<このWebサイトはアフィリエイト広告を使用しています。> SS投稿掲示板

SS投稿掲示板


[広告]


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

[31224] 逃亡人生【ダンジョンもの】
Name: クク◆0c3027e3 ID:66e45698
Date: 2012/01/17 15:01
 前書
 はじめまして、ククと申します。オリジナルは初挑戦となりますので、奇譚のないご意見や批評等を頂ければ嬉しいです。

 この作品は以下の要素を含んでおります

・ダンジョン攻略
・主人公最弱
・ヒロイン=年上ロリ
・流血等の多少のグロ表現


 以上の内容を踏まえた上でお読みください。


*この作品は「小説家になろう」に投稿したものを、修正、改訂したものです。


***あらすじ***

 迷宮都市に迷い込んだ主人公が、ダンジョンを攻略しながらヒロインも攻略するかもしれないお話。王道で行きたいけど邪道で行くしかない主人公は、結局は今日も今日とて逃げの一手で頑張ります。



[31224] プロローグ・こうして彼は迷宮へと逃げる
Name: クク◆0c3027e3 ID:66e45698
Date: 2012/01/17 15:12
 第一章 “呪われた姫君と愚かな賢者”

 

 世界は狭かった。

 前を見ても後を見ても、そこには過去しか打ち捨てられていない。

 右を見ても左を見ても、そこには執念しか無為に漂っていない。

 世界は――狭かった。

 だけど、空は高かった。

 上を見上げると、そこには蒼穹があった。決して届かない、悠久の空があった。

 だから彼は、悟った。

 自分は、自分たちは、飛ぶしかないのだと。飛ぶことでしか、澱みきったこの世界から抜け出せないのだと。

 だけど、どれだけ高く飛ぼうと――世界は狭かった。


*   *   *


 夢を見ていた。

 小さな世界しか知らなかった、あの頃の夢。

 自分が捨てた、あの狭かった世界の夢。

 外に広がる世界を知ってしまったが故に、彼は空を飛べなくなった。

 それでもよかった。惨めに地を這うことになっても、それでもよかった。

 そのお陰で、あの世界から逃げ出せたのだから。

 ベッドから起き上がり、のろのろと部屋を出る。

 この酒場で美味くも不味くもない夕飯を食べるのも、今日で五十日目になるのかと考えると少し嫌になってきた。

 部屋に戻って今日は自主休業にしようかと真剣に悩んだが、日が暮れた今からが一番騒がしくなるこの宿屋兼酒場では、まともに寝れる自信がない。

  古くなって黒ずんできてる階段を下りて、まだほとんど客が入っていない酒場のカウンターの一番端に座る。五十人を収容できるこの広くも狭くもない酒場は、あと一時間もすれば客で一杯になるが、この時間帯なら何の心配もいらない。

 何時もの如く無難に今日の店主のオススメを注文して、出てきた料理をもくもくと口に運ぶ。

「あー……、今日も普通の味だ」

 中庸な宿で平凡な夕食。この迷宮都市に迷い込んでからちょうど五十日目である今日は、何時もと同じくこうして夜を迎えたのだった。



[31224] 夢絶えた落人と夢見る愚者
Name: クク◆0c3027e3 ID:66e45698
Date: 2012/01/17 15:26
 世の中には理不尽なことがけっこう沢山ある。生まれる家を選べないこともそうだし、いきなり神秘に巻き込まれることもそう。そして謂われのない非難を受けることもだ。

 早朝の市場で周囲の人間から冷ややかな視線を注がれるヒタキは、大地に膝をついて涙にくれる老婆を虚ろな目で見ながら溜め息を吐いた。

 もう、帰りたい……。

 心なんて、すでに折れていた。鑑定してもらおうと窓口に収穫品を出そうとして、「こ、このペンダントは孫の……!」という声が奇跡的を通り越した作為的なタイミングで横から響きわたった瞬間に。

 目に入らない程度に適当に切り揃えた黒髪を緩慢な動作でボリボリと掻き、二つ折りにして腰に巻いている、黒が強い灰色のローブのポケットの中を、面倒くさそうにまさぐる。

「孫は……孫はもう…………ああ……っ!!」

 本日の収穫である魔術師の杖や儀式用の短剣、宝玉のついたペンダントなどを両腕で抱え込み、人垣で囲まれた店先で悲痛な声をあげて泣きじゃくる老婆。

 迷宮で遭遇した死体から拾ってきたそれらは、この都市のルールでは問題なく拾った本人であるヒタキのものと認められてはいるが、如何せん観衆の冷めた目が無言で告げているのだ。婆さんに渡してやれよと。

 店の窓口をさっさと閉めて、奥に引きこもって下さった鑑定士の爺も、もうこれらの品の鑑定書は書いてくれそうにない。

「……もういいや。それ、あげるから」

 ここで粘っても埒があかないという判断しか下せないこの場は、さっさと退却するに限る。面倒事は御免、部屋に逃げ帰ってそうそうに寝るのが一番。そう自分に言い聞かせながらヒタキは、割れた人垣の間をのろのろと歩く。

 ちょっとした茶番も終わり、何事もなかったかのように再び動き出す人の流れに紛たヒタキは、じゃらりと貨幣を掴んだ手をポケットから出して、閑散としてる手のひらに視線を落としてみた。

「ひー、ふー、みー、………………みー」

 占めて三百デル。

 みーみー呟くヒタキは頭をボリボリ掻きながら、人間社会の面倒くささに溜め息を吐く。

「どうするかな……ふつーの朝飯が食えねえや」

 ああ、それにしたって金がない。


*   *   *


 迷宮都市と呼ばれる空間がある。来る者は拒まず、去る者を許さない空間だ。

 世界からは平原に聳える巨大な門としか観測されない入口――――その一方通行の門を通り抜けた先にある、地下に存在する迷宮の上に創られた都市。それを人々は迷宮都市と呼ぶ。

 都市などと立派な名前がついているが、その実どの国にも属せないどころか、外部との繋がりを一切持てない牢獄――それが神界とも天獄とも呼ばれる迷宮都市の実態だ。

「つまりさ、俺ってここに閉じ込められてるんだよ。五十日前に起こったっていう神秘の余波に巻き込まれて。不本意にも」

「それが代金を踏み倒す理由になるか? 金がないんなら働くか餓死しろ」

「…………」

 「憩い亭」という平凡な名称の中庸な宿屋兼酒場に戻ったヒタキは、ダメ元で十割引で朝食を頼んでみたが、やっぱりダメだった。

 足の怪我で引退したという恐ろしく似合っていないコック帽を被った中年店主は、傷だらけの凶悪な人相を更に凶悪にし、危なく光る隻眼でヒタキを脅す。「憩い亭」で唯一平凡でも中庸でも普通でもない店主の眼力は、それはもう凄まじかった。

「…………わかったよ。今日はもう寝るさ」

 くるりと店主に背を向けて、ヒタキは自室へと引き上げるべく階段を目指す。商売は商売と面倒事を恐れずに割り切ることができる店主には、これ以上何を言っても無駄だ。そもそもヒタキ自身が面倒事になるのが嫌なのだから、部屋に戻るしかない。

 逃げるように。

「おい、お前」

「ん?」

 階段をのろのろと上がるヒタキに、肉厚の包丁で野菜を切り刻む店主は憮然と訪ねる。

「今、どこまで潜った」

「今日でちょうど五十階だけど、何で?」

階段を軋ませながら、ゆっくりと登っていくヒタキは首を傾げる。店主が迷宮の話題を自分からふってきたのは、初めてだった。

「五十階を抜けたら、教会から中級認定を受ける。申請すれば報奨金と何かCランクの物がもらえるはずだ」

「え、俺、金もらえるの? どのくらい?」

「五十万、中層に入るために必要な装備の準備金の補助としてだ。さっさと教会に行ってもらってこい」

 そしたら飯を食わしてやる、と巨大な肉塊を解体しながらぶっきらぼうに告げる、味は普通なのにリピーターがやたらと多い憩い亭の店主だった。

「あー……でも、今はいいや。一回寝て、その後で取りに行く」

 途中で一度立ち止まったヒタキだが、しばらくぼんやりと何もない空中を眺めて、それから再びのろのろと機敏さの欠片もない足取りで、階段を登って行った。

 そのだらけきった青年の姿が見えなくなった後、浅黒い強面の店主は豪快にパンの種をこねながら、憮然と鼻を鳴らした。

「たった五十日で五十階を超えた奴が、朝飯も食えないなんて馬鹿げた話があってたまるか」

 毎日毎日顔を合わせている、掴み所がない青年。ヒタキは一日一階という偉業を毎日達成しながらも、常にギリギリの貧困生活しか送れない、迷宮都市五百年の歴史の中でも例のない、困った実力の探索者だった。

*   *   *

「店長、オススメランチ、半額で頼む。五百デルはあるんだ」

「報奨金があるだろう、セコい真似をするな」

 昼間の稼ぎ時を過ぎた憩い亭に帰ってきたヒタキは、椅子に座るなりカウンターの上に上半身を投げ出した。これ以上は動きたくないと全身で訴えるヒタキに、店主は隠そうともせずに舌打ちをする。くだらん嘘を吐くと刻むぞと。

 この人、何人殺して来たんだ。

 混じり気のない殺気を放つ店主に、ヒタキは本職のみが持ち得る狂気をひしひしと感じながらも、覇気が全くない今にも死にそうな声で、嘘じゃないんだと訴える。

「面倒事があったんだ……で、気づいた時には金がなくなってた」

「…………」

 三時間前に五十万デルを受け取るために憩い亭を出たのに、たった五百デルしか持ち帰ることが出来なかったいうヒタキに、さしもの店主も唖然としていた。お前は何がしたいんだという店主の引き気味の視線に、ヒタキは密かに傷つく。好きで無くしたんじゃないのだ。

「あー、腹へったな…………店長、頼むよ、パンだけでも売ってくれ」

「今金を使って、晩飯は食えるのか? 空腹のまま潜っても、死ぬだけだぞ」

「晩飯もパンだけでいいよ。そこそこ稼げる当てがあるから、今日だけ乗り切れば何とかなるんだ」

 金があっても面倒事、金がなくても面倒事。金なんてなくなればいいと、ヒタキは本気でそんなことを考える。

 そして長い長い溜め息を吐いて、

「金がなくて困っているのか?」

 聞こえて来た女性の声に、のろりと顔を上げた。

「んん? そうなんだけど、お嬢ちゃん……迷子?」

 声はやたらと落ち着き払った貫禄さえ感じさせるものだったのに、声の主は真っ赤な髪を長く伸ばしたあどけない少女だった。でもやっぱり幼女かもしれない。

「幼女と言うな。私は二十五だ、本当に」

 心の声を的確に指摘して来た達観した瞳の幼女を、ヒタキと店主は胡乱げな瞳で見つめる。

 つり上がった目に細い眉、細い顎に筋の通った鼻、そしてきめ細かい白い肌は、どことなく育ちの良さを感じさせる。黒いワンピースの上に簡素な鉄の胸当てと頑丈そうな革の腰巻きといった出で立ちの、美少女といっても差し支えない十歳程度の小さな少女は、しかしやはり少女と言うより幼女と言うほうがしっくりきた。

 が、どれだけ背伸びをすれば気が済むのだと呆れる店主とは違い、ヒタキはわりとすぐに適当に頷いてみせた。

「じゃあ、おねえさん。俺に何か用?」

 それでいい、と幼女は鷹揚に頷いて、担いでいた大きな布袋を置いてヒタキの横に座る。

「私は探索者を探していてな、それらしい人がいたから声をかけさせてもらった」

「ふーん、探索者か。でもおねえさん、この都市って人口の八割は探索者だぞ。探すも何も、そこら中に溢れてるじゃん」

「ふ、残念だな。話を聞いてくれるのなら、少し遅めの昼食を一緒にと思っていたのだが。もちろん代金は私持ちで」

「ぐっ……!」

 幼女によって目の前に吊らされた餌に、ヒタキは分かりやすく動揺した。そんなヒタキに幼女は、わざとらしくやれやれと肩を竦める。

「しかしだ、私が今日この都市に来たばかりの人間だと分かっていながら、そういうことを言う人間とは、食事を共にしたくはない。ご指摘通り、他を当たらせてもらう」

 躊躇うことなく席を立ち、旅に必要な道具でいっぱいの布袋を担ぎ直した幼女の腕を、ヒタキは無言で掴んだ。

「お、おねえさん。是非とも、是非とも話を聞かせてほしいんだ。だけどさ……面倒なことは強要しないよな?」

「引き受けるかどうかは、私が決めることではないだろう」

 ――……幼女は笑った。収めた勝利に。


* * *


 迷宮とは神々がおわす地へと続く荊の道だ。神々は苦難の迷宮を歩む人間に試練を、そして試練を乗り越えた者には加護を与える。

 この閉ざされた都市で生まれた人間は例外なく、常に感じる神々を敬い崇める。

 この閉ざされた都市に流れ着いた人間も例外なく、明確な試練とそれに伴う加護を与え賜う神々に感謝する。

 故に神と非常に縁深い迷宮は、実質的に信者が運営する教会によって管理されていた。

 神々が作りし迷宮に挑む信者たちを導き助け、神々の存在を伝え広める。その確立された教会の存在意義と活動は、都市全体の迷宮探索の効率を上げ、円滑なものとしていた。

 円形の都市の中央に存在する地下にある迷宮への入口。そこに建てられた一際大きな石造りの古風な建物こそが、教会の本部である。

 時刻は昼前。

 寄付金を納めさえすれば様々な援助を受けることが出来るそのありがたいで場所で、報酬金を受け取りに来ていたヒタキは何故か受付のお姉さんの軽蔑の視線に晒されていた。

「ああ、迷える仔羊よ――ったく、たまにいるんですよねぇ、こーゆー人。レベルの高いパーティーに入れてもらって、五十階クリアしたからご褒美ちょーだいっ、てシレーっとした顔で言いに来る不届き者が」

 何故かヒタキは暴言を受けていた。金髪眼鏡の知的に見える、敬虔なる神の僕らしい女性から。

「迷える仔羊よ、神々は何時もあなたを見ているのです。刮目しなさい、奇跡の一端を! 神々の鏡よ、この者の真なる姿をーっ!」

 装飾が施された手鏡をヒタキに向け、楽しそうに、本当に楽しそうに笑う聖職者らしいお姉さん。

「あーあ、やっぱりそうでしたねぇ。レベルがたったの1ですよ。これじゃあ五十階どころか五階だって無理ですって。教会の中級認定条件は、レベルの差が5以内の四人までのパーティーで五十階を越えることですよ、信者ヒタキ……ヒタキって変じゃなくていい名前ですね、信者ヒタキ。まあ、とにかく教典読んで出直して来て下さい……って、え? 五十階踏破時のパーティー情報……なし? 同行者人数……ゼロ? ………………きゃ、キャアアァァァアアアアアアア!! し、司祭様、変態が、変態が来ましたぁああああああ!!」

 唖然としてぼんやりしてるうちに捕縛されて、変な部屋に連れ込まれ、

「…………神々の目に、誤りはありません。規定は満たしています。ですが、ですが……神々の加護をまったく受けていないあなたを……いえ、ですが……」

 司祭服を来た老人にひたすら首を傾げられ、

「…………今日はこれでお引き取り下さい。検討のための時間が必要です」

 前金として五万デルを渡され、教会から追い出されたのだった。

 
 ――――と、幼女が恵んでくれたただ飯をもぐもぐと食べながらそこまで語ったヒタキは、これまた幼女に施されたミルクで喉を潤した。久しぶりに水以外の液体を飲んだヒタキは感動する。贅沢って素晴らしい。

「おい、五万デルはどこに消えた」

「帰る途中にちょっと奮発して、新しいシャツを買ったんだ。で、残りは病気の娘がいるんだって言いながら、にたにた笑ってナイフ突きつけてきたおっさんに渡してきた」

 人はそれを恐喝という。

 謎の出費を問いただした犯罪者面の店主は、無言で包丁の手入れを始めた。今月分の宿代を十日後までに支払いさえすれば、店主は何もしない。支払いさえすれば。

 一方で探索者とは食うにも困る存在なのかという疑問に、ヒタキが特殊らしいという答えを得た幼女は満足そうに頷いて、新たに生まれた疑問をなげかける。

「ふむ、何となく事情は理解した。それで、レベルというのがかの有名な迷宮の神々の加護なのか?」

「うん、そうだな。モンスターを倒してたら、勝手に神様たちがくれるらしい。ご褒美だって」

 迷宮都市の特性上、外の世界に情報が流れることはない、唯一の例外を除いては。その外に流れた数少ない情報の中でも、神々の加護は迷宮都市の代名詞ともいえる存在として、世界中に広がっていた。曰く、超えられぬ試練を超えた者は超常の力を授かると。故に迷宮都市に自ら望んで入る人間はこう呼ばれるのだろう――夢絶えた落人(死にたがり)と夢見る愚者(ただの馬鹿)と。

「それで、おねえさんも探索者になるのか?」

「ああ。聞く限りでは教会に行けばいいのだろう?」

 頷くヒタキにありがとうと礼を言い、幼女は席を立つ。

「今から行ってくる。世話になったな」

 そして腰に下げている小さめの一杯に膨らんだ袋から硬貨を取り出し、カウンターに乗せた。店主はその硬貨に一瞬眉をひそめたが、すぐに代金を受け取りおつりを渡して、幼女の大きな荷物に目をやる。

「宿がまだ決まってないなら、ここにするか?」

「宿か……そうだな、今から他を探すのは疲れるしな。早速で悪いが、この荷物を預かっておいてくれ」

「ああ。細かいことは帰って来てからでいい。教会の場所がわからないなら、そこの男を連れて行け。当店からのサービスだ」

 勝手なことを言い始めた店主に、ヒタキはゆっくりじっくりと味わっていたミルクを噴きそうになった。

「店長……俺、店の手伝いなんてしたくない」

「黙れ、滞納している家賃の利子分だ。期限まであと十日だぞ」

 手入れの終わった包丁の輝きにヒタキは言われた通り黙り、面倒くさそうに席を立つが、それを幼女が「必要ない」と止めた。

「また後で色々と話を聞かせてくれ、同居人」

 それだけ言って幼女は憩い亭から出て行った。とてつもなく尊大な幼女である。

 しばらくの沈黙の後、店主は未だにのんびり食べているヒタキに、何とも言えない複雑な声で呟いた。

「たくましい子供だったな」

「え、二十五歳なんだろ?」

 まだ外見に引きずられている店主と違い、完全にヒタキは割り切っていた。

「そうなんだろうがな……あんな子供がいたら、それはそれで不気味だ」

 あの幼女はきちんとこの都市の通貨・デルで支払いを済ませた。大抵の人間が最初の数日はまとまったデルを持てずに困り、そのために教会の支援金の制度が作られたほどだというのに。

 迷宮都市へと続く門がある大陸では、百年前に通貨が統一されている。一文無しで門を潜る人間がいる一方で、ある程度の人間は大陸の通貨を持ってこの都市に入ってくる。都市の情報が外に流れることがないがために、それが交換不可能な無価値なものであると気づかずに。しかし外から来た人間は、この都市の金と交換可能な、何か価値があるものを持ち込むことはできる。

 あの幼女は都市に入るなり、何かを売ってまとまった金を得たのだろう。都市に入る前にそのことに気づいたにしろ、入った後に気づいて売れるものを探したにしろ、大半の人間が最初は金欠で戸惑うことが現状なのだから、当然のように硬貨で一杯の財布から支払いを済ませた幼女は不気味以外の何でもなかった。

「まあ、店長たちの言い方で言うんなら、単純に夢見る愚者(ただの馬鹿)ってわけじゃあない、ってことなんだろ」

「ただの馬鹿が偉そうなことを抜かすな」

 店主は一文無しでこの都市に迷い込んだ、未だにオススメランチを食べているヒタキというヒモな青年に冷たい視線を送ったのだった。



[31224] 初心者と逃亡者
Name: クク◆0c3027e3 ID:46ac7fee
Date: 2012/01/26 22:33
 憩い亭は日が暮れた後の夕食時が最も騒がしい。その時間帯より一時間早く、もはやほとんど指定席と化しているカウンターの一番端の席で夕食を取ることが、ヒタキの日常だった。閑散としている店内で時々店主と二言か三言交わし、他の探索者と入れ替わるようにして迷宮へと通い続けた五十日間。

 しかしその日常を繰り返し始めて五十一日目になるこの日、ヒタキの生活に変化が訪れた。

「あー……、ミルクがうまい」

「百デルでここまで喜ぶのか。安い男だな」

「いや、おねえさん。あんた、いい人だな」

 ヒタキはその日に出会った自称二十五歳の幼女に見事餌付けされていた。硬いパンをもさもさと食べて水で乾いた喉を潤していたヒタキに、同居人となるよしみで挨拶の意味も込めてミルクをご馳走しただけで、別に彼女が男にミルクを与えて餌付けする趣味を持っているわけではない。しかし客観的に見れば、数少ない知人全員が何を考えているの分からないどころか何も考えてないのではないかと疑っている、よくわからない青年の餌付けに、幼女は間違いなく成功していた。

 贅沢っていいなあと本気で感動しているヒタキは、そういえばと隣で紅茶を飲む幼女の横顔を見た。

「おねえさんの名前、何ていうんだ?」

「む? ああ、そういえば自己紹介がまだだったな。私はヴェルマだ」

「ふーん、ヴェルマさんか。じゃあ今度からおねえさんのことは、ヴェルさんって呼ぼう」

 勝手に愛称を決めた珍しく活動的なヒタキを、仕込みを終えて手が空いた店主は冷ややかに見下す。それこそゴミを見るような目で。

「お前、そういう趣味か。否定はせんが、汚らわしいな」

「それ、訴えたら俺が勝ちそうだ」

 相変わらずの店主を暴言を聞き流したヒタキは、強面の店主の本音を冗談だと勘違いして優雅に紅茶を飲むヴェルマに、気の抜けた声で言った。

「俺がヒタキで、こっちが怪我で汚れ仕事を引退して、今はそこそこの人気店を切り盛りしてるジン・リッパーさん」

「バラすぞ。引退したのは探索者稼業だ」

「え?」

 凶悪な人相の店主をまじまじと見つめるヒタキ。何を引退したのか名言されていなかったため、今に至るまで本気で元は危ないお仕事の人だと信じ込んでいた。ミルクを奢ってくれる優しくて可愛くて綺麗ないい人であるヴェルマに、本当に善意から紹介しただけで、嘘を吐く気なんてなかったのである。

 ククク、と押し殺された笑い声が聞こえる。

 バラされる前に逃げ出そうと腰を浮かしたヒタキだが、苦笑するヴェルマに気づいて、すとんと再び椅子に腰を下ろした。

「おねえさん?」

「いや……なに、ただ少し気が抜けただけだ。魔が蠢く天獄と噂される未知の都市に入るなり、二つの良縁に恵まれたのだからな」

 ことんとカウンターにティーカップを置いたヴェルマは、唇の片端を吊り上げて、その幼なくも不思議と怜悧な印象を与える美貌に実に似合った、ニヒルな笑みを浮かべた。

 ――――ぼんやりとした雰囲気の適当に切りそろえた雑な黒髪の青年と、恐ろしく似合わないコック帽を被った恐ろしい人相の店主に。

「今日からよろしく頼むぞ。ヒタキ、店長」

 不思議な女性に店主は無言で鼻を鳴らして、ヒタキはのろりとした動作で頭を掻いた。

「まあ、ほどほどによろしく、おねえさん」

「ん、ヴェルと呼ぶんじゃあなかったのか?」

「…………末永くよろしくな、ヴェルさん」

 訂正したヒタキに、ヴェルマは鷹揚な態度で頷いてみせたのだった。

「ああ、それでいい」


*    *    *


 今から遡ること八百年前、後に「神秘」と呼称されることになる現象が発現した。少なくとも人類にとっては初めてとなる神秘と定義される現象は、大規模な改変現象だったと伝えられている。神秘「世界改変」によって作り変えられた世界には、「魔力」と呼ばれる新たな要素が存在していた。そして魔力の発生は、生命に進化を促すことになる。

 完全に魔力に適応進化した生物は、改変前と比較にならない力を手に入れた。魔力を纏う拳は易々と鉄を砕き、魔力を纏う肌は軽々と剣を弾く。魔力で式を編むことで、超常現象を引き起こすことさえ可能になる。鍛錬によって肉体におこる魔力干渉は、根本的な身体能力までもを底上げした。

 生物は二百年の歳月をかけた進化の結果、鍛錬と成長によって生まれ持った魔力の限界保有量の許す限りで、身体能力を飛躍的に伸ばす魔力回路を発達させる道も、自在に操れる魔力を保存しておく魔力炉の容量を増やす道も選ぶことができるようになったのだった。

「――――以上が、魔力が生まれたことによる生命の変化。私の認識に、問題はないな?」

「あってるよ。ていうか、頑張ればそれぞれ決まった量までは魔力を持てて、その魔力を強化に使いつぶすか残しとくかを、頑張り方で決めれるってことがわかってればいいんだけど」

 日が暮れて暗くなった通りを、ヒタキとヴェルマは教会に向かって歩いていた。迷宮から出てきた探索者たちとすれ違いながら、石造りの都市を人の流れに逆らい進む。

 二人は今から一緒に迷宮に潜る。それは早めの夕食を終えた後に、ヴェルマから提案したことだった。教会が提供するサービスに、初心者向けの講習がある。教会から給金を貰った探索者による、迷宮探索における基本のレクチャーだ。そのことを教会で聞いていたヴェルマが、どうせならばと教会を通さずに貧困で喘いでいるヒタキを個人的に雇い今に至るのだった。

 ヒタキは雇い主であり救世主であるヴェルマに、道すがら迷宮のシステムを説く。

「で、ここから加護の話になるんだけど……加護ってのは、魔力量の増加のことらしい。しかも神様からもらった魔力は、その魔力の分だけ限界保有量まで増やすんだって。で、レベルってのは受けた加護の量、要するに増えた魔力の量のことだ」

「それはまた……とんでもない話だな」

 人間の魔力の限界保有量に、個人差などほとんどない。同様に他の生物も、限界は決まっている。人間が鍛えに鍛えて限界まで魔力量を増やせたとしても、魔力量に根本的な差がある種族を超えることはできないとされている。魔力が他に追随を許さないエネルギーであるが故に、魔力には魔力でしか対抗できないのだ。

「とんでもねえ話だよな、ほんとに。ちなみに到達者の二人は、外じゃあ超越者だけど、レベルにして500、人間の限界の数十、もしかしたら数百倍かの魔力を持ってたらしいぞ。立派な人外だ」

「数百倍か、狼王を打倒できるはずだな。到達者――迷宮を踏破し神界を抜けた者、か」

 迷宮都市が発見されて五百年。迷宮都市から生還した人間が、二人いた。迷宮の最深部である三百階に到達した者は、迷宮都市の外に出ることができる。人を超えたその二人の人間は、生還に成功してから歿するまでの間、多くの偉業を成し遂げ多くの伝説を残した。一夜で一国を半壊させた狼王の討伐が、最も有名な話だ。

「ま、俺が言いたいことはさ、ヴェルさんが外でどれだけ鍛えてたとしても、ここじゃあある程度のレベルのやつには魔力量じゃあ絶対に勝てないってことだ」

「なるほどな、理解できた。達人と呼ばれる人間でも、この都市ではかなりの弱者というわけか。信心に神々は答えて下さる……ふん、本当に何でもありだな、ここは。まあいい、しっかりと覚えておこう」

 腰に佩いている剣の柄を撫で、憮然と眉根をよせるヴェルマ。彼女の様子をぼんやりと横目で見ていたヒタキは、ふと思い出したように「そういえば」と前方に聳える巨大な石造りの教会を見る。

「ヴェルさんが加護を受ける神様の話は、教会で聞いただろ?」

「ああ、天秤の女神アリアだと言われた。炉と回路に術士系とも戦士系とも言えない、平均的な魔力の分配がされることが特徴だから、普通はある術士系統と戦士系統のクラス選択というものがないらしい。魔力回路の成長具合をステータスと言うのだったか? ステータスも平均的な伸び方をすると教えられた。……クラスチェンジをして行けば得ることになる神性スキルというのが少し特殊だと言っていたが、よくよく考えれば、個性のない退屈な女神だな」

「おねえさん、あんた、すごいな」

 確かに都市に入ったばかりではあるが、加護を与えてくれる女神様に酷い言い様である。

「今のクラスはマジックナイトというらしい。ヒタキはどうなんだ?」

 幼女の尊大さに何故か感心していたヒタキは、向けられた疑問の声に口を開きかけて停止し、それから不思議そうに首を傾げた。

「慈愛の女神の……何とかっていう神様で…………、えっと、戦士系統を選んで、それで……クラスの名前って何だっけ?」

 加護を与えてくれる女神様の名前すら覚えていなかった。

 
 ――――それから二人は冒涜したばかりの迷宮の神々に祈りを捧げ、迷宮への入口である巨大な門を潜ったのだった。


*    *    *

 耳障りなかん高い鳴き声を発しながら、茶色の体毛に覆われた化け猿四体が迫り来る。

 振り下ろされる白い骨を、斜め前に一歩踏み出すことでかわす。右腰に引いていた剣に左手を沿え、骨を地面に叩きつけたことで隙だらけになっている化け猿に、身体ごと回転させながら斬撃を放つ。ヴェルマの身の丈ほどもある魔力を纏った剣の一閃は、敵を上下に両断した。

 標的を仕留めんと飛び掛ってくる二匹に、ヒタキは迷わず背を向けて走って逃げ出した。

 敵を両断したヴェルマは、返す剣でもう一匹が振るうただの骨を断ち切る。ついで繰り出した袈裟懸けの斬撃はまともに化け猿の肩口に入り、命を断った。

 ヒタキは鳴き声をあげ追いかけて来る化け猿から、走って逃げ続ける。

「焼け死ね」

 モンスターの血を大量に浴びたヴェルマは、しかし全く意に介さずに左手で魔術式を編む。三秒に満たない時間で空中に描かれた魔術文字が輝き、完成した下級魔術『踊る火炎』が発動。飛翔する二つの拳大の炎の塊が走る二体の敵に直撃し、炸裂する。そして燃え上がる炎に抗うことも出来ず、しばらくして二体の化け猿は絶命した。

 周囲に敵がいないかと視線を巡らせた後に、ヴェルマは息一つ乱さずに剣を鞘に納めた。ヒタキも立ち止まって、ほっと一息吐く。

「はぁ……疲れた」

「お前、今回も逃げていただけだろうが」

 迷宮の一階。そこに住み着いているモンスターは、弱い。魔力炉から魔力を練りだし、術式を編んだり身体に纏ったりすることで始めて、魔力は純粋な攻撃力や防御力になるというのに、魔力量も少ない上に、魔力回路ばかりが発達していて、まともな魔力炉を持たないためだ。魔力回路はあくまでも身体能力を上げるだけ。魔力回路が発達していなければ素早い動きも出来ず、重たい物も持てず、体力もすぐに尽きるが、しかし魔力炉がないと敵にダメージを与えることができない。一階のモンスターは、ほとんど攻撃と防御の手段を持っていないのだ。

 その雑魚から逃げることしか出来なかったヒタキは、面倒くさそうに全身を覆い隠している灰色のローブを指差す。

「仕方ないだろ、俺、弱いんだから。俺は死にたくないから、いっつもこれで隠れて、見つかったら逃げながら進んでるんだ。で、こいつらの肉とか売ったら、ちょっとした金になるらしい。俺はやったことないけど、探索者の生計の立てかたの一つなんだと」

 ヒタキは迷宮の外では、何時も腰に二つ折りにしたローブを巻いている。部屋に数種類あるそのローブの色は、ダンジョンの格階層ごとの保護色だった。

「なるほどな……それでレベル1か」

 ――――神の加護を受けずに五十階を抜けた前代未聞の男。一日一階を五十日間成し続けた規格外の男。

 これ食えるのかな、と仕留めた獲物に首を傾げているヒタキに色々思うところがありながらも、ヴェルマは特に追求することもなく、声をかけた。目の前に白光と共に現れた、短剣を掴み取りながら。

「ふん、これが特に厳しい試練を乗り越えた者への褒美、というやつか。ヒタキ、今の戦闘でおそらくレベルも上がった。今日はもう帰ろう。いいな?」

「ん、おねえさんの好きにしたらいい。俺は、雇われてるだけなんだから」

 ――――その男はただの、逃亡者だった。
 



[31224] 彼女の理由と彼の夢
Name: クク◆0c3027e3 ID:6a40bec4
Date: 2012/01/23 19:54
「店長、オススメランチ。今日はちゃんと金あるから」

「家賃は」

「うん、ない」

 珍しく二日連続で遅めの昼食を取ろうとしているヒタキを、店主は冷め切った目で見て舌打ちした。

 金を払わない奴は客じゃないと言っている店主の隻眼から、ヒタキはふいと視線を反らす。

「そんな金持ってないって、知ってるくせに」

「開き直るなクズ。何時もは夕方まで寝てるだろうが。金が入った途端に使いやがって」

「だって、目が覚めたんだよ。昨日はおねえさんの付き添いだったし、日が明ける前には寝たから」
 
 面倒くさいと思いながらも、早く寝たため朝食を逃しているヒタキは、何時ものように部屋に帰らずに粘る。昼食まで逃すわけにはいかないのだ。

「あの子にいくら恵んでもらった、ヒモ」

「ヴェルさん、二十五だって」

「どっちにしろガキで、お前はヒモだ」

 的確な指摘をする、三十路終わりかけの店主だった。

 ヒタキは水の入ったグラスをじっと見つめながら、「ちゃんとした報酬なのにな」とどうでも良さそうに呟いて、店主に答える。

「千デルももらえた。あの人、最初はもっと金出そうとしてたんだよ。金持ちなのかな」

「お前が貧乏なだけだ。教会主催の講習の講師だって、やる奴はほとんどボランティア感覚だが、もっとまともな金をもらってるぞ」

 現に千デルでは憩い亭で三食は食べれない。

 しかしヒタキにとっては、そんなことは大して関係なかった。

「俺は知ってること話しただけだから、千デルだってもらいすぎだと思うけどな。一緒に潜ったのだからとか言って、売上金の半分も報酬とは別にくれるって言ってたし」

「……饒舌だな、昨日からだが。本気で気に入ってるのか?」

 呆れたような疲れたような溜め息を吐く店主は、手早く盛り付けたサラダとシチュー、パンをカウンターに置いた。

 短絡的な考えなら持つな、とそう語る店主の瞳。

 だから客が入るんだろうなぁ、とヒタキは呑気にそんなことを思いながらパンをかじる。

「何て言うかな……あの人、真っ直ぐだ。俺と違って。店長が思ってる通り、たぶんあの人、面倒事の塊だ。だけど、いい人だから、ちょっとだけ見てたんだよ」

「面倒事の塊とは、また随分な言い様だな」

「あ、ヴェルさん。おはよう」

 古くなってきた階段を軋ませながら、二階からヴェルマが降りてくる。眠たげな瞳を擦りながら、カウンターの端、ヒタキの隣に腰掛けた。

「おはよう、二人とも。で、何か言いたいことがあるのか?」

「え? 俺はないけど」

「…………」

 パンをかじりながら本気で首を傾げるヒタキに溜め息を吐きつつ、ヴェルマはそのまま店主を見る。問われたのならば答えると、無言のままその意思を伝えるヴェルマから、店主は洗い始めた皿に視線を落とした。

「望んでこの都市に入る奴はただの馬鹿か、どうしようもない事情持ち。ただそれだけのことだ」

 英雄になることを夢見て、多くの愚者が迷宮都市を訪れる。また、この迷宮都市に存在するアイテムや、神々の加護に縋ろうとして、門を潜る者も珍しくない。

 例えば不治の病を患った妻のために、僅かな希望に縋って共に迷宮都市に挑んだ男がいる。そんな男が、何人もいる。

 目的を達成できた者より、そうでない者の方が圧倒的に多い。生き残っている者より、死んでいった者の方が遥かに多い。

「何かを成すために命を懸けてる奴らは、たいていは早死にする。ここで長く生きている奴らの大半は、自分の命のためだけに必死になる。死にたくないなら他人の事情に首を突っ込むな――それが、この都市が長年をかけて出した結論だ」

「なるほどな。店が繁盛するわけだ、味の割に」

「いや、ヴェルさん、この普通の味がいいんだって。飽きないし、不味くはないし、高くもないし」

 迷宮都市での生き方を淡々と語った店主と、微笑ましそうに客思いの店主とその客を交互に見て皮肉を発するヴェルマ。そんな二人の会話の内容には全く興味を示さずに、ヒタキは呑気にやっぱり普通の味だとシチューをもぐもぐやっていた。

「……悪かったな、お嬢ちゃん。このクズなんぞに忠告した俺が間違えていた」

「なに、心配せずともヒタキを困らせるようなことはしない。私は私でやるさ。ヒタキとパーティーというものを作れば当然探索は楽になるが、私とヒタキでは目的が違うだろうからな」

 それよりも昼食を頼むと言って、ヴェルマは小さく欠伸をした。それからふと思い出したように、寝癖のついた赤い髪を片手で撫でながら、彼女は隣のヒタキの顔を横目で見た。

「ヒタキ、潜る前に時間は取れるか?」

「ん、いいけど、何で?」

「街を少し案内してもらいたい。昨日の収穫品を売ろうにも、買い物をしようにも、私はいい店を知らないからな。昨日の売上金はその時に渡す。もちろん礼もするが――――どうだ?」

 答えが分かりきった問いかけを楽しそうにするヴェルマに、ヒタキは少しだけ面白くないと思いながらも、特に渋ることもなく首を縦に振ったのだった。


*   *   *


 迷宮都市は迷宮への入り口がある教会を中心に広がる、円形の都市だ。都市は円を八等分するように大通りが走っており、東西南北で区画が綺麗に整理されている。

 東は都市の人口の大半が暮らす居住区。西は飲食店や娯楽施設で構成される歓楽区。南は鍛冶場や小規模の畑などがある生産区。そして北が、武器屋や薬屋などの店舗や露天が立ち並ぶ商業区だ。

「――――で、商業区は一回見たことがあるだろ? 北の外壁に外からの門があるんだから」

「ああ、そこで両替したんだ。宝石や珍しい薬草より、駄目もとで試した外の情報に高値がついたのには驚いた」

「まあ、宝石も薬草も迷宮に溢れてるからな。需要も外に比べたら、低いんだろうし」

 西の歓楽区にある憩い亭から北の商業区までの道を、ヒタキとヴェルマはのんびりと歩く。夕暮れ時の西日が照らす細い道は、行き交う幾人もの探索者たちで、賑やかとまではいかないが少しだけ騒がしかった。

「愛でるしかない石を求める高尚な人間は、ただの馬鹿と死にたがりが集うこの都市にはあまりいないか。異空間の迷宮都市……随分と遠くに来たものだな、私も」

 外の世界から五百年にわたって隔絶された場所。独自の文化が育ち、独特の価値観が浸透している都市。――――外の世界とは、根源的に違う世界。

 遠い目をして感傷に浸るヴェルマを何とはなしに横目で伺っていたヒタキは、道の両側に建つ建物の向こうに見えてきた、商業区の中央広場を指差した。

「おねえさん、着いたぞ」

「む? ああ、そうか。なら、最初は昨日の収穫を換金しよう。信用できる店の紹介、よろしく頼むぞ、ヒタキ」

「ん」

 小さく首を傾げて見上げてくるヴェルマに、ヒタキはこくりと頷いてみせた。ヒタキ自身あまりこの都市に詳しいわけではないので、紹介する店は店主に教えてもらった鑑定士の店だ。無愛想な店主と気が合うだけあって偏屈な爺だが、目は確かな上にアコギな商売はしないらしい。

 中央に四柱の神々の像が奉られている広場から八方向に延びる道を、二人は南東に進む。ほどなくしてすぐに目的の建物が見えてきたのだが、何故かそこには異常な人だかりができていた。

 二日前にも似たような状況になっていた簡素な看板を掲げたこの建物。もしかしたら呪われているのかもしれないと、ヒタキは内心で逃げ出す準備をしながら、立ち止まってヴェルマの肩に手をかけた。

「毎日大繁盛の人気店、というわけではないらしいな」

「うん。鑑定士の爺さん、腕はいいんだけど、性格が悪いから」

「職人気質、ということか?」

 訝しげに店の周りの群集を見やるヴェルマに、ヒタキはぼそりと呟いた。

「基本的に、男の客は敵だと思ってる」

「なるほど、店内で被害者が出たのか」

 次の店に行こうかと真顔で言って、ヒタキの手を取りヴェルマは歩き出した。店とは反対の方向に。

 そんな店は願い下げだと言わんばかりのヴェルマは、しかし背後の群集から大きなどよめきが起こったことにより、足を止めた。

「ヴェルさん、気になるのか?」

「まあ、多少はな」

「ふーん……肩車しようか?」

 自らの手を握る幼女に、ヒタキは善意から申し出た。正確には幼女のような小さなおねえさんだが、優しくて可愛くて綺麗ないい人に恩返しをしたいという気持ちに偽りはないので、全く問題ない。

 しかしヒタキの純粋な善意がお気に召さなかったらしく、ヴェルマは先ほど繋いだ手を放して不機嫌そうに腕組みをして、細めた目で睨んできた。

「お前、完全に私のことを子ども扱いしてるだろう」

「え? 別にしてないけど……嫌だったんなら、ごめん」

「あ、う……そ、そんなに落ち込むな。良かれと思って言ってくれたのなら、何だ、その……気持ちだけなら嬉しいぞ」

 恩返しをしたかったのに怒られて心なしか落ち込んだヒタキに、完全に勘違いしていたヴェルマはうろたえて弁明する。でもやっぱり肩車は嫌だったらしいので、ヒタキはちょっと残念だった。

「……まったく、賢いくせに何で所々抜けているんだ。もしもわざとやっているのなら、相当性格が悪いぞ」

「おねえさん……真っ直ぐすぎるな。抜けてるって……まあ、いいけど」

 と、二人でそんな間の抜けた会話を交わしていると、店の周囲の人だかりが徐々に真っ二つに割れていった。偶然にも店先からちょうど二人が立つあたりを結ぶように出来た、数多の探索者たちによって作られた花道。

 その道を堂々と歩んでくるのは、綺麗な銀髪の少年だった。赤色と黒色のオッドアイを輝かせ、その身を金色の鎧に包んでいる。まだ完全に成長しきってはいないであろう体躯には少々不釣合いな長剣を、それでも違和感を感じさせずに腰に佩いていた。

 十代半ば程度であろうその少年は、道の中央に佇むヴェルマに気づいたらしく、その歩みを止めた。

 そして軽く目を見開いて、微笑を浮かべた。

「レベル2か。まだここに来たばかりのようだな」

「…………」

「俺の目はちょっとだけ特殊でね。だから見ただけで、人のレベルがわかるんだ。俺の名前はリョウ・アカツキ――――いや、今は白銀の神子の名前の方が有名か。初心者が一人で迷宮に挑むのは、何かと大変だろう。困ったことがあったら、何時でも相談にのる。縁があれば、また合おう」

 そしてリョウ・アカツキと名乗った少年は、固まっているヴェルマの頭を撫でて、淡く微笑んで去っていった。

 しばらくしてざわついていた観衆も去り、商業区の一画が普段通りの風景へと戻った頃に、ようやくヴェルマの時は動き出した。

「おい、ヒタキ」

「…………」

「お前、私を置いて逃げたな」

「…………」

「隠れていないで出て来い。三秒以内に出てきたら、八つ当たりはしない」

 淡々と押し殺した声を、前方を向いたまま発するヴェルマ。そして秒読みが開始された瞬間に、息を殺して建物と建物の隙間に隠れていたヒタキは姿を現した。

 全身を覆い隠す灰色のローブを脱いで、二つ折りにして腰に巻き直すヒタキを、ヴェルマが冷ややかに睨みつける。

「説明できたら、私を見捨てたことは不問にする。何だったんだ、今の一方的で派手で意味不明な気取った子供は。初対面で頭を撫でてくるなど、馴れ馴れしいにもほどがあるぞ」

 淡い微笑みがあまり似あっていなかった初対面の背伸びをしすぎた子供に、一方的に子供扱いされたことがどうやらきつかったらしく、ヴェルマはとてつもなく辟易していた。ついでにさっさと逃げ出していたヒタキには、お怒りのようだった。

「期待の新星の一人らしい。五十日ちょっと前の神秘に巻き込まれて、強制的にこの都市に送り込まれた五十人のうちの一人だってさっき聞いた。門の外からじゃなくて別の世界から来た、『神眼』と『魔術無効化』っていう特殊スキルってのを貰ってる人で、さっきの騒ぎの原因。たった五十日で四十階の門番を倒して、そのモンスターからの収穫品が本物だって鑑定されたのが、ついさっきのこと。以上、説明終了」

「私の知り合いの男は、五十日ちょっと前に来てつい先日五十階を抜けたらしいが、その男との繋がりについては?」

「俺も神秘に巻き込まれた一人だけど、特殊スキルなんて持ってない……ていうか、まだ神様からスキル自体もらってない。一匹もモンスター倒してないからな、俺。十階ごとにいる門番も、頑張って見つからないようにしてやり過ごしたし。頑張って逃げれば、何とかなるもんなんだよな、今のところ」

 条件反射でつい目立たないように人ごみに紛れたヒタキは、少しだけ罪悪感を抱いていた。ちょっと理解し難い事態に遭遇して疲れているヴェルマが何となく可哀想で、置き去りにしてしまった自分にも責任があるような気がしたので正直に答えたのだが、しかしヴェルマは更に疲れたように溜め息を吐くのだった。

「『魔術無効化』だったか? さっきの子供も十分に反則な気がするが……その話を聞いてしまえば、少し印象が薄れるな」

「そうか? 派手すぎて、なかなか忘れられそうにない奴だったけど」

 思わず首を傾げたヒタキに「そうだ」と短く答えて、ヴェルマはヒタキのぼんやりとしたしまりのない顔を見上げる。

「そんなことより、お前はここに望んでいるわけではないのだな。外に出たいから、迷宮に潜っているのか?」

 答えたくないなら答えなくていいが、と付け加えたヴェルマにゆるりと首を横に振り、ヒタキは少しだけ嬉しそうに顔を綻ばせて答えた。

「うん。俺、外に出て行きたい所があるんだ。ヴェルさんは、何が目的でここに来たんだ? 答えたくないなら以下略だけど」

 昔から夢見てきた彼の地に思いを馳せるヒタキは、軽い気持ちでヴェルマに聞いた。あの地から逃げ出せたのだから、この都市からも逃げ出せるだろうと、楽観的な思いを抱きながら。

「ないさ、そんなものは。私はただの夢絶えた落人(死にたがり)。この地には――――死に場所を求めてやって来たのだから」

 ――――だから、小さな彼女から返ってきた予想外の答えに、少しだけ、少しだけ心を乱されたのだった。


*   *   *


 ――――そしてその晩、彼女と別れたヒタキは、五十一階を抜けた。逃げて、逃げて、逃げて。



[31224] 儚い夢と赤い幻
Name: クク◆0c3027e3 ID:74afd3eb
Date: 2012/01/24 19:12
 風も吹かぬ、暗い暗い、深い深い密林。幾本もの太い木々が一面に立ち並ぶそこには、しかし大きな道があった。

 人間による干渉を受けていない手付かずのはずの密林は――――迷宮の六十階層。迷宮の一部として生まれたが故に、初めから機能としての道を持つ、歪な密林だった。

 ……門番は、あの木か。

 思い出したように獣の雄叫びが響く、不気味に静まり返った密林。裕に三人の人間が横にならんで剣を振れるほど幅がある道から外れた、生い茂る木々の内の一本の太い枝の上で、ヒタキは一度大きく深呼吸した。

 迷宮の十階層ごとに、俗に「門番」と呼ばれるモンスターが存在する。

 門番とは迷宮のシステム上に存在するものではなく、探索者たちによって定義されたものだ。

 迷宮は十階区切りでがらりと環境が変わる。門番とはその一つの生態系の頂点に君臨する者――つまり十階層ごとの王者のことだ。

 門番の呼び名は、多くの王者が次の階へと続く門の近くを寝床にしていることに由来する。勿論全てが全てそうであるわけではないのだが、六十階の門番は、由来通りの門番だった。

 密林に群生する木々はどれも人間の胴体より四回りも五周りも太いが、自然の中に溶け込んだヒタキの視線の先にある大樹は、それらを十本束ねても足りないほどの大きさを持っている。

 大樹の怪物フンババ。それが密林の六十階層の全ての道が収束する、拓かれた空間の中央に居座る、門番の名だった。

 迷彩柄に染められたローブで全身を隠し、息を殺して樹木と同化するように潜むヒタキのすぐ隣の木を、アイスリザードが登り始めた。

 意識の片隅でそれを察知したヒタキは、脳内で組み上げていた数個の案を瞬時に破棄して、迷いなく別の枝へと飛んだ。

 加護のない人間(レベル1)では打倒不可能とされる、Eランクに分類されるアイスリザードに感知されれば、生存率は極端に落ちる。

 レベルにして1、ランクにしてFでしかないただの人間。格上の生物しか存在しない六十階層を、ただの人間であるヒタキが生きて出る最も安全な方法はとは則ち、数いるモンスターの感知範囲を掻い潜る移動。

 静かに、されど迅速に、ヒタキは枝から枝へと飛び移る。木々の上にいるモンスターたちの隙間を縫うように、立体的に縦横無尽に駆けて目指す場所は、門番フンババの住処である、密林の拓けた空間。

 五十一階から六十階は、ヒタキにとって最も攻略し易い階層だった。密林という構造状、隠れる場所と移動可能な空間に富んでいるからだ。

「……だってのに、最後の最後で一番苦手な状況。嫌だな、ほんと」

 小さくぼやいて、移動方法を完全に直進へと変えたヒタキは、最後の枝を強く蹴り、フンババの前へと飛び出した。同時に、幾つかの影も密林より飛び出す。

 勢いをつけた高所からの跳躍は、一気に大樹のモンスターまで残り二十数歩まで距離を潰す。

 そして着地の衝撃を、そのまま前方に転がることによって推進力へと変えたヒタキは、起き上がるなり全速力で駆け出した。

 背後には、最後の加速によってヒタキの存在を感知した、何匹ものモンスターが迫っていた。

 純粋な速度で劣るヒタキの背中に、雄叫びを上げるアースウルフの凶爪が迫る――

「…………っ!」

 ――が、しかし、アースウルフは突如大地を突き破って出現した、強靭な太い根の一撃によって吹き飛ばされた。

 間一髪で斜め前方に飛び込み、再び大地を転がって難を逃れていたヒタキは、息を殺して足音を殺して、素早く移動する。

 大樹の化身であるフンババには、視覚がない。その代わり、それを補い余るだけの触覚がある――という情報を、ヒタキは先日迷宮都市の情報屋から仕入れていた。

 地中に張り巡らされた幾本もの根が、移動時に発生する大地の振動を正確に捉え、位置を捕捉した敵を排除する。四方八方から迫り来る強力な幾本もの根の攻撃――それがフンババの真骨頂である。

 慎重に慎重を重ねて、それでも迅速に足を前に運ぶヒタキの後ろでは、アースウルフが、アイスリザードが、フォレストゴブリンが、大樹の根の乱撃に巻き込まれて徐々に血達磨となりつつある。

 Dランクのフンババの領域に踏み込み、無事でいられるEランクのモンスターなど存在しないのだ。

 ヒタキは数歩先にまで迫ったフンババの幹と、大地の隙間に僅かに見える、装飾が成された階下への門の入口を確認し、静かに大きく息を吸い込む。

 そして短く強く息を吐き出し、跳躍に必要な筋力を全力で稼働させた。

 飛翔、そして着地。大きく前方に飛んだヒタキは、そのまま革のブーツで地面を削りながら、大地と二股に割れた幹の隙間にある空間へと身体をねじ込んだのだった。

 ――――近くに落ちていた、細身の長剣を掴み取りながら。


*   *   *


「今日はまた随分とだれているな」

 憩い亭のカウンター席に突っ伏していたヒタキは、すぐ近くの階段の上から聞こえてきた鈴が鳴るような澄んだ声に、むくりと緩慢な動作で顔を上げた。

「……あ、おはよう」

「ん、おはよう、ヒタキ。毎度のことながら、もう昼を過ぎているがな」

 すでに指定席と化した端から二番目のカウンター席、つまり自分の隣に座るヴェルマ。三日ぶりに見るヴェルマの顔に、ヒタキは僅かに頬を緩めた。昼夜が逆転しているヒタキと、まともな探索者たちと同じリズムで生活を送るヴェルマでは、顔を合わせる機会があまりないのだ。

「ヴェルさん、今日は休み?」

「ああ。昨日十階を抜けたからな、一旦休憩だ」

「え、もうか」

「まだ最初なのだから、このくらいは当然だろう」

 迷宮は下に下に行くほど広くなる。最初の十階は確かに狭いし、加護がなくとも倒せるランクのモンスターしか出ないが、それでもこれだけの速度で十階を踏破できたのは、ヴェルマの元の実力があってこそだ。

 一度見たヴェルマのあの体捌きと魔術は、外の世界での相当な鍛錬を容易に想像させた。

 本当に当然のことだと思っているらしいヴェルマは、厨房の奥で豪快にフライパンを振っている店主に紅茶を注文して、再びカウンターに上半身を投げ出したヒタキの顔を覗き込みながら、小さく首を傾げた。

「ヒタキの方はどうだ?」

「俺も今朝、六十階が終わった。門番に半分門が埋まりかけててさ……うん、ほんとに死ぬかと思った」

「ああ、それでそんなに疲れているのか」

「だから、今日は俺も自主休業する。生活費も拾えたし」

 懐に余裕が出来そうだし、無理をしたばかりだし、今日の夜も迷宮に潜る理由はなかった。この都市から逃げ出すのが少し遅れるが、時には適度な休息も必要なのだ。

 せっかくの休みだし、今朝拾った剣がそこそこの値で売れたら、今日はミルクを飲んで贅沢しようかなあと、気の抜けた顔でぼんやりと考えるヒタキだった。

 数日の疲れを癒やすために、ゆったりまったりと寛ぐ二人に、近づいて来た店主がカウンター越しに声をかける。

「臆病者と幼児の会話には聞こえんな」

「幼児、だと……?」

「外見の話だ。否定は無理だろうが、その体じゃあ」

「ぐっ……ヒ、ヒタキも何か言い返せ。客に最悪な暴言を吐くこの前科持ちに」

「いや、実際逃げてばっかの臆病者だしな、俺。ていうか、ヴェルさんもけっこう非道いよな」

 暴言を標準装備としている店主の乱入で、まったりとした空気が多少荒れるが、ヒタキはこの雰囲気も嫌いではなかった。

「難易度は低いが、大概の奴は最初の十階で手こずる。数日で抜けられるのは、それこそ相当戦い慣れた人間くらいだ」

 少しむくれ気味のヴェルマの横顔を、カウンターの上でダレたまま、あくまでものんびりと見ながら、ヒタキは店主の言葉に耳を傾ける。わざわざ自ら会話に割って入ったということは、何かしらあるということだ。

「実年齢を知らない奴がお前の話を聞けば、冗談だと疑うか、的外れな勘違いをするかだろうよ」

 乱暴にそう言って、店主は入れたての紅茶をヴェルマの前に置く。ヴェルマはそれを手に取り、ゆっくりと口を付けて、小さく頷いてみせた。

「そうか、勘違いか。ん、ありがとう店長。今日も紅茶は美味しいな」

 凶悪な人相のくせに親切な店主に、機嫌を直したヴェルマは小さく笑った。本人にそんなつもりはないのかもしれないが、最初の暴言が照れ隠しに思えてくるのだ。

 遠回しな忠告だけをして、店長は再び厨房の奥に戻って行った。

 しばらく紅茶を啜るヴェルマを見ていたヒタキは、一度大きく欠伸をしてから、のろのろと頭を上げる。

 一日中だらだらするのも悪くないが、生憎と今日の夕食代が財布の中にない。迷宮で食べる保存食もそろそろ無くなりそうだし、新しいエリアに入ったし、換金がてら買い物をしに商業区に行くのだ。

「ん、部屋に戻るのか?」

 立ち上がった自分を見上げくるヴェルマに、ヒタキは首を横に振る。

「いや、買い物」

「む……私も一緒に行っていいか? 装備を新調しようと思っていたんだ」

 一瞬の黙考の後にそう提案したヴェルマに、ヒタキはすぐに頷いた。

「じゃあ俺、荷物取ってくる。紅茶、ゆっくり飲んでていいから」

「ん、ありがとう」

 柔らかく微笑んだヴェルマに、ヒタキも気の抜けた笑みを返す。そして何時もよりちょっとだけ軽快な動きで、二階への階段を上がって行った。


*   *   *


「…………」

「鑑定、よろしく」

 お前は帰れと無言の重圧をかけてくる、白く長い髭を伸ばした禿頭の老人。窓口越しに叩きつけられるその小柄な鑑定士の冷たい視線を、ヒタキは完全に無視して細長い包みを突き出した。

「…………」

「…………」

「……………………」

「……………………」

 よし、もう帰ろう。

 何時も以上に続く沈黙に、ヒタキはあっさりと諦めて、一応は行き着けである鑑定屋を後にしようと踵を返す。

 が、しかし。

「ご老体、鑑定をお願いしたい。これの」

 埒が明かないとばかりにヴェルマに手から包みを奪われて、窓口に出されてしまった。

「おお、ヴェルマちゃん。元気だったかい?」

「元気も何も、昨日訪ねたばかりだろう。呆けるにはまだ早いと思うが」

「昨日の客が帰らぬ人になることは珍しくないからの。ヴェルマちゃんのことが心配なんじゃよ」

 もはや別人だった。ヒタキの時とでは差があるとかいうレベルを超越した対応に、若干ヴェルマも引き気味だ。

「俺、何か悪いことしたかな……」

「貴様がヴェルマちゃんと一緒にいるのが悪い。ヴェルマちゃんを置いてさっさと帰れ」

「帰るさ。鑑定してくれたら」

「儂に話しかけるな!」

 とてつもなく理不尽だった。常々ヒタキは、何故この鑑定屋は潰れないのか本気で不思議に思っている。

 ヴェルマの再度の依頼により、ようやく包みを解き始めた老人。知識神の加護を受ける老人の鑑定眼が確かなものである分、その性格が残念でならなかった。

「剣……また遺品か。まあ儂には関係ない。――神宝『祝福の旋律』、か。D+ランク、付加スキルは『魔術補助』じゃな。何時もと同じで買取でいいのか? 百二十万デルになるが」

「…………」

 諸刃の細身の剣。六十階層で拾った、おそらくは門番に敗れ屍となった探索者の持ち物だったそれを見ながら、ヒタキはしばらく考える。

 拾った場所が場所なので、ランクについては驚かない。D+ランク、中級者の武器としては妥当である。しかし、神宝だとは思っていなかった。

 特に厳しい試練を乗り越えた者に神が授けるとされる、付加スキル持ちのアイテム――それが神宝だ。

 スキル込みでのランクである以上、武器としての性能は同ランクのものより低めなのだろうが……と、そこまで考えて、ヒタキはヴェルマの顔を見た。

 ヴェルマは、きょとんと不思議そうに首を傾げる。

「どうした?」

「この剣、いるかなと思って」

「む、ヒタキは剣も使えるのか。――……まあ、神宝なら手元に残しておいて損はないのではないか? ヒタキの場合は、使いどころがあるかどうか少し怪しいが」

「……何か可愛いな、ヴェルさん」

 少し感心したように頷いて、真面目に悩んで真剣な回答をくれたヴェルマ。絶妙なボケだった。

 ヴェルマから視線を外し、ヒタキは鑑定士の老人に向き直って首を横に振る。

「爺さん、それ売らない」

「そうか」

 素っ気なく答えた老人は、興味が失せたように椅子に腰をおろし、パイプを口に加えた。

 そしてヒタキは、返却された剣をそのままヴェルマに渡す。

「はい」

「は?」

「これあげるから、要らない剣が欲しい。交換」

 先日見たヴェルマの戦い方は、剣と魔術を併用したものだった。『魔術補助』のスキルを持つこの細身の剣、彼女との相性はかなりいいだろう。

「……私の剣を売っても、外でならばともかく、ここでは百二十万にはならないぞ。せいぜいが三十万だ」

「いいよ、別に。拾いものだから。あ、でも、思い入れがあったりするのか……だったら剣はだめだな」

 迷宮にしか存在しない希少金属を用いたわけでもない、外で作られた普通の剣だが、ヴェルマの持つその剣は、十分に名剣と呼べるものだった。

 外界の名のある鍛治士が鍛えた一本なのだろう。

 ヒタキの予想した通り、ヴェルマは「そうだな」と頷く。

「しかしだ。確かに長い間私が愛用してきた剣だということもあるが、今は明らかにその神宝と釣り合っていないことの方が重要だ」

「いらないんなら、いいけど……。ごめん、俺、他にあげれるものないや。せっかく十階抜けたのに」

「なっ! あ、が……し、しかしだな…………あー、もう! わかったから、わかったからそんな顔をするな! 有り難く頂く!」

 せっかくお祝いできると思ったのに拒否されて、心なしか落胆したヒタキに、ヴェルマはこめかみを抑えて唸った。

 だから貧乏なんだ、と恨みがまし気に呟きながら、ヴェルマは不思議な思いでいっぱいのヒタキに宣言する。

「当面の間の食費と宿代、探索に必要な経費は私が払うからな。あと、今晩は酒に付き合え。私からのお祝いだ」


*   *   *


「そんな重そうな鎧、着れるわけないでしょう!」

「いや、別に着なくてもいいけどさー、死ぬよ?」

「私は法則神ロウの加護者なんですよ! 魔術のエキスパートの卵なんですよ! 遠距離特化型の原石なんですよ! それがどうしてそんな鉄の塊に入らなければならないんですか! 私は筋骨隆々の重戦士ですか!?」

「だからさー、君が法則神の加護者なのが原因なんだって」

 薬草専門店「森の囁き」に入れば、長い青い髪の少女と眼鏡の青年がカウンターを挟んで何やら揉めていた。

 十代半ば程度の少女は苛烈に。

 二十代半ば程度の青年――「森の囁き」の店主であるラウル・ハンザは面倒くさそうに。

 鳶色の短髪をくしゃくしゃと掻きながらパイプをふかすラウルが、ヒタキとヴェルマの来店に気づいて眼鏡の奥で瞳を動かし、草花を植えた鉢に囲まれた入口に視線をやる。少女もその瞳の動きを追って首を後ろに向けた。

 何となく止まってしまった口論。間が悪かったと思い至ったヒタキは、ヴェルマの顔を覗き見る。

「出直すか。何か、邪魔しちゃあ悪いし。ほら、俺たちがいたら遠慮して怒鳴れないかもだろ」

「ヒタキ。思いやりも大切だが、言葉は選べ。あの子が可哀想なくらい顔を赤くしているだろう」

「え? 悪いこと言ったっけ、俺」

「あー……ほら、とりあえずあの子に謝っておけ。見ろ、もう泣きそうになっているだろう」

 顔を真っ赤にして俯いてしまっている少女。素直にヒタキが謝ろうとした瞬間、少女が叫んだ。

「き、気遣いが痛すぎます! もうやめて下さいっ!」

 思いっきりヴェルマのせいだった。

「お、汚点です。魔術師なのに! 知的なのに! 冷静なのに! 取り乱しちゃうなんて!!」

「いらっしゃい。いいよいいよー、出直さなくても。見ての通り僕は取り込んでないから」

 よほど感情的に喚き散らしていたのが恥ずかしかったらしく、一人で悶える少女と、それを完全に無視して煙を吐き出すラウル。何とも賑やかな店だった。

 森の囁きは薬草専門店と自称しているが、その実態は探索者向けの何でも屋だった。低レベル者向けの装備品や魔術具、探索に必要な道具や保存食などにいたるまで扱う便利な店というのが客側の認識で、薬草を購入するついでにその他諸々の買い物を一緒に済ませる客も多い、多様性が売りになっている謎の専門店である。

「二人とも、何時ものでいいのかな?」

 パイプを置いて立ち上がったラウルは、背後の棚から数種類の包みを取り出し、紙袋に詰めて行く。

 薬草専門店の常連の二人だが、日常的に購入するものは保存食だった。

 何事からも逃げることを信条としているヒタキと、まだ十階を抜けたばかりの外界で確かな心得があるヴェルマは、薬品を使う機会自体が少ない。店にわざわざ通う理由は、単純にラウルが作る数種類の保存食は不味くない上に、薬草が混ぜ込まれているので体に良いからだった。

 ヴェルマが支払いを終えた後に、紙袋を受け取ったヒタキは、未だに何やらぶつぶつと呟いている少女をなるべく見ないようにして、早々に店を出ようとする。

 ……何か、面倒事の匂いがする。

 嫌な予感がしたら逃げるのが一番。それがヒタキの率直な感想だった。

 しかし買い物をするという行為が、致命的に逃げるタイミングを遅らせた。すでに後の祭り、青髪の少女はヴェルマに話しかけていた。

「あなたも探索者なの?」

「ああ。と言っても、つい最近この都市に来たばかりだがな」

「へえ、私もここには一昨日着いたばかりなの。ところであなたは、迷宮に潜る時には全身鎧を装備する?」

 自己紹介にしては斬新過ぎた。は? と流石に珍妙な質問に眉根を寄せるヴェルマを指差して、少女はラウルに勝ち誇ったように胸を張って言った。

「ほらほらほらほら、やっぱりこの可愛らしい小さな女の子だってそんな鉄塊は知らないって言っているじゃないですか。私が成り立ての探索者だからって、適当なことを言わないでください!」

「あー……もう別にいいんじゃない? どうでも」

「な、何なんですかその投げやりな態度は!? 仮にも客に向かって、どうでもなんて!」

「だってさー、君って人の話聞かないじゃん。せっかく説明しようとしたら、いきなり怒鳴り始めるし」

「……っ!」

 至極どうでもよさそうに欠伸をするラウルの言葉に、少女は再び顔を真っ赤にした。一応自覚はあったんだ、とヒタキとヴェルマは同時に感心する。

「だ、だって、私みたいな非力を形にしたような人種に、全身鎧を着けろだなんて言うから……」

「まあ、率直に説明すると、君が一人で迷宮に潜ることは自殺行為だってこと。法則神の加護者は、君が言った通り魔術のエキスパートだけど、逆に言えばさー、それ以外はダメダメってことになるよね?」

 欠伸混じりのラウルの説明に、少女は暫し沈黙して、

「あ……魔術の準備中は完全に無防備になっちゃうから……それで鎧を……」

 泣きそうな顔で納得した。

「まあ、レベルが高くなれば防御系のスキルも手に入るし、『魔術障壁』のスキルがついた軽い防具なんかもあるし、何時までも鎧ってわけじゃないよ。気長に頑張って」

 なるほど、とヒタキは納得した。嫌な予感はこれだったのかと、二人のやり取りを聞いて小さくため息をついた。

「まあ、最初のうちはどこかのパーティーに混ぜてもらうのが一番だと思うよ。死にたくないんなら」

 はっとした少女が、目を煌めかせてヒタキとヴェルマを見つめる。

「パーティー……」

「…………」

「お兄さんとお嬢さん、つかぬ事をお聞きしますが、パーティーに魔術師が必要だったりしませんか? ここにエキスパートの卵がいるんですが」

「俺たち、パーティーじゃないから」

「私もこの男も、誰かと組む予定は今のところはない。パーティーに入りたいのであれば、残念だが他を当たってくれ」

 え? と少女が首を傾げる。

「お二人とも、友人じゃないんですか?」

「友人だからと言って、必ずしもパーティーを組まなければならないわけではないだろう」

「それに、俺たちはそれぞれの目的のために迷宮に潜ってるから」

「あ……」

 少女は安易な質問をしたことを悔やむように目を伏せた。

「誰かとパーティーを組むんなら、同じ目的を持った人間同士で組んだ方がいいと思うよー。生活費のためとか、何かのアイテムのためとか、強くなるためとか、それぞれ潜る理由は色々あるからね」

「はい、ご指導ありがとうございます」

 今度は素直に助言を受け入れて、ぺこりと頭を下げる少女。そんな少女にゆるりと頷いて、ラウルは欠伸混じりに続けた。

「君に目的とか夢とかがあるんなら、言っておいてよ。そうしたら、この店に来る丁度良さそうなお客さんに、君のことを紹介できるからさ」

「え、いいんですか? そんなことまで」

「こっちも客商売だからねー。そのくらいのサービスはしとかないと、客足が減っちゃうし」

 よほど一人が心細かったのか、少女は安堵の息をついてラウルに感謝の眼差しを向けていた。

 ヒタキはそんな二人をぼんやりと見ながら、憩い亭のあのカウンター席を思い出していた。

 無愛想な店長が作った料理を、ヴェルマと並んで食す。

 あの何でもない、それでも温かな日常。

 自分たちに出会えたのは良縁だったと、ヴェルマは語った。ヒタキも、出会えてよかったと思っている。

 この少女とラウルも、もしかしたらそう思う日か来るのかもしれない。

「ありがとうございます、本当に色々と助かりました。それじゃあ、改めて自己紹介させていただきますね。私の名前はメリル・カナート。私はこの迷宮都市に――――」

 そんな迷宮都市の、どこにでもあるようでどこにもない日常の風景を、何気なく見るヒタキは、

「――――この世の理に至るために、魔法使いになるためにやって来ました」

 腕に抱えていた紙袋を、思わず床に落としていた。

「ヒタキ?」

 どうしたと顔を覗き込んでくるヴェルマに、何の言葉すらも返すことが出来ない。視界がもう、真っ赤に染まっていたから。

 遠い日のあの赤い光景を幻視する。逃げ出したあの地に置いて来たはずの、あの人との想い出を。

 そして一瞬の白昼夢は終わりを迎える――――鮮血に染まった、あの人の笑顔を最後に。

 こちらを振り向いたメリルと名乗った少女に、ヒタキは小さな声で、しかしはっきりと告げる。

「やめといた方が、いい。魔法なんて……そんなもん追ってたら、不幸になるだけなんだから」

 ――――そう告げることしか、出来なかったから。



[31224] 白銀と暗影
Name: クク◆0c3027e3 ID:ee13ee11
Date: 2012/02/14 20:21
「あー…………」

 こみ上げてくる吐き気に眉を寄せて、ヒタキは憩い亭二階の一室で目を覚ました。

「…………頭いてぇ」

 腹部に感じる重みに追い討ちをかけられつつ、ベッドに寝転んだまま朝日が差し込む自室を眺める。

 部屋には自分を含めて三人の人間が寝ていた。

 数枚のローブを毛布代わりに床で死んだように眠る青髪の少女と、そして自分の危険な調子の腹部を枕代わりに眠る赤髪の幼女。

「……にじゅう……ご」

 謎の寝言を残して、すやすやと寝息を立てる見た目幼女なヴェルマだった。

 買い物を終えて、予定通りに行った晩酌。当初はヒタキとヴェルマ、そして憩い亭の店主だけで行うはずだったそれには、何故か薬草専門店「森の囁き」で出くわした二人、ラウルとメリルが参加していた。

 それぞれの店の主である二人は早々に切り上げたが、それ以外の面々は酒に溺れていた。


*   *   *


「わたひのおひゃけがのめにゃいのでしゅかひたきさん!! わたひはまほうちゅかいになりゅためにいえをしゅててまでここにきたのに!! あんにゃこというにゃんてひどいでしゅ!! さあさあさあ、おしゃけをのみなさい!!」

「いや、無理だから……」

「のみなしゃいといってるんでしゅ!!」

「が、ぐぅぅっ……………っ!!」


*   *   *


 昨晩のメリル・カナートの凶行を思い出したヒタキは、腹の上ですやすやと眠るヴェルマを、苦い顔で無言のまま激しく揺すった。

「ん……ねむい、もうすこし……」

「…………俺、吐きそう」

「…………」

暫しの沈黙。そして、

「…………っ!!?」

 ヴェルマは目を見開いて飛び起きた。

「おはよ、ヴェルさん。調子、どうだ?」

「……ああ、おはよう。最悪な寝覚めだよ。心臓に悪い冗談は止めてくれ」

「いや、冗談じゃなくてマジだって。飲まされ過ぎた」

 頭も痛いしとぼやくヒタキを、ヴェルマ疑うように半眼で睨んだ。

「メリルに飲まされてはいたが、あまり酔ってはいなかっただろう。この子がまともに喋れなくなった後は、上手に逃げていたし」

「酔うとか以前に、物理的に胃に入らない量だったんだって」

 夢を全否定されて頭に来ていたのか、ヒタキは昨晩酔っ払ったメリルに殺されかけた。酒瓶を口に突っ込まれて。

「まあ、子どもが酒を飲むと、ろくな事にはならないといういい例だ。――教訓、飲酒は大人になってから、だな」

 見た目十歳なヴェルマの言葉だが、何故か異常なほど説得力があった。この世は謎だらけだ。

 もしかすると昨晩彼女が蒸留酒を美味しそうに大量に飲んでいたからかも知れないと、ヒタキは微妙に複雑な心境でそう思いながら、すやすやと昨日知り合ったばかりの他人の部屋で熟睡する、青髪の自称「知的で冷静でクールな魔術のエキスパートの卵」な少女を、遠い目で見た。

「で……これ、どうする?」

 自分で勝手に酔い潰れた自称「卵」が目覚める気配は、それはもう見事なほど皆無だった。

「…………むにゃ……まほう……」


*   *   *


 迷宮都市には、資源がない。

 耕すべき田畑がなければ掘り起こす鉱山も、狩猟や採集のために入る森や山も、魚が泳ぐ川や海もない。

 故に迷宮都市には、農業を初めとして、酪農、漁業などを生業とする者は存在しない。

 しかし迷宮都市には、迷宮がある。

 そして、探索者がいた。

「――――て言うわけで、迷宮の中に溢れてる食料とかを、探索者が都市に持ち帰るんだ」

「なるほど、道理で。それにしてもここは……」

 迷宮の六十一階層、ヒタキとヴェルマの目の前には茫洋とした麦畑が広がっていた。

 波打つ金色の大海原に、ヴェルマは呆然として思わずと言った様子でため息を吐く。

「壮観、としか言いようがないな。十階層は薄暗い石造りの遺跡のような場所だったから、迷宮内部にこのような場所があるとは思っていなかった」

「他にも森とか海辺とか、色々あったぞ。まあ、ここまで食料に特化した場所はなかったけど」

「そうか。やはりでたらめだな、ここは。それにしても、レベル27の私が良くここまで来れたものだ」

「いや、それを言ったら俺なんて1だぞ。実際逃げに徹すれば、何とかなるもんなんだって。何でみんな、わざわざ倒そうとするんだろうな」

 六十一階層から七十階層は、食材が溢れている点を除けば、他の階層と大差ない。草原にも麦畑にも魔物が徘徊しているし、罠もある。

 それを身をもって体験したからこそ、ヴェルマはヒタキを呆れた目で見た。

「言っておくが、普通は無理だぞ。お前の察知能力は異常だ」

「まあ、俺の場合は魔物に見つかったら、ほとんど終わりみたいなもんだからな。生存本能ってやつだろ」

「……そういうものか」

 全く納得できていない様子ながらもヴェルマは深くは言及せずに、その瞳を再度黄金の海へと向けた。

 ヒタキとヴェルマが揃って迷宮の六十一階層にまで赴いた理由。それは、憩い亭店主ジン・リッパーの依頼を受けたためだった。

 ささやかな宴会を行なった日から数えて五日後である今日は、ヒタキとヴェルマにとっては何時も通りの日常だったが、店主にとっては違った。

 お手頃な価格を売りにする憩い亭では、少しでも原価を安くするために食材を直接探索者から仕入れている。今朝方、契約していたその探索者が、死んだという報せが入ったらしい。

 そこで次の探索者が見つかるまでの繋ぎとして、つい先日俗に迷宮の食糧庫と呼ばれる階層に入ったヒタキに白羽の矢が立ったのだ。

「ところでヒタキ」

「ん?」

「とりあえずの繋ぎとして、と言われて安請け合いしていたが、そう簡単に次の探索者が見つかると思うか?」

「あー……、普通なら難しいんだろうけどな」

 相変わらず鋭いヴェルマの指摘に、ヒタキは少し考えて頭を掻きながら続ける。

「あんまりいないんだろうしな、わざわざこの階層に留まってる人って。探索者の過半数が六十階を超えるまでに死ぬか探索者を辞めるかだって話だし。だけどまあ、店長って人脈あるらしいから」

「ふふ、なるほどな。それなら、問題はない」

 何故か微笑むヴェルマに、ヒタキは首を傾げる。微笑まれる理由が全くわからなかった。

「まあ、いいや。そろそろ行くけど、ヴェルさん、準備できてるか?」

「何時でもいいぞ、私は」

 緊急時に何時でも使えるように左腕の篭手に貼り付けた、店主から支給された一枚二百万デルという超高級魔術具・転移符に苦笑と共に視線を落とした後、ヴェルマは腰の細身の剣の柄に一度触れて頷いた。

「じゃあ、作戦通りによろしく」

「任せろ」

 大地を蹴り駆け出したヒタキを、ヴェルマが後ろから追う。波打つ黄金の麦畑に飛び込んだ二人は、手当たりしだいに麦を引きちぎり背負った袋に詰め込んで行く。

 無尽蔵とも言える天然の食糧を抱えるこの階層に、活気はあまりない。収穫に夢中になるばかりに、麦畑に潜み獲物を狙う魔物に何時の間にか周囲を囲まれ、命を落とす探索者が多くいるからだ。

 中堅所の実力者には危険で、しかも地味な作業の割りには、実入りがよくない。

 多くの者に敬遠されるには、十分過ぎる理由だった。

 視界の悪さで忌み嫌われる広大な麦畑の中を、しかしヒタキは迷うことなくジグザグに折れ曲がる軌道を描き疾走する。

 黄金の稲穂の下に隠れ潜む魔物を的確に察知して回避し、二人は走り続ける。

 ――だが、幾ら敵を避けて通ろうと、何時までも気づかれずにいられるはずがない。

 ヒタキの見据える先、黄金の稲穂の下に、一体の魔物が潜んでいる。

 しかし、迂回するわけにはいかなかった。今道を逸れれば、他の魔物を引き寄せることになる。

「前方、一点集中」

 右の人差し指で前方を指し示しサインを送り、ヒタキは上体を更に前に倒し込みながら地を蹴り、加速した。同時に足を止めたヴェルマの左手が踊り、宙に魔術文字を描く。

 二人の行動開始より三秒。残り十数歩の距離まで近づいたその時、敵が二人の接近を知覚。

 黄金の海から、漆黒の大鎌が飛び出す。次いで現れるのは、額に一本の角を持つ純白の体毛に覆われた小型の獣。

 ホーンラビット・サイズは、自らの身体の数倍はある生体武器である大鎌を大きく後ろに構えながら、凄まじい跳躍力を発揮してヒタキに迫る。

「……っ!」

 一瞬で消失した間合いと、黒い影に切り裂かれる稲穂に強く目を見開きながら、それでもヒタキは全身の筋肉を瞬時に稼働させた。

 頭から飛び込むようにしてホーンラビットの上に逃れたヒタキの下で、稲穂が綺麗な円形に刈り取られる。

 付加スキル《魔術補助・強化(中)》

 クラススキル《魔術付加》

 ヴェルマによって編まれた術式が輝き、中級魔術「雷の雨」と二つのスキルが発動し、右手に持つ細身の剣「祝福の旋律」に強化された中級魔術が宿る。

 そして彼女は魔術によって帯電したその剣を、助走をつけ全力で大鎌を振るったばかりのホーンラビットへと投擲した。

 本来ならば指定した座標の上空から幾条かの雷撃が降り注ぐ魔術は、しかし一本の剣に収束され、一条の光となって敵を射抜かんと空を駆ける。

 キィィィィイイ――――ッ!!

 しかし雷の剣は、ホーンラビットが咄嗟に大鎌から放った魔力の刃と凄まじい高音を奏でながら衝突し、その勢いを失う。

 ランクFのヴェルマとランクDのホーンラビットの間にある力量差は、例え魔術を使いスキルの補助を得ようと、決して覆るようなものではなかった。

 不意打ち気味に放たれた魔術を破ったホーンラビットは、ヴェルマを鋭い野生の瞳で睨み据える。

 そしてその特化した速度で敵の命を刈り取らんと大地を蹴った――――その瞬間、背後からヒタキの蹴りを食らい、目標であるヴェルマを大きく超えて飛んで行った。

 何とか無事に怪我することなく着地した後、気配を殺してホーンラビットに近づいていたヒタキは、ほっと一息吐いて安心する。

 ああ、死ななくてよかった。

 そしてヒタキとヴェルマは、素早く剣と刈られた麦を回収して、再び走り始めたのだった。



Party name : No name

Name : ヒタキ
Guardian : 慈愛の女神ライア
Rank : F
Level : 1
Class : ウォーリア
Skill : Nothing


Name : ヴェルマ
Guardian : 天秤の女神アリア
Rank : F
Level : 27
Class : マジックナイト
Skill : 対物・魔力鎧 対魔・魔力鎧 魔術付加


*   *   *


「…………」

 何時にも増して口数が少ないヴェルマを横目で見ながら、ヒタキは低いところにある赤い頭に手を伸す。

「ヒタキ」

 が、しかし、ヴェルマの鋭い眼光に威圧され、中途半端な位置でその手を止めた。

 疲れている頑張り屋さんな彼女を労おうとしただけなのに、とヒタキは割と本気で落ち込んだ。

 既に日が沈んでいる迷宮都市を西に向かって進む二人の背には、一晩かけて収穫した麦を詰め込んだ袋が背負われている。迷宮の中で半日以上走り回っていた二人の顔には、疲れの色が濃く浮かんでいた。

「それにしても、凄まじい体力だな。加護を受けている私でも、かなりきつかったというのに。私もそれなりに鍛えていたつもりだったのだが」

「まあ、ここに来てからずっとあんな感じだったから、体力だけはついたんだと思う」

 迷宮は深く潜れば深く潜るほど、広くなって行く構造だ。ヒタキはそこを毎日ひたすら走り回っていたのだから、レベルが上がっていなくとも鍛えられてはいた。

「そのうちヴェルさんも慣れるだろ」

「慣れるまで続けるつもりはないがな」

「あ、そうか」

 既に深夜を過ぎた時刻。例え夜が最も騒がしくなる歓楽区と言えど、人通りはあまり多くなかった。酒場帰りらしき幾人かと偶にすれ違いながら、二人はゆっくりと会話を交わしながら憩い亭への道を進む。

「ヒタキ、明日はどうするつもりだ。また夜から探索に行くのか?」

「うん、今日はそのために手伝ってもらったんだし。店長の手伝いもいいけど、早く下に行かないと」

「……店長に聞いたのだがな、毎日迷宮に潜る人間はそうはいないそうだ。敵が強く、そして一階一階が広くなる五十階以上では特に」

「へえ、そうなんだ」

 少しだけ低くなったヴェルマの声に、ヒタキは目を瞬かせながとりあえず相槌を打つ。そんなヒタキに僅かに苦笑を浮かべながら、ヴェルマは続けた。

「転移符、だったか? あれにしてもそうだが、一枚しかない物を、お前は何の躊躇いもなく私に渡す」

「え? だって俺がヴェルさんに手伝ってって頼んだんだから、当然だろ」

「当然ではない。普通の思考が出来るならば、他人に一本しかない命綱を渡してまで効率を求めはしない。勿論、毎日毎日自ら進んで死にに行くような真似もしない」

「…………」

 やっと、理解できた。

 ヒタキは少しだけ困って、無言のまま無意味に黒い髪を掻く。

 今までは確かに在った一線。互いに深くは干渉しないという暗黙の了解。

 ヴェルマは敢えて、一歩を踏み込んで来たのだ。一歩を踏み込んでまで、忠告しようとしているのだ。

「出過ぎた真似だ。それどころか、不必要な行為だ。しかし、私はお前に死んでほしくない。だから、一つだけ言わせてもらうぞ」

「……うん」

「ヒタキ、お前には夢があるのだろう? だったら、もう少し命を大事にしろ。今日お前の戦い方を見て、そう思わずにはいられなかった」

 ヴェルマの嘘偽りのない、本音の言葉。それ以上でもそれ以下でもない、思うがままの心からの言葉。

「……ヴェルさん」

 ――――しかしヒタキはその言葉に答えることなく、ヴェルマの手を取り強引に引き寄せた。

「ヒタ――」

「静かに」

 開かれた口を片手で塞ぎ、ヒタキはそのままヴェルマの小さな体を抱えるようにして、建物と建物の間に伸びる細い路地に素早く入り込む。何事かともがくヴェルマを後ろから抱きしめたまま、ヒタキは耳元に囁く。

「面倒ごとっぽい。このままやり過ごそう」

 ヒタキの声と同時に、先ほどまでいた通りから金属同士がぶつかり合うけたたましい音が鳴り響いた。

「それで?」

 抵抗をやめて大人しくなったヴェルマは、同意の代わりに状況を説明しろと透き通るような翠の瞳で訴える。ヒタキは静かに虚空を見つめ、音源である通りの気配を探った。

「四人、だな。二人が何か喧嘩してるみたいで、って……」

「どうした?」

 途中で止められた言葉に眉根を寄せ、ヴェルマが問いかけたその瞬間、

「無駄だ。俺の目には、貴様の剣など止まって見える」

「…………」

 無駄に芝居がかった知っているような知っていないような微妙な背伸びをした声に、二人は揃って閉口した。

 それから盛大な舌打ちと罵詈雑言が響き渡り、ヒタキとヴェルマが隠れる路地へと足音が近づいてくる。そして金属製の軽鎧を身に着けた見知らぬ男が、抜き身の剣を手にしたまま逃げるようにして目の前を通り過ぎていった。

 状況から察するに、今の男が争っていた一方だろう。よって乱闘はすでに終わっているはずだ。

「…………」

「で、どうしようか」

「やり過ごすのだろう?」

 無言で男が走り去った後の通りを見つめていたヴェルマは、面倒だと言わんばかりのヒタキの声に振り返ってきょとんと首を傾げる。

 何故か小さな赤い頭を撫でてしまいそうになり、ヒタキも不思議な思いで一杯のまま首を傾げて続けた。

「メリルがいるんだ」

「メリル?」

「うん、メリル」

 こくりと頷くヒタキに、ヴェルマは納得が行かない様子で眉を寄せる。数日前に薬草店で知り合ったばかりの魔術師の少女の名前が、今ここで出てくるとは思ってもいなかったのだろう。

「リョウ、だったか? 何故メリルがあの子どもと……いや、そんなことよりメリルは無事か?」

「争ってはない、と思う。怪我も、してたって大したことはない……っていうかヴェルさん、何か俺のこと試してないか? 言っとくけど、そんな細かいとこまでは分かんないぞ」

「個人を特定出来るのならば、と思ってな。それより、行くぞ」

「え、行くのか……」

 面倒くさい。素直にそう思ったヒタキに、ヴェルマは溜め息を吐きながら通りに視線を戻した。

「私だって進んであの失礼極まりない子どもと関わりたくはない。だがな、その分メリルが心配だ。まあ、別にお前は来なくてもいいがな、メリルの様子を見てくるだけなのだから」

「そっか。じゃあ、俺は隠れとくから」

 ヒタキは迷うことなく行ってらっしゃいと手を振った。わざわざあんな目立つ人と知り合いになりたくないと、切実にそう思いながら。

「……ああ、行ってくる」

 小さく頷いて路地から出たヴェルマの目は、心なしか冷たかった。

 何でだろうと若干落ち込みながら、ヴェルマの背を見送ったヒタキは静かに真上に跳躍する。

 杞憂だよな、ほんと……。

 普段なら絶対にやらないようなことをしている自分に疑問を持ちながらも、ヒタキは迷うことなく正面の壁を片足で蹴り更に上に飛び、反対側の建物の窓枠に指をかける。そのまま一気に体を持ち上げ、窓枠を足場に三度跳躍、そして二階建ての建物の屋上に降り立った。

「毒されてんのかな、俺」

 頭をボリボリと気怠げに掻きながら、眼下のヴェルマを見やる。堂々と歩む尊大で冷静沈着な彼女は、基本的にお人好しなのだ。

 溜め息を吐きながらも苦笑して、ヒタキは移動を開始する。建物の上から上へと飛び移りながら腰に巻いているローブを身に纏い、そして息を殺した。


*   *   *


 夜の闇に浮かぶ三つの人影。迷宮都市を照らす道端の魔石灯の光は、近づくにつれて三人のシルエットを鮮明にして行く。

 自らの気配を隠すことなく、真っ直ぐその人影に向かって歩むヴェルマ。靴が石畳を踏みしめる度に生じる音は彼女の小柄な体故に小さいが、しかし静謐な深夜の通りに溶けて消えることはなかった。

「……?」

 ヴェルマの存在に最も早く気付いたのは、三つある人影の内で唯一見知らないものだった。

 長身のその人物がヴェルマの方を振り向くと、揺れる金色の長い髪が街灯の明かりを受け夜の闇の中で艶やかに光る。一瞬その高い身長故に男かと思ったが、大引く開いた服の胸元には揺れる程の膨らみがあり、膝丈のスカートからすらりと伸びる足は細い。その人物は十代半ばの成長期にある少年少女と並べば、頭一つ分は高い長身の女性だった。

「あれ? ヴェルマちゃ、ヴェルマさんじゃないですか。奇遇ですね、こんな時間に。今からお帰りですか?」

 長身の女性の視線を追ってヴェルマに気付いたメリルが、ぺこりと礼儀正しく頭を下げて「こんばんはと」挨拶をして来る。軽く頷き挨拶を返し、ヴェルマは小さく首を傾げて無言のまま瞳だけでメリルに尋ねた。

「あ、えと、紹介しますね。というか、是非紹介したい方がいるんです! あ、でも、そう言えばヒタキさんはご一緒じゃないんですか? ヒタキさんにも是非知っておいてもらいたかったんですけど……」

「ん? ヒタキは、今は一緒ではない。伝えたいことがあるなら、私から伝えておこう」

 青い後ろ髪を嬉しそうに揺らしながらきょろきょろとヒタキの姿を探すメリル。予想外の彼女の反応に少し驚きながらも、ヴェルマは続きを促した。

「あ、そうなんですか。それじゃあ、ヴェルマさんに紹介しますね。こちらの男性は、私をパーティーに入れて下さったリョウ・アカツキさんです。知っているかもしれないですけど、リョウさんは今迷宮都市を騒がしている期待の新星なんですよ! それに『白銀の神子』なんていう二つ名までお持ちの、凄い方なんです! あ、それで――」

「――大丈夫よ、メリルちゃん。私は自分で自己紹介するわ」

 何処かで聞いたことがあるような説明を、まるで自分のことのように自慢気に嬉しそうに目を輝かせながらしていたメリルの顔が不意に曇ったその時、長身の女性がおっとりとした口調でゆっくりと言葉を挟んだ。

 目尻が下がった青色の瞳の女性の顔立ちは整っており、その垂れた目の印象が強い美貌はとても柔らかく暖かい。

「はじめまして、ヴェルマさん。私はミリア・フロマージュです、今後とも末永く……あら? 何か違うような気がするけれど、いいのかしら? よくわからないけれど、よろしくお願いしますね。こちらのお二人には、ちょっと喧嘩してしまった恋人に差し向けられた方に、剣で切られそうになっていた所を助けていただいたの。まったくもう、あの人ったら乱暴なんだから。ねえ?」

 おっとりとゆっくりと衝撃の自己紹介をして来た、ミリアと名乗った女性。あまり知りたくない類の身の上話を、何故か柔らかく上品に微笑みながら語られたヴェルマは、とりあえず全部無視して挨拶を返そうとして、

「ああ、こち――」

「あら、そう言えば私、七時間くらい前にお友達と夕食を一緒に食べようって約束していたような……。まあ、どうしましょう。困ったわね」

 全然困ったように見えない彼女が、全く人の話を聞いていないことに気付いた。

「リョウ君、メリルちゃん、ごめんなさいね。今日はもう遅いし、お礼はまた今度するわ。それじゃあ、またね」

 ミリアは色々と自己完結して、別れの言葉を述べる。そして相も変わらず派手な黄金鎧を纏った銀髪の少年に近づき、その額にそっと口付けを落とした。

「ありがとう、守ってくれて。格好良かったわ」

 最早展開に着いて行く気もないヴェルマは、冷めた瞳で僅かに頬を赤らめて去っていったミリアを見送る。

 これで漸く邪魔者がいなくなった。ヴェルマはそう内心で溜め息を吐き、満足げな視線をミリアの背に送るリョウ・アカツキと、何故か不満げに頬を膨らませている自称知的でクールな未来の偉大な魔術師を交互に見据える。

 既にこの時点で、目的はほぼ達成されていた。そもそもヴェルマは、胡散臭い少年とメリルが共にいる理由を確かめに来ただけだ。メリルが自らの意志で少年のパーティーに入っているのならば、それはもう他人が口を出すことではない。

 故にもう、これ以上詮索する必要はない。だと言うのに、ヴェルマはもう一歩だけ踏み込もうとしている。死に場所を探してこの地に迷い込んだ自分が、他人の心配とは本当に失笑ものだ。

 ――――確実にあのお人好しの影響だろうな……。

 小さく溜め息を吐いて、ヴェルマは未だにふてくされているメリルに問い掛ける。

「薬草店の店主に紹介されたのか?」

「え? いえ、違いますよ。リョウさんが声を掛けて下さったんです、迷宮に潜ろうとしていた私に。お陰様で無事に初の探索を終えられたんですよ」

「ふむ、そうか。それは良かったな」

 希望とは違う返答への落胆を微笑の裏に隠し、ヴェルマはこの場は去ろうと足を動かしかけるが、

「君は、あの時の子か……。驚いたな、メリルの友人だったのか」

 リョウ・アカツキの妙に気取った言葉に、正確には『子ども』といったようなニュアンスの単語に、ぴたりと足を止めた。

「それに、レベルもかなり上がっている。ふ、頑張っているようだな」

 板についていない淡い笑みを浮かべたアカツキの手が、ヴェルマの赤い髪を撫でようと持ち上げられるが、しかし彼女はそれを片手で払った。

「あまり馴れ馴れしくされるのは好きではない」

「……?」

 途中で打ち払われた手を見て、アカツキは年頃の少年らしく動揺を露わにした。そして数瞬だけその赤と黒の左右異色の瞳を揺らした後、納得したように何事か呟く。

 聞き取れなかった耳慣れない単語に眉根を寄せたヴェルマは、しかし次の瞬間以前にも体験した、否、以前の何倍もの不快感に反射的に胸を押さえる。

 胸が――正確には、この都市に来てから胸に刻まれた、天秤を模した神の印が不快に疼く。

 ぞくりと、嫌な汗が背中を伝い落ちる。

「貴様、何を…………」

 謎の感覚に戸惑うヴェルマを見つめるリョウ・アカツキの黒かった片目が、何時の間にか赤く染まっていることを認識したその瞬間、目の前が真っ暗になった。


*   *   *


「ヒタキ、か……?」

 背後から聞こえる、背中に庇った幼い容姿をしたヴェルマの戸惑い気味だがしっかりした声に安堵しつつ、ヒタキは目の前の少年を細めた目で睥睨する。

 すぐ隣の建物から飛び降りると同時に、ヴェルマの腰から抜き放った細身の剣。その剣の腹で少年の赤い両眼を隠した体勢のまま、ヒタキは取れてしまったフードを直しもせずに詰問する。

「あんた――今、何するつもりだった?」

「な、何だよ、お前……」

「今聞いてるのは、俺だ。まあ、何するつもりかなんてこの際どうでもいい。だけど、これ以上ヴェルさんに変な真似はするなよ」

 動揺からか、瞳に宿っていた不穏な魔力は霧散する。それを確かめたヒタキは手首で剣を返し、リョウ・アカツキの首筋に刃を軽く押し当てた。

 ――――これ以上妙な真似をするつもりなら、その首を落とすという意志を込めて。

 少年がゴクリと生唾を呑み込む様を一瞥し、ヒタキは剣を引いてヴェルマの腰の鞘に納めた。

「じゃあヴェルさん、帰ろっか」

「……ああ、そうだな」

 そして後ろのヴェルマに声をかけ、二人で並んで憩い亭へと再び歩き始める。メリルに軽く会釈をし、硬直している派手な少年の横を一瞥すらせずに通り抜けて。

「あ、勝手に剣使ってごめん。俺、何も持ってなかったから」

 眉根を寄せて難しい顔をしていたヴェルマにごめんと小さく頭を下げれば、彼女は頬を緩め背伸びをしながらヒタキの黒い頭を優しくくしゃくしゃと撫でて来た。

「なに、謝る必要はないさ。元よりこの剣はお前がくれた物だろう?」

「ん、そっか。ていうかおねえさん、何か照れるんだが」

「お前が何時も私にやろうとしていることだ。これに懲りたらもう止めることだな」

「……やったら、やり返してくれんのか。うん、考えとく、後ろ向きに」

「なっ、何故そうなる!?」

 無理して精一杯背伸びをする可愛くて綺麗な彼女の、小さくて暖かい手の感触が気持ち良くて、今後も是非やって欲しいと思っていたら、何故かヴェルマが驚愕に目を見開いていた。

 あたふたと焦るヴェルマ。その様子を何だか穏やかな気持ちで眺めていたら、恨みがましそうに上目遣いに睨まれた。
 
 怒らせるつもりはなかったので咄嗟に謝ろうと口を開きかけ、

「そこのローブの男、止まれ」

 背後から受けた制止の言葉に、ぴたりと動きを止めた。つい先ほどヴェルマを害そうとした少年の、静かな、されど拒否を許さぬ鋭さと無視できない敵意が込められた声。

「…………」

 無言のまま緩慢な動作で振り向けば、声の主であるリョウ・アカツキはやれやれと肩を竦めて見せた。

「さっきは少し驚いたぞ。ふ、まさかお前のような人間が存在しているとはな」

 俺もまだまだ甘いということか、と自嘲するリョウ・アカツキ。彼の顔に浮かぶその嘲りの表情は、今までに無いほど自然なものだった。

 しかしその嘲りは、言葉通りに自分に向けられたものではない。明らかにその歪んだ暗い光を宿した瞳は、ヒタキへと向けられている。

「俺のこの神眼に、隠れていたお前が映らないわけだ。知っているかもしれないが俺の目は特別でな、大気を漂う魔力の流動も、物質に宿る魔力の量さえも視認できる」

 饒舌に語るリョウ・アカツキ。まるで舞台の上の役者の如く振る舞う彼は、観客に向かって朗々と語る。

 先ほどからの喧騒に、何事かと建物から顔を覗かせていた者達。深夜の大通りでの不穏な空気に足を止め、ヒタキ達を遠巻きに見ていた者達。

 そして、メリルとヴェルマ。

 数は多くないが、それでも確かに存在する観客に――――彼は語る。

「だからこの世界の全ての生物は、少なからず魔力を持っているものだと思い込んでいた」

 ヒタキがこの迷宮都市で、頑なに他の探索者を避け続けた理由を。

 ヒタキがこの迷宮都市で、どうにか自らの存在を目立たぬようにしていた理由を。

 ヒタキがこの迷宮都市にいながら、未だに神の加護を受けていない理由を。

 ヒタキがこの迷宮で――――ひたすら逃げ続けるしかなかった、その理由を。

 歪んだ恍惚を善意の仮面の裏に隠して、彼は語る。

「それがまさか――魔力を全く持たない人間がいるとはな」

 哀れむように、同情するように、慰めるように、リョウ・アカツキはその瞳の奥に嘲笑を隠して、ヒタキに言った。

「神の加護でさえも、その身体では受け入れることは難しいようだが……いや、何か困ったことがあれば、俺を頼ってくれ。メリルの友人なら、俺は協力を惜しまない」


*   *   *


 ――――迷宮都市の夜はこうして終わりを迎え、そしてまた朝が訪れる。

 太陽が空高く昇る頃には、迷宮都市に一つの噂が広がっていた。

 博愛の神々にも、そして世界にも愛されなかった哀れな男の噂が。



[31224] 受難と希望
Name: クク◆0c3027e3 ID:e6936ef8
Date: 2012/03/02 20:25
「状態異常?」

 厨房の奥で巨大な石臼で小麦を挽く店主の背中を見ながら、ヴェルマは上品に紅茶のカップをカウンターに戻し、小さく首を傾げた。カウンターに頬杖をついたまま欠伸をかみ殺して、ヒタキはそんなヴェルマの横顔に視線をやる。

「外の世界でもあっただろ? 魔物の威嚇で体が竦んだり、変な魔力で頭がくらくらする奴。俺の住んでた所じゃあ精神汚染って言ってたけど、ここじゃあ魔力が関係してるのもしてないのも、状態異常って言うらしい」

「ふむ、それは分かったのだが……奴は何故私にそのような真似をした? と言うより、私は具体的に何をされそうになっていた?」

「理由は分かんないけど、やってたことはまともなことじゃないと思う。あの嫌な魔力の感じ、さっきも言った頭がくらくらする奴に似てたから」

「む、言われてみれば確かに気分は悪くなったな。だが、嫌な気分になっただけだぞ?」

「え、そんなもんなのか。何かもっとこう、嫌な感じに酔いそうな魔力だって思ったけど」

「…………」

 先日の気味の悪い魔力を思い出したのか、ヴェルマもヒタキと同じく眉をしかめた。

 朝の書き入れ時も終わり、ようやく静けさが訪れた昼前の憩い亭。珍しく客が全くいない店内でお決まりのカウンター席に腰掛けるヒタキとヴェルマは、自然と昨夜の一件について意見を交わしていた。

 目を伏せ固い表情で何事かを思案するヴェルマは、ティーカップを手に取り紅茶を口に少し含んで、そして再びゆっくりとカップを皿に戻す。

「いや、意見が食い違う理由については私に心当たりがないこともない。確信はないが、おそらくはヒタキの言う通りなのだろう。――……だが、そうなるとますます厄介だな」

 ヴェルマは伏せていた瞳を上げ、「店長、少しいいか?」と相変わらず小麦粉を挽いている店主を呼んだ。

「リョウ・アカツキという探索者について何か知っていないか? 特に人間関係を知りたいのだが」

「中級認定最短記録を打ち出したとかいう、派手なガキのことか」

「ん? あれ、俺の方が早いんじゃ……」

「まだ非公認だろうが、お前は。話の腰を折る暇があったら働け、家賃滞納のクズ」

「……今はしてねえじゃん」

 小さな声で呟いたヒタキを無視して、ゴリゴリと巨大な石臼を回しながら店主は振り返ることなくヴェルマに続ける。きちんと料金を払う客には、それなりのサービス精神を見せる店主だった。

「最近になって固定パーティーを結成したらしいな。面倒だからクラスは省くが、構成はそのガキを含めて前衛二人、中衛一人、後衛一人。パーティーの平均レベルは100超え、全員二回目のクラスチェンジを終えてるはずだ。それにあの青髪の……メリル・カナートだったか、あいつを加えて特に親しい人間は五人だな。何を期待してたか知らんが、人間関係に黒い噂はなかったぞ」

 無愛想な割にかなりの情報網を持つ店主。彼からすらすらと流れるように出てくる情報に、ヴェルマは小さく感嘆の息を漏らしながら尋ねる。

「その四人の性別は?」

「性別? 全員女だと言ってたと思うが……」

「ふむ、そうか。感謝するぞ、店長。おかげで助かった」

 尊大に礼を言うヴェルマを不可解そうに隻眼で一睨みしたが、店主は特に何も言うことなく出来上がった小麦粉が入った巨大な袋を担いで、厨房の奥の倉庫に消えて行った。

「どう思う、ヒタキ」

 何やら確信した様子で瞳を覗き込んで来る彼女に、ヒタキは緩慢な動作で頭を描く。

「どうって言われてもな。何となくヴェルさんが考えてることはわかるけど……そもそもそんなことする理由が分かんないし、そんなスキルってあるのか?」

「とぼける必要はない。男は――特に思春期の少年は、女を侍らせたがるものなのだろう?」

「いや、思わねえよ。おねえさん、あんた普段俺をどんな目で見てんだ」

「思春期の少年」

「いや、俺二十一歳だぞ」

「二十一だと? ふふ、背伸びをしたい年頃というやつか。せいぜい十五、六くらいだろうに、可愛い奴だな」

「あんただけには言われたくねえよ!」

「私は二十五だ!!」

 何故か怒られた。

 とてつもなく理不尽な気がするが、ヒタキは一度大きく溜め息を吐いてヴェルマに続きを促すことにした。

「で?」

「ぬ……で、とは?」

「続き。まだあるんだろ」

 冷めた声で尋ねたヒタキに、ヴェルマは多少鼻白みながらも小さく頷く。

「ああ。スキルに関しても、有名なのが一つあるだろう。正確には魔物の能力だが、ヴァンパイアの『洗脳』が。似たようなスキルがあってもおかしくはない」

「ばんぱいあって何だ?」

「知らないのか? まあ、そういう魔物だ。……と言うかヒタキ、その、何だ……怒っているのか? 一応、冗談だったんだぞ、半分くらいは。ほら、十八くらいにはなっていると思っていたから酒を進めたわけだし……だから、そのだな……」

 何か、可愛い……。

 焦っておろおろとしているヴェルマをもう少し堪能していたかったが、ヒタキは頑張って我慢して首を横に振る。これ以上続けたら、何か取り返しのつかないものに目覚めそうな予感がしていた。主に危ない性癖とか。

「怒ってないって、たぶん。それよりだいたいは同じだったぞ、俺の予想と」

「あ、ああ。なら、擦り合わせと行こうか。相違点は?」

「侍らせる、が、楽をするため、だな。俺なら、人を操れるんなら強い奴を仲間にして楽をする。捨て駒にするにしても、わざわざ潜ったことすらない初心者を使うメリットがない」

「なるほど。レベルが低いメリルをパーティーに入れる理由がわからなかった、ということか。というか、意外と黒いことを考えていたのだな、お前」

 驚いたぞと呟くヴェルマに、ヒタキはじっとりとした視線を送る。 

「…………いや、おねえさんの考えの方が黒いって。侍らせるって何だよ」

「む、違うのか? 祖母から教わった教訓なのだが。男は皆、獣だと」

「…………」

 微妙に言い返せなかった。

「まあ、証拠も確信も対処法も分からない現状では、警戒しながら情報を集めるくらいのことしか出来ないだろうな。とりあえずはメリルの居場所を探り、話を聞いてみるか」

 そんな会話していると、戻って来た店主が唐突にカウンターの上にケーキが乗った皿を一枚置いた。

 そしてそれを、ヴェルマの前に突き出す。

「試供品兼依頼の礼だ」

「うむ、ありがたく頂こう」

「俺のは?」

「改善点があれば言ってくれ」

 華麗にヒタキを無視して、店主は空になったヴェルマのカップを下げる。そして新たに紅茶を淹れながら、「聞いたぞ」と切り出した。

「『魔力無し(アウトサイダー)』、だったか。お前の噂で持ち切りだぞ、外は。人の心配をする余裕があるのか、お前に?」 
 
 店主の発した平坦な声に、ぴたりとヴェルマが動きを止める。そして手にもったフォークを、静かに皿に戻す。ヒタキはそんな彼女の仕草を横目で見てから、何時もどおりの呑気な声で返した。

「何にも変わってねえじゃん、俺は。前から、ずっと前からそうだったんだから。て言うか、ランク外か。誰だか知らないけど、上手いこと言うよな」

「そうか」

 店主は無関心な声と共に、カウンターの上に湯気が立ち昇るティーカップと木箱を出した。カップはヴェルマ、木箱はヒタキの前に。

「依頼した小麦の量より多かったぞ。家賃分を引いても釣りが出た」

 二人の二ヶ月分の家賃。それが提示された小麦の調達の依頼料だった。
 
 ただでさえ破格だった依頼料に、お釣りなど出るはずがない。

 無言のままヒタキは、長方形の木箱を開ける。木箱に丁重に納められていたものは、美しい装飾が施された白銀の銃だった。

「銃?」

「あ? 知ってるのか。俺の知人が道楽で大昔の書物を参考に作った物だが、使い方はわかるな」

「…………」

 回転式の拳銃を手に取って眺めるヒタキの横から、ヴェルマが物珍しそうに覗き込む。

「何だ、これは? 見たことのないものだが……」

「銃っていって、大昔の、魔力が発生する前の武器。魔力と相性が悪くて廃れたものだから、今じゃあ知ってる人なんてほとんどいないと思う」

「ならば、何故ヒタキは知っている?」

 初めて見る物珍しいものに好奇心を刺激されたのか、瞳を輝かせながら尋ねて来るヴェルマ。ヒタキはどう答えたものかと少し迷ってから彼女に答えた。

「家に、俺が育った家にあったんだ。だけどこれ、よく見たら俺が知ってるのと何か違う。弾倉みたいなのはあるけど、弾が込めれないし」

 穴のないシリンダーをいじりながらどうやって使うんだと店主に向かって首を傾げれば、手の中から銃を取り上げられた。

「持ち手の下のここから、中に魔石を詰めて使うらしいな。あとはこの爪を引けば、下級魔術の半分程度の威力の魔力の塊を放てる。この真ん中の筒を回せば、属性が変わるらしいぞ」

 火、水、風、土の四大属性に光と闇を合わせた六属性。本来は回転式弾倉であるその部品には、それらを表す紋様が刻まれている。

「興味深いな。魔術式を編む時間を短縮できるのか」

 見せてくれと両手を伸ばしてせがむヴェルマに銃を渡して、店主は鼻を鳴らして笑う。

「そんなに便利なもんじゃない。その銃に入る量の魔石じゃあ、せいぜい二発分の魔力が限度だ」

「む、確かにその威力を術式を介さずに出すなら、消耗も相応になるな。そもそもそれ程便利な物ならば、すでに流通しているか」

 感心した様子でしきりに頷いていたヴェルマは、納得すると同時に冷静さを取り戻す。そして隣のヒタキに、微妙に哀れみを含んだ視線を送った。

 ヒタキは緩慢な動作で頭を掻きながら、腕を組んで立つ凶悪な人相の店主の顔とヴェルマの手にある銀の装飾銃を見比べて。

「あのさ、店長。この量の魔石って、売ったら一万デルくらいになるんじゃ……」

「だから道楽だと言っただろうが」

 貧乏人には使えねえじゃん、と何気に期待していた分だけそれなりに落ち込んだのだった。

「まあ、いっか。ありがとう、店長。機会があったら使ってみる」


*   *   * 


「見事に人がいないな。朝と比べれば不気味なほどだ」 真夜中の全く人気のない教会に、ヴェルマの小さな声が静かに響く。

「教会の人たちも、この時間はもう寝てるからな。人がいても、迷宮から帰って来るのが遅くなった人が少しいるかいないかだし」

 数百人は裕に収まる広間にも、そしてその広間を挟んで入口の対面にある受付にも、人影は見当たらなかった。

 魔石という資源に恵まれ、魔石灯という夜の光を持つ迷宮都市は、しかし眠らない街ではない。迷宮に挑む探索者も、基本的に夜には都市に戻って休息を取る。

 夜を迷宮で過ごす数少ない例外は、迷宮から帰るに帰れなくなった者達か、全体の一割にも満たない上級者と呼ばれる、一日では入口から出口まで辿り着くことが不可能な百五十階層以上に挑む探索者達だけだ。

 ヒタキはヴェルマと共に教会の広間を東に進み、魔術文字が刻まれた鈍い光沢を持つ、翡翠色の巨大な円形の台座の前で立ち止まる。

 転移門と呼ばれるその台座は、探索者の体の何処かに刻まれた神紋を起動術式として、探索者が望む階層へと彼らを瞬時に移動させる、迷宮への唯一の入口だ。

 ヒタキはその転移門の前で、腰に巻いたベルトに付いた革のホルスターから銃を抜いて、魔石が納められた銃把を見せながら複雑な気持ちでヴェルマに問いかける。

「今更だけど、これ、ほんとにもらってよかったのか?」

「昨日助けてもらった礼だと言っただろう。それに、私の好奇心を満たすためでもあるのだから、気にする必要はない。潜る階層まで私に合わせさせたんだ、そこまで気にされたら私が困る」

 だから気にするなと苦笑するヴェルマに、何て優しい人なんだとヒタキは本気で感動する。

 ホルスターの反対側に括りつけた小袋には、魔石がいっぱいに詰まっている。銃に装填した魔石も含めて売りに出せば、十万デルにはなる量だ。

「ヴェルさん、ほんとにいい人だな。いや、うん、ほんとに。だけど……そんなにいい人すぎると、苦労しそうだよな」

「百二十万を何の躊躇いもなく渡して来る奴にだけは心配されたくない」

「え? でも俺のは、ミルクとか奢ってもらったお礼だから違うだろ」

「何がどう違うんだ……」

 大きく溜め息を吐いたヴェルマは、肩をすくめて転移門を見据える。

「まあ、いい。そろそろ行こう」

「ん、了解」

 剣の柄を一度軽く撫で、ヴェルマは転移門へと足を踏み出そうとしたが、ふと足を止めた。

「忘れていた、パーティーを組まなければ」

 何時も一人だからうっかりしていたと呟くヴェルマに、ヒタキはゆるりと頭を掻きながら言う。

「組まなくてもいいと思うけどな。行くのは十五階だし」

「私の心配か?」

 ヴェルマの鋭い切り返しに、ヒタキは一瞬動きを止めて、それからこくりと頷いた。

「俺のせいで、教会から目をつけられたら面倒だろ」

 ヒタキが自らの体質をひた隠しにして来た理由とは、神の加護を受けることが出来ないことで、実質的にこの都市を管理している教会、そして周りの人間から異端視されることを危惧していたからに他ならない。

 人と違うだけで忌避されることは、既に経験して知っていた。

「阿呆が」

 トン、と神紋が刻まれたヒタキの胸に、ヴェルマの細い人差し指が置かれる。

「既に昨日一度パーティーを組んでしまっただろう。今更手遅れだ」

「いや、だけどさ――」

「――それに」

 ヒタキの説得の言葉を遮って、ヴェルマは小首を傾げながら柔らかく微笑んだ。

「私はお前と違って、神紋の共鳴がなければお前の居場所がわからないんだ。味方戦力の把握は、兵法の基本だぞ」

 ヴェルマに触れられたら神紋が、くすぐったい温もりをもって律動する。後はその温もりを受け入れるだけで、彼女とパーティーを組める状態だった。

 思考する以前に気づけばヒタキは、彼女に向かって気の抜けた笑みを返してしまっていた。

 味方戦力。何となくヴェルマらしい言い方だなと思いながら、ヒタキは腰から二つ折りにして巻いていたローブをほどいて羽織る。

「普通に仲間とか友達って言ってくれたら、もっと嬉しかったんだけどな」

「友達、か。そうだな。それでもいいぞ」

 少し照れたように笑う彼女と並んで、ヒタキは転移門の上に乗る。

 そして迷宮の十五階層を願い、再びパーティーを組んだ彼ら二人は、光に包まれて真夜中の教会から姿を消したのだった。


*   *   *



 迷宮の十五階層。床も天井も壁も、全てが灰色の石材を積み上げて作られた整然とした通路に、剣戟の音が響き渡る。

 赤く長い髪を踊らせながらヴェルマが大きく横に薙払った剣は、一体の動く人骨――スケルトンの体を粉砕しながら吹き飛ばした。

 その小さな体躯のため、『祝福の旋律』を長剣の如く全身を使って振るったヴェルマは、反動を使って大きく後ろに飛び下がり、左手を踊らせ宙に魔術文字を描く。

 彼女に迫り来る魔物の数は、総勢八体。先程切り砕いた魔物と同種のスケルトンが五、その上位種であるレッドスケルトンが一、そしてスケルトン・ウルフが二だ。

「迸れ!」

 一団の先頭を疾走する、牙を剥き出しにしたスケルトン・ウルフ一体を冷静に見据え、ヴェルマは編み終わった術式に気合いの声と共に魔力を叩き込み、下級魔術を起動させる。

 『穿つ雷光』が彼女の手より解き放たれ、空を駆ける一条の雷がスケルトン・ウルフと、その背後にいたスケルトン一体を貫いた。

 二体の敵を葬る間に間合いを詰めて来たもう一体のスケルトン・ウルフ。既に地を蹴り宙に飛び上がり、彼女にその鋭い牙を突き立てんとする敵を、しかしヴェルマは無視して剣を横に構えた。

 ダァンッッ!!

 突如響き渡った鈍い音。そして空中でいきなり真横に吹き飛んだスケルトン・ウルフに一瞥をくれることすらなく、彼女は剣を構えたまま真っ直ぐ五体のスケルトンの群に向かって走り出す。

 《対魔・魔力鎧》魔術を自動的に軽減するスキルを発動し、ヴェルマは己の意識を手に持つ剣に集中し、魔力を纏わせる。そして強化された細身の剣が真横に一閃、二体のスケルトンを両断した。

「――――ッ!」

 斬り伏せた二体の後ろ、一団の殿でレッドスケルトンの赤い骨の腕が持ち上がり、手の先で魔術式が輝きを放つ。打ち出された拳大の炎の塊、生身で受ければ肉が焼き抉られ致命傷となる下級魔術を、ヴェルマは金属製の篭手で覆った右腕を振るい弾き飛ばす。

 そして勢いを緩めることなく、振り切った状態の剣を柄に残した左手だけで翻し、斜め前方から両腕を突き出して迫り来るスケルトンの首を落とした。

 ヴェルマの右手が宙を踊る。同じく魔術式を再び編み始めたレッドスケルトンとは、比べ物にならない速度で魔術式が展開されて行く中、最後の一体であるスケルトンが彼女の背後からガタガタと耳障りな音を立てて接近する。

 武器を持たないスケルトンの主な攻撃方法は、体当たりだ。纏った魔力で保護された頑丈な骨の体をぶつけて転ばせた後、打撃で探索者を亡き者にする。

 十階層以上に存在する魔物は、魔力炉を活用して来る。それまでの魔力を攻撃手段として用いることがない敵とは根本的に格が違うスケルトンに、多くの探索者が殺されて来た。

 意識を魔術式に割いている無防備なヴェルマに、しかしスケルトンの攻撃が届くことはなかった。

 灰色の影が、走るスケルトンの上空から落ちてくる。銀色の光が灰色の影から覗くと同時に、スケルトンの頭が砕け、そして体が爆ぜた。

 壁を蹴って跳躍し、敵の頭蓋骨に零距離から二発の炎の弾丸を撃ち込んだヒタキは、ヴェルマの背後に着地してのんびりと大きな銀の装飾銃をローブの中に戻した。

「助かったぞ、ヒタキ」

「あんまり助けた気がしないけどな」

 《魔術補助・強化(中)》《魔術付加》二つのスキルを発動し、ヴェルマは完成した中級魔術『雷の雨』を剣に宿し、地を蹴る。

 敵が放った二つ火炎の球を雷が迸る剣で易々と切り裂き、ヴェルマは最短距離で間合いを詰め、袈裟懸けに振り下ろした剣の一撃でレッドスケルトンを粉砕した。

「ふむ、やはりヒタキがいるだけでかなり効率があがるな。私だけではあの数はきつかった」

「別に俺がいなくても、ヴェルさんなら倒せただろ。かなり強いし」

「加護が、特にスキルがなければあの戦い方は出来ない」

 剣を腰の鞘に納めてゆるりと首を横に振るヴェルマに近付いて、ヒタキは敵の魔術によって抉られた篭手に覆われた彼女の右腕を見る。

「さっき火の魔術殴ってたけど、怪我は?」

「対魔・魔力鎧と防具の上からだったから問題ない。まあ、篭手は多少破損したがな」

「…………」

 ほら無傷だ、と苦笑しながらヴェルマは篭手を外して素肌を見せた。ヒタキは開きかけた口を閉じて、無為に頭を掻く。

「ん、ヒタキ。ちょうどよかったな、魔石だ」

 先程倒したレッドスケルトンの残害の中に赤く輝く小さな石を見つけたヴェルマは、それを拾ってヒタキに投げて渡す。

「その武器、使い勝手はどうだ?」

「何て言うか、店長がタダでくれた理由がわかった。これ、魔石入れ替えても何秒かしないと撃てない」

「む、戦闘中は普通に魔術を使った方が効率がいいということか。アドバンテージを得られるのは初撃だけ……いや、それも多少魔力を消費するが、術式を待機状態にしていれば同じだな。ランニングコストも魔力回復薬を使って魔術を使う方が遥かに安くすむ」

 結論、金持ちの道楽品――と、ヴェルマは小さく笑いながらそう締めくくった。

「まあ、俺にとっては貴重な護身用具なんだけどな。貴重すぎて使えねえけど」

「もっともお前には、あまり使う機会もなさそうだがな。ふふ、まあ今日の所は私の身を守るために存分に使ってくれ」

「ん、了解」

「それでは行こうか。門まで最短距離で頼むぞ。お前がいれば、この階層の敵にはそうそう遅れを取ることはないだろうからな」

 そして二人は再び走り出す。既にこの階層を突破しているヒタキの案内の下、迷宮をさ迷うスケルトンを蹴散らしながら。

 ヒタキが敵を察知し、ヴェルマが先手を打つ。時には剣で切り裂き、時には魔術で一掃する彼女の隙を狙う敵を、ヒタキが魔力の弾丸で撃ち抜く。

 迷宮内に設置された全ての罠をヒタキの察知能力で回避しながら、二人は一夜の内に破竹の勢いで十五階層、続く勢いで十六階層、そして十七階層までもを踏破したのだった。


*   *   *


Party name : No name

Name : ヒタキ
Guardian : 慈愛の女神ライア
Rank : F
Level : 1
Class : ウォーリア
Skill :Nothing

Name : ヴェルマ
Guardian : 天秤の女神アリア
Rank : F
Level : 32
Class : マジックナイト
Skill : 対物・魔力鎧 対魔・魔力鎧 魔術付加



[31224] 囚われのお姫様と最後の休息
Name: クク◆0c3027e3 ID:52b3b1ca
Date: 2012/05/07 20:55
「あれだけやって稼ぎが殆どないというのも、逆に清々しいな」

「俺だけだったら破産してるぞ」

 一晩で三階層を抜けるという無茶をしたその日の夕方、ヒタキとヴェルマはカウンターの上に散らばる数枚の硬貨を遠い眼で見ていた。

 朝方に迷宮を抜けて換金がてら商業区に立ち寄った後、憩い亭に帰り着くなり泥のように眠った二人。つい今し方目を覚ましたばかりのヒタキとヴェルマは、改めて今回の稼ぎを確認して少々愕然としていた。

 必要経費と生活費を差し引いた純利益は、目の前の子供の小遣い程度の金額のみ。

 ヒタキは無言でそっと腰の銃をカウンターの上に置いた。その銀色の輝きに、ヴェルマが若干腰を引く。

「やはりどう考えても道楽品だな。使い続ければ社会的に死ぬぞ」

「何て言うか、呪いの武器みたいだよな」

「ああ。命を削る武器があるとは、流石迷宮都市だ」

 戦々恐々として銀色の装飾銃を睨む二人だった。

 一度使ったことがあるのか、厨房の中の店主は鼻で笑っている。どうでもいいけど巨大な包丁で肉を切り刻みながら笑わないでほしいと、凶悪犯面の店主にヒタキは割と本気でそう思う。

 小さい子が見たら泣きそうだ。

 そんなことを考えながら、隣の小さいけどかっこよくて強くて綺麗な年上のおねえさんを横目で見れば、彼女の翠色の瞳と目があった。

「今さり気なく馬鹿にされた気がしたが……まあいい」

 謎の直感を発揮したヴェルマは、「それよりも」と少しだけ気まずそうに続ける。

「やはり、レベルは上がらなかったのだな。魔物を倒せばあるいは、と思ったのだが」

「あ……」

 思わず間の抜けた声を出したヒタキは、納得した。何故ヴェルマが、あれほど無茶をして魔物を刈ったのかを。何故わざわざ、避けて通れる戦いまでもを全て正面から受けたのかを。

 可能性を、捨てなかったのだろう。魔物を倒し続ければ、ヒタキに加護が与えられると信じて。

 まるで、力になれず申し訳ないとでも言いたげな彼女の瞳。気づけばヒタキはその瞳から――――逃げていた。

「まあ、そういう体質だから。でも、昨日は魔術使えたみたいで嬉しかった。俺、諦めてたし。魔石くれてありがとな、ヴェルさん。店長もだけど」

「そうか、それはよかった」

 そう言ってヴェルマは嬉しそうに、本当に嬉しそうに微笑んだ。

 ヒタキはそんな彼女に頬を緩め、赤い頭を撫でようと手を伸ばして、

「だから、私の頭を撫でようとするな」

「いや、何かこう、無意識で……」

「私は二十五だ!」

 何故か理不尽に怒られた。

 子猫のように目をつり上げ、心なしか赤い髪の毛を逆立てている彼女。

「誰が子猫だっ!」

 今後は理不尽に威嚇された。

「俺、何も言ってねえのに……」

「余所でやれ」

 店内で騒ぐ二人に近づき、店主が低い声で一喝。時間的に客が少ない店内で、二人は完全に悪目立ちしていた。

「いや、だから俺は……何でもない」

 自分は騒いでないと抗議しようとしたが、店主に睨まれてすぐさま殺意に満ちた隻眼から視線を逃がすヒタキ。そんなヒタキを一瞥し、店主は舌打ちをしながら二人に背を向ける。

「噂が広まってるぞ」

 店主の低い声に、ヴェルマが僅かに瞳を細める。そして横目で、テーブル席に座る二組の客を盗み見た。

「どのような?」

「お前の隣に座っている脳天気な面をした男が、五十階層を抜けてるって噂だ。加護どころか、魔力もない卑怯者の魔力無し(アウトサイダー)だとよ」

「卑怯者?」

「何も知らない探索者に取り入って、そいつらを盾にして迷宮を攻略する外道らしいぞ。しかも死んだそいつらの武器を売り払った金で、幼い女の子を囲って道楽三昧に興じる変態だ」

 相変わらずすらすらと出てくる情報に、正確にはその情報の内容にヴェルマは言葉を失っていた。

 珍しくも呆けている彼女を物珍しげに見つめながら、ヒタキは呑気に感心する。

「ふーん、すごい奴がいるんだな」

「お前のことだろうが、クズ」

「え、俺? 俺、そんなことして――」

「幼い、女の子だと……? 誰だか知らないが、いい度胸だな」

「え……そこ、重要じゃない気が――」

「黙れ!」

 結果、さっきより荒れた。


*   *   *



「加護どころか魔力すらない人間が、普通のやり方で迷宮から生きて帰ることは不可能だ。故に、卑怯者という噂に繋がる。普通ではない方法、つまり他者を犠牲にする外道とな。いささか論理の展開が強引ではあるが、誰もが一度は思いついてしまう方法だけに、浸透性が高まるのだろう。その上、遺品が収入源であることは紛れもない事実だからな」

「んー……、確かに最近、おねえさんと一緒にいることも多いしな」

「私は二十五なのだがな」

「俺だって、そんな悪いことしてねえのに」

 五分間の言い争いの末、子どもの小遣い程度の稼ぎを二人で仲良く分け合い、注文した紅茶とミルクを啜るヴェルマとヒタキは、二人揃って大きく溜め息を吐く。

 噂についての検証が意外とすんなりと終わりはしたが、噂によるダメージはかなり大きかった。

 やれやれと肩を竦めるヴェルマに、ヒタキは少し目を伏せて右手で頭を掻く。

 疎まれ続けることが常で、人と深く関わることなく生きてきたヒタキには、友人と呼べる存在は今まで一人しかいなかった。

 だからヴェルマは、ヒタキにとって二人目の友人だ。

 ヒタキは、ヴェルマが死に場所を求める理由を知らない。

 そしてヒタキだって、ヴェルマにまだ語っていないことが沢山ある。

 お互いにまだ知らないことばかりだが、それでも確かに日々を共に過ごし、そして共に戦う友人だ。

 だからヒタキは、ヴェルマを――――大切な友人を困らせるようなことは、したくなかった。

「ごめん、ヴェルさん。俺のせいで、幼い女の子なんて噂流されて……」

「貴様、喧嘩を――」

 鋭い瞳でヒタキを睨み据えようとしたヴェルマは、一瞬の硬直の後にふわりと目尻を下げて柔らかく苦笑した。

「まったく、何て顔をしているんだ」

「…………」

「噂が流れた原因はともかくとして、その内容まではヒタキのせいではないだろう。だからお前が気に病む必要はない」

 そう言ってヴェルマは、ヒタキの頭を撫でた。

「んー……、やっぱり恥ずかしいな、これ。子供扱いされてるみたいで」

「当然だ」

「ただ、もっとやって欲しいんだけどな」

「だから何故そうなる」

 困ったように肩を落とすヴェルマに頬を緩めかけ、しかしヒタキは首を傾げながらゆっくりと店の入口に視線をやった。

「どうした、ヒタキ」

「メリル、だと思うけど……何か、嫌な予感しかしねえや」

 言い終わらないうちに店の扉が開かれ、軽やかなベルの音が静かな店内に響く。そして青い髪の少女メリル・カナートが、店の外から姿を現した。

 彼女はコの字形のカウンターに囲まれた厨房の中の店長に頭を下げて挨拶し、店内を見回す。

 そして店の一番奥に座るヒタキとヴェルマの姿を見つけ、きょろきょろと動かしていた瞳を止めた。

「ふむ、面倒な予感か。確かに思い詰めているというか張り詰めているというか、穏やかな雰囲気ではないな」

「ヴェルさん、何で俺の手掴んでるんだよ」

「逃げようとしていただろう?」

「…………」

 二階の自室に上がろうとしていたヒタキは、不敵に微笑むヴェルマに小さく溜め息を吐く。

 もう、逃げられそうになかった。

「こんにちは、ヴェルマさん、ヒタキさん」

「二日ぶりだな。元気そうでなりよりだ」

「ん、こんにちは」

 ぺこりと青い頭を下げるメリルの表情は、ヴェルマの言う通りやはり少し固い。

 あの派手な人に何かされたのかなと思いながらも、ヒタキはのんびりとミルクをちびちび飲む。

 それにしても、最近贅沢ばかりしてる気がする。このまま贅沢に慣れて、ただの水が嫌になったらどうしよう。ミルクが美味しすぎて困る。

「今日は、ヒタキさんにお話があって来ました」

「え、俺?」

「はい。先日の夜の件です。何故リョウさんに、あんなことをしたんですか。いきなり剣を突き付けるなんて……」

 失望しました、とメリルは目を伏せてそう言った。

 失望されてしまった。しかもいきななり、贅沢の恐ろしさについて考えている最中に。

「え、いや、だってヴェルさんが危なかった――」

「どこが危ないんですか! リョウさんは頭を撫でようとしていただけじゃないですか! ……それは、ヴェルマさんを子供扱いしたことは彼の落ち度ですけど、だからと言ってあんなことをするなんてあんまりです」

 言い訳もさせてもらえなかった。

 散々怒られて正直落ち込んでしまったヒタキは、無為に後ろ頭を掻く。

 何か、さっきから理不尽に怒られてばっかだ。

「メリル、落ち着け。時には感情的になることも必要だが、今はその時ではないと思うぞ」

「――……っ! は、はい……」

 頭が冷えた様子のメリルに、ヴェルマは店主の背中に視線をやりながら言った。

「場所を移そうか。店に迷惑をかけるわけにはいかないだろう」



*   *   * 



 ベッドと小さなテーブルの他には衣類が入った木箱しかない殺風景な部屋に入るなり、立ったまま向かい合うヴェルマとメリル。あんまり二人の間に入りたくなかったりするヒタキは、堅いベッドに腰掛けてぼんやりと二人を見ていた。

「メリル、冷静に順序立てて考えてみろ。ヒタキがリョウ・アカツキを害して、何かしら得をすることがあると思うか?」

「…………」

 沈黙するメリル。ヴェルマはそんな彼女に、諭すようにゆっくりと話す。

「先程ヒタキが言ったことに、嘘も偽りもない。確かにヒタキはあの日、私を助けるために動いた。それは紛れもない事実だ」

「で、でも……そもそもリョウさんが、ヴェルマさんを傷つけるはずがありません。それに――そうです、事実リョウさんは何もしていなかったじゃないですか!」

 声を荒げるメリルに、リョウ・アカツキを疑う気持ちは全くないように見えた。

 メリルが本当にあの少年に強い信頼を寄せているのか。それとも魔力によって精神を汚染されているのか。

 どちらが原因なのかを、現状では確定することは出来ない。だからこそヴェルマはもう一歩踏み込んで、言った。

「もう一つ――リョウ・アカツキが何らかの魔術、技術、スキルを用いて、私の精神に干渉しようとしていたことも事実だ。だから私は、お前も私と同じようにあの少年に何かをされ、洗脳されているのではないかと考えている」

 淡々と、しかしその分真剣に告げられた言葉に、メリルは唖然とする。

「え……洗脳? 私が、リョウさんに?」

「そうだ。あの少年の力で、お前は正気を失っている。だから今すぐに縁を切れ」

 呆けていたメリルは、しかし次の瞬間には怒りに目を見開き怒鳴っていた。

「何てことを言うんですか!! 彼は、リョウさんはそんなことする人じゃありません!」

「事実私はそのようなことをされた」

「でたらめ言わないでください! 証拠はあるんですか!? そんなのただの言いがかりじゃないですか!!」
 完全に怒り狂うメリルに、ヴェルマはヒタキを視線で示す。

「私の証言で不十分なら、ヒタキの証言も加えよう。ヒタキもあの時、嫌な感じの魔力がリョウ・アカツキの瞳に集まっていたと言っている。まあ、その曖昧な情報から洗脳という推論をたてたのは私だがな」

「そんなの、証拠になるわけありません! だってヒタキさんは魔力も加護もないんですよ!! 高名な魔術師だって不可能なのに、そんな人が魔力の流れを感知するなんてこと出来る筈がありません」

 きっぱりと言い切るメリルには、取り付く島もない。しかしその反応は予想済みだと言わんばかりに、ヴェルマは平然と返した。

「ならばなぜお前は、ヒタキがあのような行動を取ったと考える? 先程も言った通り、メリットは何もない。それどころか、ヒタキはあの少年と関わることを嫌がり、初めてあの少年と会った時に私を置いて逃げたことすらあるのだぞ」

 リョウ・アカツキがヴェルマに危害を加える理由がないのと同様に、ヒタキにもそのようなことをする理由はない。しかしあの衝突が現実に起こった以上、どちらかが先に手を出したことは事実だ。

「そ、それは……」

 言いよどむメリルを、ヴェルマはただ無言で見つめている。そしてもうそれ以上、ヴェルマは何も言うつもりがなさそうだと、ヒタキはぼんやりとそう思った。

 どちらでも、いいのだろう。彼女はこだわっていない。メリルに嫌われることにも、感謝されることにも。

 ただ最悪の結果を回避することができれば、それでいいのだろう。

 損な生き方だなと、少し悲しい想いで小さな彼女を見ながらヒタキはそう思う。

 いい人すぎるよな、ほんとに……。

 無意識のうちに頬を緩めてしまいながらも、ヒタキはこれでこの会話は終了だと判断して今日の夕飯について考えを巡らせる。今日のオススメは何かなと少しわくわくしながら考え始めたのだが、しかし何故か収まらない不穏な空気に首を傾げる。

 何でだろうと俯いてしまった青い髪の少女を見てみれば、彼女の顔は何故か真っ赤な上に、大きな目が潤んでいた。

「り、理由なら、理由ならちゃんとありますっ! えっと、理由は、理由は……――そう、ヒタキさんがリョウさんを妬んでいるからです!!」

「…………は?」

「え、俺、あの人のこと妬んでるのか?」

 自称クールで知的で冷静な魔術師の卵は、暴走していた。それはもう、見事に。

 論破されたことで火がついてしまったのかは定かではないが、唖然とするヒタキとヴェルマに向かって、メリルはわたわたと両手を動かしながら力説を始めてしまった。

「そうです、そうなんです!! 以前から考えていたんです、何でヒタキさんが魔法を追えば不幸になるなんてことを言ったのかを! リョウさんのおかげで謎が解けました! 魔力がない人間なんて、いるはずがありません! 普通じゃありません! だからそこで魔法と不幸というキーワードと繋がるんです!!」

「…………」

「…………」

「ヒタキさんは昔、私と同じように魔法使いになろうとしていたんじゃないですか!? そうです――そして失敗してしまい、魔力を失ってしまったんです。世界の真理に至り、この世の理をもねじ曲げるのが魔法! 失敗の影響で魔力を失ってしまう可能性は十分にあります! どうですか、私の推測は!?」

 肩で息をするメリルに、ヒタキは首を傾げて言った。

「妬んでるとかって話は?」

「え? ……あ、え、そうです、だから、えっと……あ! リョウさんは、神眼を始めとした素晴らしいスキルを持っていて、都市全体から期待もされている凄い人です。だから過去に失敗してしまったヒタキさんは……成功しているリョウさんを、その、妬んでいるんです……きっと」

 自称卵は、流石に最後までは自信を保てなかった。可哀想になるくらい、泣きそうになっている。
「その、何だ……なかなか斬新で、飛躍的な推測だったな。今日は疲れただろう。もう帰って休むか?」

「あ、う……お気遣い、ありがとうございます。ヒタキさん、今のは失礼でした。すみません。で、でも……やっぱり私は、ちゃんとリョウさんに謝って欲しいです!」

 ヴェルマの勧めに従い、メリルは一度頭を下げてから逃げるようにして部屋から出ていった。

 嵐の後が如き静けさが、部屋に訪れる。

 静まり返った部屋に取り残された二人は、揃って小さく溜め息を吐いたのだった。



*   *   *



「十中八九、正気ではないな。まあ、断言は出来ないがな」

「え、何でだ?」

「恋は盲目だと言うだろう。私には判断がつかないが、可能性としてはありえる」

 再び座り直したカウンター席で、ヴェルマが困った困ったと苦笑する。

「これで洗脳云々が勘違いで、あの子がただ単にあの少年に惚れていただけだったら目も当てられない」

「ふーん、恋か。正直よくわかんねえけど、大変そうだな」

 本気でよくわからなかったから適当に相槌を打っていたら、ヴェルマから心なしか冷たい目で見られた。

「まあ、いい。それより店長、少しいいか?」

「何だ」

 厨房の店主は、振り返ることなく巨大な鍋をかき混ぜて夜の営業の準備を進める。今日のオススメディナーの一品は、野菜のスープらしい。

「状態異常だったか、それを治す手っ取り早い方法は何かないか?」

「だいたいは教会の施設に行けば治るが……確実に治せるのは『聖女(ジ・エンド)』か、教会騎士団の第八席だな。まあ、八席はともかくあの女は絶対に動かない。とりあえずは、それなりのレベルの慈愛の女神か光の神の加護者に診せるのが、一番妥当な手段だ。あとは、薬だな」

「慈愛の女神か……」

「俺を見ても、どうにもなんないぞ」

 スキルなんて持ってねえんだからとぼやくヒタキに、ヴェルマは苦笑する。

「一応確認してみただけだ。それにしても、お前の察知能力は本当にスキルではないのだな」

「うん、ただの特技だな。俺の体って魔力がないから、その分魔力には敏感なんだ」

「ふむ。あまり感覚がつかめないが、そういうものなのか」

「んー、まあ、そういうもんだな。ヴェルさんにとったら魔力なんて、空気みたいに何時でも体の外にも中にもあって当然のものだろ? だけど俺は、そうじゃないから」

「井の中の蛙、か」

 ぽつりと呟いたヴェルマに、ヒタキは首を傾げる。

「……え、馬鹿にされた?」

「阿呆。今さら馬鹿にするか。井の中の蛙大海を知らず。されど、空の深さを知る。お前以外の人間には持ちようがない特技だと、褒めただけだ」

 なるほどと納得するヒタキに苦笑しながら肩を竦め、ヴェルマは店主に軽く頭を下げた。

「貴重な情報、感謝する。とりあえずは薬探しもかねて、明日一度『森の囁き』に行ってみよう。一応、顔見知りでもあるしな」

「お前も難儀な性格だな。人騒がせなお姫様の世話なんて、焼くだけ損だろうに」

 鼻を鳴らして嘲笑う店主に、ヴェルマは再び肩を竦めて挑発的に笑い、そしてヒタキが呑気に欠伸をする。

「捕らわれのお姫様を救い出せば、いいことがあるかも知れないぞ?」

「どっちかって言うと、呪われのお姫様だけどな」

 ――――こうして迷宮都市の一日は過ぎて行く。

 予期しないお姫様の襲撃がありはしたが、しかし基本的にヒタキとヴェルマは何時ものカウンター席で、ひたすらまったりダラダラと一日を過ごしたのだった。

 ――――あたかも、明日から始まる波乱の前の、最期の休息のように。





*   *   * あとがき(返信) *   *   *



ぜんざい大好きさん
 感想ありがとうございます。逃げの一手、というわけなんです。

常敗無勝さん
 ありがとうございます。頑張ります。

さつまいもさん
 設定資料にはリョウ・アカツキ(笑)・白銀の神子wwとメモられてたりします……。幸あれ。

あへぇさん
 頑張ります。第一部はなんとしてでも……!

しちすのさん
 探り探りの状態ですので、バランスが崩れないように心掛けていこうと思います。

カフェさん
 →にげる
 にげる
 にげる
 たたかう(5000D消費)

 こんなかんじになりました。

踏破さん
 迷宮モノのはずだったのに……どうしてこうなった。という心境です。

kieraさん
 まるっきし何にもないわけではないが、スキルは本当にないという今回のお話でした。幼女はこれからきっと頑張ります。

ズラさん
 スキルをもらってもスキル使う魔力がない主人公に合掌。隠密技術がなかったら即死な彼に合掌。そんな物語なんです。

通りすがりさん
 そうび
  ローブ(灰色)
  ローブ(緑色)
  ローブ(紺色)
  ローブ(茶色)

 迷宮の環境がランダムだったらきっとこんな感じのカメレオンになってました。かめれおん人生……どうでもいいですけど、センスのあるタイトルに変えたいです。

ステさんさん
 ステンバーイ、ステンバーイ
 知っていないけど言ってみる
 ステンバーイ、ステンバーイ

kieraさん
 ワープポイント、登場させました。やっと今回で、迷宮の説明が粗方終わった感じです。次から本気だします。(嘘です。やりたい邦題やるだけです)

通りすがりさん
 瞳の色が変わるのは浪漫です。私の邪気眼は十二個能力があったのはいい思い出。詰め込みすぎた。

kieraさん
 都市に入った瞬間に、これから加護をくれる神様が自動的に決まるという設定です。主人公の場合、神様は決まりはしたけど体質的に実際に加護(魔力)をもらうことが出来ないというわけです。分かり難くてすみません。

さつまいもさん
 神眼(笑) アカツキww

なまけものさん
 ありがとうございます。頑張ります。

通りすがりさん
 じゅう を てにいれた
 しかし のろわれていた!

です。

朝凪さん
 主人公はやる時はやる人のはず、です。きっと。


 皆様、多くのご感想、本当にありがとうございます。返事が遅れてしまって、申し訳ありませんでした。



[31224] 一つの夢と全ての始まり
Name: クク◆0c3027e3 ID:675f9afc
Date: 2012/06/01 22:03
「霊薬(エリクサー)とかあるにはあるけどさー、あれ、高いよ。死ぬまで働かないで済むくらいに」

「他にないのか? もっと手頃な薬は」

「魔力が作用する状態異常って、普通は一時期なものだからねぇ。例外的に持続する洗脳にしろ呪いの類にしろ、エリクサー以外は専用の薬しか効かないんだけど、そもそも具体的な症状が分かってないんでしょ? そのうえ『神眼』とかいう特殊スキルが関係してるんなら、ジンさんが聖女さんの名前を出すのも仕方ないかなー」

 薬草専門店「森の囁き」の店内で、店の主であるラウルは天井を見上げながらゆっくりと紫煙を吐き出した。縁のない眼鏡の奥の瞳は、少し気怠げに細められている。

 ラウルはレジカウンターにパイプを置いて、メリルが置かれた状況について一通り語ったヴェルマに視線を戻す。

「まあ、薬で治すのは実質無理だと思うよ。リョウ・アカツキって子から、具体的に何をしたのかを聞き出せれば別だけど」

「具体的に聞き出せるならば、本人に止めさせた方が早い」

「まあ、そうだよねぇ」

 のんびりそう返したラウルに、緊迫した様子はまるで見受けられない。一人の少女の身に、危険が差し迫っていると知っていながら。

「……ちょっと心配しすぎなんじゃないかな? 言い訳するわけじゃないんだけどさー、探索者になった時点で命を賭ける覚悟はしてるはずだよね。君の住んでた国ではどうだったか知らないけど、この都市じゃあ自分の身の安全は自分で守るのが基本なんだよ」

「知っている。神々が定めた七法と、それに則り都市の治安を維持する教会の役割については説明を受けたし、一応教典にも目を通した。だからこそ私はこうして動いているんだ」

「七法の三《自由であれ》。己であることに誇りを持ち……、ってやつ?」

 少し驚いたような呆れたような微妙な顔で訪ねて来たラウルに、ヴェルマは「まさか」と小さく笑って返した。

「教典を読んで学んだことなど、教会も騎士団も私の役には立たないということだけだ。私が本格的に被害を受ける前に、私の手で片を付ける必要がある。メリルのことは、あくまでもついでだ」

 別にお人よしというわけではないさと肩を竦めるヴェルマに、店の入口の近くに飾られた巨大な植物を見物していたヒタキは思わず小さく苦笑する。

 そもそもメリルを心配して行動を起こしたからこそ、ヴェルマはリョウ・アカツキに目を付けられたのだ。

 十分にお人好しだよなと思いながら、ヒタキは毒々しい色合いの葉っぱを指先でつついていた。紫や赤や緑の嫌な感じのグラデーションがいい感じにえぐい。

「まあ、要件はこれで終わりだ。時間を取らせてすまなかったな」

「お求めの薬がなくてごめんね。あ、お詫びって言ったら変になるけど、今朝聞いた話聞かせてあげようか?」

 踵を返しかけていたヴェルマは、ラウルの眠たげな声に足を止めた。

「今朝聞いた話なんだけど、教会が久しぶりに異端審問をやるらしいよ。大変そうだよねー、その対象者」

 大して面白くも大変そうでもなさそうにそう言ったラウルの瞳に一瞬だけ、呑気に巨大食虫植物と戯れるヒタキが映っていた。

*   *   *


「ヴェルさん、大変だ」

 都市の東に位置する居住区の一画。その入り組んだ暗い路地裏で、ヒタキは小さな声で呟いた。何時になく真剣なヒタキの様子に、隣で壁にもたれかかって立つヴェルマは「どうした?」と首を傾げる。

「これ、とてつもなく美味い。ヴェルさんも食べた方がいいぞ」

「む、そうか。では頂こう」

 肉を挟んだパンを両手で持って食べていたヴェルマは、ヒタキが差し出した味付けが違うそれにぱくついてゆっくりと味を確かめるように咀嚼した。

「……そっちが当たりだったか」

「ヴェルさんの、不味かったのか?」

「不味いというわけではないが、まあ、食べてみればわかる」

 同じようにヴェルマのパンを食べたヒタキは、納得したように頷く。

「何か、いっつも食べてるような味だな」

 少し遅めの昼食にと、露天で買ってきた軽食を食べるヒタキとヴェルマ。彼らがもたれかかっている古いボロボロの壁は、とある宿屋の外壁だ。

 そこらに乱立する宿屋の中でも一際小さく古いこの二階建ての宿屋は、迷宮都市にたどり着いたその日にメリル・カナートが部屋を借りた宿屋である。
 
 薬草専門店「森の囁き」を出た後、消耗品を買いつつ話し合った今後の予定に則り、宿屋の前という微妙な場所で食事をするという微妙な行動を取っているヒタキとヴェルマだが、彼らの目的は至ってシンプルかつストレートなもの。

 取り敢えずメリルを一度、教会の治療施設に連れて行こう。

 結局は何のひねりもない、一番妥当だと思われる手を実行しようというものだった。

 勿論不足の自体に備えた第二案も用意してあるが、目下二人はお出かけ中のメリルが帰って来るのを待ちながら、空腹を満たすことに忙しかった。

「それにしても無用心だな、あの子は。幾ら何でももう少しまともな場所に住まないと、後悔することになるぞ」

「まあ、泥棒もやりたい放題だろうしな。場所的にも、建物的にも」

 歴史を感じさせすぎている宿をのんびりと見上げながらのヒタキの言葉に、ヴェルマが苦笑しながら言う。

「あの子はまだ若いからな。昨日の推測にしてもそうだが、所々抜けている」

「ん? 推測って……」

「お前がリョウ・アカツキを憎んでいる、という話だ。論理的とは言えない推論だったが、まあ、ああいう柔軟な発想は見習わなければな」

 微笑ましそうにそう答えたヴェルマに、ヒタキは「あ、なるほど」と納得した。

「でも、まあ、途中はほとんど正解だったんだよな」

「途中?」

 ヒタキの呑気な声に、今度はヴェルマが首を傾げた。

「途中と言うと、ヒタキの体質の――」

「うん。メリルが言ってた魔力がない原因は魔法にあるって話、あれ、だいたいその通りなんだ」

「…………」

 なんでもないように、世間話のように告げられたその言葉に、ヴェルマは何か言おうと口を開いたが、結局何も言えずに口を噤んだ。そんな彼女の横顔を不思議そうに見ながら、ヒタキは続ける。

「まあ、魔法を求めて俺が不幸になったってのは、違うんだけだな」

「……どういう意味だ? その体質は魔法が関係しているのではなかったのか?」

「あ……。うん、えっと……」

 言うんじゃなかったと、ヒタキは少し困って頭の後ろを掻いた。

「言いたくないのなら、無理に言う必要はないぞ」

「いや、言っとくよ。何ていうか、ヴェルさん、俺に気使ってるだろ? 体質のことで」

 ヴェルマはずっと気にしていた。ヒタキに、魔力がないことを。
 
 神々の加護でさえも、受け付けることが出来ないヒタキの体。

 もしかすると張本人であるヒタキ以上に、その事実を気にかけていた。

「否定はしない。正直に言えば、魔力がないという普通ではありえないお前に、どう接すればいいかわからなかった」

「……相変わらず真っ直ぐだな、おねえさん」

 ストレートに告げられた内心に、ヒタキは苦笑する。苦笑しながら、頬を緩める。相変わらず彼女の真っ直ぐさが心地よかった。

「ついでみたいなもんなんだよな、ほんとは」

「ついで?」

 きょとんと小首を傾げる小さな彼女に、ヒタキは頬を緩めたまま続ける。遠い日のあの赤い光景を幻視しながら、それでも今は、取り乱すことはなかった。

「魔法を求めて不幸になった、っての、俺の友達なんだ。魔法なんて、あんな下らないもの追いかけたせいで、あいつ、死んじゃったんだ。魔力がないことなんて、そのついでみたいなもんだから、俺、ほんとに大して気にしてなかったんだよな。だからヴェルさんに心配されたら、何ていうか、ちょっと困る」

 心配してくれるのは嬉しいんだけどなと締めくくったヒタキに、ヴェルマは少しの間だけ目を瞑って、それから柔らかく微笑んだ。
 
「そうか。それならもう、気にするのはやめよう。すまなかったな、勝手に同情してしまって」

「む……謝れても、何か困るぞ。ていうかおねえさん、何ていうか、嬉しそうだな」

「人聞きの悪いことを言うな。私がお前の友人の不幸を喜んでいるみたいだろう」

 細めた瞳で下から睨み上げて来るヴェルマは、しかしやはりどこか嬉しそうに見える。首をかしげながら彼女の目をじっと見つめ返していると、ヴェルマは仕方がないと言わんばかりに溜め息を吐いた。

「随分と、心を開いてくれたなと思ってな。お前が自分のことを話してくれたのは、今回が初めてだっただろう?」

 ――内容とは関係なしに、その事実が嬉しかった。

 そう語ったヴェルマは、少しだけ申し訳なさそうに、そして少しだけ恥ずかしそうにヒタキから視線を逸らしたのだった。

 ヴェルマの小さな赤い頭を見ながら、ヒタキはぼんやりと思う。

 そういえば、あの場所から、彼女が死んだあの場所から逃げたしてから今まで、誰かに昔のことを話したことなんてなかったかもしれない。

 彼女を失って七年、ヒタキは独りで生きてきた。

『ねえねえ、ヒタキ! 大きくなったら、二人でたびをしよ!それでねそれでね、レイファリスを見つけてそこでくらすの。そうしたらヒタキだって、きっとしあわせになれるよ! ヒタキのことしってる人もいないし、あのおじさんもみんながしあわせになれる所だっていってたでしょ!』

 まだ幼い頃、彼女と共に聞いた一人の吟遊詩人の歌。その中に出てきた、『楽園都市』の存在。彼女は誰もが幸せに生きるその都市を想い、夢を見た。

 だから彼女を失って七年、ヒタキは独りで生きてきた。『楽園都市レイファリス』を探して、一人で世界を歩いてきた。彼女の、最期の言葉を胸に。

 ――幸せになってね、という最期の言葉を。

「すまなかった。気分を害したか?」 

 何時もと同じようにぼんやりしているが、しかし何時もとどこか違うヒタキを、ヴェルマが少し気まずそうに下から覗き込む。

「え、何で?」

「いや。違うのならいいさ」

 柔らかく微笑んだヴェルマに、よくわからなかったけどヒタキも気の抜けた笑みを返していた。よくわからなかったけど、彼女が嬉しそうに笑っていたら――ヒタキは幸せになっていた。

 ヴェルマは、あの人じゃない。あの人は、もう死んだ。

 だから、ヴェルマと一緒にいても、あの忘れ得ぬ日々が戻ってくるわけではない。あの忘れてはいけない日が、消えるわけではない。

 だけど――それでもよかった。それでも、今はヴェルマとこうして過ごす日々を、幸せな毎日を大切にしたかった。

「なあ、ヴェルさん」

「何だ?」

 小さく首を傾げるヴェルマに、大切な二人目の友人にヒタキは言った。素直に思うがままのことを、伝えた。

「俺、ヴェルさんに死んでほしくない」

 驚きに目を見開くヴェルマに、頬を緩めたままヒタキは想いを言葉にする。

「友達が死ぬのは、嫌だ。だからさ、ヴェルさん。俺と一緒にここから出よう。ここから出て、一緒にレイファリスに行こう」

 ヴェルマが何故死に場所を求めているのかを、ヒタキは知らない。だけど楽園都市に行けば、誰もが幸せになれる。だからヴェルマもきっと――

「レイ、ファリス……」

 見開いた瞳を困惑で揺らし、呆然と楽園都市の名を呟くヴェルマ。珍しくも動揺する彼女に、ヒタキは少し慌てて謝る。色々と急すぎた。

「えっと、何か、急にごめん。レイファリスって、楽園都市って呼ばれてるとこで、あー、えっと――」

 まったくもって自分らしくないと、頭の片隅でそう思いながら言葉を続けようとしたヒタキは、しかし次の瞬間ヴェルマを抱え上げて地を蹴った。

 大気に漂う魔力が、僅かに乱れる。

 硬直は一瞬。ヒタキの腕の中で事態を悟ったヴェルマの指が踊り、宙に魔術文字が描かれる。

 そして二人が細い路地から飛び出したその瞬間――爆炎と轟音が世界を満たしたのだった。


*   *   * 


 ――――こうして、物語は漸く始まりを迎える。

 友を失う悲しみから逃げ続けた愚かな少年と、全てを失い続けることに絶望した呪われた少女。

 物語の開幕を告げる音は、夢の墓場で出会ったかつての少年と少女が奇しくも真の意味で向かい合った今日この日に、誰に知られることもなく、されど盛大に世界に響き渡っていた。

 ――――これは、いつか世界の果てに至る二人の物語――――



[31224] 哀れな魔術師と初めての刺客
Name: クク◆0c3027e3 ID:bbc7ed66
Date: 2012/06/10 23:21
 何時も通り平和だった昼下がりの居住区の一画は、突如巻き起こった爆発によりその在り方をがらりと一変させた。

 爆心地は、先ほどまで二人が背中を預けていた古ぼけた宿屋の二階の一室。吹き荒れる爆風と瓦礫が、ヴェルマが寸前で展開した魔術障壁を激しく叩く。

「……あそこ、メリルの部屋だよな」

「中級魔術『花咲く焔』……街中で使っていい魔術ではないぞ」

 老朽化した小さな部屋を吹き飛ばすには、その魔術は十分過ぎる破壊力を持っていた。外壁は大きく抉れ、天井からは煙が上がっている。半透明の魔術障壁越しに見える爆心地であるメリルの部屋の状態は、無残としか言いようがなかった。

「ヒタキ、怪我人は?」

「いない、と思う。少なくともあの宿には、誰もいなかったし」

「悲惨な経営状態が幸いしたな」

 普段ならば人通りがまばらな昼下がりの居住区には、しかし突如起こった爆発によって多くの人が集まって来ていた。

「キャ、キャァアア――ッ!!」

 そして、何事かと騒ぐ群集の声を切り裂くように悲鳴が上がる。

「わ、わわ私の部屋がっ!! な、何で何で何で何で何で、え、ええっ、何で!? 何で私の部屋が爆発してるんですかっ!?」

 喧騒に半ばかき消されながらも響き渡った絶叫は、ヒタキとヴェルマのよく知る声。破壊された部屋の主であり、二人の待ち人であるメリル・カナートのものに他ならなかった。

「なっ!? あの子は何を……!」

 動揺は一瞬。歯を軋ませ言葉を飲み込み、ヴェルマは己を抱えるヒタキに素早く視線を移す。

「魔術は、大丈夫だと思う」

「行方は?」

「探してるけど、人が多すぎてきつい。もう野次馬の中に入った」

「十分だ。私は直接目で探す」

 ヴェルマはそう告げて、ヒタキの腕から降りて駆け出す。向かう先は、野次馬の中で明らかに目立ってしまっているメリルの所。

 この事件の犯人の狙いは、十中八九メリルだ。

 犯人は白昼堂々と、幸か不幸か図ってか図らずか人がいなかったとは言え、宿屋の一室を爆破するような人間。もしも犯人がメリルの命を狙っているのなら、今の彼女は何時殺されても不思議ではない状況にいる。

「あ、ヴェ、ヴェルマさん! 私の部屋が、私の部屋が――」

「――伏せろ!」

 だからヴェルマは、迷いなく剣を抜いた。剣を抜いて、メリルの背後へと殺気を放つ。

 ほんの僅かな予感。何十人もの群集の中に見つけた、確信に至るにはほど遠い手掛かり。

 特に目立った特徴があるわけではない、銀色の軽鎧をつけたくすんだ金色の髪の男。強いて言うなら、疲れが見える灰色がかった青い瞳が特徴的な三十代前半程度のその男は野次馬の一人にしか見えないが、しかしヴェルマは覚えていた。

「クソがっ!! 何なんだよ!」

 自らを確かな敵意を湛えた瞳で睨み据え迫り来るヴェルマに、男は焦燥を露わに腰から剣を抜き罵声を上げる。陽の光を受けて輝く刃に周囲にいた野次馬達が息を飲み、男を中心に後退する。

「え、え……? 伏せるって、何で剣なんて抜いて――」

「――伏せろ!!」

「ッ!?」

 先ほどよりも鋭く重い声に、ビクリと体を震わせメリルは反射的にその場にしゃがみ込む。ヴェルマはその上を飛び越し、迷いなく剣を振り抜いた。疾走の勢いを十分に乗せた薙ぎ払いをどうにか構えた剣で受けた男は、後ろによろめきながら憤怒で目を血走らせ叫ぶ。

「クソがクソがクソがっ!! 何なんだよてめぇは邪魔しやがって! お前あのガキの仲間か!?」

 瞳をギラギラさせ激しい怒りのためか肩で息をする男――先日の深夜、リョウ・アカツキと争って敗走した男に、ヴェルマは剣を構えながら言い放つ。

「ふっ、馬鹿を言うな。私はあの失礼極まりない少年の敵だ」

「敵!? ならなんで邪魔しやがる!!」

「生憎とこの子は敵でない上に、知り合いなのでな。目の前で顔見知り、しかも子どもが殺されるのを、黙って見ているわけにはいかないだろう」

「……クソがっ!」

 歯を軋ませ額から汗を流す男は、焦っていた。周囲を野次馬に囲まれた状況から逃げ出そうとしているのか、じりじりと後退しながら視線をさ迷わせる。そしてその視線がヴェルマの足元、正確にはその後ろで止まった。

「当たってたか……」

 追い詰められていた男の顔が、にやりと邪悪に歪む。そして先ほどまでの狼狽ぶりは嘘のように消え去り、男は大げさに両手を広げて笑ってみせた。

「あ? 殺すって、そんなことするわけないだろ? 俺もそこで倒れてる子の知り合いだ。人騒がせなガキだな、剣なんて振り回しやがって。俺はそいつを心配してただけだってのによ」

「貴様、何を……」

 男の態度の急変に眉を寄せ、剣を構えたままヴェルマはメリルの様子を伺う。そして漸く、未だにメリルが地面に伏せたままでいることに気づいた。彼女は立ち上がるどころか、地面に横たわったままぴくりとも動かない。

 間に合わなかったかと、ヴェルマは小さく舌打ちして男を睥睨する。

 今現在、この男が爆破の犯人でメリルの命を狙っていたことを証明する具体的な証拠はない。唯一この男と直接対峙したことがあるメリルは、何をされたのか気絶していて男を糾弾することができない。

 このままでは、水掛論だ。下手をすれば、ヴェルマの勘違いで済まされてしまう。

「まあ、今回は友達の一大事だったってことで、妙な勘違いで斬り付けてきたことは許してやるよ。今度からは気をつけろよ、正義感の強いお嬢ちゃん」

 丸く収めにかかった男に対し、ヴェルマは慎重に言葉を選ぶ。色々と不愉快な男ではあるが、下手なことは言えない。先手を打ったことが、完全に裏目に出てしまっていた。

「そうか、すまなかったな。貴方もこの子の知り合いだったか」

「…………」

 あっさりと引いたヴェルマに、男が僅かに眉を顰める。ヴェルマは剣を鞘に納めつつ、男に軽く頭を下げてから続けた。

「この子は私が教会の施設まで連れて行こう。あまりのショックに気絶してしまっているようだからな」

「っ! ……俺が連れて行く。お前みたいな小さいガキじゃあ、運ぶのだけでも一苦労だろうが」

「私に罪滅ぼしをさせてくれ。思い違いで攻撃までしてしまったのだから、貴方の手をこれ以上煩わすことはしたくない。なに、私も探索者だ。この子を運ぶくらい、どうということはないさ」

「……いいから大人に任せて、ガキはさっさと帰れ」

 もどかしそうに何とかそれだけ言った男を、ヴェルマは冷たく一瞥する。

「ふむ、ならば今日のところは大人に甘えるとするか。知り合いに言うのもなんだが、アメリアのことをよろしく頼む」

「あ、ああ。任せとけ」

 またしてもあっさりと引いたヴェルマに若干訝しげな視線を向けながらも、しかし男はどうにか場を誤魔化せた安堵からか無防備に一歩を踏み出した。

 ヴェルマはその様子を冷めた瞳で見ながら、呼吸をするような自然な動きで宙に指を躍らせる。

「ああ、一つ言い忘れていた」

「あ?」

「この子の名前は、アメリアではないぞ。名も知らずに知り合いを語るとは、片腹痛い」

「は……? って、てめぇ、このクソガキッ!! 何してやがる!?」

 シニカルに笑うヴェルマの指先が、術式を描き終わった。怒りで顔を真っ赤にした男が拳を振りかぶるが、もう遅い。

「なに、いたいけな少女の知り合いを語る不審者を成敗するだけさ。なにせ私は――正義感が強いお嬢様だからな」

 轟音、そして閃光。眩い光が収まる頃には、周囲は深い霧に覆い尽くされていた。

 下級複合魔術『舞い散る細氷の幻想風景、雷光を添えて』

 眩い稲光と深い霧を発生させる、戦闘では目眩ましにしか使えない彼女のオリジナル魔術。致命的な名前ではあるが、直撃を受けた男の視覚と聴覚は完全に麻痺していた。



*   *   *



「目が……っ! クソ、何処に行きやがった!!」

 僅かに回復した男の視界には、しかしもうヴェルマの姿はおろか倒れていたメリルの姿もない。

 罵声を上げながら群がる野次馬を掻き分け、数秒のうちに消え去った彼女らを探す男。どうにか男が人混みから抜け出した頃には、メリルを肩に担いだヴェルマはすでにかなり離れた所を走っていた。

「あのガキッ! ぶっ殺してやる!!」

 生意気なだけと思っていた子供にまんまと出し抜かれた男には、すでに殺意を隠す気など全くなかった。あの忌々しい子供の策に嵌った時点で、リョウ・アカツキの仲間の青髪の少女を狙っていたと周囲にバラされた時点で、もう手遅れだったのだから。

「どうせもう後には引けねぇんだ……まとめて殺ってやる」

 男は右手を前方に――計画を全てぶち壊してくれた憎きクソガキに向けて突き出す。

「【紅き炎は我が敵を射抜く】」

 右肩に刻まれた神紋が、赤く輝く。その輝きが突き出された右腕に複雑な紋様を描き、そして掌に赤い紋様が収束する。右手に展開された魔術式が一層強く輝いたその瞬間、男は殺意を込めて叫んだ。

「喰らいやがれっ!!」

 中級魔術『翔ける紅の一矢』

 猛る炎が細く鋭く凝縮された紅の矢。対象を高熱で焼き貫き、そして最後には凝縮された炎を解き放ち内側から対象を焼き尽くす凶悪な魔術が、男の掌から放たれた。

 ――殺った。

 必中必殺を確信した男の視線の先で、対象である赤い子供がくるりと振り返る。彼女は迫り来る赤い死に眉一つ動かすことなく、その小さな指を踊らせる。

 僅か三秒。無造作に、されど美しく宙に描かれた光の文字が消え去ると同時に、一つの魔術が世界に生まれ落ちた。

 中級魔術『翔ける紅の一矢』

 紅く紅く燃える、炎の一矢。男が発動したそれと全く同じ魔術は、寸分違わず標的に向かって空を翔ける。

全く同じ二つの魔術、紅く輝く二つの炎の矢。空に紅い軌跡を残し、二つの必殺は衝突した。

 閃光――そして爆炎。中級魔術同士の相殺の余波で、突風が吹き抜け土埃が巻き上がる。

「な……っ、術式魔術!?」

 たった今起こった事に、男は唖然として目を見開く。《詠唱魔術》のスキルを使わずに、ものの数秒で、しかも実戦の中、自力で中級魔術を編める人間などいるはずがない。そもそも冷静になって考えてみれば、先ほどの魔術も見たことも聞いたこともないものだった。

「クソがっ! 寵愛者か!?」

 苛立ち紛れに唸り声をあげ、すでに再び背中を見せて走り始めた敵を睨みつける。

 神から与えられたスキルは、時に所有者の生まれ持った魔力回路と共鳴して変化することがある。滅多に発現することがないその「特殊スキル」と呼ばれるスキルは、規格外の力を持つものばかりだ。

 「寵愛者」とはつまり、選ばれた一握りの人間のこと。神に愛されなければ得ることのできない、特別な力を持つ者。

 《詠唱魔術・中級》

 再びスキルを発動し、男は殺意を込めて右腕を突き出す。

 敵は神に愛されし者。半ば成功を約束されたような存在。

 それだけで、十分だった。動揺と驚愕を消し去り、殺意を膨らませるには、十分すぎる理由だった。

「【焔の種は静かに――……あ?」

 黒く燃え上がる想いを乗せた詠唱を、男は不意にぴたりと止めた。否、止めざるをえなかった。

「は、え……?」

 額に突きつけられた、銀色に輝く狂気。それを手にただ静かに佇む、灰色のローブで全身を隠した何者か。

「な、何だよお前!? つーか何時からそこに……!」

 ――――気づいた時には、それはすでにそこに存在していた。

 何時からそこにいたのかも分からないほど悠然と、今までその存在を認識出来なかったことが不自然なほど自然に。

 ごくりと得体の知れない恐怖に生唾を飲み込む男に、それは明確な敵意をもって、底冷えのするような殺意をもって告げる。

「リョウ・アカツキと戦うんなら、勝手にやったらいい。だけどあの人を……あの二人を、あんたの問題に巻き込むなよ。じゃないと次は――」

 囁かれた言葉は、風の中に消える。男の耳には、再び周囲を満たし始めた野次馬の喧騒だけしか残っていない。ただ、それなのに男は、届かなかった言葉に恐怖した。

 無意識のうちに後ずさっていたことに気づいた男は、拳を握り締め目前の何かを睨みつける。しかし男の精一杯の気迫を受けても、それはまるで揺らがない。

 悠然と、超然とただそこに立つそれが、再び音を紡ぐ。

「そろそろ逃げないと、騎士団に捕まるぞ」

「っ!?」

「さっきも言ったけど、あんたがあの二人に手を出さない限り、俺は何もしない。だから――さっさとここから逃げたほうがいいぞ」

 男は、ついに何もすることが出来なかった。亡霊のような、その何かに。


*   *   *


「む、ようやく来たか。随分と遅かったな」

 迷宮の十八階層。薄暗い石造りの通路に、転移門から出た先で待っていたヴェルマの声が静かに響いた。壁にもたれ掛かって立つ彼女の足元には、未だに目を覚ましていないメリルが横たわっている。

「どうやら寝ているだけのようだぞ。まったく、人騒がせな子だ」

「まあ、幸せそうな寝顔してるもんな」

 別に心配していたわけではないが、メリルを見ていたらヴェルマが溜め息混じりにそう説明してくれた。

 目が覚めてなくてよかったなと、被っていたフードを外しながらヒタキはぼんやりそう思う。

 仮に今メリルが起きたとしたら、彼女は自室が爆破されたという衝撃すぎる事実に耐えられず、またしても致命的に「知的で素敵な冷静沈着な未来の大魔術師の卵」のイメージから遠のくことになっていたに違いない。

「ヒタキ」

「ん?」

 すやすやと穏やかな寝息をたてる卵。それを何とはなしに眺めていたヒタキは、ヴェルマの少しだけ硬い声に顔を上げた。

「一応聞いておくが、何をしていた? というより、どうなった?」

 何処か心配そうに瞳を覗き込んでくるヴェルマ。

 今回の騒動は、完全に想定外の出来事だった。故にヒタキとヴェルマは、事前に何一つ打ち合わせることが出来ず、各自の判断で行動していた。

 今ここに――命を賭けて挑むべき迷宮に避難していることすらも、互いに示し合わせたわけではない。ただ、ここしか、転移門を通ることで一時的とは言え、完全に行方を眩ますことができる迷宮しか、避難する場所がなかったからここにいるのだ。

 メリルの命を狙った男は、おそらく中級者。少なくとも、必ず一度はクラスチェンジを経ている程度の実力はあっただろう。仲間がいた可能性もある強敵を相手取るには、完全に二人では戦力不足だった。

 だからヒタキは、少しだけ困って後ろ頭を掻く。

「えっと……さっきの金髪の人に、ヴェルさん達に手を出すなって言ってきた」

「私が言えた義理ではないが、何故そのような無茶をした。下手をすれば、お前が殺されていたのだぞ」

 珍しく真剣に本気で怒っているヴェルマに、ヒタキは自然と目を伏せて「ごめん」と謝る。

「だけど、一応ちゃんと脅せたから」

 だからもう大丈夫だと思うと続けたヒタキに、ヴェルマは一度大きく溜め息を吐く。

「知っている。お前が食い止めてくれていなければ、その子を担いだ状態では追いつかれていただろうからな。だから礼は言わせてもらう。ありがとう、ヒタキ。おかげで助かった」

「……怒ってんのかと思った」

「怒っているさ。感謝と怒りは別だ」

「う、何か今日は厳しいな、おねえさん」

「甘やかすだけが友人ではないということだ」

「…………」

 そう言って優しく微笑んだ彼女に、ヒタキは何も返せずにまた無為に頭を掻いた。

「それにしても、どうやって脅したんだ? まさか正面から叩き潰したわけではないだろう」

「うん。この銃使ったって、多分あの人には効かなかっただろうしな。正面から戦ってたら、多分俺死んでたぞ」

 呑気にそう言ったヒタキを、ヴェルマは心なしか冷たい目で見る。

「いや、ていうかヴェルさん。あの人びっくりさせたの、ほとんどヴェルさんだぞ」

「……魔術か? 確かに術式の構成の速度には自信があるが、訓練すれば出来る人間になら出来るぞ」

「ここじゃあ、魔術もスキルで使うのが普通らしいからな」

「なるほど、ことごとく人の修練を台無しにしてくれる神々だな」

 小さく鼻で笑った彼女の頭を撫でようとしたら威嚇され、ヒタキは少し落ち込みながら話を元に戻した。

「まあ、ヴェルさんの魔術にびっくりしてたから、俺はその隙に近寄ってもっとびっくりさせただけだなんだよな」

「相変わらずでたらめだな。よくそこまで気配を消せる」

「俺に魔力がないから、近づかれても本能が危険を感じにくいらしい。まあ、俺に対して危機を感じるまでもないってことなんだけどな」

 ふむ、とヴェルマは一度頷いて首を傾げた。

「そういうものか」

「うん、そういうもんらしいな」

 二人揃って呑気にそんなことを言って、そして二人揃って一度大きくため息を吐く。

「むにゃ……りょーさーん……まってくださいよー……、えへへへへ」

 先ほどからむにゃむにゃと幸せな寝言を言う「卵」が目覚める気配は、それはもう見事なほど皆無だった。




*   *   *あとがき(返信)*   *   *

なまけものさん
 ナデポ……もロマンなのです。

てんびん座さん
 ありがとうございます。分量が少なくてすみません。

573さん
 主人公達の厨二は神眼なんかに負けない! はずです。

asdさん
 主人公はもはや立派なひもです。どうしてひもになった……。

名無しさん
 ありがとうございます。更新はゆっくりになりますが、一章は必ず完結させます。

通りすがり読者さん
 ひ・み・つ……と言ってみたかったですけど、50人を出すかどうかはまだ考えていません。

メロンうまさん
 ありがとうございます。更新頑張ります。

76さん
 ありがとうございます。キャラを活かせるように頑張ります。

きっくさん
 申し訳ないです……。努力します。

朝凪さん
 待ってて下さってありがとうございます。

名無しさん
 ありがとうございます。世界の謎は……設定が……決まってない可能性も……。ありがとうございます。

Kieraさん
 50人が出てくることは……いつか出したいです。


皆様、多くのご感想、本当にありがとうございます。返事が遅れてしまって、申し訳ありませんでした。



[31224] 四面楚歌
Name: クク◆0c3027e3 ID:131addb5
Date: 2014/01/30 02:32
「【火球は舞い踊――無理ですっ!!」

 詠唱を中断し、メリルは絶叫を上げながらスケルトンの群れから逃げ出した。

「ちょ、ちょっと……! 本気で死ぬっ! 本気で死にますから助けてくださいっ!」

 数にして五体。薄暗い石造りの回廊――迷宮の十八階層で、決して早くはない速度で追いかけて来るスケルトン達から逃げるため、メリルは生死を賭けて必死の形相で走る。

「あ、また魔石あったぞ」

「今日は大量だな。やはりレッドスケルトンの方がスケルトンより魔石を持っている確率が高そうだ」

 そんな少女の横で、ヒタキとヴェルマは魔物の残骸の中から見つけた小さな青い石を嬉しそうに眺めていた。

「ひ、ひどいっ! 十五年の人生でここまで綺麗に無視されたの初めてです! しかもここまで絶体絶命の状況で!!」

「それだけ話せるのならまだ余裕がありそうだな」

「鬼ですかあなたはっ!?」

 キャーキャー叫ぶメリルを見るヴェルマは、何だかとっても楽しそうだった。


*   *   *


「駄目だな。駄目すぎる。このような体たらくでは、明日にでも討ち死にするぞ」

 メリル・カナートが絶叫を上げながら迷宮内を駆けずり回ることになる十数分前、ヴェルマは憮然として腕を組みため息を吐いていた。彼女の厳しく細められた瞳は、石畳に膝をつき今にも死にそうな勢いで肩で息をしているメリルを見下ろしている。

「え、え…え? え? な、何で私怒られてるんですか? だ、だって今私、ヴェルマさんが仕留めるまでの間、群がるスケルトン達を魔術障壁を張って食い止めて、しかもその後にはレッドスケルトンまで倒したじゃないですか? え、というか私の行動完璧だったじゃないごほっ!」

 だんだんとヒートアップしてついには咳き込んだメリルを、ヴェルマはただ無言のまま冷たい瞳で見据える。

「な、何ですか…? 私の言ってること、間違えてないですよ」

 若干腰が引けてはいるがそれでも自信を持って続けたメリル。ヴェルマはそんな彼女から視線を外し、腕を組み直しながら小さく溜息を吐いた。

「お前の選択した行動は最良だったとは言えないが、確かに間違えてはいなかった。だがな、逆に言えばお前にはああすることしか出来なかっただけだ」

「…………」

「考えてみろ。もしもスケルトン達の戦力が先程の二倍だったとして、お前はどう動く? また魔術障壁を張って、私が敵を蹴散らすまでどうにか持ち堪えるか? 私が手間取り、魔術障壁を維持出来なくなることに怯えながら」

「そ、それは……」

 ヴェルマが言っていることは、圧倒的に正しい。どう言葉を繕おうとも、言い訳にしかならないほど正し過ぎた。故にメリルは、ただ俯くことしか出来ない。そんな彼女に言い聞かせるように、ヴェルマは穏やかに続ける。

「戦いにおいて仲間との連携は勿論大事だ。足りない箇所を補い合うことは、基本中の基本。その点に関して言えば、お前は自分に出来ないことと出来ることをしっかりと認識した上で動けていた。まともな戦闘訓練をうけていない割には、戦場をよく把握出来ていたと言えるだろう。まあ、あくまでも素人にしてはましだという程度だがな」

 褒められて心無しか顔を綻ばせかけたメリルだが、鋭く突き刺された牽制に再びしょんぼりと落ち込む。

「まあ、もう言うまでもなく自覚は出来ているとは思うが、お前にはどうしようもなく一人で戦う力が足りていない。はっきり言って今のお前は、仲間がいなければ何も出来ない弱者だ。敵からすれば、無力な餌が目の前を呑気に歩いているようなものだろうな」

 容赦ないヴェルマの指摘に、メリルはすでに泣きかけていた。大きな茶色の瞳は、涙で一杯になっている。

「う、えぐ……で、でも、仕方ないじゃないですか…っ! だ、だって私は遠距離特化型で……そ、そうです、ひっぐ……私だって、私だってレベルが上がれば――」

「甘えるな」

 嗚咽混じりのメリルの反論を、静かに、されど有無を言わさない重たさをもってヴェルマは切り捨てる。そして彼女は、息を飲んで呼吸を止めた少女に向かってもう一度同じ言葉を繰り返した。

 通路の奥で蠢くアンデッドの群れを見据え、幾万回と繰り返し術式を綴って来たその指を躍らせながら。

「甘えるなよ、メリル。自らの力量不足をレベルのせいにするな。自らの技術不足をスキルのせいにするな。魔力が少ないのなら魔力を効率的に使えばいい。スキルがないなら技術を磨けばいい。そもそもだ、そもそもお前は勘違いしていないか? 力を与えられることを当然だと思うな。祈れば報われるなどと思うな。そのような都合のいい話があってたまるか。強くなりたいのなら自分の力を磨け。自分の力で戦え。人は神の加護などなくとも、強くなれるのだから」

 彼女の周囲で輝く魔力の軌跡。炎の赤色と大地の土色が混じり合う幻想的なヴェールのような文字列が、ヴェルマを中心に風に舞うように踊る。

 綴られたその魔術式は、表層を読み解くことすら困難に思えるほど、ましてやもう一度描ききることなど不可能に思えるほど複雑に絡み合っていた。

 緻密な演算と、精密な魔力制御。

 それは絶え間ない修練でしか得ることが出来ない、血と泥にまみれた技術。

 それは神から授かった力を何一つとして使わない、純粋な人間としての力。

 ――人が至れる、一つの極地。

 そして魔術が、猛威を振るった。

「え、な……うそ…………」

 解放されたその魔術に、メリルは二の句を継げずに放心する。

 迫ってきていたスケルトンの群れは、すでに動かぬただの屍に成り果てていた。骨の体は無差別に全身が砕けちり、数体は鋭く尖った岩の破片によって迷宮の壁に縫いつけられている。

「下級複合魔術、爆ぜ飛ぶ砂礫の陽炎包み」

 絶望的な名称の魔術は、しかしそのふざけた名前に反して性能は凶悪なほど敵を殺すことに特化していた。

 蜃気楼によって隠蔽した空間から、圧縮した強固な岩の飛礫を中心から爆散させ数多の敵を撃ち貫く。しかもそれを同時に数箇所で発生させるという、全ての要素の指向性が「殺害」というただ一点に集約された徹底的なオリジナル攻撃魔術。

「複合魔術なんて……そんな、だって家にだって……」

「神の加護を受けずとも、真剣に殺す力を磨けばこの程度の敵に遅れを取ることはない」

 一方的に蹂躙され殲滅された今はもう動かない骨の残骸に近づきながら、ヴェルマは「まあ、胸を張って誇れる力ではないがな」と苦笑する。

 日々敵を効率的に殺す術に想いを馳せた結果がこれだ。例え魔術の本質がそういうものであったとしても、誇っていい力ではなかった。誇れるような力ではなかった。

「……あ、あなた、何者なんですか、ヴェルマさん。無茶苦茶ですよ……こんな、もう忘れ去られたような魔術。複合魔術なんて、まともな人間が扱えるはず……だって、共通術式に落とすまでだけでも一体どれだけの演算が……こんな、階層における消費魔力と変換効率のバランスを、攻撃魔術の基本概念を無視するような魔術……それならまだ、神様に祈っていた方が建設的です……」

「お前がそう思うなら、そうすればいいさ。私が言いたかったことは、人間の可能性を否定するなということだけだ。他者から与えられずとも、自分で掴み取れる力だってある。先程の術式の希少性も難易度も理解しているが——全てが霞んでしまうほどに世界は広い」

 一足先にしゃがみ込んで戦利品を回収しているヒタキを横目に見ながら、ヴェルマは「私もまだまだ未熟ということだ」と微笑を浮かべて見せた。どことなく嬉しそうなヴェルマに、メリルは唇を噛む。

「……随分とヒタキさんには甘いんですね、ヴェルマさんは。私が未熟なのは事実ですけど、それでも……それでもヒタキさんになら、私だって勝てます!!」

「ほう、随分と自信満々だな。それなら、頑張ることだ。見てみろ、お前の声に釣られて敵が集まって来たぞ。ヒタキは自力でこの階層を抜けている――それなら当然、メリルにも出来るのだろう?」

「…………え?」

 口を開けたまま呆然とするメリルの視線の先で、スケルトンの群れがカタカタと骨を鳴らしていた。

 たらりーーと、嫌な汗がメリルの背を伝って落ちた。







*   *   *







「なあ、ヴェルさん」

「ん、どうした?」

「この後、どうするつもりなんだ?」

 ふむ、と一つ頷いてヴェルマは目前の扉に視線をやった。
 
 扉の向こう、教会内部にある治療室の一室のベッドの上には今、迷宮攻略の際に魔力も体力も使い果たして心身ともにぼろぼろになったメリルが横たわっている。迷宮から抜け出す前に冗談抜きで死ぬように気を失ったため、教会の治癒術者のお世話になっているのだ。
          
 そしてメリルは怪我の治療とともに、もう一つ―――ヒタキとヴェルマが当初予定していた通り、状態異常の有無について診察を受けている。

「あの子が狙われているところに居合わせて関わってしまった以上、途中で投げ出すのもどうかと思っていたが……」

 少し考えるように目を瞑って、彼女は小さく溜息を吐く。

「当初の予定通り、この検査で異常がなければ私はこの件から身を引く」

「まあ、リョウ・アカツキがメリルに何にもしてないんなら、おねえさんにも被害は来ないってことだもんな。だけど、襲撃のことはいいのか?」

「私に益があるわけでもない上に、助けを求められてすらいないのだから、首を突っ込む気はないさ。それにあの子なら、そう簡単に死にはしないだろう」

 メリル・カナートは強くない。しかし、弱くはない。命の殺り取りをするには話にならない力しかないが、迷宮に挑み神から与えられた25というレベルに裏付けられたステータスは、彼女を「か弱い少女」の範疇から逸脱させていた。

「敵からの逃げ方(・・・・・・・)も教えた。これ以上はお節介では済まされないだろう。……それにしても、やはり神の加護というものは出鱈目だな。身体能力だけ見れば、外の世界の一般的な剣士を超えているぞ」

 こんな剣を振ったこともないような少女がだぞ、とヴェルマは半ば呆れたように笑った。

「メリルも弱くはないけど、さっきの人だってそれ以上に弱くないんだから、神様の加護があったって関係ない気がするけどな。……まあ、結局はリョウ・アカツキ次第ってことか」

「ああ。リョウ・アカツキがあの子を洗脳しているなら縁を切らせて終わり。あの子の意思で奴と共にいるのなら、後はもう二人の問題だ」

 話はそう簡単ではない。実際にはメリルの宿を襲撃した犯人、ひいては大元の原因をどうにかしない限り、完全に問題が解決することはない。ヒタキとヴェルマも巻き込まれる可能性は十分に残っている。
 
 先のことを思うと少しげんなりするヒタキとヴェルマだが、今はあえてその問題に触れずに、診察室の前に用意されたベンチに腰掛けて何時ものように静かにまったりと、診察が終わるのを待った。
 
 しばらくして、治療室の扉が開かれ、どこかで見たことがあるような気がするが、何故かやたらと目つきが鋭い金髪眼鏡の知的に見えないでもない女性が顔を覗かせる。
 
「眠らない駄馬……迷える仔羊よ、治療は終わりました。こちらにどうぞ」

 完全に何か間違えた台詞を言い切った後、何もなかったかのように澄ました声で訂正し、白いローブを纏った彼女はヒタキとヴェルマを部屋に招き入れる。未だ目を覚まさないメリルを横目に、彼女は二人を促し椅子に腰を下ろさせてから、至極どうでもよさそうにメリルの容態について語り始めた。
 
「怪我自体は大したことありませんでしたので、ご心配なさらずに。傷一つ残らず綺麗に治っています。あとは自然と目を覚ますでしょう」

「そうですか、助かりました。お手数をおかけして申し訳ない。それで、頼んでおいた件については?」

 ぺこりと頭を下げたヴェルマに習って、ヒタキも一応頭を下げておく。何故かさっきからちらちらと胡乱げに不機嫌そうな瞳を治癒術者のお姉さんから向けられているため、少し居心地が悪い。
 
 治癒術者のお姉さんは、ああ、そのことですかと軽く頷いて続ける。

「診てみましたが、まったく異常ありませんでしたよ。健康体そのものです」
 
「……そう、ですか。一応念の為に聞いておくのですが、あなた方でも見ることができない例外、というのは考えられないことでしょうか?」

「例外、ですか。私達慈愛の女神の加護者は、状態異常や体調など、とにかくそういった情報を診るスキルを授かっていますから、実力的に干渉できないことはあっても、診ることすらできないというのは聞いたことがありませんねぇ……。何があったのかは知りませんが、考えすぎでしょう。万全を期す、というのなら、私よりも格が高い者を連れてくるしかありませんが……まあ、結果は変わらないでしょうね」

「ふむ……、そう仰るのであれば、私の杞憂にすぎないのでしょう。わかりました、ご協力感謝いたします」

「いえ、友のために心を砕くのは人として当然のこと……――って、ああ!! 思い出しました! 変態じゃないですか、変態!! どこかで見たことがあると思ったら、あの時の変態ですね!」

 敬虔な神の下僕らしそうに振舞っていた女性は、納得がいったというように何度も嬉しそうに頷きながらヒタキを指差し始めた。最初は変態変態と叫ばれて戸惑っていたヒタキも、その薄っぺらそうな敬虔さにようやく思い至って頷き返す。
 
「あ、あの時の受付の人か。ていうか、受付の人がなんでここに……」

「私だっていたくているわけじゃないんですよ。怪我人治したってお給料上がるわけじゃないのに、大遠征のせいで人手不足だってこっちの仕事も割り振られて、睡眠時間が削られて嫌になってきてるんですよねぇ。あーあ、好きに大遠征でも何でもやってくれていいんですけど、私に迷惑かけない範囲でやってほしいですよ、まったく。ですからあなた達も、できれば私がいないときに来てくださいね。ていうかこの方はこっちで預かっておきますから、もう帰って下さって結構ですよ」

 もう色々と危険なレベルな愚痴をこぼす背神者に若干引きつつ、ヒタキとヴェルマは席を立った。
 
「ならば私達はこれで失礼させてもらうことにするが、最後に一つ伝言を頼まれてくれないか?」

「ああ、それならこれに書いていってください。私、今日はもう上がることにします」

 紙と羽ペンをヴェルマに手渡し、私物を整理し始める金髪眼鏡の女性。サラサラと手紙を書くヴェルマを見つつ、ヒタキはぼそりと呟く。
 
「上がることにするって、いいのか……?」

「重症だったこの子の治療で魔力を使い果たしたため、後は他の治療室に任せることにしました。そもそも、こんな真夜中に来る探索者の数なんて大したことないので、本来なら人手不足とはいえ本職ではない私がいる必要なんてありませんし。というか――ええと、ヒ、ヒ……あなた、大丈夫なのですか? 異端者審問されるらしいではないですか」

「え? おれ?」

「法的に罪にはならない事柄に対する事情聴取って言ってますけど、要するに死刑宣告ですよ、あれ」

 至極どうでもよさそうに放たれたその言葉に、ヒタキとヴェルマは思わず目を丸くして、眠そうに欠伸をする彼女をまじまじと見つめる。
 
「あ、やば。秘密事項でした、これ」

 からん、と羽ペンの落ちる音が真夜中の治療室に嫌に響いた。



[31224] 逃げ出した真夜中
Name: クク◆01c20ab9 ID:329250b8
Date: 2014/07/07 01:02

 人口の大半が拠点を構える迷宮都市の東区。すでにほとんどの灯りが消えた静かな深夜の通りを、ヒタキとヴェルマは若干の気まずさを覚えながらとぼとぼと歩く。
 
 二人が拠点とする「憩い亭」が店を構える西区とは真逆の東区に来た目的は、リョウ・アカツキを尋ねるためだった。

「……ヒタキ」

 教会にメリルを預けてから今の今まで続いていた気まずい沈黙を破ったのは、ヴェルマのわざとらしいほど平坦なそんな呼びかけだった。
 
「先ずはリョウ・アカツキに、今日あの子に起こったことを全て話し、すぐにあの子の身柄を保護させる。それでここ数日の騒動は一段落、私達はこの件から一切合切身を引くことができる。それが終わったら、すぐに憩い亭に帰って一眠りしよう。そうだな、それから店長にあの代わり映えのしない朝食を出してもらうのもいい」

 前を向いたまま淡々と続け、ヴェルマは「その後だ」と歩みを止める。
 
「その後――先ほどの、異端審問についての話をしよう。今の疲れた状態であれこれ考えても、まともな案が浮かぶはずがない。何より、情報が不足しすぎている。店長ならおそらく何か知っているだろう。とにかく明日の朝、情報を集めることができるようになってから万全の状態で動けるように、先ずは休息が必要だ。……なに、どうにかなるだろう。いや、どうにかする。私は認めないぞ。絶対に認めない。教会だか七法だか知らないが、お前を死なせてたまるか」

 拳を握りしめ、歯を軋ませるヴェルマ。普段は常に冷たい怜悧な光を宿している彼女の瞳は、怒りというよりかはむしろ、悲痛な色に染まっていた。

 初めて見るそんな彼女の様子に、ヒタキは少し驚く。
 
「ヴェルさん、もしかして俺のこと心配してくれてるのか?」

「当然だ! お前は……お前と私は、友達なのだろう? もう、こんなこと……とうの昔に諦めていたんだ。諦めて、いたんだよ。だからお前を、私の友を、たかが神如きの都合で、殺させてたまるか」

「…………」

 何を諦めていたのかなんて、ヒタキは知らない。なんでヴェルマが、あの傲岸不遜なヴェルマが、ここまで泣きそうになっているのかなんてこと、ヒタキには分かりようがない。だけど、真剣に自分を救おうとしてくれていることだけは、ヒタキにもわかった。

 だから、
  
「大丈夫だよ、ヴェルさん」

 大丈夫だ、ともう一度繰り返して、ヒタキは僅かに頬を緩めながら小さなヴェルマの頭に手をおく。
 
「俺、逃げるのは得意なんだ。だからもし捕まったって、その時はこんな都市から逃げ出してやるだけだって」

 そのまま優しくて可愛くて綺麗で、強くて偉そうで、それでもやっぱり小さなヴェルマの頭をくしゃくしゃと撫でていれば、しばらくして彼女は小さく溜息を吐いて何時ものようにヒタキの手を払った笑った。

「……そう、だな。すまない、やはり少し疲れていたようだ。行こう、そろそろリョウ・アカツキの宿が近いはずだ」









*     *     *










「メリルはどこだ! 彼女は無事なんだろうな!?」

「先程から教会の病室で寝ていると言っているだろう。というか、先ずは落ち着け。事情を説明したい」

「嘘をつくな! お前がメリルを襲って連れ去ったと聞いているぞ!」

 ヒタキを睨み据えたまま抜身の長剣を構え、声を荒らげ反論するリョウ・アカツキ。彼とヒタキの間に立って冷静に事を運ぼうとするヴェルマは、「落ち着けと言っている」と少し声を大きくした。
 
 メリルから聞き出していたリョウ・アカツキのパーティーが拠点としている宿。走り回っていたらしく息を切らしたリョウ・アカツキと遭遇したのは、その宿からまだ少し離れた場所だった。
 
 二人がリョウを探していいたのと同様にリョウも二人を探していたらしく、出会うなり剣を抜き放ったリョウは言い放ったのだった。
 
 曰く、メリル・カナートを返せ、と。
 
「どのような噂が流れているかは知らんが、正確な情報は伝わっていないようだな。正しくはメリルを襲撃したのはヒタキではなく、先日貴様と殺り合っていた男――ミリアだったか、彼女の恋人が差し向けた刺客? とやらだ」

 先日、ヒタキとヴェルマがリョウ・アカツキを疑うに至った原因のあの夜。ミリア・フロマージュなる女性が語った、要領を得ないというか、にわかには信じられない話を思い返しながら、ヴェルマは本当の襲撃犯を告げた。しかしリョウは、「恋人の、刺客……?」と何のことだとばかりに眉を寄せる。
 
「いや、そうか……あのストーカー、レオンのことか?」

「ストーカー? いや、俺らが言ってるのはさっきヴェルさんも言ったけど、あの金髪のおっとりした人の恋人が送り込んだ刺客……って、確かそう説明されてた人のことだぞ」

 微妙に噛み合っていない会話にヒタキが訂正を入れるが、大きく溜息を吐いてリョウはゆるりと首を振る。

「そいつが彼女の、ミリアのストーカーのことだ。話す機会があれば分かると思うが、ミリアは……、天然というのか、何を言っているのかわからない時がある。出会った時はそうでもなかったが……いや、とにかく俺はストーカー、レオンという名前の男に付け狙われているミリアの護衛をずっと前からやっている。今回のメリルの襲撃も、メリルと親しい俺を殺そうとし始めた、そのレオンの凶行だろう」

「…………」

「…………」

 なんだそれは、とヒタキとヴェルマはしばし呆然とする。思い返せば最初から意味のわからない話だった気がするが、今リョウの口から語られた話もどう反応すればいいかわからない。
 
 今の話の真否やその先のことについての思考を、ヴェルマは完全に止めた。仮にそのレオンなる男がどれだけ狂っていようと、もう自分には関係がない。
 
「ヒタキ、帰るぞ。メリルの所在と日中の真相については伝えた。もう私達は、この件とは無関係だ」

「いいのか?」

「言っただろう。メリルが自分の意思で動いているのなら、私はもう関わらないと。リョウ・アカツキ、あとは貴様がどうにかしろ。今後は今日のようなことが起こらないように、犯人をどうにかするまでメリルを守り通すか、それが無理なら縁を切ることだな」

 まあ、そうだよな……とヒタキは、何やら少しばつが悪そうにしているリョウ・アカツキをぼんやりと見ながら考える。助けを求められたのなら話は別だが、はっきり言ってお節介で他人のことに構っている場合ではなくなったのは確かだ。

「……ああ、協力感謝する。そこのお前、疑って悪かったな」

「うん、まあ、それはいいよ別に。もうちょっかいかけて来ないんだったら」

 それだけ告げて、すでに踵を返し来た道を戻り始めたヴェルマを追いかけようとしたヒタキは、ふと足を止める。そして大きく、大きく溜め息を吐いた。
 
 冗談は異端審問とやらだけにしてほしい、本当に。いくら何でも、何もかもタイミングが悪すぎるだろう。

「あー、ヴェルさん」

「………何だ。まさかとは思うが」

「いや、うん。そのまさかだ」
 
 一瞬逃げ出そうとかと本気で考えたが、そのときにはもう全て遅かった。唯一できることは、舌打ちをするヴェルマを抱え上げ、リョウ・アカツキの背中側に淡々と回り込むことだけだった。
 
「おい! 何だ、何をしている!?」

「あんた、魔術が効かないんだろ? ていうか、あんたのせいで俺らは巻き込まれてるんだから、あんたがどうにかするのが筋だろ」

「だから、何の話をしている!?」

 怒鳴るリョウ・アカツキに道の先の暗闇を指差せば、彼はぎょっとしたように抜剣して構えた。
 
 そして次の瞬間、ヒタキの指差す先、暗闇の中に収束された赤い魔力の軌跡が――――魔術式が浮かび上がり、紅い焔の矢が闇を切り裂き飛来する。
 
「《魔術無効化(マジックキャンセル)》!!」

 しかしその魔術、白昼の襲撃時にも使われた中級魔術『翔ける紅の一矢』は、リョウ・アカツキの両の瞳が赤く輝いた瞬間、まるで何事かもなかったのように一瞬で霧散した。
 
「無駄だ! 俺に魔術は効かない!!」 

「どいつもこいつも…………これだから寵愛者は嫌いなんだよ!」

 かき消された魔術の残り火が、金属製の軽鎧が鈍く光らせる。明確な殺意をもって魔術を放ったその男は、やはりというべきか白昼堂々とメリル・カナートを襲撃した襲撃犯、そしてミリア・フロマージュのストーカーと護衛という形でリョウ・アカツキと敵対する、レオンなる人物だった。
 
「動くなよ糞ガキ。魂が同格の寵愛者相手に敵わないことなんて、こちとら百も承知なんだ」

 荒い呼吸をしながら瞳をギラつかせる男の左腕には、ぐったりと気を失った様子の少女が抱えられていた。
 
「アンナ……!? まさか貴様!!」

「安心しな、死んではいねえよ。こいつは大事な大事な人質様だからな」

「ほ、本当だな!? アンナは死んでいないんだな……」

「当たり前だろうが。さあ、選べよ、白銀の神子さま。今ここでこいつを殺されるか、てめえが自分で死ぬ……ああん?」

 そこまで言って、レオンの危険な光を宿した瞳はリョウ・アカツキの後ろ、ヒタキとヴェルマの姿を捉えた。
 
「クソが、やっぱりてめえら仲間だったのかよ。何が敵だ、だ……まあ、ちょうどいい」

 いらただしげに舌打ちをしたレオンだが、その直後にはニタリと不気味に頬をつりあげ笑った。
 
「おい、そこの赤髪のガキ! てめえがリョウ・アカツキを殺――――」

「黙れ、うるさい」

「――――は?」

「これ以上私を、お前たちの都合に巻き込むな。貴様が刺客だろうがストーカーだろうが変態だろうが、私には関係がない」

 それは、とても――――とても冷たい声だった。
 
「そう、私には関係がないんだ。顔を合わせた途端に妙な術式で私に干渉してくる迷惑極まりないお子様。どんな目的があるかは知らないが何も知らない無邪気な少女の人生を狂わせようとする迷惑極まりない男。ああ、そうだ。お前たちのことだよ、リョウ・アカツキとそこのレオンといかいう男。お前たちがいがみ合おうが仲良くしようが殺し合おうが、私には関係がない。私は忙しいんだ、これ以上私に関わらないでくれ。だからこれ以上私をお前たちの都合に巻き込もうとするのなら――――」

 彼女は、キレている。ヒタキはそう確信した。
 
 普段は冷静沈着で、でも怒ると少し子供っぽくなるヴェルマ。そんな彼女が本気の本気で怒るところを、ヒタキは初めて見た。
 
 いや、初めてではない。ヒタキは、今の彼女を見たことがある。
 
 冷たくて、張り詰めていて、隙のない――――純粋な殺気。それは迷宮で彼女が、
 
「――――殺すぞ」

 殺すべき敵と対峙するときの姿だった。
 
「…………」

「…………」

 辺りの空気は、凍て付いていた。冷たく研ぎ澄まされた純粋な、そして明確な殺気。今この場を支配しているのは、間違いなくヴェルマだ。
 
 神の加護による魂の格、クラスは、間違いなくヴェルマが劣っている。ヒタキの見立てでは、おそらくレオンもリョウ・アカツキと同じく二度のクラスチェンジを経た探索者。つまり人間の魂の格、世間でいうランクにしてFの人間を超越したランクDの超越者。
 
 魂の格という超えることが不可能とされる絶対の壁に隔たれながらも、その殺気は確かに二人を貫いていた。

「ヴェルさん、もう帰ろう」

 誰もが動かない、動けない威圧の中で、だからヒタキはくしゃくしゃとヴェルマの頭を撫でた。
 
「……ヒタキ?」

 何故か、そうしないといけない気がした。
 
 彼女は戦うとき、何時だってそうだ。迷いなく剣を振り、術式を綴る。でも彼女は戦うとき、何時だって悲痛に見える。何時だって、死にたがっている。
 
 だからヒタキは、少しだけ頑張ってみることにした。
 
 結局は何もできない自分。あの頃の、忘れ得ぬ狭く淀んだ鳥籠で過ごしていた頃のように、空だって飛べなくなった自分に、この場をどうにかすることも、これからをどうすることも、死にたがっているヴェルマをどうすることも、何もかもがどうすることも出来ないのかもしれない。

 だから今までも、これからも自分は逃げ続けるのだろう。それは変わらない。
 
 だけど、
 
「リョウ・アカツキにも、確かあんたにも言ったよな。ヴェルさんだって、言ってた。これ以上俺たちを巻き込まないなら、俺は何もしないって。だから、あとは二人で勝手にやってくれよ」

 だけど、逃げることはできる。だったら、ヴェルマを連れて逃げることだって、できるはずだ。
 
 少し大変になるかもしれないけど、頑張ったらできるはずだ。そのくらいしか、自分はこの大切な友人のためにできることがないのだから。
 
 ヒタキはヴェルマの小さな体を、その腕で抱え上げた。
 
「てめえら、何を勝手なこと言ってやがる! 見ろよ、ほら、この女を! てめえらがそこの糞ガキを、リョウ・アカツキを殺さねえなら、こいつが死ぬんだぞ! 敵だって言うんなら、さっさとそのガキを殺しやがれ!」 
 
 ヴェルマというイレギュラーな存在に、またも計画を崩されたためだろう。レオンは見るからに取り乱し、怒鳴り散らす。

「だから誰だよ、その人。俺にそんなこと言われたって、知らねえよ。リョウ・アカツキとは他人だってさっきから言ってるだろ」

 メリルのために動いたのなら、同じくリョウ・アカツキの仲間のためなら動くと思っていたのだろうが、生憎と勘違いだ。ヒタキは、ヴェルマだって見知らぬ人のために明確な危険に飛び込むなんてことはしたくない。
 
 それに、
 
「もう俺は帰るけど、レオンさんだっけ?」

「ああ!? 何なんだよてめえら! もう意味がわかんねえよ! クソクソクソクソッ!!」

 放っておいても勝手に助かるような見知らぬ人なら、なおさらだ。

「あんが抱えてる、その人。もう起きてるぞ」

「ちょっ……! 何でバラす――――ああ、もうっ!」

 瞬間、それまでぐったりとしていた女が舌打ち混じりに拳を振り上げた。
 
「あんのせいで私の計画が――――」

 レオンの拘束から抜けだした女が何か言っているが、ヒタキはそれに耳を傾ける気はない。ヴェルマを抱えたまますでに地を蹴り、壁を蹴り、建物の突起部を足場にして屋上へと駆け上がっていた。後はもう、勝手にやってくれればいい。
 
「うっ……重、い」

「失礼なやつだな、お前」

「しょうがないだろ、人を一人抱えた状態って、結構動きづらいんだぞ」

「まあ、身体能力を上昇させていない魔術師にそれをやれと言っても無理だろうな、普通は。どう鍛えればそうなるんだ」

 背後から聞こえる剣戟や、大気を震わす打撃の音。それらを置いて、ヒタキは真夜中の迷宮都市を走る。
 
「言っただろ、逃げるのは得意なんだよ、俺」

「そうだったな。毎回毎回私を置いて逃げるしな、ヒタキは。今回はこうやって、私も連れて逃げてくれているが」

 呆れたように腕の中で笑うヴェルマに、ヒタキも自然と頬を緩めた。
 
 迷宮都市は、外界とは隔絶された空間だ。どういう仕組みなのかは解明されていないが、完全に別の空間に存在するのに、月も見えるし星も見える。
 
「このままさ……」

「ん、何だ?」

「このままさ、ヴェルさん。俺と一緒に、逃げ出さないか? 昼間にも言ったけどさ、俺はヴェルさんに死んでほしくないんだ」

 月の灯りのおかげで、ヴェルマの顔がよく見えた。だから彼女が泣いているのも、よく見えた。
 
 やっぱりそうなんだと、ヒタキは確信する。
 
 それでも、ヒタキは紡ぐ。己が生きるには、あの約束を果たすためなのだから。そのために今まで、生きてきたのだから。
 
「だからさ、俺と一緒に楽園都市に、レイファリスに行こう」

 思えば、あの時からだ。楽園都市の名前を出したその時から、ヴェルマの様子はおかしかった。
 
 だから彼女は、心配してくれたのだろう。だから彼女は、怒ってくれたのだろう。だから彼女は、同情してくれたのだろう。

 だから彼女は、泣いているのだろう。

「ヒタキ……ごめん。本当に、ごめんなさい」

 神とか運命とか魔法とか世界とか現実とか、そんなよくわからない曖昧で理不尽なものを全部憎んでいて、全部に絶望していて、だから死のうとしている彼女は、どこまでも呪われている。

「レイファリスは、レイファリスはもう…………十七年前に滅んでいるんだ」

 そしてそれを知っていて何もできない自分は――――どこまでも愚かだった。
 




 




*               *                  *










楽園都市レイファリス。

幸せの魔法がかけられた、最後の楽園。

満ち溢れる緑、湧き出る透き通った水、恵を約束してくれた豊かな大地。

そこに暮らすものは誰もが笑っていて、誰もが幸せで、誰もが満ち足りた人生を送る。



『ねえねえ、ヒタキ! 大きくなったら、二人でたびをしよ!それでねそれでね、レイファリスを見つけてそこでくらすの。そうしたらヒタキだって、きっとしあわせになれるよ! ヒタキのことしってる人もいないし、あのおじさんもみんながしあわせになれる所だっていってたでしょ!』

 まだ幼い頃、彼女と共に聞いた一人の吟遊詩人の歌。その中に出てきた、『楽園都市』の存在。彼女は誰もが幸せに生きるその都市を想い、夢を見た。

『あのおじさんは、もうレイファリスはなくなっちゃったって言ってたけど、きっとうそだよね! だって楽園なんだもん! ぜったいなくなっちゃったりなんて、しないよね! だから約束だよ! 大きくなったら二人でレイファリスに行って、しあわせになるの!』

 最後には滅んでしまったと締めくくられる、『楽園都市』の歌。彼女は誰もが幸せに生きるその都市を想い、夢を見た。
 
 だから彼女を失って七年、ヒタキは独りで生きてきた。『楽園都市レイファリス』を探して、一人で世界を歩いてきた。彼女の、最期の言葉を胸に。

 ――幸せになってね、という最期の言葉を。









*               *                  *





[31224] 駆け出した白昼
Name: クク◆c175b9c0 ID:329250b8
Date: 2014/08/24 22:12
 高く澄み渡る空。どこまでも広がる草原。吹き抜ける心地のよい風。
 
『今日もにげてきたの? えへへへ、わたしにあいにきてくれたんだよねっ!』
 
『こいって言った。あんたが。いけないって言ったのに、はなし、きかないから……』
 
『ありがとうね、ヒタキ! それでねそれでね、今日はお昼寝しようよ! ほら、風がこんなにきもちいいんだよ!』
 
 若草色の髪を風にゆらし、にこにこと笑う彼女。小さなその手は、今まで作っていた花の冠をヒタキの頭にのせる。
 
『おひるね?』

『こうやってね、二人でならんでねることだよ! 今日みたいきもちのいい日は、お話しならがらゴロゴロしてすごすんだっ。すっごく楽しいよ』

『ふーん』

 その小さな体をいっぱいに広げ、草原に寝転ぶ彼女。そんな彼女に倣って、ヒタキも横に寝転がった。
 
『えへへへー。じゃあ今日も、たびのお話しようっ! ……えっと、えっと、前はどこまで話したんだっけ?』

『船。船に乗って、海をこえるとこまで』

『あ、そうそう! ふねだよ。それでねそれでね、そのあとは――――――――』

 目を瞑ればまるで昨日のことのようにだって思い出せる、彼女と過ごした日の何でもない一幕。
 
 あの忘れ得ぬ日々の、大切な一幕。
 
 まるであの瞬間に帰ってきたかのような錯覚に、ヒタキは遥か先まで広がる草原に無気力に倒れこんだ。

 迷宮の六十八階層。ヒタキにとって今この場所で無造作に寝転がるなど、自殺にも等しい行為だった。

「でも……別にもう、死んだっていいのか」

 楽園都市レイファリスに行って、幸せになる。

 彼女の最後の願いを叶えるためだけに、あの日から七年間生きてきた。しかしヒタキが未だに生き長らえているその唯一の理由は、すでに無い。

「今更だよな、ほんと……」

 ぽつりと呟いて、ヒタキは寝返りを打った。

 レイファリスは、すでに滅んだ。そんなことはすでに予想していたし、一生見つからないかもしれないと思っていた。

 でもそれは、絶対ではなかった。ほんの少しでも今でもレイファリスが存在している可能性を否定できなかったから、今まで世界を歩いて来れた。

 だけどそう思い込むのは、そう現実逃避するのはもう、いくらヒタキにだって無理だった。

 だってヴェルマはあの夜、泣いていたのだから。














*                       *                          *















 ヴェルマは語った。

 窓から差し込む月明かりに照らされた、何もない彼女の部屋で。まるで主などいないような、空っぽの部屋で。

 遠い昔に終わってしまった彼女の故郷の、終わりきった昔話を。

 ただただ淡々と、彼女はヒタキに語った。

「楽園都市レイファリスは、十七年前まで確かに存在していたよ。巷で語られる噂話の通り、豊かで、平和で、優しくて、美しくて……ああ、そうだな。今思えば、確かにあそこは楽園だった。私はあの都市で生まれてから八年、何一つ不幸を感じることもなく、ただただ幸せに、本当に泣きたくなるほど幸せに生きていた。毎朝は小鳥の囀りから始まり、家族と穏やかな朝食を取り、大変ではあったが祖母による様々な教育を受け、魔術と剣術の訓練が終われば、友と日が暮れるまで遊び語らう。夜にはまた家族の団欒、そして温かい寝床で眠りにつく。まるでお伽話だろう? 私は家柄が少し特殊ではあったが、本当にあの都市に住む者は皆が皆、そんな冗談のような幸福な毎日を送っていたんだ。魔物に怯えることもなく、貧困に喘ぐ者などいるはずもなく、豊かで満ち足りたそんな生活を退屈な生活とまで考えるような人間がいるくらいに、外の世界とはかけ離れていた」

 幸せだったと、彼女は泣く。涙は流していなかったけど、それでも彼女は確かに泣いていた。謝りながら、泣いていた。

 その謝罪はヒタキに向けられているようでもあったし、遠い過去に向けられているようでもあったし、この呪われたろくでもない世界と現実に向けられているようでもあった。

「そんなお伽話のような都市を襲った初めての不幸は、都市の完全な滅亡だった。全ては一瞬だったよ。守護されていたはずの都市を初めて襲撃した相手は――――竜だった。黒く、凶悪で、強大で、ただただ絶望的にどうしようもなく強かった。都市はすぐに瓦礫と化し、大地は焼け野原と化し、命はついでのように全て狩られた。父も母も死んだ。友も、その家族も。そして祖母も死んだ。私の八年間は、全て死んだ。何一つ残さず、死んだ」

 終わりきった、昔話だった。

 竜。どうしようもない理不尽。どうすることもできない無条理。どうにもならない、一つの真理の形。

 一つの都市が終わりを迎えるには十分すぎるその災厄は、しかし世界にはいくらでもありふれていた。

 だから楽園都市の滅亡だって、珍しくもないありふれた一つのどうしようもなく終わりきった終焉だったというだけのこと。

「だがな……私は、私だけが死ねなかった。私の世界は全て死んで、この先も死に続けるのに、その中で私だけが死ねなかった。いや、死ぬことを許してもらえなかった。老いることも許されず、どうやったって死ぬことすらできない呪いと引き換えに、生かされた。だから私は死に場所を求めて世界を彷徨った。あの時、故郷と一緒に死ぬはずだった私を殺してくれる存在を、私を終わらせることができる唯一の存在を…………邪竜グリアヴァーズを探して」

 だからレイファリスには行けないし、死に場所を探すことをやめることはできない。

 だから――――すまない。夢を奪ってしまって、ごめんなさい。

 彼女は謝っていた。あの彼女が、許しを求めて謝っていた。

 この呪われたろくでもない世界と現実に、遠い過去に――――そして、ヒタキに。

 そして苦しんでいる彼女に何もできない自分は――――やっぱりどこまでも愚かだった。
















*                       *                          *













「なんて面してやがる。そんなに死にたいんなら、部屋引き払ってさっさと死んでこい。家賃の差額くらいは返してやる」

「…………」

 迷宮を抜けて、いつものように朝日に照らされる憩い停にたどり着いたヒタキを迎えたのは、そんな相変わらず似合わないコック帽を被った人相の悪い店主の第一声だった。

 いつも家賃の滞納分を支払え支払えと言われ続けているため、一瞬差額って何だと本気で驚愕したが、ヒタキはふと思い出して頷く。

「あ、そっか。来月まで家賃っていいのか」

「いらないなら返さんぞ」

「え? 別にいいよ。俺、たぶんそのうち死ぬから、使い道ないし」

 ダンッ、と厨房で野菜を千切りにしていた包丁が止まる。店主は顔をあげ、ヒタキを睨みつける。

「お前……異端審問のことか?」

「それもあるけど、多分その前に迷宮で死ぬと思う」

「……自殺でもするつもりか?」

 一瞬の沈黙の後、店主は二階へと続く階段に目をやる。

 ヒタキも気づいていた。二階の階段近くにヴェルマがいるのだ。隠れるつもりはなさそうだが、出るに出られないのだろう。

 ヒタキも今は何となく、ヴェルマには会いたくなかった。

「自分で死のうとは、思ってないけどさ。ただ、目的がなくなって、何て言ったらいいのかちょっとよく分かんないけど、今まであった生き残るための執念みたいなのが、なくなったんだよな。そうだな、だから、別にもう死んでもいいとは思ってる」

 自分で命を絶とうとは、今更思わない。絶望は、七年前にもう味わった。

 ただ、今までは確かにあった意志が、楽園都市を目指すという生存意義が、なくなった。たった一人の友達だって、どうすることもできない。

 だから今ヒタキは、ただ何となく生きているだけだ。夢も希望もなく、かといって絶望も苦痛もなく、ただ生きているだけ。

 そして世界は、そんなヒタキが生きられるほど優しくも温くもない。

「この世界はさ、もともと俺が生きて行くにはちょっと厳しいんだよな。今まで通り迷宮に潜っても普通に死ぬし、かといって迷宮に潜ることをやめても異端審問っていうのからは多分逃げられないし。だから俺は、そのうち死ぬよ」

「…………」

 果たして店主は、何も言わなかった。ヒタキを一瞥しただけで、朝の仕込みに戻った。

 朝の静けさの中に、包丁がまな板を叩く音が響く。

 ギシリ、と階段が軋む。

「ヴェルさん……おはよう」

「ああ……おはよう、ヒタキ」

 のろりと顔を階段の方に向ければ、階段を降りてくるヴェルマの姿があった。

 一昨日の夜、静かに涙を流していた彼女。

 ヒタキはこんな時、どんな顔をしていればいいのか分からなかった。ヴェルマと会うのは、だから少しだけ避けたかった。

「疲れているところ悪いが、少し話さないか?」

 でもおそらく、それはヴェルマも同じなのだろう。どこか歯切れ悪くそう言う彼女に、ヒタキは静かに頷いていた。

 カウンターの一番端と、その隣の席。いつもの自分たちの席に座って、ヒタキとヴェルマはミルクと紅茶を頼む。

「…………」

「…………」

 話は、すぐには始まらなかった。始めることが、できなかった。

 たぶん今ヴェルマと話せば、大事な何かが終わってしまう。その予感は、確かにあった。

 でもこれから先、たぶんヴェルマとこうして隣同士に座って、ともに時間を過ごす機会は永遠に訪れない。

 その前に自分はきっと、自分は死んでしまうから。

 だからヒタキは、きっとヴェルマも、この最後の時間をどう過ごしていいのか分からず、ただただ黙って隣に座っていた。

 店主がミルクと紅茶を無言でカウンターに出して、再び朝の仕込みに戻る。

 目を覚ました客が降りてきて、朝食を注文する。

 装備を整えた数人の探索者が訪れ、少しだけ賑やかになる。

 そして一人、また一人と迷宮へと向かうために店を出て、また静寂が訪れる。

 出された飲み物にも手をつけず、二人の間でただただ時が過ぎ去っていく。

 何分なのか。何時間なのか。どれだけ時間がたったか分からない頃、どちらともなく、ようやく二人は目を合わせた。

「最後、だな」

「ん、そうだな」

「恐くは、ないのか?」

「変なこと聞くんだな」

「そうだな。なら、私を怨んでいるか?」

「いや。むしろ、何もできなくてごめん」

「私も、お前に何もしてやることができなかった」

「ヴェルさんは、色々してくれたよ。異端審問のことだって、もういいって言ったのは俺だろ」

 言葉数少なく、二人はぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。

 そしてたった数言だけのやり取りの後、ヴェルマは席を立った。

 ヒタキも、それを止めなかった。

 紅茶と、そしてミルクの代金を置いて、彼女は階段へと向かう。

「ヒタキ、今までありがとう。楽しかったよ、本当に」

 そしてヴェルマは、二階に消えていった。

 ヒタキは、最後に見えた彼女の赤い綺麗な髪を、ただただぼんやり見つめていた。
 
 彼女の言った通り、やっぱりこれで最後なのだろう。

 交わした言葉は少なかったけど、言いたいことはきっと全部言えた。言って貰えた。

 だから、この何かよくわからないもやもやとした思いは、きっと気のせいだ。何か大切なことがあったと、心のどこかでそう思うのも、気のせいだ。

 ヒタキには、死にたがってる彼女をどうすることもできない。

 ヴェルマも、生きることを諦めた自分をどうすることもできない。

 だから、これでお別れ。もう自分の命は、長くても明日までだろうから。











*           *           *











 異端審問。

 それは、教会が下す実質的な死刑宣告だ。

 迷宮の神々が定めた七法。教会はそれに反する者を裁く権利を、迷宮都市の全住人から得ている。

 しかし七法を順守するだけでは、神々と、そして神々への信仰を司る教会の権威を守ることはできない。

 何事にも、例外が存在する。

 例えばこの世界の誰もが、何もが持つ魔力を持たない人間。

 そして博愛の神々からの加護を授からず、それでもなお迷宮を踏破することができる異端。

 そのような例外、即ち異端を放置しておけば、神々への信仰を脅かしかねないことは目に見えている。

 それ故の異端審問。

 ヴェルマと別れ、幾ばくもしないうちだった。彼が、彼らが現れたのは。

「貴様が、ヒタキだな?」

 だから、異端審問が開かれるという決定がなされて、今の今まで審問官が来なかったことは、むしろ遅すぎたくらいだったのだのだろう。

 全ては手遅れ。それは、昨日の昼間にヴェルマと共に店主に話を聞いた時に、分かりきっていたことだった。

 迷宮で死ぬのが先か、異端審問とやらで殺されるのが先か。

 教会騎士団に属する者が着用する白地のマントを纏った、まだ二十代半ばくらいの男を見て、ヒタキは後者だったかとぼんやりと考えていた。

「まだ、あと一日くらいあると思ってたんだけどな」

「聞こえなかったか? 私は貴様がヒタキという男で間違いないかと聞いているのだが」

 灰色の髪を後ろに撫で付けた生真面目そうな男は、目を鋭くしてヒタキを睨みつける。

 まあ、最後にヴェルマにお別れも言えたからいいかと、ヒタキはその男に向き直った。

「うん、そうだけど」

「そうか。私は教会騎士団第九番隊所属、ロディック・グレイスだ。異端審問官としてここに来た」

「…………」

 ロディックと名乗った男の背後には、他にも四人の騎士が立っている。店の入り口を塞ぐように二人、ロディックのすぐ後ろに二人。抵抗されたときの備えは万全ということらしい。

 そもそもこのロディックと名乗った男は、かなりの強者だろう。少なくともあのリョウ・アカツキよりも魂の格は上、つまりクラスチェンジを三度は行っている。

「なんか、随分と物々しいな」

「先ほど言った通り、私は今ここに異端審問官として立っている。つまり神々の敵の可能性がある貴様相手には、備えが万全になることはない」

「異端か。あんたらの神様って、加護を受けられないだけで人を殺すのか?」

 勝手に加護とやらを与えてきて、それを拒否されたら殺す。いくら何でも自分勝手で心が狭すぎる神様だよな。

 そう思ったままに呟いた瞬間だった。

 目の前の男の目が見開き、殺意が膨れ上がる。そして腰に佩いた剣が抜き放たれ、ヒタキの背後のカウンターに剣が叩きつけられた。

「神々の加護を受けることができていないことが、何よりも罪人の証だ! それ以上に罪深いことがあると思っているのか!?」

「え、あるだろ。いっぱい」

「貴様っ……! く……まあ、そうだろうな。神をも恐れぬその言葉、異端者というのは間違いないようだ」

 怒り収まらぬといった様子で、男は長く息を吐き出す。

 正直に言って、驚いた。敬虔な神の信者を、ヒタキは初めて見た。ロディックという男は、本当に神様に文句を言っただけのヒタキに激怒していたのだ。

 そして、神の加護を受けていない自分を、心の底から憎悪している。

 何となく、彼が異端審問官としてここに来た意味がわかった気がする。

「貴様は今から私達に拘束され、明日の異端審問にかけられる。これは教会の決定だ。抵抗は無駄だと知れ」

「ちなみに、逃げたらどうなるんだ?」

「神に誓って、騎士団が貴様を捉える」

 元より、もう逃げるつもりはない。逃げる理由は、もうない。

「…………」

 なのに、何故か、あの赤い色を思い出してしまう。

 あの遠い日、赤色に染まった、あの人の笑顔。

 そして、彼女の――――

「別に……」

 ヒタキは、声を絞りだす。もう、別れは済ませた。もう、これ以上思い残すことはないはずなのだ。

 だから、全部気のせいのはずだ。

 ヒタキはカウンターの席から立った。

「もう、逃げる理由なんてないんだから、俺は逃げないよ」

「そうか。ならば、一緒に来てもらお――――」

 その時だった。店の扉が勢い良く開け放たれ、

「た、助けてください! ヴェルマさん、ヒタキさん……リョウさんを、私の仲間を、助けてください!!」

 息も絶え絶えに、涙で顔をぐちゃぐちゃにして叫ぶメリル・カナートが飛び込んできたのは。

「な、何だ貴様は!?」

 ヒタキの姿を見つけた彼女は、ロディックを押しのけてヒタキに縋りつく。

「ヒタキさん、助けて! お願いします! このままじゃ、このままじゃあみんなが、みんなが死んでしまうんです!」

「おい、貴様、やめろ。何があったか知らないが、その男は異端の疑いをかけられている。そのような者に助けを求め――――」

「黙っててください! 今そんなことは関係ないでしょう!!」

 涙で溢れた瞳で、メリルは男を睨みつける。

「危険だからって動いてもくれない教会騎士団なんて……せめて邪魔しないでください!!」

「な、何の話をしている……」

 向けられた純粋な怒りに呆然とするロディックに一瞥もくれず、メリルは縋り付いたままヒタキを見上げる。

「迷宮の、迷宮の四十三階層です! みんな、みんなまだそこで戦っています! お願いします、助けてください!!」

「えっと、何のことか分からないんだけど……」

「りゅ、竜です!! 竜が出たんです! それでみんなは、私だけを逃して、騎士団の人に言ったけど、仮に本当でも大遠征で戦力がないって、だからすぐには行けないって、だから!!」

「ふん、馬鹿な。四十三階層で竜だと? 例え亜種の竜もどきだとしても出てくるのは百五十階層以上だぞ」

 何を言っていると言わんばかりのロディックに、彼の部下達も苦笑気味に頷いている。

 だがしかし、そんな苦笑も、続けて飛び込んできた騎士団員の言葉に凍りついた。

「じ、事実です、ロディック殿! この娘の他にも多数の目撃証言が!! 今教会は、未曾有の事態だと、竜が下層に現れたと、大騒ぎになっております! その娘から事情聴取をする必要がありますので、捕獲にご協力を!!」

「な、本当、なのか……?」

「大遠征のときに限って……戦力が足りない……」

 最悪の事態だと慌てふためく騎士達。胸の中で助けてと叫ぶメリル。

「竜……、って」

 わけもわからないまま、目まぐるしく展開していく事態の中、ヒタキはそれら全てがどうでもよくなるほどの、あの言葉を思い出す。

『だがな……私は、私だけが死ねなかった』

 あの夜、泣いていた彼女。

『私の世界は全て死んで、この先も死に続けるのに、その中で私だけが死ねなかった。いや、死ぬことを許してもらえなかった』

 苦しんでいた、彼女。

『老いることも許されず、どうやったって死ぬことすらできない呪いと引き換えに、生かされた』

『だから私は死に場所を求めて世界を彷徨った。』

 死なせてくれと、全てに謝っていた彼女。

『あの時、故郷と一緒に死ぬはずだった私を殺してくれる存在を、私を終わらせることができる唯一の存在を――――』

 二階から、扉が吹き飛び壊れる音。そして階段から飛び降りてきた赤い影が、入り口間際にいた騎士たちを押しのけ、外に飛び出していく。

「見つけた、見つけたぞ!! グリアヴァーズ!!!」

 そんな、悲痛な叫び声を残して。

「ヒ、ヒタキさん、今のって、ヴェルマさん……!?」

「…………」

「ヒタキさん!?」

 メリルが目の前で声を荒げているが、そんなことはどうでもよかった。どうでもよくなるくらい、何かよくわからない、このもやもやした思いが大切だった。

 七年前のあの日から、あの人との約束以外全てどうでもよくて、今ではもうその約束さえ果たせないから、死んでもいいと思えるくらい本当に全てどうでもよかったはずなのに、それでも何か、大切なことがあった。

 思考がまとまらない。頭の中がぐちゃぐちゃで、どうすればいいのか分からない。何が自分をここまで混乱させているのか、分からない。

「ヒタキッ!!」

 鋭い声と共に、頭に衝撃が走る。

 見れば、足元に硬貨が落ちていた。

「一口も客に口をつけられないもん出して金を取るほど、俺はこの仕事を適当にやってねえ」

 それは、ヴェルマが別れを告げる前に、支払っていったミルクと紅茶の代金だった。

 ヒタキは呆然と、それまで沈黙を保っていた店主の顔を見つめる。

 店主は、笑っていなかった。当然のような凶悪な顔を、当然のようにしかめたまま、何時ものように言った。

「ミルクと紅茶、この店でそんなもの頼むのはお前ら二人だけだ。来なくなったら在庫の処分に困る。その金持って、改めて二人揃って飲み直しに来い」

 ――――それでも何か、大切なことがあった。何かよくわからない。でも、それは間違いなく大切なことだった。

 よくわからないけどきっとそれには、この憩い停の、このいつもの席で、いつものように無愛想な店主の前で、彼女と――――ヴェルマと並んで座っていることも含まれているのだ。

「店長、俺……行ってくる!」

 だからヒタキは、床に落ちた硬貨を拾って握りしめる。

「ヒタキ、さん?」

「別に、俺はリョウ・アカツキを助けに行くわけじゃない。ただ、ヴェルさんに会いに行くだけだ」

「え、え……、ちょ、ちょっと待ってください、私も行きます!」

 腰に巻いていたローブを解き、身にまとう。

 準備はできた。あとはいつものように――――

「待て! どこに行くと言うのだ! 確かに緊急事態ではあるが、異端者を逃がすわけにはいかない!」

 この騎士たちから逃げるだけだ。

 前に倒れこむようにして、加速。

 抜身の剣を振りかぶるロディック。だが、動き出しが遅い。

 床を蹴り、跳躍。足元の空間を剣が切り裂くのを感じながら、ロディックの後頭部を蹴り再度加速。彼の後ろにいた二人と、後から店に飛び込んで来た騎士を置き去り、店の入口に飛ぶ。

「捕らえろ!!」

 入り口を閉鎖するように剣を構える騎士二人に、カウンターから取った皿を投げ牽制。

 二人が剣で皿を受けた隙に、今度は這うように姿勢を低くして駆け抜け、外に飛び出す。

 しかし、まだ店を抜けただけ。すぐに騎士たちが、そしてメリルと、彼女を追う騎士が一人追ってくるのを感じた瞬間、しかし店主の凶悪な声が響いた。

「待て、お前ら。うちのカウンターをダメにした上、皿まで割りやがって、そのまま帰れるとでも思ってるのか? 掃除して、弁償していけ」

「な、今はそんなこと……」

「そんなことじゃねえ!! それとも何か? 刻んでスープの出汁にされてえのか?」

「く、すまない! お前たち、後は頼んだぞ!」

 追手の気配が、二人分消えた。騎士が六人から、四人。

 それは今のヒタキに取って、とてつもなく大きな助力だった。

 ありがとうと手の中の硬貨を握りしめ、ヒタキは路地を走る。

 単純なトップスピードでは、先ず間違いなく追いつかれる。基本スペックが違いすぎるのだから。

 何時もみたいに隠れてやり過ごすことも、今は得策ではない。そんなことをしていれば、ヴェルマに会えなくなるかもしれない。

「だったら……!」

 壁を蹴り、窓枠を蹴り、突起を蹴り、一気に建物の屋根に駆け上がる。

 トップスピードを保てない複雑な経路を走り相手を撹乱しながら、かつなるべく最短で教会を目指す。

 彼女に会って、どうするのかなんて分からない。どうにかできるなんて、思っていない。

 でも、それでも、今ならしっかりと言える。

 未練はまだあった。思い残すことは、まだあったのだ。

 もう一度だけ会わないと、だめだった。

 理由は、わからない。大切なことが何なのかも、わからない。

 それでもヒタキはやっぱり、ヴェルマに死んでほしくなかった。



[31224] 呪われた姫君
Name: クク◆0150983c ID:26c83ffc
Date: 2016/01/01 17:44
 迷宮都市の澄み渡るような青空の下、ヒタキは遠くに見える教会を目指して建物の屋根を駆け抜け大きく跳躍する。

 背後から迫っていた氷柱が頭上を掠めることを意識の隅で認識つつ、転がるように路地裏に着地し再度駆け出す。

 四人の騎士。異端審問官と名乗った男たちは、憩い停での言葉の通りヒタキをみすみす逃がす気など全くないようだった。

 寸分違わぬ狙いでヒタキに魔術を打ち込んだ異端審問を取り仕切るロディック・グレイスと名乗った男は、探索者としては上級に届かないまでも中級者としては十二分な実力を兼ね揃えている。

「またか!! 何だあの男はちょこまかと!!」

 四度目のクラスアップを目前に控えた、つまりレベルにして200、ランクにしてB、上級へと至る最低限の資格に迫らんとしている彼は、しかし取るに足らない、それこそ子供にもおとるようなFランクという存在であるはずのヒタキに追いつけないことに苛立ちを隠せないでいた。

 まともに相対すればヒタキはあの男たちに瞬殺されるだろう。彼らには迷宮に潜り、強者と戦い続け得た確かな実力がある。

 しかし、彼らには圧倒的に弱者との戦いにおける経験が不足していた。

 迷宮内において探索者は通常、モンスターに命を狙われる立場だ。神々の試練に挑み続けることが何よりの美徳とされる騎士団の人間は、挑んでくる敵を殺す術を心得ていても、逃げ惑う獲物を狩る術は心得ていなかった。

 目指す場所は教会である。しかしヒタキは一直線に教会に向かうことはせず、この時間帯最も人が多く集まる北区を経由する。様々な店舗と多くの人が集う商業区画は、追手を撒くには持ってこいの場所だ。

 屋根から飛び降り、露天で賑わう北区の中央広場へと続く道を駆け抜ける間に確実に四人の騎士を引き離すことに成功していた。

「でも、こんなんじゃヴェルさんに追いつけない……」

 追手を撒くために遠回りしていた間に、ヴェルマはすでに教会にたどり着いているだろう。そしてヴェルマ自身の到達階層はまだ十九階層だが、彼女は一度ヒタキとパーティを組んで六十一階層を踏破している。竜が出たという四十三階層へ挑む権利を、すでに得てしまっているのだ。

「これ以上遠回りしてたら……!?」

 この状況をどう打開するか焦りが混じり始めた意識の隅で捉えた気配に、ヒタキは舌打ち混じりにホルスターから銃を引き抜き体を反転させる。

 牽制として一発、そしてすぐに路地裏へと逃げこむ――――

「やあ、お困りのようだね」

 ――――その思考に割りこむように、鳶色の髪の眼鏡の青年が呑気にパイプから紫煙をくゆらせながらそう語りかけてきた。

「え、ラウルさん……」

 薬草専門店「森の囁き」店主ラウル・ハンザ。植木鉢を抱えた腕とは反対の手をひょこりと上げ笑うのは、その人だった。

「えっと、四人か。なら二人かなー。ここは僕に任せて君は北区の中央広場を通って、その後はまっすぐ教会に向かいなさい」

「え、なんで、っていうか……え?」

 全く状況が掴めないヒタキは唖然としながら、構えていた銃をおろしてラウルの顔をまじまじと見つめた。

「ジンさんから聞いたよ、これで。あの人、基本的に人に事情を説明するって作業を放棄してるような人だから、あまり細かいことは把握してないんだけどねぇ」

 くるりとヒタキに向けられた右手の甲では、神紋が淡く金緑色に光っていた。

「さあ、もうあまり時間はないんでしょう。早く行って来なさい」

「……あんたが、何で俺を助けてくれるんだ?」

「まあ、君たちは僕の店のお得意様だからねぇ。それに――――」

 経緯はわからない。意図もわからない。

「――――ジンさんほどじゃないけどさー、僕も君とヴェルマちゃんのことを気に入っているんだ。先輩として、このくらいの手助けはしてあげないとだめでしょー」

 それが本音なのかなんて、ヒタキにはわからない。ヴェルマも店長もこの人も、こんな自分を気に入って助けようとしてくれる人がいるなんて、容易に受け入れることなどできなかった。

 だけど――だからヒタキは、足をとめてくるりと背を向けたラウルの助言に従って、迷いなく中央広場目指して全力で地を蹴った。

「ありがとう! 今度ヴェルさんと一緒に、また携帯食買いに行くよ」

「うちは薬草専門店なんだけどねぇ……」

 ははは、と乾いた笑みを浮かべたラウルの右手の神紋から金緑の輝きが溢れだし、手に持つ鉢の植物が大きく鳴動する。

 金緑の光。豊穣の女神の力の一端。しかしそれは、小さな薬草店を営む人間が持つには、あまりにも似つかわしくない力だった。

「あ、ちょうどよかった。そこの教会騎士さんたち、ちょっとこの子、あ、この子は教会騎士団の第八席様から元気がないからって預かってた食虫植物なんだけどね、ちょっと元気になりすぎちゃったみたいで、今まさにそこらの人で食事をしようとしているみたいなんで助けて欲しいなー。ていうか相変わらず気持ち悪い趣味してるよねー、あの子」

「な、なんだこの巨大な植物は、一体どこから!? 第八席……あのお方のコレクションがなんでこのような所に!! だが、今は……だが……っ!! すまない、この場は頼んだぞ!!」

 追手は、あと二人。








*           *           *









「ようやくの到着か。まったく最近の若いもんはこれだから」

 白く長い髭を伸ばした禿頭の老人。小柄な鑑定師のその老人は、中央広場にあるベンチに腰掛け、混乱するヒタキにやれやれと大きく溜息を吐いて、そしてもう一度大きく溜息を吐いた。

「何をぼさっとしておる! 早く行かんか!!」

「えと、爺さん……」

「言っておくがお前のためではないぞ! 儂はヴェルマちゃんのためにここにいるんじゃからな!」

 本気で殺意を向けてくる老人に、ヒタキは無言で頭を掻いた。何と言えばいいか、わからなかった。

 だから、いつもの通りの言葉を返した。

「ありがとな、爺さん。またヴェルさんと一緒に、店に行くから」

「何度も言わせるな、貴様は来んでいい。ヴェルマちゃんだけ来ればいい」

 相も変わらず、偏屈な老人だった。

 その老人は中央広場に入ってくる異端審問官ロディックともう一人の騎士を、先ほどヒタキに向けた以上の殺意を滾らせた瞳で睨みつけ、ベンチから腰を上げた。

 そして老人とは思えない軽快な足取りで彼らの元に歩み寄り、訝しげに老人を避けようとする騎士二人にぶつかる。むしろ、広げた両腕で首を刈り取った。

「!!?」

 喉を潰され声にならないうめき声をあげ、二人の騎士は仰向けに体を石畳に叩きつけられる。

「ほ、骨が折れた!! 何じゃ貴様ら、こんな老人を突き飛ばすとは何事じゃ!? そこに直れ!! その腐った性根を叩きなおしてやる!!」

「!!!?」

 そして老人から放たれた衝撃を通り越して意味がわからない言葉に、目を見開いた。

「な、何を言っている!! い、今貴様が、というか貴方は――――」

「儂に話しかけるな!!」

「!!!!?」

 もはや偏屈というより老害だった。

 腕が折れた、無力な老人に暴力を振るうとはそれが仮にも教会の人間がすることか。立ち上がろうとするロディックを蹴り飛ばし、唐突に説教を始めた老人に、ヒタキは誠心誠意のお辞儀をしてその場を後にした。

 追手は、もういない。








*           *           *







 ヒタキが教会に辿り着いた時、すでに事態は急変していた。

 常に開かれているはずの、教会の巨大な扉。今やその万人を受け入れるはずの扉は固く閉ざされ、ざわめく探索者の群れを教会職員と騎士団が総出で抑えこむという、迷宮都市の歴史においても有数の異常事態へと発展していた。

「ヒタキさん!!」

 幾人もの探索者が突然の迷宮の閉鎖にざわめき教会の人間に説明を求めるために押し寄せている中、自らを呼ぶメリルの声にヒタキはあたりを見渡した。

「ここです、ヒタキさん! 騎士団の人たちは!?」

「足止めしてもらってる。ヴェルさんは?」

「もう迷宮に入ったようなんです……私が来た時にはもうこの有り様でした。それよりも、早くこちらに!」

 ヒタキが遠回りしている間に、メリルは一足先に教会にたどり着いていたようだった。ヒタキを急かし人波をかき分け正面扉から離れ、教会の横手に回りこむ。

「迷える子羊よ、最近良く会いますね。いえ、まじで」

 あくび混じりにひらひらと手を降るのは、教会の人間の印である白いローブを纏った金髪眼鏡の知的に見えなくもない敬虔なる神の僕であるらしい女性だった。

「さあ、こちらです。今からお連れする場所は私と神々しか知らぬ秘密の場所ですから、他言無用でお願いします。バレたら私が仕事から逃げ出せなくなりますので、慎重にお願いします」

 教会の受付で初めて出会い難癖を付けられ、つい先日メリルの治療でお世話になり、そして異端審問の事実を突きつけられた、何かと接点のある教会の職員。

 そんな彼女の登場にヒタキは首を傾げるしかなかった。

「中に入れてくれるのか?」

「はい、この子に泣き付かれてしまい、仕方なくです。あの真っ赤な子が私の大嫌いな同僚をぶっ飛ばし、尋常ではない様子で迷宮に入ったのも見てしまいましたし、それにですね……」

 首だけで振り返りヒタキを一瞥し、彼女は大きく溜息を吐く。

「あなたが異端審問を受けることになったきっかけは、あの中級認定の申請ですからね。というか、レベルが上がらないというのはなかなか衝撃的ですが、それだけで殺すとかちょっと上の人間頭おかしいでしょう。神々だってきっと引いていますって……。まあ、それはおいておくとして――――あ、ここです」

 と、彼女は教会の裏手に回り込んだところで言葉を切り、足元の石畳を持ち上げた。

 その下には狭いながらも屈めば十分に人が通れるほどの穴があり、それは教会の方に向かって伸びていた。先導する彼女の後に続き、ヒタキとメリルも抜け道を進む。

 地下に掘られた穴はかなり短いもので、すぐに行き止まりに辿り着いた。彼女は石畳を少し押上げ周辺の様子を伺ってから、素早く穴から抜け出しヒタキとメリルにはその場で待つように指示を出した。抜け道は、教会の職員しか立ち入ることができない受付の奥の裏方に繋がっていた。

「転移門の前に、見張りが数人います。……ああ、ちょうどいい、あのセクハラ野郎に追い打ちをかけてやりましょう。私が少し見張りの注意を引きますので、その隙に迷宮に入ってしまってください。あと、先ほどの話が途中でしたので最後まで言ってしまいますが、不本意ながら私はあの中級申請の場に居合わせてしまったこともありますし、少しでもいいことしておかないと後で気分が悪くなってしまいそうです。特にあなたの場合は、これでお別れになるかもしれないのですから、この程度の手助けくらいはしましょう」

 事情は知りませんが彼女を助けたいのでしょう? と、そう問いかけてきた。

「あんたは、でも、大丈夫なのか?」

「さあ、知りません。でもまあ、仕事をサボるよりよっぽどいいことをしている自覚はありますよ。これで私が裁かれるようなら、そのときはそんな馬鹿げた決定を下す似非宗教団体、こちらから願い下げです。さて、そろそろ私は失礼しましょう。それでは、迷える子羊達に神々のご加護がありますように」

 シニカルにそう微笑んで、彼女は去っていく。その後ろ姿はヒタキが今まで見てきた教会の人間の中で、最も聖職者らしい聖職者の姿に見えた。

 しばらくして、彼女の白々しい棒読み声が教会に響く。

「ああ、大変です! 大丈夫ですか? きっとさきほど小さな女の子に返り討ちにされ無様に倒れたときに、頭をさらに痛めたのでしょう! いくら下心を持って小さな女の子に接したことに対する罰であったとしても、あまりにも酷な運命です! 誰か、誰かいませんか、罪人といえどここで彼は死ぬべきではありません。彼を治療室へ!」

「合図、ですよね……?」

 おそらくそうだろけどやっぱりとんだ神の僕だよなと、自信なさげに訪ねてきたメリルに無言で頷きつつヒタキはぼんやりとそう考えながら腰に撒いていたローブを羽織る。

 仮に合図でなかったとしても、この距離まで来ていれば問題ない。自分一人であれば確実に迷宮に入ることは可能――少なくともヴェルマに追い付くために、最も厄介だと考えていた教会と騎士団という障害はこれでクリアしたのだ。

「俺は今からヴェルさんに追いつくまで全力で走るけど、正直言ってあんたを気遣う余裕はないからな」

「は、はい! 足は引っ張りません!」

「じゃあ、行くぞ」

 短く告げて、静かに静かに深く息を吐き出す。そしてヒタキは抜け穴から飛び出した。

 あとは、ヴェルマを目指して迷宮を駆け抜けるだけだった。






*           *           *







 迷宮の四十三階層は、広大な鍾乳洞で構成されている。

 洞窟の通路とは一線を画する広大な空間。流れ落ちる巨大な滝と、透き通る水を湛える湖。上流へと繋がる、巨大な岩石による乱雑な天然の階段。その空間は今、頭上に連なる鍾乳石と乱立する水晶が魔術による光源を乱反射することによって、幻想的な青白い光で満たされていた。

「────!」

 そして、その青白い幻想的な光は凶悪な真紅の光で埋め尽くされる。

 凶悪な咆哮。音にならない凶悪な咆哮が洞窟の静謐な空気を切り裂き、真紅の炎が世界を赤く染め上げた。

「な、何なんだよ! 何なんだよこいつはああああ!! 嘘だ嘘だ嘘だ嘘だこんなの聞いてない!!!」

 輝きが失われたぼろぼろ金色の鎧を纏った少年が、うずくまったまま魔術障壁の奥で泣き叫ぶ。

 美しかったその銀髪は、目の前の化け物から逃げ惑う中で薄汚れてしまっていた。

 人の胴体など容易く噛み砕きそうなほどの巨体。残り火が揺らぐ口腔に覗く、凶悪な牙。それは、人類から竜と呼ばれ恐れられる化け物の一種だった。

 すでに少年――リョウ・アカツキの仲間は、この階層に存在するはずのない化け物によって瀕死に追いやられていた。彼を守ろうとして蹴散らされた彼女らは、今も少年の後ろで気を失っている。

「もう、嫌だ……こんなはずじゃなかったのに……こんなの無理ゲーだろ、おかしいだろ……。そうだよ、ゲームだったんじゃないの? 何なんだよ、チートじゃなかったのかよ!! ふざけんなよ! こんなの、明らかにバグじゃないか!!」

 彼はすでに壊れていた。頭を抱えたまま嘘だ嘘だと繰り返し、時には狂ったように叫び出す。

 そんな状態の彼が未だに生き残れているのは、竜の縦に割れた金色の眼光が捉える標的が彼ではなくなっていたからに過ぎなかった。

 竜の吐き出した炎を切り裂いて、自らを狩らんとする敵を見据えヴェルマは術式を綴る。

 この魔術が果たしてどれほど敵にダメージを与えることができるかと、ヴェルマは苦笑した。

 グリアヴァーズでは、なかった。

 目の前の敵は、十七年間探し求めてきたあの黒竜ではなかった。

 存在そのものが一個の魔法として確立する邪竜グリアヴァーズと、種族として竜、それも亜竜に分類されるであろうこのワイバーンでは存在の格の桁が違う。

 それでもなお、ランクBはあるであろうワイバーンに、今の自分が勝てるとは思えなかった。

 だが、彼女の後ろで震えている少年が迷宮から逃げ出すくらいの時間は稼いでやれるだろう。

 巨大な氷柱を三連続で打ち出しだヴェルマは、それが竜の翼によって打ち払われるのを確認する前に弧を描くように走りだす。

 幸い、ワイバーンは小回りが効かない。死ぬまでの時間を引き伸ばすことは、そう難しいことではなかった。

 魔術で雷を迸らせ、ワイバーンの目をくらます。隙が生まれた瞬間に間合いをつめ、翼を狙い魔力を纏った剣を上段から振り下ろす。

 しかし当然のように、剣は竜の鱗に弾かれる。込められた魔力の質が違いすぎる。到底切り裂ける密度ではない。

 だが、ヴェルマはそんなことはお構いなしに剣を振り、迫り来るワイバーンの牙を打ち払い、再度刃が通るはずもないワイバーンの首へと剣を叩きつける。

 無謀な剣戟を煩わしがるように、ワイバーンは翼を大きく薙ぎ払いヴェルマを大きく吹き飛ばし、口腔に炎を覗かせた。

 ワイバーンにとっては小虫を払う程度の攻撃。それはしかしヴェルマにとっては、気を抜けば骨の数本は軽く砕ける衝撃。どうしようもないほどの力の差を、ヴェルマはどうにか自ら後ろに全力で跳躍することで受け流し、そして姿勢を整える。

 空中で青く輝く指を滑らし術式を編む。発動させる魔術は下級魔術『貫く氷柱』の応用魔術。射出、指向性等の攻撃性を排除した代わりに単純に数と質量を増やした魔術は、ヴェルマの目前に十の氷柱を出現させる。ついで着地し、『聳える土壁』によって三枚の壁を斜めに出現させ、その上から魔術障壁を展開する。

 十の氷柱を数秒とかからず溶かし、壁を熱く熱するワイバーンのブレス。魔術的な要素がない、単純に魔力を属性変換させただけの力任せの亜竜のブレスでさえもこの威力。ヴェルマの魔力を惜しまない全力展開の魔術防壁群でさえ、数秒で突破される始末だった。

 余波をどうにか最後の砦である魔術障壁で防ぎながら、ヴェルマは後方に向かって叫ぶ。

「リョウ・アカツキ! 今のうちに逃げろ! そのままそこで震えていると……そうだな、このワイバーンに殺される前に、私の呪いに巻き込まれて死ぬかもしれないぞ」

 隅でうずくまっているリョウ・アカツキにそう告げて、ヴェルマは小さく苦笑する。あの少年ももう、この世界に絶望してしまった。いくら時間を稼ごうが彼はもう助からない。否、助かろうという意志すらないのだ。そう思うと、力が抜けた。彼らを囮にすれば僅かではあるが逃げ切れる可能性もあるが、しかし逃げようという気は起きなかった。

 死ぬには、いい相手なのかも知れない。本物とは程遠いが目の前の竜もどきも、一応は竜だ。

 そして死ぬには、いい日かも知れない。

「…………まったく、何を今更」

 そもそもヴェルマの死に場所を求める旅は、この閉じられた世界である迷宮都市に辿り着いた時点で終わりを迎えていた。

 ヴェルマにかけられた呪いは、彼女に死ぬことを許さなかった。しかしこの迷宮内においては、その限りではない。自らが死ねば世界に災厄をまき散らすことになる呪いは、この迷宮内であれば外に溢れ出ることはないだろう。

 ここはそういう場所であるからこそ迷宮として成り立っているのだと、ヴェルマはすでに確信を得ている。

 その確信を得てもなお彼女が生き永らえてきたのは、ひとえにこの迷宮都市で大切なものを得てしまったからに他ならなかった。

 だが、もうその大切なものも失ってしまった。本当に今更だ。死に場所が見つかった途端にこれだ、と彼女は三度苦笑した。

 本当にこの絶望ばかりの人生の中でも、穏やかで幸せな日々だった。

 だからその幸せを失ってしまった今日は、やはり死ぬにはいい日だ。

 脳裏によぎったその考えに、魔術障壁を独立起動した裏でブレスを切り払うための魔術式を編んでいた手を止めてしまう。

 今このまま何もせずにいれば、この穏やかで幸せな気持ちのまま楽に逝ける。十七年前から心の奥底で燃えている、暗く醜い絶望という名の炎に焼かれ朽ちていくはずだったこの身には、あまりあるほどの幸せ。

 ああ、それは何て甘美な考えなのだ。もしもこの絶望しかない世界の終わりに、あの世という続きがるなら、そこで一足先に友を待つのも悪くない。

 彼とまた笑って会えるなら、きっとそここそが自分にとっての――――

 魔術障壁に、致命的な亀裂が入った。目の前に、地獄の劫火が迫っていた。

 十七年前に独りだけた行くことができなかった、今は愛おしき地獄の光景。これでようやく楽になれると、そう思った時、

「――ヴェルさん!!」

 ――――彼の声が、聞こえた。









*           *           *









「な!? ヒタキ!? なぜここに!!」

 冷や汗が噴き出ると同時に腑抜けていた思考がクリアになり、放棄していた情報を処理するために脳が高速に回転する。

 半ば完成していた中級術式『閃く緑の一刃』を一拍の後に完成させスキルを発動。

 付加スキル《魔術補助・強化(中)》

 クラススキル《魔術付加》

 刀身に魔術を収束させた一太刀によって、対属性によって削り弱めていたブレスを切り払う。相殺し切れなかった余波で、剣を振るった右腕の手甲が炭化し崩れ落ちた。手甲に刻まれた守護の術式が最後に展開されたが、しかしもうこの右腕では満足に剣を振ることはできないだろう。

 だが、そんなことは今のヴェルマにとってはどうでもいいことだった。

 果たしてそこに、彼はいた。

 散りゆく炎の向こう側、新たな獲物に金色の瞳を向けるワイバーンの更に後ろ側で、もう会うことはないと思っていたヒタキが今にも泣きそうな顔をして立ってた。

「ヴェルさん、俺は……!!」

 初めて見るような悲痛な面持ちで、無防備に駆け寄ろうとするヒタキの上空に、影が差す。文字通り叩き潰すために、新たな獲物へと向けて振り下ろされたワイバーンの尾だった。

 轟音。そして巻き上がる粉塵。地面を叩き割ったワイバーンの尾は狙いを寸分違えることなく、ヒタキがいた空間を抉りとっていた。

 まさかと息を飲むヴェルマ。世界が崩れるような錯覚に陥ったその瞬間、粉塵を切り裂くように紫電が迸り、ワイバーンの金色の瞳に突き刺さる。

 竜種に、下級魔術など効くはずもない。実際にその体に触れる前に鱗を覆う魔力にかき消された魔術は、しかし一瞬ではあるがワイバーンを怯ませた。

「俺は!!」

 洞窟を揺らがすワイバーンの怒りの咆哮を切り裂くように、ヒタキの声が響く。

 猛るワイバーンの尾を駆け上がり、彼は跳躍する。まるで炎の残骸で赤く染め上げられた地獄のような世界で空を舞うヒタキは、叫んだ。

「もしも、もしもこの竜がヴェルさんが探してた、グリアヴァーズってやつなんだったとしても……!!」

 ヒタキに完全に狙いを定めたワイバーンが、自らの頭を蹴って宙に踊りでた獲物を追い舞い上がり、その牙を突き立てんと顎を開く。しかしヒタキは、いつの間にか握りこんでいた石を宙に浮いたまま投擲した。寸分違わず瞳に向かってくるそれに、ワイバーンは反射的に一瞬硬直する。ヒタキはその隙を見逃さない――否、見逃すことなどできなかった。その隙を見逃して生き残れるほど、彼にとってこの世界は楽な世界ではなかった。

 くるりと、空中で体を撚る。そしてワイバーンの鼻っ面に四肢で着地し、再度跳躍。

 いつもぼんやりとした、何を考えているのか分からない青年。世界一弱い、ヴェルマの唯一の友。

 その彼が今、叫んでいた。

「俺は、俺はずっとあの日から、あの人との約束を守るためには、俺が幸せになるには、レイファリスに行くしかないって、ずっとそう思ってたんだ!!」

 高く高く、空に舞い上がった彼は銃を構える。狙いは、この階層を構成する鍾乳洞の天井に連なる氷柱石。打ち出した風属の弾丸が幾本もの石の根本を砕き、ワイバーンへと降り注ぐ。

 轟、と風が吹き荒れる。ワイバーンの翼が大気を打ったその瞬間、降り注ぐ氷柱は例外なく粉砕され風の中に消えていった。

 しかし、ヒタキにはそれで十分だった。圧倒的な化け物の追撃をしのいだヒタキの瞳が、真っ直ぐにヴェルマを捉えた。

 たった一撃でもワイバーンの暴力をその身に受ければ散ってしまう儚い命をもって、ただただ真っ直ぐにヴェルマの元へ駆け、そしてその小さな命を賭けて精一杯思いのままに、彼は叫んでいた。

「だけど俺は、ヴェルさんと過ごしたこの三十日間――――幸せだった!! 幸せだったんだ!! 幸せになるって言葉の意味を、ヴェルさんに教えてもらったんだ!!」

 だから――――と、ヒタキは泣きそうな顔でヴェルマに告げる。必死になって、死にそうになって、そのたった一つの言葉を。

「俺はヴェルさんに、死んで欲しくない!!」

「――――」

 ああ、とヴェルマは胸をかきむしる。

 死にたいと、思い続けてきた。

 死ねば世界に厄災をもたらすこの呪いを持つ自分は、世界にあってはいけない存在のはずで、だから一刻も早くグリアヴァーズにこの呪いに満ちた生を終わらせてもらおうとしていた。それこそが己の使命にして唯一の夢のはずだった。

 なのに。

 それなのに。

 生きたいと、思った。思って、しまった。

 こんな絶望に満ちた世界なのに――――

 気づけば、ヒタキが目の前に立っていた。

 あいも変わらずぼんやりとした無表情な顔で、それでも僅かに頬を弛めて気の抜けた笑みを浮かべて、彼はくしゃくしゃとヴェルマの頭を撫でた。

「だからさ、ヴェルさん。俺と一緒にここから出よう。ここから出て、一緒にレイファリスに行こう」

 それは、何時か聞いた言葉。

 泡沫の夢のような幸せな日々。その続きを、求めていいのだろうか。彼となら、求めることができるのだろうか。

 胸の痛みは、もうなくなっていた。

「…………阿呆が」

 楽園都市レイファリスは、もう滅んだ。彼だって、もう知っている。なのに――――否定できなかった、否定しなかった。

「ヒタキ、下がっていろ。この人数を連れて全員無事に逃げることは、流石にできないだろう」

「え、ヴェルさん、だけど……」

 不安そうにヴェルマを覗きこむヒタキの手を払い、頭を出せと手招きする。

 そしてきょとんとした顔で前屈みになったヒタキの頭を、ヴェルマはくしゃくしゃと撫で返してやった。

 精一杯の感謝と、この胸いっぱいに満ちる温かい思いが伝わるように。

「死なないさ、私は。そこで見ていろ――――私はもう、死なないさ」

 一歩、前へと歩み出る。魔力はもうほぼ空だった。当然だ。魂の格が異なる敵の攻撃を何度も防いできたのだ。むしろ死んでないことのほうが異常なくらいだ。

 ワイバーンの口腔に、再び灼熱の炎が灯る。獲物をまとめて焼き払うつもりらしい。

 無言で歩みながら、ヴェルマは空中に指を滑らす。搾りかすのような魔力で、術式を編む。

「ヴェルさん!!」

 ヒタキの戸惑いの声が聞こえる。

 ヴェルマの唯一の友人の声だ。だから彼女は、彼に心配をかけないように語りかける。

「私はな、どうやら今の今まで、本当に死にそうになるまで勘違いしていたようだ」

 先ほど、目の前の敵は友の命を奪おうとした。幾度も幾度も、彼の命を奪おうとその牙を突き立てた。十七年前の黒竜のように、ヴェルマの大切なものを奪おうとしていた。

 目の前の敵の姿に、あの黒竜の姿が重なる。心に、黒い焔が灯る。

「私の……私のこのどす黒い感情は、どうやら絶望ではなかったようだ。私はグリアヴァーズにあって殺して欲しかったのではない。私があれほどグリアヴァーズを求めていたのは、全てを終わらせるためだったのではない」

 咆哮。そして迫り来る死の炎。あの時の、故郷が焼き払われた時の光景を幻視する。

 そうだ。あの時の地獄は、あの時の地獄こそが、この身に巣食っている。ならばこの想いがあれば、地獄だって全て受け入れ喰らい殺すことだってできる。できないわけがない。

 ぎしりと、歯を軋ませた。術式を展開。構築される巨大な魔術障壁が、大地を舐める炎を堰き止める。

「これは――――殺意だ。私は、グリアヴァーズを殺したいほど憎んでいたんだ。そして!! 私の大切な者を殺そうとした貴様を、私は殺したいほど憎んでいる!!」

 まるで地獄のように赤く染まる世界で魔術障壁を食い破った炎がヴェルマを飲み込んだその瞬間――――世界が割れた。












*           *           *






 ――――ERROR:神■シス■■――――

 ――――TRY……――――

 ――――封印……処理失敗――――

 ――――遮断……ERRORRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRR…………逆介■■■■迷■十■神■…………

 ――――強制中断――――

 ――――調停……成功――――

 ――――神■シス■■更新完了――――

 ――――INSERTED:Unique Skills《竜■■■》――――







*           *           *







 逆巻く炎。彼女を中心に発生した膨大な魔力の奔流が、竜の吐息を巻き込み巨大な炎の竜巻と化していた。

 洞窟の天井を突き抜けるその炎の柱の中に、ヒタキはそれを見た。

 漆黒の竜の翼。そして、その翼を背負う、一人の女性の姿。

 渦巻く炎の中心で真っ直ぐ前を見据える女性は、美しかった。革の腰巻きからすらりと伸びた足、引き裂かれた黒い服から覗く白い肌。そして、渦巻く炎でさえくすむ程の鮮烈な赤い髪。

「な、ま、まさかこれって…………」

 世界に生まれ落ちた膨大な魔力の奔流。そしてその発生源たる竜の翼を持つ女性を見上げ、仲間の治療をしていたメリル・カナートが、そしてリョウ・アカツキがその身を震わせる。

 あまりにも、その存在は異質すぎた。竜種であるワイバーンですら唸り声を出し警戒心、否、恐怖心をあらわにし、何時でも己の本来の領域であるはずの空中に飛び立てるように翼を広げる。

 その中でヒタキだけは唯一、無防備に彼女を見上げていた。幼い容姿の己の友とは異なる姿であっても、揺らぐことの無い確信をその胸に彼女を見上げていた。

 炎が照らす世界で空に浮かぶ彼女は、その縦に割れた金色の瞳をヒタキに向けて、そして――――微笑んだ。

「な? 言っただろう、私は死なないと」

「ヴェル……さん……」

「改めて自己紹介が必要そうだな、ヒタキ。とは言っても、私自身まさかこのような姿になるとは思っていなかったが」

 己の背の翼に視線をやり、彼女は尊大に微笑む。

「私の名前は、ヴェルへルミア・グリアヴァーズ・レイファリス」

 絶望と憎悪に塗れた竜の名と、楽園と幸福を意味する都市の名。

 十七年前に捨てたその二つの名を冠する本名と、そして呪いによって失われてしまったはずだった成長した姿をもって、ヴェルマ――――ヴェルへルミアは、己の友と正面から向き合う。

「竜の力を封じ転ずる魔法の都、楽園都市の守護者の末裔にして、竜の力をこの身に封じられた呪われた最後の生き残り…………そしてたった今、邪竜グリアヴァースに復讐を誓った復讐者だ」

 そう言って黒竜の翼を背負い不遜に微笑む彼女は、どこまでも美しかった。この絶望だらけのろくでもない世界で、真っ黒に、それでも純粋に美しく輝いていた。

「さて、と。無理やり呪いを喰らいとってしまったからな、自我が曖昧になりつつある。そこの竜もどき――――早速で悪いが、死んでもらうぞ」

 轟、と大気が揺れる。本能に従い目の前の脅威を排除せんとワイバーンが空へと舞い上がり、彼女へその凶悪な牙を突き立てる。

 しかしその牙は、彼女へは届かない。白磁のような右手一本で振るう剣で、彼女は亜竜の牙を迎え撃つ。

 空を舞う二匹の竜が、幾度となく交差する。剣と牙による剣戟を交わし、衝突する。

「――――!!」

 それは、異様な光景だった。

 亜竜とは言え、世界を統べる種族の一種。

 空の支配者たる竜種が、たった一人の人間に翻弄される悪夢のような光景。

 神の加護を十二分に与えられたわけでもない、迷宮都市に来たばかりのはずのちっぽけな人間。

 だがその小さなはずの人間は、亜竜ワイバーンよりもよほど支配者たる圧倒的な存在感を放っていた。

 翼で大気を打ち、その大質量で押しつぶさんと迫る亜竜に対し、彼女はそのか細い腕で剣を構える。

 亜竜の咆哮は、一種の魔術だ。音に殺意を込めた魔力をのせ、敵を威嚇し怯ませる。

 強い意志があれば防げるその咆哮は、しかしどれほどの強者にであろうと僅かながらの牽制にはなる。

「――――耳障りだ!」

 しかし突進と共に放たれた亜竜の咆哮は、容易く彼女の一喝にかき消された。否、それどころか飲み込まれ、逆に亜竜は本能的に硬直し空中で急制動をかける。

 ゆらりと、刀身が洞窟を満たす青白い光を映す。横一文字に振り抜かれた刃が、亜竜の翼を切り裂いた。

 苦悶と怒りの声を上げる亜竜の尾がヴェルマを撃ち落とさんと振るわれるが、彼女は黒翼で容易くその大質量の尾を受け止め、そして弾き返す。

 翼を切り裂かれ、そして黒翼から放たれた衝撃によって亜竜は大きく仰け反った。

 機動力を失った亜竜に、ヴェルマは容赦なく追い打ちをかける。憎しみと恐怖に染まった亜竜の瞳を見据え、彼女はその脳天に剣を振り下ろす。

 音にならない咆哮をあげ亜竜はその剣ごと彼女を噛み砕かんと、無理やり首を動かし牙を剥く。

 洞窟内に響く、剣戟の音色。

 凄まじい音をたて交差した剣と牙。一瞬の鍔迫り合いの後、ついには彼女の振るう剣が亜竜の牙を叩き切った。そして返す刃で、彼女は鼻っ面に剣を振り下ろす。

 ワイバーンが悲痛な叫び声を上げ、地面へと落ちていく。

「剣が軽すぎるが……そうだな、この魔力量ならあれが使えるか」

 彼女は呟き、そしてその指を宙に走らせる。膨大な魔力の奔流が、術式として世界に編み込まれて行く。

 それは今まで彼女が綴ってきたどの術式よりも難解で複雑で、そして幻想的だった。

 青と緑に光る術式が、彼女の周囲で踊る。水と風の属性が混じり合い、世界に一つの暴力が生まれ落ちる。

 上級複合魔術『凍て付く竜の吐息』

 ばさり、と彼女の漆黒の翼がはためく。

 そして次の瞬間、地に落ちたワイバーンへと、極寒の冷気を巻き込んだ高密度の暴風が解き放たれた。

 抵抗するかのように吐出された亜竜の火炎の吐息と、彼女の極寒の吐息が衝突し、そして一瞬で天秤は傾く。火炎は暴風に散らされ熱は冷気に飲み込まれる。

「――――!!」

 それは、亜竜の悲鳴だった。

 地に堕ちた亜竜は、極寒の吐息から逃げ出そうと我武者羅に暴れる。しかし、竜の吐息は亜竜の抵抗など無意味とばかりに、無慈悲に降り注ぐ。

 徐々に暴れる力を失い、亜竜の鱗は分厚い氷に侵食されて行く。

 最後の抵抗とばかりに亜竜は火炎を吐出すが、しかし呆気無くその火炎ごと亜竜は極寒の吐息によって凍り付けにされた。

「これで、終わりだ」

 今や氷の彫像へと化したワイバーンへと、上空から滑降してきた彼女は雷を纏った剣を突き立てる。そして刃の先から開放された荒れ狂う雷によって、ワイバーンの彫像は一瞬で砕け散った。

 こうして、低階層で猛威を振るった亜竜は、突如世界へと降臨した圧倒的な存在、本物の竜の力を従えるたった一人の人間によって討ち滅ぼされたのだった。

 キラキラと氷の破片が舞う幻想的な世界で、黒竜の翼を背負う呪われた姫君――――ヴェルマは微笑む。彼女のたった一人の友人に。

「ヒタキ。私の故郷は……レイファリスは、もう滅んでしまった。それに、私は無謀にもグリアヴァーズに復讐すると心に誓ってしまった。だけど、それでもお前は、一緒に楽園を探そうと、こんな面倒だらけな呪われた私を誘ってくれるのか?」

 まだ、事態は何一つ解決していない。

 始まってしまった物語は、まだ一章たりとも終わりを迎えていない。幸せな結末なんて、これっぽっちも見えていない。

 それでも、ヒタキも彼女に微笑んだ。たった一人の、彼の大切な友人に。迷いなく、真っ直ぐに。

「俺はもう、レイファリスを見つけたよ。ヴェルへルミア・グリアヴァーズ・レイファリス――――ヴェルさん、あんたが俺にとってのレイファリスなんだ。だから俺はヴェルさんが許してくれるなら、これから先もずっとヴェルさんと一緒に生きてきたいって、そう思ってる」

 そう言い切ったヒタキに、ヴェルマはその異質にして圧倒的な力と存在感を放つ姿とはあまりにもかけ離れた優しげな微笑みのまま、きょとんと首をかしげた。

「まったく、なんだそれは。またお前はそうやって誤解を招くようなことを言う。それではまるっきり愛の告白だ……ぞ……?」

 そして彼女は、そのほほ笑みを浮かべたまま、ゆっくりとヒタキに倒れこんだ。

「な、何だ…………体がまったく動かな……!!」

 慌てて受け止めたヒタキの腕の中で、突如ヴェルマが声にならない悲鳴を上げる。

 それと同時に背に生えていた黒い翼が薄れるようにして空に消えていき、彼女の全身から魔力が溢れだす。

「ヴェルさん!?」

「ヒ、ヒタキ……離れ、ろ! おそらく、限界……元に戻……ぐぅ……っ!」

 ヴェルマの体から突如重量が消え、一瞬そのまま消えてなくなってしまうかという錯覚に陥ったその時、

「――――――――!」

 洞窟内に凶悪な咆哮が響き渡った。

「え……な、んで……?」

 膝を抱えるリョウ・アカツキに寄り添うメリルが、絶望的な面持ちで見上げるその先に、その存在はあった。

 人の胴体など容易く噛み砕きそうなほどの巨体。開かれた顎から覗く、凶悪な牙。洞窟の奥から姿を表す、その巨影。

 それは、先ほどヴェルマの手によって屠られた化け物と同種の、新たなワイバーンの姿だった。

 ――――絶望は、まだ終わらない。




[31224] 愚かな賢者
Name: クク◆0150983c ID:26c83ffc
Date: 2016/01/01 17:44
「ヴェルさん、ちょっとの間我慢しててくれ」

 魔力の暴走が収まった後、ヴェルマは何時もの幼い姿に戻っていた。しかし苦痛に喘ぎ、どうにか意識を保ってはいるが、まともに動ける状況ではない。

 大切に抱きかかえた彼女を少し離れた場所にいたメリルに元に下ろしたヒタキは、纏っていたローブを腰に撒く。そして彼女の胸元に銃を置いて、敵を見据える。

 亜竜ワイバーン。先ほどヴェルマが倒した敵と、同種の化け物。

 目前の敵は、ヴェルマを狙っていた。自らの同種を屠った、そして今はその全ての力を使い果たしてしまった彼女を、いの一番に殺さんとその牙を覗かせている。

「ヒタキさん、あ、あなた、何するつもりなんですか……! は、早く逃げないと、ヴェルマさんだってもう――――」

「無理だ。こいつからは、逃げられない」

 ヒタキの人生は、あの日から逃亡の連続だった。だからこそ理解できる。この亜竜を相手取って、ヴェルマを傷つけずに逃げ切ることは不可能だ。

「じゃあどうするんですか!! 無理だってわかってても……!!」

「悪いけど、ヴェルさんを頼む。俺は、やることがあるから」

 淡々とそう告げて、ヒタキは無造作に敵に歩み寄る。この敵からは、逃げることができない。

 でも、それでもこの絶望にあふれた世界から逃げ出さないと、自分たちは幸せになれない。

 ならば、この亜竜が呪われた運命から逃げ出すための障害となるのなら――!

「……ヒ、タキ…………やめてくれ……。私はまだ、やれ……」

「ヴェルさん。大丈夫だから、休んでてくれよ」

 今度こそ失うわけにはいかない、大切な友人。ヒタキの幸せの象徴にして、愛しき人。

 真っ黒に、でも純粋に輝いていた彼女。

 彼女は、打ち勝ったのだ。

 呪いと言っていた、彼女の過去に。

 あの日あの夜、死にたいと泣いていた彼女。そんな彼女に結局、自分は何もしてあげることができなかった。

 まったくもって愚かだ。愚かにもほどがある。

 昔の自分は、たった一つのことしか満足に成せなかった。

 今は、そのたった一つのこともできなくなってしまった。

 否。本当は違う。できなくなくなったのではない。否定してきただけだ。逃げてきただけだ。

 許せなかっただけだ。七年前のあの日のことを。

 たった一人の友の命まで奪った、自分の存在を許せなかっただけだ。

「だけど……違うよな……」

 一緒に、迷宮に挑んだ。

 逃げまわっていた自分に呆れながらも、彼女は笑っていた。

 一緒に、都市を歩いた。

 自分をここに送り届けてくれた人達と出会って、他愛のない話をした。

 一緒に、屋台で買い物をした。

 交換し合ったパンは、何故か美味しかった。

 一緒に、酒を飲み交わした。

 少し酔っていた彼女は、楽しそうに微笑んでいた。

 一緒に、あの何時もの席でミルクと紅茶を飲んだ。

 心が、温かかった。

「俺は、もう見つけたんだ」

 七年前のあの日に失ってしまった翼が、今確かに自分の中にあることを感じる。今なら、再びあの悠久の空に飛び立てる。

 絶望も、過去も、執念も、全てを背負ってまた、今度は鳥籠の外の世界でだって。

 あの日、翼と一緒に失ってしまった若草色の髪をしたあの大切な友人は、喜んでくれるだろうか。今の自分の姿を見て。

 あの少女と出会って、鳥籠の外の世界を知った。

 あの少女を失って、絶望を知った。そして、己が絶望という感情を抱けるほど、彼女のおかげで人間らしくなれていたことを知った。

 そして、狭く淀んだ鳥籠から逃げ出し迷い込んだ最果てのこの地で、ヒタキは幸せを得た。

「――――!!」

 己に出来ることは、あの日からずっと逃げ続けることだけで、今もきっとそれは変わりはしない。

 ならば、逃げ切るまでだ。

 このろくでもない世界が、幸せを、ヴェルマを奪うと言うのなら、そんな世界は斬り捨てて呪われた運命からだって逃げ切ってみせる。

 咆哮を上げる亜竜に向かって、ヒタキは静かに佇む。そして、ふと思い出したようにメリルに向かって語りかけた。

「そういえば、魔法使いになりたいって言ってたよな」

「こ、こんなときに何を……」

「なら、しっかり見とくといい。魔法ってのは、魔術とは全く違う理念、いや、執念の延長線上にあるもんなんだ。魔法を求めるってのが、どういう意味なのか、しっかり見とくといい」

 祈るように、胸の前で両の手のひらを重ねる。

 そう、魔法とは執念だ。純粋な願いと祈りの先、執念と化した想いの果て。それこそが魔法。

「なあ、ヴェルさん。俺も、改めて自己紹介するよ。今なら、ちゃんとこの名前を名乗れるから」

 蒼い光が、胸の中心に灯る。この都市に来て刻まれた神紋を塗り潰すように、菱型の紋様が浮かび上がる。

「俺の名前は、羽々斬 鶲」

 羽々斬――――狭く淀んだ世界で、過去と執念に囚われた一族の名。人を捨て、魔術を捨て、魔力を捨て、全てを捨て、神に一矢報いるためだけに全てを捧げる、愚かな一族の名。

「その執念の果てに魔法に辿り着いた、馬鹿な一族の一人だ」

 あの少女を失い、一族としての執念を失った。

 だけど今、ヒタキの胸にはもう一つの願いがある。

 この夢の墓場で見つけた、ヒタキ自身の願い。

 故に世界は、蒼い光に包まれる。

 魔法。それは一つの神秘。世界を変える、ありえないはずの奇跡。

 世界に満ちる魔力を否定し、世界で一番弱くなることと引き換えに手に入れた、羽々斬に唯一許された力。

 第一魔法《果てなき蒼穹》

 神に定められた世界を、ろくでもない運命を斬り開き、ただただ蒼く染め上げる。

 魔力という枷に囚われたこの世界に、どこまでも高く高く広がる、果てのない空を顕現する。

「なあ、そこの羽つき蜥蜴。あんた、誰の許しを得てこの空を飛んでんだよ」

 発動した魔法によって一つの概念を失ってしまった歪な世界で、ヒタキは拳を突き出し宣言する。

「俺の邪魔をするなら、俺の大切な人を傷つけるなら――――お前のその羽、俺が斬り落としてやるよ」

 蒼穹の向こうで、『やっちゃえ、ヒタキ!』と無邪気に若草色の少女が微笑んだ気がした。

 失ったはずの翼が、蒼穹に広がった。
















*           *           *















 神秘「世界改変」によって作り変えられた世界を満たす、魔力という要素。

 その新たな概念は同時に、『魂の格』、迷宮都市においては『ランク』と定義される概念を齎した。

 魔力という絶対的な力を許容する器の許容量を示すその概念は、同時に純粋な力関係を示すものでもあった。

 魂の格、世界によって定められたその階級は、覆すことができない絶対的なものとして今もなお世界を縛っている。

「――――!!」

 故に、人の身では、竜には勝てない。

 纏う魔力の質。その次元が異なる相手を、傷つける術がない。人は、例え束になろうと竜を打つことができない。

 その、はずだった。

 洞窟を揺らすその咆哮は、竜の悲鳴だった。

 強靭な魔力を内包し、中級魔術程度なら掻き消してしまう天然の鎧である亜竜の鱗。あろうことかそれを突き破り、己の体を傷つけるのは、ただの人間の拳だった。

 脆弱な人の身のまま、神の加護はおろか世界に満ちる魔力さえも否定する、世界一弱いはずの男。

 その男――ヒタキは、貫いた竜の翼を引き裂き、そして死線を踏み越え竜と相対する。

「あんたに言ったって分かんないだろうけど、もうこの世界にあんたを守ってくれる魔力なんて便利なものはないぞ」

 『魔力的な防御』という概念の消失。

 それが、羽々斬の魔法だった。

 己の拳をあまねく全てのものに届かせるためだけの、たった一つの馬鹿げた方法。たとえ神であろうが竜であろうが、魔力なんて無粋なものに邪魔させずに、全てを斬り捨てることができるようにと望んだ果てに得た魔法。

 人も、魔力も、魔術も、全てを捨てて、魔力なんて理不尽なものに定められた魂の格を覆すために、世界から一つの概念を抜き取ってみせる、執念の果ての奇跡。

「――――!!」

 亜竜の尾が横薙ぎに払われる。岩石をも削り砕くその強靭な一撃は、魔法によって『魔力的な防御』が概念ごと消失したこの世界では、全ての生命を文字通り刈り取る死の一撃だった。

 しかし、ヒタキにはそんなこと関係がない。そんなもの、生まれた時から曝され続けた致死の一撃のうちの一つに過ぎない。

 鶲が、空を舞う。

 死神の鎌を飛び越え、彼は亜竜の喉に足刀を叩き込む。そして地に降り立つや否や、息を殺し気配を殺し存在を殺し切り、完全に亜竜の死角へと入り込んだ。

 鱗の継ぎ目を縫うように脇腹に手刀を突き出し、貫くと同時に抉り引きちぎる。そしてその巨体を足場として跳躍し、再度亜竜の追撃を躱す。

 あいも変わらず、魔力を纏った攻撃を受ければ散ってしまう儚い命をもって、ヒタキは亜竜と殺し合う。

 荒ぶる翼と尾の斬撃を避け、そしてその拳を血に染め上げ、幾度も幾度も亜竜へと叩き込む。

 化け物の圧倒的な攻撃の余波でその身を削りながらも致命傷を避け、脆弱なその身一つで彼は竜を狩る。

 鍛えあげられた肉体に、血に濡れた歴史の中で磨き上げられた一族の業を載せ、一度は失ったその翼で、魔力という牢獄から解き放たれた蒼穹を舞う。

 まともな人間のやることではなかった。まともな人間が、やれることではなかった。

 その姿の、何と尊きことか。

 そしてその姿の――――何と愚かなことか。

 メリル・カナートは、息をすることすらも忘れ、ただただその夢物語にもならないようなあり得ない光景を、血に塗れ竜と殺し合う世界一弱い男の姿を見ていた。

「東方の賢者……実在、していたんですね…………」

 それは裏の歴史においても実在が確認されていない、まことしやかに囁かれてきた十八番目の、そして第一魔法に至った唯一の賢者の名前。

 羽々斬。曰く、神に喧嘩を売る一族。

 羽々斬。曰く、竜殺しの一族。

 メリルは、生唾を飲み込む。

 魔法を、この目で見た。魔法を従える賢者の姿を、初めて見た。

 魔法は、実在していた。世界をも変えうる人間は、確かに実在していた。

「でも……、でもこれって…………こんなのって……!!」

 世界は、彼の力によって改変された。

 一つの概念を消し去るという奇跡が、今目の前で広がっている。否、自らも今、その概念が消された世界で息をしている。

 だが、だが――――!!

「魔力的な防御……こんな、こんな概念を消すことが、魔法なんですか……? こんな概念、世界一弱くなってまで、消す必要があるんですか!?」

 こんな、世界からまるごと一つの概念を消し去るなんて途方もないことをするくらいなら、目の前の敵の命をただ消すだけの方が、遥かに容易なはずだ。世界の法則と、その法則という前提の上に成り立つたった一つの命。どちらに天秤が傾くかなんて、子供でもわかることだ。

「なんて、なんて意味のない魔法……」

 彼は、言った。魔法とは執念の果てにあるものだと。

 メリルの視線の先で、ヒタキはその拳を振るっていた。

 本来であるなら届くはずのない、なんの魔力も篭っていない拳が、亜竜に突き刺さる。

 魂の格の差を覆し、世界の法則を踏み越える外法。

 だが、だがその結果を得るために、彼は一体どれだけのものを捨てたのか。

 魔力が全くない? 改めて思う。何の冗談だ、それは。今まで、否、たった今彼は、どうやって生きているというのだ。

 亜竜の攻撃をたった一撃でも喰らえば、それだけでも死んでしまうというのに!!

「どう……だ、メリル? 凄いだろう」

 目の前に広がる光景にただただ戦慄するメリルは、その声にようやく我に返った。

「ヴェルマさん!! 大丈夫ですか!?」

「ヒタキは、私の友は……強いだろう……」

「まさか、ヴェルマさん、初めから知っていたんですか……? ヒタキさんが、賢者なのだと」

 思えば、ヴェルマの彼に対する評価は異様に高かった。魔力も加護もない彼に対する同情でも慰めでもない、純粋な敬意。誰もが、自らも彼を『魔力無し(アウトサイダー)』と侮る中、彼女だけは違っていた。

「いや。だが……あいつは……っ!」

「大丈夫ですか!?」

 尋常ではない量の汗を浮かべ、苦痛に耐えるように眉を寄せるヴェルマ。大丈夫なはずがなかった。あんな意味のわからない力を操っておいて、無事なはずがなかった。

 いや、意味の分からない力などではない。メリルはその力の正体を知っている。あれは、代償を伴う力だ。苦痛程度で済むはずのない、呪われた一つの、魔法だ。

 それでも、それでもヴェルマは、嬉しそうに笑って彼を見ていた。

「あいつは……今のこの世界より、もっと酷い世界で生きているのに……それでも、夢に向かって真っ直ぐで……そして、こんな私を、助けてくれるんだぞ」

 世界で一番弱い彼は、それでも迷宮の六十階層を超え、こんなろくでもない世界で戦い続けている。そんなヒタキが、弱いはずがなかった。

「だから……あいつは……私の自慢の友人なんだ」

 彼女の指が、闇色に輝く。そして、魔術文字を描き始めた。

「あ、あなた何をやっているんですか!? そんな状態で魔術を使ったら、今度こそ竜に……!!」

「知っている、さ……。だが、今ヒタキには、これが必要だ」

 闇が、彼女の頭上に蠢く。その中から出てきたのは、一振りの長剣だった。

 彼女の幼い身の丈にはあまるその長剣は、彼女が今はなき故郷から持ちだした数少ない思い出の品だった。

 かつてヒタキからもらった剣を使いはじめたことを契機に、思い出の品として大切にしまい込んだ祖母の遺品。レイファリスを守護する者が伝えてきた、宝剣だった。

「その剣は?」

「なんの力もない……ただの……剣だ」

 だからヒタキでも、使えるはずだ。魔力という概念を全てを否定する代わりに魔法へと至った、彼でも。

 血塗れになって戦うヒタキを見据え、ヴェルマは剣を支えに立ち上がる。

「ヒタキ!! 使え!!」

 そして彼女は、ふらつく体を無理やり動かし、亜竜へと向けて剣を全力で投擲した。

「ヴェルさん!!」

 亜竜の牙を躱し、そして大気を打つ翼による風圧で無理やり間合いを取らされたヒタキは、一瞬だけヴェルマを見た。

 彼女と、視線が交差する。金色に染まったあの時の彼女の瞳も美しかったが、今の温かな翠色の瞳はそれ以上に、ヒタキの心に力を注いでくれる。

 ヴェルマが、力を貸してくれている。ならば己がこの程度の蜥蜴を、斬れないはずがなかった。

 宙に舞い上がった亜竜の顎が開かれ、命を焼き払う炎が揺らめく。

 逡巡など、なかった。

 ヒタキは上体を倒し、地を這うように駆ける。

 その愚鈍な吐息で墜とせるものなら、墜としてみろ。その吐息を吐かせないために、常に亜竜に張り付き、散々打撃を叩き込んできたのだ。

 抉られた喉の痛みに僅かに動作が遅れ、そしてそれが亜竜に致命的な隙となる。

 吐き出された死の炎は、しかしヒタキには届かない。焔の届かない場所、竜の懐に飛び込んだヒタキが跳躍する。

 死線の更にその向こうにこそ、羽々斬が求めた空が広がっている。

 その悠久の空で、ヒタキは彼女の剣を掴み取る。

 竜の金色の瞳が、恐怖に染まる。空を統べるはずの己の翼を切り落とさんとする、その弱き者の姿に。

「――――!!」

 この世界で強者と弱者を分ける力。空高く舞い上がるための、魔力という名の翼。その翼を斬り落とす、愚かな賢者。

 羽々斬。かつての空で、魔力などというものがなかった世界で、ただただ何も失わないために強く、そして自分らしくあろうとした、今は歪んでしまった一族。

「お前は、ヴェルさんを殺そうとした」

 一族の執念の到着点にして、原点へと還り至った男は、その手に持つ剣を構える。

 冷たい、純粋な殺意。そして燃え盛る、純粋な想い。

 大切な人を害する者は、敵だ。そして敵とは、殺すものだ。

「お前は、俺の敵だ」

 底冷えのする殺意と、心に灯る温かな想いを込め、ヒタキは短く息を吐き出す。

 一閃。

 音もなく、そして軌跡すら追えぬほどの剣閃。

 驚愕に目を見開いた亜竜が、ぴたりとその動きを止めた。

 そしてその巨体が地に引かれ落ちる最中、忘れていたかのように首から血が吹き出す。

 轟音を立て翼を切り落とされ地へと堕ちると同時――――ごろりと、亜竜の首が大地に転がった。

 亜竜の血に染まる、黒髪の青年。灰色のローブを腰に巻き、そして長剣をだらりとその手に下げる、迷宮都市始まって以来の異端は、ゆるりとした足取りで歩み、彼の大切な友人に寄り添う。

 神の加護を受けずに六十八階層を踏破し、そしてランクFにしてランクBの亜竜を単独で殺した、愚かな賢者。

「俺、言ったよな」 

 その男は、今は亡き亜竜が入ってきた洞窟の先を見据え、そして告げる。この階層に入った時から察知していたその気配の主、鈍く光る金属製の軽鎧を纏い、岩場に呆然と立ち竦む男へと。

「リョウ・アカツキと戦うんなら、勝手にやったらいい。だけどメリルを巻き込んで、それで結果的にヴェルさんを巻き込むなら、次は殺すって」

「な、な、何で……は? え? 何なんだよ、おい!! おかしいだろう!! おい!!! お前、お前ら二人は、何で、ワイバーンだぞ!?」

 最早気配を消し潜む気もないその男、レオンは、恐怖に震えていた。

 経緯など、ヒタキの知ったことではない。どうやってランクBのワイバーンをこの階層に連れ込んだのか、そしてどうやって使役していたのかなど、検討もつかない。

 だが、これ以上ヴェルマに害を成すなら、自分たちの夢の障害となるなら、迷いなく殺す。

 そしてそれは、リョウ・アカツキと敵対するレオンに限ったことではない。

 洞窟内に開けたこの広大な空間に雪崩れ込んできた、三十人を超える教会騎士団。そしてその先頭に立つ、異端審問官ロディック・グレイスを睨む。

「あんたには悪いけど、俺は異端審問ってのを受けるわけにはいかなくなったんだ。だから諦めてくれよ。じゃないと、あんたたらの神様にだって、俺は喧嘩を売らなきゃいけなくなる」

「お、お前がそのワイバーンを倒したというのか……? 神の加護を否定する、お前が……?」

 無言で佇むヒタキと、そして彼に寄り添われる幼い少女を見て、ロディックは理解できないとその撫で付けられた灰色の髪を掻き毟る。

「な、何者なんだお前は……。誰か、知識神の加護者!! この男を、この男の正体を突き止めろ!!」

 ――迷宮の四十三階層は今、かつてないほどの混乱に陥っていた。

 壊れたように震えながら意味のわからない言葉を並び立てる、迷宮都市を騒がせた期待の新星、リョウ・アカツキと、未だ意識を取り戻さない彼のパーティメンバー。

 そしてそのリョウ・アカツキを標的としていた、低層に出現した上層を縄張りとするはずのワイバーン。

 そのワイバーンを使役していたと目される、ただのストーカーだと思われていた男。

 そして、ランクBという隔絶した存在であるワイバーン二体を討ち取った、ランクFの少女と青年。

 全てが全て、意味不明だった。

 何をどうすれば、何をどう間違えれば、これほど意味が分からない状況ができあがるというのか。

 そして、誰もが何も言えないそんな混沌とした状況に静まり返る洞窟に、笑い声が響き渡った。

 ふふふふ、と、あまりにの可笑しさに堪え切れなかったというように、女性の笑い声が響き渡った。

「おい、なんだ、何を笑っている!! 答えろ!!」

 騎士団の中から漏れ出るその笑い声に、ロディックが怒鳴る。その視線の先には、あの金髪の受付の女性がいた。いつか見た、神々の鏡と呼ばれるそれを覗き込んで笑う彼女が。

「寵愛者、ですよ」

「は?」

「だから、寵愛者です」

 何を言っているとだと、本気で首を傾げるロディック・グレイス。そんな彼に向かって、否、この場にいる全ての者に、彼女は謳うように告げる。粛々と、荘厳に、神々の声を。

「神々が愛する者。神々が恋い焦がれた者。神々の、寵愛者ですよ、彼と彼女は。特殊スキルなんて、そんなただの幸運を手に入れただけの紛い物ではない、本物の。神々が五百年間待ち望んでいた、この迷宮の本当の最果てに至る資格を得た――――そう、あなた方が言うところの、迷宮の神々に選ばれた存在です」

 謳う神の下僕の視線の先では、偉業を成し遂げた彼らの頭上で、白光が瞬き、光が降り注いでいた。

 迷宮の神々は、試練を乗り越えた者に、加護と褒美を授ける。

 そう。誰の目から見ても、それは明らかなことであった。

 世界に絶望し、夢の墓場で出会ったかつての少年と少女。

 そして今は寄り添い合い立つ、愚かな賢者と呪われた姫君は――――迷宮の神々に祝福されていた。

 それは、誰の目から見ても明らかなことで、それはとても、とても美しい光景だった。












*           *           *











 ――――この日、教会騎士団は重要参考人としてレオン・ガイアスを連行することで、未曾有の事件に対して一応の終止符を打った。しかし、低層へと上層の魔物を招き入れたその術を問い正す前に、彼は独房で自らの命を断つことになり、この事件は尽いぞその真実が暴かれることなく終わりを迎えることになる。

 そして、もう一つ。

 痴情の縺れという、たちの悪い冗談のような事件の原因のみが語られたこの事件には、あまりにも多くの謎が残され、その結果数多くの噂が迷宮都市を飛び交うことになる。

 上級に属する探索者の八割が不在である、年に二度の大遠征の時期に起こったこの未曾有の事態を直接解決に導いた人物が、一体何者であるかということでさえも公にされることはなかった。

 そのような経緯もあって、迷宮都市では、このような噂がまことしやかに囁かれ、広まることになる。

 事件を解決に導いた立役者は、現場に居合わせ、そしてその痴情の縺れの当事者でもあった白銀の神子ではないか。彼はお伽話のように、神敵であった首謀者が操る竜に攫われたお姫様を、神の助力を得て命を賭けて救い出したのではないか。

 閉鎖された世界である迷宮都市に、その噂は一種の娯楽として瞬く間に広がり、そして都市を賑わせることになる。








 故に、開かれることがなかった異端審問に関心を持つ者は、一握りの例外を除いていなかった。








*           *           *



Party name : No name

Name : ヒタキ・ハバキリ
Guardian : 慈愛の女神ライア
Rank : F
Level : 1
Class : Nothing
Skills :
   Extra Skills :《慈愛》
Status : 《慈愛の女神の寵愛》

Name : ヴェルへルミア・G・レイファリス
Guardian : 天秤の女神アリア
Rank : C
Level : 157
Class : 術式調停者
Skills :
  Class Skills :《対物・魔力鎧》 《対魔・魔力鎧》 《魔術付加》 《魔術強化》 《魔術障壁》
  Divine Skills : 《術式裁定》
  Extra Skills : 《天秤》
  Unique Skills : 《竜■■■》
Status : 《天秤の女神の寵愛》



*           *           *



[31224] エピローグ・そうして彼と彼女は迷宮へと逃げる
Name: クク◆0150983c ID:26c83ffc
Date: 2016/01/02 18:06
「ミイラ取りがミイラなんて笑えないわ、本当に」

 薄暗い店内でグラスに浮かぶ氷を指先で突き、間延びした声で女性は笑えないともう一度溜息を吐いた。

「レオンには悪いことをしたね。まさか騎士団に捕まっちゃうとは」

「自分で殺しておいてあなたは何を言ってるんですか」

 商業区の一画の地下に存在する酒場。店の場所を知らなければ到底辿り着けない隠されたその店には、二人の男女しかいない。

 否、一人は十を超えた程度の幼子と言っていいような年齢だった。

 その少年は、グラスのアルコールを一気に煽る。あまりにも似つかわしくないはずのその所作は、しかし嫌になるほど堂に入っていた。

「それにしても、十七柱目の神の加護者を誑かすだけが、まさかの大事に発展しちゃったね。というか、君が逆に誑かされるとは」

「私も未だに信じられいですよ……。私、あんな子供に夢中になってたなんて」

「それが迷宮神の加護者の力なんだろうね。神眼。事象操作の力か。流石にこの迷宮を統括する神、はっきり言って反則だよ」

「まあ、私にしてみればあなたも十分に反則なんですけどね。あのワイバーンの件だって、本当にもう」

「僕の力は、まあトップランカーとしては普通の域を出ないよ。騎士団の全十二席達も、それに聖女とか切り裂き魔とか、奥の手を隠している似たような奴らはたくさんいるさ」

 楽しそうに笑う少年は「さて」とグラスを置いて、未だに不貞腐れている女性ミリア・フロマージュに改めて向き直った。

「本題だ。白銀の神子はどうだった? それに僕のワイバーンを倒したっていう、ランクFの二人は。まあ、二人に関してはレオンの話を信じるなら、だけど」

「私、記憶が曖昧なの。この数十日間の」

「記憶、というか意識を操作する力があるってことがわかっただけでも十分な収穫かな。それも同ランクの君を操れるほどの」

「でも、そこまで万能でもないのかもしれないわ。現に私より後に会ったメリルって子には、神眼で魅了を……いえ、あの子はまあ、魅了する必要すらなかったものね。とにかく、私にリソースを使いすぎていたようだったわ。あとは、能力と精神が不釣り合いという印象かしら」

「……期待外れと言うべきか、期待通りと言うべきか」

「あとは、あの二人ね……。何と言えばいいのかしら…………」

 ミリア・フロマージュは少年の視線に気づき、グラスを傾ける。注がれた琥珀色の蒸留酒を一口だけ味わう。

 相変わらずの高級な味わいに、彼女はほっと一息吐いた。しかしすぐに陰鬱な気分になる。

「理解できない。意味がわからないわ。ランクの差を覆すなんて、信じられない。信じたくないわ」

「僕もさ。だけど、事実かもしれない。ワイバーンは、確かに二匹とも殺された。それは揺るぎない事実だよ」

 少年は思う。

 白銀の神子を手中に納めるはずの脚本は、見事に破綻した。この数十日間の暗躍は、水疱に帰した。

 夢にも思わなかった、異端者達の介入によって。

 迷宮都市の神々。全十六柱の神々を統括し、そして事実この迷宮都市を作り上げた張本人である十七柱目の神。その名を迷宮神、またの名を異界神。

 十七柱の神々がこの迷宮を想像した真の目的のための最後の鍵。

 それが迷宮神の加護者、つまりリョウ・アカツキ。

 彼を手中に納めることが、少年の長きに渡る悲願の成就には必須だった。そう、必須だったのだ。

 だけど、と少年、否、かつて迷宮都市初の最終階層踏破者であった男は、唇をつり上げて笑う。

「迷宮都市ができて五百年。ついに現れた迷宮神の加護者と、彼に付き従うカナートの末裔。そしてやっと物語が動き始めた頃に出てきた異端者二人」

 愉快だった。辿り着いてしまったが故に絶望し、そしてこのろくでもない物語の舞台裏へと引きずり込まれてしまった男の乾ききった心を今満たしているのは、歓喜の感情だった。

「僕は、知らなかったよ。こんなことが起きるなんて、知らされていなかった。神々はその二人を物語に組み込んだようだけど――――」

 何かが起ころうとしている。五百年間も停滞していた――――順調に進んでいたとも言える、迷宮都市の歴史が、動き出そうとしている。

 神でさえも知らない、何かが起ころうとしている。

「楽しそうですね、本当に」

「楽しいよ。楽しいに決まっている。こんな気持ち、何時ぶりだろうか」

「直接確かめてきたらいいじゃない、自分の目で」

 珍しくも歳相応の笑顔を見せる彼に、ミリアは少々驚きつつもそう提案した。

 しかし、彼の反応は芳しく無い。首を竦めて、再度グラスを煽る。

「嫌だよ、二人はあの子の店にいるんだろ?」

 誰があんな不味い飯を食いに行くか、と少年は吐き捨てた。



 それは二人しか客がいない、否、正確には一人の客と一人の店員しかいない、地下の酒場での一幕だった。


















*           *           *


















「あー……、ミルクがうまい」

「うむ、紅茶が美味い」

 コトコトと煮立つ鍋の音だけが聞こえる、昼下がりの憩い亭。

 夜の営業に向けて年季の入った扉に準備中の看板をかけた憩い亭の厨房では、凶悪な顔で店主がシチューの鍋を睨んでいる。

 そんな彼の背をぼんやりと見ながらカウンター席の一番端とその隣で、ヒタキとヴェルマは気の抜けた声を上げていた。

「贅沢って素晴らしいな」

「百デルでここまで喜ぶのか。安い男だな」

「じゃあおねえさんは、三百デルで喜ぶお高い――」

「貴様喧嘩を売っているのか、誰が幼女だ」

「いや、言ってねえよ」

 リョウ・アカツキを中心に繰り広げられ、そして中途半端に終わりを迎えたあの事件から、すでに十日が過ぎていた。

 その間、ヒタキとヴェルマはただただ眠り続けていた。ヴェルマはあの時の後遺症のため、そしてヒタキは療養と柄にもなく熱血してしまった反動から来る倦怠感のため。

「まあ、いいけどさ。それよりヴェルさん、体はもう大丈夫なのか?」

「む? ああ、一応はな。死ぬかと思ったが、生きているよ」

「……それ、大丈夫なのか?」

「言っただろう? 私はもう死なないと。お前を、大切な友人を一人残すような真似はしないさ」

 色々と衝撃だった。主に友人と言い切られたことが。

「おい、そこの幼女趣味」

 店主の容赦のない呼び声が胸に突き刺さる。

「それ、訴えたら俺が……俺が…………」

 勝てそうになかったのでヒタキは押し黙った。

 冗談抜きでゴミを見るような目で睨みつけてくる店主から瞳から逃げるように、ヒタキは視線を逸らす。

 しかしだ。よくよく考えれば別に幼女趣味なのではなく、優しくてかっこ良くて可愛くて、先日稀に大きくなって綺麗になることが判明したヴェルマのことが大好きなだけだったため、ヒタキは悪いことをしているわけではないということに思い至った。

 開き直って何時もの調子を取り戻したヒタキは、ティーカップの持ち手を衝動的に粉砕して慌てているヴェルマに布巾を渡しながら大きく溜息を吐いた。

 まあ、いいか。

「で、何かあったのか?」

「お前、というかお前たちだな」

 店主の嫌に真面目な声に、ヒタキとヴェルマはきょとんと首を傾げた。

「出て行け」

「は?」

「え?」

 店主の衝撃的な一言に、二人は揃って放心する。

「え、店長、俺最近はちゃんと家賃払ってるぞ」

「そうじゃない。お前らがいるせいで、あのメリルって娘と白銀の神子が毎日毎日押しかけてきやがるんだ。揃いも揃って人の話を聞かない餓鬼共を追い返すのはもう面倒だ。というより、あれは立派な営業妨害だ。目当てのお前らがいなくなれば、家は平穏になる。だから出て行け」

「…………」

「…………」

 今度は二人揃って閉口しだ。何だそれは。

 衝撃の事実に呆然としていると、準備中の看板がかけられた扉がガンガンと打ち鳴らされる。そう言えば、この店に準備中などという時間帯は存在しなかったはずだ。定休日以外は朝から晩まで常に営業中なのが憩い亭のスタイルだった。

「店長さーん! 開けてくださーい!! 今日こそはお二人のお見舞いを!」

 ガンガンガンガンと響くノックの音に、いたたまれない空気が流れる。

 あまりにも迷惑すぎる来客だった。

「なあ、店長」

「なんだ」

 溜息を吐いてヴェルマは、席から立ち上がった。

「あの二人が来なくなれば、私達は出ていく必要はないのだろう?」

「ああ。今すぐ追い返せ。奴らのせいで店の売上が右肩下がりだ」

 立派な営業妨害だった。

 頭を抑えて店の入口に向かい、ヴェルマは相変わらずガンガン叩かれ続ける扉を一気に引いた。

 倒れるように店に転がり込んできたメリル・カナートと、リョウ・アカツキ。きょとんとしていた二人は、じっとりとした視線で見下ろしてくるヴェルマと、カウンター席で呑気にミルクを啜るヒタキの姿を発見し、ぱっとその瞳を輝かせた。

「ヴェルマさん! 元気になったんですね!!」

 歓喜のあまり飛びつくように抱きついてきたメリルからさっと身を躱し、ヴェルマは哀れに地面に這いつくばるメリルを無視し、リョウ・アカツキを睨んだ。

「私達に何の用だ。貴様らのせいで私達は宿を失いかけている。くだらない要件なら、身の安全は保証しないぞ」

「あ、え…………」

 突然湧き出た死活問題の発生源を威嚇するヴェルマにたじろぐリョウ。そんな彼を庇うように、床から飛び起きたメリルがヴェルマの前に立つ。

「ち、違うんです。私達は、お礼と謝罪のために来たんです! ほら、リョウ君もちゃんと謝って!」

「ん? リョウ……君?」

 違和感に首を傾げるヴェルマの目前で、リョウ・アカツキが勢い良くその頭を下げた。

「本当にすみませんでした! それと、本当にありがとうございました!」

「…………」

「…………」

「僕、ヴェルマさんとヒタキさんに、勘違いと自分勝手な思いで迷惑ばかりかけて……なのに、なのにお二人は僕の命を救ってくれました!! お二人には、本当にいくら感謝しても感謝したりません!」

「…………」

「…………」

「僕、ここに来て調子に乗ってました! 自分は選ばれたんだって、何をやっても許されるんだって調子に乗って……みんなの意志をスキルで操るなんてことまで!!」

「…………」

「…………」

 誰だこいつは。

 唖然とするヒタキとヴェルマに、彼の横に並んだメリルが苦笑しながら説明する。

「リョウ君は、本当は優しい人なんです。迷宮都市にいきなり飛ばされて来て急に特殊スキルを与えられて、気が大きくなってただけだったんですよ。まあ、それでも困っていたミリアさんや私を助けてくれた、優しい人には変わりありませんでしたけど」

「僕のパーティメンバーだった人達には、全部事情を話しました。当然と言えば当然なんですが、みんな僕に愛想を尽かして出て行ってしまいましたけど。だけど、メリルだけは残ってくれたんです」

 申し訳無さそうに、だけど嬉しそうに報告するリョウ・アカツキ。その姿はかつての板についていない不遜な態度よりよほど自然で、よほど好感が持てた。

 だがしかし。

 ヴェルマは痛みが増した頭を押さえ、並び立つ二人から遠ざかるようにカウンター席へと戻った。

「そうか、それは良かったな。だが……何故それを私達に?」

「僕は、メリルと一緒にもう一度やり直すことにしました。それで、一番迷惑をかけてしまった恩人のお二人にはちゃんと報告して、許可を貰わないといけないって思って」

「…………」

「いいんじゃないか、別に。俺達の許可なんて取らなくても、勝手にやったら」

 何も答えなくなってしまったヴェルマに代わり、ヒタキは本心から好きにしたらいいのにとばかりにそう答えた。

「いえ、でも……。もしも、もしもですが、借り物のこの力でも、僕は恩を返せるなら、お二人の力になりたいと思ってます。だから僕は、もしもお二人のお手伝いができるなら、そうすべきだと思って……」

「いいよ、別に。俺は、あんたのためにやったわけじゃない」

「私も別に、お前のためにやったわけではない。だからメリルと二人で一からやり直したいと言うのなら、好きにするといい」

「ヒタキさん、ヴェルマさん……」

 感極まったように涙を拭うリョウ・アカツキ。そしてその隣でうんうんと頷くメリル・カナート。

「本当にありがとうございました。ヒタキさんとヴェルマさんは、私達の恩人です。今はまだ私達は未熟ですが、いつかきっとお二人の役に立てるくらい強くなってみせます!!」

 ありがとうございましたと、何度も何度もそう告げて、二人は憩い亭から去って行った。

 嵐の後が如き静けさが、部屋に訪れる。

 以前にも、こんなことがあった。

 だが、以前の嵐は一つだった。今度は、今度からは二つ。

「結局、恋は盲目というのが結論か」

 疲れたとばかりに首を振るヴェルマ。自分たちがあの大騒動に関わることになったきっかけであるその謎の解は、目も当てられないものだった。

 取っ手が粉砕されたティーカップから少しばかり冷めてしまった紅茶を啜って、やれやれと苦笑するヴェルマ。そんな彼女を横目に見ながら、ヒタキ飲み干してしまったグラスをカウンターに置いて言った。

「まあ、そういうこともあるんだろうな」

「ん? 以前とは随分と違う反応だな」

「え、何が?」

 きょとんと、ヒタキとヴェルマは二人揃って呑気に首を傾げる。ここ最近日常となったそんな何時も通りのやり取りに、店主は溜息を吐きつつカウンターにミルクと紅茶のおかわりと、ケーキが乗った皿を置いた。

「店長、俺達、おかわり頼んでないけど……」

「十日前の予約分と、こっちは予約特典だ」

 無愛想に告げた店主に、ヒタキはそういえばと思い出してローブのポケットの中をまさぐる。手に握りこんだのは、あの日投げ返された数枚の硬貨だった。

 何のことかわかっていないヴェルマには、今晩の快気祝いの席で語って聞かせよう。あの日、ヒタキの背を押してくれた、迷宮都市のお人好し達の話を。

 カウンターにあの日の硬貨を置いて、ヒタキは小さくお礼を言った。

「店長、ありがと」

「……よくわからないが、ありがたく頂こう。ふむ、以前出してもらったケーキの完成品か?」

 以前はヴェルマの前にだけ置かれた一枚の皿が、今度は二枚。白く綺麗なそのケーキは、凶悪な人相の店主が鬼気迫る様子で丹精込めて作り上げた一品だった。

「完成一歩手前だ。前はろくに改善点も言わないまま出て行きやがったからな。今度からは少しくらい店の売上に貢献しろ」

 感想を聞かせろとぎろりと睨まれ、ヒタキとヴェルマは顔を見合わせて、同時に匙を取った。

 人を数人は殺していそうなその眼光と純白のケーキのギャップに混乱する思考を振り払うように、ケーキを勢い良く口に運ぶ。

「お、何か何時もの普通じゃない」

「美味い……うむ、いいなこれは。気に入った。これは何と言う名前のケーキなんだ? この都市のものか?」

「店長、お菓子も作れるんだな。メニューになかったから、そういうのはないと思ってた」

 まったく役に立つとは思えないそんな感想しか発しない二人に、しかし店主は少しだけ満足そうに鼻を鳴らした。

「もともと俺は菓子作りの方が得意だったが、需要がなかったから店には置いてなかっただけだ。あと、そのケーキはオリジナルだ。名前はまだない」

「…………」

 色々と衝撃の事実に呆然とする二人を気にした様子もなく、店主は続けた。

「そう言えば、お前ら、固定パーティを組むのか?」

「ああ、そのつもりだが……」

 本当にいいのか? と視線で語りかけてくるヴェルマに、ヒタキは満足そうにケーキを食べならが不思議そうに答える。

「俺はヴェルさんと生きていきたいって言っただろ?」

「……まったく」

 何を今更と答えるヒタキに、ヴェルマは小さく溜息を吐く。そうやって言葉を選ばないから幼女趣味とか言われるのだ。

「パーティの名前が決まったら教えろ。役に立たん感想の代わりに、お前らの名前を使わせてもらうことにした。あと、それを食ったらさっさと出て行け。いつもなら、教会の奴らが勧誘に来る時間帯だ」

 腕を組んでそんなやり取りを繰り広げる面倒臭い生き物たちを冷たい瞳で眺めていた店主は、一方的に告げてくるりと背を向け再度夜の仕込みに戻って行った。

 どうやら、店の営業妨害をするのは小さな台風二人だけではなかったようだ。

 店主の言葉通り、店に近づいてくる数人の魔力に感づいたヒタキは、呑気に紅茶を啜るヴェルマを抱え上げた。

「まったく、落ち着いて紅茶も飲ませてくれないのか。神の寵愛だか何だか知らないが、いい迷惑だ」

 加護を、そして寵愛を与えてくれる神々に暴言を吐きつつ、ヴェルマはヒタキの腕に身を任せ空に指を滑らせる。

「扉を固定した。今のうちに装備を回収して、久しぶりに迷宮にでも潜るとしようか」

「あ、もうそこまで回復してたのか。なら別に、運ぶ必要ないか」

「いや、残念なことに私はまだ紅茶を飲んでいる最中だ。せっかく淹れてもらった紅茶を残して行くのは失礼だからな、このまま部屋まで運んでくれ」

 つい先程から随分とご機嫌になったヴェルマを不思議に思いつつも、ヒタキはまあいっかと軋む階段を上がる。腕の中で幸せに紅茶を飲むヴェルマを見ていたら、ヒタキも幸せだった。

「あ、店長。名前、決まった」

 ふと思いついたようにそう言って、自分が決めていいかと尋ねるヒタキに、ヴェルマは特別驚くこともなく頷く。

 昼下がりの憩い亭で急に何だと訝しむのは、店主のみ。面倒な二人の客は、呑気に幸せそうに微笑みながら、今日も今日とて迷宮へと逃げる。

 その光景はこれから暫く続く日常にして、迷宮都市で、世界で語られることになる、一つの物語の一幕。

 迷宮の神々が夢見る物語なんてものではない、今から綴られる物語だった。

 彼と彼女が綴っていく、二人の物語。

 呪われた姫君と愚かな賢者の、二人の物語だった。





*           *           *


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

SS-BBS SCRIPT for CONTRIBUTION --- Scratched by MAI
0.14772605895996