薄暗いその部屋は、燭台に灯された頼りない炎だけの黄昏のように淡い薄闇に包まれていた。 造りそのものは、葉の一枚すら挟ませない緻密かつ頑強なものであるのだが、如何せん、そこは冷えた。 立地のせいか、それとも元々そういった造りなのか、薄着では風邪をひいてしまいそうになるほど、その部屋は静かで寒かった。 そんな冷えた部屋を利用して、食料庫として活用するのであれば、なるほど、うってつけの場所である。 もし資金に余裕があるのであれば、ワインセラーとしてしまうのだって構わない。
だが、人を招く場として考えた場合、とてもではないが適任の場所とは呼べないだろう。 これがもし、数多の戦場を駆け抜け、野営なども慣れた屈強な騎士や、人ではなく物品として扱われる奴隷が雑魚寝に使うのであればまた違ったのだろうが、間違っても年端のいかぬ少女を招き入れていいところではない。 むしろそのような場面を目撃でもされようものなら、巡回騎士を呼ばれ、今度は此方が冷たい牢屋に放り込まれる羽目になる。 だが、目撃者を作ることさえなければ、人目を憚るような内緒の話や物品を扱う遣り取りの場所として活用するのであれば、この部屋は文句のつけようのない場所だった。
そして今夜、享楽を貪る獣の新たな贄として、罪なき幼子の穢れなき身体と魂が、貪欲なる金貨によって売買されようとしていた。
「ぐふふふふ……。 今回は随分と可愛らしいのを連れてきたな」
その笑い声は醜く太った蛙のようだと、少女――――イリスはこの薄暗い部屋の中に入ってきた人物の声をそう心中で評した。 のしのしと石畳を踏みしめる足取りや、薄暗闇に浮かぶ影をみれば、あながち想像は外れていなさそうであった。 そして、淡い蝋燭の赤い光が声の主を照らし出したとき、彼女は悲鳴を上げられぬまま、目を見開いて固まってしまった。
金に飽かせて贅を凝らした結果、プライドのみならず己の肉まで脂肪で膨れ上がらせたかのような醜い顔。 蛇のようにイリスを品定めする妖の双眸に、ガマ蛙のようなてらてらと脂ぎった頬。 ニヤリと笑ったときの大きな口をみて、イリスは本の中に登場した人間を丸呑みしてしまうオーク豚を連想した。
装いもまたケバケバしい。 蛙のように横に広い巨体を、ゆったりとした豪奢なローブに包み、巨大な芋虫のような指には金や宝石を散りばめた指輪をいくつも填めたそのスタイルは、まさに物語の中に出てくる悪の親玉そのものだった。
「へい。 東からやってきたやっこさんらが後生大事に隠してたんで、ちょいと……。」
「ちょいと、か。 ぐふふふ………。」
何が彼の琴線に触れたのか、蛙のオバケのような男はその姿身のとおり、暫くの間、蛙のように喉を鳴らして笑っていた。 まるで魔物のような男を前にして、イリスは自分の身に降りかかった災厄に涙を零しそうになる。 だが、彼女は己が種族の誇りに賭け、このような化け物の前で自身の弱みをみせるような真似はしなかった。
「ほぅ………。 気の強い目だ」
「ぁあん?! てめぇ、アスクの旦那に向ってなんて目ぇしやがる! テメェは大人しく愛想振りまいていりゃあいいんだよ!」
アスクと呼ばれた蛙の親玉より一歩前に踏み出して、イリスを射殺さんばかりの視線を送ってくる男。 この男もアスクに負けず劣らずの極悪人面であるが、まだ体型も顔面の肉付きも人間と呼べる許容範囲内に収まっているものの、それでも悪人であることに代わりはなかった。 シニック。 それがこの男の名であり、そしてイリスをこの冷えた地下室まで連れてきた張本人であった。
深い森に隠れ住むエルフ族。 彼らは他種族との交流をあまり好まず、独自の文化を形成し静かに暮らしてきた。 しかし、隠者の如く人目に厭い、人里から離れた森の中を活動の拠点としてきたはずのエルフ族は、皮肉にもその外見の美しさと希少性故に、むしろ衆目を集めてしまっていた。 とりわけ、やんごとなき身分の者達にとっては、是が非でも手中に収めたい存在である。 と、なれば心ない人間がやることなど決まってくる。 攫ってくるのだ。
「それともあれかァ? 高値で売られる自分は、何もされねぇと高ァ括ってるんじゃねぇだろうな?」
神ならぬ身でありながら、そのプロポーションは完璧であり、染み一つないミルクを流したかのような滑らかな白肌や、瑞々しい肉も全てが美の化身と謳われるのがエルフ族である。 そんな彼らが万が一奴隷として市場に流れることになれば、それこそ爵位を有する高貴なる方の一夜の相手を務める超一流の高級娼婦以上の値が動くことになる。 裏を返すなら、それだけの高級商品であるエルフは、細心の注意を払い丁重に扱わなければならない、ということなのだ。 それをあえて無視してまで恫喝するシニックは、よほどイリスの態度が腹に据えかねたのか、はたまた、多少の傷がついてもアスクであれば買い取るという、信頼にも似た確信でも持ち合わせていたがためか。
実際、遊び女や奴隷と戯れるのは二流の慰みとみなされるのが常であるはずが、それがエルフとなると俄然話が変わってくるのだ。 たとえ色々な意味で壊れかけであろうとも、買い手は星の数である。 むしろそういった各専門の倒錯した趣味の持ち主こそが、お家が傾こうとも大枚をはたいて購入するのだ。 そういう意味では、イリスも特殊な嗜好の手合いには垂涎の的かもしれない。
年端もいかぬ少女の繊細な体躯は、まだ肉付きが薄く、お世辞にも女性として完成しているとはいえない。 だが、十数日もの間、狭い馬車の中に閉じ込められ、身体も碌に洗えていなかったにも関わらず、尚もその髪は美しく柔らかさがありありと見て取れ、肌からも悪臭の一つたつこともない。 そして、このような絶体絶命の状況下にあっても屈することのない翡翠色の眼差しこそが、彼女を際立たせる一番の要因であり、禁じられた欲望をもつ雄たちからすれば、そこが堪らないのだ。
この見目麗しい天上の存在を、貶め、屈服させ、魂すら汚しつくす。 そんな陵辱の味を、こんな陰鬱な地下室には不釣合いすぎる少女に噛みしめさせ、屈服せしめることがでたとするのなら、果たして買値はいくらになろうか。 もしアスクが恐怖と悲鳴を好む嗜虐の徒であったのなら、これからシニックが魅せるであろう行いにも万金に値する価値を見出すことだろう。 だが………。
「良い、良い。 子猫が鳴いた程度のことで、そう目くじらを立てるな」
イリスを射殺さんばかりに睨め付けていたシニックに向け、低くくぐもった声が制止をかけた。 つい先ほどまで牛蛙の鳴き声と聞き違えそうになりそうな笑いを喉の奥で鳴らしていたアスクその人の声である。
「へ、へい。 旦那」
まるで錆びたブリキの玩具のような動作でシニックは、後方から聞こえてくる声に従い、怒りにかまけ飛び出す前までへと身体も思考も戻す。 だが、殊更アスクの様子を気にかけるシニックとは裏腹に、悪の親玉の表情には彼をどうこうしようという負の感情は欠片もなく飄々としたものだったが、だからといってシニックとしては気安い態度や軽口で応じれるはずもなかった。
アスク・エイムブラ―――――、シニックが率いる傭兵団の拠点、湾岸都市フリッグの街の顔役である。 街を割拠する勢力のうち、その地方を治める領主すら押し退ける力を持つ大物だ。 シニックにとっても得意先の顧客であり、間違っても顔に泥を塗るような不義理は許されない。
「ふむ。 これでなお悲鳴一つも上げぬか………。」
毅然たる態度をもって巨悪に立ち向かっていたイリスを、この場の支配者が誰であるのかを思い至らせたのは、重く冷えた大気の中に、そのときツンと香り立った高級葉巻の芳香であった。
「度胸もある……。」
オーク豚と巨大蛙を掛け合わせたかのような醜い顔がにたり歪む。 だがぞろりと生え揃った歯だけは不思議と綺麗であり、イリス程度であれば簡単に丸呑みできそうな大きな口は、殊更彼女の恐怖心を刺激した。
「気に入ったぞ―――。」
「ッ!?」
そこまで言いさしたアスク。 しかしそれはイリスにとって最大級の絶望へ陥れる悪夢へのカウントダウンを意味していた。
「言い値で良い。 買おうじゃないか、シニック」
「へい! ありがとうございやすッ!!」
「あ、あぁ………。」
恐怖。 そして絶望。 悲鳴を呑み込んだイリスであったが、それでも怯えた吐息が隠しようもなく漏れた。 このアスクという蛙の化け物がイリスを買ったということ。 それは、取りも直さず、死ぬまで家族と会うことが叶わなくなったという事実に他ならない。
「そんな………、私………。」
イリスの悲嘆に、だが男たちは気付かない。 いや、彼女の目に滲む涙の意味すらも肴にして、下卑た笑みを浮かべ嬉々として外道たちは商談を進めていた。
「では、後のことはいつもどおり一任するが……。 構わんな?」
アスクは冷ややかな命令口調で、誰にともなく語りかける。 勿論、商談人であるシニックに向けた言葉ではない。 傍から見ている彼すらも、上客であるアスクの奇怪な発言をまったく訝る素振りを見せない。 むしろ、突然沸いて出たこの場に居るはずのない第三者の声に、イリスだけが悲鳴を呑みこんで目を見開く、などという間抜けを晒すのこととなった。
「委細お任せください、ご主人様」
「ッッ?!」
燭台に灯され揺れる赤い光源の影から、ゆらりと人影が湧き上がった。 まさに、それまでただの壁面の陰影に過ぎなかった暗闇が厚みを得て人型を成したかのようだった。 その人物は、燭台の光というこの部屋で最も目立ち、明るい場所に潜んでいたにも関わらず、最後までイリスに気取られずにいたのだ。 無論、そう広くない室内の中には人、一人を隠しておけるほどの遮蔽物などない。 事実、"彼女"の姿は幾度となくイリスの視界に入っていた。 しかし、『砂漠の国』と呼ばれるこの地から遥か南の―――イリスの故郷からはさらに遠方の地に秘かに伝わる自らの存在感を完全に遮断する陰形の術がこの世に存在し、尚且つ、それを習得したものがこの場にいようなどとは、想像できるはずもなかった。
燃え上がる日差しと焼けた砂で埋め尽くされた骸の大地に、邪精霊<ジン>と契約を結び、森羅万象の法を捻じ曲げ行使する術、即ち魔術という存在があったことを幼い少女が理解していなかったことは、無理からぬことだっただろう。
そんな陰陽の法を操るのは、紺色のドレスシャツにネクタイ、そして瀟洒なダークスーツという取り揃えに身を包み、銀糸もかくやとばかりの美しく波打つ銀髪を携えた女性だった。 それらを決して華美なものにさせずしっくりと調和させるほど気品に満ちた執事姿の出で立ちは、彼女の褐色の肌と合間ってどこか浮世離れした色艶とはまた異なった魅惑さを醸し出していた。 だが、その玲瓏な美貌に、数多の男性の目を奪って止まないだろうが、氷のように磨き抜かれた紫水晶色の瞳で一瞥されようものなら、どんな色事師であろうとも篭絡は諦めるに違いない。
「あ、貴女ッ―――――。」
「……………………。」
不意に現れた第三者に驚きも露にしていたイリスだったが、その正体を知るや烈火の怒りにその身を焦がし、口から出かかった言葉が音になる―――、次の瞬間、主人の下知を待つ猟犬さながらの冷徹さを孕んだ瞳に睨み据えられ、イリスは悲鳴すら出せぬまま萎縮してしまった。
「む? どうかしたか?」
「いえ、何でもございません」
イリスの癇癪など肩に付着していた糸屑を掃うも同然の作業だと言わんばかりの態度で主人へ返答を返す。 そんな女性の態度に腹立たしさを感じるイリスだが、今の彼女は猟犬に殺気を向けられ、その場に縫い止められた得物に過ぎない。 彼女の生殺与奪の権はこの冷酷な犬のご主人様であるアスクの胸先三寸次第なのである。 しかし、幸いにもその彼だが、ハンティングの心得があるのか、ないのか、未だ此方に銃口を向けてくるような気配は見せてはいなかった。
「うむ、そうか。 なら頼んだぞ、ソフィーヤ」
「はっ!」
アスクの言葉に、ソフィーヤと呼ばれた執事服の女性は恭しく、かつ優雅な仕草で一礼する。 まさに模範演技ともいうべき一連の動作は、彼女の美貌も合間って、もはや溜息すら禁じえないほど美しかった。 しかしイリスには、それ眺めてなお同じ女性として羨望も憧憬も懐くことはなかった。 なぜなら、眼前の女性はイリスたちエルフ族とは不倶戴天の間柄であるダークエルフ族だったのだから。
「行くぞ、シニック」
「へ、へい旦那!」
自身よりも上位に位置する者に呼ばれれば、たちどころに腰を低く、もみ手をしながらヘコヘコと頭を下げながらその背に付き従うシニックの姿は、まさに腰巾着の見本とも呼ぶべきものだった。 そんな彼が薄暗い地下室から出ようとした時。
「今日からあの方がお前の御主人様だ。 逃げたりしたら分かってんだろうな、ぁあん?」
そう自分だけ言いたいことを言うと、シニックは今度こそアスクの後を追って部屋を出ていった。 ほどなく、地下の部屋の中に反響する石畳を踏みしめる音が聞こえなくなるまで、ソフィーヤは礼の姿勢を崩さなかった。
「……………………。」
「な、なに?」
アスクたちの気配が完全に消えてから姿勢を正し、改めて正面から向き合ったソフィーヤの視線に、イリスは思わず身じろいで後退してしまった。 その瞳に宿るものは、さながら部下を叱責するかのような容赦のない非難の眼差しであった。
「今回は仕方ありません。 が、今後そのような身なりでご主人様の前に立たれては困ります。 よって先ずは、その採れたての牛蒡のような汚い身体を綺麗に洗います」
「なッ! ご、ご、牛蒡ゥ!?」
「ご主人様の目に触れるこになるのです。 牛蒡から少なくともサンドローズ程度にはなって頂かなければ、話になりません」
語調は穏やかでありながら、それはあからさまな挑発であった。 見下しているとすら受け取れる冷ややかな眼差しを、年端のいかぬ少女へと注ぐソフィーヤと、その屈辱に口や肩といわず、全身を怒りで震わせるイリスの様は、どう贔屓目に見たところで友好的とは言えまい。
「貴女も既に偉大なるエイムブラ家の家財の一つとなったのです。 恐れ多くも栄光あるご主人様が歩まれる覇道の脇に、花咲くことを許されたのですから、最低限の装いと教養を身につけて貰わなければ困ります」
「な………なッ………!」
これ以上はないというほどの屈辱だった。 イリスは憤怒すらも通り超え、貧血めいた眩暈に囚われながら全身を身震いさせた。
「ふ、ふざけないで!!」
許せない。 イリスは、自分が穏やかな気性であると自負しているが、それでもこれはどうあっても許せるわけがなかった。 静かにひっそりと、誰の害になるでもなく暮らしてきただけなのに、ただそれだけなのに何故人間の仕掛けた罠に捕らえられ、さらにこんな仕打ちを受けなければならないのか。
"たかが人間の分際で"などと蔑む気持ちは毛ほどにも無い。 むしろ、イリスたちエルフ族のような内向的な種族たちとすら取引を行い、技術を取り入れあらゆる方面において目覚しい成長を遂げ、文明を開花させてみせた素晴らしい種族だとすら思っていた。 だが、そんな光輝く彼らの行いから視点をずらせば、このような悪の所業が鎌首を擡げていた。 その行いは、今まで信じていた期待に裏切られたかのようで、イリスの心は今にも怒りではち切れそうだった。
きちんとした手順を踏んでからでなければ、入ることを許さない神々の時代よりその形を変えていない深い森。 そこに住まうエルフ族たちは当然のことだが、何かしらの理由で外からやってきた者たちにも、長年行ってきた風習を厳守させてきた。 しかし、土着の風俗に対し敬意をもって接するべきものを、一部の心のない人間がエルフの奴隷欲しさに禁を破ったのだ。 中でも一層許しがたいことは、禁忌を冒し捕らえられたエルフ族がイリスが始めてではなかったということだ。 むしろ、捕らえられた時に盗み聞きした話と、イリスの扱い具合から推察するに、かなり手馴れていた。
イリスよりも前に囚われた者たちが、どのような末路を辿ったのか彼女は知らない。 しかし長い時間、狭い馬車の中に押し込められ、何人かの下卑た笑みを浮かべた商人だか、貴族だか分からない連中の下を経由して、最後には底辺の底辺とも呼べる最悪の人物に買われるとなれば、今後の人生、碌な最後を迎えないだろう。
「勝手に人を誘拐してッ! 勝手に物みたいに扱って! 勝手に私の人生を決めないでよ!」
だが、それで「はいそうですか」と唯々諾々と従う気など、イリスには毛頭ない。 ほんの僅かな抵抗かもしれない。 それでもエルフ族であることに誇りを持っているイリスは、抗い続け、自分は決して屈服しないことを見せ付けてやるのだ。 それで、あの蛙のお化けが不機嫌に顔を歪めるのであれば、少しは気分がよくなる。
「私は絶対に貴方たちなんかには従わない。 こんなことをしている貴方たちは、絶対に許さない!」
「許さない…………、ですか」
「えぇ、そうよ。 でもダークエルフ族としての誇りすら見失っていそうな貴女には分からない感覚でしょうけど」
先ほどのお返しだ、と言わんばかりに嫌味をたっぷりと乗せたイリスの皮肉だが、ソフィーヤの表情を崩すまでには至らなかった。 未だ感情と呼べる表情の起伏がないこの執事に対し、今持てるだけのありったけの胆力を総動員して臨んでいるイリスから見れば、ソフィーヤというダークエルフは不気味だった。 額に汗を滲ませ、必死に虚勢を張って対抗しているのも、名状しがたい不吉さに押し潰されないよう必死になって抗っているが故である。
「誇り…………。」
ソフィーヤは小さくそう呟いて、それからやおら手を伸ばした。 淀みなく静かな、あまりにも作為のない動きのせいで、イリスは奴隷の証として課せられた首輪に付けられた鎖を掴まれ、犬のように引っ張られて立ち上がらされたその瞬間まで、ソフィーヤの意図に気付けなかった。
「貴女の誇りとはいったいなんでしょうか白山羊<エルフ>。 是非、お聞かせください。 珈琲豆<ダークエルフ>ごとき劣等種を荒野へと駆逐した先祖の武勇でも謳って頂けるのでしょうか?」
唐突すぎる暴力に、予想も覚悟も間に合わなかったイリスが、隠し切れない怯えと悲鳴を漏らした。 その僅かな恐怖の気配を、ソフィーヤはイリスの顔を鼻先に寄せ、まるで得物を前肢で押さえ込んだ猟犬のように。 じっくりと舐るように嗅いで確かめる。
「……………、まだ理解が足りないようなので、言っておきます。 貴女が意思や誇りを持とうが捨てようが、"どうでもいい"のです。 貴女の脳が覚えておくことは、その髪から血の一滴、死後の魂に至るまで全てが、アスク・エイムブラ様の所有物であるということです。 それを努々忘れないで頂きたい。 それを弁えた上であれば、どのような行動を起こそうとも咎めるつもりはありません」
ゆっくりと、あくまで語調は穏やかに、だが念を入れるように語り聞かせてから、ソフィーヤは手を緩め、相手を拘束から開放した。
「さて、無駄話はこのあたりにして、湯殿へ向いましょう」
出会った時から崩れることなく張り付いた氷の表情のまま、ソフィーヤはイリスにこの部屋からでるように視線で促した。 イリスも内心では抵抗したいのだが、大人しく従うほか選択肢がない。 恐らく彼女が僅でも反抗の意思を表にみせようものなら、首輪に付いた鎖を引っ張り、犬のように強引に引きずっていくことだろう。 現にソフィーヤの表情は徹底して無表情を装っているが、イリスの一挙手一投足を観察するアメジスト色の瞳だけは、どこか狩猟動物めいた危険な光を宿していた。
「ク…………ッ!」
「大変素直で結構。 今後は返事を返すことも意識してください」
「…………、なんで貴女なんかにッ」
やり場のない憤りを噛み殺しつつ、掠れた声でイリスは反駁する。 だが、それ以上の反抗が許されない我が身の情けなさに、彼女は屈辱にわななきながらも、ただ睨み返してソフィーヤの後に続いて歩くことしかできなかった。 もちそん、そんなイリスの憤怒の凝視すらも、このダークエルフはどこ吹く風だ。
「…………………。」
沈黙が針のように空気を刺激して、空白の間が痛々しい悲鳴をあげる。 もともと両者共に共通の話題があるわけでもなく、仲睦まじいわけでもないため、道中は終始無言だった。 いっそこのまま、永久に目的地に辿りつかなければいい。 内心穏やかならぬものを押し殺しながら、顔を俯かせながら歩いていたせいでイリスは、ソフィーヤがいつの間にか歩くのを止めていたことに気付くことができなかった。
「ッ!」
あわやソフィーヤの背中に激突しようという寸前に、身を翻し眼前に迫る彼女を、蹴球の選手よろしく、追い抜くようにして前に躍り出ることで衝突を回避した。 その強引な体勢の変化に、イリスはふらりと傾ぎ、あわやというところでたたらを踏みながらもバランスを取る。 そんな危なげな少女の挙措を冷ややかに見守った後、ソフィーヤは何事もなかったかのように、丁度停止した位置の真横にある扉を開け放った。
「さ、手早く済ませてしまいましょう。 時間は無限ではないのですから」
ソフィーヤがぱちんと指を鳴らすと、暗闇に包まれ中の様子を窺うことの出来なかった部屋が、途端に生を受けて動き出したかのように茜色に照らし出された。 檜の香り、だろうか。 室中はそれまでの冷たく硬質な雰囲気の石造りではなく、その上から木板を填め込んだ温かみのある造りとなっていた。
「………………。」
「……………、ふん!」
両者ともに険悪な雰囲気を隠そうともせず無言のまま睨み合う。 だが、暫し視線を交差させた末、ソフィーヤを見ながらも、ちらりと明るく灯された部屋に目を向けてしまったのは、獣同士が睨み合い、視線を逸らしてしまうのに似ていた。
「私は、言いなりになんて、ならないんだからね」
「構いません。 ですが身は清めて頂きます」
さも憎々しげに口元を歪ませつつ、イリスが押し殺した声で吐き捨てる。 だが、そんな彼女を全く意に介さない様子のソフィーヤは早くしろ、と言わんばかりに目で促してくる。
「ッ! ダークエルフは機微に疎いって聞いてたけれど、本当のことだったようね!」
「私も、エルフは皮肉に優れ、陰湿で根暗な引き篭もりだと聞き及んでおりました」
「……………………。」
「……………………。」
お互いが毒を吐いてまた沈黙。 会話の遣り取りを交わすだけこの剣呑な雰囲気である。 エルフ族とダークエルフ族。 両者の種族間の抗争は、歴史にもその項目が太字で載るほどに苛烈を極めた。 今ではお互いの棲み分けが出来上がり、睨み合い程度に落ち着いてきてはいるものの、未だ根強い遺恨を残していた。 とはいえ、ここまで水と油のように反目しあう両者は珍しい。 いっそのこと『喧嘩するほど仲が良い』という言葉を送りたくなってしまうほどにだ。
「ふん!」
これ以上話すことは無いとばかりに、鼻から牛のような荒い息を吐き出すと、イリスはずんずんと明るく暖かな室内へと進んでいく。 その後にソフィーヤも続くと、静かに戸を閉め室内と外界との繋がりを絶った。 今この扉の向こう側は女人のみが進入することを許された不可侵の聖域である。 たとえ二人の主であるアスクであろうとも、開けることはまかりならないのだ。
「なんで貴女まで入ってくるのよッ!」
「無論、監視と貴女の身体を身奇麗にするためです」
「私は、誰かに自分の身体を洗われる趣味も、見られる趣味も、もってないわ!」
「えぇ、ご安心ください。 私も他人の入浴を覗き見て喜ぶような趣味は持ち合わせておりません。 もっとも、貴女のような未成熟の身体なら、特殊な性癖をお持ちの方でもない限り、そう滅多なことは起こらないでしょうが……。」
「なっ!? 貴女だって前と背中の区別がつかない体型の癖にッ!!」
「―――――――――黙りなさい。 今すぐ発言を撤回することを要求します」
そんな姦しい遣り取りから、イリスの甚だ不本意な新たな人生が始まった。
あとがき
叶うのなら、エルフの美少女に「貴方って本当、最低のクズねッ!」って罵られたいです
どうもギネマム茶です。
この作品は、色々制限を設けずやっていこうと思っているので、色々自重しない部分が出てきてしまうと思います。
やや、実験的な部分もあり変な印象を受けるかもしれませんが、なるべく下手を打たないよう、努力してまいります。
早めの更新ができれば、と思いますが………どうなるか。
それでは、また次回