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[3205] ultramarine glass minds/under the flaming sun (Fate×クロスチャンネル)
Name: 男爵イモ◆16267a69 ID:23e52052
Date: 2008/08/08 19:07
まえがき

FateとCROSS†CHANNELの世界が同一のものであるという設定です。
ただ、主舞台というか物語はCROSS†CHANNELを基本としており、そこに衛宮士郎を放り込むという意味では、Fate⇒CROSS†CHANNELのトリップものであると言えるやもしれません。


更新はかなり不定期になるかと思われます。



[3205] 群青学院Ⅰ
Name: 男爵イモ◆16267a69 ID:23e52052
Date: 2008/08/08 19:08

 部屋に沈黙が居座って数分の時が流れた。
 怒りでも悲しみでもなく、目の前の友人がこのような反応をすることが分かっていたから、衛宮士郎は話を切り出すのにとても苦労したというのに、その苦労は結局何ら効果を示すことなく、状況は予想通りだった。
 この場を次の段階に移行させる権利を、士郎は持たない。できることといえば、出来の悪い彫像のように、ただひたすら同じ姿勢で耐えるのみである。

 カチ、カチ、と規則正しく時を刻む時計の音。
 果たして静寂がわずかな音を際立たせるのか、それともわずかな音が静寂を際立たせるのか。
 そういえば、白と黒で描かれた、杯と向かい合う人の横顔のどちらにでも見える絵があったな、などと思い出したところで、

「ときどき自分の迂闊さに呆れてアンタを殴りたくなるわ……」心の底からのものだと思わしきため息と同時に、遠坂凛がそう言った。

 誰もが理不尽だと判断するだろうその言を、しかし士郎だけは頷いて受け入れる。

「いや、その……、すまん」
「すまん、じゃないわよ。大抵のことは取り返しがつくけど、これは本当に洒落や冗談じゃ"済まない"んだから。公式な記録っていうのはね、無いものを新しく作るのは簡単でも改竄は難しいの、広がっていくから。いいえ、それ以前に、そもそもあの"試験"が、マトモなフリをしようとする意志まで検出するように出来てることにくらい気づきなさいよ。
 ああ、もう……、ほんと……、アンタが引っかかりそうだってことを知っていながら気づかなかったなんて、本当に迂闊だったわ……」

 処置なし、と言わんばかりに目に手を当てて、凛はいま一度、深くため息をついた。それからまたしばらく黙り、しかし今度の沈黙は長くは続かなかった。
 それだけで切り替えがついたのだろう、次に士郎に向けられた彼女の目は、既に先を見ている。

「――で、どうするのよ」

 切り替えの早さ、というよりは完璧さに感心しながら、士郎は尋ね返した。

「どうする、って……」
「だから、行くのかって聞いてるのよ」
「いや、他に選択肢はないだろ」
「この際だから、国外に逃げるのもアリだと思うけど。衛宮くん、たしか、もともと働くつもりだったけど藤村先生に説得されて学園に進学したって言ってたわよね。当時でもそうだったなら、目標の定まった今はなおさら学園なんてどうでもいいんじゃない?」
「どうでもいいとまでは言わないけど、たしかに学園にこだわりはない。だけど逃げるのはダメだ」
「でしょうね。ここで逃げるなら、説得振り切ってでも働いてたでしょうし。何よりあんたが藤村先生たちを置いて逃げられるはずもないし」

 凛は肩を竦め、あっさりと引く。それから既に冷めてしまったティーカップを手に取り、どこか投げやりな動作でその中身を口に含み、顔をしかめた。
 冷めた紅茶は苦く感じられるものだ。

 士郎は立ち上がり、淹れなおしてくる、と簡潔に告げて、凛の部屋を後にした。この場合の凛の部屋といえば、衛宮邸の離れの一室を指す。
 聖杯戦争中になす術もなく接収された、もとい、必要に迫られて貸し出した部屋は存外住み心地が良かったらしい。雪の季節から桜の季節を通り越し、太陽が燦々と輝く季節になった今でも、遠坂凛という同級生にして戦友にして魔術の師は、あの部屋を占領したままである。
 彼女がこの屋敷に泊まる際には、監視と銘打って虎やロリブルマ、そして後輩も宿泊していくが、なんだかんだと言いながら、その騒がしさを士郎も気に入っていた。ただ、一つだけ残念なことがあるとすれば、その騒がしさの中に一人の少女がいないことが残念だ。

 かつて、ともに冬の夜を駆けた騎士がいた。結局、彼女は最後まで王だった。
 士郎はその在り方を尊いと信じ、美しいと憧れた。だから、ここに彼女がいないことを嘆くのは、多くのものを侮辱するに等しい。
 それでも、衛宮士郎が一人の少女を愛したのもまた紛れもない事実だったのだ。

 王を貫いた彼女が衛宮士郎を愛したのが一夜限りの夢であったなら、
 正義の味方を目指す衛宮士郎が彼女を愛したのも、きっと二度とはない幻のようなものだったのだろう。

 恐らく、原因があるとすればそれだ。
 人であっては国を守れないように、人であっては理想を守れない。王でなくては、正義の味方でなくては、国を、理想を守れない。そして正義の味方になると決めた士郎は、かつて遠い異国の地で一人の少女が岩の剣を抜いたように、その時点で人ではなくなった。だから"試験"で引っかかったのだろう。何せあれは、人の中に紛れ込む"人でなし"を検出するための試験なのだから。

 先ほどまで士郎と凛が話題にしていた悪名高きその試験、名を"適応係数試験"という。
 平たくいえば"異常者"を判定するための試験である。

 どのような理由によるものか、近年、精神的な"異常者"が増えてきたといわれる。その中に、ついに人を傷つける者が現れるようになったことを理由として、適応係数試験で一定水準以上の適応係数を示した者を専用の施設でまとめて扱うという、一種の隔離ともいえる政策が採られるようになった。
 だが、適応係数試験に限った話ではないが、精密な試験には時間と手間がかかる。故に、試験の対象者は全国民ではなく、高い適応係数を弾き出すと予想された者に限られる。具体的には、社会生活の中で問題を起こした者。
 しかし士郎はそのような問題を起こしてはおらず、そしてまた同様に試験を受けた凛は、問題を起こすどころか完璧な優等生を演じきっていた。
 ではどのような経緯で士郎や凛が適応係数試験を受けることとなったのかというと、実のところ、本人たちも詳しいことは分からない。ただ、前年度に穂群原学園に在籍していたすべての学生を対象に、今年の冬に起きた『集団昏睡事件』による心への影響を調べる、という名目で行われたのだ。

 そして衛宮士郎は、見事に非人間であると判定されてしまったのでした、まる。

 この冬木市には、適応係数試験で弾かれた学生のための学園、学院はない。となると、士郎が学生を続けるためには、別の土地へと行かなければならなくなる。

「はぁ……」

 力無いため息は、炎天下で空気を焦がすセミの鳴き声に上書きされた。

 士郎が試験の結果を知ったのは今日。口外したのは、先ほど凛に告げたのが初めてだった。
 担任でもあり保護者でもある藤村大河の耳には、自分ではない誰かの口から届くのだろう。もしかすると、既に届いているかもしれない。
 であるならば、今日の夕食時は家族会議のごとき様相を示すことになるだろう。

 イリヤスフィールあたりは士郎が公式に異常者判定を貰ったことに笑い出しそうではあるが、他の面々はそれぞれ違った、しかし方向性を同じくする反応をきっと見せる。そのことを考えると、今から気持ちが重くなる。
 ヤカンがカタカタと音を鳴らすまで、士郎は憂鬱な気持ちでティーカップをぼんやりと眺めていた。







 額の汗は、解けかけた氷のように、拭っても拭っても垂れてくる。シャツは、壁に叩きつけられたカエルのように、背中にべったりと張り付き離れない。
 耳を打つのは足音さえ押しつぶしてしまうアブラゼミの大合唱だけで、それを一時間以上聞き続けているせいか、それとも暑さのせいか、士郎はどことなく頼りげのない足取りで歩いていた。
 歩いても歩いても目的の場所が見つからず、実は自分は既に倒れていて、悪夢を見ているのではないだろうか、という疑念が熱い頭の中でぐるぐると渦を巻く。周囲の建物が、団地なので当たり前だが、どれもこれも同じ形、つくりで立ち並んでいるのも悪い夢じみていた。

 端的にいって、士郎は迷子だった。急ぎの引越しだったため、事前に部屋を見に来ることが出来なかったのだ。

 経年を感じさせる薄汚れた建物の群れの中、見渡しても道行く人は一人もおらず、誰かに道を尋ねることすら出来ない。
 どうして数字のとおりに建物が並んでいないのか、非常に理不尽なものを感じつつ、士郎はもう一度アパートの外壁につけられたアラビア数字を見上げるが、やはり求める番号がどうにも見つからなかった。
 だが、捨てる神あれば拾う神ありということなのか、視線を下ろしたとき、ついに視界の中に動く人間の姿を見出すことになった。

 少女だ。

 白いシャツと水色のスカートは、士郎が編入手続きをした群青学院のものだろうか。
 少女は熱いアスファルトの上を歩いてくる。彼我の距離は、目のいい士郎が一方的に顔を目視できる程度。少女が士郎を見ても、人が立っていると認識できるだけだろう。
 士郎と近づいてくる少女との間には、いくつかのアパートが建っており、また枝分かれする道もある。自分のところに来るのを待っていても、自分の立つ場所を少女が通るとは限らない。
 そう判断するまでもなく、道を尋ねるならば自分から赴くべきだと、士郎は少女へと足を向けた。

 一分も経たない内に、少女は士郎が自分へと向かってきていることに気がついたのか、視線を士郎に向けた。それを悟った士郎は、まだ多少の距離が開いていたが、視線を合わせて声を上げた。
 すみません、と断ってから、自分が目指しているアパートを知っているかと問うと、少女は驚いたように目を大きくした。

「あの……、そこ、わたしが住んでるところです」

 今度は士郎が驚く番だった。
 それから士郎は、今日から自分もそこに住むこととなった旨を告げ、お互いにひとしきり驚いた後、少女が言った。

「でしたら、もしよろしければご案内しますけど」
「ああ、だったらお願いしようかな」
「はい。あ、でも、案内っていっても家に帰るだけなんですけど」

 少女は自分の言ったことに少し照れたように笑う。そのふわりと柔らかい雰囲気に、士郎は自分を慕ってくれていた後輩を思い出す。
 間桐桜。
 士郎が適応係数試験で弾かれたことを話したとき、そしてついに自宅を離れることとなった今朝、悲しそうに眉尻を下げて、それでもどうにか笑みを浮かべてくれた妹のような後輩だ。

「学校帰りかな、いまは」
「はい」少女は素直に頷き、士郎の質問が制服を見てのことだとしっかり理解し、「制服に興味がおありですか?」
「いや……、そうじゃなくて、君が着てるそれが群青学院の制服じゃないかと思ったんだ」

 群青学院の制服がどのようなものであるかは分からずとも、この町に学校は群青学院一つだったと記憶している。
 ただ、群青学院はその性質上、大学を除いて一貫教育制となっているので、少女の着ている制服がどの学校のものかは分からない。少女は士郎よりいくつか年下だろうから、士郎と同じか、あるいは一つ下の付属校かのどちらかだろうとは見当がつくが、そこまでだ。

「俺も群青学院に転入することになったから」

 どこか言い訳めいた響きが混ざったが、士郎には制服への興味やこだわりは、本当にない。ないったらないのである。

「やっぱり」士郎への返事の代わりに、少女がつぶやいた。
「やっぱり?」
「あ、はい。わざわざこの町に引っ越してくる学生さんだと、大抵は」
「そうなのか」

 ならば、引っ越してきたといった時点で分かっていたということか。

 二人は軽い会話を交わしながら歩いた。概ね士郎が尋ね、少女が答えるという形だ。出会ったばかりの二人の共通の話題は群青学院かアパートで、必然、質問と回答の役は固定される。例外は、士郎が何年生か尋ねられたときだけだった。
 時間にして五分もかからない内に、士郎がどれだけ探しても見つからなかったアパートの前にたどり着く。

 雲の少ない空の下から建物の中に入ると、それだけで涼しく感じられる。
 汗をかいた肌には、かすかに吹き抜ける風が一番の癒しだ。

「本当に助かった。ありがとう」
「いえいえ、困ったときはお互い様です。それよりお部屋の方はどちらです?」
「えっと、たしか最上階の――」慣れぬからか、暑さのせいか、数字がとっさに出てこなかった。

 階段の一段目に足をかけたところで、ようやく思い出した番号を告げる。
 それを聞いた少女は、考える仕草の後、

「間に二部屋はさんでお隣さんですか」
「さすがにそこまで偶然は続かないか」
「ですねー。というか、そもそも両隣の部屋は空いてなかったんですけど」

 万に一つでも確率があれば起きえるが、ゼロであればどんなに頑張っても起きないのである。

 鍛えているので足腰の強い士郎はともかく、少女も階段を最上階まで上りきった時点で息の一つも乱していなかった。エレベーターが設置されていない建物なので、毎日の上り下りの賜物なのだろう。

 士郎の部屋の方が階段に近かったので、少女を見送る形で部屋に入ることになった。
 閉め切った狭い部屋の空気は、皮膚で感じられるほどに重く、呼吸をするのが難しい。
 士郎はまず窓を開け、部屋の空気を入れ替えることにした。高い場所にある部屋だからか、それとも今日がたまたまそういう日なのか、強い風が髪にぶつかりながら抜けていく。
 業者に任せた荷物は既に運び込まれている。といっても、家具は箪笥、机、本棚、冷蔵庫、洗濯機がそれぞれ一つずつと、布団一組、そして決して多いとはいえないダンボール。小さな冷蔵庫と洗濯機以外はどれも冬木市の自宅に置いてあったもので、愛着というほどではないが、慣れ親しんだものである。

「さて……」

 一つつぶやいてから、どうしたものかと考える。
 季節は夏休み前だ。ほとんど直前といってもいい。
 当然、引越しは夏休みの間に行えばいいという意見も出たが、そうは問屋がおろさなかった、もとい、行政が許さなかった。あと穂群原学園もうるさかった。
 それらのいろいろな事情を考慮した上で、編入は夏休み前に行い、通常の教育機関よりも長い夏休みの間は帰郷するということが家族会議で決定したのだ。

 ああ、そうか。そうだった。
 どうしたものかと考えたが、考えるまでもなかったのだ。

 まずは、そう。
 荷物を開くことよりも、家具を配置するよりも先に、しなければならないことがある。

 無事に到着したことを家族に知らせるために、士郎は携帯電話を取り出した。







 目覚まし時計によらず、習慣に従い体が目を覚ました。日の出の早い夏ではあるが、まだ窓の外は薄暗い。

 昨晩、士郎は荷物を開き終えてから眠りについた。風呂には入ったが、食事はとらなかった。
 いまだにこの町の地理を知らないので、材料にせよ食料にせよ、その調達にかかる時間と労力を測りきれなかったのだ。なので当然、今日の朝食も自宅では用意できないし、昼食に弁当を作ることも出来ない。
 仕方がないので、朝食と昼食は学院に行く途中で確保することに決めた。最悪の場合、何も得ることが出来ずに学院にたどり着くことになるが、そうなれば昼に学院内の食堂の世話になればいい。

 案外無計画な自分を発見しながら、士郎は制服に着替えた。
 群青学院のものではない。早急すぎる編入に、制服の確保が間に合わなかったのだ。卒業まで残すところ八ヶ月ほどなので、わざわざ新調する必要もないかもしれない。
 経済的なものを考えると、士郎の心はどうしても穂群原学園の制服に傾くのだった。

 慣れない道であることと、朝食の確保を考えて、ずいぶんと余裕を持って家を出る。空に近い鞄を手にぶら下げて、これから毎日上り下りする階段を下り、聞き知っただけの道筋を頼りに学院を目指す。
 既に太陽は空にあり、雲は昨日同様、ほとんど見当たらない。
 すぐに、歩いているだけで汗が流れる気温になるだろう。学院に到着するころには、自分はくたびれた犬のようになっているかもしれない、と士郎は思った。

 道の途中にはコンビニエンスストアは見当たらず、延々と住宅が続く。丘だか峠だかという名の山を越えた向こう側、市の中でも発展した部分に対して、このあたりはベッドタウンなのだ。
 既にセミの鳴き声は始まっており、各家庭の朝の音は、ほとんど聞き取ることが出来なかった。

 複数の道がぶつかる地点で、ついに店が姿を見せた。『田崎食料』という名前の商店だった。
 そこでペットボトルとパンを買い込み、士郎はほっと一息、安堵する。
 一食や二食を抜いたところで倒れはしないが、我慢できるからといって辛くないわけではない。季節のことを考えると、食事を抜くのはなおさら得策ではない。

 店を離れる前に、士郎は福顔の店主、田崎氏に話しかけられた。その雰囲気が、どこか幼いころから利用していた冬木市の商店街に連なる店の店主らと似ているように感じられて、しばらくの間、会話が弾んだ。結果、サービスなのか激励なのか、それとも営業活動の一環なのか、追加でパンを受け取ることになる。
 どうやら田崎氏には、群青学院生への偏見やそれに類するものがないらしく、その態度は士郎にとって小さくも貴重な救いだった。

 そうこうしている内に時計は針を進め、十二分に確保していた時間は、食費により圧迫される衛宮家の預金通帳の残高のような状態になってしまった。しかし田崎氏から得た学院までの道筋の情報で、時間の浪費は相殺される。いや、無駄な労力を使うことがないという点において、プラスに近い。
 士郎は合理、非合理にそれほど関心はないが、矢鱈無闇に疲れないのはいいことだと思う。

 少し重たくなった鞄を揺らしながら歩いていると、背後からぱたぱたと近づいてくる足音に士郎は気付く。
 軽い足音は二人分だ。予感というほど確かなものではなかったが、振り向いてみれば、そこには思ったとおりの光景があった。
 昨日会った少女だ。
 加えて今日は、友人だろう、もう一人、彼女と同い年くらいの少女がその隣にいる。士郎から見れば二人とも華奢ではあるが、こちらはどうにも触れれば折れそうな細さ、というより脆さがあるように感じられた。

「おはようございます」少女の、跳ねるような元気な声。
「ああ、おはよう。えっと……」士郎は自分たちがお互いに名前を知らないことに気がついた。「昨日は助かった。あと、すまない、助けてもらっといて自己紹介の一つもしてなかった。俺は衛宮士郎っていう」
「ほら霧ちん、なんかイイ人っぽいでそ?」
「美希、失礼だよ……」

 ――なるほど、美希と霧というのか。

 目の前でイイ人っぽいと評されたことに関して言いたいことはあるが、しかしどうでもいいか、と思いなおし、士郎は二人を生温かく眺めていた。
 士郎が何も言わなかったことに対し、やっぱりイイ人だ、だから失礼だってば、という会話が繰り広げられ、それからついに美希が自己紹介を始める。

「わたしは山辺美希といいます」言って、美希は自分をはさんで士郎と点対称の位置に立つ友人に振り返る。「で、こっちが」
「……佐倉霧です」やや警戒気味の、距離を置いて相手を観察するような声。

 見知らぬ男に対する態度としては、美希のそれよりも霧の方が随分と"らしい"。どうにも近頃の士郎の周辺には我の強い女性ばかりが揃っていたので、このような反応は新鮮だった。
 思い返してみれば、出会ったばかりの間桐桜には、いまの佐倉霧とわずかばかり似たところがあったような気がする。サクラつながりか――そんなわけない。

「――よし。山辺に佐倉か」士郎は意味もなく頷いた。
「はい、山辺と佐倉です」美希が意味もなく復唱した。

 彼女の声はやはり弾むように元気だった。何が楽しいのか、というより何か楽しいのか、と士郎は疑問に思う。
 決して口に出しはしないが。

 美希と霧は、士郎にとって田崎食料で得た情報の何倍も心強いナビゲーターで、道を気にせずに済んだ分、もともと少ないと自覚しているリソースを会話に注ぎこむことができた。とはいっても、初対面あるいはほとんど初対面に近い年下の少女二人が相手なわけで、どこかぎこちなさが残るのは否めない。
 この半年で少しは慣れたかと思っていたが、考えてみれば士郎が積極的に言葉を交わす女性といえば、長い時間をかけて家族のような関係になった人物か、もしくは日常とかけ離れた戦いの場で関係を深めた人物くらいだ。これでは美希と霧を相手に滑らかに会話が進む方がおかしい。
 会話に神経を傾けてこうなのだから、道を気にしながらの会話だったらと思うと、それだけで現状に感謝できた。

 少女らのコンパスに合わせて歩いていると、やがて、何かすごいものが見えてきた。

「あれが……」群青学院か……。

 高い鉄の塀だ。白い校舎よりも、それを囲むように立ちはだかる塀の方がはるかに目立つ。
 あれではまるで、刑務所ではないか。

 言葉が続かない士郎を気遣ってか、美希が口を開いた。「周りに迷惑をかけないように配慮して、ってことらしいですけど――」そして続かずに途切れる。
「……なるほど」士郎は半ば自動的に頷きを返した。

 美希の言は、つまり、壁がなければ近隣住民に迷惑をかける可能性のある生徒がいるということだ。
 えらいところに来てしまった、というのが第一の感想だった。

 その壁が真に守るものは外と内のどちらであるのか。
 それを士郎が知るのは、まだ先のことである。


 



[3205] 群青学院Ⅱ
Name: 男爵イモ◆16267a69 ID:23e52052
Date: 2008/08/08 19:08



 教室に限らず、校内には静けさが漂っている。自意識のある者が少ないせいだ。
 周囲を認識せず、閉じた自分だけの世界に没頭する生徒が多いので、会話というものが数えるほどしかない。また、彼らにしても何らかの条件を満たすことで"弾ける"ことがあるが、それに伴う音は人と人の間に生まれる音ではなく、ただの騒音だ。極論すれば、風の鳴る音やセミの鳴き声と同じである。

 一言で形容するならば、空虚。
 空っぽで虚ろで、密度の低い世界。

 それが――群青学院だった。




「聞きしに勝る異界っぷりじゃない」
「まあ、でも慣れれば大したことないとは思うけどな」

 魔術師から見ても異界だとすれば、それは相当に段階が進んでいる。しかし今回の評は、社会生活に溶け込む表の顔というフィルターを通してのものだ。
 凛から聞いた話によると、そう遠くない過去、この国のどこぞの都市のマンションを丸ごと異界にした魔術師がいたらしいが、群青学院がそうであるということはなかった。

 衛宮邸の居間には、遠坂凛とイリヤスフィール・フォン・アインツベルンが机をはさんで座っている。屋敷の主たる衛宮士郎は、働きアリのようにキッチンで皿洗い中だ。その三名に加えて、先ほど家を出た弓道部の顧問と部長である藤村大河、間桐桜が、今朝、共に食事をとった。
 いまは、朝食後の微妙にまったりとした時間帯だ。
 セミの鳴き声。食器のぶつかる音。シンクを流れる水音。ニュース番組のアナウンサーの声。

「それで、シロウは慣れそうなの?」今度はイリヤが尋ねる。
「ん、大丈夫だとは思う。環境に慣れる慣れないよりも、生活費がかさむのが辛いくらいだ」
「ふぅん。ちなみにこっちは、いまだにサクラが沈んだままよ」
「正確には、衛宮くんが帰ってくるまで沈んだままだった、だけどね」

 イリヤスフィールと凛の口調にどこか責めるような響きがあるのは仕方がない。なにせ、彼女らは何もしていないのに面倒事が降ってきたようなものなのだ。ちなみに面倒事とは、桜がどんよりと悲しげな顔をしていたことだけでない。士郎の保護者、大河までもが持ち味の元気や奔放さを失い、その笑顔が精彩を欠いていたことや、それらの結果として、この家の雰囲気までもがどこか落ち込んでいたことも含まれる。

「それに関しては申し開きの言葉もない」士郎は統治責任を果たせなかった村長の心で謝った。「こっちにいられるのは九月の頭頃までかな」
「新学期は七日からだって言ってたわよね」凛の言葉は、質問というより確認に近い。
「ああ、そうだ」士郎は頷いた。

 群青学院の夏休みは、通常の教育機関のそれと比べ、始まるのが早く終わるのが遅い。要するに、やたらと長いのだ。なので、夏休みの開始とほぼ同時期に冬木の自宅に戻った士郎は、最初の内は毎朝、家族らが学園へと登校、あるいは通勤していくのを見送っていた。
 もっとも、夏休みに入っても、部活動の部長とその顧問を見送る機会は少なくない。ちょうど今日がそうだ。二人は士郎謹製の弁当を持って、朝早くに出かけて行った。

「まあ、衛宮くんにも準備とかいろいろあるわよね。引っ越してすぐにトンボ返りだったし」
「あ、いや、準備ってのは当たってるんだが、新学期の準備じゃなくて」
「じゃなくて?」
「なんだろう……、合宿、か何かに行く……らしい」
「らしいって」呆れたように凛。「それに合宿? 部活にでも入ったの?」
「入ったというか、入っていたというか」歯切れ悪く士郎は答えた。

 要領を得ない士郎の返答に、凛も、話をほとんど傍聴していたイリヤスフィールも困惑しているようだった。
 しかし、一番困惑しているのは、何を隠そう士郎本人なのである。





 群青学院編入初日にして、後輩二人と顔見知りになった。クラスでも、いじめを絶対に許さないという校風故か、当たり前のように受け入れられた。
 そこまでは良かったのだが、黒須太一という後輩と接触したことから全ては始まった。

 群青学院の二年生、黒須太一。
 雪のように白い髪と、奇妙に輝く瞳を持つ男子生徒だった。
 だが彼は、そのような容姿が些細なものに思えるほど、中身の方に問題があったのだ。

 士郎と彼との出会いは、放課後の校門でのことだった。

 群青学院では、どのような理由によるのか士郎の知るところではないが、授業が終了しても三十分は校門――鉄格子にしか見えないが校門なのだ――が開かない。そういうわけで、士郎は門の前でぼんやりと時間の経過を待っていた。
 開門まで残すところ五分といったところで、見知った顔が現れる。
 山辺美希と佐倉霧だ。
 仲良く二人で会話しながら校門に近付いてきた二人の内、先に士郎に気づいたのは霧だった。美希は霧の視線を目で追って、その先にいた士郎に気がついた。
 二人はすぐに士郎の元へ、というより本来の進路通りに校門へとたどり着く。
 先に士郎に声をかけたのは美希だった。霧は相変わらず警戒を引きずっているらしく、美希を間にはさんで士郎と向かい合う構図も朝と変わらない。対して、話題は朝とは異なり、一日をこの学院で過ごした士郎の感想を求められるものだった。

「そうだな……、昼は学食で食べようと思ってたんだけど、売り切れてたからパンを買ったんだ」士郎は空を見上げた。青く高い空。白い入道雲。眩しい太陽。暑い夏である。「カレーパンは……、何なんだ、アレは……?」

 食べられるなら、朝と昼が両方ともパンでも文句はない。多少味が悪くとも、ケチをつけるつもりは士郎にはない。
 いや、―――なかった。
 過去形。
 簡単な話だ。
 ここしばらく経験したことがないほど、この学院のカレーパンは不味かったのである。

 予感はあった。
 食券を買うことができず、ではパンにしようと売り場に赴いたとき、カレーパンだけが周囲のパンと比べて妙にたくさん残っていたのだ。
 これが独創性に富みすぎて敬遠される類のパンであれば、何も疑問に思わなかっただろう。
 しかし、カレーパンである。
 下から数えるよりも、上から数えた方が早い程度の人気はある種類のパンだと、士郎の常識はそう告げていた。少なくとも、アンパンや食パンよりも売れ残っている姿を見たことはない。にもかかわらず、目の前の光景は常識から外れるものだった。

 そして、愚かにも衛宮士郎はカレーパンを購入してしまったのである。

 見るからに怪しいパンの山に士郎が手を伸ばしたのは、なにも進んで地雷原に踏み込んで撤去作業のボランティアだと嘯くつもりがあったからではない。単純に、好奇心のなせる業だった。
 味に対する過度で過激な執着やこだわりはなくとも、士郎とて一家庭のキッチンに君臨していたのだ、思うところがないわけではない。
 つくづく『君子危うきに近寄らず』を実践できない男であった。

 ――という旨の話をしたところ、

「あー……」

 その声はどちらの少女のものだったのか。
 士郎に分るのはただ一つ。どちらの後輩も、なんとも言えない表情をしていることだけだった。
 少女らは反応に困り、士郎はそんな美希と霧の様子に困る。
 場に、まろやかなのに嫌な沈黙が落ちる。
 開門まで、まだ数分ある。それまでこの雰囲気が続くのかと思うと、士郎は自分の話のせいだということを棚に上げて頭を抱えたくなった。
 だが、結局、士郎が実際に頭を抱えることにはならなかった。開門よりも早く、別の要因によって場が展開したからだ。
 それは、犯罪をなくすために人類を滅亡させるというような乱暴さではあったが、しかし、効果があったことだけは事実だった。

「――ていっ!」

 ガバーッ!
 という擬音が聞こえたと錯覚するほど見事に、少女らのスカートがめくり上げられていた。

 風のように颯爽と現れた、最も深い群青色を持つ男。
 黒須太一の登場だった。
 あとパンツは白とストライプだった。

 その後、太一はまるで予定調和のように霧に蹴り飛ばされ、不自然なまでに美しい放物線を描いて宙を舞った。なお、予定調和というのは太一に限った話ではなく、怒髪天を衝かんばかりに怒り狂う霧や、怒ってはいたものの相棒のブレーキ役へと回った美希にも当てはまる。
 一方、彼らと違って日常的に犯罪一歩手前のセクハラ分を摂取していない士郎はというと、静かに混乱していた。混乱している内に少女ら二人は霧の主導により場を離脱し、士郎は太一に話しかけられていた。
 そして。





「よくわからない内に、気づけば放送部の合宿に参加することになっていた、と」アンタばかぁ? と言いたげな凛の目が士郎を見る。
「い、いや……、あの時の俺は、違法勧誘や脅迫なんてチャチなものじゃない、もっと恐ろしいものの片鱗を―――」士郎はうろたえた。自分でも何を言っているのか分からなかったが、やがて正気に戻る。「まあ、確かに言いくるめられた感はあるけどな。でも、部員が仲違いしてるのをどうにかしたい、なんて言われたら断れないだろ」
「どういうこと?」この疑問はイリヤスフィールだった。「士郎が合宿に行くと、不仲が解消されるの?」
「そうじゃなくて、そうするための機会を作りたいってことらしい。新入部員を歓迎するって名目で」

 ちなみにこれは後に判明することだが、その名目どころか、士郎の参加どころか、士郎の存在すら知らされていなかった部員もいたらしい。

「ふぅん」士郎の回答で興味が薄れたのか、イリヤスフィールの視線はテレビへと戻った。そして、聞かせるつもりがあるのかないのか、ぽつりと言う。「仲の悪い人間を無理矢理一ヶ所に集めて、上手くいくとは思えないけど」

 その声は、士郎の耳にはいつまでも残り続けた。







 そして合宿の日がやってきた。

 事前に何を準備しておくべきかを知らされたのは、恐るべきことに前日、すなわち昨日の朝だった。本当に誘うつもりがあったのか、士郎は疑問に思ったものだった。
 しかし、そんなことよりも、こちらに来てから誰にも教えていないはずの電話番号に太一から電話がかかってきたことが一番の謎である。そのことについて尋ねてはみたものの、結果は芳しくなかった。なんだかんだとはぐらかされ、それ以上に士郎もあっさりと諦めすぎたのだ。士郎は、学院の教職員から聞いたのだろう、と勝手に納得している。

 今日は朝から暑い。
 風通しが悪く、加えて火を扱うキッチンの気温は特に酷い。士郎の部屋にはエアコンなどという文明の利器は設置されていないので、扇風機が頼みの綱だ。

 朝食は手軽に済ませ、食器を洗い、ガスの元栓を締め、換気扇が止まっていることを確認し、最後に窓を閉める。それらをすべて確認した上で、昨晩用意しておいた大きめのバッグを担ぎ、

「……むむ」

 携帯電話に受信あり。
 壁の薄いアパートなので、受信音は鳴らないように設定してある。ブルブルと震える感覚が、ポケットの中に響いていた。
 表示されている番号は、昨日の朝と同じく士郎の知らないものだ。

「――はい」スピーカーを耳に当て、士郎は電話に出た。
「エミヤ様でしょうか?」聞き覚えのある声は、イリヤスフィールのメイド、セラのものだった。

 セラはメイドであると同時に、イリヤスフィールの魔術の師でもある。
 魔術回路に人の形を与えたといわれるイリヤスフィール。そんな彼女の師であるというならば、その腕はどれほどのものなのか、士郎にはとんと見当もつかない。
 だが、電話の向こうにいるセラの声は、イリヤスフィールの師としてのものではなく、どうやらメイドとしてのものらしい。
 魔術師はどのようなときでも冷静沈着。氷の理性で自己を律してこその魔術師である。セラの声には、しかし、そのような要素が欠けていた。むしろ焦ってすらいるように感じられる。証拠に、挨拶もなしだ。
 そして、電話をかけてきたのが消去法的にメイドとしてのセラであると考えるならば、そして彼女が焦っているのならば、用件は火を見るより明らかだ。

「イリヤに何かあったのか?」
「昨晩、お嬢様から連絡をいただき、フジムラ様のご自宅までお迎えに上がったのですが―――」しばしの沈黙。「今朝からお嬢様の姿がお見えにならないのです。先ほどトオサカの当主にも連絡をとりましたが、確認できないと」
「…………」士郎は自分自身に落ち着けと言い聞かせた。「俺に何かできることはあるか?」
「そちらに伺っておられるかとも思ったのですが……、その、自動車の方も姿を消しておりましたので……」

 自動車――メルセデス・ベンツェ300SLクーペのことだろう。ベンツでもバーサーCARでもなく、ベンツェ。
 士郎は見たことがないし、ちょっとその光景を想像もできないのだが、イリヤスフィールが自分の手でハンドルを握ることもあるという高級車である。

「いや、こっちには来てない。自動車がないってことは、イリヤは自分の意志で出かけたってことだよな」行動半径は、手当たり次第探すという方法がとれない以上、実質的に無限と考えていい。「どこか他に心当たりはないのか?」
「ありません。エミヤ様には?」
「ちょっと思いつかないな……。イリヤを何度か連れていったことがあるのは学校か新都ぐらいだし、そこなら黙って行く必要もないだろ」
「そうですか……」セラの声はしおれた朝顔みたいに弱々しい。「わかりました。ではこちらは捜索に戻りますので、万が一お嬢様がそちらにお見えになったら、ご一報ください」
「わかった」士郎は電話での会話であるにもかかわらず頷いた。
「朝からお手数をおかけしました。それではこれで失礼します」そう言って、セラは電話を切った。

 短い時間の通話だったが、部屋の気温が上がっていた。
 額から汗が垂れ、眉間を伝った。
 士郎が冬木市にいたならば、無駄だとわかっていても自分の足で探しに出ただろう。いまは、それすらもままならない。
 自分が何もできないことに、士郎は強い焦燥を覚えた。

「とりあえず、黒須に連絡か……」士郎は呟き、携帯電話のキーを操作し始める。

 イリヤスフィールの安否を確認することなく合宿に参加できるほど、衛宮士郎は暢気な人間ではない。
 合宿を部員たちの仲直りの場にしたいと言った太一に申し訳ないと思いつつ、断りの電話を入れるために、登録したばかりの番号を探し出す。それほど多くない中から発見した『黒須』を選択しようと士郎がボタンに指をかけた、まさにその時だった。

「………ッ!?」

 何が起きたのか分からなかったが、
 何か起きたのは分かった。

 ―――なんかバッグがもぞもぞ動いてる。

 生きたタコとか、入れた覚えはない。
 断言していいが、士郎が昨晩バッグに詰めたのは合宿のためのものだけである。決してナマモノ、入れていない。

 士郎は恐れおののきながら後ずさった。
 その瞬間、士郎は雷に打たれたかのように気づいた。天の采配としか思えない。そう、ちょうど手には携帯電話が握られている。
 緊急救急レスキューアーミーレンジャー戦隊の助けを呼ぶにはもってこいの道具である――ッ!

「あわわわわ……」

 混乱と手の震えのせいで思い通りにボタンを押せなかった。
 かつてサーヴァント連中に命を狙われたのとはまた別種の恐ろしさがあった。いや、人が恐怖するのは、基本的に正体不明なものなのだ。サーヴァント連中こそが別種である、というのが正しいのだろう。しかし、それはいまはどうでもいいことだ。

 士郎が部屋の隅で小動物のように警戒していると、やがてバッグの動きがピタリと止まったのだ。まるで、死に際にもがいていた命が尽きたかのようだった。

 爆弾処理班の慎重さで、士郎はそろりそろりとバッグに近づく。
 危険物、というより汚物を触るかの如き手つきで、ゆっくりとファスナーに触れる。
 バレンタインデーに好きな先輩にチョコレートを渡す女の子よりもドキドキしながら、ゆっくりとバッグを開く。

 そこには―――







 今にして思えば、現地集合というのが罠だったのだろう。

 越してきたのは夏休み前とはいえ、士郎がこの町で過ごした時間は、実質半月にも満たない。手近なスーパーマーケットなどの所在地はしっかりと押さえているが、昨年の合宿を行った場所、などと言われても分かるはずがなかった。加えて、『丘』という名の山は、少し道を逸れるとすぐに迷ってしまうと聞く。
 そういうわけで、士郎は今回の合宿の発起人、黒須太一に先導されて山道を進んでいた。

 整備された道では明らかにない、二人が歩を進めるのは獣道だった。太一いわく、時間が短縮できる、とか。
 木が生い茂っているため、夏の午前中なのに周囲は薄暗い。空気もどこかしっとりと湿っているように感じられて、"山登り"は覚悟していたほど厳しいものではなかった。
 しかし、考えてみれば当たり前で、この合宿には士郎や太一よりも年若い少女らも参加するのだ。運動部が有り余る体力を絞る目的で行うような合宿とは、根本からして異なる。

「というか、どうして、男二人で、俺たちは、男二人で、山登りなんか、男二人で、してるんでしょうね、男二人で……!」現状に大いなる不満を抱いているらしい太一が、歩くリズムに声を乗せて、振り返らずに言った。
「いや、それは俺の疑問なんだが……」一方、士郎は、薄暗い中で強烈に目を引く前方の白い頭を見ながら答えた。「もしかして、一緒に山登るのも無理なくらいに仲が悪いのか?」

 事ここに至って、士郎は未だに放送部の中身がどのようなことになっているのか、詳しいところを知らないのであった。いや、それどころか、今日の合宿に何人が参加し、その内の何人が男で女なのか、何年生なのか、そもそも人間なのか、といったことすら知らされていない。

「ぶっちゃけ、あらゆるところにキューバ危機が」太一が冗談めかした声で言う。「あるいはメルトダウン直前のチェルノブイリでも可」
「たしかこの町、原発があるんだよな」

 実に不謹慎な比喩だった。

 それにしても、いままで放送部の内情に関して何度も尋ねてきたのに、よりにもよってこのタイミングで返答がくるとは。
 士郎は内心で唸った。
 既に離脱できる状況ではないことくらい、士郎にも分かる。もちろん太一もそれを分かった上で、ようやく返事をしたのだろう。
 元より断るつもりがなかったとはいえ、抜き打ちテストじみたやり方に、そして予想以上に状況が悪いということに、士郎は困惑を感じた。

「そんな状況で、よく全員を集められたな」

 返事はない。
 ザッ、ザッ、とアスファルトの上を歩くのとは違う足音が二人分、セミの鳴き声に紛れ込む。
 士郎はこめかみから頬に一筋作った汗を袖で拭き、肩をずり落ちてきたバッグの位置を直した。それから数秒か、数十秒か経って、唐突に気がついた。
 そもそも、一緒に登山もできないような関係の人間同士が、合宿に集まるはずがないのではなかろうか。

「同じですよ」士郎が気づくのを待っていたかのようなタイミングで、太一は言った。「必要な情報しか教えてません。集合時間も、到着する順番を考慮して伝えてますし、これは山頂で遭遇戦ですなー」

 太一が素直に白状したことに、士郎は驚いていた。
 太一の態度は、士郎を道具として使ったことに対する、彼なりの精一杯の誠意だったのかもしれない。出会いの印象が強烈すぎたせいで、自分の中にある黒須太一像は、見るも無残に歪んでいたのだ。どことなく自嘲するような彼の言い草を耳にして、士郎は少し反省した。
 ―――あの時の黒須は、きっと暑さにやられていたのだ、そうに違いない。
 実は士郎の中にある歪んだ姿こそが真実に近いのだということを、付き合いの短さから、士郎はまだ知らない。何ごとも、知らぬが華である。

 それから二人は黙々と山を登り続けた。単純作業のように足を進める様は、修行に勤しむ僧に似ている。
 何度ぬぐっても湧き出てくる汗は、雨に降られたかのようにシャツを濡らした。時折木々の隙間から吹き抜ける風が、数少ない救いだった。

 どれほどの時間が経過したのか、ついにたどり着いた目的地には、まだ誰もいなかった。士郎と太一が一番乗りだ。

 ふぅ、と息をつき、士郎は木陰にバッグを置いた。否。置いたというよりは、肩から滑り落としたとでもいうべきか。とにかく、丁寧とは言い難い扱いをした。
 ゴン、と鈍い音がした。
 同時、

「ふぎゅっ」

 バッグが悲鳴を上げた。

「…………」士郎は、奇妙な感覚――既視感を覚えた。
「…………」太一は、何事かと士郎とバッグを交互に見た。

 男二人で奇妙な沈黙に包まれるのは、なかなかどうして士郎には新鮮だったが、幸か不幸か雰囲気を味わう余裕などなかった。
 一秒が一分に、一分が一時間に引き延ばされる嫌な感覚だ。
 それを振り切るために、士郎は勇気を振り絞って自分のバッグを開いた。

 そこには―――紅い瞳。
 それで士郎は今朝の、すなわち数時間前の記憶を取り戻した。





『い、イリヤ……!?』
『あ、バレちゃった』
『なんでこんなところに……、いや、それよりも、なんでこんなところに……、じゃなくて』
『言い直せてないじゃない。もう、こんなに早く見つかるなんて、不覚だったわ。―――仕方がないから、ねえシロウ、わたしの眼を見て』
『え……?』
『いいから! しっかり見ないとダメなんだから』
『あ、ああ、……………………あ―――れ? なにしてるんだ、俺。―――げ、時間ギリギリじゃないか』





 目が合い、紅い瞳の持ち主は、士郎が全てを思い出したことを悟ったのだろう、にっこり笑ってバッグからずるりと這い出てきた。
 その光景は、ちょっとだけグロかった。

「ね、シロウ、びっくりした?」

 したに決まってる。
 上がった体温が一気に下がったかと思うほど、士郎は驚いていた。

 数秒後、士郎は呼吸することをようやく思い出し、口を開いた。「―――待て、黒須。なんで携帯電話」
「ロ、ロロロロリ、真性のロリコンが出たぞぅッ! 我々はとんでもない怪物を引き入れてしまったようだ……」携帯電話片手に、太一は超エキサイトしていた。「駄目だインモラル、来るな! 愛貴族たる俺は、これから貴族としての使命を果たす。人里から幼女をさらってきたロリコニアン・ウルフを俺が倒すまで、山には決して―――な、なんだと、もう到着する……!?」

 バッ、っと効果音が鳴る勢いで、太一は先ほど自分たちが通った道へと振り返る。

「あ、太一。それと……」新たなる登場人物インモラル、またの名をシスコンオナニーのプロは、初対面の士郎と、その傍にいるイリヤスフィールを怪訝そうに見た。彼は、士郎の存在を告げられていない一人だった。

 もうグダグダだった。





 入部するにあたって芸名を必要とする放送部のしきたりに従い、ロリコニアンウルフという大変に不名誉な名を得た士郎は、とりあえずイリヤスフィールを連れて山を下った。遠く離れた冬木の地で、いまも必死にイリヤスフィールを探しているメイドたちを思ってのことだった。加えて、イリヤスフィールがバッグの内側を占領していたために合宿に必要なものが何一つなかったので、それを取りに戻るという意味もあった。

「いいのよ、たまには息もメイドも抜かないと、わたしだって疲れるわ」
「いつも藤村組で好き放題やってるじゃないか」
「実は動物園に興味があったの」
「動物園? なんで急に……待て、あいつらは動物じゃない」
「似たようなものでしょ? 希少種ばかり集めてるんだから、博物館でもいいけど」
「いいわけないだろ。……とにかく、一度向こうに連絡するからな」

 という会話を経て、登ったとき以上の時間をかけて下山、再び上る作業を繰り返してアパートの最上階にたどり着く。
 士郎は、イリヤスフィールが住んでいる藤村の家に電話をかけた。次いでメイドのセラへと連絡を取り、小一時間ほどグチグチと文句を言われ、さらにイリヤスフィールが徹底抗戦の構えを取ったことにより通話時間が飛躍的に跳ね上がったが、結局、イリヤスフィールが電話を切ったことによって決着がついた。
 電話代も心配だったが、それ以上に自分の命が心配になる士郎だった。

 イリヤスフィールは強情だった。そして士郎は、イリヤスフィールに勝てたためしがない。唯一の勝利は、もう半年以上前、アインツベルンの森でのことだ。
 もしや自分は本当にロリコニアンウルフなのやもしれない、と自身の性癖に危惧を覚えつつ、士郎はイリヤスフィールの合宿への同行を受け入れることにした。これは、電話で太一に連絡を取ったところ、二つ返事で許可が下り、逃げ道がなくなってしまったという情けない理由によるものだ。

 イリヤスフィールはイリヤスフィールで、ちゃっかりと数日分の着替えを準備してきていたらしい。一度士郎のアパートに戻ってくることも計算に入れて、荷物はしっかりと車内に置きっぱなしであった。
 少女の荷物は当然の如く士郎が持ち、二人は二度目の登山に挑むことになる。運動を目的としない体のつくりをしたイリヤスフィールに合わせ、頻繁に休みをはさんでの行軍だ。水分補給も欠かせない。

 太一と登ったときの倍以上の時間をかけて、士郎とイリヤスフィールはついに元の場所にたどり着いた。

 そこには既に、何やらギスギスとした空気が出来上がっており、お世辞にも二人を歓迎するといった雰囲気ではなかった。
 その雰囲気は、果たして、合宿の最後までコールタールのように場にまとわりついていた。




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一話目投稿にしていきなりタイトルを間違えるといううっかりをしてしまったので、タイトルの方も修正いたしました。



[3205] サイレントシティ■月■
Name: 男爵イモ◆16267a69 ID:23e52052
Date: 2008/08/08 19:18
□■月曜■□


「ぐえっ」

 変な声を上げて、士郎は目を覚ました。
 腹部に走った鈍痛。まるで空から降ってきた岩に押しつぶされたような。

「…………イリヤ」
「おはよう、シロウ」

 なぜそんなに楽しそうなのか、とか。
 なぜそんなに元気なのか、とか。
 色々尋ねたいことはあったのだが、一番訊きたいのは、

「なんで俺の上に乗ってんだ?」
「だってシロウ、死んだように眠って起きなかったんだもん」
「"もん"と言われても」

 士郎はイリヤスフィールを丁寧に押しのけて、それから上半身を起こした。少なくない汗をかいていたようだ。寝巻きが肌に張り付いて気持ち悪かった。
 高いところは暑い。したがって、アパートの最上階にある士郎の部屋は暑い。
 イリヤスフィールに叩き起こされるまでもなく、もう数十分も経てば暑さで目を覚ましていただろう。
 欠伸をかみ殺して、士郎は立ち上がる。寝ている間に固まった体をゆっくりと伸ばして解す。
 考えてみれば久しぶりの布団の上での睡眠だった。だからだろう、体に疲れは残っていない。
 というのも、士郎は昨日まで放送部の合宿に参加しており、昨晩帰宅したところなのだ。慣れない環境での、初対面の人物が多い中での生活は、体よりも心に負担が行ったように士郎には感じられた。澱のように溜め込んだそれは、しかし久しぶりの安眠で、どうやらきっちり吐き出されたようだ。
 そこまで昨日までのことを思い出したところで、

「―――ああ」

 起動に何分もかかるコンピュータのように、士郎はようやく理解したのだった。



 昨晩。
 気疲れするばかりの合宿が終わり、皆で下山した。
 人類は姿を消していた。



「セミの鳴き声すらしないのか」

 呟いた声が妙に通り良く聞こえる。
 ギラギラ輝く太陽。生ぬるい風がゆるりと流れる。
 さわさわと木々が揺らめくかすかな音しか聞こえない。これではまるで群青学院と同じだ。
 昨晩の内に、ガスも電気も水も止まっていることを確認していた。なので、そんな状態でも準備できる献立は考案済みだった。
 栄養が第一、準備のしやすさが第二の選択基準だ。
 そのように考えたとき、まず手間のかかる米は却下となる。主食は出来合いのパンで代用できる。遠くない未来、いや、未来というほど遠くない時間の後に製品として形になっているパンもダメになるだろうが、それまでのつなぎとしてなら及第である。野菜も同じく、いくらかはスーパーマーケットから調達を完了している。こちらはパンより早く寿命が来るだろうが、自分で菜園を作ればどうにかなるだろう。
 非常識な事態だ。異常な事態だ。
 もちろん士郎とて、原因を探るつもりはある。だが、そもそも現状すらよく分かっていないのに原因も何もない。だから士郎はまず町の様子から調べることに決めていた。
 現状の解明を達成するだけで長い時間がかかるだろう。原因の究明ともなれば、どれほどの時間がかかるかは士郎には目算も立てられない。
 だからこそ、まずは生活の安定を目指す必要がある。それも長期にわたって。
 目的を達成するために目標を立て、目標を達成するために更に条件を設定する。その根元にあるのが、まず自分が生きていなければならない、ということだった。
 そして、生きていなければならないのは自分だけではない。同じ学院に通い、合宿に参加した放送部員たちがいる。彼らとは知り合ったばかりだが、そもそも知り合いでなくとも士郎は助けようとしたはずだ。

「イリヤ、できたぞ」

 パタパタと団扇を仰いでいたイリヤスフィールに、キッチンから声をかける。狭い部屋なので叫ぶほどではない。
 手早く作ったサンドウィッチ。いくつかの大皿に盛って、居間に戻る。
 このままでは昼前にはアイスクリームのように溶けてしまいかねない様子のイリヤスフィールは、気だるげに士郎へと目を向けた。そして見事な出来の朝食を見て、シャキーンと元気になった。意外と現金なのか、それとも料理人に気を使ったのかは、士郎では見抜けなかった。

「無理しなくてもいいんだぞ」
「いいの。それよりシロウ、いつまでも立ってないで座ったら?」
「ああ。いや、ちょっと待ってろ」

 言って、士郎はそのまま踵を返して玄関へと向かう。ギィ、とドアが開く音。バタン、とドアが閉まる音。どういうわけか、士郎は部屋を出て行ってしまった。
 イリヤスフィールはぽかんとしながらそれを見送る。日常での突飛な行動はそれほど多くない、むしろ真面目な日々を送る士郎だ。だからイリヤスフィールには士郎の意図が読めなかったし、何が起こるか予想もつかなかった。
 ドンドンと他所の扉を叩く音が聞こえた。それは何度か続き、やがて止む。
 士郎が戻ってきたのはほんの一分後だった。

「どうしたの?」
「いや、山辺にも声かけようと思ったんだけど」
「ミッキ……ミキ?」

 ちょっと危ない発音をしかけて、イリヤは言いなおした。
 士郎は華麗にスルーして言葉を続ける。

「もうどこかに出た後みたいだった。佐倉にでも会いに行ったのかもな。返事がなかった」
「だからちょっと多めなのね」

 イリヤスフィールは四角くカットされた白い食パンを視線で指した。
 士郎は頷く。

「昨日はかなり混乱してたみたいだから心配だったんだ」

 イリヤスフィールの対面に、士郎が腰を下ろす。二人が囲むこのちゃぶ台を初めて見たとき、何の影響なのか、イリヤスフィールは喜んだものだった。
 二人で食べるには少しばかり多いパンの小山を、士郎はイリヤスフィールの方に寄せた。

「余った分は包んでおけば昼にでも回せるし、無理して食おうとしなくてもいいからな。ほら、何飲む?」
「とか言いながら、もうジュース入れてるじゃない」
「ん、じゃあさっさと食っちまおう」

 グラスを渡して、士郎はサンドウィッチに手を伸ばした。イリヤスフィールもそれに続く。
 二人してもしゃもしゃと朝食をとる。イリヤスフィールは主にジャム系を狙っているようなので、士郎はそれを避けるように密かに注意を払っていた。

「それにしても」士郎が言う。「何なんだろうな」

 なにが? とイリヤスフィールが目で問う。
 士郎は窓の外を一度見て、

「夢を見てるって言われた方が、まだ納得できそうだ」
「そう? でもシロウ、仮にそうだとしても、目覚めるどころか夢だって気づくことすらできないと思うけど」
「……む」
「もしかしたら、いまこうしてシロウと喋ってるわたしも偽物で、ホントは本物のイリヤスフィールに夢を見せられてるのかもしれないじゃない。わたしなら気付かせるような失敗はしないし、あり得なくもないでしょ? もしかしたら、シロウが気づいてないだけで、何度も何度も同じ一週間を繰り返してたりするかもしれないわ」

 にぃ、とこれまた楽しそうに意地悪な笑みを浮かべるイリヤスフィール。
 魔術の使用を考慮に入れれば、その類への抵抗力の低い士郎は、十分に虜たりえる条件を満たしている。イリヤスフィールの行ったことを否定できる材料はない。
 むむむ、と唸り、士郎は眉根を寄せた。
 言われてみれば、たしかにそうだ。現実感のある夢は、それが夢であると主観からは看破し得ないのだ。現実こそが、現実感のある夢のようなものなのだから。

「ふふふ」

 考え込む士郎の顔をじっくり堪能してから、イリヤスフィールが笑った。今度の笑みは、可愛らしいそれだった。だが、イリヤスフィールに言わせれば、出もしない答えに悩む士郎こそが可愛らしいのだとか何とか。
 無言のしかめっ面で遺憾の意を示す士郎を更に笑って、

「それならそれで、リンあたりが助けに来てくれるんじゃないかしら」
 
 などと、少女はあっさり解決策を示して見せた。
 士郎は「ああ、そうだな」と納得し、まずはいま現在向き合ってる世界で頑張らなければいけないのだと再確認する。結局、最初と同じ結論なのだ。
 要するに、これはただの雑談。食事の間にはさむコミュニケーションだ。
 最近では二人の間のコミュニケーションといえば士郎が一方的にからかわれるだけになってきているのが納得いかないが、イリヤスフィールの笑顔が見られるならば高い買い物ではないと諦めてもいる。少女の方もそれを承知の上でじゃれついているのだから、これはこれでいいコンビなのだった。

「それで、シロウは今日はどうするんだっけ?」
「とりあえず食料と水を確保しようと思ってる。昨日、島が言ってただろ、ほら……」
「平和維持活動部?」

 名前を思い出せずに詰まった士郎に、イリヤスフィールが助け船を出す。が、それはドロ船なのだった。
 しかも士郎はドロ船と気づくことなく乗ってしまう。

「それだ。全員に配れるだけの食糧と水を探しながら、ついでに街の様子も見てくるつもりだ」
「ふーん」
「イリヤはどうするんだ? 日中この部屋にいるのはあまりオススメしないぞ」

 食料を調達して帰ってきたら、溶けたイリヤスフィールが畳に染み込んでいたりするなんて嫌すぎる。
 少女も似たような絵を思い浮かべたのだろう、げんなりしてしまう。それから少しだけ考えるしぐさを見せ、

「そうね、わたしはder Mercedes……車の中で涼んでようかしら」
「その手があったか」

 ポン、とこぶしを手の平に落とす士郎。
 それを呆れたように見るイリヤスフィール。

「なに? 自分の足で歩きまわるつもりだったの?」
「せいぜい自転車くらいだったんだけど、そうか、燃料も確保しといた方がよさそうだな」
「別に必要ないと思うけど……、ううん、士郎がやりたいなら別に構わないわ。そうね、わたしもやることがあるわけでもないし―――」イリヤスフィールは外見に似合わぬ妖艶な笑みをつくり上げ、「手伝ってあげよっか、おにいちゃん?」
「…………ッ」

 士郎は自然と呼吸が止まっていたことに気づいた。彼の妹分は、時々不意打ちで、このように効果が計算されつくした仕草をする。反応してしまう士郎も士郎だが、普段とのギャップを考えれば仕方のないことなのかもしれない。
 だが、士郎だってたまには反撃してみたくなる。してみたくなる時に反撃のタネが見つかることは稀なので、彼の反撃率は低空飛行を続けるのだが、今回は稀なケースに相当するようだった。

「だったら代わりに俺も口元を拭くのを手伝う」

 口元のジャムとパン屑を、イリヤスフィールが反応する前にティッシュペーパーで拭き取った。押せば押し返してくる柔らかい頬の感触が指先に楽しい。無駄にムニムニとつまんでみた。
 イリヤスフィールは思いがけぬ逆襲を目を丸くしたまま、士郎の犯行を見逃してしまった。伸ばされた手が自分の顔から離れていくのを見て、ようやく何が起きたのか認識した。大きな目を吊り上げて怒りを示すが、そんなものは羞恥に赤く染まった頬とセットではいかほどの効果もなかった。それどころか逆効果でさえある。

「もう、信じられない! レディになんてこと……!」
「人を面白半分でからかうからだ」

 フグのように頬をぷくーっと膨らませて怒るイリヤスフィールは、結局、しばらくの間機嫌を直さなかった。







 無人の街をベンツェが往く。ステアリングを握るのは、つい先ほど機嫌をなおしたばかりのイリヤスフィール。小さい体で危なげな体勢をとってはいるものの、手つきは熟練のそれだ。車両同士の交通事故の確率がまず皆無といっていい状況であるから、スピードはそれほど抑えていない。
 窓の外を家々が流れていく。士郎の優れた視力は、そこに何か不審な物事が存在しないかしっかりと観察していた。

「どっち?」

 迫って来た分かれ道を前に、イリヤスフィールが声だけで助手席に問う。士郎は右手方向を眺めるのを止め、正面を向いた。田崎食料の看板が視界に入る。

「そこは―――、いや、ちょっと停まってくれ」

 食料が置いてあるのが明らかなので、先に回収しておこうということだ。
 了承の返事は、すぐさま減速でもって行われた。要求の理由を察していたからだろう、車はぴったり商店の前で停止した。
 少し待っているよう言ってから、士郎は車を降りた。とたん、押しつぶすように熱い空気が体を包む。息苦しいとさえ感じられる熱気は、自然と士郎に顔をしかめさせた。
 まるでゲルの中を泳ぐように空気をかき分け、士郎は田崎食料へと足を踏み入れる。扉をくぐれば、閉鎖空間であることに起因する更なる熱気が待っていた。適当にダンボールでも見積もって、それに食料を詰めて持ち出そうと考えたところで、しかし手が止まる。目が、あるものを捉えたからだ。
 何枚も重ねて貼り付けられたメモ。
 商品名と値段、そして見知った苗字。一番上には9月7日、つまり今日の日付。人がいないのに決まりを守るのは、異常事態の中にあってへ異常な心を守るための行動だろうか。
 何枚かめくり、過去のものにも目を通す。

「やめとくか……」

 一言つぶやいて、士郎は手ぶらで引き返すことにした。
 この店が通学路の途中にある放送部員も数名いる。彼らがこの店を利用するのならば、手をつけないほうがいい。マラソンの道途中に飲料が用意されているように、生活圏の中に物資を確実に補給できる地点を作っておくのは悪くない。田崎食料のほかにも数ヶ所、似たような地点を作って告知しておくべきだろうか。
 簡単な計画を立てながら、車に戻る。
 短い時間だったが、もう汗をかいたようだ。車内の冷房がひやりと冷たい。
 収穫なく帰還した士郎に、もの問いたげな視線が向けられる。

「山辺や黒須も使ってるみたいだったから、ここには手を着けずにおこうと思う」
「ふぅん」

 特に思うところがないのだろう、おざなりな返事。隣に士郎がきちんと座るのを確認してから、少女はアクセルペダルを踏んだ。
 それから数分で目的地に着いた。

「わ、なにこれ」

 弾んだ声が上がる。高い塀、というより壁に囲まれた施設を見てのことだった。
 士郎も初見で驚きはしたが、運転席ではしゃいでいるイリヤスフィールのように面白がりはしなかった。自分が通うということを抜きにしても、何か異常なものを感じたからだ。それが何であるかを適切に説明する言葉が見つからないが、あえて言葉にするなら、ざらついた灰色といったところだろうか。人の心に巣食う灰色を物質にすれば、ちょうど群青学院を囲むそれになるのではないか。
 二人の乗った車は速度を落とし、ゆるゆると壁に沿って走っていた。傍で壁を観察したいが、しかし外に出るのは嫌なのだろう。その両方を叶えるための、極力壁に近づけての運転である。
 一度正門を通り過ぎ、そのままぐるりと敷地の外側を撫でるように周回して戻ったきた。そこには、先ほどまではいなかった人物が立っていた。
 島友貴だ。
 彼は昨晩、事態を大まかに把握すると、食料集めを始めることをいち早く宣言していた。そこに協力を申し出る形で士郎も参加を表明したのだ。部員同士の仲がギクシャクしていることもあって、協力者はそれ以上現れなかった。そこに今朝、イリヤスフィールが参加を決め、この町に生存する全員の食料事情は三人の手に委ねられることになった。もちろん個々人でもどうにかするのだろうが、長期的な生存を考えたとき、士郎たち働きがきっと生きてくるはずだ。
 炎天下、強烈な陽光を銀色の塗装で反射する外国産の高級車を、いや、その運転席をこそ驚きの目が注視していた。
 後輩になった少年が見せた表情に、士郎は苦笑する。自分だって、小さな少女が車を巧みに操る光景を見たら、何かの冗談かと思うはずだ。実際、今日初めて見るまでは、話に聞いても想像すらできなかったのだから。
 だが、さすがは放送部員であるといったところか、十把一絡げの奇行にわざわざ声を上げたりなどしない。それどころか、メルセデスが彼の前に停車したとき、当たり前のように「おはようございます」などと挨拶をして見せた。

「おはよう、島」

 返事を返しながら、士郎は太一に聞いたことを思い出していた。島は元バスケ部員である。体育会系の部活動出身者なだけあって、学内での年上への礼儀というものが刷り込まれているのだろう。士郎も短い期間とはいえ弓道部に所属した経験があるので、まだ付き合いの短い後輩の敬語に自然な対応できた。
 士郎はイリヤスフィールに目を向け、イリヤスフィールはうなずいた。その許可をもって士郎は友貴に声をかけ、後部座席へと招き入れた。

「うわ、涼し」思わず、といった風に友貴が感想を漏らした。そして、すぐに次の思考へと続く。「そっか、燃料ガソリンも―――」
「俺もそのうち燃料は集めようと思ってるんだが、とりあえず今日は食料と水にしないか?」
「あ、はい。そうですね」

 我に返り、もともとの目的を思い出す。
 士郎は友貴に、先ほど田崎食料で考えたことを話した。皆が日常で使うような施設からではなく、大型の、たとえばスーパーマーケットなどを標的として食料を集めよう、と。そうした方が効率よく集められることも考慮に入れれば、友貴がそれに賛成しないはずもない。かくして彼らの意思はひとまずの統一を得ることとなる。
 それから二人でしばらく話し合い、計画を煮詰めていく。といっても、担当区域や回収を優先する物品、そしてそれらの保管場所くらいしか決めるべきことはない。そんなわけで、小さな会議はすぐに幕を下ろした。
 その間、イリヤスフィールは特に何をするでもなく傍観に徹していた。本当に、涼むついでの運転手と洒落込むつもりらしい。そんな少女が気になるのか、友貴はときどき目だけでそちらを見ていたが、結局、彼女について言及することはなかった。
 会議もお開きになり、さてそろそろ出発するかという頃になって、士郎は自分が大切なことを伝え忘れていたのに気がついた。

「―――あ」あわてて口を開く。「それと、スーパーマーケットには数日分しか……と言ってもスーパーで捌く量の数日分って意味なんだが……商品が置かれてないのは知ってるか?」
「そうなんですか?」

 士郎は頷く。

「普通、スーパーっていうのは集荷センター、要するに外部の倉庫なんだが、そこから売り物を運び込む仕組みになってんだ。だから本当は、その倉庫を狙いたい」
「何か問題があるんですか?」
「いや、問題というか、それ以前に」士郎は少し言いよどみ、「……場所が分からない」

 越して来たばかりではなくとも、普通は知らない。かろうじてそのような仕組みになっていることを知っていたのは、かつて多くのアルバイトを転々としてきた経験による。
 ―――どこにあるかおまえは知ってるか?
 士郎はそんな目を向けてみたが、そもそも存在すら知らない人間が所在地を知るはずもない。あえなく首を横に振られてしまう。二人してため息をつくことになった。
 こうして、倉庫に関しては、知人に訪ねて、それでもダメなら地図に頼ろうということになった。問題の先送りである。とにかく今日はスーパーマーケットを襲撃して、当面の食糧危機を乗り切らねばならないのだから仕方がない。

「じゃあ行くか。イリヤ、頼む」
「それはいいけど、ちゃんと案内してよねシロウ。ここに来るときだって、方向だけ言って自分はずっと外見てるんだから」
「いや、それは……」

 町に異常がないか――異常しかないとも言うが――探していたのだが、異常を発見できなかった以上、呆けていたと見られても仕方がない。
 士郎は素直に頭を下げた。

「俺が悪かった。今度はちゃんとナビを務めるから、許してくれ」
「そこまで言うなら許してあげるけど」

 朝の出来事を引きずっているわけではないのだろうが、なぜかむすっとしている。その原因が士郎には分からないので、せめて傾きつつある姫の機嫌がこれ以上垂直に近づかないように、出来るだけつつかないように気をつけることにした。
 こうして彼らは最初の標的へと向かった。





 強盗さながらに真正面からガラス扉を割って侵入したスーパーマーケットには、並べられた商品の数が、まるで虫食いのようにところどころ欠けていた。商品がきちんと並んでいない店内など、店員のいるときには見ることのできない光景だ。
 店内は、奥へと進み窓から離れるほどに薄暗さを増し、日中の森林を連想させる。違うところがあるとすれば、

「静かだな……」

 風が鳴らす音すらも、この場所には存在していないということだった。
 士郎と友貴の足音。そして現地調達したカートの車輪が回る音。
 普段、明るさと人の気配に満ち溢れている施設なだけあって、それらが無いだけで随分と様変わりするものだ。士郎はそう感心していた。

「じゃあ、さっさと集めるとするか」

 二人はその場で二手に分かれ、食料の回収を始めた。
 レトルトやインスタント食品をターゲットとする友貴とは違い、士郎は手始めになま物の様子を見に行くことにした。このところ毎日続けて夏日、真夏日である。こんな中で放置されれば、放置されて何日経ったのかは分からないが、まず間違いなくダメになっているはずだ。それでも、町がこのような状況下にあれば、一番の貴重品はなま物である。ペットとして飼われていたはずの動物から大合唱を奏でるはずのセミまで、ありとあらゆる命あるモノの姿が見えない。それはすなわち、動物性のタンパク質を調達できないということに他ならない。だから、なま物がダメならせめて加工食品は確保しておきたかった。

「む……」

 たどり着いた生肉コーナー。覚悟していた腐肉と腐臭が蔓延する阿鼻叫喚の地獄絵図は存在していなかった。代わりに、食べるのを遠慮したくなるほど温かくなった生肉が、パックの中でドロリとしていた。もしやと思い覗いてみた生魚コーナーも同じ状態だった。
 品薄ではあるものの、これだけ並んだ中から好きなものを持ち帰ることのできるというのに何一つ持ち帰れない屈辱に、士郎の主夫魂が泣いた。
 悔しがっていても仕方ないので、士郎は額の汗を拭いつつ当初の予定通りに次善の策、加工食品を当たることにした。
 こちらも一目で分かるほど品目も品数も少なくなっているが、両手の指で数えられる数程度の人間が生き残るには十分な量を手に入れることができた。これらを集めるだけで、カートを押して行ったりきたり、数往復することになった。
 そうこうしている内に、士郎は自分のすべき作業を終えてしまった。友貴の方が未だに頑張っているようなので、そちらに力を貸しに向かう。
 結局、二人が汗まみれになるほど夢中で作業した結果、この日だけでしばらく全員が食いつなげるだけの食料は集まってしまった。それだけの成果を出した二人を迎えたイリヤスフィールは、しかし、涼しい車内に汗でびしょびしょに濡れた二人が乗るをの大いに嫌がったものだった。それなりに長い付き合いのある士郎が拝み倒して、夕食の豪華さを約束しなければ、二人の男は大量の荷を持て余したまま交通手段を失っていたはずだ。
 顔をしかめたままのイリヤスフィールが運転する車は、夕日の中を進む。目的地は、今朝と同じく群青学院だ。位置的に集まりやすいこともあり、手に入れた大量の食糧を保管する場所はそこに決めていた。今日の作業はこれまでとして、明日からは段ボールに詰めて各人に配る作業に入るつもりだ。
 やがて、夕焼け色に染まった群青学院に到着した。メルセデスの車内、そしてトランクにたくさん詰まった食料品が運び出される光景に、イリヤスフィールはますます嫌そうな顔をした。それをなだめながら一通りの作業を終わらせて、本日の平和維持部の活動はこれでお開きとなった。

「お疲れさま」
「先輩も、お疲れさまでした」

 簡単な挨拶を交わして二人は別れた。
 長い影法師を伸ばした友貴の後姿を、士郎とイリヤスフィールは二人で見送った。

「島のやつ、まだ学院に用事でもあったのかな」

 友貴の後姿が吸い込まれていったのは、帰路ではなく学院の正門だったのだ。先ほどまで荷物を運び込んでいた場所であるから、あるいはこれから一人で作業を続けるつもりやもしれぬ。士郎がそう考えるのを待っていたかのようなタイミングで、イリヤスフィールが訂正した。

「違うわ、シロウ。ほら、あれ」

 イリヤスフィールが指さしたのは屋上だ。
 誰かが、宮澄見里だ、何か作業をしている。アンテナの設置作業。

「そういえば言ってたな。部活を再開して救難信号出すって」

 彼女は昨晩、部活動を再開する、と言っていた。そもそも部活動が停止していたことを知らなかった士郎は大変驚いたのだが、皆を包む雰囲気が最悪だったあのとき、誰も事情を説明してくれなかった。
 思わずため息をついた士郎に、イリヤスフィールは言った。

「あの二人、姉弟ね」

 あまりにも当たり前のように言うので、士郎は危うく聞き流しそうになった。驚きが首を少女へと向かせる。
 赤い瞳がちらりと士郎を見た。

「聞いたわけじゃないわ。こっそり覗いたんだけど、血もちゃんとつながってるみたい」
「覗いたって……」
「わたし達の仲の良さを見習ってほしいわね、まったく」イリヤスフィールは急に士郎の腰に抱きついた。「こんな風に仲良く……」
「わ、バカ、汗かいてるのが嫌だって言ったのイリヤだろ」

 汗で重たくなった衣服が、少女のの抱擁を受けて、絞られた雑巾のようなことになる。士郎の忠告は一歩遅かった。
 まるでカエルが潰れたときのような、レディが上げたとは思えないほど無様な悲鳴が上がる。そしてイリヤスフィールはふらふらと士郎から離れた。その顔は、まるでゲジゲジ虫を噛み潰したような顔。
 イリヤスフィールが次に悲鳴を上げるのは、今晩は湯船に水を張れないということに気づいたときのことなのだった。
 怒り狂ったイリヤスフィールは魔術を使って綺麗な水を調達してしまった。凛やセラに見られれば何を言われるか分かったもんじゃないと士郎は反射的に震えたが、あいにく彼女らとは連絡もつかないことをすぐに思い出す。
 士郎がイリヤスフィールに隠れてほっと一息ついたのは彼だけの秘密である。



[3205] サイレントシティ■火■
Name: 男爵イモ◆16267a69 ID:23e52052
Date: 2008/08/08 19:16
□■火曜-A面■□


 日本にわざわざお城を用意してしまうような貴族のお姫様に簡素な料理を何度も出すのは、さすがの士郎も気が進まない。そんな気持ちとは裏腹に、イリヤスフィールはそれなりに喜んでいた。彼女の場合、料理が美味しいのはもちろん喜ばしいことであるが、それ以上にエプロンを装着した士郎がキッチンに立つ姿がなぜだか嬉しいらしい。そんなわけで、イリヤスフィールは昨日の不機嫌もどこ吹く風と、楽しげに士郎の背中を観察していた。

「昨日よりはマシだと思う。……いや、あんまり変わらないか」

 そう言って、士郎は朝食を机まで運んできた。今日は蕎麦。昨日調達してきた小型のガスコンロが料理の幅を大きく広げた結果だった。ただ残念なのは、物を冷やすための氷が手に入らないこと、そして水を贅沢に使えないことだ。今後はもう"湯水のように"という言葉は成り立たないな、と士郎は自分を戒めた。昨晩、湯水のように水を使って風呂を満喫したイリヤスフィールのことは敢えて忘れておく。
 生ぬるい蕎麦を二人でずるずると啜ってから、さて今日も労働にいそしむか、と士郎は家を出る。イリヤスフィールも再びメルセデスに逃げ込む算段らしい。
 二人して長い階段を一段一段下る。

「ねえ、シロウ」先を行くイリヤスフィールが、軽く首だけで振り向いて尋ねた。「人がいなくなったんだから、もっといい部屋に住めばいいのに」
「あ、階段辛かったか? だったら」
「ううん、面倒ではあるけど辛くはないわ」
「面倒といえば、忘れ物すると大変な目にあうんだよな……」

 士郎は一度、階段を降り切ったところで弁当を忘れていたことに気付き、悔しい思いをしながら階段を上ったことがあった。その途中、下りてくる美希とすれ違い同情されたのはまだ記憶に新しい。他にはガスの元栓、鍵、窓、電灯などが気になり始めると悲惨なことになることも経験から学んでいた。

「でも、階段より引っ越しの方が面倒じゃないか?」
「どうして? 面倒なのは士郎だけでしょ?」

 そーですよねー。
 貴族は自分で引っ越しの作業なんて行わないものなのです。加えて、あの部屋は士郎自身の部屋なのだ。

「いいわ、そんなに気にしないで。そろそろ見飽きてきたから言ってみただけ」
「飽きるほど住んでないだろ」

 そもそも住居に見飽きるも見飽きないもないだろうに。いや、でもイリヤにとっては観光地みたいなものなのか。なら見飽きるというのも分からなくないな。
 そんな風に士郎は勝手に一人で納得していた。

「さて、今日はイリヤはどうするんだ?」

 一階にたどり着き、今更ながら士郎は尋ねた。何となく一緒に家を出て来たが、イリヤスフィールが食料確保の活動に参加すると言ったわけではない。昨日の協力とて暇つぶしの一環のようなものだったろうし、士郎にしても食料の仕分けとダンボール詰め程度の作業にイリヤスフィールのを煩わせるのもどうかと思う。

「わたし? そうね……シロウは忙しいんでしょ?」
「いや、忙しいってほどじゃないと思う。昨日集めた分を適当に箱詰めして配り歩くだけだし、それにしても人数は多くないから、島と分担すればすぐ終わるはずだ」
「ふぅん、そうなんだ……」イリヤスフィールは少しだけ考えるような間を置いてから、「じゃあそれが終わったら一緒に遊ぼ、シロウ」
「遊ぶって……」

 このような異常事態下にありながら遊ぶという発想が出るあたり、士郎にとっては相当な驚愕に値したのだが、当のイリヤスフィールは何でもないような顔で返事を待っている。
 もしや自分は気を使われているのか、それともこの少女も見えないところで相当にストレスをためてしまっているのか。士郎はいろいろ考えた後に、時間稼ぎでつなぎの言葉を出す。

「でも遊ぶって言っても何もないぞ」

 丘という名の山を隔ててこちら側は住宅地なのだ。それを越えるか迂回するかしなければ、町として発展した地域には届かない。体力や時間を消費しなければ、遊ぶことのできる町には行けないのだ。よしんば距離の問題を自動車で解決したとしても問題はまだ残る。士郎は山の向こうの都市に行ったことがないので、案内すらできないのだ。イリヤスフィールの喜びそうな人形店などがあったとしても、そこにたどり着けもしない。
 少なくない越えるべきハードルを士郎が示して見せたところ、しかしイリヤスフィールは、

「調査がてら街を回るのだって、二人でなら楽しいんじゃない?」

 障害物があるなら迂回すればいいじゃない、と簡単に解決策を示して見せたのだった。
 これが赤いあくまなら、華麗に飛び越してやるわ、などとのたまいそうだ。虎ならば、ハードルなんて薙ぎ倒して進めばいいじゃない、なんて滅茶苦茶言うに決まってる。弓道部の長になりリーダーシップを手に入れ始めた妹分の後輩なら、二人で一緒に頑張りましょう、と口にしたかもしれない。

「―――わかった。だったら、午後から一緒に荷物配りながら見回りしてみるか」
「うん」弾むような声でイリヤスフィールが言った。「じゃあ特別に、今日も車を出してあげる」

 言うやいなや、イリヤスフィールは駐車場へと駆けて行った。士郎も少しだけ足を速めて、その後ろ姿を追う。
 イリヤスフィールは夏の蒼天下でも着衣に一切の油断はなく、白い肌の露出は極端に少ない。だというのに見ていてそれほど暑苦しくないのは何故だろう。風にひらりひらりと揺れるスカートのせいか、それともきらきらと輝く銀糸の髪がそう感じさせるのか。
 地獄の釜のような状態になっていたのだろう、車のドアを開いたイリヤスフィールがまるで猫扱いされたときみたいな顔をした。士郎はそれを見て、笑いながら少女に近づいた。







 教室の中に人の気配を感じて、というより単純に人の話し声が聞こえて、士郎はスライド式の扉を開いた。

「もうやめて! 俺のライフはゼロよ!!」
「うるさい! 死ね、この変態!!」

 太一がボコられてた。
 殴り飛ばされ宙を舞う後輩と目が合ったので、士郎は扉を閉じた。

「…………」

 ビシッ。バシッ。ビンタッ。メメタァ。グシャ。
 数えればきりがないほどの打撃音たちが壁越しに響く。短い合宿期間中に幾度となく太一の周囲で聞いた音なので、士郎もおぼろげながら理解していた。これは彼なりのコミュニケーションなのだろう。群青学院の生徒である以上、蝋燭と鞭を使ってコミュニケーションしていようと正常なのだ。
 そんな風に偏見に満ちた理解が深まっている間に、教室内の争いは激化したらしい。耳に届く音がより一層激しくなった。
 先ほど太一と目が合ったとき、俺達の蜜月を邪魔するな、と言われた気がして士郎は扉を閉じたのだが、もしやあれは助けを求める視線だったのか。
 慌てて扉を開く。

「……ッ!?」

 何かが飛んできたので、士郎は咄嗟に扉を閉じる。が、人間の反射の速度では間に合わなかった。本来ならば防壁として働いていたはずの扉は残念ながら期待された役目を果たすことなく、しかし、代わりに真剣白刃取りのごとき神業を見せた。要するに、挟んで止めたのだった。

「……すまん」

 被害者は陸に上がってしばらく経った魚のようにぴくぴくしている。謝罪の声も聞こえてはいまい。ただの屍一歩手前である。しかし、原理は不明だが、太一の言う"コミック力場"なるものが働いた結果の悲劇は、放っておけばなかったことになる傾向にあることを士郎は学習していた。たぶん矛盾を嫌う世界の修正力か何かが働くのだ。そして、その力は決まって誰も見ていない時に発動するので、士郎は発動を促すために足もとの惨劇から目をそらした。
 伽藍とした教室には、図らずとも士郎と共犯という形で太一を始末することになった少女が一人。
 桐原冬子だ。
 数秒前まで凄まじいキラーエイプぶりを発揮していたとは思えないほど涼やかな顔で、窓の外をつーんと眺めている。あからさまに他者を拒絶する姿勢を前に、士郎は困った。このような状況における第三者の適切な行動など知らない。
 なにも見なかったふりをして去るというのが一番魅力的だが、それは今さらだろう。だからといって仕留めた獲物のように太一を引きずって撤退するのもおかしな話だし、こちらを見ようともしないお嬢様に話しかけることができるのは勇者だけだ。
 一人で三竦みしているみたいに嫌な汗をかいている士郎を救ったのは、くぅ、という音だった。飢餓収縮。いわゆる腹の虫。くぅくぅお腹が、というヤツである。発生源は士郎でも太一でもなく、窓際で頬を赤くする少女。

「まあ、運動すればエネルギー消費するもんな」
「―――ッ!!」

 独り言なのかフォローなのかよく分からない言葉は、静かな環境が災いして冬子の耳に届いてしまった。真赤な顔が、首を捻挫しそうな勢いで士郎へと向いた。
 時刻は正午まで一時間近くを残している。朝食をとるのが早かったのか、それとも太一を張り倒すのはそれほど重労働だったのか。
 だが、士郎に冬子をつつく意図はない。あくびと同じような仕組みで空腹も伝播するのかもしれない。朝食を軽いもので済ませ、つい先ほどまでずっと食料関係の労働を続けていたことも原因の一つだろう。士郎もそろそろ小腹がすいてきたのを自覚していた。

「そうだ。二人とも、昼食まだなら一緒にどうだ? ちょうど昨日集めた食料の整理が一段落ついたとこなんだけど」

 暗に、食料はたくさんあるぞ、と言ってみる。

「…………結構です」随分と迷った挙句、未だにのびている太一に視線を突き刺した。「そんな奴と一緒の空気を吸うだなんて、考えるだけで吐き気がする」

 吐き捨てるように言って、冬子は再び窓の外を。
 おお黒須太一よ、なにをすればここまで嫌われることができるのか。これではまるで在りし日のセイバーと金ピカではないか。
 あまりの険悪さに呆れを通り越して感心すらしていると、

「ではハラキリにはこれを授ける」
「黒須……起きたのか」

 聖剣の鞘もびっくりの無傷っぷりだ。
 太一は冬子の席へと歩み寄り、ポケットに手を突っ込む。そしてバスケットを取り出した。
 ―――バスケットを取り出したッ!?

「これで飢えは凌げよう。おまえは一人寂しくストーカーの味を堪能するがいい」
「ちょっと―――」
「ではサラバ!」

 冬子がなにか言う前にバスケットを押し付けた太一は素早く撤退した。見本のようなヒットアンドアウェイ。もはや何も言うまいと決め込んだ士郎と共に教室を離脱する。
 静かな廊下に戻ってきた。

「じゃあそういうことで、俺だけゴチになります」
「あ、ああ……」

 あの嫌われ方と自分の食料を提供する行動とが噛み合わない。

「言い忘れてたけど、イリヤと島もいる。それでもいいか?」

 彼らの不可思議な関係はおいおい理解していこうと考える士郎であった。





「免許証なんてなくても運転はできるし、捕まらないんだから有っても無くても同じでしょ」
「ブラボー! おおブラボー!」

 目も眩むような高級外車を幼女ド真ん中なイリヤスフィールが運転するというところに何か感じ入るものがあったのだろう、話を聞いた太一は一人で大喜びしている。確かにドイツが生んだ傑作同士、栄える組み合わせではある。が、異常なものは異常なのだ。
 そのようなことを言ってみたところ、

「このご時世、もう正常も異常もないでしょうに」太一はニヤニヤする。その矛先は、しかし士郎ではなく虚ろな目をしたままの友貴へと向いていた。「よかったな友貴センセイ! ドロドロのインモラルな変態性欲抱いても、それを異常だと罵るヤツはもう」
「黙ってくれ!」
「なにおう!」

 士郎と太一が来るまで、友貴はイリヤスフィールと二人きりだった。その間に何があったのかは当事者が口を噤むので永遠に不明だが、ただ一つ確かなことは、友貴が死んだ魚のような目をしていたということだ。食事中も、食事をとる機械のような状態だった。それが太一の言葉で容易く息を吹き返し、どう見ても楽しんでいるとしか思えない取っ組み合いが始った。
 さっそく食後の運動を始めた二人を横目に、

「ねえシロウ」
「ん? どうした?」
「不思議よね。誰もいなくなったのに、誰も困ってないなんて」

 イリヤスフィールの言葉は、"誰か"などいなくとも我々の生活には何の問題も起きない、すなわち他人など無意味ということなのだろうか。
 言われてみれば、多少の困惑こそあれ、見える範囲では誰も混乱していない。かく言う士郎自身、状況を静かに受け入れ、さっそく食料集めという行動に出たくらいだ。

「いや、でもそれは、まだ実感湧かないだけじゃないか? 小さなところで困ってると言えば困ってるぞ。電気とか水とか」
「伝聞でならともかく、実際に事態に直面して実感が湧かないなら最後まで湧かないままだと思うけど。それに、わたしの言ってる"困る"はそういう意味じゃないわ」
「む……」

 まあ、分かってはいる。
 イリヤスフィールが言いたいのは、人とのつながりが断たれても心理的に大きな打撃を被ったわけではないということだ。
 もともとの交友範囲が狭いといっても、放送部だけで人間関係が完結している者はさすがにいない。家族にしろ友人にしろ、つながりのある人間がいたはずだ。そんな人たちがいなくなったというのに、皆が皆、静かな日常に帰っている。
 士郎は、遠く離れた冬木市の住人が心配だ。いや、心配だというのは間違った表現かもしれない。なぜなら、冬木市も同じ状況であるという確信があるからだ。結果が分かり切っているのに心配はできない。それは、未知のものに対する心情である。
 おそらくは、皆が思いのほか落ち着いているのも士郎と同じ理由によるのだろう。
 そして、ここで白状すれば。
 衛宮士郎が困惑しているとすれば、それは現状にではなく、現状にあってそれほど衝撃を受けていない自分自身に対してであった。

「きっと、イリヤがいなかったら今ほど落ち着いてなかったと思う。よく知った人が一人でもいるっていうのは大きいな」
「そうかしら? 別にわたしがいなくても、それどころか誰もいなくなっても、シロウは黙々とするべきことをしそうだけど」

 実際にそうなってみなければ分からないが、そんな気もする。

「まあ、何にせよ意味のない仮定だろ。いまここにイリヤはいるんだし」
「そうだけど……まあいいわ。いまはそれよりも」

 赤い瞳が士郎から外れる。
 つられて、士郎もそちらを向く。

「こいつらをどうにかするのが先だな」

 竜虎相搏つ―――というほどのものではない。せいぜいアル■イダとバー■党組織小型犬と猫といったところか。
 力尽きた二人が、そこに倒れていた。







 たった一日の活動で、思った以上にたくさんの食料が集まった。大戦果である。これはいわば貯金ができた状態であり、当面の食生活はそれを消費することで成り立ちそうだった。かかる労力と得られる結果の目安もついた。ゆえに、士郎は食料問題への対処から一時的に手を引くことに決めた。
 空いた時間は、当然ながら現状の確認と原因の追及に当たられることになる。少なくとも士郎はそのつもりであった。というのも、実質的にはイリヤスフィールとのドライブになっている。
 無人の都市を爆走する高級外車。
 新たなる都市伝説になりそうだ、と士郎は頭を抱えた。しかし、イリヤスフィールの楽しげな顔を近くで見ていられるのは喜ばしいことであるので、文句は言わない。それ以前に都市伝説を語る人間というものも既にいないわけだし。
 そう。"死んだ"ではなく"いない"のだ。
 それが、町中を走り回って得られた唯一の結論であった。

「結局なにもわかってないってことだよな」

 誰もいないなんて、合宿から帰った晩に皆が知ったこと。魔術師二人が揃っていながら、それを再確認するだけという体たらく。士郎はともかく、イリヤスフィールでさえ何もわかっていないのだから手の打ちようがない。

「そんなことないわ。他にもいろいろとわかることはあったじゃない」
「ん? あったのか?」
「たとえばタイチがシロウをじっくり観察してたとか」
「……そうなのか?」
「合宿中からずっとよ」

 男に観察されて喜ぶ性癖は、残念ながらない。
 渋い顔になった士郎に、イリヤスフィールはにんまり笑って言う。

「きっとシロウと違って鼻がいいのね。自分にそっくりなのにどこか違う人間が気になってしょうがないんでしょ」
「どういうことだ?」
「たとえば首が一回転すると、一見普通なんだけど、そこにはやっぱり一回転分の捩れが生まれるわよね。それがシロウだとすると、たぶん彼は一回転半くらい回ってるんじゃないかしら。普段は背中を前と定義して歩いていれば、それなりに生活はできるだろうし。ほら、向いてる方向は逆なのにそっくり。それともそっくりなのに向いてる方向だけが逆だって言った方がいいのかしら」

 首の捩じ切れそうな難解な比喩だったが、意味はわからなくもなかった。わからなくもなかったからこそ納得したくないと思ってしまった。体はセクハラで出来ている、とか言い出しそうな後輩とそっくりだと評されるのは真に遺憾なのである。しかし太一に観察されていることを察知できなかった士郎が、それに気づいていたイリヤスフィールの解説に反論しても説得力はない。

「とにかく、そういうわけでシロウは彼にとって無視しがたい、興味はあるけどそれが好き嫌いまで育っていない、そんな存在なのでした」

 わーい、やったね、と締めくくるイリヤスフィール。
 対する士郎は、どこか恋する一歩手前のように聞こえる感情を向けられていると知り、遠い目をしていた。

「大丈夫よ。お兄ちゃんはわたしが守ってあげるんだから」
「守るって、俺の何を黒須の何から……いや、何でもない」

 ゲイ・ボルグ!
 ロー・アイアス!

 何か聞こえてきた気がするが全力で無視する。
 甘んじて受け入れた、もとい受け流した士郎を横目に、イリヤスフィールはハンドルをねじ伏せる。親の仇のように蹴り込むアクセル。氷の上であるかのように滑るタイヤ。対向車線も目一杯使って、何の冗談か、住宅街を時速三桁キロメートル超で疾走する鋼の車体。既に目的地まで十回以上たどり着いているはずの走行距離なのに、未だに停車する気配がない。いざとなったらイリヤスフィールだけは守って死のうと密かに覚悟を決めたのは、もうだいぶ前のことである。

「それより、なんでイリヤはそんなに詳しいんだ」

 士郎は現実逃避気味に質問を投げかけた。
 興味の有無が露骨に態度に反映されるのがイリヤスフィールだ。そんな彼女が今のところ興味を示しているのは、黒須太一、島友貴、山辺美希、佐倉霧というまるで一貫性のない四名。それ以外とは、合宿に乱入しておきながら関わろうともしなかった。そのあたりのことについて尋ねるつもりの問いである。
 イリヤスフィールは運転中にもかかわらず、んー、と考える素振りをしたあと、

「何かをじっと観察してる姿って、傍から見ると結構目立つのよ」

 と、意味のわからないことを言った。
 観察というキーワードから辿るに、先ほどの話と同様、自分を誰かが観察しているという意味なのか。すると、もしや蟻の行列に夢中になっている子どもたちを眺める気分で、イリヤスフィールは件の四名を見ているのではあるまいか。ならば自分は蟻なのか。
 いろいろな思いが士郎の脳裏を駆け巡る。そんな彼が次に発した言葉は、

「あ、ここさっきも通ったな」

 すべてを放り投げていたのだった。





 通称ハラキリ屋敷。衛宮邸も大概だが、それと比べても遥かに大きな武家屋敷だった。
 ここに住むのは桐原冬子である。なんでも武士の家柄の生まれだそうで、太一曰く地球最後の武士っ娘だとか。
 そんな絶滅危惧種の住処に士郎たちが訪れたのは、ひとえに食料配達のためだった。
 配達先の分担は、案内がなくともわかりやすい場所を任されている。具体的には、見ただけでそれとわかる大きな屋敷二つと、ご近所さんである山辺宅だ。
 大きな屋敷の片方の住人には、配達しに行ったが断られてしまった。カレーパンに生きカレーパンに死ぬ、男一匹カレーパン道だとか。そこまで言われたら引くしかない。初対面なら、人類滅亡と夏の暑さでパーになってしまったのだと思うところだった。
 何部屋か挟んだお隣さんへの配達は後回しにする。そちらは帰宅ついでで構わない。
 そういうわけで、折り返し地点への配達に上がったところである。

「おーい、いないのかー?」

 大声で呼んでみるも、反応がない。ただの空き家のようだ。
 絶叫マシーンじみたドライブを堪能している間に日は暮れて、空は暗い。人がいなくなったが、月も星も残っている。
 寝るには早いが、帰宅していないとなると、少し遅いと言わざるを得ない時刻だ。
 冬子の姿は今日の昼に学院で確認されている。士郎も自分の目で見たし、腹の虫の音を聞いた。人が姿を消したのにそのような日常の外枠をきちんとなぞっている人間が、住居だけ変えるということはないだろう。冬子は太一と浅からぬ関係があるようなので、その方面での事情で家を空けているのかもしれない。
 黒いマジックで"食料"と書かれた段ボールを、誰が見ても気づくように玄関の前に置いておくことにしよう。





□■火曜-B面■□


 太一が朝起きてリビングに降りると、毎度の如く食事が準備されていた。何を隠そう天才ストーカーによる犯行である。相変わらず過保護すぎる。
 透視するのも面倒だったので、バスケットを開ける。中には爆弾ではなくサンドウィッチが詰まっていた。食料に罪はないのでありがたく頂いておくことにした。ちなみにこういう行為がストーカーに間違った認識を与えるので注意が必要である。
 しかし本当に食材に罪はないのだろうか。太一は考える。だったら汚い金をロンダリングする必要はないのではなかろうか。ヤクザが絞り取った金も、貧乏学生が汗水たらして稼いだ金も、金は金である。やはり職業に貴賤はないとか人は外見でないとかいう言葉と同じように、食料に罪はないという言葉も見せかけだけのまやかしなのかもしれない。嘘だらけの世の中(笑)。
 どうでもいいことを考えながらバスケットの蓋を閉じる。
 上部に付いた取っ手を掴んで持ち上げる。

 ―――くぱぁ

 淫猥なオノマトペを発しながらバスケットが開いた。どうやらきちんと留め具をセット出来ていなかったらしい。中身の砂魔女が、破裂した血肉風船よろしく飛び散った。

「しまった」

 具とパンが空中分解して、テーブルに床に散乱している。適当な組み合わせを探して完成させるゲーム。
 千々に撒かれたパズルのピース。どうか、優しく配列されますように―――。
 無理だった。
 かき集めたパンの枚数が奇数だわ、キュウリがイチゴジャムと運命の出会いを果たすわで、まさに阿鼻叫喚。それでも参加することに意義があるとばかりに努力したことは認められてもいいだろう。
 混沌となったバスケットの中を確認して、太一は満足げに頷いた。
 バスケットの蓋を閉じる。
 上部に付いた取っ手を掴んで持ち上げる。

 ―――くぱぁ

 淫猥なオノマトペを発しながらバスケットが開いた。どうやらきちんと留め具をセット出来ていなかったらしい。中身の砂魔女が、破裂した死体袋よろしく飛び散った。

「ガッデム!」

 太一の朝はこうして始まった。





 玄関のドアを開くとストーカーがいたので、太一は学院へと向かうことにした。

「太一」

 声の方に振り向くとストーカーがいたので、太一は学院へと向かうことにした。

「太一」
「あれ、曜子ちゃんいたんだ」
「太一は私に厳しすぎると思う」

 誰かが得すると誰かが損するように、誰かが過保護だと誰かがドSになる。世界の真理だ。
 そして世界の真理を体現する黒須太一と支倉曜子の関係は、これすなわち世界の縮図なのである。

「……んなわけない」
「衛宮士郎は昨日集めた食料を整理し、箱詰めにして配る計画を立てている」

 いきなりそんなこと言われては、さすがの太一も困る。
 曜子は続ける。

「場所は群青学院」
「ふーん。食糧危機の危険はないってことだ」

 曜子は太一が手にしたバスケットに目を向けた。その視線には、士郎がいなくても太一に食糧危機は訪れないという意味が込められている。
 太一もつられて手にしたバスケットを見た。

「ぬおー!」

 またもや蓋が開いていた。中身はヘンゼルとグレーテル状態になっていた。
 来た道を逆行しながら一つずつ拾い、バスケットの中はさらにカオスになってしまう。食べる前に消化を始めてどうするのかと。
 今度こそ留め具をきっちりセットし、蓋が開かないようにする。

「これを」

 曜子が差し出す手には、全く同じバスケットがぶら下がっていた。
 太一はそれを見ながら、

「曜子ちゃん、いまどこから出した?」
「中身は同じサンドウィッチ」

 手渡されると同時に、今まで持っていたバスケットを手渡した。
 トレード完了。
 ちなみにバスケットの中身はサンドウィッチ二人分である。すなわち曜子は四人分作っていたことになる。彼女にはどれだけ尖った先見の明があるのか。古い付き合いである太一をして驚かざるを得ない。

「じゃあね」

 驚かざるを得ないが、どうでもいいことなので、太一は曜子を残して通学を再開した。
 それにしても、いったいどういうつもりなのか。彼女は、太一が自分以外に近づくのを快く思っていない。だというのに士郎の近況を、訊きもしないのに口にした。
 太一にとって衛宮士郎とは、なんだかよくわからないけど気になる存在である。その心境は、黒い影がカサカサ音を立てながらタンスの裏に逃げ込んだ気がしたけど怖くて確かめられないでも気になってしょうがない、といった特殊なシチュエーションで抱く感情に近い。
 鍵のない玉手箱。災厄と希望が詰まった壷。
 怖いもの見たさとは、恐怖の対象を確かめることにより生存率を上げようとする本能だという説があるが、だとすれば本能で生きる太一がこらえきれずタンスの裏を覗き込んでしまうのも無理はない。
 もしや曜子ちゃんは、覗きこんだ瞬間にこちらへと向かってGが飛んでくることをスーパー予知脳で知っているとでもいうのか。太一は導き出した結論に唸った。だとすれば、先ほどの奇妙な親切も納得だ。顔に張り付かれれば、どんな猛者も二度と覗き込もうとは思うまい。結果として、太一の人間離れ(※誤用。"親離れ"や"活字離れ"と同じ意味での使用)は進む。最後に喜ぶのは曜子一人。

「恐ろしい罠じゃないですか、曜子先生」

 あらゆる罠を看破した軍師の心で呟いた。
 ところで、看破しても回避できるかはまた別の問題である。







「―――はっ!?」

 と気付けば友貴と並んで教室の床で倒れていた。まるで十字架の宗教圏内の死者のように胸の上で手を握っていた自分に気付いて身震いする。誰かに見られたらと思うと恥辱の極みだ。太一は思わず興奮した。
 自分はつい先ほどまで食後の運動をしていたはずだ。ちなみに、それは断じて男同士のプロレスごっこではない。
 競技名は置いておくとして、果たしてなぜ運動していた自分がシスコンの友人と夫婦のように隣り合って眠っていたのか。
 どう考えても姿を消した士郎とイリヤスフィールの仕業である。
 そこまで考えて、太一は思い出した。
 そうだ、自分はあのロリコン先輩とロリっ娘と、ついでにシスコンと昼食をとったのだ。
 胃に収まったのは曜子印のストーカー弁当ではなく、豊富な食料を贅沢に使った昼食だった。彼らが汗水たらして働いた成果を貪り食っているのだと思うと、なんとも言えぬ優越感があったのをよく覚えている。
 しかし食事中、そしてその後の会話は大して意味のあるものではなかった。唯一わかったことといえば、イリヤスフィールが歳に相応しい思考をしていないということくらいだ。
 明らかに現存の発達心理学から逸脱した知性。だからといって曜子のように超人間的なわけではない。早熟というよりは、体が頭脳に追い付いていない印象。どこの名探偵だとつっこみたくなるロリータである。踏まれたい。
 結局、肝心のゴキ、もとい衛宮士郎については何も分からなかったが、イリヤスフィールに罵られ嬲られる自分を想像して太一は満足してしまった。士郎に関するリサーチは、また機会があれば適当に行おうと決める。
 ぶっちゃけ男に興味津々な自分を自覚すると死にたくなるので、これくらいがちょうどいい。
 まだ倒れたままの友貴の顔に、太一袋から取り出した油性マジックで落書きして、太一は帰宅することにした。

 


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