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[30156] 公爵家の片隅で 【完結・オリ主】
Name: FTR◆9882bbac ID:bedd3568
Date: 2014/09/29 11:33
ゼロの使い魔の世界をベースにした小説です。
ヴァリエール公爵家を舞台にした、オリキャラによる日常系メイドものになります。

2014/05/21 完結

ハーメルン様にも掲載しています。



[30156] 第1話
Name: FTR◆9882bbac ID:bedd3568
Date: 2014/05/18 23:55
 家具磨きと言うのは、これで結構面倒なものだ。
 一気にがーっと磨きをかけられればいいのだが、意匠に合わせて磨き方を工夫しなければならないし、あまり力を入れてやってしまうと傷を付けてしまう。
 その辺の力加減を上手く調整しながらも、やや色気が出るくらいの艶を出すのが職人芸と言うもの。無意味にテカらせるのは素人の手並みだ。
 仕上げ用の雑巾でしゅしゅしゅ~っと磨き上げ、ワックスを塗って乾かし、最後に空拭きを施す。
 仕上げ終わってやや距離とって出来栄えを見た。
 美しい。
 曇りなく、それでいて部屋の雰囲気を壊さぬ嫌味のない艶。
 我ながら完璧な仕上がりだ。これならば家政婦も無言で通り過ぎるだろう。
 私たちの支配人たるあの家政婦は、問題がある時はとことん口を出して来るが、納得してくれた時は無言なのが常だ。ねぎらいもお褒めの言葉もない。そうあって当然と言うのが彼女のスタンスなのだろう。大抵の場合、他人に厳しく当たる人はよく言われないものだけど、彼女の場合は自分にはより厳しい人なので誰も何も言わない。

「ナミ」

「ひゃい!?」

 そんなことを考えていたら、まさにその家政婦が音もなく背後に立って声をかけてきた。幽霊みたいに音を出さない人だ。さすがは風のトライアングル、『地獄耳』のヴァネッサ。
 ここでうろたえると追い打ちが来るので、慌てて居住まいを正して目を伏せる。礼儀作法にはとことんうるさい人だから困る。

「エレオノールお嬢様がお呼びです。お部屋にお伺いなさい」

「かしこまりました」

 エレオノールお嬢様は昨日から春休みの帰省をされておられるのだが、早速のお呼び出しと来たか。私は家政婦に一礼し、平静を装いながらも内心で脂汗をかいていた。何しろ、エレオノールお嬢様は取り扱いを間違うと酷い目に遭わされてしまうお方だからだ。
 家具の周囲に散在する掃除道具を籠に入れ、メイドの特殊技能の一つ『優雅に急ぐ』を発動する。スカートの裾を乱さず、全速力で用具入れに掃除道具を戻しに行く。使用人たる者、貴族様のお屋敷にあっては、間違っても雰囲気を壊すようなことがあってはならない。使用人は家の一部なのだから、家格に相応しい物腰を心がけねばならない。走る等もってのほかだ。外見は優雅に構えつつも、丈の長いスカートの中では水鳥の水かきのごとく両足を目いっぱい動かして素早く全速前進。

「あら、もう終わったの?」

 用具置き場に行くと、私と同じ『ブローチ組』のシンシアがモップを手に次の任地へ出発するところだった。
 雪のような肌に眩いブロンド。私と同い年の、そばかすが可愛い女の子だ。

「お嬢様のお呼び出しよ」

「お嬢様……って、エレオノール様?」

「そう」

「あらら、お帰りになられて早速とはついてないわね」

「言わないでよ」

 シンシアの相手も適当に、用具入れのドアを開けて籠を戻す。用具入れと言ってもちょっとした倉庫で、私の感覚だと8畳は余裕であるお部屋だ。やろうと思えば住める広さが用具入れ。貴族ってすごいなあ、と思う。

 そのまま高速移動を続けながら身だしなみを整える。カチューシャの角度やエプロンの汚れ。今日のコンディションなら着替えなくても大丈夫だろう。最初のころは急いで行ったら汚い恰好で来るなと大目玉を食らったっけ。

 ショートカットの中庭を横切ると、先輩のメイド連中が何やら探し物をしていた。
 植え込みをごそごそ。園丁のミスタ・ドラクロワに文句を言われなきゃいいんだけど。

「何かお探しですか?」

 興味をひかれて先輩の一人に訊いてみた。

「ルイズお嬢様よ」

「ルイズお嬢様?」

「魔法の練習中に逃げ出したんですって。奥様かんかんよ。」

 それを聞いて、周囲のメイド連中も声を漏らす。

「ルイズお嬢様も難儀だよね」

「まったくね。上のお二人のお嬢様はあんなに魔法がおできになるっていうのに」

 あけすけな物言いに、私はちょっとだけ腹が立った。

「あ~、たぶん、ルイズお嬢様は大器晩成型ですよ?」

 私の言葉に手を止めて、先輩の一人が振り返った。

「あら、言うわね。何か根拠があるの?」

「ありますよ。だって、あの奥方様のお嬢様ですし、ただ者で終わると思う方が無理があると思いますけど」

「『ブローチ組』の勘?」

「そんなたいそうなものじゃなくて、何となくです」

 『ブローチ組』と一般の使用人の間に格差はないはずなんだけど、たまにこうやって突っかかられることがある。お給料が変わる訳じゃないのに、何だか嫌な感じだ。





 無意味に思えるほど広いお城の中を移動し、ようやくエレオノールお嬢様の居室に辿りつく。所要時間4分。我ながらまずまずのタイムだ。呼吸を落ちつけてから伺いを立てる。

『開いてるわ』

「失礼致します」

 ドアを開けて入ると、真っ先に飛んでくるのはいつものセリフだ。

「遅いわね。呼ばれたらすぐに来なさい」

 どれほど急いでも、必ずいただくきつい一言。でも、それがこの人の持ち味だから仕方がない。

「申し訳ございません。次からは気をつけます」

「まあ、いいわ」

 エレオノールお嬢様。御歳17歳。私の5つ上だ。魔法学院に在学中で、普段は寮に入っておられるのだが、今日は帰省中だ。

「ルイズが、また癇癪を起したそうなのよ」

「まあ」

「魔法の練習中にね。随分厳しく叱られたせいで、泣きながら逃げ出したそうよ。困ったものだわ。そうでしょ?」

「はい、お嬢様」

「本当に困ったものなのよ」

「はい、お嬢様」

「まったく……あの子ったら」

「はい、お嬢様」

 苛立たしげに言葉を重ねるエレオノールお嬢様には間違っても意見を言ってはいけない。それは経験則に裏打ちされたメイドたちの鉄則の一つだ。

「……ナミ」

「はい、お嬢様」

「慰めて来なさい。方法は任せます」

 微かに視線が泳いでいる。耳がちょっと赤い。少しだけ恥ずかしそうなエレオノールお嬢様。この可愛さに気付く殿方がいれば、恐らくこの方は国でも屈指の名花に上り詰めるだろうになあ。

「かしこまりました。加減はいかが致しましょう?」

「そうね……今日はだいぶ酷かった様子だから、少々強めでいいわ」

「一言申し上げてもよろしいでしょうか?」

「許します」

「お嬢様がご自身でお声をおかけになられたほうが、ルイズお嬢様もお喜びになると思いますが?」

 その言葉に、エレオノールお嬢様は今度こそ真っ赤になって声を荒げた。

「馬鹿おっしゃい。長女の私が甘く接したら、他に示しがつかないでしょう。そのためのあなたよ。判ったらお行きなさい」

「はい、お嬢様。失礼いたします」

 ちょっとだけ必死のお嬢様に忍び笑いを漏らして、私は一礼して部屋を辞した。





 ルイズお嬢様はヴァリエール公爵家の三女だ。御年6歳。年の割には小柄だが、小柄なだけにそれはもう人形のように可愛らしい。ちょっとだけ癖のあるストロベリーブロンドに、端正な顔立ち。何より、透き通るようなお肌が素晴らしい。
 そんなお嬢様だが、魔法がちょっと苦手だ。苦手と言うより、魔法を使うと爆発が起こると言う摩訶不思議な特技をお持ちなのだ。その爆発は結構な威力で、最初は屋内でやっていた魔法の練習を、屋外に切り替えなければいけないほどだった。その決定にはルイズお嬢様もちょっと傷つかれたようだけど、さすがにあそこまでしょっちゅう建屋が破壊されては公爵様もたまらなかったに違いない。
 国中から優れた家庭教師が呼ばれているけど、どうしても上達しないルイズお嬢様。最近はさすがにちょっとお疲れ気味で、何かにつけて癇癪を起されるようになっている。何ともお労しいことだ。

 中庭の池に行くと、小舟がゆらゆら揺れていた。
 私は杖を抜いて、静かにルーンを唱える。ふわりと飛んで、静かに小舟に降り立った。

「見つけましてよ、ルイズお嬢様」

 出来るだけ優しい声をかけると、泣き腫らした目で私を見上げるお嬢様。

「ナミ……」

「また上手くいかなかったのですか?」

 私が声をかけると、ルイズお嬢様はまたぽろぽろと泣き出した。
 泣き顔も可愛いと言うのは何ともずるいと思う。

「ねえナミ」

「はい、お嬢様」

「私、どうしてうまくいかないのかな」

「それは、わたくしには判りかねます」

 そうお応えすると、またぽろぽろ。
 これは確かにお慰めするのは大変そうだ。エレオノールお嬢様の御指示はやや強めにお慰めせよとのこと。
 良く判っていらっしゃる方だと思う。

「ですが、わたくしにも判ることはございますよ?」

「ん?」

「春は必ず来ると言うことです」

「春?」

「ええ。でも、春の前には長い冬があるのです。ルイズお嬢様にとって、今は、その冬なのだとわたくしは思います」

 私の言葉を黙って聞いていたルイズお嬢様は、しばらくすんすんと鼻を鳴らしていたが、程なく落ち着き、私に泣き止んだ顔を向けた。

「……お話、聞かせなさい」

「お話、ですか?」

「あのお話、しなさい」

「かしこまりました」

 私は笑って話し出した。
 ルイズお嬢様が、一番気に入ってらっしゃるおとぎ話。





 むかしむかし、あるところに御濠に囲まれた大きなお城がありました。
 そこの御濠に、アヒルの親子がおりました。
 雛たちは生まれたばかり。みんな黄色くて可愛らしい雛ばかりでした。
 ですが、その中に一羽だけ灰色の、すごくみにくい雛がおりました……。







「お疲れ~」

 一足先に私が部屋に戻っていると、シンシアが疲労困憊と言う顔で部屋に飛び込んできた。
 そのまま自分のベッドにダイブ。着替えてからのほうが良くない、そういうの?
 時刻は夜の9時。私たちは二人とも夜番ではないので、今日はこのまま眠れる。

「早く着替えなよ。シーツ、汚れちゃうよ」

「はあ、着替えるのも億劫だわ」

 そう言いながらテキパキとお仕着せを脱ぎ始めるシンシア。う~ん、同い年のくせに、相変わらず出るとこ出てるなあ。でも、だいぶ今日は疲れているみたい。確か浴室の徹底清掃だったっけ。高いところ専門で飛び回ったんだろうなあ。
 そんなシンシアを見ていて思い出した。

「あ、そうだ。今日実家から届いたんだ」

「何?」

 首を傾げるシンシアに、荷物の中から瓶を取り出す。

「じゃ~ん」

「うわ、うわ、すごい!」

 取り出したのは透明な液体が満ちた瓶だ。私の実家で作っている発泡酒。
 シンシアが特に好きなシャンパンだ。

「欲しい?」

「決まってんでしょ。一人で飲むなんて言わないわよね」

「ふふふ、欲しかったら三べん回ってにゃんと鳴け」

「何回だって回ってあげるわよ」

「嘘だよ。回らなくていいからグラス出して」

 そんな感じにじゃれていると、ドアが3回ノックされる。
 ドアを開けると、隣の部屋のソフィーが立っていた。私より頭一つ背が高く、妙に姿勢がいい子だ。凛とした雰囲気は何だか軍人みたいな感じで、眼光も鋭い。

「遅くにすまんな。借りた本を返しに来た」

「もう読んだんだ?」

「実に有意義な本だったので、なかなか切るところが難しくてな。一気に読んでしまったよ」

「寝不足はまずいよ?」

「そこは気力で何とかする。お、何だかいいものがあるな」

 ソフィーが目ざとくデスクの上の酒瓶を目に止める。

「ソフィーも飲む?」

 この子もこれ好きだし、声をかけようと思っていたところだからちょうどよかった。帰ってきた答えも予想通りだった。

「相伴に与れるなら幸いだ」



「行きま~す」

 栓を捻ると、小気味いい音を立ててコルクが飛んだ。シンシアが嬉しそうに拍手する。

「それにしても……」

 グラスに満ちた泡立つシャンパンを見ながら、ソフィーはしみじみと呟いた。

「本を拝読したから言う訳ではないが、ナミの祖父殿の才能には改めて驚かされるな」

「そう?」

 返してもらった本を棚にしまいながら、私は首を傾げる。本は、私のおじいちゃんが書いた経営に関する実用書だ。私が読んでもあまりよく判らないけど、ソフィーの嗜好には合ったみたい。詳しくは聞いていないけど、ソフィーの家は結構な貴族で、領地も役職も相応に持っているけど、当代に入ってから領地経営がなかなかうまくいっていないらしい。今度、思い切って干拓事業にも手を付けるとか言ってたけど、それもうまくいくかは半信半疑なんだとか。
 そんな彼女は私のおじいちゃんのことを知っていて、しばしば私におじいちゃんの話を聞きに来る。
 ゆくゆくは、自分が領地再建に乗り出すのだと口に出さないまでも全身で主張している感じだ。そのための知識の集積に、今は必死になっているのだろう。

「このシャンパンというのもそうだが、生み出した産品は実にユニークだ。どうすればこのような発想ができるのやら。興味深い」

「何だかどっかのすごい人みたいに思ってるかもしれないけど、普通の人だったよ?」

「ナミのおじいさん、もう何年?」

 至上の幸せといった顔をしてグラスに口を付けているシンシアが、我に返って話に混ざってきた。

「奉公に来た時だから、2年」

 もう2年か。月日が経つのは早いなあ。

「つくづく、惜しい方を亡くしたと思う。もう少し早くお前と縁ができていたらと思うよ」

 さも悔しそうにお酒を飲むソフィー。
 そんな風に人々に偉人みたいに言われるおじいちゃんだけど、私にはあまりピンとこない感じだ。
 年をとってもいたずらとか面白いことが大好きで、思いついたらまずやってみるという元気あふれる人だった。このシャンパンや、多くのアイディア商品を生み出して実家のお店を結構な規模まで成長させたし、慈善事業とかいろんな社会貢献でも名前を知られた人だった。でも家だとひょうきんな普通のおじいちゃんで、王都のちょっとえっちなお店に出入りして、それがばれておばあちゃんにこっぴどく怒られて泣いて謝っていたような人だった。
 孫は私だけだったけど、その分すごく私を可愛がってくれた。いろんなお話をしてくれたし、私がこの家に奉公に上がる時にも、いろいろ骨を折ってくれた。むしろ、積極的に私を公爵様のお城に行かせようとしていたような気がしないでもない。

 そんなおじいちゃんだけど、いつも言っていたのが何故かルイズお嬢様のことだった。
 何でも『ヴァリエール公爵様の三女はすごいお方になるぞ。いつか必ずこの国を救うお方になるからな』とのこと。
 まだルイズお嬢様がお生まれになる前から酔っぱらうたびにそんなことを言っていたけど、そんなルイズお嬢様は魔法についてはちょっと将来が不安な感じ。
 でも、おじいちゃんの予言って当たるんだよね。

 ……何だか私にはよく判らないや。


 そんなことを考えながら飲んでいたら、あっさりとお酒が回ってしまった。
 実は結構弱い方だったりする。
 お酒の残りをシンシアとソフィーに任せて、私は早々に布団にもぐりこんだ。
 寝つきの良さには自信がある。目を閉じれば10数えるうちに夢の世界だ。

 眠りに落ちる時の、すとんとした感覚は好きだ。



 明日もまた、一日頑張らないと。

 そんなことを思いながら、私は眠った。



[30156] 第2話
Name: FTR◆9882bbac ID:bedd3568
Date: 2014/05/23 09:21
 眠い。
 実は朝は苦手な私だ。今日のように寒いと尚更辛い。
 それでもえいやと起きだして、寝巻を脱ぐ。
 
「シンシア」

 同室のシンシアに声をかける。声をかけるのは一度だけだ。
 無反応なのを確かめて、一気に布団をはいだ。

「ひゃ~」

 と悲鳴を上げてシンシアが覚醒する。毎朝毎朝、そろそろ懲りないかな、このパターン。
 隣でぶつぶつ文句を言っているシンシアをほっといて、午前着に袖を通す。
 今日は奥方様の入浴のお手伝いから。
 水仕事向きのエプロンを身につけ、最後に胸元にブローチを付ける。
 マントを模ったブローチ。
 私たちが『ブローチ組』と言われる所以だ。

 メイジと言うのは貴族だけを指す言葉ではない。
 この国では貴族は例外なくメイジだけど、メイジが全て貴族と言う訳ではない。
 そんなメイジだが、家も名もないメイジは平民と言う身分に落ち着く。
 平民なので、当然働かないと食べていけない。
 私の父親は祖父の代からの商人なのだが、母親が傭兵メイジだったためか、私にはメイジの素養があった。
 そんな私が将来のためにと放り込まれたのが、大貴族たるラ・ヴァリエール公爵家だった訳だ。
 実際、平民だけでなく格が低い家の婦女も行儀見習いとして大貴族に奉公に出るのは一般的ではある。裕福な家ならば魔法学院あたりに通ったりもするけど、学費が工面できない貴族は大貴族のところに奉公に出てささやかな人脈と礼法を身に付ける。それが嫌なら軍に入るしかない。
 ここで問題になるのが、メイジの象徴たるマントだ。
 メイジと言えばマント。
 私も父が見栄で作ったマントを持っているが、さすがにお仕着せの上にマントを着ていては仕事にならない。
 そういう奉公人に対し、マントの代わりに支給されるのがこのブローチだ。
 魔法が使える奉公人。それを指して『ブローチ組』と言われている。
 魔法が使えると言っても私は水のドットに過ぎないし、お給料についても魔法が使えない使用人と差別されていない。使用人の能力は、魔法以外によるところの方が大きいのだ。例えば、ちょっと見た目が残念なトライアングルメイジと、誰もが振り返るような美女が使用人として申し込みをしてきたら、貴族様は後者を取るのが普通だ。
 使用人は家の一部。家具と同じだ。誰かに見せるパーツは、見栄えこそが重要という訳だ。接客担当の先輩たちなんか、どこの妖精の世界から来たのやらと思うくらいに美人ぞろいだし。もちろん、美貌を兼ね備えたブローチ組の先輩となるとお給料はかなりの額だ。場合によっては2号夫人の座も狙える。なかなかに出世街道ではある。

 
 朝、最初のイベントは朝礼だ。
 全員が整列して、家政婦のヴァネッサ女史や執事のジェロームさんから伝達事項を窺う。
 今日の来訪者や、公爵様やご家族の御予定、それから作業の分担。
 今日みたいに、先に予定が判っているような場合は前日に申し付けられることもある。
 それだけにこの朝礼はすごく重要なもので、当然ではあるが、遅刻をしたらキツい罰がある。最低でも減給、最悪の場合は雇いを解かれてしまう。
 必要最低限の伝達だけが行われ、終わると同時に私とシンシアは浴室に向かって例のごとく優雅に急いだ。


 湿度が高い浴室に、美女が湯浴着を着て浴槽に浸っている。
 3児の母にして四十代の奥方様。だが、これを見てそれを素直に受け入れられる者はいないだろう。
 張りのある肌、艶のある髪。それに加えて凛とした気品のある色気。どう見ても三十代前半から中盤。後半までは絶対にいってない。目力が刃物のように鋭くなければ、食虫植物に引き寄せられた虫のように幾らでも若いツバメが寄ってくることだろう。
 でも、実はこの奥方様は御主人が大好きで、時折微かに見せるちょっとだけ甘える仕草がとんでもなく可愛い。
 この歳の方に可愛いと言うのも変だが、本当に微笑ましい時がある。
 ある朝、御夫婦が揃って寝室から出て来たところに偶然出くわしたことがあるのだが、その時、御主人に『相変わらず、君は可愛いな』と言われた時は首まで真っ赤になって怒っていた。何だか女の子がそのまま大きくなって怒っているような雰囲気で、見ていてすごく優しい気持ちになったものだった。
 将来は、ああいう夫婦になりたいものだと私も思う。

 そんな事を思いながら、ふと私の隣に立つ同僚を見て、私は慌てて肘で突いた。
 シンシアという子は愛嬌があって大らかな楽しい子なのだが、一つだけ困ったことがある。
 綺麗なものが大好きなのだ。
 それは生き物や草花、果ては美女に至るまで実に節操がない。ルイズお嬢様を見た時に緩みまくった笑顔を浮かべていたのを見た時はてっきりちょっと性癖に難のある子なのかと思ったくらいだが、夜のガールズトークで確認した範囲では至って普通だったので驚いた。要するに、ただ単に美しいものが好きなだけらしい。
 しかし、奥方様の入浴姿を星を散らした目で見ながら口元から涎を垂らしている姿は、どう見ても痴女のそれだ。うっかり誤解されたら暇を出されてしまいかねない。本当に自重して欲しいと思う。
 
「出ます」

 ざばーっとお湯をかき分けて奥方様が立ち上がり、歩くのに合わせて私とシンシアを含めたメイドたちが奥方様に取りつく。彼女の歩みを止めぬよう、動きに合わせてタオルで拭きあげていくのだ。
 貴族の女性は裸を見られても平気なのだが、奥方様も堂々としたものだ。しっかし綺麗なお肌だなあ。秘訣とか教えてもらえないかしら。
 その後は脱衣所の椅子に座って髪結いの出番。綺麗に水気を取られた髪が、丁寧に整えられていく。その間は当然全裸の奥方様。もちろん風邪をひかぬよう脱衣所の保温は確保されている。
 髪が整えられると、またもメイドが寄ってたかって御召し物を着せていく。この辺のセンスは奥方様専属のレディスメイドの腕の見せ所だが、センスと言うだけに才能が大きくものを言う。奥方様は綺麗な方ではあるが凛とした方でもあるので、その魅力を最大限に引き出す服や小物のチョイスにはなかなかな気配りが必要だろうと見ていて思う。

 家の方々が朝食になると、その間に私たちも朝食をいただく。私たち下っ端のハウスメイドの仕事には、同僚へのお給仕も含まれている。先輩方のご飯は後輩が面倒をみるのが習わしだ。歳が行くに従って、自然と抜けて行くのが女性使用人の世界。いつかは私も年長になって、ご飯のお給仕してもらって、最後は嫁に行ってここを去るのだろうか。今の私は、何だか自分が誰かの嫁になるということが、今一つピンとこない感じだ。
 周りにはどこかの貴族の御子息に見初められて、と夢見る子もないでもないが、私は妾は嫌だ。多少貧しくても、出来れば笑って旦那さんと手をつないで歩きたいし、子供が生まれたら、その両手を旦那さんと片方ずつ握って三人でお散歩するのが野望でもある。子供を乳母に取られ、正妻さんに気を使いながら生きるような生活はごめんだ。

 食事が終わったら本格的に午前中の仕事が始まる。
 私たち、ハウスメイドの仕事は、何を置いても掃除だ。ただゴミや埃を掃き清めるだけでなく、建物の中のいろんなものを磨き上げるのも仕事の内だから大変だ。金属などは、固定化がかかっていれば錆びる心配はないが、曇ったり埃がたかることは他の調度と変わりはない。
 朝食が終わったら私とシンシアは部屋に戻り、今日の作業専用の服に着替える。
 一見するとフットマンのような半ズボン姿。要するに男装だ。
 用具入れから作業のための道具を取り出していると、通りすがりの男性使用人連中が笑って話しかけてくる。

「よう、坊主。どこから迷い込んだんだい?」

 楽しそうに笑いながら話しかけてくるのは、3つ上のフットマンのジャンだ。私と笑いのツボが合うのでよく話すのだが、彼は魔法が使えない普通の使用人。実家はタルブ地方のワイナリーだったっけ。おじいちゃんもあの地方のワインについては良く褒めていたな。
 そんなジャンの悪意のない笑い声に、威勢よく男言葉を返す。

「うるせー、ばかやろー」

 お互いに笑いながら別れ、私とシンシアが向かう先は正面ホールだ。



「遅いぞ」

 ある意味、お城の顔ともいえる正面ホール。そこには既に半ズボン姿のソフィーが待っていた。背が高く、凛々しいソフィーがこういう格好をすると、そのまんま美少年と言った感じだ。シンシアの琴線に触れるクラスの美しいかっこよさがある。どこを切っても平凡の二文字しか出てこない私としては、羨ましいことこの上ない。
 今日のスタッフはこの『ブローチ組』の3人。いつものメンバーとも言える。

「それじゃ、一番手行きます」

 私は手を上げて宣言し、ルーンを唱えてひょいと天井に向かって飛んだ。
 正面ホールにある、最大級のシャンデリア。
 これの煤落としが今日の午前の仕事だ。
 作業は三人一組。一人が雑巾を絞って、もう一人がその雑巾を受け取ってシャンデリアを磨き上げていく。残る一人は安全管理だ。
 大きなシャンデリアではあるものの、大の大人が乗っかって仕事をすると壊れかねないので、担当するのは主にまだ小さい私たちのようなハウスメイドのスタッフだ。
 別に初めてという訳ではないので段取りは判っている。テキパキとこなしていけばいいのだが、いかんせんシャンデリアと言うのは構造が複雑なのでかなり危ない体勢で磨かなくちゃいけない部分もある。照明も一個一個がマジックランプなので、一個でも落としたら大変な損失になってしまう。もしもの時は、下にいる安全管理担当に魔法で受け止めてもらうことになっている。その落ちるものの中には、私も含まれているけど。それで調子に乗ってかなり無茶なことをやることもあるけど、あんまり危ないマネをしているとソフィーが怒りだすのでここは自重。
 途中で何回か三人で役割を交代してでっかいシャンデリアを磨き上げていく。何だかんだで午前中いっぱいはどうしてもかかってしまう作業だ。


 シャンデリア磨きが終わったら、いったん着替えて昼食だ。
 朝ご飯より軽めだけど、軽くないと午後の仕事に差し障るから、ちょっと物足りないくらいが適量とも思える。
 メニューはパンと簡単なサラダだ。

 食べ終わったら大急ぎで午後の服装に着替え。
 今日の私の担当は、スタッフたちへのお茶の手配だ。午後の作業の3時に合わせて、お茶とお茶菓子が支給されるのだが、それを配って回るのがお仕事だ。メイドたちは城内のお仕事がほとんどだから交代で使用人ホールでお茶をいただくけど、外で働く人たちにはお茶を持って行ってあげなければならない。園丁や厩務員のような方々がその主な対象だ。これについては相手も楽しみにしているだけに、うっかり遅れると嫌な恨みを買うのでこれまた手を抜けないお仕事なのだ。


「お待たせしました、お茶で~す」

 例によって『優雅に急ぎ』ながら、まずは厩舎に茶道具を届ける。ポットとカップ、そして茶菓子の載ったお盆を届ける。ちなみに今日の茶菓子はフルーツケーキだ。さすがは公爵様のお抱えコックだけあって、もらえる茶菓子は私たち使用人向けでも実に美味しいのだ。

「お、待ってたよ」

 嬉しそうに厩務員の若手が出てきてお盆を受け取る。ちなみに茶道具の回収は私の仕事ではなく、寮に帰る途中で彼らが厨房に返すのが習慣だ。
 厩務員のお仕事は、結構厳しいと思う。馬は気難しい動物みたいだし、蹄鉄の管理などについては、たまに馬に蹴られるとかの事故も起こるんだとか。何というか、男の世界だと思う。
 厩舎の印象は、とにかく臭う。馬のうんちがある場所なのだから仕方がないけど、それ以外にも飼葉なども結構慣れない匂いを出している。その次に来る印象は、怖い。馬は大きいからとにかく迫力がある。近寄ると噛まれることもあるし。
 でも、何より怖いのが、ひときわ大きな建屋にいるマンティコアだ。魔獣マンティコアがどうして飼われているのか知らないけど、正直、この魔獣は見た目からして怖い。馬と違って飛ぶし。でも、馬みたいに繋がれているわけじゃないから、躾とかはしっかりされているのだろう。実際にはもうだいぶお年寄りで、若いころほど元気はないんだとか。別に近寄っても噛みつくわけじゃないけど、やっぱり怖いものは怖いのだ。


 一通り回って、最後は園丁のおじいさんのところだった。

「お待たせしました~」

 元気よく園丁の管理小屋に入ると、無人だった。どこかな、と思ったら裏から声が聞こえた。
 お盆を持ったまま裏に回ると、園丁のおじいさんが落ち葉を集めてたき火を起こしていた。
 一体何歳なのか判らないくらい歳を取った園丁の名前はミスタ・ドラクロワ。一見気難しそうだけど、実は結構いたずら好きな茶目っ気のあるおじいちゃんだ。でも、園丁としての腕はかなりの物なのだそうだ。

「良いところに来たのう」

 ミスタ・ドラクロワは笑いながらたき火をかき分け始めた。たき火の下には砂の山。その中に火ばさみを入れて、何やら藁でくるんだ塊を取り出した。

「ほれ、おすそわけだ」

 お皿に乗せたそれを受け取り、熱さに気を付けながら藁を取って驚いた。

「おイモ?」

「そこに塩があるから、皮を剥いて振って食え。うまいぞ」

 お仕事中なだけに、何だかいけないことをしているような気もするが、共犯者がいるからちょっとだけ気が大きくなった。
 言われたとおりに皮を剥くと、ほかほかであつあつのおイモがほわっと湯気を立てた。
 半分にしたそれにお塩を振ってかじってみる。

「うわ、美味しい」

 ほのかに甘くて香ばしいおイモと、お塩のハーモニーが何とも言えない感じだ。

「そうじゃろう……おっと、これはいかん」

 嬉しそうに目を細めていたミスタ・ドラクロワがいきなり慌てだしたので後ろを振り返ると、背が高い女性が腰に手を当てて立っていた。

「め、メイド長……」

 我ながら引き攣った顔をしていたと思う。そこにいたのは、メイド長のミリアム女史だった。
 25歳くらいだと思うけど、実際には年齢不詳。王都生まれの美人さんだ。面と向かって行き遅れと言ったら、恐らく往復ビンタが飛んでくるようなおっかない人だ。

「どこで油を売っているのですか、あなたは」

 腰に手を当てたまま、私に凍え死ねと言わんばかりの冷たい視線と冷たい声を浴びせてくる。

「す、すみません」

 御馳走になっている恩義があるのでミスタ・ドラクロワを売る訳にはいかない。
 ここは私一人が罪をかぶって平身低頭の一手だ。

「ミスタ。あなたもあなたです。困りますよ、部下の仕事の邪魔をされては」

「いやはや、すまんね」

 あまり悪びれていない感じでミスタ・ドラクロワが頭をかいている。

「まったく……それ、余分はありますか?」

 ミリアム女史が指差したのは、ミスタ・ドラクロワの持っているおイモだった。

「む、たくさん作ったからまだまだあるぞ」

 ミスタ・ドラクロアの言葉に、メイド長は頷いた。

「ここは、それ一つで手を打ちましょう」

 打つんですか、メイド長……。

「相変わらず話が判るのう、おぬし」

 ミスタ・ドラクロワがお皿に乗せておイモを差し出すと、ミリアム女史が私に向かって手を伸ばしてくる。

「お塩」

「は、はい~」

 慌ててお塩の瓶をその手に乗せる。

「いいわね、これであなたと私は同罪。他言無用ですよ」

「もちろんです」





 そんな、穏やかな午後。



[30156] 第3話
Name: FTR◆9882bbac ID:bedd3568
Date: 2011/10/16 16:22
 悲鳴が聞こえたのは、午後の作業の時だった。
 シンシアと一緒に客間の一つの家具磨きをやっている最中に聞こえた、鶏を絞め殺すような悲鳴。
 音源は、一つ上のフロアからだった。
 思わず顔を見合わせる私たち。私とシンシアはその原因に心当たりがあったので、慌てて駆け出した。

 階段を駆け上がると、そこに案の定一人のメイドが青くなって倒れていた。ソフィーだった。
 いつもは凛々しいこの子が、あられもない恰好で倒れている。
 私とシンシアはため息を吐いた。ソフィーが悲鳴を上げて倒れているのはこれが初めてではない。

「こら、またお前か」

 ソフィーの隣をぞぞぞと這っているのは、一匹のでっかい蛇だった。毒はないけど、その巨体を使って敵を絞め殺して食べるタイプの蛇だ。
 こいつはしばしば本来の居場所から脱走しては、何故か蛇が大の苦手なソフィーの真上から落下する習性がある。
 他のメイドでもいいだろうに、何故か狙われるのはソフィー。何か美味しそうな匂いでも出ているのだろうか。

「シンシア、ソフィーお願い。私はこいつを届けて来るわ」

「一人で大丈夫?」

「何とかするわよ」

 さすがにシンシアも女の子だから、蛇の類はあまり好きではないようだ。私は都会の育ちだけど、おじいちゃんにはしばしば山や川に連れて行ってもらっていたから蛇とか蜘蛛とかは結構平気だ。
 10キロほども重さがある蛇を抱えあげ、本来の居場所であるお嬢様の部屋に運ぶ。レビテーションを使った方が楽だけど、意味もなく使うと結構疲れるんだ、あれ。
 
「本当にもう。お前、あんまりあんなことしてるとお嬢様に黙って蒲焼にしちゃうぞ」

 山に行くたびに、おじいちゃんが蛇を取ってきて美味しく焼いてくれたのを思い出す。『蛇は山のニシンだ』とか言ってたけど、ニシンというのが何なのかは未だに判らない。
 そんなことを思いながら私が食べ物を見る目を向けると、その視線の意味が判るのか、蛇がちょっと落ち着きを無くす。こいつとの上下関係に関しては、私の方が上位なようだ。


 程なく、温室のようになったお嬢様のお部屋の前に立つと、確かに少しだけドアが開いていた。

「ほら、お前の居場所はここだよ。もう出てきちゃダメだよ。本当にそのうち食べられちゃうからね」

 判っているのか判っていないのか、蛇なだけに表情からは判らないけど、そのままぞぞぞぞ~っと動いて部屋の中に入って行った。

「あら、どうしたの?」

 蛇の帰宅を見届けていると、背後から声をかけられた。
 振り返ると、私と同い年くらいの桃色がかったブロンドの女の子がいた。
 これが公爵家の次女であらせられるカトレアお嬢様だ。
 このお部屋の主でもある。

「こちらの蛇をお届けにあがっておりました」

「まあ、ありがとう。よく言い聞かせているんだけど、どうにも冒険が好きみたいで」

 蛇と会話できるのか、という疑問はあるが、何となく浮世離れしたこのお嬢様ならできそうな気がするから不思議だ。

「それと、きちんと叱っておくから、できれば食べないであげてね」

 ……まぢい。聞かれていたか。

「申し訳ございません」

 平身低頭する私に微笑むカトレアお嬢様だが、何か思いついたように手を打った。

「あなた、ナミだったわよね?」

 ありゃ、何で知ってるんだろう?
 
「はい」

「ちょうどいいわ。お茶の用意をしてもらえるかしら」

「はい、すぐに担当を呼んで参ります」

「違うわ。あなたに話があるのよ」

「私ですか?」

 いささか驚いた。さて、蛇を食べようとしたことがご機嫌を損ねてしまったのだろうか。

「あの、何か至らぬ点でもありましたでしょうか?」

「そういう意味ではないわ。あら、ちょうどいいわ。ミリアム!」

 長い廊下の彼方を歩いていたのは、我等がメイド長だった。相変わらず姿勢が良く、クールビューティーを形にしたような雰囲気をまき散らしている。

「お呼びでございますか?」

「ちょっとこの子を貸してもらえないかしら。仕事中だと言うのは判っているけど」

 カトレアお嬢様の言葉に、ミリアム女史が冷たい視線を私に向けて来る。
 メイドの特殊技能の一つ『目と目で通じあう』の発動だ。

『ナミ。あなた、何をやったのですか?』

『し、知りませんよ。私、迷子の蛇を連れてきただけですし』

『でも、お嬢様があなたのようなメイドに声をかけるというのも珍しいですよ?』

『だから見当もつかないんですってば』

 そんなやり取りをしていると、カトレアお嬢様が焦れてきたようだ。

「ごめんなさい、ちょっと私も疲れてきたので、早く部屋に入って欲しいんだけど」

 催促され、ミリアム女史はようやく諦めたようにため息を吐いた。

「あなたの持ち場にはサポートを回しておきます。くれぐれも粗相のないように。いいですね?」

「は、はい」





 カトレアお嬢様の部屋はある意味魔窟だ。植物や動物がこれでもかというくらい溢れている大部屋で、一歩入ると鉢植えだの動物だの鳥だの何のと、まあすごいのだ。動物たちはみんなお嬢様になついているんだけど、植物の生育が妙に活発なのもどこかお嬢様のお人柄に関係があるのかも知れない。

 そんなお嬢様のお部屋の片隅に備え付けの水場があって、そこを使ってお茶を沸かす。これでもメイドの端くれだから、お茶の点て方の基本くらいは知っている。でも、本職にお願いした方が絶対美味しく入れられると思うんだけどなあ。偉い人が考える事はよく解らない。
 淹れたお茶を持ってお嬢様が待つテーブルに持っていく。

「お待たせいたしました」

 できるだけ優雅な手つきを心がけながら温め済みのカップに注ぐ。うう、さすがは高級品。いい香りだ。

「ありがとう」

 お茶を一口飲んで、カトレアお嬢様は微笑んだ。

「美味しいわ」

「恐れ入ります」

「あなたもそんなところに立ってないで、そこに座ってちょうだい」

 カトレアお嬢様が、自分の対面にある椅子を指さした。

「ご、御勘弁を」

 貴族の、しかも雇用主である家のお嬢様と同じテーブルに座るなど、あってはならないことだ。いくら相手に勧められたからと言って、はいそうですかと座った日には、それを見られた時点で御屋敷を叩き出されてしまうだろう。もちろん、そんな失礼を働いたメイドに再就職先なんか見つからないだろうし。

「あら、つまらないわね」

 口をとがらせるお嬢様。何だか気品がありながらも可愛い感じだ。実はカトレアお嬢様はお体があまり丈夫ではない。病気がちで、しょっちゅう治療士のお世話になられている。すごく美人だし、魔法もお上手なのに、社交界にもあまり顔をお出しになっていない。そんな事情なので友達もあまりいないようで、いつもこの部屋で動物を相手に過ごしおられる。何だからすごくもったいない感じだ。すごくお優しいかただし、それでいて思いやりがあって、たまに面白いことをやったりするお転婆な面もある。私が男で貴族でそこそこ立場があれば、恐らく花束を抱えて愛を囁きに来るだろうに。

「そうそう、あなたに訊きたい事があったのよ」

 私がお茶を飲む様子を見ながら不届きなことを考えていると、カトレアお嬢様はようやく思い出したように手を叩いた。
 ようやく本題だ。本当に何か粗相をしてしまったのだろうか。

「あなた、ルイズによくおとぎ話をして下さるんですって?」

 あらま、意外なところから話が繋がっているものだ。

「下世話な話ばかりで恐縮ですが」

「そうでもないわよ。あの子が話してくれたお話、本当に面白いものが多いもの」

 お褒めに与り恐悦至極だけど、それにしてもさすがはルイズお嬢様。一度聞いただけの話を誰かに話せてしまうとはすごい記憶力だ。

「でも、たまに意地悪されるって言ってたわ」

「意地悪ですか?」

 全く身に覚えのない話に私は首をかしげた。

「申し訳ありません。心当たりがないのですが」

「変ね。たまにすごく怖い話をされるって言っていたけど?」

「そんな変な話はしませんよ」

「この間なんか、私のところに来て『怖い話を聞いたら怖くて眠れなくなった』って言ってたけど」

「どういうお話でしょうか?」

「う~ん……題名とかは判らないけど、あれよ。お城の堀で魚を捕った王都の豪商に向かっておばけが『おいてけ~おいてけ~』って手招きするっていうお話」

「ああ、『おいてけ堀』ですね」

 何の事かと思ったあの話のことか。

「あれは怖い話じゃなくて面白い話ですよ。『おいてけ~』って台詞を面白おかしく言うことでウケを取るお話なんです」

 これはおじいちゃんが実に上手だった。夏になると家に御近所の人を集めて、蝋燭を一本だけ点けておじいちゃんの話を聞いたものだ。そんなおじいちゃんの得意技の一つがこの『おいてけ堀』というお話で、お話の中でおばけが『おいてけ~』と言う辺りのおじいちゃんの声色を聞くたびに、私たち子供はお腹を抱えて大笑いしたものだった。でも、何だかカトレアお嬢様の目線は疑わしい感じだ。

「それ、本当に面白いお話なの?」

「そうですよ。逃げる先々に顔なしのおばけが出て来るなんて面白いじゃないですか」

「そ、そうかしら?」

「本当に怖いお話は、あんなもんじゃないですから。祖父はそういう話の語り方が非常に上手で、夜に思い出すだけでおトイレにも行けなくなっちゃいます」

 あれこれといろんな話の例を出しての私の解説を聞きながら、カトレアお嬢様は目を丸くして驚かれた。

「あなた、いろいろお話知っているのね」

「ええ。祖父には、女は千の夜を語り通せるくらいお話を知っているべきだと言われまして」

 そんな私の言葉に、カトレアお嬢様は小首を傾げて考え込み、そして嬉しそうにお笑いになる。

「面白そうね。ひとつ聞かせてもらえない?」

「え?」

「聞かせてちょうだい。あなたが言う、その怖いお話」

 いきなりな御用命に、私はちょっと慌てた。

「あの、私はへたっぴですよ。祖父ほどは上手く話せませんし。あと、本当に怖いお話はあまりお勧めできませんけど」

「いいわよ。内容が面白いなら。それに、まだ明るいから、そんなに怖い雰囲気にはならないでしょう?」

 本当に嬉しそうなカトレアお嬢様。どうやら勘弁してもらえないようだ。

「そういうことでしたら……」

「待って。ルイズも呼んでくるわ」

 ルイズお嬢様に聞かせる、って、カトレアお嬢様の方がちょっと意地悪じゃないかと思うけど。それとも、ルイズお嬢様と一緒に寝るのが狙いなのかしら。
 いろいろとカトレアお嬢様なりに思惑はおありなのだろうけど、そういうことならこっちは責任重大だ。
 さて、何の話をすればいいかなあ。ドリアドに襲われる木こりの話でもしようかしら。 





 翌朝、私はメイド長に呼びだされた。

「あなた、昨日カトレアお嬢様に何をしたのですか?」

「お話をお聞かせしただけですけど?」

「夜中に呼びだされましたよ。一緒に寝て欲しいって。何年ぶりかしらね、ああいうの」

「まあ」

「ルイズお嬢様はベッドに粗相をなさったし……本当に何もやってないのでしょうね?」

「本当ですってば」




 そんな一日。




※詳細は『十六人谷』でお調べ下さい。



[30156] 第4話
Name: FTR◆9882bbac ID:bedd3568
Date: 2011/10/16 16:14
 その日は、朝から城中がバタバタと忙しかった。

 割り当てだった階段周りの清掃が終わり、私は急いで使用人ホールに戻る。
 今日の作業は、まさに城中を磨き上げなければならないのだ。猶予は明日まで。もたもたしている暇はない。私たちメイドとしては、ちょっとハードな一日だ。
 ホールに入り、戦場のように騒がしい中で大声を張り上げる。

「1番の階段周り、終わりました! 確認お願いします!」

「御苦労様」

 中央に陣取っているメイド長のミリアム女史に報告していると、私に続いてシンシアがパタパタと戻ってくる。

「3番の廊下、終わりました」

 息を切らしていないあたりはすごいけど、足音を立てるところを見るとシンシアにもちょっと疲れが出ているのかも知れない。メイドは無音であれ。いつも言われている鉄則だ。

「御苦労様。確認しておくから、続けてシンシアとナミはリネンの手伝いに出て下さい」




 お客様があると、ヴァリエールのお城は一気に騒々しくなる。
 押しも押されぬ大公爵、しかもゲルマニアと国境を接している最前線でもあるヴァリエール公爵家の来賓となると、相応に格の高い家の方と相場は決まっている。下手な失敗をした日には晒し首すらあり得るだけに気が抜けない。明日のお客様は、確かマルシヤック公爵様。それくらいの家格ともなると、王家の方々並みの準備が必要だ。
 一番大変なのが料理人部隊だ。材料の吟味だけでも胃が痛くなるだろう。同じように胃を痛めているのは、恐らく執事のジェロームさん。今頃ワインの選定に頭を悩ませていることだろう。
 
 そんな、使用人たちにとっては戦争のようなひと時。
 私たちが、急いで客間の手伝いに中庭を抜けている時だった。



 微かな羽音を立てて、一匹の蜂が私たちの前を横切った。



 その瞬間、私の中で強烈なブレーキがかかった。知らぬ間に息が荒くなり、勝手に心臓が鼓動を早めてしまう。恐らく顔色は真っ青になっているだろう。

「ナミ」

 私の異変に気付いたシンシアが私の名を呼びながら、私を支えるように肩に手を置いてくれる。こう言う時は人肌のぬくもりはありがたい。彼女は、私のトラウマを知っている。

「大丈夫?」

「な、何とか」

 えへへと笑って、私は再び客間に向かって急いだ。



 日頃はお気楽な私でも、苦手なものの一つもある。
 それが蜂だ。
 
 あれは公爵様のところに奉公に出てすぐの事だから2年前。私は10歳。若かったなあ。
 その日、公爵様の御都合がよろしいとのことで、一家揃って遠乗りにお出かけになられることになった。
 ヴァリエール地方は自然が多く、四季折々の景観はそれぞれ美しいのだが、春先の野原はそれはもう美しい花畑で、エレオノールお嬢様やルイズお嬢様はもちろん、お体が弱いカトレアお嬢様も嬉しそうに花を編まれていた。
 馬にお乗りになっている御一家とは別に、私たちメイドは馬車で昼餐の場所に先回りして食卓を整備する。
 空は雲ひとつない青空。外での食事はすごく気持ちいいだろう。
 土メイジがかまどの用意をしている傍ら、てきぱきとスタッフたちがテーブルのセッティングを進めていく。配膳担当の私としては、食器を落としたら大目玉なのですごく緊張する仕事だ。
 そんなこんなで準備が整い、もうじきお昼というその時だった。

「全員、手を止めて聞きなさい」

 ミリアム女史が大股で歩いて来て、いつにもまして真剣な表情で声をあげた。いつものように優雅に急いでいる訳ではない、ただならぬ気配だ。その口から飛び出して言葉に、全員が息を飲んだ。

「ルイズお嬢様が見えなくなりました。全員、直ちに手分けしてお探しします」

 迷子!?
 ルイズお嬢様はまだ4歳。森で迷子になったら帰って来られるとは思えない。この辺りにはオーク鬼のような危ない連中はいないと聞くけど、オオカミくらいは出そうな気配だ。
 まごまごしてはいられない。私たちはすぐに捜索にかかった。
 メイド長の采配の元、空を飛べるブローチ組はそれぞれ方面を担当して高いところから捜索だ。
 私もまた杖を振って宙に舞った。この際、スカートの裾など気にしてはいられない。 
 ルイズお嬢様に限らず、子供は一つの事に捉われると周囲が見えなくなるのが普通。蝶の後を追って森にでも入ったのだろうか。そういう私もまだまだ子供ではあるが。
 そんな事を思いながら森の中を木から木に飛び移りながら声を張り上げる。

「お嬢様~、ルイズお嬢様~!」

 甲高い私の叫び声が、吸い込まれるように森に消えていく。



 5分ほども探した時だった。済ました耳に、

「ここよ~」

 と、細い声が聞こえた。
 慌てて声の源に飛んでいくと、そこにべそをかいているルイズお嬢様がいた。
 思ったより深く森に入っていた。今のお嬢様の身長では、方向が判らなくなるくらいには木々が多かった。
 急いで駆け寄り確認するが、見たところお怪我はないようで一安心だ。

「お嬢様、お探ししました。御無事で何よりです」

「もっと早く探しに来なさいよ!」

 強がってはいるけれど、目元は真っ赤で、私のスカートの裾を掴む手は震えている。怖かったのだろう。

「申し訳ありません。次からはもっと早くに参ります」

 そんな言葉を交わし、ルイズお嬢様のお気持ちを宥めながら来た道を戻る。残念ながら、私の体力と魔力ではルイズお嬢様を抱えて飛ぶことはできないし、お嬢様を置き去りにして人を呼びに行くわけにもいかない。
 必然的に、お嬢様のお手を引いて徒歩で森の外に向かうことになった。
 まだ小さいルイズお嬢様のお手はすごく暖かくて、繋いでいるだけで幸せな気分になってしまったのはちょっと不謹慎だったかも知れない。

 ぐすぐすと泣いているルイズお嬢様を励ます術をあれこれ考え、昔教えてもらった歌を歌うことにする。
 森の中で熊さんに出会い、貝殻のイヤリングを拾ってもらって最後は歌を歌うという内容だ。
 実際に熊に遭遇した場合はそんなことしていたら命が幾つあっても足りないのだが、ルイズお嬢様は私が歌う様子に徐々に笑顔を取り戻され、ちょっとずつ私の歌をなぞって歌い始めた。

 そんなことをしていたから、ちょっと油断していたのかも知れない。
 
「あう!?」

 ルイズお嬢様が木の根につまずき、バランスを崩して藪に足を踏み込んでしまった。
 その途端、藪の中から大きな羽音が聞こえてきた。
 全身の血の気が引いた。
 煙のように湧きあがったのは、無数の蜂だった。はずみで、地中にある蜂の巣を刺激してしまったのだろうか。確か、蛇の古い巣穴とかに蜂が巣を作ることがあると聞いた覚えがあった。
 お嬢様の手を引いて逃げようとしたが、バランスを崩していたルイズお嬢様はそのまま足をもつれさせて転んでしまった。最悪だ。わんわんと音を立てながら、兵隊らしき蜂が飛んで来るのを見て、私は慌ててシールドのルーンを唱える。攻撃系の魔法が使えればいいのだが、所詮はドットの水メイジに過ぎない私だ。そこまでの力はありはしない。
 水の壁が周囲を覆い、蜂たちと私たちを隔てる。
 大きな蜂だった。一匹が体長4サントはある蜂が、カチカチと歯を鳴らして威嚇して来ている。相当怒っているようだ。
 シールドは長くは持たない。砂時計が落ちるように精神力が減っていく。それに対し、周囲を舞う蜂の数がどんどん増えていく。
 怯えるルイズお嬢様が腕にすがりついてくるが、私にもできる事はない。
 そんなルイズお嬢様のお召し物は、白いワンピース。ふと、おじいちゃんに教わった事が頭をよぎった。

『蜂は、黒いものを襲うんだよ』

 熊に蜜や蜂の子を食べられてしまうため、そういう習性があるのだとか。
 そんな説明をしてくれながら、自作の防蜂装備を着こんで蜂の子を手に入れるべく蜂の巣に手を伸ばすおじいちゃんの姿はまだよく覚えている。その直後に、上を向いた弾みでガラス鉢みたいな頭の防護具がずっこけて、一気に蜂に襲われていたっけ。踏まれた猫みたいな悲鳴を上げて、とてもお年寄りとは思えないスピードで川に逃げ込んで、頭から飛び込むおじいちゃん。そんなおじいちゃんを見ながら、

「あの人のドジは死ぬまで治らないんだろうねえ」

 とおばあちゃんがため息をついていたっけ。そんな事を言いながらも、あとで一生懸命おじいちゃんが刺されたところに薬を塗ってあげてたおばあちゃん。二人とも、本当に仲良しだった。
 そんな回想をしながら、私は手早くエプロンを脱いでルイズお嬢様に被せた。

「いいですか、お嬢様。そのまま、声を立てずに蹲っていて下さい。怖いかも知れませんが、何があっても動いてはいけませんよ。いいですね」

 返事も待たずにお嬢様を押さえつけ、その上に体を被せ、できるだけ服を広げてルイズお嬢様をカバーする。エプロンを取れば、メイド服は黒ずくめだ。髪も黒。蜂の攻撃は私に集中するだろう。
 防御態勢が整った辺りで、精神力がいよいよ切れる。
 お腹に力を入れて身構える。
 さあ、来い。いくつ刺されるか知らないけど、私だって度胸が売りのタニアっ娘だ。意地でもお嬢様には触らせない。
 気合いを込めたところで、水の膜が弾けて消えた。
 その途端に聞こえる凄まじい羽音。
 怖い。できれば逃げたいくらい。でも、私の下で震えているお嬢様はもっと怖いだろう。
 何カ所刺されるだろうかと身構えていた時、私は自分の見積りの甘さを思い知った。
 全部で20箇所くらいは刺されるかと思ったけど、襲って来たと思ったその一瞬に40カ所は刺された。
 点じゃなくて面で刺されているような痛みが全身に走る。声をあげる余裕もない。気が狂いそうな激痛だ。どこもかしこも刺されている。頭に腕に背中。足も指先までまんべんなく。伏せている顔だけは何とか無事だ。耳のまわりを飛び交う蜂の羽音が頭の中まで響いてくる。私が固めたなけなしの覚悟は、焼けた岩に零した1滴の水滴のように一瞬で蒸発してしまった。
 激痛と言うレベルは一瞬で通り越して全身の感覚がなくなってしまい、そのまま私の意識は闇に落ちた。蜂の毒が回ったのかも知れない。気絶なんて、お母さんに魔法の特訓をされた時以来だった。









 光を感じて目を開けると、私は包帯だらけになって自分のベッドで横になっていた。
 枕元には水差し。手を伸ばそうとしたら、肌がひどい紫色をしていることに気付いた。記憶が混乱して何がどうなっているのか判らなかったけど、すぐにルイズお嬢様のことを思い出して体を起こそうとした。
 そして、力が入らなくてベッドからずっこけ落ちた。

「あ痛た~」

「何をしているのですか、あなたは」

 涙目を開けると、天地が逆さになった視界に、形がいい踝が見えた。そのまま視線をずらしていくと、洗面器を抱えたふくよかな胸元の彼方に悪戯っ子を見るような困った顔をしたミリアム女史の顔があった。
 ミリアム女史は洗面器を置くと杖を手に取り、ひょいと私をレビテーションで持ち上げてベッドの上に戻してくれる。

「蜂の毒が抜け切っていないから、まだ無理はできないそうですよ」

「あの、私、何でここに?」

「シンシアが見つけたのです。ルイズお嬢様の泣き声が聞こえたから行ってみたら、あなたが森の中でお嬢様を庇うように蹲っていたと」

 その話を聞いて、私は慌てて尋ねた。

「ルイズお嬢様は!?」

 泡を食って喚く私に、ミリアム女史は笑って答えてくれた。

「ご無事でしたよ。傷一つなかったそうです。誰かさんのおかげでね」

 その言葉に、心の中に安堵が広がる。良かった。何とかお守りできたようだ。私は深くため息をついた。

「その代わり、あなたは危うく死にかけましたよ。毒蜂相手に体を張るなんて、無茶をしたものです」

「しょうがなかったんですよ」

「判っています。とにかく、しばらくは大人しく寝ていなさい。扱いは公休ですから安心して休むといいでしょう。午後にまた治療士が来てくれるそうです。それと、シンシアとソフィーにはお礼を言っておきなさい。ほとんど寝ずにあなたの様子を見ていましたよ」

「はい。メイド長もありがとうございます」

「私は何もしていませんよ」

 何もしてくれていないと言いながらも、その洗面器は何なんだというのだろうか。
 手も荒れているし、目元も少々疲れが見える。
 恐らく、シンシアとソフィーがいない間は彼女が世話をしてくれたのだろう。

 でも、そのことを言うのはちょっと無作法な気がしたので黙っていた。




 ともあれ、ルイズお嬢様に万が一がなくて良かった。
 私の方は体の痺れが取れるまで2日かかり、その間にシンシアやソフィーが休憩の度に顔を出してくれた。
 家政婦のヴァネッサ女史が来た時は、名誉の負傷ということでお褒めの言葉をいただけるのかと思ったら『シールドの持続時間が短すぎます。あなたのブローチはただの飾りですか』とみっちりお説教をいただいた。そんなこと言われても、トライアングルの女史と比べられては困ってしまう。まして正規の魔法の訓練も受けていない身の上だ。お母さんは傭兵だっただけに魔法は上手いんだけど、とにかく教えるのがヘタな人だからなあ。体罰肯定派だし。
 その後も、どういう訳かシンシアとソフィー以外は妙に優しさが足りない見舞客が多かったのだけど、その中の最たるところがエレオノールお嬢様だった。


「ここね」

 横柄な声が聞こえ、ずかずかと足音が近づいてくる。ノックもなしにドアが開いて、入って来たのはエレオノールお嬢様だった。

「エレオノールお嬢様!?」

 私のような末端のメイドは、普通は用事があれば家政婦や執事、メイド長を通じてやり取りする。何しろ相手は本物のお姫様だ。そんなエレオノールお嬢様のようなやんごとなきお方がメイドの部屋みたいなむさいところに来る事など、あり得ないはずなだけに私は大いにびっくりした。

「あなたがナミ?」

 しかも、何故か私の名前まで知っている。私が知らないところで何が起こっているのやら。

「こ、このような格好で申し訳ありません」

 姿勢を正そうにも、体が痺れて動けないからどうにもならない。

「そうね。蜂に刺されたくらいで大げさなことだわ」

 ……いや、そうは言っても結構つらいっすよ、これ。

「まあ、いいわ。それより、これ、父からよ」

 私のベッドサイドに瀟洒な小箱が置かれる。蓋が開いていて、そこにカメオのブローチが見えた。
 浮き彫りになっているのはヴァリエール公爵家の家紋。
 功績があった人に下賜される、使用人にとっては勲章のようなものだ。売ればかなりのお金になるが、売る奴はいないだろう。それくらい名誉があるものだし、何よりすごいのが、これをもらった者は公爵家から幾ばくかの年金ももらえるという事だ。

「も、もったいのうございます」

「この度のあなたの働きに対するものよ。父と母も、それなりにあなたのことは評価しているわ。ありがたく受け取りなさい。まあ、その、あれよ」

 視線を彷徨わせるエレオノールお嬢様。

「もしルイズが刺されていたら百叩きなところだったけど、無事だったし、まあ、私からも、その、よくやった、と言っておくわ。これからも、その調子で忠勤に励みなさい。いいわね」

 そっけない言い方だけど、エレオノールお嬢様が、どれだけルイズお嬢様を大事しているかが判って何だか気持ちが暖かくなった。とかくキツい女性と言われがちなエレオノールお嬢様だけど、接してみればこんなにも柔らかい感情をお持ちなのだと私は初めて知った。
 退室されるエレオノールお嬢様をベッドの上から見送って、私はベッドサイドのカメオを見た。
 とりあえず、いつか年金がもらえたら、きっとシンシアとソフィーに何か美味しいものでも御馳走しよう。
 何がいいかな、と思いながら午後を過ごした。




 考えるのはいいのだけど、一人きりの午後と言うのは結構寂しいものだ。
 窓から差し込む春の日差しを感じていると、何だか自分だけ世界からのけものにされているような気がしてくる。みんな一生懸命働いているだろうに、私だけのほほんと寝ている事は結構苦痛だ。生来、あまり一カ所でじっとしている事は苦手な方だ。体を動かしている方が絶対に性に合っている。一人で寝ながら、遠くから聞こえて来るいろんな音に耳を澄ましているなんて、およそ私らしくない。

 そんな私の聴覚が、ドアの方から微かな音を拾った。
 見ると、ドアのところから少しだけ顔を出してルイズお嬢様が部屋の中を覗いていた。

「ルイズお嬢様!?」

 驚いて声をかけると、ルイズお嬢様は心配そうな面持ちで部屋の中に入って来た。

「怪我、大丈夫?」

 大丈夫じゃないですよ、とはさすがに言えない。

「大した事はありません。これはちょっと大げさなのです」

「ナミ」

 ルイズお嬢様が私の名を呼んだ。どこで覚えたのだろうか。

「助けてくれてありがとう」

「と、とんでもありません」

 いきなり感謝の言葉を述べられて、私は慌ててフォローを入れた。こっちは使用人だ。主家のために体を張るくらいは当り前だろう。

「『しゅくじょたるもの、しようにんであってもおれいはいいなさい』ってエレオノールお姉様に言われたの」

「まあ。それは何とも、もったいのうございます」

 私が笑うと、ルイズお嬢様も花のようにお笑いになる。
 屈託なく笑うルイズお嬢様は、本当にとても愛らしい。この笑顔のためならば、体を張った甲斐もあったというものだ。身分の違いを度外視すれば、何だかおしゃまな妹ができたような気分だった。

 それから、ルイズお嬢様といろいろなお話をした。
 何もすることがなく、退屈していた私としても嬉しいお客様だ。
 ご両親のこと、姉君たちのこと、中庭に池があることや、好きな食べ物に嫌いな食べ物。
 楽しそうにお話になるルイズお嬢様の言葉に耳を傾け、相槌を打ち、問われたことにお答えする。
 そんなやり取りの中で、成り行きでおとぎ話をすることになったのが、今に至る私たちの関係の始まりだった。





  周囲を白鳥に囲まれてみにくいアヒルの子が戸惑っていると、白鳥の1羽が言いました。
 「こんにちは、美しい羽根の新人さん」
  美しいと言われて驚いたみにくいアヒルの子は、その時初めて水に映った自分の姿に気づきました。
  水に映っていたのは、真っ白な、それはそれは美しい白鳥だったのです。






 それがきっかけで、私はしばしばルイズお嬢様からお話をするよう仰せつかる事となった。
 何だか畏れ多い話だが、ルイズお嬢様が喜んでおられるのだからいいのだろう。
 そんな感じにルイズお嬢様と接している事を聞いたのか、エレオノールお嬢様がしばしば私にルイズお嬢様の事をお聞きになられるようになったのもこの頃だった。それがエレオノールお嬢様がルイズお嬢様へのメッセンジャーとして私をお使いになるようになる今の状況に繋がっている。
 一介のハウスメイドとしては何とも恐縮するばかりなのだが、何となく不器用なエレオノールお嬢様と、天真爛漫なルイズお嬢様。お二人の間を繋ぐ一助になれるなら、これもまた使用人冥利に尽きるというものだろう。
 


 客間に着くと、そこは戦場だった。
 幾人もの先輩のメイドたちが、部屋の中で作業に追われている。

「うひゃあ、こっちはまだまだ大変だね」

 私とシンシアも即参戦だ。
 リネン担当らしい、シーツの山を抱えている先輩に声をかける。

「リネンの手伝いに来ました」

「ありがとう、助かるわ~。さっそくだけど、あっちのシーツの山をお願い」

「了解です」





そんな一日。



[30156] 第5話
Name: FTR◆9882bbac ID:bedd3568
Date: 2011/10/16 16:13
「お待たせ~、お茶ですよ~」

 穏やかな午後、お茶当番の私とシンシアは、お城の南側に足を運んだ。
 敷地内の一番日当たりがいい、眺めがいい場所だ。
 そこで男性使用人が2人、大きな石碑の周囲の手入れにホウキを手に奮闘していた。

「お、待ってたよ」

 嬉しそうな顔で真っ先に来たのがジャンだ。今日は外の当番か。こうして外掃除の装備を身につけていると、どこかの大店の丁稚のように見える。青年になりかけの年頃であるジャンは目鼻立ちは悪くないのだが、何気にまだまだ外見がガキ大将っぽいイメージがある。

「御苦労様。もうちょっとかかる?」

「ん~、あとは碑の本体だけだから小一時間ってとこ。さすがに、こればかりは丁寧にやらないと怒られちまうからな。先輩、お茶が届いたっすよ!」

 仕事なんだからここ以外も丁寧にやらんかい、と言いたいところだが、これでジャンは仕事ができる人だ。そんなジャンが声をかけると、やや離れたところでチリ取りを持った男の人が振り返った。二十代半ばの線の細い、目鼻立ちが整った優しげな顔立ちの人だ。
 名前はアラン。物腰も見た目同様に柔らかいが、もうちょっと覇気があるともっといいと思う。軍隊だとちょっと通用しなさそうな気がしないでもないが、誰にでも優しいので女性の受けは悪くない。快活な好男児なジャンとは対極に位置するような物静かな人だ。趣味は絵を描くことだったかな。その胸元には黒いブローチ。アランもまた風のメイジだ。生まれのことはよく知らないけど、下級貴族の三男坊という噂を聞いている。ジャンは、自分よりも10歳ほども年上のこの人と良く組んで仕事をしている。
 
「ありがとう。いただくよ」

 そんな彼らにお茶を淹れるシンシアの隣で、彼らが手入れをしていた石碑を見つめた。

 石碑の名を、『使い魔塚』と言う。

 メイジと言えば使い魔。そう思う人は多いと思う。メイジを見るには使い魔を見よと言うくらいだから、メイジにとっては使い魔はとても重要な存在だ。
 実際、この国の中核を支えていくメイジを養成している魔法学院では、進級の際の評価の為に『春の使い魔召喚』としてイベント化しているくらいだ。
 私もまた、メイジの端くれだから使い魔と言うものにも当然憧れはある。
 でも、実際には使い魔召喚の魔法『サモン・サーヴァント』をやる予定は今のところない。
 使い魔召喚では、何が召喚されるか判らないからだ。
 どういう使い魔を召喚するかは、メイジ当人は選べない。私の実家は、まあ普通より少し経済的に余裕がある商家だからたいていの生き物なら養育はできると思うけど、稀にすごく大食いな使い魔が出て来ることもあるだけに、うっかりした事はできない。動物を飼うのは大変なことだ。犬でも大型犬になると餌を結構食べるし、馬なんか桶でご飯をあげるくらい。ドラゴンなんか召喚したら大変だ。王族ならともかく、平民や下級貴族では毎食豚を一匹食べるような大きな生き物なんか養えない。使い魔召喚ではほとんどの場合がごくありふれた動物を召喚するけれど、稀にそういう大型種を呼んじゃったりするから大変なのだ。うっかり召喚して、ごめん、養えないじゃ使い魔が可哀そうだし、考えなしに使い魔を呼び出す事は最も恥ずべきことというのがメイジたちの不文律でもある。使い魔を飢え死にさせでもしたら、それこそメイジ社会から村八分にされてしまうだろう。
 そういう意味では使い魔を呼び出せると言うのは一つのステータスであり、魔法学院に行けるような裕福な家の子じゃないとそうそうやる訳にはいかないものなのだ。
 いつかは使い魔を持てるくらいにはなりたい、というのは私のような下っぱのそのまた下っぱのメイジたちの合言葉でもある。

 目の前の『使い魔塚』は、そんな代々のヴァリエール家の方々が召喚した使い魔たちのお墓だ。
 ヴァリエール公爵家のような歴史ある家の場合、本家の庭には大抵こういった使い魔を祀る祭壇やモニュメントがある。当代の御当主が、日に一度お参りするのを日課にしている家も少なくないと聞く。
 それくらい、メイジにとって使い魔は大切なものだ。
 多くの場合、使い魔はごくありふれた動物が呼ばれるし、ドラゴンみたいに極端な長寿種が召喚される方が珍しいのは確かだ。でも、それは同時に、大抵の使い魔はメイジよりは短命であり、そのメイジは必ずと言っていいほど使い魔の死に立ち合わなければならないと言うことでもある。
 メイジと使い魔は一心同体。召喚した使い魔に、メイジは本当に惜しみなく愛情を注ぐ。それだけに、人間よりも先に老いて死んでしまう使い魔を失った時の悲しみは、とてつもなく深いものになると聞いている。愛玩動物を失う悲しみの比ではない、まさに自分の一部を失うようなものだと言う人もいる。
 実際、軍人のように割り切った職種の人たちでもない限り、一度使い魔を失ったメイジは二度と使い魔を召喚しようとしないらしい。私の知っているメイジにも2代目の使い魔を召喚しようとしない人が結構いる。身近なところだと、家政婦のヴァネッサ女史だ。使用人を統べる立場の彼女は使い魔の帯同を公爵家から許されているけど、幾ら勧められても召喚しようとしない。気持ちは何となく想像できる。彼女と彼女の使い魔の間にどのような絆があったのかは、余人の知るところではないのだろう。
 魔法学院と言えば、エレオノールお嬢様はこの春に使い魔召喚をされたと思う。詳しい事を聞いてはいないけど、優秀なメイジの彼女なら、きっと素晴らしい使い魔を呼び出したことだろう。
 そんな彼女が、いつの日か使い魔を亡くす日が来るのかと思うと胸が詰まる。厳しいように見えて、お優しい方だ。縁起でもない心配だけど、この碑を見ていると、そんな後ろ向きな思考に捕われる。


 そんな事を考えていた時だった。

「あら、今から一服ですか?」

 凛とした声が聞こえ、振り返ると、メイド長がブラシ類を持って足早に歩いて来るのが見えた。片手にはバケツ。どれも使い魔塚専用の清掃用具だ。
 メイジの分身たる使い魔のお墓だけに、碑そのものの手入れはブローチ組の仕事だ。それも、相応に立場がある人だけに任される仕事でもある。メイド長である彼女はその任によく当たっている。

「はい。ちょうど今からです」

「そうですか。ちょっと早すぎましたね」

 ややばつが悪そうなミリアム女史に、私は笑って応えた。

「いいんじゃないですか、メイド長も休憩入れても。じゃあ、私たちはミスタ・ドラクロワに回りますから。シンシア、行こう」

「御苦労さま」

 歩き出そうとして、私は一息にお茶を飲み干しているジャンに声をかけた。

「あ、それとジャン、悪いけど、ちょっと力仕事あるのよ。少しだけ手伝ってくれないかな」

「ん?」

 私の言葉にジャンはアランを振り向くと、アランは笑って

「いいよ、行ってきなよ。しばらくは大丈夫だから」

 と朗らかに応えた。

「んじゃ、ちょっと行って来ます」



 ジャンを連れてシンシアと私はその場を離れる。園丁小屋に着き、そこでミスタ・ドラクロワとどうでもいい世間話を少々。

「おい」

 10分も時間が経って、さすがにジャンが声をあげた。

「力仕事ってのは何だよ?」

 そろそろ潮時だ。私は種を明かすことにした。

「ああ、ここまで来るのが力仕事よ」

「何だって?」

 事の次第が飲み込めないジャンが首を傾げる。まあ、普通はそうだよね。

「そうね、もう戻ってもいい頃かも」

 私の共犯者たるシンシアも、善意の協力者であるジャンに向かって朗らかに微笑む。

「どういうことだよ?」

「さあね~。とにかく、もう戻っていいわよ。でも、できればゆっくり戻ってね」

「訳わかんねえよ」

 むう、まだ判らないか。

「判らなかったら、厩舎経由で帰るといいわ。きっと蹴飛ばしてもらえるから」

 そこまでヒントを出して、ようやくジャンの顔に理解の色が浮かぶ。お調子者っぽいけど、ジャンはこういうことの機微には結構鈍感なようだ。

「……マジ!?」

「吹聴しちゃダメだよ」

「しねえよ。へえ~、あのメイド長がねえ……」

 何だか複雑そうで、でも楽しそうな顔をするジャン。これでこいつは義理堅い奴だから、あちこちでペラペラ喋ったりはしないだろう。もともと、味方に引き込むつもりだったのだからいい機会だ。

「さっきもあの時間に秒単位で正確なメイド長が、早く来すぎたって言ってたでしょ?」

「言われてみればだなあ。近寄りがたいように見えて、案外可愛いところあるんだな、あの人」

「アランの方も、そう憎からず、って感じだと思うけど?」

 宙を仰いで、これまでのことを反芻するジャン。やがて腕を組んで唸りだした。

「気付かなかったなあ……お前ら、こういうこと面白い事はもっと早く言えよ」

 そんな楽しそうなジャンに、シンシアは眉を顰めた。

「からかったりしないで見守ってあげてね」

「しねえしねえ。あいつらくっつける方がからかうより面白いじゃねえか」

 これで男側の方にも『アランとミリアム女史を応援する会』の会員を確保できた。
 他人の恋路はよその国の戦争くらい面白いという人もいるが、そういう目的はさておき、何とかうまくくっついて欲しい二人だ。二人ともいい人だし、私も二人が好きだ。でも、双方ともに生真面目で奥手なのが問題だったりする。火を点けるには苦労が要りそうだ。

 そんなことを考えていると、ミスタ・ドラクロワがおやつの焼き栗を持ってきてくれた。


 役得の味わいを堪能する、そんな午後。



[30156] ―幕間―
Name: FTR◆9882bbac ID:bedd3568
Date: 2011/10/16 02:49
 お城と言うのは、由緒あるものが多い。
 軍事的な側面における地形として有利な場所と言うのは昔からあまり変わらないし、城が落ちた場合でも、たいてい寄せ手もその場所を使うから、城自体には自然と歴史が積み重なっていくものなのだそうだ。
 そんなお城の一つであるヴァリエールのお城も、それなりに由緒があるらしい。
 確かに佇まいや中の構造を見ると、幾代にも渡って増築改築を繰り返してきた気配がある。
 ここは隣国と接する最前線。ツェルプストー領を抱えるゲルマニアは建国してからあまり時間が経っていないけれど、周辺の豪族などとの小競り合いは大昔から事欠かなかったことだろう。
 要するに、このお城は血を吸ったこともあるかも知れないお城と言うわけだ。
 公爵家の歴史を聞く範囲では落城の憂き目を見た事はないようだけど、寄せ手が正面の跳ね橋まで迫ったことくらいはあったのかと思うと、のほほんと見ている景色が急に凄惨さを帯びて来る気がする。
 その前提で改めて城の作りを見ると、確かに施設が非常に機能的に出来ているように思う。大砲などに晒される場所の石垣はやたらと厚いし、ゴーレム対策の濠や塔も実に的確な配置になっている。正面口の虎口のあたりの銃眼の位置なんかは、見てると『寄せ手は皆殺しじゃ~』と殺る気まんまんな雰囲気がある。人が作りうる最大級の武器の一つ。それがお城なのだろうと素人ながら思ったりもする。

 そんなお城だけど、やたらと大きいだけあって、さすがにそのすべてをいつも使っている訳ではなく、日頃はあまり人が出入りしないエリアと言うのも存在する。
 私とシンシアの今日の担当はそんなお城の中の滅多に行かない、たくさんある建物の中でも年に数回程度行う塔の掃除だった。

 用具入れから道具を持ち出し、二人してえっちらおっちら中庭を横切る。
 メイドというのは基本的に力仕事だ。脚立や洗剤のようなものを抱えて歩くのも商売の内。そのため、どうしたって筋肉がついてくるけど、そこを衆目に晒さないようにするのには女ならではの技術が要る。殿方たる者、そういう女の隠れた努力にも気付いてあげるべきだと思ったりもする。
 辿りついたのは、敷地の西側にある大きな塔だ。4層の防御壁塔というものだそうで、尖塔ではなくてっぺんは平らで、その縁にはツィンネとか言うギザギザの狭間がある。
 戦いになったらそこから物見をしたりするようだけど、塔本体には窓の類は銃眼でもある狭間窓以外は最低限の明かり取り以外あまり開いていない。一見そんなごくありふれたただの石造りの塔だけど、実際には防御の要だけあってゴーレム対策の硬化・固定化処理は幾重にもかけられているのだそうな。そんな外壁には全体的に水垢や苔が生していて、何とも言えない味わいを醸し出している。時が織りなすアートという感じだ。

「それで、その王子様ってのがひどい奴でさ、ラプンツェルの髪の毛をロープにして塔をよじ登るのよ」

「それって結構ひどくない?」

「でしょ? 幾ら王子様でも、そう言う人はちょっとねえ。それに、その後がもっとひどくてさ……」

 塔をテーマにしたしょうもない話をしながら塔に向かって歩いていると、いきなり舌足らずな大声が聞こえて来た。
 
「二人とも遅い~!」

 塔の入口の前でホウキを片手に持ってぶんぶん振っているのは、同僚のタルトだ。
 茶色い髪のちっちゃな子だけど、年齢は私たちより上だったはず。どう見ても年下にしか見えないあたりは気の毒というか何と言うか。

「ごめんごめん。ちょっと脚立の留め金が壊れてたから直してたんだ」

「ありゃ、それは危ないね」

 そんな感じに合流し、今日はこの三人で一仕事だ。


 塔の中は、使っていないだけに少々カビ臭い空気が漂う。陽が差さないので仕方がないけど、雰囲気はちょっと幽霊でも出そうな感じだ。
 こう暗くては仕事にならないので、魔法で明かりを点ける。
 その灯に照らされた室内を見ると、それなりに広い室内は想像以上にがらんとしてた。有事の際には兵の詰所や資材置き場になるためか、平時は無駄な物はあまり置かないのかも知れない。
 お城というのは何かあった場合、敵の攻撃を長期に渡って防ぎ続けなければならない施設だ。立て籠もって戦うことになれば、その間は兵隊さんに武器を与え、備蓄を削ってご飯を食べさせなければならない。それらの備蓄量が、どれくらい籠城できるかという継戦能力に直結する要素なのは私にも判る。
 攻めて来られてどんどんぱちぱちと闘う話は英雄譚に幾らでもあるけど、こういうお城の機能を見ていると、よほど戦力に差がないとそうそう正面切ってお城を攻めるというのはなかなか難しい仕事だと思う。
 英雄譚と違い、実際にはお城を攻める時は水攻めとか兵糧攻めといった地味で嫌らしい攻撃がよく用いられるとか。聞くところによれば、籠城して取り囲まれて食べ物がなくなったお城というのはかなり悲惨なものらしい。おじいちゃんが夏の夜の怪談で話してくれた『トットリ城』というお話はそんな籠城の話だったけど、あまりに後味が悪くて今でも正直聞くんじゃなかったと思う。

 この塔は、下の3層はがらんとした空間になっているけど、一番上のフロアは物置になっている。その最上階の物置のやけに分厚い木製のドアをよいしょと開けると、ぽっかりと闇色の広い空間が広がっていた。

「うわ~……」

 部屋の中にあるマジックライトで照らし出された品々を見て、私たちは唸ってしまった。
 棚にかけられた剣や槍、弩に矢立て、端っこの方にはバリスタなんかが置いてあった。これで大砲があれば、陸戦兵器の見本市みたいだ。
 どれも朽ちている訳ではなく、現役感漂う剣呑な輝きを発している。それぞの刃は研ぎ澄まされ、引かれた油が妖しい説得力を醸し出している。人を殺す道具というのは、やはり独特の凄味があると思う。

「結構埃っぽいね~」
 
 そんな事を言いながら真っ先に中に踏み込んだタルトの足元に、うっすらと靴の跡がつく。確かに凄い埃だ。
 
「とりあえず、窓を開けようよ」

 シンシアの提案に私は頷いた。

「そうだね。シンシア、あれで行くの?」

「それが一番早いじゃない」

 笑って頷くシンシアの得意技を思うと、私には異論をはさむ余地はない。

「それじゃ、ぱっぱとやっちゃおう~」

 話を理解したタルトが軽い足取りで窓に取りついていく。私も行動力には自信がある方だけど、こういうフットワークはタルトには敵わない。

「それじゃ、私は下から開けて来るよ」

 負けじと狭い階段を降りて、1階から鎧戸を開けて回る。
 ソフィーに教えてもらったんだけど、お城の塔にある螺旋階段は、多くの場合上りが右回りになっているんだそうだ。攻め上ってくる敵は剣を持つ右の方が狭く、逆に守るほうは右手が広くなっているので守る方が有利になるようにしているのが理由だとか。
 そんな階段に一定間隔で並んでいる鎧戸は、固定化のために錆びは回っていないけど、油が切れているのか動きが少々渋い窓が多い。あとでジャンに言って油をさしてもらおう。
 そんなことを考えながら窓という窓を開け放って、3人揃って1階の入口に陣取った。掃除は上からやるのがセオリーだけど、これからやる作業はこっちの方が都合がいいからだ。

「それじゃ、やるわよ」

「ちょっと待って。これこれ」

 杖を構えるシンシアに、私は待ったをかけた。
 エプロンのポケットから、こんなこともあろうかと用意しておいた赤いリボンを取り出す。これからの作業では、髪をまとめておいた方がいいからだ。でも。

「ありゃ?」

 迂闊にもリボンが1本足りなかった。人数分用意し忘れちゃったか。
 仕方がないのでそのまま二人にリボンを渡す。

「あれ、ナミの分は~?」

 リボンで癖っ毛をまとめるタルトの問いに、私は持っていたタオルを見せる。

「私はこれでいいわ」

 それを頭に被って角を後頭部できゅっと結ぶ。

「ふっふっふ、どう?」

 これぞ、おじいちゃん直伝の『姉さんかぶり』。掃除をする時とか、非常に便利なのよね、これ。

「可愛いじゃない、それ」

 そんな私を見て緩み始めるシンシアの顔。困った子だ。

「へえ、リボンでまとめるより良くない~?」

 まじまじと見ているタルトの視線にちょっと優越感。



「さあ、始めるわよ」

 シンシアが宣言し、杖を構えた。
 ルーンを唱えると、彼女を中心に空気が渦を巻き始める。
 程なく現れるのは、大人くらいの大きさの竜巻だ。

「ひゃー!」

 リボンで結った二人の髪が風に吹かれてばばば~っと靡く。私の方は姉さんかぶりがずっこけそうだ。
 シンシアは風のメイジ。ドットだからあまり凄いことはできないけど、掃除の時に竜巻を起こして埃を巻き上げるくらいは余裕なのだそうだ。
 杖を振って竜巻を操り、室内の埃をくまなく舐め取っていく。見ていて本当に便利だなあ、と思う。水の魔法でも似たような事出来ないかしら。
 下から順に作業を進めて、最後は屋上に出る。そこから埃を溜めこんですっかり黒い渦になった竜巻を屋外に追い出して最初の埃落としは終了だ。
 シンシア竜巻の魔法を解くと、埃が宙でボワッと広がって雲みたいになるから面白い。風向きを考えてやらないと城内に埃が入って怒られちゃうけど。
 そんなシンシアの隣で、タルトが大きく背伸びした。

「う~ん、景色いいね~」

 彼女の言葉のとおり、屋上から見る景色は、実に綺麗だ。森が多いヴァリエールの領地のかなり先まで見通すことができるだけに、今日みたいに天気がいいと実に気分がいい。

「ほら、お仕事お仕事」

 タルトと並んでボケっと景色を眺めていると、シンシアが一足先に塔内に戻って行った。
 う~ん、もうちょっとのんびり見ていない気もするけど、お仕事第一だからここは我慢だ。


 埃落としが一段落したところで、魔法を使ったシンシアはご苦労様と言うことで上層階の物置部屋のハタキがけ作業をやってもらい、下の階は私とタルトでやっつける。
 ハタキで細かい埃を落として回り、次に水を汲んできてモップで手分けして床を拭きあげていく。
 軽い足取りでモップを振るうタルトの動きは、さながらダンスのようだ。本当に楽しそうに仕事をしている姿は、見ているだけでこっちも楽しい。
 お仕事の中に楽しさや幸せを見つけることが人生をいいものにするコツだとお父さんには言われているけど、今のタルトを見ているとその言葉の意味が良く解る気がする。

 そんな調子でどどど~っと床を拭いて回り、物置部屋以外を一通り拭き終わったところで一息だ。
 時刻はちょうどお昼になった。

「さあ、お昼にしましょう」

 シンシアがバスケットを手に屋上に上がっていくのに続いて、私たちも屋上に出る。今日は厨房にサンドイッチを作ってもらったので、特等席でお昼御飯だ。
 私が魔法で作った水で手を洗い、皆でサンドイッチに手を伸ばす。バスケットと一緒に持ってきたボトルに入ったお茶を皆で回し飲みし、取り留めもない話をしながら食べる御飯は実に美味しい。それに加えて景色もいいから気分は最高だ。




 午後の作業はシンシアに合流して物置部屋の掃除。ハタキと雑巾で調度や備品を拭いていく。そんな作業をしている時だった。

「ねえ、ちょっと見て見て」

 レビテーションで浮き上がりながら大きな棚の上の方に雑巾をかけていたシンシアが、ふわりと床に降り立った。何事かとタルトと一緒に視線を向けると、シンシアの手の中に、小さなブロンズの置き物があった。

「可愛いでしょ、これ」

 緩んだ顔で、嬉しそうに置き物を私たちに見せる。
 それは小人を模った、シンプルながら素敵な意匠の立像だった。

「わ、可愛いね。何、これ?」

 私の問いに、シンシアが記憶を掘り起こすような顔をした。

「そこの棚の上にあったの。土の妖精みたいね」

「土の妖精?」

 私も、妖精の伝説は幾つか聞いたことがあるけど、その置き物を見ながらシンシアが興味深い事を言い始めた。

「多分、ヴァリエール地方の伝承にある妖精さんだと思うわ、これ」

 夜にたまにお互いの手持ちの話をすることがあるんだけど、おとぎ話として知っている私と違い、下級とは言え貴族のシンシアは教養があるから各地方の伝承に結構詳しい。この妖精も、そう言った土着の伝説の一つなのかも知れない。

「いい妖精さんなの?」

「確か、家に繁栄をもたらす妖精で、皆が楽しそうにしていると現れて、いつの間にか輪に入って一緒に遊んだりするっていう妖精だと思ったわ」

「へえ……何だか座敷わらしみたい」

「ザシキワラシ?」

 隣で聞いていたタルトが首を傾げた。

「うん。そういうお話があるの。子供が遊んでると、いつの間にか座敷わらしっていう子供の妖精さんが仲間に入って一緒に遊んでいるんだって。それと、座敷わらしがいる家は繁栄すると言われてて、多くの家では専用の部屋を用意して、お供物を捧げるっていうお話」

 へえ、と感心するタルトの隣で、シンシアは緩んだ顔で妖精像を撫で回している。今のところ無害だからいいけど、この子のこの性癖、何とかならないかしら。


 シンシアがひとしきり妖精像を愛でてから、掃除を再開。
 シンシアが改めて件の妖精さんの置き物を丁寧に拭いているのを見て、何となく子犬を撫でているみたいな手つきだったので笑ってしまった。
 その向こうで、タルトはタルトで相変わらずすごいスピードで棚を拭きあげていく。
 むう、こっちも負けちゃいられない。
 雑巾を手早く絞って作業の仕上げを急いだ。




 結構広い塔だったけど、昼下がりには一応の作業は終わった。

「う~ん、なかなかの出来栄えだね」

 掃除が行き届き、磨き上げられた部屋というのはどこか神殿のような凛とした気配がすると思う。メイドの中には、こういう雰囲気が好きだからメイドをやってると言う人もいるらしい。もちろん、私もこういう雰囲気は嫌いじゃない。達成感もあるし。

「思ったより早く終わったね」

 シンシアも納得の面もちで最後の確認をしていく。きちんと窓枠まで磨いたから問題はないはずだ。シンシアのチェックが進む中、タルトが脚立をよいしょと担ぎ上げた。

「大きな物はもう片付けていいよね~?」

「あ、それ私が持つよ?」

 体格が小さいタルトが一番の大荷物を運ぶのも、なんか変だと思うし。

「いいよ~。帰りは私が運ぶ」

「そう、じゃあお願い。バケツなんかは私が持って行くから」 

「了解~」

 そう言い残して一足先に用具を戻しに行くタルト。体格は小さいのに、折り畳み式の木製の脚立を担いでもタルトの足取りはしっかりしていた。見かけによらす、結構力持ちだ。
 
 

 シンシアの確認が終わってから用具置き場に用具を戻し、使用人ホールに向かう。時計を見れば、ちょうどお茶の時間だ。
 他所も一段落した部署が多いためか、ホールに戻ったら数名のメイドがお茶をいただいていた。

「あれ、タルトいないね?」

 私とシンシアは辺りを見回すが、そこにタルトの姿はない。トイレにでも行っているのだろうか?
 そんな私たちに気付いたのか、テーブルの端っこでお茶を飲んでいたソフィーが振り向いた。

「お疲れ。そっちは進捗はどうだ?」

 今日の彼女は面倒な客間清掃の担当だったはず。とげとげした置き物とかが多いから時間がかかる仕事なんだけど、それなのに私たちより先にお茶しているとは、さすがはソフィー、なかなかの手際だと思う。

「ふっふっふ、終わったよ」

 胸を張って応える私に、ソフィーは目を丸くした。

「ほう、早いな。結構広いだろう、あそこ」

「3人いたからね。思ったより楽だったよ」

「3人?」

 ソフィーが不思議そうに首を傾げた。何か変な事言ったかな、私。

「誰だ? お前とシンシアと……」

「タルトよ。私たちより先に戻ったはずなんだけど、見なかった?」

「タルト?」

「そう。タルト」

「……これか?」

 ソフィーはそう言うと、お皿に乗った今日の茶菓子を私に差し出した。
 香ばしくて、美味しそうなアップルタルト。

「……?」

 私とシンシアは思わず顔を見合わせた。







 綺麗に清められた物置き部屋の片隅で、小さな窓から差し込む午後の光を受けて淡く光る、赤いリボンを首に巻いた妖精の置き物が一つ。
 







今回の話ですが、どこかで読んだすごくきれいなお話をもとにオマージュとして執筆しました。
これを読んで、同じような作品に心当たりがありましたらご教示いただけましたら幸いです。
作者、作品名、掲載誌、掲載時期など全くわかりませんが、確か酒屋と座敷童のお話だったと思います。
自力ではどうにも調べが付かなかったので、ご存知の方がおられましたらよろしくお願いいたします。



[30156] 第6話
Name: FTR◆9882bbac ID:bedd3568
Date: 2011/12/08 00:45
 季節の変わり目というのは、よく体調を崩す人がいる。夏に向かうこの時期は朝礼の時などでも風邪をひいた人の話が出て、そのフォローについて指示が出ることが多くなる。寝る時にも体を冷やさないようにするようにとか何とか。
 そういう時、私はいつもメイド長からフォロー要員として勘定されているように思う。
 自慢じゃないけど、私は風邪を引かない。生来体が丈夫なためなのか、鼻風邪もひかないくらいだ。慢心するなといつもお母さんに言われているので無茶をしたりはしないけど、私が風邪を引かないのはお母さんの影響もあると思う。
 小っちゃい頃、風邪をひいて寝込んでいたらお母さんが薬だと言って何だかよく判らないスープを持って来てくれたことがあった。良く言えば不思議な、正直に言えば不気味な色と臭いを発する液体で、受け取った途端にこれは飲んじゃいけないものなんじゃないかと子供心に思った記憶がある。でも、お母さんが脇でじっと見ていたので適当に捨てちゃうこともできなくて、意を決してそれを飲んだ。後のことは良く覚えてない。お父さんが言うには、自分が飲んだ時は泡を吹いて3日寝込んだとかなんとか。以来、風邪を引くとあれを飲まされるということを体が覚えているのか、常日頃から意識しなくても体が全力で健康を維持しようと必死になっているような気すらする。おじいちゃんはそんな私をいつも『無事是名馬』と褒めてくれたけど、孫を馬に例えるというのはどうだろう。

 そんなフォローのお仕事として離れの掃除を終えて母屋に帰る途中、母屋の脇にある大きな木の根元で小さな人影が奮闘している様子が見えて私は足を止めた。
 ルイズお嬢様が、自分の背丈よりもだいぶ高い位置にある枝に手を伸ばし、一生懸命そこに掴まるべく飛び跳ねていた。トライするうちに何回か転んでしまったようで、お召し物には少々泥がついていた。

「どうされたのですか、ルイズお嬢様」

 声をかけるとビクッと震え、慌てて振り返るルイズお嬢様。そこにいたのが私だったことに安堵したのか、深いため息をついた。

「驚かさないでよ」

「申し訳ありません。ですが、木登りはそのお召し物ではおやめになられたほうがよいと思いますが」

「違うわよ」

「ですが……」

 否定するルイズお嬢様だが、今の作業が木登り以外の何に見えるかと言われれば私は他に思いつけない。

「違わないけど、違うの!」

 私の戸惑った視線に気づいたのか、ルイズお嬢様が声を荒げるが、言っていることは支離滅裂だった。とは言え、相手が貴族様で、しかも雇用主のお嬢様が黒だと言われれば白でも黒になるというのが私たち使用人の鉄則だ。

「申し訳ありません。木登りではないのですね?」

「そうよ」

 腰に手を当ててぷんぷんと怒るルイズお嬢様だが、何と言うか、そういう仕草も愛くるしいと言うか、笑いを堪えるのが大変だった。そんなルイズお嬢様が、不意に手を叩かれた。

「そうだわ。ナミ、ちょっと私を背負いなさい」

「おんぶですか?」

「いいから」

「は、はい」
 
 言われるがままにルイズお嬢様を背負う、というより私によじ登ってきた。いつになくアグレッシブなルイズお嬢様だ。

「このまま飛びなさい。あそこの枝まで」

 私の背中に陣取ったルイズお嬢様が指差す先は、木の中ほどの大きな枝だった。建物の高さで言えば2階くらいだろうか。

「あの、ルイズお嬢様、今のお召し物では……」

「いいから早く!」

「か、かしこまりました」

 こうまで言われては仕方がない。私は杖を手にレビテーションを唱えた。ふわりを浮き上がると、飛ぶことに慣れていないルイズお嬢様の腕が私の首を絞めに来る、というか、かなりいいところに入ってるんですけど、ぐええ。
 幸いにも意識が飛ぶ前に枝に降り立ち、ルイズお嬢様を幹に掴まらせることに成功した。うう、スカートだよ、私。ルイズお嬢様もだけど。どうか誰も来ませんように。
 下履き御披露の心配はともかく、ルイズお嬢様のご命令とは言え、こんな危ないことをさせているのはやっぱりまずい。メイド長に見られたら大目玉だろう。

「ちいねえさま……」

 ルイズお嬢様のつぶやきにその視線を追うと、そこはカトレアお嬢様の寝室だった。建物の窓の中に、大きなベッドがあるのが見えた。レース越しに見えるのは、そこに伏すカトレアお嬢様。確か、今は体調を崩されていたはずだ。体が弱いので、季節の変わり目はいつも寝込むことが多いと聞き及んでいる。そんなカトレアお嬢様を見ながら、ルイズお嬢様が悲しそうな顔をされておられる。なるほど、カトレアお嬢様の様子を見たかったけど、部屋に入るなと言われてしまっていたのだろう。
 そのまま数分。
 涙を滲ませながら鼻をすすっているルイズお嬢様に声をかけた。

「そろそろ降りられたほうがよいと思いますよ。奥方様に見つかると……」

「……うん」

 
 木から降りた後、とぼとぼという感じで母屋に歩くルイズお嬢様の後ろにつきながら私も歩く。
 小さなルイズお嬢様の肩が、泣けてくるほど落ちていた。

「ねえ、ナミ」

「はい、お嬢様」

「ちいねえさま、どうすればよくなるのかしら」

「申し訳ありません。わたくしには何とも……」

「でも、ナミも水のメイジでしょ?」

「ドットにすぎませんので」

「役に立たないのね」

 ……おじいちゃん、おばあちゃん。子供の正直な感想ってグサっと来るもんなんだね。悪意のない毒というのが、こんなにも残酷なものだと私は初めて知ったよ。
 遠い目をしている私を気にも留めず、ルイズお嬢様は私に向かって振り返った。
 
「ナミ」

「はい、お嬢様」

「ちいねえさまに、私でもしてあげられることはないかしら?」

「ルイズお嬢様が、ですか?」

 急に言われても困りますよ、お嬢様。

「何でもいい。何かしてあげたいの」

「お気持ちは尊きことと思いますが……」

 何とかごまかそうとする私の言葉が癇に障ったのか、ルイズお嬢様は眉を吊り上げて私に指を突き付けた。

「あんたも考えなさい」

「は、はい?」

「ちいねえさまが喜ぶことで私にもできることを、明日までに考えてきなさい。いいわね」

 揺るがぬ気合で命令を告げるお嬢様。私は何とか答えを絞り出した。

「か、かしこまりました。考えてみます」





「また安請け合いしたものだな」

「あはは……ごめん」

 ホールでシンシアとソフィーを集め、作戦会議と洒落込もうとしたら、事の次第を話した途端に二人にため息をつかれた。

「でも、カトレアお嬢様、今回はちょっとひどいみたいよ?」

「そうなの?」

「うん。だいぶ熱が高いって言ってた」

「むう」

 シンシアの情報に、私は大いに困った。カトレアお嬢様の治療には、当然だけど高名な治療士が当たっている。私も治癒魔法くらいは使えるけど、きちんと教育を受けた方々とはドラゴンとトカゲの子供くらい違う。カトレアお嬢様の治療について、ルイズお嬢様に役に立たんと言われても仕方がないと今更ながら思う。
 それを前提にルイズお嬢様でもできることを考えなければならない。

「どうしようか。スタンダードなところだとルイズお嬢様が枕元にいてあげる、ってパターンだけど……」

「難しいだろうな」

 言ってはみたものの、これについてはソフィーのダメ出しに同意だ。大貴族ラ・ヴァリエールだけあって、お嬢様の看護体制は万全だろうし、ルイズお嬢様がいてもやることはないだろう。それに、カトレアお嬢様の性格からすれば、ルイズお嬢様が枕元にいれば、無理してでも相手をして余計に体調を崩してしまうような気がする。恐らく、ルイズお嬢様が部屋に入れないのは、そういう事情もあるんじゃないかと思う。

「何か元気が出るものを作ってあげるとか」

「ルイズお嬢様じゃ、お料理とか無理だよ」

 今度はシンシアからダメが出る。

「う~ん、何かないかなあ……お手紙書くのもダメだろうし……」

 頭を掻き掻き、私は唸った。
 いいアイディアないかな、いいアイディア。
 そんな時だった。

「何の話し合いですか?」

 三人でうんうん唸っていると、不意に聞きなれた声が聞こえた。仕事を終えた麗しのミリアム女史が、自分のお茶を手に立っていた。思わぬ援軍到来に私は手を叩いた。亀の甲より年の功、ここは百戦錬磨の大先輩に意見を求めるべきだろう。そのことを面と向かって言ったら殴られたことがあったけど。

「さすがメイド長、いいところに! 部下のピンチを判ってますね」

「な、何事ですか?」






「ずいぶん安請け合いをしたものですね」

 事の顛末を話すと、先ほどの話を焼き直したような突っ込みをいただいた。

「何か、いいアイディアありませんか?」

「カトレアお嬢様のお加減はあまり良くないのです。妙な考えはおやめなさい」

「でも、ルイズお嬢様のお気持ちも汲んであげて欲しいです」

「それは判りますが……今回は特にお加減が良くないのです。お食事もほとんど手を付けられないくらいで」

「カトレアお嬢様、お食事、召し上がっていないのですか?」

「軽いものを少しだけ。フルーツは多少お召し上がりになられていますが」

 フルーツ。その言葉に、私の中の神様が指を鳴らした。




「リンゴを?」

 私の提案に、3人が一斉に疑問の声を上げた。

「はい。ルイズお嬢様ご自身がリンゴを摺りリンゴにして、カトレアお嬢様に差し上げるというのでどうかと。達成感もあるし、それならカトレアお嬢様も困らないんじゃないかと思います」

「オレンジとかでもいいのではないのか?」

 ソフィーも疑問を投げてくるが、私は首を振った。

「それじゃ簡単すぎてルイズお嬢様が達成感を味わえないよ。カトレアお嬢様の役に立ったという手ごたえが欲しいんだと思うし」

「ルイズお嬢様手ずからですか……」

 メイド長は渋い顔をした。 

「段取りについては私たちでご指導しますから」

「わ、私たちもか?」

 私のネタ振りにソフィーが驚いた顔をする。ここまで来たら一蓮托生だよ。

「乗りかかった船よ。協力してよ」

「やれやれ」

 そんな私たちをよそにしばらくミリアム女史は考え込み、そして渋い声で言った。

「治療士にリンゴを差し上げてもいいか伺って来ます。やるならその後になさい。いいですね」

「はい!」




 

「と、言うわけなのですが、いかがでしょう。カトレアお嬢様は、きっとお喜びになると思いますが」

 お許しが出た後にすぐにルイズお嬢様のお部屋を訪ね、リンゴ大作戦のあらましをお伝えした。後は当人のやる気次第だ。
 私の提案を聞き終わり、しばらく考えこんでルイズお嬢様は顔をお上げになった。

「やるわ。リンゴをちいねえさまに差し上げるのよね」

「はい。きっとお喜びになると思います」

「でも、そのプランじゃダメよ」

 ルイズお嬢様は腰に手を当てて言った。

「摺ったリンゴじゃ美味しくないわ。リンゴをきちんと切ってちいねえさまに差し上げるべきだと思うの」

 いきなり変わった方向性に、私は慌てざるを得なかった。

「お言葉ですが、ルイズお嬢様、刃物を扱うことは難しいことです」

「だったらあんたがしっかり私に教えなさい」

 か、勘弁してください。そんな私の心情をよそに、ルイズお嬢様の視線に揺らぎはない。

「ダメですよ、お怪我をされたらどうされますか」

「あんたが治しなさい。水のメイジなんだからできるでしょ?」

「こ、困ります」

 これはまずい。ルイズお嬢様が刃物を使ったら、まず間違いなく手を切るだろう。そうなったら大事だ。下手したら私はこのお屋敷を追い出されてしまう。

 私なりに精一杯の抵抗はした。
 しかし、妙に今日のルイズお嬢様は押しが強かった。
 恐らく、カトレアお嬢様の枕元で静々とリンゴを剥く乙女な自分の姿をイメージしたんだろう。
 もともと芯の強い方だとは思っていたけど、こうと決めたら頑として譲らない頑固なところは誰に似たのだろう。

 すったもんだのあげく、メイド長からヴァネッサ女史、果ては奥方様にまで話が飛んだ。
 それぞれの前で歳に似合わぬ熱弁をふるい、その結果ルイズお嬢様は全員の首を縦に振らせてのけた。
 御年6歳でこの行動力。末恐ろしいお嬢様だと思う。
 

 

「それじゃ、始めるわ」

「かしこまりました」

 私が合図すると、部屋の外に控えていたソフィーとシンシアがワゴンを押して入ってきた。
 その上に、山になったリンゴとナイフと塩水を入れた容器。
 料理を習う際、最初にやることは何をおいても剥き物だと思う。刃物を扱う基本が詰まった一連の作業は、単純なだけに奥が深い。

「まず手本をお見せします。ソフィー」

「では、僭越ながら」

 ソフィーが果物ナイフとリンゴを手に取る。
 その途端、しゅばばっと鋭い音がして、数秒でソフィーの手の中に綺麗に剥かれたリンゴが出現した。一枚物に剥かれた皮は薄布のように宙を舞い、シンシアが構えたボールにしゅるると落ちる。

「お目汚しでございますが」

 いわゆるドヤ顔のソフィーに美しすぎる剥きリンゴを差し出されて、ルイズお嬢様が目を白黒させている。

「な、何、今の!?」

「馬鹿、最初からそんなのできる訳ないでしょ!」

「す、すまん」

 私に怒られて、珍しくソフィーは狼狽した。
 メイドの特殊技能の一つ『実務万能』。キッチンスタッフでなくても、このお城のメイドは皆これくらいのことはできる。ここ、ヴァリエールのお城はツェルプストー家と接する最前線だ。戦争になったら役割分担なんて言ってられないだけに、ある程度担当範囲外のスキルも教え込まれる。ジャンやアランは大砲だって撃てちゃうのだ。そんな実務の一つが料理だけど、凛々しい外見と裏腹に、ソフィーは料理が得意だ。その腕はキッチンからスカウトが来るほどだけど、初めて刃物を扱うルイズお嬢様にいきなりこのレベルの作業を見せちゃダメだと思う。
 
「で、では、今度はもっとゆるりと」

 そう言いながら、次のリンゴはゆっくりと丁寧に剥き始めた。自分のペースじゃないからちょっとやりにくそうだ。さくさくと剥かれたリンゴを綺麗に8等分。今度は完璧だ。

「御覧のような手筈で」

「判ったわ。ナイフをよこしなさい」

 そう言って、ルイズお嬢様は生まれて初めて果物ナイフを手に取られた。


 果物の皮むきの場合、基本的に刃物ではなく果物を動かして皮を剥く。逆に、慣れていない人ほど刃物を動かしがちだ。

「そうではなく、もっとナイフは動かさぬよう」

「判ってるわよ」

 最初はよくても、すぐに薪割りのように刃物が動いてしまうルイズお嬢様の手つきは、見ているほうがハラハラだ。本来、公爵家の御令嬢ともなればいわゆる『完璧な淑女』で、間違ってもこのような作業をしたりはしない。しかも、まだ6歳のルイズお嬢様だ。力が弱く手も小さいのに加え、すべてにおいて初めてづくしなだけに手つきが危ないのはしょうがないことだとは思う。
 そんな矢先に、来るべきものが来た。

「痛っ!」

 あっさりとお約束のイベントをこなされるルイズお嬢様。想定の範囲ではある。

「切られましたね。傷を見せてください」

 涙ぐんでいるルイズお嬢様の手を取り、治癒魔法をかける。傷はすぐに塞がるが、ルイズお嬢様の意気が落ち込んでいるのは判る。

「いかがいたしますか? まだ続けられますか?」

「……やるわよ」
 
 それから7つのリンゴを剥かれたルイズお嬢様。その間に手を切ること9回。7個目のリンゴでようやく血を付けずにリンゴを剥き終わったんだけど……。

「……」

 気まずい雰囲気が部屋に満ちていた。
 剥き終わったリンゴは、やけにスマートだった。その隣には、妙に分厚いリンゴの皮。強く握ったせいで、ところどころにルイズお嬢様の手形までついている。

「今度はきちんと最後まで剥けましたね。だいぶお慣れになって来られたと思います」

「全然ダメじゃないの」

「そのようなことはありませんよ」

「いい加減なこと言わないでよ!」

 声を荒げ、手本であるソフィーのリンゴを指差す。
 
「リンゴっていうのはこういうものでしょ。こんなのじゃ、ちいねえさまがおいしいと言ってくれるわけないじゃない」
 
「ですから、綺麗に剥くには練習をされないと」

 私の言葉も聞かず、ソフィーを指差す。

「無理よ。この子連れてちいねえさまのところに行ったほうがいいじゃない」

「それではお嬢様の真心が伝わりません」

「こんな不格好なリンゴよりましよ」

 自信喪失というか、すっかりやる気が目減りしてしまっている。

「せっかくちいねえさまに喜んでもらえると思ったのに……」

 目にジワーっと涙を浮かべるルイズお嬢様。何だかすごく悪いことをしてしまったような気がしてしまう。

「擂りリンゴに切り替えましょうか?」

 フォローしようとしたら、ルイズお嬢様は首を振られた。

「いいわ、もう。あんたたちで剥いたリンゴを届けてあげて」

 そう言って、私にナイフを差し出すルイズお嬢様。どうやら本格的にしょげてしまったようだ。
 せっかくコツが掴めてきたところなのになあ。
 でも、頑張って欲しいと言ってもルイズお嬢様の手のひらには、リンゴとナイフは大きすぎるのも確かだ。もう少し小さいリンゴなら、ルイズお嬢様でもうまく剥けるような気がするんだけど。
 ……小さいリンゴ?
 そんなことを考えていたとき、ひとつアイディアが浮かんだ。
 そうだ、あの手があったぞ。

「ルイズお嬢様、では、こういうのはいかがでしょう」

 私はナイフを手に作業を始めた。
 普通に剥いたのではルイズお嬢様のやる気を盛り立てることはできないと思うから、ここはひと工夫だ。
 まずは皮を剥かずにリンゴをくし型切りに切り分けた。何が起こるかのかとルイズお嬢様が私の手元に熱視線だ。皮剥きがうまくいかないのなら、それを逆手に取っちゃおう。おじいちゃんがたまに作ってくれたあれならば、リンゴを切り分けた状態から作業を始められる。切り分けた小さなリンゴなら、手の小さなルイズお嬢様でも扱いやすいと思うし、何よりこれなら皮を全部剥かなくても大丈夫だし。
 切り分けたリンゴにこうしてああしてほいほい……と。
 よし、完成。
 さくさくと手を加えたリンゴを皿に並べるや、ルイズお嬢様は大声を上げられた。居合わせたソフィーとシンシアも目を丸くしている。
 私のリンゴを見るルイズお嬢様の顔が、花のように輝いていた。

「これよ! これを覚えるわ! ナミ、やり方を教えなさい!!」





 翌日。ルイズお嬢様が作戦決行している間、私たちはホールで待った。
 ルイズお嬢様がカトレアお嬢様のお見舞いにお部屋に入られて、かれこれ30分。結果はそろそろ出ているだろう。

「うまくいったかなあ」

「大切なのは、形よりお気持ちだ。大丈夫だろう」

「心配なものは心配だよ。ルイズお嬢様、プレッシャーに弱そうな気がするし」

 私のつぶやきに対するソフィーとシンシアのリアクションが両極端だった。こういうところで性格って出るなあ。でも、内容はあべこべでも、ルイズお嬢様を応援する気持ちは同じだということは判っている。
 あの後、山と積んであったリンゴをすべて剥いてしまうまでルイズお嬢様の練習は続き、私は傷の手当てのための魔法の使い過ぎで気絶しそうになった。
 さんざん犠牲になったリンゴの山の始末として、今日のおやつはアップルパイだ。ちなみに私は大好きだ。
 程なく、ミリアム女史が何やらクロッシュの乗ったお皿を持ってホールに入ってきた。それを見て一斉に立ち上がる私たち。

「いかがでしたか、ルイズお嬢様は?」

 私の質問に、ミリアム女史は笑って答えてくれた。

「すごくお上手でしたよ」

 メイド長のその言葉に、私たちは大きく安堵のため息をついた。

「カトレアお嬢様、たいそうお喜びでした。ルイズお嬢様も、奥様からお褒めの言葉をいただいていました。良い仕事をしましたね、あなた達」

 う~ん、こういう言葉をもらうと報われる気がするなあ。こういうのがあるから使用人稼業をやっていられるんだよね。
 にやける私に、ミリアム女史が手にしたお皿を差し出してきた。

「そんなあなたたちに、ルイズお嬢様からご褒美です」

 クロッシュを取ると、そこに切られたリンゴが並んでいた。
 一目見て判る、ルイズお嬢様の作品だった。思わず、私たちは笑った。

「何だか、食べちゃうのがもったいないですね」




 お皿に乗った、ちょっとだけ格好悪いウサギさんリンゴが5つ、6つ。



[30156] 第7話
Name: FTR◆9882bbac ID:bedd3568
Date: 2014/05/19 08:37
 季節は巡る。春が過ぎれば夏が来る。
 トリステインの辺境にあるヴァリエール地方にも、そんな夏が来た。

「うひゃ~、やっぱり外は暑いなあ」

 お茶配り担当の午後、庭を歩きながら降り注ぐ日差しに私は空を見上げた。
 『おりゃー』っとばかりに天空のど真ん中で存在感をアピールしてる太陽が、これでもかとばかりに熱気をぶつけて来ている。夏は暑いものだけど、これはさすがに少しは手加減して欲しいよ、お天道様。

「夏服でも暑いね」

 隣で襟元をパタパタしながらシンシアも同意して来る。この時期は半袖の着用を認められているけど、シンシアが言うとおり夏物を着ても暑いものは暑い。降り注ぐ日差しがじりじりと半袖の腕のあたりを焼いているのを感じる。そんな季節でも私たちメイドの中には半袖だと日焼けするという理由で長袖で通す剛の者もいたりもするし、色白は七難隠すと聞くけど、私くらいの年齢なら多少日焼けしてた方が可愛く見えるんじゃないかと思ったりもする。健康美だって女の子の魅力の一つなはずだ。

「夏はやっぱりシンシアの髪が羨ましいわ」

「何で?」

「だって、黒髪って暑いんだもん」

 ブロンドのシンシアと違い、私の髪は強いブルネット。カラスみたいに真っ黒だ。キャップを被っているとは言え、頭全体を覆ってくれるわけじゃない。外に出るとそのキャップから外れた髪が日差しの熱を吸収して、これがまためちゃくちゃ暑い。

「そんなことないよ。私だって暑いものは暑いよ」

「そうかなあ。試しに今度染めてみる?」

「髪染め持ってるの?」

「いや、炭か何かで」

「……ナミが白くするなら付き合ってあげる。暖炉の灰で」

「そ、それはやだなあ」



 そんなことを話しながらお茶を配り終わり、母屋に向かって帰っている時だった。

「おりょ?」

「どうしたの?」

 ふと目にしたものに興味を惹かれて私は足を止めた。
 池の端に、画材が置いてあった。イーゼルにキャンバス。キャンバスを見てみると、木炭の綺麗な線で女の子がうたた寝している情景が描かれている。一目見ただけで『午睡』というフレーズが浮かびそうな絵だった。
 見れば、池の向こうにある東屋の椅子で、ルイズお嬢様が静かに寝息を立てていた。なるほど、あそこは確かに涼しくてお昼寝にはもってこいだ。可愛らしいルイズお嬢様は、当然寝姿も可愛らしい。シンシアはもとより、私まで変な発作が起こりそうな愛らしさだ。そんなルイズお嬢様をそのまま写実的に描いた目の前の絵は、絵心がない私が見ても判るくらいすごく丁寧に描かれていた。本当に上手いと思う。図柄を通して描き手の几帳面な性格が伺える、今にも動き出しそうな感じの見る物を引き込む何かを感じる絵だ。
 でも、私が目を引かれたのは、その絵のせいだけじゃなかった。私の視線を追いかけてそれを見たシンシアの目に星が輝き始めている。
 その絵を傍らにあるベンチの上に座ってじっとキャンバス見ていたのは、一匹の猫だった。
 全身真っ黒けっけな、絵にかいたような黒猫。
 まるで哲学者のような雰囲気で絵を見つめる黒い猫。何だか不思議な雰囲気だ。

「かわいい~、どこから入って来たのかしら」

 緩みまくった顔でシンシアは件の猫を抱えあげた。人馴れしている気配と毛艶からして、恐らくは飼い猫だろう。
 インクで染めたみたいに黒い子だった。肉球も黒い。完璧だ。きっと夏場は私同様に暑いことだろう。毛並みが良く、顔だちも気品がある。すごい美人さん、いや美猫さんだ。
 思わず私も顔がゆるむ。青いつぶらな瞳が何とも言えない。まだ大人にはなりきっていないところがまたかわいい。
 
「かわいいね~。私にも貸して」

 そんな猫をシンシアから受け取って抱っこする。抱っこすると、やっぱり黒い毛皮はほっこりと温かい。

「こら、にゃんのすけ。どこから来たんだ、お前」

 う~ん、柔らかい。これぞ猫、という感じだ。それにしても大人しい子だなあ。じっと体を丸めて抱っこされたまま、すべてを抱き手に委ねている感じだ。よっぽど抱っこされ慣れているのだろう。
 おっと、肝心ことを確認せねば。どれどれ。

「あ、オスだ」

「ど、どこを見てんのよ!」

 私の呟きに、シンシアが顔を真っ赤にして大きな声を出した。

「どこって、タ……」

「こら~っ!」

「別にいいじゃない、猫なんだし。ほら」










 王都のとある商家で、帳簿をつけていた店主が弾かれたように顔を上げた。

「どうしたの?」

 そんな様子に、棚に上って商品の整理をしていた彼の妻が声をかける。

「いや、今、ナミの悲鳴が聞こえたような気がしたんだ」

「ナミの?……気のせいじゃない?」

「君には、聞こえなかったかい?」

「何も?」

「そうか……ちょっと疲れてるのかな」

「ちょっと~、無理しないでよね。疲労回復の薬でも作ろうか?」

「い、いや、それはまたの機会に」

 











「シンシアひどいよ~」

 頭から突っ込んだ植え込みから這い出す私を睨んで、猫を抱っこしているシンシア。

「ふん、だ。謝らないからね。おお、よしよし。本当にえっちなお姉ちゃんよね~」

 この子は何気にこういう冗談は苦手だということを再確認した。制裁にも手加減がないよ、まったくもう。杖まで出すとは思わなかった。
 あ~あ、植え込み乱れちゃったよ。ミスタ・ドラクロワに怒られるかな、これ。
 そんなやりとりをしていると、足音が聞こえた。次いで驚いたような声。

「あ、見つかっちゃったかな」

 柔らかい、落ち着いた男の人の声。そこにアランが画材を抱えて困った顔をして立っていた。追加の画材でも取りに行っていたのかな。

「やっぱりアランのだったんだ」

 私の周囲で、絵を描く人は一人しかない。たぶん彼のものだろうとは思っていた。

「はは、バレてたみたいだね」

「今日はお休み?」

 私の問いにアランは苦笑いしながら頷いた。

「天気もいいから、絵筆を執ろうと思ってね。うろうろしてたら素敵なモチーフを見つけたから、ちょっと描いてみようかと」

「素敵なのは同意だけど、さすがに無断で描いちゃまずくない?」

 その点は彼も気にしていたらしい。人差し指を口に当てて顔をしかめる。

「できればここだけの話にして欲しい。色を入れるときはアレンジするから」

 とぼけたような仕草だけど、その眼差しに、何となく彼の中にある絵に対する情熱が感じ取れた。
 彼が絵を描くことは知っていたし、お給料のほとんどを画材に費やしていることはジャンか聞いたことがあった。聞けば、画材というのはすごく高いらしい。信じられないことに、絵具なんかは上を見たら一匙でお給料が吹っ飛ぶこともあるくらいの値段なんだそうな。無駄遣いの話とか聞いたことないし、お給料、ほとんど絵に注ぎ込んじゃってるんじゃないかな、アランって。それだけ何かひとつのことに打ち込めるというのは、何だかちょっと羨ましい。

「でも、さすがに上手だね~」

「まだまだだよ。これくらいじゃ買い手はつかないと思う」

「そうなの?」

「売れても二束三文だろうね。もっと丁寧に描きこまないと」

 噂話で聞いたことがある。アランの家は下級の貴族なんだけど、絵ばかり描いているから家と折り合いが悪いんだとか。恐らく、三男坊なりにしっかりした身の振り方を考えるべきなのに絵に情熱を傾ける彼を、家の人は快く思っていないのだろう。確かに、画家を志すような人は貴族の社会では変わり者だと思う。
 そんなアランの絵だけど、彼は謙遜しているけど、私の主観ではルイズお嬢様の魅力を十二分に引き出しているように思う。思わず顔が緩みそうな微笑ましい絵だ。これでもダメだというのだから、プロの世界というのは恐ろしいところなのだろう。

「アランって子供好きなの?」

「好きだよ。可愛いしね」

 彼の名誉のために言えば、この場合の好きというのは小児性愛のそれではなく、犬猫を愛でるような意味の可愛さを感じるという意味だろう。その目線の優しさも、何だかお兄さんやお父さんみたいな感じだ。

「大人の女の人は描いたりしないの?」

「そりゃ、いいモデルがいれば描いてみたいよ」

「描いてるじゃない、いいモデル」

 聞こえたシンシアの声に振り返ると、彼女がベンチに置いてあった数枚のスケッチを手にしていた。彼の習作の束だろうか。

「こ、こら、それはダメだよ!」

 慌ててスケッチを取り上げるアランだけど、今更隠してももう遅い。私たちは見てしまった。
 スケッチはどれもこれも、みんなミリアム女史の姿を描きとめたものだった。きちんとモデルとして描いたものではなく、彼女の日常の一コマを切り出したようなスケッチだ。一目見たそれを、瞬時に絵にしているのだろう。
 
「うわ~、大変な秘密を知ってしまった」

「ずいぶん美人に描かれているよね~。教えてあげたらメイド長喜ぶかなあ」

 公然の秘密を初めて知ったように意地悪く言う私たちに、アランが苦い顔をする。

「君たち、交渉の余地はあるのかな?」

「私は甘いものがいいなあ。シンシアは?」

「右に同じ」

「判った。善処する」

 懐具合を知ってるだけに、あまり高いものをたかるのは気が引ける。お茶菓子くらいで手を打ってあげよう。
 でも、今のスケッチ一枚でもメイド長絶対にいちころだと思うんだけどなあ。下手なラブレターより効果があると思う。スケッチだけど、絵に込められた熱量の凄さは私にも判るくらいだ。いやはや、女冥利に尽きるね、メイド長も。さっさとくっついちゃえばいいのに。

 そんなやり取りをしていると、シンシアの手の中から黒にゃんこがするりと抜け出した。てってけて~と走って行った先に立っていた人物を見て、私たちは全員息をのんで背筋を伸ばして直立不動の姿勢を取った。
 靡くブロンドヘアー。猫を抱っこしながら、メガネの奥から鋭い視線を向けてくるお姫様。

 何故にここにエレオノール様がいるのだ?

 私は乾きかけてもつれた舌を必死に動かした。

「お、お帰りなさいませ、エレオノールお嬢様。気づかずに申し訳ありません。いつお戻りに?」

「今朝よ」

 帰ってくる言葉の温度が妙に低い。ご機嫌がだいぶ傾斜しているような気がする。慌ててシンシアに視線を向け、『目と目で通じ合う』私たち。

『シ、シンシア聞いてた?』

『知らないよ~。朝礼でも言われてないし、今朝も集合かからなかったし』

『だよね~。お出迎えとかどうしたんだろう』

 そんな私たちから視線を外し、ずんずんとエレオノールお嬢様はアランの絵に近づいた。メガネを直しながら、食い入るような視線を向けている。これはまずいかも。勝手にルイズお嬢様の寝姿を描いているんだから、ばれたら絶対怒られるだろう。アランを見ると、蒼白の顔面に滝のような汗を流している。脂汗とか冷や汗とか、体の水分が全部出てっちゃって、そのうち体がぱさぱさになりそうな感じだ。
 そんな私たちの心中を知ってか知らずか、エレオノールお嬢様が抑揚のない声で訊いてきた。

「これを描いたのは誰?」

 その言葉に直立不動の姿勢でアランが答える。

「私です」

「ふ~ん……」

 再び視線を絵に注ぎ、唸り声をあげるエレオノールお嬢様。まじまじと、それこそキャンバスに穴が開くほどじっくりをその絵を検分している。沈黙が重い。アランの顔は、まるで処刑直前の死刑囚みたいだ。

「あの……ルイズお嬢様を勝手にモチーフにしてしまったことにつきましてはお詫びいたします」

 そんな感じに必死に弁解するアランの言葉を、エレオノールお嬢様は聞こえたなかったみたいに流した。

「色が入るまでどれくらい?」

「はい?」

「絵が出来上がるのはいつかと訊いているの」

「は、はい。1週間もあれば」

「そう……なら、出来上がったら私のところに持って来なさい」

「え?」

 予想もしていなかった言葉にアランも私たちも言葉が出なかった。

「間抜け面してるんじゃないわよ。どうせ買い手もつかない絵でしょうけど、この程度の絵でヴァリエールの娘だと言われても困るのよ。外に流れてもらっちゃたまらないわ。仕方がないから、私が引き取ってあげると言っているの。多少の手間賃は出してあげるわ。ありがたく思いなさい」

 その言葉を理解するまで数秒かかり、アランは安堵のため息と一緒に頭を下げた。

「か、感謝を」

 低頭するアランを見ながら、私は自分の笑顔が引きつっているのを感じた。
 許してくれるのは嬉しいことだけど、でも理由が変ですよ、エレオノールお嬢様。そういうことなら絵を描くのやめさせればいいだけなのに。その辺を追及するのは、きっと無粋というものなのだろう。

 絵に関する騒動はそもかく、気になるのはエレオノールお嬢様の腕の中にすっぽり収まっている黒にゃんこだ。

「あの、エレオノールお嬢様」

「何?」

「その猫は、もしかして……」

「そう、私の使い魔よ。名前はノワール。覚えておきなさい」

 私とシンシアは目を丸くして驚いた。
 エレオノールお嬢様の使い魔は、黒猫だったのか!
 土の属性と聞くエレオノールお嬢様のことだから、てっきりモグラみたいなイメージでいたよ。猫かあ……考えてみれば地水火風の属性では土以外の他の属性と結びつかないし、地を駆けるという事なら確かに属性は土っぽい、かな。

「素晴らしいです。何て素敵な使い魔でしょう。ああ、羨ましゅうございます」

 目に星を散らしながらシンシアが素直な感想を言う。お世辞のようにも聞こえるが、緩みきった表情が雄弁にそれを否定している。間違いなく、これはこの子の魂からの本音だ。恐らく頭の中で考えていることがそのまま漏れ出しているのだろう。

「そうでもないわね。見た目は悪くないけど、これと言って得意なことのない子よ」

「そんなことありません、そんなにかわいいではありませんか」

 怖いほどの気迫をまき散らしてシンシアが拳を握って力説する。

「まあ、かわいいことは確かね」

 シンシアの言葉にそっけない感じで答えるけど、エレオノールお嬢様の表情は今にも緩みそうだった。隠しきれないくらい全身から『溺愛してます』という雰囲気が滲み出ている。褒められて悪い気はしないのだろう。何かいいな、こういうのって。
 それにしてもノワールって……そのまんまな名前だけど、それだけに実に相応しい名前な気もする。
 じっとノワール君を見ると、真ん丸な目で私を見返してくる。
 う~ん、確かにかわいいぞこの子、ってそこで不思議そうに首傾げるな、かわいいから。私まで発作が起きそうだ。
 
「それはそうと……」

 そんな私に、エレオノールお嬢様が鋭い視線を向けてきた。射抜くような鋭い視線だ。な、何で?

「ナミ、あんたさっきこの子に変なことしたでしょ?」

「え?」

 何故それを、と思いかけて、前に聞いた使い魔に関する話を私は思い出した。
 メイジと使い魔は一心同体。その感覚も共有できるとか。つまり、ノワール君が見たものはエレオノールお嬢様も見ているわけで……。
 それを理解した瞬間、私の全身の血の気が引いた。
 私が逃走を選択するより早く、エレオノールお嬢様の手が私の耳たぶを捕らえていた。

「ちょっと来なさい」

「ご、ご勘弁を!」







 王都のとある商家で、一休みに妻と差し向かいでお茶を飲んでいた店主が再び顔を上げた。

「まただ」

「またナミの悲鳴?」

「君には、聞こえないのかい?」

「聞こえないわ」

「おかしいなあ」

 首を傾げる店主の前で、彼の妻の柳眉が逆立つ。

「ねえ、旦那様?」

「何?」

「今、ここにいるのは誰?」

「……君だよ?」

「二人きりよね?」

「そうだね」

「それなのに、娘とは言え、違う女に意識を奪われてるっていうのはどういうことかしらね?」

「ごめん、悪かった。悪かったから杖はしまってくれ」







 夜、鏡を見ながら私は何度もほっぺたをさすっていた。

「う~、まだ腫れぼったい感じがするよ……」

 自分で治癒魔法をかけたけど、まだほっぺた全体がぼわーっと熱を持ってる感じがする。
 
「ねえ、もう腫れてない?」

 そんな私の隣で、ご機嫌でシャンパンを舐めている同居人に訊いてみる。

「大丈夫よ。いつもどおり」

 む。適当に答えているな、こいつ。

「よく見てよ~」

「大丈夫だってば」

 涙目の私のほっぺたを両手でぺちぺち叩いてシンシアが笑う。笑い事じゃないよ。

「うう、最近手加減してくれない人が周りに多い気がする……」

 我が事ながら、人間のほっぺたがあんなに伸びるものだとは知らなかったよ。

「自業自得。かわいいノワール君に変なことをするからよ」

「だって~」

 そんな私たちを見ながら、一緒に飲んでるソフィーが笑う。
 こういう部分で微妙にシンシアとは価値基準が合わないけど、その間にソフィーがいると不思議と笑い話で終わってしまうから不思議だ。何だかんだで私たちはソフィーがいてくれるからうまくいっているんだと思う。
 そのソフィーの一言が、話の流れを変えた。

「災難はともかく、悪い話ばかりではなかったんだろう?」 

「そうよ。未来のメイド長様」
 
 私の頭をわしゃわしゃするシンシアだけど、私の気持ちは複雑だ。

 そう、私が呼び出されたのは折檻のためだけではなかった。

 


 エレオノールお嬢様の居室に引きずり込まれた後、折檻に続いてノワール君に謝りを入れて、ようやくエレオノールお嬢様が話題を変えて下さった。

「何故私が帰省したか、知ってるかしら?」

 ほっぺたを腫らして太い涙を流しながら壁際に立つ私に、物憂げな感じで椅子に座ったエレオノールお嬢様が切り出してきた。

「いえ、伺っておりません」

 帰省のお話も聞いていなかったくらいだ。当然理由も知らない。
 首を振る私に、エレオノールお嬢様はため息を一つついて口を開かれた。

「縁談よ」

 え、縁談!?
 不意に飛び出した馴染みのない言葉に、私は声が出ちゃいそうになった。
 確かに生まれたときから許嫁がいても貴族なら不思議じゃないし、ヴァリエール家くらいの家格になれば相手には困らないだろうけど、私が知る限りではエレオノール様に縁談が来るのって初めてじゃないかしら。

「それは素敵なお話ですね」

 素直に感想を述べたけど、エレオノールお嬢様の表情は曇ったままだ。

「いい話とばかりは言ってられないわ。相手もそれなりの家格だそうだけど、家柄だけすごくてもしょうがないのよ。私の伴侶となるならヴァリエールの家名だけを背負ってもらう訳じゃないから、私が求めるハードルは割と高いのよ」

それはそうだろう。

「はい。エレオノールお嬢様を幸せにしていただける方でないと、私たち使用人としましても困ります」

 公爵家に入るからには、エレオノールお嬢様のことも大切にしてもらわないと。でも。

「馬鹿おっしゃい」

 エレオノールお嬢様はばっさりと私の言葉を断ち切った。

「男に幸せにしてもらおうなんて思わないわよ。それくらい自分で何とかするわ」

「し、失礼しました」

 謝る私を見もせずに、もう一度ため息をつかれるエレオノールお嬢様。幸せがどんどん逃げて行っちゃう感じがする。そんなため息混じりではあるものの、続いて聞こえたエレオノールお嬢様の言葉は、ある意味すごくエレオノールお嬢様らしいものだった。

「私のことより、あの子たちよ」

「はい?」

「カトレアはあの様子じゃこれからもいろいろあるでしょうし、ルイズも魔法があれじゃ、将来どうなるか。だから、この家を継ぐ男には、あの子たちのこともまとめて守ってくれるくらいの器量がなくちゃ困るのよ。贅沢を言う訳じゃないけど、私の夫になるということは、そういうことだわ」

 窓の外を見ながら、まるで苦しい胸の内を吐き出すように言うエレオノールお嬢様。
 ああ、この人は本当にご家族のことが好きなんだな、と思った。貴族としての誇り、長女としての責任感、姉としての優しさ。そんないろんなものが複雑に絡み合ってエレオノールお嬢様の裡で燻っている感じがする。それでも、名家の長女故に背負わなければならないいろんなものを背負って歩く決意が、言葉の端々に伺えた。物憂げなその表情が、私にはとても神聖なものに見えた。目の前のお姫様が、年齢以上に大人に見えた。

「ご立派だと思います、エレオノールお嬢様」

 心から述べる感嘆の言葉。でも、返ってきた言葉は私の予想の範囲を超えていた。

「何を他人事みたいに言っているのよ」

 私に鋭い視線を向けるエレオノールお嬢様。この辺は本当に奥方様ゆずりだと私は思う。受けてみて初めて判ることだけど、エレオノールお嬢様の眼力は本当に強い。ギロッと睨まれると、大げさじゃなくて体にバスッと風穴が開く感じがする。鉄砲で撃たれるとこんな感じがするんじゃないかしら。

「私が公爵位を継いだら、私の伴侶はあんたの主でもあるでしょう。私の代になる頃までには、あんたもメイド長になれるくらいには腕を磨いておきなさい」

「へ?」

 いきなり飛び出した言葉に、私の頭蓋骨から目玉が落っこちそうになった。

「わ、私がメイド長ですか!?」

「間抜けな声出すんじゃないわよ」

「ですが……いきなりそんなことおっしゃられましても」

「つべこべ言うんじゃないわよ。まだ時間はあるでしょう。ルイズが一番なついてるメイドはあんたなんだし、どうせ使用人やってるならそれくらいのレベルになって見せなさい。いいわね」





 そんなエレオノールお嬢様の言葉を相談すると、最初はソフィーもシンシアも目を丸くして驚いていた。
 そりゃ普通は驚くよね。

 混乱する私に最初に意見をくれたのはソフィーだった。

「確かに、腰を据えて使用人の道を行くのならば、上を目指すのもいいのではないか?」

「上?」

「それこそメイド長や家政婦とかな。お嬢様付きの使用人というのもあるのではないか?」

「それはいくらなんでも難しいよ。絵に描いたみたいな凡人だもん、私」

 表に出る使用人は容姿優先だ。残念ながら私の容姿は人並みだし、能力だってミリアム女史の足元にも及ばない。ヴァネッサ女史クラスとなると実務ももちろんだけど魔法のレベルが全然違う。ヴァリエールは対ゲルマニアの最前線。場合によっては使用人で組織する守備隊の指揮官になる必要があるのが家政婦や執事といった使用人のトップの方々だ。とてもじゃないけど私には無理だ。

「そうでもないんじゃない?」

 シンシアが首を傾げて言う。

「エレオノールお嬢様、それを補って余りあるものをナミの中に見出したんじゃないかな?」

「私にそんなすごいものないよ」

「ナミが自分じゃわからないだけだよ。ナミにもいいところたくさんあるし、主家のために命を賭けられる子だってところも評価されて当然だと思うよ、私」

 シンシアが言うのは、恐らく蜂の巣事件のことだと思うけど、あれは別に主従関係があるから体を張ったわけじゃない。忠誠心がどうこうじゃなくて、幼気なルイズお嬢様を守らなきゃって思っただけだし。
 悩む私に、ソフィーが違う切り口で話題を出してきた。

「でもな、理由はどうあれ、これは好機だぞ、ナミ。お前の人生の転換期なのかも知れん」

「好機?」

 諭すような口調で、ソフィーが言う。

「考えてもみろ。エレオノールお嬢様がおっしゃったのは、押しも押されぬ大貴族、ラ・ヴァリエール公爵家のメイド長のことだぞ。なりたくてなれるものではないだろう。そのメイド長に、努力次第でなれる道があるとおっしゃって下さったのだ。成功したら、すごい出世だと思うぞ」

「でも、私一人っ子だよ」

 一応これでも商家の一人娘だ。婿を取ってお店を継ぐのが私の生き方だと漠然と思っていた。

「そっちは旦那にでも任せればいいだろう。国をまたぐわけじゃなし、2日で会いに行けるなら近いものだろう」

「遠いよう」

 別居してて旦那さんに浮気されたら嫌だ。

「なら、こっちで旦那を見つけて、店の方は人を雇って任せるとかいろいろ方法はあるだろう」

 う~、それは確かに。番頭さんなら笑って引き受けてくれそうな気がするけど……。

「ナミにしては歯切れが悪いわね」

 シンシアが呆れたように言う。

「そりゃ私だって考え込むよ。人生の選択だもの」

「なあ、ナミ」

 不意にソフィーが声のトーンを落とした。

「こういう言い方は卑怯かも知れないが、お前は、いかに自分が恵まれているかをまず考えるべきだ」

「私が?」

「今のお前には、選択の幅がある。これはすごく幸せなことだと思うぞ?」

「そ、そう?」

「考えてもみろ。私もシンシアも、貴族というだけで選択肢はないんだ。それが嫌なら出奔でもするしない」

 その表情に、微かに戸惑いが見えたのは気のせいだろうか。

「私たちは貴族だ。貴族であるからには、自分よりもまずは家を大事にしなければならない。将来を選ぶことはおろか、伴侶を選ぶ自由もない。私の家のような傍流であってもだ。相手の家格によっては、親ほども歳が上の相手の側室になることも珍しいことではない」

 考えたくはない事実だけど、本当に珍しい話ではないらしいことは私も聞いている。相手の財産を狙って娘を送り込むようなことは、貴族の世界では普通にあることなのだそうだ。

「で、でも、ソフィーは自分で領地の再建に乗り出したいんでしょ?」

「そうなればいいとは思うが、主家の都合もあるだけにどこまで私の要望が通るかは判らない。それに、所詮は政治というのは男の世界だしな」

「じゃあ、ソフィーの努力はどうなるのよ?」

「無駄にしたくはないが、無駄になるかどうかは私がどうこうできることではない。残念ながらな」

「そんなのって……」

 言葉に詰まった。ソフィーがどれほど頑張っているかを知っているだけにそういう言葉は聞いているだけで辛い。

「私も承知でやっていることだ、お前が暗くなる必要はないぞ。貴族というのはそういうものなんだ。その代わりに多くの権利が与えられている。仕方がないんだよ」

 トリステインは貴族本位の社会だ。それは私にも判る。でも、やりたいこともできないって、やっぱり、言葉にするとすごく重い。今一緒に毎日を過ごしているソフィーも、シンシア、いや、この二人だけじゃない、メイド長や、ヴァリエールのお嬢様たちも、もしかしたら望まない人生を押し付けられて、息を殺すように生きていかなければならない日が来るのだろうか。
 憐れんだりしたら絶対に彼女たちは怒るだろうけど、それでも私は心からそんな人生を肯定できない。
 子供っぽいことを言っていることは判っているけど、でも、そこに幸せはあるんだろうか。
 そんな私に、ソフィーの言葉が、まるで姉のように紡がれる。

「だからこそ、お前のように選択の幅があるのなら、選ぶことができるうちに将来のことを考えることを私は勧める。家業を継ぐのも立派な選択だと思うが、今日判ったように、それとは違う道でお前を認めてくれている人もいる。無理に新たな道を探せという訳ではない。だが、この機会に、自分が流されて生きていないかを考えてみるのも有意義ではないか?」

「……うん」

「我々も、もう童女と言う年齢ではない。そろそろ、大人になる支度を始める時期だと私は思う」

 いきなり降って涌いた難題に、私は頭から煙が出そうだった。
 将来……確かに漠然と考えていたなあ。
 おじいちゃんが始めたお店を継いで、次の世代に託すのが当たり前の生き方だと思っていただけだった。

「まあまあ、二人とも。今日はそれくらいにしておこうよ。ほら、ナミも飲みなって」

 考え込む私のグラスに、シンシアがお酒を注ぐ。
 その笑顔にもまた、少しだけ影が見えたような気がした。

 いつもは宝石を溶かしたような澄んだ味がするシャンパンが、ちょっとだけ苦く感じた。




 そんな、ちょっと複雑な一日。



[30156] 第8話
Name: FTR◆9882bbac ID:bedd3568
Date: 2011/12/12 21:53
 働いている人にとって、一番幸せな日は何か。
 お休みの日、というのも素敵だけど、それは二番目だ。
 一番は何と言ってもこの日だと思う。
 その日の夜、晩御飯後の時間。ホールに集まったのはヴァリエール家の使用人一同。皆の表情は、例外なくどこか嬉しげだ。そんな緩んだ面々に対し、家政婦の代理であるメイド長の呼び出しがかかり、それに従って呼ばれた人はそのデスクに赴く。

「次、ナミ」

「はい」

 スカートの裾を持ち上げて、ちょっと気取ったご挨拶。
 リストを見ながら皮袋の中身を確認し、私に差し出すミリアム女史。

「今月もご苦労様。来月もよろしくお願いします」

「はい、ありがとうございます」

 両手で受け取り、最敬礼。







 ひゃほ~、お給料だ!








 ヴァリエールの家は、トリステインでも屈指のお金持ちだ。土地が肥えているので作物は良く実るし、街道があるので商業も割と盛ん。特にゲルマニアとの交易については非常に重要な土地なので、黙っていてもばんばんお金が貯まる土地柄なのだそうな。
 そんな土地だから商人の出入りも多く、ヴァリエールのお城にも結構頻繁に売り込みの商人が押し掛けてくる。
 雇い主である家がお金持ちであれば使用人のお給料も総じて高い、と来ればいいのだけど、お金持ちはお金を使わないからお金持ちという訳か、私たちのお給料についてはまあ普通より少しいいくらいの水準。締めるところは締めるのがヴァリエールの家風なのだろう。奥方様からして厳格な方だし。

 実際、私がいただく3分の2は王都の実家に送金しているんだけど、ヴァリエール家ではそれを天引きでやってくれるから非常に助かっている。ヴァリエールの家紋が入った荷物に手を出す命知らずはいかに山賊でもそうは多くないだろうから、こちらとしても本当にありがたいと思う。
 送金されたお金は、実家の方で貯金してくれている約束になっている。
 これは我が家の家訓というか、おじいちゃんの定めた大方針に基づくものだ。
 ある日、おじいちゃんは私に向かってこう言った。

『いいか、ナミ。お前が仕事に就いたとき、やらなければならないことが3つある。1番目は貯金、2番目は貯金、そして3番目にやらなければならないことが…………貯金だ』

 何だ、貯金ばっかりじゃないかとその時は思ったけど、これは実は深い意味があった。
 人は誰でもいつか本当にやりたいことに巡り会うのだそうだ。
 それは商売を始めたり、騎士を目指したり、あるいはお嫁さんをもらったり等々。そういう時、一番必要になるのはやっぱりお金だ。お店を出すにはもちろんお金がかかるし、騎士になるのなら鎧や武器を買わなくちゃいけない。結婚するのも持参金とか何だでいろいろ物入りと聞く。だから、心からやりたいことが見つかるまでは、ひたすらお金を貯め、そういうのに出会えたらそのお金でやりなさいという事らしい。仮にやりたいことに出会えなくても、そのお金で老後を穏やかに過ごせばいいとか何とか。
 さすがにそこまで未来のことは判らないけど、無駄遣いしてあとで困るよりはよっぽどいいと思うし、商売の成功者と言われるおじいちゃんの言葉なので素直に従っておくべきだと私は思っている。
 私としては今のところは住むところと食べるものに困っていないし、小間物を買うくらいしかお金の使い道も特に思い浮かばないので今の生活には満足している。
 そのうち、私にもやりたいことが見つかるのだろうと今は信じたい。



 お給料日の夜、使用人ホールは自然発生的な社交サロンと化す。月に一度羽目を外していい日という感じで、お酒を飲んだり、集まっていろんなことを話し込んだり。
 男性使用人と女性使用人にとっては出会いの場であると同時に、相手を品定めするひと時でもある。
 そんな面々の娯楽として、最も人気があるのがカードゲーム。要するにギャンブルだ。
 ギャンブルとなると、私はちょっとうるさい。
 実は、私のおばあちゃんはギャンブラーだった。
 街から街へ流れる旅のギャンブラーで、おじいちゃんに出会うまではその道ではちょっと知られた人だったらしい。
 おじいちゃんに聞いた話では、王都でおじいちゃんに出会い、おばあちゃんがおじいちゃんに一目惚れして、ギャンブルから足を洗う代わりに嫁にしてくれと言って来たというのがなれ初めだったとか。
 でも、おばあちゃんサイドの説明では話が違い、『俺が勝ったら嫁になれ』という条件でおじいちゃんがおばあちゃんに勝負を挑んで勝ったということになっている。格が違うのでおじいちゃんは全然勝てなかったんだけど、そのあまりのしつこさに根負けして、わざと負けてあげたんだとか。
 真実は闇の中だけど、どっちの理由でもこっちは背中がむずむずするようなお話だと思う。

 ちなみにこれには続編があって、私のお父さんとお母さんについてはおばあちゃんが一夜だけギャンブラーとして現役復帰し、酒場で『私が勝ったら私が言うことを何でも一つ聞いてもらう』という条件でお母さんと勝負して、圧倒的に勝って『うちの息子の嫁になれ』とやったらしい。
 何でも、お父さんが商隊を組んで遠征する際にお母さんの傭兵隊に護衛を依頼した時、お父さんもお母さんもお互い一目惚れしたくせに二人そろって相手に打ち明けられずに悶々としていたので、見かねたおばあちゃんが介入したのだそうだ。
 つまり、ギャンブルがなければ私はこの世に生まれなかったという訳らしい。
 私は、そんなギャンブルの女神ともいうべきおばあちゃんの孫……なはずなんだけど。


「毎度言うがな、ナミ」

 ため息交じりにソフィーが言う。目の前にはチップがどっさり。
 それに対して、私の前にはかなり心細い数に減ってしまったチップ。

「お前、本当に博打に向いていないぞ」

「ぐ……」

 おばあちゃんは天才的なギャンブラーだった。それは確かなことだ。
 でも、問題なのは、おばあちゃんは天才的でも、お母さんはその真逆のギャンブル好きだったということだ。
 下手の横好きがしっくり当てはまるくらいお母さんには博才がなくて、でも好きで、そのせいで素寒貧になることが多かったらしい。お父さんと一緒になってからは誰にも言われてもいないのにギャンブルから全面的に足を洗っているけど、結婚前はずいぶんすごかったんだそうだ。お母さんの独身時代最後の勝負になったおばあちゃんとの勝負の時は、周りの目があるのに下着になるまで注ぎ込んだんだとか。
 その時の話だけど、傭兵だったお母さんは、傭兵なんてやくざな仕事してる女じゃ堅気のお父さんとは添い遂げられないと自己完結して自棄になっていたとも聞いている。その果てに勝ったおばあちゃんに、お父さんの嫁になれと言われて以来、本当にお母さんはおばあちゃんに頭が上がらなかったらしい。
 でも、今問題なのはそんなお母さんじゃなくて、その血を色濃く引いてしまったこの身のことだ。

「こ、これから取り返すわよ」

「悪いことは言わねえ、現実を見ろってば。傷口は最小限にしとけ。な?」

 一緒にやってるジャンの言葉も無視してカードを皆に配り、私も一枚手に持つ。

「さあ、勝負!」

 私の声に、皆が一斉にカードをおでこにかざす。
 これがおじいちゃんが教えてくれたカードゲームで、『インディアンポーカー』と言うゲームだ。
 マイナーな遊びだけど、単純で面白いんだ、これ。
 
 皆のカードを見ると……うう、これを相手に突っ張るのか……。
 でも、ここで引いたらまた私がびりっかすだし。
 女は度胸、と思って私は突っ張った。



「だからやめておけと言ったのだ」

 きれいにチップを巻き上げられて、すっからかんになってしまった私。
 1位はソフィー、2位はジャン、3位はシンシア。ここまではいずれもプラス。要するに、私の一人負けだ。

「ぐぐう……今度ばかりはおばあちゃんの血が目を覚ますと思ったのに」

「いつ目覚めるか判らないものに何かを託すのはやめろって。第一、お前顔に出すぎるんだよ」

 ジャンの言葉にシンシアも頷く。

「不利になると、本当に不利だ~って表情になるものね。今月も御馳走様」

「うう。こんなはずでは……」

 私たち子供はお金は賭けないけど、その分罰ゲームを設定しているのでそれ相応のペナルティはある。この場合、一人負けの私だけがペナルティだ。
 おばあちゃん、ごめんなさい。不肖の孫は、また苦杯を舐めました。

「そもそも、本当に強いというのは、ああいうのを言うんだろう」

 ソフィーが指差す先にいたのは、いつも通りにクールビューティーなミリアム女史だった。






「コール」

 優雅な手つきでカードを広げると、対戦相手と黒山の人だかりのような周囲から怒号と悲鳴、そして感嘆のため息が漏れる。
 目の前にあるのはチップの山脈。同僚相手でも容赦がないところが素敵だと思う。
 難攻不落、不敗の魔女と言われるミリアム女史は、毎月この時間になるとブルジョワの仲間入りをする。
 最初はミリアム女史の気を引こうと勝負を持ちかけた人がいたんだそうだけど、それが返り討ちにあい、なら俺が、いや俺がとやっているうちにミリアム女史の実力が表面化したらしい。何しろクールな人だから、表情が読みづらい。おまけに妙に引きが強いようで、滅多なことでは負けないらしい。

「今月は、もうよろしいですか?」

 挑戦者を視線で問うけど、もはや立ち上がる気力がある人はいないようだ。
 結構な儲けになっているけど、女史はそれを自分の懐に入れるのではなく、使用人名義で別に取っておき、生誕祭の際にみんなのパーティーの費用として一気に放出するから立派だと思う。
 そんな時だった。

「お、いいこと思いついた」

 私の隣に座るジャンが閃いたように立ち上がった。
 何事かと見つめる私たちのよそに、そのままずんずんと歩いて行った先を見て、私たちは思わず息を飲んだ。
 そこに、アランが同僚と談笑している様子が見えた。
 あの馬鹿、何を企んだのだろう、と思う必要もなかった。やろうとしていることは残念ながら手に取るように判ってしまった。

「ど、どうする?」

 二人を振り向くと、ソフィーもシンシアも難しい顔をしていた。

「妙な真似はやめろと言いたいところだが……」

「その結果を見たいのも事実よね」

 何てひどい奴らだろう、と思ったけど、私もまったく同感だ。
 そんな私たちの見つめる前で、ジャンがアランを口説き落としてメイド長の前に引っ張って行った。


「メイド長」

 片付けに入ろうとしているミリアム女史がジャンの声に顔を上げ、アランの姿を見て動きを止めた。

「どうしたのですか?」

「もう一勝負どうですか?」

「貴方がですか?」

「違いますよ。先輩とです」

 ジャンがアランを前に出すと、ミリアム女史の表情に若干の動揺が見えた。対するアランの方も困った顔を隠そうともしない。

「いや、だから僕は余財がないんだよ」

 アランのことだ、恐らく画材に使っちゃうのだろう。

「そんなの、負けなければいいんですよ」

 ジャンが半ば強引にアランを着席させる。そんな様子に、周囲からもやんやの歓声だ。

「それでルールですけど、先輩が勝ったら、休みの日にメイド長を一日エスコートできる権利ってのでどうですか?」

 その言葉に、周囲のボルテージが一気に跳ね上がる。女性使用人あたりからは黄色い声の大嵐だ。

「ちょ、ちょっと待ちなさい!」
 
 慌てるミリアム女史の声が周囲の歓声にかき消されていく。

「あとは場代か……誰か、先輩に乗ってくれる人~」

 そういってジャンが手近にあった帽子を回すと、皆が笑いながらお金を帽子に入れていく。
 何だかやたら楽しそうだなあ。
 メイド長は耳まで真っ赤になっているし。
 でも、そんな様子も楽しくて、回ってきた帽子に私たちも小銭を入れた。





 お給料日直後のお休みは天国だ。
 シンシアも朝からうきうきと準備をしている。貴族なシンシアだけど、よそ行きの服はあまり持っていない。
 私もよそ行きは夏用と冬用で1組ずつだけだ。
 新しい服はもちろん欲しいけど、服は結構いいお値段するから仕方がない。
 それでも、こういう日に着る服だから、それだけでその服はお気に入りになってしまう。
 ああ、お休み。なんて素敵な響きだろうか。

「う~ん、まずはやっぱり櫛だなあ」

 髪をとかしながら欲しいものを思い出していて、ちょうど使っている櫛のことを思い出した。愛用の櫛の歯がだいぶ欠けてしまっていた。
 そんなことをぶつぶつとつぶやいている時だった。

「う~ん、やっぱり綺麗だよね、ナミの髪は」

 髪をまとめていると、シンシアがしみじみした声で言う。

「何?」

「綺麗だって言ったの。そのブルネット」

「そう?」

 私としては、髪を褒められるというのは結構珍しいことだ。実家にいた時はあまり気にならなかったが、勤めに出てからこっち、黒い髪の人に出会うことは滅多にない。トリステインでは多くの人が金髪か栗毛、まれに赤毛もいるけど、私みたいに真黒なのは結構珍しい。別にそれでいじめられる訳じゃないけど、少数派というのはいろんな意味で不利だ。例えば服装や装飾品。それらは大抵金髪の人を前提に作られているから私が付けてもあまりに似合わない。
 この髪はお父さん譲りだけど、そのお父さんもそういう意味では結構苦労したいるみたい。お母さんは、そんなお父さんの髪の色をすごく気に入っていて、同じ色の髪をしている私に『我が娘ながら妬ましいねえ』と言って、たまに意地悪されたりする。
 
 そんな髪の毛、私は肩のあたりまで伸ばして調整してるけど、シンシアの髪は背中の中くらいまである。綺麗な金髪は、まるで絹のように滑らか。ブラシを入れるとスーッと通る。本当に何の引っかかりもなく綺麗に通るのは本当にうらやましい。仕事の時は綺麗に結いあげているけど、もったいないくらいだ。
 髪と言えば、ソフィーはブラウンだ。凛々しいあの子には良く似合っていると思うけど、あまり念入りに手入れしていないのは私と一緒だ。

「私は好きだよ、シンシアの髪」

「あら、ありがとう。まあ、お互い無いものねだりってところかしらね」

「もって生まれた髪だもの、大事にしましょう」







 着替えが終わり、私とシンシアは急いで正門に向かった。

「お願いしま~す」

 小走りに声をかける先には、一台の馬車が止まっていた。
 荷台には大きなミルク缶が幾つも見える。

「おや、今日はお前さんたちか?」

「はい!」

 御者台に座ったミルク商のおじさんが笑う。毎日お城にミルクを届けてくれるおじさんだけど、いつもこの時間ならば町まで馬車に乗せてくれる優しい人だ。
 乗り心地はお世辞にもよくない馬車だけど、無料というところには代えられない。
 私たちが二人して杖を振って荷台に飛び乗ると、おじさんが馬車を走らせ始めた。
 
 馬車の旅は優雅なものだと思う。
 景色を見ながらかっぽかっぽ。
 真夏の青空の下、木漏れ日を感じながら城下に向かってごとごとと進む。深い夏の緑の匂いは、お城の中より外に出た方がやはり強く感じる。私は水のメイジだから草木の気配はよく判るほうだけど、夏の日差しの下で思い切り葉を伸ばす木々の生命力に触れると、こっちも元気が出てくるような気がする。
 やがて道は森を抜け、畑作地帯の脇を抜けていく。こっちも作物が青々。今年も豊作だろうか。
 その上を、白い羽を広げた大きな鳥が馬車に並走するように飛んでいく。

「うわ~、大きな鳥!」

「サギかしらね」

 そんな感じに荷台でシンシアと他愛もない話をしながら、あっという間の30分。
 二つ目の森の木々のトンネルを抜けたところに、城下の町がある。

 ヴァリエール地方は交易も盛んなので、城下のこの町にも定期的に市が立つ。
 今日はちょうどその市の日だったのか、石造りの家屋が並ぶ中、中央広場から大通りにかけて、いくつもの出店が並んでいた。店を張る商人は幾ばくかの税金を払って店を出すんだけど、ヴァリエール領はその税金が安いので、商人からは人気のある位置なのだそうだ。
 王都にお店を構えるまでは、おじいちゃんもずいぶんお世話になったと聞いている。

 いくつものテント風のお店が並ぶ市を、のんびりと歩く。
 お肉やお魚、野菜に果物、日用品や装飾品。王都の市に比べればちょっと規模は小さいけど、品揃えについては充実していて必要なものは何でも揃ってる感じがする。

「いらっしゃい」

 お花屋さんの花を眺めていると、店のおばさんが寄ってきた。

「どれもきれいですね」

「今年はよく咲いているからね。一つどうだい?」

「ご、ごめんなさい。お金があまりなくて……」

 お部屋に鉢植えの一つも欲しいと思っていたところだったけど、さすがにそこまで予算はない。

「ははは、いいんだよ。余裕があるときにまた寄っとくれ。そうだ、お嬢ちゃん、ヴァノワースの丘には行ったかい?」

「いいえ」

 ヴァノワースの丘は、お城から歩いて半日くらいのところにある小高い丘だ。

「あの辺りの花が、ちょうど見ごろだよ。時間があったら行ってごらん」

「楽しそうですね」

 そんなやり取りをしている時だった。

「ナミ」
 
「うわ!」

 呼ばれて振り向くと、すぐ目の前に怪しげなお面を被った奴がいた。どこか南の国のお面だろうか。

「……何だか反応が予想通り過ぎてつまんない」

 露骨に驚いた私に、何だか拍子抜けという顔でお面を外すシンシア。

「ちょっと、それってひどくない?」

「あら、いたずらは、相手もそれなりの反応してくれないとつまんないもの」

「ぶつぞ、こら」

 そんな馬鹿なことをしながら、小間物を見つけて店先に並ぶ品々を物色する。
 とりあえず、櫛が欲しい。
 櫛は女の必需品。必需品なだけに小間物の中でも結構な種類がある。

「う~ん、どれにしようかなあ」

「ナミ、ねえナミ」

 またいたずらされるかと思って警戒して振り向くと、シンシアが櫛を二つ持っていた。
 同じデザインの、可愛い櫛だった。

「わ、可愛い!」

 一個受け取って、デザインをつぶさに見る。
 綺麗な彫が施され、貝殻の装飾がついた本当に可愛いらしい櫛だった。
 一目惚れというか、一目見て、私の中の決定稿になってしまった感じだ。
 
「でしょ、でしょ」

「他のが霞んじゃうなあ……すみません、これ幾らですか?」

 店の奥でツボを磨いていたおじさんに訊くと、返ってきた答えは私の予算にぴったり収まった。
 決まりだ。これに決定。

「これ、ください」

「私も」

 意外な一言に思わず隣を振り向く。

「シンシアも?」

「もちろん。私が見つけたんだもの」

 嬉しそうなシンシアに、こっちも思わず笑ってしまう。

 可愛い櫛が手に入り、気分は上々。今日の釣果は大合格だ。
 あとはちょっと残念な方の買い物。罰ゲーム用品だ。
 卵と砂糖、そしてお塩を買い込む。次いで、馬車でお世話になったおじさんのお店でミルクを買った。
 お昼御飯は適当に買い食いして、帰りはまたお城に向かう八百屋さんの馬車に乗せてもらう。




 時刻は夕方近く。
 ようやくお城に戻って荷物を抱えてお庭を歩いていると、折よくルイズお嬢様が歩いて来るのが見えた。
 ずいぶん機嫌がよさそうな顔をしておられる。

「あ、ナミじゃないの」

 私に気づいて、足取りも軽く走ってくる。

「出かけていたの?」

「はい、ちょっと町までいろいろ買い物を。どうされましたか。ずいぶんご機嫌がよろしいようで」

「えへへ~。見なさい」

 私の問いに、満面の笑みでルイズお嬢様は手にしていたお帳面を開いた。

「……うわ、すごい」

 覗き込んだ私とシンシアは思わず感嘆の声を上げた。
 算術の問題がたくさん書かれたそれに、全部正解のサインが書き込まれていた。

「これで3回連続で満点よ。母様にも褒められたの」

 ルイズお嬢様は、魔法こそ苦手ではあるけれど、普通の勉強は実に成績優秀なのだそうだ。私も読み書きと計算はできるけど、まだ6歳のルイズお嬢様のやっている問題は、そんな私でも悩むくらいの難しいものだ。恐らく、生まれつきすごく利発な方なのだろう。エレオノールお嬢様も学院で主席と聞くし、やはりこちらの公爵家は聡明な血筋なのだろうと思う。

「素晴らしいです」

「さすがはルイズお嬢様」

 ぱちぱちと手を叩いて素直に褒め称える私たちに、ルイズお嬢様が可愛らしい仕草で胸を張る。

「ふふん、当然よ。もっと褒めていいわよ」

 舌足らずな口調でそんなことを言うルイズお嬢様。
 ダメだ、堪えられない。そんなルイズお嬢様が可愛らしすぎて、私は思わず笑ってしまった。
 そんな感じに得意満面のルイズお嬢様が、ふと、私の荷物に興味を示した。

「何、それ。ミルク?」

「ああ、これですか」

 抱えたバスケットの中のミルクのボトルに、なみなみとミルクが詰まっている。結構重い。

「罰ゲームなんです。使用人同士の」

「罰ゲーム?」

 妙なところにルイズお嬢様が食いついてきた。

「カードで私が負けたので、これを使っておやつを作るんです」

「へえ……美味しいの?」

「まずくはないと思いますけど……」

 そこまで聞いて、ルイズお嬢様が楽しそうにお笑いになった。

「面白そう。私にも味見させなさい」

 そう来るか。でも、これって庶民のおやつなんだけど。

「私は構わないのですが、お口汚しもいいところだと思いますよ」

「いいじゃない、ちょっとくらい。勉強ばっかりで疲れちゃったのよ」

 確かに、これだけの問題で満点を取るというのは大変な努力が必要だったことだろう。
 幸い、多少余計に材料は買ってきてある。いつもソフィーとシンシアとジャンの他にもおすそ分けしているから、その行先がルイズお嬢様になっても問題はない。

「かしこまりました。では、使用人を代表しまして、ルイズお嬢様の満点を讃える品ということでお味見いただきたいと思います」






「もう、安請け合いはナミの悪い癖だと思うよ」

 隣を歩くシンシアが、ジトッとした目で文句を言ってくる。

「あそこまで言われてダメとは言えないわよ。ルイズお嬢様泣かせたら、エレオノールお嬢様におしおきされちゃうもの」

 安請け合いはしたものの、庶民の食べ物をおいそれとルイズお嬢様に差し上げる訳にはいかない。
 まずはメイド長に確認だ。ホールにいるメイド長をつかまえる。

「メイド長」

「どうしました。今日はお休みでしょう、貴方たち」

「それなんですが」

 仔細をお話しすると、やや考え込むミリアム女史。

「貴方の作ったあれを、ですか」

 メイド長も一度食べたことがあるけど、その時の評価は悪くなかった。

「ルイズお嬢様のたってのご希望なので」

「それは判りますが……」

 しばし考え、ミリアム女史は顔を上げた。

「仕方がありません。キッチンの了解をもらいなさい。料理長の承認済みなら、問題はないでしょう」

「はい、ありがとうございます」

 一礼し、私はふと思い出して言ってみた。

「そう言えば、ヴァノワースの丘ってあるじゃないですか」

「ええ。それが何か?」

「あそこが今、花畑がちょうど見ごろらしいです」

「そうですか」

 ピンと来ていないメイド長に、ちょっと意地悪く言ってみる。

「せっかくですから、連れてってもらったらどうでしょう。バスケットにお昼御飯詰めて行くと喜ばれますよ、きっと」

 そんな私の言葉に、メイド長は真っ赤になって慌てた。

「だ、黙りなさい!」

 あの夜の事件は、『不敗の魔女の初敗北事件』として私たち使用人の間で語り草になっている。
 いざ勝負となったときに、慌ててカードをこぼしてしまうメイド長は実に可愛かった。
 せっかく公認なんだから、何とかうまくいって欲しいと思う。




 

 用具を取りにキッチンに行くと、私と同年代のキッチンメイドが顔を出した。

「いらっしゃい、待ってたわ」

 名前はジャンヌ。実はソフィーの同室の子だ。生活のサイクルが微妙に違うのであまり顔を合わせないけど、職場仲間では仲がいい子の一人だ。

「……何だか私が負けるの判ってたみたいに言うのね」

「だって、毎月のことだもの」

「むう」

 こう言われては返す言葉がない。

「はい、いつもの」

 渡されたのは、大小幾つかのボウルと道具類だ。

「ねえ、ジャンヌ。それなんだけど……」

 ジャンヌに話を通し、料理長からお許しをいただこうとキッチンの中に入った。
 キッチンでナイフを研いでいたでっかいおじさんにジャンヌが声をかけると、ずしんずしんと音を立てておじさんが私たちに寄ってきた。

「何だ、あれをルイズお嬢様に差し上げるだと?」

 これがヴァリエール家の料理長のマイヨールさん。見上げるくらい体の大きな男の人で、声が大きくて顔もいかついけど、実はすごく優しい人だ。腕なんか私の胴体より太いのに物凄く緻密なお料理をする人で、私たちのおやつのお菓子も、ほとんどがこの人の作品。たまに実験作品としてすごい味のお菓子を作ってしまうのが困った点だ。
 今回の私が作るおやつは、そのマイヨールさんにも以前味見をしてもらったことはあるので細かく説明しなくても大丈夫だと思ったんだけど、予想外にマイヨールさんは困った顔で腕を組んだ。

「う~む、でもなあ、あれを先に味わってもらっちまうのはなあ」

「何かまずいんですか?」

「あ~、あれ自体には問題ないんだがなあ……」

 困っている料理長の隣で、ジャンヌが笑った。

「あれ、料理長がアレンジして、きちんとしたデザートとしてご一家の夕食にお出しする計画だったのよ」

「本当?」

 あまりのことに心底びっくりした。
 うっかりしたものを出すと簡単にクビになっちゃう料理人なのに、あれをデザートに出すというのはすごい冒険だと思う。

「ん……まあな。まあ、あのままじゃお出しするわけにゃいかねえが、それなりに体裁を整えればいっぱしのデザートになると思うからな。いきなり出して公爵様ご一家を驚かせようと思ってたが、ここはしょうがねえ。もともとはお前から教えてもらったもんだ。腕を振るって御馳走して差し上げてくれ」

「はい、頑張ります」


 
 お夕飯が終わったところで、道具を抱えてシンシアと一緒にルイズお嬢様の部屋に伺った。
 今夜はちょっと蒸し暑いので、ちょうどいいだろう。
 
「ここで作れるの?」

「はい、どこでもできます」

 持ち込んだワゴンの上で作業開始。
 まず、卵を黄身と白身に分けて、白身をボウルで泡だて器を使って丁寧によくかき混ぜる。この作業が舌触りを決めると言っていい。
 次にそこにちょっとずつお砂糖を入れる。程よく泡立ったところに黄身とミルクをどばっと投入。おじさんの家のミルクはコクがあるから、こういうお菓子にはよく合ってくれる。クリームを使わなくてもいいくらいだ。
 この時点で撹拌をシンシアに頼み、私の方は別作業。大きなボウルにお水と、魔法で作った氷を入れてその真ん中に小さなボウルを置く。
 そして、お塩。適量を氷に丁寧に振る。
 これで準備は完了。
 小さなボウルにかき混ぜた材料を入れて、木べらで中をゆっくりかき混ぜる。
 ぐ~るぐ~る、ぐ~るぐ~る。氷水が入ったボウルの外側についた水滴が、氷の冷たさで凍り付いていく。順調だ。お塩を振った氷は恐ろしく冷えるからだ。その冷たさが小さなボウルに伝わって周りからだんだん凍ってくる。
 それを木べらでかき落とすように混ぜ続け、冷え具合が足りない時は魔法でサポート。
 そんな作業の様子を、身を乗り出すように見つめているルイズお嬢様。これは期待を裏切るわけにはいかない。


 そんなぐるぐる作業だけど、大体15分もするとボウルの中身はすっかり粘り気を帯びたペーストに仕上がってくる。
 これが、おじいちゃんがよく作ってくれた氷菓子で、『アイスクリン』という。暑いときにはよく作ってくれた氷菓子だ。氷を作るのはもっぱらお母さんだったけど、お母さんも好きなおやつだから積極的に参加してくれていた。
 暑い今の季節にはもってこいのお菓子だけど、やってるこっちは結構疲れる。水のメイジらしい罰ゲームと言えばまったくもってその通りだと思う。
 でも、皆には好評で、たまに罰ゲームとは関係なく誰かの誕生日とかに注文を受けることもあるくらい人気がある。

「はい、お待たせ致しました」

 ガラスの器に出来上がったアイスクリンを載せ、スプーンと一緒に差し出す。

「では、味見をお願いいたします」

「ふ~ん……変わったお菓子ね」

 不思議そうな顔をしたルイズお嬢様はしばらくそれを眺めていたけど、意を決して一匙すくって口に含んだ。
 ありゃ、一気にそれでは多すぎますよ、ルイズお嬢様。

「ひゃん、冷たーい!」

 口の中の冷たさに、ルイズお嬢様が酸っぱいものを食べたように顔をしかめた。

「ちょっとずつお召し上がりください。溶けかけが一番美味しいと思います」

「そういうことは食べる前に言いなさいよ、まったく……でも」

 2口目は慎重に舐めるように味わい、にっこりと微笑むルイズお嬢様。

「すごく美味しいわ、これ」
 
「気に入っていただけて何よりです」

 一礼して、私たちは笑った。

 



夏の終わりの、そんな一日。
 
 



[30156] 第9話
Name: FTR◆9882bbac ID:94786b88
Date: 2012/03/04 19:38
 「こ、婚約者!?」

 その日、私は衝撃の事実を知った。どれくらい衝撃的だったかと言えば、夜中なのに素っ頓狂な声をあげちゃうくらい、私にとってはその話はとんでもないものだった。

「まさか知らなかったの?」

 私の反応がよほど予想外だったのか、シンシアは驚いて仰け反っている。

「知らないよぅ。何で知ってるの、そんなこと?」

「いや、むしろお前が知らない事の方が驚きだぞ」

 シンシアだけじゃなく一緒に飲んでたソフィーまでが意外そうな顔をする。知らないのは私くらいだったのだろうか。

「あの方が、ルイズお嬢様の婚約者……」

 お相手はお城に何度か来ている人物で、ルイズお嬢様よりかなり年上の青年だ。確か16歳くらいだろうか。目鼻立ちが整ってるからメイド仲間にはずいぶん人気がある人だけど、私は特に気にしていなかったせいもあってその手の情報に遅れをとっていたのかもしれない。
 ともあれ、まだ6歳のルイズお嬢様なのに、すでに将来の道筋がついていることに正直びっくりだ。それがいいことなのかよくないことなのかは判らないだけに、私としてはちょっと複雑。

「まあ、ルイズお嬢様も魔法が不得手だからな。嫁ぎ先については早めに押さえておきたいと思う親心なのだろう」

「そういうのって親心なのかなあ」

「恐らくな。こればかりは親になってみないと私にも本当のところはわからん」

「むう」

 複雑な心境が、ますます複雑になっていく。
 ルイズお嬢様は、確かに魔法が苦手ではある。でも、天真爛漫で、一所懸命で、本当に可愛らしいお嬢様だ。貴族様の根幹でもある魔法を馬鹿にするつもりはないけど、魔法が使えないことなんか補って余りある魅力をお持ちだと思う。
 でも、それは私なりの尺度での見方だというのも判る。まず魔法ありきな貴族社会で、ルイズお嬢様が厳しい思いをされているのは確かだ。

「う~ん、ルイズお嬢様に婚約者……」

「勘違いしちゃダメだよ、ナミ」
 
 呟いた私にシンシアが言う。

「貴族の間だと、婚約は社交辞令みたいな部分もあるんだから、結構簡単に婚約したり破棄したりするんだよ。ルイズお嬢様の婚約の話だって、聞いた範囲だと親同士で盛り上がっただけって話だから」

「そ、そうなんだ」

 シンシアの言葉に、少し気持ちが軽くなった。
 そんな私の表情に、ソフィーが笑った。

「何だか最近、ルイズお嬢様びいきに磨きがかかってないか?」

「そ、そうかな?」

 まあ、そう否定はできないが。





 考えれば考えるほど、貴族の社会は難しい。
 家同士のつながりのために嫁に行ったり、出戻ったり、婚約したり、破棄したり。そういえば、先日のエレオノールお嬢様の縁談はあっさりダメになったって話だったっけ。何でもエレオノールお嬢様がひどく荒れ模様だったそうで、相手の殿方はべそをかきながら帰って行ったとか。何があったのかは知らないけど、きっとエレオノールお嬢様のお眼鏡には叶わなかったのだろう。ヴァリエールの三姉妹をまとめて背負って立ってくれる殿方。確かに、そんな懐の深い方にお仕えするなら、使用人冥利に尽きると思うんだけど、今回はダメだったようだ。

 そんなことを考えながら持ち場に向かい、伺いを立ててから清掃対象の客間のドアを開けた。
 お部屋に入ると、意外なことにそこは無人ではなかった。奥のカーテンのところに長身の女性がいるのが見えた。何だか妙に生気がない雰囲気のミリアム女史が、窓辺で静かに遠くの景色を眺めていた。
 いつも冷静で凛としたメイド長だけど、何だかおかしい雰囲気だ。

「メイド長?」

 おっかなびっくり声をかけると振り向いて、いつもの女史とは思えないくらい弱々しい声で答えた。

「ああ、どうしました?」

 驚いたことに、彼女の美貌が見る影もなく弱っていた。まるで悲しいことがあった子供みたいだ。

「どうかしたんですか? 体調悪いんですか?」

「……どうもしませんよ」

「してます。何だか変ですよ。何かあったんですか?」

 後になって思えば、本当に不用意な言葉だったと反省している。こういう顔をした女性を、しつこく追求してはいけなかった。私の畳み掛けるような言葉に、必死に取り繕っていたメイド長の表情に罅が入った。
 長い睫毛に涙が貯まり、声を殺すようにメイド長は泣き出してしまった。

「ど、どうしたんです、私、変な事言っちゃいましたか」

「なん……なんでも、ありま……」

 声を詰まらせ嗚咽を漏らすミリアム女史に、私は心の底から慌ててしまった。何があったんだろう。いや、何があったのかは関係ない。どうしたらいいんだろう、私は。
 生まれてから滅多にないほど慌てている私への救いの声は、出し抜けに私の背後から聞こえてきた。

「ナミ」
 
 力のこもった女性の声。振り返ると、そこに家政婦のヴァネッサ女史がいた。相変わらず影みたいに気配がない人だ。
 そんな女史が鋭い視線で、でも穏やかな声で私に告げた。

「外に出ていなさい。しばらく誰も入れないように」

 それだけ言うと、ヴァネッサ女史は優しくミリアム女史を抱きしめた。その途端、堰を切ったように声を上げて泣き出すメイド長。
 その泣き声に追い立てられるように、私は慌てて部屋の外に出た。ドアを閉め、呼吸を整え、大慌てで杖を振ってサイレントの魔法をかけた。
 見てはいけないものを見てしまった、という嫌な気持ちがする。
 何が起こっているんだろう。
 あの心根の強いメイド長が、子供のように泣いていた。
 いくつもの考えが頭の中をぐるぐる回ってちっとも考えがまとまらなかった。
 人が誰もいない廊下で、私はただ誰も来ないことを祈ってドアを背にして立っていた。
 
 時間にすれば15分くらい。中からドアが開いてヴァネッサ女史が出てきた。私に視線を向けて、静かに言った。

「今日はこの部屋の掃除はしなくて構いません。次の持ち場に向かいなさい」

「判りました」

「それと……」

「はい。誰にも言いません」

「……結構です」

 それだけ言うと、ヴァネッサ女史は足音を立てずに歩いて行った。





 その日は最低な一日だった。
 仕事をしていても、ご飯をいただいていても、メイド長が落とした涙のことばかりを考えていた。
 私にとっては、ミリアム女史は憧れの人だ。かっこよくて、気が利いて、たまにお茶目で、そして優しくて。いつだって動じない心の強い人で、私たち若手の失敗も素早いフォローで何度も窮地を救ってくれた人だ。私もシンシアもソフィーも、失敗を救われるたびに、次は失敗するまい、あの人に恥をかかせるようなことはもう二度とすまいと皆で話し合った。私たちの、頼れるお姉さん。それが我らがメイド長ミリアム女史に私が抱いているイメージだった。
 でも、今日のミリアム女史は、まるでか弱い女の子のようだった。私が勝手に育ててしまった彼女の像を押し付けているのは判るけど、それを差し引いても泣きじゃくるミリアム女史というのは私にとっては予想外のものだ。

「ナミ?」

 ベッドに座って枕を抱え、沈思黙考に陥っていた私にシンシアが声をかけてくる。

「ん~?」

「元気ないね」

「うん……ちょっといろいろあってね」

「何があったの?」

 私を気遣って言ってくれているシンシアに、何も言えないのがもどかしい。

「ごめん。言っちゃダメなの」

「ん……そうなんだ……」

 それだけで察してくるあたりがシンシアのいいところだと思う。何気にすごく頭がいいんだよね、この子。私がお馬鹿すぎるというのもあるけど。 

「ごめんね」

 そんな会話をしていると、ドアが鳴った。シンシアがドアを開けると、そこに立っていたのはソフィーだった。

「聞いたか?」

「どうしたの?」

 応じるシンシアに、ソフィーは驚くべき事実を口にした。

「メイド長に、縁談が来たらしい」




 ヴァリエール公爵家のメイド長ミリアム女史。王都出身の美人さんで、年齢不詳。その不詳というベールの彼方を覗こうとして無事に戻った者はいない。
 性格はクールなんだけど、きちんと冗談も通じる面倒見のいい穏やかな人柄の人で、当然だけど仕事もできる。
 彼女を知れば知るほど、こんないい女をほったらかしにしているとは世の男共は何をしているんだかと不思議には思っていた。
 だから、ある殿方の存在さえなければ、縁談が来れば、ああ、やっとか、ずいぶん世間というのは気がつかないもんだなあと思ったことだろう。
 噂というのは風より早い。翌朝、朝食の席はかなり気まずい雰囲気に包まれていた。半ば公認と言っていい相手がいるはずのメイド長の縁談。誰もがその事を知っているだけに、まるで腫れ物に触るよう感じで彼女に接している。
 それらのどこか挙動がおかしい人たちに対し、動じることなく丁寧に応じているメイド長。
 いつも通りの、落ち着いた声。
 いつもどおりに物静かな彼女の表情を見れば見るほど、それが作り物っぽく見えてしまう。
 時が経つにつれ、私の中で戸惑いが広がっていく。縁談という大きなお話。そして、昨日泣いていたメイド長。その二つを結ぶものが邪推と言う形で私の中で歪に像を結びそうになる。その作り物の笑顔の裏側で、メイド長の身に物凄い嵐のような何かが押し寄せているような気持ち悪さがあった。

「どうしたの?」

「ん?」

 朝ご飯をいただく手が、知らぬ間に止まってしまっていた私にシンシアが首を傾げていた。

「早く食べないと時間なくなるよ?」

「ごめん。そうだね」

「……メイド長の話がショックだったとか?」

「……うん、ちょっとね」

 それだけなら、どんなに良かったか。その予感が嫌な形で当たってしまったのは、その日の午後になってからだった。
 午後になり、そんな私の想いが伝播するように、ただでさえくすんでいた皆の表情に陰が差し始めた。
 当然だ。事情通の誰かがもたらしたメイド長の縁談のお相手の情報が広まるにつれ、誰もが戸惑いを覚えるであろうからだ。
 メイド長のお相手というのは、爵位を持った地方の大きな貴族の方なのだが、今回の話は、側室としてもたらされたということらしい。家格を考えればそれでも名誉と言えなくもないけど、相手がメイド長より倍も年上の人で、しかも側室や愛人を二桁も抱える人物となると話は変わってくる。
 その話を聞いたとき、一瞬耳を疑ってしまった。まさかメイド長がそんな話を受けるとは思えなかったからだ。私の中で組みあがってしまった歪な像が、嫌になるほど強い輪郭を帯びてしまった。それは決して笑える話なんかじゃない。何故、メイド長はそんな話を前向きに考えようとしているのだろうか。間違ってもお金になびくような人ではないはずなのに。
 私は仕事をしながら、ヴァネッサ女史の姿を探した。あの人なら、きっと詳しい事情を知っていると思ったからだ。
 彼女を見つけたのは夕方近く。廊下の掃除の時、廊下を静々と歩いているヴァネッサ女史を見つけて、私は慌てて駆け寄った。

「ヴァネッサ女史、ちょっとよろしいでしょうか」

「何ですか、その足取りは」

 スカートを翻らせていた私に、ヴァネッサ女史の鋭い声と視線が飛んできた。何故私の周りにはこうも眼力がある人が多いのだろう。負けじとお腹に力を入れて声を出す。

「お、お聞きしたいことがあるんです」

「仕事が終わってからになさい」

「すみません、仕事が手につかないんです。お願いします。興味本位ではありません」

 食い下がる私にしばし考えこみ、ヴァネッサ女史は小さくため息をついた。

「……そこが終わったら、私の部屋においでなさい」




 手早く作業を済ませて用具を用具置き場に放り込んでから女史のお部屋に入ると、女史は椅子にもたれるように座っていた。
 まるで、これから語ることがひどく憂鬱なものであるかのように。

「そこにおかけなさい」

「失礼します」

 勧められた椅子に座ると、ヴァネッサ女史はゆっくりと話し出した。

「聞きたいというのは、ミリアムのことですね?」

「はい」 

「そうですか」

 少し間をおいてヴァネッサ女史が語った言葉は、飛び交う噂話を肯定するだけのものだった。話を聞けば、何か明るい話が聞けるかとも思ったんだけど、女史の話は本当に知っていることをなぞるばかりで。

「私から話せることは、この程度です。満足しましたか?」

「はい、でも……」

「何か?」

「その、何とかならないんでしょうか」

「何とか、とは?」

「メイド長が、本心からそういうことを望んでいるとはどうしても思えないんです。だから、何か力になれることもあるんじゃないかなあ、って」

「出過ぎた真似はおやめなさい」

 突きつけられた言葉は、氷のように冷たかった。

「ナミ、貴方は平民でしたね?」

「はい」

「ならば、貴方は今回のことに口を挟むべきではありません」

「ど、どうしてですか?」

「これは貴族と貴族の問題だからです」

「でも、メイド長は私たちの同僚でもあります」

「仕事を離れれば彼女は貴族です。分を弁えなさい」

 それは余りにも強い拒絶だ。取り付く島もない。確かに、貴族様のことに私たち平民は口出しは出来ない。そんな無礼がまかり通るようなことはあってはならないことだというのは判る。

「ですが、私も同じ女です。このままではあまりにメイド長が可愛そうで」

「それが出過ぎた考えだと言うのです」

 切り捨てるような言葉が、女史から降ってきた。

「小なりとはいえ、あの子も貴族と言ったでしょう。平民に哀れまれる筋はありません。そのようなことを口にすることは許しません。良いですか?」

「……申し訳ありません」

 大声で反論を叫びたいのを堪えた。そんな私を、ただ静かにヴァネッサ女史は見つめ、話は終わったと言って私に退室を促してきた。
 飲み込みたくない話を無理やり飲み込んだせいか、部屋を辞するとき、握った手が震えるのを感じた。



 心がシミだらけだった。
 どうにも納得がいかない。夜になって部屋に戻ってもシミは広がるばかりで一向に気分は晴れない。
 ベッドの上で唸る私の隣で、シンシアもやっぱり暗い顔をしていた。

「ねえ、シンシア」

「……何?」

「これって、貴族の社会だといいお話になるの?」

 私の問いに、シンシアはため息をついた。

「いい話になるのよ。貴族の社会ではね」
 
 そんな会話を何度も反芻しながらシンシアと二人で部屋で悶々としていると、ドアが控えめにノックされた。
 開けると、そこにいたのはジャンだった。

「どうしたの、こんな時間に?」

 一応このエリアは男子禁制なんだけど。

「遅くに悪い。皆で集まってるんだ。ちょっと顔出してくれないか?」


 私とシンシアがホールに入ると、何人かの見知った顔が集まっていた。ソフィーやキッチンスタッフのジャンヌもいる。
 男性も数人いるけど、アランはいなかった。
 
「それで、話というのは?」

 口火を切ったソフィーの言葉に、ジャンは言いづらそうに口を開いた。

「メイド長のことだよ」

 ジャンが沈んだ面持ちで言った。予想はしていたけど、彼なりに今回の話に憤慨しているようだ。そして、彼女の事情を知ってしまったここにいる全員が、きっとジャンと同じ気持ちなのだろう。

「メイド長、このままだと嫁に行くって話だろ?」

「そのようだな」

「でもさあ……相手はヒヒジジイだって話じゃないか。何だか、違うんじゃないかな、って思うんだよ」

 その言葉に皆が頷いた。だが、それに同調しなかった人が二人。それがソフィーとシンシアだった。二人の共通項は、いずれの実家が貴族だということ。そんなソフィーが、場の空気に逆らうように口を開いた。

「それで?」

「それで、って……何とかしたいと思わねえか?」

 ジャンの言葉は、私たちの誰もが思っていることだ。でも、そんな意見をソフィーは真っ向から否定した。

「メイド長も大人だ。今回の縁談を受けるということがどういう意味を持つかは判っているだろう」

「そりゃ判るけどさ……」

「判っているのなら、彼女の意思を尊重するべきだということも判るはずだ。安易に口を挟むのには、私は反対だ」

 ソフィーが強い口調で言う。その言葉に、カチンときたようにジャンが声のトーンを上げた。

「薄情じゃねえのか、そういうの。お前だって、メイド長の気持ちが誰に向いてるのか知ってるだろう?」

 それに対するソフィーの返答は、どこまでも冷静だった。

「メイド長の家も貴族だ。その貴族である彼女が一度決めた事は尊重するべきだと思う」

 私は、唇を噛む思いでソフィーの言葉を聞いた。ヴァネッサ女史に手ひどく怒られた後だけに、ソフィーが言うことが正論だということも理解できた。無情なようにも思えても、それはきっと、貴族の社会のルールなのだろうことは私にも察しがついた。

「ちょっといい?」

 手を挙げたのはシンシアだ。そして、誰もが思っても口にしなかった言葉を彼女は切り出した。

「アランは、何と?」

 それは、本来ならここに居るべき人物の名だ。彼の意見こそがこの場合メイド長の意見の次に尊重されるべきものだというのも確かだと思う。でも、その言葉にジャンは首を振った。

「……黙ったままだよ」

「何も言ってないの?」

「何もね。ひたすらその話題を避けてる感じだ。仲間内で詰め寄っても、自分が口出しする事じゃないって言ってそれ以上何も言おうとしないんだ」

「それじゃ、どうしようもないじゃない」

 シンシアが、静かに、そして寂しそうに言った。
 言葉が見つからなかった。相思相愛、お似合いの二人、いつごろ華燭の典をあげるのかについては一部で賭けになっているとも聞いている二人なのに、その彼が黙っていることは、正直信じられなかった。
 
「そうだな。メイド長だけでなく、肝心の彼も沈黙を守るというのであれば、我らにできることはない」

 断言するソフィーに反論できる人はいなかった。そう、今のままではどうしようもない。アランの意向も汲まずに、ミリアム女史に破談を迫るようなことはできないことは私にも理解できた。



 

 翌日、お茶配りに中庭の東屋を訪れたとき、呆然と空を見上げるアランがいた。
 心がどこかに行ってしまっているような、頼りない雰囲気を漂わせて静かにたたずんでいた。何を考えているのかは、今の状況を知るものならば誰でも察しが付くと思う。

「お茶……持ってきたよ」

「ああ、ありがとう」

 いつもよりややぎこちない手つきで受け取り、やはりぎこちなくお茶に口をつける。
 少しだけ彼を責めるような私の視線を気にするように。

「ねえ、アラン」

「何?」

「メイド長、結婚しちゃうね」

「そうだね。いい話だと思うよ」

 その声は平板で、まるで感情がこもっていないように感じられた。
 いい話な訳がない。生木を裂くような、二人にとっては最悪の事態なはずなのに。

「それ、本気で言ってる?」

「……本気だよ」

「アランは、それでいいの?」

 私の問いに対する彼の言葉には、どこか自嘲が篭っているように思えた。

「勘当も同然の貧乏貴族の三男の、出る幕じゃないさ」

 アランの家もまた、貴族だ。ただ、爵位は準男爵でそんなにお金持ちではないことは私も噂には聞いている。正直、財力について考えると今回の相手とは比較にならない。しかも彼は三男で、絵に傾倒したがために勘当も同然の身の上らしい。
 実家は兄弟のものになって将来の収入も見込めないこと、武芸もなければ魔法も人並み、コネもなく、自分自身が生きていくのが精いっぱいだということ。彼の口から、そういった後ろ向きな言葉が綴られる。

「でも……」

 食い下がる私に、アランは言った。

「自分のことで精いっぱいの僕に、彼女の家を背負う甲斐性はないんだよ。それなのに、僕を選んでくれなんて、とてもとても……」

「お金だけで考えなくちゃいけないの、そういうことって?」

 彼なりに、メイド長のことを考えてくれているのは判る。でも、これを愛情だというのなら、私は大声でそれは違うと叫びたかった。誰かを好きになること、そして誰かを大切に思うことというのは、お金なんかでは計れない崇高なものだと信じたかった。甘いことを言っている自覚はある。でも、気持ちを切り離したそんな考え方がどうしても悲しかった。
 でも、それに対する彼の答えは単純で、でも確固たるものだった。

「お互いの気持ちがあればやっていける、っていうのは子供の理屈だよ。何をおいても、糧を得るというのは生きる上で基盤になるものだからね」

 私は唇を噛んで、声を荒らげようとした自分を押さえ込んだ。

『メイド長、泣いてたんだよ』

 秘密とされているその言葉が、私の口から零れ出そうになるのを何とか堪えた時。

「ナミ」

 背後から静かな声が聞こえた。振り返ると、無表情なメイド長が立ってた。

「さぼっていないで仕事をなさい」

「……すみません」
 
 私は一礼して、メイド長に続くように母屋に向かった。二人がついに視線を合わせなかったことが、たまらなく辛かった。 
 母屋に向かう道すがら、私は思い切って尋ねてみた。

「メイド長」

「何ですか?」

「メイド長、笑っていられますか?」

 私の言葉に、メイド長は何も言ってくれなかった。

「嫁いだ先で幸せになれる、って言えますか?」

 そんな私の追及に、少し間を置いてからミリアム女史は静かに答えた。

「ナミ、貴方の家は、商家でしたね」

「はい」

「お金に苦労したことは?」

「……ありません」

 私の返事に、ミリアム女史は自嘲するように笑う。

「貴族というのはね、言われているほど、いいものではないのですよ」

 そう言って、遠い目でミリアム女史は言った。

「このお家のような名家ならともかく、下級の貴族の俸禄というのは、すごく低いんですよ」

 微かに震える声で綴られるそれは、私が知らないメイド長のお身内の話だった。

「酷い冬もありました。食べる物がなくて、でもお金もなくて。近くの酒場の残り物を分けてもらったこともありました。焚き付けもないから夜になると手足が凍えて、寒くて眠れなくて。それは辛いものなのですよ。うちは6人家族ですし、母も体が強くありません。今までは戦になれば父はその都度出征していましたが、ひどい怪我をして、今は長く床に伏しているんです」

 静かな瞳で語るメイド長。その瞳の中に、冬の湖のような灰色の静けさが漂っていた。

「私も相応のお給金をいただいてはいますが、それだけではお世辞にも余裕があるとは言えないんです。父の治療費も掛かりますし、何より弟たちは食べ盛りです。ひもじい思いは、させたくありません」

 それはあまりにも冷たい、拒絶の言葉だった。お金に苦労したことがない人には判らない次元で、彼女は自身の人生の選択をしていると言っている。それは同じ苦労をしたことがない私が踏み込めない、踏み込む資格がない領域だった。

「男子であれば、戦で功名を立てることもできたでしょうが、女の身ではそれもままなりません。いえ、むしろ、こういう婚姻こそが、貴族に生まれた女の戦場とも言えるでしょう。これが貴族の世の倣いなのです。だから、私は喜んで嫁ぐのですよ」

 紙のように白くて薄い彼女の笑顔とともに絞り出されたその言葉に、私の中に深い絶望が溢れた。
 






 おじいちゃんは商人だった。それだけに、お金に関しては多くの言葉を私に教えてくれた。
 その大切さやありがたさ、あるいは怖さ。でも、そのことを、私は本当の意味では理解していなかったことを知った。メイド長の言葉に、お金の持つ本当の姿が浮き彫りになったような気がした。お金は、味方にも仇にもなる、水のように形を持たない力なのだと。
 確かに、私は子供のころからお金のことで苦労したことはなかった。おじいちゃんやお父さんが築き上げたお店の庇護の下で、ぬくぬくと日々のご飯や暖かいベッドを宛がわれてきた。今でこそ自分で働くようにはなっているが、それだってこんな立派な家にお仕えできたのは実家のコネのおかげだ。だから、メイド長の言葉に対し、私は反論を持てなかった。
 午後のお仕事をしながら、私は自分の人生の奥行きのなさを噛みしめていた。

「お金、か……」

「何だって?」

 窓を磨きながらぽつりとつぶやいた私の言葉を、隣で窓を磨いていたソフィーが拾った。

「お金があれば、メイド長だってこんな縁談、受けなかったんだろうな、って」

「それはあるだろうな。貴族の結婚の大半は、権力と財力を下敷きにするものだしな」

 ふと手を止めて、私はひとつ思いついた。

「私の実家から、メイド長の家に援助とかできないかなあ」

 自分自身が、決して良い手段だとは肯定できない、いつもなら決して考えるはずがない思いつきだった。その言葉に、ソフィーは眉を顰めた。

「おいおい、何を言っているんだ?」

「私なりに、できることはないかなあ、って思うんだ。私がお世話になった方だし、事情を話せば、お父さんも考えてくれるんじゃないかな、って」

 私の言葉に、ソフィーの手が止まった。聞こえてきたのは、滅多に聞かないソフィーの硬質な声だった。

「ナミ、それは違うぞ」

「違う?」

「これは間違ってはいけないことだ。メイド長の家は貴族だ。縁談を取りやめるために平民から施しを受けるというルールは貴族にはない」

「ほ、施しだなんて、そんな」

「お前の気持ちは判っているが、世間はお前の気持ちまでは汲みとってくれん。平民から施しを受けた貴族と言う事実だけが独り歩きするだけだ」

 ここでもまた、貴族と平民というルールが立ちはだかってきた。

「……でも」

「それに、考えてもみろ。そんな金を、メイド長が受け取ってくれると思うか? お前が彼女に、一生頭が上がらないような貸しを作りたいと思っているわけでもないのなら、それはやめたほうがいい」

「それでも、それでも私は……」

 何かがしたかった。メイド長のために、何かをしてあげたかった。そんな私に、ソフィーは言う。

「金は、怖いものだぞ。金には、人の情すら簡単に狂わせる力がある。メイド長が笑って受け取れるお金じゃない限り、そういうことはするべきではない」

 あまりに強烈なダメ出しに、私の心がささくれていく。

「冷たいんだね、そういうところ」

 私の口からこぼれた言葉に、ソフィーの表情が一瞬だけ曇った。その様子に、私は知らぬ間に八つ当たりをしていることに気が付いた。友達に尖った言葉を向けた自分が、すごく惨めに思えた。

「……ごめん、言い過ぎだよ、私。そういう事を言いたいんじゃないんだ」

 自己嫌悪に陥っておでこを窓枠に押し付ける私に、ソフィーはいつも通りに応えてくれた。

「気にするな。判っている」

 黙々と窓を吹きながら、ソフィーは呟くように言う。

「それに、現状をひっくり返すには、決定的に足りていないものがある」

「何?」

「二人の本心だ」

「本心?」

「お前は、二人の気持ちを、どちらか一方でもいい、言葉として聞いたことはあるか?」

「……ない」

 お互いを思い合っていることは判るけど、確かに相手が好きだという言葉は聞いたことがなかった。メイド長は何も言っていないし、アランだって頑なに口を閉ざしている。そこに介入するには、あの二人と私たちはそこまで深い人間関係にないとソフィーは言いたいのだと判った。

「せめて言葉を交わし、将来を誓い合ったというのであれば介入のしようもあるのだがな」

「でも、もし相手が好きでもやっていけないってこともあるんでしょ?」

「どういうことだ?」

「お互いの気持ちがあればやっていける、っていうのは子供の理屈、だって」

「何だそれは?」

「アランに言われたの」

 私の言葉に、ソフィーもまたため息をついた。

「……大人なんだな、彼は」
 
「何とかならないかなあ」

「何とかならないから、大人の世界というのは難しいんだろう」

 妙に背伸びしたソフィーの言葉が、私には重かった。






 嫌なことがある時に限って、月日の流れは早い。
 数日が過ぎ、ミリアム女史の縁談がいよいよ具体化し始めた。
 休暇を取り、ひとまず王都の実家に行ってから仲介の人物に承諾を正式に伝えるために訪問するとのこと。
 夜明けの靄の中、旅支度をしたミリアム女史は静かに馬車に乗ろうとしていた。私服姿のメイド長が、少しだけ痩せたように見えた。

「留守の間を頼みましたよ」

 そんなメイド長の言葉に、誰もが暗い顔で黙り込んでしまう。私たちが留守を守る間に、彼女は彼女の人生の選択をしなければならないのだから。私は何とか声を絞り出して話しかけた。

「メイド長……」

「何ですか?」

「いえ、その……」

 呼び掛けはしたけど、言いたいことがまとまらず、そのまま黙り込む私の頭に、メイド長が手を置いた。

「何ですか、その顔は。貴方には似合いませんよ」

「……すみません」
 
 すみません、何も言えなくて。
 すみません、何もできなくて。

「仕方がない人ですね」

 無理に笑うメイド長を見ているだけで、こっちが泣きそうだった。私の髪をくしゃっと撫で、そしてメイド長が静かな声で言う。

「ルイズお嬢様のこと、お願いしますよ」

 その言葉を最後に馬車に乗り込み、小さく手を振って王都に向かって旅立っていった。




 その日の朝礼は、まるでお葬式の日のように沈んでいた。
 最後に見た無理に笑うメイド長の笑顔があまりにも悲しく、皆が会話を忌避するように黙り込んでいる。
 でも、気持ちは沈んでいても、お仕事は待ってはくれない。
 朝食後、今日の担当である部屋に出向く。よりにもよって、今日の担当は先日メイド長が泣いていた部屋だ。
 ドアを開けると、そこに先客がいた。
 細身の男性。できれば今は会いたくなかったアランが、静かに窓の外を見つめていた。

「アラン?」

「君か」

 振り向いた顔は頬のお肉が落ちて、目の下も真っ黒だった。どれほどの苦悩の日々が彼を苛んだのか、それだけで充分に理解できてしまう。その顔に向かって文句を言いたくても、それを言えるだけのことができなかった自分の不甲斐なさが情けなかった。

「……ごめん、私、貴方に何て言えばいいかわからないや」

 私は言葉を選んで言った。彼の心情を考えると、非難の言葉も慰めの言葉も思い浮かばない。
 そんな私に、彼の告解のような言葉が届く。

「薄情者、とでも罵ってくれればいいさ」

 俯いたまま、静かに漏れる懺悔の声が耳に痛い。

「私には、アランを責められないよ」

「……君は優しいな」

「アランだって、精一杯考えてのことでしょ?」

 何かがしてあげたかったのに、何もできなかった無力な私だ。お金の援助も、彼女の背中を押してあげることもできなかった。そんな私が、彼を責めることなんかできない。
 しょうがない。そんなすごくずるい言葉が、頭の中で回っていた。
 でも、そんな私の言葉でも今の彼には重かったのかもしれない。ややあって、アランの肩が震えだした。男の人が泣くのはみっともないというけど、今の彼には、それだけの理由がある思う。

「泣く資格なんか、僕にはないのにね」

 彼なりに、苦悩した果ての結論だったことは判る。
 彼が持っていたメイド長のスケッチに込められたものは、絵描きとしての情熱だけではないことは私にも判ったくらいだ。優しく、細やかな愛情。そんな絵を描きながら、自らが夢見ていたであろう理想の未来を、自らの手で摘み取るのにどれほどの苦痛があったかは彼にしか判らないと思う。
 ただ、私は彼の言葉を聞き、そして静かに問うた。

「……好きだったんでしょ、メイド長のこと」

 アランは静かに頷いた。

「過去形じゃない。今でも好きだ」

「……そう」

 ようやく聞けた、彼の本音。
 恐らくは、一生心の奥にしまい込まれてしまったであろうその気持ちが、言の葉になって彼の口から漏れ出てきた。
 誰かを好きになるという、素敵な気持ち。
 無垢で純粋な、誰かを思う気持ち。
 もうちょっとだけ早く、メイド長に聞かせてあげたかった、今となっては意味も力もない言葉だ。





 でも、無力なはずのその一言の持つ本当の力を、私は理解できていなかった。






 アランの悲嘆が満ちた部屋の静寂を破るように、乱暴にドアが開いた。

「ナミ、でかしたぞ」

「ソフィー?」

 荒い足取りで入ってきたのはソフィーだった。呆気にとられる私をよそに、荒々しくアランに詰め寄るソフィー。

「やっと白状したな、アラン。今の言葉、確と聞いたぞ」

 凛とした声で言い放ち、アランの前に立つ。自分を落ち着けるようにひとつ深呼吸をし、年上の彼に対して諭すように言った。

「今の貴方に、聞かせたい言葉がある」

 彼が首を傾げるのも構わず、ソフィーは静かに告げた。

「『山川の末に流るる橡殻も、身を捨ててこそ浮かむ瀬もあれ』。ある商人が書いた本の中の一節だ」

 その言葉に、私は息を飲んだ。それは、ソフィーに貸したことがある私のおじいちゃんが書いた本にあった言葉だった。
 乾坤一擲の大勝負をする時におじいちゃんが口にしていた言葉だと聞いている。

「窮地にあっては一身を賭してこそ活路が開ける、という意味の言葉だ。私は貴方の決断には敬意を払っているつもりだが、メイド長のことを思って身を引くというのなら、それはやめてもらいたい。メイド長の気持ちは誰もが知っている。そして、貴方の気持ちは今はっきりと聞いた。ならば、貴方にはどうあっても頼まねばならないことがある」

 そう言って、ソフィーは背筋を伸ばし、優雅な手つきでスカートを抑える。その所作は、どこまでも気品にあふれていた。
 そこにいたのは、私の同僚であるメイドではなかった。
 
「好いた男と添い遂げられることは女の本懐。その男のために手を荒らすのは女の幸せ。悩んだ末に決断するというのなら、彼女が笑ってくれる道を選んで欲しいと思う。故に、この世のすべての女を代表し、モンモランシ家に連なるカマルグ家長女ソフィーが伏して乞う。どうか、我らの姉を救ってくれないだろうか。この通りだ」

 そう言って頭を垂れる友達の姿に、私は少なくない衝撃を受けた。
 これが、貴族。
 初めて目の当たりにする、貴人が示す本物の礼だった。
 凛々しく、気高い淑女が振るう、揺るがぬ信念をもって発せられた不可視の魔法が、信念をねじ伏せ、自らの気持ちを裏切り続けたが故に抗う術を持たない青年を追い詰めていく。
 まるで、喉元に刃を突きつけられたようにアランの顔が強ばっていた。

「僕は……」

 苦悩と戦うように、アランは俯いた。彼自身が子供の理屈だと一蹴した艱難であっても、想いがあればそれすら拒絶の理由にはならないと、他ならぬ貴族の女の子に言われている。無茶な注文だと思う。明日をも知れない境遇に二人で飛び込めと言っているのだから。でも、それすらも女は幸せと感じることができると言われたら、男の人はどうすればいいのだろうか。
 彼自身が積み上げた今を正当化するための理由が軋む音が聞こえるようだった。
 そして、その強度を失った城壁にとどめを刺しに来たのは、次いで入室してきたシンシアだった。

「ジャンが馬の用意をしてくれています。今ならば、まだ間に合うはず。あとは、貴方次第です」

 そう言って、ソフィーの隣に並んで首を垂れるシンシア。
 その所作もまた、貴人と呼ぶに相応しい、堂々たるものだった。

「我らの姉のこと、お頼み申します」

 突きつけられた、二振りの見えない杖。
 凄まじい葛藤が彼を苛んでいるのは判るけど、彼に逃げ場はもうないのだろう。
 汗を流し、苦悶の表情を浮かべるアラン。
 恐らく、彼は今、自分の未来を複雑なまでに模索しているはずだ。いかなる言葉を浴びても貫いてきた、絵描きの道を捨てることすら選択肢として考えているのだろう。
 一人のの女性のために、本心とは全く違う、糧を得るためだけの仕事に就いて生涯を終える。
 その決断を、彼は迫られている。
 彼を擁護することはできない。どちらにつくかと問われれば、私はメイド長と即答するだろうから。
 同時に、彼の最後の壁を突き崩すに足る言葉を私は持っていることを思い出した。
 貴人ではない私に、取れる礼はない。ただ、思ったことを口にするしか私の気持ちを伝える術はない。 
 正面から彼を見つめ、意を決して、私は禁を破った。

「私からも頼むよ。メイド長、泣いてたんだよ。悲しそうに泣いてたんだよ。こんな話、受けたくなんかなかったんだよ」

 そうして、あまりにずるく、あまりに無責任で、そしてあまりに残酷な包囲網に、私は加わった。




















 私の言葉が彼の心に届いたからかどうかは、判らない。
 でも、ついに彼は顔を上げた。その表情に、曇りは見えなかった。

「後のことは、よろしく頼む」

 それだけ言い捨てると、彼は廊下に飛び出した。
 全てが、良い方向に向かって動き出す。その先に、メイド長が笑ってくれる未来があると思いたかった。
 でも、そう思ったのは、彼が廊下に足を踏み入れて3歩進んだところまでだった。
 立ち塞がるようにそこにいた二人の人物を認め、アランは踏み出しかけた足を止めた。
 彼の行く手を阻んだのはヴァネッサ女史と、執事のジェロームさんだった。

「どこに行こうというのですか」

 巌のように厳しい表情で、女史は彼に問う。まるで彼がこれから何をしようとしているのか全て判っているかのように。
 生まれたばかりの決意だけが寄りどころの彼に降りかかった最初の過酷な試練に、私たちはとっさに目配せした。必要とあらば、立ちふさがる二人への説明を引き受けてでも彼を行かせるつもりだった。

「すみません、失いかけているものを、取り戻しに行きたいと思います」

 凛とした、揺るがぬ筋が入った声音でアランは応じる。いつものどこか弱く思えるほど優しい彼とは思えないくらい、力ある声。彼もまた、貴族なのだと私は思った。

「……ミリアムですね」

「はい」

 ヴァネッサ女史とアランの視線が交差し、火花が散っているように思えた。何だか、このまま決闘にでもなりそうな重い雰囲気だ。
 そんな二人のやり取りに割って入ったのは、隣で聞いていたジェロームさんだった。

「よろしい。ならば、一緒に来なさい」

 ヴァネッサ女史と違い、ジェロームさんの表情に険しいものはない。

「ですが……」

「心配は要らぬよ。とにかく、付いて来なさい」

 突然の予想外の事態に、私たちは言葉が出ないほど混乱した。同じように気を削がれたアランはジェロームさんにどこかに連れて行かれてしまった。
 後には、呆気にとられたような空気が残った。

「……え~、っと……何なの?」

 隣で同じように混乱している二人に訊いても、二人揃って首を振るだけだった。そんな私たちに、ヴァネッサ女史のいつもどおりの声が降ってきた。

「貴方たちは仕事に戻りなさい」

「あの、でも……」

「ここから先は私たちに任せておきなさい。さあ、やるべきことを早く済ませなさい」

「は、はい」

 何だか訳が判らないまま、その場はお開きになってしまった。

 そうは言ってもあんなことの後だ、いきなり仕事に戻れと言われても取るものも手につかない。
 こうなると頼りになるのは使用人の情報網だ。持ち場の掃除を10分で済ませ、大急ぎで使用人ホールに向かう。
 さすがは私の同僚たち、物見高い連中が多い。現在最も旬の話題だけあって飛び交う情報には不自由しなかった。いくつかのデマはあったものの、彼が連れて行かれた先はさほど間を置かずに判明した。

「奥方様の部屋に?」

 次の玄関ホールの清掃担当は運良く私たち3人が担当だったが、シンシアが仕入れてきた情報に、私は思わず声を上げた。

「まさか直々の叱責という訳ではないだろうな?」

「それはないでしょ。お叱りならジェロームさんがあんなこと言うはずないし」

 ソフィーの懸念をシンシアが一蹴する。これは私も同意見。でも、何故このタイミングでのお呼び出しなのだろう。
 何か、見当もつかないことが起こっているのだろうか。

 そんな話をしているとき、廊下の向こうからマントを着た長身の青年が足早に歩いてくるのが見えた。

「アラン!?」

 私たちに気づいて顔を上げるが、何だか顔つきがおかしい。鳩が豆鉄砲というか、まるで現状がよく理解できていない様子だ。服装や荷物を見ると、どうやら旅姿という感じだ。

「すまない、急ぐから歩きながらでいいかい?」

 そう言いながら歩みを止めない彼に付いて歩きながら質問をぶつける。仕事をほったらかししていることについては、後で素直に怒られることにする。

「どうしたの、その格好?」

「急な話なんだけど、王都に行くことになったんだ」

「王都に?」

 その問いに対する彼の答えは、私たちの予想や想像の範囲をはるかに超えたところにあった。

「僕に、芸術アカデミーから招聘の打診があったんだ」

「芸術アカデミー?」

 その単語に、私たち三人は同時に声を上げてしまった。

「何かの間違いじゃないかと思ったけど……もう何がどうなっているのやら……」

 そう言う彼が手にした封書の蝋封には、やたら立派な印が押されていた。どうやら間違いではないらしい。
 芸術アカデミーと言えば、王立魔法研究所なんかと並ぶ王立学士院の一角をなす正規の学術機関だ。多くの場合は王立魔法学院の卒業生がその適正に応じて進むところだけど、彼が言うには相応の人物からの推薦で入ることもできるのだそうだ。
 何でも、ある高名な絵師がアランの絵をいたく気に入り、正式に勉強してみる気はないか、と言ってきたのだとか。給費生なので生活費の心配はない。また、個人的に描いた絵は売ることができるそうなのだけど、芸術アカデミーに属するということは宮廷芸術家への道が開けていることを意味するので、将来性を見込んだお金持ちが結構高値で買ってくれるのだそうだ。もちろんこの段階からパトロンが付くことも珍しいことではないようだけど、それとなくジェロームさんが匂わせていたのは、当のヴァリエール公爵家が彼の活動をバックアップする話があったのだとか。
 
「そ、それじゃ」

 もしかしてこれって絵描きとしてはこれ以上の成功はないんじゃないかしら。恐らく、一家の大黒柱として充分な収入は確保できる計算になるのだろう。
 アランの顔に、かつてないほどの覇気が満ちていた。

「ああ、なんとかなるかも知れない」

 





 城門のところに行くと、既に見送りの使用人たちがたくさん集まっていた。
 彼のために用意された馬に鞍は付けられており、その傍らで見送りの人たち一人一人と言葉を交わすアラン。
 最後に、アランが私たちに視線を向けて言った。

「それじゃ、行ってくる」

 今から追いかければ、恐らく最初の宿場でメイド長に追いつくだろう。その場にいられないのが、ちょっとだけ残念だ。

「心配はしてないけど、頑張ってね」

 シンシアの言葉に、アランは朗らかに笑う。

「お礼を言わせてもらう。こうなったのも、君たちのおかげな気がするよ」

「礼を言うのはまだ早いだろう」

 ソフィーが笑ってアランに忠告した。そう、結果はまだ出ていない。喜ぶのは、メイド長の笑顔を見てからだ。

「私たちの姉さんをお願いね」

 最後の私の言葉に頷き、彼はジャンが持っていた手綱を受け取って馬上の人となった。

「それじゃ、行ってくる」

 足早に城門を走り出ていく彼に、皆が大きな声援を送る。そんな声を帆に受けるようにその後ろ姿はあっという間に小さくなって森の中に消えていった。

 





 メイド長がお城に戻ってきたのは、それから1週間後のことだった。
 出迎えた私たちの前に降り立つ、真っ赤になって照れるミリアム女史。その表情には出発の時に見た嫌な気配は微塵もない。照れが混ざってはいるものの、見知った私たちの知っている彼女の表情が戻っていた。
 追いついた現場でどんなロマンスがあったのか、聞くのはきっと野暮と言うものなのだろう。
 二人がどうなったのか、噂が噂を呼んで収拾がつかなくなりかけた夕食前の時間に、ついにメイド長がいつものメイド服を着てホールに現れた。
 事態の説明を求める皆の前で、彼女は丁寧な所作で一礼した。

「いろいろご心配をおかけしました」

 でも、私たちが知りたいのは謝罪なんかじゃなくて、この先彼女たちがどうしていくつもりなのかということだった。

「メイド長、先輩はどうしたんですか?」

 ストレートなジャンの質問に、メイド長が困った顔で笑う。

「……単刀直入ですね」

「そりゃそうでしょ。納得のいく説明を皆待ってますよ」

「それについてですが……」

 メイド長が口ごもった時だった。

「遅くなってすまない」

 そんなことを言いながら、旅装束のままのアランがホールに飛び込んできた。彼も今日の戻りだったのか。
 
「遅いです」

 恨みがましいメイド長の声に苦笑いを浮かべ、アランは謝りながら彼女の隣に立った。

「それで、どこまで話したの?」

「皆が納得のいく説明を求められているところです」

「……最初からか」

 そう言って頭をかき、アランは彼らを取り巻く現状を語り出した。

 自分が芸術アカデミーで絵の勉強をすることになったこと。
 メイド長の縁談は先方に断りを入れたこと。
 自分は間もなくここを辞めるけど、メイド長は当分は働き続けるということ。
 そして、王都で彼らがこなしてきた雑事の話がいくつも続く。
 そうなると焦れてくるのが私たちギャラリーだ。誰の顔にも焦れったさが浮き彫りになっていた。

「あ~、もう、そういうのいいですから」

 気の短いジャンが手を挙げて話を断ち切った。

「結論から言ってくださいよ。先輩、男として言うべきことは言ったんでしょうね?」

 その言葉に、二人の顔がみるみる内に真っ赤になった。

「あ~、その……うん、宿場で、彼女に、その、き、求婚して……」

「それで!?」

 噛み付くようなジャンの言葉に、アランはごにょごにょと小さな声でそっと言った。

「……受けてもらえました」

 その言葉がもたらしたものは、爆発的な歓喜だった。皆の握手攻めと抱擁攻めに遭い、幸せな二人がもみくちゃにされていく。
 それを見ながらじんわりと目元に涙が滲むのを感じていると、不意に肩を叩かれた。
 振り向くと、ソフィーとシンシアが笑っていた。
 言葉を交わすまでもなく、二人が私に抱きついてくる。
 私が奉公に来てからの、恐らく今日が最良の日だろう。
 その日に、この二人の友人の隣にいられることが、何よりも誇らしかった。
  


 その夜のホールは物凄い騒ぎになった。

「は~い、キッチンからの差し入れで~す」

 夕食が供される時間に、どういうわけかジャンヌを先頭にマイヨールさんたち料理人がたくさんのお料理やお酒を持ってホールに乗り込んできた。
 
「公爵家からの特別なお計らいだ。皆、心していただけ」

 並んだお料理は、新年の降誕祭みたいな豪勢だった。明日はお休みでもないのにいいのだろうか、とちょっとだけ思った。
 そうは思うものの、ここまで盛り上がってしまったものはもはや誰にも止められない。
 主賓二人ををひな壇に据えて、あっという間の大宴会になってしまった。
 途中、ジェロームさんが顔を出したけど『明日に障らないように』といって笑うだけだった。恐らく、今回のお料理の差配は彼の手によるものなのではないかと思う。
 お腹いっぱいお料理をいただき、お酒もちょっとだけ飲み、二人の幸せをちょっとだけお裾分けしてもらう夜。
 リクエストを受けて会場の端っこでアイスクリンを練りながら、ひな壇に座る二人を見る。
 二人揃ってひたすら照れているけど、でも、とても幸せそうに見える。
 一時は最悪の事態すら覚悟した二人が、こうして心から笑える未来が掴めたことは、私としても感無量だ。


「は~い、第2陣できましたよ~」

 出来上がったアイスクリンをちゃっちゃと器によそって配膳のシンシアに渡す。人数に鑑みると、もう一回くらいは作らないといけないだろう。そう思って卵に手を伸ばした時だった。 
 ホールの入り口のところから、静かに中の様子を見ているヴァネッサ女史が見えた。
 何をしてるのかな、と眺めていると、誰にも気づかれぬようそっと様子を伺ったあとで、彼女は静かに踵を返した。
 
「……ごめん、ジャンヌ、泡立てお願い」

「どうしたの?」

「ちょっと用事」




「ヴァネッサ女史!」

 廊下に飛び出して、去っていこうとする女史を呼び止めた。

「何ですか、その足取りは」

 この期に及んでもお小言とは恐れ入るけど、今日ばかりは勘弁して欲しい。無礼講と勝手に決めつけ、一方的に話しかけた。

「ヴァネッサ女史もご一緒にいかがでしょうか? 二人も喜ぶと思います」

 私の勧誘に、女史は肩をすくめて答えた。

「いえ、やめておきましょう」

「そんな……」

「いいのです。まだやることがありますし。若い人たちだけでお楽しみなさい」

 そう言って去っていこうとするヴァネッサ女史を追う。今回の騒動で、小骨のように引っかかっていることがあったからだ。

「あの、一つ気になっていたんですけど、訊いていいでしょうか?」

「何ですか?」

「芸術アカデミーのお話、何だか変にタイミングが良すぎませんでしたか?」

 私の問いに、ヴァネッサ女史は足を止めた。そして、少しだけ間を置いて口を開いた。

「他言無用の話ですが、いいですか?」

「誰にも言いません、と言いたいところなのですが……」

 私が彼女に課された禁を破ったことは彼女も知っているだけに、堂々と宣言するのははばかられた。

「あの件ならいいのです。あそこで告げた貴方の判断は間違いではなかったと思っています」

「すみません」

 恐縮する私に、ヴァネッサ女史はちょっとだけ笑って言った。

「アランに正式な打診があったのは先月の末ことでした」

 先月末って、2週間も前に来てたのか。時期的にはメイド長の縁談の話が出てきたあたりじゃないかしら。

「そ、それ先に言ってあげたら、アランだってもっと早く心を決められたんじゃないですか?」

 抗議する私に、ヴァネッサ女史は静かに首を振った。

「奥様のお許しをいただき、私が差し止めました」

「ど、どうしてですか?」

 その答えは、正直私の予想の遥か上をいった。

「私にとっては貴方がた女性使用人は娘も同然。後ろ盾が固まってから動き出すような腑抜けた男に大事な娘はやれません」

「ヴァネッサ女史……」

「もしあのまま泣き寝入りするようでしたら酷い目に遭わせるつもりでしたが、貴方たちに蹴飛ばされたとは言え、最後は自分で決断しましたし、まあ、期待点を上乗せして合格と言うことにしておきます。それと、エレオノールお嬢様には貴方たちもよく感謝なさい。お嬢様がお持ちの彼の絵を方々に自慢していたおかげで掴めた好機です」

「あのルイズお嬢様の絵ですか?」

「ええ。何しろ、公爵御夫妻も欲しがったほどの絵でしたから。今回のことについては、それがアランの手柄。残りはミリアム自身の手柄でしょう」

「メイド長のですか?」

「貴方たちがそうであったように、あの子のために行動していた人は結構いたのですよ。あのまま黙っていても、相手の貴族の方から破談の申し入れがあったことでしょう」

「そ、そうだったんですか?」

「女の敵を許せないのは、貴方だけではないのです」

「でも、相手も立派な貴族の方ですよね。どうすればそんな方に……」

 そこまで考え、私は一つの可能性に行き着いた。それほどの人物に圧力をかけられる女性に、一人だけ心当たりがあった。

「ま、まさか奥……」

「それは言わぬが花と言うものです」

 ついに語らぬヴァネッサ女史の言葉が、雄弁に正解を語っているように思えた。

「この家の大事なメイド長を、まるで遊女を買うように攫っていくことがまかり通ると思われても困るのですよ。表だってはどうにもならなくとも、裏からあれこれ手を回して穏やかに事態を曲げていくやり方もあるのです。貴方も、この機会にそういうものもあることを覚えておくといいでしょう」

「はい、勉強になります」

「それに、周囲がそういう骨を惜しまないでくれたのは、ひとえにあの子の徳のなせるところ。ナミ、貴方も上を目指すのなら、そういうところもしっかりとあの子から盗んでおきなさい」

「上……ですか?」

 戸惑う私に、ヴァネッサ女史は答えてはくれなかった。

「さあ、もうお戻りなさい。明日はいつも通りですよ」

 それだけ言うと、私を残して、例によって音もなく女史は歩いて行った。




 そんな、ちょっとした嵐のような出来事のお話。



[30156] 第10話
Name: FTR◆9882bbac ID:32452197
Date: 2012/08/06 22:05
 秋風が香る、穏やかな午後。
 御城下では収穫祭の準備が進んでいる、そんなケンの月のある日の事だった。


「いい香りね」

 私が淹れたお茶の香りを楽しみながら、カトレアお嬢様が目を細められている。

「拙い手前で恐縮です」

「あら、お世辞じゃなくてよ」

 カトレアお嬢様のお部屋に呼び出しを受けた私は、お部屋に入るなりお茶を淹れるよう仰せつかった。
 使用人の分際としては言われるままに指示に従うしかないのだが、専門ではなくお茶の手前に自信のない私としては毎度カトレアお嬢様のお茶の手配は神経を削られる。光栄な話ではあるのだが、どういう訳か最近カトレアお嬢様のお呼び出しを受けることが増えたように思う。私はいわゆる雑用メイドであってお嬢様付きのウェイティングメイドではないのだが、お茶の時間になるとメイド長を通じて呼び出しを受けるのだ。
 もっとも、その御用の向きはお茶を淹れることではないのだけど。

「それじゃ、今日は何を聞かせてもらえるのかしら」

「は、はい。では……」

 テーブルに構えるカトレアお嬢様からやや離れた丸椅子に座り、私は背筋を伸ばした。
 咳払いを一つして喉の調子を整え、静かに話し出した。

「むか~し、むかし。とある国の大きな都にある、とある領主の大きな大きな町屋敷に、クリザンテムという、それはそれは美しい娘がおりました」

 出だしの一文を話した時、ドアからノックの音がした。

「誰かしら?」

 首を傾げるカトレアお嬢様をおいて、私はドアに向かった。開けると、そこにルイズお嬢様がいた。脇目も振らず足早に部屋に入ってくるルイズお嬢様にカトレアお嬢様が微笑まれる。

「あらルイズ、どうしたの?」

「魔法の練習の休憩中よ。ちいねえさま、一緒にお茶飲みましょう」

「ちょうどいいわ。私もお茶をいただいているところよ」

「やった~……ん?」

 可愛らしく手を叩いて喜ぶルイズお嬢様が、壁際に立つ私に気づいて首を傾げた。

「ねえ、ちいねえさま、どうしてナミがいるの?」

「お茶を飲みながら、ナミにお話を聞かせてもらおうと思ったのよ」

 カトレアお嬢様の答えに、ルイズお嬢様の頬っぺたが膨らんだ。

「ちいねえさま、ずるい~!」

 大声を上げて憤慨されるルイズお嬢様。

「ナミのお話だったら私も聞きたいわ」

 こんな感じに、最近ルイズお嬢様だけでなく、カトレアお嬢様にもお茶の時間にちょっとしたお話をするように申し付けられることが増えたのだ。今まではルイズお嬢様がお時間ができると私をお呼び出しになって、無聊の慰みのようにお話を仰せつかることが多かったのだけど、それがカトレアお嬢様にも伝播したようだ。とはいえ、そこは御姉妹でも年齢や性格が違うこともあり、オーダーいただくお話も少し方向性が違っている。ルイズお嬢様はいわゆる普通のハッピーエンドなおとぎ話がお好きなのだが、カトレアお嬢様の好みは一味違うのだ。

「じゃあ、一緒に聞きましょう。ナミ、お茶をもう一つお願い」

 にっこり笑って私に言いながら、ルイズお嬢様に向かって膝を叩いて見せるカトレアお嬢様。それを見て満面の笑みを浮かべて膝に乗るルイズお嬢様。

「あの、よろしいのですか?」

 念のためカトレアお嬢様に訊いてみる。これからお話しするのはちょっとルイズお嬢様向けとは言い難いのだが。

「もちろんよ」

 あっさり頷かれるカトレアお嬢様なのだが、本当にいいのだろうか。
 そんなひっかかりを感じながら、私は新たにお茶を点てる作業に入った。







「必死の命乞いも、無実の叫びも聞き届けてもらえず、哀れにも殺されてしまったクリザンテム。
 まるでそんなクリザンテムの死を悲しむかのように、都にはその日の晩からシトシト、シトシトと何日も雨が続きました。
 そんな長雨の続く、人も寝静まったある深夜、お酒が過ぎた領主が夜中に目を覚ますと、中庭の方から何やら妙な声が聞こえました。
 何事かと思って中庭に目を向けると、クリザンテムの遺骸を沈めた古井戸から、仄かな青白い光が見えました。
 音は、その深い井戸の底から、陰気な感じに聞こえてきます。
 聞きたくなくても聞こえてしまう、そんな不気味な不気味な声でした。
 耳をふさぐこともできず、領主は引き込まれるように耳を澄ましてしまいます。
 その耳に、魂が凍るような冷たい、女の声が微かに響きました。
 『いちむぁ~い、にむぁ~い……』」

 そこまで話した途端、ルイズお嬢様が凄まじい悲鳴をお上げになられた。

「ちょっと、これって怖い話じゃないの!」

 顔を真っ赤にして、凄まじい剣幕で怒鳴られるルイズお嬢様。

「そ、そうですけど……」

 そんなやり取りをする私たちを見ながら、カトレアお嬢様は涙を零さんばかりに笑っておられる。
 どういう訳か、カトレアお嬢様が私をお呼びになった時は、こういったお化けや幽霊が出る話を好んで注文される。『あまり怖くない範囲で、お化けが出てくるお話がいいわ』と言われることが多いのだが、どうも以前怖い話をお聞かせして以来、カトレアお嬢様は妙にそっち方面の嗜好に目覚めてしまったような気がしてならない。
 今回の『クリザンテムの皿』は、そんな意味ではあからさまに怖くない程度のお話だから程がいいと思ったのでルイズお嬢様でも大丈夫だろうと思ったのだが、ちょっと考えが甘かったようだ。
 でも、お嫌いな怖い話を聞いてしまった時のルイズお嬢様の怒った表情は、実はとても可愛らしい。恐らくカトレアお嬢様も、そんなルイズお嬢様のお怒りシーンを見たかったのだろう。

「何でそんな話を私に聞かせるのよ!」

「も、申し訳ありません」

 私のチョイスじゃなくてカトレアお嬢様のオーダーなのだが、ルイズお嬢様の中ではカトレアお嬢様に文句を言うという概念が存在しないのだろう。あたふたする私をよそに、自分には火の粉が降りかからない範囲でルイズお嬢様の表情を愛でるカトレアお嬢様。こっちの身にもなって欲しいと思ったりもする。

「まったくもう。やり直しよ、やり直し! 他のお話にしなさい、他のに!」

「は、はい。あの、カトレアお嬢様、いかがいたしましょう?」

 ひとしきり笑って満足したのか、眦をぬぐいながらカトレアお嬢様が頷いた。

「しょうがないわ。今日はルイズの要望を聞いてあげて。ルイズはどんなお話が聞きたいの?」

「そうね」

 ほっぺたに人差し指を当てながら、宙を仰いで考え込むルイズお嬢様。

「なら、ちょっと秋っぽいお話がいいわ」

 秋っぽいお話。今度は私が天井を見上げて考え込む番だ。
 秋かあ……秋と言えば、あれかな。ちょうど時期的にも今頃だし、ちょうどいいだろう。

「では、秋らしく、月にまつわるお話を」

「月?」


 お話としてはそうややこしいお話ではない。
 ある老人が竹を摂りに山に入り、その際に竹の中から不思議な女の子が出てくるおとぎ話だ。
 老人夫婦に育てられ、やがて美しく成長した女の子は数多の貴族から求婚され、ついには王様にまで見初められるのだが、それらをいずれも袖にしてしまう。そして自身が実は月の世界の姫なのだと育ててくれた老人夫婦に告げ、不老長寿の魔法薬を残して月に帰ってしまう。そして、老人夫婦はその薬に手を付けることなく、そっと焼いてしまうという、ちょっとだけ寂しいお話だ。

 そんなお話を語り終えた後、ルイズお嬢様のカトレアお嬢様も不思議そうな顔をしていた。

「ふ~ん、そのカグヤっていうのは、月のお姫様なのね?」

 小首を傾げながらカトレアお嬢様が言う。

「はい」

「でも、月のお話と秋とどういう関係があるのかしら? 確かに『狩猟月』とはいうくらい月は明るいけど」

 これにはルイズお嬢様の同意するように頷く。狩猟月と言うのは、ケンの月に二つの月が満月になる夜の事を言う。月明かりの下で狩りをするという古い風習を起源にすると聞いたけど、詳しいことは私もよく知らない。この他にも、毎月の満月には萌芽月や寒月、狼月と言うようにそれぞれ名前がついていて、確かに月がそのまま秋をイメージするものとは言いがたい。ここにヴァリエール地方と王都との文化の違いがある。

「実は、王都の辺りでは、狩猟月の夜に月を見ながら宴会をする『お月見』というのがありまして」

「『お月見』?」

「ヴァリエール地方ではあまり馴染みがないようですけど、もともとは名月を肴にお酒を飲みたい人たちが、勝手に始めたちょっとしたお祭りみたいなもので、皆で屋外で月を見ながら宴会をするというものなんです。大人はお酒を飲んだり、子供はおやつを食べたりします」

 まだ若い風習なのだそうで、その発祥はタルブ地方と言う説もあるけど、嘘か本当か私のおじいちゃんが王都に広めたという説もある。

「あら、面白そうね。月夜のお茶会という感じ?」

 お茶会、というよりは宴会と言った方がいいかも知れないけど、まあそう外れてはいないだろう。

「はい。私たち子供はその時に出てくるお菓子が楽しみで、毎年秋になると心待ちにしてるイベントです」

 その時振る舞われるお菓子は、月をイメージしたものがメインだ。小麦粉を練って甘くしたお団子や、まん丸のビスケットとか。おばあちゃんがこの手のお菓子作りは非常に上手だった。
 我が家ではこの手のイベントは毎年欠かさず5人で出掛けて行っていた。お菓子や飲み物をバスケットに詰めて街の広場に行くと、ご近所のお店やご町内の主だった方々が集まって自然発生的に宴会が始まるのが常だった。毎年定番のイベントなので、たいていの場合は屋台が出たり、町内会主催の催しものがあったりもする。
 おじいちゃんやお父さんはスカロンおじさんやピエモンおじさんたちといった街の主だった方々と楽しそうに騒ぎ、私は私で街の同年代の子たちとゲームをやって遊んだり、ようやく歩き出したばかりのスカロンおじさんのところのジェシカの相手をしたりしながら楽しく過ごしていた。懐かしいなあ。御奉公に出てからは参加してないや。

「ふ~ん」

 私の説明に、お二人が興味深そうに唸られる。
 トリステインはあまり大きな国ではないけど、地域によって風習が違うのが残念だ。ああいう素敵なイベントなら国全体に広まって欲しいと思うんだけど。
 
 そんな事をしていると、ドアがノックされた。
 私が応じて出てみると、ルイズお嬢様付きの先輩が立ってた。職種はナースメイド。年齢的にまだルイズお嬢様にはウェイティングメイドは付いていないのだ。

「ルイズお嬢様、お時間でございます」

 物静かながらも凛とした口調で先輩がルイズお嬢様に告げる。

「もうそんな時間なのね」

 やや名残惜しそうに、ルイズお嬢様は席を立った。

「魔法の練習の続き?」

 カトレアお嬢様の質問に、ルイズお嬢様はやや困った表情を浮かべて頷いた。

「今日からちょっとやり方を変えて特訓中なの」

「そう。頑張ってね」

「うん、頑張る」

 それだけ言うと、気合を入れた面持ちでルイズお嬢様は部屋を出て行かれた。
 その横顔に、私はしばし目を奪われてしまった。歳に似合わない、確固たる何かがそこにあるような気がした。
 ルイズお嬢様の後姿を見送ってドアを閉めると、カトレアお嬢様が小さく呟かれた。

「頑張っているわよね、あの子。本当に。まだ6つなのに」

「はい。たゆまぬ努力を積まれておられます」

「何とか、報われてくれるといいんだけど」

 そう言って窓の外を眺めて、カトレアお嬢様は一つため息をつかれた。

 



「6歳の頃?」

 翌日のお茶配りの途中で、私は昨日のことを思い浮かべてシンシアに訊いてみた。

「うん。私は6歳の頃って、魔法の練習とか勉強とかすごく嫌だったんだ。でも、ルイズお嬢様はすごく頑張っているじゃない。だから、シンシアはどうだったのかな、って」

 ルイズお嬢様の御年は6歳。生まれてからまだ6年しか経っていない、私のちょうど半分の年齢。
 振り返ってみれば、自分の6歳の頃はどうだっただろうか。読み書きを習い、ちょっとずつ難しい本も読めるようになり始めた頃だっただろうか。単語の書き取りが妙に苦痛だったのは、今でも鮮明に覚えている。小さな石板にチョークでひたすら単語を書いて覚えるあれだけど、本当に退屈で嫌だった。妙に手厳しいお母さんの教育から泣きべそかいて逃げ出しておばあちゃんの元に駆け込むと、今でも何をされたのかよく判らない不思議な詐術に嵌められて知らぬ間にきっちり一日の課題をやらされてたり、おじいちゃんのところに逃げ込んだら私を連れて一緒になって街に逃げ出して、遊び倒した後で夕方に家に帰ったらおじいちゃんと二人でおばあちゃんとお母さんに怒られたりしたこともあった。
 私がそうであったように、何だかんだで子供はやっぱり遊びたいものだと思うし、前向きに手習いと向き合うことは普通は難しいことだと思う。6歳と言う年齢は、そんな年頃のはずだ。
 でも、ルイズお嬢様は手習いについては率先してお受けになられる。決していつも笑顔という訳でもないし、たまにへこむことはあるけど、難しい顔こそしても滅多なことでは嫌な顔をしない。
 もしかしたら、貴族と言うのはそういう人たちばかりなのかと思い身近な貴族であるシンシアに訊いてみたんだけど、その質問にシンシアはちょっとだけ複雑そうな顔をした。

「う~ん、私は選択肢全くなかったから」

「選択肢?」

「うん。無理でも何でも、とにかく魔法を身に付けないといけない状況に追い込まれていたというか……」

 珍しく返事の歯切れが悪い。それとなく訊いた質問のつもりだったけど、それが知らぬ間に彼女の中のちょっと踏み込んではいけないエリアに踏み込んでいたことを悟り、私は慌てて手を振った。

「あんまり真剣に考えなくていいよ。ちょっと言ってみただけなんだから」

 気まずい雰囲気を笑い飛ばす空気に置き換えようと言葉を畳み掛けた時だった。

 覚えているのは、轟音。
 出し抜けに襲って来たすぐ脇の植え込みが消し飛ぶようなすごい爆発に、私たちは悲鳴を上げる暇もなく吹っ飛ばされた。
 目まぐるしく回る世界の中、一瞬だけ呆然とした表情のルイズお嬢様が見えた気がした。





「痛たたた、ちょっとタンマ。この薬痛い、沁みる!」

「こら、じっとしていろ」

 ホールに運び込まれた私にソフィーが薬を塗ってくれているけど、何が入っているのか、拷問にでも使うんじゃないかと思うくらいやけに傷口に厳しい薬だった。
 シンシアと二人、埃まみれで傷だらけ。未だに耳鳴りがする。多分5メイルくらいは宙を飛んだんじゃないかしら。

「い、生きてるって素晴らしいわ」

 隣で放心したように宙を眺めているシンシアの顔には生の喜びが溢れてる。鼻の頭の絆創膏が、ちょっと可愛い。確かに、至近距離であの爆発では命があっただけでもめっけものだろう。

「それにしても災難だったな」

 救急箱を閉めながらソフィーがため息をついた。それにつられるように私たちも深くため息をついてしまう。
 今回の爆発については、原因は判っている。
 ルイズお嬢様の魔法の練習の現場に、私たちが不用意に近づいてしまったからだ。私たちを狙ったわけではないのだろうけど、直撃じゃなくてもこの威力だ。まともに食らったら命にかかわる惨事だったことだろう。

「ルイズお嬢様の失敗魔法は強烈だからな。しばらく休んでいていいとメイド長が言っていたから、小一時間は安静にしておけ」

「お茶配りは?」

「代わりが対応しているから気にしなくていいそうだ」

「うう、申し訳ない」

「好き好んでこんな目に遭ったわけではなかろう」

「それはそうだけどさ」

 メイドの数と言うのは基本的に必要十分なレベルだ。誰かがトラぶれば誰かがフォローに回る体制ではあるけれど、そういうシワ寄せはないに越したことはない。
 そんな話をしていると、先輩のメイド数名がホールに戻ってきた。

「やっほ~、大丈夫ナミ?」

「お茶配り、終わったわよ」

 気さくに話しかけてくれるあたりが余計に申し訳なさを助長する。

「すみません、面倒かけちゃいまして」

「いいのよ。あんたも犠牲者でしょ」

 笑って言ってくれているけど、話が事件の原因に移ると先輩は一つ大きく嘆息して言った。

「それにしても、ルイズお嬢様も困ったものよね。もう6歳でしょ? それなのに、コモンマジックの一つも満足に使えないってのは……」

 その言葉に、他の先輩方も次々に口を滑らせ始めた。

「そうよね。ちょっと困ったものよね」

「エレオノール様もカトレア様も、あんなに凄くお出来になるのにねえ」

「先行き不安よね~」

 溢れ出るように、ルイズお嬢様に対する耳に心地よくない言葉がホールに満ちていく。
 メイジは魔法をその精神の根幹となす。
 貴族様の間では、そのように言われている。それだけにその魔法が使えないとなると、当然だけどメイジはその立場を失う。特に公爵家という立派な家の令嬢ともなると、その瑕疵は人々の間では恰好の噂話のネタになってしまう。
 先輩方に、それほどの悪意がある訳ではないのは知っている。困ったいたずらっ子を話題にする時と同じような感覚なのだと思う。でも、それはルイズお嬢様にとって笑って受け止めることのできないものだということを私は知っている。

「あの、でもルイズお嬢様も努力しておられるんです」

 するりと私の喉を滑り出た言葉に場が静まり返り、皆の視線が私を捉える。何を言っているのこの子、というような棘のある視線だ。

「その努力の結果であんたはそんな目に遭ったんでしょ?」

「それはそうですけど、でも、頑張っている人をそんなふうに言うのはないんじゃないでしょうか」

 確かにルイズお嬢様は魔法がお上手ではない。でも、その取り組む姿勢はどこに出しても胸を張れる真摯なものだ。
 それを知っているだけに、先輩たちの言葉を聞き流すことができなかった。毎回大きな爆発を起こして周囲に迷惑をかけるとは言え、日々歯を食いしばって頑張っている6歳の女の子の努力を揶揄するような言葉を黙って聞いていられなかったのだ。

「でも、普通は6歳ならコモンマジックくらい使えるようになっているでしょ。あんただって6歳の頃にはもう魔法使えてたんでしょ?」

「それは、使えましたけど……」

「努力は認めるけど、結果が伴わないんじゃねえ」

 私なりに棘のないレベルで反論をするけれど、先輩たちの言葉はどこまでも冷たい。私が最初にコモンマジックを使えるようなったのは5歳の時だし、決して優秀ではない私の尺度に当てはめても確かにルイズお嬢様の魔法習得はペースとしては遅い。でも、成長が遅いことでその人のことを悪く言うのはやっぱりおかしいと思う。拳を握りを、大きく息を吸い込み、先輩方に更に異論を述べようと思った時だった。

「控えなさい、貴方たち」

 静かな凛とした声は、私の隣から響いた。振り向くと、シンシアが静まり返る先輩たちを見つめていた。冬の湖のような、静謐な視線だった。

「魔法が使えぬとは言え、ルイズお嬢様はお仕えする家の姫君でしょう。禄を食みながらのその雑言、己の立場を弁えているものと言えるでしょうか」

 言葉を荒げるでもなく、ただ穏やかに意見を述べているシンシア。でも、その言葉には、抗いがたい重圧が感じられた。よく『相手に呑まれる』と言うけれど、今の先輩方はまさにそれだった。そこにいるのは貴族としてのシンシア。家名も出自も語ろうとはしないシンシアだけど、その身にまとった圧倒的な覇気が大貴族のものにも劣らないほどの迫力をもってこの場を支配しているのが私にも判った。
 他愛もない女の子たちの陰口披露の場がシンシアの支配下に落ちて数秒、危うさをはらみかけた場への救いの手は外部から差し伸べられた。

「無駄話はそこまでになさい」

 聞きなれた声が聞こえるや、先輩方は救いを求めるかのようにその声の出どころに向かって振り向くと、メイド長が腰を手に立っていた。

「まだ仕事の途中でしょう。皆、早く持ち場に戻りなさい」

「も、申し訳ありません」

 そこに活路を得たかのように慌てて先輩方の一人が頭を下げると、それに倣って他の先輩方も頭を下げ、それぞれの持ち場に散って行った。何となく気まずい雰囲気を引きずりながら先輩方に合わせて、私たちも席を立とうとした時だった。
 
「ナミとシンシアは少し休んでいなさい」

「もう大丈夫ですけど」

「無理をして途中で倒れられた方が困るのです。休むのも仕事の内ですよ」

「は、はい……」

「シフトは修正しているので気兼ねは無用です。でも……」

 そこまで言ってメイド長は表情を少しだけ和らげた。

「ナミ。もし、あなたが何かしたいのなら、あなたが適任の仕事が一つあるはずですよ?」

「私の仕事?」

「今日の件でルイズお嬢様は、かなりきつく奥様の叱責を受けておいででした。そうなると、あなたのなすべきことがあるはずですよ」

 


 誰かが誰かを評価するとき、その基準が人によって異なることは私も知っている。
 ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール。
 ヴァリエールの名を持つその女の子が、世の中でどういう評価を受けているかは私も知っている。
 先輩方のような使用人の間だけではない。貴族様の間でも、ルイズお嬢様が魔法が使えないことはしばしば冷笑の対象となっているらしい。上のお二人と比べられ、時には本当にヴァリエールの血を引いているのだろうかと言うような命知らずな事を言う人もいるらしい。
 噂と言うのは恐ろしい。噂には噂の対象者の心を傷つけ、時には命すらを脅かす力がある。しかも、流行り病のように噂に毒された人たちもまた熱に浮かされたように噂の対象になった人を悪く言うようになってしまう。
 悲しいことだけど、先輩方も、そんな毒気に中てられてしまったのだろうと思う。もしかしたら、何も知らなかったら私も同じ毒にやられていたかも知れない。
 でも、私はルイズお嬢様の人となりを知っている。明るくて、おしゃまで、家族思いで。そして誰よりも真面目に魔法に取り組んでいることも。それだけに、あからさまにルイズお嬢様の事を嗤うような言葉を聞くと辛い。その言葉の刃が、あの天真爛漫なルイズお嬢様の心にどれほど傷をつけるかと思うと、その心痛は察するに余りある。
 いつもと違い、負傷者まで出してしまった今回の事でも、きっといろんなことをいろんな人から言われたのだと思う。
 そんなルイズお嬢様にどうやって声をおかけしようかと悩みながら、私は中庭を歩いた。


 中庭の池に行くと、案の定小舟が僅かに動いていた。微かに聞こえてくるのは鼻をすするような音。
 私はルーンを唱えて、静かに船に降りた。
 私が口を開くより先に、硬質な声が飛んできた。

「笑いに来たの?」

「違いますよ」

「じゃあ、文句を言いに?」

「それも違います」

 私の答えに、ルイズお嬢様が顔を上げた。真っ赤な目で私を睨むように見つめる。

「どうしてよ。あんたにそんな怪我させたのよ、私」

 私の手や頭に着いた包帯やガーゼを見ながらルイズお嬢様がちょっとだけ捨て鉢っぽく言葉を紡がれる。今日は殊の外、傷つかれているらしい。

「これは私の不注意でもありますから。ルイズお嬢様が気になさらなくてもいいのです」

 そう答えると、ルイズお嬢様は再び顔を伏せてしまった。
 そのまま落ち着くまで数分。
 
「ねえ、ナミ」

「はい」

 顔を上げ、睨むように鋭い視線を向けてくるルイズお嬢様。そして飛び出した質問は、私の予想を超えたものだった。

「私には、いつになったら春が来るの?」

「ルイズお嬢様?」

「今まで、私はずっと頑張って来たわ。それなのに、ちっとも魔法が上手くならない。どうして?」

 一気に噴き出してくる感情に、気圧されそうになった。

「辛い冬の後には春が来る、ってあんたのおとぎ話は言っているわ。でも、私にはちっとも春が来ないわ。そんな気配もない。ねえ、どうしてなの? 私の何が悪いの? いろんな人から馬鹿にされて、父様や母様にも迷惑をかけて、いつまで我慢しなくちゃいけないの?」

 涙を滲ませて私に食って掛かるルイズお嬢様。感情の箍が外れたかのように、鋭い言葉を並べ立て、私に叩きつけてくる。
 その舌鋒の鋭さより、これほどの内圧がこの小さな姫君の裡に充満していたことに私は驚いた。私も世間と没交渉と言う訳ではないので、子供のころから子供なりに周囲との軋轢に晒されることはあった。でも、ルイズお嬢様が抱えるような、まるで大人が味わうような容赦のない外圧に晒されることはなかった。
 貯め込まれた感情そのままに、私を問い詰めるルイズお嬢様。でも、その問いに対する答えは、私にはない。ルイズお嬢様を慰めるたびに気休めばかりを紡いで、事の本質から目を逸らし続けてきたツケが一気にのしかかってきた気がした。必死に思考を巡らせても、返す言葉が見当たらない。ただ、唇を噛みしめるしかない自分が情けない。

 正直に、『それは、私にも判りかねます』と答えようとした時、そんな私に対する救いの声は、私の背後からかけられた。

「それはきっと、神様にしか判らないことよ、ルイズ」

 振り向くと、そこにカトレアお嬢様がいた。靡くストールが、まるで女神が纏う薄物のよう見えた。ふわりした動きで艫の方に降り立ってにこやかにルイズお嬢様に微笑みかけられ、静かに言葉を続けられる。

「ねえ、ルイズ。私は、体が丈夫ではないわよね?」

「うん」

「できれば私も元気になりたいと思うわ。いろんなところに行ったり、いろんなことをして楽しんだり。学校に行っても見たいし、王都に行ってもみたい。でも、それは難しいの」

 カトレアお嬢様が語られる、自らのこと。真摯なその言葉に、ルイズお嬢様のみならず、私もまた引き込まれた。

「診察を受けていると、たまに治療士の先生に訊きたくなるわ。この治療に意味はあるんですか、って。私の体が、この治療でよくなるのですか、ってね」

 静かに紡がれる言葉には、微塵もごまかしの気配はなかった。どこかで聞いたような他人の言葉を持ち出す私とは違う、恐らくはカトレアお嬢様の本心からの言葉なのだと私は思った。

「でもね、治療士の先生だって訊かれても答えられないのよ。私の病気は、誰も判らない病気だから。だから、治療士の先生も試行錯誤なの。それを私がどうしてと問い詰めたら、治療士の先生も困ってしまうわ」

 そこまで言われて、カトレアお嬢様が何を言いたいのかを察したようにルイズお嬢様は顔を伏せた。

「だからね、私の病気が治るかどうかは、神様だけがご存知だと思うことにしているの。私が言いたいこと、判ってくれるわよね?」

 静かに、ルイズお嬢様は頷かれた。

「ならば、ナミに当たってはいけないわ」

 諭すように言うカトレアお嬢様の言葉にルイズお嬢様の目に涙が盛り上がり、泣き崩れるルイズお嬢様を受け止めるカトレアお嬢様。
 ルイズお嬢様の髪を撫でながら、カトレアお嬢様が視線を私の方に向けられた。
 微かに頷くカトレアお嬢様の意を察して私は一礼して、静かにその場を離れた。今この場において、カトレアお嬢様にすべてをお任せするのが最善だと思ったからだ。


 

 母屋のホールに戻ると、メイド長が書類仕事をしていた。

「ご苦労様でした。ルイズお嬢様はいかがでしたか?」

「カトレアお嬢様が対応して下さいました」

 私の言葉に、メイド長が意外とでも言いたげに顔を上げた。

「カトレアお嬢様が?」

「はい。私が出る幕ではありませんでした」

「そうですか」

 ならば安心、という感じでメイド長は一つ息を吐いた。

「結構です。では、貴方には別の仕事をお願いします」

「はい、何をすれば?」

 そう問う私に、メイド長が今しがた書いていた紙を差し出してきた。

「先ほどカトレアお嬢様からいただいた特命です」

「特命、って……何事ですか?」

 首を傾げる私に、メイド長が悪戯っぽく笑う。同性ながら、いつもクールな感じのメイド長が子供っぽい顔で笑うのを見ると心臓の鼓動が乱れる。その度にこの人はイメージよりずっと可愛い人なんだと偉そうに思ったりする。 

「カトレアお嬢様主催の催しと言うか、ある意味ルイズお嬢様の激励会みたいなものかしらね」
 
 その言葉にざっとメモに目を走らせ、私はカトレアお嬢様の意図を理解した。そして驚いた。昨日の今日で、ここまで話を煮詰めてしまうとは。
 なるほど、これはいいアイディアだ。これならばルイズお嬢様も元気になってくれるだろう。

「判りました。これは腕が鳴りますね」

「あなたにはお菓子の監修担当をお願いします。必要な数など、詳しいことはそこに書いておきました。催しは今夜の予定です。急なことですから、忙しいですよ」




「ま~た変わったものを作らせるわね」

 キッチンに行って仔細を話すと、ジャンヌが呆れたようにため息をついた。

「いつもごめんね」

「まあ、他ならぬカトレアお嬢様のお望みとあらば、いっちょ協力しましょう」

 そう言ってキッチンに私を入れてくれた。

「それで、まず小麦粉からだっけ?」

 小麦粉に水を注いで、ボールの中で手際よくこねる。やがて粘り気を帯び、耳たぶくらいの柔らかさの生地になってくれば作業の第一段階は終了。これを一口サイズに丸めていき、出来上がったらそれを蒸し器に入れて蒸しあげる。
 
「これでいいの?」

 ほかほかと出来上がったお団子は、白く輝いていた。

「あとはこれに蜂蜜をかけて食べるんだけど……」

「どれどれ」

 ジャンヌが蜂蜜の壺を持ってきてとろりと垂らし、試食とばかりに一個口に入れた。もぐもぐと食べながらも味や食感を確かめているのだろう。その眼は料理人らしく真剣そのものだ。

「食べられないことはないけど、ちょっと味気ないわね」

「そりゃそうだよ、平民のおやつだもの」

 所詮は簡単にできる庶民のお菓子だ。それこそ、母親のお手伝いと言うことで子供が作っても格好がつくものだし。貴族の食卓に出すには大雑把すぎる。

「中にフルーツを入れたりしてもいいんだけど」

「それもいいわね。生地にも一工夫がいると思うし」

 そんな話をしていると、ドスドスと足音を響かせてマイヨールさんがキッチンに入ってきた。

「おう、やってるな」

「すみません、お邪魔してます」

「いいってことよ。今しがた、ヴァネッサばあさんに呼ばれて行って来たんだが、カトレアお嬢様のなさることに協力するように仰せつかったんだ」

「女史が?」

 カトレアお嬢様、どこまで話が大きくしているんだろう。ちょっとびっくりだ。

「おうよ。お、これがそのイベント用の菓子か?」

「まだ試作品です」

 ジャンヌの言葉に眉を顰め、お団子を一つ摘まんで口にぽいと放り込むマイヨールさん。もぐもぐしながら難しい顔をする。

「う~む、このままじゃお出しできたもんじゃねえが、シンプルなだけにベースとしちゃ悪くねえ。おい野郎ども!」

 大声で控室の方に怒鳴ると、キッチンのスタッフたちがぞろぞろとやって来た。こうなってくると私が立ち入る余地はない。料理のプロたちがお団子を試食しながら、あれこれ議論を交わし始めた。
 そんな喧騒をよそに、ジャンヌが訊いてくる。

「あとは何かないの?」

「丸くて美味しいものなら何でもいいのよ。クッキーとかでも」

「あら、それなら得意よ。任せておいて」

 そう言ってジャンヌは笑い、スタッフの会話の中に溶け込んでいった。




 




 その日の夜。
 ヴァリエールのお城は、少しだけいつもとは違った時間が流れた。夕食のお給仕はやめるわけにはいかないけど、私を含めたそれ以外の手すきのスタッフ数名はお庭と母屋を行ったり来たりだ。
 ロケーションの確認やテーブルのセッティング、配膳などなど。
 そんな私たちの準備が整った頃、ちょうど御一家揃っての夕食の後に、カトレアお嬢様が立ち上がって仰った。

「父様、母様、この後、ちょっとお時間をいただけないかしら? ルイズもいい?」

 怪訝な表情をする公爵様ご夫妻と、ちょっとだけびっくりしているルイズお嬢様。そんな様子を意にも介さず、皆様を中庭に案内するカトレアお嬢様。
 中庭に出てみると、そこに設えられた宴の席。テーブルの上には、幾種類ものお菓子や飲み物が並ぶ。
 中央に据えられたのは、四角錐の形に積まれた白いお団子。かかっている甘いソースは料理長の特製だ。お団子に限らず、並ぶお菓子はどれも月のように丸いものばかり。お月見の時のお約束だ。
 微笑みながらカトレアお嬢様はテーブルの前で御一家を振り返り、ちょっとだけお芝居がかった所作で仰った。

「ようこそ、私の『お月見』の宴へ。皆様を心より歓迎いたします」

 そんなカトレアお嬢様に、一瞬だけ呆気に取られた公爵様ご夫妻が微笑む。ルイズお嬢様もまた、戸惑いながら笑った。

 御一家の着席に合わせ、傍らに控えていた楽師たちが、月夜に相応しい柔らかい音色の調べを奏で始める。
 見上げれば、双月がそれぞれに美しく輝く夜。
 お茶やお酒を傾けながら、この時だけは御一家は肩書とはかかわりのない、ごく普通の家族のように会話を交わされていた。公爵ご夫妻からのルイズお嬢様へのお説教もない。今日のホストはカトレアお嬢様。その彼女の考えているこの席の趣旨を、公爵様ご夫妻も理解されておられるのだろう。
 そんな柔らかい空気の中、最初はどこかくすんで見えたルイズお嬢様の表情も、徐々に本来の輝きを取り戻して来た。
 ルイズお嬢様は気づいていないのだろうと思う。でも、近くで見ている人には判ったのではないだろうか。
 公爵様ご夫妻の時折ルイズお嬢様に向けられる視線の、何と優しいことか。公爵様は言うに及ばず、目元がきつい奥方様も、その瞳には優しい光が満ちている。
 明るくて、おしゃまで、家族思いで、でも、ちょっとだけ魔法が苦手なルイズお嬢様のことを、この方々もとても大切にされておられるのだと私は改めて理解した。
 確かにルイズお嬢様は魔法がお上手ではない。でも、そんな事が何ら影を落とさない優しい何かが、二つに月に照らしだされたここにはある。
 それは、私は実家でおじいちゃんやおばあちゃん、そしてお父さんやお母さんから惜しみなく与えてもらっていたものだ。多分、それは親からもらえる最高の贈り物で、でも、子供の身では幾ら頑張っても親には返せないもので。だから、いつか自分が人の親になった時に、自分の子に同じように与えてあげるべきもの。
 そうやって紡がれていくものが、きっと愛情と言うものなのだろうとおぼろげながらに思った。 
 
 そんなことを考えながら、ふとカトレアお嬢様に視線を向けると、カトレアお嬢様の視線と私の視線がぶつかった。微笑みを浮かべ、手にしたお茶のカップを私に掲げてみせるカトレアお嬢様。その目の中に、まるで共犯者とハイタッチを交わすいたずらっ子のような輝きを感じて私は笑った。
 目礼を返すと、その視線のやり取りに割り込むようにルイズお嬢様が私に手を伸ばしてきた。
 
「ナミ、見なさい」

 そう言って、満面の笑みを浮かべたルイズお嬢様が手にしたクッキーを差し出してきた。

「ほら、三日月」


 ルイズお嬢様の手にあったのは、可愛い歯形が丸く抉った、甘い三日月。



 そんな秋の一日。



[30156] ―幕間―
Name: FTR◆9882bbac ID:94786b88
Date: 2014/05/23 09:28
 夏が過ぎ、ラドの月になるとヴァリエール地方は一気に過ごしやすくなる。
 ソフィーは本を読むのにはもってこいの季節だと言っているけど、私としてはそろそろ市場に出回り始める今年採れた作物と、それを使った美味しい御飯の方が興味があったりする。園丁のミスタ・ドラクロワにお茶を届けに行くと思わぬおやつがもらえたりするから嬉しい季節だ。
 
 そんな秋のある日のこと。

 ヴァリエールのお城は、要塞という機能の他にお屋敷としての機能も併せ持つ。要するに貴族様の居住空間でもあるわけなので、その造りは社会的な立場相応に豪勢なものになる。機能最優先であるべき城塞の機能に対し無駄の極致ともいえる装飾だけど、その双方を生かすことは建築家の腕の見せ所でもあるのだそうだ。高名な建築家には多くの弟子が付き大きな門派を形成していると聞くけど、至るところで小競り合いが起こることが日常のハルケギニアでは城郭建築の需要は常にあるので、その社会的な地位は高いものなのだそうだ。
 
 そんなヴァリエールのお城の母屋のはずれには、ちょっとした図書館が存在する。ちょっとしたと言うのはだいぶ謙虚な表現で、実際にはその規模と蔵書はかなりのものだ。別にヴァリエール家の方々が読書家という訳ではなく、蔵書と言うのは貴族にとっては家格を計る材料にもなるそうなので、必然的に造られる図書館も家格に沿った規模のものになるというわけだ。実際、王立図書館に至っては国の格を計る物差しになったりもするくらいだし、その量はもちろん、希少本を所蔵しているかどうかも小さくないポイントだ。
 そんなわけで本と言うのはかなりの資産的な価値をもつ財産であり、お掃除するこっちも結構神経を使って丁寧に事を進めなければならない。心身ともに疲れる作業なだけに掃除するこっちとしては狭い方がありがたいと言えばありがたいけど、公爵家ともなればこれくらいの規模の図書館はあって然るべきなのだろうとも思う。

 大きな書架が並ぶ図書館に入ると、中は薄暗く、結構埃っぽい空気が漂っている。雰囲気としてはお化けくらいは出てきそうな重々しい空間だ。明り取りの小さめの窓から差し込む光の中に広がる書架の列は、どこか迷宮のような雰囲気を醸し出している。図書館と言うものが、その性質上あまりお日様の光を入れられない静謐な空間なだけに、余計にこんなおどろおどろしい雰囲気になるのだろう。
 そんな図書館の書架の谷間に入り込み、本に積もった埃を上の段から順に落としていく。こういう埃は湿気をため込んで本自体に悪影響を与えることがあるので、それを丁寧に落としていくのは重要な作業だ。使う道具は主にハタキだけど、本を傷めないように毛バタキも使って丁寧に作業を進めていく。普通は脚立を使って進めていく作業だけど、私たちブローチ組は脚立を使わずレビテーションの魔法があるから脚立いらずで作業を進められるからよく図書館の清掃に回される。
 
「ん?」

 姉さんかぶりの恰好でパタパタとハタキ作業を進めていると、本の隙間からやや離れたところにある書架の前で、シンシアが彫像のように固まっている様子が見えた。
 その手には、何だかよく判らない紙の束。それを手に、微動だにしないシンシア。何やら雰囲気が妙だ。気になった私はそのまますいすいと宙に浮いたままシンシアに近寄ってみた。

「どうしたの?」

 声をかけるなり、シンシアが雷に打たれたように飛び上がった。

「な、何でもないわ!」

 すごい速さで振り返ったシンシアの顔は夕日を浴びたように真っ赤だった。熱でもあるのだろうか。

「何でもないって雰囲気じゃないけど?」

「本当に何でもないのよ!」

 慌てたせいで余計に血行が良くなったのか、耳から首まで真っ赤になって声を荒げるシンシア。非常にレアな表情だ。そうなると、余計に彼女が後ろ手に隠している紙束がぐっと気になってくる。

「それ、何?」

 回り込もうとする私を阻止するように、シンシアが体の向きを変える。

「気にしちゃダメ」

「何で?」

「何でも!」

 慌てるシンシアだけど、私に神経を集中していただけに背後から迫りくる第三者に気付かなかったようだ。

「ほほう、妙なものを持っているな」

 音もなく背後を取ったソフィーの唐突な言葉に、シンシアは声なき悲鳴を上げた。慌てて反応しようとするシンシアだけど、ソフィーの方が一手早い。
 対応する隙も与えず、掏摸のような手つきで紙束をシンシアから取り上げてしまった。

「だ、ダメだってば!」

 ぎゃーぎゃー騒ぎながら食い下がるシンシアを片手で制しながら、検分するような目つきで紙面に目を走らせるソフィー。数秒の時間が流れ、ソフィーの表情が徐々に険しいものに変わっていく。怖い顔と言うのではなく、何だかすごく反応に困るものを見てしまったような複雑な感じだ。そこに至ってシンシアが暴れるのをやめ、この世の終わりのような顔をして床に崩れ落ちた。

「始祖よ、お許しください。敬虔であったはずの貴方の娘は、穢れを知ってしまいました」

 開いた瞳孔でぶつぶつと呟くシンシア。

「シンシア、お前、仕事中に何を読んでいるんだ」

 ため息をついたソフィーが、いろいろと感情が混ざりこんだ視線をシンシアに向ける。

「ちょっと、何が起こっているのよ!」

 半ば置いてきぼりになった私に向かって、ソフィーが件の紙束を差し出してくる。読めと言うことらしい。受け取って、私も紙面に目を落とした。

「何なに……『バタフライ伯爵夫人の恋人』?」

 それは数十枚に及ぶ原稿で、要所要所に修正の痕跡もある手書きの小説だった。紙面には綺麗で丁寧な文字が並んでおり、読む分には非常に読みやすかった。でも問題は、その描写されている内容にあった。端的に言うと、どうやらこれは恋愛小説であるらしい。それも、かなり刺激が強い作風。平たく言えば、えっちな小説だ。
 登場人物は二人。
 ある貴婦人と年下のとある青年貴族の禁断の恋愛と言うやつで、睦言を重ねながら、まあ、閨の中でそういうことをいたしているシーンがよく言えば丁寧に、あけすけに言えば妙にねちっこく描写されていた。誰だか知らないけど、何ちゅう生々しいものを書いているんだろう、これ書いた人。

「ふ~ん、シンシアでもこういうの興味あるんだねぇ」

 この子は結構こういう方面は苦手で、仲間内の話しでもそっち方面に話が流れそうになると露骨に嫌がる子だっただけに、こういうものを手に取っているところを見られて困っているシンシアと言うのはなんか新鮮だ。
 嫌味でもなんでもない素直な感想を述べる私に、ソフィーが意外そうな顔をした。

「お前も結構そういうの平気なんだな」

「別に大騒ぎするほどのものじゃないでしょ?」

「見かけによらず、中々に豪胆だな」

「ねえ、どうして二人ともそんなに冷静なの?」

 たまらずシンシアが疑問を呈するが、ソフィーの返答は至って冷静だ。

「性行為なんてものは、真っ当に生きていればいずれ誰でも体験することだろう。大騒ぎする方がおかしいと私は思うぞ?」

 ソフィーの意見に私も同意して頷いた。
 いかんせん、メイドの社会は女社会。男性がいない場所では結構あけすけな話題が飛び交うだけに、私でも最低限の知識くらいはある。
 それに、おじいちゃんの蔵書の中には幾ばくかのえっちな本があったから、年相応にはそういうことも知っている。あのころはあまり字も読めなかったし、そこで描かれている事も何の事か判らなかったけど、それを持ち出して読んでいたら、それを見たおばあちゃんが大慌てで私からそれを取り上げ、それから数日間おじいちゃんがほっぺたを腫らしていたのも覚えている。そんな訳で、古来こういう話は大衆に受けがいいことは知識として知っていた。
 そういう点に関してちょっとだけ私たちとずれているシンシアは、納得いかないという面持ちだった。

「それはそうだけど、そういう秘め事と言うのは大っぴらに言わないからこそ秘め事なのであって……」

「その意見にも一理を認めるが、秘め事と言う割には、何だかんだで人にはこういう大っぴらになった文芸作品を好む性癖があると思うぞ。需要があるからこそ、こういうものの供給もあるというということだろう」

 私が戻した原稿に今一度内容に目を走らせるソフィーだけど、その視線は冷静なものだ。

「だが、内容はともかく、文章は丁寧だな。かなり学のある人物が書いたもののようだ」

「そうなの?」

 私の問いにソフィーが頷いた。

「ああ、表現や使われている言葉に、かなりの奥行きを感じる。恐らく、相応に文章を書き慣れた人物なのだろう」

「誰だろう?」

 ヴァリエール家にお仕えする者は、基本的に読み書き計算ができる人であるのが条件だ。でも、それだけで文章を練ることは難しいだろう。恐らく、それなりに多くの書物に触れてこそ、こういうものは書けるのだと思う。加えて、ここまで緻密にこういうことを書けるあたりはそれなりに人生経験がある人に違いないだろう。
 想像を巡らす私をよそに、ソフィーが読み取れる情報を並べていく。

「字は恐らく女性の字。丁寧に書いているところから見ると、かなり几帳面な人のようだな」

「でも、それだとメイドは皆対象になるよ?」

 シンシアの主張ももっともだと思う。几帳面じゃなければメイドは務まらない。

「それもそうだな。それにしても、だ」

 やや考え込みながら、ソフィーは深くため息をついた。

「何でこのようなものがここにあるのだ?」

 持っていた紙の束に厳しい視線を向けながらシンシアに訊くソフィー。

「本の間に挟まってたのよ」

 これが事故であることとして己が身の潔白を主張したいのか、シンシアが必死に弁解する。でも。

「どの本?」

 私の問いに、シンシアの表情が今度は真っ青になった。何のことやら判らないけど、自分の失言に気づいたような感じだ。

「これか?」

 書架に並んだ本の列から、一つだけはみ出している本を目ざとく見つけてソフィーが手に取る。

「だ、ダメ、本当にそれだけは許して!」

 今度こそ必死にソフィーにすがるシンシア。見たことのない形相だけど、やっぱりソフィーの方が力が強い。有無を言わさずシンシアを制して本の表紙に目を落とすと、表題を見るや、今度は中身を見ることもなく今度はソフィーも耳まで真っ赤になった。何を理解したのか、鋭い視線をシンシアに向けるソフィー。

「シ、シンシア、お前という奴は!」

「ごめんなさいごめんなさい、お願い許して、気の迷いだったの!」

 何が起こっているのか判らないけど、貴族同士でしか判り合えないやり取りのようだとおぼろげながらに見当がついた。

「あの~、お二人さん。私ひとりが置いてきぼりと言うのは寂しいんですけど」

 私の言葉に、ぴたりと動きを止める二人。やや思案した後で、ソフィーが意を決したように言った。

「仕方がない、ここはナミにもシンシアの所業について理解しておいてもらうべきだろう」

 そんなソフィーの言葉に顔色をさらに青くするシンシア。

「か、勘弁してよ!」

「いや、真の友とは隠し事をしないものだ。ここは潔く観念しろ」

「そんな~」

 見ていて非常に面白い寸劇なのだが、尚も縋り付くシンシアを押さえつけてソフィーが私に件の本を差し出してきた。
 タイトルは『風と樹の歌』とある。
 はて、パッと見はごく普通の本のようなのだが。

「これ、何?」

「一部の貴婦人の間では、非常に人気がある本だ」

 ほほう、貴族様御用達の本か。どれどれ。
 喚くシンシアには悪いけど、私は項をめくった。
 そこに書かれているものは、先ほどの手書きの紙束とそう大差がない内容だった。
 寄宿生の学校の寮を舞台に、ルームメイトの二人が登場人物。夜の一室で交わされる言葉は扇情的で、ねちっこくて。二人のぎらついた視線や熱い吐息が感じられるような細かい描写。 
 だが、その描かれている人物たちにはいささか問題があった。丁寧な描写が織り成す文章を読み進めるうちに、私の中の違和感が経験したことがないくらい暴れ出した。私が知る範囲において、そういうことをするのはありえないと言うか、あってはならないと言うか……。理解が進むうちに加速度的に膨らんでいく違和感と得体が知れないモヤモヤした気色悪い感覚に、口の中が乾いていくのを感じた。というか、ベッドの中で何やってんの、この人たち……。

「あ、あの、ソフィー……も、もしかして、こ、この二人って……」

 もつれる舌を必死に動かしてソフィーに訊いた。訊きたくなかったのに、何故か私は訊いてしまった。悲しいかな、人は知りたがる生き物なのだ。
 その問いに対する返答は、思いのほかシンプルだった。

「うむ。男性同士だ」

 あっさり断言して頷くソフィーの言葉が、私の耳に柔らかく突き刺さる。それはもう、気色悪いほど柔らかく。

「えーっ!!」

 悲鳴を上げかけた私のリアクションを予想していた私の口をソフィーが押さえつける。

「気持ちは判るが、落ち着け」

 落ち着けと言われてもこれは無理だろう。それくらい私は狼狽していた。狼狽ついでに、全身にぶつぶつと鳥肌が立っていた。
 まだ青年になりかけの美少年同士の愛情の交換と、その果てにある物理的な交流。そんなものがこの本のテーマだった。
 私だって同性愛のことくらいは知っているけど、いくらなんでもこれはありえないだろう。

「だって、男の人同士で、って……えー!?」

「ナミ、貴族の社会ではな、こういうことはそう珍しい事ではないのだ。歴史を見ても、高貴な身分の方々にとって男色と言うのは意外と古い文化らしいからな。時には女色より高貴な嗜みとした場合もあったらしい」

 訳知り顔のソフィーが、生徒に言って聞かせる先生のような口調で言った。この子、意外に耳年増なのだろうか。

「そ、そういうのがあることくらいは知ってたけど、で、でもさ、男の人同士じゃ、その、できないんじゃないの、こういうことって……」

 男性同士の愛情の交換なんて、見つめ合ったり手をつないだり、ちゅーをするくらいがせいぜいだと思っていた。そもそも、男性同士でそういうことをしたくても体の造りがそうなっていないはずだ。
 でも、そんな私の意見をソフィーは真っ向から木端微塵に打ち砕いた。

「可能だ」

「ど、どうやって?」

 訊きたくないはずなのに、またも訊いてしまった自分が憎い。

「それはな……」

 それから懇切丁寧に語ってくれたソフィーの説明は、正直記憶から抹消したい。生涯でも屈指の『聞くんじゃなかった話』の一つであることに間違いない。
 とつとつと雄蕊と雄蕊の秘め事のあらましを紡ぐソフィー。それを震えながら聞く私の隣では、シンシアが何も聞くまいと必死に耳を抑えている。今更そんなことしたって遅いよ、シンシア。
 聞き終わる頃には、私の顔からは血の気が失せていた。だって、ありえないでしょ、そんなこと……ねえ。

「に、にわかには信じられないよぅ、そんなの」

 瞳孔が開いた目をソフィーに向けたまま、口をパクパクさせることしかできない私に向かってソフィーはなおも言葉を続けた。
 
「世の中と言うのは本当にいろんな人間がいるのだ。むしろ、人類の歴史においては文明の発展と言うのはこういう性的な文化の発展と同義のものとも言えなくもないと私は思うぞ」

 私は開いた口がふさがらなかった。世の中は広い。広すぎる、というか、それをここまで冷静に説明できる子が、同い年の女の子にいることが驚きだった。
 そんなソフィーに、ひとつだけ気になったことを訊いてみた。

「あの、あんまり訊きたくないけど……お、女の人同士でも、こういうことできるの?」

 さも当然と言うようにソフィーは頷いた。

「無論、可能だ。その場合はこんな形をした道具を使ってな……」

「そんなことまで解説するな、馬鹿者!」

 たまらずシンシアが雄たけびを上げた。









 事の次第をまとめると、シンシアが掃除をしていたエリアに、たまたま噂に聞くちょっとアレな本が収めてあった。それを見つけたシンシアは、好奇心に逆らえずにこそっと手に取ったところ中からこの紙束が零れ落ちて来て、何かと思ってそれを見たらあまりに過激な内容だったので目が釘付けになってしまったという事らしい。
 何というか、神様と言うのは純朴な女の子相手にずいぶん意地悪なことをするんだなあ、と私は思う。

「で、これ、どうする?」

 問題の紙束と本を手に、私は二人に問題提起した。

「シンシアが自室に持っていくと言うのなら知らない振りしてあげるけど?」

「ナミ、もう勘弁して」

 魂まで疲弊したような顔でシンシアが呟いた。ちょっといじめすぎただろうか。そんなシンシアをよそに、ソフィーが私から本を受け取った。

「とりあえず、こっちは書棚に戻しておくべきだろう。これでも立派に文学作品として認知されているものだから、蔵書にあってもおかしいものではない」

「これが~?」

「遺憾ながらな。芸術なんてものは、声が大きい者が『これが芸術なんだ』と叫べばそれが芸術になってしまうものだ」

 神をも恐れぬソフィーの暴論について、何となく納得できてしまう部分もないでもない。

「問題は原稿の方だが……こっちもあったところに戻しておいてやろう。こんな場所に隠しているところを見ると、書いている当人もあまり公にしたくないものだと思う。少なくとも、私が密かにこのようなものを書いていることが周知となったら、多分その場で自決するぞ」

「私も同感」

「私だってそうだよ」

 ソフィーに同調するシンシアを見て、私も頷いた。


 妙な珍事件になってしまった件の本の間に原稿を挟み、あった場所に戻す。それにしても、こんないかがわしい本が芸術と言うあたり、凡人の私にはやはり芸術と言うのは高尚過ぎて理解できない世界だ。
 そんなことをしていた時、図書館のドアが開く音が聞こえた。
 私を含めた全員が息をのみ、大慌てで杖を振ってそれぞれの担当の書架に飛んだ。ちょっとサボりすぎた罪悪感がのしかかってきて、ハタキを振るう手が必要以上に早いピッチでパタパタと動いてしまう。
 手はそんな感じに大忙しだけど、耳はたった一つの音源、つまり足音に集中。誰が入って来たのかは書架の陰になって判らないけど、足音は1人分。その足音は真っ直ぐに問題の書架に向かうと、何やら本を取り出すような音と聞き覚えのある声が聞こえた。

「ああ、やはりここにありました」

「あなたにしては迂闊でしたね」

 足音は1人なのに、声は2人分聞こえた。
 その声を聞いた瞬間、思わず悲鳴をあげそうになってしまった。
 自分の表情が雪崩を起こしていることが、自分でも判る。
 ま、まさか中のまさかだよ、こんなの。

「詰めの執筆に神経を傾け過ぎてしまったようで、ちょっと疲れていたようです」

「だいぶ頑張って修正したようですね。出来栄えの手応えは?」

「それなりに。毛色は違いますが、この本もかなり参考になりましたから」

「いいでしょう。読ませてもらいます。問題がなければ王都の印刷工房に話を持って行きましょう。とは言え、文章と言うものも立派な芸術。貴方も芸術家の妻になるのですから、少し厳しく評価しますからね」

「よろしくご指導のほどを」

 そう言って、声の主たちは何事もなく図書館から出て行った。




 気まずい沈黙が満ちた図書館で、私たち三人は複雑な表情で向き合った。
 壁の大時計の振り子の音だけが響く、静謐な空間。
 ややあって、ソフィーが口を開いた。

「どうだろう。今日のことは何も見なかったことにする、というのは?」

「賛成」

「わ、私も」



 この時に見たあの作品が、10年後に国中で大人気のシリーズになるとは、私たち三人は夢にも思わなかった。



 お墓まで持っていく秘密が一つ増えた、秋の日の出来事。




[30156] 第11話
Name: FTR◆9882bbac ID:94786b88
Date: 2012/08/07 00:38
 毎日というのは、少しずつ違う日だ。
 まるでその日のお天気のように、素敵な日もあれば、泣きたくなる日もある。 
 その例えで言えば、その日はひどく冷たい、雨が降る日になるのだろうか。





 その日の朝は、派手なラッパの音から始まった。
 いつもの起床時間よりだいぶ早い時間だが、私もシンシアも既に着替えは済んでいる。今朝の服装は、メイド服ではなく男装のような動きやすいズボン姿だ。
 ラッパの音に応えるようにドアを開け、集合場所である使用人ホールを目指すが、同じように女性使用人が一斉に自室から飛び出しホールに向かって走っている。いつもなら足音を立てることすら怒られるが、今日だけ別だ。
 途中でソフィーとジャンヌと合流するけど、お互い目礼するだけで言葉は交わさない。私語は禁じられているからだ。ジャンヌは途中で離れて厨房へ。糧食班も今日は大忙しだろう。
 そのまま使用人ホールに入ると、あらかたの使用人が既に集まって、それぞれの班長が点呼を取っていた。私の班長はブローチ組の先輩エレナ女史。長身の18歳で、メイドの中では中堅どころだ。
 点呼が終わると全員整列し、その場の責任者であるメイド長に班長たちが各班ごとの集合状況を報告する。
 全員揃っていることの確認が終了した時に、ヴァネッサ女史がホールに現れた。
 その服装はいつもと違い、軽装ながらも金属の装甲の付いた戦闘服だった。ちょっと前までは女だてらに公領軍の重鎮だっただけあって、戦装束をまとった時の顔つきはいつも以上に厳しく、その眼光はまさに戦士のそれだ。髪の結い方も、兜を被る事を意識した独特のまとめ方になっている。今は引退して家政婦専任だけど、その凛々しさと覇気には欠片も陰りは見えない。

「女性使用人、欠員ありません」

 メイド長が背筋を伸ばして報告をすると、懐中時計を見ながらヴァネッサ女史が頷く。

「定刻通りですね。結構です」

 ヴァネッサ女史の言葉に、メイド長が号令を飛ばす。

「全員、持ち場に向かいなさい」

 その声を受け、まるで全員が一つの生き物のように同じタイミングでそれぞれの持ち場に向かって走り出す。きちんと移動についても順序立てて訓練を受けているので、互いの動線がぶつかることもない。
 私の班は、母屋の担当だ。具体的には、お守りすべき方々のお傍に侍るのがその担当。既に武装した兵士たちが要所を固めている廊下を走り、最短コースで目的の部屋に到着した。

「失礼致します」

 お腹から声を出すような感じで班長がドアをノックしてドアを開けると、そこにいたのはルイズお嬢様だ。部屋の真ん中で椅子に座り、やや強張った顔立ちで入ってきた私たちを出迎える。

「ルイズお嬢様、避難案内担当のエレナ班、まかり越しました。避難場所までご案内申し上げます」

「ご苦労様」

 それだけ言って立ち上がるルイズお嬢様の周囲を、私たちメイド衆が素早く取り囲む。この体勢の意味は、言うまでもなく弾除けだ。
 ルイズお嬢様を中央に据えたまま、ルイズお嬢様の歩幅に合わせて部屋を出る。
 兵士や使用人が慌ただしく行き来する物々しい雰囲気の廊下を出て、目指すところは敷地の中央にある堅固な塔だ。ヴァリエールのお城のすべての入り口から最も遠い位置にあるこの塔は、ヴァリエールのお城が攻められた時に最後の砦となる。その塔の中ほどの階層にあるスペースが、公爵家の姫君の避難場所になっている。
 扉を開けると、中には既にカトレアお嬢様が到着されていた。数名の侍女も周囲に待機中だ。
 実際にはヴァリエールのお嬢様方もある程度年齢も行けば前線に立つことも求められるのだろうけど、ルイズお嬢様は年齢的に、カトレアお嬢様は体力的な理由でこのお部屋に避難いただくことが戦闘時の役割だ。幼いながらもルイズお嬢様もその点はご理解されておられ、避難するだけであってもその表情は真面目そのもの。利発な方だけに、我儘を言うことで周囲がどういう影響を受けるかを理解されておられるのだろう。だだをこねたら奥方様にお仕置きされてしまうというのもあるのかも知れないけど。
 そんな二人のお嬢様のおられる部屋で待機する私たち。最悪の時は、命を懸けてお二人をお守りしなければならない。これは雇用される際の約束事でもある。まして、私は公爵家からブローチをお預かりしている身の上だし、行儀見習いとして他家から預かっている貴族のメイドたちと違って使い勝手のいい平民だ。そう簡単に足抜けはできない。
 
 避難が終わって数分後、頭の上でどかーんとすごい音が響いた。
 塔の屋上部分にあるツィンネに備え付けられた大砲が発射されたようだ。
 続けて三連発。むう。衝撃が壁を通り抜けてお腹にびりびりと響く。最初の一発で距離を測り、その後で一斉射撃を加えるのは砲術の手順なんだとジャンが言っていたっけ。風に乗って硝煙の匂いが部屋の中にも漂ってくる。
 横目で窓の外を見ると、この塔だけでなく城壁の方も大騒ぎだ。多くの兵隊さんたちが走りまわり、チカッと光が見えるとやや遅れて轟音が響いてくる。爆炎ももくもくとすごい勢い。
 それが終わると、今度はまた違った光が幾筋も走る。メイジ部隊の一斉射撃。
 日頃の練習の成果を思い切り叩きつけているように、兵隊さんたちも非常に張り切っているようだ。
 
 年に4回ほどある、公領軍の総合演習。現在行われているのは、そのうちの秋の大演習だ。
 基本的に公領軍は本格的な戦争の際には傭兵が主体になるけど、その基幹になるのは公爵家が召し抱えている常備軍の騎士隊だ。日頃はお城からやや離れたところにある練兵場を兼ねた大きな駐屯地で寝起きしているけど、一朝事あらばこうしてお城を守ったり、公領軍の指揮系統の中核を担ったりする。ゲルマニアからの急な侵攻があった場合などは、傭兵団の手配や援軍の到着まで国境を支える精鋭部隊でもあるからその練度はかなりのものらしい。
 素人の私には専門的なところは判らないけど、遠くから見ていても移動の速さや部隊の連携はまるでそれ自体が一個の生き物になっているかのように無駄がない。なるほど、貴族様が抱える兵団と言うのはこういうものなのかと感心する。元より武門の家であるヴァリエール公爵家の精兵なだけに、正直、あれを相手にする連中が気の毒な感じすらしてしまう。

 そんな様子を遠くに見ながら時が過ぎる。次の私たちの行動開始時間までは、基本的に待機がお仕事。窓の外を眺めているといろいろ変化があって見る人が見れば面白いのだろうが、素人の私の目からは見ていても派手な攻撃以外は何をしているのかちんぷんかんぷんだ。
 そんな私の思考を置き去りに、演習は順調に進む。要である城壁の方では守備の兵隊さんたちが幾度もいろんなことを想定して配置の確認をしているけど、公爵家の基本戦略は城壁の外での野戦で敵を食い止める事にあるらしく、その攻防の演習にはかなり時間を取って模擬戦が進められている。どういうことをしているのか興味はあるけど、さすがにそこまで距離があると城内の私たちにはあまり状況が伝わってこない。
 お部屋で待機したしたまま緊張しっぱなしではさすがに限界があるので、昼食後の午後にはある程度力を抜くことも許されている。お茶が振る舞われ、交代で休憩を取る。
 そんな休憩が終わると、私たちの最後のお役目がある。
 頃合いを見て配られるのは、豪華な衣装とピンクブロンドの鬘だ。お嬢様たちと背格好の近いメイドを着飾って替え玉に仕立て上げる。非常時には、この格好で護衛を伴ってわざと城外に飛び出して敵の目を欺くのも私たち使用人の仕事だ。私はカトレアお嬢様と同い年なのに、何故か割り当てはルイズお嬢様役だった。そりゃあまり身長は高くないけど、幾ら何でもルイズお嬢様役は無理があるように思う。
 似合わないドレスと鬘を被ると、それを見た周囲から笑い声が響く。当のルイズお嬢様からは指を指されて笑われる始末だ。
 午後のお茶の時間も終わり、雰囲気も砕け始めたひと時。こうなってくると、張りつめていたルイズお嬢様の姿勢にもほころびが出始める。
 
「毎度のことだけど、待機してるだけって退屈ね」

 椅子に座って足をぶらぶらさせながら、ルイズお嬢様が小さく呟かれた。

「ルイズ、遊びではなくてよ?」

「それはそうだけど」

 カトレアお嬢様が窘めると、ルイズお嬢様は難しい顔で唸った。
 確かにただ座っているだけと言うのは退屈だろう。でも、本当の戦闘になったら、そんな退屈以上に贅沢なことはないということはルイズお嬢様もご理解なさっておられると思う。
 偉大なる退屈。
 小競り合いと流血を隣人として暮らすハルケギニアにおいては、このようなことを退屈な時間は宝石より貴重なひと時であることは間違いない。
 こういう訓練が、この先もずっと訓練のままで、そして退屈なものであって欲しい。
 戦争なんていう悲しいことが、この微笑ましいお二人の頭上に降りかかって欲しくない。
 楽しそうに会話を交わすお二人を見つつ、やたらボリュームのある鬘を直しながら、私はそんなことを思った。
 



 大規模な演習の翌日は、公爵家はいわゆるお休みの一日になる。公爵様ご夫妻やお嬢様たち、そして公領軍の方々も今日ばかりはのんびりと骨休めだ。
 嬉しいことに私たち使用人にも特別手当が出て、夜にはホールでのパーティーが許されているから働く皆も浮足立って、スキップしそうなくらい足取りも軽い。
 そんなお休みの一日、私はルイズお嬢様の午後のお茶の席に呼び出されておなじみのお話をすることとなった。
 今日ばかりは習い事もないルイズお嬢様。
 クッションの利いた椅子に座って目を輝かせているルイズお嬢様の正面の丸椅子に陣取った。
 
「ものすごく退屈していたアリスでしたが、そこへいきなり白うさぎが走ってきました。それを見たアリスはとても驚きました。それというのも、そのうさぎが、何故か着ている着ているベストのポケットから懐中時計を取り出し、『どうしよう! どうしよう! ちこくしちゃうぞ!』と叫びながら慌てて駆けだしたからでした。アリスは大慌てでうさぎの後を追いかけました。うさぎはとても早くて、庭を抜け、植え込みをくぐり、森の中まであっという間に走っていきました。そんなうさぎをアリスは一生懸命追いかけて、大きな木の根っこのところにあった、これまた大きなうさぎの穴に飛び込むうさぎの小さなしっぽを、何とか見る事が出来ました」

「それってどういう木なのかしら?」

「恐らく、お庭の中で一番大きな木くらいの大きさではないかと思います」

「ふ~ん……それは大きいわね」

「はい。大きいんです」

 お休みなだけにご要望のお話もちょっとしたおとぎ話ではなく、やや長めの物語を御所望だからこちらも気合を入れなくちゃいけない。なので、ここは私が知る中でも屈指の大ネタをご披露だ。

「それで?」

「アリスはそのうさぎの穴を覗き込みました。中は暗くて深くて、どこまで繋がっているのか判らないくらいで……」

 そこまでお話しした時、ノックの音が聞こえた。

「もう、これからってところなのに。誰かしら」

 可愛らしく怒っているルイズお嬢様を置いて、私はドアに向かった。
 ドアを開けると、そこにカトレアお嬢様が立っておられた。
 慌てて脇によけて一礼。そんな私を気にも留めず、部屋に入られるカトレアお嬢様。その横顔に、いつもは感じない奇妙な違和感を感じた。何だか変だ。表情が、物凄く辛そうに見える。

「ルイズ」

 表情と同様に沈んだ声で、ルイズお嬢様に声をかけられた。

「どうしたの、ちいねえさま?」

 ルイズお嬢様の言葉に戸惑うように言葉を詰まらせ、やがて意を決したようにカトレアお嬢様は仰られた。

「今、学院の方から連絡があったの……」

 次いで耳に届いたその言葉を、私は一度では理解できなかった。すべてが耳を滑ってよそに流れていくような、奇妙な感覚だった。
 それくらい、その言葉は聞きたいくないものだった。
 でも、カトレアお嬢様が仰った言葉は紛れもなく現実で、そして、まるで刃物のように硬くて、恐ろしくて。静かに耳に入りこんだその言葉は、霜が降りるようにゆっくりと私の中に鎮座した。


「エレオノール姉様の使い魔が、亡くなりました」







 その知らせは、風のように使用人たちの間にも広まった。今夜はパーティーだ、という浮かれた空気は一気に萎んでしまい、ごく自然にパーティーは中止になった。当然だと私も思う。こんな気分で皆で楽しもうとしたって心から楽しめやしないだろう。
 私が一度だけ会ったことがある、黒い小さな使い魔のノワール。彼がもうこの世にいないのだということが、現実感を帯びずに私の中でぐるぐると渦巻いていた。

 エレオノールお嬢様が乗った馬車が母屋の前に到着したのは、翌々日の朝だった。
 いつものように使用人は並んでお出迎えをするが、ブローチの有無にかかわらず、皆の表情は一様に沈痛な感じだ。
 エレオノールお嬢様は、基本的に人当たりがきつい。本当に言いたいことをあけすけにズバズバ仰る方だ。使用人に対しても当然そういう意味では容赦がないけど、でも、その振る舞いは、どれも公爵家長女として課せられた貴族としてのあり方を忠実に行っているだけだというのは皆知っている。気性が激しいように見えて、根は優しい方だ。私が蜂に襲われた時もそうだ。普通なら『ご苦労様』の一言だけで、自ら使用人の部屋に乗り込んで来たりはしないだろう。使用人の誰もがそのことを知っているだけに、皆エレオノールお嬢様の心情を察して心を痛めていた。
 馬車を下りられたエレオノールお嬢様に、一斉に首を垂れる私たち。皆の袖には喪章。誰が始めたわけでもなく、皆が自然と身に着けてお出迎えに出て来ている。
 その使用人の間を、エレオノールお嬢様はいつも通りの歩みで母屋に入られた。

 出迎えられたのはカトレアお嬢様と、その陰に隠れるようなルイズお嬢様だ。

「今戻ったわ」

 凛として帰宅の挨拶を述べられるエレオノールお嬢様に、カトレアお嬢様が抱き着いた。その脇に、ルイズお嬢様が追従する。

「私は、何と言えばいいのかしら」

「エレオノール姉様、元気出して」

 今にも泣き出しそうな二人の言葉だったけど、でも、エレオノールお嬢様の返答は意外なものだった。

「余計な気を回さなくていいわよ。使い魔が死んだくらいで大げさな」

 不機嫌そうなその言葉に、ルイズお嬢様が身を震わせた。カトレアお嬢様の身を離し、一つ息をついてエレオノールお嬢様が言う。

「父様と母様に挨拶してくるわ」

 それだけ言うと、エレオノールお嬢様は力強い足取りで歩いて行った。




 エレオノールお嬢様の御帰還に合わせて、噂は程なくぽつぽつと聞こえてきた。
 私がノワールと会った時は気が付かなかったが、彼は召喚した時から体が弱く、先天的な病気を抱えていたのだと。妙に大人しい子だと思ったけど、もしかしたら、その原因は彼の健康にあったのかも知れない。投薬も相応に行ったそうだけど、専門家に見せても延命は難しかったのだそうだ。日を追うごとに徐々に寝込むことが増え、最期はエレオノールお嬢様の居室の彼の寝床で、静かに眠るように逝ったのだそうだ。

 そんな彼の葬儀は、粛々と執り行われた。
 弔問まではなかったものの、縁のある貴族の家々からお悔やみの手紙や供物が届く傍ら、お城の中の寺院でお身内だけの静かなお式が執り行われた。
 司祭が詠みあげる聖典の文言が厳かに御堂に響く中、喪服をまとったヴァリエール家の方々の前に、夭逝した使い魔の棺が置かれている。小さな棺に入った小さな黒い使い魔は、この後敷地のはずれにある使い魔塚の後ろにある墓地に葬られ、多くの先輩たちの仲間入りをする。
 埋葬が終わり、最後の祈りが終わったあとで一つ息をつくエレオノールお嬢様。ご家族の方々のお言葉を静かに受けられながらも、エレオノールお嬢様の表情はいつものそれとあまり変わらなかった。そのことが、ちょっとだけ心の片隅に引っかかった気がした。
 
「ねえ、シンシア」

「何?」

 お式の後片付けをしながら、隣のシンシアに話しかけた。

「死んじゃったんだね、あの子」

 私の言葉に、シンシアも表情を曇らせる。

「そうだね。可愛そうに」

「可愛い子だったのにね」

「本当に可愛かったね。やっぱり、可愛すぎると、神様はお傍に置いておきたくなっちゃうのかな」

 シンシアはそう答えると、ふと手を停めて宙を仰いだ。 

「エレオノールお嬢様、お辛いでしょうね」

「そりゃそうだよ。あんなに仲が良さそうだったんだし」

 シンシアが抱き上げていた黒猫が、エレオノールお嬢様が現れるや腕の中から飛び出して駆け寄っていった景色が脳裏をよぎる。

「実はあれ、ちょっとだけショックだったんだ、私」

 意外なシンシアの言葉に思わず私も手を停めてしまった。

「私って、これでも結構動物には好かれる性質のつもりだったんだけど。やっぱりあれね、メイジと使い魔の絆には勝てないなって思ったわ」

 ちょっとだけ悔しそうに笑うシンシアだけど、メイジと使い魔は一心同体だ。その関係に余人が介入する余地はないのだから仕方がない。
 でも、その使い魔を失いながらも、エレオノールお嬢様はいつもと変わらぬ様子だった。その様子があまりにも自然すぎて、逆に不自然な気がしたのは私だけだろうか。





 その日の夜。
 翌日に備えて定刻通りに眠った寝入りばなで、私はゆさゆさと起こされた。

「ナミ、起きなさい」

「うにゅ?」

 寝ぼけ眼で顔を上げると、夜着姿のメイド長が枕元に立っていた。

「……どうしたんですか?」

「一緒にいらっしゃい」

「はい?」

 
 連れて行かれた先は、カトレアお嬢様の部屋だった。

「夜中にごめんなさいね」

 真夜中、日付が変わってちょっと経ったあたりだ。まさに夜も絶好調と言う時間に、やはり夜着姿で起きていたカトレアお嬢様。

「何事でしょうか?」

 こんな夜中に私なんぞを叩き起こすような用事だ、何かよほど妙な事態が起こったのだろうと思う。そんな感じに肩に力を入れている私にカトレアお嬢様が仰った言葉は、予想のはるか上をいった。

「ナミ、貴方に姉の傍にいてあげて欲しいの」

 唐突な展開に、私は首を捻った。

「私がですか?」

 正直、メイドの中で私とエレオノールお嬢様の接点は特段多くないし、先輩方の中には、私よりよほどエレオノールお嬢様と付き合いが深い人も少なくない。それにも関わらずの指名に、私は戸惑いを隠せなかった。 

「ですが、私のような若輩より、エレオノールお嬢様にとって気心が知れた先輩の方が適任だと思うのですが」

「いずれも遠ざけられているのです」

 私の問いに、メイド長が応えた。遠ざけられる、と言うと、今は一人にして欲しいとでも言われているのだろうか。

「そうなの。私やルイズもね。『私は大丈夫よ。変に気を回さないように』って言われて」

 確かにそうされるのはエレオノールお嬢様らしい気がする。

「でもね、平気なはずないのよ。姉は気難しい人だけど、決して強い人ではないのよ。こんなことがあったのだし、できれば、今は誰か傍にいてあげた方がいいと私は思うの」

 そこで何故私に白羽の矢が立つのだろう?
 そんな私の思考を読んだのか、カトレアお嬢様が答えを言ってくれた。

「誰にお願いすればいいか考えてたら、貴方の事を思い出したのよ。使用人の中で、貴方には姉はちょっと他の人と違う感じで接していたから、もしかしたらうまくいくんじゃないかと思って。貴方でもダメだったらどうしようもないんだけど、どうかしら」

 そこまで考えての事なら、私に断る理由はない。ダメでもともとのお仕事なら、そう難しく考えなくてもいいようにも思う。エレオノールお嬢様に追い返されたら、その時はその時だ。

「私では、本当にお傍にいるだけくらいしかできませんが……」

「それで充分よ」
 
 そう言うと、カトレアお嬢様一枚の毛布を私に差し出された。






 夜の使い魔塚。
 日中であっても静謐な場所であるこの塚は、夜となると月明かりを浴びて、どこかこの世のものとは思えないような幻想的な雰囲気を漂わせている。
 その塚の前にある小さなベンチに、背中を丸めた細い人影が見えた。傍らにはワインの瓶と、中身が半分ほどになったグラスが一つ。落ち葉を踏んだ私の足音に気づき、振り返られた。私の姿を認めると、どこか疲れた感じのエレオノールお嬢様が呆れたようにため息をつかれた。

「こんな夜中に徘徊? あんたも変わった癖があるのね」

「お邪魔して申し訳ありません。そのままではお風邪を召しますので」 

 私が毛布を差し出すと、エレオノールお嬢様は苦笑いを浮かべられた。

「カトレアね」

「はい」

「お節介な子ね、相変わらず」

 私が頷くと、ちょっとだけぶっきらぼうな感じに受け取って下さった。そのまま肩に捲くように羽織られる。

「これでいいでしょ。心配しなくても、もうちょっとしたら戻るわ」

 それだけ言うと、エレオノールお嬢様は私から目を逸らされた。帰れと、その背中が語っている気がした。
 でも、その背中はエレオノールお嬢様には不似合いなほど丸くて、頼りなさそうだった。こういう背中を一人にしておいてはいけないと恐らく誰もが思うような、そんな儚い後姿をエレオノールお嬢様は私に晒していた。
 ふと、視線を使い魔塚に向ける。
 一度だけ触れたことのある、小さな黒い使い魔。まだ幼くて、おとなしい猫だった。私が今でも覚えているのは黒い毛皮の感触と、陽だまりの暖かさ。彼は、もういない。
 春の使い魔召喚でエレオノールお嬢様が彼と主従の絆を結んでから半年ちょっと。それは、メイジと使い魔の関係を考えると、お世辞にも長い時間ではない。
 『メイジと使い魔は一心同体』という言葉が、私の中でリフレインする。そして、あの日に見た黒い使い魔を抱き上げたエレオノールお嬢様のはにかんだ様な幸せそうな顔が脳裏をよぎった。私がそこに感じたものは、溢れんばかりの愛情だった。その愛情が今、諸刃の剣となってエレオノールお嬢様を苛んでいるのだということは私にも判る。
 
「あの、エレオノールお嬢様」

 思い切って声をかけると、エレオノールお嬢様は再び私の方を振り向いた。

「何よ?」

「うまく言えないんですが……」

 一生懸命言いたいことを整理して、かけるべき言葉を探す。

「その……短い間でしたが、あの子は、幸せだったと思います」

「……どうしてあんたにそんなことが判るわけ?」

 訝しむようなエレオノールお嬢様の視線を、目を逸らすことなく見つめ返す。

「判ります。あの時、同僚のメイドが抱っこしてても、エレオノールお嬢様が来られたら腕の中から飛び出して駆け寄ってました。ですから、きっとあの子、エレオノールお嬢様の事が大好きだったんだな、って……」

 動物には好かれる性質だと言っていたシンシアを袖にしていったんだ、あの子がエレオノールお嬢様が嫌いだったわけがない。そんな私の答えに、エレオノールお嬢様は驚いたように目を丸く見開かれた。そして、少し考え込まれて宙を仰がれた。

「そうか……そうだったわね。あんた、あの子に会ったことあったのよね」

「はい。とても可愛い使い魔でした……残念です」

 そんな私の言葉が、エレオノールお嬢様の中でどのように繋がったのかはその時は判らなかった。深くため息をつかれ、エレオノールお嬢様が語られる。

「あの子が死んでから、あんたが初めてよ。あの子の事を口にしてくれたのは」
 
「え?」 

「学院でも家でも、皆、私のことは気にかけてくれたわ。気を落とすな、とか、元気を出すようにとかね。そんなことは言われなくても判っているのよ。私はヴァリエールの長女よ。こんなことくらいでめそめそなんてしていられるもんですか」

 まるで自分に言い聞かせるように、エレオノールお嬢様が言葉を紡がれる。

「でも、私を気遣ってくれる人はたくさんいたけど、あの子の事を悼んでくれる人は誰もいなかったわ。そりゃそうよね。あの子、全然他の人に懐かなかったんだもの」

 少しだけ寂しそうなエレオノールお嬢様の微笑みが、どこか悲しかった。

「そんなちょっと気難しい子だったけど、でも、できれば私以外の誰かにも、あの子の事を悲しんであげて欲しかったわ。せっかく私のところに来てくれた使い魔なのに、誰も悲しんでくれないんじゃ可哀そうじゃない。そんな勝手なことばかり思っていたのよ、私は」

 それだけ言うと、エレオノールお嬢様は静かにルーンを紡いで杖を振られた。土魔法がお得意とは聞いていたけど、彼女の錬金を見るのは初めてだ。淀みのない流れで浮き上がった土がキラキラと輝き始め、宙で綺麗なワイングラスに変成されていく。
 できあがったそれを手に取り、ワインを注いで私に差し出した。

「飲みなさい」

 多分、差し出されているものは、ワインだけではない。これはエレオノールお嬢様が抱えておられる何かを、分かち合うことを許された証のようなものだと私は思った。

「……頂戴致します」

 やけに苦く感じるワインを傾けている私に、エレオノールお嬢様が静かに言葉を続けられた。
 本当に、ぽつり、ぽつりと。
 紡がれるのは、短くとも楽しかった、使い魔との日々だった。

 最初の頃は、トイレの場所を間違えて大騒ぎを起こしたこと。

 朝、起床時刻の5分前になると寝ているエレオノールお嬢様の顔を両手で踏み踏みと押すこと。

 お風呂に入れようとしたら凄まじい勢いで大暴れしたこと。

 夏前には、抱っこする度にものすごい量の毛が服についてしまって困ったこと。

 使い魔なのに感覚の共有以外にさして取り柄がないことを口にしたら、その言葉の意味が判ったのかやたらと申し訳なさそうな顔をして俯いて落ち込んでしまい、ご機嫌を取るのに苦労したこと。

 庭の小鳥を狙って忍び寄って行って、飛びかかる直前に逃げられて、振り返ったら見ていたエレオノールお嬢様と目が合ってしまい、ばつが悪そうにその場でごろんと死んだふりをしてごまかしたこと。

 わずか半年。それだけの間に織り成されたエレオノールお嬢様とノワールとの思い出の数々を、静かに語られるエレオノールお嬢様。
 本来なら、その話はいつ尽きるともなく続くはずだったのだと思う。
 でも、その言葉たちはやがて小刻みな震えを伴いはじめ、次いで言葉が言葉の体をなさなくなり、そしてただ静かな嗚咽に置き換わっていった。
 名家の長女であるが故に自らにそれを許さなかった涙を、エレオノールお嬢様がはらはらと零していた。

 月光の下、静かに涙を流されているエレオノールお嬢様の傍らで、私は夭逝した小さな使い魔を思う。
 黒衣を纏った彼と会ったのは、たった一度きりだった。もっと機会があったなら、いろいろしてあげられたこともあったことだろうとも思うけど、それも今となっては詮無き妄想に過ぎない。
 そんな彼のために同じ主に仕える者として私がしてあげられることは、彼の主であったエレオノールお嬢様のお傍にいてさしあげることくらいだ。
 それが無力な私の、もういない彼にしてあげられる精一杯だった。



 見上げると、そこに広がる星が散りばめられた夜空。
 彼が昇ったその夜空から、彼が静かに彼の主であった姫君を見守っていると信じたかった。



 晴れた夜空とは裏腹な、心は冷たい雨模様だった一日。



[30156] 第12話【前編】
Name: FTR◆9882bbac ID:5daa105e
Date: 2014/09/29 11:29
 月日は巡る。
 おじいちゃんがよく言っていた『ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず』という言葉のとおり、川の流れのように時というものは私たちの事情などお構いなしにどんどんと流れて行ってしまう。
 1年たてば1年分の何かがどんな人にも例外なく降り積もるし、そんなものは10年分も積もれば子供だって大人になるだけのものがあれこれと貯まるのだと思う。
 私のような子供にとって、時の流れは成長と同義だ。
 もうじき13歳。
 一人前として世間に認められるまで、あと2年ちょっと。私たちももう童女という年齢ではない、というのはソフィーの言葉だった。確かに、そろそろ視線を進むべき道に据えて歩き始めなければならない年齢に差し掛かっていることは周りを見ていても判る。街に出れば、私より幼い年齢でも職人の徒弟に入って将来に向って歩き出している子もいる。私はむしろ遅いくらいかも知れない。
 子供心に、という但し書きはつくものの、これまでも私なりに未来予想図というものは抱いていた。
 それはおじいちゃんが起こしお父さんたちが守っているお店を、やがては私が次いで次代につなげるというものだ。それは漠然としてはいるけれど、一番自然で、一番穏やかに迎えられるであろう未来。
 でも、人の間で生きていると、日々私の中に降り積もる澱が指し示す道は、決して一本ではないということを知らされることもある。 





「え~、願いましては……」

 ぶつぶつ呟きながら、愛用の算盤を手に書類と向き合う午後。
 ここはお城の北方、通称『北の塔』と言われる一角。公爵様ご一家の居館である本殿から離れた位置にある大きな建屋で、いわゆる庁舎とか御用部屋と言われるものに位置付けられている。
 公爵領は広大だ。その気になれば国として独立できるくらいの規模と財力があるだけに、その運営にはそれなりの規模のお役人さん部隊が従事している。財務や兵部、内務に外務等などという感じでそれぞれの部署ごとに官職が置かれて、その担当に応じて領地を切り盛りしている感じだ。
 私たち女性使用人たちはちょっと特殊な雇用形態で、公爵様ご夫妻、より厳密には奥方様直属になるので人事部門からは独立しているけど、予算の出処が財務部門であることには変わりないので、使うお金に関しては最終的に財務官の方に報告する必要がある。

 何かを運営する時、お金の流れはすべての基本だ。金庫から鷲掴みでお金を持ち出す貴族様もいるとも聞くけど、ヴァリエール家はお財布の紐は下手な商家も顔負けなくらいシビアで、締めるべきところはしっかり締められている。それだけに使ったお金に関する報告は厳しく求められており、年に2回はきっちりとしたお帳面を届け出なければならない。
 秋はその報告の季節で、収穫に関する計算などと併せて領内の収支を一括してまとめることになっている。それらがきちんと整って初めて担当部署が予算を組むことができるし、お城で働く私たちの経費についてもそんな流れの中で取り決められている。
 これらの作業について、日々の分はヴァネッサ女史やジェロームさんがまとめているけれど、半年に一度は過去の数字に誤りがないかを財務の部屋に出向いて再計算して報告する決まりになっている。半年分の再計算だから作業量が膨大になるので、お二人だけでは捌くのはちょっと厳しい。そういう場合、お城のスタッフから臨時のサポートを集めて事に臨むのが一般的で、私は出自のためもあって他の人より数字に強いので、しばしばその手伝いに駆り出されている。

 並べられた資料の数字を左手で追いながら、右手で珠をぱちぱちと弾く。これでも商人の娘だ、おじいちゃんやお父さんからは読み書きを習うのと同じ時期から算術と算盤については習っている。
 もっとも、算術についてはややこしくなってくるとちょっと苦手というのが正直なところ。鶴亀算なんかは理解するまでにかなり苦労したものだ。

「はい、これ終わりました。問題なしです」
 
 作業が終わり、検算済みの札をつけた帳面を、上座にある大きな机で同じように計算を進めている財務官のおじさんに渡す。

「……早いね」

 ちょっとずっこけたメガネをかけたおじさんの驚いたような表情が、ちょっと嬉しい優越感。検算は精度が第一で速さを褒められるべき仕事ではないけれど、それでも手際がいいに越したことはない。

「いつも言うけど、君、本当にうちに来ないかね? その気になってくれたら総監には私の方から話を上げるが、どうだろうか」

 あまりにストレートな勧誘に、私は困った。
 私の利点は算盤だ。おじちゃん謹製の小型の算盤は今部屋にいる10人ほどのスタッフが使っているものの中でもかなり特殊な用具で、お世辞にも世の中に普及しているとは言えない。財務局全体を見ても使っている人はいないと思うし、王都の商人でも使っている人はほとんどいない珍しい計算機だ。
 使い方が難しいというのはあるものの、でも慣れてしまえば私なんかが使ってもその計算速度はご覧のとおり。計算尺やアバクス、魔法で動く大きな計算機を使っている人もいるけど、それらも筆算の補助の域を出ないのでその速さには限界がある。そういう方々に比べると、確かに算盤を使える私の計算の早さと精度は自惚れではないけどなかなかのものだと思うし、おじさんのようにそんなところを評価してくれる人もいる。

「引き抜きは困りますよ」

 前のめりな感じで詰め寄る財務官のおじさんの言葉を、一緒に確認作業をしていたミリアム女史が遮った。

「この子はメイドとして召し抱えている身の上です。そういった交渉は、きちんと上を通して下さいまし。それに、私どもといたしましてもこの子を手放すつもりはありませんよ」

「そうは言うけどね、これだけの特殊技能の持ち主にメイドをやらせておくのは当家にとってもったいないことだと思わないかね」

「それを言うなら、メイドとして将来有望なスタッフを財務官にするほうが当家にとってより大きな損失だと思いますわ」

「しかし、平時においては財務官こそは当家を支える屋台骨でもあるわけだし……」

 何だかやたらと居心地が悪いやり取りが目の前で繰り広げられている。五分もそんなやり取りに巻き込まれるのは肴扱いの身としては正直ちょっと困る。
 評価してもらえるのは光栄だけど、私もそこまで特殊な人材ではない。算盤くらいは数年もやれば使えるようになるものだし、メイドの仕事だって私よりできる人はたくさんいる。飛び交う言葉はそんな私にとっては大げさな感じが否めない。
 そんなことを思いながらもじもじしている私に、言いたいことを言い終えたおじさんが視線を移した。

「聞いてのとおり、交渉については正式に上層部に相談をしてみるよ。是非一度、職種の転換について真面目に考えてみてくれんかね」




「ああいう評価をいただくと、素直に嬉しいものですね」

 帰り道で、隣を歩くメイド長に笑いながら話しかけてみた。軽いつもりで言った言葉だったはずなのに、メイド長にはちょっと違ったニュアンスで伝わってしまったようだった。
 ふと歩調を遅くして、言葉を探すようにメイド長が口を開いた。

「貴女の人生ですから、私から押しつけがましいことは言いたくありませんが」

 そう前置きをしながら、メイド長が真面目な顔で言った。

「貴女は、貴女が今持っている財産について、一度考えてみるといいでしょう」

「財産、ですか?」

 予期せぬ言葉に、私は首を傾げた。

「財産と言ってもお金の事ではありません。毎日、少しずつ貴女が将来に向けて積み上げているものが何なのか、一度考えてごらんなさい。それはお金では買えない、恐らくは将来の貴女にとって、とても貴重なもののはずですよ」

 それだけ言って黙ってしまったメイド長。でも、そのメイド長の言葉に私もまた言葉を見つけることができなかった。
 ここでもまた『将来』か。
 ここしばらく、本当に私の周囲で『将来』と言う言葉が登場することが多くなってきている気がする。何か、大きな唸りが私の周囲で起こっているのだろうか。
 昨夜も、この『将来』という文字は私の周囲に現れて私の中にさざ波を立てた。
 それは夜更けの、カトレアお嬢様のお部屋でのことだった。



 
「崩壊したウォルスの塔とともに大地が大きく海に沈み込み、バッツたちはそのまま海に投げ出されてしまいました。その崩壊はあまりに唐突だったので、4人は一気に深みまで引きずり込まれてしまったのです。泳いで浮かび上がろうとしても、先ほどの戦いで4人とも疲れ切ってほとんど動くことができません。このままでは溺れ死んでしまいます。『これまでか』、と全員が一瞬絶望しかけました。しかし、そこに海の底から白い大きな影が浮かんできました。現れたのは、ファリスが兄弟同然に育った大切なあのシーサーペント、渦に飲まれて死んだと思っていたシルドラでした。
『シルドラ、生きていたのか!』
 最愛のシルドラの姿にファリスは勇気百倍、バッツやガラフとともに気絶したレナを助けて、シルドラの大きな口の中に避難しました。そうして命からがら深みからの脱出に成功した4人は、シルドラに運ばれてウォルスの砂浜までたどり着きました。バッツたちは力尽き、砂浜に横たわるともう指一本も動かす力も残っていませんでした。そんな4人の中で、ファリスだけは違いました。シルドラの姿に大喜びで駆け寄ります。でも、シルドラはそんなファリスに背を向けて、ゆっくりと海に向かって泳ぎだしました。その時、ファリスはシルドラが体中に、もう助からないほどの大怪我を負っていることに気付いたのです。その姿に、ファリスたちはシルドラが最後の力を振り絞って自分たちを助けてくれたことを知りました。ファリスはたまらずにシルドラを追いました。でも、既に沖まで泳いで行ってしまっているシルドラの背中は遠すぎました。もう、その背中を見られなくなってしまうことを、この時ファリスは理解してしまいました。
『シルドラー! 死んじゃ嫌だー!!』
 ファリスは叫びました。涙をこぼしながら、あらん限りの声で、心が張り裂けんばかりに叫びました。その叫びに応えるように、ファリスに別れを告げるように、シルドラは弱々しく一声鳴きました。そして、そのまま静かに、波間に見えなくなって行きました……って、どうされたんですか、お二人とも?」

 見れば、カトレアお嬢様とルイズお嬢様が2人揃って滂沱たる太い涙をこぼされていた。

「あうー……」

「だ、だって~……」

 カトレアお嬢様はハンカチを取り出して目元をぬぐい、次いで言葉も出せずに鼻をすすっているルイズお嬢様の涙を拭かれている。
 お二人とも感受性豊かな方々だとは思うけど、そこまで感じ入ってもらえるのはお話しする方としても嬉しい。

 お休み前のひと時。ルイズお嬢様のご要望で、ここ最近は冒険活劇の大作をお話しさせていただいている。このお話は私が知っている中でもかなり長いお話で、男の子が聞けば思わず拳を握って前のめりになってしまうようなものなのだけど、カトレアお嬢様もルイズお嬢様も予想外にお気に召していただいたらしい。
 物語はまだ序章、全部お話し終わるのは春くらいになるのではないかと思う。クライマックスで魔法に飲まれてしまう悪役の断末魔の台詞はおじいちゃんほど上手く語れる自信がないので、今から練習しておかなくちゃいけないだろう。

「ルイズお嬢様、そろそろお休みになられるお時間でございます」

 ルイズお嬢様がようやく落ち着かれた時、壁際に控えていたルイズお嬢様担当メイドのエレナ先輩がルイズお嬢様に声をかけた。まだ小さいルイズお嬢様はベッドに入る時間をきちんと決められている。多少は融通を利かせることはできるけど、あまり利かせすぎると怒られるのは担当メイドの先輩たちだ。それはいいのだけど、そのエレナ先輩まで太い涙を流しているのはどういうことだろうか。

「もう、しょうがないわね」

「では、続きはまた明日と言うことで。カトレアお嬢様もよろしいでしょうか?」

「もちろんよ。私だけ先に聞いたらルイズに怒られてしまうわ」

「ええ、そうよ」

 そう言って澄ました顔をされるルイズお嬢様の様子に、カトレアお嬢様はころころとお笑いになった。

「ルイズはもうじき王都ですものね。しばらく間が空くのだし、その分もしっかり聞いておかないとね」

 カトレアお嬢様の言葉に楽しいことを思い出したのか、ルイズお嬢様がぱっと笑顔になった。ポカポカとしたお日様のような笑顔が何とも愛らしい。
 歳の離れた妹を見る姉の気分と言うのは、もしかしたらこういうものなのかも知れない。

「王都でございますか?」

「そうなのよ」

 私が問うと、弾けるような笑顔のままでルイズお嬢様が仰る。

「姫様にお会いするのも1年ぶりよ。楽しみだわ」

 その言葉で、私にもすぐにお嬢様の言葉の主旨は判った。

「あ、園遊会でございますね」

 公爵家という家柄だけあって、ヴァリエールの家は王家と親密な関係にある。そんなお付き合いの中で、ルイズお嬢様は王女であるアンリエッタ姫殿下のご友人として園遊会の際などによくご一緒に遊ばれているのだそうだ。
 聞くところによれば、園遊会は春と秋に催され、多くの貴族様が集う盛大なもので、国王様のご意向によっては各地の景勝地等で行われたりもするものなのだそうな。今年の秋の園遊会は宮殿で行われるらしい。
 そんな催しの中で姫殿下のお相手を務められるのがルイズお嬢様で、お転婆さんが2人揃うのでその度にいろいろと武勇伝が生まれるのだと聞いている。
 幼馴染との久しぶりの交流ともなれば、ルイズお嬢様でなくとも嬉しくなるだろう。はち切れそうなルイズお嬢様の笑顔もなるほど納得だ。

 嬉しさのあまりちょっと考え方がおかしげな方向に向きかけているのか、ルイズお嬢様がとんでもないことを仰い始めた。

「ねえ、ナミのお話を姫様にもお聞かせしたいけど、どうかしら?」

 そのお言葉を理解するまで、数秒かかった。
 な、何ですと!?

「で、殿下に拝謁するなんてとんでもありません」

「黙ってればばれないわよ。そうだ、変装してこっそりお城に忍び込んで来なさいよ」

「そんなことしたらクビになっちゃいます」

「何よ、尻込みしちゃって。女は度胸よ?」

「ご、ご勘弁を」

 そういうことに命を懸けるような度胸は私にはない。クビで済めばまだいい。貴族様の邸宅どころか宮殿に忍び込んだとなれば、下手をしたら本当に首を斬られてしまう。仮に王家から何もなくとも、面子を潰された公爵家の法度がそれを許してくれないだろう。脳裏に断頭台に置かれて白目を剥いている自分を想像して私は震え上がった。
 そんな私たちを見ながら笑っていたカトレアお嬢様が、ふと思いついたように指を頤に当てられた。

「でも、ナミのお話が殿下にお聞かせしてみたいと思うくらい面白いというのは私も同感だわ。毎度思うことだけど、将来こういう方向で身を立てても成功するんじゃないかしら」

 意外な言葉に、私はきっときょとんとした顔をしていたと思う。

「さすがにそれは無理ですよ」
 
 慌てて手を振る私に、首を振られるカトレアお嬢様。

「無理ではないと思うわよ。ねえエレナ、貴女もそう思うでしょ?」

 話を振られてもエレナ先輩は動じずに頷いた。

「はい。かなりのものと存じます」

「ほら。貴女はもっと自信を持っていいと思うわ」

 まあ、この辺はリップサービスだと思うことにしよう。本職の人達と比べられては素人芸もいいところなんだし。

「……恐縮です」

「ちょっと待って、ちい姉さま」

 無難なところに落着しようとしていたそんなやり取りに、少し慌てたようなルイズお嬢様が割って入った。

「それって、ナミが将来うちのメイド以外のお仕事に就くということ?」

「ええ。語り部とか吟遊詩人とか、お話を人に聞かせるお仕事は結構あるのよ。本を書いてもいいんじゃないかしら」

「ダメよ。それじゃ私たちがナミのお話を聞けなくなってしまうわ」

 カトレアお嬢様の言葉に、ルイズお嬢様が明確な拒絶を示された。

「あら、ルイズはナミのお話を国中の人に聞いてもらうのには反対なの?」

「そうは言わないけど、でも、それだとナミはここのメイドじゃなくなっちゃうんでしょ?」

「それは仕方がないことよ。 ナミにはナミの人生があるんですもの」

「それでもダメなの!」

 いつになく激しい物言いでルイズお嬢様が地団太を踏まれた。
 子供らしい癇癪、でも、子供なりの精一杯の主張。ルイズお嬢様の言葉は、彼女なりの譲れぬラインの在り処を指し示していたように思う。それが私の事を惜しんでのものと言うことが判り、胸の中に暖かいものが溢れた。今の複雑な気持ちを最も近い感情で言い表すとしたら、それはきっと照れくさいという言葉が一番近い気がする。

「いいナミ、うちのメイドを辞めちゃダメだからね!」









「難しい話ね」

 夜、ベッドに寝っころがって唸る私の隣で、鏡台に向って髪を梳っているシンシアが私の話に頷いた。相変わらず櫛の通りがいい綺麗な髪だと思う。

「女の私を財務官に引き立ててくれるって言うのは光栄なんだけど、やっぱり私なんかでいいのかなあ、って思うんだ。でも、ルイズお嬢様の仰るようにこのままずーっとメイドをやっていくっていうのもちょっと思い切れないところがあってさ」

「でも、嫌じゃないんでしょ?」

「そりゃね」

 もちろんメイドの仕事は嫌じゃない。公爵家の方々はお仕えするのに何の不満もない方々だし、使用人のみんなも楽しくて優しい。人との縁と言う視点では、これ以上恵まれた場所もそうはないんじゃないかと思っている。そこで働いていくというのは、恐らく幸せなことだと思う。
 でも、それと同じかそれ以上に、私にとっては実家のお店も大事なものだ。お父さんやお母さん、番頭さんやお店の人たちと日々を過ごす未来と言うのも捨て難いものだと思う。唯一の跡継ぎである私が継がないとなった時、あのお店はどうなってしまうのだろうか。私の旦那さんになる人や子供に継がせるという選択肢もあるのかも知れないけど、そんな曖昧なものをあてにして未来を決めるのはどうかと思うし。

「いいわね、そういうの」

「え?」

 天井を見ながら唸っている私にぽつりと告げたシンシアの背中が、やけに陰っているような気がした。
 ここしばらく、彼女はちょっとだけ元気がない。
 家からのものだと思うけど、彼女のところに手紙が届く頻度も高くなっているように思う。何かあったのかも知れないと思って訊いてみても、答えは『特に変わりはないわ』と切り返されてしまった。

「前にソフィーが言ってたけど、悩めるということは幸せなことだと私も思うわ。選べる余地があるのなら、いろいろ悩んでみるのもいいんじゃないかな」

 私の方に向き直ってそう言う彼女の表情は、どこか固い。その視線が私ではない何かを見ているような気がした。それがやけに引っかかったので、私は思い切って前から思っていた疑問を口にした。

「シンシアは、将来はどうしたいの?」

「私は、家の迷惑にならないように生きるので精いっぱいだから」

 私の問いに対する彼女の言葉に、彼女の裡で複雑に絡みあった負の感情が滲んで見えた気がした。どこか諦観を感じる物言い。

「家って、当主様の御意向ってこと?」

「そんなところよ。つまんない話よね」

 それだけ言って、話を断ち切るようにシンシアは鏡に向き直ってしまった。
 その後ろ姿に感じるものは、一種の拒絶だ。
 今の私では、踏み入れるラインはきっとここまでなのだろう。
 シンシアとは仲良くやってはいるけれど、彼女は実家の事はあまり話したがらない。

『私はシンシア。これからよろしくね』

 初めて会った時も、家名や出自の事は彼女は何一つ語らなかった。
 言葉の端々から察するに相応の家格の出だと思うものの、家族構成をはじめとした詳しいことは知らない。家名を尋ねたこともあるけれど『大した家ではないわ』とはぐらかされてそれっきりだ。しつこく訊いてくれるな、とその時のシンシアの表情が語っているような気がしたので私としてもそれ以上は踏み込めなかった。
 でも、そういう話題に触れる時、シンシアの表情は決して明るいものではない気がする。
 そんな彼女が、最近こうして鏡を見ながら難しい顔をして考え込むことが増えたことは気になっていた。
 友達だからと言って、全てのカードを広げて見せて欲しいとまでは思わないけど、彼女のことを思う身としては本当の意味で信頼されていないのかも知れないと思える彼女のこういう振る舞いは、少し寂しいことは確かだ。
 一番長く一緒に仕事をして来た子は、間違いなくシンシアだ。
 いつかは私も、彼女にとって胸の内をすべて明かせるに足るだけの友人に慣れるのだろうか。
 流れるように輝く彼女の金髪を見ながら、私はそんなことを思った。 




 翌朝、朝一番の朝礼の時間に、私はメイド長からヴァネッサ女史の部屋に伺うように指示を受けた。私だけではなく、ソフィーとシンシアも一緒にだ。
 予期せぬお呼び出しに、女史の部屋に向う道すがら私は心当たりを必死に思い出していた。
 
「う~ん、何か怒られるようなことしたっけ?」

 戦々恐々とした私の言葉に、ソフィーは腕を組んで考え込んだ。彼女もまたお呼び出しの理由について悩んでいた。

「いや、心当たりはないな。我ら3人となるとどうにも思い当たらん」

 そんなソフィーにシンシアが言う。 

「先週ミスタ・ドラクロワのところで3回もおやつをいただいてたのがばれたってことは?」

 お芋に栗に木通に……。美味しかったなあ。

「それならばメイド長も同罪だろう」

「それもそうね」

 いやいや、それくらいのことでヴァネッサ女史からお呼び出しを受けるようなことはないだろう……と思う。


 そんな益体もないやり取りをしながらヴァネッサ女史の事務室に入るや、デスクの向こうでいつも通りの冷ややかな視線で私たちを見つめながら、女史は予想もしなかったことを仰った。

「来週、貴方たちには王都に行ってもらおうと思います」

 飛び出した単語のあまりの突拍子のなさに、その単語の意味を受け入れるのに数秒かかった。

「王都にですか?」

 私が聞き返すと、女史は深く頷いて肯定した。

「貴方たちもここに来てもうじき3年です。そろそろ王都の別邸の方の仕事も体を通しておいて欲しいのです」

 ヴァリエール家の別邸は、王都のアップタウンにある。国内屈指の名門なだけにそれはそれは大きなお屋敷だそうで、そこに常駐しているスタッフも少なくないと聞いている。
 私は王都の出身だけど、川向こうの貴族屋敷が並ぶ一角には用がなければ行ってはいけないと言われていたので見たことがない。当時はどうしてなのかは判らなかったけど、今は貴族様の中にはいろんな人がいるということくらいは理解できているからそれは王都の平民にとっては正しい暮らし方だということも判る。うっかり屋敷街をうろついて、貴族様にいじめられてもどうすることもできないのが平民というものだ。

「主な仕事は別邸の細々した仕事ですが、そういう催しの際に発生する仕事も多々あります。今後の事もありますので、今のうちにある程度抑えてもらおうと思います」

 告げられた仕事の内容は、別邸の運営にかかわる数々のお仕事だった。あちらにはあちらのスタッフがいるものの、今回のような大きな催しの場合は人手の絶対数が足りないから、私たちのような領地のスタッフが応援に行って力を合わせて事に臨まなければならない。公爵家の方々の身の回りのことはもちろん、別邸に滞在するスタッフが増えれば当然だけどその人たちへの食事なんかの対応もお仕事には含まれてくる。人手は多いに越したことはないという感じなのだろう。
 もしかしたらルイズお嬢様の傍付きでお城にも行くことがあるのかなあ、と思ったら、それについてはヴァネッサ女史からは否定の言葉が出て来た。

「貴方たちは登城の必要はありません。付き人はエレナたちが担当します。それと」

 言葉を切り、一つ息を吸って女史が仰った。

「貴方たちには園遊会の期間の2日目の1日、研修に行ってもらいます」

「研修ですか?」

 宮殿で行われる園遊会は、大抵2日に渡って行われる。当日のお昼から始まって夜会に続き、翌日の午後くらいに流れ解散になるのが一般的なものらしい。

「人が出払えば特に別邸でやるべき仕事もないでしょうから、今後のためにも王都を見て見聞を広めて来なさい。少しですが、研修費も支給します。しっかり王都の様子を勉強して来るように。ナミは昨年の降臨祭の際に帰省しなかったこともありますし、ついでに実家に顔くらい出して来るといいでしょう」

 そう言って女史は立ち上がって私たちに背を向け、窓際に立って視線をお庭が広がる窓の外に向けた。
 言うべきことはすべて言ったという感じの女史の背中を見つめる私たち3人が、その言葉の意味を理解するまで数秒かかった。
 理解に至れば、やるべきことは一つしかない。
 申し合わせたわけでもないのに、私たちは内心の歓喜を抑え込みながら同時に首を垂れて言った。

「かしこまりました」

 話せる上役と言うのは、なかなか得難いこの世の宝だと私は改めて思った。







 王都だ、実家だ、お休みだ!
 いや、お休みじゃなくて研修だけど。
 そう自分を戒めはするものの、出立までの数日、私の顔からは笑みがこぼれ落ち続けた。
 誰にだって故郷はあるものだと思うし、そこに帰れるというのは嬉しいものだと思う。いわんや私をや。しかも今度は友達二人も一緒だ。
 いろいろ案内しよう。市で何か美味しいものを食べよう。こちらでは買えない小間物を買い込むのもいいと思う。
 おっと、実家にも連絡しておこう。報告書を書く時は岩のように重い筆も、こういうことなら滑りは快調そのものだ。

 そんなこんなでスキップしながら待ちわびた出発の日。
 お城正面の門のところに並んだ数台の馬車。公爵家の方々は明日以降に竜籠で移動されるけど、私たち使用人一行はこうして馬車で王都に移動する。いつもの乗り合い馬車ではなく、簡素ながらもちゃんとした旅客用の馬車と言うのが嬉しい。

「しばらく留守にしますけど、よろしくお願いします」

「ええ、行ってらっしゃい。道中気を付けなさい」

 見送りに来たメイド長の言葉に手を振って応え、私たちはお城の門をくぐって旅路についた。
 
 長閑な景色を見ながらポコポコと馬車は進む。
 収穫の終った畑の隣で秋播き小麦の種を蒔く小作の人たちが見える。この秋は豊作だっただけに、次の収穫も相応に期待ができそうだと財務官のおじさんに教えてもらった。
 そんな畑の中を抜けて、城下を通り過ぎるといよいよ本格的な郊外の森の中の道に入る。
 馬車の旅と言うのは山賊や野盗の危険と常に背中合わせと言われていて、旅人は護衛の代金とそういう無法者に出くわす危険について、常に秤にかけなければならない。
 その点、今回みたいな公式な催しに伴う公爵家の使用人の移動ともなると、ちゃんと公領軍の騎兵が数騎護衛についてくれるから心強い限りだ。
 そんな安心もあって、馬車の中ではいつにもまして会話が弾む。
 のんきな旅情気分を皆で味わうのは、お仕事とは言え、やはり楽しい。あれやこれやと日頃は話さないようなこともぽろっと出てしまうのは、まるで旅と言う楽しくも不思議な空間がかけた魔法のようでもあった。

 何事もなく穏やかに2日が過ぎ、馬車は王都の外門の関に到着した。治安のため、王都に入る荷物や旅客は、ここで検査を受けることになっている。公爵家の一行であっても略式ではあるものの一応の手続きは踏むことになる。
 御者の人が長柄の軍杖を構えた衛兵さんたちと簡単にやり取りをして、程なく馬車は王都に入った。

 王都に入ると、これまでとは違った整然とした街並みが訪れた人を驚かせる。
 トリスタニアは水の都だ。古い町並みの間を、何本もの川が流れている。物流や交通に使われる運河も入れれば、ハルケギニアでも屈指の水上都市と言えるのではないかと思う。
 これは戦争になった際にも大いに守り手側にとって有利に働くそうだけど、できればそんな事態になることは未来永劫ご勘弁願いたい。

 そんな王都の街並みを抜け、橋を幾つか越えればそこは貴族様方の屋敷町だ。
 そんな屋敷町の中央にある公爵家の別邸はヴァリエールのお城に比べれば小さいものの、それでも私たちの感覚からすれば豪邸もいいところだ。周囲のお屋敷に比べても一際偉容が目立つ。
 
「うひゃー、大きいねー」

 裏手の車回しで馬車から降りて見上げる母屋。
 さすがは公爵家。ここまで大きな別邸はそうはないと思う。堀や防壁がないことを除けば、下手な地方貴族のお城より立派なのではないだろうか。

「ほらナミ、お仕事お仕事」

 シンシアの声に我に返る。

「あ、ごめん」

 馬車からの荷卸しが始まったので、私は慌てて作業に取り掛かった。
 
 別邸の構造は、規模の差がある他、基本的にお城の本殿とはちょっと構造が違ってくる。戦いもあることを想定して建てられたお城の本殿と違い、王都の別邸は貴族様がいかに心地よくお寛ぎいただくかを軸に考えて作られているので、それらのための設備が両者の最大の違いだと思う。お客様を迎えするゲストルームもかなり気合が入った贅沢な造りだ。
 清掃などの手入れは常駐のスタッフさんがきちんとやってくれているので私たち応援部隊がやることは、スタッフさんの指示に従って公爵家の方々がお越しになる前にもう一度軽く棚の上を拭いたりリネンの手伝いをするくらいだ。
 王都のスタッフさんの特徴としては、ブローチを着けた人が多いということ。お城より中央に近い施設と言うこともあるので、何かあったら非常体制の要員に充てらるのかも知れない。

 翌日の朝に、公爵家の方々が到着された。
 庭に綺麗に敷かれた赤絨毯の脇に並び、皆と一緒にお出迎え。
 公爵様とその隣に並ぶ奥方様、そしてその後ろにルイズお嬢様が続く。
 同じ竜籠に外出着をまとったヴァネッサ女史が乗っていたのには驚いた。留守はジェロームさんかメイド長が仕切っているのだろうか。
 
 ご一家が団欒に入られれば私たちも少し余裕ができる。主な対応は別邸のスタッフさんが手際よくこなしているし、本格的に忙しくなるのは明日以降なので公爵様ご一家に対して何かやることはない。
 もちろん時間ができたからと言って遊んでいいわけではなく、そんな時間を使ってエレナ先輩に別邸の事をご教示いただくのが今回の段取りだ。
 別邸のお仕事はあまり明確に役割分担はされていない。一人で二役も三役もこなさなければ人手は幾らあっても足りはしない。『実務万能』ということで仕込まれてきただけに、培ったノウハウを発揮することは私たちご領地組メイドの腕の見せ所だ。
 おおよその説明が終わったので、私たちはランドリーを借りて私たち使用人が道中に着ていた衣類やリネン等の洗濯を担当した。
 ありがたいことにお城にもある魔法を使った洗濯釜があったので、手作業を覚悟していた作業はうんと楽だった。
 洗濯かごに洗い上がった洗濯ものを入れて、裏手にある物干し台に向う。
 秋の日差しは徐々に冬の気配を帯び始めているものの、このお天気ならよく乾くだろう。
 白いシーツを大きく広げててきぱきと干していくと、自然と出来上がる白い回廊が私は好きだ。
 視界いっぱいに広がる洗い立てのシーツに、ほのかに鼻をくすぐるしゃぼんの香り、そして見上げれば高い青空。
 実に勤労日和だ。
 お庭と塀の彼方に、サン・レミの聖堂の鐘楼がやけにはっきりと見えた。
 そんな景色を見ながら、ふと思う。
 ここでなら、王都で暮らしながらも公爵家の一員として働くことはできる。そういう生き方も、もしかしたら可能なのではないだろうか。
 でも、そんな考えを、どこかで否定的に見ている私もいる。
 お城と王都、どちらで働くにしても公爵家にお仕えするという意味では変わりはないけど、私の中の奇妙な物差しがそれに異を唱えていた。
 それが何なのか判らないまま、私は手を動かし続けた。

 そんな作業中、洗濯物の隙間から母屋の方から歩いて来られるルイズお嬢様が見えた。
 どすどすと不機嫌そうな足取りに相応しい、ほっぺたを膨らませたご機嫌斜めなルイズお嬢様だ。
 私の視線に気づいたのか、私を見つけるなりルイズお嬢様はネズミを見つけた猫みたいに走り寄ってきた。

「聞きなさいよ、ナミ。父さまったら、姫さまをお呼びしちゃダメだって言うのよ」

 出し抜けに食って掛かるような勢いでルイズお嬢様が声を張り上げられた。

「姫殿下をですか?」

「そうよ。せっかくお会いするのに、これじゃまたいつもと変わらないじゃない。がっかりだわ」

 ぷんすかと煙を出しかねない勢いだけど、ルイズお嬢様の容姿でそれをやられると可愛らしい。それはともかく、いまいちお話の流れが見えてこない。

「あの、ルイズお嬢様。姫殿下をこちらのお屋敷にお招きして夜更かしを楽しまれるということでしょうか?」

「そうよ」

 私の問いに、ルイズお嬢様が即答された。

「あんたがお城に入れないんじゃ、姫さまにこっちに来てもらうしかないじゃない。お城で姫さまと一緒に寝たりもしてるんだし、うちにお招きしてもおかしくないでしょ? いい考えだと思ったのに、もう」

 ルイズお嬢様の説明に、ようやく事の次第が飲み込めた。私が知らないところでルイズお嬢様の陰謀が密かに進行していたらしい。

「さ、さすがに王族の方をお迎えするとなりますと用意の時間がないと思いますよ」

「そんな大げさなことしなくても、姫さまなら気にしないわよ」

 殿下は気にしなくても、周囲はそうはいかない。
 ルイズお嬢様の姫殿下への友情は非常に歓迎すべきこととは思うけど、やるとなったらそういう訳にはいかないだろうと私でも思う。
 高貴な方を迎えするとなれば、公爵家としても面子をかけたお出迎えをしなければならない。お忍びであっても、それが王族ともなれば準備だけで1週間は必要ではないだろうか。
 何より、私としてひっかかったのが『私が城に入れないから』と言う一言。ルイズお嬢様の中では、先日の謀は依然継続中だったらしい。
 いくら気に入っていただけているといっても所詮私は素人だ。お嬢様方の無聊の慰みにお話をするというのならまだ大目に見てもらえるとは思うけど、王族の方々の前に出るとなると当然だけどそこには責任が生じる。言うまでもなく、そういうことになれば公爵家の名誉を背負ってのこととなるからだ。
 知らないところで私の死刑に関する打ち合わせが行われていたのを知ったような気分だ。

「ねえ、あんたからも父さまに言ってよ。姫さまにお話をご披露したいって」

 そんな思いで顔を引き攣らせている私をよそに、よほど煮詰まっているのか、とんでもないことを言い始めるルイズお嬢様。

「ご、ご勘弁ください。幾らなんでも恐れ多いです」

「何でよ。あんただって姫さまにお会いできるいい機会じゃない」

 詰め寄るルイズお嬢様の圧力にのけぞる私に対する救いの手は、唐突に現れた。

「ルイズお嬢様、あまりご無体なことは仰らないでください」

 知らぬ間にルイズお嬢様の背後にヴァネッサ女史が立っていた。相変わらず影みたいに気配がない方だ。

「あ、あう」
 
 興が乗ったら向かうところ敵なしなルイズお嬢様も、氷のような女史の視線は苦手らしい。奥方様とエレオノールお嬢様と同様、女史の視線も物理的に圧力を感じる類のそれだ。

「……判ったわよ」

 可愛らしい足音を立てて走り去るルイズお嬢様を見送り、私は一つ安堵の息をついた。

「ありがとうございます」

「貴女も貴方です。いい加減、こういう時はきちんとお断りすることも覚えなさい」

 むう、何故私が怒られる流れに。


 そんなことはあったものの、午後になるとそのことを振り返っている余裕がないくらい、明日に迫った園遊会の準備に大わらわになった。こればかりは別邸のスタッフではなく領地勤めの私たちの出番。
 こういうイベントの時、貴族様はお召し物を何着も用意して荷箱に詰めて会場に持ち込まれる。時間によってとか相手によってと言った感じで衣装を変えられるだけに、その用意は使用人たちにとってミスが許されない重要なものだ。万が一衣装に合わせた靴を忘れたなんてことになればお家の名誉に関わってしまう。当然ながら、粗相があれば担当使用人はただでは済まない。
 しつこいくらいにチェックを何度もして、しわにならぬように細心の注意をしながら荷箱に収める。完了したものはヴァネッサ女史立会いの下で封を施すことを繰り返した。 

 そんな慌ただしい一日が終わり、まだちょっとだけご機嫌斜めなルイズお嬢様に、お休みの時間にお呼び出しを受けた。
 明日は御登城。忙しい一日になるので、短めな作品を一つ。
 家族に苛められていた下級貴族の女の子サンドリヨンが、大魔法使いの助けを受けてお城の舞踏会に行って王子様に見初められる『小さなガラスの靴』というお話だ。
 非常に女の子受けのいい物語で、ルイズお嬢様くらいの女の子なら目を輝かせて聞いてもらえるお話、と思ったらそこはさすがはルイズお嬢様。

『許せないわね、その継母と義姉妹は。私だったら問答無用で百叩きだわ』

 王子様との恋物語より、こういう部分に反応を示される辺りはお転婆さんなルイズお嬢様らしいと思う。
 そうこうするうちに物語は前半のクライマックス、サンドリヨンがお城の舞踏会会場から走り去ったところで壁際のエレナ先輩が時計を見て言った。

「ルイズお嬢様、そろそろお休みになられるお時間でございます」

「えー、もう?」

 そう言って自身も時計に目を走らせ、ルイズお嬢様は眉を顰めた。いつもであれば多少は融通を利かせられるけど、御登城は大きなイベントだ。しかも夕食の時に奥方様から『夜更かしをしていたら、明日は留守番です』と釘を刺されていただけにルイズお嬢様も抗いようがない。

「もう、いいところなのに」

「続きはお戻りになってからに致しましょう。お留守番になっては大変です」

「しょうがないわね」
 
 エレナ先輩に追い立てられるようにベッドに入ってお布団を被られたルイズお嬢様を見届け、先輩がランプを静かに落した。

「では、おやすみなさいまし」

 先輩に続いて灯りが消えた部屋を後にしようとした時。

「ねえ、ナミ」

 不意にかけられたルイズお嬢様の声に、私は振り返った。

「何でございましょう?」

 お布団の中から、少しだけ不安そうな色を湛えたルイズお嬢様の瞳が私を見つめていた。

「ナミは、トリスタニアの出身よね」

「然様でございます」

「……やっぱり、ヴァリエールよりトリスタニアの方がいいの?」

 いきなりな問いかけに私は一瞬回答に詰まった。

「それは、何とも言えません。ヴァリエール地方にはヴァリエール地方の、王都にはまた王都ゆえのいいところがありますので」

「それは判るけど、でも、やっぱりナミには辞めないで欲しいな」

 いつもの勝気な物言いがちょっとだけ引っ込んで、どこか寂しそうなルイズお嬢様の言葉が胸に刺さった。
 適当なことを言ってごまかすことは簡単だけど、真っ直ぐに私を見つめるルイズお嬢様の視線に偽りを返すことは、私にはどうにも難しかった。
 言葉を見つけられずに困った私に助け舟を出してくれたのは、エレナ先輩だった。

「ルイズお嬢様、そういう難しい話は昼間に致しましょう。奥様が様子を見に来られる前にお休みにならないと」

「判ったわよ。ナミ、さっきのお話の続き、お城から戻ったら聞かせなさい。いいわね?」

 そう言ってルイズお嬢様は素直にお布団を被られた。
 それを見届けたエレナ先輩が、そっと手を振って魔法のランプの灯を落とした。
 ここから先は、ルイズお嬢様も夢の世界の住人。


 明日は、園遊会。



[30156] 第12話【中編】
Name: FTR◆9882bbac ID:5daa105e
Date: 2014/05/22 15:11
 園遊会の当日。
 お昼からの園遊会なのに、割と早い時間から公爵様ご一家は馬車を仕立ててお城に出発していった。王家と昵懇の公爵家なだけに、早めに入って王様といろいろお話されるのだと思う。先日はご機嫌斜めだったルイズお嬢様も楽しそうに見える。今夜は姫殿下と一緒にお泊りとのことで、あれこれ先の楽しみのことを考えているのだろう。
 使用人がずらりと並んでお見送りをする中、がらがらと音を立てて4頭立ての豪奢な馬車が別邸の門から出て行った。その姿が見えなくなり、ようやく私はほっと溜息をついた。


 翌日の朝、留守居役のヴァネッサ女史のところに出向くと、待っていたように彼女のデスクの上には革袋が3つ並んでいた。

「有意義にお使いなさい」

 お金の入った革袋を受け取り、3人揃って最敬礼だ。
 部屋に戻ってお城から持ってきた私服に着替えて、今一度女史のところにご挨拶に伺う。

「よく勉強していらっしゃい。夕餉の時間までには戻るように」

「はい、ありがとうございます」

 足取りも軽く、私たちは別邸の裏門から王都の街に繰り出した。

 シンシアとソフィーを伴って歩く王都。
 たまたまであっても王都に生まれた身なだけに、物珍しそうにあたりを見回す2人を見ていると何となく優越感だ。

「おや、ナミじゃないか」

「こんにちは、久しぶりです」

「よく戻ったねえ」

 ブルドンネ街を歩いていると、顔見知りの果物屋さんが私を見つけて声をかけてきた。私が奉公に上がるころはまだ新米の若女将だったけど、今ではなかなか堂に入っている。

「青いリンゴとは珍しいな」

 そんな彼女とやり取りをしている私の傍らで、ソフィーは売り物のリンゴに興味津々だ。

「早いうちに採るんだよ。酸味が強いけど、そこがまた美味しいよ」

 むう。おばさんの言葉に口の中の水気が増える。
 どうしよう、そういうことを言われると買い食いの欲求に苛まれてしまう。甘酸っぱくて美味しいんだよね。
 そんなことを思いながらソフィーとシンシアに目配せした時。

「それじゃ、それを4つちょうだいな」

 背後からの声に、私たち3人は飛び上がって驚いた。慌てて振り向く私の前に、見知った背の高い女の人が笑いながら立っていた。
 美人だけど、左のほっぺたに、大きい古傷が走っている顔。
 私にとって、世界で一番付き合いが長い女の人。

「お母さん!」

 こみあげてくる嬉しさに私は思わず抱き着いてしまう。そんな私を軽々と受け止め、私の頭を猫可愛がりにくしゃくしゃと撫でてくる。乱暴な手つきは相変わらずだ。
 ありゃ、ちょっと太ったかな? 何となくほかほかと暖かい感じがするお母さんのウエストのあたり。湯たんぽとも違う、妙な感じだ。

「あはは、元気にしてたか?」

「元気元気」

 先だって手紙を出していたけど、まさか市場で捕まるとは思わなかった。



「なあ、ナミ」

「何?」

 ソフィーがどこか怪しい挙動で私に小声で話しかけてきた。

「お前の母君だが、ひょっとしてエリカという名ではないか?」

「あれ、言ったことあったっけ?」

 意外な大正解に私は首を傾げた。何で知ってるんだろう?

「やはりそうなのか?」

「そうだよ?」

「……何ということだ」

 そう言ってソフィーはちょっとだけ懊悩して、歩調を速めて先を行くお母さんに並んだ。

「ん? 何だい?」

「卒爾ながら、貴殿がかの『氷瀑』殿で?」

 ソフィーの言葉にお母さんは一瞬目を丸くして、そして笑った。

「あはは、よくそんな古い名前知ってるねえ」

「やはり」

「馬鹿やってた昔の話よ。今の私は綺麗に足を洗って、王都の商家の女房さ」

 お母さんの人となりを知っている私としては、昔馬鹿をやっていたと聞くと酒場で酔っ払って裸踊りでもしたのかと思ってしまうけど、ソフィーの表情はそう穏やかなものではなかった。
 後でこの事をソフィー訊いてみると、ソフィーは言葉を濁しながらも答えてくれた。
 なんでも、お母さんはその筋では有名な傭兵団のリーダーだったらしい。多くの貴族が戦争になったら真っ先に契約を持ちかける傭兵団の一つで、それを率いていたのがお母さん。その頃の通り名が『氷瀑』と言うのだそうだ。神出鬼没の傭兵団であり、また撤退戦では殿を務めることが多く、そんな展開で無類の強さを誇ったとかどうとか。その指揮官が頬に傷を持つ長身の女メイジ、というのはかなり知られたものだったのだそうだ。
 傭兵だったのは知っていたけど、そこまで有名人だという認識は私にはなかった。殺伐とした世界にいたはずのお母さんと、今のお母さんを繋ぐものがイメージできない。私にとってはお父さんにメロメロで、冗談が好きで、ちょっとドジで、肝心なところでちょっとズレてて、でも涙脆くて情に篤い優しいお母さんだ。




 久々に見る我が家。
 私の生家は、ブルドンネ街の外れにある大きな商家だ。
 結構大きなお仕事をしているのでお店の周囲にはいくつかの倉庫が並び、周囲には運搬担当のおじさんたちがたくさん働いている。働いている人の数と様子を見ると、我が家のお仕事は順調らしい。

「ハンス~」

 お母さんがお仕事中のおじさんたちの一人に声をかけると、お帳面を持った現場監督風のおじさんが振り向いた。

「へい……やや! お嬢じゃねえですか! お帰りなさいやし!」

 素っ頓狂な声をあげるこのおじさんが、うちのお店の番頭さんのハンスさんだ。王都の下町生まれで、歳はお父さんよりちょっと上。昔、ハンスさんのご両親におじいちゃんが力になってあげたことがあったそうで、そのことをすごく恩義に思ってくれたのがこのお仕事を始めるきっかけだったのだそうだ。自分のお仕事にすごく誇りを持っている人で、名前で呼ばれるより『番頭さん』と呼ばれることを喜ぶ。

「ただいま。相変わらず忙しそうね」

「はい、おかげさんで稼がしてもらっとります。むしろ最近じゃ忙し過ぎて、ちっとくらい暇になってくれてもいいんじゃねえかって感じですけどね。今日は帰省ですかい?」

「王都でお仕事なの。あんまりゆっくりはできないんだ」

「ありゃ、そいつぁ残念ですね」

 そんな番頭さんが『おう、てめえら、お嬢のお帰りだぞ。御挨拶しろぃ』と声をかけると、倉庫や周囲からわらわらとおじさんたちが出てきて おかえりなさいやしとか、ご無沙汰しておりやすといった、子供のころから聞きなれた口調の挨拶が飛んでくる。私は慣れているけど、おじさんたちは基本的に強面で、ちょっと間違うと怖い筋の人みたいに見えなくもない。それを見るソフィーもシンシアもちょっとほっぺたの辺りをひきつらせながら味のある顔をしていた。もとはお母さんの傭兵団にいた人たちも多いから顔つきがおっかなくてもしょうがないとも思うけど、怒らせなければ怖い人たちじゃないから心配しなくてもいいと思う。

「それより、大将が今朝から落ち着かない様子ですよ。早く顔見せてあげてくだせえ」




 母屋に近寄ると、入口のところで番頭さんの言葉通りにそわそわしながら立っている人影が見えた。中肉中背でメガネをかけた、やや細身の大人しそうな男の人。

「あんた~、お客だよ」

 どこか嬉しそうなお母さんの言葉に人影が振り向いた。
 私を見るなり、メガネの奥の目がぱっと輝いたように見えた。

「ナミ!」

 大きな声で私の名前を呼ぶ。
 これが私のお父さん。
 そんなお父さんに駆け寄ろうとしたら、いきなりお母さんに襟首を掴まれた。
 ぐえっと呻きながら何事かと見上げると、お母さんが渋い顔で私に流し目を向けている。何というか、この人も相変わらずだな、もう。

「いいでしょ、ちょっとくらい」

「……ちょっとだけだぞ~?」

「判ってるって」
 
「本当~?」

「本当だってば」

「よし、行け」

 そう言って私の背中を叩くお母さんはもう笑っている。
 お父さんが大好きなお母さんは、こうしてしばしばやきもちに根差したいじわるをしてくるから困ってしまう。誰も取ったりしないのに。

「ただいま!」

 そう言って飛びつくと、お父さんは両手を広げて私を抱え込んだ。頭をくしゃくしゃと撫でてくるのはお母さんと一緒だ。こういう感情表現については我が一族は割と手加減をしない傾向が強い。

「お帰り。よく帰って来たね」

 久しぶりに聞く、お父さんらしい優しげな声音。
 何だか本当に帰って来た、って言う気がする。

 

 我が家には、居間の一角に小さな神殿を模した祭壇みたいなものがある。
 おじいちゃんが『ゴブツダン』と呼んでいたささやかな祭壇だ。
 そこにおかれているのは、おじいちゃんとおばあちゃんが身に着けていた指輪だ。時の流れの中ですり減り、程よくくたびれた感じのお揃いのその指輪は、おじいちゃんがおばあちゃんに贈ったものだと聞いている。
 それらに手を合わせ、私は静かに報告をする。
 おじいちゃん、おばあちゃん、ただ今戻りました。

「父さん、母さん、ナミが帰ってきましたよ」

 私と並んで手を合わせるお父さん。
 物静かで穏やかな商会の若旦那という感じでありながら、最近はちょっと貫録がついて来た気がする。身内ながらなかなかの男ぶりだと思う。

「どうだい、公爵家のお仕事は?」

「うまくやれてると思う。いい人ばっかりだから毎日楽しいよ」

「それは良かった。ご飯も美味しく食べられてるかい?」

「う~ん、お父さんの料理には負けるなあ」

 これで実はお父さんは料理が上手だ。お母さんが苦手な分、お父さんの細やかな料理が余計引き立ってしまうのが我が家の悲しい現実だったりする。もちろんお母さんの名誉のために言うと、私が生まれる前はお肉を適当に切って直火で焼いて塩を振ったものしか作れなかったお母さんも、おばあちゃんに教わったりして日々精進したおかげで腕を人並み以上のものがある。それでもやはり子供のころからおばあちゃんに仕込まれたお父さんに一日の長があるのは仕方がない。
 そう言うと、お父さんはやたら嬉しそうに照れた。

「またそういう調子のいいことを言っちゃって」

「本当だよ」

 お父さんは、とても穏やかな人だ。
 思い返してみれば、お父さんから怒られたことはあまりない。声を荒げて怒鳴られたことなんか記憶にないくらい。私が要領が良かったというのもあるのかも知れないけど、本当に穏やかな性格のお父さんだと思う。
 そんなお父さんも、商談の時は一変するから男の人は不思議だ。
 きりりとしまった横顔で、整然と言葉を並べていくお父さんの姿を一度だけ見たことがあるけど、子供の贔屓目を差し引いても滅茶苦茶かっこ良かった。お母さんに出会う前から町内の女の人の間でかなりの人気があったというのも判る気がしたし、お母さんが惚れ込んだのもよく判る。
 

 応接室でお茶とお菓子を出してもらい、ソフィーとシンシアを正式に紹介する。手紙でもちょくちょく報告しているだけに、両陣営とも初対面と言う雰囲気はない。貴族ながら気さくな友人2人の性格もあってのことだと思う。
 まるまるくまぐまと話が弾み、おじいちゃんのファンであるソフィーの希望でおじいちゃんの書庫に見学に行った。

「これはすごい……」

 個人の持つ書庫としては割と大き目な一室に並んだ書架に、多くの本が収められている。その中の結構な数の本がおじいちゃんが書いたものだ。

「ド、ドラッカー式マネジメントの原本……こっちはマツシタ塾教本、これも原本とは、おお……」

 蔵書を見るソフィーの目つきが少々怖い。

 油の行商から始めて王都屈指の大店にまで上り詰めたおじいちゃんの書いたものは、いずれも実体験に根差したものなので信頼性が高いのだそうな。
 行商からお店を構えて至ること現在、そんなおじいちゃんのお店は、商家と言いながらもその守備範囲は割と広い。
 生活必需品の流通や酒造関係、軍隊で必要な様々なものも取り扱っている他、規模は大きくないけど造船や土木部門に食い込んだりもしている。
 最近は流通関係にも進出していて、各方面で順調にぼちぼちと利益を上げているのだそうだ。あまり派手にやると貴族様の権益に触れてしまうので、そのさじ加減が難しいとお父さんから教えてもらった。
 『ちょっと物足りないくらいがちょうどいい』。おじいちゃんの残した言葉を、今のこのお店は守り続けている。
 それでも収益はそれなりに多いそうで、その分の儲けは働く人たちのお給料に還元されるのはもちろん、公設の孤児院や公共事業への出資や寺院への寄付などにも使われている。
 お父さんもお母さんもいわゆる俗っぽい贅沢に興味がないようで、着道楽や美食に走ったりすることはない。骨董なんかの蒐集にも興味はないし、別宅なんかも持っていない。甲斐性を考えると愛人の一人や2人くらいはいてもおかしくないお父さんだけど、もしそんなことやったらお母さんがどうなるかわからない、と言うよりわかりすぎるのでそんな命知らずな真似はしないのだろう。まあ、お母さんが大好きなお父さんは他の女性に興味がないみたいだからあり得ない仮定ではある。何しろ、しばしば娘の私が照れてしまうような2人だ、いい加減少しは落ち着いてほしいと思わないでもない。
 とは言え、お互いがいてくれれば他に何もいらない、という理想の夫婦の見本が身近にあるというのは、娘としてはいろんな意味で勉強になる。

「写本で良ければ分けてあげられものが幾つかあるけど、持って行くかい?」

「良いのですか!?」

 お父さんの言葉に、ソフィーが滅多にないくらい大声を出した。こういうソフィーを見るのは初めてだ。何というか、獲物を狙う肉食獣に似た凄みを漂わせているように思う。ツボに入るとこういう反応をするのか、この子は。
 蔵書については一通り網羅しているお父さんと深いレベルの会話を始めるソフィーの様子に、お母さんは一つため息をついた。
 
「こりゃ長くなりそうだね。お茶を淹れ直すから、私たちは退散しよう」

「あれ、2人っきりにしちゃっていいの?」

 ソフィーも立派な女の子なんだけど。
 そんな私の軽口に、お母さんは笑って肩をすくめた。
 
「お前以外はライバルにならないよ」



  
 居間に戻ってお茶をしていると、お母さんとシンシアの共通の話題はどうしても私の事に偏る。そうなると自然と徐々に私の昔話に流れていくから困る。子供の頃の失敗談なんてのは誰にでもあるものなわけだけど、それを友達に漏らされると今後の力関係に影響が出るので勘弁してもらいたい。

 そんな中、私はさっき感じたお母さんの違和感が気になっていた。
 例えるなら、お母さんの纏う野生の狼のようにしなやかで凛とした雰囲気に、奇妙な柔らかさが混ざっているように感じるのだ。お母さんも年齢的に多少お肉が付くころだとは思うけど、そういうものともまた違う気がする。
 そんなことを考えながらそれとなく視線を走らせていると、お母さんがほのかに笑った。

「どうした? 何か変か?」

 問われて私は首を振った。

「何でもない」

「何でもないってわけじゃないだろ、そんな何かを探すような目をして」

 お見通しだったようなので、私は素直に白状することにした。

「何だか、お母さんの様子が変だな、って。ちょっと雰囲気が柔らかくなった感じがして」

「おいおい、今までそんなにおっかなかったかい?」

「そりゃもちろん痛たた!」

 ほっぺたを引っ張られる私を見ていたシンシアが笑う。

「水のメイジ相手じゃ、やっぱり隠せないか。ま、ばれちゃしょうがない。もうちょっと後で話そうと思ったんだけど、いいや。ナミ、手を出しな」

 言われるがままに右手を出すと、お母さんはその手を取って、自分のおへそのあたりにくっつけて見せた。

「判る?」

「え……え?」

 そこまでされれば私でも判る。

「……あ、赤ちゃん?」

 満開の花のように誇らしげに、お母さんが笑う。
 
「お前の弟だよ~。お目見えは来年の夏ごろだってさ」

 頭が真っ白になるような衝撃に、私は口をぱくぱくと動かすしかなかった。
 弟、あるいは妹。
 私に、弟か妹ができる。
 その事実が、呑み込めないほどの大きさの歓喜を伴って私に押し寄せて来た。
 私が生まれてから、弟や妹が欲しいとお母さんにねだったことは少なくない。
 おじいちゃんやおばあちゃんは『その辺は神様が決めて下さることだよ』と笑って私のおねだりをいなしていたけど、その願いをついに神様が聞いてくれたのだろうか。
 おじいちゃんが生きていたら喜びのあまりものすごくヒートアップして派手に振る舞い酒とか始めちゃって、最後には羽目を外しすぎておばあちゃんに怒られたんじゃないかと思う。
 待望の、本当に待望の第2子だ。

「すごい……どうしよう。私、お姉ちゃんだよ」

 喜びが大きすぎてぎくしゃく動く私を、お母さんは笑って見つめていた。
 
「あの、もう性別が判っているんですか?」

 シンシアの言葉にお母さんは笑う。

「私が決めたの。次は絶対男だってね」

「女の子じゃダメなんですか?」

「当然。この子だけでも強敵なのに、これ以上恋敵が増えたらたまんないわ」

 そう言いながら、お母さんは私の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。

「やあ、何だか楽しそうだね」

 タイミングよくおじいちゃんの書斎から戻ってきたお父さんにお母さんが微笑む。

「ごめ~ん、ナミに嗅ぎつけられちゃった」

「おやおや、もうちょっと内緒にしときたかったね」

 お父さんの事だから、生まれた後で『だ~れだ』と言いながら赤ちゃんを私に見せようとでも思っていたのかも知れない。そういう細かいいたずらが好きなところはおじいちゃん似だ。






 楽しい時間は、いつだって駆け足だ。
 あっという間にお天道様が傾きだし、私たちは別邸に戻らなければならない時間になった。
 正直、名残は尽きない。
 御奉公と言うことでいくら長く家を空けていても、戻ればそこに私の居場所がある。それが我が家と言うものなのかも知れない。
 帰り支度をしているとお店の衆も見送りと言うことでわらわらと集まってきてくれて、番頭さんがどういう指示をしたのか綺麗に整列して『お嬢、行ってらっしゃいやし』と仰々しい挨拶をしてきてお母さんに『うちは堅気の店だよ!』と怒られていた。
 
「いつも言うことだけど、体に気を付けて。何かあったら手紙を書いてくれよ。いや、何もなくても書いてくれるとうれしいな」

「了解。お父さんも風邪とか気を付けて」

 私の頭をくしゃくしゃ撫でるお父さんを抱きしめて、次いでお母さんに向き直る。

「元気な赤ちゃんをよろしくね。私は妹でもいいよ」

「お姉ちゃんがそう言ってるってこの子に伝えておくよ。どっちが生まれても、顔を見に帰ってきなよ」

 そう言って出されたお母さんの掌に私の掌を打ち付けて、お互いに笑う。

「それじゃ、行ってきます」

 注がれるいくつものを見送りの視線を受けながら、先で待っている同僚2人に私は合流した。




 夕暮れの迫る王都をお屋敷に向って3人で歩く。
 市は店じまいがあらかた終わっており、道行く人もさほど多くはない。
 そんな街並みを歩きながら、本を大事そうに抱えたソフィーが思い出したように呟いた。

「月並みな言葉しか出なくて済まんが、いいご家族だな」

「そうかな」

 飾り気のない言葉で自分が大切にしているものを褒められれば、やはり素直にうれしい。
 にやける私に、シンシアが合いの手を入れてきた。

「ええ。本当にいい方たち」

 そう言って笑うシンシアの表情が、妙に曇って見えた。

「我が家族ながら、癖の強い人たちだと思うんだけどね」

「でも、好きなんでしょ、ご家族の事」

 投げかけられた直接的な問いに、私はちょっとだけ照れて答えた。

「まあね」

 私の言葉に、シンシアの表情に明確な影が差した。
 彼女の中の、ひどく後ろ向きな思考が表面に出たように思えた。

「いいわね……本当に、羨ましい」

 そして、蝶の羽音のような微かな声で、彼女は静かに呟いた。

「私は、ナミの家みたいな家庭に生まれたかった」

 その言葉に、私もソフィーの言葉を失った。
 単語の一つ一つにこめられた、黒い何か。
 見れば、感情が読めない、作り物みたいな瞳で私には見えない何かを見ているようなシンシアがそこにいた。
 堪え切れない何かが零れ落ちるようなシンシアの言葉が、まるで告解のように聞こえた。

「どうした、何だかちょっと変だぞ?」

 聞きとがめたソフィーがシンシアの顔を覗き込む。

「ごめん、気にしないで」

 切り替えたように明るい表情をするシンシア。でも、やけにその笑顔が作り物のように思えたのは私だけだろうか。



 中央広場の片隅を通過する頃には、晩秋の太陽はそろそろだいぶ傾いてきていた。別邸に着くころには今日のお勤めを終える時間になるだろう。聖堂の鐘が午後5時の鐘を鳴らす。
 やや実家に長居をしてしまったこともあり、近道のために表通りを外れて裏通りに入る。屋敷町にはこちらの方が圧倒的に早い。チクトンネ街のような一角だと変なのに絡まれることもあるかも知れないけど、アップタウン寄りのこの辺りの治安は良い。
 建屋が密集していてやたら道が入り組んでいてたまに迷子になる人が出たりすると聞くけど、王都の人なら迷ったりはしない。
 勝手知ったる自分の庭。そう思ったところに、落とし穴があった。
 黄昏時は逢魔が時とも言う。
 逢魔が時。それは魔に出逢う時間。
 頼んだわけでもないのに、その魔は唐突に私たちのところを訪れた。
 ソフィーが不意に視線を周囲に走らせたのは、そんな裏道を歩いている時だった。

「ナミ、この辺りは追剥は出るか?」

 滅多に聞かない、彼女の硬質な声。私は首を振った。裏通りの方ならともかく、ブルドンネ街の辺りは治安がいいことで有名だ。
 首を振って否定する私に、ソフィーは訝しげな表情を浮かべる。

「ならば、何者であろうな」

 ソフィーの言葉に応えるかのように、次の曲がり角の陰から3人の男の人らしい人影が現れた。全身黒ずくめ。顔まで布で覆っているあたり、まともな人ではないというのが判る。

「どなたかは知らぬが、我らはラ・ヴァリエール公爵家にお仕えする使用人である。何かご用であろうか?」

 ソフィーの言葉に対して、黒装束たちは言葉では答えなかった。代わりに、衣装の陰から表に出て来たサーベルの鈍い光が、薄暮の中できらりと光った。
 自分が息を飲む音が、やけに他人事のように感じられた。
 目を細めただけで動じないソフィーの隣で、シンシアが真っ青になって叫んだ。

「2人とも逃げて!」

 事の次第は、その瞬間には理解できていなかった。
 でも、そんな私の思考とはかけ離れたところで私の体は勝手に2人の袖に手を伸ばし、思い切り引きずるように2人をすぐ脇の路地に引っ張り込んだ。
 それがすべての始まり。
 逃走に移った私たちと、追い足を踏み出した黒装束の人影。

「誰か~っ! 暴漢です~っ!!」

 大声で叫び声を上げて全速力で走りながら、きちんと2人がついてきているかを振り返って確認する。2人は遅れずついて来ていたけど、その後ろに黒装束たちも続いているのが見えた。
 足は黒装束たちの方が速いけど、勝算がないわけではない。程なく見えて来たのは、行き止まりの壁だ。
 走りながら杖を抜いて、荒い息でルーンを唱える。それだけで後ろの2人にも意図は伝わっているはずだ。
 刃物を見せたところを見ると相手はメイジではないだろう。
 ふわりと宙に舞って壁を飛び越えた。そのまま空中に逃げ場を求めようとした時だった。
 今度は私がソフィーに手を引かれて高度を落とす羽目になった。
 がくんと下がった私の体を掠めて、風切り音を立てて飛び去ったものがレンガ造りの建物の壁面に乾いた音を立てて突き刺さった。
 短い矢。
 その事実に血の気が引いた。連中の中に弩を持った輩がいるらしい。
 なんなんだ、こいつらは。

「追剥の類ではないようだな」

 着地したソフィーが苦々しげにつぶやくのを聞きながら、私は視線を周囲に走らせて逃走路を探す。
 確かに、追剥とは思えない。飛び道具まで用意して待ち伏せをするなんて、まるで殺し屋みたいな連中だ。最初から私たちがメイジだと知っていたと言うのだろうか。
 でも、今は考えるより先にやることがある。

「こっち!」

 2人を連れたまま、記憶を頼りに建物と建物の間の路地に走りこんだ。目指すのは、衛士さんの詰所だ。私が奉公に出てからの2年間に廃止になっていなければ、この先300メイルほどのところにあるはず。
 そんな私の期待を嘲笑うかのように、向かう路地の先に見覚えのある黒装束が現れたのが見えた。その数2人。
 何人いるんだ、こいつら。
 
 黒装束の連中に比べて、私たち持てる武器の一つは体の小ささだ。
 このあたりの路地は建物が密集していることもあって大人では体を横にしてやっと通れる程度の隙間が路地のように空いているところが多くある。私たちなら全力疾走が可能でも、追っ手はそうはいかないだろう。
 細かく角を曲がって足を速める。体力的には私たちは大体同じくらいで、誰かが極端に足が遅かったりしないというのが唯一の救いだ。
 全力で逃げながらも、角に至るたびに首をのぞかせて黒装束の姿を確認する。
 思ったより人数が多く、まるで包囲するように迫って来ている。

「どうしよう?」

「対決は、最後の手段だな」

 ソフィーやシンシアはともかく、攻撃用の魔法については正直私は心得がない。仮に使えたとしても、ここまで敵が多くては精神力が続かないだろう。使えるソフィーやシンシアにしても、相手を害するレベルの強力な魔法ともなれば、打てて2・3発がせいぜいではなかろうか。
 今の状況では、悲鳴を上げて助けを呼ぼうにも叫ぶと位置がばれる。助けが来る前に黒装束が集まってきて本懐を遂げられてはたまったものではない。
 
「逃げの一手でいいよね」

「異存はない。心当たりは?」

「任せなさい」

 必死の逃避行ではあるけれど、考えなしに逃げていたわけではない。
 私が持つ、もう一つの武器。それは土地観だ。
 この辺りは子供のころに遊びまわった私の庭だ。どこにどういう抜け道があるかはまだ覚えている。大人では通れない路地だけではない。子供だから気づける秘密の抜け道や鍵がかかっていないドアなんかも判っている。肩幅や腰回り等の都合で幼少のころに比べれば通り抜けづらい抜け道もあったけど、火事場の何とやらで無理やりくぐることを繰り返す。
 そんな手持ちのカードをいくつも使い、追っ手の追跡を必死に躱した。そして、見通しの効かない細い路地を抜けたあたりで、ようやく目的のものが私の視界に入ってきた。
 杖を構えて、荒れた息を必死で整えながらそれに向かってレビテーションのルーンを唱える。
 私の魔法を受けてふわりと浮いたそれは、路地の片隅に設けられた四角い石造りの格子だ。その下に開いているのは、傾斜した排水口。私たちがやっと通れるくらいの大きさの穴だ。

「下に水路があるから気を付けて」

 私の指示に従い、2人が排水口に飛び込んだ。殿として追っ手の姿の有無を見届けてから私も続けて飛び込んで蓋を戻し、ロックの魔法で念を入れた。物陰にある蓋だから、そう簡単に見つかることはないだろう。王都にある多くの排水溝は狭く、大人の肩幅で入れるものは限られている。煙突掃除もそうだけど、こういうところの清掃は丁稚の子供が主に担うことは王都の誰もが知っていることだ。
 傾斜した縦穴を滑り落ちること数メイル。傾斜の終わりで木靴を押し付けるように壁に足を踏ん張ってブレーキをかけ、そこから地下のトンネルに綺麗に着地した。

「2人とも大丈夫?」

「……何とかな」
 
 ソフィーが素早くライトのルーンで杖の先に明かりを灯すと、普通の人は見慣れないおかしな景色が見えてきた。

「地下水路か」

 ソフィーの言葉の通り、飛び込んだ先は王都の地下を走る地下水路だ。
 王都の子供たちは、たまに探検と称してこの地下水路に潜り込んでいろいろ悪さをする。水路のわきには作業用の通路があり、私たちがいるのはその通路。全体的に湿気っぽくて埃っぽいけど下水ではなく川の水のバイパスのための水路だから臭ったりもしないし。

「こっち」

 精神力の節約のため、3人で分担してライトを灯しながら地下迷宮のような水路を先に進んだ。



[30156] 第12話【後編】
Name: FTR◆9882bbac ID:5daa105e
Date: 2014/05/22 15:12
 警戒しながら歩くこと数十分ほど。
黒装束の連中も流石に追っては来られなかったようで、私たちの足音しか聞こえてこない。ここなら来たら来たで小柄な人しか通れない逃げ道は上にも横にも幾らでもある。
 そんな静かな空間に、徐々に大きな水音が響き始めた。その音源を目指して水路を抜けると、不意に開けた景色にソフィーが感嘆の声を上げた。

「これはすごいな」

 到着したのは大雨の時に備えた縦横50メイルほどの広場と調整池が合わさったような大きな空間だ。発光性のコケが生えているので、ぼんやりと明るくなっている。そこに何本もの水路が集まっていて、何だか図鑑で見たことのある地底湖のような雰囲気を漂わせていた。一本だけ落差のある水路が落とす流れが滝のように音を立てている。
 空間の中央には20メイル四方の貯水池があり、増水時には周囲の広場スペースが溢れた分を引き受ける構造になっているんだと思う。深さは結構あると思うけど、実際どれくらいあるのかは私は知らない。
 地下水路の工事の基点になる空間でもあるので、感覚としてはちょっとした池のある広場のようだ。
 そんな調整池の縁に沿って走る広い通路を歩きながら記憶を頼りに進むと、石組の壁に設けられた古ぼけた木の扉にたどり着いた。アンロックをかけてノブを捻ると重そうな外見に反して軽い音を立てて扉が開き、5メイル四方ほどの隠し部屋みたいな空間が現れる。
 水密が完璧だから室内に湿気はないけど、それでもちょっとかび臭い空気の中、年季の入った事務作業用の机や椅子などの什器の傍らに私が目指していたものはまだ残っていた。
 宝箱風の大きな木箱。
 アンロックしてそれを開くと、完全防水の箱の中から出て来たのは数枚の毛布と各種の防災用品。そして保存用に固定化の魔法がかかった焼き菓子だ。
 防災用品の中からランプを取り出してつまみを捻る。マジックランプだから火をつける必要はない。 

「この箱は?」

 魔法を使う必要がなくなったソフィーが杖をしまいながら首を傾げた。

「非常用品よ」

「非常用品はいいんだが、何故ここにそのようなものが?」

 私は笑って種明かしをした。

「ここ、私とおじいちゃんの秘密基地だったの」

 地下水路の冒険はあまり褒められた遊びではないけれど、こういう悪い遊びはおじいちゃんの得意分野だった。何ちゃらヒロシが洞窟に入る、とか歌いながら嬉しそうに先頭に立って水路冒険を楽しんでいた。
 そんな冒険の中で教えてもらったのがこの部屋だ。私が生まれる前の話だけど、お仕事の関係でおじいちゃんが地下水路の工事に一枚噛んだ時、現場事務所として使っていた部屋と聞いている。今となっては地下水路関係の職人さんと一部の担当のお役人さんくらいしか知る人はいないと思う。
 そういうお仕事がない時はおじいちゃんの密かな隠れ家として機能していた部屋で、私もたまに連れて行ってもらい、ここでお湯を沸かしてお茶を飲んだりして過ごしていた。
 変な虫やネズミが出るから女の子はあまり入りたがらない地下水路に嬉々としてついていく私も大概ではあったけど、当時はそのドキドキ感が楽しくて、しょっちゅうおじいちゃんに連れて行けとせがんだものだ。今でこそ公共の場の部屋を私用で使っちゃっていいのかなあと思ったりもするけど、あの頃は無邪気におじいちゃんの悪だくみの御相伴にあずかっていた。お父さんやお母さん、おばあちゃんにも内緒と言うのがまたスリルがあって楽しかったんだけど、今にして思うと恐らく家の皆にはばれていたんじゃないかと思う。箱に固定化とかかけたのはお母さんだし。この非常用品はそんな関係でここに置いてあったもので、固定化と防水を念入りにかけてあるのでこういう時には役に立つ。できれば役立つ時が来ない方が良かったとは思うけど。

 ランプのもとでソフィーが懐中時計を取り出すと、時刻は午後7時を回っていた。外に出れば、街にはもう夜の帳が下りているだろう。

「どうしよう。闇に紛れて詰所に行くか、お屋敷に戻れたらいいんだけど」

 さすがに屋敷町までつながる水路があるかについてまでは私は知らない。

「悩ましいな。逆に、闇に紛れて襲われたらひとたまりもない」

 むう、確かに。そうなると選択が難しい。黒装束から察するに、夜は彼らのカテゴリーな気がする。ソフィーはしばし考え込んで、そして唸るように言った。

「追っ手の気配は今のところないし、夜が明けるまでここで籠城と言うのが一番適切だと思うがどうだろうか」

「お仕事どうしよう」

「こういう事態だ、説明して納得してもらうしかないだろう」

「それもそうか。それじゃ、腹ごしらえだね」

 非常食のクッキーの缶を取り出して蓋を開けようとした時、自分の手が震えているのに気が付いた。手だけじゃない。膝も小刻みに震えている。
 命の危険というものを味わったことは前にもあったけど、明確な害意を持った人間と向き合うのは初めてだった。
 怖かった。あまりに突飛なことが襲ってきたせいで一時保留になっていた感情が急に膨れ上がって来るのを感じる。それは先送りにした恐怖と言う感情が利息を付けて襲い掛かってくるような感じだ。2人がいなかったら、恐らく私は泣き出していたと思う。
 ぐるぐると頭の中をいろんなものが駆け巡り、震えが徐々に大きくなった。
 お父さんやお母さんの事、お店のおじさんたちのこと、メイド仲間をはじめとした職場の皆の事が次々に脳裏に浮かんで消えた。
 もちろん、ルイズお嬢様やカトレアお嬢様、エレオノールお嬢様の事も脳裏をよぎった。
 その時感じたものが何なのかに気付いたのは、ずっと後になってからだ。
 多くの人がそうであるように、私も死ぬことは怖い。
 でも、何故怖いのかを考えると、その答えは人によって様々だと思う。
 そんな人たちの顔が思い浮かんだ時、ふと私なりの答えが見つかったような気がした。
 死ぬということは、自分が消えてしまうと同時に、会いたい人に会えなくなってしまう事なのだと。
 そんな思考の影響で手の震えがさらに加速しそうになった時、肩にソフィーの掌を感じた。

「大丈夫だ、ナミ」

 諭すような口調で、ソフィーが言った。

「私も怖い」 

 肩を抑える彼女の手が、私と同じように震えていた。


 

 皆でクッキーを分け合い、ぼそぼそと食べる。固定化がかけてあったから味は変わってないのに、どうにも味気ない気がする。お茶があればもう少し気分はましなのかも知れないけど、さすがにそこまでの用意はない。
 お葬式みたいな沈んだ空気だけが辺りに満ちていた。緊張が緩むと、私と同じように2人にもその反動が出るのだろう。

「ごめんなさい」

 俯いていたシンシアが、ぽつりと呟いた。
 予想していた反応に、私は視線を上げた。
 急かしはしなかったものの、私もソフィーも、彼女の言葉を待っていたのだと思う。

「あいつらの狙いは、多分私なの」

 それについては、何となく察しがついてはいた。あの時逃げろと叫んだ彼女には、黒装束の正体に心当たりがあるのだと。

「家の関係か?」

 ソフィーの言葉にシンシアが頷いた。

「2人を巻き込んでしまうなんて、本当にごめんなさい」

 確かに、命を狙うならもっとシンプルなやり方が幾らでもあるだろう。往来で徒党を組んで襲い掛かるのはあまりにも下策だということは私にも判る。
 
 陶器のように顔色を白くしたシンシアの口が、ぽつりぽつりと言葉を紡ぎ始めた。
 彼女の身の上話。
 今まで聞こうと思っても聞けなかった、彼女自身の出自の事だった。

「私の父は、ガリアとの国境にある領地の領主なの。母は、その父の愛人だった。もともとは行儀見習いで働いていたところを見初められたのが馴れ初めでね。母は家格の低い家の出だったの」

 言葉に詰まった。当主が使用人にお手を付けられるのは珍しい話ではない。それこそどこにでもある話だけど、身近な人から聞くとやはり話の重みが違う。一瞬強張った私の表情を読み取ったのか、シンシアは言葉を続ける。

「でも、立場は違っていても父と母はちゃんと愛し合っていたわ。ナミにはあまり馴染のない考え方に聞こえるかもしれないけど、貴族の結婚は政略結婚がほとんどだから、男女問わず浮気や不倫は半ば公認なのよ。愛人の方を深く愛してる人も珍しくないの」

 確かに、進んで馴染みたい考え方ではないと思う。居心地の悪い言葉にソフィーに視線を向けると、彼女も苦い顔で頷いた。

「貴族の婚姻は、多くの場合は財産を下敷きにした縁故によるものだからな。気持ちが通じ合う者同士が添い遂げようとなれば、愛人になることも仕方がないのが慣習だ」

 シンシアの言葉が続く。

「父も頑張って一族を説得して回ったけど、最後まで母との婚姻は許してもらえなかったみたい。父には兄弟もいなかったし、結局きちんと家格に合った方と結婚したの。父と正妻さんの間には世継ぎとしてちゃんと男子が生まれたわ。それが私の弟。そんな事情で、領地にある家をあてがわれて、私たちは暮らしていたの。父とはたまにしか会えなかったけど、父は私に弟と同じかそれ以上の愛情を注いでくれたわ。本宅に呼ばれたこともあるのよ。正妻さんとはあまり言葉を交わしたことはないけど、弟とは仲が良かったの。カミーユって言って、凄く顔立ちが綺麗な子なのよ、あの子。体も女の子みたいに華奢な子でね。数えるくらいしか会えなかったし立場的にはあっちの方が上なのに、私の事をとても慕ってくれたわ。小鳥みたいに細くて高い声で『姉上~』って言ってね」

 その部分だけ妙に熱がこもるシンシアの声色付の説明に、何となく彼女の厄介な性癖の根っこがちらりと見えた気がした。

「そんな暮らしをしていたのだけど、母が亡くなって、父の縁故でヴァリエールの公爵家に奉公に出ることになったの。母方の祖父母は亡くなっていて他に頼れる親族もいなかったから、庶子の身の振り方としては良いお話だった思うわ」

 私が言うのもなんだけど、公爵家ほどの家に御奉公に出ていたとあれば、確かに将来的には大きなメリットになる。お嫁さんにもらってくれる人も増えるに違いない。
 そんな私の予想とは違う現実が、シンシアの口から零れ落ちた。

「でも、父が私を公爵家に入れたのは、私の身の安全のためだったの」

「どういうことだ?」

 ソフィーの問いに、シンシアは一度宙を仰いで続ける。

「父の一族は、ずいぶん昔から身内同士でどろどろした争いを繰り返してきたの。当代の父もそんな過去のしがらみから逃れられなくて、数年前に隣の領地との中間にある湖の船着き場の利権を巡った衝突が発端で、相手方との関係が決定的に悪くなったの。事は小競り合いにまで発展してしまって犠牲者も出てしまったから、お互いに引けなくなってしまったのよ。その隣の領主というのは、父の叔父に当たる人。そんな近い関係なのに、何で仲良くできないのか」

 利権をめぐる一族の内紛や家同士の争いはそう珍しい話じゃない。爵位そのものは土地に付いてくるものだし、継承についても叙爵状の段階で手続きが詳細に定められているけど、財産の継承はそう簡単はいかない。それを巡って醜い争いが生まれることはよくあることだ。こういう争いについては最終的に王家や教会が仲裁に入ることもよくあることだけど、そこに至るまでにしばしば血で血を洗う紛争になることは吟遊詩人の歌にもよく出てくる。対立する両家の男女が惹かれあうなんてのは、悲恋物の定番なくらいだ。
 でも、シンシアの口から零れた話は、そんな甘い話ではなかった。

「家がそんなだったから、私たち母子はよく命を狙われたわ。私たちの存在は公然の秘密で誰でも知っていたから、父に精神的なダメージを与えるなら私たちに害をなすのが手っ取り早いって誰でも思うんでしょうね。表だって魔法を使われたことはなかったけど、そんなものよりもっと陰湿なやり方でね。クローゼットの中に毒蛇が放り込んであったこともあったし、家に火をかけられたこともあったわ。飲み物に入っていた毒を飲んじゃって死にかけたこともね。その時、一緒に飲んでしまった母は、解毒が間に合わなくて亡くなったの。父も護衛を付けてくれたりして必死に守ろうとしてくれていたけど、こういうことって完全に防ぐことはできないものみたい」

 言葉が出なかった。
 大げさに言っているのなら、まだ救いがある。でも、今の状況を考えれば、彼女の語ったそれらのことは、その静かな口調からまぎれもない事実なのだと判った。
 
「母を失って、父も限界を悟ったんだと思う。母が亡くなってすぐに、私を力のある貴族の家に避難させたの。それが父の友人だったヴァリエール公爵様のところだった。メイドとして働きたい、っていうのは私のわがまま。母からは、自立できるようになれって言い含められてきたから」

「すると、あの黒服どもはその大叔父とやらの手の者か」

「恐らくね。家からの知らせだと、紛争は王家と有力な貴族が仲介に入ってくれて手打ちになることになったみたい。結果は当家の言い分が全面的に通ったみたいで、相手は煮え湯を飲まされたんだと思う。多分、その腹いせに私を血祭りにあげて溜飲を下げようってことであいつらを差し向けてきたんじゃないかな。ナミもソフィーも命を狙われる心当たりなんかないでしょ?」

「確かにないな。だが、やり方としては恐ろしく頭が悪いぞ。露見したら仲介に入った王家や貴族たちの面子に係る。ただでは済まんだろう」

「詳しいことは判らないけど、何か裏の事情があるのかも知れない。領地の土地柄を考えると、他国からの働きかけとかもあるのかも知れないし」

 シンシアとソフィーのやり取りを聞きながら、私は唇を噛んだ。
 貴族様は、平民から見れば羨望の的だ。平民から貴族になるには神様になるのと同じくらい難しいというのが通説だけど、その天上の人々にも相応の苦労があるのだと今さらながら思い知った気分だった。
 いつかメイド長に『貴族は言われているほどいいものではない』と言われたけど、私の中にあるその言葉が、この上なく現実味を帯び始めた。
 少なくとも、私はこれまで命を狙われることはなかったし、私の存在が誰かの弱点になってその人が苦しむようなこともなかったと思う。シンシアが歩いてきた人生は、そんな茨だらけのひどい道だった。
 
『私の家みたいな家庭に生まれたかった』

 そのシンシアの言葉が、胸に刺さった。


 語るべきことを語り終えたのか、シンシアの表情はやけにさばさばとしたものだった。その表情から見たものは、つかえていたものが取れたような落ち着きと、抗えぬ運命を受け入れてしまったかのような諦観に似た何かだ。
 呼吸を整えたシンシアが、口を開くなりおかしなことを言い始めた。

「とにかく、これは私の家の問題。だから、あいつらは私が責任をもって何とかするから、2人はこのままここにいて。最悪でも私を殺せば、貴女たち2人を探し出してまで手にかけたりしないと思う」

 平静を装っているように見えても、その仮面の裏にあるものは私たちには悲しいほど判ってしまった。必死に演じるシンシアを前に、私とソフィーは視線を合わせた。
 目と目で通じ合う必要はないくらい、私たちの意見は一致していたと思う。

「何を寝ぼけたことを言っておるか、馬鹿者」

 ため息をつきながらそう言うや、ソフィーはシンシアの頭をぺしっと引っぱたいた。
 呆気にとられた顔をするシンシアにかける言葉は幾つも思い浮かぶけど、今は言わないでおこう。今のソフィーの打擲以上に意味を持つ言葉を、私は用意できないと思う。
 ここまで来たら一蓮托生。私たちは彼女を見捨てて明日の御飯を美味しくいただけるような間柄じゃない。
 そんな私たちの気持ちが通じてくれたのか、シンシアは静かに泣き始めた。



 聞きなれない音を聞いたのは、シンシアがようやく落ち着きを取り戻しかけた頃だった。
 ちゃかちゃかと石畳を打つリズミカルな音。
 音の方向を見た時、そこに一匹の中型犬が水路から現れるのが見えた。

「ありゃ、迷い犬かな?」

 私のつぶやきが聞こえたのか、犬がこちらに視線を向けた。仄かな明かりしかない暗闇の中で、犬の瞳が緑色に光った。
 迷い込んだのならお腹が空いているだろう、残ったクッキーでもあげようかと思った私の隣でシンシアが素早くルーンを唱えた。
 杖を振るうや、一瞬で見えない刃が正確に犬の首を刎ねた。首を失い、鮮血をまき散らして呆気なく絶命した犬の体が、朽木のようにぱたりと倒れた。

「何するのよ!」

 シンシアを非難する私を無視して、ソフィーは死んだ犬の首に近寄った。

「見ろ」

 冷え冷えとした彼女の声にランプを持って近寄ってみると、血まみれの犬の額にルーン文字が浮いているのが見えた。

「……使い魔のルーン?」

 それを理解した時、全身から血の気が引いた。

「恐らくは索敵だろう。位置がばれたな」

 これは予想しなかった。
 あの黒服の中に、魔法使いがいるということか。この犬があの黒装束たちの使い魔であるのなら、匂いを辿って私たちを追跡することもできるだろう。魔法使いの戦いと言うものを理解していなかった私の落ち度だ。
 逃げなければ、と思った時はもう遅かった。
 2人の手を引いて水路に向おうとした時、荒々しい足音が急速に近寄ってくるのが聞こえた。逃げる間もなく、水路から出て来た黒装束の男たち。
 とっさに違う水路に逃げ込もうとした私たちの前に火の玉が飛来して壁に当たり、闇に慣れた私たちの目を焼いた。
 現れた黒装束は、相手は全部で10人くらい。
 いかにも荒事について場馴れした感じを漂わせている連中だった。
 先頭の一人が、これ見よがしに杖を構えていた。
 
 まずい、逃げ場がない。
 ソフィーに目を向けると、ある種の決意が瞳の中に浮かんでいた。彼女が言った『対決』しなければならない時が来たということなのだろう。
 杖を抜いて、私は自分の使える魔法を思い浮かべた。
 攻撃魔法は壊滅、使える魔法はシールドやミストのような牽制魔法くらいがせいぜいで、ソフィーやシンシアみたいな派手な魔法を打ち出すことなんかできない。
 正直、怖い。

「おやめなさい」
 
 凛とした声で、シンシアが告げた。

「貴方たちの狙いは私でしょう。後ろの2人は無関係です。手出しすることは許しません」

 シンシアのそんな言葉にも、黒装束たちは全く動じることはなかった。まるで仕事を淡々とこなすように、前列に並んだ連中が弩を私たちに向って構えた。
 その様子を見るうちに、頭の中の混乱した部分が冷え冷えとした感覚とともに整理されていくのを感じた。
 事ここに至っては、もはや言葉は用をなさない。
 やるべきことは判っている。私はシールド担当で、攻撃担当はソフィーとシンシア。
 嫌だとか怖いとかという感情がこういう場では何の役にも立たないことは理解できているし、勝てるかどうかなんてことは考えていなかった。
 窮地にあってもやるべきことを一切の無駄なく、速やかに実行する。
 生き残れるかどうかは、また別の勘定だ。
 端くれとは言え、栄光あるヴァリエール家の一員としての矜持が私の中にもあるのだと、この時理解した。
 

 異変が起こったのは、私がそんな覚悟を決めたその時だった。
 その場で最初に動いたものは矢ではあったけど、それは弩から放たれたものではなかった。
 飛来したのは、風切り音を立てて飛ぶ氷の矢。串のように細い氷の刺突だ。
 それも一本や二本ではない。まるで滝のように何本もの氷の矢が銀光を引きながら地下の空間を走り、前列で弩を構えている黒装束の手と足の甲に突き刺さった。杖を構えたメイジは両手足が針山になるくらい刺さっている。唐突な一撃に、黒装束たちの野太い悲鳴が木霊した。
 一瞬ソフィーの魔法かと思ったけど、当のソフィーのルーンはまだ完成していないし、何より彼女がこんな大掛かりな魔法を使えるなんて聞いていない。ただ突き刺さるだけではなく、そこから徐々に体を侵食するように氷が伸びていく様子を見ると、多分、水・水・風のトライアングルクラスの魔法だろう。

「よりによって私の愛娘を狙っちまうとは、運の無い連中だねえ」

 声の出所を振り向くと、水路の一本から現れたのは一人の女性メイジ。

「お母さん!?」

 現れたのは、マントも着ていない、いつも通りの格好のお母さんだった。でも、服装こそ商家のおかみさんそのものだけど、漂わせている気配はドラゴンみたいな物騒なものだった。
 そんなお母さんの背後から、店のおじさんたちが影のように何人も現れて一斉にいかめしい形の銃を構えて残った黒装束たちに狙いを付けた。素人の私が見ても洗練された動きだ。かつて名うての傭兵団だったという彼らの昔日の姿が、その挙動の中に垣間見えた。

「さあ、どうする。娘の前では、できりゃ殺しはしたくないんだ。大人しく得物を捨てたら半殺しにまけておいてやるよ」

 刃物みたいな視線を突き付けたまま、高らかに宣言するお母さん。
 それが、かつて『氷瀑』と言われたメイジの貫録なのだと後になって思い至った。
 正直、身内ながらおっかない。有無を言わせぬ迫力を持ったその言葉は、完全にこの場の支配者という感じだ。身内じゃなかったら睨まれただけで気絶しちゃいそうだ。
 その迫力に気圧されたのか、残党の数名が観念して剣を捨てた。
 でも数名は往生際が悪かったようで、幾人かがその場で身を翻らせた。背中を向けて逃げ出すのを狙い撃とうとしたおじさんたちを止めたのはお母さん
 逃がしちゃうつもりなのかな、と思うやいなや、逃げ込んだ水路の闇の中から黒装束たちが小石のように吹っ飛ばされて戻ってきた。多分エアハンマーの魔法だと思うけど、凄まじい威力だった。中央の貯水池の上を水きりのように何回かバウンドして、その向こうの壁にぶつかって止まった黒装束たち。息はしているようだけど、みんな手足がおかしな方向に曲がっていた。

「うわ、ひどいねえ」

 その惨状に、お母さんが顔をしかめた。

「あんた、昔はもうちょっとエレガントだったよ。歳には勝てないかい『地獄耳』?」

「これでも手加減をしたつもりです」

 お母さんの言葉に応えるように、その水路の闇から音もなく人影が現れる。戦装束を身に纏った女性。
 現れたのは我らの家政婦、ヴァネッサ女史だった。

「当家の使用人に手を出したのです。本来なら一寸刻みに処すべき大罪。それをこの程度で済ませているのですから感謝して欲しいものです」

 そう述べる女史の後ろから黒装束の連中とは違った意匠の黒服を着た面々が現れて、降参した黒装束たちを捕縛していく。見たことはないけれど、多分ヴァリエール家のスタッフなのだと思う。日頃私たちが知らない部分が、公爵家にもあるのだろうと何となく思った。
 でも、そんなヴァネッサ女史たちを睨みつけるお母さんの視線は鋭い。

「その割には、その大事な使用人を窮地に立たせてしまう管理体制ってのはいただけないね。しかも、そのうちの一人が私の娘ってのは許し難いよ」

「では、どうしますか。あの時の続きを、と言うのなら……私は構いませんよ」

 ヴァネッサ女史の言葉と同時に、お母さんの周囲のおじさんたちが一斉に銃を構え直した。銃口が狙っているのはヴァネッサ女史だ。
 私の隣で、ソフィーとシンシアが息を飲んだ。
 そんな中で、冷静だったのは私だけだったかもしれない。お母さんの人となりを知っているが故の安心感が私の中にはあった。
 そんな私の予想の通り、数秒の対峙の後に眼から力を抜いたお母さんは、興味なさそうに杖を下した。

「聞いてただろう。娘の前で殺しはしないって」

「あの『氷瀑』が丸くなったものですね。老いたのはどちらなのやら」

「はん、今度うちの娘を危険に晒したら、その時はその喧嘩買ってやるよ」

「いいでしょう。ともあれ、本件については当家の不徳の致すところ。謝罪しましょう。あの者が、よもやここまでの愚策を持ち出してくるとは予想できなかったものですから」

 お母さんの言葉に女史は鼻を鳴らして杖を下し、視線を私たちに移した。

「落ち着いたら邸宅に戻りなさい」

 女史の後姿が闇の中に消えると、ようやくお母さんは一つ息をついて肩の力を抜いた。

「まったく悪い子だね。地下水路で遊んじゃダメだって言っただろう」

 冗談めかして言いながらお母さんが寄ってきて、私の頭を抱きしめて呟く。

「間に合ってよかったよ、この馬鹿」

「ごめんなさい」

 くしゃくしゃを頭を撫でつけられて、私は小さくつぶやいた。
 
 

 水路から梯子を使って街に出ると、夜の街にいくつもの松明が動いていた。
 顔見知りのおじさんたちが寄ってきて、口々に私の無事を喜んでくれる。
 王都の町内会が呼集をかけた自警団の人たちだ。町内会は職種に捉われない横に強い組織で、王都に異変があるとこうして自警活動を開始する。薬屋のピエモンのおじさんが会長で、お父さんもその理事だ。

「お嬢っ! よくご無事で!」

 声の出所を振り向くと、番頭さんが滂沱たる涙を流してお店のおじさんたちと一緒に走ってくるのが見えた。近寄るや私の手を取って鼻声で安堵の言葉をまくし立てた。

 そんな周囲を囲んだ人垣が割れ、現れたのはお父さん。
 静かに私に寄ってくると、ギュッと私を抱きしめてきた。
 言葉はなかった。
 ただ静かに、お父さんが泣いていた。
 これが、私が初めて見るお父さんの泣き顔だった。
 それだけに、こぼれる涙の一滴一滴が、湖一杯の水よりも重く感じられた。
 
「心配かけてごめんなさい」

 言葉に詰まり、そう言うのが精いっぱいだった私の頭に、お父さんのものではない手が下りてきて髪をくしゃくしゃと撫でる。
 見上げると、お母さんが優しい笑みを浮かべていた。


 生まれ故郷トリスタニアにおける私の冒険は、こんな感じに幕を下ろした。




 私が別邸に戻ったのは、それから間もなくの事だった。
 間もなくと言っても、既に夜はとっぷりと更けていた。
 シンシアとソフィーと一緒に、まずはヴァネッサ女史のところにお詫びに伺う。
 降りかかった火の粉とは言え、いろいろ不覚を取ったことは事実ではある。そんな私たちに、予想通りにヴァネッサ女史の言葉は厳しかった。
 公爵家に仕える者があの程度の者を返り討ちにできなくてどうするとか、今度から戦闘訓練を義務付けるようにしなくちゃいけませんね、とか。
 正直言っていることは無茶苦茶だと思うけど、女史の言葉だとそれが納得できてしまうから不思議だ。

 これは後日に聞いた話だ。
 女史と私のお母さんは、昔からの知り合いだったらしい。
 知り合いと言うよりは、因縁の相手と言うべきだろうか。
 ゲルマニアとの小競り合いの際、公領軍の重鎮として前線に出張っていた女史と、ゲルマニア側に雇われた傭兵団のトップだったお母さん。
 その頃の紛争はゲルマニア側が仕掛けて公領軍が押し返すのがいつものパターンだったのだそうで、その時に殿を務めていたのはいつもお母さんの団だったらしい。何でも退却戦においてはお母さんは名手中の名手だったらしく、先鋒を担当する女史は追撃のたびにあと一歩の所で戦果を取りこぼしていたのだとか。
 そんな因縁の最後の一戦で、ついに捕捉されたお母さんの団は女史の部隊と交戦に及び、お母さんは女史から顔に刃を受け、代わりに女史の使い魔だったグリフォンをお母さんが討ったのだそうだ。
 その後お母さんはお父さんと出会って傭兵稼業から足を洗い、女史も引退して家政婦業に落ち着いているというのが現在の状況。
 当然私の経歴を女史は知っていたはずなんだけど、そのことを聞いてみたら女史はこう言った。

『すべては戦場でのこと。こちらも言い分はありますが、それは貴女のお母上も同じでしょう。そこでの恨み辛みを平時に持ち込むこと、ましてその娘である貴女を色眼鏡でみるというのは無粋と言うものです。正々堂々と渡り合った結果の事ですから、不格好なことをしては塚の片隅で眠るあの子に合わせる顔がありません』

 戦人と言うのは、そういうものなのかも知れない。

 
「とにかく、彼方たちも公爵家からブローチをお預かりしている身なのだということを肝に銘じ、今後はさらに精進なさい」

 お話が切れたところで、ヴァネッサ女史はため息をついた。

「今夜は遅いですし、小言は明日にしましょう」

 むう、これだけ言ってまだ足りないのだろうか。
 無論、そんな感情は顔に出さない。せっかく助かった命は大切にするべきだと思うからだ。

「それと、明日はルイズお嬢様のところにもきちんと御挨拶に伺いなさい」

 何故か飛び出した名前に、私たちは顔を見合わせた。

「貴方たちに何かあったと言い始めたのはルイズお嬢様です。ナミ、貴女が言いつけどおりの時間までに戻らないことはおかしいと」

 ルイズお嬢様が、というところに私は絶句した。
 まだ幼いのに、末恐ろしい洞察力だ。

「当家のメイドで、時間を守らぬ者はいません。その時には既に手は打ってありましたが、それでもずいぶん強く急かされました。それにしても、私の手の者を動かす前に王都の自警団から連絡が来たことには驚きました。噂には聞いていましたが、大した組織力です」

 知らないところでそれだけのものが一斉に動いていたことに正直驚く。
 公爵家においても王都の自治会においても、末端に過ぎない私たちのために多くの人が乗り出してくれていたとは。
 人と言うのは、気づいていないだけで、こうして誰かに守られているのだということをこの時初めて理解できた気がした。

 お話が終わりかと思った時、ノックの音がして別邸詰めの先輩が入ってきた。
 当家のメイドに相応しい流れるような動作で女史の元に行き、こそりと一言耳打ちした。
 その言葉を受けて女史は視線をシンシアに固定し、やや声のトーンを落とした。

「シンシア、すぐにエレナのところに行って着替なさい。閣下がお呼びです」

 私たち全員の顔に困惑が浮かぶ。公爵様直々のお召しとは穏やかではない。でも、女史が仰ったその理由は予想をはるかに超えたものだった。

「お父上とご舎弟がお見えです」

 その言葉に、シンシアの表情に様々な感情が入り乱れるのが見えた。



「御尊父がお見えとなると、騒動がお耳に届いたか」

 女史の部屋を出て使用人詰所に向かう途中、ソフィーの言葉にシンシアの表情は優れない。
 無理はないだろう。シンシアが殺されかけた事情を聞いたのだとしたら、シンシアのお父上の心情は察するに余りある。うちのお父さんなんか泣いちゃったんだし。
 
「多分、それだけじゃないわ」

 シンシアの言葉に、私もソフィーも首を傾げた。

「違うのか?」

 シンシアが頷いた。

「手紙が来ててね。近いうちに、顔を見に行きたいって。家の事情が片付きつつあるから、私の事もいろいろ考えてくれていたみたい」

 シンシアのお父上、ということは公爵様のご友人。話の流れを考えると、今回の騒動は関係なく、お父上はシンシアに会いに来たのではないだろうか。その事を思うと、今回の私たちの王都行きも、最初からこの親子の再会を目的としたものだったのかも知れないとの思えたりもする。

「領地に戻れと?」

「それとなく、そういうことが書いてあったわ」

 2人の端的なやり取りの意味を、私が真の意味で理解するまでに数秒かかった。 
 それを理解した時、私は掌に嫌な汗をかいた。
 つまり今2人は、彼女が公爵家を離れるかどうかの話をしているらしい。
 そんな話の展開に、私は思考が追い付かなかった。

「どうする気だ?」

「父の意向次第だけど、私としては長期的な視点で考えて決めて欲しい。今回の事が落ち着いたからと言っても、いつまた同じような騒ぎが起こるか判らないもの。父や弟の近くで暮らせたら幸せだと思うけど、彼らの弱みになるのは嫌なの。でも、外に逃げてもこんなことがあったとなったら、父も強い対応を考えているかも知れない」

 心のどこかにつかえていたものが取れた今夜のシンシアは、いつになく素直に自身の胸の内を話してくれている。
 そんなシンシアに、ソフィーは困ったような顔で言った。

「すまんが、そのレベルになってしまうと、もはや私は何も言えん。お前が自分にとっての最適解として納得するのなら、私はそれを尊重する。もちろん、私にできることがあるのなら協力は惜しまん。ナミ、お前はどうだ?」

 話を振られて、私は無理矢理首の筋肉を動かして頷いた。
 そして、ちょっとだけ強がってシンシアの背中を押すための言葉を絞り出した。

「私もソフィーと同じ意見。友達が幸せになれるというのなら、そっちのほうが私も嬉しい……」
 
 必死に編み上げた綺麗ごとを、私は口にする。
 でも、そこまで言葉を紡いだ時、押さえつけていた本心は付け焼刃の重石を跳ね除けて暴れ出してしまった。

「でも、できれば私はシンシアと一緒に働きたい。一所懸命お仕事して、夜になったらお酒飲んでおしゃべりして、たまに馬鹿なことやってメイド長に怒られたりしてさ。これからも、そんな風にやっていきたいよ」

 止める間もなく、ぽろぽろと本音が口から零れ落ちた。
 シンシアは、ソフィーとともに私にとって最も近しい他人だ。
 同僚であり、仲間であり、仕事上では良い意味でのライバルであり、ルームメイトであり。
 そんな関係を、一言で言い表すなら、きっと『親友』という言葉が相応しいと思う。言葉にすると安っぽくなってしまうけど、私にとっての彼女はそんな存在だ。
 そういう心が通じ合った人が去って行ってしまうかも知れないという現実は、今の私にはどうしようもなく重かった。
 そんな私の言葉に、シンシアが優しく笑った。
 
「私も、今の生活が気に入っているわ。だから、父には素直に胸の内を話すつもり。愛してはいるけど、領地にいたら、きっといつかまた、私は父の重荷になるから」

 そんなシンシアの言葉の途中のことだった。 

「姉上」

 聞き慣れない男性の声が背後から聞こえてきた。
 一斉に振り返ると、そこにシックな御召し物を身に付けた貴公子がいた。
 私もソフィーも一瞬息を飲んだ。
 身長は私よりちょっと上くらい。歳の頃は同じくらいだろうか。線が細く男前な外見はそれはそれで高評価だけど、驚くべきは発している気配だった。その気品は、かなりの力を持った貴族様のそれだ。
 
「カミーユ! 」

 そんな貴族様に、輝く笑顔を浮かべてシンシアが駆け寄った。
 正直、びっくりした。
 これがシンシア自慢の弟君か。
 眩いばかりの美少年。
 なるほど、シンシアのネジが何本か緩んでしまうはずだ。
 混乱する私を他所に、駆け寄るシンシアの手を取って、カミーユ氏は辛そうな表情で言葉を紡ぐ。

「迎えに来ましたよ、姉上。我らが至らぬばかりに怖い思いをさせてしまいまして、本当に申し訳ありません。でももう心配いりません。これからは僕が絶対に姉上をお守りしますから」

 その言葉に、思わず息を飲みそうになった。おかしな音を出さずに済んだのは、これまでのメイドとしての訓練の賜物だ。
 そしてソフィーと目配せして、一礼してシンシアを残して足早にその場を後にした。
 貴人の話し合いの場に許しなく居続けることは、メイドの嗜みとしては許されぬ振る舞いだからだ。




 
「やっぱりか」

 少し離れたところで、ソフィーがそう言ってため息をついた。

「お迎え、だってね」

 今度は私のため息まじりの呟きを、ソフィーが拾う。

「あちらはその気だということだろう」

「お家の揉め事は収まりつつあるって言ってたよね?」

「どうかな。仲裁を受けながらあんなことがあったのだ、より大きな揉め事になるのかも知れん。公爵家にしてみても、お預かりしていた令嬢を危機に曝したのだから面子に関わる。事後の後始末はいろいろあると思うぞ。とは言え、シンシアの事に限って言えば微妙かな。情勢は彼女の生家が有利に進んでいるとのことだし、そうなると確かに公爵家に厄介になっている必要性も希薄になってくるだろう。何かあった時には、やはり手が届くところに置いておきたい親心も判らないでもない」

「……私には、貴族様の事情は難しくてよく判らないよ」

「それが普通だ。こういうことは、好んで味わうべきものはないよ」

 ソフィーの分析は冷静なものだった。それだけに、私の気持ちは暗い方に加速していく。


 ふと気づけば、そこは公爵家の方々の居室のエリアだった。その一室、ルイズお嬢様のお部屋のドアが少し開いているのが見えた。
 ドアの隙間からそっと覗くと、天蓋の下でルイズお嬢様がお休みになっているのが見えた。
 風が入らぬよう、ドアを閉めようとした時、

「ナミ?」

 囁くような問いかけが、ベッドから聞こえてきた。
 音は立てなかったが、起こしてしまったのだろうか。

「お騒がせしてしまいまして申し訳ありません。そのままお休みください」

 小声で言い繕っていると、ルイズお嬢様は勢いよく起き上がり、裸足のままドアのところにいる私の所に駆け寄ってきた。

「無事だったのね」

 ほっとされたかのような、柔らかい笑みを浮かべたルイズお嬢様。この笑顔がまた見られたことが、今は何より嬉しい。

「はい。ルイズお嬢様が異変に気づいてくださったと聞きましたが、そのお陰で難を逃れられました」

 そう告げると、ルイズお嬢様は目を丸くして驚かれた。

「やっぱり悪漢に襲われてたのね」

「ええ、駆け付けてくださったヴァネッサ女史がやっつけてくれました」

「魔法で?」

「はい。一撃で5人を吹き飛ばすご活躍で」

「すごい、ちょっと詳しく聞かせなさい!」

 一気にボルテージを上げたルイズお嬢様は食いついてきた。

「今日はもう遅いので、明日ご報告させていただきます」

「ちょっとくらい大丈夫よ」

 そう言って食い下がるルイズお嬢様。そんなお嬢様の様子に、脳裏にヴァネッサ女史の言葉が蘇ってきた。

『こういう時はきちんとお断りすることも覚えなさい』

 むう、ダメなものはダメと言わなければいけないのはこういう時だろう。変に夜更かしをされて奥方様に怒られてしまうのもまずい。
 私はお腹に力を入れて静かに告げた。

「……ダメですよ、ルイズお嬢様はもうお休みのお時間です。明日、必ずお話いたしますのでご勘弁を」

 珍しくダメを出す私にルイズお嬢様の目がちょっとだけ吊り上りそうになってけど、すぐにそれはいつも通りのポジションに落ち着いた。

「そうよね、あんたも大変だったんだし。判ったわ、明日絶対聞かせるのよ」

「かしこまりました」

 そう言うと、来たときと同じように走ってベッドに戻られるルイズお嬢様。
 安堵してドアを閉めようとした時、

「ナミ」

 不意に呼び止められて視線を向けると、お布団を被りながらルイズお嬢様が仰った。

「無事に帰ってきてくれてよかったわ」

 沈んだ心に、ルイズお嬢様のお言葉の暖かさがやけに沁みた。


 
 騒動の余韻は、私の元を深く静かに訪れてきた。
 翌朝、定刻通りに起き出してた私は、隣のベッドにシンシアの姿がないことに気づいた。泥のように眠っていたので何があっても目が覚めなかった自信はあるけど、きちんとメイクされているベッドには使った様子もない。
 着替えを済ませて使用人が使う食堂に行くと、既に集まっていたスタッフたちの中にも彼女の姿はなかった。
 きちんと身なりを整えたソフィーが先に朝食を頂いているのが見えたので、挨拶を交わして自分の分を持って彼女の隣に着席する。

「おはよう。寝られた?」

「おはよう。意外なことにぐっすりとな」

 パンが二つと野菜が多く入ったスープ。朝食としては充分だし、味もなかなか。でも、そんな朝ごはんを堪能する心境ではなかった。

「シンシア見なかった?」

 私の問いに、ソフィーが顔を顰めた。

「私もさっき聞いた話だが、今朝早くにお父上や弟君と一緒に出て行ったらしい。きちんとした服装で馬車に乗って行ったとこっち勤めの人から教えてもらった」

 朝一番に聞くにはあまりに重い情報に、パンをちぎる手が止まってしまった。
 一介のメイドが身なりを整えて貴族様の馬車に乗りこむというのは、良くも悪くも使用人の間では話題に上る。シンシアの生い立ちを知らない人なら興味をそそられるというのも判る。

「多分、行き先は御実家の街屋敷だろう。そうなると、しばらくは里帰りになるのかも知れん」

「やっぱり……」

 予想の範囲内の事ではあったけど、私は言葉が出てこなかった。
 このまま彼女が帰ってこない可能性があるという思考が、自分の中でじわじわと大きくなるのを私は感じていた。
 しかし、忸怩たる思いの私と違い、ソフィーの態度はさばさばしたものだった。
 
「まあ、どういう形であれ、そういうことになったら手紙の一つも来るだろう。命を取られに戻るわけでもあるまい。彼女の決断の報告を待とう」

「……本当に帰っちゃうのなら、最後に挨拶くらいしたかったよ」

 シンシアは貴族様だ。ソフィーと違い、平民の私とは住んでいる世界が違う。彼女がその立場に戻った時は、私はもう今までのような距離感で接することはできなくなってしまうだろう。

「手紙、くれるかな」

「そんな浅い付き合いをしてきたつもりはないだろう?」

「それはそうだけど」

「考えても仕方があるまい。こういうこととなると、もはやすべては天上にお住いの方々の取り分だ。待つより他に、我らがやれることはない」

 ソフィーらしい物言いだと思う。貴族のルールを弁えた子なだけに、言っていることはこの上なく正論だ。
 確かに彼女の言うとおり、私にできることは確かに何もなかった。



 翌日、すなわち私たちが王都を離れる日。
 結局、シンシアは別邸に戻って来なかった。女史が何も言わないところを見ると、本当にご領地に戻っているだろう。その里帰り期間の長さを知る術は、私にはない。
 来た時よりも、少しだけ広くなった馬車に揺られた2日間。
 周囲と会話をしながらも、頭の中はどうしても体の一部を失ったような喪失感を感じていた。
 友達と離れるという稀有な経験が、私の中にさざ波を立て続けていた。

 2日後、予定通りに何事もなく公爵領に到着した。
 久しぶりのヴァリエールのお城の跳ね橋を渡って母屋に入り、メイド長に報告をした後で自室で荷物を置いてようやく一息ついた。
 今日は休養日をもらっているので旅の後片付け以外は特にやることはない。
 見慣れたはずの自分お部屋だけど、そこがやけに寒々しく感じられた。
 いつも2人だった部屋に、1人きり。
 色褪せた空間と言うのは、もしかしたらこういうのを言うのかも知れない。

 そんな部屋の中で、私はふと、『将来』という言葉を思い出した。
 私は公爵家の使用人たちが好きだ。
 一緒に働いている皆と過ごす時間が、とても大切なものだというのは私の偽りのない本心だ。
 だけど、それはいつまでも変わらずそこにあるものではない。
 使用人にも生活があり、それぞれの人生がある以上は入れ替わりがあることは必然だ。一番身近なソフィーやシンシアですら、ずっと一緒に働けるわけではない。
 ぽろり、ぽろりと親しい人がここを去り、私との間に距離ができる日が必ず来る。 
 それがどんなに親しい人であっても、いつか必ず、その時は訪れる。
 月日は巡る。
 おじいちゃんがよく言っていた『ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず』という言葉のとおり、川の流れのように時というものは私たちの事情などお構いなしにどんどんと流れて行ってしまう。
 本当に、まるで川の流れのようだ。
 それに気づかないふりをしていても、私だけに目こぼししてくれるわけではない。
 鏡台においてある、いつかシンシアと2人で買ったお揃いの櫛を見ながら、私はそう思った。

 その夜、ベッドの中でちょっとだけ泣いた。




 
 私の事情など一顧だにせず時は流れ、お城に戻ってあっという間に2週間が過ぎた。
 シンシアのことは今なお傷のように私の中にあり、瘡蓋になるどころか膿みだしそうな気配すら漂ってはいるものの、私の状態がどうであれ日々のお仕事が変わるわけではない。お給金をもらっているからには、気分が沈んでいるからと言ってサボるわけにはいかないのは使用人の悲しさ。
 そんな日の午後、ソフィーと組んでお茶を配りに行った時だった。

 母屋を出た時、お城の跳ね橋を渡って荷役の馬車の荷台に見えた女の子の姿に、私とソフィーはお茶配りに向かう足を止めた。
 馬車が近づいて来るにつれ、ソフィーの顔が笑顔に変わっていく。きっと、私の顔も同じようなものだったことだろう。
 止まった馬車から降りたのは、荷物を抱えた女の子だ。
 綺麗な金髪。
 そばかすが浮いた愛嬌のある表情。
 もう一度会いたかった女の子が、そこに立っていた。

 運命なんてものが本当にあるのかどうかは知らない。
 縁というものだって、実際に形として目にしたことがある人はいないはずだ。
 でもこの時、私は確かにそういうものを差配する存在の後姿を見たような気がした。
 私に、もう少しだけ幸せな時間を過ごすことを許してくれた、大いなる何か。
 言葉にすれば一言で足りるその存在の御意思に、私は心から素直に感謝の念を捧げた。
 晩秋のヴァリエール地方の、ちょっとだけ冬の気配を感じさせる穏やかな日差しの下で、その女の子がただシンプルにこう言った。

「ただいま」

 その言葉に、私たちが返す言葉もまたシンプルだ。
 ただ一言、私たちは笑ってこう答えた。

「お帰り、シンシア」



[30156] 最終話
Name: FTR◆9882bbac ID:51e11af1
Date: 2014/07/03 12:38
 冬になると、ヴァリエール地方の気温はぐっと低くなる。
 朝起きるとお城や中庭に霜が降りており、遅い朝日に照らされてきらきらと輝いていて見ている分にはとてもきれいだ。でも、働く身としては冬服でも朝一番の冷気は骨身に堪える。それでいて動けば暑くなるからその辺の折り合いが難しい。
 私たちの仕事では朝晩の水仕事が結構厳しくて、あかぎれになる人が増えてくる。
 接客に出るメイドは手が大事なのでそういう作業を免除されているけど、私たち一般のメイドはそうはいかない。井戸水は多少暖かいものの、それを差し引いても刺すような冷たさがもたらすダメージは皆共通の悩みの種だ。
 もちろん辛いのは私たちだけではなく、調理場のジャンヌなんかは水を扱う頻度が高いだけになおさら辛く、職種に相応しいひどい手荒れに悩むことになる。
 そのため、この季節になると自然と私の株が上がることになる。
 ブローチ組で水魔法を使える人は結構少なく、治癒の魔法で手荒れを治せる人は限られてくるからだ。その辺はお互い持ちつ持たれつの使用人同士のやり取り、気前よく応じてあげるのが常だけど、義理堅い人は手土産を持ってきてくれたりするから私の体重は最近少々増加傾向だ。

 そんなウィンの月。 
 年の瀬になって来ると、ヴァリエールのお城もにわかに雰囲気がそわそわしたものに変わってくる。
 ハルケギニアで最も大きなお祝い事、それが降臨祭。
 始祖が降臨された日とされるヤラの月の1日から10日間に渡るもので、ブリミル教においては非常に重要なものとされている。
 例年、貴族様は降臨祭期間の初日から2日目くらいまではそれぞれの領地でお過ごしになり、年が明けて3日くらいに宮殿に御挨拶に行くのが慣例になっている。
 有力な貴族様は多くの場合降臨祭の開幕前夜に自領で日をまたぐ祝宴を催され、当公爵家でも当然公爵様主催で行われることになっている。また、これはただお祝いするだけではなく、他の家の御当主がちゃんとそこに御挨拶に来るかどうかでその家との距離を測るという生臭い側面を持っているとも聞いている。
 言ってしまえば公爵家の威光を示すイベントなのだから、準備するこちらもすべてにおいて気が抜けない。
 1年で最大のイベントだけあって物凄くお金がかかるし、お見えになる予定の貴族様の方々も凄い顔ぶれだ。
 私たち使用人は、総動員でその成功をお支えしなければならない。
 降臨祭の祝宴はお庭もその視野に入るのでミスタ・ドラクロワにしてみれば日頃の成果の発表会みたいなものだし、食べ物や飲み物を担当する執事のジェロームさんや料理長のマイヨールさんは言わずもがな、私たちメイド部隊もルームメイクやお掃除で公爵様に恥をかかせぬよう持てる技術を全力で発揮する。
 そう、これは杖によらない戦いなのだ。
 もちろん、日頃から手を抜いたりなんかしていないけど、慣れと言う甘えが出ていないか、今一度確認するという意味で作業が終わったエリアの確認にも熱が入る。

 シーツを敷き終わり、細かいところを今一度雑巾で確認拭きする。
 そこから5歩下がって全体を見直し、私は自分の仕事に納得した。廊下に出ると、ちょうどよくそこを歩いていたメイド長に報告する。

「3番の客間、終了です。確認お願いします」

「ご苦労様」

 管理用のボードを片手に室内に入り、周囲を見回すメイド長。緊張の一瞬だ。
 隅々まで見た後で、ポケットからコインを出してベッドの上に落とした。
 ピンと張られたシーツがコインをはじき返し、ようやくメイド長が口を開いた。

「いいでしょう。次に向かってください」

 よし、一発合格だ。

「了解です」

 ボードにチョークを走らせているメイド長を他所に用具を抱え、次の部屋を目指して廊下を進む。そんな私の隣にちょうどよく歩いてきたソフィーとシンシアが並んだ。

「進捗どう?」

 2人に聞くと、同時に頷いた。

「問題ない。私はあと2部屋だ」

「右に同じ」

 う、さすがに早いな。私はあと3部屋あるぞ。スピードを競うのがメイドの仕事じゃないけど、手際の良さというのはやはり求められるスキルだ。何しろヴァリエールのお屋敷は大きいのでお部屋の数ももの凄いだけに、のんびりやっている余裕はない。私もまだまだ修行が足りないらしい。

 私と並んで歩くソフィーだけど、先週、そんな彼女に関する慶事について報告があった。

 夜の居室で、久々に実家から届いたシャンパンを開けようとした時にその知らせはもたらされた。
 やや視線を泳がせながら、微かに赤みがさす顔でその驚くべき事実を告げたのはソフィーだった。聞かされた私とシンシアは目を丸くするしかない。あまりに唐突で話についていけなかったからだ。
 仕事が終わり、時間が出来た時に私たちの部屋に来たソフィーが告げたそれは、自身の婚約が決まったという報告だった。

「急な話ではあるのだが、私としては予想外というわけではないんだ」

「ほほー」

「詳しく聞かせてくれるんでしょう?」

 椅子に座るソフィーに、ぐっと身を乗り出して私とシンシアは問い詰める。抜け駆けした幸せ者をつるし上げる独身裁判みたいな雰囲気なように思えるのは気のせいにしておこう。

「実は、その許嫁というのは私の従兄でな」

 ソフィーの実家のカマルグ家は大きな家ではない。水の名門の分家のそのまた分家で、長女が行儀見習いに出る辺りからして判ることだけど財力もそんなすごい家ではないらしい。
 そんな彼女の家は、昔から仲が良い同じ分家と一緒にいろいろ事業をやったりしていたとのこと。本家の事業にも参画したりすることもあるみたいだけど、基本的に地元を大事にする土豪みたいな家なのだそうだ。
 ソフィーはそんな家の長女で、その仲が良い分家には数人の男兄弟がいるのだそうだ。家同士の交流があるから、当然だけどソフィーと従兄さんたちとは接点があって、しかもどの従兄さんからも非常に大事にしてもらっていたらしい。
 そんな中で、次男さんとソフィーは非常に仲が良く、周囲にも概ねそれを歓迎していたとのこと。
 そんな二人の事情を汲んだのか、次男さんの魔法学院への進学を機に両家の間で話がとんとん拍子で進んでいき、両者そっちのけで許嫁の縁組を決めたのだそうだ。

「何の知らせもなかったの?」

「ああ、全くな。気を回してくれたつもりなのかも知れないが、面映ゆくてかなわん」

 私の問いにソフィーは肩をすくめた。

「それで、ソフィーとしてはどうなの?」

「どうとは?」
 
「今の正直な感想よ」

 シンシアの言葉に、ソフィーの頬に更に朱が差す。この時点で彼女の気持ちは既に判っているけど、こういうことは直接口にしてもらった方がこちらとしても面白い。幸せ税の税率は高いのだ。

「私としては、ありがたいと思う」

 顔を赤らめながらもきっぱり言うところが彼女らしい。

「縁組については意見が言える立場ではないが、彼ならば私に異存はない」

「好きなんだ?」

「憎からず想ってきた殿方だ。私としては最良の伴侶だと思う。芯が強くて根が優しく、気の合う人物でな。むしろ私の方が彼に見合うかどうか」

「それは心配ないでしょう」

 私は頷いて断言した。
 愛嬌はちょっと少なめだけど、歳に似合わないほどしっかりした子だ。良妻賢母と言う視点では、友人の欲目を差し引いてもソフィー以上の優良物件はそうそうないと思う。

「そんなわけで、年季が開けたら実家に戻ることになるだろうが、あと2年ほどこちらにお世話になる」

 女性の人生の中でも、伴侶をどうするかについては最大の事件と言えると思う。それが上首尾に行くか行かないかで、人生の出来不出来が左右されるといっても過言ではないだろう。
 貴族様ともなると絡み合った様々なしがらみがあって、愛情なんてものはあまり重要な位置づけには置かれていないとも聞く。それはそれとして開き直れればいいのだろうけれど、やはり私も女の端くれ、できることなら相思相愛と言うものを応援したい。
 貴族であるがゆえに手に入れることが非常に難しい種類の幸せを友人が手にしたことは、私にとっても非常に喜ばしいことだ。


「では、健闘を祈る。ホールで会おう」

 おどけた仕草で、そんなソフィーが持ち場に向かっていく。

「ナミも頑張ってね」

 シンシアは反対側に向かって歩いて行った。
 さて、私も負けちゃいられない。






 降臨祭開幕の前日。
 おじいちゃんがよく『大みそか』と言っていた、1年の最後の日。
 その日は、お城は朝から一種独特な雰囲気に包まれる。
 他家では出仕している人の中にはこの時期に故郷に帰る人もいるそうだけど、ヴァリエール家は1年で最も忙しい日なだけにそういうお休みを取る人はいない。その分しっかりお手当が出るので、むしろ皆はそっちを喜んでいる気配もある。まあ、もらっても新年の飲み代に消えちゃう人も多いみたいだけど。


 降臨祭前夜の祝宴は、午後からのんびりと始まる。
 午前中の早い時間にはお城のメインホールは準備万端。こういう催しや舞踏会等で使われるお城最大の広さの空間は、塵ひとつないという表現が大げさじゃないほど手入れが行き届いている。調度の並びや食器の輝きも完璧。後はお料理と飲み物を並べるだけだ。

 お昼くらいになるとお客様の乗った豪華な馬車が何台も跳ね橋を渡り、正面の車回しにやってくる。ジャンたちフットマン部隊がてきぱきと対応しているのが窓から見えた。
 貴族様の間ではこういう宴に龍籠で乗り付けるのは時間に追われているようで品がないとされているとのことで、やってくるのはみんな馬車だ。確かに、先日の宮殿の園遊会でも公爵様は馬車でお出かけになって行ったっけ。
 馬車ももちろん豪華だけど、引っ張っている馬もみんなかっこいい。たてがみなんか丁寧に処理されているのが私でも判る。馬丁の腕の見せどころだ。

 そんな催しにおける私の仕事は、今回は配膳。前回はドアの開け閉めが担当だっただけに、正直すごく緊張している。
 クロークとか連絡要員のようにメイドたちもいろいろ仕事はあるけど、配膳はその中でもなかなか難しい仕事の一つだ。お料理をこぼさず、それでいて貴族の方々のお邪魔にならないようにテーブルにセットしなければならない。食べ終わったり飲み終わったりした食器を下げるのも仕事の内だ。
 でもこれはまだ楽な方で、お酒をトレーに載せて巡回するお仕事になるといよいよ上級の先輩方の出番。
 うっかりこぼし、そこに他家の貴族の方でもいたら下手したら打ち首ものなので、かかるプレッシャーも凄いだろう。いずれは私もああいうのをやる日が来るかもしれないと思うとちょっと気分が重くなってくる。

 昼下がりからぼちぼちと始まった宴席は、夕方になるに従って徐々に人数が増えてくる。
 午後5時の鐘の音を合図に、それまでのんびりとした当たり障りのない曲ばかりを演奏していた楽師の方々が、ここからが本番という感じに演奏を相応のものに切り替えた。
 宴席の本格的なスタートはここからだ。場の雰囲気も一気に華やかになってくる。
 こういう場では貴族様たちは昼と夜ではお召し物が変わるので、着替えの度にいったんお部屋にお戻りになって着替えられるので人の流れもひっきりなし。
 そんな感じに人の動きが激しくなる夕方にかけて、お料理もオードブルのようなものから本格的なものにシフトしていく。マイヨールさんたちが腕を振るっただけにすごい御馳走なのは言うまでもない。
 配膳担当はそんなお料理のプレートを抱えて、貴族様たちの間を影のように移動しなければならない。この辺の挙動もメイドの嗜みの一つだ。
 とは言え、流れで仕事をしているだけに、そこに置きたいのにそのテーブルの前で貴族様たちが歓談されていると非常に困ることになる。
 折悪く予定のテーブルの傍らで恰幅のいい貴族様がお二人で歓談中で、綺麗に盛られたフルーツの乗ったプレートを抱えたまま、私は目的地前で足踏みすることになった。
 どうしよう。お話盛り上がってるし、そこそこお酒も入っているようなので口も滑らかみたいだ。
 もちろん割って入ることは許されない。
 一旦厨房に戻ろうかしら、と、そんな感じに立ち往生しかけていた時だった。

「御無沙汰しております」

 若いけど、どこか渋い不思議な感じの声がして、歓談中の貴族様が振り向かれた。

「おお、ジャン=ジャック。久しいな」

 そこにいたのは、私も知っている16歳くらいの端正なお兄さんだった。
 ジャン=ジャック・フランシス・ド・ワルド氏。
 ルイズお嬢様の婚約者とされている人で、ちょっと影がある感じが印象的だ。
 公爵様にも目をかけられているので、結構頻繁にお城に来られるお兄さん。
 その精悍なワルド卿を見る貴族様の表情が、曇ったものに変わった。

「聞いたぞ。父君のこと、残念に思う」

「いえ。これも武人の定めなれば、やむなきことでしょう。父も本懐であったと思います」

「そうか。何かあれば遠慮なく言ってくるがいい。力を貸そうぞ」

「ありがとうございます」

「今後はどうする。領地に留まるのか?」

「いえ、魔法衛士隊の門を叩こうかと考えております」

 そんな感じにやり取りをしているワルド卿。そのおかげで自然と貴族様の立ち位置が変わって、私は何とかプレートを置くことができた。
 ワルド卿は私の方には視線を向けたりしないけど、もしかしたら助けてくれたのかもしれない。


 夜になると、さすがに御婦人方の気合の入り方が違ってくる。妍を競うという言葉があるけど、誰もがまるで蝶のように着飾っていて、その場にいるとまるでおとぎの国にいるような気分だ。
 黒いメイド服は何故黒いのかと言えば、それは『使用人は影のようにあるべし』ということらしい。私がああいう格好をしてあの場にいてもいいと言われても、私はきっと今の服の方が落ち着きを感じると思う。性格とか生まれとかあるけど、ああやって女性生来の資質を競うということに、どうしても私は馴染めない気がする。花瓶に丁寧に飾られた花より、何気なく道端に咲く花のほうが私は好きだ。きっとそれが、私のあり方なんじゃないかと思う。
 何より、社交界と言うのは私たち平民にしてみれば雲の上の世界だ。
 貴族の方々が集い、お酒やお料理を楽しみながらいろいろなお話をされる一見賑やかで平和な空間だけど、そこでは本当にいろいろなことが起こる。
 飛び交う噂。
 交差する値踏みの視線。
 恋が生まれたり、思わぬ事実が明らかになったり、稀にはそこで生じた諍いが戦争に発展したりもするんだとか。
 貴族の男の人はそんな政治的なゲームを楽しみ、女の人は蝶のように着飾って美を競う。
 何とも大人の世界だ。私が入り込んだら気づまりで倒れてしまいそうな気がする。



 お料理の減り具合が落ち着き、飲み物の消費量も一段落した頃の事。
 空いた器を下膳しよう思っていた時、ちょいちょいと弱い力で背中を突かれて振り向いた。

「ちょっといい?」

 そこにいたのはカトレアお嬢様だった。
 おお!と叫びそうになったのを必死に堪えつつ、返事も忘れて見惚れてしまった。
 美しい。
 ドレスアップされたカトレアお嬢様は、反則だ。
 私たちの年頃は、子供というには大人びていて、大人というにはまだ子供という微妙なあたり。
 そんな年頃のカトレアお嬢様の青く瑞々しい美しさをこれでもかと引き出すお召し物、そしてそれを見事に着こなすカトレアお嬢様の前では、着飾った他の貴婦人が霞んで見える。
 肩に纏ったストールが、まるで妖精の薄物のようだ。
 素材がいいからできることだけど、ドレスを選んだ先輩は本当にカトレアお嬢様のことを理解していると思う。見事の一言だ。
 
 何があったのか、そんなカトレアお嬢様に少し離れたところに連れて行かれると、人の耳がないことを確認してからお嬢様は声を落として仰った。

「ルイズを見なかった?」

「いえ」

 その質問には、首を振らざるを得ない。
 この1時間は目が回るような忙しさで、こっちもいっぱいいっぱいだっただけにルイズお嬢様がどうであったかまでは覚えていない。

「そう……」

 そう言って俯くカトレアお嬢様の表情は冴えない。朗らかな彼女にしては珍しいことだ。

「あの」

 差し出がましいとは思ったけど、ここは訊いた方がいいと思った。

「何かあったのでしょうか?」

 意を決して尋ねてみると、カトレアお嬢様は言葉を探すように口を開いた。

「さっきあっちの方でね、ちょっと嫌な雰囲気になっちゃったの」

「と、申されますと?」

「ちょっとお酒が過ぎたお客様が、口を滑らせてしまったみたいなのよ。お付の方々がお部屋にお連れしたからもう大丈夫なんだけど、その場にあの子もいたのよ」

「あの、もしかして……」

 はっきりとは口に出しづらい言葉をどう言おうか悩んでいると、カトレアお嬢様は私の意を酌んでくれたように頷かれた。

「ルイズの魔法のことよ」

 



 夜も更けて、宴も後半。
 大ホールの大きな柱時計が、そろそろ新年を告げる時刻を指し示そうかという時間のこと。
 仕事の波が落ち着き始めたのを見計らい、私はメイド長に許可を得てルイズお嬢様を探すために会場を離れた。
 行き先は中庭だ。
 慣れた夜道を歩きながら、自分の中の黒い感情を必死に押さえつける。

『ルイズのこと、お願いできないかしら』

 こういうことを頼まれることは稀なことではないし、私としても望むところだ。
 でも、そういう積み重ねがあるだけに、私の中には既にルイズお嬢様に対する感情移入と言ってもいいほど浅からぬ思い入れがある。
 ルイズお嬢様は、魔法がお上手ではない。
 それは年齢を重ねるごとに噂となって社交界に広まっている。
 そして、そういうことをこういう場で陰に陽に口にする人がいることも、悲しいけど事実だ。しかもその頻度が、最近高くなってきているような気がする。
 その度に、私はこの黒い感情を押さえつけるのに苦労することになる。
『貴族は魔法をもってして精神をなす』と貴族様方は仰る。魔法は貴族様にとってそれくらい重要なものだということは判る。そういう意味では魔法が不得手なルイズお嬢様を軽んずる人が出てくることも想像できなくもない。
 だが、陰口を叩いたり放言したりする人は、ルイズお嬢様の何を知っているというのだろうか。
 ルイズお嬢様の天真爛漫な人柄も、日頃の血のにじむような頑張りも、何も判っていないのだろう。それなのに。
 その事が我が事のように、いや、それ以上に悔しくて仕方がなかった。
 
 
 程なく到着した、中庭の池。
 岸辺に着いた時、いつもは岸辺に停まっているはずの小舟が、沖合に漕ぎ出されていた。
 青白い月明かりの下で見えるのは、船の上の2つの人影。
 一人は先程見たワルド卿。
 そしてもうお一人、艫の方におられるのはルイズお嬢様だ。
 私が出張るまでもなく、彼がルイズお嬢様の心情をフォローしてくれたのだろうか。

 風もなく、冬の水面は鏡のように凪いでいた。
 そのボートの上の会話が、凛とした冬の冷気に乗って聞こえてきた。

「大丈夫ですよ、ワルド様」

 カトレアお嬢様から伺ったお話からは連想しづらいくらい朗らかな、いつも通りに元気なルイズお嬢様の声だった。

「本当に大丈夫なのかな。ああいうことをあけすけに言われて」

 ワルド卿の言葉に、ルイズお嬢様は首を振られた。

「気にしていません。言いたい方には、言わせておけばいいんです」

 あっけらかんと言い切るルイズお嬢様。
 そんな歳に似合わぬ大人びたルイズお嬢様の言葉に、ワルド卿が呆気にとられていた。

「ルイズ……君は、強いんだね」

 でも、そう褒めたワルド卿に、ルイズお嬢様は今一度首を振られる。

「違いますよ、ワルド様。強いんじゃありません。強くなる、途中なんです」

 そう言いながら、小舟の上でルイズお嬢様は夜空を見上げられた。月光に、ルイズお嬢様の白いドレスと艶やかな髪が青く映えた。

「ねえワルド様、こういうお話を御存知ですか?」

 そう前置きして、ルイズお嬢様は静かに語り出した。
 まるで英雄譚を語る語り部のように、厳かに。

「ある春に、アヒルが生んだ多くの雛の中に、一羽だけすごくみにくい雛がいたそうです。その雛はみにくいので、すごく周りにいじめられてしまいました。たまらなくなって群れを逃げ出しますが、みにくいので行く先々でもやっぱりいじめられてしまうんです」

 語られたのは、みにくいアヒルの雛の寓話。
 私が幾度となくルイズお嬢様に求められて、お話したものだった。
 それをルイズお嬢様が静かに、でも力強く吟じられている。

「そうして秋が過ぎて、冬になって、一人ぼっちで葦の繁みで寒さをしのぎながら春を待ちました。そして春が来た時、みにくい雛は、美しい白鳥になったんですって」

 自分の気持ちをなだめるように、一言一言を大切なもののように、静かにルイズお嬢様は語られた。歌うように、誇らしげに。
 語り終えたルイズお嬢様は、視線をワルド卿に据えて仰った。
 
「誰だって、最初から強い人はいないと思います。つらいことだって、私だけじゃなくて誰にでもあることだと思います。今は私はまだ子供だし、決して強くはありません。でも、そんな弱い子供だから、強くなるために頑張るんです。嫌なことがあっても、我慢するんです。今はまだアヒルの雛にすぎませんけど、いつか白鳥になりたいと思うんです」

 その刹那、私はそこに見えざる何かを見た気がした。
 もしかしたら、それは神意と言うものだったのかも知れない。
 見えたと思ったものは、その時に心のどこかで感じたものは、恐らくそういう類のものだ。

「もしかしたら、父さまや母さまみたいな立派なメイジにはなれないかも知れません。ちい姉さまを治してあげられるようになるのにも、もっともっと勉強しなくちゃいけないと思います。でも、諦めちゃダメなんです。それを目指して頑張るんです。誰に何を言われようと、それが私、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールの目標なんだと、胸を張っていようと思うんです。だから今の私は、強くなる途中なんです」

 静かな、でも高らかな宣言。
 ルイズお嬢様が月に捧げた誓詞のようなその言葉を聞いた時、コトリと、私の中で何かが嵌った音がした。
 その時は、判らなかった。
 気づいたのは、ずっと後になってからのこと。
 それは、まだ幼く、しかし気高い公爵家のお姫様が、私の中で最も大切なものの一つに昇華された音だった。

 この小さな姫君と共にあること。
 この気高い貴婦人を終の主としてお仕えしていくこと。
 そして、それが私の人生の容なのだということ。
 それらの思いが、玲瓏な意思となって自分の中にあることが判る。
 
 ブリミル歴6233年。

 冬の淡い月明かりの下で、彼方で鳴る鐘の音が新たな1年の始まりを告げたその時、私は静かに思った。
 
 私は、私の人生を見つけられたのだと。 













 時は砂時計のように穏やかに、粛々と流れていく。
 春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来て、そしてまた春が来て。
 移ろう季節の中で、私の周囲もまた、少しずつ変わっていった。

 年季が明けたソフィーは、照れくさそうに笑いながら故郷に帰って行った。程なく結婚式が行われた旨の手紙が届き、翌年に男の子を生んだ知らせが届いた。その翌年にはまた男子。更にその翌年にまた男子が生まれたとのことで、円満な夫婦仲を羨むよりもどこまで続くのかが心配になってきたりもした。旦那さんが男系の一族なことを素直に継承したのか男子ばかりを生む彼女を一族は褒めちぎっているようだけど、当人は女の子も欲しいらしい。

 ミリアム女史は結婚後もしばらく仕事を続けた後で穏やかに引退、今は若奥さんとして家に入っている。困ったときはたまに相談に行ったりもする。既に男の子が1人おり、2人目も間もなくとのことだけど、どうやら怪しげな執筆活動も順調に継続中らしい。公爵家の後援で祝言を上げた旦那さんとの仲は言うまでもなく非常に良好。彼は彼で御城下にアトリエを兼ねた住まいを構えて、順調に絵描きさんとしての社会的な評価を上げているそうだ。

 お父さんとお母さんは至って変わらず。弟は無事に生まれて母子ともに健康だ。
 命名、ルカ。ルカが生まれてからと言うもの、お母さんがルカにかかりきりでお父さんはちょっとご機嫌ななめ。帰省した時に抱っこした弟は、身内の贔屓目を差し引いてもなかなかの男前だ。お父さんに似たんだと思う。片言で言われた「おねーたん」の破壊力にはさすがにクラッと来た。お店のおじさんたちも、みんな元気でお仕事を頑張っている。
 お店のことについては、帰省して一度話し合った。
『大丈夫だよ。お前が生きたいように生きなさい。お店の事は心配いらない。今はルカもいてくれるしね』
 お父さんはそう言って笑ってくれた。
 お母さんは黙して語らず。ただ優しく微笑むだけだった。
 本当にごめんなさい。

 厨房組ではジャンヌが割とあっさり嫁に行ってしまったのだけど、どういう小技を使ったのか、かっさらっていったのはジャンだった。期待の若手の成長株を持って行かれてしばらくミスタ・マイヨールが非常に荒れていたので事後処理はちゃんとしてもらいたかったと思う。

 ミスタ・ドラクロワは80歳になった時に暇乞いをして隠居した。ご家族に囲まれて暮らしており、御城下の家の片隅に小さな薔薇園を育てて楽しんでいる。たまに遊びに行くと、相変わらずいろんなおやつをご馳走してくれる。

 ジャンはジャンヌを連れて故郷のタルブに帰って実家の家業を継ぎ、葡萄酒を造っている。流通にあたっては私の実家と取引を始めたと報告があった。たまに今年の新作と言って送ってきてくれるので、夜にシンシアと開けるのが密かな楽しみになっている。

 ヴァネッサ女史は相変わらず。と言うより見た目も性格も妖怪のように変化がない。これほどまでに季節の移ろいに影響されない人が他にいるだろうか。『あなたもようやく少しはマシになって来たようですね』とお褒めの言葉をいただくことがあるけど、これは彼女が老いたのか私の腕が本当に上がったのか判断が難しい。

 エレオノールお嬢様は、学院を卒業後アカデミーに進まれた。非常に優秀な方なのでお国のためにも大いにその腕を振るっていただきたいと思うのだが、縁談については残念な記録を更新中。お嬢様の審査のハードルでは、ちょっとやそっとのことではクリアできる殿方は現れないのではないのだろうか。月に一度は手紙を書いているのだけど、もっと頻繁にルイズお嬢様やカトレアお嬢様の様子を書いて寄越すようにと催促されている。この方も幾つになっても変わらないと思う。素敵なお姉さんだ。

 変わらないと言えばカトレアお嬢様も変わらない。お体が弱いことが変わらないのは残念だけど、それにもめげない彼女のバイタリティは落ち着くことを知らないようだ。迷い込んだ動物や鳥を拾って歩いているせいか、お部屋はだんだん動物の王国みたいになって来ている。たまにお呼び出しを受けて無聊の慰みに何か話すようにと申しつけられるけど、さすがに怖い話のネタも尽きてきて困っているので、そろそろ最後の切り札として『赤い洗面鉢』のお話をしようかと思っている。






 そしてまた、巡り来る春。

 その日の朝、私たちは玄関ホールに一斉に整列し、お見送りの隊列を作った。
 晴れてこの春、ルイズお嬢様はトリステイン魔法学院に御入学される。
 初めての外での暮らし。使用人を侍らせることは許されていないので、本当に自立するための就学とも言えるかも知れない。
 そんな私たちの間を、胸を張って堂々と歩かれるルイズお嬢様。
 
「いってらっしゃいませ、ルイズお嬢様」

 メイド長を引き継いだエレナ先輩の言葉を合図に、使用人は一斉に首を垂れる。

「いってらっしゃいませ、ルイズお嬢様」

 幾つもの声が重なり、ルイズお嬢様の門出の場に大きく響いた。
 車回しには、公爵家の家紋が入った豪勢な馬車が既に待機している。
 学院の道程、何事もなく着きますように、と祈っていたら、馬車に乗りこもうとしたルイズお嬢様が急に踵を返された。
 何事かと思ったら、そのままつかつかと玄関ホールに引き返してきて、真っ直ぐに私の前まで歩いて来られた。

「ナミ」
 
 まだ私より小さいながらも、すっかり立派な女性に成長されたルイズお嬢様。
 体つきは華奢ながら、背も手足も綺麗にお伸びになっている。奥方様譲りのストロベリーブロンドも、よく手入れされていて艶やかで美しい。どこから見ても立派な淑女だ。
 でも、この眼差しの強さと優しさは、子供の頃のルイズお嬢様のままだ。
 あの頃と変わらない、いや、あの頃よりも更に輝きを増した宝石のような瞳。

「はい、何でございましょう」

 そう答える私に、自信に満ち溢れた笑顔でルイズお嬢様は仰った。

「見てなさい、白鳥になって帰って来るからね」

 そのお言葉に、頬が思わず緩んだ。

「はい、お帰りをお待ちしております」

 私の答えに満足されたように、不敵な笑みを浮かべるルイズお嬢様。 

「行ってくるわ」

 そう言ってルイズお嬢様は再び馬車に向い、勢いよく乗り込むと、程なく馬車ががらがらと音を立てて走り出した。
 駿馬数頭立ての馬車は快足を飛ばしてあっという間に跳ね橋を渡り、彼方の森の中に見えなくなって行った。


「行ってしまったわね」

 隣に立つシンシアが、小さな声で呟いた。
 この十年で、私の周囲で一番変わったのはこの子だ。
 身長と共に手足がすらりと伸び、そばかすも薄くなった。顔立ちは凛と美しく、唇は朱を指したように赤い。
 もともと素養のあったボディラインは、もはや神の造形の領域に入りつつある見事さだ。
 私を置き去りに、道を往けば皆が振り返るような美女になってしまったシンシア。
 でも縁遠い点では私と一緒だ。シンシアがその気になったらどうにでもできるんだろうけど、まだまだお仕事が楽しいらしい。今は奥方様付きの専属メイドに出世して、磨き抜いたメイドとしての腕を振るっている。

「寂しくなるわね」

 頷いて呟くと、ちょっとだけ悪戯っぽい顔でシンシアが言う。

「心配?」

 そんなシンシアの質問に、私は首を振った。

「まさか。ルイズお嬢様なら、全校生徒を率いて大きなことを始めても不思議じゃないくらいだもの」

「それはあり得そう」

「でしょ?」

 答えながら、私はおじいちゃんが言っていたルイズお嬢様に対する言葉を思い出していた。

 『ヴァリエール公爵様の三女はすごいお方になるぞ。いつか必ずこの国を救うお方になるからな』 

 あの頃は何のことかと首を捻るしかなかったけれど、今のルイズお嬢様を見ていると、本当にそれくらいの事はやってのけそうなエネルギーを感じる。
 でも、どうやっておじいちゃんはそういうことを知ったのだろう。
 いくら考えても、その答えは見つからないままだ。



「みんなご苦労様。通常の配置に戻ってください」

 エレナ先輩の指示に従い、それぞれが持ち場に散っていく。
 移動は早いが、無駄な足音を立てるメイドは一人もいない。スカートの裾を揺らす者もいない。
 ヴァリエール家のメイドの伝統は、今なお健在だ。

「ナミ先輩」

 不意に袖を引かれ、見れば後輩3人が半ズボン姿で掃除用具を抱えていた。入って2年目の子たちだ。この年頃の女の子の半ズボン姿と言うのは、傍から見るととても可愛いと思う。
 胸に輝くのは、マントを象ったブローチ。
 まだちょっと似合っていないそのブローチが、やけに眩しく見えた。
 今の私は、エレナ先輩の脇を固めるメイド長補佐。
 名目上、この子たちは私の可愛い部下だ。
 
「ここのシャンデリアの掃除の順番なんですけど、外周からやった方がいいんでしょうか」

「そうね、基本的にそれでいいけど、ランプを外すのにちょっとしたコツがあるのよ。ちょっと着替えてくるから待ってなさい。お手本見せてあげる」


 今日もまた、そんな穏やかな一日が過ぎていく。



 巡る季節の中で、少しずつ移ろう様々な何か。

 止まることを知らない万象の流れの中の、人と人の間。
 
 そこは、友だちがいて、仲間がいて、ちょっとお転婆さんな姫君たちもいて。
 お互いがお互いを支え合うことを知っている、そんな人達がいる場所。

 そこが私と、私の心の居場所。
 私が、そこで時を刻んでいくと決めた場所だ。

 そこでこれからも静かに、そして穏やかに、誇り高い公爵家の方々と、賑々しくも頼もしい私に係る皆の幸せを祈っていこうと思う。

 
 風と水と緑が溢れるヴァリエール地方の、その中央に聳える白亜のお城。





 そんな公爵家の片隅で。


















 公爵家の片隅で 完



[30156] あとがき
Name: FTR◆9882bbac ID:51e11af1
Date: 2014/06/19 12:49
あとがきであります。


ブランクが開くことがしばしばなテンポが悪い作品、お付き合いいただきまして本当にありがとうございました。
おかげさまをもちまして、ようやくピリオドを打てました。

ど真ん中のストレート。ただしちょっとだけ揺れるボール。
そんな感じに奇をてらわず、真正面からサイドストーリーに挑んだのが本作です。

振り返ってみれば、きっかけはふと見たOVA『ブラック★ロックシューター』が引き金でした。
その主人公 黒衣マトを見た時に脳内に雷が落ちたのです。


こいつをメイドとしてゼロ魔の世界に放り込もう。
時代はルイズが子供のころで。
エレオノールの優しい面も書こう。
雰囲気は私が好きな『エマ』のメルダース家みたいにして。


そんな思いつきの果てに生まれたのが、前作とは真逆のベクトルを持つ凡人主人公のありふれた日常話。
正直に言えば、家政婦は見た、という前提以外深いことはあまり考えてませんでした。
とは言え、ただ日常を書いていくだけでは物語の味付けが淡白過ぎて味わいがありません。それを面白くするだけの腕、私にゃないです。かといって転生ものは既に書いているのでこちらはお腹いっぱい。クロス物は絶対にやらんと誓いを立てているのでこれもダメ。憑依はまだやってことはありませんが他に優れた作品が多々あります。
そんな中で第1話を適当に書いていた時に、筆の滑り具合の中でぽろりと生まれた設定が主人公のじーさま無双でした。

これを思いついた時、話の背骨が決まりました。
他で見ない話ですし、何より主人公補正としては匙加減がよろしい。
あとはとんとん拍子に世界観が勝手に広がっていきました。

こうなりますと、前作と違い流石にオリキャラをある程度出さないと世界観が広がりません。
苦手だったのが名前の付け方。
これについては、「Name Maker」という便利なサイトがあったので活用させてもらいました。

そんな感じに、筆を滑らせながら主人公の動きたいように書いてきたのが本作です。
そんな主人公、幼いながらも考え方が成熟したように書いたつもりです。年齢的にはまだ子供なのですが、貴族ではなく平民となりますとそう甘い世界ではないという視点で考え、シエスタの境遇を参考に15歳で成人というのを一つの物差しとしました。日本で言えば高校生くらいの感覚かもしれません。




各キャラの感想。

・ソフィー
一番書きやすかったキャラ。自分の中でテンプレになっている感じがします。一応モンモランシ家分家となっていますが、どの程度の位置づけなのかは適当です。ヴァリエールに行儀見習いに来るくらいなので割と独立しているように思います。

・シンシア
親友ポジション。小鳥遊ヨミ的なイメージで作ろうかとも思いましたが、私じゃあの雰囲気は出せないので却下。キャラ立てがいまいち上手くいかなかった人物でしたが書きづらいほどではありませんでした。
シンシア編は当初から山場として想定していましたが、書いてみたら難しいのなんの。演出力がない私の弱みをさらけ出すことに。爵位の継承とかに勘違いが多くあったこともあり勉強し直しながら書きましたが、年単位かかるとは思わなかったです。

・ヴァネッサ女史
怖いおばはん。モデルは言うまでもなくミセス・ヴィークです。
家政婦と言うのは大変偉い人らしいので常に視線は上から。結構書きやすかったです。
主人公の母親との確執については早い時期に決めた設定でした。

・ミリアム
特にモデルもなく、適当に生まれたキャラ。名前がいまいちしっくりこなかった人ですが、まあ今となってはこんなもんかな的な。
書いてみれば割と使い勝手のいいキャラでした。。
あのエロ小説の作者と言う裏設定はもちろん適当に思いついたものです。

・エリカ
おかん。私の中では『デレたバラライカ』なのですが、割と普通のママンになってしまった気が。主人公が魔法を使えないとなかなか話が広がらないので、血筋的にメイジになってもらいました。傭兵の設定はそのあたりで固まっていました。書きやすくてよかったです。

・お父さん
声の出演:平田広明、という我ながらよく判らん思いつきから形になったキャラ。タイバニは未見ですが、
この人の声はすごく好きでして。カーター先生とか。

・公爵&烈風さん
チョイ役程度。主人公レベルでは気安く会える方々ではないと思うので接点はできるだけ作りませんでした。

・エレオノール
この人は無茶苦茶優しいツンデレさんだと思います。家族思いないいお姉さんとして書けていれば幸いです。

・カトレア
前作同様、彼女への思い入れは割と強いです。好きなキャラです。十六人谷を聞いて粗相しなかった辺りは執筆者の愛と思ってください。

・ルイズ
彼女が少しずつ主人公の精神的な支柱になっていく様子が書ければと思っていましたが、その辺はいまいち上手くいかなかったような。ルイズは幼いながらも貴族であることに誇りを持ってるいい子だと思っています。

・おじいちゃん&おばあちゃん
どこぞの迷い込み系の主人公だった人、というイメージ。この物語の陰の立役者です。
声が脳内でどうしても青野武さんになってしまう困った傾向がありました。
ギャンブラーなおばあちゃんも書いててやけにしっくりきました。この2人で一本書けそうな気すらします。

・ナミ
主人公。名前は日本っぽくしましたが、和洋どっちにもなじみそうな完成度の高い名前だと自画自賛。
ルイズの味方であるメイドさんですが、彼女の寄る辺になれるほどかと言えば、そこまでご大層な人物ではありません。せいぜいが理解者の一人、ルイズの中ではカトレアよりちょっと下あたりの位置づけではないかと思います。そんな程度なので、恐らくこの作品でもルイズの中で鬱積したものがタルブで炸裂する未来はあることでしょう。
ただ、主人公がぽろぽろと零してきたいろいろなものがルイズに影響を与え、原作とはちょっと違うルイズが形作られていっているというのはあると思います。




そんなこんなでようやくたどり着いたエンドマークです。
本作の作成期間に、原作者であるヤマグチノボル氏の訃報がありました。
快気を祈っておりましたが、残念でなりません。
前作で原作の結末が見えないという描写をしてしまったことが、本当に悔やまれます。
衷心よりご冥福をお祈りする次第です。


さて、これにて完結の本作。
振り返ってみれば伝説の名作『幸福な結末を求めて』にはまり、小説書いたこともないのに同作の三次作品書かせてもらいたいなあ、と思ったのが事の始まり。
適当に書いて投下したのが習作『鏡の国から来た使い魔』でしたが、原作沿いで書いたコイツがどうにもうまくいかず、ついに座礁してしまいました。
それでも結構練習になったので、私としてはありがたい作品でした。使おうと思っていた材料を次作に投入してしまったので、こちらは打ち切りにするしかないのが正直なところ。

そんな暗中模索の執筆の逃避行動として生まれたのが『トリスタニア診療院繁盛記』。こちらは皆様の叱咤激励をいただいて余興作品からメインストリートに上場してしまい、しかもそのおかげで何とか完結までこぎつけられました。キャラが勝手に話を作っていったというのが作者としては不思議な感覚でした。

そんな作品の隙間で書いたのが本作『公爵家の片隅で』になります。
拙作ぞろいではありますが、どれを取りましても『幸福な結末を求めて』という巨星がなければ書けなかった作品たちであります。
作者のめり夫様にはこんなところで恐縮ですが心から感謝を。


今後は適当にオリジナルでも書こうと思いますが、これはこれで難しい。
試しに書いてみたものものもしっくりこなくていけません。
修行を重ねて、いつの日か日の当たるところにお出ししたいと思います。

ではまた、いずれどこかで。


FTR


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