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[34596] オールド・オスマンの息子
Name: lily◆ae117856 ID:245b0a6f
Date: 2012/08/14 19:58
先ずは読んで頂く皆さまに感謝を。
そして原作者であるヤマグチノボル氏に敬意を。

このお話はゼロの使い魔の二次小説でオリキャラ主人公の非転生物です。
演劇のような華やかさと人間味のあるキャラ達を描けるように励みたいと思います。
ルイズに関しては原作より少し落ち着いた子になっております。
ヒロインはオスマン・・・。いえ、カトレアらしいです。

皆さまにとって面白い物語と成れれば幸いです。

追記
以前はにじファン様にて同じくlilyの名で投稿させてもらっていました。
現在はTINAMI様の方でも場所をお借りしています。
最終的には異なったエンディングを迎えられればと思っております。
よろしくお願いします。



[34596] 001
Name: lily◆ae117856 ID:245b0a6f
Date: 2012/08/22 21:42
広大なハルケギニア大陸西方に位置し南をガリア王国、東に帝政ゲルマニアという大国に挟まれ、西に大海を持つトリステイン王国はお世辞にも列強とは言えず、ハルケギニアに存在する一つの小国に過ぎない。ただ、歴史は古く、この世で最も偉大なメイジにして伝説の系統、虚無の使い手たる始祖ブリミルの3人の子がうち一人が興した国であり、そこが僅かばかりの自慢と言えようか。

そんなトリステイン王国の王都トリスタニアから馬で2時間ほどの所にトリステイン魔法学院は存在する。読んで字の如く魔法を教える場所であるが、誰もが入れる訳ではなく支配層たる王族や貴族のみに入学を許された学院である。そもそも魔法というものが彼ら支配階級のみに使える代物であり、魔法を使えるものをメイジと呼ぶ。それが貴族と平民とを分け隔てる明確な軛であり、その人の人と成りに関わらず貴族を貴族たらしめんとする力の一つであることが共通の認識となっている。

さて、前述の通り、ここトリステイン魔法学院は魔法を教える場所であるわけだが王国と同様、その歴史は古く、数々の優秀なメイジを輩出していているこの魔法学院を卒業することは貴族としての教養と嗜みと成っている。本塔を中心に四方を外壁で囲まれ、それと一体化した魔法の象徴である水・土・火・風、そして虚無を表す五つの塔から形成される外観は王城には劣るものの、やはり見る者を圧倒する存在感というものを放っている。

現在はニューイの月の中頃であったため、在籍する学生は目下夏休み中である。普段の喧騒はなりを潜め、閑散としている。そんな学院を本塔の最上階の窓から見下ろす一人の人物がいた。すっかり真っ白になってしまった長い髪、いつから伸ばしているのかわからないこれまた真っ白な長い髭、深く刻まれた顔の皺には彼が生きてきた時間の長さが窺い知れる。
その人物とはトリステイン魔法学院の学院長たるオールド・オスマン、その人であった。

「……んがっ!?」

物思いにふけるオスマンの髭が不意に引っ張られた。

「これこれ、髭を引っ張るでない」

オスマンは髭を引っ張っている犯人に目を向け優しく言う。
しかし犯人は聞きわけず依然髭はぐいぐい引っ張り続ける。
しかしてそれもそのはずであろう。
何せ相手はまだ言葉も通じず、オスマンの腕に抱かれている小さな赤子であったのだから。

「あたた、自慢の白ひげが抜けてしまうであろう。これからはわしがお前の父親代わりなのじゃぞ?じじいをあまりいじめるでない」

毎日の手入れを欠かさない自慢の髭も今はただのおもちゃへと成り替わっている。
赤子の割に強い力でがしがし引っ張ってくる小さな存在に手を焼くオスマンであったが、腕の中で無邪気にじゃれるこの赤子は実の子でもなければ親戚の子供でもない。
では誘拐してきた子供かといえばもちろんそんなことはない。それならばこの子は何故にオスマンの腕に抱かれているのか?それを知るには少しだけ昔の話をしなくてはいけなかった。


その日はどんよりと雲が厚く、今にも雨が降り出しそうなほどで日中にも関わらずうす暗かった。そんな日に学院からも王都からも大きく離れた片田舎にオスマンと数人の傭兵メイジが足を踏み入れた。村と呼べるかどうかも怪しい村落しかないような場所に彼らが来たのにはもちろん理由があった。
そもそも理由もなしにメイジ達がこのような所にわざわざ来る由もなしだ。
では、その理由とは?
簡潔に述べるのなら亜人討伐のためであった。
しかし亜人にも多く種類がいる。オーク鬼などならこのような田舎ではなくても見ることがあるし、その程度のレベルならば高名なオスマンが出るまでもなかった。
つまりは今回の討伐はオスマンが出向く必要があるほどに厄介な相手だということだ。
そしてその相手とは最悪の妖魔と称される吸血鬼なのであった。
吸血鬼、それは外見は人間と全く変わらず、牙も血を吸うとき以外は隠しておける。その上魔法でも正体を暴くことはできず、性格は狡猾。オーク鬼ほどではないが力も強く生命力も高い。
初歩のものなら先住魔法を使う事も出来る。太陽の光に弱いのが唯一の弱点であり、それ以外にはさしたる弱みはない。血を吸って殺した人間を魔術師の使い魔同様の存在、「屍人鬼グール」として操ることが出来るというまったくもって厄介な相手であった。

噂によれば今回の討伐対象である吸血鬼はずいぶんと変わり者だそうだ。
なんでも始めは村の人の血を吸って害をなしていたとのことだが討伐に駆け付けた一人の女性メイジに恋をしてしまったらしい。
それ以来村の被害は無くなり、村はずれの屋敷にそのメイジと共に住みついてしまったとのこと。しかし吸血鬼の存在は恐怖でしかない。それゆえオスマンらが派遣されたのだ。

吸血鬼が住むという屋敷へと足を踏み入れた討伐隊は一人の男と出逢った。
その男は端整な顔つきではあるものの、色素の抜けたように青白い肌で、ずいぶんと痩せ衰えていた。しかし、ある種の美しさとでも言えようか、その様は品があり、堂々としていた。
状況からいってこの男が吸血鬼なのだろう。

「メイジがずらずらと私に一体何の用だ」
「そなたは吸血鬼、わしらは人間じゃ。それだけでわかるであろう。囚われたメイジの女性を解放してもらおうかの」
「ふん、何を馬鹿なことを、私達は愛し合っているのだよ。囚われたなどと言いがかりも甚だしい。私達はただ、静かに暮らしているだけだ。お帰り願おうか。さもなければ血を見るであろう」
「悪いが退けないのぉ。押し通らせてもらおう」

切って落とされた戦いの火蓋。
吸血鬼とオスマン達の戦いは実に激しいものであった。
胸を抉られ心臓を潰された者、首を切り飛ばされた者。戦いで酷く荒れた屋敷にはそういった討伐隊の傭兵メイジの死体が血だまりに伏している。

気がつけば屋敷にはオスマンと吸血鬼の二人だけとなっていった。
しかし状況はオスマンの有利。
討伐隊はやられてしまったが吸血鬼も無傷では済まなかったからだ。
決して浅くはない傷を体の彼方此方に作り、切り落とされた左腕からはぼたぼたとその血を流し、床の染みは広がっていく。
状況が有利なのは喜ばしいことではあるがオスマンには疑問があった。

―――なぜ、この吸血鬼は此処までして戦うのであろうか?

吸血鬼は狡猾さが一番に恐ろしいのであって、身体能力や扱う先住魔法は危険には変わりはないが複数のメイジを相手に翻弄できるまでの代物ではない。状況が不利と見れば逃げて然るべきが吸血鬼。この地に踏みとどまる必要はない。

「そなた、何故退かなかった?何故そうまでして一人の女性に固執する?」

杖を構え、睨み合ったままオスマンは疑問を口にする。
本来、戦いの最中に心を乱すようなことはあってはならない。
しかし、訊かずにはいられなかった。

「始めに言ったであろう、私達は愛し合っていると。誰かを愛することがそんなに不思議なことかね?」
「しかし、そなたは……」
「如何にも私は吸血鬼である。私は多くの人間を食らってきたさ、貴様達からすればそれは悪なのだろう。だが、彼女に出会ってしまった!そして愛してしまった!理解を求めようなどとは思わない。ただ、此方にも退けない理由があるのだよ」

話は終わりだとばかりに吸血鬼が先住魔法で数多の礫を飛ばす。
それを防いだオスマンがルーンを唱えると床から石の手が伸び吸血鬼の四肢を掴む。続けて唱えたジャベリンのルーンによりオスマンの頭上に幾つもの氷の槍が浮かぶ。

「そうであるか……。悪いがそなたを見過ごすわけにはいかないのじゃ。恨んでもらって構わぬ。何か言い残すことは?」
「殺しているんだ。殺されもするだろう。別に恨みはしない。だが……願わくば我が最後の願いを聞いて欲しい」
「言うてみよ」
「我が最愛の人と出会うことの叶わなかった我が子のことよ……彼女は人間だ。決して屍人鬼などではない。どうか彼女と生まれくる子供は丁重に扱って欲しい!」
「子供がいると言うのか!?」

驚きを禁じえなかったが吸血鬼は確かだと言う。
暫しの沈黙の後、オスマンが口を開く。

「あいわかった。その願い、このオスマンがしかと聞き受けた」
「感謝する……高貴なメイジ、オスマンよ」

僅かに表情を緩めた吸血鬼の最後の言葉であった。
氷の槍が体に突き刺さり、遠退いて行く意識の中、吸血鬼は愛した家族を想い、死んでいった。

屋敷の一室に吸血鬼の愛した女性は眠っていた。
整った顔立ちに月の光りの様に美しい銀色で長髪の彼女は吸血鬼の言った通り、新たな命を宿していた。
実の所、吸血鬼は討伐隊が村にやって来たのは事前に知っていた。
しかし身重な彼女を案じ、逃げることを選ばす、心配をかけまいと眠らせた後、彼女が身籠ってからは碌に血も吸わず弱った体で討伐隊を迎え撃ったのだ。

オスマンの胸には言いようのない、わだかまりが残る。
多くの人の命を奪って来た吸血鬼を討伐したこと自体は人の世では正しい行いなのかもしれない。
だが、自身が誰かにとっての大切な人を奪ったのも明確な事実であるからだ。
長く生き、戦争も経験してきたオスマンには似たような経験は多くある。
その度に、考えてしまう。生きることとは残酷で儘ならないものであると。

オスマンは目覚めた女性に全てを有りのまま告げた。
自分が吸血鬼の命を奪ったこと、最後の願いを聞き受けたこと。
女性は涙を流し、ひどく悲しんだがオスマンを責めはしなかった。わかっていたこと。仕方のないことだと。いっそのこと激しく責め立ててくれれば良かったとオスマンは尚のこと胸を痛めた。

彼女の体調を気遣いながら馬車で戻ったオスマンはその功績を讃えられたが露程も嬉しくはなかった。連れ帰った彼女については真相を明かすことなど到底出来ず、討伐隊で死んだ傭兵メイジの残された妻という報告をした。幸い生きて帰ったのはオスマンただ一人であったため巧く欺くことができた。

オスマンは魔法学院から一番近い町に彼女を匿い、幾度もそこへ足を運んだ。
程なくして彼女は男児を生んだがひどい難産であったため、生まれてきた我が子を見ることなくして彼女は吸血鬼の後を追った。


時間を学院を見下ろしていたオスマンに戻そう。
ここまでの話しでお分かり頂けたかもしれないが、オスマンに抱かれた赤子は彼女と吸血鬼の間に産まれた子供であった。吸血鬼の件に限らず奪った命を胸に留め、それでも、いや、だからこそ次の世代の者を育てたいと思う。故に、魔法学院での学院長にもなったし、吸血鬼の子も引き取った。オスマンの決意は固い。長く生き、身よりをなくした老躯であったが受け賜わった一切の領地を王家に返上した。それはここ魔法学院にて骨を埋める覚悟の現れだ。

―――今はまだ赤子故この先どうなるかは分からないが、人として生きれば其れでよし、しかし吸血鬼として血の乾きに飢え、人を襲うようなことがあれば……。いや、そうならぬようにするのがわしの務めか。

オスマンの不安をよそに赤子は衒いのない笑顔をオスマンに向けるのだった。







[34596] 002
Name: lily◆ae117856 ID:245b0a6f
Date: 2012/08/22 01:31
月日が経つのは早いものでオスマンが子供を引き取ってから学院は多くのメイジを送り出し、また同様に多くのこれから輝くであろう若人を迎え入れた。時間とは全ての物に等しく降り注ぐものでそれは赤子とて例外ではなくむしろ一日一日成長を続ける存在故その密度は濃いのかもしれない。

オスマンの心配の種は今のところその芽を見せることはなく、至って平穏な日々を過ごしていた。
人として生き、オスマンのもと学院で六度目の夏を迎えたメイジと吸血鬼の子供の名はヴァレリーと言う。これはオスマンが名付けた訳ではなく生前、吸血鬼が我が子に送ったものであった。姓は母のものを継ぎ、ヘルメスと名乗っている。

オスマンはヴァレリーを養子として引き取りはしたが自分の名を継がせようとは思わなかった。
それは忌諱や差別などからでは決してなく、ただ単純にヴァレリーの実の両親に敬意を払ってのことだった。

オスマンは彼が養子であることは既に告げていた。ただ、父親は吸血鬼討伐の際に亡くなったという説明をしたので彼は父親が討伐する側であったと思っている。
ものは言いようであり嘘ではないことは確かだ。
ヴァレリーの容姿は母方のそれを強く引き継いでいて、母同様その髪は月の光りの様に美しい銀色であった。顔すら見たことがない母であったが、やはり母という存在は特別であり、授かった銀の髪は彼の誇りであり、自慢であったのは不思議なことではない。

これは余談だがヴァレリーという名は男女両方に用いられるものであること、容姿が母似であること、さらにまだ幼かったことも相まってヴァレリーは女児と間違われることが多かった。
それを彼より2つばかり年上の少年グループにからかわれたことから喧嘩になったことがある。3対1と非常に不利な状況であったが結果はヴァレリーの勝利、彼自身も顔にあざを作ってはいたがそれ以上に叩きのめされた少年グループは泣いて逃走していった。
子供にしては反射神経と力が強いのは吸血鬼の血のなせる技かもしれない。またその身体能力の割にヴァレリーはあまり外で動き回るのが好きではなかった。
彼曰く「日の光を浴びるとなんとなく疲れる」とのこと。
これも彼の血のせいかもしれない。そのせいかヴァレリーはもっぱら屋内で過ごすことが多かった。学院の授業に潜りこんだり、一日中図書館で読書に耽ったり、実験室の資材を適当に混ぜてみたりと。もっとも最後のは現行犯で見つかりオスマンにひどく怒られたが。

さて、今日という日はヴァレリーにとって待ちに待った一日だった。
今日この日よりオスマンのもと魔法の修行を始めるのである。
生まれてからというもの、多くの時間を学院で過ごし、幾度となく授業に忍び込んだ彼であり、間近で魔法を使う学生を見てきただけに魔法の行使へ寄せる期待は一入であった。
既に魔法の行使の媒体たるものは用意してあったが、多くのメイジが使うようなワンドではなく、一つの指輪を契約するに至った。その指輪とは両親が彼に残した唯一の品であり、彼は今まで肌身離さず持っていたものだった。
銀の台座にサファイアをあしらったものであり、サファイアの石言葉は慈愛、これは単なる憶測にすぎないが生きて子に愛を注ぐことの叶わなかった両親のせめてもの想いの現れではなかろうか。

「では始めるかの。ちなみにお主は何か使いたい魔法でもあるのかの?」
「はい、父上。何よりも先ずレビテーションが使いたいです!」
「はて?何故じゃ?」
「私は図書館の下段以外手が届かないのです。毎度毎度誰かに頼んで取ってもらっていては面倒で仕方ありません」

多くの子供は火や風のいかにもといった攻撃魔法を使いたがるがヴァレリーに至ってはその範疇になかった。しかし図書館で少なくない時間を過ごす彼としては大問題である。なにせ図書館の本棚には普通でも上段に届かないのに30メイルもあるものまで存在するからだ。

「本を読むのは大いに結構じゃが、お主はもう少し外に出た方がいいぞい」
「どうにも日の光は私の体力を奪うのです。月の光は好きなのですが……」
「そうか、まぁよい。では望み通りレビテーションから始めよう」

各属性の初級魔法のルーンを唱え自分の系統を知ることとなる。
風であればレビテーションがそれに当たり、ヴァレリーは既に暗記済みのルーンを唱えるが最初の一回は僅かに体を浮かせたかと思うとバランスを崩してしこたま尻を打った。
2回目は成功したものの風が彼の系統ではないようだ。

次に土、これはクリエイト・ゴーレムを行い15サントほどの小さな土人形を作り出すことが出来た。こちらは少し才能があるかも知れない。

続いて火、これはまったくもって才能がなかった。
発火のルーンを唱え、火の発現が確認できたかと思いきや、それは瞬く間の出来事ですぐに消えてしまう。何度やっても結果は同じであった。

最後は水、これはコンデンセイションという大気中の水蒸気を液体にする初級魔法を使ってみたが、かなりの量の水を生成できた。
試しに他の水系統のドットスペルも試したが威力は弱いものの悉く成功した。
ヴァレリーの系統は水ということで先ず間違いないだろう。
これからは水系統を中心に修練を積むことになる。
オスマン曰く水に関してはトライアングルに達するのもあり得るとのこと。土や風は努力次第でライン程度には成り得るかもしれないが、火に関してはライン到達は難しいかもしれない。

「さて、これよりお主もメイジとしての一歩を踏み出したわけじゃが……一つ心しておくのじゃ。魔法というのは貴族を貴族たらしめん一つの左証じゃがそれが全てではない。魔法は己の行い、あり方を映す鏡じゃ。それを心得よ。まぁ、何が言いたいのかというと努力せよということじゃ」

言い出しは厳格に、結びは優しい笑顔でオスマンは言うのであった。

ヴァレリーはその後の修練を欠かすことは無く、魔法の力はゆっくりであるが着実に成長していった。
オスマン直々の魔法の修練は厳しくもあったが、新しい魔法を使えるようになった喜びと、それを自分のことのように喜んでくれる父の姿を見れば、もう一歩先へ進みたいと自ずから思えた。
念願の図書館上段に届いた時は大層はしゃぎ、駆け足でオスマンに報告しに行った。
それを聞いて喜ぶオスマンがヴァレリーの頭を撫でた際の彼の嬉しそうな無垢な笑顔は歳相応な眩しいものであった。

水の魔法を得意とするヴァレリーであったが今までの知識の蓄えと知への探求心が功を成して、ポーションを始めとする各種魔法薬の生成において大きく成長を見せていた。
今だ幼く学院に通ってはいなかったが既に周囲の者からは評判は悪くはなく、多くはないが稼ぎもあった。
それを元手に質の良い材料を集めさらに質の良い薬を作る。

少しづつ貯めたお金でヴァレリーはオスマンの許可を得て学院の敷地の傍に小さな実験室と薬草を栽培する花壇を作った。今はまだ規模が小さいがゆくゆくは学院の魔法薬の授業、延いてはオスマンの為に大いに役立てる算段であるし、なによりも自身の好きな分野に入り浸れる環境を手に入れたことが喜ばしかった。日の光が疎ましく感じながらも大きな麦わら帽子を被り実験で使うべく薬草を栽培している花壇にて土弄りに精を出す。

実験の為の土弄りであったがこれは半ば一つの趣味と成っていた。
歳よりくさいと中には言う人もいるが、いかんせん育ての父親があのオスマンなのである。
どちらかと言えば事実ヴァレリーは歳よりくさい所があった。
花壇の隅で栽培しているハーブを摘み、オスマンとゆっくりお茶を啜るのが彼の好きな時間の一つであることからもこのことは言える。

過去に一度、ハーブと間違えて毒草をお茶にしてしまったことがあるのだが、その時は仲良く痺れてテーブルに突っ伏してしまった。それを発見した学院の教師曰くオスマンに関してはよもや天に召されたのかと思ったとのこと。



さて、季節を一つ跨ぎ、木々が色付いた衣を脱ぎすて、その身を晒すハガルの月。位置柄トリステインでは一年を通して穏やかな気候であるが、やはりこの時期の朝は少しばかり冷える。

実験室にて図書館上段から手に入れた魔法薬についての本を読んでいたら、いつのまにか寝てしまったヴァレリーは寒さと体の痛みで目を覚ました。
椅子から立ち上がり、固まった体を伸ばすとフラスコにワインを注ぎ蜂蜜とクローブ、オレンジを加えアルコールランプで温める。
起きがけのホットワインは渇いた体に潤いを与え内から体を温めてくれる。
窓から見えるはヴァレリーの細やかな自慢である庭に朝靄が架った姿。
彼は箱庭と謙遜して称するが夏の始めには一つの小さな花壇のみであったが、瞬く間にその規模は拡大し今や縦15メイル横25メイル程の敷地内には季節を問わず草木が茂り鮮やかな花を咲かせ、目を和ませる。

ヴァレリーは何気なくそちらをみやると一人の女生徒が敷地に居ることに気づく。
近頃、自分の庭が逢い引きの場として学生から人気があるのを知っていたヴァレリーは彼女もまたそうであろうと憶測をつけ、冷ややかな目でそれを眺める。
別に惹かれあう男女の仲を妬ましいなどとは思わないし、自慢の庭で恋の花が咲くとあれば場を貸すことも吝かではないが、愛を囁くにあたって勝手に花を摘まないでほしいのである。
もちろん鑑賞のための面も在るが、あくまで魔法薬生成の材料であり改良を加え質を向上させ丹誠籠めて育てた花々は決して野に咲く花ではないと知ってほしい。
細かく言うつもりはないが庭の花は彼の所有物であり財産だ。
実際質の良い秘薬の材料は其れなりに値をはる物である。
しかしやはり一番の憤りは自身の努力の結晶を奪われる事である。
そう、例えば十年に一度花をつけるとされ、賢者の石の材料とも言われるドンケルハイトの花を試行錯誤の末、僅か数本だけとはいえ咲かせる事にヴァレリーは成功したのだが、よりにもよって無知な学生にそれを摘まれた時は激昂のあまりまだ使えるはずのないジャベリンをバカップル目がけて全力で撃ち込んだくらいだ。

彼曰く「あの時は本気で花を摘んだやつの腕を捥いでやろうかと思った」と恐ろしいことを語る。

そう言った経緯があり、庭の女学生を眺めていたヴァレリーであったが彼女の顔はどこか暗く浮かないのが見て取れる。待ち合わせに男が来なかったのかと思ったが、どうにも彼女は今まで庭に来ていた恋する乙女の放つ空気とは違うようであり、気になったヴァレリーはマグカップに注いだホットワインをもって彼女に声をかけた。

「こんな所にいては体が冷えてしまいませんか?」

どうやら声をかけるまで気付かなかったようで、彼女は金色の髪を揺らし少し驚いた様子で振り向いた。

「あら、これはオールド・オスマンの。確かに少し冷えますわね。ですが此処はそれを差し引いても素晴らしいところですわ」
「ふふ、ただの箱庭にすぎませんがそのように仰って頂けて嬉しい限りです」

そういってホットワインを手渡すと上品な微笑みを返す彼女の名は言わずと知れたラ・ヴァリエール公爵家の長女、エレオノール・アルベルティーヌ・ル・ブラン・ド・ラ・ブロワ・ド・ラ・ヴァリエール。凛として気の強そうな彼女であるが今は少し哀愁の念が窺える。

「何か、貴女を悲しませるようなことでも?」
「いえ、大した事ではありませんわ。ちょっとした心配事ですの」

そうは言うものの自分の目の前で陰りのある笑顔を浮かべるのだからヴァレリーとしては放っておくわけにはいかない。父であるオスマンからも困っている女性には優しく接しろと教わっている。

「失礼ですがそれはご家族のことで?」

エレオノールは彼の言葉に驚きを隠せなかった。
何せ彼女の心配事とはまさしく家族の事についてだったからだ。

「どうして……?」
「いえ、私が来るまで貴女はサルビアの花をご覧になっていたようでしたので……サルビアの花言葉は家族愛故」
「驚いた……御名答ですわ。最初はこの時期に咲いてるのが不思議だったので眺めていたのですけれど気がつけば家族の事を想ってしまいましたの……」

それからエレオノールは彼女の心配の種について話した。
三つ下の妹が病に伏せっていること。最近は特に辛そうであること。
またヴァレリーと同じ位の歳の末の妹が最近魔法の修行を始めたものの、なかなかうまく進んで無いことなど。
本来ならこのような身内の話はしないのだが、ともすれば同学年の男子より落ち着き、品のあるかもしれないヴァレリーに事を話したのは、まだ幼いその容姿が故、貴族として肩肘張らなくて済んだがためかもしれない。

「お優しいのですね」
「そんなことないわ。私はどうにも自分の考えを押し付けてしまう節があるのを自覚しています。そのせいで姉妹で喧嘩にもなりますし、学院でも時折やり過ぎてしまうことも……」
「私には兄弟がいませんので分りかねますが貴女は妹さんを想ってのことなのでしょう。そこに愛があるのならば貴女の想いはきっと妹さんにも届いていると思います。もちろん時には喧嘩もするでしょうがそれは姉妹故当然ではないでしょうか。最も近しい存在でもやはり一人一人違うのですから。これは学院でもそうですね。相手を見て、知り、理解するのはとても難しい事です。大事なのは相手を分ろうとする、受け入れようとする気持ちではないかと思います。……っと偉そうなことを言って申し訳ありません。父の受け入りが多分に含まれた小僧の戯言ですのでどうかお気になさらずに」
「いえ、私は貴方に感謝しなくてはいけませんわ。貴方はきっと将来素敵な殿方になるでしょうね。もちろん今でも素敵ですわよ?」
「そ、そのような事を言われては照れてしまうではないですか!」

照れるヴァレリーを見て微笑むエレオノールは今の彼にとっては倍以上歳の離れた女性であり、いくら彼が落ち着いて物事を語れようとも社交の辞には彼女に軍配が上がろう。
また、子供の時に年上のお姉さんに囁かれた際の胸の高鳴りは男児ならお分かり頂けるかもしれない。
恋でもなければ愛でもない、憧れに近いともいえる一種の名状し難い生理現象である。

「ふふ、それじゃぁあまり長居しても迷惑でしょうし今日の所は失礼しますわ。ありがとう。それと御馳走様、温まったわ。また来ても?」
「はい、たいした御持て成しは出来ませんがお待ちしております。それと貴女にはこれを差し上げます」

そう言ってヴァレリーが渡したのは先ほどエレオノールが見ていたサルビアの花。

「貴方が大事に育てた花なのでしょ?頂いてしまってもいいのかしら?」
「はい、本来夏を飾るはずのこの花がなぜこの時期に咲いたのかは私も不思議に思っていたのですが、この花はきっと貴女の為に咲いたのでしょう。ですのでこれは貴女に貰って頂きたい」
「そう、でしたら喜んで頂きますわ」


来た時よりは幾分明るい表情で帰っていったエレオノールは固定化の魔法をかけ部屋に件のシルビアを飾った。彼女はそれを見るごとに心を穏やかにすることが出来、学院生活を今までより少し余裕を持って過ごすようになったのは、ヴァレリーが花と言葉を用いた系統魔法でも先住魔法でもないもう一つの魔法かもしれないと言うと浪漫が過ぎるであろうか。





[34596] 003
Name: lily◆ae117856 ID:245b0a6f
Date: 2012/10/11 17:28
春の訪れを告げるようにヴァレリーの庭には次々と可憐な花が咲く。
ハガルの月の終わりには天使が雪に魔法をかけて花に変えたとされる小さなスノードロップが、ティールの月にはスノーフレークと鈴蘭の花がその純白のスカートをそよ風に揺らす。どちらも白く小さな花であるが、スノーフレークの花は淑やかな佇まいをしており、スカートの裾の緑のアクセントが清楚で品のあるその姿をより際立出せる。一方、鈴蘭の花は膨らんだスカートの裾が反り返りまるでレースのフリルのようで愛らしく、その姿は無垢な少女を思わせる。並べると麗しい姉妹のようで見ているだけで心に安息をもたらしてくれる。

ヴァレリー個人としてはスノーフレークに目を奪われるが、それは彼の女性の好みが年上の淑女であったがためかもしれない。ちなみにこれは余談だがハガルの月に咲いたスノードロップの花言葉は「希望、慰め、逆境のなかの希望」であるが、人への贈り物にすると「あなたの死を望みます」という意味に変わるので注意が必要である。


さて、現在トリステイン魔法学院学院長オールド・オスマンの息子にしてヴァレリー・ヘルメスはエレオノールと共にラ・ヴァリエール公爵家へ向かう馬車に揺られていた。
というのもサルビアの花をプレゼントしたあの日以来、エレオノールはヴァレリーの庭に新しい花が咲く毎に彼のもとを訪れては友好を深めていて、今ではヴァレリーはエレオノールのお気に入りになっている。そんな折、フェオの月の入学式前の短い休みを使いエレオノールはラ・ヴァリエールへ里帰りすることとなり、せっかくだからということで遊びに来ないかと誘われたのである。

「実は私、学院からほとんど出たことがなくて恥ずかしながらここ数日、興奮のあまりよく寝られませんでした」
「ふふ、そうだったの。なら少し眠ってもかまいませんわよ。まだ到着まで少し時間がかかりますし。なんなら私の膝をお貸ししましょうか?」
「い、いえ、そのような失礼は!だだだ大丈夫です!」

最近はヴァレリーをからかうのに面白みを見出してるエレオノールは慌てて顔を赤くする彼を見て満足そうに微笑む。別段、彼女に甘えたとて罪になるような歳ではないが、ヴァレリー自身が気恥ずかして敵わず、素直に甘えるなど、おいそれと出来ない。

「では、眠くなったら言ってください。その時に膝を貸しますわ。そういえば誘っておいてなんですが御庭のほうは大丈夫なのかしら?私のせいであの美しい庭を枯らせてしまったら申し訳ないわ」
「はい、父上とメイドの者に庭の世話は頼んできました。父上には「美人と一緒とは羨ましい」と散々言われましたよ。私もエレオノール様のような方と御一緒できて嬉しい限りです」
「褒めても何も出ませんからね」
「褒めるも何も事実ですから」

二人を乗せた馬車は春の木漏れ日の中をゆったり歩むのであった。



時間は少し進み、いつの間にか寝てしまったヴァレリーはラ・ヴァリエールの地にて目を覚ました。

エレオノールに優しく髪をなでられ起こされたが、自分が彼女の膝を枕にしているのに気付き、みるみる顔を赤らめ、鬼灯のように朱に染まった顔のまま口をぱくぱくさせる。

「あ……あの、その、あの……」

鼻をくすぐる甘い香りと予期せぬ状況にヴァレリーの頭の中は真っ白であり、見事な狼狽ぶりを披露する。

「さぁ、着きましたわ。可愛い寝顔も堪能させてもらいましたし、そろそろ行きましょうか」

未だ顔の熱が冷めやらぬヴァレリーが馬車を降りると、そこには高い城壁と尖塔を有す重厚で壮観なラ・ヴァリエールの城。学院も大概であったがそれ以上の存在感に思わず息をのむ。

城内で待っていたのは一体何人いるのかもわからない召使と3人の貴族。
ヴァレリーはその内の一人に目を奪われた。
桃色がかったブロンドに鳶色の瞳、整った顔立ちの彼女。
隣に似たような小さいのがいるがそちらではない。
エレオノールは凛とした美しい女性であったが、それとはまた別の落ち着き優しそうな雰囲気、それでいてどこか儚げな彼女。
ラ・ヴァリエール公爵家の次女カトレアであった。

「お帰りなさい、エレオノールお姉さま」
「ただいま、カトレア。体の方はどう?無理してない?」
「えぇ、ここ数日はだいぶ調子がいいの、今朝も三人でお庭を見て回ったのよ」
「そう、それは良かったわ。ワルド様もいらしてたのですね。うちのおちびがお世話をかけてしまって申し訳ありませんわ」

ワルドと呼ばれたその人は歳の頃はエレオノールと同じくらいの長髪で背の高い美男子。おちびと言われてむくれる小さいのの髪を撫でながら口を開く。

「いえ、ルイズはとてもいい子にしていますよ。して其方の彼は?」

ワルドはヴァレリーに目を向ける。

「魔法学院のオスマンの息子、ヴァレリー・へルメスと申します。本日はエレオノール様の御厚意でお招きしていただきました。若輩者ですがどうぞお見知りおきを」
「これはご丁寧に、その歳でしっかりしたものだ。僕の名はジャン・ジャック・フランシス・ド・ワルドだ。よろしく頼むよ」
「まぁ、それではあなたが水花すいかのヴァレリーね?お姉さまから聞いているわ」
「はて?水花とは?」

おそらく自分の二つ名だとは推測がつくが、いつの間にそんな名がついたのだろうと思うヴァレリーにエレオノールが答える。

「あら、知らなかったの?学院では貴方のことをそう呼ぶ者もいましてよ。美しい花に囲まれ水を操る貴方らしい二つ名だと思うわ。他にも花月なんていうのもありますわね。こちらにも花の字が付いていますがそれはあのお庭を見れば当然でしょうね」
「そうだったのですか。まったく気づきませんでした。しかし水花はまぁ、いいとしてもさすがに花月は照れますね」

水花とは蓮の別名であり、また水しぶきを意味する言葉である。
蓮華の花言葉「雄弁」もエレオノールを諭した彼には当て嵌まろう。
字だけで見ても水は彼の系統を、花にはもちろん彼の自慢の庭の意も含まれているわけで、たった二文字でその人を表した割に言い得て妙な名であった。また花月という名も彼をなかなかに表していると言える。
花は言わずもがな、月に関しては母譲りの銀髪は月の光のようであり、またその容姿は中性的で美しい。花月といえば美しい物の代表である。加えて月は水鏡とも言うことから四系統で表すなら水に属するものであると言えなくもない。しかし花月とはずいぶんと褒め殺しの名であるが故ヴァレリーは照れたのである。

「その歳で既に二つ名を持つとは頼もしいですな」

ワルドが関心したように言うと隣の小さいの、もといルイズが口をはさむ。

「ワルド様も閃光という二つ名をお持ちじゃないですか!とてもかっこいいワルド様らしい名だと私は思います!」
「あっはっは、ありがとう、優しいルイズ」

またもや髪を撫でられて悦に浸るルイズを「仕方がないわね」といった目で見る二人の姉であった。


ラ・ヴァリエールの地には三日ほどの滞在であった。
その間ヴァレリーは三姉妹とワルドを含めた5人と共に過ごし大いに親睦を深めた。
晩餐会ではラ・ヴァリエール公爵とカトレアに色々と聞かれたもので、なんでもエレオノールが幼いとはいえ男の子を家に招いたのは初めてだということや、彼女がカトレアに送った手紙にはヴァレリーを褒める文言が多いことなどを語った。公爵などは最初は大事な娘が連れてきた男とあって威圧感がたっぷりであったが、帰り際には「あと十ばかり歳が上であればエレオノールの婿にいいかもしれない」と冗談を言うくらいには彼を気に入ったようである。
またヴァレリーは随分とワルドと仲を深めた。
兄弟がいないヴァレリーにとって、凛々しく気立てのいい彼は兄のような存在であり、ワルド自身も彼を慕うヴァレリーを弟のように接した。
滞在初日には三姉妹が庭でお茶の席に着くなか、その横で魔法の修練を共にし、ワルドに教えを乞いながらヴァレリーは風を紡ぎ花を舞わせ、得意の水魔法で虹を作り出し姉妹を喜ばせた。
二人を見た姉妹はまるで本当の兄弟のようであったと評している。

ちなみにラ・ヴァリエールの三女ルイズには一番苦労したと後にヴァレリーは語っている。
二女のカトレアと仲良く話をしていれば「ちぃ姉さまー!」と割って入り、ワルドと談笑していれば「ワルド様ー!」と押しのけられる。
どうにも彼女はヴァレリーに対抗心を燃やしているらしく、姉や憧れの人を取られるのではっと思ったらしい。


ヴァレリーにとってラ・ヴァリエールの地での3日間は実に色濃いものだった。
最も彼の心に残るのは次女、カトレアの姿。
城に迎え入れられた時より彼女に目ばかりか心も奪われ、そばにいればついつい目で追ってしまう。朝の挨拶に交す一言がただただ嬉しく、時折視線が交合えば優しい笑みが脳裏に焼き付く。
彼女がもたらす胸の高鳴りはヴァレリーにとってロマリアの大聖堂の鐘の音にもひけをとらない。
彼女を知りたい、また自分を知ってほしいと思うこの気持ちはなんだろかと自問すれば自ずと答えが導かれよう。
そう、其れは所謂一目惚れであり、ヴァレリー坊やにとっての初恋であった。

そんなヴァレリーの心境に最も早く気づいたのがワルドだったのは男同士、なにか通ずるものがあったからだろうか。それとも恋に落ちる音でも聞き取ったか、風属性のメイジは音に敏感であるらしい。

それは二日目の晩餐を終え、少し体を動かそうということでワルドとヴァレリーの二人は城内にある修練場にと足を運んだ時のことである。

「君はどうやら恋をしているようだね」

軽く体を馴らしながら横目で呟くワルド。

「なっ!?なぜそのような!?」
「やはりか」

不意を突かれて慌てたヴァレリーが気づいた時にはもう遅く、とっさの反応が隠そうとした彼の想いを露呈させる。それはもう見事なまでの釣れようであった。

抗議の視線を送るヴァレリーにワルドは笑って答えた。

「なに、からかっている訳じゃないんだ。悪かったよ、そんな目で見るな」
「どう見てもからかっている様にしか見えませんが?」
「まぁ、まぁそう怒らないでくれ、お詫びに一つ魔法を教えよう。僕は風を得意とするから使わないが、水の系統の君なら使い勝手もいいだろう」

そう言ってワルドはレイピアの形状の杖を抜くとルーンを唱える。するとレイピアに水が集まり水鞭を成す。ワルドがその水鞭を振ると叩きつけた地面が軽くえぐれる。

「僕では単独の水魔法はこの程度だが君なら修練を積めば直ぐに使いこなせるだろう、男なら好きな女の子を守れるようにならなくてはな」

そのように言われてしまってはヴァレリーとしてもこの魔法を覚えてやろうと気概を覚える。実際、新しい魔法を使えるようになるのはメイジであるなら当然喜ばしいことである。

ワルドに従い、ルーンを唱えるとヴァレリーの指輪に水が集まる。
媒体が指輪であるため、水を掴むという不思議な感覚ではあるが、一応の形にはすることが出来た。ただ、形状や長さ、本数といった調節がなかなかに難しく、意図した動きにさせるにはこれから先の鍛錬が必要そうだった。

ちなみにこのウォーター・ウィップの魔法のイメージに役立つということで通常の鞭を振るってみたりもしたのだが、今まで一度も使った事がないくせに勢いよく振ってしまったので自分に当たって泣きそうになったのは此処だけの秘密である。


滞在を終え、学院に戻ったヴァレリーは滞っていた庭の手入れをしようと肩まで伸びた母譲りの銀の髪を邪魔にならぬようにと黒のリボンで後ろに結い、鏡でその姿を確認していた。
ついつい顔がニヤけるヴァレリーであったが決して自分の容姿に熱をあげているわけではなく、女装趣味に走ったわけでもない。彼にとって結った黒のリボンそのものが重要だった。
なぜならそれは想い人たるカトレアから貰った物だったからだ。
黒色でシックな細いそれは長髪の男性も多いハルケギニアではヴァレリーが髪をまとめるのに使っても別段おかしくはないだろう。現に父であるオスマンや仲を深めたワルドも長髪であったし時折髪をまとめている姿も見ることがあった。ただ、ヴァレリーの場合は結った髪のままドレスでも着ようものなら十中八九、女児と間違われることになろうが。

このリボンをカトレアからを貰ったのはラ・ヴァリエール家滞在三日目の夜である。
彼女と二人だけで過ごした僅かばかりの時間を振り返ろう。


二日目と同じようにワルドと修練を積み、与えられた部屋にてまどろんでいたヴァレリーはノックの音で目を覚ました。扉を開けた先に立っていたのは麗しのカトレアであり、一瞬で眠気はどこかへすっ飛んでしまった。

「カトレア様、何か御用でしょうか?」

冷静を装ってはみたものの、内心は高鳴る胸の音が聞こえてしまうのではないかと心配してしまうほどにヴァレリーは舞い上がっていた。

「ふふ、ちょっと頼みたい事があるの。いいかしら?」

微笑むカトレアを見て自分の心境を知られているのではないかと思ってしまう。
聡い彼女の事だからそれも十分あり得るだろう。

「私で出来る事なら喜んで」

頼みを快諾して連れてこられたのはカトレアの自室。
それはさながら植物園と動物園が入り混じったような趣であり、ヴァレリーは些か驚いた。

「怪我をしている動物を見るとほっとけなくてね。気が付いたらこんなにたくさんの子達に懐かれれてしまったわ。私は体が弱くてあまり外に出られないから大切な話相手ね」

ヴァレリーの表情を読んでそんな説明をするカトレアを失礼とも思うが不憫に思わずにはいられない。

「あらら、そんな顔しないで。この生活も結構楽しいのよ?それでね、貴方に頼みたいのはここにある花のことなの」

顔に出てしまったらしい自分の考えを反省し、カトレアが示した鉢植えを見る。
それは花こそ咲いているが弱々しく俯いている。

「日の光にはちゃんと当てていますし、水も十分に与えているのですが……お部屋ではやっぱりダメなのかしら?」
「ふむ、ゼラニウムにゴデチア、へーべですか。そうですね……先ずはゼラニウムですが、この花は湿気を嫌います。なので日当たりがよく、風通しの良い場所が最適ですね。やや乾燥気味に育てるのがコツですよ。この時期なら水やりの回数を控えめで大丈夫です。次にゴデチア、これも過湿を嫌うので水やりは控えめに。あとこの花に関してはやせている土のほうが良く育ちますよ。最後にへーべですが、これは剪定と一度寒さに当てる必要がありますね」

すらすらと答えるヴァレリーにカトレアは感嘆の声をあげる。

「まぁ、やっぱり貴方に頼んで正解だったわね。知らないことばかりで勉強になるわ。きっと貴方のお庭はさぞかし素敵でしょうに……見に行くことができないのが残念ね」
「私がカトレア様の病気を治せればいいのですが……」

心底つらそうな表情を浮かべるヴァレリー。
意中の人の事とあって自分のことのように、いや、自分のこと以上に胸が痛む。

「もう、褒めてるんだからそんな泣きそうな顔じゃなくて笑顔をみせてほしいわ。そうだわ、ちょっと此処に座ってもらえる?」

カトレアが促され化粧台の椅子に座るヴァレリーの後ろに立ち、彼の髪を梳かす。

「あ、あの……?」
「いいから座ってて、ね?」

戸惑うヴァレリーであったがカトレアが微笑むものだから従うしかない。
恋に勝ち負けがあるかは知らないが惚れた時点で負けかなっと思うヴァレリーであった。

「綺麗な髪ね」
「母から譲り受けたものだと聞いております。ですがカトレア様の髪もとても美しいです。その髪も相俟って、初めて貴女にお会いした時は女神ではないかと思ったほどですから」
「大げさね。でもありがとう、嬉しいわ」

櫛を置きカトレアが手に取ったのは黒色のシックなリボン。
ヴァレリーの髪を後ろで纏め、それで結ぶ。

「うん、よく似合っているわ。せっかくの綺麗な髪なんだから大事にしないとね。今日のお礼にはならないかもしれないけれど、これは貴方にあげるわ」
「よろしいのですか?」
「よろしいの。素直に貰っておくのも大事な礼儀よ」

諭すように優しく言ってコロコロ笑うカトレアを見ていると心が温まるヴァレリー。

「では、ありがたく頂いておきますね」

その言葉に満足したように微笑むカトレアはやはりヴァレリーにとっては女神のようであった。


思い返せば頬が緩む。あの後も色々話をしたもので、ヴァレリーはますます彼女に惹かれる一方であり、学院に帰ってからもその熱は冷めることがない。自分の年齢からいって、正直に気持ちを伝えてもどうにもならないことはわかりきっている。だがしかし、やはり彼女に想いを伝えたい。
悩んだ末にヴァレリーは一つの贈り物をするに至った。


それはヴァレリーが学院に帰ってから十日ばかり経った日のこと。
ラ・ヴァリエールの地で過ごすカトレアのもとに小さな箱とカードが届いた。

「まぁ、何かしら?」

添えられたカードには一言。


”我が庭に咲いた花を貴女へ”


そして箱にはライラックの香水とそれを飾るクロッカスの花。

「あらあら、ふふ、どうしましょう」

困ったような、それでいて嬉しそうに微笑むカトレア。
なぜならこの贈り物には初恋と青春の喜びが込められていたのだから。


それから幾分の月日を経る。ティールの月ともなれば陽射しも温かく成り始め、風が花の薫りと共に優しく頬を撫でる。日の光に当たるのはあまり好きではないヴァレリーであっても、この時期の陽射しは好ましく、庭先でハーブティーでもゆっくり楽しみたくなるほどである。

小さな実験室と一つの花壇から始まったヴァレリーの箱庭も二年半という月日の流れに沿い、さらなる拡充がなされた結果、広さで言えば縦横30メイル四方はあり、小さいながらも水を引き、ため池を新たに新設し、水辺の草木の栽培にも着手を始めている。

また実験室の方も同様に増築し水車小屋に蒸留塔、備蓄倉庫と順調に規模が大きくなっていく。まずそんなことはしないが、これらの全てを売り払えば小さな屋敷くらいなら余裕で買えるほどには資産価値があるという。魔法薬に携わる者なら垂涎の環境を整えていると言っていいだろう。栽培した秘薬や魔法薬の材料は自身が実験で使う以外は多くを学院に格安で卸し、一定の備蓄をしたうえで貴族や商人に少量を売っている。さらに作った魔法薬は質の良さから高値で取引され、月の収入はシュヴァリエの年金をはるかに勝り、今年で9歳になろうかという子供が持つ財産にしては馬鹿げている額を保有しているヴァレリーであった。

最近は実験の合間に新設した蒸留塔で酒を作るのがヴァレリーのちょっとした楽しみの一つと成っていて、ワインを蒸留して香草で風味をつけたアクアビットやラム酒、フルーツを原材料としたブランデーなどを作成している。しかし、未だ酒の良し悪しがわかる歳ではないので、もっぱらオスマンやエレオノールの感想を頼りに試行錯誤中である。
オスマン曰く「お主同様、さっぱりとしてはいるが未だ深みが足りない」とのこと。
酒においても人生においても深みを持ち始める歳月を経ていないのだから当然の答えではある。とは言うものの試飲する際は喜んで足を運びに来るので、オスマンの期待は高いのかも知れない。
その期待は酒の味についてか、ヴァレリーの成長についてか。きっと両方なのだろう。


さて、来月になればまた学院には新入生がやってくるが、その前には当然、学院を巣立つもの達もいるわけで、今日という日はまさしくそんな門出を祝う式典が学院内で催されている。

きっと今頃はオスマンが生徒諸君に向けて祝いの言葉でも送っていることだろう。
今回の卒業生にはエレオノールも含まれているので晴れてよかったと心より思うヴァレリーである。

ただ、それと同時にやはりさびしいものを感じずにはいられない。ここ2年において、父であるオスマンを除けば一番多くの時間を共にしたのは彼女だった。
長期休暇があればラ・ヴァリエール家に招いてもらい、虚無の曜日には二人で町に出ることもあった。演劇を鑑賞したり、町にやって来た楽団の演奏を楽しんだり、書籍商を冷やかしたりと。
学院でも実験を手伝ってもらっていたし、議論に花を咲かせた事も何度もある。
不覚にも何度か膝枕をしてもらったこともあるし、本に夢中になり過ぎて怒られたこともある。
軽く頬をつねられることも、優しく髪を撫でられることも、それら全てが大切な物であり、卒業という一時の別れとわかっていてもついつい目頭が熱くなってしまうヴァレリーであった。


学院内の敷地に留められている学生を迎えにきた大小様々な馬車がその仕度を整えた頃になると式典も終わり、学生達が出てきてそれぞれ親交を深めた者たちと暫しの別れの挨拶を交わす。
そんな中、エレオノールも同様学友との挨拶をすませると迎えの馬車を待たせ、ヴァレリーの庭へと向かった。

相も変わらず美しいその庭に足を踏み入れるとエレオノールの前に60サントほどの小さなゴーレムが現れ、可愛らしくお辞儀をするとこれまた小さな鍵穴のついた箱を差し出してくる。
エレオノールがそれを受け取るとゴーレムがトコトコと歩きだし振り返る。
少し歩いては振り返り、また歩いては振り返る。
どうやら彼は道案内をしているようで、エレオノールはそれに従うと庭の一画についた。

そこにはなんだか黒茶色になり萎んだ葉と枯れてくすんだ黄色になってしまった花を持つ一つの木があり、お世辞にも綺麗とはいえない。
よりにもよってなぜこのような場所に導かれたのかはわからず、不思議に思っているとゴーレムが木の前に立ち、再びお辞儀をした。
するとゴーレムは崩れ始め風と共に消えていき、後には一つの鍵が残った。

「これは、この鍵で箱をあけろってことかしら?ふふ、あの子は一体何を見せてくれるのかしら」

エレオノールが鍵を手に取り鍵穴に通すとカチっと小さな音と共に箱が開く。
中から現れたのはじょうろを持った小さな少女、驚いたことにじょうろも少女自身も水で出来ている。少女はエレオノールにお辞儀すると枯れた木に向けてじょうろを振る。
するとじょうろから水が流れ、枯れ木に降り注ぐ。

「まぁ!」

エレオノールが驚きの声をあげる。
それもそのはずで先ほどまで完全に枯れたように見えていた木が降り注ぐ水を浴び、見る見る元気になっていくのだから。葉は青く茂り、花は虹色に輝き、芳しい香りを放っている。

「その木はミロタムヌスと言うのです。ご覧になった通り水を暫く断つと一見枯れてしまったように見えるのですが、水を再び与えるとたちまち依然の瑞々しい姿に戻るので復活の木とも呼ばれています」

してやったりっといった顔でどこからともなく現れたヴァレリーが声をかける。

「見送りに来てくれないから来てみれば……まったく貴方には驚かされてばかりですわ」
「よかった、頑張って小細工したかいがありました」

折角の門出なのだからとヴァレリーが前々から準備していた彼らしいささやかな贈り物であった。
件の小さな箱には水石を利用した魔法がかけられていて、箱を開けると中の少女が水をまいてくれるという一風変わった魔法のじょうろである。


庭を散策しながら思い出話に花を咲かせ、小休止にと庭先でハーブティーを楽しむ二人。談笑の話題はこれからの事についてである。

「卒業後の予定は決まっているのですか?」

「そうね、私も今年で18になるし、結婚ということもありえますわね。ヴァリエール家は後継ぎとなる子息に恵まれなかったから私が婿を迎える必要がありますし……けれど本音を言えば婚姻はまだしたくないわね。研究職にでも就こうかと考えてますわ、幸い学院長からアカデミーへの推薦状を頂いていますし、実家で一度のんびりしたら訪ねてみようと思ってますわ」

「そうですか、エレオノール様は優秀ですからね。父上が推薦状を出すのも当然です。以前、お書きになった錬金についての論文はとても面白かったです。特に、ある物質を錬金を用いて違う物質に作り変えた時、出来上がった物質は限りなく本物に近いが、実は全く異なる未知の物質ではないかという仮説!そして、その未知の物質とは本来万物の性質を持ち合わせている物であり、錬金とは万物の性質を持つ物の生成とそこからの性質の喪失が本質ではないかとの結論!!考え出すと興奮してきます!!」

万物の根源は何ぞやと古代の哲学者達は思考し、その答えを探求してきた。エレオノールの考えにはそれに通ずる物があり、ヴァレリー自身は真理を追い求める哲学者ではないが知的好奇心を大いに擽られ、鼻息が荒くなる。また、完璧な物質と名高い賢者の石が実際に有ると仮定し、エレオノールの考え方をもとにすれば既に錬金により万物の性質を持つ物質を作り出している以上、その性質を失わせないための、又は全ての性質の保有を許す「何か」が必要であり、それこそが賢者の石、生成の鍵ということになる。その様な浪漫溢れるエレオノールの見解にはどう足掻いてもヴァレリーの鼻息は荒くなってしまう。

「そう言ってもらえるとやる気がでますわ。荒唐無稽過ぎてあまり興味を示してくれる人がいなくて。でも一番の驚きは貴方がこの研究文書で私が言いたいことを理解していることですわ。私より9つも年下というのが未だに信じられませんもの。貴方なら私の良き伴侶と成り得るのに……。あと10年早く生まれて来ることは出来なかったの?」

「無茶言わないでくださいよ。きっとエレオノール様のもとには私なんかより素敵な男性が現れますよ」
「そんななおざりな態度をとって……私なんかじゃ眼中にないってことね。悲しいですわ」

よよよと泣き崩れるエレオノール。もちろんヴァレリーをからかう冗談である。

「べ、別にそのようなことは!」

冗談とわかっていても女性の泣く素振りは男にとっては焦るものであり、やはりその点ではエレオノールが一枚上手なのは仕方がない事かもしれない。

「いいのよ……貴方はカトレアに夢中ですものね。あぁ、悲しいですわ」
「ぐっ……それは……」

実際カトレアに惚れているヴァレリーとしてはどう答えたものか言葉に窮する。

「今年もあの子にライラックの香水を送ったのでしょう?それもスターチスの花まで添えて。スターチスの花言葉は変わらぬ心。それに私、知っていましてよ、貴方の手帳にあの子の絵が描いてあるでしょう?」
「ちょ!??なぜそれを!!?」

完全にヴァレリーの反応を楽しむエレオノールと隠していた事実を突き付けられ焦りに焦るヴァレリー。彼の秘薬や魔法薬、その他様々な事が書かれた手帳には実際問題、カトレアを想って描いた絵があった。

それはある種の落書きのようなものであったが消すに消せずそのままにしておいたものである。
経験がある方もいるかもしれないが意図せず自分の落書きを見られるのは相当に恥ずかしいものである。ましてや想いを寄せる異性の姿を描いたものとあっては冗談抜きで顔から火が出るというもの。
おそらく今のヴァレリーが観光地で名高いラグドリアン湖に飛び込めば水温が一、二度上がるかも知れない。


「あんまりからかって泣かせてしまっては可愛そうですから今日のところはこの辺にしておいてあげますわ。もう時間ですしそろそろ発ちますわ」

散々ヴァレリーを弄り倒して笑顔で言うエレオノールはとても楽しそうである。

「エレオノール様は時折、意地悪です。そんなことでは将来の婿殿に逃げられても知りませんからね」

頬を膨らませて軽口を言うヴァレリー。せめてもの反抗である。

「あら、そんな失礼な事を言うのはどの口かしら」
「ひたひ、ほおを引っ張らないでくださひ」

結局、頬を捏ね繰り回され、アカデミーでの生活が落ち着いたら遊びに来ることとエレオノールの絵を描くことを約束させられて、エレオノールの馬車を見送ったヴァレリーであった。馬車が見えなくなるまでエレオノールを見送った後、庭に戻ったヴァレリーを待っていたのは父、オスマンである。

「父上、式典の方はお疲れさまでした。どうかなされたのですか?」
「今日はお主に耳寄りな情報を伝えに来たのじゃ」
「耳寄りな情報?」
「そうじゃ、しかと聞くがよい……」


やたらと思わせぶりな顔を作るオスマンに思わず息をのむヴァレリー。
あまりの真剣なオスマンの面持ちに何事かと緊張が走る。

「ミス・ヴァリエールの……」
「エレオノール様の……?」




「下着は黒じゃったわい!」
「「…………」」

一瞬の沈黙。思わず想像してしまったヴァレリーがハッと我に帰る。

「学院長ともあろうお方が一体何をしてるのですか!?は、破廉恥極まりない!!」
「お主、今想像しておったじゃろ?」
「べべべ別に想像などしていません!!」
「鼻血が出ておるが?」

思わず確かめてしまうがオスマンがにやりと笑う。当然鼻血などは出ていない。

「だぁー!なんなのですか!?何がしたいのですか!?おちょくりに来たのなら帰ってください!」

顔を真っ赤にするヴァレリーにオスマンが飄々と言う。

「かっかっか、怒るな若者よ。軽い冗談じゃ」

訝しげな目を向けるヴァレリー。オスマンは冗談だと言うが本当かどうかは怪しいものである。
使い魔のネズミのモートソグニルを使えば下着の色など簡単にわかるだろう。
一服盛ってお灸をすえてやろうか真剣に考えるヴァレリーであった。

「さて、本題じゃが今期から魔法薬の授業でお主の庭を使わせて欲しいのじゃ。文献をただ読むよりは実際に目で見て、感じた方が学習の効率は高いからの。その際、時折お主には教師陣の補佐をしてほしいのじゃ。授業の効率もそうじゃがお主の今後の為にもきっと役に立つはずじゃ。なに、ただでとは言わん。引き受けてくれればフェニアのライブラリーへの立ち入り許可をだすぞい」

フェニアのライブラリーとは学院の図書館の中でも教師や許可された者のみが閲覧を出来る貴重な文献を保存する書庫である。知を探求するヴァレリーにとっては魅力的な提案である。
些か授業の補佐は面倒であるが断るほどの理由にはなり得ない。
故にヴァレリーはからかわれたことなどすっかり忘れて申し出を快諾するに至った。

実のところ、この申し出には吸血鬼の血をひく息子に社会的な信用を与えんとする父としての画策があるのだが、それをまだ見ぬ貴重な文献の数々に目を輝かせるヴァレリーが知るすべは未だなかった。


この年から始まったヴァレリーの庭を使っての授業は概ね好評であった。
また、ヴァレリーは庭の手入れに実験、授業の補佐、空いた時間にはフェニアのライブラリーに入り浸り知識を吸収し、忙しい幼少期を過ごすのであった。





[34596] 004
Name: lily◆ae117856 ID:245b0a6f
Date: 2012/08/15 19:37
トリステイン魔法学院において、その入学を許される年齢は明確に決まっているわけではないが、概ね女子なら15歳、男子なら16歳で学院の門をくぐるのが国内における一般的な認識であり、なんらかの理由、例えばラ・ヴァリエール家の二女、カトレアのように病弱であったり、下級貴族出で領地を持たない者は学院に通わないこともあるが、学院を卒業することは貴族としての徳を高める一つの事柄であるのが事実で、今年も学院では多くの学生を迎え入れる準備をし始める季節となった。

ヴァレリーも16歳となり、夏になれば17歳、今年から学院に通うことになっている。
今年の新入生には陸軍元帥を輩出した名門、グラモン伯爵家の四男やトリステイン王家と水の精霊との盟約の交渉役を何代も務めてきたド・モンモランシ家の娘、また言わずと知れた大貴族ラ・ヴァリエール家の三女、ルイズもその名を連ねている。

ことルイズに関して言えば幼少より深めたラ・ヴァリエール家との親睦により、年に数回は訪ねていたので既知の仲ではあるが、他の者達は社交の場で多少の見聞が有る程度なので、今まで年上との付き合いがほとんどであったヴァレリーとしてはなかなかに楽しみであった。

年上との付き合いと言えばラ・ヴァリエール家の長女エレオノールは今でもアカデミーで研究に勤しんでいる。今年で26になる彼女はそろそろ結婚でもして落ち着いてもいい歳の頃ではあるが、ラ・ヴァリエール家を継ぐ男性とあって彼女のお眼鏡は相当に厳しい。

婚姻の申し出はあるが悉く実を結ばないのはそういった事が関係している。以前ヴァレリーが彼女のもとを訪ねた時は「ろくな殿方がいない」と酒の席で愚痴っていた。普段は優雅で品のある彼女が酒も入り、ブーたれる姿はいつもより幼く見えて可愛いと思ったのだが、言葉にすると頬を抓られるのでヴァレリーの心の内に留めてある。

また、二女カトレアは18歳になるとラ・ヴァリエール公爵より領地を分け与えられており、名字が変わりラ・フォンティーヌとなっている。これは公爵が病弱で家を出られず嫁ぐことができないカトレアを不憫に思った結果であり、つまり不自由な彼女でも婿を迎えるという形で結婚が可能であることを意味している。現在23歳の彼女はやや贔屓に見てはいるが美しく淑やか、それでいて可愛らしくどこか儚げな女性である。婚姻の申し出をするものも多く、ヴァレリーにとっては気が気ではない。幸いカトレアは全ての申し出を断っているが彼女の心を射止める者が現れる可能性は否定できない。贈り物や行動に気持ちを含ませてはいるが、未だカトレアに自身の気持ちを明確な言葉にして伝えていないヴァレリーはいよいよ正面切って告白に踏み切ろうと考えている。

実に10年越しの恋となり、カトレアからの好意も他の求婚者よりは高いと自負しているが初恋は実らないとも言うし、六歳も年下なのがヴァレリーの不安を掻き立てる。もしもカトレアから「ごめんなさいね、貴方は弟としてしか見てないわ」などと言われようものなら、ただでさえこもりがちなヴァレリーは完全に引きこもりになりかねない。「絶望は死にいたる病」と言ったのは実在主義の先駆者、キルケゴールであるが、下手な話し、男として自分が見られてなかったら落ち込み過ぎて死んでしまうかもしれないとヴァレリーは真剣に考えていた。

人は皆、平等に歳をとるがなるべく自分が歳をとって、それでいてできるだけ早く想いを伝えたい、あれこれ考えた結果、決戦は17歳になる夏と心に決めた青春真っ只中の坊やであった。

ちなみに名目上はカトレアが領主となっているラ・フォンティーヌの屋敷にはヴァレリーは知らないがカトレアが育てている花壇がある。そこには以前ヴァレリーが送ったこともあるクロッカスが植えられいるのだがこの花には青春の喜びという意味のほかに「貴方を待っています」という意味もあったりする。彼女もまた自身の気持ちを明確な言葉にはしていないが、はてさて彼女は誰を待っているのか、敢えてここでは語らずにしておこう。

さて、入学式を二カ月後に控えた現在、ヴァレリーはオスマンと二人、本塔の最上階にある学院長室にて書類仕事の真っ最中である。扱う書類は今年の新入生に関するもので、入学を希望する貴族から送られてきた書類に不備がないかを確認し、それをもとに一覧を作成、入学金の支払いを済ませたかを帳簿と照らし合わせた後、男女別、系統別に分けていく。

ヴァレリーが仕分けをし、オスマンが入学許可の書状にサインを認める。由緒正しき魔法学院の書状とあって羊皮紙などではなく質の良い紙が使われており、インクを乾かすために何枚もの純白の書状が広げられている。

ちなみにこれは余談だが、入学金を納めることからもわかるように魔法学院は無償ではない。国からの支援金と貴族から集める学費で運営されていて、赤字が出たからと言っておいそれと潰れるようなものではないが、金があることにこしたことはない。いい教育にはそれなりに金がかかるものである。学院では系統魔法の他にも一般教養として魔法薬学や魔法生物学なども教えるが、こちらの授業は系統魔法の授業より金がかかる。幸い授業の中で1、2を争う出費部門である魔法薬学は試料をヴァレリーから格安で購入しているため、ここ数年の経費の負担は少しは軽くなったものの、ほかの授業、たとえば魔法生物学などはマンティコアやヒポグリフ、グリフ ォンなどの維持費は馬鹿にならない。

また貴族が住まう寮とあって修繕費をはじめとする諸経費はかなり大きい。今しがたオスマンが手掛けている書状にしても100人近い学生に送るとなるとそれだけでも経費がかさむ。この時代、手紙を出すのにも金がかかる。まして貴族宛て故に庶民と同じ郵便網を使うわけにはいかず、遠方の地に大事な書状を送る際は風竜便を使うが、これも値が張る。普段はお気楽なじじいにしか見えないオスマンであるが教育への想いは学院長を務めているだけあって高く、毎年言葉巧みに国から支援金をふんだくってくる。そのせいか国の財務を担当するデムリ財務卿とは仲が悪いらしい。貧乏なトリステイン王国とあって教育の長たるオスマンも国庫を担うデムリ財務卿も苦労しているようである。

話を戻そう。
一足先に仕分けを終えたヴァレリーがお茶でも入れようと椅子から立ち上がり、凝り固まった体を伸ばそうとグッと背伸びをする。成長期を迎えたヴァレリーは身長は高いが線が細い。なにせ研究に読書と庭の手入れ以外はあまり動かない。容姿についていえば幼少からの中性的な顔つきからは幾分男らしくなったはものの、やはり女装でもしたら男から言い寄られかねない。威厳がある顔かといえばあまりないかもしれない。

オスマンやワルドのように髭でも携えてみれば少しは箔が付くかと思ったヴァレリーがヴェリエール姉妹に一寸相談したことが少し昔にある。エレオノールはもったいないと大反対、カトレアには散々笑われたあげく、ルイズに至っては頭は大丈夫かと心配された。そんなに似合わないわけはないだろう。失礼な人達だ。と試しに付け髭で試してみたら長女は下を向いて笑いを堪えているし、次女は笑い泣き、三女はお腹を抱えて大爆笑である。鏡を渡され自身の姿を見てみれば、そこには道化が一人。なるほど、まったく似合っていなかった。笑い過ぎて涙を流すカトレアがまた格別に魅力的なことと、人は自分のことには案外疎いのかもしれないと改めて学んだヴァレリーであった。

戻したそばから話が逸れてしまったが今一度話を戻そう。
立ち上がったヴァレリーを見てオスマンが言う。

「わしゃ、ブランデーがいいのぅ。ほれ、お主が作ったリンゴ入りのやつがあったじゃろ?あれが飲みたいのぉ」

血は繋がってはいなくともやはり親子、オスマンにはヴァレリーが何をしようとしているかわかるらしい。

「まだ、仕事中でしょうに。酒は終わってからにしてください」
「えぇい、よいではないか。ちょっとでいいんじゃ、ちょっとで」
「ダメです。そもそも休み休みやるからいけないのです。一気にやってしまえばそんなに時間もかからないでしょう。それをすぐに休憩と言ってパイプを吸うから―――」
「かーっ!小姑のようなことを言いおって。年寄りと若い者を一緒にするでない!流れる時間が違うのじゃ!」
「はぁ、子供の頃は父上ももう少し威厳があった様に思うのですが……」

ため息混じりに嘆くヴァレリー。

「わしのこのような行動がお主の自主性を育んでいることに気づかんとはお主もまだまだ子供じゃの」
「えぇ、えぇ、私は子供ですよ。加えて言うなれば私は新入生です。新入生が新入生を迎える仕事をするのもおかしいですね。さて、私は由緒正しい魔法学院に入学するにあたって勉強でもしておこうと思います。それでは父上、お一人で頑張ってくださいね」
「待てーいぃ!わかった。酒は後でいい。老い耄れを一人にせんでくれ、可哀相じゃろ?」

捨てられた老犬よろしくな哀愁を漂わせてくるオスマン。

「自分で可哀相などと言ってしまうのはどうかと思うのですが?」
「まったく、くそ真面目な成長をしおってからに……誰の影響かの?だいたいお主、学院の座学程度ちょろいもんじゃろ」
「私は父親の背中を見て育って来たつもりなのですが、はてさて、私の父親とは何処の誰なのでしょうね」

オスマンが言う様に座学について言えば実のところヴァレリーは学院に通う必要がないほど優秀である。0歳から学院で過ごしてきたヴァレリーは授業に忍び込むこと数知れず、元来頭の回転が早いこともあり知識の吸収は著しい。加えて幼少からのフェニアのライブラリー入りである。たとえ今すぐアカデミーで働き出しても問題ないだろう。生涯学習は伊達ではない。加えて言うなら魔法のレベルも火はからっきしだが水はトライアングルにまで成長しているヴァレリーであった。

「さて、話は変わるが、お主には今年の一年生の魔法薬学の講師を務めてもらうぞぃ」
「はい?」

自身の耳を疑ったヴァレリー。念のために言うがヴァレリー・ヘルメス、16歳。今年からトリステイン魔法学院に入学予定である。

「一年生の魔法薬学の講師を務めてもらうぞぃ」
「あの……父上?重ねて言いますが私は新入生なのですが……?」
「一年生の魔法薬学の講師を務めてもらうぞぃ」
「ですから私は新入「一年生の魔法薬学の講師を務めてもらうぞぃ」」

梃子でも考えを変えそうにない父親を見て、先に折れたのは息子である。

「はぁ、わかりました。謹んで務めさせていただきます」

一応の承諾はしたものの、自分に講師としての務めが果たせるのかという疑問がヴァレリーの中に残る。好きだからこそ魔法薬に携わり、知識を蓄えてきたが個人の技量と物を教える巧さとは別であろうと。正直な所、上手くやれるかが心配であった。

「これはわしの自論じゃが教育において、ひいては人生において大事なのは広い心と厳しさを併せ持つことと探究心と遊び心を忘れぬことじゃ。精進せい。我が息子よ。それともう一つお主に任せたいことがあるんじゃが」
「まだ、何かあるんですか?」
「そんな露骨にめんどくさそうな顔をするでない。ほれ、広い心じゃ」
「厳しさも併せ持つように今し方教わりましたが。まぁいいです。して、もう一つとは?」
「うむ、この二人の事じゃが……」

仕分けした書類から2枚を抜き出し机に並べるオスマン。

並べられた書類は留学生のそれであり、そこにはキュルケ・アウグスタ・フレデリカ・フォン・アンハルツ・ツェルプストーとシャルロット・エレーヌ・オルレアンの名義が書かれている。

仕分けをする際、一度目を通しているが再度その書類にヴァレリーは目を落とす。

前者のツェルプストー家はゲルマニア貴族。ヴァリエール家と国境を挟んだ隣に位置しトリステイン・ゲルマニア両国の戦争ではしばしば杖を交えた間柄である上、ヴァリエール家の恋人を先祖代々奪ってきたという因縁があると聞き及んでいる。肩書きを見れば火のトライアングルという学生にしては優秀過ぎるほどであるのに本国ゲルマニアのヴィンドボナ魔法学校を中退とある。

後者のオルレアン家といえばガリア王族であるが、大国ガリアからわざわざトリステインの魔法学校に来るうえにタバサという偽名を使うとのことなのだから何か問題を抱えていることが窺える。
王族が学院に通うこともなくはないが現トリステイン王女のように学院には通わず特別教育がなされることが多い。他国の王家の事情について博識なヴァレリーといえど明るくはないが現ガリア王、ジョゼフ一世の治世における覇権争いにおいてはじき出されてしまったのだろうと憶測するヴァレリー。こちらもトライアングルレベルで系統は風、驚いたことに14歳にして既にシュヴァリエとして爵位を得ていると書類には書かれている。爵位としてはシュヴァリエは位の低いものだが実力とそれに見合った功績なくしてこの地位は得られない。魔法の才能と彼女の苦労がそれだけで読み取れる。

「一から十まで面倒を見ろとはいわん。彼女らも幼子ではないのじゃからな。しかし、気にかけておくように。なに、友人として共にあれば良いのじゃ。案外、良き友人として一生の付き合いになるかも知れんしの」
「わかりました。国外の友人を持つというのも折角、人が集まる学院生活なのだから面白いかもしれませんしね」
「あぁ、それからもう一つあったわい」
「もう聞きませんよ」
「おや、そうかの?お主宛てに手紙が届いておるのじゃがな。仕方ない。わしが読んでやろうかの」

オスマンが懐から取り出したのは2通の手紙。見ればエレオノールとカトレアから送られたものである。オスマンが封を切ろうとしたのを見てヴァレリーが手紙をひったくる。

「私宛の手紙です!父上と言えど許しませんよ」
「冗談じゃよ」

二人からの手紙には入学を祝う言葉と末の妹であるルイズをよろしく頼むと綴られている。特にエレオノールからの手紙には彼女がいかにルイズを心配しているかがうかがいしれる。原因はわからないが未だコモンスペルすらまともに成功しないうえに性格も家族の中では一番似かよっているので学院で苦労するだろうと。エレオノールもヴァレリーと出会うまでは学院での生活はあまりうまくいってなかったものである。

気にかけるべき人物が3人に増えたが他ならぬ二人の頼みである。また、ルイズは周りが年上ばかりの生活をおくってきたヴァレリーにとっての初めての同世代の友人でもある。誰から言われるでもなくルイズに何かあれば手をかすことに何ら謂れはない。

オスマンが書類仕事を終えたのはヴァレリーが手紙を読み終え、お茶を入れてから少し経った頃。
椅子から立ち上がり腰をトントン叩くと口を開く。

「ふー、やっと終わったわい。支度をせい。町にでるぞい」
「今からですか?着く頃には日が沈んでしまいますが?」
「よいのじゃ、お主に入学祝いをくれてやろうと思っての。あとブランデーを忘れるでないぞ。わし、頑張って仕事をしたじゃろ?」
「はいはい、わかってますって」

馬車に揺られること数時間、酒も入ってほんのり顔の赤い二人が町に着いたのは月の優しい光りが町を包み、家々からもれる灯りと談笑の声が飾るそんな頃合い。

オスマンの導かれるままたどり着いたのは大通りから外れた一軒のお店。
もれるのは談笑の声ではなく嬌声。夜の蝶が舞う淫靡なお店である。

余談だが商いの歴史において春を売るお仕事というのは人が物を扱う様になった当初からある。いつの世もそれなりの需要があるもので、時代を経る毎に彼女達が得る金額は多くなっていく。高級娼婦ともなれば庶民が畑を耕して得る金額の何十倍もの金を手にすることもあるとのこと。

「お主は花は摘めど華は摘んどらんからな」

上手いことを言ったつもりかオスマンはしたり顔である。

「余計なお世話です!いいですか父上、私には心に決めた人がいるのです!」
「ヴァリエール家の二女じゃろう?知っておるわい。じゃがな、仮にお主の想いが叶ったとして、ことに及んだ時、手間取ってみろ、男として恥じじゃし女性に対して失礼じゃぞ。別にそれが全てなどと言うつもりはないが、床の礼儀を知る事は男児足る者必要なことであるぞ」
「それは……」

知識として知ってはいるが経験はないヴァレリーである。
興味がないと言えば嘘になる、ヴァレリーも男である。どのような時代に於いても「床が下手」などと言う言葉は男児足る者全力で回避したいもので、言われたら落ち込む言葉の三指に入るのではないかと思う。貴族の子息の筆下ろしなどは何処も似たようなものであるし、歳の頃からいっても別段早過ぎるなどということはないが、意中の人がいる者とそうでない者では心中の葛藤には大きな違いがあることだろう。

珍しくあたふたするヴァレリー。
一寸悩んだのがいけなかった。

「えぇい!いいから行ってこい!」

あろうことかオスマンは杖を抜き出しヴァレリーを風の魔法で縛るとそのまま店内へと押しやった。

「あら!いらっしゃい、ようこそ『月夜の女神』亭へ、可愛い坊や」

長いキセルをふかしているきわどい服装の女将がカウンターで妖艶な笑みをこしらえる。

「さて、お相手はどの子がいいかしらね。ふふ、なんなら私でもいいわよ」
「こやつは初めてなのじゃ、一人前の男にしてやってほしい」

それだけ言うとオスマンは金の入った袋をおかみに渡し、何処かへ行ってしまう。
袋の中身を確認し、にっこり笑う女将が口を開く。

「これは随分と気前がいい。うちは貴族様のお客も多い。王都トリスタニアにだってうちほどの質の店はそうはないよ。忘れられない夜を坊やに贈るわ。メル!リリア!とびっきりのお客さんだよ!」

おかみの声に応じて現れたのは二人の女性。一人は童顔で小柄な女の子で切り揃えた肩までの明るい髪とフリル付きのドレスをまとった元気そうな子である。もう一人はシックなドレスに身を包んだスラっとした女性で夜会巻きにした髪がよく似合っている。こちらは大人な魅力を感じる女性である。

「こんばんわぁ、お兄さん!私はメルチェ。メルって呼んでね」

ヴァレリーの腕に抱きついた小柄な女の子が自己紹介をする。服越しからでも伝わる柔らかな感触。見かけによらずいけない果実を有しているらしい。

「私はリリアだ。よろしく坊や。メル、お客様をお部屋へ」
「はーい。こっちだよぉ、お兄さん」

腕を引かれるままに通された部屋は大き目のベットが一つにお洒落な丸テーブルが一つ。
魔法の蓄音機からは静かに音楽が流れている。
テーブルを挟んで椅子に腰かけるとリリアがワインを注いでよこす。
タルブ産の上物だそうだが緊張のあまり味はよくわからない。
ワインを飲んでいるうちにメルチェがベットメイクを終え、香を焚く。
脳髄を刺激するような官能的で悩ましい香りである。

「それじゃぁ、お兄さん。今宵は夢と思わんばかりの至福の一時を」

さて、夜は長いがこの後がどうなったかは此処で書くことは憚られる。
なにせこのお話は全年齢対象である。ただ、女性の裸体とはかくも美しいものなのかとヴァレリーは思ったそうな。「美しいものに触れたいと思う心は人の性である」と括るのは男児の言い訳を美化しすぎであろうか。


時と場所を変えよう。
春の香り漂うフェオの月、第二週、ヘイムダルの週の始め、学院には入学式を控えた新入生が集まり出している。入学式の日時は決まっているが、それまでに到着すればいいわけで、早い者は一週間前に学院の土を踏んでいる。もっとも、一番早くに学院の土を踏んだ新入生はヴァレリーに他ならない。なにせ生まれた時から学院にいる。

入学式の二日前ともなれば新入生がぞろぞろと馬車に揺られやってくる。学院の門の前には大小様々な馬車が長蛇の列をなしている。各貴族の使用人も含めると普段より倍近い人数が学院に集まっているので学院で働く使用人たちは大忙しである。

そんな喧騒を余所にヴァレリーは目下庭の手入れ中である。早いもので彼の庭も10年目、広さは縦100メイル、横75メイルほどに拡大されており、水石を利用して常に清らかな水が流れ、火石を利用した温室まである。特に温室には金がかかっており、一面ガラス張りに加え、適切な湿度と温度に調節できる装置を火の系統の教師であるコルベールと考案し稼働中。この装置のおかげで季節をずらした栽培と気候柄不可能であった草木の生育が可能になった。

装置の完成とその成果にヴァレリーとコルベールは小躍りしたとか。
研究好きな二人は歳は離れていても気が合うらしい。

かなりの広さになった庭だが、もちろんヴァレリー一人で手入れをするには限界なので3人ほど学院の庭師を借りている。平民の個人の年間生活費が大凡120エキューである中、手当は一人当たり月15エキュー、学院の方からもお給金は出るので平民の個人が稼ぐ額としてはかなりいい方であるだろう。

また実験室の方も広くしており、蒸留塔や備蓄倉庫はさらに大きくなり、棚には薬品や試料が幾つも並び、大きな長机は実験器具で占領されている。その少し脇にはびっしりと本が詰まった本棚と勉強用の大きめな丸テーブル、その奥にベットやら生活品が並ぶ。貴族が住むような空間ではないかもしれないがヴァレリーにとっての城である。下手をすると三日は籠りっ放しで出てこないこともあるという。何時のころから寝起きもこちらでし出したので元々の自室はほとんど使っておらず物置と化している。本来学生は寮で生活するがオスマンから魔法薬学の試料の管理として寮に住まなくてもいいとの許可をもらったのでこちらがヴァレリーの実験室兼居住スペースである。

草木の剪定をしていると庭師の一人に連れられて見知った顔の少女がヴァレリーのもとにやって来た。桃色がかったブロンドで小柄な少女、ヴァリエール家の三女ルイズである。

「やぁ、ルイズ。入学おめでとう。それと我が箱庭へようこそ」
「ありがとう、貴方もおめでとう。夏以来ね。馬車の中からこの庭が見えたから学院に入る一足先によってみたんだけど、驚いたわ。エレオノールお姉さまがやたら褒めていたからどれほどのものかと興味があったんだけど、まさかこれ程とはね」
「私のささやかな自慢だからね。立ち話もなんだ、お茶でも入れよう。馬車に揺られるのも疲れただろう」

研究室前の庭を見渡せるテラスに場所を移し、歓談する二人。

「そういえば貴方はどのクラスなの?」
「私はソーンだな。君は確かイルだったな」
「そうなの?一緒じゃないのね。クラスに見知った顔がいてほしかったんだけど」
「なに、一年時はクラス合同で授業することも多いから顔を合わせる機会も少なくないはずだ」

一学年はソーン、イル、シゲルとそれぞれ伝説の聖者の名が振られた三つのクラスに分けられる。
クラス分けの際に立ちあっていたので概ねの内訳は知っているヴァレリー。先に彼が言ったようにルイズはイル、グラモン伯爵家の四男やド・モンモランシ家の娘はシゲル、ヴァレリーやタバサ、キュルケはソーンとなっている。ヴァレリーがこの二人と一緒なのはオスマンの仕業であるのは言うまでもない。一つのクラスにトライアングルのメイジが3人集まってしまったがクラス対抗で競うようなことがなければとりあえず問題はないだろう。

「でも、私…魔法が……」

一変して暗い顔をするルイズ。なぜか全ての魔法が爆発という結果を招くので、未だ初歩であるコモンスペルすら使えない彼女は学院生活に不安を覚えるのに無理はないかもしれない。

「やはり爆発してしまう?」
「うん、試してみる?」
「いや、遠慮する。庭が消し飛んだら困るし」
「んな、別に消し飛んだりしないわよ!せいぜいこのテラスが無くなるくらいだわ!」
「それも困るんだが……。また今度、安全な場所で見せてもらうから。友人の魔法で死にたくないし」

意地悪な顔をして言うヴァレリー。ルイズとは長い付き合いなのでこのくらいの軽口なら二人の仲でなら大丈夫だろう。ヴァレリーとしては大切な友人でもあり、歳が近い妹のような存在、それがルイズである。

「もう、なによ。可愛い友人が困っているっていうのに!」
「悪かった、悪かった。お詫びに私のクックベリーパイを献上するから許しておくれ」
「お茶のおかわりも要求するわ」

ヴァレリーがお茶を注ぎ、ルイズがパイを頬張る。

「でもまぁ、真面目な話、君は魔法の才能がないわけじゃないと思うんだ」
「どの呪文を唱えても爆発しかしないけど?」

「そうさ。その爆発の威力だけ見ても軽くトライアングルクラスのスペルはあるだろう。クラスが上がれば魔法の威力も上がる。言いかえれば既にトライアングルスペルが使えるだけの力があるということにならないか?私も一応水のトライアングルだが君と真っ向からの攻撃魔法の打ち合いをしたら私の負けだろうし、下手をしたら学院の生徒の中で君の爆発の威力に敵う者はいないかもしれない」

「うーん、そういう考えもあるのね。でも失敗は失敗。はぁ~、せめてコモン・マジックくらいはちゃんと使えるようになりたいわ。このままじゃ二つ名も付きやしないわ」

ブーたれるルイズ、エレオノール様が酔った時もこんな感じだったなっと思うヴァレリー。やはり姉妹なので行動が似ている。

「全てを消し飛ばす『爆発』のルイズなんてどうだい?」
「却下よ。可愛くないもの。でもこのままだと本当にそんなのが付きそうで嫌ね。貴方が羨ましいわ、『水花』なんて美しい名があって」
「男らしいとは言い難けどな。やはり髭でも……」

どこから取り出したのか付け髭を手に持つヴァレリー。

「ぷっ、やめて。思い出しちゃうから。似合ってなかったから!」

あまりルイズが卑屈になっても困るのでおどけて見せるヴァレリー。
やり口がオスマンと似てきているのは親子だからだろう。

「さて、そろそろ学院の門をくぐりに行こうか。案内するよ、ここの図書館は何時間いても飽きないぞ」

立ち上がりルイズの頭にぽんっと手を置くヴァレリー。

「確か棚が30メイルはあるって聞いたんだけど、それだと私、手が届かないわ」

必然的に上目使いでヴァレリーを見ることになるルイズだが流石は美少女だけのことはあり、その仕草は可愛らしい。

「肩車でもしようか?」
「む、貴方は私を子供扱いし過ぎよ。淑女はそんなことしないわ」

ヴァレリーの手を振り払い、眉をひそめるルイズに今度は手を差し出す。

「それは失礼いたしました。では改めて。レディ、私が学院を案内致しましょう」
「まったく貴方は。そうね、お願い致しますわ、ジェントルマン」

手をとり立ち上がると二人は花のアーチを抜けて学院へと向かった。


正門の前に列をなす馬車から見えることからわかるようにヴァレリーの庭と研究室は学院の外壁の外にあり、正確に言えば正門から向かって右側、水の塔から外壁を挟んだ向かいに位置する。正門を抜けた二人は多くの馬車が止めてあり、今年の新入生を見物に来た在校生がちらほら見えるアウストリの広場を通り、外壁沿いにぐるりと一周した後、本塔にある図書館へとやって来た。

天井も高く、広い空間には古書の独特な匂いが漂う。
ふと前を見ればそこには体格に似合わず大きな杖を持った青い髪の小柄な少女がぽつんと立っていた。制服ではないので新入生であることがわかる。首を小さく左右に振っているところから察するにどこにどういった本があるかわからないのだろう。トリステイン国内において青い髪は珍しい、加えてガリアのオルレアン家の青い髪の色は知れている。おそらく彼女がタバサことシャルロット・エレーヌ・オルレアンだろうと憶測をつけるヴァレリー。父、オスマンからも言われているうえにルイズに図書館の説明をするのだから彼女もついでにと思い少女に声をかける

「ミス・タバサ」

声をかけたのにも関わらず一向に返事はなく振り向いてすら来ない青い髪の少女。

「ん?知り合い?」
「いや、知り合いではないが確か同じクラスになった子だったと思うのだが……違ったのかな?」
「そこの青い髪の大きな杖を持った君」

もう一度呼びかけるが反応はない。ほかに青い髪の子も大きな杖を持った子も周りにいないので呼ばれていることはわかっているはずであるし、書類には耳が悪いとは書かれていなかったので聞こえているはずなのだが。どうやら無視されているらしい。
それに気づいたルイズが少女に声をかけようとする。

「ちょっと、あな「いや、いいよ」」

それを止めてヴァレリーが口を開く

「急に声をかけてすまなかったね」

猶も彼女は振り向かない。

「それでいいの?完全に無視されていたけど?」
「まぁ、いいさ。彼女もいきなり知らない男から声をかけられても困るだろうしさ。同じクラスなんだしその内、話す機会もあるだろう」
「まぁ、貴方がそれでいいなら私がとやかく言う事じゃないけど……」
「そんなことよりこの図書館の説明を少ししよう」

少し声を大き目にして無視をづづける少女にも聞こえるように話すヴァレリー

「大まかに言って向かって左の一画が系統魔法関連の棚になるな。奥から水、土、火、風の順だ。中央の一画は魔法薬学や魔法生物学、歴史なんかの系統魔法以外の本が置いてある。右は小説やその他の書き物。奥には自習用の机が並んでいて、さらにその奥にはフェニアのライブラリーがある。こちらは教師や特別な許可がないと入ることは出来ないけどね。貸出は入り口か奥のカウンターでカードにサインをすれば大丈夫だ。ちなみに本を汚したり、壊したりすると司書が悪魔の形相で襲いかかってくるから注意が必要だ。私も以前、実験に失敗してここの本を何冊かダメにしてしまったことがあるんだがあの時は恐ろしかった……。罰としてここの本の棚卸をやらされたんだがいかんせん数が数だけに一日がかりでやっても2週間以上かかった」

説明を終えると始めて青い髪の少女、もといタバサが反応を示した。
といってもこちらに振り向いてヴァレリーを少し見ただけだが。

「お役に立てたかな?」

タバサは小さく頷くと短い礼だけ述べて奥の棚へと進んでいった。

「愛想のない子ね」
「まぁ、人それぞれだからな。しかし入学前から図書館に来るくらいだ、本が好きなのかも知れないな。本が好きなのはいいことだ」

うんうんと頷くヴァレリー

「貴方も大概本好きよね」
「知らないこと、新しいことに触れるのは楽しいからね」

それから図書館で少し物色した後、ルイズを寮まで送り二人は別れた。
ルイズも数冊、自習用に借りたようで入学式まで暇だから勉強するのだそうだ。魔法は爆発しかしないが元来ルイズは頭がいいし、努力家である。ルイズに負けまいとヴァレリーも研究室に戻る事にした。学生の立場として座学を勉強する必要はさほどないがヴァレリーに至っては教師として授業をしなくてはいけない。どういった薬の調合が学生の興味をそそるのか、難易度はどれくらいがいいのだろう?そういった事を考えながら当面の授業計画を立てる。

大方の授業計画をまとめ終わり軽く庭を見て回ったあと、ヴァレリーはローブに着替え、肩まで伸びた髪を黒のリボンでまとめると授業で使うための薬を幾つか作りそれが終わると夕食を誘いにルイズの部屋まで訪れた。

「もう、そんな時間?」

どうやら勉強に没頭していたらしいルイズは扉から顔を出すとそんな事を言う。
食堂は多くの学生で賑わっていて仲間内で談笑する者や新入生同士でぎこちない会話をする者、新入生に話しかけている在校生が多く見受けられる。やや女子生徒を口説く男子生徒が多い気がするが物事においても恋愛に関しても出始めが重要であるとも言うわけで不思議なことではない。

ルイズとヴァレリーの二人は空いている席を見つけ軽く話を挟みながら夕食をすませるとワインを飲みながらそのままあれやこれやと話し、くつろいでいる。

そこにやって来たのは一人の新入生。

「やぁ、そこの可憐な二人組。同じ新入生同士、仲を深めないかい?」

声をかけたのは金髪で派手な服装をした男子生徒。胸には薔薇の造花。ここで重要なのは彼が「可憐な二人組」と言ったところだ。彼はヴァレリーの後ろからやって来たわけで現在ヴァレリーは男子も女子も着るローブ姿。加えて肩まで伸びた銀の髪を黒のリボンで結っている。そう、後ろ姿は背の高い女生徒に見えなくもないのだ。

許可を取ることもなくヴァレリーの横に座った彼は頼んでもいないのに自己紹介を始める。

「僕はギ―シュ。ギーシュ・ド・グラモンだ。そちらの桃色の髪が素敵で可愛らしい君はミス・ヴァリエールだね。何度かパーティで会っているんだけど覚えていてくれてるかな?」
「ごめんなさい、失念してしまったわ。改めて私はルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールよ。よろしくね」
「そうか、まぁヴァリエール家に挨拶する家は多いからね。残念だが仕方がない。僕と君との間には少なくともこれから3年間の時間があるわけだし、ゆっくりお互いを知って行けばいいだけさ」

そう言ってルイズにウインクすると今度はヴァレリーの方を向くギ―シュ。

「こちらの月の光のように美しい髪の凛とした君の名前を今一度教えてくれるかい?どこかであったような気はするんだけど僕としたことが失念してしまったみたいなんだ」

ヴァレリーが男だと知っているルイズや周りの在学生は面白がってニヤけている。
ここで悪ノリしたのはヴァレリーである。自身が女顔であるのは自覚しているのでギ―シュが自分を女だと思っているのはわかる。そこで裏声を使っての受け答えである。

「私はヴァレリー・ヘルメス。よろしく、ミスタ・グラモン」
「そうか、そうか!ミス・ヘルメス、此方こそよろしく頼むよ!そうだ、良かったらこれから3人で僕の部屋で飲まないかい?君たちのような美しい女性と語らうことは僕にとって至高の一時となるだろう」

ルイズは笑いを堪えて俯き肩を揺らし、在校生は隠すことなく笑っている。
どうやらギ―シュはヴァレリーを口説くのに夢中で気付かないようであるが。

「ぷっ。い、いいんじゃ、ないかしら。どう思う?ミス・ヘルメス?」

ルイズが笑いを堪えてなんとか言葉を発する。

「そうね、私もいいと思うわ。でもね、ミスタ・グラモン。一ついいかしら?」

誘いに乗って来た美女二人?に上機嫌のギ―シュはそっとヴァレリーの手を取り、優しく囁く。
きっと心の中では諸手を上げて喜んでいるに違いない。

「なんだい?言ってごらんよ。ミス・ヘルメス」

演技をやめ、いつもより低めの声でヴァレリーは端的に言う。

「私は男だぞ」
「あはは、君は冗談が上手いな。……冗談だよね?」
「紛うことなき事実だが?」

念の為にルイズにも確認するギ―シュだが、答えは当然変わるわけもなく、今更になって周囲が皆笑っている事に気付く。美人に目がないのはグラモン家代々の御家柄であったが、間違えて男を口説いたのは彼ぐらいかもしれない。驚きやら嘆きやらで呆然とするギ―シュを見ると些か遊びが過ぎたかと逆に心配になってしまう。

「何もそこまで落ち込まなくても……いや、うん。騙してしまって悪かったよ。これから飲み直すのだったね。いい酒を持参するからさ?」
「え……あっ、いや、まぁ、いいけど。はぁ、美しい羽を持った蝶は何処に行ってしまったのか……」

溜息をもらすギ―シュ。きっと彼の見た優雅な蝶は夢の彼方に飛び去ってしまったのだろう。
それから3人は夜更けまで騒ぎ、お互いの名を気軽に呼ぶ仲になったとか。ギ―シュ・ド・グラモン、彼こそがヴァレリーの生涯を通しての盟友となるが、その出会いはなんとも締まらないものであった。
入学式を二日後に控えたある一日の出来ごと。
春といえば出会いの季節、それは恋人との出会いだけではなく友とのそれもまた然りである。







[34596] 005
Name: lily◆ae117856 ID:245b0a6f
Date: 2012/08/16 16:22
新たに学院にやって来た若人達が真新しい白いシャツに袖を通し、学院の生徒たる印のマントを羽織る。金の五芒星が象られたマントの留め金が春の麗らかな陽射しを受けてキラキラと光る様はまるで彼らの学院生活に寄せる期待を表すかのようであり、オスマンは学院長室からをそれを眺めると穏やかな顔を浮かべた。さながらそれは子を慈しむ親のそれであり、彼にとっては学院の生徒は皆大切な存在であることを窺わせる。

ふと眼を向けるのは水塔の向こう側、ヴァレリーが住まう研究室。

―――励めよ息子よ。そして良き友を見つけるのじゃ。それがお主にとっての宝となろうぞ。願わくば我が最愛の息子に幸多からんことを……。

全ての生徒の親である前に一人の父親として言葉を贈る。
僅かばかりのえこ贔屓も今この一時は許されよう。


さて、今日という日は入学式。ヴァレリーは早くに目が覚めてしまったので庭を見て回った後に身支度を整えた。磨いたブーツにアイロンをかけた黒のスラックス。おろしたてのシャツの上からマントを羽織る。女性すら羨む銀の髪に櫛を通し、カトレアから貰ったお気に入りの黒のリボンで結えば凛として頭の良さそうな新入生の出来上がりである。因みに髪を結っているリボンは黒だけでなく、カトレアから貰ったモノも何本かあるのだが、やはり一番のお気に入りは最初に貰った黒のリボンである。既に10年近く使っているにも関わらずカトレアへの想い同様、まったく色褪せる事がない。もちろん魔法で手入れをしているがそれ以上に大事に扱っているのである。

早々に仕度が済ましたところで、はたと気付く。入学式は午後からの予定である。これでは随分と時間を余すことだろうと。今までずっと学院で生活してきた故にそこまで感慨深いことではないとは思っていたが、やはり心のどこかで期待しているらしい自身の心をヴァレリーは少し可笑しく思った。今更、庭の手入れや実験でもして制服を汚すのもないだろうとテラスの椅子に腰かけ、読みかけの本に目を落とす。

本へ目を落として少しばかり経った頃、テラスへやって来たのはルイズとギ―シュの二人。彼らも早々に仕度を終えてすることが無くなったくちである。

「ねぇ、ヴァレリー!ギ―シュに言ってやってよ!私が言っても聞かないんだもの!」
「これのどこがいけないんだ?僕の華々しい学院生活の幕開けに相応しいと思うんだが……。君はどう思う?」

二人を見ればルイズはきっちり制服に身を包み新入生らしい格好をしている。
そしてギ―シュの方は……よく言えば個性的、悪く言えばどこぞの道化。つまりは気障全開な服装であった。彼らしいといえば彼らしいが襟が立ちフリル付きのシャツの胸元を開け放ち、極めつけに紫の細身なズボン。舞台に立つ役者ならば注目を集めるための工夫と言えなくもないが、人生という舞台においては装飾過剰感が否めない。ギ―シュはさもカッコイイだろうと言うような顔でマントを広げポーズを決める。勿論、口に薔薇を咥えるのも忘れない。

見せつけるようにくねくねするギ―シュを見てヴァレリーは一つ大きなため息。

「はぁ、ルイズが正しいと思うが」
「えぇ~!?なぜ!?最高にカッコイイじゃないか!?」

ルイズは「当然よ」といった面持ち、対するギ―シュは納得行かない様子だ。

「いや、まぁ似合ってないとは言わない。君らしい服装だしな。ただ、あまりにも君らしさが溢れ出ていて入学式、式典の場では相応しくないんじゃないかと思うんだ。あまり魅力を出し過ぎて周りの女の子が倒れてしまってはいけないだろ?」

引くことはあっても倒れることは先ず間違いなく無いと思うが、下手に意地を張られてこのまま入学式に出られては友人として困るので言葉をうまく使うヴァレリー。これに気を良くしたギ―シュは満面の笑みである。

「さすが!さすがは僕の友だけのことはある!!そうか、魅力が溢れ出てしまっていたか!それはいけないな、いくら美しい僕の姿に見惚れたとしても倒れてしまっては可愛そうだ。あぁ、僕はなんて罪な男なんだ!仕方ない、誠に、ま・こ・と・に遺憾だが着替え直そうではないか!」
「言ってなさいな、まったくもう」

呆れ顔のルイズ。彼女にしろヴァレリーにしろ、ギ―シュとは出逢って間もないが彼の人と成りは大凡掴めていた。それは二人が特段、人を知るのに長けていたからではなく、単純にギ―シュの性格が分り易かったからだ。人より目立ちたい、美しくありたいと思う心は人ならば持っていて然るべきことであるが彼は些かそれが他より強く、やや独特。それが彼の原動力であり、矜持でもあるのだ。それでも何処か憎めないのは、彼が素直に人を称賛し認めることが出来る人物であったからであろう。曰く「勿論、嫉妬をすることもあるさ。だけどね、嫉妬をしている自分はとても醜くて美しくないと思うんだ。僕はそんな自分は嫌だね」とのこと。そういった彼の気質にルイズやヴァレリーは好感を持った。

「そうか、ルイズ。君も僕の溢れる魅力に当てられて大変だったんだね!ごめんよ、それならそうと言ってくれればよかったんだ」

ぽんっと手を打ち、然も有りなんとギ―シュが言う。

「誰がよ!!」
「君が!僕に!!くびったけ!!」

一語言う毎にポーズを決めるギ―シュ。
そこで繰り出されたのはルイズの黄金の右手である。
身長の低さを活かし懐に入り込むと見事に鳩尾へストレートを放った。

「ぐはっ!?る、ルイズ……何もそこまで照れなくても……」
「何か言ったかしら?」
「うぐっ!?」

さらに一撃食らって苦しむギ―シュが不憫に思えたので助け舟を出すヴァレリー

「ルイズ。見事な一発だが鳩尾に拳をめり込ませるのは淑女としてどうなんだろうか?」
「ふん!まぁいいわ。淑女たる私に感謝しなさい、ギ―シュ」
「えぇ、わかりました。それはもう……素敵な淑女様で……」
「ところで君たちは何しに来たんだ?」

女生徒を中心に庭に訪れている人の注目の的になっているので話題を逸らすヴァレリーに二人が答える。

「暇だからお茶を飲みに」とはルイズの答え
「暇だから花を愛でに」とはギ―シュの答え。

ちなみにギ―シュの言う花は庭に咲く花のことではないのは自明である。


午後になり軽い昼食をすませるといよいよ入学式。
ギ―シュは先ほどの服装から着替え黒のズボンと襟が立っていないシャツへと着替え直している。
フリルは付いているがそこは譲れないようである。

入学式の会場はアルヴィーズの食堂で行われる。いつの間にやら食堂は飾り付けをされており、荘厳な空気を醸し出している。クラスごとに席に着くようで3人はそれぞれの席に着く。周りを見渡せばちょっとした緊張の色を浮かべた新入生達の顔が見て取れる。

ヴァレリーのクラスであるソーンは集まりが悪いらしく、そこまで早く来たわけではないのだが前の方へと座ることとなり、ルイズのクラスであるイルは割と集まりがよくルイズは後ろの方の席へとついた。ヴァレリーは知らないがルイズの席の隣にはキュルケが、キュルケの隣にはタバサが座っている。

今年の生徒全員の着席を確認するといよいよ式の始まり。中二階から姿を現したのはオスマンを先頭に教師一同。ヴァレリーも一応教師なのだが今回は生徒側である。生徒達を睥睨し、自慢の白髭を一撫でするとオスマンが力強く、よく通る声で言う。

「生徒諸君!先ずは君たちの入学を心より歓迎しよう!せいやっ!」

大仰な身振りで中二階から華麗に飛ぶオスマン。
一階のお立ち台の上に降り立とうと途中で杖を振り、レビテーションを唱える。

―――が


時の流れは無慈悲なもので老躯故にそこまで舌が速く回らなかった。
描く放物線は栄光の架け橋などではなく黄泉への一本道である。

ここでヴァレリーは思った。これはまずい!と。

主に父の名誉と生命が。彼としてもこんなしょうもないことで親を失いたくはない。
咄嗟にオスマン目がけて唱えたレビテーション。
前の方の席に座っていたことが功を奏した。
オスマンがお立ち台に激突する寸前、鼻をこするか否やといったところでヴァレリーの詠唱が間に合った。あわや大惨事となりかねない現場に思わず前列の生徒は目をつぶったが凄まじいアクロバット飛行、具体的には一度急上昇し四回転半とひねりを加えた錐揉みで10点満点の着地をした。

「そして諸君!諸君らは、トリステイン……いや!ハルケギニアの将来を担う有望な貴族たれ!!」

声を張り上げ、堂々たる様で言うオスマン。
パフォーマンスだと勘違いした生徒達は歓声と惜しみのない拍手を送る。
事実を知る教師やヴァレリー、お立ち台の上のオスマンが冷や汗を掻いたのは想像に難くない。

式が終わり暫しの休憩を挟んで今度は各授業の概要説明がある。
説明は講堂で行われるので新入生が移動を始める中、ヴァレリーは魔法薬学の授業説明があるので一旦研究室に戻り準備をしていた。学生の印たるマントを脱いで新たに羽織ったのは黒地のアカデミックローブ。それはオスマンから「月夜の女神」亭に連れて行かれたのとは別に教師として務めるヴァレリーへの祝いの品であり、袖や懐の内側にやたらとポケットが付いていて魔法薬などの小物が収納できるようになっている特注品である。

仕度を済ませ講堂に入れば入学式の時とは違い学生は自由に席に座り、色々な話をしていて大分騒々しい。少し周りを見回せばギ―シュとルイズが手を振っていたのでそちらに座るヴァレリー

「ん?なんで着替えたんだ、君?」

ヴァレリーの格好を見て疑問を口にしたのはギ―シュである。

「あぁ、そうか。二人には話してなかったか。私は今年の一年生の魔法薬学の講師なんだ。制服のまま授業をしてもかまわないんだが父上に見た目も重要だと言われてしまってね」
「へー、すごいじゃない。まさか貴方が講師とはね。でも貴方なら出来そうね。面白い授業を期待するわ」
「驚いたな。そうか、君が講師かー。ってことは試験の際にお友達特典が付いたりは……」
「しないからな」
「そうか……。あまり難しすぎる試験とかはやめてくれよ。君は見かけによらず容赦がないところがあるからな。しかし、まぁ、そうか。僕も期待しているよ」

それからは代わる代わるやってくる教師が授業説明するのを3人で聞いていた。
名前と担当教科、短い説明をするだけの者もいれば、延々と話し続ける者もいて新入生は少しだれ気味である。魔法薬学の授業説明は今回、一番最後に回されていたので一つ前の授業説明をしていた教師が講堂を出るとヴァレリーも一旦、友のエールを背に講堂を出た。

今一度身だしなみを確認し大きな深呼吸を一つ。
気持ちを落ち着けてから講堂の扉を開けた。

教師がいなくなり、騒がしくなり始めた教室が静まり、生徒の視線がヴァレリーに集まる。
中央の教卓まで進み、教室を見渡せば今までとは違った教室の風景。授業を受ける側とする側では見えるものが多少なりとも変わってくるのである。真面目にこちらを見ている者や爆睡している者、隠すこともなく本を読んでいる者(例えばタバサなど)や声を潜めてなにやらしゃべっている者、全ての顔が見える。

ヴァレリーは堂々とそして丁寧な口調で説明を始めた。

「先ずは自己紹介をしましょう。私はヴァレリー・ヘルメス、二つ名は「水花」。今年の新入生の魔法薬学を担当します。系統は水、既に御存じの方もいるかもしれませんが私も今年の新入生です。ですが、こと魔法薬学に関しては学院長の依頼のもと授業をするように仰せつかっていますので授業の質に関してはそれなりのモノを提供できると思います。教師としての権限を持つのは魔法薬学の授業のみですのでそれ以外の時では学友として接してもらえればありがたいですね。ちなみに私と仲を深めても試験の採点が甘くなったりはしないですからね」

最後だけは少し茶目っけのある言い方をして自己紹介を終える。
歓喜したのは女生徒である。見た目も麗しく、先ず間違いない美少年が教師なので、多感な年頃の彼女達にしたら舞い上がることに不思議はない。

「次に授業説明をします。まぁ授業の名前の通り、魔法薬の生成が主なモノになるのですが。魔法薬の生成には簡単に分けて3つ作り方があります。材料が既に魔法的効果があるものを単に調合するもの、魔力を込めながら作るもの、出来上がった薬に魔法をかけるものですね。一年時では主に前者2つのやり方で一般的なモノ、例えばヒーリングで使う秘薬などの調合を学習します。といってもそれだけではつまらないので変身剤や性格改変の薬などの少し難しいものもやる予定です。二年生になれば選択演習でより高度な魔法薬学を受けることができますので興味がある人は是非取ってみてください。それと講義の場所ですが主に水塔の薬学実験室か、ご覧になった方もいるかと思いますが水塔の傍にある庭園で行います。所注意としては庭のモノを勝手に摘むと摘んだ方の命を摘むので気を付けてくださいね」

輝かんばかりの笑顔で恐ろしいことを言うヴァレリーに思わず全生徒が息をのむ。

「さて、皆さんもずっと話を聞いていて疲れたことでしょうが、ここで少し魔法薬の実演でもしてみようかと思います。暫しお付き合いください」

今しがたの恐ろしい発言をした時とは違って穏やかに言うヴァレリー。

「私自身は水のメイジであり、火の才能はドットの下位レベルしかないのですが―――」

おもむろにローブから取り出した瓶の蓋を開け、中の液体に直接火を付けるヴァレリー。
火の付いた液体を魔法で操るとそれはまるで炎を纏う大蛇のようにうねり、高熱を発する。

それを見て、驚くのは生徒達だ。
自身がドットやラインのメイジだけに己が使う魔法の威力は皆知っている。目の前で踊る炎蛇はどう見てもドット魔法以上の物であり、そのような物をレベルが低くても使えてしまうのだから驚かずにはいられない。次に実演してみせたのは変身剤である。ヴァレリーが薬の小瓶を呷るとその容姿が変わりオスマンのそれになった。魔法薬でなくとも似たような効果を持つフェイス・チェンジという呪文があるが、こちらは風と水の合成魔法でスクウェアスペル。今年の一年生ではヴァレリーも含め誰一人扱うことは出来ない。

「フェイス・チェンジと違って任意の姿にはなれず、特定の生成を必要としますが、スクウェアスペル相当の効果をスクウェアメイジでなくとも発現できるのは魔法薬の強みと言えるでしょう」

それからもヴァレリーは幾つか魔法薬を使ってみせた。幻覚を見せる物であったり、姿を消す物であったりと効果が分り易く、見た目の印象が強い物の選び、学生の好奇心を擽る。実演に当たり、用意した魔法薬は難易度が高く、それなりに値が張る物が多かったが学生に興味を持ってもらいたい、自分が好きな分野を広めたいとの気持ち。また、初めての講師としての意気込みからかなりの大盤振る舞いをした。その甲斐あって、生徒達の瞳に興味の色が見てとれて時には心中でほっと一息したヴァレリーであった。

「さて、他にも色々な魔法薬はありますが、それは今後の授業の楽しみということでとっておきましょう。最初の授業では増強剤を作りますので各自、簡単に調べておくようお願いします。それではこれにて授業説明を終えたいと思います。皆さんお疲れ様でした」


さて、それから後日のこと。魔法薬学の授業は毎日あるわけではなく週に一度しかない。というのも材料に限りがあるうえに、生成で使う基礎材料には下ごしらえに時間がかかるものもあり、それを生徒の人数分用意するとなるとけっこうな手間になってしまうからだ。初回の授業説明で増強剤を作ると生徒に伝えていたヴァレリーは授業を受け終え、放課後になると基礎材料の生成に勤しんでいた。増強剤というのは魔法薬の中では中難易度だが今まで魔法薬を作ったことがないような者が作るにはいささか難易度が高い。蒸留塔を稼働させ、材料となる薬草の選別。生成の準備を終えたのは夜が白む頃だった。

以前までの魔法薬の授業ではヴァレリーが補佐として付いていたため他の魔法薬学の教師、特に一年生を担当していた者は随分と助かっていたようだ。二年生以上では選択演習となる魔法薬学だがわざわざ難易度が上がった授業を取る生徒だけにこの授業をとるとなるとそれなりに知識を蓄え、教師の手伝いも出来るようになるのだが、一年生ではそうもいかない。ヴァレリー自身が教師となった今、補助をしてくれる者がいなくなってしまったので誰か助手となり得るいい人はいないか?などを考えながら午前の最後の授業を眠たい頭で受けるヴァレリー。

今は「風」の初回授業、受け持つのは「疾風」の二つ名を持つギトー。

「残念なことに今年はドットメイジばかりだな。仕方がないが基本からだ」

冷やかに告げるギトー。
授業内容は風の基本、「フライ」と「レビテーション」のようである。

「まさか、呪文を知らないなんて者はいないだろうな?先ずはフライからだ」

ギトーに従いクラスの生徒達が杖を抜き、詠唱を始める。正直ヴァレリーが幼少時に最初に覚えた呪文はレビテーションであったし、周りの生徒と比べると頭一つ抜きんでている魔法の実力がある者にとって今回の授業は面白みが少ない。

かなり力を抜いて飛んでみたがヴァレリーよりも先に飛ぶことが出来たのはガリアからの留学生であるタバサ一人だけ、高度も無表情にしているタバサが一番高く、次いで寝むそうにしているヴァレリー、3番手にめんどくさそうに飛ぶキュルケである。魔法のクラスが上がれば威力が上がる。フライに関して言えば高度と速さに影響してくるわけでトライアングルの3人とドットやラインの学生で違いが出てくるのは当然のことである。

「オールド・オスマンのは当然か、しかしそこの二人も「ドット」にしてはなかなかやるでないか」

二人とはもちろんタバサとキュルケである。
ギトーは留学生の入学書類までは目を通していなかった故の発言であった。

「あ、いえ、ミスタ・ギトー。二人もトライアングルですよ」
「ん?そうだったか。ということは留学生か。ふん、嘆かわしいな……トリステイン魔法学院において本国のメイジが遅れをとるとは。悔しいとは思わないのかね、君達。まぁいい、そのまま外壁沿いをフライを維持して5周だ。一度たりとも地に足をつけるな、全力でやれ」

国内の学生に挑発にも等しい檄を飛ばすギトーに生徒達は対抗心を燃やす。

「そこの3人は他の者に1周差をつけろ、トライアングルなんだ、それくらい出来て当然のはずだ。後の者は絶対に3人に差をつけられるな。トリステインのメイジとしての矜持を見せろ」

指示に従い外壁沿いをフライで飛ぶ生徒達。
ヴァレリー達3人は1周差をつける必要があるのでどんどんと後続を引き離す。

「はぁ、めんどくさいわね」

飛びながら愚痴をこぼしたのはキュルケである。

「すまない、二人とも。余計な事を言ってしまったようだ」
「悪いと思うなら今度の休日に町を案内してくれないかしら?ミスタ・ヘルメス?退屈なのよ。それに貴方がクラスで一番綺麗な顔をしているわ」
「うーん、かまわないが二人きりは遠慮したいな。ミス・ツェルプスト―は男子から人気だろ?この間もクラスのやつらが君をめぐって決闘してたじゃないか。巻き込まれたくないのが本音だな」

難色を示すヴァレリーにキュルケが言葉を重ねる。

「周りの人なんか気にしなくていいわ。私が自分から声をかけたのは此処に来て貴方が初めてなのよ。何も知らない留学生を助けると思って、ね?」
「少しは周りを気にした方がいいと思うが。君を見るクラスの女子の目は正直良くない。このままじゃ恋人は量産できても友達ができないぞ」

ヴァレリーの言う通りキュルケは男子からは大そうな人気だが女子からの印象、殊更キュルケに交際を申し込んだ男子を慕う者からはすこぶる悪い。暇を理由に全ての交際の申し出を受けたせいで一部の男子は決闘騒ぎをおこすうえに決着がついたと思ったらまた交際相手が増えているし、見かねて抗議を入れた女生徒は鼻で笑い追い返す始末。

「少なくともクラスに友達になりたい子なんていないもの。別に気にしないわ」

割と歯に衣着せぬ注言をしたヴァレリーだったがまったく意に介さないキュルケに溜息をもらす。

「いや、それは寂し過ぎると思うが……」
「とにかく、休日は案内よろしくね!」

キュルケがフライのスピードを上げる。
後ろを見れば一人の男子生徒が二人に追いつこうと頑張っている。
数少ない風のラインメイジでもあるド・ロレーヌだ。
ちなみにタバサは二人が話しているうちに黙々と進んで行ってしまっていた。
ヴァレリーも速度を上げ、前を行くキュルケに並ぶ。

「あの子、ただの本の虫かと思ったら随分速いわね」

先を行くタバサを見ながらキュルケが評価する

「入学書類で見たが彼女は風の系統だしな。そうだ、休日の町案内は彼女も誘ってみよう。彼女は君と同じ留学生だからな。異議は認めないぞ」

オスマンから気にかけるように言われている二人は案の定、対人関係に難があったがこの際、二人が友達になってしまえば良いと思ったヴァレリーはさらに速度を上げ、タバサに追いつこうとする。

一周分を費やしやっとのことで追いついたヴァレリーがタバサの横へ並ぶ。

「ふぅ、やっと追い付いた。流石は風の系統だね」

タバサは一度ヴァレリーの方を振り向くとすぐに興味がなさそうに視線を前に向けた。

「ミス・タバサ、今度の休日にミス・ツェルプスト―と町に行くんだが君も一緒に来ないかい?馴染みの書籍商とか紹介するよ。君は本が好きなようだし私としても話が合いそうな君がいてくれる方が嬉しいんだが」

書籍商という単語に僅かに反応したように見えたがタバサがさらにフライの速度を上げた。こうなると同じトライアングルとはいえ風を系統とするタバサにヴァレリーは追いつけない。

「気が変わったらいつでも言ってくれ」

タバサの後ろ姿にそう告げ、ヴァレリーはフライの速度を緩めた。

結局この外壁沿い5周はトライアングル3人が他の者に1周差をつけて終える形となった。
そもそも5周する間に地に足をつけなかった者の方が少なく、大差をつけられたとはいえ完走したド・ロレーヌは称賛に価するのだが彼は自身がクラスの中で一番の風の使い手だと豪語していただけに面白くないようだった。

「結局このざまか……。呆れてモノもいえない。3人は帰ってよろしい。他の者は授業の終わりまでレビテーションを維持しろ」

初回からスパルタ気味のギトーの授業を抜け出した3人はそれぞれ別行動を取った。


少し早目の昼食を取るとヴァレリーは図書館に借りていた本を返しに向かった。
図書館の中はまだ授業中ということもあり人は居らず、静かにゆったりと時間が流れているように感じ、窓から射す午後の陽射しが眠気を誘う。司書に挨拶し本の返却を済ませると司書から少し席を外すからと留守番を頼まれた。司書の代わりにカウンターの席に腰かけ、貸出の手続きをするべく生徒が来るのを待つ。といっても元々図書館には人がいなかったのでヴァレリーは暇を持て余していた。することがないので返却された本を適当に漁る。

―――小説、小説、伝記、お?魔法薬学の入門書発見。ちゃんと下調べした真面目な生徒は誰だろうか?

返却された本に挟んであるカードから誰が借りたかを調べる。

―――ふむ、ルイズか。あとはミス・タバサも借りてるのか。勉強熱心でなにより。

次にヴァレリーの目に留った本は一冊の魔法の研究書。
タイトルは「風の力が気象に与える影響とその効果」とある。

―――ほほぉー、これまた随分と勉強熱心な者がいるな。さてさて誰が借りたのか?お、これもミス・タバサか。

ヴァレリーもこの本を読んだことがあるが部類としては面白いがなかなか難解な研究書だったと記憶している。このような本を読むタバサにヴァレリーは一人、感心していた。

「風の力が気象に与える影響とその効果」をカウンターで読み返していると一人の生徒が貸出許可を求めにやって来た。青い髪の小柄な少女、クラスメイトでもあるタバサである。

「留守番中なんだ。手続きは私も出来るから大丈夫だよ」

読んでいた本を脇に置き、タバサと向き合うヴァレリー。
タバサは数冊、本をカウンターに置くと「貸出許可を」と短く言って待っている。

「それじゃぁ、このカードにサインをよろしく」

カードにサインを書かせるとヴァレリーは書類に必要事項を書いて行く。
タバサの目線が脇に置いた研究書に向いていたのでヴァレリーは書類を書きながら雑談を試みた。

「その本は実に興味深い。個人的には雷の発生に関する考察が良かったと思う。氷晶と霰のぶつかり合いが二つの雷の力を溜め、その差が雷を放出するってやつ。特に二つの力の正体が興味をそそると思わないかい?」

ヴァレリーがタバサについて知っていることと言えば入学書類にあったガリア王家であり、名前を偽る何らかの理由があることと、魔法が優秀なことぐらいだ。個人的な事は本をよく読むことと普段はまったくと言っていいほど喋らないことだけ。これでは情報が少なすぎてどう接していいかわからない。人を知るには直接会って話をするのが一番早いが誰しもいきなり「貴方はどんな人か?」などと聞かれても答え難いだろうと思う。相手の警戒を解くには何気ない雑談が効果的だ。

タバサは返事こそないものの同意する部分があったのか軽く頷く。

「君もそう思うか。やはり君とは話が合うようだ。今度よかったら実験室に遊びに来てくれ、図書館には無いような面白い内容の本も数多く取り揃えてあるんだ。最新の魔法薬学の本や、フェニアのライブラリーから写した禁書すれすれのモノとかね。あぁ、確かその研究書の著者の追加の本もあった気がするな。っとお待たせ」

手続きを終えて本をタバサに渡すヴァレリー。
短い礼と共にカウンターを後にするタバサにヴァレリーはもう一言、言葉を発する。

「ミス・タバサ。君がなぜ名前を偽っているのかもどうしてこの学院に通っているのかもわざわざ聞こうとは思わない。しかし、何かあったら君の力になりたいと私は思う。せっかく話が合う人を見つけたんだ。この出逢いというものを大事にしたい。私は君が良き友人となってくれれば嬉しいのだが、ダメだろうか?」

入学式から一週間も経ってはいなかったがヴァレリーはタバサにカトレアとはまた異なる儚さのようなものを感じていた。一見すると他人への無関心にも見えるが何かに囚われ、彼女自身が自分を追い込み、奮い立たせているようにも見受けられる。きっかけはオスマンに頼まれたからだがヴァレリーはそんなタバサの様子を見ているうちにどうしてか放っておけないと思い始めていた。

振り向きはしなかったが一寸足を止めたタバサ。

彼女がヴァレリーの言葉から何を感じたかはわからないが学院に来てから話しかけてきた他の生徒達と様子が違うということは理解できた。また、タバサが名前を偽るようになってから友人になりたいと正面切って言ってくる者は今までいなかった。自身が拒んでいる節もあったし、わざわざ愛想のない彼女に何度も声をかける者なんていなかったからだ。

「考えとく」

タバサはそれだけ告げると歩を進めた。
それは短く、素っ気ない一言だったし深く考えての返答ではなかった。
しかし、拒むような返答をしなかった事、それ自体が彼女が無意識のうちに他人へと歩み寄ろうとした明確な左証であるといえるだろう。


図書館の留守番を終え、午後の3クラス合同の魔法薬学の授業になると一年生が続々と水塔の薬学実験室に集まって来た。オスマンから貰った黒のローブに着替え、ヴァレリーは教壇に立つ。

「さて、今回は予告通りに増強剤を作ります。初回にしては難しい部類だと思うのですが下調べは大丈夫でしょうか?」

ヴァレリーの問いに自信を持って頷く者と目線をそらす者。
後者がやや多いのがすこしばかり不安である。

「まぁ、生成に失敗しても死ぬような事故にはならないのですが一応、誰かに聞いてみましょうか。増強剤がどういったものかわかる人は?」

おそらく下調べをしっかりしたであろう生徒が手を上げる中、いち早く手を上げた金の見事な巻き髪の少女に答えを促す。

「では、そこの巻き髪が素敵な君、お名前は?」
「ド・モンモランシ家、モンモランシ―です」
「貴方がいち早く手を上げてくれました。ミス・モンモランシ。回答をお願いします」

了承し、立ち上がるとモンモランシ―がゆっくりと丁寧な説明を始める

「増強剤、今回、作るのは身体的な能力を上げるモノではなく魔力を上げるモノです。効果は薬の質によって変わってきますが概ね増幅の幅は1.2倍から2倍ほどで効果時間は長いモノで1時間。魔力が一時的に上がる代わりに興奮状態になりそれは効果が高ければ高いほど興奮状態も強くなります。一般的には1.5倍程度の効果を持つ増強剤を使うのが負荷が少なく、良しとされています。増強剤の作成に教会から許しが出たのは近年になってからです。構想自体は古くからありましたし、非合法で研究もされてきましたが私達にとって関わり深い分野ですので解禁に伴い、これからより深く研究される対象だと思います」
「おぉ、よく調べてありますね。その分だと材料と生成法もわかっているようですね。続けて説明してもらっても?」
「はい。材料はアナキクルス・ピレスルムの根、マンドレイク、クスノキの精油が一般的でしょうか。アナキクルス・ピレスルムの根とマンドレイクを刻み、アルコールで煎じたモノにクスノキの精油を加えつつ魔力を込めれば出来上がりです。確か、ミスタ・ヘルメスがお書きになった本にはもう一工夫されてた記憶があります」

モンモランシ―の完璧な説明にヴァレリー共々、教室の生徒が感嘆の声をあげる。

「ありがとう、座っていいですよ。ミス・モンモランシは非常に優秀ですね。いやはや私の書いた本も読んでいましたか。なんだか恥ずかしいですね。そういえばミスは「香水」の二つ名を持っていましたね。今後の授業でもよろしくお願いします」

モンモランシーがヴァレリーに微笑みかけて席に座る。
彼女の二つ名はヴァレリーが言ったように「香水」、得意教科は魔法薬学である。

ちなみに話にも出たがヴァレリーは何冊か魔法薬学関連の本を出していたりする。配合比率やら材料の違いで薬の効果がどう変わってくるのかまとめたモノや薬草の種類、効果を分類したモノと趣味全開の内容であり、魔法薬学に携わっていないと難しすぎて眩暈がしそうな代物であったが、こと細かに書かれ、幾つもの実験結果が記されているそれは同業者からはかなりの好評を得ている。魔法薬学は金のかかる分野であり、常に進歩する分野であるが、その発展には膨大な数の実験と臨床を繰り返す必要がある。個人がそれをやるにはヴァレリーのような環境を有するのがいいがそんなことが出来るような者は極少数であり、そうでない者が魔法薬の研究一筋で生活した場合は極貧生活は必須である。書籍による研究の公表はその分野の発展の手助けとなる。そのような本を読んでいるくらいなのだからモンモランシ―の魔法薬学の実力と意欲は高いものだと窺える。ヴァレリーが「彼女なら助手としていいかもしれない」と秘かに思ったのも当然のことかもしれない。

「ミス・モンモランシが説明してくれた材料と作り方をすれば増強剤は完成ですが、折角なので少し手を加えましょう。先ほどの材料に女子は錨草、男子はアシュワガンダから抽出した液を少量加えます。効果はどちらも同じで興奮状態の分散と沈静にあります。これにより魔力を高める効果を下げずに比較的冷静状態でいられます。ただし注意しなくてはいけないのはこの抽出した液を入れ過ぎると通常の興奮とは違い性的興奮が増すので気を付けてください。教室内で発情は流石に困りますからね」

最後の一言はギ―シュを見ながら言っておいたヴァレリー。念の為である。

「あぁ、それと男子と女子で加えるものが違うのは男女で薬の効き具合が少し違うからです。また、アシュワガンダの成分に堕胎薬に使われるモノが含まれているので妊娠している生徒はいないとは思いますが念の為です。それと煎じたモノと精油を混ぜる際に魔力を込める者の血を少し加えると魔力を込めやすいですし効果も少し上がります。今回は入れませんが覚えておいてください」

あらかたの説明を終え、クラス毎に男子と女子でそれぞれ3、4人組みを作らせる。結果、ソーンのクラスで二人ほど女生徒が班を作れず余った。キュルケとタバサである。キュルケもタバサも我が道を行き過ぎているため正直言ってまったくクラスに馴染めていなかったからだ。

「あー、じゃぁそこはミス・タバサとミス・ツェルプストーの二人で組んでください」

各班に材料が行き届いたのを確認すると生成を始めさせる。

「先ずは材料を細かく刻んで煎じてください。雑にやると効果が薄くなるのでしっかりと丁寧にやっていきましょう」

随時、説明を加えながら作業に取り掛かった学生達を見て回るヴァレリー。
中でも手際がいいのがやはりモンモランシーの班である。
次に優秀な班はルイズの班、魔法は失敗ばかりだが真面目で学力は高いルイズのことだから予習は完璧なのだ。次に良かった班は以外にもタバサ、キュルケの二人組である。
二人というより主にタバサが黙々と作業している。

一通り見て回ったあとヴァレリーは各クラスから助手を一人づつ選ぼうと決めた。
シゲルからはモンモランシーを、イルからはルイズ、ソーンからはタバサに任せようと考え、作業に勤しむ各々に話をしに行く。前者二人からは快諾を貰い、残すはタバサの了承を得るのみだが彼女が引き受けてくれるかは大いに不安である。

「ミス・タバサはなかなかの手際ですね。そのまま弱火で10分ほど煎じたら錨草の液を加え、次に精油を少しづつ混ぜながら魔力を込めていけばいいです。魔力を込める際は一気にやらずゆっくりと、その方が馴染が早いですから」

ヴァレリーに言われた通り火の加減を弱めにするタバサ。
彼女はしゃべることこそ滅多にないが基本的に授業はしっかりと受けている。

「ミスに頼みたいことがあるんですが聞いてくれますか?」

タバサは首を横に振る。のっけから拒否全開である。

「いや、せめて話ぐらいは聞いて欲しいのですが……」

尚も首を横に振るタバサ

「いいです。勝手に話しますから……。実は各クラスから私の手伝いをしてくれる方を探しています。そこでうちのクラスからは是非、君にお願いしたい。うちのクラスで一番手際が良かったのは君だからね。引き受けてくれはしないか?」

「やだ」

即答だった。

「どうしても?」
「どうしても」

「なぜに?」
「面倒」

「引き受けてくれたら私の実験室が使えるのと極秘の研究資料も見せちゃう豪華特典付きでも?」
「……」

「今、ちょっとやってもいいかなっと思いましたよね?」
「思ってない」

「ミスは商売上手ですね。仕方ない、私の研究成果も一部開示しますよ」
「……研究はどんなことを?」

此処にきて初めて興味を示したタバサにヴァレリーは満面の笑みを浮かべる。

「魔法薬学の中でも治療に重点を置いています。必ず治したい人がいるんでね」
「……研究成果を見てから決める」
「よし来た!放課後、実験室で待っているよ!」

タバサが学院に来てからというもの、会話らしい会話はこれが初めてだろう。それほどに彼女は学院に馴染めていなかった。それは彼女が歩んできた人生が辛く険しいものであったからであり、今もそれが続いているからだ。ガリア王家から放逐された彼女には覇権争いの際に毒を盛られ伏している母親が国内に取り残されている。人質として囚われ、毒のせいで心を病んでしまった彼女を救おうとしているタバサには周りを気にかけている余裕がなかったのだ。今回、ヴァレリーの話を聞いたのも母の治療の為。それ以上でも以下でもなかった。タバサはその時、思いもしなかった。後に無邪気に喜ぶ彼が彼女の心に積もった冷たい雪を溶かしてくれる存在になることに。





[34596] 006
Name: lily◆ae117856 ID:245b0a6f
Date: 2012/08/22 23:37
生徒達が作り出した増強剤に生成者の名前を書いたタグを取り付け、評価をするために一旦全てを回収する。同じ材料で作ったからと言っても下準備の丁寧さや生成過程には違いが出てくるモノであり、それはそのまま魔法薬の質の良し悪しに影響してくる。

午後の授業を受け終えたヴァレリーは一人、研究室で回収した薬の品評に勤しんでいた。幾つか小分けした薬に反応剤を入れて正常な反応が出るかを見た後に実際に少し飲んでは中和剤を飲むといったことを繰り返す。今年の新入生は総勢90人以上はいるのでこの作業をするだけでも一苦労であり、特に実際に試飲するのがヴァレリーを肉体的、主に胃を苦しめていた。アルコールを媒体としているので不思議な味の酒と言われれば飲めなくもないが、おそらく市販で酒として販売せれてもわざわざ飲みたがる人はいないだろう。美酒には程遠い味である。

余談になるが酒と薬の歴史は重なるところが多い。酒は百楽の長とよく言われるように人を開放的にさせる面は薬としての側面を表す。昔から酒は強壮剤や媚薬の認識を得ていたことに加え、薬の生成の過程で誕生したモノも多い。例えばリキュールなどがこれに当たり、リキュールは如何なる病も治す万能薬と謳われるエリキシル剤、(エリクサーと言った方が一般的だろうか)の生成にあたり誕生したものだ。

酒と薬、どちらにしても飲み過ぎていいモノではないことは確かでヴァレリーの胃が荒れることは相違ない。既に20人ほどの増強剤を試飲したヴァレリーであったが歩く毎に腹からはぽちゃぽちゃと水の音が聞こえてくる。それでも彼が意欲的に作業にあたるのは教えるからにはしっかりとした物を作れるようになってほしいと思う教師としての矜持からでもあり、父の期待に応えたいとする子供心からでもあった。

タバサが約束通りに実験室を訪ねに来たのは一クラス分の評価を終え、流石に限界を感じたヴァレリーが休憩しようとしたそんな時だった。

「やぁ……。よく来てくれたね。とりあえずそこに座って待っててくれ。今、研究成果をまとめたものを持ってくるから……」

普段、勉強用に使っている一画にタバサを促す。
明らかに元気のないヴァレリーをタバサがじっと見ているのに気づき、力のない笑みでヴァレリーは理由を説明しながら鍵の付いた箱を開け、中を漁る。

「今まで皆の増強剤の出来を確かめていたんだ……。うぷっ、数が数だけにね」

取り出したのは15サントほどの厚さがある紙の束。ひもで結ばれたそれにはびっしりと今までのヴァレリーが試行錯誤し、努力を重ねた記録が記されている。ずっしりと重いそれをタバサに渡し一応の注意をする。

「持ち帰らず、ここで読んでもらいたい。他人の目につくとまずい薬とかの研究文書も含まれているからね」

タバサは頷くと椅子に腰かけ、早速研究文書に目を落とす。

「すまないが少し仮眠をとるから夕食時に起こして欲しい……。あぁ……その辺にあるワインは飲んでかまわないよ。では、おやすみ」

文書を読み出したタバサの耳に届いたかはわからないがヴァレリーはそれだけ言ってベットへ横になった。普段の彼からしたら訪ねてきた女性を放っておいて寝るなどあり得ないが、増強剤の飲みすぎで動きたくないのに加え、前日の授業の準備のせいで眠かったことが言い訳といえる。また、読書中に話かけても迷惑だと思ったのも一つの理由だ。ヴァレリーはタバサが読書中に話かけられて反応を示したところを今まで一度として見たことが無かったし、自身の事に置き換えても読書中に話しかけられるのはやはり煩わしく感じることがある。ましてタバサが読んでいる研究文書は話しながら読むことができるほど優しい内容ではないと自負している。結果、ヴァレリーは仮眠を、タバサは書を解くのが双方にとっての最善の選択となったのだ。

研究室にはページを捲る音とヴァレリーの静かな寝息だけが音を成し、時間が流れていく。
黙々と読み続けるタバサが文書から目を離したのは庭の花が優しい月の光に照らされた頃、晩餐の時間だった。

「起きて」

どうやらヴァレリーの言葉をちゃんと聞いていたらしいタバサは静かに声をかける。
しかし、それでヴァレリーが起きることはなく、タバサは彼の肩を揺すり起こそうとした。

それはタバサの手が肩に触れた時だった。

「私が……必ず……貴女を幸せにしてみせます……」

ヴァレリーがいきなりプロポーズのセリフをはいた。
これには流石のタバサも些か驚いた。
出逢って間もないのにこの人は何を言ってしまっているのだろうか?気障な金髪の少年と一緒にいる所をよく見るし彼もまたその手の類なのか?それともまさか小さな女の子を見ると脈拍が上がる人種か?などと割と失礼な考えが頭をよぎる。研究文書を読む限りでは彼の知識は相当に高く、評価できると思ったがその人柄についてはまだ決めかねる。自身の年齢に比べて体の発育が遅いことは重々承知していて未だ12歳前後に見られることもある。母の助けになるのならその身を呈すことも甘んじて受け入れる覚悟があるが彼が後者の人間であるならばいよいよ身を汚すこととなる。

―――思えば彼は随分と自分を気にかけているようであったし、まさか……本当に……?

タバサの中のヴァレリーの評価が物凄い勢いで下がる中、ヴァレリーが口を開く。

「カトレアさまぁ……んぅ」

聞こえてきたのは一人の女性の名前。
その後に続くのは静かな寝息だけ。
此処に来てタバサは気付いた。
先ほどのは彼の寝言であり、その言葉は彼の夢に今いるであろう女性に送られたモノであることに。

「……」

思わず周囲を見回したタバサ。
別に自分の考えを声に出していたわけではないが人に見られたくはない心境である。
周囲に誰もいない事を確認し、尚もすやすや眠るヴァレリーに視線を向ける。
起こすように言われていたので起こしてやろうとは思うがなんとなく納得がいかない。
邪推した自分が悪いのであって彼に悪意がないのはわかるが紛らわしいこと甚だしい。
そんな思いの中、今度は杖の先をヴァレリーの頬にぐいぐい押しつける。
一応、言っておくがあくまでヴァレリーを起こすためにである。
決して行き場のない苛立たしさを八つ当たりしたかったためではないと思いたい。

「んぁー、痛いです。エレオノールさまぁ……きっと素敵な人が見つかりますからぁ……」

何やら魘されているが起きる気配のないヴァレリーを暫しぐりぐりしたタバサは諦めて食堂に向かった。学生で賑わう食堂でかなりの量を黙々と食べ、ミートパイを二切れ、林檎を一つ包むと誰と話すこともなく研究室へと戻った。ヴァレリーが目を覚ましたのはそれから随分経った頃であった。
夢の中でのカトレアはやはり美しく、優しい笑みを浮かべていて、それだけで心が満ちるのを感じる。意を決して思いの丈を告げ、いよいよ彼女がその答えを口にしようとした時、背後からエレオノールがやって来て「何処かに素敵な殿方はいないかしらね」と言いながら頬を捏ね繰り回される。それを見てコロコロ笑うカトレア。笑う姿もまた格別なのだが今はヴァレリーにとって一大事であって、なぜいきなりこのような事態になったのか悩む。

夢であるからというのが全ての理由なのだがそれを知る由もなく、まして頬を捏ねるエレオノールの手が実際はタバサの杖であったことは気づくことは無い。

むくりとベットから体を起こすと辺りを見回すヴァレリー。
タバサはヴァレリーが眠る前と変わらず、椅子に腰かけ研究文書を読んでいて、読み進めたページや外の暗さ、己の腹のすき具合から随分と寝てしまったのだと判断する。

水差しから一杯、水を注ぎ、胃の調子を整える薬草を噛み締めて口に広がる苦みを水で流し込むとタバサに話かける。

「おはよう。随分と寝てしまったみたいだ」
「起きなかった」
「そうか。それで、私の研究成果は君の役に立ちそうかい?」

ヴァレリーの質問に小さく頷くタバサ。
次いで食堂から持ち帰ったパイと林檎の包みを渡す。

「おぉ、ありがとう。助かるよ。助手の件は引き受けてもらえそうかな?」

研究成果を見て助手になるか否かを決めるとタバサは言っていた。
彼女がどういった情報を欲しているかはわからないが治療における魔法薬学の研究ならヴァレリーは自信があり、きっと引き受けてくれると思っている。そんなヴァレリーを余所にタバサは彼が予想だにしなかった質問をしてきた。

「一つ聞きたい」
「ん?私に応えられることなら」

タバサが持って来てくれた林檎を頬張りながらヴァレリーは応える。

「カトレアって誰?」
「えっ?」

てっきり研究文書の内容についてわからないところがあったのかと思っていただけにヴァレリーは驚いた。ラ・ヴァリエール家は国外においてもある程度、名前は知れているが病弱で領地から出たことのないカトレアの名前が国外に広まるということは考えづらい。誰だ?と聞く辺りタバサも名前ほどしか知らないのだろうが彼女は一体どこでカトレアの名を知ったのだろうか疑問に思う。

「なぜ、その名を?ガリアから来た君があの方の名を知っているのが不思議なんだが」
「寝言で言ってた」
「うぐっ……!?もしかして名前以外にも何か言っていたりした?」

ヴァレリーが焦る。
夢で自分が何を言ったか覚えていたからだ。

「必ず幸せにしてみせる」

タバサが淡々と告げる。
ヴァレリーは手で顔を覆うが隠れていない耳が赤くなっている。

「聞かなかったことにしてくれ……」

タバサが頷くがカトレアが誰かについては重ねて質問してきた。
ヴァレリーからしたらタバサがなぜカトレアについて聞きたがるのか不明であったがタバサからしたら重要な問題だった。もしカトレアという女性が少女、もしくは幼子であったなら自分の身が危ないからだ。可能性は薄いが念の為である。タバサの中にあるヴァレリーという人物は未だ危ない趣向があるかもしれないという評価を持っている。そんな事とは露とも知らないヴァレリーはカトレアがどういった人物なのかを説明する。ヴァリエール公爵家の二女であること、その妹がルイズであること、彼女の境遇と自分との関係などを表面的にである。

「そう」

タバサはひとまず自身の考えを改め、ヴァレリーの知らぬところで彼の評価が危険人物から常人に戻ったのだった。

「助手、やってもいい」

どうやらヴァレリーの研究文書はタバサのお気に召したようで、ようやく申し出を引き受けた。
研究文書をまた読みに来ると告げ、タバサは寮へと帰っていく。ヴァレリーはタバサの小さな背中が夜の闇に溶けるまで見送った。


変な時間に眠ってしまって、これから皆が寝静まる頃だというのに目が冴えてしまったがヴァレリーであったが、良く眠ったおかげで気分は悪くなかった。酒に酔いでもすれば眠れるだろうかと思い、部屋にある酒を選び、テラスにてタバサが持って来てくれたパイと月に照らされ、春のそよ風に揺られる花々を肴にグラスを傾ける。ミートパイに合わせるなら無難に赤か、それともこれからまた気持ちよく眠るために甘めのブランデーにしようか些か悩んだが結局二つとも持って来た。一つのグラスで飲み分けるようなことはせず、しっかりとグラスは二つ。混じって本来の味を損ねるのはよろしくない。

テーブルにグラスが二つあったためであろうか、ヴァレリーのもとにお客が一人やって来た。

「最近、話す機会がないので息子が寂しがって枕を濡らしているのではないかと来てみれば……。月見酒とはまた小洒落た真似をしおってからに」
「父上。ていうか今更、親恋しさに泣きはしないですよ。どちらにします?」
「今宵はブランデーがいいかのぉ」

ヴァレリーがもう一つのグラスに琥珀色を飾るとオスマンは向かいの椅子に腰を下ろし、パイプに火をつける。吐き出された紫煙が薄っすら月光を陰らせ、そして風に流れていく。とても静か、されど何処か温かい時間を過ごす。学生生活や友人、教師役について話した後、話題は二人の留学生についてになる。

「件の二人はうまくいっているかの?」
「今の所、あまりうまくはいっていませんね。ミス・タバサは人と話そうとしませんし、ミス・ツェルプストーは恋人は多いですが友達は作れていません。もっともアレを恋人と言っていいかは甚だ疑問ですが……」
「恋人?決闘騒ぎを起こした子達かの?あれはお主の言う通り、恋人とは言わんじゃろ。良くは知らぬが、わしには彼女がただの暇つぶしの相手程度の認識しか持ってないと感じるのぉ。遊ばれているのを楽しむのならそれでもいいんじゃが、いかんせん初心な者が多いからのぉ。お主はどうなのじゃ?誘われておらんのかえ?」
「今度の休日に町を案内する約束をさせられましたね。ですが、今後彼女と友人にはなれども、恋仲にはなりえません。彼女は魅力的ではありますが私にとっての一番はカトレア様であって、それは揺らぐことのない事象ですから」
「お主は大概、二女の虜じゃな。どれ、一つ詩でも詠んでみよ」

オスマンは呆れた顔で紫煙をくゆらす。

「唐突ですね……う~ん、整いました」
「していかに?」
「野に咲く花は散るが定め、されど我が内に咲きたるは桃の花。散らず、褪せず、咲き誇らん。猶、風に散るなれば、共に在らんと思いし蘭の君への逸りし心ぞ」
「かーっ、激甘じゃのぉ。蜂蜜水を飲んでおるようじゃ。お主、自分で言って恥ずかしくはならんのか?」
「歌えと言ったのは父上じゃないですか。酒に酔っているのです。大目に見てください」

ちなみに桃の花は春の季語であり、花言葉は「貴方の虜」、ここではヴァレリーの心情を表しているのだろう。蘭の君とはもちろんカトレアのことであり、カトレアの花は蘭の女王と呼ばれる故の言い回しである。要するに野に咲く花と違って、私の胸の内に咲いた恋の花は決して色褪せたり、散ったりすることなく咲き誇るだろう。それでも散ってしまうと言うのならばそれは想いが薄れたからではなく、カトレアの側にいたいという想いが溢れ、せめて恋の花の一片でも届いて欲しいという想いのせいであるのだ。といった意味である。成程、激甘である。ギ―シュも驚く、恥ずかしい台詞であろう。

「まぁ、良いがのぉ。して、件の二人に関しては引き続き、気にかけておくように。と言っても、人は出逢うべくして人と出会うものじゃ。案外勝手にうまくいくかも知れんがの」
「仮にそうだとしたら私が気にかける意味はあるのでしょうか?」
「誰かの後押しが必要な時もあろうて。それにあの手の者は一度、友と認めた者は裏切らぬ。お主にはそんな友を持って欲しいと思うのじゃ」
「そうなのですか?私にはまだ、そこまで人を見る目はありません。人に言われたから友達になるのもおかしいですし、先ずは自身で感じる必要がありますね。父上の言葉を借りますが、彼女達が私の出逢うべき人ならきっとこの先、仲が深まる事もあるのでしょう」

それからまた何度か詩の詠み合いをして解散となった。
果たしてヴァレリーの恋の花は実をつけるのかはもう少し後で語るとしよう。



時間を流し、虚無の曜日に移る。
休暇である今日は授業もなく、学生は自室で読書に耽ったり、町に出かけたりと自由な時間を過ごす。ヴァレリーはキュルケから町の案内をするように約束させられているので甲斐甲斐しく馬車の手配を済ませ、正門でキュルケを待ちながら本を読んでいるところである。タバサを助手にすることは出来たが町への誘いは頷いてもらえなかったためキュルケと二人きりということになる。

待ち合わせ時間を少し遅れた頃にキュルケはやって来た。

「さぁ、早く行きましょう。追いつかれてしまうわ」

誰に追いつかれるのだろうとヴァレリーは疑問に思ったがすぐに答えはわかった。
キュルケを追うように4、5人の男子生徒が向かって来ている。
大方、休日を共に過ごす約束をしていた者達なのだろう。
キュルケに一言、言いたいところをひとまず抑え、馬車を走らせる。
彼らに捕まるのも面倒だと思ったからだ。
彼らを振り切った後、ヴァレリーは改めて抗議を入れる

「他に約束があったんじゃないのかい?面倒に巻き込まれるのは嫌だぞ、私は」
「さぁ?他の人達の約束なんて忘れてしまったわ。少なくとも私から言い出したんじゃないもの。私が休日を共に過ごしたいと思ったのは貴方なのよ。それ以外の約束は覚える必要があるかしら?」

悪びれずそんなことを言うキュルケにヴァレリーは思わず溜息がでる。最近、溜息をつく回数が多くなってきている気がするヴァレリーである。

「それじゃぁ、困るんだよ。誘いに乗らないにしてもしっかりと断りを入れるのが筋ってものだろう。君が君らしく振る舞うのは悪いことじゃない。けれど守るべき線は守らなくちゃいけないよ。君は魅力的な女性だがその点を知ればより、美しくあるだろうと思うのに」
「もう、折角のデートなんだからお説教は聞きたくないわ」
「説教される内が花なんだよ。それに私はこういう人間なんだ。君から誘ったんだからその辺はわかってもらいたいね。それで?今日は何処を案内すればいいんだい?」
「そうね、先ずは王都かしらね。来週末の舞踏会用にドレスを新調したいのよね」
「来週末?あぁ、スレイプニィルの舞踏会か。でもあれにドレスは必要ないぞ」

ヴァレリーの発言にキュルケは疑問を浮かべる。

「舞踏会なのにドレスを着ないの?」
「スレイプニィルは仮装舞踏会さ。真実の鏡というマジックアイテムで己の理想の姿に化けるんだ。新入生歓迎の催しモノだが、これには家柄、地位、国籍、爵位に囚われず、学院では皆が平等に関わり合い学ぶためという意味もある」
「ふ~ん、そうだったのね。聞き流していたから知らなかったわ。じゃぁ、翌月の舞踏会用にするわ。私に似合うドレスを選んでくれるかしら?」
「まぁ、それくらいならかまわないよ」

馬車に揺られること数時間、二人は王都トリスタニアへと降り立った。
休日ということもあって通りを行き交う人は多く、広場では露天や大道芸に人が集まっている。
学院の生徒と思しきモノもちらほら見て取れる中、二人は老舗の仕立てやでドレスを一着、拵こしらえさせる。続いて向かったのは流行りのランジェリーショップ。

ドレスの仕立てに付き合うならまだしも流石に此処は居場所が悪く、外で待っているとキュルケに告げるも、半ば強引に連れられてしまったヴァレリーは店に来ている人からの注目の的であった。キュルケが試着で仕切りの奥へと消えると残されるはヴァレリー一人。好奇の視線に晒されながらただ待つことしかできず、この現状を知りあいに見られたくないな、などと思いながら時間が早く過ぎるのを願うばかり。嫌でも目に入るのは女性物の下着であり、向こうが透けて見えるようなネグリジェや極めて布面積が小さいショーツがどちらを向いても並んでいる。

ようやく仕切りが開き、やっと店から出れると思いきやそこには際どい黒の下着姿のキュルケが立っている。

「どうかしら?」

どうやらヴァレリーに感想を求めているキュルケは挑戦的な笑みを浮かべる。
黒は女を魅力的に見せる色であるが、キュルケの褐色の肌と女性的な体つき、情熱的な赤い髪が合わさるとその魅力は乗冪の如く増す。しかし、ここで慌ててはヴァレリーの負けである。言うならばこれは男女の間の駆け引きである。

「良く似合っているよ。黒が君の美しさを際立出せている。しかし、男の前でそう易々と肌を見せるものではないと思うぞ」

あくまで冷静に諌めるヴァレリーに対し、キュルケも堂々としたものである。

「だって、脱がす側の意見も聞いた方がいいでしょう?それに女は見られて美しくなるものなのよ」
「一理ある。けれども君の肌はそんな安いものじゃないだろう?その対価を払える男はそうはいないさ。言わずもがな私もまたその一人さ」
「あら、随分と評価してくれるじゃない。これは買いね」

ヴァレリーの言い回しに気を良くしたキュルケは満足気に再び仕切りをかける。
褒めておきながら、やんわり否定し、空気を悪くすることもなく諭した辺り、この勝負はヴァレリーに軍配が上がったと見ていいだろう。

それから二人はキュルケの提案により楽器屋へと足を運んだ。ここで彼女が買ったのはハープの弦。なんでもハープの演奏には自信があるらしく、初老の店主と楽しそうに音楽の話をしていた。

二人が各所を回り、トリスタニアから帰って来たのは夕暮れの頃。
馬車から先に降りたヴァレリーは紳士としてのマナーに則り、キュルケに手を差し伸べる。手を引かれ、馬車から降りたキュルケはそのままヴァレリーに枝垂れかかり甘く、囁く。

「もっと、貴方と一緒にいたいわ。ねぇ、これから私の部屋に来ない?今日のお礼もしたいわ」

茜色に照らされ、さらに艶やかさを増した彼女が耳元でそんなことを言おうものなら初心な学生達なら十中八九、誘いを断れはしない。しかし、そこはヴァレリーである。

「そのお誘いは非常に魅力的だね。お礼というなら是非、君のハープの演奏を聞いてみたい」
「やっぱり、そうきたわね。でもまぁ、いいわ。弾いてあげる」

キュルケとしてはハープの音を聞かせるために誘ったのではなかったがヴァレリーがこのように返答してくることは予想できていた。なかなか自分に傾かないがそれ故、面白い。追われるだけが恋じゃない。また、色恋沙汰を抜きにしてもヴァレリーという人物は些かジジくさく、説教じみている所はあるが、人として魅力的である。などという考えに至り、演奏してみせることとしたのだった。

キュルケの部屋に行くのは他の学生の目があるので避け、演奏は研究室のテラスで聞かせてもらうことにしたヴァレリー。キュルケが持って来たのはラップハープと呼ばれる、膝の上で演奏する形のハープである。弦の数は26と、この型にしては多い方であろう。
音叉を膝で打ち、耳元にあてるとキュルケは一本一本、音程を合わせて行く。

「さて、それじゃぁ一曲」

キュルケが目を閉じ、ゆっくり弦に手を置き、そして弾はじく。
紡ぎだされる音はとても澄んでいて、それを奏でるキュルケも普段とは違いとても落ち着いた佇まいで、お淑やかに見える。ヴァレリーはキュルケの演奏に音の綺麗さだけではなく、優しさのようなものを感じていた。きっとそれもまた彼女の本質なのだろうと思う。

「どうだったかしら?」

一曲弾き終えたキュルケがゆっくり目を開き、ヴァレリーに問う。
演奏の余韻が残っているせいか、その瞬間のキュルケは今日一番の魅力を放っていて、ヴァレリーも自然と今日一番の笑みを浮かべる。

「美しかった。その音も、君自身も」

それは意図せず口にした言葉。
それ故、素直に相手に伝わる。

「ふふ、少しは私の魅力が伝わったようね」

キュルケも笑みを浮かべる。
ただそれはいつもの男を誘う笑みではなく、もっと澄んだそれである。

「貴方もなにか弾けないの?折角だから合わせましょう」
「一応、ピアノとチェロは習ったが君ほど上手には弾けないぞ?」
「かまわないわ。大事なのはそこじゃないもの」
「そうか、わかった。ちょっと待っててくれ」

ヴァレリーは部屋の奥から一つのチェロを持ってくる。
貴族にとって、楽器を嗜むのは一つの教養でもあるので何かしらの楽器に覚えがある者も多い。特に女性においては腕の良し悪しはあるが大抵の者は楽器の経験はある。余談だがヴァリエール家の娘もそれに余らず楽器が弾ける。エレオノールはヴァイオリンが上手であったし、カトレアはピアノを弾けた。ルイズはフルートの練習をしていたものだ。

些か埃を被っているケースからチェロを取り出し、丁寧に拭き、弦を張ると調子を確かめる。若干の歪みはあるものの聞けない音ではない。弓に松脂を塗り、4つの弦をそれぞれ撫でれば、芯があり、よく通った音が庭に響く。

「よし、準備完了だ。曲は何にしようか?」
「デュオだから……そうね。「シャーロットの姫君」辺りかしら?弾ける?」
「うむ、なんとか」

ちなみに「シャーロットの姫君」とは外界を見てはならない呪いにかかり、塔に閉じ込められていてるシャーロットの姫と騎士ランスロット卿を歌ったモノに曲をつけたものである。

目で合図を送り、キュルケが前奏をし、ヴァレリーがそれに合わせる。チェロの音がリードをとるとキュルケがハープを弾きながら歌い出す。それは思いつきで合わせたとは思えない調和のとれた演奏であり、風に揺れる花々はそれを称賛するようである。

ゆったりとした曲調の中、しっかりとした強弱と余韻を残し、キュルケの歌を映えるようにヴァレリーが奏で、間奏ではチェロが引き立つようにキュルケがハープの調べを紡ぐ。チェロの低音で曲を終えた二人は向き合う。されどそこに言葉はなく、穏やかな笑みのみを交わす。後にキュルケはしばしばヴァレリーと音を奏でるようになるが今日がその初め。そして彼女が学院でなんの衒いもなく過ごした初めての時。

言葉で伝えねばわからないこともある。
しかし時として人は奏でる音でその人の性質を知ることもできる。
今の二人がそうであるように。









[34596] 007
Name: lily◆ae117856 ID:245b0a6f
Date: 2012/08/22 23:38
入学式から二週間ほど経ったフェオの月、最後の週であるティワズの週の中頃はギ―シュが好きな薔薇を始めとする花が美しさを主張し始め、いつのまにか緑が濃くなっているのに気付く月である。

今週の魔法薬学の授業は前回の授業で作った増強剤を返却するところから始まった。生徒達が作ったそれに五段階で評価をつけ、改善点を書いた紙を括り付け、渡す。文句なしの最高評価を得たのはモンモランシーとルイズ、タバサの3人で特にモンモランシーの薬はヴァレリーが作るものとさほど遜色ない出来であった。今回の授業は何かの薬を作るというわけではなく、座学、といっても講堂でヴァレリーが教鞭を振るって生徒達がそれを書き留めるという形式ではなく、庭で薬の材料となる植物を実際に見ながらどういった効能があり、何に使われるのかをヴァレリーが説明していくという形で行っている。

ヴァレリーが生徒達を集め、説明し出したのは薔薇が咲き誇る一画。
単に薔薇と言ってもその種類は多く、ヴァレリーの庭に咲く薔薇を系統で分けるならアルバ、ブルボン、ガリカ、ダマスク、モス、ノアゼットに分けられる。形や色も違いがあり、見る者を楽しませてくれる。アルバ・ローズのセレスティアルは淡い桃色をしており、同じ桃色でもダマスク・ローズのヨーク・アンド・ランカスターはフリルのドレスのように花弁が広がる。ブルボン・ローズのバリエガータ・ディ・ボローニャは紅白のストライプで窄んだ型をしているし、ガリカ・ローズのオフィキナリスは赤色を、カーディナル・ド ・リシュリューは濃紫色の奥ゆかしい姿を見せる。

何人もの生徒がうっとり見惚れる中、ヴァレリーが説明を始める。

「多くの者を魅了し「花の女王」と称される薔薇にも多くの効果があります。安眠効果や血液循環の活性化、抗炎症作用、止血作用などが挙げられます。魔法薬学的には精神安定剤としての使用が多いですね。また、ここにはありませんが「夜の貴婦人」と呼ばれる黒の薔薇はそれそのものが魔法的効果があり、禁制の惚れ薬の材料の一つとなっています。あっ、そうそう、余談ですが皆さんが使っている大浴場に香り風呂がありますよね、花の香りだったり柑橘系の香りがするアレです。実はあの風呂の香料は私が作っているんですよ?何か希望する香りがあれば言ってください。私の授業を受けてくれる皆さんの要望には特別に受け付けちゃいますよ」

ヴァレリーは生徒達の要望に耳を傾け、切りの良いところで締めくくると次の説明をするべく薄青色や鮮青色の小さな花を多数つけた忘れな草が生える一画に移動する。

「この花の名前はゲルマニアの悲恋伝説に登場する主人公の言葉に因んだものなんですがミス・ツェルプストーは知っていますか?」

生徒達の中でゲルマニア出身の者はキュルケだけであったのでこの花の名の由来を説明するには彼女が最適であった。

「えぇ、知っているわ。それは昔、騎士ルドルフとその恋人、ベルタの物語。ドナウ川の岸辺を歩く二人はその花を見つけたわ。「ねぇ、ルドルフ様、あの花はとても可愛らしいですわね」」

キュルケが演劇染みたセリフをヴァレリーにかける。
これにヴァレリーは乗ってみせる。

「「あぁ、愛しのベルタ。君の美しさには敵うまいて。どれ、一つ君にあの花を捧げよう」そう言ってその花を摘もうとルドルフは岸を降りたが誤って急流に飲まれてしまうんだ」

ヴァレリーが件の花を摘み、セリフを続ける。

「ルドルフは最後の力を尽くしその花を岸に投げ言った。「どうか、私を忘れないでくれ!」」

ヴァレリーは摘んだ花をキュルケに投げる。

「それが彼が残した最後の言葉。残されたベルタはルドルフの墓にその花を供え、彼の最期の言葉を花の名にしたわ。それがこの花、忘れな草の名前の由縁」

キュルケが話を結ぶと感嘆の声が生徒達の間に漏れる。
この話を間抜けな話と捉えるかロマンチックな話と捉えるかは聴く者によるが演劇好きの貴族達は多くが後者の理解をしたようである。

「ありがとう、ミス。っとまぁ、こんな感じだね。皮肉だが魔法薬学ではこの花は忘却剤の材料として使われます。また余談になりますが先ほどの物語に由来しこの花の花言葉は「真実の愛」、「私を忘れないで下さい」といったものになります。地方によっては若者がズポンのポケットに、この花を入れて行くと若い娘に気に入られると言い伝えられていたりします。また、偶然見つけた忘れな草を左の腋の下に入れて家路をたどると、途中で出会った最初の人が未来の配偶者の名を教えてくれる。なんてのもありましたね。実は学院内でもこの花が自生している所が幾つかあります。試してみるのも面白いかもしれませんね」

授業の合間の教師の雑学がその授業の魅力の一つであるのはどこの世界でもきっと一緒なのだろう。その点においてヴァレリーの魔法薬学の授業は早くも学院、屈指の人気授業となっている。それはヴァレリー自身の見た目と人間性に依るところも多いが彼の教師としての腕も確かであることの証明でもある。


それからヴァレリーは生食すると「七色の夢を見る」と言われ、幻覚剤の材料となるウバタマや麻酔として古くから伝えられるアヘンなどの説明などをして今回の授業を終えた。

時間を進め、その日の放課後。
風系統のラインメイジであり、自身の魔法に大そうな自信を持っていたヴィリエ・ド・ロレーヌは魔法薬学で返却された増強剤を試しに飲んでみた。括り付けられた紙には「興奮作用の分散と沈静が薄い」との注意書きがあったのだが彼は別段、気にとめることもなく服用してしまったため事件は起きた。

ロレーヌはなんとも微妙な味のそれを飲み干すと体が熱くなるのを感じ、自身の感情と魔力が昂るのを実感していた。湧いてくるのはクラスに存在するトライアングルメイジの3人への嫉妬の炎。風系統の名門の生まれで、その才覚を発揮し入学時では数少ないラインレベルであった彼はクラスはおろか学年で風の授業では一番になれるだろうと思っていた。しかし、待っていたのは一番どころか二番手にも三番手にもなれない事実。今まで風の魔法を鍛えるべく領地で教わってきたし努力もしてきた。それなのにあの3人は事も無げに自分の上を行く。自分の努力が否定されたようでそれが許せなかった。

そんな折、ロレーヌは図書館から帰路につくタバサと出逢ってしまった。自分より幼くして風の第一位の彼女への対抗心は3人の中で最も強く、またタバサがどれほど過酷な道を歩んできたかを知らなかったが故、興奮状態の彼は己を律することが出来なかった。

本を読みながら歩を進めるタバサの前に立ちはだかりロレーヌは言う。

「ミス、貴方に「風」をご教授願いたい」

タバサはそれを無視し、本から目を逸らすことすらせずに通り過ぎようとした。
それがさらに彼の神経を逆なでした。
ロレーヌはタバサが読んでいる本を叩き落とし、怒りを露わにする。

「人がモノを頼んでいるんだ!礼儀を知れ!」

落ちた本を拾い、汚れを払うタバサはそれでもロレーヌをその瞳に映すことは無く、無視して通ろうとする。

「なるほど、君がどうやら私生児というのは本当のようだな。最低限の礼儀すら解さないとは。きっと君は母の顔さえ知らぬ哀れな子なのだろうよ。そんなのだから母に捨てられ、礼儀知らずの臆病者になってしまうのだ。いいだろう、可愛そうな君は本の世界にだけ生きるがいいさ!」

ロレーヌがそう言い残し立ち去ろうとした時、ようやくタバサがロレーヌを見た。
その感情の窺えない碧眼の瞳の中には雪風が吹き荒ぶ。

「やる気になったか?」

二人は距離をあけ、杖をかまえる。

「君のような庶子に名乗る謂れは無いがこれも作法だ。ヴィリエ・ド・ロレーヌ、謹んでお相手仕る」

しかし、タバサはそれでも答えない。

「ふん、この期に及んで憐れだな。その身に相応しく地に伏すがいい!いざ!」

ロレーヌが唱えたのは「ウィンド・ブレイク」。
もともと強力な魔法だが増強剤の効果も相まって荒れ狂う風が密を成しタバサに迫る。
タバサはロレーヌが増強剤を使用していることを知らなかったため、予想以上の強力な魔法に些か驚いた。短い詠唱と長い杖を振り、ロレーヌの攻撃を逸らす。
タバサとしてはロレーヌにそのまま返してやるつもりであったがそれは叶わなかった。
渾身の一撃を流されたロレーヌに向け、タバサが「エア・ハンマー」を放つ。
ロレーヌは「エア・シールド 」を慌てて唱えるが盾もろともタバサの風の槌に吹き飛ばされ壁に叩きつけられた。
痛みに喘ぐロレーヌに向け氷の矢を無数に飛び、彼のマントや服が壁に縫いつけられ、身動きできないロレーヌに致命傷となろう大きな氷の矢が飛んでくる。

「っひ……!?」

思わず体が強張ったロレーヌの眼前に氷の矢がぴたりと静止し、溶けだす。
それと同時に体を壁に縫いつけていた戒めも溶け、ロレーヌは壁からずり落ち、ガタガタと震える。
圧倒的な実力の差を見せつけられ、死の恐怖を味わった彼に既に戦意は無く、増強剤による興奮状態も完全に冷え切ってしまった。

タバサは腰を抜かし、立つことすらできない彼を一瞥すると何も言わず再び本を片手に寮へと戻って行った。

残されたロレーヌの頬を一筋の涙が伝う。
それは恐怖からか、悔しさからか。きっと両方なのだろう。


さて、タバサとロレーヌが決闘をしているちょうどその頃、ヴァレリーはそんなこととは露とも知らず、実験室に訪れた友人の対応をどうしたものかと考えていた。ちょこんとベットの上で枕を抱えてしょぼくれているのは幼少の頃よりの付き合いのルイズである。もともと小さいルイズが更に小さく見えるのは気のせいではないのだろう。

座学や一般教養としての魔法薬学や魔法生物学は優秀な彼女であるが、系統魔法の授業は散々な結果に終わっていた。例えばヴァレリーらが難なくこなしたギトーの風の授業では周囲の生徒達を幾人も巻き込んで爆発した後、汗をかきながら外壁沿いを一度も飛ぶことなく5周した。土のクリエイト・ゴーレムによる造形の授業では地面に人一人が入れそうなクレーターを作り上げた。それでもルイズは気丈に振る舞い、各系統の教師に教えを請い、努力した。ただ、その努力が実ることはなく、教師としても「そのうち出来るようになるのでは?」と言うことぐらいしか出来なかった。入学から二週間、爆発しか起こせていないルイズのことを笑う者も出始めていてそろそろ「たまたま失敗しただけ」なんて言い訳が通用しなくなってきている。流石にこれはルイズも落ち込まざる得なく、小一時間ほどヴァレリーのベットで愚痴をこぼした後、疲れたのかしゅんとしているのが今の状況である。

「ねぇ……ヴァレリー?」

ルイズが枕に顔を半分埋めながら話かける。

「ん?」

ヴァレリーはなにやら生成しながら返事をする。

「私……どうしたらいいの?」

トリステイン切っての名門ラ・ヴァリエール。それ故に魔法が上手く使えないルイズには時にラ・ヴァリエールの名が重く圧し掛かることもある。魔法を習い始めてから大凡10年、失敗続きで本当は学院に入るのも怖かったかもしれない。それでも杖を握るルイズは強い女性だとヴァレリーは思っている。その原動力は彼女自身とラ・ヴァリエール家としての矜持からくるものなのだろう。しかし、未だ15の少女であることもまた事実。堪え切れなくなることはあって然るべきことだ。

「う~ん、とりあえず飴ちゃん食べる?」
「真面目に聞いてよ……馬鹿」
「私も父上によく言われるが馬鹿になることも時には大事なことなんだよ。っと完成」

ヴァレリーは今しがた出来上がったばかりの小さな固形物を持ってルイズの横に腰を下ろすとおもむろにルイズの頬を引っ張る。

「なによ……」
「いいから口を開ける」
「ん……」

素直に従い、小さく口を開けたルイズにヴァレリーはその固形物をぽいっと入れる。

「お味はいかかでしょうか、お姫様?」
「甘い……」
「それは私特製の元気が出る飴ちゃんさ。一粒、1エキューします」
「高いわよ」
「私の真心が籠っているからね。おいしいだろ?」

ルイズは口の中で飴をコロコロ転がしながら頷く。
それを見てヴァレリーはルイズの頭に手を置き優しく言う。

「なぜ、魔法が爆発してしまうのかはわからない。しかし、前にも言った通り、君にはトライアングル以上になれる資質があると私は思っている。私は君を嘲笑ったりはしないよ。君がどれだけ努力をしているかを知っているし、何より大事な友達だからね。辛ければ泣いてしまえばいいし、愚痴が言いたくなったら言えばいい。私が君が泣きやむまで傍にいるし話も聞くからさ。其れ位の甲斐性は有るつもりだよ。飽きるまで此処にいていいし、飴ちゃんだってあげちゃうよ?だからさ、落ち込むだけ落ち込んだらしゃんと胸を張って歩くべきだ。それにだ、ルイズ。ラ・ヴァリエールの女性は強かで凛とした美しい花だと私は記憶しているのだが違っただろうか?」

しゅんとしている姿はそれはそれで愛らしいものであるが、やはり友人としては笑顔でいて欲しいと思うものだ。そのうちルイズにも親友と呼べるような友達や恋人ができるのだろうが、少なくともそれまでは学院に於いて眼前の小さな少女を支える役目はヴァレリーにあると言っていいだろう。

「ぐすっ……ヴァレリー……貴方ってば」

ヴァレリーの心よりの言葉はルイズに届いたのだろう。
涙ぐむルイズは鼻をすんと鳴らしてヴァレリーを見つめる。
その顔には微笑みが浮かぶ。

「あっ、しかし君には張る胸が無かったか」
「私の感動を返しなさいよ……馬鹿」

今度はルイズがヴァレリーの頬をつねる。それはもう、思いっきり。

「ひたひ、ひたひ!こら、励ましてやった友人になんたる仕打ちか!?」
「どうせ、私はちぃ姉さまとは違うわよ!この、よくも、美少女つかまえて、胸がないとか!」

じゃれる二人。といってもヴァレリーは割と本気で痛がっているが。
もつれ、ベットに倒れ込めばルイズがヴァレリーを押し倒したような形となる。
ルイズの髪がヴァレリーの頬にかかり、女の子らしい甘い匂いがする。
仲が仲ならキスの一つもするのだろう。しかし、二人は友達同士。

「少しは元気になったかい?」
「ふん、飴……もう一個」
「一粒、2エキューしますが?」
「さっきより高くなってるわ。こんな美少女が友達で嬉しいでしょう?いいからよこしなさい」
「仕方がないなぁ、美少女に免じて特別にもう一つ飴ちゃんをあげよう」

ルイズにもう一つ特製の元気がでる飴をあげ、ヴァレリーは起き上がると魔法薬の生成に戻った。ルイズは猶もベットの上に座っていたが今はもうしょぼくれてはいない。研究室にはヴァレリーが作業する音だけ。口の中の飴がすっかり小さくなった頃、ルイズがヴァレリーに話かけた。

「ねぇ……ヴァレリー」
「ん?」
「その……ありがと……」

ヴァレリーの方を見ずにルイズが言う。ルイズはヴァレリーがわざと軽口を言ったことぐらいわかる。だからこそ正面からお礼を言うのは恥ずかしかった。そんな彼女の心境もまたヴァレリーはわかる。だからヴァレリーは振り向くことはせず、作業をしながら一言だけ告げる。

「どういたしまして」


ティワズの週の虚無の曜日。
いよいよ本日はスレイプ二ィルの舞踏会。
宝物庫から真実の鏡がダンスホールの入口まで引き出され、それを黒いカーテンでしきり、誰が今、姿を変えているのかわからないようになっている。毎年恒例ながら蝶の形のマスクをしたミセス・シュヴルーズがノリノリで生徒達を導く。シュヴルーズは土の系統魔法を教える教師だが2年生の担当であったため多くの一年生はそこまで面識がない。一年生は「あんなマスクをしなきゃいけないのかな」などと不安を覚えるがそれはミセスの知らぬところ。

ヴァレリーの番になり、仕切りの中の真実の鏡の前に立つ。上からかけられた布を除けば虹色に光る鏡面が現れ、一寸溢れた光がヴァレリーをのみ込み、視界を奪う。光が不意に消え、鏡を見ればそこには自分であって自分でない姿。己の理想、なりたいとされる誰かの姿。

―――やはりこうなったか。

ヴァレリーは自分がどういった姿になるのか大方予想できた。
白く長い髪にこれまた同じく白く長い髭、刻まれた顔の皺は今まで生きてきた証。
その姿は学院長であり、ヴァレリーの尊敬する父親、オスマンのそれであった。

ホールへ向かうと、そこには伝説の勇者や偉人に加え、年配の紳士淑女やクラスメイトそのままの姿と様々な人で溢れていた。ヴァレリーの姿をしたものも数人いたので本人は苦笑いで顔の皺を増やした。生徒達が全員集まったのを確認し本物のオスマンが壇上へ現れる。

「諸君、今宵は親睦を深める舞踏会じゃ。なぜ姿を変えたか?それは家柄、地位、国籍、爵位に囚われず、学院では平等であることを知らしめ共に学ぶため。なぜ理想の姿か?それは諸君らに理想を追い求め、その理想に負けぬよう生きてほしいからじゃ。新しき年、多くを学び、良き友を作り、貴族たる様を身につけよ!以上じゃ」

オスマンが言葉を述べると音楽が奏でられ舞踏会の始まりとなった。

皆が皆、ダンスの相手に誰を誘おうか悩む中、ヴァレリーもどうしたものかと長い白髭を撫でていた。なんとなく髭を撫でるのに憧れていたヴァレリーはこの姿になってから、やたらと髭に手をのばしている。ひとまずワインでも飲みながらルイズやギ―シュでも探してみることにしたヴァレリーは脇にのいて、料理をつまみながらホールを観察しているとカトレアの姿を見つけた。当然ここに彼女がいるわけはないので誰かが化けた姿である。もっとも誰が化けたものかは想像できるが。

件のカトレアは先ほどから幾人もの相手にダンスを誘われていてわたわたしている。意中の相手が複数の男に言い寄られるのは複雑な心境でもあるが「あの方ならば当然だろう」とも思う。病弱故、社交界にあまり顔を出せないが本来なら社交界の花となりえる存在なのだから。

ようやく件のカトレアがダンスの相手を選び、音楽に合わせ踊る。優雅かつ軽快にステップを刻む彼女を見ているとヴァレリーの心が苦しくなる。きっと本当のカトレアはあんな上手には踊れない。病がそれを許さないからだ。

ヴァレリー自身もカトレアの病気を何度か診させてもらったが多くの者達と同じように治すことは愚か、その病の根源がなんなのかすらわからなかった。魔法の行使で咳込むことから肺、もしくは脳に異常があるのではないかとの意見もあるが確証もない。自分より実力の上の水メイジの治癒の呪文でも治らないだから魔法の威力、云々というよりは根本的な所が違うというのはわかる。そもそも魔法による治癒は傷ついたものを癒すのであって、切断された腕を繋げることは出来ても腕自体を新しく生成させることは出来ない。その面を見ても魔法による治癒にも限界があるし、先天的な病に効果があまり見込めないのも治癒を専門に扱う者ならわかる。

有識者の中では生命力それ自体を削る何かが彼女の中に存在し、併発した病は治癒での対処、それ以外は薬や魔法で生命力自体を高めるしかないとの見解で一致している。ヴァレリーもその見解を支持しているので魔法では上をいく者がいる以上、自分にできること、具体的には生命力を向上させる魔法薬の開発に取り組んでいる。以前、ヴァレリーがタバサに見せた研究文書もそういった魔法薬を開発するための基盤であった。

―――いけないな、きっと今の私を見たらカトレア様は怒るだろうな。あのお方は聡いから。

自身を諌めるヴァレリーに不意に声がかけられた。

「やぁ、君はヴァレリーだね」

低く渋い声、それに見合うがっちりした体つき、それでいてどこか知り合いと同じ空気を放つ金髪の貴族。

「そういう君は、ギ―シュだな。君の父君かな?やはり似ている」

ヴァレリーに声をかけたのは陸軍元帥でもあり、現グラモン家の当主である父親の姿になったギ―シュであった。ヴァレリーもオスマンの姿であるがわざわざオスマンの姿になるような学生はヴァレリーくらいであったためギ―シュもわかりやすかったのだろう。

「あぁ、そうさ。正直僕は自分が何に化けるかわからなかったんだよね。ほら、僕、既に理想の姿だし?でもやはり父は偉大だったな」
「まぁ、息子は父親の背中を見て育つものだしな。というか君は踊らないのかい?理想の姿とあって美しい人も多いだろう?アンリエッタ姫殿下なんて5、6人いるし」
「君だって踊ってないだろ?皆が皆というわけではないが、美しい人が理想の姿の人は自身に美しさが足りないと感じている人だと思うんだよね。真に美しい人というのはその行動に表れるものさ。今は観察中なんだよ。ところでヴァレリー?僕達はそろって父親の姿になったわけだけど僕達に足りないモノって何だと思うかい?」

なかなか真に迫るギ―シュの言葉にヴァレリーは考える。

「う~ん、すぐに浮かぶものは威厳とか深みだろうか?」
「確かにそうかも、でもそれはなかなか難しいな。僕達はまだ十六だぞ?」
「まぁね。だからこそ今の姿があるのかも知れない。ギ―シュ、君は何が足りないと思う?」
「そうだなぁー。うん、わからない」
「おいおい、人に聞いといてそれはないぞ」
「だってわからないのだから仕方がないじゃないか。でもね、僕は思うんだ。足りないモノなんてこれから生きていく中で自ずとわかることだし今を楽しむことが重要なんじゃないかと。刹那的と言われればそうかもしれないが楽しんでこその人生。それに僕達はまだまだ若い。出来ない事も多いけどこれから出来るようになることも多いはずさ」

自分に足りないモノは何か?そしてどうあるべきかを考える二人。
それはこの舞踏会の趣旨の一つでもある。
ヴァレリーはギ―シュの言葉にあり方の一つを教えられた気がした。

「そう言えば、君はさっきからあの桃色のブロンドの女性ばかり見ているな。立ち振る舞いもなかなかだしきっと中身もそれ相応な子なんじゃないかな。うん、彼女は合格点だ。君はああいう女性が好みなのかい?」

話題が変わってギ―シュらしい話になった。

「好みもなにもあの方は私の意中の人だからな。彼女はカトレア様といってルイズの二番目の姉さ。どうだい、素敵な方だろう。その容姿もさることながら性格も愛らしく、コロコロと笑う様は天使のそれ。奥ゆかしく優雅、品と知性と遊び心を兼ね備えた麗しの蘭の君なのだ」

まるで自分のことのように自慢するヴァレリーにギ―シュは些か驚いた。

「君がそこまで言うか。随分と夢中のようだね。そうか、そうか。君は僕同様、モテるのに全然学院の女の子に興味を示さないから不思議だったんだがこれで納得がいったよ。で?どうなんだ?どこまでの仲なんだい?」

普段は澄ましているヴァレリーもやはり男なんだと再確認するギ―シュの目が輝いている。

「いや、まぁ、なんだ、その、まだ告白していないんだ。それなりの好意は示してるしカトレア様からも悪くは思われてないと感じるんだが……。夏になったら告げようと考えてる」
「おぉ!なんだが今、僕は君が凄い近くに感じるよ!うはは、応援するぞ。さぁ、乾杯だ!」

ギ―シュがワインのグラスを手に取りはしゃぐ。

「う、うむ。このことはあまり人に話さないでくれよ?」
「わかっているさ。それじゃぁ君の恋が咲き誇ることを願って」

二人はグラスを掲げ、一気にワインを呷る。
そこに一曲踊り終えた件のカトレアがやってくる。

「学院長になってるのはヴァレリーね。そちらはギ―シュかしら?合っている?」
「あぁ、そうさ。ルイズはカトレア様になったんだね」
「えぇ、だってちぃ姉さまは私の理想だもの。それにしても二人はなんだか楽しそうね。何かあったの?」

ルイズの質問にギ―シュが嬉しそうに答える。

「それは秘密さ。男同士の固い絆に基づくね」

事の経緯を知らないルイズは首を傾げ、不思議そうにしている。
ギ―シュはルイズにもワインを持たせ、もう一度乾杯を促す。

「さぁ!いざ行かん!我々の輝かしい未来へ!」







[34596] 008
Name: lily◆ae117856 ID:245b0a6f
Date: 2012/08/22 23:40
ウルの月に入り、第二週目のヘイムダルの週。
週末には新入生歓迎の舞踏会が行われることになっている。

薔薇が咲き誇るこの月の魔法薬学の授業では夢見の薬と変身剤を授業で扱い、生徒達はその効果を身を持って味わい、魔法薬学の面白さに引きこまれて行く。前者の夢見の薬はウバタマを主原料としたモノで服用し眠りにつくと何とも不思議な夢が見れるという一品であり、副材料を変えることによって摩訶不思議な夢や、心温まる夢、魘されるような悪夢を見ることが出来る品である。後者の変身剤は材料に変身したい人物の体の一部を用いて、その人物の姿になれるというモノである。注釈としては著しく形が違うモノ、例えば猫や犬に姿を変えることはできないし、男女間の変身は特別な加工を経ていないとできない。変身剤の効果が発揮しないというわけではないが毛むくじゃらになるか男でもあり、女でもある体になるといった中途半端な結果になる。

魔法薬学界の研究文書の中にはわざと動物になる変身剤を作り、聴覚や嗅覚など、部分的に鋭くすることの研究がなされてもいるが悉く失敗に終わっている。ただ、この分野には一部の酔狂な研究者がいて今も猶、研究が続けられている。なんでも「獣耳や尻尾は男の浪漫だ!」と主張しているらしい。その熱意が果たして純粋な能力向上か性的趣向から来るものなのかは定かではないが以外に結構な数の支援者がいて研究資金には窮することがない分野であるのはこの業界のなんとも言えない面である。

話がどんどんと脇道に逸れていくが魔法薬学界では月に一度、ヘイムダルの週に発行される月刊情報誌がある。国によって変わってくる面もあるが、概ね研究成果の発表や新しい発見、第一人者のコラムや色々な分野の特集記事が載っていたりする。また、これが割と重要なのだが各研究者や研究施設のパトロンの募集も毎回掲載されている。今月号の募集欄の一番上には資金潤沢のくせにデカデカと件の浪漫を探求するもの達の援助募集がなされている。別に此処は毎度のことなので別段かまわないのだが問題は今月号の表紙にあった。
表紙には丈の短いメイド服を着て、縞々のショーツが可愛らしい少女の絵が刷られており、猫耳と尻尾、猫ハンドの手袋まで付けた完全装備でポーズを決めている。ロマリアから差押えられそうな宗教的に危ないその表紙に定期購読しているヴァレリーは目を疑った。今回は買うのを止めようかとも思ったが内容自体は普通であるので買うに至ったが、書店からの帰り道は人目が気になって仕方がなかった。
加えて、学院の自室に戻った際も助手として手伝いに来てくれたルイズ、タバサ、モンモランシーの3人や演奏を合わせに来たキュルケはその表紙を見てドン引きである。

この時ばかりは周りと馴染めていないタバサやキュルケも分け隔てなく冷たい目でヴァレリーを見た。幸い、モンモランシーが覚えがあったこととヴァレリーがすぐに弁明したことで人格を疑われずに済んだが、この本の編集者と傍から対岸の火事を決め込みニヤ付いていたギ―シュを軽く恨んだヴァレリーだった。
ちなみにモンモランシーの覚えというのは魔法薬学界にはそういった分野があることを知っているという意味であり、彼女が猫耳等をつけるのが好きという意味ではないことを彼女の名誉の為に補足しておく。

さて、普段は恋人の量産や無視を続けるキュルケとタバサであるが、ヴァレリーを通して研究室に集まるメンバーとは険悪な関係というわけではなく、ことタバサに関して言えば、最近では彼女がヴァレリーのことを好きなのではないかとの噂まで立っている。というのも普段はクラスの者とは話さないのにヴァレリーとは話しているのを見かける上に、魔法薬学の助手まで引き受けていて他の者との差が明確だからである。タバサにしたらヴァレリーが役に立つから話しているだけであるが、そんなことは当人しかわかる由もなく、噂というのが一種の娯楽でもあり、また十代の恋多き生徒達故、上記のような話になってしまったのだ。

そんなこととは知らないヴァレリーは、週の中頃、授業を終え、オスマンの執務の手伝いをこなし、すっかり暗くなった学院から実験室へと帰るところであった。地を照らすのは月明かりのみではあるがそれがヴァレリーにとっては心地がよく、辺りが暗くとも夜目が利く為足取りは軽い。どちらも吸血鬼の血の成せるモノであるが当の本人はそれが理由だとは露とも思うことは無い。

ヴァレリーが明かりが灯る学院の門のところまで来た時、一迅の風がふいた。

「……ッ!?」

その風はヴァレリーの銀色の髪に触れ、闇に消える。

明らかに不自然な風に後ろを振り返るもそこに人の姿は無く、そして気付く。
結んでいたリボンごと髪が一束切られていることに。
これにはヴァレリーは慌てた。
髪を切られたことにではなくリボンが切れてしまったことにである。
髪を結っていたリボンはカトレアから一番最初に貰った黒のモノであり、それはもう大事に扱ってきたのだが無残に真ん中辺りから寸断されてしまっている。しかも切れた片割れが何処を探しても見つからない。

翌朝の朝食になってルイズやギ―シュがヴァレリーの様を見て驚いた。
服やマントは汚れ、顔には疲れが色濃く表れていて普段の品の良さや優雅さというものがまるで感じられないのだ。

「ちょっとッ!?どうしたのよ、ヴァレリー!??」

ルイズの問いに切れたリボンを夜を徹して探していたと答えるヴァレリー。

「リボンって……それだけの為にかい?」

ギ―シュの疑問は当然と言える。
普通はリボン一つの為にここまでならないだろう。
しかしヴァレリーにとっては一大事である。

「あのリボンはカトレア様と初めてお会いした時に貰った私にとっての特別なモノなんだよ……」

泣きだしてしまうのではないかと思うくらい沈んだ声音で説明するヴァレリーにルイズとギ―シュの二人は言葉に窮する。結局その日は受ける授業にまったく身が入らず、座学はただ教室にいるだけ、魔法の授業はドット並みの効果しか出せないという落ち込みようであった。

放課後になり実験室に戻ったヴァレリーはふて腐れてベットに倒れ込み、枕に顔を埋める。どう考えても落ち込み過ぎだとは自分でも自覚してはいるものの儘ならない心境であり、そもそも昨晩の風は人為的なモノであった故、考え始めると誰にぶつけることもできない腹立たしさが湧いてくる。

―――はぁ、これではいけないな……。

むくりとベットから起き上がり、気持ちを入れ替える為に早々に湯に浸かる仕度をする。
思えばある程度、拭いたとはいえ、徹夜で学園中を捜索したせいで随分と汚れている。
身嗜みの乱れた者は心も荒ぶということを見事に体現している今の自身の姿はカトレアの伴侶になる男として相応しくないだろうと思い、冷静になり、余裕を持つように努める。

大浴場は時間が早いこともあってまだ誰も湯に浸かっておらず、広い空間にヴァレリーが一人だけ。
なんとなく魔法で湯に流れを作り、流されるままぷかぷかと漂う。
このような時、肌身離さず持っていられる指輪が魔法の媒体だと便利である。

何も考えず、目を瞑り、ぷかぷか。

「おわぁっ!?なにしてるんだよ、ヴァレリー!?」

形の良い臀部を浮かせて漂っているヴァレリーの姿に驚いたのは大浴場に入ってきたギ―シュである。
ざばっと体を起こして応えるのはヴァレリー。

「ん?ギ―シュか……。いや、ちょっと無の境地に達しようかと。というか君、なんでこの時間に?」
「君が大浴場に向かうのを見かけたからさ。見るからに落ち込んでいる君を友としては放っておけないだろ?」
「むぅ……そうか。すまないな」

ギ―シュは髪を洗い始め、ヴァレリーは仰向けに湯を漂う。

「それで?無の境地とやらには達したのかい?」

ヴァレリーの方へは向かず、髪を洗いながらギ―シュが問う。

「いや、考え出すと気分は塞ぐし、イライラしてくる……。明らかに意図的に作り出した風だったし、私は誰かに恨まれているのだろうか?」
「うーん、それはわからないな。仮に恨まれていたとしても誰しも恨みの一つや二つはかうものだろう?まぁ、僕は皆から愛される存在だけどね。そう言えば一つ聞いていいかい?」

「答えられることなら」
「君はもしかして気分転換の都度、そうやって浮いているのかい?」
「別に毎回というわけじゃないが……研究に行き詰ったり、気持ちの整理が出来ない時は偶に」
「ふーん、こう言っちゃなんだけど……馬鹿みたいだよ?」

「自覚はしているよ。しかし、存外これが落ち着くんだ。いや、ほんと。はぁ、私にとっては特別だけど傍から見ればたかがリボンでどれだけ心を乱すんだって思うのは自分でも理解しているんだ。だからこそ今、こんなことをして平常心を保とうと努めているんだよ」

「なぁ、ヴァレリー。自身を省みることが出来るのは君の美徳だけど変に大人になり過ぎるのもどうかと思うんだ。君はルイズを慰めた時、思うようにすればいいっていうような旨を言っていたけど、それは君自身にも当てはまることだよ。ルイズもそうだけど少し真面目過ぎる気がするよ」

「真面目過ぎる……ね。楽に物事を考えることの大切さも頭では分かっているつもりなんだがなぁ」
「まぁ、人の性格なんて無理に変わるものでもないし、だからこそ個性なんてものが生まれるのだろうね。兎に角だ。楽しくいこうじゃないか」

「うむ、善処してみる。……ところでなんでルイズとのやり取りを君が?」
「あの場に僕もいたからさ。なんだかいい雰囲気だったから部屋に入れなかったけどね。てっきりキスの一つでもするのかとドキドキしてたんだが……」
「ルイズとはそんなんじゃないさ」
「あれだけ仲がいいのに不思議なモノだ。まぁ、僕としても君達二人がそういう仲になってしまうと3人でいる時に居場所に困るから助かるけど」

体や髪を洗い終えたギ―シュが湯に浸かる。
猶も浮いたままのヴァレリーを見て何を思ったかギ―シュは目を細め、眼前に指を2本横に立てる。

「ん?なにしているんだ?」
「いや、こうして胸とか股とか隠して遠目に見ると女の子が浮いているように見えるから……あだっ!?」

香り付けのために風呂に浮いていたオレンジをギ―シュ目がけて投げつけるヴァレリー。

「なんちゅう目で私を見てるんだ!?」
「ただの一般的見解というか事実というかって、待て!?魔法を使うのは卑怯じゃないかッ!?君もルイズの時は最後に茶化してただろ!??」
「そうだが、生理的に不快だ!そぉい!」

ヴァレリーが魔法で拳程の大きさのお湯の塊をギ―シュに飛ばす。

「なんのこれしき!」

ギ―シュは風呂桶で水弾を撃ち落としガード。
浮いているオレンジを投げて応戦。

「のわっ!?ならば数で勝負!」

今度は小さな水弾を無数に飛ばすヴァレリー。

「あまい!!」

ギ―シュは桶でお湯をすくい、盛大に前方にぶちまける。
いわば、簡易的な水の壁である。

「読んでいた!」

塞がれた水弾を囮にギ―シュが前方に意識を向けている中、ヴァレリーはお湯を冷水に変え、ギ―シュの背中にかける。

「ひやゃぁ~ッ!?」

堪らずギ―シュが温かいお湯の中へ逃げる。
指輪が魔法の媒体故、風呂場でも魔法が使えるヴァレリー。
加えて水を操るヴァレリーにとって風呂場は絶対的有利である。
しかしその慢心が油断をよんだ。

ギ―シュは湯に潜ると浴槽を蹴り、そのまま潜水でヴァレリーの足元をさらったのだ。

「ぬっ!?」

すっ転んだヴァレリーは湯に倒れる。
両者、ぶわっと湯から立ち上がり、お互いに視線を交わす。
最早、魔法を詠唱する距離でもない。
それはヴァレリーもギ―シュも知るところ。
それ故、手に握られている物を見てお互いの意図が同じだと気付き不敵に笑う二人。

「これが最後の一撃になるだろう」
「あぁ、そのようだ」


「「いざ!!」」


二人が握っていた物、それは湯に浮かんでいた瑞々しいオレンジである。
湯に浸けていたため随分と柔らかくなったそれを相手の眼前にて潰そうというつもりなのだ。

そんなことをすればどうなるか?
答えは至極明瞭。
飛び散った汁が目に染みるに決まっている。

「ひっさぁぁぁつっ!!」
「めつぶしぃぃぃっ!!」

両者は同時にオレンジを相手の眼前に掲げ、同時に爆ぜた。
当然の如く四散する柑橘系の爽やかな香りと汁。
そしてそれが目に染みるという自明の結果。

「「ぎゃーーーッ!!?目がぁああああぁ!!?」」


深緑が色を増し、風薫る夜。
ゴールデンペア第一回決戦:ギ―シュ対ヴァレリーの大浴場の攻防
勝敗:泣く泣く引き分け。
決定打:瑞々しいオレンジ


さて、大浴場でギ―シュと戯れたヴァレリーは思いのほか気分がすっきりしていた。
体を清めたというのもあるだろうが、なんの衒いもなく話せるギ―シュという友人の存在は大きい。スレイプ二ィルの舞踏会でもそうであったように堅苦しく物事を考えてしまいがちなヴァレリーにとって、ギ―シュの「楽」な姿勢は自身に足りない物の見方というのを教えてくれる。「今度、一杯奢ってやらねばな」などと考えながらギ―シュと別れ、実験室に戻ったヴァレリーはドアに挟まれた一通の手紙に気付いた。

部屋に明かりを灯し、髪を拭きながら手紙に目を通す。

「晩餐の後、アウストリの広場にて貴方をお待ちしております」

手紙にはただそれだけが書いてあった。
綺麗な字であったが少し丸みを帯びていて女生徒が書いた物を思わせる。似たような手紙をヴァレリーは入学してから早くも4、5通は貰っているのだが例の如く、指定の場所には恋する乙女がいるのだろうかと考える。正直な所、ヴァレリーも男としては嬉しいが既に心に決めた人がいる以上、どのような人に交際を申し込まれようと断る結果しかない。毎度毎度、他に好きな人がいるという説明をするが、その際の場の空気は些か居心地が悪い。なぜか好きな人がいると言うと相手の子はミス・ヴァリエール(ここではルイズのことである)か?と聞いてくるのだが周りにはそのように見えているのかもしれない。確かにルイズはヴァレリーにとって大切な存在だが、しかしてそれは馴染みの縁故である。

―――そういえば、ルイズはまだワルド様の事が好きなのだろうか?家柄云々は別としてどちらかと言えばワルド様にはエレオノール様が似合っている気がするんだがなぁ。というかエレオノール様の婚姻はいつになるんだろうか……。あんなに素敵な方なのになぁ……。

おそらくカトレアに見染めていなければ自分はエレオノールを好きになっていただろうという確信があるヴァレリーは切に彼女の幸せを願う一人である。そんなことを考えながら髪を乾かし、櫛を通す。

―――む、そういえば髪が少し切れてしまったんだった。

リボンにばかり気を向けていたため今まですっかり忘れていた事。

―――なぜ髪を切られたのだろうか?母譲りの自慢の髪といえど親しい者以外にそれを言った事は無いし、リボンについても同様だ。あの時私は完全に無警戒だったから魔法をはずして髪やリボンが切れたとは考えづらい……。私が大切にしているのが普段の行動に表れていたのか、行為者の気まぐれか?

思考を巡らすが結論は出ない。
ヴァレリーは考えるのを一旦止め、違和感がないように髪を切り揃え晩餐へと向かった。

晩餐はギ―シュやルイズと共に取り、ルイズもヴァレリーを心配してくれたようであった。それとは別にギ―シュはなぜか嬉しそうであり、ルイズはそわそわしていたのがヴァレリーの印象に残った。
二人がどうしてそのようであったかの理由は晩餐後の出来事にて語ろう。

約束通りにヴァレリーは晩餐後、アウストリの広場にて手紙の差出人を待っていた。昨晩と同じく月明かりが美しい夜である。

夜の広場で人を待つというのは他にすることもなく存外暇を持て余す。紫煙を嗜んでいたのなら時間も潰せるがヴァレリーは吸わないことにしている。それというのもカトレアの体に悪い影響を与えたくないからである。となれば俄然、暇な儘。故にヴァレリーは広場の本塔側に存在する高さ1メイル程の花壇のすぐ手前にある備え付けのテーブルに寄りかかり、苦手な火の魔法で小さな火の鳥を作り、飛ばすという遊びと修練を兼ねた行動に出る。造形のし易い土や得意な水とは違い今のヴァレリーの火の実力はドットの中位、火という本来形が無いモノを一定の形に留めるには常に魔力を使い、集中を要するので修練にはもってこいなのだ。

火の鳥を飛ばし始めてから結構な時間が過ぎてからやっと約束の場所に人が来た。

「あれ?なんでヴァレリーがここにいるの?」

近づいて来た子は聞き覚えのある声をしている。
火の鳥の明るさに照らされて見えた容姿は背が低く桃色がかったブロンドの女の子。
つまりルイズである。

「いや、それはこちらのセリフなんだが。君があの手紙の差出人かい?」

魔法を止め、ルイズに聞くヴァレリー。

「手紙?貴方が私に出したんじゃないの?」

ルイズが小さく首を傾げる。
きっとデフォルメした漫画なら二人の頭上に疑問符が浮かんでいることだろう。
どちらも相手が手紙の差出人だと思っていた。
つまり双方に手紙が届いているということであり、にもかかわらず自分は手紙を出していないのだから。

「悪戯だったということかしら?折角、身なりを整えたのに」

ルイズはヴァレリーが寄りかかるテーブルと対になっている椅子に腰を下ろし不満そうに足を組む。

「そうだな。告白されるのが重なったというのは考えづらいな。私はここで結構待っているし。って、あぁ、そうか。だから君は晩餐の時に妙にそわそわしていたのか。そして期待に胸を躍らせて此処までやってきたと」
「べ、別に全然期待なんてしてなかったわ!どんな男が私を好きになったのか知りたかっただけよ!そう!言わば知識欲よ!」
「ふふ、とか言いつつも身なりを整えるくらいには期待していたわけだね。香水まで付け直してるみたいだし」
「た、唯の身嗜みよ!淑女たるもの常に美しくよ!」
「ふ~ん、そうですか、そうですか」

意地悪そうな笑みを浮かべるヴァレリー

「何よ」
「いや、別に?ルイズも男に興味を持つ年になったんだなぁっと。なんだか感慨深いモノが。娘を持つ父親の気分だ」

目頭を押さえ涙を堪える演技をするヴァレリーにルイズが冷静に突っ込む。

「なんか嫌な言い方ね。貴方はいつから私の父親になったのかしら」
「ルイズはわしが育てた」
「まったくもって身に覚えがないわ。大体、私と貴方は一歳しか違わないでしょうが」
「おっと、そうだったか。しかし父親は冗談だが私は君の家族になるつもりだよ。義妹よ」

ルイズの頭にぽんっと手を載せるヴァレリー。
それを振り払い、言うはルイズ。

「私は絶対に貴方を義兄さんとは呼ばないからね」
「なんだ、ルイズはカトレア様との結婚を応援してくれないのかい?」
「別に反対してるわけじゃないわ。ちぃ姉さまも言葉にしなくても貴方の事を想っているのがわかるし。ただ、自分の姉が自分の友達と結婚ってのは複雑な心境なのよ。それに私達の間柄はそんなんじゃないでしょってこと」
「まぁ、確かにそうか」

二人は「義兄さん」、「義妹」と呼び合っている自分達を想像したのか笑みが綻ぶ。ルイズは椅子から立ち上がり、花壇の縁に乗るとその上で両手を広げバランスを取りながら端から端を行ったり来たり。要するに暇なのである。

「ふふ、でも貴方もきっと大変ね。お父様とお母様も貴方を悪くは思ってないけど結婚となれば勝手が違うわ。お母様は言わずもがな、お父様も大事な娘が取られるとなったらそれは恐ろしいことになるでしょうね」

ヴァレリーの後ろからルイズのどこか楽しそうな声が聞こえる。
ヴァレリーはテーブルに仰向けに寝転がると伸びをして夜空を見上げながら言葉を返す。

「覚悟はしてるさ。男として筋は通さなきゃいけないからね」
「そう。で?本音は?」
「正直不安はあるさ……」

結婚というのは家柄同士の結びつきを強くする一つの手段でもある。ましてヴァリエール家ともなれば関係を強めたいと思う家が大半であり、オスマンの義息といえど、ヴァレリーのヘルメスと名乗っているその身分は領地を持たない下級貴族に過ぎない。婚姻を申し出る男達の中では家柄的に言えば最下位である。長女であり、婿が次期ヴァリエール家の当主となるだろうエレオノールとの結婚よりかは幾分門は広いが、それでもお家の損得で考えるなるヴァレリーとの結婚はヴァリエール家にとってメリットは少ないと言える。ラ・フォンティーヌの領主はカトレアであり、婿選びは彼女にある程度の自由は与えられているが、あくまで名目上の領主であり、公爵家が関与しないことはあり得ないのだ。

「自分で言うのもアレだけどヴァリエール家は大貴族よ。頑張りなさいな。私も微力ながら応援するわ。嬉しいでしょ?」

寝転がるヴァレリーを覗き込むようにしてルイズが言う。

「あぁ、ありがとう。頑張るさ。ところで……この体制で君がその位置に立つと星と月に加えて白の布地が見えるのだが、それは私を鼓舞するためにやっているのかい?だとしたら効果はいまいち……」

ヴァレリーの位置からルイズを見上げると薫風にスカートが揺れ、ショーツが見え隠れするのである。ちなみに薫風とは5月から初夏にかけての温和な風であって、決してルイズのショーツが芳しいという意味ではないのであしからず。薫風×ショーツで良からぬ妄想をしてはいけない。

「なっ、そんなわけないでしょ!?このむっつりが!!」

ルイズのトーキックがヴァレリーの旋毛に炸裂する。

「あだっ!?」
「見物料として2千エキュー取るわよ!」

どうやらルイズのショーツは一見あたりにシュヴァリエの年金の4倍に相当するらしい。立派な家が建つ金額である。


さて、誰かの悪戯によって呼び出された二人であったが手紙が届いたのは彼ら二人だけではなく、ギ―シュとモンモランシーにも届いていた。ギ―シュが晩餐の時に嬉しそうだったのはこのためであった。アウストリの広場とは反対側に位置するヴェストリの広場でワクワクしながら待つギ―シュのもとにやって来たのはモンモランシー。例の如く二人は手紙を出した覚えはないが状況を利用してギ―シュが口説き始めたのでこちらはやや桃色な状況である。すぐさま恋仲になるようなことはなかったがこの一件は二人が近づき始める切っ掛けとなった。
結局どちらの広場にいる男女も話しの内容は違えど小一時間ばかりは話し込んだようである。


時間を少し戻し、また違う場所のことを語る。
ヴァレリーがアウストリの広場で暇をもて余してる時と同時刻、タバサはヴァレリーの実験室を訪れていた。と言うのも晩餐を終え、部屋に戻ったら一通の手紙が床に落ちており、そこにはヴァレリー・ヘルメスの名と手伝って欲しいことがあるから晩餐後に研究室に来て欲しいという文面があったからだ。床に落ちていたのは恐らくドアの隙間から差し込んだ為であろうが、わざわざ手紙という形式をとったのはどうしてだろうかと一寸、疑問には思ったがヴァレリーが気障な人故に有り得そうであった為タバサは深くは考えなかった。

そんな経緯の中、タバサは花が咲き乱れる庭を杖にライトを唱え進み、実験室前まで来たはいいが部屋に灯りがついていない。タバサは知らないがこの時、ヴァレリーはアウストリの広場にいるはずである。呼んどいて留守かと思いきや後ろから声をかけられた。

「あぁ、来てくれたのか。ちょっとそこに座って待っててくれ」

庭先から現れたのは手紙の差出人たるヴァレリーである。
本来此処にいるはずのない彼がどうしてここにいるのか?それは後に明かすこととしよう。

テラスにある椅子にタバサを促した彼の手には幾つかの魔法薬の材料とおぼしきものが入った篭を引っ提げている。ヴァレリーは実験室のドアの前で杖を抜きアンロックの呪文を唱え、中へと入っていく。
部屋の灯りをつけてテラスに戻って来たヴァレリーの手にはワイングラスと小ぶりのボトル。

「今まで魔法薬の材料の剪定をしていたんだ。もう少しだけ掛かるからこれでも飲んで待ってて欲しい」

ヴァレリーはグラスにワインを注ぎながら言う。
タバサは小さく頷き、ヴァレリーはボトルを懐にしまい再度部屋の中へ。
別段喉が渇いていたわけではないがわざわざ自分の為に用意してくれたのだからとタバサはグラスを傾ける。飲んでみて気づいたが些か妙な味である。普通のワインではなく彼お手製の酒なのだろうか。だとしたら今回の酒は失敗作であると彼女は思う。

タバサがグラスの中身を飲んだのを確認したヴァレリーは向かいの椅子に座り、ニヤついた顔でタバサに聞いた。

「お味はいかがだったかな?」
「美味しくはない」

バッサリ切り捨てたタバサだが向かいに座るヴァレリーは笑顔で言う。

「だろうね」

何か嬉しいことでもあったのかと首を傾げるタバサ。
今日の彼はいつもと雰囲気が違う。

「それでね。手伝ってほしいことなんだけど……。君、私の作った薬を試す役になってくれないか?」

相変わらずニヤついた顔でそんなことを言うヴァレリー。
当然タバサがこの役を引き受けるわけはなく、無言で立ち去ろうとするが手を掴まれ、引き止められる。
テーブルが揺れ、グラスが床に落ち、割れる。

「待ってくれよ。折角君の為に作った薬なんだよ?」

嗜虐的な笑みが部屋からもれる灯りに照らされる。
掴まれた手を振り払おうとした時、急激な眠気がタバサを襲い、体から力が抜け、床に膝をつく。

「利いてきたようだね。お休み、ミス・タバサ。素敵な夢を見るがいいさ……」

眠りの呪文であるスリープ・クラウドならタバサも抵抗できたが内服とあってはそれもできない。ヴァレリーは薬の試飲役をタバサに頼んだが既にワインには睡眠薬が仕込まれていたのだ。加えて言うならワインにはもう一つ薬が仕込まれていた。今月の魔法薬学の授業で扱った夢見の薬である。しかしその薬の効果は授業で作ったものとは異なり、悪夢を見せるものであった。

意識が途切れ、床に伏すタバサの髪を一束切ったヴァレリーは逃げるようにその場を後にした。


それから暫くしての事である。
アウストリの広場に居た方のヴァレリーはルイズと話し込んだ後に実験室に戻ってきたが、そこで驚いた。なにせ、タバサがテラスに転がっているのである。

「ミス・タバサ!?どうしたんだ!?」

慌てて駆け寄るヴァレリー。
抱き起こしてみればタバサが眠っているだけだとわかったがその寝顔はとても暗く悲しげである。なぜ、彼女が此処で倒れていたかは見当がつかない此方のヴァレリーであったがひとまず部屋のベットに寝かせ、タバサの杖はベットの脇へ立てかける。

猶も悲しげな顔のタバサは時より寝言を呟く。

「お母様……だめ……それを飲んじゃいけない……だめ……」

魘されるタバサの頬を涙が一筋、伝う。

タバサが彼女の母についての悪夢を見ていることは明確であるが、薬のせいだとは知らないヴァレリーは心を落ち着かせる香を焚き、ベットの側に置いた。しかし、効果はいまいちであり、ヴァレリーはタバサの涙を拭うとタバサの目を覚まそうとした。少なくとも起きてしまえば夢では悲しむことはないだろうと思ったからである。

タバサに声をかけ、起こそうとするが一向に起きる気配はなく、それは声量を上げても、体を揺すってみても変わらない。ここまでして起きないのは妙である。そして彼女がテラスで倒れていたこと。床にあった割れたグラス。それらから薬により眠らされていることを推理するのは難しくない。

―――もしかしたら魘されているのも薬によるものか。自分で飲むなんてことはしないだろう。一体誰が?とにかく起こそう。気付け薬は確か作り置きがあったはずだ。


薬品が並ぶ棚から気付け薬を取り出し、布に液を染み込ませる。
強烈な刺激臭に涙が出るヴァレリー。
気付け薬として古くから使われているのはアンモニア水である。
タバサを抱き起こし、気付け薬が少量染みた布を鼻に近づけさせる。
顔を歪めたタバサが目に涙を浮かべて目を覚ます。

「うぅ……」

タバサが目覚めたのを確認し、ヴァレリーはベットから降りると魔法で布を燃やし、窓を開け放った。いつまでも刺激臭を嗅ぎたくはないからである。

「何があったんだい?テラスで倒れているし、魘されているしで驚いたよ。何処か体の異常は?」

ヴァレリーは心から心配していたがタバサは怒りを覚えた。
ここにいるヴァレリーとは別のヴァレリーがやったことだがタバサからしたら彼が張本人なのだから無理もない。それなのに「何があった?」と聞いてくるのである。馬鹿にするのにも程がある。加えて薬を盛るというタバサからしたら一番憎むべきやり方も怒りを増長させた。

タバサは杖を取り、詠唱と共に横薙ぎに振るう。

高密度の風がヴァレリーをふっ飛ばし、部屋の本棚にしこたま体をぶつける。
幸い本棚が壁と隣接してた為、倒れてくることは無かったが雪崩のように本が崩れ落ち、となりの棚に並ぶ薬品の幾つかは床に落ち、無残な状況を晒している。

「ぐっ、ミス……いきなり何をする!?」

痛みに顔を歪めるヴァレリーが聴くもタバサは答えない。
タバサは冷たい目でヴァレリーを見下し、実験室を去って行った。
残されたヴァレリーは本に埋もれながら思う。

―――ミス・タバサはどうしったっていうのだろうか?一体何がって、あー……よりによって気付け薬が落ちてる。暫く臭いが抜けないぞ、これ……


再度場所を移し、時間をタバサが薬で眠り、少し経った頃に戻す。
現在アウストリの広場のヴァレリーはルイズと話している最中であり、ギ―シュとモンモランシーも然り。また実験室に来た方のヴァレリーは行方知れずなのが今の状況である。

そんな中、キュルケは自室で人を待っていた。
彼女も手紙を貰った一人であり手紙には「話がしたい。自室で待っていて欲しい」との文面。
恋文とは異なる雰囲気の手紙であったがキュルケは好奇心から部屋で待っていることにしたのだ。
キュルケが自室で爪を磨きながらついでに手紙の差出人を待っていたところにようやく人が訪れた。
ノックの音に入室を認めると一人の少女が入ってくる。

「あら、随分と珍しいお客さんだこと。どういった御用件かしら?」

キュルケが言う珍しい客とは背が小さな青い髪の少女、タバサである。
トレードマークとも言える大きな杖は持っていない。
もっとも話をしに来たのなら杖は必要ないかもしれないが。

「話したいことがある」

そういいながらタバサがキュルケに渡したのは焼き菓子である。二種類あるのか見た目が違う。具体的にはチョコクッキーとプレーンである。

「あら、御親切にどうも」
「礼儀」
「そう、ワインでも開けるわ」

最近のキュルケの部屋への来客と言えば彼女に魅了された男子生徒か談判に来た恋人を取られた女生徒達ぐらいである。内容はまだ聞いてないが普通の来客はこれが初めてである。もっとも今回の来客が一番あくどいものになるとはこの時キュルケは思わなかったが。

グラスを二つだし、ワインを注ぎ、貰ったクッキーを早速広げたキュルケはタバサに座るように促す。何も言わずに従ったタバサが座るとキュルケは足を組み、ワインを一口。

「貴方から貰ったものだし自由に食べていいわよ」

チョコクッキーを一つ口に放り、キュルケは言う。

貰ったのが他の女からだったら警戒していたがヴァレリーと普段関わっている女子は存外キュルケも認めている。類は友を呼ぶとも言うが彼の周囲に集まるのはお人好しが多い上に少なくとも馬鹿じゃない。ちなみにここで言う馬鹿じゃないとは違う意味であるが実験室に集まる面々はなかなかの顔ぶれである。1年生の座学担当の教師の評価から順位を付けると座学の一位はヴァレリー、二位はルイズ、次いで3番はタバサ、モンモランシーも上位、殊更魔法薬学の授業は一位であり、ギ―シュもなんだかんだで優秀と来ている。キュルケは普通だそうだが。毒を盛るような狡い真似はしないだろう。これがキュルケの下した評価であり、因縁があるヴァリエール家のルイズにしてもその評価は変わらない。

タバサもクッキーをつまむ。こちらはプレーンの方。
無言の部屋でクッキーを咀嚼する音だけがする。

「で、話って?」

話を振ったのはキュルケである。
彼女の評価ではタバサは意味もなく訪ねに来る子ではないとされている。

「彼に関わらないで欲しい」

タバサはそう言った。

「彼……?へー、驚いたわ。だんまりな貴女もいっちょまえに人を好きになるのね。でも彼じゃわからないわ」
「ヴァレリー・ヘルメス」
「あら、噂は本当だったのね」

噂というのはタバサがヴァレリーの事を好きなのではないかという下世話なものである。
キュルケもそれを耳にしたことがあるようだ。
些か驚いたキュルケであるが挑戦的にタバサに言う。

「誰が誰を好きになるかは当人の自由でしょ?」

その言葉に冷たく答えるタバサ。内に怒りがこもっているのが感じられる。

「貴女に彼は似合わないわ。汚い手を彼に伸ばさないで」

売り言葉に買い言葉、キュルケが言い返す。

「あら、既に恋人気どり?じゃぁ、貴女には似合うっていうの?笑わせないで。貴女は留学生だって話だけど所詮、ここの嫉妬ばかりしかしない女達と一緒のようね。私に言う前に彼に直接言いに行けばいいじゃない。貴方が好きです、私だけを見て欲しいって」
「貴女は下品だわ。とにかく彼に近づくないで」

タバサが立ち上がり、それだけ言って速足にキュルケの部屋を後にした。

腹の虫が悪いキュルケはクッキーを頬張りながら思う。

―――私の思い違いだったわね。って、クッキー食べちゃったけどまずかったかしら……。


キュルケの部屋から出て来たタバサが向かったのは寮のとある一室。
そこには数人の女生徒とヴァレリーが待っていた。

結論から言えばこの部屋にいるヴァレリーとタバサは偽物である。
化けたのは復讐心を燃やす、ある男子生徒と女生徒。

偽物のヴァレリーとタバサがいる部屋はキュルケに恋人を奪われた女の子の一人、トネー・シャラントの部屋であった。部屋にいる女の子達は同様のことでキュルケに復讐を目論む同士であり、ヴァレリーに化けたのは決闘でタバサに泣かされた、ド・ロレーヌである。彼らは結託し、タバサとキュルケをやり込めようと画策したのだ。ヴァレリーに思いっきり実害が出ているが、言わば二人を落とし入れるために彼は巻き込まれた今回一番の損な役回りである。

彼らの計画の内容はこうだ。

先ずはロレーヌが変身剤の材料にするため、ヴァレリーの髪を入手。この時一緒に切れたのが思い出のリボンである。次にヴァレリーに化けたロレーヌがタバサに夢見の薬を飲ませてタバサに悪夢を見せるという腹いせをする。これには唯一関わりを持つヴァレリーと不仲にしてタバサの孤立化させたり、不眠症による一時的な魔力の減退も狙われている。この状態で再度ロレーヌがタバサに決闘を挑めば勝率は格段に上がるだろう。この時、呼び出しに使ったのが例の手紙であり、タバサ以外の者に手紙が送られたのは実験室に来そうな人物を足止めするためだ。そして、次。ロレーヌが手に入れたタバサの髪を材料にトネー・シャラントがタバサに化け、毒入りクッキーを食べさせる。実はキュルケが食べたクッキーには顔を河豚よろしく張らす薬が仕込まれていた。容姿に自信のあるキュルケを害したいとのことだ。トネーも食べていたが彼女が食べたのは二種類あるうちのプレーンの方。プレーンの方には薬が入っていないのだ。最終的に二人が潰し合ってくれれば面白い見世物になるだろうとの画策だ。


ロレーヌ達の計画が成功したその翌日の朝、キュルケはベットから起き上がりいつものように髪をとかそうと化粧台に座って鏡を見た時、驚愕した。何にかと言えば自分の顔にである。なにせ、顔がはち切れんばかりに膨れ、見るに堪えないものへと変貌を遂げていたのだから。

このような姿になった理由で直ぐに思い当たるのは昨晩のクッキーである。キュルケの推察通りなわけではあるが彼女だけでは手のほどこしようがない。別段魔法薬学の知識があるわけでもないキュルケは自分で解毒薬を作れない。そもそも作れても材料がない。かといって助けを呼ぼうにもこのような顔を人に見せるくらいなら死んだ方がましだと彼女は思った。結局、授業は休み、部屋に籠るしかなかった。

一方、ヴァレリーは昨日の晩に散らかってしまった実験室をかたずけたはいいがアンモニア水の強烈な臭いが部屋からとれず、服やらベットなどの臭いが付くとまずいものを庭にすべて出した。実験室でしこたま消臭薬を散布した後、まるで火事でもおきたのではないかと思わせる程に薫り付けの香を焚いた。今日の授業の後にもう一度同じ事を繰り返す予定である。

ヴァレリーは朝食の際にタバサを見つけ、昨晩のことについて聴こうとしたが悉く無視されてしまった。ただ、ヴァレリーは怒りの念よりもタバサが心配だった。自身にタバサを怒らせるような事をした覚えはないし、テラスで倒れていたところから推測するに自分以外の誰かの仕業であるのは間違いない。自分に彼女の怒りが向けられる理由はわからないがきっと理由があるに違いないと。少しやつれたように見えるタバサを見ながらヴァレリーはそんな事を思った。

結局その日1日はタバサと話すことは出来ず実験室に帰って来たヴァレリーは予定通りに部屋の消臭を開始し、待ち時間にあることをした。あることとは庭を見てまわること。普段と変わらない行動のようであるが目的が違った。タバサ程の者が学院の生徒のスリープ・クラウドに抵抗出来ない筈がない。となれば薬を使った事になるが材料がこの庭にあるのにわざわざ買ったりはしないだろうとヴァレリーは思ったのだ。

―――やはりか。

庭の管理は勿論ヴァレリーがしているわけで、この庭では動物性以外の魔法薬の材料なら大抵は揃えることができる。大切に育てている草花だけにどのような材料をどれだけ採ったかはヴァレリーは覚えているし効率やバランスを考えて採取している。つまり何も知らない者が無計画に採ればヴァレリーには誰かが勝手に採取したことがわかるのだ。

案の定、幾つかの魔法薬の材料が無断で採られている。勝手に採られてしまった材料から作成できる薬を考えれば、睡眠薬、変身剤、悪夢を見せる効果を持つ夢見の薬が該当した。髪を切られた理由、タバサが魘されていた理由、そして彼女がヴァレリーに怒りを向ける理由に説明が付く。しかし誰かがやったとはわかってもその誰かがわからない。

その次の日。今日もキュルケは授業を休み、タバサはヴァレリーの事を無視し続けている。おそらく二日とも悪夢のせいでほとんど眠れてないのだろうタバサは決して表には出していないが魔法の威力が著しく低下していた。

その日の放課後のことである。

ロレーヌはタバサに再度決闘を申し込み、以前とは違いギャラリーがいる中での戦いとなった。以前の決闘では特にギャラリーはいなかったようだがそれでも噂というのは何処からともなく広まるものであり、ロレーヌがタバサに完膚なきまでに敗北したのは周知の事実となっていた。今回の決闘にてロレーヌはその汚名を払拭しようと言うわけだ。

実力だけ見ればライン対トライアングルであり、決闘を観戦する生徒達はタバサが勝つだろうと囁いている。しかし、現在のタバサの状況を知るものにとってはそうではない。いかにトライアングルの実力があろうと十分な魔力があってこそ、その力は発揮される。今のタバサは十分な魔力を有しているとは程遠く、トライアングルスペルはおろかラインスペルさえそう何度も放てはしないだろう。とは言え、タバサも現状を理解出来ない程、馬鹿じゃない。自信のことについて侮辱されようがそれなら我慢できた。しかし、事が母の及ぶと黙っていることなど出来なかった。

決闘は終始ロレーヌの優勢であった。タバサの状況を知るロレーヌは一撃で決めるような魔法を使うことはせず、タバサの魔力を削る戦いに徹していた。遂に魔力が切れたタバサはロレーヌの風により、吹き飛ばされ、壁に激突し、意識を失った。

歓声の中、ロレーヌは満足そうに笑みを見せ去っていった。

地に伏すタバサにいち早く駆け寄ったのはヴァレリーであった。
タバサを実験室に連れ帰ったヴァレリーはベットに彼女を寝かせ、黙々と魔法薬の作成を始めた。今回の決闘はとても公正な戦いとは言えないが、タバサと話す機会が得るという一面を考えれば必要なことであった。以前のように気付け薬で起こしても構わないが、あれはあれでかなりきつい。薬を飲まされているわけでもなしにすぐ起きるだろうと思い、少し強めの安眠の香だけを焚いて寝かせたまま放置である。

幾分時間が過ぎた頃、例の如くタバサは悪夢に苛まれ、目を覚ました。

「お?丁度いい時におきたね」

前回と同じ展開にタバサは杖を探すも流石にすぐ傍にあることはなく、ベットの上でヴァレリーに冷たい視線を向ける。

「警戒するのは分かるが私は君と話がしたいんだ。私に魔法を放つのはかまわないがもう少し待ってくれないかい?」

ヴァレリーはタバサに杖を返しながら言うとベットの向かいの椅子に腰掛け、指輪を外した。
タバサは何も言わないが話を聞くぐらいならと目で言っている気がしたヴァレリーは口を開く。

「結論から言うと君は誤解している。君に薬を飲ませたのは私じゃないよ」

タバサが抗議の目を向けるがヴァレリーは続ける。

「何故なら恐らく君が薬を飲まされた時間には私はアウストリの広場に居たからね」
「嘘。貴方はここに私を呼んで薬を飲ませた」

タバサが冷ややかに告げる。

「嘘ではないさ。途中からはルイズも一緒だった。しかし、だからといって君の言葉が嘘だと言うつもりなわけじゃない。確かに君に薬を飲ませたのはヴァレリー・ヘルメスだったのだろう。だがあの時、此処にいたのは今君とこうして話しをしている私じゃない」

「言葉遊びに興味はない」

「しかしそれが事実だ。あの時ヴァレリー・ヘルメスという人物、いや、正確に言うならヴァレリー・ヘルメスの姿をした者が二人いたんだ」

その言葉を聞いてタバサは反応を示した。

「もう大体私が何を言いたいか分かったんじゃないかい?」

ヴァレリーはタバサに微笑み、タバサは答える。

「変身剤」
「御名答。今月の授業でやったばかりのやつだね。君は知らないかも知れないが私はあの日の前日の夜、髪を切られているんだ」

「知ってる。落ち込んでた」

「一応言っておくがあれは演技じゃないからね。正直髪なんて別に切られたって大して落ち込みはしないが、リボンがね。リボンがだよ!」

「話を進めて」

「う、うむ。えぇと、そう。髪を切られたわけだけど、後日庭を調べたら案の定、幾つかの魔法薬の材料が勝手に採られていてね。材料から言ってそれらで作成可能なのが変身剤、夢見の薬、催眠薬だった。断言は出来ないが今回の一件の手段はやはり変身剤だろうと思う」

「そう、貴方じゃない可能性があるのはわかった」

タバサの声は相も変わらず素っ気ないが警戒の色が薄れてきている。

「君もなかなか疑り深いな。まぁ、当然ではあるか……。ルイズと一緒だったというのも口裏を合わせていたらという可能性もある。変身剤にしたって庭の草花が勝手に採られていたと私が嘘をいっても私以外はわからないからね。だから結局こう言うしかないんだ。「私を信じて欲しい」ってね。ただ、それでも猶言葉を足すなら……」

ヴァレリーはしっかりとタバサの目を見て言う。
自分の嘘偽りのない気持ちがちゃんと伝わるようにと。

「風の初回授業の後、私が君に何を言ったか覚えているかい?君とはよき友でありたいといったはずだ。それは今でも変わることがない私の気持ちだよ」

タバサもヴァレリーの目をしっかりと捉え、黙すること幾ばくか、小さく息を吐くと言った。

「私の勘違い。貴方はやってない」

この言葉と態度が嘘ならばそれは完全に役者が上手だったということだけ。
タバサはそう思い、ヴァレリーを信用するに至った。

やっと誤解が解けたようでヴァレリーは安堵の息を漏らと指輪をはめ直した。

「誤解が解けて何より。しかし、ミス・タバサ。私は君に吹っ飛ばされたり、無視されたりで散々だったよ。気付け薬で部屋は刺激臭が酷かったし。一言欲しいところなんだけど?」

如何にも怒っていますアピールをするヴァレリーだがその目は優しく迫力の欠片もない。

「ごめんなさい」

タバサはそう言い、ヴァレリーは満足そうに微笑んだ。

「素直でよろしい。さて、そういえば良き友になりたいといったけど君の答えを聞いていなかったね。ミス・タバサ、聞かせてくれるかい?」

ヴァレリーは棚から上物のワインを一つ取るとグラスに注ぎ、タバサに差し出しながら言う。
沈黙の後、タバサはグラスを受け取るといつものように淡々とした口調で言った。
「タバサでいい」と。

それを聞いたヴァレリーは優しい笑みを浮かべ、もう一つのグラスにワインを注ぎ、片手に掲げる。
「私も呼び捨てでかまわないよ。さて、それじゃ、記念に乾杯でもしよう!」

「良き友との出会いに」そう音頭を取るとヴァレリーはグラスを傾け、それを追いタバサもワインを飲みほした。


それから少し経っての頃、ヴァレリーはどうしてもタバサの気になる所があった。実の所、無視されてる時からずっと気になっていたが大したことではないので言わなかったのだが、今なら訊けるだろう。

「タバサ、髪が一部不揃いなんだけど切るのに失敗した?」

そんな記憶はないタバサは首を傾げるがヴァレリーから渡された手鏡で見てみれば、なるほど、不自然に切れている。あまり容姿に拘る柄じゃないタバサはさほど気にせず、もしや自分の偽物も現れるのではないかと考えを巡らす。

「この流れで髪が切れているのはちょっと疑わしいね。もしかしたら君の偽物も出るかもしれないな。っとそれは一先ず置いといて、タバサ、こっちに座ってくれ。髪を整えよう」
「別に気にしてない」
「私が気になるんだ。直ぐにすむから、ほら、座った座った」

タバサを座らせたヴァレリーは眼鏡を外させ、彼女の髪に櫛を通す。
タバサはされるがままである。こうしていると仲の良い兄妹のように見える。
魔法で風のベールを作り、切った髪が服に落ちないようにすると丁寧に鋏を入れ、整えていく。

「よし、こんなものかな。いかがでしょう?」

鏡をタバサに向け聞く。

「変わってない」
「整えただけだからね。でも不自然にはなっていないだろ?」

眼鏡をかけ直したタバサは小さく頷く。

「さてと、君の髪が切れていたのはおそらく薬を飲まされた時だろうけど、私の髪を切った輩も同じ者か関係者なのだろうね。ちょいとその辺の事実関係を明らかにしよう。また何かされても困るしね」
「どうやって?」
「本人に訊いてみよう。疑うのは良くないが一人、それっぽいのがいるし」

頷くタバサにヴァレリーは言葉を加える。

「彼と以前にも決闘したんだったね。なんでも泣かせたとか」
「手加減はした」

「でも圧勝したんだろ?それなのに僅か一ヶ月で再戦なんてするかな?魔法のレベルはそんな直ぐに上がるものじゃない。だとすると彼は君の魔力が下がっているのを知っていたんじゃないかと思える。ラインとトライアングルでは魔力の保有量は後者が格段に上だ。それなのに彼が持久戦に持ち込んで戦っていたということはこれを裏付けられる」

「訊き出し方は?」
「もし彼じゃなかったら悪いことをしたことになるが、特別な自白剤を使う。勿論訊き出すのは今回の件についてだけだ。人の関係ない秘密を詮索するような趣味は持ち合わせていないからね」

「わかった」
「といっても君はここで留守番だけどね」

私も連れて行けとばかりに視線を向けるタバサに事情を説明する。

「今回使う自白剤は特別性なんだけど、薬品を嗅がせることによって効果を発揮するんだ。嗅いだ者は前後一時間くらいは記憶が飛ぶから自分が何を訊かれて何を答えたかは愚か、誰かが訪ねて来たことすら気付かない、そういう代物さ。ただ一度蓋を開けると直ぐに気化するから使った本人にも薬の効果が及ぶ。その為に利用者は予め抵抗剤を飲むんだけどそれの作成が結構大変で一人分しか用意できなかったんだ。あぁ、それと夢見の薬の解除薬も作っておいたから今日は安心して眠れると思うよ」

ヴァレリーはタバサに解除薬が入った小瓶を渡し、さっそくロレーヌに話を訊きに行くことにした。
この後、男子寮の一室でロレーヌ自身による計画の暴露があったわけだが読者の方には事の真相を既に説明してしまっているので割愛させて頂く。

というわけで難なく話を訊き出したヴァレリーは研究室に戻り、魔法薬を作りながらタバサに事の次第を説明した。ちなみに今彼が作っているのはキュルケが飲んだ薬の解除薬である。その後、出来立ての解除薬と水、厨房で頼んで貰ったがっつり目な夜食を籠に入れ、女子寮にあるキュルケの部屋の窓までフライで飛んだ。


カーテンを閉め切った窓をノックしヴァレリーはキュルケに呼びかける。

「夜這いに来ました」
「今、それどころじゃないの……悪いけど帰ってくれるかしら」

冗談を言ってみたがカーテンの向こうからキュルケの弱々しい声が聞こえてくる。
どうやら相当まいっているようである。

「君の顔を治す薬を持って来た。それに食事も……っぐぁ!?」

それを言うや否や凄まじい勢いで窓が開き、浮いていたヴァレリーの顔面に直撃した。

「早く!頂戴!!お願い、早く!!!」

顔をスカーフやらマスクで覆い、髪を前に持ってきているという町にいたら十人に十人が通報するだろう奇怪な姿をしたキュルケが懇願する。危うくそのまま地面に落ちそうになったヴァレリーはよろよろと再浮上すると解除薬が入った籠を差し出す。鼻に窓が直撃したので目には涙が溜まっている。

差し出された籠にキュルケが手を伸ばした時、ひょいっとその手から籠が逃げた。
ヴァレリーのちょっとした反抗である。
同じことを3回繰り返すとキュルケからどす黒いオーラが出始めた。
姿も相まって最早完全に妖怪の類である。

「消し炭にするわよ……!」

あまりにもキュルケが怖かったので今度は素直に籠を渡すとこれまた凄まじい勢いでひったくられた。

「そこで待ってて!絶対に部屋を覗かないこと!いいわね!!」

カーテンの奥からキュルケが言う。
もとより女性の部屋を覗きこむような趣味もないのでヴァレリーは窓辺に腰を下ろすと部屋を背に月見を決め込む。後ろからは解除薬を飲んでいるのだろう咽を鳴らす音がする。

「治らないわよ!!?」

ヒステリー気味のキュルケが抗議する。

「そんな直ぐには治らないよ。一晩寝れば明日の朝には治っているから」
「そう……ならいいわ。えぇっと……その、さっきはごめんなさいね。痛かったでしょう?」

キュルケはようやく落ち着きを取り戻したようでそれが声音に表れている。

「あぁ、痛かった。涙が出るほど痛かった」
「ほんとに悪かったわ。それにありがとう……。でも、どうして?」
「説明すると長いから食べながら聞いてくれ。ここ二日ろくに食べていないんじゃないかい?」

「助かるわ……。何せ、こんな顔だもの。外に出られないから食べるものがなくって。魔法で作り出した水以外何も口にしてなかったの……。肌も荒れるし最悪だったわ。あのチビメガネには倍返しだわ」

「そのことについても説明するよ」

夜の風に当たりながらヴァレリーは事の次第を説明した。
偽物のタバサがトネー・シャラントであること、彼女達の画策のからくり、ロレーヌとのこと、計画されている舞踏会での辱めのことなどなど。加えてタバサにも話した一つの計画をキュルケにも伝える。

「わかったわ。明日の晩ね。ところでそれが終わったら私の部屋においでなさいな。今日は夜這いに来たのでしょう?お礼もしたいし素敵な夜を貴方と過ごしたいと思うのだけれど?」
「おっと、そんな事を言ったかな?窓にぶつかったせいで思い出せないや。素敵な夜か、ハープの演奏を聞かせてくれるんだね?」
「はぁ、貴方ってそういう人よね。この私がここまで言っているというのに……」
「君は魅力的だよ。しかし私には一番と決めたお人がいるからね。そろそろいくよ。おやすみ、ミス・ツェルプスト―」
「キュルケでいいわよ。貴方のこともヴァレリーって呼ぶわ。私の誘いを断ったんだものそれくらいはいいでしょ?」
「うむ、じゃぁ改めておやすみ、キュルケ」
「はい、おやすみなさいな、ヴァレリー」

闇夜に消えるヴァレリーの姿を見送り、お腹も満たされたキュルケは欠伸を一つするとベットへと潜り込んだ。


翌日の朝はタバサ、キュルケの両名にとって実に爽快な朝だった。
悪夢に魘されることもなければ、残念な顔でもないからだ。
授業に復帰したキュルケにトネー・シャラント達は驚いていたようである。
ただ、驚きはしたもののその後の展開は彼女らの期待に概ね沿ったものになった。

その日の授業の合間にキュルケが険悪な空気を漂わせタバサのもとへ行き、今晩に決闘をすると告げたのだ。それをしっかりと聞いていた彼女達は内心、ほくそ笑んだ。そしてその日の夜に話は移る。予定通り、キュルケとタバサは学院の一画で睨み合い今にも戦いの火蓋が切って落とされようとしていた。それを茂みから隠れて見ているのはロレーヌとトネー・シャラントを始めとする女の子達。今か今かと戦いが始まるのを待つ彼らの期待通り、タバサとキュルケは杖を構え、魔法を打ち合い始めた。

初手はキュルケのファイア・ボール。
タバサはそれを風で軌道を変えて防いだ。
防がれた火球が何処へ行ったかというと見事にロレーヌらが潜む茂みに向かった。

「危なかった……」

なんとか回避したが服やら髪が若干焦げた。
立ち位置が変わり次手はタバサの氷の矢。
キュルケはそれをフライで回避した。
避けられた氷の矢が何処へ行ったかというとこれまた見事に茂みに向かった。

「ひぃぃ!?」

こちらもなんとか回避したが無数の氷の矢が体を掠め、服を裂いた。
それからも攻守が入れ替わる毎に流れ玉が襲いかかってくる。
トライアングル同士の戦いとあって苛烈を極めている。
流れ玉はどんどん多くなる。そんな中、突然二人が決闘を止めた。

「そろそろこれも飽きて来たわね。貴女もそう思わない?」

キュルケがタバサに話かけ、タバサが頷く。

一方、流れ玉のせいで割とボロボロなロレーヌ達は突然の戦いの中止に困惑した。

「なんだ?どうしたんだ?」

ロレーヌが小声でとなりのトネー・シャラントに話かけた時、隠れていた茂みが突如、炎へと変わった。
慌てて飛び出した彼らだがそこには杖をこちらに向けるタバサとキュルケ。
急いで反転して逃げようとしたがなぜか足元が泥沼化していて豪快にすっ転んだ。
泥だらけの顔を起こし、前を向くとそこにはヴァレリー。
彼らは今し方の決闘が演技であること、そして計画が失敗したことにようやく気付いたのだった。


捕縛されて地面に座っている泥だらけの彼らの前でヴァレリー等3人はこの後どうするかを話し合っていた。

「さてさて、随分粋な事をしてくれたじゃない?どうしてあげましょうか。私なら燃やすわね」

その言葉に顔を青くするトネー・シャラント達。

「貴女だったらどうする?」

キュルケがタバサに話かける。タバサはぽつりと一言。

「氷付け」

思わず震えるロレーヌ達。

「貴方は?」

今度はタバサがヴァレリーに訊く。
ここは大げさな事を言って怖がらせる流れである。
空気を読んで暫し考えてからヴァレリーは言った。

「酸で溶かすとかだろうか?」

言った本人以外、全員背筋に寒気がした。

「え、エグイわね」
「鬼畜」

キュルケもタバサも仲良くドン引きである。

「いや、冗談だからね」
「割と本気そうだったわよね?」

キュルケがタバサに同意を求める。まったくだと言わんばかりに大きく頷くタバサ。

「君達はいつの間にそんなに息が合うようになったんだよ……」
「さぁね。で?結局どうするの?」
「そうだな。時に諸君。なんでもロバ・アル・カリイエでは正座というのは精神修行の一環だそうだよ」

いきなり何を言い出すのかと皆がヴァレリーを見た。

「全員正座です」

ヴァレリーはそう言うと魔法でキュルケとタバサの杖を取り上げる。
ロレーヌ達の杖は既に取り上げているのでヴァレリー以外全員丸腰である。
続けて魔法で強制的に全員正座をさせる。隙を突かれたキュルケとタバサも漏れなく正座である。

「ちょっと、なんで私達まで!?」

キュルケが抗議するがヴァレリーは気にした様子もなく話す。

「どちらか一方が絶対的に悪いとでも?双方に原因があるでしょうに。どちらも自身の行いを省みることができれば私のリボンが切れることはなかったのです。あれは私にとって物凄く大事なものだったのですよ?加えて庭の物の無断採集にも私は腹を立てています。よって今から全員、楽しいお説教の時間です」

丁寧な口調だった。
そして満面の笑みだった。
しかし後に彼女達は語る「逆らったら死ぬ気がした」と。

お説教は4本仕立てで計3時間に及んだ。
その間、ずっと正座というのは軽く、いや普通に拷問である。
どうやらヴァレリーのリボンの恨みは相当、深かったらしい。


苦行に耐え抜いた者達は最早、皆等しく仲間だった。
そこには一体感があり、助け合いがあった。
その夜、生まれたての小鹿のように足をプルプルさせながらお互いを許し合う者たちの姿が確かにあった。









[34596] 009
Name: lily◆ae117856 ID:245b0a6f
Date: 2012/08/22 23:44
時、流れ万緑の候。単に夏といっても初夏、仲夏、晩夏と分けられるが6番目の月であるニューイの月は暦の上では仲夏と言えど人の感覚からすれば初夏に当たるのだろう。初夏を飾る花において最も知られるのは百合であろうか。「威厳」「純潔」「無垢」を表す花である。トリステイン王家の紋章は百合を象ったものであるが、かの国の姫、アンリエッタ・ド・トリステインが微笑めば正しく「草深百合の花笑み」と言える。
また初夏というのは秋にまいて冬を越した「冬小麦」の収穫時期に当たる。世界三大穀物である小麦はハルケギニアにおいて最も消費量が多く、生活に欠くことができない物であるが故、国務を預かるマザリーニ枢機卿などは石高の心配をしていることだろう。

さて、件の正座以降、キュルケ、タバサ両名はクラスに馴染み始めている。
ことロレーヌに至っては在学中にタバサよりも上手な風の使い手になることを目標にしているらしく、ギトーを師事し、風の授業では進んでタバサと組み、少しでも格上の者から学ぶべく勤しんでいる。タバサは面倒だとこぼすがこれはいい傾向である。トネー・シャラント等にしてもキュルケと如何に自分を魅力的に見せるかで議論している光景が見受けられた。

そんな日常の中、いよいよトリステイン魔法学院の夏季の長期休暇に入る。
この夏がヴァレリーにとって決戦の夏であるのは以前に語ったが、それは休暇に入ってから直ぐということではない。しかし、確実にその日は近づいて来るわけでヴァレリーはカトレアにどのような言葉を持って告げるべきか考え始めていた。

こういった時に頼りになるのは年長者ではあるが、父オスマンには自身で考えろと言われてしまい参考は得られず、学院の教師の中では仲のいいコルベールに訊いてみても専門外だと良い回答は得られなかった。結局の所、オスマンに言われたように自身の気持ちを自身の言葉で告げるのが一番だというのは理解しているヴァレリーであるが、やはり一抹の不安があるのである。となるとヴァレリーと交流がある年長者はエレオノールが浮かぶが果たして彼女に訊いてみても善いものかは甚だ疑問である。

さて、エレオノールはアカデミーで研究に勤しんでいるが彼女にも夏季の休暇はある。流石に学院のような長い休みとはいかないが現在抱えている研究次第では一、二週間程の休みが取れるだろう。
ヴァレリーとエレオノールはこの時期に一度は必ず二人で出掛けるのが毎年の常である。と言うのも彼女の里帰りにヴァレリーも同行し、ヴァリエール家、もとい、カトレアのもとに足を運ぶのもまた常だからだ。要するに休暇の予定を合わせるのである。働いているエレオノールが勝手に一、二週間もアカデミーを空けることがかなわないのは当然であるが、ヴァレリーにしても市場に卸している魔法薬や個人から依頼された魔法薬生成の仕事を抱えているうえに庭の手入れもある。夏場の庭の手入れというのは結構な労力を要するものである。緑が増すのは何も意図的に育てている草花だけではなく、目的の草花の成長を害するような所謂雑草の類いもまた同様であるのだ。雑草でなくとも夏の暑さで植物が痛まぬように剪定を行い風通しを良くする必要もあるし、寄ってくる害虫の駆除も欠かせない。淑女が美しさを保つのに労力を割くのと同様に美しい庭を保つのも此れまた然りである。

そんなわけでヴァレリーは夏休みで閑散とした学院からアカデミーがある王都トリスタニアへとやって来た。守衛に挨拶を済ませ、アカデミーのエレオノールの研究室へと足を運ぶ。エレオノールの研究室は貴族らしく質の良い機材が並ぶがやや質素な感じがするもので、ヴァレリーの研究室より随分と片付けがなされているのは彼女の性格が表れているのだろう。

「相変わらずエレオノール様はお綺麗で。初夏に咲いたモノを幾つか持って参りました」

ヴァレリーは庭から見繕った花束を手に笑顔で挨拶する。
豪華絢爛というわけではないが、百合を主役に知性と品を感じさせるようなエレオノールに似合う組み合わせである。

「ふふ、ありがとう。貴方も相変わらずね。今年も綺麗に咲いたようでなによりですわ。そこに飾ってくれるかしら?」

言われた通りヴァレリーは窓辺の花瓶に花をいけ、それを見ながらエレオノールが言う。

「やっぱり、部屋に花があるだけで違うものね。質素な部屋だけに良く映えるわ」
「可憐な花なら既に私が部屋に来た時も咲いていたと思うのですが?」
「まったく、貴方は学院でもそんな事ばかり言っているのではないでしょうね?もしそうなら怒りますからね?」
「まさか。女性を誉めるのは男の役目ですがそうそうこのような台詞は言いませんよ」

エレオノールは呆れつつもついつい微笑んでしまう。
十歳も年下の馴染みの男子は毎度の事ながら気障な台詞が似合う成長をしたものだと。少し前までは自分の方が背が高く、下から見上げてくる妙に大人ぶった可愛い男の子だったが、いつの間にやら身長は抜かれてしまい、その行動の節々には知性と品が窺える。少年から青年へと成長した今でも昔と変わることなく敬愛の念を寄せてくれる澄んだ瞳は美しく、殿方に送る賛辞ではないが可憐な花というなら彼の方だろうとエレオノールは思う。

「今はどういった研究をなされているのですか?」

ヴァレリーは質問する。
アカデミーにおける研究には大きく分けて二つある。
魔法の運用により、国の運営及び経済の発展に寄与する研究と神の御心を探る為の神学的な研究だ。
こと伝統を重んじるトリステインにおいて後者の方がより崇高なものとの見方がなされていて前者を一つ位の下がる研究であるとの認識もあるが実質的に必要なのは前者であり、そこにはロマリア出のマザリーニ枢機卿も理解を示しており、前者の研究が下賤だとか異端だとされる気質は薄れ始めている。

エレオノールの担当するのは始祖像の研究ではあるが主席研究員である彼女がただそれだけを研究するようなことはない。彼女程の人物であるならば国から何らかの依頼を受けて研究に当たるのが普通である。

「今は農作物の生産力向上の為に地力を効率良く回復させる手段の考案ですわね。現在は痩せてしまった土地の回復を計る為に土地を休ませる三圃制が主流です。それ以前よりは生産性は上がりましが休耕地を無くすとはいかなくとも期間を短いものに出来れば生産の質と量を更に増やすことが可能になるでしょうから。後は掘削技術の発展の依頼も受けてますわ。正直今のトリステインの現状からすればこの手の依頼がくるのは当然ですが、遅過ぎたという気が否めませんわ」

トリステインの穀物生産事情は近隣各国の中でみれば良い方である。流石にガリアには負けるものの、北部に冷涼な地域を含むゲルマニアや大空に浮かぶアルビオンなどと比べれば高い生産率を持つ。人口の抑制による貴族社会の維持と平民層の管理という観点からすれば生産性を進んで上げるのはやや危険ではあるが、おそらく地力回復による生産性の上昇は対外向け、とりわけアルビオン向けの輸出を拡大させたいが為であろうとヴァレリーは思う。採掘技術についてはゲルマニアに技術も産出も完全に先を越されている鉄鋼業においての遅れを取り戻したいのではないかと憶測する。

「ふむ、何か良い案は既に?」
「まだ全然ね。既存の方法を洗い直している段階ですわ」

エレオノールは机に積まれている王立図書館から借りてきたのだろう何冊もの文献に手を置く。

「農地については土石の効率利用の路線でいくか、はたまた他の手か……。採掘技術にいたってはまだ手も付けてすらいないのよね。先日、依頼を受けたばかりだから仕方がないといえばそうなのですけど、里帰りの前に少なくともどちらかの目途が立てばいいのですけど」
「土石は庭の土壌を回復、改善させるのに使われますが農耕地となると結構な量を必要とするでしょうね。生産性は上がりますが生産費用が嵩んでしまって費用対効果が悪いから悩みものというわけですね」

ヴァレリーの回答は正しくエレオノールが悩む点である。

「土石の力を増長させて取り出す魔法装置の作成が可能かどうかも模索中ですが此方も芳しくありませんわ。如何せん先住の力の結晶だけに加工する技術が載った文献も極僅かですから」

お手上げといった仕草をする彼女、ヴァレリーとしても力になれるものならなりたい所。
何か良い手はないかと思考に没頭する。

「もう、眉間に皺が寄っていてよ?別段急ぎの要件ではないしあくまでも可能ならといったものだから今日はもう出掛けましょう?時間を置けば新たな視点が見えるやも知れませんしね」
「むー、無念です」

エレオノールが身支度をし、ヴァレリーが書類の片付けを手伝う。
本の整理をしている最中、ふとアルビオンという単語が目に入りヴァレリーは動きを止めた。

「アルビオン……地力回復……えぇっと、あー、何だったか……」

何やら思考に耽るヴァレリー。

「どうかしたの?」

エレオノールが言葉をかけるが思考に没頭しているのかヴァレリーは眉間の皺を深めるばかり。
それを見て悪戯心が湧いたのはエレオノール。ヴァレリーの耳元に口を近づけ、ふっと一息。

「ぬひゃっ!?」

何事かと大きく跳ね上がったヴァレリーに素知らぬ顔でエレオノールは言う。

「ふふ、何やらおと呆けた声がでましたわね。そうやって考えすぎると皺が残ってしまいますわよ」

エレオノールの白く、きめ細やかな手がヴァレリーの眉間をぐりぐり押す。
その時、ヴァレリーに電流が走った。彼の眉間にボタンがあったり、妙な快感に目覚めた訳ではなく、頭の中で探っていた答えを見つけたのだ。

「そうだ!クローバーです!クローバーですよ、エレオノール様!やっと思い出しました。得られる効果が同じならわざわざ魔法を使わなくても良いのです」

眉間を押していたエレオノールの手を取り、曇りが無くなった顔でヴァレリーは言う。

「随分と説明を省きましたね。具体的に説明をしてくれるかしら?あの野に生えるクローバーの事で認識は合っていて?」

「はい。シロツメクサとも言いますね。あれには確か地力を回復させる効果があったと記憶しております。流石に土石程の効果が有るわけではありませんが費用対効果は土石の比じゃないでしょう。その上家畜の飼料にもなりますし、蜂蜜の生産も可能かと。蜂蜜は砂糖の代替品として利用出来ます。また、葉は茹でて食用にすることもできますし、花穂は強壮剤、痛風の体質改善薬などとして用いられると文献で読みました。これなら農業生産の増加と地力の回復を両立させて、副次的な物品の生産も見込めるものだと思います。実際に見て来たわけではありませんがアルビオンでは既に取り組んでいる場所もあったかと」

「なんとまぁ!図書館へと向かいますわよ、ヴァレリー!」
「はい、お供致します。エレオノール様!」

二人は早速、図書館に赴き、この案を肉付けするべく尽力する。
単に案を提示したところで満足していては研究としては頂けない。
それを裏付ける情報を集め、実例を提示したいところ。
また、効果がどの程度見込めるかの計算をする必要もある。

漁る文献は魔法研究や国勢資料、植物学、市場の物価まで広げていく。
流石に国勢資料は一般には公開されてはいないが首席研究員かつ大貴族のエレオノールならある程度は融通が利くものであり、二人で分担をして文献を集めていく。

机に山積みになった文献から必要な箇所の抜粋、もちろんどの著者のどの本のどこの箇所かを書き記すのは忘れてはいけない。この時代に知的財産権が有るにしろ無いにしろこういった物にもやはりマナーはあるし、先人の知恵に敬意を賞するのは学者なら当然だ。見込める生産高の最小値と最大値、その平均の計算は間違いが無いようにそれぞれが同じ計算をする。情報は正確であるに越したことはない。

そんなこんなで草案が出来上がったのは翌日の朝方。二人は出掛ける事をすっかり忘れて図書館が閉館した後もエレオノールの研究室にてぶっ通しで書を解き、筆を滑らせてきたのだ。

「出来ましたね。エレオノール様……」
「えぇ、良いものが仕上がりました。ヴァレリー……」

二人の顔には疲れが見える。だがそれ以上に事をやり遂げた達成感が窺える。

「これで気兼ねなく休暇を取れそうですわ。それにしても、ふぁ、失礼。一段落したら急に疲れが押し寄せて来ましたわ」

小さな可愛らしい欠伸を一つすると眼鏡を外し目をこするエレオノール。
思えば昨日の午後から休みを入れずに没頭したもので二人とも一睡もしていない。

仮眠を取り、湯あみを済ませてトリスタニアへと出掛けたのは日が傾き始めた頃。
小さな劇場でやっていた軽歌劇を鑑賞した後、リストランテで食事を済ませ、研究の草案完成祝いに値の張る酒場でグラスを傾けながら談笑に耽る。薄っすら聞こえてくる音楽とステンドグラスの照明に淡く照らされているその店内は落ち着いた雰囲気であり、客のほとんどが身分の高い貴族なのだろう、給仕の振る舞いもなかなかなモノである。なんでもこの店はアイスワインと焼き菓子が大層淑女から人気だそうだ。タルト・タタンと呼ばれる林檎のタルトを口に運ぶエレオノールの顔が幸せそうで何よりである。

「今年はいつ頃、お帰りになられますか?」

元々エレオノールの里帰りにヴァレリーの予定を合わせるのが今回の訪問の目的である。

「そうですわね。貴方のおかげで依頼されていた研究も形になりましたし、翌月のアンスールの月の第二週ってところかしら?貴方もそれでいいかしら?」
「はい、私は問題ありませんよ」
「そう、では決まりですわね。そういえば学院生活はどう?魔法薬学の授業も請け負っているのでしょう?」

ヴァレリーは此処2カ月での学院での出来事を語る。
どういった人と友人になったかや、受け持っている魔法薬学の授業のことなどなど。

店を後にし、アカデミーに戻り、エレオノールの自室にてワインを空けながら他愛もない話をする。飲み始めてから時間が経った頃、空いたボトルも増え、大分酔いも回って来て、話は熱を帯びた結婚談義へと移った。というよりもエレオノールの愚痴をひたすらヴァレリーが聞く構図が出来上がった。始まりはヴァレリーの「この夏にカトレア様に想いを告げ、ゆくゆくは結婚を」という言葉であった。

「うぅ、私だって結婚がしたくないわけじゃないのです。花嫁衣装だって着たいですし、想いを馳せる殿方に熱く抱かれたいのです!ですが仕方がないじゃないですか!?それ相応の殿方がいないのですから!ねぇ、どうしてなのかしら!?ねぇ、聞いていて?ヴァレリー!?」

鬼気迫ると言うべきか、魂の叫びと言うべきか、エレオノールがヴァレリーにぐいぐい迫り詰問する。学院の同期だった子の多くは既に結婚を済ませているし、アカデミーの後輩にしても結婚を理由に仕事を辞めていった者も何人も見てきている。場合によっては子供を授かっていてもおかしくない年齢のエレオノールである。友人の結婚式に呼ばれるも然り、子を授かったとの報告の手紙然り、確実に取り残されていく現状に焦りを覚えるのも無理はないのだろう。

エレオノール自身は素敵な女性だと思っているヴァレリーからすれば引く手数多のような気がするのだが、どうやら彼女の言う「相応の殿方」の基準に問題があるようだ。

「は、はい。ちゃんと聞いておりますよ。ちなみにエレオノール様はどのような方なら結婚したいと思うのですか?」
「そうですわね、一つはそう、ヴァリエール家に婿入りする者が愚かであってはなりません!夫足る者、妻の私より学はあって欲しいものです!」

いきなり婿入りの門が狭まったものである。
何を持って学とするかは様々ではあるが、それでも学生時代は座学のトップに位置し、現在はアカデミーの主席研究員のエレオノールよりも上の学を持つものはそうそういないだろう。

「二つ目はやはり魔法の才。トライアングル以上は必須ですわ!系統は土か水がいいですわ。私との相性もいいですし戦闘向きではない故に総じて書を解く者が多いですからね。とりあえず、この二つは絶対条件ですわ。また、容姿と行動力も重要です。当主とはその家の柱であり、顔です。ヴァリエール家はトリステインを代表する貴族、とならば求められる資質もまた高くなければならないのです!家柄は私自身は礼節を弁えた方ならいいとは思いますが家同士の結び付きを考えるならば男爵より上かしらね」

「えらい門が狭いですね……。となればそのような方がいそうなのはやはり、ここ、アカデミーになるのでは?」
「いなかったからこの現状なのです……。私がここで何年働いていると思って?」
「そ、そうですよね。すみません」
「条件が厳しいというのは私も承知していますわ。ですが、当主としても個人的な理想にしてもやはり……。はぁ、もう見つけるのは無理なのかしらね?いっそのこと理想の殿方を私が仕立てるしか……」

矢継ぎ早に言葉を重ねるエレオノールはそう言うと落ち込んだ顔でヴァレリーをじっと見つめる。

「な、なんでしょうか、エレオノール様」
「もう貴方でいいんじゃないかしら?貴方は私の婿選びの条件の多くを満たしていますし。私とカトレア、一度で二度おいしいですわよ?」
「ちょ!?意味がわかりません!自棄にならないでください!大体婿入りの者がそんな真似したら味わう前に公爵夫妻に殺されてしまいます!加えて私はそこまで出来た人間でもないですし、爵位もありません!」

想像するとニヤけそうになるが、トリステインきっての大貴族、ヴァリエール家の娘を二人とも嫁に貰うなどということは恐れ多くてとてもじゃないが受けられない。

「軽い冗談ですわよ。それに貴方の才覚なら宮仕えでもすればすぐに功を立てられるでしょうに」
「一体どの辺が軽かったのでしょうか……。少し飲み過ぎではありませんか?」
「まだまだ、これからですわ。貴方はもっと飲むべきです」

ヴァレリーの空いたグラスにワインを注ぐエレオノール。
結局その晩は酔い潰れるまでヴァレリーはエレオノールの話に付き合ったのだった。



目が覚めたのは随分と日が高くなった頃。ただ、それでもまだ深酒のせいで起き上がりたくはなく、眠気も取れず夢か現かを彷徨う中でヴァレリーはベットの上でもぞもぞしていた。寝ているベットは何やら甘い薫りがするものでとても心が落ち着く。また誰かに抱かれているような温もりを感じる。薫りと温もりに誘われるまま何かに顔を埋める。些か量が足りないが柔らかい膨らみに迎えられ更にぐいぐいと顔を埋めると僅かに感じる官能的な匂い。手でその膨らみを揉んでみれば感触や良し、ついつい無意識の内にそれを捏ね繰り回す。

指先が張りのある突起物に触れる。
とりあえず摘まむ。

「ん……あぁ……」

何やらそれが鳴いた。
妙に艶っぽい鳴き声であり、どこか男の本能を擽るものがある。

―――そういえば私は昨日客室に戻っただろうか?飲み過ぎたせいで記憶が覚束無いが、仮眠をとった際のベットはこんなにいい薫りはしなかった気がするのだが……。

だんだんと意識が覚めるのと比例して自分が何かとんでもない事をしている気がするヴァレリー。
恐る恐る目を開けると自分がどういう状況で何に顔を埋め、揉んでいたか知った。

―――あわ、あわわわわ!?

自分は客室に戻ってなどいなかった。となると今寝ているベットはエレオノールの物。そして横で抱き枕よろしく自分を抱いて寝ているのはエレオノールその人。今し方、顔で、手で弄んだせいでブラウスの胸元は大きく肌蹴ている。

―――まずい!非常にまずい!!まず過ぎる!!!

慌てて離れるが当然ベットの上がそういつまでも続くことはなく受け身も取れずヴァレリーは転げ落ちた。

「ぬわぁ!?」

その物音に目を覚ましたらエレオノールはむくりと起き上がるとぼんやりした目でヴァレリーを見つめる。

「お、お、おはようございます。エレオノール様!き、今日は天気がいいですよ!?」

言われてエレオノールは窓にうつる空を見る。
紛う事無き曇り空だった。

「曇りですが?」
「あ、あれー?先程までは晴れていたのですが!?」

狼狽もいいとこである。
別に女性に耐性がないのではない。
相手がまずいのである。

―――よりにもよって結婚しようとしている人の姉と同衾してしまうなんて!?いや、それだけならエレオノール様なら許してくれるかもしれない!しかし、揉んじゃったし嗅いじゃったし摘まんでしまった!

明らかに挙動不審なヴァレリーを見て訝しむエレオノール。エレオノールも昨晩の酒のせいで記憶が定かではないが先ほどまで何かを抱いて寝ていた気がしていた。ふと、自分の胸元を見るとそのまま寝てしまって着替えていない昨日のブラウスのボタンが外れ、肌蹴た胸元。

「~~~ッ!?」

咄嗟に胸元を隠すとエレオノールはヴァレリーを睨むその顔は鬼灯のように紅い。エレオノールの無言の圧力に耐えるだけの胆力はヴァレリーは持ち合わせてはおらず、冷や汗が頬を伝い、床に落ちる。

「説明してくれるかしら?大丈夫、怒らないですから」

沈黙を破ったのはエレオノール。
しかし、ヴァレリーは真実を告げるべきか迷う。
古今東西、怒らないと言って本当に怒らなかった人はいないからだ。

「あら?言えないの?まぁ、いいですわ。そこのお水を取ってくれる?咽が渇いてしまったわ」

ヴァレリーは言われた通りテーブルに置いてあった水差しを取る。
随分とぬるくなってしまったそれを魔法で冷やし、エレオノールに渡そうとした時だった。

「捕まえましたわ!」

まんまと近寄って来たヴァレリーはエレオノールに捕縛された。
無理に逃げようとすると水が溢れるので逃げることが出来ず、頬をされるがままに捏ね繰り回される。

「さぁ、観念なさい!」
「ひたひ、ひたひ、わかりました!わかりましたから!」

解放されたヴァレリーは頬を撫でながら説明する。

「その、昨晩の記憶が途中から無いのですが、目が覚めたらエレオノール様のベットで寝ておりました。すみません」
「それだけではないでしょう?」
「む、胸に顔を埋めました。ちょっと、いや、かなり揉みました。あまつさえ先端を摘まみました。で、ですが、決してやましい気持ちがあった訳では!無意識だったのです!」
「なっ!?無意識で摘まむんじゃありません!あぁ……ヴァレリー。昔は無垢で可愛い少年だったのに破廉恥に成長してしまうなんて……。学院長の影響かしら」
「すみません。ごめんなさい。申し訳ありません」

本当にやましい気持ちがあった訳ではないし、自分ではそこまで破廉恥に成長した覚えはないのだが、こうなってしまった以上、謝る以外に他はない。

「まぁ、反省しているようですし、許してあげてもいいのですが……。一つ私の言う事を聞いて貰いましょうか」
「はい、お任せください!なんでも仰ってください!」
「あら、そんな安請け合いをしてもいいのかしら?責任をとって私と結婚してって言ったらどうするのかしら?」
「あっ、えっと。それはですね……」
「冗談ですわ。久しぶりに貴方のお庭を見に行きましょう。それなら構わないでしょう?」

いつものヴァレリーをからかう冗談。それが二人の間柄であるし常のこと。ただ、困り顔のヴァレリーを見て笑うエレオノールの表情は何処かいつもと違うように見えたのがヴァレリーの心に残った。

場所を移し、トリステイン魔法学院。夏の花が彩るヴァレリーの庭。
久しぶりの学院にはしゃぐエレオノールと付かず離れず後ろを歩くヴァレリー。
馴れ親しんだ場所だけに思い出は尽きることはなく、二人して暫しの昔話に花を咲かせる。
庭を回り辿りついたのはサルビアの花が咲く一画。未だ蕾も混ざるこの赤い花にも思い出が宿る。そう、それはヴァレリーがエレオノールと出逢い、仲を深めた切っ掛けのものだ。蕾の具合を確かめるヴァレリーの後ろからそれを見て、懐かしむエレオノールが言う。

「覚えていて?初めて貴方とお話した時のこと」
「えぇ、覚えていますよ。エレオノール様はサルビアの花の前でご家族の事を想っていらっしゃいましたね」
「そうですわね。あれから10年……本当に大きくなりましたね」
「手塩にかけて世話をして来た庭ですからね。もう少し広くしたいのですが―――」
「貴方の事を言っているのよ、ヴァレリー」
「そうですか?まぁ、背丈ばかり伸びてひょろひょろですけどね」

確認を終えたヴァレリーの背に不意にエレオノールがことんと頭を置く。

「ん?どうかなされたのですか、エレオノール様?」
「ねぇ、ヴァレリー。少しの間だけこのままで私の話しを聞いてくれるかしら?」

彼女に何があったかはわかないけれども、きっと今から話してくれるのだろうと背中にエレオノールの温もりを感じるままヴァレリーは「はい」と応える。

「実は先日、お父様から便りが届きました。内容はいつもどうり結婚の話……。もう、何度目かしらね。今度のお相手はバーガンディ伯爵だそうよ。今までは私の我が儘で断ってきましたが……今度のは正式にお受けしようと思っていますわ。私も公爵家の長女として、いつまでも好きなことだけしている訳にはいかないもの。家が決めた相手と結婚すること、それは貴族社会にとって普通のことですわ。そこから始まる幸せもある。けれども私は……」

エレオノールの声が段々と弱くなる。
ヴァレリーはエレオノールという女性を実の姉のように慕っている。そしてエレオノールもまたヴァレリーを実の弟のように大切にしている。けれどもお互いに心の何処かに大きくはなくともそうではないもの、一人の女性として、男性として慕う気持ちがあるのを知っていた。勿論、ヴァレリーが一番に心を寄せるのはカトレアだ。それは変わらない。しかし、だからといって他の誰にも心を寄せないかといえばそうではないだろう。ただ、それを明確な言葉にしていいかは別だ。だからこそヴァレリーもエレオノールも弁えている。ヴァレリーはカトレアの手を取るし、エレオノールは彼ではない誰かと結婚すると決めてある。それは間違いではないし、後悔などは二人もしないだろう。ただ、少し、ほんのすこしだけエレオノールは背中を押してほしいのだ。他でもないヴァレリーに。

「結婚するなとは言えません。ですが、伴侶となる人が貴女を悲しませるようなことがあれば、私はその人に一服盛ってお灸を据えてやろうと思います。貴女を慕う弟分として。もっとも、その前に公爵夫妻が殴り込みをかけてしまいそうですが」

エレオノールはそれを聞いて少し笑った。
どのような言葉が正しかったのかはヴァレリーにはわからない。
人の心は複雑だ。存外、今は正しいものなどないのかもしれない。
きっと、将来、振り返ってみて、初めてその是非がわかるのだろう。

「ふふ、本当に大きくなったものです。貴方はカトレアを必ず幸せにしなさい。これは貴方の姉としてのお願いですわ」

エレオノールがヴァレリーの背から離れ、言う。

「ありがとう。そして、さようなら。私の小さな王子様」

それはとても小さな声。
届かぬまま夏の風に混じり彼方へと消えていった。



[34596] 010
Name: lily◆ae117856 ID:245b0a6f
Date: 2012/09/07 02:25
早朝の蓮の花が咲ける頃は幾分涼やかなれど、昼を過ぎ天が高く昇ると、いよいよ汗ばむアンスールの月。この時期に咲く花と言えば先に挙げたヴァレリーの二つ名でもある「水花」こと蓮や夏の風物詩と言える向日葵などがそれに当たる。天と地に二つも太陽があるものだから暑いのは仕方がないが、容赦なく照りつける日の光は体力を奪っていくようで庭の手入れとヴァリエール家の訪問以外はほとんど部屋から出なくなるのがこの時期のヴァレリーである。ではあるのだが、ヴァレリーはキュルケとタバサの三人で学院からも王都からも大きく離れた片田舎へとやって来ていた。目的はその村の外れにある屋敷。少なくとも10年以上は誰も手を加えていないのだろう。随分と朽ち果てて見える。木々が茂る森の中にあり、光は遮られ、夏の盛りであるはずなのに冷やかな空気が辺りを包んでいる。このような所にわざわざ3人が来た理由を述べるには少し時を遡る必要がある。先ずはそちらから語っていこう。

つば広の麦わら帽子をかぶり、一通り庭を周ると実験室周辺に打ち水をし、早々に部屋へと引っ込んだヴァレリーを出迎えたのはキュルケとタバサである。殆どの生徒が里帰りをしているがこの二人は帰らなかったようで、結構な頻度で彼女達は実験室に足を運ぶ。いつの間にやらお菓子や卓上遊戯やらが部屋に運び込まれていて娯楽室のような趣を持ち始めたヴァレリーの実験室で二人はチェスを打っていた。お菓子を賭けての勝負をしているようで既に何戦かした後なのか、タバサの側にはお菓子が山積みになっている。この様子からすると軍配はタバサに上がり続けていると見てよいだろう。

案の定、早々とチェックメイトされて撃沈したキュルケは手持ちのお菓子を全て持って行かれいじけている。それに代わり、ヴァレリーがタバサの相手を務めるが今度はヴァレリーがタバサのお菓子を全て持って行ってタバサがいじける。幼少の頃より父オスマンの相手をしてきたヴァレリーのチェスの実力はなかなかどうしてかなり高い。場数と負けを重ねた結果、今日ではオスマンに勝つこともできる。といっても10戦に3回程度と負け越してはいるのであるが。

4回ほど試合を重ね、王に悉く杖を向けたはいいが、タバサの「お菓子をよこせ」という視線には負け、ヴァレリーはお菓子を広げタバサと食べる。お礼とばかりにタバサが勧めるクッキーを食べてみたがなんということだろうか。クッキーのくせに甘くないのである。というよりも苦い。すこぶる苦い。

「ハシバミクッキー。お勧め」
「そ、そうか。まぁ、健康になりそうな味ではあるね」

そんなこんなでタバサと過ごしていたヴァレリーだが突然キュルケが部屋に入って来た。
どうやらタバサとのチェスの最中に席をはずしていたようだが戻ってきた彼女の手にはなにやら古い羊皮紙が握られている。

「思えば部屋で大人しく本を読んだりチェス打ったりするのは私の柄じゃないわ。出掛けるわよ」

キュルケはそう言うもののヴァレリーとしてはわざわざ陽射しが照りつける中を出歩きたくはない。

「静かに本を読むのもそれはそれでいいものだと思うが。なぁ、タバサ?」

タバサも頷き賛同の意を示す。

「此処の本はいちいち内容が難しいのよ。それにヴァレリーなんて朝は土弄り、昼は読書って年寄りみたいな生活じゃない。まるでエピクロスの快楽主義のようだわ。こないだ町で面白い物を見つけたから3人で出かけましょう」

そういってキュルケが渡して来たものは手に握られていた数枚の羊皮紙である。
小汚い羊皮紙のどれもに擦れた文字と地図と×印が記されている。
それはキュルケが二束三文で買った宝の地図だった。
因みにエピクロスの言う所の快楽主義とは贅沢や淫らな欲求を追及していくというものではなく、世俗の欲との無用な関わりを避け、心の平穏を楽しむことを命題にしたモノである。詰まる所、隠居生活こそ至高と彼は説いている。快楽主義という単語に反応して読んではみたが、自身が思うところとは真逆の答えが出てきてがっかりしたのは昨日のキュルケであったという。

「別に隠れて生きているわけではないのだが……。というか国内とはいえ、かなり遠方のものもあるぞ?これなんか馬の足でも丸一日はかかる距離だと思うのだが?」

キュルケに渡された宝の地図は合計三枚。馬の足で各地を周ったならばおそらく強行しても五日はかかることだろう。魔法薬生成の仕事は大方済んでいたがそれでも少しは残っていたし、夏休みで授業もなく、自分で庭の面倒を見るつもりだったので雇っている庭師も今は一人しか学院に留まっていない。あまり長くは庭を留守にしたくないのがヴァレリーの胸の内である。

「それなら大丈夫よ。魔法生物学の先生からグリフォンとヒポグリフを貸してもらったから。空を行けば二日程で全て周れるんじゃない?」
「よく、貸してくれたな」

トリステイン魔法学院の授業の一つの魔法生物学。基本的にこの科目は座学なのだが文献でただ読むだけと実際に見て、触れて学ぶのではやはり後者の方が記憶に残る。そういった主旨で学院では数種類の魔法生物を飼育している。流石に竜だとかユニコーンは飼育していないが、魔法衛士隊の専用獣であり、憧れの対象でもあるグリフォン、ヒポグリフ、マンティコアの3匹を有している。どの獣も年老いて現役を退いてはいたが少女の一人や二人は難なく背中に乗せて飛べることだろう。翼を持つ彼らだからこそ老いて猶、大空を駆けたがるモノであり、飛ばせてやった方がいいのだが果たして生徒にそれを任せていいものなのだろうか。もっとも生まれた時から学院にいるヴァレリーは何度か許可を得て乗せてもらったことはあるのだが。

「貴方が一緒だという条件で貸してくれたわ。何かあったら貴方に請求されるようになってる。だからほら、仕度しなさいな。タバサもよ」

どのあたりが「だから」なのか、などとヴァレリーが眉を顰めているととキュルケに引っ張られて退出するタバサ。
どうやら宝探しに行くのは決定事項のようで諦めて身支度を始める。

3人が仕度を整えて宝探しに出かけたのはお昼を随分と過ぎた頃だった。
一か所目は一番近場の地図の場所へ。なにやら古めかしい建物があったはいいが、そこに目当ての金銀財宝は当然のようになく、唯の荒れた屋敷だった。二か所目は森の奥の洞窟。散々森を歩きまわり、結局は小規模なコボルドの群れの住処だという落ち。先住の魔法を使うコボルド・シャーマンがいなかったこともあり、トライアングルの力を持つ三人なら容易に退治することが出来た。洞窟の奥にあったのは動物や人の骨だけであり、三人は暫しの祈りを捧げてその場を後に。宝探し初日はこの辺で一旦止めにして3枚目の地図に記された場所の近くにある村で宿を探す。出発が遅かったこともあり、日が落ち始めている。夜の捜索は危険が伴うものであり、わざわざその危険を冒す必要もない。

立ち寄った村の住民は随分と驚いていた。幻獣を見るのは初めてであろうし、このような田舎に貴族が3人も来るのはほとんどないことなのだろうから当然かもしれない。しかし、どうしてかヴァレリーは視線が気になる。村人の視線が自分に向いている気がするのだ。

生憎、この村に宿は無かったのだが村長から自分の家を使ってくれて構わないとの申し出を受けた為、3人は一宿一飯の恩を受ける。恩を受けたからには返すのが礼儀である。それは貴族だろうと平民だろうと変わる事はない。ヴァレリーは得意の薬の知識と水の魔法で村人の健康診断を。キュルケとタバサは錬金で村の家屋や日用雑貨の修繕を行う。

あらかたの用事を済ませて村長に一寸地図に記された場所について尋ねれば村長は語ってくれた。

なんでも十七年程前にこの村は吸血鬼に襲われたことがあるとの事。
その吸血鬼は村の外れの屋敷に住み着いたのだがおそらく地図が示すのはその屋敷の事だということ。
吸血鬼は討伐隊に退治されたがその前に一人の傭兵メイジがその屋敷に向かったということ。その傭兵メイジは美しい女性であり、ヴァレリーと同じように綺麗で長い銀の髪を持っていたらしい。なにぶん昔のこと故にその容姿を精確に覚えてはいないが何処となくヴァレリーに似ていた気がすると村長は語る。また、どういった運びかは窺い知れぬがその女性と吸血鬼は共に暮らし始めたという。吸血鬼は随分とその女性を大事に扱っていたようであったらしい。討伐隊がやって来たのはその暫く後だったという。


ヴァレリーは村人の視線が自分に向いていた気がするのはその為であったのかと合点が行った。ヴァレリーは自然と思う。自分の実の両親の事についてだ。オスマンからは実の父は吸血鬼討伐で亡くなったと聞いている。父が死に、残された母は自分を産んで身罷り、オスマンが育ての親になってくれた。だからこそ自分はこうして貴族として育ち、学院にも通えていると。

―――父が亡くなった吸血鬼討伐は此処で起こったことなのではないだろうか?

村長にオスマンの特徴を伝えると確かにそういった人物がいたという。

―――やはり、そうか。では傭兵メイジの女性はどうか?他人のそら似ということもあるが……。

今度はその女性について訊く。
村長が言うにはその女性は助け出されたそうだ。

―――他人かもしれない。だが……そうとも言い切れない。

ヴァレリーの中に一つの仮説が出来上がる。

―――父が死に、残された母はその助け出された傭兵メイジなのではなかろうか?いや、しかし、ではなぜその女性は単身出向いたのか?だめだな、情報が足りない。憶測に過ぎない。父上はその女性について知っているだろう。なにせ父上が助け出したのだから。

夕食を終えてキュルケとタバサは宛がわれた部屋に移動した。
ヴァレリーはその後も村長と話し色々と尋ねたがそれ以上の両親に関わるかもしれない話は聞くことが出来なかった。どうしても気になるのは件の女性のこと。今は直ぐには結論は出ないとわかっていてもついつい考え込んでしまう。考え込んでいたものだから部屋に戻ってから隣でキュルケが服を脱ぎだしても気がつかなかった。

「ねぇ、ヴァレリー。その反応は女として傷つくのだけれど?」
「ん?ってなんで脱いでるんだ君は……」
「体を拭こうと思って。汗ばんで気持ち悪いんですもの。ここ、お風呂ないし」
「いや、だからと言って私がいる横で脱がなくてもいいだろうに」
「貴方に悶々として眠れない夜を味わってもらおうかと。今なら二人のうら若き美女の生着替えが堪能できるわよ」

そう言ってキュルケはタバサを抱き寄せる。
文字通りキュルケの体を張った冗談を意訳すると体を拭くから部屋から出ろということだろう。
本当に悶々としてしまっても困るので部屋から出るヴァレリー。
村長の家だからと言っても寒村であるからして部屋が幾つもあるわけではない。
宛がわれた部屋は一室のみ。幸いベットが二つあるのでエレオノールの時のような粗相はしないだろう。

窓から月明かりが射し込む。

―――明日になれば事の次第が見えてくるだろう。

月明りに照らされて見えてくる真実が自分の生き方を変えようとはこの時のヴァレリーは思いもしなかった。


翌日、三人は吸血鬼が住んでいたという屋敷に向かった。冒頭の話は此処に繋がる。
朽ちた屋敷の前には幾つかの墓標があり、やはり屋敷同様に誰も手入れをしていないのだろう、汚れた墓標は蔦に巻かれている。花を手向ける者はいないが野に咲く花に飾られているのがせめてもの手向けであろうか。

屋敷の中に足を踏み入れた三人は思い思いに探索を始める。
外観同様に荒れ果てた内部、割れた窓ガラスの破片が床に散らばり、よく見れば血の後だろうか、赤黒い滲みが幾つも点在する。壁には風化しただけではできない深い傷跡がそこらに見える。

ヴァレリーがどうしてか一つの部屋に引き寄せられた。件の女性の寝室だったのだろう、ベットや化粧台には厚く埃が積もっている。部屋にある本棚には幾つか本が残されており、適当に一冊手に取ると埃が舞い上がり僅かに差す日の光に照らされる。本を開き読み始めればそれがこの部屋の主の手記だと言うことがわかった。件の女性とは一体どのような人物であったのか、手がかりになるやもと読み進める。





[ラドの月、エオローの週、ラーグの曜日]
ようやくあの人を見つけることが出来た。
十年も掛かってしまって私は大人になったけれどあの人はあの時と少しも変わらない。
今日という日を神とご先祖様に感謝しなくてはいけないわね。
もっとも、始祖ブリミルに感謝をするのは異端となるのでしょうけども。
ですが異端だろうと構わない。彼無くして今の私はないのだから。
あの人が私を覚えてくれていたことがただただ嬉しい。
下濺な賊に奪われてしまった両親、灰に変わってしまった故郷、鎖に繋がれ名前も知らない男達に弄ばれる毎日。
そこに自由などなく、生きながらにして死んでいるのと変わらなかった。
けれどあの人が私に自由をくれた。
穢れて卑しい私の事を美しいと言ってくれた。
あの人の事を一度だって忘れた事はない。忘れる訳がない。
あの人には恩を感じている。でも私の胸にある気持ちはそれだけじゃない。
共に在りたいと強く思う。願わくば愛し愛されたいと思う。
たとえあの人が人ならざるもの、吸血鬼であったとしても。







[ケンの月、ティワズの週、ユルの曜日]
あの人がくれた指輪。
深い青のサファイアの指輪。
左手の薬指にはめたそれを見るとついつい頬が緩んでしまう。
あの人が私の絵を描くと言い出した。
うつろい行く今を留めておきたいと。
私とあの人では生きる長さが違う。
どうあっても私が先にこの世を去るでしょう。
死して尚想ってくれるというあの人に出会ったことを感謝しよう。
いざ絵を描かれるとなるとどうも落ち着かない。
多分、服装のせいだろう。
今まで一度も着たことがない綺麗なドレスが似合っているのか心配なのだ。
あの人は褒めてくれたけど、やはり愛した人の前では最高の私でいたい。
出来上がった絵を見て思う。
あぁ、私は愛されているのだと。幸せなんだと。
嬉しくて涙が止まらない。
あの人は出来上がった絵が下手だから私が泣いてしまったと慌てたけど、違うの、違うのよ。
素敵な絵。私の宝物よ。
ありがとう愛しい人よ。







[ギューフの月、フレイヤの週、虚無の曜日]
共に暮らし始めてからあの人について気付くことは多くある。
ただそれで私があの人を嫌いになるようなことは勿論ない。
朝日を帯びて気だるそうにしている姿が妙に可愛らしい。
私よりも随分と歳上だけど実際そうなのだから仕方がない。
あの人にそれを言ったら困ったように笑っていた。
また、あの人は立ち振舞いが美しく、言葉の一つ一つが気障なものだから嬉しいのだけど背中が痒くなってしまう。
田舎娘であったし、傭兵として生活し出してからも貴族のように品のある生活ではなかったものだからどこか演劇染みている気がしてついつい微笑んでしまう。
そういえば、あの人は王都トリスタニアで何度も演劇を観たことがあると言っていた。
人間の価値観において作られたお話が果たして吸血鬼であるあの人にとって面白いのか訊いたら、興味深いと答えていた。
思慮深いあの人の事だから変わった解釈をしているのかもしれない。
多分、気障な口調は演劇の影響なのかしらね。







[ウィンの月、ヘイムダルの週 、ダエグの曜日]
天気は生憎の雨だけれど私にはそれが天の祝福のように感じられる。
私のお腹に新たな命が宿っていたのだ。愛しいあの人との子供。
私も母になるのかと思うと嬉しさに涙が込み上げてくる。
静かなこの屋敷もきっと賑やかになるに違いない。
女の子だろうか、それとも男の子だろうか?
私とあの人、どちらに似るのだろうか?
まだ見ぬ我が子の事を考え出すと時間が瞬く間に過ぎてしまう。
私が幼い頃に父から聞かされたようにヘルメス家の昔話をしてあげよう。
随分と昔に潰えてしまって今は名乗ることもなくなった名前だけれど嘗ては優秀な水のメイジの一族だったことを。
美しい銀の髪を持ち、戦場を舞う花であったことを。
たとえ私達以外にこの子の誕生を祝う者がいなくとも私達が祝福しよう。
この子が寂しくないように持てる限りの愛を贈ろう。
私とあの人、そしてこの子の三人で幸せに暮らそう。







[ハガルの月、フレイヤの週、ユルの曜日]
次第に大きくなる私のお腹、我が愛しの子はすくすくと育っているようで何よりである。
私のお腹に手を当て、声をかけるあの人の顔は父親のそれで家族なのだということを実感する。
いつもは落ち着いているあの人も今か今かとそわそわしているのがどこか可笑しい。
かくゆう私も我が子に早く会いたくて仕方がないけれど。
二人揃って親ばかだからついついこの子を甘やかしてしまいそうね。
我が子の成長は嬉しいけれど一つ心配なことがある。
他でもない最愛のあの人のことだ。
身籠ってからというものあの人は私の血を殆ど吸っていない。
他の人の血を吸わないという私との約束を守ってくれている。
だからだろう、随分と痩せてしまったように思う。
あの人は大丈夫だとは言うが心配なものは心配なのだ。







[ティールの月、エオローの週、オセルの曜日]
あの人がまた私の絵を描くと言い出した。
きっと私は以前に描かれた時とは違う顔をしていることでしょう。
一人の女から母となったのだから。
次があるなら今度は三人で映ったものがいい。
私とあの人とこの子の三人で。
きっと幸せな家族がそこにあるでしょう。
生まれてくるこの子に最初の贈り物をあげよう。
私とあの人で散々考えた名前を。
愛しい我が子。私達の宝物。
母も父もあなたをこの手に抱くのを待ちきれません。
ヴァレリー、それが私とあの人の子供であるあなたの名前。
気に入ってくれるかしら?
あらんかぎりの愛と祝福を持ってあなたを迎えましょう。
元気に生まれて来てくださいね、愛しいヴァレリーよ。




日記を閉じ、自身の魔法の媒体である指輪を見るヴァレリー。
母から譲り受けた形見の指輪が射し込まれる日の光に照らされ青く光る。
この日記に出てくる子供の名はヴァレリー。
それ自体は珍しい名ではない故に彼以外にもこの名を持つ者もいるだろう。
だがヘルメスという姓はどうだろうか、彼女はヴァレリーに似ていたという。
断片的だった情報が繋がり見えてくる真実。


―――そんな……やはり私の母がこの方だというのか!?なら父は……!私は……っ!!

自分の存在が途端に分からなくなる。
認めたくない。
どうしたら良いのかも分からない。

ショックで頭が廻らないのか、色々な事を考え過ぎて思考が纏まらないのか、ただただ立ち尽くすばかりのヴァレリーの袖が不意に引かれた。
我に帰り、振り向けばタバサが不思議な顔で見ている。

「あぁ、タバサか、急にどうしたんだい?」
「急じゃない。何度も呼んだ」
「そうか……すまない。少しぼーっとしていたみたいだ。それで?何かあった?」

タバサは何度も声をかけたようだが全く気が付かなかったヴァレリーは平静を装い答える。
恐らく自分の考えは間違ってない。そして自分の正体も。
ヴァレリーは思うがとてもじゃないが他人には言えない。

タバサの用件はヴァレリーをキュルケの元に呼んでくることであった。
屋敷の隠し扉の向こうに宝物庫を見つけたのだ。魔法で鍵がしてあり開かない扉は未だに誰の手もついていない可能性が高い事を示す。今までが今までだけにキュルケは些か興奮しているようである。少なくとも自分達より高位のメイジが魔法をかけたのだろう、キュルケとタバサの二人でアンロックを唱えても開かなかったらしい。ヴァレリーも加わり試すと今度は様子が違う。扉の魔法は容易く解除できた。ただ、力を合わせた故に扉が開いたというよりも自身の魔法の媒体である指輪に反応を示したようにヴァレリーには思え、それが彼の表情を曇らせる。
真っ暗な部屋が明るくなる。自動の魔法照明が生きていたようである。キュルケの期待に反して部屋にあったのは二枚の人物画だけだった。しかし、その絵を一目見た瞬間にヴァレリーは理解した。この人が自分の母なのだと。美しい銀の長い髪、指には恐らく自分がいま嵌めている物であろう青く輝く指輪。何より随分と自分と顔立ちが似ている。村人が驚いていたのも頷ける。

「母上……」

ヴァレリーの口から小さく洩れたその一言を果たしてタバサとキュルケが聞き取ったかは分からない。
それほどに小さな声だった。

キュルケが絵の女性がヴァレリーに似ていると言うがヴァレリーは自分がどう答えたかをはっきりと覚えていない。きっと曖昧な返答をしたことだろう。結局宝探しで収穫はなく、帰路につく。ただ一人ヴァレリーは今回の宝探しで一つの事実を知ってしまった。とても重大で出来ることなら知りたくなかった事実。


学院に戻ったヴァレリーは疲れを理由に一人になると屋敷から持ってきた母の日記を読み返した。

―――父上は私の生まれについて知っている。

聞きたくはないはずなのにヴァレリーの足はすっかり暗くなった学院を進み、本塔最上階の学院長室へと彼の身体を運んだ。扉を前にすると恐くなる。訊いてしまえば全てを失う気がしてしまう。躊躇うヴァレリーだが扉が勝手に開いた。否、オスマンが開けたのである。

「いつまでそんなところで突っ立っておるのじゃ、早く入らんか」

ヴァレリーが扉の前にきた時から気付いていたらしいオスマンが部屋に招く。
部屋に入るも下を向き依然突っ立ったままのヴァレリーを見てオスマンが訊く。

「どうしたというのじゃ、わしに用があったんじゃないのかえ?」
「今日、ある村に行って参りました……。17年前に吸血鬼が住み着いたという村です」

ヴァレリーの言葉にオスマンの顔色が変わる。
それだけで全てを察することが出来た。

「やはり父上は知っているのですね。本当のことを。あの村の外れの屋敷……父上が嘗て吸血鬼を討伐し……そして父が死んだ場所。私は父上から両親の話しを聞きました。父は討伐の際に亡くなり、残された母はその命と引き替えに私を産んでくれたと」

「そうじゃな。確かにわしはお主にそう話した」

「間違いではないのでしょう。ただ……私は訊かなくてはいけません。答えて下さい、父上!私の父は討伐する側とされる側、どちらであったかを!」

答は既にヴァレリーにも分かっている。
それでも訊かずにはいられなかった。
オスマンは息子の真剣な、そして痛々しい表情をじっと見つめた後、一度目を瞑り、深く息を吸う。
一拍おいて目を開くと共に息を吐き出し告げた。

「後者じゃ。お主の実の父は吸血鬼……お主は人と吸血鬼の間に生まれた子供じゃ」

ヴァレリーは逃げるように部屋を飛び出した。
されども何処へ逃げてもその事実が消えてなくなることはない。
結局は実験室に戻って来てしまった。

鏡を手に取り、自分の顔に向ける。
当然映るのは自分の顔。
ヴァレリーは強く念じた。
人の血を吸うということを。
今まで一度だってそんなことは思ったことはない。
吸血鬼というのは憧れの存在などではなく忌み嫌われ恐れられる存在である。
人であるならば血を吸おうなどとは思わない。
鏡に映るのは自分の顔、されど口を開けば吸血鬼の牙がそこにあった。

「くっ……!」

―――わかっていた。わかっていた事だったじゃないか……!。
真実を告げてくれた父上に感謝しよう。今まで育てて頂いた事に感謝しよう。
今までが幸せだった。幸せ過ぎたのだ。
愛を持って接してくれた父上がいて、気兼ねなく話せる友人がいて、姉のように慕う人がいて、恋を抱いた人がいた。
それだけでこの身には十分じゃないか……!
私は此処に居られない。居てはならない。
大切な皆に迷惑はかけられない。何より大切な人達に疎まれたくない。
私はそれに耐えられそうもないから。私はそんなに強くないから。
だから此処を去るべきだ。
今なら大切な想いでは綺麗なままなのだから。
一人で生きて行こう。
私は……人ではないのだから。


ヴァレリーは学院を去ろうと考える。本心ではない。あるはずがない。
しかし、自身が吸血鬼との交ざり者である事実が重くのしかかる。
ハルケギニアで最悪の妖魔と呼ばれる吸血鬼は人から恐れられ、意味嫌われる存在であり、討伐するべき存在なのだから。


旅支度もろくにせず、持てる金だけ持って部屋を出る。
空には月が輝き、地には花が風に揺蕩う。
大切にしてきた草花を泣きそうな顔で見るヴァレリー。
ヴァレリー・ヘルメスが此処に生きたという左証であるこの庭は主を失くしても残るのだろう。
賑わい鮮やかに飾る花々の美しさは変わらぬ故になんと悲しいことか。

正門にて振り返り、17年という月日を過ごし思い出が詰まる魔法学院に、その主がいるであろう本塔の最上階に深々と頭を下げる。直り、いよいよその場を離れようとすればその歩みを阻むように立つのはオスマンであった。

「父上……。今まで大変お世話になりました。最早、私は此処に居られません。居てはなりません。頂いた御恩を何一つ返すことが出来ずこの場を去る私をどうかお許しください」

「行くでない」

「それは出来ません。私のような卑しい生まれの者にこの場は相応しくありません。人ではない私が人の輪に混じるなどおこがましいことです」

「お主が吸血鬼の子であるのは事実じゃ。だからといって何故此処を去る必要がある?お主は人を殺めたか?何か害をなす事をしてきたか?してないであろう。ならば何処に罪がある?わしはお主を人として育て、お主は人として育った。吸血鬼であることが事実ならばお主が人であることも事実なのじゃ。自身を卑下して何になる?」

「そうであっても!私の生まれ自体が既に罪なのです!アルビオンのモード大公はエルフの女性を囲ったが為に獄死なされたと聞きます。もし仮に私の素性が周囲に知れることがあれば、きっと同じ結果を招いてしまう!私のせいで父上や大切な人に迷惑がかかる!!そのようなこと……私には……私には出来ない!」

「何が迷惑か!だからお主を捨てろと!?お主が大切に想う者がお主を同じように大切に想っていることを何故わからない!?」

「ですが!」

頑なヴァレリーをオスマンが強くを抱きしめる。
微かに感じる煙草の匂い。

「離して……ください。私は―――」
「もう、何も言うでない。お主はわしの息子じゃ。なによりも大切な存在じゃ。わしは十分過ぎる程長く生きた。今更死など恐れはしない。けれどのぉ、ヴァレリー。お主を独り、捨ておくことはわしにとって死よりも辛いことなのじゃ。人の輪から外れ、独りで生きることはとても寂しく、悲しいことじゃ。わしはそれを知っておる。お主にそんな思いをして欲しくはない。此処にいておくれ。お主が生きて幸せを享受することこそがわしの切なる願いなのじゃから」

「うぐっ……父上。私は……私は本当に此処にいてもよいのでしょうか!?」

「当たり前じゃ。此処にいてよいのじゃ。わしが認めようぞ。きっとお主の友もまた、お主を迎え入れてくれるじゃろう。それはお主の今までの生き方が保証してくれる」

オスマンがヴァレリーを抱く手に力をこめる。
愛する息子にしかと自分の想いが伝わるようにと。

その想いはちゃんと伝わったのだろう。
ヴァレリーはどうしても涙が溢れるのを止められなかった。
自身が吸血鬼であること以上に、大切な人との繋がりを立ち切り、独りにならなければいけないと考えた時、恐くて仕方がなかったのだ。
何時以来だろうか、それはまだヴァレリーがとても幼かった頃。
微かに煙草の匂いがする胸で泣いていたあの頃のようにヴァレリーはオスマンに抱かれて泣いた。


どれ程泣いたことだろうか。
幼子のように声をあげて泣いてしまった自分が急に恥ずかしくなるヴァレリー。

「その、年甲斐もなく……」
「うむ。いつの世も親が子の面倒をみるのは変わらんものじゃ。お主はちぃと真面目に育ち過ぎたからの、少しくらいは甘えても構わんぞぃ?」
「出来るだけ自立したいとは思いますがその時が来れば」

オスマンが冗談染みた笑みを浮かべるとそれにつられるようにヴァレリーも微笑んだ。

「一度実験室に戻ってみるが良い。まぁお主はまた泣いてしまうかも知れないがのぉ?」

オスマンに言われた通り実験室に戻ったヴァレリーを待っていたのはキュルケとタバサの二人である。屋敷を出てからのヴァレリーの様子がおかしいということに気が付かない二人ではない。実験室を訪ねてみれば正門付近でオスマンとヴァレリーがもめている。オスマンは気付いていたのだが二人に聞かせることにしたのだ。だからこそヴァレリーが吸血鬼の血を持つことは知れたし、それにタバサは聞こえていたのだ。屋敷にあった人物画を見た時にヴァレリーが小さく洩らした言葉を。全てをわかっているわけではないがその言葉とヴァレリーのオスマンとのやり取りでヴァレリーの身の上はうかがい知れる。それを知って尚、二人はヴァレリーを待っていたのだ。伝えたい言葉を持って。

「あら、お帰りなさい。ワインでも飲む?貴方のだけど」

キュルケがいつもと変わらない様子で言う。

「二人とも……何故此処に」
「貴方が心配だから来たのよ。親が子を心配するのに理由が要らないように友達を心配するのにも理由なんて要らないでしょう?」
「見られていたのか。じゃあ私がどういう存在かもわかっているね?」

キュルケとタバサが頷く。

「でも、だからといって貴方を嫌いになる理由にはならない。そもそも吸血鬼というのは人に害を為すから嫌われるのであってその点からして貴方は違う」

タバサに続いてキュルケが言う。

「正直、実感がないのも確かね。貴方は私達と同じ物を見て、同じように感じることが出来て、同じ物を食べて生きているわ。私達となにも変わらない。いいえ、それどころか貴方はとても素敵な人だわ。出逢ってからそんなに経っていなくてもわかるのよ。貴方のおかげで私は心を許せる友達が出来たんですもの。まぁ正座は二度とご免だけれどね。貴方は自分が吸血鬼だということにこだわり過ぎていると思うわ。確かに事実を知って驚く人や恐がる人、嫌悪する人がいるかもしれない。けれど少なくとも私達は違うわ。私には貴方を連れ出した責任がある。でもだから一緒にいるわけじゃないわ。貴方に出会えた事を感謝している。貴方はとても優しい人。それが貴方の本質であって私達はそれを知っている。吸血鬼の血を持っていようが私達は貴方の側にいたいと思うわ」

言葉がとても温かい。
散々泣いたはずなのに涙が込み上げてくるのを止められないヴァレリー。
オスマンの言う通りだ。

「あら、今度は私の胸を貸してあげようかしら。それともタバサの胸の方がいいかしら?」
「貸せるほど胸がない。嫌味もいいとこ。垂れてしまえばいい」
「ちょ!?別にそういう意味じゃ、ていうか垂れないわよ!」

キュルケとタバサが喚き出す。
喧嘩するほどなんとやら、本当に仲良くなったものだ。

「ふふ、どちらの胸を借りるのも非常に魅力的ではあるが、あんまり恥ずかしい所ばかり見せられないさ。泣いてばかりもいられないよ。二人には感謝しているよ。私も二人と出逢えて本当に良かったと思っている。ありがとう、キュルケ、タバサ」

ヴァレリーの目には依然涙が溜まっている。けれど悲しいからではない。
自分を認めてくれる人が、側にいたいと言ってくれる人がいてくれて嬉しいからだ。

「そう?泣き顔が可愛かったから吝かでないのだけれど?まぁ、いいわ。なんにせよ貴方の心が少しでも軽くなったのならそれは嬉しいことだから。それじゃぁもう行くわ。おやすみなさい、ヴァレリー。また、明日ね」

キュルケが優しくヴァレリーを抱き、右の頬にキスをくれる。

「私も行く。おやすみなさい」

今度はタバサがヴァレリーを優しく抱く。
如何せん身長差があるのでタバサがヴァレリーにしがみ付いているようにしか見えないが。
ハグを終えて離れるとタバサがヴァレリーを見上げてくる。

「届かない。しゃがんで」

言われるままにヴァレリーがしゃがむとタバサが左の頬にそっとキスをくれる。

「誰しも簡単には人に言えない事はあるもの。私達は貴方の事を周りに言ったりしない。だから貴方が認めた人にだけ貴方の事を語ればいい。私も貴方に聞いて欲しいことがある。いつか話すからその時は聞いてほしい」

「あぁ、わかった。必ず聞こう。約束するよ」
「ありがとう」
「礼を言うのは私の方さ。ありがとう、タバサ」

今度はヴァレリーがタバサの頬にキスをする。
なかなか笑わないタバサも今は優しく微笑んでくれた。

「あら、タバサ、私には言ってくれないの?それにヴァレリー、タバサにはするのに私にはキスしてくれないの?」
「貴女にもちゃんと言う」
「そう、なら許してあげるわ。で?ヴァレリーは?」
「わかってるよ。キュルケも本当にありがとう」

キュルケにもキスを一つ。感謝してもし切れない想いを込めて。

「それじゃぁ、二人とも、おやすみ。また明日」




二人を見送ったヴァレリーは一人、庭に佇んでいた。

―――私が認める人、大切な人か……ギ―シュやルイズ、エレオノール様。そして……

穏やかな風に揺れるは夏咲きのカトレアの花であった。



[34596] 011
Name: lily◆ae117856 ID:245b0a6f
Date: 2012/10/10 00:53
ヴァレリーがカトレアに出逢ってから既に10年以上も経ち、またそれは想いを募らせた月日でもある。明確な言葉を告げてはいないがヴァレリーがカトレアをどれ程想っているかはヴァリエール家の者も知る所。同様に言葉にはしなくともカトレアもヴァレリーに対して単なる友人では到底及ばない想いを抱き、彼の言葉を待っている。勿論、出逢った当初からカトレアがヴァレリーと同じように恋に落ちたというわけではないが次第にその存在は大きくなっていった。

「ちぃ姉さまはヴァレリーの事を何時から想っていたの?」

カトレアに髪を梳かされ、ご満悦の表情のルイズはそろそろ訊いても良い頃合いだろうとその疑問を口にする。

当然ではあるがヴァリエール家へ帰郷しているルイズがヴァレリーの本当の生い立ちについて知るよしもなく、きっと二人は何の問題もなく、幸せに過ごすのだろうということを疑っていない。大好きな姉をとられる様で一寸、癪だという子供っぽい気持ちもあるが有らん限りの祝福を二人に贈ろうとルイズは思っている。それほどに二人は仲睦まじく、生まれる前から共に在ることが既に決まっていたのではないかと思うほどだ。ルイズは知っている。カトレアが特別な、とても素敵な笑顔をする時が有ることを。他でもないヴァレリーと一緒にいる時だ。あれが誰かを愛した女性の笑顔なのだと今だ恋らしい恋をした事がないルイズでもわかるのだから相当なものであろう。

ルイズの髪に櫛を通しながら答えるカトレアは同じように頃合いだろうと優しい声音で言う。

「そうね。何時からと言えば実は私にも分からないの」
「分からないの?ちぃ姉さま自身のことなのに?」
「えぇ、初めて会った時は頭が良さそうでしっかりした子だなぁって思ったわ。ふふ、それと凄くませていたわね。まさか六歳の彼からライラックの香水を貰うとは思ってなかったもの」

思い出したようにころころ笑うカトレア。

「私がその意味を理解したのは11の時だもの。どんだけませているのよって感じだわ。でもやっぱり何か切っ掛けみたいのがあったんじゃないの?昔と今とじゃ、ちぃ姉さまのヴァレリーを見る目が違うのは私でもわかるもの」

振り向いたルイズの言葉に僅かに頬を朱に染めたカトレアが語る。

「あらあら、そうだったかしら?切っ掛けね、挙げるとするなら私がラ・フォンティーヌの名を頂いた時からかしらね。私は嫁ぐことが出来ないからこそ名目上の領主として位置し、婿を貰う形で結婚が出来るようにお父様は計らってくれたわ。それでね、結婚の相手として顔が浮かんだのは彼に他ならなかったの。それだけじゃない、他の人から結婚の申し出をされて、実際に会ってみてもどうしても彼を基準に考えてしまうの。ヴァレリーならってね。あぁ、私にとってのヴァレリーの存在はこんなにも大きくなっていたのかってそこで気付いたのよ」

結婚という言葉で誤魔化してみたものの、実際、カトレアは何時からヴァレリーを特別な男性として意識していたかは自分でもわからない。最早、心の特等席を独占されているのにも関わらずだ。一点の曇りもない真摯な想いを寄せてくれることが嬉しく、温かい。だがそれが好きだからこそ、そう感じるのか。はたまたそれ故に好きになったのか。どちらも正しく思えるし、それだけではないようにも思える。きっと溢れるほどの愛で満たされていたからこそ気付かなかったのだろう。他人の心の機微は感じ取れるにも関わらず、自身の事となると儘ならないのを彼女は少し可笑しく思う。

ヴァレリーを語るカトレアは心底幸せそうでルイズとしてもついつい微笑んでしまう。

―――いつか私もちぃ姉さまのように誰かを想い、心からの笑みを浮かべることができるのかしら?

カトレアの部屋に咲く、幾つもの花々を見ながらルイズはそんなことを思った。



それから三日ほど経って、事前にあった文の通り、エレオノールとヴァレリーを乗せた馬車はヴァリエール家へと到着した。

ルイズと共にそれを出迎えたカトレアは先ず始めにヴァレリーが髪をリボンで結んでいないのに気付く。今まで自分に会いに来る時は必ずしていた黒のリボン。それは初めて出逢った時にあげたもの。ルイズからとある一件で切れてしまったと聞くし、髪を結んでいないからといって何か問題があるわけではないのだが妙にそれが印象的に彼女の心に残った。

出迎えもほどほどに客室を向かったヴァレリーはいつもと変わらないようにカトレアに微笑むがどうしてだろうか、その笑みに陰りが見えるようで彼女の不安を募らせる。今回の滞在も三日のようであり、それ以降は笑みに陰りが見えることは無く、その瞳には慈しみが見てとれる。
いつものように、いや、いつも以上に。


滞在初日、公爵夫妻に挨拶を済ませたヴァレリーはヴァリエール姉妹と4人で庭の散策をしていたがそこに突然一つの大きな影が舞いおりて来た。
身がまえたヴァレリーだったがカトレアとルイズはその存在を知っているらしくなんの警戒もしていない。

「大丈夫よ、ヴァレリー。あの子は危険な子じゃないから」

カトレアがそう言うと舞い降りた影がカトレアにすり寄る。
それは一頭のヒポグリフ、鷲の頭部と翼、馬の胴体を持つ幻獣である。

「ヒポグリフ!?」

驚くヴァレリーにルイズとエレオノールがそれぞれ感想を口にする。

「まぁ、驚くわよね。私も学院から帰って来て驚いたもの」
「また、拾って来たの?貴女はなぜか動物に好かれるけどまさか幻獣までとはね」

例の如く翼を傷めたこのヒポグリフはカトレアに手当をされ今に至るという。
傷は完治しているようだが居心地がよいのかカトレアのもとを離れることはなく、ヴァリエール領を自由に飛びまわっているそうだ。

「それにしても随分と立派なものです。翼も大きいし、毛並みも良い。魔法衛士隊でも此処まで上等なヒポグリフは有していないのではないのでしょうか」

ヴァレリーの賛辞を理解したのか今度はヴァレリーに歩み寄るヒポグリフはその頭をたれ、小さく鳴き声をもらす。

「この子も女の子だし殿方に褒められて嬉しいみたいね」

それを見たカトレアはにこやかに言う。

「そうか。どうりで美しいわけだ。はじめまして別嬪さん」

傅くヒポグリフを撫でると膝を折り姿勢を低くする。

「おや、乗せてくれるのかい?」

やはり言葉をしっかりと理解しているのだろう、頷くように首を振る。
ヒポグリフに跨がると姿勢を起こし、ヴァレリーの視点が高いものとなる。

「なかなか様になっていてよ、ヴァレリー。研究職以外にも魔法衛士隊でも活躍出来そうじゃない?」
「ふむ、いざ行かん!我こそはトリステインの白銀の槍!我が前に立ちはだかるはその命、花と散るであろう!」

エレオノールの世辞にのってみせたヴァレリーは古風な台詞を吐き、それに合わせてヒポグリフは前脚を振り上げる様にして立ち上がり、大翼を広げ、嘶く。

「こんな感じでしょうか?」
「ふふ、まるで物語にいる騎士のようね」

カトレアが楽しそうに笑う。

「何分、本当の魔法衛自隊の名乗りを見たことがないので。まぁ、しかし、幼き頃は憧れた事も有りましたが私は杖よりも筆の方が性に合っています。それよりも騎士物語には美しい姫が付き物です。カトレア様、よろしければ暫しの空の旅でも」

ヴァレリーはカトレアに手を差し出す。
カトレアが手を重ねるとヴァレリーがレビテーションの呪文を唱え、その体がふわりと浮き上がりヴァレリーの腕の中へと収まる。ヴァレリーからは見えないがルイズやエレオノールからはカトレアの頬に朱が色付くのが見てとれた。

「それでは暫しカトレア様を独り占めさせて頂きます」

カトレアを気遣うようにゆっくりと飛び立ったヒポグリフを見送り、残された二人。

「ヴァレリーったらいつになく大胆ね。まぁ、ちぃ姉さまが嬉しそうだったからいいんだけど」
「騎士と姫。二人が紡ぐ物語では正しくそうなのでしょうね。ところでルイズ、学院での生活はどう?魔法は使えるようになったのかしら?」
「あ~、えぇっと、そうだ!喉が渇きましたよね、エレオノール姉様!?きっとちぃ姉さま達も帰って来たら飲み物を欲しがるに違いないわ!ちょっとメイドに言って来ますね!?」
「あ、こら!待ちなさい!ルイズ!」

逃げるルイズに追うエレオノール。
勿論どちらが勝つかは自明の理。
逃げたばかりに頬をつねられるのは誰であったか。


その一方でヴァリエール家の領内をゆっくりと飛ぶのは二人。
流石に空を行くだけあってゆっくりと言っても馬車でのそれとは比べ物にならない時間で移動する。
眼下に見下ろすはヴァリエール領の民と村々。
先程までいたお屋敷は片手に収まるほどに小さく、良く澄んだ空の下、彼方にトリスタニアの王宮の影が見える。

「このような景色、初めて見たわ。とても素敵ね。領内から出た事がないから分からないけれどきっと世界には他にも私が知らない素敵なものが数多くあるのでしょうね。貴方は私に感動を、驚きを、知らない事を、本当のにたくさんのことを教えてくれる。貴方という人に出逢え事を感謝しなくちゃね。ありがとう、ヴァレリー」

腕の中で感嘆に浸るカトレア。
ヴァレリーは彼女を包む腕に少し力を込めて言う。

「貴女のその言葉だけで私は心が満ちるのを感じます。それだけで、ただそれだけで私は……。カトレア様、貴女に話したい事があります。この滞在中には必ず言います。ですから、今この時はこうして貴女を誰よりも近くで感じる事をお許し下さい」

カトレアは自身を包むヴァレリーの腕に身を委ね目を瞑る。
聞こえるのは風の音、感じるは想い人の温もり。
ただ、それでも彼女の心は穏やかとは程遠く、その内には晴れない霧が覆っていた。
聡いカトレアだからこそ、そして最もその存在が大きくなったヴァレリーのことだからこそわかるものがある。

―――あぁ、あの時見た陰りは気のせいなんかじゃなかった。
きっと彼は私が待つ言葉を言ってはくれない。
これ程までに想い合っているというのに。
ねぇ、ヴァレリー。
何が貴方の気持ちを押し殺しているというの?
どうしたら貴方は本当の笑みを見せてくれるの?

カトレアは気付いてしまった。
今日、自分へ向けてくれた笑顔の裏にヴァレリーが悲しみを隠しているということに。
そしてそれは少なからず自分が関わっているということを。


それからというもの二人の心とは裏腹に至って穏やかな時間が過ぎる。
花を愛で、音楽を奏で、談笑にふける。

どちらも表にその心情を出してはいない為に周りの者が気付くことはないが当の本人達は心が張り裂けんばかりの想いであったのは言うまでもない。かくして、その時が来たのは滞在三日間の夜。明日には学院に帰るとならばいよいよヴァレリーはカトレアに話さなくてはいけない。カトレアを待ち、庭先で一人佇むのはヴァレリーである。

―――私はうまく笑顔を作れていただろうか?

ヴァレリーはカトレアに恋をしていた。いや、最早それは愛と言ってもなんら遜色は無いものであり、彼にとっての彼女がどれほどまでに大切な存在であったかは計り知れない。だからこそヴァレリーはカトレアと共に生きることを自ら諦めた。

本来なら今日と言う日は愛を歌い、共に在ることを誓うはずであった。それがどうして別れとなるかはやはりヴァレリーに流れる血にその根源がある。貴族の血、平民の血、エルフの血、そして吸血鬼の血、ハルケギニアにおいてその血統は揺るぎない差別の基準である。その上で、本来、吸血鬼というものは人類種の敵とされ、見つかれば殺し、殺されるのが常であり、人の味方などと言う見解は無いに等しい。

そのような血を持つヴァレリーは一般に受け入れられるとは到底考えられない存在である。キュルケ、タバサのように事実を知って猶、認めてくれる者は今までの彼の生き方を知っていることもあるし、悪く言えば他人であり、あくまで例外に過ぎない。おそらくはカトレアもヴァレリーの存在を認めるであろう。しかし、その先が問題である。ことが明るみに出ればヴァレリーだけでなく、その父親であるオスマンにまで糾弾の声は届くだろう。それはオスマンが身内であるからであり、彼と深く関わっているからだ。オスマンにはその覚悟があるがヴァレリーとしてはそんなことには絶対になってほしくは無い。そして、結婚を経てカトレアが身内となればやはり彼女も糾弾される対象となり得る。

大家ヴァリエールと言えど社会の枠組みの中に存在することに違いはない。大家故に憎く思う輩も少なからずいるものだ。そんな中、ヴァレリーという存在は確実にヴァリエール家にとって傷となる。それこそ死に至らしめる傷だ。事実を知る者達が口を閉ざせばヴァレリーの素生は知れ渡ることは無いかもしれない。また、ヴァレリー自身がカトレアに、公爵家に自分の生まれを伝えなければという考えもある。だが、何よりも大切なカトレアにヴァレリーは嘘を付き続けて共に生きるつもりは毛頭ないし、仮に共に生きたとしてそこに本当の幸せがあるといえるだろうか。

ヴァレリーの素生が知れた時の事は前述したが、その危険を自身の身勝手な思いのまま彼女に負わせるわけにはいかないとヴァレリーは考えている。愛する人だからこそ、深く関わってはいけない。他人でなくてはいけないと。

ヴァレリーがこの事を決めたのは事実を知った夜、一人、夏咲きのカトレアの花を見ている時であった。そして今回の滞在を最後に想いを経ち切らんと心に誓ったのである。だからこそヴァレリーは精一杯の笑顔を作った。カトレアが自分に、自分だけに向けてくれる笑顔を最後にどうしても見たかったのだ。



佇むヴァレリーの元にヒポグリフが舞い降りる。
随分と懐かれたもので、すり寄ると甘噛みまでしてくれる。
元来、動物は人の感情に敏感なものであるし、このヒポグリフはヴァレリーを心配してやって来たのかもしれない。

「お前の元々の生まれは私のそれとよく似ているね。ただ、お前が羨ましいよ。その存在は固有のものとして認められ、確かなものなのだから」

固有の種として存在するヒポグリフだが元々はグリフォンと雌馬の間に生まれたとされている。しかし、人に飼われている今でこそ、その範疇にないが、グリフォンは本来、馬を好んで食べる。天敵と被食者のハーフというヒポグリフは吸血鬼と人の間に生まれたヴァレリーとその意味で同じと言えるだろう。ただ違うのは前者は固有のものとして認められているが後者はそうではないということ。

流石にヴァレリーが何をその言葉に含ませているかまでは理解できないようで首を傾げるような仕草をするヒポグリフ。背後から人がやってくる足音が聞こえるとヴァレリーはヒポグリフを撫で、言う。

「さぁ、もうお行き。今は二人きりにしておくれ」

従うヒポグリフはその大翼を広げ、夜の空へと消えていく。

「ヴァレリー……」

それを見送ったヴァレリーの背に声をかけるのはカトレアである。
ヴァレリーは振り返らず、否、振り返る事が出来ず、カトレアに背を向けたまま話し始める。

「幼き頃より私は貴女に惹かれていました。この十年、その想いは変わる事はなく、今も持ち続けております。小僧の身でありながら生涯を貴女と共に歩めたならばどれほど素敵な事かと夢に見てきました。しかし、それも今日までです」

「ヴァレリー、どうして!?」

「私には貴女と歩むことは出来ない。出来ないのです!」

ヴァレリーが語るのは自分の生まれについて。自分の持つ血は禍を招くことしかせず、それが知れ渡れば近しい者ほど悪い影響を受けること。最悪の場合は異端と評され死罪も有り得る。自分は公爵家に、カトレアに相応しくないのだと。

カトレアはそれを黙し聞いていた。
ことの故を告げたヴァレリーは決意を持ってカトレアと向き合い、言葉を重ねる。

「私は怖いのです。大切な人を自分のせいで失いたくはない。貴女は幸せになるべき人だ。しかし、私では貴女を幸せにすることは叶いません。貴女が私を少しでも想ってくれているのなら、どうか良き人を見つけ幸せになって頂きたい。それが最善であり、私にとっての救いでもあります。願わくばそれを一人の友として祝福させて頂ければ幸いです」

ヴァレリーは精一杯の笑顔を作って言った。
出来ることなら自分がカトレアを幸せにしてあげたかった。
他の男になど渡したくはなかった。
それが胸の内の事実だ。
しかし、彼女が幸せになることがヴァレリーの願いであることもまた事実。
心で悔しく、泣いていようとも、カトレアの将来を祝福する言葉を口にしたヴァレリーは笑顔でそれを言わなくてはいけなかった。


それを見たカトレアは何も言うことが出来ず、ただただ立ち尽くしていた。
勿論、吸血鬼の血を持つことには驚けど、ヴァレリーを途端に嫌悪するようなことは決してない。カトレアは本質を見抜ける人であったし、事実を知ってもヴァレリーに対する想いは変わる事はなかった。しかし、だからこそ彼がどれほどの思いで別れを口にしたかがわかってしまう。

既に何度も考え、決めたことなのだろうヴァレリーの言葉はとても重く、今のカトレアには何処を探しても返す言葉が見つからなかった。目の前で自分の幸せを願い、微笑む彼が悲しんでいないわけがない。そうでなければどうしてあのような笑顔ができようか。お互いがどれほど想い合っていたか今更、考える必要もない。しかし、何も言えない。何も言えないのだ。カトレアは自身の無力さに悲しみ、そして怒りを覚えた。知らずに涙がこみ上げてくる。泣くことは卑怯だとわかっている。なんの解決にもならず、自分を心から想ってくれている彼に唯の一言も言葉をかける事が出来ない自分に泣く資格はないと。しかし、どうしても涙は止まらず、頬を伝うばかり。

「カトレア様は私の大切な人です。それはこれからも変わりません。どうか次に会う時は友として微笑んでください。私も一人の友人として貴女に微笑みましょう」

ヴァレリーは最後にそう言うとカトレアを一人残し、去っていった。
夜を照らす月が雲に隠れ、その光を失う。深い闇の中、カトレアは俯き、大地を濡らし続けた。


翌日の出立。カトレアは見送りには来なかった。
ヴァリエールの屋敷を出たヴァレリーは馬車の中で一度だけ振り返った。


―――これでよかったのだ。これで……ッ!さようなら……愛しき人よ。どうか貴女が幸せでありますように。




どのような事が起きようとも、その人が望めど望まねど時間というものは常に流れ留まる所を知らない。また、その流れを遡ることは叶わず、色鮮やかな思い出はあくまで思い出であり、いくら望んだとてその頃へと帰ることは出来る筈もない。それでもなお望むのであらば人は夢の中へと足を踏み入れるのだろう。

カトレアに恋人としての別れを告げ、学院へと戻ったヴァレリーは明るい内は魔法の鍛練や研究に時間を費やし、夜になると度数の高い酒を幾つも空け、泥のように眠る生活をしていた。心にできてしまった虚無を時間が埋めてくれることを願い、少しでも早く時が経つようにと。

ヴァレリーはキュルケやタバサの前では以前と変わらず笑う。
しかし、無理をしているのがわかる二人はそれを見ているのがつらかった。
心配されるのは嬉しくもあったが自身がより一層惨めに見えてしまい、決意したくせにただ立ち止まるばかりの情けない自分が浮き彫りになるようでヴァレリーはその日の夜になると逃げるように学院の研究室を抜け、街の酒場で酒を煽った。

幾つものボトルを空け、店の営業時間の終わりまで飲み続けたヴァレリーは体を引きずるように帰路に付こうとするが、立ち上がり少し歩いたせいで酔いが回り、視界が霞み、まともに歩くことすら出来ず、路地裏にうずくまった。

頭痛がひどく、体も重い中、このまま寝てしまおうと働かない頭で思う。
馬に乗ろうとも今の状態では落馬するのは目に見えているし、夏ならば路上で寝たとて冬のように凍え死ぬこともないだろうと。そうしてヴァレリーの意識は何もない闇へと沈んでいくのだった。


目が覚めたのは日が高く昇った頃。
路上で寝てしまった筈が何故かベットで横になっている事に気付く。
体を起こし周りを見やる。
知らない部屋。

部屋の大部分を二つのベットが占め、化粧台が二つ、小さなテーブルに小さな本棚、大きめのクローゼットがあり、些か狭い部屋。部屋の造りや家具を見たところ平民の暮らす部屋なのだろう、ベットと化粧台が二つあることから少なくとも女性が二人暮らしているのが窺える。

壁には自分のマントがかけてあり、御丁寧にアイロンまでかけてくれたのか皺がない。
テーブルの上に水差しが有るのだが此れは飲んで良い物なのか迷うヴァレリー。
酒焼けでひどく喉が渇いているが一先ず家主が帰って来るまでは我慢をするべきかと考えていると自分の寝ていたベットが不自然に膨らんでいることに改めて気付く。
不覚にも直ぐに気付かなかったのだが小柄な人が丸まっているとちょうどこのような膨らみが出来るのではないだろうか。

薄い毛布を捲るとそこには猫のように丸まって眠る一人の女性がいた。大き目のブラウスを身にまとい、めくれたそれからローレグのショーツが見える。半分出ている形の良い臀部とそこから伸びる肉付きの良い太もも。

状況にたじろぐヴァレリーだがその女性に一寸見覚えがあるように思える。
丸まっているせいでよくはわからないが切り揃えた肩までの明るい髪で小柄な女性は学院の入学祝いに父オスマンに連れて行かれた娼館、『月夜の女神』亭のメルことメルチェではなかろうか。

会ったのはその晩の一度きりであったが如何せん初めて夜を共にした女性の一人だけにしかと顔は覚えている。ヴァレリーの考えが正解であったかを証明するように部屋にもう一人、女性が入ってくる。それは同じく『月夜の女神』亭の娼婦であり、初めての相手であるリリアであった。仕事ではないからだろうが今はドレスではなく、街娘が着るような地味な服装であり、髪も纏めず、流している。

「おや、お目覚めかい?ミスタ。ちょうど良かったよ。今、昼食を買って来たところだったんだ。あぁ、それよりも水だね。そこの飲んでいいからさ」

両手に皿を持ったリリアが目配せをする。

「すみません。ありがとうございます」

ヴァレリーは寝ているメルチェを起こさないようにベットから出ると咽を潤した。

「悪いね、ミスタ。メルは仕事明けで今し方寝ついたばかりなんだ。そっちのベットはメルのなんだけどそのままもぐり込んでしまったみたいだね。出来れば寝かせといてあげてほしい。それより、驚いたよ。路上に貴族様が転がっているんだもの。随分と深酒をしたみたいだね」
「それは悪い事をしました。リリアが私を運んでくれたのでしょう?二人には重ね重ね世話をかけさせました」
「なに、大したことじゃないさ」

昨晩のリリアは夜更けには仕事を終え、帰宅したがそこで蹲っているヴァレリーを見つけたのだそうだ。
ヴァレリーの体格は細身であったが女性が一人で運ぶには大変だったことだろう。

「詮索はしないけど、ミスタのような人でも酒に溺れることがあるんだね」
「私はそれほど良い者ではありませんよ……。最近は酒に逃げるばかりです」

憂いを帯びた笑みは儚く、存在が希薄で消えてしまうのではないかと思わせる。

「もしかして毎回、あんなになるまで飲んでいるのかい?だとしたら体を壊してしまうよ。ミスタ、今晩はお店においでよ。今のミスタはとても寂しそうな目をしていて女として放っておけないよ」

ヴァレリーがリリアと会ったのはこれで二回目。入学前に会ってからそれっきりであり、お互いをよく知るなどということは無かった。それでもわかるのだから学院にいるオスマンやタバサ、キュルケにはさぞかし鮮明に自分の沈み具合がわかることだろうとヴァレリーは思った。

カトレアへの愛は抱いてはいけない、忘れなくてはいけない。
想い人以外の女を抱くことで無理やりにでも忘れようとしたのかもしれない。
ヴァレリーの心中は計り得ないがヴァレリーはリリアに言われるままに『月夜の女神』亭へと足を運んだ。

その日も、次の日も、またその次の日もヴァレリー学院に帰ることなく『月夜の女神』亭に入り浸り、リリアやメルチェを求め、堕落した生活を送った。不義を重ねることで心に広がっていく虚しさはカトレアと自分を遠ざけてくれるようで反ってありがたかった。


『月夜の女神』亭で寝泊まりするようになって4日目。
今日も今日とて『月夜の女神』亭で過ごすヴァレリーの元にやって来たのはオスマンであった。
随分急いで来たのか額には汗が滲んでいる。

「此処におったか、この放蕩息子が。分かりやすい拗ね方をしおってからに。今すぐ学院に帰るのじゃ。ヴァリエールの次女が学院に来ておる。ただ……容態がすこぶる悪い」
「なっ……!?どうしてカトレア様が!?」
「お主に会いに来たに決まっておろうが馬鹿者が。街の入り口にグリフォンを連れて来ておる。早く戻れ、このたわけが!次女は水棟の医務室じゃ」

オスマンが言うや否やヴァレリーは店を飛び出し、限界まで速度を上げたフライで街の入り口へと向かい、そこからはグリフォンで学院へと戻った。老体のグリフォンが泡をふくほどに飛ばしたヴァレリーは労いの言葉もそこそこに水棟の医務室の扉を勢いよく開け放ち、ベットで臥せるカトレアに駆け寄った。

「カトレア様!!」

ヴァレリーが呼び掛けるとカトレアは臥せたままヴァレリーへと顔を向けて目を開き、微笑んでみせた。ただ、その顔は死人のように青白く、弱々しいものであった。

「ヴァレリー……私は」

カトレアがヴァレリーに何かを告げようとするが激しく咳き込みそれすらも儘ならない。

「無理を為さらないで下さい!今は安静にしていなくては!」
「でも……貴方に……聞いてほしい事が……」
「聞きます、後で幾らでも聞きますから!ですから今は休んで下さい!後生ですから!!」

猶も言葉を告げようとするカトレアに懇願するヴァレリーは今にも泣き出しそうな程である。
それでも引き下がらないカトレアにヴァレリーは仕方なく、眠りの呪文をかけ、寝かし付けた。
眠りに落ちたカトレアの顔はとても苦しそうであり、ヴァレリーは一寸カトレアの髪を撫でると小さくカトレアの名を呼び、その場を離れ、常駐していた医務員にどのような処置を施したかを訊いた。医務員曰く生命力を強める魔法薬の処方をしたものの効果があまり見られなかったという。続けて薬の材料を訊いたヴァレリーはすぐさま実験室へと駆けた。カトレアの側を離れたくはなかったが自分に出来る事をしようと思ったのだ。

医務員の処方した生命力を強める魔法薬はそれ自体は今のカトレアにとって出来る限りで最も効果的なものであり、逆に言えばそれ以外は手のほどこしようがないとも言える。ヴァレリーが自分に出来る事もやはり同じ効果の薬の生成ではあったがより効果が高い材料でそれを作る事が可能だった。

ヴァレリーの実験室には既にタバサとキュルケがおり、事情は把握しているのかヴァレリーが外泊していた理由は訊かず薬の生成を手伝ってくれた。4日も空けていたので部屋に活けてあった花が萎れてしまっていたがこの時ヴァレリーは気にも留めなかった。

丁寧に、そして可能な限り早く薬を調合し出来上がったのは一時間程経った頃。ヴァレリーにより水の精霊の涙を初めとする材料から作られた薬は市場で取り引きされたとしたらそれ1つで財産になるであろうものでこれ以上はないほどに効果が高いものであった。

出来上がった薬を持ってカトレアの元へ戻り、苦しみから彼女が目を覚ますとその薬を飲ませ、また休ませた。今度の薬はしっかりと効果が表れたのか次第に荒く、辛そうであった呼吸は静かな物になっていった。一先ず容態は回復したと安堵するヴァレリーは眠るカトレアのもとから片時も離れることはなかった。

遅れて学院に戻って来たオスマン曰く、カトレアはヒポグリフに乗ってやって来たのだそうでおそらくその無理が体に表れたのだろうとヴァレリーは考えた。

以前の相乗りはヴァレリーがヒポグリフを御していたためカトレアに負担がかからないような飛行であったし、密かに魔法で向かって来る風の流れを逸らしていた。だがカトレアが1人で乗ったというのならばそうはいかない。魔法を使用すれば体が悲鳴を上げる上に、カトレアには幻獣に乗ることは愚か、乗馬の心得もあるわけがないからだ。巨体を持つ飛竜はその範疇にはないが馬にしろ幻獣にしろ本来乗れば難なく移動出来るものではない。玄人が楽に御しているのは玄人だからであり、経験を積んだからこそ自身に負担がかからない乗り方が出来る。それでも気を緩めれば振り落とされることだってあるのだから経験がない素人のカトレアは常に気をはる必要があったし、必要以上に体力を奪われるのが道理である。

ヴァレリーの推測は正しものであったが実のところカトレアがここまで弱ってしまったのはそれだけが原因ではなかった。結論から言えば彼女は既に弱っている体で学院までやって来たのだ。


それはヴァレリーがカトレアに別れを告げて学院に帰ってからの事である。
なにも心に悲しみに心を潰していたのはヴァレリーだけではなく、カトレアもまた同様であり、そのせいであろうか、彼女の体調は悪くなってしまった。心が弱れば体も弱る。心身一体の理は世の常である。

臥せるカトレアはただただヴァレリーのことを考えていた。
そのうえで自分は何を望むのか、望むならば何をするべきか。

幸い、ヴァリエール家には常駐医である高位の水メイジもおり、カトレアの体調が悪化した時の為に薬の備蓄は充分あった故に大事には至らなかったが安静を言い渡されていた。しかし、カトレアはこれからどうするかを決めており、家の者には黙って学院を目指した。


―――ヴァレリーの決意を覆すだけの言葉をあの夜、私は持ち得なかった。
私が望むのは彼と共にある事に他ならないというのに。今更、何を言っても重みなんてない。
だから私は私の決意を行動をもって示さなければいけないはずだわ。
愚かな行いなのかもしれない。家族のことも省みず、ひどく我儘で自分勝手な考え。
それでも私は伝えたい。伝えなければいけない。
この想いは決して褪せることはなく、私の中にあり続けるものだから。
どれほど愚かでも、どれほど浅ましくとも私は決して最善の道なんて選ばない。選ぶものですか。
だって私は彼と生きる道を、幸福な道を選ぶのですから!


ヴァリエール家から学院までの道のりはカトレアにとって果てしなく遠く感じられた。
熱病にかかったように体が暑く、それでいてひどく寒い。
体に当たる風が冷たいのか暖かいのかも分からず、遠くで風が荒ぶ音が聴こえる。
6つの塔が見えてくる。近づいているはずが遠く離れていくように感じられる。

だんだんと視界が暗くなりカトレアの意識はそこで途絶えた。




それからは既に記した事の運びであったが夜更けになると状況が変わった。
カトレアの具合が再び悪くなったのだ。

一時は回復の兆しをみせたカトレアであったが夜更けになると再び顔色が目に見えて悪くなり、苦しみだした。ヴァレリーはカトレアの体調が悪くなるとどうなるかは知ってはいたがこの事態は全くの想定外であった。公爵家でカトレアの体調が悪くなった場合は同じように魔法薬を処方していたもので後は安静にしていれば回復していくのが常であった。消耗の度合いこそ違えど対処に変わりなく、だからこそヴァレリーは通常のものより数倍は効果が高いものをカトレアに飲ませた。ヴァレリーの薬の調合の腕前は過信するわけではないが国内でもかなり高く、カトレアの為に研究してきただけあって生命力を強める薬においては第一人者と言ってもよい。

薬の生成は部類にもよるが一定以上の腕前になると材料の質が効果の強弱を分ける。その部類とはただ単に材料を組み合わせる物、魔力を込めながら作る物であり、後者の魔力を込めながら作るものは魔法のレベルで違いが出そうではあるが実のところ、込められる魔力の量には限度があるし、スクウェアとトライアングルの魔法のレベルはそこまで影響しない。魔法のレベルで違いが出るのは出来上がった薬に魔法をかけるものであり、これは魔法の威力で効果が上がる。ヴァレリーが作る生命力を強める薬は一番目のやり方であり、研究の結果、水ぼ精霊の涙を使った組み合わせが最も効果が高かった。水の精霊の涙はそれ自体が何かに効くというよりも薬の効果を強める為に使うのが一般的であり、先住の力故に系統魔法との相性がいまいち良くない。だからこそ一番目の手法であり、材料もこれ以上はないほどのものを使った。正直なところこれで駄目ならもう他に対処の方法はなく、ただカトレアの衰弱を待つのみである。

―――何故回復しない!?これでも足らないというのか!?

カトレアの病がどのようなものかは以前に述べてあるが再度語ろう。
それは原因不明の病であり、高位の水メイジが何人かかっても治せなかったものである。しかし、結果から考えるに先天的な病がカトレアの生命力を奪い、弱った体に他の病を併発させるとの見解で有識者は一致している。例えるなら生命力という水を溜める甕があり、底に病という穴が空いている状態に近い。穴を塞ぐことが出来ないならば外部から水を足し続けるしか甕が渇れるのを防ぐ手段が無いわけでその為の魔法薬であった。しかし、カトレアがここまで消耗したことがなかった故に今まで知られていなかったが実際には穴が空いているというよりも、熱せられた甕と例えるに近く、水で満たされている状態では蒸気として徐々に水を失い、一度渇れる寸前までいくと多少の水を足したところで焼け石に水を注ぐ如く霧散する。それ故にヴァレリーの魔法薬は一時の効果しか得られなかった。限界まで効果を上げたのにも関わらずである。

―――くっ、何か他に手はないのか!?このままでは……。くそ!考えろ!死なせてなるものか!!

苦しむカトレアをなんとか治そうと自室に戻り、自身の研究書を読み漁る。
以前、タバサにも見せたことがあるその研究書はカトレアを治す為にヴァレリーが研鑽してきた薬の知識の塊である。その内容の殆どを覚えてはいたが見落としていた手法があるかも知れないと読み進める。しかし、ヴァレリーの願いは虚しくその行為は意味をなさなかった。

仕方なくもう一度同じ薬を調合しカトレアに飲ませた。
恐らくまた時間が経てばカトレアは苦しみだすだろう。
これはただの時間稼ぎでしかないのだから。

薬の量の問題ではなく、質が問題であった。
同じ効果の薬を多く飲んだところで効き目は変わらない。
寧ろ良薬であっても飲み過ぎれば体に異常をきたす。
材料も良質な物はそこまで多くない。
市販の材料は今あるものより力不足で役に立たない。

効果が高いものは作れてあと二回程。
薬の効果が効いたのはおおよそ半日。
それはつまりカトレアの命があと1日だということを表す。

すっかり夜が明けてしまって、あと数時間もすれば薬の効果が切れてカトレアはまた苦しみ出すことだろう。

「ダメだダメだダメだ!くそ!こんな物何の役にも立たないではないか!!どうしたらいい!?どうやったら救える!?最早祈るしかないというのか!?」

投げ捨てた研究書が部屋に四散する。
自身が吸血鬼だと知った時よりも遥かに大きい絶望感と散々優秀だと言われて来たにも関わらずいざという時になにも出来ない自分に怒りを覚えるヴァレリー。ヴァレリー同様、夜を徹して手伝っていたキュルケとタバサは悲痛な表情を浮かべるヴァレリーにどう言葉をかけていいのか立ち尽くすばかりである。
そこに入って来たのはオスマンであった。

「これはお主が十年も研究してきた努力の結晶であろう?役に立たないなど言うでない。現にお主の研究があったからこそ次女は今も生きておるのじゃぞ」

散らばった研究書を一枚一枚拾いオスマンが言う。

「ですが結局、カトレア様の容態は回復していません!これではただ苦しみを引き延ばしているだけではありませんか!!」
「冷静になれ、馬鹿者が!!お主以外に次女を救える可能性がある者はおらんのじゃぞ!それともお主は次女の死を良しとするのか?」
「そんなことあるわけがないでしょう!!」
「ならば諦めるな!冷静な頭で考えよ。次女を救うのであろう?」

オスマンに叱責されて初めてヴァレリーは気づく、自身がカトレアを救うことを諦めかけていたことに。深呼吸を1つしたヴァレリーは流したままだった髪をリボンでまとめ皆に言う。

「カトレア様を救う手立てをもう一度考え直します。どうか協力してください」

この場に断る者などいるはずがなく、皆一様に頷いたのだった。



さて、現状を打破するきっかけを作ったのは意外にも一番魔法薬の知識が乏しいキュルケであった。

「薬自体に魔力を込めるなり、魔法をかけて効果を今以上にあげられないの?」
「いや、そういった手法もあるんだがそれをするよりも水の精霊の涙を使った方がこの薬の場合、効果が高いものを作れるんだ」
「いや、その精霊の涙を使った物に魔法を込めるんじゃダメなのって意味よ。効果が高いものをさらに魔法で強化すればいいんじゃないの?」

キュルケの提案にタバサが答える。

「先住の力である精霊の涙と系統魔法は在り方が違うから相性が悪い。足を引っ張り合うことはあっても効果を高め合うことはない」

キュルケ以外は皆、知っていることなので提案するまでもないと判断していたがここでヴァレリーはある事に気付く。それは吸血鬼であることを卑下する彼だからこそ逆に思い付くこと。他の人と何ら変わりはないとする皆には発想し難いこと。

―――同じ先住の魔法なら効果をあげられるのではないか?

「父上、先住の魔法の詠唱は口語ですよね?他に何か必要なのでしょうか?」

ヴァレリーがオスマンに訊く。
勿論、先住魔法の使用についてである。

今までは人として出来ることを研究し、人が作れる中で最も効果的ものを作り出した。しかし、今のヴァレリーは人ではない立場から薬の生成が出来る可能性を孕んでいる。なぜなら彼は吸血鬼と人間のあいだに生まれた存在であり、その血の半分は吸血鬼のものであるからだ。血を吸おうとすれば牙を出せるところからもその点は事実性が高い。吸血鬼はエルフ程、強力な物は使えないが先住魔法を使う。ヴァレリーも吸血鬼として先住の魔法が使えないだろうかと思うのは的外れな事ではないだろう。

ヴァレリーの発言の意図に気付いたのはオスマンとタバサである。

「何でも精霊の力を借りることで魔法を行使しているらしいのぉ。より強力な魔法の行使にはその地の精霊と契約するそうじゃ。精霊とは実態ではなく自然の力そのものであるとか。それ以上はわからんわぃ」

オスマンの言葉を聞き、一先ず精霊の力の行使を試みるヴァレリー。

「この地に存在する精霊の力よ。我が声が聞こえたならばその力をどうか我に与えん」

しかし、今まで生きてきた中で精霊の力など感じたことはないし何の変化ももたらさない。

「なにも変化を感じられないな……。力の行使に必要な要素がわからない」
「えぇっと、事の運びが分からないんだけど、今何をしてるの?」

独り置いてけぼりを食らってるキュルケに再びタバサが説明する。

「吸血鬼は先住の魔法が使える。吸血鬼との混血である彼は先住の魔法が使える可能性がある」
「あぁ、なるほどね。でもその様子からすると使えなかったのよね?」
「うむ、私が吸血鬼の血を持つことは事実なんだ。出そうと思えば牙も出せる。ただ、今まで精霊の力なんて感じたことは一度だってないんだ。系統魔法が使える私は先住の魔法はやはり使えないのだろうか……」
「う~ん、言葉遊びに過ぎないけど血を吸わない吸血鬼は吸血鬼ではないと思うのよね。その点で言えば貴方は吸血鬼には分類されない気がするわ」
「吸血鬼の定義か。今は試せる物はすべて試すべき時ではあるが……」

キュルケの意見は感覚的なものであったが、血を吸うことは吸血鬼を吸血鬼足らしめんとする事象であることは事実である。血を吸うことで吸血鬼としての力を得れるかは定かではないが、手詰まりの現状を鑑みるに試すべきことではある。ただ、血を吸うには相手が必要であり、血を吸わせてくれと言うのは必要なことであったとしても明確な嫌悪感があった。

「では、わしの「ん」」

オスマンが名乗りをあげようとすると一足先にタバサが魔法で自身の指先を切り、手を差し出してくる。鮮やかな赤い血がタバサの指を伝う。頼むならオスマンにと考えていただけにタバサの迅速な行動に些か驚いたヴァレリーである。

「いいのかい?」
「学院長と貴方だと絵図が悪い。主に学院長のせいで。それに枯れそう。学院長が。早く、垂れる」

せっかくのタバサの好意を無駄にする必要は何処にもなく、ヴァレリーは若干傷心しているオスマンを余所にタバサの指に口を付けた。血を吸うことに抵抗がない訳じゃない。いよいよ自分が本当に人ではなくなる気がしてならない。けれどもカトレアを救えるのならそんなことはヴァレリーにとって些事でしかなく、甘んじて受け入れる覚悟があった。

タバサの手を取り血を啜るヴァレリー。
その姿は背徳的なようでもあり、どこか神聖なものでもあった。

ヴァレリーはタバサの指から口から離し、気付く。
今までに感じた事のない力を感じるのだ。
それはとても大きくて力強く、確かにそこに存在していた。

彼は部屋の外を見やる。
日の光りがひどく眩しくてうんざりする。
何時もより体が重く感じるし、体が熱い。

周りを見る。
父であるオスマンがいる。きっとあまり美味しくはないだろう。
キュルケがいる。深みのあるワインのような味がしそうだ。
タバサがいる。実に美味しかった。
今まで飲み食いしてきたどんなものよりも美味であった。
例えるなら甘いアイスワインに近いだろうか。
もう一度血が飲みたい。まだ満たされない。


ヴァレリーはそこで我に帰り戦慄した。
自分に対する嫌悪感が押し寄せる。

―――私はこれで本当に人ではなくなってしまったのだな……。

ヴァレリーの心情を察したのかオスマンが言う。

「よいか、ヴァレリー。改めて言うがわしらはお主が人であろうと吸血鬼であろうとお主という個を認めておる。あえて言うが、いちいち落ち込むな。お主がお主自身を受け入れる強さを持たねばならんと心得よ」

―――あぁ、最近の私は泣いたり、怒られたり、諭されたりとまるで子供だな。自身を受け入れる強さか……持てるだろうか?いや、持たなくてはいけないのだ。

「父上、煩わせました。ありがとうございます。これより先住の力を使って薬の生成を始めます」

失敗した精霊の行使をもう一度試す。
今度は失敗する気がしなかった。
今は確かに存在する力を感じているのだから。
先程と同じ文言を唱えれば力の流れが変わるのがヴァレリーにはわかった。
ただそこにあっただけの力が流れを持ち、常に自分と共にあるのが感じ取れる。

「共に在りし生の力よ。集え、満たせ、救え」

ヴァレリーの声に従い集まる力。

「花が……!?」

驚きの声を上げたのはキュルケである。
実験室に活けたあった花は萎れてしまったものであったが、それが次第に葉は青々と、花弁は鮮やかな色を取り戻し始めたのである。

どれだけ力を集めれば良いのかの匙加減はわからなかったがヴァレリーは力を集めることを続けた。
少しして力がこれ以上は集まらなくなったのを感じる。
おそらくはそれが今の自分の、吸血鬼としての限界なのだということを悟る。
吸血鬼の先住の魔法の力はエルフのそれよりかは弱い。
集めた分で足りるかはヴァレリー自身も正直なところわからなかった。

それからは材料に力を込めた後に生成、最後に出来上がった物にもう一度力を込めた。出来る事は全てやり尽くした。後はこれを飲ませカトレアの回復を祈るしかない。前の薬の効果が切れ、三度カトレアが苦しみ始めた。

―――お願いだ!もう、カトレア様が苦しむのは見たくない。どうか、どうか効いてくれ!!

ヴァレリーは祈る思いでカトレアに先住の力が宿った薬を飲ませた。
少しするとカトレアの呼吸が落ち着き、顔色が良くなり始めた。
ここまでは前回までの薬でも同じ効果、問題は此処からであり、ヴァレリーはカトレアの手を自身の手で包み、目を覚まして彼女が再び微笑んでくれることを祈り続けた。




[34596] 012
Name: lily◆ae117856 ID:ccc88b49
Date: 2012/11/01 22:54
前回の薬だったら効果が切れる時間になってもカトレアが苦しみ出すことはなく、安らかに眠ったままだった。しかし、だからといって安堵することはヴァレリーには出来るはずもない。そもそも薬の効果が足りているかわからないのだ。ヴァレリーはカトレアの傍を片時も離れず、彼女の手を己の手で包んでいた。先住の力を宿した薬を飲ませてから丸1日程時間が経った頃だろうか、学院に戻ってから一睡もしていないヴァレリーは傍らの椅子に腰掛け、カトレアの手を握ったまま俯き、目を閉じていた。彼からすればただカトレアの回復を祈るしかない時間は永遠に等しく、耐え難い時間であったのは想像に難くない。

不意に彼の手に暖かな温もりが重なる。
ヴァレリーはまたカトレアが苦しみ出したのかと思い、飛び起きた。
手を重ねた当人はヴァレリーがあまりに勢い良く起きるものだから驚いて手を引っ込めてしまう。

「もう、驚いたじゃない。おはよう、ヴァレリー。あぁ、でもおはようで合っているのかしら?」

名前を呼ぶその声は一番聞きたかった人の声。
とぼけたことを言いながら微笑んでくれるのは誰よりも大切な人。

「あぁ……カトレア様!!良かった。本当に、本当に良かった……ッ!」

カトレアが微笑んでいる。
ヴァレリーはただそれだけのことが何よりも嬉しく、大粒の涙が溢れて頬を伝うのを止められない。
さぞや、自分は情けない顔をしているだろうとヴァレリーは思う。威厳や凛々しさなど皆無だ。
そんなヴァレリーの頬をカトレアが優しく拭う。

「あらあら、泣かないで、ヴァレリー。私は貴方の笑顔が見たいわ」
「誰の、せいで、泣いていると?カトレア様のせいではないですか。私がどれだけ心配したことか!なんて無茶をするのです!御自身の体のことを考えて下さい!もう少しで死んでしまうところだったのですよ!?それで、今はどうなのです!?気分は悪くありませんか?体の調子は?無理してませんか?」

涙を袖で手荒く拭い、矢継ぎ早に言葉を放つヴァレリー。
とにもかくにもカトレアが心配で仕方がないのだ。

「大丈夫よ。今は凄く気分がいいし、体の調子も良いみたいだから。それよりも貴方の方が心配だわ。疲れが見てとれるもの」

穏やかな表情を浮かべるカトレアに対し、ヴァレリーは目の下にくまもあり、どちらかというとヴァレリーの方が病人に見える。
体の疲れもあったが心労が随分と色に表れていた。

「私はいいのです。それよりも食事は出来ますか?2日も臥せっていたのです。何か食べないと回復するものも回復しません。そのあとはもう一度、お休みになられて、あぁ、その前に侍女を呼びますので体を拭いて、一度着替えましょう。寝苦しいかと思いますし。それから―――」
「待って!待ってよ、ヴァレリー。私は大丈夫だから!」
「何が大丈夫なものですか、病み上がりなのですよ!?今回ばかりは私に従って頂きます!」

有無を言わせないヴァレリー。彼がカトレアにここまで強く出たのは今回が初めてかもしれない。見た目ではすっかり回復したように思えるが殊更、カトレアのことになると些か心配性に過ぎるヴァレリーである。

「わかりました。従いますから貴方も一度休んで。私の為に無理してくれたのでしょう?貴方が倒れたらそれこそ心配で病気が悪化してしまうわ。だから、ね?」
「いや、しかし万が一に備えて」
「貴方が休まない限り、私も休みませんからね」

今度はカトレアが有無を言わせない。これを言われるとヴァレリーも従うしかない。命を賭けて学院にやってきたカトレアである。間違いなく有言実行するだろう。下手をするとヴァレリーがちゃんと休んでいるか確認しにくることもしかねない。

「あぁ、もう、わかりました。私も一度休みます。侍女に手配させますので済んだらしっかり養生してくださいね?それと話しはカトレア様がしっかり休まれてからお聞きします。今はどうか御自愛下さい」

診療を済ませ医務室を後にするヴァレリーの足取りは軽い。
未だ心配ではあるものの難は去ったと見て良いだろうと考えているからだ。

侍女にカトレアのことを申し付けようとしてカトレアの着替えをどうしようか、一寸悩む。
カトレアは身一つで学院にやって来ていたので着替えは持参していないし、まさかメイドの格好をさせる訳にはいかない。ヴァレリーの服を着てもらっても良いのだが流石に女性物の下着は備えていない。女性物の下着を収集する特殊性癖は当然ないし、常日頃から用意しておくほど色事に上手ではない。

キュルケに頼むのが妥当かと思い、食事だけ申し付けてヴァレリーはキュルケの部屋を訪ねた。

「すまない。君の服を貸して欲しいのだが。下着込みで」

先住の力を宿した薬を飲ませてからは一先、キュルケ達には部屋で休んでもらっていた。
ノックをし、部屋に招かれたヴァレリー。
タバサも一緒であったが言うことは変わらない。
早速、用件を伝えた訳ではあるのだが。

「あぁ、ヴァレリー……なんてことなの。恋人を失ったせいでまさか女装趣味に走ってしまうなんて!しかも、下着までという手の込みよう。でも安心して。ミス・ヘルメスになっても私は友達よ!」

輝く笑顔で言うキュルケ、頷くタバサ。
素晴らしき友愛の念。

「そんなわけないだろ!?カトレア様を勝手に殺すな!!というかタバサも頷かないでくれ!」

開口一番に冗談を言って来たのはヴァレリーの表情を読んでカトレアが助かったのを悟ったからだろう。
もし仮にヴァレリーが女装趣味に走ってしまっても友達であり続けるという所は本当だろうが、生憎その予定はない。


さて、キュルケに適当な服と下着を見繕ってもらうのはいいが、如何せんキュルケとカトレアでは性格が違う為に普段着る服というのも違ってくる。清楚な服装であるカトレアに対しキュルケの服は大胆なものが多い。殊更、寝巻きは妖艶な趣に満ち満ちていてとてもじゃないがカトレアに着せるわけにはいかない。仲の良さから考えればタバサにも頼めるが流石に大きさが合わない。寝巻きについては自分の物にしておいて、それ以外をキュルケに頼む。しかし、キュルケがクローゼットから取り出すのはどれも丈が短いものばかり。タイトなミニスカート姿のカトレアを想像したヴァレリーはその破壊力に危うく精神を持っていかれそうになった。普段、清楚な女性のそういった服装は最早凶器である。魔法少女マジカル☆カトレアたん(既に10代ではないカトレアを少女と呼ぶのは語弊があるが)の爆誕はヴァレリーの精神衛生上、よろしくないので棚の奥の奥から最も丈が長い物を選んだ。ただそれでも普段のカトレアのロングスカートと比べると随分と短い。上は学院で着る白のシャツで良いとして流石に下着選びはキュルケに任せて、寝巻きや普段着等々一式揃えるとヴァレリーはカトレアに着替えを渡しに行ったわけではあるのだが―――

「えっと、ねぇ、ヴァレリー?貴方が着て欲しいって言うなら、まぁ、着なくは無いんだけど……」

困惑したような声音で言うのはカトレアである。

「あぁ、やはり丈が短すぎましたか?如何せん借りた友人が―――ぶっ!??」

服の大きさが大丈夫かどうかカトレアに確かめてもらっていたヴァレリーは下着も含まれることから背を向けて立っていた。声をかけられて振り向けばそこにはカトレアのシルクのように滑らかな白い肌が―――とはならなかったが思わず吹き出した。

カトレアが困ったように笑いながら手にしている物。
それは下着。具体的にはショーツ、紛うことなきショーツである。
ただ、それは世間一般では勝負下着と呼ぶ部類に入るのだろう。
要するにすこぶる破廉恥な代物であった。
扇情的な深い赤地のそれは極めて布面積が少ない三角地帯を有し、あろうことか一番大事な所に切れめが入っている。
ある種、機能的なのかもしれない。だが、本来必要とされる機能ではないことは明らかである。
きめ細かな刺繍と縁取られたレース、サイドは当然の如く紐である。

「意外と過激なのが好きなのね……」
「ちょ!?違います!これは間違いなのです!!し、暫しお待ちをっ!!」

カトレアの手からショーツをひったくり、全力で医務室から逃げるヴァレリー。
目指すはキュルケの部屋。
その手に握られているのは破廉恥な一品。
駆けるヴァレリーはまさに疾風の如く。

文字通り飛んで向かい、ノックも無しにキュルケの部屋の窓から飛び込んだ。

「あら?そんな慌ててどうしたの?」

澄まし顔のキュルケ。

「どうしたも、こうしたもあるか!なんちゅーもんを選んでるんだ!!」

破廉恥な布を両手で広げて抗議。
両脇を引っ張ってるせいで股の切れ目が如実に露わになる。

「いや、貴方が喜ぶと思って善意からの配慮をしたつもりなんだけど?」
「そんな配慮いらないよ!どうしてくれる!?カトレア様に私の趣味嗜好を疑われたではないか!?」

キュルケにショーツを投げつけるヴァレリー。
大した重みもないので投げたショーツはあさってな方へ飛んでいく。
具体的にはベットに座っていたタバサのもとへ、さらに具体的に言えば見事タバサの頭に不時着した。
無表情でそれを手に取ったタバサは広げて確認するとヴァレリーに向かって呟く。

「意外に変態、ヴァレリー・ヘルメス」
「ぐわぁー!嫌だぁー!カトレアさまぁ~、違うのです。私は決して変態ではー!」

思いのほか取り乱すヴァレリーはきっと疲れているが為だろう。
それを些か面白いと思ったタバサであったが、後処理が面倒なのでショーツをぽいっと放ると同時にキュルケに責任も放った。

「貴女のせいでヴァレリーが重傷」
「いやいやいや、今のはどう考えても貴女が悪いでしょ!?」

頭を抱えて何やらぶつぶつ言っているヴァレリーがあまりにも惨めなのでキュルケがすこぶる優しい声でヴァレリーに言う。

「ごめんなさいね、ヴァレリー。ほら、これ、新しい下着よ。これを持ってお行きなさいな」

まるで聖母のように微笑むキュルケがヴァレリーの手にそっと下着を握らせる。

「ん、あぁ……。すまない、取り乱した―――って、これ、さっきと同じ下着だろうがー!!」

べしっと破廉恥な赤パンを床に叩きつける、ヴァレリー。
二度目となるが彼はきっと疲れているのだろう。

「楽しいか!?えぇ!?君達は私で遊んで楽しいか!?」
「いや、なんかね。そう、今の貴方を見ているとつい、からかってみたくなるのよね。いつもと違って空回りしている馬鹿な子みたいで」
「人の皮を被った悪魔か、君は!?でぇ~い、早く普通のを渡さないか!」
「はいはい、わかったわよ。まったく、ミス・ヴァリエールの事になると必死なんだから」
「やかましいわ。あぁ、大きい声出したせいで眩暈が……。うぅ、すまないがベット借りるぞ。私は眠るからちゃんとしたのをカトレア様に渡しておいてくれ。さもなくば君の棚のショーツは余すことなく毛糸のパンツに変わっているだろうよ」

そう言ってヴァレリーはキュルケのベットに顔から突っ伏した。
反動で座っていたタバサが些か跳ねる。

「あぁ、それと……まだちゃんと言えてなかったが二人ともありがとう」
「あら、やっぱりこっちの下着の方が?」
「何故そうなる?いや、最早、何も言うまい」

学院に戻ってから寝てないうえに今までずっと気を張ってきただけに心身共に随分と消耗していたヴァレリーはカトレアが助かったという安堵もあり、程無くして静かな寝息を立て始めた。

「ほんと、必死なんだから。まったくこんな美女がすぐ近くにいるってのにね。目が腐ってるんじゃないかしら?」

無防備に眠るヴァレリーの頬をつつきながら言うのはキュルケ。
それに応するはタバサ。

「嫉妬?」
「あら、言うじゃない。でもちょっと違うわ。言うならば羨望かしらね」
「羨望?」
「そう、羨望。だってヴァレリーとミス・ヴァりエールのは最早、恋ではなく愛だもの。私はそれを羨ましく思うわ。『微熱』のキュルケ顔負けね。でも、正直に言えば少しだけ不愉快というか納得がいかなかったのも事実ね。誰かを愛することが出来ない人生なんて死んでいるのと同じだと私は思ってる。でも、ヴァリエール公爵家から戻ったヴァレリーったら、もう誰も深く愛してはいけないって顔をしていたわ。自分の生き方を決めるのは自分だし、それをどうこう言う権利は私にはない。でも優等生の模範的解答なんて私はあまり好きじゃないし、何より私はヴァレリーにあんな顔して欲しくない。ヴァレリーには幸せになってほしいと切に願うわ。友達としても、一人の女としてもね」

今度こそ本当に優しい笑みを浮かべるキュルケ。
本来、彼女は他人への思いやりにあふれる情の深い女性である。
然りとばかりにタバサは大きく頷いた。



さて、ヴァレリーが目を覚ましたのはすっかり夜の帳が下りた頃。
隣りでは相変わらずタバサが本を読んでいて、キュルケはキュルケで爪磨きに勤しんでいる。

「ん、カトレア様の容態に変化は?」

ベットからのっそり起き上がったヴァレリーが目を擦りながら開口一番に訊くのはやはりと言うべきかカトレアの事についてである。

「問題なしよ。あぁ、でも出来ればお風呂に入りたいって言ってたわ。やっぱりこの時期、女足るもの体を拭いただけではね。一応、貴方に良し悪しを訊いてからと思ったから保留にしといたけど。それと彼女、書き置きはしたらしいけどヴァリエール家には改めて学院長が手紙を出して知らせたそうよ」

爪を磨きながら返答するのはキュルケ。
あの後しっかりカトレアに着替えを渡しに行ったようである。

「そうか、ありがとう。そうだな、長湯をしなければ大丈夫だと思うが。心配ではあるから君が付き添ってあげてくれないか?」
「貴方が一緒に入れば?」
「馬鹿を言わないでくれ……」
「まぁ、一緒にってのは冗談だけど貴方も一度、お風呂に入った方がいいと思うわ」
「ん?あぁ、確かに。汗臭いだろうか?」

自分の匂いについて大概本人はわからないものではあるが、カトレアの看病で着替えや風呂に入る暇がなかったので、もしかしたら臭っているかもしれないとヴァレリーは自分の服に鼻を近づける。

「いや、というよりも貴方、私のベットで寝てたじゃない?他の女の匂いをさせたまま大事な人と会うのはどうなのかしらねってこと。それにね、薄れてはいるけど私は貴方がグレてる最中、何処に行っていたか匂いでなんとなくわかるわよ」

にやっとするキュルケに対してヴァレリーは内心焦る。
確かに4日も娼館に入り浸っていれば服に官能的な匂いが付くには十分だ。
男友達ならいざ知らず、女友達にそれを指摘されるのは心情的によろしくない。

「う、直ぐに入ってくる」

不思議そうにしているタバサが服を嗅ごうとしてくるのをするりと回避してヴァレリーは大浴場に向かうことにした。その方面に聡いキュルケにばれてしまったのは今更仕方がないことだが、年下の、それもまだそういった方面とは関係がないだろうタバサには流石に憚られる。また、カトレアには既に別れを告げてはいるが、かといってこのまま会うのはキュルケの言うように人として駄目だろう。



夏季休暇故に大浴場にはヴァレリー一人きり。
誰に憚ることなく湯船に浮く。

この後、カトレアと話しをすることになるが話の内容は容易に想像がつく。
カトレアがわざわざ自分に会いに学院に来たときは嬉しかった。
嬉しくないわけがない。
だが、同時に自身のせいで彼女が死に瀕したことはとても怖かった。
そうならないように別れを告げたのだから当然だ。
自分がどうするべきかを今一度考え、ヴァレリーは湯に体を沈めた。


随分と長いこと湯に浸かり、大事な話しを聞くのだからと寝巻きではなく、普段着に身を包む。
着替えを自室に置いたらカトレアのもとへ行こうと思っていたヴァレリーだったが、どうやら長湯が過ぎたようでカトレアの方が訪ねに来てしまったようだ。

改めて着替え直したようでカトレアのロングスカートが夜風に揺れる。
月明かりが閉じた花々を照らし、独り佇むカトレアの姿は確固足る意志を内に秘めているからだろうか、美しさと強かさを感じさせる。

「すみません。お待たせしてしまったようで。今、部屋を開けますから」
「いいの。お庭を見ていたから。エレオノールお姉様もルイズも誉めている貴方のお庭をずっと見てみたいと思ってたわ。やっと見に来ることが出来た」

ヴァレリーはテラスのテーブルに荷物を置いて、柱に釣ってあるランプの一つに小さな明かりを灯す。月と星ぐらいしか光源がなかっただけにそれだけでもうっすらと足元を照らす分には充分だった。

「ねぇ、ヴァレリー。私はあの日の夜、貴方の言葉に対して何も言えなかった。私はそれが悔しくて仕方がなかったわ。だから今こうして貴方に会いに来たの。ただ言葉を紡ぐだけじゃ駄目だとわかっていたから。だからね、ちゃんと聞いて欲しい。その上でもう一度これからの私達について考えて欲しいの」

カトレアがヴァレリーの目をしっかりと捉えて言う。
その目に宿すのは強い意志の炎。

「わかりました。聞きましょう」

ヴァレリーが頷くとカトレアは語り出す。

「ありがとう。先ず始めに言っておくわ。私はね、とても我が儘で悪い女よ。だから貴方の決意なんて知らない、私は私のしたいようにするわ」

一拍置いて本旨に入る。

「それでこれが本題。私は貴方と共に生きて行きたい。そしてそれは友達なんかじゃなく男と女としてよ。貴方は私の幸せを願ってくれたわ。でもね……そんなのちっとも嬉しくない。嬉しくないのよ……。他の誰かと幸せに?そんなの無理に決まってるわ!それが最善だから?私の幸せは私が決めるものよ!冗談も大概にして欲しいわ。私が愛した人は今も、そしてこれからも貴方だけしかいないのよ……!私の幸せは貴方が隣に居てくれないと叶わないの!愛した人の子を残すことも出来ず、恐らくは四十になる前に尽き果てるだろう身で貴方の人生を束縛していいとは思ってない。貴方は自分が相応しくないと言ったわ。でもそれはきっと私の台詞だわ。それでも私は望むのを止めるつもりはないわ。貴方と一緒に居られるなら私は家も名前も捨ててみせる。例え、異端の罪で死んでしまっても貴方を愛した結果なら私はそれを誇りに思う。自ら進んで炎に飛び込んでみせましょう。だからお願い、ヴァレリー……。どうか私を離さないで。私は貴方を愛しているの!」

思いの丈をありのままぶつけたカトレア。
今まで生きてきた中で一番大きな声を出したに違いない。
それだけ必死だった。
どうしても伝えたかった。

カトレアは自分の将来に冷ややかだった。生まれた時から病にその身を蝕まれ、長く生きられないことを悟っていたからだ。
自身の生に関心が持てなかったからこそ、彼女は他人の心を感じ取れるようになったのかもしれない。
しかし、彼女はヴァレリーに出会って、彼を好きになって、心の底から死ぬのが怖い、長く生きて幸せになりたいと思うようになった。
それはつまり自身の生に希望を求めたといくこと。そうさせたのは他でもないヴァレリーだ。
そしてそんな彼女の生きる糧はヴァレリーの存在による所が大きい。それ故の言葉。命を賭けての素直な気持ち。


カトレアの言葉を聞いて、ヴァレリーは酷く冷たい声音で問う。

「カトレア様、貴女は家も名前も捨てると仰いましたね。公爵家は、御家族は大切ではないのですか?」
「大切に決まってるわ。それでも……どちらかしか選べないと言うのならば私は貴方の手を取ります!」
「私と駆け落ちでもすると?なんと愚かな!それで生きていけるとお思いですか?卑しい話ですが生きるのには金が必要です。まして貴女の薬代は世を捨てた者には到底払うことが出来ないものです。貴女は確実に死んでしまいますよ?」
「くどいわ!なんの為に貴方に会いに来たと思っているの?私は貴方が横に居ない世界でただ安穏と過ごすくらいなら一瞬の時であったとしても貴方を愛し、愛される道を選びます!」

頬を紅潮させて言い張るカトレアは珍しく怒っているようであり、ヴァレリーはそれが愛おしかった。
おそらくそれが明確な一つの答えなのだろう。

―――あぁ、私は一体、何をしているのか。カトレア様に家族と自分を天秤に掛けさせて、あまつさえ命まで懸けさせて。愚か者はどちらか。たわけもいいとこだ。情けないことこの上ない。結局、愛おしいと思う気持ちを忘れられないではないか。私のせいで起こリ得る事に責任が取れないからと怯え、カトレア様から嫌われる事からも逃げて。違うだろう。私がすべきことは。私が言うべきことは。

一寸天を仰ぎ、一呼吸すると困ったような、それでいて心底嬉しそうな顔でヴァレリーは言った。

「はぁ、私の負けです。本当に貴女という人は……。命を賭けるのは卑怯ですよ。従うしかないじゃないですか」

カトレアが命を賭して会いに来た時点でヴァレリーにはカトレアの意志を覆す術はなかったのだ。あるとすればヴァレリー自身が自ら命を絶つか、恨まれるほどに憎く思われるかぐらいだろう。しかしヴァレリーはそれをしなかった。最早、怖いと怯えているのはカトレアの決意に対する侮辱も過ぎるであろう。ヴァレリーが腹をくくるならばするべきことは一つ。全身全霊でカトレアを幸せにすることに他ならない。

ヴァレリーの言葉を聞いたカトレアから安堵の笑みがこぼれる。
あの夜とは違う涙が込み上げてくる。

「ヴァレリー……あぁ、ヴァレリー!ふふ、だから最初に言ったでしょ?私は我が儘で悪い女だって」
「今更ながら気付かされましたよ。というかカトレア様が怒ったところを初めて見ましたよ」
「怒らせるような事を言う貴方が悪いの。ねぇ、ヴァレリー。こんな私をこれからも愛してくれるのでしょう?」

その答えは既に分かりきった事。
だがそれでも言葉にして明確に伝えて欲しいと思うのが人の心。

「えぇ、勿論です。それこそ命懸けで貴女を愛し、誰よりも幸せにすると誓いましょう」

そこでヴァレリーはカトレアの前に跪き、片手を差し出す。

「今の言葉に嘘、偽りはございません。我が心は常に貴女と共に。今更ですがこれだけは私から言わせてください。若輩の身ではありますがカトレア様、どうか私の妻としてこれからを生きてはくれぬでしょうか?」

今年の夏に言うはずだったその言葉。
一時は言わぬと決めた言葉。
紆余曲折を経てようやくそれを口にする事が出来た。

カトレアは目に溜まった感涙を拭い、女としての最高の笑顔を浮かべ、短い応の言葉と共に差し出されたヴァレリーの手を取った。
およそ10年に渡る想い、まだまだ課題は山積みではあるが明確な一歩を踏み出した二人を祝福するかのように星々は瞬き、照らす双月はどこまでも優しく在り続けた。



さて、当人達はいつまで甘い時間を過ごしていても飽きないのだろうが、これからの事を話し合う必要があるのはお互い理解出来る歳である。想いが通じ合った訳ではあるが言ってしまえば未だそれだけである。名残惜しくはあったが愛を語らうのを一旦止め、ヴァレリーはカトレアを自室へと招き入れた。

ヴァレリーの方はカトレアの私室には何度も訪れたことはあったが、その逆、カトレアがヴァレリーの私室に入るのは勿論今回が初めてである。本棚に入りきらず平積みされた小難しい研究書、見たこともない薬の材料に色とりどりの瓶に入った薬の数々。一体どう使うのかさっぱりな実験器具に、自作しているらしい何本もの酒のボトル。生活空間の半分以上がそういった物で占められているのがなんとも真面目なヴァレリーらしく、好きな相手の内面を知れたようでついつい嬉しくなるカトレア。

「小汚ない所ですみません。如何せん、片付ける暇がなかったもので」
「ふふ、貴方らしいというか本当に研究一色なのね」
「まぁ、自室が研究室というより研究室が自室と言った方が正しいでしょうからね。子供の頃からずっとここで研究してたものですから普通の部屋より落ち着きます」
「そんなものかしらね。それにしても貴方は早熟だったけれど」
「う~ん、今から思えば納得がいくのですが幼少の時は、というか今も大して変わらないのですがあまり外に出るのが好きじゃなくてですね。その、日光が気だるくて。だから本ばかり読んで過ごしていたのです。なにせ、図書館の上段の本が読みたいばかりに一番最初に修得した魔法がレビテーションだったくらいです。私は水のメイジでしたし、子供でも材料さえ揃えれば知識を実践できる魔法薬というのは扱っていて楽しいものでした。カトレア様と出逢ってからは明確な目標も出来ましたしね」
「そうだったの。そう言えば慌しくてまだ、助けてくれたお礼を言ってなかったわね。ありがとう、ヴァレリー」
「いえ、もとを正せば私のせいですから。カトレア様がこうして生きていてくれることに感謝するばかりです」

手際よくお茶とお菓子を用意するヴァレリー。
カップに口を付けた彼の様子を見てカトレアが訊く。

「どうかしたの?」
「いえ、大したことでは」
「嘘ね。私には言えない?」

カトレアが目で訴えてくる。
参ったとばかりにヴァレリーが答える。

「味覚が少し変わったようです」

考えてみれば先住の力を使うにあたり、タバサの血を飲んでから今まで何も口にしていないのにも関わらず空腹を感じていなかったことにヴァレリーは気づいた。おそらくは吸血鬼の面が強く出ているが為だろうと彼は予測する。何気なく口にしたお茶の味を酷く味気ないものに感じたのもそれ故だろうと。それが何時まで続くのか、それともこれからずっと続くのかは今の彼には定かではないがそれを知るにしても今ではないだろうと思い本旨に入る。

「さて、本題に入りましょう。これから私達がどう生きていくかです」

先ずは二人が何を求めるのかを確認する。もちろん今までの経過を無下にして今更別れるなどという選択肢はない。カトレアと二人で瞬く間の逃避行も一つの選択肢ではあるが、やはりカトレアにはより長く生きて欲しいと思うものでこれもヴァレリーの答えではない。また、ヴァレリーはカトレアを誰よりも幸せにすると誓ったのだ。それなのにカトレアにとって大切な家族との関わりを奪ってしまっては嘘をついたことになる。その点においても駆け落ちというのは望むところではない。別れることも、失うこともなく、認められた夫婦となる。それがヴァレリーが思う絶対条件である。

一つの手としては公爵家にヴァレリーが自身の生い立ちを告げずに結婚してしまうというものが挙げられる。これが実際には一番難がない選択肢ではあるのだが吸血鬼であることが世間に露呈してしまった時の結末は依然として悲惨なものであることには変わらない。既にカトレアが無理を押して学院に来てしまった理由の説明をするにしても嘘を重ね続ける必要があり、信義を欠く行いである。

ならばどうするか?
問題の根本に立ち返ってみる。
問題はヴァレリーが吸血鬼の血をひくことだ。
では吸血鬼の何が悪いか?
人に害をなし、宗教上においても人間社会においても認められない存在だからだ。
それを踏まえたうえでヴァレリーは語る。

「立場が逆ではありますが、アルビオンのモード大公の事例は参考にすべき事かと思われます。詳細は定かではありませんが、大公はエルフの女性を匿い、それを止めるようにとの再三の勧告を退け続けた故に投獄され獄死されたと聞きます。エルフの女性も同じような末路であったとか。カトレア様、私達がここから学ぶべきはどんなことでしょうか?」

「そうね。第一に私達は同じような結果を招いてはいけないという事。第二に現アルビオン王の弟君でさえも抗うことが出来なかった事。それは理解しないといけないと思うわ」

「そうですね。一つ目は当然の事柄です。では二つ目をもう少し明確に致しましょう。王家に連なる一族でさえも抗えなかった。モード大公は王家の財宝の管理を任されるほどに信用を得ていたにも関わらずです。それは謂わば、王家の名誉や宗教上の問題と大公のお命を天秤に掛けた時、前者に傾いたということです。なぜ前者に傾いてしまったのか?それは後者に傾けるだけの要素を欠いていたからです。私はここで一つの結論を得たと思います。つまり問題となる者を守る側が、この場合ではエルフの女性を守る大公が如何に良いお家であっても足らないという事実です」

「欠けていた。足らない……。天秤を傾けるだけの追加要素があると言いたいわけね」

「その通りです。不敬で辛辣な意見となりますが大公はアルビオンにとって必要だったのでしょうか?エルフの女性はどうだったのでしょうか?大公について言えばジェームズ一世の直系であるウェールズ皇太子がいらっしゃるわけですから血統の維持という観点からすればその意味合いは多少なりとも薄れたと言えるでしょう。また、王家の財宝管理ですが、王家からの信用の厚さを必要としますが、能力の面で他の誰も出来ない仕事であったとは言えません。エルフの女性について言えば彼女が何をしたのでしょうか?大公の心を満たしてはいたでしょう。ですがそれだけではないでしょうか?私はここに答えがあると考えます。大公の事例と今の私達の状況はよく似ています。唯の下級貴族でしかない今の私では人の血を吸わずとも生きて行けると訴えても異端と評され死を宣告されるでしょう。しかし、それは私が社会的に力の弱い者だからです。言ってしまえば私が死んだからといってトリステインはなんの損害も被りません。ですが、例えば私が国にとって欠くことが出来ない人物になった後なら話しは変わってきます。要するに本来守られる側が、私自身が高度に政治的な存在になることで国に認められる、もしくは保護されうるのではないでしょうか?」

ヴァレリーは考えた。
自身の半分は吸血鬼であることは何があろうと変えることが出来ない事象である。
ならばそれをもってしても認められる存在になることで事を解決させようと。

「国にとって欠くことが出来ない人物……。貴方は英雄にでもなろうと言うの?」
「それぐらいはしないと認めてもらえないと思います。ですが、そうですね……世に名を轟かせた烈風カリンのような武を私は持っていませんし、これからも持つことはないでしょう。正直な話し、スクウェアメイジになれるかも怪しいところです。しかし、国にとって欠くことが出来ない人物とは英雄だけではありません。寧ろ英雄とはその時の威光は輝かしいですが一時的なものであり、欠くことが出来ないというには些か押しが弱いです。高度に政治的と言うなれば国の中枢、ちょうど今のマザリーニ枢機卿の立場が望ましいとかと思います」

現トリステイン宰相マザリーニ。トリステイン国王、亡き後には殊更、卓越した政治手腕で疲弊した国の舵取りを担って来た重臣である。鳥の骨と蔑まれようが彼がいなければトリステインという国は亡国になっていてもおかしくはなく、彼の代わりを務めうる才人さいじんがいない今、まさにトリステインにとって欠くことが出来ない人物である。仮に彼がヴァレリーのような吸血鬼であったとしても異端と評し、死なせることは国にとって大きな痛手となるのだから合理的な判断が下される余地がある。仮に職を退くことになったとしても今までの功績を考慮すれば恩赦を期待することは的外れではないだろう。彼のような人物になることは認められる存在になり、何の咎めもなくカトレアと夫婦として生きることを求めるヴァレリーにとって険しく危険な長い道ではあるが望むものが得られる可能性を充分持つ道である。

その旨をカトレアに伝えたヴァレリーは襟を正し、言葉を紡ぐ。

「カトレア様をお待たせすることになりますが、二十年……いや、十年で私は吸血鬼の血をもってしても国に認められる存在になってみせます!そして必ずや貴女を迎えに参ります!ですからどうか私を信じて待っていてはくれないでしょうか!?」

ヴァレリーがそれだけの人物になれるかの確証など何処にもない。
けれどもカトレアは何の迷いもなく、あっさり即答してみせた。

「はい。貴方を信じるわ」
「どうか―――って、あれ?自分で言っておいてなんですが、よろしいのですか?」

人生の根幹に関わる重大なことを言ったはずなのにカトレアがあまりに平然と答えたものだからヴァレリーは聞き間違えたのかと一寸思ってしまった。勿論、聞き間違えなどではなく、何を今さらっといった面持ちでカトレアが告げる。

「正式な婚儀はしていないけれど私は貴方の妻になったのよ?夫を信じるのは妻の務めでしょ?違ったかしら?」

得意顔、現代で言うところのどや顔のカトレアである。

「カトレア様、抱き締めてもいいですか?」

ついついそんなことを口走るヴァレリーの対しカトレアは余裕なものだ。

「う~ん、妻に敬称っておかしいと思うのよね。夫らしく私を呼んでくれたら良しとします」
「いや、しかしですね……」
「ほら、呼んでみて。カトレアって」

楽しそうなカトレアと困った顔のヴァレリー。
今までずっと様をつけて呼んで来た訳で、それが普通だったのだから早々切り替えられるものではないだろう。

「わ、わかりました。で、では……!か、かか、カトレア……」

盛大にどもり、気恥ずかしさも相まって初な生娘のように小さな声でカトレアを呼ぶ。
正直、どちらがヒロインなのか迷う光景である。
どうやらヴァレリーの呼び声はカトレアに届いたようで、それに対する返答にお茶目心を炸裂させる。

「はい、旦那様」
「ぐはっ!?」

新妻よろしく、カトレアが飛びきりの笑顔で言うものだから思わず愛しさが溢れる。

「こ、これは危険です!顔が緩んでしまって仕方がありません!幸せ過ぎて痛風になりそうです!」

にやついた顔をカトレアに見られまいとそっぽを向くヴァレリー。
因みに痛風は贅沢病とは言われるが決して幸せ過ぎてなったりはしない。

「す、少なくとも正式な婚儀を挙げるまでは今まで通りでいきましょう。その方が私の心情的に助かります」
「はい、旦那様」
「ぐふっ!?」

天丼は基本である。
もっともハルケギニアにおいて天丼という単語は勿論ないだろうが。

ヴァレリーは緩み切った顔をぺしぺし叩いて引き締める。
調子が狂うが話の内容は人生を左右させる程の大きなものなのだ。

「話が逸れました。それでですね、公爵夫妻には私の生い立ちと国から認められる存在になったらカトレア様と正式に結婚をしたい旨を伝えようと思います。間違いなく反対されるでしょうし、殺されてもおかしくはありませんが、それが誠意ですし、必ず通る道ですからね。よろしいでしょうか?」
「えぇ、わかりました。報告は直ぐに?」
「はい。どの道、今回の事で私が吸血鬼であることを説明する必要がありますからね。ですが、まぁ……。何も明日というわけではありません。カトレア様も回復したばかりですし、それに、これが本音ですが、カトレア様と少しでも長く一緒にいたいですからね」

心配している公爵家の面々には悪いが、カトレアの無事を告げる手紙も出しているし、滞在が2、3日延びたところで今更だろう。何よりも二人がそれを望んでいるのは言うまでもない。

さて、決めるべきことを決めた二人が今宵、影を重ねることはなんら不思議のないことだろう。二人の内だけではあるが夫婦となって初めて共に過ごす夜なのだから。僅かな時しか二人で過ごせないだけに抱き締めれば確かにそこにある温もりは心の支えとなり、これからを生きる糧となる。

ヴァレリーはそっとカトレアの身をベットに沈め、柔らかなピンクブロンドを撫でる。見上げてくるカトレアは愛くるしくも艶やかであり、女を意識させるには十分すぎることこの上なかった。二人のそれは我武者羅に求めるものなどではなく、慈しみに溢れ、心を満たすものだった。初めて目にするカトレアの裸身は透き通るように白く、華奢な肩のライン、ふくよかな乳房、女性的な丸みを帯びた腰回り、相応に茂る下草、その有り様はひたすらに美しく、この世にはかくも麗しい存在がいるのかと素直に感銘を受けると共に、触れる肌から伝わる生の鼓動に喜びを禁じ得ない。花を散らすとならば痛かろうに目に涙を溜めつつも微笑んで受け入れるカトレアは健気でどこまでも愛おしく、充足の果てに眠りに落ちた彼女をその腕に抱き、ヴァレリーは自身の歩むべき道をしかと心に刻みつけたのだった。


それは双月に照らされ、庭に咲くムスカリの花が風に揺れる静かな夜のことである。


明くる朝の事。「幸せ」という言葉は心が満ち足りている様である。個々人における幸せは千差万別なのは当然であるが、おおよそ一般的な人であれば共通して幸せを感じる場面というものは存在する。何が言いたいのかと言うと、遅く起きた朝、一番最初に目にするのが健やかなカトレアの寝顔であったことはヴァレリーにとって心が満ち足りる、要するに幸せであったということだ。

このままベットでカトレアとぬくぬくと過ごすのも大いに魅力的ではあったが、限りある時間故にヴァレリーはベットから出て身支度を整えた。昨晩、脱がせたカトレアの服を篭に集め、自分のと一緒にメイドに洗濯を申し付ける。シーツも代えた方がいいのだが、なにも今、わざわざカトレアを起こしてまでする必要はないだろう。

余談であるが、下級貴族とはいえ、貴族であるヴァレリーは学院に在籍する他の貴族同様に洗濯などの雑務はメイドに任せる。人の腫れた惚れたという話しはいつの世も、格好の娯楽であり、殊更、生まれてからずっと学院で生活してきただけに従者達とは顔馴染み、加えて淑女から人気があるのに身の堅いヴァレリーのそういった話しはさぞやメイド達の話しのネタになったことだろう。学院において男女の秘め事の情報を一番に有するのはメイド達に他ならない。なにせ、証拠品の方から勝手に舞い込んで来るのだから。

さて、話しを戻そう。メイドに申し付けた後にヴァレリーは医務室にキュルケから借りたカトレアの服を取りに行き、厨房に寄って軽い朝食を二人分作ってもらった。それらを持って自室に戻ると既にカトレアが目を覚ましたようで、着るものが無くて困ったのだろう、シーツにくるまってベットに座っていた。その顔は些か不機嫌である。

「目が覚めたら隣にいるはずの貴方がいない」

カトレアとしても目覚めた一番はヴァレリーの顔を見たかったのだろう。
その声にはいかにも不服です、といった念が込もっている。

「すみません。服と朝食を取りに行っていました。あぁ、そうそう、カトレア様の寝顔はすこぶる可愛かったです。あと、おはようございます」
「ありがとう。でも理由はどうあれ、その可愛い妻に寂しい思いをさせたのは罪じゃないかしら?あと、おはよう」
「むむ、それは困りましたね。情状酌量の余地はあるのでしょうか?」
「それは貴方次第ね」

結局、天が高く昇るまでじゃれ合って、すっかり冷めてしまった朝食は昼食へと意を変えたのであった。


その後、二人は庭の散策に出る。
ヴァレリーの庭はヴァリエール公爵家のそれと比べれば規模こそ小さいが彩る花達の種類は数知れず、手入れの行き届いた空間は調和を成している。夏の盛りである今頃は涼しさを演出する為に寒色の花が多く見受けられる。日向で目線を上げればアーチから枝垂れる夏雪カズラが爽やかな白い小花を一面に輝かせ、下段に目を向ければアンゲロニアの白、紫、桃色の花群。また、如何にも涼しげなオキシペタラムの淡い青は夏の暑さを忘れさせる。同系色の花を集めることで花、そして空間そのものを楽しめる。青の庭や白の庭、今年の夏はヴァレリーにとって大きな変化の年であったが自慢の庭は変わらずに美しく飾られている。

小休止を挟み、今度は学院を回る。
病さえなければカトレアも通うはずだったのだから興味はあることだろう。そうでなくても学院はヴァレリーの生家。その点からしても見て回りたいと思うのは不思議ではない。一寸の思い付きで魔法薬の授業をしてみたり、広い食堂で他愛もない話を弾ませる。それは周りから見ればなんてことはない日常の一風景に過ぎないけれど、カトレアにとっては特別であり、初めてのことばかり。二人で過ごす時間は星が流れる如く、瞬く間に過ぎ去る。

この日、ヴァレリーはカトレアが学院に来る際に乗ってきたヒポグリフを譲り受けた。国から認められる存在になるためにこれから色々と物入りであり、速い足は時間が惜しいヴァレリーにとっては必須である。幸い、件のヒポグリフもヴァレリーに懐いていたこともあり、これからは良き相棒となることだろう。二年生になれば使い魔を召喚することになるが水のメイジであるヴァレリーが空を駆けるような生き物を召喚する可能性は低い。そもそもそれまで学院に留まっている可能性は低い。その点を考えた結果でもある。このヒポグリフがヴァレリーに従するにあたり、名を与えた。カトレアは「貴方らしい」と笑ったもので名を「ローリエ」とした。ローリエとは月桂樹、もしくは月桂樹の葉の意であり、勝利や栄光といった意味合いがあるのは周知のことだが、それに準じて「輝ける将来」をも意味する。

また、お礼というわけではないがヴァレリーはペンダントを二つ作った。結婚指輪のせめてもの代わりにと。銀のコインに一つは蘭の花を、もう一つには蓮を象った。それが何を意味するかはもはや説明するまでもないだろう。ヴァレリーは前者を、カトレアは後者を持つ。その場で自作したそれは宝飾士が手掛けた物のように完璧とは行かず、質素なものだったけれどカトレアには何物にも勝る宝物となったことだろう。

その次の日の朝、いよいよヴァリエール公爵家へと向かうべくヴァレリーはカトレアと共にヒポグリフのローリエの背に乗った。風の流れを逸らしながらゆっくりと高度を上げ、大きく学院上空を一周すると公爵家へと進路を取る。

雲ひとつない快晴、何処までも広がる明るい青。
学院を、そして、そのさらに後方の彼方に浮かぶ白んだアルビオンを背に悠然と飛ぶ。

公爵家へと向かう最中、ヴァレリーはカトレアと一つの約束をした。
「私を信じて見守って欲しい」と。
結婚の申し出がすんなり公爵に認めてもらえるとはヴァレリーは微塵も思わない。
おそらく、いや対立は必至だろう。
下手すればその場で殺されてもおかしくは無い。
しかし、こればかりは譲れない。
ヴァレリーにとってこれは筋を通す為の決戦に等しい。
それを理解したカトレアは深く頷いた。


ここで少し時間を遡ることとしたい。それはカトレアの容体が安定した後のこと。ヴァレリーからその知らせを聞いたオスマンは先んじてヴァリエール領へとその身を運んだ。理由は今回の件についての謝罪を主とするもの。ヴァレリーが吸血鬼との間の子供であったことを知るのはつい最近まではオスマン一人であり、その点について彼の責任は重い。なぜならば結婚相手となろうヴァリエール家にヴァレリーの素性を隠していたことは明確な事実だからだ。そもそもオスマンが事実を黙殺しようとしたのは彼の希望的憶測による所が大きい。ヴァレリーの成長は殆ど常人と変わるところはない。多少、日の光を嫌う性質はあるものの、それが生活に支障を来すとは言い難く、成長速度にしても生粋の吸血鬼が何十年もかけて成体に至るのに対し、彼のそれは人そのものだった。食事にしても血を吸わずに生きていけるヴァレリーは生い立ち以外に問題となるところが無かった。ならばそのまま人として生き、人として幸せを享受して欲しいとオスマンは願ったのだ。結婚にしてもそうだ。ヴァレリーがヴァリエール公爵家の次女カトレアに想いを馳せているのを知って、その想いを成就させてやりたいと思うことはオスマンの願いに通ずることである。そこに打算的な考えがあったことはオスマン自身否定はしない。つまりは病弱でそう長くは生きられないカトレアとの間では子ができることもなく、謂わば貴族としての柵も薄く、一代限りでの関わりならば表面上は問題になることはないだろうとの考えだ。その考えが信義を欠くものであることは重々承知のうえで、オスマンは沈黙を選んだ。決して誇らしいことではないだろう、信義を重んじるヴァレリーが知ったら軽蔑されてもおかしくはないし、ヴァリエール家に至っては軽蔑などで済むはずもない。それでもオスマンは願ったのだ。偽ってでも、自身の行いが罪であろうとも、最愛の息子が幸せに生きることを。

対面するヴァリエール公爵の前で事の次第を告げるとオスマンは深く頭を下げて言う。

「此度の事、そもそもの原因は全てわしにある。申し訳なかった。そなた等を欺いた我が罪を重く受け止めておる。職を辞することになろうとも、貴族としての席を失うことになろうとも甘んじて受け入れよう。それでも一度失った信頼の回復には足りえないであろうというのはわかっておる。許せないと言うのならばこの首、今ここで切り落としてくれても一向に構わぬ。だがしかし!それで終わりにしてほしい!どうか後に我が息子がそなた等に語るであろう事をわしの罪を以てして聞かないであげてほしい。あの子自身を見て、その言葉を偏見なく見定めてほしい!」

結婚を認めてほしいとはオスマンの口から言う事は出来ない。
最早、そんなことを言える立場も信頼もないからだ。
故にせめてヴァレリーが話をする場所だけは残しておきたいとのオスマンの心。
ヴァレリーはオスマンに対して何故自分の生まれについて教えてくれなかったのかをただの一度も責めたことはない。それどころか彼はオスマンがヴァリエール家に赴く前に言ったのだ。「父上がなぜ私の生まれを隠そうとしたのかがわからないほど私は愚かではありません。だって私は父上から多くの愛を頂き育ってきたのですから。ただ、父上一人に苦労を掛けさせてしまった事……私はそれを申し訳なく思います」と。その言葉がどれほどオスマンの心に響いたことか。嬉しいと、愛おしいと思った。力足らずの自分を情けないとも思った。その言葉はオスマンが息子の為に全てを賭すには十分過ぎた。



話を戻そう。少しして公爵家の門前へとヴァレリーとカトレアの二人は降り立った。
事前に手紙で知らせていたこともあり、ルイズとエレオノールが出迎え、ルイズは駆けだし、カトレアに抱きついた。カトレアが突然いなくなり、その先で倒れたとあらば心配するのは当たり前だろうし、敬愛する姉だけに殊更である。

それを優しく見つめるエレオノールはヴァレリーに視線を向ける。

「カトレアの容態は?」
「学院に到着した当初は危険な状態でしたが今はすっかり回復されました。申し訳御座いません。今回の事には私に責があります」

深く頭を下げるヴァレリー。

「頭を上げて。あの子を誰よりも心配する貴方が学院に呼び出したとは思ってないし、カトレアも自分の体の事がわからない程、愚かではないわ。何か事情があってのことなのでしょう。まぁ、理由を訊きたい処ではあるけど先ずはお父様達に報告をしないといけないわ」

エレオノールに従いヴァレリーはカトレアと共に公爵夫妻が待つ部屋へと足を運ぶ。その場にはオスマンもおり、その表情は堅い。
カトレアの無事を確認すると夫妻から安堵の息が漏れる。
書面で無事だと言われてもやはり自身の目で確かめるまではなかなか安心できるものでもない。
公爵家の教育は名家とあって厳格なもので、甘やかしては来なかったが、それは子を思うからに他ならず、夫妻が子を愛す親であることは明白な事実である。

「ただいま、戻りました」
「うむ、先ずはお前が無事に帰ってきたことは何よりだ。粗方の説明は既にオスマン老から伺っているがヘルメス、お前の口から改めて説明してもらおうか」

此度のことに当たり、公爵からヴァレリーに何らかの処罰は下ることとなるが、本来公爵のヴァレリーに対する評価はそこまで悪いものではない。むしろ品行方正で、知性溢れる彼には好感を持っている。カトレアにラ・フォンティーヌの地と名を与えたのは不自由な彼女にせめて結婚の自由を与えんが為であり、一応は彼以外に名家の出の息子を勧めてみてはいるが、最終的に相手を選ぶのはカトレアに任せることに決めている。それは詰まるところカトレアがヴァレリーを選ぶのであれば公爵家はそれを認めるということに他ならない。もっとも当主である公爵が家の事を考えるのは当然の責務であるからして他の名家との結び付き、と言うよりもヴァリエールの影響力を直接的に行使できる利を得られない以上、ヴァレリーにはそれ相応の功績を求めるし、その覚悟がなければ前言を撤回し、結婚は許さないであろう。だがしかし、それも最早、過去の話であり、状況は変わってしまった。

「はい。ですが、説明に至ってはルイズとエレオノール様も同席して頂きたいのです。よろしいでしょうか?」
「いいだろう。場所を変える」
「ありがとうございます」

公爵夫妻とオスマンが退室するのに続き、ヴァレリーとカトレアは夫妻に続く。扉の向こうでは事実を未だ知らされていないルイズとエレオノールが心配した面持ちで待っており、彼女らもそれに続く。自身が吸血鬼であることを証明するには先住の力を使って見せるのが一番早いだろうとヴァレリーは考えている。何時使えなくなるかはわからないが現在はまだ使える。味覚も戻っていない。カトレアとヴァレリー、その歩みに迷いはなく、凛としたものであったのは二人の覚悟の成せるものであろう。

部屋を変え、上座の椅子に腰を落ち着けた公爵の後ろに夫人とルイズ、エレオノールが並ぶ。
下座にヴァレリーが腰を据え、その後ろにカトレアとオスマンが佇む。


「では話を聞こう。言っておくが嘘を語ろうものならその首は無いものと思え」

オスマンと公爵以外の面々は結婚に関する話なのだろうと個々に予想するがそれでは何故、カトレアが命を賭けて学院に向かったのか説明には不十分であるからして皆一様に真相を知りたがっている。

ヴァレリーは一つ深く呼吸すると口を開く。

「先ずはカトレア様が学院に来ることになったのは私のせいです。申し訳ございません。深く御詫び申し上げます」

深々と頭を下げるヴァレリー。

「話を続けよ」
「はい。私は幼きころよりずっとカトレア様をお慕いしております。叶うことなら将来は正式に結婚をしたいとも思っております。そしてカトレア様が同じ気持ちを抱いていてくれたのは何よりの喜びでした。ですが私は先日、公爵家にお邪魔した際にカトレア様に別れを告げました。結婚は出来ない、してはならないと……」
「ヴァレリー、それは身分の事を言っているの?」

困惑を示したのはルイズである。
ルイズはヴァレリーがカトレアとの結婚を望んでいるいるのを知っているし、大貴族と下級貴族の身分の違いはあるけれど、そこで諦める男ではないことも知っている。結婚を望んでいてどうして別れ話が出るのか納得がいかない。

それに答えるようにヴァレリーは首を横に振る。

「じゃぁ、どうして!?してはならないってどういう意味なの!?」

ヴァレリーの生い立ちを未だ知らないルイズを始め、公爵家の者にはもっともな疑問だろう。

「私は……普通の人間ではないのです」
「は?何を言っているの?貴方が人間以外の何だっていうのよ」

そこでヴァレリーは魔法の媒体である指輪を外し、テーブルに置くと懐から小さな袋を取りだした。袋の中には小麦の種子が入っている。

「指輪は私の魔法の媒体です。これがなければ私は系統魔法を使えません。そして此方は一切細工していない唯の小麦の種子です」
「それが何だっていうのよ!?冗談かましてる場合じゃないでしょ!?」
「ルイズ。少し黙っていなさい。さもなくば部屋から出なさい」

訳がわからないと混乱するルイズを諌めるのはエレオノールである。
彼女もヴァレリーが何をしようとしているのかはわからないが、ヴァレリーがこの場で意味のないことをするとは思わないし、話の腰を折ることで進展を見せるなどとは猶のこと思わない。

「見ていてください」

ヴァレリーがそう言ってテーブルに置かれた種子に手をかざす。

「共に在りし力よ、集いて分け与えよ」

ルーンではなく、口語の詠唱。ヴァレリー以外にはわからないが次第にかざした手、延いては種子に先住の力が集まる。そして今度は誰から見ても如実な変化を来たす。種子が芽吹き、成長を始めたのだ。袋から顔を出した幾つもの若葉はやがて青々とした葉に変わり、次第に大きくなり、ついには稲穂を形成する。

「これって……」

系統魔法は個別のスペルを唱えることで発現させる。口語によるコモン・マジックもあるが植物の生育を劇的に早めるような魔法は確認されていない。そもそも、魔法の媒体なしではコモン・マジックすら行使できない。しかし、目の前で起きた事象は魔法によるものとしか言いようがない。自ずから答えは導かれるだろう。ハルケギニアには二つの性質が異なる魔法が存在するのだから。一つはメイジが使う系統魔法。そしてもう一つは―――

「先住魔法……?」

ルイズが答えを口にする。
メイジは先住魔法を使えない。使えるのは人ならざる者の一部。ならば先住魔法が使えるヴァレリーは人ならざる者ということになる。だが、同時に人ならざる者に系統魔法は使えない。ならば系統魔法が使えるヴァレリーは人なのであろうか?

「ヘルメス、答えを聞こう」

核心に迫る問いをしたのはヴァリエール公爵。
そしてヴァレリーは問いに答える。

「私は……人と吸血鬼の混血です」

ルイズとエレオノールはその事実に驚くが夫妻は努めて冷静に徹する。
公爵の鋭い眼がヴァレリーを射抜く。
対するヴァレリーも公爵から一切視線を逸らさない。

「ならば重ねて問おう。お前は人を食らい今まで生きて来たのか?」
「いいえ、私は人を食らったことはありません。ですが今までに一度、血を吸ったことがあります。私の場合、先住の力を使うにあたり、人の血を必要とします。一度目は学院にてカトレア様の薬に先住の力を付与する為にこれを行いました」
「では、次の問いだ。お前はカトレアに自身の身分を隠し近づいたのか?」
「いいえ、私はこの夏に自身の真実を知りました。その結果としてカトレア様に別れを告げました」
「そうか……。お前の判断は正しい。事実を知った今、当家はお前とカトレアとの結婚は認めない。十年来の誼だ、私達はお前の身の上を口外しないと誓おう。本件に対して当家は今後お前の領内の立ち入り、及びカトレアとの面会を禁じるものとし、また先住の力を使った薬の研究についてその任を命ずる。その際のオスマン老やお前への危険について当家は一切の保護をしない。カトレアについてはヘルメス以外の者との結婚、またはラ・フォンティーヌ領の没収を命じ、足となったヒポグリフは処分するものとする。以上が私の決定である―――が、お前にも言い分があることだろう。申してみよ」

公爵は一度オスマンを見やるとヴァレリーに発言を促した。
オスマンは一礼し、ヴァレリーは床に膝を付くと低頭で公爵へ己の言い分を述べる。

「確かに私は一度カトレア様に別れを告げました。私のせいでヴァリエール家の皆様に甚大な迷惑をお掛けするだろうことは理解しています。しかし!身勝手な言い分であることを承知のうえで申し上げます!今すぐ結婚を認めろとなどとは言いません。此度の事に対する処分も受けましょう。ですが、私はこれから王家に仕え、事を成し、吸血鬼の血をもってしても国に認められる存在となってみせます!ですからどうかその時は結婚を許して頂きたい!カトレア様は命を賭してまで私を愛していると伝えに来て下さりました!私はそれに報いたいのです!」

「世迷言を。その血を以て国に認められるなどとよく言えたものだな。お前とて世の理がわからぬわけではないであろうに」
「困難ではありましょう。ですが出来ない事ではありません。トリステインの現状においてマザリーニ卿が国政の大半を執り行っております。卿なくしてトリステインという国は回りませんから彼を失う訳にはいきません。私は卿のような立場となり、吸血鬼であると公表しても欠くことが出来ない程に有益であると示します!」

「なるほど、だがどうだ、お前がそういった人物になれる確証などないではないか?」
「ですが、なれない確証もまたございません!」

「いいだろう、仮になれたとしよう。だがそれまでにどれだけの時間を費やす?まさか、一朝一夕で事を成せるとでも?そうではないだろう。何故わざわざお前の出世を待たねばならない?」
「それはカトレア様を一番に幸せに出来るのは私を於いて他にいないからです!!」
「なっ、貴様……ッ!!」

公爵がヴァレリーの胸ぐらを掴み、手荒に立たせる。

「自惚れるのも大概にしろ、小僧。幸せにできるだと!?国に認められる存在になる!?貴様にそれが出来ようか!?」
「出来ますとも!!カトレア様を幸せにする為なら私は何だって出来る!何にだってなれる!!」

歳を取り、衰えたとは思えない力で公爵はヴァレリーを殴り倒す。
倒れた先の堅い石壁に背中を強打したヴァレリーは肺の空気を吐き出し、一寸息が止まる。
口の端に血を滲ませながらもヴァレリーは一切、公爵から視線を逸らさない。
どちらもカトレアを大切に思っている。
だからこそお互いに譲れない。

「もう一度言ってみろ。その都度貴様を打ち据えてやる」
「何度でも言いましょう!カトレア様は私の妻になるお人です!私が!私だけがカトレア様を真に幸せに出来るのです!」

公爵が杖を抜き、ヴァレリーに対し横薙ぎに水鞭を振るう。
避けることも叶わず、否、もとより全ての責め苦を受け入れんとするヴァレリーは避けようともせず、その身に受ける。感情の昂りは魔法の威力を上げる。唯でさえ強力な公爵の放つ魔法がより強大に変わりて肉を打つ。耳障りな鞭の音と共にわき腹の肉が裂け、それどころか肋骨まで砕く。勢いのまま再び壁に強かに打ちつけられ、ずるりとその身が崩れ落ちる。しかし、例え体が如何に傷つこうとも、ヴァレリーの瞳に宿る純然たる意志の炎は決して消えることは無く、心に携えた剣が折れることはない。


果してそれは何度目か、公爵が再び杖を振り、ヴァレリーを打ちすえる。骨が砕ける不快な音とそれに堪える呻き声。

「お父様!もう止めてください!!ヴァレリーが……!ヴァレリーが死んじゃう!!」

ルイズが涙を流しながら訴えても公爵が振るう魔法が止むことは無く、エレオノールが魔法でヴァレリーを守ろうとすると夫人がそれを止めた。

「お母様!どうしてですか!?このままじゃ……本当に!」

まさか、この惨たらしい仕打ちが妥当だと思っているのかとエレオノールが夫人に問いただす。

「私達が出過ぎた真似をしてはなりません」
「彼が死ぬのを見過ごせと言うのですか!?」

エレオノールもルイズも短く答えた夫人の言葉の意味が分らない。
何故、助けようとするのが邪魔なのか?
このままでは間違いなく死んでしまうというのに。
義憤を感じずにはいられなかった。
夫人が言葉を加える。

「二人は何故、彼の父親であるオスマン老やカトレアが愛する者が傷つくのを見て何も言わないと?」

二人がカトレアを見やる。
その顔は自分達よりも遥かに辛そうで、大粒の涙を流していた。
しかし、それでもカトレアは傷つくヴァレリーから目を逸らさない。
ヴァレリーの願いはカトレアの願いだ。
それを貫こうと、もがくのがヴァレリーならばカトレアはそれを見届けるのが役目なのだ。
ヴァリエール家へ向かう途中で交わした約束はそういう意味なのだ。
オスマンにしても口を真一文字に結び、ヴァレリーが本意を貫くことを決して邪魔立てしない。
命を賭けての主張だからこそその言葉に覚悟の強さが表れる。
他人に守られながらの言葉に如何程の重さがあるのだろうか?
夫人の言葉はそういう意味である。

「あの者は願いを諦めていないし、二人もあの者を信じ、諦めていない。命を賭けるほどの意志を尊重するならば、このままだと死ぬからという理由で手を出していいものではないのですよ」

今一度、壁に叩きつけられたヴァレリーは無惨なものだった。
美しかった銀色の髪は血で染まり、顔にへばり付き、腕はあらぬ方向へ曲がっている。
裂傷や痣の数は数え切れないほどでボロボロになった服には血が滲み、その身を横たえる床には赤黒い染みを作っている。

「どうした小僧。大言壮語を吐いておいて、貴様は一人で立つことも出来ないのか?」
「ぐっ……。立て…ま……す!」

今にも崩れ落ちそうになる重い体を震える足でなんとか支え、彼は立ち上がる。視界は血で赤く染まり、腕は曲がったままだらしなく垂れている。自身の呼吸が耳障りなほど大きく聞こえ、凍えそうな程に寒気を感じる。死が近いのだろうと自覚するには十分で、滴り落ちる血の一滴は彼の命そのものと言えた。だが、どうだろうか。その瞳の奥の炎のなんと強いことか。その輝きのなんと美しいことか!
公爵は知っている。眼前の若人の瞳がどういった類のものかを。それはまだ公爵がヴァリエールの当主でなかった頃、王家に仕え、その杖を振るっていた頃。何度も修羅場を切り抜けてきた。だからこそわかるのだ。彼の瞳は死地に赴き、猶活路を見出そうとする勇敢なる強者のそれであることを。そしてまた公爵は知っている。この手の輩のなんと面倒なことかを。

杖が纏っていた水鞭が消えると公爵はブレイドの呪文を唱えた。
魔力によって形成された蒼白い刀身が輝き、ヴァレリーの首筋に当てられる。

「放っておいても貴様は死ぬであろうが、直ぐに楽になりたいと言うのであればその首、ここで叩き落としてやろう」
「それ……は、御免、蒙りたい、ですね。カトレア、様を、幸せに、出来なくなって、しまうのは、困ります……から」

この状況に於いて猶、その台詞を口に出来る者の覚悟たるやどれほどのものであろうか。

「つくづく気に食わんな」

公爵は杖を振るう。

「―――が、見事であった」

その言葉は恐らく他の者には聞こえなかったことだろう。
もしかするとヴァレリーにも聞こえなかったかもしれない。

振るわれた杖、ヴァレリーは一度大きな衝撃を感じ、意識を暗闇へと手放した。



前後左右の感覚はなく、ただ大きな流れの中を漂うようであり、意識は霞掛かり、四肢の感覚は希薄。
これが死後の世界であるならば余りにもつまらないものだと散漫した思考ながらに思うのは、恐らく現世に於いて彩られた数々の事象を今も猶強く望んでいるからであろう。

―――起きなくては

何故に?

―――成せねばならぬことがあるのだ

誰が為に?

―――私を待っていてくれるお人がいるのだから。


瞼を開き、些か眩しいと感じたのは燭台の灯。
なんだか騒がしいと思ったのは二人の女性が目を腫らして泣いているからか。
自身の首に触れる。今度は感覚がある。どうやらちゃんと繋がっているようだ。

―――当然だろう、阿呆か私は。

生きているからこそ思考が出来る。物が見れる、感じられる。
首が胴とおさらばしていてそれは叶わない。
恐らく公爵は刃ではなく刀身で平打ちしたのだろう。

「どうも、心配をかけてしまったようで」

ヴァレリーが寝かされていたベットの脇に座っていたルイズとエレオノールが安堵の息を漏らす。
二人の心境とは裏腹にヴァレリーはおっとりと普段通りの様子であるが、正直なところ、血が抜け過ぎて頭がぼんやりとしているのが現状である。若干、体が引きつるが外傷は悉く癒え、砕けた骨も治癒の魔法で修復されているようで体を起こすと調子を確かめる。手当にあたり体を拭かれ、着替えさせられたのだろう、髪が血に汚れていないし、壁にはズタボロで血みどろな自分の衣服が掛けられている。それを見て内心、死ななくて良かったと改めて胸を撫で下ろす。死んでしまってはカトレアと一緒になることはどうあっても叶わない。今は代わりにガウンを纏っているのだが流石に着て来た服はもう着れないだろう。

公爵家に到着したのは朝方であったが、手当を受けたヴァレリーが目を覚ましたのは日が沈みかけた夕暮れの頃。ヴァリエール家の常駐医が「死んでいないのが不思議だ」と言ったくらいに重傷であったが、生き長らえたのは吸血鬼であるが故の生命力の高さからか、死ねない理由があるからか。

「ほんと、ヴァリエールの三姉妹を全員泣かせるなんて……どうしようもない男だわ」

怒りながら泣くという器用な真似をするルイズ。

「いや、なんて言ったらいいか。ありがたいというか、申し訳ないというか」
「そもそも、どうして今の今まで言ってくれなかったのです?先日の滞在の時なんか、何事もなかったように笑って。私達はそんなに信用できないのかしら?だとしたら心外ですわ」

エレオノールもまた然り。ただ、ルイズよりも怒っているように見受けられる。カトレアがヴァレリーの真実を知ったのが先日の滞在でのこと。その際の公爵家へ向かう道中、面と向き合って一緒にいて、何も気付けなかった自分に対する怒りも含まれているのかもしれない。

「勿論、追々話すつもりでした。ルイズもエレオノール様も私にとって大切な人ですから。ただ、あの時は本当にカトレア様を諦めると決めていましたので……。最後の滞在ならば笑顔でいようと思ったのです」

件のカトレアであるが見舞いに来ることが許されなかった。恐らくは今回のことに対しての処分として謹慎に服しているだろう。もっとも病故に動き回れないからして謹慎処分という名ではあるものの、事実上、ただ単にヴァレリーとの面会の禁止の意であろうが。

その後、カトレアのことや、ヴァレリーの生まれについて個別具体的に三人で話した。公爵に滅多打ちにされてしまいヴァレリーが吸血鬼であることについて印象が薄れてしまったが改めてルイズとエレオノールがどう思っているのか訊いてみる。本来、ヴァレリー自体が異端であるので敬虔なブリミル教徒であればそれだけで嫌悪感を懐いても仕方がないものである。

して、その答えであるが、ヴァレリーの頬がつねられたことを以てその回答とする。
右の頬をルイズが、左の頬をエレオノールが思いっきり引っ張る。

「い、いたい、痛い!!な、なんなのですか!?」

「言わせんな、馬鹿」とか「つねられる理由がホントに分からないのか、スカポンタン」などという視線がヴァレリー刺さる。看病してくれて、目が覚めるまで傍にいて、尚且つ、涙まで流す程に心配していた二人なのだから答えは分かっているようなものではある。対して「血の抜けすぎで頭がうまく働かなかった」とはヴァレリーの言い訳である。

どうでもいい事だが息の合った二人を見て、将来はカトレアのような女性を目標にしているルイズであるが、先ず間違いなくエレオノールのような女性になるだろうとヴァレリーは再確認するに至った。

公爵が訪れたのはそれから少ししてのこと。

「これ以上の仕打ちをなされるのであれば私はお父様を軽蔑致します!」

ヴァレリーに近づこうとする公爵の行く手を阻んだのはルイズである。
ルイズにはわからなかった。何故、ヴァレリーがあれほどの仕打ちを受けねばならなかったのか?
逆らうこともしない相手を痛めつけるのが果して高貴なる者のすることなのか?

ルイズを制したのは公爵ではなく、ヴァレリーであった。

「ありがとう、ルイズ。でも大丈夫だよ。私はあの場で私の覚悟を示せたと思っているんだ。あの場にはそういった意味があったんだよ。だから同じようなことにはならないさ。どうか公爵と二人で話す機会を私にくれないかい、ルイズ?」
「ヴァレリー……。本当にもうあのような仕打ちはしないと誓って頂けますか、お父様?」

深く頷いた公爵を見て渋々といった面持ちのルイズはエレオノールと共に部屋を出る。
部屋にはヴァレリーとヴァリエール公爵の二人。
失礼にあたるだろうとベットから出ようとしたヴァレリーを制し、口火を切ったのは公爵である。

「私とは違って、よくもまぁ、うちの娘達に好かれたものだな」
「公爵は娘に好かれていないと?まさか。そんなことはないでしょう」
「何故そうだと言える?」

椅子を引き、腰かけると公爵は訊く。

「私もカトレア様も、エレオノール様も公爵のお立場を理解できぬほどに子供ではありません。当主として、父親として守らねばならぬ物がおありになることを私達はわかっております。それを見過ごし非難など出来るはずもありません。ルイズもきっとわかる時が来ます。いや、本当はわかっているのです。だからこそ、私はこうして公爵とお話しすることが出来るのですから」

ヴァレリーの返答に大きくため息を漏らし、憎らしげに公爵は語る。

「貴様は本当に腹立たしいやつだな。己の非力さが目について敵わんわ。トリステイン一の大貴族ともあろうに娘一人の病も治せず、せめてもと与えた結婚の自由も満足にさせてやれない。さて、今ここで改めて此度の処遇について伝えよう。当家は今後3年間はお前とカトレアとの面会を禁じるが、お前が吸血鬼の血を以てしても世に認められるのであればこれはその範疇にないものとする。結婚についても同じ旨とし、お前次第で許可するものとする。尚、当家はお前の素性については知らぬものとし、大凡一般的な支援はするが当家の被る損害が著しいと判断した場合は容赦なくお前を見捨てる。カトレアの治療法の模索については強要はしない。お前に任せよう。以上だ。……卑怯だと思うか?」
「至極当然の処置です。私のせいでヴァリエール家が貶められるのは私も本意ではありません。寛大な処遇、感謝致します」
「そうか……貴様のような者を息子に持てたこと、オスマン老はさぞや誇りに思っていることだろうな」

それは公爵の最大級の賛辞であろう。
事は伝えたとばかりに公爵は立ち上がり、ヴァレリーに背を向ける。

「それと……言えた義理ではないがヘルメスよ。精々誰よりも速く駆け上り、トリステインに、いやこのハルケギニアにその名を轟かせてみせよ。そして一秒でも早くあの子を迎えに行ってやれ」

去り際に残した公爵の言葉を受け、ヴァレリーは深く扉の向こうへと頭を下げた。



それから少しして、ヴァレリーは身仕度を整える。まさかガウンで帰る訳にも、血塗れの服を着る訳にもいかないので奉公人のシャツとズボンを着させてもらった。公爵家の門前、見送りにきたルイズとエレオノールに別れの挨拶を済ませ、一度カトレアの部屋がある方へと顔を向ける。会いに行くことは出来ずともカトレアはそこからヴァレリーを見送っていた。窓辺に佇むカトレアは首から下げたペンダントを握り、ヴァレリーもまた、カトレアと同じくペンダントを握りる。既に夜も深い。故に日の出は近いだろう。

―――カトレア様、必ず貴女を迎えに参ります。

―――信じているわ、ヴァレリー。ずっと貴方を待っているから。


二人は今この時の別れが再会と幸せに繋がる道であることを信じて止まない。









――――――――

あとがき的なもの

読んで頂いている皆様には感謝を。
コメントを頂いた方々には更なる感謝を。
季節の変わり目には毎度毎度、鼻風邪をひいております。
皆さんは如何お過ごしでしょうか、御機嫌ようlilyです。

さて、明確に形として分けることはしないのですが、ここまでが前篇もとい序章の位置付けとなっております。
前半は殊更美しくて温かい物が書きたい!との念があったのですか難しいものです。
といいますかこの回だけ詰め込みすぎた感が否めない。
二つに分けたほうが読みやすいでしょうか?
そもそもお前は一つの「」にどんだけ書くんだよ!って話かもしれませんね。

今後の展望についてですが多少原作とは異なってくることをご了承ください。
特にアルビオンは雪国設定となっております。
夜間艦砲戦が描きたい!決死の照明弾を打つ竜騎兵とか描きたい!雪原戦が描きたい!
などなど妄想ばかりが先走っている今日この頃。
プロット的にそういったお話ではないのですけどね。

学院でやり残したことを書き終えたら主人公の拠点が学院から王宮へと移行します。
宮廷貴族生活なわけですが、それに伴い学院は主人公らしからぬ自主退学。
登場キャラの頻度もそれに由ってきます。マザリーニやアニエスが多いかと。

因みにこのお話は武者小路実篤の一冊を題材と言いますかテーマとしていなくもないです。


ご意見ご感想頂ければ嬉しいです。



[34596] 013
Name: lily◆ae117856 ID:ccc88b49
Date: 2012/12/28 20:06
未だ暑さが残る第九の月である、ラドの月。
秋の夜と男の心は七度変わるとは言うけれど、彼の心はそれにあらず、寄り添い合うような二つの月を見上げれば自然と彼地の人が恋しく思われ、その地は踏み難くとも文を認めるは容易く、つらつらと筆を走らせる。文を書きたるは水花の二つ名を持つ、齢十七の青年、ヴァレリー・ヘルメスその人であり、送り先は言わずもがな最愛の人、カトレアである。

季節の結びで締めくくり、一読して語句の乱れが無いかを確認するとインクを乾かす為に暫しの間を置く。

「んぅ……うわっとと」

いつの間にか夜も深くなり、凝り固まった体をぐっと伸ばすと机に平積みされた本が崩れそうになる。

最近は部屋の本がより一層増えた。というのも国に認められるにはひたすらに優秀でなくてはいけず、魔法薬学においては既に優秀ではあるもののヴァレリーが目指すのは国付き薬師などではなく、宰相か、それに匹敵する国営を担う存在である。であるからして身に付けなくてはいけない知識を得なくてはならない。無知な者がことに及んでも悲惨な結果しか残せないのは世の常であろう。

現在のトリステインにとって有益性を示すのならば、利潤を上げるのが分りやすい手だとは分かっていても国の規模で何が可能で、どんな制約を受けるのかも覚束ない。ならばと先人達の知恵と経験によって出来た経済学や財政学、農政、法律といった理論書を解くことはなんら不思議なことではないだろう。読み物としてはそういった種の本も今までに読んで来たが魔法薬学と違い、興味が浅かった故に知識も浅い。正直に言ってしまえば将来、職に就くとしたならば薬学の研究職辺りだろうと自分でも予想していただけに、政治の道にどっぷり浸かることになろうとはヴァレリー自身思ってはいなかった。公爵家から戻った後のヴァレリーは弛まず知識の吸収に励んでいる。勿論、全てが書物の引用でうまくいくなどとは思わないが今までの在り方であったり、基礎的な知識を得るには書は大いに役に立つことだろう。


さて、ここで一度ヴァレリーが公爵家から戻った後を振り返り、話を進めたい。
それは夏の長期休暇が終わり、学院に生徒達が戻って来た頃の話である。

ヴァレリーにとってギ―シュという存在は一番の男友達であり、時間としては一年にも満たない付き合いながら、最早親友と言っても過言ではない。だからこそヴァレリーはギ―シュと一席設け、この夏に何があり、どうなったかを全て話した。当然、ギ―シュがそれらのことを今まで知る由もなかったのだから大層、驚いた。
しかし、当初こそ驚けど、事も無げにギ―シュは言ってみせた。

「君が宰相になるんだったら、僕は陸軍元帥になろう」

グラスを傾けながらのその言葉は明日の予定を語るくらいの気軽さだった。

「いや、私は真面目に話しているんだぞ?」
「失礼なやつだな。僕だっておお真面目さ」

酔うほど飲んではいないはずなのだが、如何せん、ひょろりと言うものだから信じていいのか迷うのである。
そんな疑いの目を持つヴァレリーに対してギ―シュは言う。

「あのさぁ、ヴァレリー。君が正直に話をしてくれたことを僕は嬉しく思っているんだ。だって、それは君が僕を親友だと思っていてくれてる明確な証拠だろ?君が文の頂点に立とうと言うのなら、その一番の友である僕が並び立とうとすることの何処に不思議がある?今の僕はへなちょこだ。だけど、陸軍元帥の子である僕にも少しくらいは資質があるはずだ。出来ない事じゃない。トリステインを支える二大支柱、ヘルメスとグラモン……。想像してもみてくれ、最高にカッコイイじゃないか!」

ヴァレリーの顔から自然と笑みがこぼれる。
「わくわくしちゃうね!きっとモテモテだろうね!」などと瞳を輝かせている目の前の男が親友で良かったと心から思える。

「ふっ、そうだな。最高にカッコイイよ。しかも向かう処、敵無しだ。歴史に名を刻む名士に絶対なるだろうな」
「当然さ。僕たちの手で築く新時代!蓮華のように美しく、薔薇のように情熱的な時代!夜空に瞬くどの星よりも僕らは輝くのさ!」

並び立とうとしてくれる友がいること。
それを素直に嬉しいと感じた。そして、そのことがこれ程までに自分に勇気をくれるとは思わなかった。

「まぁ、僕の方が先に元帥になるけどな」
「いや、私の方が先に宰相になるね」

対抗する言葉とは裏腹に二人とも楽しくて仕方がない。
将来を語れる友はその者の人生における素晴らしき宝と言える。

「さて、どちらが先かは一先ず置いておいて、グラスが空いてしまったな」

ヴァレリーは棚から新しいグラスを三つ取るとそれを机に並べる。

「ん?三つ?誰か来るのか……って、あぁ」

一寸、疑問に思ったもののヴァレリーの視線の先を追い、直ぐにその理由がわかったギ―シュ。
窓辺の向こうを見ると隠れきれていないピンクブロンドの頭がちょこっと出ている。

「ギ―シュは何がいい?」
「僕は普通に赤かなぁ~」
「ルイズは?」
「……ポワレ」

自分としては完全に隠れていたつもりのルイズが一寸の間を置いて窓の向こうから答える。
因みにポワレとは洋梨酒の一種である。

部屋のドアを開け、ルイズを招けば、こっそり見守るつもりが見つかってしまい気恥ずかしいのだろう、僅かに頬を朱に染め、どこかたどたどしいルイズである。

「なによ」
「いや、私は良い友に恵まれたなっと思っただけさ」
「な、なんだかむず痒いわね。でも悪い気はしないわ。それにね、恵まれたってのは少し違うと思うわ。貴方が貴方だったからこそ、私達は友達でありたいと思った。つまりは貴方自身に人を引き付ける魅力があったのよ。言うなれば必然ってやつね」
「なるほど、確かにむず痒い。だが……ふむ、悪い気はしない」
「ふふ、そうでしょ?」

面と向かって素直に相手に感謝をしたり、良い処を指摘するのは思いのほか気恥ずかしい。けれどそれを口に出して相手に伝えることは人と人とを結びつけるうえでの大きな助けとなるに違いない。言葉というものの力は強い。力であれば使う者によって辛辣な凶器にもなり得るが、それはまた使う者によってはとても温かく、心を満たす物にもなり得るものだろう。


さて、ルイズを加えて3人でグラスを傾ける。
話題はどうやってヴァレリーが宰相の類までの階段を駆けるかだ。
ルイズは言わずと知れた大貴族であるし、ギ―シュも古くからの名門ではあるが学生である二人がどうすれば宮中で躍進できるかなどは流石に明るくない。ヴァレリーにしても大概ではあるが、一応の参段は用意している。

「今すぐというわけではないが、ある程度学習の区切りが付いたらマザリーニ卿の直下として働かせてもらえないかと思っているんだ」

王宮に使えようとする者は本来ならば学院を卒業し、その後、然るべき采配で各部署に配属されるものだがそれをヴァレリーは良しとしない。それでは時間がかかり過ぎるからだ。カトレアとの約束を果たすべく奔走するヴァレリーは立ち止まるどころか、歩を緩める暇すらない。マザリーニの直属の部下として働くことは政治の世界で活躍しようとするヴァレリーにとっては一番の近道となる。下手な官職に就くよりもずっと間近で卿の仕事を学べ、また、間近故に自身の仕事ぶり次第で卿の憶えをよく出来るからだ。下世話な話かもしれないが立身出世を考えるにあたり、やはり強い後ろ盾の存在は大きい。それが人事を握るマザリーニ卿であったり、王女であれば殊更であろう。

「そうか、でも学院はどうするんだ?辞めてしまうのかい?」

その旨を伝えたヴァレリーにギ―シュが問う。

「うむ、皆と一緒に卒業出来ないのは非常に残念ではあるが……」

眉を下げて儚げな笑みを浮かべるヴァレリー。
続けてルイズが口を開く。

「勿論、私達だって皆で一緒に卒業したいと思っているわ。でも貴方が決めたのなら私達は異を唱えない。学院と宮使え、魔法薬学の講師の仕事、そりゃぁ、貴方は器用になんでもこなすけど、限度っていうものがあるもの。正直、全てに手が回るとは思えないし、仮に出来たとしてもそのうち必ず無理がくる。貴方が倒れたら私も……そして他でもない、ちぃ姉さまが悲しむわ」

幼い頃からの馴染みの男子、ヴァリエールの娘にとって、ヴァレリーという者が与える心の安らぎが如何程のものであるかをルイズも自覚している。学院で一緒に居られなくなることを素直に寂しいとは思うけれども、だからといって引き留めておくことは違うだろうとルイズ。

「ルイズ……。まぁ、どの道、倒れるくらい仕事をしなくてはいけないんだけどね」
「もう、だから倒れたら駄目なんだってば」

腰に手を当てて頬を膨らませるルイズにヴァレリーは笑顔で言う。

「ふふ、なんとか上手くやるさ。なに、ルイズも手伝ってくれるのだろう?なら、大丈夫だろうさ」
「はぁ、頼ってくれるのは嬉しいけど、あまり期待されても大したことは出来ないからね?まぁ、疲れて帰って来た貴方に膝枕くらいはしてあげるわ。小さな頃にエレオノール姉さまがやっていたようにね」
「むむ、不肖ヴァレリー・ヘルメス、俄然やる気が出てきましたぞ」
「ば~か、因みに一回につきクックベリーパイ1ホールね」
「おいおい、そこは善意でやって欲しいんだが」

などとルイズと冗談を言っていると不意にギーシュが椅子を鳴らし立ち上がった。
そして声を高らかに宣言する。

「よし決めた!ヴァレリー、決闘しよう!!」
「「はい?」」

いきなり何を言い出すのかとルイズとヴァレリーの両名が首を傾げる。

「何?そんなに膝枕が羨ましかったの?一回20エキューでならしてあげるわよ?」
「高いよ!暴利を貪り過ぎだ!そうじゃなくてさ、えぇっと、正確に言えば何か揉め事があるわけじゃないから決闘ではないが兎に角、ヴァレリー!一戦、杖を交えよう!」
「いやいや、理由もなしに了承しかねるぞ。君の中で一体何だって急にそんな運びになったんだ?」

ヴァレリーは当然、戦闘狂でもなしにいきなり「戦いましょう」と来て「喜んで」なんて返答はしない。ギーシュが言葉を省き過ぎたせいが多分にあるが仲が良くてもこの時ばかりはギーシュの意図が皆目見当が付かぬヴァレリーである。

「僕は考えたんだ。友である君が目標に向かい確実に一歩を踏み出し始めた。僕は陸軍元帥になると言った。それは嘘じゃない。だから僕も一歩踏み出さなくてはいけないと。目標は美しく、強く、そして美しい元帥になることさ。でも僕だって物の道理を解さぬほど愚かではないつもりだ。火竜山脈の彼方ばかりを見ていては思わぬところで躓いてしまう。それに文人に武人が敗けていてはカッコが悪い。先ずは君を越えるのを目標にして僕は強くなる!その為には今の実力差を知らないことには始まらない。彼を知り己を知らんとするのは戦の常道だからね」

勇むギ―シュ。
美しくを二回言ってしまっているがそこは譲れないのだろう。
ヴァレリーにしてもこの理由とあらば無下に断る事など出来ない。

「なるほど、そういうことなら喜んで相手になろう。いつにしようか?流石に今直ぐにではないんだろう?」
「明後日にしよう。魔法の腕は上げられないが戦い方ぐらいは考えられるだろうからね。構わないかい?」
「あいわかった。当然だが手加減なんてしないからな?」
「当たり前さ。された方が困る。そうと決まればこうしちゃいられない!ヴァレリー、油断していると痛い目見るから気を付けろよ!では!」

グラスのワインを一気に呷るとマントを翻し、意気揚々と部屋を後にするギーシュ。

「張り切ってるわね。さて、キリがいいし私も戻るわ。魔法の練習に勉強に、将来のことはまだ決めてないけど、私も取り残されないように頑張らなくちゃね。それじゃ」

続いてルイズもグラスを呷ると部屋を後にする。
『切磋琢磨』
触発し合い、自身を高めんとする彼らには正しくそんな言葉が似合う。



翌々日は残暑並びに照る太陽。
今一度夏の盛りに戻ってしまったのではと思わせる快晴の空であった。
どかっと倒れ込み、大きく四肢を投げ出し、荒い息を整えるのはギ―シュである。

「これで私の10戦10勝だな」
「はぁ、はぁ。もう一戦!っといきたい所だが流石に限界だ。はぁ、もう少し……善戦出来ると思ったんだけどなぁ」

やはりラインとトライアングルという差は大きく、ギ―シュが魔法で操る、彼の二つ名の由来である青銅の戦乙女ワルキューレはヴァレリーの魔法の前に悉く打ち砕かれた。数で押そうとも、近接戦闘に持ち込もうとも流れる水の如く捉えられず、一手たりとも彼に届かない。それでも諦めず、魔力が尽きるその瞬間までギ―シュは決して杖を納めなかった。

「立てるかい?ギ―シュ」
「んや、疲れて立てない。でもいいさ、暫くこうしているよ。さぁ、もう行ってくれ」
「そうか。それでは先に部屋に戻っているよ」

倒れたまま腕をひらひら振り、見送るギーシュ。
素っ気ないやり取りとも思えるかもしれないがそうではない。そうではないのだ。

ヴァレリーがその場を後にして、一人倒れたままのギーシュ。
眩しい日の光りの中で空を行く雲が流れている。

「くっ……うぅ……」

誰が見ている訳ではないが片手で顔を隠す。
負けて悔しいと言えるほど上等な戦いではなかった。
勝つことはもとより、善戦すら出来ず、惨敗の一言に尽きる。
ただ、そうであっても悔しいものは悔しいのだ。
友であっても、いや、友であるからこそ、真剣に戦って手も足も出ない力の差を見せ付けられるのは堪えるものだ。
幸いしてこの晴れた空、濡れた袖も直ぐに乾くことだろう。


一方、一足先に自室に戻ったヴァレリーにキュルケが言う。

「この暑い中、よくやるわね。あぁ、暑い。ヴァレリー、風よ。涼しい風を私に頂戴な」

シャツのボタンを大きく開けて、はたはたと扇ぐキュルケ。

「暑いなら水浴びでもしてくればいいじゃない。というかその忌々しいモノをしまいなさいよ」

見え隠れするキュルケの豊満な胸を親の仇のように睨み付け、憎まれ口を叩きながらもちゃっかり位置取りを変えてヴァレリーの魔法の恩恵に当たるのはルイズ。

「ギーシュはどうしたの?」

ヴァレリーの研究設備を借りて、なにかしらの魔法薬を作りながら訊ねるのはモンモランシー。
ここにギーシュと訳あって学院を離れたタバサを含めての六人が実験室に集まる常連であり、学院に於てヴァレリーの生い立ちを知る面子でもあった。余談となるがテラスで談笑に耽る様は本人達からしてみれば他愛なくだべっているだけなのだが、眉目秀麗とあって他の者からは「華の集い」などと呼称され、一種の羨望の対象となっていたそうな。

「少し休んでからくるそうだ。あぁ、モンモランシー。ギーシュの傷を癒しに行ってやってくれないか?私がやるよりいいだろうからさ」
「ん?別にいいけど私の治癒魔法は貴方ほど強くわないわよ?」
「あれは真剣な勝負だった。それに私とギーシュは男なのさ」
「そりゃそうでしょ?」

ヴァレリーの意図に気付かぬモンモランシーは頭の上に疑問符を浮かべる。
見兼ねたキュルケは溜め息混じりに言う。

「はぁ、男心ってのをもう少し学ばないとモテないわよ、モンモランシー?兎に角行っておやりなさいな。゛傷゛を癒しにね」
「余計なお世話よ!まぁ、なんか癪だけど取り敢えず行ってくるわ」

なんだかんだ言って最近、ギーシュを気にかけているモンモランシーが部屋を出てギーシュのもとへ向かう。

「流石に愛に生きるヴァレリーとあってなかなか見事な手腕ね?」
「別にそういった意味で言った訳ではないのだがなぁ」

キュルケは理解しているのだろうが敢えての物言い。
ルイズは顔ぶりからして恐らくわかっていない。
要するに男とは面子を大切にする生き物なのだとヴァレリーは言いたかったのだ。


所変わってモンモランシーが向かった先。ギーシュは已然として大地に四肢を投げていた。
既に息も整い、袖も乾いたがぽーっとして目を閉じ、そよぐ風を受けている。

「それ!」

すぐ側まで来たのに気付かないギーシュの額にぽんっと冷えた水が入った瓶を置く、モンモランシー。

「うひゃぁ!?」

勢い剰って瓶に凝結した水がギーシュの胸元に落ちる。

「情けない声を出しちゃって。ほら、傷を見せて。治して上げるから」
「あぁ、悪いねモンモランシー。僕は君の優しさに咽び泣きそうだよ」

体を起こし、モンモランシーの治癒魔法を受けるギーシュ。
大きな怪我は無い故に直ぐ様、傷は塞がっていく。

「はいはい、どういたしまして。全く、ほんと馬鹿なんだから。戦わなくても結果は見えていたでしょうに」
「あはは、そうであっても戦うべき時はあるんだよ。それにね、モンモランシー、男とは総じて馬鹿な生き物なんだよ?」
「あんたは馬鹿でもヴァレリーは違うと思うけどね」
「酷いことを言うなぁ。そりゃぁ、あいつは頭はいいが、でもやはり馬鹿さ。言うなれば馬鹿真面目ってやつかな。聞いた話しじゃ皆の迷惑になるからと一度は学院を出ていこうとしたらしいし、結婚の話にしても普通に生活してれば吸血鬼のことなんか分かりはしないのにわざわざ自分から知らせに行く。関わる人を大切に思い、正しくあろうとするのは良いことではあるがヴァレリーは少し自分を犠牲にし過ぎる所がある。僕は思うんだよ、モンモランシー。周りの人を大切に出来る人間は周りの人から大切にされるべきだ。だから僕は元帥になろうと思ったんだ。あいつに負けたくないという気持ちも当然あるさ、でも、元帥になって多くの人を従えるほどの立場と発言力を持てばヴァレリーの進む道を支えることが出来るだろう?ヴァレリーを大切に思う者は多いがこれは一番の友である僕が担うべきだと自負している。その為に僕は強くなる。今回の戦いはその足掛かりだったんだ。まぁ、この様だけどね」

語るギーシュの横顔は普段の軟派なものと違い、何処か大人びていて、凛々しくもあった。
モンモランシーは思わず目を奪われ、最後に見せた照れた笑みが心までも奪う。
それは正しく彼女が恋に落ちた瞬間と言えよう。

「さて、ここは暑い、実験室に涼みに行くとしようか。モンモランシー、ありがとう」

立ち上がり、モンモランシーに手を差しのべるギーシュ。

「え、えぇ。どういたしまして」

意識してしまうと気恥ずかしく、ただ手を取るだけなのに頬が朱に色付く。それを暑さのせいと自分自身を誤魔化しつつも繋がった手が離れる瞬間には些か残念に思ってしまうモンモランシーであった。



さて、時系列が逆となるがヴァレリーが公爵家から戻った後、ギーシュと杖を交える前の話しをしておこう。この頃、ヴァレリーは王宮で働く為に知識を蓄えている真っ最中であったが、何もそれだけをしていたわけではない。自身の力について、即ち先住の力の行使及び吸血鬼の力についての研究もヴァレリーの課題である。ヴァレリーは今まで人としての生しか知らなかった故に自身のことに明るくない。彼にとって一番に重要な事とはやはりカトレアの病状の回復と繋がる先住の力の行使となるが、血を必要とするとだけはわかっているが未知数な所が多い。必要な血の量はどれほどか?いつまで行使を続けることが出来るのか?扱える力の量の最大値はどれほどか?成長はするものなのか?検証するべき事は山積みだ。

今のところヴァレリーの素性が露呈する可能性が最も高いのはこの先住の力の行使であるのは彼自身も大いに理解しているものの、それを理由に検証を断念することは出来ない。カトレアの病への打開策を見つけることはヴァレリーにとっての生涯を懸けての命題に等しいからだ。現状の彼女の病に対して今後の対処の仕方は二通りある。第一に病の根源を解明し、取り除くこと。ただこれが出来るのであれば苦労はしない。既存の系統魔法では病の根源を見つけることは出来ず、先住の力を感じることが出来るヴァレリーに於いても結果を同じくした。第二に病を抑えること、或いは生命力を増す工夫をすることである。原因は解らなくとも体が弱る、生命力を失っていくという結果は解っている以上、その結果を打ち消せばいいとの結論である。薬の処方もそうであるが、ある種、外付けの命とでも言えようか。第一の対処を捨て去るわけではないが、第二を現実的なものとし、其方に傾倒して研究を進めるのが一先ずの吉かと思える。

手法としては従来の内服に加えて「外付けの命」、例えば絶えず持ち主に生命力を与え続ける何かしらの道具の開発といったところか。ヴァレリーが思い浮かべるのは水の精霊の秘宝足るアンドバリの指輪。トリステインとガリアの国境、ラグドリアン湖には水の精霊が住み、その秘宝、アンドバリの指輪は超高純度の水の力の結晶体と云われている。これに、またはこれと同じような物に手を加えて「外付けの命」とすることを思案している。

実際にヴァレリーが試した結果を記すが結論から言えばすべて失敗に終わった。
結晶化と言われて思い浮かべるのは宝石の類。地という外圧によって圧縮されたものであるが同じ発想で水の精霊の涙に先住の力を足しつつ圧縮する。結果は先に言ったように失敗。水を圧力で固体化出来ないのは承知の事だが、先住の力の凝固も見られなかった。今度は既に結晶化されている自身のサファイアの指輪に力を込める。これは一定量の付加を超えるとそれ以上は付加できなくなってしまった。此処までの結果から一つの答えを得る。先の方法にしろ後者の方法にしろ先住の力を媒体に押し込めるやり方なわけだが、その出力が足らないのではないかということだ。吸血鬼の扱う先住の力は決して強いものではないのだ。

他にも異なった手法を幾つか試した。果して先住の力が塩や明礬のような扱いになるのかはさておき、媒体の水の温度を上げて力を込め、その後冷やしてみたり、熱して水分を飛ばしてみたりと。どちらも失敗に終わり、後者の手法の結果、凡そ一瓶700エキューもする水の精霊の涙が消えて無くなったが。試行錯誤の末、水の精霊の涙に先住の力を追加的に付与、氷結させて圧縮、という手法がヴァレリーの構想に最も近いものになった。ただ、融けない氷の生成は出来なくもないが、絶えず生命力を放出し、それを何年、何十年も続けるとなると物が凄まじい大きさと重さになる試算であり、身に着けるなど到底出来るはずもない。生成期間、費用の面で見てもこれならば全て内服の薬の生成に費やした方が先ず間違いなく効果的だ。

並行して調べていた自身の吸血鬼の面は幾つかわかったことがある。
先ずは一度血を吸ってから先住の力が扱える期間。これは大凡五日間、必要とする血の量は最低で試験管、3/5本。血を多く吸えば長く力が扱えるかと思えばそうではなかった。第二に必要とする血は生血であれば問題なく力を行使できるが、出血し、固まってしまった血では反応はなかった。より詳しく調べた結果、血液に凝固防止処置をし、遠心分離機にかけたもの、つまりは血漿が吸血鬼に必要なものだと判明した。ヴァレリーはその範疇にないが吸血鬼は人の汗で一先ずの飢えを凌げると文献にはある、それはこの為であろう。生血にしろ血漿にしろ保存に関しては『固定化』という魔法があるので腐敗することはないが、見た目が変わるわけではないので後者の方が見つかることもなく安全かもしれない。血を見たことがない者は皆無だが、血漿の実物をそれと認識して見たことある者は極一部の研究者くらいなものであろう。

先住の力が扱える間は腹が減るという感覚は薄いが血に対する渇きは常にある。理性で抑えられぬ程ではないが、薬物中毒の症状に近く、血を見ると犬歯が疼く。研究の為にほとんど吸血鬼化しているせいもあるのだろうが、日中は気怠く、味覚は已然として戻らない。普通の食事も消化出来ないわけではないので不自然にならないように口にはするが量を食べると吐き気を催すので最早、食の楽しみは失ったに近い。夜目は殊更利き、血や人の匂いに敏感になった。先住の力の成長や所謂、精霊との契約については現時点では結論を得ていない。


長らくの説明となったが話を進めよう。
それはある晩のこと。研究と勉強に一区切りを付けたヴァレリーは学院本塔の最上階、学院長室にてチェス盤を挟んでオスマンと対座していた。魔法学院を退学する旨と魔法薬学の講師の辞任及び後任の引き継ぎの話をしに来たヴァレリーを「久しぶりに一局」と呼び止めた事の次第である。

「学習のほうはどうじゃ?捗っているかえ?」

駒を前へと進め、オスマンがヴァレリーに訊く。

「そこそこと言ったところでしょうか。考えれば考えるほどに現状の貴族社会の維持と経済の発展との齟齬を感じざるを得ませんが」

ハルケギニア6000年の歴史に於いて王家を中心とした貴族社会は根強いものだ。魔法という力を持つ故に集団の長足りえ、今や土地と金を兼ね備えた支配階級。貴族社会の発展は経済及び政治での重商主義的なものが全面にある。シュモラーに言わせれば重商主義はその真の核心部分では国家形成に他ならないし、ヒックスに言わせれば重商主義は他の国民に及ぼす影響・威信・権力の追及を含むあらゆる種類の国家目的にとっての一つの手段として利用される。

制度的な秩序の下での独占権は確かに王家や諸侯に有利に働いて来た。ヴァレリーも重商主義を支持する立場に身を置くが独占は癒着を、癒着は腐敗を招くことを見逃すことは出来ないと考えているし、貴族社会の維持の為に為される平民への抑制が経済の発展を阻害していることは理解している。しかし、同時に貴族という者が生まれてから現在まで生き続けてこれたのは平民への抑制をしてきた為であることも事実としてある。少数の貴族で支配出来るように人口を抑制し、政治体制への知的な批判をさせない為に学を抑制し、武力を持たせない為に技術を抑制してきた。

税を課し、余暇を奪い蓄財を難しくさせることによる隷属的な支配。それが初期の貴族社会の国家論。これが既に時代遅れのものであることをヴァレリーは意識せざるを得ない。抑制の最中であっても人口は増加し、学を身に着ける者は出てくるし、自分たちの暮らしが少しでも良くなるようにと技術は発展していく。国家としての規模が大きくなるに連れて旧体制との不和は大きくなるばかり。それこそが今のトリステインの現状だ。

国家の収入を増やすには第一にその国民が富まねばならない。しかし、その結果は現状の貴族社会を揺るがすものになり得るのだ。隣国ゲルマニアに目を向ければ金と実力があれば平民でも貴族の地位を取得できるという。貴族の地位を取得させること、つまりは支配階級に内包させることで緩和させてはいるものの、伝統的な貴族社会から資本家社会への移行が見て取れる。それが本来の流れなのかもしれない。国を発展させる手法などそう多くはない。抑制と維持の為に困窮したハルケギニア、殊更トリステインは発展と自由を課題とする。そのような中で安定した支配体系の維持を望むならば『独占と抑制の中での自由の裁量』を行える平衡感覚が現在の王家には必要であり、それが出来る人物になることがヴァレリーの目指すところである。

「そうか。学問に於いて終わりはなく、政治に於いて絶対的な正しさは無いものじゃ。おぬしが思う最善を整えたなら早めに知らせるのじゃぞ。マザリーニ卿は最早仕事中毒の類じゃからのぉ。なかなか面会の機会を設けられんのじゃ」

一介の学生風情が面会を求めたところで宰相に会えることはない。
機会を与えるのはオスマンの役目、その後に直下として働けるかはヴァレリーの言動次第という事となる。

チェスも終盤になり、今回はヴァレリーの優勢。
起死回生の一手が見えず、手を止めたオスマンが口を開く。

「さて、まっこと劣勢。勝ちの目が見えぬときた。ここで一つ、おぬしに問いを投げかけてみようかの」
「はい、どういったものでしょうか?」
「この盤上の手詰まり、このままでは王が討たれてしまうのぉ?」
「そうですね」
「仮にこの局面が現実のものだとしたらおぬしはどう切り抜ける?」
「この状態からですか?」

ヴァレリーは深く思考し手を探すも、窮地に立つ王を救う手立てが見つけられない。
それもそのはずだ。窮地に追いやったのは彼自身、逃げる手が無い様に駒を進めてきたのだから。

「う~ん、盤上に答えは無いように思えますが……。まさか答えが無いというのが答えなんて落ちではないですよね?」
「助言はしないぞぃ」

再度、盤上を見つめ、眉間にしわを寄せて考え直すもやはり手が見つけられない。

―――徹底抗戦で泥仕合は可能だが、局面を覆すには至らない……。むぅ~、どうしたものか。

「どうした?降参かえ?」
「恥ずかしながら手が見つかりません。父上ならどのような手を?」
「わしか?わしならこうするのぉ」

オスマンが駒に手を伸ばす。
動かしたのは火中の王の駒。
その行方を知るや否やヴァレリーは眉を上げる。
オスマンが動かした駒の行方。
それは自分のポケットの中である。

「分かってはいるが納得がいかないといった面持ちじゃの。じゃがしかし、心に留めておくべきじゃ。おぬしは清く正しい道を選ぼうとする。それは誇らしいことじゃ。しかし、その結果、盤上に答えが無いと知りながら盤上を見つめ、何も手を打てぬまま王を死に至らしめた。何も手を打てない、それではどのように考えを巡らせたとしても結果として無能な者と変わらないのじゃ。清い選択が全てに於いて正しいとは限らない。また、相手が清いとは限らない。ヴァレリーや、現実は時に美しく優しいものであり、時に醜悪で無慈悲なものじゃ。上に登り詰めたくばそれを改めて理解しなくてはならん。心を汚せとは自分の息子に言いとうない。されど美しいものばかりを見てはならないぞ」

利己心を肯定したのは古典派の代名詞たるアダム・スミスであったが宮中に於いては肯定しきれぬそれが渦巻く。
オスマンは心配で仕方がないのだ。温かく優しい色彩を持つ絵は垂らされた黒色によって台無しになってしまうことがある。真っ直ぐで堅い剣はそれ故に修復不可能なほどに折れてしまうことがある。オスマンはヴァレリーにはそのような危うさがあると感じている。未だ17歳の我が子の活躍を信じていようとも尽きることのない不安は親心というものだろう。



さて、オスマンからの言葉を心に留め、実験室に戻ったヴァレリーを待っていたのはタバサであった。

「あぁ、タバサ。すまない、父上と今後の話をしていてね。今開けるよ」

扉を開け、タバサを招くとヴァレリーはお茶とお菓子をタバサに用意し、先住の力の検証に使った際の資材や器具、宮仕えの為の勉強用の本などで散らかってしまった部屋をを片付け始める。タバサは椅子に腰かけると何をするわけでもなくヴァレリーを眺めている。

「可愛い子にそんなに見つめられると私としても照れてしまうよ、タバサ」

分厚い書物を本棚に仕舞いながら、どう見ても照れてはいないヴァレリーの台詞である。

「ごめんなさい……」

俯いてしまうタバサを見ると、尚のことどうしたものかと放ってはおけない。

「ふむ、そうだな。何かを言いたそうな、けれど言うべきか迷っている、そんな顔をしているね?まぁ、今日はもう出かけないからゆっくりしていけばいいさ。君が話したくなったらいつでも聞くよ」
「わかるの?」
「まぁ、なんとなくはね」

そう言うとヴァレリーは淡々と魔法薬生成の準備に入る。
注文が書かれた羊皮紙にはびっしりと依頼品の名目が並んでいる。
来月から表だっての魔法薬生成の依頼は受けない旨を問屋に告げたら普段の月の3倍近い依頼をこなす羽目になった事の次第である。
薬師として仕事をし始めて凡そ10年。この界隈では権威とは言えずとも名の売れた薬師の一人となった。『ヴァレリー・ヘルメスの魔法薬』と言えばそれだけで価格が多少吊り上がる。それだけの信頼と実績があった。それもこれで店仕舞いかと思うと感慨深いものがある。材料の選別、下拵え、調合、一つ一つを丁寧かつ手際良くこなし、色鮮やかな小瓶に閉じていく。

依頼品の幾つかを作り終えた頃。
一息ついたヴァレリーにタバサはようやく口を開いた。

「率直に訊きたい。今の貴方が作る薬はどれほどの効果がある?」

タバサが向ける眼差しから、真剣な話をしたいのだろうと窺い知れる。
無表情なタバサにしても気の置けない仲となった今ならそれくらいはヴァレリーにはわかるのだ。
今のヴァレリーが作る薬とは勿論、先住の力を付与しての物のことである。

「扱う種類は?」
「薬によって失われてしまった心を取り戻したい」
「精神作用か。薬を必要としている人との面識は?」
「私の母」
「そうか……。出来れば症状を具体的に知りたい」

頷き、タバサは語る。

「毒を飲まされたのは2年前、それ以来、母はうわ言を繰り返し、常に怯え、その心は休まるところを知らない。出会う人を……私も含めて全ての人を危害を加えにきた輩と思い込んで拒絶している。認識の区別が出来ず、心が閉鎖状態で固定されてしまったんだと思う」
「もう一つ聞きたい。以前に何度か治療を試みたことは?」
「ある。でも治すどころか状態の改善も出来なかった」

そういうとタバサは一枚の羊皮紙を風に乗せ、ヴァレリーに渡す。
それはタバサが母の治療を試みた形跡、どんな薬を使ったかを記したものだ。
受け取った羊皮紙を見ながら、ヴァレリーは治療に使う薬の選別とその効果のほどを考える。

「ふむ、これらの薬と私が作る薬だが……単純な比較なら最低で倍の効果は引き出せるとは思う。少なくとも人が作るものよりは上を行けるだろうから治せる可能性は大いにある。ただ、これらの薬だって別に効果が低いわけじゃない。むしろ相当、上位の薬だと言える。場合によっては……現段階では治せない可能性があることを否定できない」

今まで使われた薬を見たヴァレリーには懸念事項が浮かび上がる。
更なる説明を求め、タバサが促す。

「場合に因ってとは?」
「二つある。一つは君の母君の心が『喪失』されたものなら今は治せない」

ヴァレリーは硝子の瓶を手に取るとそれに魔法をかけて説明し始める。

「心を失わせる薬と単に言っても幾つかに分類される。『歪曲』、『閉鎖』、『破壊』、『喪失』、大まかには4つだね。そもそもこの薬の定義は『正常な心の状態からの変化』。故に以前に私の授業でも扱った増強剤も興奮作用の面では広義の意味で心を失わせる薬の中の『歪曲』に当たるし、禁制の惚れ薬なんかはこれそのものに該当する」

硝子の瓶を捻じ曲げて視覚的な理解を促すヴァレリー。

「自白剤なんかは抵抗する心を抑える故に一般には『閉鎖』の分類だし、特定の感情を欠如させるのは『破壊』の分類に入る。これは硝子を切ったり、砕いたりっといったイメージが近い。しかし、切ったり、砕いたりしたところでその破片は心に残る。時間さえかければ再構築可能だ。そして『喪失』だが……厳密にはこれを他人が意図的にするには相手を殺す以外に方法は無いとされている」

瓶に蓋をし、閉鎖の説明とし、瓶を砕くことで破壊の説明をしてみせたヴァレリーだが、喪失の説明だけは視覚として説明できない。
消えて無くなるという現象を引き起こせないからだ。

「恋が冷める、物事に対する興味が失せるなどが『喪失』だと言われているが、これにしたって根本は自発的なものだ。自発を促す薬という観点からの研究は行われているが少なくとも現段階では『歪曲』の域を出ていない。故にもし君の母君の心が『喪失』されたものなら、それをおこす薬は私達にとって全くの未知な薬ということになる。『喪失』させる薬が今までなかったのだからそれを治す薬も無いし、『喪失』した結果や過程からの逆算は手法を解明しない限り、出来ない。心を零から作る薬は今のところ無いんだ」

可能性として否定は出来ない。
魔法薬学は常に進歩する分野だ。
故に新しい技術が知らぬところで発見され、使われることもあるだろう。
安易に治せるなどと言う事はヴァレリーには出来ない。

「そう……。もう一つは?」
「もう一つは未知の技術という点で同じだが、エルフなどが高度な先住の技術で作った薬の場合だ。君が試した薬なんだが、先程も言ったように相当、上位の薬なんだよ。実を言うと本来なら、言い換えれば人が作った毒ならば病が既に治っていても不思議ではない。いや、それどころか病が改善すらされないことが不思議なくらいだ。だからこそ、私は『喪失』をおこす薬の可能性を否定出来ないし、先住の独自技術も否定できない。そして私は君の母君が飲まされた薬は先住の技術を以てした作られた物である可能性が高いと考えている。どうやって手に入れたかは分からないが、現に私のように先住の力を使って薬を作る者がいるのだから、多くはなくとも他にもいるだろう。手に入れられないものでは無いと言えない」

ヴァレリーが言ったことをタバサは十分理解できた。
きっと母が飲まされた薬は『喪失』をおこす薬か先住の技術のどちらかなのだろうと。
話を聞き終えて俯き、表情を暗くするタバサ。
そのような表情を友であるタバサにさせてしまったのを心苦しく思うヴァレリー。
だからこそ、ヴァレリーは彼女に歩み寄ると膝をつき、目線を同じくして彼女の手をとった。

「あぁ、ごめんよ、タバサ。必要以上に君を不安にさせてしまったようだ。よく聞いておくれ、先程の私の言葉は飽く迄推論に過ぎないし、実際に君の母君を診察してみなければ確証は得られない。それにもし、未知の技術だったとしても、それなら解明すればいいだけさ。自慢じゃないが魔法薬師としてのヴァレリー・ヘルメスは国内では十指に入ると言われている名だ。私にはその自負があるし、国外だろうとそれは変わらない。誰が作った毒だか知らないが、薬に於いて引けを取るつもりはない。なにより、君の笑顔の為に出来ることがあるのなら私はそれを諦めるつもりもない。だからタバサ、どうかそんな悲しそうな顔をしないでおくれ。私は君が素敵な笑顔を持つ女の子であるのを知っているのだから」

微笑んで見せるヴァレリーを暫し見つめ、決心したようにタバサは言う。

「少しここで待っていて。話したいことが……話さなければいけないことがある」

応の答えと共に頷いたヴァレリーを後にタバサは退出する。
一寸の間を置き、再び実験室を訪れたタバサはキュルケと共にいた。
三者が腰を据えるとタバサが口を開く。

「二人に聞いて欲しいことがある。私は……私の本来の名はシャルロット・エレーヌ・オルレアン」

オルレアン。それはガリア王弟家の名である。
驚いたのはキュルケだ。身分を偽る為にタバサという名が本名では無いことは気付いていたものの、まさか今まで気兼ねなく付き合っていた友人が大国の姫であることなどは容易に想像できるものではない。ヴァレリーにしても入学手続きを手伝い、知っていたから驚かなかったものの、知らぬとあらばやはり、キュルケ同様に大層驚いていたことだったに違いない。

タバサは語る。
夢だと思いたかった忌まわしき記憶。
王位継承にあたり、実の兄に殺められた父。
自分を守る為に毒を呷ることになった母。そのせいで失われた母の心。
家は辱められ、名を奪われた。母を人質に取られ、王家に隷属することを余儀なくされた。
命の危険を伴う仕事を幾度も押し付けられ、たった独りでそれらをこなして今まで生きてきた。
先の見えない暗雲の中、それでもいつかはとひたすらに耐え忍んできた。
そしてようやく見つけたのだ。母を救えるかもしれない人物に。

話しを終えるとタバサがヴァレリーとキュルケに向かい深く頭を下げる。

「父を殺め、母を狂わせた現王ジョゼフを私は憎んでいる。いつかその報いをと心に決めている。けれども私はなにより先に母を助け出したい。国外逃亡とその加担、まして私は王弟家の娘……。厚かましい願いなのはわかってる。けど、どうか……どうかお願い。私に母を救う力を貸してほしい……!」

一体どれほどの悲しみと苦しみがあったことだろうか。
それはおいそれと理解できるものではない。
隣国の王家の者を国外へ逃亡させる。単純なことではない。
それ自体の罪、まして他国への干渉。問題しかない。危険は満ちている。
けれど、どうして彼女の懇願を拒めようか、いや、拒めるはずもない。
目の前で頭を下げ続けている彼女の体は苦難の道を行くにはあまりにも小さく華奢だ。
今までたった一人で歩いて来たのかと思うと自然とヴァレリーの体が動いた。

即ち、席を立ち、タバサを抱きしめようとヴァレリー。
吸血鬼という瑕疵を持つヴァレリーにとって、わざわざ新たな瑕疵を作るこの選択を選ぶべきではないのだろう。
自分自身でそれをわかっていても、やはり友を切り捨てることはヴァレリーには出来ない。
そうせずにはいられなかったし、そうすべきだと感じた。
故に小さな彼女を強く抱き、ありったけの真心を伝える―――はずだったのだが……。

彼女の温もりを感じようとしたその瞬間、ゴツンという大きな音と共に、おでこに鈍痛が走る。

「うぐっ!?」
「あいたっ!?」

タバサを抱きしめようと体が動いたのはヴァレリーだけではなかったのだ。
キュルケもまた然り。

如何せんタバサは小さい。
二人して抱きしめようとした挙句、ヴァレリーとキュルケは激しく頭をぶつけた。
しかもよろけて倒れた先が不幸だった。
キュルケは本棚に突っ込み、落ちて来た本にのまれ、ヴァレリーは酒が並ぶ棚に激突し、酒浸り。

凄まじい物音にタバサが顔を上げるとそこには見るも無様な二人の友人の姿。

「何事?」

首を傾げるタバサ。

「っつぅ~、こ、こんな状態で言うのもなんだが全力で君の力になろう」
「お、同じく」

びしょ濡れと生き埋めという様ではまったくもってカッコが付かないが、こうなってしまったのだから仕方がない。
言うなれば愛故に二人はその身を散らせたのであろう。



3人がラグドリアン湖の湖畔、ガリア国内の旧オルレアンの屋敷に向かったのは早々のこと。
先ずは現状を見てみない事にはこれからの参段は立てられない。

その屋敷は古く立派な佇まい、日の光に照らされるもどこか暗く感じるのは3人の心象の表れか。
門柱には交差した二本の杖のレリーフは正しくガリア王家の紋章、されど無残に辱められたそれは王家の権利を剥奪されたされた不名誉の印。

3人を迎えに屋内から出てきたのはたった一人の執事となった老僕。これの名をペルスランという。
嘗ては賑わったこの屋敷も今や彼と数人の侍女を残すのみとなり、屋敷内は只管に静かで靴の音だけが大きく響く。
屋敷の一番奥の部屋の扉をタバサはノックする。
返事はなく、一寸の間をあけ、扉を開く。

ベットと椅子、テーブル以外は何もない部屋。
ひどく殺風景なその部屋にタバサの母、オルレアン夫人はいた。
痩身の女性、もとは大層美しかったろうに病が為にやつれ、衰えている。
さして大きくもない扉を閉める音にすら体を強張らせ、部屋へとやってきた侵入者を怯えた目で見る。

「ただいま帰りました。母さま。今日は私の友達を連れて参りました」

実の子の声、それすら認識できないのだろう。
夫人は冷たく言い放つ。

「下がりなさい無礼者!王家の回し者ね?夫だけでは飽き足らず、この子まで奪いにきたのね?あぁ……!なんて恐ろしいことを!恥を知りなさい愚か者!渡すものですか!下がりなさい!」

わなわなと震える夫人は擦り切れて綿が出てしまっている人形を離すまいと抱きしめる。
その人形が今の夫人にとっての我が子シャルロットなのだろう。
タバサはそれでも笑顔を作る。その笑みは痛々しいとしか形容できず、傍に立つキュルケがタバサを抱きしめる。

「ありがとう。でも大丈夫。慣れてるから」

それはタバサの言葉。
それを聞いてヴァレリーは思う。

―――慣れているなど……!なんと酷い仕打ちか!?こんな、こんなことはあってはならない!

キュルケに抱かれるタバサの髪をそっと撫でるヴァレリーは決したようにはっきりとタバサに言う。
必ず治してみせると。


早々に診断を始めたその様子はお世辞にも見ていて気持ちの良いものではなかった。
現状を知る為に特定の刺激や幾つかの言葉を夫人に投げかけ、その反応を確認する。
ただそれだけのことに随分と時間を費やし、それが終わるころには夫人は怯えきり、涙を流しながらヴァレリーを罵った。
次に行ったのは夢からの分析。
魔法薬で浅い眠りに夫人を誘い、魘される夫人の心象を確認する。
最後に深い眠りに誘い、先住の力を使っての確認をし、一先ずの診断を終わりとする。

診断の結果を纏めた羊皮紙を手に大きく息をはき、夫人のもとを離れたヴァレリーにタバサが歩み寄る。

「お疲れ様。傷を見せて」
「ん?あぁ、大丈夫だよ、これくらい」

ヴァレリーの腕や顔を見れば幾つもの引っ掻き傷が残り、血が滲んでいる。
怯える夫人は自らの身とシャルロットと思い込んでいる人形を守る為に激しく抵抗した。
本来ならこのような場合にはある程度拘束し、体の自由を奪ってからするものであるが、そのような姿はタバサに見せたくなかった故にヴァレリーはこれをしなかった。

「これくらいはさせて」

短くそう言うとタバサはハンカチを水の魔法で濡らし、ヴァレリーの傷口を拭う。
固まりかけた血をふき取り、傷を治すべく魔法をかける。

「ありがとう、タバサ。それで診断の結果だが……」

思わず息を呑み、緊張した面持ちのタバサとキュルケ。
一寸の間。全ての音が消え去ったのではないかと錯覚するほどの静けさ。
ヴァレリーが力強く宣言する。

「断言する。これなら必ず治せる」

自信満々で得意げなヴァレリーの顔。
ほっと肩をなで下ろすキュルケ。
安堵が押し寄せてきたのだろう。タバサは力が抜けてよろめいてしまう。

「おっと」

それをヴァレリーは抱き留める。
見上げてくるタバサの瞳は既に潤みはじめている。

「本当に?嘘じゃない?」
「あぁ、本当だとも。私が信じられないかい?」

どこまでも優しい表情のヴァレリー。
タバサは彼の腕に身を預ける。

「うぅん、信じてる。ありがとう……ヴァレリー」

インクと薬と花の香りが微かに混じる彼の匂い。
とても不思議な香りがするもので、けれど何故か落ち着く香り。
自信の気持ちの趣くままにタバサは少しの間、彼の胸を涙で濡らした。


ガリア王室にオルレアン夫人とその実子、シャルロットの死の知らせが届いたのはそれから5日後のことであった。

服毒による自害。その真偽を確かめるべく派遣されたのが現王ジョゼフ1世の娘、イザベラである。タバサと同じ青い髪、体は彼女よりは幾分育ち、女性らしくある。美しいと言えば美しいのだがどうにも口からでる言葉は姫と言うには品がなく、乙女と言うには目つきが悪い。

「ったく、なんだって私が確認に来なくちゃいけないだ。おい、そこのお前、案内しな」

豪華絢爛な馬車を旧オルレアン邸の前に停めて悪態を吐くイザベラは、数人の護衛を引きつれてオルレアン邸に使える老僕、ペルスランに申しつける。

「はっ、此方でございます」

ペルスランの先導の下、イザベラは親子が眠る部屋へと赴く。

そこは二つの棺と小さなテーブルに白い花が飾られているだけで、他には何もない部屋だった。。
棺の中で眠るのは親子。それを見下ろし彼女は呟く。

「とうとうくたばったか……。このような死に方、つくづく惨めなもんだね。経過の報告をしな」
「はい、奥様とシャルロット様がお亡くなりになられたのは三日前の事でございます。トリステインの魔法学院は夏季の長期休暇中、お戻りになられたシャルロット様は奥様のもとに行かれました。幾ら待てどもシャルロット様は部屋から出て来ず、心配になった私はお伺いに参ったのでございます。あぁ……そこで目にしたのはなんと悲しい光景でしょう!あぁ……嘆かわしや。お許しください、私の口からこれ以上のことは……」

悲痛な面持ちで語る老僕と不機嫌そうな面持ちでそれを聞くイザベラ。

「ふん、あの人形娘……シャルロットも限界だったということかしらね。確認は済んだ。とっとと埋めちまいな」
「あの……恐れながら申し上げますがオルレアン公のお側にお二人を眠らせてあげることは叶わぬのでしょうか?死して猶、離ればなれなどあまりにも無慈悲でございます……!」
「はっ、お前は誰にモノを言っているつもりだい、この二人と一緒に死にたいというのならその首を刎ねてやるよ」
「そ、それは……」

押し黙るペルスランを侮蔑すると彼女は花を手向けることすらせず、埋葬を確認すると早々とその場を去った。
碌に葬儀すらされず、王家の墓に入ることも許されず、かといって平民の共同墓地などにも入れるわけにもいかず、親子の遺体はオルレアン邸の庭に埋められた。

イザベラがオルレアン邸から引き去り、日が沈んだ頃。
大翼を持つ幻獣ヒポクリフとグリフォンの二匹が庭に舞い降りた。
それをペルスランと一人の侍女が迎える。

「長いは無用だ。行こう」

ペルスランは埋葬されたはずのオルレアン夫人を、侍女はタバサを抱きかかえ、いそいそと幻獣に跨ると闇夜の空高く昇り、行方をくらませた。程無くして彼らはトリステインの地、魔法学院へ降り立つこととなる。そう、それは魔法薬によって姿を変えたヴァレリー等のオルレアン親子の国外逃亡計画の実行であった。

実際に行われた計画を今、語ろう。

オルレアン夫人を治すことが可能な今、それとは別に一つの問題がある。
それは彼女をどのようにしてガリアから連れ出すかである。
今の状態で夫人をトリステインないしゲルマニアなどの国外に連れ出すとガリアから捜索の手が伸び、見つかってしまえば返還請求は必須。
下手をしなくても国際問題であるのは自明であった。平民が密入国するのとはわけが違う。
ならば捜索の手が伸びないようにするだけのこと。その結果が古典的な死の偽装だ。

治すことの出来ない病に侵された夫人が人質として囚われている現状は、言いかえれば夫人にタバサを縛る人質としての価値がある状態と言えよう。
では夫人の人質としての価値がなくなれば良いとヴァレリーは考えた。
人質としての価値がなくなる最も簡単な方法と言えば縛る者の死、または人質自身の死であろう。
ヴァレリーが用意したのはオルレアン邸に居ても不思議でない人物になる為の「変身剤」。そして「仮死の薬」だ。仮死の薬により死を装い、王室を欺こうとの魂胆である。王室に死を確認させた後であれば墓を暴かれない限り、国外に連れ出したとて捜索は行われないだろう。埋葬に関していえば大陸では土葬が主流、王家と断絶されている親子が王家の墓に入れられる可能性は薄く、葬儀も大々的に開かれることはないと予測できた。監視の目は当然一番に気を使ったところであるがトライアングルの魔法の腕を持つ3人をして見つけられなかった故に無いもの決断した。タバサ曰く、当初こそあったようだが治療の為の薬が悉く効き目がないと知るころには監視すらなくなったという。あの状態のオルレアン夫人を連れての逃亡生活の困難さ、そして何より「王家の為に働けばいつかは治療の為の薬を用意する」との言の一つで従うしかないタバサには監視すら必要ないということだろう。

勿論、死の偽装をしなくても広い大陸で姿を隠していればそうそう見つかることはないが、ヴァレリーやキュルケは状況が異なる。捜索の手順はその者と近しい存在との接触から始まる。隠れ住むことが出来ない二人から情報が出てきてしまう可能性を否定できなかった。口を噤む相手から情報を得るのはこの大陸ではそれほど難しいことではない。夫人だけでなくタバサの死をも偽装したのは先の理由に加えて、その方が流れとして自然であるからだ。夫人の状態は確かに心を病み、衰えていた。けれどもすぐさま死ぬような状態ではなかった。また、タバサのトリステインへの留学は実質的な国外追放、内情を詰めれば再加熱している旧オルレアン派の鎮圧の為にその御旗となるシャルロットを一時的に遠ざける意図があるのだが、それはタバサの状況の深刻化を意味し、タバサの死は現王家にとっての利となる流れであるのだ。

一つだけ疑問に残るのはそもそも何故にオルレアン夫人とタバサが今まで生きてこれたのかだ。
オルレアン公の毒殺を期に恨みをかった現王家がその一派を警戒するのは当然のこと。
正直に行ってしまえばここまでやっておいて生かしておく意味がない。確かに公式に殺してしまえばオルレアン派の反発で内乱の兆しも見受けられるが、タバサに裏で命の危険があるような仕事を押し付けている割には手がぬるい。任務にかこつけて彼女を殺めることくらい容易いもののはずだがそれは行われなかったとタバサは言う。体よく使う為だとタバサは自分の身の上を認識するも、その通りなのか、現王家の僅かばかりの情なのか、加虐思考なのかは想像の域を出ない。




さて、学院に戻って来たヴァレリー等の話をしよう。
闇に紛れ、親子をガリア、オルレアン邸から無事に逃亡をさせてみせ、いよいよ夫人の治療となる。
仮死の薬の効果を切らせ、目を覚ましたタバサも加わりキュルケとヴァレリーの3人で薬の生成に入る。

髪をきつく結び、腕をまくるヴァレリーは滑舌よく説明する。

「現状を説明するよ。夫人の状態は私達の魔法薬で言うところの『歪曲』の特性が一番強く出ている。次点で『閉鎖』。この二つが併合している。そして一番の特徴だがやはり夫人が飲まされた毒は先住の力を使った物のようだ。使っている力が系統魔法か先住魔法かの違いがあるが今から作るのは同じ先住の力を使った薬。効果は充分見込めるだろう。薬の処方についてだが、仮死の薬のせいで夫人の体は弱っている。先ずはそれを回復させる。その後に本命を処方という運びだ。さぁ二人とも、夫人を救おう!手伝ってくれ、大事な下準備からだ。キュルケは竜骨を粉末状に磨り潰してくれ。出来るだけ細かくだ。タバサはベゾアール石を砕いた後、赤の三番の溶液を少しずつ垂らして溶かしてくれ。一気にやると急激に反応して危ないから気を付けるように」

ヴァレリーの指示のもと各々が仕事にかかる。

キュルケが粉末にした竜骨は水の精霊の涙と混ぜ、何度か濾し、それをベゾアール石を溶かしたものに加え、次にそれとは別にマンドレイクと福寿草、ヘリクリサムを刻んだ物を煎じ、濾す。最後に今回の材料の中で一番値の張る(アカデミーのエレオノールに無理を言って手に入れてもらった)ユニコーンの血を円心分離機にかけ、上澄みだけを抽出し、それを適温で温め下準備を終える。

「ありがとう、残りの調合は私が受け持つよ。後は別途に幾つかの薬も用意する必要がある。タバサは夢見の香の調合を、キュルケは栄養剤を作ってくれ」

その他にも必要な薬を作り、全ての薬を作り終えた頃になると夫人は仮死の薬の効果が切れ、静かな寝息を立て始めた。毒を飲んで心を狂わされたことから鑑みるに治療の為の薬であっても「飲む」という行為は夫人にとって不安を掻き立てる引き金になりかねない為に睡眠薬を投与した結果であり、タバサが作った夢見の香で悪夢に魘されていない証拠だ。

ヴァレリーが出来る最大まで先住の力を込めた治療薬を魔法で直接、胃に流し込み一先ずは区切りとする。


一晩経ち、夫人の症状を確認するヴァレリー。
その表情は明るい。

「うむ、夫人から感じられた先住の力は確実に薄れてきている。治療薬がしっかり効いているとみていいだろう」

その言葉を聞いてタバサの顔に安堵の色が見て取れる。
タバサがヴァレリーを信じていないわけではないが、心のどこかで心配が残るのはやはり仕方がないことだろう。

「よかったわね、タバサ。もうすぐ貴女のお母様を本当の意味で取り戻せるわ」

キュルケはタバサをそっと抱き寄せ、優しく言う。
その姿は慈愛に溢れる心優しい大人の女性そのものであった。

「さて、今後のことを話しておこう。私の見立てでは遅くとも今週中には夫人は心を取り戻すことが出来るだろう。ただその前に一時的に一切の感情や思考が表に出ない状態にする必要がある。何故なら今のままで感情に負荷がかかると治りが遅くなってしまう為だ。夫人の心は言わば形を失った硝子の器、それを元に戻すのが治療薬だったわけだが治療薬は仮止めだ。最終的な所ではやはり本来、人が持つ治癒の力による所が大きい。ただ、感情や思考が表に出ないからと言っても五感は働いているからタバサは夫人の側にいて、話しかけていて貰いたい。あのような状態になってしまっても夫人は君を想い続けていた。それだけ夫人にとって君は大切な存在なんだ。だから君の声が、存在が心を癒す一番の助けとなる筈だ」

ヴァレリーの話しを聞いてタバサはキュルケの腕の中でしかと頷いた。

夫人をヴァレリーの部屋のベットからタバサの部屋のベットの移した後、ヴァレリーは先ほど言った措置を施した。程無くして目を覚ました夫人は体を起こしてもただ座っているだけの人形のようであった。
それでもタバサは片時も母のもとを離れずに楽しかったこと、嬉しかったことを母に語りかけた。

それから5日後、今日も今日とて甲斐甲斐しく母の世話をしていたタバサは夜になると母に寄り添いベットで眠りについた。


その日、タバサは夢を見た。
父がいて、母がいて、幼い頃の自分がいる。
花が咲き乱れるオルレアンの屋敷の庭での一時。
自分を抱き上げる父の手は大きく、名前を呼ぶ声は何処までも優しい。
それを側で眺める母の顔は慈しみに溢れ穏やかなもの。

―――あぁ、これは夢なのだ。

何処かでそれを分かっていても安らぐ心は止めようもなかった。
遊び疲れて木漏れ日の下、母の膝で眠る。
髪を撫でてくれる母の手に、語りかけてくれるその声に確かな愛を感じた。

―――まだ覚めないで、私はこの夢の中にもう少しだけいたい。

けれどもタバサの願いは叶わない。
いや、叶う必要がなかったと言うべきか。
タバサが寂しさを胸に目を覚ますとそこには―――

「おはよう、私の可愛いシャルロット。おいで、母に貴女の笑顔を見せてごらんなさい」

この時をどれだけ待ちわびたことか。
一度たりとも母の笑顔を忘れたことはなかった。
やっと、やっと取り戻すことが出来た。

「あぁ……母様!」

タバサの頬を大粒の涙が伝う。
それは悲しみの涙ではない。歓喜に満ちた嬉しみの涙だ。
なぜならばそこには夢と同じように髪を優しく撫でてくれる母の笑顔があったのだから。


さて、ほんの少し場所を変えてタバサの部屋の扉の外側。

「うぅ、良かったぁ。本当に良かったぁ~」

隠れて貰い泣きをしているのはキュルケである。

「あぁ、もうそんなに泣いてしまって。折角の再会なのに君の鼻を啜る音がタバサ達に聞こえてないか私は心配だよ」
「もう、ちゃん気を付けているわよ。私はそこまで無粋なことをする女じゃなくってよ?」

ヴァレリーも大概、目が潤んでいたのでお互い様だろう。

「あぁ、そうだ、キュルケ。今から少し遠乗りでもしないかい?」
「あら?貴方からのお誘いとは珍しい。そうね、そうしましょうか」

タバサにとって待ちに待った再会なのだ。積もる話も有るだろう。
幾ら母にあまえたとて足りはしないことだろう。
気の置けない仲であってもその場に立ち入るのは無粋というものだ。


ローリエに乗ってヴァレリーとキュルケが降り立ったのはトリステインの辺境、ヴァレリーの実の両親が暮らした屋敷であった。

「差し詰め、母が恋しくなったって所かしら?」
「まぁ、そんなところさ」

勿論、キュルケが言ったことも間違いではないが、宝探し以来となる屋敷に来たのは訳がある。
ヴァレリーは両親の弔いをしに来たのだ。

実の父の墓を磨き、花をそえる。
母の絵は墓の隣に埋めた。

「良かったの?」

キュルケが思うのはヴァレリーの母の絵のことだ。
それは唯一、ヴァレリーが見れる母の姿。それを埋めてしまって良かったのかと。

「いいんだ。私には母から譲り受けた指輪とこの髪がある。私があの絵を持って帰ってしまっては父が寂しがるだろう。なぁ、キュルケ。私はタバサが夫人と再会出来て本当に嬉しかったんだ」
「私だって嬉しかったわ。大事な友達のことなんだから当然でしょ?」
「そうだね。でも私はそれだけじゃない喜びがあったんだ。正直、私は自分の生まれが嫌だった。何故、このような体で生まれてこなければいけなかったのか。吸血鬼なんかじゃなくて普通の人間として生まれたかった。今でもそう思っている。けれど、今回のことで少しだけ自分の生まれに、そして私に流れる血に誇りを持てた気がするんだ。今なら母にも、そして父にも感謝出来る。救うと言うと烏滸がましいが、誰かを助けられる力としての吸血鬼ならばそれはそれで恥じることでは無いんじゃないかって思えたんだ」

友に、愛する人に認められてはいてもヴァレリーの中ではどこか吸血鬼としての自分は後ろめたいものであった。わざわざ王家に認められようと彼が思っているのも自分自身を卑しいと感じ、受け入れられていない所があったことを否定できない。
今回の一件はタバサにとって大きな出来事であったがヴァレリーにとっても大きな影響を与えた出来事となったという事の運びである。



その日の夜、タバサは実験室の前でヴァレリーの帰りを待っていた。

「貴方には何てお礼を言ったらいいか。どんな言葉でもこの感謝の気持ちを伝えられそうにない」

困ったようなそれでいて、嬉しそうな顔のタバサは今や人形などではなく、一人の少女だ。
だからヴァレリーは言うのである。

「それじゃぁ、ひとつお願いを聞いてくれるかい?」

タバサが頷く。
一礼して手を差し出すヴァレリー。

「どうか、私と踊ってはくれませんか、レディ」

何をお願いされるのかと思えばこれである。
まったくもって気障な色男である。

「ふふ、はい、喜んで」

タバサは歳相応の可愛らしい笑みと共に差し出された手を取った。
彼女が学院でダンスの申し出を受け入れた相手はヴァレリーが初めてである。
そして最後となる相手。
最早タバサは学院にはいられない。

「あぁー、待って!ちょっとだけ待ってて!!」

慌ただしいのはキュルケである。
きょとんとしているヴァレリーとタバサを余所にキュルケは全力のフライで何処かへ消え、そして直ぐに戻ってきた。
その手にはハープが握られている。

「はぁ、はぁ。ダンスには音楽が必要でしょ?」

頑張って飛んできたキュルケには悪いがどこか可笑しく、ヴァレリーとタバサは笑ってしまった。

「もう、折角素敵な夜を演出しようとしてるのに失礼しちゃうわ」




今宵、奏でるはキュルケ、踊るはヴァレリーとタバサ。
花が咲く庭で月の光りに誘われるままワルツを。





[34596] 014
Name: lily◆ae117856 ID:ccc88b49
Date: 2013/01/28 20:20
秋の風物詩と言えば我々は芒と夜月を思い浮かべるのではないだろうか?
質素でありながら優美な様は古の人でなくともそれを肴に酒を楽しみたくなる。
どちらかと言えば静かな季節の印象があるかもしれないが、秋という季節は春にも勝るとも劣らず賑わいを見せる時分である。
土を耕す民であれば実りある収穫を祝い、呑めや、歌えや、小気味のいい音楽と共に軽快な踊りの一つでもすれば、日頃の苦労もその日ばかりは忘れられよう。花が咲く意味を訪れた季節を祝う為だというと浪漫が過ぎるが、賑わう庭を見れば、そのような戯言もまた然りと思わせる。秋の花と言えば金や銀の木犀が印象を強く残す。それは見た目も然ることながら、やはりその香りが為だろう。

また、夏からこの時期に掛けて、毒として有名なトリカブトが紫の花を咲かせるし、朝顔も秋の空に映える。
余談ではあるが夏の花との印象が強い朝顔は元々秋の季語の一つであったりする。


さて、良く学ぶ人であるヴァレリーは、横になり休むということを忘れたかのように机に噛り付き、ここ一カ月、時には眠気を覚ますために苛烈な気付け薬を嗅ぎ、目に一杯の涙を溜めながら。時には睡魔に負け、本の角に額を強かに打ちつけながらも一先ず、書からの知識の吸収に区切りを付けた。

勿論、高々一カ月でそれを専門とする学者に並び立つような知識人には到底なれるものではないが、学び出したらキリがないのが学問故に完璧を追い求めていたらいつまで経っても机から離れられない。オスマンが言ったように学問に於いて終わりはなく、政治に於いて絶対的な正しさは無いものだ。既にオスマンからマザリーニ宰相への取り次ぎが為されてはいるが、、先方は国営の頂点であるが故に、なかなか面会の暇がなく、流石に直ぐにとはいかないようである。こればっかりはどうしようもなく、先方の暇を待つしかない。

一先ずはここでタバサ、もといシャルロットのことについて言及していきたい。
先の母の件より、彼女はヴァレリーに深い恩を感じているのだが何とかして受けた恩を返したいのだ。相当に高価だった薬代も肩代わりしてもらったままであり、正直、今のままでは頭が上がらない。彼がそこに付け込むようなことはないのだろうが、貸借主忘却の法則が如く、まるっきり金のことには触れてこない。此方から言い出してみれば、「可愛い子に男が貢ぐのはよくある話しじゃないか、貢いだものを返せというのは男の恥だし、返却されるのも情けない話ではないかい?」などと言うのである。

いやはや、そういった男女の機微の話しではなかったはずなのだが、困ったもので「可愛い」という言葉がシャルロットの内心では些か嬉しかったりもする。それが彼からの言葉だから故なのかはさておき、母が治る前はまったく心に響かなかったというのに人の心とは不思議なものである。ただ、だからといってそれでうやむやにされては立つ瀬がない。

因みに、オルレアン夫人の容態は目に見えて良くなっているが、全快するまではヴァレリーの預かるところとなっており、今後の親子の身の振り方は幾つかに分かれる。隠れて暮らさなくいけないのは前提であるが、一つはヴァレリーの支援のもとにこのままトリステインに留まること。一つはキュルケの支援をもとにゲルマニアへの移住。そしてもう一つにロマリア、詰まる所教会の庇護を求めること。ブリミル教を掲げる教会にとって、ブリミルの子孫足る王家の血筋は絶やしてはならぬもの、なればこそ、その血筋を内に確保することは最優先事項とまではいかないまでも重要度は高い。出来ることならば教会の庇護を得たうえでゲルマニアのように国力でガリアに屈しない外国へ渡るのがよいのかもしれないが、どこがどう繋がっているのか定かではなく、大きな拠り所がない親子にとっては先の予想が立てづらい。どのような道を行くにしても今はまだその時ではないだろうとはヴァレリーやキュルケ、オルレアン親子での共通見解である。

余談ではあるが、学院において子女から大層な人気を誇り、町を歩けば若い娘が熱いため息を漏らすヴァレリーであるが、常日頃から歯の浮く言葉を連発しているわけではない。疑わしいかもしれないが、そうなのである。勿論、彼もまた男児であるし、美人と語らうのは吝かではないが、やはり念頭にはカトレアがおり、心の内の桃の花が満開故に、他の子女には節度ある接し方を保っている。それがまた、奥ゆかしいと人気を呼ぶのであるが、どうやら顔が良いと押しても引いてもモテるようである。実に羨ましい。

節度ある接し方などと言っておいて、現にシャルロットを口説いているではないか、との意見はもっともだが、それは彼女が他の子女よりもヴァレリーと仲が深いからである。先にルイズとの仲を噂されたこともあったがそれも上記に由来する。仲が良い故に素が出てしまうのだろう。このあたりがギ―シュと馬が合う理由の一つなのかもしれない。それをシャルロットも知っているので必要以上に意識はしないが、言葉以外の礼を受け取ろうとはしないヴァレリーに意趣返しとして言葉を一つ投げかける。

「わかった。じゃあ、お礼は体で払う」
「ぶっっ!?げほっ、ごほっ!」

これにはヴァレリーも味のしない紅茶を吹いた。
まさに不意打ち。キュルケなら冗談としてうまい返答も出来ようが、まさか、彼女からそのような言葉がでようとは思わなかったのだ。彼女も年頃の娘であるし、知らぬままに言っているということはなかろう。いや、しかし。いや、しかしである。

「いきなり、何を言い出すんだ、君は!?危く、カモミールが鼻から出るところだったぞ!キュルケの入れ知恵か!?そうだろう!?そうに違いない!!」
「違う。本当に私の気持ち」
「あぁ、いや、その気持ちは非常に嬉しいのだが……。いけないよ、礼などといって自身の身を軽々しく委ねては」
「別に貴方とはこれが初めてと言うわけじゃない」
「えっ!?」

―――いやいやいや、まさか、そんな。タバサに手を出した覚えがないのだが……。近頃は勉強と研究以外はしていないぞ、私。いや、しかし現にタバサは初めてではないと言っているし……。

言葉の主が普段、冗談を言わぬ彼女だけに、冷や汗を流し始めるヴァレリー。
それに満足したのかシャルロットが事を明かす。

「吸血鬼の力を使うのには血が必要、これからも私の血を使ってかまわない」

「「…………」」

一寸の沈黙の後に来る、なんとも言えない羞恥心。

―――だーっ!は、恥ずかしい!!何たる失態!!

「欲求不満?」

ヴァレリーの思考を読んでのタバサの一言。

「やかましいわ!でぇ~い!知らぬ間に男の純情を弄ぶ、いけない子に成長しおってからに!私は悲しいぞ!」
「純情(笑)」
「まだ、言うか!?このちびっこめ、本気で血を吸い取ってくれるわ!」

さて、一寸のじゃれ合いを楽しんだ後にシャルロットは本題を切り出した。
勿論、血の提供の件も嘘ではないが、それだけを言いたいのではない。
であるからしてシャルロットは言うのである。

「貴方の下で働かせて欲しい。私が貴方の為に出来ること……これくらいしか思い浮かばなかったから。これから先、貴方個人が自由に使える人間は必要なはず」

確かにヴァレリーはそういった人員を必要としている。
時間は限られたものだ。あれもこれも全てを一人でできるわけではない。
しかし、多くのことをこなしていかなくてはいけない。
大事であろうと小事であろうと先々の事を予測し、独自に先んじて行動する為の各方面の情報収集は当然必要だ。
集めた情報にしろ整理しないと使えない。行動をおこすなら事前工作はしておきたいものであるし、仕事に専念するために身の回りの世話も誰かに頼みたいほどだ。ヴァレリー自身には未だ権力はない。信頼できて尚且つ有能な人材は咽喉から手が出るほど欲しい。

「いや、しかしだな……。既にお礼の言葉も尽くしてもらったし、血の提供だって申し出てくれた。何も君がそこまでしなくとも……」

確かに人材は必要としているものの、彼女にそれをさせてしまってよいものかと、ヴァレリーは歯切れの悪い受け答え。
対してシャルロットは小さく首を振る。

「薬の代金だって還せてない。今住んでいる所も貴方が用意してくれた物。今の私は貴方の重荷にしかなっていない」
「重荷だなんて、そんなこと思う筈がないじゃないか。君が笑ってくれるならそれは私の喜びだ。友逹の悲しそうな顔など誰も見たくはないものだろう?」

真剣に答えるヴァレリーの言葉を嬉しく思いつつもシャルロットは悲しい気持ちになってしまう。

「貴方がそう言ってくれるのを素直に嬉しいと思う。けれど、だからといってただただ甘えて良いわけではない。私は礼儀知らずにはなりたくない。私を友達だと言ってくれるならわかって欲しい。私は貴方の愛人でもないし、まして矜持を棄てた物乞いでもない。このまま貴方の支援を受けるだけでは私は貴方の背中しか見ることが出来なくなってしまう」

訴えかけるようなシャルロットの言葉を聞いてヴァレリーは気が付いた。

勿論、友に手を差しのべる事が悪い事だとは言えない。
けれど、ただ与えるだけの優しさは時として相手を侮辱する。
良く言えば見返りを求めない慈愛なのだろう。
しかし、悪く言えば単なる施しに過ぎないからだ。
シャルロットは言った。「私は愛人でも、物乞いでもない」と。
人は矜持と尊厳を尊ぶ。まして貴族として生まれたならば尚更のこと。

ただ支援を受け続ける事は即ち、弱者で居続ける事だ。
それを提示するヴァレリーはシャルロットを友達だと言いながら弱者として、何の力も持たないか弱い少女として扱っている。それこそ、路地裏で踞る者にパンと水を恵んでやるのと大差はない。「貴方は弱い人だ」と言われて一体誰が喜ぶだろうか?「貴方はか弱いので何もしなくていい」と言われて鵜呑みにする輩は愚か者に他ならない。自立したいと思う者なら猶更だ。此処までくると最早侮辱しているのと変わらない。ヴァレリーにそのつもりなど無かったし、友を思いやる気持ちはもっと崇高な何かなのかも知れない。それは否定しない。しかし、現にシャルロットは今の関係を続けたいとは思わなかった。今の現状が対等な友達ではなくなってしまったように感じられたからだ。支えられるだけでは嫌なのだ。弱い女として生きるのは嫌なのだ。愛人でも物乞いでもなく、肩を並べる友なのだから。

ヴァレリーはシャルロットに深く頭を下げ詫びる。

「すまない。私は今まで君を侮辱していたようだ。どうか許して欲しい」
「うぅん、頭を上げて。私の方こそごめんなさい。ただわかって欲しかったから」

砕けた言い方ではあったものの、それはもう見事な謝罪をするヴァレリーにシャルロットは内心焦ってしまう。
もしかしたら彼には私の想うところの全てが伝わってしまったのかも知れないと。

「もう、怒ってないかい?」
「最初から怒ってない」
「本当に?」
「くどい」

まるで親に叱られた子供のような彼を見ているとシャルロットの頬が自然に緩む。
締める所はきっちり締める癖に茶目っ気のある素振りをすると可愛げがあるから困りものだ。
それを些か卑怯だと思ったのはシャルロットの胸の内。

「そうか。それは良かった。それで話の続きだが……そうだな、君さえよければお願いしようかな。だがその前に幾つかの条件を提示しようと思う。第一にこれは信頼関係に基づく協力であると共に純然かつ対等な双務契約だ。君が私の下で働く代わりに私は君に報酬を払う。現在の住まいは君の仕事振りへの期待に対する前払いだと思ってくれ。勿論、労働条件の相談はいつでも受け付けるよ。第二にオルレアン夫人にあまり心配をかけないこと。まぁ、私自身が父上に心配をかけっぱなしだから言える立場ではないけどもね。第三に薬代についてはもう言わないこと。前にも言ったがこればっかりは男児足る者譲れない。まぁ、こんなところだろうか?」

「わかった。それで構わない」

優しいけれど、少しだけ心が痛む。
斯くしてシャルロットは頷き、公には出来はしないがヴァレリーを支える事の運びとなった。

さて、ここでヴァレリーのいない時のキュルケとシャルロットの話を一寸ばかりしておきたい。
それはシャルロットがヴァレリーのもとで働くことに決まった少し後の一席。
学院の授業を終えたキュルケがシャルロットを訪ねた夕暮れの頃。

「これで良かったの?」

キュルケはそうシャルロットに問いを投げかけた。

「何が?」
「ヴァレリーのこと」
「対等に見てもらう為に私が出来る事はあれぐらいしかない」
「そっちじゃないわ」

静かに応えたシャルロットだがキュルケが「良かったのか?」と訊いたのはそういった意味ではない。
「じゃぁ、何の事?」とシャルロットが言うとキュルケがため息を吐いた。

「私の名前を言ってみなさいな」
「キュルケ・アウグスタ・フレデリカ・フォン・アンハルツ・ツェルプストー」
「その通り。ゲルマニアの恋多き女、微熱のキュルケとは私のことよ!」

豊満で女性の色気を放つ胸を張って今更名乗るキュルケに「だからなんだ」とはシャルロットは言わなかった。
おおよそ何が言いたいのか察しがついたからだ。

「それこそ私にはあれぐらいしか出来ない」

シャルロットは確かに言った。「私は愛人でも、物乞いでもない」と。
勿論、対等な友人でありたいとの思いがその言葉には込められていたが、それだけではなかった。
ヴァレリーがせめてものシャルロットの言葉の裏に気が付いたかどうかは分からない。
わざわざ「愛人でも」などと言葉を加えたのはヴァレリーと、そして自分自身に示す為だ。
シャルロットは今まさに感じている。恐らく自分は初めて恋という物をしていると。彼の事を異性として好きになり始めていると。
しかし、その相手たる彼に「私は貴方にとってどんな存在か?」と問えば「大切な友達だ」と答えるだろうことはわかっていた。
だから選んだのだ。友達であることを。好きだとは言わないことを。彼がそれを望んでいるのだから。

「そう、ならもう聞かないわ。でも一つだけ言っておくわ。貴方のその気持ちは大事にするべきよ。辛い想いも、切ない気持ちも全部ね。だって女はそうやって美しくなるものだと私は思うもの」

咲き誇る花があるならば、当然咲くことの出来なかった花もあることだろう。
ましてそれが恋の花であるならば猶の事。
キュルケの言葉にシャルロットは静かに頷いた。

「ところでここにヴァレリーの部屋からくすねてきた上物があるわけだけど、どうかしら?」

キュルケが取り出したのはヴァレリーの部屋にあった10年物の酒のボトル。
酒作りの最初期に良い出来だった数少ない逸品である。

「窃盗罪」
「堅いことは言わないの。女を泣かせておいてこれだけで済むんだからヴァレリーも文句はないでしょう」
「泣いてない」
「まぁ、そういう事にしておきましょうか」

グラスに映る潤んだ瞳は酔ったせいか。
付け合わせのチョコレートはシャルロットをして少し苦かった。





話は変わり、ケンの月の第一週、虚無の曜日のこと。
いよいよ、マザリーニ枢機卿との面会を許された。

先ずは卿の下で働ける運びにしないとヴァレリーの願いは遠のいてしまう。
休日とあって、賑わうトリスタニアを通り抜け、珍しく緊張した面持ちのヴァレリーは白き王宮の壮麗なる門を潜り、待合室へと通された。

家紋入りの一張羅でも羽織り、気張って行きたいところではあるが、生憎、当の昔に没落したヘルメス家の家紋などはヴァレリーは知らなかったし、もはやヘルメス家もヴァレリーを残すのみ。いずれ無くなる名前ではあるが、形式的にはヘルメス家の現当主であるヴァレリーには貴族として家の名を残す務めが無いわけでは無いし、将来的にラ・フォンティーヌの名を拝するまでにヘルメスという名が人の知る所となるような目覚ましい活躍を残さねばなるまいと改めて気を引き締める。


待合室に通されてから、二時間。
ようやくマザリーニ卿の執務室へ案内される。

最早、何度、頭の中で受け答えの練習をしたかわからない。
親の口添え付きとはいえ、一介の学生との面会に応じてくれるだけでもありがたいことではあるが、流石に待ちくたびれて気が緩む。

扉の前で一度、深呼吸して再度、気を引き締めるとヴァレリーは扉を叩いた。


マザリーニ枢機卿の執務室は部屋の大きさからすればかなり大きい方に部類されるが、それでも何処となく狭く感じるのは、溜まりに溜まった案件等の書類が山脈を成しているからであり、それらに対処するべく用意された参考文献が更に高い山脈を作っているからだろう。傍目に見ても、人一人がさばき切れる量の仕事ではないことは容易に窺え、それでも猶、仕事をしてきたマザリーニ卿は、なるほど、まさに鳥の骨と言われんばかりに痩せており、40代であるはずが下手をすれば父、オスマンより老けて見える。

部屋にはインクの匂いが染み付き、それはきっと彼が宰相としてこの部屋を使い続ける限り薄れることはないのだろう。

「お初にお目にかかります。トリステイン魔法学院長オスマンが息子、ヴァレリー・ヘルメスと申します。この度はお忙しい中、貴重な時間を割いて頂き、感謝致します」

恭しく頭を下げたヴァレリーの向い、机を挟んで座るマザリーニは書類に目を落としたまま、ヴァレリーの方を見ることなく、早速言葉を放つ。

「貴方から見て右の机の一番上に書状があるでしょう?それを読んで貴方なりの意見を」
「では失礼して」

書状を手に取り、文面に目を通す。
ゲルマニアから届いたその文書はトリステインに於けるゲルマニア産鉄鋼製品の輸入拡大及び関税率の引き下げの代わりにゲルマニアはトリステインの農作物にかけている税率を引き下げ、詰りは其々得意とする物品に生産を特化させ、相互の貿易拡大による二国経済全体間で見た時の経済規模の拡大を提案するもの。所謂、比較生産費説に基づく国際分業の提案であった。

大陸に於いてトリステインをはじめ、古い国々は認めたがらないが纏まりのない無い都市国家からようやく帝制への形に移ったゲルマニアの方が経済理論は他よりも進んでいる。何処の国でも金が物をいうのは変わらないがゲルマニアはその気質が強い為だ。比較生産費説もそうだが、かなり新しい理論である。つい最近まで戦争をしていた国同士なのだから当然かもしれないが、分業論は割と古くからあるものの今までは封鎖経済下での理論であって、開放経済下での理論が未成熟だったのだ。比較生産費説=国際分業論と理解できる者は王宮で働いている者でも勤勉に新しい知識を学ぼうとする一部の人間くらいなものなのが実情であり、これついてマザリーニが論じさせるは、ヴァレリーの学の程度を知りたいが為だろう。

本意かどうかはさておき、「今までの禍根を絶ち、国際友和の下、相互利益の為に手を取り合う時代となることを我々は願っております」と締めくくられた書状。なるほど、良く出来た書状だと感心するヴァレリーは論ずる。

「確かに比較生産費説は合理的であり、二国間の経済規模は増すことかと思われます。特にトリステインの経済規模では何かに特化した方が利益となりましょう。相互利益の為に手を取り合う時代、国際平和への前進としても称賛するべき理念かとも思います。トリステインは戦争をしている場合ではありませんし、お互いに利益があるのならば手も取りやすいことでしょう。ですが……私ならばこの提案、受けることは致しません」

称賛とは対称に提案を拒否するヴァレリーの言葉にマザリーニがその理由を促す。

「何故ならば比較生産費説は合理的な経済理論ではありますが、それ故に政治というものを軽視しているからです。トリステインとゲルマニアでの分業体制が始まれば立ち処にトリステイン国内の鉄鋼業は衰退します。鉄鋼業は軍事の要であり、軍事力は大陸に於ける発言力です。トリステインが大陸全土に影響を与えるほどに農作物の生産が多いならば話は少し変りますが、現在の国土では限界まで生産力を上げたところでそれは適わないでしょう、であるならば自ら剣を手放すのは自殺行為であります。力無き者の言葉など一体誰が耳を傾けてくれましょうか?まして借り物の力を手にしたところで我々は今後ゲルマニアの顔色を窺って生きていかなくてはならなくなりましょう。最早それは自立した一つの国ではなく属国と言っても過言ではありますまい。国の規模の違いから言いましても我々が農作物の生産に特化する為には国土の大半を必要とするのに対し、ゲルマニアは一部の地方での生産を回せば事足りるでしょう。我々とゲルマニアとではそもそも懸ける物に違いがあり過ぎます。私は分業の利を理解しているつもりではありますが、少なくとも今の時代、我等がトリステインに於いては農工商の比率を極端に変えるべきではなく、例えある程度の無駄が介在していたとしても、基幹産業を押し並べて成長させる政策が必要であると考えております。以上が私がこの提案を受けるべきではないとした理由であります」


淀む処のないヴァレリーの言論をして、マザリーニは表情を変えることはしないまでも心の内に於ける眼前の若者への興味を一つ深める。国営の頂点たるマザリーニ卿の直属となることはヴァレリーで無くても出世を考えるものならば手堅い手段として考える。だからこそ、そういった要望は後を絶たないが、そういった輩が彼の補佐となり得るか、そもそもまともな仕事が出来るかといえば難しく、稚拙な考えは意見を聞くに値せず、だからと言って手取り足取り教育している時間などはマザリーニにはない。後進の育成は国の将来にとっての課題であるとは理解しつつもすこぶる忙しい現状では始めから能力が高く、一人で学べるような人物でなければ傍に置くことは出来ないとマザリーニは考えている。

「なるほど。貴方の考えはわかりました。では貴方ならこの書状の返答、どのように言葉を選ぶでしょうか?」

人との会話、手紙のやり取り、全てに於いて我々は言葉を選ぶものであるが、重大な案件、兎角外交文書のようなものは殊更言葉選びが重要となる。「今までの禍根を絶ち、国際友和の下、相互利益の為に手を取り合う時代となることを我々は願っております」と締めくくられた書状を良く出来た書状だとヴァレリーが思ったのもこれ故だ。曲りなりにも平和を謳う文章であるそれを下手に扱うとトリステインにとってよろしくない。「友和の為に差し伸べた我々の手を無粋にも振り払ったのはトリステインである」などとゲルマニアから言われたのでは堪ったものでは無い。「平和の為に」とは暴力を肯定させるもっとも簡単な言葉選びの一つだ。何も杖を振り、剣を薙ぎ、鉄砲を撃つのだけが戦争ではない。政治家とは経済と言論に於ける絶えることのない戦争を担っているものだ。

「そうですね……。自国の鉄鋼産業及び産業従事者の保護の為に我々はその合理的な申し出を受け入れることが出来ないと、この点に於いては素直に言っても差し障りがないかと思います。提案国際友和に於いては同調するべきですが……技術、文化に於いての交流会でも提案しては如何でしょうか?「国際友和の為には先ずお互いを知るべきではないか」と提案することはもっともらしい言い分であると思います。残念ながらゲルマニアに後れを取っている鉄鋼業の実態を国民に認識させる事は、今後のトリステインにとっても悪くはないことかと」

否定はしないが、賛成もしない。
言ってしまえば貿易の順を増して、国内正貨の潤沢を図ろうとするゲルマニアはその為に「平和」を持ち出してくる。
平和と利益、建前が前者で本音が後者なのは見え透いたものであるが、建前を全面に押し出しての肩すかしがヴァレリーの答えである。

それが最善かはさておき、悪くは無いかとマザリーニ。
しかし、評価材料としてはまだまだ不十分、故に彼は問いを重ねる。

「私の下で働きたいとのことですが、貴方を迎え入れるは私にとって、そしてトリステインにとって利となるや否や。どうなのでしょうかね?」
「当然、利となりましょう。そればかりか私は今後のトリステインが富める国になる為の主柱となり得ることでしょう。今のこの部屋の現状を拝見しましても、卿は優秀な部下をお持ちでないように見受けられます。であれば既に国にとって重大な損失が生じていることを卿もお分かりになっているはずです。政策が二転三転するような国が繁栄することなど有り得ず、方向性を決めた上で短期的、長期的な政策を行っていくのが国の運営であるかと存じます」


ヴァレリーの言う重大な損失とはなんであるか?彼曰く国営は短期的、長期的な政策によって為される。
兎角、素晴らしい事を言ったわけではない。このような事を国営の頂点たるマザリーニに言うことは滑稽な様になりかねない。
しかし、マザリーニは耳が痛かった。何故なら彼は長期的な政策を用いることが出来ないからだ。それ即ち重大な損失に他ならない。
何故用いられないのか?彼の政策を引き継ぐ者がいないからだ。

マザリーニは元々、ロマリア出身の枢機卿である。外国からやってきた者に実権を握られていることを国内の諸侯は表だって口に出さないが良く思っていない。街道の修繕、治水などの公共事業の提供と産業保護及び育成、奢侈品税の引き上げ、1エキューの3/4の価値を持つ所謂新金貨の発行による貨幣供給、各国との貿易交渉、突発的な国内の問題処理など国を富ます為に多くの事を執り行ってきたが評価は厳しい。先に挙げた外国出身であることに加えて公共事業の提供の際には諸侯へ支払の一部を負担させたこともあり、奢侈品税の引き上げにしても納税義務がない特権階級足る貴族を対象としたものであったからだろう。財政状況が芳しくない王家への負担を軽減する為にマザリーニは諸侯への負担を強いたのだ。長期的な政策に於いてもその性格が表れることだろう。しかし、マザリーニが宰相の座を退いた後に諸侯の中から輩出された後任が、果して自己の利益を阻害するような政策を続けるであろうか?長期的な政策が途中で頓挫すれば政治的な混乱を招くだけではなく、初期費用だけが嵩み、却って王家の財政難に拍車をかけることになり兼ねない。

ヴァレリーは暗に言っているのだ。
自分がいれば長期的な政策が可能になると。
マザリーニが始めた政策を自分が完了させると。

それが出来る人物足るかはなんの確証もなく、自賛の言は尊大で自己に陶酔する者と捉えられてもおかしくはない。
けれど、ここで謙虚になったところで仕様もない。
己を信じ、邁進することこそがカトレアとの約束を果たす為の道であるとヴァレリーは信じて止まない。


眼前の若者は堂々たる佇まい。
強い意志が宿る眼差しを逸らすことなく見返してくる。

―――至って、真剣。はたさて、その自信は世間を知らぬ痴れ者故か、それだけの何かを持つ故か。

「随分と貴方は自分を高く評価していますね。さぞや有益な国策を聞かせてくれるのでしょう。一つ語ってみせなさい」

皮肉混じりのマザリーニの言葉を受け、ヴァレリーは語る。

「国家に必要な物は良い軍と良い制度であります。良い軍とは即ち傭兵などではなく、自国の民により編成された規律と忠誠心を兼ね備えた自国軍のこと。そもそも国が滅んでしまっては意味がなく、また、王権を振るう世では諸侯を従わせるだけの直接的な力が良い制度を敷くうえでも必要です。良い制度とは私が考えますに、王家を御旗とする国民意識の形成を基盤とするものであるべきです。
法について言えば先ずは爵位規定の見直しを。産業について、農工商の比率を一定に保ったうえでの育成を。
現状を鑑みるますに鉄鋼産業の拡充は急務。手厚い援助のもと国際競争力のある物を作り出せなくてはなりません。しかし、トリステインの国土では生産量でゲルマニアに勝ることはできないでしょう。ですから加工の質を向上させ、付加価値の増大に努めるべきだと考えます。ゲルマニアの品を輸入し、手を加えて再輸出できればそれもまた良いかと。また、その為にゲルマニアの技術者の誘致や、トリステインの技術者を留学させる制度を設けるべきだと進言致します。これは鉄鋼産業だけに留まらず、全ての産業に言えること。小国であるトリステインは絶対的な産出量ではなく、技術の質からくる財の質で隣国を凌ぐ国であらねばなりません。革新的な技術の向上や新しい産業の創設は富をもたらすことでしょう。その為の保護・育成・研究費等の財政支出を惜しんではなりません。
新しい産業について例を挙げるならば、魔法薬学に携わる私が考えるますに医療の質を高め、それを売りにするのも一つの手ではないかと思います。トリステインの薬学の質は水の国とあって高いものです。少なくともアルビオンやゲルマニアには勝っていると言えるでしょう。薬は当然商品となりますが、なにも形ある物だけが財ではありません。医療を始めとした知的な物も富の源泉となり得ましょう。諸外国との関係に於いては我々が関係を深めるべきはアルビオンと考えます。彼国の気候は寒冷であり、農業に適しません。故に農作物の輸入は必要となります。ガリアとアルビオン市場を巡っての交渉となりましょうが、立地柄、対アルビオンの農作物輸出ではガリアとの価格競争に負けることはないでしょう。輸入品に関しては中継ぎ品として毛織物を、自国用に航空艦や竜が欲しいところであります」


発展は変化であり、その発展が王家にとって安定的なものにするためには王家を中心としたナショナリズムの形成が必須であるとヴァレリーは考える。そしてそれが後々自分の為になるとも。また、そのうえで高みを目指すならば知識や技術を貪欲に学ぶべきだとするのは、魔法薬学に携わり、研究熱心なヴァレリーらしくもある。だが、ヴァレリーの発言にはトリステインにとって大事なことが欠けている。当然、マザリーニはそこを突いて来る。

「確かに、貴方の言う事は一般的な取り組むべき課題としては見据えていると言えなくもありませんし、私が考える政策との一致も多い。が、しかし、そこまでの積極的な財政支出をどう賄おうというのです?現在の近衛でも相当な圧迫であるのに、新しく軍の編成、維持など莫大な費用がかかります。そもそも彼らは基本的に非生産階級。国の生産力は低下するでしょう。また、幼稚産業の育成、とりわけ鉄鋼産業の育成にしても現状、ゲルマニアからの鉄に高い関税をかけ、保護し、その関税を育成に回しているのです。それでもこの様なわけで、王宮にこれ以上の支出の余地はないのですが?」

ヴァレリーの述べた事は当然、長年政務を務めてきたマザリーニも問題意識を持っていることは用意に予想出来た。
前述に敢えて財務について語らなかったのは後述に興味を持たせる為の布石である。

「以前、私はヴァリエール御息女と共同で農地の生産性向上の為の文書を提出したことがあります。故に生産性の伸びしろはまだ存在すると考えております。また、国庫に金は無くともトリステイン全体で見れば資金ぶりの余地は有るかと思います」
「増税をしろと?」

「いえ、そうではありません。増税は時には必要なれど、民衆の支持を貶めてしまいます。支配層は貴族ですが、大多数は民で構成されている国家が大衆を敵に回すのはよい状況ではないかと。増税せずとも商会や貴族のもつ資金を活用できるのではないでしょうか?」

「増税が支持を貶めると言う貴方ならば当然、分かると思いますが、貴族を含め多くのものは既存の利益を害されることに大きく抵抗するのが普通です。奢侈品税の引き上げですらかなり強引に運びましたからね。力がある分だけ、貴族の資金を当てにするのは増税よりも危険なことだと思いますが?」

「搾取という形体ではそうでしょう。しかし、ゲルマニアの弁ではありませんが、相互の利益とならば話はべつかと。私はトリステインの財政難の要因のひとつは貨幣の流動性が損なわれているせいだと考えます。卿が発行された新金貨は国内市場を刺激するものでありましたが、その影響が思うところのものでないのもその為かと。貯めるだけ貯めて、使いもしない資金が円滑な経済活動を阻害しているのです。貯蓄を悪だと言うつもりはありませんが貯蓄が投資へと変わらぬのでは意味がありません。
私は今こそ長期債券の発行と資金の預け入れ体制を整え、その資金を持って政策に充てることを献策致します。
諸侯にとっては自身の財産が形を変えただけですので保有する財産価値は変わりません。それどころか、利子による不労所得で富の増大が計れましょう。商会の資産は諸侯と比べて流動的でありますが、その内には不動資金がございます。為替をはじめとする支払保証を以て商会の資金を取り入れることが可能ではないかと愚考致します。
国家の側にしても将来的な負担の増大とは言えど、今、必要な金を用意出来る利点があります。取り組むべき課題は分かっていてもそれをするだけの資金がないというジレンマを解消する手だと思います。また、短期債権と長期債権に分ければ、債券の買い付け、売り付けにより、市場への貨幣供給量をある程度操作でき、経済への介入の手立てとなりましょう。
安定的な赤字財政の進行には障害や危険があることは承知しております。しかし今、手を打たなくてはトリステインが再起を図ることも出来なくなってしまいます。ゲルマニアの台頭により今や大陸の均衡は薄氷の上の産物となり果てました。今が変化の時であると心得ます」

言い終えたヴァレリーはマザリーニの返答をひたすらに待つ。
目新しい手法を提示したわけではない。
債券や株式の発想は以前からあるものだし、為替等の支払保証は教会の収入源として使われている。
ただ、国債は自己資本ではなく、あくまで負債であり、泥沼に陥りかねないし、為替等々は教会の利権領域という色が強い。

ヴァレリーは元々経済論者ではなく、薬師である。
また、新たな答えを閃くような天才ではなく、地道に答えを導く秀才の部類。
ヴァレリー自身は現状で考えうる最上な選択をしたつもりだが、果してマザリーニからどのような評を受けるか胸の内は慌しい。

強い視線を受けて、思考を巡らすマザリーニ。

―――妥当な案ではある。最早、王家は限界が近い。一刻も早く手を打たねばならないのは確か。政策を引き継ぐ人物を必要としているのも確か。だがどうだ?この者がなり得るか?なかなかどうして、決断を迫られる。

「貴方がただの阿呆では無いことは認めましょう。それで、貴方を私の下で働かせるか否かですが……。そうですね、床に頭を擦り付けて乞うのであれば認めましょうか。指示に従わぬ手足など必要ありませんからね」

礼節を求めるは当然なれどその言葉は最早侮辱。
マザリーニは宰相だが、王家ではない。
屈服するか否や、ヴァレリーは行動する。

「何卒、私を卿の下で働かせて頂きます様、心から御願い申し上げます」

一寸の迷いもなく、床に座して頭を垂れたのだ。

此にはマザリーニ卿も些か驚いた。何故ならば先の物言いから己の才と能力に自信を持ち、自尊心の高い人物だろうとヴァレリーのことを思っていたからだ。それがどうだろうか、躊躇うこともなく、それどころか、声音に不服の色すら窺えないのだ。

「随分と易々頭を下げるものですね。下級貴族とはいえ貴族でしょうに。その様な無様な格好を晒して、貴方には矜持というものがないのですか?」

挑発的なマザリーニの問いにヴァレリーは頭を上げずに答える。

「私にも人並みに自尊心や矜持はございます。しかし、私は卿の下で働くことが私にとって今、一番に必要であることを疑っておりません。己の些細な矜持は貴方の下で働き、学びたいとする私の意志には到底及ばぬものです。さすれば、例え、靴を舐めろと言われようが私はそれに従いましょう。まして私は卿のお言葉が私をお試しになっているのだと確信しております。王宮での仕事が華々しいだけとは思いません。過剰な自尊心は弊害にしかならず、甘んじて誹謗中傷を受け止め、堪えるだけの精神を持つかもまた、実務の能力と共に必要とされると存じております」


―――驚いた。伊達にこの年で王宮の門を叩きに来た訳ではないということか……。

低頭するヴァレリーを見据え、マザリーニが口を開く。

「御立ちなさい、ヴァレリー・ヘルメス。私は真に不粋なことをしてしまったようだ。私は貴方を評価します。故に今、この時より、私の下で働き、祖国トリステインの為に尽力なさい」

その言葉を聞いて、ヴァレリーは思わず手を強く握り締めた。
先ずは一歩、前へと進んだ。それが嬉しかったのだ。
応ずる言葉を発する若者のその声は、何処までも真っ直ぐで力強く王宮に響いた。


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