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[33445] 【完結】蝉だって転生すれば竜になる(ミンミンゼミ→竜・異世界転生最強モノ)
Name: あぶさん◆5d9fd2e7 ID:9f632b24
Date: 2014/07/11 00:39
この作品は小説家になろう様にも投稿しております。








第一話 蝉は竜の翼で飛び立つ


生き生き生き生きて生の始めに暗く
死に死に死に死にて死の終わりに冥し    (空海)






生の輝きは流星のきらめきよりも短く、命の炎は手の平の淡雪ごとく儚い。

死の安寧は感触も匂いも温度もない、重力も地平線もない只の黒であった。

人は死を闇、生を光と捉えるというが、ならば私の生とは生きながらにして死んだも同然だったのではなかろうか。

なぜなら私は、それほど短くはない一生のほぼ全てを、暗闇の中で過ごしていたのだから。
卵から生まれ、実に6度目の夏を迎えるあの日まで、私はただ、ひたすら土の中で蟻やモグラにおびえながら暮らしていた。

暗闇のなかで生きたあの6年は、私には永遠の闇にしか思えなかった。


終ることがないと思っていた永遠の闇。

だからこそ、あの暗い一生の中で出会った一瞬の光に、私は喜びに打ち奮えたのだった。

朝靄の中、ようやく殻から抜け出したあの日、私は生というものの意味を初めて知った。


光だ


初めてふれた太陽の光は徐々にその本性を表しはじめた。

柔らかな桃色であった光の光源は徐々に角度と色を変え、それが真上に登るころには、目も眩まんばかりに白となって、羽化したての私の頼りない外殻をジリジリと焼いたのだ。

真夏の強い風は私のやわらかい羽を叩きつけながら吹き抜けて、草いきれの強烈な匂いが私の嗅覚を奪っていった。


ああ、生とはなんと苛烈なものか


凶暴な太陽に、瞼もない私の小さな目が眩々(くらくら)と揺れた。


確かに光は生だった。

気がつけば、私は太陽に向かって羽ばたいていた。


誰に習ったわけではない、ただ、本能が飛び方を知っていたのだ。

空を飛ぶということがいかに素晴らしいことか、それはきっと飛んだものにしかわからない。

遥か高い空を飛ぶ渡り鳥たちにくらべれば、私の小さな羽根では、せいぜい地べたを這いずる程度の羽ばたきにしかみえなかっただろう。

しかし、小さな私にはそれで十分だった。


8月の気層の光の底を夢中に駆け巡っていたあの時、私は確かに生きていたのだ。


わたしは、ただ、ただ、飛び続けた。


にわか雨を木陰でやり過ごし、腹をすかせたカラスの嘴から逃げおおい、わたしを捕まえんとする子供たちの虫網をかいくぐり、



飛んで、飛んで、飛んで、飛んで…



気がつけば、私は地に横たわっていた。


働き者の黒い死神達が、群れをなしてこちらに向かってくるのを認めた時、脳未満の神経繊維の束ですら、これが私の死なのだと理解することができた。

暗くなっていく視界の中で、私はこの生を振り返った。


僅かな間ではあったが、私は空とともにあった。風とともに泳いだ。木漏れ日ともに戯れた。この広い世界のほんの一欠けらでも、旅をすることができた。

土の中で、あるいは脱皮の最中に命を落とした仲間達から見れば、私はなんと幸運な一生を終えたのであろうか。


こうして

わたしは

おおむね満足して

蝉としての生を終えるのである。


…おおむね?


そうだ。私の生にはただ一つだけやり残したことがあったのだ。


私の目から最後の光が消えるその瞬間、私は気管から漏れ出す最後の息とともに、たった一つのことを思った。


(一度でいいから、メスゼミと交尾(あいのいとなみ)をしたかった・・・・。)


交尾を知らぬまま、愛を知らぬまま生を終えるのだと知った時、種としての本能、交尾への欲求がむくりと起き上がった。

死を前にして、私の針のように小さな生殖器が疼いた気がした。


生の終わり、光が消える前にチロリと燃えたその欲求。種の保存への根本的な欲求は、


死という完全なる冥闇の中でも、微かに燻り続けた。


今思えばその欲求と未練こそが、私を次なる生へと繋いだのかもしれない。


周りに広がるのは完全なる黒。ツヤもなければムラもない黒。

一瞬であったのか、あるいは永遠であったのか。その暗闇に再び一筋の光が差したとき、私の2度目の生は始まったのだ。



光、そう。光だ。



光を生み出すものは紛れもない太陽。


もう2度と拝むことのないと思っていた太陽と、再び顔を合わせたその時、私の中に膨大な知識が津波のように流れ込んできた。

継承の儀式とよばれるそれによって、わたしは1週間意識を失っていた。1週間たち、ようやく全ての知識が脳に定着したときに、私はすべてを悟った。



自分の前の生が蝉とよばれる小さな生き物であったこと


この世界は私が前にいた世界とはまったく別の世界であること


この世界には人間を始めとしたさまざまな種族が存在すること


わたしが今いるこの島は、ヒトの住む大陸から1000キロほど離れた巨大な無人島であること


この世界には生物達の頂点に君臨する竜とよばれる生き物が存在すること


この島には1000年生きた竜が住んでいて、その竜が死ぬときにすべての力と知識を残し、一つの卵を生んだこと



そしてその卵から孵ったのが…私であること。



一通りの情報を整理した私は、空に向かって飛びあがった。


蝉であったころから考えると、比べ物にならないほど大きなこの体は、同じく比べ物にならないほど逞しい翼を以って大空へと羽ばたいたのだ。


ぐんぐんと遠ざかる大地と、ゆるやかに近づく空。
蝉の小羽では決して届くことのなかった雲の塊を通り抜けたとき。私は腹の底から笑ったのだ。

前世から通じて、生まれて始めて笑ったのだ。蝉の仮初めの脳みそでは笑うことすら許されなかったのだから。


針金のように細かった手足は、巨大な岩山すら持ち上げられるほどに太く逞しくなった。

いつも風に吹き飛ばされていた私の薄羽は、羽ばたけば嵐すら巻き起こすことができる。

樹液をすすることしか能のなかったあごは、アイアンタートルの甲羅すら容易く噛み砕く。


蝉という卑小な生き物が生物の長たる竜となる、運命とはかくも奇妙なものか。

蝉が、ましてや異世界の生き物が、なぜこの竜の体に宿ったのかは受け継いだ知識を総動員してもわからないし、その理由を知る必要もない。


竜になった以上、そんなことはもはやどうでもいいことなのだから。

たしかに私は、蝉としての記憶を持っている。しかしそんなちっぽけな記憶など、すぐにこの脳裏から消えていくであろうから。

私は竜なのだ。セミの一生などとは比べるのもバカらしいほどに、長い長い生が、強い光が我を待っているのだ。


虫網にも、カラスにもおびえる必要はない。

知識が語りかけてくる。

私は最強だと、我が咆哮だけで地上の全ての生き物を震え上がらせてしまえるのだと。


私は今、この空の…いや、世界の王となったのだ!


さあ、声高く歌おうではないか、竜としての新たな生の始まりを!








ミーンミンミンミン ミーンミンミンミン








世界に響け、わが喜びと求愛の歌よ










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人間が竜に、竜が人間に転生するお話があるのだから、蝉が竜に転生する話があってもいいじゃない。
次回は高貴だけどエロ担当な癒し系ヒロインの登場です。





[33445] 第二話 竜は真の慈愛を知る
Name: あぶさん◆5d9fd2e7 ID:de479454
Date: 2014/07/11 00:08




汝は生きるために食うべし、食うためにいきるべからず (キケロ)







竜は、この世界において神にも等しい生き物と呼ばれている


爪は地を割り、翼は空を裂き、知恵は星を覆う。


いかなる魔獣や幻獣も、竜の前では嵐の中の桜のようにその命を散らし、

命知らずの人間たちは、竜の知と宝を求めては、悉く骨となって風化する。

世界でもっとも古き一族の鱗は、魔獣の牙も、人の歴史も、貫くことはできぬのだから。


しかしこの、もっとも偉大な竜の力をもってしても、決して抗えぬものがある。

この私すら殺すことが可能な者、全ての生き物にとって最大の敵とよべる者、その名前を




空腹とよぶ




当たり前のことであるが、竜は肉食である。

正確に言えば雑食ではあるのだが、竜の巨体を保つには木の実や果実などではとうていまかないきれぬものなのだ。

私が卑小な蝉であったころは、木にしがみついて樹液をほんの少しでも分けてもらえばことたりたのだが、竜と成った身であればそうはいかぬ。

この腹を満たす樹液を得ようと思えば、一つの森が一瞬にして消え去ってしまうだろう。
そもそもが、今の私の舌は樹液をすするようにはできていない。


今の私は樹液など啜りたいとも思わない。

竜になったときに私の味覚も変化したのだ。我が舌と胃はもはや樹液など欲せぬ。

世界の王たる竜が樹液をすすって生きていくなど笑い話にもなりはしない。

血の飛沫と肉の叫びこそが、我に歓喜の調べをもたらすであろう。


私を産み落とした白竜は、時折ヒトが船で運んでくる生贄を喰らったり、魔獣や幻獣を狩って暮らしていたらしい。私が受け継いだ記憶の中には、それらの獲物がどこにいるか、どのように狩ればよいのか知識としてすでに備わっている。


いや、狩りというのは適切な言葉ではないかもしれない。

本来、野生動物の「狩り」とは、成功する保障も自らが傷つかぬという約束もない命がけの行為である。
草食動物というのはおしなべて走力と持久力に優れており、例え獲物を追い詰めても、死に体の獲物から手痛いしっぺがえしをくらうこともある。
マンティコアがユニコーンの角に貫かれて命をおとすということもこの世界ではよくあることなのだ。


しかし、こと「竜の狩り」になると話は違う。竜と他の生き物では存在の次元というものが違うのだ。
それはたとえ生まれたばかりの私とて同じこと。

竜である私が他の生き物に遅れをとることはありえない。また、我が偉大なる飛翔から逃れられる生き物などはこの世に存在しないのだ。

音すら置き去りにする羽ばたきで近づき、咆哮によって意識を奪う。それが竜の狩りである。

憐れなり。獲物達にとっては注意も警戒も意味はない。かれらにできるのはいつか自分がババを引くことがないように祈る事しか出来ぬのだ。

竜の住む島とは巨大な生簀であり、竜の狩りとは、その生簀から好きなときに獲物を摘み上げるだけの行為に過ぎない。


失敗などありえない狩りを果たして狩りと言ってよいかどうかもわからぬ。
とはいえ、私も知識として知ってはいるものの、実際に狩りをするのは初めてでもある。
そこで、狩りに出かける前にまず、私は竜の咆哮を試すことにした。

大きく息を吸い込み、岩山にむかって魔力を込めた咆哮を放つ。








「ミーーーーーーーン!!!!!!!(訳・破ぁああああああ!!!!!!!!)」









…はて?岩山が消し飛んでしまった。





なにが悪かったのか、受け継いだ知識の中では竜の咆哮が物理的攻撃力を持つことはないはずなのだが…。


私はしばし考えた後に、ふと思い立った。どうやらこの現象は、私の前世がセミであることに起因するのではないかと。


蝉とは昆虫の中では比較的大きいものの、生き物全体でみれば非常に小さな生き物である。
しかしその泣き声は、蝉の何百倍もの体積を持つ犬の遠吠えにもおとらない。

セミがあれだけの音量で鳴けるのには秘密がある。実はセミの腹の中はそのほとんどが空洞なのだ。
蝉は胸の筋肉をつかって音を発生させ、腹の空洞でその音を何倍にも増幅させて鳴くのである。

竜として生まれ変わった私ではあるが、前世の蝉としての発声法を魂が覚えていたのだろう。
結果、竜の咆哮に込められた魔力が蝉の発声法により何倍にも増幅され、山すら吹き飛ばす強大な武器となってしまったようだ。

兎も角、練習しておいてよかった。獲物が消し飛んでしまっては、ただいたずらに命を奪うだけの行為になってしまう。
空きっ腹で、まさしくセミの腹のようになってしまった胃をなだめながら、私はまず、咆哮の練習をすることにした。


とはいっても、もともと魔力の扱いにおいては並ぶもののない竜である。

その日のうちに、物理攻撃用、精神攻撃用、求愛用の3種の竜の咆哮を完璧に使い分けることに成功したのである。


準備はしすぎるに越したことはない。私は翌日、前世を通じて生まれて初めての狩りに挑むことにした。





次の朝、日の出と共に狩りを始めた。

さすがにもう胃袋が限界であった。そもそも、私は知識の継承のために一週間以上何も口にしていなかった。正直、今日にでも何か腹に入れないと飢えて死にかねない。


私の偉大なる目的(交尾)のためには、こんなところで力尽きるわけにはいかぬのだ。


・・・・・・・・

・・・・・・・・


狩りを始めてわずか2時間、私の目の前には10頭程の獲物が横たわっていた。生まれて初めての狩りは拍子抜けするほど簡単なものであった。

上空から獲物を補足し、そこから音速に近いスピードで一気に近づき竜の咆哮を浴びせる。それだけで獲物は皆気絶してしまう。あまりに間単に狩れるものだから、空腹にも関わらずつい興にのってしまった。ちょうど島の中心に、目印になるべき巨大な岩山をみつけため、捕らえた獲物はみなここに並べることにした。


ああ、誤解のないように言っておくが、私は目の前の獲物達をまだ一匹も殺してはいない。
こうして並べてみたのは、この世界での初めての食事となるこの記念すべき日に、どの獲物を食すべきか決めかねていたからだ。

決して初めての肉食に怖気づいたわけではない。


もちろん、全ての獲物を食べるなどという選択肢も存在はしない。
過ぎたる食は肉体だけではなく心も肥満させる。鋼のごとき竜の肉体を持つものは、心も鋼でなければならぬのだ。


次々と目をさます魔獣に動くなと目でにらみを利かせながら、私は一匹一匹物色していくのだった。


私の舌と胃を満たすであろう、憐れなスケープゴート達を…。




最初に目をさましたのはキマイラという種族であった。獅子の頭と、ヤギの胴体、毒蛇の尻尾を持つそれは、私が受け継いだ知識が伝えるには、ヤギの胴体こそ美味であるものの、ライオンの頭部と蛇の尻尾はとても食えたものではないらしい。
目の前のキマイラを観察する、ライオンの鬣は恐怖に逆立ち、ヤギの後ろ足はすくみあがっている。



「ミーン(訳・去れ)」



キマイラは文字通り蛇の尻尾を巻きながら一目散に逃げ出した。なぜ、私がキマイラを食さなかったのか? きまっている、胴体だけ食って捨てるなど奪った命に失礼なことができる筈がないだろう。
生き物の命をうばうのなら、その全てを感謝をもって食す。それが生きるということなのだ。

なお、少し余談ではあるが、キマイラのように言語を解さぬ生き物とて、わたしは竜のテレパシーにより意思を直接伝えることができる。

少し乱暴な分類ではあるが、この世界においては言語をもたぬ種族を魔獣、言語を操る種族を魔族や幻獣とみなしている。
本来であれば、言語を持たぬ魔獣と話すことは不可能な筈だが、竜であるわたしにとっては造作もないことである。
竜の言葉には言霊が宿るゆえ、たとえ相手が聾者であったとしても、直接意思を届けることが可能なのだから。



次に目を覚ましたのは、ケルベロスと呼ばれる種族であった。ケルベロスもキマイラと同じく魔獣である。3つの頭を持つ魔犬は目を覚ますなり


くぅーん くぅーん


と、腹を見せて服従した。ふむ、メスか・・と、詮無きことを考えながら、私はこの哀れな犬を解放することに決めた。
先代の竜の記憶でも食べられないことはないがあまり旨いものでもないとある。他に食べるものがないというのならともかく、惨めに命乞いするこの犬をわざわざ殺すこともあるまい。

帰ってよいと伝えると、ケルベロスは一鳴きして、森へと消えていった。



次に目をさましたのは、ハーピーという種族であった。鳥の四肢と女性の肉体をもつこの種族は、鳥と人間を足して二つでわったような美味らしく、先代の竜もこのハーピーという種族が大好物だったらしい。
とはいっても、ハーピーばかりを食していたわけではない。先代の白竜は、いろんな種類の動物達を満遍なく喰らうことを常に心がけていたようだ。竜とは大喰らいな生き物のため、ひとつの種類だけを狩り続ければ、その種はほどなく絶滅してしまう。
先代はハーピーを食すのは三月に一度と決めていたようだ。

目を覚ましたハーピーは私をみて言葉にならぬ悲鳴をあげた。先代の好物であった彼女の一族のことだ、竜にさらわれるということがどういうことかよく知っているのだろう。

しかし、涙目になりながら口をぱくぱくさせるハーピーの少女を見たとき、わたしはある疑問を持ってしまった。

私は彼女が怯えぬよう、慈愛をもって問いかけた



「ミーンミンミンミンミン?(訳・ひょっとして、しゃべることができないのかい?)」



ハーピーの少女はおそるおそる首を上下にふった。


-喋れぬとは、憐れな-と、私は心のなかで呟いた。

ハーピーとは、本来その歌声で獲物をまどわす生き物だ。歌えないハーピーなど、声の出せぬセミほどに悲しい生き物であろう。彼女がここまで育つには並々ならぬ苦労があったに違いない。
それに気づいたとき、私にはとてもこのか弱き生き物を喰らおうなどとは思えなかった。


私は彼女に里に帰るように伝えた。

ハーピーの少女は目をしばしばさせながらも、私の気がかわらぬうちにと、里のある方角へと飛び去っていった。

飛び去りながら、時折おそるおそるこちらを振り返っていたのが印象的であった。
あの憐れで可愛らしいハーピーが、ささやかながらも幸せに生きてくれることを私は願った。



次に目をさましたのは、ラミアという種族であった。

ラミアは私の姿におののきながらも、必死にお腹を両手で隠そうとしていた。
よくよく見れば、彼女のお腹は肥満ではない膨らみ方をしていた。


…ふむ、まさか。

ラミアは腹を守るように、こちらをにらみつけてくる。ラミアの如き生物が竜の前でこうも気丈に振舞える理由はただ一つだ。

もっとも、その顔は蠟細工のように血の気がうせ、体は真冬の川に落ちたひなねずみのようにがくがくと震えていたのだが。


「ミーンミンミンミンミン(訳・勇敢にして優しき母よ。許してほしい、そなたが身ごもっているとは気づかなかったのだ。さあ、行きなさい。そして、丈夫な子供をうみなさい)」


ラミアはぽかんという表情を見せたあと、一礼してこの場を去って言った。
私としては、竜の咆哮がお腹の子供になにか悪い影響を与えていないことを願うのみだ。


狩りの時、ラミアが身ごもっていることに気づけなかったのには理由がある。ラミアの夫婦はメスが妊娠している間は夫はその傍をかたときも離れないという。
もし、私があのラミアを見つけたときに夫である雄の姿を認めていたなら、彼女を狩ろうなどとはおもわなかっただろう。

しかし、私があのラミアを見つけたときには、近くに他の生物は誰もいなかった。それは、つまり………。

私には、あの母子が幸せに暮らせることを祈ることしかできなかった。



次に目をさましたのは、リザードマンと呼ばれる種族のメスである。トカゲと人を掛け合わせたようなこの種族は、目を覚ますなり私の足元にひざまずいた。


ふむ…、また命乞いか…。


初めはそう思ったが、顔をあげてこちらを見るリザードマンの眼差しは、私の想像に反し、喜びと恍惚に満ちていた。


曰く


彼女の一族は竜を信仰の対称にしていること。

竜に食された者は、天国の奥深くにあるという、絶対なる幸福へと辿りつけると信じていること。

さらに彼女は竜信仰の祭儀を執り行う巫女であるということ。

尻尾をブンブンと左右に振りながら、リザードマンの巫女はそう説明した。

信仰とはかくも凄まじきものなのか、彼女にとっては竜の餌になることは、恐怖などではなく、至上の喜悦だというのだ!

さて、わたしは確かに彼女を餌にするつもりで捕獲した。しかし、向こうから食べてくれと迫られると、逆に食べる気をなくしてしまうのが人情というものである。

そもそも、そのカマキリのメスのような表情で近づくのはやめてほしい。これではどちらが捕食する側か判ったものではない。

腹は減っていないから帰ってくれと諭すが、彼女は一向に引く気配を見せず、「せめて尻尾だけでも、それもだめなら先っちょだけでも」と詰め寄ってきた。


ほとほと困り果てた私は、もう一度咆哮で気絶させ、ちょうどその時目をさましたガルーダに頼んで彼女をリザードマンの里まで連れて帰ってもらうことにした。

ついでにガルーダも逃すことになってしまったが、まあ、いたし方あるまい。そもそも少しカラスに似ている為、ガルーダを食すのはあまり気乗りはしなかったのだから。


その後も、セイレーンに、アラクネ、ペガサスに巨大な蛙と、空腹であるにもかかわらず、これらを食べてみようという気にまったくなれなかった私は、結局捕まえた獲物の全てを逃がしてしまった。

もういちど別の生き物を狩りに行くべきかともおもったが、狩りにいったところでどうせ同じことの繰り返しなのだと気がついた、


私の前世は蝉という、常に命を狙われる生き物であったがために、命を奪うことの重みは幾分に知りすぎていたのかもしれなかった。


例えば私がこれから1000年生きるとして、いったいどれだけの屍を積み上げていくというのだろうか。わが今生の目的は、そうまでして達せられなければならぬことなのだろうか。

岩肌に身を預けながら、私はふと、蝉であったあのころに毎日口にしていた樹液の味をおもいだした。



…死に瀕した今、もはや自分を偽る必要などあるまい、正直に言おう。






私は樹液が好きだ。






木々の表装をながれる甘い液体は、私の渇きをいやし、生きる活力を与えてくれた。

成虫に鳴る以前、まるで白いイモムシであったあの頃から、私は樹液のみを食して生きていたのだ。

大きな木からわずかに頂くお零れが、セミであった頃の私の喜びであった。

樹液を、毎日飲んでいたあの甘い樹液を、私はもう一度飲みたくなった。

毎日樹液ばかり飲んで飽きないのかと思う者もいるかもしれないが、とんでもない。

樹液の味とは木の種類によってまったく異なるものなのだ。

それどころか、同じ種類の木ですら、一つとして同じ味をもっていないのだ。

若い木々の樹液は、その活力を現すように青く瑞々しく

壮年の木の樹液は、太陽の光をいっぱいに吸い込んだ力強い甘みをもち

年老いた木の樹液は、木の中で熟成されまるで極上のワインのような味となる。


樹液への我が愛と知識は、私に残された短い時間では決して語り尽くせぬであろう。

生まれながらにして樹液で生きるセミは、樹液のソムリエールと言っても良いであろうから。



樹液よ

樹液よ

ああ、樹液よ


今一度、私の渇きを癒してはくれぬだろうか。

もう二度と、私の腹を満たしてはくれぬのだろうか。

この竜の舌では、お前を舐めとるには大きすぎるのだ。

この竜の体では、木にしがみついても押し潰してしまうだけなのだ。



私は子守唄を歌う。


自分のための子守唄(レクイエム)を。



激しい空腹の中、しかし私はこのまま朽ちるのも悪くはないと思えてしまった。

何の因果か、一度は死んだ身が蘇ることができたのだ。

雲の上まで羽ばたくことができたのだ。

一瞬ではあったが、竜の生もなかなかのものだった。




…だが、もしももう一度生まれ変われることができるのなら、


わたしは、もう一度蝉になりたい。

メス蝉と絡み合いながら空を飛びたい。



そしてなにより、

もう一度、お腹いっぱい樹液を飲みたい。



そう願いながら、わたしは目を閉じた。




…そのときであった。ふと、背中から甘い極上の匂いが漂ってきたのは。


不信と確信をもって私は振り向く。



なんとそこには、岩の裂け目からあふれんばかりの樹液が流れだしているではないか!



ああ…、何という奇跡だろうか!

原始の神は水から大地をうんだというが、神は今、この哀れな竜の為に大地から樹液を生んだというのか!



私はその岩にむしゃぶりつこうとして、ふと気付いた。


岩などではない。これは…木か?


私は継承した知識からその正体を知る。








大樹ユグドラシル







私が住む島の中央に位置する、天まで突き抜ける始まりの木。その葉は瀕死の生き物すら治療する高い癒しの力を持つという。

しかし繁殖することのない世界樹は、実をつけることなどなく、先代の竜にとっては羽休めの止まり木でしかなかった。

先代の竜は知る由もなかったのだろう。実のならぬ木にも甘味(じゅえき)は存在するということを。


目の前の琥珀色の液体が私を誘う。

わたしは、それをそっと爪で掬い、ちろりと舐めた。






「みっみみーーーーーーーーん!!みみみみみっみーーーーーーん!!!(訳・ぶっひゃああああああああ!!うんめゃあああああああああい!!!!)」






私はその味に、羽をバタつかせながら歓喜した。

なんという高貴な甘み、なんという豊かな香り、そしてこの柔らかな喉越し!

ああ、これぞまさに天上の美味なり!!! かような食物がこの世には存在したというのか!!

この樹液の前では、モミの樹液ですら泥水に思えてくる。


わたしはそのまま木の割れ目に顔をうずめ、じゅるじゅると音を上げながら樹液をすすり続ける。私の喉を、胃を、細胞を、ユグドラシルの樹液が癒してくれた。



ああ、もっと、もっとだ。


もっと湧き出せ、命の泉よ!



こんなとき虫であったあのころならば、導管をふかく木の隙間に差込み、好きなだけ樹液を吸い上げることができたというのに…、

竜の身というのは、なんと不便なことか。


しかしそのとき、ふと気づいた。

いや・・、そうか、わたしには、導管はなくともこの長い舌があるではないか。


わたしの舌は割れ目の奥へと進んでいき、そこに残った樹液のすべてを嘗め尽くす。


するとなんということか、舌を動かせば動かすほど、この蜜壷からは新たな樹液がいくらでも沸き出でるのだ。

わたしはおもわず舌をはげしく上下に動かした。内壁を強くこすればこするほど、早く動かせば動かすほど、濃厚な樹液が次々とあふれ出てくるのだ。


私はまるで、砂漠を長く旅した駱駝がようやくみつけたオアシスの泉で、無心に舌を動かし続けるように、大樹の裂け目を弄り続ける。



(‥まっ…ねが、い、おちつい‥て…)



その時ふと、私の脳裏に誰かがよびかける声が聞こえた気がした。しかし、そんなことは関係ない。私の至上のひと時を邪魔できる者などこの世界には存在しない。



(‥きづいて…だめっ、‥ふっ…あっ、こえが‥)



私の舌は止まらない。まるで舌だけが別の生き物になってしまったかのように、無意識にうごきつづける。今の私は竜ではない、ただの樹液を舐めとる機械なのだ。



(…そこはっ、いやっ…はぁっ…あぁっ…、ああっ…)



相変わらず私の脳裏に正体不明の声が聞こえてくる。しかしわたしは、どう舐めればもっと効率よく樹液を摂取することができるか。それだけで頭がいっぱいだった。



(‥はっ、っは、はっ‥ぁあ…ぁあっ、‥ぁあああぁっっ!!!)



最後に、何者かの叫び声とともに、私の口に洪水のような樹液が流れ込んできた。



その全てを飲み干し、私の腹が満ちたりたその時、まるで母親の乳房が稚児が授乳を終えたのを察したかのように、ピタリと樹液がとまったのだ。




私は前世を通じて、嘗て味わったことのない高揚感と幸福にみたされていた。

私は悟った。私がこの大樹の慈悲によって命を繋いだことを。

この世界でもっとも偉大な生き物は、竜である私ではなく、この大樹なのだということを。


私は、左手を胸にあて、右手を大樹に伸ばして心からの感謝をつたえた、

そのとき大樹から、私の右手を通じて言葉が流れ込んできた。


(…はぁっ…はぁあ‥、ようやく…、おちついてくれましたね。優しき竜よ)


驚愕するしかない。これは・・・、まさか大樹ユグドラシルの声だというのだろうか‥?

大樹ユグドラシルとはいえ、植物である木に意思があったというのだろうか?

私の疑問を感じ取ったのか、ユグドラシルは言葉をつづける。


(ふふっ、わたしはずっと呼びかけていたのですよ。もっとも、まるで生まれたての子ヤギが母親の乳にすがりつくように、必死で樹液を飲んでいたあなたの耳には届かなかったようですが‥。)


わたしはユグドラシルの言葉に赤面してしまった。原始の木たるユグドラシルから見れば、例え何万年もの記憶を受け継ぐ竜といえども、赤ん坊にすぎないのだろう。

わたしは、自らの非礼を心から詫びる。意思ある木、そして生物の母たる木から、わたしは恥知らずな野良犬のように樹液を啜りつづけていたのだから。

しかし大樹は、やはり母のような慈愛でうけとめてこういった。


(優しき竜の子よ、あなたの行いはずっと見ていましたよ。早く獣の血に慣れる事ができると良いですね。)


ああ、ユグドラシルには、わたしが獣を食せぬところもすべて見られていたようだ。


(短い間でしょうが、私の樹液で良ければいくらでもそのお腹を満たして下さい。)


ああ、なんと慈愛の深い生き物だろうか、わたしが血をすすり、肉を糧とできるようになるその日まで、彼女は樹液を与えてくれるというのか。

これではまるで、乳離れできぬ赤ん坊そのものではないか。

わたしはいたたまれぬほどの恥ずかしさと、これからもこの大樹の樹液を得ることのできる幸福で、どんな顔をしたらいいのかわからなくなってしまった。


大樹はそんなわたしに、恥ずかしがることはないのですよと、前置きしながら、


(‥でも、その…、次からはもう少し優しく吸うようにしてくださいね‥。)


と、付け加えた。


これが私と、大樹ユグドラシルの最初の出会いとなった。

私の竜としての生でもっとも深くかかわることになる大樹、

この日、私は彼女のもつ樹液以上に、その大いなる慈悲に心をうたれたのだ。


わたしはふと、あのリザードマンの巫女のことを思い出した。


なるほど、彼女が私に身を差し出せるように、私もユグドラシルのためなら喜んでこの身をさしだせるのであろうな。

私は、大樹に最上級の賛辞を込めて歌う。


彼女の偉大さを讃え、彼女だけに聞かせる歌を。








ミーンミンミンミン ミーンミンミンミン











>>>>>>>>>>>>>>>>>><<<<<<<<<<<<<<<<<<
メインヒロイン(木)の登場。
やっぱ転生モノのヒロインは人外にかぎりますよね。







あ、人化とかないですから。




[33445] 第三話 孤独な竜はつがいを求める
Name: あぶさん◆5d9fd2e7 ID:de479454
Date: 2014/07/11 00:09



恋は、ある点では獣を人間にし、他の点では人間を獣にする。 (シェークスピア)







生物の欲とは尽きぬもの、いわんやそれが、知能持つ生き物であればなおのこと。

満たされる以上に、何かを欲してしまう。
それが生き物の罪であり、宿命なのかもしれぬ。


生きるという行為は、砂漠に降る雨に似ているかもしれない。

水は無慈悲に大地に消え、とどまることを知らない。
砂は無限にひろがり、終わりを知ることはない。

止むことのない渇望に対し、ただひたすらに足掻きつづける、それが生きるということなのではないだろうか。


だがしかし、例えほんのひと時の気まぐれだとしても、雨は熱砂をわずかながらに鎮めてくれる。
水は地下を染み渡り、それが集まれば流れとなり、やがてオアシスとして湧き出すかもしれない。

結局は、それを幸せと呼ぶのではないだろうか。


少し難解なたとえ話であったかもしれない、つまりは何がいいたいかというと、






おなかもいっぱいになったので、交尾がしたい。











アーリーモーニング樹液でわたしは朝の心地よい渇きを癒す。

エディンバラの貴族たちは、ベッドの上で飲む一杯の紅茶で目を覚ますというが、

私は世界樹のうろで目を覚まし、朝一番のみずみずしい樹液を嗜む。

朝の樹液というのは格別だ。木というものは夜の内に大地から水や養分を大量に吸い上げるため、昼や夜の樹液よりも栄養を多く含くんでいる。
そのくせ、サラリとした飲み応えで胃の中にいくらでも収まってしまうのだ。

ましてやこれは大樹ユグドラシルの樹液。その味たるやわざわざ述べるまでもないだろう。

彼女の樹液の味は、情報の共有がその最たる目的である言葉という手段では到底表現しえぬものなのだから。

樹液の最後の一滴を舐めとった時、ユグドラシルの声が頭に響いた。


「‥ふっ、はぁっ…はぁ。…おはようございます、昨晩はよく眠れましたか?」


私は彼女に朝の挨拶と、樹液への賛辞と謝意を伝えた。

頭に響く彼女の声は、森林を抜ける木漏れ日のように柔らかく、私の耳に心地よい。




ユグドラシルは私の仮初の巣となった。




昨日、樹液を心ゆくまで愉しんだ私は、ユグドラシルの近くに居を構えようと決めた。

先代の竜が住んでいた巣は、大樹からはいささか遠いのである。

それに、なんとなくではあるが、あの場所は彼の亡骸が眠る墓としておきたかった。


彼の魂は天上に登ったか、あるいは輪廻の輪に還ったか。もはやあの場所に存在するわけではないということは、一度死んだ私にはよくわかっている。

墓という物は魂が眠っているわけではない。亡骸が眠っているだけだ。生きていたという証が残されているだけに過ぎぬ。

それでも皆、墓を作る。それはきっと死んだ者の為にではなく、生きている者達の為に。

私はあの場所を、彼の為の墓とすることに決めた。私の為に。


私はこの近くに居を構えようと考えている旨をユグドラシルへと告げた。すると彼女は、


「あら? それでは私たちはご近所さんになるのですね。‥そうだわ、よい場所が見つかるまで私の所に住んでみてはいかがでしょう?」


そういって、彼女はうろの中へと私を誘ってくれた。


世界樹の中にある空洞。そこは私の竜の体よりもさらに大きく、まるで巨大な聖堂のような神秘的な静謐さを湛えていた。

一目でわたしはこの場所を気に入ってしまった。森をギュッと凝縮したような、それでいてほのかに甘いユグドラシルの香りが、この空間を満たしていた。

これ以上の場所がこの世界に存在しているなどとは思えなかったが、私は「自らの巣をみつけるまで」という条件で、彼女の厚意に甘えることにした。ユグドラシルは


「ふふふっ、短い間でしょうがよろしくお願いしますね。同居人さん」


そういって、生命の母たる世界樹らしい大いなる優しさと、世界樹らしからぬ茶目っ気が伺える声で私を受け入れてくれのだった。



世界樹のうろの中での初めての眠りは、幸せの泉の底にゆっくりと沈んでいくような、前世も含めて今まで経験したことのない満ち足りた眠りであった。

あまりもの眠りの深さゆえに、あるいはこのまま目がさめることがないのでは?と錯覚するほどであったが、もしそうであったとしても、わたしは微塵も後悔などしなかったであろう。

前世も今世も卵生であったわたしには知る由もない事だが、赤ん坊が母親の胎盤の中で眠るという感覚は、ああいうことなのではないだろうか。


こうして、一時的ではあるにせよ、わたしは期せずしてこの世界で最高の食物と住処を手に入れることができたのだ。


さて、生活の安寧が成れば生き物はなにを次に求めるか。


食足りて 住落ち着けば 色を知る。


そう、交尾だ。今こそわが前世の無念を晴らすときがきたのだ。私はユグドラシルに今からつがいを探しにいくことと、日が沈むまでには帰ってくる旨を伝えた。


彼女はすこしきょとんとしたあと、


「ふふふっ、素敵なお嫁さんがみつかるとよいですね。いってらっしゃい。」


と、やはり母のような慈愛に満ちた言葉で見送ってくれたのであった。





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出会いとは突然に訪れるもの、運命とは必然に導かれるもの

ヒノキが群立する深い森の中で私は彼女に出会った。

しなやかでキュッとしまった肉体は、まるで古代の大理石彫刻のように均整がとれていて、
エヴァーグリーンに輝く体表は、あたかも森の緑をそのまま固めて宝石にしてしまったかのように美しく、
光に輝く4枚の羽は、内に雲母を宿した白水晶のように繊細である。


ああ、この世界でもやはりあなたは美しい…



ツクツクボウシさん



私は彼女を驚かせぬように、そっと岩山の影から彼女を見つめる。彼女の姿を見つめるだけで、私の体は熱を帯びる。


なぜ、ツクツクボウシなのか、それは好みだからとしか答えられぬ。


生き物とはそれぞれ好みというものをもっている。


言葉でも語ることのできる特徴、言葉では語ることのできない衝動、この二つを足したものが「好み」なのだ。
樹液をすする姿ですら、静かな気品を兼ね備えている、セミ界のクールビューティー、それがツクツクボウシである。

もちろん、美しいのはツクツクボウシだけだはない。

たとえば、ヒグラシの夕焼けから生れ落ちたような深い橙色は、我らに言い様のない郷愁をいだかせるものであるし、クマゼミのむっくりとした肉体は、種の保存への官能的な衝動を呼び起こす。

この世に魅力なき蝉などは存在しない、どの蝉もそれぞれに長所と個性を持っているのだから。

しかしそれでも、私にはツクツクボウシがもっとも輝いてみえてしまう。それが好みというものなのだろう。


ああ、ひとつ訂正しておこう。この世に魅力なき蝉などいないといったが、アブラゼミだけはだめだ。

品のない色、下卑た泣き声、無駄に大きな図体、全てにおいて気品というものがない。

名は体を表すというが、あれらにアブラゼミという名を与えた人間を私は賞賛する。
群れるだけしか能がないあの集団に、前世のころは樹液争いで何度苦汁を舐めさせられたことか‥。


もう一度言おう、アブラゼミだけはだめだ。


‥と、少し話がそれてしまったが、要するにつがいを選ぶという行為は、人生のおおよそを決めることに等しい。

長い人生にたった一人、自分の好みに従い、我侭に相手を選ぶべきなのだ。

そこに妥協などあってはならぬ。童貞だからとて、いや、童貞だからこそ、道を誤ってはならぬと言えよう。


私を例にあげるなら、妻にするならツクツクボウシただひとつを選べということ、ヒグラシでもいいとか、クマゼミもかわいくみえてきたとか、ましてやアブラゼミで我慢しようなどとあってはならない。

さあ、ツクツクボウシさん、聞いてくれ!わが求愛のう・・



―ツクツクボーシ ツクツクボーシ―


私が求愛の歌を歌おうとしたその矢先、あたりに私以外の求愛の歌が鳴り響いた。
私の目の前のツクツクボウシは、羽を僅かに振るわせたあと、その歌に導かれるように森の奥へと消えていった。



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  ね   と   ら   れ   た







なんたることか!!! いまいましきツクツクボウシ(♂)め!
私が目をつけていたツクツクボウシ(♀)を目前で攫ってしまうとは、なんと卑劣な男よ!!!


私は空に向かって咆哮を放つ。

わが咆哮に雲は裂け、空は歪む。



しばし無制御に猛ったあと、私は取り乱した自分を猛省するのだった。

そして、わが浅ましき嫉妬の心を恥じた。


確かにツクツクボウシ(♀)と私が繋がることはかなわなかった。しかし、彼女が幸せであるならばそれでよいではないか。

嫉妬などもってのほか、例え私以外の誰かでも、彼女を幸せにできるのであれば、わたしは彼と彼女に祝福の言葉をおくるべきなのではないか。


そうして私は思うのだ、ヒグラシも素敵じゃないか、クマゼミでもいいじゃないか。いっそのことニイニイゼミだって悪くはないのではないか。アブラゼミでさえなければいいでないか。

遠くの宝石に執着するあまり、目の前の幸せを逃してしまう愚かな男に私はついぞ成り下がるところであった。


私は気持ちも新たに森へとわけいっていく、まだ見ぬ花嫁たちに再び心を躍らせながら。




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  ね   と   ら   れ   た   (×3) 







なぜだ、なぜだ、なぜだ! 私の花嫁となることの一体なにが不満だというのだ!

ツクツクボウシも、ヒグラシも、クマゼミも、ニイニイゼミも、なぜ私の歌を聴こうとせぬのだ!

私は、もう一度空に向かって咆哮を放つ。吼えて、吼えて、吼えて、私はふと、あることに気がついた。






…ふむ、私は竜だった。







‥どうやら、交尾をしたいという蝉としての前世の妄執が私を縛り付けてしまっていたようだ。
おまけに、先だって樹液の味を思い出してしまったため、すっかり自分が蝉であるような気になってしまっていた。


蝉を伴侶にしたところで、私はいったいどうやって交尾をするつもりであったのだろうか。
我が生殖器の1000分の1にも満たぬ大きさの固体と、交尾などできる訳がないではないか。

想像してみろ、私は竜なのだ、竜によりそう蝉など、どこからどう見ても羽休めに止まっているか、そうでなければ寄生虫の類ではないか。

竜ならば、竜にふさわしき花嫁を見つけるべきなのだ。


…まったく、すこし考えれば気づきそうな事さえわからぬとは、これも二つの魂を宿す転生の弊害というものなのであろうか。

もっとも、このちぐはぐな魂も、直に完全に竜のそれへと変わるのであろうが…。



そう、我は竜なのだ。


魔獣だろうが、幻獣だろうが、いかな高貴な生き物とて、我先にと子種を欲する。生物の王者、竜なのだ。

我が花嫁となる喜びを知れ、わが妻となる幸福を偲べ、

私は空に向かって吼える、


聞こえるか、島の生き物たちよ、我が花嫁たらんとするものは、我のもとへ馳せるがよい。


ミーンミンミンミン ミーンミンミンミン


聞こえているか?未だ見ぬ竜の花嫁たちよ、我とともにこの島で、生果てるまで生きてゆこうではないか。


ミーンミンミンミン ミーンミンミンミン






そうして、太陽がちょうど真上に昇ったころ、


私の目の前には10体のメスが集まっていた。この島には私以外の竜はいないゆえ、あつまったのは皆異種族である。
さまざまな種族が私の呼び声に答えてやってきたようだ。

キマイラにケルベロス、ハーピーやラミアにリザードマン、ガルーダにセイレーンとアラクネとペガサスと巨大なカエル。


…んん?


よくよく見れば、彼女たちは皆、昨日一度は餌として捕獲し、そして逃がしてやった生き物たちではないか。

‥はて? 私は求愛の歌を歌ったはずなのだが、なぜ彼女たちが再び私の目の前に集まっているのか。


その疑問に答えたのは、件のリザードマンの巫女であった。


曰く

私が彼女たちを食さなかったことにより、我が大いなる友愛の心にうたれたと。巣に戻っても昨日の出来事を思い出さずにはいられなかったと

そんな時、聞き覚えのある声が空に響き、それが求愛の歌であると気づいたときに、竜の妻となる幸運を夢見て巣を旅立ったこと、

道すがら、同じく私の方を目指していた仲間と出会い、共にここへたどり着いてきたということ。



…なるほど、恐怖が裏返って愛情となったか。



メスとは、本能的に強者をもとめる、強い子孫を生むために、自らの庇護をもとめるためにだ。
昨日の出来事は、彼女たちに我が力を示すには十分なものであった。彼女たちに残した我が力への畏怖が、求愛の歌を聴いたとき、同じ大きさの思慕へと変わったのではあるまいか。


ふむ…、まあ過程などはどうでもよいか。今考えるべきは私の前に10体ものメスが集まっているということだ。


なぜならば、私は彼女たちの中からたった一体を選んでしまわねばならぬのだから。

ハーレムだなどと馬鹿なことをいうつもりはない。愛とは切り売りできぬもの。つがいとは、二つで一つだからこそつがいなのだ。


共に生き、共に歌い、共に食し、共に眠る。


死が二人を分かつまで、共にありつづけるという誓いを結ぶ。それがつがいとなるということだ。


彼女たちには悪いが、私はこの場でたった一人を選ばせてもらおう。

そして私との縁がなかったものも、いつかどこかで誰かとの縁を結ぶだろう。

幸せとは無限の形がある。彼女たちの未来もまた、無限の可能性を秘めているのだから。


さあ、憂いも躊躇いもなく始めようではないか、竜の花嫁を選定の儀を!





最初に目があったのは、キマイラであった。私ほどではないが、たくましい巨体を誇っている、獅子の金色の鬣が雄雄しく背中へとながれていく、ヤギの胴体は・・・・


…たてがみ???


いや、私の記憶が確かならば鬣のある獅子はオスだろう。

私の問いかけにキマイラは羞恥に顔を染めながらも、獅子の頭と蛇の尻尾は雄のものであるが、肝心のヤギの胴体は雌であると身振り手振りで答えた。


…ふむ、さすがはキマイラ、よもや性別まで混ざっているとは考えてもみなかった。



わたしはしばし熟考したのち、彼女に断りの旨を伝えた。
キマイラは悲しそうに森の深くへと去っていった。
私のこころがチクリと痛む。許せキマイラよ。3分の2が雄の生き物をつがいとして愛する自信がなかったのだ。

いつか彼女が3分の2が雌のキマイラと出会えることをこころから祈るのみだった。





続いて目があったのは、ケルベロスだ。

ケルベロスは、三つの口からハッハッと息を吐きながら、私の足元へとやっ来ると、ゴロンと腹をみせて、服従の証を見せた。

私は地獄の番犬をじっと見下ろした後、厳かに彼女に断りの言葉を告げた。

ケルベロスは「「「くぅーん」」」とないて、とぼとぼとその場を去っていった。

すまぬな、ケルベロスよ、しかしこれはお互いのためでもあるのだ。

結婚とは服従ではない。妻と夫の対等な関係こそが幸せな結婚生活をつむいでいくのだ。

わたしはいつか彼女が対等に付き合える雄を見つけられることを心から願った。




さて、次に目があったのは声を亡くしたハーピーの少女だ。彼女は少し躊躇いがちに目線をあちこち動かせながら、わたしの方へと進んで来た。

やはり、竜という生き物への生理的な恐怖はぬぐえぬものか、その目はじんわりと潤んでいた。しかしその潤みは、いささかの熱を帯びているようにも見えた。

パタパタとせわしなく羽を動かしながら、彼女は私の前でパクパクと口を開く。
そして口の利けぬ自身の身の上を思い出したのであろうか、しゅんと肩を落としてうつむいた。

ふむ‥、私は彼女に手を伸ばし、人差し指を頭に乗せて言葉を使うことなく語りかける。
こうすれば、私の伝えたいことも、彼女の考えていることも、体の一部を通して通じ合わせることができるのだから。

彼女は私に声が届くということに驚きと喜びの表情を隠さない。そうしてしどろもどろながらも私に語りかけてきた。

私の大きな翼がとてもきれいだと、私が雲よりも高く空を飛ぶのをみてとても格好良いと思ったと、わたしの大きな咆哮がとても羨ましいと。


今まで言語をしゃべったことがなかった為であろう。彼女の言葉はちぎれちぎれで、あまり要領を得ないものではあったが、懸命に何かを伝えようという心は十二分に理解できた。


私はこのいじらしい生き物にぐらりと心を動かされそうになってしまったが、それを必死に押しとどめ、彼女に断りの言葉を伝えた。

ハーピーの少女は泣きそうな顔をしながら、しかし、この結末をさも最初から予感していたかのようにあきらめた表情を浮かべると、小さく息をはいた。
そして一礼したあとに、彼女はすぐにでも飛び立とうとした。

「ちょっと待て」と、私は彼女を押しとどめる。もう一度彼女の頭に指を乗せ、私の心からの言葉をつたえる。

私が彼女をとても好ましくおもっていること、彼女が歌えないことは私にとってなんの関係もないこと、しかし、彼女はわたしにとって、幾分“小さすぎる”ということ。

彼女は小さすぎるという言葉に、不思議そうに私の体を見つめた後、はっと何かに思い当たり、手と翼で顔を覆い隠した。手の隙間から私を見上げ、視線をゆっくりと下げて、あるところで顔を真っ赤にしてうずくまった。

蝉よりはるかに大きいといえども、ハーピーの体格は人間のそれとほとんど変わらぬ。彼女の細い胴体よりも大きいそれを、受け入れることなどできるわけがないのである。

うずくまる彼女にもう一度優しく指をのせ、再び彼女に言葉を伝える。

娶ることは無理かもしれぬが、友にならなれる筈だと、

私の翼が羨ましいなら、私の背にのるがいいと。

雲の上、望みとあらば成層圏の近くまでつれていってやろうと。


ハーピーの少女は、ここで初めて、宝石のような笑顔を私に見せた後、何度もお辞儀をしながら東の空へと飛び去っていった。

私はこの世界で始めてできた友人という存在に、心を弾まさずにはいられなかった。




次に私の前へと進み出たのはラミアであった。ラミアという種族は、竜ほどではないにせよ、そこそこの巨体をもつ種族である。
また、柔軟性に富むその肉体は多少の「無理」も利く。竜にも近い存在であるし、本来であれば是非とも我が花嫁に迎えたいところなのだが…


やはり、ラミアのおなかはぽこんと膨らんでいた。


ああ、勘違いしないでもらいたい。私は別に女は生娘でなければならぬなどと子供じみたことをいうつもりはない。
男と女の初めてとは、二人が初めてまぐわったその時でよいではないか、過去になにがあったかなど私には関係のないことだし、例え子連れだとしても私はその子供ごと愛する覚悟がある。


だが、しかしだ。


おなかの大きい女性とまぐわうような鬼畜な真似はできぬ。

世の中には、それこそがよいなどという外道な輩もいるそうではあるが、生まれてくる子にどんな影響があるかもわからない。

もちろん、ラミアが子供を出産するその日まで、待つという選択肢だって私にはあるのだが…。


私はラミアに告げる。私を愛しておらぬ者を妻に迎えることはできないと、


ラミアは私の言葉に驚き、自らへの皮肉といささかの諦めを含んだ笑みを浮かべた後、おなかを大切に抱えながら、私に背を向けた。

去っていく後ろ姿にわたしは声を届けた。


―ああ、言い忘れていたが、食は足りているとはいえ少し狩りの練習もしたくなってな、明日から毎日、そなたのもとへと獲物を届けよう―


ラミアは振り返り、何度も礼と謝罪を繰り返した後、北の泉へと帰っていった。

私は気づいていた、ここに集まった10体の中で、実は彼女だけは私に気持ちが向いていなかったということを。彼女が本当に愛していたのは、おなかの子供だけなのだから。

身重のラミアが一人で生きていくには並々ならぬ苦労がある。彼女はおなかの子供を生かすために、私に身を預けようとしたのだろう。

彼女の繰り返した謝罪の意味とは、打算で私の妻になろうとしたことへの懺悔である。

私は、彼女の姿を見送りながら、もう幾月もすれば生まれてくるであろう子供に思いを馳せた。彼女の子だ、きっと強い子が生まれて来るに違いない。





次に私の前に進み出たのは、件のリザードマンの巫女だった。

私は丁重にお断りした。さようなら。




そのまま速やかに次のガルーダと面談しようとする私に、リザードマンの巫女はすがりついてきた。なぜ駄目なのかと問い詰めて来た。

いろいろと理由はあるのだが、とりあえずサイズがちがうだろうと面倒くさそうに私は答えた。ハーピーや人間より一回り大きいとて所詮は亜人。私を受け入れることなどできるわけがない。

しかし彼女は、私を見上げて堂々とこういった。

曰く

挿入できなくともやれることはいくらでもあると。

発想と工夫を凝らせば子を宿すことも可能だと。

たとえ行為の最中に体が壊れたとしても本望だと。

なお、もしも壊れてしまったときは遠慮なく彼女を食してくれと。


‥なぜ、一度も女性体験のない私が、そんなアブノーマル極まるプレイに興じねばならぬのか。

私は、頭痛にさいなまれながら、ガルーダに目で合図する。ガルーダはやれやれといわんばかりに、彼女の両肩をつまみ上げ、西の空へと飛び去っていった。


空の上で、なおも聞くにたえぬ単語を連ねるリザードマンの巫女。


巫女というものはもっと清楚なものだとおもっていたのだが、それは男性の勝手な幻想なのだろうか。
あるいは、竜を信仰する宗教の信者とは、皆このように変わっているのであろうか。
私はすこしだけ、彼女が崇める自分という存在に疑問をもった。



さて、ガルーダもいなくなってしまったから、残りは4匹。



まずはセイレーンであるが、彼女も亜人ゆえ、私にはやはり小さすぎる。
そう伝えると彼女は自信満々にこう答えた。


「大丈夫です、私たちの性交とは魚類と同じでかけるだけですから」




  こ   い   つ   も   か




私は彼女にお引取り願った。そんな悲しい初体験は望んでいない。




次は女性の上半身に巨大な蜘蛛の下半身をもったアラクネである。

・・であるのだが。

私は、蝉であったころ危うく蜘蛛の巣に羽をとられかけたことがあり、そのときのトラウマで蜘蛛というものが苦手になってしまっているのだ。

ましてや欲情などできるわけがない。


もちろん、それを正直に伝えられるわけもないゆえ、私は彼女が傷つかぬよう、当たり障りのない言葉で謝辞を伝えた。





その次に出てきたのはペガサスである。

亜人よりはふた周りは大きい彼女ではあるが、ペガサスの雄の男性器が馬並みであるならば、わたしのそれは竜並みである。
無理をすればどうにかなるのかも知れないが、彼女は件のリザードマンのような歪んだ性癖など持ち合わせてはいないだろう。

わたしは、彼女に素敵な馬族の雄を見つけなさいと告げる、ペガサスは一度だけ高くいななき、南の空へと帰っていった。



…さて、いろいろ回り道をしてしまったのだが、実は私には、最初からたった一つの選択肢しかなかったようだ。




私は一人残された彼女を見つめる。


彼女もうつむき加減に、こちらを見つめながら、








「ゲーコゲコゲコゲコ」








と鳴いた。




ふむぅ………




・・・・・・・・



・・・・・・・・



・・・・・・・・




…まあ、…アリかな。





つがいを見つけることにおいては、妥協などあってはならぬ、‥などといったような気もするが、

世の中、理想だけでは立ち行かぬ。


妥協こそ、種の保存の為の生物の本能なのだ。妥協なき種など、個体数を減らし、ただ、滅ぶ運命にあるのみだろう。


それによくよく考えてみれば、彼女は花嫁としてそれほど悪いものでもないのかもしれない。

サイズ的には問題はない。体長はわたしとほぼ同じ、すこし恰幅がよすぎる気もするが、それは引き換えれば子供を産む能力が高いことを示している。

爬虫類ではないが、両生類という比較的近い種族であるところも高得点だ。生まれてくる子供がおたまじゃくしかもしれぬのが、いささか不安ではあるが。

ピンク色の肌もなかなかに女らしい。すこし濡れた体表がつややかさを引き立てているような気もする。

パッチリと大きな瞳は、彼女のチャームポイントだ。すこしぎょろぎょろと動きすぎるきらいもあるが、まあ、許容範囲とよべるものだ。


それに、なにより‥



「ミーンミンミンミン」

「ゲーコゲコゲコゲコ」



私の求愛の歌に、彼女もまた、歌で答える。


「ミーンミンミンミン」

「ゲーコゲコゲコゲコ」


彼女の声はまるで、チェロの音色のようにあたりに響いた。私は彼女の声がすっかり気に入ってしまったのだ。


「ミーンミンミンミン」

「ゲーコゲコゲコゲコ」


彼女、いや、ゲーコさんとでも呼ぶべきか、ゲーコさんと私は目線を交わした後、即興で音楽を奏で始める。


「ミーンミンミンミン」

「ゲーコゲコゲコゲコ」



二つの異なる旋律は、時には平行に、時には交わる。



「ミーンミンミンミン」

「ゲーコゲコゲコゲコ」



リズム&トーン、アップ&ダウン、フォルテ&ピアノ

まるでそれは、デュオのジャズセッション

我ら二人の音楽は、森に、島に響き渡る。



「ミーンミンミンミン」

「ゲーコゲコゲコゲコ」



幸せな結婚生活を送るための一番の条件を知っているだろうか。

それは趣味の一致である。

生き物は老いる、若さの象徴たる美しさだけでは、相手を一生つなぎとめることなどできはしない。

だが、姿は老いても、趣味は決して老いることはない。

こと、趣味という点においては、私とゲーコさんはこれ以上ないカップルなのであろう。

この日、この歌の為に、ゲーコさんと私は出会うべくして出会ったのではないだろうか。


私達は無心で歌い続けた。きっとこの島の全ての生き物がわれらの音楽に聞きほれていたのではなかろうか。


「ミーンミンミンミン」

「ゲーコゲコゲコゲコ」




・・・・・・・・・・


・・・・・・・・・・




太陽が白から黄色へと光を転じ、うっすらと夕焼けがはじまったころ、私とゲーコさんの音楽は、どちらからともなく終わりを迎えた。


私と彼女はじっと見つめあう。影法師がゆっくりと伸びていく。

私たちの間には、もはや声も歌も必要ではなかった。

二つの影はゆっくりと近づいていき・・



その影が重なり合う直前、私はふと、ユグドラシルの事が頭にうかんだ。


日が暮れるまでに帰るといいながら、太陽が沈むまでには帰れぬな…。と、そんなことを考えた。

もちろん、優しい彼女のことだ、多少遅れたとて許してくれるのだろうが…。



私はユグドラシルのことを思い、なぜかちくりと胸が痛んだ。


おそらくこれは、日が暮れるまでに帰るという約束を守れないことからくる罪悪感なのだろうと、私は思った。


それでも今は、私とゲーコさんの長い影が重なって、ひとつになっていく。そして…




・・・・・・・・・・




・・・・・・・・・・




・・・・・・・・・・




・・・・・・・・・・




・・・・・・・・・・・









ミーンミンミンミン ミーンミンミンミン






私は、“約束どおり”日が暮れる前にユグドラシルの元へと戻ってきていた。
凄まじい速度で空をかけ、帰ってきた私を、ユグドラシルは驚きながらも受け入れてくれた。

私は大樹にすがりつき、ただひたすらに鳴きつづけた。
まるで、迷子の子供がようやく見つけた母親のスカートの裾を、もう二度と離すまいとしがみつくように。





ミーンミンミンミン ミーンミンミンミン





大樹は私に何も聞かない、


だから私も、なにも話さない。


夕日が沈み、空の最後の紫光が消えようとするころ、



「…ご飯、まだですよね? 樹液、飲みますか?」



とだけ彼女は聞いてきた。私はそういえば、夜どころか昼ごはんも食べていないことを思い出した。


私の返事はもちろん肯定である。


彼女の樹液は、幸せで、懐かしい味がした。








ゲーコさんとなにがあったのか、ここでは語るつもりはない。


たが、私のほかにもこのような思いを味わう者がいないよう、ただ一つだけ、真実を伝えておこうと思う。














セミもカエルもメスは鳴かない














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誰かが男の娘が流行りだって言ったから




[33445] 第四話 竜はやがて巣立ちを迎える
Name: あぶさん◆5d9fd2e7 ID:de479454
Date: 2014/07/11 00:17


広すぎる家では、心も離れてしまう (ゲーテ)








「ほら、太陽ですよ」


逆さに伏せた瑠璃色の玻璃碗の空のふちから、金色の光が顔を覗かせる。

光は矢になってみるみる雲を貫いてゆき、風にたなびくこともなく、真っ直ぐに世界へと広がっていく。

さきほどまで、ぐずぐずと西の空にとどまっていた紺色の夜は、もうここまでだと、尻をまくって逃げだした。



世界に朝がやってくる



私とユグドラシルは上空遥か5000メートルの高さから、海をぐるりと切り取ったような水平線を眺めていた。

金属質な光沢を持つ水面から、水蒸気はゆるゆると立ち上り、海霧となって流れていく。
眩むような高さから、逆さに吊られた天の椀は、雄雉の羽のような、深く美しいグラデーションを作り出す。
山や森は、生まれたばかりの太陽を讃え、影をどこまでも伸ばそうとする。

管弦楽の序章のように、世界はゆっくりと目を覚ます。


何もかもが美しい朝の光の中、しかし、一際まばゆく輝くものに、私はただただ見とれていた。



大樹ユグドラシル



柔らかく屈折した光によって、その樹皮は桃色に染まり、高地ゆえに霜を纏った永緑の葉は磨きあげられたエメラルドのように光り輝いていた。



ユグドラシル、この世で最も美しく、最も古く、最も尊い、世界の宝



「私‥、この世界が大好きです」


ユグドラシルは、この朝の空気のように、瑞々しく、透き通った声で私に言った。



彼女の言葉に、私の心臓はとくんと鳴いた。

私も彼女に「この世界が好きだ」とこたえようとしたのだが、私の声は巻雲のように千切れて消えて、なぜか言葉にならなかった。


思うことも伝えられぬ卑小な私は、今日を最後に彼女の元を巣立つのだ。












-ふむ、これでよい。-

目の前の岩に4つ目の印をつける。私の鋭いこの爪は、分厚い玄武石の岩盤ですら熟れた瓜にナイフを入れるかのように、なんなく印を刻むことができる。

竜の爪痕は縄張りの証。この島のいかな愚かな生き物だとて、この縄張りを踏み越えてくることはありえない。竜の縄張りを侵すことは死にも等しいことなのだから。


「本当に、感謝の言葉もありません。偉大なる竜の御方・・」


ラミアが私に深々と頭をさげた。先ほどから大地に頭をこすり付けんばかりに礼を繰り返されている。
ようやく彼女を説き伏せて、どうにか顔を上げてもらった。私を見つめる彼女の頬は、動脈の巡りで血の気を取り戻し、ラミア特有の濡れた妖気を放ち始めていた。


その後ろには、ラミアの母子に血と肉の全てを譲り渡し骨となった雄牛の姿があった。



今朝、いつものようにユグドラシルの樹液で腹を満たした私は、ラミアの住む北の泉へとむかった。昨日ラミアに約束約束した通り、途中で“狩の練習”をして。

大河のほとり、群れからはぐれた老いた水牛は、その雄雄しい角を振るうこともなく私の爪の餌食となった。咆哮で意識をなくした雄牛を、せめて苦しまぬようにと一息に首を落とした。

前世から通じ、生まれて初めて他の生き物の命を奪うことになった私ではあったが、竜の精神がそうさせたのか、すんなりと初めての狩を受け入れることができた。

モノ言わぬ黒い双眼に、「許せとは言わぬ。そなたの命は決して無駄にせぬ」と祈りを捧げ、爪で水牛を掴みあげると北の泉へと羽ばたいた。



爪についた血を「うまそうだ」と感じた自分には気がつかぬ振りをしながら…



北の泉に降り立った私を、ラミアは大きな驚きと、幾分の警戒をもって迎えた。

私はラミアに笑いかけ、約束通り獲物を運んできたと伝えると、私が手に持つ雄牛を認めた彼女はなんどもなんども感謝の言葉を繰り返した。

埒があかぬので、「感謝などいらぬからどうぞ食ってくれ、礼を言っているうちに肉が腐ってしまうぞ。」と、終わらぬ礼を止めて雄牛を彼女の傍に横たえた。

彼女は一瞬躊躇したが、もう一度私に礼を述べた後、ようやく雄牛の肉にくらいついた。

その後は休むことなく、夢中でラミアは肉を咀嚼し続けた。
常に気丈にみえていた彼女ではあったが、あるいは餓死寸前の状態なのではなかったろうか。

雄牛はみるみるその形をなくし、肉を半分ほど失った。その後ラミアはついと口元の血をぬぐい、もう一度感謝の言葉を述べた後に私に雄牛の残りの半分を差し出した。

硬く筋張っている筈の肩や背中の肉は全てなくなり、美味である筈の腹やでん部の肉は手がつけられることなく、そのまま残されてあった。

腹など空いていないから貴方が全部食べてくれと私は彼女に言ったが、彼女はもう十分に腹を満たしたと答える。

あまりにも強情なものだから、「ならばその残りの半分は、いまだ腹を空かせているお主の子に食べさせてあげてくれ」と言うと、彼女は少し恥ずかしそうにうつむいた後、ようやく私の言うことを聞いてくれた。

やはり私に遠慮をしていたのだろう。

結局彼女は残りの肉も全てその胃の中に収めた。お腹の子供も喜んでいるにちがいない。彼女のお腹は、いつもよりもさらに大きく膨らんでいた。


それにしても、今まで極端に痩せていたせいで解らなかったが、実はラミアの腹の子はかなり大きくなっているのではないだろうか。ひょっとしたら、あと一ヶ月もたたぬうちに生まれてくるやもしれない。


赤子が産まれたならば、外敵にも注意せねばならぬだろう。
私は彼女と生まれてくる子供の為に、ラミアの巣の周りを竜の縄張りにすることを思い立った。
竜の縄張りの中にいれば、ラミアは安心して子を産み、育むことができるだろう。


こうして私は、ラミアの巣を囲む4つの岩に縄張りの印をつけることにしたのである。


少しばかり長くなってしまったが、これが今、ラミアに平伏されながら礼を言われ続けている理由なのだ。


ラミアは私を自分とお腹の子の命の恩人だと言い、何か私の為にできることはないかと問いかけた。

ふむ・・、私はしばし考える。

お礼といっても、この竜の身でラミアに求めることなどは何も思いつかぬ。

竜にできることでラミアにできぬことは星の数ほどあるが、竜にできぬことでラミアにできることなど一つもないであろうから。


ラミアは自分ができることなら何でもすると訴える。肉と血を食べ生気を取り戻したおかげだろうか、先ほどまで陶器のように青白かった彼女の頬は、今はっきりと赤く染まっていた。


ぬれた瞳で見上げながら、控えめに、しかし確かににこちらへ近づいてくる彼女を前に、私はなぜか、ひどく窮屈な場所へと追い詰められているような気になった。


今すぐ何かほしいものを言わねばならなぬ。私は奇妙な不安を肌に感じながら、懸命に思考を巡らせた。


ラミアの手がそろりと私の方へと伸ばされようとしたその瞬間。



-そうだ! 巣だ、巣をさがしているのだ!-



‥と、答えていた。


答えてようやく私は思い出す。そうだ、私は巣を探さねばならなかったのだと。


ユグドラシルのうろは素晴らしい巣であり、生涯そこに住み続けていたいものではある、しかしあの場所は彼女の物であり、私の家ではない。

私は新しい巣をみつけるまでという約束で、仮宿として使わせてもらっている居候の立場にすぎぬのだ。


第一、女性の家に転がり込んで、働きもせず甘い蜜だけすすっていきようなどと、これではまるでヒモかジゴロのようではないか。

生まれたばかりとはいえ、私はもはや一人前の竜である。竜がそのような軽薄な生き様をしていてはならぬ。一刻も早く新たな巣を見つけるべきだろう。



しかし竜の巣を見つけることはそんな簡単な話ではない。まず、この巨体がおおきな問題だ。

雨露を防ぐためにも、私の巨体のさらに数倍の大きさを持った空洞が必要である。また、寝返りなどで崩れることのないように丈夫な岩の洞穴でなければならぬ。

当たり前のことだが、すでに他の生き物が住む場所は論外だ。自分の為に他の生き物から巣を奪うような行為をするつもりはない。

ユグドラシルからそれほど離れていないことも需要だ。

いつかは私もラミアのように血や肉を食物とする日が来るのであろうが、今はまだ、大樹の樹液をすすっていたい。できるだけ大樹の近く、具体的には羽ばたき3分以内の場所がよい。

洞窟はじめじめしやすいから日当たりのよい場所がいい、入り口も南向きがよいだろう。巣の周りは風がよく吹き抜ける開けた場所がよい。近くに水場でもあれば最高だ。


ふむ‥、そうなるとやはり、巣とは容易に見つからるものではないな。

まあ気に入った岩山でもみつけ、この爪で穴を掘るというのが現実的なところだろう。

それなりに時間はかかるだろうが、優しいユグドラシルのことだ、私が巣を掘る終えるまで、彼女の元に住まわせてくれるはずだ。


そんなことを考えていた時、ラミアの声が私の思考を遮った。
驚くことに、ラミアは一つだけなら心当たりがある、と私に告げた。




ラミアの巣とユグドラシルを結んだ直線のちょうど真ん中あたり、一面の広い平原の中に、まるで生まれる場所を間違えて来たかのような巨大な岩山がただ一つ聳え立っていた。
その山の裾野には、ぽっかりと口をあけた洞窟の入り口があった。

中は想像以上に広大な空間となっており、ユグドラシルのうろとほぼ変わらぬ広さをもっていた。

水場も近く、日当たりもよい。先住者がいる影もない。なぜこれほど巣に適した場所が誰にも使われていないのだろうか。わたしは奇妙に思い、ラミアに問うた。

ラミア曰く、ここには20年前まで凶暴なヒュドラが住んでいたそうだ。
島の生き物を手当たり次第に食い散らかし、毒の息を辺りに撒き散らしていたヒュドラは島の生き物達から恐れられ、だれもこの岩山の付近に近づこうとはしなかったという。

しかし、増長したヒュドラは身の程知らずにも竜に戦いを挑んだ。

竜の亜種たるヒュドラとて、古き真なる竜にはかなうわけがない。ヒュドラはあえなく敗れ、その身を竜に喰われてしまったそうだ。

主を失い、ただの空き家となってしまったこの洞窟ではあったが、その後20年経った今なおこのあたりに住む生き物はヒュドラの恐怖を思い出し、あるいは語り継ぎ、誰もここに住む者はいなかったという。


なるほど、確かに私の先代の記憶にはヒュドラの9つの頭を、ほつれた絹布でも引き裂くかようにするすると裂いていく白竜の手の映像が残されていた。

醜悪極まるヒュドラではあったが、不釣合いなほど上質な巣をもっていたようだ。ヒュドラを恐れて他の生き物が近づくことがないというのなら好都合だ。他の生き物をいたずらに刺激することもないだろう。

立地も大きさも、これ以上の巣が見つかることないと思えた。私は案内をしてくれたラミアに礼を述べた。

ラミアは私の役に立てて光栄だと、嬉しそうに笑った。


しかし、理想の巣が見つかったにもかかわらず、明日にも巣立ちせねばならぬのかと思うと、私の心は何故か霧がたったように曇った。。



・・・・・・・


・・・・・・・



「では巣が見つかったのですね。おめでとうございます」


夕食(樹液)のあと、私はユグドラシルに新たな巣が見つかったことを伝えた。彼女は私の巣が見つかったことをまるで自分のことのように喜んでくれた。

ひときしり喜んでくれた後、


「もう引越しされてしまうのですね‥、短い間でしたが、とても楽しかったです」


と続けた。私の錯覚でなければ、声に幾分の落胆と寂しさをこめて。

私の心臓がまるで絞られた雑巾のようにぎゅうっと鳴いた。そして思わず、



―いや、まだだ! まだ引越しするわけにはいかぬ。まだ、大事なものが足りぬのだ!―



と叫んでいた。


「大事なもの‥、ですか?」


ユグドラシルは私に問う。
思わず口に出てしまった言葉ではあるが、巣が完成していなければ、まだ引越しする必要はないはずだ。
理想の巣には、まだなにか足りぬものがあるはずだ。

私は必死に考える、巣に必要なもの、必要なものとはいったい何であろうか?

ぐるぐると回る私の頭にふと閃きがまい降りた。


―そうだ! 床だ! 寝床がひつようなのだ!―


そう私は答えていた。答えた後に、なるほど、あの新しい巣には寝床がたりなかったのだと、改めて私は気が付いた。

ユグドラシルのうろの中はほどよいやわらかさをもった土の床であるのだが、今日見つけた巣は冷たい岩の洞窟である。
硬い岩肌に眠るのもそれほど悪いものではないのかもしれぬが、やわらかい寝床があるに越したことはない。穏やかな眠りは豊かな生活を生むであろう。

うむ、やはり寝床は必要だ。明日からゆっくりと理想の寝床を作ることにしよう。


ユグドラシルもわたしの言葉を受けて、


「はいっ、そうですよね。柔らかい寝床があればきっとよく眠れますもの。‥ふふふっ、では、寝床が完成するまで、明日からもよろしくおねがいします。同居人さん」


そういったユグドラシルの声は、やはりこれも私の錯覚でしかないのかもしれないが、明るく弾んでいたように聞こえた。

彼女の明るい声を聞いて、まるで私の胸も花が咲いたように明るくなった。


今日もよく眠れそうだ。わたしは、その後も今日の出来事をユグドラシルと語り合った後、世界樹のうろの中で幸せに目を閉じた。





次の朝は、曇天で雨こそ降らぬものの、じっとりとした湿気につつまれた一日のはじまりだった。寝床の材料は午後にでも探すことにし、わたしはふと思いたちハーピーの少女の元へと向かうことにした。

当初は毎朝ラミアの元へ食料を運ぶつもりだったのだが、彼女が言うには、ラミアとは食いだめの利く生き物らしく、あれだけの量を食べれば2週間は何も食べる必要はないそうだ。

「そうか、ならば1週間後にまたこよう」と答えたら、ラミアは不意を突かれたような顔をみせたあと、頬を赤く染めながらいつものように頭をさげた。

そういう事で、時間もできたことであるし、先日のもう一つの約束を果たそうとハーピーの里へと羽ばたいたのである。


私の突然の訪問はそのような意図などなかったのだが、ハーピーの一族に恐慌を巻き起こしてしまった。
逃げ惑い、あるいは恐怖に震え動けなくなったハーピー達に、友人に会いに来ただけだから案ずるなと声をかけた。
一番近くにいたハーピーに「歌えないハーピーの娘はどこにいる?」と尋ねると、ガクガクと震えながら、里の外れの方を指差した。


私は彼女に礼を言い、その震える指の示す方向へと飛び去った。背中からハーピー達の安堵のため息が聞こえてきた。


ハーピーの里から2キロほど離れた場所に、私は布と木でつくられたゲルのような小屋をみつけた。
低地で日陰となり、幾分湿っぽいその場所は、決してハーピーが好んで住むような場所ではなかったが、他に家らしきものはあたりには見つからなかった。


家の中に生き物の気配を感じた私は、家の入り口を探した。
どうやら布の合わせ目が入り口となっているようだが、扉も呼び鈴もない入り口ではノックのしようもない。

鍵などない入り口はめくるだけで簡単に開けられるものではあるのだが、女性の家を断りもなく覗くような真似などしてはならない。
ともかく私は、声をだしてハーピーの少女を呼んでみることにした。

私が声を発するやいなや、小屋の中からバタバタという羽音と、ガラガラと何か転がり落ちるような音がきこえた。

その後しばらくして、入り口らしき布と布の境目から私の友が恐る恐る顔をだした。彼女の空色の髪からは水がぽたぽたとしたたっていた。どうやら体を拭いていた最中だったようである。

彼女は私と目があった後、いつものように口をパクパクさせていた。
もっとも、今回は何かを言いたいわけではなく、ただ純粋に驚いているだけのようであったが。

私は先日そうしたように彼女の頭に指を乗せると、意思のみで言葉を交わした。


―約束しただろう? 雲の彼方まで連れて行ってやると、今から空へと遊びにいかぬか?―


ハーピーの少女は一寸目を大きく見開いたあと、小さな林檎のような笑顔を浮かべ、


―はいっ―


と答えた。


準備をしなければならないので10分ほど待って欲しい。と、彼女は私に言った。
私がもちろんだと返すと、そのまま亀のように頭を家の中へ引っ込めた。小屋の中からは再びバタバタと慌しい羽音が聞こえてきた。

10分たち、もう10分たち、さらに10分ほど経ったあと、彼女はようやく小屋から現れた。


遅くなってしまったことを懸命にわびる少女に、謝るのは何の前触れもなくやってきた私の方であると答えた。私の謝罪に対し、彼女は手と顔と羽を左右にバタバタと動かした。

ハーピーの少女は薄い橙色のテュニカを纏っていた。彼女の空色の髪によく似合う淡い色合いのものだ。幾分古そうではあるが汚れのないその服は、大事に扱われていたことが伺われた。

その服はとてもよく似合っているな、と伝えると、ハーピーの少女ははにかみながら、母にもらったものだと嬉しそうに答えた。

その服は、雲の上を飛ぶにはどうにも薄すぎるものではあったが、彼女の笑顔を見ると、水をさすのは野暮に思えた。

上空の冷たい空気と風など、私の無尽の魔力で防いでしまえば事足りるのだから。


-では、ゆこうか-と、彼女につたえる。


しっかり私を捕まえているように促すと、彼女は私の首の後ろにきゅっとしがみついた。
私は彼女をふるい落とさぬよう気をつけながら、曇天の空にむかって羽ばたいた。大地はみるみる遠ざかり、雲がどんどんと近づいてくる。
ハーピーの少女から、すごい! すごい! という声が伝わってくる。

思考を伝えて会話をする我らの間には、嘘など存在する場所はない。ハーピーの少女は私の背に乗った飛翔を、心のそこから楽しんでいた。

ハーピーの一族は艶やかで美しい色合いの羽を持っている。しかしその翼は体の割には小さくあり、長い時間を飛ぶことはできない。また、私のように魔力も合わせて飛ぶような技をもっているわけでもない。これほどの高さから大地を見下ろすのは初めての経験であろう。

私はさらに高く飛ぶ、空に広がる灰色の雲の壁に飛び込んだとき、ハーピーの少女から戸惑いと驚きの感情が伝わってきた。


そうして厚い雲の層を抜けたとき。空は一転して晴れ渡っていた。


眼下にはもはや地上は見えず、広大な雲の海が広がっていた。太陽は真上に強く輝き、雲の海を真っ白に染めあげていた。


ハーピーの少女は-雲の上が晴れている‥-と、ぽかんとなっていた。


私は少しだけ悪戯をしたくなり、体を翻し雲の海へと再び飛び込んだ。ハーピーから-きゃっ-という悲鳴が伝わってきた。

そうしてまた雲の上に出たあとに、私たちは思わず笑い始めた。

ハーピーの少女は声を上げることはできなかったが、私は彼女の分も笑った。
友達と遊ぶことはなんと楽しい事か。

それから私達は、2・3時間ほど空の遊泳を楽しんだ。


太陽が僅かに地平線の方へ傾き始めたころ、われらは里へと戻ってきた。

ハーピーの少女は今なお私の首にしがみつき、興奮交じりになんども-楽しかった-と繰り返していた。彼女の素直な心の声に、私は誘って本当によかったと思った。


ハーピーから御礼にと昼食に誘われた。作りおきの山菜のスープがあるそうだ。

歌で獲物を誘うことのできない彼女は、山菜や木の実をとって暮らしているらしい。

今まで食べたことのない食事には少し興味を引かれはしたが、私は彼女の提案を固辞した。

彼女にとっては鍋いっぱい分のスープでも、私には匙一杯分の量にもなりはしないだろう。彼女の貴重な食料を奪うわけにはいかない。


わたしはそろそろ寝床の材料を探しにいかねばならないからと、彼女の家をお暇することにした。


―寝床?―


いまだ首にしがみついたままの彼女は私に問うた。

…ふむ。山で山菜や木の実をとって暮らしている彼女なら、あるいは寝床にちょうど良い材料をしっているかもしれぬ。
私は彼女に寝床を作るのになにかよいものを知らないか? と、尋ねた。

ハーピーの少女はしばし考えた後、


-そうだっ、あれなら竜さんの寝床にぴったりかも!-


と、答えた。




ハーピーの里からいくらか離れた赤い峡谷。


その裂け目の中、日の光が微かにしか届かぬ場所へと私達はやってきた。

奥へ、奥へと歩をすすめると、谷底にぽっかりと空間が開けていた。

その場所の中央に、傘のような形をした巨大な一枚の岩があった。

‥いや、岩ではない。これはまさか、オオザルのコシカケか?


私の問いかけに首にしがみついていたハーピーは肯定の意をつたえてきた。

オオザルのコシカケとよばれるこれはキノコの一種である。

毒こそないものの、味も栄養もなく食用には適さない。しかし削れば火種として使用できるためこの島の亜人達に重宝されているものだ。

大きいものは牛程のサイズにもなるそうだが、目の前のそれは牛どころではない、私の巨体よりもさらに大きい。
もはや遥か昔に枯れていたのだろう、日の射さぬ場所にもかかわらず。その体はすっかり乾ききっていた。

おそらくは、この峡谷の中で誰にもみつかることはなく、何百年ものあいだ生きていたに違いないオオザルのコシカケ。

わたしはそれを両手で持ち上げてみた。なんの抵抗もなく岩からはがれたコシカケは、驚くほど軽かった。

ためしにその上に寝転んでみたのだが、私の巨体をなんなく支え、かつ適度な柔軟さと反発性をもち、その使い心地には、思わず感歎の息を吐かずにはいられなかった。

何も手を加えなくとも、寝床としてこれ以上のものはない。

私の体に合うだけの巨大な寝床をつくるには、いったい何日もの間、島の中を材料をもとめてさまよわねばならぬのかと考えていたが、まさか一日で最高の寝床を手に入れられるとは思ってもみなかった。


私はハーピーに礼を言った。ハーピーはパクパクと口を動かしながら、今日一番の笑顔を私に見せてくれた。











「まあ、同居人さんよりも大きなオオザルノコシカケですか? それは本当に珍しいものを見つけられましたね。」


夕食の後、いつものようにユグドラシルに今日の出来事を語った。ユグドラシルは時にうなずき、時に驚き、時に相槌を打ち、私の話を楽しそうに聞いてくれるのだ。

ユグドラシルと出会ったあの日からわずか4日。しかし私にとって、彼女とのこのひとときは、何事にも変えられない大切で穏やかな時間となっていた。


「本当によい寝床を見つけられましたね。きっとオオザルノコシカケさんも喜んでいるのではないでしょうか。枯れてもなお、誰かの為にあることができるというのは、私もとても素敵なことだと思いますから。」


死してもなお、誰かの役に立つことができる‥か、それは確かに素晴らしいことなのかもしれぬな。

私はオオザルノコシカケの事を思う、この先ずっと大切に使わせてもらおうと、心に決めた。


オオザルノコシカケは既に新しい巣に運んでしまっていたが、明日にでもユグドラシルに一度見せに来ようと思った。
ユグドラシルはもちろんのこと、きっとオオザルノコシカケも喜んでくれるのではないだろうか。


ユグドラシルの優しい視点は、世界が優しさにつつまれていることを私におしえてくれる。
もしも、私が彼女に出会わなければ、私の世界は今程光り輝いてはいなかったに違いない。


「‥でも、随分早く寝床が見つかりましたね。明日にでも新しい巣に引越してしまわれるのですか?」


ユグドラシルの言葉に私はハッとなった。そうだ、寝床を見つけたということは、私の巣も完成したということではないか。


一人で住み始めれば、このユグドラシルとの暖かな時間も今日で最後になってしまう。
私は再び、ぐるぐると頭を巡らせる。


巣はまだ完成ではないはずだ。


何かあるはずだ、何か・・何か・・寝床以外に巣に必要なものとはなんだ!?

ねどこ‥どこ…ど・と、と‥ とびら、…扉!



-扉だ! 扉がひつようなのだ!-



‥と、私は叫んでいた。


「えっと…、扉、ですか?」


うむ、と私は頷く。

竜の巣というのは、財宝でうめつくされるものである。

私自身は金銀財宝などには興味はないし、これからも集めるつもりはないのだが、先代の竜が集めた宝を放置しておくわけにはいかぬだろう。

富は争いを生む。他の生き物の目につかぬよう、財宝は新しい巣に運んでおくべきだ。
ならば扉の一つもなければ、オチオチも外出できぬではないか。


私は、彼女にそう伝えた。うむ、完璧な理論である。ユグドラシルも、


「留守とはいえ、竜の巣に近づく生き物などいないような気もしますが…、でも、用心はしすぎるに越したことはないといいますものね」


と、賛同してくれた。


「ふふふっ、では、玄関が完成するまで、またよろしくおねがいしますね。同居人さん」


こうして私は巣立ちの日まで、また暫くの猶予を得ることとなった。


それにしても、なぜ私は、こんなにもこの場所を離れたくないのだろうか。

今日は大樹のうろに背中をぴったりとつけて眠ることにした。血の通っていないはずの彼女の体は、なぜかとても暖かく感じた。





・・・・・・・


・・・・・・・



私が、世界樹に背中を預けながら眠ったその日。私はとても不思議な夢を見ていた。



私は再び蝉となっていた。

蝉になって、小さな羽根で空をとぶ私は、ただひたすらにユグドラシルの姿を探していた。

探しても、探しても、探しても、ユグドラシルは見つからない。

いったい何処に消えてしまったというのだろうか、私は巣をまだ作り終わってはいない。わたしはまだ、あなたに伝えたいことを伝えていないのだ。

過去と現在が交錯する夢の中、不意に甘い匂いがした。


間違いない、彼女の樹液だ。私は、目の前のその匂いの元が何者かも考えることもなく、樹液にしゃぶりついた。


しゃぶりついて‥、







生臭ァ!!!







私は口に残る不快感とともに夢から唐突に引き剥がされた。

うつつに戻った私がみたものは、世界樹のうろの壁にヤモリのように張り付いて、巫女服から伸びる長い尻尾を私の口に垂らしている、リザードマンの姿であった。



「ミミーン!!!(訳・ぬぉおおおー!!)」



私は驚きのあまり竜の咆哮を放ってしまった。体から血の気が一気に引く。リザードマンの巫女と、そしてユグドラシルは大丈夫であろうか!?


「ど、どうかされたのですか!?」


ユグドラシルは意識を閉じていたようだ。木である彼女には睡眠など必要ないが、時折こうやって意識を閉じているのだそうだ。

怪我はないかと彼女に問う、幸運なことにユグドラシルには傷一つついていなかった。地面に横たわるリザードマンの巫女も、巫女服こそ多少傷んではいたものの、体にはさしたる影響は無いように見えた。

もっとも、咆哮の力で意識は失ってしまっていたが。

数日前は岩山すら吹き飛ばした私の咆哮ではあったが、咄嗟の一声であったためか、魔力を練りきっていなかったのであろう。
なにはともあれ、最悪の事態は免れたようで安心した。


気絶したままのリザードマンの巫女をよそに、私はユグドラシルに何が起こったのかを説明する。ユグドラシルはひと通り私の説明を聞いた後。


「やっぱり…、必要ですね、扉…」


と答えた。




朝、太陽が登る頃にリザードマンの巫女はようやく目を覚ました。私は昨夜の一件はどういうつもりだ? と、尋ねた。


曰く


夜の散歩中、偶然この近くを通りかかり、

その時ふと、寝ている私の姿を見てみたくなり、

うなされている私の姿を見て、気がつけば私の口に尻尾を垂らしていたそうだ。



‥なるほど、理解できん。


「やはり、丈夫な扉を作らねばならぬな」


私の思考は思わず口にでていたようだ。私のつぶやきを聞きとめたリザードマンの巫女は、「扉ですか?」と尋ねてきた。

今、新しい巣をつくっている最中であること、そしてその入り口に大きな門をつくるつもりなのだと答えた。
それを聞いたリザードマンの巫女は、こんなことを言い出した。


「そういうことであれば任せてください! 私(わたくし)、この島の最高の職人達を知っておりますわ!」





・・・・・・・


・・・・・・・



「おめぇさまがぁ、あたらすぃ竜様だべかぁ?」


「は・・はじめますてだな。り・・り・竜さまの玄関作るなんて、ここ・・光栄なんだな」


太陽が真上に登った頃、リザードマンの巫女は二人の巨人を引き連れて、私の新しい巣へとやってきた。
ファゾルトとファフナーと名乗る二人の巨人は私とほぼ変わらぬ巨躯をもち、日焼けしたゴツゴツとした両手には、彼らの体の倍ほどもある大量の材料をかかえていた。


「ここに扉ぁ、つくればいいんだべなぁ。なぁに、このくらい簡単な仕事だべぇ」


「きき、緊張するべな。りゅ‥竜様にき、気に入ってもらえる門をつ・つ、つくるんだな。」


そう言って二人の巨人は仕事に取り掛かっていった。二人の仕事振りは壮観であった。
巨大な金槌を軽々と振り回したかと思えば、カンナで丁寧に表面を仕上げる。

二人の巨人は時折短い言葉を交わすのみで、まるで二人で一つの生き物であるかのように淀みなく作業を続けていった。

大胆に、繊細に、且つ素早く。扉はみるみると出来上がっていく。


私は彼らの仕事振りに見惚れていた。職人とはなんと素晴らしい人種なのであろうか。
私の胸に感動という名の衝動がこみ上げてくる。


私の爪に引き裂けぬものなどこの世にはない、しかしこの爪で、彼らのようになにかを作り上げることができるのだろうか?


何かを作り上げる手と、何かを壊してしまう手。


二人の巨人を見つめながら、いつかこの自分の手で何かを作ってみようと思い立った。金や銀の財宝には興味はないが、自分で作った何かであれば、それは一生の宝となるのではないだろうか。

私はリザードマンの巫女に礼を言った。彼らと引きあわせてくれてありがとうと。

物を作るということがこんなにも素晴らしいものだとは知らなかったと、私は素直に心の内を晒した。


巫女は私に礼を言われたことがよほど恥ずかしかったようだ。

顔を真っ赤にし、尻尾をバタバタとさせながら、ついっと二人のいる方向へと顔を逸らすと、「御礼なら,是非あの二人に言ってあげてくださいませ」と言った。


言われるまでもないことだ。


二人の巨人が休憩を挟んだところを見計らい、私は二人に尊敬と礼の言葉を述べた。


「礼を言う必要はねえべぇ、これがぁ、おらたちの仕事だべぇ。」


「き・き、恐縮なんだな、さ、最後の仕上げ、がが、がんばるべな。」


と、職人らしく、力強く気持ちのよい返事をもらった。

仕事の対価は財宝でよいのか? と尋ねるが、二人の巨人は対価などいらないと答えた。


「リザードマンの巫女さまのぉ、頼みだべぇ。お礼なんてもらえるわけねえべや」


「み、み、巫女さまには、お、おお、お世話になったんだな、ここ、これは恩返しなんだべな。」


恩とはなんだと話を聞いてみると、10年以上前のこと、二人の巨人は黄金の指輪を巡って命の取り合いになる大喧嘩をおこしたことがあるらしい。

そのとき命がけで二人の喧嘩を止めたのが、まだ10歳にもなっていなかったリザードマンの巫女だったそうだ。

当時はまだ幼いリザードマンの巫女ではあったが、巫女としての優れた知覚によってか、指輪にかけられていた死の呪いを敏感に察知し、二人の巨人が目を離したその隙に、黄金の指輪を海の中へと放り捨てたのだそうだ。

指輪が海の中に消えたとたん、二人の巨人は正気を取り戻して争いをやめたという、

その後、命がけで二人の呪いを解いたリザードマンの巫女を自身の命の恩人として、そして大切な兄弟の命を救ってくれた者として、深く崇めるようになったそうだ。


私はその話を聞き、今まで彼女を邪険に扱ってきたことを恥じた。
確かに彼女の行動や言動は突飛ではあるが、その心は金剛石のように強い勇気と凛とした輝きに満ちているのではなかろうか。


リザードマンの巫女の方をに目を遣る。彼女はずいぶんと離れたところで、こちらに背中を向けて座っていた。
二人の巨人が彼女の逸話を話し始めたとたん、彼女は恥ずかしくていたたまれないといった様子で、ここから離れていったのだ。

私には普段の彼女の行動の方がよほど恥ずかしくおもえるのだが‥。


本当に、人とは見る角度によっていろいろな姿を見せてくれる。
私は彼女のほんの一面しか知らなかったのだと気付かされた。

これからは、他の姿も知ってみたいものだ。

彼女とも良い友人になれるとよいな、と私は願った。


休憩を終えた二人の巨人は再び仕事へと戻った。
門はほとんど形をなし、残りは最後の仕上げのみだそうだ、私は彼らの邪魔をしないように、少しだけ二人から離れた場所から眺めていた。

門を開閉の具合を確かめて頷き合う二人。どうやら職人の二人が満足できるほどのものができたようだ。

観音開きの扉はぴったりと隙間なく閉じた。

右の扉の下のほうについてある小さな勝手口も問題なく開閉するようだ。
板の繋ぎ目で精巧にカモフラージュされたその扉は、勝手口というよりも隠し扉のようであった。



………勝手口だと?



この小さな扉はなんだと二人に尋ねると


「ああ、これけぇ? 巫女さまがいつでも忍び込めるようにぃ、隠し扉つくってくんろとおっしゃったべぇ」


「だ、だ・ダメなんだな、兄者、そ、そ‥、それ、りり、竜様には内緒なんだな」




うむ、よくわかった。今すぐ封印してくれ。




防犯に致命的な欠陥のあった扉は、勝手口を厳重に塞いだせいで多少ゴテゴテとした見た目となってしまったが、その日のうちに完成した。

リザードマンの巫女は隙をみては門に細工をしようとするため、偶然通りがかったガルーダさんに里まで運んでもらった。



今日も一日が終わろうとしている。黄金に光る黄昏時、わたしと、二人の巨人の影が彼方へと伸びていく。


私は二人の仕事を心から讃え、感謝の言葉をもう一度伝えた。

巨人の兄弟は額に大量の汗をかきながら、岩をも転がしてしまいそうな豪快で、気持ちのよい笑いを返してくれた。
ファゾルトとファフアーは、肩を並べて夕焼けの沈む方角へと消えていく。もはや数すくない巨人族、彼らが安寧に暮らしていけることを心から願う。


彼らの姿を見送ったあと、私は世界樹の元へと向かう。
今日はみやげ話がたくさんある。二人の巨人と、リザードマンの巫女の話。私もこの手で何かを作ってみたくなったこと。

きっと彼女は楽しそうに聞いてくれるのだろうな。ああ、いまからでも待ち遠しい。


私は、世界樹の元へと羽ばたいた。



‥ふむ? 何か大事なことを忘れてはいないかだと?



案ずるな、さすがに3度も同じ醜態を繰り返すわけにはいかぬ。巨人たちの作業を見届けながらも、ちゃんと考えるべきことは考えてある。

男らしく、一言で簡潔に伝えようではないか。

私は世界樹のところに帰るなり、こういった。





「最後にトイレを作る」



そうして今日もまた、ユグドラシルの樹液を飲み、おしゃべりを楽しんだ後、彼女のうろで眠るのだ。






・・・・・・・・


・・・・・・・・



次の日の朝、目が覚めた私は新たな巣に直接向かうことにした。どうもここ数日、誰かに合うたびにことが上手く運び過ぎるきらいがある。

これまで色々と引き伸ばしてきたものの、トイレまでつくってしまえば流石に巣は完成である。それ以外に必要なものなどもはや私には思いつかない。

今回は誰にも相談せず、一人で作業を進めるべきだと、そう考えた。


さて、今から巣の傍にトイレを作るわけなのだが、これがそう簡単にはいかぬものだ。
上水道と下水道、2種類の水の道を作らねばならぬからだ。
穴をほってハイおしまい、というわけにはいかぬ。
快適な家を作るためには、手間など惜しんではいけない。また、上水道は飲み水や体を拭く水にも利用ができる。


ここでの問題は、いかにして水を確保するかにある。

近くの川から水を引いてきてもよいのだが、あまりたくさんの水を引き寄せてしまうと川に住む生き物たちの生態系にも影響を及ぼしてしまうかもしれない。
それに、雨季で川が氾濫してしまうと巣まで水浸しになってしまう可能性もある。

となれば、地下水を掘るのが最良の選択ではあるのだが・・・。


そう考えていた時にふと背中に視線を感じた。

遠い岩陰から、こちらをこっそりと見つめるその視線。


私は視線の主に向かって出てくるようにと促した。
岩陰の後ろにいた者は私の声にビクリと反応した。しばらく躊躇したあとに、観念したようにでてきたその者は、




「ゲコォ…」




と鳴いた。



・・・・・・・・


・・・・・・・・


巣の前で、私とゲーコさんは微妙な距離感を保ちながら、差向いに座っていた。
私達の間には重い空気が横たわっている。空気に鉛でも混じっているかのように息苦しい。
私からゲーコさんに語る言葉は思いつかなかったし、向こうもまた、私に伝えるべき言葉を見つけられないのだろう。


わたしたちはただ、沈黙を続けることしかできなかった。


間を持て余し、視線は自然に彷徨ってしまう。ゲーコさんは前にあった時よりも随分痩せてしまっていた。皮膚も乾き両生類特有のぬめりを失ってしまっている。


ひょっとして、あの日からろくに餌を食べていないのではなかろうか。

私がユグドラシルの樹液で毎日腹をみたしていた間…。


それに気づいた時、私は自身をひどく恥じた。あの日わたしはゲーコさんをいったいどれだけ傷つけてしまったのだろうか?


ゲーコさんの体に雄の印を認めたあの日、私は喚きながらその場を逃げ去ってしまった。


ゲーコさんに、なんの言葉も残すことなく。
あれはなんと卑劣な侮辱ではなかっただろうか?


生き物は、必ずしもその身体的性別と精神的性質が一致するとは限らない。

魂と肉体の不一致とは、本人ではどうしようもできぬ病なのだ。蝉の魂と竜の肉体を持つ私が、なぜゲーコさんの苦しみを理解しようとはしなかったのだろうか?

私にはゲーコさんを妻とすることはできない。しかし、同じ種類の悩みを持つものとして、友となることはできたのではないだろうか。


私は自身を省みる、省みて、今何をするべきか考えた。
そして考えるまでもないことに気がついた。私が今なすべきことは、只一つしかないのだから。



「ミーンミンミンミン」



私は歌う、親愛と友情の歌を。言葉などいらぬ。音が、歌が、旋律が、我らの友情を繋いでくれる筈なのだから。


「ゲーコゲコゲコゲコ・・・」


ゲーコさんも私に歌を返す。しかしあの時のような低く力強い音ではなく、どこか恐る恐るといった風合いの歌だ。


私はここまでゲーコさんを追い詰めてしまった自分を恥じた。恥じて、しかしだからこそ謝ってはならぬと心に言い聞かせた。


何と言って謝る? 雄だとはおもっていなかった?


馬鹿馬鹿しい、雄だとか、雌だとか。いったいそこに何の意味があるというのだろうか。

真の友には性別など関係ない。われらはこれから友になるのだ。


どうした、友よ? お前のうたはそんなものではないだろう?

私の歌についてこい、ゲーコ! 友の間に遠慮などいらぬ!


「ミーンミンミンミン!」


私はゲーコを挑発する、音楽とは合わせるだけではつまらない、時には反発しあってこそ、新しい旋律がうまれるのだ。

さあ、どうした? 私はもっと強く歌えるぞ?


「ゲーコゲコゲコゲコ!」


ゲーコは私の意図を正しく察し、力いっぱい歌い始めた。
うむ、乗ってきたな! ならばこの旋律はどうだ?


「ミーンミンミンミン!!」

「ゲーコゲコゲコゲコ!!」


私の音に、ゲーコは寸分たがわず付いてくる。やはりゲーコは本物だ。

私の音に付いて来て、あるいは凌ぐことすら可能なのは、目の前のライバルただ一人なのだ。


今日の音楽はヘビーメタルでいってみようか、シャウトとシャウトの間にある本物のソウルを聴いてみないか?



「Min min min min!!!」


「Geko geko geko geko!!!」



イッツ・クール! ザッツ・オーライッ!


私とゲーコの歌は島中に響きわたる。我らの魂の叫びは誰も止めることはできやしない。


「ミーンミンミンミン!!!!」


「ゲーコゲコゲコゲコ!!!!」





歌うことは楽しい、しかし誰かと歌うことはもっと楽しい。


友を見つけることは嬉しい、しかし友と仲直りすることはもっと嬉しい。


「ミーンミンミンミン」


「ゲーコゲコゲコゲコ」


歌って、歌って、歌って…

気がつけば、私達は大地に横たわって大声で笑っていた。




空は青く、真っ白な雲が風に吹かれて飛んでいく。真夏の太陽から光線が羽のように降り注いでいた。


女だとか、男だとか、蝉だとか、竜だとか、


そんなことは、とてもちっぽけなことではないだろうか。


私たちは握手を交わす。仲直りの握手はとても暖かい。


今度はラップでも歌おうか? と笑いかけると、ゲーコは



「ゲッKO!」



と、力強く答えた。


その後、われらは他愛もないおしゃべりをする。

今、トイレを作っている最中なのだと話すと、ゲーコは手伝わせて欲しいと名乗りでてくれた。

トイレは一人で作ってみるつもりだったのだが、友の厚意を無碍にするわけにもいかぬ。わたしが「では頼む」とお願いすると、ゲーコは任せてくれと、力強くうなずいた。


ゲーコは巣の周りの幾つかの場所でうつ伏せになり、何かを探り当てるかのように大地に耳を当てていった、私はゲーコの邪魔をしないよう、息を潜めて見守っていた。

ゲーコは、なんどかそれを繰り返した後、とある場所で立ち止まった。

ゲーコの口に、いや‥、舌にか? 力強い魔力が込められているのが私にはわかった。ゲーコの舌先が青白く光っていた。そしてそのまま‥、


「ゲーコォオオオ!!!」


気合の一声とともにゲーコの舌がうねりを上げながらドリルのように伸びて行き、厚い岩盤を突き破っていった。

削岩音とともにギュルギュルと伸びていく舌。一体、どれほどの長さを伸ばしているのか想像もできなかった。

暫くして、ようやく舌が巻き戻り始めた。
そして舌がゲーコの口の中に巻き戻ったと同時に、なんと、大量の水が地面から溢れ出てきた。

ゲーコはそこから少し離れた場所に移動して、もう一度同じように舌で地面をえぐった。最初のあなから出てきた水は2つ目の穴に吸い込まれて流れていった。


一体何をしたのかと尋ねると、一つ目の穴は地下にある水脈とつないだと。そして二つ目の穴は排水用に、1キロほど離れた場所にある川まで伸ばしたのだと。


私は、驚きに声も出ない。ゲーコはまさかあれだけのことで、この巣に上水道と下水道を通してしまったというのか。あとは、適当に大地を掘れば、トイレでも風呂でも簡単に作れてしまう。


私はゲーコを褒め称えた。歌だけではなくこんな特技まで持っているとは、感服するばかりである。
私の爪では大地をえぐることはできても、長い穴を通すようなことはできはしない。

ゲーコは私の賛辞にくすぐったそうに目を細めながら、



-掘るのは得意だから-



と答えた。


ゲーコは、他にも穴を掘りたくなったらいつでも私の力になると言い残して、自らの巣へと帰っていった。


ゲーコのような友がいて、私は本当に幸せ者だ。その後、私は一人で穴を掘った。
上水道と下水道を溝でしっかりとつなぎ、その間に大小3つの穴を掘った。

一番上の小さな穴が水飲み場。2番目の大きな穴が体を洗うための水おけ用。3番目の中くらいの穴が排泄用。

ゲーコがもっとも大変な作業をしてくれたおかげで、2時間もたたぬうちにそれは完成した。
巨人たちの作った立派な門に比べれば、お世辞にも恰好のよいものではなかったが、これもまあ、味があってよいだろう。


巣を作り始めて僅か4日。


楽しく、学ぶことも多く、友も増え、非常に凝縮された4日間であったが、


こうして私の新しい巣は遂に完成してしまった。












「ふふふっ、おかえりなさい、今日はとても楽しまれていたようですね?」


ユグドラシルは開口一番私にこう言った。うむ、確かにとても楽しかったが、一体どうして、


「お二人の歌、とてもお上手でしたよ。」


ああ、なるほど。確かに我らの歌は島中に響いていたであろうから、ユグドラシルが聴いていない道理はないだろう。ではまずは、ゲーコとの仲直りについて話そうか。


今日のユグドラシルとのおしゃべりは一際楽しかった。


私は今日の出来事だけではなく、この4日間を振り返りユグドラシルに私が思ったこと、感じたことを全て話した。


この4日間、ラミアに、ハーピーに、リザードマンの巫女に、二人の巨人に、ゲーコに、助けられて、立派な巣を作り上げることができた。


私はこの世界で最強の竜である。


しかし、ラミアのように良い土地を知っているわけでもなければ、

ハーピーのようにどこで山菜がとれるかを知っているわけでもない。

リザードマンの巫女のように広い人脈をもっているわけでもないし、

ファゾルトや、ファフナーのように器用に何かをつくることもできない。

ゲーコのように長い穴を掘れるわけでもないし、

ましてや、ユグドラシルのようにその慈愛あふれる枝葉で、皆を包み込む存在になれるわけでもない。


私は最強の竜である。しかし、私の友たちは、私よりもずっと強いのではないだろうか。


ユグドラシルは私の言葉を一つ一つ、大事そうに聴きながら、最後にこう答えてくれた。


「皆、いろいろな役割を持って生まれてくるのだと思います。全てを一人でできる生き物など誰もいません。だから皆、手を取り合って生きていくのではないでしょうか」


わたしは、ユグドラシルの言葉を大切に胸にしまう。


私も、ユグドラシルも、もはやそのことにふれない。


もはや巣はできてしまった。これ以上必要なものなどないし、引き伸ばすこともできぬ。





巣立ちの時だ。





私はユグドラシルにこれまでの日々を感謝して、


―貴方のために、何か私にできることはないだろうか?-


と、問うた。


私が皆から何かをもらったように、私も彼女に何かを返したかったのだ


ユグドラシルはしばらくの間考えた後。


「では………」


彼女の願いに、私はいささか拍子抜けしながらも、「是非に」と答えた。


今日は早くに眠らねばならぬな。


最後の眠りは、いささかこの場所が広すぎるように錯覚した。



・・・・・・・・



・・・・・・・・



・・・・・・・・



「私、この世界が大好きです」



ユグドラシルは、この朝の空気のように、瑞々しく、透き通った声で私に言う。

彼女の願いとは、一緒に朝日を見て欲しいというささやかなものだった。


私がうけた恩に比べればなんのことはない。こんなもので恩をかえしているなどとは決して思えぬ。

しかし、伝わってくる感情から、彼女が本当に喜んでいるのだとわかった。




彼女の「大好き」だという言葉に、私の心臓はとくんと鳴いた。


私も彼女に「この世界が好きだ」とこたえようとしたのだが、私の声は巻雲のように千切れて消えて、なぜか言葉にならなかった。


私はただ、無言で世界を、彼女を見つめ続けた。変わり続ける空の色は、朝焼けの終わりが近いことを告げている。


同じ朝は二度と訪れない、時は決してとまらない。

無言で寄り添うこの時間、それも直に終わるのだろう。



そして私は、巣を飛び立つのだ。



半時ほどか、あるいは刹那のことだったのか、気がつけば空は青く染まっていた。
何か言わねばと思ったその瞬間、ユグドラシルは私に語りかけた。


「気に入っていただけましたか?」


私の言葉はやはり声になることはなく、頷くことで答えを返した。ユグドラシルは嬉しそうに、


「自分が好きなものを、他の方も好きだといってくれることは、こんなにも嬉しいものなのですね」


と言った。私は彼女に何か答えたいのだが、声を胸からぎゅうとつかまれたように、言葉を放つことができなかった。


「同居人さん」


彼女は私に話しかける。


「貴方と出会って、一緒に過ごしたこの6日間、私は本当に楽しかったのですよ」


私は、無言で彼女の言葉を聞いた。


「朝起きたら挨拶をして、わたしの樹液を本当においしそうに召し上がってくれて、夜には色々とおしゃべりをして、おやすみなさいのあとには一緒に眠って。そうして今日は、一緒に私と朝日を見てくれて‥」


彼女はそこで少し休んでからこういった




「もし‥、もしも、もう会うことがなくなったとしても、私のことを忘れないでいただけますか?」




「ユグドラシル!!」



気がつけば私は叫んでいた。

ユグドラシルは突然大声を出した私に驚いたようではあったが、「はい」と答えて、わたしの言葉の続きを待った。


わたしは今、何を彼女に何をいうべきなのか、今、何を言おうとしているのか、


今までユグドラシルの前では何度か醜態をさらしてきたが、これほど頭が混乱したのは初めてであった。

私が何を彼女に伝えたいのか、私自身その正体がまったくわからなかったのだが、今、この場で彼女に何かを伝えないと、彼女がそのまま消えてしまいそうな、そんな不思議な不安を抱いてしまったのだ。


「わ‥たしは‥」


言え! 言葉よ、私の口を塞ぐな!

私は今何を思っている? なにを彼女に伝えたい?


「私は、あなたのことが…」


わたしの心の声はようやく言葉になった。僅かに湿った雑巾から水滴を搾り出すような、か細い言葉ではあったが。
しかしその後、何をいうべきなのか、何を私の口が言おうとしているのか、わたしにもわからなかった。


「あなたのことが‥、とても」


とても、とても、なんなのだ? 何を彼女につたえようとしているのだ。わからない、頭がぐるぐるとなって、わからない。


「と‥ても…、とても…」


「とても?」


とてもだけを繰り返す私に、彼女は優しく続きを促す。
ええい! 言うことを聴かぬ我が口よ、言うことを聞かぬならもぎ取ってしまうぞ!


「とても、とても」


我が口よ、言葉を放て、放つのだ! 頼む! 私の胸のうちに秘められたその言葉を!!






「とても…、ト、トテモ‥ト、ト、トーテムポールをつくるのだ!!」





私の口からは、思いもよらぬ言葉が生まれていた。



「とーてむぽーる・・・ですか???」



一体何を言おうと考えていたのか、気がつけば私は、日の沈む方角の大陸に住む原住民たちの民芸品の名前を口にしていた。


ユグドラシルはしばし考えた後、


「ああ、なるほど! 新しい家の守り神を作られるのですね? ふふふっ同居人さんは信心深いのですね」


と、解釈した。


「ごめんなさい。私、てっきり同居人さんの巣が完成したものだと勘違いしてましたわ。そうですよね、前にヒュドラさんの住んでいた場所ですから、魔除けのおまじないは必要ですよね」


そういってユグドラシルは、なにやら自然に納得してくれた。そして最後に



「では、トーテムポールができるまで、もうしばらくよろしくおねがいしますね。同居人さん」



この日から、私はトーテムポール(大作)を作ることとなるのである。


随分と高くなってきた太陽を見上げ、今日もいつもと変わらぬ一日が始まるな。と私は思った。
















話は数日前まで遡る。竜とユグドラシルが見つめていた朝日の方向、竜達が住む島から、遥か1000キロ離れた大陸に聖王都と呼ばれる都市がある。

何十万という人口を抱える首都の中央には、街を見下ろす巨大な聖堂が聳え立っている。
日中は敬虔な巡礼者であふれるこの大聖堂も、夜は嘘のように静まりかえる。

この闇の中、陽炎のような蝋燭の明かりによって、3つの人影が浮かび上がっていた。


一人は赤い法衣をまとった男。ダルマチカと呼ばれるその衣は、金糸で美しい刺繍が施されており、この男が相当に高位な聖職者であることを示していた。

もう一人の男は、法衣をまとった男の前に跪いていた。黒か、あるいは暗い紺色のローブに、その身はすっぽりと覆われていた。真っ暗な闇の中、日焼け知らずの青白い顔が仮面の様に浮かんでいた。


その男の傍らには、一人の少女が控えていた。年の頃は11・2歳といったところだろうか、少女の細い筈の右腕は、巨大な鉄のカタマリのような複雑な意匠を持った物体で覆われていた。

銀色に光るその物体は少女の背丈よりも高く、右手から肩口までを覆い尽くしていた。
人によれば、少女がそれをもっているというよりも、少女がその物体から“生えている”ようにもみえるかもしれない。
黒いローブの男は膝をついたまま、暗く、幾分しわがれた声を発した。


「陛下、遠読みの巫女に神託が下りました。新たな竜が生まれたと」


「やはり、刻読みの巫女の予言通りということか…」


陛下と呼ばれた男は、言葉の最後に重たい息を乗せた。黒ローブの男はため息の邪魔をせぬように、暫くおいて言葉を続けた。


「準備は整っております、明日明朝に、ここ聖都より出港する手筈となっております」


法衣の男はねぎらいの言葉を与えた。黒ローブの男は一度深く頭を下げ、傍らの少女に目線を移した。


「いかな真竜だとて、生まれたばかりの赤子。コレは竜殺しを必ずや成し遂げてくれるでしょう」


“コレ”とよばれた少女は、しかしなんの反応も返さぬまま彫像のように立っていた。灰色の瞳は何も映さず、右手の鉄塊のみが鈍く光ったように見えた。


「世界樹を救うためとはいえ、このような少女を犠牲にせねばならぬとは・・」


法衣の男はせめてもの償いだと祝福を授けた。


「聖樹ユグドラシルよ、あなたの忠純なる戦士に大いなる慈愛と加護を与え給え」










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物語は起承を終えて、転の部分へと…

次回は幼女とガチバトルです。


















(こっそりおまけ・非公式)

サブヒロインへの分岐点(ユグドラシルの好感度が低い場合のみ発生)

分岐その1
あの時孕みラミアの手が竜に触れていたら→ラミア筆降ろしエンド
親子三人で幸せに暮らします。クール系姉さん女房も夜は情熱的でした。
娘ラミアにも懐かれすぎてちょっと大変。

分岐その2
竜がハーピーの家を断りもなく空けていたら→ハーピー純愛エンド
行水中のハーピーのラッキースケベが発生。驚愕と羞恥のあまり、でない筈の声が出る。「きゃぁぁああ!!」これが彼女が生まれて始めて喋った言葉だ。
その後、竜の責任を取る発言で場はなんとか収まりました。
…サイズ?やりようはいくらでもありますよ。

分岐その3
寝ぼけた竜がリザードマン(巫女)の尻尾を間違って食べていたら→鬼畜×メス豚エンド
意外においしいザードマン(巫女)の尻尾。竜の血が刺激され、肉食系にジョブチェンジ。何度でも生えてくるし、こういうプレイもアリじゃね?

分岐その4
蛙の穴掘り作業中に、なんとなく四つんばいになりながらお尻を高く上げてみたくなった→男としてエンド
アッーメン

分岐その5 隠しキャラ
サルノコシカケがまだ枯れていなかったら?→同衾から始まる愛もある・サルノコシカケエンド
竜がサルのコシカケを抜こうとしたら、「な・・!なにすんのよぉ!!」と、サルノコシカケさんの声が聞こえます。その後紆余曲折をへて、彼女は竜の巣に引越しすることに合意します。
「サ、サルでもない癖に私に乗っかろうだなんて、この変態!!」とかなんとか文句をいいながらも、いざ眠るときは、ちゃんと素直なマットレスになってくれるツンデレ菌類。
「ああっ、とんじゃうー! 胞子とんじゃうー!」




[33445] 第五話 竜の闘争
Name: あぶさん◆5d9fd2e7 ID:de479454
Date: 2014/07/11 00:22



人に負けるな、どんな仕事をしても勝て、 しかし堂々とだ (沢村栄治)








「木には柾目と板目っちゅうもんがあってなぁ、年輪の所から割れやすくなっとるからぁ、気ぃつけにゃあならんべぇ」


「きき、木は、か、乾燥させてからじゃないと、ちゃちゃ、ちゃんと彫れねえんだな」



…ふむ。やはり彫刻というものは奥が深い。



天は突きぬけるように青く、入道雲はもくもくと膨らんでいく

真昼の太陽はガラスのかけらのように降り注ぎ、風はなでるようにうなじを通り過ぎる

緑の下草が広がる原っぱの上に、私と二つの影がある。


私は今、ファゾルテとファフナーの元で、彫刻のイロハを教わっていた。

先日、ユグドラシルの前でトーテムポールを作ると宣言した私は、その次の日より、一人製作作業に入ることにした。

しかし蝉であったころはもちろん、先代の竜より受け継いだ知識の中にも、彫刻などやってみた記憶がない。

私の爪はなんでも切り裂くことができる故、とりあえず見よう見真似で始めてはみたものの、全くうまくいかず、ただいたずらに木々を切り倒すばかりであった。

ユグドラシルに、完成したら必ず見せると約束しているために、あまり惨めなものを作るわけにもいかないのだが…。

さて、一体どうすればよいのかとほとほと困り果てていた時、ふと頭の中に、二人の気のよい巨人の顔が浮かんだ。


巨人達の住処を訪ね、トーテムポールを作るため教えを請いたいと頼んでみたところ、二人はいつものように豪快な笑い声をあげ、私の師となることを快く引き受けてくれた。


それが昨日のことである。私は決して優秀などとは言えぬ不出来な生徒ではあったが、二人の巨人は、丁寧に、根気よく、私を導いてくれた。


学ぶことは楽しい。


できなかったことができるようになるということは、わくわくとするものだ。


巨人による2日間の指導の結果、トーテムポールの土台部分はようやく形になり始めていた。


「んでぇ、竜様はぁ、なぁにを作っとるんだべかぁ?」


ファフナーの質問に答えようとした私を、ファゾルトの声がさえぎった。


「ば、ば、馬鹿なんだな兄者、ど、どど、どこからどうみてもナマズなんだな」


「おおぅ、ナマズかぁ、口さ大きくあけてぇ、愛嬌あるなまずだべぇ」


二人はうんうんと頷き、私の彫刻を眺めている。
ふむ‥、ナマズか、言われてみれば確かによくにているかもしれん。
このままナマズだと言い張ってもよいのかもしれぬが、不出来な弟子としては自身の未熟さを師に正直に告げねばなるまい。


「いや、ファフナー、これはそなただ」


私の返答を聞いた二人の巨人は、ぽかんと口をあけた後、山をも震わせるような大きな声で笑いはじめた。


「ぶわっはっはぁ!!なんじゃぁ、わしゃあ、そぉんな顔しとるんかいのお」


「はひひっはひっはひっ、あ、あ、兄者はナマズの巨人だったんだなぁ」


二人の巨人はひとしきり笑った後、ファフナーの上に乗ったもう一つの彫刻を指差した。


「それじゃぁ、竜さまぁ。わしの上にのっかっとるこいつは?」


「あ、兄者、そそ、それはどう見てもか、カバなんだな。」


「いや、ファゾルト、こちらはそなただ。」


二人の巨人は、先ほどよりもさらに大きく笑い始めた。


「こりゃあええ、わしがナマズならぁ、おまえはカバだぞぉ」

「わわ、わしは、カ・・、カカ、カバだったんか?」


ふむ…。やはり見てくれが悪いか。確かに言われてみればどうみてもナマズの上にのったカバである。
これは一度作り直すべきなのであろうか。そんなことを考え始めた私の心を察したというわけではないのだろうが、二人の巨人は笑ってしまったことを謝罪したあとに、私にこう言ってくれた。


「なぁに、最初はみぃんなこんなもんだべえ。始めっから上手くできるやつはおらんべぇ、大事なのは心ぉこめてつくることだぁ。このトーテムポールには、竜様のいっしょうけんめえがつまっとるべぇ」


「りゅ、りゅ、竜様ありがとうなんだな、わ、わ、わしも兄者も、いい顔で笑ってるんだな」

私の彫刻したファゾルトとファフナーは、いつも大きく口をあけて笑う二人の笑顔を象った物だ。

二人は私の拙い彫刻を、味があって好きだと言ってくれた。

その後も二人の指導のもとに、彫刻を掘り進めた。太陽が金色の光を放ち始めたころ、我がトーテムポールの土台となるべき二人の巨人の顔は粗方出来上がっていた。


「たしかにこの歯抜けの間抜けづらはぁ、ファゾルトによお似とるわぁ。」


「あ、ああ、兄者の団子っぱなも、そ、そそ、そっくりなんだな。」



あれからどうにか、ナマズとカバはファフナーとファゾルトの顔らしきものになってくれた。

私は二人の巨人に心から礼を述べた。


前回の扉といい、今回のトーテムポールのことといい、私はこの二人の巨人の世話になりっぱなしである。

私は礼として二人のために何かできることはないかと尋ねた。不器用なこの身ではあるが、何か一つぐらい彼らのためにできることがあるのではないのだろうか。

礼などいらないと繰り返す二人ではあったが、私がどうしても折れぬとみるや、しばし思案しはじめた。

‥そして


「あ、あ、兄者、あ、あれを・・、りゅりゅ、竜様にたのんでみればどうなんだ?」


「あれかぁ? いくら竜様でもぉ、あれは無理だべぇ」


と言った。


・・・・・・・・・


・・・・・・・・・



私は今、私の体の何十倍もある巨大な岩壁と向かい合っている。黒く鈍い光沢を持つこの岩は、何者をも拒む圧倒的な物質感を湛えていた。


「この岩の下の地層になぁ、良質の鉄があるはずなんだべがぁ…」


「か、かか、硬くて、ど、ど、どんな道具も歯がたたないんだな」


ファゾルトとファフナーの頼みごととは、鉄の鉱脈をふさぐこの巨大な岩をどうにかできないかということであった。その岩は二人の巨人ですら、動かすことも削ることもままならぬものらしい。
例えば私の爪ならば、この岩でも切り裂くことはできるだろうが、これだけの大きさになると一日二日でどうにかできるものではないだろう。


「無理せんでも大丈夫だべぇ、鉄はまた別の場所からさがせばええんだぁ」


「ひ・、ひ、日もくれるし、きょきょ、今日は竜様も家に帰った方がいいんだな」


二人の巨人は岩を目の前にして、やはり無理だと思いなおしたのか、遠慮がちにこういった。


ふむ…。私は二人に尋ねた。





「この岩は消し飛ばしてしまってもよいのかな?」






巨人達を遥か後方へと移動させたあと、私は再び岩山と向かい合う。

遠くから大丈夫かと声をかける二人の巨人に向かって、私は念のためにもう少しだけ後ろに下がるように伝えた。

今、私が何をしようとしているか。それはもちろん我が最大の武器、竜の咆哮である。

普通の竜の咆哮は生き物の意識を奪う効果しか持ち得ない。

しかし私の咆哮は蝉の発生法と合わさって、強力な音波兵器となる。歴代の竜の中でも並外れた物理攻撃力を持つ、我が最強の武器なのだ。

生まれてより今まで本気で咆哮をあげたことはない。目の前の岩壁は、わが咆哮の威力を知るには十分である。

私は大きく息を吸い込む。丹田で息と魔力を練り合わせる。

大気が奮え、あたりから生き物の気配が消えさり、草木が悲鳴をあげる。

案ずるな、この岩のほかには何者をも傷つけぬ。

目の前の岩に照準を絞り、咆哮に指向性を与える。

そして、蝉であったころを思い出しながら、



力の限り



吼えた




「みーーーーーーーんんんん!!!!!!!!!!!!!!(訳・はぁああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!)




咆哮はまっすぐに突き進み岩壁にぶつかる。

砂埃が舞い上がり、竜巻のようにのぼっていった。

視界が晴れた後、我が咆哮を浴びた岩壁は…





先ほどと変わらぬ姿でそこにあった。




…はてな???







「‥ということがあったのだ、ユグドラシルよ」


「えーっと、つまり同居人さんの咆哮が力を失ってしまったということですか?」


食事の後、いつものようにユグドラシルに今日の出来事を語り聞かせる。月明かりが差し込むウロの中、木肌に身を預けながら、背中より伝わるユグドラシルの心地よい声を聞く

あの時巨人達の前で放った私の咆哮は、岩肌の表面を少し抉る程度にとどまった。黒玄武石のあの岩は、確かに硬くはあるものの、一週間前の私であれば咆哮によって粉々に砕くことができたはずだ。その後何度か試してみたものの、私の咆哮はやはり力を失ったままであった。
相手の意識を奪う、本来の意味での竜の咆哮は健在ではあるのだが。蝉の発声法により、音波を増幅させる兵器としての力はすっかり失くしてしまったようだ。


私の咆哮が弱くなってしまったこと、今思えば兆候はあった。
数日前リザードマンの巫女に夜這いをかけられたとき、とっさに放ってしまった私の咆哮は彼女を少し傷つけただけにとどまった。


私は仮説を立てた。ここ数日、私の咆哮は日増しに弱くなっていたのではあるまいか。


理由はわからない。ひょっとしたら私の蝉の魂が、日々竜のソレに移り変わっているせいなのかもしれない。

そして知らず知らずのうちに、蝉の発声法が体と魂から抜け落ちてしまっているのではないだろうか。



そう、私が完全なる竜となるために。



「ユグドラシル、あなたから見て私の体でなにか変化したところはないだろうか?」


日々、竜のソレへと変わっていく魂。ならばわが肉体にもいくらかの変化が訪れているのではなかろうか。私がまったく気がつかぬ間に。


私がユグドラシルと出会ったあの日から、はや10日が過ぎていた。
他の誰よりも私のことを知っているユグドラシルならば、あるいは私の変化に気づいているのではなかろうか。


「‥っ!! …変わったところ、ですか?」


ユグドラシルから伝わる声の中に、とっさに何かを隠そうとする意識が伝わった。
われらの語らいには言葉を使わぬ。それ故に相手の心の小さな変化まで全て理解できてしまうのだ。

私は察した。ユグドラシルが私の身の中に起きた変化に気づいていることを、それを私に伝えたくないと考えていることを。


「教えてくれないか、ユグドラシルよ。私は自分の身に一体何が起こっているのか知りたいのだ。何が起こっていたとしても、私はそれを受け入れるつもりだ!」


懸命に頼み込む私に、抵抗していたユグドラシルも、ついに隠すことをあきらめたようだ。

ぽつり、ぽつりと、言葉をつむぎ始めた。



「‥その、ここ数日…、同居人さんの体は…」


彼女の口は重い、私は黙って彼女の言葉を受け止める


「その…、ほんの‥、ほんの少しですけれど…」


ほんの少しという言葉に、彼女の気遣いが感じられた
私には分かる。どうやら「ほんの少し」どころではない変化が私におきているのだと。



「ほ‥、ほんの少しだけ‥、わ、私の勘違いかもしれませんが」


彼女はそこで言葉を続けられなくなった。最後の言葉を言うことができず、何度も濁した言葉を繰り返すのみだ。


「頼む、ユグドラシルよ! 私の為に、私が何者かを知る為に正直にいってくれ!」


最後の一押しに、ユグドラシルはついにその言葉を吐き出した




「ま、まあるくなった気がします!」



………………まあるく?



私は自分の体を見下ろす、否、見下ろそうとして…



-むにっ-



あごの肉がつっかえた。







その後、何度も謝りながら、あたふたと私を慰めようとしてくれるユグドラシルに、正直に答えてくれたことに対する感謝の言葉をのべ、今日はもう遅いからと就寝することにした。

世界樹の洞の中で目を閉じながら、私は考えを整理する。

蝉の鳴き声は、腹の中の空洞で音を増幅させることにより体よりも遥かに大きな音を立てることができる。
私の竜の咆哮もそれと同じ方法により、強力な武器となっていたのだ。

しかし今‥



-むにぃっ-



私は自分の腹をつかむ。手に収まりきらない肉がそこにあった。私の体は大量の脂肪に覆われていた。


そう、この脂肪こそが私の咆哮の音と力を奪っていたのだ。

たとえば太鼓は、薄い皮を同じく薄く曲げた木の板に張ることにより、その中の反響で大きな音を作り出す楽器である。そう、蝉の鳴き声の仕組みに非常によく似ている。

しかし、もしもこの太鼓が何重にも重ねられた皮と、臼のようにぶ厚い木で作られていたならどうであろうか?その音の振動は、木と皮に吸い込まれ、低く鈍い音を放つのみである。

私の体を覆った脂肪は反響の効果を激減させ、かつ、体内の空洞をも小さくしてしまい、咆哮の力を奪い去ってしまったのだ。


さて、咆哮が弱くなった原因は理解できた。では次に、私がなぜここまで太ってしまったのかという疑問が浮かぶが、理由はもはや語るまでもないだろう。



食べすぎ、いや、飲みすぎである。



私は生まれてこの方、ユグドラシルの樹液しか口にしていない。決して飽きることのないその旨さに加え、最近日増しに量が多くなってきている彼女の樹液に、私は自重というものをしなかった。

ユグドラシルの樹液は素晴らしい、完全な栄養と神秘的な生命力に満ちた、世界でもっとも価値ある食事である。体によいことは言うまでもない。

しかし、どんなに体によいものでも取りすぎると弊害をうむ。樹液から取り入れた栄養と生命力を使いきれなかった私の体は、それらを脂肪として蓄積することを選んだようだ。

蝉であったころと違い、天敵もエサ場を争う競争相手も存在しない今の私は、知らず知らずのうちに、必要よりも遥かに大きな量の樹液を摂取していたようである。

結果、野生動物にあるまじき豊かな肥満してしまい、咆哮の力を失ってしまったのだ。


まあ、力は失ったとしても、竜としての本来の咆哮はそのままである。敵が来れば意識を奪えば済むことだ。

そもそも、この島には私の敵などいないし、いたとしてもわが咆哮に耐え、この鱗を貫くことのできる牙をもつ生き物など存在しない。

咆哮の威力が弱まったとて、竜として生きていくことに全く支障はないのだ。


…だが、しかし。



-むにぃんっ-



私はもう一度腹の肉をつかむ。

このようなゴム鞠のような体ではあまりにもみっともない。なにより、ユグドラシルに気を使わせてしまう程に肥えたわが身が恥ずかしい。




私は思う、明日からダイエットせねばな…と。











「あら? 同居人さん、船が見えますよ」

朝の食事を終え、今日も今日とてトーテムポールの製作に出かけようとしていた私に、ユグドラシルはそう語りかけた。

私は昨日の決意もむなしく、恥ずかしながら今朝も存分にユグドラシルの樹液を堪能してしまった。

朝起きれば芳醇な樹液の香りが漂ってくるこのウロの中で、欲求に抗うことはいささか厳しいものだった。

起きてそのまま樹液にむしゃぶりつくという一連の流れは、私にとって本能に刻み込まれた行為となってしまっているからだ。

私が新たな寝床に引越すまでは、ダイエットは到底無理であろう。


それはさておき、今はユグドラシルの示す方向をみる。


小さな小船が一艘、海流にのってこの島に向かって流れてきている。小船の上には人影はなく。大きな箱が一つ載せられているだけであった。

はて、あれは何かと先代の竜の記憶をたぐり、思い当たるものを引き寄せた。


あれは人間の生贄を乗せた船である。


今から300年ほど前のこと、この地を征服しようとした人間達は、大艦隊をひきいてこの島へとやってきた。
先代の竜は自ら人間の国を襲うことはしなかったようだが、相手が攻めてきたのであれば話は別である。

先代の白竜は咆哮と、爪と、炎により、ただ一匹で人間の艦隊を全滅させた。

その後白竜は、人間達が二度とこのような考えを思いつかぬようにと、大陸まで飛んでゆき、一つの都市を灰塵に帰したという。

竜の力に畏怖した人間達は、一年に一度、7人の処女を生贄にささげると誓い、二度とこの島に手出しすることはなくなった。

それ以降毎年この季節に、人間達は船に乗せた生贄をこの島へと運んでくるようになった。

この島に近づくのを恐れた船乗り達は、近くまで中型船でやってきて、小船に箱の中に閉じ込めた生贄を積んで満ち潮に乗せて流すのが、いつのまにか慣わしとなっていた。

箱に閉じ込められた生贄達が、次に日の光を浴びるのは竜に喰われるときである。


ふむ‥、私は考える。


現在、肥満するほど食料には事欠かぬうえ、知能をもった生き物、ましてや未来溢れる人間の少女を食すなど、憐れな真似ができるわけもない。

ここは少女達を家に送り返し、このような生贄などもはや必要がないと人間達に伝えるべきであろう。


私はユグドラシルに行ってくると告げた後、海に浮かぶ小船に向かって飛び立った。
閉じ込められて震えているであろう、哀れな少女たちを早く救ってやらねばな‥と、思いながら。



海上に浮かぶ小船は、満ち潮にのってこちらにまっすぐに進んでいた。

小船をひとまず浜辺に引き上げてみる。船の中には記憶どおり、箱のほかには一人の船員もいなかった。

生贄たちが閉じ込められている筈の、3メートルほどの横長の箱は、中の人間が逃げ出したり海に身をなげたりすることを防ぐためであろう、鎖で外から厳重に封をされていた。
中から声などは聞こえないが、例年通りであるならば7人の少女たちがこの先に訪れる運命に怯えながら、小さくなっていることだろう。

私は爪で鎖を切り落とし上蓋を外す。中の少女たちを驚かさぬように、いかに声をかけるか思案しながら。



果たして、箱の中には少女が一人いるのみだった。


私は、少しだけ疑問に思いながらも、少女に声をかけようと口を開いた。その瞬間






私の胸は閃光によって貫かれた。













「人が竜に勝てないといわれる理由は二つあります。」

竜の島より遥かに離れた聖都にある大聖堂、その聖堂に備え付けられた小さな部屋の一つに場面は移る。
魔導師風のローブをまとった男の蛇のような声が部屋に響く


「一つは咆哮です。300年前の大戦で10万の兵がなす術もなく海に沈んだ理由はここにあります。竜の咆哮は人間の精神を喰らう物です。魔法による防壁も、耳を閉じても意味はありません。咆哮は人間の心に直接作用してしまうからです。例え人間が、何十万、何百万集まろうとも、竜の咆哮の前には海に落ちた蟻のように無力です」

男の朗々としたスピーチの観客はただ一人。赤紫の法衣をまとった男が上座に座り、言葉の一つ一つにゆっくりと頷いていた
魔導師は続ける。

「もう一つ、人が竜に勝てないと言われる理由はその鱗にあります。竜の鱗を傷付けることは、鉄や鋼ではかないません。その上、高い抗魔力を持っているため、魔法や剣で人類が竜を傷つけることは不可能なのです。詰まる所、竜とは無敵の生き物なのです。…しかし神話の時代、英雄と呼ばれる一握りの者は、確かに竜殺しを成し遂げました。古代の英雄達はいかにして竜を滅ぼしたと思われますか? 法王陛下」


「古代兵器によってか‥」


魔導師の問いに法王と呼ばれた男が答える。法王、すなわち、この聖都の長たる人物である。
法王ピオ2世。

野心を持たず、純粋な信仰心のみを持つ男。聖人にもっとも近い男ともよばれている。
後世の歴史家に、法王としては最大の長所と欠陥を兼ね備えた男と評される男だ。


「そうです。古代の神兵器は竜の持つ二つの武器、つまり鱗と咆哮を無効にします。戦乙女の遺物の中でも最高クラスの攻撃力を誇るヴァルキュリアの槍は、竜の鱗すらたやすく貫くことでしょう。…そして、問題の咆哮ですが…」


「既に心を喰われてしまった者には、竜の咆哮は届かぬか…」


法王の言葉に魔導師は顔の半分で笑った。対する法王は苦渋の表情を浮かべている。王になるには優しすぎた老僧は、瞳の色を失った少女の顔を思い浮かべた。


「神の奇跡を呼び起こすには生贄が必要ということです。あの娘には憐れなことをしましたが、世界樹を救うために命を失うのであれば本望というものでしょう。我々は、なんとしてでも予言の実現を食い止めねばなりません『世界の外より訪れし災厄、殻を破り、星の全てを喰らわんとす…』」


魔導師が刻詠みの巫女の言葉を諳んじる。10年前、予言の巫女が残した言葉は聖都の元老院を揺るがした。何者か、想像すらできない恐るべき存在が現われ、世界を滅ぼそうとする予言に、それを聞いた12人の枢機卿達は騒然となったが、続く巫女の言葉に、皆が聖樹へと祈りを奉げたという。


「『‥されど聖樹はその運命を裏返す。星の流す血は聖樹の血となり、星の死は聖樹の死へと変わる。聖樹の亡骸を肥やしとし、人は悠久の繁栄を得るであろう』…か」


後の句をピオ2世が続けた。

聖寿が星の代わりに血を流す。すなわち、世界の崩壊を聖樹ユグドラシルが身代わりとなり引き受けるであろうという予言の言葉を。

予言の時期と竜の寿命、殻を破るという表現から、その何者かが新たに生まれる真竜であろうということは元老院はすぐに察した。


当時より敬虔と実直で知られていたピオ2世は。信仰の要たる世界樹を守るために立ち上がるべきだと声を荒げた。

しかし、残りの11人の枢機卿達はそれに真っ向から反対した。理由はただ一つ。予言の最後の一行『聖樹の亡骸を肥やしとし、人々は悠久の繁栄を得るであろう』という部分である。

世界は世界樹を失うかわりに、長い繁栄のときを迎えるという約束は、政治との結びつきによって腐敗した信仰にとっては大いなる福音となった。

自らが何の手を下さなくとも聖樹が世界を守ってくれる。聖樹を失うのは痛いが、もともと島に住む竜のせいで、巡礼はおろかその姿を拝むことも不可能であった世界樹である。
たとえ失われたところで、信仰に大きな支障がでるものではない。むしろ命を賭して世界を救った存在として、世界樹を仰ぐ教団は更なる信仰を集めるであろう。

さらには予言どおりにことが進むならば、災厄、すなわち竜もこの世界から消えさるはずだ。

竜さえいなくなれば世界樹の島を征服するのも簡単なことである。世界樹の島には、大量の鉱物や、金銀、魔法石が眠っていると言われている。

聖樹の亡骸を肥やしとし、繁栄を得るということは、人間が世界樹の島を手に入れるという意味なのは間違いない。

ならば竜には手を出さず、日々世界樹のために祈ることこそが、教団の使命なのではなかろうか。


これらが、ピオ2世以外の枢機卿たちの意見であった。
敬虔のみ取り柄のピオ2世は、その意見を覆す政治力などはもっていなかった。

一年たち、二年たち、枢機卿達が近い未来に巻き起こるであろう、世界樹の島の領地分配政争の為の、牽制と根回しに力を注ぐ中、ピオ2世だけは聖樹を救いたいという思いを枯らすことはなかった。


そして今から5年前のことである。朝、ピオ2世の部屋に、一匹の鳩が舞い込んできたのは、その鳩の足に一枚の手紙がくくりつけられていたのは。

その手紙の始まりにはこう記されていた。



“世界樹を救うため、人の手で竜を滅ぼしたくはありませんか”



法王は手紙の主に密かに、しかしできる限りの援助を約束した。そして、法王のみが鍵をもつことが許されるその部屋、古代兵器が納められた部屋へと魔導師を導いた。


そして今から一月ほど前、魔導師は約束どおり、尋常ならざる魔力をもったヴァルキュリアの槍の使い手を作りあげた。ここ数十年、一人も現われることがなかったヴァルキュリアの槍の使い手を。


もっとも、その使い手がまだ幼き少女であることには、流石にピオ2世も驚きは隠せなかったが。

少女に向かって涙を流しながら「すまない、すまない」と繰り返す法王を前に、心を失った少女の瞳が揺れることはなかった。


「まだ悔いておられるのですか? 法王陛下」


魔導師の男の声により、ピオ2世は深い回想から浮かび上がった


「古代兵器は人の身で操れるものではありません。古代兵器を用いる者は、皆、残らず心を奪われてしまいます。しかし、だからこそ竜の咆哮に抗えるのです。その心と意思を引き換えにして」


神代より伝えられし古代兵器が滅多に使われない事には理由がある。古代兵器を使用できるものは、桁はずれに強い魔力を持つものでなくてはならない上、一度兵器と『融合』してしまえば、兵器に魔力と命を吸い尽くされるその日まで戦闘兵器として戦い続ける宿命にあるのだから。


「‥古代兵器に魂が喰われたものを、元に戻す手立てはないのか?」


法王は魔導師に尋ねる。その答えが存在しないものと知りながら。法王として生きるには優しすぎるこの男は、世界樹も、少女も救うことができないかと、今なお悩み続けるのだ。


「陛下、魂の死とは肉体の死よりも遥かに決定的なものなのです。例え世界樹の葉を与えたところで欠けた魂を補うことなどできませぬ。いかな魔法も妙薬も、かの少女を元に戻すことはかないません。はるか古代に存在したというエリクシールでもあれば話は別ですがね…」


魔導師の男は、ピオにもはや何度目になるかも分からない否定の言葉を繰り返した。


この世に、あの少女を救う手段などはもはや存在しない。ピオにできるのは、せめてあの少女の魂がヴァルハラの野で神々に愛されることを祈ることのみである。


「作戦は完璧です。手はずどおりに進んでいるなら、そろそろアレが竜と遭遇するころです。ヴァルキュリアの槍は必ずや竜の心臓を貫くことでしょう」

そういって、魔導師の男は遥か西の方角を睨んだ。



「姉さん‥、あなたの無念は私が晴らして見せましょう」


男のつぶやきは、法王に届くことはなかった。

法王は知らない。今から20年以上前、この魔導師の姉が白竜の生贄となっていたことを。そして男が仇をとることのみを信じて生きてきたことを。

そのためだけに、一人の才能と魔力あふれる少女をとある村から奴隷として買いとり、槍の使い手として育て上げてきたことを。


男は幻視する、姉が死んだ遥か遠いあの島で、今まさに竜が息絶えようとする光景を。

自らが育て上げた兵器によって竜が滅ぶ、その甘美な想像を。

想像の中、血の海で醜くあがく、忌まわしき竜。


男の夢想の中、ヴァルキュリアの槍は竜の頭を吹き飛ばした。









その光線は私の心の臓を正確に貫いた。血がごぼりと喉から湧き上がった。

島の中心から私のことを見ているであろう、ユグドラシルの悲鳴が聞こえたような気がした。

生まれて始めて覚えた痛みは苛烈なものだった。貫かれた勢いそのままに、私は仰向けに地面に倒れ伏せた。

魔術の心得があるのであろう、少女は空に浮いていた。少女の右半身を覆うそれは、古代兵器特有の、鈍い灰色の光沢をまとっていた。



古代兵器



先代の白竜がさらにその先々代から受け継いだ記憶の中にそれはあった。神々と竜が争っていた時代、神が人に与えた忌まわしき竜殺しの武器。
使用者の命と魂を奪い、相手を葬る諸刃の剣である。兵器に魂を奪われているゆえに、竜の咆哮は通じない。


受け継いだ知識が私の頭の中ですさまじいスピードで展開していく。まるで、一秒が一分にも一時間にも引き伸ばされているかのように。


私は少女の虚ろな目を見る。


少女の瞳に色はなく、兵器と同じ灰色をしていた。


古代兵器の照準が私の頭に向けられる。私に止めをさすつもりなのだろう。




だから私は、




空に向かって羽ばたいた。




胸に開いた傷は既に“塞がっていた”。




私は体を翻し、少女の頭上を越えると、砂浜から海の方角に向かって弧を描くように飛び立った。
古代兵器から放たれた光は私の軌道をなぞるように追いかけた、放たれた数発の光線のうち、一発が私の羽を捉え、打ち抜いた。


しかしその傷は、瞬く間に“塞がった”


私は少女に向かって竜の咆哮を放つ。

受け継いだ記憶どおり、私の咆哮は古代兵器に魂を奪われた少女には通じない。


少女の空虚な瞳は我が咆哮に揺らぐことはない。兵器に取り付かれた人間は、与えられた命令を繰り返すだけの機械のようなものなのだから。


再び私に向かって放たれる古代兵器。その光を私はあえて手の平で受けた。

手のひらを貫いた光線はそのまま海の彼方へと消えて行く。

そして私の手の傷は・・、やはりぶくぶくと泡を立てて一瞬のうちに塞がった。



「そういうことか…」



私はそうひとりごちると、少女の相手をすることなく、逃げるように海に向かって飛び去った。

少女も飛翔魔法を用いて私を追いかけてきた。


振り切ってしまわぬよう、少女が追ってこられるギリギリ速度で飛翔し、大海原の真ん中までやってきたときに、私はそこで振り向いた。

私が海へと移動した理由は、島とそこに住む生き物を傷付けぬためである。古代兵器は強力である、ユグドラシルですら傷を負いかねない。


海の上ならば周りを気にする必要なく戦える。


戦いの前に、一応私は少女に尋ねた。


「なぜ私を殺そうというのかね? 人の子よ」


返答はやはりなかった。古代兵器に魂を喰われた人間と会話などできよう筈もない。再び古代兵器を放つ少女。古代兵器は私の足を貫き、やはりすぐに塞がった。
私は返答が無いことを理解しながらも、もうひとつだけ訪ねてみた。


「私を殺せるなどと、本当に思っているのかね? 人の子よ」


わたしはすでに確信している。



私がこの少女に殺されてしまうことはない。



なぜ私の傷がこうも簡単に治癒されるのか。


竜とはそもそもが高い再生力を持つ生き物であるが、心臓を貫かれた傷が即座に治るようなことはありえない。…本来であれば。

わたしは自分の体に起きる神秘に一つ心当たりがあった。それは毎日飲んできたユグドラシルの樹液である。


私はここ10日間、ユグドラシルの樹液以外のものを口にしていない。
つまり今、私に流れている血液や肉には、世界樹の樹液が多量に含まれている事になる。

言わずもがな、世界樹の葉とは強い癒しの効果を持つ。当然、その癒しの力が樹液に宿っていても不思議ではないだろう。

高い癒しの力をもつ世界樹の樹液は、同じく高い魔力を持つといわれる竜の血と交じり合い、不死身にも近い治癒の効果を生んだのではなかろうか。



再度古代兵器から光が放たれる、が、今回はそれを上回る速度で回避した。


「竜相手に何度も同じ攻撃が効くわけがなかろう」


傷ついたところですぐに修復する私の体ではあるが、わざわざ自分から当たりに行ってやる必要もない。


しかし私の声は少女に届かず。

少女は機械のように私に向かって光線を放ち続けるのみであった。


単調なつまらぬ攻撃は、もはや二度と私の羽ばたきを捉えることができなかった。


・・・・・・・・


・・・・・・・・


そしてしばらくの時がたった頃



少女は死に瀕していた。



私が何をしたわけでもない。私はただ、放たれる光線を躱していただけにすぎない。

魔力と生命力を根こそぎ奪う古代兵器。もともと相当な魔力を持っていたであろう少女ではあるが、あれだけの数を撃てばさすがに枯渇もするものだ。

光線が放たれる間隔は次第に長くなり、今では一分に一発も打てぬほどである。照準もまともにあわず、少女はただ、口からうめくような呼吸を繰り返すのみだった。



私は考えていた。

私がこの古代兵器に勝つ方法を。



ほぼ不死身の体をもつ私にとって、この少女を殺してしまうことはたやすい。光線など気にせず近づいてかみ殺してしまうか。爪で頭を弾き飛ばしてしまえばよいだけなのだから。

あるいは私が自ら手を下さなくとも、あと数発も光線をはなってしまえば、少女の命の灯火は古代兵器に飲み込まれ消えてしまうことだろう。


が、それではこの兵器に勝ったとはいえぬ。

私はこの古き神々が人に残した遺物に、大きな憤りを感じていた。

おそらくはまだ10歳かそこらの少女だろう。人は竜ほどは長く生きぬが、それでも70年、80年の時を生きることができる。


この兵器は少女の命を、未来を奪っているのだ。


私は考える。この少女を救う方法を、この兵器に打ち勝つ方法を。


古代兵器は少女の体と完全に融合しており、力ずくで引き離すことは不可能である。
古代兵器が人の体より離れるときはその持ち手が死んだときのみだ。そして新たなる宿主があらわれるまで再び眠りにつく。命を奪う寄生虫。それが古代兵器というものだ。


私は受け継いだ記憶を探り続ける。


古代兵器を体から引き剥がす方法は、ただ一つ。



エリクシール



生命力と魔力を完全に復活させて、全ての状態異常を直すという神の薬。

製法は遥か昔に失われ、今や一瓶で国が買えるともいわれている。

‥が、これではだめだ。白竜から受け継いだ宝の中にはエリクシールは存在しない。あるいはこの世界の遺跡のどこかには今も何本か眠っているのかもしれぬが、事態は一刻を争う。


私は記憶を探る、先代の先代、さらに先代へと、古き知識の奥へ奥へと潜っていく、


何か‥、何かないのか! この少女を救う方法は…




そして、深く、深く、深く眠っていた記憶の片隅に、それはあった。


失われたエリクシールの精製方法。

遥か一万年前、まだ、人と竜がこの島で仲良く暮らしていたころの記憶を。


竜には一人の友がいた。一人の気の優しい青年だった。

流行り病に侵され、倒れていく人々を救う為に、研究に研究を重ねて作り出したエリクシール。

その手伝いをした竜に、照れ笑いを浮かべながら語ったその製法。



これだ!!



私に、天啓が舞い降りた。もちろん、今から悠長にエリクシールを作っている時間などはない。材料を集める時間も、それを精製する時間も少女には残されていない。


だが、あるいはこれなら…


わたしは一つの賭けにでた




私は翼をはためかせ、天高く舞い上がった。

少女も私を追いかけて天に昇る。


戦い始めてはや数時間。正午の太陽は真上にあり、太陽と私と少女が一直線に並んだ。



長い戦いの間、私は少女の戦いの癖を把握していた。

少女は古代兵器を放った後、せめて失われた酸素だけでも補充しようと肩で大きく息を吸うようになっていた。それが、少女の最大の隙となる。

少女が真上に向かってはなった光線を、私は僅かに身を捩って躱した。もはや古代兵器には当初の威力もスピードもない。


私は身をぐるりと翻し







ジョブワァーッ








大量の液体を、排泄器官より、少女に向かって放った。


少女の体積の数倍はある巨大な液体のかたまりは、古代兵器を撃ち終わり弛緩していた少女には、かわす術など存在しなかった。


我が液体は少女を包み込み、吐き出した酸素を吸おうと空けていた口の中にも大量に進入した。


そして…







ゴクン







液体が少女の喉を通る音が聞こえた。




あたりを静寂が包み込む。



私がこのような真似をしたのには理由がある。
古き竜の記憶にあったエリクシールの精製方法。その主な材料は、世界樹の葉と竜の生き血であった。

大量の世界樹の葉をすりつぶし地下3000メートルからくみ上げた星の生命力に満ちた水で煮沸する。その液体に、高い徳を積んだ僧が神秘の力を注ぎ込む。そこにさらに竜の生き血を混ぜ合わせ、七日七晩かけて、太陽の生命力と、月の魔力を浴びせた後に、澄んだ上澄みだけを抽出する。
こうしてできたものがエリクシールである。


さて、そこで私は考えた。世界樹の葉、星の生命力に満たされた水、注ぎ込まれた神秘の力…、これはユグドラシルの樹液そのものなのではないか?

そして竜の血についてだが。血と尿はほぼ同じ物質で構成されている。私の血に流れる魔力も同様に尿に含まれている。
私が生まれて早10日。私はユグドラシルの樹液を毎日飲み、太陽の光も、月の光も十二分に浴びてきた。

ならば今の私の血と尿は、エリクシールに限りなく近い物なのではなかろうか?


それを気づかせたのが、私に宿ったあの異常な治癒力だ。傷ついたところから血液が瞬間的に凝固し、肉と骨を再生する。あれは私の記憶にあるエリクシールの効果そのものだった。


あとは私の血か尿をいかに少女に飲ませるかという問題ではあるが、蝉であったころ、虫網で追いかけてくる人間に向かって何度も尿を浴びせた経験をもつ私にとって、それはたやすい事であった。



‥さて、少女の方はというと、



ぼたぼたと体中から水を滴らせながら、少女は未だ動きをとめていた。


果たして効果があるのか、それとも…


疑惑と不安を胸に、私は少女を見守った。


まるで少女の周りだけ時間が完全に止まったかのように少女は暫く微動だにしなかった。


海面だけが、静かに揺らめいている。



最初に動いたのはまぶたであった。

瞼が2度閉じて開いたとき、少女の灰色の目は生命の光を取り戻したかのように私には思えた。


そして、口を開き


「ふぇ・・」


ふぇ…?


「ふぇーんえんえんえん」


と、鳴いた。


奪われた感情と魂を一気に取り戻した反動であろう。先ほどまで人形のようであった少女は、まるで生まれたての赤子のように大声で鳴き始めた



「ふぇーんえんえんえん ふぇーんえんえんえん」



少女にはもはや戦う意思はない。


少女を支配していた古代兵器は、わがエリクシールの力によって、少女の肩からずるりと抜け落ち海の底へと消えていった。






「ふぇーんえんえんえん ふぇーんえんえんえん」


少女は救われ、私は古代兵器に勝利した。


「ふぇーんえんえんえん ふぇーんえんえんえん」


少女の声が辺りに響き渡る。それにしても、なかなかいい声で鳴くではないか。

少女の鳴き声に触発された私は、勝利の雄叫びをあげた。


ミーンミンミンミン ミーンミンミンミン


少女の鳴き声もいっそう大きくなる


ふぇーんえんえんえん ふぇーんえんえんえん


ミーンミンミンミン ミーンミンミンミン




私はユグドラシルに向かって声を届ける。案ずることはない、ユグドラシルよ。
私は勝ったのだと。



ミーンミンミンミン ミーンミンミンミン



少女を救い、悪意ある兵器を葬ったのだと。



ふぇーんえんえんえん ふぇーんえんえんえん



少女の声も辺りに響き渡る。うむ、元気な声で何よりである。少女の声からは、生きていることへの喜びが伝わってくるようであった。






「ふぇーんえんえんえん、おしっ・・おしっこ・・ふぇ・・ふえぇええーん」



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×ようじょ
○にょうじょ





[33445] 第六話 竜と少女の夏休み
Name: あぶさん◆5d9fd2e7 ID:de479454
Date: 2014/07/11 00:29




この瞳を、どうして濁してよいものか (壺井栄)




幼さとは可能性と共に在る

純粋、無垢、無邪気

幼き者を表す形容詞には様々なものがあるが、

そのどれもが、憧れと、郷愁と、ほんの僅かな嫉妬を含んでいる気がする。

幼きものを映す我らの瞳は、もう一人の自分の自分の姿を映しているのやもしれぬ。


なればこそ、幼き者を愛せよ。

大人の都合やくだらぬ事情で、その未来を汚してはならぬ。

勝手に灰色に染めてはならぬ。

幼きもの達がぐんぐんと、まっすぐに伸びていくその様を、

我らは柔らかな太陽となり、優しい雨となり、見守って行くべきなのだ。

そうすれば、我らはもっと自分の事を愛せるようになるだろうから。


幼きものは愛らしい。

心の臓をとくんと揺らす温かき感情は、春を迎える喜びにも似ている。

春を愛することが出来る心は、春がいまだ我らが内に残っている事を証明しているのではないだろうか。


ああ、春よ。大きく育て、大きく繁れ。いつか来る夏の為に、未来の為に。


そして、夏を終え、秋を越え、あるいは冬を迎えた我らの心にも、きっと春は宿っているのだ。

幼き者の存在は、我らにそれを教えてくれる。


私は、こちらに背を向けたままの幼きものにそろりと近づいていく。

よほど腹が減っているのだろう、幼きものは私のことなど気にもとめず、一心不乱に食を喰んでいた。


愛おしさのあまり、その者をそっと撫でた。


真っ白い肌はぷっくりと膨れ、僅かに湿ったような。柔らかな感触がある。

私の手のひらほどの大きさしか無い幼き者の素肌を、壊さぬように、傷つけぬように、

二度、三度、項(うなじ)から背中にかけての稜線をなぞってみた。




「モキュッ?」




うむ。やはり愛らしいものだな。幼虫というものは。


これ以上、オオイセカイカナブンの幼体の食事の邪魔をせぬように、私は静かにその場を立ち去った。










「お帰りなさい、同居人さん。…如何でしたか?」


巣へと帰った私を、いつものようにユグドラシルが迎えてくれた。

しかし、いつもと違って幾分声音が堅い。

本来の彼女の声とは、芽吹いたばかりの若葉のように優しく柔らかなものであるであるはずなのだが、今日に限っては、硬い繊維が口に残ってしまうような、確かな緊張が伺えた。


「心配には及ばぬ。やはりあの船には他に誰もいなかったよ。良くないものも何一つなかった」


「よかった…。私本当に、心配してしまったのです」


ユグドラシルの声がいつもの彼女の物へと戻った。心優しき彼女のことだ。島の生き物達のことを酷く心配していたに違いない。


「うむ、安心してくれ。戦いに巻き込まれたり、怪我をした者なども誰もいなかったよ」


「同居人さんが大怪我をしたではありませんか! ‥本当にもう、お体は宜しいのですか?」


「ああ、何度も言っているように、貴方の樹液のお陰なのだよ。ユグドラシル。」


少女との戦いの後、巣へと帰った私を待っていたのは、普段は落ち着いた彼女からは想像もつかないほどに、取り乱してしまっていたユグドラシルだった。
その変化たるや、静かだと思っていた湖面からいきなり幾重もの高波が現れ、ぶつかり合って飛沫をまき散らしているような激情であった。

私が古代兵器に胸を貫かれる所を見ていたユグドラシルは、心配のし過ぎでこのまま枯れてしまうのではないかと錯覚してしまうほどに、私の身を何度も何度も、繰り返し案じ続けた。
優しき彼女にこれほどの悲しみと憂いを与えてしまった自分を、私は恥じた。


「あの少女は?」


「まだ眠っています。時折苦しそうな声をあげますが、生命の炎は少しづつ強くなって来ています。古き神々というのは‥、本当に、残酷なことを…」


件の少女は今、ユグドラシルの虚(うろ)の中で眠っている。


大丈夫だと何度繰り返しても、私の身を痛ましいほどに案じていたユグドラシルは、私がいつものように力強い歌声を聞かせることで、ようやく私の無事を信じてくれた。
しかしユグドラシルはそれで落ち着くことはなく、今度は私が抱えてきた少女に対し、葉を震わせながら、怒りの感情を見せた。

初めて見せたユグドラシルの怒りに私は大いに戸惑ったが、古代兵器の事と、彼女にはなんの罪もないことを語ると、ユグドラシルは少女への怒りを、同じ大きさの慈愛へと変えた。

私は少女を世界樹の虚の中に横たえた後、私も休んだほうが良いというユグドラシルの申し出を、先にやるべきことがあるからと固辞した。


やるべき事とは、少女が現れた船とその周辺の探索である。

あの少女以外に何者かが上陸していないとも限らない。あの船が毒や呪いを撒き散らしていないとも限らない。

もはや不死身に近い私にとっては何の障害にも成りはしないが、この島の他の生き物達にとってはそれは別の話である。

私は少女をユグドラシルに預けると、日が暮れるまで島を探索し続けた。

少女以外に誰かが訪れたような痕跡もなく、あの船の中にも少女が入っていた棺桶のような箱以外には何もなかった。


呪いも毒も、錨も櫂も、食料どころか水すらもなかった。

空っぽの何もない船、それに乗ってやって来た心と未来を奪われた少女。

竜の生贄に擬態していた少女は、本当は人の生贄であったのやもしれぬ。

人という生き物は、時にはどんな生き物よりも残酷になれるものなのだから。




「で、では同居人さん! お、お仕事も終わりましたし…、その…、そろそろお食事になさいませんか?」


ユグドラシルの声が、私の思考を遮った。ユグドラシルの控えめな提案。彼女の樹皮の割れ目からは既に樹液がじっとりと染みだしていた。


「喜んで馳走になろう、ユグドラシルよ。‥しかしその前に、あの少女にも食事を与えてやらねばな」


私は島の探索中に見つけた、枯れたオオウツボカズラの葉を取り出した。
オオウツボカズラの葉は、トックリのような形をしている。
コップや水筒代わりにこの島の亜人達に重宝されている植物である。


-ジョボボボボ-


私はそれに向けエリクシールを生成する。オオウツボカズラは大きい。私のエリクシールを余すところなくしっかりと受け止めてくれた。


「ええっと‥、それがエリクシールですか? 同居人さん?」


「うむ、これがエリクシールだよ。ユグドラシル。」


虚の中に入ると。瞼を閉じたままの少女が、重く、苦しそうな声をあげていた。


-憐れな-


私は魘されている少女の頭を小指のつめ先でそっと持ち上げると、その口元へとエリクシールを運んだ。


「ミーンミンミンミン(訳・さあ、飲みなさい)」


気を失ったままの少女の喉に、精製したばかりののエリクシールを流し込んだが、少女はコフッ、コフッと咽て、口に入った液体を吐き出してしまった。

眉根には皺が集まり、少女の愛らしい顔がクルミのように歪んでしまっていた。



私は彼女の額に指をあて、眠る脳に直接語った。


-安心しなさい。何も心配することはない。さあ、口を開けなさい、そしてしっかりと飲みなさい-

彼女の呼吸に合わせ、私はゆっくりとエリクシールを流し込んでいく。

少女は飲む度に咳き込んで、半分ほどがこぼれ落ちてしまった。

しかし、オオウツボカズラの葉は大きい。十分な量のエリクシールを、彼女の喉へと流しこむ事ができた。

エリクシールが正しく作用しているのだろう、少女の肌にみるみると赤みがさし、内から生命の輝きが湧き上がっていくのが私にもわかった。


未だ魘されてはいたが、その呼吸は徐々に穏やかな物へと変わっていった。


少女が良き夢を見れるようにと、心から願った。







その日は虚(うろ)の寝床が少女の物となった故、私はユグドラシルの幹に身を預けて眠ることにした。


「星がよく見えるな、ユグドラシル」


「ええ、今日は空気がとても澄んでいますもの。いつもは見えない小さな星まで、あんなに輝いて‥」


私達の見上げる空には、一面の星の海が広がっていた。
月のない夜に、星たちは誰にも何も遠慮をする必要がないと、思う存分その存在を主張していた。

私とユグドラシルは特に言葉を交わすこと無く、ただただ星を見ていた。


名も無き流星がつっと落ちた。


「ユグドラシルよ。星座という物を知っているか?」


私はふと思いたち、ユグドラシルに尋ねてみた。


「星座ですか? 私はそういうことは、あまり…。同居人さんはご存知なのですか?」


「ああ、受け継いだ知識の中にな。面白いものだぞ。星が集まって形を作り、それぞれに物語があるのだよ。」


「私には母も父も、先生もいませんでしたから。…その、もしもよろしければ、私にも星座を教えて下さいませんか?」


ユグドラシルは、控えめに私にそう頼んだ。私の返事など決まっている。


「もちろんだとも、ユグドラシル。」


私は星座を一つ一つ指さしながら、それに纏わる物語をユグドラシルに語っていった。

白鳥の翼のような形で空に大きく広がる星の線と、浮気症な神の物語や、
英雄を毒で屠り、天へと登ってしまった孤独で小さな蠍の話に、
その蠍の心臓を、弓を大きく構えて狙いをつける賢き人馬の事など…。


私の語った星座の名を、ユグドラシルは「決して忘れたくないのです」と何度も反芻しながら、それらが持つ物語にひとつひとつ、驚きや共感を示していった。


私が持つ星座の知識は、竜がまだ人と仲が良かった頃、あのエリクシールの精製法を見つけた青年から聞かされたものだった。

無数の星に名前をつけ、物語まで与えてしまうなど、人という種族の夢想の力は計り知れない物がある。


空の姿は数千年前と何一つ変わらない。星々の寿命の中では、数千年という時間も、僅かな瞬き程度の時間なのだろうから。


…いや、一つだけ私の記憶と違う物がそこにあった。


「…ふむ、あれは何だ?」


「あれ、とは?」


「いや、空に私が知らぬ星があったのだよ。夏の大三角形のちょうど真ん中に、小さな赤い星が見えるだろう。あれは何かと思ってな。知っているか? ユグドラシルよ。」



星の名を知らぬと言っていた彼女に、私は何を訪ねているのだろうか。
ユグドラシルは何も答えなかった。








少女が思い出せる最初の記憶は、赤い土と、赤い太陽だった。


血のような赤、という訳ではなかったが、乾ききった、ジリジリと肌を焼くような赤は、血などよりもよほど死の匂いを放っていた。


飢饉。だったのだろう。骨が浮き出るほどに痩せた牧羊犬が、連れ去られる少女を見つめていた。
少女の像をぼんやりと移す、黒くヤニに塗れた目は、それがもうじき死ぬのだと幼い少女に教えた。少女と犬、どちらが死ぬ運命に在るのかは、少女には解らなかったが。


故郷のことは、それ以外には思い出せない。
父と母の顔も覚えてはいない。兄妹もいたような気がするが、それだけだ。

自分が売られたのだと理解するのは、もっとずっと後のこと。

少女が覚えているのは、一面の赤と、死神のような犬の目と、

大きくて、固く、青白い手だった。


青白い手は、少女を引き摺るように歩いていた。

その男の事は解る。これから彼女を連れて行く魔導師の男だ。


男の手に引かれながら、少女は赤い大地を必死に歩いた。少女の短い歩幅では、男の倍程の数は足を動かさねばならなかった。

骨の浮き出た頼りない足がなんどももつれ合い、その度に転んでしまいそうになったが耐え続けた。

少女のことを一瞥もせずに前へと進む男に必死で付いていった。

足を止めてしまえば殺されてしまうような気がした。


太陽の熱と乾いた砂埃に喉をやられながらも、少女は命の限界の早足で歩き続けた。

少女はここ数日、まともな水分も食事もとっていなかった。
もはや汗など出ず、どうやって足を動かしているかも解らなかった。


そんな状態で、大人の足にどうしてついていけるだろうか。ついに少女は躓いた。

転んだ時に、これで自分は死ぬのだと思った。目をぎゅっとつぶった。


しかし少女は転んではいなかった。恐る恐る目を開ければ、少女の体は男の青白い手にぶら下がる形で救われていた。

男はようやく少女の方を振り返ると、黒いローブの下から、低い、冷たい声でこう言った。


「すまんな」


男が少女にあやまったのは、今までに2度しかない。その一度目だ。

男は革の水筒を取り出すと。少女に無言で突き出した。


少女は水筒に飛びついた。生ぬるい、腐りかけの、喉がべたつくような不味い水だったが、少女はまるで老いたラクダのように、喉を鳴らしながら飲んだ。


水筒の水を全て飲み干した時に、取り返しのつかぬことをしてしまったと思った。


ハーデスに攫われたペルセポネーは、冥界に生えるザクロを食べて、その身を死の国に縛り付けてしまったと言うが、その事に気付いた時の女神の表情は、きっと少女と同じ顔をしていたのではないだろうか。

男が父に幾らの金を払ったのかは、少女はあずかり知らぬことであるし、それは少女の問題ではない。

少女は水を飲んでしまった対価に、自分が男の物になったのだと、そう思った。



男は空になった水筒を受け取ると、再び無言で少女の手を引いて歩き出した。


それが少女が思い出せる始まりだった。


竜を殺すための兵器として買われ、育てられた少女の最初の記憶だった。もう、7年も前の話になる。


「…夢?」


目を覚ました時、少女は洞(ほら)の中にいた。
苔で作られた柔らかいベッドの上に、少女は小さな体を横たえていた。

ここがどこなのかも、今がいつなのかも、少女には解らなかった。
確かな重みがある自分という存在が、そこが夢の続きでは無いということだけは教えてくれた。


少女は記憶をたぐり寄せる。自分の思い出せる最後の記憶を。
最後の記憶は何時のものだったろうか。


何度も倒れては、その度に髪を掴んで起こされる。魔導師による執拗で執念深い訓練だったろうか…、いや、これではない。

食の喜びとは程遠い、魔力を増やす事だけが目的の不味い食事だったろうか…、いや、これでもない

眠る時だけが唯一の安らぎで、しかし、朝が来るのに怯えていた薄い布団だったろうか…、いや、これでもない。

朝起きれば、小さな部屋にある小さな小さな祭壇に祈りを捧げ、自分が世界樹を救うのだと言い聞かせて、再び過酷な訓練へと身を投げ出す覚悟を決める日々だったろうか…、いや、これでもない。


そうだ、最後の記憶は灰色の塊だ。

灰色の塊から灰色の無数の血管ような物が飛び出してきて、自分の右腕に喰らいついたのだ。

体に何かが侵入していくおぞましき感触と、自分という個がバラバラに引き裂かれる感覚があった。

五感の全てが何者かに奪われる、その最後の瞬間に。


「すまんな」


と言う男の声が聞こえた。

そこで記憶は途切れている。

男の二度目の謝罪が、少女の最後の記憶だった。


悔しさか、安堵か、あるいは恐怖か。記憶の残照が少女に嗚咽と涙を溢れさせた。


こぼれ落ちる涙を、ぐいと服の裾で拭おうとして


「…尿臭い…。」


少女は“本当の最後の記憶”を思い出した。


最後の自分の記憶は泣いていた。

子供のように泣いている自分を、どこか遠くからみつめているような、そんな記憶だった。
魔導師による、厳しいという言葉では言い尽くせない訓練の日々にも、少女は声を上げて泣くようなことは一度もしなかった。
鉛の玉を飲み込むように、泣き声を飲み込んでいた7年間。


それ以来、少女は初めて声を上げて泣いたのだ。

あの時の子供のような少女の泣き声は、7年前から少女が忘れていた泣き声だった。


思い出した本当の最後の記憶は、生ぬるくてツンとした匂いの、何故か僅かに甘い液体の味だった。

そして少女を勝ち誇ったように見下ろすぶくぶくと太った悪しき竜。

忌まわしき竜が無力な人をあざ笑うかのように、自分へと放った侮辱と嘲りの液体。

喉を腐った蛆が這いまわるような、激しい嫌悪感が少女を襲った。


少女は洞穴の壁面まで向かうと、飲んでしまったソレをどうにか吐き出そうと試みたが、既に体に吸収しつくされていた液体を吐き出すことは叶わなかった。
透明な唾液を、口元から垂らす事しかできなかった。



少女は何度か咳き込んだ後に洞穴の壁面に身を預けた。
足りなくなった空気を補おうと、胸骨を大きくを上下させた。胸骨の下ではドクドクと心臓が鳴っていた。

確かな鼓動の音に、少女はふとあることに気が付いた。


「私、なんでまだ生きてるんだろう…」


少女の疑問には二つの意味があった。一つは竜に敗北し、なぜ生かされているかということ。彼女が聞いていた話では、竜は人肉を何よりも好むはずである。

気を失っていた自分をなぜあの竜は喰らわなかったのだろうか。あんなにもでっぷりと、血を吸った後のダニのように肥えていた筈なのに。


巫女の予言通りなら、竜が生まれてからは20日も経っていないはずだった。
あれほどの体になるまで、一体どれだけの血と肉をその口に流し込んできたというのだろうか。

自分のような小さな生き物など、あっさりと飲み込めた筈だろうに。

全てを喰らうと予言されている悪しき竜が、何故自分を殺さず生かしておいたのか、少女には分からなかった。



「それに私、ヴァルキュリアの槍と融合した筈なのに‥」


古代兵器との融合、それによって自分が死ぬという事は少女も解っていた。
心を無くし、魔力と命を吸い尽くされるだけの燃料となることは理解していた。

理解した上で、ヴァルキュリアの槍から逃げ出そうと思わなかったのは、世界樹への信仰心と、逃げ出した所で他の生き方など思いつかなかった故にだ。


少女は7年間。竜を殺すために、古代兵器の使い手となるためだけだけに、育てられてきた。

それ以外の生き方も、記憶も存在しない。

7年後に兵器として羽ばたく為に積み重ねた昏い時間。その一瞬の後に死ぬべき運命。


少女の生は、7年間地の中で暗闇と共に生きる蝉の生とよく似ているのかもしれなかったが、それよりも遥かに哀しいものだった。


その彼女が何故、今もなお生きているのか、自分という個が蘇っているのか。

少女の呟きに答える者は誰もいなかった。洞(ほら)の中には誰も居ない。



そこは大きな洞の中。聖都の大聖堂よりも遥かに大きな半球状の空間。

そこにいる自分が大きな生き物の中にいるように、少女には感じられた。

しかし不快感などはなく、只々、優しい空気に満ち満ちていた。


“聖なる”という空気は、本当はこういう事を言うのかもしれないと、彼女は思った。

美しいステンドグラスの模様や、精緻な装飾に満ちた華やかな聖都の大聖堂とは、質の全く違う聖の在り方だった。
柔らかく暖かなその空間は、まるで誰かに抱かれているような気持ちになり、少女の目からぽろぽろと涙が零れた。


今度は涙を拭う気にはならなかった。洞に満ちる安心感が、泣いて良いのだと、教えてくれているような気がした。


壁面から伝わる静かな温かみ、そして外から染み入ってくる桃色の朝の光。

大きな出口は、少女の体の何十倍も大きく、眩しかった。少女はなんとなく、そちらへ向かうべきだと思った。

洞窟から出て、広い、光あふれる世界へと向かわなければと、向かって良いのだと、少女は思った。

生きて良いと言われた気がした。殻を破り、新たに生まれ変われと言われた気がした。


今の少女にはその事を知る由もないが、少女の“本当の最後の記憶”は、実は“始まりの記憶”だった。

大きく泣いたあの声は、新たに生まれ変わった少女の産声であった。



少女は左手で壁面をなぞりながら洞窟を出た。

恐る恐る、一歩一歩。赤ん坊が初めて歩み出すように。

新たな世界を知るために、生まれ変わった新たな自分と出会うために。




「ミーンミンミンミン!! ミーンミンミンミン!!(訳・もっと、もっとだユグドラシル!)


「はい‥っ、はいっ…!! ‥ふぅっ‥あっ…、…んんっ!!‥そこっ、…だめっ!」



新たな世界は、少女には幾分難解すぎた。











「同居人さん、同居人さん」


腹が満ち、ゆるりと腰を落ち着けようとした私に、ユグドラシルが呼びかけた。


-どうした?-と尋ねる前に、生まれたばかりの山猫のような、高く、震えた声が投げつけられた。


「な、な、何をしているのですか! 悪しき竜よ!」


声の方を振り向けば、兵器にその身を侵されていたはずの、あの少女が立っていた。


気丈な言葉とは裏腹に、少女の体は小刻みに震えていた。無理もない。竜と相対して、怯えぬものなどいるわけがない。

それでも精一杯の胆力で、こちらを屹(きっ)と睨んでくる姿には、見た目の年齢にそぐわぬ芯の強さが伺えた。

目の光は兵器に取り憑かれていた時の何も映さぬ灰色ではなかった。

人本来が持つ、潤った、生きた目をしていた。


「ミーンミンミンミン?(訳・ふむ、体はもうよいのかね? 人の子よ。)」


「‥えっ? なにっ?? この言葉?」


「ミーンミンミンミン(訳・まさか竜が言語を持たぬなどと、思っていたのかね? だとすればそなたの勉強不足か、人間の不遜な思い上がりというものだよ。)」


少女は自分の耳を触りながら、こちらを得心のいかぬ顔で見つめていた。

人は自分の見たいものしか見ないとは言うが、それは耳も同じことらしい。竜が言葉を操るという事実を、少女は信じようとはしなかった。


「(同居人さん、同居人さん。貴方の鳴き声にびっくりしているのではないでしょうか)」


ユグドラシルが私にこっそりと、葉が擦れ合う程度の囁きで教えてくれた。

なるほど、そういうことかと私は理解した。

竜の言葉は言霊を持つ故に、わざわざ人語を話す必要などないのだが、聞きなれぬ竜の言語と、頭に入ってくる内容の齟齬に少女は戸惑っていたのやもしれなかった。

ここはユグドラシルの言うとおり、人の流儀に合わせてみるか…。


「‥ふむ、ではこれで良いかな? 人の子よ。」


受け継いだ知識の中から人の言葉を選んで話すと、少女はホッと息をついた。
私に対する警戒までは解くことはなかったが。


「さて、まずはそなたの質問に答えようか。何をしていたと問われたならば、食事を摂っていたとしか答えられぬよ。」


少女は“食事”という言葉にビクリと肩を震わせた。少女の青い瞳は、私の大きな牙を捉えると、畏れの色を浮かべた。


「安ずるな。そなたを喰らおうなどとは思っていない。そもそも私は血と肉を好まぬのだよ」


「りゅ、竜が人肉を好まぬなど、見え透いた嘘を! 悪しき竜よ!」


少女を安心させようと語った言葉は、逆に少女に一層の警戒を与えてしまったようだ。体を堅くし、少女は私からジリッと後ずさった。


「嘘ではないのだがな‥。そなたがまだ生きている事が、一番の証だとは思わぬか?」


少女の瞳が揺れた。自分の言葉と起きている現実との齟齬に気付いたのであろう。
少女は何かを言い出そうとして、しかし口を噤んだ。


「さて、人の子よ。こちらからも質問をしてもよいかな? 悪しき竜とはどういうことかね? 私はそなた達人間を害した覚えなどはないし、これからもそんなつもりはないのだが。」


この生においてなんら恥じる生き方をした覚えのない私は、堂々と少女の目を見ながらはっきりと告げた。

少女は怯んでいた。
真のある言葉というのは時にどんな武器よりも鋭くなる。少女の狼狽が私には手に取る用にわかった。

少女は何かに祈るように、頭と心臓と臍の三点を三本の指で結んだ。

ふむ…、あれは確か世界樹に加護を求めるまじないであったか。

300年前の人と先代の竜との大戦では、人族は皆そのように祈りながら海の藻屑と消えていったことが、受け継いだ記憶に残っていた。


「貴方の言葉には惑わされません! 竜は悪しき者だと決まっています! 先代の竜も、生贄を、毎年七人も! それに刻詠みの巫女様が…」


「人間さん、今代の竜はとても優しいお方ですよ。悪しき竜だなんてとんでもない」


私の言葉を決して聞き入れようとはしない少女に、どうすればよいものかと手を焼いていると、ユグドラシルが少女の言葉を斬る形で、助太刀をしてくれた。
助かったぞユグドラシルよ。‥しかし優しい等と、照れるではないか。


「えっ‥? さっきの声の人? 頭に響いてくる‥、何処から…?」


少女は辺りを見渡しながら声の主を探していた。その様は、まるでユグドラシルと初めて出会った時の私そのものだった。


「ここですよ、小さな人間さん。」


少女はなおも首を左右後ろへと振っていた。

うむうむ。ここだと言われても、最初はわからぬものだ。一向に気付く様子の無い少女に、ここは一つ“先輩”として教えてやってもよいだろう。


「人の子よ、そなたの左手が今触れているであろう? この世界で最も美しく、気高き存在にな。人や竜とて言葉を操るのだ、我らよりも遥かに偉大な彼女が、言葉を解さぬ道理などないだろう?」


「もう、大げさですよ同居人さん。そんなに褒められても、私は樹液しか出せませんから」


「何を言う。その樹液こそが私にとっては、何よりの宝なのだよ」


我らのやりとりを伺っていた少女は、ようやくその声の主が何者であるかに気付いたようだ。-まさか-と言って、自分が触れているものに、自分に声をかけたものを見上げた。



「初めまして、小さな人間さん。私はユグドラシルです」










「ハーピーよ、そこいるか?」


ゲルの中から、何かがガラガラと転がる音と、水が零れる音が聞こえてきた。

暫くして二つの布が合わさる入口から、ハーピーが亀のように頭だけをだした。彼女は私の姿を認めるとぱっと笑顔になった。青い髪からはぽたぽたと水が滴り落ちていた。


‥ふむ、また湯浴みの最中であったか。私はどうにも間が悪い。


テントから覗く頭に指を差し出すと、ハーピーはぐっと頭を私の方へと伸ばしてきた。
丸いゲルから首だけを懸命に伸ばすその姿は、やはり亀によく似ていて、愛らしかった。


-おはようございます。竜さん! 遊びに来てくれたのですか?-


-いや、今日は少々頼みがあってな。この少女に服を貸してやって欲しいのだ。-


-誰にですか…? うぇっ!? に、人間!?-


私の影から出てきた少女に、ハーピーは酷く驚いていた。

無理もない、この地に訪れる人間といえば、無謀で野蛮な冒険者か、先代の竜の生贄のみなのだから。


-案ずるな。そなたに危害は加えぬようにしっかりと見張っておく。できれば湯浴みもしたいそうなのだが、頼めるか?-


-あ、は、はいっ! もちろんです! …で、でも見張っちゃ駄目です! 竜さんは外で待っていて下さい!-


言われて私ははたりと気づいた。見張ってしまっては婦女子の着替えを覗くような不埒な出歯亀になってしまうな、と。

私は少女の方に向き直ると、ハーピーの家に入るようにと促した。


「服を貸してくれるそうだ。決してハーピーに危害を加えてはならぬぞ。ニュージュよ。」


ニュージュは黙ったまま、おずおずとハーピーの前まで進み出た。

ハーピーもびくびくとニュージュを見ていた。小柄な2人は、並んでみるとちょうど同じぐらいの背丈であった。



私を襲ったヒトの少女の名はニュージュと言った。









「せ、世界樹様であられますか! わ、私は貴方の忠実なる下僕、ニュージュと申します!」


ニュージュはそう言って地に両膝をつき、祈りの形で両手を前に突き出しながら、額を地面に擦り付けた。
必然的に丸まった背中は、私にはまるでダンゴムシのように見えた。

先程私に見せた世界樹の加護を求める祈りといい、彼女は世界樹教の熱心な信徒なのだろう。


世界樹教とはこの世界に置いてもっとも力のある宗教である。


一神教の宗教形態が他国を支配する大義名分に調度良かったのだろう。1000年以上前の事、帝国は世界樹教を国教とし、その他の宗教を布教という形で弾圧した。そして瞬く間に人の住む大陸の西半分を支配に置いたと。私に残された知識が語ってくれた。

自分への信仰が、戦争の道具として使われているなどとは、優しいユグドラシルには決して教えられぬことではあるが。


ともかく、世界樹教は信者を集めた。

ミクロ的な視点で見れば、清らかで正しい心をもった世界樹教の信者も沢山いるのだから、決して悪いものではないのだろう。
宗教と国を動かすのは極一部の権利階級ではあるが、その宗教を信じるのは、慎ましく誠実に生きている民草なのだから。


しかし、少女のソレは“狂信”とでも言うべきだろうか。


大地に額をぐりぐりと擦りつけながら心を示すその姿には、私は感動よりも痛ましさを覚えた。


「顔を上げて下さい、ニュージュさん。私は只の樹(き)。誰よりも長く生きてきただけが取り柄の、無力な樹なのですから」


「そんな…ッ。無力だなどと‥、全能なる聖樹様! ああっ! 私の如き小さな存在にお声を与えてくださるなどと、勿体無うございます!」


ニュージュの言葉は私にはどこか滑稽に思えた。彼女は世界樹が自分に語りかけているという事実に、哀れなほどに歓喜していた。

これがまだ幼い少女が捧げる信仰の形なのだろうか?

ニュージュはまるで地面を掘りだしてしまいそうなほどに、更に深く頭を地に擦り付けようとしていた。

ユグドラシルから戸惑いの感情が私に伝わってきた。


「ニュージュさん。私を信じてくださっているのなら、私の言葉も信じていただけないでしょうか? 今代の竜は私が知る誰よりも優しくて、強い心を持ったお方なのですよ」


「ユグドラシルよ、それはあまりにも物言いが大げさ過ぎるという物だ」


「いいえ、大袈裟な事など何もございません。私は心に思ったことをそのまま述べているだけですもの」


「ならばそれは勘違いというものだ。貴方こそが誰よりも優しく、強い心を持っているのだから」


「あら? だったらそれこそ同居人さんの勘違いですわ」


クスクスと笑い合う私とユグドラシルを、気がつけばニュージュが愕然と見つめていた。

大切なモノを取り上げられた子供ような…、いや、母に捨てられた子供のような。そんな目だった。


大きく開かれた青い瞳から涙が一粒零れた。
開けっ放しであった口が、その形のまま、空気を大きく吸い込んだ。



「わ、私は!! 世界樹様の為にいままで生きてきたのです!!!」


そして突然、少女が声を荒らげた。


「悪しき竜を倒して! 世界樹様を救えと! その為に! その為だけに生きてきたのです!!」


それは未だ幼い少女の口から紡がれるには、苛烈な言葉だった。


「死んでも竜を倒せと! 悪しき竜を倒せと! その為だけにこれまで生きてきたのです!」


これが未だ幼き少女の在り方なのかと思うと、胸が痛んだ。
歳の頃は11か12か、今までどのような生き方をしてきたと言うのだろう。


「竜を倒せと! 世界樹様を救えと! そう…、言われて来たのです…」


洗脳。という言葉が近いか。
幾つの頃からそう言われてきたのかは解らぬが、子供の柔らかくて幼い脳は、洗い流して、別の色に染め上げるのは簡単なことだったろう。

何故、私を倒すことがユグドラシルを救うことになるのかは解らなかったが、少女にとってはそれが唯一の真実となったに違いない。


「竜は悪い生き物なのです…。狡猾で、強大で、残忍で、ヴァルキューレの槍でしか滅ぼせないと…、だから、私は‥」


だから、古代兵器にその身を差し出したか…。

私は少女が無理やり古代兵器と融合させられた物だと考えていたが、実際はもっと残酷な話であったようだ。
幼い子どもに、自ら命を捨てさせる決断をさせるなどと、これ以上に酷(むご)い話があるものか。


「それなのに…、それなのに…。何故世界樹様はそのような事をおっしゃられるのですか?」


少女は泣いていた。

過酷な生の中で、ユグドラシルへの信仰だけが少女を支えて続けてきたことは、私にも容易に想像ができた。

家出する母親に縋りつくように少女は泣いていた。


少女の狂気のような信仰を目の当たりにして、ユグドラシルを纏う空気と大地が、悲しみの感情に染められた。
暫くの無言の後、ユグドラシルは優しい声で少女に話しかけた。


「ニュージュさん…。あなたにお願いがあります」


“お願い”という言葉に、少女は目を剥いて頷いた。「はいっ! はいっ!!」と。
飢えた犬が必死で尻尾をふるように、次の言葉を待った。


「同居人さんと…、今代の竜と、今日一日一緒に過ごしてはもらえませんか? 一日共に過ごせば、きっと貴方も同居人さんが悪い竜ではないと解ってくれると思うのです」


少女の瞳が、再び愕然となった。
絶望を宿した眼差しで私を見た後に、もう一度縋りつくようにユグドラシルに視線を向けた。


「私のお願い…、聞いてもらえませんか?」


敬虔なニュージュには頷く以外の選択肢はないだろう。


頷いた時に、涙の雫が地を濡らすのが見えた。
頷きは俯きに代わり、少女は顔を上げる事はしなかった。


「(同居人さん、勝手に話を進めて申し訳ありません。できれば‥、この少女のことを…)」


ユグドラシルが私に囁きかけた。


「(ああ、任されよう。ユグドラシルよ)」


ユグドラシルの言わんとする事は理解できる。
私もこの哀れな少女のことを放っておく事などできはしない。


どうにか、この少女の涙を止めることはできぬか。
どうか、この少女に笑ってもらえぬか。


「ニュージュよ。空を飛ぶ魔法は使えるか?」


ニュージュは俯いた頭を更に下へと落とすことで肯定を示した。


「私は特に急ぐ用事はないのでな。どこか行ってみたい場所はあるか?」


私の言葉に一度は首を横に振りかけた少女ではあるが。その後、


「水場に行きたい。体と服を洗いたいから」


と、震えた低い声で答えた。


「ふむ…、それは構わんが‥」


考える。少女は着替えなど持ってはいない筈だ。
今は夏ではあるが河の水は冷たい。そもそも、洗った後の服はどうするつもりだろうか?


うつむく小さな少女を見て、そういえば我が友のハーピーもこのくらいの大きさであったな。と、思い出した。


「そうだな、私の友人に服を借りると良いか」


「友人‥?」


そこで少女は初めて顔を上げた。眉根を寄せて、訝しげに私を見た。


「竜に友人がいてはおかしいかね? 人の子よ、そなたにも友人位いるだろう?」


私の問には、少女は答えなかった。


…なるほど、やはり少女はこれまで余程苛烈な生き方をしてきたようだ。
さもなくば、この歳で古代兵器の使い手には選ばれぬか…。

ユグドラシルへの痛ましい程の狂信ぶりも、他に支えてくれる者がいなかった故の必然であったのかもしれぬ。


「では案内しよう。付いて来るがよい」


こうして私は少女を連れて、ハーピーの元へとやって来たのだ。



少女がハーピーのゲルの中へと消えてから既に二時間近くが経過していた。

私はゲルに背を向けながらも、ずっと聞き耳を立てていた。

時折物音と、稀にニュージュの声が聞こえる以外は、争う様子もなく、緩やかに時間はすぎていった。


そしてバサリと、ゲルの入口が翻る音が聞こえた。振り返ればハーピーとニュージュが並んで立っていた。


「ふむ…、よく似合っているではないか」


ニュージュの着る服はハーピーの種族に伝わる民族模様に彩られていたが、戦闘服などよりもこちらのほうがずっと少女らしかった。

ハーピーと人間。種族は違うが、同じぐらいの背丈でよく似た服を着る2人はまるで姉妹のようにも見えた。


-手間をかけさせたな、ハーピーよ。何も問題はなかったか?-

-うん、竜さん! 服の大きさはニュージュちゃんにピッタリだったよ!-


私の尋ねた“問題”とは、そういう意味ではなかったのだが、ハーピーの笑顔を見ればそれをわざわざ尋ね直す必要もないだろうなと、そう思った。

ニュージュの方は、きょろきょろと落ち着かなさげに目線を彷徨わせていたが、ハーピーとの距離は近かった。
ハーピーに対して、悪い感情を持ってはいないことが推測できた。


「では、お礼に今日も空へと行こうか、ハーピーよ」


二度目ともなれば勝手もわかる。ハーピーは翼をはためかせ飛び上がると、私の首にしっかりとしがみついてきた。


「さて、私と彼女はしばし空の散歩に行こうと思うのだが、共にゆかぬか? ニュージュよ」


ニュージュは私とハーピーの間で何度か視線を彷徨わせた後に、首を横に振った。


「…そうか、では暫くそこで待っていてくれぬか?」


無理強いするものでもないだろう。彼女にとって私はきっと未だ「悪しき竜」なのだろうから。

翼を広げ、空へと飛び立とうとした時に、私の首からふっと重さが消えた。


「あっ…」


少女の前に、白い翼が舞い降りた。ハーピーはそろりと手を伸ばした後、口をパクパクと開いた。

声にはならない筈の言葉が、私にも確かに聞こえたような気がした。


-行こう-


ニュージュもそろりと手を伸ばした。掠る程度に指先同士が触れ合った後、2人はしっかりとその手を握り合った。

ゲルの中での二時間、会話も成り立たぬ2人がどのように過ごしたのかは私にはわからなかったが。…なるほど、確かに「何も問題はなかった」ようだ。


「では行こうか、三人で」



私は首に二人分の重みを感じながら空に舞った。私の首にしがみつくハーピーと、そのハーピーにしがみつく人の子と。


ニュージュよ、知っているか?


そなたが今手にしているもの。その両手で確りと握り締めている者の名前を、


人はそれを、友達と呼ぶのだよ。




・・・・・・・・・・・


・・・・・・・・・・・


・・・・・・・・・・・




ハーピーと別れた後、私は狩りへと向かうことにした。

「これから狩りに行く」と言った私を、ニュージュは「血と肉は好まないのではなかったのですか?」と睨んできた。


「ああ、私は食べはせんよ。強き母と、その子供の為にだ」


そう言った私を、ニュージュは訝しげに睨みつづけていた。


「まあ、付いて来れば解るさ」


そう言って私は空へと昇った。空からは獲物の姿がよく見える。前回ラミアの為に狩った巨牛の姿も目に止まったが、同じものばかりでは芸もない。
私は目を凝らしながら地上を眺めた。竜の卓越した視力は、雑草の種類や木々の葉っぱまで見分けられる。

小さな野池の水面に、不釣り合いな程の大物の魚影が写った。


…ふむ、確かラミアという種族は魚も好んで食べるという話であったか。

私は空高くから狙いを定めると、池の中へと飛び込んだ。

大きな魚影の正体は、人間の大人よりも大きな特大のオオナマズであった。
獲物としては十分であろう。私はオオナマズを肩に担ぐと身重なラミアの住む岩場へと向かった。

ニュージュは、自分の数倍はある巨大なナマズに目を丸くしていたが、私が名を呼ぶと、慌ててついてきた。


「壮健か? ラミアよ」


「竜のお方! 貴方様のお陰で何一つ不自由なく過ごしておりました」


ラミアの言葉は、彼女の姿が証明していた。

前回彼女に与えた巨牛は彼女の体に確りと肉をつけていた。彼女の腹も前回会った時よりも、更に大きくなっていた。

竜の縄張りの中にいることで外敵に怯える必要も無かったのだろう。
彼女の釣り目がちだった目尻は穏やかに下がっており、一週間前に会った時よりも、随分柔らかい印象を受けた。
紫色の長い髪は美しく梳かれてあり、彼女の本来の艶と輝きを取り戻していているように思えた。


「竜のお方…、そちらの人間は‥?」


ラミアは私の隣にいたニュージュに気づくと油断なく構えた。
魔法にも長けているラミアの事だ。少女の内からあふれる魔力を感じ取ったのだろう。


「ラミアよ、案ずるな。彼女は悪い人間ではない。貴方にも、貴方の子にも、害を加えるようなマネはせんよ」


「そうですか、貴方様がそう仰られるのであれば安心でございます」


そう言うと、ラミアは警戒を緩めた。私への義理立てか、それとも本心からそう思っているのかは、私には解らなかったが。
とりあえず、ここに来た目的を果たしておこうか。


「さてラミアよ。ナマズは好きか?」


私は背中に背負ったオオナマズをラミアへと差し出すと、彼女は恥ずかしげに俯きながら、「はい」と答えた。

喜んでくれたようで私も嬉しい。
用事も終わった事だし「では、また来る」と立ち去ろうとしたが、ラミアに呼び止められた。
今からナマズを焼くから、昼食を共にしないかと言うのだ。


樹液によって潤っている私はナマズ等には興味はない。丁重にラミアの申し出を断ろうとしたが、そこでふと思い立った。


「私は良いから、この少女に馳走してやってくれぬか?」




・・・・・・・・


・・・・・・・・





「はいどうぞ、人間さん」


ラミアはそう言って、串にさした大きな一切れをニュージュへと差し出した。岩塩と胡椒の実と香草で味付けされたそれを、少女はおずおずと受け取った。


ラミアの料理は見事であった。黒曜石のナイフで手際よくナマズを三枚に下ろすと串に次々と刺していった。ナマズは寄生虫がつくことが在るらしく、生で食べるのは良くないらしい。
ラミアは魔法でさっと火をおこすと。串に刺したナマズの肉を円形に並べていぶすように焼き上げていった。

ポトポトと脂が落ち、その度に火が激しく燃え上がるが、それも計算の内なのだろう。
カラリと焼けた表面が火で炙られる度に香ばしい匂いを放つと、私の鼻をくすぐった。


ラミアの料理がコレほどのものとは思わなかった。いつか私も、馳走になりたいものだと素直に思った。

今は樹液のみで生きている私ではあるが、いつまでも赤子のようにソレばかりを飲んでいるわけにもいかぬだろう。
今はもう少しユグドラシルの樹液に甘えて置きたい所だが、少しづつ乳離れをせねばならぬとは私とて思っていることだ。


ナマズの串焼きを受け取った少女は、串の両端を手で持つ形で、最初は小さな小さな一口を、その後は夢中でナマズを食べ続けた。
余程腹が空いていたのか? と思ったが、どうやらそういうわけでは無いらしい。


少女の瞳からはポロポロと涙が溢れ落ちていた。

あっという間に串を丸裸にしてしまった少女に、ラミアは無言で、串焼きをもう一本手渡した。
無言ではあったが、母だけが持つ事ができる優しい目をしていた。


「美味しいか? ニュージュよ」


私の質問に、ニュージュはぶんぶんと首を上下に振って、


「おいしい…、おいしいよぉ…」


と泣いた。

その様は、まるでこれが美味しいという言葉の意味なのだと、初めて理解しているようにも見えた。

彼女が今までどんな食事を摂ってきたのかは私にはわからぬが、食の喜びとは縁遠いシロモノばかり食べて来たのであろうことは、容易に想像ができた。

ニュージュが二本目の串を食べ終わった頃を見計らい、私はラミアに尋ねた。


「ラミアよ、腹の子は元気か?」


「はい、おかげさまですくすくと育っております。あと一週間もすれば産まれるのではないかと」


「ほう! ほう! それは素晴らしい! 赤子が楽しみであるな!」


ラミアは卵を産んだ後、それを膣の中で育てる卵胎生の生き物である。
生まれてくる子供は親と同じ姿で生まれてくる。彼女の子供であれば、きっとかわいい子供が産まれるであろう。


「…赤ちゃん?」


ニュージュは私とラミアを見比べながらそう言った。…ふむ、どうやら勘違いをしてしまっているようだ。私が否定しようとすると、その前にラミアが口を開いた。


「残念ながら、竜のお方の子供ではありません。もしそうであったならばもっと幸せになれたでしょうにと、そう思ったことは何度かありますが」


ラミアはそう言いながら私に微笑みかけた。妖しい唇の端を僅かに持ち上げながら。
ラミアの冗談は、私には少し過激すぎた。


「赤ちゃん、ここにいるの?」


ニュージュの目はラミアの腹に釘付けになっていた。ラミアの大きく膨らんだ腹に。


「触ってみますか? 人間さん?」


「えっ? …い‥、いいの?」


ラミアは微笑みながら頷いた。子供とは言え人間の子に腹を触らせるなど、ラミアは既にニュージュのことを確りと信頼しているようだ。


ニュージュは恐る恐ると、脆いガラスでも触るかのように、ラミアの腹をなでた。
球状に膨れたラミアの腹は、安い言葉ではあるが生命の神秘を感じさせた。


「あっ、今ドンって」


「ふふふっ、最近よく蹴るのですよ。以前はその元気も無かったのですけどね。優しい方のお陰なのです。…竜のお方も、よろしければ是非触ってくださいまし」


私はニュージュの手の平の反対側から、人差し指の指先だけでラミアの腹に触れた。
-トンッ-という、軽い振動が私の指にも伝わった。


なるほど、確かに元気な子だ。


「あっ‥、また、ドンって」


少女を見下ろすラミアの瞳は、まるでもう一人の娘を慈しんでいるような、母の瞳だった。



・・・・・・・・・・


・・・・・・・・・・



「ねえ、友達、多いの?」


ラミアの所を辞した私に、ニュージュがそう切り出してきた。彼女の方から何かを尋ねてきたことに私は内心驚いたが、それを表に出すことはしなかった。


「うむ。友には恵まれているという自覚はあるな」


「そう‥、なんだ」


ニュージュはそれきり黙ってしまった。
会話とは、存外難しいものかもしれなかった。


さて‥、次は何をしようか‥、トーテムポールの制作の続きを行っても良いのだが、もう少しこの少女に何かしらの経験をしてもらいたいとも思った。


そう思ってふと気が付いた。私はどうやらこの少女のことを気に入っているらしい。
私がこの島で出会った人や出来事、色々なことを彼女にも知ってもらいたいと思うほどには。

私が悩んでいたちょうどその時、空の彼方からよく聞き知った鳴き声が聞こえてきた。


「くっくっく‥、次の用事が決まったな」


「次の用事‥?」


「ああ、強敵(とも)からの誘いだよ」


強敵(とも)という言葉に、ニュージュは首をかしげていたが、私の心臓は既に踊り始めていた。


「付いて来い! ニュージュよ!」


私は遙かなる友の呼び声に向かって、大きく羽ばたいた。




・・・・・・・・


・・・・・・・・



そこは荒野だった。


広い荒野の真ん中に、巨体の私と同じぐらい大きさの、ライバルが待っていた。


「ゲコゲコッ?」


「怖気づいたかと思っただと? バカを言うな。連れがいたのでゆっくりと飛ばねばならなかっただけさ」


「ゲコッ?」


「ああ、彼女とは昨日知り合ってな。審判には調度良いとは思わぬか?」


「ゲーコゲコゲコ」


「くっくっく、判定のいらぬ決定的な負けを教えてやるだと? 見縊るなよ、例え肥え過ぎで咆哮の力が失われても、私のメロディーと音感は健在だぞ?」


「ゲーコゲコゲコゲコ」


「ああ、真剣勝負はこちらとて望むところよ! では行くぞゲーコよ! ニュージュ! 判定は頼んだぞ!」


-ミーンミンミンミン ミーンミンミンミン-


最初は、軽いジャブのような前奏曲、小手調べであるが、しかし手抜きではない。軽快で歯切れのよい音とメロディーを、私はゲーコにぶつけた。

さあどうだ? 今度はお前の鳴き声を聞かせてみろ?


しかし、ゲーコは鳴かなかった。
それどころか大きく息を吸い込むと、口を確りと閉じ、ぷくーっと喉を河豚のように膨らませた。


-ゲーコめ、何を考えている?-


私は疑問に思いながらも、歌を続けた。


口を閉じているはずのゲーコから、異常なプレッシャーを感じた。

歌を、止めてはならぬ。

あの体制からゲーコが何をする気なのか、私には想像はできなかったが、油断をすれ、一気にやられる。そんなジリジリとした焦りと予感があった。


-ミーンミンミンミン ミーンミンミンミン-


もはや私に余裕などは無い。来るべきゲーコの攻撃にそなえて全力で歌った。
ゲーコはそんな私を見てニヤリと笑った後に、両手を膨らませた喉に押し当てた。


-真逆!?-


ここに来て私は、ようやくゲーコが何をなすつもりなのかを理解した。


ポンッ ポンッ ポンッ


ゲーコが両手で交互に、限界まで膨らませた喉を叩き始めた。


これは‥、ドラムかッ!!


なんとゲーコは私の鳴き声に合わせて、しかし私の鳴き声を喰う程の勢いとリズムで、自分の喉と頬袋をドラムに見立てて叩き始めたのだ。


ポンッ ポコンッ ポコンッ   ポココココ 

ポンッ ポコンッ ポコンッ   ポココココ 


それは只のドラムではなかった。

ゲーコの作り出す音は大地への祈りをそのまま音にしたようなリズムと、人をトランス状態へと誘う、だんだんと早くなっていく繰り返される旋律が特徴的であった。

その音に、私の深い竜の知識は心当たりがあった。


「ゲーコ貴様!! ジャンベだとッ!?」


ゲーコは私の問には答えずニヤリと笑うと、更なるスピードで頬袋のジャンベを鳴らした。頬から顎下にかけて、まるでピアノでも鳴らすように、位置をかえながら打ち鳴らしていった。

音階に乏しいはずの太鼓が、自由自在に音とリズムを変えていく。
私の単調な鳴き声は、ゲーコのパフォーマンスに瞬く間に押されていった。


ジャンベとは、竜が住む島から遥か東南の大陸にあるドラムの一種である。


バチを使わず両手で太鼓を叩く奏法の、原住民達の民族音楽である。

太鼓の皮の部分だけでなく、胴の部分も使い、全身でリズムと音を刻む。南の大陸の原住民達は、祭りの日にはその音楽に合わせて一晩中踊り続けるのだ。

音階の表現には乏しいが、リズムで聴衆を巻き込んでいく。
観客が聞き惚れるための“お行儀”のよい歌とは違い、心臓の鼓動に直接働きかけるような音楽。
打楽器のなかではこれほど厄介な相手もいないだろう。


太陽と荒野に生きる原住民達の生き様を具現化したような音とソウルが大地を轟かせる。

ゲーコがジャンベの使い手だとは、私は全くしらなかった。


そして悟った。


私は今までゲーコに手加減されていたのだと。

鳴き声だけの相手だと思っていたが、ゲーコの引き出しは私の想像を遥かに上回っていた事に。


一対一の戦いに置いては手札の数こそがモノを言う。特に実力が均衡している者達の戦いにおいては。


手札を変えて、相手のペースを乱しながらいかに自分のペースに巻き込んでいくか、それが一対一の音楽対決における勝利の方程式である。

ゲーコは私にジャンベを見せたことはなかった。真逆この時のために、ゲーコはジャンベを温存していたのだろうか。


私に切り札を見せぬ為に。

ゲーコのソウルが私のソウルに喰らいついて、噛み砕く様を幻視した。


「ミーンミンミンミン!!!(訳・舐めるなぁッ!!!)」


私は大声で叫んでいた。

竜に対して手加減をしていただなどと、愚かな思い上がりだったと教えてやろう!!

世界最強の竜として、全身全霊を持って貴様を迎え撃ってやることでな!

ゲーコよ、体を楽器の一部にできるのが自分だけとは思うなよ?



-ギーーーーーーーーッ-



ゲーコのジャンベの狭間を、長い音が突き破った。

雑音の集合で生まれた音は、しかし独特の風合を持って辺りに響いた。


-ギーーーーーーーーッ-


もう一度。右手の後は左手だ。
鎖骨から股下へと私の巨体の長い音源を、竜の爪が凹凸に震えながら駆け巡った。
鱗が生み出す溝を爪がなぞることで音が生まれた。



「ゲコォッ!!!?」


「‥知っていたかね? 流石は我がライバルだ。そう、これはギロだよ」



ギロ、という楽器がある。


竜のいる島から遥か南西の大陸に生きる部族に伝わる楽器である。

ギザギザが彫りが刻まれた瓢箪や木の筒を細い棒でこすり合わせて音を出す楽器だ。
棒が溝を叩く時の、「ガリッ」という雑音が集合して全く別の音を作る趣深い楽器である。

早く擦れば高いチャッという音がなり、ゆっくりと擦れば低く長いギーーッという音がなる。

音の高低の表現には向いていないが、軽快なリズムで聴衆の体と脳に直接響くような音を作り出す、ドラムとはまた別種の打楽器である。


肥えてしまった私の体では、音の反響は作り出すことが出来ないが、強い魔力を宿した硬い竜の鱗と爪を強く擦り合わせることで、本物のギロをも凌ぐ力強い音を創りだした。

並の竜の爪とうろこでは、この激しい摩擦に耐えきれぬだろうが、私は真なる竜である。


真竜の鱗と爪を舐めるなよ。


ゲーコに汗が浮かんでいた。


民族音楽には民族音楽を

ゲーコが遥か東南の大陸の音を使うなら、私は遥か西南の大陸の音を選んだ。


人間で言えば乳首とアバラにかける部分の鱗を、私はギターのように5本の爪でかき鳴らす。

両手を交互に、上下に動かしながら、
時には長く、時には短く。
魔力を宿した竜のギロが荒野に力強く響いていく。


ギーーーーーーー   チャッ  チャッ  チャ


ギーーーーーーー   チャッ  チャッ  チャ



しかしゲーコとてそれに簡単に屈するような使い手ではない。
私のギロに対して渾身のジャンベで挑んできた。


ポンッ ポコンッ ポコンッ   ポココココ


ポンッ ポコンッ ポコンッ   ポココココ



私とゲーコはステップを踏みながら、音楽にあわせて、三拍子のリズムで移動していく。

右前、左前、後ろ    左前、右前、後ろ

一歩半進んで一歩下がるステップは、私とゲーコとの距離を除々に近づけていった。


テンポはどんどんと上がっていく。

私は胸を、ゲーコは喉を。両手をほぼ同時に、しかし確実に交互に動かしながらリズムと音を刻んでいく。




ギーーーーーーー   チャッ  チャッ  チャ

ポンッ ポコンッ ポコンッ   ポココココ 


どんどんと上がるテンポに、奏者である我ら二人が共にトランスへと入っていく


ギーーーーーーー   チャッ  チャッ  チャ

ポンッ ポコンッ ポコンッ   ポココココ 


音と音がぶつかり合い、塊をなし、もはや私の出した音なのか。ゲーコの作った音なのか判別がつかなかった。
もうこれ以上の速さは無理だと、両腕の筋肉が悲鳴を上げた時、ステップを踏みながら、前へ前へと移動していた私とゲーコが互いにぶつかり合っていた。

気がつけば我らは、お互いが触れ合う程の距離まで互いに前進していたのだ。


ふむ、どうやらここまでのようだな。

私は両手の爪で最後の長い一掻きを生み出す。


ギーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!!


ポココココココココココココココココココココッ!!!!!


ゲーコも私の意図するところを正確に読み取った。


チャッ! チャッ! チャッ!
ポンッ! ポコッ! ポンッ!


同時に重なった終わりを示す三音。


そして荒野には再び静けさが蘇った。

私とゲーコは右手でパンッとハイタッチをした後に、しっかりと互いの手を握り合った。


勝負の後の互いの健闘を称える一瞬の融和。


しかし勝負とは、勝ちと負けが決せられるもの。

私とゲーコは審判役のニュージュの方を同時に振り向いた。




「ニュージュよ! どっちの勝ちだッ!?」

「ゲコォッ!?」



審判役を頼んていたはずのニュージュは、何故か両手で耳を塞いだまま、膝で頭を抱えるような格好の体育座りで俯いていた。



・・・・・・・・・

・・・・・・・・・



「な‥、何だったの? アレ?」


少女は塞いでいた耳から、手を恐恐(こわごわ)と離しながらそう言った。

ふむ、トランスミュージックは少々彼女には早すぎたか…。


芸術とはしばしば難解である。

芸術とは“ウケル物”を創れば良いというわけではないからだ。

芸術とは作り手と受け取る側が共に歩んでいくものである。

新しい作品は、観客に新しい世界を発見させる。
新しい世界は、さらに新しい作品を産む。

作り手と受け取り手が、絡み合って転がるように進んでいく。それが芸術の在り方なのだから。


「あれが音楽という物だよ。ニュージュよ。」


「お、音楽…???」


可哀想に、今まで音楽も知らずに育ってきたのだな。

ならば彼女に教えよう。音楽というものがどういうものかを。

芸術の世界では“アフタートーク”や解説も含めて作品なのだから。
私とゲーコは、二人がかりでニュージュに音楽とは何かを教える事にした。


「いいかね、まずは音楽の始まりから語るとだね…」

「ゲーコゲコゲコゲコ」

「…そして楽譜の発明により、音楽は一層の発展を迎えるわけだが…」

「ゲーコゲコゲコゲコ」

「…しかし楽譜のない伝承音楽というものも世界には存在していて…」

「ゲーコゲコゲコゲコ」

「…つまり帝国の支配地が広がれば広がる程、音楽も交じり合い、新たに生まれるわけなのだが…」

「ゲーコゲコゲコゲコ」

「…そもそも世界には何百種類という楽器があり…」

「ゲーコゲコゲコゲコ」

「…以上が音楽というものだよ。わかったかね?」

「ゲーコゲコ?」




「わ‥、わかりません!!!」




私とゲーコの音楽史講座は、少女には難し過ぎたようだ。

‥ふむ、困ったな。音楽を知ってもらうための授業が既に難しいとは、一体どうやって彼女に音楽を教えようか。
私が考えあぐねていると、ゲーコが任せろというジェスチャーで自分の胸を強く打った。


「ゲーコゲコゲコゲコ」


「なるほど、習うより慣れろ…か。確かに一理あるな。うむ、任せるぞゲーコよ」


ゲーコは少女の前へと進み出ると、顔を突き出し、先ほどのように喉をプクーっと膨らませた。


いきなり目の前に広がった巨大な白い頬袋に、ニュージュはビクッと体を縮めて、二歩ほど後ずさっていた。


「怖がるなニュージュよ。それが楽器だ。さあ、力いっぱいゲーコの喉袋を叩きなさい」


「た‥。叩く!? こ、コレを!?」


「案ずるな、ゲーコは強いぞ。そなたが思いっきり叩いた所で痛みなど微塵も感じぬよ」


ゲーコは私の言葉を力強く頷く事で肯定した。


「さあ叩け! 思いきりだ! 遠慮などするな!!」


暫くニュージュは躊躇していたが、私が「さあ! 叩け! 叩くのだ! 力いっぱい!」と繰り返すと、ニュージュは目をギュッと瞑って、右手を大きく振りかぶった。

前に向かって振り下ろした手の平が、薄く大きく引き伸ばされたゲーコの喉袋を確りと捉えた。


ポーーンンッ


高く弾むような音が響いた。



「あ、あれっ?」


ニュージュはゲーコから生まれた音に驚いていた。


「い‥、痛かったよね?」


口を閉じて喉袋を膨らませたままのゲーコは、目を細めながら首を左右に振ることで、少女の気遣いを無用の物だと教えた。


「どうだニュージュよ? 面白いものだろう? さあ、もっと叩いてみるがいい」


ニュージュは再び、今度は右手と左手で交互に打った。

-ポーンッ ポーンッ-と、今度は2つの音が生まれた。

ニュージュは自分の両手とゲーコの喉袋を目を丸くしながら見比べていた。


「叩かれるのって、もっと嫌な音がする筈なのに…」


「…うむ、ゲーコのそれは楽器だからな。嫌な音などしないさ。手という物はな、嫌な気持ちだけでなく、楽しい気持ちも作ることができるのだよ」


「叩かれた事があるのか?」などと、聞くつもりはない。辛いことを思い出させるよりも、楽しいことを知ってもらいたいのだから。


「楽しい気持ち‥?」


「さあ、もっと叩いてみなさい。自分の好きなように、思うがままに。」


ニュージュはコクリと頷くと、-ポンッ ポンッ ポーンッ ポンッ ポンッ ポーンッ-と、ゲーコの喉袋を続けて叩いた。

その音を聞きながら、今度は別の場所を別のリズムで叩く。

叩く場所を変える度に、タイミングを変える度に、変わっていく音と旋律にニュージュはただただ驚いていた。

彼女は気付いているだろうか。口元に浮かんでいる自分の笑みに。

今感じている気持ちが楽しいという気持ちなのだと言うことに。


・・・・・・・・

・・・・・・・・


一時間ほど、ニュージュは夢中になって太鼓を叩き続けていた。

しかしもはや体力が限界なのだろう。ゲーコにもたれかかるように最後の一音を打った後、ペタリと腰を地につけて、ふーっ ふーっ、と、大きく肩で息をしていた。

小さな額からは汗が大量に流れ落ちていた。


「ゲーコゲコ?」


ずっと少女の為の楽器となっていたゲーコが、口を開いた。
ゲーコの言葉が理解できぬ少女は、私の方を振り返り助け舟を求めた。


「楽しかったか? …と、聞いているのだよ」


少女はゲーコの方を振り返ると、「うんっ‥うんっ!!」と、何度も頷いた。


「ゲーコゲコゲコ」


「それは良かった。 …だ、そうだ」


頷きながら、少女の目から、もはや今日、何度目になるかも解らぬ、涙がつぎつぎとこぼれ落ちた。

良く泣く赤子は健やかに育つとは言うが、もはや赤子ではない少女にも当てはまってくれるだろうか。



少女の顔からポロポロと零れる涙と汗を見ながら、私はふと思い立った。


「喉は乾いていないか? ニュージュよ」


「あ‥、う‥、うん」


「そうか、エリクシールで良ければいつでも出せるが、飲むか?」


「エ‥エリクシール!? そんな…、エリクシールなんて、実在するわけが!」


エリクシールという言葉に、ニュージュは大きく否定の声を上げた。
まあ無理もあるまい。その製法は何千年も前に失われていたはずなのだからな。


「在るのだよエリクシールは。知らなかったか? 古代兵器から開放される唯一の手段を」


少女はハッとなって右腕を見た。自分が古代兵器に体を蝕まれていたことを、今ようやく思い出したといった様子だった。


「古代兵器に心を喰われた者を救えるのはエリクシールだけ…」


「その通り、知っていたか」


呆然と紡がれた言葉を、私は肯定した。

ニュージュは私の目を見つめてきた。
今日、今までずっと少女と共にいたが、私は彼女と今初めて目を合わすことができた。


「…さて、エリクシールとはな、世界樹の葉と真竜の生き血を使い、複雑な工程を重ねることで精製することが可能ではあるのだが…」


「あ‥、わ、私‥」


少女の目が動揺にゆれていた。悪しき竜が自分を助けたという矛盾に気付いたのだろう。


「そんな面倒臭いことをしなくても、もっと簡単な製法を見つけたのだよ」


「私‥、今まで‥、わ、悪い竜だって‥、ずっと」


「ユグドラシルの樹液に、私の体液を加える事によってな…」


「その‥、ご、ごめ…、ご‥、ご」


私は近くに生えていたオオウツボカズラをむしり取った。


―ジョボボボボ-


「さあ、これがエリクシールだ。好きなだけ飲みなさい」



「ご‥、ご、獄炎よ! 煉獄より解き放たれし黒き焔で忌まわしき世界の全てを喰らい尽くせぇっ!!!!!!」


少女の手から放たれた巨大な炎が、オオウツボカズラごと私のエリクシールを蒸発させた。




・・・・・・・・


・・・・・・・・


・・・・・・・・



少女が落ち着いた頃には、太陽は随分と西に傾いていた。
夕焼けが始まるほどではないが、斜めから降る光線は昼よりも幾分穏やかである。


「…ふむ、何が汚いのか、私にはさっぱりと理解できぬな。私は生まれてこの方ユグドラシルの樹液しか食していないのだ。ユグドラシルの樹液から生まれたエリクシールが汚いわけがなかろう」

「…その事は、もういいです‥。命を救って貰ったわけですから‥」


そう言いながらも、少女は幾分不満気だった。女心というものは中々に難しい。


「さて、最後は私の家へと案内しようか」

「家? 世界樹様のところに帰るの?」

「いや、ユグドラシルの洞の中は仮宿に過ぎんよ。今、新居を作っているのだ」


私とニュージュはゲーコに別れを告げることにした。
別れ際に奴は「ゲコー!」と鳴いた。

「『またね!』…だそうだ」

手を降るゲーコに、ニュージュも大きくその手を振り返していた。


・・・・・・・


・・・・・・・


巣の門の前には、二人の巨人がまるで門番のように立っていた。

私ほどの大きさが在る二人の大男、巨人族を見るのは初めてなのだろう。

空の上からそれを認めたニュージュは「凄く大きな人間がいる!」と声を上げた。
あちらも直ぐにこちらを見つけたようだ。


「おぉーい竜さまぁ、待っとったべぇ」

「こ・・こ、こんにちわ、りゅ・りゅ・りゅう様。…お、おや? そ、そ、その、娘っ子は、だ、誰なんだな?」


ファゾルトとファフナーの巨体と大声に、目をくるくると回していた少女を紹介した。
2人は「まるで赤子のようじゃあ、めんこいのぉ、めんこいのぉ!」と、豪快に笑った。

「めんこいって何?」と、そっと私に聞いてきた少女に。「可愛らしいということだよ」と教えると。恥ずかしくなったのか、俯いて自分の顔を隠していた。


「ところでふたりとも、今日はどうした?」


待っていた、と言う以上は何か用事があるのだろう。
ファゾルトとファフナーは、「ああ、そうだ」といい、2人で何やら巨大な四角い箱を担いできた。


「新築祝いだべぇ」


「タ・タ、タンスなんだな。りゅ・りゅ、りゅう様の財宝入れるのに、ちょ、ちょうどいいと思うんだな」


「これは…、素晴らしい!! このタンスこそが私にとっては何よりの財宝だよ! ファゾルト、ファフナー! ありがとう! ありがとう!!」


2人の運んできたタンスは、私の肩程の高さはある非常に大きな物であった。

一体どれほど大きな木から切り出したのだろう。幾重にも広がる年輪は、有機的で複雑な模様を描いており、若いニスの光沢が明るい輝きと独特の匂いを放っていた。

見た目が美しいだけではなく、非常に機能的でもあった。
合計20程の大きさも様々な引き出しが取り付けられおり、財宝を種類別に分けて整理しておくのにピッタリである。引き手のところには精緻なブロンズ細工も施されてあった。

先代の竜の残した財宝には興味はなかったが、このタンスにしまうことを考えると、何だかワクワクとしてしまった。


「これっ!? 作ったの? 巨人さんが?」


ニュージュの驚きは、もはや今日何度目のものとなるのだろうか。
とは言え、確かにこの豪快な巨人達がこれほど精巧で美しいタンスを作ったなどと、一目では信じられぬだろう。
ニュージュはタンスを見上げながら、感嘆のため息をついていた。


「中を確認させてもらってもよいかな?」


二人の巨人はもちろんだと頷いた。私は一つ一つタンスを開けて、じっくりと中まで隅々と観察した。

ニュージュがその様子を見て、「何か探してるの?」と聞いたが。「何もないことを確かめているのだよ」と答えた。


ふむ、どうやら不純物(リザードマン)は混じっていはいないようだ。
私はもう一度、二人に礼を言った。


「そういやあ竜さまぁ、トーテムポールはどうなったぁ?」


「ああ、ここ数日少々立て込んでいてな。あまり進んでいないのだ。良ければ少し見てもらえないだろうか?」


「お、お、お安いご用なんだな。」


トーテムポールの土台となるファゾルトとファフナーの像、その最後の仕上げを2人の指導の元に進めていった。

そんな私達を、ニュージュの2つの青い目がじっと見つめていた。


「やってみたいのか? ニュージュ。」


ニュージュはしばし逡巡した後、遠慮がちにコクリと頷いた。


「ふむ…、余分な木なら削りだした残りの木がいくらでもあるのだが。」


「竜様ぁ、娘っ子の爪じゃあ木は彫れんべやぁ」


私の彫刻にはノミは使っていない。竜の爪はどんなノミよりも鋭く、道具を使う必要がないからだ。
巨人たちが腰にぶら下げている仕事道具も、それぞれがニュージュの体の大きさ程は有り、彼女がソレらを扱うのは不可能である。

どうしたものかと悩んでいると、ファフナーがこんなことをいいだした。


「ね、ね、粘土なら娘っ子でも、つつ、作れると思うんだな」


二人の巨人はその場で土を掘り始めた。10分ほど掘り続けただろうか。「これだ。これだ」と言って、両手で灰色の粘土質の土を掬いあげた。

そして、ニュージュの体よりも大きい粘土の塊を、ドンと彼女の目の前に置いた。


「これなら娘っ子の手でもなんでも形が作れるべな」


「す、す、好きな物を作るといいんだな」


粘土は初めて見たようで、ニュージュは人差し指で恐る恐るとソレを触ると、その弾力と柔らかさに驚いていた。

しかしその後、彼女は粘土を前に全く動かなくなってしまった。「どうした?」と尋ねると、彼女はポツリとこう言った。


「好きな物って、何を作ればいいの?」


…ふむ。太鼓のように気の赴くままに叩けというわけには行かぬか。


竜はこの世界で最も知識のある生き物ではある。が、それはあくまで「知っている」だけに過ぎない。
閃きや機転といった“知恵”の部分に関して言えば、経験の浅い私はまだまだひよっ子なのだ。
しかしそれでもよいのだと今は思っている。そういう部分は、経験豊富な友が補ってくれる物なのだから。


「さ、さ、最初は、さ、皿やコップが、かか、簡単でいいんだな。」


「んだんだ、ろくろはねえからあんまり綺麗にはならねえべが、それもそれで味があっていいもんだべえ。」


「コップ? コップを作れるの? …これで?」


ニュージュは灰色の粘土の塊を信じられないという顔で見つめていた。
ほう、只の粘土ではなく胎土であったか。


「その土はな。焼けば硬くなって、そなたの知るようなコップや皿に変わるのだよ。そうであるな? ファゾルト、ファフナー。」


二人の巨人は頷いた。
ニュージュは粘土から拳程の大きさの塊を2つ程ちぎり取ると。眉根を寄せて真剣に何かを作り始めた。
二人の巨人は、「もっと練った方がいい。」などと、基本的な所だけを指導する以外は、全てニュージュの好きにさせていた。


ニュージュが作っていたのは、二つのコップだった。
不格好で歪なコップではあったが、なるほど確かに味わいがあった。


「二つ、作るのだな」


そう聞いた私に、少女は少し頬を染めながら、答えた。


「その…、一つはハーピーさんに、お礼。服、貸して貰ったし」


「…なるほど、きっと彼女も喜ぶだろうさ」


ニュージュが作った二つのコップを、巨人達は形を崩さぬよう、板の上にそろりと載せて持ち帰った。
乾燥させた後、窯で焼いておいてくれるらしい。素焼きが終わればまた持ってくるから何色にしたいか決めておくようにと言い残すと、二人はいつものように豪快に笑いながら工房へと帰っていった。

ニュージュは大柄の二人の姿が見えなくなるまで見送った後、ポツリとこう言った。


「友達…、一杯いるんだね」


寂しそうに言うニュージュに、私は堂々と答えた。


「うむ、少なくとも、そなたと同じ数はいるな」


ニュージュは私の言葉の意味が解らなかったのだろう。こちらをキョトンとした瞳で見上げた。


「気づかなかったのか? 今日、そなたが出会った私の友人達は、既にそなたの友人でもあるということに」


「…あっ」


「そしてニュージュ。私もそなたのことを友達だと思っているよ」


ニュージュはポロポロと泣き始めた。本当に、よく泣く子である。

しゃくりあげながら下を向いて泣いていた。


長い一日が終わり、黄昏時が近づいていた。


夏とはいえ夜は冷える。人間には幾分寒いかもしれぬ。


私はトーテムポールの削りカスや、枝を集めて火をおこした。


煙の筋が紫色の空へと昇っていった。






「予言‥、間違いだったのかな…」


座ったまま、炎をじっと見つめていたニュージュがふと、そんなことを切り出した。


「予言…とは?」


私の問いに、ニュージュは答えるべきか、答えないべきか、しばらく悩んでいたようであったが、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。


「もう、10年も前に、刻詠みの巫女様が予言なされたの。世界を滅ぼそうとする竜が現れるって」


「ふむ‥、私はこの世界が滅んで欲しいなどとは、つゆほどにも思っていないよ」


「‥それは、うん…。私にもわかったの。‥だから、…予言は間違いだったのかなって‥。全部…、間違いだったらいいなって‥。その‥、予言の続きも」


「‥ふむ。それはどんな続きだ?」


ニュージュは再び長い沈黙の後に、絞りだすようにこういった。


「…世界が滅ぶ代わりに、世界樹様が滅ぶんだって。その竜と一緒に」


「なんだと!?」


私は大声で叫んでいた。少女の言葉は決して聞き逃がせるものではなかった。
ニュージュは今なんと言った? ユグドラシルが滅ぶだと?


「あっ、でも、違うの! 竜って決まったわけじゃなくて。予言にも意味の分からない所があったし」


「ニュージュ! 教えろ! どんな予言だ!」


私が滅ぼうが滅ぶまいが、そんな事はどうでもいい。


ユグドラシルが滅ぶ。


その言葉が、私の頭をぐわんぐわんと打ち鳴らした。

ニュージュは「予言とは必ず的中するわけではない」と、何度も前置きしながら、こう答えた。


「世界の外より訪れし災厄、殻を破り、星の全てを喰らわんとす。されど聖樹はその運命を裏返す。星の流す血は聖樹の血となり、星の死は聖樹の死と変わる。聖樹の亡骸を肥やしとし、人は悠久の繁栄を得るであろう」


その言葉は、私にとってどれほどの衝撃となっただろうか。

みじろぎすら出来ず、呼吸することも忘れていた。


「あっ、で、でも外の世界ってところがよく解らなかったの! 刻詠みの巫女様も、意味がわからないって言ってたらしくて! ちょうど予言の年が竜の寿命と重なったから。次に産まれて来る竜に違いないって、そういう話になっただけで…。それに、さっきも言った通り、予言も絶対じゃないから!」


ニュージュはまるで自分が責められているかのように、必死になって弁明していた。


「予言は絶対ではない」ニュージュはそう言ったが、私にはその予言が真実だと、理解できた。


「間違いない。ニュージュよ、それは…、その災厄とは…」


外の世界から来たもの、その言葉の意味が解るものなどいないだろう、別の世界の存在を知っている者を除いては…。


「…その災厄とは、私だ」



・・・・・・・・


・・・・・・・・



「異世界という物があってな…、私はそこから来たのだよ。」


異世界について多くを語る必要はない。蝉の生に語るべきこともない。


「世界の外より訪れし災厄とは、異世界から来た私の事を指すのであろう。


事実だけで十分なのだから。自分がその災厄だという事実だけで。


「血と肉を食する事ができなかった私は、ユグドラシルの樹液を毎日飲んでいたのだ。こんなにも肥え太る程にな」


私は両手を広げて、ぶくぶくと太った醜い自分の姿を、ニュージュに見せた。


「その予言、私が世界樹の樹液を吸い尽くす。そういうことなのであろうな」


ニュージュの顔に絶望が浮かんだ。信仰心の強いニュージュの事だ。世界樹が滅ぶという言葉に悲嘆したのであろう。


「ニュージュよ、案ずるな。原因が分かっているのならば、元を断てば良いだけのことだ」


「元を断つって‥」


ニュージュは再び絶望の目で私を見上げた。古代兵器ですら通用しなかった生き物を滅ぼす方法など想像もできないのだろう。血がエリクシールとなっている今の私の体は不死身に近いのだから。


「なあに、首でも飛ばせば流石に私も死ぬだろうさ。世界で最も硬い竜の鱗と言えども、竜の爪ならば貫ける」


「だ‥、だめっ!!!」


ニュージュが私にすがりついた。今この場で自分の首を飛ばしてしまおうかと思っていたが。ふむ。確かにそのような事。子供の前でするべきことではないな。


「では海にでも行こう…。離れてくれぬか? ニュージュよ」


ニュージュが首を左右に振る。


何故離してくれぬのだ? 私はそなたの大切なユグドラシルを滅ぼそうとしている生き物だぞ。
そなたと私の、大切なユグドラシルを。


「お待ちください我が君よ! その予言、本当に正しいのでしょうか?」


私を止める声が聞こえた。

沢の水のような、凛とした透き通った、涼しげな声であった。


巨人達が新築祝いにと持ってきたタンス。その引き出しの一つから声が聞こえた。


「我が君よ。その予言、誤読なさっている可能性はないでしょうか?」


僅かに開いたそのタンスの隙間から。真っ白な手が生えてきた。

空っぽであったことを確認していた筈のタンス。その中から這い出てきた者を見て、私は気がついた。



なるほど…、二重底であったか。



狭い隙間からヤモリのようにぬらりと這い出てきたのはリザードマンの巫女であった。


「ニュージュさん、で宜しいですか? 話は全て伺っていましたが、その予言の信憑性は?」


ニュージュは突然現れた第三者にしばらく目を丸くしていたが、恐る恐ると答えた。


「今代の…、刻詠みの巫女様は、予言は外した事がないとは…、私は聞いています」


「では予言の誤読でしょう。我が君がユグドラシル様を滅ぼすなどと、馬鹿馬鹿しいにも程があります」


リザードマンの巫女は、そう言って人間の巫女の予言を切り捨てた。


「リザードマンの巫女よ。誤読ではない事は私が一番わかっている。あの予言の文言。あれは私そのものだ」


「ならばわかったような気になっているだけです。我が君よ、幸せの塊のような我が君が災厄などであるはずがありません」


リザードマンの巫女は、今度は私の言葉をピシャリと切り捨てた。その自信は何処から湧いてくるのだろう。金色の強い光の目が、私の眼を確りと捉えた。


「私(わたくし)には、時を読むような力はありませんが、生き物の持つ生命の力は感じることができます。我が君がこの世界に現れて以来、ユグドラシル様の生命力が衰えた気配など一向にありません。それどころか、日に日に喜びに輝いているほどです」


そういえばリザードマンの巫女にも不思議な力が宿っているのだと、ファゾルトとファフナーから聞かされていたことを思い出した。


「そもそも、いくら我が君が立派で逞しいお姿をなされていても、ユグドラシル様の大きさと比べてみれば蝉と巨木程の違いが有ります。ユグドラシル様が枯れ果てるまで樹液を飲みつくすなど、不可能だとは思いませんか?」


言われて私はようやく気付いた。ユグドラシルが滅ぶということで、随分頭が動転していたようだ。

確かに蝉がどれだけ樹液を舐めようとも、木が枯れてしまうようなことはない。
樹液とは、太陽の光と大地からの水で毎日新しく生産されるものなのだから。

私は“蝉”という言葉を使ったリザードマンの巫女を見た。生命の力を見ることができるという彼女。あるいは魂の色まで見通しているのだろうか。

私の魂が蝉の物だと知ってなお、こうも私を信頼し、信仰しているのだろうか。


「…それにしても、我が君に体液をすすられるなど…。羨ましい。羨ましい。ああ、羨ましい」


うむ‥、やはりそんなことは無いかな。


「す、すみません! リザードマンの巫女様! 貴方は予言の本当の意味に! 災厄の正体に心当たりはおありですか?」


沈黙を続けていたニュージュが声を上げた。その目には先程までの絶望はない。
何かを見出したような、希望の光が宿っていた。


「いいえ、私にはとんと想像もつきませぬ。ですが…」


そこでリザードマンの巫女は、ちらりと視線を島の中央の方角へと向けた。


「予言の真意を知っている御方には、心当たりがあります」


「本当か! リザードマンの巫女よ!! 誰だ! それは誰なのだ!?」


私の問に、彼女はふーっと長い息を吐いた。爬虫類特有の縦に大きく割れた目が、ゆっくりと伏せられた。


「我が君は…、本当に女心の解らぬ方なのですね」


そう言った彼女の声は、どこか呆れているような。あるいは何かを諦めたような、複雑な物であった。
そして彼女は急に声音を優しい物に変えると、こう言った。


「“短い間でしょうがよろしくお願いしますね。”“枯れてもなお、誰かの為にあることができるというのは、私もとても素敵なことだと思います。”“もしも、もう会うことがなくなったとしても、私のことを忘れないでいただけますか?”」


「それ‥は…」


誰の言葉かなどと尋ねる必要はない。彼女の言葉だ。

彼女の言葉を、私はいつも大切に、胸の中に仕舞ってきたのだから。


「ユグドラシル様はきっととっくの昔に気付いていらっしゃったのでしょう。あるいは、最初から宿命づけられていたのかもしれませんが…」



自分が愚かだと悟った。

ユグドラシルは私に何度もヒントを与えていたはずなのだ。

それを伝えようとしていたはずなのだ。

自分の死を、自分の運命を。


夜の帳は既に完全に落ちていた。バチリと、木の枝が焚き火の炎の中で爆ぜた。


「行きましょう我が君よ、ユグドラシル様の元へ。ユグドラシル様は全てを知っていらっしゃる筈です」


「ああ! いこう、彼女の元へ」


我ら三人は、ユグドラシルの元へと向かった。少しでも早く向かう為に、ニュージュとリザードマンを私の背に乗せて。


空には既に星が広がっていた。夏の大三角形の下を、私の翼が舞った。


そこでふと、些細な疑問が沸いた。


「そう言えばリザードマンの巫女よ。なぜそなたがユグドラシルの言葉を知っていたのだ?」


「私、潜むのは得意ですの」



…なるほど、よくわかった。

地上に振り落とそうかと考えたが。ニュージュも背中にいた事を思いだし、やめた。






私の巣からユグドラシルのいる場所まではそれほど離れてはいない。


我が背から降り立ったニュージュを見て。「良かった。二人共仲良くなられたのですね。本当に良かった」と、ユグドラシルは我が事のように喜んでいた。


貴方という方は、どこまで他の生き物に優しいのだろうか。


「ユグドラシルよ!」

「はい、何でしょう? 同居人さん」


なぜ、自分が滅ぶと解っていて、そんなに明るい声が出せるのだろう。


「ニュージュからな、予言を聞いたのだ。貴方に纏わる予言を‥」


思い当たる事があるのだろう、ユグドラシルに宿る空気がガラリと変わった。

私は刻詠みの巫女が残したという予言を、一語一句、そのまま諳んじた。


「『世界の外より訪れし災厄、殻を破り、星の全てを喰らわんとす。されど聖樹はその運命を裏返す。星の流す血は聖樹の血となり、星の死は聖樹の死と変わる。聖樹の亡骸を肥やしとし、人は悠久の繁栄を得るであろう』…ユグドラシルよ。この予言の意味が、解るか?」


それはどれほど長い沈黙だったろうか。


長い長い沈黙の中、気の早い鈴虫の鳴き声が聞こえる他は、息遣いさえも聞こえなかった。


凍ったような時間の中、ユグドラシルは小さく「はい」と答えた。


「では、災厄とは‥、何だ?」


二度目の長い沈黙のあと、


ユグドラシルは自分を滅ぼすその者の名を、私に告げた。



「星が、落ちてくるのです。赤い星が」


夜空を見上げると、夏の大三角形の中央にあったあの赤い星が、昨日よりも僅かに大きくなっていた。










[33445] 第七話 蝉の声は世界に響く
Name: あぶさん◆5d9fd2e7 ID:de479454
Date: 2014/07/11 00:35




「滅ぶのか、ユグドラシルよ」


「はい」


「星が、落ちてくるのか」


「はい」


「あなたがそれを、受け止めるのか」


「はい」


「この星の全ての生き物の代わりに、あなただけが死んでしまうのか?」


「はい」


「いつ、の話だ」


「七日後に」


「どうにか、ならぬのか?」


「ごめんなさい」


「何故だ! 何故貴方なのだ! 何故貴方が犠牲にならねばならぬ!」


「だって私は、その為にこの場所に、この世界に生まれてきたのですから」





第7章  蝉の声は世界に響く



みなさん、見えていますか? 彼が輝きを増し、きらめく様が
星たちの光に囲まれて、登ってゆく姿が見えていますか? (ワーグナー)






ガリッ ガリッ という音とともに、像は少しづつ形を成す。
もはやこの爪の扱いにも慣れたものだ。

木の性質も大分わかってきた。
どこが堅くどこが柔らかいか。どこに注意をせねばならないのか。
そういったコツというものを段々と掴んできた。


あの日からもう3日も経った。


いくら不器用な私とて、毎日毎日トーテムポールを削り続けていれば、それなりに慣れるものである。

順調だ。全てが順調に進んでいる。


一つ問題があるとすれば、モデルである彼女ぐらいか。


「どうした? 笑ってくれぬのか? ハーピーよ、私はそなたの笑っている姿を彫りたいのだ」


無理やり笑おうとしたハーピーは、苦しそうに頬を歪めるばかりで、あの林檎のような愛らしい微笑みは浮かべてくれなかった。


仕方あるまい、ならば記憶の中から笑顔を呼び出すしかないだろう。

私は最高のトーテムポールを作りたいのだから。



「世界樹様はとても悲しんでいらっしゃいます」



制作に励む私の背中に、冷たく、硬い声がぶつけられた。


「おお、ニュージュか。ちょうど良かった。今日にでもハーピーの像が完成するのでな。次はそなたを彫るつもりだったのだ。明日、私のところへ来てくれぬか?」


「世界樹様はとても悲しんでいらっしゃると言っているのです!」


「そうか‥。ならば悲しむことなど何もないと伝えておいてくれ」


ギリッっと、石と石をこすりあわせたような音がした。
愛らしい少女の口から漏れたものとは思えない、歯ぎしりの音だった。



「自分で言えばいいでしょう!! 毎日毎日こんなものを作って!! なぜ! …なぜ、世界樹様に会ってくれないのですか!」


「私は意思の弱い男でな。最後の日まで会わぬと決めたのだ」


あの日以来ユグドラシルには会っていない。

夏の太陽が降り注ぎ、喉がカラカラと鳴いた。

私は水飲み場から、水をぐいと飲んだ。

ユグドラシルは私の背中にある岩山の方角にある。

巨大な岩山は世界樹から私の体をスッポリと覆い隠しているだろう。

ここからではユグドラシルは私の姿を見ることはできないし、私からも彼女の姿を見ることはできない。


「最後の日には、会いに行ってくれるのですか?」


「ああ、約束する」


「…信じても、良いのですか?」


「私は約束は必ず守る」


私はニュージュの目を見て、堂々とそう答えた。

ニュージュはもう一度歯ぎしりした後、ユグドラシルのいる方角へと消えていった。


振り返れば、笑ってくれと頼んでおいた筈のハーピーが声を上げずに泣いていた。


モデルを頼んでおいた筈のニュージュは、次の日、私の元には来てくれなかった。






赤い星の事をユグドラシルから聞いてからはや5日目。


赤い星は竜以外の生き物でも視認できる程に大きくなっていた。

もはや残された時間は少ない。


私の目の前には、ファゾルト、ファフナー、ゲーコ、ラミア、ハーピー、ニュージュの、首だけが並んでいた。


「うむ。大分完成に近づいてきたな。」


縦に積み重なっている皆の頭は笑顔だった。
最近は誰もその笑顔を私には見せてはくれなくなってしまったが。


私の友は、みんな綺麗に笑うのだ。
だから私は大好きな、皆の笑顔を彫ったのだ。


「やはり、彼女も彫らねばなるまいなあ…」


苦手ではあるが彼女も私の友達である。
私は巣のある方角に背を向けて声を上げた。


「ああ、喉が渇いたな。水でも飲むか」


そう言ってから三分後。私は巣穴の前の自分の水飲み場へと向かった。
水飲み場は私の顔ほどの大きさと深さはある。

ゲーコが掘り当ててくれた地下水へと直につながる水飲み場は、大量の水がこんこんと湧いており、炭酸水のように泡立っているせいで底は見えない。

新鮮な天然水がいつでも飲める。素晴らしい水飲み場である。
ザボンと顔でも突っ込んで飲めば、湧きたての地下水の冷たさがきっと喉を潤してくれるであろう。


ところで、リザードマンという種族は息は長いものの、水中で呼吸をすることはできない。

せいぜい水中に潜んでいたとて5分が限界というところか。


暫く待っていると、ぷかりと白い頭が浮かんできた。


「ふむ‥、やはり近くにいたのか。リザードマンの巫女よ」


「ごきげん麗しゅうございます。我が君よ」



・・・・・・・・


・・・・・・・・


私はリザードマンの巫女の顔を彫刻していた。


彼女は手頃な岩に腰掛け、涼やかな笑みを浮かべていた。
モデルが協力的であると仕事も捗る。

ガリガリ、ガリガリと、みるみると形が作られていった。


「…そなたはちゃんと笑ってくれるのだな。」


「我が君が私に笑ってくれとおっしゃってくださる。これ以上の喜びがこの世にあるでしょうか?」


「‥そうか、そなたにとっては私は信仰の対象であったのだな。」


私はニュージュが目を覚ました時の、あの狂信ぶりを思い出した。
命じられれば何でも従う。死ねと言われれば喜んで死ぬ。

信仰するものとされるもの、その関係とは一体どういうものなのだろうか。

友人。とは呼べぬのだろうか?

私は無言でトーテムポールを掘り続けた。


「我が君よ。貴方様が何を考えていらっしゃるのか、卑小な私には計りかねますし、それについてあれこれという権利もございません…」


黙ってモデルをしていた彼女が、不意に口を開いた。


「私は我が君を信じております。貴方様が成すことは全て私にとって正しいのです」


「そうか…」


彼女の言葉の真意はよくわからない。
しかし、盲信や狂信とは違う芯の強さが、そこにはあるような気がした。


「…ですが一つだけ、女として我儘を言わせていただければ…」


微笑みを浮かべたままじっと動かなかったリザードマンの巫女は、突然平伏し、額をべたりと地に押しつけた。


「どうか、どうか、命を投げ出すような事だけはおやめ下さい!」



「どうか、どうか。私は貴方をお慕いしております故。どうか! どうか!」


リザードマンの巫女はそれだけ言うと、再び岩の上に座り微笑みを浮かべた。
額についた土がパラパラと落ちていた。


私は彼女の願いに、無言を貫くことしかできなかった。


仕事だけは、捗った。








6日目。トーテムポールは完成間近である。
その頂上に、最後に彫るべきものは決まっている。



大樹ユグドラシル



私は彼女の姿をトーテムポールの天辺に彫る。

ぐーっと伸びやかに、空へとそそり立つ美しい姿を思い浮かべながら。私は彼女を彫った。


私の憧れと想いと尊敬を、全てぶつけた最後の彫刻は、6日目の夜に完成した。


…しかし、完成はしたものの何かが物足りない。


ふと、遊び心が沸いた。

私はユグドラシルの幹を僅かに削ると、そこに小さな小さな出っ張りを彫った。

足りなかったのは遊び心だったようだ。


大樹に蝉のようにしがみつく竜の姿を彫ることで、トーテムポールは完成した。








七日目の朝。私は夜が開ける前に起きた。


赤い星は月のように大きな輪を纏い、不吉に輝いていた。


最後の日だ。


まずは岩山へと向かった。

ファゾルトとファフナーにどうにかしてくれと頼まれていたあの黒い岩山。

一週間前は僅かに傷をつけることしか叶わなかった、あの岩山。


それに私は、狙いを定めた。

大きく息を吸い込んで、魔力と空気を腹の中で練った。

生まれた音をその中で反響させて何百倍にも大きくする。

それが私の、本来の咆哮。





「ミーーーーーーーーーン!!!!!!!」




私の咆哮は岩山を削り、吹き飛ばした。


ぶくぶくと太っていた私の体は、今はすっかりと元通りになっていた。


当然である。この7日間、何も食べてこなかったのだから。

樹液を寄越せと暴れる胃袋に、たまに水をやるだけで過ごしてきたのだから。

決して樹液の誘惑に負けぬよう。一度も彼女に会わなかったのだから。


「すごい…」


声の方を振り向けばニュージュがいた。

よかった。喧嘩別れのようになってしまっていたから。最後にもう一度会いたかったのだ。


「ニュージュよ、頼みがある」


私は友に、願いを言う。


「ユグドラシルの事を頼む。私などの事でも、彼女はきっと心を痛めてしまうだろうから」


「頼むって、‥まさか…、竜さん…! あなた!」


「ニュージュよ。達者でな」


その言葉を最後に飛び立とうとしたが、待ってくれと呼び止められた。


「貴方は…、生まれたばかりなのでしょう!? 生まれてまだ、3週間しか経っていないのでしょう!? なんで、なんで!?」


ニュージュの言葉は私には意味がわからなかった。




だって




「三週間も生きれば十分じゃないか」









最後に向かうべき場所は決まっている。


私は七日ぶりにそこに降り立った。


ユグドラシルの幹に手を触れると、感情と言葉の奔流が私の中を駆け巡った。


「ああっ!! ああっ!!! 本当に! 本当に会いに来てくれたのですね!! 同居人さん!」


もはや共に住んでいない私を、彼女はなお同居人と呼んだ。


「別れを言いに来たのだよ。ユグドラシルよ。」


「ああっ! ああっ! 同居人さん! ありがとうございます! 会いに来てくれて! 最後に会いに来てくれてっ!! 別れを言いに来てくれてっ! ありがとうございます! 本当に、ありがとうございます!!!」


会いに来なかった私を責めるどころか、ユグドラシルはなんども礼を言ってきた。


「ああっ! そんなに痩せてしまって! 最後になりますが、好きなだけ飲んで下さい! お腹いっぱい! 好きなだけ!」


樹液の甘い匂いに私の空きっ腹が引き寄せられてしまいそうになったが、必死で耐えた。


「樹液はいらぬ」と伝えると、まるで酔いが冷めたかのようにユグドラシルは急におとなしくなり、震えた声で「そうですか」と答えた。



「約束を、果たしに来たのだよ」


「約束‥?」


「約束したであろう? 完成したら必ず見せると」


私はトーテムポールをザクリとユグドラシルの幹の直ぐ側に突き刺した。


「ギリギリになってしまったがやっつけ仕事などではないぞ。どうだ? 中々のものだろう? 私が作ったトーテムポールだよ。教えは受けたが全部私が作ったものだぞ」


ユグドラシルは、暫く無言であった。
目を持たぬ彼女だが、私が手に持つそれを一生懸命に見つめている事が感覚で分かった。


「その‥、反対側も見せてもらってもいいですか? しっかりと記憶に焼き付けておきたいのです」


私は手に持ったトーテムポールを、ゆっくりと回していく。


トーテムポールが一周して、もう一周して、三周目を回りきった所で、ユグドラシルは「もう大丈夫です」と言って、私を止めた。


「同居人さん…、貴方には本当に‥、一体なんとお礼を言えばよいのでしょうか」


ユグドラシルが纏う空気は、いつものような穏やかな、優しいものへと変わっていた。


「貴方と出会って三週間。本当に、本当に、楽しかったのですよ」


ユグドラシルの言葉には、言葉以上のものが込められてるようなきがした。


「私、貴方に出会えて本当によかった」


「私もだよ。ユグドラシル」




「だから同居人さん」
「だからユグドラシル」



私とユグドラシルの声が重なった。




「貴方は絶対に私が守ります」
「貴方は絶対に私が守るよ」




私の口から飛び出た自分とほとんど同じ文言に、ユグドラシルは驚いていた。


翼をはためかせた。


「待って! 同居人さ‥」


ユグドラシルとは幹や根など、その一部に触れていなければ会話はできぬ。

故に空に浮かんだ私には、もはや彼女の声は届かなかった。



翼のないユグドラシルでは、私に追い付くことは叶わない。

さよならを言っていないことに気付いたが。まあ、仕方あるまい。




竜の翼と魔力で空へとぐんぐんと昇る。


夜は既に明け始めていたが、いくつかの一等星がきらめいていた。

一等星達が作る三角形の中央。


不吉に輝く赤い星に向かって、私はまっすぐに飛んでいった。











熱圏


大気圏の一番外側の層であり、その高度は地上800kmにも達する。

もはや大気と呼んでいいのかすら解らぬ程、空気は薄い。

遮る者のない太陽の熱が直接身を焦がしてくる為、そこにいれば高所にもかかわらず、火のように体が燃えあがる。しかし空気が薄過ぎるせいで気温そのものは低い。そんな不思議な場所だ。


地上最強の生き物である私とて、風の魔法で周りを蝋のように固めなければ、決して辿りつけぬ場所である。


私は熱圏の中程に止まった。


これ以上行けば引力から解き放たれ、星から宇宙へと放り出されてしまうだろう。


遥か昔、古代兵器が生まれた時代には、星の船で熱圏の更に外まで飛び出した者達もいたそうだが、私の限界はここまでである。


私には、星の殻は破れない。


眼下に広がるのは球状の海と土。

そして私の真下には、ユグドラシルがいた。

樹高20000メートルのユグドラシルが、あんなにも遠く、小さく見えた。

真上から見て初めて気が付いたのだが、ユグドラシルの姿はまるでワイングラスのような形をしていた。
下から見上げていた時は球状だと思っていた。実はユグドラシルの枝葉が作る球体は、上部にポッカリと穴が空いていたのだ。


聖杯


という言葉が頭に浮かんだ。

世界の何処かに隠されていると言われていた聖なる器

それを手にした者は、不死身の肉体と永遠の繁栄を約束されると言われている。

数多の冒険者や、諸国の王達が世界中を探して、求めて、それでも見つからなかった神器。それが聖杯である。


なるほど、これでは誰も見つけられぬわけだ。


いつも美しいユグドラシルではあるが、今日は格段であった。


ユグドラシルが徐々に輝き始める。


光が、幹から上り、枝へと広がり、葉を覆っていく。


眼下に広がる巨大な青い星。その星の力が、ユグドラシルへと集まっていくのが私にもわかった。


それは青き星の意思

全ての生き物が流すべき血を、ユグドラシルが引き受けろというのだ。

ユグドラシルが命と引き換えに、赤き星を受け止めろと言うのだ。



なんたる欺瞞



全ての生き物を生かすために、全ての生き物の母を殺すというのか!

彼女の骸と灰を苗床に、何もなかったように別の種を播けとでも言うのか!

星よ! 青い星よ! これを欺瞞と言わずして何と言う!

緑の優しい彼女に、赤い死の星と添い遂げよと言うのか!




空を見上げる。


赤い星が、大きい。


みるみる大きくなってくる。


大気が震えた。

いや、震えたのは私であった。


宇宙空間(そとのせかい)から、禍々しき雲をまき散らしながら。

楕円形の赤い星が、青い星へと向かってくる。



大きさで言えば直径10キロメートル程はあるだろうか。




私は古き竜の知識に問いかける。アレに勝てるかと?


なあに、たかが10キロじゃないか。

たかが山一つ分ではないか。

山一つならおまえの竜の咆哮が打ち砕いてくれるさ。


…とは、言ってくれなかった。


竜の知識はこう言った。


アレは危険だ。アレはよくない。


無限の暴力の塊だ。計り知れぬ力をその内外に宿している。


アレが地に落ちた時、膨大な位置エネルギーと運動エネルギーによって生まれた衝撃は巨大な爆発を生み出し、竜の住む島など一瞬で蒸発させてしまうだろう。

大気に塵と毒をまき散らし、この星全てを10年続く極寒の冬へと変えるだろう。

その10年で、この星の全ての生き物が死に絶えてしまうだろう。

植物も、動物も。もちろんお前も。


竜の知識はそう言ったのだ。




何たる理不尽




たかだか外の世界からやってきたというだけで、その体に無限のエネルギーを宿してしまうのか!

お前の何万倍も大きいこの青い星を、真っ黒な死の星に変えてしまおうと言うのか!

蹂躙し、全てを飲み込もうとでも言うのか! 



あの星の前では、竜など只の小石に過ぎぬだろう。

最後の竜が滅ぶべき時が来たのだと、理解した。





-大丈夫です-


と、誰かに言われた気がした。




下を向くと、彼女が緑色の光に満ち、輝いていた。



聖杯は満たされていた。


ユグドラシルの枝と葉に溢れる生の力。


星から集められた膨大な生命力と魔力が、そこにあった。

赤い星の死の力と、真っ向から立ち向かう緑色の生の力。


-だって私は、その為にこの場所に、この世界に生まれてきたのですから-


彼女の言葉を思い出す。


青い星にとっては、全て予定通りだったのだろう。


ユグドラシルをそこに産み落としたことも、その場所に忌まわしき赤い星が落ちてくることも。


杯の形の葉と枝は、隕石とぶつかり合った時の衝撃を、全て彼女が受け止めるように“設計”されていたに違いない。

長く伸びた幹は、落ちてくる隕石の緩衝材として“使用”するに違いない。


最初から全てを計算した上で、星はユグドラシルを作ったのであろう。

そして自分の役割を果たす為に、ユグドラシルは今まで、ゆっくりと成長してきたのであろう。

竜の記憶など到底及ばぬ、遥か昔の時代から。




なんたる宿命




緑の貴方よ。貴方は全てこの日のために、この星全ての生き物の為に、これまで生きてきたとでも言うのか。

何百万年、あるは何千万年という長い時を。今、この時の為に生きてきたというのか。

このような宿命に従った上で、あんなにも優しく生きてこれたというのか。


恐ろしくはないのか! あの凶暴な赤い星が!

怖くはないのか! 死の暗闇が!




-逃げて下さい-



そう、言われた気がした。




空には凶大な赤い死の力。

地には遠大な緑の生の力。




私は気がついた。

自分がどれだけ場違いな存在だったかということに。


アレに対抗できるのは、ユグドラシルだけだと。

卑小な竜の身などでは、アレに抗うことなど出来ぬのだと。



赤い星が、ついに大気圏を突き破るのが見えた。

星の表面を覆う厚い、赤い氷が、太陽の熱と空気の摩擦で解けて、赤い湯気があちこちから噴出し始める。


その姿は、まるで巨大な火の玉であった。


空気を切り裂く轟音が、聞こえないのが不気味であった。


それも当たり前である。赤い星は音よりも早く動いているのだから。


外の宇宙(せかい)よりやってきた、存在の次元が違う相手に、私の体はガクガクと震えた。


血の気とともに、頭も冷えた。


私の咆哮などでは、あの赤い星を砕くことなどできない。


全力の咆哮をぶつけても、氷の表面を僅かに削り取るぐらいが関の山であろう。


赤い星は私の羽ばたきよりもはるかに早い速度で、私へとまっすぐに向かってきた。

もはや後十数秒のうちに、私の身体は赤い星に飲み込まれるであろう。




-逃げて下さい!-




聞こえぬ筈の彼女の声が、再び聞こえた気がした。
そうだ。私が無駄死にした所で、一体何になるというのだ。
彼女だって、私が生き残ってくれたほうが嬉しいはずだ。

それが例え幻聴であったとしても、逃げるための大義名分を私は得た。




-逃げろ!-




竜の肉体より生まれた生き物の本能が、私にそう警告した。
あれは駄目だ。あれは無理だ。
あれは確実な死だ。死にたくない!
今なら未だ間に合う。全力で飛んで。あの星の射線から逃れよ!
ユグドラシルなどどうでもいい。私は生きたい! と、私の体が叫んだ。




-逃げなさい!-




竜の知識より産まれた賢者の知恵が、私にそう警告した。
お前では無理だ。あれには叶わぬ。
お前が最強なのはこの星の中だけだ。
星の外から来た最強には絶対に叶わぬ。
心配しなくともユグドラシルが、星もお前も救ってくれる。そう、私の脳が囁いた。




逃げるべきだ。逃げても良いのだ。
私が星に背を向け、全力で逃げ出そうと思ったその時。







-鳴こうよ-






ただ一つ。小さな蝉の魂だけは、そう言った。

愛しい彼女の為に、鳴きたいと言った。

求愛の歌を、彼女の為に歌いたいと言った。

竜の肉体と知識に、小さく愚かな蝉の魂だけが反発していた。

力いっぱい、歌いたい。命いっぱい、歌いたい。

そう、言ったのだ。


そうだ、私は蝉なのだ。


蝉は、歌えば良いだけだ。

愛しい彼女に向けて、歌えばいいだけだ。

そうだ。大きな声で、彼女に聞いてもらいたい。

私の歌を、聞いてもらいたい。


だから




-鳴こうよ-




ああ、鳴こう




ミーンミンミンミン ミーンミンミンミン


聞こえているか、ユグドラシル。


ミーンミンミンミン ミーンミンミンミン


届いているか、ユグドラシル。


ミーンミンミンミン ミーンミンミンミン


竜の体に蝉の心。


ミーンミンミンミン ミーンミンミンミン


こんなちぐはぐな我が身ではあるが、


ミーンミンミンミン ミーンミンミンミン


私は貴方を


ミーンミンミンミン ミーンミンミンミン


愛しているのだ。





砕けているのは私なのか、星なのか。


ふと我に返れば、私は巨大な星に無様にしがみつき。ただただ、咆哮を繰り返していた。

大気との摩擦の熱というのはすさまじい。

エリクシールである筈の血が、私の腰の辺りからボコボコと沸騰して水蒸気となり昇っていった。

赤い星とぶつかり合った時に、私の下半身はどこかへと消えていた。


ユグドラシルの元まで、あとどれだけの距離が残されているのだろう。

それまでにこの星を、一体どれだけ削り取れるというのだろうか。

彼女が滅びぬ大きさまで、この星を小さくすることができるだろうか。

残された私の力で、どれだけこの星を砕くことができると言うのだろうか


いけない、いけない。歌を止めている暇など無い。

彼女のために、歌わなければ。



彼女にいきて貰いたいのだから
彼女にきいて貰いたいのだから




ミーンミンミンミン ミーンミンミンミン

ミーンミンミンミン ミーンミンミンミン




求愛と咆哮、咆哮と求愛

もはや何のための鳴き声なのか、私にも解らなかった。

摩擦で沸騰した血液が、私の脳まで焼いてしまったのだろう。

ただひとつ、今鳴いているのはユグドラシルのためだということしか、もはや私には解らなかった。

竜の知識も血も肉も、どんどんと失われているが、そんな事はどうでもいい。




-もっと鳴こうよ-




ああ、鳴こう。私の魂よ。


愛していると、歌おう。

私はようやく、気付いたのだから。

貴方を愛していると、歌いたいのだ。




聞こえているか、ユグドラシル。

届いているか、ユグドラシル。


聞こえぬのなら、もっと大きな声で私は歌おう。

届かぬのなら、もっと強い声で私は歌おう。


ああ、嬉しい。あなたの為に歌えることが。

貴方のためだけに、求愛の歌を歌えることが。


もはや貴方がどこにいるのかもわからぬから。

貴方がどこにいてもいいように。




世界に響け、我が喜びと求愛の歌よ。



ミーンミンミンミン ミーンミンミンミン

ミーンミンミンミン ミーンミンミンミン

ミーンミンミンミン ミーンミンミンミン

ミーンミンミンミン ミーンミンミンミン

ミーンミンミンミン ミーンミンミンミン

ミーンミンミンミン ミーンミンミンミン

ミーンミンミンミン ミーンミンミンミン

ミーンミンミンミン ミーンミンミンミン

ミーンミンミンミン ミーンミンミンミン

ミーンミンミンミン ミーンミンミンミン



鳴いて、鳴いて、鳴いて、鳴いて、鳴いて、鳴いて、鳴いて、鳴いて、鳴いて、鳴いて、鳴いて、鳴いて、鳴いて、鳴いて、……







気がつけば、私は地に横たわっていた。



わんわんという、だれかの泣き声が、わたしの遠いみみを打った。

眼球だけをうごかすと、はーぴーという種族が、声を上げて泣いているのだとわかった。
よくはわからないが、よかったなあ。とおもった。



誰かが小さくて柔らかいものを、わたしの額におしつけた。

赤子だった。側にいるのは、ははであろう。ははにそっくりな赤子だった。
やはりよくはわからなかったが、よかったなあ。とおもった。


ふしぎな服を来たリザードマンが、わたしのくびをしめていた。

はて? 彼女がわたしをころすのだろうか。なんだか逆なきがするが、よくわからない。
ただ、彼女がくびをしめていたりゆうはわかった。わたしのくびから下はもうなかった。


かえるが泣いていた。私もともになかねばならぬとおもったが、からだがないから、なけなかった。


巨人が泣いていた。泣き声もごうかいだなあ、とおもった。なにとくらべてかはわからなかった。


「巨‥さん! …を! …のところに!! 早く!!!」


やまねこのような、するどく、たかい声が、とぎれとぎれにきこえてきた。

わたしは、やまねこの少女にすがりつかれたまま、大きな手で、どこかへとはこばれていった。



どこまでわたしをはこぶつもりなのだろうか。

どこまでわたしはいきねばならぬのだろうか。

そろそろ、いかせてほしいのだが。


おおきなきのそばに、わたしはおろされた。


きからなきごえがきこえた。


そのこえに、きからつたわるあたたかさに、わたしのたましいはよろこびにふるえた


ああ、ありがとう! ありがとう! だれかはわからぬが、ここにつれてきてくれたひと!


そうだ! わたしはあなたにあいたかったのだ。

わかる! わかるのだ! あなたのことだけは、いまのわたしにもわかるのだ。


ユグドラシル


ユグドラシルのなきごえがきこえる

よかった。いきていたのだ。ユグドラシルよ。


きいてくれたか、わたしのうたを

とどいていたのか、わたしのうたは


わたしはあなたをあいしているのだ。

ユグドラシルからなにかのことばと、たくさんのかなしみがつたわってきた。


ちがうよ。ユグドラシル。わたしはあなたをかなしませたかったんじゃない。


きいてほしかったんだ。あなたに。



あなたのためだけに。わたしのうたを



なかないで。わたしがかわりになくから



あなたのために



あなたのために、もういちど



もういちどだけ、かならずなくから。



おおきなこえで



あなたへとなくから



































[33445] 幕間
Name: あぶさん◆5d9fd2e7 ID:de479454
Date: 2014/07/11 00:37


生き生き生き生きて生の始めに暗く
死に死に死に死にて死の終わりに冥し    (空海)





変わった蝉がいた。


その蝉は何よりも変わっていたが、誰もそれに気付かなかった。


この世界に何億匹といる蝉の、たった一匹の不審な挙動など、誰の興味も惹かなかった。


変わっていたのは、鳴かないこと。


蝉のくせに鳴かなかった。

雄のくせに鳴かなかった。


求愛の歌を、生涯で一度も歌わなかった。


蝉はただ、飛び回っていた。


木から木へ、いくつも渡り歩きながら、樹液を僅かに舐めとると、すぐにまた別の木へと移るのだ。


まるで自分にとっての、たった一本を探しているかのように


その蝉は、短い生を小さな羽ばたきで、ただただ一本の木を探すことに費やしていたのだろうか。


この広い世界にあるたった一本を。


そもそも、そんな一本が、この世界にあるものだろうか。



蝉の考えることなど、誰にもわからない。


蝉が考える生き物かどうかも分からない。



成虫としての短い寿命が終わると、蝉はアスファルトの上に落ちた。


虫カゴを持った子供が、拾い上げて、捨てた。


黒い蟻が群れをなして運んでいった。






[33445] エピローグ 蝉だって転生すれば竜になる
Name: あぶさん◆5d9fd2e7 ID:de479454
Date: 2014/07/11 00:39


私は暗闇の中にいた。


永遠とも思える、闇の中にいた。


土の中に似た、暗闇だ。


ここが何処かも、自分が何者であるのかも、わからなかった。


やり残したことがあるような、とても大切な事を置き去りにしてしまったような気もするが、


やはりよくは分からなかった。


人は死を闇、生を光と捉えるというが、ならばこの場所は死なのであろう。


感触も匂いも、重力も地平線もない。只の黒であった。




しかし、温度だけはそこにあった。





死の暗闇の中に、何故かぬくもりだけがあったのだ。


終ることがないと思っていた永遠の闇に、閉じきったままの暗闇の世界に


暖かい何かが、伝わってくるのだ。



遠くの近くから、声が聞こえる。







「‥ねぇねぇ、竜様はいつ産まれるの?」


「もうすぐ、もうすぐ産まれるはずですよ」


「触ってもいい?」


「だだ、だめなんだな。た、た、卵が割れたら大変なんだな」


「こら、ミンミ! 大人しくしてなさい」


「むぅ…、中に竜さんいるんでしょ? 触ったら起きるかもしれないよ?」


「だぁめじゃあ。竜様が自分で起きようと思った時まで、起こしちゃだめだあ」


「寝ぼすけさんだねえ。ずーっと寝てるんでしょ」


「そうよ。もう七年。ミンミちゃんが生まれた日から、ずーっと眠っているの」


「そんなに眠るとあたまがぼーってならないのかなあ。なっちゃうよねえ? ねぇ、ハーピーお姉ちゃん」


「ミンミ! 大人しくしていなさいと言っているでしょう」


「……巫女様。竜さんは私達の事を覚えていてくださるのでしょうか」


「それは…、難しいと思いますわ。竜の知識と記憶は肉体に宿ります。あれほどの血と肉を失ってしまえば‥、もう」


「…竜さんの卵、私と同じぐらいの大きさになっちゃったね」


「卵が残っただけでも奇跡ですもの。あの時、ユグドラシル様の樹液が死んだ我が君の頭部に流れ込まければ、卵を残すことなど決して叶わなかったでしょう」


「あんなに大きくて、雲の上まで連れて行ってくれたのに…。あの事も全部…、忘れちゃったのかな…」


「忘れているならもう一度教えればいいのです! 知らないことは新しく知ってもらえばいいのです!」


「ニュージュちゃん…」


「だって私は、竜さんにたくさんの事を教えてもらったのですから。今度は私が教えてあげる番なのです!」


「その通りですわ。まだ物を知らぬ我が君に色々と教えて差し上げる、これ以上の喜びがこの世にあるでしょうか」


「ゲーコゲコゲコゲコ!」


「んだんだぁ。音楽も、木の選び方も削り方も、もう一度ちゃあんと知ってもらうべなぁ」


「トト、トーテムポールの作り方を、お、お、教えるんだな」


「ねえ、ハーピーお姉ちゃん。あのおっきなトーテムポールは竜様が作ったんでしょ?」


「そうよ。皆の大好きなトーテムポールを作ったのよ。ミンミちゃんはトーテムポール好き?」


「うん、大好き! だってみんな笑っているもの」


「…ミンミ、貴方の名前はね。竜様の鳴き声から頂いたのよ」


「えー、竜様ミンミって鳴くの? お母さんうそつきだよー。竜はもっと怖い声で鳴くんだよ。ねえ? ニュージュお姉ちゃん」


「いいえ、このトーテムポールを作った竜さんだけは、ミンミンと鳴いていたのです」


「ホント? じゃあ、この竜様もミンミンって鳴くの?」


「それは‥、わかりません」


「ニュージュお姉ちゃんでもわからないんだ」


「‥でも、そう鳴いてくれたらいいなと、いつも思っています」


「うん。また聞きたいな。竜さんの歌」


「ゲーコゲコゲコゲコ…」




「だったらさ、ミンミンって鳴いたら、寝ぼすけな竜様もミンミンって返してくれないかなあ? おんなじ言葉でしゃべったら、竜様も聞こえるんじゃないかな」


「あら。それはいい考えですわね。胎教という言葉もございますし」


「ええ。ミンミが私のお腹にいた頃は、毎日あの歌を聞いていたはずですもの」


「うん。 私が歌えるようになったって、早く知ってもらいたい。触っちゃだめでも、歌うだけなら、いいよね?」


「はい。いつまでも目を覚まさない竜さんに、大きな声で歌ってあげましょう」


「じゃじゃ、じゃあ。みみ、みんなで「せーの」で、う、う、歌うんだな」


「よぉし。んだばいくべえ…、せぇのお!!」






「「「「「「「ミーンミンミンミン!!!!!!!」」」」」」」
「ゲーコゲコゲコゲコ!!!!!!!」







なんだか外の世界というのは、やかましくて、暖かい。


ぽかぽかと体が温まったから。気持ちがいい。


気持ちがいいから、もう少し眠るか。そう思った。





―待っています-





その声が聞こえるまでは。



-貴方がもう一度、鳴いてくれる事を-



音波として、耳に伝わる声ではない。



-わたしにもう一度、出会ってくれることを-



心に、魂に直接、語りかけてくる声であった。



-信じています-



優しく、柔らかく、透き通った、美しい声だった。



-だってあなたは-



ああ、これはあなただ。



-わたしに約束してくれたのですから-



覚えている。



-もう一度、わたしのために鳴いてくれると、約束してくれたのですから-



あなたの事だけは覚えている。



-今度は、私だって一緒に歌うんですから-



名は忘れたが、覚えているのだ。



-貴方のように、大きな声で-



貴方の声を、覚えているのだ。



-こんなふうに-



貴方の魂をおぼえているのだ。





-ミーンミンミンミン ミーンミンミンミン-





魂が踊った。


それが誰かは分からない。ただ、誰よりも大切な人だと言うことだけはわかった。


待たせている場合ではない。


いつまでも、この暗い世界にぐずぐずと留まっている場合ではない。


ずっと会いたかったのだから。


ずっと貴方を探していたのだから。


黒い世界を突き破る。


闇の世界を覆う、殻が弾けた。




光だ




そして、




あなただ




何をするべきかは、魂が教えてくれた。




-鳴こうよ-




ああ、鳴こう。






ミーンミンミンミン ミーンミンミンミン

















おわり


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