俺が提案すると、大木と明子さんがブンブンと首を振った。
「だめっすよ、全通路は無理でも隠し部屋は行きましょうよ」
「迷宮の探査と資源の調査が我々の仕事です。出来得る限りは調査するべきです」
 ち、頑固なクライアントだな。
「しかし、何もかも開けてしまえば冒険者共からクレームが来るかもしれないぞ。連中は他人より先にお宝を見付けるのを楽しみにしてるんだからマッピング以上の余計な事はして欲しくないはずだ。資源なら連中が勝手に探してくれるんだからマップだけ渡して待ってれば良いんだよ。昔から言うだろう?果報は寝て待てってさ」
「え、そ、そんな物なんですか?」
 明子さんが揺れ始めたぞ。
「でも、隠し部屋を開けたいのは俺らも一緒でしょう?」
 大木が尚もこだわる。
 仕方ない、ここは伝家の宝刀を抜くか。

「隠し部屋とか開けたらまた出るかもしれないぞ?」
 全員がぎょっとしたように俺を見た。
 あ、いや、由美子は別に気にせずにてんとう虫を回収しているが。
「で、出るって、まさか」
「ああ、さっきの黒い悪魔だ」

 という事で説得に成功して俺達はまっすぐボス部屋を目指す事となった。
 うんうん、話せば誠意は通じるものだよな。




 ――――――補助事項ウンチク――――――

黒い悪魔:俗にいうゴキブリという昆虫に酷似した怪異。
瘴気が生物体に変化しただけの存在なので強さ的には実際のゴキさんと大差はないが、人類の根源的な恐怖を刺激する姿であり、多くの者に忌み嫌われている。
その多くが影が分裂するように大量に出現するのも人の恐怖を煽る所であろう。



[34743] 77、蠱毒の壷 その十一
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2013/12/19 04:00
 巨大な石の扉が堅い物が同士が削り合う、ガリガリという不快な音と共に開いて行く。
 多少途中で戦闘を交えながらもまっすぐに辿り着いた最上部のボス部屋だ。
 ただ単にエリアチェンジすればいいだけのものを相変わらずの無駄な演出っぷりに感動すら覚えるね。
 開かれた扉の向こうは何かの祭壇のような空間だった。
 壁際に並んだトーチに次々と青白い火が点り、明るい場所は明るく影はより濃くと、遺跡の通路より歪に明るくなった祭壇の上の壁には、巨大な青銅製らしい仮面が掛かっていた。
 ざっと見た感じだと俺の背丈の倍以上はありそうだ。

「おいおいまさか、」
「そのまさかっぽいですね」
 俺と浩二が嫌な予感を共有した時、仮面の両目がカッとばかりに見開いた。
「ひっ!」
 後ろからは息を呑む声が聞こえる。
 次いで大きく口を開けたその仮面は、「ウオオオォオオ!」と、とんでもない叫びを上げた。
 やべえ、これは攻撃の一種だ。
 一瞬体が痺れて動かなくなる。
 その間にトーチの青白い火が、次々と吸い寄せられるように仮面に集まった。
 その集めた火を纏った仮面は、壁から離れると、怨嗟の叫びを放ちながら迫って来る。
 ならばお出迎えとばかりに、こっちも硬直が解けたと同時に突進した。
 両の手をクロスさせてナイフのナックル部分を打ち付けるように突っ込む。
 グワアアン!と、デカいドラを叩いたような音が響き、当たりの衝撃に後ろへと吹き飛ばされてしまった。

「ちぃっ!」

 だが、どうやら相手も吹き飛ばないまでも勢いが殺されたらしい。
 更に追撃に来る事なく、ふよふよと部屋の真ん中に浮いていた。

「おい!生っちろいお面野郎!今のが全力か?顔色と同じで情けないな!」

 無機物の怪異に挑発が効くかどうか分からないがまあやってみても良いだろう。
 やっこさんは硬直した表情をそれでも憤怒と分かる形に変え、なにやら良く分らないうなり声を上げると再び目を閉じる。
 仮面の表面に魔法語らしい文字が浮かんだ。

激震シェイク

 どうやらやっと硬直が解けたらしい後衛から由美子の声が指摘した。
 シェイクっつうと振動魔術か。
 俺がそう理解すると同時に仮面は目を見開き、縦に激しく上下動を始めた。
 おお、全体がブレて見えるぐらいのスピードだ。
 これ、本当に魔法なんか?

 俺がバカな感慨を持って見ている内に、ガガガッ!と激しい振動が襲って来る。
 予告されて備えていてさえ大きくよろめくのを抑えられなかった。

 後方の装甲車もどきを見ると、なんと四方にアームを伸ばして踏ん張っている。
 って、魔術による作用は物理法則に則っていないので、それで防げるはずがないんだが。
 あれか?
 突っ張っているから転倒しないという概念で対抗してるのか?
 無茶やりやがる。
 なんだかちょっと負けたような気分になった俺は、立ち上がりざまに敵に斬り込んだ。
 お面野郎は範囲魔法は使って来るものの、その移動はふよふよと漂うようにゆっくりだ。
 その巨大さもあって、ほとんど良い的にすぎない。

 しかし、
 ギイン!と鈍い音を立ててナイフが弾かれる。
 当の相手にはうっすらと線のような跡が残るだけだ。

「かってえ!」
「見るからにそうですね」
 浩二がこっちのフォローに回って来た。
「あっちは大丈夫なのか?」
「あの機械、シールドを張れると主張したので取り敢えず任せて来ました」
 おいおい、まさかあの魔装甲車と口喧嘩でもして来たんじゃなかろうな?
 まあプライドの高いこいつの事だから他人の前でそんな恥ずかしい真似などしないだろうが、時々子供っぽい所もあるから心配だ。

「なんですその目は?全員の合意の上での役割分担ですよ。ユミは今回直接は相性が悪そうですからあっちのサポートに回ったんです」
 なるほど。
 由美子の術は非生物系とは相性が悪いからな。
 逆に防御に徹すれば浩二程ではないがかなり強いのは確かだ。

「了解。あいつの弱点はどこだと思う?」
 俺の問いに浩二は笑う。
「罠でなければあのとても分かりやすい額部分の石でしょう」
「だよな」
 青銅仮面の額部分には、緑色のエメラルドのようなデカい石が嵌まっていた。
 全体がそもそも緑色なんで保護色っぽくなっているが、チラチラ光を反射するのですぐに判別出来る。
 というかあからさま過ぎて疑うぐらいだ。
「取り敢えず行ってみるか」
「気をつけて!仕掛けてきます!」
 浩二の呼び掛けと同時に、今迄縦に屹立していた仮面が横たわり、回転を始めた。
 歪な楕円の仮面が円盤投げの円盤よろしくうなりを上げて回り出すと、そのまま勢い良く飛び回る。

「ちいっ!」
「止めます!」
「あの目茶苦茶な軌道が読めるのかよ!俺がツーカウント程度の隙を作るからそこに仕掛けろ!」
 言って飛び出す。
 返事の確認など必要ない。
 俺の指示を飲み込んだのは呼吸で分かるからな。

 ジグザグに飛び回る仮面野郎と後衛の装甲車を纏めて視界に納めると、装甲車は鈍い膜に覆われたような状態になっていた。
 どうやらシールドうんぬんは事実らしい。
 更にそのシールドの向こう、装甲車の上には巨大なカブトムシが踏ん張っている。
 こっちは由美子の式だ。
 まあ任せておいて大丈夫だろう。ほぼ安心して敵に集中する事にした。
 もちろん俺にだってこのむちゃくちゃな軌道は読めない。
 が、要はあっちがこっちに来れば良いだけの話だ。

「来いよ!ムッツリ野郎!ああそうか、そのカラッポなおつむじゃ満足に的当ても出来ないよなあ!」

 さてさて、さっきは怒った気がするが、今度はどうかな?
 すると、奴はピンボールのように跳ね回るのを一瞬止めてこっちへと突っ込んで来る。
 やっぱ悪口は分かるもんだな。単純野郎で良かったぜ。

 定石通り、奴は横回りの丸鋸の刃のようにこっちの頭をねらって跳びかかって来た。
 恐ろしいスピードだ。
 しかし、事前に目的が分かっていればどれ程のスピードでも対処は出来る。
 俺はその場で上半身を深く沈めて奴の下の空間に潜り込むと、そこから渾身のアッパーを放った。
 横運動をしていた所をいきなり縦に突き上げられ、コントロールを失った奴は空中で独楽のように回転する。

「それでは蓋をどうぞ」

 そう言って浩二が指をパチリと弾くと、いきなり何かに押さえ付けられたように仮面野郎はピタリと床に停止した。
 浩二の“界”は場が異なるゆえにベクトルを反射する事もない。
 真上に別の世界を押し付けられた仮面野郎の行き場を失った運動ベクトルは単に霧散する事となったのだ。

 間を置かず跳躍した俺の体が奴に届く直前に“界”が解除される。
 その向こう、力無く横たわる仮面野郎の額に振り抜いた拳が突き刺さった。

「やっぱり中身が無い奴は軽いな」

 パキリ、と、あっけない程の音を立てて仮面は崩れ落ちた。



 という訳で、無事第二層目をクリアした俺達だったが、三層目に突入する前に一度現世に戻る事にした。

 そしてそこにはとんでもない嵐が待ち構えていたのである。


 ――――――補助事項ウンチク――――――

第二層ボスドロップアイテム:巨大な夢のカケラ緑柱石バージョン
普通の夢のカケラ同様にその質と量に応じたエネルギーを秘めていると共に、癒やしと再生の力に特化した特殊タイプ。
医療に大いに貢献しそうである。



[34743] 78、蠱毒の壷 その十二
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2013/12/26 05:16
 迷宮帰りで疲れているってのに、まさか一休みと補給に戻った場所で更に疲れる羽目になるとは。

 今、俺の目前には三人の人間がいる。
 一人は子供の頃から見知った、お菓子の人こと酒匂さん。
 んんっと、こないだ大臣ひとみごくうになったんだっけ?
 ともあれ、身分が変われど知り合いである事に変化はないので問題ない。
 問題は他の二人だ。
 どちらも明らかに外国の人間だ。
 しかも片方には微かに見覚えがある。

「紹介しよう。こちらの綺麗なお嬢さんがアンナさん。で、こちらの好青年がピーターくんだ」
 酒匂さん、怪しい笑顔だし、すげえ無理があるよその紹介。
 一人は豪奢なやたら薄い色合いのキラキラしい金髪に、薄めすぎて色が無くなりかけている青い色の目の女。
 うん、この女、俺の記憶が確かなら、以前変態が持っていた記録魔法メモリに写っていた、ロシアの秘蔵っ子とやらのはずだ。
 そうなると、当然もう一人もそれに準じた身分という事だよな。
 ヤバい、俺には無理!てか関わりたくない!

 救いを求めるように酒匂さんを見ると、どこか申し訳無さそうな顔を向けて来る。
 いや、そんな顔しても無理だからな?

「なにまどろっこしい事をしているの?早く行きましょう」
 翻訳術式独特のダブって聞こえる音声でロシアの秘蔵っ子が急かす。
 なんだっけ?今はアンナって名前だっけ?
「そうだな、ハァヤァク行こうゼ」
 こっちはなんか翻訳術式が妙にバグっている感じでノイズが混じっている。
 これは何か魔術的なハレーションが発生している可能性が高い。
 俺も専門じゃないからはっきりとは言えないが、つまり、何か魔術を用いた道具を常用している可能性が高いという事だ。
 怪しすぎる。
 しかもこいつ様子がおかしい。
 目の焦点が合っていないし、口の端がヒクヒクと痙攣しているかのように常に動いているし、両手もずっと震えている。
 もの凄くこええよ。

「酒匂さ、いえ、大臣。なんと言われようといきなりその二人を伴って三層目に潜るのは無理です」
 そうなのだ。
 二層目攻略を終えて一旦戻った俺達を待ち構えていたのは、二つの大国からやって来た派遣員をパーティに加えろというご下命だった。
 どう考えても普通じゃないだろ。
 しかも片方がかの魔法大国の秘蔵っ子というならもう一方だってもう一つの国でそれに等しい立場に違いないし、という事はどっちも俺達と同じ、"そういう"連中って事だ。

「この件は国家間の協定によって決まった事だ。諦めて受け入れて欲しい」
 国家間って、うちとロシア帝国と新大陸連合ってそれ程親密じゃないよな?
 ああいや、親密じゃないからこそゴリ押しされたのか。
 なにしろどちらも正統教徒の国と言ってもおかしくないような国である。
 多くの国が信仰の自由を掲げた昨今だが、やっぱり精霊信仰を選んだ民族と人造信仰を選択した民族との間には見えざる壁が横たわっているのだ。
 何度か戦争だって起きているぐらいである。

「あなたがこの国の隠し珠なの?あんまり大した事なさそうだけど」
 ロシア美女がいきなり喧嘩を売って来た。
「全くダ、頼りないナ」
 新大陸のヤンキー野郎がそれに同調してニヤニヤとこっちを見下した。
 こいつら揃いも揃って上背があるせいで妙な圧迫感がある。
 くっ、ちょっとばかり足が長いからって調子に乗るなよ。
「待った!二人とも約束をしたはずだ。迷宮探索の妨げにはならないと。お国の意向も探索の邪魔や任に当たるハンターの妨げになる事では無いはずだが」
 やや厳しめの酒匂さんの一喝に、さすがの居丈高な各国代表も口を閉じる。
「酒匂大臣、今回は様子見で、ちゃんとミーティングを経て、参加は次回からで良いのではないですか?」
 その俺の言葉に、二人からゾッとするような殺気が放たれた。
 周囲の空気が露骨に歪んで力の発動を告げている。
 おいおい、常識的な提言しただけなのに何さらすんじゃ?
「落ち着いて」
 その瞬間、ぽつりと告げた由美子が放った式が二人それぞれの顔面に張り付いた。

「Кошмар!!」
「NOOOOOOOOOO!」
「うわっ!」
「きやああ!」
「うげえ!」

 それが件の黒い悪魔だったせいで周囲にまでパニックが広まってしまった。
 そう、最後に悲鳴を上げたのは俺だ。
「お前、いつもは白い式しか使わないのに」
 俺は思わずげっそりしながら由美子に詰め寄る。
「機能に影響しないなら色を指定するのは面倒だから。でも、黒い悪魔は黒くないと凶悪さが半減する」
 凶悪さを求めるな!
「ユミ、俺は言ったよな。決して対人兵器は開発するなと」
 俺の言葉に由美子は小首をかしげた。
 可愛い……いやそうじゃない!

「でもこれに攻撃力は無いよ?」
「ある。主に精神メンタル面に」
「分かった。今後は気を付けて使うね」
 使わないという選択肢は無いんだな。
 まあそうだよな。
 生み出された以上は使われるのが兵器のさだめだ。仕方ないのかもしれない。

「もう許せない!滅びろ下等な猿!」
 黒い悪魔バージョンの式神を足で踏みにじると、正に憤怒の女神と化した北の秘蔵っ子がその手を高く掲げた。
 マジだ。
 いわゆるマジギレって奴だな。
 公共の資金を注ぎ込んだゆえに贅沢に高い天井と、彼女の掲げた手との間に恐ろしく精緻な魔法陣が浮かび上がる。
 いったい何を媒介にしてるんだか。
 魔法の発動に触媒の一つも必要としないらしい。
 さすがというか、すげえな。

「拘束機関を」
 こんな時でも冷静な酒匂さんが、素早く通信端末で指示を出そうとするのを、俺はその腕を掴んで止めた。
 酒匂さんは一瞬いぶかしむように俺を見たが、すぐに了解してくれた。
 信頼関係って素晴らしいな。
 通信端末に向かって酒匂さんは訂正する。
「いや、なんでもない。だがあらゆる事態に備えて乙種待機に警戒を引き上げてくれ」
 まあ不測の事態は確かに有り得るよな。
 そうこうしている間にも空中の魔法陣はくっきりとその姿を現していく。
 と、突然その魔法陣が霧散した。

「な!」
「いかな強大な術式も術者の意思があればこそ発動する。さて、貴女は隔てられた世界に自分の意思を伝えるすべを持ちますか?」
 浩二が挑発するかのようにイイ笑顔を北の秘蔵っ子さんに向けている。
 怒ってるらしい。
 我が弟ながら怖いぞ。

「あなた!何をしたの!」
 その静かに怒っているうちの弟に向かって、猛烈に怒っている女性が掴み掛からんばかりに詰め寄った。
 相乗効果で怖さがグレードアップしている。
 うわあ……出来れば逃げたい。

 さっきまでいきがっていた新大陸の兄ちゃんは既に及び腰だ。
 ちょっと親近感から仲間意識が芽生えそうである。
 浩二の界は肉眼ではまず見えないんで、ロシアの彼女も何が起きたか分からないんだろうな。

「貴女はどうやら見た所、大国ロシアの特別な血統をお持ちのようですが、対人攻撃にペナルティはないのですか?」
 そう浩二が尋ねると、彼女は唇を噛み締めて唸るように答えた。
「対人攻撃の訳がないじゃない!馬鹿じゃないの?」
 そうなのだ、彼女は俺達と同じく、「勇者血統」と呼ばれる特別な作られし者だ。
 そしてそういう血統には現代では例外なく遺伝子的にストッパーが組み込まれている。
 まず間違いなく人間に対して攻撃は出来ないはずなのだ。
 しかも噂によると魔法大国ロシアが自国の血統に仕込んだ呪は、世界で最も強固でえげつないらしい。
 下手すると人間に攻撃した途端に即死するぐらいの厳しい縛りが彼女には掛かっているはずである。
 ようするに、そう考えれば彼女が出そうとした何かは攻撃に関するものではないという事が推測されるのだ。

「確かにそうだな。私もまだ青いという事か。すまなかったな隆志」
 俺の横で酒匂さんがぽつりと告げた。
 ポンと、さっきのお返しのように軽く腕を叩いて渦中の二人に歩み寄る。
 すげえよ、今のあの二人に近付く度胸があるだけで俺はあなたを尊敬するね。

「二人共そのぐらいにしてくれ。私としてはもし君たちが感情的にどうしてもぶつかるようならこの件は一旦凍結しても良いのだよ?理由としては簡単だ。あたら優秀で貴重な人材を失う危機を見逃す訳にはいかないとね」
 酒匂さんが淡々とアンナと名乗るロシア女性に告げる。
 彼女はまっ白と言っていい程白い顔を赤く染め上げて酒匂さんを睨んだ。
 うん、まあ、この人長年うちの村に通っていたから、超常の力を持っていると分かっている相手であろうとあんまり怖がらないぞ。
 慣れてるから。
「それハ困る!ソッチの雪の女王サマはともかく、オれは協調性があルぞ」
 ヤンキー兄ちゃんが横から口を出す。
 本当かよ。
 それと、雪の女王とはまた上手く言ったな。

 酒匂さんはふうと息を吐くと、俺を見てふと笑った。
 あ、ヤバい、今このおっさんが何を考えたか明確に理解した。

「それならば、このパーティのリーダーである彼を説得してみせるんだな。それが出来れば問題ないと判断しよう」

 俺に押し付けるなあああああ!!!

 ――――――補助事項ウンチク――――――

アンナ:本名ジーヴィッカ・ニェーバ、帝政ロシアの「勇者血統」。召喚術師。プラチナブロンドに銀に近い青い瞳の持ち主。主人公より少しだけ年上。

帝政ロシア:その膨大な資源と強大な魔法の力を用いて、他国とはあまり関わらずにやって来た偉大な北の強国。
外国人が入国したら二度と出られないという噂があるが、一応外国の大使は駐在しているので大丈夫だろう。
国をあげて人造宗教である正統教を信仰していて、この国においてそのシステムは最も完成した形となったと言われている。



[34743] 79、蠱毒の壷 その十三
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:491a4eef
Date: 2014/01/02 05:17
 ミーティングルームに移動した俺達は、やたら色合いの派手な二人の強烈な自己アピールを聞かされる羽目となった。
 いや、正直に言おう。
 俺達ではなく、「俺」が二人から熱烈なアピールを受けているだけで、他の連中は逃げた。
 大木は例の装甲車の整備、明子さんは第二層探索の報告、浩二は第三層探索の為の補給の確認、由美子はお茶……という立派な理由はあるけどな。

「とにかく今回は無理だ。普通に考えれば分かるだろう。互いの信頼関係も出来て無いのに、事前情報の無い初めての迷宮ダンジョンに挑むとか、自殺行為でしかない」
 俺の真っ当な主張は鼻で笑われる事となった。
「はっ、それは弱者の理屈だわ。本来私一人でだって大丈夫なのだから、その理屈に説得力などありはしない」
「マったくダ、ジャポーンのヒーローは慎重すギる。いまドきそういうノは流行らないネ」
 ヤンキー兄ちゃんはその翻訳術式を調整しろ。
 とはいえ、確かに彼らの言葉にも一理ある。
 未踏破であるとは言え、“たかが”三層目だ。俺だって一人で行けると判断するだろう。
 だが、今回の件に俺は嫌な予感が拭い切れない。
 個々の実力が拮抗する協調性の無い異能集団とか、……うん、どう考えても駄目だろこれ。
 というか、なんだってこいつらはそんなに慌てて成果を出したいんだ?
 今回はいくらなんでもごり押しが過ぎるし、酒匂さん事情知ってそうなのに何も言わないと来たもんだ。
 てかおかしいと言えば、そもそも国外へ出すはずもない血統の人間をいくら資源独占を防ぐ為とはいえ易々と彼らの母国が送り出すだろうか?
 なにか裏でとんでもない事になっているんじゃないだろうな。

「とにかくあなたがなんと言おうと私は同行しますから」
「おレも行くゼ」
 駄目だ、こいつらを御せる気がしない。
 頭を抱えたが、さすがに国際問題は俺個人でなんとか出来る範囲の外だ。
 いくら酒匂さんが理屈をこじつけても、こいつらの母国になんらかの思惑があるのなら、その意思を尊重しなければ様々な圧力があるに違いない。
 酒匂さんが二人を同行させない事も考えているように振る舞ったのは、単なる揺さぶりであり、俺の交渉をやりやすくしてくれたのだろうと、それぐらいは俺にも分かった。
 しかし、だからと言って、こいつらをなんとかしながら迷宮攻略とか冗談じゃない。
 だけど、くそ、どう考えても俺の一存でお断り出来るような話じゃないだろうが。
 ああ、なんか胃が痛くなって来た。そう言えばそろそろ飯を食わないとな。

「ちょっと!話を聞いていますか!」
「タかあシィは天使の囁きをキいているのですね」
「ここは邪神の国よ、天使がいる訳ないでしょう」
「オーのー、アナタは見識が狭いデすね。天使はドコにでもいるのです」
 俺が放置していたら、何やら異邦人二人がお互いに揉め始めていた。
 どんだけ争い事が好きなんだよ。
「確かに神の御業は人の考えの及ぶ所ではないけれど、信仰の無い所に神は降りないわ」
「そこが既にオカシイのです。信仰はワレワレの中にある。それともアナタは神を信じる事を放棄したのですか?」
 ヤバい、宗教戦争が始まりそうな気配だ。
「待て二人共、ここで宗教談義を始めるな。やるなら教会でやれ。それに今は迷宮の話じゃなかったのかよ」
 そう言うと、二人は互いを睨み合っていた顔をくるりと俺に向けた。
 ちょ、ヤバい目付きだ。
 だが、ビビる俺を置いて二人はどうやら宗教戦争へと向かっていた互いの矛を収める事にしたようである。
「なに?ようやく迷宮に同行する事を納得したの?ならさっさと行くわよ。時間を無駄にしたくないわ」
「ヘイ、少し遅いが先にランチにシよう。食事は人を繋げるネ。これは真理ダヨ」
 どんどん話を先に進めていく二人をなんとか抑えないと大変な事になりそうなので、俺は条件を出す事にした。
「待て、二人とも。どうしても同行するというのなら条件を付ける」
 二人は上げかけた腰を再び下ろし、俺に注目した。
 その冷ややかな常人離れした視線に冷や汗を流しながら、俺はきっぱりと告げる。
「一つ、迷宮内の行動において、常に俺の指示に従う事」
 二人はぴくりと顔の筋肉を動かしたが、文句は言わなかった。
 自称アンナさんは何かを言いたそうにしていたが、頑張って自制したらしい。
 酒匂さんのハッタリが効いているようだ。
「そしてもう一つ。絶対に勝手に戦わないで欲しい。極端に言えば戦闘をせず単に同行するだけにして欲しい」
 二人が息を呑むのを感じる。
 赤毛兄ちゃんのピーターは、それでもしぶしぶ納得したような感じだ。
 だが、アンナ嬢はまたも白い顔に血を上らせている。
 沸点低いな。
 しかし、なんとか彼女は自制した。
 どうしても迷宮に同行したいのだろう。
 眉間に皺を寄せ、何事か考えた末に、ちらりと俺の顔を舐めるように見て、ニィと笑い、ハァとわざとらしくため息を吐いた。
「分かったわ。アナタに従う。お客様扱いなら楽も出来るしね」
 うん、アナタ今、おそらく嘘を言いましたね?
「分かったネ。タかしがワレワレのリーダーです。命令に従いマす」
 ああ、こいつら口先だけだなとはっきり分かるんだよな。こんな決め事なんか意味がないという内心が既に透けて見えているぜ。
 だけど、一応こうやって約束を結ぶのには意味がある。
 言霊の力にはある程度の拘束力があるのだ。
 どれだけ力持つ者だろうと、この拘束はその身を縛る鎖となる。
 まぁ、こいつらクラスだと荒縄に足が引っかかった程度の拘束力なんだろうけどな。

 端末を操作してあちこちに散ったメンバーそれぞれに連絡を取り、食堂で集合する事にする。
 アンナとピーターも誘ったが、他に寄ってから集まるという事で、別ルートで行く事となった。
 一緒に行動しなくて良いのはむしろ有難いけど、単独行動させて良いんかな?
 仮にもゲストなんだから行動制限とかは出来ないだろうから良いんだろうな。

 俺が重い足を引きずりながら食堂へと向かっていると、途中のフロアのソファーにカード端末でニュースを表示させて眺めている酒匂さんに行き会った。
「お偉いさんがこんな所で一人でいて良いんですか?」
「私程度、別に大した立場ではないよ」
「何言ってんですか、大臣」
 酒匂さんは立ち上がると、俺の肩を軽く叩いた。
「悪いな。無理難題ばっかりお前たちに押し付けて」
「全くです。今度のおみやげはよっぽど美味くないと許しませんよ」
 俺の言葉に酒匂さんはククッと笑う。
「どうも、迷宮は各国にくすぶっていた問題の吐き出し口として目を付けられたようだ。まだまだ詳細な真意は探りきれてないが、くれぐれも油断するな。特にロシアには気を付けるんだ。あの国は昔から木村の一族を欲しがっていた」
 酒匂さんの言葉の意外さに俺は驚いた。
「まさか、あの国は精霊信仰国家を邪神の国として見下して来たでしょうに」
 俺の言葉に酒匂さんは少し逡巡して短く告げる。
「どうも彼らの育んでいる“血”に問題が出ているらしい」
 詳しく聞こうとした俺を片手で制すると、酒匂さんはそのまま軽く手を上げて俺の向かう方向とは逆へと去って行った。

 ああもう、ホント勘弁してください。

――――――補助事項ウンチク――――――

翻訳術式装置:術式を封印した結晶体を襟などにピン止めして使う言語翻訳ツール。
ただし、その種類は多く、メーカー毎に特徴があるので、一言で翻訳術式と言ってもさまざまである。
一部マニアの間では特殊な語尾などを勝手に付けたり、特殊な言葉使いに変えたりする物などが流行っていたりもする。
もちろん万能ではないし、あまりにもストレートに意訳しすぎて交渉事で問題が発生するケースも多く、純粋に語学を学ぶ者もそれなりに存在する。



[34743] 80、蠱毒の壷 その十四
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2014/01/09 05:14
 俺はもはや諦観とも言える気分でゲート前に揃った一同を見渡した。
 あの怪しい装甲車に大木と明子さんと浩二と大量の機材が搭乗していて、浩二が機材を興味深そうに眺めている。
 そして、あの後持ちだしたのだろう怪しげな機械マシン的装備を身に纏った赤毛のピーター氏は、まるでSF映画に登場するロボット的何かのようになっていて、元々挙動が不審だったのが、一挙に怪しい存在に成り果てた。
 更に怪しげなヒラヒラとした衣装を纏ったアンナ嬢は、もはや世界観自体が違う気がする出で立ちとなっている。さながら派手な民族衣装って感じか。
 しかもちょっと浮いてないか?てか、そのヒラヒラ魔術触媒だよな。まぁ良いけど。
 そしていつものムカデっぽい白い式に乗った由美子と、それからごく常識的なハンター装備の俺。
 うん、特区外なら何かの特撮番組の撮影だと思われるだろうな、絶対。

「ここより先は未踏迷宮だ。くれぐれも気を付けてくれ。決して無理はしないように」
 酒匂……大臣が言葉に力を入れて送り出してくれた。
 このメンバーでまかり間違って未帰還とかいう事態にでもなれば間違いなく国際問題だし、酒匂さんも胃が痛いだろうな。くれぐれもお体はお大事に。
 そんな関係者泣かせの有り様の俺たちは、相も変わらずけたたましいサイレンに送られて、ゲートを潜ったのだった。

 手形の認証はチームの内一人がクリア出来れば良いので、俺が認証を終えると全員の視界が切り替わったようだ。
 しかし、全く視界はクリアではない。
「霧?」
 纏わりつくような湿気と石鹸にも似た癖のある匂い。
 もしこの霧がこのエリアの特徴で、決して晴れない物ならかなりキツい事になりそうだ。
 万が一はぐれでもしたら目もあてられない。
 軍人二人とゲスト二人をこの視界の状況で守り通さなければならないって事か。やべえ、俺も胃が痛くなって来た。

 そんな事を考えていた俺の耳にけたたましいアラームが届いた。
「うお!」
 場合が場合だけに思わず飛び上がってしまう。
「驚いた猫みたい」
 いつの間にか隣に来ていたアンナ嬢がそんな風に評した。
 ううっ、前に伊藤さんも似たような事言ってたな。
 俺の顔が怖くないかと聞いたら、怒った子猫みたいな顔だから怖く無い、むしろ愛嬌があるとかなんとか。
 あれって褒められたんじゃないよな?絶対。
 いや、今はそんな事はどうでも良い。

「リーダー、緊急通信っす!」
 大木が呼んだ。
 この上トラブルかよ!勘弁しろよ!
 泣き言を言っても仕方ないので俺は急いで車上へと上がると、ほぼ同時に通信機からモールス信号を解析した通達文が機械音声で流れて来た。

「君達の突入後五秒を置いて侵入者を感知した」

 とんでもない情報だ。
「し、侵入者って、まさか本部が占拠されたって事なんすか!」
 大木が驚愕して叫ぶのを落ち着かせると、集まって来た全員に聞かせるべく俺は口を開いた。
「それは無いだろう。もしそうなら感知とは言わないはずだ。もっとストレートに侵入されたと言うだろう」
 迷宮でパニックでも起こされたら事だ、頼むから冷静に判断してくれよ。
「僕が思うに」
 浩二がゆっくりとした口調で言葉を挟んだ。
「おそらくはあの動画の主が使ったゲートが使われたのではないでしょうか」
 その言葉に全員が息を呑む。
 浩二の言う動画の主とは第二層に国に感知されずに先んじて侵入した冒険者の事だ。
 実の所、あの動画の主が使用したゲートはまだ発見されていない。
 国が管理しているゲートは四ヵ所、それぞれを結んだ線上に問題のゲートがあるのではないかと言われているが、探索は遅々として進んでいないのだ。
 だが、侵入者がそいつだと仮定した場合、疑問もある。

「軍は管理箇所以外からの侵入も感知出来るのか?」
 俺は大木と明子さんに向かって聞いた。
 軍というのはとかく機密の多い場所だが、この場合は出来ればある程度ちゃんと答えてもらえると助かるんだが。
「そうっす、例の魔法使い殿が作ったマッピングシステムがあるって言ってたっしょ?」
 俺の心配は幸いにも杞憂に終わり、大木はその軽い口を開いた。
「あれは俺達の生体波動をソナーのように使っているって話っす。つまりソナーの起点の数で迷宮内の人数は把握出来るって事なんじゃないっすかね」
「要するにイマやこのダンジョンにハ、モンスターだけデはなく、人間の敵モいるという事デすか?」
 ピーターがニヤリと笑う。
 その好戦的な表情に、俺はギョッとして奴を見た。
 まさか、こいつ。
「まさかお前、対人も平気なのか?」
 俺の言葉にピーターは苦く笑ってみせた。
「イマサラですね。我が祖国ノ悪名ヲまさか知らないとハ言いませんヨね」

 ピーターの祖国、新大陸連合国家群は歴史の比較的新しい国だ。
 そう、西方国家から遠征した軍隊が、元々住んでいた精霊信仰の民を殺戮してその土地を奪ったのだと言われている。
 しかもその大陸は、精霊と直結出来る巫女件戦士のような特別な血を持つ者が多い土地だったのだが、そのほとんどがその戦いで失われたという事だった。
 そしてその地は呪いを受けたのだ。
 決して勇者の生まれない土地として。

 どこまでが真実かは知らないが、事実、大国の中で特別な血統を保持していないのはこの新大陸連合だけなのは有名な話だ。
 その代わり、かの地は科学技術では他国の追随を許さない。
 現在使われている機械的最先端技術は全て新大陸連合発祥と言っても良いぐらいだ。それだけ特出した技術力を持つ国なのである。
 そして、彼らはその技術力で呪いをも克服しようとしているらしい。
 近年では人工的に勇者に近い者を作り出すヒーロー計画なるものが進行しているとのもっぱらの評判だった。
 俺としては彼が“そう”なのだろうと思っていたが、まさか制御無しとはな。つまり彼の国としては、ヒーローとやらの対人用の軍事利用も頭にあると言う事なんだろうか?
 なんかの火種にならなきゃ良いけどな。
 ともあれ、まあ確かに“血統”ではないんだから、遺伝子に仕掛けをする事も出来ない訳で、ある意味当然なのかもしれないが、なぜかちょっとショックだった。

「確かにモンスターは人間の敵ダ。だがシッテいるか?最も人間を殺しているのは人間なんダぜ」
 ピクピクと痙攣している唇が紡ぐ、その軽い言葉は、しかしその場に重く響いた。
「大木、侵入者の現在地は分かるのか?」
 俺は気持ちを切り替える為、現実的な問題に話を戻す。
「う~ん、おそらく本部ではモニタリング出来ているはずなんすけどね。精密探知となるとご存じの通り探知ラグがあるんで、更にそれをこっちに送って貰うとなるとかなりの差異のある情報になるっすよ」
「それでも良い。大雑把でも位置関係を掴んでおこう。ところでこの車」
 俺がそう口にした途端。
「アイ、マスター」
 と、流暢なしゃべりで車載システムが返事をした。
「大木てめえ、解除しとくって話だったろうが!」
「やっ、それがロックが掛かっちゃってすね」
 こいつめ、わざとか?
 俺の猜疑の視線に、大木は壊れた人形のように首を降り続けた。
「マスター、ご命令コマンドをどうぞ」
 おいおい、命令を催促して来たぞ。
 まあいいか、今は拘っている場合じゃないし。
「お前、前の迷宮ではサーチが使えたが、この迷宮ではどうなんだ?」
 プログラムに対する命令コマンドにしては漠然とし過ぎたかと反省して、言い直しをしようと口を開けたと同時ぐらいに返答が返って来た。
「残念ながら私のサーチ能力は建造物程度の狭い空間でしか機能いたしません。一階層全てをサーチするにはさすがに出力的な限界があるのです」
「そ、そうか、了解した」
 ヤバい、こいつ前より人間的になってるぞ。
 魔法使いさん、あんた何作ったんだよ。

 おののきながらも、とりあえずリアルタイムな情報の把握は従来通り由美子に任せる事にした。
 後部座席に目をやると、いつの間にか三列になっていたシートの最奥に、由美子とアンナ(仮)が並んで座っている。

 なんだろう、これ。
 いや、二人共顔は最上級だから見た目はとても良いんだが、凄く雰囲気がひんやりしているよ?
 そんな俺の気分など知るはずもなく、視線を受けて頷いた由美子は、式に命令を組み込んで飛ばしたようだ。
 隣のアンナ嬢は興味津津でその様子を見ていた。

「僕も影を飛ばしましょうか?」
 浩二が珍しく積極的に提案して来た。
 珍しいな、海外から来た連中に張り合ってるのか?もしかして。
「いや、お前の影は攻撃に特化しているだろう。いくらなんでもいきなり攻撃はまずいんじゃないか?」
「へエ、あなタたちでも人間ニ攻撃デきるのでスネ」
 ピーターが揶揄して来る。
 いや、もしかしたら本気で不思議だったのかもしれないな。
 なにしろ彼の国には“勇者血統”と呼ばれる生きた兵器など存在しないのだから。

「ああ、俺達は殴り合い程度なら問題なくやれるぞ。知ってるかどうか知らんが、精霊主義の国の血統は総じて縛りが緩やかだからな」
 俺がそう言った途端、すごい殺気が背後から押し寄せた。
 思わず武器を装着しそうになったぐらいの本気度だ。
「それは、当て付けなのかしら?」
 眼差しで人が殺せるのなら、俺はきっと死んでいただろうというぐらい、恐ろしい目つきで俺を睨んでたのは、案の定アンナだった。
 彼女はちょっと美人過ぎるぐらい美人なんだが、だからこそ、そういう怒りに満ちた表情は神秘的な程に美しく、またやたら怖い。
 それに、その怒りは、少々激しすぎるように思える。
 まるで自ら傷口をえぐっているようにすら思えるぐらいに。
 それだけ彼女の“血”に施された縛り、“血の枷”はキツいという事なのだろう。
 だが、俺はそれに少し疑問を抱いた。
 なぜなら血統の縛りは本人達には窮屈さを感じさせないように調整されているのが普通なのだ。
 考えてみれば分かる。
 決して外れる事のない鎖に繋がれている事を常に意識し続けて生きるなど、まともに自意識がある生物にはおよそ耐えられるような物ではない。
 だからこそ、俺達は血の枷の事を軽く口にする事が出来るし、あまり気にしてもいないのだ。
 しかし、彼女の様子はその真逆だ。
 ロシアの“血の枷”は、文字通り呪いと等しいと聞いてはいたが、こんなやり方でよくもまぁ血統を保ってこれたもんだ。
 
『彼らの育む“血”に問題が出ているらしい』

 俺はふと、酒匂さんの言葉を思い出し、その問題とやらがひどく気になったのだった。


――――――補助事項ウンチク――――――

新大陸連合の失われたネイティブな勇者血統についての考察:
彼らは動物起源の精霊を自らに憑依させる事によって超常の力を得ていたと考えられている。
今となっては失われた存在だが、精霊学的には重要な位置付けにある存在でもあり、彼らをテーマにした論文は数多い。



[34743] 81、蠱毒の壷 その十五
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2014/01/16 05:25
 周囲の霧は晴れないまま、由美子が作った簡易結界の中で作戦を練る事となった。
 本部からもたらされた情報は、問題の侵入者の把握出来た人数と発見位置、そして直後それがロストしたというものだ。
 発見位置は俺達からそれなりに離れている。
 そして人数は五人。俺達が七人だから両方合わせて一度に突入出来る限界人数だ。
 こっちに合わせたのか、もっといたのが人数オーバーで弾かれたのか分からないが、こちらとしては後者の方が助かる。
 その場合はあっちも戦術の立て直しになるだろうからな。
 それに最初からこっちの人数が把握されていたとなると、本部にあっちの情報源があると思うしかないのだが、それは勘弁して欲しいというのが正直な気持ちだ。

「はい!」
 授業で質問するような感覚で手を上げた大木にちらりと目をやり、仕方なく「どうぞ」と言った。
「侵入者がロストしたという事は、奴等が怪異にやられたって事じゃないっすか?」
 ノリは軽いが、まあ疑問としては打倒な所か。
「魔法使いの創り出したシステムは人の波動をトレースしているって事だったな」
「おう」
「冒険者は自らの気配、すなわち波動を隠蔽するなんらかの手段を持っているのが普通だ」
 俺の言葉に大木と明子さんが驚いた顔をした。
 やっぱ中央は軍人もあんまり対怪異でものを考えないんだな。
「なるほど気配遮断、という事はすなわち怪異から身を隠す為ですね」
 だが明子さんはすぐに気付いて正解を返した。
「そうだ。冒険者は言うなれば狩人だ。よけいな戦いは避け、最大戦果を挙げなければならない。だから標的以外、最低限感知能力の低い相手からは身を隠す必要があるんだ」
「なるほどね」
 逆に俺達のようなハンターはあまりそういった隠形を使わない傾向にある。
 ハンターの仕事は大体危険な怪異の排除となる。
 自らを囮にして敵をおびき寄せる方が効率が良いのだ。

「ここで問題となるのは相手の目的だ」
「普通に考えればこの階層の攻略ですが……」
 浩二が意味有りげに周囲の顔ぶれに目をやった。
 今回はメンバーがメンバーだしなぁ、情報が少しでも漏れていればこっちが目当てという事も考えられる、そう言いたいんだろう。
「ですが、それでは時間差で突入したのは偶然という事になります。果たしてそんな奇跡的な偶然があるでしょうか?」
 明子さんが浩二の視線の意味に気付く事なくそう疑問を呈した。
「ケッ、こんな話し合いナど無駄デす。単純ナ話ですネ。邪魔ヲするなら戦う。シンプルイズザベストです」
 赤毛くん、良いなお前、単純で。
「このような単細胞生物と同意見なのは業腹ですが、私もそう思います。どう考えても他人の考えなど分からないもの。成り行きを天にゆだねるべきでしょう。その上で悪人には相応な報いがあると知らせれば良いのです」
 迷い無く言い切る強さは人の手で生み出された神を仰ぐ者特有の物だ。
 彼女達は迷う必要がない。
 善悪も運命も全て神に任せれば良いからだ。
「そんな素人のような行き当たりばったりな提案を受け入れるのは論外です。状況が不透明だからこそあらゆる想定をしておくべきです。それでこそ安定した判断と行動が出来るというものです」
 明子さんは逆に実に軍属らしい意見だ。
 まあ俺もどちらかというとあんまり先の事は考えずに行き当たりばったりなんだけどね。
 そんな事実はおくびにも出さず、俺は一同に頷いて見せた。
「あまりに無計画では対応に迷いが出る。同士討ちフレンドリーファイヤの危険も高くなるしな。だからといってあまりにも情報の無い今の段階で詳細な戦術など立てようもない。という事で、折衷案として場合場合のフォーメーションを決めておこう」
 俺の意見に取り敢えず全員が納得したようだった。
 ……というか、一部のお二方は俺に至極挑戦的な視線をくれている。
 あーはいはい、お手並み拝見って言いたい訳ね。
 だけど残念、お前等戦わせねーから。

 俺達の決めた基本方針は単純だ。
 策敵がヒットして怪異だったら倒す。人間ならとりあえず会話してみる。
 浩二が「小学生の夏休みの計画表の方がもう少し考えて作られているでしょうね」とボソリと言ったが、俺は聞かなかったふりをした。
 だってお前、反対しなかっただろうが!後出し禁止だぞ。
 もちろんそれだけじゃなくて具体的な戦闘フォーメーションも決めたんだけどな。
 うるさがたの海外組がそこからハブられている事について不満を鳴らさなかった点は不気味だが、まあ事前勧告済みだったから理解しているんだろう。と、思う。
 うう、なんだろう、胃の辺りがとても痛いよ。

 由美子と装甲車と本部からの情報を統合してある程度のマップを表示させてみると、周囲が一見市街地のような町並みである事が分かる。
 一階層を思い出すが、今回は少なくとも今いる周辺の建物はしっかり建っていて廃墟という感じはしない。ひと気はないけどな。

「なんか昔こんな霧の中を彷徨うゲームがあったな」
 俺の思わず出た呟きに、由美子がコクリと頷いた。
 そういえば由美子はああいったホラー系のゲームが好きだったな。
 心なしか嬉しそうだ。
 でも今はゲームじゃないから、そこんとこよろしくね。
「霧ト言えば魔都ロンドンでしょう」
 とは赤毛野郎ことピーター君。
 魔都とか言うな、怒られるぞ。
 西方の群島諸国は不思議な国々だと聞いていた。
 人造信仰と精霊信仰が変な具合に融合した結果、神と精霊が共に成り立ってしまったのだ。
 ロシアが魔法帝国なら西方諸国は一種の魔界と言えるだろう。まあ、どちらも関係者の前では口には出来ないけどね。
 その性質も真逆に近い。
 ある程度の土地を占有した後は自国に閉じ籠ったロシアと違い、西方諸国は野火のように征服戦争を起こした。
 なにしろ人造信仰にとって信者の数がイコール神の力となる。
 より多くの信者、それを養うより多くの土地が必要なのは当然の話だった。
 新大陸連合もその頃に占領した場所の一つに過ぎないのだ。
 だが、かの国家群はやがて分裂した。
 要するに内輪もめを始めてしまったのである。
 という事で、近年では今のところ人類同士で大規模な争いは起こっていない。
 逆に言えば小規模なドンパチはあちこちで続いている。
 争いがある所には凶悪な怪異が自然発生する上に人の手でそれが促進されるので国土が荒れ果ててしまいがちで、その結果いくつかの国が人外の地となったという経緯もあり、危機感を抱いた国々が同盟して設立された世界国家連合は、戦争に介入して人の地の守護者たらんとしている訳だ。
 うんまあ今は関係ないけどな。
 という事でその西方諸国の内、イングランドの首都がロンドンなのだ。
 噂によると常に霧に包まれているとか、確かに今の状態に似ているかもしれないな。

 ―…ウォオオオオ……ン
 どこかで獣じみた声が聞こえた。
 もう迷宮内なんだから油断しないようにしないとな。
 前の層の時のような肝の冷える事はご免だぜ。

 見通しの悪い霧のベールを特殊装甲車のサーチライトが照らす。
 敵や冒険者連中に見付かりやすくなるが、視界の確保が優先だ。仕方がない。
 それに探索能力では式が使えるこっちの方が高いはずだ。

「左、カウント八十で獣タイプの怪異接近、数十、更に前方カウント百で変異体タイプ一体、武器持ち」
 由美子の報告が入るが、これはちょっと面倒だな。
 普通に考えれば獣タイプの群れと戦っている間に変異体タイプが到着する。

「了解。左を先に迎え撃とう」
 俺の指示に全体が左に移動した。
 が、そこでアンナ嬢が動く。
「それならこっちも分散して戦った方が良いでしょう?こっちは私にまかせてもらうわ」
 と、いきなり前方に走り出しやがった。
 てめえこら!事前の計画無視すんな!
「ちょ、待て!止まれ!」
 しかし彼女を追うとこっちは変異体と戦いながら背後から挟み撃ちに近い状態で攻撃を受ける形になってしまう。
「あのメス――がっ!ダイジョウブね、俺ガあのロシア女追いかけるからマかせなさイ!」
 と、ピーター君。アホか!任せられるか!てかなんか途中で言葉が遮蔽されたぞ、翻訳魔術の検閲に引っ掛かるようなどんなやばい言葉を吐いたんだよ!
「ダメだ!お前は戦うな!ルールは守れ!彼女は俺が追う。コウ、ユミ、そっちは頼んだ」
「分かりました、存分にどうぞ」
「任せられた」
 俺の指示に二人が返答し、ピーター君は不承不承止まった。よしよし、偉いぞ。
 軍人さん達がなにやら不満気だが、あんたら俺達の認識からするとクライアントだから戦闘要員に入ってないからな。
 そもそも通信兵と衛生兵だろうが、後衛で頑張れ!
 
 俺は霧の中に飲み込まれていく白い影を追い掛けた。
 くそっ、白に白だから保護色になってやがる。
 言うこと聞かないだろなとは思っていたが、最初から全開でルール破りとは良い度胸じゃねえか、あのアマ捕まえたら尻を蹴飛ばしてやるぞ。

 霧以上に仲間内の見通しが利かない事を嘆きながら俺はひた走ったのだった。

――――――補助事項ウンチク――――――

西方群島諸国:魔国とか伝説世界とか色々と他国から言われているが、本質的には貿易を主とする商業国家でもある。
海運に強く、独自商業ギルドを持ち、商取引のルールの基礎となった決め事は総じてこの国発であると言われている。
宗教色が強い割には同種の信仰国家からは本来の教義の純粋さを捻じ曲げたと言われている。
事実多数の教派が国家内に混在するのがこの国の特徴でもある。



[34743] 82、蠱毒の壷 その十六
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2014/01/23 04:20
 進めば進む程視界を真っ白に埋めて行く霧がうざったい。
 まるで意思を持ってこっちを邪魔をしているようにすら思える。
 いや、実際そうなのかもしれない。ここは迷宮だ、常識が通じるとは思わない方が良いだろう。
 先を突っ走って行ったお嬢さんは女の足なのに全く追い付けない。
 この霧だ、下手したら追い抜いた可能性もあるかもしれないと思うと不安になる。全くとんでもない跳ねっ返りだな。
 だが、ともあれ怪異を目指せば合流出来るだろう。
 そう考えて急いだ。
 怪異の方向はほとんど勘まかせだが、アンナ嬢よりは見付け易いからな。

 うん。そんな風に考えていた俺は、直後に自分の間違いを知った。
 霧を透かした向こうに、鮮やかな花火のような輝きが見えたのだ。

「目立つなんてもんじゃないだろ!」
 もはや派手なネオンサインのようだ。
 耳を澄ませば戦闘の音も聞こえて来ていた。
 さっきのあれって魔法光だよな。それにしたってどんだけ強いんだ。

 うっとおしい霧を掻き分けて辿り着いた場所には巨大な狼っぽい何かがいた。
 でけぇ、軽く周囲の家程もあるぞ。
 これはもはや怪獣の類だろう。
 よくよく見ると、毛皮に見える体表には青い炎が踊っている。
 間違っても撫で撫でなどしたくない巨大なワンコである。
 そのやや手前に、目標のキラキラしい白っぽい人影を発見した。

「なんで勝手に飛び出した!」
 子細構わずその腕を引っ掴んで怒鳴りつける。
 町中でやらかしたら俺の方がしょっぴかれそうな乱暴さだったが、優しくしても仕方ない相手というのはいるものだ。
「うるさい!私にとって目前のモンスターと戦わないのは死ぬより最悪な事なのよ!何も分からないぬくぬくと守られた飼い犬は黙りなさい!」
 目前のワンコに劣らない冷たく燃える青い炎のようなまなざしが俺を焼き尽くさんとばかりに睨んで来た。
 うん、やっぱりこれは遠慮して良いような相手じゃないよな。
 しかし、この必死さは本当に怪異を目前にしたら戦わないと死ぬとかいう呪いとかじゃあるまいな。
 いくらなんでもそんな縛りを施したりしたら血統が早々に途絶えてしまいかねないだろうし。
 なんせどんなに優秀な血の持ち主であっても未熟な時期は絶対にある。
 逃げるという選択の無い戦いなどただの自殺にすぎないだろ。

 そんな俺の逡巡の間にも怪獣大決戦とも言うべき戦いは続いていた。
 巨大なワンコは何か巨大なチラチラと光るふわふわした影のような物と戦っているようだ。
「ともかくうっとおしかろうとここでは俺の言う事は聞いてもらうぞ。そういう約束だしな。ともあれ詳しい説教は後からだ。今はこっちに集中しよう」
 俺の言葉に、アンナ嬢は一瞬ムッとしてみせた。
 その表情は今迄の取り澄ました顔と違って人間味があって、良い感じである。
 この人美人さんなんだから普通に笑顔を見せるだけで大体の自分の意思は通せそうなのに、なんで普段はああも他人を拒絶している感じなのかね。

「私の召喚の獣があの化け物を倒すからあなたは戻って他の連中と群れていれば良いでしょ」
 うん、やっぱりこういうとこは可愛くないよな。
「馬鹿を言え、あんたも俺の責任の内だ。どんなに容易く見えても迷宮で油断するのは馬鹿のする事だぞ」
「あなた、さっきから、いったい私を誰だと思っているの!」
 一歩も譲らずキリキリしているアンナ嬢はともかくとして、どうも戦いの様子がおかしい。
 青いワンコが一方的にやられてないか?
 召喚の獣とやらであるらしいワンコはまるで光る霧そのものが形を持ったような怪異に勇猛果敢に噛み付き、蹴散らしているのだが、それで散るのは少しの間だけで、相手はすぐに何事も無かったように同じ姿大きさに戻ってしまう。
 逆にワンコの方はその体を構成するらしい炎が段々掠れて行っているように見えた。
「おい!お前のアレ、ヤバいんじゃないか?」
 俺の言葉に一瞬悔しそうな顔を見せ、アンナ嬢は荒々しく告げた。
「アレじゃない、ヴォルクよ」
 いや、今はワンコの名前とかどうでもよくね?
「霧には火が良いと思ったからヴォルクを呼んだけど、掴み所がなさすぎて相手にダメージを与えられないのよ。召喚の獣は術者と相性が良くても三十分程度が使役限度だから長くは持たないし」
 時間制限ありとかどっかのテレビジョンヒーローみたいだな。
 まあそんな馬鹿な連想はともかくとして、不定形の敵とか、俺とも相性が悪そうだ。
 班分けの担当逆の方が良かったな。
 まあ今回は不可抗力だが。

「霧に火って考えは良いが、範囲が広すぎて意味が無くなっているんだな。どうすっかな」
 こっちの悩みとは関係無しに戦いはクライマックスだ。
 主に悪い意味で。
「っ!」
 投網のように広がった怪異がヴォルクと呼ばれたワンコを押し包む。
 狼の姿が一瞬ブレたと思ったら、ワンコはふわりと四散するように消え失せた。

「くっ、おのれ!ならば更に強い炎を浴びてもらうだけよ!」
 おお、全くショックを受けた風でもないぞ。勇ましいな。ある意味頼もしいけど、こりゃあ言うこと聞きそうもないぞ。
 ワンコが消えたのにめげる事無くアンナ嬢は手を掲げて空中に魔法陣を描く。
 それはそのもの自体が赤い炎で出来ているような見事な魔法陣だった。
 本部で描いてみせたのはやはり彼女にとっては児戯のような簡易式だったのだろう。
 俺の目前で生成され、生命があるかのようにのたうっている魔法陣は、描かれた術式がどんどん上書きされて行き、読み取る事など不可能に見える。
 しかし派手だな、ほんとに。まるで太陽が頭上にあるかのように見えるぞ。

 さて、それはそれとして、彼女が召喚とやらを行なう間、敵さんがおとなしく待ってくれるかと言うとそんなはずもなく、見た目の頼りなさからは想像もつかない素早さで自らを濃厚に収束させるとこちらへと飛び掛かって来た。
 まあここは俺が支えるべきだろう。
 いくら相性悪くても現在魔法陣を構成中で動けないアンナ嬢よりはマシだ。

 俺が前に飛び出すと、反射的にこっちを狙って来た。
 敵さんはあまりものを考えるタイプでは無いようだ。

「鬼さんこちら、手の鳴る方へ!」
 古来からの伝統的な引き付けの言霊でこちらに向いた意識を更に固定させる。
 その状態で、俺はジャケットの内ホルダに手を滑らせた。
 取り出したのは小型の銃タイプの武器だ。
 もちろん、弾丸を撃ち出す本物の銃などではない。
 普通の銃の弾など怪異にはほとんど効き目がないのだ。
 炸裂弾とか術式弾とかならまた違うんだろうが、そういうのだと今度は俺が使えないからな。

 俺は銀色に輝くその銃形の武器を右手で構え、左手でホールドする。
 動きながらなので安定はしないが、とりあえず相手に銃口が向いてさえいれば良い。
術式展開チャージ!」
 登録された俺の声のキーワードで中に仕込まれた術式が展開する。
標的認識シュート!」
 銃口の前方に展開した術式から、まるで絡まり合う光の枝のようなエネルギーのうねりが伸びた。
 侵食雷光スタンだ。
 不定形の相手に茨の呪が効くとは思えないので、こっちを使ったんだが上手く行くかな?
 こいつも一発撃つと二万円が吹っ飛ぶという恐ろしい武器である。
 俺的にエコな武器のナイフが通じないこの敵が憎い。

 雷光に絡みつかれ、“ソレ”は丸く平たく、様々に形を変える。
 やっこさんはワンコと戦った時のように薄く伸びてこのスタンをやり過ごそうとしたが、侵食タイプのスタンは怪異の核に直接作用するようになっているのでそう上手くはいかないぞ。
 やがて雷光は消えたが、敵さんもぶるぶる震えて動きがゆっくりになっていた。
 しかしこれを受けてまだ動けるとはとんでもない野郎だ。
 そうこうしている内にアンナ嬢の召喚が完成したらしい。
 気配を感じて頭上を見上げると、熱の塊が降り注いで来るのが見えた。

 ……え?

 俺は考える前に後ろに飛び退くと、そのまま勢いに任せてゴロゴロ転がった。
 ええっと、ちょっと前まで俺がいた場所から向こうがゴウゴウ燃えてるんですけど。

 振り向いた先にいた白いシルエットの女性は、赤い照り返しを受けてまるで鬼女のような顔でニィと笑って見せたのだった。

――――――補助事項ウンチク――――――

麻痺(スタン):一口にスタンといってもその種類は多岐に渡る。
 術式での種類を大別すると電気ショック系、音響ショック系、フラッシュ系などが存在。
 今回使われた「侵食雷光」というのは商品名で、指向性のある電気ショック系統のスタンである。
 実は魔法の麻痺(スタン)は術式の物とは違い、その名の通り、相手を麻痺状態にする魔法。
 魔法は展開時に術者の意思による操作が必要となる為、術式として規格化する事が出来ない。
 この辺りが魔術と魔法の違いである。
 まぁ一般人からしてみれば両者の違いは良く分からない。



[34743] 83、蠱毒の壷 その十七
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2014/01/30 05:03
 炎は大気を含む一帯を焼き払い、さしもの霧も一瞬消え去る。
 その渦巻く炎の中から、一見火の粉のように見える光る何かがこちらへと飛んで来た。
 軽く拳を振るってそれらを叩き潰し、最後の一つは手の中に掴み取る。
 手を開いて確認してみると、弱々しく飛び上がろうとする光る埃のような物があった。
 これがどうやら変異体の怪異の正体だったらしい。群体タイプか。
 やや力を込めて拳を握り込むと、大した抵抗もなくそれは消え去った。
 ほとんどの部位個体を失い、個々に切り離されたせいで全く脅威ではなくなったのだろう。
 もしかすると指令役のコアがやられてしまったのかもしれない。
 取り敢えずこの盛大な焚き火で全滅はしていないとしても、当面危険ではなくなったという事だ。
 さて、
「お嬢さん。ちょっとお聞きしたいんだが」
 俺から顔を背けて炎を見つめるロシア美女に、俺は意識して剣呑な声を掛けた。
 アンナ嬢には協調性が全く無い。
 こういうタイプは最初にガツンとやっとかないと絶対にこっちの言う事なんぞ聞きはしないだろう事ははっきりしていた。
 話して分からない相手というのは、理性ではなく動物的な何かに従っている野蛮な先祖帰りだからだ。
 ちょっと美人だからってなんでも許して貰える思うなよ。
 焼き殺されかけた俺は、そう決意を固めると、決然と彼女に向き合った。

「てめえ!怪異ごと俺を焼く気だったのか!」
 ちょっと笑っただけで子供が泣くと言われた顔を思いっ切りキレ気味に歪めたとっときの怒り顔付きだ。きっと相当凶悪な顔になっているはずである。
 ……ううっ。
 しかしアンナ嬢はその俺の怒気を、まるでそよ風か何かのようにフッと鼻で笑って受け流した。
「いくら駄犬と言えどもあの程度避けられないはずが無いでしょう。そうでなければ化け物共とやり合って今迄生き残れていないはずよ」
 なんという居直り。
 ごめんなさいの一言ぐらい言えないのか?
 あんたのせいであんたの祖国の印象がどんどん悪くなってるぞ。
「いいか。出立の時に俺の指示を聞く約束しただろう?チームの和をこれ以上乱すようなら帰ったら即刻強制送還してもらうからな」
「馬鹿馬鹿しい、効率良く攻略出来る方法を実行しているだけでしょう。せっかくの戦力を遊ばせているあなたのやり方こそが責められるべきだわ」
「おいおい、本来なら一人でも攻略出来ると豪語したのはどこのどなたさんでしたっけ?明らかに戦力過多なのに張り切り過ぎなんだよ」
「それならあなたが見学していれば?」
「約束事を守らないのがロシア流なのか?」
 その俺の言葉にようやく彼女の柳眉が跳ね上がる。
「小さな島国でキャンキャン吠えるしか能がない飼い犬風情が我が祖国を口にするな、汚れるわ!」
「はっ、お前の方が遥かに故郷に泥を塗ってるんだよ!」
「おやおや痴話喧嘩かい?」

 突然の声に、咄嗟に体勢を整えて向き直る。
 やべえこいつ気配が無かったぞ。
 一瞥しただけで分かる。相当の実力者だ。
 視界の中にいるのは三人。
 一番手前にいるのが声を掛けた当人か。
 大陸南部独特の艶のあるオイリーな肌と彫りの深い顔立ち、格闘の選手のようなガッチリとした体格、油断ない目付きにどこか飄々とした雰囲気、ほぼ間違いなくこいつがリーダーだろう。
 その斜め後ろに二人、一人はひょろりと背の高い男だ。
 リーダーと違って、この男はむしろピーターと同じ人種のようだ。
 白い肌に薄い色の目、髪の色も少し濃い色合いの金髪だ。
 あともう一人は場違いな程に若い。
 人種的にはリーダーと同じか近い地域のような感じだ。
 痩せて発育が悪いが、どこか幼い顔立ちで、まず成人前なのは間違ないだろう。
 一人だけオドオドとしていて、到底迷宮に潜るような冒険者とは思えなかった。
 問題は本来五人いるはずの仲間の残る二人がどこにいるかだ。
 こっちに全く気配を悟らせなかった所から見て、かなり優秀な魔術師がいるか高性能な魔道具持ちであるのは間違いない。厄介だな。

「よお、兄弟。そんなに警戒するなよ。良い話があるんだからよ」
 まるで酒場で見知らぬ相手を親しげ呼ぶような気安さで、リーダーらしき男は手を広げてそう言った。
 その奴の口の動きと言葉にズレがあるのを見て取って確信する。
 こいつらはたまたま同じ時期に迷宮に潜った訳じゃない。
 こっちが潜るのに合わせて迷宮に潜ったのだ。
 そうでなくては翻訳術式など準備するはずがない。

「あなた方はフリーの冒険者ですね。いったいどこのゲートから潜って来られたんですか?」
 俺の穏当な問いに答える事なく、いかにも人懐っこそうな笑みを浮かべて近付いて来る相手を警戒しながらゆっくりと後ろに下がる。
 さっきから沈黙しているアンナ嬢が心配だった。
「おい」
 ひそめた声でコンタクトを取ると、背後から「なに?」という返答が返って来る。
 どことなく不安そうに聞こえるのは気のせいであって欲しい。
「連中の狙いは迷宮攻略じゃないっぽいぞ。大丈夫か?」
「だから何に対して大丈夫という話なの?」
 お、刺が出て来たぞ。ちょっとは調子が戻ったらしい。
 OK、OK、少なくとも相手に不安な様子なんか見せないでくれよ。

「ゲートね。ああ、そりゃあ気になるよな。実はな……」
 奴は自然に歩いて来たままに、最後の一歩を深く踏み込み何かを突き出して来た。
 アンナ嬢を背後に庇いこれ以上後ろに下がれない俺は、咄嗟に相手の腕を掴む。
「つっ!」
 痺れが全身に走る。
 電撃?
 あの独特の音が無い所からしてスタンガンのような物理的な作用じゃない。
 術道具か。

「てめえ!何をする!」
 俺の激しい口調の詰問に怯む色も見せずに、野郎は笑って見せた。
「いやあ凄いな。このスパークキングは野生動物の、そうだな、かの灰色熊グリズリーくらいなら一発で気を失わせるぐらいの威力があるんだが、平気そうだな。なかなか大したもんじゃないか、兄弟」
 俺の纏っているハンター用のジャケットや装備には当然ながら術式防御の機能がある。
 やわな術なら完全にデリートも出来るはずだが、今の術式はそれらの防御を無視して直接作用しやがった。
 条件付けで防御無効にしているのか。
 こういう小狡いやり方をして来るところが対人の難しい部分だ。
 特に冒険者は海千山千だって話だから油断ならない。

「いきなり攻撃とは穏やかじゃないな。迷宮攻略ならここは争わずに協力する場面じゃないのか?」
 用心深く間合いを取り、俺はズボンのベルトにセットしてある簡易四方陣に指を掛けた。
 いざという時に僅かな間だけだが完全な対物、対術の場を作る事が出来る。
 対人戦となったらおそらく役に立たないアンナ嬢をこれに突っ込んでおいて身軽になって対処しないと、余裕の無い一戦になりそうだ。

「ああ、迷宮ね。もちろん迷宮のお宝は頂くさ。けどな、実は俺達のチームは怪異ダークだけを専門にしている訳じゃないんだぜ。これは内緒にして欲しいんだが、俺達は実は勇者ホーリーハンターでもあるんだな、これが」
 そう告げて動いた相手に対処しようと構えた俺をはぐらかすかのように、相手が動いたのは自らの背後に、だった。

「え?」
 そいつはおもむろに背後にいた少年を引き寄せると、その首筋を無造作にナイフで切り裂いたのだ。
「ひっ!」
 背後で短い悲鳴が上がった。
「何を……」
 思わず口にした俺をあざ笑うと、少年の吹き出る血を避けた男ははっきりと宣言した。
「お二人さん、抵抗するとこの罪の無い坊やが死ぬぜ。貧しい家族の為に我が身を売った優しくて良い子なんだからさ、助けてやってくれよ。なあ」
 最初の一撃による出血以降、少年の首から血は出ていない。
 もう一人の男の手に二股の枝のようなモノがあり、そこに浮かぶ光と同じ輝きが少年の首にあった。
 この男が魔術師か。術式で傷を塞いでいるんだな。
 だが、傷は残っている。癒やした訳ではないから、その術を解除すれば、この少年はたちまち急激な失血でショックを起こして死んでしまうだろう。
 こいつらいったい何を考えているんだ?その子は自分達の仲間だろうが。

「さあ、どうするんだ?早く決断してくれないと、うちの魔術師もずっと止血しておくって訳にもいかないしな」
 男の猫なで声が変化する。
「可哀想な坊やはお前たちのせいで死んでしまうぞ」
 低く強調された声。
 ゾッとした。
 急激に血管の中の血が冷えて固まるような錯覚に陥る。
 まさか、これは“血の枷”の作用なのか?自分の思う通りに体が動かない。
 ふと気になって後ろを伺うと、アンナ嬢はまるで発作を起こしでもしたかのうように激しく体を震わせている。
「大丈夫、か?」
 まずい、彼女、目の焦点が合ってないぞ。
 こいつら、どうやら俺達自身よりも「血統」の事をよく知っているようだ。
 それにしてもあの少年はあんな目に遭わされてどうしてじっとしているんだ?
 顔色は真っ青で唇は色が抜けている。
 両目からは涙が溢れて恐怖に歯の根が合わないぐらい震えているのに。
 まさか本当に自分の命をこいつらに売ったのか?

「おいおいまさか魔物殺しが人間を殺す気か?そりゃあ人類に対する裏切りだぜ?」
 そうか、この言葉、血の枷の発動条件があの言葉の中にあるんだな。
 くそっ、体がまるで水に沈む石のようだ。……血の気が、引いて……。

 濃い霧に霞む景色の中で、歪む視界に浅黒い男の嘲るように笑う顔が映った。

――――――補助事項ウンチク――――――

血の枷:勇者血統と呼ばれ怪異を狩る特殊な能力を持つ血筋の者が間違っても人類を裏切らないようにと掛けられた呪いの一種。
一括りに血の枷と言っても、実は千差万別で国ごと地域ごとに特色があり、全部を把握するのは無理だと言われている。
しかし、確実に共通する事象、ワードは存在していて、古くから裏で彼らを取引している者達はその解析データを取得しているらしい。



[34743] 84、蠱毒の壷 その十八
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2014/02/06 04:47
「知ってるか?つがいは高く売れるんだぜ。紛争地域では恐ろしい人喰いの魔物が次から次へと生まれていてな、勇者血統ホーリーブラッドの需要は高いのさ。商品不足で苦しんでいる腕利きのブリーダー連中がお前たちの値段をどのくらい釣り上げてくれるか今から楽しみでならないぜ」
 体の中を凍り付かせて行く戒めを感じながら、俺は相手の配置を確認した。
 リーダーであろう野郎は馬鹿話をしながらもこちらの様子を油断なく窺っている。
 少年の首の傷を覆う魔術光は点滅しつつ継続していた。
 一度発動すれば効果が出て終わる術式ではなく、意識を向ける事で維持し続けるタイプに間違いは無いだろう。
 あの魔術師に何かあればまた出血が始まるという寸法だ。
 くそっ、こいつら本当に人間を物としか思ってないんだな。どうかしている。
 だが、見た感じ、パックリと開いた傷口は実は余り深くはなさそうだ。
 無駄なく動脈の血管だけを切り裂いているんだろう。
 考えるのも反吐が出るが、無駄な力を使わずに人間を殺すのに慣れているという事なんだろうな。
 もし反撃するのなら、一挙動でこの二人を無力化し、あの少年の傷を防がなくてはならない。
 なんの縛りもない状態でも厳しいのに、今現在まともに体が動かせないと来たもんだ。
 残りの二人も気になる。カバーに入られれば俺はともかくあの坊やが心配だ。
 やべえな、これは詰んだか?
 くそったれが、指一本動かすのに恐ろしい程の集中が必要だ。
 正直血の枷とやらがこんなにキツいモノとは思いもしなかった。
 まるで全身を頑丈な鎖かなにかで縛られているような気がするぞ。

 ふと、何かの気配が意識の片隅で囁いた。
『そんな鎖にお前を縛る力はないぞ』
「!?」
 頭の中に聞き覚えのある声が響く。
 全身が総毛立った。
『ヒトの呪など儚き蜘蛛の糸のごときモノ。お前が僅かに身じろぎするだけで砕けて散るであろうよ』
 何だ……ろう?体内でチロチロと青い火が燃える。
 凍り付く赤い血を、その青い火が舐め上げる。
 ひっそりと立ち上がる震えるような恐怖と堪え切れない歓喜。
 せめぎ合う二つの魂が互いを飲み込むように全身を駆け抜けた。

 気が付いたら俺は走っていた。
 相手はまだ俺の動きに目が追い付いてない。
 素早く正確に、目標の二人の首の後ろ、神経の集約箇所に圧縮した気を叩き込んだ。
 脳が発した命令が切断されて意識して体を動かす事が出来なくなる一撃だ。
 瞬時に、二人共何が起こったか分からないという顔でその場に崩れ落ちる。
 そのまま振り向きざまに少年の魔術光が消える寸前に治癒に使う符を傷口に貼り付けた。

 ここまでおそらく二秒と掛かっていないだろう。
 自分でも何がなんだか分からない早技だった。
 血の枷はどうなったんだ?
 もしかするとこういう場合を想定して何らかの仕掛けがしてあったのかもしれない。
 自分の体なのに謎が多いって嫌な話だな、おい。

「ちっ、てめえ」
「お互い様だろ」
 首から上は無事な野郎が悪態を吐くのをいなした時だった。
 抱え込むような体勢になっていた少年が、怯えたようにこちらを見ながら何かをズボンのポケットから取り出すのが目の端に写る。
 ん?と思ったその直後、まるで全身を殴り付けられたような衝撃が襲って来て、気付いたら目前に地面があった。
 チカチカと視線が定まらない。
 まるで悪酔いしたかのように吐き気が襲って来た。

 これは……呪符?
 見れば胸の中心に黒い六芒星のカードが発動状態でくっついている。
 少年は倒れた俺から慌てたように離れると、同じく倒れているリーダーらしき男に駆け寄って、どこの国のものか分からん言葉で話し掛けた。
「よくやった。お次は呪術師に回復カードを使え」
 立ち上がりながら少年に指示を出すと、野郎は俺を見て嬉しそうに笑う。
「日本のホーリーブラッドの捕獲例が無かったんでな。俺らのやり方じゃ上手くいかないかもしれないじゃないか?だから念には念を入れておいたのさ。せっかく頑張ったのに残念だったな」
「ぐっ、まった…くだ」
「良いね。活きがいいのは良い事だ。ホーリーブラッドの中には捕獲すると死んじまうのがいたりするからなあ。全く、お国の偉いさんもさ、貴重な種なんだから大事にすりゃいいのによ。使い捨てとか馬鹿な連中さ。だが、どうもあのお嬢ちゃんはその類らしいな」
 慌てて目をやると、アンナ嬢は突っ立ったままおかしな痙攣を始めている。
 本当にこいつの言う通りならまずいんじゃないのか?
「……おい」
「分かってるって、心配すんな。俺らだってみすみすお宝を駄目にしたりはしねえよ。呪いの進行を止める薬なんてのもあるんだぜ?まあまかしとけよ。だからお前は安心して、寝とけや!」
 野郎が嬉しそうに俺に向かって足を振り上げた途端、奴の周囲で炎が舞った。

「なんだ!こりゃ!」
 炎の正体は蛾の集団だ。
 由美子の使う式である。
 式を燃やして突っ込ませるという実に燃費の悪い術だが、遠隔攻撃が出来るのでアドバンテージは高いと以前自慢された事があった。
 と言うか、感心している場合じゃないな。
 なんとかこの間に封印を解除しないと。
 この術を選択したって事はあいつらはまだこっちに追い付かないって事だからな。

 ……野郎!これ、高位怪異、魔獣用の術式じゃねえか、ふざけんな!
 人間に使うようなもんじゃねえだろ!殺す気か!
 俺が身動き出来ないまま憤っていると、ヒラヒラ翔んで来たデカい蛾がその封印札の上に留まり、それがたちまち燃え上がった。
「うおアチ!」
 おお、アチいけどナイスだ、由美子!さすがにそれだけでどうにかなるような代物じゃないが、拘束力は弱まった。

「落ち着け!この程度の使い魔、大した脅威じゃねえ!それより獲物をさっさと回収して一旦引くぞ!」
 さすがにあの野郎立て直しが早いな。
 だが時間は十分に稼いだぞ。
 俺はなんとか動かせる指先で投擲用の細いナイフを袖口から引き出すと、胸の札を一気に引き裂いた。

「ちっ、てめえ!」
 リーダー格の男が早速気付いて身構える。やっぱり対処が早い。簡単にはいかないな。
 だが、
「うわああ!」
 悲鳴がその場の空気を引き裂いた。
 全員の視線が向いた先に、霧の中でもがいている少年が見える。
 やばい!こんなとこで人間同士争っている間に怪異が集まって来やがったんだ。
 早く助けないと拙いぞ。

「ち、仕方ねえ、引くぞ!」
 あろう事か冒険者の二人は素早く撤退しやがった。
 野郎、さんざん利用しておいて見殺しとかふざけてやがる。
 駆け寄ると、少年は何かに巻き付かれて宙に浮いた状態になっていた。
 口から泡を吹き、紫色に変色した舌が零れ出している。
 目もうつろで見開いたまま涙が流れっぱなしだ。
 毒か。

「おい!アンナ!てめ、正気に!ちっ、ああもう」
 仕方ないので棒立ちで固まっているアンナ嬢の周りに簡易の短期結界を展開すると、頭上の怪異の把握をしようと目を凝らした。
 上には、まるで空から垂れ下がるリボンのように薄くひらひらとした物がいくつもウネウネと動いている。
 背後で空気が動くのを感じて避けると、そのリボンのような物がえらい勢いで頭を掠めて行った。
 擦れ違いざまに見えたが、間近を掠めた瞬間、その表面にびっしりと刺が浮かび上がった。
 おそらくあれに毒が仕込んであるに違いない。
 それにしてもこの濃密な霧が邪魔くさい。
 こいつのおかげで相手の全貌を把握しにくいのだ。
 まあ何にせよ今はあの坊やの救出だな。
 俺は陸上の短距離スタートのように地面に屈み込むと、地面を真下に蹴って一気に飛び上がった。

 この怪異が何に反応して攻撃して来ているのか分からんが、リボン状のこの足のような物に感覚があるならダメージを与えれば反応するはずだ。
 俺は飛び上がりざま、サッカーのオーバーヘッドのような体勢でリボンの一本を蹴りつける。
 蹴られたそれは、すかさず俺を掴もうと、くるりと俺に巻き付こうとして果たせず、空振ったせいで丸まった。
 その丸まった部分を横ざまに蹴りつけ、三角飛びの要領で更に高く上がる。

「よし」
 目標はあやまたず、ぐったりとした少年を抱き取る事に成功した。
 獲物を離すまいとするリボンをもう一度蹴りつけ、落下の衝撃を殺す為に腕の中に少年を抱え込んだままゴロゴロと転がる。
 時間経過で解除された結界のせいでがら空きになったアンナ嬢の足元まで転がり、そのままその足を蹴ってやった。

「おい!起きろ!お前仮にも魔法大国の人間だろうが!こいつなんとかならないか!」
 俺の呼びかけにどうやらなんとか正気付き出したらしいアンナ嬢のぼんやりとした視線が俺の腕の中の坊やに注がれる。

「あっ!」
 息を呑み、一瞬ふらついたかと思うと、彼女はそのまま立て直し、もうほとんど鼓動が消えかけている少年を俺からひったくった。
 意外と立ち直りが早い。
 彼女は無駄な口を一切叩かず、少年の状態を確認するとすぐさまその上で印を切る。

「主よ、哀れなる子らを癒やし給え」
 もはや紫の肉の塊と化していた少年の全身を覆うように、白い花びらを綻ばせる花を思わせる魔法陣がいくつも開いていく。
 多重起動にも程があるだろう。なんなんだ、こいつの魔法。

「おっと!」
 放置プレイがお気にめさなかったのか、リボンのような敵さんが我先にとこっちに殺到して来た。

「人気者は辛いな」
 吐き捨てるように言って、それらをナイフで斬り飛ばす。
 ずるりと上空の一部が動いた。

「……うわあ」
 そのおかげでなんとかその輪郭を掴む事に成功する。

 頭上に展開するドーム状の傘。
 その下に飾りのように垂れ下がる何本ものリボン状の足。
「クラゲ……かな?」
 その見た目は海の嫌われ者であるクラゲにそっくりだった。

――――――補助事項ウンチク――――――

洋式符カード唯一教ピアレス関係の術者が使う魔術媒体。と言っても術者しか使えないという物ではなく、誰でも使おうと思えば使える。海外では手に入りやすい価格で一般販売されているらしい。
ただ、販売ルートがあまりにも雑然としているので、品質の保証が無い物がかなり出回っている。
日本では輸入禁止品。



[34743] 85、蠱毒の壷 その十九
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2014/02/13 05:04
 ざわざわと、クラゲのような怪異のリボン状の足が数を増やし、それぞれに角度を変えて一斉に突っ込んで来る。
 後ろは気になるが、正気に戻ったアンナ嬢がいる以上この程度の攻撃でどうこうなるとも考えにくいので気にしない事にした。
 ナイフで一々この量を相手にするのも馬鹿らしいので、片足を軸にぐるりと回転して迫っていた足を蹴り飛ばし、相手が反射的に怯んだのに合わせて飛び上がる。
 しかしあれだな、このグニャッとしたのを足場にして素早く高く跳ぶのはそもそもが無茶な話だった。
 力を溜めて緊張している瞬間ならそれでも十分に足場足り得るが、足場として所構わず蹴り付けるとなるとそうもいかない。
 結果として俺は本体の傘部分に辿り着く事なく途中で失速した。 
 だが、接近自体は無為でもなかった。
 クラゲ野郎は獲物を狩る事よりも我が身を守る事の方が大事だと思い至ったようで、下界の二人を無視してこちらに集中し出したのだ。

「おーにさんこーちら!ってね」
 耳元でこちらを捉えようとする足が風を切る音がヒュンヒュンと鳴り、足元はグネグネと蠢いて毒針を生やして巻き付こうとする。
 正直楽しかった。
 無理に力を抑える必要もない。
 少なくともこうしている間は俺は素でいられるのだ。
 好きな機械からくりいじりをしている時とは方向性の違った喜びが胸に沸き起こる。
 ナイフを持った手を一閃させると断たれたリボンのような足が一時輝いて消えて行く。
 それは人とは違う怪異の命の輝きだ。
 失った足をクラゲ野郎は頑張って再生させるんだが、その度に頭上の傘は僅かに縮む。

「おいおい大丈夫か?カサが減ってるぞ?」
 と、つい口にしてから恥ずかしくなって、聞く者などいないのに「いや、今のは駄洒落じゃないし」と言い訳をしてしまった。
 濃密な霧の中をヒラヒラと翻る白いリボンのような足と、それが光りながら消えて行く光景は、言ってはなんだがなかなかに幻想的なものだった。
 一歩跳ぶ毎に切り取られた足が舞い、傘が縮む。
 しかし波打つふんわりとした足は踏み切る力を与えずに、俺の位置は地上からさほど離れる事が出来ない。
 こうなるともはや我慢比べの様相を呈して来ていた。
 そしてどうやらその勝負に根負けしたのはあちらの方が先だったらしい。
 やがて頭上の傘がぶるりと一際強く震えると、たちまちさあっと大きく傘の裾を広げたのだ。
 同時におびただしく伸びていた足は本体に収納されて行く。
 まるで薄いレースの布地を頭上に広げられたようにクラゲ野郎が薄くふんわりと広がった。
 こんな時だが、そのあまりの幻想的な光景に俺の脳裏にふと、新しい玩具からくりのデザインが浮かぶ。
「帰ったら何か作るか」
 ぽつりと口走った俺を気にする事もなく、広がった裾は俺を包み込むと巾着袋のようにしぼられた。
 閉じられた内部が急速に収縮する。
 頭上でびっしりと歯に覆われた口らしき物が大きく開き、その両脇にぎょろりとした目玉が出現した。
「お食事の時間か?だけどお前、相手を弱らせて食べるのが通常の手段じゃねぇの?良いのか?普段と違う作法で?」
 少し弾力のある壁は、トランポリンの上のような不安定さだが、走れなくはない。

「んじゃ、いくぜ!」
 掛け声を掛けると一気に走り出す。
 踏む一歩が弾け過ぎて着地点が読めない。
 まるで夢の中で走っている時のようだ。
 これは走るより跳ぶ方が楽だなと気付いて、俺は膝を弛めて一気に踏み切った。
「よいせっ!」
 ギチギチと蠢く口に取り付くとその両脇の目がぎろりと睨んだ。
「デカ過ぎるってのも不便なもんだな、おい」
 そう言って笑って見せると無造作にその口を殴り付ける。
 鋭く並んだ歯が折れ飛び、開いた空間に潜り込んで蠢く内部を更に殴る。
 まるでゼリーをぐしゃりと潰したような感触がして、クラゲに似た怪異は活動を停止した。
 俺は、そういやクラゲって西方の言葉でゼリー?みたいな名前だったなぁと、どうでも良い事をその感触からふと思い出したのだった。

 さて、倒したのは良いが、敵さんがいたのは空中である。
 俺を包んでいた囲いに穴を開け切る前に本体が消えてしまい、たちまち俺は落下した。
 おかげで戦っていた時よりもヒヤリとする事となった。
 なにしろ霧のせいで高度がさっぱり分からないまま自由落下をするハメになったのだ。
 轟々と耳を聾す風切りの音は、しかし意外に早く終わりを迎えた。
 カツンと堅い音を響かせて降り立った場所はやや傾斜している。
「これは屋根かな?」
 そのまま下るとまた空中に投げ出され、今度こそ地面かと思えば柵があって、造り的にベランダのようだった。
 相変わらず地上が見えず、柵を越えて飛び降りるのも何か嫌な気分なので、俺は偵察も兼ねて室内から降りる事にした。
 ベランダから続くガラス戸は鍵も掛かって無くてカララという軽い音と共に開く。
 中は案外普通の部屋だった。
 家具があり、女物の洋服がハンガーに掛かっている。
 但しそこには色が無かった。
 立ち込める霧のせいなのか、それとも元々そうなのか、俺は以前観た事のあるモノクロの記録映像を思い出し、酷く非現実な気分になる。
 とはいえ、ここは迷宮だ。
 これ以上非現実な場所は無いに違いないし、それはまぁ仕方あるまい。
 あまり考えるのもかえって毒なので、俺は足早にその部屋を突っ切り廊下へと進んだ。
 吹き抜けのリビングを見下ろす螺旋の階段を踏んで一気に下の階に飛び降りる。
 ふと、どこからか水音が聞こえた。
 リビングにはソファーとテーブル、それに壁に嵌め込まれたデカいテレビジョンがあった。
「良い家だな」
 リビングから廊下へと続くであろうドアに顔を向けた俺の背後でピーンというハム音が響いた。
 思わず振り向いた目に映ったのは、テレビジョンの中の鮮やかな青い色だった。
「ぐっ!」
 一瞬目が眩んだ。
 と、ふわりと風を感じる。
 見回すと、どこかの庭らしき場所に立っていた。
 どうやらさっきの部屋が移動点ワープポイントだったらしい。
「ち、本格的に分断されたな」
 舌打ちをする。
 迷宮だけを相手にするのなら別に分断されても問題があるようなメンバーではない。
 しかし、血統狙いの冒険者が入り込んでいる現在、下手な分断は命取りだ。
 もうそろそろ浩二や由美子達とアンナ嬢が合流するはずなので、あっちは今の所大丈夫だとは思うが、この手の移動ポイントがあるなら全員で行動する必要があるだろう。
「さて、これが移動点を使った通路ならどっかに戻り道があるはずだし、単なる移動だけなら合流目標になりそうなポイントを見つけておかないとまずいな」
 辺りを見回した俺の耳に、突然笛の音が届いた。
「っ!」
 聴き覚えのある音色。
 古式ゆかしい木製の横笛の音だ。
「白音、いるのか?」
 ふわりと、庭の木立の前に和装の白音の姿が浮かぶ。
 色の無い世界の中に浮かぶその柔らかな橙の色は、人の暮らす場所に灯る明かりを思い起こさせた。
 普通の景色の中では決して強く主張しない色合いの彼女の姿だが、この霧にけぶる場所ではむしろ命ある者だという事をくっきりと示すようだ。

「お久しゅうございます」
「こないだ会っただろ」
 数ヶ月を過ぎているのだから普通に考えればそこそこ時間は経過しているはずだが、俺としては遭いすぎという感じだ。
 むしろ勘弁してもらいたい。
「よお、お楽しみだな」
 白音が来た時点でわかっていたはずなのに、俺は反射的に飛び退いてしまった。
 ぞっとする感覚が全身を走り抜け、気力が最低の所まで下降する。
 その代わりというようにふつふつと怒りだけが沸き起こった。
「こんな低い階層をボスが徘徊か?それとも自分の迷宮で迷ったか?」
 俺の嫌味をどうやら冗談の一種だと受け取ったらしい野郎は心から楽しそうに笑ってみせた。
 そう、この迷宮の主、終天童子が、己の眷属である白音を露払いにして俺の目前に実体化でお出ましくださったのだ。

「俺の意図とは違った方向だが、これはこれでアリじゃねぇか?なあ、坊主」
「てめえの意味の分からねぇ自慢話は沢山だ、俺は忙しい、しゃべりたきゃ一人でしゃべってろ!」
 叩きつけるような俺の言葉に全く感銘を受けた風でもなく、終天は実に楽しそうだった。
「命は争うのがあるべき姿。より高みへと届くのは頂点に立てたモノだけだ。だが、俺が思った以上に、人は争い合う事が好きとみえる。全くよ、人ってのはたくましく、いじましいとは思わないか?」
 くそっ、膝が崩れそうだ。
 命としての格の違い、数百年を生きる鬼の気が場を支配して全てを飲み込んでしまう。
「独り言を呟きたいだけなら好きにしてろ!」
 地面に貼り付きそうな足を引き剥がし、俺はあえて背を向けた。
 実際今はこいつの相手をしている場合じゃない。
「なあ、いつまでも地を這う虫で良いのか?愚かな獣は同じ場所に立つ相手に噛み付くのを躊躇わない。吠え立てられるのが嫌ならば、牙の届かぬ場所に立つしかないぞ?」
「失せろ!」
 フッと気配が消える。
 まるで何倍もの重力に晒されていたように我が身一つを支えるのに必死になっていたせいで、僅かな間に汗が全身を濡らしていた。
「くそが」
 吐き捨てるように呟いて、音を立てて奥歯を噛み締めた。



[34743] 86、蠱毒の壷 その二十
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2014/02/20 05:42
 自由気まま過ぎるラスボスは、好き勝手に言うだけ言うと気が済んだのか見事な程に痕跡を残さず消え去った。
 どうせあいつの事だ、こんな迷宮を造ってはみたもののただ待っているのは暇で嫌だったんだろう。
 この分だと迷宮の最奥に進んだは良いがラスボス不在とかありそうで不安だな。
 あんな野郎の事を考えても仕方がないので、不快な記憶は消去して帰り道を探索してみる。
 改めて周囲を見渡すと、この庭は子供用の遊具が並べられたそこそこ広い庭で、その周りを板塀が囲み、その塀の一画に裏口らしき出入口があった。
 ワープポイントがここに通じていたという事は、ここからしか入れないルートがあるのだろう。
 とりあえず今はまだその先に進む訳にはいかないので、俺は戻りのワープポイントが無いかと探した。
 一方通行でありませんように。
 ふと、耳が音を拾う。
 庭の真ん中の大きな木の張り出した枝に手作りらしいブランコが取り付けられていて、それがキイキイと音を立てて揺れていたのだ。
「まてよ」
 さっきの移動元の部屋では水音がしたな。
 俺はブランコに近付いてみた。
 近くで見るとそのブランコは青く塗られている。
 そっとそのロープに触れた。
 フッと意識がブレる。
 次の瞬間、俺の体はどこかの廊下にあった。
 まっすぐ延びたフローリングの廊下はそのまま玄関まで続いている。
「どうやら双方向タイプの通路だったか」
 ちょっとだけホッとした。
 一方通行だと合流の苦労は洒落にならないからな。
 左手にドアがみえる。
 おそらくと思ってそっと開いてみると、やはりそこがさっきのリビングとなっていた。
 通路が発動しない内に急いでドアを閉める。

「さて、これで合流出来れば良いが」
 玄関を出ると光る何かと鉢合わせした。
 すわ先のやっかいな集合体かと身構えたが、それは光の色がふんわりとしたオレンジで体が白い虫だった。
 由美子の式だな。安心すると同時にたちまち脱力してしまう。
 だが、こんな所で安心している場合ではないと気合を入れて先に進んだ。
 それにしても全然先の見通せない霧の中、この光る案内役は助かる。
 しかし由美子の式は種類が多いな。毎日少しずつ作っているんだろうか?
 さて、とは言え、先導の光だけを追っていると道路の段差とかに引っ掛かるんだよな。
 足元もすぐ近くまで見えないし。
 しかも路駐の車とかが突然目の前に現われるしでただ歩くだけでも油断ならなかった。
「ん?」
 目前に一つだけ青白い光を放つ街灯が見えた。
 チカチカと瞬いてその存在を主張している。
 俺は無言でその場所に近付くと、踏み込むと見せて素早く飛び退いた。
 途端に地面の舗装タイルがバカリと口を開ける。
「見え見えの罠過ぎんだろ」
 言ってそれを踏む。
 グシャリと歪んで消えた後に小さなカケラが転がったが、俺はそれを無視して先を進んだ。
「ちゃんと採集しましょうよ」
 声に振り向くと、カニのような足の生えたフレームのみの装甲車に乗った衛生兵殿が渋い顔で俺を見ていた。

「兄さん、迂闊」
 合流した途端、妹に説教食らった。
 何故だ。
「いやいや、小言を言われるべきはアンナ嬢であって俺では無いだろ」
 俺のその言葉と同時に背中に突き刺さるような視線を感じたが、ガン無視した。
「事前調査無しに屋内に侵入するとか、しかも一人で、これはあれですね、昔の、自信満々で恐いもの知らずの兄さんに戻ったという事ですね。いえ、十年以上経過しても全く成長していないという人類の脅威を垣間見させていただいたと言っても良いでしょうか」
「コウ、理屈っぽい嫌味は止めろ!どうせ調査するんだから一緒だろうが!高さも分からない場所から飛び降りるよりは実りがあるだろ」
「理由の後付け良くない」
「くっ」
「あはは、あんた達ほんと面白いっすね」
 大木がハンドルを握りながら振り向いて親指を立てて見せた。
 あぶねえよ!
「前見て運動しろ!」
「大丈夫っすよ。お初ちゃんは自立機能が飛び抜けているんですよ。フルオートでも全然問題ありません」
「お初って誰だよ」
「もちろんこの特殊装甲車可変式試作型00の愛称っす」
「ひでえセンスだな」
 我ながらバカバカしい言い合いだとは思ったが、
「あなた達、少し静かに出来ないの?」
 ピシリと鞭打つような声に指摘され、俺は思わずイラッとして眉をしかめると後部座席に顔を向けた。
 そしてその様子を見て取って、騒がしくした自分をさすがに反省する。
「悪いのか?」
 ある程度自在にスペースを作れるこの装甲車の特長を活かして、後部には今現在広いスペースが作られ、そこにあの異国の少年が寝かされていた。
 その両脇を固めるようにアンナ嬢と明子さんが付いている。
 別れた時の状態を思えば、今のその少年の様子は格段に良好と言って良いだろう。
 紫に腫れ上がっていた体は元のオリーブ色の肌に戻っていて腫れも引いている。
 しかし付いている二人の表情は冴えなかった。
「毒はその作用を潰して逆に体組織の復活に利用しました。体に負担の無い癒しを施せたと思います。身体自体に今は問題ありません」
 さすがだな。
 あの瀕死状態からそこまでスムーズに回復させるのは魔術ですら難しい。
 彼女に向かい合っている明子さんがまるで崇拝対象を見るような目でアンナ嬢を見ているのは仕方のない事だろう。
 本来、魔術は触媒を必要とするし、設定が細かくなるほどエラーが出やすいとの事で一般人が思うより不便な部分も多い。
 魔術を併用する医者が少ないのは、その治療に術式を使うと思わぬエラーが出た時に患者に掛かる負担が大きいせいだ。
 魔法ならその辺はクリア出来るらしいが魔法を使うには世界のことわりを理解し、それに同調してアクセスするという、いわばちょっとした神の権限が必要となる。
 神とさらっと言ったが、これはいわば世界を書き換える力なのだ。あまりにもリスクが大きい。
 しかしそれが魔法だ。
 なので魔法使いと呼ばれる連中も、滅多な事では魔法を行使したりしない。
 実のところ、彼ら魔法使いが使うのはほぼ魔術なのである。
 一般に魔法と魔術が同じ物と誤解される原因は主にこれだろう。陣形魔術式を魔法陣って言ったりするしな。
 魔法使いが使うのは魔法であると普通は思うだろ。
 だが、一方で、彼ら程魔術を理解している者もいない。

 アンナ嬢はおそらく魔法が使える。
 しかし彼女の凄みは魔術の行使に必要なはずの触媒を使わずに自在に魔術を使っているように見える所だ。
 術式関係は専門外の俺には単に凄いとしか分からないが、これはかなりとんでもない手並みのはずだ。
「ただ生命力、気力というべきものがこの子には枯渇しているわ。こればかりは外からどうにか出来るものではないから難しい」
 そのアンナ嬢が難しいと言うなら、俺らにはもはやどうにも出来ない状態だろう。
 実際少年はピクリともしないし、呼吸も心音もほとんど感じられない程だ。
 このまま死んでしまっても分からないのではないかと思えるほど、彼は命の気配が乏しかった。
「ひでえヤつらダ!」
 突然ピーターが叫んだ。
 車載システムからそれに共鳴するかのようにハウリングが発生する。
 こいつの叫びには何か機械に打撃を与えるような作用があるんだろうか?
「お初ちゃん!大丈夫かっ!」
 大木が慌ててパネルを操作するのが見えた。
人さらいマンハンターハ最悪な連中ダ!安心しな!出て来やがっタら俺ガ始末するぜ!」
 歯を剥いて仮想敵を威嚇する様は昔動物園で見たヒヒに似ている。
「アニキ!便りにしてるっす!」
 なぜか大木がそんなピーターにエールを贈った。
 いつの間にか仲いいな、お前ら。

「始末はともかくとして捕まえてはおきたいな」
 戦闘中に乱入されて後衛である由美子達が狙われたりすると冗談ではない。
 不安要素は早めに潰しておきたい。
 連中にはまだ手札が不明の二人もいる。
 なかなか怖い相手だ。
 ただ、俺達の認識出来る範囲内での殺人はやめていただけると有難いというのも本音だ。
 こっちは人が死んだニュースとか見るだけで食欲が無くなって眠れなくなるというデリケートな作りなんだからな。
 しかもアンナ嬢はおそらくそんなもんじゃ済まないと見た。
「もし確保出来たとして連れ歩くのは攻略の足手まといでは?どこかに安全圏を作って閉じ込めておけばこちらがボスを倒しさえすれば連中は勝手にゲート入り口に追い出されるのですからそちらの方が良いでしょう」
 どうも関わりあう事自体が嫌だと思っているらしい浩二がそんな提案をする。
 本音はこれ以上知らない相手が増えるのがきついんだろう。
 実はけっこう人見知り激しいからな、こいつ。
「いや、あいつらはおそらく未発見ゲートを使用している。連れ帰って専門家に取り調べを頼むべきだ」
 しかし分かっていてもそうもしていられない理由があるので、俺は説得に務めた。
 しかも実は未発見の迷宮ゲートだけの問題じゃなく、もっと奥深い問題がありそうな気がする。
 今までうちの国から勇者血統が流出していないのは、この国が島国であるという利点があったからだ。
 嫌な話だが血筋には一種の呪術的タグが埋め込まれているからその位置情報は分かっている所には分かっているらしい。
 狭い国土だ。例え封印されてしまってもロストした場所の周辺や国外へ出る為の施設を押さえれば滅多な事では取り逃がしたりはしない。
 しかし奴らは追跡について全く心配していない様子だった。
 だが、明子さんが意外な程の強い口調で宣言した。
「それは確かに重要な事です。彼らは出来れば確保しようと思います。ですが、今の段階での私達の第一は血統の系譜を守る事だと本部から指示が返ってきています。ですから、いざとなれば私達に任せてください」
 軍人に任せるという事は、生死を賭けた戦いが起こるという事だ。
 彼らは果たして分かっているのだろうか?俺達の気持ちは置いておくとしても、こんな場所で小規模であれ人間同士の戦闘行為を行うのは命取りとも言えるという事を。
 迷宮ダンジョンは悪夢の具現、つまりそれは悪意を成長させるのだ。
「本部の指示はともかく、今この迷宮内では俺がこの集団のリーダーのはずだ。俺の方針はやつらの確保だ。絶対に最初からやり合うつもりでは動かないで欲しい」
 それに、彼の事もある。
 死にかけて、生きる気力が尽きたように眠る少年。
 彼が家族の元に無事に帰るにはおそらくやつらの情報が必要となるはずなのだ。

「ったく、アマすぎるヒーローは必ず絶体絶命の危機に陥るんダぜ?イイか、あんタがどうだろうと俺は勝手に動くカらな!」
 言葉は軽薄だが、その目の光が強い。
 ビリビリと帯電するような殺気を放ち、ピーターはまるで唸り声を上げる猟犬のように、ひどく危険な雰囲気を漂わせていたのだった。



[34743] 87、蠱毒の壷 その二十一
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2014/02/27 23:03
 冒険者達の件があるとしても基本方針は迷宮攻略であるのは変わらない。
 それにくだんの冒険者達の隠形ハイディングは見事なもので、由美子の式による探索でも全く引っ掛からなかった。
 出来れば連中を先に片付けて迷宮に専念したい所だったが、見付からないものは仕方が無い。
 効率は悪いが全員纏まっての行動を心掛けるしかなかった。

 そんな風に自らももやもやした状態で霧の中を怪異の襲撃を退けながら探索した結果、結局襲撃のないまま道に沿っての屋外のみの探索は限界に到達した。
 装甲車のホロディスプレイが車内の空間に探索が終わった市街地マップを表示する。

「ピザのピースみたいだナ」
 ピーターがマップを見て感想を述べた。
 見たまんまである。
 いくらなんでも芸がなさすぎるだろ。
「この範囲が移動ポイント無しで行動出来る範囲だな。んでここが俺の発見した移動ポイント。仮にブルーポイントと呼ぶ」
「色と音がキーですか?」
 俺の説明を補足するように明子さんが確認して来る。
「今のところ一例だけなんで推測に過ぎませんね。一応そうかもしれないというぐらいの気持ちで」
「分かりました。しかしこうなると別れて探索出来ないのが辛いですね」
「全くだ。連中のおかげで動き難くて適わないな」
 俺は溜め息を吐いて同意する。
 ものが屋内探索だ。手分けして出来ないのは痛すぎる。
 しかし、言っても仕方がないよな。
「取り敢えず判明しているポイントから探索して行こう」
 という事で、俺が偶然発見したブルーポイントから移動した俺達は、庭を抜けて裏木戸を潜った。
 可変式とは言え、装甲車はさすがに屋内は無理かと思ったが、バイクのような形態に変化し、その中心にF1のコクピットよろしく少年を収納して自走して付いて来た。
 本当になんでも有りだな、こいつは。

 移動ポイントから出た道は思った通り新たな区画となっていた。
 ピーターの言葉を借りればピザの別の一片ピースという訳だ。
 そしてこのピザはどうやら四等分であるらしい事も分かった。
 その四等分のピースを二つ合わせて半円となったマップを携えて更に探索を続ける。
 霧の中を多人数で行動するこの階層は、一旦戦闘で各々の配置が広がると、その度に互いを見失っての分断や、あの冒険者による襲撃の危惧を抱いてヒヤヒヤしてしまうという、精神衛生上大変厳しい物となったが、その一方で、この階層の怪異の多くがクラゲ野郎や提灯アンコウ野郎のような、あまり移動をしない待ち伏せタイプだったのが幸いし、その出現パターンを覚えた装甲車のシステムが、未踏破マッピングの白地図上に予想される敵情報を光点として表示してくれたのでかなりの戦闘を避けられる事に繋がった。
 確かに難易度はそう高くはないのだろう。
 血統狩りの冒険者達がイレギュラーだった事を考えれば、まあ、易しい迷宮と言えた。

「データの分析程度、簡単な事です。それに、マスターに褒めていただけるだけで私も報われますから」
 問題は、この装甲車の擬似人格があまりにも人間的になって来て怖い事ぐらいだろう。
 大木は自分がマスターになれば良いんじゃないのか?お前の趣味なんだろ?俺はこれ、どう扱ったら良いか分からんぞ。

 戦闘において前に出たがっていたアンナ嬢は、件の少年の生命維持に掛りきりになっていて、そのおかげというのもおかしい話だが、俺の懸念はともかくとして戦闘時の混乱もなく探索は問題無く進められていた。
 だからといって幸いとは言えないのが辛い所だ。
 本当は探索を中断して、高級車買えるぐらい高価とは言え非常事態だし脱出符を使う事も考えたのだが、明子さんによればこの状態でアンナ嬢以上の事が出来るかは外の設備でも難しいのでは?という事なので、出来ればなんとか大元であるあの冒険者連中を確保してからじゃないとあまり利点がなさそうだった。
 だが、あれから不気味な程連中の気配がない。
 案外と神経を尖らせているこっちの消耗を狙っているのかもしれないとも思うが相手の出方待ちの状態は確かにキツい。
 なんにせよ事の推移全体が嫌な感じではあった。

「この周辺が次に該当すると思われるポイントです」
「おー、サンキューなお初ちゃん」
「オハツは優秀ダな」
「そんなに褒められると照れてしまいます。マ、マスターも褒めて下さって良いのですよ」
 なにやらおかしな会話が聞こえるが、俺はスルーした。
「ゾロゾロ纏まって屋内探索はさすがにげんなりするな。すぐに駆け付けられる隣接する建物程度なら分散しても構わなくないか?」
「そして移動ポイントに当たった組が移動先に待構えている相手とばったり、という事も有り得ますからね」
 俺の提案を浩二があっさりと切り捨てる。
 憂鬱だ。
「マスターが構って下さいません」
「酷イ主人だナ」
「あれっすよ、日本文化のツンデレというやつっす」
「勝手に変な属性つけんな!」
 くそ、構うと面倒だからと放置していればろくな事は言いやがらねえし、こいつ等どうしてくれようか。
 そもそもなんで単なる疑似人格相手にそんなに盛り上がれるんだ、お前等は。
「お前ら、もうちょっと危機感を持てよ。状態が良くない子供もいるんだぞ」
 俺の言葉に車内がたちまち静まり返った。
 あー、意気消沈させるつもりは無かったんだが、どうも身内だけじゃない集団は勝手が分からんな。

「アンナさん、申し訳ありません。私に医療方面の、せめてレスキュー相当の機能があれば」
 なし崩し的に「お初」と名付けられた装甲車のオペレーションAIが悲しそうな声でそう告げる。
 もはやそれは到底魂無き存在とは思えない物言いだった。
 その声を聞いていると、なんとなく冷たく接した事への謂れ無き罪悪感が押し寄せる。
「気にしないで。魔法医学でも心、つまり魂の取り扱いは外部からでは不完全にしか出来ない物なの。なんとか出来るとしたら魂の語り手ぐらいのものでしょうね」
「魂の語り手、ソれはシャーマンの事か」
 ピーターがぽつりと言った。
「あれ?シャーマンって巫女さんの事っすよね。神の信徒的に巫女さんは有りなんすか?」
 神を頂点に戴く事を信条とした二人の言葉に、止せば良いのに大木が反応した。
 宗教的な話題は地雷に成りやすいので集団行動時にはあまり話題にしてほしく無いんだけどな。

「あなた達異教の民はとかく私達に偏見を抱いているようですが、私達とて異能の持ち主をゆえなく蔑視したりはしません。それに見合った役割をきちんと割り振ってそれを果たす者は社会に受け入れられているのです」
「あ、いや、そういうつもりじゃなかったんですけど。なんかごめん」
 案の定というか、想定内というか、大木はアンナ嬢に睨まれてスゴスゴと撤退した。
 実の所、巫女を特別視しているのはむしろ精霊の民の方だろう。
 それもあまり愉快な特別ではない。
 ある意味うちの一族以上に巫女の歴史は悲惨なのだ。
 だがまあ一般人からすれば単純に巫女は頼もしい道標であり敬愛の対象であるだけなのだから、一般にはそういう意識は無いんだろうな。

「ともあれその子の事は本部に連絡しているんだし、あっちでも何か考えてくれるだろう。俺達として出来る事は元凶を取っ捕まえて詳しい背景を明らかにする事じゃないかな。その為には迷宮の攻略を進めて相手を探しつつ接触を待つのが今のベストだろう」
 俺の言葉に少なくともアンナ嬢は納得していないのは丸分かりだった。
 まぁ本部に連絡と言ってもモールス信号程度の通信では伝えられる事も限られているし、どれだけこの状況を理解してもらえているかは不明なのも確かだ。
 しかし彼女に代案がある訳ではないのもまた明らかだった。
 睨まれただけで反論が無いのはまぁそういう事だろう。

 さて、探索の方はポイントを絞り込んだおかげで、最初に案じたよりも移動ポイントは早く発見された。
 次に見付かったキーの色は赤、花瓶の花と物干しに掛けられた赤いカーディガンがそうだった。
 そしてキーと思われる条件のもう片方は、今度は音ではなく匂いだったようで、花の香りとひなたの洗濯物の香りが移動の合図だった。

「もう予想が付く。次はきっと白い色が目印で触感か味覚が移動」
 由美子が淡々と予測してみせた。
「その心は?」
「色は方位、もう一方は五感の視覚以外の四つ」
 簡単に答える妹に感心しつつ、しかしそれが合っていたとしても発見が早くなる訳ではない情報なので感心しただけで終わった。
 ついでに味覚はどうすんだ?と思っただけである。
 しかし浩二には思う所があるようだった。
「これはどうも単純に移動ポイントを使って場所を分断しているというだけではないような気がします」
 相変わらずの濃密な霧を透かし見るようにぽつりとそう言ったのだった。

――――――補助事項ウンチク――――――

巫女(シャーマン):魂(たま)読み、神降ろしとも呼ばれる。異能者。ただし能動的異能というより体質というのが近い。精霊や怪異、果ては他人まで、自分以外の意識を受け入れる事が出来、その意識と深い部分で交流が出来る。発現率の少ない希少で有益な異能としてあらゆる国家で特別待遇されている。



[34743] 88、蠱毒の壷 その二十二
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2014/03/06 04:10
 移動ポイントは由美子の予測通り次は白いアイテムだった。
 正直霧に霞んでどこもかしこも白いんだから白とか目立たないだろうと思っていたんだが、そんな事は無かった。
 食卓の上に置かれたガラスの容器に容れられた真っ白な粉状の物は、まるで陽を受けた新雪のように白く浮かび上がって見え、周囲の霧に包まれた風景は白ではなくグレーだったのだと知らしめてくれたのだ。
 しかし問題はそこではなかった。

「これは、……早速味覚か」
 塩か砂糖かはたまたそれ以外のなんらかの物体か分からないキーアイテムを前に全員の心に戦慄が駆け抜けたのを感じる。
「ええっと、ジャンケンで決めるとか……」
 そして、なんとか嫌な予感を回避しようと提案した俺が見回した全員の顔は同じ言葉を浮かべているように見えた。
「リーダー任せた!」
 大木がキラリと白い歯を見せて親指を立てて見せる。
 俺は無言でその頭を軽く撫でてやった。
「うおう!」
 頭を押さえてその場で転げ回る馬鹿者は放置するとして、ここはもう仕方ないだろうな。
 誰だって迷宮内の物を口にしたくないのだ。
 俺だって押し付ける相手がいるなら押し付けるだろう。
 俺が覚悟を決めてガラス容器に手を伸ばそうとしたら、横から由美子が袖を引っ張った。
「これ、念の為に口に含んでおいて」
 そう言って紙片を差し出す。
 それは爪の先程に折り畳まれた真っ白な紙だ。
 まあ、なんかの術式符だろう。
 毒探知用かな?
 考えても俺に分かる訳がないのでそのまま口に放り込んで飲み込んだ。
 そして覚悟を決めると、瓶を開けて白い粉を摘んで舐める。

「甘い……」
 砂糖だ。

 移動先には生クリームだけが掛かった真っ白なケーキが置いてあった。
 せめてこっちは徳利に酒とかにしとけよ。

 そんな調子で、最後の移動はふかふかの黒い猫のぬいぐるみとつるりとしたオニキスのピラミッドを経てマップが完成した。
 怪異は色々と襲って来たが、途中でキモい魚人にモリを持って襲われたのが一番大変だった。
 生意気にも眠りの魔術を使って来たのできちんと装備を固めていなかった大木がやられたのだ。
 他の全員、明子さんすら隊服の術抵抗レジストで対処したのにグッスリ眠り込んだ大木に呆れ果て、誰もその術を解除しようとしなかったぐらいだ。
 だって迷宮なのに対魔兵装を忘れるって、意味が分からんぞ。
 結局俺が装甲車のAIによる「マスター」攻撃に参って由美子に頼んで解除してもらうまでそのままだった。

 さて、そんな雑事はともかくとして、無事マップを完成させた時、俺達が見たのは霧が晴れた光景だった。
 怪異の姿も消え、すっきりとしたはずなのに、そこはまるでなんの気配もないゴーストタウンのような住宅街と化し、どこか薄ら寒い。
 なにもかもがシンと静まり返ってただそこにあった。

「マップは完成しましたが、ボス部屋へのルートが分かりませんね」
 明子さんが真剣な声で言った。
 まあこの人はいつも真剣なんだが。

「ん?あれ、最初からあんなのありましたっけ?」
 寝ている間に落書きされてやや男前度が上がった大木が指差した先には地下へと降りる階段、なんとなく地下鉄っぽい入口があった。
「気付かなかったな」
「建造物自体は私には探知出来ませんので見逃したのかもしれません。申し訳ありません」
 装甲車のAIがシュンとした口調で言った。
 どうやら落ち込んだらしい。
「リーダー、慰めて」
 大木が無茶振りをかまして来るが俺は無視した。
「イヤイヤオハツ、俺達も発見出来なかったンだし、君ダけの責任ジゃないよ」
 代わりにとでも言うようにピーターが慰めている。
 このAIこいつ等がそんな風に扱うから変に人間臭くなったんじゃないのか?

「取り敢えず行ってみるしかないな」
 俺の呟きに浩二が頷いた。
「条件を満たしたから新たなフィールドが開放されたという可能性もありますからね」
 なるほど、ありそうな話だ。
 変な凝り方がいかにもヤツらしいしな。
 俺達は真ん中に装甲車、殿を由美子という、隊列としてはやや中太りの形で階段を下った。
 由美子の式が先行してある程度の安全を確保しながら慎重に地下へと降りる。

 地下への通路は周囲を灰色のコンクリが囲み、天井に古臭い蛍光灯が並んで照らしていた。
 時折チカチカと点滅をしている物があったりして、なんとなく物資の供給が乏しい地方都市の地下街を彷彿とさせる。
 しかし壁にはそんな都市によくある落書きではなく、のたくる意味不明なシミのような物が続いていた。
 地上は色が戻ったのに地下はまだ灰色の世界だ。
 それが壁の色のせいなのか照明のせいなのか、本当に色が無いのか判別が付かないのが余計に気持ちを苛立たせた。

「カウント六十で接敵」
 階段を降りきった時、由美子の報告が届く。
「俺が先行する。ユミ、ナビを頼む」
 地下通路は一本道なので多少の先行は問題ないと判断して走り出す俺の前方に由美子の式ではない銀色の鳥が躍り出た。
「単独先行はリーダーのやるべき事とは思えません」
「全くダ!」
「お前ら」
 アンナ嬢の使い魔だか召喚の獣だかの鳥と、リニアか何か分からん仕組みで足が地に着いていない状態で何かを背面ノズルから噴射しながら進むピーターが両脇に並ぶ。
 止めとばかりに頭の周りでブンブンうるさく真っ白な蜂が飛び回っていた。
 いや、まあ由美子の式は俺が言ったから付いて来たんだろうけどさ、なんで耳元で物騒な羽音を響かせなきゃならんのかと。

「お前らは戦闘には参加しない約束だからな」
「この子は私ではない」
「雑魚とは戦わナいから安心シな」
 なんというへ理屈。
 しかしまあ説得している暇はないし、そもそも説得する自信がない。
 ええい、侭よ、なるようになるだろ!
 俺だってうるさく言うのも言われるのも沢山だしな。
 通路の先では両方の壁から滲み出るように怪異が出現していた。
 なまっちろいナメクジに指の無い手足を付けたような、不気味でふにゃふにゃした奴だ。
 顔があるべき場所にはただ丸くてガチガチと開け閉めしているシャッターのような歯が並んだ口が見える。
 これはあれだな、キッチンの流しにある排水口そっくりだな。

「うハ、いかにモ悪魔的なデーモンだな」
 ピーターが肩を竦めて言った。
「うん、マあなんだ、アレはお任せするゼ」
 キモいからか!
 まあ良いけどな。
 俺は走って来た勢いのままその排水口野郎に突っ込んだ。
 連中は「キ・キ・キ」と錆びた金属が擦れるような声を上げると、ふにゃふにゃの腕を振るって攻撃して来る。
 ブン!と振るわれた腕がその反動でグニャリと伸びる。
 やたら間合いが掴みにくい相手だ。
 やっぱこれはスライムの亜種なんだろうな。

 俺は伸びて来た腕を躱すと、擦れ違いざまにそれを掴んだ。
「ちょっと!」
 アンナ嬢の鳥が鋭く注意を促すが、言いたい事は分かっている。
 案の定、俺の指はずぶりと排水口野郎の腕に沈み込んだ。
 スライムタイプを相手にする時の最も注意すべき点がこれだ。
 スライムは自分の体で獲物を包み込む事で消化する事が出来る。
 こいつは口を持っているようだが、その基本の特性は同じようだった。
 指先にピリピリとしたむず痒さを感じながら俺はそいつをお仲間に向かってぶん投げた。
 それらは絡まり合って潰れながら転がり、その衝撃で部位の幾何かが千切れ飛んだのが見える。

「無茶な上に馬鹿ね」
 アンナ嬢の嘲るような口調が冷たく響いた。
「おオ、増えタな」
 赤毛男が言う通り、なんと敵さんはちょっと縮んで倍増していた。
 千切れた部位がそれぞれ一個体となったらしい。

「食えもしないのに増えやがった」
 心底めんどくさくなってそうぼやいた俺は悪くないと思う。

――――――補助事項ウンチク――――――

白きモノ:人型の軟体怪異。人型と言っても顔も指も毛髪もない。スライム系というよりヒルコの亜種と言った方が正しい。
その攻撃は打擲と、噛み付きによる吸血と同時の麻痺毒の注入。
物体透過能力があるので攻撃が効きにくい。
分断されるとそこから再生して増える。



[34743] 89、蠱毒の壷 その二十三
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2014/03/13 04:18
 目前に蠢く排水口の口をした気持ちの悪いヒトガタスライムモドキ。
 大小さまざまで十数匹だろうか。

「で、何がしたかったの?」
 冷ややかなアンナ嬢の声が耳朶を打つ。
 まるで脳髄まで凍りつかせるかのような声だ。
 いや、俺そんな高尚なプレイは望んでませんよ。
「いてっ!」
 何かを察したらしい鳥に突っつかれた。
「いや、ほらスライムはぶつけると合体するだろ?似たような感じだしあれもそういう風にくっつかないかな?と」
「くっつけてどうするのですか?スライムは合体するとその元の数以上の力と特殊能力を発現するはずです。厄介になるだけでしょう」
「だって纏めれば一度に倒せるだろ!」
 面倒が減るじゃん。
 俺の言葉に銀色のアンナ嬢の鳥はもう一度ついでのように俺の頭を突っつくとそのまま何も言わず上空で旋回を始めた。
 由美子の蜂は俺の鼻先を掠めるように飛んで敵の方へと飛び去る。
「すげエ!あんた天才ダな!なルほどネ、纏めればいっぺンに終わルな。俺は思い付きモしなかったぜ!」
 二人にスルーされる中、唯一ピーターがそんな言葉を放った。
 うわ、褒め言葉がすげえ腹が立つ。
 さすがあの大木と同類だな。
「……取り敢えずやるか」
 溜め息を吐いて足を踏み出した俺を追い越して銀の鳥が行く。
 ひらりと旋回した鳥は由美子の蜂と入れ替わるようにウゴウゴしてる排水口口連中の頭上でくるりと大きく輪を描いた。
 空気が音を立てて軋む感覚。
 たちまち蠢いていた排水口口の野郎共は見事に全部凍り付いた。
「おお、すげえ!」「ぐれぇえと!」
 奇しくも俺とピーターの声が重なり、おかげでまたしても嫌な気分になる。
「何をしているの。今の内に倒せばアナタが嫌いな面倒が無いでしょ!」
 またしても鳥に突っつかれながらそう言われて、なるほどと得心した。
 俺のリクエストを受けて面倒臭くないように纏めて固めてくれたんだな。
 アンナ、案外良い奴かもしれん。
 俺はアンナ嬢に対する認識を新たにしながら立ち並ぶ氷の彫像と化した排水口連中をラリアートの要領で殴り飛ばしつつ走り抜けた。
「おお、なんか気持ち良いな」
 ガシャンガシャンと砕ける氷の彫像の手応えは爽快だ。
 いつもこんな風に楽になるなら魔法ってのは素晴らしいな。
 などとやや身勝手な事を思ったりしてしまう。
 口に出すとアンナ嬢が今以上に手に負えなくなる予感がするので言わないけどな。

 びっくりする程楽な作業の後、粉々に砕けた残骸が消えた跡に複数の夢のカケラが残っていた。
 大きさもそこそこだし、案外と連中は大物だったらしい。
 割と見掛けに寄らないもんだな。
 拾い集めるのは面倒だが、これを拾わないと怒られるのでちまちま拾っていると、突然、銀色の鳥の様子がおかしくなった。
 ぴくりと震えると、まるで全身の羽根を散らすように消え失せたのだ。

「おい!」
 俺が叫ぶより早く、ピーターが後方に文字通り飛んだ。
 はええ、まるで戦闘機のようだ。
 あんな負荷を生身で受けて平気なのか?
 そんな疑問が頭を過ぎったが、今はそれどころではない。
 背後に残した一団は目視出来る距離にいる。
 見失うような距離ではないし、一本道だ。だからこそ先行したのである。
 ざっと見た所襲撃を受けたという訳では無さそうだった。
 だが、装甲車を見上げる浩二の顔が堅い。
 その横顔に、驚愕というより恐怖に近い物が浮かんでいるのを見て、ゾッとする。
 あのいつも沈着冷静な弟があんな顔をするなど、普通では考えられない事態だった。
 どうした?と大声で聞きたい所だが、声を掛けて集中を乱すと一大事なので、とにかく一刻も早く合流する事を優先して走る。
 と、ふいに背後にひやりとした物を感じて、考える前に体が動いた。

 ドガッ!と鈍い音と共に足元が揺れる。
「なんだ!?」
 怪異の気配とは違う何か圧倒的な存在感を放つ何者かが迫って来る。
 俺は再び本能のままに身をひねった。
 唸るような風圧が寸前まで俺の頭があった場所を薙いで行く。
 思わず舌打ちをしてバックステップで距離を取ろうとするが、振り切れない。
 恐ろしいスピードで胸元に突っ込んで来る相手をギリギリで躱すと、そのまま壁を蹴って斜めに飛び退く。
 駄目だ、まだ来る。
 逃げの一手では振り切れない相手と認識した俺は、一転相手の攻撃を受け止めた。

「ぐっ!」
 身構えて両腕でブロックしたにも関わらず、その恐ろしい衝撃に僅かに体が浮いた。
 ゾッとする。これは生半可な相手ではない。先手を取らなければ不味い。
 足が着くと同時に逆にこちらから突っ込んだ。
 ドン!とまるで鉄の塊にでもぶち当たったような衝撃があった。
 オイオイどんな化け物だよ!
 だがこのぶつかり合いのおかげでやっと互いの間に距離が出来、俺は相手を確認する事が出来た。
「な!」
 そこにいたのは人狼ワーウルフだったのだ。
 剛毛に覆われた顔に金色の瞳の虹彩、獣のような口から覗く牙、資料通りの姿形だ。
「嘘だろ、おい」
 人狼と言えばどっかの国の勇者血統のはずだ。
 なぜここにいるかとなればそれは恐らく愚問だろう。
 まず間違いなくあの連中の仲間だとしか考えられない。
 と、相手の体中の筋肉がみしりと音を立てた。
「がっ!」
 目で追えない風圧として感じる蹴りが来た。
 これを避ければ更に畳み込まれるのは分かりきっているので俺は敢えてそれに向かって踏み込む。
 背筋に電撃を食らったようなビリビリとした危機感があらゆる思考を封じ込め、本能に任せて戦えと促すのをなんとかねじ伏せ、俺は無意識に低い唸り声を上げながら相手の懐に潜り込んだ。
 すっ飛んで来た鉄骨のような蹴り足を左の二の腕で受けて撥ね上げ、半身を向けた状態の相手の腹に頭を突き入れる。
 ねじった状態から逆に開かれて受けた衝撃はけっこうキツいはずだが、相手はなんとそのままトンボを切って追撃を避けた。
 とんでもねえ、聞きしに勝る頑丈さだ。
 手強い相手との戦いを嗅ぎ取った血が、煮え立つような灼熱を帯びる。
 筋肉が歓喜に踊るように膨れ上がり自らの体を鎧った。
 ピシリと表皮が音を立てて硬化する。

「ガアアアッ!」
 何かを感じ取ったのか、相手が獣そのままの叫びを上げ、地面を抉る力で跳躍した。
 だが、その踏み切りは力が有り過ぎた。
 その跳躍は俺の頭より高く、踏み切った勢いは半ば失いつつ重力を頼りに落下して来るのみだ。
 もちろん、それは普通の人間相手なら致命の一撃と十分成り得ただろう。
 だが足りない。
 俺には足りない。
 俺は相手の落下を待たず垂直に飛び、そのまま相手の勢いを相殺するとその胴を抱え込んだ。
「ガア!」
「お前に足りねえ速さをサービスしてやるよ!」
 空中でくるりと体を入れ替える。
 そのまま俺の体重と勢いを乗せた人狼はコンクリの床を深く抉って墜落した。
 普通の人間ならこれでギブアップする衝撃だろうが、さすがは人狼、すぐに上に乗った俺を払い除けようと腕を振るう。
 俺が半瞬早く飛び退いたんで空振ったが、腕を振ったその勢いで立ち上がった。
 そして警戒するように俺を睨みつつ距離を取る。
 お互い決め手に欠けることを理解して相手の出方を伺いつつ対峙する事となった。
 噂に聞く事が本当なら、人狼ワーウルフは迷宮のような場所では肉体再生を持つ不死の存在だ。
 これはかなりやりにくい。

 睨み合いに入った俺はちらりと後方の一団を目に入れた。
 あちらは先程とは様子が変わっている。
 装甲車を囲むように周囲を警戒する浩二と明子さん。
 そしてピーターはこっちへと再び向かって来ていた。
 ぎょっとした事に、その顔にはくっきりと凶相が刻まれている。
 ピーターの両手が素早く腰の両側にあるケースからカプセル状の何かを取り出し、両肩の突起部分にそれを押し込んだ。
 あれは単なる装備としてのショルダーカバーかと思っていたがどうやら違ったようだ。
 たちまちピーターの皮膚越しに見える血管が目に見えて盛り上がる。
「悪魔共め!滅びるが良い!」
 それは、まるで奴自身が怨霊であるかのような、怨嗟に塗れた叫びだった。

――――――補助事項ウンチク――――――

人狼(ワーウルフ):ゲルマン帝国の誇る勇者血統。但し出現率はかなり低い。
特定の血統の者が規定年齢に達した時にハツル山に登り、闇の精霊の祝福を授かれば人狼となる事が出来る。成功者は一世代に一人出れば良い方とされている。
闇の祝福の多い場所程強くなり、満月の夜には無限の再生能力を持つ不死の存在となる。
強大な怪異の一種である吸血鬼に対する最も強力な対抗者とされてもいて、ゲルマン帝国の門外不出の勇者血統として厳重に秘匿されている。



[34743] 90、蠱毒の壷 その二十四
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2014/03/20 04:52
 ピーターの憤怒の雄叫びと共に、対峙していた人狼ワーウルフの周囲に無数の不思議な球体が浮かび上がった。
 それらは最初ビー玉ぐらいの大きさだったが、急激にその体積を縮小させ、ビー玉からパチンコ玉ほどのサイズになり、最後にはベアリングの玉ほどに縮む。
 無色透明なそれは映り込む光が無ければ見失っていただろう。
 むしろ反射でしか見えない状態だからこそ中途半端に見えていて認識し辛い所もあった。
 それらが小さく凝縮され、無数に散らばった今、薄暗かった通路内がキラキラと反射する光で埋まる。

「あんたは向こうへ行け!奴等の始末は俺に任せろ!」
「おい」
 ピーターの言葉と共に、空中に漂う細かく透明な玉は猛スピードで動き出した。
 異変を察知してこっちに飛び掛かろうとしていた人狼をそれらの玉が次々と貫く。
 その球体にどれだけの強度があるのか、まるで散弾を浴びたように人狼の体は損壊した。
 しかし、相手は無限の再生能力を誇る人狼である。破壊された端から再生していく。

「ウルアアアアアッ!」
 人狼の口から雄叫びが上がった。
 その体躯が一回り膨れ上がる。
 いや、全身の体毛が逆立ったのだ。
 ピンと突き立った体毛は、見ただけで堅そうで並の攻撃など通らなさそうに見える。

「残念だったな、俺の弾は重いぜ!どんな防御も無駄だ!」
 ザン!と、空気が振動する。
 細かい粒が密集し、一時いちどきに動いたのだ。
 ソレが人狼に一斉に降り注ぐ様はキラキラと光の奔流のようで酷く美しい。
 だが、それは残酷な凶器の美しさだ。
「ギャアアア!」
 人狼の半身が引き千切られた。
 それがこの戦いにおいて相手が負った最大の負傷だっただろう。
 俺は半ば唖然とその光景を見ていた。
 ピーターが戦いに参入してまだ数分も経っていないだろう。

「何してる天然の勇者さんよ!てめえは早くあっちを何とかしろ!俺は自慢じゃねえが知恵はまわんねえんだよ!」
 言われて、俺は改めて背後に意識を向けた。
 あっちはあっちで明らかに様子がおかしい。
 雰囲気が重く凍りついたようだった。
 それにほとんど動きがない。
 動かないというより動きかねているという感じだ。

「分かった!」
 ピーターの今の強さは確かに圧倒的だったが、それはなんとなく安心出来ない強さだった。
 どこがどうとは言えないが、どうも不自然さを拭い切れない。
 そもそも俺は彼に戦うなと言ってあったのだ。
 とは言え、流れは確かにピーターにある。ここは任せるべき場面だろう。
「分かった。無茶はするな」
「何言ってんだ!ヒーローってのは無茶をするのが通常行動だ!」
「そんな捨て身のヒーローなんざ格好悪いだけだ!」
 血が昇っている相手に言っても仕方ないかもしれないが、どうしても言わずにおれなかった。
 ピーターの体はまるで命を絞り出してでもいるかのようで、露出している皮膚の表面には血管が青く浮かび上がりあちこちにひび割れすら見える。
 だが俺が何を言おうと、今の彼が引くとは思えなかった。
 ピーターから答えはない。
 俺は仕方なく思いを振り切って装甲車の方に下がった。

「何があった!」
 俺の声に車両の脇で立ち尽くしていた浩二が振り向く。
 灰色の風景の中で分かりにくいが、その顔色は真っ青で表情が抜け落ちていた。
 嫌な予感が体の動きを止めようとしたが、俺は気合いを入れて車内を見る。
 何を見ても動揺しないつもりだった。

「っ!」
 だが、俺の決意は儚く砕ける。
 そこには例の少年を膝枕して涙を零す由美子の姿があったのだ。
 そして、肝心の少年の姿は、無残としか言いようがない。
 体中から頭蓋骨以外の骨という骨が飛び出していた。
 その口は絶叫しているかのように大きく開け放たれている。
 恐ろしい苦痛に歪んだ顔はそのまま硬直して元のあどけない顔を思い出させなくなってしまっていた。
 この少年がそんな風な苦しみを負う何があったと言うのだろう?それがもし罪人であったとしても、そんな苦しみをもって贖うような罪があるのだろうか?そう思わずにはいられない姿だ。
 俺はどうやら一瞬ふらついたらしい。
 気付いたら背中を浩二が支えていた。

「何があった」
 重ねて問う声が震える。
 怒りが体内で渦巻いて、目に付く物を手当たり次第に破壊したい衝動に駆られた。
 ピーターが切れるはずだ。
 まともな人間ならそれは耐えられる光景ではない。
 そして、その場にはアンナの姿が無かった。

「アンナさんが術を平行処理をしてトランス状態になっていました。魔法使いの集中を乱す訳にはいきませんから私達は一定の距離を置いていたのです」
 恐ろしい程冷静に明子さんが説明をする。
 怪異のおぞましい姿に悲鳴を上げていた時の様子など思わせない、冷静でどこか感情を抑えた声だった。
「そうしたら突然、その少年の体から飛び出した物が、今思うと骨だったのでしょう、それが鳥籠のようにアンナさんを囲んだと思ったら、一瞬後にはアンナさんは消え失せてしまいました。装甲車の記録には転送の痕跡がありました」
 ガリッと口の中に嫌な感触を感じて、俺は自分が奥歯を噛み潰さんばかりに噛み締めていた事に気付く。
「連中はアンナを、いや、勇者血統の誰かを確実に捕らえる為にこの子供を殺したのか」
 口にした言葉が苦い。
 実際に口の中に血の味が広がった。
 由美子の涙が閉じられた異国の少年の瞼を濡らす。
「可哀相。迷宮で死んだら魂は囚われたまま。私に巫女の力があれば大事な人の所に送ってあげられたのに」
 こみ上げて来る物をもう一度ぐっと噛み殺す。
 今は泣いたり出来ない。
「おい、大木。迷宮内に脱出符の痕跡はあるか?」
「……あ、うん。お初ちゃんどうかな?」
 大木は装甲車のAIに直接尋ねた。
「はい。侵入してから現在まで閉鎖空間内に揺らぎは発生していません」
「分かった。急ぎボス部屋へ向かうぞ!」
 迷宮を脱出するには脱出符を使うかこの層のボスを倒すしかない。
 脱出符が使われておらず、俺達が放出されてないという事は、まだ奴等もそしてその手中のアンナも迷宮内にいるという事だ。
 脱出符は特殊なルートで流通していて、なかなか一般に手に入れる事が出来るような術式符ではない。
 ブラックマーケットに全く無いという事は無いだろうが、ただでさえ高額な物がとんでもない値段になっているのは間違い無かった。
 連中が金目当てでやっているなら、そして自分達の実力に自信があるのなら、間違いなくボス討伐からの脱出ルートを選ぶはずだ。

「アンナを絶対に取り戻す」
 俺の言葉に全員が涙を拭って頷いた。

 まずはピーターの支援に入って、時間稼ぎであろう人狼を制圧する必要がある。
 再び今度は全員で合流した戦いの場は、血の臭気に満ちていたが、互いに決め手に欠いて千日手状態に陥っていた。
 ピーターの攻撃は広範囲爆撃並に回避がし辛いものだが、逆に言えば焦点を絞らせなければその攻撃は薄くなる。
 再生能力を持っている相手からすれば常に動き続ければ少々身を削られても行動を止められる事は無い。
 そしてその身を削りながら接近して攻撃を仕掛けるのだが、肉弾戦主体の人狼は攻撃の瞬間はどうしても位置が固定される。
 するとピーターからのあの恐ろしい集中攻撃を受けるので人狼側は距離を取るしかないという流れだ。

「ピーター!終わらせるぞ!援護に回れ!」
 言い捨てて俺は全速力で人狼に突っ込んだ。
 その人狼は、前からするとさすがに動きにキレが無くなっているように感じられる。
 奴はピーターの攻撃と俺のどっちに対応するか一瞬迷い、動きが止まった。
 そこへすかさず飛び掛かったのは、ピーターの玉でも俺でも無かった。
 天井を素早く這って奴の真上に到達していた由美子の式である蜘蛛が糸を吐き掛けたのだ。
 強粘着のそれは相手が暴れれば暴れる程強く絡まり締め付ける。
 さすがの人狼もとうとう身動きが取れなくなった。
「グルルルル」
 野生の獣さながら唸りながら転がり続けるが、もはや脅威にはなり得ない。
 だが、そこへ躊躇う様子も見せずに更に追撃を入れようピーターが迫る。
 俺はほとんど羽交い締めにするようにそれを止めた。
「やめろ!」
 ほっとした事にピーターの操る攻撃はある程度の集中が必要のようで、密集しようとする途中でそのまま停止する。
「止めろ馬鹿!無駄な殺生禁止!」
 俺は重ねて暴れるピーターに言い聞かせるように告げた。
「貴様が馬鹿だ!毒虫は殺すしかないんだよ!徹底的に駆除しなきゃ善良な人間を犠牲にし続けるんだ!確かに不死は殺しにくいが、さすがの狼野郎も微塵に砕けば死ぬだろうよ!」
 それは迷いの無い叫びだった。
 薄々感じていたが、ピーターには今回の件だけじゃなく恐らく何か似たような経験があるんだろう。
 だが、害のある相手だからこそ生きていないと意味がない事もある。
 死んだ人間は何も語りはしないのだ。
 まあ人死に耐えられないゆえの逃げと言われれば違うと否定は出来ないが。

「兄さん!」
 浩二の鋭い声に、俺達は諍いを止めて倒れている人狼を見た。
 問題が起きるとしたらまずはそこだろうという共通認識があったからだ。
 だが、俺達が目にしたのは想定外の事態だった。

――――――補助事項ウンチク――――――

新大陸連合の英雄(ヒーロー)計画:呪いにより勇者血統が生まれない土地となってしまった新大陸で対怪異のスペシャリストを生み出そうという国家的計画。
人体実験の噂が耐えなく、国際連合から二度の質問状が送られた。
答弁によると「愛国者の志願による合意に基いての実験である」との事だが、その内容は一切明かされていない。
異能者をベースにした強化人間を製造しているのではないかと言われている。
更にそのプロジェクトの一環として、国内のあらゆるメディアでヒーローを人類の救世主として喧伝している。



[34743] 91、蠱毒の壷 その二十五
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2014/03/27 04:14
 がんじがらめで転がっていた人狼であったはずの者は、僅かな間にその様相を一変させていた。
 急激に萎びる野菜のように、見る間に皮膚がたるみ皺が寄って行く。

獣化メタモルフォーゼが解けた?……いや、違う」
 獣相が消えた後に現われたのは痩せ衰えた老人の姿だった。
 いくらなんでもそれは元の姿として有り得ない。
 なぜなら闇の精霊は再生を司る。
 憑かれた者は老いを知らぬ体になるのは有名な話だった。
「どういうことだ?」
 だが今何かを考えている時間は無い。
 アンナを助ける為にはすぐさま走り出すべきだ。
 それでも、その有り得ない出来事は、喉につかえた小骨のようにひどく気に掛かる。

「これはきっと呪術の一種。憑依系統だと思う」
 由美子が言ってその老人の様子を見た。
「詳しくは分からないけど、この急激な衰弱と老化、これは依り代の命を代償にした禁呪だと思う。あの子に施されたものと系統が近い。この男は人狼ではなく、元は普通の人間」
 普通の人間に勇者血統を憑依させた?意味が分からない。
 体毛が逆立ち、薄ら寒いものが喉の奥をひゅうひゅうと鳴らすような気分だった。
 俺達が相手にしている者達は本当に人間なのか?

「またあのような事があってはなりません。その男は呪的拘束をしましょう」
 明子さんが厳しい声音で言った。
「しかしこう衰弱していては、命に関わるかもしれないぞ」
 言われた言葉を正しいと認識しながらも、俺は消極的に反対した。
 目の前の老人は死にそうなぐらいに衰弱した無力な人間にしか見えない。
 だが、目前でアンナ嬢が消えるのを目撃したであろう明子さんの懸念は分かるだけに、その言葉は抗議にすら届かず尻つぼみになるのは仕方の無い事だった。
 決して俺がヘタレとかそういうんではない、……はずだ。
「いいえ、本部からの命令はあなた方勇者血統を第一に優先するようにとの事でした。これは部隊のリーダーであるあなたの命令より優先されるべき命令です。それに、あなた方にはお辛いかもしれませんが率直に言わせていただければ、連中の仲間の命など私にとっては怪異以下なのです。いっそ地上から抹消できれば快哉を叫んでお祝いをしたい程です」
 ギョッとした。
 この人はこんなに激しい人だっただろうか?
 真面目で冷静な人だと思い込んでいたが、どうやら決してそれだけの人ではなかったようだった。

「私は今迄会った事のない守護者、勇者という存在に漠然と憧れていました。でもこの迷宮という絶望の場所に立ってあなた方と出会って気付いたのです。勇者は、無条件に人を守り戦う存在は、正しく人の希望なのだと。それを自らの欲の為に奪おうとする者を決して許してはならないのです」
「めーちゃんの言う通りっすよ。俺なんかよわっちいけど、今までこんな化け物だらけの場所でも怖いと思わなかったんですよ?それはきっと皆さんのおかげです。それなのに連中の好きにさせたら、俺なんかこっから生きて帰れなくなっちまうっすよ」
 明子さんの熱の籠った言葉は正直ちょっと怖かったが、大木の言葉には不思議と胸を突かれる気持ちになった。
 そうだ、俺達は彼らの命も背負っている。
 甘さに負けて譲って良いものではないんだ。
「分かった。だが出来るだけ生かして拘束してくれ。死人に口無し、だ。色々な事が分からなくなってしまうかもしれないだろ?」
 結局俺の妥協案を受けたのかどうなのか、人狼憑きとでも言う状態であった老人は厳重な軍用の拘束術式によって封印された。
 とにかくこの老人の命も、一刻も早くアンナを助け出してここを脱出すれば助かる話ではあるのだ。
 そのために、とにかく先を急ぐ必要がある。

 通路はやがてトンネル状のまま改札口に繋がった。
 そのゲートはご丁寧にも格子状のシャッターとなって行く手を阻み、液晶の操作盤がパスを求めるメッセージを表示している。

「いない?……いや」
 奴らがいないはずがない、ここにいるはずだ。
 俺達に追われている自覚があるなら先んじて脱出の可能性がある場所に来ないはずがない。
「コウ!」
「ああ」
 浩二の断絶は有機体を透過しない。
 どれほど完璧に隠れても存在自体を消し去る事は出来ないのだ。
 今目には見えないが、目前の空間ではパラフィン紙のように薄い界が空間をなぞるように生まれては消えているのだろう。
 浩二以外には見えず感じないそれは、さながら空間のCTスキャニングのごとく見えない何かを探り出す。
「いた、影よ!」
 言葉と共に浩二の影の一部がするりと抜け出すと空間の一角に襲いかかった。

「ちっ!」
 ばさりと、大きな布のような物が折り畳まれる音と共に、そこに連中が姿を現した。
 見覚えのある二人と見覚えの無い一人、そして、巨大な赤銅色の鳥籠の中に、両手を高く吊り上げられたアンナ嬢がいる。

「アンナ!」
 呼び掛けに反応がない。
「安心しな、生きてるぜ。まあこっちとしちゃ死なせちまっちゃ意味がないからな」
 ふてぶてしいというか悪びれないというか、堂々と人を狩ると言っていた野郎は、まるで自分の成果を自慢するかのようににこやかにそう言ってのけた。
 途端、バシュ!バシュ!と、背後から圧縮された空気の吐き出される音が連続で響く。
 明子さんか大木か、もしかしたら装甲車かが、警告無しで銃弾を撃ち出したのだ。
 それらは奴等のかなり手前で、弾かれるように跳ね返された。
 うおっ!あぶねえ!
 咄嗟に浩二が断絶の壁を展開したらしく弾丸は力無く地に落ちた。
 しかしなんかでかい弾丸なんだが、……これ人間用じゃないよな?

「ご挨拶だな。ならこっちからも返礼が必要だろうな」
 奴、前に対峙したのと同じリーダーらしき男が、ニヤニヤと笑いながらアンナ嬢の吊られた巨大な鳥籠を叩いて見せる。
 本来なら金属的な響きを返すはずのそれは、奴の手がそのまま突き抜けるに任せた。
 どうやらあの鳥籠は噂に聞く怪異捕獲用の特殊な装置のようだった。
 俺達が使う素材確保の為の封緘と似た仕組みなのだろう。

「兄さん!」
 由美子の警告に横っ飛びにその場から離れる。
「おや、残念」
 俺が今までいた場所には今まで不明だった最後の一人がいた。
 こいつさっきまであの男のすぐ後ろにいたはずだ。
 振り切った状態の爪の先が鋭い。

「……まさか」
 その気配に愕然とする俺に、奴等のリーダーが答えた。
「ほう分かるのか。やっぱり化け物は化け物を知るって事だな」
 あまりにも薄い気配のその男の足元に影はない。
 赤い目に白い肌、なにより不自然に伸びた二本の犬歯がその正体を物語っていた。

吸血鬼バンパイアだ……と?まさか、そんなはずはない」
 俺の言葉は虚しくその場に響いただけだった。

――――――補助事項ウンチク――――――

吸血鬼バンパイア:強烈な怨念が夜という概念(闇の精霊)の元で長い年月を掛けて熟成されて生まれる怪異。
様々な能力を誇り、人間の血を得る事でより強力になる。
血を吸った人間を操る事も出来る。
人間に対して最も攻撃的でしかも強力な怪異の一種で、たった一体でも一晩で小さな村や都市を滅ぼしたという伝説がある。
理性的で頭も良く、会話が可能であるが、一切の情を持たないので人と折り合う事は出来ない。



[34743] 92、蠱毒の壷 その二十六
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2014/04/03 04:45
 迷宮ダンジョンというのは、悪夢の具現化した物と言われているように酷く非現実的な存在だ。
 それが確固として存在出来るのは、中心に核があるからである。
 その核とはもちろん迷宮のボスの事だ。
 迷宮とは言うなればボスである怪異の夢のようなものと言って良いだろう。
 そこに、餌としての人間以外の異質な意思の混入は有り得ない。
 紛れ込んだり呼び寄せられた怪異は、核であるボスの意思に飲み込まれるか、逆にそいつがボスに成り代わるか、そのどちらかしか道は無いのだ。

「馬鹿な、迷宮の主の意思を反映しない異質な怪異が内部に存在出来るはずがない」
「そうだな」
 いきなり耳元に出現した声の主に、考える前に足払いを仕掛けた。
「足癖が悪いな」
 声と共に鋭い痛みが右足に走る。
 防御術式と防刃繊維に守られたズボンが裂け、うっすらと血が滲んだ。
「ほう、頑丈だな。ひと息に断つつもりだったが表皮に止まったか」
 移動が見えない。
 完全に物理法則を無視した動きだ。
 間違ない。
 こいつは怪異だ。
 しかもかなり上位の。
 やはり吸血鬼バンパイアという事か。
 こうなれば理由など考えている場合じゃない。
 そういう小難しい理屈はうちの出来の良い二人に任せておけば良いからな。
 まずは奴を捕らえる。
 目で見て間に合わないなら気配を頼りにすれば良い。
 薄くとも、独特なその気配は間違えようがない代物だ。
 俺は意識を集中した。

 しかし、その緊迫した攻防は突然打ち切られる事となる。

「ウラアアアアアア!!」
 全く警戒していなかった方向からの大声の不意打ちに、俺は一瞬大きく隙を晒す羽目となった。
 だが、幸運な事にそれは敵も同じだったらしい。
 気配が揺らぎ攻撃が止まった。
 そんな一瞬の空隙を突いて、無数の光の粒が舞い踊る。
「貴様らは滅びろ!」
 まるで一斉に焚かれたフラッシュの嵐のようにきらめきながら、それらは轟音を立てて殺到した。
「あめえな」
 一番の厚い攻撃は奴等のリーダーを狙い、更に牽制のためか他の連中にも降り注ぐ。
 だが、リーダーの男は余裕ありげに笑ってそう言ってのけた。
 到底避けようもない攻撃に思えたが、それはふいに消え失せる。
 周囲に霧が出現し、まるでそれに絡めとられるように小さな玉の動きが止まり、そのまま吸い取られるように消えたのだ。
「ちっ!シット!」
 ピーターの吐き捨てるような叫び。
 当然あの唐突な攻撃はピーターの物だった。
 俺は別にピーターの存在を無視していた訳じゃない。
 ただ、前の戦いで酷く消耗していたので、今回は参戦は無理だろうと高をくくっていたのだ。
 甘いと言えば俺が甘かった。

「面白いな。水を操る者は良くいるが、凍らせるのではなくこんなふうに固めるとは。だが、貴様自身に掛かる負荷は相当なものと見た。薬によるドーピングか?無粋だな。それ以外にも色々弄っているようだ。相変わらず人間は悪趣味でいけない」
 霧が消え去り、振り向いた視線の先で吸血鬼野郎がピーターを空中高く吊り上げている光景が目に映った。
 どうやらあの霧はこの迷宮の産物ではなく吸血鬼の特殊能力の方だったらしい。
 そして目前の光景はおよそ笑えるぐらいシニカルな物だった。
 吸血鬼野郎は病的な色白のひょろりとした男で、ピーターはゴツい装備を付けた大男だ。
 総重量が何百キロになるか分からないがかなりの重さだと見ただけで分かる。
 俺も理不尽には慣れているが、やはり不健康な見た目の男が自分の何倍もの重量のある相手を吊り上げる姿には違和感が拭えなかった。
 しかしだからこそ、そこには凶悪な力の差があった。

「ピーター!」
 バキバキという不吉な音を聞きながら、俺は吸血鬼野郎に肉薄した。
 ピーターを捕らえている今、奴はこれまでのようには動けないはずだ。
「っ!」
 しかし、思惑通り奴の右腕を掴んだのは良いが、それはびくともしなかった。
 なんとかピーターから引き剥がそうとしても、俺の攻撃など、そよ吹く風ほどにも感じていないように振り向きもしない。
 野郎、馬鹿にしやがって。
 ピーターの左肩の突起部分がひしゃげ、その内側、生身の肩へと装甲がめり込んで行く。

「ぐっ、ハア!」
 ピーターは声を上げたが、そのギラギラとしたまなざしは衰える事無く更に強い憎悪の光を帯びて行く。
「オレ、ハ、ヒーローだ!邪悪カオスをユルサナ……」
 言葉の途中、吸血鬼野郎の遊んでいた左手がピーターの喉をそのガードの上から掴んだ。
 メリメリと嫌な音が聞こえる。

「いい加減に、しやがれ!」
 体内の血を自ら煽るように燃え立たせる。
 全身が溶鉱炉に突っ込んだような赤銅の輝きを帯び、衝動が理性のコントロールを離れて暴れようと始める。
 掴んだ腕の中に指が沈んで行く感触に、相手を破壊したいという欲求が沸き上がった。
 メキリという音を聞くと同時に、相手はピーターから手を離した。

「ほう、力比べで我に挑むと言うか?少々体を弄られただけの哀れな餌に過ぎぬくせに」
 吸血鬼野郎の牙が伸び、歪んだその顔はもはや人間の範疇からはみ出してしまっている。
 俺は無言で更に力を込める。
 そして奴は牙を突き立てようと首に噛み付いて来た。
 唐突に響いたバキン!という音は、まるで太い鉄筋でも折れたような硬質な音だった。

「ぐ?あ?」
 突き立てた二本の牙は砕け散り、吸血鬼だった男はよろめき、急速に変化を見せる。
 あの人狼と同じく激しい衰弱と老化だ。
「な、なんだこれは!俺は今までどうして?……貴様!約束が違うぞ!」
 うろたえ、弱り果てながらもその元吸血鬼は仲間の男、リーダーらしき野郎を糾弾した。
「おいおい、約束は最強だろ?間違いなく元となったお方は最強なんだ。良かったじゃねえか、願いが叶って、な」
 せせら笑うように答える奴の手にある物を見て、俺は焦りを覚えた。
 それは祈り石と呼ばれる怪異の関わる物品の一つだ。
 命と引き換えに願い事を一つ叶えるというオーソドックスな物だが、実はチャージ対応で込められた力によってその相応の効果を発揮する。
 つまりある程度の夢のカケラをチャージすれば、かなり上位の願いが叶うという事になるのだ。
 安価なアイテムではないが、脱出符よりは数段安い。
 さすがは冒険者と言うべきか、効率の良いアイテムの運用をいろいろと知っているようだ。

「それに貴様の命は俺の役に立つんだ、光栄に思え!」
 告げるなり奴は術文を口にした。
「地に実りしえにしに依りてその血と肉、命の鼓動を我に」
 もちろん奴の詠唱が終わるのを悠長に待つ義理は無い。
 俺は奴の言い分が終わったと同時に吸血鬼になっていた男に向かって守護の術式を展開した。
 狭い範囲の固定術式という使い勝手の悪い術式符だが、その分強力なやつだ。
 だが、俺は翻訳された奴の文言を聞いて舌打ちした。
 縁を元にした呪は空間を超える。
 防げない!
 激しい憤りに襲われ俺は闇雲にナイフを投げ付けた。
 僅かにでも妨害出来ればという気持ちだった。
 仲間の魔術師がニヤリと笑い、ナイフは硬い音を立てて弾かれる。
 だが、

「残念だったな。貴様等は既に詰んでいる」
 浩二の声に、奴らは今初めて後衛の彼らに気付いたかのように振り向いた。
 浩二はこの戦いが始まると同時に装甲車周辺に防御を展開し、穏行の術を行使して密かにアンナ嬢救出の為の下地を築いていたのだ。
 奴らの焦りと驚愕は、そのまま自らの体に向けられる事となる。
「な、これは!」
 自らの影から滑るように湧き出た多数の蛇が二人の男の体から自由を奪う。
 まるで体が凍りついたかのように身動きが取れなくなる影の呪だ。
 バタリと倒れた連中をそのままに、俺はピーターを抱え起こした。
「おい、大丈夫か?」
 左肩からは出血が続き、ガードがそのままめり込んだ喉が細く笛のような音を立てて呼吸している。
「オ、オレの、弟ハ、俺をヒーローだと言っていたンだ。だから……」
 ヒューヒューと掠れた息の元で呟かれた言葉を術式が明瞭に翻訳した。
「おい、無茶すんな、馬鹿野郎」
 
 背後でガチャンという音がして、鳥籠がバラバラに崩れて消える。
 開放されたアンナ嬢は礼も何も口にせず、まっすぐこっちに来るとピーターの体を覗き込み、俺を邪険に押しのけた。
「邪魔です」
 そうですね、うん。
 彼女は得意の複数の魔法陣をピーターと倒れている元吸血鬼だった男に展開する。
 離れた場所でも主犯連中の拘束が終わったようだった。

 あれ?俺なんかしたっけ?

 一人あぶれた俺は、ボス部屋の入り口らしきパネルに歩み寄る。
 そこには東西南北の記号と様々な色の象徴アイコン、舌とか目とか耳とか鼻とかがフェイクのアイコンと一緒に並んでいて、パズルのように正しい場所に当て嵌めるようになっていた。
 なるほど、これは実際に移動ポイントを全て開放した人間にしか分からないし、開放していても覚えていないと先へ進めない。
 奴らがここで止まっていたのは俺達が開放した後を付いて来たせいで正解が分からなかったからなのだろう。

「どうしますか?マスター」
 音もなく近寄ってきた装甲車がそう声を掛けて来た。
 真っ先に声を掛けてくれたのが魔法機械って、ちょっと寂しい。
「ボス攻略は無理だ。脱出符を使おう」
 俺の言葉を聞いた仲間達は誰も意外そうな顔はしなかった。
 まぁ、どう考えてもこの状態でボス戦はやりたくないよな。
 早く本格的な手当や検査をしないとヤバイ奴が多すぎる。

 だが、とりあえず、使用する脱出符は国家予算で落としてもらいたい。
 切実に。

――――――補助事項ウンチク――――――

脱出符:迷宮ダンジョンからノーリスクで集団脱出出来る唯一の術式符。
その作成方法は秘中の秘であり、各国の王家からの下賜物たまわりものとしての提供としてしか世に出ない。
どうやら魔導者がその作成に関わっているらしい。
流通ルートが特殊な事と、取引される金額がもはや国家予算並である事から滅多な事では使用されない。



[34743] 93、掌の雪 その一
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2014/04/10 04:56
 俺達が迷宮から帰還するとその場は大騒ぎとなった。
 ある程度の連絡は入れていた訳だが、なにしろモールス信号による通信だ。
 怪我人がいる事が分かっていたので救護班はいても、警察官はいなかった。
 そもそもあいつらに国内の法が適用されるのかどうかも分からない。
 まぁ一応迷宮のゲートは我が国が領土宣言しているらしいのだが、迷宮内は無法地帯で、そこで起きた諸々が刑事事件として取り沙汰される事は無いはずだ。
 ただ、国際ルールはあるので、今回の一件は国際法で裁かれる事になるのだろう。
 お偉いさんにはさぞや頭の痛い話だろうな。
 とにかく容疑者とか死にかけている人間とか、……死体とか。
 一時に溢れたイレギュラーの数々を迅速に処理出来たのは一重にそこに酒匂さんがいたからだろう。
 責任の所在がはっきりしていると、人は物事を的確に処理出来るものなのだ。

「忙しい身なのにずっといたんですか?」
 俺はつい心配になって聞いてしまった。
「ここは私の職場でもあるんだぞ?ちゃんと執務室で仕事をしていたさ」
 などと言っていたが、どうだか。
 だって本庁舎はここじゃないじゃん。
 ここはあくまでも現場の本部であって、間違ってもトップの大臣が仕事をする場所ではない。
 取り敢えず俺達は報告書を後日提出という事でほとんどむりやり解散させられた。
 ピーターとアンナ嬢は自国のサポーターが慌ただしく引き取って行ったが、落ち着いたら俺達を事情聴取の名目で両国が自国大使館に引っ張っていきかねないという不安もあったらしい。
 この国は勇者血統を決して外部に出さないが、俺達にはハンターの肩書もあるし、要請を無碍に断るかどうかは俺達次第という事になる。
 精神的に弱っている状態では断りきれずに連れて行かれるかもしれないと、連絡を受けた我が国の偉いさんは戦々恐々としていたらしい。

「今日はとにかく何も考えずに休め。後の細かい調整は私達の仕事だからな」
 と、ほとんど追い出されるように慌ただしく重要事項の申し送りをして本部を出されたのだった。
 攻略の概要に関しては明子さんが細かい記録を付けていたので俺達の報告は主観口述と、別行動時の記録程度だった。
 それも一時間も掛からないという、お役所らしからぬスピードで終了した。

「なんか食べて帰るか?」
 本部の建物を出て、ちょっとした憩いの広場となっている前庭の敷地を横切りながら、今や同じマンションのお隣りさんとなった弟妹にそう声を掛ける。
 振り向くと、由美子はさっそく携帯を操作しているようだった。
 まさか、彼氏が出来た訳じゃないだろうな。
 不安に襲われた俺の気も知らず、浩二はのんびりと「そうですね」などと本部の敷地の境である正門を見やりながら答えた。
「この特区は冒険者向けの変わったお店も多いそうです、よ……」
 語尾が変な具合に途切れたので、疑問に思った俺はその視線を辿った。
「う?あ」
 なぜか門の前に、今正に全力疾走して来ましたといわんばかりに息を弾ませた伊藤さんがいた。
「早い」
 背後から小さくそう呟く由美子の声が聞こえる。
 ちょっと待て、彼女を呼んだのか?
 てか伊藤さん、どうやって特区に入ったんだとか、
 こんな無法地帯みたいなとこ、普通のお嬢さんの彼女には危ないだろ!とか、
 とにかく色々な想いが頭の中をぐるぐるしていて、すぐには言葉が出て来ない。
 その間にタタッと彼女に駆け寄った由美子が、
「ゆかりん、凄い、早かったね」
「うん、そこの茶店にいたんだ」
 などとやり取りを始めていた。

 いかん、このままでは状況に流されてしまう。
 危機感を持った俺は焦ってそれに続く。
「伊藤さん、どうしてこんな所に」
 怒るのも心配するのもほっとした気持ちも、全部いっしょくたになってなんとなく声に力が籠らない。
 当の伊藤さんは悪戯が成功した子供のように無邪気な笑顔を寄越した。
「やっぱり心配だったので」
 そう言って花が咲くように微笑んだ。
 やばい、なんか鼻の奥がツンとして来た。
 今の俺はそうとう情緒不安定らしいと自覚して、心の中でオロオロし始める。
 こんな状態で彼女と対面していて大丈夫なのだろうか。
「狡いですよ、そんな言い方をされると怒れないじゃないですか」
「あ、怒ってくださるつもりだったのですか?嬉しいです」
 くっ、この人は……。

 由美子が彼女の背後で滅多に見ない良い笑顔をしている。
 そして腹立たしい事にやや先行して振り向いた浩二が口角を僅かに上げて俺を見ていた。
 あの笑い方は、昔俺が集めていたグラビアをおふくろが部屋の掃除に取り掛かる前に頼みもしないのに隠しておいて御礼と称して小遣いを巻き上げた時の顔だ。
「それじゃ、兄さんをよろしくお願いします」
 由美子が伊藤さんに向かってぺこりと頭を下げる。
「え?」
 きょとんとした伊藤さんを余所に、由美子は俺に駆け寄ると、少し声のトーンを落として囁いた。
「今夜はてふてふちゃん達は私の部屋に連れて行きます」
「え?」
 何を言っているのか理解しようとする俺の耳に、更に浩二の声が聞こえた。
 なぜかご丁寧に遠くから囁きを伝える術を使っている。
「個々の部屋はプライバシーを守る為に完全に隔離しています。安心して彼女と過ごしてください」
「な!ちょ!」
 ちょっと待て!お前は何を考えているんだ?

「じゃあ僕たちはどこか美味しいお店でのんびり食事をしてから帰りますから。どうかふつつかな兄ですけどよろしくお願いします」
 ふつつかってどういう事だ!
 そもそもそれって嫁入りの時の嫁さんの常套句じゃねえか。アホか!
「え?あの」
 浩二の物言いに伊藤さんは真っ赤になった。
 なに、この可愛いひと。
 じゃなかった!
「おい、お前ら!」
 しかし、二人ニコニコと手を振りながらさっさと先へと行ってしまった。
 追おうにも赤くなってフリーズしている伊藤さんを置いて行く訳にもいかず、結果的に二人で取り残されてしまう。
 計ったな!後で覚えてろよ!

「えっと、伊藤さん」
「あ、申し訳ありません。びっくりしてしまって。せっかく身内だけでのんびりする所だったのにお邪魔してしまいましたね。私はただ、無事にお戻りになったのを自分の目で確かめたかっただけだったんです」
 今度はしょんぼりとしてしまった。
「あ、いや。あいつらうるさい長男を押し付けてのんびりしたかっただけですから」
 俺は必死で説明した。
 気を利かせたとか、いっそ兄を困らせて楽しそうだったとか、正直に言う訳にもいかないしな。
「それにしても、どうやって特区に?治安が悪いとまでは言いませんが少なくとも柄は悪いし、貴女みたいな人の来るような所ではないでしょう。危ないから止めてください。凄く心臓に悪いです」
 とにかく話題を逸してしまわねば。
 それに本気で説教ものだろ、これは。
 伊藤さんって見掛けと違って行動力がありすぎて怖い。
 ちょっと今後も気を付けないと何をするか分からないぞ、この人。
「あ、それは、ほら、うちのお父さん元冒険者だったでしょう?だとしたらお父さんのお仲間も冒険者じゃないですか。そう考えてそのコネを使いました」
 そう言って悪びれずにエヘヘと笑う伊藤さんは正に怖いもの知らずである。
 それに今日の彼女の服装はこの特区では浮きまくっているのだ。
 ふんわりとした毛玉のような襟元と裾の淡いクリーム色の短めのコートに、ふんわりとした白のロングのスカート、短いブーツは茶色と白で、ここにも毛玉のような物があしらわれていた。
 とにかく全体的にふわふわした格好だ。
 筋肉上等でゴツイ装備を着込んだやつらが行き交うこの特区の中では狼の群れの中の仔ウサギのように浮きまくっているのだ。
 よくもまぁ何も無かったものだ。
 俺はちょっと目眩を感じてしまった。
 何かあってからでは取り返しが付かないだろ、マジで。

「ここは伊達や酔狂で一般人立入禁止になっているんじゃないんですよ。冒険者ってのは命がけの生活をしている荒くれ者が多いんです。危ないです」
「あら、木村さんは忘れていらっしゃいます。私、こっちに住み着くまではその冒険者の中で暮らしていたんですよ?その頃は未開地開拓のメンバーだと思っていましたけど。だからこういう雰囲気は懐かしいぐらいです」
 ああ、そういえばそうだったっけ。
 でもそれって親父さんの仲間パーティとか同盟ギルドとかの身内だけだよね。
 そういうのとこういう野放図な場所って一緒にして良いもんじゃないと思うぞ。
 俺は溜め息を吐いた。
 そして、ふと気付いた。
 迷宮からずっと引き摺っていた、重い、足を捕らえる泥のような感じがちょっとだけ軽くなっている事に。
 伊藤さんは俺に怒られたと思ったのか、強気に言い返したものの、流石にしゅんとしている。
 ああ、そっか、俺はやっと帰って来たんだ。
 たった一日半潜っていただけなのに、彼女の纏う柔らかな日常の空気が懐かしい。
「まぁ、でも、その、来てくれてありがとう。その、嬉しかったです」
 そして俺はほとんど反射的にお礼を口にしていた。
 果たして、伊藤さんの表情がぱあっと明るくなる。
「はい、私も嬉しいです。おかえりなさい。無事で良かった」

 ああ、良かったな、帰って来れて。
 俺は改めてそう感じたのだった。



[34743] 94、掌の雪 その二
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2014/04/17 05:32
 場所柄落ち着かない気持ちのままに、かろうじて「何か食べに行きますか?」という提案をした俺に、伊藤さんは「お部屋にお邪魔してはいけませんか?」と応えた。

「え?」
 俺はその言葉を理解するのに半瞬を、それが俺の願望による幻聴ではないかと考えるのに数秒を要し、更にその返事を考え付く事が出来ず言葉を無くした。
「お疲れでしょうし、お店で食べるより材料を買って帰ってゆっくり出来る自分の家で食べる方が良いでしょう?」
 ちょっとはにかむようにそう尋ねられた時の俺には、もはやまともな思考力があったとはとても言えない。
 その後、特区を出てスーパーかコンビニで買い物をしたはずなのだが、その辺り俺の記憶にはろくすっぽ残っていなかった。
 辛うじて記憶に残っていたのは、伊藤さんがマンションのセキュリティと部屋を見ていちいち驚いていた事だ。
 確かに静脈と波動形と網膜までチェックするのは珍しいだろうし、前のアパートを知っていれば新しい部屋はびっくりするぐらい綺麗で広いと思うだろう。
 実はこの部屋ファミリーサイズなんだよな。
 一人では完全に持て余す広さだ。
 そんなふうにぼうっとしていた間に無意識に荷物を片付けたり部屋で着替えたりし終わっていたようで、俺は自分の無意識下での意外な才能に少し驚いた。

 リビング兼ダイニングキッチンに戻ると、伊藤さんはいい匂いをさせて料理を作っていた。
 何も入っても乗ってもいないカウンターテーブルの向こうで、持ち込みらしいエプロンを着けて背中を向けている。
「実は一回テレビで観て作った事があるだけなんです。もし美味しくなかったら正直に言ってくださいね」
 広いフローリングのリビング側に平織りのい草のラグを敷き、馴染んだちゃぶ台がデンと置いてあるアンバランスなそこで、俺はあろうことかぼうっとしたまま座り込んでしまっていた。
 なにお客さんに全部任せてくつろいでるんだよ、俺!
 ふと正気に戻って唐突にスイッチでも入ったかのように立ち上がる。
「あ、手伝います!」
 何やってんだか、全く。
 伊藤さんに何もかもやらせて何様のつもりなんだ。
 自分を殴りたい気持ちになりながら慌てて立ち上がるとキッチンに猛然と突き進む。
 伊藤さんは笑いながら「じゃあお皿を並べてください」と指示を出した。
 どうやら料理はもう完成してしまっていたらしい。
 ああ、もう。

 こっちに越して来てから、本人の知らない間に食器が増えていて、以前のように皿が足りないなどという事はない。
 そのいつの間にか増えた白地の大皿に綺麗に収まっていたのは、黄金色のふんわりとこぼれ落ちそうなオムレツだった。
 赤いケチャップがその上で『パワー』という文字を描いている。
 伊藤さん、お茶目すぎる。
 それにしてもなんで今一番食べたい物がドンピシャでここにあるんだろう?伊藤さんは実は読心リーディングが出来るのか?とおののいた俺に、当の伊藤さんがほんのり頬を染めて言った。
「せっかくリクエストしてくださったのに、美味しくなかったら本当にごめんなさい」
 彼女の緊張している顔を見て思い出す。
 そうだった、何のことはない、俺がリクエストしたんだった。……たぶん。
 おぼつかない足取りで皿を運びながら、俺はふわふわした意識を現世に引き戻す。
 このままでは無意識に何をやらかすか分からない。
 理性を手放しては駄目だ。取り返しが付かない結果になる確信がある。

 付け合わせの温野菜のサラダとオニオンと鶏肉のコンソメスープ、そしてご飯だけはなぜか和風にご飯茶碗に盛られて出て来た。
 でも、これは嬉しい誤算という所だ。下手にご飯が洋皿に盛られてナイフとフォークとか出されるよりこの方が気楽で有り難い。
 もちろん二人共箸を使った。
 いつの間にか点けていたらしいテレビジョンからはニュースの時間らしく本日の出来事を読み上げるキャスターの声が聞こえている。
 内容はあまり頭に入って来ないけどな。

「わがままを言ってすみません」
 無意識に食べたい物をリクエストしたのだろう自分の甘えを思わず謝った俺に、伊藤さんはちょっとふくれて見せた。
「わがままを言ってくださいってお願いしたのは私ですよ。むしろ言ってくださらなかったら怒ります」
 ああうん、そんなこと言ってたような気もするな。そう言えば。
「前に、料理番組で、すっごく美味しそうだったんです。そのオムレツ」
 伊藤さんが微笑んで言った。
「だから作ってみたんですけど、一人で食べるような料理じゃないなって思って、それっきりでした。なんにでも手を出して好奇心が強過ぎるっていつも母に怒られるんですけど、やっぱりそんなのでも経験があって良かったです」
 ふんわりとトロリとしたそのオムレツは、色々な具材が詰め込まれていて、子供の頃憧れていたオムレツそのものだった。
 凄いな、やっぱり伊藤さんは俺の心を読めるに違いない。
 人間って素晴らしい。

「特区には今日初めて入りましたけど、やっぱりちょっとだけ懐かしい感じがしました」
「そうなんですか?」
「ええ、私がこっちに来るまで暮らしていたキャンプ村もあんな感じで、防具や武器を装備したまま生活している人が一杯いたんです。まるで喧嘩のような大声の怒鳴り合いがしょっちゅうあって、賑やかで楽しかったな」
 そっか、それが日常だったのなら伊藤さんが特区や冒険者を恐れるはずもない、か。
「そういう生活も楽しそうですね」
「ええ、今でも時々懐かしく思い出します」
 伊藤さんは、迷宮の事とか、俺の様子が変な事とか聞いたりしない。
 隠し事をしない約束なのになんで話してくれないんだと責める事もしない。
 きっと聞きたいだろうに、きっと俺を信じて待ってくれているんだ。
 そう分かっているのに、俺はどうしても今日の事を話す事が出来なかった。
 まだもう少しだけ待って欲しい。
 身勝手でわがままな奴だと自分でも思うんだけどな。

「俺の……」
 食器を片付けて手持ちぶさたになると、浅ましい事に途端に伊藤さんの顔や首や襟元に視線が彷徨い出す自分に焦って、俺はふと口走っていた。
「俺の、子供の頃の話を聞いてくれますか?」
 言いながら俺は自分に問い掛けた。
 おい、一体お前は何を言うつもりなんだ?
 彼女は優しく温かい日常の中に生きる人間だ。
 その話は非日常真っ直中の身内にさえ無理だと思った話だろう?
「はい」
 彼女の声には微塵の惑いもない。
 前にそう宣言したように、俺の全てを受け入れるという気持ちの篭った、そんな迷いのない声だった。
「……この話は、実は家族にもほとんど本当の事は言っていないんです。だから伊藤さんが初めてこの話をする相手になります」
「はい」
 そこにあるのは全くの自然体。
 少しでも彼女が身構えれば俺は自分に言い訳が出来た。
 誰にも知られたくないという気持ちのままに、ずっと俺一人の胸にしまっておけた。
 だが、本当は俺には分かっていた。
 これは絶対に俺一人で抱え込んではいけない問題だと。
 しかし、今までは俺の周りにはあまりにも近すぎる相手しかいなかった。お互いに傷付かずにこの話が出来るような相手がいなかったのだ。
 だけど伊藤さんは怪異の跋扈する世界から遠く、そんな世界の戦いからは更に遠い。
 きっと俺の体験は彼女を傷付ける事はないだろう。

「あれは、弟が生まれて二年が過ぎた頃だったと思います。俺は五才ぐらいでした」
 ずっと思い出すまいと思っていたが、本当は一瞬たりとも忘れた事が無かったのかもしれない。
 俺はあの日の風の匂いさえ今でも生々しく思い出す事が出来るのだから。

――――――補助事項ウンチク――――――

じゃがいもと鶏肉のオムレツ:伊藤さんが以前テレビ番組で見た三ツ星レストランの人気メニューを再現した物。
レシピ公開はされていなかった為、番組中の手順と、ネットで検索した基本の作り方を参考に少々手を加えて作ったオリジナルに近いオムレツ。
たっぷりのバターとチーズを使い、ふんわりとした外側ととろりとした内側を再現している。
本格派のようでいて端の方が茶色くパリっとしているのが家庭的で良い感じだったという木村氏の感想がある。



[34743] 95、掌の雪 その三
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2014/04/24 06:20
「俺が三才になった頃に弟が生まれて、家族はその赤ん坊にかかりきりになりました。弟が物心付くまで俺はほとんど放置状態で、まぁ寂しかったんでしょうね。最初は我慢してたけど、それも二年も過ぎれば限界を過ぎてしまった」

 当時の俺は一族の事情など知らなかった。
 突然家族全員が自分を放って弟だけを可愛がり始めたという事実が全てで、酷くひねくれた気分になっていた。
 家族にしたって、何しろやっと俺が物心付いて一安心した所に次の赤ん坊が生まれたんだ。到底俺に意識を割くどころじゃなかっただろう。皆クタクタだったに違いない。
 普通ならもう少し手分けして上手い事上の子にも気を掛けるんだろうが、間が悪かったんだな。
 だけど、そんなふうに割り切れるのは今の俺が大人だからだ。
 あの頃の俺はひたすらいじけていた。
 何かと言えば悪戯をして気を惹こうとして疲れたような溜め息を吐かれたりして、それは怒られるよりもずっと惨めで、いつしか俺は用がない時はほとんど家に寄り付かなくなってしまった。
 なまじ他人より丈夫なのも良くなかったんだろう。
 家に帰らずに木の上で寝たりしても、どこかが痛む事も風邪をひくもなくって、たまに家族が心配して探してみれば元気に近所の子達と遊んでいるといった具合だったから、家族も俺を好きにさせるようになってしまった。

 え?育児放棄?いや、そういう訳でもないんだけど、伊藤さんに説明するのは難しい。
 うちは特殊な家系で、異能を持って生まれている確率がやたらと高い。
 物心つく前の状態だと無意識に暴走させてしまう事故が有り得るから、常に用心の為何人かで張り付いていなければならないんだ。
 俺がそういう事情をちゃんと飲み込んだのは妹が生まれた頃だったんだが、よくよく考えてみれば約九年間うちの家族は気の休まる暇が無かったという事だから、そりゃあ大変だったろうな、マジで。

 とは言え、そこはみんなが親戚とほとんど同じような小さい村。
 俺も他所の家でも平気でご飯を食べさせてもらったり泊まったり出来てたし、そういう感じだから尚更家族も心配しなかったんだろうな。
 え?へえ、伊藤さんも冒険者のキャンプでそんな感じだったんだ?結構大所帯のキャンプだったんだな。
 まぁそうだな、狭いコミュニティってそんなもんだよな。

 だけど、あの頃の俺の気持ちとしてはちょっと捨てられたような気持ちがあったんだろうな。
 恥ずかしい話だが寂しかったんだろう。きっと、あの頃は。
 段々やる事がやんちゃを越えて無茶をするようになっていった俺は、そしてとうとうあの日、村の結界を越えて山へ入ってしまったんだ。

 まぁ結界と言っても、うちの村は他と比べれば結構ゆるゆるの結界で、雑魚な怪異は村の中にも普通にいたし、子供達が遊びで退治したりもしていたから、結界の外と言っても俺にはそんなに不安は無かった。
 というか、心配して貰いたかったんだろうから、そこそこ危ない方が良いぐらいの気持ちだったと思う。あの時の俺は。

 だけど、今まで入った事の無い山の奥に子供が一人で入ったらどうなるか、誰にだって分かる話だ。
 そう、俺は見事に道に迷ってしまった。
 なんというか、プチ遭難……みたいな。

 あ、あれ?いや、ここ、泣くような所じゃないから、ちょ、伊藤さん?大丈夫だから、その先がちゃんとあるから、ね?

 それでふらふら当てもなく歩きまわっていたら、ふと、どこからか音が聞こえた。
 それも動物の立てるような音とかじゃなくて、楽器の、笛の音だったんだ。
 へとへとだった俺は、やっと村の近くまで戻れたと思った。
 それで勢いよく走ってその音の出処へと向かったんだ。

 段々音が近くなると、その音が何かのきれいな曲を奏でている事に気付いた。
 それになんだかそっちから良い匂いがしている。
 花の匂いだったのかな?今でも良く分からないんだが、とにかく何か良い匂いだったという事だけは覚えてる。
 そして、藪を掻き分けて進んだ俺は驚いた。

 そこには、俺が小さい頃おふくろが寝る前に話してくれた昔話に出て来たような、桃源郷のような光景が広がっていたんだ。

 

「あ!」
 と、思わず声を出した俺に、笛を奏でていた相手が振り向いた。
 彼女はなんというか、まるで花の精のようだった。
 薄紅の、ふわりと肩に掛かった髪に夕焼けの色の目、横笛に掛かったほっそりとした指のびっくりするような白さ。
 彼女の髪の色に似た花びらがゆっくりと風に舞って漂っていたから尚更そんな風に思ったんだろう。
「ほう、お客か?」
 その時、思わず立ちすくんでいた俺のすぐ近くから声がして、俺は文字通り飛び上がった。
 全然誰かがいるという事に気付かなかったからだ。
 慌てて振り向くと、そこには一人の男がいた。
 男のくせに髪を肩より長く伸ばしていたが、不思議な事に全然女々しい感じはしない。
 それどころかまるで野生の獣のように油断出来ない荒々しい雰囲気がして、俺は酷く緊張した。
 笑顔だったが、むしろそれこそが恐ろしかった。
 だからあれこれ考える前に、俺は慌てて飛び退いて距離を取った。
 総毛立つというという状態に、この時初めてなって、ぞっと体が冷える。
 だが、そいつはすぐにその獰猛な気配を引っ込めた。
 そうすると俺を震え上がらせた気配はたちまち消え去って、どこか人懐っこい顔をした青年といった風情になる。

「どうした?お前、人んちに転がり込んで来て挨拶もねぇのか?」
 そいつはニヤニヤしながら乱暴な言葉遣いでそう言うと、俺の顔を見て挑発するように口角を上げてみせた。
 俺は持ち前の負けん気の強さが出てしまって、むっとしながらも相手の言葉を受けて自分のいる場所を確認してみる。
 改めて周りを見回すと、そこは広い庭のあるそこそこ立派な田舎家だった。
 俺が転がり出たのはどうやらその庭の一画のようで、目前に小さな小川とその岸辺に石造りの休憩場所があった。
 どうやら二人はそこでお茶をしていたようで、このテーブルの上には茶器のセットと綺麗な和菓子が見える。
 道を探してさまよっていた俺は、それを見て思わず喉を鳴らしてしまった。
 喉が乾いて腹も減っていたし、もう色々限界だったんだ。
 だが、まぁ確かに相手の言っている事が正しいという事は分かった。
 なのでそれから目を引き剥がすと、俺は男に顔を向け直して、謝る事にした。

「突然ごめんなさい。道に迷って、俺」
 俺の言葉に、相手の男は弾けるように笑い出した。
「お前、こんなとこで迷ったのか!そりゃ恥ずかしいな!」
 またむかっとしたけど、相手の言う事は確かにその通りで、俺は恥ずかしさと怒りで頭が沸騰しそうだった。
 だけどそこへそっと肩に触れる感触がした。
 見上げると、最初に見た女の人が無言で頷いて俺をテーブルの方へ向かわせようとしてくれた。
 どうやらお茶を振る舞ってくれるつもりのようだと理解した俺は、おそらくこの家の主だろう男に視線を移す。
 彼女は全然口を開かないし、どうして良いのか判断に困ったからだ。
「まぁ茶ぐらい振る舞ってやるさ、せっかくの久しぶりの客だ。話し相手が増えるのは歓迎するからな」
 態度はとんでもなく偉そうだったが、どうやら歓迎してくれているようだという事は分かった。
 俺もさすがにいい加減限界だったし、ありがたくお茶に呼ばれる事にしたんだ。
 段々慣れて来ると、その男の態度もあんまり気にならなくなったしな。
 何より、この二人は俺が子供だからと侮る様子が無かった。
 まるで大人に対するように俺に対応したし、道理を通してくれている気がした。

 お茶もお菓子もびっくりするぐらい美味しかった。
 うちには中央からのお客さんも良く来ていて、美味しいお菓子は食べ慣れていたと思ったけど、それでもここのお菓子は美味しかった。
 男はもしかしてふざけてるの?と思ったぐらい、菓子を家からも追加で持ち出して来て、どんどん俺に食わせた。
 もうその頃には俺の中に最初の頃のわだかまりはなくなっていて、相手に気安い口を利くようにもなっていた。
「なんでこの家こんなに菓子があるんだよ。子供がいるのか?」
「残念でした。俺が食うんだよ」
「男のくせにおかしいだろ?」
「何を言う、男が菓子を食わないというのは偏見だぞ、大体お前も男だろうが」
 この男は、俺がそれまで出会ったどんな大人とも違っていた。
 すぐにゲラゲラ笑うし、俺の言葉に真剣に応えてくれた。
 俺は段々自分がこの相手を好きになっているのに気付いた。
 俺に兄さんがいたらこんな感じかな?とか思ってしまっていたんだ。

「おお、そうだ、自己紹介をしておくか。俺は終天、こいつは白音って言うんだ。坊主はなんていうんだ?」
「俺?たかしだよ」
 うちの村では苗字はみんな同じなんで上の名前は名乗らないのが普通だ。
 だから、お互い名前だけ名乗るのは当たり前でおかしな事は何もなかった。そして、だからこそやっぱりこの相手は村の人間なんだなと俺は思った。
 ハンターをやっているような連中には村から出て暮らす者が多いって聞いていたからだ。
 きっとこの二人もその類で、山の中に住んでいる物好きなんだろうと思った。
 お互いに自己紹介し合ってから、最初からずっとしゃべらない白音という女の人が気になった。
 もしかして口が利けないんだろうか?と心配になったんだ。
 俺は思い切って彼女に話し掛けた。
「白音って不思議な髪と目の色してるんだね」
「……気持ち悪い?」
 やっと聞けた彼女の声は、奏でていた笛の音に少し似ていて、優しい響きだった。
 俺はほっとして笑いかけた。

「ううん、凄く綺麗だ。最初花の精かと思ったよ」
「お前、俺の目の前で白音を口説くとは良い度胸だな」
 俺の言葉に終天が獰猛に笑ってみせる。
 あちこちの家を渡り歩いていた俺はマセガキだったんだろう。
 終天の言っている事を理解して慌てて否定してみせた。

「口説いてなんかねぇよ!」
 真っ赤になった俺を見て、終天はまた大きな声で笑った。
 そして、白音も、その時初めて表情を動かして微笑んだように見えた。



[34743] 96、掌の雪 その四
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2014/05/01 05:09
 結界の向こうの山中の、間違いなく不便なはずなのに不思議と満ち足りた家。
 その場所に巡り合い、その住人と知り合った俺は、それからは暇さえあれば二人の所に入り浸った。
 何と言うか、終天には不思議な魅力があった。
 立派な大人のくせに遊びだろうがなんだろうが俺と競う時に譲るという頭が無かった。
 しかも普通の大人なら危ないからと止めるような事を率先してやりたがった。
 山で一番高い木で木登り競争をして不安定なてっぺんまで登ってみたり、滝壺で魚釣りをしていて俺の方に先に魚が掛かりそうになると滝壺に飛び込んで魚を素手で掴み捕ってみたり、家の屋根に夜中に上って流れ星を見つける数を競ってみたり、正真正銘ガキだった俺よりガキみたいなどうしようもない奴だった。
 だけどその反面、やたら思慮深く物知りだったりもした。
 それらはまるで相容れないような気質のように思えるのに、奴の中には全く違和感無く馴染んでいるんだ。
 それに奴は話をするのが上手かった。
 色々な面白い話や、不思議な話を知っていたし、難しい話や勉強だって、およそ知らないという事が無かった。
 天衣無縫で思慮深く意地が悪くて懐が深い。
 つくづくとんでもない奴だったよ。

 白音の方は最初の日以来笑ったりした所を見た事は無かったし、俺とまともに口を利く事すらほとんど無かった。
 それでも馬鹿をやって戻って来る俺達の為にいつもお茶やお菓子や食事の準備、風呂や布団の用意をしていてくれた。
 彼女が時々奏でてくれる笛は聴いていると嫌な事なんか何もかも忘れてしまうような、心の深くに染み入るような音色で、良くねだったもんだ。
 あの頃の俺にとって、あの場所は確かに理想の家、幸福な場所だったんだ。

 ある日、いつものようにその家に遊びに行った時、俺はそれまで決して口にしなかった弱音を吐いた。

「ここは良いな、色々気を使わなくて良いし」
「なんだ?そんなに俺が好きか?」
 ぼそりと言った俺に終天はからかうようにそう言ってみせる。
 いつもの流れだった。……少なくともいつもと違うようには俺には感じられなかった。
「馬鹿言ってんじゃねえよ。うちがつまんないって話だよ!うちの連中と来たら、俺が弟と遊ぼうとすると凄い剣幕で叱り飛ばすしさ、俺が弟になんかするはずねぇじゃん」
 実の所、これは当時の俺の誤解だった。
 家族が案じていたのはむしろ俺が自我の無い弟に害される事だったんだ。
 だけど、我が家の子育て事情を説明されないまま育った俺がそれを知るはずもなく、この頃の俺はとにかくひねまくっていた。
 なにより、……ショックだったんだろうな。愛情を否定されたような気がして、俺はあの家で異分子なんだって思ってしまったんだ。

 その時、なんと言って良いんだろう、ふっと終天の雰囲気が変わった気がした。
「ふ~ん、だったら別に血の繋がりに拘る必要は無いんじゃないか?」
「え?」
 驚いて聞き返した俺の目を終天はまっすぐ覗き込んだ。
 思えばそれまで奴は俺の目をまっすぐ見返すような事をした事が無かった。
 その時、初めて俺は終天の目を間近で見ることになったんだ。
 なぜだろう、俺はその時どこか遠い所に水の匂いを嗅いだような気がして、その印象が強く焼き付いているんだ。
 全然関係ない事をなんでか記憶の風景にいっしょくたにしているって事、あるよな。
 きっと、俺はその時混乱していたんだろう。
 なぜなら、終天の目を覗き込むと同時に血の気が全身から引いて、その血がぎゅうっと心臓に集まったような、冷たく凍った体になってしまったかのように感じて、体の自由も、思考の自由も封じられたようになったから。

「いっそ、うちの仔になるか?」
 ドクリと心臓が鳴るのが聞こえた。
 俺はぼんやりした心地でただ相手の声だけを聞いている。
「我が仔となるなら名前が必要だぞ。お前の名を教えろ」
「……知ってるだろ、俺は隆志だよ」
「それは仮の名前だろう?その血に刻まれた真の名を言うんだ。そうしたら俺がその名を消して新しい名前を授けてやろう」
 終天の、人として異質な程に整った顔で、まるで裂け目のように口が開き、尖った犬歯が覗いた。
 俺の視線はその牙に惹き付けられるように固定される。
 ドクンと、心臓がまた大きく脈打った。
 全身が冷たく冷えきって、激しく痙攣するように震える。
 だけどその震えの奥、凝縮された血の奥から、まるで煮えたぎる何かが溢れ出すように全身を縛る冷気を食い千切ろうとしているのを感じた。
 身内で争う二つの両極の熱、灼熱と極寒が俺の中で荒れ狂う。
「あ、あ、アア!」
 その二極の相克の末に溢れ出したソレは『憎しみ』だった。
 唐突に前触れもなく、いきなりその強い感情が湧き出し、まだガキだった俺を支配した。
「貴様!キサマァ!」
「呪いか。下種な仕掛けだな」
 終天が表情を変えぬまま呟いた。

 俺の体はまるで内側から弾けるように膨れ上がった。
 いや、恐らくそれは膨れたのではなく、変化したんだ。
 だけどその時は俺自信、何がなんだか分からずに、自分の感情と体の変化に流されるだけだった。
 意思もなく、思考もなく、俺は目前の存在に攻撃を仕掛けた。
 自分の喉からほとばしったとは思えない獣のような叫びが上がり、無我夢中で仕掛けた攻撃は、しかし容易く躱される。

「キサマ!怪異ダナ!」
「だからなんだ?」
 終天はこの期に及んでも涼しい様子を変えなかった。
 いつもの、飄々とした自信に満ちた青年といった風情で俺を優しげな目付きで見ていた。
「俺ヲ、騙していたのか?」
 俺はようやっとやや自分を取り戻して、本能に任せた攻撃を意思の力で制御した。
「騙す?俺がか?笑わせるな、坊や。人間じゃあるまいし、俺がどうして騙す必要があるんだ?」
 絶対の強者、奴のその強大な気配は、憎しみに突き動かされていた俺の動きすら縛った。
 その戒めを振り解こうと、俺はまた理性を手放して体中の血を燃え立たせる。
 みしみしという音と共に自分の体が変化するのを感じながら、しかし、それでもまだ相対する敵には到底届かない事が本能で理解る。
 憎しみと悔しさと怒りで俺はどうにかなりそうだった。
「やめておけ、子供の身で無理をすると壊れてしまうぞ。全く、無粋な仕掛けをするもんだ。まぁ良い、俺は気は長い方だ。また会おう坊や、それまで達者でな」
「待て!終天!てめえ、待ちやがれ!」
 目の前で慣れ親しんだ光景が消えてゆく。
 古いが立派な茅葺きの家も、花々の咲き誇る庭も、緑に囲まれた小川も、そして笛を手にしたどこか寂しそうな白音も、朧に霞んでいた。
「坊や、可哀想にな。人間共が何を創り出したか分かっているのか?理解るだろう?お前はもはや人ではないぞ。己を見てみろ、その姿を。お前がどうしてここに迷い込んだか、どうして迷宮に迷い込むか理解るか?怪異は怪異を呼ぶ。自らの力の更に先を求めて喰らい合うのだ。人など捨ててしまえ、それこそがたった一つ、お前が救われる道だ」
「野郎!くそっ!てめえ!許さないぞ!絶対、許さないからなぁ!」
 奴の気配が消え、俺は自分の両手を見た。
 黒光りする鋼のような硬質なナニカがそこにあった。
「うわああああああ!!」
 唐突に湧き上がった憎しみがまた唐突に消え去った後に、俺に残ったのは恐怖だった。
 自分が化け物だという呪いのような言葉が俺を苛んだ。

 その後、異常に気付いて俺を探しに来た家族に連れられて家に帰った俺は、家族に「終天」と名乗る上位の怪異に襲われた事を話した。
 だけど、そいつと長く親しんでいた事は話さなかった。
 奴の言葉が怖かった。
 自分が化け物だと知られるのが恐ろしかったんだ。


 俺は長い話を終えると自分の手を見た。
 そこにあるのは普通の人間の男の手だ。
 特別ゴツくも無く、特に繊細でもない。
 伊藤さんには守秘義務に引っ掛かる部分は端折って説明したが、終天との因縁のあれこれと、人間じゃないんじゃないかという疑惑は正直に話した。
 だからと言って伊藤さんが今更俺を怖がるかどうかは分からないが、もしそれで何か言われても構わないと思えるぐらいには俺も彼女を好きだったのだ。
 真実というのは他人を傷付ける事もある。
 それを押し付ける以上は自分も傷付いて当たり前という程度には覚悟をする必要があると思うんだ。
 嘘を吐くのは傷付きたくない、傷付けたくないという気持ちがあるからだけど、いつまでもそのままでは先へは一歩も進めない。
 好意だろうが嫌悪だろうが、自分たちの間にあるものを曝け出さない事には俺達はきっとどうにもなれないのだ。

「良かった」
 聞こえて来た声に、俺は顔を上げた。
 伊藤さんはなんだか不思議な泣きそうな顔で俺を見ている。
「え?えっと?」
「木村さんが行ってしまわなくて良かった。ちゃんと私と出会ってくれてありがとうございます」
 そう言って、伊藤さんはぺこりと頭を下げる。
 えっと、これってどういう流れなのかな?
「い、いや、こちらこそ、ありがとう、ございます?」
「疑問形ですか?」
「あ、いや!そうじゃなくて、えっと、今の話、……その、俺が怖くないですか?」
 正直、俺は今でも自分を信じきれていない。
 というか、成長して、自分達の血筋がどうやって造られたのか知った後は尚更自分を人間の範疇と主張するのにためらいがあった。
 自分では自分を人間だと信じてはいる。
 だけど、普通の、それこそ一般の人からすれば、俺はきっと怪異と同じなんじゃないか?そう、思ってしまうのだ。
「だって、そういう怖い部分も全部木村さんなんでしょう?私、言いましたよね?お互いに我が儘になりましょうって」
「ええっと、はい」
「凄く、人に話すの、嫌だったんでしょう?でも、誰かに聞いて欲しいから私に話してくれたんですよね。……私、酷い人間だから、今ちょっと嬉しいんです」
「そ、そうなんですか?」
「私、きっと木村さんの特別なんだって、そう思っちゃったから。木村さんにとっては辛いお話だったのに、酷いですよね」
 泣き笑いのように、伊藤さんが俺を見る。
 そのまなざしと、口元から目を離せない。
 ヤバイ。
 いや、ヤバくないのか?これって、良いんだよな?
 良いん……だよな?

 ドクンと心臓の音が聞こえる。
 これは昔に聞いた音とは違う。
 ずっと安心で、そして、ずっと怖い鼓動だ。

「あの……」
 俺は思わず立ち上がって彼女へと手を伸ばしかけて、動いた事で自分の体の異変に気が付いた。
「うっ?」
 腹が、ヤバイ。
「木村さん?」
「す、すいません、ちょっとトイレ」
「あ、はい」
 俺は真っ赤になってトイレに駆け込んだ。
 いや、生理現象は生理現象でも、男のアレではない。
 下る方のアレだ。
 慌ててトイレに駆け込んだ俺の胸ポケットで恐ろしいぐらいにジャストタイミングで携帯端末が音を立てた。
 なんだ?電子通信メールか。
 ピッと音を立てて画面を開くと、そこには愛する我が妹からの伝言が届いていた。

『兄さん、伝え忘れたけど、あの時、符を口に含むだけと言ったのに飲み込んだから、今夜はきっと辛いと思う』

 符?符って?
 俺の脳裏に迷宮で白い粉を舐める時に使った由美子の符が浮かんだ。
「あれか!」

 結局、俺は自分の作った料理のせいではと謝る伊藤さんにそれは勘違いである事をなんとか納得させながらトイレに半分缶詰状態なるという最悪の週末最後の夜を過ごしたのだった。



[34743] 閑話:夜に歩く者
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2014/05/08 04:40
 男はそこを独房と呼ぶべきだろうか?と考えていた。
 そこは確かに人一人が動き回るには辛い空間ではあったが、全く動けない訳でも無く、自力で座れる便座まである。
 従軍経験があり、懲罰房に入った事もある男からしてみれば、あまりにもお粗末な独房もどきであった。

「他国と直接国境を接していないってのは、こんなに国をふぬけにするもんかね」
 男は一人呟く。

 男はこの国に発生した迷宮ダンジョンに無許可で侵入し、あまつさえ国の調査部隊に攻撃を仕掛けたという罪状で拘束されているのだ。
 しかし、彼に掛けられた実際の嫌疑はもっと重いものである。
 勇者血統と呼ばれる、国々が独自に保有している対怪異における人類の守護者、怪異という、生命持つモノと切り離せない災厄に対する切り札を奪おうとしたというのが国防側の認識であった。
 それはいわば死病に対する特効薬を奪おうとしたという事であると考えれば、この事態に対する人々の嫌悪感が理解出来るかもしれない。
 それも、国中に普及する程にその薬は多くはないのだ。

 男が収容されている独房には厳重なロックが掛けられていて、更に複雑な軍隊式魔術による封印も施されていた。
 いわば周囲の世界から隔絶された状態であって、いかなる手段を持ってしても彼はここから脱出しようもない。
 その身体も隅々まで医学的にも魔術的にも検査され、どのような道具も術も持ち込めはしなかったはずだ。
 しかし、男には余裕が見える。

 やがて精神まで探査され、廃人寸前まで意識を絞り取られるとの宣告がなされているのだが、男は飄々たる態度だった。
 もちろん外国人である彼を正式に取り調べるには、ある程度の国家間の申し送りが必要となるだろう。
 今この一晩の猶予はそれゆえだ。
 しかし、明日には宣言は実行されるだろうし、単なる脅しではあり得ない事は、様々な裏の事柄に精通したこの男こそが最も知る所ではある。

 だが、男には奥の手があった。

「まぁ近頃の近代文明とやらに侵された連中は総じて呪術に疎いからな」
 せせら笑い、男は自らの歯で親指の腹を噛み切ると、上着をまくり上げて腹に直接呪印を血で記す。
 床や壁には街などに使われている電気式の対魔の結界が張り巡らせてあり、その上ではいかなる術式も起動しない。
 だが、人の肉体はその限りではない。
 とは言え、たとえ肉体上の術が有効であったとしても発動した途端に封じられる事となるのがこの結界であり、男の行いは無駄であるはずだった。
 しかし、彼の行ったのは現象としての術の発動ではない。
 召喚の術式だ。

 これが空間と空間を結ぶ術式であったのなら、やはり発動はしなかっただろう。
 だが、それは縁を血で結ぶ術式だった。
 縁を通じた術式は外部からは防ぎようがない。
 もし彼の行いを防ぎたかったのなら、拘束衣を着せるべきだったのだ。
 だからこその男の嘲りであった。

不死の王ノスフェラトゥ、闇の私生児たる御身、その灰を受けし下僕たる我の声に応えよ」
 陰々たる声に腹の呪印が蠢く。
 のたうつ赤い蛇のようにその印が文字を綴った。
 男は一瞬痛みに耐えるようにぐっと身を屈めるが、直ぐにニヤリと笑って立ち上がる。
「はい、私はその御力を望みます」
 そこに綴られた文字に男は自身の勝利を確信し、間を置かず契約を結ぶ。
 男の持つ切り札は強力だ。
 それは、人の身に他者の力や人格を転写する写身うつしみの呪術である。
 この術は大きな代償を必要とするものの、無能の者でも転写元さえ存在すれば最強の存在にすらなれた。
 代償には魂が一つあれば良い。
 その場から逃れればいくらでも調達出来るだろうと男は思う。
 男にとって命など軽い代償なのだ。
 人など放っておいても死ぬのである。
 それならば自分がそれを利用してやる事こそ無駄のない世の摂理というものだと、そう理解していたのだ。
 いや、そう考えるからこそ、男は他人の命を気軽に売り買い出来るのだ。

 腹部の印が更に大きく蠢き、目に見える程大きく波打った。
「がはっ!」
 さすがにたまらず男は膝をつき、激しい痛みをなんとかやり過ごそうとする。
 すぐに過ぎる痛みであろうとも、内臓をかき回されるようなその痛みは尋常のものではなかった。
「くそっ、俺をこんな目に遭わせたこの国の連中に、絶望を与えてやる」
 他人の嘆きや痛みは男にとっての福音であった。
 それを思い描くだけで、身の内の激しい痛みをも笑みを浮かべて耐えられる。
 特に抵抗の出来ないか弱い者が泣き叫ぶ様は彼に生きる喜びを与えてくれるのだ。
「ひへっ、へっへ、絶望せよ、島国の猿共め」

 笑みを刷く口元から血が溢れ落ちる。
「ふ?へ?」
 男の腹から腕が生えていた。
 ずぶりと何かが這い出てくる。
「がはっ!王……よ、何……を?」
 腹から顔が生えるとそこに切り込みが入り、ぱかりと割れて口になった。
「望んだだろう、力を。我以上の力はあるまいに」
「お?……オレは、写身を……」
 男の目からとめどなく涙が溢れる。
 口元から赤く染まったよだれがこぼれ落ちた。
「うむ、実はな、貴様の存在に価値が無くなったのだよ。顔が知られ、生体波形も記録されては、例え地下世界であろうともはやまともに動けまい。であるから、いままで仕えた労をねぎらい、下僕たる身に最高の誉たる我が糧となる事を許そうと思ったのだ」
 感情の乗らない平坦な声が、淡々と丁寧に理由を説明する。
 既に腹から胸までを自ら以外の存在に喰われた男の開いた口からは、血の泡しか溢れない。
 だが、男の腹から這い出しつつあるモノは男の意を汲んで説明を続けた。
「我をこのような食卓に招いた事は手柄である。それゆえ、そなたは特に我に喰われる感覚を詳細に味わう栄誉を賜るのだ。喜べ」
 そう言うとその赤い口はニヤリと嗤う。

 メキメキという骨が引き裂かれる音、呼吸が漏れる「ヒッ、ヒ」という音、ピチャピチャと濡れた何かが弾ける音、それらの音はまるで永遠に続くがごとく暗闇を埋め続けた。
 しかし、やがてその永い時間も終わりを迎える。

 音の途絶えたその独房に、赤く濡れすぼった何かが佇んでいた。
「ふむ、よいよい、醜悪を極めた者なりのこのアクの強い魂は、長く熟成させた腐肉のごとく、ふむ、貴様はよく仕えてくれたものよ。はて、コレの名はなんといったかな?」
 ソレはしばし首をかしげるような仕草をすると、すぐに止める。
「まぁよいか、口にする肉の名など知らぬのは当然の事、もはや存在しない者に名はいるまい。クハハ」
 ソレは壁に触れると、感触を確かめるようにその表面を撫でた。
「人の子の術はどうも優雅さに欠ける。このような混沌たる波紋は無粋の極みよな。だが、今は我は気分が良い。下種なる下僕の魂と血肉によって力に満ちておるからのう」
 そう言いながらソレは軽く腕を押し出した。
 分厚い、数メートルの厚みを持つコンクリートと、その内部の配線と、銀を塗布された鉄骨、その全てが、まるで柔らかいケーキのスポンジででもあるかのように容易く抜けた。
 途端にけたたましい警報が鳴り響く。

「やれやれ、人の子は夜を楽しむ術も知らぬと見える。全く無粋の極みよ」
 ソレは空中に足を進めると、夜風を楽しむように目を細める。
「この国の風は少し湿気っておるの。以前住まったロンドンとはまた違う匂いだ」
 人の叫び、あちこちから響く靴音に耳を澄ませていたソレは、しかし、一つ伸びをするとふわりとその姿を夜の中に溶かした。
「舞台を演じるにもカーニバルを催すにも、やはり念入りに準備が必要であろう。何事も急いではつまらない。ゆえに、しばしの微睡みを、人の子よ」
 ソレは夜の大気にその声を散らすとそのままその気配を消し去ってしまう。

 ひっそりと月だけが照らす夜の中、閉じられた箱庭のような街が一枚の影絵のようにただ静かに佇んでいたのだった。



[34743] 97:明鏡止水 その一
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2014/05/15 05:44
「蓄電システムですか?」
「ああ、ほら冒険者特区用の開発案として社内公募のアイディアなのだが、迷宮という場所では電気製品を使用する為には発電機や車の電源を利用するしかないという常識を覆そうという挑戦的な考えなんだ」
 長谷川課長の話に、我が開発課のメンバーからざわめきが起こった。
「それはいくらなんでも異業種すぎませんか?」
 若手の中谷くんが眉根を寄せて意見を言う。
 まぁそうだよな。
 うちは家電メーカーであって蓄電池には疎い。
 家電は基本家庭用電源専用に作ってあって、うちの会社のノウハウも完全にそっちで積み重ねて来ている。
 今更苦手なジャンルに手を出して大手に勝てるとは思えないのだ。

「いや、この案の場合はたとえどこの会社であっても全く新しい一からの商品開発となるだろう。つまりうちがやろうと他所がやろうとスタートは同じという事だ」
 全員の顔にクエスチョンマークが浮かんでいる。
 それはそうだ。
 蓄電システムは現代において最もポピュラーなジャンルと言って過言ではない。
 大手の電気メーカーは必ず関連事業部を一部門は抱えているはずだ。
 なぜなら携帯電話や携帯音楽プレイヤー、携帯式のゲーム機、携帯式の電算機パソコンなどに蓄電池が使われているからだ。
 この手の製品はそれぞれ専用の蓄電池に規格を合わせて本体を開発するので、蓄電池から自社開発した方がやりやすい。
 その為、自然発生的に関連部門を抱え込む必要があったのである。

「今までの蓄電池の構造は、古代種族の差異はあれど発掘資源を活性化させる事によって電気を発生させるという物だった」
 発掘資源、すなわち太古の魔法生物の化石だ。
「しかし、今回の案件は活性資源である夢のカケラを使うシステムの構築なのだ」
 ブフッと俺は思わず吹き出してしまった。
「……木村くん、言いたい事があるのなら挙手をしてくれ」
 課長がなんとも言えない顔で俺を見ながら話を促した。
「いえ、ちょっと危険すぎやしないかと思って。あれって生のエネルギーでしょう?」
 俺は恐る恐るそう切り出す。
 俺のもう一つの立場を知っているのはこの中では課長と伊藤さんだけだ。
 なぜ俺が動揺するのか不思議に思われてしまうのは拙いだろうが、この件に関しては別に俺だけがおかしい訳ではあるまい。
 実際俺の言葉に頷く者も数人いたし、他の人間も大なり小なり難しい顔をしていた。
 活性資源、平たく言うと魔法物質の取り扱いの難しさは古くから物語の中でも語られている。
 少し方向性を与えるだけで魔法的な効果を発現してしまう可能性がある為危険性も高いのだ。

「ふむ、課長、そのアイディアが採用された理由を教えてくれないか?」
 佐藤が偉そうに課長に言った。
 まるで命令のように聞こえるが、この課の人間は慣れている。
 課長は気にせずにそれに答えた。

「今後、この資源がこの都市の特産物となるだろう。今までその希少性からそれを使用する専用の機関という物はなく、あらゆる活性物質を同じように扱う魔法変換回路に利用されるぐらいの物だったそれが、今後は常に供給されるエネルギー源となる可能性がある」
「捕らぬ狸の皮算用という奴ではないか?」
「まあ確かに今の段階ではそうだな。しかし、特区を作った政府の方針に倣うならばその方向で考えるのは間違いではないだろう」
 ああうん、そうか、確かに迷宮(ダンジョン)の産物として最も安定した供給物となるのが夢のカケラであるという考えは正しい方向だ。
 それ以前に、迷宮がいつまで存在するのか?という問題があるのだが、政府が特区を作った時点である程度の長期化が見込まれると判断するのも当然だよな。

「なるほど、つまり考え方としては、迷宮内部にエネルギー源があるのだから、それを利用してそこで電化製品を使えるようにしたいという事か」
 佐藤が納得したように頷く。
 繋げたらかなりおかしい話になった。
「しかし、夢のカケラは魔法物質ですよ。どうやって電気に変換させるんです?危険でしょう?」
「ふっ、木村くんは発想の柔軟性に欠ける所があるな。現代に毒されすぎだ」
 佐藤が横から俺の意見に駄目出しをする。
 イラッとする。こいつ、いつか泣かせてやるぞ、覚えてろよ。
 だけど現実問題として、確かに俺は佐藤に発想では全く敵わない。
 どうせ地味な技術屋だよ、俺は。

「ほう、佐藤くんにはもう発想があるようだな」
 課長が困ったような顔をしながら自信満々な佐藤に水を向けた。
 佐藤が待ってましたとばかりにふふんと胸をそらしながらオーバーアクションで語り始めた。

「困ったら原点に戻るべしですよ。昔は魔法をそのままエネルギー源として利用していたでしょう。その時に魔力を溜めていたのが鉱物です。つまり水晶針回路のシステムがそのまま蓄電と発電の回路として利用出来るのではないですか?」
「あ!」
「おお!」
 みんなが口々に驚きを表す。
 これは確かに盲点だった!
 魔法エネルギーというのは扱い難いエネルギーだが、それを昔の人間は方向性をもたせて魔法に転換した状態で鉱物に封印する事で利用していた。
 現代は機械類を動かすエネルギー源としては画一化出来ない魔力は相応しくないので電気エネルギーが世界の主流になったのだが、その変換期の初期の頃に、魔力の波動を電気エネルギーとして変換する為に最も利用されたのが水晶回路なのだ。
 今では変換出来る量の少なさ故に主な電気製品では利用されなくなったが、その波形を平均化する事に対する信頼性の高さは電気回路の中のコンデンサに名残として残っている。

 これって玩具からくりの世界ではまだまだ現役のシステムなんだよな。
 あー、くそ、これはちょっと悔しいな。
 俺の専門分野だけに俺が思い至るべきだった。

 佐藤が俺を見てニヤニヤしている。
 分かってて言ったな、くそ、この野郎。
「ふふ、いつも俺が言ってるだろう!思考は自由に、何者にも囚われる事なくだ!」
 あんたは囚われなさすぎなんだよ。

 しかし基本の発想は出来てもまだ問題は山積みだぞ。
 なにしろ夢のカケラはエネルギーとしては大きすぎる。
 蓄電するにしたって電気エネルギーとして変換する時に余剰エネルギーが出るのは間違いない。
 それをどうするかは悩みどころだろう。
 だがまあ、基本の発想が固まれば後はそこから発展させるだけの話だ。

 課長が一つ頷くと、俺を見て告げる。
「それでは木村くん、君を中心にチームを作ろう。基本デザインを起こしておいてくれないかな?」
「あ、はい!」
 こういう場合、普通は佐藤をチームリーダーにするんだろうけど、さすがに課長もそこまで思い切れなかったようだ。
 奔放すぎるからな。
 そもそも本人が嫌がるのは間違いない。
 という事で正を俺、副を佐藤で夢のカケラを使った蓄電システムの開発スタートとなった。


「じゃーん、今日はちらし寿司と焼き魚とお味噌汁です。玉子焼きもあるよ!」
 伊藤さんがおかしい。
 昼休み、今はさすがに屋内の喫茶室でだが、すっかり恒例となったお弁当を広げながらの伊藤さんのテンションに困惑する。
 どうもあの悲惨な一夜からこっち、伊藤さんの様子がおかしいのである。
「あの……」
「あ、もしかしてお嫌でした?」
 俺の戸惑ったような言葉に、途端にシュンとうなだれる。
 こんな風に気分の上げ下げが激しすぎるのだ。
「い、いえ、全然、好物ですよ、ちらし寿司!」
「やった!」
 ほんとどうしちゃったの?伊藤さん。

 ついでに周りの微笑ましいものを見る視線がすごく痛いデス。

――――――補助事項ウンチク――――――

水晶針機関(回路):水晶針の波動を共鳴させて推力に変換する為の基本装置。水晶は波動にブレの少ない事で有名な鉱物で、現在は人工水晶によって更に波動の平均化も出来るようになり、多数針による増幅も可能になった。



[34743] 98:明鏡止水 その二
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2014/05/22 05:10
 夢のカケラを使って充電する蓄電池開発は、その出だしから躓いていた。

「サンプルが手配出来ない」
 課長が渋い顔である。
 まぁでも仕方の無い話ではあった。
 夢のカケラの所有は許可制であり、民間取引は禁止されている。
 しかもとんでもない高額商品であり、実験で使い潰せるような代物ではなかった。
 うちで危険物取り扱いと魔法資源取り扱いの資格を持っているのはお隣の開発室の数人だけなので、結局はお隣との共同開発となったのだが、そうやって場を整えて手配を掛けてもなかなか入手が困難なのだ。

「とりあえず俺たちは色々と可能性のありそうなシステムを設計するだけなんだし、まだそれも行き詰まってるから実物どころの話じゃないんだけどね」
 ぼやく俺に、流が魔法エネルギー摘出装置の一般的なモデルを示す。
「一般的に魔法エネルギー摘出には圧潰方式が使われる訳だが……」
 物質に閉じ込められている魔法エネルギーを取り出す場合、一番手っ取り早いのがこの圧潰方式だ。
 なんといっても発電施設の多くはこの方式を採用している。

「夢のカケラはそれ自体が高魔法エネルギー体だ。下手に圧力を掛けたら無秩序な魔法効果を撒き散らしながら拡散するんじゃないかな?」
「正直、そんな物質が結晶化している事が有り得ない話なんだけどな」
迷宮ダンジョン生成物に常識を求められても困るだろうよ」
 流の常識的な意見に俺も一般論で返す。
 正直今更論じるような話題でもない。
 それなのに俺たちがこんな話をしているのは、エネルギーの変換方法を模索しているせいだった。
 
 一般的に夢のカケラをエネルギーに変換するには、一度結界内に閉じ込めて、結界内で術式を発生させて効果を引き出すというやり方が取られる。
 つまり、本来夢のカケラ自体が魔法エネルギーであり、それに魔術式や魔法を使って何らかの術効果を発生させる事で一般的なエネルギーとするのである。
 うん、なんかおかしいよな。
 つまり夢のカケラはあくまでも生のエネルギーであり、そのまま使う方が効率的なのだ。
 下手に変換すると、手間とエネルギー損耗率が馬鹿みたいな事になるのである。

 しかも、俺達がやろうとしているのは、蓄電だ。
 普通にやれば正に無駄の極みでしかない。

「もう一つ問題がある。魔法陣が使えない以上は一度術式を通してエネルギーに変換する手は使えない」
 佐藤が電算機パソコンを何やら弄りながらそう発言した。
 魔法陣や術式は武器扱いなので家電では使えないのだ。
「前にポットでやったやり方は使えないのか?」
「あれは効果の弱い術式だから使えたやり方だよ。あのやり方だと単純な図形しか描けないし、さすがにこれに同じやり方をしたら吹っ飛ぶぞ」
 俺の問いに答えたのは流である。
 すごく物騒な話だった。

「なあ、すごく基本的な疑問なんだけど、これって、家電屋のやるべき仕事じゃなくね?」
 俺は投げやりに口にする。
「今更すぎるな」
「常識は投げ捨てるものだよ」
 今更何をという口調で俺に同意する流と、馬鹿な事をあっさり言う佐藤。
 なんてアットホームな職場だろう。
 感動で涙が出そうだ。

「そもそもだからこそ君の出番だろうが」
「はい?」
 一人嬉しそうにはしゃいでる佐藤の言葉に俺は嫌な予感と共に声を上げた。
「君は錬金術師エンジニアだろうが、力の変換については専門家のはずだ」
「魔力と錬金術とは相性が悪いんだよ」
 まぁ俺がチームリーダーに指名された理由もその辺りなんだろうが、正直辛い。
 世界に錯覚を生じさせて法則の隙間を通すのが錬金術なら、強大な力技によって世界の理をねじ伏せるのが魔法だ。
 よくこの二つを同じものと錯覚する人がいるが、全く違う方向の技術なのである。


「すごく苦労されているみたいですね」
 その日の終業後、帰路を共に歩きながら伊藤さんが心配そうにそう言った。
 そろそろ雪が降ってもおかしくない時期だ。
 彼女の服装は薄茶色のコートにショートブーツとなっている。
 何年も同じ物を使い続けてすっかり着古した俺の着ているジャンパーとはすごく釣り合わない事甚だしい。
「う~ん、まあこの企画は最初から苦労する事は見えていたからね。予想外という事はないんだけど」
「私も何かお力になれればと思って色々調べてみたんですけど、夢のカケラって基本的に魔術師か魔法使いが使う物らしいですね。一般的なエネルギーとして利用するという事例が見当たらなくって、すみません」
「いやいや、謝るような事じゃないよ。俺の仕事だし」
 彼女と当然のように大型スーパーの方へと向かいながら、俺はそういえば最近コンビニに寄って帰るって事がなくなったなと思い至った。
 平日は彼女も滅多にうちに寄ったりはしないが、簡単な夕食のレシピを二人で話しながら一緒に買い物をするのが習慣化しつつあるのだ。

「そういえば、伊藤さん」
 俺の呼び掛けに彼女はまっすぐなまなざしを向けて来る。
 相変わらず子犬のような目だな、と思いながら俺は言葉を続けた。
「なんか最近、言いたい事があるんじゃないの?」
「えっ!」
 伊藤さんはたちまち顔を赤くする。
 なんて分かり易い人なんだろう。
「ええっと、その、差し支えなかったら聞かせてくれると嬉しいというか、気になるというか」
 伊藤さんは茹で上がったように赤くなりながらモジモジしていたが、キョロキョロと周りを見回すと、俺の腕を引っ張った。
「あの、良かったらどこか落ち着く所に入りませんか?」
 言いながらぐいぐい引っ張っていく。
 言葉は問いかけだけど、どうやら決定事項らしい。
 ここで俺が行かないと言ったらどうするんだろう?
 いや、断らないけどね。

 結局俺たちが入った店は、以前彼女に紹介してもらって流と飲んだ元冒険者のマスターの多国籍食堂だった。
 一見さんには分かりにくい店だが、さすがに時間的に仕事帰りに外食する客でそこそこ混んでいる。
 伊藤さんはピアノの近くの、演奏のせいで他人に声が聞こえない席を選んだ。

 料理が運ばれてくるまでの間、緊張している伊藤さんをフォローしようと流れている曲名についての話題を振った。
 今日の曲はクラッシックではなく、なにかのテレビ番組で聴いた曲をアレンジしているようだった。
「確か真冬の太陽って曲ですよ。ドラマ主題歌なんですけどそこのスポンサーのCMにも使われていて人気があるみたいです」
「へぇ、ドラマって観ないけど面白いのかな?」
「私も観てないんですけど、久美ちゃんの話ではかたき同士の男女が葛藤の中で愛を育んでいく話なんだそう……で、す」
 途中からまたもや赤くなる。
 どうやら今は触れてはいけないキーワードが出たらしい。

 やがて、お茶のサラダと変わった色のどろっとした豆のカレーが運ばれて来た。
 バガン王国料理らしい。
 うん、意外と美味い。
「実はですね」
 伊藤さんはサラダを少し口にすると、思い切ったように口火を切った。
「前に木村さんのお宅に泊まった事があったですよね」
「あ、ああ」
 俺としてはカレーを食っている時に思い出したくない記憶だ。
「うちの……母が、それでその、一人で盛り上がっちゃって。えっと、今度は我が家に泊まってもらいなさいって」
 んん?伊藤さんのお家に招待されてるって事か?伊藤さんのお母さんから?
「ええっと、あの、……なりゆきで結果が出てから話を進めるのは許さないって……その、父も」
 伊藤さんは真っ赤である。
 しかしお泊りと伊藤さんのご両親がどういった関係が?
「その、ごめんなさい!うちの両親ったら思い込みが激しいんです。なんとか止めているんですけど、会社に乗り込みかねない勢いで、もう、馬鹿なんだから父さんったら」
「えっと、ごめん、かいつまんで説明してくれると嬉しいんだけど」
 俺の言葉に伊藤さんはとうとう真っ赤になったまま顔を覆ってしまった。
「うちの両親、私と木村さんが付き合っているって誤解しているんです」

「お……」
 付き合っている?付き合っているってえっと、付き合ってはいるよな、こうやって一緒に過ごす時間は多いし。
 ううん?うちに泊まった日からって、……え?なりゆきで結果って……まさか。
「もしかして、『恋人として』付き合っているって思われている……とか?」
「……はい」
 
 グフッと喉にカレーが詰まってむせる。
 プロポーズとか、いや、付き合ってくださいとかすらまだ全然言ってないのに、いつの間にか俺達と周囲との温度差が酷い事になっている。
 会社でもなんかそんな風に見られているよね。気付かないふりしてたんだけどさ。
 え?あの親父さん怒ってるの?会社に乗り込みかねないって?

 どうしよう。
 俺の頭に浮かんだのはそんな言葉だけだった。



[34743] 99:明鏡止水 その三
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2014/05/29 06:47
 落ち着いてよく考えてみよう。

 俺と伊藤さんの関係は現在はとてもデリケートな感じになっている。

 伊藤さんは俺の事を命の恩人だと思っている。
 そしてその恩を返すため俺の為に何かをしたいと思って色々と献身的に奉仕してくれている。
 それに対して俺ときたら、それを断固として拒絶する事もせずに、さりとて据え膳だと受け止めて責任を取って想いを受け入れるという方向にも踏み出せず、曖昧にしたまま流されてひたすら彼女の献身だけを受け止めるという卑怯千万な状態だ。

 なんでそんな事になっているのかというと、これはひたすら俺の我が儘にすぎない。
 恩義がどうとか貸し借りとかで人の心を得るのは気が引けるという、頭でっかちのロマンチスト極まりない理由なのだ。

 伊藤さんは本気だ。
 それはここまでずっと付き合って来て理解している。
 それなのに俺は彼女に答えを出さないまま、この気楽でぬくぬくとした状態を続けたいと無意識に思っているのだ。
 だから受け入れる事も突き放す事も出来ないのである。

「あの……」
 伊藤さんがおずおずと言葉を継いだ。
「私は木村さんの負担になるつもりはありません。両親には、その、なんとかごまかしておきますから。何か言って来ても知らぬ存ぜぬで通していただけたらそれで」
「それは、駄目だろ」
 俺にひたすら都合の良い提案に対して、思わず否定の言葉を口にする。

 それってどんな厚顔無恥野郎だよ。
 彼女にばっかり負担を掛けて悠々楽しく過ごすのか?さすがにそれは男として無理な話だ。

 正直な話、俺は彼女が好きだ。
 可愛らしいし、優しいし、頭の良い女性で、それでいながらどこか芯のある強さがある。
 これ以上は望めないぐらい、素晴らしい女性だと思う。

 俺が引っかかっているのは、彼女の献身は全て俺への感謝の念による義務感に近い想いからの物ではないかという事だ。
 一目惚れとかは有り得ないと、身の程を知っている。
 そんな事はわかっているが、だからと言って自分の内面に他人を惹き付ける何かがあるかと言えばそれも怪しい。
 何と言っても、俺は今まで夢を追うと言いながら、ひたすら現実から目を逸らして逃げて来たのではないか?という漠然とした自分に対する不信があるのだ。

 自分自身を信じ切れていない人間が、どうして他人に愛されると思えるだろうか。
 いや、それでも恋愛に夢を持っている事自体が、もう俺の駄目な所なのかもしれない。

「木村さんは、私を信じられませんか?……いえ、この言い方は卑怯ですね。私が木村さんを好きでいる事が感謝からの義務感だけとお思いですか?」
「えっ!」
 俺は内心を読まれたように感じてドキリとする。
 伊藤さん、本当に読心能力お持ちじゃないですよね?

「私、無理なんかしていません。すごく楽しいんです。木村さんと一緒にいるととても楽に息が出来る気がするんです。木村さんは、……あなたはとてもキラキラとしています。私は僻地育ちだから、都会の空気が合わなくて、ずっとなんだか息苦しいと感じていたんです。でも、あなたと一緒にいるとそうじゃなくなる。上手く言えませんけど、私は決して義務感であなたの傍にいたい訳じゃないんです。むしろ我が儘がすぎるぐらいだと、そう思っているんですよ」
「う……あ」
 なんだろう、もしかしてこれって、今って、女性からの告白を受けているんだろうか?
 そんな事が妄想以外で有り得るんだろうか?
 え?マジでか?

 途端に、俺は自分が貧乏揺すりを始めている事に気付いてコップの水を一気に煽った。
 落ち着け、大丈夫だ、問題ない。
 何が問題ないか良くわからないけど、大丈夫だ。

 そんな混乱のさなか、突然、背中にひやりとした寒気が走った。
 俺は反射的に立ち上がると、何かを感じた方向に視線を向ける。

「木村さん?」

 たちまち頭が冷えて、意識が切り替わる。
 どこかで異常事態が起こっていた。

 そんな俺の様子を見て何かを悟ったのか、伊藤さんはさっと顔を引き締めると、
「行ってください」
 と俺を促した。

 なにこの娘、凄いカッコイイ。
 俺は一瞬真剣な顔で俺にそう告げる伊藤さんに見惚れて異常事態を忘れた。
 そして、既に異常事態そのものが消え去った事に気付く。

「あ、いえ、終わった?みたいです」
 伊藤さんは一瞬キョトンとして、ホッとしたような笑顔を見せた。
「良かった」
 あ、さっきのキリッとした顔は無理をなさってたんですか?
 俺、ちょっとドキドキしたんですけど。

 結局僅かな間に感じた異様な気配は直ぐに消えて再び発生する事は無かった。
 最近は迷宮の影響で瘴気が濃くなる傾向にある。
 はっきり言ってこの街ではいつ怪異が発生してもおかしくない状況なのだ。
 しかし一方で、今、この街には怪異を自分の糧とする冒険者達がたむろしている。
 連中は基本的には特区から出て来ないが、許可を取れば一般の街に出る事は出来るのだ。
 そして連中は緊急措置ライセンスを持っているのが大半だ。
 怪異が発生しても、そいつらが気付いてすぐに狩ってしまってもおかしな事ではなかった。

 だが、気掛かりな事もある。
 お上からの情報によれば、例の迷宮で確保した犯罪者のリーダーが拘束場所から逃げてまだ捕まっていないのだ。
 正直何やってんだって気持ちはあるが、言っても仕方ないしな。
 あんな邪悪な野郎がこの街を闊歩しているかと思うと、不安でならない。

「なんか変な感じになっちゃいましたけど、ええっと、俺も真剣に考えてみます。少し時間をもらっても良いですか?」
「はい。私、慌てたりしません。両親がどう言おうと、あなたが心を決めるのを待ちますから、ちゃんと自分の気持ちを大事にしてくださいね。……ふふ、って偉そうに言ってますけど、私、今すごくドキドキしてるんですよ。こんな我が儘な女いらないって言われるかもしれないって」
「いや、その、伊藤さんの我が儘は俺は好きです」

 咄嗟に言って、自分で顔が赤くなるのを感じた。
 何ナチュラルに好きとか言ってんだ?俺。
 こわごわ目を上げて伊藤さんを見ると、彼女も顔を赤く染めている。
 俺たち良い大人なのに、なんか恥ずかしいよな。
 


 伊藤さんを駅まで送って、少し遠回りして帰る事にする。
 先程感じた異物感のような物は今は消え去って、特に騒ぎが起こっている場所もない。
 最近は当たり前のように薄い瘴気があちこちに溜まっているが、それも活性化しない限りは毒にはならないだろう。
 
 俺はゆっくりと夜の街を歩いた。

 今は伊藤さんとの事を考えても結論は出ない気がして、ごまかすように仕事の事を考える。
 夢のカケラを利用するにあたって一番の問題はそのエネルギー変換だ。
 完全な封印状態で術式を発動させてそこで生じた波動エネルギーを鉱物体に蓄積させる。
 だが、この方法には絶対に術式が必要であり、それは家電製品には使えない。

 う~ん、無理っぽいよな、どう考えても。

 街灯の少ない方少ない方へとなんとなく歩いて、夜の公園に足を踏み入れた。
 何気なくこんなとこに来ちまったけど、ここってこの時間はカップルだらけなんじゃないか?
 今の俺には刺激が強すぎる。

 なんとなく気が引けて、元の道に戻ろうかと思った俺は、そこでふと、獣の気配を感じて足を止めた。
 夜の公園には犬を連れて散歩する人は多い。
 だから別におかしい気配ではないはずだった。
 
 闇を透かして見た先に、確かに中型犬程度の犬らしきシルエットがあった。
 興奮した風に地面に顔を突っ込んでいる。
 何かを食っているらしい。

 ガフガフと息遣いも荒くがっついているその犬には、リードを握っている飼い主はいなかった。
 見ると、その犬が食っているのは、誰かの弁当のようだ。
 弁当箱がそのままぶちまけられて中身が全部露出してしまっている。

「なんか、おかしくないか?」
 一人で呟いて、俺は気配を探った。
 犬の頭を撫でてやりながら周りを見渡すが、別におかしな気配はない。
 いや、
「どうして誰もいないんだ?」
 夜とは言ってもまだ八時を過ぎた程度、この公園は普段散歩をする老若男女や、カップルの憩いの場となっているはずだ。
 それなのに、この飼い主からはぐれたらしい犬しかここにはいない。

 俺は漠然とした不安を感じながら一人その場に佇んでいた。



[34743] 100:明鏡止水 その四
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2014/06/05 05:00
 飼い主を探してみたが見つからなかったので、俺はその犬を連れて最寄りの警察詰め所に立ち寄る事にした。

 運良く巡回に出ずに詰めていた警官に公園に飼い主のいない犬がいたという報告をすると、拾得物届けの書類を書かされる事となり、同時に世間話なのか愚痴なのかやたらしゃべり好きの中年の警官に話し掛けられる事となった。

「最近多いんだよね、放置ペットとか良くわからない拾得物とか」
「そうなんですか」
「無責任な若いのが増えたか、何かそういうのが流行っているのかもしれないな。学生とか時々訳の分からん遊びを考えだすし」

 警官の話に、人気のない公園の事を思い出す。
 どうも嫌な感じがする。

 その警官は動物好きだったらしく、犬の世話については問題なさそうだった。
 迷いペットは警官が端末で本部に報告をしておくと次の日には動物愛護施設の職員が迎えに来て、その施設で一元管理される事になるらしい。
 人見知りをしない短毛種の犬はくるりと巻いた尾を振りながら見送ってくれた。

 マンションに帰った俺は浩二の部屋を尋ねたが、どうやら留守っぽいので由美子の部屋を尋ねる。
 インターホンを押すと『ロックを解除しました』という機械音声が流れた。

 ちょ、無精すぎるだろ。
 せめて確認の声掛けぐらいやろうぜ。

「ユミ!声ぐらい確認しろよ、俺や浩二じゃなかったら困るだろ」
 かつて知ったる妹の部屋に上がり込むと、何もない畳の部屋にクッションとぬいぐるみが転がっているといういつも通りのシュールな光景の真ん中で、なぜか部屋着を来ているのに頭にTシャツを被っていかにも着替えをしている風の妹がいた。

「きゃあ、兄さん、妹の部屋とはいえ年頃の一人暮らしの女の子の部屋に勝手に入り込むとか、痴漢と間違えられても言い訳が出来ませんよ」

 うちの妹がなんかおかしい。

「お前、あまりにも棒読み過ぎて何言ってっか分からんぞ。芝居の練習かなにかか?」
「……あれ?」
 俺の抗議に由美子は被っていたTシャツを放り出すと首を傾げた。
 うん、この仕草は可愛いな。

「何が『あれ?』なんだ」
「この手を使うと男の人は真っ赤になりながら平謝りをすると聞きました」
「誰にだよ!」
「大学の研究室の仲間にです」
「友達は選べ」
「選んでいたら友達なんか出来ませんよ」

 妹の抗議にちょっと涙が出た。
 そういえば由美子は村で暮らしていた頃はまともな友達がいなかったな。
 やっと大学で友達を作れたのに、俺ときたら駄目な兄貴だ。
「そうだな、友達を選ぶなんて傲慢だよな、兄ちゃんが悪かった」
「分かれば良いです」
 寛大に謝罪を受け入れるように由美子が頷く。
 そう言えば俺、何しに来たんだっけ?
「問題は友達になってくださいと言ってくるのが男の子ばっかりだって事ですね」
「断れ!」
 俺は即座に友達に対する幻想を捨てた。

「まぁでも部屋に勝手に上がって悪かったな」
 よく考えれば妹も年頃だ。
 兄弟に部屋に入られるのが嫌って事もあるのかもしれない。

 由美子は俺の言葉にさっきとは逆の方に首を傾ける。
「ドアに認識魔術が仕込んであるから兄さん達はフリーパスだよ。気にしない」
「気にしないのかよ!」
 なんかどっと疲れた。

「ちょっと聞きたいんだが、最近街の中でおかしな事が起こってたりしてないか?」
 俺は本題を繰り出す。
 情報収集は本来は由美子よりは浩二の方が優れている。
 だが本人がいないんじゃ仕方ないからな。
 由美子とて魔術や怪異の研究を主体とする大学の専門学部に通っているのだ。
 そこで得られる情報もあるに違いない。

「私は、学校とうちの往復をしているだけ、街中で知っている所は喫茶店とお菓子屋さんぐらい」
「……いや、お前の行動範囲の狭さを今更どうこう言うつもりはないが、すごく偏ってるな」
「その評価は不当、うちの研究室仲間には家にも帰ってなくて実験用具洗浄桶で体を洗っている人もいる」
「お前んとこの大学大丈夫かよ?てかお前の所属している研究室がヤバイのか?」
「研究室で最近話題になった事件は大体10年ぐらい前に起こった事件だった」
「浦島太郎ぶりが本格的すぎて笑えねえよ、お前同じ研究室の連中とはあんまり親しくならない方が良いんじゃないか」
 由美子の大学に対する俺の不信感は募るばかりだ。
「そう言えば、うちで一番の情報通は院生の木下先輩だと思う」
「誰だ?それ」
「兄さんも会っている。英雄フリークの……」
「あいつかよ!」

 結局妹がリアルタイムの世間の情報など持っていないと分かっただけだった。
 更に大学が迷宮に匹敵する危険地帯だと認識出来た。
 可愛い妹をそんな場所に通わせて良いのか?不安だ。

 ふと、由美子の部屋を見回してみる。
 クッションとぬいぐるみぐらいしかない不思議空間とは思っていたが、見事に他に何もない。
 テレビジョンもないし、温度調整機クーラーすらないのだ。
 てか、おい、連絡端末もないじゃねえか!

「ユミ、お前ハンター用の端末どうした?」
「パーティ組んだから連絡は兄さん経由。だからもう捨てた」
「捨てんな!あれを通じて個人指名とかハンター間の共有ニュースとか来るだろうが」
「機械は複雑ですぐ暴走するから嫌い」
「いやいや、機械カラクリってのは決められた動きしかしないから、術式みたいに暴走とかしないから」
「術式は制御簡単、機械は仕組みが分からなくて怖い」
「あれは分からなくても使えるようにしてあるんだよ!お前の術式なんか複雑すぎて、昔うちに来た研究者が『三つの術式を追っていたと思ったら新しい一つの術式の記述に迷い込んでいた、何があったか分からない』とか慄いていたじゃないか」
「あんなの初歩の初歩。術式を編むのは機織りみたいな物。縦糸の数が多い程複雑な模様に出来る。三種類編み上げるなんて子供でも出来るよ」
「あ、うん。時々兄ちゃん、お前とは違う世界に住んでいるんじゃないかと思う時があるよ」

 俺たち精製士の使う詩歌マガウタも複数を組み合わせて複雑な効果を及ぼす事が出来るが、せいぜい二つ、それも韻を踏まなきゃならんので相性があって使い辛い。
 更に同時起動はお互いの効果を歪めてしまうので時間差が必要という物だ。
 この詩歌の理論は元々は魔術詩の理屈からの応用だと聞いた事がある。
 つまり魔術も基本の原理は同じはずなんだよな。

 うん、俺の常識と妹の常識が違う。

「まぁいいや、ともかく今は何の情報もないんだな。もし何か気付いた事があったら頼む」
「分かった。街に虫を放っておく?」
「あー、うん……」
 魔術を公共の場で私的に使う事は原則的に禁じられている。
 しかしハンターはその限りではない。
 必要と判断したなら使っても構わないのだ。
 だが、どんな世界でも一方的な覗きピーピング行為は嫌われるものだ。
 ヘタしたら行政からの抗議が来る可能性もある。

「いや、そうだな、頼む。一月ぐらい網を張って何も無かったら解除しよう」
「分かった」

 この手の不安感や嫌な予感って奴は無視してはいけない。
 今までの経験から培った真実だ。

「あ、そうだ」
 帰ろうとした俺に、由美子が急に何かを思い付いた様子で声を掛けた。
「ん?」
「ニュースと言えば、迷宮素材から医学的に有用な発見があったって教授が言ってた」
「へえ」

 由美子のとこの教授って行政に近いよな、今更だけど。

「迷宮の怪異とオープンフィールドの怪異とは見た目は同じでもその造りが違っていて、迷宮の怪異はナノサイズに分裂しても生物特性を失わないんだって。だからコアの代わりに命令を刷り込む事が出来れば体内に入れて治療に使う事が出来るとかなんとか」

「え?それってどういう事だ?」
「さあ?」

 由美子も話を聞いただけで詳細は分からないらしい。
 まぁともかく俺たちが頑張って持ち帰ったサンプルが役に立ったんなら良い事なんだろうが、それは同時に恒久的に迷宮に依存する事に繋がりかねない。
 難しい問題だな。

 俺が色々考えても仕方がない事ばっかりだけど、世の中ってのはほんとままならないもんだ。
 由美子の部屋を後にした俺はマンションの通路に面した吹き抜けの中庭の、三角形に切り取られた空を見上げた。
 暗い夜空は月の光のせいで星が良く見えない。
 その月も小さな空の中には存在しない。
 
「すっきりしないな。何もかも」
 俺はゆるく頭を振ると部屋に戻った。

――――――補助事項ウンチク――――――

干渉文言、別名詩歌マガウタ:精製士の使う、認識にゆらぎを作り出す技術定形文。
魔術師や魔法使いが使う本来の魔詩マガウタは触媒を使って動的作用を引き起こす魔術だが、その理屈だけを抜き出して技術として応用したのが干渉文言である。
魔術と違い、ちゃんと条件さえ整えればだれでも使えるのが利点。



[34743] 101:明鏡止水 その五
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2014/06/12 06:17
「考え方を変えてみよう」
 佐藤がこっちのディスプレイに企画書を表示させた。
 ってか、何やってんだ?
 どうしてこっちの電算機パソコンで勝手にデータ開示させてんだよ。
 ウィルスか?ウィルスなのか、これ?
「ちょ、おい」
 俺の抗議を軽く受け流し、佐藤は表示した企画書に書き込みを進めた。

「夢のカケラはそのままの状態だと、どうやってだか状態を固定化されたエネルギーという事だよな」
「まぁ……そうだが」
「ならば、それ自体が蓄エネルギー物質であるという事だ」
「確かに」
 どうやらチーム全員のディスプレイに同じ画面が表示されているようだった。あちこちから「え?なんだこれ?」とか「ちょ、俺の作業どこいった?」とか声が聞こえる。
 ちなみにうちの会社に元からこんなシステムはない。
 データの共有は共有ボックスにて行っていて、そこにファイル形式で各人がそれぞれのデータの出し入れをしているだけだ。
 会計課辺りはソフトの共有をしているらしいが、うちはそんな事していない。
 今佐藤がやっているのは各人の電算機パソコン自体を直接自分の電算機パソコンのデバイスとして繋いでいるっぽい。
 何やってんの?こいつ。

「ならば使用するその時までその状態で『溜めて』おけば良いじゃないか」
「そりゃそうだが、使う時はどうするよ」
 抗議するのもバカバカしくなったので、仕事の話を進める事にした。

「今街の防御に使っている電気的結界があるじゃないか、あれを使った密閉空間を作ってその内部で共鳴を起こして電気エネルギーに変換させる。うん、うん、そう、これ、これじゃない?ね、木村ちゃん」
 佐藤がノリノリで持論を展開する。
「あの技術はブラックボックス化されてるだろうが」
 文句は言うが、佐藤の考えは分かった。
 要するに夢のカケラのまま容器の中に保管しておいて、使う時にそこを結界で閉じて内部でエネルギー化すれば良いという事なのだろう。
 だが都市結界の機構は一般には流出してない技術なのだ。
 使える訳がない。

「いやいや、あんな技術、考え方さえ分かってしまえばさして大層な技術ではないよ。要するに電流をコイル状に流す事で磁界を発生させ、磁極間の空間を外の空間と隔離しているだけの話だろう。怪異というのは我々のような血肉を持った生物と違って不安定な存在だ。彼らは磁極に挟まれると自らの存在意味を失ってしまうからそこを越えられないのだ。それはエネルギーでも同じ事だろう」
「佐藤さん、確かに理論上はそうですが、実際に使用出来る物として商品化するにはとんでもない回数の実験が必要となりますよ。それこそ年単位の話です。さすがに厳しいんじゃないでしょうか」
 期待の新人中谷君がすかさずツッコむ。
 彼は地道な実験が嫌いなのだ。

「いいじゃないか、実験。心が震えるワードだね」
 しかし佐藤は他人に譲るという事を知らない男だ。
 新人君など相手にされるはずもない。

「だがまぁ、中谷君の言う通り、現実味の薄いやり方ではある」
 そこに口を挟んだのが、我らがお隣の偉い人、一之宮流博士である。
 さすがに相手が天才なら聞く気にもなるのか、佐藤は流を促すように見た。
「考え方としては間違ってはいないとは思うんだけどね。あと一歩という所か」
 流の言葉に全員がうーむとそれぞれの考えに沈んだ。

 仕事が一段落した後、佐藤が課長から勝手に共有アプリを仕込んだ事を怒られているのを眺めていると、流が近付いて来て何やら訳知り顔で俺を見る。
「なんだ?」
「二足のわらじを履くのは良いが、もう一つの仕事をこっちでも引き摺っているようでは困るんじゃないか?」
「!」
 図星を指されて反論も出来ない。
 俺はしばし唸った挙句に謝った。
「すまん」
「別に俺に謝る必要はないさ。ヒーローってのは大事な存在だ。人々は自分たちが守られていると感じているからこそ平和を享受出来る。しかし、仕事という物はどの仕事もみな、かけがえのない物だと俺は思っている」
「ああ、その通りだ」
「やると決めたからにはどちらも全力で、だろ?」
 政界を影で操る仕事と家電の開発という仕事を天秤に掛けてこっちを選んだ奴の言う事はさすがに違うな。

「OK、ティーチャー。おおせのままに」
 俺がやっこさんの上から目線をからかってそう言うと、流はふんっとばかりにそれを鼻で笑った。
 俺もニヤッと笑うと、拳を突き出してそれを迎え撃った流の拳と軽くぶつけ合う。
「近頃はこの都市も物騒になってきたな」
「ああ。ヒーローを必要とする近代文明とか、ちょっと残念だよな」

 由美子の警戒網と、浩二の情報収集とにとんでもない情報が上がって来ていた。
 どうやらこの街のどこかに強大な怪異が巣を作ったらしいのだ。
 既に終天の作った迷宮があるというのに、そのごく間近にテリトリーを接触させるとなると、終天に匹敵するような奴だと思った方が良い。
 正直に言って、この都市を放棄して避難した方が良いぐらいの大事件だ。

 さっそくお上に報告したんだが、詳しい調査を行うというお返事が来ただけだった。
 調査って、犠牲者を増やすだけだろ、それよりハンター組織に大々的に依頼するべきだと抗議したんだが、依頼するにも調査してからじゃないと出来ないという事だった。
 いや、言ってる事は正しいんだけどな。
 魔神クラスに常識で対応していたらヤバイだろ。
 敵が狡猾なのか、一切尻尾を掴ませないのが問題なんだろうな。

 酒匂さんは忙しいのか全く連絡付かないし、人混みを見ると大声で避難を呼び掛けたくなってしまって困る。

「木村さん?」
 悶々としていたら一緒に歩いていた伊藤さんが不思議そうに顔を覗き込んで来た。
 綺麗な透き通った煙水晶のような瞳で、上目遣いに俺を見詰める姿は恐ろしい程に可愛らしい。
 おおう油断してた。
「あ、すいませんぼーっとしてて」
 やべえ顔赤くなってるかもしれん。
「いえ、あまり無理をして根を詰めないようにしてくださいね。最近あんまり寝ていないみたいですし」
 うわあ、俺の周囲の人間って鋭いな。
 会社じゃあ普段通りにしているつもりだったんだけどな。

 少し立ち止まってしまった俺たちを、駅前の雑踏が押すように圧力を掛けてくる。
 仕事帰りの人混みの隙間を縫うように改札口へと続くエスカレーター近くまで移動した。

「なるべくちゃんと寝るようにします。休養不足は色々と危ないですからね。伊藤さんも寄り道せずに帰ってくださいね」
「子供じゃないですよ私。そりゃあ木村さんに比べれば年下ですけど」
 ちょっと膨れた頬が可愛いな。
 伊藤さんの家は壁外だ。
 本来は壁内より危険の多い地域だが、今は逆にそっちの方が安全になっている。
 事実壁外の住宅区からの行方不明者は極端に少ない。

「じゃあ、事が落ち着いたら、その……」
 俺は口篭った。
 落ち着いたらどうするんだ?伊藤さんのご家族に挨拶に行くのか?
 行ってどうするんだ?
 お宅のお嬢さんと付き合いたいんですけどと言えるのか?
 まだまだ俺自身が踏ん切りが付いてない状態で。

「無理は無しですよ。言ったじゃないですか。私達は我が儘に正直になりましょうって」
 伊藤さんが笑って手を振った。
 いやいや、俺を甘やかし過ぎてると思うんですよ、アナタは。
「じゃあ、また明日」

 溜め息が出る。
 駄目だな俺は、なんかつくづく思ってしまう。

 ふと、風に乗って匂いが漂って来た。
 腐った血が発酵して甘い香りを発し始めたような、独特の匂い。

食人鬼グール?」
 駅の下りエスカレーターの先の地下街から吹き上がって来た淀んだ風が内包する、死をも侮辱する存在の気配に鳥肌が立つ。
 おいおい冗談じゃないぞ。ここはオフィス街にも近いし乗り換え線も多いからこの時間は人が集中している場所だ。
 こんな所に人喰いの化け物が出たら洒落にならない。

 最近はある程度の武装を職場にも持ち込んでいるんだが、本格的な戦闘となったら手が足りないかもしれない。
 俺は即座に判断すると、ハンター証にてコールを掛ける。
 とりあえずこれでうちの二人には招集が掛かって、俺の居場所は二人のハンター証に随時送られるから合流可能なはずだ。

「ったく、彼女の行動範囲に化け物とか、許す訳ないだろ」
 人の多い時間帯、地下は食べ物屋が多い。
 もしパニックが起こったら対処出来る自信はない。
 しかし、ここで見逃す訳にはいかなかった。

 光量の違いから暗くくすんで見える地下へと向かうエスカレーターを一段飛ばしに下りながら、俺は自分の意識をハンターの物へと切り替えた。



[34743] 102:明鏡止水 その六
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2014/06/19 10:26
 地下街には独特の熱気が篭っていた。
 帰宅前に食事を取ろうという人たちや、塾帰りの学生、若い男女、少女達の集団、いつもの日常の風景だ。
 篭った空気に漂う、カレーやラーメンなんかの匂いも、ごちゃごちゃになったり、どれか一つだけ目立ったりと、それもまた風景の一部のように馴染んでいる。

「くそっ、どこだ」

 地下街に降りた途端、上で嗅いだ独特の死人の匂いはその風景に紛れてすっかり分からなくなってしまっていた。
 複雑に枝分かれした通路の先の暗がりが一々怪しく感じて覗き込んでしまう。

「ん?」

 人の流れが不自然に曲がっている場所があった。
 狭い通路を繋ぐ箇所にエスカレーターがあり、その下の開いた部分に休憩用のベンチがある。

 どうやらその場所を避けているようだった。

 急いでそこに近付いてみると、なにやら揉め事のようだ。
 若い男達が誰かうずくまった人間を突き飛ばそうとしているのか?

「おい、どうしたんだ?何やってる?」

 俺が声を掛けると、男たち、いや、まだ少年と言えるような年の連中が一斉に振り向いてこっちを見た。
 そして俺の顔を見付けた途端、ぎょっと怯えたように身を引いた。

 ちょ、お前ら傷付くぞ。

「おっさん、助けてくれよ。このじいさんがよ……」

 どうやらその中でも物怖じしないタイプらしい少年が、斜めに見上げるように鋭い視線を投げて来る。
 助けてくれという言葉とは噛み合わない、まるで喧嘩を売っているような目付きだった。

「ん?具合が悪いのか?」
「それがよ、すげえ力でしがみついて来て、便所連れてけって言うんだぜ?おりゃあ知らねえジジィなんかと連れションとかねーってんのによ」

 トイレぐらい連れてけば良いのにと思いはしたが、こういう連中は何かをやれと言われると却って意地になって抵抗したりするものだ。
 仕方ないのでそのおじいさんとやらを俺が引き取ろうと近付いた。

 ふっと鼻孔に独特の異臭が飛び込む。

「おい!ソレから離れろ!」

 言うと同時に俺は蹲っている人影から少年を引き剥がしに掛かる。
 だがそれより相手の方が一手先を取った。

「いてえ!」

 縋り付いていた少年の腕をソレが噛んだのだ。
 腕の肉が大きく齧り取られ、淡い色の肉と白い骨が覗いてる。

「うわああああ!!」
「なにやらかしてんだ!ジジィ!」

 逃げ腰になる者、激高して相手に詰め寄ろうとする者、てんでに行動をされては犠牲が増えてしまう。

「やめろ!そいつは食人鬼グールだ!警察の詰め所に駆け込んで地下街から人を引かせてくれ!」

 殴りかかろうとした少年を引き剥がすと逃げ腰の仲間に向かって放り投げ、指示を出す。
 同時に噛まれて泡を吹いている少年を素早く引き寄せて、相手から距離を取った。

 周囲の人達はまだ何が起こったか分かっていないようで、喧嘩か何かと思って遠巻きに見ている人影も数人見える。

「ガッ、ガァッ!」

 噛まれた少年がガクガクと体を揺すり出した。
 まずい、感染し掛けている。
 感染力の強さは相手の親玉の強さでもある。
 このグールが何代下か分からないが、三代以上下がってこれなら上はそうとう厄介な相手だろう。

 俺は個別に仕分けしているポーチから小さなスタミナドリンク程の大きさの容器を取り出した。
 人工の霊水である有機ゲルマニウム水入りのその容器に、別の仕切りから取り出した銀片を放り込む。

「銀の月は水面に映り、風により光は解ける」

 精製の文言を応用した急増の聖水もどきである。
 効き目は怪しいがとりあえず毒の侵食さえ止めてくれればそれでいい。

 怪しげな霧を吹き出すそれを、俺は少年の傷口にぶっかけた。

「ギャアアアアアア!」

 ……凄く痛かったっぽい。ごめんな。

「おっさん!やっちゃんになにしてくれてんの!」

 まだ逃げてなかったのかお前ら、仲間思いなのは良いが、お前らがいるとほんと、やばいから、主に俺が。

「じゃあ、こいつ頼む、グールに噛まれたけど一応応急処置したって救急車呼んで言ってくれ。ハンターから言われたって!」

 胸元のハンター証を引っ張りだして見せる。
 子供向けのヒーロー物とかCMの登場人物とか、そんな広報活動でハンター証自体はそれなりに有名だ。

「えっ、ハンター?マジもん?」
「おっさんハンターなん?」

 仲間を受け取ってその傷口の無残さに顔をしかめながらも、少年達はこっちに興味津々な様子を見せる。

「いいから早くしろ!応急処置してるとは言え、下手するとそのお仲間がグールになっちまうぞ!警察行ってから救急車だ!分かったか?警察の詰め所にまともな聖水があるはずだから」

 俺の剣幕に押されて、少年たちは「お、おう」とか「分かった」とか言いながら仲間を抱えて走り去る。
 その頃には俺の言ったグールとかハンターとかの言葉を受けた周囲が、軽くパニックを伝染させ始めていた。

「近頃の若いやつの血肉は臭くてならんな」

 うずくまっていたグールが立ち上がり、口元を赤く汚したままでニヤリと笑う。
 姿形こそ老人だが、皮膚はつやつやとピンク色で凄く健康そうだ。
 ただ両目はグールらしく赤く濁っていた。

「おいおい、知性が残ってるんだ。お前のご主人はどんだけ高位なんだよ」
「まぁそうだな、真なる神と言っておこうか」

 ニヤァと笑う表情こそ邪悪だが、その姿形はそこらの一般人となんら変わりない。

 ゾッとした。
 この分ではその真なる神とやらの下僕となった犠牲者がかなりの数いるに違いない。

 一旦グールとなってしまった相手を元の人間に戻す事は出来ない。
 なぜならその人間は既に一旦死んでいるからだ。

「敵は吸血鬼かよ、くそが!」

 吸血鬼の下僕には二種類いる。
 同じ吸血鬼の劣化版である眷属と、この相手のような食人鬼グールだ。
 その違いは一度死んでいるかどうかにある。
 眷属は時間を掛けて吸血鬼化するので、完全に吸血鬼化していなかったら人間に戻る可能性もある。
 だが、グールは毒によって殺された死体が動き出すという代物だ。
 毒を抜いても死体に戻るだけなのである。

 尤も完全に吸血鬼化した場合ももはや人間には戻れないのだが。

 グールは予備動作なしに腕を振るってこちらを攻撃して来た。
 ドガン!という馬鹿みたいな音がしたかと思うと、頑丈な地下の壁がえぐれている。

「キャーーー!」

 悲鳴が響いた。

 それまでここで起こっている事を上手く理解出来ていなかった人が、実際の暴力を見て身の危険を感じたのだろう。

 パニックでエスカレーターで将棋倒しとかならなきゃ良いが、さすがに俺もそこまでなんとか出来ない。
 警察の対応が早い事を願うのみだ。

「兄ちゃん、食い物の恨みは恐ろしいって言葉知ってるか?」
「子供でも知ってる言葉で偉そうに宣言されても、な」

 愛用のナイフを引き出し、牽制する。
 老齢の見掛けによらず、相手から鋭い蹴りが放たれた。
 俺は身を沈めながらナイフを持った腕でその足を払う。

 ドン!という車同士がぶつかったような音と共にお互いが弾かれたように距離を空けた。

「兄ちゃん強いなぁ。怖い怖い」
「じいさん無理すんな、年寄りの冷や水っていうだろ」

 言いながら俺はグールに突っ込んだ。
 間合いを取ろうとする相手のふいを突いてその懐に入り、体を抱え上げると通路に叩きつける。
 グールは「グゥ」と唸ると全身を痙攣させた。
 すかさず首を掻き切ろうとした俺の体が、まるで電気に打たれたかのようにビクリと跳ねてその場を離れる。

「なんだ?」

 自分でも分からないまま見やると、その視線の先で俺のいた空間を鋭い斬撃が通り抜けた。

「あら?存外勘が良いのね。残念」

 そこに現れたのは夜のお仕事風の少し派手な衣装を纏った女性だった。
 いや、女吸血鬼か。

「あんたがこいつの親って訳か」
「私、ハンターって嫌い。優雅さに欠けるもの」

 くすくすと笑うと、ニィと紅い口角を上げる。

「死ね!」

 野太い、綺麗なお姉さん風の姿からは考えられないような声が放たれ、その吸血鬼は赤く濁った両目を見開いた。
 瞬間、俺は硬直した状態で固まってしまう。

 しまった、邪眼か。

 邪眼イビルアイは視線によって相手の神経系への命令伝達を断つ攻撃だ。
 吸血鬼の特殊能力の内ポピュラーな物だが、最も強力な攻撃の一つでもある。
 その性能が単純な分、効果が強いのだ。

 と、その時。

「木村さん!」

 聞こえて来たその声に文字通り血の気が引いた。
 なんでここに?
 いや、そんな場合じゃない、逃げろと叫ばなければ、くそっ、肝心な時に身動き一つ出来ないとは!

 駆け寄って来る彼女の馴染んだ軽い足音が、俺の心を焦燥に叩き込んだ。





――――――補助事項ウンチク――――――

食人鬼(グール):飢えて死んだ死体が自然発生的になるモノと、吸血鬼が己の下僕として造ったモノが存在する。
自然発生的なグールには知性が無いが、高位の吸血鬼に造られたモノには知性がある場合がある。
生きた人間を喰らい。グールに喰われた人間もまたグールになる。



[34743] 103:明鏡止水 その七
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2014/06/26 06:44
 邪眼の解除は気力だけで出来るものではない。

 この手の事をなんでも数値化する学者によると、呪いの類は相手の術力に対する自分の抵抗力との差分によって、その度に確率判定がなされているらしい。
 簡単に言えば一度呪いに掛かると、その呪いの効果が切れるまで継続するという事だ。

 邪眼による金縛りは、実は強力ではあるけれど呪いとしては永続性はない。
 この手の一点特化型呪術は、ほとんど十割の確率で抵抗に失敗して術に掛かってしまうのだが、抵抗力がその効果に減衰を掛ける割合もまた大きい。
 一定の時間、俺自身の抵抗力からすれば数分もないぐらいの時間、動けなくなるだけなのだ。

 とは言え、戦闘中に掛かってしまえば数秒だろうが致命的だが……。

 普段はなんだかんだ言って、強力な術者である弟妹と一緒にいるから、この手の呪術に対抗する手段を任せっきりにしているのが間違いだった。

「木村さん、しっかりして!」

 伊藤さんはくっきりと顔が見える範囲まで走り込んで来ると、そう大きな声で俺に呼び掛けた。
 その声にグールのジジイが反応して彼女の方へと動き出す。

 焦る俺の体は、しかし、その彼女の言葉と共に、ふっと軽くなっていた。

「え?効果が消えた?」

 と、考えている場合ではない。
 好機とばかりに大口を開けて迫っていた女吸血鬼を殴り飛ばし、慌てて体を返してジジイのグールを追う。
 
「お嬢さん、美味しそうだね」

 ジジイはニヤニヤしながら伊藤さんを追いかけていた。
 まるで痴漢オヤジのようなキモさ加減だ。
 しかし、伊藤さんの方が確実に足が早い。
 トレッキングシューズ愛用の伊藤さんの実力がものをいった形だ。

 凄いぜ伊藤さん。

「待たんか!」

 しかし、業を煮やしたのか、そう叫んだジジイは自身のリミッターを解除したらしい。
 人間の肉体の限界を超える事の出来るグールは、その気になれば人の運動能力を軽く凌駕する。
 たちまち老人の姿に似合わないスピードで追い上げ始めた。

「させねえよ!」

 俺の投げたナイフがジジイのグールの左足の足首から下を砕いた。
 ジジイは転倒したが、更に両腕を使って這い進む。

 すげえ執念だ。
 そんなに若い女の子が良いのかよ!

「余所見をするとは余裕だな」

 こっちはさほど若くない吸血鬼の女が追いすがって来た。
 吸血鬼は、例え眷属の下位であっても片手間に相手の出来るような存在ではない。

 俺は舌打ちしつつ走るスピードを上げた。
 例えこの吸血鬼に背中を見せる事になろうと、伊藤さんを追うジジイのグールを放っておく訳にはいかない。

 一気に走ってジジイにタックルを掛けた。

「木村さん後ろ!」

 緊張した顔で振り向きつつ走っていた伊藤さんの叫びに、俺はジジイを抱えたままゴロゴロと転がる。
 女吸血鬼はスピードを出しすぎていたのか、俺をかすめて床に突っ込んだ。
 ドガガッ!と、工事現場でコンクリを掘るような音がして床が削れる。

「伊藤さん、とにかく話は後で!外に出てください、うちの連中ももう来るはずですから!」
「分かりました、ごめんなさい!」

 どうやら俺に迷惑を掛けたと思ったらしい、謝りつつ全力疾走して行く。

「いえ、助かりました!」

 聞こえたかどうかは分からなかったが、その遠くなる背中にお礼を言った。
 実際、伊藤さんの声で金縛りが解除されなかったら危なかったのだ。

「この!」

 体勢を立て直した女吸血鬼が、赤い派手なヒールで床を蹴って斜めに突っ込んできた。
 どうやら床に突っ込んだダメージはカケラもないようだ。
 さすがに頑丈だ。
 しかし、その服も破れてないのはどういう事なんだ?

 俺は女の目を真っ直ぐ見ないようにしながら相手の行動を確認すると、咄嗟に手にしたジジイを投げ付ける。

 だが、さすがに怪力を誇る吸血鬼、女はそれをまるでハエでも払うように叩き落とした。
 女の薙いだ部分がボコリと削れたスプラッタな姿になったジジイが床でジタバタと立ち上がろうとしている。

「死ね!」

 牙を剥いて、もはや人間らしさを失った顔で突進して来る女の腕を掴んで払おうとしたが、びくともしない。
 仕方ないので逆にそのまま引いて、柔道で言う所の内股で押し倒す形となった。

 ジタバタと暴れる女の危険な牙を、顎を抑えこんで引き剥がしたが、それでちょっとした硬直状態に陥る。
 やばい、ジジイが起き上がったらこっちが不利だ。

「兄さん、見境がないのはどうかと思いますが」

 その時、温度のない冷めた言葉が背中から降ってきた。

「何の見境だよ、お前そっちの食人鬼グールをなんとかしろ!」

 さっそく駆け付けてくれたのは良いが、うちの弟はいちいち俺にチクチク嫌味を言うのをなんとかして欲しい。
 いや、嫌われてんのは知ってるんだけどさ。

「さすがにそんな下品な女を義姉ねえさんとは呼びたくないですし」
「どうやったらそんな発想になるんだよ!アホか!」

 馬鹿な事を言っている間に、浩二の影がスルスルと伸びて幾匹かの影の蛇となり、グールを縛り、そのまま浩二は流れるような動作で懐から取り出した呪符を叩きつけるように放った。
 刹那の間で、グールのジジイが燃え上がる。

「おのれ!」

 女吸血鬼は凄い力でこっちの押さえ込みを解こうとするが、この場合上から押し付けている俺の方が有利だ。
 俺はさっき作った聖水モドキの僅かな残りを取り出すと、その女吸血鬼の口に突っ込む。

「がああああ!」

 女の口から白い煙が吹き出した。
 これだけでどうこうなるような相手では無いが、相手の力の何割かは押さえ込んだ形だ。

 俺のナイフは銀製では無いが、仕込んである術式に破魔の力がある。
 さっき投げたのは投擲用だが、愛用のナイフはかなりごっつい狩猟ナイフタイプだ。
 その刃を女吸血鬼の左胸に思い切り突き込んだ。

 喉を焼いたせいで声が出ないのか、女吸血鬼はパクパクと口を動かし、胸から間欠泉のように血を吹き出す。

「焼きます」

 浩二の声が聞こえたかと思うと、先程と同じ呪符が今度はこっちに飛んで来た。
 あぶねっ!

「うおっ!」

 パッと離れた俺の目と鼻の先で吸血鬼の体から炎が上がる。
 肉と髪の焼ける嫌な匂いが溢れて、思わず鼻をしかめた。

 恐ろしい炎の勢いだ。
 地下で火災とか冗談ではないが、これは浄化の炎なので怪異しか焼くことはない。

 てか火災報知機がこの炎を感知しないのはお得意の結界を張ったからか?
 
 一面しか創れない浩二の界による断絶ではなく、従来の術式での結界である。
 自分の能力に関係する事だからなのか、浩二は普通の結界についてもかなり詳しく、術式としてよく使用していた。

「一般人の誘導は駆け付けた警官がやってくれた。少し転んで怪我をした人はいるみたいだけど、大怪我をしたりした人は無いみたい。それと……」

 由美子がまるで散歩でもしているかのような気楽さでのんびり歩いて来ている。
 その傍らには伊藤さんがいた。

「ゆかりんには兄さんのハグが必要です」
「何言ってるの!ゆみちゃん!」

 伊藤さん、顔が真っ赤である。
 そして俺は兄の威厳の為に動揺を抑えた。

「ついでにチューもしてあげると効果的だと思います」
「キャー!」

 伊藤さんが由美子の口を塞いだ。
 ありがとう、伊藤さん。
 しばらくそのままお願いします。

 心癒される光景から敢えて目を反らし、醜悪なモノへと目を向ける。
 グールは人間大の炭のような何かに変わり、吸血鬼は真っ白な灰となっていた。
 グールはともかく、この灰はこのままにしておく訳にはいかない。
 集めて後で流水、つまり川に流す必要がある。
 まぁ下水でも良いけど、どっかに淀みがあると拙いしね。

「これは僕が処理をしておきますから、そっちをなんとかしてあげたらどうですか?」

 言われて、もう一度振り返り、改めて目をやると、伊藤さんは真っ青な顔をしていた。
 ああ、そうか、今まで無能力者ブランクとして、怪異とは無縁の生活を送ってきていたのだ、迷宮に入り込んだ経験はあったとしてもこんなのを目にして怖くないはずがなかった。
 由美子や浩二にすら気付けた事に今まで気付け無いなんて、俺って駄目な男だな。

「わ、私は大丈夫です。それよりすみませんでした。あの、凄く嫌な感じがして、それで、必死できちゃって、邪魔をしちゃうって分かってたはずなのに、駄目だって、……わたし」

 彼女は見ていて心配になるぐらい震えていた。
 潤んだ目を見張って涙をこらえているようだ。

「いや、ありがとう。おかげで助かりました。本当ですよ?」

 由美子と交代してそっと伊藤さんの腕を握る。
 いや、ハグとか無理だから、そんな期待するような目で見るな、妹よ。

 しかし、伊藤さんはほとんど立っているのがやっとの状態だ。
 相当怖かったのだろう。
 そうか、そうだよな、それが普通の人の在り方だ。

 それなのに、必死で来てくれたのだ。
 それはどれだけの勇気だろう。
 恐怖を知らないような俺達には、到底考えもつかないような、それはきっと強い力だ。

 さすがにハグは無理だが、俺はそっと伊藤さんの肩に手を回して震えを止めてあげようとしてみた。
 不思議そうに俺を見上げた目が健気に微笑もうとする。
 その瞬間、つうっと、こらえていたらしい涙がその頬に流れた。

 思わず息を飲んでしまう。

 そんな俺の様子を見て、我が妹が視界の片隅でやたらとイイ笑顔をしているのが見えた。
 ……お前、後で覚えてろよ。

 それにしても、と、俺の胸の内に大きな不安が沸き起こった。

 伊藤さんは邪眼の力を解除した。
 思えば、彼女は以前も無能力者ブランクであるにも関わらず迷宮ダンジョンに入り込んだ。

 俺の考え違いでなければ、彼女は無能力とは違った特殊な体質ではないのか?
 普通なら義務教育に入る前の検査で発覚している類の体質。

 しかし、彼女は義務教育を受けていない。
 冒険者の父親と共に各地を転々としていたのだ。

「一度、伊藤さんのお父さんと話をする必要があるみたいです」

 俺がそう言うと、伊藤さんはしばし呆然と俺の顔を見て、徐々に真っ赤になった。

 ん?……あ!いや、違うから!え?どうしたら良いのこの空気。

 少し離れた先で、浩二が結界を解きながら小さく溜め息を吐き「やっとか」とか言ってるし、由美子はかつて見たことのないようなすっごい笑顔で俺たちを見ている。

 どうしよう、これ。



[34743] 104:明鏡止水 その八
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2014/07/10 06:01
 モニター越しに見るその顔は、心なしか疲れているように見える。
「同様の事件がおそらく数十件単位で起こっている」

 お菓子の人こと酒匂さんから、シークレットの着信が来ていて、画像での通信の指示があった。
 帰宅後の疲れた体をおして連絡を取ってみれば、早速駅地下街の一件についての報告を求められ、代わりにという訳でもないだろうが、政府側の掴んでいる情報の一部を寄越してくれる。

 というか、返信求むの通信記録ログはどう考えてもあの事件の直後なんだが、早すぎないか?情報。
 さすがはお国の情報網と感心するべきなのだろうか。

 まさか俺達に監視が付いてるとか護衛がいるとかって訳でもないのだろうけど、別組織である警察の情報を把握しているって事かな?
 それにしても……。

「そのおそらくっていうのは何ですか?それっていい加減にしていい事じゃないでしょう」
 俺達の行動の詳細を既に知っていたのとは裏腹に、関連事件についての情報の把握が怪しい。
 俺の指摘に、酒匂さんは溜め息を吐いた。

「残念ながら相手は巧妙だ。自分達の動きを把握させないように、表立っては事件性が見えないように行動しているのだ。今回の件もお前が絡まなければそのままその青年たちが消え去って終わりだったのではないか?同じように発覚しないまま消え去った者達も多いはずだ」

 酒匂さんの言葉に、俺の脳裏に数日前のあの人気のない公園が浮かんだ。
 不自然に放置されていた荷物やペット、その持ち主はいったいどこへ行ったのだろう。
 あそこで異常を認識していれば、もしかしたら間に合って助けられたのではないか?そう考えると、無意識に奥歯を噛んでいたようで、がりりと耳障りな音が口内から響いた。

「隆志、だからこそ、今回は事が大きくなる前に収めてくれて助かった。ありがとう」
 酒匂さんから語られる礼の言葉は逆に胸が痛い。

「もっと早く気付いていれば……」
「いや、それはお前の勘違いだ」

 つい、自分の至らなさに漏らした言葉に、酒匂さんが厳しい声を上げる。

「その言葉は国の治安を預かる者達を侮辱する言葉だ。お前たちは確かに怪異の専門家だが、国や地域を守っているのは常にそこを見守っている者達なんだ。異常を察知し、その理由を調べ、解決策を探る。本来お前たちの出番はその結果として彼らからの要請があった場合だけなのだぞ。隆志、いかな力を持っているとしても、本当に万能な者などいない。ヒーローとは人々の希望の中に棲んでいるだけの架空の存在なのだ。お前達が血肉を備えた存在である限り、それを忘れてはならない」

 酒匂さんのそのどこか突き放したような言葉に、俺は一人赤面した。
 全くだ。
 そもそも俺こそがヒーローなどいなくても人は怪異と戦えると言っていたというのに、無意識に自分の力に慢心していたのかもしれない。

「はい、すみません」
 画面に向かって頭を下げた俺に、酒匂さんはニヤリと笑ってみせる。

「と、まぁオヤジくさい説教をしてみせるのが年長者の楽しみという事なのだがな。実際今回お前が気付いてくれたおかげで助かった人達がいるって事は覚えておけ、出来ない事を嘆くより出来る事を誇れ。それともうちょっと俺たちを頼れ、色々と頼りないんで信用しきれないってのは分かるんだけどな」
「そんな事はありません。実際今回だって警察の人達が素早く対処してくれたおかげでパニックは最小限に抑えられたんだし、けが人も感染を免れたみたいで」
「それに関してはお前の初期対応が良かったっていうのもある。グールに噛まれて呪いに蝕まれない確率がどれだけ低いかを知ったら、その青年も驚くだろうな」

「血の呪い、吸血鬼ですね」
 感染源を絶たない限り、被害は拡大される。
 この手の呪いを振りまく怪異の恐ろしさはそこにあるのだ。

「その吸血鬼の事なんだがな。……どうも、あのお前達が遭遇した迷宮の事件と関わっているようなんだ」
「っ!……確かにあの男は吸血鬼の特性を他人に付与出来るようでしたが、いくらなんでも……」

 コピーに怪異の呪いが使えるのだろうか?聞いた事もない話だった。
 もしそれが人間に可能なのだとしたら、それはとんでもない脅威になるだろう。

 迷宮で人を道具として使う事に躊躇う事のなかった男を思い出す。
 その記憶だけで全身の血が冷えてしまうような、重い気分になった。

「確かに当初はその人身売買組織の男、『マンイーター』なる者が自身に吸血鬼の力をコピーして脱獄を果たしたと考えられていたのだが、その男が暗躍していた地域の担当官に詳しい情報を送ってもらった所、どうも、その男の組んでいたという吸血鬼がかなりの古参の大物らしいという話なのだ」
「そんな年を経た吸血鬼が人間と組む事が出来るのですか?彼らにとっては人間はエサでしかないでしょう?」
「その通りだが、その吸血鬼はどうも、そこの連中の言う事には大変面白がりで、興味を持った人間はエサにせずに、求められるままに力を貸したりしていたらしい」
「そんなのがいるんですか」

 とんでもない恐ろしい話だ。
 知能の高い怪異程やっかいな相手はいない。
 彼らの物の考え方は人間とは全く違う。
 予想がつかない行動に出るので、対処が出来ない場合が多いのだ。

「その一方で飽きるのも早い。ちょっとでも気に食わなければすぐに『棄て』るという事だ」
「……酒匂さん、もしかして、その吸血鬼がマンイーターを逆に利用してここに入り込んだと考えているんですか?」
「今回の事件はあまりにも淡々と進行している。人間ならもっと独特の匂いがするものだ。だからこそ対人間の専門家が遅れをとった。そう、思えてね」

 もし酒匂さんの推測が当たっていたとしたら、それがどれだけとんでもない事態かという事は俺にだって分かる。

 自国で発生した怪異ではなく、他国の古参の怪異が侵入する。
 それはある意味神の侵略だ。
 万が一終天辺りがその吸血鬼とテリトリー争いでも始めたら、少なくとも関東は人の住める場所ではなくなってしまうだろう。

「今、由美子に探らせていますけど、吸血鬼といえば闇の眷属、隠形を得意とする連中です。おそらくあっちが一枚上手でしょう。目立つ人間の協力者がいないのなら、発見は厳しいかもしれませんね」
「ああ、こっちも手を考えている。君たちは無理をしないように、独自に動かず私達と連携を取って欲しい。頼りにならないかもしれないがね」
「それは虐めですか?」

 さっきのやりとりを思い出し、俺は顔をしかめた。
 酒匂さんは楽しそうに笑うと、手を振ってみせる。

「いやいや、お前が子供の頃を思い出すな。私が『今日はお菓子を持って来ていない』と言うと、すごくがっかりした顔をして、『実はもって来てた』と言って出してみせたら大喜びをした後に、凄く拗ねてみせていたよな」

 何言い出すんだ、この人は!

「そんなガキの頃の話を持ちださなくても!」
「いやいや、お前は変わらないよ。全く、安心だ」
「は?俺はもう大人ですからね、ガキの頃のままとかありませんから」

 俺が抗議すると、酒匂さんは盛大に笑い出してそのまま通信を切ってしまった。
 あんな大臣でいいのか?我が国は!

 俺は大きく息を吐いた。
 なんだかんだ言って、少しだけ気持ちが軽くなっている事に気付いてしまったのだ。

 赤ん坊の頃から知られている相手に強がってもしょうがないのかもしれない。

 それでも、やっぱりモヤモヤしてしまうのは、あの老人や女性が普通の人間であった頃の事をつい考えてしまうからだ。
 普通の、穏やかな生活を送っていたはずの人々が、人格を破壊され、化け物とされてしまう。
 それはどれだけ恐ろしい事だろう。

 俺は頭を一振りすると、気分を切り替える事にした。
 久々に何か作ってみる事にしたのだ。

 整然として狂いのない人工水晶ではなく、癖の強い天然水晶を大きさの違いで順に並べていく。
 渦巻きのように配置した基盤にその水晶を並べて行くと、それぞれの違いが目立った。

 淡いピンクの物、けぶるブラウンのような物、まるで小さな葉っぱのような模様が内部にある物、それぞれ背の高さだけではなく、厚みや六角形の結晶体の形すら違っている。
 微弱な電流を流した時に起こる共振でこれらの水晶は小さな独特の音を発するのだが、それを互いに増幅させつつスイッチの切り替えで振動を抑えるストッパーもセットした。
 おもちゃのピアノのように少し音の外れた音階を作って、オルゴールの要領で鳴らしてみようと思い付いたのだ。

 音階もずれているが、お互いの反響がまたメロディをどこか調子っぱずれにしてしまう要因となる。
 簡単に組んだそれは、なんだか子供がお遊戯会で奏でる音楽のように、たどたどしいが微笑ましい音に聴こえた。
 澄んだ、チリチリと鳴る不思議で美しい音とはうらはらに、その調子の狂ったメロディが、一生懸命俺が昔聴いた曲である楽しい歌を辿る。

「確か、夜中におもちゃが動き出して楽しく遊んでるって歌だったっけ?」

 怪異の引き起こす現象が、そんな楽しいものだったら良かったのに。
 それに……。

「歌、か」

 あの可愛らしい人が歌を口ずさんだら、それはいったいどんなものになるのだろう。
 それは喜びか、苦しみか、知るべきか、知らないままでおくべきか。

 ―…リ‥リリリ…ン

 自然の生み出した水晶の奏でる音は、人の思惑など素知らぬ風に、鳴る度にその旋律を変化させていった。



[34743] 105:明鏡止水 その九
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2014/07/10 06:19
「ジューサー?」
 俺は耳にした言葉を咄嗟には理解出来ずに問い返していた。

「そうだ。思うに夢のかけらというやつは、果物や野菜と同じなんだな。それそのものが無駄なく食べられるが、そのままでは食べ難い。ジューサーに掛ける事によって手軽に美味しく頂けるという物なのだよ」
 その発想は、一見家電マンらしいと思われるが、ちょっと一般に理解はされかねるだろう。
 なにしろ確か俺たちは蓄電の話をしていたはずなんだよな。

「その斬新な発想と今回のプロジェクトとの間に何か関係があるのか?」
 俺のツッコミに佐藤は俺を見て、憐れむように首を振った。
「これだけ説明して理解出来ないとは、君はもうちょっと賢いと思っていたよ」
 ほっとけ。
 お前の発想が瞬時に理解出来る方が嫌だ。

「つまりだね、夢のかけらという物質は結晶体として安定しているのだから、圧潰方式が使えるんじゃないかって事だよ」
「圧潰……ですか」
 考えた事も無かった。
 確かに発電の多くは人工結晶の圧潰によるエネルギー抽出を利用している。
 単純に夢のかけらを結晶と捉えるのなら、その発想自体はなんらおかしくはないだろう。

 しかし、内包するエネルギーの総量のケタが違うのだ。
 いくら安定している物質とはいえ、夢のかけらを直接破壊してエネルギーとして利用しようとするとか、恐ろしくはないのだろうか?

 ……いや、待てよ。

「そういえば、古い冒険譚にそんな話があったような」
「ほう。さすがはありとあらゆる世界を切り拓いたという冒険者の先達、俺などが思い付くような事は既に試し済みなのだな」
 佐藤は無駄に感心している。

 だが、言った当人である俺は、口にした後から思い出して顔をしかめてしまった。
 その冒険譚は、ガキの頃読んだ終天の蔵書だったのだ。

 それは迷宮から無事戻った冒険者の自伝だったはずだ。
 彼らは迷宮内でのラスボス戦で力尽きる寸前だった。
 その時、彼らの中の魔術師が戦利品として持っていた夢のかけらを自らのメイスで砕き、その発生した力を使って大魔術を発したという内容だったと思う。
 その場面が一番盛り上がる場面であり、ガキだった俺は興奮しながら読んだものだ。
 確かそのシーンにはこう書かれていた。

『その至宝は、その価値に反して容易く砕け散った。失った宝は失うはずだった命を救ったが、しばらく仲間から何度も嫌味を言われる羽目になった。ボスのカケラは大きくそれ以上の価値となったのだが、人は失った物を忘れる事は出来ない生き物なのだ』

 確かに夢のかけらの硬度は高くない。
 モース硬度で言うと7である水晶と同程度だったはずだ。
 ん?砕き易さとモース硬度は関係ないんだったかな?

「しかし、砕いてしまったら内包するエネルギーは使いきってしまうだろ」
「そこに蓄電装置コンデンサだろ。水晶機関で魔的エネルギーを電気エネルギーに変換してコンデンサで蓄電する。この造りならそれほど大型化はしないはずだぞ」
「凄く原始的な蓄電装置だな、おい」
「だからジューサーだと言っただろ。材料を放り込んで電気という名のジュースを作って容器を満たす訳だ」

 基本方針が決まった俺たちはチーム内ディスカッションを行って詳細を詰めていった。
 佐藤が悪乗りして見た目をマジでジューサーのようにデザインしてしまったんだが、これがそのまま通らない事を祈るしかない。



「さっき提案書を正式な原案として纏めさせていただいたのですけど、すごくユニークですね」
 伊藤さんがホイルで包んだ蒸し焼きの魚を広げながらそう言った。
 ふわっとバターの香りがただよって、思わず口内の唾を飲み込んでしまう。

「あ~、あれを纏めてくださったんですね。すっごいごちゃごちゃしてたでしょう。すみません」
 野菜も一緒に包まれていて、魚の赤身と野菜の緑が鮮やかで見た目も綺麗だ。
 なんか段々お弁当の内容が凝ってきている気がする。

「いえ、大丈夫です。慣れてますから」
 そう言っていたずらっぽく笑う伊藤さん。
 無邪気な笑顔を見ていると忘れそうになるが、先日感じた事が正しいのならば、もしかしたら彼女の平穏な生活は脅かされる事になるかもしれない。
 ならば秘密は秘密のままそっとしておけば良いような気もするのだが、俺の近くにいるのならば自衛出来る手段はあった方が良いのは間違いないのだ。
 まぁ俺が一人で考えても仕方のない事なんだが、相談するにしても内容が内容だ、下手な相手に話せる事ではない。
 やはり彼女の父親である元冒険者殿とじっくりと話す必要があるよな。

「あの……」
 あ、伊藤さんが不安そうな顔をしている。
 やっちまったか。
「あ、いえ、なんでもないんですよ」
「やっぱりこの間の事件の事で何かあるんですか?」

 どうやら伊藤さんはこないだ俺たちが巻き込まれた吸血鬼事件の事で俺が悩んでいると受け取ったようだ。
 伊藤さん自身もあの事件の事は気にしているのだろう。
 テレビのニュースなどでも詳細は語られないし、怪異の発生が懸念されるので遅い時間に一人で行動しないようにとの注意喚起がなされているだけだ。
 むやみなパニックを避けたいのは分かるが、せめて日が落ちてからの外出禁止措置ぐらいはやって欲しかったんだけどな。

「ああ、いえ、あれは突発的な事態でしたから俺も関わってしまいましたけど、本来都市内の治安は警察や軍の管轄なんです。あんまり俺がかき回すと却って指揮系統が混乱して事件の焦点が見えなくなってしまいますから、正式な要請がない限りは勝手に動く訳にはいかないんですよ。だから今の俺は今回の一連の出来事にはノータッチなんです」
 俺は正直に話した。
 伊藤さんに隠し事をしても無駄に心配掛けるだけなので、なるべくありのままに話すのが最適なのだ。

「それが悔しいんですね。でも、私はほっとしています。本当は木村さんが出られた方が犠牲もなく事件を解決出来るんでしょうけど、他の人の代わりに木村さんが危ない目に遭う必要は無いって、どうしてもそう思ってしまって。……身勝手で酷い話ですよね」
 俯いて言う伊藤さんに、俺は驚いて首を振ってみせた。
「いや、俺は元々そういう世界から逃げ出した男ですよ?身勝手なのは俺の方です。それに、そんな風に誰かに心配してもらった事なんてないんで。正直嬉しいんです。酷いっていうのはこんな風に思っている俺の方ですよ」
 悪ぶってニヤリと笑って見せれば、伊藤さんは困ったような顔で俺を窺い見た。
 眉間にシワを寄せて、笑って良いのか怒るべきなのか迷っているような表情だ。

「伊藤さんも注意してくださいね。扉のある自分の部屋の中は一応の安全地帯です。見知らぬ相手から入れるように言われても安易に応じてはダメですよ」
「その辺は父が詳しいので、……あの、この間の事件の事は別に口止めとかなかったので、家族には話したのですけど、良かったんでしょうか」
 伊藤さんはお互いに自己批判を繰り広げるのは不毛と察して話題の変化に乗ってきた。
 悩むのを止めた訳ではないのだろうけど、そうやって意識を切り替えられるのは伊藤さんの強みでもある。
 頭が良くて常に前向きなのは貴重な才能だと実際思う。

「ええ、警察でも口止めされなかったという事は、ある程度噂が広まって外出を控えてくれる事を狙っているんでしょう。正式に政府側が発表してしまうとパニックになりかねませんが、噂段階なら人は不安にはなりますが極端な行動は起こしませんからね」
「なんだか、いい方法とは思えません」
「そうですね。良い方法ではない。しかし、実際相手がなりふり構わず動き出してしまうと、まともに太刀打ち出来ないという部分もあるのだと思います。暗躍してくれている段階の方が、犠牲は少ないという深慮があるんでしょう」

 そう言った俺の顔を伊藤さんはじっと見ると、頬を膨らませて言葉を発した。
「自分でも信じていない事で私を安心させようとしないでください。いっそ、俺がやれば誰も犠牲を出さずに終わらせてやれるのに、ぐらい言っても良いんですよ」
 え?ちょ、伊藤さんもしかして俺をすごく買いかぶってる?
「まさか、俺にヒーロー願望なんかありませんよ」
 正直に俺は言った。

 だが、伊藤さんは俺を真っ直ぐに見て、そして、少し寂しそうに微笑んでみせる。
「ええ、あなたは一度だって望んだ事はないはずです。だって、本物のヒーローなんですから。でも、だからこそ、私は不安なんです」
 本来ならすぐさま否定出来るはずの彼女のその言葉を、俺はなぜかどうしても否定してみせる事が出来なかったのだ。



[34743] 106:明鏡止水 その十
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2014/07/17 09:32
 あの駅地下街事件以来、少々人の多い場所でも危険が無いという訳ではないのだと分かったので、以前にも増して俺は神経質になっていた。

 入場料を払って駅の構内まで同行して、伊藤さんがシャトルに乗り込むまで見届ける。
「あの、ありがとうございます。木村さんもお気をつけて」
 そんな俺に何か言うでもなく、伊藤さんは自然に礼を言った。

「は、いえ、俺は……」
 大概の事は大丈夫です、と言おうとした俺に、伊藤さんは微笑んで言葉を続ける。
「心配するぐらい良いですよね」
「あ、はい」
 誰かに心配してもらうとかあまり経験のない俺は、どうもそんな伊藤さんの顔が苦手だ。
 思わず反射的に肯定してしまっていた。

 勝てないなあ、まったく。

 伊藤さんを乗せたシャトルが無事に走り出したのを見送って、俺は一人駅前の雑踏から離れた。

 駅周辺では注意して周囲の一人一人に意識を向けていたが、怪しい気配は窺えなかった。
 正直俺は探索や察知という方面はそれほど優れてはいない。
 長年由美子や浩二任せだったという事もあるし、そもそも魔力の流れを見るのが苦手という事実があった。

 相手は由美子の探査も受け付けないのだから、俺が多少意識したところで見付かる訳が無いのは分かっている。
 この間の騒ぎは偶々タイミングが重なって発見出来ただけなのだ。

 だが、この都市のどこかで今も誰かが襲われているのではないかと思うと、胃がキリキリと痛む。
 最近食べる物の味が感じられなくなりつつある。
 討伐が上手くいかない時のハンターにはありがちな事らしいので、病気とかじゃないんだが、とにかく早くこの一件を解決したかった。

 現在の自宅であるマンションに向かって歩いていると、段々と人通りが減って行く。
 この周辺はコンビニも無いので閑散としているのだ。
 街灯は明るく、通りは広いので犯罪が多発したりはしないが、寂しい通りではあった。

 中央都の高級マンションがある地域は、そもそも昼間から人通りがあまり多くは無いのだ。
 まあ当然の話だろうな。
 普通、高級マンションに住むような人間は歩いて家に帰ったりしない物なのだろうから。

 金持ちじゃない俺の勝手な偏見かもしれないけどな。





「こんばんは、良い夜ね」

 マンションの入り口近く、明るい街灯に照らされた小さな前庭のようになっている部分がある。
 木製のベンチと、幼い子供が遊ぶような遊具があり、昼間はマンション住人の子供連れのご婦人が友人とおしゃべりをしながら子供を遊ばせている場所だ。
 そこに見覚えのある薄い金髪の女性がいた。
 尤も以前見た時より、その金髪は街灯の光の下のせいか、やたら白っぽく輝いていたのだが、その豪奢な外見は見間違えようもない。

「あ、ジー……じゃなかったアンナさんお久しぶりです」
「別に、覚悟があるのなら本当の名前で呼んでくれても良いのよ」

 言いながら、彼女は頬に掛かっていた髪を指先で掬い上げると耳に掛けた。
 たったそれだけの動作が恐ろしく美しい。

「え?何のことか分かりませんけど、お元気そうで良かったです」

 チームを解散した時はバタバタしてたし、彼女は酷い様子だった。
 彼女とピーターの事は少し心配していたんだが、おそらくもう国に帰ったのだろうと思っていた。
 国だって貴重な人材をそんなに長い間外国に出したままで置くはずがないと思っていたのである。
 正直彼女がここに現れたのは意外だった。

「ええ、元気ではあるわ。まだ怒りはあるけれど。それは私の個人的な怒りだから貴方には関係ない事だわ」

 怒っているというから俺にお怒りなのかと思ったが、そうではなかったらしい。
 それならなんでこんな所にいたんだろう?

「ええっと、今夜はどうされたんですか?もしかしてお食事のお誘いとか?」
 思いっきり軽く尋ねて見る。
 正直、ロシアの秘蔵っ子という立場の彼女だ、姿は見えないが、どうせ監視か何かが付いているに違いないし、どう扱って良いか分からないのだ。

「そうね、食事も良いわね。でも、もっと大事な事があるの」
「大事な事、ですか?」

 怖い。
 なんというか、今まで味わった事のない恐怖だ。
 いったいこの可憐な女性のどこからこのプレッシャーが発せられているのだろう?

「ええ、貴方、私に子種を提供しなさい」

 ……あれ?俺、今起きてるよな?なんか変な悪夢を見ている訳じゃないよな?

「ちょっと!なんで無反応なのよ。こんな美女が寝てあげると言っているのよ?そこは伏し拝んで手を取って口づけぐらいする流れじゃないの?」

 今この場で回れ右して逃走しても問題ないよな?
 マンションの入り口はそこだし、セキュリティは高い。
 あ、でも認証に時間が掛かるからその間に攻撃を受けるかもしれないぞ。
 マンションを燃やされたら俺だけの問題じゃなくなるし、まずいよな。

「日本の守護者の長、その血を得るのが私が祖国から託された使命。貴方にはそれに協力する義務があるはずです」

 いかん、ボケている場合じゃなかった。
 話がどんどん進んでいるっぽい。

「あの、凄く光栄ですが、お断りします」

 翻訳術式は曖昧な表現をある程度その術式の精度で意訳してしまう。
 俺は誤解の無いようにはっきりと断った。

「なんですって!」

 かっ!と、彼女の不思議な光を発する薄青い瞳が見開かれ、周囲にオゾン臭が漂い始める。
 ちょ、街なかで魔法とか使わないよな?

「いや、だって、当たり前でしょう?貴女だって分かっているはずだろ!いや、何もかもがロマンチックな考え方で済んだりしないとは俺だって分かっているけどさ、意味が分かんねえよ!」
 段々俺も自分が何言ってるか分からなくなって来た。
 そもそも俺はなんで誰が来るかも分からないマンションの前なんかでこんな会話を大声でしなきゃならんのだ?
 何かの罰か?

「私だって、貴方のような男は嫌いだけど、これはそんな好きとか嫌いとか言う話ではないのよ。我が国にとって危急存亡の事態なの。こんなわが祖国の一捻りで吹き飛ぶような島国の者が救世の血の一滴となる事を許されたのよ。光栄に思えばこそ、断るなど出来るはずもないでしょう!」

 アンナ嬢の言葉に、俺の頭は一気に冷えた。
 深く息を吸い込むと、その息と共に言葉を吐き出す。

「おとなしくお国に帰るんだな。ありがたい事に我が国は俺みたいな血統にも人権を保証してくれてんだ。本人の意思に反して何かを強制したりはしない」

 俺の言葉と表情に何を感じたのか、寸前までまるで女王のように輝いていたアンナ嬢は、表情を一変させ、まるで鬼女の面のような顔付きになった。

「他人は私を冷血と呼ぶけれど、貴方こそが真の冷血だわ、人でなし!この国の血統は怪異の血を取り込んだという噂があるけど、あれは真実だったようね。他国の事とは言え、平気で一つの国の民に滅びよと言えるなんて!」

 キイイインと、金属質な音と共に風景が歪む。
 恐ろしい程の魔法力だ。
 これは恐らく彼女の無意識なのだろう。
 普通魔法というのは発せられる前に方向性を決めて力を流し込む物だ。

「人聞きが悪いな!アンタ分かってるのか?アンタは全く何も説明しないまま、ただ俺を利用したいと言ってるんだぞ?それが当然だと思える方がどうかしてるって言ってるんだ!」

 景観を考えて植えられている木々からバラバラと葉が舞い落ちる。
 どうやら彼女の周辺から生命力が奪われているらしい。
 危ないどころの騒ぎではないぞ。

 だが、突然、ふっとそれらの騒ぎが納まった。

「なら、説明したら協力をするの?」

 凍てつくような蒼い瞳が俺を射る。
 下手な怪異よりずっと彼女の方が恐ろしいんだが、どうしたらいいんだこれ?

「いや、ええっと、その……俺は、今好きな女の子がいてだな……」
 いや、何説明してるの?俺。

「それがどうしたの?私は別に恋人になれなんて言っていないでしょ?そもそもそんな事、私の方がお断りだわ」
 平然と言い捨てるアンナ嬢。

 うわ、くっそ、殴りたい。
 俺は顔の筋肉と、右手の拳がピクピクと震えるのを感じながら、冷然と夜の中に佇むロシア美女を、恐ろしい魔物を見るように眺めていた。



[34743] 107:明鏡止水 その十一
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2014/07/24 06:35
 マンション前でいつまでも言い合いをしている訳にはいかないが、だからと言って部屋に入れるのは危険すぎる。
 俺は、半ば無理矢理アンナ嬢をファミレスに誘った。
 遅い時間に周囲にオープンな状態で話し合える場所で思い付いたのがファミレスだけだったのだ。

 喫茶店とかバーは閉鎖空間に限りなく近い。
 そういう場所で何かが起こった場合、一も二もなく男である俺の方の立場が悪くなるだろう。
 たとえ実際の攻撃力的なものが彼女の方が上だとしてもだ。

 神経質過ぎるかもしれないが、子種がどうこうなどと屋外で平然と言い放つような相手とそんな場所に行きたく無かったのである。

 ファミレスの席に座ったアンナ嬢は、どこか落ち着かない様子で周囲を見回す。
 幸い一番混む時間は過ぎたのか、満席という事はなく、それなりに空席もあったが、正直、あまり目立つ行動は止めて欲しかった。

 黙っていてもこの国で薄い金髪や青い目は目立ちまくる。
 お客の何組かと店員さん数人がこちらを見ながら何事か囁いているのは、多分俺の自意識過剰ではあるまい。

 マリア嬢はメニューをちらっと見て後は俺を睨みつけている。
 おいおい勘弁してくれ。
 というか今思ったけど、こんな人の多い所であの話の続きをするのってまずくないか?主に俺のメンタル的な意味で。

 話し合いが始まってから店員さんに寄って来られても拙い。
 俺はこちらに視線を向けている店員さんに頷いてみせた。

「グリルソーセージとポテトとドリンクバーで」
 店員さんは俺のオーダーを繰り返すと端末を操作するピッピッという音を軽快に鳴らす。
 何気にファミレスって先進的だよな。
 アンナ嬢はメニューを見ないままボソリと「紅茶」と呟くように言った。
 店員さんは少し驚いた顔をしたが、「ドリンクバーですね、他に軽食やデザートをご注文いただくとお安くなりますけどよろしいですか?」と確認を入れる。

 この時点で俺は気付いた。
 アンナ嬢はおそらくメニューが読めないのだ。

「あ、それならパンケーキを付けたらどうかな?ここのパンケーキなかなか美味しいんだぜ」
 出来るだけさり気なくフォローを入れた。
 それに人間腹がへると怒りっぽくなるという真理もある。
 ダイエットをしているなら逆効果かもしれないが、何か食べていただいた方が良いだろうと俺は気を回したのだ。

 アンナ嬢は不思議そうに俺を見る。
 その視線には先ほどまでの尖った感じはなく、どちらかというと純粋な好奇心があるようだった。

「あ、俺が奢りますよ」
 勝手に頼むんだからと、そう言った言葉にさして感心を示す事なく、アンナ嬢は頷く。

 店員さんは笑顔で「パンケーキとドリンクバーですね」とオーダーを完了した。

「じゃ、俺が紅茶取ってきますね。ホットで良いですか?確かここ、ハーブティーも何かあった気がするんですが、そういうのには興味ありません?」
 俺の言葉にアンナ嬢は眉間にシワを寄せる。
「さっきから良くわからないのだけど、ここはレストランでしょう?ドリンクバーが別に設置されているの?」
 あ、ロシアにドリンクバーはないのかな?
 というか翻訳の問題か?
 説明をしとこう。

「あ、こういうファミリータイプのレストランの場合、日本では一般的にドリンクバーという制度があってですね。数種類あるドリンクの中から好きな物を選んで飲めて、それがおかわり自由なんですよ」
「え?」
 お、びっくりしてる。
 ああいう顔していると、思ったより若く見えるんだけど、この方確か俺より年上なんだよな。
 普通年齢を重ねた女性って一種の凄みというか世慣れた感じがするんだけど、この人ってそういうのが無い分若く見える。
 なんというか良い意味でも悪い意味でも学生のような感じだ。

「見てみたい」
 凄くストレートな要求が来た。
「じゃ、一緒に行きましょうか?バッグは席の目印に残しておくと良いですよ」
「駄目よ。それ程大事な物は入れてきていないとは言え、カードが入っているわ」
「大丈夫です。ドリンクバーから席は見えますから盗られたりしませんよ」
 俺の説明に疑わしそうにしながらも、アンナ嬢は好奇心に負けたのか、いそいそとドリンクバーに付いて来る。

 何か最初の頃の印象より、この人は可愛い人なのかもしれない。

 物珍しげにドリンクバーを堪能した後、結局紅茶と砂糖のスティックを沢山持って彼女は席に戻った。
 俺は普通にコーヒーとついでに水も持ち帰る。
「ドリンクバーってワンカップじゃないの?」
 アンナ嬢が俺に対して疑わしげな目を向けて来た。
 いや、そんな今までドリンクバーの存在も知らなかった人から、こいつマナー違反をしているっぽい視線を向けられるとすっごいへこむんですけど。
「日本の大体のレストランでは水はメニュー外のフリードリンクなんです」
 俺の説明に尚も懐疑的だったアンナ嬢だが、料理を運んできた店員さんが何も言わなかった事で納得したらしい。
 どんだけ信用無いんだ、俺。

「それで本題なんですけど、俺は貴女の提案を受け入れるつもりはありませんから。速やかにお国にお帰りいただけると助かります」
「そういう訳にはいかないわ。アナタが駄目なら弟の浩二?だったかしら、彼に頼むまでよ。と言っても大体同じ時間に移動しているアナタと違って、彼は捕まえにくいけど」
 ああ、なるほど。
 俺が狙われたのはサラリーマン時間で行動しているせいだったのか。
 確かに浩二は大概家にいないし、何やってるか分からないもんな。

「真面目な話ですが、母国的にどうなんですか?他所の血統を混ぜたりしたら何が起こるか分からないでしょうに」
 俺の言葉にアンナ嬢はふと遠い目をすると、どこかシニカルな笑みを唇に刻んだ。
「もうこれ以上悪くはならないわ」
 こぼれ落ちた彼女の言葉に、俺は絶句する。
 彼女の母国でいったい何が起こっているというのだろう。
 魔法の大家であり、圧倒的な技術と資源で悠々とした大国であり続けた帝国ロシア、その秘蔵っ子であるはずの勇者血統の彼女がここまで憂う何があるんだ?

 そう考えて、俺は慌てて頭を振ってその疑問を振り払った。
 他国の事情に首を突っ込み過ぎるのは拙い。
 特にロシアは自国に他国が干渉する事を極端に嫌うお国柄である。

「浩二がどう考えるかは浩二の自由ですから俺がどうこう言う事はありませんが、でもきっとあいつも断ると思いますよ。あいつは俺以上にロマンチストで、その上実利主義者だ。矛盾しているように聞こえるでしょうが、そのどちらの考え方であっても貴女の提案は受け入れ難いでしょう」
「弟さんを差し出すのが嫌なら、やはりアナタが受け入れるべきね。恋人に対して罪悪感があるのなら、その時の記憶を消してあげる事だって出来るのよ。もし必要以上に頭の中をいじられるのではないかという不安があるのなら誓約の術を私に科せば良いでしょう」

 ううむ、話が平行線だ。
 というか、彼女の提案は冷静に考えればこちらに有利な条件ばかりのような気がする。
 誓約の術を自ら受け入れるなどと、普通言える事ではないのだ。
 誓約の術は、その取り決めを破れば、その割合に応じて自らを失う術式である。
 つまり完全に違反した場合、その術を掛けられた人間は消滅するのだ。

 結局話し合いは上手くいかないまま、ファミレスに居座り続けるのに俺が耐えられなくなり、出てきてしまったのだが、このまま家に向かってもどうにもならないよな。
 アンナ嬢は付いて来るし。

 大きく溜め息を吐いた俺は、ふと、マンションの入り口に誰かが立っているのに気付いた。
 シルエットからして大人の男だ。
 一瞬浩二かと思ったが、気配が全く違う。

 なんとなく知り合いのような感じがするんだが、ざわざわと胸の奥に悪寒を感じるのだ。

「おおっ!なんと今宵は素晴らしき夜でしょうか!世界の奇跡、この世の至宝、異なる国の人類の生み出した最も貴重なる存在であるお二人にこうして巡り会う事が出来るなんて!」

「げえっ!変態野郎!」

 そこにいたのは、かの変態、英雄フリークの残念な男だった。

――――――補助事項ウンチク――――――

帝政ロシア:魔法大国であり、そもそも人造宗教の発想もこの国からだと言われている。近隣の小国家群を統合した後は侵略せずさせずの姿勢を貫いていて、半ば鎖国に近い状態が続いている。
各国大使館は置いているのにも関わらず、未だこの国に入った者はまともな状態では戻ってこれないと囁かれ続けている謎多き国。



[34743] 108:明鏡止水 その十二
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2014/07/31 07:55
「確か中央都には他人を付け回すと、迷惑行為として逮捕されるという都市条令があったはずだが」
 マンション玄関で勘違いのしようもない待ち伏せをされて、さすがに穏やかにお話しをする気分でも無い俺は、面と向かって変態野郎を糾弾した。

 明るい玄関ホールの光の中で、野郎はひたすらにこやかにこちらを見ている。
 しかもあいつ、アンナ嬢の顔を知っているにも関わらず、その顔を真っ直ぐ見て全く動揺が無い。
 最初から彼女がいる事を知っていて来たに違い無い。
 どんだけ鼻が利くんだ?……恐ろしい野郎だ。

「何者なの?」
 アンナ嬢が警戒バリバリで変態野郎を睨んでいる。
 さっきまでのギクシャクした雰囲気は吹き飛び、今この時だけは俺たちの気持ちは一つになった。

「変態だ。気を付けろ、ひょろい見掛けに騙されるな、油断するなよ」
 俺の言葉にアンナ嬢は少し驚いたようにまばたきすると、変態野郎をまじまじと見た。
 どうやら逆に興味を抱いたらしい。

「そんなに歓迎して頂けるとは感激の至りです」
 かたや変態野郎はものすごく嬉しそうだ。
 さすが変態、へこたれないな。

「大丈夫。私はこの国外任務に伴って、自身に危険が及ぶと判断した場合に限り、人間に対しての力の解放を許可されているわ」
 おい。
 いや、お国の事情は分かるけど、貴女の祖国は他国を見下しすぎじゃないでしょうか?
 危険が及んだ場合じゃなくって、アンタが判断した場合かよ!

「言っておくけど、いくら変態だからって、危害を加えられない内に殺したら、あんたの身柄は拘束されるからな」
 そう、拘束はされるだろう。
 すぐに政治的な取り引きで開放されてしまいそうな気はするけどな。

「まぁまぁお二人共、このような目立つ場所で騒ぐのもいかがなものかと思いますし。どうですか?ここは私が奢りますから場所を移しませんか?」
 変態は相変わらず鬱陶しいキラキラした目でオーバーアクション気味に主張して来る。
 キモい。

「いらん、今食ってきた。彼女はこれからお帰りになる所だ」
 きっぱりと告げるが、
「おお、それはいけません。姫君は不肖私がお送りしましょう」
「事を終えるまで帰らないから」

 二人の噛み合わない言葉が被る。
 お前ら結構気が合いそうだな。

 譲らないアンナ嬢の激しい視線をひんやりと受け流していると、ぷるぷる震えていた変態野郎がいきなりダッシュで接近して来て、咄嗟に対処に迷った俺たちの腕をその手でがっしりと掴んだ。

「私は決してあなた方に嫌な思いをさせたり、傷つけたりするような事はいたしません。我が信奉する選ばれし血に誓って絶対にです!もし私がお二人にとって邪魔でしかないようなら、ここですっぱりと骨も残さず排除していただいても構いません!お願いです!どうかお聞き入れください!」
 まるで久しぶりにご主人に会えたペットのような縋るような目で見詰めて来たかと思うと、その涙腺が瞬時に決壊する。
 
「うおっ!」
「С ума сошёл.」(狂気だわ)

 野郎は滂沱の涙と鼻水にまみれた顔でまるで抱き着くように縋って来た。
 それはキモいを通り越して怖い状況だ。
 奴の手を振りほどこうとするものの、なぜかまるでべったりと貼り付いたかのように離れない。
 下手に力を入れて骨でも折れたらという恐怖に襲われて、あまり無理が出来ないのもその体勢から抜け出せない要因だろう。
 どうやらアンナ嬢も同じらしく、必死に変態から離れようとしているが、最後には諦めて、頑なに顔を背けるという行動で拒絶を表していた。

「その行動が既に嫌な思いをさせてると分かんねぇのかよ!離れろ変態野郎!」

 俺が抵抗すると、そうさせるものかと更に密着して来る。
 そのあまりの嫌悪感に、俺もとうとう諦めてアンナ嬢に倣ってとりあえず現実逃避してみた。

 どうでも良いがアンナ嬢のガードは何してんだ?さっさと出てきてこいつを縛り上げるとかなんとかしてくんないかな?

「ロシアは自らの魔法に完全な信頼を寄せています。実際、彼女の周囲に張り巡らせた護法の紋は、人間の悪意や害意から完璧に彼女を護るでしょう。しかし、私は彼女に対して一片の悪意も抱いておりません。また、衛星を経由した監視システムの精度は高いのですが、この都市の電磁的な結界はその映像を歪めてしまい、あまり役に立たないのです」
「ちょ、お前、俺の心を読んだのか?」

 驚きのあまり、俺は変態の見苦しい顔を振り返った。
 奴は俺と目が合うと、グシャグシャの顔に笑みを浮かべる。
 正直ヤバイぐらいに見苦しい顔になってしまっていた。
 見なきゃ良かった……。

読心リーディングではありませんよ。これは単なる技術です。言葉というのは声に出す物だけではありません。人はその全身で常に言葉を発しています。私はそれを聞いているだけなのです」

 うむ、分からん。
 そういやこいつこんなナリでも何かの研究者なんだっけ。

 確か由美子の先輩と言う事だったが、由美子のとこは古文書か何かの解読をやってるんじゃなかったか?

「私の本来の専攻は人類学です。色々な教室に席を置いて、教授達のサポート役もやらしていただいていますが。いえ、そんな事はどうでも良いですね。申し訳ありません。この至福の一時に汚れた人の欲望の存在である勉学の話などをしてしまい、本当に申し訳ありません。どうかお二人は私の事を下僕とお呼びください。ともかくこの場を移動いたしましょう。お二人は輝かしすぎます。何か悪いモノが集ってくるやもしれませんから」

「おい、俺はこいつの言ってる事の半分も理解出来ない。アンタの翻訳術式なら理解るか?」
 アンナ嬢は俺の呼び掛けに、まるで怯えた少女のような顔を向けた。
 これは……いかん。

「おい!とにかく強引に話を持っていくのをやめろ!見ろ!彼女だってすっかり怯えてしまっただろうが!」
「何を言っているの!私が怯えるなど有り得ないわ!」

 さっきまでブルブル震えていたアンナ嬢は、俺の言葉にたちまち空気を送り込まれた炎のように燃え上がった。
 凄い負けず嫌いだな、この人。

「まぁまぁ、姫君、ここはこの下僕めにお任せあれ。私は姫の血族を苦しめている病についてある程度理解しているつもりです。普通の人間という劣等な種族に生まれ落ちた身ですが、学んできた事やその蓄積による考察には我ながら他に並ぶ者無き水準に達していると理解しています。これも全ていつかあなた方のお役に立つ時を夢見ての事。どうか哀れなこの下僕にお二方の慈悲をくだされますよう……」

 変態が一方的にしゃべっている間に数台の自動車が静かに俺たちを照らし出して通り過ぎていった。
 見たくもないが、残念ながらくっきりと見えてしまったその人達の顔は、一様に痴話喧嘩を繰り広げている男女を見る目だった。

 ……さすがにもう限界だ。

「分かった!分かったから!俺の部屋に行くぞ!二人共!」

 俺は異色の取り合わせの客人達を引き連れて自分の部屋に引き上げた。
 とにかくもう晒し者になるのは勘弁して欲しかったのだ。




 二人をほとんど何もないフローリングの応接間に突っ込むと、とりあえず俺はお茶を淹れるべくキッチンに篭った。
 まぁ逃げ込んだと言っても良い。
 しかし、すぐに応接間からアンナ嬢の悲鳴のような叫びが聞こえて来て、慌てて戻る事となった。

「おい!てめえ何をしてる!」
 変態野郎を締め上げつつアンナ嬢の様子を見ると、彼女は悄然とい草のラグに座り込んでいた。
 その姿は、まるで心ここに有らずと言った雰囲気だ。

「ロシアの聖なる血統の事情は私からは口にする訳にはいきませんが、その事について確かめねばならない事があったのです。どうやら事態は私の思っていた最悪を極めているようでした」

 顧みると、俺が締めあげている変態野郎もまた悄然としている。
 そして、またもや涙ぐんでいた。
 やたら涙もろい野郎だ。

「私達にはどうしてもあなた方の血が必要です。理由が必要とあらば、打ち明ける事は仕方のない事でしょう」

 アンナ嬢は俺を見据えると、溜め息を吐いて変態を見る。

「どうしてだか、彼には私達の事情も知られているようです。今更隠し立てしても仕方ないでしょうしね」

 ヤバイ。
 俺の勘が告げている。
 これは聞いてしまうと引き返せない話だ。
 聞くべきではない。

 しかし、俺の腕にぶら下げられている変態は首を振って見せる。

「違います。貴女は勘違いをしている。いいえ、勘違いをしているのは貴女のお国なのです。ですが、この方に事情を聞いていただくのは一つの救いの道かもしれません」

 アンナ嬢は驚いたように変態の顔を見ると、一度目を瞑って大きく息を吸い、再び目を開いた時にはそれまでの動揺が嘘のように消え去っていた。

「魔法使いは自らのマインドを常にコントロール下に置いています。彼女の感情の変化には自然なものと作られたものがあるのです。今、彼女はその仮面ペルソナ被りました」

 変態が囁くようにそう告げる。

 そして彼女は語り出した。
 あまりにも哀しい、彼女の血統の現状を。



[34743] 109:明鏡止水 その十三
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2014/08/07 06:47
「元々、過剰な魔法因子で変異を起こす者は少なからずいたわ。だから最初は誰も特に気にしてはいなかったと聞いている」

 アンナ嬢はそう前置きをして自国の勇者血統、つまり自分の血族の話を始めた。

「化け物として生まれた者、成長途中で变化した者、それらはすぐに処分されてなかった事にされる。だけど、やがてそれらは無視出来ない事態になった。血統としての存続が危ぶまれる程、正常な血統者が減ってしまったの」

「処分……って」

 軽く語った彼女の話は、彼女の言葉があっさりしているからこそ重く心に響いた。
 彼女にとって、それは家族の話なのだ。

「研究者は、血統の保持に努めるあまりに遺伝子的な傷が継承されるようになってしまったのが原因だと言ったわ。私達の血族の遺伝子に外部から手を加える事は血統の特殊性を失う事になりかねない為、遺伝子治療を施す事が出来ない。だから新しい血統の取り込みによって傷のない新しい血統を作ろうと考えたのだわ」

 その話の内容に対して、アンナ嬢は一欠片も感情を動かす事は無かった。
 本当に何も感じていないのか、或いは、感じないように教育されているのか?
 いや、何も感じないはずはない。
 だからこそ無表情で語るしかないのだ。

 誰も発言しない、その場の張り詰めた空気を破壊したのは、この部屋で唯一特殊な血族ではない男だった。

「語り難い事を語らせてしまって申し訳ありません。ですが、奇跡の姫よ、貴女のお国の方々は大いなる勘違いをなされているのです」

 変態は、アンナ嬢に深々と大きく一礼すると、彼女に座るように促して自分は立ち上がった。
 いちいち芝居がかった仕草だが、この変態がアンナ嬢に向ける、行き過ぎた敬愛のような執着に似た眼差しが、そんな大仰な仕草を相応しく見せている。

「下郎、我が祖国に対して暴言を吐くのは覚悟があっての事か?なんならもう二度と人間の言葉が話せないようにしてやってもいいのですよ」

 とは言え、そんな変態の態度は、逆にアンナ嬢を怒らせたようだった。
 先程までの淡々とした表情が嘘のように、まなじりを釣り上げて、まさしく魔女のような顔を変態に向けている。

 しかし、残念な事に、当の変態男は、恐ろしがるどころかどこか嬉しそうにその視線を浴びていた。
 ……変態すぎて怖い。

「お国のあまりな仕打ちに対しても、決して揺るがぬその忠心。なんと美しく高潔なのでしょうか。しかし、残念ながら人間は高潔ではなく、常に過ちを犯すのです。その過ちを認めない狭量な行いを続ければ、やがて何よりも大切な存在を失ってしまう。私にはそれを放置している事は慙愧に堪えないのですよ」

 変態のあまりにもの堂々とした態度に、アンナ嬢は毒気を抜かれたかのように、やや糾弾の勢いを無くした。
 ちらりと俺の顔に視線を投げて来るが、俺に振っても何も出ないからな。

「いいわ、聞くだけ聞いてあげる。くだらない言葉で祖国を侮辱するのなら、その時こそ思い知らせてあげるわ」

 なぜだろう。
 アンナ嬢が何をしてもあの変態が喜ぶ未来しか見えない。

 そんな俺の何かを悟ったような心地はともかく、変態は実にアクティブだった。
 奴はアンナ嬢の言葉をまるで女神から授けられた啓示のように、喜色満面で受け止め、すごい勢いで動き出す。

「そもそも勇者血統とはなんぞや?という所から考えてみましょうか」

 奴はうちの中を我が物顔に漁り始めたかと思うと、どこからかき集めて来たのか家の主人にすら分からない量の紙の束を持って戻り、壁に、その裏が白いチラシらしき物を並べて貼り始めた。

 というかうちには止めピンなんかないんだが、どうやってあれを壁に止めてるんだろう?
 そんな俺の心の疑問を聞き取った訳でないと思うが(というかそうではないと信じたい)、奴はそれについて簡単に説明した。

「これは摩擦を利用して貼り付けていますので跡も残らずにエコなのですよ」

 どういう事だ?聞いても分かんねぇぞ。
 そう思ったが、追求するのは嫌だったのでそのまま流す。

 変態はどこに隠し持っていたのか、マジックペンを取り出すと、その壁のチラシに勢い良く書き込みを始めた。

 化け物に襲われる人類、疲れ果てた人々の祈り、その集団の中に小さな星が生まれる。

 変態が一気に描いた文字のない絵物語は、単純な線だがそれらの物語を分かりやすく伝えていた。

「勇者の誕生のメカニズムは、詳細に多少の差異はあれどもその経緯は同一です。人々の安寧を望む願いにより、最初の勇者は誕生した。概念理論による世界観は、常に意思ある者の強い想いを核にする事によって物理現象が発生するのです」

 小難しい事を言っているが、要するに子供のお伽話と同じ理屈を並べているだけだよな、あれ。

「極論に走れば、つまり勇者は、精霊化した人類と言えなくもないのです」

 ぎょっとして、ついアンナ嬢に目をやる。
 彼女も驚きの表情で変態を見ていた。

「それはつまり、俺達は怪異と同じだと言いたいのか?」

 俺の言葉に変態が深く礼を取って答える。
 どうでも良いがいちいち気持ち悪いぞ、こいつ。

「申し訳ありません。お二方のお心を騒がせてしまった事をお詫びいたします。これは言わば暴論です。もちろん勇者と怪異は全く違います。怪異は無意識の産物です。言わば本能と言っても良いでしょう。一方で勇者を生み出す仕組みは種の意思であり、進化の根源に存在するもの、言わば神の言葉と言って良いのです」

「はあ?」

 一気に胡散臭くなって来た。
 どうもシステムとして生み出した神によって人類を特別な存在であると主張する連中と、精霊信仰組とは反りが合わないせいか、神とか聞くと途端にいかがわしく感じてしまうのだ。

 だが、その神を奉じる国であるロシアを祖国とするアンナ嬢はどうか?と見ると、アンナ嬢にはまた別の主張があるらしかった。

「軽々しく神を語るなど!それは主神への冒涜ですわ!」

 神を信じない俺よりも更に受け入れられないようだった。

「姫よ、お心をお騒がせしてしまい申し訳ありません。とかく学者というモノは神秘のベールの奥に畏怖を感じない愚か者なのです。ご寛恕を賜りたく」

「もう良いから話をさっさと進めろ。アンナ嬢も腹が立つのは分かるが、制裁は後から纏めて叩き込んでやれば良いだろ?とにかく俺はどんだけ遅くなってもあんたらをうちに泊める気は無いからな」

 わざとかそうでないか知らないが、いちいちこっちをイライラさせて話を脱線させる変態にいい加減嫌気が差して、俺はそう宣言した。
 後一時間以内にこいつらを追い出す。
 俺はそう決めていた。

「いいわ」

 アンナ嬢が俺の言葉に短く応える。
 変態も二人それぞれに改めて礼をすると、壁のチラシ群に向き直った。

「人類は希望である勇者を一代限りで終わらせる訳にはいかないと考えました。当然です。物語のように魔王を倒してめでたしめでたしで終わる結末などどこにもない。知恵の実を口にした人類はその魂の影も暗い。凶悪な怪異は生まれ続け、滅びを招く絶望はいつの世にも存在する。勇者は常に必要でした」

 変態は昂ったように両手を突き上げる。
 きもい。

「ですが!愚かな人類は希望の勇者すら完全に信じる事が出来ませんでした。その強大な力が自らに向いたら?そう考えると恐怖せずにはいられなかった。だから、人類は勇者に枷を施したのです。……いえ、言葉を飾ってはなりません。人類は勇者の血統に呪いを施した。自分たちを決して裏切らせない為の、特別に強固な呪いです」

 壁の星のマークの中におどろおどろしいドクロのマークが描かれる。

「そもそも人類はこと呪いにおいてはスペシャリストでした。怪異の脅威など笑い話になる程の、残酷で無慈悲な呪いをいくつも作り上げてきた歴史があります。そして、人類が自らの恐怖を形とした呪いは、そのままそれぞれの恐怖を反映したものとなった。ある国は自国から去られるのを恐れ、国境を越えられない呪いを施した。そしてある国は見放される事を恐れ、愛情で縛った」

 変態はちらりと俺を見た後、視線をアンナ嬢に移し、彼女をじっと見つめた。

「魔法大国、いえ、呪術大国であるロシアの呪いはその中でも特別です。彼らは勇者を絶対服従の強制支配下においた。その恐怖は勇者そのものに対する恐怖だったからです。しかし、これは本来の勇者の存在に対するアンチテーゼでもあったのです。そう、勇者は希望の存在です。彼らの施した呪いは、その存在を恐怖という形で根本から否定したのです」

 アンナ嬢の表情が変態の言葉を理解し、そして歪んだ。
 そこに驚きが無かった事からして、彼女は最初からある程度理解していたのだろう。
 自分たちがなぜ滅びようとしているのかを。

「勇者の血統が変質し、滅びようとしているのは、勇者に対する呪いのせいです。貴女の祖国は勇者を愛そうとしなかった。蝶の羽根をちぎり、花を踏み荒らす。人類の愚かな側面こそがその原因なのです。他から新たな血統を受け入れたとしても、結果は同じでしょう」

「あなたを拘束、連行します。わが祖国に対する暴言は許容の域を超えました。たとえ異国の地であろうと、謝罪を要求するに値すると判断します」

 アンナ嬢が険しい表情のまま立ち上がると変態に詰め寄った。
 感心した事に、変態の方はその期に及んでも幸せそうに彼女を見つめたままだった。
 いっそ天晴と言うべきだろうか。

「待った!いくらなんでも我が国から他国への強制連行はやめてくれよ。まずはうちの警察か外交筋を通せ」

 庇うつもりはないが、とりあえずこのまま祖国まで一緒に飛ばれても困る。
 このお嬢さんは転移ぐらいお手の物のはずだ。

 アンナ嬢は、音がするぐらいの勢いで俺を振り向き、キツイ目付きで睨み上げると、言葉ではなく視線で「お前も敵か?」と尋ねてきた。
 怖い。

「落ち着け、な」

 もう殆ど動物か子供を鎮めるような気持ちで両手を上げながらドウドウと声を掛けた。
 アンナ嬢の眉は更に危険な角度に持ち上がる。

 む?なにか対応を間違えたか?

「いえ、むしろ望む所です」

 変態がそんな緊張感を打ち破るいい笑顔で言い放った。
 なんだって?

「共にロシアへ赴きましょう。私にはその危機への対処方法があります。是非!お国の責任者の方とお話がしたいのです!ラージボーカ!」

 アンナ嬢の視線が凍りつく。
 まるで錆び付いた機械のような動作で変態を振り向くと、数歩後退る。

 いや、気持ちは分かる。
 なんだ、こいつ?こええよ。

「我が祖国は貴様の言葉などに耳を傾けない。裁判で相応の罰を言い渡されるだけだ」
「お国に必要なのは、愛です!勇者とはこの世の奇跡、真なる神の御業なのです!これは世界の真実であり、真理です。私にはどのような頑迷な魂をも説き伏せる覚悟があります!」

 アンナ嬢がまた一歩後ろに下がる。
 いや、俺、ちょっともう関わりたくないな。
 そいつ連れて行って貰えるならそれが一番のような気がして来た。


 結局、押し問答の末、決着が付かなかったので、酒匂さんに連絡を入れてしかるべき所からのお迎えによってアンナ嬢にはお帰りいただいた。
 その際、どう言って納得させたのか、ちゃっかり変態野郎がアンナ嬢に同道したのが恐ろしい。
 アンナ嬢の目がどこか遠い所を見つめるように変態からそらされていたのが、この日最後の印象に強く残った光景だった。

 ……変態一人のせいで歴史が変わるって事があるのかな?



[34743] 110:明鏡止水 その十四
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2014/08/14 06:59
 そのサイレンが響き渡ったのは多くの職場で仕事が終わって帰宅ラッシュが始まる頃だった。

 12月の晴れた寒空は既に暗く沈み、闇を払う護りの力を少しだけ含んだ街灯が街をほんのりと照らし、それ以上に繁華街の輝きが強く闇を払う。
 ビジネス街はその中心近くに閉鎖地区が出来たにも関わらず逞しく活気付きオフィスビルのカーテンのない窓にはまだ仕事中の人々の灯す光が並んでいた。

 今や、夜の闇を恐れる事のない人類の営みを、誰もが疑問にすら思わずに甘受している。
 だからこそ人々は、生き残る為に人間という種族が本来保持していた、闇から身を守る術を失いつつあった。


 ― ◇ ―


「ん?なんだ?火事か?」

 寒くて暗いが、イベントの多い12月という月は、とりわけ人の心を鈍くするらしいと俺は思った。
 なにしろ周囲からそんな声が聞こえてくるまでの間、俺はそのサイレンに反応出来なかったのだ。

「避難命令だ!伊藤さん、シェルターの場所を知っていますか?」
「はい、この近くにもありますけど、この周辺のシェルターは公用のものより会社が各々保有する物の方が規模が大きいです。でも時間が時間ですからそういう会社のシェルターは動いていない可能性が高いですね」

 伊藤さんは俺に答えながら端末のプログラムを起動してマップを表示させてくれた。
 俺はカバンに突っ込んでいたハンター証を引っ張りだす。
 案の定履歴ログが溜まっていた。

「って事はこの周辺は人数に対してシェルターが足りない可能性が高いな」
「最も巨大なシェルターがあるのは官庁街と駅周辺ですけど」
「駅周辺は人が多すぎてパニックになる可能性が高い。官庁街はなにかあった時に狙われ易い上にもう周辺を封鎖しているだろうな。あそこが司令塔だ。確かいざって時は埋没フェンスが壁を作るんじゃなかったかな」
「あ、あの道路にある不自然な黄色いラインですね」

 おおさすが良く知ってるな。
 官庁街と皇城の周囲には物理と魔術による埋没式のフェンスがあり、緊急事態にはそれが地面からせり上がって壁となる。
 今はあの周辺には近付かないのが良いだろう。
 下手に近付いて敵と認識されたら目もあてられない。

 俺はハンター証のログを開いて空中に展開した。
 個人識別があるので俺にしか読めない表示だが、目前にずらずらっと並ぶとなんだか恥ずかしいな。
 しかも咄嗟に入り込んだ廃ビルの駐車場ゲートだが、そこからでも表の混乱具合が聞こえて来て、ひどく焦る。
 怒号と車のクラクションが凄い。
 緊急時には車での移動は制限されるから車のエンジンが起動出来なくされてしまったのかもしれない。

 ハンター証のログにはくっきりと緊急招集が残っている。
 しかも1時間以上前の話だ。
 ……見なかった事にしたい。
 そう言えば俺、今日端末も家に忘れて来てた。

「木村さん、あの」

 何か言いたそうな伊藤さんの声に、気持ちが引き戻された。
 見ればその目に強い光を浮かべながらも遠慮がちに俺を上目遣いで見ている。
 さすがに俺も慣れて来た。
 これは伊藤さんの一か八かのお願いの時の仕草だ。
 断られても良いけれどとにかく言ってみようと思っているのである。
 彼女の性質の悪い所は、そのお願いの内容について、自分の行動を既に決めている所にあった。
 つまり俺に断られても自分で何か無茶をしようと思っているのだ。

「何かしたい事があるんですね」
「はい。この街がまだ結界の壁を持たなかった頃からある古い地域があるんですけど、そこの住宅街の地下シェルターは学校にあるんです。でも子供たちはもう帰宅している時間で、仕事をしているご家族はまだ帰宅していない時間帯です。その地域はお年寄りや子供が住宅街に取り残されているんじゃないかと思うんです」
「助けに行きたいんですか?」

 伊藤さんは困ったような笑顔を見せた。

「実はそこに友達がたくさんいて。週末に神社で一緒に遊んだりしているんです」

 その友達って、もしかして子供ですか?
 付き合っている年齢の幅が広いですね。

 俺は溜め息を吐く。
 ここで俺が断って別行動を取ると、伊藤さんは一人でその旧住宅街とやらに行って凄く大変な事になるんだろう。
 目に見えるようだ。

 まぁあれだ、手に負えないと言えばこっちのログの最後も手に負えない。
 酒匂さんからの公式な要請が通信ログの結びにあった。

『自らの判断で行動されたし』

 信頼なのか連絡が付かない事への投げやりさなのか、これは投げ過ぎだろ、そっちは大丈夫なのかよ。
 俺にだってなんとなく分かるんだぜ。
 酒匂さんは俺がどう行動しても後々問題にならないようにこの公式記録を残したのだ。

「行きましょう」
「え?良いんですか?」

 俺の言葉に伊藤さんは意外そうに聞き返した。

「うちの連中は軍と合流して協力しているようです。俺は元々作戦のサポートや助言などには向いていませんからね。どうせ遊撃ならどこでどう行動しても同じでしょう」
「ありがとうございます!実は一人じゃ怖くて泣きそうでした」

 にっこり笑ってそう言う伊藤さん。
 冗談めかしているが、それは本音だろう。
 以前、俺を助ける為に勇気を振り絞ってまともに立っていられない程に震えていた彼女を思い出す。

 それでも、決して逃げようとしない彼女こそが本当の勇気ある者なのかもしれない。

 俺たちは人の波に逆らうように中心部に向けて走り出した。
 進むほどに人が減って移動しやすくなったのは良いんだけどね。

 途中、軍の装甲車がマイクを使って人々を誘導しているのを何度も見た。
 中にはこちらに声を掛けて来る相手もいたので、旧住宅街へ行く旨を伝えたらその地域の避難経路の簡略図を渡してくれた。
 軍すげえな、親切だ。

怪異侵食モンスター・ハザードという事でしたけど、結界内に急に怪異が湧き出すなんてあるのでしょうか?」

 伊藤さんが不思議そうに俺に聞いた。
 さすがの彼女も以前の事件との繋がりは分からなかったらしい。
 そりゃあもう一ヶ月近く経ってるしね。

「以前食人鬼グールに襲われた事があったでしょう?あいつらの根城が未発見でしたから、そこから発生したようです」

 というか、その辺の詳しい経緯は通信に入っていた。
 どうやら軍はとうとうグールの根城を発見したのだが、その強襲時に逆襲されてこの有り様という事だ。
 なんでそうなったのかもっと詳しい詳細を知りたいが、そこまでは書かれていなかった。
 ハンター証だけだと文字情報は拾えるが、相互通信はパーティメンバーとだけに限定されてしまう。
 しかも距離があまり遠いとそれも制限が入るのだ。

 どうやら由美子や浩二の現在の居場所は、官庁街に浩二、東部の繁華街に由美子という配置になっていて、しかもそれぞれに距離がありすぎて直接通信が使えない状態だ。
 お互いにマップ表示は出るので居場所は分かるのに合流しようとしていないという事は合流する必要がないと判断しているという事だろう。

「グールの大規模発生!」

 伊藤さんが俺の言葉に息を飲む。
 そりゃあそうだ。
 普通結界に囲まれた都市に発生する災害じゃない。
 想定外にも程がある。

 早いとこ頭の吸血鬼だかネクロマンサーだかをなんとかする必要があるのだが、さすがに巧妙に姿を隠しているようだった。
 しかもこっち側には相手の容姿などの情報がない。
 正直見付けるのは至難の業だろう。

 やたら入り組んだ道に詳しい伊藤さんの助けもあって、ほとんど障害なしに辿り着いた旧住宅街は、その響きとは違って落ち着いた綺麗な町並みだった。
 最近は都市内ではほとんど見ない魔除けの刻んだ門柱や、屋根の鬼瓦など、結界が無かった時代の名残が色濃く残っている為そうと分かるぐらいだ。

 通りは驚く程にシンとしていて、ふと迷宮内のあの人のいない住宅街を思い出す。
 と、伊藤さんがやにわに走りだし、2階建ての木造の庭付き一戸建て住宅に向かった。

「ミキくん、メイちゃん、ゆかねぇが来たよ!」

 玄関チャイムを鳴らした伊藤さんは声を上げて外からそう呼び掛ける。
 俺は周囲を注意しながら様子を伺った。
 この静かな場所で大きな声は目立つ。
 何かがいたら引き寄せてしまうかもしれないのだ。

 やがて家の中から小さな足音がドタドタと響き、玄関が開いた。

「ゆかねぇ!」
「おねえちゃあああん!」

 十歳は超えているか?野球のバットを手にした少年と、五、六歳ぐらいの女の子が伊藤さんに抱き付く。

 ふと、その少年の目が俺を見付けた。

「睨まれた……だと?」

 子供に怖がられたり泣かれたりするのはしょっちゅうで、それでもやっぱり堪えるのは堪えるんだが、敵意一杯に睨まれるのは初めての経験だった。

 なんてこった、凄いショックです。



[34743] 111:明鏡止水 その十五
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2014/08/21 05:30
 俺たちの避難の説得に子供達は頑なだった。
 もしかして俺への当て付けかと疑ったぐらいだ。

「家から離れる訳にはいかないだろ!お父さんもお母さんも絶対家に帰って来るんだから!」

 なんという家族への信頼、ちょっと感動する。
 うちの家族ならそれぞれが好き勝手して他の連中の事など考えないだろう。

「何言ってるの!お父さんもお母さんも二人を信頼しているんでしょう。ちゃんと避難していると思って学校に行くに決まってるじゃないの!」

 しかし俺の感動など甘っちょろいものだったらしい。
 伊藤さんのびしりとした指摘に俺は思わず子供たちと共に直立不動で首を縦に振っていた。

「分かった」
「ごめんなさい」

 そんな伊藤さんのお叱りに対して子供たちは素直である。
 そして伊藤さんもそんな子達に向かって今度はにこりと微笑んだ。

「でももし帰って来られてもお父さん達が心配したりなさらないように食卓にメモを残しておきましょうか」
「うん!」
「はあい!」

 うんうん、こんな時なのに子供は元気が良いな。
 危機感は薄れるが、一緒にいるだけでなんとなくこちらも元気が出る。

「ところで、ゆかねえ。こいつ何?」

 年上の少年、確かミキくんと伊藤さんが呼んでいたかな?その少年が、ずっと向けていた不審そうな顔そのままにチラリとだけ俺を見て伊藤さんに尋ねた。

 うん、この子、最初からずっと敵意バリバリなんだよな。
 なんで俺、こんなにいきなり嫌われてんの?地味に傷付くんだけど。

 それに何?と言われると困る。
 一応伊藤さんにとっては同僚かなぁ、俺。

 しかし、そんな弱気な俺とは伊藤さんは格が違った。

「木村さんはゆかねえの大切な人なの。仲良くしてね」

 何と堂々とそう言い放ったのである。
 一瞬、俺の意識と体が硬直した。
 答えてもらった少年も驚いたように目を丸くして、すぐにまた俺を睨んだ。

 今度は前よりもはっきりとその視線に「嫌い」と書いてあるような目付きだった。

 これはキツイ。

「ミキくん、私が嫌いになっちゃったの?」

 伊藤さんがしょんぼりした声でそう言った。
 ミキ少年が俺を睨んだのを見ての発言である。

 ミキ少年ははっとしたように慌てて手を振った。

「ち、違うよ!そんな訳ないだろ!だけど、ねえちゃんの彼氏は俺がちゃんと見極めるからな!」

 なんというストレート!俺は更に硬直してしまう。

「やだ、ミキくん彼氏だなんて。まだまだ私の片思いみたいなものなんだよ。残念だけどね」

 伊藤さんも大概天然だよね。気が利くし、頭良いんだけどさ。
 案の定ミキ少年は増々俺に対する憎しみを感じたようだった。
 視線で人を殺せるなら俺は何度か死んでいたに違いない。

「とりあえずのんびりしている場合じゃない。急いで避難しよう」

 子供たちそれぞれに両親への伝言を書いてもらうと、俺達は学校へ出発……出来なかった。

「近所に耳の悪いおばあちゃんがいるんだよ。良くお菓子くれたりして優しいおばあちゃんなんだ。サイレン気付かなくてまだ家にいるかも」

 というミキ少年の訴えで、学校と反対側となるご近所へと寄る事となったのだ。
 とは言え、ご近所なのでそう遠回りにはならない。
 二軒隣、庭に守護の小さなお社を持つ古い日本家屋の家だった。
 庭の仕様があまりにもことわりに則っていたので、少々驚いてしまう。
 普通の怪異災害ならこの家の方が避難場所より安全かもしれなかった。

 というか庭に霊格の高い木々を配置してお社に仮の精霊かみの聖域を創り出し、それが家を覆っている。
 昔の人の知恵というのは凄いな。

「ばっちゃん!いる?」

 子供たちは勝手知ったるという感じで庭に入り込むと、そのお社に手を合わせて縁側から家の中に声を掛ける。
 招かれていない俺としては家の敷地に入る訳にもいかず表で待機状態だ。
 一方伊藤さんは場の空気を乱す事もなく、子供たちと共に庭に入って行った。
 うーん、無能力者ブランクだと思っていればそれは全く不思議な事ではないが、別の確信を持ってそれを見るとまた違う解釈が出来る。

 このごまかしを考えた彼女のおやじさんは、きっと一筋縄ではいかない冒険者だったんだろうな。

 そんな感慨を持ってその様子を窺っていた俺は、ふと、届いた匂いに眉を寄せた。
 グールが近い。
 これは老人や子供連れで避難出来る状況じゃなくなったっぽいな。

 玄関を開けて出て来ようとする全員を俺は押し留めた。

「連中が近い。中に入っていてください。この辺りじゃここが一番安全です」

 子供たちの向こうにちらりと見えたお婆さんとやらは、確かに白髪に皺の寄った顔をしていたが、その目にはある種の人間に共通の力があった。
 術者か?

「何があったの?」

 言葉もはっきりとしている。
 とうてい耳が遠いとは思えない話し方だ。

「グール、ええっと、人喰いの鬼がこの街に入り込みました」

 もしかするとと思って、俺は雑念を抑えて明瞭に言葉と意識を揃えて語り掛ける。
 お婆さんはちょっと驚いたようだが、すぐに微笑んで頷いた。

「まあ、対話に慣れていらっしゃるのね。ありがたいわ。それにしても鬼なんてほんと、珍しいわねぇ」

 どうやら思った通りだったらしい。
 神官などは神との対話の為に意識を読む訓練を積む。
 しかしこの能力が高くなると、今度は雑念の多い人間との対話は逆に聞き取りにくくなるらしい。

「鬼退治は得意なのでお任せください。もし宜しければ中で気配を消していていただけますか?」

 この人数を守りながら戦うのは不可能に近い。
 しかし、この家ならば人の気配を隠すぐらいの事は出来そうだった。

「まあまあ増々懐かしいわね。ミキちゃん、メイちゃん、それから可愛らしいお嬢さんも、隠れ鬼を知っています?もう良いよ~って聞こえるまでお家の中で隠れていましょうね」
「うん、メイね、お家で兄ちゃんと良く隠れんぼするよ!」
「え?でも?」

 無邪気な妹と違って、兄貴の方はなにか変だと思ったらしい。
 しきりと俺を見ている。

「家の中には男はお前一人だ。任せて大丈夫だよな?」

 俺はあえてニヤリと笑ってみせた。
 ミキ少年はむっとしたように俺を睨むと、「当たり前だろ!」と叫ぶ。
 おいおい、あんま大声出すなよ。

「ミキちゃん、隠れ鬼の時は静かにするのよ」

 お婆さんがたしなめるようにそう言うと、二人の手を引いて奥へと連れて行く。

「木村さん!」

 伊藤さんが不安気に俺を見た。

「大丈夫です。知っているでしょう?」
「心配させてくださいって言いましたよね?」

 伊藤さんは頬を膨らませてそう言うと、俺の手を両手で包むように握った。

「決して無理はしないと約束してくれますか?」
「……はい」

 どうにも新鮮な感覚で、俺は一瞬言葉に詰まる。
 自分よりもずっとか弱い人にそんな風に心配されるというのは、やっぱりなんだかくすぐったい感じで全く慣れない。

 伊藤さんはなかなかその手を離してくれなかったが、奥から少年が急かせるように「ゆかねえ!」と声を掛けて来た。

「約束ですよ!」

 伊藤さんはそう言い残すと家に入る。

 カラカラと音を立てて引き戸が閉じられ、その家を不思議な静寂が押し包む。
 鎮守の森に似た、小さな結界の作用だ。

「さて、無粋なお客人にはお帰り願わないとな」

 濃くなって来る不快な匂いを目指して俺は進んだ。
 あちこちから聞こえるサイレンは、日常の中で良く聞くパトカーのものではなく装甲車のような特殊な軍の車両やヘリからの物だ。
 更に遠くからは、どうも銃撃の音らしきものも聞こえていた。

 人類は既に手強い怪異とも対等に戦える力を持っている。
 俺達のようなそれに特化した者達に頼らなくても十分戦えるのだ。

「だから、俺は俺の持ち場だけを心配していれば良いって事だ」

 古い住宅街のあまり広くない通りを不思議な集団が進んで来る。
 年齢、性別、服装などに纏まりがないおかしな集団だ。
 だが、唯一共通している物がある。
 そのこちらに向けて来る、飢えた獣のような視線は、彼らがもはや人間ではない事を示していた。

「腹が減ってるのかもしれんが、お生憎様、俺は食えないぜ」

 熱い視線に応えるようにそう言うと、まるで不満を示すように一斉に唸り声を上げた。
 うん、残念だったな。

 俺も会社帰りで大した装備は無いが、特権を利用して持ち歩いている愛用のナイフはある。
 とりあえず、この相手には十分だろう。

 一斉に怒涛のように襲いかかって来るグール達を、その勢いを利用して切り分けて行く。
 今度こそきちんと眠れるように。

「神無き国の憐れなるかな。我が神のご威光を恐れよ!」

 と、グール達の向こう側から何者かが声を上げた。
 切り離されてなお蠢いていたグールの肉体がゆっくりと崩れ、灰に変わる。

「あんたは」

 それは、もう懐かしいと思える相手だった。

――――――補助事項ウンチク――――――


聖域:怪異は格が上がる程自らの縄張りを強固に保つ性質を持つ。その性質を利用して神と呼ばれるような精霊の縄張りと相似した空間を作ってその力を借りて作る結界の事。もしくはその神(精霊)の縄張りそのものを指す。



[34743] 112:明鏡止水 その十六
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2014/08/28 06:54
 その男はグールの群れの後方から、まるで障害など何も存在しないかのようにゆったりと歩いて来た。
 胸に揺れる大ぶりの木製の聖印、やたらと存在感を放つ両手の黒手袋、明らかに正統教会の牧童シープドッグだ。
 ついでになんとなく見覚えがあるような気がする。
 うーん、はっきり覚えていない、もしかしたら別人かもしれないな。

 群れている背後から近付いたその人間に対して恐怖など感じる理由など無いグール達は、獲物が自ら食べられに来たとばかりにその存在に殺到しようとする。
 そこにあるのは期待に満ちた、いっそ無邪気なほどの笑い声と歓迎の言葉だ。
 そしてその騒ぎのせいで背後の人間に気付いていなかった他の多くのグールも振り返った。

「人と同様の知能があるとは言いながらも本能を抑え切れない。……所詮は獣だな」

 その男、正統教会の犬は、素早く空中に聖印を切る。
 流れるようなその動きはその男がかなりの手練れである事を示していた。
 その素早く展開した防御陣で、殺到したグールがつんのめるように折り重なって背後からの同類に抑えこまれてしまう。

 相手がどんなつもりであれ、これは好機だった。
 俺はその機を逃さずグールを攻撃する。
 手持ちがナイフだけだが、グールの弱点はその神経伝達系の脊髄だ。
 心臓などの臓器を攻撃しても大して効果がない反面、頚椎を断つ事で無力化出来る。
 足を取られ、身動き出来ないグールなどもはや的のようなものだ。
 おかげで簡単に手前の数体を倒すことが出来た。

「教義に従って奉仕活動中ですか?神の下僕しもべどの」

 俺なりに感謝を表してそう言うと、男は一瞬顔をしかめ、すぐに表情を消してこちらに一礼してみせた。
 そんな風にこちらに対しながらも、その間にグールから距離を取って飛び退る。
 気付くとその飛び退った刹那の間に数体のグールの首が飛び、防御陣の支えが無くなった体が崩れ落ちた。
 生き残ったグールは、しかし人間とは桁違いのその身体能力でその団子状態から抜け出し、手近な順に敵である俺とその教会の犬とに向かう。
 その好戦的な様子にはいささかの動揺もないようだった。

「借りを返しに来ただけだ。貴殿の弟に言われてね」
「弟?」

 ん?なんでそこに浩二が出て来るんだろう?
 あいつは位置的に軍隊と同行しているっぽいんだが。

「失態を犯した私は任を解かれるはずだったのだが、貴殿の口添えでそれは免れた。現在は罪の贖いの為にこの国の軍で奉仕者として修行のやり直し中だ。おかげで今回神の敵である悪魔と戦えるはこびになったのは、神のお導きであろう」
「はあ」

 ええっと、これはお礼を言われてるって訳じゃないよな。
 いや、もしかして遠回しな礼なのか?

「そこで出会ったのが貴殿の弟だ。曰く、私には返すべき借りがあり、貴殿は常に最悪な時に最悪な場所にいるという性質がある。助勢に赴くのは互いにとって最良の結果になるだろうとの事だった」

 浩二、あの野郎。
 あいつ自分の兄貴をなんだと思っているんだ?
 別に好きでいつも変な場所に迷い込む訳じゃねえよ!

「それはどうも、とんだ貧乏くじだな」

 俺の言葉に、教会のワンコは携えた細身の剣を抜き放ちながら笑って見せた。
 それは直前の表情のない顔からは考えも付かない程に獰猛な笑みだ。

「まさか。最悪なる場所とは悪魔共の群れなす所。悪魔を滅するのが役割の私からすればその場にある事こそ使命。一時は貴殿を恨みもしたが感謝をしても良いとすら思っているさ」

 恨んでたのかよ!逆恨みだろ!
 てかまだ感謝はしてないんだな。

 剣閃と共に多くのグールが崩れ落ちる。
 どうやら実力は確かなようだ。

「我が主よ、あなたの剣となり地上より穢れし者共を打ち払いし我に御力を!」

 おお、首以外を斬ってもグールの傷口が再生しない。
 あれが噂の聖剣という神技か。
 アンナ嬢の魔法からすると地味だが、戦い方としてはこいつの方が洗練されているかもしれない。

「無駄無駄ぁ!容れ物などいくらでもあるぞ。我らの形のみ崩しても貴様らには勝利などないわ!」

 生き残ったグールの一人がニヤニヤ笑いながらそう宣言する。
 仲間がどんどん減っているのに恐怖や焦燥を感じたりする事はないらしい。
 さすがは人の姿はしていても怪異だ。
 人間の理屈には当て嵌まらない。

「なら元を断てばいいだろ?てめえらの親玉はどこにいる!」

 俺の呼びかけにそいつはゲラゲラ笑い出した。
 まったくイラッとする奴だな。
 と、流れるような動作で近付いた犬野郎がそいつの素っ首を刎ねた。

 切り離されながらも首は尚も笑い続ける。

「我が主は貴様らごときには倒せぬ。絶望を味わえ!」

 そう叫んで落ちて来た所を踏んづけてやった。
 足の下でようやく保っていた元の人間の肉体ごと土塊となって崩れていく。
 グールになって時が経つ程、滅びた時に元になった死体すら残らない。
 人に弔いさえ許さない無情の仕業、それがグール化だ。

「絶対に倒してやるよ」

 応えて呟いた。

 しかし、恐ろしい程の殲滅速度だ。
 俺一人ならこの何倍も時間が掛かっていただろう。
 さすがに悪魔専門の狩人であるシープドッグというべきか。
 まあ俺だってちゃんと装備が揃っていれば手間取らなかったんだけどな。

「街なかで暴れているグール共は大体5、6匹単位で行動している。今の連中は分隊に別れる前のようだった」

 犬野郎がグールの屍に聖水を振り撒き、聖句を唱えて浄化を終えると、剣を収めてそう告げて来る。

「うん?やつらのねぐらがこの近くにあるって事か?でも軍が襲撃したっていう場所はどうしたんだ?」
「あっちは明らかに罠だった。聞けばこの辺りは古い町並みだとか。もしかしたら廃墟となった聖域があるのではないか?」
「なんでそんな事を聞くんだ?」

 口元に冷笑を浮かべながらこちらを見る男に苛立ちを感じる。
 どうやらややあっちの方が背が高いらしい。
 俺だって結構タッパはある方だっていうのに。

「悪魔のやり方は分かっている。人が大切に想っていた物をあざ笑い穢す事で自らの力を増すのだ。異端とは言えこの国の神もまた奴らにとっては穢すべき存在だ。人が忘れ去っても神は忘れぬものだからな」
「分かり難い」

 宗教家というのはどうしてこう自分のものさしで解説しようとするんだ?
 もっと噛み砕いて言え。

「……自分の頭の出来の悪さを私のせいにするな。まあ良い、説明してやる。吸血鬼であれネクロマンサーであれ、それは闇を力とする存在だ。より闇が濃くなるのは光の記憶がある場所だ。つまりそのような場所で堕天を引き起こす事によって自らの力を強く出来るという事なのだ。だからこそやつらは常に信仰の篤い場所を堕す事を好むのだ」
「てめえな!」

 こいつ確か俺に借りを返しに来たとか言わなかったか?
 喧嘩を売りに来たの間違いじゃないだろうな?

「まあいい、分かった。今は使われていない古い信仰の場所を探せという事だな」
「ほう、少しは考える頭もあるようだな」
「てめえ……」

 ワンコのくせにこの野郎。
 ムカつくのを我慢して、俺は道を戻って避難している伊藤さん達のいる家の玄関ベルを押す。

「鬼はもういない。もういいぞ」

 ドタドタドタという賑やかな音と共に元気の良い気配が近付き、そのままの勢いで玄関が開いた。
 靴ぐらい履いてから開けようぜ。

「お父さんとお母さん来た?」

 あー、なんか期待させたのか、悪かったな。
 ちっこい女の子の期待のまなざしが俺と、そして背後の犬野郎を見て明らかにがっかりする。

「いや、まだ危ないからな。お父さんとお母さんは安全になってから迎えに来てくれるさ。というか学校の方に行ってるんじゃないか?」

 俺のその言葉に、後に続いていた少年の顔までがっかりしてしまった。
 俺のせいじゃないけどちょっと堪えるんだけど、これ。

「じゃあ大丈夫なようならみんなで学校の方に行きましょうか?お父さんとお母さんもだけど、友達もきっと学校にいるでしょう?」
「うん!」「うん!」

 伊藤さんの言葉に二人の子供は元気を取り戻したようだった。
 両親の事もだけど、友達の事も気になっていたようだ、さすがは伊藤さんだな。
 確かに学校には子供が多く避難しているだろうし。

「あの、ちょっとお伺いしたい事があるんですけど」

 そちらは伊藤さんにまかせて俺はこの家の主であるお婆さんに言葉を掛けた。
 この町に昔から住んでいるこの人ならきっと古い神域にも詳しいはずだ。
 俺は彼女にこの辺で昔は信仰されていて今は放置されている場所が無いかを聞いた。
 するとお婆さんは少しだけ考え、すぐに答えを導き出して俺に答える。

「ええ、確かにそういった場所はありますよ。都市開発に従ってお祀りされていた場所を追われて今は公園のモニュメントとなっているの。井戸の護りであられた蛇神様の祠がそうよ」

 お婆さんの答えたその場所は、以前主人とはぐれた犬を見付けたあの公園だった。



[34743] 113:明鏡止水 その十七
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2014/09/04 07:49
 この公園は中央でも大きめの、美しく整えられている公園だ。

 常緑の小さな木立がいくつか飛び地として点在し、その木陰に木製のベンチが配置されている。
 その合間を縫う道はぐるりと公園を巡っていて、変化のあるランニングコースや散歩のコースとして利用されていた。
 中心には広くなにもない芝生の地面があり、時々イベントに利用されたり、普段は都民の恰好の遊び場として機能している。

 今の時間はもうすっかり夜という感じだ。
 立ち並ぶアンティークな形をした街灯はチカチカと瞬いて不安定な光と守護を投げている。
 ゴミひとつない管理された公園にしては不自然な不備だろう。

 木々の間をさやさやと風が吹き抜けて、頭上には柔らかな月の光、普段ならまだ犬の散歩やウォーキングの人の姿がある時間だが、さすがに今は人影はない。

 いや、それは今だけでは無かった。

「不自然か、なるほど、あまりにも整然とした気配を逆に不自然に感じるべきだったという事か」
「本来人が生活する場には必ず淀みが出来るものですからね。とは言え、この場の整え方は極力不自然さを排除している。恐らく敵は大物ですね」
「大物、ね」

 俺は内心ムカついていた。
 この中央都に迷宮を造って居を構えている偉そうなバカは何やってるんだ?自分の縄張りにこんな風にデカイ顔でのさばられて放置しているとはね。

 年寄りだけにボケたのか?気まぐれの変態野郎が、自分の縄張りも守れないとは怪異も長生きしているだけじゃダメだな。

 胸中で終天に罵り言葉を知る限りぶつける。
 とは言え、下手に終天が縄張りを主張してこの闇系の怪異とぶつかったら中央都は何も残らない更地になってしまう可能性が高い。
 いっそ何もしない方が人類にとっては幸せではあるのだ。

 とは言え、理屈と感情は常に同じ結論に至るわけではない。
 心の中で悪態を吐くぐらいいいだろう。

「その問題のモニュメントとやらはどこだ?」

 教会の牧童ことワンコが偉そうにそう聞いてくるが、実のところ俺もそんな物がこの公園にある事を知らなかった。
 公園の見取り図にも記載されていないし、あの老女に聞くまでは全く考えもしなかっただろう。

 そのモニュメントは、公園に設置されている二つのトイレの内、木立の中に設置されている方の裏手にあるらしかった。
 水神だから水回りの傍にという考えなんだろうが、あまりにもあまりな扱いと言える。

「こっちだ」

 昼間ですら薄暗い木立の中心は、夜となって更に暗く、しかもただそれだけではない暗闇の中に沈んでいる。

「暗い、な」
「暗いどころか認識が通らないぞ」

 神の信徒は闇を嫌うというが、ワンコ野郎の口振りには憎々しさが溢れている。

「闇の中では主神のご威光が通らないとか?」
「バカを言うな!主のご威光の照らさぬ場所があるはずがない!」

 単純に好奇心で聞いたのだが、それに返って来た答えは噛み付くような否定だった。
 こいつ心が狭いな。

「ふーん」

 よし、こいつ放置しよう。
 意思の疎通が困難な相手と連携が取れるはずもない。
 各々好き勝手にやった方がいくらかマシだろう。

 案外浩二の奴もそう考えたからこそ、このワンコ野郎をこっちに寄越したのかもしれない。
 そう考えると腹が立った。
 絶対文句を言ってやる。

「それにしても貴殿の女は冷たいものだな。あっさりと避難所に行って心配する様子すら見せなかったじゃないか」
「お前、人に信頼された事ないのか?まぁ当然か実力なさそうだもんな」

 いきなり伊藤さんの事を悪く言われてついカッとして言い返してしまった。
 
「なんだと!」
「この程度で気を乱すとか、おいおい大丈夫か?お前らお犬様達は神の器とやらなんだろ?神への愛ではなく他人への怒りで心を満たしていちゃ使い物にならないんじゃないか?」
「貴様、悪魔の眷属のくせに人間らしい言葉を語るじゃないか。闇の魔物よりも貴様を先に滅するべきなのかもしれんな」

「さてはて、客が来たと思って出迎えの準備をしていたのだが、門前で争いを始めるとは嘆かわしい。さすがは海に浮かぶ小島の民だ。下品きわまわりない」

 馬鹿を煽っていたら更なる間抜けが姿を表した。
 闇の中、俺の目でも見通せない濃い影が小さな渦を巻いたと思ったら人型と化す。
 どうやら敵の大将が放置が我慢できずに顔を出したらしい。

「我慢の出来ない奴はいつだって失敗しちまうもんだぜ?」

 体を向ける、踏み込む、ナイフの術式を起動して突く。
 考える前に動ける程馴染んだ動作で奴の心臓を狙う。

 本来人型の怪異の弱点は人に準ずる。
 上位怪異の下僕たるグールはその原則から離れているが、怪異の見た目と弱点の関係はほぼほとんどの存在に当て嵌まる。
 こいつが死霊術士か吸血鬼かは知らないが、つまりは心臓を破壊されれば致命傷に近い被害を被るという事だ。

 だが、必殺の鋭さで突き出された俺のナイフは、手応えなくその野郎の姿をすり抜ける。

「投影か」

 なるほど渦を巻いていたのは霧か。
 そこに自分を投射している訳だ。

「臆病者のやりそうな事だな。……あまねく闇を払う我らが主なる御方よ、穢れし地に祝福を」

 ワンコが聖印をかざしながら聖句を唱える。

 連中の創り出した神のシステムは実のところ良く出来ていた。
 信者によって共通概念として「存在」する神という力に信仰心とキーワードでアクセスしその力を現世に顕現させる。
 一人一人の信者の信仰心はほんの僅かで良い。
 信じる者が増える事によってその力は恐ろしく強大なものになるのだ。

 その人造の神という存在は、人間の生み出した様々な武器の中で、最も強力で恐ろしい力かもしれない。
 ただ、多くの人間の意識を撚り合わせる必要があるからこそ、そこには様々な制約が必要となった。

 周囲にふくいくたる香りが漂い、夜目の効く俺にも見通せなかった闇が薄っすらと照らされる。
 信者の少ない我が国において、彼らの神の力はそう大きくは無いのだ。
 だが、それでもこうやってその力の一端を及ぼせるのはさすがではある。

 闇の中、そこだけ浮かび上がっていた人影が消え去り、木立の奥、公衆トイレの裏手からひどく耳障りな音が聞こえて来た。

 ズルズルと、重い何かが這いずる音。
 黒い影が、枯れ果てたクローバーの残骸の覆う地面を素早く這い寄って来たのだ。

「また傀儡か!本当に臆病者だな、てめえ!」

 その水の気配は、元々の守り神であったはずの水神だろう。

「おやおや、貴様らを永く護った神だぞ?恭しく、丁寧にお迎えするのが作法だろうに」

 ねっとりと響く声、というか思念。
 音声の声の方はどうも馴染みがない言葉だ。
 やっぱりあの外道な冒険者が連れ込んだ異国の怪異なのだろう。
 しかし怪異と人間が本当の意味で協力する事は出来ない話だ。
 あの自己主張の激しい男の姿が見えないという事は、既にこいつに呑まれたか?

「ふん、私にとっては全て悪魔の眷属にすぎん。諸共に滅びるが良い!」

 教会のワンコはそう忌々しそうに吐き捨てると、腰から剣を抜き放つ。
 俺が警告を放つ間もなく、素早く踏み込むと這い寄る影の蛇を切り裂いた。

 その瞬間、周囲の風景が溶けるように崩れ、辺りは暗闇に包まれる。
 冷たくも優しく吹き抜けていた風も、天上に輝いて地上を照らしていた月も、全てが消え去り、息苦しい程の閉塞感が四方から襲って来た。

 闇を透かして周りを見渡すと、そこにあったのは異なった層の積み重なった岩肌だった。

「なんだ!悪魔の攻撃か!」
「洞窟だな、これは」

 濃厚な水の気配がする。
 どうやらあの水神様の縄張りのようだ。

 つまりはあの水神の影はここに俺たちを招く為のお誘いだった訳である。
 まぁよくある事だ。
 怪異は己のテリトリーを持つものだし、そこでこそ本来の力を発揮するものなのだ。
 俺たちはまんまと敵のホームグラウンドへと戦いの場を移してしまったのだった。

 ピチョン、と、どこかで水滴の落ちる音がする。

 ザワザワと周囲から何かが寄って来ていた。
 これは見ない方が幸せかもしれないな、と、俺がそう感じた瞬間、ワンコが叫ぶ。

「光の主たる御身の御力をここへ!」
  
 ワンコ野郎の掲げた手に光が灯り、一瞬、闇に慣れた目が眩む。

「うわあああああ!」

 ワンコの叫び声に嫌な予感がいや増して、げんなりしながら周囲を見渡した。

 それは小さな蛇だった。
 一匹一匹は子供が摘まんで遊ぶような可愛らしいものだが、それが幾万、幾億?という数で閉鎖された空間にびっしりひしめいているのを見ると、可愛いという感想はさすがに浮かばない。

「気持ち悪い」

 正直な気持ちを吐露してみました。

「それらは影だ。実体は無いが貴様らの体内に潜り込み、体内を侵食するぞ。その苦しみは壮絶だ。お前達が苦しみのたうつのをたっぷりと愉しませてもらった後は、その体を再利用してやるから光栄に思うのだな」

 どうやらやっと黒幕本体のお出ましのようだ。
 しかも趣味が最悪な奴っぽい。
 俺とは話が合わないタイプだな。

「悪魔め!」
「くっ、貴様、神の下僕とやらか。全く神様とやらは素晴らしい存在だな。おかげで我の闇は更に濃くなり力を増したぞ。まさに神サマサマだ」

 闇の怪異はゲラゲラと下品な大声で笑った。
 
「おのれ、穢れし悪魔の分際で我が主を愚弄するか!」

 ワンコは大層お怒りだ。
 でもまあ奴の言い分もあながち間違ってはいない。
 人造の神を絶対的な存在とした為に、彼ら正統教会の世界は完全に善悪に二分された世界となってしまった。
 それは中庸を許さない世界。
 光が強ければ強い程、闇はより濃く、深くなった。

 それこそが精霊信仰の国々がどうしても教会を受け入れられない理由でもある。
 本来怪異の全てが人間の敵ではない。
 しかし、正統教会の教えでは全ての怪異は悪魔であり、神の敵として殲滅すべき存在なのだ。

 だが、光だけの世界に人間は存在出来ない。
 つまり人間が存在している時点で、永遠に闇は消えないという矛盾を彼らの創り出した神は抱えているのだ。
 結果として、教会の支配する国々では敵対する怪異はより強力になってしまったのである。

 だが、

「おい、てめえ。てめえ、こうやってみんなを殺したのか?まだまだこの先、平和に幸せに暮らす事が出来たはずの人をそんな風に苦しめて殺して、しかもその体をてめえのおもちゃにしやがったのか?」

 這い回る蛇の群れも、馬鹿げた宗教論議も、本当の所どうでも良かった。
 俺の下っ腹の深い所で、ふつふつと熱い塊がその温度を上げていくのを感じる。

 奴の存在が近いのが理解る。
 鳥肌が立つ、その存在の違和感。

 公園で主人を待って腹を空かせて弁当をあさっていた犬。
 ベンチにちょっと置かれただけといったカバン。

 永遠に失われたその先にあった何かに、例えようもない悲しみが沸き起こる。
 そして、それを超える怒りが。

 許さない。

 その瞬間、俺の意識を支配したのは、その言葉だけだった。



[34743] 114:明鏡止水 その十八
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2014/09/11 04:51
「ああああ!主なる御方よ、この暗闇を清浄なる光にて満たしたまえ!」

 悲鳴じみた祈りが放たれるが闇を裂く光は降臨しない。

「カカッ、ここは闇の世界、光なぞ入り込む隙間などないわ。絶望しろ人間よ。弱く、脆い貴様らが必死に生き足掻く無様さだけは賞賛すべきものがあるからな」

 楽しげに、鼻歌でも歌い出しそうな口調で近付く気配。
 ひんやりとしたその気配は熱を持たぬモノ達独特のものだ。

「おい、てめえ。人間を道具のように使ったあの冒険者はどうした?仲間だったんだろ?」

 全身を這い回る闇の蛇が熱を奪い、思考や意思を食い荒らす。
 見えて感じるのに掴む事の出来ないその蛇達は、恐怖や焦燥といった人の闇に通じる感情を辿って魂に入り込み、喰らい尽くして生きた死者を作り出すのだろう。
 俺はこの音も匂いもない攻撃に埋め尽くされようとしながら、闇の向こうにいるこの場の支配者に問い掛けた。

「仲間?おかしな事を言うな。仲間とは人間と人間の繋がりを言うのだろう?人間と怪異の関係は捕食者と被捕食者の関係にすぎない。人間だって役に立つ豚を飼っていたとしても、食べどきになったら肉として食卓に乗せるであろうに。実にシンプル、明確な関係性ではないか」

 人には有り得ない熱のない声が淡々と紡ぐ言葉に、俺は怒りを通り越した冷徹な思いを抱いた。

「それは殺して喰ったという解釈で良いのかな?」
「生かしておく理由が無くなったのだから当然だろう?」
「なるほどな」

 なまじ言葉が通じるからこそ、その異質さは際立つ。
 こいつは人ではない。
 当然の事ながらそれがひしひしと実感出来た。

「うわああ!ひいっ!」

 闇の向こうから我を失ったような悲鳴が上がった。
 さすがのワンコも神の威光の通らない闇の支配圏では分が悪いようだ。
 いそがないといつまで正気を保っていられるか心配だ。

「ふむ、どうも君は消化が悪いな。まぁ良いか。我が故国にも我らに対向する特殊な血統はいるのだが、肉体は人並み外れて強くとも精神はやはり少し頑丈なだけの人間にすぎないからな。結局人間の精神は脆弱でいつまでも我慢が続くものではないのだよ。いや、長く苦しんでくれる方が私としても楽しめて嬉しいのだけどね。強く硬いものが折れる瞬間の絶望は特別甘美なものだしね」
「へえ?」

 奴の気配が俺の間合いに入った瞬間、俺は全身のバネを使って奴に飛び掛かった。
 案の定野郎は食事の為に実体化をしている。
 俺の両手には確実に奴を捉えた感触があった。

「む?貴様なぜ蛇がきかん?精神を持つ者ならば闇の蛇に侵されれば動けんはずだぞ」
「はっ!この程度の闇の蛇がどうしたって?うちにはもっと陰険な影使いがいるんだよ!毒も無い精神攻撃だけの蛇なんざ枯れ草の草原を歩くようなもんだぜ!」

 身内にすら容赦のないうちの弟は平気で影の蛇に致死の毒を仕込むからな。
 いや、あれは身内だからこそなのかもしれんが。

「まあいい。人間ごときの力、多少特別な血をもっていようと我に及ぶと思い上がらない事だな」

 奴は俺の掴みかかった両手を逆に掴み取ると、怪異である所以の肉体の制限を受けない力を込めて握り潰そうとして来た。
 実体化した怪異は肉体を持ち、それに準じた弱点は持つものの、本来の生物の法則には一切当て嵌まらない馬鹿げた性能を持っている。

 それにしてもこの怪力と良い、さっきの霧の投影と良い、こいつの正体がなんとなく掴めたぞ。
 そう言えばあの腐れ冒険者野郎は迷宮で吸血鬼の力を使っていたっけな。

「てめえ吸血鬼か。それも二世代以下じゃない始祖だな」
「ご名答。このような僻地で良く我を看破した。褒美に我直々にその血を啜ってやろうぞ」
「遠慮させてもらうぜ」

 力ではそれなりに自信がある俺が押されている。
 生臭い息が間近に感じられ、背中にぞっと冷たいものが走った。
 こいつに喰われて下僕になるのだけはごめんだ。

 人間の魂の闇を弄び、それどころか死した肉体をも好き勝手に操る。
 こんな存在を許す訳にはいかない。

 俺の中の血に宿る熱が全身を炙る、戦いの時独特のあの感覚が強くなった。

「ぐああああああ!」

 意図せず吠える。

 体が膨れ上がるような感覚。
 炎に炙られるような痛み。
 全身を覆っていた凍りつくような闇の蛇共がその熱にあてられたかのように溶け消えて行く。

「ぬう?貴様っ!」

 奴が驚いたように一瞬たじろぎ、余力を残しながら嬲っていたその余裕が消える。

 自分の筋肉が、肉体が組み変わるのを感じる。
 ギシギシと音を立てて膨らんだ体が、硬く鋭くなっていくのも感じ取れた。

 己の血に組み込まれた人外の力。
 ずっと厭ってきたその力だが、この『敵』を倒すには必要な力だった。

「化け物め!」
「てめえが言うのかよ!」

 人の及ばぬ人外のモノ達。
 それに対抗するにはその人外の力に人の魂を乗せれば良い。
 そんな馬鹿げた事を考えただけでなく、実行した者達。
 そしてその為に犠牲となった多くの者達。

 哀しい程に愚かで、狂おしい程に偉大な、そんな者達の望んだ存在が俺だと言うのなら、それはそれで仕方がないのかもしれない。
 そんなにまでして生きようとした、いや、生かそうとした者達の望みにどうして背く事が出来るだろうか。

 人が好きだ。
 狂おしい程に。
 それが例え作られた感情だとしても、その想いが自分のものである事に間違いはないのだ。

「消え失せろくされ外道!てめえに弄ばれる為に生まれた人間なんかいねえんだよ!おとなしく故郷の闇の底へと還るんだな!」

 互いに組み合う手がまるで冗談のように実際に火花を散らして耳障りな音を立てた。
 足元で地面が徐々に崩壊する感触がある。

「生意気な人間モドキめ。貴様は解体して我が居城にオブジェとして飾ってくれるわ」
「さすが最悪な趣味だな、化け物が!」

 せめぎ合う力の余波に、閉じた空間だった洞穴にヒビが入る。

「闇は光に消え去らん!聖なる楔よ土塊を砕け!」

 戦いに力を集中したせいで吸血鬼野郎が闇の蛇のコントロールを失ったのか、復活したワンコがその機に乗じて術式を発動させた。

「ぬうっ」
「ちょ!」

 崩壊が始まる。
 とは言え下手に気を抜くと力負けしてしまうので逃げる事も出来ず、俺は吸血鬼野郎と組み合ったまま降り注ぐ土砂を浴びた。

 あの犬野郎、俺を一緒に始末するつもりじゃねぇだろうな!
 後で覚えてろよ!

 幸いにもというか、洞穴を埋めた大量の土砂は俺と吸血鬼野郎の周りから吹き飛ばされる結果となった。
 互いに崩壊を好機とばかりに仕掛け合った結果である。

 それまで感じる事の無かった風がふわりと通りすぎて、外へと抜け出た事が分かった。
 ただし外も夜なので、真の闇とまではいかないが、暗い事には変わりがない。

 いや、

「穢れし誘惑者の醜き姿を明らかに、天よりの裁きを示したまえ!」

 ガガガッ!と銀白の光が周囲を覆い、焦げた匂いが漂う。
 うお!目が痛え!

「がああああ!貴様ぁ!卑しき神の下僕めが!」

 どうやらワンコがここぞとばかりに神の御力とやらを奮い、吸血鬼野郎がそれなりのダメージを負ったらしい。
 てか俺もなんかちょっぴり痺れてるぞ。

 ちょっとイラッとしたものの、それどころではないので気配で吸血鬼野郎の居場所を探ると、全力でタックルを食らわす。
 さすがにその状態では避けきれなかったのだろう、野郎はまともに食らって吹っ飛んだ。
 ついでに片腕も千切れ飛ぶ。

 その腕からは血が出る事もなくバラバラに崩壊すると、更に細かく崩れ去り、風に飛ばされて行った。

「おのれ!僻地のサル共が調子に乗りおって!」

 長い牙、やたらとデカイ赤い目、いびつな人型だからこそ尚更こっけいな姿の怪異がそこにいた。

「闇は闇に、土塊は土塊に、本来の姿に戻るんだな!」

 俺はナイフの術式を起動する。
 赤く燃える刃が人間の首にあたる部分を切り離した。

 ソレは切り離されて尚もしぶとく蠢いている。

「貴様もバケモノだろうに正義の味方ごっこか、滑稽だな」

 人間の一部を模したオブジェのようなモノは、その口らしき部分をぱっかりと開けてゲラゲラと笑う。
 そこに被さる月によって出来た影は、なるほど奴の言うように人間の姿をしてはいなかった。

 壊れた玩具のような吸血鬼の成れの果てをぐしゃりと踏み潰す。
 足の下で脆く崩れる感触が妙に気持ち悪かった。



[34743] 閑話:冬の早贄
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2014/09/18 05:53
 一夜の騒ぎは去って、一時はその存在すら忘れかけていたシェルターで不安な夜を過ごした人々も、ホッとしたような、或いは逆に苛立ったような表情で朝の光を浴びた。
 昨夜の避難騒ぎを、政府の陰謀説、もっと穏当な所では選挙のための点数稼ぎだと糾弾する者が早速現れたり、携帯端末で撮影した映像がグローバルネットの投稿用の共有広場で流されたりと、異質な出来事を自分なりに消化して、人々の意識は早々に日常へと復帰しつつあった。

 だが、そんな喧騒の戻った街の一画、この中央都市独特の、複雑に張り巡らされた地下街の片隅で、ひっそりと異変が生じようとしていた。

 夜には賑わうのであろう地下の飲み屋街の、そこを照らす街灯と違い何の効能も持たない灯りが、そろそろその寿命を終えようとするかのように瞬いている。
 地下街は朝となっても外の光が届かないがゆえに、24時間いつでも点けっぱなしの電灯の寿命は短く、気の利く者の少ないこんな場所では切れるまで放置される事が多いのだ。

 そんな灯りに一匹の大きな蛾が戯れるように寄って行き、その影が実体よりも大きく壁に描かれる。
 影は何度かの歪みを繰り返して、蛾からコウモリへと変化した。

「さすがは僻地たる最果ての島の民よ。我ら吸血の民バンパイアの倒し方も知らぬと見える。愚かな」
 クククと笑う声が厚く打たれたコンクリートの壁に響き、ひとけのないその場所の静寂を揺らす。

 影は一瞬人型になるものの、やはりまだ力は足りないのかその姿はコウモリのままであった。

 そこへ、コツリコツリと硬い床を硬い靴底で踏みしめる音が届いた。

「人、か。丁度良い。力を取り戻す為の最初の贄となってもらおう」

 コウモリは、その性らしく天井の暗い隅へと移動すると逆しまにぶら下がる。
 その間にも足音は近付き、点滅する灯りが頼りなげに照らし出す姿も次第に明らかになって来た。

 そこにやって来ていたのは一人の男だった。
 仕立ての良いスーツを纏い、ぴったりと着こなした姿はビジネスマンというよりホストのようにも見える。
 場所柄には相応しいとも言えた。

 しかし、近付いて来る男にはただのホストには決して見えない強烈な存在感があった。
 誰もが思わず振り向かずにはいられない魅了の力のような暴力的な気配だ。
 だがそれも、場所柄にふさわしくないとは言えない。
 その正体は強い雄の気配であるからだ。

 やがて瞬く光の中に顕になったその男は、目を向けた者がハッとするような美貌の持ち主だった。
 だがその美しさは都会的な軟弱な部類の物ではない。
 野生の、獣達がその身に纏うような、本能に訴えかける美しさだ。

「悪くはない余興だった」

 男は唸るような低い声でそう言い放つ。

「虫カゴに入り込んだ無粋な蜘蛛をあえて放置したのは、安寧に翔ぶ事を忘れた羽あるものたちに危機感を抱いてもらいたいがゆえであったが、思ったよりも上手く働いたようだ。褒めてやろう」

 天井の暗がりに貼り付いたコウモリは硬直したようにぴくりとも動かない。
 だが、男はその姿を見て、口角を上げて笑ってみせる。

「何か言いたそうだな?だが、すまんな。我はどうも化け物というモノがあまり好きではないのだ。醜悪で愚かで目障りだからな」

 言葉の内容とは裏腹に、男は機嫌が良さそうな笑顔で続けた。

「そもそも貴様、我が箱庭に入り込んだ時から分かっていたのではないか?もし分かっていなかったのだとしたら愚かも過ぎると云わざるをえないが、まさかそこまで愚かでもなかろう。聞く所によると我よりずっと長生きをしているそうではないか」

 クククと喉で笑って男は続けた。

「まぁ馬鹿がどんなに長く生きようと馬鹿は馬鹿のままなんだろうがな」

 獰猛な、肉食の獣の笑みとなったその顔を照らして、電灯はその寿命を終えた。
 パチリと小さな音と共に細々と保たれていた光は耐え、薄くぼんやりとした影に呑まれる。

 そこで、バリバリと、まるでスナック菓子を食むような音が響き、短い時間の後、硬い足音が再開した。

 出口近くの正常な電灯の光に照らされて一人の女性が佇んでいる。
 エンジの飾り気の無いスーツ姿の、ほっそりとした存在感の希薄な女性だ。

「主さま……」
「どうした?戯れを責めるか?」
「まさかそのような」
「偶には俺を詰っても良いのだぞ。少なくともお前にはその権利はあるんじゃないか」
「考えた事すらありません」

 男は儚い花のひと枝のようなその女性をそっと抱き寄せると、薄く、酷薄な笑みを浮かべる。

「見ろよ、人間達の逞しさを。少々間引きした所で揺らぎもしねえ。だがまぁ」
 男は酷く嬉しそうに言葉を続けた。
「本当の意味で変わらないものなどない。投げ込まれたたった一つの小石で変わる流れもまたあるだろうさ」


  ― ◇ ―


「特区は驚く程通常運行のままだったな」
「ここの連中の大半はグールなんて屁とも思っていませんからね」
「表現が下品だな」
「育ちが悪いんですみませんね」

 中央都を震撼させたグール騒ぎは、そのほとんどを軍が仕切ってしまい、古巣である怪異対策庁はその実情の把握に苦心しているという愚痴を元部下からさんざん聞かされた酒匂は、苦い笑みを浮かべて眼下の特区の様子を眺めていた。
 迷宮攻略の為の、通称冒険者特区は、壁の外の騒ぎを知りながらも全く我関せずと腹立たしい程いつも通りに過ごす冒険者で溢れている。

 自らも冒険者上がりであるという秘書官が、どちらかというと外の連中に近しい心境で話し相手を務めていた。

「ここでは外がどうだとかより、迷宮の二桁台のゲートが開放されたというニュースの方が大事なんですよ」
「確かにそうだな」

 酒匂は苦笑する。
 犠牲者の為に鎮魂の祈りを捧げる者など、この場所には自分以外存在しないのかもしれないと寂寥の思いを抱いたが、外に肉親知人を持つ庁舎職員や特区の店舗の従業員などの事を考えて首を振る。
 もちろん、どこかで誰かが辛い想いを抱えているに違いないのだ。
 自分だけが特別と考えるのは傲慢に過ぎない。

 多くの犠牲を避けられたはずだといつもの通りマスコミは政府を叩くだろう。
 確かに後から考えればいくらでもIFを考える事は出来る。
 だが、過ぎ去った悲劇を消す事は誰にも出来はしないのだ。
 救えもしない命を惜しむのはむしろ愚かさであると冒険者ならば笑うのだろう。

「むしろ、我々は冒険者に倣うべきなのかもしれないな」
「ダメですよ、トップに立つ人には体裁というものがあるんですから」
「なるほど体裁か」
「そうそう、体裁は大事です。特に政治家は」

 酒匂は驚いたように自らの秘書官を見た。

「私はどちらかというと叩き上げの官僚の気分でいたのだが、君から見ると政治家に見えるのか」
「いえ、閣下。大臣ともなれば立派な政治家ですから。誰がどう見てもそうですからね?顔出しして事が起これば首を切られる。怖い政治家の世界のトップ付近にいらっしゃるんですよ?自覚お願いしますよ」

 ふうと、息を吐くと、酒匂は窓から身を離した。

「まぁこの首ぐらいいつでもくれてやるが。自分を偉いと思ったら人生は終わりだよ」
「不思議な人生観ですね」
「現実だよ。あんな物を間近で見ていれば誰だってそう思うさ」

 遠景に、一つの本来存在しないビルが見える。
 存在しないが、存在する。
 この地とそこに暮らす人々を睥睨する『迷宮』を、酒匂は厳しい眼差しで睨み付けたのだった。

――――――補助事項ウンチク――――――

吸血鬼(バンパイア)における注意点:バンパイアは死者と闇から生まれた怪異であり、それゆえに普通の死ではその存在を破壊出来ない。
バンパイアを完全に倒すには、心臓に白木の杭を打ち、灰となったものを流れる水に流す必要があるのだ。
それ以外の方法で倒しても、彼らはまた復活する。



[34743] 115:氷の下に眠る魚 その一
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2014/09/25 06:06
 迷宮内で使える蓄電装置の企画が潰れた。

 よくある事ではあるのだが、うちなんかとは格の違う大手が、同じような発想のパワーバッテリーなるものを売り出したのだ。
 しかもそれは夢のカケラではなく、怪異の素材を利用したものだった。

 迷宮内で倒した怪異は解けるように消えるものだが、どうやらこれは迷宮を維持するエネルギーに変換されているらしい。
 つまり、怪異の素材をタンクに突っ込むだけでいわゆる魔力エネルギーを得る事が出来るのだ。
 魔力エネルギーを電気エネルギーに変換するのはごく一般的な技術だ。
 いわゆる枯れた技術であるので、ほとんどの装置は既存の物が使える。
 その為安価な商品化に成功したのだ。
 ついでに迷宮の怪異素材の変換炉の特許も取得して、大企業樣は増々潤うという事となった。

 更にはうちがやっていた夢のカケラを元とした蓄電装置には、根源的な問題点が発覚したのだ。
 夢のカケラはどんなに小さくても政府の買取価格は数千円にはなる。
 金にがめつい冒険者がそれを電気製品の電力チャージなんかに使う訳が無かったのだ。
 その事実が発覚したのは、最近になって商品化アンケートとして冒険者に無作為アンケートを実施したからなのだが。

 正直やるならもっと早くやって欲しかった。
 いや、今更言っても仕方ないけどな。

「ハンターの癖にそれが分からないお前もどうかと思うがな」

 流がチクリとそう言った。

「いや、ハンターは現場で得た物資は自分の物にしちゃならんというルールがあるから、純粋に依頼料だけが収入なんだよね。夢のカケラの大きいヤツがとんでもない末端価格だってのは知ってるけど、ちっこいヤツなんて砂利の一個みたいなもんなんだぜ、市場に出回っているとか聞いた事ないし」

 俺の言い訳を流は鼻で笑う。

「単に不勉強なだけだな。細かい夢のカケラはエネルギー資材として流通しているぞ。秘境ではちょくちょく小さい迷宮が発生していてそういう迷宮専門の冒険者もいるらしいしな」
「いや、お前こそ知ってたなら言えよ」
「会社の方針に口を出すのは俺の仕事じゃないし」
「分かったぞ、お前、実際に夢のカケラを使った実験を出来るんじゃないかと期待してたんだろう。金持ってるんだから自分でやれば良いだろ」
「あれは金があれば使える素材じゃないんだよ。政府の許可が必要なんだ」

 しれっと自白した流はともかくとして、取り組んでいたプロジェクトが流れると課のみんなのやる気が低下する。
 こういう場合、社員の気力を回復させるのも課長の仕事なのだろう。
 プロジェクトの中止を発表した課長は、課のみんなの為の慰労会を行うと宣言した。
 つまり飲み会である。

「まぁタダ酒なら歓迎だが」

 いや、厳密にはタダではない。
 毎月密かに徴収されている福利厚生費が出処なので、徴収されていた給与が戻って来るだけなのだ。
 まぁでもタダと考えた方が精神衛生上は良いよな。

 お気楽な佐藤と、新人君が手出し無しの飲み会と聞いて嬉しそうにしている。
 女性陣は嬉しい派と嬉しくない派がいるようだ。

「言っておくが、今回は安い居酒屋ではないぞ。ちゃんとした料理店での慰労会だ。美味い和食で有名な店を押さえた」
「え?マジで!」
「おおおお!太っ腹!」
「課長ステキです!」

 俄然乗り気でなかった女性陣が盛り上がり出した。
 単に飲み会と思っていた男性陣も更にテンションが上がる。
 かく言う俺もノリノリで課長をヨイショした。
 美味い飯に美味い酒という組み合わせは大歓迎だ。 

「うむ、なんと最近評判の創作和食の『憩』の宴会用和室を予約した。身内だけだからちょっと良い店だからってあまり気張った恰好で来なくても良いぞ」
「えっ!憩ですか!あの中央グルメスポット50のベスト10に入ってたお店じゃないですか!やった!」

 おお、女子がハイテンションになった。
 女の子って食べるのが好きだよな。

 伊藤さんが御池さんと手を取って喜び合っているのを見て、俺はほのぼのとした気持ちになったのだった。



 かくして慰労会の日となって、一度家に戻って準備をする俺と違い、隔外の伊藤さんは仕事帰りからそのまま行くらしく、退社時に俺に駆け寄って来て心配そうに聞いて来た。

「荷物をお部屋に置かせてもらって良いですか?」
「ええ、どうぞ」

 美味しい料理が楽しみなのか凄くニコニコしている伊藤さんはまるで10代の少女のようで可愛い。
 俺の後ろをトコトコ付いてくるのもなんとなく心がほのぼのするな。

「木村さん楽しそうですね。あんなお店個人じゃちょっと足が向かないですもんね」
「まぁ確かに一人でとか友達ととかで行くような店でもないよな」

 いつものバックと違って大きめのボストンバックを抱えている伊藤さんはなんとなくいつもより小柄に見える。
 荷物を持つと提案したのだが、きっぱり断られてしまったので、仕方なく歩幅を加減してさりげなく車道側をカバーしつつ歩いた。

 楽しく話をしながらの帰路は短く、部屋に付いた俺は軽く顔を洗って身だしなみを整えて出立するつもりだったのだが、伊藤さんの衝撃発言で慌ててしまった。

「あの、着替えをしたいのですけど、良いでしょうか?出来ればシャワーも使わせていただけると嬉しいんですけど」
「えっ!ああ!そうだよね。あ、冷蔵庫にミネラルウォーターが少なくなってるし、俺ちょっと買い出し行って来るからその間にどうぞ」

 よく考えたらまだ慰労会の始まる時間まで結構ある。
 慌てる必要もないし、明日は休みなんだからある程度買い物をしておこう。

「あ、私も手早く終わらせますからそんなに気を使わなくても良いですよ」
「あ、うん。大丈夫!そう言えば卵も切れてたし!」

 自分でも何を言ってるのか分からなかったが、とりあえず自分の部屋を飛び出すと、近場のスーパーに向かった。
 今日は慰労会という事で仕事も全員定時に終わって時間が早いのでスーパーも開いている。
 めでたい。

「卵ひとパック99円か、週末だから安いのかな?」

 なんだか主婦で混雑しているスーパーを泳ぐように歩きながら、必要そうな物をカゴに放り込んでいく。
 今、伊藤さんがうちのシャワーを浴びているのか。
 いやいや、何考えてるんだ、俺。
 そもそも伊藤さんがうちの風呂に入るの初めてじゃないし。
 そうだ、前に泊まった時に入ったはずだ。
 俺が入るように勧めたからな。
 俺自身は腹痛で半分意識が吹っ飛んでたからよく覚えてないけど。

 はっと気付くと、カゴの中に必要のないセール品などが入っていたのでそれらを元に戻す。
 いかん、ボーッとしている場合じゃない。
 伊藤さんをあの部屋に一人でずっと放っておくのは良くないだろ。
 もしかしたら浩二がいきなり入ってくるかもしれないんだぞ。

 そんな風に考え出したら急に不安になって来て、俺は慌てて会計を済ますと家へとダッシュで戻った。

「ただいま、入っても大丈夫ですか?」

 リビングに続く扉の前で急に不安になった俺はノックして声を掛ける。
 ふわっと人の動く気配がした。
 他の誰とも違う柔らかい動きだ。

「あ、お帰りなさい。荷物あるんでしょう?今開けますね」

 扉が開くと石鹸と水の香りがした。
 伊藤さんはスーツ程堅くは無いが、普段着よりもちょっとよそ行きの大人っぽい服装に着替えている。
 俺は自分の顔が赤くなるのを必死で押さえた。
 冷静になれ、俺。
 買い物用ふろしきには卵が入ってるぞ!

 一瞬、抱きしめたいと思った自分を抑えて、買い物用のふろしきを抱えて部屋に入る。
 テレビジョンを点けるでもなく、あまり物のないしんとしたリビングは室温は適温になっているものの寒々と感じた。
 こんな所で一人で待たせてしまった自分を反省する。

「まだちょっと時間がありますね。今の時間じゃあんまり面白い物もないでしょうが、テレビジョンでも点けておきますか?」

 ふよふよと二羽の蝶が飛んで来てお互いにじゃれるようにクルクル回るとまたふよふよと向こうへと行った。
 蝶々さん達は自由だな。
 うちの蝶々さんも最近はもう俺のプログラムとは全く違う動きをするようになってしまった。
 明らかに由美子の式の蝶に影響されている。

「この子達を見ているだけでけっこう楽しめましたけど、もし良かったら私、見たい物があるんですけど」
「なんでしょうか?」
「あの、木村さんの作った玩具からくりをもっと見せて欲しいんです。凄くぶしつけなお願いだって分かっているんですけど」
「え……」

 ドキリとした。
 ずっと密かにコツコツと作り貯めてた玩具達。
 俺以外の誰にも関心を持たれるはずもなかった宝物。

 それは俺にとって、叶わない夢の象徴のような物だったのだ。



[34743] 116:氷の下に眠る魚 その二
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2014/10/02 09:08
 実を言うと、俺の部屋には全体的に無造作に自分の作品が転がっている。
 特に作業部屋には棚があり、なんとなく作ったは良いが使う訳ではない物などが並んでいた。

「えっ、これも木村さんが作ったんですか?お店で買ったんじゃなくて?」

 伊藤さんが紹介する毎に楽しそうに質問したり感想を言ったり、褒めてくれたりするので、俺は嬉しいやら気恥ずかしいやら逃げ出したいような気持ちになってしまう。
 動揺のあまり、薄い雲母を組み合わせて作った、蕾の状態から開いたり、開いた花びらが閉じたりする初期の作品を思わず取り落としそうになって、慌てて救い上げた手が、同じように落ちる作品を救おうとした伊藤さんの手と重なり、尚更動揺する羽目になった。

「あ、ありがとうございます!」

 考えるよりも先に反射的に礼を言った俺に、伊藤さんは「いえ、私の手じゃ間に合いませんでしたね」とエヘヘと笑った。
 焦る俺を気にする事なく、伊藤さんは作業場の道具なども物珍しそうに眺めて質問をしていたが、やがて、壁に掛かっているパネルを指し示して尋ねて来た。

「もしかしてあれも木村さんが作ったんですか?テレビジョンなのかな?と思ったんですけど、違いますよね。いろんな模様が次々と浮かび上がって来て、綺麗ですね」

 それは確かに大作だった。
 雲母板の間に術式符を挟み、それぞれに温度や音、僅かな振動によって異なる光を発する簡易術式が施されている。
 雲母板は電気と同じように魔術の発する波動も遮断するので、本来互いに干渉する術式を干渉させずに発動させる事が出来るのだ。
 その事を利用して作ってみたのがこのパネルディスプレイだ。

「まぁ綺麗なだけで何かの役に立つ訳でもないですけどね。部屋を暗くしてこのパネルだけになるとちょっと幻想的で気に入ってるんです」

 俺の言葉に伊藤さんはにっこりと笑って、「じゃあちょっと暗くしてみてくれますか?」などと言ってきた。
 え?えええええ?
 焦る俺を見て、伊藤さんが吹き出す。

「木村さんって、天然な所がありますよね」
「え?どういう事ですか!?」
「だって、さっきの言葉って普通ムード作りのお誘いだと受け取られてしまうのに、そんなに焦るなんて」

 そう言うと今度はお腹を抱えて笑い出してしまった。
 いや、天然具合なら伊藤さんが上だろ。
 男の部屋でそんな無邪気に殺し文句を言って来るのは卑怯すぎるでしょう?
 てか、本当に笑い転げる人を初めて見たよ。

 伊藤さんは笑いの衝動が激しすぎたのか床に倒れこんで笑い続けている。
 溜息を吐いて、はっと思い出した俺は時計を見た。

「あっ!しまった!伊藤さん、時間!」
「あっ!きゃあ!」


 慰労会の開始時間をすっかりオーバーして現れた俺たちに、下世話な推測や冷やかしが集中した事は言うまでもない事だった。
 しかし酒のつまみに弄られまくって、せっかくの高い料理も酒の味も分からなかった俺とは違い、伊藤さんは女性陣だけで固まった中で楽しそうに笑っている。
 
 その楽しそうな姿を見ていると、なんだか心の奥が暖かくなって来て、馬鹿な佐藤が絡んできた鬱憤もどこかへと吹っ飛んで行くようだった。
 だが、宴もたけなわとなって来ると俺達を隣同士に並べて質問攻めが始まった。

 曰く、どこまで行ったのか?(直裁的すぎると思わないのか!恥を知れ!)とか、結婚はいつだ?(気が早い)とか、子供は何人の予定だ?(気が早いのも程があるだろ!)とか、酔った勢いなのかマジなのか、あんたらノリが良すぎるだろ。
 果てには部長まで「俺は結婚式のスピーチの場数はこなしているぞ、安心しろ」などと言い出す始末。

 結局、より気楽な店に行くという二次会は、どんな事になるか目に見えていたので、ほうほうの体で辞退して逃げ出す事にした俺たちだった。


「さんざんでしたね」
「ごめんなさい。私が木村さんの作品を見たいなんて言ったから」
「いえ、嬉しかったです。あんまり人に見てもらった事がなかったですから」

 会話が途切れてなんとも言えない間が空く。
 周囲は賑やかに音楽を流し、きらびやかに飾られた違法術式ぎりぎりのごく弱い誘導灯などで店名がきらめいている。

「あの」「えっと」

 二人の声が重なってお互いに言葉の先を譲りあった。
 結局俺の言葉が先になった。

「思ったより早い時間で抜け出せたので帰りは余裕ですね」
「あっ、そうですね」

 伊藤さんがはっとしたようにそう言って、ちょっと照れたように笑う。

「ご心配してくださってありがとうございます」

 そう言えば伊藤さんはかなり呑んでいた(正確には呑まされていた)ように思ったけど、頬がちょっとだけ赤くなっているだけだった。
 結構酒に強いのかな?
 でも頬がちょっとだけ赤いというのもなかなか良いな。

 俺はぼーっとしてそんな事を考えながら、さっき譲られた伊藤さんの方の言葉を誘う。

「あの、手、繋いでも良いですか?」
「あ、え?手ですか?」
「はい。はぐれないように」
「ああ、人多いですよね」

 週末の飲み屋街は人が多い。
 多いだけなら良いが足取りの怪しいのやら、数人で流れを無視して通りを突っ切って歩く若者なんかもいて、かなり混沌としていた。
 でも手を繋ぐって、子供みたいだな。

「どうぞ」

 そう言って、何気なく差し出した手を、伊藤さんの小さい手がぎゅっと握る。
 しかし繋いでみると予想外に柔らかい感触と、じんわりと伝わってくる暖かさが色々とやばかった。

「え、駅まで送りますね」

 何かを言わなければならないという使命感に駆られて、俺はそんな当たり前の事を口走った。
 伊藤さんの手がぎゅっと強く握って来て、どきりとする。

「泊まっちゃ駄目ですか?」
「えっ?ええ?」
「荷物置いてありますし」
「うちに寄っても大丈夫、十分終電に間に合いますよ」

 繋いだ伊藤さんの手が俺を引っ張り、人混みと喧騒から抜け出した。
 入り込んだ横道は街灯の間隔が少し遠い。
 暗がりの所々には自然に闇が形を無した黒いマリモのような暗闇がコロコロと淡い光の境の手前で転がっている。
 これは精霊の一種なので、別段害はない存在だ。

「私、以前言いましたよね。木村さんは命の恩人だから、恩を返したいって」
「え?ええ?」

 ぎょっとする。
 俺は伊藤さんの言葉に思わず身構えた。
 もし、恩返しに、義務感から俺に何かを与えようと思っているというなら、俺は決してそれを受け入れる訳にはいかない。
 繋いだ手の暖かさは確かだけど、そこに心がないのならそれは俺にとって価値がない物なのだから。

「あれは少しだけ本当でほとんどは嘘です」
「えっ!?」

 意外な話の流れに俺は混乱した。

「私はズルい女なので嘘を吐きました。本当はただ木村さんと親しくなりたかったんです」

 えっと、それは俺がハンターだから?
 もしかして親父さんから『木村』の意味を聞いて?
 急速に冷えていく胸の内にさまざまな思いが巡る。
 ふとアンナ嬢の顔が浮かんだ。
 国の命令でうちの一族の血を欲した彼女の言葉は決して俺を求めてはいなかった。

「私が木村さんに惹かれたのは、あの魔除けの綺麗なテーブルランプを見た時です」
「えっ?」
「私は小さい頃から開拓キャンプ……じゃなくて冒険者のキャンプで育ちました。彼らは怪異を避けるために色々な事をします。そのほとんどは暴力的で無骨な物で、そこに美しさを求める事などありません」
「そう、でしょうね」
「だけど、あの時。木村さんが渡してくれた物は、今まで見て来た色々な物の中でも、とても美しいものでした。繊細で温かくて、そこに暴力の影なんかなかった」

 伊藤さんは遊んでいたもう片方の手も取ると、俺の顔を見上げる。

「私は思ったんです。こんな綺麗な物で怪異を封じようとする人はどんな風に世界を見ているんだろうって。とても知りたいと思って、だからあんな嘘を言って、いえ、恩を返したいというのも本当ではあるんですけど、それだけじゃない事を隠して、木村さんの近くにいようとしたんです」

 夜目の利く俺には伊藤さんの真っ赤に染まった顔がはっきりと見えた。
 お酒、今頃回ってきたのかな?と、どこか現実放棄した俺の思考が考える。

「隆志さん。こんな女ですが、私を受け入れてくれますか?」

 名前を呼ばれて、俺の思考はクリアになった。
 
「俺は、ずっとその、不安でした。俺が良いと思う物、綺麗だと思う物、それは他の人と違うのではないか?と。……でも、違っても良いのだと、その違いを良い事だと言って貰えるのをきっと、ずっと待っていたのかもしれません」

 こんな夜道の真ん中で何を言ってるんだろうと思ったが、真剣な顔で俺を見ている伊藤さんの顔がそんな照れを許さなかった。

「色々と秘密も多いし、きっと俺の隠している事は貴女を傷付けたり困惑させたりする事だと思います。だから、そんな秘密を明かせない俺には本当はこんな事を言う資格は無いのかもしれないけど」

 息を吸う。
 不思議と心臓の音は平静だった。

「俺と同じ物を見て、……一緒に生きてくれますか?」
「はい!」

 早い。
 返事のあまりの早さに、全く考えずに返事をしたとしか思えなかったが、なんだかニコニコとものすごく嬉しそうにしている伊藤さんを見ている内に、そんな事どうでも良い事だと思ってしまった。

 世界は今日も美しく、不思議に満ちている。



[34743] 117:氷の下に眠る魚 その三
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2014/10/09 05:21
 ずっと……、

 ずっと、思っていた。

 自分は異質なモノだと。
 目前に広がる風景の中に入り込めない異物なのだと。

 だから、こんな風に誰かに求められる時が来るとは本当は考えていなかった。


 目が覚めると、ほっとするようなコーヒーの香りが部屋の中に漂っていた。

「あ、起こしちゃいました?すごくぐっすり眠っていたから疲れているのかな?と思ってコーヒー淹れて来たんですけど、よく考えたら飲んでもらうには起きてもらわなきゃいけなかったんだって気付いて、どうしようかなって思っていたから正直助かっちゃいましたけど。えへへ、でもコーヒー飲んだらもう一回寝ます?」
「あ、ああ、ありがとう」

 同じ部屋に人がいるのには慣れている。
 実家は三世代同居だし、小さい頃は兄妹同じ部屋で寝起きしていたもんだ。
 むしろ中央に出て来てからは寂しかったぐらいだから、人が近くにいるのは嬉しい。

 だけど、目前で小さなトレーに薄い湯気を上げているコーヒーカップを載せて両手で大事そうに掲げ持っている女性の存在は、俺を落ち着かない気持ちにさせた。
 ふわりと漂うコーヒーの香りの向こうに、石鹸の香りがほんのり感じられて、ああシャワー浴びたんだなと思ったら更に落ち着かない気持ちになる。

「実は憧れていたんです。こういうシチュエーション」

 にこにこと嬉しそうに伊藤さんはそう言うと、コーヒーをベッドサイドのチェストに置いた。

「え!こういうって?」

 俺が焦りながらそう言うと、伊藤さんは顔をちょっと赤くしてトレーを胸に抱きしめる。

「す、好きな人に、朝にコーヒーを淹れてあげたり……とか」

 ものすごく照れながらそう言う伊藤さんを見ながら、俺は自分の心が汚れている事に赤面した。
 ごまかすようにコーヒーに口を付ける。
 少し薄めに淹れられたコーヒーには砂糖もミルクも入っていなかったが、初めて飲む別の何かのように美味しく感じられた。

「あ、砂糖とかミルクとかは大丈夫でしたか?寝起きに飲む時は何も入れずに飲む方が疲れを取るには良いみたいなんですけど、口に合わなかったら意味がないですよね。先に聞いておくべきでした。ごめんなさい」

 俺が一口口を付けて手を止めたのを誤解して、伊藤さんが慌てて謝った。
 さっきまで微笑んでいたその顔がしゅんとしてしまう。

「あ、いや、違うんだ。これうちのコーヒー豆だろ?安売りで買ったメーカーブレンドの。なんか味が違うな、と思って」

 俺の慌てた説明に、伊藤さんは叱られる事を心配する子犬のように俺を見た。

「それは、きっとコーヒーメーカーを使わずにドリップしたからだと思います。コーヒーメーカーだと加減が分からなかったので」
「そうなんだ。うん、飲みやすくて良いな」
「本当ですか?良かった!」

 不安そうな様子から一転、飛び跳ねそうなぐらいに嬉し気な様子になる伊藤さんはとても可愛い。
 なんだか朝から幸せだな、と、思って、ふと、昨夜からの一連の出来事を思い出して酷く恥ずかしい気持ちになった。

 なんか、俺、何もかもほとんど考えずに行動したような気がする。
 いや、気がするんじゃない、本当に何も考えていなかった。
 いいのかこれで。

「あの、お酒飲んで内蔵が疲れている時に重い朝食は辛いでしょうから、鮭をほぐして炙ったお茶漬けを用意しておきました。もしもう起きられるようなら準備しますけど、どうします?」
「伊藤さん、なんか凄く気が利くね。それに慣れてる?」
「うちのお父さん、あんまりお酒強くないのにちょくちょくお仲間と飲み会をやるんです。その度に翌朝二日酔いで大騒ぎして、でもお母さんのお茶漬けを食べると体が落ち着くって言ってそれだけは食べるんですよ。だから覚えちゃいました」

「あ……」

 そうだ、伊藤さんのお父さん。
 元冒険者のあの人にどうしても会わなければならない。
 今まで疑問に思いながらも追求する事はしなかったが、もはや彼女の周囲にある不安をそのままにしておく事は出来ない話だ。

 はっきりと自覚した。

 曖昧だった俺と世界の繋がりを、伊藤さんが明確にしてくれたのだ。
 彼女を守るという事は、俺にとって唯一の、自分を世界と繋ぐ証となる。

 でも、こういうのって、男の身勝手なのかもしれないけどな。

 自然体でまっすぐで自分に正直で歪みのない。
 そんな伊藤さんの在り方は、世界そのもののように美しい。
 彼女が俺を好きだと言ってくれるなら、俺はこの世界の中にいて良いのだと、不安を感じることなくそう思えた。

 無理やり自分に言い聞かせる訳ではなく、ごく自然に、人として生きる未来を考えられる。

「お茶漬けじゃあっさりしすぎでした?もうちょっと何か食べます?そうですよね。うちのお父さんより木村さんの方がずっと若いんですから、お茶漬けだけじゃ足りませんよね」

 俺の沈黙を誤解して、伊藤さんが慌て出す。
 ほんと、可愛いな、この娘。

「お茶漬けいただくよ。それから、朝食を食べたら一緒に伊藤さんの家に行きたいんだけど良いかな?お父さんは家にいる?」
「え?え?」

 俺の言葉にまた別の混乱に襲われたらしく、伊藤さんは赤くなったり真顔になったり、照れたりしながら「じゃあ、準備しますね!」と言いながら寝室から出て行った。
 廊下辺りで壁かドアにぶつかったらしいドン!という音が聞こえたが、大丈夫か?伊藤さん。







 久方ぶりに訪れた伊藤さん宅はあまり変わっていなかった。
 もちろん問題となっていた床下や屋根の守り瓦なども手を入れて問題のない状態にしてあったが、全体の大まかな作りはそのまま古民家風だったので、仕掛けが解除された今となっては、落ち着いた暖かさが感じられる家となっている。

 純和風の庭を見ていると、この家の主が外国の人間だとは思えない程だ。

 もう昼近くだが、さすがに日曜の昼間だけあって出歩いている人は少ない。
 伊藤さんによるとむしろ早朝の方が散歩やランニングをする人がいるので人通りは多いのだそうだ。
 早朝に活動する人が多いのは、朝日には浄化の力があるから魔物が出にくいという事もあるのかもしれない。

「ただいま~」

 伊藤さんが門柱に触れると門扉のロックが外れた。
 冒険者らしいと言えば良いのだろうか、ちょっと変わったセキュリティを組んでいる。
 やっぱりおやじさんの趣味が相当入ってるんだろうな。

 特に変わった事もなく玄関の引き戸を開ける。

「おかえりなさい」

 家の奥から母親らしき声が聞こえた。
 娘が帰っただけだから迎えに出る事もないのだろう。
 泊まった翌日ではあるけど、泊まり自体は以前にもあるし。

「お母さん。あの、木村さんがご一緒なの。お父さんいるかな?」

 奥の方で少し慌ただしい気配がして、スリッパの音と一緒に伊藤さんのお母さんが顔を出した。

「あらまあ」

 相変わらず可愛らしい近所のおばさんといった感じのお母さんだ。
 目尻の皺が優しげに刻まれているが、他は目立った皺はなく、少しぽっちゃり気味だが太っているという程ではない。
 小柄で愛嬌のある顔立ちが他人に警戒心を抱かせない得なタイプと言っていいだろう。

 そのお母さんは、俺の方を見ると、次に娘を見て、親指を立ててにっこりと笑う。

「やったわね、優香、グッジョブよ」
「やめて、お母さん!それよりお父さんはいるの?」

 伊藤さんが真っ赤になって母親を押し留め、話を逸らした。
 お母さん、ストレートすぎてあれですが、俺は結構やっかいな男ですよ?自分で言うのもあれだが、客観的に見てあんまり娘さんに相応しいとは思えません。
 まぁ普通に会社の同僚と思っていればOKでもおかしくないのか。
 流のように見るからに女性受けしそうな顔でもないけど、お母さん的には大丈夫なのか。

 今更ながら心臓が激しく脈打ってバクバクして来ていた。
 いや、待て俺、今日は別に娘さんをくださいとか、お付き合いさせてくださいとか言いに来た訳じゃないんだぞ。
 彼女のお父さんに聞きたい事があるだけだ。

 あ、でもこの状態でそれだけってむしろ失礼なんじゃ?

 急に不安になってきた。
 花束とか手土産とか何も買って来なかったけど良かったんだろうか。
 今更そんな事を思い付いて焦った。

「お父さんいるわよ。でもちょっとごきげんは悪いかもね」

 フフフと、伊藤さんによく似た笑い方をしたお母さんは「お茶を準備するわね~」と言って奥へと戻って行った。

 お父さんのごきげんは悪いんですか、そうですか。
 出なおした方が良いかな?

「あの、お父さんあんまり機嫌良くないらしいですけど、今度にします?」

 伊藤さんが不安そうに上目遣いに俺を窺う。

 いや、伊藤さん。
 おそらくきっと、俺が訪問した時に機嫌が良くなる事はあるまい。
 色んな事で揺れまくっていた俺の気持ちが、伊藤さんの不安そうな顔を見て定まった。

 先送りにして良い事は何もない。
 俺は伊藤さんに彼女を守る権利を貰ったのだ。
 ならばやるべきことはやらなければならない。

「お邪魔します」

 家の奥にまで届くようにそう宣言すると、俺は玄関に靴を脱いで上がった。
 別に脱いだ靴は乱れてはいなかったのだが、伊藤さんはやたら嬉しそうにその靴を整えて自分の靴と並べて置く。

 俺のでかい靴に触れるほっそりとしたその小さな指先が、なぜだか強く印象に残った。



[34743] 118:氷の下に眠る魚 その四
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2014/10/16 06:13
 どうしてもお父さんと二人だけでしなければならない話があると申し込んだら、伊藤さんには不安な顔をされたが、意外な事に当の父親は断らなかった。
 伊藤さんの母親の方は終始にこにこしているだけで彼女自身がどう思っているかは全く読み取れない。
 ある意味最強の人かもしれなかった。

 伊藤父が俺を誘ったのは、この家の地下にある、地上からは全く予想出来ない巨大な書庫だった。
 なんでも父親以外出入り禁止らしい。

 ええっと、もしかして密室殺人事件が発生するのかな?
 冗談半分、本気半分でそんな事を考える。
 
 元々彫りが深くいかつい西洋地域の顔立ちである伊藤父の巌のような顔が何かを決意したように引き締められていて、背中を見て歩いている時でさえ殺気を感じ取れた。
 実際、話の流れ次第ではどうなるか分からない危うさもある。
 しかし、伊藤さんと共に生きていく道を選ぶ以上は、これは避けられない試練でもあった。

 蛇をたたき起こす為にあえてヤブを突付かなくてはならない時もあるのだ。

「逃げずに付いてきたのは自信があるからか?だか、いかに力あるモノも不滅では有り得ないという事を理解しているか?力あるモノの傲慢さは隙でもあるのだよ」

 振り向いた伊藤父は、いや、元冒険者ジェームズは俺に向かってひんやりとした笑顔でそう言った。

 いきなり威嚇か?
 いくらなんでも娘さんの父親がその相手かも?と疑った男に向ける言葉じゃあないよな。
 やはり俺が二人きりで話したいと言った意味が理解っているという事だ。
 これで確信した。
 つまり「故意」に全てを仕組んでいたのだ。

「なんで逃げる必要があるんですか?俺は大切な人のお父さんに彼女の事で相談があるだけですよ」

 俺の言葉にブラウンの太い眉がぴくりと動く。
 真意を計るように俺を伺った彼は、ニヤリと笑った。

「まぁ良い。そこのテーブルに腰掛けたまえ、ここには茶ぐらいは出せる設備はある」
「おじゃまします」

 やたら分厚いドアを彼が閉めると、ロックの音が複雑に響く。
 魔術に依らない機械的な多重ロックだ。

 魔術にも機械にもそれぞれ利点と弱点があるが、機械的なロックはその構造が理解出来ないと魔術的にも物理的にも開く事が出来ない強みがある。
 防犯的には物理的なロックに遮蔽魔術を使うのが最強と言われている所以だ。

 視覚の暴力に近い作務衣姿のいかつい外国人である伊藤さんの父親、元冒険者ジェームズは、俺に大きめのがっしりとした天然一枚板のテーブルに備わった椅子を勧めると、自分は書斎の一角にある簡易キッチンに向かった。

 出される物に口を付けたくないなぁ。
 凄く。

 この地下の書庫は小さな図書館と言った方が良い規模だった。
 いや、本棚が周囲に立ち並んだシアタールームと言った感じか?
 壁の一画を広く開けて、埋め込みのスピーカーがあちこちに配置されている。
 正に理想の男の隠れ家的な場所だ。

 うん、伊藤さんのお父さんは本当に成功した冒険者なんだろうな。
 冒険者は長く続ける程生存率が下がる仕事だと言われている。
 最初の1年で半分に減り、5年で2割が削れ、その後は引退と死亡で1年毎に3割程が脱落する。

 多くの冒険者は生き残る為に徒党を組む。
 それがパーティとかギルドとか便宜上呼ばれているものだ。
 実は言われている程強固な繋がりではないと聞いているが、長生きしている冒険者程顔が広いのは間違いない。

 そして広く囁かれている事がある。

 5年生き延びた冒険者は強運、10年生き延びた冒険者は狡猾、20年生き延びた冒険者を詮索してはならない、なぜなら探れば消されるからだ。
 そんな言葉がまことしやかに囁かれている程に冒険者という存在は秘密主義である。

 手ずから淹れて貰ったコーヒーを前に、それに口を付ける事なく、俺は切り出した。

「伊藤さんは、貴方のお嬢さんは無能力者ブランクではありませんね」
「ほう?」

 ジェームズ氏は不思議な事を聞いたという風に俺を見た。

「彼女は義務教育を受けていない。家族が冒険者でその居住が定まらなかったから、いかにもな言い分ですね」
「ふむ」

 彼は尚もどこか訝しげに俺の顔を見ながら話を聞いている。
 恐ろしい程に他意が無い表情に見えた。
 俺に確信が無ければ自分の考えを疑った所だろう。

「だけど彼女に義務教育を受けさせなかった理由は別にあるのでしょう?大体の大きな国では学校に入る前に身体測定を行います。健康状態を調べるという理由もありますが、あれの大きな目的は能力者を初期の段階で保護する事にある。多くの異能は後天的に発現したりもするものなのでこの検査に引っかからない事もあります。ですが、とある能力は体質に依存するので間違いなくこの検査に引っ掛かってしまうでしょう」

 ジェームズ氏は無言だ。
 その表情からは内面の感情が全く伺えない。
 ただ、部屋の中にピリピリとした空気が張り詰めていくような感じがしていた。

「彼女は巫女シャーマンだ。そうですね」

 冒険者ジェームズはぴくりともしなかった。

「不思議な事を聞く。無能力者と巫女とは全く違うものだぞ。真逆と言って良い。どうしてそんな風に思い込んでしまったんだ?」

 思い込みか、本当にそうだったら良かったんだけど。

「真逆だからですよ。生まれつき波動が閉じているがゆえに外部の波動も自身の波動も互いに干渉する事のない無能力者。生まれつき自身の波動が外部の波動に干渉を受けやすいのでどんな波動をも飲み込める巫女の体質持ち。もし巫女の体質がどんな波動でも模倣出来るのならば閉じている状態の波動である無能力者も模倣出来るでしょう?後は簡単だ。刷り込みと一緒ですよ、無能力者を側に置いて、その人間と同じ体質だと思い込ませれば良い」
「面白い推測だな」
「面白くはありませんよ」

 面白いはずがない。
 どこの国でも巫女の体質持ちは貴重だ。
 あの正統教会ですら巫女を覚者と呼び利用している。

 国に庇護を求めるなら国民にはその才を国の為に使う義務がある。
 そんな考えを多くの国は持っているし、またそうでなければ怪異から全うな営みを守る力が足りなくなってしまうのだ。

 ほとんどの国で子供の頃の検査で巫女だと分かると隔離されて特別な教育を受ける。
 精霊や神と呼ばれる巨大な、人と敵対しない怪異は、人と違い過ぎて対話が出来ないものだが、巫女の中にこれらを降ろす事により意思疎通が出来るのだ。
 太古の昔より人間が自分達を守るために精霊や神を利用した裏には巫女の存在がある。

 分かっていて巫女を秘す事は、国家反逆罪に近い行為だと非難されてもおかしくはないのだ。

 ジェームズ氏の人差し指がぴくりと動く。
 何かを仕掛けようとしていると感じた俺は慌てて言葉を継いだ。

「俺は彼女を護りたい」

 ジェームズ氏は不審そうに俺を見た。

「何からだ?仮に娘が巫女の能力を持っていたとしても、幼少時に訓練を受けていないまま育ってしまっては巫女としてはもはや価値がない。今更欲する相手などいないだろう」
「なるほど、そう思ったから定住を決めたのですね。壁がある生活は安定して不安が少ない。無能力者として暮らすお嬢さんは不便な思いはするだろうけど大きな都市なら身体的な障害を持つ者に配慮がある都市設計をしているからそれほど嫌な思いはせずに暮らせますし」

 俺は溜息を吐いた。

「あなたは巫女を知らない。確かに二次性徴前に訓練をしなかった巫女は大きな力を操る事は出来ないでしょう。しかしその体質はどのようにでも利用出来るんです。国に保護された巫女はまず表に出ない。あなたが知らないのも無理はない」

 ジェームズ氏、いや、伊藤さんの父親は厳しい眼差しで俺をじっと見つめた。

「どういう事だ」

 俺もまた彼を睨むように見た。
 本人の意思を確認する事なく、その道を歪めてしまった父親。
 だからと言って国に保護される事が必ずしも正しい訳ではないが、それでも、選択の幅が狭まったとは言えるだろう。

 いや、生涯隠し通せたのならそれはそれで良かったのかもしれない。
 伊藤さんは何も知らないまま幸福に生きることも出来ただろう。
 この壁に護られた都市にあの野郎が降臨して迷宮なんぞを創らなければの話だが。

「巫女にはなれないが、器にはなれるという事ですよ。彼女は人の形をした水晶のようなものだ。彼女の中に活きたままの怪異を封じる事は可能なんです」



[34743] 119:氷の下に眠る魚 その五
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2014/10/23 06:37
 伊藤さんの父である元冒険者ジェームズ氏は明らかに人種の違う濃ゆい顔を歪めた。

「あの娘はな、俺達にとってかけがえのない存在だった。俺一人の娘というより俺たち仲間全員の娘のようなもんさ。だから、何かあれば仲間全員で護る。国が無体を働くようなら俺たちのフィールドに出てしまえば良い。未開発地域にまで追って来る程の価値でもあるまい」

 さすがは元冒険者だ。
 国から護られる安全をそれ程大きな物と思わないんだな。

「それは護る側の理屈でしょう。伊藤さんは、優香さんは違う意見かもしれない」

 う、彼女の名前を正面切って呼ぶと照れる。
 俺の言葉に、ジェームズ氏の殺気が膨らんだ。
 おおう!

「なに気軽にうちの娘のファーストネームを呼んでるんだ!くそこら!」

 何気に本日一番のお怒りが来た!
 そこの所、やっぱり父親なんだな。

「や、ええっと、待って、ちょっと落ち着いてください」
「順序が違わねぇか?ああん?」

 暴力を生業にする人ですか?あなたは。
 ああ、そうか、冒険者って基本そういうお仕事だよね。

「順序というと?」
「てめえの覚悟を語る前に娘の気持ちを語るんじゃねぇ!ってこったよ!」
「あ……」

 ああ、そうか、そうだよな。
 うん、駄目なのは俺の方だ。
 俺の気持ちを語る前に彼女が巫女だと言ってしまっては脅しと同じだ。
 ほんと、駄目だよな、俺。

「あ、あのでしゅね!」

 うお!緊張で舌が回らなかった。

「男がとちっても可愛くないぞ」
「いや、別に可愛さをアピールしたつもりじゃなくって、俺も緊張しているんですよ」
「どうだか。ふてぶてしい面構えしやがって」

 そうですね、俺の顔は怖いですよね。
 でも生まれつきなんで勘弁してください。

「ごほん」

 空咳をして仕切りなおす。
 ここは大事な所だ。
 落ち着け、俺。

「俺は伊藤さん、いえ、優香さんが好きです。生涯を共にしたいと思っています。だから、俺に彼女を護らせてください」

 ジェームズ氏の顔が更に怖くなり、額に青筋が浮いている。
 明らかにお怒りだ。
 しかも無言である。

 しばしお互いに無言の状態が続き苦しくなって来た。
 言うべき事を言い切ってしまった俺はひたすら待ちの姿勢だが、酷く息苦しい。
 今までどんな怪異を相手にしてもこれほどの恐怖を感じた事は無かった。
 そうか!これが恐怖か!

 伊藤父はおもむろに立ち上がると、入り口側にある小さめの書棚に近付いた。

 俺は無言でそれを目で追う。
 なに?家訓とかそういう何かか?

 伊藤父が分厚い書物を手前にひっぱると、その瞬間ドン!と重い重圧が体に掛かった。
 うおっ!?なんだ!

「ほう、さすがこの国の誇る勇者の血統。この封印術式でも意識があるんだな。まぁいい、しばしそこでおとなしくしていろ」

 え?なに?封印かよ!ってかあんた自分ちの地下になに造ってんだ!

 必死で身動ぎをしようとするも指一本持ち上がらない。
 まじもんの封印だった。
 ちょ、おい!

 伊藤父はそのまま地下室を後にした。
 振り返りもしない。

 え?もしかして俺、娘を危険に晒す敵として認識されて強制排除された?
 ずっとこのまんま?

 窮屈な状態で放置されたままどのくらいの時間が経過したのか、やがて上の階から誰かが降りて来た。

「木村さん!」

 あ、伊藤さんか。
 首も動かないんで良く見えないんだけど、どうせ封印されるなら毎日伊藤さんが来てくれるとかのご褒美があっても良いと思うんだ。
 などと俺がバカな事を考えている間に伊藤さんは俺に触り、生きている事を確認すると、なぜ俺が動けないのかの原因を探しまわった。

 うん、伊藤さん封印結界素通りなんだな。
 戦時中に無能力者ブランクが大活躍した理由が良く分かるね。
 まぁ伊藤さんは無能力者じゃないけどさ。

 やがて不自然に飛び出している本に気付いた伊藤さんはそれを押し込んだ。

「お、動ける」

 ナイスだ、伊藤さん。

「ごめんなさい。父がやったんでしょう?うちの父、時々とんでもない事をやらかすから」

 伊藤さんが深々と頭を下げて来た。
 いやいや、伊藤さんがここに来ている時点で本気じゃなかったんだろうから。
 そもそも伊藤さんが謝る筋合いじゃないしね。

「いや、娘を取られる父親としては正しいんじゃないかな?ちょっと過激だけど」
「えっ!」

 俺の言葉に伊藤さんの頬がたちまち真っ赤になる。
 この地下の照明のせいなのか全身がほのかにオレンジがかって見える中、浮かび上がる朱の色は夕焼けの色合いを思わせて凄く綺麗だった。

「じ、じゃあ、あの、木村さんは父に、その、言ってくださったんですか?」
「あ、うん。まだ正式じゃないけどね。本当はちゃんとご両親と伊藤さんが全員揃った所で言わないといけないんだけど、話の流れでそういう事になっちゃって」

 まぁよく考えれば確かに順序が逆だった。
 先に結婚を申し込んでから彼女の体質の相談をするべきだったんだ。
 俺も苦手な事を先送りしてしまっていたんだな。
 そりゃあ伊藤父も怒るわ。

 というか、俺の方はどうしよう?

 やばい、無意識に考える事を放棄していたけど、実家方面は絶対もめるよな。
 現代は昔と違ってうちの一族も国の法の保護下にある。
 婚姻の自由は認められているはずなんだが、理屈で全てが収まるなら争い事は起きないからな。

「あ、そう言えば、伊藤さん、お父さんはなんて?」

 伊藤父がなにを思って伊藤さんをここに寄越したのかが分かればそこが突破口になるかも。
 そう考えた俺は甘かった。

 伊藤さんは溜息を吐く。

「もう、父ったら、『邪魔者は排除したから安心しろ』とか言っちゃって。詳しく聞こうとしてもだんまりで」
「あ、はは……」

 これはそうとう嫌われたな。
 どうしたもんかな。
 いや、とりあえず結婚云々は後で良い。
 それは平和で幸せな悩みだしな。

 問題は伊藤さんの体質だ。
 俺が黙っていれば問題なく過ごせるようならそれで良いだろう。
 ジェームズ氏に釘を刺されるまでもない。
 俺は伊藤さんを誰かに利用させるつもりは毛頭ない、誰にも言ったりはしないと誓える。
 だが、それで済むとは到底思えない。
 俺に関わる以上、彼女がそれとは知らずに力を使ってしまう事が無いとは思えないからだ。

 俺のうぬぼれで済んでしまう話なら良い。
 だけど、伊藤さんは優しい人だ。
 俺の事だけじゃない。
 今の、迷宮都市となってしまったこの中央都市で、誰かが危険な目に遭っていたら、無意識に力を使ってしまうだろう。

 このまま放置する訳にはいかない。

「もう一回、お父さんと話すよ」
「大丈夫ですか?」
「うん、なんか話の主旨が上手く伝わってないだけだと思うんだ。その、ええっと……」

 今更だが、言いよどんでしまって俺は自分の唇を湿らせた。

「ご家族に結婚を、ああいや、お付き合いを正式に申し込むのはまた後日になってしまうと思うんだけど、その……ごめん」

 謝る。
 さっき期待させてこのざまだ。
 あっちもこっちも本人達以外の想いを解きほぐさなければ、お付き合いがどうとか結婚がどうとか進めるのは難しいだろう。
 だが、伊藤さんの体質はそれより先になんとかしてしまわなければならない問題だ。

「いいえ、急いでも良いことはありませんよ。うちの両親も木村さんの事をお祓い師みたいにしか思ってないと思うんです。誤解の上に信頼を積み上げる事は出来ません。それに、私も、実は不安なんです」
「え?」

 あ、俺はまたしてもうっかりしていた事に気付く。
 そうだ、伊藤さんだって不安なんだ。
 当たり前だよな。

「木村さんのご家族に妹さんと弟さんがいらっしゃる事は知っていますけど。他のご家族や故郷の事とか、なにも知らないのに知ってるつもりで木村さんと一緒に歩いて行こうとかおこがましいでしょう?もっとちゃんとしないと駄目だなぁって反省しています」
「う」

 俺は思わず伊藤さんを抱き締めていた。
 やっぱり凄いな伊藤さんは。
 俺なんかよりずっと大きな物が見えているんだ。

「きゃっ、あの、あ」

 しかし、柔らかくて暖かいな。
 女の子ってみんなこんな感じなのか?それとも実はやっぱり伊藤さんが特別なのか?

 ふわっと香るのは石鹸と何かの花の香りと土の匂い。

 今まで庭にいたのかな?

「『永遠の牢獄』という術があるのを知っているか?特に危険な怪異に対して使う術でなぁ、解呪の法がないんだ」

 背後で低い声がまるで呪いの言葉のように呟かれた。
 
「うわあ!さ、さすが元腕利き冒険者ですね。気配が全くありませんでした」

 慌てて伊藤さんを離すと、氷のような目をした殺戮者がそこにいた。
 怖い!

「お父さん!酷いじゃない!木村さんは怪異じゃないんだから、変な仕掛けを試さないで!」

 伊藤さんがかなり本気で怒っている。

「大体、私達家族は木村さんに助けていただいたのよ!いわば命の恩人だわ!それなのにこんな酷い事をするなんて!」

 おおお、怒った伊藤さんは結構怖いぞ。

「は、それとこれとは別の話だ。敵に情けを掛けて命を落とすのは馬鹿のする事だと教えたはずだぞ」
「木村さんは敵じゃないでしょ!」

 やばい、親子喧嘩が始まってしまう。

「二人共落ち着いて、上から良い匂いがしていますよ?」

 実際いい匂いがして来ていた。
 何かの焼き菓子かな?
 それと香りの強いハーブティか。

「あ、そうなんです。あんまり甘くない方が良いと思ってチーズとハーブのスコーンを焼いてみたんですよ。ハーブティも日頃の疲れを取る効果がある物を使っているんです」
「へぇ」

 正直ハーブの効能とか手間の掛かるお菓子とかは良くわからないので伊藤さんに任せるしかない。
 何にせよ俺の事を考えて作ってくれたと思えば嬉しいだけだ。

 伊藤さんは俺を引っ張って階段を上りながら自分の父親に向かって舌を出して子供のようなしかめっ面を作って見せた。

 可愛いなぁ。

 そう思ってにやけた俺に、獰猛な獣のような殺気が向けられたのだった。



[34743] 120:氷の下に眠る魚 その六
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2014/10/30 05:49
 一年の最後の月には様々な儀式イベントがある。
 特ににぎやかなのが12月24日のクリスマスイブだ。

 古来、冬は一年で最も闇が深い季節で、放置していると弱い者から命を取られると言われて来た。
 世界的に見れば季節の変化の乏しい所や逆にこの時期夏に向かう場所すらあるらしいが、それでも年の切り替わりは魔が差す時期らしい。
 元々我が国を始め世界各国に年越しのイベントはそれぞれあった。
 国々の交流が深くなり、カレンダーが統一されるにつれ、それら互いのイベントのすり合わせが行われる事となったのは、まぁ自然な流れだろう。

 なぜなら、世界中で同じ認識でイベントを行った方がより強力な効果が得られるからだ。
 この辺りの事を主体的に行ったのが唯一教ピアレスの正統教会だった。
 なにしろ人々の統一意識について最も研究しているのがこの組織なのだから当然と言えば当然だろう。

 そして現在カレンダーに堂々と載っているのが12月25日のクリスマスの日だ。
 クリスマスというのは救世主メシアを呼ぶ儀式という意味であり、当日、人々はそれぞれの救済の物語を語らい、家族で贈り物をし合う。
 そうやって静かに過ごす事になっているのがクリスマス当日なのだが、その前夜に当たるイブには救世主の訪れを喜ぶパーティがあちこちで行われるのが慣例だ。

 なぜなら魔術的には一日は日が落ちた時間から次の日が落ちるまでという認識であり、その考えから行くと25日の前夜である24日の夜は既にクリスマス当日という事になり、イベントの始まりを意味する。

 ややこしいな。

 つまりクリスマスイブとは家族以外の親しい者達と幸福を分かち合う夜なのだ。

 今はそのクリスマスイブであり、俺は伊藤さんと約束をしていた。
 二人で食事をして、家でプレゼントを交換するという、ものすごく恋人同士らしいイベントだ。

 先日、伊藤さんの家にお伺いして正式なお付き合いを申し出た訳なのだが、なんというか、グダグダになってしまった。
 彼女の父親であるジェームズ氏が話を聞かずに席を立ってしまったからだ。
 伊藤さんのお母さんの話によると、それでも脈のある態度なのだそうである。
 本当だろうか?

 何しろ俺は伊藤さんの能力の件でお父さんと揉めてしまったからな。
 良く言われるように二兎を追っても上手くはいかないのは当然、今はお付き合いの進展よりも彼女の能力が彼女自身に悪い運命を呼び込まない方法を探す方に注力すべきだろう。

 と、頭では殊勝な事を考えていても、心というのはままならないものだ。
 いつもよりオシャレをして来た彼女の姿を見て、テンションが上がってしまっているのを感じる。
 つまり舞い上がりつつあるのだ。
 駄目だろ、俺。

「そういえば新しいプロジェクトの話は聞いた?」

 熱を冷ます為とはいえ、俺はよりにもよって仕事の話を始めてしまった。

「あ、年明け一番に開始するという真空保存容器の開発ですね」
「なんでもあえて状態維持の術式を使わないやり方を模索するとか」
「現在は状態維持の術式というか、象徴を刻んで状態の変化をゆっくりとしているんですよね。魔法陣は日用品には使えませんから」
「そうそう、でもお客様からのご要望で、料理によってはあえて時間を経過させた方が美味しくなる物もあるとかで」
「スープとか煮物とかはそうですね」
「でも温度変化は少ない方が良いとか」
「それはそうですね」

 ダメだ、この話題はいくらなんでも色気が無さ過ぎる。
 いや、色気が欲しい訳じゃないんだけどね。

 ……うそです。
 色気は欲しいです。

「木村さん、さっきから百面相をしていますよ?私、もしかして困らせてます?」
「い、いや、違うから、そういうんじゃないから」

 俺の様子がおかしい事に不安を感じたのか、伊藤さんは困ったような顔で俺を見る。
 俺は慌ててそれを否定した。

「こ、こういうの、慣れてないからさ」

 男が赤くなっても情けないだけだな。
 いっそテーブルに突っ伏したい。
 デザートと飲み物を待っている時間は本当に間が持たない。

 伊藤さんはクスリと笑うと、「私ちょっとお手洗いに行ってきますね」と席を外した。
 おおう、気を使わせてしまった。

「俺は何やってんだ、全く」

「女性のエスコートは気取らず自然体でやるのが一番だぜ」

 聞こえた声に一瞬で鳥肌が立つ。
 反射的に顔を向けると、シャンパングラスを手にした野郎がそこにいた。

「てめぇ、何やってんだ」
「何ってパーティを楽しんでるのさ。全く人間は楽しいよな。こんな細かい工夫で身を護ろうとする健気さが素晴らしい」

 野郎、終天は抜け抜けとそう言ってのけた。

「このレストランは立食パーティ中じゃねえぞ。行儀が悪いな」
「誰にも気付かれないんだから別に良いだろ?」

 今ここでやりあう訳にはいかない。
 巻き込まれる人が多すぎるし、もしこいつが本気を出したら被害がどのぐらいになるか分からないのだ。
 下手すると都市自体が吹っ飛ぶ恐れすらある。
 俺は沸き起こる怒りをねじ伏せると、野郎を睨みながら周囲を伺った。

 周りの客も従業員も、終天に気付いた風もなかった。
 いや、こっちに注意を向けもしない。

「人避けしてまで何の用事だ?迷宮(いえ)はどうした?空き巣が入ってるんじゃねえか?」
「冒険者というのは以外と迷信深い者が多くてな。今日は数組程度しか訪れてないな。二桁目のフロアからは位相をずらしてより多くの挑戦者を受け入れるようにしてみたんだが、これが好評でな。最近は大賑わいだったんだぜ?」
「へぇ」

 その話は聞いていた。
 なんでも序盤は人数制限があった迷宮は、深くなる程にパーティの許容量を増やしていったらしい。
 しかし一度に入れる人数が増えると、今度は内部で冒険者同士の争いが頻発した。
 酒匂さん達はかなり頭の痛い思いをしたようだった。

 それが二桁のエリアに入ったら、今度はいつでも何人でも入れるのだが、内部でお互いに遭遇しない仕様になった。
 争いが無くなったのは良いが、これは逆に言えば多くのパーティで協力しての攻略が不可能になったという事でもある。
 良いことばかりでは無いのだ。

 未だに俺はこいつが何を考えているのかが分からない。
 単にお遊びで楽しんでいるだけなら良い。
 いや、良くはないが、そこには裏がないという事だから真正面から挑戦して得られる物がある現状は人類的には決して悪くはないのだ。

 だが、こいつはそんな単純な野郎ではない。

「そんなに警戒しなくとも、俺は滅ぼすとか滅ぼされるとか頭のわりぃ事あ嫌いでな。やる気もやらせる気もねえよ」
「じゃあ何を考えているんだ」
「理解れよ、家族だろ?」
「ねえよ!」

 ガタンと、立ち上がった俺を周囲の客が何事かと見る。
 既に終天の姿はない。
 くそが。

 俺は周囲に頭を下げると再び座った。
 あの野郎のおかげで舞い上がった気持ちは地よりも深く沈んでしまった。
 てめぇの趣味なんか関係ない。
 さっさと滅びちまえ。

「何かありました?」

 ふと気付くと伊藤さんが心配そうに俺を覗き込んでいた。
 伊藤さんが戻って来た気配に気付け無いとは、ほんと、俺も修行が足りないな。
 まぁ今やまともな修行なんぞしていない現状だけどな。

「いや、嫌いな知人に会ってしまっただけです。せっかくの夜を台無しにしやがって」

 俺の悪態に、伊藤さんは怯むどころかちょっと微笑まし気に笑う。

「でも、さっきまでのぎこちない感じが抜けていつもの感じに戻ってますよ。私はその方が気が楽で良いです」
「ええっ?」

 伊藤さんの言葉に毒気を抜かれた体で脱力する。
 いたずらっぽく笑う伊藤さんがまるで子供のようで、俺はさっきの苛立ちを忘れて一緒にクスクスと笑い出していた。

 こんな夜にあんな野郎の事を考えるのはもったいないよな。
 今はともかく彼女と過ごす時間の事を考えるべきだろう。

 先の事は進みながら考える。
 俺は器用じゃないから事前に色々と考えてそれを実現していく事なんて出来やしないんだ。
 俺は俺らしくやっていくしかない。

 仕事の事も、終天の野郎も、まぁ今はいいや。

 運ばれて来たスパークリングワインのグラスを互いに触れ合わせると小さく透き通った音が響いた。
 料理の締めに白のスパークリングワインってどうなのかな?俺はすっきりするから好きなんだけどな。
 でも、小さいケーキが出て来るならコーヒーの方が良かったかもしれない。

「呼ばれた救世主が困惑するぐらい幸せになれると良いですね」
「え?」

 何気なく伊藤さんが言った言葉を不思議に思って聞き返す。

「だってクリスマスって救世主の訪れを祈る日なんでしょう?私達が幸せで別に困っていなかったら救世主も困惑するでしょ?やる事がないって、呆れて、そして一緒に平和に暮らすんです」
「斬新な願いですね」
「だって、物語の最後はめでたしめでたしが定番じゃないですか。それなら最初から平和な方が良いと思うんです」
「始まる前に終わっているんですね」
「やっぱり変ですか?」

 伊藤さんはむうっと口を尖らせた。
 可愛い。

「いえ、俺もそんな世界で生きてみたいと思いますよ」

 願いは純粋な力だ。
 彼女の小さな願いは、世界の中へ小さなきらめく力を注ぐだろう。

 俺たちは連れ立って家路を辿り、聖なる夜は静かに深まっていった。



[34743] 121:氷の下に眠る魚 その七
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2014/11/06 09:39
 年末、年の瀬から遡って1週間、25日からは人々は新しい年を迎える為の準備に入る。
 その為、仕事の内容も整理と挨拶回り、忘年会にチェンジし、27日には一般的な仕事は全てお休みになるのだ。
 故郷が遠い者はそこから帰郷して年末年始に備える。

 長期間の食材の入手と保管、大掃除や餅つきと、やる事は多い。
 なにしろ年明けの三ヶ日、特に元旦は働いてはいけない日だ。
 世の理を司る神々に対する禊、欲を忘れて生まれたての赤子のように新しい目で世界を受け入れるのがこの日なのである。

 なので普通は年の瀬から正月三ヶ日は一族の当主や一家の長の元、何らかのその家独自の行事を行う事になる。

 26日で年内の営業が終わり、会社を出て駅に向かう道中で伊藤さんが白い息を吐きながら俺を見上げた。

「木村さんは故郷に帰郷なされるんですか?」
「あーまぁ、そんな感じかな」

 実は実家とは絶縁状態であるとは言えない。
 それに、俺には年末年始の長い休みを利用してやりたい事があった。

「そうですか。我が家は今年は凍える大地に行くとかで、今から寒そうで心配なんですよ。あ、あっちには良質の水精があるらしいのでお土産にしましょうか?」
「え?凍える大地ですか?」

 凍える大地とは北極近くにある人類最北の村と呼ばれている場所だ。
 なんでも一年中大地が凍っていてほとんど草木が生えないとか聞いた事がある。
 強大な北の海魔に対する防衛ラインでもあるらしい。

 そんな危ない所に行って大丈夫なのか?
 俺は心配のあまりそれを顔に出していたのだろう。
 伊藤さんは俺の顔を見て安心させるように笑った。

「危ない事をする訳じゃないんです。お祭りがあってそれに父が参加するだけで」
「お父さんですか」

 元冒険者だけあって、あちこちに知り合いがいるんだろうな。

「氷山を削ってその年の運勢を占うお祭りなんです。炎と氷の祭典って時々テレビジョンでも紹介されているんですよ」
「へぇ」

 正直想像がつかない。
 あまりテレビジョンを真剣に観ないのも手伝って、俺の見識はそう広くはないのだ。
 雪山なら登った事があるんだがな。

 伊藤さんがお土産にと言った水精というのは、精霊の宿る水晶の事で、俺達の使う水晶封印のように人間が封印するのではなく、自然な状態で精霊が宿った物の事を指す。
 状態が安定していないし、基本的にごく弱いエネルギーしかないので触媒としてはあまり価値がないのだが、ちょっとした占いや、精霊との交信、植物などの育成に対しては人工物などよりずっと相性が良いので巫女シャーマンやフェアリードクターなどには人気があった。

 もっと一般的な話になると、見た目が綺麗という事がある。
 本来は六角柱である結晶体がまるで花が開いたように六方に広がって、丁度雪の結晶に似た形となっているのだ。
 古来から御守として女子供に好まれるのもこの形ゆえである。

 この水精は自然物であるがゆえに数が多くなく、生産地の多くはその地域のみで消費していて、外国に輸出する事は殆ど無い。
 日本でもどこかの湖でほんの僅か採れると聞いた事があった。

「でも場所が場所だから、危ないと思ったら近付かないようにして欲しい」

 俺の言葉に伊藤さんはちょっと驚いたように目を瞬かせると、嬉しそうに笑ってぺこりとお辞儀をした。

「はい。ご心配ありがとうございます」

 もしかしたら伊藤さんの父親であるジェームズ氏はこの機会に伊藤さんを国外に連れ出してそのまま帰らない気ではないか?と不安がなくもない。
 俺を信じるいわれは彼には無いし、むしろ今まで隠し通した事を思えば用心のためにそのぐらい当然であるとも言えた。

 本当にそうなったら俺はどうするのだろう?

 未だ手を繋ぐ時におずおずと恥ずかしそうにする伊藤さんをそっと見つめる。
 お互いに手袋をしているので素肌が触れる事はないが、それでも手の中にほんのりとした体温を感じると、今まで知らなかった小さな幸福を実感出来た。

「帰って来なかったら迎えに行くから」

 俺は思わずそう言って、自分の言葉に照れてしまった。
 何言ってるんだか、俺は。

「……はい!」

 伊藤さんがそんな俺の顔をじっと見て、ちょっと照れたように、しかし元気よく返事をした。
 びゅうと吹く北風がお互いの頬を赤くしていたのか、火照ったような互いの顔を見合わせながら、俺達は互いに照れ笑いを交わしたのだった。






 列車が結界石の敷き詰められた線路の上を進む。
 ぎゅうぎゅう詰めだった列車も、いくつかの大きな都市部を過ぎると人がまばらになる。
 それを狙ったかのように携帯が震えた。

 いや、実は家にいた時から数えるともう10回はこの携帯が震えているのは知っていた。
 でも仕事の連絡ではないのは理解っている。
 仕事ならハンター証を使うだろう。

 俺は携帯に表示された弟の名を見ながら、仕方なく列車の最後尾の展望デッキへと移動した。
 このなま寒い上にそれなりのスピードで走る列車で展望デッキに敢えて出ようと思う人間は俺だけだったらしい。
 そこに人影はなかった。

「やあ」
『やあ、じゃないでしょう。電話に出るぐらい出来ないんですか?』
「人がぎゅうぎゅう詰めだったからな」
『列車で帰省するつもりですか?』
「いや、俺は家に帰るつもりはないぞ」
『……』
「去年帰ったらだまし討ちに遭った」
『成人の儀でしょう?僕はとっくの昔にやりましたよ』
「お前がいるんだから家は良いだろ」
『子供ですか、まったく』

 弟はどうも俺を我儘放題の手の掛かる子供だと思っているらしい。
 まぁ客観的に見ればそうなんだろうな。
 俺も自分を他人の視線で見たらムカつくと思うし。

『仕事には復帰したんです。意地を張るのももういい加減にしましょうよ。そろそろ家長として、いえ、族長として学ばなければならない事があるでしょうに』
「お前、ブレない奴だよな」
『ブレブレの兄さんからすればそうなんでしょうね。僕はごく普通ですよ』

 俺は溜息を吐いた。
 周囲の景色は真っ白で、眩しいぐらいだ。

「俺には無理だよ。自分の事で精一杯だ。とても一族を率いる器じゃない。それはお前が一番よく知っているんじゃないのか」

 俺の言葉に浩二が黙る。
 機械と電波という霊的な物の何もない通信だが、その向こうで怒りに震えるあいつの姿が見えるようだった。

『由美子はずっと兄さんを信じていますよ。今もずっとね』

 プツリと通信が途切れる。
 俺はもう一度溜息と吐いた。

「俺が悪いのはとっくにわかってるんだよ。でもな……」

 どうしても諦められなかった。
 パタパタと空に羽ばたく魔法でもなんでもない小さな手作りの飛行機。
 ただの凹凸があるだけの小さな金属の筒を回して奏でる優しい音楽。

 知らなかったその世界は俺を魅了して離さなかった。
 ただただ憎しみに引きずられるように魔物を倒す世界とそれらの小さく優しい世界とは相容れない。

「まぁ我儘なのは間違いないよな。言い訳できねぇや」

 空に巻き上げられる白い雪のカケラ。
 こんなブレブレの奴に誰かを幸せにする資格があるのだろうか?
 そう考えると気持ちが重くなる。

 列車は魔除けの汽笛を鳴らし、北に向けて走り続けた。



[34743] 122:氷の下に眠る魚 その八
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2014/11/13 09:58
 無人駅で列車を降りる。
 この辺りは古来からの塚囲みによって結界を形成している地域で、人里と言えど怪異がうろうろしている。
 害意があるモノは基本的に守護者が弾くが、内部で発生したモノについては守護者と言えどどうにも出来ない。
 それには人間自身が対応するしかないのだ。
 その為人里には必ず例え簡易であろうと社があり、宮司と狩人と巫女がいるのが通常となっている。

 昔ながらのやり方で成り立っている形の山里は、まるで時が止まっているように感じてしまう。
 電気を通す為の電線や車を走らせる為の標識が無ければ今がいつの時代かさえ分からなくなるような場所なのだ。

 俺は本当に久々の濃厚な精霊の気に少々酔いそうになりながら山道を辿った。
 俺がこの地に来たのには理由がある。

 巫女と精霊が強く結びついた末に精霊の方が巫女の影響を受けてしまったのがここの守護者だからだ。
 巫女が精霊の影響で魂を失う事は多々あれど、巫女の影響で人のような衣を纏う事となる事はあまりない。
 もちろん人間の目前に人のような姿で現れる精霊はいるが、それは一時の仮の姿で本体はその源となる自然の形を投影した姿だ。
 河川なら蛇や竜、山なら猪や岩亀のような自らに近い形を取る事が多い。

 しかし、ここの守護者である水神は歴代の巫女の姿を混ぜあわせたような少女の姿となった。
 それだけ永い間、この地で人と精霊が結びついていた証でもあるのだろう。

 雪が残る山道を歩いて行くと、やがて雪溜まりで遊んでいる子供たちに遭遇した。
 僻地は過疎化高齢化が進んでいると聞いていたがまだ子供がいるんだなと俺は変な感慨を覚える。

「あ、君たち」
「きゃああああ!」
「わあっ!」

 ちょっと声を掛けただけで子供たちに逃げられてしまった。
 傷付くんだが……。

 とは言え、遠くに逃げる訳でもなく物陰からこちらを覗っている。
 どうやら気の利く子は一人どこかへ知らせに走ったらしい。

「あー、お兄さんは悪い人じゃないぞ」
「うそだ!」

 野郎、即断しやがった。
 子供たちの中でも年長そうな少年がこちらを睨みながら決めつける。

「お前魔物だろう!」

 おいおいやめてくれよ、マジでブロークンハートだぜ。
 いっそ脅かしながら追い掛け回してやろうかとも思ったが、いくらなんでも大人気無いと思いとどまった。

 しばし睨み合いに陥っていると、村の道の奥からいかにも農家の男といった日に焼けたゴツゴツとした体格の大人の男性が現れた。
 どうやら先に村に駆け込んだ子供の一人が呼んできたようだ。

「こんにちは、おんやまぁ、お客人ですか?辺鄙な村へようこそおいでですな」
「あ、はい、こんにちは。社に用がありまして」
「はて?祭りは先々月に終わりましたが?」
「あ、いえ、お祭りの手伝いじゃないんです」

 さすがは大人だ、ちゃんと会話が成立したぜ。
 その人がそっと左手で魔除けの印を切ったのは見なかった事にした。

 その後至極穏やかに、なんとなく用心されながら俺は社へと案内されて到着した。
 途中誰にも出くわさなかったのは寒いから誰も外に出なかったからだろう。

 俺怪しくないから、見た目が怖いだけだから!

 心の中でそんな理不尽に対して文句を言っていた俺だが、案内された社を守護する宮司さんがすぐに現れてくれたのでさすがに慌てて居住まいを正した。

 ここに以前来たのはかなり昔の事だが、変わってないなこの人。

「こんにちは、お久しぶりです。ご健勝そうでなによりです」
「こんにちは。しかし神無月でもないのに護法の御子がおいでになるとはお珍しいですな」
「いや、俺は今は本家からは離れて一般人ですから。それにしても村の人たちがえらく警戒していますね」
「ああ、以前お見えになった時の事を覚えておられますか?」
「以前?」

 俺は記憶を辿る。
 ここに以前来たのはまだ学生の頃、具体的に言えば高校生の頃だ。
 村の中で呪が使われたとかで怪異が異常発生し、老人の何人かが生き腐れの状態になってしまっていた。
 汚染を始末した後、仕方なくその老人達の患部を切除する手配をする事となってしまった。
 仕事はきちんとやったとは言え、苦い思い出の一つだ。

 とは言え、怪異が人に牙を剥いた場合犠牲が出ない事の方が珍しい。
 その被害を出来るだけ減らすのが俺たちの仕事でもあった。

「どうやらあの時の事が村人に畏れとして残ってしまったようなのですよ。だからあなた自身を覚えてなくとも外部の人間に敏感になってしまったのです」
「そうだったんですか」

 昔の事とは言え、宮司の言葉は重かった。
 呪は身内から放たれたとは言え、見知らぬ者達がやって来て最終的に知人や身内が傷付いたのだ、彼らからすれば分かりやすく見知らぬ者達に原因を求めるのは当然だったのかもしれない。
 むしろその方が小さなコミュニティでは禍根が残らずに済むに違いなかった。

「それは確かに仕方ないですね」

 宮司さんは少し驚いたように俺を見ると、微笑んで言葉を継いだ。

「まぁしかし、そのような思い込みは時間が解決してくれるでしょう。このような里でも外部からの来客は無いわけではないのです。いつまでも外に怯えてばかりではありません。人は忘れる生き物ですからね」
「ありがとうございます」

 慰めてくれているのだと感じて礼を言った俺に、宮司さんは溜息を吐く。

「ここは本来は貴方は怒って良いのだと思いますけどね。なにしろ苦労して彼らを救ったのですから」
「え?でも、救いきれなかったから傷付いた人がいたんでしょう?それを責められるのは仕方のない事ですよ」

 俺の言葉に宮司さんは困ったように笑った。
 ああ、この人は優しい人なんだなと感じた。
 彼に限らず、神職の人にはこういった懐の深い人が多い。
 若いころに厳しい修行をするという事なので、そのせいなのかもしれなかった。

「ところで今回はいかようなご用件で?」
「あ、はい。守護者ヌシ樣にお会いしたいのですが、叶いますか?」
「ヌシ樣ですか?この時期はお眠りになっていらっしゃる事が多いですよ?」
「夢渡でもかまいませんが」
「ふむ、巫女殿にお尋ねしましょう」

 俺の体がびくりと緊張する。
 やはりここにはまだ巫女がいるのだ。
 次代の巫女が見付かったのか、未だ昔の巫女がそのまま続いているのか分からないが、俺は元々巫女に会うのは苦手である。
 それが伊藤さんの事があって、更にその気持が高まってしまっていた。
 しかし、今だからこそ俺は直視しなければいけない。

 その女性は、全く気配を感じさせずに現れた。
 年齢は高齢であるという事以外分からない。
 家族からは引き離され、本人はもう自分の誕生日すら覚えていないのだ。

 瞬きしない瞳を世話係が瞬きさせて目薬を差すという。
 口にするのは液状の食事のみ。
 それも肉類は一切摂取しない。

 人としての存在が希薄な彼女は、まるで中身のない空洞の人形のように動き、座った。
 やがてその器がゆっくりと満ちる。

「よくいらした、護法の御子よ」

 老女の口から出るとは思えない澄んだ柔らかい声音。
 それがこの地の守護者、滝の精霊おとめであった。



[34743] 123:氷の下に眠る魚 その九
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2014/11/20 12:22
「お久しぶりです」
普請ふしんか?」

 精霊はそう直截に尋ねてきた。
 巫女というフィルター、翻訳者を通していても迂遠な会話は苦手なのだ。

「いえ、本日は私用でまいりました。御座所に訪ってもよろしいでしょうか?」

 本来精霊のおわす所は神域であり、許可無く立ち入りは出来ない。
 入ろうとしても立ち入れないのだ。
 なので入るには許可を取る必要があった。

 ちょっと宮司さんが渋い顔をしている。
 何しろ季節的に水神様は微睡みにある時期だ。
 余計な事に煩わせたくないのだろう。

「すぐおいとましますので」
 
 滝の乙女にというより、宮司さんに向けてそう断りを入れておく。
 宮司さんの方も別に止めるつもりではなかったのだろうが、俺の言葉にいかにも仕方ないという感じに肩をすくめた。

「よい。そなたは場を騒がせぬ。好きにするがよい」

 あっさりと許可をもらう。
 と言ってもそれは別に特別な事ではない。
 精霊というものは元々寛大なものが多い。
 それ自身もまた気ままで、時折酷い災害を引き起こしたりもするが、人間側もそこは承知していて精霊を恨んだりはしない。
 それ以上の恩恵を人は精霊から受けているし、また精霊の方も人の信仰心によって存在を強化出来る。
 実のところ人間とその崇める精霊との間はきわめてフランクなものである事が多いのだ。

 許可をいただいたという事で宮司さんにお神酒を一口いただき、御札を渡された。
 これは結界の鍵のような役割を持っている。
 と言っても、人間の考える鍵とは違い、あてがえば必ず開くというものではなく、もっと曖昧な作用しかない。
 うん、どっちかというと名刺に似てるかな?
 身分証明のようなもんか。


 ほとんど整備されていない山道を往く。
 お堂がある表の参拝所と違って、御座所には道を設けてはいけない決まりがある。
 なのでそのほとんどは厳しい自然の地形に囲まれていた。
 参道脇のしめ縄で張られた結界を超えて道無き道を歩き通し、山奥深く分け入る。
 神域は空気がぴんと張り詰めていて時折鳴き交わす鳥の声が聞こえるのみだ。
 木々の葉が擦れる音すらない。
 神威が衣のように土地を覆っているのだ。

 やがて急流の流れる沢が現れ、ほとんど落ちるようにその大岩の転がる場所へと降り立つ。
 ここまで来ると滝の水音が耳に入ってくる。
 今の時期はその音はごく小さい。
 半分ぐらい凍っているのだろう。

「して何用じゃ?」

 滝壺に辿り着いた俺の目前に予告なく白い着物の少女が現れてそう聞いた。
 白髪に濡れた石の色の瞳、年の頃は10才に満たないだろう。
 一つだけ色鮮やかな手毬を手にしている。
 お供え物なのだろうな。

「お休みの所お騒がせして申し訳ありません。少し、巫女様方とお話しをさせていただいてもよろしいですか?」

 俺の必要としていたのは、まさしくこれだった。
 この滝の乙女は代々の巫女の記憶を自らの内に記録しているのだ。
 ここまで巫女と精霊の結びつきの強い場所はあまりない。

「ん、虐めてはならんぞ?」

 滝の乙女はこれまでの会話で初めて感情らしき物を示した。
 不安そうな顔だ。

「子供を虐めたりはしないですよ」

 本心だ。
 彼女は安心したようににこりと笑って手毬をぽーんと宙に放り投げた。

 途端に周囲にそれまでなかった気配が満ちる。
 笑い声、はしゃぐような声、子供独特の夢中で遊んでいる時の賑わいが溢れた。

 おかっぱ頭の綺麗な晴れ着を着た少女、髪を小さなお団子に結いあげてそこにかんざしを一つさしている子、絣の着物を着て河原で石積みをしている子もいる。
 この子はきっと巫女の資質を持っていながら水害で亡くなった子供だろう。

 俺は手近にいた少女に声を掛けた。

「ここは楽しいかい?」
「うん、お友達もいっぱいいるよ」
「そうか」

 少女ははにかんだように笑うとバシャバシャと水の飛沫を飛ばして駆け去っていく。

「おじさん遊んでくれるの?」

 気付くと別の少女に服の裾をひっぱられていた。

「あーいや、浦島太郎になる訳にもいかないからちょっと遠慮するよ。お友達と遊んでおいで」
「ふーん」

 キャッキャと笑いながら去った少女は他の子と合流するとこちらを見ながらさざめくように笑い合う。
 まるで生きているように振舞っているが、これらは全て滝の乙女の記憶にすぎない。
 彼女の魂のカケラなのだ。

「小さい子だけなんだな」

 我が国では巫女は終身だ。
 他所では第二次性徴を過ぎた巫女はお役御免になる国もあるようだが、集落ごと、土地ごとに多くの精霊を頂き、それらが暮らしが密接に関係しているこの国では巫女は常に不足していた。
 感受性が下がったからと交代という訳にはいかないのだ。
 そしてそれは大きな弊害をもたらした。

「みんな大きくなると容れ物だけになって遊んでくれなくなるから。どうしてだろう?」

 精霊の少女は寂しげに呟いた。

 それこそが人である巫女の限界だった。
 柔軟性を失い、尚も精霊を降ろし続ける巫女の魂は摩耗する。
 飲み込む事の出来ない巨大な精霊の魂は柔らかい人の魂を押し潰してしまうのだ。
 そもそも器に固執する必要のない精霊には、それはどうしても理解出来ない事だった。
 それでも彼女はこの大好きだった頃の幻をいつまでも大切に守っているのだ。

 そう、この国の民は、自分達の暮らしを守る為、永く巫女を犠牲にし続けて来たのである。

 チリチリと小さな鈴の音が一人の少女のぽっくりから聞こえていた。
 彼女達の服装や装身具は、その両親が我が子ではなくなる娘の為に精一杯工面して用立てる。
 巫女となった瞬間からその子はもう鬼籍に入ったという扱いになった。

 多くの者達が払った犠牲の元にこの国は成り立っていると言えるだろう。

 俺はその事を今までは当たり前の事として受け止めていただけだった。
 だが、ようやく、その家族たちの痛みが分かる。

 俺は、伊藤さんが巫女として開眼した時の事が恐ろしい。
 怪異を受け入れるという事は自らの魂を危険に晒す事だ。
 誰だって自分の大切な相手がゆっくりと壊れていくのを見たい訳がない。

「俺は、やっぱり足りない事ばっかりだ」

 滝の乙女はしばらく不思議そうに俺を見ていたが、やがて俺に小さな白い花を差し出した。

「ほら、これ。冬に咲く花。綺麗だから元気になれ」

 この精霊が人のように振る舞うのは彼女達の犠牲の積み重ねの果てに成った事だ。
 しかし、この乙女が悪い訳ではない。
 
「ありがとう」

 俺はそう言ってその花を受け取った。

「今日はお客様が多い日じゃ。眠るのは退屈だから少し嬉しい」
「お客?」

 あれから誰か来たのだろうか。
 乙女の見る方向に視線を向ける。

「ほんにつれない男よな」

 そこにいたのは鮮やかな赤い着物を纏った妖艶な女性、いや、女性の姿をした怪異、清姫だった。 



[34743] 124:氷の下に眠る魚 その十
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2014/11/27 09:33
「てめぇどうやって結界内に潜り込んだ?」

 ぎょっとした俺は油断なく身構えながら足場を探る。
 完全武装には程遠く、今の手持ちはいつものナイフぐらいだ。
 どう考えてもこの名有りの怪異ネームドモンスターである清姫と戦える状態ではない。
 しかし、人間に害意を持つ怪異は守護者の結界に弾かれるはずだ。
 こいつどうやって入り込んだんだ?
 しかも当の守護者の目前に出て来るとは。

 そこまで考えて俺はこの地の守護者である滝の乙女に視線を向けた。
 彼女は俺の焦りを全く知らぬげに柔らかく微笑みを浮かべて俺たちを眺めている。
 どういう事だ?

「潜り込んだとはとんだ言いがかりですね、愛しいお方。私はきちんと筋を通して来訪させていただいただけの話ですわ」

 本来の蛇の半身をも人の形と変えて、一見すれば普通の人間の女性のようにすら見えるが、そのとんでもないプレッシャーは到底人では有り得ない。
 100年を越えて存在する怪異独特の、強大な力をひしひしと感じてしまう。

「どういう事だ?」

 俺は滝の乙女の方に話を振った。
 彼女は清姫よりも長く存在する精霊だが、精霊という存在はそもそもが人と遠すぎる存在なので、何百年経とうがその意思の疎通は難しい。
 異例な程に人に近付いたここの守護者である滝の乙女ではあるが、彼女は俺の問いににこりと微笑んでみせた。

「稀な客であろう?そなたとも縁がある者じゃ、我の事は気にせず存分に語るがよいぞ」

 うわあ、下手に物分かりが良いのが災いしたのか。
 まぁそりゃあこのお方からすれば人間だろうが怪異だろうが似たようなものなのかもしれんが、こいつは立派に人に仇なす存在だぞ?俺の縁だけで入れたのか?

「愛しいお方。あなたは私を誤解なさっていますわ。確かに私は我を欺いた愚かな男を喰らいはしましたが、無差別に人を襲うような野蛮な輩ではありませぬよ?私が欲しいのはより強き者、胸に抱く伴侶のみですわ。人とてその愛憎にて殺し殺されるものでありましょう?より高みを目指す者として、それは当然の本能ですもの。それが悪しきと断じてしまわれるあなた様こそが勘違いなされているのです」
「ちっ」

 たいそうな言上に俺は舌打ちをした。
 蛇は水の性だ。
 清姫はその業によって火を使うが、水の精霊たるここの守護者とは相性が良いのだろう。
 それに確かに清姫は無差別に人を襲う怪異ではない。
 というか名有りの怪異は悪知恵に長け、身を潜め、その望む所を叶えようとする傾向がある。
 その望む所が人喰いではないモノ達はなるほどあまり人を襲わないと言えるだろう。
 だが、こいつらは人の命を重要視する訳でもないのだ。
 彼らにとって人など足元の虫けらと同じ存在なのだから。
 目的の邪魔に、あるいは益になるならばいくらでも人の命など消費して顧みないだろう。

「つれなきお方よな」

 気付くと、清姫はいつの間にか俺の傍らに移動して来ていた。
 そしてこちらの腕を取ろうとしていたので慌てて飛び退く。
 弾みで川の中に足を突っ込み、ぱしゃりと水が跳ねた。

「人に仇なさないとは言うが、お前の目的は俺を喰らう事だろうが、よくもまぁそうもうそぶけるものだな」
「それは誤解ですわ、愛しき方。私の望みは愛しいお方と一つになってより強き存在に昇華する事のみ。喰らうなどとはしたなき事に及ぶのは互いの意見の相違による結果にすぎません。言うなれば女性にょしょうを騙そうとする殿方に非があるのです」
「あまりに一方的な言い分にめまいがするよ」
「それはいけませぬ。私が介抱してさしあげましょう?」
「黙っててめぇの巣に帰れ!」

 ぱしゃりとまた水音が響く。
 はっとした時には既に遅く、右腕に清姫が取り付いていた。

「離せ!この化け物が!」
「なんという暴言。本来なら死をもって償わせる所ですよ?他ならぬあなた様だからこそ許しもしようもの」

「おお、これが男女の交わりというものじゃの。羨ましい事じゃ」

 必死に清姫を引き剥がそうとする俺を眺めながら、滝の乙女はなにか見当違いの誤解をしていた。
 ふと見ると、周囲にいた幻の少女達もじっとこちらを見ている。

「違うし!というか、こいつは害意のあるモノだ!さっさと追い出せ!」
「素直になって私を受け入れてくださいまし」

 言うなり、清姫のその胸に当たる部分がパカリと割れて、ぎっしりと歯の並ぶ口が出現した。
 掴んだ腕をその口へと誘導しようとする清姫をすんでの所で蹴飛ばす。

「仲の良い事は良いが、ここでの争いは認めぬぞ?痴話喧嘩は神域外で為すが良い」

 凄く論点のずれた守護者様のお叱りが辛いです。

「懐の深い水の姫、情をお掛けいただきありがとうございます。その領域をお騒がせいたした事、申し訳ありません」

 清姫がいけしゃあしゃあと守護者へ謝罪を述べる。
 こいついったい何がしたいんだ?

「愛しいお方、姫様のお心をお騒がせするのは悪しき事ですわ。私は臆病ですもの、お叱りを受けてうっかり人の集落を焼いてしまうかもしれませぬ。お叱りを受けない所まで移動いたしませんか?」
「そのような不調法は許さぬぞ」

 清姫がしれっと脅し紛いの事を口にし、的外れながらも滝の乙女の叱責が飛ぶ。
 そうだな、こいつが本気になれば守護者とて全ての災いを防ぐ事は敵わないだろう。
 ここは俺が守護者の結界を離れるのが一番だ。
 いくらなんでも俺の事情でこの集落にとばっちりが及ぶような事は避けなければならない。

「済まない滝の乙女よ。俺を結界の外へと送ってくれないか?どうもここにいると迷惑を掛けそうだ」

 俺の言葉に滝の乙女は頷き、そっと手を延べて、細いその手で俺に触れた。
 せせらぎのような微かな音と、降り注ぐ雨のような冷たさを感じたと思うと、俺は山中のちょっとした開けた場所に立っていた。
 小鳥の声が響き、冬の日差しがキラキラと雪を輝かせている。
 里の方で積もっていた雪も、ここではどういう条件なのかあまり積もる事もなくところどころに雪溜まりがある程度だった。
 山の中にはこういう「場」がいくつか存在するが、どうやら力ある場に飛ばしてくれたらしい。

「我が愛しいお方はお優しい。私が本当にお嫌なら、水の姫の怒りを招いて力を借りれば良かったものを。あれは人の神たる者、祈りを捧げればそう仕向ける事も出来たでしょうに」
「ぬかせ!そうなればお前は里の人間を容赦なく巻き込んで殺しただろうが。そんな事を俺が許すと思うか?」
「馬鹿馬鹿しい。自らを守れないのはその者の責、あなた様が気にする事ではありますまい」
「お互い理解し合えないでなによりだ」

 この山は結界外ではあるがあの守護者の力の及ぶ所でもある。
 人の神となった者は人と異形が争えば必ず人に加護を与えるものだ。
 更に言えば、山を統べる山神は異物を嫌う。
 特に自らが産むモノであるからか、異質な外部の産むモノを侵略者とみなす場合があった。
 このせいで昔は女人を山に入れるのを嫌ったものである。

 つまり、先の迷宮の時とは違い、この場ではどちらかというと俺の方が地の利としては条件が良いという事になる。
 しかし、武器をほとんど帯びてない事が致命的だ。

「さあ、この場ならば何の遠慮も憂いもありませんわ。どうぞこの胸に抱かれてお眠りになって。愛しいお方」

 清姫は人を装うのを止めて本来の半人半蛇の姿に变化を遂げた。
 極端に自分ルールだが、清姫的には互いの条件を公平にしたつもりなのかもしれない。
 この糞寒い時期に裸身の姿は不気味さだけではなく、うそ寒さすらある。
 大体こいつ、蛇のくせに冬に冬眠しないのかよ!

 抱きすくめようと迫るその巨体を躱し、上着の下のホルダーからナイフを引き抜く。

「もうてめえには飽き飽きなんだよ!いい加減に失せろ!蛇!」
「ああ、そうですわ!猛りこそ生命の華。子を孕む為の儀式に違いありませぬ。さあ、熱く滾るその生命を私にくださいな」
「馬鹿が、お前らは子を成したりしないだろうが!」

 俺の言葉に清姫はよよとばかりに身をよじった。

「なんと情のないお方よ。そのような酷い事をよくも口に出来るもの。ですが、許して差し上げますわ。だって、魂と魂を合わせれば、私は新しき段階に昇華する事が出来るのですよ。それは新しき存在。子であると言って間違いではありますまい?」
「はた迷惑な思い込みはやめろ!」
「本当に酷い男。でも、だからこそ、その強さが愛おしい」

 ガン!と岩が打ち付けるような重い音を響かせて蛇身が俺の立っていた地を打ち付ける。
 既にその地を蹴っていた俺は、ナイフの呪を起動させて清姫に突き込んだ。

 キン!という音と共にナイフが弾かれる。
 くそったれが!

 大木の倒れる不吉な音を聞きながら、俺は誰にともなく悪態を吐いたのだった。



[34743] 125:氷の下に眠る魚 その十一
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2014/12/04 09:38
 決め手がない。
 なにしろ相手は数百年を超える怪異、普通に準備をして戦ったとしても倒せるかどうか怪しい敵だ。
 それなのに手にあるのはナイフ一本、もはや馬鹿馬鹿しいぐらいの戦力不足である。

 音も立てず、気配もない。
 図体はデカイくせに清姫はその実体を捉えがたい相手だ。
 清姫の本質はよくいる破壊者タイプの怪異ではない。
 妄執こそがその本質だ。
 つまりストーキング、隠匿ハイドに優れた怪異なのだ。

「つっ!」

 目前の上半身からの攻撃をしのいでいると、背後から長い尾が襲って来た。
 反転して蹴りで弾くと今度は背を向けた形の本体側から牙が迫る。
 イラッとした俺は鋭く息を吐くと右腕に熱を送り込む。
 ナイフと共にその右腕をヤツの口の中に突っ込んだ。

 鋼材が纏めて砕けるような音と共にヤツの牙が折れ飛ぶ。

「シャアッ!」

 即座にそれを再生した清姫は俺を回りこむように左に動いた。
 いや、これは。

「ちっ!」

 とっさに跳躍して清姫の長い胴体を蹴って輪を抜ける。
 危ない。巻きつかれる所だった。

「つれないお方」
「誰が蛇に食われたいと思うか!」
「失礼な、食欲などという野蛮な欲望と等しく語るとは。私の欲しているのは愛なのですよ」
「化け物が愛を語るか!」
「人にしか愛が無いというのは思い上がりでなくって?いえ、我はそもそも人より成りし者なのですから」

 清姫にしてみても、この地は他の精霊の色濃い地、「場」を支配する事が出来ないのでその本来の力を出し切れていないという事もある。
 俺がなんとかしのげているのはその御蔭だ。

「くそが!」

 また死角からの攻撃。
 千日手か?お互い消耗して痛み分けになる未来が見える。
 というか消耗が早いのはどちらかが問題だ。

「ああ、さすがに他神の地では勝手が違う。此度はあなたさまにご挨拶だけのつもりでしたのに、ついうっかりはしゃいでしまいました。はしたない女とお見下げにならないで欲しいのですけど」

 さすがに清姫も手詰まりに気付いたのだろう。
 蛇形態を解除して元の人の姿に戻った。
 しかしこちらが遠慮してやる義理はない。
 そのまま突進してすれ違いざまに皮をむくようにナイフを振るった。

 バキバキバキ!という音を立てて木が1本倒れる。
 途端にまるで重力が増えたかのように体が重くなった。

「いけませんよ愛しいお方。山神に乞う事なく山の生命を刈り取るなど」

 幻影か!狙ったなこのヤロウ!
 山神の司る山では草一本、花一輪取るにも感謝と断りを口にする必要がある。
 その則を利用されたのだ。

 しかし、案に相違して清姫は襲って来ず、人の形のまま俺を見ている。
 
「あなた様はご自分では私を嫌悪なさっていらっしゃるおつもりでしょうけど、それは本心だとお思いですか?」
「植え付けられたものだから本物ではないと言うつもりか?生まれた時からそうである事を本当ではないと言う方がおかしいだろうが」
「いえ、そもそも本当に私のような者を厭うておられるのなら、言葉を交わしたりはしないもの。血の呪いを継いでなお、あなた様は怪異と呼ぶもの達と言葉を交わして来られましたわ。私、ずっと見て来ましたもの」

 清姫が陰のない顔で微笑んだ。
 何が言いたいのか。

「私が選ぶお方は決して戦を愛する野卑な者ではありません。私が望む強さとは、決して相手を倒す事のみではないのですもの。本当に強い者は、相手を受け入れる事が出来るのです。あなた様に弱さがあるのだとすれば、受け入れる事を怖れていらっしゃる事だけ」

 良いこと言ってる風に聞こえるが、清姫の受け入れるはイコール「喰う」事だ。
 そのまま聞いて良いものではない。

 そういえば清姫が最初に追ったのは若くして徳を積んだ僧侶だったか。
 まぁしかし女を騙した男の徳がどれほどかは知らんが。

「勝手に勘違いするのは良いが、俺にそれを押し付けるな。俺が戦いを嫌うのはそれに飽き飽きしてるからだよ。お前が見境なく人喰いでも始めたらさすがに容赦せずに倒させてもらうけどな」

 怪異が憎いと思う気持ちに間違いはない。
 背筋を走る氷のように冷えた敵意を受け入れるのに迷いはない。
 だが、戦いに何が生み出せる?という思いはあるのだ。
 人を害する怪異を倒すのは良い。
 安心して人が暮らせるのは生産的な事だ。
 なにより俺は、ハンターの仕事をしていた時、怪異を排除した時のほっと安心した人々の顔が好きだった。

 だが、彼らは暴力を振るう者を厭う。
 普通の人々が怪異を見る目と、俺達を見る目は同じなのだ。
 それに気付いたら、戦う事が馬鹿馬鹿しく思えて来るじゃないか。

「おお、恐ろしい。ならばその通り、哀れな人の子を犠牲にしようか?」

 清姫の言葉に、俺は相手を睨み付けた。
 睨まれて嬉しそうに笑うのはどうなんだ、てめえ。

「うそうそ。そんな弱き者をこの身に取り入れるなんて私の格が落ちてしまうもの。身に取り込む者は私の目に適った者だけ。だから愛しいお方、私、諦めたりしませんよ?ずっとあなた様を追い続けますわ」
「去れ、俺の気持ちが変わる事なんてねえし、てめえの顔を見てるとイライラするから嫌なんだよ」

 ずいと、いつの間にかまた身近に寄って清姫は俺の胸に頭を押し付けて来た。
 うおっ!あぶねえ!
 殺気がないと全然捉えられないなこいつ。

 慌てて飛び離れた俺に、清姫は真っ赤な口を裂ける程に開いて告げた。

「ならば本気でいらしてください。何も私が喰らうだけが道ではない。あなた様に喰らわれても我が望みは叶うのだもの」
「食うか!俺は人間だ!それに戦いで手を抜いたりしねえよ」

 応えた俺を意味深な粘り気のある目で見て、清姫はふっと姿を消した。
 どうやら遊ぶのに飽きたらしい。
 清姫はあまり人を襲わないとは言え、その存在だけで危険な存在だ。
 人の魂に干渉する怪異で、アレが人里近くに巣をかまえると、人々の妬心が強まり、傷害や殺人の数が跳ね上がる事になる。
 特に恋人同士や夫婦を相争わせる事に関してはわざとやっている疑いが強い。

 人をめったに喰わないとは言え、放っておいてよい怪異ではない。
 俺は常に本気で戦ってきたし、大体そうでなければ今頃俺は生きていないだろう。
 基本的にはあっちの方が遥かに格上なのだ。

「外に出た途端やって来やがって。どんだけこっちを監視してやがんだよ。全く」

 子供の頃、ハンターとして仕事をしている時に出会って以来、ずっと付きまとわれている相手だ。
 もはやいい加減にしてくれとしか言いようがない。

 頻度は落ちるが、ちょくちょくちょっかいを出して来る終天とどっちもどっちのストーカー連中である。
 まぁ終天は戦いを挑んで来たりはしないので、その分マシと言えばマシだが、戦いを挑まれたら俺はその時点で終了なので、比べる意味がないんだけどな。

 清姫はまだ十に一つは勝ち目があるが、終天に関してはもはや考えるのも無駄な相手だ。
 人間が海や山と戦って勝てるか?というのと同義なのだ。
 
「むかつく」

 俺はうっかり切り倒してしまった木の事を山神に謝罪し、負荷を解いてもらうと再び滝の乙女の元へと向かった。



「お話は終わったかの?」

 にこにこと微笑んで乙女が俺を見た。
 うん、こう、ちょっと脱力してもおかしくないよな。
 まぁ良いんだけどね。

「ああ、ちょっと山を荒らしてしまった。悪かったな」
「良い。山は我の管轄外じゃ」

 山神とは連なっているのだが、その辺は淡白だ。
 精霊のものの感じ方というのもちょっと分かり辛い。

「ええっと、実は今日うかがったのはお願いがあったからなんですけど」
「言ってみるがよい」
「巫女の守り石をいただけませんか?」
「良いが、新しい巫女を見付けたのかえ?」
「いえ、巫女の体質のまま大人になった人がいて、いざという時の保険というか、安心というか、そういうのが欲しいので」
「そうか」

 俺の説明に特にツッコミを入れる事もなく、乙女は滝壺に手を入れると手のひらに入る程の石を一つ掴んで俺に渡した。
 ぱっと見は河原に転がっている角のない石だ。
 水切りに使ったら遠くまで飛ぶだろうなという感じの平たくて丸っこい形をしている。
 色はほの白く、少しだけ透き通っている。
 水晶混じりの石に似ているが、おそらくは長石の一種なのだろう。
 だが、問題はそんな事ではない。
 これはここの乙女が巫女の為に生み出した一つの奇跡なのだ。

 巫女はこの石を身に付けている事でこの石と自身の魂を馴染ませ、精霊に自身の体という器を満たされてしまった時の退避場所として使えるようになる。
 ここの巫女は神を降ろす時には自分をこの石の中に封じる。
 とは言え、この方法も長く行うと逆に本体に戻る魂と石の中とに分割されてしまい、最後には石の中だけに本人の魂が残る事となってしまう。
 河原で遊んでいる少女達がその成れの果てだ。

 薬も使いすぎれば毒となるという事だ。

「ありがとうございました」

 礼を言うと、人とは感情が違うはずの乙女がにこりと笑ってみせた。
 彼女も長年巫女達と魂を混ぜる事で変化したモノなのだ。
 大河に墨を一滴落とした所で河の色が変わる事は無いが、影響が全くない訳ではないという事なのだろう。

「また来るがよい。里の者達は気が良い者達じゃがなかなか遊んではくれぬからの」

 俺も別に遊んであげてないんだけどな。
 俺はそう思いながらも、彼女への感謝を胸にその地を後にしたのだった。



[34743] 閑話:女神の午睡
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2014/12/11 09:54
「ユミちゃん!」

 待ち合わせ場所に年の離れた友人を発見して、優香はその名を呼んで手を振った。
 まだ休み中で帰省している人が多いオフィス街は普段からは考えられない程シンとしていて彼女の吐き出す息が白く大気を染めるだけの事が、とても暖かい風景に感じられる程だった。

「ゆかりん!」

 呼びかけられた方の少女は、どこかはにかんだように笑って、それでも一生懸命手を振り返してみせる。
 二人が友人付き合いを始めるようになって、彼女、木村由美子はびっくりするぐらい変わった。
 他人との関わりにどこかおっかなびっくりだった由美子が、常に明るく元気でそれでいて気遣いを忘れない優香に引っ張られるように外交的になって来たのである。

 5つ違いというかなりの歳の差がある友人同士だったが、二人はその辺りをあまり意識していないようだった。
 あまりオシャレという物を意識した事のなかった由美子をショッピングに連れ出し、一緒に洋服を選んだりしていた二人の服装は全く同じではないがジャンルが似通っていて、その歳の差もあってまるで実の姉妹のようにすら見える。
 とは言え、純粋な倭人で日本人形のような由美子と、ハーフで亜麻色の髪と光の加減で緑がかって見える瞳を持つ優香とでは、あまりにも容姿が違ってはいた。

「ユミちゃん、やっぱりそのコート似合ってるわ、かわいい!」
「え?そう、嬉しい」

 由美子の羽織っているのは薄紅色のコートで、襟元と裾のファーの白さが可愛らしさを主張している。
 実年齢よりも若く見える由美子を更に子供っぽく高校生ぐらいに見せてしまうが、可愛いのは間違いなかった。

「ゆかりんも、とても可愛い」

 優香の方は由美子のふんわりしたコートと違い、直線的なシルエットの白いコートだったが、由美子のコートと同じ配置で薄茶色のファーがあしらわれていて、元々可愛いタイプの優香の顔立ちと相まって確かに可愛らしい。

 二人並ぶと冬景色に花が咲いたような、そんな印象を与えた。

「それじゃあ、行こうか!」
「うん!」

 彼女達は年明けの初商いで売り出される、狙いのお店の福袋を買いに来たのだった。


 勇戦の後、二人は戦果である荷物を配達手配に回し、こちらも初商いのケーキ喫茶になだれ込んだ。
 この日はアフタヌーンケーキセットが500円でケーキ食べ放題という大盤振る舞いで、それぞれに頼んだケーキがハイティースタンドで運ばれ来るという豪華さに、年頃の女の子らしく盛り上がる。

「ユミちゃん、これ、お土産」

 お茶を飲んでゆっくりした所で優香は由美子に小さな紙袋を差し出した。
 飾った所のない茶色の紙袋だったが、由美子はちょっと驚いて、おずおずと嬉しそうにそれを受け取る。

「ごめんなさい。私、お土産とか無くって」

 そしてモジモジとしながら小さな声で謝った。
 優香は頼んだケーキを自分の前にセットしながらその言葉に笑ってみせる。

「あはは、お土産っていうのは買って来る人の自己満足みたいなものなんだから気にしなくて良いのよ。私が勝手にユミちゃんに押し付けてるだけなんだもの。嫌だったらそう言っても良いんだから」
「そんな、……すごく嬉しい」

 かさりと音を立てて開いた紙袋の中には、可愛らしいペンダントが入っていた。
 トップに淡いピンクの雪の結晶のような石が飾られ、革紐に飾り石を通した素朴な作りの品だ。

「あ、これ、精霊結晶?あ、ううん、そうか、天然ものなんだ。もしかして水精?」
「そう。さすがね、すぐ分かるんだ」
「ありがとう」

 由美子はその首飾りをすぐに着けて見せる。
 屋内という事でコートは脱いでいたが、中の白いセーターにそれは良く映えた。
 実を言うと、由美子は優香と付き合うようになるまで柔らかい色合いの服装をした事がなかった。
 戦闘着である胴着や袴などで平気で外をうろつく事もしばしばあったぐらいだ。
 優香はそんな由美子と一緒にあちこちと出掛け、オシャレをする楽しさを教えたのである。

「あの、ゆかりん、兄さんと、上手くいってる?」

 由美子がそう言った途端、優香は傍目でも分かる程にその白い顔を赤く染めた。
 今度は優香がモジモジと所在なげにケーキをつつき、挙句に細かく切り崩してしまい、はっ、と自分のやった事に気付いて慌ててそのカケラを口に運ぶ。

「うん、……うん、私はそう思ってるんだけど、木村さん、……隆志さんもそう思ってくれていたら、嬉しいなぁって……ね」

 挙動が怪しい。

「兄さん、けだものだから、気をつけてね」
「うえええ」

 今度こそ優香は真っ赤になってテーブルに沈没した。
 力が抜けてしまって顔を起こす事が出来ないようだった。

「一見人間みたいだけど野生のけものに近いものの考え方をするから、ロマンチックな舞台を演出したり出来ないから。ゆかりんが積極的に押していくべきだと思う」
「あ、けだものってそういう……」

 由美子の説明にちょっと復活した優香はようやく顔を上げる。
 とは言え、まだ顔は真っ赤でどこか落ち着きがないままではあった。

「うん、自分のやりたい事しか分からないの、兄さんって。野生の動物か子供みたいでしょ」
「そんな事ない。隆志さん、本当はすごく優しいし」

 そのまっすぐな言葉に、由美子ははぁとため息を吐いた。

「そっか、本当に好きなんだ」

 由美子の果敢な責めを受け、優香は落ち着こうとして飲み込んだお茶を喉に詰まらせてしまう。
 液体を喉に詰まらせるってどういう事なんだろう?と関係のない事を考えて目を泳がせる優香の顔を、由美子はじっと見てふっと笑った。

「良かった」

 その本当に嬉しそうな声に、優香は今度はちゃんと由美子をまっすぐと見て頷いてみせる。

「うん、すごく好き。だからあの人を守る為に私に出来る事があれば何でもしたい」
「それは、難しいよ。そうされたらきっと兄さんは辛くなると思う」
「そっか、そうだね」
「うん」
「じゃあバレないように頑張る」

 優香の言葉に、由美子は驚いたように目を瞬かせて優香の顔をマジマジと見た。

「ゆかりんって、凄い」
「すごくないよ。私なんて出来る事も少ないし、大して役にも立たないから。でも、出来る事があるならそれをやる事を躊躇わないだけ。一緒に戦えるとは思ってないけど、気持ちを聞いて辛い事を一緒に背負う事は出来るでしょ?美味しいご飯とか、きちんと片付いた部屋とか、ちょっとした事がとても大事だと思うから。私はそういう事をやっていくの。他に出来る事が見つかればそれもやるわ」

 由美子は綺麗にベリージャムの掛かったレアチーズケーキを一口に口に入れる。

「家族じゃないのに、どうして?」

 心底不思議そうに由美子は優香に聞いた。
 彼女の価値観からすれば、血の繋がらない他人の為にそこまで出来る事が不思議なのだ。

「そんな気持ち、勘違いかもしれないとは思わない?」

 由美子にとって家族は絶対の存在だ。
 血が繋がっている身内しか本当に信じる事は出来ない。
 それなのに自分には家族に必須の力がない事こそが由美子の消えないトラウマでもあった。
 本当は自分は家族ではないのではないか?という恐怖に常に苛まれているのだ。

「心がね、揺さぶられるの。この人がいてくれた事に感謝したくなる。自分だけじゃ見えなかった物が見えるようになる。ううん、そんなのはきっと単なる現象に過ぎない。ただ、私はあの人がいてくれる事が幸せなの」

 優香は臆することなくそう言い切った。
 言い切った後にまた顔を赤くしていたが、それでも、彼女の目は由美子を真っ直ぐに見つめている。

「ゆかりんが羨ましい」

 由美子はそうぼそりと零した。
 
「私は兄さんを疑った。だから、自分が嫌い」
「好きっていうのは盲信とは違うから、駄目な事や悪いって思ったらちゃんと言えば良いと思うよ。ユミちゃんが間違ったのは、お兄さんが間違ってると思ったんなら納得するまでちゃんとそれを話し合わなかった事だけだと思う」

 しかし、優香はそう言って由美子の頬をちょんと突く。
 由美子は驚いたように優香を見返した。

「言葉を隠してしまうとね、それは怖い物になってしまうの。何もかもあけすけに言えば良いって訳じゃないけど、言うべき事を隠してしまうと、後悔してももうそれをぶつける事が出来なくなってしまう。そうしたらその言葉は自分の中で腐っていくわ。悪くすると昏い怪物を育ててしまうの。だから、大切な事はちゃんと言うべき時に言わなきゃならないんだと思うんだ」

 由美子は優香を凍り付いたように見て、しばらくしてようやく声を出した。

「私、怪異なんて育ててないから!」

 憤然としたようにそう言うと、今度は決然とした顔で宣言した。

「分かった。兄さんにちゃんと言う」

 優香はそんな由美子をほのぼのとした顔で眺める。

(可愛いなぁ)

 隆志に対する気持ちとは別に、優香はこの歳若い友達が大好きだった。
 素直で世間知らずで、いっそ純粋すぎる少女。
 そして同時に、過去のすれ違いで微妙な関係になっている隆志と家族の間をなんとか修復したいと考える。
 それは下手をすると彼女と想い人の間を引き離す道になる可能性がある事に気付いていない優香ではなかったが、それよりも、この少女と大切な人が幸せに微笑み交わす世界を望んでしまうのだ。

 そしてそこに自分もいたい。
 それこそが彼女の望みでもあった。



[34743] 126:羽化 その一
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2014/12/18 10:13
 年明けの会長挨拶で「冒険心無き者に新天地は開かれない」という老いてなお意気盛んなお声をいただき、社員一同は感動のあまりあくびをした。
 いや、話が長くて緊張感が続かなかったんだ。
 決して会長を馬鹿にしていた訳ではない。
 まぁうっかりあからさまだったのは俺を含め数人だけだったけどね。

 本格的な仕事は明日からとは言え、明日からの仕事の方向性の確認はあった。
 うちで最も強い炊飯ジャーと湯沸かしポットのマイナーチェンジ、バージョンアップ版の草案が入っている。
 最近は一つの事しか出来ない商品よりも付加価値がある方が人気があるので、その方向に検討したいという事だ。
 この手の会社の主軸となる商品に手を加えるのはデリケートな問題で、万が一それで実績が下がってしまえば目も当てられない。
 しかし、こと電化製品においては進化しないという事は許されない所もある。
 神経を使う開発になるのは間違いない。

「ところで新年会はどうする?」
「さっそく飲み会ですか?そういえば年明けにオープンした店がなかなか飯も美味くてまだサービス期間で安いそうですよ」

 まだ長期の休みの感覚が抜けないのか、同僚の浮ついた会話を聞き流し、俺は伊藤さんに手を振った。
 彼女は休み中に髪を少し切ったのか、なんだかしゃれた髪型になっている。
 前のふわっとした少女のような髪型も彼女に似合っていたけど、今のちょっとシャープな髪型もイメージが大人っぽくなって可愛いというより美人に感じられて良い。
 というか、こんなに美人だと他人から狙われないか不安だ。

 こちらを振り返って笑ってみせる彼女に、心が暖かくなる。

「なんというナチュラルなバカップル」
「こんな酷い社会人を見たことがない」

 女子社員の御池さんとうちの一番の若手の男子社員の中谷がヒソヒソと囁き合う。
 聞こえてるし!聞こえるように言ってるんだろうけどさ。



 本日は会社は早上がりだったので、俺と伊藤さんは一緒に食事を摂る事にした。
 以前も行った多国籍食堂だ。
 
「今日はピアノの演奏は無いんだな」
「冬休みだし、お嬢さんもどこかに旅行とかかも」

 この店お得意のバガン料理でオススメの海鮮お粥を伊藤さんが頼み、俺は鶏肉カレーを頼んだ。
 まだ昼間なので酒は遠慮したら炭酸水が出てきた。
 元冒険者の人って生水嫌うよね。

 食事と会話を楽しみながら、俺はタイミングを計って伊藤さんに小さな箱を差し出す。

「これ、お土産なんだけど」
「えっ!」

 伊藤さんがびっくりしたように俺を見て、ちょっと口を尖らせて自分の手荷物を探りだす。
 すぐに小さな紙袋を取り出すと、それをテーブルの上に出した。

「むう、先を越されちゃった。はい、これは私からのお土産です。お土産、ありがとうございます隆志さん」
「えっ、ああ、こちらこそありがとう」

 まさか伊藤さんからのお土産があるとは思わずに純粋な驚きと喜びがある。
 こんな風に何かの報酬ではなく人から何かを貰えるなんてあまり考えた事が無かったので喜びより先に驚きがあった。
 俺たちは仕事の時に直接報酬やお礼を受け取ってはいけないという決まりがあり、仕事の報酬は全部ハンター協会経由で入ってくる事になっているのだ。
 家族同士でする贈り物は基本的には実用品だ。
 護符や武器、防具などを互いに贈り合う事で守りや攻撃の際の繋がりを通じて強度を増すのを目的としていた。
 そういえばと思い出す。
 彼女は凍える大地のお祭りに行ってお土産を買って来るような事を言ってた気がする。
 という事はこれは水精か。

 開けた袋に入っていたのは少し大ぶりの革製の腕輪だった。
 真ん中に水精が縫い込まれていて、それを囲むように鮮やかな糸で縫い取りがしてある。
 術式の組成などが全く分からないが、おそらくは護符の類なのだろう。
 大きさ的に二の腕に付けるバングルタイプのようだ。

「そのバングルは持ち主に常に幸運を運ぶんだそうです。その、ちゃんとした魔術的な品物とは違って民間のお守りなんですけど、普段なら良いかなって」
「ありがとう。俺にはしゃれていすぎるから服の下にでも付けておくよ」
「えっ、似合うと思いますよ」
「それは欲目というものだよ」
「もう」

 伊藤さんはちょっと不満を口にしながら、今度は俺の贈った箱を開けた。
 正直こんな洒落た物を贈られたのに、俺の方は見た目ただの石というのがどうも恥ずかしい限りだ。

「あ、素敵ですね」
「そ、そうかな?みすぼらしくないか」

 滝の乙女からもらった石は水が乾いてしばらくしたら白っぽかったのが透き通った翠っぽい色合いに落ち着いた。
 翡翠の類がまざってたんだろうか?
 それを銀の細線で編んで囲み、ペンダントトップに加工したものだ。
 ただの鎖だと味気がなさすぎるので青い組紐にホワイトゴールドのチェーンを巻き付けるように編み込んだものに下げてみた。
 ペンダントトップだけ外せるようになっているので手入れをしたりチェーンを変えたりするのも楽になっている。
 伊藤さんの好みに合わない場合はチェーンを変えて付けて貰いたいからだ。

「それも護符なんだ。出来ればいつも付けていて貰えると嬉しい。重さは軽減してるから肩が凝ったりはしないと思う」
「これ、もしかしてあの、隆志さんの手作りなんですか?」
「あ、ああ、そうだけど」
「デザインがそんな気がしたんです。嬉しい。ありがとうございます!」

 お土産と言ったのに俺の手作りで納得してしまって良いのだろうか?
 目元を上気させて喜んでいるんで良いんだろう。
 というかその上目遣いを止めてほしい。
 新年そうそう我が家に泊まり込みさせる訳にはいかんだろう。

 そんな俺の気も知らずに、伊藤さんは早速ペンダントを胸に下げてニコニコと笑っていた。
 おおう、なんか胸に目が行ってしまうとそれなりに俺の理性もピンチになるぞ。
 男の理性なんて信じてはならんのだよ。

 俺は慌てて残りのカレーを掻っ込むと、話を逸らした。

「お祭りどうだった?」
「凄かったんですよ!最後の方ではイッカクが氷を突き上げて姿を現して。幻想的でした」
「へえ、イッカクってあの角がある魚だっけ。本当にいるんだな」
「ええ、なんでも守護者の御使いとかで、今年は良い年になるんだそうです」
「それは良かった」

 俺は国から出た事が無いし、出る事は出来ないが、外の世界に憧れる事が無い訳ではない。
 ただ、国の外に出たいという気持ちは薄かった。
 それは血の呪縛のせいなのかもしれない。
 だが、それがどの程度掛かっているのか知らないし、もしかしたら全然関係なく俺の性格がそうなのかもしれない。
 なので自分がそうなのを別に嫌とか辛いとかは感じた事がなかった。

 人はそれぞれ生来の好き嫌いがある。
 俺たちの血の呪縛もそれと似たようなものだと思うのだ。
 別に特別酷い事をされている訳ではないしな。

 酷いと言えば血族が滅びに向かっているという、かの魔法大国の勇者血統こそがそうなのかもしれない。

 そう言えば、何か熱く語っていたあの変態野郎はどうしたんだろうか?
 アンナ嬢ことジィービッカ嬢にバラバラにされてなければ良いな。

「そう言えば、ここの迷宮の事、お父さんのお友達の間でも話題になっているみたいで色々聞かれてしまいました」
「あ、あ、そうか。元冒険者だもんな。ん?現役の人もいるのか?」
「ええ、生涯冒険者という人も意外と多いんです。どうせなら戦って死ぬとか言っちゃう駄目な大人がいたりして困ったものです」
「ああ、うん。バトルジャンキーか、意外といるよな、うん」

 命のやり取りの刺激に慣れすぎて日常生活に復帰出来ない人間というのは意外といる。
 恐怖を押さえつけるのではなく楽しむ方に振り切ってしまった連中はもはやほとんど病気だ。

「顔を合わせる度に叱りつけているんですけど、なかなか改心させられなくって」

 伊藤さんの言葉につい吹き出してしまった。
 父親程の相手を叱りつける伊藤さんの姿がありありと脳裏に浮かんだのだ。

「笑わない!」

 怒られてしまった。

「あはは、ああ、いや、ごめん」
「もう。みんなが隆志さんみたいなら良いのに」
「う~ん、俺もちょっと駄目な感じはあるんじゃないかな?」

 なにしろ弟とか妹に見限られている感じだし、こうフラフラしてるよなって自分でも思う。
 どっち付かずってのは一番嫌われるんじゃないかな。

「そんな事ないです。隆志さんはカッコイイですよ」
「お、おう」

 きっぱりと断言されて、俺はあまりの照れくささに顔を伏せてしまったのだった。



[34743] 127:羽化 その二
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2014/12/25 10:16
 電算機パソコンにロック状態の通信が届いていたので読んだのが先週の話だ。
 それから事態の推移は早く、どうにも嫌な予感がする。
 それでなくても最近は変な噂が広まっていて「何か」が起きる土壌が出来ていた。
 奴が仕掛けて来ているのか、それとも全く違う何かなのか、今の段階では判断出来ないが。

「もう二桁階層もそれなりに進んだんだよな」
「ええ、先日20階層攻略の報告がありましたね。テレビジョンでも記念番組をやっていましたよ」
「そう言えば会社で誰かが噂してたな」
「うちの先生が調査に入りたいと希望を出していましたが、受理されないと嘆いていました」
「いくらなんでも一般人にいきなり上層とか自殺行為以外のなにものでもないだろ」

 俺たちが住んでいるマンションのフロアの一室はミーティングルームとして機能している。
 情報機器や色々な術式が組まれていて、必要な情報を提示しつつ作戦を立てる事が出来るようになっているのだ。
 浩二がテーブルの上に表示されている打鍵盤キーボードに指を走らせて現在解明している迷宮の内部を立体的に表示してみせる。
 とは言え、迷宮の階層同士に物理的な繋がりは無いので、ビルの内部構造のように表示されているのはいわゆる「イメージでお送りしています」という所だ。

 俺たちが初期階層を攻略した後、冒険者達はパターン解析などを駆使してその後の階層を次々と攻略していった。
 さすがプロは違う。
 軍はもはや彼らの後塵を拝する事すら諦めて情報を買い取っている状態だ。
 何しろ下手に軍を投入すると死人が出て問題になる。
 俺たちも自分達だけならともかく軍人さんをガードしながら上の階を攻略するのは無理だと判断してそう報告した。
 面子よりも実利を選んだ結果の現在である。
 実に賢い選択だと言わざるを得ない。

 その反面冒険者達は評判通り頭がおかしい連中揃いだった。
 喜んで特攻して死亡率を順調に上げているのである。
 出来ればきちんと計画的に攻略して欲しい。
 死亡率が跳ね上がる度に俺たちは食い物の味が分からなくなって来ているのだ。
 このまま行くといずれストレスで死ぬ。
 恐るべきは終天の罠。

 とは言え、連中がいなければ攻略が進まなかったのは間違いない。
 なにしろ俺たちが俺たちだけのパーティで迷宮に入る事を国側は許さなかった。
 だからと言って他のハンター連中と俺たちをチェンジもしない。
 海外からの派遣組も足止めを食らってものすごく抗議していたようだが、国の上層部は頑として折れなかったし、お互いの国のお偉方同士は了解しているらしく、連中は今となっては親善大使のような扱いになっていた。
 良いのか?帰らなくて。
 まぁ良いんだけどさ。

「学者先生もおかしいが冒険者の命知らずぶりは正直予想外だった。なんなの?あの人達」

 俺は冒険者を甘く見ていた。
 俺がさすがに物語的な脚色をされているだろうと思っていた冒険者の回顧録も現実の体験を綴ったものだったに違いない。

「ぞくぞくやって来てますね、まるでこう、害虫を捕らえる罠に自ら突っ込む害虫のような」
「言い得て妙ですね」

 うちの弟と妹の感性がまともで嬉しい。
 あれが世界の常識とか言われたらさすがの俺も絶望する。

 シミュレーションボードとなっているテーブルの中央に表示されている迷宮の立体映像は下の方は白く描かれ、二桁階層からは赤く表示されている。
 なぜなら二桁階層からは迷宮の質が一変したからだ。
 入る事の出来る人数制限が百人単位になり、フロアはまるで大陸かなにかのように広大になった。
 その広大なフロアには貴重なお宝が存在したのだが、特に貴重レアな物は一度きりしか出現しない。
 そのレアなお宝を巡って、どうやら冒険者同士の潰し合いが行われているらしいなどとまことしやかに囁かれていた。
 そして、今度は……。

「人が怪異に変貌した。というのは事実確認が出来ているのか?」
「映像データが来てますよ。観ますか?」
「観たくないけど観ないと話が進まないだろうな」

 俺はげんなりとしながら浩二にそう応えた。
 街中で囁かれている噂がある。
 曰く、人が突然化け物になって襲ってくるという噂だ。
 割りと近い時期にグール騒ぎがあったのでその事で過剰反応が起きているのだろうというのがもっぱらの常識的な人々の判断だが、この手の概念が広まると現実に干渉してしまい、たとえ事実でなくても事実になってしまう場合があるので恐ろしい。
 しかも今回はどうも冒険者の体験談が巷に流れてしまっているのが原因のようだった。

 映像データに表示された元人間の姿は、それぞれ何らかの動物と人間を合体させたような姿をしていた。
 
羽化現象メタモルフォーゼか」

 怪異が非実体から実体化する事を転身メタモルフォーゼと言うが、海外では人間が怪異に触れて変化する事も同じように言う。
 我が国では区別する為に字面を変えていた。

「憑依現象とは違うんだな」
「羽化ですね。変化後も本人の意識があるそうですし能力スキルとして定着していますから。但し、人格は変化の影響を受けて歪んでしまうらしいとの事です」
「どう考えても原因は迷宮だよな」
「そうですね。二桁階層に潜った人達だけに起こっている現象なんだそうですから」
「それで、お国からのご指示はやっぱり待機か。おいおい、何のための俺たちだ?」
「どうも政府は僕達を冒険者達と迷宮内で遭遇させたくないみたいですね」

 唸る俺に由美子がさらりととんでもない事を言った。

「先生達が言ってた。上層の階で危険なのはむしろ人間だって」
「嫌な事を教えてるんだな、そこの大学も」

 俺はため息を吐く。
 この件に関しては酒匂さんに送った抗議の為の通信への返事がとても簡潔に内実を表していた。
 すなわち「死地にわざわざ行くのは自殺志願者だけだ」という事である。

 冒険者は本来上層階に潜る必要はないのだ。
 国は強制していないし、むしろ危険は避けるようにとの勧告が出ている。
 迷宮の下の階層だけでもちゃんと成果はあるし、一攫千金は狙えなくても普通に生活するのに困らない程度には稼げるのだ。
 もちろん初期階層は人数制限が厳しいが、5、6階層辺りならそこそこの人数が入れるので一日一回ぐらいは潜れるし、攻略の手順もほぼ解明されているので内部の変動があっても、そこまで潜れるような実力者ならさほどの危険もなく戻って来れるだろう。

 しかしそれでも上層階を目指す者は絶えない。
 ゲートが共通である以上、国も上層階だけ門を閉ざすという事が出来ない為、止める事の出来ない状態になっているのだ。

 そのメタモルフォーゼが「汚染」であると判明したならさすがにゲートを閉ざすだろうが、今の所起こっている変異は個人単位にすぎない。
 潜った全員がそうなる訳ではなく、極稀な現象として発生しているのだ。

「国が俺達を迷宮に潜らせる気がないなら別のアプローチをするしかないだろうな」

 そう言った俺に浩二が頷いてみせる。

「実は気になっている所があるんですが」

 浩二はチラシを一枚こちらによこした。
 そこには蛍光カラーの派手派手しい文字が踊っていて、いかにも客引きらしい宣伝文句が並んでいる。

「冒険者カンパニー?冒険者協会とは違うのか?」
「冒険者協会は互助会ですが、それは法人会社ですね。育成と搾取とデータ収集が目的のようです」
「たくましいと言うかなんというか」
「そこの社長はこの迷宮攻略でトップの攻略組のリーダーらしいですよ。なんでも国家予算より稼いでいるとか」
「一介の冒険者がそんなに稼いでるんなら国も相当儲かっているんだろうな。そりゃあゲートの閉鎖なんてしないか」

 俺は頭を抱えた。
 正直な所迷宮を閉鎖して欲しいのだ。

「その会社で話を聞いてみませんか?」
「そうだな。現場の声が聞きたい所だ」

 とりあえず、アポイントメントを入れてみるか。
 予定を立てながらも俺は憂鬱だった。
 いよいよその本性を現してきた迷宮に対して焦燥がある。
 なにより、俺達にその災厄を止める手立てが無いのではないか?という無力感があったのだ。
 本来、危険を感じたらそこに近付かないのが生物の本能というものだろうに、人間はあえてその危険を探ろうとする。
 何か間違いをしでかしたらもう先がないかもしれないのに危ない綱渡りをやめられないのだ。
 悔しい事に、奴は人間というものを知り尽くしてるのだろう。
 そう思って、そう思ってしまった事に俺はどうしようもなくムカついてしまったのだった。



[34743] 128:羽化 その三
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2015/01/01 11:53
 冒険者カンパニーの設立はどうやら年の瀬の忙しい時に行われたらしい。
 役所はバタバタとしていてなかなか仕事が上手く回らない時期だ。
 そこになんらかの意図を感じるのは仕方の無い事だろう。

「よくそうやって勘ぐられるのですが、全くそんな事はないのですよ。実は生誕祭のお祝いの時に会社設立の話が出て、冒険者らしく即断即決を行った結果登録が月末近くになっただけの話なんです」

 目前に座る男は冒険者のイメージと相違して、パリっとした背広姿のエリートサラリーマン然とした格好をしていた。
 やたらと濃い顔なのに翻訳術式を使っている訳でもなく流暢な日本語を話すのがものすごい違和感だ。

「確かに冒険者は即断即決と聞きますが、そもそも膨大な情報を収集してからでないと考慮すらしないとも聞きますね」
「ふむ、随分高く買ってくれているようで嬉しい限りです」

 我が国にはこれまでほとんど冒険者がいなかった。
 地脈と精霊を繋ぎ、それぞれを結び管理している朝廷のおかげでこの国は国内の土地の異常をほとんど自国で一元管理する事が出来る。
 島国という排他的環境もあって、自国で管理できない者に怪異への対処を任せたりはしていなかった。
 別にこれは我が国だけの話ではなく、島国家はほとんどそうだと聞いた事がある。
 精霊主義国家の大半が山岳地帯と島国である事を考えれば、その独立主義っぷりが分かるだろう。
 その為、この国の人間の多くにとって、冒険者とは物語の中の存在だった。
 そう、今までは。

 冒険者は粗野なイメージがどうしても付きまとう。
 装備は独特で野蛮と言って良いし何日も風呂に入らずに行動したりするから体臭のキツイ者も多い。
 暴力の世界に生きているのでその言動が乱暴だ。

 しかし、彼らの世界が弱肉強食で出来ているという意味を良く考えたら彼らが粗野なだけではないという事が分かるだろう。
 生物としての人間の強さは肉体の強さではない。
 そう、冒険者とは馬鹿は死ぬ世界で生きている者達なのだ。
 その外見だけで単純な力だけを信奉している者達と侮ってはならない。

「しかし驚きましたね。立派な物です。まるでお役所がもう一つあるような感じすらする」
「そうですね。私達は見栄えを結構気にする生き物なんですよ。力があるならそう示さないと侮られると言いますか」
「なるほど」

 この冒険者カンパニーの立地はゲートのある特区庁のすぐ傍にあった。
 なんでも特区にホテルを建てる予定で手続きが手間取り資金不足に陥って放棄された建物を流用しているらしい。
 その為ヘタするとお役所より豪華にすら見える。

「それで、今回のご用件は、迷宮中階層での異常事態の調査依頼でしたっけ?」
「いえ、ええっと、依頼ではなくて、所見をお聞きしたいと申しますか、冒険者はどう感じているかを知りたいと言いますか」

 相手の切り出し方からしてこれは一筋縄ではいかないと感じられたが、とりあえずこちらの要求をストレートに告げておく。
 その俺の言葉に、この冒険者カンパニーの代表取締役であるらしいアウグスト氏は少し困ったような顔を作った。

「ふむ、さすがにこの国の方は冒険者というものをご存じないとみえる。我々は対価のない依頼は一切受けません。それがインタビューであろうと、依頼として提出していただき、それをお受けする形で成り立ちます。特に我が社は冒険者の情報を管理するという立場にあります。代表自ら筋の通らない事をする訳にはいかないでしょう?」

 うわあ面倒くさい。
 俺は横に据わってその場のやりとりを眺めていた弟、浩二に視線を投げた。
 続きは任せたという事だが、なぜか浩二を俺を制した。
 仕方ないので交渉に戻る。

「はあ、それで、依頼として出す場合、その相場はおいくらくらいになるものですか?」

 俺がそう尋ねると、相手は今度ははっきりと分かるぐらいに嘲る口調で応じる。

「やれやれ、交渉という物をご存知ないお方は困る。まぁ島国に引き篭もって特別な立場にある御方となれば傲慢がデフォルトというのは別におかしなことではないのでしょうが、いささかガッカリですね」

 うーん、すごく持って回った言い方だけど、これってもしかして挑発されているのだろうか?
 純粋な交渉ではなく、丁々発止のやりとりをしたいって言うんなら詐術などというスキルを持たない俺にはどだい無理な話ではある。
 そっちが得意の弟殿はなぜか交渉の席に着こうとしないし。
 困ったな。

「そうですね。実のところ今回俺は交渉とかするつもりはないし、聞きたい事を聞きたいだけなんですよ。だから勘弁してくれませんか?」

 アウグスト氏はふうと息を吐いた。

「ならば100万と言う所ですか」

 うっ、これは俺の感覚からすると法外に高い。
 しかし、情報という物の値段は表面からは分からない価値を持つ場合も多い。
 これを高いと一概に跳ね除けて良いのかどうかが分からなかった。
 分からない事は相手に聞くしかない。

「ええっと、それが相場という事なんでしょうか?」
「手付けといった所ですね」
「……っ」

 これはもう相手に取引をするつもりがないと思った方が良いのではないだろうか?
 席を蹴るべきなのか?
 ちょ、涼しい顔してないで助けてよ、コウくん。

 俺の懇願の眼差しが届いたのか、もしくはそれ以外の理由なのか、浩二はやっと言葉を発した。

「それで、貴方は僕達と直接顔を合わせての会話というこの状況にどれだけの対価をお支払いになるおつもりなんでしょうか?」
「ほう、ようやくマリッツィアらしくなって来ましたね。よろしい、根拠を提示してください」

 マリッツィアってなんだ?それと根拠ってなにの?会話の対価って?
 浩二よ、兄ちゃんはお前とその人の言っている事がさっぱり分からない。

「貴方は今、兄の事を特別な立場にある御方と言った。それは僕達の事を知っているという意味でしょう?それならば貴方は僕達の情報の価値を良くご存知のはずだ。そして僕達がそれを貴方に今現在提供し続けている事の危険性も」
「ふむふむ、いいぞ、ブラッボォ!続けて」
「ゆえに僕達は今現在貴方に対価の先払いをしている事になる。冒険者の流儀で言えばただで与えられる情報の価値は地に落ちるといいましたっけ?」
「素晴らしい、予習は出来ているといった所ですね。あえて彼を前面に立たせたのも、私に疑念を抱かせず情報を受け取らせる為だったという事でしょうか」

「何の話だよ」

 俺の横で分からない会話を繰り広げられると困る。
 解説を頼みたい所だ。

「兄さんは自分の価値を知らないという事ですよ。僕達はここに通された時からあらゆる方法で記録されています。そもそも彼らが簡単に交渉のテーブルに着いた理由を考えるべきです」

 あー、もしかして俺らの素性がバレてるって事なのか?
 そりゃあマズい……のか、……な?

「とまぁこの通りの人なんで」
「ふむ、予想以上と先に断っておきますよ。てっきりもっと用心深いと思っていました」
「貴方のおっしゃる通り島国の引きこもりですから、僕達」

 ふっ、とアウグスト氏が失笑した。

「いや失礼。ですが、実のところ私は貴方方に失望したりはしていないのですよ。確かに交渉は下手くそですし、そもそもの出だしで間違えてますが、実際……『間違えるリスクを冒してもそれを押し切る自信がある』という事ではないかと恐れ慄いている始末ですからね」
「考えすぎでしょう」
「……ほう?」

 うん、お手上げだ。
 お前ら何の話をしているんだ?って言いたい。
 そもそも俺達の価値云々は今はどうでも良い話だろうに。

「お楽しみの所すまんが、とりあえずこれだけ教えてくれないか?」

 業を煮やした俺はすっくと席から立ち上がり、真っ向から尋ねた。

「結局の所、メタモルフォーゼ現象について知っているのか知らないのかどっちだよ」

 応えたのは、喉の奥てで笑いを噛み殺したようなアウグスト氏の声と、弟の呆れ果てたと言わんばかりの表情と言葉だった。

「ほらね」



[34743] 129:羽化 その四
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2015/01/08 09:04
 冒険者カンパニー、それは繰り返し挑戦出来る迷宮というかつてない存在、冒険者達にとっては正に垂涎ものの宝の山への挑戦の為に互いの情報交換をスムーズに行おうと設立された登録制の冒険者情報検索サービス会社だ。
 高級なホテルのような外観で、エントランスを潜ると落ち着いたロビーになっていて、適度な空間に配置されたテーブルとソファーがいかにも気持ち良さそうだ。
 登録会員でなくてもそこでドリンクサービスを受ける事が出来るのだから凄い。
 何も予備知識が無くそこに入ってしまったら、普通に高級ホテルと思うだろう。
 実際ホテルと勘違いした旅行者が宿泊手続きにカウンターを訪れる事は珍しくもない事だそうだ。

 そのロビーの奥には大ホールがあり、そこに情報端末がある。
 ほんのりと暗く広い空間に、無数に見えるホロディスプレイがまるでプラネタリウムの投影された星のように浮かび上がっていて、それは壮観だという事だった。
 俺は会員ではないので残念ながら見たことはないけどな。
 その無数に浮かぶ情報から自分の求める物を検索して手元に引き寄せるのだそうだ。

「とは言え1階のホールにある情報はほとんどオープンな物で、会費を払っている会員なら誰でも自由に使える程度のものに過ぎないのですが」

 アウグスト氏はその冒険者の検索システムの仕組みを説明して、どこか自慢気に口元を笑みの形に歪ませる。
 いや、俺みたいなその価値の分からない人間に自慢しても仕方ないと思うけどな。

「それで俺達の知りたい事はどの程度の価値だって言うんだ?手付け100万とか一見さんお断りの店じゃないんだから、提供出来るなら出来る、出来ないなら出来ないとはっきり言ってくれないか?俺達だって時間が有り余っている訳じゃないんだぞ」
「やれやれ、駆け引きを楽しむ事も出来ないとは、人生を愉しめてないんだな、君は」
「仕事中に余計な楽しみを求める趣味はないな」

 俺はイライラするのを我慢しながらこの男の相手をした。
 こちらの問いに言を左右して一向にまともに答えようとしない。
 浩二によれば既に俺達の情報は逐一記録されていて、一方的にこちらが提供し続けている状態との事で、俺達は長居すればする程損をして相手は得をするという状態なのだそうだ。
 だから引き留め工作をしているという事なのだろうか?正直理解し難い。

「これは文化の違いというべきかもしれませんね。私共はそもそも知識欲に関しては一般の人々よりも貪欲に出来ているのですよ。だからこそ我が身の全てを賭けてでも世界の真実を知ろうとするのです。それもただ結果を求めての事ではありません。そこに至るまでの行程も大切な報酬だと思っています。ご存知ですか?私の故郷などはテーブルに差し向かって、お互いにお茶を楽しみながら取引の交渉を行います。その値段だけでなくこの交渉の内容でどれだけお互いを満足させられるかが大切なのですよ」

 ……面倒くさい。
 俺、絶対冒険者とは合わないわ、うん。

「僕達をどうにかしたいという訳ではないのでしょう?残念ながらこちらは見た通りそのような交渉事には慣れていません。そもそも僕達は冒険者ではないのだからそちらの流儀を知らない事を責められても困ります。こちらが出向いて情報を提供した事である程度は譲歩が出来ていると考えてその対価を要求するのはそうおかしな事ではないと思いますが?」

 俺にまかせておいたらこのまま決裂するだけと分かっているのだろう。
 浩二が積極的に前に出て交渉する。
 うん、分かった、これ以上混ぜっ返さないから任す。

「その事ですが、取引という物の構造を理解していただきたいのですよ。物の価値というのは実に相対的なものですから、こちらが一方的に判断した価値で取引を行うのは後々の不満に繋がり、それは将来の不安になりかねない。お互いになっとくする取引というものはどういった物だと思われますか?」
「等価値という事なのでは?」

 浩二の答えにアウグスト氏はまた歪んだ笑みを浮かべる。

「この世に等しい価値など存在しません。お互いになっとくする取引というのはお互いに自分こそが得をしたと思い込む取引の事なのです」
「……なるほど、おっしゃる事は分かります」

 うん、これは俺も分かる。
 何かを買う時に、その金額を無くしても構わないと思うから購入するのだ。
 要するにその金額の金を失う以上の価値を見出すから買う事が出来る。

「それをお分かりなら話が早い。それでは貴方方のお求めの情報である冒険者の間に生じたメタモルフォーゼ化ですが、実はちょっと調べればある程度の事が分かるような現象なのですよ」
「うっ」

 俺は思わずうめいた。
 つまりこのおっさんは俺達が下調べもせずにやって来たのを揶揄してこんな遠回しに文句を言っていた訳か。
 
「ようするにそれは『ありふれた事象』であるとおっしゃるんですね?」
「そうです」

 あーなるほどね。

「分かった。つまりあんたはこう言いたいんだ。『おととい来やがれ』ってな」
「分かっていただけたようでなによりです」

 こんのやろう。

「待て、とりあえず取引云々は今は良い。そういうものは置いておいてだな、お前たちの仲間、冒険者達は平気なのか?つまり不安になってパニックが起きるような事はないのか?」

 俺の言葉にアウグスト氏はククッと喉で笑った。

「何を言うかと思えば。貴方は勘違いをしている。私達のような者達は、つまりは異常事態を求めているのだよ。化け物になる?命を失う?なるほど大変だ。しかしな、それが嫌なら元から冒険者などにはならないのだよ」




 豪華なホテルのような建物を後にしながら俺はため息を吐いた。

「癖がありすぎるだろ」
「まぁ冒険者ですからね」

 浩二は案外平気な感じでさらりと応える。
 さすがに会社を訪問するのにいつもの作務衣のような格好では駄目だと思ったのか、今日は珍しいスーツ姿だ。
 日本人らしい容姿とスーツとはあまり合わないのだが、弟の立ち姿はそれなりに様になっている。
 とはいえサラリーマンには見えない。
 どっちかというと何かの家元のお坊ちゃんみたいだな。

「お前は余裕がありそうだけど、無駄足とか一番嫌う事なんじゃないのか?」

 浩二は一見淡白そうだが、実は案外激情家だ。
 無駄な事をさせられるのが我慢ならない質なのだ。

「今回の件は無駄にはなりませんよ。ああいう連中は借りっぱなしだと不安になるようですからね。絶対に今度はあっちから接触があるはずです」
「お、……おう」

 ふっと浮かべた表情の黒さにちょっと引いた。
 こええよ、お前。

「でもまぁ、確かに無駄じゃなかったか。調べれば簡単に分かる事とか言ってたな」
「そっちは任せます」
「え?」
「伝手があるでしょう?」

 浩二の言葉に俺は首を傾げた。
 伝手?
 俺の顔を見た浩二は呆れたように首を振った。

「冒険者の家族と付き合っているんですから、そっちから詳しい話を聞けるでしょうに」
「あ」

 俺は今の今まで脳内で伊藤さんと冒険者を結びつける事なく話をしていたのだが、言われてそう言えばと思い出す。
 彼女の父親が元冒険者である事は承知しているはずなのにおかしな話ではある。

「でも彼女をこっちの仕事に巻き込む気はないぞ」
「別に僕だって巻き込めとは言いませんよ。彼女の伝手で冒険者の情報に詳しい人を紹介してもらえば良いでしょう?穏当に引退した冒険者が貴重な事は僕だって知っています。おそらく兄さんが思う以上に彼は顔が広いはずです」

 なるほど、確かにそれは正論だった。
 俺自身がなんとなく気が進まないだけの話で。

「覚えていますか?爺ちゃんの教えを。例え意図せずに繋がった縁であっても、それはもはや無かった事には出来ないのだと。その相手を大切に思うのならばより強く縁を結び、自分の手元に引き寄せるしかない」
「爺ちゃんか。子供みたいなイタズラばっかりする人だったけど、色々大事な事を教えてくれたよな」
「兄さんは嫌な事から全部目を逸らして来ましたけど、それで嫌な事が無くなる訳じゃないんですよ。いい加減きちんと自分の立場を理解すべきです。貴方が逃げ回れば逃げまわる程迷惑を被る人間が出て来る。それが分からない訳でもない癖にいつまでも往生際が悪いのが更に腹が立つんです」
「いやいや、逃げるんなら最後まで逃げ切るべきだと思わないか?」

 俺の言葉に浩二は「は?」と、いかにも嫌そうな顔をしてみせた。
 今気付いたが、こいついつの間にか背が伸びてやがる。

「中途半端に戻って来ている時点で何をか言わんやですよ。馬鹿じゃないですか?」
「……夢を見るぐらい良いんじゃないかなぁと思ってたんだけどな」
「で、諦めるんですか?」
「いや、諦めない」

 浩二は獲物を前にした肉食獣のように獰猛に笑ってみせる。

「そうでしょうとも。僕もね、一度たりとも兄さんが他人の意見で自分の考えを変えるなどと思った事もありませんよ」
「お、おう」

 うん、これは凄く恥ずかしい。
 兄貴の威厳もへったくれもないな。
 迷惑掛けてるよなぁと思いはしてるんだけどな。

「悪い」
「次に謝ったら蛇をけしかけますよ」
「おおう」

 うちの弟は全くもって甘くないな。
 まぁ俺が悪いんだけどね。
 自分でもつくづく己の性格が嫌になる事もあるんだ。本当だぞ。
 でも、譲れないもんは譲れないんだよな。



[34743] 130:羽化 その五
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2015/01/15 10:49
 冒険者の情報を収集するにあたって、弟は伊藤さんを巻き込むような事を言ったが、俺はやはり踏ん切りが付かなかった。
 いや、確かに元冒険者の伊藤父に直接聞けば良いのかもしれない。
 伊藤さんの自宅の連絡番号は知っているから、伊藤さんが自宅に居ないと分かっている時に連絡を取れば伊藤さんを巻き込む事もないだろう。
 しかし、伊藤さんを巻き込むのが駄目で伊藤父なら良いという事じゃあないんだよな。
 まぁようするに俺の気持ちの問題なんだけどな。

 そう考えてふと思い出した。
 縁という事で言えば限りなく薄いが、元冒険者を俺は知っていた。
 むしろ縁が薄い方が余計な事に巻き込む事もないだろう。

 そう考えた俺が仕事帰りに寄ったのが元冒険者の営む多国籍食堂だった。

 カラカラと鳴るちょっと変わったドアベルの音を聞きながら店内を見回す。
 この店はいつ来ても満席になっているのを見たことがない。
 休日の昼間や平日の夜はそこそこ客が入っているのだが、今のような平日の夕方や日中にはほとんどガラガラで、音楽学校に行っているという娘さんの練習場となっている事が多々あった。

「こんばんは」
「らっしゃい」

 娘さんはまだ戻ってないのか本日はピアノ演奏は無かった。
 厨房に奥さんも見当たらない。
 客が来ない時に詰めていても無駄という判断だろうか。

 カウンターの向こう側の壁に板に書いて並べられているお品書きを見ながらカウンター席に座る。
 軽食の欄にあったオムレツ焼きそばという説明書きがあるパッタイカイホーという料理を頼んでみた。

「屋台料理なんですけどね、んまいっすよ」

 マスターもオススメっぽい。

「あの、ちょっと聞きたい事があるんだけど、いいでしょうか?」

 料理に合わせて現地のビールを頼み、ついでにという感じでそう持ち掛けた。
 よく考えなくてもこの人は情報屋でもなんでもなくてただの元冒険者の食堂のマスターだ。
 こういう話はあまり良くないのかもしれない。
 しかし冒険者協会発行のタウンマップに元冒険者として宣伝を掲げているのだから隠している訳でもないのだろうという事も分かる。
 世間話として話して、情報が出てこないようなら改めて伊藤父に話を持って行けば良いだけの事だ。
 俺はそう割り切る事にした。

「おう?今日は片割れがいないから料理を俺がしなきゃならんのですが、出来てからならいいですぜ」

 マスターはそう言うと、見慣れないラベルのビールとナッツを出してカタカタと片足を少し引きずり気味に厨房へと消えた。
 象の絵柄のビールは割合さっぱりとした味で、料理と一緒に飲むには良さそうな感じだ。
 ナッツはそこらで買ってきたおつまみ袋入りの物という感じである。

 厨房から漂って来る良い匂いを嗅ぎながら、俺は今起こっている問題について自分の中で整理してみた。
 
 迷宮の攻略が二桁階層に及んだ。
 これは問題ない。いつかそうなる事は分かっていたし、そうなってもらわないといけない事だ。
 ただ急激な攻略はどうも安全マージンを取っているとは思えず、表には出ないがかなりの犠牲を叩き出している事は聞いていた。
 その辺国にちゃんと管理して貰いたい所だが、ゲートがどの階層も共通で、元々自己責任で生きている冒険者を縛るのが難しいという事もあって、なかなかに厳しいようだ。

 しかも迷宮内に大人数が入れるようになると、たちまち無法地帯化した。
 国側も内部に入る冒険者に位置情報表示システムを配布するのだが、これをまともに装備する者が少ない。
 彼らにしてみれば国のお役人がお宝の情報を楽して入手しようとしているとしか思えないのだろうから仕方ないのだろう。
 国としても自分所の軍隊を危険な最前線に送りたくないので全く情報を入手出来ない状態となっていた。
 結果として二桁台の中階層はどんだけヤバイ事になっているのか実際に潜っている冒険者達にしか分からないのだ。

 そこに今回のメタモルフォーゼ化の話である。
 俺からすれば一度迷宮を閉鎖するべきなんじゃないかと思うのだが、既にあの迷宮を中心とするビジネスラインが出来上がってしまった今となっては、迷宮を仕事の拠り所に起業した若い企業が立ち行かなくなってしまう可能性があった。
 その為決断に迷っているらしい。
 今は正確な情報が欲しいという段階なのだが、何かが起きてしまう事を怖れて俺達へ警戒するようにとの通達が来たのだろう。

「お待ちどうさま」

 いい匂いと共に料理が置かれる。
 普段食べるオムライスのイメージは楕円っぽい形だが、出されたそれは卵で四角く包んだ料理という感じだ。
 箸で卵の外套を破ってみると、中には焼きそばのイメージとは違うオレンジっぽい太麺が入っていた。
 ちょっと透き通っている。

「美味い」
「でしょう」

 思ったより優しい味で、料理の好みが子供っぽいと言われる俺には合っているようだった。
 
「それで私に聞きたい事っていうのはどういう事ですか?」

 鎧のような筋肉をしているんだろうなと思わせる体付きだが、簡単なコック服とエプロンに包まれた今はそこに威圧感はない。
 義足の片足のせいで若干動きのバランスがおかしいが、注意していないと忘れてしまいそうなぐらい自然に動く。

「実はマスターが元冒険者って聞いて、最近聞いた変な話について何か知らないかな?と思ってね」
「変な、話ですか?」
「うん、まぁ与太話の類っぽいんだが、あの迷宮の話なんで気になってね」
「ああ、迷宮ですか。迷宮ってもんは何が起こってもおかしくはない場所ですからね。私もお役に立つかどうか」

 マスターはちょっとだけ遠い目をすると、いかつい顔で俺に笑い掛けた。
 気さくな中にも情報の開示に一定のルールを持っている感じだった。
 大事な情報を入手する場合、こういうタイプの方が安心出来る。

「実は迷宮に潜った冒険者の中にメタモルフォーゼする者が現れているって話なんだが」
「ああ、なるほど怪物化ですか」

 なんでもない風に言われた言葉に俺は少し戸惑い、慎重に言葉を選んだ。

「いや、怪物そのものになったんじゃなくて、外見が変化して中身はそのままとかが多いって話だけど」
「下僕とか感染キャリアーとかじゃないって事ですね。見た目が異質なモノに変化しちまうんでしょう?まぁ良くあるってほどでもないですが、ままある事ではあるんですよ」
「そう、なんですか?……外見の変化が?」
「長く怪異に関わっている奴らの中に出て来るんですよ、そういう妄想持ちイマージュが」
「イマージュ?」

 俺はふんわりとした黄色い卵部分を口に入れた。
 少し甘いその皮は緊張感をいい具合にほぐしてくれる。

「んー、コレばっかりは現場の雰囲気の中じゃないと理解してもらうのは難しい話だとは思うんですがね。長く冒険者をやっていて怪異と命のやり取りをやっていると、自分が実は人間じゃなくて怪異なのではないか?と思い込んじまう奴がいるんですよ」
「思い込みですか」
「例えばですね、人を殺しすぎて自分は人間じゃなくて超越者だって思い込んじまう犯罪者とかいるでしょ?あんな感じですよ」
「逆に分かり辛くなったような」
「むむむ……」

 マスター、実は口下手なのかな。

「まぁ俺が実際に見た話なんですが」
「ん、はい」
「人でなしと罵られて、額に角が生えちゃいましてね」

 え?どういう事?
 いくらなんでも展開がいきなりすぎるだろ。

「根を張るタイプの怪異駆除の為に、まぁなんだ一般の犠牲者が出ましてね。その家族から罵られたんですが、罵られた当人はニヤニヤ笑って、『そんな事知ってるよ』って答えやがって、そしたら角と牙が生えて来ましたよ。相手は悲鳴を上げて逃げ出して、後からもみ消しが大変でした」
「ええっ!?」
「うちの頭が良いのに言わせると、生き物は自分のなりたいものになろうとする力があって、無から生じる怪異と間近で触れ合う事でそれが触発されてそうなるとか。俺が知ってるのには後、皮膚が鱗に覆われちまった奴もいましたね」
「それって感染じゃないんですね?」
「違いますね。汚染されればチェックに引っ掛かる。けど、そいつらは全然そういう事はなかったんですから」

 イマージュという言葉だけを聞くと実体のない幻のように思えるが、実際に目に見える形で発生しているのはとんでもない話だ。
 しかし、今までそんな話聞いた事は無かったぞ。

「人間もまだまだ進化しているって事ですかねぇ」

 いやいや、いやいやいやなんかおかしいからそれ。
 俺は謎を解明しようとして謎を増やしてるような気がして一人頭を抱えたのだった。



[34743] 131:羽化 その六
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2015/01/22 10:47
 冒険者の中に時たま怪異のような姿に変貌を遂げる者がいる事は分かった。
 しかし今回の迷宮で起きている現象がその事例に当て嵌まるのかは分からない。
 なにしろどちらの現象に対してもはっきりとした前提条件が示されていないのだ。
 判断出来るはずがなかった。

「木村さん、何か悩みがあるんじゃないですか?」

 どうやら昼飯を食いながらぼんやりしていたようだった。
 伊藤さんが心配そうに俺を覗き込んでいる。

「あー、いや、うーん」

 どうする俺、伊藤父に話を聞くか。
 今はとにかく情報が欲しいのは確かだ。

「ハンターのお仕事で言えない事なら聞きません。でも約束ですから辛い事なら分けてくださいね」

 伊藤さんの言葉はどこまでもまっすぐで、迷いがない。
 自分がグルグルしている時にその言葉を聞くと、まるで迷った挙句に清涼なせせらぎの音を耳にした時にも似た、ほっとする救いのようなものを感じる。
 彼女が迷わないのはきっと、自分の中での優先順位がきっちりと決まっているからなのだろう。
 その点で言えば俺はぐだぐだ迷ってばかりで情けない。

「とりあえずその焦げたタコさんウインナーを貰って良いだろうか?」
「ひゃあ!」

 なんか凄い可愛い声が聞こえたぞ。
 色々な事がどっかに吹っ飛んで一挙に幸せを感じられるような何かだったな。

「こ、これは失敗したやつで!」

 伊藤さんはずっと俺のと自分の分のお弁当を用意して持って来てくれているのだが、彼女の自分の分の弁当箱には時折怪しげな物体が入っている事がある。
 ボロボロに崩れた玉子焼きとか片面が真っ黒なハンバーグとか。
 そして今は足の先端が黒い本当は赤いはずのタコさんウインナーが収まっていた。
 俺の方の弁当箱にタコさんウインナーは無く、その代わりに肉団子が入っている事からなんらかの理由でタコさんウインナーはほぼ全滅したのだと察せられる。

 有無を言わさずそのタコさんを奪い取った俺はぱくりと一口でそれを口に放り込んだ。

「駄目です!焦げてる所は体に悪いんですよ!」

 いや、その理屈はおかしい。
 なんでそれを自分で食おうとしていたのだ。

 実際口に入れたタコさんは足先と思われる部分がジャリジャリと焦げ臭い味で、胴体部分はばりっとしていて案外と悪くはなかった。
 失敗としては可愛い部類だろう。

「わりとイケルぞ」
「くっ、この屈辱、こうなったら」

 伊藤さんはおもむろに俺の方の弁当箱から肉団子を1個奪うと、それを箸に挟んだまま俺の方へとずいと近付けた。

「んん?」
「あーん」
「!!!!」

 ちょ、伊藤さん!どうしちゃったの?
 伊藤さんはすげえ笑顔で肉団子を差し出したまま微動だにしない。

「あーん」
「くっ、参りました…勘弁してください」

 がくりと両手を付いて頭を下げた。
 なぜならここは会社の屋上ガーデンで他の社員の視線があるのだ。
 例え周囲から公認カップルみたいな感じになっていようと、いくらなんでも無理。

「ふ、未熟者め」

 伊藤さんはそう言って肉団子を自分で食べる。
 いいよ、もう。未熟者でも愚か者でも。

「あの、伊藤さん。実は伊藤さんのお父さんに聞きたい事があるんだけど」
「……」

 うん?今のちょっとした間はなんだろう。
 何か困惑に近い感情を感じたんだけど。

「実は、うちの父、あれから様子がおかしくて」
「様子がおかしい?」

 あれからというのは俺が彼女の家を訪問してからって事かな?

「私、あれから父に木村さんとの事を根堀葉掘り聞かれると思っていたんです。でも、その後一切父は木村さんの事をおくびにも出さなくてちょっとおかしいんです。まるで昔現役だった頃みたいな雰囲気になっていて」

 どういう事なんだ?もしかしたら俺は伊藤さんのお父さんに今度会ったら狩られるのか?
 本気なのか?伊藤父。
 いや、まさか、でも。

 俺は前に訪問した時の彼女のお父さんであるジェームス氏の様子を思い浮かべた。
 うん、いや、狩られるかもしれんな、マジで。

 こういう時ってあまり刺激しない方が良いかもしれない。
 とは言え、俺に辿れる冒険者関係の縁ってここしかないからなぁ。

 こないだの多国籍料理店のマスターは俺との縁は薄い。
 どうしたって深い話を引き出せようもなかった。
 それでも何もないよりは良いし貴重な情報ではあったんだけど、おかげで逆に混乱が生じてしまったんだよな。
 情報過多で逆に本当の事が埋まって見えなくなってしまっている気がする。

「父に会うなら私も同席した方が良いと思うんです。父が何を考えているにしろ何かあれば私という盾があります。それほど無茶も出来ないはずです」
「いや、自分のお父さんをもうちょっと信じてあげようよ」
「父を信じるのと木村さんと一緒にいる事とは矛盾しません」

 本当にそうなのか?

「父は頑固者で一度決めた事を覆さない人です。だから私がそばにいる事は父にとって何の妨げにもなりません。でも木村さんは違いますよね?いいえ、私達は違いますよね。だって何かがあったらその苦しさを分かち合うって約束ですから」

 抑止力ですらないのか。
 何があっても二人なら被害は2分の1という事なんだろうか?いやむしろ倍加しないか?大丈夫か?主にお父さんのメンタルとか。

「ええっと、いやその、実は話したいのはハンターの仕事の方の関係なんだ。だから伊藤さんにはあまり同席してほしくないというか、守秘義務があるというか」
「あ、そうなんですね。私ったら、でしゃばってしまってごめんなさい」
「いや、謝る事はないよ。その、プライベートな話の時は頼りにさせてもらうから」

 それはそれで情けないけどな。

 そんな話を昼にしたその夜さっそく、伊藤さんから電話連絡が入った。
 どうやらお父さんは快く会ってくれるらしい。
 伊藤さんすげえよ。

『拍子抜けする程あっさり木村さんに会う事を承知したので、いっぱいいっぱいで頼んだ私が馬鹿みたいでした』
「いや、ありがたいよ。それなら次の週末にお伺いするから」
『はい。そ、その時はもうちょっと手の込んだ物を出せるようにしておきますから』
「無理しなくて良いから、仕事の話だから」
『無理じゃありません。私のスキル向上にご協力していただきたいだけです』
「そっか、それじゃあ楽しみにしている」

 うん、でもそっちに気を取られると本来の内容を忘れてしまいそうなんで、ほどほどにしないとな。



 久々に訪れた伊藤さんの家では到着するなり玄関にお母さんがお迎えに来てくれた。

「いらっしゃいませ。ふふっ、優香ったらはりきっちゃって昨夜から仕込みを頑張っているのよ。楽しみにしてね」
「あ、はい。ありがとうございます」
「おかあさん!」

 俺とお母さんがそんな会話をしていると伊藤さんが奥から飛び出して来て母親を奥へと押し返す。
 飾り気のない実用本位のタイプではあるものの色は薄いピンク色のエプロンがすごく可愛い。

「ごめんなさい、母ったらもう」
「いや、なんか良いお母さんだよな。ええっと、おじゃまします」
「いらっしゃいませ。はい、どうぞ」

 スリッパを揃えてくれるというだけでちょっとドキドキしてしまう。
 いや、今日は仕事だから。

 伊藤父は居間の囲炉裏端で待っていたが、俺の顔を見てすぐに立ち上がった。

「大事な話と聞いた。地下へ行こうか?」
「あ、はい」

 あの地下書庫か。
 ちょっと怖いんですけど、まぁ仕方ないよな。
 実際この話は伊藤さんの耳には入れたくない類の内容だ。
 完全に他と隔離されたあの場所が一番良いのは間違いない。
 俺は大人しく付き従うようにジェームス氏と一緒に地下へと下りたのだった。



[34743] 132:羽化 その七
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2015/01/29 09:59
 重い音と共に扉が閉まる。
 ……大丈夫なのか?これ。

「それで、今日は何の相談かな」

 伊藤さんのお父さん、元冒険者のジェームズ氏がテーブルの一方に腰を据えると、しごく穏やかな声でそう俺に尋ねた。
 地下書斎の重厚なテーブルを照らすのはどこか仄暗い天板照明だ。
 パネル式の天井の中に電灯が収納されているのだろう。
 淡いゴールド掛かったパネルで遮られて拡散した光は、少しセピアっぽい色合いにその部屋を染めていた。

「あ、はい。実はハンターとしての仕事の話なんですが、イマージュについてお聞きしたいのですが」
「ほう、妄想汚染イマージュね」

 直球で聞いた言葉に対するリアクションは薄い。
 驚きも関心もないといった感じだ。

「仕事というからには当然対価が発生する訳だが、どの程度を考えているのかな?」
「内容次第ですが、金銭以外でもそちらの要求を考慮させていただきたいと思っています」
「とても曖昧な表現だな。こちらにとって重要な内容でも君が重要ではないと感じたらゴミとして評価されるという事も起こり得る」
「正直に言わせて貰えば、その通りです」

 ジェームズ氏は口元を歪めてみせる。

「君は交渉に向いてないな。いや、逆に向いているのかもしれんが、世の中には案外と変化球を楽しみたい者は多いのだよ。とりあえずそうだな、対価として娘と別れるというのはどうかな?」

 来ると思ってたんだよな、実は。
 言われるよなぁ、そりゃあ。

「それは俺だけの問題じゃないし、何よりどんな情報でもその対価とは釣合いません」
「ほう、言葉が上手いじゃないか。その調子で頑張ってみたまえ」
「別に上手いこと言って煙に巻くつもりでもないですから。彼女との事は俺は真剣です」
「だからこそ困る。考えてみたまえ、羊がのんびりと草を食む丘に子羊を放したと思ったらそこに狼が混じっていたとか悪夢でしかないだろう?」
「羊飼いが羊だと判断したのなら狼じゃなくて羊で良いんじゃないですか?」
「羊は肉を食ったりはせんよ」

 ダメだ。
 どうしても私的な話に流れてしまうな。
 そりゃあ親御さんからしたら他人の仕事よりは自分の娘だよな。

「その、どうしてもそれを解決しなければ先へは進めませんか?」
「当然じゃないかね?取引とは信頼だよ?信頼出来ない相手と取引は出来ないだろう?」
「分かりました。それじゃあとことん行きましょう」

 腹を括る。
 とは言え、こういう話にお互いが納得するような事があるんだろうか?

「娘は幸せになるべき人間だ。それは分かるだろう」
「分かります」
「そして君は幸せから縁遠い人間だ。それは理解しているか?」
「いえ、そこを納得する訳にはいきません」

 特別な血統だから平穏な生活は送れないというのは分からなくもない。
 しかし、幸せを求める事まで否定はさせない。

「はっきり言おう。君たちは化け物だ。人のフリをして他人を騙すというのは悪辣だと思わないのか?」
「俺達は人間ですよ。この国では俺達にちゃんと戸籍があって人権を認められている。望めば普通に暮らす事は可能なのです」
「紙切れの上の話かね?」
「法の上の話ですよ」

 ジェームズ氏は鼻を鳴らした。

「建前と真実が違っているなんて事は世界では当たり前の話だ。真実は人の定めた決まり事などとは関係なく存在する。お前は人間じゃない。自覚するべきだ」
「それは違う。俺達は人間だ。そもそも普通に暮らしている人々の中にも異能者は存在する。それは単に能力タレントの差異にすぎないでしょう」
「ほう、異能者と言えば隔離されるものだろう。それこそ理屈として破綻していると思うがな」
「隔離されるのは自分で力を制御出来ない者だけです。制御が出来るようになれば社会復帰が出来る」
「鎖付きでな。ああ、確かにそれを言えば君たちもそうだな。がっちりと鎖に縛られているのだから」
「それは責任という意味でしょう。何かの技能を持つ者に責任があるのは当然だ。車を運転する者には免許が必要だし、武器を使う軍隊は命令順守の義務がある。そこに違いはありませんよ」
「なるほど、そういう風に思っているから貴様は平気で一般人の暮らす世界に侵入しようと考えたのだな。所詮化け物は化け物だという事が理解出来ない愚か者だという事か」
「俺を怒らせようと思っても無駄ですよ。この暮らしにたどり着くまでにその手の議論は嫌になる程やりましたから」

 ジェームズ氏はしばし無言で、ひたすらコツコツと指の先でテーブルを叩いた。
 俺は無言で張り詰めた空気をやり過ごす。

「法律か、法律ね……人が平等というのは幻想だと分かっているだろうに、理想主義者という者は度し難いな」
「平等だと謳っている訳ではなく、平等であるべきだとしているんじゃないですか?少なくとも機会は与えられるべきだ。俺にも貴方にも彼女にも、俺の家族や異能者と呼ばれる者達にもね」

 ジェームズ氏は俺の言葉には応えず、一度目を閉じるとふ、と笑った。
 その瞬間床板に光が走り、何かの魔術的陣が敷かれた。
 またかよ!

「腹の探りあいはこの辺りにして、正直に行こう。君は冒険者を嫌悪しているだろう?」
「別に嫌悪したりはしていませんよ」

 陣を構成している光の色がやや青みを帯びる。

「では、怖れている?」
「……いや」

 陣の光が黒ずんで来た。
 これはなんですか?

「ほう、意外な結果だな。だが分かる気はする。世界中で最も勇者の血統ホーリブラッドを狩っているのは冒険者だ。どうせ貴様も幼い頃に言い聞かされて育ったのだろう?冒険者に注意するようにと」
「ええっと、伊藤さんのお父さん。コレハドウイッタコトナノデショウカ?」
「ホーリブラッドだけではない。一部の冒険者は手軽な盾として人間を使う。地域によっては人間は安い買い物だし、術式保存においてはあらゆる道具を上回る使い勝手の良さを誇る。下手をすると怪異よりも悪質な冒険者こそが人間を殺してるかもしれない」

 俺の疑問はスルーされた。
 そして、ジェームズ氏の言葉に、俺は迷宮で会ったあの冒険者を思い出す。
 彼が道具のように使い潰した者達の顔が浮かんだ。
 あれは正に悪夢のような出来事だった。

「そんな連中からしたらホーリブラッドは自分で使うには高価すぎる代物だが、獲物としては一流だ。世界には理解に苦しむ人種という連中は存在するからな。私も実物を見たことはあるのだよ。あれはとある金持ちの屋敷だったな。連中は高価なペットを飼うように特別な人間をコレクションする事を愉しんでいた。ああいう連中は自分の欲望を満たす為には競って金を出すからな、人間を殺せない縛りがある獲物を狩る方が、下手に怪異を狩るよりは割が良いと思っても仕方がない事だろう。商売は需要と供給だ」

 彼の言っている事がどういう事か気付いたら、思わず吐き気をもよおした。
 人間が人間を狩る世界が現実として存在するのだという事を受け入れるのは難しい。
 理屈として理解するのと感情が受け入れるのとは別の話だ。

「もちろん全部の冒険者がそうではない。もしそうだったらとっくの昔に冒険者は国家から排除されていただろう。だが、これで分かったと思うが、私達はお互いに天敵同士だ。本音で語り合えない者と家族にはなれんよ」
「冒険者に偏見が無いとは言いませんが、俺は貴方をそういう冒険者だとは思っていませんよ」

 床の光が淡い水色に変化した。
 いや、これ何なのか分からないんで、ちょっと不安なんですけど。

「面白いのか面白くないのかよくわからん男だな、君は。まぁ良い。前提は整ったという所か。とりあえずここからは仕事の話をしてあげよう」

 え?良いんだ。
 何を納得したのか分からないんで不安なんだけど、決着が着きそうもないプライベートの問題はまた今度にして仕事の話に移れるならまぁ良いか。
 てかこの陣の説明はしてくれないんでしょうか?
 俺が聞くべきなのか?
 でも聞かない方が良いような気もするんだよな。

 そうして怪しい光を放つ陣の上で第二ラウンドが始まったのだった。



[34743] 133:羽化 その八
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2015/02/05 10:47
妄想汚染イマージュの話だったな。これは別段口止めされているような秘密の話ではないが、ハンター達の間ではこの話をする事は忌み嫌われている。冒険者は神頼みや運頼みを大真面目に行うからこれは一種のゲン担ぎのようなものだな。要するに不吉な話という訳だ」
「なるほど」

 確かに仲間が突然化け物になるのは不吉な事だろう。
 あまり話したくないというのも分からなくはない。

「理解していないようなので説明するが、この話が不吉なのは原因が分かっていないからだ。冒険者は案外と理詰めで物を考える。原因が分からない物ほど恐ろしい物はないという事だ」
「原因が分からないんですか」

 ジェームズ氏はコツンとテーブルを人差し指で叩く。

「そうだ。冒険者も初心者の頃なら怪異を理由もなく怖れたり、絶対的な強さを持つ特別な怪異に畏怖したりもする。そういう連中が精神に変調をきたして思春期の妄想よろしく怪物化するというなら分からないでもない。だが、このイマージュを引き起こすのは必ず中堅以上の冒険者なのだ」
「中堅以上の冒険者に怪異を特別視する者はいないと?」
「そうだな、いない訳ではない。なまじ言葉が通じる強大な怪異を信奉したり憧れたりする奴もいることはいる。だが、そういった連中はあまりこの病に罹らない」
「病なんですか?」

 俺は意外に思って聞いた。
 原因不明の現象を病と言い切る根拠が知りたい。

「病というのは必ず一定の症状が共通して現れるだろう?このイマージュにもそれがある。この病を発症する連中はその直前に自分の体内に自分以外の何かがいるようだと思うらしいのだ」
「自分以外の何か?」
「ああ、だから最初はこの現象は憑依の一種だろうと思われていた。しかし探知や分析で彼らから怪異の気配が感じられなかった」

 自分以外の何かが自分の内に在る。
 確かにそれだけを聞くと憑依か寄生を考えるだろう。
 実際それらの現象は怪異を相手にしている場合頻繁に起こる現象でもあった。
 肉体を持たない段階の怪異にとって人間に入り込むのはそう難しい事ではないからだ。

 しかし、その場合は明確に怪異の存在がそこにあるはずなのだ。
 もちろんほとんど探知を受け付けない怪異もいない事はない。
 だが、それらの怪異は人体に潜り込んですぐに活動を停止してひっそりと眠りにつくか自分を自分で封じてしまうという性質を持っていた。
 人間が変貌する程影響を及ぼしているのに感知出来ない怪異というのはまず考えられない。

「原因不明か……ですが、とある元冒険者の方はその人間の思い込みで変化するような事を言ってましたけど」
「そりゃあ冒険者個々人の考え方の違いだな。そいつはつまり思春期の病の延長線上にあるようなもんだと判断したんだろう。そもそもこの病に罹ったやつが怪物に汚染されるなんて言い出すから、妄想に汚染される病、つまり存在しないものを見る病気でイマージュとか呼んでたんだしな」
「……妄想で人の体は変異するものでしょうか?」
「絶対しないとは言わないが、冒険者だけがそうなるというとそりゃあ原因は他にあると思わざるを得ないな」

 ジェームズ氏の口元が皮肉に歪む。
 確かに単なる妄想で体が変化するのなら冒険者以外もそうなってしかるべきだ。
 しかし、実際には冒険者以外にその病気のようなものを患っている者はいない。
 そうなれば当然、原因として考えられるのは彼らの仕事の相手である……

「怪異ですよね」
「そうだな」

 ところでちょっと前から光っている床が気になる。
 特にこちらの体に干渉してくる事はない物のようだが、放置してて大丈夫なのだろうか?
 俺は魔術とか術式の類の解析は苦手なんだよな。
 うちの連中の使う術式なら慣れているからある程度分かるんだけど。
 この陣は既に文字からして知らない物だ。

「ところでお聞きしてよろしいでしょうか?この床は……」
「ああ」

 俺の言葉を遮ってジェームズがさも今思いついたとでも言うように手を叩いて声を上げた。

「はい?」
「そろそろお昼だ。娘が張り切っていたから遅くなると機嫌を損ねそうだ。話がこれまでなら昼食にしないかね?」

 ジェームズ氏が手を叩いた途端、床の光っていた陣の文様は消えた。
 改めて照明の下に照らされた床にはそんな物があったような痕跡すらない。
 もしかしてばっくれる気なのか?
 くそっ、ツッコみたいが下手すると藪をつついて蛇を出すパターンになりそうで怖い。

「そう、です、ね」

 かくして俺は追求を諦めたのだった。

 無事に上に戻ると、家の中にいい匂いが立ち込めていた。
 バターとかパンとかガーリックとか、俺が普段あまり嗅ぐことのない洋風の食べ物の匂いだ。
 全体的に古民家風のこの家だとなんとなくそぐわない感じがするが、囲炉裏のある居間とは違い、その隣のダイニングキッチンは北欧風家具で揃えた洋風の板敷きの間になっている。
 凄く和洋折衷だが、俺の知っている伝統的な古民家の家も、実は畳部分よりも板敷きの場所が多い印象があった。
 台所は元々土間で、そこから上がった囲炉裏端は板敷き、廊下はもちろん板敷きだ。
 畳の部屋は個々の部屋と客間だけなのだ。
 家族は起きている時のほとんどは囲炉裏端で過ごすからいつもいるのは板間となる。
 人が動く場所は板敷きで、くつろぐ場所が畳というのが古い家に多いスタイルだった。
 もちろん武家や地主のような裕福な者の屋敷はまた事情が違ったが、一般の古民家はそんな感じだ。
 とは言え、だからと言って北欧家具が相応しいかどうかはまた別の話だが。

 まぁでも、この家族には似合ってるかな?
 おやじさんが和装のコテコテの外国人、お母さんはおっとりした日本人的おふくろさん、そして娘の伊藤さんはいかにもハーフっぽい淡い色合いの可愛らしい女性である。
 完璧な和室の方がむしろ合わないかもしれない。

 俺を見つけると伊藤さんは一瞬ふわっと嬉しそうに微笑んだ。
 俺も思わずにやけてしまい、通り過ぎたジェームズ氏にさり気なく脇腹に一撃を食らう。
 ちょ、一瞬息が詰まったぞ!なんなの?今のいかにも玄人じみた早業は?日常の一コマで繰り出して良いもんじゃないだろ?

「お、」

 ちょっとふらついた俺に驚いた顔をした伊藤さんに笑い返してなんでもない事をアピールする。
 そうだよな、一人娘だもんな、嫌われても仕方あるまい。

 伊藤さんに導かれてテーブルの一画に着く。
 ジェームズ氏は斜め前の席のようだ。
 伊藤さんとお母さんはまだキッチンにいて料理を運ぶ準備をしているようだった。
 なんだろう、さっきまでとはまた別の緊張が俺を襲った。
 こう、飯を食う雰囲気じゃない。
 というか、何をしていいか分からない。
 ここは手伝うべきなのだろうか?

 焦り出した俺の前に水の入ったグラスが置かれた。

「ありがとう」

 見ると伊藤さんがそれぞれの席にグラスを置き、最後にピッチャーをテーブルの真ん中に据えた所だった。
 俺の言葉にこくりと頷いた伊藤さんだが、どこか余裕がないように見える。
 大丈夫か?

 運ばれて来た料理に、俺は呆然となった。
 茶色く香ばしい香りをさせたパイ生地に包まれた何かの料理と、フランスパンをスライスしてガーリックで焼いたっぽい物、それとクリームシチューが並んでいる。
 どこのレストランの料理?という感じだ。
 言っておくが、俺はナイフとフォークの使い方は自己流だぞ。
 いや、心の中で誰に言ったのか知らんがな。

 料理を全て配膳し終わったらしく、伊藤さんのお母さんは俺の正面に、伊藤さんが俺の隣に腰掛けた。
 伊藤さんは何かもじもじしていたが、お母さんが「料理の説明をしてあげたら?」と言ったのを受けて、俺に顔を向ける。
 おお、凄く緊張しているね。

「あの、メインがスズキのパイ包み焼きで、これ、お父さんの故郷の料理なんです。スズキっていうのはお魚のスズキね」
「なるほど、美味しそうだね」
「パイ生地作りなんてした事なかったのに頑張ったのよ」

 お母様がにこやかにフォローをした。
 いや、フォローのつもりだったのだろうが、伊藤さんは緊張していた上に恥ずかしさが加わったらしい。
 たちまち目で見て分かる程顔が赤くなる。
 まぁ伊藤さんは色白なので普段から顔色の変化は分かりやすいんだけどね。

「もう、お母さんは黙ってて!」
「はいはい」

 楽しそうですね。
 お父さんのジェームズ氏は無言だ。
 無言で包み焼きにナイフを入れると、大きな塊をフォークで刺して一口で頬張る。

「ふむ。たいしたものだな」
「お父さん!行儀が悪いでしょ、まだいただきますもしてないのに!」
「いつも言っているだろう。食事は手早く機能的に済ませるものだ。儀式めいた真似事をする必要はないと」
「もう」
「ほらほら、お父さんはいつもの事でしょう?それじゃあ私達もいただきましょうか?いただきます」

 お母さんはにこやかにお箸を持って両手を合わせるといただきますと口にして食事を開始する。
 俺と伊藤さんもそれに倣って「いただきます」と口にして食事を始めた。
 あ、お箸で良いなら俺も箸が良かったかも。

 パイは俺からすればお菓子のイメージが強い。
 しかしナイフを入れたそれは、バターと白身魚の独特の香りが漂って思わず唾を呑んだ。

「美味い!」

 食べた瞬間驚きと感動から声が出てしまった。
 マジでびっくりしたのだ。

「ほ、本当ですか?良かった」

 心配そうに俺を見守っていた伊藤さんがほっとしたようにそう言って、やっと緊張が取れたように自分の食事に身を入れ始めた。

「この料理はね、本当はクリスマスとか特別な日に出すようなごちそうなのよ」

 伊藤さんのお母さんがニコニコと笑いながらそう告げた。
 なるほど、確かにちょっと豪華な料理だと思ってたんだよな。
 こんな料理が作れるなんて、伊藤さんは凄いな。

「ワインがないんじゃ片手落ちだがな」

 ジェームズ氏がぼそりと言った。
 確かにお酒が合いそうな料理だな。
 俺はワインより日本酒の方が良いけど。
 魚の白身には日本酒が合うと思う。

「昼間っからお酒は出しません」

 伊藤さんの断固とした声が俺の妄想を吹き払った。
 そうですよね。

 さて、うん、パイは良い、それにシチューも良いんだけどさ。
 このパンはどうやって食べれば良いのかな?
 フォークで刺して食べても良いのかな?
 伊藤さんのお父さんは手掴みで食べてたけどあれで良いのか?
 お母さんはお箸でそのまま食べてるけど、うーん。
 伊藤さんが手を付けるまで待つか。

 やっぱり慣れない洋食は気を使うな。
 俺はそう思いながらなんとなく緊張する食事を続けたのであった。



[34743] 134:羽化 その九
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2015/02/12 11:01
 実はマンションの俺達が住んでいる階は丸々俺達のパーティが占拠している。
 と言っても別に俺が決めた事でもうちの弟や妹が決めた事でもない。
 やらかしたのは酒匂さんと言うか、政府の怪異対策庁である。
 まぁ酒匂さんも今や本庁からは独立して特区庁のトップの大臣の一人になってしまったんだから関係無いと言えば関係無いはずなんだが、絶対噛んでると睨んでいる。

 このマンションは吹き抜けの中庭を囲むような形で通路があって、庭側はガラス張り、その通路沿いにそれぞれの個室のドアが並んでいる造りだ。
 通路から見るとこのドアはそれぞれ独立している普通のマンションの部屋に見えるのだが、この階だけ、実は全ての部屋が廊下で繋がっている。
 部屋同士はクローゼットの一画にドアがあり、そこから共用の廊下に出られる仕掛けで、この内向きのドアにも鍵が掛けられるようになっていた。
 
 俺に言わせれば、馬鹿な造りとしか思えない。
 何やってんの?暇なの?政府は。
 普通に表の通路で行き来すればいいだろ!

「この廊下の採光ってマンションの屋上から入れてるんだよね?このマンションの所有者は国なのか?確か契約書には分譲マンションで有名な会社名が書かれてたよな。そもそも建ったのは俺達の入居より1年ぐらい前じゃなかったか?」
「兄さん、ミーティングに来ないから探した。なんで廊下で大の字になってるの?」
「うん、ちょっと迷った」

 妹よ、その呆れたような困ったような目はやめろ。
 いっそ罵ってくれた方がマシだ。
 いや、ほら、この階まだ空き部屋あるじゃんか、隣のお前らの部屋ならともかくとしてミーティングルームへ行く時には迷うんだよ。
 ドアに表札付けろよ、マジで。

 なんだか市場に引かれていく家畜よろしく妹に手を引かれて似たような造りの廊下を進む。
 ミーティングルームは一応角部屋なんだけどこの廊下からは建物の外観を連想出来ないから混乱するんだよな。
 なんで迷路形式にした。

 廊下の一画を押すとガコンと四角く押し込まれた扉が軽々と横にスライドする。
 入った先はクローゼットルームなので真っ暗で狭い。
 まぁ見えるけどさ。

「遅いですよ」
「うわあ!」

 姿が無いのに声が出迎えた。
 この程度の距離の影は浩二の認識エリアとは言え、姿が無いのに声がすればびっくりする。
 絶対わざとやってるんだよな、こいつ。

「ここってあんまり使わないから寒々しいよな」
「なら使えば良いじゃないですか。実家の居間みたいな感覚で」
「掘りごたつにしちゃおうか?」
「いやいや、そんな内装工事しちゃマズいだろ。気楽にゴロゴロ出来るように畳敷きにするとか?」
「それはミーティングルームではなくてプレイルームになりそうですね」
「子供か、俺等は」

 そんなやりとりを経て、でかいテーブルのいわゆるお誕生日席に座る。
 一応チームリーダーだという事で強制的に席順が決められているのだ。
 というか、3人で囲むテーブルじゃないよな。
 どうせなら円卓にしてくれれば面倒じゃないものを。

 とは言え、でかいテーブルは資料を置くには丁度良い。
 俺は冒険者の自伝的物から想像上の冒険譚のような物まで、問題のイマージュ現象らしきものが描かれていると思しき資料をそこに載せた。
 テーブルには既に投影体が設置されていて、簡易電算卓ノートパソコンとの光接続リンクが繋がっている事を示す光点がチカチカと瞬いている。

 空中にリアルな、しかしひと目で映像と分かる一つの像が結ばれた。

「これらが資料として残っているイマージュとやらの実像ですね」
「統一してねぇな」
「ううん、怪異と同じように実際の生物を部分的に模倣している。完全に架空の形はない。これは共通項」
「なるほど、怪異と同じね」

 この手の事はこの二人の方が俺よりはるかに詳しい。
 俺は一つ疑問に思った事を提示してみた。

「メタモルフォーゼと言えば、俺も、いわゆる俺達のように血族と呼ばれる連中の中にも変身するたぐいのやつらはいるよな」

 俺はあまり普段はその事を考えないようにしているが、俺やうちの一族の一部、それに世界中の勇者血統と呼ばれる連中の中には姿を変える者が存在する。
 今回の件とその現象は似ていると言えば似ている気がした。

「僕達の場合は遺伝子にそのようになる可能性の設計図が組み込まれているのですから、彼等とは違いますよ。兄さんは変身する時に自分じゃなくなるような違和感はありますか?」
「あー、なんか理性が飛ぶような危機感はあるけど、自分は自分だと思うぞ。うん、違和感はないな」
「そうですか。これ以上物を考えずに戦うようにはならない方が良いので変身は出来るだけ避けた方が良いですね。ええっと、確かそういうのを脳筋というのだそうですよ」
「いらん事ばっかり覚えやがって。段々俗世にまみれて来やがったなお前も」
「脳が筋肉になっても外側が骨で覆われているからあまり意味がない」
「マジで考えなくて良いから!」

 由美子は脳筋という言葉に何らかの感銘を受けたらしい。
 何かを考えるようにノートに書き込みをしていたが、内容を覗き見したりはしなかった。
 主に自分の心の平安の為に。

「兄さんが仕入れてきた情報と、今まで残っている記録からしても、冒険者達の一部に発生するこの現象は、本人にとっては違和感のある何かが自分の中に生じる事によって起こるという流れが見えますね。やはり憑依に近いと思うのですが、怪異に詳しい冒険者達が口を揃えて怪異の反応は無いと言っているのが引っ掛かりますね」
「それについては、これを見てみて」

 浩二の言葉に由美子が分厚い冊子を取り出した。
 飾り気のないその冊子はどうやら学術論文をまとめたもののようだ。
 浩二が示されたページをめくり、俺も覗いて見るが、なんだか専門用語ばかりで意味が分からない。
 解説を求む。

「これはつまり、感情の澱みの蓄積が怪異を誕生させるが、その為にはその核となる強い指向性のある意思が必要であるという論文ですね。さして斬新な内容とは思えませんが」
「この展開の部分、人と人の感情は共鳴するって所」
「ああ、……つまりこれは怪異と長く接していると共鳴して怪異の核に似た意思が人の中に生じるという事ですか」
「そう」
「しかし、それで人が変化するというのは少々乱暴な話ですよね。そもそも怪異は形が無いからこそ自在に変化する事が出来るのです。元々肉体という枠を持った人間が形を変えるのは怪異が形を持つより何倍も難しいはずです」
「そう。だから、こっちのレポート」

 由美子が別の、今度は薄っぺらい冊子を持ち出した。
 どうやらかなり古い雑誌のようだ。

「『人体の神秘、ウェルズの悪魔の謝肉祭』……これは神秘主義者の起こした事件を面白おかしく脚色した怪しい雑誌じゃないですか」
「でも、いくつか興味深い記述がある。強い暗示によって実際に指先が鉤爪状になって犬歯が伸びたという詳細なレポートが、でまかせとは思えない詳細さ」
「ううん、ですが、これで判断するのは無理がありますよ」
「私達は学者として動いているのじゃない。必要なのは可能性」

 なんか分かるようで分からない会話だが、なんとなく要点は分かって来たような気がする。

「ええっと、つまりまとめると、冒険者が怪異と長く接したせいで自分の中で怪異を育ててしまったって事か?でもそれだとなんで怪異の反応が無いんだ?」
「自分の中から生じたモノはその本人の一部には違いない。多重人格のようなもの?」
「疑問形かよ!」
「まぁこれ以上は実際にそうなった相手に会ってみない事にはわかりませんよね。さて、そういう人達っていったいどこにいるのでしょうか?」

 浩二が口元を歪めて皮肉げにそう言った。
 姿が変わってしまった冒険者か。
 単純に考えて仲間に殺されてしまったか、いや、理性があるまま変化した場合はどうなんだ。
 いくら姿が変わっても生死を共にした仲間をそう簡単に殺せるか?

「冒険者仲間が匿っている?」
「一番怪しいのはお仲間ですよね」

 ううん、しかしこれは、調べるにも下手すると冒険者全体を敵に回す事になるんじゃないか?
 う~ん、どうしたもんかな。

「教授に聞いてみる」

 由美子が唐突にそう言った。

「うん?」
「元に戻す方法を研究している人がいるかどうか」

 なるほど。
 冒険者とこの件で相対するなら何かの引き換えになる情報が必要だろう。
 由美子の大学は術式研究では第一線だと聞いたし、あの教授はフィールドワーク重視で世界中を飛び回っているらしい。
 何か有益な情報が出て来るかもしれないな。

「そうだな、よろしく頼む」
「頼まれた」

 うちの妹が頼もしい。
 なんだか感動してしまうな。
 身内にしか心を開かなかったこの子がいつの間にかこんなに立派になって。
 大学に行けて良かったなぁ。

 俺はしみじみと感動した。
 
「兄さんみたいなのをシスコンというらしいですね」
「お前は変な方向に俗っぽくなるな!」

 弟がいったいどんな連中と交流しているのか知るのが怖い。

「そうそう、知り合いに教えてもらってバケツプリンを作ったんですが、みんなで食べましょう」
「わーい」

 一般的な若人と比べるとやたら感動の温度が低いが、それでも確かに我が弟妹は盛り上がった。
 俺を含めてうちの兄妹はお菓子好きが共通している。
 全部酒匂さんのせいだ。

「なぁ、コウよ。お前いったい……」

 どこでそういう諸々の俗っぽい情報を仕入れているんだと聞こうとして止めた。
 世の中知らなくて良い事は確かにあるはずだから。



[34743] 135:羽化 その十
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2015/02/19 09:49
 間を読まない人間ってのはどこにもいるものだ。
 例えば他人が一生懸命下準備をして推し進めていた仕事を台無しにする奴とか。

「どうせお前ら俺を殺すんだろうがぁあああ!」

 冒険者で賑わう特区の、彼らの間で宿屋街と呼ばれている通りでの出来事だ。
 突然、特区内に怪異が出現したという警報が発令され、周囲に緊張感が走ったのだが、蓋を開けてみればそれは怪異では無かった。
 自らを山犬と名乗ったそいつは、どうやら国内の単独ソロ冒険者で、協会にもカンパニーにも所属していない、保証のない命を担保に無茶をやるタイプの冒険者だったらしい。
 詳しい情報は後から聞いた話だが、どうやらそれなりに実績はあった冒険者だったようだった。
 それまでフィールドで稼いでいたのだが、この迷宮に一攫千金を夢見てやって来たという事である。

 ソロである以上、その男に信頼出来る仲間という存在はいない。
 迷宮は到底1人で攻略するような場所じゃないのだが、それははぐれものははぐれもの同士という事で、野良パーティという一時的な契約を結んだパーティを組み、迷宮に潜って獲物を山分けする習わしがあるようだった。
 そして、この山犬(当然本名じゃない)という男は、地元出身でそこそこ腕が良いという事で、はぐれものの中でも組む相手に困らず、ほとんど毎日迷宮に潜っていたという事だった。

 そしてメタモルフォーゼ化、イマージュになった。

 変化した自分の体を、当初は装備やマスクで隠していた男だったが、とうとうどうしようもない程完全に変化してしまい。
 狩る側から狩られる側になったと思い込んで、思い余って暴れだしたのだ。

 相談する相手というストッパーがいないと、こんな時は自分の思い込みだけで思いっきり転がり落ちるもんなんだなとしみじみと思わせる事の次第である。

 運が良い事に、というか運が悪いのかもしれんが、俺達は丁度冒険者の街、特区に立ち寄っていた。
 最近の調査内容からしてみれば願ったりかなったりのはずなのだが、大学の先生やら冒険者協会やら政府のお偉方やらと難しい調整を行っていた俺達からすれば、通販で購入予定の品物が目の前に捨ててあったような気分になるのはしょうがない所だろう。

「こりゃあ確かに怪異じゃなくて人間の感触だよな」

 騒動を感知した軍によってたちまちの内に張られた防衛線を、冒険者達が今にも破らんとしている。
 彼らを突き動かしているのは好奇心か功名心か微妙な所だ。
 とは言え、さすがに軍も百戦錬磨の冒険者相手にこの場の封鎖を長く持たせる事は出来ないだろう。

「見た目はあの、ワーウルフにちょっと似ている」
「それはそうだが、あれよりなんというか生臭い感じ?ええっと、精霊っぽくないというか」
「まんま人間ですからね。やはり走査でも怪異の反応は出ませんね」

 暴れている山犬という男は、その名前の通り、二本足で立っている犬のような見た目になっていた。
 とは言え、犬という言葉から連想される可愛さは微塵もなく、全身を剛毛に覆われた化け物としか言いようがない。
 人間が代を重ねる事なく一代でそこまで変化するもんなのか、驚きの真実だ。
 今、その山犬男は軍の特殊装甲車の繰り出す対能力者用ジャミングによって抑えられている。
 この男が能力者と言えるかどうか分からないが、もし能力者でなくても、このジャミングは波動を乱す効果があるので、無能力者ブランク以外の普通の人間なら、上手く行動が出来なくなる程度の効果は期待出来る。
 実際その男の足取りはふらふらとしていた。

「てか、俺らは参戦しちゃいかんのかよ!」
「あなた方は仕事が違うでしょう。これは私達の仕事ですよ」

 苛立つ俺に封鎖係の軍人さんがなだめるように言った。
 まぁ相手は人間だから確かにそうなんだけどさ。
 この件をずっと追っかけてた身からすればもどかしい事この上ない。
 しかもこの状況、どうも好転しそうにないんだけど、どう収めるつもりなんだ?
 殺傷兵器を使うかどうかどうも決めかねているようで、軍の動きが鈍い。
 いくら姿が化け物だからって、大勢の冒険者達の目の前で仲間を問答無用で殺したりしたら何が起こるか分からない。
 さすがに死ぬような攻撃をいきなり行ったりはしないだろうとは思うのだが、自分がコントロールしていない状況はどう転ぶか分からない怖さがあるな。

 そうこうしている内に盾に守られた隙間から山犬男に向けてネットが発射された。
 なんでも蜘蛛の糸を参考に開発された鎮圧用ネットらしい。

「こんなもんでえええ!」

 一瞬ネットに包まれた男は、それを分解して拘束を解いた。
 おい、能力者かよ。

 熱波のような物を感じたので熱系の能力者かもしれない。
 ジャミングの影響があるからか放射はすぐに収まったが、ネットは役に立たなくなったので山犬男にとっては問題ないという所か。
 そう言えば火や熱は人間の細胞に元々備わっている機能だからか能力が発現しやすいと聞いた事があった。

 軍はめげずに次の手を打ち出した。
 ドン!と重い発射音に、周囲の冒険者達が少し騒然としたが、どうやら殺傷武器ではなくゴム弾だったらしい。
 それは砲丸投げの球ぐらいの大きさだったが、山犬男は腹で受け止め、平気でそれを拾うと、投げ返した。
 見た目だけじゃなくて、身体能力が強化されてるっぽい。

 ドウン!と、重い衝突音と共に、包囲の一画に穴が開く。

「いかん!出るぞ!」
「ん」
「あ!」

 俺が飛び出そうとした時、浩二が何かを見て取って、短く声を上げた。
 開いた穴に向けて山犬男が突っ込むより先に、その穴から飛び出した者がいたのだ。
 そいつが手にしていたのは、まるでステンレスの物干し竿を半分に切って両手に持ったような物だった。
 伸縮が出来るようで一振りして伸ばしたそれを持ったまま両手を広げて山犬男に突進した。
 バチッ!と弾けるような音と空気が焦げるような臭い。

「あ!がっがぁあああ、があっ!」

 山犬男は激しく痙攣するとひっくり返った。

「冒険者の面倒は冒険者が見る。軍隊なんぞお呼びでないんだよ」

 薄く笑ってそう言ってみせたのは、燃えるような赤毛にスレンダーな体をライダースーツで覆った、どうやら女性らしき冒険者だった。

 そいつは何かに気付いた風にふっとこっちを見ると、にィッと笑い、まるでごちそうを前にした蛇を思わせる雰囲気をまといながら、真っ赤な舌でぺろりと自分の唇を舐め上げた。

 こええ。
 俺はこの冒険者とは一切関わりあいになるまいと心に決めたのだった。



[34743] 136:羽化 その十一
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2015/02/26 09:30
 異形の冒険者は地に倒れ、乱入した女冒険者は仁王立ちしてそれを見下ろしている。
 面目を潰された形の軍の面々はこの事態に苛立ちを隠しきれてはいないが、とりあえず騒ぎは終わった。
 ほとんどの者がそう思っていた。

 いや、俺も当然そう思って、どこか粘着性のある視線を送ってきた女冒険者から距離を取るべく下がった。
 しかし、その当の女冒険者はそう思ってはいなかったのだ。

「死ね」

 掲げた手の中の武器、青白く輝く金属棒のような物を握る手に力が篭もるのを見て取った瞬間、俺は自分が判断を間違えた事に気付いた。
 やばい、こいつあの变化した冒険者を殺す気だ。
 慌てて身を翻そうとするものの到底間に合う距離ではない。
 バリッ!と散った青い火花を唖然と眺めた俺の視線の先で、それは起こった。

「そうはさせないわ」

 涼やかな翻訳言語が響く。
 その瞬間、倒れ伏した異形の冒険者の男の周囲四方に巨大な魔法陣が浮かんだ。
 複雑に刻まれた文様が上下左右に輝き合う。
 個々の魔法陣だけではない、その4つの魔法陣全てが互いに干渉し合い、一つの閉じた力場を形成しているのだ。

 振り下ろされた女冒険者の武器は、輝きを失って弾き飛ばされる。
 初めてその女冒険者の顔が愉悦を消して歪んだ。
 集まっていた野次馬の列が割れて、1人の女がその場に進み出る。
 揺らぐ銀の髪、睥睨する薄青い瞳、我らがアンナ嬢だ。

「この私が、そう何度も同じ事を繰り返させるものですか。あなた達冒険者は人の命を軽く扱いすぎるわ、いいこと、私がここにいる限り、殺しなど許しはしないのだと覚えなさい」

 地を這うような怒りを秘めた言葉だが、おそらくここに集まった冒険者には何がなんだか分からないだろうな。
 彼女は迷宮で目の前で人が死んだ事が、いや、救えなかった事が相当のトラウマになっていたらしい。

「ちっ、シット!くそビッチが!」

 翻訳術式を通してない生の声で怪しい日本語?を放った女は、たちどころに周囲の軍人さんに取り押さえられた。
 どう見ても外国人で翻訳術式を使ってない所を見ると、この女冒険者は見た目に反してかなりのインテリだな。
 今どき外国語を勉強する人間は相当の知識層だ。

 俺は自分が何の役にも立たなかったにもかかわらず、鉄面皮よろしくアンナ嬢に話し掛けた。

「お久しぶり。もうお国に帰ったと思っていたよ」

 俺は翻訳術式を仕込んではいないが、アンナ嬢が使用しているので会話は問題なく出来る。

「あ、アナタ!あの変態野郎をなんとかしなさい!」

 アンナ嬢は俺を見るなりそう怒鳴り付けた。
 いや、ええっ、あいつまだアナタの所にいるの?

「……まぁいいわ、今はそれどころではないものね。そこのアナタ!」

 アンナ嬢はピッ!と軍の現場指揮官らしき男を指さす。
 やめろ、魔法使いに指差されたら呪われると思って怖がるだろうが。

「どこか静かな閉ざされた場所を私に提供しなさい!それとこの男を運ぶから移動用のカートを用意して!」

 アンナ嬢は外国人で我が国では何の権限もないのだが、軍の連中は気圧されたらしい。
 いや、もしかしたら彼女がロシアの勇者血統である事を知っていたのかもしれない。
 短い返答と同時に、まるで司令官から指示を受けた下級兵がごとくすみやかに行動した。

 そして、なぜか俺たちも彼女に同行する事となった。
 いや、なぜかではなくそこにイマージュ化した冒険者がいたせいなんだけどな。

「げ、元気そうでなにより。アイツまだおじゃましているのか」

 移動の最中、軍用ジープで隣り合わせる事となったアンナ嬢に俺は話を振った。
 アンナ嬢はギロリと俺を睨んで、すぐにため息を吐く。

「本当に邪魔な男よ、あれは。でも、恐ろしく優秀だわ。うちの技術部の連中と何か語り合ったと思ったら、祖国に招かれて、なぜだが正式な嘱託研究員の資格を取得して、日本駐在スタッフとして逆派遣されて来たのよ!なんなの!アレは!」

 うわあ、すげえよ、あの変態、鉄の扉と言われるロシアの秘中の秘とされていた勇者血統関連のスタッフに潜り込んだんだ。
 変態すげえ。
 どうなっているんだ?

「その変態が木下院生の事なら確かに彼は優秀。魔法解析や魔術解析において世界的なヘルパーとして人気がある。彼の論文は常に新しい技術の突破口と言われている」

 由美子がぼそりと告げた内容に俺は驚愕した。
 あの変態、そんな凄い奴だったのか?
 いや、そんな凄い奴だったから変態でも許されていたのかもしれない。

「それは、ご愁傷様」

 だが、反射的に俺の口からアンナ嬢に向かってこぼれ出たのは慰めの言葉だった。
 だって、どんなに優秀でも変態は変態だからな。

「全く、って、今はそんな話をしている場合ではないわ。アレはなに?」
「あれって、さっきの冒険者の事か?」
「姿が変わっていた冒険者の事よ」

 アンナ嬢はそう言って頷いた。
 そうか、何も分からないのに事態に介入して、自分の権限であの冒険者を確保して保護、更に他国の軍に命じてどっかに運ばせてるのか。
 行動力ありすぎるだろ。

「あれは、まぁ、なんというか冒険者に発病する病気のようなものらしい。良くはわからんが」
「病気?まさか」

 アンナ嬢の言葉は俺の解説を明確に否定した。
 ん?あれ?何か分かってる?

「あれが病気じゃないって分かるのか?」
「当たり前よ。あれは病気なんかじゃないわ。私にとっては馴染み深いもの、『呪い』よ」
「なんだって!」

 呪い、いわゆる呪術は、俺だって知らない訳じゃない。
 恐ろしい程手間がかかるが、一度発動してしまうとそれを破る事はひどく難しい。
 俺は理解力が足りないからちゃんとは理解していないが、呪術というのは因果をあえて縺れさせてループを作り、そこになんらかの意思を注ぎ込むようなものだという事だ。
 うん、良く分からないな。

 しかし、呪いか。
 でも、呪いだとしたらそれを仕掛けているのは怪異という事なのだろうか?
 だが、呪いというのはそう簡単には発動しない。
 例えば透明な色を永遠重ねて黒にするような、そんなやたらと面倒な手順が必要なのだ。

「とにかく説明は後、あの人を急いで治さないと」
「えっ?治せるのか?」

 今度こそ本当に仰天して、俺はアンナ嬢に詰め寄った。
 呪いって治せるもんなのか?

「あの呪いは噛み合いがそれ程深くなかったわ。だから力づくで解呪出来る。ただ、反動があるかもしれないから密閉空間じゃないと危ないの」
「お、おう」

 聞いても全く分からない。

「呪術の反動は災いを招く。大丈夫なのですか?」

 俺が分からないだけで浩二は理解できていたらしい。
 まぁ由美子も当然この話を理解しているんだろうな。
 術式についてはこいつらは得意分野だし。

「安心しなさい。私は解呪については熟練しているわ」

 アンナ嬢はそう胸を張って言った。
 解呪に熟練って、どんな理由なんだ?
 想像すると怖いんですけど。

 やがて、車は特区の軍隊拠点である特区駐屯地に到着した。
 てか、良いのか?駐屯地にアンナ嬢入れて。



[34743] 137:羽化 その十二
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2015/03/05 07:18
 通された部屋は何もないコンクリ打ちの部屋で、およそ10畳程であろう広さだった。
 壁の一方に大きな鏡があるのだが、雰囲気的にもしかして偏光性の鏡マジックミラーなのかな?と思う。
 部屋の四隅には情報伝達の魔術道具である監視球サーチアイがあり、その徹底ぶりからもしかしたら尋問用の部屋なのかもしれない。

 そんな場所に俺たち3人と、イマージュ化した冒険者の男、更にそれを魔法陣を使ってガッツリ拘束しているアンナ嬢というメンツを通して扉を閉められてしまった。
 もしかして監禁された?
 ちょっと不安になって扉に手を掛ける。
 波動感知式らしいその扉は、ガコンというちょっと鈍い音を立てて横にスライドした。

「何か御用ですか?」

 扉の前には武装状態の兵士が立っている。

「あ、いや、何かしちゃいけない事とかあれば聞いておこうと思って」
「我々は、あなた方から要望があればお聞きするようにと言われております」
「そうなのか。いや、今のところ特にない。何かあったらまた声を掛けさせてもらう」
「了解しました」

 うん、どうやら杞憂だったらしい。
 何の説明もなかったのはあっちもバタバタしているせいなのかもしれないな。
 扉を閉めて中へと戻る。
 その間にもアンナ嬢はめまぐるしく魔法陣を切り替えながら展開を続けていた。

「なあ、何やってるのか分かるか?」
「さあ、僕は魔法陣はそこまで詳しくないですが、彼女の展開しているのは通常の物とは違いますね」
「あれは探査陣、おそらくあの人の状態を確認しているんだと思う」

 俺や浩二では分からなかったアンナ嬢の魔法陣だが、どうやら由美子には理解出来ていたらしい。
 ロシアの魔法は独特と聞いた事があるが、よく分かるな。

 その魔法陣は、普通の五芒星(ペンタグラム)や六芒星(ヘキサグラム)とは違い、四角を重ねたような図柄に円陣がいくつか細かく入り、更にそれが立体的に円錐状に展開している。
 その円錐部分に幾重にも別の魔法陣が展開しているっぽいのだが、薄い光の膜のようにしか見えないし、チカチカとまたたきながらその光が移動しているとなるともはや意味が分からない。

「形代が必要ですわ」

 と、それまで黙々と作業をしていたアンナ嬢が急にそう言った。
 由美子がおもむろに懐からやっこさんの形に折った懐紙を取り出す。
 え?それ身代わり札?

「いえ、それではダメ。空っぽの空間を重ねた、魂(ドウシャ)用の物が必要です」

 一瞬、翻訳術式が乱れて、魂、精霊、命などの言葉が彼女の「ドウシャ」という声に被って聞こえた。
 翻訳し辛い意味合いっぽい。

「怪異封じ用の水晶はどうだ?」
「鉱物は危険です、出来れば溶かせる物か燃やせる物が良いのですが」

 俺の提案にもアンナ嬢は首を振って応える。
 なかなか要求が難しいな。
 と、ドアがノックされ誰かが訪れた。

「君たちは自分から面倒に首を突っ込む趣味でもあるのかね?」

 どこかで聞いた声だなと思って振り返ったら、ちょっと懐かしい顔が見えた。
 えっと、確か軍の迷宮攻略部隊の部隊長さんだったよな。

「待って、あまり人を増やさないで。調整が難しい。出来れば一般の人は壁の向こうに行ってて」

 アンナ嬢がこちらに顔を向けないまま、厳し目の口調で告げた。
 術者は繊細だ。
 言うことには従った方が良いだろう。

「ええっと、武部部隊長さんだったっけ?彼女がああ言っているので出来れば事が済むまで外で待機しておいてもらえないかな?危ないっぽい」
「私は軍人だぞ。仮にも民間人と外国からの要人を危険に晒して待機など出来るか」

 あー、言葉の選択を間違えたかな?
 軍人さんのプライドを刺激したみたいだ。
 こういう嫌に真面目な人は面倒臭いんだよな。

「軍の偉いさん。藁人形を持って来て。空白(ブランク)のやつ」

 他人の立場とか場の状況とかはあまり気にしない由美子は、相手が偉い人だと分かっていながら命令口調でそう言った。
 大学に行って人付き合いも覚えたのに、まだまだ先が不安である。

「藁人形だと?呪いの儀式でも行うつもりか?洒落にならんぞ」

 あ、部隊長さん引き攣っているな。
 確かにこの面子で藁人形とか怖いよな。
 てか、そうか藁人形ね。
 空っぽの空間を重ねた魂の形代、由緒正しき呪いの代用品だ。

「逆、呪いを解除する……みたい?」

 妹よ、疑問形なのか。
 まぁ確かにアンナ嬢の思惑は俺たちに完全に理解出来る物ではないよな。
 部隊長さんは臆さない由美子に気圧されたのか、一瞬困ったような若者らしい素の顔を見せたが、すぐに軍人の顔に戻って頷いた。

「了承した。用意させる」

 そう言うと、扉の外の兵士に手早く命令を伝えて走らせる。
 本人はそのまま室内に残った。
 ……出て行かないのね。
 しかしさすが軍人さん、即断即決なんだな。

「しかし、それはどうにか出来るようなものなのか?」

 部隊長さんは疑わしげに言いながら魔法陣に囲まれた男に近付いた。
 怖いもの知らずだな。

「止まって!それ以上は近付いてはダメ。軍の将官の人なら仕方ないから立ち会ってもらうけど、指示は守っていただくわ」

 アンナ嬢が相変わらずこっちを全く見ないまま指示をする。
 部隊長さんも立ち位置に拘る気はないのか素直にそこで足を止めた。

「分かりました。しかし、貴女に万が一の事があれば国際問題です。絶対に大丈夫だという確証がない限り貴女にそれ以上の行動をしていただく訳にはいきません。どうか、もうそれまでにしてお帰りになっていただけませんか?その男の身柄は我々が保護いたします」

 ん?藁人形を取りに行かせたのに解呪を中止させるつもりだったのか。
 この人って分からないな。
 でもまぁ国際問題ってのは確かにそうだよな。

「おかしな事を」

 アンナ嬢は始めて振り向くと、普段からは考えられないような柔らかな笑みを浮かべてみせた。

「人を悪魔から救うのが私達の存在意義です。その事に国や立場など関係ありません。この人もあなたも、私に守られる側なのですよ」

 彼女の言葉に、部隊長殿はいささかたじろいだようだった。
 彼は代々の軍人の家柄だと聞いている。
 人を守るべきと考えた事はあっても、まさか自分が守られる側になるとは考えた事もなかったのだろう。
 しかしアンナ嬢の考え方ははっきりしているな。
 ふらふらしている俺からするとちょっと羨ましいと言うか、恥ずかしいというか、いやいや、そういう役割に囚われる事こそが俺が嫌になって捨てた事であるはずなんだけど、一方でどうしようもなく憧れる生き方でもある。
 誰かの為に生きて誰かの為に死ぬという事は、俺達の血統にとって最高の生き方だと考えられているのだ。
 教育とか、申し合わせとか、そういうのではなく、本能レベルで惹かれてしまう。
 だが、それは、

「馬鹿な事を、我々軍人は自ら望んで民を守る立場となった者だ。貴女方のようにそういう風に造られた者達とは違う。そういう言われた方は心外だな」

 そうだよな。
 自らそう望んでそう有りたいと努力している者にとっては俺たちの在り方は侮辱のようなものなのだろう。
 時々、そうやって俺たちの考え方に対して侮蔑の目を向ける人がいる。
 造られし者か……久々に聞いたな。
 アンナ嬢はちょっときょとんとした顔になると、困ったように頭を下げた。

「あなたの誇りを傷付けてしまったのなら申し訳ありません。そういうつもりではなかったのです」
「あ、いや」

 豪華な美女に頭を下げられて昇っていた血が下がったのか、部隊長殿は慌ててアンナ嬢の謝罪を遮った。

「こちらこそ、失礼な事を言ってしまったようだ。申し訳ない。だが、たとえ力で及ばなくとも、守られる事を良しとしない者もいる事を理解してもらいたい」
「はい。分かりました。それに謝罪などなさらなくて結構ですよ」

 部隊長殿はアンナ嬢から視線を逸らしてため息を吐いた。
 ふと俺と目線が合う。

「……」

 なんで睨んでるの?
 俺は何もしてないよね?

「ったく度し難い」

 いや、俺に言ってもさ。
 それとも俺にこそ言いたいのか?
 困惑して、伝染った訳でもないが、俺もこっそりため息を吐いたのだった。



[34743] 138:羽化 その十三
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2015/03/12 05:36
 密閉された部屋の空気が変わるのが分かる。
 鳥肌立つような気配は最近感じた物と似ていた。
 あの精霊の領域だ。

 多重に重なった巨大な魔法陣がそれぞれがそれぞれの方向へ回転していて何がなんだか分からない。
 唯一の一般人である武部部隊長は顔色が酷い事になっているんだが、大丈夫か?

 もはや怪異としか見えない姿の冒険者の男は床に横たえられ、その少し上に藁人形が浮いている。
 非常にシュールな絵面だ。
 ちょっと怖い。
 それを十重二十重に取り囲む巨大な魔法陣が灼熱したような朱金の色に輝いていた。
 アンナ嬢は唇をほとんど開かずにうっすらと開けた状態で喉を震わせて詠唱する呪言を紡いでいる。
 由美子によると呪文や祈りを唱える真言というやつらしい。

「ぐっ」

 おおい、やべえ武部部隊長さん真っ青じゃないか。
 気付いた由美子がこっそりと守護陣を発動したのが見える。
 大丈夫なのか?こんな魔法が動いている場所でそんなの発動して。

 やがて宙に浮いた藁人形の気配が濃密になって来た。
 いわゆる悪霊と言われる物に似た気配だ。
 怪異となるといわば全く別の生き物のような感じになるが、この霊と呼ばれるような存在はもっと生々しい人間っぽい物だ。
 その藁人形が身悶えして、「ギチギチ……」というどっから出ているのか分からない音か声みたいな物を発しているのはちょっと悪夢的だな。

「天に座す我らが父よ、この哀れなる貴方の子を悪魔の手より救いたまえ」

 呪文から祈りにアンナ嬢の言葉が変化する。
 と、天井の方から一筋の金色の光が降り注ぐ。
 神霊降臨。
 霊格上位の神と呼ばれる精霊が俺たちの感じているこの世界と直接接続リンクする荒業だ。
 普通の自然神なら無茶も良い所だが、これが人工の神の良い所で、ある一定以上の資格を持つ聖職者ならまず失敗しないらしい。
 そもそも元々1人1人の信徒と彼らの神とは直結している。
 彼らの神と信徒の関係は互いが親であり子である関係と言って良いだろう。
 信徒1人1人の祈り自体には奇跡を起こす力は無いが、それが束ねられた先に神が居るのだ。

 その光を浴びた冒険者の男の容貌がみるみる変わり始める。
 体の表面をびっしりと覆っていた黒い硬い毛は抜け落ちて煙のように消えていった。
 突き出た鼻と口が人間の範囲に収まり、鉤爪のようになっていた指先もゴツくてでけえが、人間の男の手の範疇に縮む。
 広がっていた耳も人間の物に戻り、痩せていながら筋肉質の倭人の男の姿となった。

「おお……」

 それまで青白い顔で吐きそうな様子だった武部部隊長さんが感嘆の声を上げて身を震わせている。
 今度は別の意味で大丈夫か?
 いきなり彼女の足元に跪いて信者にならないだろうな?

 大きな魔法陣が消えていく中、前後左右と天井方面の魔法陣が縮んでいく。
 そのまま藁人形を取り囲むと、ふいに底辺に白い魔法陣が浮かび上がり、蓋をするようにその藁人形を封じ込めた。

「終わりました」

 アンナ嬢の声が響く。
 まるで異界にでもいるかのようだった空気が、元の冷えたコンクリの閉じた室内の空気に戻った。
 気付いたら俺まで汗だくだ。
 精霊の気配というものは普通の人間にとっては毒となる。
 互いの存在が異質すぎる為、上位種である高位精霊に人間は押しつぶされてしまうのだ。
 その存在を常態で受け入れる事が出来るのは巫女だけである。

 アンナ嬢の白い儀式用らしき服も汗で身体に張り付いて、ちょっと目のやり場に困る状態になっていた。
 妹よ、その目はなんだ?
 俺はガン見とかしてないからな。

「呪い解除?まるで悪霊祓いのよう」

 その妹がアンナ嬢にさっそく質問を発している。
 お前のその知識欲はすげえが、なんか疲れている人を質問攻めにするのはどうかと思うぞ。

「ええ、普通の呪いなら施した術者に繋がりを辿って還す事が出来ます。でもこの呪いは本人の内側から来た物、還す場所などないのです」
「なるほど。でも、なぜ?貴女の国ではこんな事がよく起きてる?」
「いいえ。でも、私にとっては馴染み深い病と似ているのです」
「病?」

 場の空気など読まない由美子が尚も食い付こうとしたが、アンナ嬢はちらりと視線を武部氏に送って口を閉じる。
 血族に関する事なのか?
 由美子も何かを悟ったようにそれ以上はしつこく質問したりはしなかった。

「ところでその男はもう安全なのか?」

 本人がか、他人に対してかは言わずに武部部隊長がそう尋ねる。
 アンナ嬢は複雑な顔を見せた。

「今は、と答えておきます」
「今は?という事は今後また同じ状態になると?」
「ええ、条件が揃えば」
「条件だと?」

 噛み付くようにアンナ嬢に迫る武部部隊長を俺はその肩を軽く掴んで止めた。

「待った。この手の術は術者の体力を奪うと相場が決まっているんだ。彼女を休ませた方が良い」
「っ!あ」

 まるで敵を尋問する軍人そのものになっていた武部部隊長は、そこでようやく我に返ったらしい。
 鼻白んだ顔になって俺の手を振り払うと、アンナ嬢に向かって深く頭を下げた。
 こんな時だが軍人さんは礼が綺麗だな。

「申し訳ない。助力をいただいたのに失礼な態度を取ってしまった。休憩場所を用意しますのでそちらで休んでいただきたい」
「いえ、私は宿の方に戻ります」

 アンナ嬢は謝罪を受け入れたのか受け入れないのか分からない態度でそっけなくその申し出を断った。
 まぁここでゆっくり休めないのは分かる。

「そう言わず、ちょっとだけでも休ませて貰えよ。今戻るとそのまま倒れるんじゃないか?」
「そんな無様は晒しません」

 俺の言葉にアンナ嬢はむっとした顔になってそれを否定した。
 だが、ちょっと考えると、武部部隊長の方に向かって軽く会釈をしてみせる。

「分かりました。少し休憩をさせていただけますか?」
「承りました。こちらへ」

 武部部隊長はドアを開くとそのまま外へと彼女を連れ出す。
 俺たちもそれに続く事にした。
 今転がっているこの冒険者に何かを尋ねるのは無理そうだし、それならアンナ嬢と話がしたい。

「なんだ、お前たち」

 部屋を警備していた兵士に何事か指示を出し、更に歩きながら通信機でやりとりをしていた武部部隊長殿は、ぞろぞろと後を付いて来る俺たちに気付くと、不審そうにこちらを見た。

「お茶のご相伴にあずかろうかと」
「なぜ茶を出す事が前提なのだ?」
「仕事を手伝ってくれた外国の要人をもてなしもせずに送り返す訳ないですよね?」
「貴様という奴は」

 俺の言葉に武部部隊長殿はむっとしたような顔になる。
 と、同じ言葉に別の感銘を受けたらしい声が後ろから聞こえた。

「お菓子、出る?」

 うんうん、それ大事な事だよな、妹よ。
 ニコニコ笑って頷いたら、なぜか浩二が俺の足を後ろから蹴飛ばして来た。
 なぜだ?



[34743] 139:羽化 その十四
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2015/03/19 10:06
「これ使うか?」

 俺はアンナ嬢に向かって小さな結晶片を差し出した。
 それは怪異を封印した水晶を精製して純粋なエネルギー化した物だ。
 普通は機器にセットして短期間稼働の為のエネルギーとして使う。
 だが、純粋なエネルギーである以上、食べる事も出来るのだ。
 そしてある程度疲労を回復してくれる。

「いりません。精査していない純粋なエネルギーは逆に危ないから」
「面倒くさいんだな」

 魔法関係は色々縛りがあると聞いた事はあるが、そもそも魔法など使う者は少ないし、あまり実戦の場には出てこないのでその生態は良く分からない。
 由美子がじっと観察しているのはその辺りの事もあるのだろう。

「失礼します」

 俺自身は何もしていない為エネルギーを摂取する必要はないので元に戻していたら、ちょうど外から声が掛かった。
 現在俺たちがいるのは応接室らしき部屋だ。
 ソファーとテーブル、それに観葉植物と水槽という、絵に描いたような応接室だが、家具類はそれほど高価な物ではなく、一般家庭に置いてある程度のものだった。
 場所柄そういう質素さは好感を覚える。
 ただ、水槽の魚は見たこともないようなでかい魚で、どうも外国の魚のようだった。
 生きたままの生物を輸入するのは相当なリスクがあるので、こういうのはかなり高いはずだ。
 実は贅沢の方向性が違っているだけなのかもしれない。

「どうぞ」

 この部屋の中での力関係から誰が返事をするべきか悩んだが、他の誰も何も言わず、アンナ嬢に至っては少し眠そうにしていた。
 仕方なく俺が返事をする。
 スライド式のドアを開けて入ってきたのは女性職員で、自走式のワゴンをお供に連れて来ていた。
 なんと律儀にもケーキが乗っている。
 あの人案外良い人だな。

 配膳してもらったお茶とケーキを3人でガン見していると、女性職員はいつの間にか退室していた。
 あ、お礼を言い忘れたよ。
 それにしても柔らかそうな淡い茶色のケーキなんだけど、これって何のケーキかな?俺はこういう物は好きなんだが知識はからっきしなんだよな。

「栗の味がします。でもびっくりする程上品です」

 由美子が珍しく上ずった声で評価した。
 というか、早えよお前。

「なるほど、栗か。普通の甘ったるいだけのケーキより食べやすいですね」

 てか浩二ももう食ってるし、やばい、急がないとこっちのまで食われる。
 俺は慌てて自分の分のケーキにフォークを刺して不思議な色合いのケーキを切り取った。
 しかし、ケーキっていうのはほんと綺麗に作ってるよな。
 この金色の飾りとか確か食えるんだよな。
 てか金箔使ってるじゃねえか!

「うまっ!」
「兄さんの感想が雑」
「兄さんに情緒とか詩情とか求めるのが間違っているよ」

 なんだか好き放題言われてるが、本当に美味いものを食う時にいちいちくっちゃべる方がおかしいだろ。
 感想は後からだって言えるが、食い物は早く食わないと奪われかねないからな。
 しかしなんだな、このケーキ、確かに栗っぽい味はするけど、焼き栗とかとは全然別物だな。
 野暮ったさが全然ないし、口の中でゆっくり溶けていくような感じさえある。
 前々から思っていたんだが、菓子職人ってのは実は魔法使いとかじゃないだろうな?
 大半の魔法使いは研究職で、だいたい何をやっているか分からないから、結構有り得そうなんだが。

「兄さん、あれって食べてしまっても良い?」

 そんな感慨に浸っていると、由美子が何かモジモジとしながら聞いて来た。
 あれってなんだ?俺のはやらんぞ。

 見ると、由美子の指しているのはアンナ嬢の前に置かれたケーキのようだった。
 アンナ嬢は見事に沈没してソファーに埋まっている。
 豪華な髪とあどけない寝顔はまるで陶器で出来た人形を思わせた。

「いやまて、さすがにそれはマズイとお兄ちゃんは思うぞ」
「え?美味しいよ?」

 俺の言葉に小首を傾げた妹を、ちょっと、いや、凄く可愛いと思ってしまったのは置いておいて、さすがに他人に出されたお菓子をその本人の許可無くいただくのはダメだろう。
 常識的に。

「味の話ではなくて、礼儀というか、人としての常識というかそんな何かの話だ……ってかもう食ってるのよ!」
「むぐ」

 食べながら返事をする妹を眺めつつ、ため息を吐いた。
 いや、幸せそうにケーキを食っている由美子は可愛いけどさ、これはやはり俺がビシッと言わなきゃいかんよな。

「人の物を盗るのは泥棒だぞ!」
「食べてしまえば完全犯罪」
「だから犯罪はダメだと言っとろうが!」
「兄さん、唾を飛ばすのはやめてください。お茶に入ったらどうするんですか」
「お前も言ってやれよ」
「僕が考えるに、今のその女性にはケーキを食べる気力はないでしょう。すると残ったケーキは廃棄されてしまう訳です。その場合、由美子が食べる事と捨てられる事、どちらが悪でしょうか?」
「うっ!」

 浩二に言われて俺は詰まった。
 確かにこんな美味しい物を捨てるのはいけない事だ。
 だが、しかし、教育的にどうなんだ、これは。
 俺が深遠な問題に頭を悩ませていると、再び扉の向こうからおとないが告げられた。

「おつかれのようだな。強壮剤をさし上げた方が良いのだろうか?」

 沈没したアンナ嬢を見やって武部部隊長殿が困惑したように呟いた。
 さすがに扱いに困ったのか。
 ところで今思い至ったのだが、部隊長はまだ部隊長なのかな?
 今は軍は迷宮の1、2層を中心に活動をしているらしいが、上層を切り開くような事はしていない。
 そんな部署にこんな若手の有望株をそのまま突っ込んでいるだろうか?

「精石やろうとしたら断られたからどうなんだろうな?とりあえずしばらく寝かせておけば大丈夫だと思う」
「それなら医務室へ運ぼう」
「いや、下手に触ると危ないかもしれないぞ。魔法使いってのは防御に長けてるって聞いた事あるし。無意識状態の時が一番無防備なんだから何も仕掛けてないはずがない」

 俺の言葉に、アンナ嬢へ近付こうとしていた武部部隊長殿は、まるで爆発物でも見るような目でアンナ嬢を見ると、ゆっくりと刺激しないように席に戻った。
 そこまでおっかなびっくりしなくても良いとは思うが、まぁ良いか。

「ところで君たちはどうしてあの冒険者と一緒にいたんだ?」
「ん?報告行ってないのか?俺たちは後から現場に到着しただけで、関係者じゃないぞ」
「なんだと、ならば関係者でもないくせにその処置に口出しをして来たという訳か?公務執行妨害で訴えても良いのだぞ?」
「え~」

 とは言え、ここは確かに武部部隊長さんが正しいよな。

「その冒険者とは関係ないけど、その冒険者の罹っていた病を調べていたんだ。ここは敢えて強権を発揮させても関わらせていただきたい所なんですけど」
「ったく、ハンターという輩は」

 武部氏舌打ちしたよ。
 俺にイラッとしたのか。
 申し訳ない。

「なんか、今そういうのが増えているとか聞いていてね」
「……今更腹の探りあいもないか。実は軍にも発症者が出た」
「えっ?だって下層では発症しないと聞いていたぞ」
「そいつは通算で二桁回迷宮に潜っている。おそらく順番待ちをしている冒険者共より、こと下層に関しては長時間潜っていると言って良いだろう」
「時間が影響すると?」
「分からん」

 武部部隊長の言葉に苦々しさが感じられる。

「だが、そいつはお前も知っている奴だぞ」
「えっ?」

 思いもよらない言葉に俺は驚きを禁じ得なかった。
 知っている相手?

「迷宮での通信担当兼ナビをしていた大木だ」
「え……」

 迷宮探索でムードメーカーだった男を思い出し、俺は一瞬思考を停止して絶句してしまったのだった。



[34743] 140:羽化 その十五
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2015/03/26 09:51
「おお!お久しい!元気だったっすか!」
「……お前、元気だな」

 武部部隊長からかつての仲間だった大木の変貌を告げられた俺たちは、彼に面会出来るのか?と尋ねた。
 怪異のように变化してしまったのなら隔離されているに違いないと思ったからだ。

 まぁあれだ、すぐに快く了承された事から予測すべきだったんだよな。
 この駐屯地の兵舎の一室に普通にいた大木は、俺を認めて元気に挨拶して来たのだ。
 しかし、一見して変化しているように思えないんだが。
 俺が不思議そうに自分を見ている事に気付いたのか、大木はどこか似合わない恥ずかしそうな笑いを見せる。

「あ、聞いちゃったんですね。そうなんっすよ、実は」

 そう言いながらゆったりとした部屋着の袖をまくった。

「あ」

 そこには鱗状になった腕があった。
 黒鉄色というか、鈍い金属の光沢を持ったその鱗は、恐ろしく異質だ。

「これがですね、服の下ほとんどに出来ちゃってまいっちゃいますよね」

 まるで日焼けの痕を恥じるような軽い言い方にちょっと力が抜けたが、いやいやと思い直す。
 これはそんな軽い話じゃないだろ。

「よく見せてもらって構わないか?」

 俺が真剣にそう言うと、大木はちょっと気押されたように「お、おう」と応えた。
 実際に触ってみると、本物の金属のようにひんやりとしていて魚やトカゲの鱗とは違って滑らかさに欠けていてゴツゴツしている。
 由美子が指先でツンツンと触って首を傾げた。

「やっぱり他者の意識は絡んでない。異能者じゃ?」
「いや、あらゆる調査をしたが異能ではない。体が元からそうだったかのようにその状態で安定しているのだ」

 由美子の言葉に武部部隊長が答え、その答えですでに軍の方で大体の調査を終えている事を知った。

「安定しているというと、これは、もしかして戻らないのですか?」
「そうだ、まるで元からこの体だったかのように体の組織が機能している」
「あのアンナ嬢の解呪なら」

 俺の言葉に、由美子は首を振った。

「あの冒険者は肉体が不安定だった。精神ともうまく噛み合っていないようだった。でも、大木さんのこれは安定してる」

 つまり戻せないという事か?

「あっ、リーダー、そんな心配そうな顔はナッシングっすよ!これ、結構便利なんすから。モンスターの攻撃とか防いじゃうんですよ」

 ポージングをしてみせる大木に、俺は呆れた。

「いやいや、そんなお気楽で良いのか?お前」
「良いんすよ、だって深刻にしててもどうにもならないし、それに、俺は悟ったんすよ。これはあれっす、1つの適応なんすよ」
「適応?」

 大木は頷いた。

「あの迷宮に潜っていると分かるっていうか、感じるんっす。生き物ってのは、自分がなりたい物になる力があるんじゃないかって。死にたくない!負けたくないって思うと、あの時のリーダーとか襲ってきた化け物とか思い出すんですよ。リーダーもあの狼男も、俺と同じ人間の範疇じゃないっすか、それなら俺だって戦いたい、生き延びたいって気持ちで戦える体になる事も出来るんじゃないかって」
「戦える体って、お前」

 俺の言葉に大木はチッチッと舌打ちをしてみせた。

「俺達は職業軍人っすよ。迷宮で任務を果たすために戦うのが仕事っす。迷宮ってとこは一筋縄では行かなくって、入る度に今回は生きて戻れるのか不安になるんですよ。実際それで精神を病んでしまった同僚もいるっす。ほら、仲間の敵討って事で部隊に配属されてた組がいたっしょ。あいつらの大半が2、3回目には精神的なショックから迷宮に潜れなくなったんすよ」
「そうだったのか」

 当初、迷宮の調査や資源回収の巡回チームはバディ単位を3組でローテのパーティを作り、そこに士官クラスが同行という形を取っていたらしい。
 しかし、繰り返す内に、迷宮へ入る事が出来ない者達、
異空間拒絶症ダンジョンストレス
とでも言うべき症状を発症する者達が現れ始めた。
 もしもの時には脱出苻があるにも関わらず、どうしても迷宮に入ることを体が受け付けなくなるのだそうだ。
 無理に入ると精神に異常をきたすとかで、配置換え処置が行われた。
 そんな中、全くストレスを発症しない人間もいた。
 それがこいつを始めとする数人の隊員だ。
 中でも大木はその前向きさをかわれて、迷宮探索班に組み込まれる事が最も多かったらしい。

「なんかこう、最初は、モンスターとやりあってもなかなか怪我しなくなって、丈夫になったなぁってだけだったんですけどね。気付いたら皮膚が固く色変わりしてて、最後にはこんな風に」
「こんな風にって、お前」

 困惑した俺を遮るように、由美子が質問をした。

「徐々に変化した?怪我にかさぶたが出来るみたいな感じ?」
「あ、そんな感じっすね」

 由美子は小さく頷いて、後は沈黙した。
 いや、お前一人で納得してないで分かった事は口にしようよ。

「軍隊としてはどういう感じなんだ?これは」
「一応任務中の負傷という事で障害者手当が付く」
「いやいやそうじゃなくて、あんたもたいがい天然かよ」

 武部部隊長殿が真面目くさって返答して来たのへ突っ込むが、一方で、これって障害者扱いになるのかと不思議な感じを抱いた。
 軍って案外身内には鷹揚なのかもしれない。

「迷宮探索にリスクがあるって事が分かってるんだからそういう情報開示とか、最悪迷宮の封鎖とかなんか無いのかって事だよ」

 そういう事例があったのなら、事前に警告を発してむやみに迷宮探索をさせないようにするべききゃないのか?と思ったのだ。
 そもそも、今までの迷宮は攻略された時点で消滅していた。
 土地柄的に何度も迷宮が発生する場所もあるが、それらはあくまでも違う迷宮が発生するだけだ。
 しかし、この迷宮に限っては、同じ迷宮に複数回チャレンジ出来る。
 今まで人類が経験した事のない事態なのだ。
 異常があったら一旦閉鎖するのも当然の事ではないだろうか。

「情報開示は今のところは関連性がはっきりしないので情報として外に出す段階ではない。ゲートの閉鎖などやったら冒険者の暴動が起きるぞ」

 言われて想像してみた。
 迷宮に潜れなくなって困窮した冒険者が一斉に暴動を起こす所を。
 うん、ヤバイわ。
 だが、これは放っておいて良い問題じゃないだろ。

「これは、彼が割りと気楽だから危機感が無いというより、問題が最近になって一挙に噴出して来たせいで対応が出来ていないと考えるべきでしょう」

 浩二が淡々とそう分析する。
 うん?つまり時期が重なっているという事は。

「そうか、頻度か」

 迷宮に潜る頻度で発症確率が上がってるんじゃなかろうか。

「我々としてもそうではないかと推測して、大木2等の頻度を目安に頻度の高い冒険者をチェックしているのが現状だ」
「警告は?」
「危険は最初に宣誓をしている。いかなる危険も自己の責任だとな」
「それはあくまでも迷宮の中での危険だろ。自分の心身が変化するかもしれないってのとは違うだろ」
「違いはない。冒険者という連中は君が思うほどやわではないぞ」

 むっとするが軍の方針に外からつべこべ言ってるのは俺の方だからこれは言っても仕方ない事なんだろう。
 それに確かに確証のない事を元に物事を動かすのは難しい話だ。
 それより、気になった事があるんだよな。

「大木、お前、明子さんとはどうなったんだ?」

 迷宮探索中あれだけ良い雰囲気だった二人だが、大木がこんな風になって大丈夫だったのだろうか?

「あー、メイちゃんは、配属換えになって、しばらく会ってないんだよね」

 大木は、今までの軽いノリから一転して、重たいため息と共にそう言ったのだった。



[34743] 141:羽化 その十六
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2015/04/02 09:26
 なんだか最後は半分ノロケのような話になったが、大木が精神的に安定している事は分かった。
 とは言え、最初はやはり悩んだらしい。
 周囲から色々言われる事もあったらしいが、それ以上に周りからの信頼が大きく、部隊から彼を外さないようにという嘆願書が出されたらしい。
 俺からしたら見た目も行動もちゃらんぽらんに見える大木だが、どうやら同僚には受けが良いようだった。
 驚きの事実だ。

「実はっすね、あの時に俺、リーダーが羨ましかったんすよ」
「あの時って、もしかして迷宮探索の時か?羨ましいって……?」
「あはは、やっぱり分かんないっすよね。あの時、リーダーって全然負ける心配してなかったじゃないですか。あの絶対的な強さが、俺、凄く羨ましかったっすよ。だからこんな風になってちょっとだけ嬉しいんです」

 いや、大木よ、それは間違ってるぞ。
 俺は強くなんかないよ。
 あの時、利用されるだけ利用されて殺されてしまった人を誰一人俺は助ける事が出来なかった。
 本当に強ければ誰も彼も守れるはずじゃないか。

 そう思いはしたが、俺はその思いを口にする事はなかった。
 大木が前向きに自分の異常を受け止めているならそれで良い。
 俺が水を差すような事じゃないからな。

 大木の身柄は軍が管理していて、外出時には報告の義務はあれど軟禁という訳でもないらしかった。
 門限と規則の厳しい寮生活みたいなもんっすねと大木は語った。

 武部さんには大木の件のレポートの写しを回してくれるように約束を取り付け、しばし待ったが、その後結局変異した冒険者は俺たちのいる間に目を覚ます事はなかった。
 アンナ嬢と俺達は事情聴取を受けて、呪いの処理はアンナ嬢がとりあえず保管して軍の分析官との協議が行われる事となったのだった。

「疲れた」

 もろもろの事態が中途半端なままだったが、とりあえずこれ以上はこの日の内にする事がない。
 俺たちはぐったりしながら家へと戻った。

「あっ!」
「……あ?」

 思わず声を上げた俺の背を弟の浩二がドンと拳でどついてマンションに入っていく。
 由美子は相手に向かってにこやかに手を振って浩二に続いてマンションへと向かった。

「おつかれさまです」
「えっ、えっと、待ってたいたんですか?いつ帰るかとか分からなかったでしょう」

 そこには伊藤さんが立っていたのだ。
 これはまずい。
 こんな風に来てくれるなら彼女も登録して自由に部屋に入れるようにしておく必要があるな、と思った。
 なにしろこのマンションの出入りは生体キーなので、中に住人がいない時には登録外の人間は入れない。
 登録面倒くさいのでまだ伊藤さんを登録してなかったのだ。

「あ、違うんです。実は街に買い物に行ったんですけど、その帰りで、ちょっとお部屋のある辺りを見てから帰ろうと思って寄り道したら、木村さん、じゃなかった、隆志さんが見えて」

 焦っている。
 話の内容が本当か嘘かは俺には判断がつかないけど、自分の好きな人が焦っているのを見て放っておくのはダメだと思う。
 いくら可愛くても鑑賞モードに入ってはいけない。

 真っ赤になって言い訳をしている伊藤さんは可愛いけどね。

「ありがとうございます……じゃなかった。ありがとう、優香さん。もし夕飯まだだったら一緒に食べに行きませんか?」
「あ、それなら」

 俺の言葉に落ち着きを取り戻した伊藤さんはにっこりと笑って提案した。

「私が何か作りますから一緒に買い物に行きませんか?」
「あ、はい」

 変だな、と思った。
 さっきまでは飯も食わずにそのままベッドに転がり込んで寝てしまいたいと思っていたのに。
 一緒に買い物に行って、料理を作ってもらって食事をするなんて、面倒くさいはずの事を楽しみにしている俺がいる。
 人の心って本当に不思議だ。

 ― ◇ ― ― ◇ ―

「教授から連絡来た。今度の土曜の14時半から学校の講堂で話をしたいって」

 平日に会社で普通に働いてなんでもない日常を過ごした後は、どうもハンターとしての仕事に対しての意欲がすり減ってしまいがちで、由美子にそんな風に言われた時もすぐにはピンと来なかった。

「教授?」
「ん、妄想汚染イマージュの件」
「あ、ああ」

 そう言えばそんな事を依頼してたんだった。
 しかし、教授のつてを頼るって件はその症状を発症している冒険者が見付かった時点で必要なくなったんじゃないか。
 いや、サンプルは多い方が良いって事か?

「教授が誰か詳しい人を紹介してくれるって?」
「ううん、イマージュの件で詳しい話をしたいって」
「え?」

 俺は首を捻った。
 由美子の研究室の教授は確か古代術式の文言を研究している人じゃなかったっけ?
 ああでも自分からダンジョンシミュレーターに入るような奇矯な人でもあったっけ。
 まぁ対怪異の歴史には詳しいはずだからなんらかのヒントにはなるか。

 今の俺たちはアンナ嬢と軍からの情報待ちという不安定な状態だし、俺はその教授に会ってみる事にした。
 それになにしろ妹がお世話になっている人だ。
 挨拶もしたいもんな。

 そう、俺はこの時点では忘れ去っていた。
 某変態がこの教授の助手だったって事を。


 土曜の午後、約束通り訪れた大学のキャンパスは、俺が通っていた大学よりはるかに規模がでかかったが、雰囲気自体はそう変わらない所だった。

「へえ、これが大学ですか」

 どこか感慨深そうに呟く浩二に、そう言えばこいつは大学に行ってなかったな、と思い出す。
 というより、うちの村で大学に進んだのは俺と由美子だけなのだ。

 土曜の午後に講義もないのに多くの若者がたむろしているキャンパスを不思議そうに見ているその姿に、俺はなんとなく浩二に申し訳ないような気持ちになった。
 俺が自分の思った通りに行動する責任は全て俺が背負っているつもりではいるが、結局の所この弟には迷惑のかけっぱなしだった。
 ハンターの事も、族長の後継の事も、何もかも浩二に放り投げてしまった形になる。

 そりゃあ恨まれるよな。
 大人になって弟がそっけないと寂しい思いをしていたが、当たり前と言えば当たり前の話だった。

 そんな俺を浩二はちらりと見ると、

「悩んで欲しい所では悩みもしないくせに訳の分からない所で悩み始める。本当に面倒くさい人ですね、兄さんは」

 などと吐き捨てるように言った。
 怒りを通り越して呆れているのか?

 ちらちら見られてはいるが、俺達はそれ程浮いてはいないようだった。
 その視線は不審者を見る目というより、妹、由美子に向けられている。
 なんだ?有名人なのか?
 まぁこんだけ可愛いんだから仕方ないか。

 俺がニマニマしていると、由美子はそれを見て「一人でニヤついてるとかキモイ」などと言った。
 うわあ!俺の妹が汚い言葉を使っている!
 ここか!この大学が悪いのか!

 今までの思いとは裏腹に世間に対する不信感に満ちた目で周囲を見渡す。
 ぬう?さっきからちらほらとカップルの姿を見掛けるが、こいつら学校に何しに来ているんだ?
 いちゃつくなら家でやれ!

「兄さんが急に荒んだ」

 由美子が横っ腹をつんつんして来るが、俺の腹筋に阻まれてその感触はあまり伝わらなかった。
 由美子は俺のせいで指が痛んだみたいな目付きで指をさすりながら俺を見る。
 いや、由美子さん、俺は何もしていませんよ?

 手刀からげんこつに変化して更に進化しそうになっている愛する妹の攻撃を防ぎながら講堂に向かう。
 しかしなんで約束が講堂なんだ?
 デカすぎね?

「明日の午前中に講演会があるからその準備を兼ねてる」

 との妹君のお答えでした。
 ところで妹よ、そろそろ復讐に満足して欲しい。
 膝蹴りの次はなんですか?

 そんな風に仲良く講堂に到着した俺たちを待っていたのは、満面の笑みを浮かべたすっかりお馴染みになった変態男だった。



[34743] 142:羽化 その十七
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2015/04/09 09:36
「ようこそ!我が親愛なる方々よ!歓迎の催しとしてはなんとも閑散としていて申し訳ありません!」

 テンション高えよ。
 別にパーティに招待された訳じゃねぇから。
 大体すり鉢状に並んだ机と椅子と中央にある教壇と投影機らしきものしかないんだから閑散としているのは仕方ないだろうに。

「先輩、お久しぶりです」

 由美子がぺこりと挨拶をする。
 そういえばこれ、由美子の先輩だったか。

「あ、そう言えば、お前ロシアに行ってたんだっけ?よく帰って来れたな」
「おお!お兄さま!私ごときの心配をしてくださったのですか?ありがとうございます!感激です!」
「相変わらずのようでなにより」

 こいついつもこのテンションなのかな?
 疲れないのか?
 浩二がさり気なく俺を盾にしているような気がする。
 おい、気持ち悪いのは分かるが、挨拶ぐらいしておけよ。

 なんだかんだ言って、俺もこいつに慣れてきていた。
 テンションはおかしいが、とりあえず実害はない。
 そもそも嫌われている訳じゃなくてその逆だからなぁ。
 対応がさっぱり分からんのは確かだが嫌いになりきれないんだよな。

「お、木村君、良く来たね。ところでこの間の石碑の写しの欠けた部分の術式だが、やはり陰陽の法則から言って、あの部分には陽の象徴たる……」

 おおっ?
 変態に気を取られていたら、なにやら変態の後ろから温厚そうな紳士が出て来て、由美子に向かって話し始めたんだが、何事だ?
 もしかしてこの人が教授?

「先生、あの石碑は8世紀の物で、大陸との交流の痕跡が見受けられます。そうなると単純に陰陽思想と考えるのも安易な発想ではないでしょうか?」

 って、由美子まで何か違う世界に突入しているぞ?

「お二人共、とても興味深い考察ですが、今回はほら、みなさんお仕事でお見えになっていらっしゃるのですから」

 な、なんだと…変態が場を収めている!
 意外な関係性を知ってしまった。

「おお、失礼した。私はこの大学で古代呪術学を教えている持田と言います」

 ダンディにスーツを着こなしつつ、その顔立ちは笑いジワの目立つ優しげなおじさんといった感じでギャップが凄い。
 俺は慌てて差し出された手を握って握手を交わした。
 その手は意外とがっちりとしていて、皮が厚い。
 行動する教授といった所か?

「初めまして。由美子の兄の隆志と言います」
「同じく浩二です」

 俺の隣で次に教授と握手しながら浩二も自己紹介した。
 ってか同じくってなんだ。
 省略するな。

「今回わざわざご足労いただいたのは、あなた方が関わっている件が呪に絡んでいると聞いたからです」
「呪術の専門家としての助言をいただけると思ってよろしいのでしょうか?」
「ええ。むしろ私にとっては自分の理論の考察の一助になりますからね。どんどん疑問点をこちらに提示していただけると嬉しいです」
「はい。ええっと、それじゃあもうぶっちゃけて聞きますが、その、本人の内から本人自身に影響を及ぼす呪っていうのはあり得るのでしょうか?」

 せっかく専門家と会う機会を得たのだから、こうなったら積極的に聞いていくべきだろう。
 この先生だって忙しいんだろうし、あまり時間を無駄にしたくない。

「ふむ、それにはまず、呪という物の真実を理解してもらわなければなりませんね」

 教授は背後に置かれた投影板になにやら書き出す。
 そうすると俺たちの間の空中に文字が現れた。
 投影板は術式道具で、書かれた文字を規定範囲にいる全員の目前に投影する便利な道具だ。
 その文字は個々人にしか見えないので、他人の目前にある文字と混ざることもない。
 学校の授業には必須の道具である。

 教授は呪という文字をイコールで望という文字と繋げた。

「実は呪いと望みは同じ物なのです。願いと言っても良いでしょう」
「呪いと願いが同じもの?」
「そうです。呪というものは強い指向性のある想いという分類がなされます。この指向性のある強い想いは、生物にとって一種のスイッチ機能を持つのです」
「スイッチ機能?」

 教授は更に書き進む。
 それは猿の絵から人間にと続く、おなじみ進化の図だ。

「生物が変化をする為のスイッチです」
「それは進化という事ですか?」
「進化を含む変化ですね。そこには進化だけではなく、封印、劣化といった変化もあります」

 教授の話は、にわかには頷けない所があるが、呪いと願いが同じであるという見解には新しい物を感じた。
 確かに強い指向性のある想いって意味なら同じかもしれない。
 生霊なんかは願いが強すぎて無意識に自分を分裂させてしまった物だけど、あれを進化と言われれば確かにそうかもしれない。
 普通の人間に出来る事ではないからだ。

「待ってください教授。という事は、自分の中から生まれた呪いというのは、自分の願いという事なのですか?」
「単純に言えばそうです。しかし普通、人間の願いというものは一代で自分を変化させる程強くはありません。時々その壁を突破する者はいますが、同世代に何人も出て来るような物ではないのです」
「?という事はどういう事なのでしょう?」

 うん?今の話でやっとイマージュの謎が解けたと思ったのだが、そういう単純な物ではないらしい。
 まぁ確かに普通の強い想いでだれでもかれでも変化していたら人類はもっと多様になっていただろうな。

「お兄さんは聖域という物をご存知ですね?」
「え?ええ、はい」

 聖域とは精霊が影響を及ぼす場所の事だ。
 この中だと行動が規制されたり、幻覚を見せられたり、お告げを貰ったりと、普通の場所では起こらないような事が起こる。
 いわば精霊の意識の中にいるようなものだ。

「精霊とは方向性を持った意識です。つまりこの方向性と自分の願いの方向性を合わせる事が出来れば、その願いはブーストされると考えて良い」

 教授の言葉に、俺はやっとこのイマージュという病の本質を理解した。

「つまり、迷宮が聖域と同じ働きをして、その願い、もしくは呪いをブーストする場である、と?」
「そうです。よく出来ました」

 いかにも先生らしく、持田教授はそう俺を褒めてくれたのだが、それどころではない。
 つまりそれは今後強い望みを抱いた冒険者の多くが変化、いわゆるイマージュになるという事なのだ。
 うわあ、頭が痛い。

「ありがとうございました。大変参考になりました」
「いえいえ、どういたしまして。こちらこそ貴重な考察の場をいただきました」

 持田教授に深々と頭を下げると、俺は酒匂さんにこの結果を報告して後は丸投げしようと決意した。
 もはやこの話は俺にどうこう出来る範囲を超えている。
 あの迷宮を封鎖するか、でなければイマージュ化を打ち消す何かを考えるか、それは管理者たる国の考える事だろう。

「お兄様、この話は下手な人間に持って行くととんでもない事になるかもしれませんよ?」

 色々と先の事に思いを巡らせていた時に、急に耳元で囁かれて、俺は文字通り飛び上がった。

「うおう!なんだ!」

 耳をかばいながら飛び退くと、そこににこやかな顔で嬉しそうな変態が立っていた。

「そんなに感動していただけるとは、身に余る喜びです」

 なんてこったちょっと静かだから忘れていたらこれだよ、変態め。

「な、なんだって?」

 なんとか動揺を鎮めて尋ねる。
 とんでもない事ってなんだ?

「勇者の血統は人に対しては無力です。しかし、この迷宮は人を容易く化け物に変える。もし、これを軍事的に利用したら……」

 俺はギョッとして変態を見た。
 いつも熱をはらんでギラギラしていたその目は、今はどこか底冷えがするように冷めている。

「人間が人間と戦う戦争が今更起こると?」

 前回の戦争は完全なる世界を提唱したとある国が力づくで領土を広げようとして起こったものだった。
 しかし、今は世界は安定していると言って良い。
 壁は中の人間を守り、それぞれの神もまたその民を守る。
 今更火種になるような物は無いと言って良いだろう。
 いや、ちょくちょくテロとか独立運動とかは起こっているみたいだけどね。

「人の欲望とは理屈でどうこうなるような物ではないのですよ。あなた方のような気高き存在には理解出来ないでしょうが、愚かないくつかの国は自分の大切な勇者を失いつつある。確かに今の世にあえて勇者を求める必要はないかもしれません。しかし、人の心は拠り所を求めるものです」

 いくつかの国が勇者の血統を失いつつあるという所でふと、アンナ嬢を思い出す。
 血族が滅びの危機を迎えていると言った彼女の言葉を。
 俺は、彼女の言葉を、勇者の必要のない世界へと時代が向かっている印として聞いた。
 しかし、この変態男は別の考えを持っているらしい。

「人はいつだって安心が欲しいのですよ。怪異も恐ろしいが、理解出来ない他人も恐ろしい。人は誰もあなた方のようにはなり得ない。だからこそ、我々はあなた方を愛するのです。我らはヒーローを欲する。誰よりも、自分自身を信じられないがゆえに」
「いや、なんか酔っている所を悪いけど、そんな偽悪的になる必要はないだろ。人間は十分に理性的だよ。だからこそこうやって文明を築いた」

 なんだか変な思考に浸っている変態な妹の先輩に肩をすくめて、俺はそう言った。
 俺だって自分の国を盲信している訳じゃないが、だからと言っていちいち疑っていたらまともに生活する事すら出来ない。
 俺が触れ合って来た、行政に関わる多くの人達は、良くも悪くも理性的な人達だった。
 今更、そんな古代の王がやらかしたように怪異を手懐けて軍隊を作るような無茶をするはずもない。

「分かっています。それこそがあなた方の美徳だ。しかし、やはり私はお気をつけてと告げるのです。もしもの時にあなたを守る言葉の一片なりともになれれば良いと願うがゆえに」

 うん、なんか凄く言動がおかしいです。
 とりあえず、もう関わり合わずにさっさと帰って行こうとしている浩二を追って、俺もその場を辞した。
 由美子はどうやらそのまま教授と残るらしい。
 あの教授、優しい感じで良い人だな。

 講堂を出ると、また大学独特の静けさの中でさざめく若者達の活気を感じてほっとする。

「変な人でしたね」

 浩二がげっそりした顔で言った。

「まぁ変態だからな」
「なるほど」

 そう言えば久々にこいつと一緒か。

「そうだ、なんか食いに行こう。一緒に食事するのも久々だし」

 すっと眉を上げて俺を見た浩二は、一瞬迷うような色をその目に浮かべたが、少し笑って頷いた。

「まぁ良いでしょう。兄さんが奢ってくれるのは久々ですね」
「え?俺の奢りって決まってるのかよ。おい」

 解決には程遠い結論に至った訳だが、とりあえずは俺たちにもう出来る事はない。
 心のなかに引っかかりを感じながらも、日常に戻れる事にちょっとだけほっともしていたのだった。



[34743] 閑話:呉越同舟
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2015/04/16 09:46
 ―…あの日は雨が降っていた。

 酒匂太一はふと思い出して顔を上げた。
 彼の住んでいる大臣用の官舎は一戸建て平屋の日本家屋で、広い庭が付属していた。
 限られた土地しかないこの都市では贅沢な造りの家屋である。
 このように周囲を土で囲まれた家の特徴として、匂いがあった。
 例えばこの日のように、土や草の匂いで雨が降っているという事が分かるのだ。

 彼が昔滞在していた小さな村でもそうだった。
 その村は舗装された場所などなかったからどこにいても土の匂いがしたものである。

 しのつく雨と響く赤ん坊の泣き声、動いている事が不思議な小さな手。
 思い出す光景は、不思議な暖かなフィルターを通して思い出される。
 そうやって思い起こせば、彼はあの時初めて、人前で泣いたのかもしれない。

 酒匂は隠された村の長の一族である木村家の3人の子供達全員の誕生に立ち会った。
 未だ子供どころか妻さえいない彼にとって、あの家の子供達は特別だった。
 特に長男の隆志にはハラハラさせられっぱなしで、胃の痛みを感じながら気にかける事となった。

 怪異に拐かされかける事などしょっちゅうだったし、気付けばいつの間にか訓練用の仮想迷宮ダンジョンシミュレーターに迷い込んでいるし、何よりも彼にはなぜか封印が効かないのである。
 肝を冷やした事など数えるのも馬鹿らしいぐらいだ。

 そしてしまいにはハンターを辞めて技術系の大学に入ると言い出し、一般の会社に就職してしまったのだ。

 だが、彼の決断は酒匂にとっては愉快で爽快だった。
 知らせを聞いた時には快哉を叫んだものだ。
 何しろ隆志は誰にも相談せずに大学を受験したのである。
 全てが事後承諾というのがいかにもあの突撃気質の少年らしくて、酒匂は彼のやらかした事を称えると共に大いに笑ったものだ。
 大人になってから転げまわって笑ったのは、あれが最初で最後だろう。

 酒匂は困惑する旧態然とした組織が唖然としている間にするすると隆志の意志を後押しして押し通してしまった。
『何事にも最初がありますよ。都市結界も出来て怪異の危険度も下がりました。この先勇者の血統とて怪異狩りだけに専念する必要はないでしょう。テストケースという事で良いではないですか』
 そんな無茶な主張を、いかにも当然の事のように決議させたのである。

「早く子供を見せてくれないかな?」

 それを人は父親のような気持ちと呼ぶのかもしれない。




 その日、緊急議会は紛糾していた。

「こうなったら迷宮は封印すべきでしょう」

 保守派の法政大臣の言葉に大蔵大臣が苦い顔をする。
 それはそうだろう、たった数ヶ月であの迷宮が叩きだした利潤の大きさは、既に国の予算の3分の1に届かんとしている。
 その収益は更に増える事は確実なのだ。
 ここでそれを手放すなど愚か者のする事でしかないと考えるのは当然である。

「封印して調査の為の試掘だけをするという事ですか?しかし冒険者が納得しますかね?」
「バカバカしい、あんな社会を逸脱したクズ共に気を使う必要はない。それより海外からの圧力が日を追うごとに増しているのだぞ?冒険者共など排除して海外の調査団を迎えるべきだ」
「我が国の中心部に海外の特殊な調査団を、いえ、はっきり言いましょう、軍隊を入れると言うのですか?ありえませんよ」
「しかし、列強諸国は我が国の閉鎖的な態度を激しく非難して、関税引き上げにつなげようとして来ている。都市に人口が集中し始めて食料自給率は年々下がっている現状で、関税引き上げは絶対に避けなければなりません」
「待て、バカども!今問題になっているのは迷宮の危険性だ!この調査資料を読んだのか?」
「ふ、学者共はなんでもない事を大げさに報告する連中なのですよ。結印都市についても都市内の特殊環境で怪異の異常発生の危険があるなどと言い出して人心を騒がせんとしたのもどこかの学者だったでしょう」
「しかし、実際に軍内に発症者が出ていますからね」
「はっ、皮膚が爛れて硬化したというだけの話ではないか。大げさな話だ。むしろ迷宮の特殊な毒の影響という事も考えられるだろう。そっちの分析はどうなっているのだ?」

 議論は紛糾はしているが、その向かう方向と議論の内容はどうも明後日の方向を向いているようだった。
 彼らの収まりどころのない議論を他所に酒匂は個別通信を起動して軍務大臣に通信文を打電していた。

『国際連合に委ねるというのはあり得ませんね。大国の発言権が強すぎる』
『我が国一国で管理していて汚染が広がったと判断されると、それが他国からの攻撃理由となる可能性は高い』
『完全な中立機関を監査役として招いてはどうでしょうか?』
『完全な中立機関?冒険者協会か?』
『まさか、もっと世界的に認められた機関があるでしょう?』
『なるほど』

 混沌とする議会に、議長が静粛を呼びかける。

「発言は指名のあった方のみお願いします。この議会がオープンではないにせよ、仮にも国家運営に係る方々として秩序ある行動をお願いしたい」

 直後、それまでざわついていた議場が静まり返る。

「議長!」

 そこへ軍務大臣が挙手して発言の許可を求めた。

「軍務大臣」

 指名をもらい、大柄な体格を見せつけるように男は立ち上がった。
 いかにもといった風貌は、代々の軍閥家系ゆえだろう。

「海外に我が国が迷宮に対して真摯に向き合い、その踏破を目指している事、異常事態に対する積極的な調査解決を行っている事を証明してくれる第三機関を招くべきだと私は考えています」

 ざわっと場が揺らぐ。
 ヤジや罵倒が飛ぶかと思えた直前に、軍務大臣は右手を軽く上げて周囲の激発を抑えた。

「あくまでも公平な第三機関ならば我らとて何の後ろ暗い所がある訳でもなし、恐れる必要はないでしょう」

 手が上がる。
 臨席していた皇家代理からだ。
 議長がうやうやしく礼をすると、皇家代理が発言した。

「その言葉からすると既にその宛はありそうですが、いかなる組織か?」

 その言葉を受けて、軍務大臣が深々と一礼し、言葉を発した。

「はっ、それはハンター協会です」

 彼の発言に周囲にざわめきが広がった。
 なるほどという納得の声と、それは無理ではないか?という否定の声だ。
 ハンター協会はただ対怪異の為の国家の垣根を超えた人類機関だ。
 一国家の利益の為に動くような相手ではない。

「将軍の案は一理がある。預かろう」
「はっ、ありがたきことと存じます」

 この国において国の運営それ自体は、国会で大臣によって採決され実行される。
 しかし国の舵取りに係る大きな事態の決定権は皇主にあった。

 持ち帰られた軍務大臣によるこの案は皇主によって是とされ、ハンター協会に打診された。

 やがて年を越えて迷宮特区に名物が1つ増える事となる。
 インカ帝国に本部を持つハンター協会の出先機関が、冒険者カンパニーの迷宮ゲートを挟んだその反対側にドーム型の建物として姿を表したのだ。



[34743] 143:好事魔多し その一
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2015/04/23 09:07
「木村くんの企画書が採用されて開発が開始される事になった」
「おお!」

 開発課の同僚が一斉に俺の顔を見てまばらな拍手が起こる。
 ちょっと大げさだろ。

「ありがとうございます」

 ニコニコ顔の課長に礼を言う。
 とは言え、うちは企画開発課なので、企画書出すのはメインの仕事なんだけどね。

「という事で本格的な開発が始まるので、企画案をより現実的にする為にみんなで内容を詰めていこう」
「はい!」

 前回頑張った開発が途中で中断したので、うちの課の中にはどこか消化不良な空気が漂っていた。
 今回は自分の課からの企画案という事もあり、その鬱憤を晴らすように、みんな張り切っている。
 俺もさすがにちょっと嬉しい。
 顔がニヤけてるかもしれないな。
 
「これ、魔法瓶をベースにした案だよな。面白いな」

 珍しく佐藤が褒めている。
 明日雪が降るかもしれないぞ。
 そういや今日、午後から雨だったか。

「まぁせっかくの特許ですからね。使える内に使わないと」
「ふむ、ケチケチ精神のなせる技か、ケチケチも極めるとなかなか侮れないな」
「ケチじゃねえし!」

 やっぱりこいつ嫌いだ。
 ともあれ自分から出た企画だ。
 頑張らないとな。





「ふふっ、今日はずっと嬉しそうですね」

 今日は午後から雨が降り出したので屋上庭園ではなく、室内の休憩所で昼飯中だ。
 まぁ屋上でも東屋で食べれば問題無いんだが、春先の雨の日はまだ寒いので今日は屋内にしたのである。

「まぁやっぱり自分の仕事が認められると嬉しいよね」
「そうですよね。私もあれ、良いな、と思いました。たしかレーション開発会社と提携するとか」
「うん、長期的に見ればあっちの会社の方に利益がある話なんで、向こうは乗り気だったみたいだ」
「でも、ふふっ、前回のリベンジですよね、この企画」
「はは、バレた?さすがに悔しかったからな、あん時は」
「そうですよね」

 せっかく二人で食事中なのに全然色気のない仕事の話になるのは俺たちらしいと言って良いだろう。
 お互いに気持ちを確かめ合った以降は、むしろ俺たちの間に遠慮が無くなった分あまり積極的に想いを確かめるような事はなくなった。
 ちょっとそれが寂しい気がしなくはないが、それはそれで緊張しなくて楽は楽だ。

「それにしてもこれ、美味いな。サンドイッチはたまに食べるけど、このパンってパリっとしてるよな」
「あ、はい。それクロワッサンって言うんですよ。私が焼いたんです」
「えっ?パンを自分で焼いたの?」
「そんな驚くような事じゃないですよ。うちでもパン焼き器を売っているでしょう?」
「や、たしかに売ってるけど、あれって食パンだったよね」

 今食べているサンドイッチは、三日月型の、手のひらよりちょっと大きいパンで作られている。
 薄い生地が重なっている作りのようで、なんていうか口触りが凄く良い。
 それにバターの香りが良いんだよな。
 中の具も、新鮮な野菜と赤身の強いハム、少し酸味の利いたマヨネーズのような味付けが主張しすぎないで野菜や肉の味わいを活かしていた。
 こういうオシャレな食べ物は自分では作らないし、わざわざ買って食う事もないので、馴染みが薄いのだが、凄く美味しい。
 これは伊藤さんが作ったから美味しいという事で良いのだろうか。

「ほんと美味い、いくらでも食えそうだ」
「良かった、どんどん食べてください。良かったら私の分もどうぞ。張り切って作りすぎちゃって、私には1つで十分でした」
「いやいや、1つは少ないだろ。もう1つは食べても良いんじゃないか?」
「じゃあ木村さんが半分食べてくださったら、私がその半分をいただきます」
「ん?えっ?」

 それって俺の食いかけを食べるって意味?
 いや、さすがに違うよね。
 俺が半分に分ける事を期待されているんだよね。
 いくらなんでも俺が口にした物を食べさせるなんて不衛生だし。

 そう思って、クロワッサンサンドを半分にしようとしたら、なんかボロボロと皮が崩れてしまう。

「あ、手でちぎろうとすると上手くいかないですよ。構わないから木村さんが食べて、もし残ったら分けてくだされば良いですから」

 え?やっぱり俺の食いかけで良いっていう事だったの?
 その、ナイフは実は携帯しているんだけど、さすがにあれで昼飯を切る気にはならない。
 なにしろ対怪異の術式が付与されているしね。
 いや、別に害は無いと思うけど。

「争いの元は俺が始末してやろう」

 ふと、手が伸びてきて二人の間にあったクロワッサンサンドをかっさらって行った。

「あっ!」
「あ……」

 何かを言う暇もあればこそ、夢と希望のクロワッサンサンドは哀れ第三者の口の中に消えてしまった。

「お前何すんの?馬に蹴られたいの?」
「いやいや、うん、本当にこれは美味いな、伊藤さんは良い奥さんになりそうだ」
「えっ、そんな、ありがとうございます」

 流よ、何うちの彼女口説いてるんだ?イケメンは去れ!どっか遠い所で爆発しとけ!

「なんだ、睨むな。いいか、周囲に迷惑をかけているのはお前たちなんだぞ。うちには独り身がごろごろしているんだ、申し訳ないとは思わないのか?ちなみに俺も独身だ」
「アホか!毎日違う女の作った弁当持ってくるような男が何抜かしてるんだ?」
「あはは」

 伊藤さんがウケている。
 いや、これ冗談じゃないからね。
 顔が良くて頭が良くて家柄も良いけど、女癖悪いから、こいつに近付いたら駄目ですからね。

「うん、まるであれだな、我が子を他の肉食獣から守ろうとする親狼のようじゃないか。はぐれ狼のような有り様だった昔からすると見違えたな」
「なんなのその例え、わけがわからないんだけど」
「お二人とも仲が良いですよね。所属が違うのにいつも一緒で。男の人の友情ってちょっと羨ましいです」
「いや、そんな熱血な感じのものと違うから、なんていうか同類相憐れむみたいな感じだから」
「身も蓋もないな」

 自分で言うのもなんだが、俺たちは既に社内では公認カップルだ。
 その二人の世界に突然割り込む空気の読めなさは、一見この男に似合わないが、実はけっこう天然な所があるんだよな、こいつ。
 さては最近飲みに行かないのを恨んでの犯行か?

「でも私は守られてばかりの子供ではありませんよ。私だって木村さんを守れます。……その、微力かもしれませんけど」

 伊藤さんはなんだか違う所に引っ掛かっていた。

「頼もしいな、是非お願いするよ。こいつはバカだからあなたのような賢い人が傍にいてくれればだいぶ違うだろうし」
「バカじゃねえし」
「じゃあ1リットルの水を沸騰させる為にどれだけのエネルギーが必要か言ってみろ」
「えっ、えっと……」

 いきなりの質問に焦る。
 というか基礎知識がない。
 おのれ!
 ちらりと見ると、伊藤さんも分からないようだった。
 ちょっとほっとする。

「100キロカロリーだ。ちゃんと勉強しておけよ。お前の提出した企画書だろうが」
「あー、うん」

 なるほど、あの開発に関連してるのか。
 確かに必要な知識かもしれないけど、今までそういった事考えずに開発して来たな。

「お邪魔しました。美味しいお食事ありがとうございました、今度何かで埋め合わせさせてもらいますね」

 俺が唸っている間に、流は伊藤さんにきざったらしく礼をして立ち去った。
 俺には謝罪はないのかよ!

「羨ましいな、って思うのは贅沢なんでしょうね」

 伊藤さんがそう言った。
 何がどう羨ましいのか分からないが、伊藤さんがあいつを羨ましがる必要は無いぞ。

「あんなふうに澄ましてますけどね、あいつあれで結構偏屈で、女性と付き合いで外出する以外、部屋に篭って研究している方が楽しいってやつですよ」
「じゃあ、私は木村さんと一緒にいるときが一番楽しいから、勝ちですね」
「え?」

 なんの勝負が伊藤さんの中で行われたのだろうか、女性の考える事は時々訳が分からない。

 あ、そういや今度の商品のメインになる魔法瓶に使った特許はあいつの開発したやつだったな。
 もしかしたら仕事の打ち合わせをしたかったのかもしれない。
 ちょっと流に悪かったような気もしたが、クロワッサンサンドの事を思い出して頭を振った。

「食い物の恨みは怖いんだぞ」

 ぼそっと呟くと、俺は紙コップに入ったコーヒーを口にしたのだった。



[34743] 144:好事魔多し その二
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2015/04/30 09:59
 開発室との合同ミーティングが開催された。
 新製品のおおまかなデザインコンセプトを決めるためである。

 伊藤さんが各人にプリントを手渡した。
 そこには前に作った魔法瓶の特許申請の図面と設計思想の概要が纏められていた。
 相変わらず要点を抑えた仕事っぷりである。

「あと、共用BOXに魔法瓶回路の3Dホロが入っています。中央に投影しますけど、手元でも確認できますよ」

 その彼女の言葉と同時に会議室のテーブルの上の投射型スクリーンに3Dの回路図が浮かび上がった。
 魔法瓶本体の透過図付きである。

「ありがとう、いつも助かる」

 課長が伊藤さんにねぎらいの言葉を掛けた。
 もっと褒めてあげてください。

「いえ、このぐらいしか出来ませんし」
「いやいや、ほんと、伊藤さんは優秀だな。うちに来て欲しいぐらいだ」

 流がにっこり笑ってそんな事を言い出した。
 てめぇこないだから妙に伊藤さんに絡むな。
 人の彼女が羨ましいタイプなのか?お前。
 ぜってーやらんからな。

「一ノ宮室長、勘弁してください。彼女がいないと仕事が止まってしまいますよ」

 ハハハと笑いながら、課長が冗談でもなさそうな焦った顔でそう言った。
 おお、さすがだ課長、頼りにしてます。

「それは残念ですね。じゃあ、ミーティングを開始しましょうか?」
「はい、今回は開発室の方が主体でお願いします」
「了解しました」

 手元の資料の中に俺の提案内容が記されている。
 内容的にはざっくりとしたものだ。
 この魔法瓶の回路である組み合わせ型の術式陣を利用して、携帯式のランチジャーを開発しようという物だ。
 それも保温するのではなく、自動的に供給される水にスープや飲み物、フリーズドライの料理などを入れて、その場で調理してしまおうという物なのだ。

 これを考えたのは、実際に迷宮で探索を行っている時に、ちょっとした時間に温かい飲み物が飲めたらいいなぁという大木のぼやきを聞いていたからだ。
 もしかするとそれを実現出来るのではないか?と思ったのである。
 迷宮の中で気を抜くのは死に繋がりかねない。
 その為のんびり料理したりコーヒーを淹れたりなんかなかなか出来ないんだが、人というのはおかしな物で、手に入らないとなると途端に欲しくなるんだよな。
 特に上の階を攻略している連中なんかは迷宮内で数日、時には一週間ぐらいキャンプ生活らしくて、アンケートでは食い物に関する不満が大きいようだった。
 バギーぐらいまでなら入れられるが、トラックとか持ち込めないから、荷物に限りがあるというのもあるんだろうけど。

 俺が提出した案では飲み物とスープ止まりだったが、どうやらレーションメーカーと提携して簡単な料理も出来るようにするらしかった。
 冒険者も水やら火やらは精石を使って発生させるポットやマッチなんかのアイテムは持っているが、今の所火を使わずに温かい飲み物を作ったり、ましてや料理を作ったり出来る道具は開発されていない。

 新しいシェアを開拓出来る可能性があるのだ。

「術式陣は魔法瓶の流用で良いとして、問題は熱を発生させるためのエネルギーだな。ランチジャーにバッテリーを仕込んだとしても調理が出来る程の熱量を得ようとするなら漬物石ぐらいのバッテリーが必要になるぞ」

 流が問題点を指摘する。

「そこは例のポータブルチャージャーを利用してはどうですか?」

 新人君が果敢に意見を述べる。
 積極的で良い新人だな。

「いや、他所の商品を前提に商品開発を進める訳にはいかんだろ。そもそもあそこの端子は独自規格で他社製品に厳しいぞ」
「あ、でも早速変換アダプタがいろんな所から出てるみたいですよ」

 開発室の中堅どころのメンバーである渡瀬さんが苦言を呈すると、案外と情報通な御池さんが情報を披露した。
 大手メーカーが開発したポータブルチャージャーは、俺達にとっていわくつきのシロモノだ。
 こっちも似たような物を開発してたおかげで企画がぽしゃったのである。

「温度調整の魔術ってあったよな?」

 俺は少し考えてから口にした。

「あの壁とかに仕込んである記述術式か?」

 佐藤が言いながら頷いた。
 言葉は問いかけだが、こいつの頭は既に先に進んでいる。

「あれは確か人体に害がある温度には設定出来ない規約があったはずだ。100℃は無理だな」
「うん、だけど術式で出来るならこの組み合わせ式の魔法陣で熱関係もフォロー出来るんじゃないか?」

 俺がそう言うと、流が眉を寄せた。
 考えこむ時の癖である。

「魔法陣の設計は俺がやっても良いが、回路デザインをお前がやるなら良いぞ」

 うおおおお!自分の提案のせいで面倒な仕事が!!

「分かりました」

 ちょっと目が泳いだけど良いよな。

「魔法陣はそれで良いとして、魔法陣発動に電流が必要だよね。それと最低限の最初の熱源も」
「まぁバッテリーは必要だな」

 佐藤と渡瀬さんのベテラン陣がサクサクと細かい所を詰めていく。

「デザインは普通のランチジャーで良いんでしょうか?」

 新人君が確認して来た。

「うん、円筒形じゃないと魔法陣が作りにくいからね」
「じゃあこんな感じで」

 新人君がささっとラフ画を仕上げて共有BOXに入れてきた。
 いや、そこはデザイン部門がやるからね。
 でもあそこに丸投げするととんでもないデザインに仕上げて来る事があるから、一応のコンセプトデザインは回しておいた方が良いか。

 それにしても新人君は絵が上手いな。
 配属先間違ってない?


 ミーティングが終わると、全員にコーヒーとちょっとした菓子類が配られてお茶会のような物に雪崩れ込む。
 うちのお決まりの流れだった。

「食べやすいようにマドレーヌを焼いてきました」

 伊藤さんがみんなにお菓子を配った。
 手作りお菓子か、なにもみんなに配らなくても良いのに。

 ちょっと子どもじみた嫉妬だと分かっていながらも、ムッとしてしまう。

「はい、木村さんの分」
「あ、ああ、ありがとう」

 やましい事を考えていた俺は、その焼き菓子を受け取る時にちょっと慌ててしまった。
 嫉妬深い男でごめんなさい。

 向こうでは御池さんと園田女史が別のお菓子を配っている。
 ああ、なんだ、女の子全員で何かそれぞれ作って持って来たのか。
 俺って心狭いよな。

「特別な紙を使っているんでちゃんと見てくださいね」

 こそっと伊藤さんが耳打ちして離れた。
 え?なに?

 見るとその焼き菓子には紙が付いている。
 これの事かな?
 慌てて食べると、ふんわりとした優しい味だった。

「あ、美味い」
「ありがとうございます」

 伊藤さんがすかさずお礼を言う。
 いや、そんなに嬉しそうにしないでください。
 俺、自分の心の狭さに打ちのめされてしまうんで。

 しかし、美味しいな。
 昔お菓子のお兄さんだった頃の酒匂さんが時々持って来てくれたカステラにちょっと似てる。
 あれも美味かったな。
 そう言えばもうずいぶんと食べてないや。

 3口で食べ終えて、ちょっと物足りない思いをしながらくだんのつつみ紙を見てみると、そこには几帳面な文字があった。

『小さい頃お世話になった人達が週末一同に集まるんです。ホームパーティを開くから来てくださいね』

 見ると、伊藤さんがおちゃめに小さく手を振っている。
 俺はごくりと生唾を飲み込んだ。

「とうとう来たか」

 これはあれだ。
 伊藤父による招集に昔の冒険者仲間が応えたんだろう。

 うん、おそらく、俺の公開処刑かな?



[34743] 145:好事魔多し その三
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2015/05/07 10:05
 古民家改装の伊藤邸に似つかわしくない"濃い"面々が揃っていた。

「なんだお前案外糞みてぇな家に住んでんな」
「なぁ奥さん、冒険者ヤメたこいつに価値があんの?捨てちまえよ」
「いやん、ユーちゃ、可愛くなっちゃって、このこの」
「あ、姉さん、やめてくださいっ、あ、やぁ」

 なんかこう、地獄と天国が同時に存在している空間って感じがするな。

「ほら、あなた、木村さんがいらしたわよ、なんでもう飲んでらっしゃるの?」

 いや、お母さん、頭から酒を浴びて怪異のようなナニかに変わり果てたその人は放っておいて良いんじゃないかな?
 それより、あなたの可愛い娘さんが、なんだかいやらしいおねえさんに手篭めにされかけてますよ。

「きゃあ!隆志さん!」

 俺に気付いた伊藤さんは慌てて絡みついていたおねえさんを突き飛ばした。
 勢い余ったそのおねえさんは、床にうずくまってナイフを研いでいたつるっぱげの男に抱きつく。
 あぶねえよ。
 俺としてはもうちょっと頑張ってくれても良かったんだが……あ、いやいや、ゲホン、そうじゃなくって。
 きゃあとか可愛いなぁ……ってそういう事でもない。

「あ、おはようございます。今回はお招きありがとう」

 色々考えて抱えてきた花束は、玄関でお母さんに渡そうとしたら「あらあらまぁまぁ、それはあの娘にねっ」と、弾んだ声で言われたので、今差し出す。
 別にプロポーズではない。
 というか、プロポーズはもう済ませたしぃ、俺達。

「あ、ありがとうございます」

 伊藤さんが赤くなる。
 いや、そんなに初々しく恥ずかしがってもらうと、こっちまで照れてしまうから、おおう。

 俺たちがふすまを外して大広間になった居間の入口で固まっていると、恐ろしい圧力を感じてふと視線を向けた。
 うげっ!なんか殺気の篭った視線が突き刺さる。

「うっうっ、私のユーちゃんが」
「おう!こいつか!俺たちのアイドルにけしからん想いを抱いているというのは?」
「……ナイフは全部ピカピカだ」

 そんなあからさまに敵認定してくれなくても良いのに。
 いや、陰湿にやられるよりこのぐらいあけっぴろげな方が良いのか?

「はじめまして、よろしくお願いします」

 とりあえず礼儀が大事なので挨拶をしてみる。
 返事がない。
 無言のにらみ合いに移行……している人たちの後ろで、えらくデカイ体格の人が酒の瓶を口で噛み割って飲んでいた。
 おい、あれ、人間か?

 ふと気配を感じて振り返ると、背後になんかほっそりとした人が立っていた。
 うおっ!いつ来たんだよ!

「よろしく……」

 背後の人がぼそりと呟く。
 行動の怪しさに反して、この人が一番まともなのだろうか?もしかして。

 しかしなんだ、全員服の下になんか独特の装備をしているな。
 人の家にパーティに来てるのにこれか。
 もしかして冒険者ってこれが普通なのか?

「さあ、みなさん。うちのお父さんが張り切って釣ってきた自慢の魚を焼きますね」

 奥さんが場の空気もなんのそのニコニコ笑いながらそう言った。
 すると、お~っという声というか雄叫びが上がり、緊張が溶け落ちた。
 お母さんありがとう。

 すると、すっと伊藤さんが俺の横に来て腕を取った。
 おおっ?何時に無く大胆じゃないですか?
 年甲斐もなくドキドキして来たぜ。

 そんな俺のときめきを他所に、伊藤さんはそのままぐっと顎を上げて全体的に大柄な、父親の冒険者仲間であり、自身の子供時代の家族を見回した。

「この人を虐めたら絶対に許しませんよ!」

 い、伊藤さん?
 胸を張って宣言する伊藤さんは可愛いのに格好いい。
 やめろ、これ以上惚れたら俺、メロメロになっちゃうよ?

「おいおい、ユーカ、俺らがそんなせせこまいことするはずねえだろ?うさぎの糞じゃねえんだぜ?」
「だよな、てめえはゲロ野郎だからな」
「ああん?よく言ったな、このくそビッチが!」

 汚い、なんて汚い言葉の応酬なんだ、しかもこいつら翻訳術式挟んでないぞ、なんで現地語でそうすらすらと汚い言葉が出て来るんだ?

「おい、やめろ!せっかく奥さんが美味い食い物を用意してくれてるのにてめえら台無しにする気か?」

 すると今まで黙っていた奥の方の巨人が言葉を発した。
 2mを超える巨躯にびしっとしたスーツを身に付けたその姿は、もはやギャングの親玉にしか見えない。

「おう、ボス」
「サー」

 やっぱりボスなのか。
 その巨大なボスがのしのしと俺に近づいて来ると、伊藤さんを丁寧にそっと引き剥がす。
 いや、伊藤さんも抵抗したのだが、幼児の抵抗程にも意味がなかったようだ。
 まるで壊れやすい貴重品のように伊藤さんを引き離した巨人は、俺をしげしげと見つめると、丸太のような腕を差し出した。
 ええっと、タイマン勝負って事?
 俺が困っていると、背後からぼそっと「握手」と聞こえて来る。
 おお、握手を求められていたのか、気付かなかったぜ、こう、なんだ、凶器を突き付けられているような感じがしたし。

「よ、よろしくお願いします」
「むん」
「ぎゃああ!」

 いてえ!!
 握りつぶす気か、俺の手を!
 ガキボキいってんぞ?
 
 俺は負けじと意識を集中して拳に力を溜める。
 ビキビキとはっきりと分かる感触で筋肉がみなぎっていき、凶悪な圧迫を押し返そうとする。
 あろう事か若干硬化が始まってさえいるっぽい。

「ふむ、よろしく、な」
「俺は、木村隆志と言います」
「ジャイアンだ、よろしくな」

 あからさまに偽名だ。
 良いのかそれで。
 見た目そのまま巨人ジャイアンとか、笑い話に出来るレベルだろ。

「伊藤さんと交際をさせてもらっています。みなさんの事は彼女から折々聞かされていました」

 あえて攻めてみた。
 びびらされるばかりでは駄目だと思うんだ。
 向こうの方で、さっき伊藤さんにいやらしいことをしようとしていたお姉さんがにやりと笑うのが見えた。
 冒険者の女性ってみんなああなのか?

「ほう、なかなか良い度胸だな。まぁだが、今はその話は後だ。奥方の料理の前で暴れでもしたらとんでもない事になるぞ」

 とんでもない事ってなんだろう?
 そしてさっきから沈黙している伊藤父、ジェームズ氏は生きているのか?

「俺の嫁の飯は最高だからな」

 生きてた。
 そしていきなり惚気けた。
 それと、そんな酒まみれで囲炉裏に近付くのは危険だと思う。

 あ、手に持ってた杯に囲炉裏の火が燃え移った。
 ついでに腕まで燃えてるぞ!おい。
 周囲はゲラゲラ笑いながらそれを見ている。
 伊藤父はおもむろに火のついた酒をそのまま煽り、腕の火を囲炉裏の灰でこすって消す。
 とうてい文明社会とは思えない世界だな。

「はい、これはおつくりね。こっちはバター焼き、こっちの小さいのは串に挿して囲炉裏で焼くから頃合いを見計らって食べてね」

 お母さんすげえ、大皿2枚と串を手に持ってやってきた。
 器用すぎる。

 伊藤さんのお母さんの神業に感心していると、横から伊藤さんが袖を引いた。
 
「これ、私が作ったんですけど、食べてみてください」

 見ると綺麗なお皿に芸術品のような丸い寿司が乗っていた。
 うおっ、なにこれ可愛いな。

「可愛いですね」

 俺がそう言うと、彼女はぽっと赤くなりながら説明してくれる。

「手鞠寿司って言うんです」
「名前も可愛いですね。いただきます」

 指でひょいと摘んで食べる。
 一口で食える大きさだ。
 ぱくりと噛むと、普通の握りより繊細な薬味が使ってあるのか、魚のあっさりとした味わいとふわりと鼻に抜ける柔らかい辛味がいい具合にマッチして美味い。

「美味い!」
「ほ、本当ですか?良かった。こっちの赤身のお魚もどうですか?」
「ありがとうございます。いただきます」
「お茶もありますからね」
「あ、いい香りですね。ありがたいです」

 外国人ばかりだからか、テーブルを置いての立食パーティ形式となっているが、元々は囲炉裏を囲んだ板間と広間の続き部屋だ。
 俺たちは囲炉裏の近くにゴザの座布団を敷いて座り込む。

「あら、ダメよ。ヒロインを独り占めのヒーローみたいな真似はさせないわよ」

 年増、じゃなかったババァ……でもない、年長者の冒険者の女性が、突然俺の首根っこを掴んで、広間の方へ放り投げた。
 おい、俺は猫の子かよ!
 勢いに転がって、立ち上がろうとした俺の周囲には黒々とした壁があった。

「まぁ、男同士飲もうじゃないか、な?」
「あ、はい」

 人は、笑顔の方が怖いという事もあるんだなと、ふと思った俺だった。



[34743] 146:好事魔多し その四
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2015/05/15 18:33
「ごめんなさい、みんなはしゃいじゃって、いつもはもっと分別があるんだけど」

 伊藤さんの謝罪に、俺は応じる事が出来なかった。
 口を開けると吐きそうだったのだ。
 なんかこう、ガツンと来る酒をガンガン飲まされた。
 俺もいいかんげん酒には強い方だと思うんだけど、何度か気が遠くなった程だ。
 しかしなるほど、あれは伊藤さん的にははしゃいだ結果なんだな。
 酔っぱらいのナイフ投げの的にされた時は、もう死ぬんだなと思ったものだ。

 とりあえず俺はガクガクと自分でもぎこちなく思えるようなうなずき方で首を振った。
 勢いよく頷くと……以下略。

「あの、やっぱり泊まって行きませんか?雑魚寝になっちゃいますけど」

 俺はゆっくり首を横に振る。
 このままこの家に留まったら、目覚める事のない眠りに就きそうだ。

「そうですか……あ、あの」

 伊藤さんがもじもじと何かを言い淀む。
 彼女も少しお酒を飲んでいたので、目元と首筋が赤い。
 自宅でのパーティだったので、外で見るより幾分かラフな格好の彼女は、普段は滅多にない事だが、やたら色っぽく見えた。
 こ、これは、俺の理性が試されてる?
 というか、どうこう出来るような場所じゃないんだけどね、玄関先だし。

「……なにか?」

 俺は精一杯頑張って言葉を紡いだ。
 やべ、逆流しかけた。

「私の事、その、嫌になっちゃいました?その、はしたない姿をみせちゃって」

 なんだ、この人は何を言っているのだ?
 はしたないってどんな姿?
 グラスを両手で持って舐めるようにお酒を飲んでいた姿か?
 俺はああいうの好きだぞ、マジで。

 それともあれか、あのババァに背中のファスナーを下げられた時の事かな?
 安心して良い、俺はあの時殴られた上に踏まれていた。
 残念ながら見てない。
 というか見ていた連中が憎い。

「私もみんなといると、つい子供の頃の気持ちになってはしゃいじゃうんです。その、節度を忘れる女ってお嫌いですよね」
「伊藤さんは、さっきも今も、その前もずっと可愛いですよ」

 ここで何も言わないのは男として間違っている。
 俺はひっくり返りそうな胃を抑えこんで、そう告げた。
 声が潰れてしゃがれて格好がつかなかったが。
 伊藤さんは元々赤かった顔を真っ赤にして、ほっそりとした手をグーの形に握りこむと、俺の胸を殴った。

「もう!ほんと、木村さんは、ううん、隆志は、そういうのダメなんですからね!誰にでもそんな風だと、私きっと酷い女になっちゃいますよ」
「誰にでも言う訳ないだろ、その、ええっと、優香は大丈夫だから」

 何がどう大丈夫なのか分からなかったが、思わず頭に浮かんだ言葉を告げる。
 だめだ、くそっ、うまくものを考える事が出来ねぇ。

「なにうちの娘、呼び捨てにしてんだ?そういうのは俺に認められてからにしろ」

 大魔神、じゃなかった、伊藤父がその広い胸板に、作務衣がはだけそうなぐらいに筋肉をみなぎらせながら割り込んで来た。
 男のポロリなんか見たくないんだけど。

「もう、お父さん!あっち行ってて!お客さんのお相手してないとダメでしょ!いい加減にしないと明日から口利いてあげないからね!」

 伊藤さんが別の意味で顔を真っ赤にして父親を叱り付けた。
 伊藤父、ジェームズ氏は、ものすごいショックを受けた顔で固まっている。
 俺のせいで何度か娘から嫌われる危機に陥っているジェームズ氏の心中いかんばかりか。
 きっと憎しみはいや増すばかりだろうな。

 その伊藤父がすごすご奥へと引っ込んで行くのを見送っていると、伊藤母が俺に親指を立てていい笑顔を見せて来た。
 ……なんだろう?

 しかし一瞬そちらに気を取られたものの、はっと気付いてみれば伊藤さんがなぜかぐずり始めていた。

「ぐす、せっかく、みんなに紹介して、本当の家族みたいにして欲しかったのに、うっ、ひく、もう、ほんと台無しなんだから、えっく」
「ゆ、優香ちゃん、大丈夫?」
「ちゃんとか……うっ、えっ」

 泣き上戸かな?
 それとも眠いんだろうか?
 彼女は眠い時にはちょっと子供っぽくなる傾向がある。
 ちょっと甘えてくるので可愛いのだ。
 いやいや、そうじゃないぞ、俺。

「大丈夫、俺はその優香の家族も大事な人たちも、みんな嫌いじゃないよ。だって優香を大切に思ってくれているのがまるわかりだしね」

 伊藤さんは家族や冒険者の仲間達に愛されている。
 それははっきりと分かる事だった。
 彼らにとって、彼女は娘であり、妹なんだ。
 だから悪い虫が嫌いなんだよな。
 うん、ハイ、分かってます。

「そうやって、物分かりが良い所、嫌い。でも、好き」
「お、おう」

 これは、マジで子供のようになっているな。
 早く家に戻さないと。

「俺も、君が大好きだ。おやすみなさい」

 そっと額にくちづけをする。
 こういう恥ずかしい事は相手の意識が朦朧としている時に限る。
 正気な時にはとても出来ないしな。

 伊藤さんは一瞬びっくりしたように額に触れると、ぱちぱちと瞬きをして俺の顔を見た。

「おやすみなさい」

 俺はもう一度そう告げる。

「あ、はい、おやすみなさい」

 伊藤さんはなんだか不思議そうにそう返した。
 うんうん、今日はいつもと違う伊藤さんの顔を一杯みれたぞ。
 これだけでもおっさん達にいたぶられた甲斐があるというものだ。




 魔除けの街灯が照らす道を歩くと、あちこちに瘴気溜まりが出来てうごめいていた。
 そう言えばここは壁外だ。
 壁の中と違って夜は昏い。
 その昏さは、俺にとっては懐かしいものだった。
 とは言え、村はもっと暗かったけどな。
 まぁあそこはちょっと特別だし。
 俺の育った村では小型の怪異はあえて放置していたのだ。
 子どもたちはそれらに襲われて、それを撃退して自然に戦い方を覚えていく。
 ヤモリとかトカゲとか悪い事をしないやつらを虐めると大人に弱いものいじめをするなと怒られたっけな。
 俺は山が好きで、知らない場所を見付けるとそこに入り込んで遊んでいた。
 
『カァ!』

 その時突然頭上から声を浴びせかけられ、ギョッとして振り仰いだ。
 デカイ烏が月明かりの下で羽を広げている。

「よせよ、普通のカラスは夜はあんま飛ばないぞ」
『なんと!』

 驚く程にわざとらしい。
 その烏はひとつ咳払いすると、言葉を続けた。

『恋人達の夜を邪魔する闇夜の使者参上!』
「酔いも覚める驚きの白々しさだな。どうしたんだ?久しぶりだな」
『もっとこう、リアクションしようぜ、覚めた大人になってしまったら人生つまんないだろ?』
「おちゃらけた大人になる方が嫌だな」
『愛してるぜベイベー!デコチュー!』

 俺は物も言わずにそこに落ちていた石を投げつけた。

『ギャハハハハハ照れるな照れるな、いいじゃねえか、青春だねえ』
「もう20代後半だ、青春もへったくれもない」

 外したか、俺の腕も鈍ったもんだ。
 いや、待て。
 俺はもう一個石を拾うと、それをまた投げる。

『おいおい、何度やっても……っ!』
「縛」

 ククッ、甘いな、それは囮よ、本命はこっちの鎖だ。
 左手の手首だけで放った細い銀の鎖が烏に巻き付き、絡め取る。

『おい、馬鹿、やめろ……』

 烏は落下しながら段々と生物の持つ柔らかさを失い、ぽてんと地面に転がる頃には小さな木彫の鳥の姿になっていた。
 俺はため息を吐いてそれを拾い上げる。
 既に術者との繋がりを絶たれたそれは単なる可愛い木のおもちゃにすぎない。
 俺はそのままその鳥をポケットにしまった。

「なんだってんだか」

 突然現れた古い馴染みの事はひとまず忘れて、俺は夜道をシャトル乗り場へとゆっくりと歩いた。
 まだ終電まで時間があるからこの夜の雰囲気にひたっていたかったのだ。

 道の先に小さな公園があり、そこから子どもたちの影が鬼ごっこをしながら飛び出してくる。
 俺がパン!と手を叩くと、その影もふっと消え失せた。
 基本的には害はない、土地の記憶のようなものだが、偶にこれのせいで事故が起こったりするから消しておくに限るのだ。

「ほんっと、懐かしいな」

 ふと、見上げると、目には見えない壁の向こうのビル群が街の明かりを従えて黒く浮かんでいる。
 怪異のいないあの街が不自然なのか、怪異のいる世界が過酷なのか、俺には正直判断が出来ないのだ。



[34743] 147:好事魔多し その五
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2015/05/21 09:26
 暗い中にあちこちに灯りが揺れている。
 太鼓の音が響いて、子どもたちが楽しそうに走り回っていた。

「祭りか」

 夜祭りなんて何年振りだろう。
 故郷から飛び出して以来、そういうのと無縁だった。
 道沿いに並べられたガラスのホヤには綺麗な模様が描かれていて、それが結界代わりになっているらしい。
 理屈はよく分からなかったが、綺麗で、俺は子供の頃からこの灯りが好きだった。
 木々の間にも吊るされていたそれは、空の星と競い合っている。

 夜は好きだ。
 特に月の無い何も見えない夜に、小さな灯りをお供に星を眺めるのが好きだった。
 闇の中に様々なモノがいるのが気配で分かるけど、その姿を目にしなければ闇雲な憎しみを抱く事もない。
 ソレらが存在するのは自然な事で、それは本来は嫌な事ではないのだ。
 獣のような衝動に身を任せて、夜の闇の中で吠え声を上げたい。

「木村さん」

 カラコロと可愛い音を立てて、ボックリを履いた伊藤さんがそこにいた。
 浴衣を着ているのかな?暗くて模様がよく見えない。
 きっと可愛いだろうに。

「木村さん……あそこ」

 彼女がどこかを指さす。
 その指先が良く見えない。
 ふっ、と、彼女が走り出した。
 カラコロという音が遠ざかる。

「あっ、待って」

 ふわりと、並んだろうそくの灯りが揺らいだ。




 ブゥウウウン、と、不快な音が部屋に響いていた。

「う……ん?」

 あ、ベッドか、朝……だよな?
 おー、久々になんか夢見たな。
 なんだっけ?暗くて綺麗だったな、なんか伊藤さんがいたような気がする。
 夢にまで見るとか、ちょっと照れる。

 ヴゥウウウウウン!
 煩いな、って、通信端末か、朝っぱらから誰だ?

「……はい?木村ですが」
「おう!やっと出たか、おはよう!てめえ昨夜はよくもやってくれたな!」

 プチ。
 とりあえず切断した。
 するとほとんど間を置かずにまた唸り始める端末。
 ……とりあえず顔を洗って来るか、今日は仕事も休みだしな。

 しかし、この部屋いつまで経っても我が家って感じがしないんだよな。
 むしろ伊藤さん家の方がなんとなくしっくり来る。
 あの家は元々は古民家とは言え、本来は怪異を封じる為の仕掛け屋敷だった。
 普通はそういう役割はお堂なんかで行うのだけど、ああやって普通に家を建てて、怪異を閉じ込める地域もあるって事は聞いていた。
 そういう場所は実は人にとっても快適に感じる造りになっているのだ。
 元々人に害を成す怪異の大半は人由来の存在だから、その感覚は人に近い。
 だから住み心地の良い家に招いて、鏡を通して異空間に閉じ込めてしまう訳だ。
 当然、その異空間の先もその同じ家となる。
 封じが生きていれば、実は同じ家で人が暮らしてもなんら問題はないのだけど、伊藤さん家は残念ながら要の鏡が無くなってしまっていた。
 そのおかげで本来の住人と招かれた怪異が衝突してしまったのである。

 そんな事を考えながら顔を洗って、リビングへと入ると、いきなり、

 ガン!と、ベランダのガラスが叩かれるような音がした。
 さすがにビクッとしてカーテンの引かれたベランダを伺う。

 ガン!ガン!
 うおお、まただ、何事だ?

「ガァ!ガアアアッ!ガァツ!」

「うわあ」

 なんとなく察した俺は、ベランダへと続くガラス戸のカーテンを開けた。
 すると、そこには体当たりを繰り返す烏が1羽。

「ううん、動物愛護の精神の持ち主なら悪夢に見そうな光景だな」

 ため息を吐いた俺は、観念してベランダを開ける。

『全くお前と来たら!来てみればユミちゃんもコウくんもいないみたいだし、お前は電話を切りやがるし!マンションの住人には怪しい人間みたいに見られるし、もう散々だよ!』

 烏がまくしたてた。
 ファンタジー?な光景だな。
 いや、いっそシュールというべきか。

「二人ともいなかった?」
『まぁ昼前だし、休みの日にゴロゴロしているお前とは違うって事だな』

 時計を確認する。
 確かにもうすぐお昼だ。
 そう言えば腹が減ったな、飯の準備をしないと。
 二日酔いとかしないはずなのに、ちょっと頭痛が残っているんだが、あの酒マジでやばいもんだったんだな。
 一般人なら死んでるんじゃね?

 俺はカーテンをまた閉めて、ベランダから離れた。
 ちょっと暗いが、まぁ困らんし。

『こぉらあああ!!』

 バサバサ、ガンガン!という音が響くが無視をする。
 冷蔵庫を開けると、冷凍室に以前伊藤さんが作り置きしてくれた冷凍カレーが入っていた。
 これを解凍して食おう。

『オン・キリキリ』
「うわあ、まった!」

 いきなり真言を唱えだした烏に慌ててベランダを開ける。

『お前な、いい加減にしろよ、俺はお前達のししょーだろうが、ししょー』
「えー、失笑?」

 烏が襲い掛かって来て突かれた。

「痛い!痛いから、アニキのししょー」
『全くお前は、ガキの頃からなんも変わってねぇな。いい大人になっても』
「えー、それをアニキが言うんですか?俺たちが大人に夢を見なくなったのはアニキのせいだからね」
『なんだと、俺はカッコイイ大人だっただろうが!』
「それがダメなんだってなんで分かんないんですか?」
『とにかく中に入れろや、なんだ、このマンションのセキュリティは!俺の隠形が効かないとか』
「なにこっそり入ろうとしてるんですか。そもそも俺達をここに住まわせている時点で、そういうのに一番注意を払ってるに決まってるって分かるでしょうに」
『いいから、はよ開けろ!はよ!昨夜からずっと外だったんだぞ』

 アホか、どっかに適当に泊まれよ。
 それともアレか、また宵越しの金は持たねぇとか言って、一文無しなのか?この人。

「なにやってんですか、馬鹿ですか?」
『仕方ねえだろ、特区の通行が21時以降は禁止とか知らなかったんだからよ』
「特区に来てるんだ」
『おうよ、お前も聞いてるだろ?ハンター協会の日本支部の話』
「あー、あー、ああ」
『なんだそのダダ下がっていくテンションはよ、もっとテンション上げろよ!迷宮とかロマンじゃんか』
「うわあ」

 ダメだこいつ、なんとかしないと。

「カズ兄、もう良い年なんだからさ、いい加減落ち着いたら?嫁さん貰えよ」
『お前、俺を老人扱いするな!お前と10しか違わんだろうが!10年後にはお前の辿る道だぞ』
「いや、俺はカズ兄とは違うし、稼いだ金を一晩で使い切ったりせずにちゃんと貯金してるから」
『はっ、ハンターがそんな堅実な事してどうするんだよ!』
「俺は会社員だからね。それより、ハンター1本の方が貯金しとくべきだろ。いつまでも体力持たないよ」
『お前はそれだから馬鹿だと言うんだ。ハンターは堅実に生きちゃイカンのだよ。ロマンを追い求めるべきなんだ』

 俺は烏の嘴をキッチンに引っ掛けていた輪ゴムで括るとベランダの外に放り出した。
 本物の烏ならかわいそうで出来ないが、カズ兄の使い魔ならどうでも良いな。

 閉めだした外からまたぶつかる音がしていたが、それっきり俺は気にせずにカレーを温めなおして朝食券昼食にした。
 休みとは言え、昼前に起きるとは俺も生活が乱れ始めているのかな。
 ダメな大人の見本がいると自戒の気持ちが起きるよな。

「あっ」

 ふと、俺は気付いた。
 俺が佐藤を第一印象からあまり好きじゃなかったのって名前がカズ兄と同じだったからってのもあったんだな。
 考えてみれば佐藤に悪いことしたな。
 まぁ、変な奴だけど、俺にそんなに害はないしな。
 今度からはもう少し優しくしよう。

 カレーを食べ終えた俺は、伊藤さんに感謝しながら食器を洗ったのだった。



[34743] 148:好事魔多し その六
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2015/05/28 09:46
 胸の辺りまでしかないレザージャケットにジャラジャラとカラフルな缶バッジを着けて、10本の指にはそれぞれ銀製のごつい指輪、七分丈の革のパンツにこっちは様々な形のピンバッジが並んでいる。
 特に目立つのはパンツの正面ジッパー近くに飾られた金髪女性の色っぽいピンバッジだ。
 そして中に着ているのは目に痛いような原色の黄色いTシャツである。
 髪は前髪の一部を赤く染めていて、それがちょっとニワトリの鶏冠を思い出させた。
 この格好で高級マンションの正面玄関をうろついていたのだ。
 例え入り口にいた時間が1分だったとしても確実に不審者と思われただろう。
 とうとう警官に職務質問を受ける事となったこいつの確認を求められて、俺は仕方なく引き取る事にした。
 善良な警察の人に迷惑を掛けるのはイカンだろう。

 目前でふんぞり返るソレに、俺は思わず大きくため息を吐いた。

「ったく最近の警察も酷えよな、善良な国民である俺様を疑うなんてさ」
「善良な国民の皆さんに謝れ」

 俺の言葉にその男、木村和夫は意味が分からないとばかりに首を傾げる。
 同じ木村姓だが、別に兄弟でもなければ従兄弟でもない。
 系図を辿ればどっかで繋がっているかもしれないが、基本的には同じ村の人間というだけの間柄だ。
 うちの村の8割方は木村姓なのである。

 ふと気付くと、蝶々さん達が部屋の片隅の方に避難して小さい輪を描いていた。
 魂の無いはずのモノ達にも嫌われるとか、さすがだぜ。

「タカシく~ん、腹減ったなぁ」

 俺は遠隔操作盤リモコンに触れてテレビジョンを点けた。
 画面の中では女性が有名人の私生活の噂話を検証している。
 全く酷い世の中だ。

「おーい」
「……ちっ」

 仕方ないので冷蔵庫に残っている野菜を刻んで適当にチャーハンでも作ろう。
 伊藤さんのカレーは食わせてやらん。

 俺が無言でキッチンに向かうと、その元師匠とやらは早速部屋を物色し出す。
 俺が作った玩具からくりをいじって楽しんでいるようだった。
 鳥の使い魔を使うからか、卵型の玩具を取り出して床に転がして遊んでいる。
 それは鳥の卵の形をした木製の玩具で、転がすとその回転によって動力が溜まり、殻が割れて雛が飛び出し、殻の回転が止まる。
 だが、雛はすぐ驚いたように引っ込んで卵型に戻りまた動き出すという、永久機関じみた玩具だ。
 当然永久機関ではなく、転がりが緩慢になったら人が転がしてやる必要がある。

「お~」

 子供か、あんた。

「おっ、これは俺のクロウくんじゃないか!」

 どうやら棚に置いておいた昨晩の使い魔の核を発見したらしい。
 この男の使い魔の核は、本人に似つかわしくなく、凄く可愛い。
 ふくら雀というまん丸状態の雀を言い表す表現があるが、正にあの状態のデフォルメな小鳥の木彫なのである。
 この男は面倒で苦手だが、こいつの彫る鳥は凄く可愛いのだ。
 せっかく飾ってたのに見つかってしまったか。

「よしよし、これでうちの仲良し3兄弟のクロウ、シロウ、サブローが揃ったな」
「どこの童話の設定だよ」

 出来上がったチャーハンを皿に盛ってテーブルに置く。
 チャーハンの時の定番である溶き卵のスープも付けてやった。
 茶も淹れるか。

「ふふん、実はタカシは可愛いモノ大好きだよな。俺は知ってるからな」
「別に隠してないし」
「自分の顔が怖いから可愛いモノに憧れるんだよな」

 イラッとした俺は皿に添えたレンゲを引っ掴むと綺麗に盛りつけたチャーハンの山を崩して一口食ってやった。

「おおお!何しやがる!」
「味見だ」
「盛り付ける前にやれ!」
「うっさいな。早く食えよ。んで、何しに来たんだよ」

 俺からレンゲを奪い取ったバカは、まるで奪われるのを阻止するかのように皿を抱え込んでガツガツ食い始める。
 いつから食ってないんだ?こいつ。
 特区にハンター支部が出来るという話がハンター本部と酒匂さんから回って来たのは最近の話だ。
 どうやら例のイマージュ事件に関係しているらしいんだが、どこから漏れたのか、それを察知した冒険者達が戦々恐々としているらしい。
 ハンターと冒険者は狩場が被る事も多々あって、別に不倶戴天の敵という訳ではないが、あまり仲が良い訳でもない。
 しかも素行の良くない冒険者は血族に属する若いハンターを襲う事がままあるので、そういった事情からなんとなくお互いの存在が気に食わないぐらいの認識はあるのだ。
 そもそもハンター試験に通らなかった者が無免許で狩りをする冒険者になるという事情もあって、なかなか両者の関係は複雑なのである。

「めひひゅうくのひたみにひたんだよ」
「あ?飲み込んでからしゃべれ」
「だから迷宮区の下見に来たんだって。お前ね、仮にも自分の師匠に向かってちょっとは遠慮して話せよ。そもそも十も俺の方が上じゃねえか、年上を敬えよ」
「年だけくって見た目も中身もガキのおっさんを敬うような殊勝な弟子じゃねえよ。てか厳密に言えば弟子でもねえよ。あんた単なる俺達のサポーターだっただけじゃねえか」
「うわあ、そんな事言っちゃうんだ。右も左も分からない幼気な坊やに優しく戦い方を教えてやったのに、俺泣いちゃうよ」
「はぁ?あんたの教えって、怪異を見つけたら正面から突っ込め!てやつじゃねえか!お陰で当時ウエイトの足りなかった俺がどんだけ空中遊泳をしたと思ってんだよ」
「お前あの頃マジで楽しそうだったな」
「いや、楽しんでないからな。後で本部の担当官に聞いたらそんな戦い方はあんまりオススメしないとか言われちまったんだぞ」
「ったく、お前は脳筋だからなぁ」
「ちげえだろ!アンタだろ!」

 言い合いの間に器用に飯をかっこんだ野郎は悠々と茶を飲んで寛ぎ出した。

「しかし、とうとうお前にも彼女が出来たのか、感慨深いな」
「う?うあああああっ!」

 隠しておいたはずの俺と伊藤さんのツーショット写真が奴の手に握られている。

「やめろ!返せ!」
「おお、可愛いな、お前ってこういうタイプほんと好きそうだよね。ごっつい美人とか相手だと引いちゃうんだよね」
「うっせえよ、このバカ」
「おいおい、師匠相手にバカとか、いったい誰の教育なんだ?まったく」
「カズ兄、いい加減にしないとマジで怒るぞ!」
「へいへい」

 俺が本格的に突進の構えを取ったのを見て、バカ師匠はニヤリと笑って写真から手を離した。
 高い位置から放された写真はひらひらと落ちる途中でふんわりとした花びらに埋もれ、床に落ちた時にはやたらファンシーな花模様のフォトフレームに飾られていた。
 どこの少女趣味だよ。
 仕方ないのでそのまま棚の上、さっきまでバカ男の小鳥が置いてあった場所に写真を後ろ向きに置く。
 恥ずかしいので正面に向けるのは無理だ。

「んで、なんでよりにもよってアンタが迷宮特区に来たんだよ」
「そりゃあお前、俺が冒険者連中にも顔が利くからだろ」
「えっ?意味が分かんねえよ、どういう事だ?」

 バカはフフンと胸を張っていた。
 凄く自慢気で人をイライラさせる顔だ。

「どうもこうもねえよ。俺はちょっと海外に行ってた時に連中と一緒に働いてた事があるんだよ」
「えっ?そんな事あるのか?てか血統者は海外に出られないだろ」
「正確に言うと、ゲートで海外に飛ばされて、戻って来るのに冒険者の力を借りたんだな、これが」
「マジで?それって大事件じゃないか?」
「んー、ガキならともかくいい大人だったからなぁ、別に大したこっちゃないだろ」

 いや、とんでもない事だからそれ。
 当時の政府の担当者大丈夫だったのかな。
 こんないい加減な男のせいで人生棒に振ってないと良いんだが。
 自国の勇者血統は絶対に外に出さないという厳格な我が国の法律がこんな男によって破られたかと思うと、なんだかやるせない思いに包まれたのだった。



[34743] 149:好事魔多し その七
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2015/06/04 10:19
 カズ兄の訪問理由は久しぶりの俺たちの様子見と、特区についての忠告、そして昼飯のたかりだった。
 うん、これってあれだよな、1、2が無くて3が本命的な。

「特区の冒険者連中の中にさ、迷宮が稀なる血を求めているんだとか言い出す奴が出て来てるんだよな」
「あ、それって神格化が進行してるんじゃないのか?」
「う~ん、まぁ」

 駄目師匠ことカズ兄はボリボリと鶏冠を掻きむしった。
 ところでカズ兄、風呂にはいつ入った?
 嫌な予感がした俺は、さり気なく距離を取る。
 
 神格化、人知を越えた存在を神として崇める行為は別段珍しい事ではない。
 山や川、雷や嵐など、古くから人間は巨大な力を神格化して、精霊として顕現させて来たという歴史を持つ。
 問題はその力を鎮め、コントロールする為ではなく、その力を自らに得る為に崇める場合だ。

 大体、あの迷宮、摩天楼の核は終天だが、あいつは既に半ば神格化されていて、恐ろしい事に多くの信徒を持っている。
 その上で迷宮としての神格化が進むという事は、今の終天としての存在の上に新たな一面が追加されるという事だ。
 神は多面化すると危険度が増す。
 この件はすなわち、迷宮を強化し、更には終天を強化するという事に繋がるのである。
 下手をするとこの中央都を飲み込んで、魔都が出来上がる可能性まである。

「まぁそんな訳で、俺様が迷宮特区に滞在してるんで、何か困った事があったら連絡をするように」
「いや、別に連絡したりしないから特区でちゃんと仕事してろや」
「うおっ!うちの一番弟子が冷たい!」
「誰が一番弟子だ!それからうちの連中にたかりに行ったりするんじゃないぞ!」
「何言ってるんだ。俺が弟子達にたかったりする訳ないだろ。心優しい弟子が師匠の世話を焼くのは当然の事だからな」
「もう帰れや!」
「聞いてくれよ、クロウ、うちのタカシが俺を虐めるんだぜ」

 いつの間にか出現していたカラスがカズ兄の肩の上でカァと鳴く。

「いいから出てけ、道々カラスとしゃべりながら歩いておかしな人と思われてしまえ」

 俺はぐずる馬鹿師匠を追い立てて玄関から外へと押し出そうとした。
 飯食ったんだからもう用事は済んだだろうと思ったからだ。

「全くお前は、いつまでもガキのまんまで、そんなんで一般的な社会人とやらをやれているのか?俺からしたら幼女のおままごととおんなじに見えるんだがな」
「偉ぶって説教してもアンタだと説得力が皆無なんだよ!生活能力ゼロのくせしてちゃんと社会人として働いてる俺に文句言えんのかよ」
「フッハハハ、馬鹿め、俺はな、人徳で他人に養って貰えるんだよ。これが大人の貫禄というものだ」
「人徳とか大人とか、辞書で意味調べてから出なおせ!」
「クロウよ、見ろ、これがキレる若者というやつだ」
「カァ!」
「いや、もう若者って年でもないから、良いから帰って、お願いします」
「仕方ない、弟子の頼みを聞くのも師匠の度量というものだ。ん~、ところでタカシ」
「なんだ?」
「金貸せ、今夜の宿代が足りなくてな。いや、明日になれば本部から口座に金が振り込まれるはずだし」

 堂々と弟子に金をせびる師匠とやらの姿がそこにあった。

「明日になったらなったで1日そこらで使い切ってしまうくせに!いいかんげん金があったら全部使う癖を治せよ」
「いいか、タカシ、人は欲に囚われるとろくなことにならんのだ。そんな煩悩の元は早々に処分するに限る」
「キャバクラで豪遊するのはその煩悩じゃないのかよ」
「ほどこしだよ、タカシ」
「いいから出てけ!」

 俺は言葉と共にカズ兄に万札を叩きつけると玄関から放り出してドアを閉める。
 全くあの人は、昔100万円程を一晩で使い切った事があったらしいと聞いて戦慄したものだ。
 相変わらずどうやって生活しているのか生活感のない人である。

「あ~タカシ、お前んちのちょうちょは可愛かった。ああいうモンをもっと作れや」

 玄関の向こうで一言言い残し、その足音が遠ざかる。
 カズ兄を怖がって部屋の隅にいた蝶々さんをいつの間にか観察してたのか。
 というか、カズ兄の言ってるのは由美子の式の方じゃないだろうな?
 
「まぁ褒めてくれたのは嬉しいんだけどね」

 ため息が出る。
 迷宮か、週末に仕事入ってるんだよな。




「特区は今やスラム化してると言って良いような様相を呈していますね」
「軍は何してんだ?」
「冒険者は特殊装備を持っているからなかなか取り締まりも難しい」

 俺より頻繁に特区に足を運んでいる浩二と由美子は最近の特区の様子の不穏さを伝えてくれた。
 しかし、なるほど、常に怪異と戦っている冒険者相手は、装備もさる事ながら実戦経験的にも我が国の軍、しかも中央の軍には厳しいかもしれないな。
 問題が起こったらすぐに無力化を行えるシステムがあるはずなのにどうやらそのシステムの穴を見付けたか、ハッキングしたのか、目の届かない犯罪行為が増え始めているようだった。

「しかしカズ兄ですか。まぁ適任と言えば適任ですが」

 浩二が肩をすくめてみせる。
 浩二はあの馬鹿師匠との距離感を一番掴んでいる弟子と言って良いだろう。
 まぁ言ってしまえば適当にあしらっている。
 カズ兄もどうやら浩二が苦手らしくてあんまりしつこくまとわり付いたりはしない。
 でも、しっかり金はせびっているらしい。
 まったく何やってんだあの人。

「カズ兄は愉快」

 俺たちとは違って、師匠にある程度懐いているのが由美子だ。
 まぁ年の差が16もあれば、そりゃああんまり大人げない事も出来ないという事だろう。
 さすがに由美子に金をせびったりはしないらしい。
 やってたら俺が半殺しにするけどな。
 驚くべき事に、由美子にはおみやげとかも持って行くらしい。 
 内容は怪しげな物ばかりだが、何かを他人にやるというだけで驚愕レベルだ。

「あの人もふらふらしてるから、居場所を与えるのは良い事かもしれんけど、ちゃんと仕事するのか?あれ」
「問題は補佐に付く人ですね。本部も馬鹿じゃないから心得ているでしょう」
「カズ兄は年上の美人に弱い」

 ぼそりと零した由美子の言葉に、俺は思わずむせた。

「ゲホッガフッ!」
「なんで飲み物口にしてないのにむせるの?」
「ゴホッ、ち、ちと驚いて、唾が気管に入った」
「仕方ないなぁ」

 由美子はお茶を淹れてそっと出してくれた。
 良い子だなぁ、うちの妹は。

 そんな俺達の様子をしらっとした顔で眺めながら、浩二は自分の湯のみを出して由美子にお茶を催促する。
 コポコポと、全員のゆのみに新しいお茶が満たされた。

「まぁカズ兄の事は放っておきましょう。あの人は心配するだけ無駄です」
「確かに」
「それより、例の迷宮探索の話ですけど、理解出来ていますか?兄さん」
「ああ、モニタリングテストだっけ」

 迷宮管理を仕事とする特区庁は、別に冒険者との丁々発止のやりあいだけを進めている訳ではない。
 メインの仕事として、迷宮へのより安全なアタック方法の開発を続けている。
 以前は読み取ったマップ上に迷宮に入った人間のビーコンを配置するというモニタリングシステムを開発していた。
 これだけでもかなり画期的なシステムだったのだが、なんと、とうとう迷宮をバーチャルにモニタリングするシステムを開発したらしい。
 またあの東雲のなんとかという魔術師の協力なのだろうか?
 凄いとしか言いようがない。

 そもそも迷宮は起きて見る夢のような物だ。
 実在しているように見えて、現実とは違う空間なのである。
 それを画像として見るという事は、他人の夢を映像として見るというぐらいとんでもない技術なのだ。
 しかも、迷宮と外とは空間それ自体が異なっている。
 きっとその技術の理論とやらを聞かされても、俺には理解出来ないだろうな。

 つまりは、特区庁はそのバーチャルモニタリングシステムを試す為に、俺達を使う事にしたようなのだ。
 出来るだけ少人数で、無事に踏破する事、という割りと難しい条件からして、俺たちしか無理だろうという話になったとか。
 まぁそもそもその為の長期契約なんだから迷宮に潜るのは構わない。
 今までどうも政府は俺たちに対して過保護すぎたと思うんだよな。

「しかし、3階層までしか潜ってない僕達にいきなり10階層に潜れとは、なかなか思い切りましたね。これも信頼と受け取るべきでしょうか」
「ありがたい事だよ」

 そうなのだ、いきなり10階層、迷宮が本格化する階層にアタックする事になったのだ。
 ただ、これまでのように事前情報無しの初アタックではなく、既に踏破済みの階層だ。
 実際にはかなり楽なんじゃないかと思う。
 それより問題はアレなんだよな。
 うちの会社からの密命で、現地テストを仰せつかったのだ。
 いいのかな~これ。



[34743] 150:好事魔多し その八
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2015/06/11 10:31
 中央都の他の地区から特区に入るには3つの入り口がある。
 そのどれもが厳重な多重閉鎖式の金属スライド門であり、特区自体は巨大な壁に覆われていた。
 この壁には例の電気的結界も使われてはいるが、怪異だけでなく人間をも封じ込めるという目的がとてもあからさまである。
 実際この壁には冒険者に対する政府側の威圧的な意味合いもあるのだろう。

 荒れていると馬鹿師匠から言われていた特区だが、確かに門の警備は厳重になっていたが、中に入ってすぐに目にする表通りはあまり代わり映えしない感じだった。
 冒険者とて普通の人間だ。
 生活する為に必要な物は一般人とそうは変わらない。
 大通りには外の商店街とそう変わらない店舗が立ち並び、ちょっと奇抜な服装の人間は多いものの通りを歩いている人達もさして暴力的ではなかった。
 荒れているというからには特区全体がスラム化でもしているのかと思った俺はちょっと拍子抜けの気分だった。
 しかし、やはりその評価は少し早すぎたようだ。
 表通りは監視の目をごまかすには向いていない。
 ただ単にそういう事なのだ。

 迷宮特区庁と呼ばれている特別区画庁へと向かうには大通りだけを通って行くのは大回りになる。
 その為、途中ショートカットするために路地へと入るのだが、この特区はとにかく建物の変化が激しい。
 色々な建造物が出来ては放棄されが繰り返された挙句、違法合法それぞれの手段でその放棄された建物を取得した連中がそれを改造する。
 見た目はあまり変化がなくとも、地下や屋上などに手を加えられて行き、もはやこの特区の裏通りこそが迷宮じゃないか?という雰囲気になっていた。
 ここを管理している酒匂さんおかしのひとの苦労が偲ばれる。
 区画地図の最も最新の情報が更新されるのがハンター協会からの情報である為、専用チップを端末に繋いでチェックしながらの移動となったのだが、路地に入り込んだ途端に視線と、付かず離れず付き纏う気配を感じる事となった。
 いくらなんでもあからさまというか、わかり易すぎる。
 これはデコイとかそういうのなのかな?

「撒いていいのかな?」
「撒いても良いけど迷子になる」

 由美子が無情に告げた。

「いや、お前の式を飛ばせば道も分かるだろ?」
「もう飛ばしているけど、ルートが変われば再設定する間が空く」
「もう飛ばしてるのかよ、街中であんま術使うと怒られるぞ?」
「日常使いの術式、怒られない」
「二人でほのぼのな会話をしているのは良いですけど、周りの人達がそろそろ痺れを切らしそうですよ」

 浩二が自分の足元の影を見ながら忠告する。
 もう周囲の連中の影を把握したのかな?
 お前のはどう言い訳しても日常使いの術じゃないからほどほどにしろよ。

「なーなー、あんたらさ、もしかしてハンター?いやーな電波がさ、ピピッと俺にささっちゃってんだけど」

 黒いマスクで顔の下半分を隠した男が、のそりと、俺達の向かっていた道の角から姿を現して開口一番そう言い出した。
 電波を受信しちゃっている人らしい。

「すげーな生身で電波を受信出来るのか、端末いらずだな」

 俺は感心してそう言った。

「そうなんだよ。俺って便利なの、こうさ、鉱石とか金属板とか持つだけでいろんなチャンネル受信出来んだよ」

 マジだったらしい。
 そりゃあすげえや、びっくり人間だ。
 違法傍受し放題で通信会社の天敵だな。

「んでさ、ハンター連中の使う電波ってキンキンして尖って痛いんだよね。それって酷くね?酷いよね?だから俺に迷惑料払うべきだろ?」
「や、ちょっと意味わかんないな」
「はぁ?わかんだろ?ふざけんじゃねえぞ?」
「ふざけてねえし、いいからどけよ」
「兄さん、同じレベルで喧嘩売ってどうするんですか?」

 浩二が呆れたように言うが、俺は断じて同レベルでもないし、喧嘩売ってもいないぞ、穏便に退いてもらおうとしただけだ。

「そっちのおねえちゃん超カワイイじゃん、なんならお……おおっ!」

 考える前に手が出ていたというのはこういう状況の事を言うんだろうな。
 俺は黒マスク野郎の襟首を掴むと、丁重に投げ飛ばした。

「……兄さん」

 由美子がじとっとした目で見る。
 いや、暴力じゃないぞ、ほら、ふわっと投げたからふわっと、ちゃんと上着がビルの看板に引っ掛かって怪我もしていないじゃないか。
 地上2mもない高さだし、落ちても怪我しないぞ。

「やろう!」

 周囲からバラバラと様子見だった連中がやって来る。
 服装とかバラバラで統一感がないな。

「へいへい、ハンターさんよ、お偉いハンターさんが一般人に手を出したら拙いんじゃねえの?」
「うわっ!やっべ、俺ら殺されちゃう?殺されちゃう?」

 ゲラゲラ笑いながら後ろを塞いでるのが二人、何を考えているのか建物の屋根の上にいるのが一人、いかにも怒っていますという雰囲気で顔を真っ赤にして前に立ちふさがっているのが一人、う~ん、こいつら連携してるのかな?判断しにくい。

「別に喧嘩とかする気はないよ。そいつはうちの妹に色目を使ったから兄として害虫を排除しただけだ」
「が、害虫じゃねえよ!アニキは俺らに仕事を見付けて来てくれる良い人なんだぞ!」

 後ろの連中に答えたつもりだったが、返事をしたのは前のやつだった。
 そうか、本当は良いやつってパターンだったか。
 しかし、うちの妹に目を付けたのが運の尽きだったな。

「分かった、それなら俺に構わずにそのアニキとやらを下ろしてやれよ、上着がなかなか破れないんでどうも首が締まってきてるっぽいぞ」
「え?あああああ!アニキィ!」
「なまじ丈夫な上着が災いしたな」

 言われて、慌てた男は最初の男に駆け寄って苦心惨憺しながら引き下ろそうとする。
 おい、引っ張ると拙いって。
 見かねて俺はそいつを手伝う事にした。

「ちょっと手を離せや」
「な、何しやがる!」

 慌てて電波男を守るように立ちふさがる男をスルーしてビルの壁に向かうと、その壁を思いっきり蹴りつけた。
 とはいえ、こういうのはコツがいるんだけどな。
 単に力任せに蹴りつけるんじゃなくって上下に振動するように蹴る必要がある。

 うまい具合に看板が揺れて、電波男は無事落下した。
 真下にいた男の上に。

「ギャッ!」
「おいおい、大丈夫か?」
「てめぇ!や、やるのか!」
「勘違いすんなよ、お前のアニキを助けてやったんじゃないか」
「あっ、アニキしっかり」

 直前まで首が締まっていたらしく、顔色が悪かったが、電波男は正常に呼吸している。
 どうやら仲間の上に落ちたので落下の衝撃自体は全くなかったようだ。

「にいさんおもしれえな」

 後ろでゲラゲラ笑っていた連中が近付いて来る。
 こいつらの足運びは明らかに何かの技をある程度以上修めている者のそれだ。
 本格的に争い事になったら怪我をさせずに納められる自信はない。

「なぁ、この街はさ、俺達冒険者が一攫千金を目指して集まった街なんだよ。そこにさ、あんたらお偉いハンターさん達が美味い所をかすめ取りに来るってのは違うんじゃねえの?そこんとこどう考えてんのさ?」

 口元に笑いを貼り付けたまま、二人組の男の一人が言って来る。
 両手はポケットの中、明らかに何か得物を掴んでいる。
 ふと、浩二が目を細めた。

「やめろ」

 俺は慌てて浩二を止める。
 今のこの連中に殺気と言える程の強い敵対意識はない。
 はっきりとした負の感情を向けられているのは分かるが、それは縄張りを荒らされるという危機感によるもののようだった。
 それにどうも先の二人と、後の二人の間に関連性もないようだった。

「そっちのおにいさんは術士か。いいぜ仕掛けて来てもよ、だがさ、そうなったらお前らこの街の冒険者全員を敵に回す事を覚悟するんだな。まぁ俺らもそっちの方が楽しそうだから良いんだけどよ」

 そう言ってまた笑い出す。
 どうも馴染めない相手だ。
 浩二はちょっと眉を動かしたが、何かをする気はなくなったようだ。
 良かった。
 あいつがキレたら俺の手に余る。

「言っておくが、俺達は頼まれた事をしているだけで、別にあんたらのショバを荒らす気はないぞ。迷宮で稼ぎたいのならあんた達の自由だ。俺にあんたらを止める権限もそのつもりもねえよ」
「へえ?」

 男は笑いを収めると、まるでダンスのステップを踏むように向きを変えて俺達から離れた。

「まぁ今日の所はそういう事にしといてやるか」

 ええっと、これはもしかして見逃してやるって意味なのか?
 どうも冒険者の考え方というか流儀って良くわからないな。
 てかこいつらと話している内に最初の二人は姿を消しているし、案外素早い。
 屋根の上は……まだいるな。

「はぁ」
「兄さん、ため息を吐くと幸せが逃げるって」

 由美子が首を傾げてそう言った。
 お前は今の一連の出来事に何も感じてないっぽいな。
 まぁ、昔から他人に興味なかったもんな、うちの妹は。
 最近は伊藤さんと仲が良いのでずいぶん社交的になって来てたんだけど、こういう時は相手に無関心なのは相変わらずだ。

「まぁいいか、とにかく行こう」
「そうですね」

 浩二もあっさりと言って先へと進む。
 何も言わないけど何かやってそうなんだよな、うちの弟君も。
 さっきの連中のアジトを探り出すとかならいいけど、呪いを掛けるとかそういうのはやめておくんだぞ。
 それにしても、なるほど、どうやら冒険者はハンター支部が出来るせいでピリピリしてるっぽいな。
 馬鹿師匠は何やってるんだ?全く。

 俺はそういう外交関係を担当しているであろう馬鹿師匠ことカズ兄に、ひっそりと悪態を吐いたのだった。



[34743] 151:好事魔多し その九
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2015/06/18 10:55
「やあ、この前振りだな」
「この前って、結構前でしたよね?」

 なんだか段々フランクになって来た武部隊長だが、目は笑っていない。
 むしろ昔より威嚇っぽい目つきになって来たような気がする。
 おかしい、ずっと協力的にやって来たはずなのにどうしてなんだろう?

「君たちが現れる度に厄介事が増える」
「いやいや俺達何もしてませんよね?むしろ協力しているでしょ?」
「トラブルメーカーってやつはいつもそう言うんだ」
「そんな、俺達トラブル起こしてませんよ?むしろトラブルを払いのけている方です」

 武部隊長は俺の抗弁に「ふう」と、ため息だけを零す。
 まだ若いのに大丈夫か?この人。

「すみません、どうも迷宮周りで想定外の事態が続くのでナイーブになっているんですよ。うちの隊長」
「人を思春期の乙女のように言うな」

 横から大木がフォローを入れる。
 なかなか上下関係を越えたツッコミだが、規律に厳しい軍隊にしては珍しく、誰もそれを咎め立てしなかった。
 武部隊長の表情も、少し和らいだようだ。
 上司と部下の間にはそれなりに信頼関係が構築されているらしい。
 大木は例の妄想汚染イマージュに侵された被害者でもあるのだが、最初の頃実験動物的な扱いをされそうだった時に隊長が二次汚染を理由に隊内隔離で押し切ったという事だった。
 今では感染はしないという事が分かっているが、上層部もその間に頭が冷えたのか、現在は定期検診と外出禁止の上での経過観察という事になっているとの事。
 切り替えついでにこの肉体変化がどの程度実戦に使えるのかを調べているらしい。
 基本的には異能者と同じような扱いに移行したという事だ。
 初期のパニックに近い状態のまま治験に回されたら、いきなり殺処分という事もありえたという話だから、大木が隊長を信頼するようになったのも当然と言えば当然だろう。
 まぁ正直いきなりそんな馬鹿げた事にはならなかったとは思うが、薬物投与や組織検査などで色々弄られたであろう事は想像に難くない。

「それで今日はモニタリングテストという事だったのですが、具体的には第10階層を普通に踏破するという事で良いのでしょうか?」
「そうだ。その際にこの機材をそれぞれの頭部に装着して行動して欲しい」

 そう言って取り出されたのは一見工事の人が頭に装着するヘッドランプに似た物だった。
 正面に付いているのが石である所からどちらかというとバンドで固定するサークレットという感じだろうか。
 まぁ装飾っぽい部分はなく、全体の骨格は樹脂製でやすっぽいんだが。

「それはハウルと名付けられた装置で、複製された己自身と共鳴し合うコアを中心に、カメラとマイクが組み込まれている」
「へぇ」

 感心して眺めていたら、由美子がぼそりと呟いた。

「このコア、精石」
「へっ?」

 理解が追いつかないまま武部隊長を見ると、感心したように頷いている。

「良く分かったな。確かにこれは精石をコピーしたものだ」
「ちょ、待て。精石ってのは怪異を封じた石だよな?それをコピーしたって、下手すると怪異を増殖出来るんじゃねえか?」
「まぁ魔術師のやる事だからな」
「おいおい、頼むぜ、技術流失だけはマジで勘弁してくれよ」
「その辺は大丈夫じゃないかな?彼ら魔術師の秘密主義は国家を超えると言われているしな」
「楽観的だな」
「いいや、楽観ではないさ」

 ふっ、武部隊長は笑ってみせる。

「これはな、諦念というものだ。要するに諦めだな」
「うわあ」

 いや、まあ、魔術師って連中は周囲がどうこう出来るような連中でもないしな。
 徹底的な個人主義で他人の言うことなんざ聞きはしない。
 今回国に協力している事からして奇跡のような物なのだ。
 おそらく単純に利害が一致しているだけの話なんだろうけどな。

「今回俺がナビやるんっすけど、実は俺も9階層までしか踏破してないんすよ。というか軍自体がちょっと足踏み状態で」

 大木が説明する。
 その辺りは俺もなんとなく聞いていた。
 10階層からはいわゆる上位階層扱いになるようで、罠あり分断ありで軍隊のような集団戦を得意とする組織には厳しいらしいのだ。
 そのせいで上位階層は名の知れた冒険者達の独壇場になっているらしい。
 しかも連中は自分達の攻略階層をあまり正直に教えないし、ましてやマップ情報なんぞ軍や国にくれてやる気は無いという事を堂々と宣言しているらしい。
 情報が欲しければ金を出すか自分達で進めという訳だ。
 まぁそりゃあ仕方ないよな。
 という事で、今俺たちの手にはその金で買ったマップ情報がある。

「とは言っても、連中に言わせるとマップ情報もどのくらい役に立つのか判断が難しいとの事だ。通路は常に組み替えられると思った方が良いらしい」
「分かりました」

 ひと通りマップに目を通したが、その道順よりも重要なのはその書き込み情報の方だろう。
 通路の特徴、怪異モンスターの種類、宝箱情報、トラップの種類などが細かく記されていた。
 右下の隅の方にこの階で命を落とした誰々に捧ぐとか書かれているのがなんともリアルな感じだ。

「ん?このフロアーにはボスがいないって書いてありますけど」
「ああ、不思議な事に10階層にはフロアーボスがいないようなのだ。単純に踏破して終わりだ」
「なるほど、サービスフロアという事ですね」

 浩二が納得して頷いた。
 いや、サービスフロアってなんだよ。

「要するに安売りで惹き付けるショップのように、獲物をより喉奥に誘い込む罠なのではないですか?」

 不思議そうに顔を見た俺に気付いて、浩二がそう説明する。
 というか俺に聞くな。
 しらんわ。

「なんにせよ、激しい戦闘が無いのはモニタリングテストにとっては幸いです。よろしくお願いします」

 それまで控えて言葉を発しなかった機材の調整を行っていた技術者の一人がそう頭を下げた。

「分かりました、最善を尽くします」

 ついでに公人モードになって堂々と俺に敬礼をしてみせる武部隊長に俺も手を振って返す。
 さてさて出発だ。


 ゲート前に来ると、開門のサイレンが鳴り響く。
 しかしなんだな、このサイレン、いかにも不吉な事がありますよって感じだよな。
 そのままゲートに入ると、俺の前には1層から3層までを示すボタンが表示された。
 いつもながらエレベーターの階層表示ボタンっぽくてどうも変な感じだ。
 俺は3階層まで行って途中離脱したんで表示はここまでしかない。
 大木の奴の選択を待った。
 ふっと光がいきなり眩しく降り注ぎ、それが消えると、俺は、いや、俺達は新たな場所にいる事を理解する。

「暗い」

 俺の言葉に応えるように、ふわりと光が浮き上がった。
 小さな羽音の白い蝶、由美子の式神だ。
 まるでランプの炎だけが漂っているかのように見えて、なんとも幻想的だった。

「しかし狭いっすね」

 大木が愚痴るように俺たちの立っている場所は狭かった。
 二人並んでギリギリ立てるかどうか、しかしそうすると身動きが取れなくなるので一人ずつ歩くしかない。
 縦に戦列が延びるという嫌な通路だ。
 しかも足元はぬかるんでいるようで頼りない。

「じゃあ行くとするか?」
「あ、待った。連絡入れるっす」
 
 大木はヘッドライト……じゃなかった、ハウルの精石部分に棒状に加工した水晶を軽く当て、チィィィィインとか細い音を立てた。
 あれがスイッチかなにかなのかな?
 俺たちのハウルにも同じように水晶を当てる。

「本部、応答願います、オーバー」
『こちら本部、通信明瞭、画像は暗いが想定の範囲内だ、引き続き探索を続けるように』

 おお、本当に明瞭だ。
 ちょっと前までトン・ツーとかやってたとは思えないな、技術の進歩の速さに驚きだ。
 通路を一歩踏み出すと、暗い通路の壁に電光のような物が走った。

「ん?」

 マップの注意書きにあった惑わしの光ってこれかな?
 なるほど暗い通路で断続的に移動する光が付いたり消えたりする訳か、目が闇に慣れにくいし気も散るし、地味に嫌な仕掛けだな。
 足元にも踏み込み式の罠があって、壁にも触れると発動する罠があるらしいし、うん、結構嫌な階層だな、これ。

「ユミ、灯りを上下2つ頼む」
「分かった」

 白い影が地面すれすれを飛んで行く。
 あ、でかいトンボだ。
 上が蝶で下がトンボか、分かりやすくて良いな。

「じゃ、行きましょう」

 大木の声に、俺は白く輝く虫達を追うように足を踏み出した。



[34743] 152:好事魔多し その十
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2015/06/25 10:49
「うおっ!」
「ひえっ!」
「あ」
「ふう」

 突然床からガバッとばかりに牙のようなものが突き出して来る。
 しかもびっしりとした物が3段だ。
 先頭にいた俺が背後の大木を抱えて壁を蹴って飛び退き、由美子をなぎ倒し、浩二に蹴りを入れたらその足を掬い上げられて、そのまま半回転して地面に真っ直ぐ立つ。
 振り返ると、倒れた由美子はすぐに起き上がって、もう消え去った牙のあった所をしげしげと眺めている。

「生物っぽい」
「ああ、やっぱりか、どうも最初っからこの壁やら床が粘膜っぽいと思ってたんだよな」
「うえっ?それって、ここが化け物の腹の中って事っすか?」
「う~ん、なんとも言えないが、生物的な何かって事じゃないかな?マップにはそういう私見っぽい事は書かれてないけどな」

 大木が外にいた時よりも人間を止めた肌色になりながら頭を抱えた。
 と言っても、怖さで真っ青になったというのではなく、皮膚が硬化しているせいだ。
 危険を感じると変化が顕著になるらしい。
 何も俺の真似しなくてもと冗談で言ったら、「いや、リーダーは岩系って言うか鋼系?っすから」などと疑問符付きで応じられた。
 なんとなく複雑な気分だ。
 とは言え、そう言うだけあって大木の体表面はどちかかというと爬虫類の皮膚のような感じに見える。
 大木っぽく言うと生物系って事か?

「しかし、今のって罠を踏んだって感じじゃないよな」
「センサー?」
「どうする?俺が壁を走って全員を向こうに渡すか?」
「出来得る限り分断の可能性は減らしたいですね」

 俺の提案に浩二が駄目出しをした。
 手間がどうのという以前にそうか、分断の可能性がある訳だ。

「僕が蓋をします」

 言うや、浩二が視線を固定して凍り付いたように動きを止める。
 今、こいつの頭の中は変化し続ける空間を把握する計算が猛烈なスピードで行われているのだろう。
 この感覚だけは正直想像もつかない。
 俺は浩二を半分担ぐようにしてその目線を遮らないように移動誘導させる。
 世界を分断する力は強力だが、本人が他に何も考えられなくなるのが問題だ。
 動けなくなってしまうんで1人では隙が多すぎて使い物にならないのだ。
 先ほどの罠に差し掛かるとまた牙が飛び出して来たが、それはまるで透明な壁の向こうの出来事のように俺の体には届かない。
 うん、しかし、この分かたれた世界の境界に踏み込むのは正直ぞっとしない、五感の全てがそこにある物を許容出来なくなってパニック状態だ。
 見ないのが一番だが、見ない訳にもいかないしな。

「え?え?」
「大丈夫、大丈夫」

 何がなんだか分からないといった風の大木を、由美子がその背を押してやる感じで進ませた。
 薄暗くてよく見えないのが幸いしたな。

「てか、この先ずっとこんな感じなのは勘弁して欲しいな」

 マップにある一番安全なルートとやらを進んでいるんだが、オオナメクジスライムの集団が出たと思ったら溶解液、更には足元から飛び出す牙とか、通路が狭い事もあってストレスが溜まる攻撃が続いてイライラする。

「この通路そのものが生物というのならこれ使ってみますか?」

 大木が装備しているヘアドライヤーのような形の何かを取り出した。
 銃にしては間抜けな形だし、何かな?と思ってはいたんだけど、どうやら武器だったようだ。

「怪異はその元となった生物の肉体特性を受け継ぐでしょう?それなら細胞を破壊する攻撃は効くだろうって開発された武器なんっすよ」
「いや、それ、怪異じゃなくても危なくね?」

 突っ込む。
 むしろ人間に効きそうなんだが、それ。

「とりあえずやってみましょう」

 大木はその武器を壁に向けて構える。
 即断即決か?
 俺はこの狭くてだらだらした通路にいい加減イライラしていたので、あえて止める事はしなかった。
 とりあえず変化が欲しいという気持ちだったのだ。

「守りに堅く、身は軽く、忠誠に厚きもの……」

 背後で由美子が何か詠唱をしているのが聞こえる。
 大木がそのヘアドライヤーのような物のトリガーを引く。
 その瞬間、『ポーン!』というなんとも言い難い音が響いた。
 う~ん、あれだ、太い鉄パイプの端っこを殴り付けたのを逆の端で聞いているみたいなそんな音。

 途端、壁がボコボコと煮え立つようにうごめいたかと思うと、ドロドロと溶解を始めた。
 え?え?なに?

 俺が物事を把握し終える前に、通路全体が急激に崩壊し始める。
 溶け崩れ、消失した足元には絡まったワイヤーのような物が現れた。
 だが、それも次々と崩壊し始めている。
 落ちる!と思った瞬間、ガクリと何かに引っ張られる感触があった。
 ブブブ……と、聞き覚えのある羽音に上を向くと、真っ白な複眼がこちらを見ている。
 どうやら由美子の蜂らしい。
 他の連中もがっちりとした蜂の顎に装備の一部を銜えられ吊り下げられていた。

「全部が体組織ならこうなる」

 自分はちゃっかりと2匹の蜂が渡したロープに腰掛けた由美子が当然の事を告げるように言った。
 いや、先に言おうよ、ああ、そうかお前もちまちま歩きたくなかったのかな?
 うん、それなら仕方ないね。

 とは言え、軍の新兵器もこの生物の体組織全てを壊すには至らなかったようで、広がった通路は途中で崩壊が止まった。
 通路全体が痙攣するように震えているが、やっぱり痛みを感じているのだろうか?
 それにしては痙攣は小規模な感じがする。

 崩壊した床の奥の絡み合った鉄骨の足場のように見える向こうに開けた空間が見えた。

「あっちに行ってみるか?」
「了解」

 由美子が返事を返し、浩二が頷く。
 大木は自分の武器と自分を吊り下げているでかい蜂を交互に見ながら「うわあ!うおおう!」と、意味不明な声を上げているので問答無用で同行させた。
 広い空間に降りて、自分達が通り抜けて来た場所を見上げてみると、その場所が少しずつ修復されているのが見て取れる。

「治るのか」
「ますます生物っぽいですね」

 浩二が肩をすくめた。
 
 俺たちが降り立った空間は、ちょっとした草原のような場所だった。
 大きさ的にも、屋根がある造り的にもドーム球場を彷彿とさせた。
 だが、当然地面は土ではなく、草のように見えるナニカも草ではなかった。
 ゆらゆらと揺らめきながら俺たちの体に絡み付いて来ようとする。

 俺はナイフを取り出すと、周辺のその触手だか繊毛だか分からないナニカを切り裂いた。
 幸いな事に、なんらかの確かな意思の元に攻撃を仕掛けて来たのではなく、単にそこに何かがあるから絡み付くといった反射的な動きだったので、簡単に切り払う事が出来、とりあえず安全な空間を確保出来た。
 大木はなんだかお手玉をするようにヘアドライヤー的武器を取り落としそうになって、慌てて掴んでホルスターに収めるという、1人コントのような真似をやらかしていた。
 どうした?

 とりあえずマップを広げて全員でそれを見る。
 とは言え、そのマップには高低差は無く、通路と部屋との繋がり具合しか描かれていないので分かり辛い。

「今どこだか分かるか?」

 ナビ役であり、外部との連絡係でもある大木に尋ねた。
 今、本部の方ではもうこの階層のマップは把握しているはずだ。
 なにしろ軍のナビシステムは、俺たちのいる周囲数百メートル程の空間を把握出来るという便利仕様なのだ。

「あ、……あ、あ?あ!……マップですね!」

 おお、大木よ正気に戻ったか、良かった。
 大木は荷物から詰め合わせの菓子箱のような物体を取り出すと、ピッと端を押して起動させる。
 今度は平面的なマップではなく、立体的なマップが表示された。

『どうしてきみたちは次に生かせないような行動を取るのだ』

 あ、武部さんだ、うわあ、通話が出来てやがる。
 恐ろしい技術の進歩具合だな。

「俺じゃなくてあなたの部下なんですけどね」
『今、その班のリーダーは君だろう、言い訳するな』

 怒られた。
 しかし、確かに武部隊長の言う通りだな、大木に謝っておこう。

「悪かったな、大木」
「は?何いってんすか、今回はこの武器の効果をちゃんと理解していなかった俺の落ち度っすよ」

 なんという謙虚さ、成長したな、大木。

『君たちのいた通路と現在の場所との位置関係は判明している。冒険者のマップとは照合し難いが、見た所そこは冒険者連中がアリーナと呼んでいる場所ではないかな?』
「アリーナ、アリーナ、……あ、これか、ええっと、なになに?一定周期で怪異の群れが湧く危険エリア……」

 どうもさっきからずっと周囲からボトッ、ボトッと変な音がしていると思ってたんだ。
 なるほど怪異が天井から降って来ていたのか。

「まぁ広いから動きやすいし、ストレス解消に良いかもしれないな」
「じゃあその間に道順を確認しておく」
「僕はサポートで」
「あ、俺はええっと」
「大木は俺が取りこぼした奴から荷物と由美子を守ってくれると助かる」

 担いでいたリュックを大木に任せて、ちょっとした仕掛けのあるナイフを取り出した。
 柄にチェーンが付いている幅広のナイフで、物語に出て来る鎖鎌みたいな感じに使いたいと言ったら作ってくれた物だ。
 間合いが広がるのでとても助かる。
 ちらりと見ると、大木は先ほどの物とは違う、ちゃんとした銃を取り出して構えていた。

 ガチッガチッという硬い物がぶつかり合うような音がして、転がった塊が骸骨に姿を変え、更にスライムっぽい肉の塊がその足元から這い上がりながら肉付けをして、歪な人間に近い何かになる。
 見た目的にグロい。
 さっさと退場してもらうおう。
 俺は軽く踏み込んでその組み上がり途中の怪異に近付くと、首と思しき部分を寸断した。

 ゴロリと転がった首っぽい物が本体へと近付こうとするのを踏み潰す。
 同時に体の方の中心部にナイフを打ち込んだ。
 ボロボロと崩れたそれは砂のように溜まり、その中に小さな夢のカケラが転がっている。

 うん、わりと脆いぞ、これ。
 考えながら次へと回し蹴りを入れ、倒れ掛かった敵の体を切り崩す。
 俺の横をすり抜けて由美子達の方へと向かおうとする奴にヘッドバットを決めて、投げ飛ばし、動き出そうとしていた一体と共に転がした。
 次の場所へと素早く踏み込み、次の奴の首を飛ばし、破壊の術式が刻まれたナイフを突き込む。
 よし、リズムが掴めた。
 動きから無駄が無くなってコンパクトな動きで数多くの敵を倒す。
 少し遠い敵をチェーンを使ったナイフで仕留め、固まりかけの怪異を震脚で踏み潰す。
 難しい考えなどいらない、全てはシンプルだ。
 動いて、壊す。
 ただそれだけで、始まって、終わる。

「ふうっ」

 汗を拭って周囲を確認した。
 どうやら全て倒したようだった。
 押し寄せる怪異の波も止まっている。

「とりあえず終わったようだな」
「道の探索も終わった」
「じゃあ移動しましょう」

 荷物に手を伸ばすと、大木がぽかーんと口を開けてこちらを見ていた。
 どうした?馬鹿っぽいぞ。

「えっ?えっ?い、今、何がどうしたんっすか?え?もう終わり?」
「と、思うけど、俺の見落としがあったら言ってくれ。あ、そう言えば夢のカケラとか素材とか今回はどうするんだ?」
「あ、はい、回収出来れば……」
「了解、ユミ頼んだ」

 俺の声に由美子は一瞬いかにも面倒という顔をしたが、大きかった蜂を分裂させて素材や夢のカケラを収集させた。
 お前、自分で集める訳でもないのになんで面倒そうなんだ?

「リーダー、やっぱ、すげえ、半端ないっす」
「お?おう、ありがとう」

 てか今回のはそんな強くなかったからな。
 前の時のあの冒険者とか、あのグール騒ぎの時のとかヤバかったけど、怪異相手だと、気が楽で助かる。

 と、アリーナから出る為の通路の奥から『ギャッギャッ』とか『ジーチージーチー』とか怪しげな音なのか鳴き声なのか分からない物が聞こえてきた。
 次はなんだ?
 ため息を吐いて、ちらりと見た大木は、酷く真剣な顔で何やら考え込んでいた。



[34743] 153:好事魔多し その十一
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2015/07/02 10:31
「うげっ、これは……」
 大木が吐きそうな顔をしたが、それは俺も同感だった。
 そこにあったのはとんでもなく異様な光景だ。

 俺たちが落ちたアリーナから、やや細い通路を進んだ先には、また大きめの空間があった。
 そして、その空間には縦横無尽に繊維状の物が張り巡らされている。
 見た感じはガムを貼り付けて引き伸ばしたような質感だ。
 それだけなら良いが、その網目状の繊維に色々な種類の怪異が貼り付いていたのだ。
 いや、正確に言うとちょっと違うな。
 色々な怪異が捕らえられていた。

「とりもち?みたいなもんなのかな?」
「もしかして食ってるんですかね?同じ怪異を」

 誰にともつかず呟いた俺の言葉を浩二が拾う。
 そう、確かにそれは食っていた。
 繊維に絡み取られた怪異はジタバタともがいているのだが、繊維から立ち上がったびっしりと細かい繊毛のような物がその怪異を取り囲み膨らんだり縮んだりを繰り返している。
 明らかに何かを吸っていて、「ギャーギャッ!」と泣き喚いていたその長い蛇に似た怪異が徐々に萎んでいた。
 あれって、さっきアリーナで足元にあったやつと同じなんじゃないのか?
 今更ながらにぞっとする。
 他にも猩々のような物が別の所で元気に揺れながらギャーギャー喚いていた。
 どうもこの繊維、なかなか粘着力だか捕獲力だかが強いらしい、結構大きい怪異も中にはいたが、びくともしていない。

 そして、その張り巡らされた繊維には下の方に僅かにくぐり抜けられそうな隙間が空いていた。
 由美子がすかさずそこへ子犬ぐらいの大きさの蟻とトンボの式を放つ。
 最初、何事も無く進んでいた2つの式は、半ば辺りに差し掛かった時、上から降ってきた紐のような物に絡め取られた。
 その紐は恐ろしいスピードで巻き戻り、獲物を絡めとった部分を中心にして四方に繊維が伸ばされる。
 それが天井や壁、他の繊維に届いて、空間を埋める網の目の一つとなった。

「これは無理かな」
「は、早く離れましょう!ヤバイっすよ!」

 大木が真っ青になって後退りしている。
 後ろを見ずに下がるとか危ないぞ。

「兄さん、奥に人、いる」
「え?」
「さっきうちのトンボメガネ君が捕まった時にちらっと見えた。人が捕まっている」

 由美子の報告に俺は浩二と顔を見合わせた。
 迷宮内で他の人間となったら冒険者に違いない。

「それは生きている人間という意味か?」
「分からない、干からびてはなかった」

 生きているか死んでいるか分からない、か。

「ちょ、まさかそれを調べようってんじゃないっすよね?どうせ相手は冒険者しょ?連中は何があっても自己責任と宣誓して迷宮ダンジョンに潜っている連中っすよ。しかも油断も隙もない、社会性のカケラもない連中だ。なによりもう死んでるに違いないっす。あれに捕まったんなら、もう」
「うん、まぁ、そのまさかだ」

 大木の猛反対に俺は簡潔に応えた。
 生きている可能性がある限りは見捨てる事は出来ない。
 なんとかして確認して、生きているなら救出しなければならない。

「え?正気っすか!マジで?」

 大木は、本気で信じられないという顔で俺を見た。
 いやいや、俺だけじゃないから、ほら、うちの可愛い弟と妹も全然迷ってないっしょ?

「とりあえず調べて来るからお前はここで待機な。もし俺たちに何かあったら脱出符を使って脱出しろ」
「な、なんでっすか?意味分かりません、冒険者なんて我が国の民じゃないんすよ。我が国に寄生して金儲けに来た害虫のような連中っしょ。それにもう生きている訳がない」

 荷物を預けられて大木は大慌てで俺達に翻意を促した。
 うん、心配はありがたい。
 俺だってそれが自分達以外なら止めていただろう。
 でもな。

「うん、まぁ、でもな。それは俺たちに選べない道なんだ」

 生きているかもしれない、助けられるかもしれない、ほんの僅かでも可能性があるのなら、迷う事はない。

「僕の影を潜らせる事が出来れば良いのですが、この場所には影がありませんね」
「ああ、不気味な程だな。おそらくこの繊維が発光しているんだろうな。あれか?誘蛾灯の理屈か?」
「しかし、迷宮内でこのような食物連鎖じみた光景を見る事になろうとは、興味深いですね」
 今この時にそんな事に考えが及ぶお前が興味深いよ。
 うちの弟は淡白というか、心配しないというか、うん、冷たいよね、俺に。
「兄さん、脱出符を携行して行って、危険を感じたら脱出して」
 その点、我が妹は優しいな。
 可愛くて優しいとか非の打ち所が無さ過ぎて怖いぐらいだ。

「そ、そうですよ!脱出符、いざとなったら絶対使ってくださいよ」
「ああ、うん、分かった」

 由美子と大木の二人から詰め寄られて頷いたんだが、どうだろう?いざとなって使っている暇あるのかな?
 そんな俺に明らかな不信の目を向けながら、由美子は考えたらしい作戦を説明する。

「兄さんの頭上に小さい式を沢山展開して盾に使う」
「僕も視線が通る所まではフォローしますけど、問題はその先ですね」
「そうだな、俺も身代わり符の1枚ぐらいはあるが、とりあえずヒートナイフが効いてくれればある程度なんとかなると思うんだが」

 大まかな作戦としてはこうだ。
 浩二が目線の通る所までは触手と俺のいる場所とを分断する。
 その後は由美子の式を盾にして距離を稼ぎ、その後は俺とこの紐野郎とのタイマン勝負という事になる。
 とは言え、やるべき事は敵を倒す事ではなく、生存者の確認、救助だ。
 無理をする必要はない。

「とにかく俺は本部に連絡するんで、ちょっと待ってもらっていいっすか?」
「わりぃ、待っただけ捕まっている奴らが危険だ。もう始めさせてもらう」
「ええっ?ちょ!」

 ヒートナイフを荷物から出してベルトに鞘を固定、ブーツに術式をセットして精石をチャージする。
 跳躍ジャンプの術式だが、俺、これちょっと苦手なんだよな。
 仕方ない。

「じゃ、行くぞ」
「はい、いつでも」
「行って」

 ふわっと白い紙吹雪が沸き起こり、俺の頭上に集まったかと思うとブーンと独特の羽音が響く。
 うん、ちょっと怖いな、この蜂の群れ。
 ひと呼吸吸い込む途中に既に走りだす。
 そして例の紐は、広間の半ば辺りで死角を突いて降って来た。
 こちらの視線と意識が届きにくい場所から襲って来る。
 なかなか頭脳プレーっぽいが、こいつ知性があるのかな?

 まだ浩二の視線が通る場所なので、頭上の蜂の群れも無事だ。
 敵の触手はなぜか獲物に届かないという事に納得がいかないのか何度か触手を大きく揺らしたが、捕まえられないとなると引き戻す。
 さて、諦めてくれたら良いんだが。

 網目がまるでレースのカーテンのようになっている部分を潜り抜ける。
 さて、ここからが入り口から視線が通らない部分だ。
 その、捕まっているって連中はどこだ?

 上を見ながらの移動で、どうしてもやや足取りが鈍る。

 ―…フォン、

 ふっと、生ぬるい風のような気配を感じてとっさにサイドにステップを踏む。
 その鼻先を触手が掠めた。
 おいおい、今のは反則だろ?横からかよ!

 そう、上からを諦めたのか、今度の攻撃は横から来た。
 どうやら壁もこの紐野郎の体の一部だったらしい。
 なんという隙の無い攻撃。
 必死で不規則なステップを踏んで避ける俺の横を蜂の群れがカバーする。
 それを機に踵を2度打ち付けてジャンプの術式を起動しつつ、ヒートナイフを繰り出す。

「よし、切れる」

 熱を持ったナイフが網を切り裂く。
 捕らえられていたいくつかの塊がドサリと音を立てて転がった。
 視界が広がる。

「っ、あれか!」

 網の一画に大きな塊がある。
 手足と顔、人間だ。
 2人……いや、3人か?
 さてあそこまでジャンプ出来るかな?
 と、ざあっと、まるで突然の豪雨のような音が響いた。
 やべ!

 視界を埋め尽くすような触手に、さすがに反応が間に合わない。
 左腕が絡め取られるのを感じたのと、体が上空に跳ね上げられるのはほとんど同時だった。



[34743] 154:好事魔多し その十二
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2015/07/09 11:21
「ぐぅっ!」

 触手は単純に宙に放り投げたりはしなかった。
 絡みついたまま巻き戻しの紐のようにより巻き付きながら引っ張り上げ、その勢いのまま天井に叩き付けられる。
 天井は言うなればトリモチの罠のような状態で触手の巻き付いた左半身がべったりと天井に張り付く事となった。
 すかさずナイフで左腕の触手を切り離すが、その頃には周囲から滲み出るように湧いて出た繊毛のような物に取り付かれてしまっていた。

 地に足が付いていない状態では踏ん張る事も出来ない。
 これはあれだ、フリーフォール状態?いや、落ちてる訳じゃないから違うか。
 単純に宙ぶらりんという感じだな。
 わさわさ絡んでくる繊毛みたいな奴が気持ち悪い。
 もうなんとなく気付いているんだが、これはきっと繊毛じゃなくって全部口なんだろうな、うわあ。

「兄さん」

 耳元で声がする。
 由美子の操る蜂が寄って来たのだ。
 
「どうにか出来るか?」

 一応聞いてみた。

「出来る。けど、痛い?」

 痛いのか、疑問形だから分からないのか、どういう事だ?と思っていると、蜂が俺の左半身に突っ込んで来た。
 そしてそのまま爆発する。

「ちょ!待てや!」

 妹からの信頼が熱い。
 すごく、マジで。
 次々と突っ込んでは爆発する蜂のおかげでトリモチはどんどん外れて行ったが、俺自身も燃えている。

「あちっ!あちい!くそったれ!」

 半身を炎に包まれたまま俺は体を反転させると、燃えている天井部分を蹴って、囚われの人間らしき塊部分を目指して、落ちるというか勢いを付けて飛び込んだ。

 ズシンとした感触は感じたが痛みは無い。
 トリモチが俺の突っ込んだ衝撃を殺してくれた。
 そして体の火がそのトリモチを溶かす。
 髪の燃える嫌な匂いに戦慄する。
 おいおい、まさか、俺の髪、大丈夫か?

 とにかく、確認だ。
 チリチリ、ジュゥ、という不安気な音を立てながらトリモチが焼け溶けるのを払いながら中身を確認する。
 女、若い、男、これも若い、もう一人……うっ……。

「くそっ」

 もう一人は大柄な、その筋肉と体格からおそらく大人の男だったのだろうと思われた。
 だが、既に大半が溶けて、外に出ていた足と繭の中にあった部分の骨と筋肉を僅かに残すのみとなっている。
 念の為呼び掛けるがぴくりともしなかった。
 トリモチの大半が燃え溶けてずるずると繭が崩壊し、その三人と共に今度こそ自由落下フリーフォール状態になる。

「由美子!これはかなり燃えやすい、全部燃やせ!」
「分かった」

 蜂が花の蜜を求めるかのようにこの大広間を覆うトリモチに突っ込んで行く。
 そこかしこに紅蓮の炎の華が咲き乱れた。
 俺は三人を抱えたまま体を入れ替え足から地面に降り立った。
 天井から壁から火の塊が落ちて来る。

「うわっ!やばい!全員早くこっちへ!」
「全く、もっと考えて支持を出すべきでしょう」
「ぎゃあ!火が!火が降ってくる!ちょ!」

 大騒ぎでトリモチ触手野郎の罠部屋を通り抜け、通路へと抜けた。
 と、いきなり目前に壁が下りて来る。
 なるほど、無事通り抜けたと安心したら今度は出口が塞がって絶望する仕組みなのか。

「なめんなぁ!」

 回し蹴りを叩き込むとその石で出来ていたらしき壁が吹き飛んだ。
 いい加減俺も苛ついてるんだよ!

「ナイスっす!」
「馬鹿力」

 軽い男の軽い賞賛と、弟からの心の篭った毒舌をいただく。
 心が寒い俺はちらりと愛する妹の顔を見た。
 ちょっと褒めてくれないかな?

「ハッチが勿体無かった」

 ああ、式を無駄遣いした事への抗議ですか?マジでごめんなさい。
 結局俺の心は絶対零度の境地へと至ったのであった。

 通路の途中、罠や敵影が無いのを確かめると、抱えていた連中を下ろす。
 半分溶けた人間に、浩二は眉を寄せ、由美子は目を伏せた。
 心臓の位置には骨と筋肉が付いている。
 触れてみるが鼓動はやっぱりなかった。
 残りの二人、まだ二十歳前じゃないかとさえ思える男女の様子を見る。
 どこの国の人間だろう?アジア人種とは違うようだが、肌は赤銅色に近い色合いだ。
 髪は黒いのでなんとなく親近感を覚えてしまう。
 心臓の鼓動を聞いてみると、弱々しいながらもなんとかふたりとも動いている。
 捕らえられていた体勢から見て、この大人の男が二人を抱え込むようにして守っていた感じだった。

「かなり衰弱している。回復薬ポーション使っても大丈夫かな?」

 ポーションは肉体のポテンシャルを引き上げて傷の治りを早く、疲労を素早く回復させる力がある。
 しかし、代償として肉体の持っているエネルギーを引き出して使うので、消耗している人間に使うと逆に危険な場合があった。

「ポーションはやめた方がいいっすね。とりあえず水を飲ませてあげましょう」

 大木は雑嚢からペットボトルに入った経口補水液を取り出した。
 海綿のような物にそれを浸して、それぞれの口に触れさせる。

「ん……」

 女の子の方から声が上がる、男の子の方も唇が動いたようだ。
 大木はゆっくりと海綿を絞って水を口の中に落としこむ。

「がっ!……は?」

 まず少女が目を開けて口をパクパクを開け閉めした。
 大木はその手にペットボトルを渡そうとするが、力が入らないのか彼女はそれを掴めないようだった。

「ゆっくり、飲む」

 由美子が大木から少女を引き継いで水を飲ませに掛かった。
 大木は残る少年の方に力を入れる。
 こっちは口を動かして水はなんとか飲むものの、目が覚めない。
 やがて咳き込み出したので、大木は水を飲ませるのを止めた。

「キモ?」

 誰がキモいって?
 少女がぼんやりとした顔で呟いた言葉に心の中でツッコミを入れた俺だったが、どうやら倭国語じゃないっぽい。
 誰かって聞いてるのかな?それともどこか?かな?

「どうも翻訳術式使ってないっぽいな」
「同国人とパーティを組んでいるなら必要ありませんからね」

 由美子が取り出した懐紙に筆ペンで何か細かい文様を書き出した。
 そしてそれにハサミで切れ込みを入れると、ふっと息を吹き込む。

「これ使って」

 それは小さな白いてんとう虫となって少女の肩に留まった。
 少女の方はぎょっとして思わず払い落とそうとしたが、由美子が何かを囁くと、びっくりして手を止める。

「言葉分かるよね?」
「うん、……可愛い、虫?」

 言葉より虫の方が気になるようだ。
 世の中の女性には虫嫌いが多いと聞くが、この子は大丈夫そうだな。
 少女はしばしぼんやりと俺たちを眺めていたが、はっと気付いて周辺を見回し、傍らの少年を見付けると揺すった。

「お兄ちゃん!お兄ちゃん!」

 兄妹か、って事は。
 俺はもはや元の顔など分からなくなった大人の男性を見た。
 この人は彼女らの父親か兄かそれに近い立場の人なんだろうな。

「う、ん?」

 少年の方も目を開けて一安心だ。
 既にその肩には白いてんとう虫が留まっている。
 少年は覚醒してしばしぼんやり目前の妹である少女の顔を見ていたが、ふと、何かを感じたように一動作で跳ね起きると、腰からナイフを取り出し構えた。
 ほぼ無意識に行ったらしい一連の流れるような動作が、この少年がかなり鍛えられている事を示していた。

「落ち着け、今は安全だ」
「誰だ!」

 鋭く叫んで、ふと自分の口元に手をやる。
 そして妹と周囲の人間に順に視線を移して行くと、ナイフを仕舞った。

「悪かった」

 謝るんだ。
 俺はどうも冒険者に対してあまり良いイメージを抱いてないんだが、この子は冒険者にしちゃあ礼儀正しいな。
 きっと親のしつけが良いんだな。

「どうして警戒を解いたんだ?」

 俺の疑問に少年は顔をこちらに向けると、その視線をペットボトルに移す。

「糧を分け与えてくれた相手に対して礼儀を忘れてはビーストになる」

 ん?ビーストって言うのは聞いた事があるぞ。
 たしかどっか大陸の方の古い怪異の呼び名だったような。

「なるほど。今は安全だからちょっと座ってくれ。それから、この……」

 俺がもう一人についてどう切り出そうかと口籠っていると、少女の声が割り込んで来た。

「お父さんどこ?」

 一瞬静寂がその場に満ちる。
 彼女の視線が、物言わぬ変わり果てた姿に止まり、しばらく首を傾げてそれを見つめ続ける。
 少年も釣られたようにその視線を追い、その姿にはっと息を呑んだ。

 誰も言葉を口にしない。
 口にしてしまったらもう、それを現実と認めなければならないと誰もが知っているからだろう。
 それでも、やはり、現実を変える事は誰にも出来ないのだけれど。



[34743] 155:好事魔多し その十三
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2015/07/16 10:58
 あまり詳しい話は聞けなかったが、とりあえず名前は教えてもらった。
 男の子がタネル、妹がビナール、19歳と17歳だそうだ。
 親を失うには若すぎる年頃だろう。

「二人に言っておきたい事がある。君たちのお父さんの遺体は迷宮に置き去りにするしかない」

 これは辛いが仕方がない事だった。
 前回のように車両があれば話は別だが、今回は徒歩での踏破だ、とてもじゃないが遺体を運ぶ余裕が無い。
 ある程度抵抗を覚悟しての宣言だったが、二人の兄妹はぞんざいに頷いただけだった。
 意外にあっさりしている。
 二人共あまり装備は残っていないが、妹のビナールの方のバックパックが溶けずに残っていたので僅かに荷物が残っていた。
 彼女はそこから自分の物らしきスカーフを取り出すと、父親の遺体の上半身を覆う。
 一番酷い部分が隠れた為、その姿に人間らしさが戻った。

「迷宮に遺した死体は後日同じ場所を訪れた時には跡形も無くなっている。せめて形見を貰っても良いか?」

 兄のタネルが無表情にそう言って来た。
 なんで俺に聞く?

「お前たちの親なんだ、自分達の好きなようにするが良いさ。俺たちに遠慮する必要はない。出来れば三人でお別れをさせてやりたいが、お前たちだけにするのも危ないしな」

 俺がそう答えると、少年、タネルが不思議そうに首を傾げた。

「僕達は体が弱っていてお前たちを襲ったりは出来ない。危なくはない」

 ううん?言葉は通じているはずなのに通じてない感じがするぞ。

「リーダー、こんな時になんだけど、その子ら腹減ってるんじゃないっすか?そうとうふらふらしてるっすよ」
「ああっ、そうか」

 どのくらいあの怪異に捕らえられていたか知らないが、確かに随分と飲まず食わずだったんだろう。
 さっき水を必死で飲もうとしていたから、いきなり沢山飲むなと取り上げたばかりだった。

 こちらのやきもきした視線を受けながらも、兄妹は極めて冷静に父親の遺体を挟んでお互いに父親に何かを囁くと、兄は腕時計らしき物を、妹はベルトに残ったナイフを取って自分が装備していた。

 言葉にすると落ち着いて聞こえるが、その動作は酷く緩慢でどうもおぼつかない感じだ。
 明らかに体を動かすエネルギーが足りていない。
 もっと早く気付いてやるべきだった。
 駄目だな、俺は。

「君たち、何か食べられない物があるか?宗教上の理由とか体質とかで」

 俺がそう聞くと、二人はまた理解出来ないといった顔を見せる。
 なんだろうな、由美子の術式に不備があるとは思わないんだが、ちょくちょく極端な意訳をする事があるからな翻訳術式は。

「食べ物を選り好んだりしない。だが、なぜそんな事を聞く」
「え?ああ、君たち何か口にした方が良いと思ってね。ちょっと待っててくれ、さすがに固形レーションは無理だろうからちょっと調理をする時間がかかるんだ」

 俺がそう言うと、少年、タネルは激高した様子で立ち上がった。

「ふざけるな!確かに僕達は助けてもらったが、身売りしたつもりはないぞ!確かに僕達は若くて未熟だが、きちんと借りは返すつもりだ!」

 え?どういう事なの?

「兄さん待って。……申し訳ありません。私は従者として仕えさせていただきますので、どうか兄には自由をお与えください。お願いいたします」
「ビナール馬鹿を言うな!身内の女を売ったなどとなれば僕は一族から絶縁される。それなら僕が奴隷に堕ちた方がマシだ」

 は?何の話だ?奴隷って?お前ら何世紀の人間だ。
 俺は困惑してちらりと仲間たちに視線を投げた。
 うん、全員が困惑している。
 これはあれかな?文化の違いというやつか?

「君たち良いか。我が国には奴隷制度はない。君たちの国はどうか知らないが、我が国では奴隷などを持てば犯罪者だ。俺は犯罪者になる気はない。分かった?」

 俺の言葉に兄妹は納得した風ではなかった。
 兄のタネルはビナールを背に庇って俺を睨めつける。

「分かっている。迷宮内での命の借りに水と食料、それは生涯掛かっても返せるかどうか分からない物だ。それなら自ら身を賭して仕えるのが当然の事だろう。だが、僕達は一族の稼ぎ手だ。せめてどのような不利な条件でも良いので、仕送りが出来るようにしてもらいたい」

 駄目だ、全然話が通じない。
 誰かヘルプ!

「君たち、俺はこの国の軍人っす。救助に見返りは求めないっすよ」
「軍人?」

 大木ナイス!
 俺は初めて大木に心の中で感謝した。
 二人はちょっと戸惑ったが、ようやく落ち着いたようでその場に座り込む。

「冒険者じゃないのか」
「冒険者だったら奴隷になんなきゃならんのか?」

 ちょっと聞き捨てならないので、確認した。
 タネルは不思議そうに俺を見る。

「冒険者は他グループやパーティの人間を狩場で見付けたら、素通りするか獲物を横取りするか、殺すか、捕まえて利用するかが常識だ。一番まともな冒険者はお互いにかち合わないように気を配るものだ」
「でも、さすがに死にかけている人間がいたら助けるだろう」
「まぁそういう輩もいるにはいる。だが、それは助けられた者へ必ず負債として背負わせる。助けられた者によってはいっそ見殺しにしてもらった方が良い事もある」
「そんな話があるか!」

 俺は我知らず怒鳴った。
 助かるのに死んだ方がマシだなんて有り得ない。
 生きていればその先はなんとかなるものだ。

「あなたは冒険者という者を分かってはいない。そもそも死ぬよりマシだから冒険者になったという者が大半だ。僕達も死ぬことは嫌だ。だけどいずれそこに至る事は覚悟しているんだ。それでも、ただ生きていれば良いという事でもない」

 言い切ると、タネルはふいにふらりと倒れ込んだ。
 ヤバイ、本格的に餌切れのようだ。
 とりあえずお互いの間の物事の認識に齟齬があるのは分かったので、そこは今は置いておいて食事の用意をしよう。

「兄さん、しっかり」
「さすがに意識が混濁して来るとまずい。大木、先に飴か何かやっといてくれ」
「了解っす。ほらほら、お嬢ちゃん、お坊ちゃん、美味しい飴ちゃんをあげますよ~」

 大木よ、小さい子供相手じゃないんだからもうちょっと言いようがあるだろう。
 そうは思ったが、とりあえず放置して、今こそ我が社の新製品の力の見せ所だ。
 担いでいた背嚢から某社の迷宮用のポータブル発電機を取り出す。
 夢のかけらの小さいやつを投入口に入れてスイッチを入れると発電する優れ物だ。
 プラグ口径は一般的な物なので、そこに我が社の試作機3号君を繋いで、中へおかゆ用の固形素材を入れ、キャップを水の目盛りに合わせる。
 設定容量分の水が溜まったら今度はもう一度キャップを回して調理ボタンを押す。

「面白いですね」
「楽しそう」

 弟と妹の食い付きが良い。
 そうだろうそうだろう、ちょっとまだデザイン的には不格好だが、給水と調理が一体となったこの新製品は迷宮にぴったりの品物だ。
 一度に調理出来る容量は3人前までなので、人数によっては調理回数が何度が必要となるが、その分圧力をかけて調理するので時間は早い。

 それにしても、と、考えて俺はため息を吐いた。
 冒険者に関して、俺は知らない事ばかりなような気がする。
 彼らはおそらく自分の身内以外は信じないのだ。

 以前訪れた冒険者カンパニー、伊藤さんのお父さん達、?化した冒険者、それを始末しようとした冒険者、分からない事ばかりだ。

「とにかくあの子達も腹が膨らめばもうちょっと良い方向に物を考えられるかもしれないしな」

 人間空腹だととかく建設的にはなれないものだ。
 食べるって大事だよな、と、思いながら、俺は試作機3号くんから吹き出る蒸気を眺めていたのだった。



[34743] 156:好事魔多し その十四
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2015/07/23 09:10
 無言。
 およそ緊張しっぱなしの迷宮行で唯一ほっとする事が出来るはずの食事の時間が酷く気まずかった。
 
「……」
「どうだ?味は口に合うか?」

 返事がない、ただの屍の……って実際に死体が近くにある時に考える事じゃないな。
 おかゆというより煮た野菜を入れたので味の薄い雑炊のようになったそれを兄妹はスプーンで口に運びながら不安そうに俺たちをちらちら見ている。
 やっぱりまだ不安なんだろうな。
 と言うか、彼らの言ったように狩場で出会う他パーティが危険な存在っていうのならまぁ当然の警戒と言えるのだろう。
 いきなり見知らぬ相手を信用出来る方がおかしいのかもしれない。

 二人はすぐに食事を終えた。
 俺たちは自分達は固形のレーションでの食事でも良かったのだが、なんとなく付き合って同じ物を口にしていた。
 この椀1杯のみの食事じゃあ俺たちは元より、ずっと何も口にしていなかった二人にも全然足りないんだろうが、彼らの弱った体がいきなり大量の固形物を消化する作業に耐えられない可能性があったので、最初は少なめにしておくしかない。
 俺たちにしても、迷宮内では腹いっぱい飯を食うのは避けるのが常套だった。
 食べるという事は普通に考える以上に体には負担になる。
 危険の無い時なら良いが、この迷宮のように油断が出来ない場所では腹いっぱい食うのは避けるべきとされているのだ。

「美味しかった、ありがとう」

 兄妹の妹の方、ビナールがおずおずとお礼を言ってくれた。
 おお、少しは心を開く気になってくれたのかな?
 兄の方もちょっと前よりは刺々しさが薄れたようだった。
 やっぱり人間空腹だと攻撃的になるんだな。

「ええっと、それで、もし良ければ君たち迷宮の踏破まで同行してくれないかな?その、君たちも冒険者なんだから他所のパーティに干渉されるのは嫌だろうけど、せっかくだから、ええっと、これも何かの縁だと思うし」

 俺が言うと、兄のタネルがぴくりと反応した。

「導き?」
「え?」

 俺、そんな事言ってないよな。
 あ、もしかしてあれか、翻訳術式の適当な意訳か?
 彼らの言語に縁に該当する言葉が無くて導きって言葉に変換されちゃったのか。

「ちょっと聞きたい。彼は軍人と言ったが、あなた達は軍人に見えない」
「ああ、うん、俺達はハンターで軍に雇われているんだ」

 この程度は明かして良い情報だ。
 だが、実の所彼らを同行させると拙いことがある。
 例のモニタリング装置のハウルだが、これは当然ながら軍事機密という物に引っ掛かるのだ。
 使っている所を見られる訳にはいかない。
 しかし同行していてごまかせるかどうかちょっと自信がないんだよな。
 とは言えこの歳若い兄妹だけ放置するという事も出来るはずがない。

「ハンター?」

 タネルは俺たち、俺と浩二と由美子に、順繰りに視線を移してハッと息を呑んだ。

「もしかして聖者?」
「聖者?」

 いやいや、そんな清らかな人間は……まぁ由美子は聖者かも、いや聖女かもしれんが、少なくとも俺たちは違うな。

「ハンターだから、そういうキラッキラしたイメージの人とは関係ないからな」
「聖者は怪異と戦う為に生まれた人間、ええっと、確か他所ではホーリーブラッドとか言うはず」
「ああ、ホーリーブラッドね」

 なるほど勇者血統の事らしい。
 ほんと地域ごとに色々な呼ばれ方してるんだな。
 というか彼らの地元の勇者血統の在り方が俺たちと違う可能性が高い。
 でもそこを肯定してやる訳にはいかないんだよな。
 
「ハンターはハンターだ。詮索されても困るし、あんまり変に思い込まないように」

 ハンターは個人情報を公開していない。
 クラスと通称とチーム名で活動をするのが常だった。
 俺らが本名で活動しているのは俺たちの事情的に国内限定の活動になるので、素性を隠す事にあまり意味が無いからだ。
 しかし相手が冒険者、しかも外国人となるとそうはいかない。

「は、い、分かりました。僕たちにとっては同行は願ったりです。それと救助の礼金も必ず払わせていただきます。よろしくお願いします」

 タネルがそう言うと、後ろにいた妹のビナールがほっとしたように表情をゆるめた。
 なんだかんだ言って色々不安だったんだろうな。

「みなさん、ええっと、お二人はその、お父さんの事が心残りでしょうけど、ここは通路で狭い場所ですし不安定っす。移動しましょう?」

 大木がさすがに言いにくそうにそう言った。
 同行自体はOKらしい、反対されなくて良かった。
 しかし、大木は俺にちらちら視線を寄越している。
 うん、後でちゃんと相談しような。

「わかりました」
「はい」

 おお、素直だ。

「じゃあ、お父さんに還元の術をかける。良い?」

 由美子が兄妹に確認を取る。
 万が一にでも怪異化しないように魂と肉体を世界の流れの中に還元する術を施すのだ。

「ありがとう、よろしくお願いします」
「あ、ありがとうございます」

 二人は思いもかけない事を言われたというような顔で由美子を見たが、両手を胸に当てて頭を垂れて礼をした。
 由美子はいつもの通りの無表情でうんうんと頷いていたが、すごく優しい目をしている。
 うん、うちの妹はほんと優しくて最高だよな。
 そう言えばこの三人は年齢的に近いし、話もし易いかもしれない。

 由美子は死体に懐から取り出した塩を振りまき、その上から呼び出した水も振りまく。

「生者は留まり死者は逝く、巡る世界の環に迎え入れられん事を切に願う」

 死体を青い炎が包む。
 それは熱のない炎で触っても熱くはない。
 だが、死体はゆっくりと炎そのものに変わって行き、解けるようにその形を崩していく。

「お父さん」

 ビナールがタネルの腕を握りしめながら小さく呟く。
 兄の方は表情一つ変えずにその様子を見つめていた。
 こういうのはあれだな、何度見ても慣れないよな。

 還っていく父親を見送る兄妹をそのままに、俺は大木に話をしておく事にした。

「すまんな。それでテストの方はどうする?」
「まぁいいっすよ、人道的見地から仕方ないっすからね。テストのチェックはこっちでやっておきますから、リーダーはあの兄妹の面倒を見てあげてください。おそらく彼らの国では勇者血統はかなり特別な意味を持つんじゃないっすかね。俺も本部に問い合わせしておきますけど」
「いやでも俺らの事は明かせないだろ?」
「ですけど、あの子らもう確信してるっぽいっすから」
「むう」

 結局俺が面倒見るって話なんだから別に良いか。
 最初からそのつもりで助けたんだし、放り出す訳にも行かないからな。
 しかし、迷宮の上層では広大なフィールドに多くの冒険者が同時に挑んでいるって聞いていたんだが、さっきのあの子らの話ぶりによると冒険者ってのは協力しないのか?
 そんなんじゃフィールドボスと戦えないんじゃないか?
 そもそも協力しないなら冒険者協会や冒険者カンパニーが設立した意味が無いよな。
 う~ん、やっぱり何かこう違和感があるんだよな。
 あの子らももうちょっと馴染んだら詳しいことを教えてくれるかもしれないな。

「終わった、出発」
「ん?ああ」

 由美子がやって来て腕を引っ張る。
 っていうか既に陣は解除してあるな。
 もういつ敵が現れてもおかしくは無い状態だ。

「じゃ行くか。タネルとビナールは俺の後ろで良いか?俺は前衛特化でコウとユミは後衛なんだが、君たちはどのポジションが動き易い?」
「僕もビナールも中衛です」
「そりゃあ、バランスが良いな、ありがたい」
「あ、はい」

 お、今の顔は良かったな。
 なるほど、自分達が働けるのが嬉しいのか、出来れば手の内について聞いておきたいが、どうなんだろう、ハンターもそうだが、冒険者もおそらく身内以外に手の内を明かさないものだ。
 下手に聞くのも良くないし、まぁおいおいお互いすり合わせて行くしか無いか。

 ちょっと人数が増えたというか、なんとなく下の弟妹が増えたような気分になりながら、俺は不安定な通路を先導しつつ先へ進んだのだった。



[34743] 157:好事魔多し その十五
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2015/07/30 09:58
 えぐい。
 なにがえぐいかというとこの迷宮がえぐい。
 ここって一応上層って呼ばれているけど感覚的にはまだ中層の入り口だよな、本格的な上層は20階辺りかららしいし。
 本格的な上層っていったいどんなんなんだ?
 そんな風に思ってしまうぐらい仕様がえぐかった。

「またか」

 錯覚を起こしそうな光の明滅する通路を進み、曲がり角を曲がると曲がったはずの元の道が消えている。
 今自分達がどこを進んでいるのか全く分からない。
 大木にナビの状況をそれとなく確認してみたが、どうも縦長の筒状になった通路全体がゆっくりと渦を巻くように回転しながら立体的に組み変わっているらしい。
 いい加減にして欲しい。

 さて、今までのパターンでいくとこの先に、

広間ホールですね」
「とりあえず行って来る」
「いい加減とりあえず突撃するのは止めませんか?」
「じゃあお前は考えておいてくれ、どうしたら良いか分からないならとりあえず進んだ方がマシだろ」
「進んでいればの話ですね」

 そんな弟の忠告を背に、怪しげな光を発している広間に足を踏み出す。
 その瞬間、足元から確かな感覚が消失する。

「う、わっ!」

 踏むべきものが無い以上どうしようもない。
 そのまま落ちる、と、思った時に鋭い風切音がして、腕に何かが絡み付く感覚があった。
 咄嗟にそれにもう片方の手も掛けて確保する。

「っ!」

 目の端でタネル少年が踏ん張りきれずに足をもつれさせるのが見えた。
 やばい、離すべきか。
 一瞬の逡巡だが、その必要はすぐに消えた。
 大木がタネルを確保して同時に浩二の影縫いが作用して、タネルはびくとも動かなくなったのだ。
 俺は素早くその長いムチを手繰って足場へと戻った。

「すまん、大丈夫かタネル?」
「はい、無事で良かった」

 浩二のそれみたことかという目付きがヤバイ。
 その一方でタネルが優しい。
 くっ、血の繋がりなぞ儚いものだな。

 しかし、これは酷い。
 床の殆どが抜けて足場が丁度飛び石のように浮いている。
 これを渡れって事か?
 下を見ても何も見えないし、どうなっているのかさっぱりわからん。
 1つ1つの足場は大人が一人立ってある程度動けるぐらいか。
 二人並ぶと、動きによってはどちらかが落ちてしまいそうだ。
 飛び石同士の間隔は50cm程度か、実にいやらしい距離感だな。

「そうだよな、ただ渡るだけってこたあないよな」

 キイキイ鳴きながらオオコウモリ共が押し寄せてきた。
 俺は愛用のナイフを仕舞うと、腰のベルトから手のひらにすっぽり入るぐらいの金属の筒状の物を取り出す。
 これはバトルスティックと言って、伸ばすと1m程になる武器だ。

「でええい!」

 その金属棒を回転させながら跳躍するとオオコウモリ共を叩き落とす。
 
「足場、作る」

 そう言った由美子は、巨大な白いムカデを呼び出し飛び石の上に這わせた。
 なるほど、隙間が無くなるだけでかなり違う。
 しかし、タネルと妹のビナールは若干引いているっぽいぞ。

「渡る」

 促されて、タネルは僅かにためらったのみで飛び出した。
 くるりと巻いた長いムチを手に、それを素早く操って群がろうとするオオコウモリを確実に撃ち落としていく。
 さっきもそうだが、タネルの操るムチの精度はかなりのものだ。
 その後ろに付き従ったビナールは腕に嵌った太い腕輪を突き出して「乞う」と呟く。
 すると、一瞬高い所にいたコウモリ共の群れがぐらりと飛ぶ勢いを失って下降して来る。
 そこを俺とタネルが撃ち落とした。
 同時に後ろから大木が術式銃を撃ち込んだ。
 電撃ネットの術式弾がパッと空中に広がって、その範囲に触れたコウモリを次々と落としていく。
 さしもの数千匹程いそうだったオオコウモリの群れも、段々とその数を減らしていた。

「变化、来ます!」

 浩二の声が飛ぶ、広間の半ばを過ぎた辺りでオオコウモリの群れに変化が生じた。
 渦を巻くように集まり、それが1つの姿を形作る。

「ガアッ!」
烏天狗ガーゴイルか!」

 獰猛な顔つきに黒い羽根を持つ怪物。
 尊きモノの守護者と呼ばれるガーゴイルだ。
 まぁダンジョンの怪異は外のモノとはやや性質が異なる。
 別に何かを守護している訳ではないんだろう。

 さて、全体の数は減ったが全く楽にならなかった。
 敵さんはコウモリより格段に賢く、こちらの手が届かない空中から自由に攻撃を仕掛けて来る。
 こっちは足場が悪くて攻撃範囲が狭いので上手くそれに対応出来なかった。
 なんらかの方法で大気を揺るがせていたらしいビナールの攻撃も通じない。
 大木の術式銃も同様だ。
 対応して口を開けて声を発しているので術で相殺しているっぽい。
 格の高い怪異の嫌な所だ。

 タネルはいかにも悔しそうに、ビナールは気落ちしたようにしゅんとしている。
 しかしあれだよ、君たち、そういうのは戦いが終わってからやる事なんだぜ。
 不意に、空中を自在に飛び回っていたガーゴイル共が何かにつっかえたようにある一定以上上に飛べなくなった。
 浩二が後方で銅像となったかのように硬直しているのが見える。
 大木がすかさずその浩二の周辺のフォローに入った。

 うん、すっかりチームらしくなったな、俺たち。
 頭上に何も見えないのに高く飛べなくなったガーゴイル達が戸惑ったように動く。
 俺はその隙を逃さず手にしたバトルスティックを使い、棒高跳びの要領で体を跳ね上げると空中でガーゴイルを捕まえてその首を捻った。
 バキリと乾いた感触が手に伝わる。
 力を失い浮力を失いつつあるその体を足場に、次の獲物へと飛び掛かる。
 後はもはやこっちの独壇場だった。

 他に敵は出て来なかったので、先に進もうとすると大木が呼び止める。

「ちょ、これ見てください」

 その声に振り向くと、怪異の姿が丁度消えた所に、少し大きめの夢のかけらがあり、それともう1つ、水晶球のような物があった。

「なんだ、それ?」
「なんでしょう」

 この手の事に最も詳しい由美子を窺ってみたが、首を横に振られる。
 ううむ、妹に分からない事が俺に分かる訳がないな。
 その水晶球のような物は濃い赤い色をしていて、大きさは直径10cmそこそこか?一見した所特に何がどうといった所はない。

「あれかな?ドロップアイテムとかいう」
「いや、ゲームじゃないんですから」

 俺の言葉に大木が呆れたようにそう返して来た。
 おい、まるで馬鹿な事をぬかす頭の弱い奴を見るような目はやめろ。

「違う、ゲーム、ここは作られた迷宮」

 由美子がゆっくりとそう言った。

「えっと、どういう?」

 大木が不思議そうに聞き返すが、俺は由美子の言わんとしている事に気付いてため息を吐いた。
 この『迷宮』の製作者はゲーム感覚で造っているという事か。
 まぁ暇を持て余している野郎のやる事だからな。

「でも、綺麗ですね」

 おずおずと、ビナールがその球に手を伸ばそうとするのをタネルが慌てて止めた。

「うかつに触るな、父さんが言っていただろう。迷宮では全てを疑えと」
「あ、うん、ごめんなさい」

 うんうん、タネルは良いお兄ちゃんだな。
 俺が由美子に目をやると、由美子も分かっているとばかりに頷いた。
 懐紙にさらさらと書かれた物がその球を覆い、包み込む。

『封』

 という文字が光と共に浮かび上がり、だが、その光はバラバラに散る。

「ん?」
「あ」
無効化レジストかな」

 ううむ、封印収納が出来ないのか。
 しゃーない。

「あっ、馬鹿!」

 俺がその球を掴むと同時に浩二が罵倒を浴びせかけた。
 いや、だって、問答してても仕方ないだろう。
 明らかに重要アイテムっぽいし、捨てていく訳にもいかないからな。
 それにレジストが掛かっているならこの球自体に変な術は掛かっていないはずだ。

 そう思って浩二ににやっと笑って見せると、すげえ目付きで睨まれた。
 ふと他の仲間に目をやると、全員が呆れたような心配しているような目付きでこっちを見ている。

「いや、ちゃんと考えがあってだな……」
「嘘」
「無茶をしては駄目です」
「呆れた」
「いや、それでこそっすよ、リーダー」

 信用が無い、だと……ってか大木よ、それでこそってなんだよ!



[34743] 158:好事魔多し その十六
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2015/08/06 12:53
 「あの、ちょっと気付いた事があります」

 通路を舐めるように這いずり回った炎の蛇をなんとか仕留めて、次へ行く前に一息吐いていたらビナールがおずおずとそう言った。

「どうした?」

 さすがに意識がボンヤリして来たのでブラックコーヒーを全員に配って啜りながら彼女の言葉を促す。

「通路毎に光の色の数が違います。これは道順を示しているのではないでしょうか?」

 彼女の言葉に全員が驚きを示した。
 通路にカラフルな光の筋が走るのはみんな意識していたが、段々と慣れて気にしなくなっていたのだ。
 ほぼランダムに走っていると思っていた光の色に違いがあるとは気付かなかった。

「彼女は絵を描きます。色に対する感性が高い」

 兄のタネルがそう付け足した。
 なるほど絵を描く人なのか、目の付け所が違うはずだ。

「色の違いには気付かなかった。どうしてそれが道順に繋がるか説明出来るか?」
「はい。これまで増えた順は赤、オレンジ、黄色、緑、青となっていて、逆に減った場合には青、緑、と減って行きます。この色の並びは……」
「なるほど」

 ビナールの説明に頷いたのは浩二だった。
 残念ながら俺にはまださっぱり分からない。
 なんとなくグラデーションみたいな変化だなとは思うが。

「分かりませんか?これは虹の色ですよ。まだ出ていないのは藍色と紫ですね」
「虹?」
「ああ、俺にもなんか分かったかもっす」

 大木が素っ頓狂な声をあげて嬉しそうにそう言った。
 ぬぬっ、どういう事だ。
 分からないのは俺だけか?と不安になって周りを見回すと、由美子は泰然としていて、分かっているのかどうか分からない。
 そしてタネルは眉を寄せて困惑したような顔をしていた。
 おお、さすがアニキ仲間、お前も分からないんだな。

「虹は多くの国で空に架かった橋として扱われています。つまりこの光が七色集まる事でこのフィールドを脱出する橋が架かるのではないか?と彼女は言いたいのでしょう」

 浩二がため息を吐きながら解説した。
 虹で橋ね、なんかメルヘンチックだな。
 俺はこの迷宮の主である終天を思い浮かべた。
 そしてそう言えばと思い出す。
 やつの家の書斎には、世界中の童話もあった気がする。
 当時の俺は当初あまりの書棚の多さに、重圧感に逆に気持ちが悪くなっていた。
 なにしろ日本語じゃない文字の本や、日本語だけど読めない昔の本などがやたら一杯あったのだ。
 しかし、ふと、綺麗な金文字の布張りの本を見付けて開いたら美しい色合いの絵があった。
 中身は外国語で言葉はさっぱり分からなかったが、その描かれた絵を見て色々と空想しながら物語を考えたものだ。
 俺が本を好きになったのはあの瞬間だったのだろう。
 あれはおそらく童話の本だった。
 そう言えばその中に虹を描いた本もあった気がする。

「という事は要するに、色が増える方向に歩いて行けば良いって事か」
「……いえ、分かりません」
「まぁいいか、とりあえずその方針で行ってみよう」

 自信なさげなビナールに向けて笑ってみせる。
 失敗もなにもやってみないと分からない。
 リスクを承知でプランを実践してみて初めてその計画の粗も見えてくるのだ。

 それからは割りと手早く進んだ。
 通路と通路は広間で結ばれている。
 その広間には必ず怪異が控えていた。
 その辺は俺の頑張りどころだ。

 次の休憩、と言うよりベースキャンプを作って泊まる準備を始めないといけないタイミングで、ビナールが通路を確認して告げる。

「最後の紫が出ました」
「うわあ、ナイスタイミング」
「兄さん……」

 ぼやく俺を咎めるような目で睨む浩二に、俺は逆にニヒルな笑みで応戦した。
 睡眠は大事だろ?
 そんな俺らを他所にタネルは斥候よろしく慎重に通路を進んで先の確認に行く。
 この坊やは意外とスカウト能力が高いようだ。
 些細な事も見逃さず、咄嗟の判断が早い。
 というか、おそらく父親を失った事で開眼した能力かもしれない。
 彼としてみればたった一人残った妹をも失う訳にはいかないという気持ちからこの慎重さが培われたのだろう。

「来てください!」

 先行したタネルが慌てて戻って来る。
 俺は戦闘を行う為の意識へと切り替えつつそれを追った。

「うお!」
「これは、また」

 その広場はこれまでの物と確実に違うものだった。
 何しろ天井がないのだ。
 正確には天井が見えないと言った方が良いか?
 そして広場の中央にはデカイ竜巻が天高く渦巻いていた。
 うわあ、どうすんだ、これ。
 それに、これだけ近くにデカイ竜巻があるのに空気の動きが無いってのはどういう事だ?

「リーダー、とりあえずこの広場には敵がいないっぽいっす、キャンプに丁度良いかもしれないっす」
「あーうん、それが良いかもな、俺ももう物を考えるの、限界っぽいし」

 周囲を見回すと、全員が同じように疲れきった顔でいる。
 あの竜巻に突入するにしても、今の状態では話にならない。
 広い広場の片隅、通路から最も離れた場所にキャンプを張った。
 しかしなんだ、軍の携帯テントは軽くて広くて丈夫で素晴らしいと思うのだが、中に入るのがむさい男3人だとなんだか辛いものがあるな。
 隣のテントは可愛い女の子2人で素晴らしいし、羨ましい。

「よし、飯を作ろう」

 こんな時は美味しいご飯を食べるに限る。

「それ、前も使っていたけど、火がいらないのか?」

 タネルが興味を持って食いついて来た。
 宣伝のチャンスである。

「そうだ。こいつは術式で水を湧き出させ、電気で調理をする迷宮で便利に使える調理ジャーだ」
「電気?」
「ん?知らないのか、ちょっと前に売り出された迷宮専用ポータブル発電機」

 俺は言いながら実演してみせた。
 他社製品のポータブル発電機の説明はあまり気が進まないが仕方ない。
 俺が小さな夢のカケラをその収容口に入れると、タネルの目が見開かれた。

「勿体無いだろ!」
「え?でもこの大きさの夢のカケラは換金出来ないだろ?」
「そんな事はないぞ、小さいのを集めて再精製してエネルギーキューブを作り出す事が出来るから僅かだけどお金になる」
「マジか?どのくらいになるんだ」
「1ドルにはなるぞ」
「1ドルって何円だ?」

 俺たちの会話を聞いていた大木がぼそりと俺に答える。

「大体100円ぐらいと思ってれば良いっすよ」
「えっ、安いだろ」
「手間賃が掛かるからな。でも1ドルでも金は金だ」
「う~ん、でも今は使い方を見せる為に足したけど、今の夢のカケラ1個でこの発電機は1日灯り付けっぱなしで使えるんだぞ、効率的にはこっちのが良いんじゃないか?」

 俺の言葉にタネルは少々考えこむ。
 そもそもこのポータブル発電機は冒険者に売れている。
 効率が悪いなら売れはしないだろう。

「場合によるかな?」

 おっ、やっぱり気持ちが傾いたか。
 しかし中サイズ以上の夢のカケラなら1個最低でも5000円にはなるはずだが、いくら小さくても100円は下がりすぎだよな。
 再精製の手間がよほどなのか、ぼられているのか判断が付きかねるな。

「まぁいいか。とりあえず夕飯はカレーだぞ。昼は念の為あっさりした物しか食えなかったから、腹減っただろ」
「カレー?」

 俺の言葉に不思議そうに聞き返す兄妹。
 マジか、お前ら日本に来ていてカレー食った事がないのか?
 よ~し、お兄ちゃん張り切っちゃうぞ。
 カレーの具には軍のレーションの肉じゃがを使う。
 軍のレーションにカレーもあるんだが、こっちは具が小さくて食った感じがしないのだ。
 しかし肉じゃがを使うと意外と美味いカレーが出来るのである。

 そうして俺たちは、これみよがしにゴウゴウ唸りを上げるどでかい竜巻の前でのんびりと夕食の準備をしたのだった。



[34743] 159:好事魔多し その十七
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2015/08/13 11:35
 タネルとビナールの兄妹はカレーを気に入ってくれたようだった。

「この肉は何?」

 ビナールが恐る恐る聞いてくる。
 食べられない物は無いんじゃなかったのか?遠慮してたのか?

「ビーフだけど、大丈夫か?」

 そういえばどっかの国では牛は食わないとか聞いたな。
 我が国でも牛を大量に食べるようになったのは割りと最近で、ちょっと前まではタンパク質と言えば鶏と魚関係ばっかりだったらしい。

「大丈夫、慣れていないだけ、ちょっと臭いけど問題ありません、美味しいです。この料理はピラウに似てるから懐かしい感じがします。ヨーグルトがあったら故郷の料理を食べているような気分になったと思います」

 プラウってなんだろう?ピラフみたいなものかな?何にせよ美味しいなら良かった。
 迷宮から出たらヨーグルトを食べさせてあげよう。
 そうだ、せっかくだから今のうちにお互いを知っておくか。

「せっかくだからお互いに自己紹介をしよう。学校の転入生みたいな感じで」

 俺がそう言うと、全員がちょっと笑った。
 どうやら外国の二人にも通じたみたいだ。
 転入生の自己紹介は海外でもテンプレなんだろう。

「じゃあ、言い出しっぺの俺から行くか。ええっと、俺は木村隆志、年齢は27歳だ。今の仕事はハンターだな。本来は会社員だが」

 俺の説明にタネルとビナールは不思議そうにしている。
 深く考えずにスルーしてくれると嬉しいぞ。

「んじゃ年の順で行くと次は俺っすね。俺は大木伸夫、この国の軍人っす。年齢は25歳、絶賛彼女募集中っす」

 明子さんとはどうなった?振られたのか?気になる。

「はぁ、まぁいいですけど。僕は木村浩二、ハンターです。その移り気な兄と違って専業のね。年は23」

 浩二よ、移り気とはなんだ。
 別に俺は浮気症じゃねえよ!どっちもちゃんとやってるだろ!

「木村由美子、20歳、ハンターで大学生」

 一方で由美子は簡潔だった。
 そう言えば由美子も現役学生だから二足の草鞋か。
 意外、浩二、お前の方が少数派だったぜ。
 そんな思いを込めてニヤニヤ笑ってみせると、それを察した弟がものすごく嫌な顔をした。
 こいつはいつもうっかり俺に言い負かされると凄くそれを引きずるのだ。
 可愛いやつめ。

「あーえっと、タネルだ。年は19」
「あ、はい。私はビナールです。17になります」

 肝心の兄妹の自己紹介はものすごく簡潔だった。
 うむ、これは前例が悪かったな、反省。

「二人は冒険者なんだよね。ええっと、事情は聞かない方が良いのかな?」

 仕方ないので俺はあえてちょっと踏み込んでみる事にした。
 話すのが嫌ならそれでも良いが、今後の事を考えるとある程度予備知識はある方が良い。

「いえ、そんなに気にしなければならないような話ではありません。我が家では母が難しい病気に罹ってとても多くのお金が必要でした。そこで父は冒険者になりました。地道に稼いでどうにかなる金額では無かったからです。もちろん冒険者になって成功するのはほんの一握りで、ちゃんとお金を稼げる人間は滅多にいません。そこで父は成功していた冒険者に身売りしたのです」
「身売りって……ええっと人身売買は世界協定で禁止されているはずだよね」
「もちろん、奴隷ではありません。単なる終身雇用です。死ぬまで自由はありませんが、奴隷ではありません」

 いや、それ奴隷だろと思ったが、おそらくそういう建前になっているんだろう。
 さっき言っていた冒険者のルールみたいなもんで、冒険者の間ではこういう一般的なルールとは違う独自の物があるに違いない。

「治療を受けて母は病気を治しましたが、父がいなくなったので生活は大変でした。でも、僕達二人共ある程度働けましたし、なんとか学校も行く事が出来たのです。そして5年程して父が戻って来ました。なんでも父を雇ったパーティが半分が亡くなり半分が引退して、開放してもらえたのだそうです」
「それって、珍しい事?」
「父が言うには無い事では無いそうですが、普通は雇われた者は雇い主より先に死ぬのが当たり前なので、開放して貰えるまで生き残るのは珍しいのだそうです。そして言いました。冒険者として独立してみようと思うと、そこで僕達も父と共に冒険者になったのです」

 彼らの父親が冒険者を続けた理由は分からなくはない。
 5年間冒険者として生き延びてノウハウを学んだ。
 それならそれを使って単独で稼げるのではないか?と考えたのだろう。
 しかし聞く所によると単独ソロの冒険者はかなり厳しいらしい。
 ある程度は、父親は子供たちをあてにしていたのだろうか。

「僕達は学校を中退して父について冒険者になりました。実は母国では今働き口が極端に少なくて、出稼ぎに出る者は多いのです。ですから冒険者になるのはそう珍しい話でもありません」

 俺の不思議そうな顔を見て察したのか、そんな説明をしてくれる。

「なるほど、事情は分かった。という事は君たちはここを出ても冒険者としての活動を続けるんだな」
「はい」
「はい」

 二人が揃って返事をする。
 父親が亡くなったとしても、いや、亡くなったからこそ、彼らはまだ働かなければならない。
 故郷に働き口がなく出稼ぎをするとなると海外で働くのはかなり難しい。
 その国の戸籍がない人間はまともな職に就けないし、なにより法律によって守られない部分が多い。
 国際協定の拘束力は当然ながら国の法律には及ばないからだ。
 冒険者になる人間は貧しい国の者が多いとされる理由がそこにある。
 冒険者もその国に留まる限りは国の法律の影響を受けるが、国々を渡り歩く彼らはどちらかというと国際法によって守られている部分が大きい。
 特に冒険者協会が出来てからは協会員として登録している冒険者には一定の権利が与えられるのだ。
 単なる外国人よりもマシな立場で仕事が出来る。

「うん分かった。ただ一つ忠告させてくれ、君たちはどこか信用できるバーティに合流すべきだ。中距離専門の二人だけで迷宮攻略や怪異退治は厳しいぞ」

 彼らの構成からして、父親は前衛だったのだろう。
 きっとそれなりに強かったのに違いない。
 だから家族だけで今までやって来れたのだ。
 しかし、残された二人だけじゃ、もはや無理だろう。

「……わかっています。ここから出たら冒険者協会を頼るつもりです」

 タネルの言葉にホッとする。
 さすがに二人だけで続けるという意固地な選択をする気は無いようだった。
 ただ、その話題は二人には歓迎すべき話でもなかったようで、雰囲気が一気に暗くなる。
 ヤバイ、話題を変えよう。

「そう言えば、さっきちょっと言ってたけど、君たちの国の聖者ホーリーブラッドってどんな感じなんだ。話せない所は話さなくて良いけど」

 どの国も自国の勇者血統の情報はあまり外に出さない。
 まぁ居場所を知られるとその子供が人身売買の組織に狙われるという事もあるのだろうけどな。
 嫌な話だ、まったく。

「あ、はい!聖者様は私達の救い主様なのです」

 俺の言葉に、今までおとなしくしていたビナールの方が乗って来た。
 憧れなのか、それまで色の無かった頬が紅潮している。
 いやこれはちゃんとした飯を食った影響かな?

「私達は元々は遊牧民でした。我らの指導者が、悪魔は一つの地に留まる事で生まれると言われたからです」

 うん、その指導者の言う事は確かに正しい。
 怪異が生まれるのは淀みが生まれ、それが成長して意思を持つからだ。
 感情を持つものが長年同じ場所に住み続ける事でその現象は発生する。
 いや、短時間に強烈な意思によって誕生する怪異もいるが、ほとんどの怪異はその認識で間違いはない。
 つまり留まらずに移動しながら暮らせば、凶悪な怪異に襲われる事も無いという事だ。

「しかし、遊牧の暮らしは大変です。ある時、本来の季節の放牧地に緑が無かった年がありました。その時には水場も枯れていて、民族存亡の危機に陥ったのです。その時、一族の5人の術師が定住を提言しました。怪異の発生を防ぐ為の特別な都市を造れば脅威を退ける事が出来ると」

 やっぱり遊牧というのは自分達で環境を整えるのではなく、自然のままの環境に左右されるのがネックなのだろう。
 そんな生活に業を煮やした魔術師が怪異を避ける特殊な都市を造ったという事か。

「術師の方々は都市を囲む5つの塔に籠もり、死した後には塔の下にその聖骸を納め、役割を代々受け継ぎました。彼ら聖者はその身を持って怪異を封印する強さを持った人々なのです」

 いくつか大事な所が隠されているような気もするが、まぁ当然の事だろう。
 だれだって自国の弱点は隠すだろう。
 しかし、なるほど、俺は勇者血統というのは怪異と戦う者の事だと思っていたが、彼らの国のように怪異を退ける結界を維持するというような者もいるのか、なるほどな、世の中には知らない事が実にたくさんあるもんだな。
 俺なんかほんと、井の中の蛙って事だろう。



[34743] 160:好事魔多し その十八
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2015/08/20 11:49
 テントを囲むように張られた結界のせいで微妙にすっきりしない目覚めを迎えた。
 とは言え結界なしで休む訳にもいかないのだから仕方ないよな。
 ぐっと伸びをして目前の巨大な竜巻を見る。
 まさかこれに突っ込む訳じゃないよな、と思いながら眺めた。

「そのまさかとか」

 俺のぼやきにビナールが不思議そうに顔を向ける。
 なんでもないと手を振ってみせたらにっこりと笑って向こうからも手を振ってくれた。
 おお、可愛いな。
 タネルはその妹の様子を不思議そうに眺めている。

 睡眠明けに竜巻を調べた俺たちは、そここそがフロアボスへ至る為の入り口であるという結論に達した。
 この竜巻は見た目こそゴウゴウと音を立てて渦巻いているが、本当の竜巻では有り得ないと結論付けたのである。
 この規模の竜巻なら周囲の物を吸い込むように激しい風の中心になっていないとおかしいのだが、この竜巻は周囲には全く影響を及ぼさずに同じ場所にとどまったまま、頂点がいずことも判別出来ないぐらいに高く風を巻き上げ続けていた。
 現象的にこの状態は有り得ない。
 つまりこの見た目はフェイクであるという事だ。
 
「本部によるとこのダンジョンの構造的にこの竜巻こそが中心部という事になるようです」

 大木も本部のスキャンで判明した事を伝えて来る。
 異なる空間を繋げてモニタリングしているだけでも凄いのにそのモニター結果を手がかりに構造をスキャン解析するとか相変わらず謎の技術である。

「本部?」

 と、タネルが不思議そうにしたので、俺は慌てて、軍本部の集めた情報である程度のマッピングが出来ていると伝えた。
 タネルはそれを全く疑わずに信じたようだった。
 まぁ当たり前と言えば当たり前だ。
 外部からダンジョンをモニタリングするとかそっちの方が信じ難い話だからな。

 とりあえず俺は手近な洞窟の壁の突起を蹴飛ばして壊すと、その竜巻に放り込んでみた。
 瓦礫は竜巻に触れるとバリバリと激しい音を立ててその形を歪ませ、ふいに消える。

「間違いなさそうですね」
「うわあ、触りたくないな」

 俺と浩二の感想は真っ二つに別れた。
 同じ物を見ても人によって感じ方が違うという事が良く分かる。

「ここはやはり本物の竜巻に巻き込まれてもピンピンしていそうな人が行くべきでしょう」

 こいつ、何か危ない物を見付けたら俺を突っ込んでおけば大丈夫とか、そういう昔ながらの感覚なのか?
 俺の弟ながら無慈悲すぎるだろ。

「いや、そもそも罠という可能性もあるんじゃないか?」
「兄さん、一応身代わり符は持っているんでしょう?何かあっても死にはしませんよ」
「身代わり符があってもそれが発動するって事は死ぬ程苦しい状態になるって事なんだけど、それは良いのかよ!」
「痛みに対する耐性も高かったでしょう?」
「だからそういう問題じゃねえって言ってるだろ!」

 俺らが言い争いをしていると、それを見かねたのか、ビナールがオロオロした挙句に、

「わ、私が行きます。今こそ恩返しの時です」
「何を言っているんだ。それは僕の役目だ。あの竜巻に入ればよろしいのですね」

 などと兄妹でやり始めてしまった。
 いかん、若者達には我が家の軽いスキンシップが通じてないっぽい。
 タネルが突撃する前にちゃんと止めておかないとな。

「いや、君たちは気にするな。大丈夫俺は死ぬのは慣れている」

 おっと、死ぬのはじゃなくって死ぬような痛みにはと言うべきだったか。

「そんな、ダメです!」

 ビナールが悲しそうに叫んだ。
 タネルは険しい顔で「死をもてあそぶのは良くない」と、真面目に俺に説教をたれ始めてしまった。
 すんません調子乗りすぎました。

「あ、いや、ほら、危険な仕事はハンターなら当たり前だし。別に死を弄んでわざとやっている訳じゃないからね」

 元凶であるはずの浩二は、ニヤニヤ笑いながら俺を見ている。
 くそっ、覚えていろよ。
 
「と、とりあえず朝食にしよう」

 何か腹に入れないと力が出ないからな。
 べ、別に食べ物に意識を逸らして気まずさを回避した訳じゃないからな。

 もしかするとこっから即ボス戦という事もあり得るので、朝食は軽く摂る。
 腹が膨れすぎると動きが鈍るからな。

 落ち着いた所でまず俺が通信機を持って竜巻に突入する事に決まる。
 タネル達は、恩返しがどうとか、元気になったからお役立ちがどうとかでごねたが、待機する事に納得してくれた。
 俺はベルトに通信機をセットすると堂々とした態度で竜巻に臨んだ。
 下手に怯んだ態度を取ると、あの兄妹達が勝手に突入しそうなので、冗談でも逃げるふりとか出来ない。

 竜巻のすぐ近くにはさすがに強風が吹いているが、それだけだ。
 やはり吸い込むような力は働いていない。
 まるで風がベールのように竜巻を包んでいる感じだ。

 その風の中に手を入れてみる。
 抵抗があるが、決して弾き飛ばすような強い物ではない。
 普通、竜巻の周辺に飛び交っているはずの瓦礫なども無く、感触的には滝に手を突っ込んだ時の物に似ている。
 抵抗を押しのけて進むと、不意に抵抗が無くなり、前のめりに倒れ込んでしまいそうになって踏み止まった。

 そして改めて周囲を見るとそこは巨大な石造りの建物の通路となっていた。
 磨きぬかれた黒曜石のようなつるつるとした床と壁が周囲を取り囲んでいる。
 天井も同じような質感だが、やたら高い。
 数十メートルはありそうだ。

『兄さん、無事ですか?』

 おっと、連絡連絡。

「ああ、無事別の場所に出た。やっぱりあの竜巻は見せ掛けだけのようだ」
『了解しました』

 しばし待つと全員がふいに現れた。
 やっぱりなんか変な感覚だな。

「良かった!」

 ビナールが嬉しそうに笑った。
 いい子だなぁ。

「さて、先に進むか。鬼が出るか蛇が出るか」

 コツコツと人数分の足音が響く。
 戦闘用のブーツはこの硬質な床では音が響きすぎる。
 気になるが仕方ない。
 やがて巨大な扉が出現した。
 ここがボス部屋って事かな?
 扉の表面には彫刻があり、白虎、青龍、玄武、朱雀の四神が描かれていた。
 四神というのは東洋の物だが、その彫刻はどちらかというと西洋風で、なんとなく違和感がある。
 扉を押してみるがびくともしない。
 
「兄さん、その彫刻の目」
「ん?」

 由美子に言われて改めて彫刻を見ると、それぞれの聖獣の目にはぽっかりと空洞が開いていた。

「ん~何か入れるのか?」

 俺が頭を捻っていると、ビナールが「あっ!」と声を上げる。

「これを」

 その手にあったのはこのフロアで怪異を倒した時に稀に落ちるなぞの水晶玉だった。

「あ、なるほど」

 最初の赤い物からその後も何回か落ちたのを拾っていて、全部出してみると8個あった。
 赤が2個、白が3個、青が1個、黒が2個だ。

「危なかったな、青ってどこで出たっけ?」
「石の中から襲ってくるサメみたいなのがいたとこでしたっすよ、確か」
「これ、足りなかったらどうなるんだろう?」
「どこかから戻れるか、行きも戻りも出来ずに永遠にこの通路に閉じ込められるかどちらかでしょうね。後者の可能性が高そうですが」
「嫌な罠だな」

 とりあえずその水晶玉をそれぞれに対応した色の聖獣の目に嵌めていく。
 カチリという音がして扉の表面に鮮やかな色が現れた。
 生き生きとした聖獣達が互いを喰らい合う。
 青龍が白虎を喰らい、玄武が朱雀を喰らい、残った青龍と玄武が互いを喰らい合って扉は消滅した。
 なかなか迫力のある出し物だった。
 しかしどんな演出だ?凝り性すぎるだろ。

 ともあれいよいよフロアボスか、そう思い身構える。
 俺たちの目前には扉の消えたその後に、滝の流れ落ちる鍾乳洞が姿を表した。
 もはや通路は影も形もない。

 ズズッと、重い物を引き摺るような音と共に現れたのは、まるで外国の映画に出て来る巨大なトラックのような大きさの、ぬらりとした平たい爬虫類だった。



[34743] 161:好事魔多し その十九
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2015/08/27 13:13
 ぬらりとした体表面を見ただけでもう嫌な予感しかしない。
 見た感じはオオサンショウウオに似ているが、あんなのんびりとした感じではなく、色合いも毒々しい赤紫だ。
 一見した所は動きはにぶそうなんだが、どうかな?

 そのエリアボスであろう相手は、俺達の方に顔を向けると、まるで岩が割れるようにバクンと口を開けた。

「やばい!」

 俺の声より早く浩二の絶界が展開する。
 だが、相手が発したのは物ではなく音だった。
 ズンッ、と突き上げるような衝撃に体が固まる。
 その瞬間、目前の界のずれた向こうに赤紫の粘着性の物質がねちゃりと広がり、同じ程の勢いで消えた。

「な、なんだ?」

 ようやく、固まっていた状態から抜けだした俺は声を絞り出す。

「舌です。おそらくカエルとかカメレオンのような用途なんでしょう。叫びハウルも絶界でかなり防いだはずなのにアレですからね。油断ならない相手ですね」

 うわあ、えげつない。
 相手を叫びで足止めして、舌で絡めとって食うって訳か。
 
「アイツの体、ありゃあ毒かな?」
「ぬらぬらしていますからね、少なくとも粘液のたぐいである事は間違いないでしょう」
「防ぐに難しく、攻めるに難しいという、嫌な相手だな」

 ブーンというお馴染みの羽音が響く。
 白い大きな蜂達が仕掛けたのだ。
 蜂達は群がり、次々と針を刺していく。が、少しも効いている風には思えなかった。
 しかしさすがにわずらわしかったのか、オオサンショウウオもどきは太くて長い尾を振り回し、それでは埒が明かないと感じたのか、グオッと声を上げると、突然、横に転がり始めた。
 何しろデカイ、しかも横幅が特に大きいので、転がる事で体表近くに群がっていた蜂達はその体に巻き込まれて轢き潰されてしまう。

「転がる、とか」

 俺は見物の間に装備したグローブの具合を確かめると、でかくて平たいボス野郎に向かって走った。
 お試しにヒートナイフを突き込んでみる。
 ジュッと嫌な臭いがして皮膚の表面を切ったと思ったら、すぐにその傷が埋まった。

「うっわ、たまんねえな!」

 ぼやく。
 今度は広範囲に切り裂いて、素早くナイフを収納すると、その切り裂いた部分に拳を叩き込む。
 ズッ、と嫌な感触があって、ほとんど手応えがない。
 グローブからは紫の怪しい煙が上がったが、無事だ。
 ハンター協会のお墨付きの防具は、ただ高いだけじゃないという事だ。

 と、ボス野郎がグオッと声を上げたので急いで下がる。
 またまたローリングの開始だ。
 ん、転がっている時に見える腹には粘液が無いぞ。

「なんとか奴を持ち上げられないか?」

 敵は平べったい、つまり重心が安定しているという事だ。
 よしんば腹が弱点だとしても、それを晒すのがローリング中だけでは攻撃の隙がなかった。

「やってみる」

 由美子の言葉と共に、白い大きなムカデくんがやつに向かって行った。
 俺たちを乗せられる程大きなムカデだが、オオサンショウウオもどきに対峙すると大人と子供以上の差がある。
 しかしムカデくんも重心の低い安定した体の持ち主だ。素早い動きで敵の腹の下に潜り込もうとするも、敵もさるもの素早く尾を動かす。
 俺も牽制に反対側から攻撃を加えてみるが、割りとあっさり無視された。
 おのれ。

 ダダッと動いた敵さんは白いムカデを踏み潰した。
 これが生物なら動けなくなっていたのだろうが、ムカデくんは生物ではないのでそのまま敵の短い足に絡み付いて締め上げる。
 ゲゲッとかググッとか言う声を上げて、オオサンショウウオもどきはそれをなんとか振り解こうとするものの、足が短く首が無い作りなので自分の足に噛み付くことが出来ずに、結果として足を振り回す事となった。
 瓦礫が飛び散って危ないだろ!
 だがおかげでやつの体が浮いた。
 俺はその隙間に体を入れると、アッパーの要領で下からやろうの体を打ち抜く。

『グオオオッ!』

 さすがに安定が良いな、ほとんど浮き上がらねえ。
 もう一発!
 更にもう一発、追い打ちでもう一発!
 でかいコンニャクか何かを殴っているような感触だが、なんとか俺が入り込めるぐらいの高さまで体を浮かせる事に成功した。
 ヒートナイフで一気に腹を切り裂く。

『グワアアアアッ!』

 怒りとも悲鳴ともつかない声を上げて、オオサンショウウオもどきはまた転がり出した。

「バカの一つ覚えか、いい加減にしろよ!」

 だが、さすがにその巨体を武器にした攻撃は効く。
 潰される事はまぬがれたものの、俺は大きく跳ね飛ばされた。
 床に叩き付けられると、その勢いのままにごろごろと転がる。

「ちいっ!」

 転がった俺に向かって舌が飛んで来たのを浩二が防ぐ。
 咄嗟の発動では人一人をカバーする程度だが、それで十分だ。
 と、転がった俺の横をタネルが駆け抜ける。

「おい、待て!」

 タネルのムチがオオサンショウウオもどきの目に届く。
 それを嫌がって振った頭から粘液が飛び散り、タネルが悲鳴を上げた。

「タネル!」

 俺は立ち上がってタネルを担いで他の連中の待機している場所まで戻って、渡す。

「兄さん!」

 ビナールが泣きそうになりながら近付くのが目の端に映る。
 
「くそがっ!」

 俺はまたオオサンショウウオもどき野郎に突進した。
 やつは腹と目が痛いのかのたうっている。
 ベルトから金属の筒を取り出し、引き伸ばして根の状態にすると、先ほどのタネルの攻撃で傷付いた目を狙ってその頑丈な金属の棒を繰り出した。
 ズンと、今度こそ、肉を刺す感触が伝わった。

『シュー!シャー!』
「リーダー避けて!」

 見ると大木が例の術式銃を構えている。

「おう!」

 俺は大慌てでオオサンショウウオもどきの側を離れた。
 シュンという音と共に、やつの体に術式が書き込まれる。
 ぐるりと巡った術式が効果を発動、敵の抵抗力とのせめぎあいが発生してその摩擦が光として目に届いてやたら眩しい。
 かなり弱っていたオオサンショウウオもどき野郎だが、それでもまだ抵抗を続けていた。

「ったく、頑丈な野郎だな!」

 俺は走り寄ると、今はすっかり見えている腹に渾身の拳を叩き込む。
 ズ、ン、と重く沈み込む感触、と、同時に、

『ガ、ハッ』

 怪物は赤紫の体液を吐いて沈黙した。

 ボロボロとその形を崩し、元々の虚無へと戻って行く。
 俺はそれを確認すると、仲間たちの所へ戻った。

「タネルは大丈夫か?」
「なんとか」

 見ると由美子の解毒の符と、ビナールの腕輪が光ってなんらかの術を展開中らしい。
 やれやれ、ひやっとしたぜ。
 オオサンショウウオもどきのいた所には巨大な夢のカケラと肉片の一部が残っている。 
 
「大木、封緘あるか?素材が残っているぞ」
「おお、すごいっすね」

 大木は封緘を取り出したが、配置に手間取っている。
 明子さんのようにはいかないようだ。

「あー、あのさ、聞かれたくない事だったら答えなくていいけど」
「あ、はい」
「明子さんとは上手くいってないのか?」

 大木は俺の顔を見て苦笑いすると、自分の異形と化した腕を示してみせた。

「めいちゃんはすっごい怖がりさんなんっすよ。本当は軍隊なんか入れないぐらいのね。それが偶々異能持ちだったから他に選択肢はなかったんです。そんなあの人を助けたくって強くなりたかったんですけどね、却って怖がらせちゃって」
「そう、か」

 上手く励ます言葉が出ない。
 一般の力の無い人が異能者を見る目を知っているなら、大木の事だって受け入れられるはずだ。
 理屈としてはそれは間違いではないだろう。
 でも、人の感情は理屈ではどうにも出来ない。
 明子さんが異形を恐れたのなら、自分を恐れる彼女を見続ける事に大木が耐えられるはずがない。それは俺にも分かる。

「でも、彼女にチャンスをあげてくれ」

 だが、俺はするっと、そんな言葉を口にしていた。
 
「へっ?」
「その、俺は上手く言葉に出来ないけどさ、人は時には自分でもどうにも出来ない感情に突き動かされる時がある。だけど、それが全部じゃないからさ、ちゃんと話をした方が良いと思うんだ」

 大木はきょとんとした顔をした後、唐突に笑い出した。

「あははは、了解っす、リーダー」

 そしてニヤニヤ笑いに変化する。

「そもそも諦めるって言ってないっすよね、俺」
「あー、余計なお世話でした、失礼しました」

 俺は投げやりにそう言うと肩をすくめた。
 大木はほんと、軽いのにタフな男だ。
 それに、いつだってムカつく奴だ。全く。

 俺は、きっと優しい声で俺を慰めてくれるであろう女性の顔をふと、思い浮かべた。
 あそこには日常がある。
 結局俺たちは、命を賭ける世界には馴染めない日常の世界の住人なんだと、そう強く思うのだ。



[34743] 閑話:唄い手
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2015/09/03 11:57
 その電話は駅から降りた時に掛かって来た。
 いつもと同じ、少し緊張したような、それでいて張りのある、暖かな声だった。
 優香はほっと溜息を吐く。

「良かった」

 迷宮に入る仕事が予定より早く終わったとの隆志からの連絡だったのだ。
 たった三日だったのに、ずっと優香は不安に押し潰されそうな気持ちで毎日を過ごしていた。
 同僚の御池などは「あいつ仕事サボって優香を不安にさせてなにやってんのよ!」と、ご立腹だったが、優香としては隆志がハンターである事を明かすわけにもいかず、隆志が仕事を休む言い訳にした、実家の手伝いについて、忙しいみたいだというフォローを入れるしかなかったのである。
 そこで「実家の用事って、まさかお見合いじゃないでしょうね!」などとデリカシーのない発言をした御池は、彼女達の指導役のような立場にいる園田女史にお説教を食らう羽目になったのだった。

 会社での出来事を思い出し、笑顔を深めた優香は、携帯電話を大事に胸に抱くと、少しだけ残念な気持ちになった。
 既にシャトル便で外縁部の自宅のある壁外街に戻って来てしまったので、隆志を特区に迎えに行く事が出来ないのだ。
 本当は戻る予定の日は退社後に何の予定も入れずに時間を空けてあり、迎えに行って一緒に食事をしたいと思っていたのである。

「私って、すごく我儘かな?」

 優香はそう独りごちた。
 僅かな時間でも隆志の顔を見ないと不安になるし、とても寂しい。
 そんな自分がまるで隆志に依存しているようで優香は嫌だった。
 仕事で毎日頑張って、更にハンターとして命懸けで戦っているのだ、隆志だって一人で気を抜きたい時だってあるだろう。
 いつもいつも優香が張り付いていたら迷惑に違いないのだ。
 そもそも優香は、今は命の危機など何もない、優しい日常の中で過ごしている。
 父が冒険者だった頃だってそうだったと、優香は思う。
 彼女は父が冒険者であった事を知らず、ただの開拓の仕事を現場で行っているのだと思っていた。
 父の仲間が事故で亡くなって悲しい思いをした事は何度もあったが、それも自分自身には何の危険も及ばない他人ごとだ。
 いつだって自分は護られているばかりで、真実を知らず、知ろうともしていなかった。
 その事で優香はずっと自分を責めていた時期もある。
 だからこそ、今度はもっと隆志の傍にいたいと思ってしまうのかもしれないと、優香自身にも自覚はあった。
 しかし近すぎる距離は相手の負担になる。

「でも、何も出来ないのはもっと嫌だから、うん、明日は最高のご飯を作らなくっちゃね」

 遠くからこわごわ窺っているような付き合いはしたくないというのが優香の本音だ。
 そんな優香の周りからの評価は、一見大人しそうだけど、押しが強いというものだった。

 隆志の有給はまだ二日残っていて、明日と明後日も仕事は休みだ。
 電話では明後日には出勤したいような事を言っていたが、もう届けを出しているのだからゆっくり休むべきだろう。
 なにやら迷宮で色々あったらしく明日は一日手続きで奔走するらしいし。
 
 そんな風に色々と考えながら家路を辿っていた優香は、ふと、歩き慣れた道の一画で、普段と違う何かに気を取られて足を止めた。

「ん?あれ?」

 優香は一瞬、自分がなぜ足を止めたのか分からずに周りを見回した。
 そうしていると、どこかからあまり馴染みのない音が聴こえて来ている事に気付く。

「これって、笛?」

 耳にする機会の比較的多い金管楽器ではなく、それは木管楽器の音色だった。

 夕方、空は茜に染まり、周囲は薄暗くなり何があるかは分かるものの、細かい所までは見えなくなっている時間、昔からそのような時間を人は魔に遭う時間、逢魔が時と呼んだ。
 通りがかる人の顔の判別が付かない、ただ、それが人のような形をしている事は分かる。
 そんな時間には人とそうでない物の距離が極端に近くなるのだ。
 子どもたちは小さい頃にそんな時間には立ち止まらずにまっすぐ帰るように教えられる。
 立ち止まるとそこで世界が固定されてしまって、異界に紛れ込んでしまう事があると、親は子供に言い聞かせるのだ。

 しかし、優香はそんな心配をした事は無い。
 そもそも無能力者ブランクである彼女には、異界を感じ取る事は出来ないからだ。

 その木管の温かみのある音色は、どこか懐かしい旋律を柔らかく歌いあげていた。
 この国の人間なら誰でも知っているようなメロディ、半分だけこの国の人間である優香も、幼い頃母に歌って聴かされていたので良く知っていた。

「ええっと、確か……」

 優香は、その音色に誘われるように音を辿る。
 その笛の音は公園の中から聴こえて来ていた。

 そこは公園と言っても、朝夕のランニングやお散歩のコースになるような広々とした公園ではなく、街の一画の空き地をとりあえず公園にしてみましたという感じの、遊具が少しあるだけの児童公園だった。
 ブランコとシーソー、砂場とジャングルジム、そして動物の姿をした滑り台。
 誰もが小さいころ一度は遊んだであろうそんな遊具は、優香にとってはむしろ新鮮で目新しい。
 彼女の子供の頃の遊び道具は、父の仲間が大木の枝に結んでくれたロープで作ったブランコと、その辺で拾った石、摘んできた花などで、こんな風に整備された公園で遊んだ事はない。

 その為、優香は、何度か人気がなくなった夜の公園で、遊んでみた事があった。
 優香は好奇心を覚えると、それを行動に移すのを躊躇わない性格なのだ。
 だが、さすがに子供達が遊んでいたり人目のある昼間にそれを行う事は出来ず、人が来ない夜にやってしまうのが彼女の彼女らしい所であろう。
 一般的に夜は良くないモノが出やすい時間なので、人の澱が溜まりやすいこういう場所に訪れる人は少ないが、その点無能力者である優香はそういった悪いモノの影響を受けないので平気なのだ。
 むしろそういった邪気の影響を受けた人間に襲われる事を警戒するべきと、父や、隆志には厳しく叱られた事のある優香ではある。

 その公園の、ジャングルジムの途中に腰掛けて、一人の少女が笛を吹いていた。
 夕闇にほの白く、僅かに夕焼けを溶かしたように見える桜色の髪と、夕日を映したような瞳、優香は、彼女を見て、まるで花の妖精のようだと感じた。
 浴衣だろうか?時季的には珍しいが、白地に淡い色合いのこの国の民族衣装は、まるでこの国らしくない髪と目の少女に、不思議なぐらい似合っている。

 その少女の手にあるのは横笛だろうか、素朴な作りだが、精緻な模様が描かれていて、ところどころ光を反射してきらきらと光っていた。
 それは金属の輝きというより、銀や螺鈿細工の物のようだった。

「きれい」

 音の事か、少女の事か、笛の事か、自身でも分からないままに、優香をぽつりとそう呟いていた。

「ありがとう」

 気付くと少女は笛を吹くのを止めて、はにかむように優香に向かって礼を言っていた。
 優香は、自分が少女に聞こえるぐらいに大きな声で呟いてしまった事に照れてしまう。

「あ、ごめんなさい、練習の邪魔をしてしまったわね」
「大丈夫」

 少女は優香の謝罪を頭を振って否定すると、少し、遠慮がちに尋ねた。

「お姉さんはこの曲知っている?私、この曲の旋律は知っているんだけど、どんな歌か知らないの。もし知っていたら教えて欲しいんだけど」
「うん、知っているけど」

 そう答えながら、優香は少し躊躇った。
 昔から彼女の家では、優香は歌う事を禁止されていたのだ。

『お前も相手も嫌な気分になるから止めたほうが良い』

 という父の言い方は、幼い少女にはかなり酷い言葉だったが、だからこそ彼女にとって人前で歌うという事は無理な事の一つとなったのである。

「ほんと!そしたら私が吹く笛に合わせて歌ってくれる?」
「え、でも、私すごく歌、下手だから、その」

 やはり優香は躊躇った。
 しかし少女ががっかりしたように、「ダメ?どんな歌か知りたかっただけなんだけどな」とうなだれると、さすがに断りきれずに「下手で良かったら」と、頷いてしまう。
 下手でも、どんな歌か分かれば良いのだし、それでこの少女が喜んでくれるならという気持ちが勝ったのである。

「ほんとうに?嬉しい!」

 パッと、正に花が咲くように微笑んだ少女を見て、優香は自分の中で頑なに強張った『歌』に対する忌避感を押さえ付けた。
 それに、自分が恥をかくぐらい、どうって事はない話だと、そう考えると、強張った気持ちも楽になる。
 
 少女が笛を奏でる。
 そのメロディに合わせて、優香は幼い時以来ほんとうに久々に、歌を唄った。
 それは夕焼けの中で少女達が戯れるような、牧歌的な童謡だった。



[34743] 162:宵闇の唄 その一
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2015/09/10 13:46
「お前たち船で来たんだってな。すげえな」

 冒険者の社会的立場は少し特殊だ。
 彼らは決まった国の国籍を持たない。
 冒険者になると決めた時点で国籍を凍結するのだ。
 その代わり彼らは探索者証明という旅券証パスポートに似た物を取得して、どこの国にも属さない事を証明する。
 よく勘違いされるのだが、この探索者証明を管理しているのは国際連合で冒険者組合ではない。
 冒険者組合は単なる互助組織であり、国々と直接交渉する程の力はないのだ。
 この探索者証明が発行される事になった経緯にはスパイが暗躍した冷戦時代の影響があるらしい。
 それ以前の冒険者は生まれた国に籍を置きながら活動していて、生国と滞在国の両方から税金を請求されていたとの事だった。
 まぁほとんどが踏み倒してアウトローになっていたようだが。
 ともあれ、この探索者証明を持つ者が入国すると、縁印の打刻されたチップを身体に埋め込み管理される。
 これが無い冒険者は即逮捕されるのだ。

 俺たちが迷宮で保護した兄妹は、この手続がきちんとされていて、密入国者では無いと証明されて、とりあえずホッとした。
 せっかく無事に迷宮から出られたのに今度は牢屋入りとかあまりにもあんまりだ。
 とは言え、検査や、聞き取り調査の為に数日足止めされる事にはなった。
 その間にタネルとビナールの二人は故郷の一族に手紙を書いて事情を説明し、喪に服すのだそうだ。

 問題はその後で、未成年のこの二人がサポート無しで冒険者を続ける事は我が国では許されない。
 その辺り、どうしたいのかを一応聞いておく事にしたのだ。

「船も大型船なら強固な怪異避けの結界がある。昔のような危険は少ない」

 昔は船と言えば海の怪異に沈められる事が多かった。
 その為船乗りには独特のルールを持つ呪い師が多く、また一般の船員も陸の人間の何倍も迷信深い事で有名だ。
 大航海時代と言われた頃の物語を読んだり、映画として観たりして来た俺たちのような船に乗らない人間からすると、船というのは危険と隣合わせで旅をする物というイメージがある。
 しかし、さすがに今はそんな事は無いらしい。

「喪が明けたら国に帰るのか?」

 俺の問いに、タネルは首を振った。
 一方のビナールは喪中なのですっぽりと顔をベールで覆い、俺と同じ部屋に来る事はない。
 世の中には色んな宗教があって、それぞれ大事にしている物があるので、うかつに踏み込まないようにしないと大変な事になる。
 正統教会のようにあっちからズカズカ踏み込んで来るようならいくらでも相手を蹴飛ばしも出来るが、こうやって自分達でひっそりと守って生きているのならそっとしておいてやりたいと思ってしまうという、教会に対する反発心から来る逆の心理もあるのだろう。
 とは言え、教会は頑固で高圧的だが、あれはあれで人類の為に存在する組織なので反発ばかりもしていられないというのが正直な所なのだが。

「僕達に帰る場所などない。国に働く場所は無いし、冒険者として働いて一族に仕送りをしなければならない」
「でもうちの国は未成年の冒険者のサポートなしの活動を認めてないぞ?」
「冒険者カンパニーで無料のペアリング相談を受け付けているというので、それを利用しようかと思っています」

 怪しい。
 冒険者カンパニーって冒険者協会と違って営利目的の会社だろう。
 それなのに無料ってどういう事だ?

「大丈夫なのか?」

 タネルは俺の懸念を理解しているようでにっこりと笑って頷いた。

「カンパニーとしてはまず登録して貰って、それから有料サービスを利用してもらいたいので、その支払う資金を作らせる為に冒険者がより効率的に稼げるようにするサポートを行っているのです。別に一方的なサービスや慈善事業ではありません」
「ああ、なるほどね、まずは投資って事か。それなら確かに分からないでもない」

 しかしあれだな、この兄妹はしっかりしているな。
 俺よりずっとしっかりしているかもしれん。

「皆さんには本当に感謝しています。命の恩人です。ですので、ハンターの人達がよく使っているミサンガの誓いを立てる事にしました。もちろんこれだけで済ますつもりもありません」
「いやいや、そんな深刻になる必要はないから。災害時に被害者を救助するのは当たり前の事で見返りとか求めないだろ?」
「そういう問題ではありません。貸し借りははっきりとしておかないと、自らの首をしめる事になりますから」
「おう、なかなかたくましいな」

 この分ならこいつらはもう大丈夫だろう。
 未成年とは言っても19歳と17歳である。
 あまり構い過ぎるのも問題か。

 二人に別れを告げると、俺も半日の検査の後に帰宅となった。
 今回のモニタリングの結果については、軍の技術関係者は終始笑顔であったとだけ伝え聞いたが、まぁ結果が良かったんだろうな。
 俺としてはより安全に戦える技術が進歩してくれるのなら文句はない。

 さて、

 軍の受付に再び顔を出し、知り合いを呼び出してもらう。
 幸い、待機中という事で無事再会を果たすことが出来た。

「よう、久しぶりだな」
「お久し、ぶりです」

 さすがに軍の制服ではなく私服で現れた彼女は、予想以上に普通の女性だった。
 制服を脱ぐと兵士であるという事が信じられなくすらある。
 うちの御池さんはちょっと賑やかな女性だが、おしゃれ好きでいつも身奇麗にしている。
 今の彼女は、黙っている時の御池さんに雰囲気が似ているかもしれない。
 山田明子さん、前に会った時のままきりっとした顔立ちだが、今日はどことなく元気がないようだった。

 軍施設内にあるカフェに入る。
 軍施設としてはそれほど大きな物ではないというこの駐屯地だが、ちょとした街といった感じだ。

「元気、じゃなさそうだな」
「ちょっと、落ち込んでいます。その、私達の事で来てくださったんですか?」
「あー、いや、正直に言うと好奇心かな」

 俺の言葉に、彼女は少しだけ笑った。

「なるほど野次馬的な?うふふ、正直でよろしい」

 褒められたのか呆れられたのか、とりあえず笑ってもらえたので良しという事で。

「ずばり聞くんだが、大木とはもう駄目なのか?」
「ずばり聞きすぎです。デリカシーが感じられません」
「お、おう、スミマセン」

 さすがに怒られた。

「駄目とか駄目でないとか、そういう事が言える段階ですらないという所でしょうか。今回の件は一方的に私が悪いのだと思うのです。ですが、どうしても、怖いんです」
「それは、大木が、その、人間じゃないって感じるって事?」
「もっと悪いです。彼が化物に食われようとしていると感じるのです」
「ああ、そっか」

 あの症状の通称、メタモルフォーゼ、その意味そのままにイモムシが蝶に変わるような、完全な変態を人々はイメージしていたのだとしたら、それはもう人ではないという事なのかもしれない。
 人間は普通変身しないのだ。
 それに、明子さんは迷宮で変身して化物になって襲って来る人間を見てしまっている。

「でもさ、大木は大木だよね」
「そうですね、あの人は馬鹿なまま、私を軽蔑する事も、怒鳴る事すらしませんでした。学生の時、私が異能力者だと分かって、隔離された時も、何をどうやったのか、面会に来て、軍人ってカッコイイよなとか言って来たんです。異能力者が軍関係の仕事か、政府管理の仕事しか出来ないという事を調べて知ったんでしょう。信じられます?彼、本当はサッカー選手になるのが夢だったんですよ」
「確かに、大木ってスポーツ系って感じがするな」
「そうなんです。でもその夢をあっさりと捨てちゃって」
「そっか、ちょっと、羨ましいかな」

 俺がそう言うと、明子さんはむっとした顔をしてみせる。

「駄目です。最低です。女の為に自分の夢を捨てる男なんて魅力ゼロです。男として駄目駄目です」
「お、おう」

 彼女の言い分も分かる気がする。
 俺自身が夢の為に色々捨てた人間だからちょっと後ろめたいし、大木を尊敬すらしてしまうが、それは想われる側の女性としてはどうだろう?という話だ。
 もちろん自分だけを見てくれる事を喜ぶ女性だっているだろう。
 でも、それを負担に思う女性だっているはずだ。

「まあその、だからと言って俺がどうこうする訳じゃないし、ちょっと気になっただけなんだけどね」
「木村リーダーも最低ですね、勇者のくせに」
「全くもってその通りです」

 ずばりと言われて頭を下げるしかない。

「お詫びにデートとかどうですか?」
「は?」
「私と付き合ってみませんか?」
「え、いや、無理」

 気が付くとぽろりと断っていた。
 明子さんはそこまで速攻で断られるとは思っていなかったのか、きょとんとした顔をすると脱力する。

「そうですよね、私、最低女ですし」
「いやいや、そうじゃなくてね、俺、好きな人がいるから」
「え?マジですか!」

 お、いきなり復活した。しかも目が異様に輝いている。怖い。

「どんな女性なんですか?綺麗な方ですか?幼なじみ?同じハンターの人ですか?一緒に戦える人ですか?」

 ガンガン来る。
 やばい、怖い。

「ノ、ノーコメントで」
「えー、そんな事言うとデートしてもらいますよ」
「なんでだよ、絶対駄目だから」

 明子さんはむーっと膨れたが、ふっと、微笑んだ。

「凄く大事な人なんですね」
「とても」

 そう応えると、今度はまた膨れる。

「あーあ、あのバカに会いたくなってしまいました。男の人って酷いですよね」
「なんか、ほんとにごめんなさい」

 結局、なんだかんだ言って、この二人、お互いを意識しているんだなと思う。
 上手く行ってくれると良いな、お互いに好きなのに上手くいかないっていうのは悲しい事だと思うから。



[34743] 163:宵闇の唄 その二
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2015/09/17 11:13
 クタクタになって家に戻ってみるとテーブルの上にメモが置いてあった。

『ご飯作っておいたので食べてください。出迎えに行けなくてごめんなさい』

 おおおお、なんか一気に元気が出て来た気がするぞ。
 キッチンに行くとカウンターに何か布の塊がある。

「む?」

 触ってみると中は堅い。
 開くようなので開けてみると中から両手鍋が出て来た。
 おお、鍋に服を着せるとか可愛いな、さすがは女の子と言った所だろうか。
 布の柄も花柄でこの殺風景な部屋で浮きまくっている。
 いや、蝶々さん達にはぴったりか?
 鍋がまだほんわりと温かいんだが、これってきっと出勤前に来て作ってくれたんだよな。
 もう昼過ぎなんだけど、まだ温かいって凄くないか?

 結局俺は特区の駐屯地で仮眠しただけで、まともに寝ていないままなのでとりあえず眠ってしまいたいという欲求は抗えない程に強い。
 しかし、よく考えたら朝方明子さんとコーヒー飲んだぐらいで十五時間ぐらい何も口にしていないような気がする。
 せっかくだから食べよう。
 温めなおすの面倒臭いし、まだあたたかいようだからこのまま食えば良いよな。

 蓋を開けると中はシチューだった。
 鍋のままスプーンを突っ込んで掬い上げると、大きめの野菜が崩れかけた感じで出て来る。
 口に含むとまるで噛む力を必要とせずに口の中で溶け崩れた。

「美味い、優しい味だな」

 それはレストランやおしゃれな店で食べるような高級な味じゃないが、なんとなく懐かしい味だった。
 昔人参が苦手だった由美子の為におふくろが工夫したシチューがこんな感じだったように思える。
 気付けば鍋いっぱいだったシチューを完食していた。

「全部食って良かったのかな?」

 ちょっとだけ悩んだが、食った事実が変わる訳でもないのですぐに考えるのをやめてリビングに転がる。
 ひたすら眠かったのだ。


 どこからか歌が聴こえる。
 ああ、これは癒やしの唄だな。
 村にも使い手がいるが、なんでも音と言葉の組み合わせは生物の状態を変化させるのに最適なのだと言っていた。
 特に声は生来の才能が物を言うのだそうだ。
 高くもなく低くもなく、ちょうど小川のせせらぎのようにいつの間にか耳に入って来る、そんな声が一番適しているのだと言っていた。
 そしてもう1つ、この言葉と音の組み合わせは古来から神に使える巫女達の力の源だった。
 自らをトランス状態にして神を下ろすのに最適な状態を作り出す事でお互いに余計な負担が掛からないようにするのだ。
 また、巫女はこの音と言葉を攻撃にも使えると言う話だった。
 とは言え、それだけの力を持った巫女は既に現在はほとんど存在しない。
 最も強力な巫女を作る為に三歳の子供を暗所に閉じ込めるような真似は現在では許されないからだ。
 ただ、巫女の才能を持った者が音と言葉を介する事によって他人に様々な働きかけが出来るのは確からしい。

「ん?」

 夢の中で聴いていたと思っていた歌が、目が覚めてもまだ聴こえていた。
 床にそのまま転がっていたはずの俺の上に毛布が掛かっていて、頭の下にクッションがある。

「お?」
「あ、起きました?お疲れ様でした」

 キッチンから声がして、どこか嬉しそうな顔が覗いた。

「あれ、来てたのか。起こしてくれれば良かったのに」
「疲れている時は体の欲求に従った方が良いんですよ」

 クスクスと笑う。
 なんだか安心する声だ。
 日常に帰って来たんだと実感する。

「ありがとう」
「えっ、お礼なんて、私、その、お迎えに行けなくて、寂しくて」

 なんだろう、こんな可愛い存在が世の中にいて良いのかな?俺の手の届く所にいていいんだろうか?
 あれだな、これは、あのほら豚に真珠とか、猫に小判とかあのたぐいの話だ。

「シチューごちそうさまでした。美味しかった。それと、あれ、鍋に被さってたの可愛かった」
「あ、あれ、鍋帽子って言うんですよ。朝じっくり料理している時間がなかったので、鍋帽子に後半は任せておいたんです。ちゃんと出来てたのなら良かったです」
「なに?魔法の道具かなにか?」
「いえ、そんな高級品じゃありません。普通の布で出来ているんです。私が作ったんでちょっと見た目は不格好ですけど」
「自作かぁ、布、すごく可愛いのだったね」
「えへへ、実はあれ、私が子供の頃の半纏をキルティングにして作ったんですよ」
「なん、だと、優香が子供の時の半纏だと、あれを着た小さい優香、可愛すぎる」

 想像して俺が感動していると、伊藤さんは真っ赤になってお玉を振り回した。

「子供の頃の私なんか知らないでしょ!もう」
「甘いな、伊藤母から解説付きで見せてもらったぞ」
「お、お母さん!何やってるの!?」
「おむつが取れてない頃の写真もあってだな、あれはあれで……」
「やっやめて!やめないとユミちゃんにお兄さんが変態だったって言い付けますよ!」
「なっ……伊藤さんが俺を脅す……だ、と」

 俺がクッションを胸に抱いたままよろめくと、伊藤さんが頬を膨らませた。可愛い。

「お部屋では苗字呼びは禁止だって言ったじゃないですか」
「あ、うん、ごめんな、優香」
「え、あ、はい、隆志さん」

 二人して赤くなる。
 何やってるんだろう、俺。

「あ、そう言えばさっき歌ってた?」
「あっ!」

 俺の言葉に、伊藤さんが飛び上がった。
 リアルに跳ねた。ぴょんと。

「き、聴いていたんですか?」
「いや、聴いていたというより聴こえてたというべきかな」
「す、すみません!お聞き苦しい事をっ!ついあの、嬉しくて、ご、ごめんなさい!」

 お、おう、可哀相なぐらい動揺しているぞ。
 
「いやいや、なんか癒やされた。あれって回復の術?」
「ち、違いますよ!普通の、ええっと、普通より下手かもしれませんが、普通の歌です!単なる童謡です」
「へぇ、凄いな」

 俺も起き抜けでちょっとぼんやりしてたけど、普通の歌って感じじゃなかったけどな。
 やっぱり巫女の素養のせいなのか。
 しかしなんでこんなにあわくっているんだろう?

「父さんと母さんからくれぐれも他人に聴かせるなと言われていたのに私ったら。あ、でも他人じゃないから良いのかな?」
「いやいや、え?……いやいや」

 何か気になる単語が混ざり込んでいたぞ。
 こ、これは追求すべきだろうか?
 追求したらその先に最高のひとときがあるような気がしないでもない。

 ―…ピンポーン

 そんなちょっと大人な世界になりかけた俺たちを牽制するかのように、入り口からの呼び出しが来たのだった。



[34743] 164:宵闇の唄 その三
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2015/09/24 11:46
『いよーす!迷宮から戻ったって聞いて優しいおっしょさんが慰労に来てやったぞ』

 最悪だ。
 幸せな空間におじゃま虫が飛び込んで来た。

「いらん、カエレ」
『まったまた、彼女紹介してよ、か・の・じょ』
「なにっ!」

 ばっと勢いよく振り返った俺は、伊藤さんにびっくりされながらもそのままベランダに視線を転じた。
 いた。
 ベランダの柵にカラスが夜の闇に溶け込むように存在しているのが見て取れる。
 くっ、今まで気付かなかったとは、さすがは隠形においては他者の追随を許さない馬鹿師匠だ。

「わかってんならカエレ!邪魔なんだよ!」

 開き直って怒鳴る。
 デバガメには厳しく対処すべきであろう。
 何時の世もピーピングトムは嫌われるのだ。

『可愛い弟子の未来の奥さんに挨拶したいと思うのは自然な事だよね、も~タカシくんは冷たいんダ・カ・ラ』
「気色悪い声を出すな!ぜってえ開けないからな」
「あの」

 絶対の拒絶の意思を馬鹿師匠に叩き付けていた俺に、伊藤さんが声を掛けて来た。
 あ、騒がしかったかな。

「ああ、ごめん。ちょっとヤバイ宗教の布教に来ている奴がいてね」
『だれがヤバイ宗教だ!俺は神など頼らないぞ!言うなれば俺が神だ!』

 うん、そうだなヤバイ宗教じゃなくってヤバイ人間だった。

「あの、お客様なら私、もう帰りますから大丈夫ですよ。あ、お客様の分もありますから、一緒に夕飯食べてくださいね」
「いやいやいやいや、優香が帰る必要ないから、こいつマジで家に入れちゃいけない奴だから」
「でも、親しい方なんでしょう?」
「親しき仲にも礼儀ありって言うだろ?その礼儀が無い奴なんだからマジで!」
『聞こえちゃってるYO~、もしかしてわざと?わざと?』

 うぜえ!あの野郎空気読めよ!

「本当に私もう帰りますから大丈夫ですよ。あ、明日は会社に出勤するんですよね。休んでいた間の進行データ共有BOXに入れてあるので安心してください」
「えっ、でも」
「平日は早く帰らないとうちもちょっとうるさいんで、ご飯作ったら帰るつもりだったんです。大丈夫ですから」

 伊藤さんはにっこり笑ってぺこりと頭を下げると上着を着て荷物を持ってしまった。
 ああもう、気を使わせてしまったじゃないか、くそっ。

『おーい』
「クソが」
『そんな言葉使いどこで覚えたのさ?まーまー照れるのはわかるけど、いいじゃん彼女ちゃんに有る事無い事吹き込んだりしないからさぁ』

 ヤル、こいつはやる気だ。

「すまん、今度埋め合わせするよ」
「良いんです。私、今でも十分贅沢すぎると分かってるんです。隆志さんを全部独占しようとか我儘過ぎるし、出来るはずもないんですから」
「いや、俺そんな想って貰える程価値ないからな?買いかぶりだから」

 俺が慌ててそう言うと、伊藤さんはちょっとイタズラっぽい笑いを浮かべて俺を見た。

「私が好きになった人を悪く言うのは許しませんよ」
「うっ」

 かあっと、耳が熱くなったのを感じる。
 うおっ、ちょ、今おそらく俺の顔真っ赤だよな。
 ヤバイだろ、くそ、外にカラスがいやがるし、なんにも出来ねえ!

「すみませんでした」
「はい。分かって貰えれば良いんです。また明日」
「うん、また明日」

 ああ、帰っちゃった。
 なんかいい雰囲気だったのに、あのバカ師匠のせいで。

「仕方ない、入ってくれば?」
『青春だねぇ』
「そんな年じゃねえよ、馬鹿か、そんな甘いとか酸っぱいとかいうんじゃねえんだよ、真剣なんだよ、俺は!」
『ちょっと感動だな、あの突進しか知らなかったイノシシ馬鹿に彼女が出来るなんて、世界って素晴らしいな』
「はよ来い!」

 このマンションは入り口と出口が別になっていて不審者が住人の出入りにまぎれて入り込めないようになっている。
 だから伊藤さんと馬鹿師匠が途中で遭遇する事は無いはずだ。
 なんかちょっかいかけられたら困るしな。

 ロック解除してイヤイヤ師匠アニキを招き入れると、俺は悄然と、さっきまで伊藤さんがいたキッチンに向かった。
 カウンターテーブルには出来上がったハンバーグが付け合せの野菜と一緒に皿に盛られていた。
 ちゃんと二人分、馬鹿が来なければ一緒に夕食を食べて帰るつもりだったんだろう。
 ほんと、悪いことしたな。
 がっくりと肩を落として馬鹿を待つ。
 ほどなくして玄関のチャイムが鳴って来客を知らせた。
 イラッとして玄関前でずっと立たせておこうかとも思ったが、隣の由美子や浩二に迷惑を掛けても仕方がないので素直にドアを開けてやる。

「滅びろ」
「いやいや、タカシくん、悪い言葉は口にしちゃ駄目だってあれだけ教えたじゃないか。言葉には良くも悪くも力が乗るからってね」
「アンタが言えるこっちゃないだろうが」
「え~、俺はいつだって本気で言葉を使っているぜ!死ねって言う時には本気でコロス気で言ってるし!」
「よけいわりぃよ、まったく」

 相変わらず訳の分からないファッションセンスのじゃらじゃら音を伴ってずうずうしくも押し入ってきたバカは、いきなりハンバーグに気付いて相好を崩した。

「おお、俺の大好物じゃん!さっすがタカシくん、わかってるね!」
「ちげーし、アンタの為に用意したんじゃねえし、これマジだからな、照れ隠しとかツンデレとかじゃないからな!」

 俺は今にも皿に食いつかんばかりのバカから皿を遠ざけた。
 こいつに食わせるのはどうしても業腹だ。俺が二人分食うってのは有りじゃないかな?

「彼女さん帰っちゃったのか、残念」
「いきなりアンタに会わせる程俺も人生捨ててないからな!」

 俺はハンバーグにラップをするとカウンターの内側に片付けた。
 茶だけ出そう、そうしよう。
 コーヒー出すのももったいないし、こないだ田舎から送って来たほうじ茶で良いだろ。
 茶菓子は賞味期限ギリギリのおかきがどっかにあったよな。

「ここのテレビジョンは大きくて良いなぁ」

 勝手にテレビジョンをオンにして番組を検索しているバカを横目に茶の用意をした俺は、トレーに乗っけたそれをちゃぶ台に並べた。

「あれ?ハンバーグは?」
「あれは俺の晩飯だ。やらん」
「ほう、彼女の手料理は他の男には食わせられないとな?ふんふん、独占欲も出て来たようで良い傾向ですな」
「クソが」
「だめだってば、そんな言葉使い、格好わるいだろ?やっぱヒーローはヒーローらしくしてないとね」
「てめーが言うな!無邪気にハンターに憧れていた幼い頃の俺を返せ!」
「そっか、俺がタカシくんの憧れのヒーローだった訳だね、うんうん、なんか照れるな」
「ちげーし、逆だし」

 駄目だ、この男に付き合っていると俺の程度も際限なく落ちて行く。
 人として駄目になってしまう。
 引っ張られちゃ駄目だ!

「で、何しに来た?」
「だ・か・ら・帰還祝いだって言っただろ?ほんと、深い意味は無いんだぜ?お前のおっしょさんを信じろよ」
「今まで一度たりとも信じられるような振る舞いをした記憶があれば信じる事も出来ただろうな」
「えー、冷たいなぁ」

 言いながら馬鹿はずずずとほうじ茶を飲む。
 ほうと息を吐いてごろりと横になった。

「おい」
「ニュース見てみ」

 言われて、俺はテレビジョンを見た。
 我が家ではあまり使われていないその画面は馴染みのない騒々しさで音楽を流してアナウンサーの語りを盛り上げている。

『最近、中央都では突然路上で人が昏倒するという現象が話題になっています。発生は一日に2、3件程度ですが、都民には不安が広がっていて、何かの病気ではないか?との流言も飛び交っていますが、現在保険庁で調査が進められている所です。むやみにパニックになったり、デマを広めたりしないように落ち着いた対処をお願いします。昏倒した人を見かけたらただちに救命ダイヤルに連絡を入れるようにしてください。感染はしない事はわかっていますので、慌てずに倒れた人の様子を確認してください。咄嗟の救命措置が人の命を救う場合もあります。くれぐれも慌てずに対応をお願いします』

 俺はその内容にぎょっとした。
 また何かとんでもない事が始まっている。
 そんな確かな予感があった。



[34743] 165:宵闇の唄 その四
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2015/10/01 12:15
「魂憑き、あるいは魂喰らいか」
「いや、それは有り得ないだろ!あれは古戦場や刑場、血生臭い事件があった場所とかに出るような奴じゃないか。中央都に出る訳がない」

 馬鹿アニキ、偶に師匠の推論に俺は真っ向から反対した。
 都内は常に『洗浄』され、一定以上の濁りは存在しない『清潔』な都市だ。
 そんな業の深いモノが出るはずがない。

 魂憑きは命に未練があり、生きた人間に憑依する怪異だ。
 これに憑かれると、突然人が変わったようになり、乱暴になったり事件を起こしたりする場合が多い。
 魂喰らいはもっと凶悪で、命を否定する存在だ。
 神の対極に在るモノと言って良いだろう。

「昏倒した人間には脊髄汚染の痕跡があった」
「おい」

 脊髄は魂魄の通路とされていて、憑依系の痕跡はここに必ず残る。
 一度取り憑かれた者はこのせいでその後も取り憑かれやすくなるのだ。

「でも、それはおかしいだろ。それならどこかに相当濃度の汚染の場が見つかるはずだ。完全管理されている都内で有り得ない」
「ったく、お前はその頭のかてえところ全然かわっちゃいねえんだな。ハンターが常識人でどうするよ」
「はっ、それは俺には褒め言葉だ!」
「実際事件が起こっているんだから有り得るんだよ。ばあか」
「あんたに馬鹿呼ばわりされる覚えはないぞ」

 つい馬鹿師匠のペースに巻き込まれていたが、俺は重要な事を思い付いた。

「それに、そんな重大な事件ならハンター協会から連絡が来てないとおかしいだろ。どういう事だよ」
「今来てるだろ」
「は?」
「今、俺はこの地域の責任者なんだぜ」
「へ?」

 なんだと!どこの馬鹿がこいつにそんな重要な役割を与えたんだ。
 国が危ないぞ!

「いやいやいや、あのさ、普通ハンターの連絡って暗号通信だよな」
「直接会って連絡した方が機密性の保持に優れてるだろ?」
「ハンター通信のプロテクトが破られた事なんぞないぞ、あんたがそのナリでうろうろする事のどこに機密性があるんだよ!」

 俺の元師匠であり、村でアニキと呼んでいた元ガキ大将、同じ苗字だが家族でも親戚でもない木村和夫はにっこり笑った。

「いいじゃん、俺が楽しいから」
「アホか!」

 いかん、ハンター協会本部に異議申し立てをしておこう。
 いくら冒険者とのやりとりに経験豊富だからってこいつを選ぶのは有り得ないだろう。

「まぁ、そんな訳で今いっそがしくってなぁ。心の癒やしを求めている訳だよ、俺は」

 チラチラとキッチンを見る。
 絶対にやらん。

「そんなに忙しいならすぐカエレ!連絡はもう終わったんだろうが」
「タカくん冷たいなぁ、昔タカくんがうっかり村の結界石を壊しちゃった時に一緒に謝ってあげたの俺じゃないか」
「タカくんとか言うな、きしょいわ、そもそもあれはあんたが持ち上げてみせてくれとか言ったせいだろうが!」
「まさか封印を破らずに本体そのものを砕いてしまうとはな、盲点だったわ」
「俺がわざと結界を破ったような言い方はやめろ、ア・ン・タが、持ち上げろって言ったんだ」

 キレかけて、俺はハッと我に返った。
 いかん、こいつのペースに嵌っている。

「ともかく、もう話は終わったんだろ、ハイハイ、アリガトウゴザイマシタ、サヨウナラ」
「そんな冷たくしなくても良いじゃないか。良い臭いがするし、具体的に言うとハンバーグかな?どうだ、当たりだろ!」

 こいつ。

「俺は迷宮帰りで疲れてるんでもう帰って貰えますか?その事件の詳細は文章通信でお願いしますね」

 業を煮やした俺は、師匠の上着を掴んで持ち上げた。
 雑嚢袋を担ぐ要領で背中に担ぐと玄関に向けて引き摺る。

「おっおっお?相変わらず凄い力だね、って、おいタカシくん?おーい、いやいや、師匠に無体な事をするような弟子に育てた覚えはないぞ、ホラホラ、話せば分かるって老眼の人も言ってるし」

 意味不明な事を喚く馬鹿を玄関まで引き摺っていくと、扉を開けて放り出す。

「おととい来い」
「いやいや、タカシ、人間は過去には戻れないんだよ。タイムスリップは未来への一方通行だ。物理学的に言うとだね」
「は?アンタ物理学とかやってたか?」
「いや、映画ムービーの中の学者さんがそう言ってたんだ」
 
 パタン。
 俺は静かに扉を閉めた。
 力任せに閉めると壊してしまうからだ。
 ガチャリと物理的な鍵と、封印錠のダブルロックを施して足早に玄関を後にする。

 それにしても、と、俺は考えた。

「都内で魂喰いとか、本当に有り得るのか?」

 少し考えてみた。
 いわくつきの場を整えて呼び込みをする事は不可能ではない。
 その場所の周囲を結界で覆い、その中に場を作れば出来なくは無いだろう。
 しかし、そこには不審極まりない霊的空白地帯が出来上がる。
 逆に目立つ事この上ないだろう。
 しかもニュースでは被害者のいた場所は広く散らばっていて、同じ場所で起きてはいないと言っていた。
 この方法ではそんな風に事件を起こす事は出来ない。

「あ」

 ふいに思い付いて、冷水を浴びせられたような気分になった。
 そんな事件が起きているのに彼女をこんな時間に一人で帰らせて大丈夫なのか?と。

 携帯を取り出して履歴から伊藤さんへと電話を掛ける。
 ここしばらくの通話履歴は全て伊藤さんで埋まっているので間違う事もない。

 緩やかに光が点滅して呼び出しをしている事を知らせる。
 早く早く。
 チカッと、接続の印の青い光が点った。

『もしもし、どうしたの?もしかしてハンバーグのソースが足りなかったとか?』

 聞こえてきた暖かな声にホッと息を吐く。

「ああいや大丈夫、ちょっと心配で」
『えっ?』
「ほら、ニュースを観たらなんか昏倒事件が起きてるとか」
『ああ、それね。ありがとう。でも大丈夫よ。その事件夜に起きた事がないみたいだから』
「そうなのか、詳しい事は知らなくて」
『うん、報道され始めたのはつい昨日ぐらいからなの。もう結構前からそういう事は起こってたみたいなんだけど。これまでは数が少なくて場所もバラバラだったから単なる病気の発作とかだと思われてたみたいで』
「そうだったのか」
『それが一昨日、車の事故があって、その事故を起こした運転手の人が健康に問題がないのに急に昏倒したせいで起こった事故で』
「話題になって調べたら他にも出て来たって事か?」
『うん、そう。ネットのサークルであれもこれもと昏倒事件が報告されて、そこから火が付いたというか』
「そっかありがとう。突然電話してごめん」
『ううん、声が聞けたからちょっと得しちゃった』

 変人のせいで荒れた心が穏やかになる。
 彼女が巫女適正のある女性だという事が全く関係無い訳ではないだろうが、彼女の声には人を安心させる響きがあると思う。
 実際に得をしたのは俺の方だと思うのだ。

「……ありがとう、また明日」
『うん。また明日』

 名残惜しいが通話は切れだ。
 ともあれ、彼女が無事で良かった。
 そしてまた謎が増えたぞ。

「夜には起きない?」

 普通怪異絡みの事件は夜に起きる事が多い。
 気の淀みは昏いものだ。
 それは影や闇に紛れる方が楽なのである。

「あ、そうだハンバーグ」

 キッチンから二皿のハンバーグをちゃぶ台に移動する。
 せっかくだから二つ共俺が食おう。
 疲れてるから今日はいつもより空腹だ。

「一緒に食べたかったな……」

 まったく、誰かさんのおかげで幸せな時間が台無しだ。

 俺はベランダのガラスがくちばしでカンカンと良い音でつつかれているのを聞きながら、ちょっと冷えたハンバーグを口にしたのだった。



[34743] 166:宵闇の唄 その五
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2015/10/08 10:54
「おひさー」

 気だるい様子で挨拶を交わすと自分のデスクに座る。
 ええっと、休日挟んで3日?4日か?一身上の都合で欠勤した後の出社は結構緊張する。てか考えて見たら、実質2日休んだだけなんだな。
 考えながらデスクを見るとなんか色々置いてある。
 付箋だらけの書類とか、指示書の付いた何かの模型、なんだこれ?

「ちょ、佐藤さん、これ、そっちの試作構造の解説指示じゃないですか、なんで俺のとこに来てるんだ?」

 模型の方は犯人は明らかだった。
 所々に入っている印の付け方の癖で丸分かりだ。

「いやいや、ゆっくり休養したんだろ?頼むよ」
「いや、頼むよとか言われても、俺にあんたの作った模型の解説出来る訳ないっしょ」
「ほら、俺ってさ、天才だからぁ?他人に分かるように解説するとか苦手なんだよね。その点、木村ちゃんは相手に理解しやすいように説明するのが得意じゃないか、な、頼むよ」

 何言っちゃってるのこの人。
 さすが佐藤は佐藤だぜ。

「ほら、これってさ、この台座部分が計量装置になっていてね、物を置くと起動するんだよ。まぁそれだけの構造なんだけどね」
「説明しろって言ってませんから、てか計量装置ってこの凹凸はなんですか?」
「滑り止めであると共に、どんな形状の容器でも正確に計量する為にだな」
「あ、やっぱ説明良いから、俺休んだ分の仕事を確認するんで、これはご自分でどうぞ」
「久々なのに木村ちゃんが冷たいぞ!なぜだ!この装置はだな、応用次第では更なる進化をもたらす画期的な!」
「木村さんおはようございます」

 そこへ女性陣とお茶の準備をしていたらしい伊藤さんが顔を出した。
 うむ、今日も可愛いな。

「おはよう。あ、この進行表伊藤さんだよね?ありがとう」
「いえ、その程度当たり前です」

 デスクの上にあった付箋の付いたレポート用紙は伊藤さんの手作りの進行表だった。
 休んだ間の仕事の進行を纏めてくれていたのである。
 付箋の吐いている所は俺の仕事に関係する場所だ。
 さらに彼女は会社の電算機パソコンの共用BOXの中に作業ファイルを俺宛で保存していて、両方を付き合わせればこの2日に起こった仕事上の出来事がほぼ把握出来るようになっていた。
 ありがたや、おもわず拝んでしまいそうだ。

「ふむふむ、おお、伊藤ちゃんは相変わらず纏め上手だな。俺のアイディアファイルもちゃんと分かりやすく整理してくれたし」
「そうですね、我が開発課に伊藤嬢ありと言っても過言ではないでしょう」

 課長まで悪ノリなのか便乗して伊藤さんを褒めている。
 俺と佐藤までなら平気だった伊藤さんもさすがに上司に褒められて照れているようだ。
 真っ赤になってあの、その、とか言っちゃってるのが良いね。

 配ってもらったお茶を口にする。
 うん、美味い。
 こういう時はやっぱりコーヒーとかじゃなくてお茶だよな。

 とりあえず社内はいつものようで、例の意識喪失事件の影響を受けてはいないようだ。
 実際、この大都会で1日一人意識を刈り取られるとしても、死人も出ていない事件など本当なら誰も気付きもしないような事件だろう。
 単なる交通事故から事件性を探り当てた連中が凄いのだ。


 その日の帰りは、昨日うやむやになったお祝いをちゃんとやろうという事で、あの多国籍食堂に寄る事になった。
 相変わらずのひっそりとした佇まいの食堂だったが、その日はちょっと雰囲気が違っていた。
 店の表にごついバイクが固まって停まっているので何事かと思えば、冒険者のチームが団体さんで来店していたのだ。
 そういえば元々ここは元冒険者のやっている店って事で伊藤さんが探してくれたんだっけ。
 確か冒険者組合のマップ情報に載っているんだったな。

「どうする?場所を変える?」

 冒険者イコールトラブルという認識が出来上がっている俺は、せっかくの時間を冒険者達とのゴタゴタに費やすのもどうかと思い、伊藤さんに聞いた。
 だが、伊藤さんはきょとんとした風に俺を見て「どうしてですか?」と問い返す。
 普通の若い女性なら自分が訪れた店に見た目からしておかしい集団がいたら避けると思うのだが、彼女にとって、その光景はおかしいものではなかったようだった。

「ああ、いや、いいか、そうだよな」

 俺はなんとなく自分の心の狭さにバツの悪い思いをしながら店に入る。
 カウンター周りと正面の一角を占拠している冒険者達は、こちらの気配をさぐる様子はみせたものの、大きく反応する事もなく、俺たちはそのまま少し奥の席に座った。
 今日は例の音大の娘さんが来ているらしく、ピアノの音色が優しく響いている。
 マスターが少し悪い片足で独特のリズムを刻みながら、それでも動きはなめらかにお冷を運んで来た。

「何にしましょう?」
「とりあえずお祝いなので特別なお酒が欲しな。でも平日だから軽めの物、何か良いのありますか?」

 伊藤さんの問いに、店主はしばし考えて、

「ニアガルのアイスワインの良いのが入っていますよ」

 示されて、壁に貼ってあるメニューの中にあるアイスワインという文字を辿る。
 グラスで1200円、720mlのボトルで6000円と、なかなかの値段だった。

「じゃあボトルでお願いします」

 伊藤さんのきっぷの良さに感動した。
 しかし、さすがにこれは高すぎるだろ。
 店主さんを見送って、俺は伊藤さんに提案した。

「今日は俺も出すよ」
「だめです。隆志さんはゲストなのですからおとなしく接待されてください」

 俺も彼女との付き合いはある程度経て来た。
 だから分かる。
 今の彼女には譲る気がない。

「わかった。このお返しは必ず」
「何言ってるんです。隆志さんがちゃんと元気で帰って来た事が私へのご褒美なんですから、お返しなんて野暮ですよ」

 なんとういう事だ、なんかいきなり酒も飲んでないのに涙が出そうになったぞ、危ない。
 俺の鋼の精神を一瞬で陥落させるとは、なんという恐るべき女性だろう。

 ふと、風が流れた。
 扉が開いてまた誰か入って来たようだ。
 何気なく入り口を見ると、店の照明に鮮やかな赤毛が一瞬炎のように揺らめいて見えた。
 その新しい客に冒険者達が片手を上げて挨拶をしている。
 どうやらお仲間のようだ。
 しかし、ちらりと見えた口元に見覚えがあった俺は思わず声を出していた。

「ピーター?」

 相手も俺の声に気付いてこちらを見る。

「オー!キムラリーダー?」

 元気に手を振って、すぐに不思議そうな顔を見せる。
 そりゃあ不思議だろう。俺だってまさかこの広い街でよりにもよって『外』でこの男に再開するとは思わなかった。
 てか対外的はこの男、ピーターはどういう扱いになるのだろうか。
 新大陸連合の特使という事になるのかな?

 そこにいたのはかつて迷宮を共に走破した青年、水礫を操ってみせたピーター・ローリングストーンに間違いはなかった。



[34743] 167:宵闇の唄 その六
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2015/10/15 10:34
 ピーターの言う事には久々に会った幼なじみとちょいと騒ごうという事になったらしい。
 それで一般人に迷惑を掛けたらまずいから元冒険者の店を選んだとか。
 いや、でも、この店バーとか居酒屋とかじゃないんだぞ、多国籍『食堂』なんだが、分かってるのか?

「あーデモ、木村リーダーのデートの邪魔しちゃ悪イから場所を移そうカ?」

 ピーター、お前その怪しげな翻訳術式気に入ってるのか?それとも他に無いのか、未だに会話が怪しいぞ。

「デ、デート……あ、あの、初めまして、伊藤優香と言います。隆志さんの会社の同僚です」

 伊藤さんがなにやら照れながら自己紹介をして来た。
 俺もあえて流したが、伊藤さんもデートの部分に言及するのはやめたらしい。

「オー、初めまして、木村リーダーのチームメンバーのピーターとイイます」

 ピーターの自己紹介はツッコミ待ち状態のようなので遠慮無くツッコんだ。

「誰がチームメンバーだ!」
「エー!リーダーが冷たい!」

 無事通過儀礼を終えた俺たちを放置して自己紹介は進んでいた。

「俺達はチームダークマターだ。よろしくな」

 冒険者組はチーム名だけか、まぁ当然か、冒険者というのはあまり素性を話したがらないものらしいからな。

「あ」

 伊藤さんが声を上げる。
 ん?どうした。

「その装備、ディスマウンティング社のノーマルナンバーですよね。懐かしいな」
「お、分かるのか?でもな、これは一見ノーマルだが、ほれ!」

 と、いきなりマッチョな男が上着を脱いだ。
 おい、セクハラで訴えるぞ、てめえ。

「あ、内側がカスタム仕様なんですね。確かに便利ですけど、全体的な強度は下がっていませんか?これ」
「ぐっ」
「ジョンの奴がやられたようだな」
「なに、あいつは俺たちの中では最弱の男、女、俺を見ろ!」

 マジでセクハラで今ここで俺が処分してやろうか。
 イラッとした俺はピーターを睨む。

「オウ!リーダー、ナンデ俺を威嚇するんダ?オ、俺は本国にリーダーのデーター詳細を送ってなんかいないゾ?」

 だらだらと汗を流しながらピーターが弁明する。
 単なる憂さ晴らしだったが、どうやらマジでやましい事があったらしい。
 まぁでもお国から派遣されて来ている以上はそういう事はうちの政府も織り込み済みなんだろうからいいんだけどな。

「て言うかそれ武器じゃねえか!街中に出る時は防具はともかく武器は持ち出し禁止だろ!」

 伊藤さんの目前で男が取り出したのはずっしりと重そうな銃型装備だ。
 筋肉に包まれたその男の腕と同じぐらいの大きさのそれは、基本的に公共の場で攻撃武器所持が違法となる我が国では許されるはずもない凶悪さで周囲を睥睨していた。
 男はジャキッ!と銃身を引いた。
 おい!ちょ、まさか!

「おい!」
「便利だろうが!」

 銃口から炎が、というか銃口の先に小さな火が灯る。
 男はそれでタバコに火を点けた。

「そ、それはウォーパーティー社の100周年記念のライター!」

 そのゴツい作りでライターかよ!不便なだけじゃねえか!
 てか、伊藤さん詳しいですね。

「ふふ、知っているのか女、気に入ったぜ、さすがピーター兄貴の兄貴分の嫁さんなだけはある」

 おおー!という歓声が上がる。
 ナニこのアウェイ感。

「そうだな、ここはあねさんと呼ばしてもらおう」
「あねさん!」
「あねさん!」
「姐御!」
「そ、そんなお嫁さんだなんて、まだ私達……」

 伊藤さん、照れてる場合じゃないぞ!
 なんか変な認定受けてるぞ!

「ピーター、なんなのアイツラ」
「だかラ俺の幼馴染みの冒険者グループだってイったろ?」
「ノリの良い奴らだな」
「気は優しくて力持ちだからネ」

 うん、しかし、背後で綺麗なピアノ曲が流れている中、暑苦しい男達が変なノリで盛り上がってるってのはシュールすぎるんじゃないですかね。
 ちらりとマスターを見るか、全く動じた様子はない。
 まぁこの人も元冒険者だからな。

 なんとなくそのまま合流しての飲み食いになだれ込んでしまった。
 どうしてこうなった。
 テーブルにはポテトやバーガー、それとバーベキュー料理が所狭しと並んでいる。
 マスターの厚意でテーブルを組み合わせてサイドの一角にスペースを作り、仕切りを配置してちょっとした小部屋のようにして貰った。
 分かります、隔離ですね。

「いや、マジでピーターの兄貴にはみんな世話になってるんですぜ、俺ら元々貧民窟の生まれなんで学が無くてよ、文字とか読めねえから契約とかで騙されまくりで」
「兄貴が基金を設置して冒険者用の研修センターを造って運営してるんでさ」
「おかげで俺たちも文字を書いたり読んだり出来るようになったんですよ」
「そりゃあ凄いな」
「兄貴は俺たちのヒーローなんですよ」
「ヨシ、お前ら、もっと俺を褒めロ!」
「ピーター、お前にはがっかりだぜ。あ、伊藤さん、こいつら煩いようならやっぱり席を移ろうか?」
「いえ、大丈夫です、こういう雰囲気には慣れているんで、なんだか懐かしいぐらいです」

 言いながら、伊藤さんは甲斐甲斐しく串に刺さった野菜と肉を確保して俺の皿に乗せてくれる。

「焼き具合が丁度良くて美味しいですよ、この玉ねぎとか凄く良い感じに焼けてます」
「あ、俺の分とか良いから自分のを確保した方が良いぞ、こいつらさっきから飲むように食ってるぞ」
「私はちゃんと食べてますよ。言ったでしょう、慣れているんです」

 それならと、伊藤さんおすすめの野菜の串を食べてみる。
 バーベキューとかやったことがないから知らないが、この馬鹿でかい武器になりそうな串はすげえな。

「うん、甘い、焼いただけの野菜なのに美味いな」
「そうでしょう。そうやって口の中がさっぱりした後にこっちの固めのお肉を食べて、その後こっちの柔らかめのお肉を食べてみてください」
「へえ、バーベキューなんか初めてだけど、美味いな」
「それじゃあ、今度公園でバーベキューやりませんか?やっぱりバーベキューは外で焼きながら食べるのが一番美味しいと思うんです」
「なるほど、そういうのも良いな」

 普段あまり食った事の無い固い肉も、噛んでいると味わいが深くて良い感じだ。
 その後に柔らかい肉を口にすると、その柔らかさとジューシーさに感動を覚える。
 同じ肉でも全然違うんだな。

「くっ、彼女いないまま寂しい青春を過ごした俺にはちょっと厳しい光景だぜ」
「センターの卒業式に思い切ってアンジーにパートナーを申し込んできっぱり断られた俺には眩しいな」
「はっ、モテないお前らと違って、俺はモテモテだからな!」
「お前、何人の女に金を持ち逃げされたよ」

 どよどよとした空気が漂って来る。
 こいつら。

「ん~?でも冒険者ってモテるんじゃないか?金払いは良いし逞しいからモテモテなイメージがあるけどな」
「リーダー何気に抉ってきますネ」

 ピーターがちょっと引いたように言う。
 そりゃあお前、デートを邪魔されたんだからな。

「まぁその、遊び相手はそりゃあいますけどね。女の子達はいつ死ぬか分からない冒険者なんかに本気にならないんですよ」
「やっぱり女性は現実主義ですからね、スリルより堅実な生活を選ぶんです」
「その辺は仕方ないでしょうね。なんと言っても子育ての問題もあるし」

 伊藤さんがなかなか鋭いツッコミを入れる。
 この場唯一の女性だが、全然臆する事が無いどころか、ガンガン攻め込んでいて、さすがは冒険者の娘の貫禄だ。

「それだよな。だから冒険者の多くは結婚と共に引退するんですよ」
「まぁ中には家族単位で冒険者チームをやっている連中もいるけどな」

 ああ、タネル達みたいな感じか。

「早めに金を稼ぐのが一番だよな」
「でっけー仕事を成功させたいよな」
「ん~、それで迷宮に来たのか」
「そうなんですよ、しかしありゃあ凄いっすね。きちんと管理されている迷宮は初めてですよ。俺らも出来立ての浅い迷宮には潜った事があるんですがね、もっと、こう、混沌としてるもんですよ、迷宮って、あれですよ、悪夢。あんな感じなんです、普通の迷宮は」
「そう、だよな」

 そう、この迷宮は何から何まで異常だ。
 そして終天は恐らく何か目的があってこれを造ったはずだ。
 神様気取りで、と言うか、ある意味ではまぁ神様なのかもしれないが、そんなのの気まぐれで大勢の人間の平和な暮らしが脅かされるのは間違っている。

「まぁ有り難いのは有り難いんですがね。自分の実力を見極めてさえいれば、ある程度安全マージンを取ってそれなりに稼げる。刺激のある戦いと、それから得られる糧、獲物を探して世界中をウロウロしている普通の冒険者からすればここは天国みたいなもんですよ」
「天国、ね」

 神の創りし、仮初の天国か、これは下手をすると終天の信者が増えるかもしれない。
 連中、邪神の使徒共は怪異本体よりもずっと厄介な場合が多く、各国政府も昔から対応に苦慮している。

(精霊を神と崇める者達とどう違う?)

 そんな事を考えたからだろうか、昔聞いた言葉がふと遠くから響く残響のように思い出されたのだった。



[34743] 168:宵闇の唄 その七
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2015/10/22 14:06
 それにしてもあれだな、ピーターは迷宮の時とかなり雰囲気が違うな。
 まぁあの装備が特徴的過ぎたんだが。

 ピーターは迷宮の時のような装備はしていないが、目立たないようにはしてあるが首元に何かのチューブ状の接続器具があり、両手は手袋に覆われていて飲み食いする時も外さない。
 彼の腕が硬い物にぶつかると金属が何かにぶつかる音が響いた。
 こいつの体ってどうなっているのだろう?
 アンプルを使って異能を上昇させているのだろうという事ぐらいは分かるが、それ以上は俺の知識では推測すら出来ない。
 新大陸連合国は勇者血統の生まれない呪われた地であると歴史の授業で習ったが、未だにそんな事が本当に起きるものなのか俺にはちょっと信じられない気持ちもあった。
 確かに人間がある程度手を加えはするが、勇者と呼ばれる遺伝性のある異能者は世界各地で生まれている。
 学者に言わせれば人類が同時期に同じ方向性の危機感を持てば持つほど勇者は産まれて来やすくなるのだと言う事だ。
 現代は各国に紐付けされた勇者が存在するので新たな勇者の血統は生まれにくいとも言っていたな。

 つまり新大陸連合国の受けた呪いは、大陸に住む人類のみの危機感や意識の総意を狙って霧散させる程強力で指向性に優れているという事になる。
 オカルト学の奇人変人な先生は呪いというのは公開される事によって強固になるとも言っていた。
 新大陸連合国が呪いの中にあると、世界中の教科書に載っているような現状では呪いの効果が高まりこそすれ減ることはないという認識で良いのだろうか?
 でもそう分かっていれば学ばせないようにすれば良いだけなんじゃないか?
 相変わらずオカルト学は良くわからない学問だ。

「なあピーター、新大陸では異能者は生まれるんだよな?」
「はイ、実は私も異能者スペシャルね」
「へー」

 水を操る力だっけ?と、俺は思い出す。
 以前迷宮に一緒に潜った時に披露した力だ。
 無数の小さな水滴が真球の珠となって宙を飛び交うその様は、恐ろしいというよりも綺麗だった。
 とは言え、極端に圧縮されたその水の珠は同じ質量の鉄の玉より重いのだとか。
 高速で飛び交うそれらに打ち抜かれたら穴だらけになる以外ないだろう。
 考えれば凶悪な能力だ。

「私の異能は本来大した事ない力。単に液体を固定化スるだけネ」

 そう言うと、ピーターはおもむろにグラスを傾ける。
 こぼれたと思った酒は空中に浮かび、ふるふると震えている。

「美味そうだな」

 そのままパクリと口にしたらどんな感じになるのだろう?と好奇心が働いたが、これはいわばピーターの武器だ。
 いくらでも換えは効くが、コントロールはピーターにあるのだ。
 そんな物を口にするのはピーターに命を握られるのと変わらない。
 
「綺麗ですね」

 そんな俺の葛藤を他所に、ピーターの本来の力を見て、伊藤さんが乗り出すようにその宙に浮かぶ琥珀色の酒を見る。
 それを受けてか、酒は花弁の多い小さな花となり、くるりくるりと回りながらとゆっくりとその花弁をほころばせた。
 やがてその花は花びらを散らすと、その散った花びらが集まって今度は小さな鳥となり、伊藤さんの肩に止まる。
 そこから更に翼を広げてすいと飛び、元のコップに収まり酒に戻った。

「すごい!」

 伊藤さんが拍手をする。
 
「お~」

 俺も思わず拍手をした。
 気付くと全員で拍手をしていた。
 指笛まで飛び出す。

 と、カウンターから咳払いが聞こえた。
 さすがに騒ぎ過ぎたらしい。

 全員が居住まいを正し、おとなしく再び飲み食いを始めた。
 こそこそとピーターは俺にささやく。

「なかなか楽しいダろ?うちの弟の保証付きダ。私の能力なんテ本来こんな戦いに向いてない物なんダ」
「別に戦えればすごいって訳じゃないだろ。俺はここまで繊細に能力を使いこなす異能者を初めて見たぞ」
「すごいです。私も初めてです」
「そ、そう、ダロ?」

 俺と伊藤さんの心からの賞賛に、さすがのピーターも少し照れたようだった。

「弟モそう言ってくれてネ、兄さんはオレのヒーローだって、でも」

 ピーターの声がふっと沈む。

「でも、やっぱりヒーローはつよくなきゃイけなかったんだよ。結局たった一人ノ弟も助けられなかったんだかラな」

 なるほど、ピーターはストイックなまでにヒーローたらんとしていると思っていたが、弟さんを助けられなかった後悔からだったんだな。
 これほど繊細な自分の力に対するコントロール能力は、決して元々の物ではないだろう。
 能力者の多くは自分の能力を持て余しているし、使いこなしている者のほとんども大雑把なものだ。
 ピーターの先ほどの一連の操作はまさしく神懸っていた。
 この繊細なコントロールと装備による強化、アンプルによる限界を越えたパワーが相まって、迷宮でのあのピーターの戦いがあったという事か。

 そこまで考えて、ピーターがじっと俺を見ている事に気付く。

「ん?」
「我が国にハ本物はいない、みんな私のようナまがいものダ。でも、だからと言って本物に遅れを取るつもりはない」

 俺はうなずいた。
 ピーターの力は本物だし、決して他所の勇者血統ほんものに劣るものではない。
 と言うか、要するにその能力を引き継げないだけの話だろ。
 そこで、ふと気付いた。
 新大陸連合の呪いの正体に思い至ったのである。

「そうか唯一無二か、英雄の呪いなんだ」

 それは同じ英雄は生まれないというある種の思い込みを利用した呪いの一種だ。
 その昔、英雄自身が創り出したと言われる呪いで、物語の最後をこう結ぶだけで良い、『このような素晴らしい英雄はもはや生まれる事はないだろう』と。
 まぁ本当はもっと複雑なものなんだが、きっかけはこの程度のもので十分だ。
 人々の感動に浸った意識は迷わずこれに同意する。
 自分自身を神格化する為に行ったと言われる呪法だが、それに近いなんらかの呪いがあの大陸に施されていると考えて良いだろう。
 だからこそ新大陸では勇者は生まれてもそれが受け継がれる事はない。
 この手の公開形式の呪いというものはやっかいで、知る人が増える程呪いは強力になる。
 呪いを沈静化するには密かに関係資料を全て消し去るしかない。
 新大陸の呪いは世界中に知られた時点でもはや手遅れとなったのだろう。

「ピーターさんはまがいものとかじゃないと思います。本物のヒーローですよ。ピーターさんと弟さんが二人で成し遂げた偉業です」

 ふいに、感動した風の伊藤さんがピーターにそう言った。
 その声は確信に満ちていて、それ以外に正しい言葉などないと思わせるような力強さが感じられた。
 しかし、なんで今のを見ただけでヒーローと判断したんだろう?
 明らかに戦い向きの能力には見えないよな。
 ああ、そうか冒険者への援助の話か。

「俺と、弟ノ?」
「そうですよ、だって弟さんがいたからこそ、ピーターさんは自分を磨いたのでしょう。それは二人の力です」
「二人の力」

 ピーターは驚きと同時に喜びを顔に浮かべていた。
 まるで長年の憂いが無くなったというような顔だな。
 実際そうなのかもしれない。
 ピーターはきっと自分でもそう信じて戦ってきたんだろう。
 だけど、それをきっと誰かに認めて欲しかったんだ。
 今は亡き弟の力も自分の中にあるのだと。

「そう、確かに間違いない。これは俺と弟の二人で手に入れた力です。……ありがとうございます、あねさん」
「えっ、あねさんって?」
「デートのおじゃまをしてしマってスミマセンでした。さっさと邪魔者は退散シますね。おい、おまえラ、そろそろ場所を代えるゾ!」
「イエーイ!」
「ヤー!」
「オッケーアニキ!」

 そして賑やかな連中はぞろぞろと自分達の分の会計を済ませると波が引くように去っていった。
 撤収早い!さすがは冒険者と言うべきか。
 てか、食事は纏めて頼んでたから全部あいつらが支払っていったっぽい。
 ほんと見掛けと違って気のいい奴らだったな。



[34743] 169:宵闇の唄 その八
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2015/10/29 11:42
 まるでパーティの残り物を片付けるような食事だったが、その滅多に出来ない経験は逆に新鮮で面白かった。

「冒険者の人達ってああいうタイプの人が一番多いんですよ」

 伊藤さんはクスクス笑いながら残骸のような皿から料理を取り分け、まるでコース料理の一皿のような盛り皿を二皿分こしらえると、その他の残骸を手早く片付けてテーブルを綺麗にしてしまった。
 早い!と言うか、手際が良い、俺はその流れるような手際に感心しているだけで手伝いもしなかった事に片付けが終わってから気付いてちょっと頭を抱える。
 気を使えない男って女性にはがっかりされるんだろうなと不安になってしまう。

「あ、ありがとう」
「どういたしまして。じゃあ改めまして、お疲れ様でした」
「あ、ああ、その、ありがとう」

 ありがとうを繰り返して言ってしまい、赤面する。
 俺って、ホントこういうの駄目だよな。
 伊藤さんが追加でシャンパンを頼んで、向い合せでお互い離れていた間の時間を埋めるようにそれぞれが体験した出来事を語る。
 雑音が無くなり、静かに流れるピアノの音があまりにも先ほどまでの喧騒と違いすぎてくすぐったい感じがしたが、伊藤さんの語る職場での日常には心が和まされた。
 一方で俺は迷宮での出来事の中で、差し障りのない部分を選んで話す。
 とてもじゃないが話せない事が多い。
 守秘義務とかそういう事抜きでも。

「あの試作品、案外と好評だったけど、ちょっと人数に対して小さいもんだから全員分作るのに時間が掛かるのが面倒だったな」
「そこは試作品だから。でも大きいのを持って行くのも冒険者にとってはちょっと場所を取られて辛いかもしれないね」
「あーそうだな、一人が持てる荷物の量なんて限られてるし、乗り物を持ち込める階層ならそう問題は無いんだろうけど」
「折りたたみとかは無理か、な」
「う~ん、そういうアイディアはやっぱ佐藤だな、頼りたくないけど」
「ふふっ」

 俺のぼやきに伊藤さんが笑う。
 思わず問うような目線を投げた俺に彼女は笑って答えた。

「隆志さんは佐藤さんと仲良いから、見てて面白いな、って」
「えっ、それは誤解だ。俺は奴が苦手だからな」
「だって、他の人は佐藤さんの言ってる事があんまり分からないからって適当に受け答えしてるのに、隆志さんっていつも本気で話を聞いて喧嘩してるから、佐藤さんは隆志さんを頼りにしてるんだと思う。隆志さんがいない間、すごくつまらなそうにお仕事してたし」
「やめてくれ、いや、マジで」

 俺の言葉に楽しそうに笑う伊藤さんを見て、可愛いなと思ってしまうが、同時に佐藤に関してはやはり誤解だと思う。
 あの変人が俺を頼りにするとか有り得ない。

 そんなほっとするひとときを過ごして俺は伊藤さんを家まで送った。
 今までのように駅までではなく、一緒にシャトル便に乗って壁外の住宅地の彼女の家まで行く事にしたのだ。
 壁の守りの無い壁外に夜遅くに彼女を一人帰すには最近の情勢が不安すぎた。

「毎日帰っているんだから大丈夫なのに」
「いや、ホント、俺の心の平安の為だから気にしないでくれ」
「ふふっ、本当は嬉しいから、ちょっと得をしたとか思ってる」

 えへへと笑った伊藤さんが可愛い。
 そんな顔をされると実は俺の方が得をしている気がするぞ。
 壁外の住宅地はまだ結構人通りがあった。
 怪異避けの街灯も家々の間を線を引くように通っていて、ちゃんと整備されているようで切れ目は無い。
 実際、危険は無いのだろう。
 もう20時を過ぎたと言うのに小学生が連れ立って歩いていた。
 しかも夜なのに大きな声で歌を歌っている。
 お前ら怒られるぞ。

「隆志さんは、歌、好き?」

 それを見ていた伊藤さんが唐突に俺に聞いた。

「ん?ん~、大きな声で歌うのは嫌いじゃないが、どうも勢いで歌ってるらしくてメロディとか音程とか節回しとか色々弟や妹には不評だ」
「そうなんだ~」

 伊藤さんはやけに嬉しそうに俺の音痴告白を受けると、ニコニコ笑いながら言葉を続けた。

「実は私もちっちゃい頃は歌が好きで、事ある毎に歌ってたんだ。でも、お父さんが聴くに堪えないから人前では歌うなって」
「うっ、それは酷いだろ、俺だってそこまでは言われなかったぞ」
「うん、きっと凄く酷かったんだと思う」

 伊藤さんははぁと息を吐くと、顔を上げてにこりと笑った。

「でもこないだ久しぶりに歌ってね、ちょっと楽しかったなって思って。好きな事を好きなように振る舞うのに他人に迷惑になるのって辛いよね」
「それだったら今度二人でカラオケにでも行くか?お互い音痴ならお互い様って事で迷惑なのも相殺だろ」
「迷惑の相殺って……」

 伊藤さんはまた笑い出し、今度はなかなか笑いが収まらない風でしゃがみ込んでまで笑っている。
 ちょ、伊藤さん、周りの目が痛いです。

「それ、凄く良いな、迷惑の相殺。私、前も言ったけど、隆志さんに迷惑掛ける気満々ですからね。私の迷惑の方がちょっと上回っても気にしませんよ」
「あ、あ、そういえばそういう話をしたな」

 ふふふと笑う伊藤さんがヤバイ程可愛い。
 小悪魔ってこういう感じなのか?
 そうやって話しながら歩いていると時間などあっという間に過ぎる。
 いつの間にか俺達は彼女の家まですぐの場所にある公園に差し掛かった。
 その公園には以前見たような想念の影のような存在は感じられない。
 というか、とても綺麗になっていた。
 俺はそこに違和感を覚えてふと振り向いて確認する。
 誰かが浄化した?しかし、そこに邪霊や想念の澱があった訳ではないのに?
 子供が集う場所に全くなにもないというのは却っておかしな話だ。
 陽気には陰気が集うのが世の常識である。

「隆志さん?」

 伊藤さんが不思議そうに俺を見た。
 俺は慌てて彼女に向き直る。
 悪いモノが在るならともかく、何も無い事を気にするのはちょっと神経過敏なのかもしれない。

「あ、いや、二人だけのカラオケ大会ってのも楽しそうだな」
「私、カラオケって行った事がなくって」
「ああ、うん、いや、実は俺も、カラオケのあるスナックなら他人が歌うのは見たことあるけどな」
「初めて同士で行くならあれですね、思いっきり失敗しましょうね」
「なんでそうなる?」
「初めては失敗してなんぼですよ。むしろ失敗しないとちゃんと覚えないのです」
「むむ、説得力があるような無いような」

 そうこう言ってる内に伊藤さんの家に到着する。
 なぜか出迎えに出てきた伊藤父がちろりと俺を見ながらにぃっと笑って見せた。

「殊勝な心掛けと言いたい所だが、むしろお前が危ないという気がしないでもないから礼を言いにくいな」
「いや、礼とかいらないですから。俺の心の平安の為に送らせてもらっただけで、いわば俺の我儘です」
「ふん」

 俺の言葉に面白くなさそうに伊藤父は玄関を潜る。
 伊藤さんはそんな父親を困ったような顔で見送って、俺に向き直った。

「お父さん、隆志さんと遊びたいんだと思うの。でも、気にしなくて良いからね」
「え?そうなの?」
「うちのお父さん、嫌いな人とは絶対会わないから。わざわざ出て来たのは隆志さんに構って欲しいからよ。ほんと、ああいう所は子供っぽいんだから」

 生きて引退した熟練の冒険者だった男も娘に掛かれば子供っぽい中年にされてしまうらしい。
 思わず苦笑した。
 ぺこりと頭を下げて玄関に向かう伊藤さんを見送っていると、ふいに振り向いた彼女が駆け戻って来る。

「お?なんか忘れ物?」

 彼女は無言で俺に抱き付くと、彼女なりの精一杯の力で抱き締めて来た。

「え?う?あ?」

 俺はと言えば、自分の手をどうして良いのか迷っている内に刹那の抱擁は終わっていたという有様だ。
 情けない。

「じゃあ、また明日」

 伊藤さんは何事も無かったように玄関に駆け戻ると、そう言って手を振って見せた。
 
「ああ、うん、明日」

 うん、女性って分からないな。
 でも、柔らかくてあったかいその抱擁は、とても大きな力を俺にくれたような気がする。
 それにしても、なんで抱き返さなかったかな、俺……。



[34743] 170:宵闇の唄 その九
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2015/11/05 10:40
 街の片隅で学校をサボってたむろっている少年たちが賑やかに盛り上がっていた。
 場所はオーナーが夜逃げした廃ビルの中だ。
 所有者が定かで無くなった時点で差し押さえが発生しているのだが、競売の末にとある会社が資産運用の方針の一貫として購入し、そのまま放置しているのだ。
 いずれは何かに利用するのかもしれないが、現在は宙ぶらりんのまま入口を封鎖するだけの処置をするに留まっていた。
 しかしコンクリでも流し込んでいれば別だが、板で覆っただけでは浮浪者や彼らのような者達の進入を阻む事は出来ない。
 少年達はそれぞれ楽しげにナイフ投げの腕前を競ったり、持ち込んだ酒を消費したりしていた。
 そこへふと新たな気配が現れる。
 最初誰もがその存在に気付かずにいたのだが、カツリと硬い足音がコンクリ打ちっぱなしの床に響き、まるで全員が呼ばれたかのように一斉に振り向く。

「なんだてめえ!」

 血の気の多い少年の一人がさっそく肩をいからせて突っかかっていく。
 まず最初にアドバンテージを取ろうとするのは彼らの習性のようなものだ。
 彼らの世界は弱肉強食、弱気を見せた者から潰されて行く。
 社会と壁に守られた世界でぬくぬくと生きながらも、その中で野生を気取るのは若さゆえの特権だろう。
 だが、
 その相手の胸ぐらを掴むはずの腕は逆に返され、後ろ手にねじ上げられてたちまち組み伏せられる。

「色々と試した結果、効率が良いのは君たちぐらいの年齢の若者と分かったんでね。まぁ元気が余っているんだ。少々分けて貰っても構わないだろ?」

 そう言って、男が少年から手を放した途端、少年はまるで魂の抜けた人形のようにその場に転がった。
 単に腕をねじ上げられていただけなのに、それは理不尽な光景だ。
 暴力に慣れている少年達は、慣れているからこそその理不尽さを理解した。

「こいつやべえ!」

 敏い者はいち早く『敵』の危険性に気が付いた。
 しかし、この廃ビルは窓は全て塞がれていて、出口は侵入者が立っている一箇所だけ。
 少年達にはその相手を倒す以外の選択肢はなかったのだ。





 会社ビルの外で緊急搬送のサイレンが鳴り響く。
 このビルの防音設備はきちんとした物だが、これらの緊急用の音は基本的に素通りするようになっている。
 なんらかの災害情報が発せられた時に気付きやすいようにだ。
 というか、ビルの仕様というより緊急車両の方の仕様だな、これは。

「う~ん」

 俺は頭の片隅でそんな事を考えながらも今現在の仕事に頭は集中していた。
 ここ数年食中毒が増えているとかでキッチンで使う効果的な殺菌グッズについての企画書の提出を求められていたのだ。
 しかしさすがに専門外の知識が必要で難航していた。
 そもそも殺菌と言っても食中毒の原因菌って種類が色々あって、対処方法がそれぞれ違うんだよな。
 一括に処理したりするのは無理じゃね?これ。
 そもそもは調理者のしっかりした手洗いと消毒、キッチングッズの熱湯消毒とか、昔からの基本的なやり方が一番効果的な気がする。

「消費者は安心感を求めているだけですから、ある程度は気休めで良いんじゃないですか?」

 新人君、と言ってももうそろそろ一年目も終りもう新人とも言えない中谷がそんな軽口を叩く。

「うわ、それ最低です。中谷くん最低!」

 その意見に目くじらを立てて攻め立て始めたのは御池さんだ。

「そういういい加減なメーカーはリコール商品を出して経営圧迫で倒産するんですよ!」
「おいおい、生々しい例えはやめてくれ」

 まくし立てた御池さんの言葉にダメージを受けているのはうちの課長である。

「しかし課長、確かに今更新たにこの部門で参入は厳しいんではないですかね、キッチンの消毒殺菌グッズ系は大概出揃った感がありますよ」

 佐藤が珍しく否定意見を述べる。

「しかもこのオーダー」

 佐藤は手に持った書類をぴしりと指で弾いた。

「安価で消費者誰でも手軽に扱える家電とか、ちょっと無茶振りしすぎじゃないです?」
「いいか、佐藤。うちの課は社内では無茶振り出来る場所と考えられているんだ」

 答える課長は真剣だ。

「それは隣の話では?」
「実を言うと、社内ではうちと隣があんまり区別されていないんだな、これが」
「マジっすか」

 商品開発課と商品開発室、隣同士だし似たような名前だが、実はその性質はまるっきり違う。
 開発室は研究部門で主に特許関係などの新しいアイディア、斬新な発明などを行う部門だ。
 うちの開発課は新商品の基本設計や企画などを担当している。
 混ぜるな危険なのだ。

「う~む」

 そんなやり取りを聞きながら、俺はネットで情報を集めつつアイディアを纏めて行く。

「お茶をどうぞ」

 すっと邪魔にならない空間に俺用のカップが置かれる。

「あ、ありがとう」

 顔を上げると伊藤さんがにこにこと笑って俺を見ていた。
 仕事用の服はいかにもOLらしいブラウスとカーディガンとスカートで、その清潔で大人っぽい姿は馴染み深いせいか、自分の彼女というより同僚という意識が先に来る為、あまり照れずに済んで有り難い。
 気持ちの良い緑茶の香りが疲れた精神を潤してくれる。

「医療関係のページですか?」
「ああ、うん。やっぱり餅は餅屋と言うか、そもそも俺が食中毒に詳しくないしな」
「こういう細菌とかの画像を見ると不思議な感じがしますね」
「うん?」
「実際は目に見えない存在なのに、こんな風に確かに存在するんだなぁと思うと凄く不思議じゃないですか?」
「う~ん、俺はほら、目に見えないモノには慣れているから、そういうもんだと最初から考えてしまうからなぁ」
「ああ、そっか」
「でもそういう違う感覚っていうか、違う角度からの意見は助かるな。俺だとうっかり見過ごすような事も違う見方なら見えて来る事もあるだろうし」
「そうですか?お邪魔をしているような気がして来ていた所なんですが」
「いやいや、まさか、邪魔な事なんてないさ」

 ふと、何かぞわりとする気配を感じて視線を電算機パソコンから上げる。
 正直見なければ良かった。
 そこには同僚達がそろってニヤニヤしているという嫌な光景があったのだ。

「何だ今更照れるな」

 佐藤が胸の前で腕を組んで斜めに首をかしげると改めてにやりと笑って見せた。
 うぜえ。

「『まさか、邪魔な事なんてないさ』」
「真顔でしたね」
「あの伊藤さんが近付くだけでキョドってた男が、感慨深いものがあるな」
「人って成長するんですね」

 佐藤と御池さんが掛け合い漫才のようにやり取りをする。
 ダブルうぜえ。

「お前ら、真面目に仕事しろよ!本当に」
「そうですよ、木村さんは真面目にお仕事をしているのに酷いです」

 俺の反撃に合わせるように伊藤さんが真剣に抗議する。
 しかし同僚共はニヤニヤを更に深くして恐れいった風もなくうんうん頷いていた。

「なんかこう感動しますね」
「私も、真剣に婚活しようかしら」

 女性陣がしみじみと語っている。
 本当にもう好きにしてくれ。
 その時、手元の電算機パソコンにニュース通知が表示された。
 これは最新の話題を収集するシステムで、特定のワードに関連した記事を自動で収集してお知らせしてくれる物だ。
 今は医療・病気関連のニュースに網を張っている。
 俺は何気なくその記事を開いてみた。

「む?」

 そこにあったのは集団昏倒事件の最新ニュースだった。



[34743] 171:宵闇の唄 その十
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2015/11/12 11:34
 端末を操作してデータを表示させる。
 先日会社でニュースを見て、うっかり昏睡事件の事を口にしてしまったが為に、伊藤さんに俺がその事件を気にしていると気付かれてしまい、強制的にお手伝いをされてしまった。
 いや、もちろん無茶な事はしないしさせないんだが、なんと事件の全データを纏めて、現場を地図上に一括表示出来るようにしてくれたのだ。
 しかも話した次の日の事である。
 仕事早いよ、伊藤さん。
 その地図を見て、結局俺はハンター支部に、つまりうちの駄目師匠に連絡をする事にした。
 元々持っていた疑いが、その地図を見て確信に変わったからだ。
 事件現場を全部辿ると特殊な形になるとか、全部繋げて円形にすると中心部が割り出せてそこが犯人の住居だとかそういう分かりやすい話ではないのだが、そもそも俺はこの事件は迷宮か冒険者に関係していると薄々感じていたのだ。
 そしてこの地図を見て確信した。
 なぜなら事件現場は必ず、特区から2km以上離れた場所で発生していたからだ。

「もちろん2キロ以上って言ったって、10キロの所もあれば5キロの所もある。共通しているのは離れているって事だけだ、だからこれは最初から結論ありきで情報を見た結果でしかないんだが、俺の考えすぎと思うか?」
「いや、俺もね、おっかしいな~とは考えてたんだよねえ、ほら、あの事件って、なんていうか猟奇的?オカルト的?だろ?」

 パチンと指を弾きながら言うバカ師匠ことカズ兄を嫌々視界に入れながら俺は顔を竦めた。

「猟奇的じゃねえだろ、今のとこ血は流れちゃいねえんだから、単に、昏睡した者が誰も目覚めないだけで」
「血が流れなければ平和っていう考えは甘いんじゃないかなぁ~、昏睡って言うと軽く聞こえるけどさ、犠牲者は段々衰弱しているんだよねぇ~、怖い怖い」
「それだけど、どんな具合なんだ?」
「最初の犠牲者はもう半ばミイラだねぇ、生きているのが不思議なぐらい?栄養を入れるそばから抜かれている感じかな?」
「くっ」

 思ったより酷い話だった。
 もっと早く行動していればと悔やまれる。
 その俺の前で馬鹿師匠が鼻を鳴らした。

「なんだお前、まーた自分の責任のように思っちゃってる訳?あれか?ガキみたいなヒーロー願望を拗らせてるまま?ぷっ、おっこさまだなぁお前」
「ちげえし!」

 ゲラゲラ笑うバカを睨みつけながら窓の外を見る。
 特区外の近代的な町並みとは違い、ここいらは未来的な建造物とバラック建てのような建造物、木造と石造の古代様式のような建物など、カオスな町並みになっている。
 土地と建物のオーナーの変動が激しすぎる為、政府も管理がままならない有様なのだ。
 しかしまるで話に聞くスラム街のようなこの街こそが冒険者達にとっては夢の一攫千金の黄金郷なのだろう。

「しかしまぁ、お前の話は分かったよ。俺もどうせ出処はこの特区だろうとは思っていたけどな。なるほど、特区の『人間』が自分のやった事と思われないように出来るだけ特区から離れた場所で事件を起こしているという考え方はシンプルで分かりやすいな。お前の見立てではこれは怪異のやらかしではなく、人間の計画的な仕業って事か」
「ああ、怪異はそういうアリバイ作りとか考えないからな。だが事件を起こしているのが人間なら、それも冒険者なら、確実に記録が残っているはずだ」
「事件の起きた日の特区の出入りの記録なら特区庁に申請して既に貰っているぞ」
「そういう所はさすがと言うべきだろうな」
「おっ、タカくんに褒められたぞ、クロウ」
「カァ」

 肩のカラスが返事する。
 今までいなかったのにわざわざこれだけの為に出現させたのだ。
 うぜえ。

「しかしな、全部の日に共通して外出している奴は案外と多いんだな、これが。冒険者達は結構外が好きでな、素行の悪い奴らは出られないが、まともな連中は割りと外出してる」
「とりあえずデータくれよ、勝手に探るなというんならやめても良いが」
「へっ!」

 カズ兄は思わずといった感じに肩を竦めてみせる。

「嘘を言え、お前、こっちがやめろと言ったって気になっている事をそのままに出来るような奴じゃねえだろ?ぜってー首を突っ込んでくるにちがいねえんだよ。バーカ、お前みたいな馬鹿を放置すると思ったか?甘いわ!コウくんとユミちゃんには連絡済みだかんね」
「て、てめえ、何勝手な事してんだよ!」

 アホか、ハンターとしての正式な仕事でもないのに、何うちのチームに勝手に話を回してるんだよ。
 立場を利用して横暴だろうが。

「ちっ、ちっ、ちっ、残念、ハンター協会からの正式な依頼です」

 むっとなった俺を宥めるようにカズ兄はニィっと笑って指を振る。
 と、同時に扉をノックする音が響いた。

「失礼します」

 ノックとほぼ同時に扉を開けて入って来たのは浩二と由美子だった。
 浩二のいつも無表情な口元に珍しく笑みがあるが、目が怖い。

「うちのチームリーダーが先行してしまい揃うのが遅れてしまって申し訳ありませんでした」

 弟よ、ちょっと怒っているのか?いや、怒られるような事でもないだろ?俺はまだ何もしてないぞ?
 対して由美子は何かニコニコとしている。

「カズ兄、久しぶり」
「ユミちゃんはいい子だなぁ。そうだ、来客用のスイーツ食べるかい?」
「やった」

 おのれ、こいつうちの妹を餌付けしてるからな。
 昔から由美子にだけはええかっこしいなんだよな、こいつ。

「正式な依頼ってなんだよ。ハンター協会が関わるのは怪異事件のみのはずだろ?冒険者が起こした事件はハンター協会の管轄外のはずだ」

 俺が抗議をすると、バカ師匠はにこやかに振り向いて、浩二の方へ顔を向けた。

「コウくん、君んとこのリーダーに説明してあげてくれるかな?」
「分かりました支部長」

 一礼して、浩二が俺を見る。
 こいつ、俺よりもカズ兄を天敵のように嫌っていたはずなのに、なんでつるんでるんだ?

「兄さん、今回の事件は人間業ではありません。この意味、分かりますね?」
「ん?魔術とか術式とかではないって事か?」
「そうです。魔術や法術といったものはいわば方程式のような物、答えとヒントがあれば逆算して元になる数式を見付け出す事が可能です。しかし、今回の事件はそういう方程式が抜けているのです。なんらかの意思があり、それが結果に繋がっている。これは怪異の技に近い」
「だが、人間の仕業だ」
「既に人間ではないのかもしれませんよ?」

 浩二の言葉に、俺は以前に出会ったグールや更には同じ人間を依代にして怪異を生み出していた冒険者の事を思い出した。
 あの者達の中で最も醜かったのは人間であるはずの冒険者の男だった。あれは本当に人間だったのだろうか?そして人間の境界線はいったいどこにあるのだろう?
 ぞっとした。
 背中が急に嘘寒くなる。

「分かった。それを調べるのが俺達の役割って事か。んで犯人が普通の人間だったら警邏隊に任せるって事で良いんだな」
「まぁ普通という事はあり得ませんから、任せると言っても特務隊辺りになりそうですけどね。かねがねそんな感じの認識でいいかと」
「だけど、カズ兄、俺らは政府と長期契約中なんじゃねえの?まぁ仕事はあんま無いんだけどさ」

 とりあえず話は分かったので気になっている事を確認する。
 普段意識する事はあまり無いが、俺達は迷宮担当のハンターとしてこの日本政府と長期契約を結んでいる事になっていた。
 たまに呼び出されて迷宮潜るぐらいで本当に意味がある契約なのか疑問に感じるが。

「それはだいじょーぶ、政府からしてみればお前たちに迷宮から離れて欲しくないだけの話で迷宮近くでの怪異事件にはむしろ積極的に関わって欲しいってこったから、問題ないってさ」

 カズ兄はいそいそと由美子に給仕しながら俺を振り返りもせずにおざなりに返事をした。
 いらっとしたが、このぐらいはこのバカにおいてはまだまともな行動なので、俺は気にしない事にする。

「……まぁ、そういう事なら、いいけどな」

 正直協会のバックアップがあるのは助かる。
 こういう調べ物は一人で動いてもたかが知れているので、どうしてもある程度支援が必要だ。

「タカ兄、このお菓子、美味しいよ」

 由美子が手招きをしていた。
 お前何食ってんの?それケーキじゃないよね、さっきそこの棚から出して来たはずなのにアイスの乗ったやたら凝ったデザートみたいなんだけど、それ。

「ふふん、美味かろう、それはこのカズ兄特性のバナナクレープとこだわりベリーのストロベリー仕立てだよん」
「いつ作ったんだよ、なんで棚から出て来たのにアイスが溶けてないんだ?」
「ふふ、良い質問だな探偵君。実はこの棚のこちらがわは冷凍室と冷蔵室になっているのだよ。ふふっ気付かなかっただろう?」
「うぜえ」

 何無駄な改造してんだよ、それハンター協会の資金でやってんの?
 俺達の稼ぎの一部がそんな事に使われているかと思うと腹が立つんだが。
 白いプレートの上に盛られた淡い黄色のクレープの上を鮮やかな色合のベリージャムが細かい網目のような模様を描いていた。
 いちごアイスの上には半分に切られたイチゴと白い生クリームが飾り付けられ、周囲には宝石箱の中身を散りばめたような野苺のような物とブルーベリーなどが配置され、悔しいが、確かにそれは見事なものだった。
 もっとも、端っこの方とアイスの一部はもう由美子に食われたらしく崩れてしまっていたが。

「兄さん、あーん?」
「あーん」

 細長い先割れスプーンに綺麗な赤いベリーを刺して、由美子がそれにアイスとクリームを付けてこっちに差し出して来るので、つい、子供時代の癖で口を開けてしまう。
 食べさせて貰ったそれは、ベリーの酸味と甘さがふわりと広がり、その後を追うように生クリームとイチゴアイスの味がして、甘すぎない優しい味わいになっていた。
 これは確かに美味いかもしれない。

「うんうん、仲良き事は良きかな良きかな」
「あんたなぁ」

 ニコニコしているバカ師匠に若干引き気味になりながら、俺は由美子に礼を言うと、応接ソファーに片手を付いて身を起こし、楽しげなその顔を睨む。
 後ろでは何かを達観したような浩二のため息が聞こえた。
 お前ね、言いたい事は口にした方が良いよ、マジで。



[34743] 172:宵闇の唄 その十一
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2015/11/19 10:57
 ごちゃごちゃとした建物の入り組んだ路地は、普段計画的に配置された街並みで生活していると酷く違和感がある。
 まるでここだけ外国のようだ。

「なんだ、この配管は」
「違法改造なんじゃないですかね?この上の方の電線も正規の物とは思えませんし」
「火事とか事故がこええな」
「実際火事は多い」

 建物の壁から地面に伸びた太い配管をまたぎながらの会話に由美子がぼそりと告げる。
 おい、マジか?ヤバイな特区。

 ビルとビルの隙間の空き地に建てたらしいバラック小屋がまるで工事現場の足場のような階段に添って階層を重ねている。
 そのままビル沿いに立体構造になっていて不思議な光景だが、このバラック小屋が元あった通路を潰しているのでこの怪しい階段を登る必要があった。

「もはや異世界の光景だな」
「あっちのビル半分崩壊してる」
「やべーだろ、撤去どうなってんだ?」

 後で聞いた話によると冒険者同士のイザコザで建物が崩壊したり地形が変わったりする事が良くあるらしい。
 なにそれ、怖い。
 つまり建物のオーナーが良く変わるだけでなく、そういう直接的な変化がめまぐるしくて手がつけられないというのも、この特区の構造がどんどん複雑化している一因であるらしかった。
 彼らは壊しもするが、自分たちで造りもする。
 配管や電線、水道さえ、いつの間にか正式でない物が増えているという事だった。

 バラック小屋の中から住人が俺達を胡散臭そうに眺めている。
 明らかに倭人じゃない顔立ちの者が多いので、本当に外国のようだ。
 と言うより、ここは外国だと考えた方が良いのだろう。
 俺達の常識が通じると考えない方が良い。

 住人達は俺達に関わりあうかどうかを決めあぐねているようで、とりあえずは好きに行かせてくれている。
 とは言え、正直ナビがあっても道に迷いそうだったので誰かに道を訪ねたいんだが、言葉通じるのかな?こりゃあ翻訳術式が必要か?

「ユミ、翻訳術式あるか?」
「ハンター証の機能を使えば良い」
「え?ああ、そう言えばそういう機能もあったな」

 ハンター証の翻訳術式はなんて言うか分かれば良いというぐらい乱暴な通訳で、あまり使い勝手が良くない。
 余裕があれば使い勝手の良い翻訳術式を使うので、死に機能と化していた。
 その為咄嗟には思い付かなかったのだ。

「兄さん、ちょくちょくそういう物忘れがありますよね。老化現象ですか?」
「バカ言え、そんな訳あるか!俺はまだ20代だぞ?」
「年齢の事を言い始めるのは気にしている証拠」
「いやいや、いくらなんでもそんな訳あるか」

 うちの弟と妹が酷い。
 いくら20代後半だからってそんな、老化現象とか、そんな。 

「あれですね、血族は認定試験の筆記試験免除という規定が良くないんだと思います。考えるのを止めた時から老化は始まると言いますから。是非協会にルールの改正を要求しましょう」
「同意」
「やめんか!俺の問題でハンター全員に迷惑が及ぶわ!」
「そもそも血族は脳筋でも良いという考え方が古いのです。今は技術が使えないハンターなど、ゴミも同然です」
「ゴミって、お前ね」

 実の弟からゴミクズ扱いを受けるという萎えイベントをこなしながら、通路を進む。
 てか、いつの間にかビルの屋上に来ているんだが、ほんと、ここいらの道はどうなっているんだろう。

「ちょっとここで道を確認するか」
「うん」

 屋上から周囲を眺めつつ手元のナビを確認する。
 が、それも芳しくなかった。
 ビルや独立した家屋以外は屋根と屋根が重なりあって蓋のようになってしまってその下にあるはずの道が見えないのだ。

「う~ん、迷宮のゲートと軍の駐屯地、ハンター支部を目印にして大体位置的には合っている事だけは分かる」
「大雑把ですね」
「やっぱ誰かに聞くか」

 俺はハンター証を引っ張り出して翻訳術式の機能をオンにした。
 使ってみれば簡単だ。
 ビルからは外階段を使って降りるようだった。
 隣のビルに渡る渡り板もあったが、そっちだと下に降りる時に大通り側に行ってしまう。

「もうここ自体が迷宮のようだな」
「ああ、それは分かります。迷宮っぽいですよね、この街」

 外階段を降りると、呆れた事にその踊場が隣の家の屋上とつながって物干し台になっていた。
 そこに女性や子供が何人か集まって洗濯をしたり、集まって話をしたりしている。

「すみませーん」

 俺はあまり大声にならないように、かつ相手に声が届くように注意して声を出した。
 振り向いた女性達や子供達は一瞬びくっとなる。
 この反応には慣れている。
 大体俺の顔を初めてみた相手はこういう反応になるのだ。
 どうせ怖い顔ですよ。
 だがさすが冒険者の身内というべきか、女性も子供も泣き出す事はなく、じっとこちらを注目している。

「この辺に冒険者協会運営の孤児院があると聞いたんですが、分かりますか?」

 俺の言葉に女性達はヒソヒソと囁き合う。
 うーん、凄い疎外感だ。

「知ってるよ」

 と、ひょいと屋上から手すりを飛び越えてこちらの階段に飛び移った少年がそう言って来た。
 年齢は10歳前後だろうか?
 ぎりぎり手が届かない間合いを取って油断なくこちらを伺っている。
 危険な大人との対峙に慣れているのだろう。

「場所を教えてもらえるかな?」

 俺の言葉にその少年は片手を差し出して来た。
 む、これはお駄賃を要求されているのか。
 いくらぐらいが相場なんだ?
 ジャンパーの内側のホルダーから財布を取り出した俺を少年は目を細めて見ている。
 すげえ観察されているぞ。

「これで良いかな?」

 相場が分からない俺は、とりあえず千円札を渡してみた。
 少年の顔がニィっと歪む。
 むむっ。

「いいぜ、案内してやる」

 少年は千円札をポケットに突っ込むと、階段を先に立って歩き出す。
 ちらりと先ほどの屋上を見れば、女性達は既に自分の仕事やおしゃべりに戻っていた。
 しかし、時折こちらを伺っているのは分かる。
 ううむ、結構精神に堪えるな、この状況。

 少年の先導で道を行きながら、その少年が道の目印を説明してくれる。
 最初の印象よりマメな子だったようだ。
 そして、壁の横の細い道から入り込む小さな教会が目的地だと教えられる。

「教会が運営してるのか?でも、冒険者協会の支援で運営されているって聞いたんだが」
「ああ、そこはウィンウィンな関係なんだよ。教会は信者が欲しいから子供の頃から教育したい。冒険者協会は大した運営費は出せない。そこで設備は冒険者協会が、人材は教会が派遣してるんだな」

 教会の活動は基本的にボランティアだと聞いた事がある。
 神の奇跡はより与えた者に降りるという定義があるからだ。

「なるほど、箱は冒険者協会が作って運営管理は教会が行っている訳か」

 子供たちの生活費なんかは冒険者協会が出しているらしい。
 結構複雑な関係なんだな。

「ありがとう。これは成功報酬って事で」

 俺は少年にもう千円を渡す。

「お、分かってるね。まいどあり、まぁ渋ちんだったらたまり場に連れ込んで絞り上げるつもりだったんだけどさ、まともな報酬くれたから俺も久々にまっとうな仕事が出来て良かったぜ」
「おいおい、犯罪はやめとけよ、監視があるんだから」

 この特区内にはあらゆる箇所に監視の目があり、冒険者の行動をチェックしている。
 犯罪の発覚は早い。
 だが、少年は俺の言葉に再度ニヤリと笑ってみせると、さっさと姿を消した。
 う~ん、なかなかたくましいな。

 細い通路を通って入り込むと、どうやらそこは孤児院の裏口のようだった。
 あいつ、表側に案内してくれれば良いものを。
 たまたまそこで遊んでいた子供たちが突然現れた俺達にびくりとする。

「だれ?」
「あー、木村という者だが、タネルとビナールはいるかな?」
「お?タネル兄ちゃんとビナール姉ちゃんの知り合い?」
「ああ」
「ビナール姉ちゃんなら、ほら、あそこ」

 子供が指差した方を見ると、一人の少女がキャンバスを前に何かを描き入れている。
 その横顔に見覚えがあった俺だったが、集中しているその様子に声を掛けて良いのかどうか判断出来ずに躊躇った。

「絵を描いているのか」
「うん、ねえちゃんちょっと変わった絵を描くんだ。ああしている時は話し掛けても聞こえないよ」
「なるほど。じゃあタネルを呼んでくれるか?」
「う~ん、でもおっちゃん、まずは先生に挨拶するのが筋じゃね?」
「あ、ああ、そうだな」

 おっちゃん呼びされた俺は動揺のあまり慌てて何度も頷いてしまった。
 おっちゃんて、おっちゃんて、俺はまだ20代だぞ、こいつらからしたらおっちゃんなのか……。
 結構ショックがでかい。

「せんせー」

 子供が駆けて行く。
 元気だ。
 若いって良いなぁ、青春だなぁ。

「兄さん大丈夫ですか?」

 いつの間にか隣に来ていた浩二が眉を寄せて俺を見ていた。
 反対側の腕を由美子がつっついている。
 ちょっとメンタルが低下しているからつつくのやめてください。



[34743] 173:宵闇の唄 その十二
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2015/11/26 11:28
「裏口から来てしまいまして大変申し訳ありませんでした」

 子供たちが引っ張って来た先生なる人物に頭を下げる。
 別に意図してやった訳じゃないが、いきなり知らない人間が裏口から入って来たらそれは不審者と思われても仕方がない。

「いえいえ、本来我ら父の元に共にある者に分け隔てはありません。教会の門戸は常に開かれているのが当然なのです。しかしここには年端の行かない子供たちがいるので私達も少々気を使っていまして」

 やっぱいるのかな?人攫いが、この特区はこんな有様だが完全な管理都市だ。
 特に街の出入りには厳重なチェックがある。
 無許可のゲートも開く事が出来ないようにネットが張ってあると聞いた事があるしな。
 誘拐しても連れ出せないんじゃないだろうか。

「もちろん、この国の管理体制を疑っている訳ではないのですが、世の中には思いも掛けない事を考える輩がいるものですから」

 疑問が顔に出ていたのか、相手はそういう風に説明した。
 万が一の事があるかもしれないって事か、なるほど。
 この先生という人は意外な事に倭人のようだった。
 正統教会の牧師らしい質素な装いで胸には鉄で出来た聖印アンクを下げている。
 年齢は五十から六十といった所だろうか?穏やかな雰囲気の男性だった。

「確かに世の中何があるか分かりませんからね」
「ええ、それで、今日はタネルとビナールに用事とか」
「ああ、はい、ちょっと仕事を依頼しようかと思いまして。彼らはここの職員扱いなんでしたっけ?」
「一応年齢的にそういう扱いになっていますが、本質的には子供たちと同じように一定期間の保護の目的もあるのです。彼らの父親は協会に保険を掛けていて、その項目に子供たちの独り立ちまでの保護という要項がありまして」
「なるほど、冒険者の掛ける保険というのは通常の保険とは意味が違う事が多いようですね」

 浩二が興味深そうに尋ねた。
 先生と呼ばれた男はそれに頷く。

「実際、私もまだ冒険者の流儀は良く分かっていない事が多いのです。むしろ子供たちに教えられてばかりですよ。ああ、失礼しました。私は当孤児院の運営管理を行っている松田ともうします」
「あ、こちらこそ失礼しました。自分は木村と言います。二人は妹と弟です」
「ご兄弟ですか、冒険者の方は家族単位でパーテイを組む事が多いようですね」
「ええ、そうですね」

 もちろん俺たちは冒険者ではないのだが、別にその事について訂正する必要はないだろう。
 わざわざハンターだと言う利もないしな。
 応接間のドアからノックの音が響いた。

「先生、失礼します」

 言葉を掛けて入って来たのはタネルだ。
 迷宮から離れてこうやって改めて見ると、少し肌色が違うだけの普通の青年に見える。
 髪色も同じ黒系だし、ロシア人のアンナや新大陸のピーターのように銀色とか赤毛とかの派手な外国人を見慣れたせいだろうか。
 タネルの後ろに隠れるようにビナールの姿もあった。
 ビナールは可愛らしい帽子のような被り物をしていて、ワンピースに前掛けという先ほど見掛けた時とあまり変わらない姿だ。
 タネルも質素な白シャツにズボンという格好で、用事を片付けてそのまま来てくれたのだろうと思われる。

「二人共久しぶりだな。生活の方はどんな感じだ?」
「あはい、衣食住は施設で賄えますから、とりあえず迷宮の1層に潜って小銭稼ぎをやってリハビリという感じですね」

 タネルが現状を簡単に説明してくれた。
 もう迷宮に潜りだしているのか、タフだな、この子等も。

「それじゃあ、お仕事の話なら私は席を外した方が良いでしょう、後でうちの子にお茶を持たせます」

 そう言って、松田氏が席を立って一礼すると部屋を出て行く。
 こういう外部の人間の訪問は良くあるのだろうか?
 対応が慣れているな。

「あの、今日は何か?私達ならもう大丈夫ですから」

 ビナールがおずおずと口を開いた。
 一瞬、俺たちが関わるのが迷惑なのかな?と思ったが、その表情に拒絶の色は無かった。
 ちょっともじもじしている感じだ。
 ふむ。

「そう言えば、ビナールは絵を描くんだな。すごい集中力じゃないか」

 俺が後ろに立っても気付かなかったしな。
 俺がそう言うと、ビナールは真っ赤になってうつむいてしまった。
 ありゃ、なんか悪かったかな?

「妹の絵は趣味というより生きる事の証のようなものですからね。物心付いてからずっと描いているんですよ」
「へえ、そりゃあ凄いな。誰か先生とかに付いてるのか?学校とかは?」
「いえ、そういうのは私達は」

 タネルが困ったようにそう答えるのを聞いて、ああと思い至った。
 馬鹿か俺、金を稼ぎに冒険者になったのに、そんな余裕があるはずがない。

「悪い、なんか俺、デリカシーが無くって」
「そうですね」

 絶妙のタイミングで浩二が間の手を入れる。
 こいつめ。

「そんな事はありませんよ、心配してくださるのはありがたい事です。迷宮から助けだしていただいただけでもありがたいのに、その後の滞在手続きや冒険者協会への連絡なども手配していただいて」
「まーまー、そういうのは止めようぜ。困っていたらお互い様だ、誰かが困っている時に助けるようにすればその誰かがいずれ自分を救ってくれる事になるかもしれない。因果は巡るってのが俺たちの考え方だからな」
「あ、はい、理の法ですね。私もそれは理解出来ます」
「実は今回はお前たちに依頼を持って来たんだ」
「依頼、ですか?」

 タネルとビナールは少し困惑したように首を傾げた。
 彼ら冒険者は賞金稼ぎを独自に行ったり、遺跡の発掘作業を手伝ったりと、対怪異以外の仕事も結構頻繁に行うと聞いた事がある。
 それで今回の事も思い付いた訳だけど。

「ああ、実は何人かの冒険者の評判を集めて欲しいんだ。無理はしなくても良いから分かる分だけで良い。特に最近何か変わったとか言う事があったらそういうのを頼みたい」
「何かの容疑者を探しているんですか?」

 タネルは勘が良いな。
 冒険者の社会に下手に首を突っ込めないのは冒険者カンパニーでの対応で身に沁みて分かった。
 彼らは用心深いし、何よりハンターというものを信用していない。
 それなら冒険者には冒険者という事で彼らに依頼しようと思ったのだ。
 それに今は新たな足場作りをしなければいけない彼らにとってお金はあればあるだけ助かるだろうしな。

「うん、まぁ実は都内で起きている原因不明の昏倒事件なんだが、ちょっと人間技じゃないんだ。最近冒険者に妄想汚染イマージュという現象が広がっている事は知っているか?」
「ええ、噂では。しかし、その2つがすぐに結び付くと考えるのは早計では?」
「その為の調査だよ。考え違いなら考え違いでも良いんだ。でも一応調べてみる価値はあると思っている」
「そういう事ならお受けしましょう」

 タネルが頷いて言った。
 決断が早い。
 最初から受けるのを決めていたという感じだった。
 ビナールも頷いている。

「ただ、これだけは守って欲しい。絶対に必要以上に踏み込むな。異変の有無さえ分かれば良いんだ、良いな?」
「ええ、その辺は上手くやりますよ。私達は物心ついた時から冒険者の中で生きて来たんです。流儀は心得ています」

 その言葉に気負いは無い。
 うん、大丈夫そうだな。

「それじゃあ頼む。結構人数が多いんで面倒掛けるが。これがリストが入った端末で、こっちが書面の依頼書とリスト、と、これが手付金と活動費だ。結果に関わらずこの資金は使い切って構わない。仕事の代金はまた別に出す。報酬金額がこっちな」

 俺は端末と書類、そしてバンクカードを渡した。
 タネルは一瞬驚いたようにバンクカードを見たが、契約書を見て自分の端末を取り出し、カメラで取り込んだ内容を翻訳すると、それを確認して驚いたように顔を上げる。

「金額が大きすぎます」
「いや、調査対象の人数で割ってみろ、そう言う程大きい金額じゃないだろ」
「それでもちょっと破格じゃないですか?」
「これは個人としての依頼じゃないんだ。ハンター協会からの依頼と言っても良い。だから気にするな」

 タネルは困ったように俺の顔と書類を見比べていたが、やがて息を吐いた。

「分かりました。この仕事をお受けします」
「助かる。だけど絶対に無理はするな」
「当然ですよ。私には妹がいますし、それに孤児院に迷惑になるような事は出来ませんからね」

 そんな話をしていると、コンコンとドアの向こうでノックの音がした。

「どうぞ」

 一礼して中学生ぐらいの女の子がワゴンを引いて来ていた。
 柔らかそうな茶色の髪の女の子ですごく緊張しているのが分かる。

「お茶をお持ちしました」

 タネルは机の上の書類やカード類を俺の持って来た袋に纏めて入れると、トントンとその底をテーブルで叩いて整えた。
 片付けられたテーブルの上に少女がお茶とお菓子を並べて行く。
 それは見ているこっちが緊張するぐらい慎重な手付きだ。
 かちゃりと茶器が音を立てると、いちいち少女がびくっとするのでこっちもドキドキして来るのが不思議である。
 無事全て並べ終わると、一緒にため息が漏れたぐらいだ。
 それに気付いた少女は一瞬てへっという感じで笑ってみせると、また一礼してワゴンを引っ張って帰って行く。
 と、ぱっとドアが再び開いて、「ご、ごゆっくりどうぞ!」とだけ告げるとパタリとドアが閉まった。

 なんだかほのぼのとした空気が広がる。

「ええっと、とりあえずお茶をいただこうか?」
「そうですね」

 俺が言う以前に手を付けている由美子はともかくとして、俺は浩二を促して紅茶らしきカップに口を付けた。
 うん、ちょっと砂糖が欲しいな。
 そんな俺を見て、ビナールがくすっと笑ったのだった。



[34743] 174:宵闇の唄 その十三
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2015/12/03 11:34
 帰り掛け、浩二はハンター協会の支部に報告へ向かい、由美子とは特区を出た所で別れた。
 そのまま大学に行くらしい。
 今日は講義休みだろうと聞いたら、課外学習が教授の研究室で行われているのだという事だった。
 お前どんだけ勉強好きなんだよ。

「違う、好きなのは分からない事が分かるようになる事」
「あーうん、お前は本当に昔からそうだよな」
「それだけが私の存在意義」
「おいおい、そりゃあないぞ、俺の妹だっていう一番大事な存在意義があるだろ、お前がいてくれるだけで兄ちゃんは心があったかくなるんだぞ」

 別れ際にそんな話をしたら「うん」と、頷いた後、小さく手を振って周回バスに乗り込んで行った。
 本当に分かっているのかな?どうも由美子は昔っから感情表現が苦手で心配だ。
 内気って訳じゃないんだが、他人と話すのは苦手っぽいんだよな。
 小さい頃一時期虐められていた時もあったからその辺が響いているんだろうけど。
 でも、こっちに来てから友人も何人か出来たみたいで良かった。
 伊藤さんがその筆頭っぽいし、結構二人で出掛けているようだ。
 こないだも二人で買い物に行って買ったという服を見せてくれたし。
 そんな事を考えていたら端末が振動した。
 プライベート用の奴である。
 コートの内ポケットに突っ込んであったそれを取り出すと、そこには伊藤さんの名前が表示がされていた。
 なんだろう?

「優香、どうした?」
『あ、隆志さん、今大丈夫ですか?』

 俺はそのまま特区ゲート前の広場に設置されているベンチに座った。

「うん、大丈夫だけど、何かあったのか?」
『あの、隆志さんが調べていた事件のデータを纏めていた時に気付いた事があるんです、今時間があるようならお話出来ませんか?』
「ああ、うん、もう用事は終わったから時間は空いているよ」
『今どこにいます?』
「うんっと、特区前広場かな」
『あ、じゃあその近くのクリスタルメディア第2ビルの屋上庭園に来れますか?今いるんですけど』
「ああ、そこならすぐ近くだから待たせないと思う」

 そう言えば伊藤さん、ビル登りが趣味だって言ってたっけ?クリスタルメディア第2ビルと言えば全面ガラス張りで夜にはビル全体を使って映像広告を展開する事で有名な広告会社のビルである。
 確か50階建てだったっけ?
 そんな高所の屋上庭園って危険じゃないか?なんか術式使ってカバーしてるのかな?金掛けてんな。
 そんな風に思いながら待ち合わせ場所に急ぐ。

 考えてみれば俺は結構伊藤さんの情報を纏めて分析する能力に助けられていると思う。
 彼女は情報を共通項ごとに振り分けたり、参照しやすいように資料を纏めたりするのが得意だ。
 うちの部署では彼女がいなくなったら今の3倍は仕事が遅れると言われている。
 なんで3倍なのかは謎だ。

 件のビルは昼間でも割りと賑やかだった。
 ビルの壁面にテレビジョンの画面のような物が映しだされているのだ。
 足を止めてそれを眺めている人は少ないが、近くのカフェのテラス席からそれを眺めながらお茶をしているらしい人たちは結構いる。
 そんな人通りが多い表通りからビルの中へと入ると、休日でエレベーターが制限されていて、止まる階は3箇所だけになっていた。
 30階のカフェとレストラン、49階のカフェバーと、50階の展望レストランである。

「んん?」

 屋上庭園へはどう行けば良いのかの表示がない。
 とりあえず50階で降りると、正面がレストラン入り口となっていて、その横に通路が続いていた。
 エレベーターから降りて振り向くと、その乗口の壁に見取り図が表示してある。
 そこにようやく屋上庭園の表示があり、このレストラン直営の和風カフェがある事が記されていた。
 通路沿いに行くと非常階段があり、そこにカフェの案内がある。
 その階段を登り、重いレバー式の扉を開くと、明るい光の中に木々が生い茂っている空間が広がっていた。
 普通この高さになると強風が吹きすさびこんなのんびりとした光景にはならないはずだが、やっぱり何かの術式でカバーしているのだろうと思われる。
 最初の施工費どんだけ掛かったんだろう?メンテも必要だし、一流企業はやる事が違うな。

 その庭園を順路沿いに進むと、カウンターがあり、軽食とドリンクを販売しているのが見えた。
 基本は緑茶や和菓子のようだが、パフェやコーヒーも一応あるようだ。
 設置されているテーブルは庭園内に点在していて、ここで購入して自由に座るのだろう。
 席に着いて注文を取りに来てもらう方式のカフェではなさそうだった。

 とりあえず先に伊藤さんを探す事にした。
 ぐるりと通路を巡って行くと、銀色の枝垂柳に似た木の向こうで手を降っている姿が見えた。
 可愛いな。

「待たせた」
「待っている間、すごくドキドキして楽しかったです。ちょっとデートみたいですよね」
「お、おう」
「今度、待ち合わせしてデートしませんか?」
「えっ!?」

 言われて気付いたが、そう言えば俺たち、お互いの家に行くばかりでちゃんとしたデートとかしてなかったような?
 いや待て、食事にはしょっちゅう行ってるし、それはデートじゃないのか?
 だが、待ち合わせデートか、それは何か心躍る物のような気がする。

「あ、困らせるつもりじゃなかったんです。我儘言っちゃってごめんなさい」
「いやいや、そんなの我儘じゃないし、俺もしたいし」
「本当ですか?気を使っていませんか?」
「本当です」
「じゃあ、とりあえず何か飲み物を買って来ますね。私は抹茶と白玉饅頭を貰って来ますけど、隆志さんはどうしますか?」
「あ、メニューをまだちゃんと見てなかったし、俺が取りに行って来るよ」
「それじゃ、私のカードを持って行ってください」
「纏めて払った方が楽だし、今回は俺のおごりで」
「じゃあ、次のデートは私のおごりですね」
「お、おう」

 恋人関係になってからそれなりに時間が経っていると思うんだが、未だに俺は彼女の笑顔を正面から見るとちょっとうろたえてしまう事がある。
 なんて言うか、本当に良いのかな?という気分になってしまうのだ。
 デートという単語におたおたしてしまうのはいくらなんでも大人の男としてどうなんだろうな。
 注文カウンターで改めて確認するとお茶だけで東西諸国様々な種類の物が揃えてあり、結構マニアックな内容となっていた。
 和菓子はあまり聞かない物もあったが、ショーケースにサンプルキューブが置いてあるので大体の見た目は分かる。

「抹茶と白玉饅頭とほうじ茶と赤ベコ団子をお願いします」
「お伺いしました。少々お待ちください」

 カード決済をした後5分ぐらい待ってトレーに乗った注文品を受け取る。
 意外な事に湯のみも饅頭や団子の乗った皿も陶製のちゃんとした物だ。
 こういう所では紙の物を使うと思っていたので少し驚く。
 戻ってその話をすると、伊藤さんは笑って言った。

「ここはレストランのオーナーが趣味でやっている所だから採算度外視で自分のやりたいようにやっているみたい」
「そうなんだ。そう言えばエレベーターに案内も無かったな」

 二人共お茶を啜って、一息吐いた所で伊藤さんが切り出した。

「それで事件の件なんですけど。時系列で整理していると、気になる事が出て来たんです」
「と、言うと」
「最初の犠牲者は40代のサラリーマン、次は70代のおじいちゃん、その次は50代の主婦、その次は20代の青年と続いているんですけど、統一感が無いですよね」
「そうだな」

 年齢も性別もあまり関係無いような感じがする。

「これが8回目以降から変わるんです。20代男性、20代女性、20代男性、10代の女子学生」
「ん?」
「10代男子学生、10代男子学生、10代男子学生と続いています」
「段々若くなっている?」
「はい、しかも10回目以降は必ず複数人が同時に昏倒しています。このせいでニュースとしてクローズアップされるようになったんですけど」
「んー、これはむちゃくちゃ嫌な予感がする」
「私もそう思います」
「次はもしかすると、学校とか、ヤバイんじゃないかな?」
「でももし事を起こしているのが個人だとすれば、さすがに学校は無理があるような気もします」
「なんで個人だと思う?」
「いくつかの昏倒事件は夜の賑やかな街中で起こっているんです。集団で行っている事ならもっと不審な集団の目撃情報が出てもおかしくないと思います」
「なるほど」

 若者の集団がいて、個人で対処出来そうな規模の場所か。
 ゲームセンター、カラオケ、他に何かあるかな?とりあえずお偉いさんに言って、そういう所が危ないと忠告しておくか。
 この手の事はハンターだけで無理に解決しようとして出来る事ではないだろう。
 人間が起こす事件の専門家にある程度協力を仰ぐべきだと思う。
 そもそもあっちも調べているだろうしな。
 餅の周りをこし餡で包んだ赤べこ団子を切り取って口に運びながら、俺はそう考えた。
 口に入れたこし餡はさらりとした甘さを残して小豆の風味を香らせる。
 初めて食うけど旨い和菓子だ。

「付いてますよ」

 伊藤さんがふいに指先で俺の口元に触れると、あんこを摘んで自分の口に入れた。

「あ、このこし餡美味しいですね」
「お、おう」

 あ、あれ?俺さっき何考えてたんだったっけ?
 その瞬間、なんだか色々な事がどうでも良くなった気がしたのだった。



[34743] 175:宵闇の唄 その十四
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2015/12/10 14:17
 迷宮ゲートのある特区は元々はビル街の一画だった。
 その為、クリスタルメディア第2ビルの屋上からはその特区の様子が伺える。
 整然とした都市の一画に生まれた場違いな分厚い壁に隔てられた囲い地、雑多な色の混ざったその場所はさながら子供が適当におもちゃを投げ込んだおもちゃ箱のようだ。

「箱庭の中に更に箱庭があるってか」
「箱庭って?」
「あ、いや、その最悪の性格の奴がこの中央都の事を箱庭に例えたんで」

 俺は某終天童子の事を言葉を濁して伝えた。
 お互いに隠し事をしないという約束だったが、さすがにはっきりと言えない事もある。
 伊藤さんは、それを俺の仕事上の守秘義務にあたる事なのだろうと考えたのか、特に追求する事もなく頷いた。

「でも、私もその感覚は分かります。外から見ると人が住む都市って、ああ、誰かが作ったものなんだなってはっきりと分かるんですよね。綺麗に整えられている不思議な場所だなって思ってしまいます」
「優香はずっと、その、未開拓地で過ごしていたんだよね」
「ええ、と言っても長くは一箇所に留まったりはしないんで、故郷という感じの場所は無いんですけどね。長くて同じ土地に2年もいたでしょうか、短い時なんか数日で移動して、時々怖い思いもしたし、飢えた事もありましたけど、やっぱりあの頃の事を思い出すと楽しかったなと思うんです」
「そっか」
「自分達で考えて工夫して、失敗したり上手くいったり、あの頃はそれが楽しいとか考えている暇はなかったけど、後から思い出すととても素敵に思えて、これって思い出補正っていうんですよね」
「あーうん、でも俺もそういう事あるからなぁ」

 俺たちは屋上庭園を後にすると、非常階段を降りながら色々と話し、ビルを出てビル街を駅方面に向かってまたそのまま歩いた。
 ビル街と駅の間には狭いながらも住宅地があり、いくつかの学校がある。
 休日の夕暮れ、学校には人が少ないかと思えばそうでもなく、部活動か何かをやっているらしい子供たちの元気な声が聞こえていた。
 本当はバスを使うべき距離なのだが、なんだか一緒に歩きたくてそのまま歩いて来てしまった。
 伊藤さんが何も言わない所を見ると、もしかすると同じ気持ちだったのかもしれない。
 そうだと良いなと思う。

 とは言え、子供たちの方が気になってあまり甘い気分にならないのは誤算だった。
 大勢の子供がいる場所は例の犯人に狙われないかと不安になるのだ。
 早いところお上に伝えて、なんらかの対策をしてもらうべきだろう。
 学校の密集地帯を抜けると、閑散とした住宅街がある。
 時間的に買い物帰りの主婦が忙しく行き交っていそうだが、この辺の主婦は車を使って少し離れた駅前のスーパーに行くらしく、通行人自体は少なかった。
 住宅街の間には病院やちょっとしたオフィスビルがあり、その間に2階建ての塾がある。
 塾の駐輪場には十数台の自転車が駐めてあって空きスペースが多い、時間的に本格的な授業はこれからという所か?

「誰か!」

 そう思った時、その塾の入り口から14、5才ぐらいに見える少年が飛び出て来た。

「どうした?」

 ぎょっとして駆け寄ると、その少年は一瞬俺を見て怯えたが、一緒に駆け寄った伊藤さんを見てほっとしたように座り込む。
 何気に失礼だが、まぁ仕方ない。

「変質者が教室に入って来て、いきなりみんなを襲い始めたんだ」
「!優香、警察に連絡をしてくれ、俺は行ってくる!」
「あ、隆志さん!」

 伊藤さんがバッグから端末を出すのをちらりと見て、俺は塾の玄関に突入した。
 ただの変質者ならそれはそれでも良いし、例の犯人なら願ったりだ。
 どちらにしろ被害を抑えて、手っ取り早く捕まえる必要がある。
 1階には控室か事務室かがあって覗いてみたが、そこにいた人は全員倒れているようだった。

「2階か?」

 駆け上がる。
 途中で怒鳴り声と悲鳴が聞こえた。

「てめえなんなんだよ!」
「いやあ!やめてぇ!」

 声はおそらく塾に来ていた学生の物だろう。
 まだ無事である事にほっとすると共に、犯人らしい相手の声が聞こえない事に不気味さを感じる。
 教室の入り口は2箇所あり、中が伺える窓は無い。
 入り口はどちらもスライド式のドアのようだった。
 中の様子が伺えないのは辛いな。
 仕方ない、今は速さが大事だ。
 俺は勢い良く手前のドアを開けた。

 ドアの向こうは混乱の坩堝にあった。
 机や椅子が整然と並んでいただろう様子はもはや跡形も無く、色々な方向を向いた机と椅子が散乱している。
 反対側のドアの前に机や椅子が無造作に転がっていて、貴重な出口の片方が使えなくされていた。
 入ってすぐの所に転がっているのは大人の男だ。
 塾の講師か?
 教室の中ほどにも数人の男女が倒れている。
 その向こうで数台の机や椅子をバリケード代わりに少年少女が数人頑張っていた。
 そして、その手前、俺から数歩の距離にひょろっとした男が佇んでいた。
 引きずるような黒いコートは革製なのか妙につやつやしている。
 いや、これは革じゃない。

「おやおや、邪魔がはいっちゃったか。しまったな、一匹逃したのが失敗だった。こりゃあ急いで済ませないとな」

 振り向いた男のコートがひるがえり、同時にそれがするすると長く伸びた。
 やはり、これは流体繊維だ。
 話には聞いた事があるが、実際に使われるとびっくりするな。
 俺はジャケットの下のホルダーからナイフを抜くと、襲い掛かってきたコートの裾を弾いた。
 キン!と甲高い音がする。
 繊維なのに金属じみた音がするな、恐らく刃物のような形状に加工しているのか?

「ほう?そのナイフ、ご同業か?」
「へぇ、そういうお前さんは冒険者かな?」
「愚問だな」

 男はコートをまるで針で作ったすだれのように変形させると、それらを次々と打ち出して来た。
 さながら紐付の棒手裏剣といった所か。
 それらの先端が倒れている者達をかすめるのでヒヤヒヤする。
 とにかく場所を移さないと、どうにも戦いにくい。
 とは言え、俺がここを離れた途端、残っている子供たちが襲われる危険があって、この場を離れる訳にもいかなかった。
 俺は雨のように降り注ぐ流体繊維の針をいくらかはナイフで弾き、残りは左腕に受けて突進した。
 距離があるのはこっちに不利にしかならない。
 それならその距離を詰めるしかない。

「ちっ!」

 いきなり男は足元に倒れていた少年の体を蹴り上げると、その体をまるでサッカーのボールのように蹴り飛ばした。

「きゃああ!」
「うわあ!」

 子供たちから悲鳴じみた声が上がる。
 もしかしたら蹴られたのは友人なのかもしれない。
 一方俺はその蹴飛ばされた子供を避ける訳にはいかず受け止めた。
 結果として再び後ろへと下がらざるを得ない。

「くそが!」

 俺の恫喝じみた叫びを受けて、男はひゃっひゃという妙にかすれた笑い声を上げた。

「使えるものはなんでも使う、それが冒険者のやり方だろ?」

 受け止めた少年の体を確かめる。
 蹴られたのは胸だったのか、肋骨が数本折れていた。
 幸いにも肺や心臓に刺さってはいない感じだ。
 しかし、この痛みで目を覚まさないとなると、やっぱりこいつが昏倒事件の犯人か。
 俺は少年を抱えたままじりじりと前を向いたまま後ろに下がり、ドアを開けてその少年の体を外に出した。
 救急部隊が早々に到着してくれる事を祈るしかない。

「てめえ何のつもりだ?冒険者はこっちで騒ぎを起こしちゃならないきまりだろうが!」
「はっ!」

 男は俺の言葉を鼻で笑った。

「俺たち冒険者のルールはただ1つ、自分がやりたいようにやる、それだけだ、知らねえ奴が作ったルールなんかくだらねえな」
「てめぇ!」
「正義の味方ごっこか?若い連中にはたまぁにいるんだよな。特に異能持ちには多い。自分が特別だと思い込む。自分だけは死なないとね。だけど現実は無情で、この世には正義なんてない、強い奴が生き残る、それだけがこの世のルールなんだよ」
「なるほど、シンプルだな。なら俺がお前より強ければ良いんだ」
「へへっ、そうそう、いい感じに分かって来たじゃないか」

 ウウウーと唸るような音が響いて来た。
 どうやら警察と救急部隊が到着したらしい。

「そら、お前の大好きな力とやらが到着したようだが、どうする?」
「ちっ、うぜえな。まぁいいさ、さっさと逃げ切れば良いだけだからな」

 俺は会話の途中で踏み込んだ。
 増援を待つだろうと相手が予想しているその裏をかいて仕掛けたのだ。
 
「ちっ」

 奴は舌打ちしたが、やはりその余裕は崩れない。
 俺は左手を伸ばして男の腕を掴み、次の瞬間膝を付いていた。
 全身から力が抜けるような、冷えて固まるような感覚がある。

「な……んだ?」
「お?丈夫な奴だな、というか察しが良いのか、腕を掴んで即離したからな」

 こいつ、そうか、これが昏倒の原因か。

「まぁそんな顔をするな、お前の命も有効に使ってやるよ。この俺が生き延びる為にな」
「命を……使う?」

 男はニヤニヤと笑うと、コートを束ねて鋭い剣のような形に作り変える。

「いや、ここはやはりとどめを刺しておくべきだな。おっさんの命を貰ってもあんま使いでがないしな」
「誰がおっさんだ!てめぇの方が俺よりおっさんだろうが!」
「おいおい元気だな。ほんと、油断ならねぇ野郎だぜ、死んどきな!」

 突き込まれた剣状の流体繊維をふらふらしながらも両手で受け止める。
 金属の剣と違い重さはあまりない。
 両手に血が滲んだが、それだけだった。

「隆志さん!」

 ぎょっとする。
 気付けば教室の入り口に伊藤さんが立っていた。

「来るな!そこの子供の救助を頼む、肋骨が折れているようだ」
「大丈夫です、救護隊員の方達が運んで行きました」
「おいおい、彼女連れとはまた余裕があるこったな。いや、違うか、デート中に巻き込まれたのか?そりゃあ災難だったな」

 男はゲラゲラ笑い出す。
 この野郎。
 しかし、どうする、俺は今、体から力が抜けて本来の戦い方が出来ない。
 奴に触れるとまた力が、命?が吸われるらしい。
 なにより、

「格好悪いとこ見せちゃったな」
「そんな事ないです、格好良いですよ、いつだって」

 好きな女を背にして退けないよな。



[34743] 176:宵闇の唄 その十五
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2015/12/17 12:09
 触れられないのなら触れられないなりの戦い方がある。
 俺は散らばっている机と椅子の足をナイフで切断した。

「へえ、器用だな」

 その足を男に向けて投げ付ける。
 具体的に言えば顔に向かって。
 人は目前に何かが飛んで来ると反射的に叩き落とすものだ。ただ躱してやり過ごす事はなかなか出来ない。
 合計で3本の金属の筒となった元椅子の足を時間差で投げ付けられ、男は苛立たしそうに変形させたコートでそれを防いだ。
 その瞬間、俺はまた男との距離を詰める。
 俺が本日かろうじて持っていた武器はナイフだけだ。
 他は日常で身に着けている物しか無い。
 心もとないが、手持ちでなんとかやりくりするしかなかった。
 払われた金属筒から最も価値の低い小銭が飛び出す。
 奴は驚いたが、すぐにそれが脅威にはならないと認識してコートを慌てて戻す事はない。
 戦いに慣れているからこそ、男はそれを囮と見て、俺への対処を優先したのだ。

「破っ!」

 俺は男の手前でその小銭に向かって破壊の気を放つ。
 粉砕され、金属の粉末となったそれへ、ヒートナイフを一閃させた。

「つっ!」

 白光が閃き、男が思わず目を抑えてよろめいた。

「うお!」
「きゃあ!」

 男の後ろにいた少年少女の悲鳴も聞こえる。
 う、悪い、ごめんな。
 いわば即席の閃光弾だ。
 一時的に相手の視界を奪った俺は、もう1本、長めに切り取った鉄パイプで奴の足を殴り付けた。
 バギリ!と、嫌な感触と音が響く。

「ぐがっ!」

 目を庇っていた男が転倒した。
 よし、これでコートの術式を破壊すれば、この男はほぼ無力化出来るはずだ。

「なんてな」

 そう思い、コートの襟部分の記述タグを破壊しようとしていた俺の耳に奴の声が届く。
 不味い!
 俺は咄嗟の勘で文字通り転がり離れた。が、またくらりと来るあの目眩が俺を襲う。
 ちぃ、油断してたか、ざまあないな、俺も。

「ちっ、運の良い野郎だ」

 不満は相手もだったらしく、顔を歪めてそう吐き捨てる。
 男は折れたはずの足をまっすぐ伸ばして立ち、目にも何の問題もないようだった。

「おまえ」
「言ったろう?俺は他人の命を使えるんだよ。つまり怪我や痛みを他人の命で埋める事が出来る。どうだ?俺って無敵じゃね?凄くね?」
「そういうのを俺の国じゃ他人の褌で相撲を取ると言うんだよ」
「は?フンドウシとかスモーとかわかんねー事言う奴だな」
「別に分かって貰わなくても良いけどな」

 くそっ、って事はこいつを攻撃すると今までの被害者にダメージが及ぶのか。やり辛いどころの騒ぎじゃないな。
 触れる事も出来ない、遠隔攻撃も駄目となると、軍隊の能力封じジャマーが欲しい所だ。
 外に来ててくれると良いが。

「じゃあ、まぁ、立場が分かった所で、死ねや」

 男がコートを剣のように振るう。
 俺はそれを躱して鉄パイプで軌道を逸らす。
 もうちょっとなにか道具があれば良かったんだが、やり辛い。
 せめて術士の一人もここにいればなぁ。
 
「そんなリクエストは受け付けてないんでね」

 連撃、またまた撃ち出されて来る攻撃を躱して付かず離れずの距離での攻防を繰り返す。
 攻防と言っても攻撃が出来ないのだから痛い。
 やばい、これはヘタすると千日手か?俺の体力勝負といった所か。
 増援を頼むにもこの狭い場所では逆に増援分の命が吸われて危険だ。
 せめて開けた場所ならやりようもあるんだが、くそ、後ろや足元の子供たちを傷付けるようなむちゃな攻撃も出来ない。

 この時、男との戦いに集中していた俺にはあずかり知らぬ大変な事態が伊藤さんの身に進行していた事を俺はこの事件が終わった後に知る事になる。
 だから俺はこの後何が起きたのか、はっきり言って分からなかったのだが、後に伊藤さんに確認した所によると、彼女は夢か現か分からない体験をしたと、そう語ったのだった。

 ◇◇◇

 伊藤優香はひたすらハラハラと自分の大切な相手の戦いを見守っていた。
 その感覚に彼女は覚えがある。
 以前、駅の地下街で危険に陥っている隆志を見付けた時の心臓を握り潰されるような恐怖だ。
 
「私、どうして何も出来ないんだろう」

 それを当の隆志が聞けばとんでもない、さんざん助けてもらったと返すのだろうが、今は戦いの最中で、隆志は彼女の傍にはいなかった。
 それゆえに、優香は唇を噛みしめてその戦いを見守る。
 外に行って、警官に中の様子を伝えないと、せめて無駄に踏み込まないように言わないと、優香は犯人の能力を知ってそう考えたのだが、その場を動く事が出来なかった。
 今この場を離れたら、もう二度と生きている隆志に会えないかもしれないという恐怖が彼女の足を竦ませていたのだ。

『いいえ、出来るわ』
「えっ?」

 突然聞こえてきた声に優香は振り向いた。
 今までそんな気配も無かったのに、いつの間にか彼女の隣には一人の少女が佇んでいた。
 優香はその少女に見覚えがあった。
 以前、公園で会った少女だ。
 あの時と同じように、どこか場違いな着物姿の彼女は浮世離れした雰囲気を持っていた。
 夕暮れの時間にはあまり違和感を感じられなかったが、人工の灯りの下で見る彼女の髪と瞳は、薄紅の不思議な色合いで更にそれらが内から輝いているように見える。
 だが、不思議な事に優香はその神秘的な姿をおかしいと思う事はなかった。
 それどころか、親しい友人に会ったようにほっとしたのだ。

「出来るって、なにが?」
『唄を唱ってあげて』
「歌?」

 あまりに場違いな発言に、優香は首を傾げた。
 少女はにこりと微笑む。
 儚げで美しいその笑顔は、優香を励ますようでもあった。

『そう、出来ればあなたにとって馴染んだ唄が良いわ、小さい頃よく唱っていた馴染み深い唄。そんな唄に想いを込めて唱うの』
「そんな、隆志さんが戦っているのに、歌なんか歌えるはずがないわ」
『でも、それであの子を助けられるのよ』
「隆志さんを助けられる?」
『そう』

 少女の言葉は魅力的だった。
 そして、何より優香にとって今正に必要なものでもあった。
 愛しい相手を助けたい、助けられる、これほど心揺さぶられる言葉は他にない。
 優香は考えた。
 彼女が小さい頃によく歌っていた歌がある。
 そう、幼い頃、一人遊びをしていた時に歌っていた歌だ。
 歌を歌うと寂しくなくなった。
 沢山のキラキラ光る何かが彼女の中に流れ込み、そして彼女自身も沢山の物の中に宿っていた。あの頃は世界がとても近く、輝いていた。
 どうしてその事を忘れていたのだろう?と優香は不思議に思ったが、その事はすぐに気にならなくなった。
 今大事なのは目前の隆志である。
 自分が歌うと隆志を助けられるというのは優香にはピンと来なかった。
 だが、この少女は嘘は言わないだろう。
 なぜだかわずかに2度しか会っていない少女がまるで自分の姉ででもあるかのように信頼出来た。

「歌わなきゃ」
『ええ』

 優香を口を開いた。
 彼女の歌ったのは小さい頃に自分で作った歌だ。
 歌詞などめちゃくちゃで、意味は通らない。
 でも不思議と、その真言ことばは彼女の中でカチリカチリとパズルの欠片を組み合わせるように1つの形を成して行った。

 ◇◇◇

 当然歌が聞こえた。
 細く透き通った、水晶同士をぶつけた時に響くような声が、どこか素朴で、それでいて印象的な歌を紡いでいる。

「なん……だ?」

 ふっと、俺は何かに包まれるような感覚に襲われて、バランスを崩してたたらを踏んだ。
 体のバランスが変わった?
 ちらりと目の端で背後を見る。

「優香?」

 そこには伊藤さんが両手を胸の前で組み合わせ、まるで祈るように歌を歌っている姿があった。
 いや、歌、ではない。
 あれは巫女の唱いではないのか?
 俺はふいに浮かんだその直感に慄いた。
 伊藤さんの何かが決定的に変わったという事が酷く恐ろしかったのだ。
 そんな俺の想いとは裏腹に体の周りが暖かくなる。
 それはまるで伊藤さんが寄り添っている時の暖かさのようだった。

「よそ見してると、終わっちまうぜ!」

 一瞬の驚きが油断となって、冒険者の男に間合いに入り込まれてしまう。

「ちっ」

 避けようとしたが一瞬間に合わず、男の手が俺の首に掛かった。

「俺に命を捧げて逝けや!」

 精神的に身構えたが、あの急激な喪失感は襲って来なかった。
 その事を考える前に、俺は男の腕を逆手にぐるりと回す。

「ぎゃあ!」

 折ると他人に被害が及ぶので、痛みを強く与えるように関節をひねったのみだ。

「てめえ、やりやがったな!」

 どうやらやつの命を吸う力が及ばなくなっているらしい。
 理屈を考えるより先に、俺は男に突進するとその腹部に頭突きを食らわした。

「ぐふっ!」

 腕を逆手に取って背後に回り込み、背中に掌底打ちを叩き込む。
 こいつは衝撃や痛みは感じていた。
 自分の怪我は他人に背負わせる事が出来るが、痛みは自分が受けるのだろう。
 だから、痛みを強く感じる場所を打つ。
 おとなしくなったので体を返して見ると、どうやら男は気絶しているようだった。
 まぁ特別痛い場所を打ったからな。

「ふう」

 ひとまず安心して振り返る。
 伊藤さんはまだ歌っていた。
 目は開けているが焦点が合っていない。
 いわゆるトランス状態というやつだ。

「優香、終わったよ」

 そっと握りしめた拳に触れる。
 ふっと俺の周囲から優しい暖かさが消えた。
 それが酷く寂しく感じる。

「まさか、こんな事になるなんて、な」

 零したため息が少々重く感じられたのだった。



[34743] 177:宵闇の唄 その十六
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2015/12/24 11:49
 夜の公園というのは独特の雰囲気がある。
 由美子の言うところによると、子供には誰でも大なり小なり巫としての資質が備わっているのだそうだ。
 それは先天的な巫女とは別の意味で、世界を直感として感じ取る力と言ってたか。
 もっと砕くと種族や立場という壁を作らずに自由に友達になれるのが子供なのだとか。
 そして、それはごくごく小さいものだが、世界に干渉する力なのだ。
 だから、子供が多く集まる場所には意思ある影のような物が刻まれる。
 それらはなんらかの切っ掛けがあれば良くも悪くも変化し得る精霊のような存在だ。
 だが、この公園からは、しばらく前からその存在が消え去っていた。
 正確に言えば、押し流されたのだ。彼女の生み出す世界に。

 俺はどこか呆然とした伊藤さんを支えながら、事件の後始末を治安部隊から連絡してもらった異能専門の特務部隊に任せ、ハンター協会に嫌々連絡して情報の共有を果たし、とりあえずは本日の帰宅を許してもらった。
 いや、ゴネられたけどな、色々と、だがそこは後日穴埋めする事にして強引に納得させたのだ。
 そしてシャトル鉄道を使って外へ、伊藤さんの家のある壁外の住宅街へと降り立った。
 そこでようやく俺はほっと息を吐いた。
 不思議な事に守られている街の中より、恩恵の薄い外の方に安心感を覚えたのだ。
 伊藤さんは終始ぼんやりした感じだったが、そこでようやく目の焦点が合ってきたので、自販機で飲み物を買って途中の公園のベンチに一緒に座ったという所だった。
 今の『何もない』この場所なら彼女の負担になる事もないだろうとの判断だ。

「私、ここで歌ったんです」
「え?」
「数日前?ううん、もっと前だったと思うんですけど、ここであの人に会って」
「待った、あの人って誰だ?」

 唐突に語られる言葉をそっと遮って、俺は伊藤さんに問い掛けた。
 トランス直後の巫女に刺激を与えてはならないという事は、業界人なら当然の知識だ。
 俺は子供に話すような優しい口調を意識して使った。
 とは言え、伊藤さん相手に厳しい口調になれるはずも無かったが。

「花、花のような人でした、淡い色合いの春に咲く花のように、優しく儚げな女性ひと
「花?」
「ええ、髪はまるで桜貝のような色で、瞳は夕焼けのようでした、白地に花びらを散らしたような着物を着た、少女のような母のような不思議な感じの」
「……っ、白音」

 常に終天と共に在った精霊のような雰囲気の少女、今の俺は彼女が終天の眷属の鬼である事を知っている。
 昔は彼女に憧れのようなものを抱いた事があったとしても、その危険性をおそらくは誰よりも俺は知っていると言って良いだろう。
 一見儚げに見えるが、彼女は終天の直下のしもべ、強力な鬼だ。
 それにしてもなんで彼女が伊藤さんに接触したんだ?
 やはり、俺のせいなのか?
 俺が伊藤さんの運命を捻じ曲げてしまったのか?

「彼女が笛を吹いて、私が歌って、小さな子供の頃に戻ったようで、楽しかった」
「そうか」

 なるほどと、思った。
 その結果が今のこの公園の有り様だ。
 降り積もる澱のようにこの場所に刻まれていたはずの影は二人の巫女によって綺麗さっぱり祓われたのだろう。
 巫女はその技を音に託す事が多い。
 音は波動の本質に近いからだ。
 互いに干渉し変化を促す波動を自在に操るのが巫女の巫女たる所以だ。
 集め、放出し、均す、巫女は精霊を宿し、コントロールする存在なのである。

 伊藤さんが巫女シャーマンとしての力を持っている事は分かっていた。
 巫女の体質は生まれつきのもので、それは一生変わることがない。
 ただし、神を容れる器としては思春期前までがピークと言われている。
 本人の個が確立してしまうと、肉体を神と共有出来ないのだ。
 そうなってしまえば下手をすると本人の意思が神に上書きされてしまうという危険がある。
 更に一度神と交感した巫女はもはや普通の人には戻れない。
 どういう事かと言うと、一度神を降ろすと、自分の魂と肉体にズレが生じてしまうらしい。
 その為、巫女はどこか自分の心を他人の物のように感じて生き続ける事になるのだという。
 冒険者であった伊藤さんの父が、伊藤さんを巫女にすまいとした理由は良く分かる。
 誰だって自分の子供がそんな、喜怒哀楽を実感出来ない人生を送るとなれば反対するだろう。
 ましてや、巫女の能力者は親から隔離されて国が育てる事が多い。
 巫女が神を宿して事件でも起こしたらその被害は甚大だからだ。
 その為、巫女に対する扱いは、大体どこの国でも似たようなものとなった。
 
「まぁ、もう思春期は過ぎているから優香は神降ろしは出来ないだろうけど」

 どこかほっとしたように俺は呟き、自分の身勝手さに苦笑いを零した。
 今まで仕事の上で巫女に助けてもらった事は数多い。
 それなのに、そんな巫女を厭うような事を考えるとは、恥知らずにも程があると言うべきだ。
 だが、俺はずっと浮世離れして道具のように扱われる巫女という存在になんとなく哀れを感じていた。
 本人からすれば余計なお世話かもしれないが、あどけない顔に浮かぶ人形のような無機質さに耐え難さを感じてしまうのだ。
 きっとそれは傲慢さだと思うのだけれど、感じてしまうものは仕方のない話だ。

「私、いったい何をしたのでしょう?」

 伊藤さんが夢から覚めたように缶コーヒーを握りしめながら言った。

「俺を助けてくれた」
「どうやってですか?」
「俺も、そんなに詳しい訳じゃないからほとんど推測になるけど」
「はい」
「俺の体を薄く膜のように包んでくれたんじゃないかと思う」

 そう、そうする事によって不可侵の領域で俺を包み、奴の力が及ばないようにしてくれた。
 あの時感じた不思議な暖かさ、相手に触れてもまるで手袋越しであるかのような感じは、おそらくは伊藤さんの存在そのものだろう。
 恐ろしい程に近く、俺は伊藤さんを感じていたのだから。

「私、隆志さんを抱きしめているように感じました」
「そ、そうなんだ」

 ストレートに言われると、さすがに照れる。
 戦いの最中に感じる事ではないが、ひどく、安心したのは確かだった。
 彼女の、伊藤さんの香りを感じて、一瞬、自分が何をしているのか忘れかけた程だ。

「私、何なんですか?」

 とうとう聞かれたと思った。
 きっと聞かれるだろうとは思っていたが、出来ればずっと、一生口にしたくなかった答えを返さなければならない時が来たのだと分かった。
 彼女を日常から非日常の領域へ誘うかもしれない答えを告げる時がとうとう来てしまった。
 俺は大きく息を吸うと、答えた。

「君は閉ざせし者ブランクじゃない、開かれし者シャーマンだ」



[34743] 178:宵闇の唄 その十七
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2015/12/31 12:46
 伊藤さんに彼女の力を説明した時、俺は彼女が不安になるだろう、怯えるだろうと思っていた。
 それまで能力とは無縁に生きて来た人間が突然異能に目覚めると、普通は最初怯え、そしてその反動か能力を使った犯罪に走る者もいる。
 だが、後発的な異能者で最も多いのはその力を隠しながら生きようとして逆に暴発させるというパターンだ。
 人は未知なる物からは距離を置きたい、目を逸らしたいと思うものなのだろう。
 しかし、そんな俺の予想は外れた。

「それじゃあ私、隆志さんの力になれるんですね?」
「え?」
「隆志さんが危険な場所にいて、苦しい思いをしている時に、ただ見ているだけじゃなく、その助けになれるって事ですよね?」
「い、いや、待った。そもそも巫女は荒事には向いてない。闘う為の力じゃないんだ。もっと、こう、知覚的な力であって……」

 俺はしどろもどろに説明した。
 そもそもが、俺自身、巫女の事は資料に載っているような事や、会った際の印象などしか分からない。
 実際に巫女の能力が巫女として以外に使えるのか?という事は正直分からなかった。
 しかし、明らかにまずいという事は分かる。
 一つ間違えば彼女はこっち側に踏み込んでしまう。
 いや、すでにさっきは無意識に踏み込んで来ていた。
 それだけは駄目だと、俺は断固として思っていた。
 彼女には平和で安全な場所にいて欲しかったのだ。

「ふふっ、ごめんなさい、そんなに慌てなくても良いですよ。いきなり隆志さん達と一緒にハンターをやるとか言い出したりしません」
「あ、うん、いや、その、こっちこそすまん」

 伊藤さんがそんな俺をなだめるように言ってくれて、ふと、俺は気付いた。
 ああ、自分はなんて狭量なんだろう、と。
 俺の考え方って、女は働くなとか、女は家にいろとか言っている時代錯誤の亭主関白な旦那みたいなもんじゃないか?と思い至ったのだ。
 彼女の人生は彼女のもので、その生き方を決めるのは伊藤さん本人だ。
 俺が彼女の選べる道を狭めるのは間違っている。

「いいんです。分かっています。それに、急に何かの能力が発現したからって、それで何かが出来るとか思うのは危険だって私も知っています。冒険者には異能持ちの人が多いんですけど、能力に覚醒したての若い人程二度と帰ってこない事が多いんです。父はそんな時、自信家は事故を起こす事が多いって表現していました。あの頃は開拓の仕事と思っていましたけど、やっぱり親しくなった人がいなくなるのは寂しかったから、よく覚えています」
「そういう事はないんじゃないかな?優香は」
「私は自信家ですよ。隆志さんにだって猛アタックしましたからね」
「えっ!?」

 突然の話の転換に俺は動揺した。
 そう言えば彼女の好意はずっと真っ直ぐだった。
 あの迷いの無さは強さと言って良いだろう。
 まぁ、その、今でも俺相手だっていうのは何かの間違いじゃないかとは思うんだけどな。

「だから、余計に、自分を抑えないと駄目だなって思うんです。本当は私、隆志さんの前に立ち塞がって、隆志さんを傷付けようとする全部から守りたいぐらいなんですよ。私、知っているんです。隆志さんって本当は戦う事なんか好きじゃないんでしょう?綺麗な物に触れて、綺麗な物を見て、そして、綺麗な物を生み出す人なんです。隆志さんはきっと、怪異にだって美しさを感じているんじゃないんですか?」
「……あ」

 それは衝撃だった。
 そして喜びでもあった。
 ずっと、言葉に出来なかった答えがそこにあったのだ。

 羽ばたく繊細な手作りの飛行機、いつか見た空を埋め尽くす銀色の蝶のような怪異、野に咲く花の揺れる花弁、虹の掛かる滝の向こうにゆらめく竜神の影、俺がハンターから決別して、玩具からくりを作る職人になろうと思ったのは、心に刻まれたたくさんの美しい物を自分の手で生み出したかったからだ。
 壊す者であり続ける事に耐え切れなかったからなのだ。
 それを今はっきりと自覚した。
 俺自身以上に、俺を理解しようとしてくれた女性ひとによって。

 戦う事が当たり前だと思っていた。
 その為の場所にその為の力を持って生まれたのだ。
 それは義務であり、決定事項だ。
 『俺』を生み出す為だけに、死んでいった人たちが俺たちの血の奥には眠っているのだから。
 だけど、結局、俺は耐えられなかった。
 逃げ出した自分を責めた事もある。
 周囲の優しさに甘えている自覚もあった。
 でもそうか、そうだったんだ。
 血に植え付けられた憎しみのろいと魂が渇望する望みのろいが俺の中で互いに互いを喰らい合っている事をはっきりと理解した。

「ああ、うん、そうか。ありがとう優香。でもさ、俺は大丈夫だから」
「分かっています。だから余計嫌なんです。なりふりかまわず弱音を吐いてくれれば私だって抱きしめて私がついているから大丈夫ですよって言ってあげられるのに」

 そう言って膨れた伊藤さんは暴力的に可愛いかった。
 だから思わずその場で抱きしめてしまった事は仕方のない事だと思う。



 伊藤さんの家に着いて、迎えに出て来たお母さんに父親であるジェームズ氏を呼んでもらう。
 にこにことした伊藤さんのお母さんは俺たちの様子から何がしか感じたはずなのに、顔色一つ変える事なくにこやかにうなずいて、まずは中へ入るように俺を促した。
 込み入った話になりそうなので、俺もそのまま上がり込む。

「その、先にお父さんと二人で話したいんだけど、良いかな?」

 伊藤さんは何か言いたげに俺を見て、ちょっと微笑んだ。

「隠したい事を上手に隠せないのは隆志さんの美点だと思っていますから、良いんです。許してあげます」
「あ、うん、ありがとう」

 うん、バレバレですね。
 でもやっぱり形式美というか、主に伊藤さんのお父さんの気持ち的な事もあるからその辺は許して欲しいかな。
 だから許されて良かったな、俺。
 ちょっと何やら伊東家の今後に不穏なものを感じながらも、俺は今現在の心の平穏の為にそこからは目を逸らした。


 応接間に、いつもの通りムスッとした伊藤父が現れた時、正直に言うと、この日に限りほっとした。
 なんていうか共犯者の気分である。

「なんだね?こんな時間にわざわざ話とは」
「彼女に、能力が発現しました」

 俺の言葉に、伊藤父はピクリと眉を動かした。
 さすがは古参の冒険者だ、動揺をほとんど表さないとは恐れいった。

「何があった?」
「最近、突然人が昏睡する事件が続いていましたよね。その犯人に偶然行き遭って」
「貴様の悪運には恐れ入るな」
「申し訳もない」

 なんか理不尽な気持ちもあるが、ここはまぁ謝っておこう。
 伊藤さんに責任がないのは当然の事なので。

「そこで戦ったんですが、相手が触れた端からこっちの生気を奪う奴で攻めあぐねていたら、優香が……っと、優香さんが急に歌を歌って」

 伊藤さんを呼び捨てにしたら睨まれたので、急遽さん付けに直す。
 すいません、フランクすぎましたね。

「歌、だと?そんなはずはない、優香が歌を人前で歌うはずは」
「やっぱりそうでしたか」

 歌が下手だから人前で歌わない方が良いというのは親が子に言う言葉としてはおかしなものだ。
 下手だって気持よく歌えるなら別に歌ったって良い。
 そもそもその言葉に従う必要もない。
 つまりは、一種の暗示のようにそういう風に誘導したのだ。
 伊藤さんが歌を歌わないように、伊藤さんが無能力者として振る舞うように。
 前にもそう推測していたが、伊藤父の施した暗示は実に巧妙だった。
 無能力者は普通の人なら無意識に受け取り、発しているはずの波動を受け取らず、自ら発する事もない。
 巫女は自分の波動と他者の波動を同調させる事が出来る。
 同調させる事が出来るのなら、無能力者のように全く受け付けない事も出来るのではないか?という考えで、そういう風に無意識に力を誘導して使わせていたのだ。
 おそらく伊藤さんは幼い頃に歌を歌う事で既に巫女として覚醒していたのだろう。
 歌が彼女の能力の発現方法だと把握している以上は間違いない。
 両親はそれを隠す為に冒険者のチームと一緒にキャンプで育てた。
 普通、冒険者は家族だけはどこかの国に定住させるものだと聞く、しかし伊藤さんの場合はどこかの国に定住して義務教育を受けるとなれば事前に能力テストを受けなければならない。
 そうしたら家族から引き離されて国に子供を奪われてしまう。
 以前推測した事と合わせて、伊藤父が彼女を守る為に行った事の全貌がやっと見えた。

「申し訳ありませんでした」

 俺はジェームズ氏に頭を下げた。
 いわゆる土下座という奴である。

「何の真似だ?」
「彼女の封印が解けたのは、おそらくは俺の因縁のせいです」
「なるほどな」

 ん?しばし待っても蹴りとか拳とかの衝撃が来ない。
 もしかして何か武器でも取りに行ったか?と思ってちらりと顔を上げてみる。

「なんだそのざまは、みっともないから早く頭を上げろ」
「あ、はい」

 苦虫を噛み潰したような顔をしているものの、伊藤父、ジェームズ氏は俺を殴る事もせず、武装もしていなかった。
 そして、土下座をやめさせると、苦々しい顔のままで言った。

「お前と付き合うと優香が決めて、俺が認めた時にある程度の覚悟は出来ている。冒険者もハンターも因果な事では同じようなもんだ。もちろん祝福されし者ホーリーブラッドもな。それでも守ると言ったよな」
「はい」
「だったらそれはもう自分には無理だっていう負け犬の姿勢って訳か?ならとっとと尻尾を巻いて逃げ出すんだな」
「いえ、絶対に彼女は、優香さんは守ります」
「なら謝るな。いいか?守れなかった時はお前は死ぬ。それだけだ。謝る必要なんかない」

 ひやりと全身が凍るような殺気が部屋に満ちる。
 俺はそれを背筋を伸ばして受け止めた。

「はい!」
「いや、殺すのは生ぬるいな。永遠に魂を封じられて後悔と苦しみを味わうというのが似合いの末路だな」
「っ、彼女を守れなければ同じ事です」

 ぞっとするような殺気をそのまま受け止めながら、俺はきっぱりとそう言った。
 過ちを罰してもらおうとするのは甘えなのだ。
 彼女を失えばそれは後悔すら生ぬるい魂の廃墟へと辿り着くに違いない。
 ジェームズ氏に改めて喝を入れられた気がして、頭を深く垂れる思いだった。



[34743] 閑話:未明の花々
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2016/01/07 12:30
 周りは全て大人で同じ年頃の友達などいなかった。
 彼らはいつも忙しそうで、時々誰かがいなくなる。
 特に若い人が来て仲良くなっても、しばらくすると急にいなくなる事が多くて、少女は遊び相手に飢えていた。その飢餓をはっきりと覚えている。
 だから行っても良いと言われているキャンプの近くの原っぱや、見通しの良い場所で一人遊びをする時に友達を探す遊びをするようになった。

 少女は器用な母が作ってくれた綺麗な色の手鞠が一番のお気に入りで、その鞠を抱えて駆けまわる姿を彼女の父とその仲間たちは良く目にして、一人でも元気だなと微笑ましく見守っていたのだ。
 だから少女がその間に稀なる才能を開花させてしまった事に気付いたのは、あまりにもはっきりとした証が示されてからだったのである。

 少女はポーンと手鞠を天高く放り投げ、タタッと走ってそれを受け止める。
 それは単純だが彼女のお気に入りの遊びだった。
 少女のか弱い力で放っているにしては高く飛びすぎると指摘する者は周りに誰もいない。なぜなら少女は一人だからだ。
 その内、勢いあまって近くの木に鞠が引っ掛かるのもお約束だった。

「ユカのまり返して!」

 少女は怒ったように仁王立ちになって木の上を睨みつけた。
 そこに何がいる訳でもない。
 誰が見てもリス一匹、鳥一羽存在しなかった。
 
「もう!返してくれないと遊んであげないからね!」

 少女がもう一度怒ると、鞠が引っ掛かっていた枝が揺れて、鞠はふわりと少女の方へと落ちて行く。
 それは重力に引かれてそのまま落ちるような落ち方ではなく、まるでその手鞠がシャボン玉か何かのような、重さを感じさせない落下だった。
 その手鞠はそのまま少女の立つ場所までふんわりと届くと、差し出した少女の手に収まった。

「よろし、じゃあお歌をうたってあげましょう!」

 少女は、優香は、誰もいない森の入り口にある開けた場所で、一人そう宣言して歌を歌う。
 それは父に教わった歌でも、母に教わった歌でもなく、彼女だけの歌だった。
 彼女だけのリズムに彼女だけの言葉、体の奥から込み上げる渦巻く何かが世界と触れ合って激しく震える、そんな歌だ。
 歌を歌う時、彼女は自分が良く響く楽器のようだと感じていた。
 父とその仲間達は仕事が終わるみんなでパーティを開く。
 そんな時、誰かが楽器を演奏し、歌い踊るのが恒例だった。

 爪弾かれる弦の響き、太鼓の音、空気を吸って音を鳴らす鍵盤、そんな夜のひと時が優香はとても好きで、父の仲間の年老いた男の無骨な指がかき鳴らす弦楽器の響きに特に魅せられた。
 あのように歌いたいと、幼いながら優香は感じていたのだ。
 だから優香の歌うのは言葉ではない。
 音に込められた意味を歌う。
 世界と一つになって震えると、周りの全てと一つになれるようで、とても幸せになれたから、優香は誰に教わる事もなく、ただ一人で歌を覚えた。

 歌い終わって礼儀正しくお辞儀をした優香の周りでは、ほんの少しだけ世界が変わっていた。
 その時はまだ、誰も気付かない程に、やがては誰もが気付かざるを得ない程に。
 やがて訪れたその時、彼は驚愕する。

「これはどういう事だ?」

 ある日優香を探しに来た父親がその場所を見たのだ。
 そこはあらゆる季節の花や木の実、虫などが集う、まるでお伽話の庭のように変わり果てていた。
 その中心に鞠を抱いて座り込む彼の娘は花冠を編みながら不思議な節回しの歌を歌い続けている。

「なんてこった……」

 彼が娘に歌を禁じ、キャンプを次々を移動し始めたのはその時からだった。


 ◇◇◇


 ふと目を覚ました優香は体の中にまだあの歌の旋律が残っているような気がしてその響きに耳を澄ませた。
 音は既に遠く、もう捉える事が出来ない。
 しかし寂しいとは感じなかった。
 傍らに温かい人肌を感じていたからだ。
 その傍らの人の胸にそっと頬を寄せる。
 自分とは何もかも違う堅い体は確かな暖かさでこの場所が現実であると教えてくれた。
 優香はまるで守るように回された腕を辿ってその指に触れる。
 堅くてゴツゴツして、自分とはまるで違うその指が、繊細に動いて美しい物を創り出すのを幾度見ただろう。
 まだ暗い部屋の中で淡い金色の光を放っているベッドサイドの美しい花の姿をしたスタンドランプに2羽の蝶が留まって、まるで呼吸するかのように羽を開いたり閉じたりと、規則正しく繰り返していた。
 命のあるようなその姿は儚げでありながら力強い。
 優香にとってそれらは本物の花や蝶よりも美しいものだった。
 そこにある美しさと優しさは、彼女の愛する相手が生み出した物だからだ。
 ベッドサイドテーブルの上には他にもガラス細工の花々が彩る端末の充電器がある。
 置かれた端末に蔦を絡ませるように優しく花開く小さなガラスの花々はそれぞれ一つ一つ形も色も違い、充電具合によってその彩りを変えていく。
 彼に言わせればこれはただ充電するだけじゃ寂しいからという理由で付けられた単なる装飾なのだそうだ。
 この部屋は彼の生み出した美しい物で満たされている。
 その部屋に果たして自分はふさわしいのだろうか?と優香は己に問い掛けた。

 優香は彼女が住み始めた家で実体化した怪異に遭遇するまで、幻想域に属する全ての存在と接触した事が無かった。
 いや、正確に言うならば無かったと思っていた。
 今朝の夢でも思い出したが、彼女はほんの小さな頃、妖かし、妖精と言われる者達と戯れていた時期があったのだ。
 どうやら父によって暗示のような意識の誘導をされていて、それらの経験を無かった事にしていたらしいと気付いたのはほんの最近だ。

 怪異は恐ろしいと彼女は思う。
 初めて見た怪異は本当に恐ろしかった。
 だけど、その怪異を壊す時の、専門家だという同僚の男性の顔を見た時、その恐ろしさは薄れて、胸の奥に何か違う物が生まれたのを感じたのだ。
 彼は、その時、怪異を壊すほんの一瞬、寂しそうな、痛みを感じているような顔をしていた。
 あの時は優香はそれがどんな感情か分からないままだったが、今なら分かる。
 あれは感動なのだ。
 彼女はあの一瞬で一人の男に魅了されてしまった。

「私はあなたを助ける事が出来ますか?」

 まだ明けぬ、しかし確かな朝の空気を吸いながら、優香は傍らの未だ目覚めぬ愛する男に囁いた。



[34743] 179:祈りの刻 その一
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2016/01/14 12:10
 常に無い緊張に襲われて、俺はそのドアを開くのに逡巡してしまう。
 背後には伊藤さんが不思議そうに俺が開けようとしている入り口を見ていた。

「それって隠し部屋ですか?格好良いですね」

 ちょっとワクワクしているようだ。
 かわいい。
 いやいや、そうじゃない、頭を切り替えよう、俺。
 今俺たちは俺の部屋のワードローブから例のミーティングルームへと向かおうとしていた。
 伊藤さんの巫女シャーマンとしての異能をハンター協会に報告するのは躊躇われたが、かと言って俺一人で抱え込む訳にもいかない。
 なにより伊藤さんの身に何かあった場合巫女の能力をぼんやりとしか把握していない俺だと対処が出来ない可能性がある。
 身近で一番信用が出来るとなれば俺の選択肢は多くない。
 当然のように由美子と浩二に相談する運びとなった。

 二人は至極あっさりと俺の話を聞き、それに対する意見を述べた。
 由美子の言うには巫女の能力というのは普通は常時オープン状態になっている物なので封印されない限りは発現してから大人になるまで一切行使されないという事は起きないはずの事態なのだそうだ。
 しかし、伊藤父は伊藤さんに無能力者ブランクであると信じさせる事によってそれを成し遂げた。
 巫女と無能力者とは実は真逆の存在だ。
 巫女が常にオープンであるのに対して、無能力者は常に閉じている。
 伊藤父は伊藤さんに暗示を掛け、無能力者であると思わせる事によって自分の波動を閉じさせたという事だ。
 かつて誰も成し得たことのない快挙だが、そもそもそういう事をしようとする者がいなかったのだからそれはそうだろう。
 巫女の力は怪異に苦しむ人にとっては大きな物だ。
 普通は伸ばそうとすればこそ、隠そうなどとは思うまい。

『つまり異例の事態』

 由美子はそう言った。
 一番多感な時期である思春期に巫女の力は変節を迎える。
 この時期に能力が消える者もいれば、変化してしまう者も多い。
 しかしその時期をずっと自ら封じたままで過ごした伊藤さんの場合、その力がどういう風になっているのかが分からないとの事なのだ。
 まぁ前例のない事態だからな。
 特性を理解しなければ導く事も、また、再び封じる事が可能かどうかも分からない。
 とりあえず調査が必要という事だ。
 そして問題は浩二の方の意見である。

『まずいですね。法的に巫女は守られる存在ですが、それは登録されている事が前提です。子供に就学前の集団検診を受けさせないのは保護者に対する厳罰の対象ですが、その時期は彼女の場合は海外で物理的に受診は不可能でした。この場合、その行為が罪に問われる事はありません。そもそも普通はどこの国でも就学前の検査はあるので、どの国ででも就学さえすれば別に問題になる事ではないのです。ただ、彼女はどこの国でも義務教育の時期には就学していません。自主学習で大学受験資格を取得し、学歴は大学のみ、義務教育の一切を受けていない。呆れた話です。恐ろしいですね常識を無視出来る冒険者という存在は』

 そう言い置いて、浩二は続けた。

『とは言え、彼女もその両親も今更処罰対象にはならないでしょう。法的にはグレーですが、裁判で罪を問えるかと言えば難しいでしょうからね。ただ、公表されるとかなりのスキャンダルになるでしょう。国としては叩かれる事を回避しようと彼女をマスコミの生け贄にする可能性もある。それはどう考えても拙い。それを防ぐには突然異能に目覚めたという扱いにするしかありません。異能で事件を起こせば強制収容で収容所での指導となりますが、彼女は別に問題を起した訳ではない。もちろん登録は必要でしょう。野良の異能者は事件を起した時の処罰が重いですし、何もしていなくても強制連行が可能です。しかし、異能者として登録をしてしまえば国からのバックアップが期待出来るのです』
『バックアップ?』
『はい。優良異能者認定です。異能の種類を特定し、それが社会的に有用であると認定されればその能力を有効に使うにあたっては助成金及び施設利用の優待権が与えられます。まさか後天的な巫女など存在するとは考えてもいないでしょうが、法律的に言えば巫女も異能の一種ですから問題ありません』
『お、おう』

 あれは悪い顔だったな、と、実の弟の顔を思い出してげっそりした。
 要するに未登録の巫女だと判明すると物議を醸すが、後天的な異能力者として登録をしてしまえば合法であるというのである。
 ただし、巫女として登録するのは拙いという事だった。
 もうここまで来ると俺には付いていける段階ではない。
 頭を下げてよろしくお願いするしかないのだ。

「じゃあ行きますね」
「はい!」

 うん、まあ伊藤さんが嬉しそうだから良いか。

 ちょっと風変わりな廊下をただ延々と歩くだけの道程なのだが、それを伊藤さんがとても楽しんでくれたので、なんだか俺も楽しく歩けた。
 人間とは気持ち次第でどんな環境も克服出来る素晴らしい生き物らしい。

「まるで忍者屋敷のようですね。階段とかないのに緩やかな傾斜があって、微妙に上がったり下がったりしているんですね」
「すごいな普通は気付かない程度の変化なんだが」
「私歩くのは得意ですから」
「そういうものなのか」

 まぁ中央都の裏道を知り尽くしている伊藤さんだ、そういう事もあるのだろう。

「ここです」
「はい、よろしくお願いします」

 なんだか伊藤さんに妙に力が入っている気がするが、今まで異能とか巫女とか、それどころか怪異だって別世界の話だったのだから、そりゃあ緊張するか。
 改めて考えると、性急に事を進めすぎているような気もするな。
 もっと穏やかに理詰めで進めた方が良かったかもしれない。
 問題は俺がそういうのが苦手だという事なんだけどな。

「よお」
「失礼します!」

 ミーティングルームに入ると、広々とした明るい室内がいつもと様子が違い、テーブルが片されて部屋の真ん中に結界が作られていた。
 結界というか祭壇だな。
 榊の枝が四方に配され、それをしめ縄が繋いでいる。
 しめ縄に付けられた紙垂が風もないのに時折揺れているのは内圧が高まっているからか?何か降ろす気か?お前ら。

「これは?」
「シミュレーションステージ」
「こんな言葉と見た目の噛み合わない物を見たことがないな」

 浩二の返事に俺は既にげっそりとして来た。
 伊藤さんはさすがに驚きと緊張に固まっている。
 そんな彼女を由美子が手招きした。

「ゆかりん、お茶とケーキがあるよ?」
「あ、ユミちゃん、ありがとう」

 明らかにホッとしたように伊藤さんは由美子が用意したらしい可愛らしいテーブルセットの方へと向かった。
 事前に俺に目を向けて問い掛けるようにしたので、それに頷くと嬉しそうに微笑んだのが大変可愛くて良かった。
 女子組はそれで良いとして、俺は浩二の方へと向かう。

「何をどう調査する気だ?」
「まず、彼女が巫女ではない前提で話を進めます」
「はあ?」

 巫女なのに巫女ではない前提ってどういう事だ?話が全く見えないな。
 そんな俺の様子をどこか分かってます的な顔をした浩二がちらりと見て話を進める。

「野良の巫女がいるはずがない。という法的な前提で考えると、彼女はただの異能者です。ただの異能者の場合その能力は大きく二つに大別出来ます。力が外へ向かうか内へ向かうかです」
「あ、あ、うん」
「巫女の力は普通に内に向かうものと考えられていますが実は違います。巫女の力の本質は内外の境界を無くす所にあります」
「おい、前提はどうした?」
「社会人なら建前と本音ぐらい使い分けて当然でしょう」
「もう良いから話を先に進めろ」

 浩二は俺を見てわざとらしくため息を吐いて先を進めた。
 くっ、イラっとするな、俺。

「兄さんから報告があった事件の時の事ですが、その時彼女が歌を唄って兄さんが相手からの干渉を受けなくなったという事でした」
「ああ、うん」
「それはつまり彼女は彼女の存在の内側に兄さんを入れて、波動を閉じたという事だと思います」
「んん?」
「異能というのは自分の波動によって他人に干渉する物という前提は分かりますね?」
「あ、はい」
「無能力者は波動を外に出さず外からの波動も受け付けないので異能の干渉を受けない。つまり閉じた状態だと相手の異能は通用しない訳です。同時に異能者は自分の力を振るえなくなりますが、兄さんの力は馬鹿力ですから問題ありませんね」
「お前、俺をさり気なく馬鹿にしてないか?」
「僕は単に客観的な事実を語ったままですが?」

 喧嘩はしない、喧嘩はしない、と、俺は頭の中で繰り返した。
 うん、今日は喧嘩しに来たんじゃないぞ、大丈夫だ。

「つまりどういう事なんだ?」
「彼女の力は内部に作用する物ですが、その『内部』の判定を広げる事が出来るという事です。まぁ今回振るわれた力に限った話ですけどね」
「んー?」

 それは普通の異能者の結界と何が違うのだろう?
 やっぱりイマイチ分かってない俺を見て、浩二はにこりと笑った。

「良いんです。理屈を兄さんが理解する必要はありません」

 くそっ、殴っちゃだめだぞ、俺。



[34743] 180:祈りの刻 その二
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2016/01/21 12:44
祭壇シミュレーター稼働状態に入ります」
「おい、本当に大丈夫なんだろうな?」

 結界の中に一人立つ伊藤さんがいかにも心もとなげな雰囲気で不安を誘う。
 結界の稼働は目には見えないが、空気の中にオゾン臭のような匂いが微かに混じるのが感じ取れた。

「何を言っているんですか。昨年のお正月に兄さんが放り込まれたという仮想空間バーチャルリアリティよりはずっと安全ですよ。何しろ意識も肉体もこっち側にありますからね」
「あ、くそっ、やっぱりあれってそんなにあぶねえものだったのかよ!あのジジババ共が!ってかそうじゃねえよ、俺らの基準で大丈夫とかは一般的に大丈夫じゃねえだろ?」
「一般的に安全ですよ。祭りで使われる類のものですから。ほら、奉納舞とか巫女舞とか」
「ああ、神楽とかのやつか」
「そうです。兄さんが覚えるのを放棄したあの」
「いちいちねちっこいな、そもそも二十も三十も踊りを覚えられるかってんだ」
「宗家なんですから本来なら五十は覚えなければならないところを配慮してもらったのにあの始末」
「だから、代わりにユミが覚えただろうが!」
「ユミが男舞を覚える訳ないでしょう?ユミが覚えたのは女舞です」
「あ、一応男舞も覚えた」
「ほら」
「ほらじゃないですよ、覚えたって踊る訳にはいかないでしょ?兄さんに教えるつもりで覚えたに決まっています」
「ん」
「浩二が覚えろよ、次の宗主はお前だろ」
「ほう、その話をここで蒸し返しても良いんですね?」
「蒸し返すもなにも、俺は相続の一切を放棄して出奔した身だからな」
「去年の元旦に後継の儀は略式で滞りなく終わった事になっていますよ」
「え?」
「話し合いもせずに逃げ出すからそういう事になるんですよ」

 なにか聞き捨てならない事を言われたが、しかし確かにここでその話をグダグダ続ける訳にはいかない。
 伊藤さんが既に困ったような顔でこっちを見ているしな。

「まぁその話は今度じっくりとする事にして、本当に絶対安全なんだろうな」
「しつこいですね。これだけ精密にモニタリングしているのに何かあったら逆に驚きですよ」

 どうやら話の区切りが付いたと見た由美子が祭壇に歩み寄ると敬々しく礼をして柏手を二回打つ。
 これを四方で繰り返し、場を高めた。

「このマンション自体に結界がありますからね。神霊じみたモノも、その逆に雑鬼のようなモノも現れません。集まるのは純粋な霊気でしょう」

 ああ、なるほど、だから危険は無いと断言出来る訳だな。
 意思の無い霊気なら精神的な負担は無いだろう。
 伊藤さんは既に説明を聞いていたからか落ち着いたもので目を閉じてじっとしている。

「うーん、大したものですね」
「なにがだ?」
「ほら、モニタを見てください。本来なら外から霊圧が加わると、それを押しのけようと自分の霊気の範囲が広がり、いわゆるオーラが立ち上る状態になるものです。しかし、彼女からは全く霊気は漏れていません。これは無能力者ブランク特有の反応です」
「って事は普段は完璧に無能力者と同じ状態って事か」
「ある意味怪異に対しては最強と言って良いでしょう。まぁ守りに関しての話ですが」

 正直、俺としては伊藤さんが本当に無能力者であれば一番良かったんじゃないかと思うんだが、今更そんな事を言っても始まらない。
 しかし、このままでは彼女の特性を調べるという今回の目的上困るのではないだろうか?

「それでは今から状況の説明をします。良く『聞いて』くださいね」
「はい」

 うおっ、暗示か。
 どの口が安全だと言ったのか?
 とは言え始まってしまった以上騒ぎ立てる訳にもいかない。
 俺はおとなしく成り行きを見守った。
 何があってもこの先は浩二と由美子を信じるしかない。

「あなたの周囲は暗い、とても昏い闇の中にいます。それにちょっと寒い」

 祭壇の上の伊藤さんが目を閉じたまま不安気に周囲を見回す。
 右手で左腕をこするこうなしぐさをした。

「先の方がほんのり明るく見えてきました。誰かいますか?」
「隆志さんが、それとお父さんとお母さん」
「では少し急いだ方が良いでしょう。歩けますか?」
「いえ、なんだか足が動かないみたいなんですけど」
「それは困りましたね。急がないとほら、みんなが食べられてしまいます」
「えっ!」

 おいおい、設定が過激すぎないか?
 もっと優しく出来ないのか?
 伊藤さんは何が見えているのか一瞬硬直した後、叫ぶように大きく口を開けた。
 しかし声は漏れない。
 祭壇の周りの結界のせいで『声』は外に漏れないのだ。
 心が直接接続(リンク)しているのでお互いの意識は交わせるので伊藤さんからは会話しているように感じられるだろうが。

「残念でしたね。でも大丈夫です。さっきのはただの夢です本当に食べられた訳ではありません」
「あ、ああ……」

 ちょ、おい、すっごい動揺しているぞ、これってやっぱり一般人には厳しい内容なんじゃないのか?トラウマにならないよな?

「ああ、ほら、あなたは無事に大切な人の所へ戻ってこれました。良かったですね」
「あ、はい」

 これってあれだよな、子供たちがたまにやる肝試しみたいなあれだよな。
 一回安心させて次が本命という奴。

「あれ?でも、彼らの背後に何か……」
「あっ!」

 ちょ、お前もうやめろ、かわいそうだろうが、涙目だぞ、おい。
 伊藤さんはガクガクと震え出し、うっすらとその目じりに涙が浮かんでいる。
 なんだか虐めを見ているみたいですごくキツイんですが。
 とは言え暗示中に横槍を入れるとその被験者の精神にダメージが行く事もあるので下手に騒ぐ事も出来ない。
 そんな俺の気持ちなど知らぬ気に浩二はモニターを確認して一つ二つ頷いた。

「放射型ではないですね。あくまでも彼女の気は閉じている。しかし認識している存在を自分の内側に入れる事が出来るようです。やっぱり想定通り彼女の力は内包的な物なんですね。ここから更に発展させられる可能性はありますが、今の段階で確実な事としては、彼女は術士とは組めないという事ですね。普通の能力者ともまず組めないでしょう。術士や能力者にとっては逆に天敵のような存在とも言えます。異能キラーと言って良い」

 浩二はオフレコでそう告げると、リンク状態に戻して伊藤さんに声を掛ける。

「さあもう安心ですよ。夢は覚めて現実へと回帰します。夢の記憶は闇の中に置いて来てしまいましょう」
「はい」

 伊藤さんの表情から緊張が消え、由美子が鈴を鳴らしながら祭壇の周囲を巡る。
 なんとか無事に終わったようだ。
 うん、今回改めて分かったが、あれだな、こういう実験じみた事は自分は被験者の方が安心するな。
 テストする側ってのはキツイ。
 万が一の事故が無いように結界が張られているのは分かっても、隔離されているという状況はやっぱり怖いものだ。

「まぁ結界という物は術者の世界のようなものですからね。おいそれと身を任せたくないというのは当然ですよ」

 浩二が俺の顔を見ながらそう言って薄く笑った。

「僕が一般人相手に酷い事をすると思った兄さんが一番酷いと思いますけどね。まぁ兄さんが実験台になってくれるならもちろん酷い事をしますけど」
「わざわざそんな事を宣言しなくともいいわ!」

 こいつ自宅に実験施設を作っちまってるらしいからな、ちょっとはマジだと思っておいた方が良い。
 ますます実家に帰りたくなくなって来た。

「は、あ」

 伊藤さんが大きく息を吐く。

「お疲れ様、大丈夫か?なんか気分が悪かったりしないか?」

 解呪が終わったようなのでそう声を掛けつつ近くに歩み寄った。
 伊藤さんはちょっとだけ足をふらつかせたが、その後はしっかりとした足取りで祭壇から下りる。

「いえ、それどころかなんだかよく眠った後のようにすっきりしていてびっくりです」
「そうか良かった」
「それでどうだったんでしょうか?私お役に立てそうですか?」

 シュミレーターによるチェックが終わったばかりだというのに、さっそく伊藤さんは意気込んでそう尋ねた。
 いやいや、そんなに頑張らなくても良いから。
 そもそも本来は一般人なんだから、どっちかというと力を封印する方向で考えるべき所だろう?

「ええ、まぁ兄さんとは相性が良いと思いますよ。力のクラス的には判断が難しいですけど、防御、補助系と言って良いのかな?」
「脳筋と相性が良いなんて、不幸」

 ちょっ、妹よ、それはどういう意味かな?

「そっか、ありがとうユミちゃん」

 しかし伊藤さんはなぜかその言葉に嬉しそうに頬を染めた。
 なんか、うん、脳筋でごめんなさい。



[34743] 181:祈りの刻 その三
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2016/01/28 13:10
「一番の問題は彼女は意識して能力を使えないらしいという事ですね」
「どういう事だ?だって歌を歌えば力を使えるんだろう?」

 能力に対するテストが終わり、由美子と伊藤さんが二人でお茶の準備をするとか言って部屋へと戻った後、浩二との打ち合わせとなった。
 どのあたりまで彼女に話すのかという事と、今回分かった事がどの程度なのかという事の情報共有だ。

「あの歌はどうやら意識して唄っている訳ではないようです。いわば力を開放するキーの役割を果たしているのですが、感情が高まったとか、或いは何か切っ掛けが発生した時に無意識に歌が湧き出るようですね、脳波のモニタリングをしていたのですが、彼女が力を開放出来る時の脳の状態は人が夢を見ている時の状態とほぼ一致します」
「無意識状態?いや、トランス状態って事なら巫女にはよくある事だよな?」
「もちろん基本的に巫女が力を使う時にはトランス状態に自身を持って行きますが、巫女はそれを自分でコントロール出来ます。しかし彼女は自分でコントロール出来ないのです。大切な人が危ない時の興奮状態では力が発揮出来ません。むしろショック状態に近い虚脱の時の方が条件に近いですね」
「それって、本人が一番力を使いたい時に使えないかもしれないって事か?」
「その可能性がありますね」
「んじゃあなんであの時使えたんだ?」
「そこですね。普通の精神状態では難しいはずなんですけどね」

 疑問が残る。
 そもそも伊藤さんのこの力が開放される切っ掛けに白音が関わっているのではないかという事からして嫌な予感がしてならない。
 実の所、俺は終天や白音との因縁の詳しい所は誰にも話していないのだ。
 単純に強大な怪異の気まぐれでちょっかいを出されそうになった事があるとしか家族は認識していないだろう。
 なぜ話せないのかは俺自身良くわからない部分がある。
 ともかく、あの山の中の家での出来事は誰にも触れてほしくないという気持ちが俺にはあった。

「僕としては彼女をこの世界に引き込む事は反対ですね。能力自体は危険な物では無いのですから、非攻撃系の異能として当局に届け出て、封印処理をしてもらうのが一番なんじゃないですか?それとも兄さんは彼女をうちのパーティに加える心づもりでしょうか?」
「馬鹿言うな、彼女は戦いの訓練なんか受けた事もない一般人だぞ?うちのパーティに入れるはずもないだろ」
「それは良かった。彼女のご家族も安心ですね。当局に届け出用の正式なデータを纏めておくので手続きに使ってください」
「ああ、助かる。ありがとうな」

 俺がそう言うと、浩二はくすっと笑う。

「兄さんに礼を言われると、こう、何か反抗心というか、嗜虐心というか、なんだかつまらない気持ちになって怒らせてみたくなるんですよね」
「いや、お前、それなんかの病気じゃね?」
「不思議ですね。兄さんが僕達を捨てて国民の権利とやらを振りかざして大学に行って、就職をして、一般人として暮らそうなどと無謀な事をやり始めた時から、どうもそんな衝動に衝き動かされるようになったみたいです」
「ちょ、今更それを言うか?てか権利は権利だろ、お前だって由美子だって村の連中だって一応この国の国民としての人権は保証されているんだぞ?どっかの国みたいにそもそも戸籍がないって事もないし」
「結局ハンター稼業に戻って来たじゃないですか」
「ぐっ、それは清姫とか酒呑童子とかがいらん事を始めたからであって、俺の本意じゃないだろ」

 浩二は俺の言葉に冷え冷えとした目を向けると、口元だけで笑ってみせた。

「それは兄さんが目を塞いで自分の周囲以外を見ないふりでいたから出来た事でしょう?それを自分自身でも卑怯だと分かっていたからこそ、あんな何も潤いのない生活をしていたんじゃないんですか?テレビジョンのニュースを見ないようにして、仕事以外の事には目を向けない、そんな無味乾燥な生活が兄さんの言う充実した生活なのですか?正直に言いましょう。僕は彼女には感謝しているんです。兄さんが再び怪異と正面から向き合う気持ちになる切っ掛けを作ってくれたんですからね。だから僕は彼女のサポートに協力するんですよ。何も兄さんが大事にしている人だからという訳じゃない。その辺は誤解しないでくださいね。あの人が単に普通の幸せを兄さんに与えるだけの女性なら、早々に別れて欲しいと思っていたでしょう」

 うん、やっぱりこいつずっと根に持っているんだよな。
 実際俺も若気の至りとは言え、こいつらには悪かったと思っているんで強くは出れないが、それでも言うべき事はある。

「お前が俺をどう思っていようと勝手だが、彼女を巻き込むなよ?彼女は本来普通の生活を送る事の出来る女性で、ご家族もそれを望んでいる」
「もちろん僕だって一般の人をどうこうしようとか思う訳ないでしょう?そんな事出来るはずもないですよね?ただこれだけは僕でも分かりますよ。彼女は普通の生活とやらを望んではいませんよ。彼女は兄さんの助けになりたいと思っているんです。いい加減人の気持ちをないがしろにし続けるのはやめた方が良いと思いますよ。必ず思わぬしっぺ返しを受けますからね」

 うっ、弟の言葉が痛い。
 俺だってそこまでニブチンではない。
 伊藤さんが俺の役に立ちたいと思っているのは分かっている。
 しかし、俺としては彼女には帰るべき日常の象徴でいて欲しいのだ。
 これって俺のわがままなのだろうか。

「はぁ、ともかく自分の意思で力を使えない以上、封印やむなしなのは間違いないだろ?」
「まぁそうですね。それに届けておけば本人が望めばトレーニングを受ける事は出来ますからね」

 嫌な予想を促して、浩二はそう締めくくった。

 ◇◇◇

「男二人に比べてこっちは天国だな」

 部屋に戻ると、なぜか俺の部屋で二人が菓子作りを始めていた。
 どうやらいつの間にか伊藤さんが俺の部屋にお菓子作りの材料を買い置きしていたらしい。

「あの、そんな期待していただけるようなすごいお菓子じゃないんですよ?誰でも作れるパンケーキですから」
「作った事、ない」
「実を言うと俺も作った事ない」
「えっ!本当ですか?」

 伊藤さんはすごく意外そうに俺を見た。
 なんでそこで由美子じゃなくて俺を見るんだろう。

「隆志さんは器用だからお菓子作りとか普通にやっていると思っていました。料理も出来ますよね?」
「俺のレパートリーはカレーとシチューとチャーハンと袋ラーメン程度だぞ、それぞれちょっと工夫はするが」
「そ、そうなんですか?意外です」
「そもそも菓子は自分で作るものだとは思った事すらなかった。ああいうのは職人が作るもんだとばかり」
「意外です」

 ふむ、伊藤さんは俺をだいぶ買いかぶっていると思う。
 基本的に俺が作るのは煮込んでいれば出来る料理だ。
 色々考えずに済むからな。
 
「これ、焼く?」
「あ、うん、型に流し込んで、ね」
「これ可愛い」
「でしょ?」

 なにやら楽しそうだ。
 可愛い女の子が二人で楽しそうにしているのは見ていてなにかこう幸せなものがあるな。
 もし世界の幸せの形という物があるとするならば、それはこれだ、という感じの何かだ。

「あの、隆志さん、弟さんは?」
「うん?あいつは資料をまとめているから来ないと思うぞ」
「じゃあ、一緒に作るので持って行きますね」
「私が行く、ゆかりんはタカ兄とイチャイチャして」
「えっ!」

 ガシャンとフライパンが音を立てる。
 大丈夫か?

「今更、でもそこが良い」

 由美子が真っ赤になった伊藤さんを責め立てる。
 随分仲良いな、おい。
 今まで家族以外とあんな打ち解けた事なかったから、ちょっと感動してしまう。

「もう、そんな事言ってると焦げちゃいますよ!早くひっくり返して!って隆志さんどうして涙ぐんでるんですか?」
「タカ兄たまにああなる、気にしない」

 そんな感じで焼き上がったパンケーキは、バターの塊とメープルシロップ、おまけにアイスとフルーツまで添えられた本格的な物だった。
 しかし、あれだな、ハート型が少しずらして2枚重なっている可愛いパンケーキという物は、俺の前に置かれると絵面的にキツイものがないか?大丈夫か?
 由美子の分のパンケーキはキュートなくまさんの形、伊藤さんのはブタさんの形だった。
 焼き目がちゃんと入って絵柄が出来上がっている。
 どうやって作ったんだろう?
 浩二のはどうやらダイヤ柄だ。
 男のは手を抜いたな、君たち。

 由美子は自分の分と浩二の分を紅茶のセットと一緒にワゴンに乗せると、そのまま隠し通路に転がして行った。
 なるほど、隠し通路がバリアフリーだったのはああいう場合の為か。

 見送って、自分のパンケーキにバターを塗ってシロップを垂らしてナイフを入れる。
 正直に言うと早くハート型をなんとかしたかった。
 しかし縦に真ん中から切るのはさすがにヤバイと感じたので横に上下に出っ張っている部分を切り分ける。

「うん、美味い!」
「パンケーキは誰が作っても美味しいんですけど、ありがとうございます」
「いやいや、そんな事ないだろ?焼き加減とかあるよね。すごくふんわりしてて美味いよ、これ」
「あ、ありがとうございます」

 照れて赤くなった伊藤さんが自分の分にナイフを入れて食べていく。
 ちなみに俺たちの分の飲み物はコーヒーを淹れてある。
 俺は紅茶よりコーヒーが好きなんだが、伊藤さんもどっちかというとコーヒー派らしい。
 無言でカチャカチャ音を立てている俺たちの頭上を蝶々さん達がパタパタと旋回している。

「あのっ」「えっと」

 二人の声が重なって同時に黙りこむ。
 いやいや、付き合い始めのカップルじゃないんだから、何やってんだ俺。

「えっと、その、とりあえず当局に届ける方針で良いかな?その、異能の事だけど」
「あ、はい。それで、あの、……私、お手伝い出来るでしょうか?」
「え?」
「あの、少しでも、隆志さんのお手伝い、したいです」

 伊藤さんの言葉に、俺は一瞬硬直して、気を取り直して首を横に振った。
 それを見た伊藤さんが悲しい顔をする。
 とは言え、こればっかりはどうしようもない。
 伊藤さんは異能持ちになったとは言え、所詮素人だ。
 いくらなんでも無理な話だ。
 それに嫌な予感がする。
 このままなし崩しに非日常に伊藤さんを巻き込んでしまったら、思う壺だと感じるのだ。

(終天、お前、何考えているんだ?)

 底知れない眼差しで永遠の時を見つめているであろう神に近いモノ。
 俺としては決してヤツの手のひらの上だとは思いたくないのが本音なのだ。



[34743] 182:祈りの刻 その四
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2016/02/04 10:01
 伊藤さんが異能持ちになったからと言って職場では何がどう変わるという事もなかった。
 異能は登録義務はあるが、危険な物でないと認定されていれば調整用の装具を装着すれば普通に生活も出来る。
 職場に申告義務はないのだが、伊藤さんは一応課長に報告したらしい。
 
「長谷川課長、驚いていました」
「まぁ驚くよな。自分の部下にいきなり異能者が出たら。しかも今までは無能力者として認識してたのに」
「あ、実はそれなんですが」
「ん?」
「調整装置で一般人程度の波動放出が行えるようになったんです。ドアに触らなくても自動で開いてくれるのですごく便利になりました。でも、やっぱりつい触ろうとしてしまうんですけどね」
「あ、そうか。それなら今度体感型のムービーに行こうか?今まで体験出来なかった分を取り返すのも良いだろ」
「え、あ、は、はい!」

 俺の提案に伊藤さんは顔を赤くして勢い良く頷いた。
 基本的に感知システムは人の波動を感知して認識しているので、伊藤さんはこれまで自動ドアも無能力者用のサポートスイッチをわざわざ押して開けて通らなければならなかったし、相互波動の干渉による体感システムの恩恵も受けられなかったから体感式ムービーやゲームなんかも楽しめなかったのだ。
 未だに自分自身で波動のコントロールが出来る訳ではないが、コントロール用の装具を支給されたのでそれを使って一般人と同じように生活する事が可能となったのである。
 本来先天的な無能力者はこういうサポートすら受け付けないので伊藤さん的には思ってもみなかった副産物だろう。

「ふむ、社内でデートの約束をするとか、さすが、公認カップルは違うな」

 そんな俺達のテーブルにいつの間にか近付いていた男がニヤニヤ笑いを顔に貼り付けてそう言った。
 俺たちは現在会社の自分たちのフロアーの休憩室のテーブルで、弁当後の紙コップのコーヒーを啜りながら会話していたのだが、ついつい話に夢中になっていたようだ。
 そいつの接近にうっかり気付かなかった。
 まぁ、わざと気付かせなかったのかもしれないが。
 何しろ、本来は俺なんぞ及びもつかない高位能力者のはずだからな。
 我が商品開発課のおとなりの開発室の室長であり、我が悪友であり、同時に人としての高みに在る者の家系に生まれた魔導者でもある男、一ノ宮流先生である。

「いやいや、毎日違う女性からの愛情のこもった弁当持ってきているお前に言われたくないから」
「何を言っている、お互いだけを想っているという相思相愛という物はまた特別なものだ。誰もが憧れる夢物語じゃないか」
「夢物語とか言うな、一対一のお付き合いの方が普通だからな。お前の方がおかしいんだぞ?」
「ああ、これは失礼。お邪魔してよろしいでしょうか?伊藤さんには度々うちの手伝いもしていただいていてお世話になっているので改めて自己紹介もおかしな話ですが、これの友人としては初めて挨拶させていただきます、隆の友人をやっている流です」

 突然現れて俺たちをからかい始めた流にびっくりしたようにしていた伊藤さんだったが、そんな風に挨拶をされて、慌てて席を立って頭を下げる。

「あ、いつも隆志さんがお世話になっています」

 おお、何かこう、良いものがあるな。

「すでに新妻の貫禄がありますね。素晴らしい」

 そしてさすがは俺の親友であり悪友である。
 その姿に俺と似たような感慨を抱いたらしい。
 だが、あえて言おう、こんな場所で堂々とそれを口にするのはバカであると。

「ふえっ?」

 おおう、伊藤さんが変な声を出したぞ。
 すごく真っ赤になっている。
 ものすごく可愛いので俺的には目の保養だが、いかんせん、自分の彼女を例え親友であろうとも他の男がからかっているというのはいただけない。
 しかもそれが飛び抜けた色男だというのはもっといただけない話だ。

「うむ、流、お前今日から俺の敵な」
「大人げないぞ、隆、もっとどっしり構えていないと伊藤さんが困るだろう?」
「お・ま・え・が・言・う・な」
「あの、良かったらおすわりになりませんか?」

 俺たちの牽制し合う姿に動揺する事なく伊藤さんは流に俺の隣の席を勧めた。
 さすが気配りの出来る女性は違う。

「色ボケとるなお前も」

 流は俺をちらりと見ると、勧められた席に腰を下ろし、ハと、わざとらしくため息を吐いた。

「あ、ありがとうございます」

 何言ってるんだ!と、反論しようとした俺の機先を制して、伊藤さんがなぜかお礼を言う。
 いや、そいつに礼なんか良いからね。
 二人で話している時に割って入るとか、空気をわざと読まない男なぞ馬にでも蹴られてしまえばいいのだ。

「俺だって野暮はしたくないんだが、話を聞きつけてね。伊藤さん、未登録の巫女だったんだって?」
「おま、なぜそれを」

 俺は焦って周囲を見回した。
 周囲のテーブルとはある程度距離があり、しかもそれぞれお互い同士の話に夢中だったり、卓球台で遊んでいたりと、休憩室内は騒がしいので特にこちらに注目している人間はいない。

「大丈夫だ。誰もこちらに『注目出来ない』からね」
「おいおい」

 魔術とか魔法とか言うものとは一線を画した神の力に近いのが魔導だと言われている。
 とりあえず理屈が通じない力なのだという事だけわかっていれば良いような力だ。 
 一切の手順を必要とせず、その存在の意思だけで世界がねじ曲がる。
 こう言っちゃなんだけど、世の中には神に近い存在がゴロゴロしすぎていて、もうどうにでもしてくれって気分になる時があるんだよな。

「それでそれをなぜか知っている流さんはどういったご用件?」

 俺はちょっと投げやりに聞いた。
 伊藤さんはよく分からないのか、目を丸くして流と俺を見ている。

「巫女が幼い頃に保護されるのはその不安定さゆえに自我が崩壊しやすいからだが、思春期を越えてしまえばそれも安定する。逆に言えば思春期を越えた巫女に能力的な伸び代はないと言っても良い。だが油断するな、巫女は世界の影響を受けやすい。そもそも今更力に目覚めた事自体が問題だ。あまりこの事を軽く考えない方がいいぞ」
「それは分かってる」
「伊藤さん、このバカはバカだが頼りになる。だけど頭は結構固い男なんで、助けが欲しい時は遠慮なく頼ってくれ。バカがバカゆえに煮詰まった時なんかはおすすめの尻の叩き方を教えてあげられると思うよ」
「バカバカ言い過ぎだろ!」

 伊藤さんは俺たちのやりとりにくすっと笑うと、流に向かって頭を下げた。

「ありがとうございます。何かあったら頼りにさせてもらいます」
「ああ、彼女が出来たら途端に付き合いが悪くなった現金な男だが、まぁ一応親友のよしみで情けを掛けてやらんとしょうがないしな。それに伊藤さんにはうちのカオスな蓄積データを整理してもらった恩もある」
「え?何?手伝いの時にそんな仕事まで押し付けてたの?越権行為じゃね?」

 うちの課とお隣はお互いに助け合いで忙しい時には人員を回しあっているが、そんな本格的な仕事はさすがにやらせすぎだろう。

「あ、いえ、私が勝手にやりやすいように整理しただけなんです」
「伊藤さん甘やかしすぎだろ。そもそも開発室は研究にばかり熱を入れすぎて時々業務内容が明後日の方向に向いてる時もあるし」
「まぁその辺はね、研究者ばかりのうちの問題だよね。全然会社と関係ない研究始めてしまう事とかあるしね」
「あはは」

 全員事情を知っているだけに擁護も出来ない。
 それでも開発室がうちよりも優遇されているのは、多くの専売特許を取得し続けて来た実績と、流のカリスマのせいだろう。
 どう考えても流はうちみたいな二流メーカーにいるような男ではないのだ。

「まぁともかく何かあってもそう悩む必要はないって事だけ覚えていてくれれば良い。それじゃあ、後はお若い二人でごゆっくり」
「アホか、見合いの席じゃねえよ」

 ハハハと笑いながら立ち去る姿も決まっている流を目で追いながら、内心ちょっと頭を下げていた。
 以前流には伊藤さんとの事を相談した事もある。
 気にしてくれていたのだろう。

「良い方ですね」

 む、でも伊藤さんがそう褒めるとなんだか面白くない。
 なにしろあいつはモテるのだ。

「でも、隆志さんの方が素敵ですよ」

 ブフッ!と、俺は気持ちをごまかす為に口に含みかけたコーヒーを吹いてしまった。
 突然何を言ってくれちゃってるんだ、伊藤さん。

「あ、大丈夫ですか?」

 慌ててハンカチを取り出してこっちの口元を拭おうをするので、さすがに自分でハンカチを受け取って拭う。
 いくらなんでも社内で彼女に拭ってもらう訳にはいかない。
 てか、流の影響が消えたからか、周囲の視線が痛い。

「お、おう」

 まったく、伊藤さんにしても流にしても敵わないなと、思ってしまうのだった。



[34743] 183:祈りの刻 その五
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2016/02/11 11:44
「全くお前はいつも元気だな。元気が有り余っているなら俺に分けろ」
「は?何いってんの?おっさんはもう若くないんだから自重しろよ」

 響く木刀の音、村で同い年の子供たちや少し上の子供たちとはもう相手にならないので、今俺に剣を教えてくれているのはじっちゃんだった。
 それも真剣を使って教えるという大人気なさを発揮していて、ガキである俺としては呆れるしかない。
 その点、終天は分別のある大人で、ちゃんと木刀を使って相手をするし、ムキになって技や力で圧倒する事はなかった。
 ガキである俺でも分かるくらい終天は上手い。
 相手をする時はいつも俺を少しだけ上回る技量でいなし、攻撃し、叩きのめす。
 だからこそ、もう少しで勝てると思ってしまい、つい楽しくなって続けてしまって段々と力が篭ってしまうのだ。
 しかし、力が篭もり過ぎると全体のバランスが崩れて最後には見るも無残に負けてしまう。

「力の作用というのは結局の所バランスなんだぜ?強い力で打てば強い反発が返る。こうやって足元を掬えば支えを失いひっくり返る」
「おわっ!」

 ドスンと尻もちを付いた俺に、終天は豪放に笑いながら手を差し出した。
 終天の顔立ちはどちらかというと綺麗と表現した方が良い顔立ちなのだが、性格が奔放で豪快でどこか悪戯っ子のような表情をする。
 そのせいであまり美形という印象がなかった。
 まるでお伽話の英雄のようだと俺は思っていた。
 昔も昔、天衣無縫の武芸者が世を渡っていた時代の英雄のような男だった。

「もうちょっとと思うとつい突っ込んじまうんだよな。分かっちゃいるんだけどなぁ、この突っ込み癖」

 ちぇーと、言いながらガシガシと頭をかきあげる。
 この癖は元々は終天の物で、いつの間にか伝染っていたのだ。

「お前はいよいよとなると物を考えなくなるよな。まぁそれは武人としては問題だが、生き物としては案外とつええかもしんねえぞ?」
「なんだよ、それ」
「野生の獣って意味だよ、ガキだしな」

 大きな、しかし繊細な手が俺の頭をガシガシとかき混ぜた。
 
「何も考えられなくなるんなら、いっそ半端に物を考えずに勘任せで動いてみちゃどうだ?んん?大体なんでも半端なのが一番悪い。物事は何かを突き詰めた奴が最後には結果を出すのさ」
「またそんないい加減を言う。さっきはバランスを考えながら動けって言ったその口で!」
「ふふん、大人はいい加減なものなんだぜ」
「まったく」

 なし崩しに稽古なのか遊びなのか分からない木刀での打ち合いが終わり、そこへ気配をあまり感じさせずに花のような色合いの女性が近付く。
 手元には冷たいおしぼりと湯冷ましを乗せた盆があり、そこには蒸したお菓子も乗っていた。

「ありがとう白音」

 あまり口を開く事の無い彼女だが、俺と終天を見る時の目は優しい。
 礼の言葉を受けて微笑んだその様は、まるで春の光の中でほころぶ花のようだった。

 ◇◇◇

「う、ん?」

 チリーン、チリチリ、と言う、水晶同士が微かに触れ合う音を増幅した物が部屋に響いている。
 俺のお手製の目覚ましの音だった。
 起きてカーテンを開けると音は止まり、花に止まっていた蝶々さん達が舞い上がり戯れ始める。
 窓から差し込んだ日の光を受けて、その羽がキラキラと優しく光を弾いた。

 俺と言えば、なぜか朝からぐったりとしている。
 なんだか寝汗も凄い。
 違和感を覚えて目元を擦ると、濡れた感触があった。

「泣きながら目を覚ますとか、無いわー」

 夢見でも悪かったのか?夢の内容はまったく覚えていないが、最近伊藤さんの事ばかり考えていたから彼女に何かあった夢でも見てしまったのかもしれない。
 いや、縁起でもない。
 止めよう。

 今日は土曜日だったっけな。
 昨夜は少しビールを口にしたが、飲み過ぎる程は飲んでないし、体調が悪い訳でもない。
 気にするような事でもないか。
 それより今日は会社は休みで伊藤さんと約束があるんだった。
 あれだよな、政府の能力者訓練施設で設備を利用させてもらうんだったか。
 正直俺は未だに迷っていると言って良い。
 伊藤さんが下手に能力を開眼してしまうのが怖いのだ。
 異能の力なんぞ本人にとってみれば見えない手のようなもので、自分にとっても厄介だが、他人にとってみれば恐怖や畏怖の対象だ。
 ちょっとでも使い方を誤れば世間は決して許しはしない。
 本当はそんな物はしまい込んで普通に生きるのが一番良いのだ。

『そうやってまた逃げるのですか?』

 ふと、弟の、浩二の顔と言葉が浮かぶ。
 いやいや、俺は逃げたりした事は無いから。
 やりたい事をやりたいようにして来ただけだから、って、何自分の記憶に言い訳してるんだ、俺。
 まぁ何にせよ、伊藤さんの事を決めるのは伊藤さんなんだから、俺がグダグダ考えていても仕方がないんだよな。
 そんな風にややくたびれた気分で朝の準備をしていると、不意にドアホンが鳴った。
 マンション入り口からの連絡ではなく部屋のドアの方となると身内か伊藤さんしかいない。
 伊藤さんとはあと2時間後に駅で待ち合わせのはずだけから来る訳ないし、と思いながらドアホンに応えた。

「どうした?」
『おはようございます。こっちに来てしまいました』
「えっ、伊藤さん何かあったのか?」

 いくらなんでも早い。
 始発で来た時間だ。
 びっくりしてつい、以前のように苗字で呼んでしまった。

『いえ、あの、ご迷惑だったですよね』

 途端にシュンとしたような声になった伊藤さんに、俺は慌てて否定の言葉を返す。

「あ、いや、迷惑だなんてそんな事は、ともかく入って」

 彼女は鍵を持っているが、俺は自分から玄関のドアを開けた。
 見ると、おしゃれをした格好で、そぐわない買い物袋を持った伊藤さんがドアの前で真っ赤になって佇んでいる。

「あ、あの」
「うん」
「昨夜、グルメ番組でフレンチトーストの美味しい作り方を見て、どうしても、その、作りたくなってしまって、その時に隆志さんが一緒じゃないとつまらないなと思ったら、なんだか早く起きてしまって、気が付いたら買い物をしてここに」
「お、おう」
「ご、ごめんなさい!」

 伊藤さんは勢い良く頭を下げた。
 そんなに勢い良く頭を下げるとせっかく綺麗に整えている髪が乱れてしまうぞと、変な事が気になった。

「あ、いや、謝るような事じゃないだろ?美味しい物を食べられるのは俺も嬉しいぞ」
「あ、はい」

 伊藤さんは真っ赤になったまま導かれるままに中に入った。
 そしてうつむいたまま足早にキッチンへと向かう。
 最近、油断しているのか、伊藤さんがたまにこういった可愛い行動を取る事が多くなった。
 以前はきっちりとした真面目で頭の良い人といった印象だったのだが、最近はそうじゃないという事が分かり始めて来た。
 だけど、それは全然悪く無いし、むしろ良いと思う。
 伊藤さんは何かに夢中になると、それに没頭してしまう事があるようなのだ。
 そしてそういう自分を恥ずかしく思っているらしい。
 大丈夫だ伊藤さん。そもそも街の抜け道マップを作っている時点で、既に予感はしていた。
 そういう所も可愛いと思う。
 と言うか、むしろ尊敬する。

 キッチンを窺うと、フライパンの用意をしているようだった。

「お、もう焼くんだ?」

 フレンチトーストって下準備が結構大変だったような気がしたんだが。

「はい、家からパンは浸して来たんです」

 見るとチャック式の袋の中に溶液とパンが詰め込まれている。
 おお、なるほど。
 トレーに溶液と馴染ませておいたパンを出し、伊藤さんはおもむろに買い物袋からプリンを取り出した。

「プリン?」
「あ、はい隆志さんプリン好きでしたよね」
「うん」

 言いながら作業を止めない伊藤さんはフライパンでパンを焼き始めた。
 良い匂いが立ち上る。
 甘い優しい香り、休みの日らしい匂いだ。
 フライパンはジュウジュウと美味そうな音を立ててパンを焼き、両面を焼かれたパンが皿に置かれると伊藤さんはそれにプリンを掬って乗せた。

「お?」
「美味しいらしいんですよ?」

 たっぷりと盛られたプリンの黄色い部分がなんだかふわふわとしていてそれだけで美味そうだ。
 
「カラメルは残すんだ」
「はい。でもこれもデザートのアイスに掛けて使いますよ」
「なるほど、無駄がないな」
「もちろんです」

 そう言いながら、もう一枚パンが焼かれる。
 プリンの上にそのパンが乗せられ、フレンチトーストのプリンサンドといった感じだ。

「お~」
「美味しいらしいんです。一緒に食べましょうね」
「おう、楽しみだな。あ、コーヒー準備するよ」
「あ、お願いします。全部甘い物だからちょっと濃い目が良いですね」
「そうだな」

 伊藤さんのもたらした突然の幸せな時間に、その朝に見たらしい悪夢の事など霧散してしまったのだった。



[34743] 184:祈りの刻 その六
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2016/02/19 07:07
 迷宮の攻略は今は30層に手を掛けた所、と言う事になっていた。
 正直、迷宮のどこに潜っているのかはモニターしない限りは本人達にしか分からない事だ。
 最前線に潜り続けている冒険者の多くは政府からのモニタリング依頼を断り続けているし、引き受けているパーティは20層に届くか届かないかという所をうろついている。
 この頃、冒険者の間では30層に潜っているパーティがとんでもないお宝を得たという噂が広まっていた。
 すなわち「死者蘇生のアイテム」だ。

「それは、正確には違いますね」
「さすがに死者は蘇生出来ないよな」
「いえ、それは本当です」
「まじか!」

 俺は特区の孤児院でタネルと会っていた。
 例の「吸魂魔」事件(マスコミがそう名付けた)の犯人が捕まり、昏睡状態だった人々もなんとかほとんどが回復した後、タネルへの依頼の取り消しと、おみやげと様子見に来たのである。
 そのついでに最近特区で広まっているという噂についての話になった。

「いや待て、もし本当にそんなアイテムが発見されたのならもっと世界的な騒ぎになっているんじゃないか?」
「ええ、それには理由があるんです。このアイテムは迷宮の中でしか使えません。本来は脱出の為のアイテムなんです」
「脱出符みたいなもんか。そう言えばこの特区では政府からあの符は安く提供されているらしいな」
「まぁ安いと言っても何百万という金額ですから私達には全く縁のない代物ですけどね。ただ、以前から脱出符と同じ効果、いえ、脱出符は集団用ですから個人用の脱出符のような物は出ていたようです」
「噂も聞いた事ないぞ」
「そこは冒険者が秘匿していたんですね。今回のアイテムの件で噂が広がってしまってそれももう政府に抜けてしまったらしいですけど」
「なるほどなぁ、冒険者はまだまだ秘匿情報が多そうだな」
「まぁ彼らも命とお金が掛かっていますからね」

 タネルは俺の依頼の後、なんと冒険者カンパニーに潜り込んだらしい。
 孤児の彼らは冒険者的にはもう成人と言って良いが、日本政府的見解からするとまだ未成年だ。
 保護者がいない状況でパーティを組む事が出来ない。
 しかし、孤児院で世話をして貰える年齢はもう超えているので、自活する必要があった。
 そこで冒険者カンパニーにアルバイトとして面接を受けに行ったらしい。
 冒険者としての経験もあるという事で馴染みのある職場で働きたいという理屈は通っているし、あそこは冒険者の情報が集まる所という事で俺の役にも立てるという判断だったそうだ。
 こいつマジで頭良いな。

「あ、言っておくが、口外禁止されている話は何か問題が無い限りは俺に流さなくても良いからな。守秘義務ってもんがあるんだろ」
「あ、はい。でも良いんですか?」
「バイトとは言え職業意識は大切だろ、社会人としての常識だ」
「冒険者相手に常識を考えるのは難しいと思いますけどね」
「それで肝心の蘇生アイテムについてだが」
「はい。そのアイテムを使うと、死者も蘇った状態でセーブポイントで復活するらしいです」
「ちょ、待て、なんだそのセーブポイントってのは」

 ゲームかよ!と、ツッコミたいのを我慢する。

「そのアイテムに設定されているようです。セーブポイントを決めておくと、アイテムを使った際にそこにリセットされた状態で戻るのだとか」

 リセットってなんだと再びツッコミたいのを我慢して疑問点を確認した。

「セーブポイントとやらを決めてない時はどうなるんだ?」
「その場合はゲート前に出るようです」
「ああ、なるほど、それで存在自体はバレたって訳だ。んでリセットってのは」
「戻る時はゲートに入る前の状態になって戻るという事です」
「それって記憶とかもか?」
「そうですね」
「う~ん、蘇生アイテムとしては確かに凄いが、脱出アイテムとしては微妙かな。ダンジョン攻略に使えるようで使えない」
「潜っていた間の記憶が無くなるのは問題ですよね」
「しかし、蘇生ね、……それってつまり、その先に死に戻り必須のダンジョンがあるって事だよな」
「あ、さすがですね。冒険者のトップパーティもそう考えたようです。しばらくはこのアイテムが出る層でアイテム集めをするらしいですよ」
「ん?」

 それまでの会話の中でふと気になる事があったので聞いてみる事にした。

「その蘇生出来る脱出アイテムってのはやっぱり個人用なのか?」
「あ、と、大事な事を言い忘れていました。はい、このアイテムも個人用なのだそうです」
「うわあ、厳しいな」

 パーティで個人で脱出されると戦力が低下する。
 しかもそれが死ぬかもしれないという場面なら尚更だ。
 死ねば戻れると分かっているなら最後まで粘るかもしれんが……。

「そのアイテムの発動条件ってのはなんだ?」
「アイテム破壊ですね」
「う~ん」

 死んだ時に都合よくアイテムが壊れてくれれば良いが、壊れなかったらそのまま死んでしまうのか、その場合は仲間が壊せば良いのか、そんな余裕があれば良いが、それに仲間を信用出来るのかどうかの問題もあるよな。
 長年一緒にやっている冒険者は家族よりも絆は強いと言うが、そんな連中ばかりでもないだろう。

「あ、それと、このアイテムで死者蘇生出来るのは死後ちょっきり1分までだそうです」
「1分?それはまた」

 短いな、と考えて、俺はふと疑問に思った。
 その時間をどうやって測ったのだろう?

「その時間どうやって調べたんだ?」
「さあ?」

 その辺りについてはタネルも知らないらしい。
 そもそもバイトであるタネルがここまで詳しい方が凄いのだ。
 と、そこへ部屋のドアからノックが響いた。

「失礼します。お話、終わりましたか?」

 ビナールだ。

「ああ、丁度終わった所だ。どうぞ」
「はい」

 ビナールは木製のトレーを持ってドアを開けると中に入って来た。
 トレーに乗った皿の上には何か盛られている。
 俺の持って来た菓子ではなさそうだ。
 と言うか、俺の持って来た菓子はここの子供達とこの兄妹用なので出されても困るが。

「お?もしかしてビナールの手料理か?」

 美しい刺繍入のスカーフで綺麗に頭髪を纏めている彼女は普段着でも華やかに見える。
 異国風の顔立ちはこの辺りでは珍しくもないが、やはり倭人からするとメリハリがある分だけ印象が強い。
 そう言えば飲食店でバイトをしているらしいが、さぞやモテるんだろうな。

「はい、ちょっと甘いので、お口に合うか分かりませんけど」
「お~パイか、パイって作るのに手間が掛かるんだろ?」
「そうですね。でもこれはパイじゃなくってバクラヴァって言うんです。故郷でお母さんが良く作ってくれたお菓子なんですよ。今日のは胡桃を入れていますけど、私達が子供の頃食べた時は中身は無しの事がほとんどでした。それでもとても美味しかったんです」
「へえ~」
「懐かしいな」

 タネルがしみじみと良いながら一口頬張る。
 俺も1つ手にして食べてみた。
 確かに甘い、が、しっとりとしていながらパイのような歯ざわりが気持ちいいし、胡桃の歯ごたえとふわりと口の中に広がる香りが既に美味しい。

「こりゃ美味いな」
「紅茶は思いっきり濃く淹れてみました」
「お、ありがとう。ビナールも一緒に食べて行くんだろ?」
「はい。そのつもりで私の分の紅茶もあります」
「案外ちゃっかりした妹なんですよ」

 タネルは少しため息を吐くと、ちらりと妹を見て、何も言わずにもう1つバクラヴァを口に入れた。

「そう言えば、木村の彼女は同じ職場の人なんですよね」

 咀嚼が終わるとそんな事を聞いてくる。
 俺にとってはちょっとタイムリーな話題だ。

「ああ、うん。まぁ彼女も元冒険者の娘だから、全くの一般人って訳でもないが」
「ああ、それならハンターの仕事にも理解がありますよね」
「その辺はやっぱりあるだろうな。本当の一般人からしたらハンターなんて物語の登場人物みたいなもんだろうし」
「そうですね。恋愛や結婚には理解と共感はとても大切だと思います」
「なんだやけに実感があるな。タネルも好きな娘とか出来たのか?」
「えっ?いえ、違いますよ。私はまだ恋愛などにふけっている暇はありません。たくさん勉強しないとなりませんから」
「う~ん、そんなに肩肘張る事はないと思うぞ。勉強は大事だけどそれで何かを制限する事はないだろ。恋愛だって人間関係の勉強と言えば言えるし」
「やっぱりそういうのは生活を安定させてからですよ。私達は実際の話、ここの孤児たちよりも寄る辺もないと言って良いかもしれませんからね」

 タネルの言葉に胸を突かれる。
 親族もいない異郷の地で未成年の兄妹だけ、孤児院ではあくまでも手伝いを兼ねた客分であって早く住居も見付けなければならないが、収入が安定しないとそれも難しい。
 確かに恋愛とか考えられないよな。

「わりぃ」
「え?いえ、謝ってもらうような事ではありません。私達の事を思ってくださっているのでしょう?本当は迷宮の中で救っていただいただけで望外の恩を受けたのです。その上、何かと気にかけてもらって、本当にありがたいと思っています」
「私達、いつかきっと木村に恩返しをしたいと思っているんです。だからちゃんと自立したいのです」

 タネルの言葉をビナールが引き継ぐ。
 いやいや、そんな重く受け止められるような事を俺は何もしていないぞ。
 孤児院に受け入れてもらったのだって、今働いている場所だって彼らの父親が残したものだったり彼ら自身が動いた結果だ。
 俺は単に様子を見に来ているにすぎない。

「それに今回の仕事では成果は出せずに既に解決してしまったのに仕事料をいただいて」
「それは正当な報酬だからな。こっちで勝手に解決したからお前らが働いた分がなくなる訳じゃない。実際有用な情報も貰ったし。出来れば引き続き情報を貰えるとありがたい」
「はい」

 迷宮に潜っている冒険者の中に後天的な特異能力者や、怪異の感染者キャリアー変異者イマージュが今後も出て来るのは間違いがない事だ。
 その情報を出来るだけ早めに握っておきたいという気持ちがある。
 だからこそ、特区の中で生活している彼らの情報は貴重なのだ。

 それにしても死者蘇生か、やってくれるぜ。
 俺は今後起こるだろう騒ぎを考えると頭が痛い思いだった。



[34743] 185:祈りの刻 その七
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2016/02/25 12:36
 伊藤さんに巫女としての能力が開眼したからと言って、日常はさして何が変わる訳でもなく、職場でもいつも通りに過ごしていた。
 それと言うのも伊藤さんの異能に関して色々ためしてはみたものの、自発的にその能力を使う事が出来なかったという事もあるのだろう。
 力を発現出来るようになって修行となったらまた違った日常もあったのかもしれない。

「突然発現した異能力なんて本人にとってみれば腕に貼り付いて離れない刃物のようなもんだ。むしろ使えない方が良い」
「でも、存在するのに使えないのはいわゆる宝の持ち腐れという奴でしょう?もったいないですよ」
「もったいないって……いや、う~ん、それは確かにそういう感覚はあるかもしれないけどな」

 いつものごとく昼食時に話し合いをしているのだが、伊藤さんはかつてない程自分の降って湧いたような力に固執しているように感じられた。
 彼女には超人願望のようなものは無かったと思うのだが、やっぱりあるとなれば使ってみたいというのは確かにあるんだろうな。
 その辺は俺にも理解は出来る。
 それにいざという時に制御出来なくて危険に陥るのは能力者の定番でもある。
 適うことなら使いこなしたいというのは当然の話だろう。
 俺としては日常の中で普通に過ごしていて欲しいのだが、開眼してしまったものを今更どうしようもないしな。
 そんな風に異能力に否定的な俺を非難した伊藤さんだったが、しかしすぐにその勢いは減じてしまう。

「でも今はあまり考えたくないというのも正直な所ではあるんです。制御訓練施設で酔ってしまってご迷惑をかけてしまいましたから」
「あー、あれは辛そうだったな」

 政府肝いりの能力者の訓練施設だが、その中には制御訓練用のシミュレーション設備がある。
 ゲーム感覚で操作出来るので突然能力が発現した人間にも使いやすいし、人気がある設備なんだが、どうやら伊藤さんはその設備で自律神経がおかしくなってしまったらしく、ゲームで言う所の3D酔いのような症状を発症してしまったのだ。
 よっぽど堪えたらしく、もうあの施設に行きたくない気持ちになってしまったらしい。
 あれってシステム的には確か共振作用を利用しているんだよな。俺もあんまり詳しくないが、振り幅の大きい波動を本人の波動と重ねる事によって能力制御を学ぶような仕組みだったはずだ。
 波動を無意識にシャットアウトしてしまう伊藤さんには合わなかったのかもしれない。

「とりあえず、今日は午後から新製品のリサーチ結果についての検討会があるので、この事は一旦おいて置きましょう。商品改善についての提案をしなきゃならないですから」
「あーあれな。冒険者向け商品が評判良いのは良かったけど不正改造が多くて、改造の結果のクレームが増えているんだったよな。そもそも違法改造しているのに販売元にクレームってどういう事なんだろうな、意味がわからん」
「冒険者の人たちはこの国の常識に縛られていませんからね。発想の自由さが彼らの真骨頂でもありますし」
「その辺は優香に一日の長があるよな、冒険者に対する理解度で」
「理解なんて出来ていませんよ。何かを完全に理解する事なんて出来ないんじゃないでしょうか?でも、共感する事は出来ますし、その人がどう感じているかは聞いて確かめる事も出来ます。常に理解しようとする事が大切だと思うんです」
「なるほど、優香は冒険者に対して真摯なんだな」

 伊藤さんは俺の方を見てにこりと笑ってみせる。

「そうありたいと思っているだけです。けっこう口だけなんですよ、私」
「優香が口だけなら俺と付き合う事もなかったと思うけどな」

 そう告げると伊藤さんはたちまち赤くなった。

「それは私が隆志さんにアタックしまくった恥ずかしい女と言う事なんでしょうか?」
「いや、そういう意味じゃないけど」

 俺が慌ててそう言い訳をすると伊藤さんはムムムと口を引き結んで俺を上目遣いで睨んだ。
 うん、それ怖くないから、むしろ可愛いから、今端末取り出して写真撮ったりしたら怒られるだろうな。
 緊張感のない俺たちは、屋上庭園でいつもの昼食を終えたのだが、その後の会議でとんでもない話になるとはその時は夢にも思っていなかったのだった。

 ◇◇◇

「えっ?それって特区でって事ですか?」
「ああ、もちろん会社の方で独自に現地案内人を雇って安全性は確保して行うという事だが、さすがに場所が場所だから全く知識の無い人間は当てられないからな。そこで白羽の矢が立ったのが君と伊藤さんという訳なんだ」

 会議で出された会社からの要請は俺の予想だにしないものだった。
 すなわち現地で直接クレームの詳細を把握して来るようにとのお達しだったのだ。
 しかもその要員に選ばれたのが俺と伊藤さんだという。
 いや、俺は分かる。
 課長以上のお偉いさんには俺がハンターだって事はもう知られている話だ。
 しかし、伊藤さんはどうなんだ?まさか俺と付き合っているからといかいう理由じゃないだろうな。

「俺はともかくなんで伊藤さんなんですか?」
「そうですよ!いくら職場内恋愛をしているからって厳しすぎませんか?」

 と、なぞの抗議をかましたのは伊藤さんの同僚の御池さんだ。
 伊藤さんの先輩にあたるが、同年代の友人のように仲が良い二人なので、きっと理不尽な会社命令に憤りを感じたのだろう。
 しかし、だ、なんでそこで社内恋愛の話になるんだ?見てみろ、伊藤さんがいたたまれないという感じに真っ赤になってるだろ!
 課長が困ったようにコホンと咳払いをした。

「そういう事ではなくだ。彼女の対人スキルに会社側としては期待しているという事なんだろう」

 ああと、俺は納得した。
 そうか会社側は彼女の父親が元冒険者というのを把握しているな、と。
 今回の異能力登録の届け出と併せて身辺調査されたか。

「まぁ二人だけじゃあ仕事じゃなくて単なるデートになってしまうんじゃないか?と疑う気持ちは分かるんで。今回は私も同行する事になった」

 と、そこへ割って入ったのが流である。
 え?マジで?
 課長がびっくりしてるけど、マジで?

「あの、一ノ宮室長、伺っておりませんが」

 やっぱりな。

「それは部署が違うからではないでしょうか。私と彼らが開発のリサーチチームとして現地に赴くという事になるようですよ」

 嘘だ。
 絶対今ゴリ押しで決めるつもりになっただろう。
 会社としてこいつを危険地帯に送り出すはずがない。
 そもそもバックが危険すぎてこいつに無茶させる度胸がある奴なんかいるはずがないのだ。
 しかし、逆に言えば、こいつが無理を言い出したら、本人が諦めない限り会社にも止められないという事でもある。
 これはとんでもない事になったな。
 もちろん会社側としては特区と言っても明るい観光客向けの表通り辺りのリサーチで事を済ませる予定だったのだろうけど、それでは本当に知りたい事には届かない。
 違法改造なんて表に顔を出す冒険者に尋ねたってうまく躱されてしまうのが目に見えている。
 どうしたって少し潜る必要があるだろう。
 そんな事を一般の二流どころのメーカーであるうちの会社が理解出来るはずもない。
 成果を出すには危険に踏み込むしかないのだ。
 流が突然噛んできたのはそれを理解した上で、会社に対する牽制もあるのだろう。
 ただ、実際に現地に行って調査をしたいという事もあるのかもしれない。
 現地ガイドか、こうなったらもういっそ知り合いで固めてしまうか。
 会社名義ならタネルを雇っても迷惑も掛からないだろうしな。
 しかしまさか、ハンターの方でなく仕事絡みで特区に入る事になろうとは、予想もしていない事態だ。
 俺は真っ赤になってうつむいたままの伊藤さんと、流の登場にちょっと呆けたようになって見とれている御池さん、そしてタラシ野郎の我が親友である流のしれっとした真面目な横顔を見ながら、なにかこう、いつもとは勝手の違う成り行きに不安を覚えないではいられなかったのである。



[34743] 186:祈りの刻 その八
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2016/03/03 11:32
 会社のミーティングルームで最終打ち合わせを行い出立する。
 伊藤さんが事前に特区タクシー、俗に言う特タクの往復チケット付きのアパートメントホテルの手配をしてくれて、現地にとりあえず1週間の長期滞在をする事となった。
 しかし特区に長期滞在と言うのもおかしな話だ。
 地理的には特区は会社からごく近いのである。
 なにせ徒歩で20分程で到着してしまう場所にあるのだ。
 だが、一般人がこの特区へ入るにはいちいち手続きが必要でその度に少なくない料金が掛かってしまう仕様なので、中で仕事を行う場合には特区内に滞在して仕事をした方が効率が良いという事情があった。
 特区はハンターや軍人などにはほぼフリーパスの出入り自由な場所だが、会社の人間として仕事に出向くにはまるで外国に行くような不便さがあった。
 実際の話、特区観光は需要が多く、週末にひと時のスリルを求めて特区に行こうとする一般人は案外多い。
 だが、特区の中と外では犯罪率の桁が違うのもまた現実で、政府の一般人が特区入りする事、冒険者が特区外へ出る事に対する規制は段々と厳しさを増していた。
 俺はハンターとして特区に入るのはしょっちゅうだったが、一般人として入るのは初めての経験になる。
 そして、その手続きの煩雑さに驚いた。

「身分証明と滞在証明を兼ねたパスポート申請が必要とはな」
「お役所の部署を3つぐらいたらい回しにされました。旅行社などを挟むとまだ手続きを簡略化出来るらしいんですけどそうすると小回りが効かないんですよね。フリープランありの企画でも旅行社に責任があるので行動制限があるんです」
「まぁ仕事だし、観光じゃないしな」
「どうもお役所の方でも次々と仕様が変わるせいで把握しきれてない係の方が多くて、結局自分で調べて書類を揃えました」
「ご苦労様です」

 伊藤さんに頭が上がらない。
 おそらく彼女がいなければまともに動きまわる事すら出来なかったのではないかと思われた。

「あれだね、特区に大企業がなかなか進出しない理由がこの手続の不透明さにあるんだろうね。仕様の変更が甚だしい」
「コンビニはけっこう進出しているけどな」
「あれは特区内部で独立店舗として登録しているからね。フランチャイズ形式の有利さだろうな」
「ようするに特区内は別の国と思えば良い訳だ」
「それも政情不安な国だな」
「お二人共物騒な話は止してください」

 スーツ姿の男女3人が特区ゲート前の待機列で穏やかならぬ会話を繰り広げているので周囲の旅行者や移住希望の冒険者などがチラチラと視線を投げて寄越している。
 俺たちの他に営業目的の会社員はいないかと言うとそうでもなく、セールスマンっぽい人間は何人かいるようだった。
 しかしそれらの人間は大方一人であり、俺たちのように女性込みの数人連れは珍しい。
 しかも俺たちの出で立ちがちょっと特徴的だった。
 伊藤さんはビジネスマン仕様のバックパック、流はスーツケース一つ、俺はと言えばごついバックパックと片手にさらにごついコロ付きのジュラルミン製のアタッシュケース持ちだ。
 何と言うかバランスが悪い3人組である。

 伊藤さんは待機列が結構長い事を分かっていたようで、水筒からコーヒーを紙コップに注いで俺たちに配ってくれた。

「どうぞ」
「おう」
「ありがとう、気遣いが嬉しいね」

 流が伊藤さんに微笑み掛けると、彼女の頬が紅潮するのが分かる。
 これは決して伊藤さんが流に心惹かれているからではなくって流の特性のようなものだ。
 断じてムカついていたりしない。
 その上周辺の若いお嬢さんは元より、ある程度年齢の幅のある女性方からも何か熱い視線が流に向いているのも気にしたら負けだ。
 そんな空気の中で伊藤さんがくすっと笑った。

「一ノ宮室長って前々から思っていましたけど、天然でそういう方なんですね。時々びっくりしてしまいます」
「そうか?あまり驚かせないように注意しないとね」
「そういうのがもう、スゴイです」

 クスクスと笑う伊藤さんが楽しそうで、俺は急激にイライラし始めた。
 いや、大人げないとは分かっているんですけどね。

「隆志さん」
「お、おう?」
「こういう方って同性には嫌われそうなのに親友として付き合っている隆志さんって本当にスゴイですね。さすがです」
「隆はあれだ、マゾっ気があるからな」
「ねえよ!人を変態扱いすんな!」
「あはは」
「単に考え方が似ているからウマが合うだけだよ。こいつも技術オタクだし」
「失礼な。技術の可能性を追求するというのは人が夢見るロマンだろう?こんな事が出来たらどれほど良いだろうと誰もが考えるものだ」
「四六時中は考えないな」
自動人形オートマタを分解して一人でニヤニヤしているのも傍から見ていると変態っぽいぞ」
「あれはお前が100年前の博物館入りしてもおかしくないやつを分解修理してくれって持って来たからだろ!別に俺が趣味でバラした訳じゃないぞ、誤解されるような事を言うな!」
「お二人共仲良くってちょっと嫉妬してしまいます」
「う、え?」

 伊藤さんの言葉に我に返った俺は彼女を省みてギョッとした。
 少し口を尖らせて不満そうにしているのだが、その様子が可愛すぎたのだ。
 駄目だろう、こんな公衆の面前でそんな顔してちゃ。
 俺はゴホンとわざとらしい咳をして彼女の正面に回り込んでその顔を周囲から隠した。
 伊藤さんは急に立ち位置を入れ替えた俺にちょっと驚いたようだったが、正面に向かい合って笑い掛けると嬉しそうに笑い返してくれる。

「うむ、これは俺こそが辛い立場だと思うけどな」

 流が意味不明のボヤキを発したが、とりあえず無視した。
 そもそもお前は彼女を一人に決めろ!話はそれからだ。

 小一時間程してようやく検問所に到着した。
 平日なのにこの待ち時間は酷いな。
 特区の出入りに使われるゲートは合計3箇所あり、その内の一つは公用だ。
 軍人や俺たちハンターはこの公用ゲートから出入りしている。
 そのためこの一般用のゲートから入るのは実のところ初めてだが、ゲートでは順番に検問のチェックが一列で一人一人行われているのだ。これは時間が掛かるのも当然だろう。
 二箇所ある一般用のゲートの内、駅に近いこっち側は混みやすいとは聞いていたが、驚きの効率の悪さだ。
 せめて2列以上にしてチェックは複数ルートで行って欲しい。
 術式陣による荷物チェックの後、「特区の歩き方」なる冊子を手渡される。
 特区庁のかわいいのかキモいのかわからないキャラクターがまるで子供に解説するかのように案内をするようすがマンガ形式で描かれていた。
 うざい。

「暗い路地には入り込まない。道路に設置してある街灯に沿って移動するようにしましょう。何かあれば街灯の下に付いているアクリル板を押し破って通報ボタンを押してください。なるほど、いきなり犯罪に対する対処方法が書かれているという事は、話に聞いていたより危ないという事なのかな?」
「そう思ってくれた方が良いという事だろう。自分の身を守る気がない奴を守るのは大変だからな」
「実感がこもっているな」
「下手に腕に覚えがある奴の方が面倒くさい事になりやすいんだよな。自分が弱者だという意識のある人間の方がちゃんと危ない事を避けられる」
「自信過剰な人間程我が身を滅ぼすという事だね」
「あ、ここがタクシー乗り場ですね」

 俺たちが冊子を読みながら色々言い合っている間に伊藤さんはタクシー乗り場を発見し、俺たちを手招いた。
 まずはアパートメントホテルにチェックインという予定になっている。
 俺と流で1部屋、伊藤さんが隣の1部屋、食事などは付いてない家具付きの部屋で、キッチンがあるので自炊も出来るらしい。
 家具付きのアパートを1週間借りると思えば分かりやすいだろう。
 伊藤さんの話では外の人間向けのそこそこ悪くないホテルを選んだという事だった。
 上にはまだまだ一流のホテルなどがあるが、長期滞在なのであまり高い所は会社に負担が大きい。
 冒険者やバックパッカー向けの宿だと一部屋に知らない人間が詰め込まれる大部屋形式の宿が基本なので、荷物に不安がある。
 伊藤さんが予約した宿は長期滞在型のビジネスマンや旅行者の評判が良い場所との事だった。

 俺たちがタクシーに乗ってホテル名を言うと、運転手も知っている名前だったようだ。
 有名な所なのか。
 ああそういえば往復のタクシーチケット付きのホテルだ。そりゃあタクシーの運転手も知っているよな。
 そんな感じで通りを見ながら走って、タクシーが停まったのは大通りに面した一画だった。

「マンションかな?」
「マンションだな」
「マンションですね。それにおしゃれです」

 目の前にあったのはレトロな雰囲気のあるいかにもマンションという感じの建物だった。
 日本のというよりも、海外のデザイナーズマンションっぽい感じだ。
 曲線が多い女性が好みそうなちょっとアンティークでおしゃれな雰囲気の建物である。

「大通りに面しているし、安全性は高そうだ」
「特区庁にも近いし、軍の駐屯地からも遠くないしな」
「かわいいですね」

 それぞれの感想を口にして、見上げた建物は実際、悪くない雰囲気だった。
 俺と流だけだったらちょっと気恥ずかしかったかもしれないが、伊藤さんが嬉しそうだし派手という事もない。
 全体的には落ち着いた雰囲気のある場所だった。
 とりあえず部屋に荷物を置いて落ち着こう。
 その後俺と流の部屋でもう一回打ち合わせかな。
 ハンターとして特区を訪れた時とは全く違う新鮮な気持ちで特区に向かい合う。
 なにか不思議な感慨があった。



[34743] 187:祈りの刻 その九
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2016/03/10 12:00
 部屋の中は清潔感があり、テレビジョンとテーブルとソファのある居間とトイレ付きの風呂と小さめのキッチンが1つ、寝室が2つと個別のトイレがもう1つある。なかなかゆったりとした造りだ。
 ベッドルームは片方はベランダ付き、片方は出窓でウォークインクローゼットがあった。
 協議の結果、俺がベランダ付きを、流がウォークインクローゼットのある方を選ぶ事となる。まぁ流は衣装持ちなので当然と言えば当然か。俺は服なんぞ着替えのシャツとジャケットと下着ぐらいだ。
 携帯用の電算機の端末はそれぞれのベッドルームに設置して書類仕事はそこで行う事とする。
 専用共鳴を利用した会社用のクローズドネットの接続が出来るかを確認して、会社に到着の報告を入れておいた。

「よし、てかなんか仕事というよりも旅行気分だな」

 学生時代は良くチームで日本中を遠征したものだが、こういう宿泊施設に泊まる事は実は少なかった。
 大体は依頼者の家に泊まったり、野外テント生活だったりで、まともな宿泊施設を初めて利用したのは中学校の修学旅行が初めてだ。
 そのため宿泊施設イコール旅行という意識が俺の中にはあるのだろう。

「それにベッドがやたらでかいな、家族サイズか?」

 一人で使うにはちょっとどうかと思うような大きさのベッドが部屋の大半を占めていて、スペース的にもったいない気がする。
 まぁ普通は旅行客が使うという事を考えればベッドは大きい方が良いのだろう。
 何かをするには睡眠が大事だからな、特に体力を使う特区の散策とかは絶対に疲れるはずだ、体も気持ちも。
 とりあえず少ない荷物の片付けも終わったので居間へと戻った。
 流はまだ来ていないのでキッチンを覗いているとノックの音が響く。

「あ、はい」

 おお、画像付きのインターフォンがあるぞここ。

『あ、隆志さん、片付け終わったので来ちゃいました』
「あ、ちょっと待って開ける」

 見た目はマンションなのだが入り口は自動錠になっていて閉めたらそのまま鍵が掛かってしまう仕組みなので、開けておく事は出来ない。
 これって鍵を持ち出し忘れたら大変な事になるな。ポケットに入れておくか。
 玄関扉を開けるとそこには目をきらっきらさせた伊藤さんがいた。
 どうした?伊藤さん。

「お部屋、すごく可愛かったです」
「そうなんだ」

 伊藤さんは入るなり俺たちの部屋を見回した。
 特にソファーをしげしげと見ると、ちょこんと座る。
 スーツ姿からややラフなワンピース姿になっていてなんとなく社会人というより高校生ぐらいのお嬢さんのように見えた。
 うん、可愛い。

「こっちの部屋の方が大人向けって感じがしますね。私の部屋はアンティーク調の家具でまとまっていて、とても可愛い感じでしたよ。後でお二人でいらしてください」
「え?いや、さすがに女の子の泊まっている部屋に男二人が押しかける訳にはいかんだろ」

 なんせ自動錠だから入り口を開けておくという事も出来ない。
 なんかで止めておけば開けておけるかな?

「日のある内なら良いんじゃないでしょうか?自分の部屋というよりも宿泊施設ですし」
「招くのは付き合っている隆だけにしておくのが無難だろう。俺は遠慮しておくよ、馬に蹴られたくないしね」
「馬?」
「流お前なにすっかりくつろいでるんだ?どうせすぐ食事を兼ねて下見に出るんだぞ」

 日本のことわざに詳しくない伊藤さんが戸惑っているが、さすがに俺から説明しにくい。
 というか、流のやつ部屋着に着替えているし。マジで旅行気分かよ。

「その時はまた着替えるさ。部屋にいる時に外向きの服装は息が詰まる」
「その気持ち分かります。部屋にいる時は楽な格好が良いですよね」
「そんなもんか」
「お前のように自宅でも完全武装の奴には分からないだろうな」
「さすがに家で完全武装は無いぞ、防刃シャツとナイフぐらいは装備しているけどな」
「ほらな」
「さすがです」

 何がほらで何がさすがなのか分からないが、なんとなく居心地が悪くなった俺はキッチンへと逃避した。

「ここ、うちのコーヒーメーカー置いてあるぞ。ああ、でもコーヒー豆が無いな」
「あ、それじゃあ買い物リストを作りますね。コーヒー豆を1週間分と、お米も買っておきましょうか自炊しますよね?」
「あ、そうか、自炊出来るんだよな。そうすると野菜や肉とかも買いにいかないと駄目だな。っと、調味料のたぐいもないし」
「一気に所帯じみて来たな」
「ご飯はここのキッチンでまとめて作りましょうか?その方が材料も無駄が出ないですし」
「そうだな、調理当番は交代制で良いか」
「ちょっと待て」

 俺と伊藤さんが大まかなルール作りを始めていると、流が急にストップを掛けた。

「なんだ?」

 流は酷く真剣な顔で俺たちを見ている。
 まさか高級料理を作れとか言うんじゃないだろうな?無理だからな、特に俺は。

「俺は料理など作った事がない」
「はあ?」
「えっ?」

 俺と伊藤さんの不思議そうな視線にたじろぎながら流は少々言い辛そうに続けた。

「調理当番は無理だ」
「いや、だって、学校でやるだろ?家庭科の時間に」
「そういう勉強もあるんですね」

 俺の言葉に伊藤さんが感心する。
 そう言えば伊藤さんは小中高の学校生活を経験してないんだな。

「家庭科の実習は同じ班の女子が全部やってくれた」
「死ねよ」

 反射的に俺は口走っていた。
 伊藤さんがびっくりしたように俺を見る。
 いや、仕方ないだろ?普通だれだってそう思うよね、思わない?

「無理に俺がやると食えないものが出来上がるとしか思えないんだが、それでも良いならやるぞ」

 当の本人はまったく気にした風もなく、そんな感じで開き直って堂々と言い放つ。
 こいつめ。

「でもそれって不公平ですよね。あ、じゃあこのお二人の部屋の掃除は室長がするという事でどうでしょう?」
「え、でもそれじゃあ優香は負担があるだけになるだろ、不平等じゃないか」
「さすがに私の部屋の掃除は男の方にしてもらうのは嫌ですし、料理の負担は半分に減りますから全然問題ないですよ」
「ふむ、掃除なら俺も家でやっているから大丈夫だろう」
「まぁ優香が良いなら俺は問題ないけどな」

 と、そんな感じで1週間の間のルール決めを行い、一段落付いた所で周囲の偵察を兼ねて食事と買い物に出る事となった。
 俺は上着さえ着替えればそのまま外出OKだが二人共完全に部屋着なので外出着に着替える為に部屋に戻る。
 こうやってすぐに外出するのになんで着替えてしまうのか、本当に分からんな。
 とは言え、俺も改めて装備している武器などのチェックを行った。
 ナイフはもちろんの事、いくつかの攻撃用の符と鎮圧用の閃光符、怪異用の術陣や色々な応用が効く水晶素材などもジャケットの下のベルトの隠しやジャケットの内ポケットなどに入れてある。
 場所が場所だけに油断は禁物だ。
 あと、仕事用に精製用の素材と調整用の音叉を別のポーチに入れて腰のベルトに装着してあった。
 何と言うか、2つの仕事がクロスオーバーしたようでちょっと変な感じがするな。

「待たせたな、出るか」

 流が部屋から出て来てそう言ったので俺は首を振ってみせた。

「いや、優香が出て来るのを待とう。絶対あっちの方が時間掛かるから男二人が部屋の外で急かせるのはまずいだろ」
「ほう、お前もそういう配慮が出来るようになったか。どうだ、彼女が出来ると世界が広がるだろ?」
「ぬかせ」
「もし、お前たちの関係にくちばしを突っ込むような輩が出て来たら相談を受け付けるぞ、それなりに俺にもやれる事はある」

 いきなりそんな事を言った流にぎょっとする。
 いつも俺たちの関係にはあまり感心がない風だったくせにそういう事を言ってくれるとなんというか驚きが先に立つな。
 それにこいつ実家を出てるから上に対する影響力はそこまでないはずなんだよな。

「ああ、まぁ期待せずに相談するわ」
「ぬかせ」

 お互いにニヤリと笑うと玄関からノックの音がした。
 というか伊藤さんチャイム使わないよね。
 そのまま合流した3人でホテルの外へと繰り出す。
 本格的に動くのは明日からとしても下見は大事なのだ。

「今日はまだ案内頼んでないから戻ってこれる範囲で動くからな。帰りはタクシー拾えば大丈夫とは言ってもやっぱり自分達で道順認識出来る方が良いし」
「マッピングなら任せてください」

 伊藤さんが手帳を手に持って張り切っている。
 マッピングって、ここはダンジョンではないのだけど、……いや、うん、まぁ、ダンジョンに近いかもしれないな、この街は。

 ホテルの1階フロアはカフェになっていて朝食や昼が面倒な時はここで食事を摂るのも良さそうだ。
 すぐ近くにコンビニ発見、これには全員のテンションが上がった。
 大通り沿いなので外部からの出店の店舗が多く、有名な大衆食のチェーン店も見付けた。
 しかし、目立つのは服飾関係で、しかも外とは全然違うミリタリー調がメインだ。
 防弾、防刃服や術式を施された物など、オーダーから量産品までなんでもござれとなっている。
 だが、さすがに表通りには武器の類のショップは見当たらない。
 そんな風にうろついている内に大きめの家電ショップを発見したので視察に入った。

「おおうちの調理ポットがメインを張っている。感動するな」
「実際に売っているのを見ると違うな」
「なんだか嬉しいですね」

 そこには目立つ展示スポットに置かれているうちの商品があった。
 やっぱり売れ筋なんだな、開発メンバーとしては誇らしい限りである。



[34743] 188:祈りの刻 その十
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2016/03/17 11:48
 一見して武器こそ身に帯びてないが、恐ろしくごつい装備を身にまとった連中が棚の間を歩いているかと思えば、いつの時代だよ!とツッコミたくなる術師仕様のローブ姿の人間の姿も見える。
 驚くべき事に一定の割合でどう見ても人間じゃない部位が体のどこかに存在している者すらいた。
 外の家電量販店ではまず見掛けない光景だ。
 この店舗は棚の間がやたら広々としていると思っていたが、あんなのだらけではいたしかたあるまい。

 そんな風に売り場を確認してみているとやがておかしな事に気付く。
 うちの人気商品である特許取得の調理ポット以外でもうちの商品が他のブランド家電よりも目立つ所に置いてあるのだ。
 明らかに性能はブランド家電の方が上、しかも値段もそう変わらない。
 うちは2流ではあるが価格がガクッと下がるノーブランドとは違ってそう安い訳ではない中途半端な立ち位置にあるのにおかしな話だった。
 そこで俺は今まさにキッチンスケールを選んでいるいかつい冒険者らしき男に声を掛けてみる事にした。

「よお、景気はどうだ?」
「ああん?」

 男は怪訝そうに俺を見たが、俺はニヤリと笑みを浮かべて片目をつぶってみせる。

「ちょっと先輩の意見を参考にしたいんだけど駄目っすかね?」
「ふむ、まぁ聞きたいって事によるわな、何がしりてえんだ?」
「物を選ぶ時のコツって言うか、こういう電化製品なんすけど、こっちのメーカーの方が色々出来る事が多くて便利そうじゃないっすか。でも先輩そっちの機能が少ない方を選んだっしょ、なんでかな?と思って。値段は大体同じですよね」
「けっ、だからトーシロは駄目なんだよ。見ろ、こっちの製品はボタンのないタッチパネル式でしかもこの繋ぎの部分にネジなんかの部品がねえだろ?これはあれだ、一度バラしたら再度の組み立てが出来ないタイプの品だ。その点こっちは昔ながらの部品を組み立てて作ってある製品でバラしても再度組み直しが容易だろ?」
「ああ、改造前提なんですね」
「たりめぇだろ。冒険者なら自分の使い勝手の良いようにカスタマイズするのは当然だ。ちょっとした効率の違いが命に関わったりするんだからな」
「よく分かりました。先輩ありがとうございます」
「おおよ、お前もあの迷宮の景気に誘われて冒険者に乗り換えた口かもしれんが、そんな初歩で躓いているようじゃ2層がせいぜいだぞ?無茶せずに手堅くいくんだな」
「先輩マジで良い人っすね。そんけーします」
「良いってことよ。冒険者は相互扶助が信条だからな」

 いかつくて毛深い冒険者の男はガッハッハと笑い声を上げながらピンクのキッチンスケールと一緒に可愛らしいウサギの形のキッチンタイマーを選んでレジへといった。
 なんかシュールだな。

「こりゃあ根が深いぞ」

 ちょっと離れた所で別の商品をチェックしていた流と伊藤さんにそう報告すると二人から何か言い難い視線を向けられた。
 なんだ?

「隆志さん違和感なかったですよ!」

 伊藤さんがグッと親指を立てて評価してくれた。
 いや、それはちょっとうれしくないかもしれないぞ。

「お前、あっちの世界の方が向いているんじゃないか?自然に馴染んでいたようだったな。しかし、あんな風によくもまぁ話を聞けるもんだな」
「言ってろ、前に聞いた事があるんだが、冒険者は格下相手には助言や手助けを惜しまない奴が多いらしい。そういう伝統なんだとか」
「へぇ、意外と文化的だな」
「いや、野蛮人じゃないんだから、単なる職業だからな?冒険者も」
「ああいうのを見ているとそうは思えないがな」

 流が顎をしゃくるとそこには二組の冒険者が剣呑な雰囲気になっているのが見えた。
 店員が慌てて商品の移動をしている。
 棚や展示台は全部コロ付きか、しかも慣れているな。

「おい、それは俺が先に手にとったブツだろ、なんで横からかっさらうんだ?」
「ああん?てめえは一度手を離しただろうが?手を離した瞬間にお前には権利がなくなったんだよ。バカじゃねえの?」
「付属品を棚から取る為に一度置いただけじゃねえか、元の場所に戻した訳じゃねえだろうが!」
「元の場所に戻さないマナーの悪い客は多いからな、おまえがそうじゃないって俺は知らねえしな」

 ゲラゲラと男が笑えばその仲間らしき連中も笑う。
 笑われた方の男はすっと表情を消すと無言で踏み込みパンチを繰り出した。
 なかなか早い。
 なにより予備動作が少ないので動きを読みにくいのがいかにも実戦向けだ。
 だが相手も易易とはその攻撃をヒットさせない。軽くやや斜めに体を傾けると丸太のような腕で相手のパンチの起動を変えた。
 お互いにこの一手は様子見というか挨拶代わりのようでそれぞれの顔には驚きも焦りも見えなかった。
 片方が足を横にスライドさせると相手は逆側に片足を踏み出す。
 互いの間合いをじりじりと侵食しようと隙を伺いつつ動くその様は良く動物のオス同士が行っている縄張り争いの前哨戦のようだ。

「おい、貴様ら」

 そこへ登場したのは警備員の制服を着た初老の男だった。
 
「争いごとなら定められた場所でやれ。店内でやるな、迷惑だ。出入り禁止を食らいたいか?」

 争いごと専用の場所があるのか?すげえな特区。
 するといがみ合っていた二組は戦闘態勢を解除してその警備員に対して頭を下げた。

「失礼しました」
「悪かった。騒がせたな」

 おお、収まったようだ。
 なかなか秩序があるじゃないか。
 男たちは端末を取り出すと、それぞれにそれを操作して互いに何かを確認すると一人が会計に向かった。

「首を洗ってまっていろ」
「へっ、てめえこそ遺書を書いて震えてるんだな」

 どうやら警備員の言う通りに別の場所で決着をつける事になったという事らしい。冒険者には冒険者のルールがあるという事か。

「なんか独特の世界だなこりゃあ」
「古い時代の開拓者の映画でも見ているようだったな。それかあれだディストピア物だな。この街が観光地として人気があるのも頷けるな。毎日がこんな具合じゃ外の人間からしてみれば映画の世界にでも紛れ込んだような気分だろう」
「アトラクションと違って現実だから巻き込まれる危険も大きいんだけどな」
「この調子じゃコロシアムみたいな物があっても不思議ではないな」
「あ、ありますよ、コロシアム」

 俺たちが話していると伊藤さんが思いもかけない事を口にした。
 あるんか、マジで。

「事前に特区の事を色々調べたんですけど、話し合いで決着が付かない場合は戦いの勝敗で決める事が多いらしくて、それを行う為の特別なスタジアムをコロシアムと呼んでいるようです。戦いを公開して見物料を取っているとか」
「ああ、それが今言ってた別の場所か。なんというか斜め上に治外法権な場所だな」
「とりあえずどっかで食事をしながら今後の方針を話し合おう。思った以上に常識が違う。顧客との接触にも事前情報が必要だな」
「りょーかい」
「はい。分かりました」

 流の提案に俺と伊藤さんがうなずき、家電量販店を後にした。

 短い時間で分かった事は、冒険者は自分の使う道具はカスタマイズするのが当たり前だと思っているらしいという事だった。
 これはもうちょっとサンプリングが必要だがあの常識だろ?的な話しぶりから確定っぽい気がする。
 問題は改造品についてメーカー保証の範囲外である事をどう納得させるかだろう。
 もちろん冒険者側もそのほとんどは無償で交換しろとか修理しろとか言ってきている訳ではない。だが細かい部品の販売や有料での修理を当たり前の事として要求して来ているのである。
 無償修理を要求している者もいなくはないしな。そいつらにこんこんと諭すという対応もしなきゃならん。
 クレーム対応も担当者がいるにはいるが、既にパンク寸前らしい。
 これらの対応をマトモにしていては会社の製造ラインにまで影響が出てしまう。
 なにしろうちは2流のメーカーであり、工場は2箇所にしかない。
 オートメーション化している部分はもちろんあるが、人の手に頼っている工程も多かった。
 修理などの作業は中でも熟練の作業員の仕事になる。
 マニュアルから外れた仕事ほど能力の高い人間にしか出来ないからだ。
 
 冒険者という新たな市場は魅力的だが、同時にやっかいな問題を抱えているともいえた。
 早急に対策マニュアルを作り上げる必要がある。

「俺の思うに、冒険者用にカスタマイズ専用の商品を発売すべきだろうね」
「と言うと?」

 流の提案に俺は眉をしかめた。
 ただでさえ面倒な所に面倒を追加するだけの提案に思えたのだ。

「基本的な性能しかないベース製品を売りだして。それ用のカスタマイズ周辺機器を別売りにするんだ。そうすれば冒険者が勝手に好きなように改造するし、必要なら修理するだろう」
「それって、会社に持ち込まれる修理や部品交換を逆に売り物にしてしまおうって話か?」
「ああ」
「在庫管理やら仕入れなんかが煩雑にならないか?しかも市場は特区だけ、駄目だろ」
「だが、冒険者の要望を容れるなら同じ事だし更に社員の手間が増える。販売してしまえば内部の負担は減るはずだ」
「問題は市場規模ですね。特区のポテンシャルがどのくらいか正確に把握しないと会社も判断が出来ないでしょう」

 結局その日はそれぞれの意見を纏めて伊藤さんが初日のレポートを作成して終わった。
 なんというか前途多難だな。



[34743] 189:祈りの刻 その十一
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2016/03/24 12:28
 さて、タネルに依頼をしたらそういう仕事は妹に向いているとビナールが来たのはまぁ良いだろう。
 実際冒険者には男が多いので少女には甘い節がある。
 伊藤さんにも強く出れないしな。
 ただ冒険者のクレーマーと直接会って困った事が発生した。
 いや、一度バラした商品の保証は出来ないという事は納得してもらえたのだが、うっかり不安定な状態で危なげだった改造品を調整したのがいけなかったのか。
 うん、まぁ自業自得かな?

「おう、あんちゃん、なかなか腕の良い精製士エンジニアだと聞いたぜ!」

 どうやら冒険者界隈では技術者が不足気味であったらしい。
 特に繊細な調整を手掛ける精製士は改造品だらけの冒険者の使う機械カラクリの調律を嫌がる傾向にあるのだそうだ。
 どうも俺が出張版の錬金術士クリエイターか何かだという噂が広まってしまったらしく、宿に冒険者達が訪れるようになってしまったのである。
 おう、噂を広めたやつ出てこいや!

「違います。俺は仕事で来ているので仕事以外の事は出来ません。お帰りください」
「おう、わかってるって代金は弾むぜ?自分の使う道具に金を掛けない冒険者は早死するからな」
「いや、値上げの前フリじゃないから、マジで仕事の邪魔だから帰れ!」

 こういう時フロントを通す必要のないこの宿は大変困ったものだった。
 まさかこんな事になるとはね。

「いや、これは逆にチャンスだ。冒険者の使っている道具を直接触れるじゃないか。そこから需要をさぐる事が出来るぞ」
「いや、お前それだとこの出張の意味が変わって来るだろ?別に新製品のアイディアを探しに来た訳じゃないからな」
「父のキャンプには冒険者よりは少ないとは言え結構技術者もいたものです。だから私も開拓を行っていると信じられたのですけど。でもそういう集団はクランとかギルドとか呼ばれていてあまり多くはないのだそうです。普通の冒険者はもっと少単位で活動しているので道具の整備なども外に頼むしかないのですよね。これはかなり不安な事だと思います」

 突発事項をチャンスにしようという流の発想は嫌いじゃないが、会社の方針とは大きくズレている気がしたのでそれはお断りをしておいた。
 と言うよりも俺が大変だから嫌だ。
 冒険者達の改造品はかなりむちゃくちゃになっていて触るのすら怖い。
 ってか俺の調整のせいで死人が出たりしたら寝覚めが悪いから嫌だ。
 大事な事なんで何度でも言うが、俺はそんなスリリングな仕事はしたくない。
 そんな俺達とは全く違う視点で伊藤さんは物事を捉えているようだった。
 いわば冒険者視点なのだろうが、どうも伊藤さんのお父さん達の集団は冒険者達の中においてもちょっと特殊だったんじゃなかろうか。
 なんだ、その血族クランって、ギャングか?

「違いますよ!クランというのはそういうのじゃなくって志を同じくする者という意味があるのです。ギルドは基本的に利益を元にした集まりでクランはもっと親密な感じと考えれば良いと思います」
「詳しいな」
「父が元冒険者と分かってから調べましたから」

 前々から思ってたけど、伊藤さんって何かを調べるのが好きだよね。
 都内の裏道とか調べあげているし、マッピング得意だし。
 マッピングと言えば既にホテル周辺の詳しいオリジナル地図を作り上げていてびっくりしたよ。
 データを端末に入れてくれてフリーのナビアプリとリンクして使えるようにしていて更にびっくりした。

『まだ周辺住人を完全に把握していないので精度は甘いんですけど、とりあえずお店関係なら大丈夫ですから』
 とか言ってたんですけど、時間があったら住人も調べあげるのでしょうか。
 考えるとちょっとだけ怖い、うん、ちょっとだけだけど。

「これ、お買い物にすごく便利ですね、特売情報をネットから拾い上げも出来るのですね」

 ビナールがすごく伊藤さんを尊敬したっぽいのでまぁ良いけど。
 最初かなり警戒してたからな。
 なんかギクシャクしてたし。

「私が帰ったら更新が出来なくなってすぐに役に立たなくなるかもしれないけど、私用にもどんどん使っちゃって良いからね。フリーのアプリだからオープンな物だし仕事で使う為に作ったけど別に会社で使うものではないから社則にも触れないし」
「本当ですか?嬉しいです」

 女同士と言うのは仲良くなるのは男同士よりも早いよな。
 すでにまるで学校の同級生のような雰囲気だ。

「ともあれクレーム処理はほとんど終わって、次は要望を出して来ていた冒険者を訪問するんだったよな」
「ああ、仕事としてはこっからが本番という感じだな。今後の冒険者向けの商品開発の方向性を決めるのに大事な意見がもらえるからね」

 話している間にもどこか近くで何か重いもの同士がぶつかるような音が響いた。
 どがん!とかドゴン!とかまぁそんな感じの音だ。
 一人の人体改造をしているっぽい冒険者が体内に格納していた武装を展開して、それに対して相手の男が巨大なゴリラのような体に獣化する。
 サイレンが鳴り響き周辺の店のシャッターがオートで閉まり通行人は避難と遠巻きに見物する人間とでごった返し、数度やりあった後に軍隊の到着。
 最初こそ驚いたが、この程度の事は日常的に日に数度発生するのですっかり慣れてしまった。
 街中で攻撃系の術式はキャンセルされるので基本的に争いごとは物理上等となっていてそれほど広範囲に被害を及ぼさないようであるというのも大きい。

「でも私人が獣化出来るという事をこの街で始めて知りました」

 伊藤さんがしみじみそう言ったが、それは当然だ。
 もちろん世の中には獣系の怪異はいるし、勇者血統の中には獣化する連中もいる。
 だが一般的な人間は獣化したりしないし出来ないものなのだ。
 この現象はこの街ならでは、もっと厳密に言うとこのダンジョンに潜っている冒険者ならではのものである。
 最初に疑われた怪異の感染ではないと分かってから、冒険者はこのイマージュという現象を積極的に取り入れるようになっていた。
 自分が自分のままで特殊な能力を手に入れられる。
 この事のもたらす利益を即座に理解したからだ。
 一般的な人間からは外れた、いわゆる化物に近い体になるというリスクは冒険者にとっては今更の話なのだろう。
 実際そう笑い飛ばす連中が多かったのだ。
 正直事態の推移が早すぎて俺の頭は付いて行くのがやっとだけどな。

「まだ獲得条件がはっきりしていないからあんなもんで済んでいるが、それが分かったら冒険者はこぞってイマージュ化するんじゃないかな?」
「最近は進化とかギアとか言う言い方が主流のようですね」
「まぁ今は関係ない事は放っておこう。仕事で来てるんだしな」

 人類の進化か、嫌な奴を思い出すからその言葉はなんとなく嫌だ。
 奴は本気だ。
 まぁ最初から分かっていた事だけどな。
 人間とは違って意思だけで存在する怪異にとってなにかを思うという事は行動する事と同じなのだ。
 このダンジョンを使って人類に進化という名の変化を与えたいというのが奴の考えなのだろう。
 だがそれは人類から秩序を奪う行為ではないのか?この特区の異常性を考えればそれが受け入れられているのは冒険者だからとも言えた。
 この国は今とんでもない災厄の芽を抱え込もうとしているんじゃないのか?
 何度も滅びかけた事実がある人類史を考えればこの程度の事を災厄と言ってしまうのは笑い話かもしれないが、このジワジワと広がる焦燥感は言い知れぬ不安感を煽るのだ。

 そんな、俺にはどうしようもない無駄な思考を垂れ流しながらお客との約束の場所へと向かう。
 冒険者のねぐらというのは基本的に表通りには存在しない。
 複雑に入り組んだ特区の奥、積層化している住宅地区か改築されまくったオフィス地区に居を定めている連中がほとんどだ。
 今度の顧客も当然のようにそんなオフィス地区の一画に住み着いていた。

「ここですね」

 マップデータによると表通りから15分程歩いたのにも関わらず500メートルちょいしか離れていない。
 でも表通りにまっすぐ出る事は出来ないようになっているようだ。
 どうでも良いが公道を塞いで建物を建てるのはやめるべきだと思う。
 ビルのエレベーターで昇って辿り着いた階にはガランとしたロビーが広がっていてそこには長椅子がいくつか転がっていた。
 さらにその長椅子の1つの上に若い男が寝転がっている。
 その男は近くを通ってもこちらをちらりとも見ない。
 そんな閑散としたロビーを通り抜けると通路の先に電子制御のスライドドアがあり、そこのインターホンのボタンをビナールが押した。

「お約束した大宮家電の方達です」

 彼女の言葉と共にカチリとロックが外れる音がして、ドアのパネルに触れるとドアがスライドして入り口が開いた。

「いらっしゃい」

 冒険者によってその住居は様々だが、ここの連中の住処はまるでカフェのようだった。
 外に面した窓ははめ込みの大きなもので、床は木目調のパネル、家具類も木材をベースにしたアンティークな雰囲気で揃えられている。
 電球そのままを使ったような灯りも壁のデザインとの調和を考えて配されていて光る飾りのように見えた。
 しかしその中心にいる人物はその雰囲気とおよそ合っていない風体をしている。
 禿頭で大男、絵に描いたような冒険者だった。



[34743] 190:祈りの刻 その十二
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2016/03/31 13:29
 俺たちに茶を運んで来た相手を見てまず驚いた。
 獣の耳のようなふわふわの角を2本頭の上に乗っけ、手の甲から腕に掛けてびっしりと白い綿毛のような毛皮に覆われている。
 最初今流行の迷宮病であるイマージュかと思ったが、実はイマージュは変身している時間はそう長くない。
 彼女はその姿に合わせて服装なども揃えていたし、あまりにも自然だった。
 ほぼ間違いなく感染者キャリアーだ。
 キャリアーと言うのは怪異に汚染された者の事を言う。
 大概の場合は精神まで汚染されて討伐対象となるのだが、ごく稀に自意識を正常に保ったままに怪異の能力だけ取得する者がいる。
 ほとんど奇跡のような割合であり、狙って出来る事ではないのであまり知られてはいないが、俺も存在する事だけは知っていた。
 珍しい。と言うか、良く入国出来たな。
 キャリアーは忌み嫌われる。
 主体は確かに人間だが、怪異である部分が残っていて、更にまた他人に感染しないとも限らないからだ。
 そのため、キャリアーの多くは他国への入国を断られる事が多かった。
 彼女はよほど安定していて更に実績と信用があるに違いない。

 テーブルにコーヒーと洋菓子を並べるとふわりとエプロンをたなびかせ半回転して背中を見せる。
 うおおお、ショートパンツだ。しかもそのギリギリなパンツのライン上にはなんとふわふわの白い尻尾があった。
 ヤギみたいな尻尾だ。

「隆志さん」

 ふと、伊藤さんの声が耳に届く。
 なにげなく振り向くと、やたら冷ややかな笑顔がそこにあった。
 え?なに?どうした?
 良くわからないながら、ひどく身の危険を感じる笑顔だ。
 対応を間違えたらきっと俺は生きながら死ぬだろう。
 矛盾しているがそんな事を思わせる笑顔だった。

「え、ああ、それでは仕事の話をさせていただきますね」

 とりあえず仕事に逃げた俺を腰抜けと誰が言うだろう。
 いや、言うまい。

「おう、まずわざわざご足労くださった事に礼を言うぜ。今までいろんな道具のメーカーと話をした事はあったが、わざわざ担当者が直接出向いてくれたとこは初めてだ」

 対応している冒険者がどこか嬉しそうに言う。
 まぁそうだろうな。
 常識的な社会で働いている人間にとって冒険者という存在はいわばギャングとか傭兵とかと同じだ。
 直接会いたいと思うはずもない。

「それでご要望についてですが、外部接続を可能にして欲しいという事でしたね」
「そうだ。まぁ俺の方でも弄ってはみたんだけどよ。分解すると術式が解除されちまうし蓋を開けた状態だと水が溜まらねえしどうにもまいっちまってよ」

 分解した事を当たり前のようにメーカーの人間に告げる相手に苦笑する。
 冒険者にはそれが常識という事は分かってはいたが、さすがに作った側としてはちょっと辛い所だ。

「まず理解していただきたいのですが、我々商品を提供する立場としては1個の完成品としての品物を販売しているのであって、商品の仕様の一部を販売している訳ではないのです。ですから商品の性能の一部を別の用途に使いたいというご要望にお応えするのは問題が生じてしまいます」
「なんでえ、ケチケチするこたあねえだろ?」
「私どもは商品を販売するにあたって、さまざまな角度から安全性をテストしてその上で品質を保証して販売しています。私どもの商品をお使いになられている以上は安全に使っていただきたいという、販売する者としての矜持やモラルの、まぁ言葉は大げさですが、ごく当たり前の常識的な納得の上での品物の提供という事になります」

 俺はとりあえず基本的な企業モラルの話から入った。
 相手が納得しないのは最初から分かっているのが虚しい。

「ですからその定められた形、用途以外での転用には会社としてはお応え出来ないのです」
「ケッ、結局は金の話だろうが」

 相手はコーヒーを一口ごくりと飲み込むとそう吐き捨てた。

「事故があった場合の賠償金を払いたくねえんだろうが」
「そういう問題ではありません。お金の問題はささいな事です。私どもにとって重要なのは信用です」

 こういうクレームを付ける人間の中には企業は金で動いていると思っている人間が多い。
 いや、確かに商売は金で動いているし、そもそも金が動かない経済など死んだようなものだ。
 しかし、金で信用を買えるかというとそれは無理なのである。
 信用を無くした企業はどれだけ金を持っていても成功する事は出来ない。
 品物を販売するという事は相手に信用してもらうという事でもあるのだ。

「その理屈は分からなくはない。俺達の仕事だって信用は大事だからな」

 確かに冒険者にも信用は大事だろう。
 命を預け合うような仕事だしな。

「だがな、客がお前んとこの商品の価値を認めて、その上で応用を効かせてくれって言ってるんだ。職人としてはそれに応えるのも商売だろうが」

 んん、なんだろう、この相手と俺との間に数世紀の時代の隔たりがあるような気がして来たぞ。
 あれだな、職人個人が直接利用者と対面販売していた時代の感覚だよな。
 まぁ俺としては決して嫌いではない考え方だ。

「もしお客様がオーダーメイドとして発注をしたいという事なら我が社の専門の部署の者に対応を任せる事も出来ますよ?」

 個別の注文に応えるというのは企業として出来ない事でもない。
 もちろん専属の仕事になるからそれだけの費用は掛かるし仕様を一新するんならその開発費を含めて膨大な金額になりかねないがそこまでは俺の考える事じゃあないしな。
 しかし相手は唸り声を上げ、俺の言葉を遮った。

「そういうんじゃねえんだよ。今あるモンを使って出来る事をやれるだろって話だ」

 うん、堂々巡りだ。
 そんな予感はしてた。

「あの」

 そんな所へ伊藤さんが言葉を挟む。

「うちのポットを外部出力したいというお話しでしたが、それは給水装置としてという事なのでしょうか?」
「あ?ああ、まぁそういうこったな」
「でも補水の術式は特別な物ではないですよね?」

 伊藤さんの疑問に、俺もそう言えばと疑問を感じた。
 そもそもうちのポットに使っている術式は汎用術式だ。
 特別なものでもなんでもない。
 我が国では術式は武器の類として規制されているから一般家庭では使えないが、この特区の冒険者なら術式を使った道具も使い放題のはずだ。
 実際蛇口を貼り付ける事によって水を生み出す携帯蛇口くんなどという商品もある。

「いや、水だけ出ても仕方ねえんだよ。作りたい食い物に応じて容量を調整出来て調理まで一括でやってくれる仕組みをそのまま応用してえんだよ」
「ふむ、なんとなくお客様のご要望は分かりました。つまり今の商品仕様で大人数に対応したいのではないですか?」
「最初からそう言ってるだろうが」

 いや、言ってないから。
 しかし流が切り出してくれた事で話は分かった。
 そしてそれが無理だという事も。
 流が続けてその説明をした。

「お客様、大変申し訳ありませんが、今の私どもの商品ではそのご要望にはお応え出来かねます。ご存知とは思いますが、生成術の場合その制御術式は記述が細かくなる傾向にあります。この商品においては範囲指定の為の組み換え術式を利用していますが、その範囲は今の容量が限界なのです」
「ああん?どういうこった?」
「これ以上範囲を広げる事は出来ないという事です」
「ぐぬぬ」

 刺青の描かれた禿頭が赤く染まる。

「そこをなんとかしてみせるのが職人だろうが!」
「なんともなりません。もし足りないというのなら人数分私どもの製品を揃えていただいてはどうでしょう?」
「それじゃあかさばるだろうが」

 と言うわけで、無理という事を納得してもらえた。
 めでたしめでたし。
 冒険者の男は目に見えてがっかりしていたようだが、こればっかりは仕方ない。
 何しろあの嵌め込み式の魔法陣を作った男が言うんだから間違いのない話だ。

「あーあ、やっぱり基本はレーションで行くしか無いのか」

 男は露骨に肩を落とす。
 冒険者にとって食の問題は深刻らしい。

「火を使っての調理は駄目なんですか?」
「下層ならともかく中層以上だと自殺行為だ。匂いや熱に敏感やモンスターに見つかっちまうし、連中結界破りを当たり前のように持ってやがるからなぁ」
「それは辛いですね」
「まったくだ。だがまぁお宅のポットであったかいスープやコーヒーぐらいなら全員で楽しむ事も出来る。それだけでも結構違うからな。今回迷惑を掛けたが、感謝はしてるんだぜ?良いもの作ってくれたよ」

 長い間暖かい物を食べられないという事は結構堪えるものだ。
 しかし同時に冒険者は荷物を嫌う。ランチジャーサイズのうちの調理ポットを人数分持ち歩くのはさすがにかさばるのだろう。
 使い捨てじゃないから途中で捨てる訳にもいかないしな。

「コーヒーのおかわりいかがですか?」

 いわゆるケモミミモデル体型の美人な冒険者にニッコリと微笑みかけられながら、俺はこの足りない部分を埋める何か良い方法はないかと考えたのだった。



[34743] 191:祈りの刻 その十三
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2016/04/07 11:44
 外回りを終えるとまた俺たちの部屋に集合してのミーティングに入る。
 本当はこのミーティングに外部の感覚があって冒険者でもあるビナールに参加してもらいたいのだが製品開発関連の話が出る以上それは出来ないのがジレンマだな。
 一応別報酬でその日その日に感じた事などを翌日にレポートで提出してもらっているのだけど、これがかなり参考になる。
 とは言え原文は英語なので伊藤さんが翻訳しながら解説を加えてくれるんだけど、なんていうか宗教的な比喩とか民族的な言い回しとかあって伊藤さんでもかなり苦労していた。
 こういうのを全部意訳してくれる翻訳術式は凄いと関心していたけど、逆に言うと翻訳術式は本人の言いたい事を言葉として訳しているので言語としての言い回しの部分などを切り捨てている部分もあるんだよな。
 簡単に言うと文化の交流が出来ているようで出来ていないという感じだ。
 俺たち倭人が「へそで茶を沸かす」と言うと、相手には「笑わせるな」と聞こえると言う風な感じかな。

 まぁ要は意味が通じれば良いんだから問題ないっちゃ無いんだが。
 更には冒険者にはこの翻訳術式を逆手に取った彼らなりのジョークもあるらしい。
 またこの翻訳術式も製造された場所によってかなり意訳にも偏りがあるっぽいのだ。
 タネルは大陸中央部の術式はマジで頭がおかしいとか言っていた。大陸中央部は冒険者を最も輩出している地域とされている。……気になるな。

「俺は正直冒険者を誤解していた。彼らのほとんどは無謀な暴れ者という感じではないな。かなり理性的で、悪く言うと打算的ですらある」

 流が俺の淹れたコーヒーを口にしながらそう切り出した。
 今回の出張はこうやって毎日ミーティングを行い、まとめた資料をその日の内に会社へと提出する。
 そうすると次の日ぐらいには会社からの指示書と提案書、調査一覧表がやって来るという流れだ。
 以前の、ベース製品を発売してそれにカスタマイズしては?という流の案からも、機能を削ぎ落とした互いに連携が容易い家電のシリーズものを出してはどうか?というアイディアも出て来ているらしい。

 以前俺が提出した企画書のリンクシステムが現実味を帯びて来たという事なのかな?会社側はメーカー間協力は考えずにとりあえず1社でやってしまうのも手ではないかと考えているようだ。共鳴システムを使えば周波数さえ分かれば外部リンクも可能という事もあるのだろう。
 でも共鳴システムは以前防衛省から警告が出てたんだよな。
 怪異を呼び寄せたり成長させる可能性があるとかなんとかで。

 この件については怪異のプロであるはずの俺たちにもはっきりしない所だ。
 共鳴ってのは特別な事じゃない。
 存在は全て波動を発していてなんらかの共鳴を引き起こしながら存在している。
 つまり共鳴が怪異を呼ぶとか言われても共鳴自体はそこかしこで起きている事なので「そうだね、で、それがどうした?」としか言えない状態なのだ。
 とは言え、意図的な共鳴と意図しない共鳴は意味が違うという事はあるだろう。

「打算的と言えばそうだな。備品に掛かる費用をむちゃくちゃ気にしているし、荷物の全体量を減らす為にかなりの神経を使っているっぽい」
「そのぐらいでないと生き残れない世界とも言えますね」

 俺の言葉に伊藤さんも頷きながら補足する。
 お父さんが元冒険者だからか伊藤さんは基本的にものの考え方が冒険者寄りだ。
 実際に冒険者を会議に加えることが出来ない俺たちにはこれは割とありがたい事でもある。

「それと今回気になったのは冒険者の、と言うか、この特区の特異性だな」

 なんとなく自然に流がミーティングリーダーを務めているが、実はこの出張の責任者は俺だ。
 とは言え会社の役職的には流は室長で俺は平の社員なので部署は違えど流の方が上となる。
 流が無理やり今回の出張にねじ込んだのでこんな変な関係性になってしまったのだ。
 まぁ俺は仕切るの苦手だから流に任せるけどな。

「特区が特異なのは元から分かっていた事だろう?」
「俺の承知していたのは常識の範囲での話だ。しかし実際はこの特区は特異というよりもいっそ異郷と言って良いぐらいなにもかも違う。いや、おかしいと言った方が分かりやすいな」
「まぁおかしいっちゃおかしいけどな」

 流は1つため息を吐いてみせた。

「いや、お前は根本的な所が分かっていない。今の人類文明はいわば怪異を排除する事で発展してきたと言って良いだろう。都市や交通網など全てが怪異の締め出しを考えて構築されている。実際都市部に住む人間の中には一生怪異など見ることもなく過ごす者も多い。小さい子供など怪異をカッコいいモノかわいいモノなどと思っている者も多いのだぞ」
「マジか」
「そう言えばそうですね。怪異を主人公にしたマンガテレビシリーズとか人気なんですよ」

 流の話に伊藤さんが同意して例に有名なマンガテレビのタイトルを出した。
 俺も名前だけは知っているシリーズだが、あれって怪異が主人公の話だったのか。

「ところがだ、この街、そして冒険者は怪異に依存している。実際に歩いてみて分かったが、この街、怪異防御が施されていないな」
「冒険者の中にはテイマーがいるからな。周囲を囲む防壁には施されているぞ」
「隆志さん子供と遊んでいる怪異を見てキレかけていましたね」
「ゆ、油断してたから……」

 伊藤さんに言われて改めて恥ずかしくなる。
 相手が従魔だと分かれば理性が働いて動揺したりしないのだが、やっぱりいきなり姿を見ると反射的に憎悪に支配されそうになるんだよな。
 俺たちの血統の本能みたいなもんだからなぁ、こればっかりは。

「とりあえず結論から言わせてもらうと、俺たちの常識でこの街で商売するのは難しいと言って良いだろう。いっそ商売相手としては無視した方がいいかもしれない」
「一ノ宮室長、お言葉ですが、それはセールスの原則から考えると逆行した発想ではないでしょうか」
「市場を拡大するのではなく市場を縮小するという考え方だからだね。しかしそれはそれで狭い市場に集中するなら有りではある」
「でも室長のおっしゃっているのは縮小ではなく切り捨てですよね」
「そうだな。しかし全く文化の違う場所での商売はリスクが大きいんじゃないかな。それならいっそ切り捨てた方が被害は出ないとも言えるのでは?」
「でも守りに入った商売は冷えてしまいます」

 めずらしく伊藤さんが食らいついている。
 どっちの言う事も正論だ。
 実際この特区で動いてみたから分かる事だが、ここの常識は外と違いすぎる。
 リスクコントロールがひどく難しいのだ。
 しかしだからこそ大手が参入しにくくうちのような中小企業に活路があるとも言える。

「とりあえずそれぞれの意見を纏めて会社に提出するしかないかな、決断するのは上層部だし」
「そうだな。しかし書類勝負になると俺が分が悪いかな。伊藤さん相手だと」

 流が笑いながら言う。
 そうなんだよな。伊藤さんのレポートって資料添付や参照が懇切丁寧で分かりやすくて隙が無い。
 説得力があるのだ。
 実際彼女を中心にプロジェクトを動かせばかなり大きな仕事が出来るのではないか?と思ってしまう。
 一般的な事務だけさせておいて良い人材じゃないんじゃなかろうか。

「またそうやって室長はさらっと余裕を見せるんですから。私のレポートより室長のレポートの方が重要視されるのが当たり前です」
「いやいや、今回の出張は一応俺がリーダーだから」
「それじゃあちゃんとレポート書いてくださいね」
「うっ!」

 しまった、二人にレポートを任せて俺はそれを総括した文章で済ませようとしているのがバレている。
 なんという鋭さ。恐ろしい。

「ははっ、これじゃあ浮気など出来ないな」

 流が余計なツッコミを入れて来る。
 馬鹿やめろ。

「エッ?オレハウワキナンカシマセンヨ」
「あっ」

 俺の言葉を聞いて、伊藤さんが口元に今までとは違う笑みを乗せて俺を見た。

「そう言えば、今日、バニーの人のおしりをガン見してた理由をお聞きしていませんでした。仕事とどういった関連があったのでしょうか?」
「えっ?えっ?バニーの人なんかイナカッタヨ」

 あれは怪異に感染した半獣タイプのキャリアーであって、決していかがわしいお店などにいるウサギの扮装をした女性ではない。

「あ、俺は疲れたからもう休むから後は二人でゆっくりしていってくれ」
「ちょ、流、てめえ!」
「あ、室長おやすみなさい。じゃあ、この後はプライベートという事ですね。お酒、出しましょうか?」

 伊藤さんはそそくさとベッドルームに消える流に一礼すると俺に向き直ってにっこりと笑った。
 うん、目が笑ってない気がするんだ。笑顔って怖いな。

「イエ、アルコールは危険が危ないので結構です」

 酒は心の鍵をゆるゆるにしてしまう魔法の薬である。
 こういう日に飲んではいけない。

「大丈夫ですよ。どんな事になっても私がちゃんと介抱してさしあげますから。これでも慣れているんですよ」

 ブルブルブルと俺は無言で首を振った。
 駄目、可愛く上目遣いしても今日は駄目だからな、絶対。



[34743] 192:祈りの刻 その十四
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2016/04/14 12:24
 朝、会社からのメールをチェックしていたらとんでもない指示が来ていた。
 どういう事だろう。
 しばし考えていたが起き抜けのしゃっきりしない頭で考えても仕方がない。とりあえず顔を洗おう。
 俺はそう思って洗面所に向かい、キッチンで何かをいじっている流を発見した。
 あいつ料理は苦手だとかで当番になってないからキッチンに用があるとは思えないのだが何をやっているのだろう?

「流、朝早くから何事だ?」
「ああ、ゴミ出しの準備をしている」
「ゴミ出し?」

 俺は疑問を覚えて問い返した。
 中央都ではゴミはダストシュートで一括処理されている。
 内容を選別して変換炉に送り込み素材とエネルギーとして分別される仕組みだ。
 そのダストシュート口はほとんどが屋内にあるのでゴミの処理はゴミ出しという程大仰な事ではないはずなんだが。

「俺も昨日知ったんだが、この特区ではダストシュート装置がほとんど機能していないらしい。公営の建物とか大企業の店舗とかはさすがに設置されているが、一般家屋の区画だと術式同士が干渉してまともに働かなくなるんだそうだ」
「なにそれ、意味が分からないんだが」
「この特区では冒険者の術式使用の制限が緩い。まぁ迷宮に潜るんだから当然だな。しかしダストシュートの入り口の感知システムは一種の結界だ。外界からの術的負荷が高いと崩壊が起こる」
「……へえ?」

 生返事をした俺をちらりと見た流は鼻で笑うと、

「とりあえずこの特区ではゴミは決められた日に回収されるという事だけ覚えていろ」

 と言った。
 お前今馬鹿にしたな?俺が理解出来ないと思って。

「……そうか」

 まぁ理解出来なかったんですけどね。
 魔術とかの強弱ってほんと意味が分からない。
 全く関係のない術式同士が干渉したりするし、違う性質の物を混ぜたりも出来る。
 科学や化学の公式って理屈が分かりやすくて良いよな。
 誤解されやすいが精製術もきっちりとした公式がある世界だからな。
 詩歌タイプの詠唱はあるがこれはアクセスキーの問題であって曖昧なゆらぎは存在しない。
 だから妙な決まり事に縛られているのだ。
 てか錬金術士って秘密主義者が多いせいで分かりにくいアクセスキーを構築しすぎたせいでもある。
 神話とか伝承を公式に組み込むなよな、マジで。

「お前が今何を考えているのか大体分かるが、魔術が面倒くさいのは当然だぞ?なにしろ魔術の根本は言葉や文字、或いは記号に対する人類の認識だ。個々の認識に揺らぎがある以上、きっちりと割り切れたり理解出来たりする訳もない。時代によっても変わるしな」
「正直面倒くさい」
「はいはい」

 流は俺の言葉に投げやりに答えるとゴミ袋を片手に部屋の外へと出て行った。
 あ、そう言えば会社の指示書について話すの忘れていた。
 まぁ後でミーティングの時に全員と話した方が良いか。

 出張もいよいよ明日で終わりという事で、今日と明日の朝食と夕食にはタネルとビナールの兄妹も招いてある。
 とは言え夕食は外で摂るのでこの宿で食べるのは朝食だけだ。
 今日の朝食担当は俺なので、ちょっと奮発してカレーにしてみた。
 野菜ゴロゴロ骨付きビーフカレーである。

「これって今夜もカレーで良いのでは?」
「残念ながら残るようには作っていません。この鍋でそんな量作れるかよ」
「あの、すみません、私達のせいで」

 流と俺の他愛無い会話にビナールが恐縮してしまった。
 いやいや、君たち若者はいっぱい食べないと駄目だぞ。
 なにより今日と明日はこの二人へのお礼も兼ねているのだ。

「いやいや、むしろ二人はたくさん食べるように!中途半端に残るのが一番困るからな」
「は、はい」
「分かりました」

 そんな未だ初々しい二人の様子に伊藤さんがニコニコしている。
 彼らは宗教的に戒律があるらしいので肉食について尋ねたら本来は自分たちで狩った動物だけを食べる方が安心出来るらしいのだが、冒険者として生活している者達はあまり拘らないらしい。
 ただ豚や猪肉はあまりいい気持ちはしないと言う事だった。

 タネルによれば「聖者の献身に相応しい者であるという証が大切なのです」という事だが、正直宗教的な事は良くわからない。
 でも他人が大切にしている事は極力守るべきだろうとは思う。
 そもそも海外で保護者を無くして未成年の兄妹だけで暮らすというだけで相当大変だろうからそれ以上の精神的な負担は掛けたくないという気持ちも、年長者としてはあるのだ。
 てか、問題は二人が俺を信仰の対象である聖者と同一視をしている節がある事なんだよな。
 俺はそんな凄い人じゃないからね。

「ところで流、会社からの指示書読んだか?」
「ああ、少し驚いたな」
「私も確認しました。どういう事なんでしょうね」

 全員が首を傾げるのは今朝会社から届いていたメールの指示書の内容についてだ。
 そこには冒険者カンパニーからの要請に応えるようにとの指示があったのだ。
 今回の出張のそもそもの意義と方向性が違うような気がするけどどういう事なんだろうな。

「それは私達がお伺いしても良い事なのですか?」

 ビナールがおずおずと尋ねた。
 問題があるなら席を外そうという事なのだろう。

「むしろ二人には話を聞いていて意見を言ってほしい。特にタネル」
「私ですか?」

 タネルが不思議そうに応える。
 何しろ今回の案内役はビナールが努めてタネルはほとんどノータッチなのだ。
 疑問に思うのは当然だろう。

「冒険者カンパニーからの依頼が会社の方にあったらしいんだ」

 なにしろタネルはその冒険者カンパニーで働いている。何か知っている事があれば教えてほしいのだ。
 ただ、タネルもアルバイトのようなものだからそんなに詳しくはないだろうが。
 タネルは少し考えるようにしていたが、ややするとああと頷いた。

「もしかしてあれじゃないでしょうか。最近冒険者達の間で正式な免許持ちの精製士が来ていると噂になっていたので、こちらに会社の方が来られているのがカンパニーにも伝わったのかと」

 タネルはカンパニー側に俺たちの事を話していないのでカンパニー側がどうして俺たちが来ている事を知っているのか不思議だったのだが、察しの良いタネルの説明で理由が分かった。

「免許持ちが珍しいのかよ」
精製士エンジニアのライセンスは世界共通ではありませんが、どこの国でも取得は難しいらしいですからね。特にこの国では免許制度になったのがごく最近ですし」

 俺の言葉に伊藤さんが答える。

「そんな高学歴の人が冒険者になるという事は滅多にありませんし、冒険者相手の仕事に関わる事もあまりないと思います」
「なるほどなぁ」

 伊藤さんの言葉にある程度の理解は出来た。
 
「それで、冒険者カンパニーは何を依頼して来ているのですか?」
「冒険者用の簡易携帯食保存容器の共同開発を依頼して来たらしい」
「いい、お話ですよね?」
「うん、まあそうなんだけど、本来の出張と意味合いが変わって来るからなぁ、てかこれ、一日二日で片付く話なのか?」
「俺の予想では出張期間が追加されそうだな」
「マジか?」

 流の言葉に動揺する。
 それならそうと早めに言ってくれないと宿泊の延長とか色々あるんだけどな、とりあえず先方と話してからって事なんだろうか。

「まだご一緒出来るなら嬉しいです」

 ビナールが嬉しそうに言った。
 割と人見知りっぽい娘だけどもうすっかり流にも伊藤さんにも慣れたらしい。
 驚くべき事にビナールは流に籠絡されなかった貴重な女の子でもある。

「そうですね。お休みもこちらにいらっしゃるようなら仕事を抜きにして街を案内する事も出来ますし」

 タネルもにこやかに言った。
 この二人、将来的な所はどう考えているのだろう?
 また迷宮に潜るのは辛いだろうしこの都市で一般的な仕事をして暮らすのならそれはそれである程度の能力が必要なのでこの二人なら大丈夫な気もする。
 故国に戻るのなら戻るでその旅費も必要だろうしな。
 
「まぁとにかく行ってみるしかないな、冒険者カンパニーに」

 以前ハンターとして訪問してけんもほろろに対応された事を思い出して憂鬱になったが、今回は全く立場が違うし向こうの対応も違うのだろう。
 なにしろあっちから依頼して来た訳だしな。
 てか、俺が対応して大丈夫なのかな?これ。

 不安と期待と、複雑な思いが交錯する胸の内を抱えながら、波乱の予感がする一日が始まったのだった。



[34743] 193:祈りの刻 その十五
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2016/04/21 12:10
 冒険者カンパニーの受付に行くと広々とした1階ロビーの一画にあるテーブルに案内された。
 テーブルと言ってもカフェのようなものではなくホテルのロビーのようなソファーを挟んだゆったりとしたものだ。
 1階は全面ガラス張りの明るい雰囲気で、冒険者というイメージにそぐわないこと著しい。
 ふと見ると、タネルが何やら忙しそうに立ち働いているのが見えた。
 勤労青年は真面目に働いているようだ。

「おまたせいたしました。担当者のテクスチャと申しますよろしくおねがいいたします」

 翻訳術式を通した言葉ではなく、完璧な日本語で挨拶したのは黒髪に灰色の目、アジア人にしては色白で彫りが深い顔立ちの青年だった。

「それ、すごくあからさまな偽名ですね」
「ああ、申し訳ありません。冒険者はあまり本名を明かさないものなのです。特にこんな仕事をしていると過去のしがらみとか色々ありますからね」
「はあ」

 指摘に悪びれない相手の様子に毒気を抜かれてソファーに座り直す。
 いきなり社長室に通された前回とは全く違う対応だなと思ったが、まぁ確かに商品開発の話を社長がする必要はないか。

「まぁそうですよね。普通の社会で暮らしている方にとっては私どものような者は胡散臭いし、信じられないというのは分かります。でもあなた方の行動を漏れ聞いた所、あなた方は実に、そうですね、実に偏見の無い方々だと伺っております」
「偏見、ですか」
「ええ、あなた方は冒険者の指定した場所に赴いてちゃんと話を聞いて対処出来る事には対処してくださったと、今冒険者諸氏の間ではちょっとした噂になっているのですよ。おかげであなた方の会社の製品を購入する冒険者が増えているとか」
「それはありがたい事ですね」

 マジか、しかし結局冒険者のほとんどは製品をそのまま使ったりしないんだよな。
 複雑な気分だ。

「それで、ご連絡いただいたお話についてなのですが」
「コーヒーをどうぞ」

 話を切り出した所に金髪美人の女性社員がコーヒーとクッキーをセットして一礼して去っていった。
 凄い身のこなしだ。
 一分の隙も無かったぞ、今。

 思わず二度見してしまった俺の腕を伊藤さんがつつく。

「お砂糖いりますか?」

 いや、伊藤さん、俺がミルクしか入れないの知っているよね?
 なんでわざわざ確認したんですか?

「いや、ミルクだけで良い、です」
「室長は?」
「大丈夫、自分でやるよ。ありがとう」
「いえ、失礼しました」

 それぞれが砂糖やミルクをコーヒーに入れている間が入り、話は巻き戻されたような感じになった。

「あの、それで共同開発の件なのですけど」
「はい」
「どうしてうちに?」
「実の所、冒険者のちょっとした要望に応えて行こうという考えは前々からあったものなのです。特に駆け出しの冒険者は装備も整えずに無茶な潜りを行う事が多い。そこで研修を受ける事と引き換えに最低限の装備一式を付与するという試みを考えているのですが、その時に渡す装備の1つに携帯食を収納して、更に効率的に食べる事の出来るかさばらない容器を考えていました」
「なかなか厚遇なのですね」

 ちょっとした驚きと共に俺は彼の話を聞いた。
 冒険者同士というのは言うなれば互いに競争相手でもある。
 もちろん互助組織である冒険者協会の存在は俺も知っているし、冒険者同士にはちょっとした仲間意識があるのもなんとなく分かりはする。
 だが、実際、迷宮内部で潰し合いがあるらしいという話も聞いてるのだ。
 純然たる利益追求のための会社であるこの冒険者カンパニーがそこまで真摯に冒険者の面倒を見るつもりであるとは思っていなかった。

「簡単な話ですよ。この会社は冒険者に対して投資を行っているのです。うちにとって大切なのは情報です。情報をより多く、正確に取得するにはその提供者は多い方が良い。ならばうちの紐付の冒険者を増やすのは我が社の利益に繋がる。冒険者だってより生き延びる可能性が高くなるいわゆるウィンウィンの関係というやつですね」
「なるほど御社の考えは分かりました。そこで冒険者の信頼を稼いだ我が社との共同開発なのですね」
「そうです。それにそれだけではありません。我が社自体には生産設備はありません。何かを作る場合は全て外注という事になります。我々としても冒険者に対して真摯な相手との取り引きが望ましいのです」
「なるほど」

 話だけを聞いた限りでは筋は通っているように思える。
 どちらにしろ判断をするのは俺じゃないし、俺の役目はただの中継ぎにしかすぎないからここで何を言う訳でもないんだけど。
 テクスチャと名乗った相手は、封筒を差し出して来た。

「こちらに詳しい企画書が書面とデータで入っています。ご検討よろしくお願い致します」
「分かりましたお預かりします」

 特に何事もなく終わったか。
 俺は書類を受け取るとコーヒーを口に運んだ。
 おおお、なんかかなり上等の豆を使っているぞ、香りがすげえ。

「ところで」

 こちらも仕事モードが終わったらしい相手がクッキーを割って口に運びながら気軽な口調で切り出した。

精製士エンジニアの方はどちらなのでしょうか?ちょっと別口の依頼があるのですが」

 予定外の申し出に俺は流と伊藤さんの顔を見た。
 二人共俺に全部任せるというアイコンタクトを寄越す。
 ん、まぁ俺が決める事なんだろうけどさ。

「俺、じゃない、私ですが、どういう事でしょうか?」
「実は我が社は特殊な託宣機サーバを使っているのですが、その回路に使っている共振体コンデンサの調子が悪いのです。うちの技術スタッフは教科書通りの仕事なら出来るのですが、規格外のトラブルに弱くって、良かったら技術的な指導をしていただけると助かるのですが。もちろん、貴社への正式な依頼として発注させていただきます」

 う~ん、これは現場判断で対応出来る案件だと思うけど、どうするべきか。
 ある意味この仕事を受ける事でこの会社が取引相手として信頼出来るかどうかを試す事が出来るという事もあるし、まぁ見るだけなら問題は無いか。

「今何も道具類は持っていないので見るだけになりますが、それで改めて見積もりをしてという事でよろしければ」
「ありがとうございます。ぜひお願いします」

 テクスチャ氏は嬉しそうに頷いて握手を求めて来た。
 ほっそりとした見た目にそぐわないがっちりとした力強い手だという印象を受ける。
 さすがは冒険者といった所か。

 準備があるからと席を立った男の後に、先ほどの女性がコーヒーのおかわりとショートケーキを持って来た。
 おお、グレードが上がったぞ。

「隆志さん、良いんですか?」
「まぁ見るだけだし、何か確約した訳でもないしな。実の所すごく興味があるし」
「俺も興味があるな。この建造物のエネルギーの流れは独特だ」
「そんな事が分かるのかよ」

 流の言葉に呆れる。
 流は一部では神のごとしと形容される魔導者の一族だ。
 魔導者は歴史の表にはほとんど現れる事がない為、俺も話半分に考えているんだが、こいつ実際底が知れない所があるんだよな。
 まぁそこに突っ込んだ事は無いし、お互い実家の事は知っていてもなんとなくその辺の話は避けて来たんで詳しい事は分からないんだが。

「隆はほんと、大雑把というか、大物だよな」
「隆志さんは凄いです」
「いや、今の話の流れで俺を評価するのはおかしいだろ」
「この建物は外見上はホテルだが、そうだな、まるで巨木のような感じだな。生き物のように建物の外殻をエネルギーが循環している。シールドされている部分がやたら多いし実に秘密主義の冒険者らしい会社だね」
「生き物のように、ね」

 冒険者に情報を提供し、同時に情報を集めるというある意味しごく単純な情報提供会社だが、以前会った印象だとここのトップは一癖も二癖もある相手だ。
 一応政府の承認を受けているんだから危険な活動をしている訳じゃないんだろうが、なかなか安心出来ない相手と言って良いだろう。

「お三方、準備が出来たのでこちらに」

 テクスチャ氏が呼びに来て、それに従って俺たちは後に続いた。
 専用エレベーターで地下へと降りる。
 てか階数表示がないんでどのくらい深いか分からないんだが相当降りたぞ。
 地下という場所の特性で恐ろしい圧迫感を感じる。
 そう言えば伊藤父も自宅に地下室作っていたな。
 冒険者は地下が好きなのか?

「機密事項があるので周囲に囲いを設置させていただきましたが、こちらがサーバの一部を負担している回路の一端になります」
「おお!」
「すごい、綺麗ですね」
「これは、驚いたな」

 そこにあったのは今時のマシンではなかった。
 結晶柱と魔法陣を使った古いタイプの回路だ。
 しかもジャングルジムとクリスマスツリーを足したような立体的な仕様となっていた。
 テクスチャ氏の言う通り、半分以上はボードで覆われていて全容は分からなくなっていたが、見えている部分だけでも十分凄い。
 流ですら驚きと感心を浮かべているし、伊藤さんに至ってはすっかり見とれていた。
 というか、俺自身がちょっと気持ちが盛り上がってヤバイ。

「えらく全時代的というか、場所を取る作りにしたんですね」
「お恥ずかしい。本当は今時のサーバを設置するつもりだったのですが、色々とあってこのタイプになってしまったのです。あ、こちらの共振体なのですが」

 案内されて中央下部にある巨大な水晶柱を見る。
 基本的に共振体は天然の物の場合1本の水晶を2つに分けるか双子石と言われる物を使うのだが、今は人工結晶を規格通りに作れば良いので簡単だ。
 そのせいで昔の共振体は非常に高価だったが今はかなり値段も下がっていて、そのおかげで世界的に工学が発達したのである。
 しかしこれは。

「これは天然石ですよね。とんでもないですね」
「いや、そうでもないのです。実はうちの社長がこの情報関係の仕事をやろうとしたきっかけがこれらの石のせいなのですよ」
「石?」
「はい。天然の巨大な鉱石の洞窟を発見しましてね。せっかくだからそれを利用した仕事をしたいという事で情報関係の会社を起こした訳です」
「ちょっと普通の人には出来ない発想ですね」
「そうですか?」
「ええ、だって普通なら売って儲けようとかそういう話になりませんか」
「まぁ普通はそうなのでしょうけど、我々の場合は価値がありすぎる物は下手をすると取り上げられる危険がありますから、取り引きにはつい慎重になってしまうのですよ」
「……なるほど」

 何かやっぱり色々あるんだろうな。
 あまりそこに突っ込むのもなんなので俺はさっそく水晶体を調べてみた。
 サイズもカットも申し分ない。
 表面に幾つかの術式が被せられ今も細かい振動を続けていた。
 しかしこれは。

「これはもう片方を見せていただかないとどうにも判断出来ませんね」
「それは当然ですね」

 共振が上手く行っていないという事は双方になんらかのブレがあるか、環境に問題があるかだ。
 どちらにしろ双方を見比べてみないと分からない話である。
 しかし計測器を使って本格的にやるのは今回じゃなくていいし。

「使って良いディスクメディアはありますか?」
「映像記録用のならありますけど」
「あ、それと一度テストをしますので言っておいてもらえますか?おそらく1秒か2秒のラグが起きると思うんで」
「止めなくて良いのですか?」
「まぁ本格的な修理なら止めた方が良いんですけど、とりあえず型取りするだけですから」
「分かりました」

 磁界に捕らわれ半分浮いた状態の水晶体は周囲を走る光を屈折させて透過して美しい光の乱反射を見せている。
 こんな天然の結晶体を見る機会など滅多にない事だ。
 楽しい。

 実を言うと、俺はこの時ほとんど仕事を忘れていた。
 完全にではないぞ、そこは大事だ。



[34743] 194:祈りの刻 その十六
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2016/04/28 14:26
 ディスクメディアという存在は仕事の上での使い勝手の面ではあまり良くは無い。
 焼き付けの精度は高いので記録メディアとしての性能は高いのだが、取り回しがあまり良く無いのだ。
 仕事の世界でデータを扱う場合、現在ではそのほとんどはキースティックと呼ばれる棒状の記録端子を使う。
 これは積層体を利用した記録メディアでデータの出し入れが容易で上書きや消去が楽に行える物だ。
 その点ディスクメディアは文字通り焼き付けて使うという物なので一回記録すると容易に上書きや消去が出来ないのである。
 一種の磁界を作ってそれを解決する方法もあるが、それには専用の機器を使う必要がある。
 今回のようなやり方だと一回使いきりの消耗品となってしまうのだ。

「そういう訳で一度使ってしまうと戻せませんけど、良いですか?もちろん我が社の経費で落とすのできちんと請求書を出していただきたいのですが」
「いえ、大丈夫ですよ。そのディスクはいざという時のためのバックアップ用に用意してある物ですが、基本的には消耗品です。貴重な物ですらありません。我が社の設備のメンテナンスに使うのですからそれはうちの経費という事になりますし」
「まぁそう言われれば確かにそうですね」

 冒険者カンパニーの設備の修理について意見をしてもらいたいと言われてその準備に使うのだから確かに筋としてはここのメンテナンス経費として考えるべきなのかもしれない。
 あんまり細かい事を考えても仕方がないのでとりあえず俺は記録メモリを焼き付ける事にした。
 中空に浮いている透明度の高い水晶の真下にディスクを表を上に向けてセットする。
 この場には術式が張り巡らせてあるようだが、精製術というのはそういう物理法則とは干渉しない術式なので問題ない。
 俺はほどんど考える事もない動きで専用のホルダーから音叉を取り出した。
 この特区に来てからこっちずっと持ち歩く羽目になっていた仕事道具である。

「んっと、『水の精たる一柱より滴り落ちるその映し身、鏡面に響きたる水精の打つ響き、振りて宿れ、降りて舎れ』と」

 音叉の響きと共に独特の詠いで世界に干渉する。
 精製士という存在には資質は一切必要がない。
 その法則への理解と干渉する物質へ正確に干渉出来る音への理解があれば誰でも出来る仕事だ。
 ただし、これには長年の研究によって造られた法則を覚え学ぶという工程が必要であり、それには専門教育を受けなければならない。
 ライセンスを持たない者が我流で頑張ってもどうにもならない理由が、この知識の受け渡しの正確さだ。
 特に音については実際にプロから学ぶ以外に方法はない。
 中には古い時代の徒弟制度をまだ採用している国もあるのでライセンスの中身自体は国によって違うが、国際ライセンスにははっきりとした基準があった。
 簡単に言ってしまえば試験に合格しないとプロではないという事だ。

 俺の詠いに応じて共振体である水晶がブルリと身震いしたように見え、その表面にさざなみのような光が走ったかと思うと水滴のように光がディスクの上に落ちるのが見えた。
 
「よし、これでこっちのコンデンサの記録が取れました。もう1つの方を見せてもらえますか?てかこの敷地内にあるんですよね?」

 うっかりしていたが共振体は別に物理的に近くにある必要はない。
 下手をすると海の向こうにあるという可能性もあった。

「ええ、そうでなければ見てもらいたいとは言い出しません」

 どこか面白そうにテクスチャと名乗った男性社員はそう答えると少し微笑んだ。

「それにしても精製術は専門家が使うとほとんど魔法のように見えますね。実に美しいものです」
「いや、それはかなり認識違いですよ。魔法って言えば世界の法則自体を捻じ曲げるものですからね?精製術っていうのは法則を利用して世界に干渉するものですから全然方向性が違います」
「素人から見ると同じようにしか見えませんよ」
「精製術は言うなれば楽器のようなものですよ。素人から見ればどこをどうしたらどんな音が出るとかさっぱり分からなくても理解出来れば音楽を演奏出来る。魔法は何もない所から音が湧き出るんです」
「ああ、なんとなく分かるような気がします。私は一度だけ本物の魔法使いを見た事がありますが、あれはなんと言うか、薄ら寒いような毛穴が開く心地がしました。今のは純粋にきれいでした」
「ありがとうございます」

 会話している俺達のすぐ斜め後ろに伊藤さんがいたのだが、彼女がテクスチャさんのおためごかしの褒め言葉に全力で相槌を打っているのが見えてひどく照れくさくなる。
 いやいや、職場で何度かやって見せているからね?全然珍しくないからね、俺の精製術。

「それではこちらへ」

 またしてもエレベーターだ。
 しかも今度は場所が違う。
 いったい何基あるんだ?
 俺たち全員が乗り込むと、スムーズに稼働始めた。
 こちらのエレベーターには回数表示があり、先ほどの場所には「M」と表示がある。
 階数表示ではないのでやっぱりどのくらい深い場所にあるかは分からなかった。
 だが、昇っている方には階数表示がある。
 ランプは20階の所で停まった。
 表示には電算室とある。
 エレベーターの扉が開くとマシンが立ち並ぶ場所特有の音が響いていた。
 それぞれのモーターが小さく唸り、それが合わさって、腹を揺すり上げるような低い鳴動が体に感じられる。
 見回すとここは管制室なのだろうか?と感じられる光景が広がっていた。
 パネル化されたモニターが壁に埋め込まれて様々な文字を表示しているのだ。
 ただし、その表面にはのぞき見防止のフィルターが掛かっていて明確な内容は分からない。

「こちらです」

 テクスチャ氏はそれでもあまり俺たちにそれらのモニターを注視してもらいたくはなかったらしく早々にそのフロアを通り過ぎる。
 フロアの扉を抜けると狭い一本道の通路があり、その先に今度が頑丈な扉があった。
 テクスチャ氏がその手のひらを翳すと扉が開かれる。
 これってもしかして生体認証か、かっけえな。
 我が社では導入を検討されながらも、そこまでやらなくてもという消極的な反対があって導入されなかったシステムだ。
 その扉を潜るとやたら狭い部屋に出た。
 どのくらい狭いかと言うと、一般的なカラオケボックスの半分ぐらいの広さと言えば分かるだろうか、ともあれその何もない部屋を突っ切り、次の扉をまたも生体認証で開ける。
 おお、セキュリティ厳重だな。
 これってもしかしてこの人いないと俺たち出られないんじゃね?
 そんな微かな不安を感じ始めた頃に地下のと似た立体の術式回路にたどり着いた。
 あ、セーフティゲートがある。
 地下の回路と違ってこちらの回路はむき出しだったので全体の流れが分かった。
 立体的なこの回路は複雑な入れ子構造になっていて、それぞれの接続場所にセーフティゲートが設けられている。どこかの回路が崩壊しても全体が崩壊しないようになっているのだ。
 構造的に共振を繰り返してエネルギーを増幅していく造りのようだった。

「壮観ですね。てかこの術式見たことないタイプのものですね」

 床には前衛芸術のような絵のようなものが描かれているが、おそらくどこかの国の、あるいは民族の使う陣型の術式だろう。
 回路の流れからして小さなエネルギーを大きく増幅する物のようだ。

「まぁ興味があるのはわかりますが、あまり詮索はしないでいただけるとお互いに損が無いと思いますよ」
「承知しました。こちらも仕事ですからクライアントの要望は守ります」
「さすがにプロは気持ち良いですね」

 お互いに仕事用のうさんくさい笑顔を貼り付けて俺はとりあえず共振体コンデンサの様子を見る。
 外から見た限りだと問題がありそうには思えない。
 その美しい透明度の高い水晶柱は、地下にあったそれと全く同じようにきれいに光を透過させて浮いていた。

「表面には傷はないな。まぁ当然かそんな分かりやすいものだったら会社の人間が発見しているよな」

 俺はディスクメディアをその水晶の横に並べると、静電気的刺激を使って中に保存したデータを映像として起動する。
 2つ並んだ水晶柱はどちらも美しく光を弾き、一見どちらも問題ないように見えたのだった。



[34743] 195:祈りの刻 その十七
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2016/05/05 13:11
 見た目で分からないのなら振動で見分けるしかない。
 とは言え計測器とか持って来ていないので原始的に皮膚感覚で当たりを付ける程度だが、案外と馬鹿にならないからな。
 俺は音叉を再び取り出して共振させる。
 ディスクに記録された震えと、目前にある結晶体の震えがハーモニーのように響く。
 ブレがあればそこだけ薄いはずだ。
 俺は目を閉じて全身で振動を感じる。
 外からの波動の特性として、体内の波動と共鳴してそこに重なりが生じ一つの影像が浮かび上がるという物がある。
 俺たちが感じ取る音や形が生じるのはこの波動の重なりによるものだ。
 そしてこれはそれぞれの波動がくっきりとしている程はっきりと浮かび上がる。元となる存在にブレがあれば影像はぼんやりとしか浮かばないのだ。

 このブレを俺たちの業界では『柔らかい』と呼ぶ。
 確固とした単振同士の影像は『硬い』ものなのでそれで感覚的な違いを感じる訳だ。
 もちろん数値的に正確に調べる時にはちゃんと機材を使うんだが、人間の持つ感覚も馬鹿にしたものではない。
 弱い生き物である人間種族は違和感を察する能力が高いのだ。
 弱者であるがゆえの様々な発達が今の人間を作り上げた。
 そう、元々人間は生き残る能力に秀でるがゆえにその感覚を発達させて来た種族だ。地上の生物の中では突き抜けた分析能力を持っているのである。

「う~ん、かなり微妙なブレがあるように感じる。これは本格的に機材を使わないと場所をつきとめるのは無理かな」
「さすがですね。機材なしに感じ取れるのですか?」

 テクスチャ氏は感心したように俺を見た。

「こればっかりは経験でしか養えない感覚ですからね、まぁ人間の体が凄いって事ですよ」
「それは分かります。我々冒険者においても経験のもたらす福音は大きいですからね。……ああそうか、経験ですか。ここの管理者として3年も過ごせばライセンスを持たなくてもこの設備についてなら分かるようになるものでしょうか?」
「それは確かにありますね。もちろん個々人によって適正はあるでしょうが、3年も毎日管理していれば少なくとも何かがおかしいという事には気付くようになるはずですよ」
「そう言ってもらえてほっとしました。なかなかライセンス持ちはうちには来てくれませんからね」
「とりあえず、今感じた所だけですが、どうも圧に偏りがあるのではないでしょうか?」
「圧に?」
「ええ、それで内部に歪みが生じているように感じました。電圧が安定していない回路に起こりがちな不具合ですね」
「電圧、ですか。なるほど助かります。本格的な修理依頼はさすがに出来るかどうかは社長判断になりますのでお答え出来ませんが、今回のチェックに関しては御社に正式な依頼をした案件として上乗せさせていただきます」
「えっと、まだきちんとした計測もしていない本当に助言程度の段階ですよ?」
「いえ、私達も冒険者の方々に指導する際に助言だけでも料金を頂いているのです。お客様からは接収して自分たちは支払わないとなると評判にも関わりますからね」
「なるほど、そういう事ならよろしくお願い致します」

 まぁそんな感じで俺たちは冒険者カンパニーで企画書を預かり、内部の巨大なサーバの一部に触れて最初の接触を終えたのだった。
 部屋へ戻ると流がかなり真剣な顔をして俺たちに提案をした。

「ちょっと緊急ミーティングを行いたい。いや、ブリーフィングと言うべきかな」

 何か冒険者カンパニーで気付いた事でもあったのか、俺達に否やがあるはずもないので頷いた。
 場所は恒例通り俺たちの借りている部屋のリビングだ。
 伊藤さんは心得たとばかりにキッチンでお茶の準備を始めた。

「なんかあったのか?」
「うん、まぁね」

 ふっと、流が部屋中に視線を巡らせ、さっと片手を振るような動作をする。
 途端にそれまで微かに感じていた戸外の音が消え失せた。

「え?あれ?」

 伊藤さんがびっくりしたように周辺をキョロキョロと見回す。
 何かはっきりとは分からないまでも周囲の雰囲気が変わった事に気付いたのだろう。
 なんせ巫女の素養持ちだし。

「おい、これって術式とかじゃないよな?なんだ、結界に感覚は似てるが」
「言うなれば魔法に近いかな。分かりやすく言えば世界からこの部屋を隔離した」
「ちょ、おい」

 嘘だろ?魔導者ってのが半端ない存在だとは知っていたけど、これまで流が積極的にその力を振るった事はなかった。
 ちょっとした驚きだ。

「急に悪かったが、万が一にも相手に悟られると事が事なんで厄介な事になりそうな気がしてな。まぁ話が終われば戻すから気にしないでくれ」
「いやいや、気になるぞ。怖いだろ。そもそもなんで伊藤さんを巻き込んだ?」
「隆志さん、この3人でいる時はプライベートみたいなものだから名前で呼んで良いって言ってたのに……」

 伊藤さんがお茶を用意したトレーを抱えたまましゅんとしたように言う。
 おおう、つい、仕事上の呼び方をしてしまった。
 あ、いや、今はそこじゃないっしょ?

「この3人で情報を共有する必要があるからだ。下手に情報に齟齬があるとその人間が危険だ」
「おい、そんな重大な話なのか?あのサーバか?」
「ああ」

 俺もあの巨大なサーバについてはなんとなく気にはなっていた。
 いくら多くの情報を扱うにしてもあんな特殊なサーバを構築する必要はない。
 たまたま巨大な結晶を持っていたから活用したかったと言ったってあんな前時代的な仕組みを使うのは現代の既存のサーバの何倍設備投資に掛かるか予想も出来ない程だ。ある意味現実的ではない馬鹿げた設備なのだ。

「それで共通認識としたい報告というのは?」
「これが先ほどのサーバの縮小モデルだ」

 そう言って、流はテーブル上に光の固まりを創り出した。

「は?」「えっ」

 俺と伊藤さんは訳が分からずにそれを凝視する。
 いや待って、今までそこに何も無かったよね?何平然と非常識を繰り出してるんだ?今までずっと普通に過ごしてきた常識人の仮面はどうした。
 伊藤さんはポカーンとその突然現れた立体モデルを見ている。

「おい流、お前なに人外宣言してんだよ。何なの?特区に毒されたの?」
「正直に言うと、実は俺は二人に引け目があった。俺が一方的に二人の秘密を把握しているという事についてだ」
「あー、なに?会社の資料を見たとかか?」
「いや、なんと言って良いか分からないが、そういう事が分かってしまうんだ」
「ああ、うん」

 魔導者は神がごとし、か。なるほどね、俺の血統と伊藤さんの素養とに気付いてそれを自分が一方的に知っている事を気にしてたんだ。
 別に俺はお前が魔導者の血統だって知ってるからそれだけで十分だったんだけどな。
 むしろ実際の力がどんなもんかとか知りたくなかったわ。
 伊藤さんはまだポカーンとしながらも、きっちり全員分のお茶と茶菓子を配り終えた。
 そして俺の隣の定位置に座るとやっと我に返ったように首をかしげて流を見る。

「えっと、室長は特殊な方なんですか?あの、隆志さんと同じような」
「隆とはまた違う血族だね。うちの一族は昔昔、精霊の迷宮を攻略した者達の子孫だ。そこで神のごとき力を手に入れてしまってそれが代々引き継がれて今に至るといった感じかな」
「精霊の迷宮の攻略者なんですか!凄いです」
「まぁ俺の功績じゃないからね。子孫としては面倒くさい遺産を残してくれたなという感じだね」
「父達が聞いたらすごく盛り上がると思いますよ」
「ああ、だから冒険者とは極力接触しないようにしている」
「さすが室長、分かっていますね」
「まぁそこの天然馬鹿とは違うからな」
「おい」

 なにか伊藤さんの疑問に答える中で俺に不当な評価が下されたぞ。
 まぁいい、とりあえず流の魔導者の血統の件についてはまた今度だ。
 それよりとりあえず今のブリーフィングの主題について進めるべきだろう。

「まぁお前が自分の力についてオープンにしたのは分かった。で、この光の卵みたいなのがさっきのサーバの縮小モデル?」
「ああ、相手は隠していたつもりだろうが俺にはエネルギーの流れが把握出来るからな。正確な立体モデルを構築してみた」
「これなんで出来ているんだ?」
「ここに仮想のディスプレイがある感じで仮想の電算機でモデルを構築してみた」
「お、おう」
「凄いですね。室長は実際に電算機がなくても実際にあるように使えるんですね。すごい経費の節約になりますよ」
「残念ながら実際の電算機にデータを落とし込めないのが難だな」
「あ、かんじんの所が痒い所に手が届かない仕様なんですね」
「魔導も万能ではないという事だな」

 なんだろ、生まれてこの方魔術や怪異と付き合ってきた俺より、つい最近まで父親を一般人と信じていた伊藤さんの方が流の異常性に違和感なく馴染んでるんだが、これって俺が駄目って事なのか?すごく納得がいかないぞ。

「そ・れ・で、このサーバがなんだって?」

 俺は度々脱線する話の軌道修正を試みる。

「ああ、実はどうもこれはあれだ、俺の見る所ただのサーバではない。そうだな、簡単に言ってしまうと予言機だな」
「へ?」「え?」

 俺と伊藤さんはそろって驚きの声を上げた後絶句してしまった。



[34743] 196:祈りの刻 その十八
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2016/05/12 12:47
「予言機って、……サーバーが予言をするって言ってるのか?ばかげている」

 俺はそう言って流の妄言を一蹴した。
 基本的に予言とは情報の入力によって再現される確率の出力によって成り立っていると言われている。
 これだけを聞けば機械によって再現する事が可能と考えられるかもしれないが、一部の人間が予言を可能としているのは集合的無意識にアクセス出来るからなのだ。
 つまり全ての存在の無意識にアクセスする事ではじめて現在を参照して未来を予測する事が出来るのである。
 それも予知者によれば意識的に行うのではなく感覚として受け止める受動的な能力らしい。
 予知者の多くは自分のそんな力について理解が出来ない為、それを外に吐き出す時に表現するのが難しく実際に表現する場合には不完全な物となってしまうのだ。
 その為天然ですら完全な予言は存在しないと言われている。
 そんな感覚的な物を機械で再現出来るはずもないし、そもそも集合的無意識に意識してアクセスする方法がない。

「予言と言っても限定的な物だよ。情報を集めて分析して予測する。この言い方なら理解出来るか?」
「それは単なる予測だろ?」
「それを予知まで高める為にあの大仰な仕掛けを作っているのさ、あれはサーバーであると共に立体的な魔法陣にもなっているようだ」
「マジでか」

 それはヤバイんじゃないかな。
 いくら特区でも特殊な魔法陣を展開しているとなると国の許可が必要だ。
 しかし予知の為の装置とか国が許可を出すとは思えない。
 絶対違法だよな。

「でも予知か、冒険者が情報を集めて予知を必要とするものって……」
「迷宮、ですか?」

 俺の呟きに伊藤さんが続けた。
 そうだよな、場所からしてそうとしか考えられない。
 元々冒険者カンパニーは冒険者に情報を売る為の会社だ。
 会員になるとその巨大な情報網から自分の欲しい情報を取得できるという仕組みになっていると聞いた。
 確かに冒険者にとって情報は大枚はたいてでも欲しい物だろうが、基本的に彼らはあまり外部を信用しない。
 そんな冒険者相手の商売は個人対個人というごく狭い物になるのが常識だと聞いた事がある。
 あの大きな会社として成り立っている冒険者カンパニーは、その常識からするとかなり異色の会社という事になるだろう。

「多分特別料金か何かで予知情報を販売しているのだろう。それが評判になれば利にさとい冒険者は確実に利用する。なにしろ命が掛かっているからな」
「そうか、冒険者による迷宮の攻略速度が予想よりも早いと聞いた事があったが、なるほどそういう仕組みだったって事か」

 そう言った一方で俺は引っ掛かりを感じた。
 自然発生型の迷宮ならともかく、この迷宮には造った者の意思が働いている。
 果たしてあの終天が冒険者の思惑に沿ったままにしておくだろうか?

「そうなるとお上に報告した方が良いのかな?これって」

 明らかな法律違反を知らなかったならともかくとして知ってしまっては報告しない訳にはいかない。
 ただ、これはかなりデリケートな問題に発展しそうな予感がする。

「しかしそれはうちの会社としては困った話になるかもしれないぞ。仕事上の道義に背くという事になりかねない。実際に法律に違反しているのはあちらだが冒険者はそれによって命を守っている。となるとそれを駄目にした相手が恨まれるのは当然だ」
「会社に迷惑が掛かると思うか?」
「ああ、何しろ身内以外にあの仕組みを見せたのはおそらくは俺たちだけだろう。そうなればバラしたのは俺たちという推測はすぐに成り立つ。噂が広まるのはあっという間だろうな」
「くそっ!」

 これが俺個人の問題ならどうにでもなるが、俺は今回企業の一社員として訪れていて、冒険者カンパニーであのサーバーをチェックしたのも社名を背負った上での事だった。
 やばい、そう考えると身動きが取れない状態だぞ。

「その予言機は冒険者の方達のためだけに使われているのでしょうか?」

 伊藤さんが疑問に思ったように流に尋ねた。
 流は相も変わらず困ったような顔をしていながら口調は思いっきり軽く返事をする。

「さあ、どうかな?中に入っているのが迷宮の情報だけとは限らない。もしかすると世界的な経済に関する事も予知している可能性が無いとは言えないな。まぁさすがにそこまで広大な対象を予知するとなると厳しいだろうが、仮に気になる企業一社や二社に対してだけ、あるいは一国だけを予知するならやれなくは無いだろう。とは言え、国単位ならそれぞれの国々は本当の意味での予知者を抱えている。そうそう読み合いで損をする事はないだろうけどね」
「予知者同士の読み合いバトルとか想像も出来ない世界だな」
「あまり楽しくは無さそうだね。新しい物を生み出す事に比べたら野蛮な行為にすぎない」

 軽口を叩き合いながらも俺は考え続けていた。
 俺の立場的に国に報告しないってのもどうなんだろうな。
 普段は意識した事もないが、本来うちの村の人間は天子の、ひいては国の守護の為に生み出された者達だ。
 国の法を無視すると考えるだけでかなり落ち着かない気分になってしまうのは、そういう守護者としての考え方を当たり前のものとして育って来ているからなのかもしれない。
 自分の血のありように背を向けて来たようでありながら、俺は一度として国に逆らおうと思った事すらないのだ。
 俺が大学を受験して一般人として生活しているのも、それが法律に定められた権利としてまっとうな事だからである。
 そもそもの話として法を根拠として今の生活を手に入れた俺が、一転して法に背を向ける訳にはいかないだろう。
 そんな思いも確実にある。

「隆志さん、大丈夫ですか?」

 伊藤さんがそっとハンカチを額に当ててくれた。

「あ、すまない」

 そんな心配になるほど汗をかいていたのだろうか?

「お前の精神的な負担となるなら告発した方が良いだろうな。まぁこれは友人としての意見だが、仮にいち会社員としても違法を見過ごす事が良いとは思えないしな」
「だがお前は告発しないんだろう?」
「あえては、な」
「それなら私が……」

 言いかける伊藤さんを俺は押し止めた。
 伊藤さんの立場は俺より問題がある。
 なにしろ父親が元冒険者だ。
 現役冒険者との繋がりもあるような話を以前聞いた事がある。
 いくらなんでも伊藤さんが動くのはまずすぎる。

「俺にちょっと当てがある。信用出来る人でまぁお偉いさんの一角だ。俺には到底判断出来ない以上頼らせてもらおうと思う」
「それが良い。それに単なる俺の勘違いだと考える事も出来るぞ。何しろ俺たちはそれが何であるか判断出来る程情報を与えられてはいない。俺の考えすぎだと思えば情報の信ぴょう性も薄れる」
「お前が何者か知らなければそれも可能だっただろうな。くそっ、いい加減俺のキャパに収まらない事が多すぎるんだよ!」
「ご愁傷様」
「お前な!」

 しゃあしゃあと述べる流が憎たらしい。
 そもそもお前が事を暴露したりするから、……いや、違うな、知らなければそれで良いって事にはならない。
 今知らずに後から気付いて、その遅れによって致命的な問題が生じたら俺は絶対に後悔したはずだ。
 こうやって流が分かった事を包み隠さずに教えてくれるのは本当にありがたい話なのである。
 流からしてみれば自分の特殊性をペラペラと明かしたいはずもないのだ。
 流は俺が後悔する事のないように伏せられたカードを事前に全部開いてみせてくれている。
 それが分からない程俺も愚かではないつもりだ。

「なぁ、これって、連中の手のひらの上だと思うか?」
「冒険者カンパニーか?まぁチェスの指し手を気取っている可能性は無きにしもあらずといった所かな」
「くっそ、俺は頭脳労働向きじゃないんだぞ!」

 吐き捨てて、以前向かい合った冒険者カンパニーの社長、いや、CEOの顔を思い出す。
 冒険者ってのは本当に一癖も二癖もある連中ばっかりだな。
 その一方であの巨大な結晶体を見られた事に対しては良かったという気持ちもある。
 美しい結晶体は天然ものだけあってその構成が均一ではない。
 色合いも少しけぶるような曇りがあったし、中に化合物のキラキラとした輝きが見えた。
 ああいった天然結晶はコピーが出来ないので独立した構成体として他からの干渉を受けない情報記憶体となり得る貴重な存在だ。
 いや、そんな性能云々よりもその姿自体が本当に美しいのである。
 地中で長い歳月を掛けて形作られた天然の結晶体は独特ユニークであればある程美しいと俺は思う。

「まぁ推測するに、相手はある程度先を読んでいるのは間違いないだろうな」

 流がにこやかにそう言ったので、せっかく美しい物を思い出していた俺の気分が急降下した。
 お前、人事みたいに言いやがって。
 流に対してちょっと上げた評価を急降下させて、俺は再びぐったりとソファーに沈み込んだ。
 単なるクレーム処理の出張がなんでこうなったんだろうな。



[34743] 197:祈りの刻 その十九
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2016/05/19 12:41
 予言機の件はその後相手側から何かを匂わせるような事もなく、共同開発の話のみを打ち合わせて真っ当な仕事だけで特区出張は終わった。
 冒険者カンパニーの交渉担当者のテクスチャ氏は終始協力的な態度で、アイディアや冒険者の意見の収集に積極的に対応してくれて、結果としてお互いそれぞれの原案をまとめた物を今後の会議に掛けて企画進行する事で纏まったのである。

「驚く程平安に終わったな」
「ああいうのが平安に思えるようになったという事が既にちょっとクレイジーかもしれないけどね」

 流が公道を塞いで行われているストリートファイトを指して言った。
 今回は異形の者同士の戦いではなく、ロボットのような機械作業体ロボットスーツによるファイトである。
 しかも通りの交差点から交差点の間を車を並べて塞ぎ広い空間を作っての事だ。
 こうなると突然の喧嘩騒ぎとは訳が違って秩序がある。
 そこに治安維持軍が駆け付ける事なく見物人が取り巻いている状態なのだからもはやある意味イベントの一種と言って良いのではないだろうか。
 もちろん告知なぞなしに行われているのだから合法ではないのだが、治安維持側からすればこの程度のガス抜きはさせておかないと暴発されては困るという所なのだろう。

「あのロボットスーツ、カタログで見た事ないタイプですね。カスタマイズ品でしょうか?」

 両足と右手だけのスーツを装着した男が高速移動をして相手の背後を取ったのを見て伊藤さんが言った。

「あれはおそらく足の部分と腕の部分は違う製品の一部じゃないかな?シルエットに独特の癖があるよな」
「君たちが思った以上にここに馴染んでいてびっくりだよ。と言うかここに住みたいとか言い出さないよな?」
「歓迎します」
「その時はシェアしませんか?」

 流の言葉にタネルとビナールが素早く乗っかる。
 俺たちがもう出張を終えて帰るとなってどうやら寂しくなったらしい。
 二人共なんだかんだで宿に遊びに来ては料理のローテーションに加わって俺たちの知らない異国の料理を食べさせてくれたりしたしな。
 大人が一緒にいる生活というのは安心感があるのだろう。
 そう考えるとちょっと罪悪感がある。

「私は隆志さんが良いならかまいませんよ?」

 伊藤さんがさらっとそんな事を言い出した。
 前は流相手にやや緊張していたみたいだったけど、最近はすっかり馴染んだようで気軽にこんな冗談も言えるようになっている。

「ここから出勤するのは手続きが大変だからなぁ」
「やれやれ」

 流がため息を吐いて首を振った。
 自分が提供したネタが変な風に広がったからってそんながっかりする事もないだろうに。

「しっかしまぁゲート前だってのに警備の人も見事に放置だな」
「割って入るとケガしますからね。しかもケガならまだ良い方です」

 俺の言葉にタネルが答える。
 まぁそりゃあそうか、あんな兵器みたいな武装した相手とまじめにやりあうなんて命がいくつあっても足りないだろう。
 そこまで考えた時にドン!という爆発音が響いて、ゲートの前に出来ていた列の人間が全員振り向いた。
 ストリートファイトを行っている二人の片方が筒状の腕を釘打ち機のように使って斜め下から相手を攻撃したのだ。
 打ち出した金属の杭のような物が避けた相手を掠めて高く打ち上がりロケットのようにこちらに飛来して来た。

「きゃあああああ!」

 誰かが叫び声を上げてパニックが起こる。
 だが、無秩序に混乱が広がる前に空中でその杭を捕獲した者がいた。
 まるで網のように広がったそれは杭を押し包むと丸く固まりそのまま落下して、ボールのように弾む。
 まん丸になっていないのでその弾み方はちょっとコミカルな動きだ。

「おお、あれ発泡ゴムだよな?」
「確かにそうだね、軽くて衝撃に強い新素材とか言われているやつだな」

 俺と流が感心していると、冒険者らしいゴッツイ男がこっちに向かって頭を下げ、「すいやせんでした!」とダミ声で叫んで来た。
 それへここの警備員が「飛び道具を使うな!」と怒っているようだ。

「冒険者も結構紳士的だな」
「もちろんですよ。あんまり迷惑掛けると人里に入れてもらえなくなりますからね」

 流が感心した風に言うのへ伊藤さんが答える。
 やはり伊藤さんはどちらかと言うと冒険者側なんだな。

「あなた方なら間違いなくこの街でも大丈夫ですよ?」

 タネルが良い笑顔でそう保証してくれた。

 ―◇ ◇ ◇―

 伊藤さんを駅まで送り、マンションに戻った俺はさっそく秘匿回線で呼び出しを掛けた。
 忙しい相手なのでいないかもしれないが、それならそれで伝言を入れておけば良い。

『どうした?久しぶりだな』
「……早いな」

 どうやら特区の最高責任者は暇なようだった。

『そりゃあそうだ。考えてもみろ、この回線は特別な回線だぞ?すぐに出なくてどうするのだ?』
「いや、そうは言ってもプライベートな回線だって言ってたでしょう?」
『君たちの事はプライベートであってプライベートではない。そんな事は分かっているだろうに』

 あ、駄目だ、この話題を引っ張ると俺たち兄妹についての話を延々に続けてしまうぞ、この人。

「あーうん、悪かった」
『なんでそこで謝るのかが不明だが、まぁ良い。どうだ最近は。便りのないのは元気な証拠と言うがやはり長く会話をしていないと寂しいものだな』
「は?月いちの定期報告はしているでしょう?普通長いとか言えば年単位で連絡してないとかじゃないですか?」
『定期報告は要件だけしか会話がないじゃないか。あまりに寂しいからまたおみやげを持って遊びに行こうかと思っていたところだ』
「いやいや、一国の大臣がおみやげ持って来るなよ?警備の人が困るからな?」
『大丈夫大丈夫、抜けだした事が分かるようなヘマはしないよ』
「いやいやいや」

 駄目だな、この人と会話するといつもなんか主導権を持って行かれてしまうんだよな。
 なんで親戚への近況報告みたいになってんだよ。

「今回連絡したのはちょっとどうして良いか分からなくなって、一応甘えさせてもらおうかなと」

 現在特区の管理のトップであるのが昔から俺たちの世話役だった酒匂さんだ。
 昔は冴えない若手の役人といった感じの人だったが、俺たち兄妹はさんざん世話になった相手でもある。
 うちの担当としてほとんど家族の一員のような付き合いをしていたのだ。
 毎回お菓子を手土産に家に来る事から俺たち兄妹の間では「お菓子の人」と呼ばれていたぐらい馴染んでいた。

『ほう』

 なぜか酒匂さんは急に嬉しそうな声を発した。
 俺は一応面倒事を持ち込もうとしているんだけど、なんで嬉しそうなんだ?なんか勘違いさせたか?

「いや、完全に私的な話とは言いがたい事です。特区の事なんですが、でも俺の私的な事情も含まれているみたいな」
『ほうほう、それで私を頼った、と?』

 う~ん、まだなんか嬉しそうなんだよな。
 絶対勘違いしてるよなこの人。

「いや、面倒事を押し付ける先があんたしか思いつかなかった」

 とりあえずぶっちゃけてみた。

『光栄だね』
「だから面倒事だって」
『君は昔からあまり大事な事は他人に相談とかしなかった子だからね。他人だけじゃないな、家族にも大事は事は打ち明けたりしなかった』

 ドキリと、俺は疚しいあれこれを思い出して言葉に詰まった。

「ま、まぁ大人になったって事でしょう?協調性が出て来たという事ですね」
『その点は社会人として働くようになった利点だね。他人と関わることを厭わなくなったのは良い事だ』
「そんな風に言われると、なんか俺が昔は排他的だったみたいですよね?俺、結構社交的な性格ですよ、昔から」
『まぁガキ大将だったね』
「そ、そんな事もありましたね」
『私の靴の中にセミの抜け殻をびっしりと詰め込んだり』
「そんな事ありましたっけ?」

 惚けている訳でなく本当に覚えていない。
 
『そういうイジメはやった方は忘れてもやられた方は忘れないものだよ』
「えっ?それイジメなんですか?違いますよね」
『大切な弟のような存在にそんな事をされた私はあの当時大変傷付いたよ』
「ええっ!ご、ごめんなさい!」

 クククと、ヘッドフォンからくぐもった笑い声が聞こえた。
 
「もしかして、からかっています?」
『まさか。そういう素直な所は変わらないなと思っただけさ』

 駄目だ、この調子で会話していたら話が脱線しまくってしまう。
 てか、この人無茶苦茶忙しいはずなんだけど、こんな長話していて良いのか?

「話を戻しますね。ちょっと特区の事で困った事があるんです。正式に報告するとうちの会社に迷惑が掛かりそうで」
『それは君がここ2週間程特区に滞在していた事が関係するのかな?』
「知っていましたか」
『当然だろ?』

 いや、でも許可書は会社名義で取っているので酒匂さんの所に俺の個人名が上がるとも思えないんだけどな。
 まぁ良いか。

「そこでちょっと、もしかしたら冒険者カンパニーに引っ掛けられたかもしれません」

 話してしまえば酒匂さんの立場的に面倒を抱え込ませるのは分かりきっていた。
 それでも他に相談出来る相手に思い至らなかったのだから仕方がない。
 まぁそもそもそういう風に考える事自体が俺がこの人に甘えているという事なのかもしれないが。
 昔、この人だけが俺にとって外を感じる事の出来る唯一の相手で、そして年の離れた兄のような存在で、俺たちを怖がる事のなかった普通の人だった。
 子どもの俺にとって『人間』と言えば彼の事だったのだ。

『大丈夫、ちゃんと聞いてあげるよ。安心して全部話してしまいなさい』

 前にも聞いた事があるような言葉で、酒匂さんは静かに俺の言葉を促したのだった。



[34743] 閑話:私心と指針
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2016/05/26 12:32
「なるほど」

 男は話を聞き終えてもそれを聞く前とさして変わらない柔和な表情を見せていた。
 ここにもし第三者がいれば、可愛い教え子を見守る教師のようなまなざしだとでも言ったかもしれない。

「話は分かった。その件についてはあまり気に病まぬ事だ。これが一般的な内部告発だとしても告発者を保護する法律がある。君や君の会社に迷惑が及ぶ事は有り得ないよ。もちろん何事にも完璧という物は存在しないが、今回の件は悪意ある隠蔽とはまた違う話だ。おそらくはあの会社の認識としてそのシステムが違法だとは思っていないのだろう。まぁ特区は色々と特殊な法令もある。まだ確固たる基盤となる決まり事の骨子が定まっていないと言っても良いだろう。だからこそお互いに解釈の齟齬もあるという事だ。そう、ともあれ良く私に相談してくれたね、軍警察などに持って行っては法解釈でもめる可能性が高かったからね。ああ、うん。そうだ、分かっているよ。じゃあ、君も疲れているだろう?ゆっくり休みなさい。ああ、おやすみ」

 ブンと、僅かな余韻の共鳴音を残して、今まで通話相手を映していたディスプレイが単なる平坦なメニュー画面に戻る。
 その画面を尚も眺めながら、特区を管理する立場の男、酒匂太一は自分のディスクを人差し指でコツコツと叩いた。
 見た者が少ないゆえにあまり知られていない癖だが、それは彼が苛立っているサインだ。

「やってくれる」

 酒匂はしばし両目を閉じると深く深呼吸をした。
 そうする事で指の動きがぴたりと止まる。
 
「冒険者カンパニーか」

 実のところ、この企業については設立当初から注目が集まっていた。
 その企業が設立された頃、迷宮特別区画特例法の施行には大きな混乱が見られていたのである。
 特区という特殊な場所に合うように、しかし本来の国法とかけ離れない基本法を作るという作業は、日本という国の特殊性のおかげでかなり困難を極めていた。
 その混乱の原因の一つに日本がそれまで冒険者をほとんど受け入れる事ない国であったという事がある。
 つまり日本という国は冒険者という存在の行動や考え方をほとんど知らないという事だ。
 元々島国で他国人を排除する事が容易かったという事もあり、他国では考えられない程に日本はそういった方面に無知であった。
 そのため専門家を招いての法整備の初期の段階では特区法は大枠は決まっていても細かい法令が決まっていなかったのだ。
 いや、あえて大枠だけ決めて細かい法は流動的に中央が意思決定出来るように幅を持たせていた。
 実際の話、その初期のやや乱暴なやり方は上手く機能したと言って良い。
 おかげで現場判断がしやすくなり、大きな混乱が起こらなかったのである。
 だが、その解釈の自由度は、当然ながら一方的なものではない。
 冒険者側もそれを利用していくつかの行動を起こした。
 その一つが勝手な都市改造であり、初期のいくつかの会社や団体の設立だ。

 本来なら国内には存在出来ないような武器や防具、術式を販売する店舗が開かれる。その事をこの特区ではあまり強固に規制出来ない。
 なにしろ迷宮に潜る為にはそれに相応しい準備がいる。
 国内で一律に規制している術式などを迷宮を中心に存在する特区で規制してしまえば冒険者は迷宮に潜る準備すら出来なくなっただろう。
 そこを利用して拡大解釈したいくつかの会社が設立してしまったのだ。
 もちろん明らかに犯罪的な物はきちんと規制が入り、対処されたが、今回の冒険者カンパニーなどは冒険者を支援する目的の団体であり決して暴力的な目的の会社ではない。その為規制対象外だった。
 しかし予言機となればまた話は別だ。
 予知や予言の取り扱いは国際法でかなり厳密に規制されている。
 一個人や一企業が個々でそれを取り扱う事については規制されていないが、システムとして活動内容に組み込む事は明確に国際法違反となるのだ。

 つまり冒険者カンパニーが本当に予言システムを商売上のメインシステムとして可動させているのだとすれば、それは重大な国際法違反となる可能性がある。
 そして酒匂は、その冒険者カンパニーがあえてその限りなく黒に近いグレーな在り方をわざわざ木村隆志に教えてみせた理由に思い至ったからこそ苛立ちを感じたのだ。

 これは脅迫だ、と酒匂は感じ取った。
 隆志個人への脅迫ではない。
 日本という国に対する脅迫なのだ。
 今まで海外へ決して出す事なく保護し続けていた日本の勇者血統の存在を知っているぞと脅して来たのである。
 それを守りたいなら自分たちのやっている事を黙認しろという暗黙の欲求を突き付けて来たのだ。
 
 勇者血統の存在は各国それぞれの人々暮らしや歴史の根幹に関わっている。
 怪異は絶えず生まれ続け、時に人の手に余る程に強大な存在として人間社会を脅かす。
 それでも人間が日々の暮らしを不安に苛まれずに送っているのはその根底に自国の勇者への信頼感があるからだ。
 いざとなれば勇者が現れて守ってくれる。
 怪異による災害は起こっても、「最悪」は免れる。
 なぜなら自分達のために存在する勇者血統が脈々と生き続けているから。
 親から子へ、教師から生徒へ、言い聞かされる事で、いつしか子どもは闇を過剰に恐れなくなる。
 そしてそれによって最悪の怪異を生み出す環境は解消されるのだ。
 これがなければそもそも人間の集団が集まる大きな都市など造れるはずもないのである。

 だがその勇者にはたった一つ弱点がある。
 それはただの人間だ。
 彼らは普通の人間に対して強い攻撃力を発揮する事が出来ない。
 国によって違うが彼らは対人間の場合には強い制約が働くようにされているのだ。
 怪異に負けない勇者は、しかし人間にはたやすく殺されてしまう。

 無防備に社会人として生活をしている隆志などは正に良い標的だ。もし人が本当の害意を彼に向ければ最悪は起こり得るのだという事を相手は示唆しているのである。
 そういった事が起こらない為にこそ、国は勇者血統を厳重に保護して普段一般人と接触させずに隔離しているのだ。
 この国でもとある山奥の村で彼らはひっそりと暮らしていて、外界との接触は限られていた。
 そこから飛び出したのが隆志である。
 とは言え、それは仕方のない事だと酒匂は思っていた。
 隆志自身が言うように、人間はもはや勇者を必要としない力を持っている。
 勇者がいなくても怪異と対抗出来る兵器を手にしているのだ。
 もうそろそろ勇者も人間から開放されても良いんじゃないか?というのは酒匂自身の考えでもある。

 とは言え、それは無為に勇者を失って良いという事にはならない。

「要するに迷宮相手に正攻法でやらせるつもりか?という抗議なのだろうな」

 冒険者達の言い分も酒匂には分かる。
 一時期酷い時には迷宮からの生還率が10%を下ったのだ。
 丁度二桁階層を本格踏破しようとしていた時期になる。
 あまりの惨状に担当者は真っ青になり、一時は迷宮の閉鎖も考えられた。
 それがある時期を境に生還率が急上昇する。
 それは丁度冒険者カンパニーが急成長を遂げた時期と重なっていた。
 特区の冒険者の実に6割が冒険者カンパニーの会員となったのだ。
 しかも上層踏破者に限ればその会員率は8割にも昇った。
 なんらかの特別な方法を持っているだろうと推測されていたが、冒険者はそれを決して外部に漏らす事はなかったのである。
 それが、最近になって少しずつ噂が出回り始めた。
 人数が増えれば増える程、様々な気質の冒険者全員を管理する事はむずかしくなる。
 酔っぱらいなどだったりすればなおさらだ。
 そこで情報統制がむずかしいと見た冒険者カンパニーは政府への働きかけとして、今回のような刺激的なパフォーマンスを行ったという事なのだろうと、酒匂は読んでいた。

 国際法違反となれば国際指名手配となる。
 逃げれば良いというような話ではなくなるのだ。
 相手はそうならないようになんとかしろと要求して来ているのである。

 酒匂の思考はふっと陰った光によって中断された。
 ディスプレイが消灯したのである。
 そしてその暗くなった画面に光が丸く描かれて行く。
 いくつのも丸が描かれて、それが更に一つの文様を描く、そんないっそ美しいと言える程の図柄がそこに浮かんだ。
 酒匂はその画面に自分の手をかざす。
 酒匂の手が近付くと模様が組み替えられ新しい図形を描いた。

『なにか?』

 画面の向こうから声が聞こえる。

「少し探りを入れて欲しい。冒険者カンパニーの経営陣についてだ」
『了解しました。何かありました?』
「うちの子を利用しようとしてくれた」
『へえ?』
「どうも私は冒険者に偏見があってね。このままだと公人として振る舞えないかもしれないな、と」
『いや、それはダメっしょ?たいっちゃんあの子達を溺愛しすぎよ?』
「まさか、そんな事はない。私はどうせ政府の側の人間だからね」
『昔さ、あの子らに聞いた事があるんだよね。お菓子の人ってサンタさんみたいなものか?ってさ。そしたらあいつらサンタさんなんてうちの村には来ないよ?って言ってたぜ』
「手土産にお菓子なんか子ども騙しだ。全く、あの子達は簡単すぎて罪悪感を抱いてしまう程だよ」
『はいはい、悪い大人ぶってもしゃーないのにね。まぁ冒険者連中だって別に国とことを構えようとかは思ってないと思うぜ?』
「そうだな」
『そんなに怒んない怒んない、冷静に、ね?』
「そもそも君だって昔私達をさんざんやきもきさせたのだけどね」
『うわ!怖いわ!こっちにお鉢が回ってきた!じゃ、そろそろ切りますよ。お仕事がんばってね』
「君はその調子だからあの子達に嫌がられるのだよ。まぁいい。とりあえずそっちの方は任せたぞ。以後は私は公僕として仕事に専念する」
『了解!お仕事ご苦労様です!』

 その言葉と共に画面の文様が薄れていくのを見守りながら、特別区画管理大臣酒匂太一は、新たにメニューを立ち上げると報告書と命令書の作成を始めたのだった。



[34743] 198:停滞は滅びへの道 その一
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2016/06/02 12:03
 長期の出張が終わり、元の職場に復帰すると課長や同僚達からの熱烈歓迎を受けた、……主に伊藤さんが。
 いや、まぁ分かっていたさ。
 どうやら伊藤さん不在の間、資料チェックやら備品の在庫やらの管理がスムーズに行かなくなっていたらしい。
 もちろんシステム的にはいなくても大丈夫な状態になっているのだが、こまめに整理している人がいなくなると基本のシステムがあっても上手く利用出来ていないという感じになってしまうのだろう。

 だがうちはまだ良い方だ。
 お隣なんか責任者である室長が丸々2週間程いなくなっていたんだからそりゃあ大変だったらしい。
 開発室の実験やテストに必要な要望やら提案やらをそのまま直接部長に上げる事になったのだが、その専門性の高すぎる内容に部長からストップが掛かってしまい、結局開発業務を一度止めて製品テスト一本に絞って業務を続けていたのだそうだ。
 休憩時間に隣の部署の連中から愚痴られた。

 とは言え、2課合同の慰労会を開いて飲み食いした後は、何事もなかったように通常業務が回り始めた。
 会社という組織は日常を同じように回転させ続ける事に特化している。
 ちょっとした異変があってもそれはすぐに日常に飲み込まれる場所なのだ。

 異変と言えば、特区で色々と怪しい動きのあった冒険者カンパニーとの業務提携も滞りなく進行して、我が社の製品の特区での売上は順調だ。
 俺たちの報告書を受けて、会社は既に製造を減らしつつあった型落ち品を特区に多く置くようになった。
 複雑な機能を付け足していない出来るだけ作りが単純な物の方が喜ばれる傾向にあると判断したためだろう。
 実際それらの商品の動きは良いようだった。

「やっぱ単なる認識違いだったってオチか」
「あの予知システムの事ですか?確かに特区法は判断があいまいな部分がありますから有り得なくは無いですけど」
「まぁ俺が考えても仕方がないって言うか、もう専門家に任せたから気にしても意味がないんだけどな」

 俺自身あまりにも勘ぐり過ぎたような気になってきていたので、冒険者カンパニーに対して罪悪感がある。
 どうも冒険者に対しては昔から注意するように厳しく言われ続けたからか偏見があるんだよな、俺も。

「私もあれから気になって調べたんですけど、予知に対する取り扱いは国際法ではかなりざっくりしていてあのシステムが引っ掛かるかどうかは微妙かもしれないですね。問題となるのはその企業が利益を上げる為に他社との競争に予知を利用しているかどうかという部分らしいですし」
「純粋に冒険者の支援に使っているなら大丈夫かもしれないって言う事か」
「純粋というのはどうかと思うのですけど、当然利益は追求している訳ですから」

 伊藤さんが困ったように笑う。
 とは言え企業としては利益を追求するのは別に当たり前の事だからそこが問題になるという事は無いんじゃないかな。
 伊藤さんと二人、全く色気のない話をして夕食を終える。
 最近は夕食と次の日の朝食の準備をしに家に来ている伊藤さんを俺が自宅まで送るというのが日課となっていた。
 伊藤さんの力に関してはほぼ全くと言って良い程進展は無いが、俺としてはむしろその事にほっとしている所がある。
 巫女の能力は本人にとってはあまり幸福なものではないからだ。
 きちんとした術具でセーブされている現状では暴走の心配もないし、このまま何事も無く一般人として生活が出来るのではないか?と俺はつい考えてしまう。
 それでも彼女を夜道で一人にするのは恐ろしかった。

「おやすみなさい」
「おやすみ、また明日」
「はい、また明日」

 嬉しそうに、だが何か言いたそうに俺を見送る伊藤さんはそういう俺の臆病さを分かっているのかもしれない。

「困らせてるのかな」

 一人の人間として自立している彼女をあまりにも過保護にしているのではないか?という不安はある。
 伊藤さんはあれで自立心の強い女性だ。
 俺の過剰な心配はむしろ伊藤さんの負担になっている可能性が高い。
 だとしても家でやきもちして彼女からの帰宅したという連絡を待つよりは自分で行動してしまう方が俺には楽だった。
 そうやってワガママを容認してくれているという事に俺は甘えているのだと、伊藤さん本人だって気付いているのだろうと思う。
 それなのに一緒に住もうと言う事は出来ない俺の臆病さ加減にも。
 俺自身、彼女をこれ以上深くこっちの世界へと踏み込ませていいのか分からないのだ。
 もうとっくに踏み込んでいると言われてしまうかもしれないが、それでもまだ伊藤さんは向こう側だと俺は感じていたのである。

 そんなちょっと情けない悩みを抱えながら駅へと向かう道すがら、いきなり普段使いの端末が反応した。
 通常回線で俺に連絡して来る相手と言えば伊藤さんか流ぐらいのものだ。
 伊藤さんとは今しがたまで一緒にいたんだからさすがに違うと考えれば後は流しかいない。
 そう思ってチェックをしたのだが、端末には知らない番号が浮かんでいた。

「誰だこれ?」

 俺は少し緊張しながら呼び出しを解除して通話を受信する。

「もしもし?」
『お久しぶりです、人の守り手たる御方。お元気でしたでしょうか?』
「え、えーと?」

 相手の声に覚えがあるような無いようなもどかしい思いで俺は問い掛けた。
 声というよりその大仰な話しぶりになんだか既視感がある。

『まぁ私ごときをその尊い魂に刻む必要などありませんが、既に運命が幾度と無く私をあなた様の元へと誘った事がありますので、覚えてはいていただけるかと、不肖、木下という者でございます』
「ああ、妹の大学の」

 思い出した。
 変態だ。

「んで、なんであんたが俺の端末の番号知ってるんだ?」
『実は麗しの聖女、アンナ嬢にお聞きした次第です』
「お、おう」

 アンナ嬢はどうして俺の番号知っているのか?と尋ねるのは愚問か、家も知っていたしな。

「それでそのへんた、いや、あんたがどうして俺に連絡して来たんだ?」
『それが、ロシアの偉大なる血への不遜なる扱いを見て、憤っていたのですが、ふと、省みて我が国は至尊なる方々に相応しい国であるのか?と考えてしまったらひどく哀しい想いに捕らわれてしまいまして』

 電話口でさめざめとした泣き声が聞こえ始める。
 なにこれ?男の泣き声とか聞きたくないんですけど。

『私に出来る限りの事をさせていただきたいと思い至った訳なのです』
「はぁ」

 すごくどうでも良い。
 通話を切っちゃダメかな?

『人類は偉大なる者達を生み出しておきながら、その血を自らの為に利用しようなどとおこがましい事を考えて、貴き者を永く苦しめ続けました。その傲慢さ、己の事のみを考える愚かさに罰が下らぬ訳がありません。ですが、救いはあります。まだ間に合うのです。私はロシアで確信しました。尊き魂は呪いをも至尊の輝きに変えるのです。進化の足を止めてしまった人類と尊き血との差は開くばかりとなっていますが、生き続けるつもりなら人は自らの愚かさを恥じるべき時なのです』
「ええっと、その話今じゃないとダメかな?」

 まぁ今は家まで帰る途中で別に何か用がある訳じゃないんだけど、これを聞き続けるのはもはや拷問に近いんだけど。
 なんで俺に掛けてきたんだ、こいつ。

『本当はもっと早く懺悔をしたかったのですが、ロシアの尊き方々の開放に時間を取られてしまいまして。いえ、それも光栄な仕事には違いなかったのですが、私も本来この国の人間である以上は、自国の尊き方々にこそ我が研究を役立てていただきたく考えてしまうのです』
「へ、へえ、しかしすごいな。アンナ嬢達を手助けして来たのか?」
『はい、無知蒙昧なる民が尊き方々を守るという本質を見失っていたので、あまりのことに何もせずにはおられませんでした!なんとあの馬鹿者達は、自らの過ちで高貴な血を失わせようとしていたのですよ?信じられますか?あの者達は魔法という強大な力を使えるからと驕って、本当に大切な存在をないがしろにしていたのです。連中は違うと言い張りましたが、結果としてそうなっているのですからその罪は明らかです。魔法など大いなる流れの中では紛れ込んだ木の葉のようなものにすぎないと言うのに恥知らずにも!』

 うわあ、と俺はすっかり閉口して相手の言葉を聞き続けた。
 俺に対して何か変な事を言われそうだったので、ついアンナ嬢の話へと振ったんだが、思った以上の食いつきっぷりで思わず引いてしまう。
 ロシアで何やらかして来たんだろう?
 なんか喧嘩売って来たような雰囲気だが、よくもまぁ無事に帰って来たもんだ。
 閉鎖的な魔法王国と思われているその国へ行って、自分の考えを積極的に主張して来たらしいそのブレなさにはある意味恐怖に近い尊敬を感じる。

『ともかく、お待ちしておりますので、お早くお戻りください』
「へ?」
『とても大切なお話があります。実の所妹君を訪ねるべきか迷ったのですが、尊い女性の住居へ私などがお邪魔する訳にはいかないでしょう。せめて兄君の許可を取るべきだと考えたのです。いえ、実の所妹君よりも兄君と話した方が良い。そう結論付けました』
「なるほど」

 なんという自己完結。
 その結論に至る前に俺に都合を聞いてみるという選択肢は無かったのだろうか?
 俺はため息を吐いて、途端に重くなった足を引きずりながら我が家へと向かったのであった。



[34743] 199:停滞は滅びへの道 その二
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2016/06/09 11:57
「おかえりなさいませ兄君」
「アニギミはやめろ」

 マンションの植え込みの影に不審者がぬぼーっと立っている。
 職質レベルの怪しさだ。
 いや、この場所からして警察を既に呼ばれていてもおかしくない。

「お前いい加減にしろよ、前の時もマンションに不審者注意の張り紙がされていたんだぞ」
「尊き血の御方にご心痛を掛けるとは、我が身の至らなさに痛恨の想いです」

 変態はボロ泣きを始める。
 もうこいつなんなの?変態なのは分かっているけど、どうして成人を過ぎた男がこんなに泣きまくるんだ?意味が分からないぞ。

「まぁいい、これ以上表で世間を騒がせるよりは俺一人が迷惑を被った方がマシだろう。部屋に入ろう」
「光栄のいたりです」

 グスグスと鼻水をすすりながら感動したように言う。
 このおかしな男に段々慣れてきた自分が嫌だった。
 生体波形を確認したマンションの玄関のロックが外れて中へと進む。
 エレベーターの狭い空間に二人きりというのはぞっとしないがこいつだけエレベーターで上がってもらって俺は階段という訳にもいかんだろうしな。
 何と言っても由美子や浩二とこの変態がかち合うのが嫌だ。
 まぁ由美子は大学では会っているんだろうけど。

「私はずっと子どもの頃から考えていました。偉大な勇者は人々を守って魔物を倒しますがどうして人々は守られてばかりの我が身を恥じずにいられるのだろうか?と。成長した私は更に驚きの事実を知りました。人類は勇者を『管理』しているという恥知らずな現実を、です。この愚かさに恥じ入る事の出来ない人類は魔物よりも下等な生き物でしかない」
「それはちょっと危険思想じゃないか?」

 ヒヤヒヤする。
 こいつは自分の意見を隠すという事をしない。
 よくもまぁ今まで無事に過ごして来たものだ。
 しかもあの排他的と言われたロシアにまで行って帰ってきたと聞いて、俺はある意味こいつを尊敬した。
 実の所、俺は人は怪異を恐れるように、あるいはそれ以上に他人を恐れているのではないか?と思う事がある。
 以前迷宮で遭遇した他人を操っていた冒険者の時もそうだが、人が人に対して害意を持って行動した時にそれに対するリアクションが必要以上に激しい物となるのを何度か見た。
 人間はもしかすると同族にこそ最も恐れを感じているのかもしれないと思う事すらあるぐらいだ。
 だから、この男の暴走っぷりを他人が恐れて叩き潰してしまおうとするかもしれないという懸念がどうしても付き纏うのである。
 考えすぎなのかもしれないが、例え変態と言えども知り合いが不幸になるのなら忠告ぐらいはするべきだろうと思うのだ。
 しかし、正直言って、この変態になんと言えば良いのか俺には全く見当もつかなかった。

「これは悲しい事に事実なのです、偉大なる方。人間は愚かな事に自分が劣っている事が許せない、認める事が出来ない生き物なのです。そのせいで自分達よりもはるかに偉大な者を鎖に繋ぎ、自分達の方が偉大だと思い込む事で心の平静を保ってきたのですから」
「いやでも」

 そう言った時にエレベーターが目的の階に着いて話が途切れた。
 俺は素早くこの変態を部屋に引っ張りこむと扉を閉めた。
 なにしろこの階には俺以外は我が家の妹と弟しかいないのだ。
 あの二人に鉢合わせしてこいつの変態ぶりに巻き込む訳にはいかない。
 お兄ちゃんとしては二人を守る義務があるのだ。

「とりあえずコーヒーでいいか?」
「いえ、私などにおかまいなく」

 そう言われると逆に何もしないのは負けたような気持ちになってしまう。
 ついついこれから垂れ流される妄想を聞く羽目になった自分の為にもお気に入りの豆を選んでコーヒーをセットしてしまった。

「このような下賤の身にお気遣いいただき申し訳もありません」

 変態はまた涙ぐむ。
 うっとおしい。
 ベランダから放り出せたらどんなに気持ちが良いだろうか。

「で、なんでこんな平日の夜に俺の所にやって来て意味の分からない考察とやらを聞かせようという気になったんだ?」
「そうそうなんです!実は私はとうとう1つの真理にたどり着いたのです。人類の罪の精算、愚かさの代償が既に支払われているという事に!私はずっと愚かなる人類の一人である事に忸怩じくじたる想いに駆られていましたが、これでようやく、世界の公正さ、断罪を謳う事が出来ます!その喜びを敬愛する御方と分かち合いたかったのです!」
「いや、言ってる事分からねぇから」

 コーヒーを啜りながら変態の言葉にげっそりとする。
 変態は先程泣いたのが嘘だったかのように子どもみたいに両目を輝かせて俺に語った。

「以前も語ったと思いますが、勇者とは人の意思によって生まれた人の中の聖なる者達です。これは人類学として考えれば生物的な進化とも言える訳です」
「……一概にそうとも言えないんじゃないか?」

 俺は一族の長にだけ伝わる口伝を受け継いでいる。
 そのため、自分達の一族の成り立ちを知っていた。
 変態は勇者血統を人類の切なる願いによって生まれた新しい人類のように思っているらしいが、うちの血統はそんな上等なものではない。
 怪異に対抗出来るより強い血統を生み出すために目を背けたくなるような非道な行いもやっているのだ。
 それはいわば家畜や作物の品種改良のようなものだ。
 到底「自然」に生まれたと言えるはずもない。
 もちろん海外には純粋に祈りに応えて産み出された勇者もいたのだろう。
 タネルとビナールの国の聖者という存在などはそうかもしれない。
 だが少なくともうちの血統はそうではない。

「いいえ、兄君は思い違いをなさっています。何者も己より優れた者を意図して生み出す事は出来ません。それこそが人類の罪、ごまかしなのです」
「ええっと」
「自分達の中から自分達の理解を越える者が生まれた、だからそれを理解の出来る形に押し込める。人が昔から行ってきた偽りの歴史です」
「それはさ、お前の思い込みだよね?れっきとした証拠はないだろ?」

 実際うちに伝わる口伝は常に一人にしか伝えられない。
 知っているのは祖父と父と俺だ。
 この変態が知るはずもない。

「それこそが人が掛けた呪いです。考えた事はありませんか?あなた方を管理する者達は全ての事実を知っているのでは?と。実際あなた方程信義に篤くない人間達はボロボロと情報を拡散させていたのです。こんな一介の学生である私でも調べられる程に」
「っ!」

 変態の言葉に俺は驚愕した。
 そして同時に恐れもした。
 ならば彼は俺たちの成り立ちを知っているのだ。
 汚れた生まれ、言葉だけは立派な忌まわしい望みの為に多くの人を犠牲にした成り立ちを。

「私はあなた方の伝えている真実という物を知りません。しかし、これだけは分かる。あなた方の伝える歴史の中には罪悪感の楔が打ち込まれているはずです。本来あなた方が感じる必要のない、人類よりも劣った、使役される者として納得させられた呪いが」
「呪いって……」

 血に掛けられた呪い自体は俺も知っている。それは強大すぎる力を持った勇者血統と呼ばれる者達に付けられた安全の為のストッパーのようなものだ。
 しかし、それはこの変態の言うようなものではないはずである。
 だが一方で、俺はその「呪い」というものが具体的にどうやって自分達に組み込まれているのかを知らなかった。

「そうです呪いです。人は尊い血統に呪いを掛けた、愚かにもそれを公言している」
「それは勇者血統が危険だからだろ?暴走されたら大惨事になる強すぎる力を持った者にストッパーを付けるのは当然だ。そもそも勇者血統だけじゃなくて異能者だって枷は付けられるだろ?」

 そう俺が告げた途端、変態は声を上げて泣き出した。
 なんなのこいつ、感情の起伏が大きすぎてドン引きだよ。

「うっ、うっ、なんという高潔さ、いや、鎖に捕らわれても尚あなた方は遥か高みにいるのです。いと高き者を種として劣る者が跪かせる事など出来ないという証でしょう。ああ、疑っていましたが、世界はやはり公平なのです。高潔な者には汚されぬ魂を、下賤の者には地を這いつくばる惨めさを、これこそが世界なのです!」
「ちょ、怖い!お前怖いから!」

 テーブルを越えて詰め寄る変態から伊藤さんから貰ったコーヒーカップを死守しながら、俺は無駄な事と知りつつ変態を正気付かせようとした。

「尊い存在を!守り共にある事こそがっ!人類のっ!取るべき道であったというのに!愚かなる者達が!……」
「ちょ、落ち着け!落ち着け!な、話聞いてやるから、血管切れるぞその調子じゃ、マジで」

 助けて!誰か!こええよ、やっぱり変態こええ!

「人類は急激にその社会形態を変化させて来ました。それでいながらその社会の在り方に迷い続けている。他にそのような生き物が存在するでしょうか?どんな生き物も自分達がよりよく生きる為の在り方を分かっています。大きな集団を作る社会的な生き物においては必ずその集団を治める存在に肉体的な印が現れる。全て横並び同じような存在が集団をまとめ上げる事など出来るはずがないのですから!それを人類は社会制度を作ってごまかしてきた。しかしそこには歪が生じている。当たり前です、そう生まれなかった者にその役割は重すぎる。結果として人類は迷走し、退化を始めた。尊き血統が失われる時、それはすなわち人類が滅びる時です。女王を失った蜂の巣が滅びるように、すみやかに!恒久的に!人類は滅びるのです!」

 立ち上がり、痙攣するように震えながら、変態はツバを飛ばしてそう叫んだのだった。



[34743] 200:停滞は滅びへの道 その三
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2016/06/16 13:32
「兄君は今の世界をどう思われますか?」

 なんとか落ち着かせた変態は今度は至極真面目な顔でそう尋ねてきた。
 兄君はヤメロと言いたいが無駄っぽいのでとりあえずスルーして変態の言いたい事を考える。
 さっき人類が滅びるとか言っていたからその方向の話がしたいのだろうか?

「どうって、怪異の脅威が薄れたせいで逆に国家間の緊張は高まってる部分はあるけど国連が上手くまとめてるから今の所はそこまで大きな不安は無いかな」
「それは世界情勢ですね。確かにそれも関係ありますが、生き物としての人類をどう思われますか?」
「生き物としての人類?」

 言われて、俺は人間と怪異、いや世界の中の人間という立場に思いを巡らせた。
 本来怪異は自然発生する存在で、自然の中では色々な生き物と共に存在している。
 それは危険な場合はもちろんあるが、その危険度から言えば激流に落ちれば流されて死ぬ事もあるといった感じの、自然な危険だ。
 動植物が怪異に害されないとは言わないが、害されるばかりでもない。
 難しい言い方は出来ない俺だが、つまり動物や植物と怪異の関係は種族の違う動物同士と植物同士との関係に近いものだった。
 人間と怪異の関係が特別なのは言うなれば人間が知恵に特化して進化した弊害のようなものだ。
 言ってしまえば人間の恐怖心が恐ろしい怪異を生み出したのである。

「う~ん、豊かになったかな。あ、と、そうだな、怪異を切り離す手段を手に入れて人口が増えたね」

 そう人類は怪異と常に戦う生活から開放され、急激に人口を増やしていた。
 過去数百年間の統計と比べてここ百年以内の人口増加率が驚くほど高い。
 数十年で倍ぐらいに増えているとされるのである。
 電磁コイルの結界防壁によって大都市を丸々囲ってしまえる技術が生まれて、世界人口がほぼ倍に増えたと言われていた。

「そう人は脅威を忘れて安寧を貪っている。その結果として起きたのが格差だ。我らの主たる勇者と働きアリのような者達との間には埋めようのない齟齬が生じてしまったのです」
「齟齬?」
「嘆かわしい事に安寧を手に入れた人間の意識から急速に勇者への希求心が薄れていったのです。その結果として今世界中の人類社会から勇者が失われようとしています」
「なるほど。でもそれは良い事なんじゃないか?」

 こいつのような英雄フリークにとっては悲しい事なのかもしれないが、俺は逆に歓迎する。
 特別な存在などいない世の中はさぞかし気楽だろうと思うからだ。

「まさか!良い事などありません!我が国では貴方様のような役割を離れる御方が出るだけで済んでいるからそうおっしゃられるのでしょうが、ロシアや他のいくつかの国では勇者の血統自体が産まれないか変質しつつあるのです」
「産まれない?変質?」
「そうです。兄君は勇者を人が人工的に造ったとお考えになられているようですが、それは違います。どの国でも勇者は自然に生まれた存在です。人類が行ったのはその血統が続く為の努力だけでした。人類はそれは技術によって可能となっているとおこがましくも思っておりましたが、そうではないのです。勇者血統の存続は多くの弱き人々の望む心から続いていたのです」

 変態の推論と似たような勇者論を俺は見たことがある。
 たしか大学の図書館の人類学のコーナーだったかな?論文を書く時に参考に読んだ中の1つだ。
 要するに勇者が生まれる可能性を人類の願いが支えているという内容だった。
 本来なら1万分の1ぐらいの確率を5割ぐらいに引き上げているとか。
 てかいくらなんでも無理やりな数字だよな。
 そもそもの数字の根拠が無いし。

「人が勇者を忘れる。その果てに残ったのが勇者を縛っていた鎖です。出生率が下がった上に呪いに犯されたいくつかの国の勇者血統は変貌を遂げました。かの麗しの姫君のいらしたロシアもその一国です。勇者が呪いに苛まれて死んでいくのです」

 すっごい超理論だな。
 ロシアの話はアンナの必死さから何かとんでもない事になっているのは分かるが、それにしても断定出来るような話でもない。
 
「その話は分かったが、そこから人類滅亡にどう繋がるんだ?」
「多くの愚か者共は勘違いしていますが、怪異は消え去った訳ではありません。それどこか、人類の欲望を受けて怪異も凶悪になっているのです」
「凶悪化か」

 怪異の凶悪化についてはハンター協会でも話題になっていた事だ。
 自動的に淀みを発見し、それに対処する仕掛けを作っていない壁の中の都市ではかつてない程凶悪な怪異が生まれる事があると言われていた。
 実際この管理された都市においても僅かな淀みからいきなり迷宮が生成されるという事が起こっていた。
 もちろん今の終天の迷宮ではなくビルのエレベーターの中に発生した迷宮の話だ。

「永い時を掛けて育まれた人類の長であり守護者である勇者を失って、安寧の中暗く育まれた人の欲望が凶悪な怪異を生み出せば戦う力の衰えた人類などあっという間に滅んでしまうでしょう。なにしろ人類は想像力だけはたくましくなっていますから」
「懸念している事は分かったが、それをどうして俺に言いに来る必要があったんだ?」

 実の所俺は変態程悲観していない。
 特別な者がいなくても今の人類なら自分達でなんとか出来るという気持ちがあるのだ。
 変態は人が戦う力を失くしたと言うが、俺はそう思わない。
 人の想像力は科学による武器や道具を生み出した。
 更に強化改造された魔術もある。
 ハンター協会に所属しているハンターの半分以上は実は勇者血統ではない一般人なのだ。
 変態がどう思い込んでいても良いが、俺には人類を舐めちゃアカンよという気持ちがある。

「兄君は新大陸連合の行っている人造勇者ヒーロー計画をご存知ですか?」
「あ、ああ」
「おお!さすがです!」

 何しろあの迷宮で共に戦った赤毛のピーターがその計画で産み出されたヒーローの一人なのだ。
 知らないはずがない。

「実を言うと、新大陸連合の行っている事は非人道的で愚かな行為ですが、一部だけ画期的な部分があります」

 ん?

「非人道的ってどういう事だ?」
「ああ、かの国は能力者を使って薬や魔術や科学技術による改造でヒーローを作り出しているのです」
「なんだって?」

 俺はピーターが迷宮で使った薬らしきアンプルとその驚異的な力を思い出す。
 あれはやっぱりそういう事だったのか。
 うちのご先祖様も言えた事ではないが、それってやって良い事なのか?ピーター自身は納得しているっぽいけどなんかこう腑に落ちない。

「彼らは非効率的な方法で擬似的な勇者を手に入れましたが、それをより本物にするためにメディアの力を存分に使いました。我が国で行っている子どもたちに対する認識誘導のような甘い物ではありません。コミック、雑誌、テレビ、映画、様々な媒体においてヒーローを宣伝していて、それが生活の中に浸透しているのです。更に決定的なのは彼らは実際のヒーローの活動を記録して放送しています」
「そりゃあすごいな」

 確かにそれは徹底している。
 呪いによって勇者を得る事が出来なくなったという新大陸ならではの必死さが覗える内容だ。
 新大陸連合は小さい独立国の集まりとも言えるちょっと特殊な国家なのだけど、その特殊性のため都市ごとに壁があったりなかったりするらしい。
 そして魔法使い、銃などの武器に対する法律の規制が緩いらしく大きな事件も多いという事だった。
 新大陸連合のヒーローは怪異だけを相手するのではなく、凶悪事件で人間とも戦うらしい。
 対人に規制のある勇者血統では考えられない事だ。

「ほとんどの部分は唾棄すべき国ですが、この勇者に対する支援方法は参考になるのではと思ったのです」
「ええっと、何を言いたいんだ?」
「今気高き者を失わないために必要な事は人々に認識される事なのです。多くの人々の目の前で戦う姿を見せる事で人は正しい進化の道筋を取り戻し、庇護者を崇め称える下僕として真の人類の歴史を歩み出すのです!」

 そう言って、変態は自分の言葉に感動したように涙を流した。
 俺はとりあえず大きなため息を吐くと、そのまま無言で奴をマンションの外へと放り出したのである。

 やっぱり変態は変態だ。
 無駄な時間を使ってしまったな。
 下僕とかないわ。聞いてる方が恥ずかしいだろ。
 よくもまぁ平気で口に出来るなあの野郎。
 まぁそれは変態だから仕方ないのか。

 変態は俺に放り出されながらも「お力を示して愚か者どもをお導きください!」などと世迷い言を喚いていたが、お前の考え方は現代社会とは相容れないからな。
 
 確かに気になる部分は無くはないが、この変態の思想がむちゃくちゃ尖っている事だけは間違いないと俺は確信したのだった。



[34743] 201:停滞は滅びへの道 その四
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2016/06/23 13:42
 変態が押しかけて来てから数日は平和な日常が続いたが、問題は週末に訪れた。

 プロジェクトが差し迫ってない時はうちの会社は週休2日にシフトする。
 そこでその空いた時間である最近の土曜日は伊藤さんに請われて彼女の能力制御のイメージを掴むための訓練時間に充てていた。
 とは言えなにか特別な事をする訳ではなくミーティングルームに設けられた祭壇で伊藤さんが瞑想を行って、それを由美子がサポートするだけの話だ。
 まぁ俺はこの手の術や精神修行などについてはあまり良くわからないのでほぼ由美子に丸投げとなっている。
 俺は単に伊藤さんを修行の合間にリラックスさせるべく話をするだけの枯れ木も山の賑わい的な応援要員のようなものなのだ。

 そんな時間に俺の部屋のインターホンが来客を告げた。
 ミーティングルームではそれぞれの部屋のインターホンや通話機などの受信がモニタリング出来るようになっているので来客や通信などが急に来ても対応出来る。

 俺は修行中の伊藤さんの邪魔をしないように別室でインターホンに応えた。

「はい」
「Привет」
「ん?」
「あ、術式を挟むのを忘れていたわ。お久しぶりね、タカシ」
「う?アンナさん?」

 先日変態が来て今回アンナ嬢が押しかけて来る。
 これはどう考えても関連した出来事と考えるべきだろう。
 面倒の予感しかしない。

「ええっと、何か用事でしょうか?」
「用事があったから来たのよ。正確に言えばもう帰国をするのでお別れを言いに来たのだけど」

 その言葉に心底ほっとする。
 どうやら前に迫られたような事は必要無くなったようだ。
 俺がダメなら浩二というのを実行しようとして来たのならどうしようかと思ったからな。

「それで最後にお詫びを兼ねて話を聞いて欲しくって」

 言われて、俺はちらりと伊藤さんが修行しているはずの壁の向こうに目をやった。
 伊藤さんががんばっている時に他の女性と話をするっていうのは付き合っている相手としてどうなんだろう。
 なにかすごく不実な事をするような気持ちになる。
 とは言え、国に帰るらしいアンナ嬢を無碍に追い返すという事もしたくなかった。

「ええっと、分かりました。降りていくので待っていていただけますか?」
「分かったわ」

 さすがに部屋へ上げるというのは無いと思ったので、下で待ってもらって、俺は元の部屋に戻る。
 白い着物を纏った伊藤さんが結界の中で目を閉じて瞑想している姿をじっと見た。
 最初はこの瞑想状態を維持する事も大変だったのだが、最近はその辺は問題なく出来るようになっている。
 それどころかトランス状態に自分の意思で移行する事も出来るようになっていた。
 俺は複雑な気持ちで伊藤さんの修行を見守っている状態だ。

「兄さん、お客様?」

 由美子がじっと厳しい視線を向けて来る。
 いやいや、来客ってだけでその責めるような視線はどういう事なんだ?

「ああ、うん。ちょっと行って来るけど、下に降りるだけだから彼女には心配しないように言っておいて。あ、ついでに何か買い出しして来ようか?」
「いい、買い物はゆかりんと私で昨夜済ませた。兄さん……浮気は駄目だから」
「な!」

 いやいや、何言ってるの?わが愛する妹よ!

「浮気とか無いから!有り得ないから!」
「慌ててる。相手の女に好意が無いわけではない証拠」
「ちょっとまて、嫌いじゃないのと好きとは違うからね?てか彼女は戦友みたいなものだから」
「やっぱり女だった」
「うおう」

 カマをかけられたと気付いたが、それで引いていたら後でどんな告げ口をされるか分からない。
 ちゃんと釘を差しておかないと。

「本当になんでもないからな。オープンな場所で話をするだけだから!」
「兄さん慌てすぎ」

 由美子に冷静にツッコミを入れられて頭を冷やした俺はコホンと似合わないと分かっている咳払いをした。

「ちょっと行って来るから伊藤さんに心配しないように言っておいてくれ」
「……ゆ・か」
「え?」
「苗字呼びは止める約束だったはず」
「……なぜ、お前がそれを……」
「ゆかりんに吹き込んだのは私」
「なん……だ、と?」

 恐るべき事実にふらふらしながらも、俺はエレベーターを降りてエントランスに向かった。
 二重扉をくぐって入り口に佇むアンナ嬢を見付けると声を掛ける。

「久しぶりですね」
「ええ、それで、またファミレスに行くの?」
「いえ、エントランスロビーにカフェエリアがあるんでそこで話しましょう」
「……そう」

 あれ?ちょっとがっかりした?
 もしかしてファミレス行きたかったのかな?
 でも俺としても彼女が訪ねて来ている時に他の女性と外出するというのはちょっと避けたい事だったので我慢してもらうしかない。
 そのまま入り口で生体チェックを済ませてアンナ嬢を中へと招き入れた。

 このマンションは中から見ると円筒形に近い形状に見える。
 真ん中に広々とした吹き抜けの空間があるからだ。
 ここは単純に緑で心を癒やす為だけにあるのではなく、淀みを溜めない為の循環システムの一環となっている。
 木と土と水を使って淀みを溜めずに流す事でマンション内で怪異が発生する事の無いように設計されているのだ。
 その空間を利用してカフェエリアが設けられている。
 ドリンクは紙コップで出て来るものの割りと本格的で美味しい。
 料金は登録カードで自動的に計算されるシステムだった。

 俺はそのドリンクバーからホットチョコレートを二人分選んでテーブルに持って行く。
 相変わらず豪華な美女であるアンナ嬢は日本庭園風のガーデンを眺めながらその席に座っていた。
 その様子は一幅の名画のようだ。

「どうぞ」
「ありがとう」

 俺が差し出した紙コップを受け取って、アンナ嬢は物思いから覚めたような顔でホットチョコレートをすすった。
 ちょっと熱かったのかびくっと口を離す様はその美貌とのギャップで可愛らしさが感じられる。
 美人は何をやっても様になるんだな。
 彼女は俺が席に着いたのを確認すると周囲を見回して指を掲げ、空中で小さく円を描いた。

「ちょ、魔法は」
「国家機密にあたるから認識阻害を掛けるだけ」

 アンナ嬢が指で辿った所には光の線が浮かび上がり、小さく簡単な文様が出来上がると、それは回転しながら光の粉を散らすように薄れて消える。

「国家機密ってなんだ?」
「最後に話しておこうと思って。あの、マコト?には一応感謝しているし、ちょっと変な人だったけど」

 一瞬マコトって誰だ?と思ったが、話の流れ的にあの変態に他ならない。
 そうかあの変態そんな名前だったのかと、俺が逆に驚かされる事となった。

「しかし、あの変態をよく無事に帰してくれたな。個人的には嫌なやつだが、あいつもうちの国民だし、感謝する」
「いえ、私が何かした訳ではないの。彼が自分で自分が危険ではない事を示したのよ。彼、精神精査を受けたの」
「おい!それは国際条約違反じゃないか?」

 精神精査とは言うなれば読心の事だ。
 個々人の能力者が使うならともかく公的に行われる事は禁じられている手段となっている。
 もちろんこれは表向きの話で、どこの国も犯罪者相手に精神精査をある程度使っている。
 この個人の精神への働き掛けを禁ずるという国債条例は国連にありがちな罰則規定のない単なる申し合わせのような決まり事なのだ。
 だが、だからこそ、この行いを公式に認めてしまうと国としての信頼を失う事でもあった。

「彼が申し出たのよ。自分の心をサーチしろ、そうすれば自分が我が国に必要な人間だと分かるからって。それで管理官を説得してしまったの」
「呆れて良いやら感心して良いやら驚きの話だな」
「私だってびっくりしたわ」

 誰だって自分の心の中を他人に覗かれたくはないだろう。
 ましてや精神精査は狙った内容だけを読み取るようなものではない。
 妄想やもやもやとした感情、欲望などの赤裸々な部分が垂れ流されてしまうのだ。
 言うなれば他人の前ですっぱだかで踊ってみせるようなものである。
 まぁ、うん、やるかもな、あいつなら。

「それで信頼を得たんだ」
「そりゃあ、心の中をさらけ出されて疑う事は出来ないでしょう?」
「まぁそうだよな」
「それで、彼は私達の収容施設を訪れて、異形化した仲間を抱きしめて泣き出したの。そして猛然と管理官に抗議して、何か上と交渉したみたい。それから私の思い出を聞いて、それを記録して何か一人で納得していたわ」

 異形化した仲間か。
 俺はもし村の仲間がそんな事になったらどうしただろうと考えた。
 理性があるなら村で普通に生活する事は出来る。
 そもそもハンターとして独り立ちした者以外はあまり外に出ない村だしな。
 ただ、本人は辛いだろうしそいつの気持ちを考えると俺たちも辛い。
 そして、もし理性が無くなったら、……考えたくもないが、最悪俺たちの手で死なせるという可能性もあるのだ。
 なにしろ村のほとんどの人間が異能者だ。
 理性を失い怪物化した仲間が万が一外に出たら大変な事になってしまう。
 ちょっと考えただけで胃が痛くなって来た。

「貴女の思い出って?」
「本来は私達が怪異を退治する間はその範囲に普通の人間は立ち入り禁止になるの。でも、私は仕事を始めた頃に普通の人と会った事があるわ。マコトがそういった事がなかったか?と聞いてきて、その経験を話したの」
「そうなんだ」
「ええ。小さな兄妹でね、かくれんぼをしていて取り残されたって言ってたけど。本当は戦いを見物に来たんだと思う」
「ああ、いるよな。子どもは特に」

 俺もそんな経験がある。
 あれほどひやりとした事は無かった。

「その子どもがね、ありがとうって言って飴玉をくれたの。あの甘い飴玉の味を何かにつけて思い出すって話をしたらマコトはうんうん一人でうなずいて興奮したように飛び上がっていたわ」
「まぁ奴はいつでも興奮状態のようなもんだけどな」
「それで、いつの間にか、国の方針が変わっていたの。怪異退治の時の前後にそこの住人と顔合わせをする事になったの。なんだか良く分からなかったけど、いっぺんにたくさんの人に会うようになるって、不思議な感じってみんな言ってる。でもやりがいがあるって」
「やりがいか、そうだよな。誰かが喜んでくれると嬉しいよな」
「そう、よね」

 アンナ嬢は不思議そうに俺を見ると、微笑んだ。
 それでやっと俺は気付いた。
 どうも以前会った時と違和感があると思っていたが、これだった。
 アンナ嬢は以前は見せた事のないやわらかい笑顔を見せるようになっていたのだ。



[34743] 202:停滞は滅びへの道 その五
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2016/06/30 12:02
 アンナ嬢は何かを振り切ったのだろう。
 以前の張り詰めたような雰囲気が消えて、落ち着いた大人の女性として俺は再認識する事となった。
 そうなると彼女は稀代の美女だ。
 なんとなく居心地が悪い。

「我が国は変わるかもしれないし変わらないかもしれない。でもこれだけは確かだわ。私達の一族は変わらなければならない。だからもう国外に出る意味はないし国許に戻るわ」
「ああ、うん。ええっと、色々あったけど、会えて良かったよ。アンナ嬢程の美人は滅多にお目にかかれないからな」

 我ながら冗談なのか本気なのか分からない事を口走って場の空気を軽くしようとした。
 アンナ嬢はくすりと笑うとその魅力的な笑みを乗せたまま言葉を紡ぐ。

「ジーヴィッカ・ニェーバ」
「へ?」
「最後まで偽名で通すのは失礼でしょう?ジーヴィッカが私の名前。狩りの女神の名を受け継いでいるの」
「あ、ああ、ジーヴィッカ嬢、いや、ジーヴィッカ、国を守護する貴女の誇りに敬意を表します。こういうのもなんですけど、同じ役割の血脈を持つ者として、貴女を尊敬します」

 改まった俺の態度に、彼女、ジーヴィッカは胸で十字を切り、「あなたに祝福を」と口にした。
 翻訳術式が働いたが、あれは意味のある言葉というより言祝ことほぎの一種なのだろう。

「実を言うと、そう嫌でもなかったのよ」
「え?」

 ジーヴィッカはフフッと笑うと小さく礼をしてその場を離れた。
 そのまま玄関ドアを開けて外へと出て行く彼女の前へ白い巨大な車が横付けされる。
 すげえなぴったりのタイミングだ。
 どうやって察知してんだろ。
 最後に振り返って意味ありげな笑みを見せて、氷雪の国の女神様は去って行った。

 なんだか色々考えさせられる別れだった。
 雰囲気に呑まれてうっかり同じ役割の血脈を持つ者としてとか言ってしまったが、自分でも自分が良く分からない。
 本来その家を捨てたはずの俺なのにな。
 こういうちゃんと覚悟が決まってない所が俺の駄目な所なんだろう。
 そもそも俺の欲しかった自由ってのはどういうものだったのかが今となっては分からなくなっていた。
 国の為に自分の全てを捧げているジーヴィッカの姿を俺はどこか羨ましいと思ってしまったのだ。
 ふと、子供の頃見たあの羽ばたき飛行機を思い浮かべた。
 あの驚きと感動は何に由来したものだったのだろう。
 俺はなんで機械からくりを好きなんだろう。
 好きな物に理由があるのかな?理由なんてないのか?
 魔法でもない魔術でもない、人が人の知恵によって生み出した文明ものに俺は何かを感じたはずだった。

 はぁ、とため息を吐いて俺はエントランスから部屋へと戻る。
 とりあえず感傷に浸っていても仕方ない。
 勢いだけはあって後からグダグダ悩むのが俺の悪い癖だよなぁ。

「ん?」

 ミーティングルームへと戻ると伊藤さんの姿が無い。

「あれ?彼女は?」
「帰った」
「え?ちょ、一人でか?」

 由美子の言葉に俺は慌てた。

「ん、街に寄って帰るって」
「そ、そうか」

 まだ日は高いし早々何かがあるという訳でもないはずだが、俺はここの所、いや、彼女が巫女の能力を持っていると知ってからずっと感じ続けている不安にじりじりと体を焼かれるような気持ちになった。

「兄さんはダメダメ」
「駄目駄目か」
「ん、かなり。ゆかりんには護符を渡してあるしいざという時にはなんとかする判断力も高い。兄さんは過保護。昔っからそう」
「そうは言っても、心配だから仕方ないだろ?」
「そんな事言いながら銀髪美女とデレデレしているのはもっとダメダメ」
「ちょ、おい!」

 俺は慌てて妹を見た。
 我が愛しの妹君はじとっとした目で俺を見ている。

「彼女は仕事で一緒で、国に帰るからって挨拶に来ただけで、そういうんじゃないから」
「その言い訳はゆかりんにするべき。全くこっちに気付かないで楽しそうに話し込んでた」
「いや、あれは彼女が結界を張ってだな……おおう」

 これはもしかしてジーヴィッカは気付いてたんじゃないか?
 あの席、彼女の方は玄関が見える位置だったし。
 もしかして最後の笑顔ってそういう意味かよ。勘弁してください。
 これってもしかして美女を袖にした事に対する復讐なのか?

「浮気の件はともかく」
「いや、浮気じゃないからな」
「兄さんはもっと相手を信頼するようにすると良い。自分だけで何もかもやろうとするから無理が出る。話し合い、大事」
「うっ」

 なんてこった。
 妹からまっとうな説教を食らってしまった。
 この絶望感をどう言い表わせば良いのだろう。
 なんか立ち直れないようなショックだ。

「連絡」
「えっ?」
「連絡入れないの?」
「あっ」

 これは妹に説教されても仕方がないな。
 俺はがっくりと肩を落としながら部屋へと戻る。

「ここで話しても良い」
「いやいや、さすがにそれは無理だから」

 興味津々の顔を向ける妹を残して、俺は部屋へと逃げ込み端末を操作した。
 馴染んだ表示を操作して伊藤さんの端末に接続を掛ける。
 俺の持つ端末の中に彼女の端末の固有振動波と共鳴する振動波が編み上げられ、この瞬間2つの端末が共鳴状態になる。
 今どこにいるのか分からない伊藤さんの端末が彼女の好きなメロディで彼女に呼びかけているだろう。

『あ、隆志さん?勝手に先に帰っちゃってごめんなさい』
「あ、いや俺こそすまない」
『……』
「……」

 あ、やばい言葉が続かない。
 彼女とはなんでもないから、くれぐれも気を付けて帰るように、そんな言葉が頭の中を滑って消えて行く。

「優香、俺は君が好きだ」
『うん』
「だから心配で、でも、ごめん」
『うん』
「もっとちゃんと頑張るから」

 もう少しなにか言いようがあるだろうに、何がちゃんと頑張るだ。頑張るだけなら誰だって出来るだろうに。

『あの、ね』
「うん」
『全部話して、全部聞いて、楽しい事はもっと楽しく、辛い事は分けあって、そう言ったよね』
「ああ、そうだな」
『ごめんね。隆志さんに無理させてた?』
「え?」
『だって、誰だって言えない事あるよね。私やっぱりわがままだなぁって思って。ごめんなさい』
「いや、それは優香が謝る事じゃないから、悪いのは俺だし。話せない事は話せないって言っておくべきだった」
『あんまり優しくすると私、甘えるから。前も言ったけど結構わがままだから私』
「いやいや、優香がわがままだったらわがままじゃない人がいなくなるだろ?」
『子どもの頃ね、お父さんとお母さんが、私の事わがままを言わない良い子だって言ったの』
「うん」
『私ね、周りの人の気分がなんとなく分かって、タイミングを見ておねだりをしたり、口をつぐんだりしてたの。ズルかっただけで良い子じゃない』
「巫女の能力があったからな」
『それにね、周りに子どもがいなかったから良い子の基準も分からなかったし、大人ってズルいよね』
「あはは、でも、ご両親にとっては優香が基準で良い子だったんだろ」
『うん。だから、私、言葉にしない言えない事って自分を守ったり、互いを傷付けない為の事だってあるって知っていたから。それもそれで大切なのかなって思うの』
「うん」
『だから、ごめんなさい。私、隆志さんにすごく一方的にわがままだった』
「そんな事ない。むしろもっとわがままな方が良いぐらいだ」
『わかった。じゃあもっとわがままになる。今すぐここに来て』
「よし、わかった」
『場所分かるの?』
「いや」
『どうやって来るの?』
「なんとかなるだろ」
『あはは』
「……ヒントをください」
『大好き』

 端末を耳に当てながら玄関へと進む。
 財布やある程度の武装はさっき下に降りる時に装備していたのでそのまま出て問題ない。
 頭の中が物を考える状態にない俺は、おもむろにドアを開け、その開いたドアの向こうに彼女を見付けて一瞬何がなんだか理解出来ず固まった。

「ええっと」
「見つかっちゃった」
「おう」
「本当に今すぐ来てくれた。さすが私のヒーロー」
「ものすごく買いかぶられている気がする」
「約束を守ってくれたから」
「なんとかなったな」
「ヒーローなら当然ですよね」

 伊藤さんはそう言ってちょっと下を向いた。

「隆志さんが綺麗な人と一緒にいて、悔しかった」
「そういうんじゃないから」
「ううん、分かっているの。だって二人共同じ空気の中にいたから。遠い所にいて、いつも、私にはどうしようもなくって」

 ああそうかと俺は気付いた。
 伊藤さんはやっぱり巫女の能力があるからなんとなく把握出来てしまうのだ。
 俺たちが普通の人間と違う事を。

「ここの所ずっと隆志さんが送ってくれるのだって、申し訳ない気持ちと嬉しい気持ちと、窮屈な気持ちと全部あって、自分が嫌だった」
「それはむしろ俺のわがままだろ」
「わがままいっぱい言おうって言ったんだからこれで良いのかな?」
「いいんじゃないか?」
「私達すごく駄目な人のような気がする」
「駄目な男は嫌い?」
「う~ん、駄目なままじゃない方が良いかも」
「そりゃそうだ」
「話せない事がありますか?」

 伊藤さんがそう聞いた。

「うん、たくさんある」
「教えてくれてありがとう」

 そう言って笑った伊藤さんは最高に綺麗だった。
 そう、あのロシアの絶世の美女よりも。

 そんな彼女が姿を消したのはそれからしばらくしての事だった。



[34743] 203:停滞は滅びへの道 その六
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2016/07/07 12:41
 伊藤さんが行方不明になったのは特別な日でもなんでもない平日の会社帰りだった。
 残業した訳でもなくいつものようにうちに寄ってご飯を作ってくれて一緒に食べて家へと戻る。
 そんな当たり前の日々の中、駅まで送っていった俺に「また明日」と元気良く手を振った。
 時間もまだ夜も早い時間だった。
 何かが起こる予感などあるはずもない。

 その夜、ハンター協会からの情報などをチェックしてそろそろ寝ようかという時に伊藤さんの家から連絡が入った。
 おかしいとは思った。伊藤さんが連絡を入れてくる場合は基本的に彼女の個人端末からだ。
 家付きの固定端末は都市部のセキュリティとも連動している為家の玄関近くに設置されていて通信端末としては使いにくい。
 だから不思議に思いながら通信を接続した俺に伊藤さんの母親からの声が届いた。

『優香はそちらですか?』

 不安そうな、その言葉を肯定してくれる事を望んでいる声。
 その声に俺は凍りつくような不安が湧き上がるのを感じた。

「帰ってないんですか?」
『ええ、という事はもう帰宅したのですね』
「はい、3時間以上前の事です」

 端末の向こうで伊藤さんのお母さんが絶句しているのを感じる。

「シャトルに乗ったのは確認しています。俺はこっちからいつものルートを辿ってみます。警察には届けられました?」
『夫が、こういった件では警察はあまり役に立たないからって』
「届けておくと不審な事があった場合照合してもらえるはずです。何もしないよりはかなりマシです」
『分かりました。ありがとうございます』
「あ、それと、お母さんお一人で外に出ないようにしてください」
『大丈夫です。夫も一緒ですから』
「あ、いえ、家に誰かが残っていないと優香さんから連絡があった場合分からないですし」
『あ、ああ、そう、ですね』
「どなたかご近所に頼りになる方はいらっしゃいますか?どちらにせよお一人にならない方が良いと思います」
『おい!』

 と、突然通話相手が変わる。
 伊藤さんの父、元冒険者のジェームズ氏だ。

「はい」
『こっちの事は俺がやる、どうせこっちへ来るだろう。一度顔を出せ』
「はい、分かりました」

 通話が切れる。
 俺の思考は既に緊急時の物に切り替わっていた。
 妙に冷静に物を考えている自分を感じる。
 なんだか遠くから自分を眺めているような気分だ。
 俺は手早く都市内で出来る限りの武装をすると、玄関を出て、隣の妹の由美子の部屋を訪ねる。

「どうしたの?」

 俺の顔を見た由美子が眉を潜めてそう聞いた。

「伊藤さんが家に戻ってない。悪いが探索を行って貰えないか?」

 由美子は小さく息を呑むと、頷いてさっと部屋へと引っ込んだ。
 由美子は伊藤さんを良く知っているし、符術士としての能力は高い。
 千里眼の異能持ち以外はその探索能力に及ぶ者はまずいないだろう。
 俺よりは遥かに当てになるだろう由美子の探索を手配すると、俺はそのままマンションを飛び出した。

 シャトルの運行はもう終わっている時間なのでゲートを徒歩で抜ける必要がある。
 電磁結界の干渉は人体には影響無いと説明されてはいるが、外部用のコーティングが施された乗り物を使わずに徒歩でゲートを抜ける人間は少ない。
 空間接続や電磁結界などの比較的新しい技術に対して人はなんとなく不安を覚えてしまうのだ。
 人類は用心に用心を重ねて歴史を綴って来た。
 そんな歴史の中で段々と変化を嫌うようになってしまったのではないか、と社会学かなにかの学者の考察を聞いた事がある。

『生きるという事は変化する事だ』

 昔、子どもの俺にそんな事を言った奴がいたな。
 どうでも良い事を思い出してしまいながら、結界の外に出る為のゲートとなっている屋根付きの通路を辿る。
 電磁結界の上には人家は無く、効率的に磁場が形成されるようにする為の金属の木のような形のアンテナのような物が等間隔で建っている。
 その下は緑地公園のようになっていて、とりあえずコイル上を自由に通り抜けは出来ないよう造られていた。
 コイルの無い昔はいかめしいでかい壁が造られていたのだが、コイルによる結界の場合は建物の存在は却って邪魔になるという事で平地となっているのだ。
 どこからでも出入り出来るようにしても良かったらしいのだが、住人が不安に思うという事で、コイルのある地上部分を閉ざされた緑地公園として、別に出入りの為のゲートをわざわざ分かりやすく通路として設置しているのである。
 通路はどことなくトンネルを思わせる物寂しさで、走る俺の靴音を異様に響かせた。

 外のシャトルの駅を確認して伊藤さんの足取りをそのまま辿る。
 外縁部の住宅地は夜はひっそりとしている。
 結界の恩恵は外側へと向かうごとに徐々に薄れ、怪異の存在を排除する力を失っていく。
 そして夜は怪異の時間だ。
 街灯が道路を照らして魔除けの加護を振りまいているが、よほどの用がなければうろうろしたい時間ではない。
 そんな恩恵の薄い場所でありながら、今この時は途中に怪異など見当たらず、周囲に淀み一つ存在しなかった。
 つまりは手がかり一つ見付からない。

 進めば当然ゴールへと近付く。
 ひしめく住宅街の一画に独特な古民家の家を見付けると、いつも感じる安心感は微塵もなく、なぜか裏切られたような気持ちになった。
 おかしい、何かあってしかるべきだ、そう俺の頭の片隅が感じている。
 家の前では大柄な外国人の男が腕組みをして佇んでいた。

「一度家に戻れ」
「道から外れた所を探してみます」
「うちの娘は愚かではない。危険の大きい方へ逃げ込むような事はしない」
「しかし」
「自分の考えで知り合いの所に身を寄せているのかもしれん」
「でも」
「お前を避けているのかもしれんぞ?」
「っ!」

 伊藤父の言葉に、俺は思わず彼を睨み付けた。

「ほんの数時間前まで一緒にいたんですよ?そんなはずがないでしょう?」
「お前にうちの娘の何が分かる。いや、分かると思い込むのは勝手だが、人間というのはそう単純なものでもないぞ」
「本気ですか?」
「……事故ではない」

 伊藤父の言い分は分かる。
 俺もここまで来た間に何も異常事態が発生したという痕跡を発見出来なかったのだ。
 血の一滴でもこぼれていれば気付かないはずがない。
 だがだからと言って、伊藤さんが自分から姿を隠したという考えは無理があるだろう。

「誘拐かもしれませんよ?」
「そういった事に対応出来ないと思っているのか?」
「どんな事でも絶対はありません」
「生きているのは間違いない」
「そう、ですか」

 伊藤父がそう言い切れるのなら、なんらかの確証があるのだろう。
 冒険者は互いの無事を確認する為に生体登録をすると聞いた事がある。
 伊藤さんもその登録をしていたのかもしれない。

「俺は待つ事には慣れている。不本意だが、何か分かったらお前にも連絡してやる」
「こっちでも独自に調べています。何か分かったら連絡します」

 待つ事に慣れている、か。
 伊藤父の言葉には重みがある。
 あれだけ大切にしていた一人娘が消えたというのに取り乱していないその姿こそがその証拠なのだろう。
 彼もまた、非日常の中でこそ冷静になれるタイプの人間なのかもしれない。
 伊藤父は俺を伊藤さんのお母さんに会わせなかった。

「彼女は普通の弱い母親だからな」

 見慣れた家を背にしながら、それでも俺はしばらく壁外の街中を彷徨った。
 ちょっとした淀みや、怪異へと変わる前の影のようなものを見付けると、何も考えずに握りつぶす。
 どのくらいうろうろしていたのか、ふと、端末から呼び出し音がしているのに気付いた。
 慌てて画面を見るも、それは妹からの通信だった。

「どうした?」
『一度帰って』
「何かわかったのか?」
『帰って来ないと話さない』
「ユミ!」
『馬鹿』

 ふと、暗闇にほの白く浮かび上がる物が顔にぶつかった。

「うお!」

 慌てて振り払うと、それは白い蝶の姿の妹の式だった。

「おい、ユミ?」

 通信は一方的に切られている。
 俺はため息を吐いて、仕方なくマンションへと戻った。
 空が白み始めているのを見て、由美子が怒っている理由をなんとなく察した。


「結論から言うとゆかりんは私達と同じ空間にいない」
「どういう意味だ?」
「そのまんま、異空間か結界の中か」

 やはり怪異のしわざなのだろうか?
 しかし怪異のしわざならなんらかの痕跡が残っていないのはおかしい。
 全くの無抵抗に異空間に引きずり込まれたとしても、その場合は空間にひずみが残るはずだ。
 俺が持っているハンター証でその手の異常は察知出来るはずなのだ。
 そうなると人間に連れ攫われたという可能性もある。
 しかし人間を攫って結界に閉じ込める意味は?
 同じ空間にいてもジャミングのある場所なら追跡は出来ない。
 追手を振り切るならそっちの方が良い。
 結界だと固定になるので場所を移動出来ないのだ。

「くそっ」
「おばあちゃんに占ってもらおう」
「えっ」
「一番確かだし」

 由美子の言葉に俺は複雑な心境となった。
 確かにばあちゃんならかなり正確な予見が出来る。

「分かった。頼んでくれるか?」
「うん」
「俺は仕事へ行って来る」
「大丈夫?」
「会社の同僚から話を聞けるかもしれないしな」
「うん」

 結局の所、会社では何の収穫もなく、伊藤さんの自宅からの連絡で心配した課長から早退の許可をもらう事となった。
 なんか、仕事は手に付かないし周囲に心配を掛けただけの出社となってしまったな。
 戻って由美子の部屋を尋ねるとそこには既に浩二も来ていた。

「すまんな」
「別に兄さんの為という訳でもないしね。ばあちゃんから、解決したら嫁さん連れて帰って来いって」
「気が早いだろ」

 そんな軽口にほっとする。
 予見持ちのばあちゃんがそんな軽口を叩くなら差し迫って伊藤さんに危険は無いという事だ。

「今夜、一人で空白になった場所へ行けって」
「それが予見か?」
「うん、かなりはっきりした予見だったって」
「ちっ、伝言の可能性があるって事か?」
「予見は無意識を渡るから、怪異相手だと伝言が来る時があるからね」
「くそが、どいつが!」

 言った、俺の頭をガツンと重い衝撃が襲う。

「な!……に?」

 浩二の手に金属の太いタガネが握られている。
 今、あれを打ち込んだのか?

「兄さん、変化していたよ。馬鹿じゃないの?」
「変化、してた?」

 思わず自分の腕を見る。
 鈍色の、金属の質感、ウロコ状のかさぶたのような物がその腕を覆っていた。

「あ、れ?」
「人外の姿で外は歩けないからね」
「お、おう」

 無意識に血の力を使っていたのか。
 そんな事今までなかったのに。
 咎めるような弟の目から顔を逸らしながら、深くため息を吐く。
 空白地帯というのはあそこだな。
 随分前から淀みが消え去ったあの小さな街角の公園。
 とりあえずどんな結果になるか分からない為、伊藤さんのご両親には事後報告とする事にした。
 さすがにばあちゃんの予見の力の事は話せないしな。



[34743] 204:停滞は滅びへの道 その七
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2016/07/14 14:05
 由美子と浩二は相手に気配を悟られない範囲で待機する事となった。
 一人でという制約を守らないと予見は上手く機能しない場合があるからだ。
 由美子の式すら同行は出来ない。
 予見というのは便利なようで案外と制約の多い物でもある。
 前提条件が崩れると予見した物が現実にならない確率が跳ね上がるのだ。
 急く気持ちを抑えつつ時間的にまだ早い18時頃から俺は隔外へと出て伊藤さんの家を尋ねた。
 新しい情報は特に無く、お母さんは落ち着いてはいたが憔悴が酷い。

「あの子は意思の強い子ですから。何があっても絶対に諦めたりはしないでしょう。私達はあの子の為に出来る事を精一杯やるだけです。私に出来る事と言ったら結局、あの子の好物を作って待っているぐらいなんです。今日はあの子の大好きなナスのミートソーススパゲティなんですよ」
「その好物は知りませんでした」
「あの子は好きな物には妥協しないから、納得出来る味になるまで披露しないつもりなんでしょう」
「結構完璧主義な所がありますよね」
「好きな人に良いところを見せたいというのは男も女も変わらないものですから」

 伊藤さんのいない所で伊藤さんの話をするというだけで、なんとなく後ろめたいような寂しいような気持ちになる。
 伊藤父は姿を見せないが、どうやら色々動いてるようだった。

「必ず見つけ出して無事に家に返します」
「ありがとうございます。警察では特に目撃情報などは無いという事でした。夫の知り合いの方も探してくださっていますし、きっと大丈夫です」

 ジェームズ氏の知り合いというのは元冒険者か現役冒険者だろう。
 ただ、この国は国籍を持たない人間は自由に動きにくい土地柄なのでどのくらい動けるかは疑問だ。
 例えば21時以降は外国籍の人間は特別な許可なく建物の外に出る事が出来ない。
 ピーターがむちゃくちゃ閉鎖的な国だなとぼやいていた事があった。

 伊藤さんの家を辞した後、その近所を周る。
 先日の夜、明け方までさんざん歩きまわった事で少し分かった事がある。
 隔外のドーナツ地帯の住宅地は一概に最低でも簡易式の結界を敷地に組み込んでいるという事だ。
 これは一度発生させるとキーアイテムを持たない者を寄せ付けない見えない壁のような存在で、遮音や遮光効果も付随する。
 要するにこれを発生させている状態だと外で何かが起こっても全く分からないという事だ。
 事件に巻き込まれた場合、周囲の助けが得られないという事なのだ。
 仕事で夜歩きする人間もいるから、これはある意味危険な事でもある。
 まぁ自分の事は自分で守るのが隔外での常識だから仕方がないのかもしれないが。

 19時も過ぎると人通りも閑散となる。
 子供の姿が見えたのは19時前までだ。
 学校は決して子供を17以降まで居残らせないし、もしもの場合は地域に必ずある寺院や神社などを避難場所として教えこまれているとは言え、子ども達も親から散々言われているので暗くなる前に家に帰る。
 20時以降になると自衛手段を持った大人しか外には出ない。

「さて、そろそろか」

 街灯の輝きが淀みを穏やかに散らす中、俺はあてもない徘徊をやめて例の公園へと向かった。
 月齢は十三夜、妖や異能者の好む夜だ。
 彼らによると満月は強すぎて逆に制御が難しいらしい。
 やがて辿り着いた通りの角っこにある小さな公園は、植えられた木々の影と大きな遊具の影が月の光にうっすらと刻まれて全体的に暗かった。
 車避けのポールとかわいらしい彩りで飾られた門柱が、今は色褪せてモノクロの切り取られた写真のように見える。
 公園の入り口に当然あるはずの街灯も消えていた。

 相変わらず不自然に淀みが無いその公園の、奥にあるブランコがキイキイと耳障りな音を立てて揺れている。
 ゆっくりと歩いて行く。
 水飲み場、砂場と滑り台、小さなジャングルジム、その向こうに二人で遊べるブランコがある。
 腰掛ける板の部分は小さくて、明らかに子供用だ。
 しかしそこに腰掛けているのは大人の女性だった。

 キイキイときしむ音を立ててブランコを揺らしているその女性を俺は良く知っている。

「伊藤さん?」
「……きっと来てくれると思っていました」

 声も間違いなく本人の声だ。
 ふと顔を上げて俺を見る。
 月の光に浮かび上がるその顔も彼女のもの。
 口元に微笑みを浮かべてブランコから降りると、両手を持ち上げて恥じらうように近寄って来る。

「で、誰だ?」

 俺は我慢出来ずにそう尋ねた。

「名を、呼んでくれたでしょう?」

 夜の月の光の下で不自然な程に口元が紅い。
 向けるまなざしにも蠱惑の色が見えた。

「自分で名乗ってみろよ」
「本当につれない人」

 間違いなく伊藤さんの体だ。
 だが、中身が違う。
 怒りに頭が沸騰しそうになるが、なんとか気持ちを押し殺した。

「彼女から離れろ!」
「どうして?私は私、違うものではなくってよ?」
「貴様!」

 体は伊藤さんのものだ。
 殴る事など出来ない。
 人に憑依した怪異を剥がすには手順が必要だ。
 俺はおもむろに踏み込むと、封印符を取り出し伊藤さんの額にその符を向けた。
 彼女は避ける事もせずに俺の手を押し包むように握る。

「っ!」

 動かない。
 恐ろしい力だ。

「主様、そのように急かさずともいつなりとよろしいのですよ」

 封印符がボッと燃え上がり、捉えられた手が伊藤さんの胸元に引き込まれる。
 その柔らかな感触にいっそうの怒りが増す。

「やめろ!」
「なにも恥ずかしがる事などありはしないのですよ。愛しく想う事は素晴らしき事ゆえ」

 手を強引に外して腕を巻き取り、背後に回って羽交い締めに近い形を取る。
 その体が伊藤さんだと思うとどうしても力が入り切らない。
 だが、俺の拘束を解く事をせずに相手は逆に身を預けるようにしなだれかかった。

「てめえいい加減に!」
「良いでしょう?想い合う者同士が1つになるなら何もおかしな事などない。ああ、やっと私の念願も叶うのですわ」

 ぞろりと、蠢く冷たい体を感じて手を離し、距離を置く。
 月に照らされた影がゆらゆらと揺れている。

「お前、そうか清姫だな」
「ああ、その名もまた我のもの。想いに身を焦がすのが我が本質であるならば、愛しい想いを持つ者の名は全て我が名であるのですから」
「てめえ!伊藤さんから離れろ!」

 清姫相手では俺ごときが使える封印手段でどうにかなるはずもない。
 なにしろ異界を通じてとは言え、あの封鎖された都市の中にすら入ってきた年季の入った怪異だ。
 長年付きまとっていた相手ではあるが、まさかこんな手段に出るとは、考えもしなかった俺の油断だろう。

「この娘の心が我を呼んだのだから、主様がお怒りになる理なぞありはせぬのよ」
「嘘を言うな、伊藤さんがお前を受け入れるはずがないだろうが!」
「主様には女人の心がわからぬのよ。愛しい殿方の心を自分だけのものとしたい。離したくない。1つになりたい。男を想う女の想いはいつの世も変わりはせぬ。そして我こそはその想いの化身なのだから」

 艶やかに笑うその顔は、伊藤さんの顔でありながらまるで見知らぬ女性のようだった。
 こちらを絡め取ろうとする清姫の怪しく濡れたまなざしを持つ相手が伊藤さんの姿である事が、言葉に出来ない程に酷い冒涜のように感じる。
 無意識に俺の歯が怒りのあまりガチガチと鳴った。

「離れろ」
「まこと巫女とは憐れなる者、魂と魂の境目を知らず、我と我との違いを気付かぬ。もう全ては遅いの、取り返しはつかない。愛しているわ、隆志さん」
「清姫っ!」

 頭に血が上った俺は考える前に動いていた。
 足を払って倒れこむその頭に肘を叩き込む寸前に我に返って腕を止める。

「ああ、主様おいたわしや」

 寸止めされたその腕に白い冷たい腕が絡みつく。
 引き寄せられた相手の顔の微笑みが、いつものあたたかいそれと重なる。
 思わず力が抜け落ちた瞬間、ひんやりとした、しかし柔らかな感触が唇に重なった。

 とろりと甘い香りと、焼けつくような熱が体の中を暴れまわる。

「ぐっ」
「ふふっ」

 たまらず膝を突き、上げた視界の中で白い顔の中の紅い唇が更に赤みを増して、それをピンク色の舌がなぞっていた。
 血と、おそらくは生気を奪われたのだと気付く。

「今すぐに1つになりたいのだけれども、私にも交わした約束があるから仕方ないの。迷宮においでなさい。私自身が特別な招待状だから、きっと主様は来てくださる。愚かな男たちのように恐れて逃げ出したりはなさらないでしょう?」

 笑い声と共に、月に照らされた影の中に見慣れた、しかし今は違和感のある姿が沈んで行く。

「待てっ!……彼女を、返せっ」

 急激に体が重くなるのを感じながら必死にその姿に手を伸ばす。
 目の前が暗くなる。
 だが、失う訳にはいかない、彼女とはまだ、話してない事も、話さなければならない事も、話したい事もたくさんあるのだ。
 きっと、一生掛かっても終わらない、そんな話をしなければならない。
 暗転する意識の片隅で、伸ばした手が固い地面を虚しくひっかくのを感じた。
 それは冷たい、絶望の痛みだった。



[34743] 205:停滞は滅びへの道 その八
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2016/07/21 13:35
 交渉は平行線だった。
 と言うか交渉にすらなっていない。
 相手に俺の話を聞き入れるつもりが毛頭ないからだ。

「俺が行かなけりゃ彼女を取り戻せないんだぞ、行くのが当然だろ!」
「ダメダメ馬鹿弟子よ、お前ハンター舐めてっだろ?依頼の無い仕事はしない、うちは冒険者じゃねえんだ。ちゃんと管理されているんだぜ?」
「じゃあ俺が依頼者という事にすれば良いだろ。俺がダメなら被害者の家族でも」
「そうだな、正規の手続きを行えば仕事として動ける可能性は高くなる。だがな、ちょっと頭冷やして考えてみろ、あからさまな罠にお前を突っ込ませるわきゃあないだろ?」
「それ、おかしくないか?力無き人を助けるのがハンターの、いや、うちの一族の在り方だよな。その為に産み出された、そうじゃないか?むしろ早く行け!って言うべきだろ、ハンターとしては」
「うん、まぁお前の言う事は分かるし、実際行くべきなんだろうなって俺なんかは思うよ。でもね、ハンター協会も国もそれを許可しないのは間違いない」
「意味が分かんねぇよ」
「普通の場所ならまだ良かったんだがなぁ、場所が迷宮じゃあ分が悪すぎる」

 バカ師匠、いや、ハンター協会の日本支部の支部長である木村和夫はテーブルをひと撫でして何もない場所から小さな白いボールを取り出し、器用に指で操って見せると、それをギュッと握って手を開き、何もない手をひらひらとさせた。

「全てが相手の手のひらの上だ」
「アホか!そんなのは理由になんねぇだろ?ってかそういう事は当たり前じゃないか。今までだって迷宮に突っ込んだ事は何度もあったし、特区の迷宮にだって俺は何度も潜っている。ダメな理由になんねぇよ」
「伝説級の怪異が2体タッグを組んでお前を誘い出してるんだぜ?被害者女性は既に憑依されていて分離の可能性は低い。上の判断はノーだ」

 話にならない。
 そして話にならない事では酒匂さんも似たようなものだった。

「特区法では迷宮に潜れるのは登録した冒険者と軍関係者のみ、軍からの依頼が無い限り君を特別に迷宮に入れてあげる訳にはいかない。すまないね」

 言葉も態度も真摯で申し訳なさ気だったが、譲る気が無いのははっきりとしていた。
 というか、正直言ってバカ師匠よりもこっちの方が難攻不落といった雰囲気だ。

「クソが!」
「タカシ!」

 悪態を吐いている俺を見付けてビナールがやって来る。
 場所はオープンカフェと屋台が一緒くたになったようなカフェスペースだ。
 周囲が自由屋台になっていてそこで買った飲み物や食べ物を好きなテーブルで飲み食い出来るようになっている場所だった。
 特区の中の居住地区の一画だ。

「あ、ビナールすまないな。どうだった?」
「やっぱり噂はあるみたい。でも私達みたいな駆け出しが拾える情報じゃなかった。ただ、『ブラックナイト』ならなんとかなるって」
「ブラックナイト?」

 ビナールはわざわざその単語の翻訳を切って単語として俺に伝えた。

「冒険者達の使う裏の情報屋。汚くて危ない上に用心深いって」
「分かった、ありがとうな」
「あの、もし私達で役に立つなら言って。まだ弱くて足手まといでしかないのは分かっているから一緒に行くとは言えないけど」
「何言ってるんだ、むちゃくちゃ役に立ってくれているだろ?俺は冒険者の内部の事は良く分からないしな」

 俺はハンター協会と国の上層部が当てにならないと判断すると、まずはタネルとビナールの兄妹に連絡を付けた。
 以前、国の管理するゲート以外から迷宮に入り込んだ冒険者がいた事から、冒険者だけが知るゲートがどこかにあるのではないかと思ったのだ。
 とは言え、この子等にこれ以上深い所までは探らせる訳にはいかない。
 これだけのヒントと貰っただけでもありがたいと考えるべきだろう。

「あ、それとこれ、兄さんから」

 ビナールが俺の手にメモ書きを滑り込ませる。

「タネルが?」
「兄さんが言うには会社の人がぜひタカシにお礼をしたいって」
「カンパニーか、……分かった」

 ちらりと見たが、メモには数字や記号が書いてあるのみだ。
 これだけだとさっぱり分からない。
 とりあえずポケットにそのメモを収めて、俺は特区を後にした。


 特区を出たその足ですっかり馴染みになった多国籍食堂へと向かう。
 端末をチェックして時間を見ると、約束の時間ぎりぎりになりそうだった。

 相変わらず流行ってなさそうな分かり辛いその店の入り口のドアを開いて中へと入る。
 今日はピアノの演奏は聴こえて来なかった。
 カウンターの親父さんをチラリと見ると、親父さんは一方向に向けて顎をしゃくってみせる。
 それに従って視線を向けた席にはいつか見た事のある肉体労働者っぽい高年齢の一団が集まっていた。
 四人掛けのテーブルを無理やり2つ繋げて団体席にしている。

「マスターもしかしたら騒がせる事になるかもしれないけど」
「気にすんな、なんか壊したら弁償してもらう」
「分かった。ありがとう」

 テーブルに近付くとひんやりとした雰囲気が歓迎してくれた。
 まぁもし暖かく迎えられたらむしろそっちが困るのでその方が良い。

「お待たせしました」
「むしろ走り回らずに悠長にここで時間を潰してたら足は必要無いって事だろ?」

 恐いおばさんが口走る。
 言ってる事に間違いはない。

「で?」

 他の方々は一切口を開く事なく俺を見る事もしなかった。
 ただ一人俺に視線を寄越した伊藤父、ジェームズ氏が俺に問い掛ける。

「ブラックナイトというのをご存知ですか?」

 誰も反応を示さないが、ジェームズ父は俺を促した。

「正攻法で入れないはずの犯罪者が迷宮に侵入した事がありました。その際の侵入経路はまだ判明していません」
「なるほど。で、だ。入れるとして一人で来いとは言われてないんだろ?」
「まぁそうですけど、犠牲者を増やすのは彼女が嫌がります」
「お前が代弁するな」
「でも、そうでしょう?」
「俺たちは外専門でやって来た。だが、迷宮でもやっぱり数はそれだけで頼りになる。俺たちはやるべき事は分かってる」
「無駄です」
「あんだと!」

 キレたのはジェームズ氏ではなく、別の男だった。
 やたらデカイ体を食堂の椅子に収めていたが、立ち上がると天井すれすれに頭がある。

「バカにしてんのか?小僧!」
「最初から相手の口の中なんですよ?人数は問題じゃありません。相手の考えを読みながら動く必要がある。戦争のつもりで突っ込めば彼女はおそらく救えない」

 俺もたいがい身長は高い方だと思っていたが、この伊藤さんの父の冒険者仲間、ジャイアンと呼ばれる男のデカさは格別だ。
 頭上はるかから見下されるのはかなりの威圧感がある。

「分かっているはずです。チームワークを取れない人間の数をいくら揃えても迷宮では意味がない」

 俺ももう何度か迷宮に潜ったから分かる。
 迷宮の中で物を言うのは状況判断能力とお互いへの信頼だ。
 個々の強さはほとんど差分の範囲でしかない。

「で?お前なら確実にあの子を取り戻せるとでも言いたいのか?」
「取り戻します」
「けっ、言うだけならだれだって出来るよな」
「取り戻します。俺の血と魂にかけて」

 コツンと、ジェームズ氏がライターでテーブルを叩いた。
 ジャイアン氏は彼をギロリと睨むと、ふんと鼻を鳴らして椅子に再び腰掛ける。

「俺達は失う事には慣れている」

 ジェームズ氏は重々しく言った。

「でもな、だからってそれに耐えられる訳ではねぇんだ。いつだって耐えられねぇ。理不尽に腹が立つ」
「はい」
「無事に連れ戻すまで何一つ信じねぇぞ」
「はい」

 当然の事だと思った。
 ブラックナイトの名前に顔色一つ変えなかった彼らだが、どうやら当てがあるようだ。
 その情報の収集をジェームズ氏達に任せて、俺は次の行動に移る。
 ともあれ一度家に戻らないといけない。

 部屋に戻ると由美子と浩二がなぜか俺の部屋にいた。

「なんでここに?」

 ミーティングルームで集合の予定だったんだが。

「放っておくと勝手な事しかしませんから」

 浩二には俺に対する信頼という言葉は無いようだった。

「兄さん、うざいのがウロウロしてるけど潰す?」

 由美子がにこりともせずに物騒な事を言う。

「潰すと本人が召喚されそうで嫌だ」
「一理ある」

 ベランダの向こうでバサバサやっているカラスを見ないようにしながらとりあえず俺は着替えに引っ込んだ。
 一人になるとため息を吐いて膝を突きそうになる。
 息を整えて余計な力を抜く。
 そんなちょっとした儀式じみた事で心構えを新たにした俺は、外出用の装備を脱ぎ捨てるとリビングに戻った。
 例のメモを持って浩二の前に座る。

「ハンター協会やお国は無理っぽい、裏口は冒険者のツテから調べてもらっている。んで、カンパニーからなんだか知らんが礼とか言われた。俺、何かしたか?」

 メモを浩二に渡すと、浩二はそれに目線を走らせて自分の端末を操作し始める。

「さあ?でも兄さんですから何をやっていても驚きませんよ」

 浩二の端末が空間にスクリーンを投影した。
 それ、最新式の端末じゃね?未だに作務衣とか着て過ごしている田舎者のくせに何最新機器使ってんの?

「この服、精神系の高い防御と付与効果があるんですよ」

 口にしなくても俺の考えている事が分かるらしい。
 兄弟って恐いな。

「これはあれですね。メッセージ動画のパスワードですね」
「メッセージ動画?」
「ほら、グローバルネットのオープンな広場で観れる個人発信の動画配信があるでしょう。あれに個人向けメッセージを置いておけるんです。パスワードを持っている人間だけが観れるという仕組みですね」
「ネット進化しすぎだろ?」

 俺は浩二の開いた動画とやらを確認する為に席を移動したのだった。



[34743] 206:停滞は滅びへの道 その九
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2016/07/28 12:47
「私達が最も嫌うのが借りだ。商売には借財は当たり前だが冒険者にとっては返せない借りほど嫌なものは無い。この感覚は冒険者にしか分からないだろう」

 再生された動画の中で冒険者カンパニーの責任者の男がそう言った。
 だから借りって何の話だ?

「そこで私達の商品である情報を1つだけ君に提供させていただく事にした」

 と言うか相変わらず流暢な日本語だな。
 確かアウグスト氏だっけ?さすがはあんな大々的な予言機を使うような会社の代表者と言うべきだろう。

「迷宮に挑むなら必ず5人で挑め。……以上だ」

 話の内容に唖然としている間に動画の再生が終わる。
 ちょ、どういう事だよ!

「これってどういう事だ?」
「そのまんまでしょう」
「いやいや、情報がこれっておかしいよね?理由とかこう説明とかあるべきじゃないか?」

 俺は困惑して言った。
 俺が迷宮に入りたがっていたというのはタネルから聞いたのかもしれない。
 そもそもタネルに迷宮へ入る裏ルートを調べてもらったのは俺だしな。
 しかしその情報に迷宮への入り方ではなく迷宮へ入る人数を言って来るって意味が分からないだろ。

「それにはまずは兄さんと冒険者カンパニーとのつながりを知らなければ何も判断は出来ませんね」
「つながりって、最初の挨拶に行った以外は会社の仕事で接点があったぐらいかな」
「彼の言う借りというのは?」
「全く心当たりがない」

 浩二はため息を吐くと、俺の顔を真正面から見て言った。

「とりあえずこの会社との間であった事を洗いざらい話してください」

 なんだその馬鹿にものを考えさせても仕方がないみたいな言い方は?お兄ちゃんだって傷付くんだぞ?そりゃあ俺は大学出たと言っても学歴だけで実はお前の方がずっと頭が良い事ぐらい分かってるよ。
 というかうちの兄妹は下から順に賢いよねって村中が言ってるのも知ってるさ!
 でも兄ちゃんにだって兄貴の威厳ってものがあるんだぞ。

「なるほど、予言機ですか」

 とりあえず冒険者カンパニーで起こった事、そしてその事を酒匂さんに任せた事まで洗いざらい二人に説明する事となった。
 まぁ伊藤さんを助ける目的に比べたら俺の兄の威厳なんかどうでもいいしな。

「おそらく冒険者カンパニー側としては兄さんにそれの整備をさせたのは予防措置だったのでしょう」
「予防措置?」
「ええ、当局の調査が入って違法行為として処罰される時に兄さんがその設備の整備をしていた事を盾にとって政府に自分たちを処罰するなら兄さんを告発すると脅す訳です。知っていて協力したとしてね。いえ、もっと極端に言えば、冒険者達に向けて兄さんが裏切り者だと告発すると脅す事も出来ます。前者は兄さんが知らなかった事で押し通せますが、後者は理屈じゃありませんから兄さんは冒険者に恨まれる事となるでしょう。これは結構嫌な脅しになります」
「んんん?つまりメンテナンスの手伝いをした時点で相手の策にハマっていたのか」
「そういう事です」
「でも、なんでそれが借りになるんだ?」
「それは兄さんが警察でも軍でもなく酒匂さんに直接相談した事でしょう。おそらく相手からすれば兄さんがそんなに正確に予言機の術式を解析出来るなんて思っていなかったはずです。もし気付いた兄さんが直接軍に話を持って行っていたら軍は冒険者カンパニーを強襲して何の手も打たせる事無く会社を解体していたでしょう」
「マジか?」

 あまりの事の大きさに俺は驚いた。

「兄さんは国際法を舐めすぎてます。あの中で違法と断言されている事柄に対する強制執行力は強い。どんなに暴力的に押さえつけても世界中が肯定してくれるという事なのですよ」
「恐い話だな」
「それだけ危険という事でもあります。禁呪や魔薬のたぐいと同じですよ」
「ええっと、それで酒匂さんだとどうして良かった訳?」

 俺の問いに浩二は電算機を操作して何やら確認する。

「ああ、やっぱりそうだ。冒険者カンパニーの予言機の取り扱いが政府公認になっている。要するに企業ではなく国が国家事業の為に予知を利用しているという形に納めたんですね。違法となるのは企業が自社の利益の為に予知を使った場合ですからこれなら問題ありません。酒匂さんは兄さんに髪の毛一筋の傷も付けたくなかったんでしょう」
「えっ?なんでその措置が俺が傷付く事と関係する訳?」
「兄さんのせいで迷宮探索の安全性が低下したとなればどれだけ恨まれるか知れませんからね。酒匂さんは迷宮探索の安全性を上げると同時に兄さんのリスクを無くした。本当は予言機だけを接収して会社は解体しても良かったのでしょうが、それもそれで危険因子につながります。相変わらず用心深い人ですよ、あのお菓子の人は」

 なんだか浩二の話に少し混乱したが、酒匂さんに相談した事がそんな結果に落ち着いていたのか。
 会社にも個人的にも何も言われなかったからどうにかなったんだろうとは思っていたが、さすがだ、お菓子の人。

「ん?って事はこれは予言か?」
「そういう事ですね。僕達が迷宮に潜る事前提で3人だけで行くなという事を言っている訳です」
「と言っても、まさか伊藤さんとこの親父さん達を連れて行けって事じゃないだろうな?」
「人は指定していませんが、そうですね。熟練の冒険者は確かに頼もしいとは言えるでしょうね」
「いやいや、それはダメだろ、何と言っても今は一般人なんだし。聞いた所によると伊藤さんの親父さん達は迷宮には入った事がないらしいぞ」
「ああ、それは無理ですね」

 そう、実際迷宮は特別な場所だ。
 下手をすると物理法則すら当てにならない世界なのである。
 何しろ実体化した夢の世界だからな。
 あの特区の迷宮は妙な事にこだわりがある終天のせいで変な秩序があるっぽいが。
 と、そんな話をしていたからか当の伊藤父から連絡が入った。

『繋ぎは取れたが、俺たちは面が割れていて接触出来ない。お前に任せるから死ぬ気でやってみろ』

 苦々しい声だ。
 出来れば自分達でやりたかったんだろうけど、相手は用心深い組織、有名な冒険者である伊藤父とその仲間は直接接触出来なかったという事か。

「分かった」

 詳しい接触方法を確認する。
 あらゆる術式、そして軍や政府に関わる者は厳禁という事だった。
 ある意味俺も軍や政府に関わっちゃいるんだけどな、いいのかな?

『連中にとっちゃ勇者血統は金の卵だ。正に鴨が葱を背負って来るという気分だろうさ』
「なるほど」

 俺の戸惑いを読んだのか、伊藤父がそう助言をくれる。
 ん?あれ、俺、伊藤さんのお父さんに勇者血統である事を言ったっけ?
 もしかしてあれか、最初の怪異との対決でバレてた?
 伊藤さんはどうだったんだろう、知っていたのかな?
 俺は臆病にもハンターという事は話せても最後の一線だけは話すことが出来なかったんだけど、お父さん経由でバレていたとしたら馬鹿みたいだな。
 こんな事になるならもっといっぱい、なんでも話しておけば良かった。
 接続の切れた端末に額をぶつけて背を丸める。
 ダメだな、落ち込んでいる場合じゃないのに。
 そんなちょっとダメになりかけていた俺の背中が引っ張られる。

「兄さん」
「おう」

 由美子がすごく真剣な顔で俺を見ていた。

「私の友達を絶対に助けるから」
「そうだな」

 そうだ、由美子にとっても伊藤さんは初めて出来た友達なんだよな。
 俺だけ焦っているような気になっていたけど、由美子だってきっと心配でたまらないはずだ。
 そういう事を思いやれない俺はほんとダメな兄ちゃんだな。
 よし、まずはこの伊藤父がなんとか繋ぎを付けてくれた怪しげな情報屋から当たるか。
 こんな事をしている間に伊藤さんの自我はあの巨大な怪異に呑まれつつあるって言うのに、くそっ、面倒が多すぎるぞ、全く。

 と、突然来客を知らせるチャイムが鳴り響いた。
 部屋の空気が一気に緊張する。
 とは言え、相手はまだマンションの入り口だ。
 時期が時期だけに嫌な予感ばかりするが、もしかしたら単なる荷物の配送という事もあるしな。

 インターフォンを繋ぐと、その画面に映し出されたのは少し意外な相手だった。



[34743] 207:停滞は滅びへの道 その十
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2016/08/04 16:26
「何しに来たんだ?」

 唐突に訪れた友人に俺はつい詰問口調でそう尋ねてしまった。
 色々ありすぎて気持ちに余裕がなくなっているようだ。
 自覚があるのにそれを抑える事が出来ないのは俺の未熟さだが、そんな風な態度になってしまったのは、伊藤さんと同じように相手が自分にとっての日常の象徴だったからなのかもしれない。

「何しにとはご挨拶だね。長く欠勤している友人を見舞うのに理由がいるのか?」
「いやいや、お前今までここに来た事なかったろ?急に来たら驚くだろ普通」

 口にしてみて改めて気付いたが、アパート時代は気軽に訪れる事もあったこいつが、マンションに移ってからは全く遊びに来る事が無くなっていた。
 おそらくはセキュリティが面倒というよりも伊藤さんと付き合い出していたから遠慮していたのだろう。
 そう言えば以前は週に一度は誘ってくれていた飲みにも誘われなくなっていたな。
 そういう当たり前の日常や人間関係を思うだけでも今は痛みが伴う。
 当たり前だったはずの、当たり前にする為に築いて来たはずの日常がほんの僅かな間に酷く遠くなっていた。

「考えたんだが、俺も何か役に立つんじゃないかってね」
「何言ってるんだ?」

 会社帰りなのか、ぴしりとスーツを着こなした男は俺の同僚であり、親友でもある流だ。
 いきなり訪ねて来たと思ったら俺と伊藤さんのいない間の職場の様子を業務連絡よろしく話し出した。
 そんな事を言いに来た訳ではない事はいくらなんでも分かる。
 だからこそ俺は真正面から何しに来たのか聞いてみたのだ。

 確かに俺と流が友人である事は社内でも知られているし、何かおかしな事が起きている事も会社側も把握してはいる。
 しかしそこで流に様子を見てきて欲しいという話になるかというと、それは無いと言えるのだ。
 流に何かをさせる事が出来る人間なんぞいない。
 と言うか、そもそも流に何かを頼むという発想がまず浮かばないというのが流の周りの意識というか、環境なのだ。
 社長ですら流に指示を出すという事を考えもしない。
 変な話だが、人は無意識に流の意思に従おうとするようなのだ。
 流本人の言うところでは、流自身は意識などしていないが、自然とそういう力が働いてしまうらしい。
 厄介な事だとぼやいていたのをよく覚えている。

「ん~、なんと言えば良いのかな?そう、ここに来るべきだと思ったんだ」
「なるほど」

 流の言い分はおかしなものだったが、下手に理屈をこねられるよりも俺にはその言い方は分かりやすかった。
 なんとなくそうしなければならないという感覚はうちの身内にもよくあるもので、そういう事は蔑ろにするものではないからだ。
 いや、しかし、待てよ。
 そうするとまさかこいつを迷宮に連れて行けって事なのか?
 いやいや、と俺は自分の考えを否定した。
 流が訪ねて来たからって例の不足しているパーティメンバーに結びつけるのは短絡的というものだろう。
 まずは流の感覚が何を掴んだのかを知るのが先決だ。

「実はお前には話してなかったが、以前ちょっとした相手と因縁が出来てね」
「へぇ、それは珍しいな」

 因縁という言い方からすればそれは悪い縁という事だ。
 ヤクザすら下手に出るというこいつとそんな悪縁を結べる相手がいたとは驚きである。

「俗に言うところの酒呑童子という相手なんだが」
「ごふっ!」

 俺は自分で淹れたコーヒーにむせた。
 
「ああ、これはいつか返礼をすべき時が来るなと思っていたんだが、その貸しを返してもらえるという予感がするんだよな」
「ちょっとまて!お前いつの間にあいつとやりあってたんだ!てか何でいままで黙ってた?」
「いや、お前に話すと気にしそうだったからな。それにちょっとしたガンの付けあいみたいなもので、大した事はなかったんだよ。本当にね」
「ガンの付けあいって学生の喧嘩かよ」

 流は微笑んでいるが、かなり真剣に闘争心を燃やしている事が分かる。
 相手は神にも届こうかという怪異で普通は出会って命があったら泣きながら祝杯あげても良いぐらいなんだぞ?

「伊藤くんやお前の事もあるし、俺もたいがい腹が立ってね」
「いや、腹が立ってって、何があったか分かってるのか?」

 会社が把握しているのは伊藤さんの行方不明と、それを俺が探しているという事だけだ。
 それはその組織内にいる流にしても同じである。
 友人だからと特別に相談したりもしなかったしな。

「お前が付き合っていた女性が行方不明になったという事はお前の敵のせいなんだろう?」

 敵とか味方とか勧善懲悪の世界じゃないんだぞ?

「すっげえ短絡的な考えだな。天才発明家の肩書が泣くぞ」
「いや、そんな肩書無いから」
「む?奇才なる発明家だったかな?」
「うぬ、ちょっと心誘われる肩書だな」
「奇才は良いんだ」
「奇という言葉が好きだからな」
「お、おう」

 語る内に、なんとなく俺の中にあった焦りのような物が穏やかになるのを感じる。
 どこに走りだして良いのか空回りしていた気持ちが、根を下ろすべき場所を見付けたようなそんな感じだ。

「という訳で、俺の個人的な理由で関わる事にした」
「いや、その『という訳』はちょっと分からないんですが」
「俺を利用しろ。役に立つぞ」

 なんだこのイケメン、モテるはずだよ。

「お前さ、迷宮潜る気ある?」

 口にして驚いた。
 いくら魔導者の血筋とは言え相手は対怪異ではずぶの素人だ。
 流に話を持って行くぐらいなら伊藤さんの親父さん達に頼る方が数倍マシなはずである。
 なんで俺、するっとこんな事言ってるんだろう。

「迷宮か。それもまた因縁だな」
「え?」

 流は俺の淹れたコーヒーに冷蔵庫から取り出した紙パックの牛乳を注いで適度に混ぜるとそれを口にした。

「お前、魔導者の成り立ちを知っているか?」
「噂しか」

 魔導者はこの世の理から外れた人間、いや現人神であると言われている。
 噂では神の迷宮の攻略者であるとも言われていた。
 その噂が真実だったという事だろうか。

「魔導者となった者は最初7人いた。彼らは同じパーティメンバーとして神の迷宮を攻略した」
「噂ってたまに真実なんだな」
「今も現存している攻略者は4人。その1人から直接聞いた事がある」
「え?」
「彼らが攻略したのは神も神、どうも自然系の神の迷宮ダンジョンだったらしい。正に幻夢の世界だ。神の迷宮というものは本来人間が攻略出来るようなものではないという話は知っているだろう?しかし彼らはそれをうっかり攻略してしまって神がごとき力を手に入れた。具体的に言うと不老と異能だ」
「不老と異能……」
「まぁ人間の尺度で言うとそう表現するのが近いといったものだ。ともかく人が持つには過ぎた力だ。彼らは超越者として表に立たない事に決めて、平等になるようにバラバラに違う国の相談役のような立場に分かれて長い歳月を過ごし、その中で3人は既に超越者でいる事に飽いて眠りに就いた」
「すげえ端折ってるけど大変な話だな」
「うむ、門外不出の話だ」
「ちょ、おい!」
「大丈夫。いざとなったら記憶を改竄する事ぐらい出来る。殺されはしないさ」
「いやいや、記憶いじられるとか嫌だから」
「俺も嫌だからばれないようにな」
「お前ね!」

 そんな重大な打ち明け話を不味そうなカフェオレを飲みながら語るな!
 てか由美子と浩二を部屋に戻らせておいて良かった。
 ついでにカラス対策にカーテン閉めておいて良かった。
 
「そういう訳でうちの家系は迷宮にはある程度詳しい。だが、今ここに出来た迷宮は少々普通の物とは違うな」
「そうだな」

 普通迷宮というのはその迷宮を作り出した怪異の夢の世界だ。
 とりとめもなく、物理法則がむちゃくちゃで、何が起こるか分からない世界、それが迷宮というものである。
 しかしこの街に出現した迷宮はそういった今まで知られている迷宮とは全くおもむきが違っていた。
 大きな違いとしては、決まった到達点に行く必要はあるが、そこを使って攻略途中でも出入りが出来るという事。そしてなによりも全ての物事に一定の法則性があるという事だ。
 特集番組でも言われていたが、この街に出来た迷宮はほとんどゲームのような迷宮なのである。
 というか、終天がわざわざゲームを真似して作ったと考えて良いだろう。

「で、迷宮の話が出たという事は、伊藤くんは迷宮に囚われたという事でいいのか?」
「あ、うん、実はもうちょっと複雑なんだけどな。正直なんでそうなったのか未だに分からないというか」
「細かい事は良い。迷宮に潜るなら俺の力はおそらく役立つ。連れて行け」
「えっ!」
「俺も初代の力に比べたら大したことはないが、ある意味迷宮とは相性の良い力を持っている。友人と同僚を助ける事が出来るなら日常に役立たないこの力も意味があったというべきだろう」
「良いのか?」
「ついでに貸している勝負に決着を付けたい」
「いや、それ、貸しているって酒呑にだよな?無茶はやめろよ?」
「どの口がそれを言うかな?とは言え、俺の力に決定力はないからな。勝負を付けるのはお前に譲る」
「そう、か」

 流が伊藤さん救出に付き合ってくれるとなって、俺は急激に押し寄せる不安に震えた。
 吐き気がするような気分の悪さの理由は分かっている。
 流も伊藤さんも俺にとっては怪異とは関わらない日常の象徴だった。
 とうとうその境目が入り混じってしまったという後悔と、そして同時に感じる安堵に俺自身に嫌気が差したのだ。
 もうどちら向けの仮面も被る必要もない。
 俺は俺で良いのだと、一瞬そんな風に安心してしまった。
 そんな場合ではないのに、そんな気持ちになった自分にムカついたのだ。

「ダメだなぁ俺は」
「馬鹿だな。完璧な人間には友達なぞ出来ないんだぞ。ダメで良かっただろうが」

 どんな理屈だよと思いはしたが、その理屈にどうしようもなく救われている自分もやっぱりいるのだった。



[34743] 208:停滞は滅びへの道 その十一
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2016/08/11 13:42
 ブラックナイトという怪しげな情報屋と会う為にその指定場所へと向かっている俺の横には浩二がいた。
 相手が勇者血統を捕らえる事を考えているというならまずは俺が一人で乗り込んで、二人はそのサポートに徹するべきだと主張したのだが、我が弟と妹から猛然と反対されてしまったのだ。

『そもそも僕たちは交渉ごとには向いていない。いざとなったら相手の罠をくぐり抜けなければならないけど、兄さんは力技しか出来ないから無理』

 というありがたいお言葉と共に決定した人選は、弟妹からの俺への信頼が皆無である事が露呈された結果だった。
 俺だっていい大人で社会人なんだからちゃんと交渉ぐらい出来ると主張したのだが、全く取り合ってもらえなかったのである。
 まぁそりゃあ俺も二人に信頼してもらえるような行動をして来なかった自覚はあるけどさ。
 俺も不安があるからこそせめて被害を最小に抑えようと思った訳で。
 しかしそれを思いっきり見抜かれて『わずかでも犠牲が出たら彼女の救出は不可能になるという事を理解しておいた方がいいですよ』と説教されてしまったのだ。
 そうだな、正直いざとなったら自分だけの被害で抑えようと思っていた時点で俺の間違いだった訳だ。
 ほんとうちの弟と妹は優秀で頭が上がらないよ。

 周回バスがオフィス街を進み、俺は会社の方へと顔を向けた。
 本当ならオフィスで電算機を前に仕事をしているはずの時間だ。
 伊藤さんがお茶を用意してそっとデスクに置いてくれる。そんな小さな幸せを噛み締めていた頃が既に懐かしい。

 オフィス街を抜けると意外な程近くに特区の壁がある。
 今はまだ仰々しい壁が目立つが、いずれは壁面部分に緑を植えて壁面ガーデン化をするのだという。
 この中央都も思いもよらぬ都市改造を進める事となったが、景観もどんどん変わってこの街に馴染んでいくだろう。

 その仰々しい壁の中にある特区は元々はオフィスの高層ビル街の一画であった。その証に周辺には仕事帰りのビジネスマンを当て込んだ飲み屋街がある。
 俺たちがバスを降りたのはそんな夜の歓楽街の入り口だった。
 表通りは商用ビルやコンビニや食べ物屋が点在している駅に続く大通りとなっている。
 そこから一歩曲がると昼間は静かな飲み屋街が続く細い路地が連続した通りだ。
 流と飲み歩くのが楽しみの1つだったので、俺もこの辺は良く知っている。
 入り口からすぐの大通りと平行した通りは地元のアーケード商店街となっていて、もう1つ先にビジネスホテルと個人経営の居酒屋やフランチャイズ店が立ち並ぶ大勢で賑やかに飲む為の場所が続く。
 更にその奥がいわゆる雑居ビルと呼ばれる飲み屋や怪しげな店が間借りしているビル群が立ち並ぶ一画だ。
 夜になればネオンと呼び込みで溢れるこの場所は、さながら迷路の様相を呈していた。
 とは言え、地図すら役に立たない本物の迷路化している特区の居住地区に比べれば地図を見れば大体分かる程度のかわいい迷路だ。
 その雑居ビルの1つの中に派手な看板や扉の無い、平凡なアパートじみたドアがあった。
 ここが今回の待ち合わせ場所である。

 扉に掛かっている看板はローマ字で大きく『N』の一文字。
 隠れ家的飲み屋とも単なる会社事務所とも取れる佇まいだ。
 俺はその扉の向こうの気配を探ってみたが、特に何を感じる事も出来ずに、そのまま素直にノックをした。
 ガチャリと鍵の外れる音だけが響き、応えはない。
 これは入れという事なのだろう。

「ごめんください」

 一応声を掛けながらドアを開けて入る。
 中に入るとすぐ目の前には銀行などでよく見掛ける目隠しの衝立があった。
 いわゆるパティーションというやつだ。
 うちのオフィスのうちの課ととなりの開発室との間にも存在する。

「いらっしゃい」

 低い声が応じた。
 日本語だ。
 ただナチュラルと言うには少しアクセントに違和感がある。
 気配は二人、どちらも無駄なアクションが無く、自分の動きを完璧にコントロールしている事を感じさせた。

「知り合いの紹介で来た」
「ええ、聞いていますよ。『チェイサー』からの呼び出しとか。なかなか名のしれた討伐者ですね」
「討伐者?」
「フィールド冒険者の事を業界用語で討伐者と呼ぶのですよ」
「なるほど」
「まぁ立ち話もなんです。まずはお座りください」

 パティーションを回り込んですぐの所には応接セットが鎮座していた。
 向かい合わせのソファーとその間にあるテーブル。
 既に片方のソファーに座っている男は、白髪交じりの40代前後に見える事務員風の風体だ。
 背を丸め、下を向く癖は典型的な机仕事を長年続けて来た者の姿勢である。

「失礼します」

 俺に続いて浩二も隣に座る。
 もう一人の姿は見えないが、奥の方で食器の触れ合う音がしているのでお茶の用意をしているのかもしれない。

「回りくどく交渉するつもりはないんで率直に言わせてもらうが、非合法に迷宮に侵入する方法を探している」
「なるほど、確かに率直ですね」
「とりあえず情報を持っているかどうかを聞きたい」

 その交渉している場所へもう一人がお盆を掲げて姿を現した。
 女性だ。
 まだ若い。
 未成年にも見えるがはっきりとは断言出来ない。
 金髪に青い目のこちらは明らかな外国人だった。

「どうぞ」

 事務的な声。
 動きにも言葉にも一瞬の戸惑いもない。
 あまりにも雑音の無い存在。

「彼女は?」
「気になるなら口説いてみてもよろしいですよ?」
「なにを言っているんだ?」
「いや、これは失礼いたしました。もう可愛らしい彼女がいらっしゃるのでしたね」
「っ……」

 さすがは情報屋といったところか、こちらの情報も掴んでいるというアピールなのだろう。

「……それで、情報を売れるのか売れないのか?」
「わたくしどもは値段の付けられるものならなんでも売ります」
「手広いんだな」
「ええ、おかげさまで。多くのお客様からたくさんのご注文を承っております」
「他の注文は知らん。俺の注文に対して売るものがあるかどうか教えてくれれば良い」
「ではわたくしどももお客様にお応えして率直に申し上げさせていただきます。質問に対する答えはイエスです」
「それじゃあ!」
「そう、お客様のお求めになる商品をテーブルに並べさせていただきました。次はお値段の交渉、そうですよね?」
「もちろん。取引の基本だな」

 穏やかに告げる相手の言葉に拍子抜けしながら、俺は素直に頷いた。

「それではこちらのテーブルには倭国の都市迷宮の未確認ゲートの情報。本来お客様からその代金としてのお値段を提示していただくのが我が社の方針ですが、今回は少し趣向を変えましょう。まずはわたくしどもがお代を提案させていただきます。それでよろしいでしょうか?」
「わかった」

 売る側が値段を交渉するという事はそれだけその価値に自信があるという事だろう。
 それは当然だ。
 なにしろこちらが探している事が分かっているのだから。

「それではわたくしどもはお代として『お客様の最初のお子様』を要求させていただきます」

 一瞬、何を言われたか分からなかった俺とは違い、浩二はすぐにその内容を理解したようだった。
 交渉中気配を殺したように静かだった隣から突然殺気のような濃密な害意が膨れ上がり、俺は冷水を浴びせられたように身をすくめ、すぐに自分でも相手の言った事を理解して反射的に怒りを感じ、それを慌てて押し殺す事となった。

「まるで悪魔の契約だな」

 どうせとんでもない要求が来るだろうとは覚悟していたが、こちらの予想を上回る内容にうっかり交渉の意思が消し飛ぶ所だった。
 極めて冷静に対処出来たのはそのある程度の覚悟のおかげである。

「ええ、悪魔はわたくしどものような商人にとって、大変尊敬すべき存在です。何しろ彼らは決して約束を違えず正しい取引を行いますからね」
「所変われば見方も変わるという事ですね」

 いけしゃあしゃあと言ってのけた相手に、嫌味も通じない事を理解して、俺は交渉を続けた。

「人身売買は国際法で禁止されていますよ?」
「わたしくどもの守っている法は別の所にあるのですよ。住む世界が違えば法もまた違う。当然の事です。実際お客様からのご注文が多いジャンルなのですよ」

 これ我慢して交渉続ける意味があるのかな?とちらっと考えたが、他に当てがない身なのでこの相手を逃したくはない。
 
「俺は正規の法に従って生きています。人を取引のテーブルに乗せる事はありません」
「それは困りましたね。それではどうでしょう?貴方が今晩この娘とわたくしどもの出すお酒を飲んで一晩過ごすという事では?」

 この娘と言う言葉で傍らに佇む女性を指し示す。
 示された方は顔色1つ変える事はなかった。

「取引は金銭で行いませんか?」

 低い声で唸るようにそう言った俺の横腹を浩二が指先で突いた。
 痛い。
 お前それ貫手だよね?

「どうした?」

 振り向いて問う。
 こいつがこんな風にあからさまに邪魔をするのはおかしな事だ。

「無駄だよ。ここは『閉じて』いる。彼らは人間じゃない」

 浩二の言葉に俺は驚いて目前の二人を見なおした。
 見た目に異質な感じはない。
 いや、と、少し顔を上げて怪訝そうに俺たちを見る中年の男の顔をよくよく見る。
 くっきりとしたしわや皮膚のたるみがあり、髪は白髪交じりのいかにもどこにでもいそうな中年の男だ。
 しかし、そこには長年生きた人間なら必ずどこかに現れるはずの生活による歪みがない。

人造人間ホムンクルス?」
「おやおや」

 俺の言葉に男は柔和な笑みを浮かべてそう応えた。



[34743] 209:停滞は滅びへの道 その十二
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2016/08/18 12:40
「随分と慎重に切り離しを行ったもんだ。つい先程完全に断絶するまで気が付かなかった」
「空間認識が得意のお前が気が付かないとは驚きだな」
「恥ずかしながら迂闊のそしりは受け付けるよ」
「いやいや、どうせ虎穴に入らずんば虎児を得ずとかそんな考えだったんだろ?」
「その信頼はありがたいけど、過信は良くない」

 心温まる兄弟の会話を他所に目前の2体のホムンクルスは人間らしい表情を作るのを止めて体を変形させ戦闘モードに切り替わっていた。
 手足が長くその先端が硬質化して鋭利な刃物のように変形している。
 俺はそれを眺めながら呆れたように呟いた。

「その様子だと交渉の余地はないって事か?」
「交渉は先程持ち掛けたでしょう?それを貴方はお断りになった。即ち交渉決裂という訳です」
「そもそも条件が無茶すぎるだろ。最初から交渉する気があったとは思えないな」
「いえいえ、もちろんこちらの提示した条件に応じていただいたならきちんとそちらの欲しい情報はお渡ししましたよ?我々も商売ですから信頼は大事です」
「へー」

 全く説得力のない内容に俺はまともに相手する事を止めた。
 どう考えても戦う事を前提にお膳立てがされていたとしか思えないのでそういう事なのだろう。
 俺は上着を脱ぎ捨てると、ヒートナイフを手にする。
 相手は怪異ではないが人間でもない。
 枷の無い状態での戦いだ。
 ホムンクルス達は左右からわずかに時間差を付けて攻撃を仕掛けて来る。
 人間に付き物の動きの癖やためらいが一切ない機械のように正確な動きだ。
 俺は足を一歩踏み出し、次の瞬間2体のホムンクルスの背後に回った。

「な!」
「えっ?」

 回し蹴りと肘打ちを叩き込む。
 それだけで2体のホムンクルスは絡み合うようにゴロゴロと転がった。
 互いが邪魔で僅かに立ち上がるのが遅れたホムンクルス達の脊髄へナイフの柄を叩き込む。
 モデルが人間ならこれは効くはずだがどうかな?
 
「ぐっ、がぁっ!」

 案の定ホムンクルス達は起き上がれず床でもがいている。

『おお、さすがは秘められし東洋のホーリーブラッド。これは少し舐めすぎましたか?』

 どこからか響く声が楽しそうに戦いを評価した。
 閉鎖空間を創りだして覗き見をしているのだろう。
 つくづく趣味の悪い事だ。

『では次の段階を』

 声と同時にもがいていたホムンクルスがまた変形をした。
 今度は2体が融合してもはや人間の姿を捨てた異形の怪物となる。
 手足が変形した8本の足を持つ蜘蛛のようなバケモノだ。
 2つの頭の片方が顔の半分程まで口を開けて白い何かを吐き出した。
 飛来したその物体を俺はヒートナイフで切り裂いたが、切った右腕に何かが纏わり付く。

「なるほど蜘蛛だけに糸、いや網か?」

 べったりと絡み、そのまま倒れたソファーを巻き込んだのは白い粘着質の網状の何かだった。
 以前迷宮で出くわした怪異に似た攻撃だ。
 もしかして参考にしているのかもしれない。
 腕と一緒に巻き込まれたソファーが接着された状態になってしまい、振り払っても離れない。
 その隙に蜘蛛型ホムンクルスは素早く動いて俺に覆い被さって来た。

「うざいわ!」

 俺は左腕を振るって蜘蛛の胴部分を払い除ける。
 重い手応えがあり接触した部分から蜘蛛の体がひしゃげた。

『なんと!そのバケモノは戦車並には頑丈なのですよ?』

 俺は声を無視して右手に絡んだソファーを叩き壊すとヒートナイフを蜘蛛口に突き立てる。
 やった俺自身思いもよらなかった事だが、蜘蛛型のホムンクルスの頭部がまるで爆発するように弾け飛んだ。

「なんだ?」
「おそらくあの網を作り出す部分に可燃ガスが使われていたのではないでしょうか?」

 今まで黙って俺の戦いを観戦していた浩二がそう告げた。

「お?終わった?」
「はい」

『ぬ?何が、うああああああっ!』

 おそらく大量の白い蜂に襲われているであろう相手の状況を考えて、俺は一人黙祷を捧げた。
 いや、まぁ殺してないとは思うけどね、俺ら人殺し出来ないし。
 蠢く肉塊となってピクピクしていたホムンクルスはすぐに急激にしなびて干物のようになってしまった。
 今の錬金術の限界でホムンクルスは自身の細胞を増殖する事が出来ない。
 製造されてから2週間が正常に活動出来る限界と言われている。
 裏社会で使い捨ての生物兵器として利用される事の多いなんとも憐れな存在なのだ。
 ただ知能はコピーされたものだけで自我を持つ事はないと言われている。
 それはむしろ幸せな事なのかもしれない。

「んじゃ行くか」
「そうですね」

 浩二がすっとその左手を動かしてドアに向ける。
 その瞬間空間が地震のようにガツンと振動し、すぐに何事もなかったように収まった。
 種明かしをすると、浩二の創り出した『空間』が結界で隔離された空間と現実空間を貫くような形で差し込まれていたのだ。
 今それを引き寄せて結界を無理やりこじ開けたので空間が揺らいだのである。
 その仕掛けを維持する為に浩二は俺が戦っている間ひっそりと気配を消していたのだ。
 そしてそこから漏れる情報を頼りにこの結界の中を覗き見していた相手を由美子が探索してその相手に大量の蜂の式を送り届けて一件落着となったのである。
 とは言っても、実はその行程の具体的な事は俺にはさっぱり分からない。
 何しろ術式に関しては俺はある程度定型化されたものを使う事は出来るが、その理論は理解出来ないのである。
 正直難しすぎてついていけない。
 特定ジャンルを得意とする弟も凄いがほとんどの術式を理解出来る妹は天才すぎて崇める事しか出来ない情けない兄であった。

 さて、由美子の蜂にやられて心地いい眠りに落ちている『ブラックナイト』さん達を訪ねる。
 その場にいたのは三人程、呆れた事に俺たちが招かれた雑居ビルの真上の階にいたらしい。
 まぁ状況を把握するにも術の通りを良くする為にも近い方が良いのは確かなんだけどね。

「結界内での兄さんの戦いを記録していたようです」
「なんというか商売人根性がすごいな」

 結界内に閉じ込めてホムンクルスと戦わせてその様子を記録した物を情報として売るつもりだったのだろう。
 俺が勝っても負けても場所は結界内、どうとでも出来ると思っていたはずだ。
 最終的には俺たちも商品として売られる所だったんだろうな、てか成人の勇者血統なんて商品にならないんじゃないか?扱えないだろ、普通。
 確かに俺たちは人殺しは出来ないが、逆に言えば人さえ殺さなければどうとでも出来る。
 世慣れていない子どもの時分ならともかく大人の超人なんて手に負えないと思うんだけどな。

 後日になるが、この点について伊藤父から胸糞悪い話を聞く事となった。
 想像しただけで気持ち悪くなって倒れてしまったのはまぁあれだが、世の中には想像を越える悪意があるという事を思い知らされた話だった。

 時を戻して、無事罠を破って『ブラックナイト』の拠点を探った俺たちはいくつかの資料を発見する事となった。
 そしてその中に迷宮の違法ゲートの管理記録があった。

「これはかなり厳重に秘匿していたみたいだね。ゲートのある場所には外部からの転移ゲートでしか行けないようになっている。部屋には他に出入り口がないようだ」
「閉鎖空間か、そりゃあ見つからない訳だ」
「しかもこの場所の管理には『信者』が関わっているようだよ」
「なに?」

 信者というのは俺たちハンターが使う隠語のような物で、怪異を崇める者達の事を言う。
 そもそも古い怪異の中には神とされるものがいるのだからある意味信者がいるのは当然なのだが、人にとって害となる怪異に心服する信者すらいて、ハンターとはぶつかる事もあるのだ。
 本当に人間というのは色んな奴がいるもんだ。

「迷宮のゲートに関わる信者という事はもしかして酒呑童子信者か」
「そうだろうね。我が国では古くから続く歴史ある組織だ」
「一度封印されたのが復活した経緯にも関与していそうだもんな」

 俺は重く息を吐く。

「邪魔をして来るかな」

 俺の独り言のような問いに応えたのは由美子だった。

「邪魔はしないんじゃないかな?あっちからの招待みたいなものだし」
「そこまで意思の疎通が出来ていると思うか?」

 基本的に信者とその崇める神との関係は一方通行が多いものだ。

「しているんじゃないかな?酒呑童子の事は昔調べた事があるけど、人間と関わるのが好きって感じた」
「ああ、うん、そうだな」

 確かに終天は人間に深く関わって来た怪異だ。
 そして歴史上の知識以上に、あれが人間を好きらしいという事を俺は良く知っている。
 それは所詮怪異の好意であって、人間の考え方とは相容れない物ではあるが、人と積極的に関わるのは間違いないだろう。
 とりあえず俺たちは蜂に刺されて眠り続ける男達をその場に残してこの場所を当局に通報すると、俺の戦闘記録とゲートの資料だけを掻っ攫って引き上げた。
 俺たちが関わった事はいずれバレるだろうがとりあえずその前に突入してしまえば良いのだ。



[34743] 210:停滞は滅びへの道 その十三
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2016/08/25 13:53
 捕まったブラックナイトのみなさんから事が露見するまでほぼ猶予がないと見て良いだろう。
 そこで迷宮へ潜る準備と持って帰ったデータを解析して第6のゲートへの入り口を見付ける作業を平行して行う事にした。
 流へ連絡するかどうか迷ったが、帰ったらマンションの前にいたので迷う意味が無かった。
 てか本気だったんだな、こいつ。
 服装と持って来た荷物を確認するとほとんど登山のノリだった。
 いやまぁ一般人に迷宮用の装備を準備しろと言っても無茶な話だけどな。
 仕方ないので防御をメインとした装備を整える。
 体格的には俺の方がやや大きいがほとんどの装備がサイズ調整が利くので問題ない。
 服の下に装備する受けた衝撃を10分の1程にしてくれる胴着を渡した時に「防弾チョッキのようだ」などと言ったが、基本は似たような物だろう。
 ただ術式を仕込んでいるんですげえ高いんだけどな。
 昔支給されたんだけど勿体無くて結局一度も使わなかった。
 役に立って良かったよ。

「武器はどうする?」
「俺が持って意味があるのか?」
「そりゃあそうだけど何も無いというのもいざって時に時間稼ぎも出来ないだろ。これなんかどうだ?こう見えて飛び道具だぞ」
「あれだな、工事現場で車を誘導する棒?」
「確かに似ているな」

 未だに流を連れて行く事には不安があるんだが、本人曰く絶対に自分の身だけは守れる能力があるって事なんで渋々同意した。
 とにかく回復と防御系の消耗タイプの高い符をがっつり持たせておく。
 掛かった金は帰って来たら流に請求してやる。
 金額を見て驚くなよ!
 例の予見では五人で行くべきとか言われたが、これ以上巻き込む相手を増やしたくないしもうこのまま行こうと思う。
 
「見付けた」

 浩二が資料を確認してゲートへ渡る為の転移ゲートの場所を割り出した。
 海外だったら打つ手が無かったが、壁外ではあったが近場にあってほっとした。
 浩二によるとあまり離れた所に設置すると移動先の安全確保に人出が余計に必要になるんでそう遠くないだろうと思っていたらしい。
 とりあえず準備を済ませてその場所まで移動する。
 てか流がコート姿俺がジャンパーで浩二が作務衣、そして由美子が最近おしゃれに目覚めたらしく青系の蝶柄のワンピースと下に黒のレギンスというという出で立ちなんだが、全員の統一感の無さが恐い程だ。
 どんな集団に見えるんだ、これ。
 シャトル列車で壁外に出て住宅街へ向かわずに商店街を先へ進んだ裏通りに出る。
 
「ここだね」
「ここ?」

 古びた旅館という雰囲気の建物を前に気を引き締める。
 入り口には看板と休憩と一泊の値段が表示されていた。

「ん?んん~?」

 嫌な汗が流れる。

「あ~ここって連れ込み宿だね。由美子ちゃんには教育に良くないんじゃないかなぁ」

 唐突に耳元で声が聞こえた。

「うわぁ!」

 なんとか大声は出さなかったが、声を上げて飛び退いてしまったのは仕方がないだろう。

「いたいけな少女一人にむくつけき男が三人とか犯罪だね!」

 やたら嬉しそうにそう言ったのはうちの馬鹿師匠だ。
 いやまぁずっとカラスが付き纏っていたからある程度こっちの行動もバレているのはわかっていたけどさ、そこは黙認してくれる所じゃないのか?
 てか俺を犯罪者のように言うな。と言うか由美子に変な事を教えるのをやめろ。

「これが噂の3P?」
「いや、4Pだね」
「ユミ!はしたないぞ!」

 由美子が口走った言葉に脱力する間もなく馬鹿師匠がいらんことを答えるのにイラッとする。
 俺が叱ると由美子はちょっと顔を赤くして見せた。
 まぁ由美子は可愛いから良いか。

「なんだよカズ兄、止めるつもりなら」

 実力行使も辞さないと睨むと、バカ師匠であり馬鹿アニキでもある現ハンター協会日本支部の支部長殿はニィッと笑った。

「ハンター協会の支部長としては勝手な行動は許さんが、お前らの師匠として弟子の彼女を助ける手助けはしてやるぞ」
「いらんわ!」
「はっ!口では嫌だと言ってもお前の心は『来てくれて良かった、さすがアニキちょーカッコイイ!』と言っているぞ!」
「ねえよ!」
「兄さんあんまり騒ぐと……」
「あっ」

 いかんついいつもの調子で相手をしてしまった。
 おそるべし条件反射。

「仕方ない、付いて来るなら邪魔はするなよ」
「はっ!いきがっちゃって。実は泣く程嬉しいくせに」
「ねぇから」
「仲良しさん」

 二人で唾を飛ばし合っていると、由美子がぼそりとそう評した。
 どうしてそうなる?

「うんうん、君たちは昔から俺を深く慕ってくれたからねぇ」
「誤解」

 由美子ですらツッコまざるを得なかった痛々しいこの男が俺たちのハンターの師匠であり現在のハンター協会日本支部の支部長なんだから世も末だよな。
 てかなし崩しで付いて来る事に決まったっぽいんだが、どうよ。
 いやまぁ今は目前の怪しげな宿だ。
 この宿ってこの人数でぞろぞろ入って大丈夫な所なのか?

「失礼します。この宿に4号室は無いのでしょうか?」
「ああ?4号室は特別ルームだよ」
「それならそこで」
「料金は倍になるよ?」
「問題ありません。お金はあります」
「そうかい。じゃあこの鍵を使うが良いさ」

 俺が表でバタバタしている間にいつの間にか宿に入った浩二が既に交渉を済ませてしまっていた。
 有能だな。
 でも放置されてお兄ちゃんちょっと寂しいぞ。
 
 受付のおばあさんに頭を下げて浩二に続く。
 ぞろぞろと異色の取り合わせで入り込むがおばあさんが気にするような素振りは無かった。
 1号室、2号室、3号室と来て、次の部屋が無い。
 焦ったが廊下の角を曲がった先にドアにペンキで『入ルナ』と書かれた4号室の扉があった。
 ガチャリと浩二が鍵を開けて中へと入る。
 全員がそれに続いて中に他に人がいない事を確かめるとひと息吐いた。

「全然不審がられなかったな」
「さっきのは符丁の合言葉になっているんです。それに考えてみれば大人数で怪しい者ばかりの冒険者パーティが利用していたはずですから」
「それもそうか」

 言われてみればおそらく俺たち以上に怪しい連中が利用していたはずなんだよな。
 そりゃあ気にもしないか。

「はじめまして、一ノ宮流と言います。隆志の会社の同僚で友人です」
「これはご丁寧に。自分は木村和夫と言います。こいつらの同郷で頼れるアニキ的な存在です」
「親戚じゃないんですね」
「まぁ親戚と言えば村全部が親戚のような場所なんですけどね」
「なるほど」
「お前ら普通に自己紹介すんなよ」

 流と馬鹿師匠がいつの間にか普通に挨拶を交わしていてぐったりする。
 いや、変にいがみ合ったりするよりは全然良いけどね。

「兄さんこっち」

 すごく古典的に床の間の掛け軸の裏に隠し扉があったようだ。
 中には移動用ゲートの術式陣があった。
 しかしこれ恐いな、正規の転移ゲートじゃないんで安全性が確認出来ない。

「俺がまず行こう」

 移動した先の安全を確保する必要があるならこの中で俺が一番良いだろう。
 反対も無いのでそのまま起動した転移ゲートに入る。
 出た先が真っ暗だったので一瞬緊張するが、別段危険な様子はない。
 少々淀みが溜まっているがまだ害を及ぼす程ではなかった。
 目が慣れて来るとそこがカウンターバーのような狭い空き店舗で俺が出た所が唯一のボックス席のあったであろう場所である事がわかる。
 とりあえず端末に「大丈夫だ」と告げて場所を空け、灯りを探す。
 壁面のパネルに触れると灯りが点いて全体を照らした。
 思った通りカウンターバーの狭い店内が浮かび上がる。
 驚くべき事に冷蔵庫が生きていて棚に酒も並んでいた。
 迷宮ゲートに潜る前にここでいったん打ち合わせかなにかしていたのかもしれない。

「狭いな。手入れが全くされていない。二流以下の店だな」

 飲み屋に厳しい流が辛口の評価を下すが、そもそも飲み屋じゃないからな、ここ。
 と、落ち着いている場合じゃない。
 迷宮用のゲートを探さないと。
 トイレや物置を覗いた後、もしかしてと思って入り口のドアを開けてみたら見事そこが迷宮ゲートとなっていた。
 なるほど、これは普通には入ってこれないな。
 懸念していた信者の姿もなく、まずまず順調だ。

「各自装備を最終確認してくれ。休憩時間は取らずにそのまま迷宮に潜ろうと思う」

 ここまで来て、改めて焦りが生まれているのを感じた。
 俺が焦った所で良い事はない。
 呼吸を整えて気持ちを落ち着ける。
 万全の状態で挑んで、絶対に伊藤さんを取り返す。
 それだけを考えていればいい。

「全員大丈夫、行く」

 由美子が俺を促す。
 それへ頷いて俺は迷宮ゲートへと進んだ。
 正面にパネルが現れて『???』と表示される。
 馬鹿にしてんのか?と一瞬頭が煮えそうになるが、気持ちを飲み込んでその表示に触れた。

「えっ?」

 迷宮ゲートを潜る独特の感覚の後に浮遊感がある。
 見ると足元に床が無かった。
 煮えたぎるスープのような灼熱の輝き。
 俺たちはマグマの只中に放り込まれていたのだ。



[34743] 211:停滞は滅びへの道 その十四
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2016/09/01 14:23
「っ!」

 顔が引き攣る。
 逃げ場は?と言うか流をサポートしないと!
 落ちるより先に流の背中を引っ掴んで地面のある方へ飛ばそうとして、その瞬間全ての慣性が消え失せた。

「な」

 何が起こった?と周囲を見渡すと煮えたぎったマグマの海が後方に見える。
 今俺たちが立っている地面は先程迷宮に入った際に確認した時には少なくとも数メートル先にあった場所のはずだ。
 そういう仕組みなのか?最初は度肝を抜いて実は安全地帯に降ろしてくれる?まさか、そんなに親切だとは思えない。
 浩二、由美子、馬鹿師匠、順に顔を見たが誰もが軽い驚きを浮かべていた。

「ああ、うん、俺だろう」
「流?ってかなんで自信なさげなんだ?」

 どうやら流のしわざだったらしいが、本人も何かしみじみとした感じで今の体験を振り返っているようだ。

「俺はちょっと一族の中では特殊で自発的な能力とかはほとんど無いんだ。ただ、危機的状況に至ると運命をすり替える力が働くようになっている」
「なんだそれは?てかなんでそれで俺たちも一緒にここにいるんだ」
「全員が助かるのが俺が助かる条件だったんじゃないかな?正直言って俺自身にも良く分からないからあまり頼りにされても困るけどね」
「よくもまぁそんなあやふやな能力で付いて来るとか言ったもんだな。でもまぁサンキュー助かった」
「……無敵?」

 目を丸くした由美子が流を見て呟いた。
 やめろそいつ女ったらしだからな、目が腐るぞ。

「いや、そうでもない。実際以前ここのボスと会った時にはケガをしたしね」
「はぁ?なんだよそれ!ちょっとその話もっと詳しく話せ!」
「お前には関係ない話だ。俺の因縁だからな」
「いや、関係無いってことはないだろ!大体……」
「お二人さん、お楽しみの所悪いが、そんなにのんびり出来る状況じゃなさそうだぞ?」

 馬鹿師匠が呆れて言うの受けて周囲を見てみると、俺たちが立っている地面は砂地だったが、それがいたるところで盛り上がって動いているのが見えた。
 どうやら砂の下に何かいるようだ。
 確かにのんびり口論なんかしている場合ではない。
 相手もこちらを認識したようで、地面がゆっくりと振動を始めた。

「人を招待しておきながら会うつもりはありませんってか?清姫のやつふざけやがって」
「とりあえず先へ進もう」

 馬鹿師匠がパキンと音を立てて二股の木の枝を二つに折った。
 師匠の手を離れた枝はうねり長く伸びて地面に刺さり、地へ潜って敵を追う。
 同時に由美子の放った蜂が探索を開始した。
 浩二は符を持って飛び出して来るはずのモノに備えている。
 地面が渦を巻くように動き始め、ゆっくりと陥没して行く。
 馬鹿師匠のしわざである。

 やがてたまらなくなったのか、砂の下から口に円筒形の胴体を付いたような怪異が飛び出して来た。
 クチナワだ。
 常識外れにデカイその姿は全長10メートル近くあるだろうか?そいつがなんと地面に口を付けて砂を喰らいながら突進して来た。
 ぞっとするような姿だがグルグルとローリングしながら向かってくる。
 正面からだと穴の中で縁にずらりと並んだギザギザの刃が回転しているようにも見えた。
 俺は左腕に取り付けた簡易式の篭手を振りかざしこちらから突進して行く。

「ギッ!」

 その間にクチナワは浩二の放った符で一瞬動きを止められ、その拘束を外そうともがいていた。

「ふっ!」

 いかにも分厚そうな体表にどのくらいの攻撃が通用するのか、その場で暴れているクチナワに向かって走り寄りその体を殴り付ける。
 クチナワの体表には粘り気のある物質が付着していて、その下の皮膚はかなり硬そうだった。
 とりあえず俺はそれら全てに振り抜いた拳をぶつける。

「破っ!」

 口元に一撃、歯の代わりの刃が思ったより硬い。
 胴体に一撃、粘液のようなもので衝撃が殺されてしまった。
 最後の三撃目、手触りからクチナワの乾いた表面を見付け出してそこに力任せの一発を入れる。
 純粋な力と練り上げた気が込められた拳がぶつかった先からあまり聴いた事のない打楽器のような音が響いた。
 パキパキと鈍い音と共にクチナワの体が崩れ落ちる。
 弱点が分かれば後は作業のようなものだ。
 砂の地面を踏んで飛び出すクチナワを殴り付けて行く。

「なんかこういうゲームがあったなぁ」

 背後で流が何かのんきにそんな事を呟いた。
 お前気楽だな。まぁいいけどさ。

 途中から敵もさるもの罠方式に攻撃の仕方を変えてきた。
 砂の上を歩いているといきなり開いた口が現れるというやり方だ。
 それは師匠がぴょんぴょん跳ねるうさぎを囮に作って、出てきたやつを始末するという方法で片が付いた。
 もうすぐ掃討できるという所で切迫した声が掛かった。

「隆!風が出てきたぞ!」
「風?」

 目に見える怪異に意識を向けている間に周囲の環境が動いていたのだ。
 せっかくの流の注意も虚しくクチナワを殴り付けていた間に吹き始めた風はたちまち砂を巻き上げて、真っ黒に辺りを覆い尽くしてしまった。
 周囲が全く見えない。
 仲間の姿も見えずおまけに声も聞こえない状態だ。
 てかこの迷宮、壁とか全然見えないんだが、本当に迷宮の中なのか?
 この風じゃ由美子と馬鹿師匠の式のどちらも使い物にならないだろう。
 流はとりあえずあの能力で身の安全は確保出来ているのだろうか?
 迷宮の中では魔導者といえども確実な安全は無いかもしれない。
 最後に目にした時には由美子の近くにいたはずだ。
 由美子は咄嗟の判断力ではおそらくうちで一番優れている。
 きっとなんとかしてくれるだろう。
 そんな風に仲間を心配していられたのも一時の事だった。

 ズルッと、足元が溶けるように崩れて俺は落下した。
 掴む物が砂しかない為ただ落ちるしかない。
 ドシン!と、すぐに鈍い痛みを伴って地面に足が付いた。
 先ほどまでの砂地と違った堅い地面だ。
 周囲から焼け焦げた木材独特の臭いが漂っている。
 砂嵐が消えてシンとした静寂がその場にはあった。
 頭上を見上げてみても穴一つ見えない。
 どうやら物理的な穴では無かったようだ。
 辺りには真っ黒に燃え尽きて立ち木の姿のまま炭と化した木々と元は大きな屋敷だったのだと分かる燃え落ちて柱だけになった住居跡があった。
 気配を探ってみても仲間達のものは感じられない。
 どうやら完全に切り離されてしまったようだった。
 体に付いた砂を軽くはたくと、俺は屋敷跡の方に歩き始める。
 何かあるとしたらまぁそこしかないだろう。

 焼け残った漆喰壁を回り込むとそこに彼女がいた。
 最近は可愛らしさよりも大人っぽさを目指しているようで落ち着いた色合いのパンツスタイルでまとめたコーディネートとなっている。
 紺色のカーディガンで包まれた背は丸められ、うつむいた姿は泣いているようにも見えた。
 思わず駆け寄ってしまいたい思いをぐっとこらえて声を掛ける。

「伊藤さん?」
「ひどいわ隆志さん、そんな他人のような呼び方をするなんて、それとも怪異に憑かれてしまった女なんかもうどうでもいいの?」

 紛れも無く彼女の声で、しかし彼女の言うはずもない言葉を紡ぐ。

「清姫、いい加減にしろ。俺を食いたいなら俺と戦えば良いだろうが!なんで彼女を巻き込んだ!」
「やっぱり、もう私を好きではないのね?」
「くっ」

 清姫が憑依しているのだと分かってはいても、伊藤さんの姿と声で言われてしまうと自分が不実な男になったような気がして来る。
 いや実際、俺は不実な男なのだろう。
 伊藤さんの姿を目の前にして彼女に呼びかける事が出来ないのだ。
 呼び掛けて本来の在り方とは違う言葉が返って来るのを俺が聞きたくないというだけの理由で。

「頼む、彼女を返してくれ!人質としての役割は終わったんだ、もう良いだろう?」
「隆志さん、もう忘れたの?今の私はもう変わってしまったの。それでも私は私、この体も、そして記憶も、ちゃんと本物の私なのよ」
「清姫、なぜなんだ、どうして彼女を」

 俺は同じような言葉を繰り返した。
 思考はそこをぐるぐると巡って出口が見えない。
 
「私を受け入れてくれればそれで全てがうまくいくわ、そうでしょう?」

 伊藤さんの顔で微笑みを浮かべて、彼女は小首をかしげてみせた。
 ふと、その首元に視線が向く。
 もしかしたらという儚い望みが俺の中で渦巻いている。
 だが、その望みを叶える方法が分からない。
 伊藤さんの姿をした清姫は、微笑みを浮かべたまま近付いて来た。

「俺が受け入れるのは本物の伊藤さんだけだ。お前じゃダメなんだよ」
「可哀想な隆志さん。私以外に本物の伊藤優香はいないのに、ありもしない幻想を見ているのね」

 二人の言い合いのさなか、キラキラと銀色の光が舞い落ちた。

「きゃあ!」
「優香っ!」

 伊藤さんの髪に白い蝶が止まり、そこから霜が張り付くように凍り付いたのだ。
 彼女の悲鳴に咄嗟に体が動いてその蝶をはたき落としてしまった。
 ソレが何か知りながらほとんど反射的に動いてしまったのだ。

「兄さん」
「スマン!でも、この体は伊藤さんなんだぞ!」

 ひらひらと離れた蝶から響く声に俺は抗った。
 この程度の事で清姫がどうにかなるはずもなかったが、生身である伊藤さんの体は無事ではないかもしれない。
 それは俺に大きな恐怖となったのだ。
 今までの俺にあるまじき事に、怪異を目前にしながら俺は呆けた。
 ぐっと腕が掴まれる。

「っ、清姫」
「選んで。このままの私を受け入れるか受け入れないか」
「そこから出て行け!」

 本来の伊藤さんには有り得ない力で掴まれた腕に灼熱が走る。
 骨から燃やされるような熱が丈夫な戦闘用のジャンパーを燃え上がらせた。

「ぐっ」

 ふっと、伊藤さんの目が寂しげに伏せられた。

「そう、そうなの。もういらないなら無くなってしまった方が良いわね」

 ボオッと、俺の袖を燃やしていた炎が本人へと戻って行く。
 赤い炎がまるで花が咲くように伊藤さんの全身から吹き上がった。

「やめろ!清姫!俺を食らうんだろうが!彼女は関係ないだろ!」
「そう、あなたが欲しい。あなたの本当の愛が欲しい。血と肉と魂を重ねあわせて永遠を生きる愛が欲しい」

 チリチリと炎が伊藤さんの体を包む。
 俺は必死にその体を抱きしめて本来は彼女のものでない炎から伊藤さんの体を守ろうとした。
 今や伊藤さんと清姫は一つとなって分かたれる事はない。
 それは理屈としては分かっていても俺にとっては決して飲み込む事の出来ない話だった。
 自然の炎ではない怪異の放つ炎は全てのことわりを超えて対象とされたものを焼く。
 それを消すにはその力そのものの具現である炎を強引に奪い取るしかなかった。

「やめて、隆志さん、私はもういいの愛されなければ意味がないのだもの」
「だまれ!いい加減にしろ!お前にとってはただの殻かもしれんが、俺の愛しているのは彼女自身なんだよ、その彼女を救い出す為なら俺が逆にお前を食らってやるよ!そうだ、それがお前の望みだったんだろ!」
「愛しい人、あなたは『私』の為にあれほど嫌っていた『私』を受け入れるの?でもね、その炎は消せないの。だから離れないとさすがのあなたでもきっと燃え尽きてしまう」

 呼吸をするようにゆっくりと二人の間に気を巡らせる。
 ぎゅっと抱きしめた体は紛れも無く大切な人の物だ。
 怪異の現象は意思によって発生する。
 だからその魂と意思を俺は自分の気で覆って行く。
 炎が引き寄せられるように俺の体に這い登り、全身を切り裂くような痛みが走った。
 伊藤さんのカーディガンの一部が炭化して崩れ落ちる。

 急がないと本当に彼女の体が燃えてしまう。
 その時俺が考えていたのはその事だけだった。



[34743] 212:停滞は滅びへの道 その十五
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2016/09/08 13:15
 熱い、体の中に暴れまわる茨のような炎の舌が突き刺さっている。
 痛みと熱さがかつて感じた事のない程気力を削ぎ落として行く。

「その痛みも苦しみも私を抱きしめているから。それでも私ね、ずっと抱きしめてほしかった」
「優香?」

 頭がぼんやりとして来てそれを振り払うように息を吐き出す。
 炎に炙られた体の中でその熱よりも尚熱く自分の本質がゾロリと外からの熱に呼応して蠢く。

「私を置いて行かないで、裏切らないで、あなたは私のもの」
「清姫?」

 抱きしめた相手を自分の気で包んだせいで自分と相手の境界が分からない。
 腕の中にのたうち回る炎の蛇がいた。
 俺はなんでコレを捕まえているんだったか?
 コレヲ滅ぼすノカ?
 いや、違う、駄目だ!彼女は伊藤さんは俺の大切な人だ。
 怪異ハ敵、滅ぼし喰ラウが我が役割。
 違う、彼女は人間だ!
 イヤ、コレハ怪異ダ。

「兄さん、離れて!」

 燃える世界の向こうに弟の声が聞こえる。
 
「はなれ……ない」

 ボロボロと何かが崩れていく。
 俺の、腕?
 体の中で暴れるモノと心の深い所から湧き上がってくる声とに邪魔されながら、それでもこの手は離さない。
 だってそうだろ?一緒に生きると決めた相手を自分から離す人間なんていない。

「ああ、嬉しや。やっと、私を捕まえてくれたのですね主さま。ずっと、ずっと、お待ち申していたのです」

 伊藤さんの姿をした別の少女が微笑んでいた。
 
「やっぱり、主さまは約束を守ってくださった。嬉しい……」

 少女は笑いながら炎の涙を零す。
 のたうつ炎蛇はゆっくりとその熱を失い、白く艶やかな鱗を持つ蛇へと変わった。
 するりとその皮が脱げ落ちる。
 くすくすと嬉しそうな笑い声と遠くに導くような足音、俺は慌ててその手を握った。
 触れた先から解けるように光がこぼれる。
 駄目だ、行くな、違う、彼女は人間だ、いや、人間でなくったって……。

「ゆ……か」


 ハッと気付くと全く見覚えのない場所にいた。

「どこだ、ここ?」

 暗い。
 人の気配は少し離れた所から感じる。

「これは式じゃない。かりそめの命ではなくかりそめの空間」
「なるほどこれがカズ兄の異能ですか。だから行方不明になっていた時もなんとかなったんですね」
「何だ尊敬しちゃったか?もっと尊敬してくれても良いんだよ?カズ兄ちゃん大好き!って言ってごらん?」
「この感情に名前を付けるとしたらウザイというものが一番ふさわしいのかも」
「ユミ、都会に出て来て言葉遣いがすっかり悪くなったね」
「無視しないで!もっとお兄ちゃんにかまって!」
「カズ兄は兄さんじゃないから」
「師匠はほんとかまってちゃんですよね」
「俺は親族との繋がりが薄いから身内意識というものがあまり分からないのだが、君たちを見ていると実に楽しそうだなと思うよ」
「ウザイのと楽しいのは違う」
「この人うるさいだけですから」

 どうやら全員元気なようだ。
 あっ、伊藤さんは?

「おい!伊藤さんはどうなった!」

 そう声を上げたつもりだったが掠れたひしゃげた音が漏れ出るだけだった。
 それでも気付いたらしいみんながこちらへとやって来る気配があった。

「呆れたな。あれだけボロボロだったのにもう人間の形に戻ってるぞ」
「兄さん、グロ禁止」

 ふと、光を感じて目を開ける。
 あれ?俺今まで目を閉じていたのか?

「あ、回復速度が上がった」
「隆志はホント人間やめてんなぁ、たのもしい限りだ」

 言われて両手を見る。
 炭のように真っ黒で一瞬ぎょっとしたが触れるとボロボロと黒い部分が剥がれて普通の皮膚が現れた。
 特に何か欠けてるようでもない。
 我ながら頑丈なもんだ。

「伊藤さんは?」
「兄さんの隣」

 言われて見ると隣に毛布を被せられた伊藤さんが眠っていた。
 触れてみたが怪我は無いようだ。てか服着てない?

「おい、伊藤さんが付けていた首飾りは?」
「大丈夫燃えてない。服はボロボロになってたから私が脱がした。下着は着ているよ?とりあえず私の予備を着せてあげるつもり」
「清姫はどうなった?」

 よく考えたらそっちを先に聞くべきだった。
 俺がそう聞くと全員がなんとも言えない顔になる。

「驚いたよ。そういう事もあるって聞いた事はあったけどね、目の当たりにする事があるとは思わなかったな」

 バカ師匠が何かしみじみ言った。
 それ答えになってねぇから。

「昇華した」
「え?」
「昇華した」

 由美子の言葉を聞き返す。
 昇華ってあれか、怪異が望みを叶えて精霊化したり消え去ったりするという現象。

「マジで?」
「マジだ。俺が辿り着いた時にはお前炭のお化けみたいになりながら炎の蛇に巻き付かれてたんだけど、その蛇がいきなり真っ白な神々しい姿になって光に解けるように消えていった。一度は伊藤君の姿も見えなくなったんだが、しばらくしたらぼんやり姿を表してお前と一緒に倒れてたよ。むしろ何があったのか聞きたいのはこっちの方だな」

 流の説明を聞いて尚信じられない気持ちが大きい。
 何しろ相手は百年を越える怪異なのだ。
 今更昇華するなど信じられない。
 怪異というのは若ければ若い程変化をする事が出来るものだが、年を経た怪異はその性質と存在がより強固になり世界に大きな影響を与えるようになるのだ。

「いやぁ、これぞ愛の奇跡だね!」
「……愛」

 バカ師匠が楽しそうに恥ずかしい言葉を言ってのけるのに由美子が素直に感動したように呟いた。
 バカには「アホか!」と言いたいが、由美子の純粋な気持ちに水を差したくないので黙った。
 しかし、なんか全身痒い。
 どこを擦ってもボロボロと黒いかたまりが落ちて来るんだが、まるで垢のようで気持ち悪い。
 てか、俺も裸じゃねえか!

「俺の服は?」
「兄さんは裸で戦えばいいと思う」
「何言ってんだ!マジで俺の装備は?」
「全部燃えちゃったねぇ」

 ニコニコ笑いながら言う師匠の顔をしばし眺める。
 え?燃えた?
 あの装備、全部でいくらすると思ってるんだ。
 燃えたとか冗談じゃないぞ!

「ハンター証とナイフだけ煤けているけど残ってる。ハンター証の頑丈さは驚き」
「うわあ!」

 俺は一瞬パニックに陥りかけたが、すぐにそんな場合じゃないと思い直す。
 そうだ、俺の事はこの際後回しだ。
 伊藤さんをなんとかしなければ。

「それで伊藤さんの容体は?」
「体は無傷、驚愕。ただ意識は無い空白に近い」
「っ!」

 叫びそうになるが抑える。
 大丈夫だ、最悪じゃない。

「彼女が付けていた首飾りの石、使えるか?」
「うん。あれ兄さんが?」
「ああ、伊藤さんが巫女体質と知って万が一のお守りにと思ってな。まさか本当に使う事になるとは思わなかった」

 以前神様から貰って来た守り石は人間の魂を記録する為の物だ。
 心が壊れていく巫女達を見てきた神様が寂しい気持ちから作った奇跡のアイテム。
 人間の感覚から言えばレコーダーのようなものと言えば良いのだろうか、肉体が失われた後はそれは単なる記録にすぎないが、肉体がある内ならそれは魂を復活させる鍵となる。

 とりあえずホッとしたが、まだ完全に大丈夫だとは限らない。
 とにかく早く安全な場所で儀式を行わないと。
 てか、今迷宮の中だよな、それなのに全く危機感がないんだがここはどこだ?

「ここってテント、か?結界内にしてもこんな大物どうやって持ち込んだんだ?」
「いやいや、これは俺の式だよ!ほめてほめて!」
「へ?」
「違う、こんなの式じゃない」

 バカ師匠の言葉に由美子がツッコむ。
 そうだよな、式って仮の命を与えて使役する使い魔みたいなもんだ。
 間違ってもテントにはならない。

「ほらほら、これ見て!」

 バカが木彫の箪笥を取り出した。
 田舎の実家にあるような渋い雰囲気のある箪笥だ。
 と言っても手の平に乗るようなミニチュアサイズなんだけどな。
 この人この技術だけは関心させられる。
 雑貨小物の作家として食っていけるんじゃね?
 バカ師匠はその小さな箪笥を地面に置くと、ちょんと指先でそれを突いた。
 と、たちまちその箪笥が実物大となる。

「はあっ?」
「女物は無いけど男物の服ならあるよ~、好きなの選んでね」

 え?どういう事?おもちゃみたいな物を実物に出来るって事?
 そう言えばこいつの式のカラスも本体は木彫の小鳥だけど。

「非常識すぎるだろ!」

 俺は思わずそう叫んでいた。

「いや、お前だけには言われたくない」

 バカ師匠はすげえ真顔でそう言った。
 そして周囲の連中も無言でうなずく。
 なんでだ!



[34743] 213:停滞は滅びへの道 その十六
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2016/09/15 12:26
 強固な結界を敷いて、なおかつバカ師匠の小道具のテントを張っていたが、その後いきなり天地が逆転するという現象が起こって結界が崩壊した。
 俺たちはともかく伊藤さんが無事だったのは流のおかげだろう。
 突然空中に放り出された格好になったのだが、その瞬間一度浮き上がるように落下速度が落ち、時間の流れがゆっくりと感じられるようになった。
 俺は伊藤さんを確保し、師匠はアイテムを収納して何事も無く以前は天井だった地面に降り立つ。

「驚いたな。洞窟タイプの迷宮ならともかく、これだけ広大な迷宮が天地が逆転するとか、もはや天変地異だね」
「驚いたのはこっちだ。ほんと、お前の加護ってなんでもありなんだな」
「問題は意識して制御出来ないって事だね」

 しれっと流は言うが、迷宮の中で突発事態に対処してもらえるのは助かる。
 しかしこれは。

「伊藤さんを早いところなんとかしてやりたいがこれは落ち着くまで無理か」
「ん~、迷宮の中層辺りからセーフスペースがあるって話だから、まずはそこを目指すかね、我がいとしの兄妹よ」
「セーフスペースってなんだ」
「攻撃不可地帯なのだそうです」

 お前の兄妹じゃねぇだろ!とかツッコミたいが、いらん体力を使いたくないのでバカをスルーして浩二に尋ねると明確な答えが返って来た。
 さすが優秀な我が弟。

「攻撃不可って事は攻撃が出来ないだけか?術式が使えないなら伊藤さんの回復も難しいんだが」
「攻撃してもその攻撃が通らないのだそうです。攻撃の術式自体は発動するらしいので大丈夫じゃないかと」
「他人に干渉出来ないとしたら難しいかも」

 浩二の見解に由美子が不安要素を提示する。
 とりあえず行ってみるしかないって事か。

「ふふ、うちの子たちに無視されて悲しいぜ」
「隆はああ見えて場にそぐわない行動をする人間が苦手なんですよ。職場でも天才肌の同僚とやり辛そうですからね。実際生真面目な男です」
「おお!そう言えば隆志が仕事でお世話になっているとか!職場ではどんな感じかな?うちの子は」
「ヤメロ、気が抜けるから危ないだろ!」

 いきなり親戚と同僚のぶっちゃけトークを始めたバカと流に釘を刺し、周囲の気配を探る。
 さっきの地形変化で方向が全く分からなくなった。
 元々転移した俺には方向も何もなかったが、由美子はかなりの範囲をカバーしながら移動しているのでマッピングが出来ていたのだ。
 また天地逆転が来たら元に戻るのかもしれないが、来てほしくはない。
 天地が逆転する前は焼け焦げた林のような所にキャンプを作っていたのだが、逆転した今は雪原のような所にいる。
 雪は降っていないが正直寒い。
 光源は無いのに全体的に白白と明るいのも方向感覚を狂わせる要因だろう。
 由美子が新たに飛ばしていた式で全体の把握をしていたのだが、その間にさっそく敵がやって来たようだった。
 伊藤さんはまだ自発呼吸も出来ているので大丈夫そうだが、魂が消えた体は徐々に死んで行く。
 魂の元となる物は残っているのだろうが、体に認識出来ない状態ではいつまで持つか分からなかった。
 はっきり言って、俺はイラついていた。

「クソが!」

 周囲から気配だけが迫る。
 獣のような気配だけが感じられるが、全く目には見えない。
 足あとも物音もせず殺気だけが厳然とあった。

「伊藤さんを頼む」
「まかせておけ」

 流に伊藤さんの体を預け、俺は無手でその見えない相手と対峙する。

「とりあえず殴る」

 やる事はシンプルだ。

 見えない何かをボコボコにした後、今度は見えない巨人が恐ろしい地響きを上げながら迫って来て、そこかしこにクレーターを作った。
 さすがにこれは相手にしていられなかったので由美子の誘導で逃走、洞窟へと逃げ込んだ。

「ここの敵は全部見えないのかな、厄介だな」
「うんうん、常に気配を探って気を張っていると疲れるからね。そこでジャーン!こんなのを用意してみました!」

 バカが取り出したのは数個のミニチュアの絵馬と鈴が付いた可愛らしいストラップだった。
 受験を控えた女子中高生辺りに人気が出そうだ。

「広がれ!」

 ストラップは紐に連なった鳴子の仕掛けとなって周囲に展開された。
 紐に引っかかると音を鳴らして知らせるやつだ。

「距離は調整可能だし、四方に展開しているから便利だよ!とりあえず百メートルぐらいにしとくね」

 どうやら実際に設置するタイプの仕掛けと言うよりは範囲感知の仕組みらしい。
 
「うちの式もなかなか役に立つだろ?」
「だから、それ、式じゃない」

 由美子が我慢出来ずにツッコむ。
 自分の専門ジャンルには厳しいのだ。
 俺はもう反応するのも面倒になっていたので黙って先を窺った。
 洞窟の中は氷に覆われている。
 周囲の氷柱に俺たちの姿が映り込むのでついそれに意識が取られてしまう。
 ここはバカの力を信じて警戒レベルを下げた方が良いだろう。

「奥の方に異質な空間がある」

 由美子が飛ばしていた式で確認した場所の報告をしてくれた。

「セーフスペースか?」
「ボス部屋かもしれませんね」
「どっちでも同じようなもんだな」

 セーフスペースなら安全に休めるし、ボス部屋なら相手を倒せば外に出られる。
 どっちでもあまり変わらない。
 とは言え、中層以降の迷宮は1つのフロアを1日以内で突破出来るという事は無いらしいのでボス部屋は望み薄だろう。
 とにかく先へ行く事にしてどんどん洞窟の中を突き進むと、青い光の中に何かが飛び交っているのに気付いた。
 誰の感知にも敵性が感じられないので攻撃的な存在ではないらしい。
 その羽虫ともつかない何かは、どこからかもたらされる光をキラキラと反射して一瞬虹色に光り、周囲を幻想的な風景に作り上げていた。

「何かいるよん?」

 バカが警告らしくない警告を発した。
 百メートル先に何かいたようだ。
 俺は先行して道を切り開くべくものも言わずに駈け出した。
 見えて来た眼前に立ちふさがる物は、天井から吊り下がる玉のれんのような何かだ。
 やたら強い青い光を放ちながらウネウネと蠢いていた。
 それはひょいと飛び交っていた羽虫のような宝石のような物を掴むと、くるくると巻き上げて天井にある本体に取り込んでいる。

「食虫植物みたいなもんか?」

 ヒートナイフで斬り込むと、触手らしきものが一斉に襲いかかって来た。
 数本切り裂いた所で2、3本に巻き付かれてしまう。
 巻き付かれた所に痛みが走り、うっすらと凍り付く。

「あー術式守護の装備が燃えたから……」

 ぼやきながら面倒くさくなって触手を引きちぎった。
 無事排除したが地味に痛い。
 と言うか凍っている範囲が広がっているぞ。

「搦め手に弱いんだから」

 追い付いて来た浩二が眉をしかめて文句を言った。

「兄さん、それ毒」

 由美子が符を出して凍っている所に貼ってくれる。
 符が溶けるように消滅すると共に凍っていた部分も元に戻った。

「体が凍る毒なんてあるのか」
「ポピュラーじゃないけど雪女とかも使う」
「あれって毒なのか」

 そんな話をしている内に奥の他と違う空間に辿り着いた。
 
「なるほどこれは」

 そこは確かに異質な場所だった。
 氷が無くクローバーの生い茂る小さなひだまりの空間がそこにあったのだ。
 小さな泉と野生のりんごの木とベリーの茂みがある。
 ちょっとした公園ぐらいの広さの空間だ。

「ちょっと失礼」
「え?」

 バカ師匠が言葉と共に目にも止まらぬ早さでナイフを突き入れて来た。
 ざっくりと腹に刺さる。

「てめぇ!何すんだ!」

 しかし、引き戻されたナイフに血は付いていない。俺の腹に傷も無ければ服も破れていなかった。
 おお?

「どうやらセーフスペースに間違いないようだ」
「……なあ、その確認方法しか思い付かなかったのか?なあ!」
「まぁまぁ、タカくんは刺されても死なないんだから大丈夫だろ?ね!」
「なにが『ね!』だ。死ねや!」

 ノーモーションで蹴りを放つ。
 バカの膝にきれいに決まったが、全く何も起こらない。
 まるでスポンジを蹴ったような感触だった。
 これは気持ち悪い。

「じゃれてないで準備しよう。彼女そろそろ危ないんじゃないか?」

 流が伊藤さんをそっとクローバーの上に横たえるが、前より顔色が白っぽくなっているように見える。
 慌てて脈を確かめると、その脈動が弱々しくなっていた。

「まずい」
「とりあえず簡易の聖域を作ってみる」
「頼む」

 由美子が既に準備をしている。
 聖域の気を封じた水晶を四方に配して銀串で柱を立て、銀糸で囲む。
 かなり色々独自解釈をした聖域だが迷宮の中だ、仕方ない。
 幸いにもこの場所の土と緑には生命の息吹が宿っていた。
 聖域を閉じる前に伊藤さんの胸の上に魂のかけらを封じた石を置く。
 そして聖域が閉じられた。

「どうだ、機能しているか?」
「問題ない」

 場所が場所だけに不安だったが、聖域はきちんと機能しているらしい。
 ホッとしたが、すぐに気を取り直す。
 ここからが本番なのだ。



[34743] 214:停滞は滅びへの道 その十七
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2016/09/22 13:17
 伊藤さんの周りに仮の祭壇である聖域を作り上げた訳だが、ここから散ってしまった魂を核となる石を中心に集める必要があった。
 人間の、と言うか肉体を持つ生物にはすべからく魂魄があり、精神を魂が、肉体を魄が司っている。
 この2つは常に結びついていて、分かたれるとその人間は死ぬ。
 伊藤さんが陥っていたように怪異に憑依された状態は、他の魂がその人間の魄を操っている状態であり、その場合、例え魄のみ残っていてももはや別人と言って良い。

「なるほど、魂がメインシステムで魄がそのアプリケーションという訳だ」
「いや、人間を電算機に例えるのはどうよ」

 俺の説明に流が自分なりの解釈を述べたのにツッコんだ。
 まぁ俺だって基本の理屈は習っているけど、ちゃんと理解しているかどうかは怪しいんだけどな。
 とにかくこの魂魄というやつが面倒なもので、常に結びついていないと存在を保てないのだ。
 別々になってしまうとすぐにこれらは世界の中に散ってしまう。
 一旦散った魂魄は単なるエネルギーの一種でしかない。
 やがて新しい肉体を宿した母体や強い霊的スポットや瘴気溜まりに吸い寄せられて新たな魂魄の核となるまで世界を漂い続けるのだ。
 つまり魂が怪異と共に昇華してしまった伊藤さんの魂を構成する元素とも言うべき気は、既に形を無くし、それにつれて魄も崩壊しつつあるというのが現在の状況なのである。

「どうだ、ユミ?」

 この件については何の役にも立たない我が友を捨て置くと、俺は頼りになる我が妹に呼び掛けた。
 由美子は聖域の周りに大きな陣を描いている。
 素材は赤い色の付いた砂で、今回伊藤さんを助ける為に準備して来たものの一つだ。
 まだ死んでしまった訳ではないから反魂という程でもないが、これによって魂を魄と結びつける蘇生陣を組んでいるのだ。その為、この砂はかなり特殊な物となる。
 ベースになっているのは柘榴石という話だが、色々と呪術的な付与を時間を掛けて行っているらしい。

「陣は完成した。後は定着出来る程魂が残っているかどうか。それと強い未練があるかどうか。大半が怪異の昇華に引っ張られてしまっていたら難しい」
「……そうか」

 伊藤さんはまだ俺と一緒に生きたいと思っていてくれるのだろうか?
 怪異に乗っ取られるなどという恐ろしい体験をしてしまったのは、全て俺の近くにいたせいだ。
 いや、俺の事はどうでもいい。
 伊藤さんがご両親の待つ家に帰りたいと強く思っていてくれさえすれば、きっと魂は戻ってくるはずだ。

「タカくん、檻に閉じ込められた猛獣じゃないんだから陣の周りをグルグル回るのはやめるんだよ。それに君の強い感情が陣に影響するかもしれないだろ?」
「あ、ああ」

 カズ兄の言葉にハッとして陣から離れると、俺はなるべく陣に意識を向けないように装備の点検を始める事にした。
 愛用のナイフが1本、ワイシャツとズボン。
 ん?装備これだけか?どうなっているんだ?

「隆はどうして今更混乱状態に陥っているんだ?」
「兄さんは昔から体を動かしていないと何をしていいか分からなくなる性質ですから。安全地帯に着いて警戒を解いてしまったので心配がピークに達してしまったのでしょう。ところで流さん、キャンプ料理はお得意ですか?」
「ああいや、俺はもっぱら作ってもらう方だったから全く自信がない」
「……分かりました。あなたのような人と兄さんが親友というのは不思議ですね」
「お互い立場が似ているからね」
「魔導者についてあまり首を突っ込むと碌な事にはならないそうなので、あまり深くは聞きませんが、怪異とほとんど関わり合った事の無い方がこのような場所にまで同行すると言うのはどんな方でも精神的な負担は大きいはずです。休める時には休んでおいた方が良いですよ」
「まいったな。足手まといだと怒られるのかと思っていたのに心配されてしまった」
「僕をなんだと思っていたのです?」
「いや隆の話を聞いているとお小言の多い性格のように思えてしまってね」
「……兄には後々よく言って聞かせておきます」

 薄ら笑いを浮かべた浩二をぼんやりと眺めながら、俺はちらりと伊藤さんの横たわる聖域を目に入れる。
 いや、正直に言うと今だけではなく、装備確認の間も自然にそちらに目が行ってしまってそれどころではなかった。
 やがて陣を描く赤い線が燃え尽きたかのように真っ白に変わる。
 由美子は聖域の周りを右回りに周りながら小瓶から水を撒いて行った。
 ふわりと、伊藤さんの胸に置かれた石が光を発し、その光は心臓の鼓動のような明滅を始める。

 ―…トクン、トクン、トクン……。

「兄さん、これ持って左に回って」

 由美子から吊り下げ香炉を手渡され、良く分からないままうなずくとそれを手に聖域に近付く。
 悪影響は無いのか心配になって由美子を振り向くと、あの慌てる事のない妹が、早く!と言うように柳眉を逆立てて俺を睨んだ。
 慌てて回ろうとしてハタと気付く。
 ええっと、左に回るってどっちに行けば良いんだっけ?左だよな?

「右側から左に向けて回るの」

 迷っている俺に的確な指示が飛んで来た。
 やはり妹は頼りになるな。
 俺が満足感を得ながら歩いていると、芳しい香りと共に伊藤さんの胸の光の鼓動は更に強まった。
 ふと、香のふくよかな香りに記憶が呼び覚まされる。
 あれは、そうだ、会社の屋上の庭園で2人で昼食を摂っていた時のあの香りだ。
 霧雨の中、他に屋上で昼食を摂る物好きはいなくて、2人だけで食べながら会話を交わしていた時、丁度途切れた話題に沈黙が降りた。
 その沈黙は居心地の悪いものではなくて、なにかとても豊かな時間だった気がする。
 その時にどこからか漂って来た花の香りにそれは似ていた。

 石の光がふっと掻き消えた。
 ぎょっとして振り向いた俺の目の前で、伊藤さんが身じろぎをする。
 口元が何かを呟くように動いて、笑みを浮かべた。
 少しだけ顔をしかめて薄く目を開いて、何かに気付いたように俺を見る。
 言葉もなく伊藤さんは微笑みを深くした。
 俺は思わず聖域に押し入り彼女の手を握った。

「いきなり聖域を破壊するのはやめてほしかった。危険だから」

 はっと我に返って周りを見る。
 由美子と浩二が呆れ果てたような顔でこちらを見ていた。
 バカ師匠が涙を流しながら大げさに拍手している。……死ねばいいのに。
 流が後ろを向いて見ないようにしてくれていたのが唯一の良心だった。
 いや、この際俺の恥はどうでも良い。

「優香、気分は?」
「うん、大丈夫。えっとね。実は全部覚えてるんだけど」
「全部?」
「はい。これって、浮気者って怒るべきなのかな?」
「え、ええっと」

 俺はおおいに焦った。
 あの時伊藤さんの体の中身はほぼ清姫だった。
 浮気と言えば浮気なのか?
 そんな俺を伊藤さんは「あはは」と明るく笑い飛ばした。

「ごめんなさい。嘘。ありがとう。本当に、ありがとう」

 笑いながら泣いて、伊藤さんは俺にしがみつくように抱きつく。
 俺は笑って良いのか泣いて良いのか分からないまま、その奇跡のように脆くて柔らかい体を抱きしめた。
 力いっぱい抱きしめたら壊れてしまうこの人が、ここに帰ってきてくれた事がただただ嬉しい。

 その時、パーン!という派手な音と共に俺たちの頭上に紙吹雪と花びらが舞い散り始めた。
 なんか白い鳩まで飛んでいる。

「おめでとうううう二人共!!感動だなぁ!」

 おいバカ師匠、そんな演出は誰も望んでいないから。
 空気を読めよ、お前このパーティで一番の年長者なんだからさ……。



[34743] 215:停滞は滅びへの道 その十八
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2016/09/29 13:15
「ゆかりん戻ったならもう、帰る?」

 感動とグダグダの後、由美子がそう言った。
 俺たちの元々の計画では、伊藤さんを無事助けだしたら迷宮から脱出する計画だったのだ。
 いくらなんでも伊藤さんを連れたままボス部屋まで行く訳にはいかないからな。

「ああ、脱出符使うか?」
「待った、セーフスペース内で使うのは不安がある。外で使おう」

 浩二の言葉を全員が受け入れてセーフスペースを出る。
 途端に清浄な空気が失せて魂を圧迫するような重みのある瘴気に似た迷宮独特の空気が押し寄せる。
 俺はその迷宮そのものから伊藤さんをかばうようにしながら、怪異の気配が間近にはない洞窟の一画に歩を進めた。

「全員手を繋いで」

 脱出符は接触している迷宮以外の物なら一緒に脱出出来る。
 高価な術具だが、それだけの価値はある物だ。
 全員が互いに手を繋いだ状態で由美子が脱出符を使った。

「我、うつつを希む!」

 言霊と共に脱出符が光を放ち分解されるように消えていく。そして同時に景色が移り変わった。
 周囲はチラチラと光の飛び交う暗い洞窟から一瞬で木漏れ日の降り注ぐ、鬱蒼とした木々の取り囲む地となっていた。

「どこだ?ここ」

 脱出符を使えば普通はゲートの前に出るはずだ。
 特殊な設定をしていた場合はその設定場所に出るのだが、今回俺たちは別に特別な設定はしていない。
 いや、もしかして由美子が気を利かせて殺伐としない場所を設定していたのだろうか?

「分からない。おかしい」

 由美子が警戒したように呟き、白い蜂を放つ。
 と言う事は設定してはいないと言う事だ。
 しかし、この場所は警戒心を抱くには美しい場所だった。
 先程のセーフスペースは作られた箱庭のような場所だったが、ここは豊かな森の中という感じだ。
 地面は黒っぽい土で覆われていて、下生えとしてシダ類が生い茂っている。
 倒木があって開けたスペースには緑の苔が絨毯のように広がり、倒木と地面の一部を柔らかそうに覆っていた。
 そこにちらほらと平地では見ない山特有の可憐な花が揺れている。
 周囲からは小鳥の声が響き、いかにも長閑な風景だ。
 空気感からまだ午前中といった所か。

「クロウも行っておいで」

 バカ師匠がカラスを放つ。
 由美子の式はあまり上空には上がれないのでそこをカバーするつもりなのだろう。

「きれい」

 伊藤さんが足元の透き通るような花弁のユリの花を見て呟く。
 淡いピンクの花弁のそのユリは俺の故郷の山でもよく見た花だ。

「おかしい」
「え?」
「その花は中央より西の地域でしか咲かないはずだ。離れすぎている」

 俺は言い知れぬ不安に駆られた。
 周囲の美しい情景と、優しい風の吹く気持ちの良い気温、この場所の何かが俺の記憶を刺激した。

「どこかの森の中としか分からない。人里を探すにはかなり広範囲に式を飛ばすしか無い」

 由美子が式からの情報で今のところ分かった事を伝える。
 
「う~ん、ずっと森が広がっているね。でも近くに1軒人家があるようだよ」

 空の高みへと飛ばしたカラスのクロウが見た光景からバカ師匠がそう言った。
 人家か。

「そこに行くしかないよな。なんか誘導されているようで気持ち悪いが」
「そうだね。それにしても精霊がいそうな森だね。俺はこういう山歩きとかした事が無いから新鮮な気持ちだ」

 流はキョロキョロと周辺を見回しながら言った。
 流の言う通り、豊かな森には精霊が棲むものだ。
 中には人間の出入りを酷く嫌う精霊もいるので注意が必要だが、この森からはそんな排他的な雰囲気は感じられない。
 大きな何かに見守られているような、不思議な安心感があった。

「……この雰囲気」

 やはり何かを思い出しそうになって、俺はそこへ意識を向けようとするのだが、その記憶に辿り着けない。
 酷くもどかしい。

 俺たちはほぼ他の選択肢の無いままにこの森の中で唯一人間の気配のある人家へ向かう事になった。
 道なき道を歩くのは山歩きなどした事のない流にはきついので真ん中に挟み、俺が先頭で下生えの草や笹などを押し倒して足元を踏み固めながら進む。
 傍らの木の枝では好奇心に突き動かされた小鳥が何かをさえずりながら俺たちを見下ろしている。
 山歩きにありがちのダニの類に注意するため全員がフード付きの簡易外套を羽織り、作業手袋を装着しての行軍だが、不思議と蒸し暑さは感じなかった。
 まぁこれについては由美子辺りが装備に簡易術式でも施してくれたのだろう。

 しばらく進むと小さな沢があり、細い川が流れていた。
 川の中には小さな魚とイモリがのんびりとまどろんでいて、人間が手を差し入れても慌てて逃げるという事もない。
 流が言葉にはしないがへばっていたので、とりあえずしばしその周辺で休憩する事にした。
 俺は水の中を覗き込むと、小川の中でぐでっと寝そべっているような怠惰なイモリにこらえ切れぬイタズラ心を刺激されてその背をつついた。
 イモリは驚いたように柔らかい泥に潜りながらどこかへと姿を消した。

「隆志さん……」

 ふと気付くと伊藤さんが涙目になって俺を見ていた。

「どうしてそんなのに触るんですか?」
「ええっと、怖いの?」
「怖くは無いですけど、ぬめっとした感じが苦手です」

 やばい、超絶可愛い。

「食べると精が付く、好き嫌い良くない」
「えっ!あれを食べるの?」

 由美子の言葉に愕然とする伊藤さん。
 やっぱり可愛い。

「常食にはしないけど、薬として利用されているんだ。俺は食べた事ないけどね」
「そう、なんですか、お薬なら仕方ないですね」

 苦手でも他人の文化を否定しない伊藤さんは実に素晴らしい女性だと思う。
 しばしの休憩を終えると、また先へ進む。
 この水場からは獣道がいくつか続いていて、件の人家へ向かう道もあった。
 案外とそこの住人が小川に行き来する道なのかもしれない。
 とにかくここからは草をかき分ける必要がなくなったので楽になった。

 やがて辿り着いたのは確かに人家だった。
 それも今風の家ではなく、茅葺屋根のお屋敷と言って良いぐらい大きな家屋敷だ。
 周囲は生け垣で囲われていて中の様子を窺う事は出来ない。
 生け垣沿いに歩いて行くと、生け垣が途切れた所に門があった。
 白木で作られたかなり立派な造りの門だ。
 門の上には透かし彫りで八つ首の竜が描かれている。

「ヤマタノオロチとか、門の守りには強すぎないかね~、山奥だからなのかな~?でも、蛇が寄って来そうで無茶な魔除けだなぁ~」

 バカ師匠が感想を述べる。
 が、俺は半分もまともに聞いていなかった。
 この門の意匠、この屋敷の雰囲気、震えのような何かが胸元をせり上がって来る。

「ごめんください!」

 流が声を上げて訪問を告げる。
 返事が無いので門を直接叩いてみる事にした流はドンと拳をぶつけた所でその衝撃の軽さに首をかしげた。
 見るとその衝撃で門が開いている。

「開いているようだね」

 バカ師匠ことカズ兄がその隙間を更に押し広げた。

「ふむ、これは入って良いって事なのかな~?どう思う?我が愛しき弟子よ?」

 振り返ったカズ兄が俺の顔を見て訝しげに首を傾げる。

「どうした?タカシ」

 門が開いた事で目の前に広がった光景に、俺は全身の毛が逆立つような寒気に襲われた。
 俺はその光景を良く見知っていたのだ。
 遠い昔に実際に見た。
 そして何度も夢で見た。
 
「ここは……」

 俺はふらふらと歩いた。
 離れるべきだ。
 そう俺の頭は判断する。
 しかし、俺の足は吸い寄せられるように中へと進む。
 美しい四季の花々を咲かせる庭、きれいな小川が横切る向こう側には素朴な造りの四阿がある。
 その向こうには屋敷の縁側があって、少女の手作りの可愛らしい柄の座布団が並んでいた。
 軒先には鉄で作られた風鈴が優しい音色を響かせている。
 無知なる者の幸福な世界がそこにはあった。
 そして残酷な裏切りが粉々に壊したはずの場所だった。
 庭に植えられた山桜の木が淡い紅の花を満開に綻ばせている。
 その木に寄り添うように1人の少女の姿があった。

「おかえりなさい、坊や」

 その笑顔はいつ見ても胸が痛んだ。



[34743] 216:停滞は滅びへの道 その十九
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2016/10/06 12:42
「どうやらまだ迷宮内のようだぞ」

 伊藤さんを白音から庇うように腕を広げながら下がり、全員に警戒を促す。

「ばかな、脱出符を使ったのですよ?」
「だがここはヤツの空間だ」

 忘れもしない、子供の頃に通っていた屋敷だ。
 ヤツが終天だと気付いてからもう一度屋敷を探しても、その周辺の目印にしていた地形すら変わっていた。
 そうだ。
 ここに来るまでの道程、妙に覚えがあると思ったら、昔通っていた道そのままだったんだ。
 あの山の中の風景も丸ごとヤツの住居だったという訳だ。

「ここは迷宮ダンジョンの最奥、主様の居室。何も想い悩む必要のない永遠の虫籠」

 白音が俺の言葉を補足するようにそう告げる。

「うんうん、我が弟子の言う通りらしいね!噂の酒呑童子とご対面か!これはワクワクするよ!」
「ワクワクすんな、脱出方法を考えろ!」
「脱出符が捻じ曲げられたのなら他の方法などない」

 俺の言葉に由美子が首を振りながら答えた。
 マジでか、いや、薄々分かってはいたけどな。

「一つあるじゃないか、ダンジョンの当然の攻略方法だ。ラスボスを倒せば良い」

 流がなぜかやたら好戦的に笑った。
 お前、ほんと、終天と何があったの?なんかお前のプライドを傷付けるような事があったのか?
 いや、こいつは自分のプライドと言うより……う~んもしかしてテリトリーである行きつけの店を荒らされたとかか?
 終天は結構飲み屋に顔を出すという話だしな。
 以前ばったりヤツと酒場で行き会ったらしいハンターが混乱状態で発見される事件があったっけ。
 だが、俺も流の意見に賛成ではある。
 ここで会ったが百年目というやつだ。せっかくヤツを倒すチャンスをふいにしたくない。
 ただ、それは伊藤さんさえ一緒でなければの話だ。
 相手は荒神とも言われるような別格の怪異、伊藤さんを連れた状態でヤツとバトルなんてぞっとする。

「バカ言え、伊藤さんがいるんだぞ、ただでさえ分が悪いのに彼女を巻き込んだらどうするんだ」

 巻き込んだらというか、間違いなく巻き込む。
 この空間は丸ごと終天の領域だ。
 逃れる場所などどこにもない。

「隆志さん、私なら大丈夫です。なんとなく分かるんです。自分の身を守る程度なら出来ます」
「えっ?」

 その言葉に俺は思わず背後の伊藤さんを振り向いた。
 彼女は怯える風ではなく、まっすぐに俺を見て微笑んでいた。

「見てください」

 そう言って、伊藤さんは何かを覚悟したような表情を見せた後にぎゅっと目を瞑る。
 両腕で我が身を掻き抱くように自らの腕を掴み背を丸めると、その、彼女の周囲に炎がまるで主星を巡る衛星のリングのように踊った。

「これは……」
「ちょっと混ざっちゃった見たいですね」

 おどけたように言おうとして失敗したように、伊藤さんは引きつった笑顔を見せる。
 くそっ、清姫の魂が混ざってしまったのか。
 いや、落ち着け。
 あの状態で混ざらない方がおかしい。
 大事なのは主体がどちらかだという事だ。
 伊藤さんの自我がその魂を制御出来ているのなら何の問題もない。

「まぁ異能は後から変化する事もあるからな。戻ったら変更手続きと、再検査が必要だけどあんまり問題にはならないさ」
「え?再登録とか追加料金が掛かるんじゃ?」
「そこはまぁ、仕方がない。豪華な会席料理でも食べたと思って諦めるしかないぞ」
「会席料理の方が良いです」

 ちょっと真面目にショックを受けたような顔で呟いて、すぐにニコリと笑う。

「この力があれば一緒に戦うのはむずかしいかもしれないけど、私の事を気にせずに戦ってもらう事は出来ます」
「そう、か」

 伊藤さんは分かっている。
 俺がヤツと会って戦わない訳が無いって事を。
 伊藤さんを守りたいけれど、それでヤツに屈服する事は出来ないと思ってしまう酷い男だという事を。

「いい彼女じゃねえか。生まれる子供が楽しみだぜ」
「てめぇは永遠に目にする機会は無いけどな!」

 御大の登場に本能が悲鳴を上げた。
 総毛立つという言葉があるが、正にその通り、全身の毛が逆立つのを感じる。
 心臓が恐ろしい勢いで脈を打ち、体内で血が温度を上げ始めた。
 皮膚が堅くなる感覚が全身に広がり、指先が鋼のように密度を増して行く。
 俺の体が戦いの予感に震えていた。

「お久しぶりです。あの時は丁寧なご挨拶ありがとうございました。やっとお礼を述べる事が出来そうです」

 流が普段の温和な表情を崩して口角を上げて笑う。
 おい、お前なんかヤツより悪役っぽいからその笑いはヤメロ。
 なんだって美形っていうやつは悪い顔が似合うんだろうな。

「神の迷宮の踏破者の血統か。戦い方も知らぬくせに鬼のあぎとに踏み込んで来るとはな。だがその無謀、嫌いじゃないぜ!挑戦してこそ人ってもんだよな」

 ニカッと人好きのする笑みを浮かべて終天が笑う。
 相変わらず敵として常に意識しておかないとついつい惹きつけられてしまうヤツだ。
 本能的に怪異を憎むようになっている俺たちですらこうなのだから普通の人間にとってこの男の魅力は抗い難い物なのだろうと思う。
 こうやって会話を重ねる程急激に憎悪や闘志が萎えていくのだ。
 常に胸の内に怒りを噛み締めておかないと、気軽に友人のような会話をしてしまいそうだった。

「それで?今日はわざわざ嫁の紹介をしに来てくれたのか?なかなか律儀だな、お前も」
「誰が!呼び寄せたのはお前だろうが!それに脱出の邪魔をしやがったな!」
「憐れな娘の望みを叶えてやっただけの話だろ?まぁせっかく近くまで来たんだ。寄ってかないってのも無いんじゃないか?」

 ああ言えばこう言う、こいつと話しをしているととことん調子が狂わされる。

「兄さん」

 浩二が小さく声を上げる。

「酒呑童子よ、我らとの戦いを望むか?」

 俺を遮って浩二が問う。
 いつの間にかヤツの術中に嵌っていたようだ。
 すまん。

「まさか」

 終天は人の良さげな笑みをそのままに目を細めて囁いた。

「俺はただ、懐かしい客を歓待したいだけさ。ここへ留まるなら何の不安もない穏やかで楽しい日々を約束してやるぞ」
「留まらないなら?」
「意見が異なる者同士が自らの意見を押し通す為にやるこたぁ太古の昔から変わっちゃいないさ。全身全霊を持って拒絶してみな?」

 単なる言葉なのに、それを受けて浩二が一瞬ふらつく。
 鬼気というやつだ。
 伊藤さんを見ると顔をやや青くしているが、怯えても竦んでもいない。
 ほんと、強い女性だよな。

「では、力づくで」
「おい、流」

 お前なに脳筋みたいな事言ってるんだ?いつもの物静かな天才面を知っている奴らが見たらビビるぞ。
 まぁいいか、俺もそこは同意見だし。

「出て行かせてもらうぞ。ついでにこの傍迷惑な迷宮も消し去ってやる!」

 俺は挑みかかるようにそう言った。
 終天は俺の言葉に大きく笑う。

「おいおい、この迷宮が無くなって困るのはこの国の連中じゃないのか?良いのか勝手にそんな事言って」
「お前の作った怪しげな迷宮なんぞいつまでも鎮座されてちゃあ不安で仕方が無いんだよ!人間を好きなようにいじりまわして楽しんでるだけの野郎はそろそろ永眠して貰いたいね!」

 着崩したスーツでどこぞのやり手の若い実業家のような雰囲気を醸し出しながら、終天が笑って一歩を踏み出す。
 途端に背後の仲間達が後退る気配を感じ取った。
 ヤツの何気ない動き一つが俺たちを常に圧倒している。

「そうか、それでは舞台を整えよう」

 終天はそう言って、パチンと指を鳴らした。
 周囲に見えていたお屋敷が消え去り、その場に満開の桜に囲まれた広場が出現する。
 こんな風景の場所を日常の中で見付けたら、迷わずゴザでも敷いて飲み食いしたいような場所だ。
 相変わらず派手好きな野郎だ。

「おおう、可愛い弟子の彼女を救出に来たら何の準備もなしにラスボス戦になったでござる」

 バカ師匠が悲鳴とも嘆きともつかない声を上げた。
 今更おせえよ。

「優香、出来るだけ離れているんだぞ。絶対巻き込まれるな」
「うん、大丈夫。だから隆志さん」

 伊藤さんが俺をじっと見つめる。
 真っ直ぐで、そこに怯えは見えない。
 怖くないはずは無いのに、彼女は俺を信頼してくれているのだ。
 
「家に帰ったら美味しいごはんを作ってあげるね」
「ああ、期待してる。リクエストとしてはオムレツがいいな。あの刻んだ玉葱がいっぱい入ってたやつ」
「飴色玉葱のオムライスね。よし、任せて」

 食べ物の事を思い出したら腹が減って来た。
 さて、さっさと終わらせて美味しいオムライスで豪華な晩飯だ!



[34743] 217:停滞は滅びへの道 その二十
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2016/10/13 13:10
 ふわりと風もないのにいっせいに桜の花びらが舞い散る。
 どうしてこいつこんなに派手好きなんだろう。

「ふふっ、実はちょっと浮かれているんだぜ?なにせ今まで真正面から戦いを挑んで来た者はいなかったからなぁ。誰も彼もが酒に毒を仕込んでだまし討ち狙いだ。いい酒だったのに勿体ねぇったらありゃあしないぜ」
「そりゃあ悪かったな、酒なんぞ持って来てないぞ。期待してたのか?てか何度も同じ手でやられるってのはどういう事だ?学習しないにもほどがあるだろ!」
「出された酒は呑むもんだろ?」

 マジか?マジで毒酒持って来たら楽に勝てたのか?いやいや、それはなんか情けないぞ。

「ちっ、あなたと戦うと分かっていたら仕込んで来たんですけどね」

 俺の複雑な心境を他所に浩二が毒づく。
 ええっと、本気か?

「いいえ、私が主様に毒酒などあおらせません。悪意は通さぬ」

 白音が朱塗りの横笛を取り出して奏で始めた。
 途端に空気が濃密に重さを増す。
 
「じゃあ景気づけに1杯どうですか?」

 流が内ポケットから取り出した物を終天に向けて放った。
 放物線を描いて終天の手に収まったそれは、いわゆるポケットフラスコとかスキットルとか呼ばれるウィスキー用の携行缶だ。
 あいつあんなもん持ち込んでたのか。
 てか、それ毒入りじゃないだろうな?

「今、毒無効」

 その俺の考えを読んだのか、由美子が簡潔に否定した。
 ああ、この空気ってそういう感じの、ええっと、それって終天に対してだけだよね?俺らに対してはどんな効果があるんだ?

「守護対象に対する祝福と敵対者に対する行動阻害」

 なにそれ、ただでさえ神の如き相手であっちが有利なのに、さらにハンデありとか、てかそうか、白音、お前巫女だったんだな。
 伊藤さんが巫女の力に目覚めた理由がやっと分かった。
 お前が導師になって導いたのか。
 なんでそんな事したんだよ。
 彼女を巻き込む必要があったか?

 俺がそんな気持ちを込めて白音を睨むと、彼女は笛を奏でながら哀しげな顔をした。
 元々薄幸そうな表情をしている彼女がそんな顔をすると酷い罪悪感を感じる。

「お前はほんと朴念仁なのに、お前の友達は気が利いてるなぁ」

 終天が遠慮なく酒を口にしながらそんな事を言う。
 放っとけ!

「俺だって慈悲の心ぐらいはありますからね。末期まつごの酒というやつですよ」

 流のこの自信!お前戦う手段ないくせにその自信はどこから来ているんだ?言っておくがお前だけ生き残っても勝ちじゃないからな。
 てか好戦的だなぁ、どんだけ怒っているんだよ。
 俺は重い体に活を入れると、一度熱の下がった血流に再び熱を入れる。
 周囲の空気が体の中に入り込み、集中や発熱を阻害して来る。
 体の硬化1つを取っても普段より遅い。
 終天相手にハンデ戦か、辛い所だな。

 と、白音の反対側、俺たちの背後から透き通るような声の歌が沸き起こった。
 その声の紡ぐ歌の内容はどうしても聴き取れない。
 だが、まるですっとするハーブの入った水を飲み込んだかのような爽やかさが体を洗い流すのを感じた。

「っ、優香?」

 伊藤さんの声だ。
 ちらりと見ると、彼女は両手を天に掲げるように広げたまま、心ここにあらずといった感じで歌を歌っていた。

「なるほど、巫女の力比べか。つくづく楽しませてくれる」

 終天は興に乗ったようにひとしきり笑うと、流に酒の容器を戻して無手のまま構えを取った。

「てめえ、武器はどうした?」
「いらぬだろう?無粋だ」
「その余裕面、今最高に殴りたい」
「ならば来い!」

 一瞬で血液が沸騰する。
 蹴り出した足が地面をえぐり、ヤツの頭を狙った右手が風を切る音が鈍く響いた。
 インパクトはドーン!と音だけは派手だったが、思いっきりいなされた拳が逸れて地面をえぐっている。
 思わずバランスを崩しかけたのを無理やり引き起こして体を半回転して蹴りを放った。
 俺の蹴りが放たれたと同時に、終天の背後から三本足のカラスがその頭を狙って襲う。
 性根はバカだが能力だけは優秀な師匠の使い魔のカラス、クロウだ。
 あれでクロウもただのカラスではない。
 あの爪は鋼鉄製の扉でも切り裂けるのだ。

 終天は憎らしいほど落ち着いて、まずクロウをさばいて下から拳で打ち上げると、俺の蹴りに体を捻って対処した。

「仕掛けるなら完璧に同調させねぇとな」

 打ち上げられたクロウはそのまま消滅する。

「ああっ!クロウォォォォオオオ!!」

 カズ兄の使い魔、クロウの元となっていた木彫りの小鳥がパカリと2つに割れて地面に転がる。
 バカ師匠は叫びながらも残りのカラス2体を同時展開、終天を左右からはさみ込むように位置取りをすると、それぞれの前面に魔法陣を展開した。
 いわゆる西洋魔術と言うやつだ。
 西洋魔術は魔法に片足突っ込んでいるような所があり、時として理を大きく捻じ曲げる。
 その分、習得と応用が難しいとされているのだが、外国で数年行方不明になった事のあるバカ師匠はどこでなにをやっていたのか、なぜか魔法陣が得意になって帰って来た。

「「カァアアアア!」」

 描かれた魔法陣が回転する。
 終天が物珍しそうにそれを眺めている隙に俺はその足元に飛び込んだ。

「ふっ!」

 魔法陣の効果が発動する。
 瞬間的に時の歩みの歩調を崩すタイムラグが終天に生じた。
 動けない終天に、俺は抜き身の剣のように刃を生じた右腕を振り切る。
 ガッ!と硬い手応えと共にパッと赤い血が舞う。
 血が通う体を斬った事に一瞬動揺が走るが、俺は自分の精神を瞬時に押し殺した。
 そう、終天には人間の肉体がある。
 それは長い遍歴の間に人間として生まれ育った時期があるからだ。
 何をどうしたのか知らないが、終天は人間の赤ん坊として生まれて、若くして才能溢れる高僧となり、山野で暴れていた野盗や怪異を集めて一群の長として都近くの大江山に居を構え、都を脅かす一族郎党の首魁となっていた事があるのだ。
 そして一度は毒酒の奸計によって討たれて体をバラバラに埋められ封印されていたのである。
 人間の肉体はあっても本来は神に近い怪異であったせいで滅ぼす事が出来なかったという曰く付きの存在なのだ。
 
「おお、やるじゃねぇか!俺もうかうかしてられねぇな!」

 やたら嬉しそうに腕の傷を撫でながら終天がニカリと笑った。
 ズンと、終天が一歩を踏み出すと、その体がぐぐっと大きくなる。
 倍ほどに大きくなると、纏っていた服が弾け飛んで桜の花びらがその身に纏わりついて直垂姿のような格好になった。

「魔法少女かよ!」
「ふはは!おっさんですまなかったな!」

 スーツ姿は若い青年実業家といった雰囲気を漂わせていた終天だったが、古風な姿になるとよほどそちらの方が様になっていた。
 顔立ちがキリっとした若武者風だからかもしれない。
 スーツだと風格負けしてしまうのだ。
 古代の直垂を魔改造したような薄紅の戦闘服をまとった終天は一気に距離を詰める。
 目では到底追えない速さだ。
 半瞬防御が遅れる。
 と、主点の目前に炎が爆発した。
 蝶形の式、由美子の仕掛けだ。
 どうやら俺に纏わりつかせていたらしい。
 思わずのけぞった終天に、今度は俺が左のアッパーを決める。が、浅い。
 のけぞった分、届かなかった。
 踏み込んで右からの撃ち抜きを掛けるが、これは欲張りすぎだったらしい。
 
「ガハッ!」
「隆志さん!」

 伊藤さんの歌が途切れる。
 2つの巫女の力のバランスが崩れて俺はよろめいた。

「女に心配掛けるなよ!」

 拳が近い。
 ふっと息を吸い込む間もぎりぎりに、俺は吹き飛んだ。
 ヤバイ、追撃が来る!
 ふらつく頭を振って立ち上がろうとしたが、終天は先に進めずニヤリと笑った。
 浩二が壁を作ったのだ。

「大した能力だが、滑り込ませる世界が1枚だけなのが残念だな」

 終天をそう言って、自分の眼前を指で弾く。

「ぐあっ!」

 キイーンと頭の奥に響くような衝撃があり、浩二がもんどり打って倒れた。

「コウ!」
「だ、大丈夫」

 ゆらりと膝を付いて立ち上がった浩二の両目は真っ赤に充血していてまるで涙のように血が流れている。
 ヤバイ、脳とかやってないだろうな。

「いいぞ、うん、実に良い。お前たちをこのまま食らってしまっても良いというぐらいにはな!」

 ゾッと背筋に寒気が走る。
 本気の一撃が来る!
 その瞬間、俺と終天の間に誰かの影が走り込んだ。
 ばっと大量の血が弾ける。

「あ……」

 ごろりと転がった血まみれの腕と、してやったりと笑った口元が俺の目に鮮やかに焼き付いた。



[34743] 218:停滞は滅びへの道 その二十一
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2016/10/20 13:52
「天運反転とはな、良くもやる」
「流っ!」

 倒れた流に駆け寄る。
 左腕がない。
 血がやばい。
 慌てて流のズボンのベルト引っ張り抜くとそれで肩の下辺りで止血する。

「きゃああ!」

 遅れて悲鳴が上がった。
 伊藤さんだ。

「ユミッ!」

 呼ぶと無言で駆け付けた由美子が転がった腕を回収して流の体を保護した。
 今この場で出来るのは一時的に患部と腕を凍結するぐらいだろう。
 下手に回復すると腕がくっつかなくなってしまう恐れがあった。
 俺が流にかまっている間に追撃が一切来ないのを不思議に思って振り向いて、そこで目にしたものに驚く。
 終天は大きく体を引き裂かれていた。
 まるでナタかなにかで切り下ろされたかのような大きな傷が首元から腰辺りまで斜めに一直線に入っている。
 その傷は出血の痕はあるが、今は血は出ていない。
 傷口はふさがりつつあるが、完全に塞ぐ事も出来ないようだった。

「天運によって結果を捻じ曲げた。その男、とんでもないな」

 ニィっと笑って見せる顔も、やや精彩に欠ける。
 今しかない。
 俺の中でそう確信する声が響いた。
 万が一にも人間が神を倒すなら僅かな隙や、弱りを見逃してはならない。
 ましてやこれは親友が命懸けで作った好機だ。

「人は思い1つで奇跡を起こせる生き物なんだよ!」

 体中の力を右手と両足に集めた。
 そうして駆け出した俺の背を暖かい温もりが包む。
 この世で最も聞いていたい声が祝福を歌い上げた。
 終天は避ける事もせずに俺を待つ。
 視線が交錯し、ゆらりと攻撃を躱そうとした奴の動きに吸い寄せられるように右手が追随する。
 ブンッ!と、自分の目ですら捉えられないスピードで右腕が振り抜かれ、雷の後のようなオゾン臭が漂った。
 ドサリという落下音に目をやると、そこに終天の首が転がっていた。

「お見事」

 いつもの顔でにやりと笑う。
 こいつ首落としても全然ダメージ受けた感じに見えないんだけど。
 俺は戦闘態勢を維持したままその終天の首に向かい合った。
 胴体も倒れる事もせずに立っている。
 と、その胴体が一瞬で燃え尽きた炭のように白化して崩れ落ちた。

「やった、のか?」

 残る首を封印すれば終天はこの世界に影響を与える事が出来なくなる。

「ゲームクリアだ。坊や」
「うっせ、封印を」
「駄目!」

 俺が首に歩み寄る寸前、駆け寄った白音が終天の首を抱え上げる。
 とても大切そうに抱き上げる姿に、俺の足は踏み出すのを躊躇した。

「戦い、挑戦し続けろ。歩みを止めればそこが終着点だ。止まるのは死となんら変わらない。いや、死よりも退屈な場所に至る道でしかない」
「てめぇはまだそんな事を」
「主様」

 首だけになっても上から目線の変わらない野郎に文句を言うと、白音が微笑んで終天に語り掛ける。

「今こそ約束を賜りとうございます」

 小さな優しい鈴の音のような声がまるで乞うように囁く。

「そうか。やっと願いが見付かったか。では白音よ。そなたの願いを告げるが良い」
「私の願いは、貴方様とずっと共にある事です」

 いつもの無機質な表情が溶けて、柔らかい笑みが白音の少女じみた顔を彩る。
 なんらかの事情で止まった時の中を生きて来た少女の、初めて見る生き生きとした顔だった。

「……愚かな娘よ。その願い叶えよう」
「っ!白音?」

 終天の首を抱いたまま白音は俺を見てニコリと笑った。

「坊や、幸せにおなりなさい」

 慌てて手を伸ばす俺の目の前を、むせるような甘い香りを纏った桜吹雪が塞ぐ。
 吹き荒れる風が柔らかい薄紅の花びらを渦巻かせ、全く周囲を見渡せない。
 だが、それはほんの一瞬の事だった。
 風が止んで周囲を見れば、吹き散らされた花びらがただ地面を彩る。
 そこに白音の、そして終天の姿はない。
 自分に歩み寄る人影を見付けて、俺は気持ちを切り替えて彼女に向き直った。

「優香、大丈夫か?」
「隆志さんこそ。そんな、ボロボロで」

 言われて改めて自分の姿を見ると、着ている服がボロボロなのは当然として、両足の裏の皮がベロベロに剥けて真っ赤に染まっていた。
 一番酷いのは右手で、なんかこう、ジグザグというか、変な形に曲がっている。
 妙な光沢があって造り物じみて見えるので生々しさが無い分現実感がないが、興奮状態が元に戻ったらかなり痛いんじゃなかろうか?
 てかこれどうやったら戻るの?複雑骨折なの?これ。
 しみじみ自分の姿を見つめていたら伊藤さんの両目に涙が溢れた。
 おおう、ヤバイ!どうすれば!

「わ、私が、ちゃんと出来なくて、たかしさん、がっ!ナガレしっちょうも!」
「いやいやいや、それは違うから!そもそも俺はプロで優香は素人じゃないか、現場の責任を取るのはプロの仕事だろ!あ、それよりほら、流、大丈夫かな」
「う、うん、ごめんなさい」

 まるで子どものように泣きじゃくる伊藤さんがやたら可愛くて困る。
 いや、でも泣かれるとどうしていいか分からない。
 
「俺のケガをダシにするな」
「お前の精神メタルかよ」

 片腕が千切れたというのにどこ吹く風でいつもの通りな流が他の連中を伴って俺たちに近付いてそんな風に釘を刺す。
 顔色はさすがに悪いが、足取りも口調もしっかりとしていた。

「兄さん、どうやらこの先」

 式を飛ばして探索していた由美子が今の現実的な状況に思考を引き戻す。
 この迷宮は終天の創った物だ。
 その終天が滅び(?)た以上、いつ崩壊してもおかしくはない。
 逆に言うと、いつまでも崩壊しないなら、終天はまだ健在という事になる。
 俺たちは用心しつつ先へ進んだ。
 両脇に花の散った葉桜が立ち並び、地面は薄紅の花びらで覆われている。
 柔らかなその感触を一歩踏みしめるごとになんとも言えない罪悪感が押し寄せた。
 桜並木の奥は岩棚のようになっていて、その表面には小さな桜の樹を抱えて眠る蛇のレリーフが刻まれている。

「これは封印だねぇ」

 唐突にバカ師匠が言った。

「封印?」
「神をも封じる強力な封印だね。大陸のシャーマンが大地に精霊を封じる手法と似ているよ」
「って事は、これって終天の封印なのか?てか、あいつ自分で自分を封じた?」

 そう言いながら岩に触れると、そこに電子的な文字が浮かび上がった。

『クリアおめでとう!ラスボス討伐によりこのダンジョンは邪神の眠りし永遠迷宮となりました。クリア者はどの階層でも自由に出入りができます。迷宮を脱出しますか?もしくは行きたい階層を指示してください』

 ふざけてんな。
 思わずイラッとした俺に流が告げた。

「そのレリーフから強大な力が広がっているのを感じる。ただの封印じゃないな」
「おそらく酒呑童子の力を迷宮の維持にまわしているんだと思う。迷宮が維持され続ける限り酒呑童子は復活しないという事。ゆっくり研究しないとはっきりとはしないけど」

 流の言葉を由美子が肯定した。

「ええっと、つまり」
「半永久的な封印状態になっている」

 自分の力の全てを迷宮の維持に回したのか?
 それで二度と復活できなくなったって事か。
 なるほど、半永久的な資源採掘場所として人はこの迷宮に潜り続けるだろう。
 お望み通り、人間は命を掛けて一攫千金を目指し続ける。
 さぞや満足しただろうな、コイツ。

「とりあえず脱出しよう」

 俺の提案に全員が頷いた。
 大怪我の流を始め、浩二もちゃんと検査を受ける必要があるし、まぁ俺もこれはしばらくリタイアかなぁ。
 その前に伊藤さんを家に送らないと。
 表示の脱出ボタンを押すと、レリーフの横に庭の裏木戸のような門が出現した。

「じゃ、お先に!」

 流を抱えたバカ師匠と由美子が門に触れる。
 フッと消え失せた姿に続くように浩二が無言で一度振り向いて門に触れて消えた。

「じゃ、行こうか、優香」
「あ、うん、あの、私、先に行ってますね。ちょっと、身だしなみも気になりますし、あ、あの、これ」

 伊藤さんはなぜか慌てたようにそう言うと、ハンカチを押し付けて門に触れて消えた。
 俺はハンカチの柔らかい感触をゆっくりと辿った。
 大きく息を吐き出す。
 巨大なレリーフを見上げるも、あまりはっきりとは見えない。
 ゴツンと、額をその岩に押し付けた。
 途端に、まるで目前でその光景が展開されているかのように風景が浮かんだ。

 生意気そうなちっこいガキががっちりとした大柄な美丈夫に何度も挑みかかっては転がされている。
 濡れ縁の上に吊るされた南部鉄の風鈴がチリンと音を立てて、気持ちのいい風が吹き抜ける。
 庭を流れる小川は優しい音を奏で、その水の流れ込む池では時折小さな魚が跳ねた。
 四季様々な花々が控えめにその姿で庭を飾り、それぞれの香りを漂わせている。
 濡れ縁にはお茶とお菓子が用意されていて、二人分の手ぬぐいを持った淡い紅の髪と目の少女が優しいまなざしで子供と男を見守っていた。

「こんな記憶を大事そうに抱え込んでんじゃねえよ、全く」

 この日、東の島国で、神のごとき怪異が一体、永い眠りに就いたのだ。



[34743] エピローグ:帰り道
Name: 蒼衣翼◆b64dc42e ID:5ad16224
Date: 2016/10/27 12:56
「しかし、残念だな。君の仕事ぶりは評価していたし、楽しみにもしていたのだが」
「ありがとうございます」
「もし、長期欠勤の事を気にしているのなら。むしろ復帰して休んだ分をバリバリ働いてもらった方が良いのだけどね」
「全くです。ただでさえ、うちの部署は人が育たないというのに」

 社長と課長の心からの言葉であろう引き止めを嬉しく思いながらも、俺は深く頭を下げた。

「最後にご迷惑を掛けるばかりになってしまった事、本当に申し訳ありません。ですが、決して後ろ向きな理由からの退社ではありません。こちらで学ばせていただいた事も併せて、やれる内にやりたい事をやろうと思った、私のわがままなのです」

 課長に辞表を出したら、社長から呼び出しを食らってしまった。
 色々と迷惑を掛けた上に退社とか、絶対怒られると思っていたのだが、その実は、何か仕事に問題があったから辞めるのでは?という気遣いの上での確認だった。
 まぁ突然長期欠勤した上に退職とか、普通何かあったと思うよな。
 まして社長や課長は俺がハンターである事を知っている。

「やりたい事というのは、その、ハンターの方を?」

 社長が眉根を寄せて単刀直入に尋ねた。
 うちの社はわりとアットホームな所があって、社長はいつも社員は家族であると言っている。
 気にしてくれているのだろう。
 そもそも一般人からすれば、今時ハンターなどと言う仕事は、テレビジョンで子供達が観ているヒーローものの主人公のような存在だ。

「あ、いえ、入社の面接の際にも話させていただいたのですが、私は本来手作りおもちゃを扱って行きたいと思っていたのです。ですが、ある意味そういう夢を追う仕事はハンターの仕事よりずっと現実味のないものとして正直諦めていました。ただ、そうやってやりもしないで諦めるのは何かが違うと思って、まだ新しく何かをやれる内にやってみようと思った次第です」
「ほう」

 俺の言葉に、社長は俺がこの場所に呼ばれてから初めて、眉間のシワを解消して明るい表情になった。

「長期休暇の間に心境の変化があったか」
「っ、あ、はい。そのような感じです」

 個人で、店を出す。
 実際出すだけなら難しい事ではない。
 なにしろ資金は豊富に持っている。
 ただ、単なる趣味の店ではなく、それだけで食っていけるようなお客さんから求められる店になれるかと言うと難しいだろうなと思う。
 正直、ハンターの仕事のおまけ、金の余っている奴の道楽というように言われるだろうと覚悟していた。
 そして、そうなりたくないから俺はハンターを辞めていたのだ。
 それを再開して、二足のわらじを履くのだから、間違いなくそう思われるだろう。

「うん、良い事だ」
「……あ」

 社長がにっこりと笑って言った。

「我が社も元々は小さな家電ショップだったのだよ。お客様の要望でオリジナル商品を作るようになって今のこの会社がある。どんな大きな会社も最初から大きいという事はないのだ」
「はい」
「もしおもちゃだけでなく、人に便利な商品を開発したなら、ぜひ我が社と提携してくれないかな。その時は木村君も社長だな」

 覚悟は決めていたものの、他人から見て愚かな事をしているという自覚があった俺にとって、ハハハと笑った社長の思いもよらない温かい言葉は、とても励まされるものだった。



「飲まされたなぁ」
「当たり前ですよ。これが最後なんですから」
「佐藤の野郎がどかどか注いで来るから」
「佐藤さん凄い号泣していましたね。隆志さんをとても頼りにしていましたから、寂しいんですよ」
「まさか」
「まさかじゃないですよ。佐藤さんって発想が飛び抜けすぎて他人になかなか理解してもらえない方なんです。でも、いつも隆志さんにだけは相談したり、頼ったりしていたでしょう」

 そうだったのか、いつもうざがっていて済まなかったな。
 でも、俺だってほとんど理解不能だったんだぞ。

 俺が辞意を表明してから色々と社内ではあったが、とりあえず引き継ぎも、申し送りも大体終わって、月末の週末である今夜は送別会が行われた。
 気軽に楽しめるようにと、社長は資金提供だけをして、うちの課と隣の開発室のみの内々の送別会だったのだが、かなり資金をもらったとの事で、美味い料理と旨い酒をみんなで楽しんだ。
 新人君と佐藤に散々絡まれたのは辟易したが。

「一ノ宮室長、結局腕、駄目だったんですね」
「ああ、相手の力が肉体に干渉しすぎていて、変質を起こしてしまっていたらしくて。結局繋がらなかった。でも本人は最新式の義手を楽しんでいる風だったな。『人間は完璧すぎない方が魅力があって良い。これで俺も足りなかった人間的魅力が加わって最強の存在になった』とかうそぶいていたぞ」

 伊藤さんがうつむいてしまったのをどう慰めようかと心配したが、俺の視線に大丈夫というように微笑んでみせる。
 どうしたって彼女は今回の件を自分のせいだと思ってしまうのだろうけど、そうじゃない。
 今回の件は全部俺から起こった事であって、伊藤さんも流もそれに巻き込まれたに過ぎないのだ。
 まぁそう言うと二人共怒り出すから言わないけどな。

 俺は会社を辞めたが、伊藤さんにはそのまま残ってもらった。
 本当は一緒に辞めると言われたのだが、店を出したいのは俺のわがままだし、いきなり躓く事だって考えられる。
 それに伊藤さんまで付き合う必要はないだろう。

「考えている事はお見通しですよ。私、結婚したら会社辞めますってもう課長に言ってありますから」
「えっ!」
「夫婦は共に支え合って生活するのが当たり前でしょう?まぁ結婚するまでは隆志さんのわがままを聞いてあげます」
「おおう」

 そ、そうか、一人でやりたいっていう方がわがままなのか、ううん、また二人でじっくり話し合いをする必要があるよな。
 だが、もうすぐ伊藤さんの家に着いてしまう。
 とりあえず今日の所は勘弁しておこう。

「隆志さん?本当に一人で帰れますか?なんなら家に泊まって行きませんか?」
「ダメだ、伊藤宅に宿泊したら、俺に明日は来ない」
「うちを迷宮よりも怖い場所のように言わないでください」
「ラスボスよりも怖いお義父さんがいるからな」
「またそんな事言って」

 伊藤さんは知らないだろうが、今まで何度も俺は伊藤父に封印されそうになっているのだ。
 しかも段々本格的になって来ている。
 ヤバイマジヤバイ。

 ふっと、さわさわと鳴る葉音と、緑の匂いが風に乗って届いた。
 あの公園に差し掛かったのだ。
 街灯の光に浮かび上がる、滑り台と砂場とブランコのある小さな公園。
 陰りが落ちない清浄すぎる気配のせいか、かなり寒い時期なのに小さな花が花壇を白く飾っていた。

「なんだか不思議ですね。あんなに怖い思いをしたのに、私、あの方達がなんとなく好きなんです」
「怪異ってのは多少なりとも魅了持ちだからな、仕方ない」
「違いますよ!」

 話を混ぜっ返した俺に怒って伊藤さんが頬を膨らませる。
 伊藤さんってこういう顔がすごく可愛いんだが、これってヤバイんじゃないかな?ついいじめてしまうようになったらどうしよう。

「ちょっと、寄りませんか?」
「え?」

 言うなり、車止めのポールをすいと避けて、伊藤さんは公園の中へと入って行った。
 怖い思いをした場所なのに、全くその場所を恐れない彼女の強さに舌を巻く。

 灯りのある真下のベンチに座って、伊藤さんはいたずらっぽく笑った。

「こういう時はブランコなんでしょうけど、小さな子供用のブランコに私が乗ったら壊してしまいそうで」
「俺が乗ったら確実に壊すな」

 俺も同意してベンチの隣に腰を下ろす。
 この公園はずっと邪気が溜まる気配がない。
 人が集まる場所というのは邪気が溜まりやすいものなんだが、不思議な事もあるものだ。
 伊藤さんか白音かそれともまさかと思うが清姫か、なんらかの影響を受けているのかもしれない。

「隆志さん、私達、幸せになりましょうね」
「優香?」
「私、思うんです。人も怪異も何か大切な願いを持って生きる事こそが幸せなんだって。だから、私、ずっと隆志さんがやりたい事を支えて行きたいんです。それが私にとって一番、幸せな事だから」

 伊藤さんの言葉が俺の胸の内を揺さぶる。
 人も怪異も、伊藤さんはそう言った。
 おそらくは彼女の内では人も怪異も同等の存在なのかもしれない。
 だが俺にとって、怪異は絶対に敵なのだ。
 だから、怪異の想いを受け取る事など出来ない。
 俺が未来へ進むのは俺自身がそうしたいからだ。

「大切な願い、か。そうだな」

 俺には身勝手な望みしかない。
 やりたい事、やりたくない事、何をしても必ず周りの人に迷惑を掛けてしまう。
 それでも、幸せになって良いのだろうか?
 歩き続けて良いのだろうか?

「私、前に言いましたよね。隆志さんの作る美しい物が大好きだって。こんな素敵な物を作り出す人の心に触れてみたくて、そうして段々本当に好きになったんです。だから隆志さんは自分を信じて良いんです」
「ちょっと乱暴な根拠かな」
「乱暴じゃありませんよ。お店を開いたら、きっと隆志さんにも分かる時が来ます」
「そっか、じゃあ優香が俺の作品のファン第1号って事だな」
「そうですよ!私が一番隆志さんが大好きです!」
「ありがとう」

 そっと、壊れ物のように伊藤さんを抱きしめる。
 片手には送別会で貰った大きな花束があってだいぶ邪魔だが、それでも彼女の温もりを腕の中にしっかりと感じられた。
 どこまで行けるか分からないけれど、自分から諦めたりする事だけはしないように歩いていこう。
 主が眠りに着いたのに在り続ける迷宮や、闇の中で人の心から生まれ続ける怪異、人が人を傷付けたりする事件もある。
 勇者血統なんて特別な一族とか言われておかしな遺伝子を持たされただけの俺たちを利用したり、嫌ったり、憧れたりする者達もいるけれど、それでも世界はやっぱりどうしようもなく美しい。

「じゃあ、帰ろうか、あんまり遅くなるとそれが俺の死因になりそうだからな」
「もう、またそんな事を言って」

 光と影の間を歩いて行く。
 それがきっと一番幸せな事なのだ。


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