部屋に沈黙が居座って数分の時が流れた。
怒りでも悲しみでもなく、目の前の友人がこのような反応をすることが分かっていたから、衛宮士郎は話を切り出すのにとても苦労したというのに、その苦労は結局何ら効果を示すことなく、状況は予想通りだった。
この場を次の段階に移行させる権利を、士郎は持たない。できることといえば、出来の悪い彫像のように、ただひたすら同じ姿勢で耐えるのみである。
カチ、カチ、と規則正しく時を刻む時計の音。
果たして静寂がわずかな音を際立たせるのか、それともわずかな音が静寂を際立たせるのか。
そういえば、白と黒で描かれた、杯と向かい合う人の横顔のどちらにでも見える絵があったな、などと思い出したところで、
「ときどき自分の迂闊さに呆れてアンタを殴りたくなるわ……」心の底からのものだと思わしきため息と同時に、遠坂凛がそう言った。
誰もが理不尽だと判断するだろうその言を、しかし士郎だけは頷いて受け入れる。
「いや、その……、すまん」
「すまん、じゃないわよ。大抵のことは取り返しがつくけど、これは本当に洒落や冗談じゃ"済まない"んだから。公式な記録っていうのはね、無いものを新しく作るのは簡単でも改竄は難しいの、広がっていくから。いいえ、それ以前に、そもそもあの"試験"が、マトモなフリをしようとする意志まで検出するように出来てることにくらい気づきなさいよ。
ああ、もう……、ほんと……、アンタが引っかかりそうだってことを知っていながら気づかなかったなんて、本当に迂闊だったわ……」
処置なし、と言わんばかりに目に手を当てて、凛はいま一度、深くため息をついた。それからまたしばらく黙り、しかし今度の沈黙は長くは続かなかった。
それだけで切り替えがついたのだろう、次に士郎に向けられた彼女の目は、既に先を見ている。
「――で、どうするのよ」
切り替えの早さ、というよりは完璧さに感心しながら、士郎は尋ね返した。
「どうする、って……」
「だから、行くのかって聞いてるのよ」
「いや、他に選択肢はないだろ」
「この際だから、国外に逃げるのもアリだと思うけど。衛宮くん、たしか、もともと働くつもりだったけど藤村先生に説得されて学園に進学したって言ってたわよね。当時でもそうだったなら、目標の定まった今はなおさら学園なんてどうでもいいんじゃない?」
「どうでもいいとまでは言わないけど、たしかに学園にこだわりはない。だけど逃げるのはダメだ」
「でしょうね。ここで逃げるなら、説得振り切ってでも働いてたでしょうし。何よりあんたが藤村先生たちを置いて逃げられるはずもないし」
凛は肩を竦め、あっさりと引く。それから既に冷めてしまったティーカップを手に取り、どこか投げやりな動作でその中身を口に含み、顔をしかめた。
冷めた紅茶は苦く感じられるものだ。
士郎は立ち上がり、淹れなおしてくる、と簡潔に告げて、凛の部屋を後にした。この場合の凛の部屋といえば、衛宮邸の離れの一室を指す。
聖杯戦争中になす術もなく接収された、もとい、必要に迫られて貸し出した部屋は存外住み心地が良かったらしい。雪の季節から桜の季節を通り越し、太陽が燦々と輝く季節になった今でも、遠坂凛という同級生にして戦友にして魔術の師は、あの部屋を占領したままである。
彼女がこの屋敷に泊まる際には、監視と銘打って虎やロリブルマ、そして後輩も宿泊していくが、なんだかんだと言いながら、その騒がしさを士郎も気に入っていた。ただ、一つだけ残念なことがあるとすれば、その騒がしさの中に一人の少女がいないことが残念だ。
かつて、ともに冬の夜を駆けた騎士がいた。結局、彼女は最後まで王だった。
士郎はその在り方を尊いと信じ、美しいと憧れた。だから、ここに彼女がいないことを嘆くのは、多くのものを侮辱するに等しい。
それでも、衛宮士郎が一人の少女を愛したのもまた紛れもない事実だったのだ。
王を貫いた彼女が衛宮士郎を愛したのが一夜限りの夢であったなら、
正義の味方を目指す衛宮士郎が彼女を愛したのも、きっと二度とはない幻のようなものだったのだろう。
恐らく、原因があるとすればそれだ。
人であっては国を守れないように、人であっては理想を守れない。王でなくては、正義の味方でなくては、国を、理想を守れない。そして正義の味方になると決めた士郎は、かつて遠い異国の地で一人の少女が岩の剣を抜いたように、その時点で人ではなくなった。だから"試験"で引っかかったのだろう。何せあれは、人の中に紛れ込む"人でなし"を検出するための試験なのだから。
先ほどまで士郎と凛が話題にしていた悪名高きその試験、名を"適応係数試験"という。
平たくいえば"異常者"を判定するための試験である。
どのような理由によるものか、近年、精神的な"異常者"が増えてきたといわれる。その中に、ついに人を傷つける者が現れるようになったことを理由として、適応係数試験で一定水準以上の適応係数を示した者を専用の施設でまとめて扱うという、一種の隔離ともいえる政策が採られるようになった。
だが、適応係数試験に限った話ではないが、精密な試験には時間と手間がかかる。故に、試験の対象者は全国民ではなく、高い適応係数を弾き出すと予想された者に限られる。具体的には、社会生活の中で問題を起こした者。
しかし士郎はそのような問題を起こしてはおらず、そしてまた同様に試験を受けた凛は、問題を起こすどころか完璧な優等生を演じきっていた。
ではどのような経緯で士郎や凛が適応係数試験を受けることとなったのかというと、実のところ、本人たちも詳しいことは分からない。ただ、前年度に穂群原学園に在籍していたすべての学生を対象に、今年の冬に起きた『集団昏睡事件』による心への影響を調べる、という名目で行われたのだ。
そして衛宮士郎は、見事に非人間であると判定されてしまったのでした、まる。
この冬木市には、適応係数試験で弾かれた学生のための学園、学院はない。となると、士郎が学生を続けるためには、別の土地へと行かなければならなくなる。
「はぁ……」
力無いため息は、炎天下で空気を焦がすセミの鳴き声に上書きされた。
士郎が試験の結果を知ったのは今日。口外したのは、先ほど凛に告げたのが初めてだった。
担任でもあり保護者でもある藤村大河の耳には、自分ではない誰かの口から届くのだろう。もしかすると、既に届いているかもしれない。
であるならば、今日の夕食時は家族会議のごとき様相を示すことになるだろう。
イリヤスフィールあたりは士郎が公式に異常者判定を貰ったことに笑い出しそうではあるが、他の面々はそれぞれ違った、しかし方向性を同じくする反応をきっと見せる。そのことを考えると、今から気持ちが重くなる。
ヤカンがカタカタと音を鳴らすまで、士郎は憂鬱な気持ちでティーカップをぼんやりと眺めていた。
■
額の汗は、解けかけた氷のように、拭っても拭っても垂れてくる。シャツは、壁に叩きつけられたカエルのように、背中にべったりと張り付き離れない。
耳を打つのは足音さえ押しつぶしてしまうアブラゼミの大合唱だけで、それを一時間以上聞き続けているせいか、それとも暑さのせいか、士郎はどことなく頼りげのない足取りで歩いていた。
歩いても歩いても目的の場所が見つからず、実は自分は既に倒れていて、悪夢を見ているのではないだろうか、という疑念が熱い頭の中でぐるぐると渦を巻く。周囲の建物が、団地なので当たり前だが、どれもこれも同じ形、つくりで立ち並んでいるのも悪い夢じみていた。
端的にいって、士郎は迷子だった。急ぎの引越しだったため、事前に部屋を見に来ることが出来なかったのだ。
経年を感じさせる薄汚れた建物の群れの中、見渡しても道行く人は一人もおらず、誰かに道を尋ねることすら出来ない。
どうして数字のとおりに建物が並んでいないのか、非常に理不尽なものを感じつつ、士郎はもう一度アパートの外壁につけられたアラビア数字を見上げるが、やはり求める番号がどうにも見つからなかった。
だが、捨てる神あれば拾う神ありということなのか、視線を下ろしたとき、ついに視界の中に動く人間の姿を見出すことになった。
少女だ。
白いシャツと水色のスカートは、士郎が編入手続きをした群青学院のものだろうか。
少女は熱いアスファルトの上を歩いてくる。彼我の距離は、目のいい士郎が一方的に顔を目視できる程度。少女が士郎を見ても、人が立っていると認識できるだけだろう。
士郎と近づいてくる少女との間には、いくつかのアパートが建っており、また枝分かれする道もある。自分のところに来るのを待っていても、自分の立つ場所を少女が通るとは限らない。
そう判断するまでもなく、道を尋ねるならば自分から赴くべきだと、士郎は少女へと足を向けた。
一分も経たない内に、少女は士郎が自分へと向かってきていることに気がついたのか、視線を士郎に向けた。それを悟った士郎は、まだ多少の距離が開いていたが、視線を合わせて声を上げた。
すみません、と断ってから、自分が目指しているアパートを知っているかと問うと、少女は驚いたように目を大きくした。
「あの……、そこ、わたしが住んでるところです」
今度は士郎が驚く番だった。
それから士郎は、今日から自分もそこに住むこととなった旨を告げ、お互いにひとしきり驚いた後、少女が言った。
「でしたら、もしよろしければご案内しますけど」
「ああ、だったらお願いしようかな」
「はい。あ、でも、案内っていっても家に帰るだけなんですけど」
少女は自分の言ったことに少し照れたように笑う。そのふわりと柔らかい雰囲気に、士郎は自分を慕ってくれていた後輩を思い出す。
間桐桜。
士郎が適応係数試験で弾かれたことを話したとき、そしてついに自宅を離れることとなった今朝、悲しそうに眉尻を下げて、それでもどうにか笑みを浮かべてくれた妹のような後輩だ。
「学校帰りかな、いまは」
「はい」少女は素直に頷き、士郎の質問が制服を見てのことだとしっかり理解し、「制服に興味がおありですか?」
「いや……、そうじゃなくて、君が着てるそれが群青学院の制服じゃないかと思ったんだ」
群青学院の制服がどのようなものであるかは分からずとも、この町に学校は群青学院一つだったと記憶している。
ただ、群青学院はその性質上、大学を除いて一貫教育制となっているので、少女の着ている制服がどの学校のものかは分からない。少女は士郎よりいくつか年下だろうから、士郎と同じか、あるいは一つ下の付属校かのどちらかだろうとは見当がつくが、そこまでだ。
「俺も群青学院に転入することになったから」
どこか言い訳めいた響きが混ざったが、士郎には制服への興味やこだわりは、本当にない。ないったらないのである。
「やっぱり」士郎への返事の代わりに、少女がつぶやいた。
「やっぱり?」
「あ、はい。わざわざこの町に引っ越してくる学生さんだと、大抵は」
「そうなのか」
ならば、引っ越してきたといった時点で分かっていたということか。
二人は軽い会話を交わしながら歩いた。概ね士郎が尋ね、少女が答えるという形だ。出会ったばかりの二人の共通の話題は群青学院かアパートで、必然、質問と回答の役は固定される。例外は、士郎が何年生か尋ねられたときだけだった。
時間にして五分もかからない内に、士郎がどれだけ探しても見つからなかったアパートの前にたどり着く。
雲の少ない空の下から建物の中に入ると、それだけで涼しく感じられる。
汗をかいた肌には、かすかに吹き抜ける風が一番の癒しだ。
「本当に助かった。ありがとう」
「いえいえ、困ったときはお互い様です。それよりお部屋の方はどちらです?」
「えっと、たしか最上階の――」慣れぬからか、暑さのせいか、数字がとっさに出てこなかった。
階段の一段目に足をかけたところで、ようやく思い出した番号を告げる。
それを聞いた少女は、考える仕草の後、
「間に二部屋はさんでお隣さんですか」
「さすがにそこまで偶然は続かないか」
「ですねー。というか、そもそも両隣の部屋は空いてなかったんですけど」
万に一つでも確率があれば起きえるが、ゼロであればどんなに頑張っても起きないのである。
鍛えているので足腰の強い士郎はともかく、少女も階段を最上階まで上りきった時点で息の一つも乱していなかった。エレベーターが設置されていない建物なので、毎日の上り下りの賜物なのだろう。
士郎の部屋の方が階段に近かったので、少女を見送る形で部屋に入ることになった。
閉め切った狭い部屋の空気は、皮膚で感じられるほどに重く、呼吸をするのが難しい。
士郎はまず窓を開け、部屋の空気を入れ替えることにした。高い場所にある部屋だからか、それとも今日がたまたまそういう日なのか、強い風が髪にぶつかりながら抜けていく。
業者に任せた荷物は既に運び込まれている。といっても、家具は箪笥、机、本棚、冷蔵庫、洗濯機がそれぞれ一つずつと、布団一組、そして決して多いとはいえないダンボール。小さな冷蔵庫と洗濯機以外はどれも冬木市の自宅に置いてあったもので、愛着というほどではないが、慣れ親しんだものである。
「さて……」
一つつぶやいてから、どうしたものかと考える。
季節は夏休み前だ。ほとんど直前といってもいい。
当然、引越しは夏休みの間に行えばいいという意見も出たが、そうは問屋がおろさなかった、もとい、行政が許さなかった。あと穂群原学園もうるさかった。
それらのいろいろな事情を考慮した上で、編入は夏休み前に行い、通常の教育機関よりも長い夏休みの間は帰郷するということが家族会議で決定したのだ。
ああ、そうか。そうだった。
どうしたものかと考えたが、考えるまでもなかったのだ。
まずは、そう。
荷物を開くことよりも、家具を配置するよりも先に、しなければならないことがある。
無事に到着したことを家族に知らせるために、士郎は携帯電話を取り出した。
■
目覚まし時計によらず、習慣に従い体が目を覚ました。日の出の早い夏ではあるが、まだ窓の外は薄暗い。
昨晩、士郎は荷物を開き終えてから眠りについた。風呂には入ったが、食事はとらなかった。
いまだにこの町の地理を知らないので、材料にせよ食料にせよ、その調達にかかる時間と労力を測りきれなかったのだ。なので当然、今日の朝食も自宅では用意できないし、昼食に弁当を作ることも出来ない。
仕方がないので、朝食と昼食は学院に行く途中で確保することに決めた。最悪の場合、何も得ることが出来ずに学院にたどり着くことになるが、そうなれば昼に学院内の食堂の世話になればいい。
案外無計画な自分を発見しながら、士郎は制服に着替えた。
群青学院のものではない。早急すぎる編入に、制服の確保が間に合わなかったのだ。卒業まで残すところ八ヶ月ほどなので、わざわざ新調する必要もないかもしれない。
経済的なものを考えると、士郎の心はどうしても穂群原学園の制服に傾くのだった。
慣れない道であることと、朝食の確保を考えて、ずいぶんと余裕を持って家を出る。空に近い鞄を手にぶら下げて、これから毎日上り下りする階段を下り、聞き知っただけの道筋を頼りに学院を目指す。
既に太陽は空にあり、雲は昨日同様、ほとんど見当たらない。
すぐに、歩いているだけで汗が流れる気温になるだろう。学院に到着するころには、自分はくたびれた犬のようになっているかもしれない、と士郎は思った。
道の途中にはコンビニエンスストアは見当たらず、延々と住宅が続く。丘だか峠だかという名の山を越えた向こう側、市の中でも発展した部分に対して、このあたりはベッドタウンなのだ。
既にセミの鳴き声は始まっており、各家庭の朝の音は、ほとんど聞き取ることが出来なかった。
複数の道がぶつかる地点で、ついに店が姿を見せた。『田崎食料』という名前の商店だった。
そこでペットボトルとパンを買い込み、士郎はほっと一息、安堵する。
一食や二食を抜いたところで倒れはしないが、我慢できるからといって辛くないわけではない。季節のことを考えると、食事を抜くのはなおさら得策ではない。
店を離れる前に、士郎は福顔の店主、田崎氏に話しかけられた。その雰囲気が、どこか幼いころから利用していた冬木市の商店街に連なる店の店主らと似ているように感じられて、しばらくの間、会話が弾んだ。結果、サービスなのか激励なのか、それとも営業活動の一環なのか、追加でパンを受け取ることになる。
どうやら田崎氏には、群青学院生への偏見やそれに類するものがないらしく、その態度は士郎にとって小さくも貴重な救いだった。
そうこうしている内に時計は針を進め、十二分に確保していた時間は、食費により圧迫される衛宮家の預金通帳の残高のような状態になってしまった。しかし田崎氏から得た学院までの道筋の情報で、時間の浪費は相殺される。いや、無駄な労力を使うことがないという点において、プラスに近い。
士郎は合理、非合理にそれほど関心はないが、矢鱈無闇に疲れないのはいいことだと思う。
少し重たくなった鞄を揺らしながら歩いていると、背後からぱたぱたと近づいてくる足音に士郎は気付く。
軽い足音は二人分だ。予感というほど確かなものではなかったが、振り向いてみれば、そこには思ったとおりの光景があった。
昨日会った少女だ。
加えて今日は、友人だろう、もう一人、彼女と同い年くらいの少女がその隣にいる。士郎から見れば二人とも華奢ではあるが、こちらはどうにも触れれば折れそうな細さ、というより脆さがあるように感じられた。
「おはようございます」少女の、跳ねるような元気な声。
「ああ、おはよう。えっと……」士郎は自分たちがお互いに名前を知らないことに気がついた。「昨日は助かった。あと、すまない、助けてもらっといて自己紹介の一つもしてなかった。俺は衛宮士郎っていう」
「ほら霧ちん、なんかイイ人っぽいでそ?」
「美希、失礼だよ……」
――なるほど、美希と霧というのか。
目の前でイイ人っぽいと評されたことに関して言いたいことはあるが、しかしどうでもいいか、と思いなおし、士郎は二人を生温かく眺めていた。
士郎が何も言わなかったことに対し、やっぱりイイ人だ、だから失礼だってば、という会話が繰り広げられ、それからついに美希が自己紹介を始める。
「わたしは山辺美希といいます」言って、美希は自分をはさんで士郎と点対称の位置に立つ友人に振り返る。「で、こっちが」
「……佐倉霧です」やや警戒気味の、距離を置いて相手を観察するような声。
見知らぬ男に対する態度としては、美希のそれよりも霧の方が随分と"らしい"。どうにも近頃の士郎の周辺には我の強い女性ばかりが揃っていたので、このような反応は新鮮だった。
思い返してみれば、出会ったばかりの間桐桜には、いまの佐倉霧とわずかばかり似たところがあったような気がする。サクラつながりか――そんなわけない。
「――よし。山辺に佐倉か」士郎は意味もなく頷いた。
「はい、山辺と佐倉です」美希が意味もなく復唱した。
彼女の声はやはり弾むように元気だった。何が楽しいのか、というより何か楽しいのか、と士郎は疑問に思う。
決して口に出しはしないが。
美希と霧は、士郎にとって田崎食料で得た情報の何倍も心強いナビゲーターで、道を気にせずに済んだ分、もともと少ないと自覚しているリソースを会話に注ぎこむことができた。とはいっても、初対面あるいはほとんど初対面に近い年下の少女二人が相手なわけで、どこかぎこちなさが残るのは否めない。
この半年で少しは慣れたかと思っていたが、考えてみれば士郎が積極的に言葉を交わす女性といえば、長い時間をかけて家族のような関係になった人物か、もしくは日常とかけ離れた戦いの場で関係を深めた人物くらいだ。これでは美希と霧を相手に滑らかに会話が進む方がおかしい。
会話に神経を傾けてこうなのだから、道を気にしながらの会話だったらと思うと、それだけで現状に感謝できた。
少女らのコンパスに合わせて歩いていると、やがて、何かすごいものが見えてきた。
「あれが……」群青学院か……。
高い鉄の塀だ。白い校舎よりも、それを囲むように立ちはだかる塀の方がはるかに目立つ。
あれではまるで、刑務所ではないか。
言葉が続かない士郎を気遣ってか、美希が口を開いた。「周りに迷惑をかけないように配慮して、ってことらしいですけど――」そして続かずに途切れる。
「……なるほど」士郎は半ば自動的に頷きを返した。
美希の言は、つまり、壁がなければ近隣住民に迷惑をかける可能性のある生徒がいるということだ。
えらいところに来てしまった、というのが第一の感想だった。
その壁が真に守るものは外と内のどちらであるのか。
それを士郎が知るのは、まだ先のことである。