<このWebサイトはアフィリエイト広告を使用しています。> SS投稿掲示板

チラシの裏SS投稿掲示板


[広告]


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

[34356] 【ネタ】単細胞からやり直せ!【SPORE二次/にじファンより移転】
Name: 大豆◆c7e5d6e9 ID:1d79d764
Date: 2012/08/04 12:53






***********************************

どんどんどんどん落ちていく。
赤い空。黒い海。水しぶき。
ミズオの体は色々な物を取りこぼし―――――――――――


気づけば単細胞生物になっていた。


***********************************





ミズオはまどろみから覚醒した。
彼を包むのは、柔らかな液体である。
周りの見知らぬ風景に驚く前に、ミズオは己の姿が大きく変化していることを認識した。

腕は無く、足は無く、顔も無く――――つまりは人間としての彼を構成していたほとんどの物が欠けていた。
あるのは自らの姿を見ている眼球と、ぽっかりと開いた穴のような口、そして酷く柔らかな膜に包まれた半透明の体。
中身が丸見えであり、酷く原始的な身体構造――――単細胞生物に似ているのだった。

彼のつるりとした表皮には、尻尾のような毛が一本生えている。
この身が単細胞ならば、尻尾に似ている毛は鞭毛と呼ぶことができるのだろうか。
そのようなことを考える。

色々と総合して、ミズオは己がとても下等な生物になったことを悟った。
しかしミズオがうろたえることはなかった。

そのようなことをする前に、圧倒的な衝動が彼の余裕を吹き飛ばしたのだ。
衝動の名は、食欲という。

辺りは見渡すばかりの領域が透明の液体に満たされ、ゆっくりと流動している。
その流れに乗って、透き通ったモヤモヤとしたものが僅かに伸縮しながら動いていた。
時折ボコリと気体を発するそれは、透き通った藻が丸まったかのような球体である。

目の前を通り過ぎるそのモヤモヤとしたものを見た時、ミズオは稲妻に打たれたかのように、己のうちで湧き上がる何かに揺り動かされる。

(―――――――――ッッッ!)

ドアを拳で乱打するような衝撃が体の内より発せられる。
彼に声帯があれば血が出るほど咆哮していただろう。しかし彼に喉は無く、ぽっかりと空いた口がパクパクと開閉するだけだった。

衝動はミズオの感じたことがないほどの強さで彼を突き動かし、ミズオは無意識のまま、流れゆくモヤモヤとしたものを目で追った。
ミズオの思考は千々に乱れ、はっきりとした言葉を思うことができない。

(――――――食べたい)

食欲は、飢餓からくるものではなかった。彼の身に飢餓を感じられるような高等な器官は無い。
もっと根源的な、それは本能とも言える物だった。

目の前のモヤモヤとしたものを食べなければならない。
そのことを、強烈な衝動をもってミズオは悟っていた。
生まれたばかりの小鹿が立ち上がるように。小鳥がその羽を広げるように。それは当然のように行わなければならないことだと、心底から思った。

(お、おお……! 俺は目の前のモヤモヤとしたものを食うぞぉ――――――ッ! うぉおおおおおおお!)

彼は目の前のモヤモヤへ、全身全霊、体の命じるままに齧りつこうとした。
しかしミズオの体に推力を得るための腕は無く、足も無く、あるのは尻尾のような一本の毛のみである。
ならばとばかりにミズオは勢い良く尻の毛を振った。

フリフリと鞭毛をくねらせて、液体を押して体を進め、もどかしいほどの遅さで、モヤモヤとしたものへと近づいていく。
辿りつくと同時、ミズオは精一杯口を広げてむしゃぶりついた。
彼の口だか穴だか分からない摂取口は、一息にそのモヤモヤを吸いこんで、ミズオの体の中へとしまいこむ。

途端体の中でそれは溶け去り、ミズオの体に活力が満ちた。

(――――――ッ! 旨い! 何という……ッ!)

それはとてつもない充足感をもたらして、味を感じる器官の無いミズオの体がぶるりと震えた。
まるで太陽を食べたかのようにミズオの体が熱くなる。

(お、おおおおおお!)

かつて無いほどミズオの体は満足し、興奮し、彼は感動した。
思考の中で幾度も光が明滅し、ミズオはその不自由な身を捩って歓喜する。

―――――――これほど素晴らしいものがこの世界にはあったのかッ!

その感動は彼のすべてを吹き飛ばす。
ミズオの考え方や、ミズオは過去までも。

無視しあう家族。
薄っぺらい付き合いの友人。
意義の分からない学校。
あれこれと浮かぶ色のない風景――――――かつて己が生きていた場所への未練。

もはやあの場所に戻りたいとは思わなかった。
人に戻りたいとも思えない。
確かに小さき身になったようだが、これほどの感動を感じられるなら逆に礼を言いたい。

(この感動を、もっと味わいたい!)

彼は生れて初めて己の内に強い欲望を感じた。
厭世気味であったミズオという名の人間はもはや消え失せ、ここにあるのはたった一つの細胞だった。

体がモヤモヤを望んでいる。アレから得られる感動を求めている!

ミズオはモヤモヤを探して辺りに目を向ける。
その行為はミズオが考えた結果でもあり、体が求めている物でもあった。
というのも―――――――

(体が……軋んでいる…!)

この体は、常時大量にエネルギーを流出させていたのだ。
足りなくなったエネルギーを補うために身を削り、自らの体積を減らし、徐々にミズオの身は縮んでいた。
ミズオの体はエネルギーを求めてモヤモヤを食ったのだが、一つ食べただけでは僅かな効果しかないようなのだ。
焼け石に水とは言わないが、それに近い程度の影響しかない。
なんとも脆く、死にやすい体だろうか。

だがこの感動、決して逃してなるものか。
もっと、もっと食べるのだ。
あの感動を、食らうのだ。

(今度はあのちょっと大きいモヤモヤを食べる! 俺は全部食べるぞ! うぉおおおおおおおおおおお!)

ミズオは叫び、夢中になって鞭毛を振り、一直線にモヤモヤへと迫る。
しかしこの液体に満たされた領域に居る生き物はミズオだけではない。か弱きミズオが生きられる世界は、他の生物にとっても優しい環境なのである。
そして彼は単細胞生物であり、多くの生き物は、彼にとって脅威であった。


目前の液体が揺らめき、目指していたモヤモヤが一口で食べられてしまう。
周りの水を巻き込んで大きな口が閉じられ、ミズオの体は翻弄された。

(なんだあれは!?)

食べた生き物はミズオの5倍以上はあり、ゾウリムシに良く似ていた。
違うのは二つの目玉とクワガタのメスのようなアゴを持っていることである。
巨大な姿は、まるで悪夢の具現のようだった。

ゾウリムシもどきが、体に生えた無数の毛をさざ波のように動かし、ミズオに近づいてくる。

(――――――――危険だ!)

ミズオの本能は一足飛びに結論をはじき出した。
逃げなければならない。彼我の大きさは熊の前に放り出された子犬の如く。あの大きなアゴはミズオの柔らかい体を苦も無く引き裂くに違いない。

ミズオは慌てて鞭毛を繰り、体の方向を転換する。
しかし振り返り切らない内に、ゾウリムシもどきの毛が彼の体を撫で、ついで尻をぶちりと齧られた。
追いつかれ、ゾウリムシもどきのアゴにやられたのだ。

(や、やめろぉ! こいつッ!)

痛みは無い。
しかし体の一部を失うのはとてつもない喪失感だった。
先ほど感じたような焦がれる程の衝動と対を成すような、底なしの恐怖である。

残念ながら、機動力は完全に向こうが上だった。
どうすることもできず、ミズオは恐怖に身を捩りながらその身を齧られ続ける。

(やめろ――――――ッ! うぉぉぉ……!)

その時、ゆらりと今まで背景であった空間が動いた。

(ッ!?)

辺り一面の液体が動き、激しい乱流が生まれる。
ミズオとゾウリムシもどきは別々に押し流され、ミズオは乱流の中で柔らかいモヤモヤへと衝突する。それはクッションのように彼を優しく受け止めた。
本能に従い夢中でモヤモヤを貪るミズオの視界で、乱流を起こした何かは蠢き、その光景、背景に巨大な亀裂が生じたようにさえ見えた。
空間が二つに割れたかのようなその光景に、ミズオは戦慄する。
その亀裂は、どう見ても大きな口だったからだ。

ゴォオオオオオオオ――――――――………・・

(大きすぎる……!)

耳も無いのに、海鳴りが聞こえるようだった。
巨大な口はさらに巨大な体が動くついでに、辺り一面の液体を飲み込んだ。
ミズオを齧っていたゾウリムシもどきが巻き込まれてその口の中に消えていったが、きっと飲み込んだことにすら気が付いていない、それほどのサイズの差があった。
巨大な口は閉じ、その生き物は乱流を巻き起こしながらどこかへと泳いで去って行く。
どれだけ遠くへ行っても、その大きさを「大きい」としか認識することはできなかった。

偶然飲み込まれなかっただけのちっぽけなミズオは、ただ呆然とそれを見送っている。
こうして生きているのは、ただ運が良いだけだったのだ。
乱流は収まったというのに、ミズオの震えは止まらなかった。




[34356] 細胞フェイズ2
Name: 大豆◆c7e5d6e9 ID:1d79d764
Date: 2012/08/04 12:54
巨大な生物が去った後、周囲に危険そうな生き物がいないことを確認し、ミズオは一息ついた。遠くの方にぼんやりと見えるたくさんの巨大な影は、気にしたら負けである。
それらの巨大な影は上下左右に見え、背景のようにぼんやりとかすみ、近いのか遠いのかもわからない。ゆえに気にしても仕方ない。
齧られた体はいつの間にか治っていた。
つくりが簡単なうえ、新陳代謝が速いのだろう。
『命』は相応に使われており、体は小さくなっていたが。


何故思考できるのか、何故見えるのか。
ミズオの頭ではぼんやりとしか考えられなかったが、自分の状態を不思議に思う。
見ることも考えることも相当の処理能力を求められることくらいは知っていた。
己の身は下等な生物のそれである。
つくりの簡単なこの身に、そのような器官、すなわち脳があるとも思えない。

しかしそれらは気にしても仕方がない。
何故自分が思考できるかなど、人間の時も理解していなかった。
そのようなことより、生きることについて考えた方が良い。
例えば……なぜこんなにもモヤモヤは美味いのか。

(うめぇ……脳汁出るわ……)

ミズオはモヤモヤを口にし、溢れ出る感嘆に身を震わせた。涙腺があれば涙は流れっぱなしだろう。
まぁ結局、何故美味いのかも分からないのだが。



モヤモヤから得られるのは感動だが、生きるためのエネルギーも得られる。
無心に食べ続けていると、ある時そのエネルギーの充足が限界を超えた。
ミズオの小さな体に収まりきらないほどのエネルギーが貯まったのだ。

(お? おお?)

モヤモヤを食べることで体にエネルギーが満たされ、体の縮小は止まる。
では、過剰に食べるとどうなるか。

破裂したらどうしようかと思っていたが、杞憂であった。
破裂する代わりに、体がぐぐぐ、と膨張したのだ。

(うぉおおお………ッ!?)

消化したモヤモヤの命を使い、瞬く間にミズオの体は二周りも三周りも大きくなった。
それに伴って眼球や、鞭毛も大きくなる。
エネルギーが体に飛躍的な成長をもたらしたのだ。

体の大きさに合わせて視界が広くなる。見渡せる場所が増え、ミズオは気づいた。


―――――――俺を食おうとしたゾウリムシもどきと、同等の大きさになっている!


正確にはまだまだこちらが小さいが、先ほどの絶望的な差から考えると渡り合える可能性が出てきたような気がする。
しかも体の感じからして、食べ続ければさらに大きくなる可能性は高い。

(勝てる……! これで勝てるぞ…! うぉおおおおおおおおおお! ……ウマイっ!)

ミズオのフードファイトが今始まった。



**************************************



体が大きくなることに伴って、見えるものが多くなった。
今まで認識できていなかった物がこれほど多かったのか、と思えるほどである。

水中に縦横無尽と張り巡らされた数珠繋がりの節状の生き物。
その隙間を縫うように流れるモヤモヤの群生。

成長によって眼球が色を見ることができるようになっており、モヤモヤが緑色であるということをミズオは知った。
緑色は光合成を行う器官の持つ色である。ということはモヤモヤは小さな植物なのだろう。そういえば、藻のようにも見える。

そしてモヤモヤを食べたり押しのけたりしながら泳ぐ生物たち。
ミズオの知る微生物と違い、彼らは総じて目玉を持ち、外界を映像として認識しているようだった。
見たところ、生物はモヤモヤを食べる「草食生物」と動物を食べる「肉食生物」の二種類に分けることができる。

前者は鞭毛やヒレなどを多く備えていて足が速かったり、棘などの自衛のための手段を持っていたりする。
彼らは酷く臆病で、近づくとピャッと反応し素早く逃げていくのである。
後者、肉食生物は獲物を食べるためのアゴやクチバシを持ち、獲物の自衛手段を突破するための武器を備えている場合もある。
ミズオを襲ったゾウリムシもどきはこっちである。
どちらとも判断できない個体もいたが、それはさておき。

これらに比べると、鞭毛だけのミズオはなんと弱弱しく、カモになりやすい存在であろうか。
しかしミズオは思考することができたし、人間として学んだ知恵と、経験があった。
それだけで、生き抜くには有利なのである。
肉食生物と言えど近づかなければ襲ってこないことに気がついたミズオは、周囲に気を配り、他の草食動物を見習って他の存在が近づく前にさっさと逃げることにした。
戦う必要はない。体を成長させるのに必要な時間とモヤモヤを確保できれば、いずれは大きくなってこの水中で優位に立つ生物となれるだろう。
ありがたいことにモヤモヤの密度はかなり高く、大きくなってエネルギーをさらに欲する体の欲求を簡単に満たすことができた。

モヤモヤを次々と食らってミズオはかなりの勢いで体を大きくし、大きさがゾウリムシもどきを追い抜いたころ。
不思議な物体と出会った。

それは細長い物体であった。

(何だコレ……分からないけど……欲しい……!)

久しぶりに衝動を強く感じた。残念なことにモヤモヤを食す感動は食べるごとに薄まってきていたのだ。
しかしこれほどの衝動の強さ、初めてモヤモヤを見たとき以来である。
体が明確に欲するそれを、ミズオは躊躇わずに吸いこんだ。
えも言われぬ天上の喜びがミズオを襲った。

(ぁああああああああッ!)

自分の意思とは無関係に、鞭毛がぶるぶると痙攣している。

(こ、これは―――――)

体が細長い物体を吸収した途端、情報が思考を埋め尽くした。
閃光のような情報の奔流が、何度も何度も襲い来る。

(これは……生き物の情報……ッ!)

ミズオが口にしたのは細胞の奥に大事にしまわれているはずの、生物の情報を刻まれた物体の、大きな塊のようであった。
死んだ生き物の染色体がバラバラにならずに残ったものだろうか。
それがミズオのDNAへと転写されたのだと、体の奥底が発する熱をもってミズオは確信した。
モヤモヤのエネルギーと同じく、これも体が欲しているのだろう。
衝撃の強さから言って、こちらの方が優先されるのかもしれない。

とはいえ、ミズオの体に変化は起こらない。
体が欲していたのなら、変化が起こっても良いのに。

(………まだ足りないということだろうか…………ん?)

気もそぞろに泳いでいたためだろうか、ゾウリムシもどきが近づいているのをミズオは見落としていた。
彼の横をミドリムシのようなちいさな生き物が凄い勢いで泳ぎ去ったことでミズオが周囲に気を向けた時、すでにゾウリムシもどきは逃げられない距離まで近づいていた。
ゾウリムシもどきは眼球をくるくると動かせ、アゴを開閉しながら近づいてくる。

(なんッッ……!)

必死に鞭毛を振って逃げようとするが、やはり速度は向こうが速いようだ。
簡単に追いつかれ、尻を齧られる。

(こ、こいつ……! 簡単に行くと思うなよ! あの時の俺じゃないぞ!)

事ここに至って、ミズオが何もせずに食われる訳が無かった。
素直に差し出してやるほど彼の命は安くない。

(こっちが逆に食ってやるぅああああああああああああああああ!)

心で絶叫しつつ、体を捩って振り返る。体が大きくなったためか、相対しても怯みはしない。
アゴを開いてこちらの横腹を食い破るゾウリムシの頭にこっちも喰いつく。
ゾウリムシもどきの表皮も柔らかく、歯のないミズオでも簡単に齧る事が出来た。

(いける…!)

身を捩る相手に、ミズオは気炎を吐いた。
ミズオの方が体格は有利だが、向こうは武器の鋭さがある。
動き回り身を齧り合うミズオとゾウリムシもどき。
泥仕合であった。

(この、クソ! いい加減に……!)

勝負を決めたのは、徹底して同じ場所を狙ったミズオであった。
先に敵の体内へと到達し、何がしかの器官を傷つけた時、ゾウリムシもどきは動きが遅くなり、やがて止まった。
力なく浮かぶゾウリムシもどきの繊毛が流れになびき出す。

しかしミズオに勝利をかみしめる余裕は無かった。
ミズオの体も今まさに死にゆかんとしていたからである。

(ぬ、あ…ああ……死にたくない……!)

目も前のゾウリムシもどきの肉片を食べるが、エネルギーを取り込めた気がしない。
流出するエネルギーの量はそのままで、体の傷は回復する様子を見せない。
代謝の限界が来た――――どこかでそう冷静に考察する自分がいる。
つまり、ゾウリムシとの戦いはきっかけで、彼を脅かしているのは彼の寿命なのだ。
小さな体に見合った、短い一生が終わろうとしている。
しかし、とても納得できるものではない。

(死にたく、ない………ッ!)

生への執着がミズオの体の見知らぬ器官を揺り動かし、ミズオは表皮を高速で震わせて音波を発した。

ォオオ―――――――ン……!

それは呼び声。
同属を呼び寄せ、命を紡ぐための機能である。

…………ォォォ―――ン……

遠くから、同じ音波を発する影が近づいてくる。
ゆっくりゆっくりと動く影は、死にかけのミズオの前で止まった。
眼球でミズオをじろじろと観察してくる。

(な、なんだ…?)

その個体はとても自分に良く似ていたが、ミズオの持っていない器官をもっていた。
両目の上にチョウチンアンコウのような、光る球体を触覚の先にぶら下げていたのだ。
他にも鞭毛が二本あったり、ミズオより少し小さかったり、些細な違いはいくらでもあった。

その個体は、やがてふい、とミズオから意識をそらし、傍らのゾウリムシもどきの死体に気がついた。

『!?』

驚いた気配がテレパシーのように伝わってくる。
個体の頭の上にある光る球が激しく明滅していた。その気配がまるで女の驚いた声のようだ。

(なんだ? どうなっている……? な、おい! やめろ……!)

困惑するミズオに目の前の個体(メス?)から管が伸び、ミズオの体に突き刺さる。刺さった管がミズオの中を探るように伸びていく。
ミズオは訳が分からず、ほとんど動かせない身を捩る。
何故か知らないがテレパシーで喜びの感情が伝わってきて、それがミズオをさらに混乱させる。

『…ッ! …ッ!』

管からは何かが送り込まれてきた。まるで命の塊のような、凝縮されたエネルギーを感じる。
ミズオは唐突に悟った。

(まさか……子孫を残そうとしているのか……?)

―――――こいつは死にかけの俺を使って、子をなそうとしているというのかッ!?

一瞬目が見えなくなるほどの怒りを覚えたミズオだったが、すぐにその感情はしぼみ、納得だという感情が体を支配しだした。

(もうすぐ死ぬんだ……次世代に何か残せるなら、それも良いかもな……)

少なくとも、自分が生きたという証は残るだろう。
短い間とはいえ必死に生きた。何も残さずに死ぬよりは少しだけ慰められる。
諦めとともにミズオはそのように思ったのだった。

そう思うと、透明な管を通じてミズオの体の中に何かを送り込んでいる彼女が少し愛しくなってくる。
鞭毛で軽く体をさすってやると、テレパシーを通じて嬉しそうな感情が伝わってきた。

(せめて強い子であればいい…)

何かを送り込んで来ると同時、ミズオの体も勝手に何かを送り返していた。
二つは同じものであり、また違う物でもある。そのようにミズオには感じられた。
まぁ死ぬ運命にあるこの身に何をしようが勝手である。


―――――――カチリ。


送り込まれたものが、何かを送り出して出来た隙間にはまり込む。
欠けていたピースが埋まり、ミズオの体が震えた。

(―――ッ!?)

突如として、ミズオの思考に情報の奔流がやってくる。
さっき感じたものの何倍もの長さと密度である。

(………い…ぎ…ッ!)

『…!』

目の前の個体も同じものを感じているのだろうか。その身を捩り、テレパシーで苦悶の感情を伝えてくる。
その個体の体が、見る見るうちに変化している。
額から二本の角が生え、鞭毛が抜け落ちて代わりに吸盤のような物――――――それは移動に使う物だとミズオには分かった――――――が生えた。
そしてエネルギーを大きく消費したかのように、その身がとても小さくなったのだ。

そしてその変化はミズオにも同じように起こっていた。
額を突き破り、白いとがった骨格がにゅ、と突きだす。攻撃に使えそうな頼もしい存在だ。
色々とお世話になった鞭毛は抜けて吸盤もどきが生える。
違うところがあるとするなら、額に生えたチョウチンアンコウのような器官――――おそらく思念の送信器官―――が生えたことである。
さらに言えば、先ほどまで感じていた寿命の終わりを感じなくなった。代わりに、まるで生まれたてのような爽快感を感じる。

(何という全能感……ッ!)

ずいぶんと小さくなった身で、ミズオは理解した。

―――――さっきのは、互いを進化させるための遺伝情報の交換か!

『…ッ! ……ッ!』
(うぉ、危なっ)

目の前の彼女はなぜかとても喜んでいた。角の生えた頭を振りつつ、尻の器官で動き回っている。
鞭毛の代わりに生えた吸盤のようなソレは、たわんで水を孕んだ後急速に縮んで中の水を押し出し、大きな推進力を得ることができる器官のようだった。
まるでクラゲの傘のような動きをするそれが二つも生えたため、ミズオの動きは大きく変化するだろう。
斜め後ろに付いたソレを片方だけ動かせば、旋回することも容易なはずだ。

(しかしなんでツノ…? 目の前の奴にも生えてなかったし……あ!)

ミズオの脳裏に先ほど吸収した細長い物体が浮かんだ。
どちらにも無い器官が身に現れた理由は、あれしか思いつかない。
なるほど、体が喜ぶはずだ。
その身を進化させるものなのだから。


とはいえ、目の前の個体がいなければ成しえなかった進化でもある。

額(?)に生えた送信機を使って感謝の心を伝えると、向こうからも嬉しそうな感情が伝わってきた。
互いに有意義な交配だったようである。
彼女はミズオの周りをフワフワ泳ぎまわって嬉しそうにツノとツノをぶつけると、やがて名残惜しそうに去って行った。
互いにまだまだ弱者であり、固まって行動することの無意味さを知っているのだろう。
モヤモヤもたくさんあるとはいえ有限だ。

ミズオも少々の寂しさを覚えつつ、納得した。
そして思う。

(ひょっとして、童貞を捨てたことになるんだろうか……)

それとも処女? などとくだらないことを思いつつ、ミズオはモヤモヤへかぶりつくのだった。




[34356] 細胞フェイズ3
Name: 大豆◆c7e5d6e9 ID:1d79d764
Date: 2012/08/04 12:55

ツノがあることで、ミズオの安全性は飛躍的に上昇した。
まずあっちこっちにいるゾウリムシもどきを牽制できるようになった。
向こうのアゴよりこちらのツノの方がリーチが長く、一方的に攻撃を加えられるのだ。
無双状態だったので調子に乗って、突き殺してしまったりもした。

追いかけられても吸盤もどきをもつこちらの方が足が速い。
割と安心してモヤモヤを食すことができるという訳だ。
そして未だにミズオの主食はモヤモヤであった。

(動物の体は食べてもエネルギーにならないな……旨くもないし)

ゾウリムシもどきの死体から顔を上げる。この身は完全無欠に草食であることをミズオは確信した。


さて、身の安全が確保されたということは行動範囲を広げても問題ないということである。



まずミズオの体は相当に小さいことが分かった。
一度巨大な生物に追われたのだがその生き物がどう見てもミジンコで、小学生の夏季休暇における自由課題でミジンコのサイズが1.5ミリ~3ミリであることを知っていた彼は、己の小ささを知ったのだ。
ミジンコがゾウならミズオはチワワである。
悲しくなるほどの戦力差がそこにはあった。

また、ミズオの体は排せつをしない。
得られる栄養はほとんどがモヤモヤ由来の物だったが、彼の体は全てを吸収してしまうようだ。
恐ろしい分解力、吸収力である。
さらに余剰エネルギーを即座に成長へと転化する柔軟な構造。
ありえない成長速度。
こんな生物は聞いたことも無いが、元々詳しいわけではないとミズオは考えないことにした。
人間の意識がある時点で今さらである。


そして同属のこと。
この(ミズオにとって)広い世界には、何匹かミズオの同類が居るようで、たまに見かけることがある。
大きさはさまざまだが最大でもミジンコの半分ほど。
例外なく思念を送る器官を備えており、むしろ持っていなかったミズオが少数派だったようだ。
一度交わったためにミズオの寿命はしばらく来そうになかったが、求愛(?)されて生殖行動もおこなった。
今度はこちらが管を突き刺したので無事童貞卒業である。相手の思念も女っぽかったし。
その時は自らの形態に変化がなく体が小さくなっただけだったので、どうやら常に何かを得られるわけではないらしい。


そしてこの世界。
ミズオの居る透明な液体に満たされた世界は、流れがあることから恐らく湖、もしくは海であると結論付けた。もしかしたらどこかの水槽だったり田んぼだったりするかもしれないが、少なくともミズオが一生懸命泳いでも、行き止まりは見えない。
それにそんなことを探るより、自分の体を大きくする方が先である。


そして細長い物体について。
あの時見つかったのは珍しいことなのだと、ミズオは思い知らされていた。結構な領域を動き回っているがあれ以降一つしか見つかっていないのだ。

その一つを見つけた時は狂喜し、すぐに食べ、その味に酔いしれた。
それ以降は交配してないので、どんな形質変化が起こるかはお楽しみである。
細長い物体はゾウリムシもどきを殺してみても出てくることはなかったが、大きい生き物を殺してみるのはどうだろう、とミズオは考えている。





ゆるゆると移動しながら、進路上にあるモヤモヤを一口で食べる。
極上の味に恍惚となっている間に、エネルギーが満たされた体が大きくなる。

(相変わらず……素晴らしい味だ……)

もうずいぶんと大きくなった。
ミジンコの5分の1ほどだろうか。
ミジンコは二枚貝のような甲殻に覆われているが頭は丸出しであり、そのへんを突いていけば対抗できるに違いない。
そう思える程度には大きくなった。

最初にゾウリムシを飲み込んだあの大きな影はミジンコと比較するのが馬鹿らしいほど大きいので、この領域に限ってもまだまだ先があるのだが。


『マザー』と出会ったのはそんな時である。








『マザー』はミズオの同属を産卵をしているところだった。
『マザー』は大きすぎて、生まれた時からある壁だと思っていたのだが、体が大きくなってきて、どうやら生き物らしいぞ、ということに気がついた。それぐらい大きかったのだ。

ミズオと『マザー』はカブトムシとフェリーくらいの体格差があったのでミズオを認識するのが大変だったようだが、その眼球の周囲を泳ぎ回ると気がついてもらえた。
巨大な体躯は薄緑色で、扁平な体に、四本の手足。その姿は、明らかに地上へ適応している。

『マザー』の姿は、蛙に良く似ていた。というか蛙の形を知らなかったら、絶対に全体像を予測できなかった。

ミズオにはその存在が産みの母であることが分かった。
本能に記されていたのだろうか。

『マザー』の体の下からポコポコと透明なチューブ状の物が排出される。タラコのように無数に詰まった粒は、ミズオの数十分の一というサイズだったが、どうやら卵のようだった。
ミズオもあれから生まれたのだろうか。

“前に生んだのはずっと向こうだ。こんなところまで来てしまったのか”

対比的に胡麻以下の大きさのミズオに気づいた『マザー』は、最後にぷりん、と卵を出すと、ミズオに思念を送ってきた。
器官が見えないだけで、機能は保持しているらしい。

(ぐぅ……っ!)

感情だけでなく、言語を受信するのは頭が割れそうだったが、成長していたミズオの体はなんとかそれを受け止めることができた。
成長していなければ、廃人になっていたかもしれない。
『マザー』は大きな瞳を寄り目にするようにミズオを見る。送られてくる念は、とても温かい物だった。

“我の足では一跳びだが、その体では相当な長旅だったろう。我の体の上で休むと良い。我もしばらく休むことにする”

『マザー』の体を定規にすることでようやく分かったが、ここはどうやら浅瀬で、マザーは体の半分を水上に出して産卵していたらしい。
休むために『マザー』はのっしと体を沈め、背中まで水中に入れたようだった。
ミズオは言われるとおりに、『マザー』の前足のあたりから超頑張って登り、彼にとっては鳥取砂丘のごとき広さの『マザー』の背へと登って行った。

ミズオの体のつくりは簡単で、エネルギーの塊であるモヤモヤを食べていれば体を休める必要は無いのだが、長い行動は精神的に来るものがある。
つまりとても疲れた。

マザーの背は近くで見ると細かな毛が生えており多くのモヤモヤが絡まっていた。
動かずして大量のモヤモヤを食べることができる環境は天国のようだ。

むしろ喜んでミズオはその天国へ飛び込んだ。





(おお、これは凄い……!)

見渡す限りモヤモヤがある。
モヤモヤの増え方は分裂であり、毛に絡まったまま増殖することでこのみっしりとした天国が作られたのだろう。
しかも、モヤモヤを食べ続けてきたミズオの目から見ても、このモヤモヤはその身に含むエネルギーの密度が違う。

水上から差し込む光を受けて、モヤモヤたちがゆらゆらと揺れている。
心なしか、瑞々しい様子だ。
『マザー』の背は、モヤモヤにとっても素晴らしい環境なのかもしれない。

(いただきます!)

被りつこうとした時、ミズオを制する念が送られてきた。

“―――ォォォォオオオオオ……ン!”

(これは……威嚇しているのか!?)

激高した感情の念で、ミズオが送られてきた方を見やれば、ミズオと同属の生き物がいた。
その体は、ミズオをはるかに凌駕し、ミジンコの5倍ほどもある。念の送信器官は持っていたが、ツノも吸盤もどきの推進器官も持っていなかった。

“ウォアッ! ァアッ!”

男性のような印象を受ける念には、僅かに言語の切れ端のような、唸り声のような物が付随していた。
『マザー』の念を受けていなければ、頭が痛くなっていたかもしれない。

(ここは俺のテリトリーだって言いたいのか?)

そう思いつつ、ミズオは鼻で笑いたい気持ちになった。
これほどたくさんあるモヤモヤを食べるのは相当に苦労するだろう。
未だ小さい自分たちには心配するのも馬鹿らしい話だ。食べる速度よりも分裂する速度の方が抜群に速い。

(自分のテリトリーを主張するならせめて、『マザー』の体の100分の一くらいにはなっとけよ)

構わず、ミズオはモヤモヤを口にした。
うまい。最高だ。今までのモヤモヤの中で二番目に旨い。もちろん一番目は最初に食べた時だ。
これは思い出補正がかかっているので、実際には栄養価は今食べた物の方がダントツだろう。

一口でエネルギーは充足し、ミズオの体は一回り大きくなった。額に生えた二本のツノが、逞しく太くなり、吸盤のような器官もその傘を広く分厚くする。

(うまい! うますぎる! やばいッ!)

その喜びが念として漏れていたのだろうか。『マザー』の念が送られてきた。

“ふふ、それほどまでに旨いか。我の体も軽くなって良い。存分に食べてくれ”

がっつく自分を知られたことにミズオは恥ずかしくなりつつも、見守られているという充足感を強く感じた。
これは多幸感だろうか。

(ここは良いところだ。マジで天国じゃないか)

とても幸せな気持ちでモヤモヤを食していたのだが、不意に水の揺らぎを感じる。

“ォォオアアァアアッ!”

こちらにさっきの同属が近づいてくるところだった。進路上にあるモヤモヤを掃除機みたいに吸い込みながら泳いでいる。
かなり怒っているようだ。さっきよりも興奮している。
しかしその速度は遅い。推進器官が鞭毛しかないからだろう。

(こんな環境のいいところに引き籠っているとこうなるよ、といういい見本だな)

突っかかられても鬱陶しいので場所を離したが、ミズオがモヤモヤを食べ始めるとまた威嚇しながら近づいてくる。
どうやら、この同属はこの領域にミズオがいることが気に食わないらしい。

(こんなに広いってのに、器の小さい奴だな。旨い物を分けあう精神を持とうとか思わないのか…?)

少し食べただけだが、ミズオの体も随分と大きくなっていた。もう目の前の同属とほとんど変わらない。
それほど旨く、ということはエネルギー量が高い。

(そのわりに、こいつの大きさはこのままだな……)

もしかして、この辺が成長限界なのだろうか。

(いや、でも俺たちが『マザー』から生まれたことを考えるとそれはない。体を大きくする条件なんかがあるのか?)

そう思いつつ、ミズオはもう一つモヤモヤを口にする。
ミズオの中で何回目か分からないエネルギーの収容限界が訪れ、体が大きくなった。その大きさは同属の大きさを凌駕する。
成長限界だという予想は外れた。

(まさか……!)

ミズオは仮説を思いつき、同属の姿を見た。その体が、微妙に膨張と縮小を繰り返しているのを見てとり、確信する。

(こいつ、とっくに寿命なんじゃ……)

寿命が訪れている体を、エネルギーをとり続けることによって無理やり延命しているのだろう。
失念していたが、いくらいい環境とは言え、一匹で引き籠っていたら寿命の短いミズオ達はすぐに死んでしまう。

こういう時どうすればいいか、ミズオは経験者なので知っていた。
遺伝情報の交換である。

(……仕方ねぇな。男っぽいからちょっと嫌だけど)

微生物になったとはいえ、少なからず人間のころの価値観は受け継いでいるのである。
嘆息したい気分でミズオは近づいていく。
しかし同属は逃げる。
近寄れば近寄るだけ。
何故逃げるのか。こっちだって別に助けたいわけではない。見過ごせないから仕方なくやっているのに。

“おい逃げてんじゃねぇよ!”

念を送ると、相手がびくりと震える。いつの間にか声を送れるようになっていたらしい。
そうこうする間に、相手のからだはどんどん縮んでいく。

“あ、おい、もうチョイ頑張れ! というか逃げるのをやめろ!”
“…ゥゥゥ!”

ここにきて、分かった。こいつ怯えていたんだ。
激高していたのも、始めて見る同属がミズオだからだろうか。
下手すれば他の生き物が居ることさえ知らないのかもしれない。

(……なんか疲れるな…)

このまま死なれるとアホみたいだ。ミズオは推進器官を動かしてぶつかるように体を密着させ、体内から伸ばした管を相手に突き刺した。

“……!??? ゥァァアアア、ゥオォアア!”

(考えて見れば、これって無理やり処女を奪ったようなものか。しかも相手は男……深く考えてはいけないな。うん)

人工呼吸みたいなものだ。やむを得ないのだ。

先にミズオの情報を渡し、次に相手の情報を受け取る。
あまり期待していなかったが、受け取った途端ミズオの体が震え始めた。

(うぉおお! マジか! コイツ遺伝子情報持ってやがったのか! うぎぎ……!)

喜びと共に、苦痛に襲われて、ミズオの体が作りかえられて行く。
ギチギチと体の内部構造が変化し、エネルギーがごそっと削られる。
内部構造の変化は外見にも作用した。
眼球の下辺りの皮膚の構造が変化し、筋肉が変容する。筋肉の機能を備えた、別の物になってしまったかのような感覚だった。

(え、凄くね?)

試しに力を込めると、目の下がエネルギーと引き換えに電気を発する。目の周りが光るのでほとんど見えなかったが、ミズオの体長ほど前に伸びて拡散したようだ。まるでバリアーのように。
エネルギーを凄く消費するし、静電気以下のしょっぱい電圧だが、無いよりはある方がいいに決まっている。

“うぉお! マジか! やべぇ! 電気来た! マジお前ありがとうな!”

テンションが高いままにお礼を言うと、ミズオと同じ姿になった相手からも返事が返ってきた。どうやら相手も文章を発信することができるようになったらしい。

“このっ! けがらわしい! 失せろ!”

ブルブルと震えて激昂している。生き残れてうれしい、という感情ではないらしい。

(助けたんだからお礼とかないのかよ)

別に礼を言われるためにやったことではないのだが、言葉を交わせるという喜びが一瞬で霧散した。

新たに角を手に入れた相手が、振りかざして威嚇してくる。
同じような体格と武装で、襲いかかられたら流石にヤバい。こんな引き籠りに負ける気はしないが、危険がないわけではなかった。

“失せろ! 失せろッ!”
(なんだよ……)

一応同族で、自我もあり、意思の疎通もできる。だというのに、話にならない。
ため息をつきたい気持だった。

“分かったよ。出て行くよ”

なんだか疲れていたので、マザーの背中から離脱する。通り道にあるモヤモヤを食べながら進んだので、背中から出るころには、すでに交配で消費したエネルギーを補充し、元の大きさに戻っていた。
出ていくとき、頭の中に声が響く。

“ままならないな”

悲しそうな、『マザー』の声だ。先よりも受け取るのが簡単になっていた。脳の構造が複雑化したのだろうか。

“なぁ”

思わず、ミズオは念を送っていた。声が届くかは知らなかったが、声をかけずには居られなかったのだ。

“…ん? もう声が送れるのか? 最近の子は成長が早い”
“婆さんみたいなこと言うなよ。俺はミズオっていうんだ。あんたの名前は?”
“…名を聞かれたのは、初めてだ。いや、昔は私の名を呼ぶ同属がいたか……”

『マザー』は懐かしそうな声を出すと、ミズオの質問に少し嬉しそうに答えた。

“名は忘れたが、そうだな、マザーと呼んでくれ。私の息子”
“俺のことはミズオッて呼んでくれよ母ちゃん”

ミズオは笑いながらそう念を送り、“また会おうぜ”と言って背を向けた。
背後からは温かい念で諾の返事が帰って来た。




さて、これからどこに行こうか、とミズオが適当に行き先を決めようとした時だ。

まだ大して離れていなかったマザーの足元で、一斉に卵の孵化が始まった。
小さな体で一生懸命薄い透明な膜の卵を突き破り、数千、数万の同属が、ちょろちょろと出てくる。
健気な様子に、ミズオは思わず嬉しくなった。口があったら微笑んでいただろう。

“生まれたか。……健やかに育ってくれ”

慈愛に満ちたマザーの念が届いてくる。
マザーは己の体を僅かに揺らし背に乗せているモヤモヤの群生をふり落す。背にモヤモヤを乗せていたのは、この時のためだったのだ。

子供たちのサイズはミズオの100分の一ほどしかない。自分がよくぞここまで大きくなったな、と感慨深くもなるがそれ以上に、頑張って大きくなれよ、と応援したい気持ちが湧いてくるのだ。
彼らは周囲に落りてきた緑色のモヤモヤに気付き、必死に、嬉しそうに齧りつく。
その様子がまた微笑ましい。

だが、すぐにミズオの喜びは吹き飛んだ。
数万はいるであろう同属の子供たち。その向こう側の水が大きく揺らいだからだ。

“…!?”

マザーの足元から急激に伸びあがったその姿は、まるで蛇のようであった。マザーの体の半分はある。
長い体が波打つように水中を滑り、瞬く間に産まれたばかりの同属たちに到達。蛇は大きく顎を広げ、その口に生えた牙が押し出されるようにギュッと伸びた。

“や、やめろ! 食うな!”

ミズオはジェットを使って飛びだした時には、しかしすでに多くの子供たちが、その顎に食われてしまっていた。
蛇はガツリガツリと歯を打ち合わせ、逃げまどい水中に拡散している幼い同属たちを、周りの水ごと飲み込んでいく。
相手はミズオより何倍も、ヘタをすれば数百倍は大きかった。敵う筈がないと思いながら、しかしミズオは飛びだして行った。蟷螂の斧よりまだ無謀。だが、まだ生きている子どもたちを見捨てるという選択肢は浮かばなかった。

飛びだしたミズオの前で、また数百の子らが飲み込まれる。

“やめろぉおおおおおおおおおおお!”

ミズオは己の角を武器として意識した。この角で奴を突き刺し、殺したい。強く、強く殺意を持った。

強烈な、蠱惑的ですらある感情だ。ミズオの殺意に濡れた心は瞬く間に飲み込まれようとする。
意識が濁っていく。おのれが何か違う生き物に変わって行くような感覚。

だがミズオがその感情に飲み込まれる直前に、脳を揺さぶるような大音声が響く。


“――――――――私の子らを食うなっ!”


マザーの怒りの声であった。
ぎゅば、と水面を貫きマザーの口から赤い線が飛びだして、蛇の頭を貫く。赤い線は、マザーの舌であった。

蛇が縫いとめられた水底では砂利がもわりと浮き上がり、その靄からすぐに蛇が引き抜かれる。蛇は頭蓋を貫かれても死んではいなかった。
蛇はマザーにその体を巻きつけ、しかしマザーはそれに構わず蛇を貫いたままの舌を口に仕舞いこむ。
マザーがずるずると麺をすするように蛇をすっぽりと口に入れると、ゴキゴキと、恐ろしい衝撃がその膨らんだ頬から発せられた。ミズオに音を聞く器官があれば、蛇の苦悶の声が響いていたことを知っただろう。

数秒後、吐き出された蛇の頭は押し潰されて丸められている。水中に拡散する赤い血液が、蛇の死亡を決定づけていた。


“半分以上も食われたか…”


マザーの悲しげな声にミズオはハッと意識を戻した。あたりに居た同属たちは、大きく荒れた水流によって遠くに流れて行ってしまっていた。
残っているのはミズオのみである。


“ああ……”

マザーはミズオに気がつかなかったようで、嘆きながら、その姿を遠ざけていく。
瞬き一つの間に信じられない距離を離れていくマザーは雄大で、先ほどの自分の無力さがことさら引き立つ様に、ミズオは感じた。


(大きくなりてぇなぁ……)


そう、心の底から、ミズオは思うのだった。



[34356] 細胞フェイズ4
Name: 大豆◆c7e5d6e9 ID:1d79d764
Date: 2012/08/04 12:55



 水中には、様々なサイズの物がある。生物の最小の単位である微生物でも、その幅はとても大きい。
 ミズオが100倍のサイズになっても未だ微生物であることがその証だ。
 だが、大きさが変われば感じ方も変わるし見えるものも違ってくる。

 いつの間にか単細胞から多細胞生物になっていたミズオだが、彼を取り巻く景色は、単細胞の頃とは別物になっていた。

 体が小さい頃に見えていた、水中を縦横無尽に走っていた長い細胞は、太い支柱からわかれた細い髭のようなものだった。
 恐らく植物の根だ。太い主根と主根から枝分かれする側根、そしてその側根の表面から生えた産毛のようなもの。この産毛のようなものが小さなころに見えていたのだ。

 今のミズオなら、水面から水中へと世界樹のように突き刺さっている植物の根を認識できる。それは大きくなった体のお陰でもあり、立体視できるようになった眼球と脳の能力向上のお陰でもあった。
 だが恐らくこの根も、とても小さいものなのだろう。大きくなったとはいえミズオはミジンコサイズ。まだまだ『微』生物なのだから。


 主根と細い側根の隙間を流れるモヤモヤ―――恐らく藻かカビだろう―――は集まって群体を形成し、それが寄り添って大きなコロニーを作っている。
 ミジンコサイズのミズオであれば、その最小単位からコロニーまでを認識することができるが、人間であった時は、おそらくコロニーしか見れなかっただろう。

 小さい体からの成長の過程で、生物は己の大きさによって認識できる領域が全く違うということを、ミズオは身をもって知ることができているのだった。





 ミズオは体の後ろについたタコの吸盤のような器官をたわませて、思い切り縮ませる。

 内部に蓄えた水をいっぺんに押し出すことで生まれた推進力によって、ミズオの体は飛び出すように加速する。この移動用の器官のことをミズオは心の中でジェットと呼んでいた。
 そのくらい移動速度が速く、また加速するのは爽快だった。

 尻の位置、左右に二つ付いたジェットを時折動かして、慣性でゆるゆると進みながらミズオはモヤモヤを探していた。
 ミズオのサイズになると、そこらで漂っている最小単位のモヤモヤでは物足りず、群生を作っているもの出なければ欲求を満たせない。
 群生の集まったコロニーを見つけられたらこの上なく幸せだ。


 背面になったり側面になったりしながら気ままに泳いでモヤモヤを探していると、光が降り注いでいる場所を見つけ出し、ミズオは歓喜した。
 ミズオがいる池(?)は、その水面を何かが、恐らく藻のようなものが覆っており、強烈な光は水中へと届いてこないようになっている。
 だがまれに、隙間から光が差しているところがあって、その付近ではモヤモヤが旺盛に繁殖しているのだった。

 つまり、光が降り注ぐ場所ではミズオの食欲を満たせる可能性が高い。
 ミズオは喜び勇んで光の帯に向かって泳いでいく。
 光が差している場所では複数の根が水面から底へと水中を貫いており、複雑に絡まり合っているのだった。

 その根の隙間をくぐりぬけた光の帯が、根に引っかかっているモヤモヤのコロニーを照らしだしている。フワフワと揺れるコロニーは小さな泡を噴き出すほどの速度で光合成をしており、それはそれは美味そうなのであった。

 ミズオは一も二もなくコロニーにむしゃぶりついて、エネルギーとして吸収していく。
 大きなコロニーで、ミジンコサイズはあるのではないだろうか。しかも、見ていると急速に分裂し、体積を増やしていく。
 大事に食べればかなりの時間食べることができそうだった。

(ついてるぞ…! 最高だ! ……ん?)

 ミズオはさらに一口食べようとして、閉じようとした口を止めた。口の隙間からゴミみたいな大きさの生物が逃げ出していく。鞭毛でゆっくりと動くそれは、中々危険な範囲を離脱できないようだったが、ミズオは辛抱強く待った。
 それが、同属の小さな個体だったからだ。
 ミズオが来る前から同属の子が埋もれるようにしてモヤモヤを食べていたのだ。

 もっとも向こうとミズオはサイズが違いすぎる。懸命にミズオの口から遠ざかるその個体がよほど聡くなければ、ミズオが同属だと気付くことはできていないだろう。

 そこ個体はフリフリと鞭毛を動かして距離をとる。十分離れたと思ったのか、半分埋まりながらモヤモヤを必死に食べ、むくむくと成長していく。
 そんな同属を見ると、ミズオの心は温かいもので満たされていく。
 儚く、だからこそ必死に生きている同属を見ると無条件で応援したくなるのだ。

(頑張れよ)

 胸中で応援し、ミズオは周囲を見渡した。

 コロニーは他にもある。光が降り注ぐ範囲は非常に広く、根に引っかかったモヤモヤたちは急速に大きくなっていた。

(じゃあな)

 ずっと見ているわけにもいかない。ミズオは若き個体に別れを告げて別のモヤモヤのコロニーへと泳いで行くのだった。













◆◇◆◇◆










 ミジンコレベルの大きさを越えて、ミズオは成長していく。鋭い角とジェットの機動力、そしていざとなれば電気をくらわせることができるミズオは、割と気ままに泳ぐことができていたが、脅威がなくなったわけではない。

 むしろ彼はまだまだ小さくて、つまりは相当な弱者なのだ。敵対する微生物はまだまだ恐ろしい存在だし。認識の外からの出来事で、何が起こったか分からずに死ぬ可能性はいつもすぐ側にある。
 よって、その危険にミズオが気づけたのは、その危険がミズオに認識できるほど小規模だったというだけだ。

 ミズオにとっては、天を揺るがす大災害にも見えるような事態であっても。








 それは突然の出来事だった。
 兆候は衝撃。コロニーモヤモヤを食べるミズオの皮がビリビリとした衝撃を感じ取った。
 後に知ったが、それは水中を通過する大音量の衝撃であった。

 外皮を叩く衝撃に慌てて顔を上げ周囲を探ると、巨大な山が逆さになって水面の上から落ちてくるところだった。

(はぁああ!?)

 正確には、それは滑らかな山のような大きさの岩の塊であった。
 後々考えれば、それはウシガエルよりちょっと大きいくらいの、人間で言う拳大の石だったのだが、その時のミズオにとっては山以外の何物でもなかった。

 細かな塊と共に、その山が尖った先で水面を破り、水中へと侵入する。
 着水による揺れが一足早く周囲を駆け抜け、次いで細かな塊が泡の筋を残して水底へと落ちていく。最後に巨大な塊がゆっくりと、降って来た。

 絡まっていた根は押しやられ、巻き込まれ、視界一杯にその塊が落ちてくる。


 まるで、天地がひっくり返ったような光景。ミズオは唖然として見上げる他なかった。

 一体どう回避しろと。
 塊の端が見えない、大きすぎる。巻き込まれる根っこがなければ近づいてきていることにすら気づけないだろう。
 しかも、落ちてくる速度は、相当に早い……!

 絶望しかけたミズオを奮い立たせたのは、目の前を横切ろうとする同属の個体である。フリフリと鞭毛を振って必死に泳いでいる。流れるモヤモヤを自分も流されながら追いかけているのだ。

(……!)

 こいつはきっと、上から降ってきている何かを認識できていないのだろう。
 だが、必死に生きているのだ。

(俺が諦めてたらだめだよな…!)

 己の内に闘志が漲るのをミズオは感じた。
 体が、燃えるように熱い。怖気づいた心が奮い立った。

 ミズオは即座に行動を開始する。まず目の前で泳いでいる個体を口に含んだ。
 大きくなったミズオには、口腔内が形成されており、口に含むという行動が可能になっていたのだ。

 次いで、ミズオはジェットを限界まで膨らませ、一気に収縮させた。爆発的な加速。重い毛布のように感じる水を額の角でかき分けて、先へと進む。
 水の抵抗で減速する前に、さらにジェットを動かして、底へ底へと潜っていく。

 絡み合う根の側根を潜り、ここら一帯で一番太い主根に沿うように一直線に下りていく。
 背後では、ゾリゾリと主根を押しのけながら塊が落ちてきていた。

(急げ……もっとっ!)

 激しく稼働させるジェットに過剰な負荷がかかり、ピシリと亀裂が走るのを感じる。
 だが、休ませることはできない。

(ジェットがぶっ壊れたら、身をよじってでも泳いでやる!)

 気合とともに動かすと、収縮したジェットの傘がひび割れて破れる。
 大丈夫だ。一つ壊れてももう一つがある。

 それにもうすぐ水の底が見える―――――見えた! くぼみだ、くぼみはないか!?

 残り一つのジェットを酷使しながら、ミズオは目を皿のようにして水の底を凝視する。
 一つ見つけた。だが、やや遠い。

 間に合うだろうか。
 弱気な心が囁くが、今はただ、全力を尽くすのだ。


(うぉおおおおおおおおお!)


 背後から、巨大な質量が降ってくる。ジェットで噴き出した水が跳ね返ってくるほどの至近距離。


 二つ目のジェットが壊れるのと、ミズオが最後のスパートをかけ終えるのは同時だった。
 ミズオは滑るようにくぼみへと進み、しかしあと一瞬足りなかった。

 質量が、巨大な重さがずしりとミズオにのしかかり、体がくぼみの縁へと押し付ける。

(ギィ……ッ!)

 ぐちゅる、とミズオの体の下半分が押しつぶされた。
 反射的に開いた口から、保護していた同属が吐き出される。

 急に変わった視界に驚いたのだろうか。その個体はウロウロと泳ぎまわっていたのだが、やがて漂うモヤモヤを見つけ、近寄っていく。

 マイペースな奴め、と苦笑する余裕もない。

 ものすごい勢いでエネルギーが流れ出していく。

 ミズオの体が簡単な造りをしていて良かった。そうでなければ死んでいた。
 だが、半身が潰れて平気なはずもない。生きるためには、下半身と多くの器官を切り捨てなければならいだろう。やり方は本能的に分かった。

 体はかなり縮んでしまうだろう。エネルギーの消費もばかにならない。

(……いいさ。こいつは守れたし、俺も生きてる)

 体に痛覚がないのが幸いだった。エネルギーを大量に浪費しながら、ミズオは半身を置き去りにして、体を分離させる。
 ひょうたん型だったミズオの体は、豆電球のような形態へと姿を変えることとなった。

(……思った以上にひどいな)

 改めて確かめてみると、被害は甚大だ。
 移動に使う器官を失ったため、体に表面に生えている繊毛で、亀のように動くしか移動手段がなくなった。
 細胞小器官が大量に失われ、吸収効率も激減しただろう。生命を維持できるかどうかも怪しい。

 だが、生きている。
 確実に死んだと思ったが、なんとか生きているのだ。

(またやり直しってことだな)


 まぁすぐに大きくなってやるさ、とミズオは嘯き、目の前を流れていこうとする小さなモヤモヤを大切に吸い込むのだった。





[34356] 細胞フェイズ5
Name: 大豆◆c7e5d6e9 ID:1d79d764
Date: 2012/09/27 21:32
 『ソレ』は驚いていた。
 今起こっていること――――首に牙が食い込んでくる――――が容易に信じられなかったからだ。

 『ソレ』は無敵であるはずだった。生来に持つ無類の毒。
 爪も持たず甲殻もない姿をしていたが、極彩色の体は、見る物に警戒を呼び起こさせる。
 どのような生き物でも『ソレ』に触れれば死に至る、ということを悟るはずだった。

 事実、『ソレ』は産まれてから今まで何ら危険に晒されず生きてきた。他の生物たちは触れただけで死にゆくのだから。
 やがて近寄る生物は少なくなり、己より動きの遅い者を捕食して過ごす日々であった。

 このまま生を謳歌することができるはずだった。
 だが今『ソレ』は深々と首を噛み抉られ、毒の混じる紫色の血液を盛大に噴き出している。口の端から紫色の泡を吹く『ソレ』の体から、温かさが急速に流れ出して行く。
 力無く足を動かすが、己に噛みついている何者かを押し除けることはできなかった。

 まさか己に噛みついてくる「阿呆」がいるなんて。

 最後まで驚愕したまま、一つ熱い吐息を吐いて『ソレ』は意識を手放した。




 『ソレ』の死因は上げるとすれば想像力の欠如。飢餓に見境をなくした肉食生物がいるということを想像することができていれば、また違った結末が訪れていただろう。

 意識を失くした『ソレ』の首から口を離し、内臓を貪り始めるのは四足の獣であった。毒を浴びて俄かに動きを鈍くしながら、ただただ空腹を満たせることに喜びを感じている。

 獣の牙が『ソレ』の中枢神経を抉り、『ソレ』の足が痙攣した。

 この捕食劇は水辺で行われている。震えた『ソレ』の足が偶然石を蹴った。直径10センチを超える石はごろりと転がり、水の中へと落ちていく。

 気泡を生じながら石は沈んでいく。その姿が見えなくなった頃、『ソレ』を貪っていた獣が頭を上げた。口の周りを紫色の血に染めながら天を見上げ、満足そうに息を吐いた。
 そして、体を蝕む毒によって力なく地に倒れ伏す。

 ふわりと辺りの草が巻きあがった。それが収まるとその場に動く者はなく、水に僅かな気泡が浮かぶだけであった。風がゆるりと吹いて、倒れた獣の毛を優しく揺らす。


 いずれの場所でも繰り広げられる命をかけた生存競争。生物は、タダ己の欲を満たすのみ。
 ミズオがこのステージに上がってくるまで、あともう少し。















 水に落ちた石は、水底に半ばめり込むようにしてその落下を終えた。
 石に捕らえられていた空気が泡となって、水底との隙間からこぼりと湧いて出る。落下の過程でこそぎ落してきた植物の根と共に、泡は水中へと拡散していく。
 それに乗りかかるように、ミズオが石の下から脱出してきた。

(た、助かった……)

 ミズオは幸運に感謝していた。豆電球のような姿態となった今のミズオの運動性能で、あの石の下から抜け出すのは労苦が過ぎる。

 日の光が届かない石の下ではモヤモヤの成長速度は遅く、それどころか死滅していくような有様だったので、空気の移動に乗じなければ割と死の危機があったのだ。

 だが石の下から出てきただけで、危機は去っているとは言い難い。生まれた直後ならともかく、今のミズオは体が大きいため燃費が悪い。早急にモヤモヤの群生を見つけなければ、体を保つのが難しくなりそうだ。
 現に今、ミズオの体は徐々に縮んでいる。繊毛を動かし、遅々とした速度で進みながら進路上のモヤモヤをひとつ残らず吸い込んでいるというのに、体は縮むばかりであった。

 構造上、多細胞生物となったミズオが単細胞生物に戻ることはできない。
 ある程度以上まで小さくなってしまえば、待っているのは自壊による死である。

 だが危機感だけでなく、エネルギーさえ確保できればこの状態を打破できるという推測も、ミズオは持っていた。
 多細胞生物となった時の記憶がそう確信させるのだ。






 ミズオが単細胞から多細胞生物となったのはいつの頃だったか。
 時期は忘れたが、その時の感触は鮮明に覚えている。

 それは交尾による核情報の交換で生まれ変わった瞬間ではなく、モヤモヤを食している最中に起こった。

 最初は疑問に思った。その時、体がいつになくエネルギーを求めているというのにいくらモヤモヤを食べても体が大きくならなかったからだ。
 閾値を超えたエネルギーは、何故か体を大きくすることに使われず、体の中心に停滞する様子を見せた。
 成長限界に達したということなのかと疑問を持った時、体の奥底で、“ぷりん”と何かが弾けた。

 気づけばミズオの意識と体は二つに分かたれていた。ミズオは一つの意識でありながら同時に存在する二つの生命体であった。
 そして次の瞬間にはミズオの意識は片方死んだ。

 残された体がさらに分かたれ、それは様々な器官――――例えば目という器官になり、もしくは消化管となり、吸収したエネルギーを活動力に変換する器官になった。
 意識を死滅させたミズオの片割れが、残ったミズオの体の中で分裂して様々な機能に特化していく。


 そこには擬似的な死があり、誕生があった。あの何とも言えない感触は忘れようとも忘れられないだろう。そして直後に襲い来た飢餓感は己を内側から磨り潰すかのようだった。

 夢中でモヤモヤを貪り人心地ついた時には、ミズオはすでに多細胞生物となっていたのだった。







 あの時、食べても食べても体が大きくならず、己の中心、つまり核にエネルギーが集まる感触があった。
 現在食べても食べても体は大きくならずむしろ小さくなるばかりだが、あの時と似た感触がしているために成長が一つの節目を迎えているのだとミズオは確信している。

 ただ、エネルギーが絶対的に不足している。
 モヤモヤの群生……否、群生の集まったコロニーを見つけられなければ成長の節目を前にして、ミズオは死ぬことになるだろう。

 そしてミズオの前に立ちふさがる障害はエネルギー不足だけではなかった。
 体が大きい割に運動性能が低いミズオは、肉食微生物たちにとってみれば大きな餌でしかなかったのだ。

(は・な・れ・ろぉおおおおおおおおお!)

 気合と共にミズオは体内のエネルギーを発電器官に集める。
 器官は熱を発しつつエネルギーを電荷へと変質させ、ごく小さい範囲に放電現象を引き起こした。
 この間獲得した形質である。
 燃費の悪いこれに頼らざるを得ないほど、ミズオは追いつめられていた。

 パチリと静電気のような弱い光がミズオの周囲を走り、ミズオの体に取りついていたたくさんの微生物が、わっと離れていく。
 その数、30は下らない。以前戦ったゾウリムシもどきや、もしくは初めて見るような目玉だらけの姿の生物もいる。
 肉食微生物たちはこのゆったりと泳ぐ巨大な肉体に、我先にと被りつき、ただでさえ少ないミズオの生命を大幅に縮める一因となっているのだ。

 ミズオの体に生える細く短い繊毛たちでは、振り払うこともできず、逃げ切ることもできず、放電したのはすでに三回目である。
 放電で気を失った微生物もいるが、それ以上の数がまたミズオの体に集まってくる。

(ああ、くっそ! 食うな! こいつら…!)

 どうにも活路が見えなかった。
 エネルギーを大量に消費する放電でさえ、一時しのぎにしかならない。

(苦しい……)

 思考が徐々に霞んでいく。思考をするエネルギーさえ、満足に確保できなくなりつつある。

 しかも、視界の先で大きく水が揺れた。何かが近づいてこようとしている。
 無数の瞳をその体に張り付けた生物だった。

(ふざけるなよ…)

 胸中で愚痴をこぼすのさえ力が入らない。
 その目玉の生物は大きかった。ミズオを丸のみできるほどには大きい。不鮮明になっていく視界の中で、その生物が持つ数十の瞳が揃ってミズオを捕らえた。
 頑丈そうな顎が開かれ、辺りごとミズオを飲み込もうとしている。

(ああ、死にたくない……!)

 体を動かすための繊毛が無茶苦茶に動き、ミズオの体は不格好に水中で蠢く。必死というより既に致死。もう自分で何をしているのか分からない。

(ぁあああああ………っ!)

 そして理性より本能が勝った時、ミズオの体は音を発した。それはミズオが忘れ去っていた一つの活路であった。

 ビリビリと体の皮膚が震える。集まっていた細かな肉食生物たちが恐れたように離れる中、彼の信号が水中に拡散していく。
 最後の手段と言っても良い行動であった。放電よりもはるかにエネルギーを消費するこの行動は、己の寿命を縮めるだけで終わる可能性すらあった。

“………ぉぉぉぉぉっ!”

 だが、交尾の相手を探すその音は、遠くから彼の同属を呼び寄せた。
 溌剌とした声が脳裏で弾ける。



“ぉぉおおりゃあああああああああああっ!”



 ざわり、と周囲の水が動いた。
 風のような速度で一匹の生物が飛来し、体ごとぶつかるようにして目玉の生物に突き刺さる。額にある二本の角が目玉を抉り、傷口から奇怪な色の体液が噴き出した。

 その勢い、数倍はある肉食生物を弾き飛ばすほどである。目玉の化け物は痛覚でもあるのか、潰された目玉を庇うようにしながら身を震わせ、弾き飛ばされるままに逃げ去って行った。

“…………間一髪?”

 間を持って尋ねてきたのは、千切れる前のミズオと同じくらいの大きさの同属だった。得ている形質はミズオとほぼ同じである。興味深そうにミズオを見て、唐突に言った。

“前、君みたいな死にかけている人に会ったことあるよ。…同じ人?”

 どうだろうか。聞かれても分からないし、答える気力はすでに無かった。

“とりあえず、やることは決まってるね。なんだか、君はとてもいい物をくれる気がする”

 その個体ははしゃぐ様に言うと、体から細い管を出し、瀕死のミズオの体に突き刺す。多細胞となってもこの交尾の方法は変わらなかった。ミズオの体はオスであり、メスなのだ。

 ゆっくりと異物が体内に侵入してくる。代わりにミズオの情報も持ち出されていく。
 送り込まれた遺伝情報が、ミズオの体の中心で、ミズオの情報と結合する。

 変化は劇的であった。

(い……ッ!)

 体が軋み、ダイレクトにミズオという意識が焼き尽くされるようだった。生まれてこのかた、人間であった時も感じたことのないような痛みである。

 その痛みの裏で、変化は迅速に進行している。
 ギシギシと軋みを上げつつ、半分になっていた体が恐ろしい勢いで再生していった。遺伝情報を形にしようと、体の中心に貯め込んでいたエネルギーが一気に枯渇していく。熱された鉄板の上に落とした水滴のように。

 新たな器官を得ることはなかったものの、瞬く間に以前の体型を取り戻す。ミズオの尻には、愛すべき推進器官、ジェットの姿もきちんとあった。

 そして元の姿になったことで、ミズオはよりはっきりと自覚する。

(腹が……腹が減った……ッ!)

 体が変化のためのエネルギーを求めている。構造の簡単なミズオの体が、もう一段上の生物への変化を求めている。

“俺はッッッ、モヤモヤを食うぞ――――ッッ!”
“え、ええー…。お礼とかないのー…?”

 電気が出るー! と喜んでいた同属が、不満げに呟いていて、ミズオは慌てて居住まいを正す。

“あ、その節はどうも。しかし今はモヤモヤが先だ――――ッッ!”
“そうだね! 確かにおなか減った! うぉおっ! 藻が私を待っているッッ! じゃあねー!”
“おう、ありがとなー!”

 ミズオと同様、助けてくれた同属もエネルギーを求めて泳ぎ出す。二つの生き物は、競うようにてんでバラバラの方角へ泳ぎだし、邂逅は数十秒で終了した。
 いずれ、恩を返す機会があるといい。そう思いつつミズオは最後のエネルギーをふり絞り、モヤモヤの群生へと飛び込むのだった。



“………モヤモヤうんめぇええええええええっ!”















 本能のまま目に付く範囲のモヤモヤをミズオは食べつくし、ようやく彼の飢餓感は落ち着いた。
 満足感に浸りながら、同じ範囲に二匹いたならばきっとどちらかはエネルギーを満たせなかったに違いない、とミズオは思った。
 あの同属と自然に分かれたのは、その辺りのことを本能的にどちらも分かっていたのだろう。 ここまで成長した彼らに必要なのは、仲間ではなく、エネルギーなのだ。

 モヤモヤの完食から一拍の間を置き、体内に蓄えられたエネルギーが光のように弾け、体中を駆け巡った。


(……キタ…キタぞ……ッ! ぉおおおおおおおおおおおおおッ!)


 それは体を書き換えようとする、情報の嵐であった。
 最初に変化が起きたのは脳である。

 内側から無理やり押し広げるように脳が膨らみ、シナプスが生まれ、走り、結合し、新たな変化を受け入れる領域を作り上げたのだ。

 広げられた部屋に次々と放り込まれる新たな器官の情報。その制御方法。

 最初に作られたのは心臓であった。続いて血管。細胞小器官が複雑化することで内臓となり、それらと血管でつながった心臓が、どくりと拍動を開始する。

 次なる変化の兆しは、強烈な痛みであった。
 それは取りも直さず、体中に神経が生じたということであった。
 脳から伸びた中枢神経は血管に絡み付きながら、体の各部へと伸びていく。

 神経が通ると同時、骨が生成され、腱を介して筋肉と結合し、それらを覆う皮膚は多層化していく。外界と体内を隔てる頑丈な表皮。その下のクッションとなる真皮。
 それらにはポツリポツリと分泌腺の穴があき、穴から伸びる管は、体内にある内臓へと繋げられる。

 やがて神経は末端まで到達する。
 ミズオのひょうたん型の体からは四本の足が生えていた。胴体と区別のなかった頭部は前に伸び、くびれが生じて首となる。重たい脳を詰める頭部とバランスをとるための、尻尾も生えた。

(ジェットは……もう要らないな)

 考えが反映されたかどうか定かではないが、ミズオの尻にあった推進器官は皮膚に埋もれ、その痕跡を僅かに残すのみである。

 もはやそこに居るのは微生物ではなく、トカゲもどきであった。大きさ数センチとはいえ、ミズオは立派な陸上生物となっていたのだ。







 水面下から見る陸上は、希望が溢れているように見えた。しかし同じだけ、不安を感じてもいる。
 未知の世界に踏み出すのは、いつでも恐ろしい物だ。
 機能を上げた目で、背後をふりかえる。
 針の先よりも小さかったミズオが育ってきた水の中は、今も悠然と流れている。

(いつまでも、こうしちゃいられない)

 体の複雑化は、それを保つための必要エネルギー量を跳ね上げさせた。もはやミズオの空腹は、水中では癒せないのだ。
 ミズオは目線を戻し、上を見上げた。額の角が水面を突き破り空気に触れる。

(行こう)

 ざばり、とミズオは水辺に第一歩を踏み出した。急造された足が、その中の骨が、筋肉が、浮力から解き放たれた体の重さを支え、軋みを上げた。支えきれず体は地面へと触れ、腹の皮膚が寄れて裂ける。

(これが重力)

 その重み筆舌に尽くしがたく、一歩踏み出すだけで体がバラバラになりそうだった。だが迅速に、綻びた個所が蓄えたエネルギーで補填され、最適化されて行く。
 一歩ごとに筋肉は強靭になり、腹と足の裏は分厚くなり、体が地面に押し付けられることはなくなっていた。

 数歩歩いた時、肌が急速に乾燥していることに気づく。ピリピリと空気が刺すように感じた。
 原因は空から降り注ぐ光であった。見上げれば、どこまでも続く蒼穹と、天高く浮かぶ太陽が見える。
 目玉が潰れるほど眩しかった。

(あれが太陽)

 ミズオの肌の表面にある分泌腺が粘液を出し、膜を形成する。それは瞼のない眼球をも覆い、乾燥からの保護を約束した。

 そして、猛烈な息苦しさ。形だけ作られた肺が慌てて動きだす。内部に込められていたガスを吐血するような苦しさを持って吐き出し、その代わりに、ミズオの肺へと劇物のような空気が侵入してくる。

(これが空気)

 水の中と比べて空気中というのは、エネルギーを得るにはいささか毒性が強かった。一息吸うだけで体中がただれていきそうな毒の大気。しかしミズオの体は惜しまずにエネルギーを消費し、順応して行く。

 そうして十歩も歩く頃には、ミズオの体は陸上へと適応していた。



 ようやく余裕の出てきたミズオの目の前に広がるのは、彼の目の高さの数十倍はある背丈の草であった。その数十倍の高さの位置に色とりどりの花が咲き乱れ、花の向こうには天辺を見あげると霞んで見えるほどの巨大な木々がそびえ立っている。
 全てが大きく、ちっぽけなミズオを圧倒し押しつぶすかのようだった。

(これが……陸地…)
「ア゛-……」

 思わず発した声は、喉を痛めつけるようだった。
 しかも、始めて発した言葉は意味をなしておらず、ただの雑音の集合であり、意思疎通を図るにはいささか頼りのないものである。
 だが、これも練習すれば…順応できるだろう。

(……いっちょ、頑張るか。生きるために)

 気合いを入れてミズオは這い始める。

 まずは、何か食べる物を見つけなければならない。飢餓感は体を突き破って飛びだしそうなほどだったが、目の前にある草は恐らく硬過ぎて消化できないだろう。
 理性を失い、消化できないものを食べて消化器官を傷つける真似をする前に、柔らかくて美味しそうな何かを見つけるべきだ。

 ミズオはゆっくりと這い、やがてその姿は草々の陰に隠れて見えなくなる。


 その後ろでは、ミズオがあるとすら気が付けなかった大きさの四足の獣が毒を食らって屍を晒していた。
 ゆるく吹いた風が、辺りの草と共にその屍の毛を撫でていく。

 動く者がない空間に唐突に影が落ちる。落ちる影は急速に大きくなり、やがてそれは両翼を広げた鳥となって、その両足に着いた爪でがっちと倒れた屍を掴みこんだ。
 体を休めることもせず、羽毛を散らしながら鳥は羽ばたき、獲物を抱えて飛び立っていく。

 その際一声鳴いて、のそのそと草場を進むミズオを思い切りビビらせたのは、まったくの余談である。




 なにはともあれ、微生物としてのミズオはここで消え、新しいステージへとミズオは挑むこととなるのだった。










[34356] クリーチャーフェーズ1
Name: 大豆◆c7e5d6e9 ID:1d79d764
Date: 2012/08/04 12:56
 5cmほどに成長し、水から出てきたミズオは、這いずりながら少々嫌な予感を抱えていた。
 この陸地には、彼が食べることのできる物はないのではないかということだ。

 試しに齧りついた植物の茎は硬く、噛み切ろうとしたミズオの口吻は逆にダメージを負うことになった。結局食べることはできず逆に修復にエネルギーを使わされて、ミズオはますます飢餓を感じている。
 だが、彼を取り巻く環境はそう悪い物ではなさそうだ。

―――――ピェエエエエエ!

(うぉっ!?)

 突然甲高い鳴き声が辺りに響き渡り、盛大にビビってその音源を捜したミズオの目に、柔らかそうな赤い実が飛び込んできたからだ。

 赤い実はギザギザとした縁を持つ葉の根元に実っており、太陽の光を受けて艶々と輝いている。
 ミズオの心は一瞬で奪われた。

(何て美味そうなんだ…!)

 ミズオの口の中に消化液兼潤滑液――つまりは唾液―――が溢れてくる。ミズオの目にはもうそれしか目に入らない。
 背の低い植物といえどもミズオの口が届く範囲になっている訳ではなかったが、額の角を振り回して、葉を震わせ、何とか落とすことに成功した。

 とふ、と落ちて地面で柔らかく変形する実は、見るからに食欲をそそり、居てもたっても居られずミズオはぎこちなく舌で浚い、口に含む。
 くちゅり、と口の中で果皮が裂け、液体が漏れ出してきた。

(あ、甘い……!? 味が……!)

 進化したミズオの舌は味覚を備え、衝撃と共に陸上での初めての食物の感動を何倍にも増幅する。

 舌の上に溢れた果汁は、口腔をくすぐり喉を撫で、胃にじんわりと染み込んでいく。通った後が熱を持つ。
 これだけでも感動でミズオはどうにかなりそうだったのに、続けて果肉が舌の上で存在を主張し始めた。

 その僅かな硬さは一瞬で溶け、喉をかすかに押し広げながら、胃袋へ到達する。確かな重さが異に落ち着いた時、ミズオは今まで感じたことのない満足感を得た。

 そして何より実によってもたらされるエネルギーはどうだ。

 モヤモヤの持つエネルギーとは桁違いの密度と量で、ミズオの体は翻弄された。ミズオの四肢に力が漲り、たった一つの果実で生まれ変わったかのようだった。

(た、堪らない…ッ! 生きてて良かった……ッ!)

 脳みそが何か危ない物質を分泌しているかのように恍惚となったミズオは、涎がダラダラと溢れだしていたことに気が付き、頭を振った。
 そして見上げると、同じような実をつけている植物はまだまだあるのだった。何のことはない、ミズオが地面ばかり見ていて気がつかなかっただけなのだ。

(うおぉっ! 最っ高ッッ!)

 ミズオはその小さな体を一杯に使って、活力のままに飛び跳ねるようにして、その果実へと向かっていくのだった。








 陸上に適応した体はそれなりに複雑になったためか、エネルギーを充足するだけでは大きくなることはないようだった。
 水辺で起こった適応は、まだ変化が起こっている最中に自らはい出したためだったのだとミズオは結論付けた。

 だがこのままの大きさではあまりに小さい。

 そらを舞う鳥の大きさは比べることも馬鹿らしいほどだし、何より周りを囲む植物が大きすぎる。食べれる物が少なく、大きな生物が気づきもせずに踏みつぶすこのサイズでは、生きていくのはどうにも心もとない。

 エネルギーを満たすことで成長しないならば、もう一つの可能性、同属との遺伝情報の交換を試してみるべきだろう。

 よって早急に彼が行うべきことは、陸上に進出した同属を探すことである。
 多分、同じように陸上に上がった同属がいるはずだ。
 最後に交配したあの同属のような奴が一体だけというのはあまりに不自然であり、仲間の存在を、ミズオは疑っていなかった。
 そして活力は果実のおかげで体内に溢れんばかりでどこまででも探しにいけそうである。

一つ問題があるとすれば、先ほど発したミズオの声である。それは非常にガラガラとしており、しかも出せる音階が非常に少ないのだった。これでは言葉をしゃべるなど夢のまた夢である。
 テレパシーが通じるならそれでよし。最悪筆談で意思を伝えることを想定しておいた方がいいだろう。

 考えをまとめると最後に一つ実を齧る。
 脳髄が蕩けるような甘さと共に、体にさらなる活力が溢れ、前に進む意思が湧いてくる。これだから、この不自由な体でも生きるのを止められないのだ。成長は別にしても、寿命を延ばすという意味で、仲間を探すのは必須であった。



 気持ちの準備が整い、さぁ進もうという時だ。
 陸上にて、ミズオは初めて他の動物と遭遇したのである。








 それを見た瞬間、ミズオは体を硬直させて息を止めた。
 その生物のあまりの奇妙さに驚きと危険を感じたのである。
 ミズオの体は緑色を濃くした皮膚を持っており、それは背が低く地表付近に葉を広げる植物の下に居る現状、上手く擬態として働いてくれるかも知れなかった。

 ミズオが注意深く観察する先で、その生き物は口を寄せて果実へと噛みつこうとしていた。

 奇怪な形の生き物だった。不釣り合いに大きい頭はタコのようで、その下から生える四本の細い足は、触手のようにすら見えた。だが色は黄土色であり、その目は水中に居た微生物たちと同様、不自然に大きい。
 タコを10倍くらい情けなくしたエイリアン、というのがミズオの感想だった。生前見かけたら、捕獲して研究所に売れるレベルで奇怪である。

 バランスの悪そうな体型で、体の大きさもそう変わらず、戦ったら負けることはなさそうに見える。しかし四本の細い足をかさかさと動かして歩いてきた様子から、その生物は存外に機敏で、逃げられれば追うことは難しいということもまた分かっていた。
 戦う予定はないのでそれはそれでまったく困らないのだが。

 その生物だが、見たところあまり頭は良くないようである。
 さっきから届きそうで届かない場所にある果実目がけてぴょんぴょん飛び跳ねているからだ。その果実は最初に噛みつこうとしていた果実で、つまりこの生き物はここに来てから一つも食べることができていない。
 すぐ横に行けば簡単に食べられる高さに果実がなっているというのに、どうにも視野が狭いようだった。

 その間抜けかつ必死な様子を見て危険がないと判断したミズオは、のそりと葉の下から這い出した。
 しかしエイリアンもどきは動き出したミズオにもさっぱり気がつかない。

(危機感がなさ過ぎる……。こいつ、生きていけるのか?)

 思わず心配しながら、ミズオは近くの葉から果実を突き落とし口に咥えると、その生物に近づいていった。

 流石に至近距離に来れば気付くようで、エイリアンもどきは驚いて1cmほども―――ミズオにしてみれば結構な高さだ―――跳び上がる。
 着地した後硬直してしまったその生物の前に、ミズオはそっと赤い果実を置いてやった。
 そしてのそのそと後退する。

 その生物は挙動不審に目を泳がせ、果実とミズオを何度も見て、恐る恐るという仕草で、果実を食べる。

 途端、その細い足をふにゃりと折り、地面へと崩れ落ちる。どうしたのかとミズオが近寄ってみれば、その生物はなんと恍惚の表情をしているのであった。ミズオも経験したので分からなくもないが、エイリアンもどきが蕩けている表情は何とも奇怪である。

(なんだよ、焦らせやがって…)

 焦ると分泌液が多めに出てしまうらしい。無駄に分泌液を多く出してしまったミズオは、安堵に息を吐く。同情で実を進呈したのに、それで死なれたら後味が悪すぎる。

 ふとその頭に影が差し、見上げるとタコもどきがこちらを見ていた。
 同じ程度の大きさながらエイリアンもどきの身長は縦に長く、地面に這いつくばっているミズオと並ぶと上から見下ろされる形になる。
 なぜかその瞳が純真な光で輝いており、ミズオが微妙に引いていると、エイリアンもどきは口を開き、これまた奇怪な音を発した。

 体を揺らしてキュイギュイと謎の音波を発しつつ、その視線はミズオを一時も離れない。

(これは、もしや…)

 ミズオは悟った。恐らく、友好の証を示しているのだ。突拍子もない推測ではあったが、本能に刻まれているかのように、その想像はぴったりと当てはまった。
 これはさしずめ、友好の歌ということなのだろう。言葉による意思疎通ができない異種族同士、気持ちを示すならこれほど有効な手段も無い。

(そんなに嬉しかったのか)

 ミズオはほっかりとした気持ちになって、口を開く。友好の証を示されたなら、こちらも返さねばならないだろう。

 この喉では歌なんて高尚なものは歌えないが、向こうもそれは一緒である。エイリアンもどきの音の並びを真似して鳴いてやると、ミズオの声が非常に汚いにも関わらず、エイリアンもどきは飛び跳ねて喜んだ。

 そして、そのままぴょんぴょんと左右に体を揺らしつつ奇妙なステップを踏み始める。視線はやっぱりミズオに固定である。

(ダンス…か?)

 なるほど、これも友好の証だろう。そこまで仲良くしたいか。そうかそうか。

「良いだろう……俺のダンスをみろぉー!」

 テンションの上がったミズオもエイリアンもどきの動きを真似て踊りを返す。
 その瞬間二匹の心は通じ合い、友達だという共通認識が生まれた気がした。

(異種族交流……悪くないな)

 相応の運動をして疲労を感じつつも満足したミズオが目を細めていると、エイリアンもどきが歩き出し遠ざかって行く。
 ここでお別れか。寂しくなるな、等と考えていると、エイリアンもどきは立ち止り、こちらをチラチラと振り返ってきた。
 まるで、ついてきて欲しそうな様子である。

(どっか連れて行ってくれるのか?)

 特に行く当ても無いミズオはのそのそとエイリアンもどきの後を追い、エイリアンもどきは嬉しそうに跳ねると、かさかさと細い脚を動かしてミズオを先導するのだった。






 エイリアンもどきの胴体(というか頭)は四本の細い足で空中に浮いており、バランスは悪いが地形の凹凸にとらわれにくい。
 逆に腹ばいで移動するミズオは安定感はあれども、どうにも段差に弱かった。体の小さなミズオにとって、少ししか地表に露出していない木の根でも、この上ない障害となってしまうのだ。

“おーい、ちょっと待ってくれよナッツ”

 頭がピーナッツっぽいという理由で勝手に着けた名前を、届かないとは知りつつもテレパシーにして飛ばして呼びながら、ミズオは先を歩くエイリアンもどきに必死に着いていく。
 どれくらい歩いただろうか。ナッツが止まる。
 太陽の高さがそれほど変わっていないので短時間の移動のはずだが、無理して急いだミズオの疲労がピークに達しかけている。

 疲労したミズオの目の前でナッツが振り返り、何かを披露するように横に一歩避ける。

(おお……!?)

 そこにあったのは、ストーンサークルとでも言うべきか、小さな石で囲まれ、中に柔らかそうな葉が置かれた立派な巣であった。
 巣にはエイリアンもどきが他にもチラホラと居て、小さな個体や、巣の中心にはカタカタと揺れる卵も置いてある。
 卵は今にも孵化しそうで、今まさに数を増やそうとしているところのようだ。

 興味深そうにこちらを眺める数匹のエイリアンもどきを見ていたミズオだが、ナッツがミズオを押すように巣の中に招き入れ、食物をくれたため、なし崩しに食物を頂戴することになった。

 それは皮のやや硬い黒い果実だった。しかしその味はまさに天上の喜びをミズオにもたらした。
 内部に含まれるエネルギーは赤い実に負けず劣らず、味はやや苦みを残した乙なものである。

 至福の時間を過ごしたミズオだったが、しかしこの場所が他の生き物の巣であることを今さらながらに認識する。ナッツはやたら好意的だが、他のエイリアンもどきたちはやや遠巻きに見ているのだ。
 このままでは、突然やってきて貴重な食料を食べていった変な奴という印象しか残らないだろう。
 それは嫌だった。
 自己満足かもしれないが、初めて遭遇したこの生き物たちには良い印象を持っていてもらいたいのだ。
 美味しい実を食べさせてくれたことが、その気持ちに拍車をかけた。

(感謝と友好を示すには、これしかない…!)

 あいにく声には全く自身のないミズオだったが、踊りはまだまだ改良できる点があると踏んでいた。

 ミズオはキリリと気持ちを引き締めると、いざ、とばかりに、ステップを踏み始めた。ところどころで、自分の声で拍子をとりつつ、華麗に見えないことも無いステップワークを披露する。
 地べたを這いずるミズオが見せたとは思えないその動きに触発されたのか、エイリアンもどきたちも揃って踊り始める。生まれたての小さな個体ですら、たどたどしい動きを見せてくれる。

(これだ、これだよ! この一体感! 言葉なんていらねぇぜ!)

 テンションのままにミズオがフィニッシュのポーズを決めると、エイリアンもどきたちも各々好き勝手にポーズを決める。それは人間の頃からみれば失笑物のポーズだったかもしれないが、ミズオにとってはとても格好良い物であり、この時、確かな絆が生まれたとミズオは強く感じたのだった。

 心地よい疲労に包まれながら地面に腹をつけるミズオの周りでは、小さな個体がちょろちょろと走り回っている。リーダーらしき存在にもう一つ果実を勧められるほど、彼らは打ち解けていた。

「おお、すまんね……。うめぇ…ッ!」

 再び脳汁が溢れだすような美味しさに身を震わせていると、ナッツが巣の傍らで何かをしていることに気づく。
 そこには生物の死体が置いてあり、それはどうもエイリアンもどきにしか見えないのだった。

(何をしてるんだナッツ…?)

 同属食いかとちょっと引き気味に見ていたが、どうもナッツは食べているのではないようだった。
 ぐずぐずに崩れた仲間の死体の中から何かを取り出し、ミズオの方へと持ってきたからだ。

(これは)

 ナッツから差し出された物を見て、ミズオは衝撃を感じた。少しばかりの忌避感とそれ以上の感動で、体が震えるのを抑えられない。

 ナッツが咥えて持ってきたのは、微生物の時に何度か見た、遺伝情報の塊だったからだ。この生き物は、自分たちの遺伝情報をミズオへとくれようとしているのだ。仲間の死体を解してでも、相手の生存がより有利になるように、相手の子孫が少しでも長く生存できるようにしてくれたのだ。
 目を上げれば、ナッツは相変わらず純粋な光をたたえた目でミズオを見ていた。真摯にミズオを思う瞳がそこにはあった。

「お前…」

 存在しない涙腺が壊れそうになった。胸が熱い。

「こんな……こんな大事な物を……! ありがとう……!」

 ミズオは万感の想いを持って、渡されたそれを一息に飲み込んだ。その味、まさに凝縮された命の味であった。エイリアンもどきの生きた証を丸ごと貰ったような、溢れんばかりの多幸感。

 吸収された遺伝情報が乱流となってミシミシと脳髄を軋ませた。ミズオが交配することがあれば、この贈り物はきっと彼や子孫を助けるに違いない。

「ナッツ…っ!」

 この想いをどうやったら伝えられるだろう。衝動のままにミズオがナッツに頭をこすりつけると、ナッツもその長い頭を押し付けてくる。ナッツの体は細いながらも、確かな生命の鼓動を感じさせた。
 熱い、命の脈動であった。

 最後にもう一度踊りを見せあって、ミズオは彼らと別れた。
 同属を探しに行くのだ。ここのようにどこかに巣があるはずだ。

(この友情、決して忘れない……!)

 彼の集落を見つけた時、必ず彼らを招待して同じ行動を返そう。そうミズオは胸に誓い、どことも知れぬ己の巣を目指して這い出した。



 進んでいくうちに、やがて、聞きなれた音を聴覚が捕らえた。
 それはミズオの同属が交配相手を求めて肌を震わせる、あの音に間違いない。水中でなくとも、ミズオが聞き間違えるはずはなかった。

―――――近くに、同属が居る…

 ミズオは耳を澄ませ、やがて一つの方角を睨むと、そちらへ向かって一心不乱に進み始めるのだった。





[34356] クリーチャーフェーズ2
Name: 大豆◆c7e5d6e9 ID:1d79d764
Date: 2012/08/04 12:57
 空にあれば雲。地にあれば霧。
 その正体は空気に溶け切れなかった微細な水の粒である。

 小さなミズオの視界の中に細かな水の粒が無数に浮かんでいた。木々の隙間から湧き立つ様に、霧が忍び出てきて、見る見るうちにすっぽりと辺りが霧に包まれてしまったのだ。

 草木は濡れて、重くしだれた葉の先から、ぽつりと水が滴り落ちる。
 その横をミズオはえっちらおっちら、腹を土にこすりつけながら進んでいく。
 無数にある小さな水の珠が彼の体の表面でパチパチ弾け、ともすればその飛沫がぼやけた太陽の光によってキラキラと七色に輝いた。

 やがて足を止めたミズオは、不甲斐なさに悲嘆の息を吐いた。
 早く先に進みたかったのだが、湿った草の下を這い進むうちにミズオのつるつるとした体もすっかり濡れて、どうにも足が動かなくなったのだ。

 元来トカゲなどは外気の温度によって動くか動かないかを決める動物で、寒い日には岩の表面に張り付いて、太陽の光で背を暖めてから活動し始めるものもある。
 ミズオはトカゲの姿に酷似するだけで特別外気に左右されやすい性質ではないのだが、彼の身は冷たい露に濡れると途端にかじかんで動きを悪くし、ついには動くことが出来なくなった。
 己の、たかが霧に翻弄される小さな身が恨めしかった。

 もはや霧が晴れるまで動きだすことはできないだろう。
 太陽は既に高く昇っており、日の光で霧が晴れることには期待できない。風が霧を吹き散らすのを待つしかない。

 腹は満たされており、今すぐ死ぬことはない、とミズオは思う。
 見上げればぼやけた太陽が霧の中にその輪郭を浮かばせており、夜が来るまでだいぶ時間があることも分かった。

(焦る必要はない)

 同属の巣は目と鼻の先にあり、決して歩いて逃げたりはしないのだ。
 そう、己に言い聞かせるようにミズオは呟く。

 やりきれない気持ちは残っていたが、何の気なしにを視線を上げると、それは霧散した。
 霧に包まれた森の様子が、存外に美しかったのだ。

 濡れた植物たちが、その命を弾けさせるようにピンと葉先を張って、もしくは露の重さでしだれながらも果敢に立ちあがっている。
 その葉の裏では、クモのような小さな生き物がせかせかと足を動かして、何やら糸を丸めている。
 地面からは、ふやけた土を押しのけてミズオよりもだいぶ小さな芋虫みたいな生き物がちょっと顔を出してはミズオに驚いて頭を引っ込め、またそろそろと覗いてきたりして、ミズオの笑みを誘ったりする。

 とりわけ、向かいにある大樹がミズオの目を奪った。
 ぼんやりと霞んだ太陽の光が伸び放題に広がった枝葉を照らし、枝になったキンカンのような果実がテカテカと輝き、罅割れた木の幹は艶やかに露で濡れ、またはその途中にぽっかりと空いたうろから小さな芽を吹いており、根は地表辺りで濃くなった霧によって見えなくなっている。
 その威容、空に浮かんでいるようにさえ見えた。

「………ん?」

 枝に実っている一つの果実に、何やら黒い点のような物が張り付いていた。

 目を凝らすとそれには細い四肢があるのが見え、どうやら生き物のようなのだ。首のくびれや長い胴体など、見方によっては小さな人影のようにも見えた。
 その生き物はしきりに首を動かして実の付け根を齧っており、やがて実はぷつりと枝から離れ、すぐ下の枝で跳ね返って、その生き物ごと遠くへ落ちていく。そして根元付近で濃くなった霧に紛れて、見えなくなった。

 何だったんだろう、と思っていると、ミズオの体を撫でるような、嫌に冷たい風が吹く。
 直後、ズシン、と近くで音がして、ミズオは跳びあがるほど驚いた。

 ミズオのすぐそばに大きな何かが出現していた。肌色の何か。前後の長さはミズオの体の三倍はあり、片方は丸く、片方は四つに分かれている。硬そうだ。
 人の脚の出来損ないに見えた。爪のような物があるのだ。

(なんだこれ……!?)

 びっくりして硬直しながら、目だけ動かしてその何か(足?)の上の方を見ると、どうやらそれは上に続いているようだった。本当に足かもしれない。
 天へと続く柱のようになっている先には、霧にかすむ影が見える。太陽の光で浮き彫りになっているその影から、すい、と何かが伸びていく。
 霧をかき分けて進むその先端が、細く四つに分かれていた。

(もしかして、手か!?)

 子どもが描いたような、親指とそのほかの指の比率がおかしい、気味の悪い手であった。事ここになって、ミズオはこの横にいる何かは、とてつもなく巨大だということに気がつく。
 一気に分泌腺から液体が噴き出した。凍える様な悪寒を感じ、体が震えだす。

 延ばされた手は、ぐぐぐと下の方へと降りてきて、それは大樹の根元の辺りの霧溜まりへと突っ込まれる。
 そして霧を散らしながら、中から何かを拾い上げた。

 それはさっき落ちたキンカンもどきであり、ひっついていた黒い生物も一緒に摑まれていた。
 拾い上げるために少しかがんでいたのだろう、見上げたミズオは己の傍らに足を置くその巨大な何かの頭部を、影のシルエットとして見ることができた。
 その巨大な生物は、この森に立ち並ぶ木よりも小さく、そしてミズオの何十倍もあった。

 それはゆっくりと手を引き戻し、顔の近くに持っていく。ここまで来るとミズオも理解した。
 あの、絶望的に大きい手の中で暴れている黒い生き物は、キンカンもどきごと、これから食われてしまうのだ。
 その瞬間はすぐに来た。

 視線の先で巨大な生物が咀嚼する音が聞こえる。ぐちゅぐちゅと。ミズオは一歩も動かけず、ただ震えながらその音を聞いているだけである。

 やがて、ブッ、と何かを吐きだしたその巨大な生物は、風を巻き起こしながら足を上げて去って行く。ミズオには気がつかなかったらしい。
 巨大生物の行く先々から、葉の擦れる音と枝の折れる音が響いた。

――――――ォオオオオオ……ン

 地鳴りのような声を残して、すぐに見えなくなる。
 霧が巻き上がり、草木が揺れて、ミズオの体にピシピシと細かい水滴が当たった。

 己の皮膚を滴り落ちる分泌液が気持ち悪い。小さい心臓が張り裂けそうなほど、動悸が早い。

(この辺りは危険だ。巣の移動を考えた方がいい)

 また一つ、巣に行く理由が増えた。
 幸い、巨大な生物の移動に伴って霧がやや薄くなっており、これならもう少しで動けそうである。
 ミズオは逸る気持ちを押さえながら、体が温まるのをじっと待った。







◆◇◆◇◆







 同属の巣の位置はすぐに分かった。
 音に誘われて進んでいくと、重なった石の下の隙間に、積まれた石の壁が拵えてあったからだ。

 壁は低く、一応の仕切りの役割しか果たしていないようだったが、それで十分なのだろう。中には数匹の同属が居て、暗がりの中でもぞもぞしている。
 見たところ、同属はどれもミズオと同じような体をしていた。実を蓄えている場所と死体が集まっている場所があり、エイリアンもどきの巣ととても似ていた。

 同属の一匹が顔をあげてこちらを見る。
 ミズオが少々緊張しながら近づいていくと、幸い威嚇されるようなことも無く、のっそりと立ち上がったその同属が首を伸ばしてきて、ミズオの鼻先をペロリと舐めた。
 驚くミズオを見つめる同属の額が、発光した。水中に居た時テレパシーの送信機があった位置である。
 そして予想通り、テレパシーが送られてきた。

“なかま うれしい”

 だが送られてきた言葉はひどく間延びしていて、断片的である。
 疑問に思いつつ、ミズオは相手の鼻先を舐め返す。エイリアンもどきとの交流によって、基本的に相手がしてきたことは返すべきだと思ったのだ。

“ッ!”

 相手も嬉しそうにしているので、間違いではないだろう。舌から伝わってくる情報でこの個体が健康であることも分かった。交配するなら申し分ない相手だ――――という思考を自然としていて、相当染まってきているなぁと自覚する。
 とりあえず、こちらからもテレパシーを発する。

“俺も同属に会えて嬉しいよ。これからよろしく頼む。俺はミズオって言うんだけど、あなたは?”
“…? わからない おおい”
“多い? 仲間がってことか?”
“わからない はやい”

(あれ?)

 話が出来ない。
 送信器官の能力が違うのかもしれない。だが、次にゆっくりと言葉を送ってみてもどうも要領を得ない。
 はい・いいえの質問になら答えは返ってくるのだが、何故?という質問の答えが返ってこないのだ。

 思考能力に差がある可能性があった。
 他の同属にも言葉を伝えて見たが、どの個体も似たり寄ったりで、詳しい話ができそうにない。
 今までに出会った同属が、どれも話が通じそうな相手だっただけにミズオは少々混乱した。

(どうすればいい。あのでかい奴のことを伝えて、場所を移動することを提案しても、理解できるかどうか)

 これからどうすべきか迷っていると、巣の片隅でじっとしていた二匹がのそのそと動きだし、離れていく。
 その後には、卵が二個置いてあった。縞縞模様の、鶏卵のような卵だ。ミズオの体の半分くらいある。
 そういえば交配することも目的のひとつであった。

 しかし卵を産むということは次世代を生むということであり、ミズオはこれ以上進化できないということを意味する。

(いや、それでもいいか)

 ナッツから貰った物を無駄にしないためにも一度交配しておきたい、とミズオは考え直した。









 皮膚を震わせて交配相手を募集する際に、気を引くためのダンスも踊ってみることにした。自然界において交配相手を獲得するのは実にシビアな問題で、あの手この手を使わなければならないのだ。
 というようなことを考えて、いずれ困るかもしれないので試しにアピールしながら交配相手を求めてみることにしたのであった。

 トカゲっぽいミズオの短い足でステップを踏んでいると、近くに居た同属がとても興奮して尻尾を情熱的に振りつつギャアギャアと鳴きながら近寄って来た。

“すごい すごい”

 目にハートマークが浮かべているんじゃないかというくらいの勢いである。少々効きすぎたらしい。

“うん、まぁ落ちつけよ。な?”
“こうびっ!”






 生殖行動はあっという間に終わって、ミズオは卵を産み落とす。卵は一度に5つも産み落とすことができた。
 卵の生成によって体内のエネルギーがごそっと減ったのを感じる。5つも産めば当然だ、と思う。

(大事な物を失くした気分だ)

 痛くも気持ち良くもなかったが、喪失感を覚えるのもまた事実。
 人間の時の感性はさっさと捨てないとこれからも苦しむんだろうなぁと思っていると、ミズオの意識が急激にぼんやりしてくる。
 気付けば体に活力が全然残っていなかった。

(お、お…? え、寿命?)

 卵を産んだことで減ったエネルギーの減少が止まらない。気付かないうちに限界以上のエネルギーを放出してしまったらしい。
 体の内部が崩壊していくのが分かって、ゾッとした。筋肉に全く力が入らず、骨が自重を支えきれずにへし折れ、体どころか頭も支え切れなくなり、顎が土に落ちる。
 ミズオだけではない。見れば先ほど卵を産んだ二匹も、ミズオと交配した個体も、死体置き場に身を横たえている。

(マジか……!)

 寿命というよりも、次代を残して死ぬ種だということなのだろう。
 視界が急速に狭まって行く。
 ナッツにお返しもしてないのに、死んでしまうのだろうか。死んでも死にきれない。どうにかして仲間に託したかったが、テレパシーを送る力はもう残っていなかった。

(なんだよこれ…)

 最後の瞬間意識がどこかに引っ張られて行く感覚があり、ミズオは昏倒した。






 そして目が覚める。
 真っ暗な空間で、ミズオの意識は急速に事態を理解する。

(なんていうか……ありなのか?)

 簡単に言えば、己の生んだ卵の一つに転生したのであった。
 まるでミズオの意識を途絶えさせないために、誰かに操作されている気分である。
 それはミズオを微生物にした何かかもしれないし、違うかもしれない。
 考えても栓ないことだろうが、ミズオとしては少々引っかかる、

 しかし今はそれよりも、この己が作り上げられていく感覚を味わおうではないか。


 卵の殻の中の暗がりで、ミズオの体が、母体から託されたエネルギーを用いて急速に造られて行く。
 それは少しの痛みを伴いながら、発生の過程をたどるように、ただの原始的な細胞が、エネルギーを消費しながら微生物時代に酷似した姿を経て、脳・心臓・血管・神経・そして四肢を形作る。

 瞬く間に彼の発生は終了し、ミズオは産声を上げる時を知った。

 内側から殻を突き破り、ミズオは丸まっていた体を思い切り伸ばした。肺に吸い込んだ空気が、陸上に上がった時を再現するように、少しだけ痛い。
 だが美味い。

 胸一杯に吸い込むと、発生の名残で肺が造りかえられており、今度はさわやかな気分が胸を占める。
 力の漲る四肢、明晰に動く脳。世界はより広がりを増したかのようだ。

「うぉおおおおおおお………ッ!」

 己が生まれ変わったことを確信した時、ミズオは叫んでいた。それがミズオの産声であった。
 この世界に生まれ落ちたことがこの上なく嬉しかったのだ。目に映る全てが輝いて見える。
 赤ん坊が産まれた時に鳴くのは歓喜のためかも知れないと、ミズオは心から思った。


 そして体の変化はいっそ劇的であった。他の生物と見間違えるほどに。否、もはや別の生物であった。

 遺伝子がもたらす変化は、微生物の時よりも大きい。
 エイリアンもどきの遺伝子は足の進化をもたらしていて、関節が強固になったミズオの四肢は、重力に逆らって胴体を支持しており、そのため腹が地面から浮いていたのだ。移動速度が大幅に上がるのは、想像に難くなかった。
 さらに、交配していた相手も持っていた遺伝子のお陰か、尻尾の先には爪のような器官が出来ている。
 口には、小さな前歯が出来ていた。

 遺伝子に寄らない、環境に適応するための変化もあった。
 尻についていたジェットの名残は完全に消え失せ、代わりに尻尾が太く、長くなっている。首もまた同様で、長くなった足と併せて、体型はやせ細った馬のようだ。

 つるりとした緑色の肌と、額に生えた二本の角が前の姿の名残であった。力を込めると目の下辺りで電気が弾ける。発電器官も健在だった。

 一頻り変化を確認していたミズオだったが、やがて衝動が思考を占め始める。

(………食べたい…っ!)

 お馴染みの飢餓感である。
 目線は自然と巣の片隅に盛り上がるたくさんの果実に向く。
 駆け寄り、噛みつこうとした時、彼を押しのけるように貧相な馬モドキの生物が、それに噛みついた。

“うまっ! うまいっ!”

 テレパシーを四方にバラまきながら果実を食べるその個体は、客観的に見るのが初めてだったので気がつかなかったが、ミズオとそっくりであった。それがぞろぞろとやってきて、ミズオを入れて5体になる。ミズオが産んだ卵の数と同じだ。
 その他にも二匹、ツチノコみたいな形の生物がニュルニュル動きながら果実を貪っていた。

(俺たちは一代で急速に進化し、その方向は一つではない、ってことか?)

 適当に考えてみたが、だいだい合っている気がする。
 まぁ考察は後でいい。今は腹が減っている。それに見ろ。この淡い色の果実の、なんと美味そうなこと。

(いただきます………う、うまッッッ!)

 一度口に含めば、その芳醇な香りが口腔を駆け上り鼻孔を突きぬけ、頭蓋を乱打したのち脳天から飛び出していく。そんな感覚を覚えるほど、美味い。
 長くなった喉は滑り落ちる果肉を一秒でも長く味わう為にあるかのようで、胃袋は消化液を逆流させかねないほど、果肉の到着を待ちわびる。

 何より得られるエネルギーは、枯渇寸前であったこの身を内側から奮起させ、目をつむれば己が燃えあがっているかと思うほどであった。

 しばらく無心でモリモリと食べ、人心地ついたときはすでに果実が残っていなかった。仕方ない。それほど美味かったのだから。

 横でエフっと体内に溜まったガスを吐きだしている音がする。つまりはゲップなのだが、それをしたのはツチノコのような姿に進化した同属であった。

 もう見た目からして全然違う生物になってしまったが、交配をしようと思うと、できるような気がしてくるから不思議である。姿形は変わっても、きっと同属は同属なのだ。

 交配したら一体どうなってしまうのか、少しワクワクする。
 案外、元のトカゲもどきに戻ってしまうかもしれない。
 全く、我ながらおかしな生物である。


 何となく楽しい気分のまま、ミズオは空を見上げた。霧は晴れていたが、太陽は今沈もうとしているところであった。卵の出産から孵化までどれくらいかかったか知らないが、それほど時間はかかっていないという確信があった。
 何せ微生物の時は数十秒で終わった変化だ。およそ半日くらいだろうと見当をつける。



 とりあえず、交配で進化できて良かった。小さいまま、弱者のままで終わるより、ずっといい。

「これからどうしようか」

 口に出した声は、以前よりずっと聞きやすかった。喉も変化しているらしい。
 言葉としては成り立っていないが、以前の雑音の如き鳴き声と比べるとずっとましで、これなら歌も歌えそうである。

(……ナッツをここに招くのと巣を移動させること。とりあえずはこの二つはすぐにでもしたい。そしてできれば、他の種族とも交流して遺伝子を分けあいたい)

 ミズオはもっと進化したかった。どんどん大きくなって、いずれはあの巨大な生物に脅かされないほどの生き物を目指すのだ。
 その道筋も、見当がついている。

 やる気が体の内から湧いてくるようだった。

(そうだな、まずはナッツを迎えに行くか)

 ナッツはミズオの変化をどう思うだろうか。
 ビビってへたり込むかもしれない、とミズオはほくそ笑む。

「おっしゃー!」

 気合と共に方角の検討を付けて駆けだすと、長くなったミズオの四肢は力強く地を蹴り、体は風のように前へと進むのだった。



[34356] クリーチャーフェーズ3
Name: 大豆◆c7e5d6e9 ID:1d79d764
Date: 2012/08/04 12:57

 ミズオがいる世界は地球と異なる部分がある。特に動物は、地球のそれとはかなり違う。
 動物はその特徴から幾つかの世代に分けることができた。

 最初に発生した生物は、地球とほぼ同じ歴史を辿ってきた。この生物群を第一世代とする。
 生物の進化に異物が紛れ込んだのは、恐竜たちを絶滅させた隕石に含まれていた物質のせいである。
 それは多くの場合即座に分解されたが、ある一匹の原始的な微生物は分解される前のそれを取り込み、取り込んだことによって変化を起こした。姿かたちの変化ではなく、その遺伝子の変化だ。
 その変化によってその微生物は高頻度での分裂を可能にし、やがて分裂の過程で環境に適応することを覚え、果たして分裂した個体たちが多様な姿をとるようになる。分裂した個体たちは互いに交配し、さらに多様性を増しながら世界に蔓延る第一世代の隙間を縫うようにひっそりと、しかしじわじわと生活域を広げていった。
 この特異な微生物を始原とした動物群が、第二世代だ。

 そして第三世代。ミズオ達の世代。
 彼らは第二世代が産んだ子である。
 第二世代の生物たちは、計ったかのように同じ時期に子どもを産んだのだ。まるで遺伝子に予定表が組み込まれてでもいたかのように。

 第三世代が親から引き継いだ環境適応性能は著しく強化されていた。短時間に進化とも呼べる変化を起こすほど。
 その適応能力を除いても、第三世代は、生物として異常な能力を持っていた。

遺伝子を遺伝子として直接取り込むことを可能とする吸収能力。
取り込んだエネルギーを即座に身体構造へと反映させる栄養の変換効率。

 異常な成長速度の代償として寿命が極端に短かかったが、その欠点も近しい種と遺伝子を混ぜ合わせることで対処は可能であり、しかも遺伝子の混ぜ合わせによって、第三世代の生物はより上質な遺伝子を獲得する機会を得る。

 こと成長に関しては他の追随を許さぬ生物となったのだ。

 しかし産まれたての第三世代はこの上なく脆弱であった。
 様々な環境下にあった第三世代たちはあっという間に死んでいき、唯一生き残ったのは、適度に栄養がある、熱くも寒くも無い水の中で産まれた者だけだった。


 そして今。
 第三世代が、世界中の池から、湖から、川から、沼から、あるいは些細な水たまりから、多少の前後はあれどほぼ同時期に地上へ進出してきていた。
 体の成長に比例する栄養の不足を補うための新天地への進出であったため、彼らの体の大きさはほぼ同じだ。
 だが彼らはすぐに大きくなって、地上の生態系のピラミッドを上へ上へと登り始めるに違いない。

 これを受けて、今までゆっくりと変遷していた地上の生態系は激動の時代へと突入することになる。
 種の繁栄か、絶滅か。
 生存戦略と運が良ければ、生き残ることが出来るだろう。











 交配によって変化したミズオの体はとても軽やかで、空を飛ぶことさえできそうだと思った―――――のも今は昔。
 ミズオの息は切れ、体からは分泌液がダラダラと汗の代わりに滴り落ちていた。
 覚束ない足取りであっちにフラフラこっちにフラフラ、たまに蹴躓いて転びそうになるほどだ。

(た、体力ねぇな…俺……)

 スタミナ切れになるほどの激しい運動が可能になったということでもあるので、悲観すべきことではないのだが、現在苦しいことに変わりはない。
 もう少しでエイリアンもどきたちの巣である。息の切れたまま行くのも忍びない。それに着いたら着いたで、姿の変わったミズオもミズオなのだと説明しなければならない。おもに踊りで。
 ちょっと息を整えていこうと、ミズオは立ち止った。

 気づけば辺りを薄く闇が覆っている。
 夕陽の残光が木々の幹に深い陰影を刻み、地面に生えた草がサワサワと風に揺れている。だんだんと呼吸も落ち着いてきて、大きく息を吸うとミズオの体も森の織りなす闇の中に溶け込んでいくようだった。
 辺りにはぼんやりと粉っぽい土の匂いが漂っている。

(そういえば、鼻ができたんだっけ)

 同属との交配によって起こった変化はたくさんあるのだが、嗅覚の獲得もその一つである。
 自覚ついでに、ミズオはヒクヒクと鼻を動かす。
 草の青々とした匂いに、霧の残滓の湿っぽさ。緩やかに吹く風に混じってどこからともなく甘い花の香りが届いてくる。

 そして、その中には違和感丸出しの、ある意味で嗅ぎ慣れている匂いが混じっていた。


 カレーの匂いである。


(な、なんで……?)

 何故こんなところで香ばしいスパイス臭が。つんと鼻を指す懐かしい匂いに困惑していると、条件反射の如く胃袋が鳴った。

(どこから来てる…? ていうか、ああ、腹が減ってきた!)

 混乱もそのままに、ミズオは引き寄せられるように臭いの元へと歩いていく。

 柔らかい土を踏み、茶色くなった葉を押しのけ、枯れて乾燥した草を踏み越えて……

 進むうちにどんどんどんどん匂いは濃くなる。カレーの匂いだと思った物は今や刺激臭のように鼻孔を指す。
 ミズオはとうに正気に戻っていたのだが、ここまできたら正体を確認した方がいいと、会えて歩を進めていた。

 やがて赤い煙を目に捕らえて、ミズオはサッと血の気が引くのが分かった。

(ナッツたちの巣の場所じゃないか!?)

 もう、ゆっくり進んでいる場合ではない。ミズオは地を蹴り駆けだした。
 耳元を草々が通り過ぎ、足は硬い石か何かを蹴り飛ばし、沈みゆく夕焼けが最後の足掻きと、ミズオの行く末を照らしている。
 どうしても不吉な予感がぬぐえない。

 果たして巣に辿り着くと、そこには背伸びしたミズオの100倍はありそうな長い亀裂が地に刻まれており、シュウシュウと間欠泉のように赤い煙が噴き出していた。
 そして煙に巻かれたナッツたちピーナッツ頭のエイリアンもどきが、半狂乱になりながら、巣の内外を走りまわっているのであった。

「ナッツっ! ………ちくしょう!」

 目が痛みそうな酷い刺激臭の中、ミズオは煙の中に飛び込んだ。赤い煙は直に浴びるととてつもない激痛であった。彼の身を覆う分泌液の膜を軽々と突きぬけ肌を焼く。吸った煙が喉を焼く。
 まるで毒。

 赤い、まるで火の中に飛び込んだような景色の中で、ミズオは周囲を見渡した。何も見えない。

「どこだっ! ナッツ! 聞こえるかっ!?」

 聞いても理解できないとは分かっていたが、それでも叫びながら走り回る。
 ここはまるで地獄だ。一寸先も見えぬ濃度で毒の霧が立ち込め、そしてそれはどんどんと濃くなって行く。エイリアンもどきたちが悲鳴を上げつつ、狂ったように走り回る。

 横合いから飛び出してきたピーナッツ頭を蹴り飛ばしそうになって、ミズオは悟った。

――――――闇雲に探していたら絶対に見つけられない! 助けられないっ!

 何匹かは、すでに動きを悪くしている。時間がない。
 もう助ける策は一つしか思い浮かばなかった。
 ミズオは踵を返し、煙の薄いところまでやってきた。避難したわけではない。あの煙の中でしても意味のない行為をこれから行うのだ。

 ミズオは大きく大きく息を吸う。それは薄まったとはいえ煙を含んでいたため、彼の肺を焼き喉を焼き、大きすぎる刺激に血が滲みでた。
 でもそれぐらい構わないのだ。助けられなかった方が、きっとずっと後悔する。

 ミズオは叫んだ。口の端から血を流しつつ、全身全霊を込めて。

「――――――――――――ッ!」

 ビリビリと己の体が震えるような渾身の叫びであった。強化されている喉から出た叫びが、雷のように大きく響く。
 痛みに涙さえ流しながら走り回っていたエイリアンもどきたちは驚いたように跳び上がり、一瞬体の痛みを忘れたようにこちらを向いたようだった。

(こっちだ! こっちに来い! もしくは逃げろ! 俺を恐れて、遠くへ逃げろッ!)

 もう一度ミズオは吠えた。あるいは嘶いた。とにかく腹の底から声を出し、後ろの脚二本で立ち上がってさえ見せた。

 多くのエイリアンもどきたちは、交配で大きくなっているミズオを恐れて逃げだして行く。慌て過ぎて前のめりにこけた個体がわしゃわしゃと足を蠢かせ、なんとか立ちあがって駆けていく。

――――――これで恩返しになるだろうか。

 去っていく彼らを見つつ、ミズオは考える。結局こちらに寄ってくる奴はいなかった。ナッツも行ってしまった。ミズオの姿は丸っきり変わっているのだ。分かるはずがないのだ。仕方ない。仕方ない。

 ミズオは痛めた喉で咳をして、己も煙から離れるために踵を返す。
 途中、ナッツに取ってやった果実を見かけ、前より長くなった首で楽に届くそれを捥いで口に含む。
 得られる栄養は十分にミズオを満たしたのだが、あんまりうまくないな、とミズオは思った。













 エイリアンもどきの巣を跨ぐ様に忽然と現れた、赤い煙を噴き出す亀裂。
 その特徴的な匂いからスパイス間欠泉と呼ばれるようになるそれは、この後大陸中で散見されるようになる。
 生物に著しい悪影響を与える煙は、文明が発達して利用価値が分かるまで、生物を遠ざける毒霧と化し、生きる物は植物さえも枯れ果てて、スパイス間欠泉のあたりは不毛の土地と化していく。

 吐き出される煙の量は留まるところを知らず、やがてミズオの巣の方にもその香りが届いてくるようになった。何度か足を運んでその勢いを見たミズオは、煙が蔓延するのも時間の問題だろうと推測する。
 ミズオの鼻はその匂いに敏感になったようで、チクチクとした刺激を感じていた。

 今日も、ミズオはその匂いを嗅いで目が覚めた。陸上の体は脳が大きくなったせいか睡眠を必要とするようになっていた。
 だが寝覚めは最悪だ。匂いは日に日に濃くなってきている。
 なんだかナッツと楽しいことをする夢を見た様な気がするのに、一発で忘れてしまった。


 溜息を吐きつつ周りを見渡すと、ミズオと同じ姿の同属がさらに数を増やして7匹寝ている。元の姿のままだった同属も、ミズオが産んだ同属と交配して今の姿となった。
 ツチノコみたいになった二匹の個体もいる。その内の一匹が目を覚ましたようでテレパシーを送ってきた。

“さむい”

 体が冷えたのかぬるぬる這ってきてミズオの体に絡みつくツチノコもどきの鼓動を感じつつ、ミズオも立ち上がった。
 ぼて、と落ちるツチノコもどきを尻尾でくすぐりつつ、岩に降りた朝露をなめとる。
 小さき身ゆえ、それだけで喉が潤った。あの時負った喉の痛みはすでに回復している。

 ここは安全だ。岩に守られて外界からは見えにくく、水が毎朝露の形で供給される上に、周囲になっている果実の量も豊富である。
 しかしあのスパイス臭の煙が来たからには、ここに留まることはできない。
 無論煙だけでなく、あの大きな生物のことも危険と言えば危険なのだが、それほど心配しなくていいということが分かっているのでそれほど心配はせず、今日までじっくり準備できた。

 この日が来ることは分かっていた。今日まで準備してきたのだ。煙から遠ざかるルートの下見も済ませている。

 額に集中し、テレパシーを飛ばす。

“起きてくれ。そして飯を食え。食ったら出発するぞ”
“……? おう、たべる”

 テレパシーによって起き、もそもそと果実を食べ始める同属たちに混じって腹を満たした後、果実が無くなりそうなタイミングでもう一言、理解できるように告げる。

“出発する。ついてくるんだぞ”

“わかった”
“わかった”
“はらへった”

 簡潔かつ、ゆっくり喋られた言葉に反対する同属はいない。ミズオは彼らの中で一番賢く、必然的にリーダーを担う立場となっていたのだ。
 何匹か返事もせずに残りの果実を食べていたが、ミズオは一声鳴くことでそれらの意識をこちらに引くと、彼らも顔を上げる。
 もう一度ついて来いと繰り返して、巣を離れた。
 同属たちが、ぞろぞろと後ろをついてくる。


 ナッツのことは数日たった今でも夢に見るくらい胸にしこりとなって残っていた。
 しかしいつまでも引きずっている訳にはいかなかった。曲がりなりにも、仲間の命を預かっているのだ。
 頭を切り替えて、良い巣を作るために頑張ろう。

 まずは良い場所を探すのだ。そして、同属も探す。きっとミズオ達以外にも地上に進出した同属がいるはずだ。
 ミズオみたいに思考能力が優れた個体がいれば、色々とやりやすくなる。

(そんで、いつかナッツを招待してやる)

 あんまり吹っ切れていないが、それでも今はいいか、とミズオは思う。

 歩き出した先は、やがて木々が疎らになってきて、背丈20cmほどの草が一面を覆う草原になる。
 地平線の先で今まさに顔を出した朝日が、草原を染め上げ、それはミズオ達を歓迎するビロードの絨毯のようだった。

 空は高く、雲は疎らな晴天だ。強めの風で海のように草原が波打っている。遠くの山々にかかる雲がぽってりとして、なんだか旨そうだ。

(旅立ちには、この上なくいい日だな)

 曇っていた気持ちもなんとなく晴れるようであった。

“行こう”
“いく”
“いく”
“はらへった”

 一匹だけ、腹が満タンになっても腹が減ったと繰り返す奴がいる。ミズオは苦笑しながら、仲間と共に意気揚々と、新天地へ向けて歩き出すのだった。







[34356] クリーチャーフェーズ4
Name: 大豆◆c7e5d6e9 ID:1d79d764
Date: 2012/08/04 12:58
 ミズオ達が巣の場所を変えて一日が経った。
 下見で見つけた危険の少ないルートを進んだために巣の移動は問題なく終わり、新しい巣の場所も無事見つかって、腰を落ち着けたのが一昨日のこと。
 強行軍の疲労を和らげるために昨日は一日中果実を食べていたが、今朝起きて見れば体は軽かった。もう休む必要はないだろうと判断する。

 ミズオは今日からこの新しい巣の周りを見て回るつもりであった。
 危険があるなら発見しておかなければいけないし、未知の世界に対する冒険心もある。
 他の同属たちもそれぞれ好き勝手するようで、起きて早々食べている者もいれば、気ままに出かける者もいる。
 俺も好きなようにするか、とミズオは巣を飛び出した。

 新しい巣は、のたうつ様に地面へ姿を見せている巨木の根の下である。湿っぽいその場所から出て、ミズオは草原へと続く道を歩いていく。
 以前の巣から南下した場所にあるこの辺りは非常に食物が豊富であり、また隠れる場所も多いため、ミズオ達小さな生き物が生きていくには絶好の場所である。

 木々はまばらで巨木が多く、天を覆うように延ばされた枝からは日に何百と葉が降り落ちてくる。
 下に生える草々は落葉に埋もれながら、朝の淡い木洩れ日の中で尖った緑の葉をピンと伸ばしていた。

 地には茶色く枯れた葉が重なり、大変柔らかな踏み心地である。ミズオはフカフカの絨毯の上を歩いているような気持ちになった。

(ん?)

 その腐葉土に埋もれる様に一匹の生物が死んでいた。
 そのこと自体に感じることはない。
 人をやめて微生物になってからというもの、生と死についての考え方が変わってきている。己の死以外では、己の死を連想させる親しい者の生死くらいにしか、心が動かされることはなくなったのだ。生と死が身近にあり続けたためか、死体を見た程度ではいちいち足を止めたりはしない。
 この時は他にもっと気になることがあったのだ。

 死んでいる生き物はミズオ達と同じくらいのサイズで、カナブンのような光沢を持った昆虫だった。何も映していない複眼が、死んでいるということを確信させる。
 今いる場所は森であり、昆虫は珍しくないのだが、六本の手足を丸めるようにして倒れているその昆虫の体がどうもキラキラと淡く光って見えるのである。それが如何にも超常の現象で、ミズオの目を引いたのだった。

 ミズオは数度目を瞬かせ、どうやら見間違いではないと判断し、近づいていく。

(それにしても、この光は美味そうだ)

 近寄って見るとその光から目が離せなくなった。
 ミズオは草食の筈だったが、キラキラと光る死体を見ているだけで口腔内に唾液が分泌されていく。

 体が必要としている物が非常に魅力的に映る時がある。実際、微生物の時のミズオにはモヤモヤがとても魅力的に映っていた。
 その現象を最大限にまで高めたのがこの光なのではないか、とミズオは思う。

 なにはともあれ、旨そうに感じるのだから食べて見るしかあるまい。我慢する理由は欠片も無い。

 ただ、良く見てみると光っているのは死体自体ではなく、その内側の何かである。
 近づいてみると昆虫の体は風化しかけており、鼻で押すとその身を包む甲殻がコロリと剥がれ落ちた。
 そして中の空洞から、細長い球体が転がり出てきたのであった。
 柔らかな膜に包まれた、薄赤い球体である。

 腐葉土の上で球体は眩く輝き、やがて役目を終えたかの様に光は消えていった。

(これは…!)

 食べてみずとも、明確にミズオは悟った。

――――――この球体は遺伝情報の塊だ!

 やはり、この昆虫もミズオの知る昆虫とは違うモノなのだろう。死後遺伝情報が固まるなどという機能は効いたことがない。

 否、それよりも驚くことは、ミズオの体がこの死体に遺伝情報があることを知っていたことだ。
 意識が気がつかなかったそれを、本能は分かっていたのだろう。あの光はそれを知らせるためのモノだったのだ。
 驚きと共に得心もいき、ミズオはありがたくその遺伝情報を頂戴した。陸上生物になってから食べる二つ目の遺伝情報である。
 球体を包む膜は、噛むとぷつりと弾け、中身が口の中にあふれ出てくる。

 その味、やはり脳汁が出るほど美味かった。ミズオは誰も見ていないのをいいことに七転八倒し、腐葉土の上でぽんぽん跳ねた。
 やがて落ちついたミズオが周りを見渡すと、死体が放つ光がチラホラと点在している。
 ここがこの世の天国か、とミズオは喜び勇んで御馳走を食べるために駆けずり回った。










 新しい巣の周辺に大型の生物は少ないようであった。結構な距離を駆けずり回っても遭遇しなかったのだ。
 見通しが悪く風も淀んでおり、じめじめとした環境では体を悪くしやすいのだろう。

――――――と思っていたのだが、今まで出会わなかったのは偶然だったのだろう。ミズオは早々に巨大な生物と二回目の遭遇を果たした。

 ミズオが走りつかれて地の窪みに溜まった水を舐めている時のことだ。
 ぬ、と横に巨大な何かが現れた。それは顔であった。視界の端から端まである前後に長い顔に側頭部からでた角が生えている。顔の付け根にある首は太く、遥か高く見上げる位置にある筋肉の盛り上がった肩に続いていた。
 隆々と肉がついた肩は黒い毛で覆われており、そこから太い足が真下に、つまりはミズオの背後に降りてきている。脚は下に行くにしたがって極端に細くなり、振り返れば、ミズオの背後には巨大な蹄が存在していた。
 前脚の向こうには、遠くに後ろ脚が見える。こちらも蹄があり、その向こうで房のついた尻尾がぶらり、と揺れている。
 四足獣で、角があり顔が長く体がごつい。これらを総合すると、牛かもしれない、とミズオは思った。

 ミズオのことなど歯牙にもかけず、その口から長い紫色の舌を出してびちゃびちゃと水を舐めている。それをいいことにミズオは熱心にその四足獣を観察した。

 体についている筋肉が、まるで彫刻の如く、陰影を作りだしている。巨体から発される熱気がむわりと感ぜられた。
 重厚さは黒い体毛と相まって、まるで要塞のようである。腐葉土にめり込む蹄を見て、体の重さは如何ほどだろうとミズオは感嘆した。

(でかいなぁ……)

 己の数十倍はある生物に、水を飲むのも忘れて感心していると、ふと、視線を感じる。目を上げると、巨大な四足獣の真っ黒な目が至近距離からミズオを見据えていた。
 そういえば、顔の近くにミズオは居たのであった。

 ひくり、とミズオの動きは止まった。蛇に睨まれた蛙の気持ちが良く分かった。絶対的な強者の視線は、それだけで多大なプレッシャーとなるのだ。
 黒曜石のような瞳に映る己の姿を見つつ、さっさと逃げればよかったと今さらながらに後悔する。映る己の姿はいっそ滑稽なほどに震えていた。
 汗代わりの分泌液が止まらない。

 巨大な四足獣はミズオを見ながら、今度は草を食べることにしたようだった。
 舌を伸ばし、腐葉土から顔を出していた草を引き寄せ、前髪で噛み千切る。
 草は臼のような奥歯でゴリゴリと磨り潰されて、嚥下され、きっと複数ある胃で何段階もの行程を得て消化されて行くのだろう。
 緊張のあまり、良く分からないことを考えてしまっている。

(こ、このままじっとしていて、助かるか!?)

 食べる間の暇つぶしに見られているというのが現実的な見方だろう。この生き物は前歯や顎のつくりなど、どう見ても草食で、つまり食べられる心配は必要ないはずだ。その筈だが、鬱陶しいからと踏みつぶされる危険はあった。牛は、その尻尾で尻に寄ってくるハエをたたき落とすのだから。

 いつの間にか呼吸間で止めていたのか、息が苦しい、と感じ始めた時、木々の枝が風で揺れた。
 ざぁ、となる葉の音に四足獣は耳を回し、その瞬間をミズオは見逃さなかった。

――――――注意が逸れたっ!

(い、今だぁああああああああっ! 今しかないっ!)

 ミズオは脱兎のごとく逃げだした。反転し、シャカシャカと細い脚を一生懸命動かして、木の陰に逃げていく。
 一世一代の大勝負である。これに成功したら何か特別なものに進化できるような気すらした。

(ぬぉおおおおおおおッ!)

 視界の広い四足獣は去っていく小さくて変な生き物に当然の如く気がついていたが、別に気にせず、鼻を鳴らし、糞をぼとりと落として、また草を食み始めた。

 ミズオたち小さな生物の扱いなどこんなものである。



 少なくとも、今はまだ。







◆◇◆◇◆









 気を抜いていた。あのような大きな生物に気がつかないなんて。

 逃げてきたミズオは木の陰で反省しきりであった。遠く離れても分かるほど、あの生き物からは獣臭がする。
 むせかえる様な汗の臭いと、纏わりつく微かな糞尿の臭い。草食でよかった。あれが肉食獣ならばおやつ代わりに食べられていただろう。
 ミズオのような生き物が危機感を失くすなんて、自殺したいと言っているようなものだ。

(もっとこう、危険に対してアンテナを張ってだな……ん? あれは…!)

 しかしミズオの反省も長くは続かない。目線の先にプリプリと美味そうな果実を見つけてしまったからだ。ともすれば、遺伝子の塊よりも美味そうな実である。

 即座に、ミズオの意識は9割くらいその果実へと釘付けになった。一割残っている辺り、成長が窺えるな、と自画自賛しつつも、体は既にそちらへと動いている。美味そうな実の魅力には抗えないのだ。
 もし罠が仕掛けられていたら余裕で引っかかる自信がある。今なら、ナッツが届かない実を前にピョンピョンしていた理由も理解できた。

 薄桃色のその果実は1cm程の見た目に反して結構重いようで、その実を数個つけている背の高い草がこうべを垂れていた。
 そのお陰でミズオでも頑張れば食べられる位置にある。

(これはありがたい)

 はぷちゅ、と食い付くと見た目通りの食感が口腔内で弾ける。果汁が舌に跳び、思わず恍惚の鼻息が漏れた。

 うまい。うまい。

 思わず夢中で貪っていた。その実が内包するエネルギーをミズオの体は一寸たりとも逃さず、その実に吸収する。

 体が熱い。心臓が暴れまわり、激しくなった血流のせいで、鼻腔内の毛細血管が破れ、つまりは鼻血が出た。ドバドバ出た。

 恍惚の表情で鼻血を出しつつミズオはさらなる実を求めた。近くにあった実を一つ食べるごとに枝垂れていた茎は徐々にその高さを取り戻す。ミズオは届かない実に向かって首を伸ばすことになり、ついにはピョンピョンと跳ねるようになった。
 そして気付く。

(…ッ!? こ、これじゃあナッツと変わらないだろ! 俺は人間的な思考が出来る筈だ!)

 理性を取り戻したミズオは、ぐぐ、と体を沈め、曲げた足を一気に伸ばした。
 ミズオの体は勢い良く植物への茎へとぶつかり、草がワサワサ揺れる。その頂点近くについた実も大きく揺れており、あと二三回繰り返せば、落ちてきそうである。

(よぉし!)

 ミズオが意気込んで再度突撃をしようとした時、彼の後ろで唐突に鳴き声が聞こえた。

「シャーッ!」

(な、何事!?)

 慌てて振り返ると、変な生き物がいた。獅子舞の獅子のようなごつい顔から細い足が四本生えている。またバランスが悪そうだ。そして最大の特徴は頭部についた二枚の翅であった。
 体の大きさはミズオと同じいくらいだが、翅のせいで一回り大きく見える。

(虫…? 獅子虫…?)

 その生き物はもう一声鳴くと、細い足をぐっとたわめ、直後飛翔した。
 そう、飛び上がったのだ。

「シャー!」
「と、飛んだ!?」

 頭についた二枚の翅をパタパタさせながら獅子虫は高く飛びあがり、そして薄桃の実へと到達する。
 がぶりと実に噛みつきもぎ取って、翅を動かしながらゆっくりと下りてきた。どうやら獅子みたいな顔をしている割に、草食だったらしい。

 ふわりと着地した獅子虫は、ミズオの目の前で、ふふん、と鼻を鳴らし、チラッとミズオを見た後、旨そうに果実を食べ始めた。

(ば、馬鹿にされている……!?)

 ちっぽけなミズオにだってプライドはある。大きな生き物は別にしても、同じような大きさの生き物に勝ち誇られるのは我慢ならない。
 そしてミズオは思考をすることができる生き物だ。突進の威力でダメなら、他の物を足すだけだ。

 ミズオは再度突進した。そして体を当てる直前で、前脚にて急ブレーキをかけ、体を翻す。ミズオの貧相な前脚の筋肉が嫌な音をたて、ミズオの尻が、その先にある尻尾が、その先端についた爪が、勢い良く振られた。
 目測はぴったりだ。
 風を切るほどの威力を持った尻尾の先の爪が、茎を叩く。それは茎を押し曲げるには十分な重さをもっていた。
 へな、と曲がった茎がその天辺につけた実の重さに耐えれないように崩れ、腐葉土の上に実をばら撒く。

(どうだ!)

 と思って獅子虫の方を見ると、獅子虫は地面に転がった果実を貪ることに夢中で、ミズオのドヤ顔を見てすらいなかった。

(こ、この野郎………まぁ良いか。一杯あるしな)

 怒りなんて不毛な感情は捨て置いて、ミズオは同じようにしてもう一つ茎を叩き折る。そうしてさらに辺りへ果実を落とし、ゆっくりと果実を味わい始めた。
 ふと横目で見ると、獅子虫も鼻血を垂らしており、ちょっと笑ってしまったのだった。







 そろそろ実を食べつくしそうになった頃である。

「シャッ!」

 唐突に聞こえてきた声に目を上げると、獅子虫が頭の翅を広げ、四肢を突っ張ってこちらを見ている。

「な、なんだよ。ていうかそのポーズ格好いいな」

 少々気押されつつも、この虫に変な対抗意識の湧くミズオは、体を起こし前脚を掲げて、荒ぶる馬のポーズをとって見せた。

「どうだーっ!」
「!?」

 荒ぶるミズオに獅子虫は心底驚いた様子であったが、やがて細い足でカサカサと落ち葉を踏みながら、踊り始めた。
 友好を示したいというよりは優位に立ちたいという負けず嫌いな性格がにじみ出る雰囲気である。どうやらこの虫にはミズオ同様プライドがあるらしい。

(…いいのか? ダンスなら俺の得意分野だぞ?)

 やられたら同じ動作を返すのが礼儀である。ミズオはタッタカタッタカと華麗なフットワークを披露する。例によって反復横跳び的な動きだ。
 己を上回る動きを見せられた獅子虫はがっくりと地面へ膝(?)を着き、エロリと口から何かを吐きだした。

 それは先ほども見た球体、つまり遺伝情報である。敗北を認めて、何かを差し出してきた、という感じだった。

 突然の吐き戻しにミズオが驚いていると、「シャー」と悔しそうに鳴いた獅子虫が飛びあがり、翅を広げて滑空し、去って行った。

(なんか変な生き物だったなぁ…)

 と、思わず自分を棚に上げてしまうミズオである。

 しばらく見送っていたが、やがて木々の葉に隠れて、姿が見えなくなる。
 あっちの方に巣があるのであれば、今度行ってみるのも良いな、と思いつつ視線を落として獅子虫が残して行った遺伝情報を見ると、腐葉土にまみれたそれは、虫の体内から吐き出されたというのに非常に美味そうに見える。

 ミズオも自らの内面に意識を向けて見れば、遺伝情報を吐きだせるような気がしてくる。なるほど、この機能はミズオ達奇妙な生物が共通して持つものなのかもしれない。あの昆虫も、ミズオ達のように生きているときは奇妙な生物だったのかも。

(しかしいい方法を知った)

 友情を示す手段としてこの上ない機能だ。ナッツが遺伝情報を差し出してきたのも、今考えればこちらが吸収できることを知っていたからである。
 ミズオ達のように奇妙な生物は、遺伝情報を吸収できるし、吐き出しもできるし、死後に残すこともできる。
 推測の積み重ねだったが、これは合っている気がする。

 いちいち仲間の死体を探るのも面倒だし、これはいい方法を知ったと思いつつ、遺伝情報を口にする。

―――――――ドクン、と心臓が跳ねた。

 脳の中で情報が錯綜し、奔走し、やがて収まって行く。しかし熱は収まらない。そして体の中心がきゅうと窄まる様な感触と共に、圧倒的な飢餓感が襲ってきた。
 たまらず、近くの薄桃の実を口にする。

―――――――足りない。全く足りない。もっと食わなければ!

 本能に従って実を食べながら、ミズオは考える。
 体の中の衝動に覚えがあった。エネルギーが足りないと叫び、暴れる別の生き物が住んでいるような、奇妙な感触。
 大幅な進化がすぐそこに来ているのだ。
 今食べた遺伝情報のおかげで進化に必要な分が溜まったということだろう。

(次はどうなるんだろう)

 己が大きくなるのは間違いないだろう。それはとても嬉しいことでもある。
 ミズオは未来の自分を想像しつつ、エネルギー源の果実を求めて視線を巡らせた。










◆◇◆◇◆











 巣に戻ったミズオはすぐに交尾し、ミズオの意識は卵に吸い込まれていく。

 硬い殻の中で、ミズオは新生した。

 発生の道筋を辿るように、微生物となり、トカゲもどきとなり、馬もどきとなる。
 その後、体が歪み、きしみ、無理やりに変化していく。

 造り変えられる痛みは相当なものだ。しかし喜びも共にある。

――――――俺は、俺は進化しているっ!

 弾けるような歓喜が痛みを塗りつぶしていた。
 強くなり、大きくなるのだ。己の求める生の形がそこにはあった。

 強靭になる四肢。硬くなる皮膚。脳の構造がギシギシと作りかえられ、拡張する神経は、感覚を皿に鋭敏にする。
 今だ幼生なれど、卵の中でミズオの姿は次々に変貌していく。
 一足飛びに生命の進化の歴史を駆け抜けて、やがて殻を内から突き破り、ミズオは産まれた。


 頬を撫でる風を感じる。

 ミズオの体には細かな毛が生えていた。風になびくそれは産毛であり、産毛を生やす皮膚は半ば甲殻のように光沢を放っていた。

 大きく息を吸い、ミズオは吠えた。
 彼の喉は、力強く、野太い音を発した。肌が、肺がビリビリと震え、その微かな痛みが気持ち良かった。

 目を開ける。瞼から差し込む光がまぶしい。
 やがて光に慣れると、きらびやかな世界がミズオを迎え入れた。遥か高く、どこまでも青い空。
 霞みのように薄い雲がゆったりと風になびいている。翼を広げて滑空する、巨大な鳥もいた。


 今はまだ、ミズオは小さい。
 だが確実に大きくなった。強くなった。いずれ、あの天を飛ぶ鳥をも超えてみせる。
 何物にも脅かされない、高みへ。

「――――――――ォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!」

 もう一度ミズオは吠えた。
 それは紛れもなく、歓喜の声であった。








[34356] クリーチャーフェーズ5
Name: 大豆◆c7e5d6e9 ID:1d79d764
Date: 2012/08/04 12:59
 交配後のミズオの変化は、毎度のことながら劇的である。
 馬のような体は強靭に洗練されて、より馬らしくなった。分厚い筋肉の脈動は薄く蒸気を発するほどである。
 虫から得た遺伝情報は体の末端に発現し、手足の甲殻は黒く硬く、まるで蹄。首筋の皮膚は硬質化し、光を照り返す様は鱗のようであった。
 肌は緑色のままであったが、濃淡が付き、まるで迷彩柄である。
 さらに頭部は獅子虫から得た強面をしっかりと装備し、長かった頭蓋に合わせて引き伸ばされたそれはまるで龍のようだ。ユニコーンのように額から前に向かって反抗的に生えている二本の角が異彩を放っている。
 尻尾は退化したのかひょろひょろとしており、先に付いた爪も軟骨のように柔らかくなっていた。
 残念ながら目の下に合った発電器官はあまり使用しなかったためか退化して無くなってしまっている。

 その実態は強面の爬虫類でありながら、見た目は伝説上の生物、麒麟になっていたのである。
 肌が緑色な上にヒゲやたてがみが生えてないのでとても弱そうだったが、少なくとも前よりは強そうである。

 己と同じ姿である筈の、同じ時期に生まれた同属を観察し終わり、ミズオは満足そうに濃い鼻息を吐いた。
 どうやらツチノコもどきも交配と同時に同じ姿へと収斂されたらしく、違う姿の個体は見当たらなかった。

(悪くない)

 顔の迫力は最高だ。四肢に漲る筋肉も素晴らしい。ガツガツと蹄もどきで地を蹴って、蹄の堅さにさらに満足する。

(それにしても、随分と大きくなったな)

 顔をあげれば、その風景は今までとは一線を画していた。

 ミズオの視界を阻んでいた森林の下生えは、すでに顎の下にある。目算で三倍以上は大きくなっていた。
 お陰で遠くまで見渡せる。木々の向こうには、太陽が照らす広大な草原と緩やかに隆起する丘がある。白や黄色や淡い紫の花を緑の絨毯の中にチラホラと見つけることが出来た。

 森の中の風景はそれほど変わらない。大きくなったとはいえ、いまだ小さい生物であるということだ。
 ただ、以前は知恵を使って食べていた高さの実を、むしろ頭を下げて食べなければならなくなっている。
 以前獅子虫と競うように食べた薄桃色の実も、今は首の付け根ほどにあった。

 実を見つけると、途端に、腹が空いていることを思い出す。腹が減っているのはいつも通りだが、以前ほど、飢餓感に惑わされることも無くなっていた。
 丸い実を数個一度に口に含み、その甘さに陶酔しつつも、その感動は少なかった。残念なことだ。
 前回感じた様に、進化した後は、満足できていた実を食べても満足できなくなってしまっている。

(味は良いんだけどな)

 上から見下ろすと結構な頻度で見つかる実を食みつつ、フラフラと歩いていくと、その足は自然と以前獅子虫が飛んでいった方向へと向いていた。
 あの虫の集落に友好アタックをかけるのも良いかもしれない。

 特に目的もないミズオは散見する実を食みつつ思いつきのままに歩いて行った。













 隆々と聳える木々と、それを絞殺さんと絡み付く太い蔦。太い根の下は風雨で土が洗い流され、一種のトンネルのように風通りが良くなっている。
 そこが獅子虫たちの巣であった。

 獅子虫たちは「シャー」と鳴きつつ、樹にできた無数の穴に出入りする。帰ってくる個体はすべからく果実を咥えており、どうやら果実を収集しているようである。
 交配の時期に向けて準備しているのかもしれない。

 彼らは自らのテリトリーに踏みこんできたミズオに機敏に反応し、わらわらと集まってきた。
 仕事を放り出し、穴からカサカサとはい出して野次馬みたいに群がってくる獅子虫たち。その数は数十に登り、押し合いへし合い、仲間の頭を踏みつける勢いでこちらに寄ってくる。後ろの獅子虫はわざわざ飛びあがってミズオを観察するほどであった。
 ミズオは大きくなっているのでそこまでしなくても見えるのだが、足まで見たいのかもしれない。

 ここまで注目されるとは思わず少々引きながらも、パタパタと頭の翅を振ってこちらを凝視する虫たちに、ミズオは果敢に挨拶した。友好の基本は挨拶からだ。

「よぅ、いい天気だな」

――――――ッ!?

 獅子虫たちは、目を丸くして、一斉に飛びあがった。翅を必死に動かして穴へと舞い戻り、すぽっと頭から隠れてしまう。一つの穴に十もの虫が押し掛けるものだから、その細い足が入りきらずにカサカサと蠢いているところもあった。

(ビビりすぎだろ…)

 ミズオが何とも言えない気分になっていると、一際奥にある穴から、のそりと一体の虫が歩み出てくる。
 他の個体の1.5倍はあるその体躯。厳めしい顔。そして見事な頭の翅。

「シャー!」

(こいつがリーダーか!)

 紛うことなき群れの主であった。

 主は己の倍はあるミズオに向かって、悠々と歩みより、十歩先で立ち止まると、六本ある足の内二本を浮かせ、頭の翅を大きく広げて、ミズオが命名するところの、格好いいポーズをとった。
 流石リーダー。格好いいポーズも以前見た物よりキマっている。強面に浮かぶ血管がそのポーズの力の入りようを示しているかのようだ。おまけに怖い。
 こちらを見る瞳は、挑戦的である。

「シャー!」
「なかなかやるな……だが俺も負けてないぜ。うぉおッ!」

 ミズオは全身に力を入れた。強靭になった筋肉が過剰に緊張し、その体積が膨れ上がる。
 その姿、まるで岩のごとし。肌が緑色なので苔の生えた岩のごとし。
 だが、その方面に浮かび上がる血管がどくりどくりと、脈打って、今にも動き出さんばかりの迫力を見せ付ける。
 首筋の鱗が逆立ち、キチキチと硬質な音を上げる。歯を食いしばって歯茎をむき出しにしたミズオの目は血走って、なんだか普通に怖かった。

 しん、と空気が冴え渡ったような一瞬が過ぎ、ミズオと獅子虫の主は互いに力を抜いた。
 主が頭の翅を震わせながら、キッとこちらを睨みつける。

「シャー」
「ああ、今のは五分五分だ」

 互いを見つめるその目には、賞賛の光があった。だがそれだけではない。互いに負けず嫌いだということもまた、理解してしまったのだ。

「シュイアアアア!」

 主が大きく鳴くとともに、穴に引っ込んでいた虫たちが、集まってくる。
 彼らは主の後ろに降り立つと、見事な整列を見せた。

 そして始まる獅子虫たちの舞。一糸乱れぬその踊り。仲間とともに見せるシンクロナイズドダンシング。

「やるじゃねぇか――――――だがな」

 その素晴らしい動きでミズオの負けず嫌いに火がついた。強靭になった四肢は何も魅せるためだけにあるのではない。本分はむしろ踊りにて発揮されるのだ。

「勝負はこれからだ!」

 彼らのリズムに合わせ、ミズオもまた踊り始める。
 ぶつかる意地と意地。互いに文化の高さを競い合う中で、やがて彼らは絆を作り上げていった。
 異種族交流には、やはり言葉など必要ないのだ。













◆◇◆◇◆











 獅子虫とミズオは互いに認め合い、遺伝子情報を交換する。
 非常に有意義かつ楽しい交流が終わった後、ミズオは一度巣に戻った。
 仲間で団結してダンスを踊る獅子虫たちが羨ましくなったために、ついてきてくれる仲間を募集するためである。

 巣には二十体ほども同属がいて、ゴロゴロと寝そべったり、一心不乱に他の個体を舐めまわしたり、

“ミズオだ”
“いい匂い”

 帰ると同時に数体仲間が寄ってきて龍のような顔のでかい鼻の穴を近づけてきて、ふんふんとミズオの臭いを嗅ぐ。
 いい匂いがするのはたくさん果実を食べたからかな、と思い、自分でも体臭を嗅いでみた。
 そして、己の失策に気づく。

(何時からだ……!?)

 ミズオの体から不自然な甘い匂いが漂っている。まるでマーキングでもされたかのように。
 違う、マーキングをされたのだ。その証拠に耳を澄ませば、押し殺した呼吸音が頭上から聞こえてくる――――

(一体何時から、尾行されていた…!?)

 ざわり、とミズオの肌が泡立った。

「――――――逃げろッ!」

 焦燥に駆られて叫ぶのと、視界の上から次々に影が降りてくるのは同時であった。
 巣に敷き詰めた枯れ葉を舞いあがらせつつ地面に降り立ったのは、いつか巨人のような生物に食われていた黒い生物である。
 下半身が極端に小さい人型である。硬そうな黒い外皮は昆虫の外骨格のように硬質で、指が三本ある大きな手には禍々しい鋭さの爪がある。

(でかい…!)

 対峙してみると、成長したミズオが子どもに見えるほどの大きさであった。
 それが四体。
 彼らの目は肉を食う衝動に染まり、だらしなく開かれた口からは唾液がとめどなく溢れ、その姿を見たミズオは本能から震えあがりそうになった。

 だがその足で、逃げ遅れた一匹の同属が踏まれているのを見て、ミズオの意識は沸騰した。

(――――――ふざけんなッ!)

 恐れよりも怒りが勝った。
 何と言う屈辱か。こいつらはミズオ一匹を食べるより巣に案内させて、根こそぎ食べつくすことを選んだのだ。その犠牲が踏まれている同属だ。
 ここでミズオが逃げ出すという選択肢は存在しなかった。

 徹底抗戦である。決断は瞬きの合間に完了し、ミズオは即座に行動を起こす。

 ミズオの足に付いた蹄もどきが地を抉り、筋肉が収縮し、膨張し、ミズオは砲弾のように飛び出した。狙いはもちろん、同属を踏みつける奴である。

 歯を噛みしめ、同時に首の筋肉が最大限まで緊張し、ミズオは一本の柱となった。
 額の角が唯一の武器と言う訳ではない。その筋力、その突進力こそが無二の武器。

「―――――――返り討ちにしてやるぁあああああああああッ!」

 ミズオは太い叫びを上げつつ、額の角を深々と黒い生物に突き立てた。肉を貫く感触がミズオの頭蓋を通して体に響く。黒い生き物の体が痛みによってぎゅぅと緊張する。
 ミズオの勢いそのままに黒い生物の体がくの字に折れ、ミズオともどももんどりうって地に倒れた。

「おらぁ! 帰れや!」

 角を引き抜きすぐさま起き上がったミズオは、執拗に足の蹄で顔を踏みつける。
 だが体格がそもそも違うのだ。わっしとミズオの背は万力のような手でつかみ上げられ、持ち上げられる。

「チクショウ! 放せッ!」

 持ち上げたのは転ばせたものとは違う個体。宙に浮いた足で必死に蹴りつけようとするが、不安定な体勢で力が入れにくく上手くいかない。ついには後ろ脚も掴まれて、身動きができなくなる。
 絶望的な状況で打開策を探すうちに、先ほど突き倒した奴が起き上がり、痛みと、それを上回る食の喜びに顔をゆがませて、ミズオの肩に噛みついた。

 ぶつり、と皮膚が千切れ、血が飛び散って、肩の肉がえぐり取られる。

(いッッッってぇええええええええええっ!)

 肉体を持ってから初めて味わう肉の痛みだ。脳髄が絶叫に支配され、まともに物を考えるのも難しい。
 黒い生物がミズオの肉を咀嚼し、嚥下し、二口目を食べようと口を開く。
 痛みを知ったミズオにとって、その口に生えた牙はギロチンの刃のようであった。

 生きたまま食われる地獄の苦しみを味わうのか、とミズオが諦めかけた時、助けは意外なところからやってきた。
 いや、ミズオの行動からして意外ではなかったかもしれない。
 どうもミズオの種族は頭が悪いらしい。強者に対して、逃げを選択しないあたり、本物だ。

“ぬぁー!”
“はなせー!”

 どすりどすりと、ミズオを掴み上げる生き物に仲間が角を突き立てる。
 痛みに引きつる生物の手がミズオを取り落とし、ミズオは解放されてからもちょっと呆けてしまった。

「お前ら……」

 仲間は一匹も逃げだしていなかった。
 群れは、四匹の肉食生物に向かって果敢に角を向けていたのだ。黒い生き物は戸惑っていた。ここまで強固に団結し、反撃してくるとは思わなかったのだろう。
 囲まれ角でつつかれてむしろ窮地に陥っているのは向こうの方だった。

「ハッ―――」

 ミズオは思わず笑っていた。これが俺の仲間だと、世界に向かって胸を張りたい気持ちであった。
 肩の傷も何だか痛くなくなった気がする。

「よぉし、一気に追っ払うぞッ!」
“うぉー”
“うぉー!”
“しねー!”

 麒麟もどきの同属たちは、ミズオの号令と同時に突進し、黒い生き物の足に、腕に、腹に、背に、包囲を狭めてぐさぐさと角を突き立てる。
 ミズオも肩から血を流しつつ、突進した。
 地面を踏み切り、高く跳躍し、最高到達点は身長の二倍近くである。
 ミズオの角はちょうど人型の顔面へ突き刺さった。

 肉食生物たちはたまらず飛びあがり包囲を脱すると、キーキーと喚きつつ、逃げて行く。

「うぉぉー! 二度とくんなッ!」
“おぉー!”
“帰れー!”
“なんかおいてけー!”

 同属たちは口々に叫び、勝利に高揚した心のままに、数分は叫ぶのを止めなかった。
 肩の傷は痛いし、肉食動物と闘うのは二度と御免だが、こういう一体感は悪くないなぁ、とミズオは思った。















 それから、数日。
 体のサイズに対して食物が不足したためにもう一度巣を移動してから、ミズオたちは三回目の交配をした。
 ここまで進化しても相変わらず雌雄両性の体であり、相変わらずミズオは襲われる側でモテモテだったが、交配という名の大乱交は無事終わり、新しい巣にはたくさんの卵と、生殖を終えて死んだたくさんの死体が残った。

 そして孵化したミズオ達は、己の変化に瞠目する。
 手が生え、羽が生え、しかし足は四本あり、つまりはケンタウロスのような生物となっていたからだ。
 ただし肩甲骨からは羽が生えていて、顔は獅子である。
 カブトムシの足のような指が三本ついた手は、もう少し関節が器用になれば道具の使用すら可能かもしれないと思わせてくれる。
 蹄もどきは完全に蹄となり、大地を踏み締める感触が頼もしい。
 体はさらに以前の三倍ほどになり、かつて巨人のように思えた人型の生物とも、正面切って張りあえるほどになった。

 そして何よりの変化は、仲間の内にミズオのように思考できる個体が登場したことである。
 彼らは何故だかミズオが好きで好きでたまらない様子であり、ミズオは居心地の悪さを感じたが、そう悪い気分でもない。
 ある意味夢のハーレムである。

 ミズオの群れは順調にこの地を生きぬいていく。
 仲間は増え、食物を集め、異種族と交流し、時には肉食動物を撃退し。

 いつしか、己の進化も終わりに近づいているな、とミズオは思い始めた。体の成長限界が薄ぼんやりと感じ取れるのだ。
 まだまだミズオ達より大きい生き物はいる。ミズオ達の遥か頭上を覆う森林のさらにその上に頭がある様な巨大な生き物だっているのだ。
 しかし元の人であった頃の体のサイズに近づいているせいだろうか、これ以上大きくなる必要はないのではないかと、思えた。

(次が、多分最後だろうな)

 進化への喜びと、それが終わってしまうことへの寂しさを抱えつつ、ミズオたちは最後の交配に向けて果実を集め始める。

 ナッツと再会したのは、そんな時である。







[34356] クリーチャーフェーズ6
Name: 大豆◆c7e5d6e9 ID:1d79d764
Date: 2012/08/04 12:59




 交配によって獲得した背の二枚の羽は小さく、飛ぶのは難しそうだった。風を受けると少々体を軽くできるが、それだけである。
 だが、森の中に居ても分かるほど、今日は風が強い。ざわざわと木々が揺れて、枯れた葉が雪のように舞い落ちる。赤や黄色の葉が森の地面に積もり、木々の合間を走り抜ける風に吹き散らされている。

(もしかしたらこの羽根でも飛べるかもしれない)

 そう思うと居ても立ってもおられず、ミズオは渾身の力を四本の足に込め、えいやと飛びあがった。
 ミズオの上半身は人型だが、下半身は馬である。
 その脚力は凄まじく、身の丈一メートルを超えるミズオの体が、その四倍は跳び上がり、森の上部を抜けて空に出た。
 葉と共に中空へと飛び出したミズオに強風が襲いかかり、背のちゃちな羽がその風をとらえて膨らんだ。
 ぐ、と背中を押されるように、ミズオの姿勢が安定する。

(おお……! いける…っ!)

 ゆっくりと、前に滑るように落ちる己の体に、ミズオの口から思わず感嘆が漏れた。
 よもや、この半人半馬の図体で、空を滑ることができるとは。

「よし、ちょっと遠くまで行ってみようか」

 ミズオは体が落ちてくる度に枝を蹴って跳び上がり、滑空しながら森の上を進んでいく。
 空中散歩のようなこの状態は、中々楽しい。

 ぽんぽんと空を駆けると、ミズオのひょろひょろの尻尾が風になびく。
 ふと前に視線を移すと、その無限の広がりに心を奪われた。
 空はどこまでも広がっており、雲は近く、太陽は遠く、上から見下ろす森がどこまでも続いていた。
 見蕩れ過ぎて落ちないように気をつけながら森の上を滑空していく。
 枝を踏んで跳び上がるごとにさんさんと樹が揺れ、何かが驚くのか時折、怒号のような鳴き声が上がる。
 ふと下を見下ろすと、枝に座っている猿のようなモノクロ毛皮の生き物が、ぽかんと口を開けて、ミズオを見ていた。

 たまに後ろを振り返り、誰も居ないことを確認する。最近は親鳥につき従うヒヨコのように、どこに行くにしても誰かがついてくるのだ。
 久しぶりの一人旅だった。

(気楽でいいな)

 どこに行こうとも思っていなかったのだが、風任せにしばらく進んでいると、ミズオが生まれ、そして地上へと出てきた水辺に近づいていた。

 この辺りに来るとほとんど風はなく、ミズオは枝の上を飛び移るように移動する。

 水辺に近くも、スパイス間欠泉からでる赤い霧のようなスパイスが地表付近に滞留しており、背の低い草は光合成もできずに死滅している。
 根元が毒のような霧に覆われている木々も、元気がなかった。ミズオが踏み切るだけで、枝がミシミシと軋むのだ。
 すっかり荒れ果ててしまったな、と寂しく思っていると、不意に霧の中に流れがあることに気がついた。
 枝々の下、流砂のように流れる霧が森の奥へと続いていく。
 興味が湧いたミズオは足を速める。

 果たして辿りついた先では、懐かしい出会いがあった。




◆◇◆◇◆




 草むらを這って進みながら、マザーは、ふと、ミズオのことを思い出した。
 ミズオはマザーに唯一名を告げた彼女の息子である。
 その姿は、まるで己の子らの象徴のようにマザーの脳裏に刻まれている。

 そのことと、今マザーが彼を思い出したことは無関係ではないだろう。

 マザーは現在、死にそうだった。
 彼女の周りは一寸先も見えぬほどの濃い赤色の霧に覆われており、その毒性がマザーの命を刻一刻と蝕んでいる。
 赤い霧はミズオがスパイスと名付けた劇物である。間欠泉から吹きあがる微細な粉が、マザーの生息する場所まで広がってきているのだ。

(アレと別れてはや十日……どれだけ大きくなったことだろう)

 マザーは肌を刺す毒霧を半ば無視して、小さいながらも威勢に溢れていた息子のことに思いをはせる。
 ミズオのことを考えるのは楽しかった。
 大きくなって元気にやっていればいいと、心の底から願っている。



 ミズオ達の成長は早い。
 成長と呼ぶより進化であり、第三世代は交配するごとに姿かたちをガラリと変え、さらにサイズも倍々になって行く。
 それに比べミズオ達の親の世代、第二世代は緩やかに成長する。
 ゆえにミズオ達の親であるマザーも、ミズオと別れた後からその体は成長していない。

 そのために死のうとしているともいえる。
 この赤い霧は空気中に拡散せず地面近くに留まり、地に這う生物を根こそぎ殺す。
 体長13cmほどのマザーが気がついた時にはすでに上下左右は赤い霧に囲まれており、赤以外何も見えぬ絶望的な状況だった。
 水にも赤い霧が溶け込んで、生物は皆死んだ。プカリと腹を見せて浮かぶ死体を押しのけて、マザーはどことも知れぬ安息の地を求めて歩き出したのだ。

 だがそれももう終わりそうである。
 目は霞み、足は痺れ、喉も傷つき口の端からは血が漏れた。
 歩き出そうとして、すでに体が動かないことに気がつく。

 ここで終わりか、とマザーは静かに受け入れた。

(願わくば、我が息子たちの繁栄を)

 命の欠片を息子たちにきちんと託すことはできただろう。ならばこの畜生の生もそれほど悪くはなかったはずだ。
 食べる喜び、成長する喜び、家族を増やすという喜び。人として生きる中で忘れていたそれらを、この姿になって思い出せた。

(喜びに溢れた良い生だった)

 惜しむらくは、我が息子たちの雄姿を見れなかったことか。

 多いなる満足と共に僅かばかりの悔恨を残し、マザーは目を閉じた。
 二度と開かないつもりで、瞑った――――――――のだが。


 ざわり、と霧をかき分けて、一本の柱がマザーの近くに降ろされた。柱は良く見れば足であり、三本の指が生えていた。
 何事かと重い瞼を開けたマザーは、ついで驚愕に目を見張った。

 周りの赤い霧が薄くなっている。轟々と周囲の空気に対流が生まれていた。どうやら何かに吸い上げられているようだ。

 一体何が吸い上げているのか―――と見上げた先には、巨大な頭があった。マザーの何十倍もある様な巨大な頭である。目と口がついていなければ岩と断じただろう。
 その頭の下には首の代わりに八本の脚が直接生えており、マザーの近くにあるのもその一本であった。

 巨大な頭は、まるでピーナッツのようにつるりとまるくて細長く、何とも奇怪な生物だなと、マザーはひとりごちる。
 観察する間にも、巨大なピーナッツに頭に付いた口が延々と霧を吸い上げている。
 そして巨体はミシミシときしみを上げながら、徐々に大きくなっているように見えた。彼女の傍らに突き立つ足も、内側からはち切れんほどのエネルギーを漲らせているように見受けられる。

 気がつけば辺りの霧は随分と薄くなっており、マザーの体も何とか動くようになっていた。

(不思議な生物もいるものだ。いや、したたかな、と言うべきか)

 毒をエネルギーとして利用する生物と言えば、地球上の好気呼吸をする生物全てがそれである。酸素は、それを利用できない生物にとっては劇物だ。だが、劇物であるということはエネルギー源として優秀であることの裏返しなのである。

 酸素を利用したからこそ地球上で生物は繁栄した。
 ではこのピーナッツ頭の生物が、この毒霧を利用できるなら、それは多大なるアドバンテージとなるだろう。
 ここまで巨大化したのも、そのアドバンテージのためかもしれない。

 様々な考えを脳裏に巡らせつつ、マザーは赤い霧を吸い上げる巨体を見上げる。吸い込む勢いは凄まじい者で、しばらく待っていれば赤い霧が無くなりそうだ。それを待って、マザーは動くことにした。

 さて、動き始めるまで暇だぞ、と辺りを見渡すとその視界の端に、一つ、とても気になる物が揺れた。

 空中から垂れる一本の、柔らかそうな果実。ひょろりと長い茎の先に、美味そうな果実がついていたのだ。

 プリプリと弾けんばかりの瑞々しさ。薄赤色のその実がなんだかとても美味しそうで、形はイチジクのようで、食欲中枢をダイレクトに刺激してくる。
 マザーの頭は一瞬で支配されてしまった。風に吹かれて左右に揺れるそれに合わせて視線が動き、体が揺れるようだ。

(な、なんだあれは……ッ!)

 ぶるぶるとマザーの体は震えた。
 抗いがたい蠱惑的な魅力を放つその果実に、飛び付きたくて仕方がない。

 しかし。マザーは躊躇した。

 以前同じような状況があり、美味そうな果実は賢い鳥の仕掛けた罠であり、まんまと飛び付いたせいであわや死にかけた経験があったのだ。
 しかし、狂おしいほどに美味そうな果実であり、マザーは目を逸らすことができない。

(いや…! 今の今まで死にかけていたのだ。もはや罠でも、私は後悔せぬっ! とーうっ!)

 結局マザーが我慢できたのは果実を見てから一秒ほどで、その体は本能に従って勢いよく果実に飛びついていた。
 蛙のような体の後足が地を蹴って、己の三倍ほども高く飛びあがる。

 最高到達地点でちょうど高さがあったためにこれ幸いにカプリと噛みつくと、予想に反し、なんとも不思議な感触がする。
 まるで肉を噛んでいるような―――――

 マザーが感触を確かめようとより一層強く噛みつくと同時に、驚きの滲む重低音の唸り声と、



「痛ってぇえええええええええええええ!? 何!? 何が起こったんだ!?」



 初めて聞くがどこか懐かしい叫び声がマザーに聞こえて、果実に夢中であった彼女の脳がようやく、その茎の付け根にあるものを意識した。



 茎の先についていたのは―――――というかどうやらそれは尻尾であり、尻尾を垂らしてマザーを誘惑したのは、馬の下半身に人の上半身を持ち、背には羽も備えた獅子頭の生物であるようだった。













◆◇◆◇◆












 マザーは蛙のような姿の癖になぜか立派な歯を持つらしい。
 尻尾に噛みつかれて悲鳴を上げた後、お互いに知り合いだと理解できたことは幸運だった。尻尾の先についているのは果実ではないと分かって貰えたからだ。
 ミズオの両手の上に乗ったマザーが、安心したように息を吐く。罠にはまって食われると思ったらしい。

「食いはしないけど……マザー、なんかちっちゃくなったな」
「逆だと思うが……まぁいい。私は疲れた。少し眠らせておくれ」

 空気が美味いと呟きながら、マザーが頭の上に飛び移って張り付いた。手が吸盤にでもなっているのか、物凄いフィット感である。揺すってみても揺れもしない。
 すぐにマザーはその状態で眠ってしまった。
 スパイスの霧は今のミズオにとって足の膝(?)下をくすぐるだけの物なので、それほど気にならない物だ。この霧に巻かれて苦しんでいたなら、マザーにはゆっくり休んで欲しいものだ。

「それより今は…ナッツ、久しぶりだな。ってわかんねぇか」

 ミズオはピーナッツ型の頭を持つ八本足の生物を見上げていた。この生物はミズオから見てもかなり大きい。4メートルはありそうだ。

 見たところ、ナッツたちエイリアンもどきたちは、どうやらとても分かりやすい進化をしたらしい。
 ミズオはナッツに会った時、目を丸くし、ついで嬉しさに頬を緩めた。
 今もしみじみと思う。

(全然変わってねぇなぁ)

 一メートルを超えるミズオが仰いでみる様な巨躯である。赤い霧を吸ってさらに巨大化しつつあり、その速度は微生物の頃のミズオをほうふつとさせるものであった。
 そこらに生える木の丈すらも超えそうである。

 だが変わったのは大きさだけであり、姿に大きな変化はない。
 良く見れば足も増えていたが、そのアンバランスなまでの体の構造は全く変化していなかった。

 大きければ強い。単純な生存戦略の元、それを成し遂げてしまっている。
 自重で潰れてしまいそうな巨体を保つ秘訣は、やはり膨大なエネルギーを内包する赤い霧を利用することだろうか。

 ナッツは絶賛食事中であったが、近づいてきてウロウロと足元を歩き回るミズオを注視していることは明白であった。
 歩き回っている最中に突然叫んだりしたから尚更である。

 己と比べて小さいために、逃げだしていないだけなのだろうと、ミズオは思った。
 だが、ミズオはこの生き物がナッツだと確信している。その目の付き方など、間違いようもない。危機感が薄いところも全然変わっていないじゃないか。
 そして、向こうにも知って貰おう。この半人半麒麟の生物がミズオであると。

 かつて絆を作った生き物同士、分かり合えるとミズオは信じた。

「なぁナッツ。この動き、覚えているだろう?」

 ミズオは足踏みをした。初めて踊った、あの動き。忘れようがない最初の記憶。
 あの頃は手探りだった。それでいてとても楽しかった。ナッツの間抜けで、それでいて愛らしい姿が鮮明に思い出される。
 知らず、ミズオは笑っていた。

――――――なぁ、楽しかったよなナッツ。

 ミズオを見るナッツの目に、何かが浮かぶ。ナッツがスパイスを吸いこむのを止めて、眉根を寄せる。

「それで、この歌はお前が先に歌ったんだぜ?」

 そう言って口にするのは単純な音の連なりだった。未発達の口でも発音できる、たどたどしいメロディー。
 ナッツが初めてミズオに示してくれた友好の証だ。

 ナッツが、その大きな瞼を瞬かせ、戸惑って、やがてその瞳に理解の光が灯って行く。

「そんでこの踊りを見せたよなッ!」

 少しだけ複雑にした、あの時のミズオの精一杯の踊りを今は楽々踊りきる。
 ナッツはとても喜んで、一緒になって踊ってくれた。

―――――ああ、懐かしい。ナッツも俺もぎこちなくて、でも必死に踊って歌って……

 ナッツに思い出して欲しかった。あの楽しくてキラキラと輝く思い出を、ナッツと共有したかった。

「なぁナッツ!」

―――――キュィ…

 ナッツが鳴いた。大きな体のわりに声の高さは全然変わっていなかった。
 ああ、ミズオの姿はすっかり変わってしまったけれど、ナッツに感じる気持ちは一片たりとも変わっていない。
 大切な、初めての―――――

「俺たち、友達だよなぁ!」

――――――キュイ!

 ナッツが動いた。

 すでに巨木のように圧倒的質量の存在となったナッツが、ギギギと関節を軋ませて足を折った。
 そして巨大な頭を倒すように、ミズオに寄せてくる。

「ああ、そういえばこうやってあの時も―――――おいマザーが潰れる。ストップストップ」

 カンカンと頭を叩いて止める。
 ナッツの体はやたら硬質になっており、打ちつけた手が結構痛いが、それも喜びの前には些細なことだった。

「にしても、分かってくれたか。またよろしくな」

 声が聞こえているかいないのか、ギゴゴ、と関節を鳴らしながらナッツの頭が起き上がって行く。
 ナッツは大きい代わりにいちいち動作が鈍かった。これだけ硬くて大きければ当然か、と納得する。

 そういえば、巣に招くという誓いをしていたことをミズオは思いだした。
 良い機会だ。遺伝子情報は今さら意味がないかもしれないが、招いて美味い果実を振舞ってやろう。

「なぁナッツ。……ナッツ?」

――――――キュゥウ……

 だが、頭を起こしたナッツの様子が変だ。その姿が急速に艶をなくし、まるで石になるように、灰色になって硬質化していく。
 足で浮かしていた頭の底を鈍寸と地面に落とし、満足したように目を閉じてしまった。

(え、どうなってるんだ!? まさか死ぬんじゃないよな!?)

 焦ってその表面を叩いてみるが、先ほどよりも硬い感触が返ってくるだけである。

「どうしちまったんだよ! おい!」

 動かない。ナッツはモアイ像の如く動かなくなってしまった。

「どうしちまったんだよ……」

 しばらく周囲を回ってみたりしたが、何も起こらない。
 仕方なく、ミズオは踵を返した。彼の立場は、いまや百体を超える同属の長なのだ。
 あまり一人で巣を離れている訳にはいかない。

(ナッツ、お前死んじまったのか……?)

 ナッツの最後を看取れたことを喜ぶべきなのだろうか。とてもそんな気分になれない。
 後ろ髪を引かれる思いで、歩み去ろうとした時、変化が起こった。

「―――?」

 ピシリと音が聞こえた。
 慌てて振り返るとナッツの顔に一筋の切れ目が走っていた。唖然とするうちに、亀裂は広がり、罅がナッツの巨大な頭を走っていく。
 ガラガラと崩落していくナッツの姿に、しかしミズオは悲しみを覚えなかった。
 それは死ではなく、成長だったのだ。

(赤いスパイスをあんなに吸ってたのは……このためだったのか)

 左右に分かたれるように崩落するナッツの殻から、ピーナッツ状の頭と、蝶のような羽が出てくる。
 空気を押しのけて広大な羽が広げられ、巻き起こった風がごぉごぉとミズオの左右を通り抜けた。
 美しい羽だった。漆黒の羽は太陽の光によって虹色に輝き、鱗粉がフワフワと雪のように散る。
 ピーナッツ状の頭から耳の用に生える羽は不気味ではあったが、そこはお友達補正でミズオには粋な羽に見えるのだ。

―――――――キュイ!

 大きく一度、ナッツが羽ばたく。
 巻き起こった風が、ミズオの頬を撫でた。

「行くのか?」

 寂しいが、それでいいのかも知れないとミズオは思った。
 ナッツはこんなに雄大で――――――空の天辺が目指せるのだから。

 己の背に生える小さな羽根では決して届かなかった空である。何物にも脅かされない、かつて目指したその場所にナッツが行ってくれるなら、少し嬉しい。

「ナッツ……頑張れよ」

 もう一度、ナッツは羽ばたいた。風が辺りのスパイスを吹き飛ばし、森がざわざわと期待するかのように揺れ動く。
 最後にチラリとナッツがミズオを見た。
 何を言っているのかは、なんとなく分かったので、ミズオは手を挙げた。

「ああ、またな。元気でやれよ」

―――――――――!

 最後の羽ばたきは目も開けられないような豪風を産んだ。
 やがて風がやんだ後、ナッツは地の縛りから放たれて遥か天上で飛んでいる。
 風を受け、気持ちよさそうに。

 やがて、森のあらゆる場所から、たくさんの羽根つきエイリアンもどき、つまりナッツと同じ姿の生物が浮かんできて、ナッツに合流し、それは渡り鳥のようにまとまって飛んでいく。
 上空の方ではまだ風が強いようだ。
 流れる雲と共に、いや雲を超え、風に乗り、どこまでも遠ざかっていく。

 ミズオは何時までもナッツが飛んで行った空を眺めていた。








◆◇◆◇◆









 そして巣に戻ったミズオは、肩にマザーを乗せながら、精力的に果実を集めるための指揮をとった。
 ナッツに対抗意識が働いたのかもしれないし、そうではないのかもしれない。

「長! この実はどこに?」
「そこらへんで良い!」
「長ー! 転んで血が出たー!」
「舐めとけ!」
「長! なんか拾った! 見て!」
「生き物じゃねぇか! 元の所に返してこい!」

 やがて十分実を集めたと判断したところでミズオの指揮のもと交配が行われ(ここらになるともはや開き直っている)、ミズオ達は最後の進化をとげる。

 最後に獲得したのは、毛であった。

 顔の周りにふさふさと生えるそれは獅子の鬣《たてがみ》のようでで、うなじから背を流れるそれは馬の鬣であった。
 迷彩柄の肌はそのままに、茶色の毛が体を包んでいる。

 また手の指が5本になり、人間であった頃のように器用に動く。黒く堅い、虫の甲殻を繋ぎ合わせた様な手であったが、力強さは人間以上。
 上半身の筋肉の付き方は人間の男のようであった。
 そして視界の高さは、以前の二倍ほど、ちょうど馬に乗った人間の視線の高さと同じ程度である。

 背の羽は大きくなったが、筋肉が足りないので、あくまで滑空にしか使えそうにない。


 馬の下半身に虫の腕、鳥の羽に獅子の頭を備えたこの姿が、最終的な姿であると、ミズオは確信した。
 これより変化していくには、猿が人になったような、多大な年月が必要となるはずだ。


 そして頭脳の進化も、終了した。ついに元あるところに戻ったというべきか。
 それぞれが人であった頃の意識を取り戻したのだ。

「あ、思い出した!」

 仲間の一人が声を上げる。
 それはどこか女性の声のようで、ミズオはそのイントネーションに聞き覚えがあった。
 その個体がミズオに向き直る。歯をむき出して、笑いかけてきた。

「私、ちっちゃいころミズオに会ったことがあるよね」
「どうだろうな。滅茶苦茶いいタイミングで助けられたことはあるけど」

 それ私、私! と詰め寄ってくる個体をあしらいながら、ミズオは肩に這い上ってくるマザーを助ける。マザーは定位置をミズオの左肩と決めたらしい。ミズオもマザーの腹がひんやりして気持ちいので、

“ふむ、興味深いな。私もそうだが、私の子らは皆、人であったのか”
「……かもな。でもその辺はもう関係ないだろ。俺たちはもう違う場所に生きていて、しかも違う生き物になったんだからな」


 空を見上げれば、すでに薄暮である。
 夜が来て朝が来て、ミズオ達の新しい生活が始まるのだろう。

“これからどうするのだ?”

 肩で同じように空を見上げていたマザーが、ぽつりと漏らした言葉に、ミズオは数瞬考えて、やがてもう一人で考えなくても良いということに気がついた。

「まぁ、みんなで考えるさ」
“そうか”

 その後は無言で、マザーと共に空を眺め続ける。
 後ろでは百匹ほども居る仲間たちが騒いでいたが、十歩も離れれば静かなものだ。

 考えることは、ナッツのことであったり、これまで生きてきた過去のことであり、もはや思い出すのも難しい人間の頃のことであったり。
 空は瞬く間にその様相を変え、星がきらめく夜空となった。
 流れ星を眺めていると、ふと、人間の頃、宇宙飛行士になりたかったことを思い出す。
 もし叶うなら、あの空の向こうに行ってみたいと、思ったのだ。
 成長してすり減った夢が、なぜだか今、判然と思い出されて、ミズオは頭を振った。

(馬鹿なことを考えた)

 踵を返し、仲間の元へ戻る。
 仲間たちが騒ぎまくり、焚火をつけて踊っているのを見て、ミズオの頬は自然とほころんだ。

「よっ、はっっ!」
「すげぇ! 何と言うひねり!」
「甘い! 僕にかかればこんなことも……熱うッ!?」
「あーっ、火が森に!」
「消せー! 消せーッ!」
「おしっこかけろーっ!」
「私たちおしっこ出ないよー!」
「燃えろ燃えろー!」



「ハハハっ」
“………笑いごとか?”

 なんだか、明日も良い日になりそうだなぁ、とミズオは思ったのだった。












 次の朝。
 延焼した森の跡で、ミズオ達は定住を始めることに決めた。
 決め手はちょうどいいから焼き畑農業をしよう、という点にあったが、そうでなくてもそろそろ腰を落ち着けて過ごしたい者が多かったのだ。






 ミズオ達は身体的な成長を終えた。
 そして、これから彼らは文明と文化を成長させていくのである。








[34356] 集落フェーズ ここに在りて
Name: 大豆◆c7e5d6e9 ID:1d79d764
Date: 2012/08/04 13:01
 村と言えば家。家と言えば木材。
 と言う訳でミズオ達は伐採の真っ最中である。





 腕に力を込め、手に持つ石斧を木の幹へと思い切りたたきつける。
 鈍い音がして刃の先端が少し木肌を抉った。

 ミズオの黒い腕は相当な力を持っているはずだが結果は芳しくない。
 やり方が悪いのだろうか。慣れない馬の下半身で体重が乗せれていない気がするし、上手く刃が当たっていない気もする。
 刃が木肌に潜れば、内部に反響してコォン、と小気味の良い音が鳴るのだが、いかんせん、ガツっとかベチっとか鈍い音しか出ていないのだ。

 むぅ、と唸りながら眼前の木を見やる。

 葉が針のように尖った、背のあまり高くない木だ。目測で10mほどだろうか。木肌は滑らかで幹は細い。
 だがこの樹はその細い姿に反して中身は詰まっている。相当に堅い。
 手先の器用な仲間が造ってくれた石斧は、尖った石をさらに研いだ物なので切れ味はそこまで悪くないはずなのだが。
 なんとも、先は長そうである。

 ミズオは顎を上げ、左右を見た。ミズオと同じく木を切り倒そうとしている仲間が、チラホラと森の中に散見される。
 ミズオ率いる木こり隊の面々だ。

「おらぁ!」
「ほぁああ!」
「これが全速だらぁあああああ!」

 皆、慣れない道具と行為に悪戦苦闘しつつも頑張っている。精神が男っぽい同属で結成した木こり隊なので、掛け声が暑苦しいのは御愛嬌である。
 中には突進して斧を打ちつけているも者もあった。表面で弾かれた斧が飛び、非常に危険だったが。


 他の同属も木こり隊のような隊を組んで、村予定地の地を均したり、食物を集めたり、周囲を探索していたりする。植物で服を作ってくれているチームもある。
 隊と言っても各自やりたいことを同士を募って勝手にやっているような状況である。ミズオはそれを苦笑しつつ見守る様なポジションなので、群れの長としての責任は特に感じていない。
 皆の動向を把握しておけばいいはずだ。
 それぞれ人間の意識があるのだし、そうそう悪いこともないだろう。善良な人ばっかりだし。いずれは隊長なんかも決めたいが、皆の人となりを知らない現状ではそれも難しい。

 いずれにせよ、このままでは木こり隊だけ成果なしになるかもしれない。
 それは嫌なので何とかしたい。

「――――と言う訳で、どうしたらいいか分かる人」

 煮詰ったので、一旦集まってアイディアを出してもらうことにした。木こり隊としてこの森に来ている二十の同属と円形に向き合いながら、ミズオは皆の顔を眺めた。
 角の生えた獅子の頭に人間の上体、黒光りする硬い腕に、腰から下は馬。背には羽。多くの同属が一堂に会すと壮観である。うす暗い森の中で聳え立つ2mほどの怪物たち。シンと静まっているのが余計に怖い。

 皆同じ姿をしているが細部は微妙に異なるし、各々鬣《たてがみ》のスタイルが違っていたりする。飾りをつけたお洒落な同属も多い。
 声も同じ音が出るはずだが、己の記憶にある声と違和感が出たのか、それぞれ己の声を再現しようとしてそれぞれに違う声を出している。よって女性の意識を持つ個体は女性っぽい声を出し、男性は男性っぽい声を出していた。
 つまり素体は同じでも、その姿や言動にはそれぞれ隠しきれない個性がにじみ出ているのだ。

 その中で一人、真っ直ぐに手を上げる同属がいる。

「はい!」
「おお…じゃあケイジ君どうぞ」

 元気良く手を挙げたのは、ケイジと名乗る自称・元高校二年生。目が大きく、体が小さめで愛嬌のある同属だ。
 ケイジは自分のすぐ横の同属を手で紹介した。

「ムラサメさんがもう一本切り倒してました!」
「え、マジで?」

 思わずミズオは呟いていた。
 他の同属も同じ気持ちのようでどよめきが広がり、一点に視線が集まる。
 石斧で切り倒せるのだろうか? ていうか無理じゃね? と思って、違う方法を聞くために集まったのだが、石斧で切り倒してしまった猛者がいたらしい。

 ムラサメさんは45歳くらいの男だったと聞いている。寡黙な方だ。
 自分の毛を引き抜いては不機嫌そうに鼻で笑う癖があり、お陰で顎の下の鬣《たてがみ》がまばらである。

 肩に石斧を担いだ姿が凄く似合っているムラサメさんは、「大したことじゃねぇよ」とむっすり顔を歪めている。しかし割と動揺しているようで、髭をむっしむっしと引き抜いている。顎の下が不毛地帯になる日も遠くなさそうだ。
 そんな照れ屋のムラサメさんに切り倒せた秘訣を聞くと、落ちついた調子でぽそぽそ語ってくれた。

 力を一点に集めることが重要なのだという。
 基本はゴルフのダウンスイング。この体の筋力で、体重を上手く乗せれば切れないことはないのだとか。
 力を入れるタイミングさえ合えば、一発で半ばまで切り倒せるとムラサメさんは保障した。

「体重の移動がキモだな」

 だそうである。
 実際にやってもらうことにした。

 先ほどミズオが1cm程しか抉れなかった木を見てもらうと、「何とかなりそうだ」とのこと。頼もしい。もうミズオがリーダーをしている意味が分からなくなってきた。ムラサメさんで良いのではないだろうか。
 そんなモヤモヤを抱えつつ事態の推移を見守る。
 ミズオが切ろうとしていたのは幹の直径が40cm程度の木だ。この森の中では太い方である。その木を前にムラサメさんが目を瞑って集中している。

 思わず唾を飲み込むような緊張感が漂っているが、隣に居るケイジは特に何も感じていないようで小声で何やら話しかけてくる。

「いやぁ楽しみですね兄貴!」
「そうだな。もし俺たちにもできるようなら……兄貴?」
「あら。こっちの方が良く見えますぜ兄貴! ささっ、こちらへ……!」
「あ、ああ……」

 なぜか舎弟ポジションに収まろうとしているケイジはさて置き、ムラサメさんの気配が濃密に膨れ上がる。
 カッと目を見開いたムラサメさんが、立ち上がった。
 元々座っていたわけではないが、下半身にある馬の後ろ脚で立ち上がったのだ。右肩の上に両手で捩じり掲げた石斧は4mの高みに達し、薄暗い森に差し込むほのかな木洩れ日をその刃に鈍く反射する。
 その残光を引き連れて、体ごと斧が振り下ろされた。

 斧は残光にて緩やかなカーブを描き、木へ突き刺さる。
 コォンと快音が響き、一瞬の停滞。
 ギシィ、と音が鳴り―――何かと思えばムラサメさんが歯を食いしばった音である――――ムラサメさんのむき出しの筋肉が盛り上がる。広背筋が膨張し、背中が二倍に膨れ上がったかのようだった。
 直後突き刺さった斧が、ず、と進み、反対側の樹皮を内側から盛り上げ、へし折り、突き破った。
 ぱぁん、と木片が飛び散る。
 斜め一直線に傷がついた打ち入れ側とは正反対に、振り抜き側は爆発したような有様となった。
 恐ろしいことに、ムラサメさんは一刀にて木の幹を両断してしまったのだ。

 打ち降ろしの刃に幹を両断された木はムラサメさんとは反対側にゆっくりと倒れていく。周りの木々の枝を巻き込んで、メキメキとへし折りながら、やがて地に沈む。

 腹に響く衝撃と舞い上がる落ち葉や土煙りを背後に、ムラサメさんが荒い息を整えつつ、「こいつぁ出来過ぎだな」と呟いた。
 出来過ぎどころの話じゃない。
 本当に同じ種族なのだろうかと疑問になる様な筋力の差である。

 開いた口のふさがらないミズオの横で、ケイジが興奮に尻尾を振りまわしながら叫ぶ。

「すごいよムラサメさん! 僕にもその技を! いや、師匠と呼ばせてください!」
「俺にも頼むよムラサメ師匠!」
「木こりの師匠! 俺にも俺にも!」

 やんややんやと皆に褒められ称えられ、ムラサメさんは「よせやい」と照れつつも満更でもなさそうである。
 もはや実質的に、木こり隊の隊長はムラサメさんだろう。こんな風にして、隊長が自然と決まって行けばそれが一番だな、とミズオは思った。







 何度か試すうち、やがてコツをつかんだ者が数名出てきて、それらが率先して木を切り倒し、木材は大量に手に入った。
 森が無くなってしまうのであまり一か所から切らないように言い残し、ミズオは一度村へと戻って運搬要員を連れてくることにした。
 今は枝を落とした丸太を引きずって村の予定地へと帰ってきているところである。ミズオ達は一馬力はある体躯を持っているので、木の運搬などお手の物だ。
 隣では落とした枝を抱えたケイジが付いてきている。本当に舎弟になりそうな勢いだ。
 まぁそれはさて置き。

「うーん、何から作るかなぁ」

 材料が用意できそうなので、自然と思考は次のことに向く。

 悩みながら両脇に丸太を抱えてずりずりと地面に跡を残しながら歩いていると、独り言を聞いたのか、ケイジがあれが欲しいこれが欲しいと次々に要望を上げ始めた。

「それでしたら安心して卵が産める家を作らなきゃってミナミさんが言ってました!」

「あ、食料を貯めておける建物があると便利だってホクトちゃんが呟いてましたよ!」

「いざという時のために柵がないとねぇってエゾウエのお姉さんが…」

「石斧を置いておく倉庫を作るかってホムラ君が…」

 彼の口から出てくるのは全て伝聞系である。
 仲間内の意識をかなり把握しているらしい。もちろん知らないこともあるだろうが、その性格からだろうか、彼には皆、つい口が軽くなるのだろう。
 下っ端根性がにじみ出ている彼に要望を口にした皆はきっと、「だからお前(ケイジ)も手伝えよ」と暗に言っているのかもしれないが、どんな理由にせよ皆のしたいこと聞き集められる彼の存在は群れの長を任されているミズオにとって大きな助けとなりそうであった。
 でもそれを伝えると変な方向に張り切りそうである。
 黙って見ていると、視線に気づいたケイジは小首を傾げた。

「どうしました?」
「いや、何でも無い。それよりも、その中から作るんなら最初は食料庫と産卵室か。まぁ交尾も隠れて森でするよりいいだろうしな」

 どちらかと言うと産卵室が先だろう。
 なんだか目がギラギラしている同属が居るので、放っておけばすぐに野外で始まってしまいそうなのだ。
 すでに我慢できずに交尾してしまった者も居て、彼らのおかげで交尾しても死ぬことは無くなったことが確認できたのだから、何とも言えない気分になる。野外に産み落とした卵は速攻で小動物に持ち去られてしまったそうで、彼らは悲嘆に暮れている。
 そんなことが無いようにと言う意味でもさっさと安全な産卵室を作った方がいい。

「しかし作ったら作ったでなぁ……」

 基本、交尾に積極的なのは女性の意識を持つ同属で、襲われる側に属するミズオは溜息を禁じえない。この姿になってからは特にアプローチされていないので平和と言えば平和なのだが、嵐の前の静けさに思えて仕方が無いのだ。
 そんなミズオの気も知らず、ケイジは安穏とした表情で、肩に抱え上げている枝の束をよいしょと抱え直す。彼は丸太ではなく削ぎ落した枝を運んでいた。

「そうですねぇ。僕もエゾウエのお姉さんとは隠れて愛を育みたいです。ていうか襲われたいです。性的に」

 ぐふふ、とやに下がった表情でなにやら良からぬ想像をしているケイジに、なんとも幸せな奴だなぁとミズオは思う。

「……姉御はお前見て舌舐めずりしてたから大丈夫じゃないか?」
「ホントですか! ヒュー!」

 無邪気に喜ぶケイジを連れて、ミズオは村予定地へと踏み込んだ。

 村の予定地は丸い広場で、百人を超えた同属たちが無理なく過ごせるほどの広さである。
 地均しも佳境のようで、燃え残った地面の切り株の下に差し込んだ枝を皆で押し、掘り出しているところだった。
 広場の片隅には果実が積み上げてあり、広場の外から帰ってきた同属がさらに果実を追加して山を高くしている。
 違う片隅では枝枝を積み重ねた先で何かを言い合いながらせわしなく手を動かしている一団もある。
 探索に行った同属たちはまだ帰っていないようだ。


 広場の中心に煌々と燃える大きな焚火の影が、夕暮れ時の広場で轟々と熱気を振りまいている。
 火があると大型の生き物も寄り付かないようで、余計なトラブルを回避するためにも、日は一日中絶やさないようにしていた。


 丸太を持ちかえったミズオとケイジは、同属の多くに迎えられた。彼らは作業を放り出して駆け寄ってくる。特にケイジなどあっという間に抱えていた枝を取り上げられ、もみくちゃにされている。

 丸太はまだまだあるので、取りに行って欲しいと伝えると暇と力を持て余している若い意識の者たちが競うように駆けだして行った。

「えらく年輪の詰まった樹だな。こりゃ良い柱になるぞ」
「いやいや、長が持ち帰った最初の丸太だ。折角だから旗の竿にせんか。入口に立てたい」
「それいいね! 白い糸出す虫見つけたしあれで布作ろう! 枝の汁で染めて……煮出すための器作らなきゃ」

 持ってきた丸太にも人が群がり、あれやこれやと意見が出始める。
 精力的に会話をする仲間たちを遠巻きに眺めていると、近づいてくる影がある。
 幾度か微生物の時に助けてくれた、女性の意識を持つ同属であった。彼女は「ベーコ」と名乗っている。
 とにかく元気のいい奴で、今日もテンションが高かった。

「おかえりミズオーっ。コレ見てコレ見て!」
「うぉお……!?」

 近づいてくるなり、ベーコはミズオの頬にぐいぐいと何かを押しつけてくる。果物のようだが、近過ぎて碌に見えもしない。

「これねぇ、さっき見つけたんだけど、もう、すっごい美味しいの。食え!」
「分かった、分かったから! 俺は頬から飯は食えねぇんだよ!」
「木の天辺にね、固まって生《な》ってたの。枝に並んで生えてて、重さで垂れ下がってて! こいつぁゲットだぜって取ってきたの!」
「お、おう……」

 やたらと興奮している彼女から渡された果物を見る。
 濃い赤色で、リンゴを彷彿とさせる大きさと堅さだ。水洗いでもしたのか表面に水滴が丸く浮いていた。
 まずは一口。

 前歯が突き刺さると同時、溢れだす果汁とその芳香が口いっぱいに広がった。
 微かな甘みと、その内に太陽でも閉じ込めたかのような濃密なエネルギーを感じる。
 果実を持っている手が、ブルブルと戦慄するほどの旨さ。

「――――――ッ! う、うめぇえッッッ! なんじゃこりゃ…!」

 こんなに美味い物は……どれくらいぶりだろうか。今は懐かしき細胞時代以来かもしれない。
 驚きに目を剥いてベーコを見ると、どうだ、と言わんばかりに鼻の穴を広げてふんぞり返っていた。

「ふふん、我が食料調達隊の収穫はこれだけじゃないよ! お次はこれだ!」

 そして新たに差し出されたのはまた果実であった。
 どこから出しているのかと見ればいつの間にか背に毛皮でできた袋のような物を背負っている。獣の死体から調達したのだろうか。

 そして差し出された果実だが、大きさはサッカーボールほどもあり、見れば、なぜかマザーがひっ付いていた。
 なぜ。

「あ、マザーだ」

 ベーコも今気がついたらしい。マザーは艶々としたオレンジ色の実に張り付くようにしてして目を瞑っている。どうやら寝ているようだ。
 最近は食糧事情がいいのかマザーもめっきり太ってきて、寝息の度にその丸い体が膨らんだり萎んだりしている。
 産卵で力を振り絞ったせいかすぐ眠ってしまうらしいが、すぐに死ぬというわけでもないらしい。ミズオ含め彼女を慕う者は多いので、長生きしてほしい物である。

「うーん、すぐに食べて欲しかったけど、まぁいっか。あとでマザーと食べてね!」

 困った顔をして、ベーコはミズオにマザーごとその大きな果実を押し付ける。

「他にも色々とあるし、名前も決めなきゃだからあとで調達隊のところに来るんだよー。」

 彼女はそう言って風のように走り去る。
 思わず追いかけようとしたのだが、入れ替わりのように他の同属が群がってくる。

「長《おさ》ー!」
「これをみてくれ長!」

 お父さんに自慢したい盛りの子どものようだ。
 相変わらず、皆ミズオが好き過ぎである。

 とにかく報告を聞くことはできた。

 上半身裸なのが恥ずかしいと服の作成を請け負ってくれた面々の一人は糸を出す虫を見せてくれた。一抱えもある大きな芋虫で、目は無くキューキューとキモイ声を出している。枝を這っているところを捕獲したとか。

 他にも地均しの過程で見つけた綺麗な石とか、まっすぐの棒とか色々渡されて、ミズオの両手はいっぱいになった。
 マザーは潰れても困るので果実から剥がして頭の上に置いている。

 そうしているうちに探索していた面々が戻ってきて、興奮しながら周囲の状況を教えてくれる。
 近くに川があり、その先には海があるらしい。周囲を囲む森は実りが豊富で、小動物は多いが危険はなさそうである。

 他の集落に迷いこんだ者もいるらしい。

「ミズオさん、なんか食べ物貰ったよ! お土産も貰った! はい!」
「なんだと……」

 土産は野牛の頭蓋骨を据えた、大ぶりの杖である。
 軽く振ってみると頭蓋はカラカラと揺れるが外れる様子は無い。すごい技術であった。

「ぬぅ……」

 とりあえず友好的な種族だったようでなによりである。
 他にも肉食で獰猛な種族が集落を作っていたとか。巨大な生き物を集団で狩る種族を見かけたとか、防衛に関しても気をつけた方が良さそうである。

 だが、今回作った斧が防衛にも役立つはずである。もっと増やしておくよう頼むかな、とミズオは思った。











 一通りの情報を聞いたので、丸太を取りに行った若者たちが戻ってくる前に、食料調達隊の積み上げた山を見に行くことにした。


 食料調達に名乗りを上げたのは皆食べるのが大好きな同属なので、そこではすでに食べ過ぎて寝転がっている者が多数。うめき声をあげている。
 それらを尻尾で撫でたりしながら避けて歩いていると、ベーコが目を細めて広場の中心を、同属たちを見ていた。

「すごいねぇ」

 何やら感じ入った様子でうんうんと頷いている。
 彼女と並び立って視線を追ってみると、空はうす暗くなりつつあって、焚火に照らされ影法師となった同属たちが喧々諤々、夜の帳を跳ね返すような活力を持って言葉をぶつけあっていた。
 広場の隅ではすでに寝ている者がいたり、新たに焚火をしている者、草笛を鳴らしている者。川に潜ってきたのかびしょ濡れで体を乾かしている者なんかも居る。みんな好き勝手しているようだ。
 ベーコは目を輝かせて嬉しそうに呟いた。

「皆生き生きしてる」
「元気だよなぁ」

 しみじみとミズオも呟いた。
 夕方の風が湿度のある空気を運んできて、ミズオとナオの毛をわさわさと揺らした。
 ご飯も食べられるし、いずれ雨露をしのぐ家屋もできる。身を包む服もできるだろうし、衣食住はこれで問題ないだろう。

 しかし何かが足りないような。

「ううむ、なんとも難しい」
「何がー?」

 唸っているとベーコが顔を覗き込んで来る。
 そう言えばこんなに至近距離で誰かと話すこともなかったな、と人間の頃を懐かしく思った。今は、交尾やらなんやらの経験で随分とパーソナルスペースが狭くなったような気がする。
 ミズオは笑って誤魔化した。

「いや、大したことじゃないって」
「えー。勿体ぶらずに話せよぅ」

 口を尖らせたベーコは皆を見渡し、尻尾を揺らしてぺそぺそとミズオの尻を何度か叩き、そして唐突に話題を変えた。
 言葉とは裏腹にあんまり興味はなかったらしい。

「そう言えば聞いた? 他の村の話」
「ん? ああ。お土産な。この杖だよ」
「ええ、それなの!」

 なんだか、ミズオの持ちモノとなってしまったその杖は、まるで群れの長の象徴のような厳めしさである。ミズオもちょっと気に入ってしまった。
 ベーコも感心した様子で、野牛の頭蓋を撫で回している。

「これはすごい……。何かお返ししたいね!」
「お返しか……ん?」

 お返し、と聞いて、ミズオはピンと来た。
 今の生活にかけている物に思い当たったのだ。

「そうだな。俺たちの生活には、アレが足りない」
「アレ?」

 首を傾げるベーコに、ミズオは頷いた。かつての己を構成する一部であり、それはこの体になってもしっかりと受け継がれている。思いつけば体が疼いてきた。

「そう、文化的な物が足りないんだよ。絵とか――――――歌と踊りとか」
「う、うん?」

 決意のままにミズオは拳を握る。

「お返しに、素晴らしいショーを見せてやろうじゃねぇか」
「お、おー?」

 よく分かっていないながらも握りこぶしを作るベーコはほっといて、これは良い案だとミズオはほくそ笑むのだった。









[34356] 集落フェーズ ここに在りて2
Name: 大豆◆c7e5d6e9 ID:1d79d764
Date: 2012/08/04 13:01


 果実にひっついて寝ていたマザーが目を覚ましたのは夜も深まった頃で、ミズオがそろそろ寝ようとしていた時だった。

“ううむ、いつの間にか夜になっているとは。面妖な”

 目を瞬かせながら呟くマザーは自分がミズオの上に乗っていることにも気がついて、そのことにも驚いていた。

「いや、昼寝がガチ寝になっただけだろ。ていうかなんで果物にひっ付いてたんだ?」
“果実…? 何のことだ?”

 知らないらしい。
 真実は闇の中である。マザーはミズオの頭の上でもぞもぞとしていたが、やがて肩口に降りてきて、ミズオの手元を覗き込む。

“それは何をしているのだ?”
「ああ、これか……」

 ミズオは砂を注ぎ入れている大ぶりの堅い木の実を掲げて見せた。

「これは……まぁ楽器を作ろうと思ってな」

 簡単に作れそうな、マラカスに挑戦しているのだ。










 歌と踊りで謝意を示すのは悪くない考えであったが、やはり手先が器用になったので伴奏も付けたいところである。
 ピアノや弦楽器は設備が無いので到底無理だろうが、拍子を取るための簡単な打楽器なら、そしてもしかしたら笛なんかも作れるかもしれない。

「一応マラカスっぽいのを作ってみたけど、他になんか楽器案がある人ー」

 と言う訳で、また皆を集めて案を募ってみる。
 今度は同属の中で集まりたい人に集まって貰った。ほぼ全員集まる辺り、己の影響力が恐ろしい。
 ともあれ、楽器職人がいれば万々歳だがそこまでの期待はしていない。皆の発想に期待だ。

「あの、この草の枯れた茎……中が空でとても堅いんですけど……穴を開けたら笛になりませんかね……」

 気弱そうに声を上げたのは、食料調達隊の一人である。皆の視線が集まって「ひぃ」と身を縮込ませている。

「ううむ、息を吹き入れる口と押さえる穴と……出来るかも知れんの」
「ねぇ、その茎はいっぱいあるの?」
「面白そうだ。私にやらせてくれないか」

 途端に声が方々から上がり、茎を出していた気弱な同属が取り囲まれる。まぁ色々と大変そうだが頑張ってほしい。

 他に挙げられた案は特になく、結局すぐに使えそうなのはミズオのマラカスだけであった。それも手先が得意な人が改良を請け負ってくれた。

「じゃあ一週間後、お土産をくれた集落に行ってお返しライブをやる! そのために、やる気がある人は俺と練習しようぜ!」

 ミズオが叫ぶと皆が拳を突き上げて応える。勇壮な眺めにちょっと嬉しくなっていると、肩に居座っているマザーも

“歌なら得意だ”

 などと自信ありげな様子を見せる。
 ミズオ達の集落は一丸となって対友好集落に向け、動き出した。






 人間とは違う体で、踊りの振り付けも知っている物とは違う新たなの物が必要となる。
 案を出し、踊って確かめ、また改良する。
 トライ&エラーを繰り返し、徐々に踊りは洗練されて行く。

 そして喉の形も人のそれとは異なるため、出せる声もまた違う。
 さらに言えば地球の歌を歌うより、己の体が紡ぎ出すような歌を歌いたいというミズオの我儘によって一から作曲された歌を、それをコーラス隊に名乗りを上げた面々が練習中である。

 笛は音を出す物までは開発できたが、高い音と低い音の二種類が限界で、扱いも難しくまだまだ皆で使うには至っていない。


 この練習の中で大きな役割を果たしたのは、作曲をしてくれたタイゾウおじさんと、扱いの難しい笛での演奏を習得した猛者であるサカモト婆さん、それに踊りの振り付けの完成度を上げてくれたヨシ爺である。

 タイゾウおじさんは人間の頃、声が美しくなかったことがコンプレックスで作曲の世界に進んだらしいのだが今の姿になって様々な声が出せることに感動し、七色の声を出せるように訓練したらしい。
 声量は群れの中で頭一つ飛び抜けており、ミズオによって推薦、満場一致でメインボーカルに任命された。

 サカモト婆さんは二音しか出ないはずの茎の笛でドレミファソラシドを吹き分けて、ついには演奏すら可能にしてしまった修練の鬼だ。曰く「尺八に似ている」とのこと。得意だったらしい。
 彼女は偏屈なところがあって取っつき難いが慣れれば愛嬌がある人である。
 マザーと気が合うようで、茎笛とマザーの鳴き声が見事なハーモニーを作り上げている。

 そしてヨシ爺はミズオ達の踊りを見て、時々口をはさんで来る眼光鋭い(元)お爺さんである。
 日本芸能、特に能楽が好きだったようで、足の動きや体の動かし方に鋭いアドバイスをくれるのだ。
 雅ながらもゆっくりとした動きは皆で揃えるのに都合よく、ミズオ達は積極的にヨシ爺さんのアドバイスを受け入れた。
 またゆっくりした動きはサカモト婆さんの演奏ともよく合うのである。


 修練を支えてくれた者たちも忘れてはならない。
 怪我で踊りに参加できなくなった者たちと、裏方に徹して部隊を盛り上げることを選んだ人たちだ。
 踊りに耽るミズオ達を見守りつつも、食料を集め、集落を囲う柵を作り、集会所を建て、粘土から土器を作り、川から水を引いてきて……他にも最低限必要と思われる施設を作ってくれた。
 ぶっちゃけ彼らがいなかったら村として成り立たなかった。









 そしてある日の朝。
 皆が見上げる中、ミズオは台の上に立っていた。気を効かせた誰かが作ってくれた演説台だ。

 乾燥した風が吹いている。舞い上がる土埃に目を細める。

「……まだまだ発展の余地はあるが―――――」

 広場を顔を見回すと、皆、力ある瞳で見返してくる。ミズオはキリリと顔を引き締めた。

「――――今の時点では最高の出来だ。さぁ、行くぞっ」

 そう言って台を降りようとしたが、少しばかりの不安が浮かぶ皆の顔を見て、ミズオは足を止めた。
 踊りの中で、僅かに動きがばらける個所があるのだ。よりにもよって踊り始めに。
 誰が悪いという訳でもなく、個々の呼吸の違いを二週間では直せなかったというだけの話である。

――――――どいつもこいつも不安そうな顔しやがって。

「いいか」

 声を張り上げる。

「俺たちは、たった二週間で一から踊りを考えたんだ。この、やたらと横移動のしにくい下半身でできる踊りをな! クルクルと鬱陶しい振り付けだっただろう!? だが、ここに居る48名、皆が踊りを覚えきった。おまけに動きもほとんど揃ってる! スゲェことだろう!? それだけで、相手は心底感動するはずだ。その上で――――」

 一旦言葉を切って。皆を見渡した。
 こいつらは本当にすごい奴だ。進化の途中で踊りまくってきたミズオのアドバンテージなんて関係ないかのように、彼が目を見張るような動きをする奴は何人もいる。
 それぞれに得意な動きがあって、嫌いな言葉だが「みんな違ってみんな最高だ」とでも言いそうになる。

「その上で、みんなの踊りがぴったり揃ったら――――いや、そんなんどうでもいいわ。いいか! お前らは最高だ! これから、一緒に踊れることが楽しみでしょうがない!」

 手を振り払って、叫んだ。

「さぁ、相手に俺たちのすごさを見せつけてやろうぜ!」

 ウ……ウォオオオ! ウォオオオッ!

 最初は躊躇いがちに、やがて己を勢いづけるように、意気込みが怒号のような歓声となって皆の口から迸る。
 竜巻が立ち昇るかのような熱気だ。
 熱に背中を押されて、ミズオは台を跳び下りた。

「行くぞぉ!」

 走り出したミズオに、皆が続く。

 快晴の空の下、長い丸太の先にバタバタと集落の入口で旗が朝の風に翻っていた。
 ミズオ達の獅子の顔を編み込まれた手編みの旗だ。ミズオと文字が刺繍してあるのは、もう消せないので仕方ないがぜひ誰かに止めて貰いたかった。
 そして旗に刻まれたことでここの種族の名はミズオ族になった。もちろんこれにも一言言いたいミズオだったが「じゃあ何族なの?」とベーコに言われ、言葉に詰まった時点で彼の言い分に勝ちは無かった。
 だが、もういい。ミズオは厳しい練習を乗り越え、踊りを作り上げた仲間たちを誇りに思う。その彼らに祭り上げられて自分にも自信を持とうではないか。

 先方の村にはすでにケイジを遣わせて今日のお返しライブを知らせてある。向こうも向こうで待ち構えていることだろう。

「ちきしょう、皆、やってやろうぜ!」

 意気高揚にして、ミズオ達は走った。














 先触れにケイジを遣わしたのは良かったのだが、言葉が通じないことを失念していた。
 何とか身ぶり手ぶりでミズオ達が討ち入りに来たのではないということを理解させてくれていて助かった。
 まぁある意味討ち入りだ。勝利条件は相手が満足すること。

 自らの集落で迎えてくれた種族は、割と人型であった。割と、と言うのも、各パーツの縮尺がおかしかったのだ。
 腕が太く足は短く小さい。頭が大きくて足と同じくらいの縦幅だ。肩の筋肉が盛り上がり過ぎて首が無いように見えるし、口の端から上向きに牙が覗き、額には一本の角が生えている。
 悪魔とか鬼とか呼ばれそうな、青黒い肌の生き物であった。

 知能は人間だったミズオ達ほどではないにしろ高度な物を持っているようで、空き地の中心にある焚火を囲むように、住居らしき木の小屋がぽつぽつと建てられていた。
 だが力はだいぶ強そうだ。丸太をそのまま組み上げている家の様子から、それが窺い知れる。

 彼らの身長はミズオ達とほぼ同じ2mほどである。
 集落の入り口前で立ち止まったミズオ達を見て、困惑からか鬼のような顔の眉根を寄せている。
 獅子面のミズオが言うのもどうかと思うが、全然温厚な種族に見えない。
 下手すればとって食われそうだ。

 まぁいい。ミズオ族の一員が歓待されたのは事実なのだ。
 ミズオたちがするのは全力で感謝を示すことだけ。

 すぅ、と雄牛の頭蓋をあしらえられた杖を掲げると、さささ、と仲間たちが配置に付く。
 ミズオを先頭としたピラミッド型だ。進化途中でのキャリアからか、ミズオが一番踊りが上手かったのだ。
 何が始まるのかと瞠目する鬼たちに、ミズオは無言で、しかし意思を込めて杖を振った。

 カラン、と先端の骨が揺れて、同時にォォォォォ……と低い音が響く。
 鬼たちが凄くビビっていたが、これはマザーの声だ。あの小さな体から、信じられないような声量を出す彼女の声に、やがて絡み付くようにサカモト婆さんの茎笛の高音が響く。

 そしてミズオは開いた手に持っていたマラカスを振った。同時に仲間も振ったはず。最初の、ずれる個所だ。
 さん、と爽やかなマラカスの音が多数、青空に響く。ぴったりと一致して。

――――そ、揃ったぁあああ!

 かっ、とミズオの体が燃え上がったかのようだった。
 本番で、一発で……!

――――お前ら、最高だ! 愛してるっ!

 完璧に踊れるかどうかより、仲間が、このイベントを楽しめるか不安だった。
 しかし一致した音は心配を吹き飛ばし、俄然、やる気が湧きだしてくる。仲間の熱気も一段と膨らんだように感じる。
 ハッキリ言って燃えていた。

 踊り子たちの背後に控えたコーラス組の歌が始まって、そのゆったりとした声に同調し、要所要所でキレのある動きを混ぜながら、ミズオたちは流れるように踊って行く。

 朗々としたタイゾウおじさんの声が軸となり、その周りを彩るように添えられるコーラスが、ミズオ達の踊りに物語を付与するようだ。

 仲間の熱の溢れる呼吸を感じた。
 俺たちはまるで、一体の美しい獣のようだ。
 どくんどくんと心臓が跳ね、毛が逆立って、全身が燃え上がりそう。

 身体能力に任せた跳躍と、宙返りの交差がカチリと決まった時は、踊りながらも鳥肌が浮かぶのを止められなかった。

 鬼たちが、目を見開いてしてミズオ達を見ている。口を開けて見蕩れている奴もいる。
 ミズオは踊りながら嬉しくなって笑っていた。

(そうだ、楽しんでくれ! 俺たちは、最高だろう!)

「―――はッ!」

 汗を流しながら踊り切って、最後のポーズを決めた時、ミズオの胸に到来したのは達成感だった。完璧に踊りきった。これ以上は望めない出来だった。
 だが僅かに不安もある。
 鬼たちからリアクションが無いのだ。

――――楽しんでくれなかったのか?

 だが、即座にその不安は吹き飛んだ。

「ウゥ……ウホォアアアアアア!」
「ウホォオオオ!」
「ホォー! ホォーっ!」

 鬼たちから、一斉に歓声が湧きあがった。それは熱風のようにミズオ達の間を走り抜け、鳥肌が、止まらなくなった。

 その場で飛び跳ねたり、頭の上で手をたたいたり、胸板を拳で殴ってドラミングしたりと、ちょっとゴリラっぽい様子だったが一様に興奮した様子を示したのだ。
 良かった。この様子を見れば、満足してもらえたのは分かる。今度こそ、何物にも邪魔されない達成感がミズオの胸を包んだ。
 泣き出しそうなケイジが鼻声で話しかけてくる。

「兄貴ぃ…! やりましたね…!」
「そうだな……」
「兄貴……僕、正直練習に付いていけなくなりそうで、諦めかけたこともあったんです。でも……頑張って良かったです…」
「ああ、お前はすげえよ。いや、俺たち皆すげぇ……!」

 たまらず泣きだしたケイジの頭を乱暴に撫でながら、ミズオは仲間を見渡した。皆達成感に胸を熱くしている。仲間で肩をたたき合って、辛かったこの一週間を思い返しているのだろう。泣いている仲間も大勢いた。
 踊り子48にコーラス32。笛1カエル1の総勢82名、みんな己の全てを出し切ったのだ。

 ああ、誇らしさに、胸がどうにかなりそうだ。

 ミズオが身を震わせていると、鬼たちの一団が近づいてくる。
 一際大きい個体が混じっていて、頭には厳つい仮面を乗せている。この集落の長だろうか。仮面と言い杖と言い、物作りが得意な生き物らしい。

 長らしき巨体の鬼は、ミズオを優しい瞳で見下ろしてくる。ああ、近くで見れば、この種族が温厚なのはよく分かる。その実が纏う空気が、目が、全てを慈しんでいるのが分かるのだ。

「―――――■■■」

 長が何かを語りかけてきた。
 言葉は分からなかったが、言いたいことは目で伝わった。

――――感動した。君たちにこれを送りたい。

 長は頭に載せていた仮面を外し、差し出してきた。

「ありがたく、いただこう…!」

 差し出された仮面を受け取る。木を削った仮面は牙をむき出した獣を象っており、それは強さの象徴に思えた。
 素晴らしい出来である。

「代わりに、じゃないけどな。これを受け取ってくれないか。俺たちで作り上げた楽器なんだ」

 マラカスを差し出すと、受け取った長がその大きな体躯に不釣り合いなマラカスをしゃんしゃんと振って、に、と豪快な笑みを浮かべた。
 そして、肩を掴んで引っぱられる。
 見ればミズオ族の仲間も鬼たちに集落の中へ招かれているようだ。

 鬼たちの長を見上げると、何かを食べるジェスチャーをする。
 何かを御馳走してくれるらしい。

 とても嬉しいのだが、ミズオ達だけで味わう訳にはいかないだろう。

「ケイジ、悪いけど巣に帰って仲間を呼んできてくれないか。みんなで楽しみたいんだ」
「分かりました! ありったけの食料も持ってきますよ!」

 駆けだして行くケイジを見ながらミズオは一番に集落に踏み込んだ。次々に押し付けられる果物と、そして初めて見る、地中から掘り出したように見える野菜……根菜の類だろうか。
 いや、観察は後でもできる。今はこの美味そうな果実をいただこう。

 瑞々しい果実を齧ると噴き出す果汁が踊って火照った体に、心地よく染み込んでいく。

「ああ…たまらん……」

 溜息を吐きつつ根菜を口に含む。
 根菜は人参のようにも見えて、今までとは違った美味しさがあった。何より、歯応えが素晴らしい。暴力的なエネルギーが体内で荒れ狂い、ともすれば鼻血が出そうなほどだ。

「と、とまらんぞコレ……!」

 ボリボリと。
 どれほど食べたのか。
 記憶が飛ぶほど陶酔していたのか気がつけばニンジンを齧って頬を膨らましているところだった。
 慌てて周りを見れば、ミズオ族たちは一心不乱に果実やニンジンもどきを貪り、鬼たちは酔っ払ったように笑いながら互いを殴り合ったりしていて、つられてミズオも何だか笑ってしまった。
 遠くから、ベーコの「おいしー! ……こっちもうまーい!」と叫ぶ声が聞こえてくる。
 踊りが苦手で今回のパフォーマンスに参加しなかったベーコがいるということは、村に居た皆も来たということだろう。

「ふんふん。中々悪くないねぇ」
“ぬぅ、私にも食べさせてくれ”
「はん! ……少しだけだよ」

 いつの間にか側に居たサカモト婆さんが口の周りを果汁で汚しまくりながらしかめっ面をしていた。
 そして不機嫌そうに鼻を鳴らしながら小さく果実を千切ってマザーに食べさせてやっていた。
 相変わらず素直でない婆さんだ。だがそこがいい。彼女の魅力の一つには違いない。

 ふと、ミズオはこの婆さんの素晴らしさを鬼たちにも知って貰いたいと思った。
 先ほどのパフォーマンスではどちらかと言うと引き立て役だったのだが、彼女だけでも十分凄いのだ。

「なぁサカモトさん、なんか吹いてくれねぇか?」
「んん? なんだ長の坊主か。吹くってのもねぇ……」
“私からも頼む”

 困惑する様子のサカモト婆さんだったが、マザーの言葉が決め手になったらしい。
 渋々といった口調で、しかし素早く懐から茎笛を取り出して、しゅしゅ、と表面を撫でたりする。
 やる気満々だった。

「ふぅ、やれやれだよ。ま、腹ごなしにはちょうどいいかね」

 サカモト婆さんは、なんだなんだと好奇心全開で集まってくる鬼たちをぎろりと見るや、茎笛に口を当て、ふ、と息を吹き込む。
 ピィ! と甲高い音が鳴り、ひるんだ鬼たちを騒ぎ立てないように鋭い眼光で制しながら、婆さんはヒョウヒョウと笛から音を出し始めた。

 それがまた踊りだしたくなるような激しいテンポの旋律で、鬼たちは逆らわず、むしろノリノリで飛んだり跳ねたりし始める。

 高らかに鳴り響く笛の音がきっかけになったのだろうか、あちらこちらで騒ぎが始まった。
 力比べにミズオ族と鬼たちとで相撲なんぞも始まった横で、ヨシ爺は誰も聞いてないのに延々説教を垂れ始め、タイゾウさんはニンジン握ってコブシのきいた演歌を歌い出すし、どこもかしこも場は混沌と、そして楽しく盛り上がっていく。

「ダメだぁー、三体一じゃ敵わないよぅ! 長ぁー! 助けてー!」
「お、おう! ていうか鬼の長相手じゃ4人でも足りなくね!? ムラサメさんだ、あの人を呼べー!」

 と、力比べの相撲にしっかり巻き込まれながら、

(やっぱり他種族交流は、楽しいぜ…)

 しみじみとミズオは思うのだった。
















 そして夜も深くなる頃に宴も終わり、村に帰ってきたミズオは仮面を頭の上から降ろす。
 ミズオ達のパフォーマンスのお礼にいただいたもので、ミズオ一人が身につけているのはどうも気が咎める。

 だから、ミズオは集落の入口に来ていた。
 夜風にはためく旗の竿、地面に突き立つそれの目線よりやや上を、ゴリゴリと尖った石で削って出っ張りを作り、そこに仮面をかけた。持ってきた紐で落ちないように固定する。

「俺じゃ無くて、この集落のもんだもんな」

 この位置は、一番に朝日があたる場所でもある。きっと目立つこと間違いない。
 うん、と出来栄えに満足してから、ミズオは欠伸をし、皆が雑魚寝している広場の中心へと、ポカポカと蹄を鳴らして歩くのだった。





[34356] 集落フェーズ ここに在りて3
Name: 大豆◆c7e5d6e9 ID:1d79d764
Date: 2012/08/04 13:02



 鬼族たちとの交流から数週間が経った。

 友好の輪はさらに広がり、鬼族を含め三つの種族と友誼を交わすことに成功していた。
 村の入口にかけてある仮面の上に、友情の輪が広がるたびに鬼族が送ってくれる仮面が継ぎ足され、今ではトーテムポールのようになっている。

 そして、最近は特にすることが無い。
 住む家も各個人に行き渡り、食物は森から十分採れ、服も上半身を隠すような簡素な物が行きわたった。

 衣食住が最低限とはいえ満たされているので、緊急の課題が無くなったのだ。
 あとはじっくり農業を進めていったり、踊ったり歌ったりすればいい。

 仲間はそれぞれ好き勝手している。
 住み良くなるための技術を開発し続ける者や、斧や笛を改良する者。
 海に潜って海藻を探すような奴がいれば、新たな食べ物を求めて森を彷徨う者もいる。
 もちろん踊りを改良しようとする者もいる。ミズオとか。
 まさに平和な日々であった。


 そんなある日の朝。
 なにか嫌な予感がして、ミズオは朝早くに目が覚めた。ぼそぼそと声が聞こえる。

“ふふふ……愛い奴よ……”

 枕元でマザーが寝言を囁いていた。ミズオの家が作られてから住み付いているのだ。

 彼女はサッカーボール大の果実に張り付いて眠りこけている。
 マザー自身は気付いていないが、この大きさの果実に張り付くことに安心を感じているのは明白である。いつぞやに張り付いていたのもこれが原因だろう。
 外に出る時はたいがいミズオの肩の乗るし、どんどんマスコット化が進行しているマザーだった。

 寝言を囁いているマザーを起こさないように静かに、ミズオは家の外に出た。

 森の上にうっすらと朝日が線を引いていた。見上げれば雲が朝やけで極彩色に染まっており、何だか不吉な気分になった。

 ミズオの心理状況がそう見せているのかも知れない。己で、そう冷静にミズオは思った。

 最近、平和過ぎるのだ。
 平和なのが悪いわけではない。
 しかし、確実に皆の気は抜けている。
 一度大きな生き物がこっちに来そうになったことがあるのだが、すっかり防衛隊長と化したムラサメさん以下、木こり隊の面々が近づく前に追い返してしまったため、結局皆に危機感が無い。

 それに大きな生物を狩っていた肉食の種族の目撃情報が最近途絶えているのも気になる。
 ただ単に、遠くに生活の場を移しただけなら良いのだが。

(考えても仕方ない、か)

 交代で付近の見回りはちゃんとやっているし、心配ばかりしているのも体に悪い。
 頭を振ってミズオは不安な気分を追いだした。

「あれ、こんなところでなにしてるんだい?」
「ん? 姉御…」

 思えば考え込んでいたらしい。声を掛けられて顔を上げれば、子どもを抱っこしてこちらに歩み寄るエゾウエの姉御がいた。
 彼女は先日、競争率の高かったケイジを性的に捕食することに成功した。何でもケイジからアタックしたらしい。相思相愛で結構なことである。
 二人の子供も無事卵から孵った。
 よって彼女は最近育児に追われているのだが、それがとても楽しそうである。

 ミズオは卵のせいで腹が膨れて複雑な顔をしているケイジを知っているだけに、なんとも複雑な気分になる。
 とはいえそんなケイジも子どもが生まれると大喜びで子煩悩全開になっているので、いらぬ心配だったのだろう。
 今は暇さえあれば家を建てるために斧を振るっているらしい。自分たちの家なのだから材料から自分で用意したいと頑張っているのだ。

 最近、彼らのように番《つがい》になる同属が増えてきている。
 一つ前の姿では乱交しまくっていたミズオ達だったが、この姿に進化してからは一対一の夫婦関係が自然と結ばれていた。恐らく人間の時の意識が関係している。
 ミズオの相手はまだいなくて、若干交尾にトラウマ持ちのミズオは性的に平和な日々を送っている。このまま老衰まで独身も良いなぁとか思っていたりする。

 そして子どもも増えた。もう10人を超えた。総じて知性の発達が早く、しかし中に人の意識が入っている気配は無い。親たちはそれに安堵していた。

 エゾウエの姉御も、その安心している親の一人である。
 ハラハラさせられるがそれも嬉しいんだよ、とお母さん全開で惚気てくるのだ。子供に変な意識が入っていたらこうはいかないだろうな、とミズオでも分かる。

 おおむね、全てが上手く回っているのだ。
 だからこそ、不安になるという面もあるのだが。

「ほら教えた通り言ってみな」

 エゾウエの姉御は子どもの背を小突いてミズオに目を向けさせている。
 そろそろ産まれて一週間。ミズオ達を小さくしたようなデフォルメしたような姿の子どもだ。目が丸く、薄茶色の体毛が軟らかそうであった。
 母親の服を小さな手で握りながら、黒目がちの瞳で子どもはミズオを見上げてきていた。

「ミジオ…?」
「おう、どうした? あとまた俺の名前間違えてるぞ」
「ミズゥ……ミゾー?」
「うん、おしいな。俺は溝じゃないぞ。それでどうした?」
「お母ちゃん……臭い」
「ぬ? 臭いか?」

 体臭の話だろうか。エゾウエの姉御は水浴びが嫌いなのか?
 ちょっと興味もあって臭いを嗅いでみようとするミズオだったが、エゾウエの姉御に慌てて顔を押し戻された。

「違う違うっ。まったくもうこの子は……わたしが臭いんじゃないよ」
「お、おう……」

 ふぅ、と溜息を吐いて姉御は鬣《たてがみ》を掻き上げる。
 女性の同属は鬣を長く伸ばしているのだ。それが色っぽいと思えるようになった辺り、ミズオの感性もしっかりこの体に順応しているのだろう。

「そうじゃなくて、生き物が燃える嫌な臭いが風上からしてね。ムラサメさんを探してたんだけど、長でもいいか」

 姉御が娘の頭を撫でながら要件を話してくる。

 くすぐったそうに目を細める子どもを見ていると、すこし子どもが欲しい気も……。
 いやしかしミズオは確実に卵を産む方だし……。

 などと苦悩している場合ではない。もたらされた情報はちゃんと考えねばならないだろう。
 ムラサメさんには柵を作ったりなど、防衛関係を任せている。そんな彼を探しているということは、エゾウエの姉御はそういう問題だと判断したということだ。

「燃えてる臭い……か。見に行った方がいいな」
「ああ。南の方、この前踊りに行ったところさ。今日はケイジが見回り当番だろう? ついでに見てくるよう言っておいたよ」
「ああ、ありがとう。俺からムラサメさんには話しておく」
「あいあい。じゃあね」
「バイバイ……」
「おう。わざわざありがとな」

 去っていく二人を見つつ、ミズオは今聞かされた情報に思いを巡らせる。
 その時に、あまり良い予感がしない情報だと感じたのだが、案の定嫌な知らせが続いてやってきた。

 友誼を交わした集落の一つが、焼かれていたらしいのだ。














「酷ぇな……」

 走ってきたミズオは、その惨状に息を呑んだ。
 広場に立っていた大きな建物が崩れて燃えていた。何本も大きい木を使って作った頑丈な家だった。建てるのに手を貸したミズオ達にはそれが良く分かる。
 燃やしただけでなく、壊そうとしなければ崩れない筈だ。他の建物も壊されて、廃村と化している。
 声が美しい種族であった。一緒に踊り、そして歌い合った広場にはしかし灰が積もり、そして灰の臭いに紛れて濃い血の臭いが漂っている。
 すでにミズオ族が埋葬を終えているらしく。集落にはいくつも土の盛り上がりが出来ていた。

「全滅さ。どこがやったかしらねぇが、卵まで割ってやがる。死体も肉が残ってる奴は少なかったんだぜ。こりゃでかい奴の仕業じゃねぇよ。頭のある同じくらいの奴だ」

 やりきれない表情でスコップに寄りかかっている仲間が呟いた。

「……敵の死体は?」
「無かった。一方的にやられたのかもな」
「………」

 ここの集落はミズオ達から見ても屈強な体躯を持った生き物がいて、しかも数はミズオ達よりも多い300体ほどだったはずだ。
 それが、見に来た時には死屍累々の有様だったらしい。

 特に長とは仲良くなった。ボディランゲージで、告白したい相手がいることまで教えてくれた気の良い奴だったのに。
 怒りが湧きあがってくるが、もしかすると自分の村がこうなっていたかもしれないと考えると、背筋に悪寒が走った。

(冗談じゃないぞ)

 次はミズオ達の村かもしれない。そう思えば、友の死に憤るのは後であった。
 怒りに狂うのを、ミズオの地位が許しはしないのだ。悲しいことに。

(どうする……)

 自分たちと同等の戦力を持っていた村がこうも無残に壊されたのだ。一つの村で立ち向かえる相手には思えない。

「ミズオさん!」

 思考を巡らすミズオに走り寄ってきたのはケイジである。最初にここを訪れたケイジがどこに行っていたのか気になったのだが、すぐに思い当たった。ケイジの後ろに鬼が着いてきていたのだ。
 恐らくこの鬼を呼びに行っていたのだろう。ちょうど彼らからも情報を得たいと思っていたところだ。
 ケイジはなんだかんだでこの鬼とコミュニケーションをとれる数少ない人材なので、彼が鬼を連れてきてくれたのはとても助かる。

「で、敵の姿を知ってるのか?」
「いえ、知らないそうですけど……その前にお伝えしたいことがあって……」

 言葉を濁すケイジの暗い顔に嫌な予感がするが、聞かない訳にもいかないだろう。

「鬼族さん以外の村にも行ってみたんですけど、そこも焼かれてて……死体がいっぱいだったんです」

 死体の腐敗具合から見て、ここより早く襲われていたようだとケイジは言った。
 ミズオは目を押さえて溜息を吐いた。











 もはや一刻の猶予もない。
 ミズオはその場で鬼族に協力を願い出て、向こうもそれを快諾し、二つの村は協力して襲撃に備えることになった。
 その日の昼には、鬼族たちは防衛能力がより高いミズオの村へと移住してきた。
 彼らの数は122。その中で戦えるのは100程度だという。ミズオ達の戦える人数と併せて250に届くかどうか。
 だが、敵がどれほど恐ろしかろうと、逃げるという選択肢は無い。
 南から敵が来ており、村の北にはすぐ海が待ち構えているからだ。

「武器は足りるか?」
「柵は、これじゃあダメだな」
「武器の数も全然足りねぇです」
「出来れば盾も欲しいよ」
「掘りがあれば良いかも」

 各隊の代表と鬼族の面々に集まって貰っての話し合いである。鬼族の方は特に分業もしてないそうなので、鬼の長にだけ来てもらっている。
 皆の意見を聞いて、ミズオは頷いた。

「分かった。じゃあ人を分けよう。半数を物資の準備に回す。力のある鬼族の人たちには森に行って木を切って貰おうと思う。俺たちは川に行って石を拾ってくるぞ。食料もだ。足を生かしてたくさん集めるんだ」

 ケイジに目線を送ると、頷いて傍らに居る鬼族の長に

「――――――■■■」
「分かったと鬼の長さんが言ってます」
「よし、切り次第どんどん持ってきて欲しいと伝えてくれ。ウチは食料調達隊と地均し隊に出てもらおう。他にした方がいいと思えることは?」

 手を挙げる人がいた。ムラサメさんである。もはや禿げ地と化した顎を撫でながら厳しい表情でムラサメさんは言った。

「長、斥候を出した方がいいんじゃねぇか? どんな奴が来るか分かると分からんでは全然違う」
「……見張りじゃダメか? 周りの森に見張りに出てもらう予定だけど」

 ムラサメさんの言うことも尤もである。しかし、危険な任務に仲間を使うことは抵抗があった。
 しぶるミズオに、ムラサメさんは首を横に振った。

「やった方がいい。人が選べないなら、俺が足が速い奴と組んで行ってくる」
「ぬぅ…」

 迷ったが、結局頼ることにした。結局必要なことなのだ。それに、命をかけることになるのは、恐らく誰も彼も同じだろう。
 速いか遅いかの違いだ。そう、無理やり自分を納得させることにした。

「……すまん。助かる。必ず戻ってきてくれよ」
「俺を誰だと思ってる」

 ムラサメさんは鼻を鳴らして、話し合いの輪から外れて歩み去った。すぐに斥候に行ってくれるのだろう。
 ふぅと息をついて、ミズオは皆を見回す。

「他にはないか。よし、じゃあ日没までには物資を集め切りたい。みんなにも急いで欲しいと伝えてくれ。あと、決して襲われた村の方角にはいかないこと。絶対にだぞ」

 一同が頷くのを見て、俺は手を叩いた。硬質な掌が打ち合わさって、身の引き締まるような音が響く。

「じゃあ、頑張るぞ。生き残るために」









 集落は途端に慌ただしい空気に包まれた。
 鬼族は村のすぐ外にある森の木を片端から抜き始める。ミズオ達はそれを村へと運び入れる。
 斧職人にどんな石が欲しいか尋ねる声が響く横には、子どもを追いたてて集会所に集める親たち。
 子どもたちは不穏な空気を感じ取ったかおとなしいが、普段は会わない鬼族の子供たちと会えて嬉しそうだったりする。
 ミズオはそれを横目で見ながら、森に放つ見張りの人員を選び、声をかけていた。

 第一陣の見張りは既に森に散らばった。
 ミズオ達は大きい体の割に身軽だ。足も速く、木々の枝の上を走り、森の上空を滑空することができる。
 交代制で森を飛び回り、敵が近づいたら音を立てて知らせる手筈だ。
 海に面したこの場所で警戒すべきは南の方面だけ。奇襲の可能性はほとんどないだろう。

 作業は思ったより早く進んだ。鬼族の力が予想よりも強かったのだ。

 鬼族は手先が器用でありながら、その力強さは圧巻であった。
 ミズオ達も力があるとは思うが、比べるのも失礼なほど鬼族は力が強い。力比べの相撲では4対1で釣り合うほどだ。
 彼らは斧も使わず。重機のように、木を根っこごと引き抜いて放り投げる。どんどんと丸太は積まれて行って、一時間も経てばもう十分だと思える数になっていた。
 彼らの武器も、石斧ではなくタダの丸太の方がいいかもしれない。

 他の準備も着々と進む。
 斧が作られ、盾が作られ、やがて柵が強化される。
 尖った丸太を、敵を迎え撃つ様に斜めに地面に埋め込んで、盛り上げた土で固定する。

 斧の作成が難航している傍らで柵の強化が終わる頃、ムラサメさんは帰ってきた。連れていった者ともども無傷である。

「木の上から見てきたが、ありゃあ、今日は攻めてこねぇぞ」

 集落のような谷を発見したが、蛇たちはほとんどの者が寝ていたという。
 二つの村を攻め落とし、肉を食って腹が満たされたせいではないかとムラサメさんは言った。
 その肉とは、ミズオ達の友だった者だ。
 考えるだけでハラワタが煮えくりかえりそうだ。

「逆に攻め込むってのはどうだ? たぶん、逆に滅ぼすくらいしないと、何時までも危険が残るだろう」

 仲間の誰かが声を上げる。ミズオもおおむね賛成だったが、ムラサメさんは首を横に振る。

「見張りをたてて、俺たちも休んだ方がいい。長も含め、とても疲れているように見えるぞ。それでは、返り討ちにあうのがオチだ」

 言われて、己の疲労に気が付いた。朝から何も食べていないことも思い出し、途端に腹が減ってくる。
 そこにベーコがやってきた。

「はいはい、ご飯だよー」

 樹で作った盾に果物を山と載せている。ムラサメさんとその周囲に集まった仲間の間に、どん、と置いてから、ミズオに身を寄せて囁いてくる。

「ミズオ、貯めてる果物、皆に全部食べさせちゃっても良いよね」
「お、おう……いや、朝の分は残るか?」
「それくらいなら余裕だよ」

 親指を立ててから、ベーコは「そういえば」と腰につけた袋から果物を差し出してきた。

「一番疲れていそうなミズオ君に、ベーコがこれをあげましょう。食べると気分が落ち着くよ」
「そ、そんなに疲れてるように見えるか?」
「うん。ま、よく眠ってね」

 渡されたのは太陽を吸いこんだような明るい色合いの果実である。
 お礼を言う前に、ベーコは踵を返して去って行ってしまった。
 かと思えば、遠くに行ってから止まって、こちらに手を振ってきたりする。

――――あんまり一人で抱え込んじゃ駄目だよー!

 うーむ。心配してくれたのだろうか。渡された果実を手で撫ぜながら、ミズオは少し考え込んだ。
 ふと、皆が自分を見ていることに気が付いて、咳ばらいをする。

「見張りは……さっき指示したな。よし、食べたら寝ようか。元気になって、明日蛇どもを返り討ちにしてやろうぜ」

 誤魔化すように言ったが、微妙な雰囲気を隠せはしなかっただろうな、とミズオは思った。









◆ ◇ ◆ ◇ ◆










「……ぬぅ」

 己に割り当てられた掘立小屋で、何度目かの寝がえりをミズオは打つ。
 ケンタウロスのような体の構造上、寝るなら横寝で寝るしかなく、また寝がえりを打つのは割とコツがいる。流石にもう慣れたが。
 
 うまく眠れなかった。
 不安を覚えながら横になっているのはミズオだけではないだろう。しかし体を休めねば、明日攻めてくる可能性が高いのだ。今見張りを頑張ってくれている仲間のためにもすぐに眠らないといけないのだが。
 枕元で、結局一日中寝ていたマザーの図太さが羨ましくなる。
 いや果実を食べた跡があるので起きた時間もあったのだろうが、今はまた果実に張り付いて寝ているのだ。
 食っちゃ寝である。

 それにしても、明日。
 案外あっけなく追い返せてしまうかもしれない――――――とも思うが、楽観視はできなかった。

 罠を張る時間が欲しい。敵を知る機会が欲しい。
 何か穴があれば仲間が死んでしまう。
 何か。何かあるんじゃないか?

 自分が繊細な性質では無いとミズオは思う。人間の頃はどんな発表会でも緊張しなかったし、苦しいことも割と平気だ。
 だが……村を預かるという重圧は、確実にミズオを気疲れさせているのだろう。

 体も疲れているので寝よう寝ようと思うのだが、溜息ばかりが出て、妙に目が冴えてしまうのだ。
 一体普段はどうやって眠りについているのか。

 頭を捻っていると、先ほどベーコに渡された果実に思い当たる。
 そうか、疲れてるんだ。だから詮無いことを考える。

 それにしてもどこに置いたか。
 杖を立て掛けた横の、物入れに放り込んでいたのを思い出す。

 果実を寝たまま手を伸ばして探り当て、口に含んだ。
 途端、溢れる酸味に思わず顔が歪む。

――――――すっぱ……っ!

 涙が出るような強烈な酸っぱさだ。
 失敗した。余計に目が覚める、と悔いた瞬間、舌の上で爽やかな甘さが弾け、すっと鼻孔を喉をくすぐり鼻に抜けた。

――――――おお。これは……ふぅ。

 安らぎのような甘さに、体が落ち着いていくのが分かる。

「ううむ。ベーコ侮りがたし」

 お陰でよく眠れそうだ。ありがたい。
 そう直接言えば、ベーコは照れるだろうか。それとも「当然」とふんぞり返るだろうか。
 今は眠りこけて鼻ちょうちんでも出しているだろう彼女に、聞こえる筈もないお礼を呟く。
 彼女のことを考えながら目を瞑れば、さっきまでの苦労はなんだったのかと言うほど、すとんと眠ることが出来たのだった。





[34356] 集落フェーズ ここに在りて4
Name: 大豆◆c7e5d6e9 ID:1d79d764
Date: 2012/08/04 13:03




 ぷぉおおお、と大きな音が響き、作業をしていた者は顔を上げ、村中に緊張が走った。

――――ついに来たか。

 ミズオも土を掘り返すのに用いていた板から土を払い、中ほどにある取っ手を掴む。それの本来の用途は盾だった。
 結局、掘りを作るのは間に合わなかった。
 仲間に、柵の内側に撤収するように伝える。

 高らかに響いた音は、海岸で拾い集め、加工したホラ貝の音だ。遠くまで響くため敵襲を知らせるのには都合が良かった。
 本来なら歌と踊りのアクセントとなるはずだったのに。初披露がこれとはやる瀬ない。

 だがこの襲撃を乗り越えれば、また平和な日々が戻ってくるはずだ。
 歌って踊れる幸せな日々がまたやって来る。
 そう信じて、戦うしかない。




 ホラ貝の音は一度。別働隊はない。正面から来る敵だけだ。
 ずずず、と森の向こうから地鳴りのような音がする。
 息せき切って見張りに出ていた仲間が囲いの中へと飛び込んで来る。
 その内の一人、ムラサメさんが普段出さない大声で叫んだ。

「みんな、心しろ! でかいのが来るぞ!」

 その言葉の真意を問う暇もなく、村の南、森の一角が弾け飛ぶ。折られ、蹴り飛ばされる木々の散らばる中を巨大な生き物が走り出てきた。
 その光景、ムラサメさんの言葉の意味が分からなかった者はいないだろう。
 森から出てきたのは、まるで自分が縮んだかと錯覚するような大きさの生物だったのだ。
 確かにでかい。でかすぎる。

――――――も゛ぉ゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛!

 カタツムリのように目が飛び出た体高6メートルはある、家より大きな六本足の赤い象。
 それが5頭、半狂乱になりながらこちらに向かって走ってくる。

 赤い象は追われていた。尻に十数本の槍を突き立てられ、血を流しながら走り、今なお後ろから槍で追い立てられている。
 走る速度は早くない。しかし、その大きさ、重量こそが、問題だ。まるで山が迫って来るかのような焦燥感。

「マジかよ……!」

 ミズオは戦慄に唾を呑んだ。こんなこと、思いついても実行するか?

 胴体が妙に細長く、肌の青白い蛇のような生き物が叫びながら四本の腕で、枝を尖らせた槍を振り回し、象たちの皮膚に穂先を突き刺し、行進を無理やり加速させている。
 あの蛇が村を潰した生物だろう。槍を作るほどに賢く、そして無邪気な残忍さが窺い知れる。
 ぎゃあぎゃあと憎たらしいほどに楽しそうだ。ミズオの中に怒りが膨らんでいく。

―――――ふざけやがってッ!

 地響きと共に柵へと突っ込んで来るそれに、しかしミズオ達の準備も役に立たない訳ではなかった。
 ミズオは手を挙げ、手に握る雄牛の杖を振り下ろす。

「よし―――――投げろ!」
「ォオオオオオオオオオオオオオッ!」

 既に構えていた鬼族たちが、いっせいに、丸太を投げ飛ばす。昨日抜き過ぎて余って居た丸太を手ごろな大きさに輪切った物だ。
 下手な岩を投げるより、威力がある。

 それは風切り音を上げながら哀れな赤い象や、その向こうの蛇っぽい生き物たちに向かって飛び、次々に着弾する。
 蛇っぽい生き物には避けられるが、象には当たり、さらに地に落ちた物が土煙りを巻き上げて、その侵攻を僅かばかりと言わず妨げる。
 鬼族たちはミズオ族が両手で渡す生木を片手で掴んで受け取り、即座に第二投。

 鬼族の長などその巨体を生かした剛力で、長いまんまの丸太を投げ放ち、柵の目前に迫る象の顔にぶち当てる。
 衝撃で頭を揺らす先頭の象の足に、落ちた丸太が絡み付き、一体の象を転倒させた。疲労しているのだろう、倒れた同属に足を取られて、赤い象たちは次々に転倒していく。
 しかし距離が近すぎ、そして赤い象の身は大きかった。

「―――――っ! 柵から離れろっ!」

 柵がメキメキと押し潰されて行く。柵の、斜めに据えられた鋭い丸太の切っ先が象の体へと食い込んで、象の絶叫と共に吹き出す血が辺りを染めて、そこに青白い蛇たちが降り立ってくる。

 利用されただけの哀れな象たちの死を悲しむ暇は無かった。そんなことをしていれば、すぐに後を追うことになりかねない。

 柵が速攻で壊されたことに歯噛みしつつ、眼前の敵を見据える。

 蛇であった。
 改めて見ると、蛇に手が生えただけの生物に見えた。四本の手が胴体から突きだして、それぞれの手の先に短い槍を構えている。
 足は無く、腰から下が蛇の尾となってくねっていた。縦割れの瞳を細め、口からチラチラと舌を覗かせる様は、そのまま想像上の蛇と合致する。背はミズオ達より低いが、蛇に似合わぬ三本指の腕は鱗がびっしりと、しかしその下の筋肉がくっきりと浮き上がっていた。

 蛇たちは血の広がる地面に降り立つや、這うような姿勢で滑るように向かってくる。
 ミズオは叫んだ。

「―――――数はこっちの方が多い! 囲むぞっ!」

 同時に石斧を持って駆け出した。左手には盾。
 勢いのまま斧を振りおろし、接近に驚いて槍を振ろうとする蛇の頭を叩き潰した。頭蓋が潰れる嫌な感触が腕を這い上ってくる。
 舌打ちしながら振り払うように腕をなぎ払い、後続の蛇が突きだしてきた槍を弾く。

 場が、怒号と悲鳴に満たされ、血が、断末魔が溢れ出して行く。
 象の死体を登って入ってくる蛇たちを囲むように半円形になったミズオ達が、一方的に嬲るような展開になりつつあった。
 だが、手は緩めない。

―――――――皆と話し合ったのだ。躊躇はしない。情けをかけず、仲間を守る。

 幸い、ミズオ達に殺しの忌避感はほとんどなかった。
 それは微生物時代から培った、死への概念と同時に身につけた物である。
 殺さねば、殺されるのだ。

「ぉおおおおおおおおお!」

 ミズオは己に気合いを入れ、盾で相手を勝ちあげて、斧で胴体を殴りつけた。

 鬼族とミズオ族が数の差から有利に戦いを進めていた。
 ミズオ族たちは盾と斧で、鬼族たちは丸太とその剛腕で。
 怪我をして子どもを守る数体を除いた、総力戦だ。足元には次々と蛇の死体が積み重なっていく。

 しかし蛇たちの勢いは緩まない。
 一体何匹いるのか、決壊した堤防から噴き出す水の如く、次から次に象の死体を下りてくる。
 その内に、柵の向こう側に居る蛇の一体が尻尾をバネのようにして、高い跳躍を見せた。
 丸太の柵を軽々と飛び越えて、包囲をしているミズオ達の中へ飛び込んで来る。

――――――へ、蛇のくせに飛ぶなよっ!

 ミズオ族や鬼族も慌てて対応するが、振り下ろした武器の半数は空を切り、ついに敵の武器がこちらに届く。

 後ろに行かれると相当やばい。挟まれるし、下手すれば後ろの子供が襲われる。
 混戦になれば、途端に被害が大きくなるだろう。敵は素早く、武器も十分に殺傷力がある。

 上がる悲鳴。そちらを向いている暇は無かった。
 頭上を飛び越そうとする蛇に斧を投げつけ、突き出される槍を角で払い、視界の端を通り過ぎようとする尻尾をひっつかんで投げ飛ばす。隣の鬼族は丸太を投げ捨て蛇を殴り落としている。

 すぐ近くに降り立った蛇は、とても素早く、攻撃は鋭かった。
 ぬるりと滑るような動きでこちらの斧を回避して、一息で三つも四つも槍を振るってくる。
 一対一ではかなり分が悪い。ミズオ族と鬼族で囲んでタコ殴りに出来ている現状だから何とかなっている。

 どうすればいい。どうすれば。
 目の前の蛇を押し返すので精一杯で、思考がまとまらず、焦りが募る。
 動作が乱れ、敵の槍が体を掠り、やがて抉ることも多くなる。

 視界の端で、槍を顔に受けて倒れる仲間が見えた。遠い。助けれない。やばい。やばい…!

「ォオオオオオオオオオオ!」

 そんな時、突如雄たけびが響く。横目で見やれば、鬼族の長が二匹の蛇族の尻尾をひっつかみ、両手で振り回していた。
 暴風のように暴れまわり、倒れた仲間にとどめを刺そうとしていた蛇を弾き飛ばしている。
 踏み込みは土の地面を凹ませて、振り回され口から舌と血を流し出す蛇を掴んだその姿は、まるで般若のようであった。

 それを見た鬼族が真似をし始め、徒手空拳から敵をひっつかんで武器とし始める。
 その姿に、明らかに敵がひるんだ。

――――――行けるか?

 ミズオは敵を吹き飛ばしながら一人語ちる。
 だが、即座に希望はかき消された。
 鋭い音が響いて、蛇たちが戦意を取り戻したのだ。

 柄の先に火のついた長い槍を持つ、大きな蛇が象の死体に登っていた。
 槍を掲げ、しゅうしゅうと呪いのような声を吐く。
 目の前の敵の槍が頬をかすめ、ミズオは舌打ちをする。

「長、見たか?」

 突然、近くから声がかけられる。低い声。ムラサメさんだ。
 蛇を槍ごと斧で両断しているあたり、斧使いNo.1の男は伊達ではない。
 彼の言葉に、ミズオは一瞬考え、そして彼が言いたいことに気付いた。

「……敵の長かっ!」

 気が付けばそうとしか思えない。
 あの威風堂々たる様子。ミズオ達と死する仲間を睥睨し、しゅるしゅると舌を震わせている。
 長だ。間違い無い。周りに蛇が十数匹、象の死体を登ってきて守るように侍った。

 ムラサメさんが低く呟く。

「倒せば退くか?」
「わからん。でも行くしかないな」

 このままやっていれば、いずれ死者が出るだろう。それは嫌だ、仲間が死ぬのは己の腕が千切れるより嫌だ。
 ムラサメさんが蛇を斧で地面に縫いつけながら言う。

「俺が行くぞ」

 ミズオも言う。

「俺も行くぞ。一緒に行こう。その方が確率が高い」

 ミズオの言葉にムラサメさんは鼻からふん、と息を吐き、槍を受け止め、敵を殴り飛ばしながら呟いた。彼の左手にはすでに盾がなかった。

「死ぬなよ。ベーコに頼まれているんだ」
「ベーコ? いや、死ぬかよ。ムラサメさんこそトチるんじゃねぇぞ」
「俺が誰だと思ってる」
「むしり過ぎて髭のないおっさんだよ」

 ミズオとムラサメさんは同時に地を蹴った。
 目の前に飛び出してきた蛇の頭を強烈に蹴りつけ、踏みつけ、跳躍。

 高く、羽を広げて、飛翔した。

「―――――!」

 バサ、と羽ばたかせると風を孕んで体が一段上に浮く。丘のように柵の上に横たわる象の死骸。そのさらに上へと跳び上がる。

「ぉぉ―――――――」

 蛇の長がこちらを見上げている。指をさし、仲間に鋭い音で指令を出す。

(盾がもつか―――?)

 多くの蛇がこちらを見上げ、槍を突き出してくる。
 これは負傷も免れまい。

「―――――――ッ!」

 覚悟していると、轟音が響く。
 飛来した何かが、ミズオ達を待ち構える蛇たちに直撃し、吹き飛ばす。
 見やれば鬼族の長が、片手の武器(蛇)を投げつけてくれたようだった。

 正直、かなり助かった。
 開けた場所に、四本の脚で着地する。

 象の皮膚は意外と硬い。岩を踏んでいるかのようだ。死後硬直だろうか。

 まぁいい。好都合である。
 ミズオはさらに体を沈みこませるように、踏みこんだ。


――――――いくぞ。


 奥歯が砕けるほど歯を食いしばる。
 下半身に力が漲って、筋肉がはち切れんばかりに膨張し、全て一瞬で終わらせてミズオの体は弾けるように飛びだした。この体系で一番得意な動作。突進だ。

 鬣《たてがみ》が風に逆立つ。皮膚がチリチリと粟立つようだ。

 一歩で地面を蹴り抉り、二歩で最高速に到達したミズオは風と化し、眼前の敵を吹き飛ばす。
 ごぉんごぉんと盾が揺らめき、突きこまれる槍が肩を抉り、盾に亀裂が走り、槍が額を削ってこめかみに滑り、後ろに流れて行く。流れる血が、目に入る。
 やがて盾が割れ掛ける頃に、敵の親玉の姿が見えた。
 蛇に囲まれ、余裕の表情でこちらを見ている。


―――――――ふざけやがって!


「ぉおおおおおおおおおお!」

 さらに足に力を込めようとした瞬間、隣に燃え上がる様な熱気を発する男が現れる。
 ムラサメさんだった。世界一、頼りになる男だ。
 それを肌で感じ、無我夢中でミズオは叫んでいた。

「俺を踏んで――――跳べッ!」

 もはや目も向けず、しかし確かにムラサメさんの頷いた気配がする。
 やや足を緩めた。
 同時に高く地を蹴る音。
 下半身―――馬の背中にハンマーでも振り下ろされたような容赦のない踏み切りの蹄が落とされる。

 ぐぁん、と頭上をムラサメさんの巨体が舞った。通り過ぎる影が一瞬視界を暗くする。

「――――――――!」

 絶叫。
 開けた視界でムラサメさんが蛇の長の頭を、手に持つ長い槍ごと両断する。パッと槍の柄の先で火の粉が散った。

(これで……)

 そして同時に、ミズオは己の体に無数の槍が突きこまれていることを知った。

 熱い。
 痛みは無く、ひたすら熱い。

 内臓が抉られ、喉の奥から血が溢れだしてくる。懐かしくすらある、命が流れ出して行く感触だ。


―――――おお。
―――――これは流石に。
―――――助からないな。

―――――死か。

 素直に理解して、受け入れた。
 最後の仕事と、眼前の蛇どもに向かってミズオは吠えた。

「お前ら――――――」

 血でぬめる斧の柄を強く握り、振り払う。

「全員、道連れにしてやるぁあああああああああああああああああ!」

 体から血を吹き出しながら、ミズオは斧を振るった。
 斧は刃が砕け、盾はあっけなく割れ。
 その後は敵の槍を奪って突き殺した。
 敵からの反撃は、不思議と無かった。

 やがて蛇たちが逃げだして行く。
 それを見るミズオは今、立っているのか座っているのか。自分でも分からない。

「―――――!」

 誰かが声をかけてきている。シルエットしか見えない。


 平和になったか? そう聞きたかった。もうこの斧を放り出しても良いのか?


 声は出ない。
 ああ、意識が。暗がりに。


 ぼんやりする頭で、俺たちに歌と踊りが戻ってくればいいな、と思った。
 斧なんか捨てて、みんなと一緒に踊りたいぜ。







[34356] ここに在らざるどこかへ
Name: 大豆◆c7e5d6e9 ID:1d79d764
Date: 2012/08/04 13:03




――――――空が青かった。

 どこまでも突き抜ける蒼穹は、一週間前にあった戦いの余韻などどこにも残していなかった。
 雨でも降ればまだ慰められただろうか、と益体の無いことを思い、マザーは頭を振った。そう言えば昨日降ったばかりだ。お陰で地面には血の跡もない。

 マザーを肩に乗せたベーコが、果物を墓に置いている。傍らに雄牛の杖が突き立つ石の墓だ。

 ベーコは置いた果物を撫でながら、墓を見つめている。
 足を失った者、目を失った者、様々な悲劇はあった物の、奇跡的に死者は一名であった。
 だが、最も失ってはいけない者を失ったかもしれないと、マザーは思う。

 マザーはこの一週間、ようやく眠りが少なくなってきている。産卵以前の調子に体が復調しつつあった。否、休んでいる暇が無くなったというべきか。
 ミズオと言う支えを失ったミズオ族の支柱となれるのは、今のところ残念なことにマザーくらいだ。
 もう一人の候補であるムラサメは、己だけ生きていることを悔いており、頼りにするのは酷であった。

「ホントはねぇ。戦って、疲れて帰ってきたミズオを驚かすつもりだったんだ」

 唐突にベーコが語り出した。

「ここに二人の子供が! ……なんてさ。驚いて、凹んでいる暇なんか無くなるだろうって思ってさ」

 ベーコもまた、深く己を悔いている。同じ場所で戦っていれば最後の特攻にも付いて行けたのに。そして――――――。

「深く眠っちゃう果物を渡して、密かに襲っちゃったりなんかして。馬鹿だよね。ちゃんと告白すれば良かった」
“まぁ……ベーコが色々と切羽詰まっていたことは認めよう”

 人間のころなら犯罪である。

 ベーコの腹はこの一週間でだいぶ膨らんできていた。
 卵を作っているのだ。産み落とす日も近いだろう。
 ミズオとの卵だと、マザーにだけ教えてくれた。マザーが寝ている横でミズオを襲ったとか何とか。
 やってくれる。

「ねぇマザー。ミズオは、この子に生まれ変わったりしないかな」
“……どうだろうな”

 マザーは端的に応える。慰めの言葉はもう、尽きていた。
 進化が一段落してから死んだ者はおらず、しかしマザーは子どもにミズオの意識が宿ることは無いだろうと何となく思う。

 そんなことよりも。昨日思い出したことがある。

“そう言えば”
「?」
“ミズオが死ぬ前に久しぶりにテレパシーというのか? 遠くに居るはずのミズオの声が聞こえたよ”
「!」

 こちらを見るベーコの視線を感じながら、マザーはあの時のことを思い出す。
 死の間際に放たれた強烈な声。しかし内容は、何ともミズオらしい。


―――――歌と踊りの日々が戻ってきますように。


“と、言っていた”

 マザーが言うと、ベーコは顔を複雑に歪めて、あはは、と泣きながら笑う。
 しばらくしてから、乱雑に拭って顔を上げた。

「じゃあ……歌って踊らないとね。――――――苦手だったけど、たくさん練習して、この子にも教えなくっちゃ」

 そう語りかけるように、ベーコは膨らんだ腹をさするのだった。











 集落フェーズ:END
 NEXT:文明フェーズ


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

SS-BBS SCRIPT for CONTRIBUTION --- Scratched by MAI
0.073204040527344