振り下ろした一刀。
それが何の抵抗もなくある物体を通り抜けた後、ふと思い出したかのように震え、音を立てた。
戦闘用に作られた武具が立てるとは思えないほどの華奢な音の正体は、武器の悲鳴だ。
降り抜かれた流麗さとは裏腹に、その速度を忘れるがごとき速さで振るわれた剣がこれまた尋常ではない力で一気に勢いを殺されたことで、自分が通り抜けた固いものの感触を今更ながらに感じたことに、思い出させたことに、悲鳴を上げているのだ。
きっと、振るわれた力に耐え切れないのだろう……魔法技術と希少材料の粋を尽くして名も知れぬ誰かに作り上げられ、その上で数多の経験を注ぎ込まれたことで成長していったこの魔法剣たる『氷山の剣』さえも、この男の武には。
そんな今まで見たことも聞いた事もないありえない現象に、周囲が目を見張る。
だが、そんな周囲などを歯牙にもかけずにその現象を作り出した男が、周りなどまるで存在しないがごとき口調で怒りを吐き捨てた。
「ちっ、なまくらが……」
若い、若い男だった。
少なくとも、ダンジョンの奥地以外に入手方法のない、市価にして数万ゴールドを下らない名刀『氷山の剣』を保有するほどの財力を手に入れているにしては、あまりに若い。
いらだたしげに、振動して音を立てる剣を睨みつけているその横顔は、到底それほどの財を成したというには若すぎ、そして先祖よりなる財によってそれを無理やり手に入れた、というにはあまりにも力に満ち溢れていた。
財によって、金銭により購ってこの剣を得たもの特有の雰囲気はまるでなかった。
ならば、答えは一つ。
この男は、冒険によって己自身の手でレアアイテムを手に入れることが出来るほどの「力」の持ち主だ。
だが、よもや氷山の剣でさえも足りないほどの力量とは!
やがて、その名刀がたてるにはありえない不愉快な音が消えるごろに。
どさり、と何かが落ちる音がした。
男以外が描いていた、剣に行っていた数多くの目線がそちらに移り、同時に声なき悲鳴が叫ばれた。
こちらもまた驚くべきものだった。
それは、首だ。
魔物と呼ばれる存在の、首だった。
もっとも、その言葉だけならばそれはさほど珍しく感じられないだろう。
確かに魔物という存在は一般人、普通の庶民の存在からしてみれば脅威だ―――最弱の魔物であるイカマンでさえも、その命を奪いかねないほどに。
ただ、それはあくまで一般人、才能限界で言うところの10にも満たない九割以上の大多数の凡人の話だ。
現在レベルが10ぐらいにもなればイカマンなぞに苦労することなどありえないし、それに戦闘系の技能レベルが1でもついていればそれこそヤンキーやメイジマンといった人型の魔物の首を落とすことだって、無理ではない。
が、落ちた首。
その種類が問題だった。
「クソが、クソが! 雑魚が俺様の前に立ちふさがるな」
そう述べて、男はその落ちた首に対して全く敬意も畏怖も払わず、躊躇なく足蹴にして蹴飛ばした。
そこには、死者に対する憐憫も、己と戦った相手に対する尊敬の念も欠片もなく、ただひたすらに苛立ちだけがあった。
その何に起因するのかも不明な苛立ちを受けて、重さ数十キロをくだらないと思われる首は、しかしその勢いに負けて血色を散らしながら木々の向こうへと消え入く。
その、飛ぶ首に周囲の視線が一層集まる。
隆起した筋肉に覆われた太くたくましいその首は、禿頭で褐色の肌に覆われていた。
そして、徐々に光を失いつつあったその目には、もとより瞳がなかった。
種族、デカント。
巨人系に位置するその魔物は、村などを襲った場合たった一匹ですべての命を飲み干すほどの強さを持つ化け物。
村人どころか、そこそこの強さを持つ冒険者や兵士でさえも、たった一撃で叩き潰すことが出来るだけの力を持つ存在だった。
それが、そんな強者の首が、何の抵抗の後も許さずにただ単に実りきった稲穂が頭を垂れるがごとき自然さで下がり、落下して転がっている。
勿論、先ほどの響きを立てていた剣によるものなのは状況から見て間違いない。
だが、それを全く感じさせないほどの自然さで、まるで初めからそうであったかのように、この首はそれこそ「ころん」と音をたてんばかりにあっさりと転がり、蹴り飛ばされたのだ。
たった一人。
パーティさえ組んでいない、たった一人の、たったの一撃、たったの一蹴で。
その異常さをようやく悟ったのか、すぐに事情に気付かなかったものも居た周囲のあいだに、もはや声無きではないざわめきが起こった。
が、そのざわめきは歓声でも、感嘆でもない。
呆然だ。動揺だ。そして……恐怖だ。
今まさにその場を囲う大多数の者たち。
それもまた、倒されたデカントと同じ魔物だった。
同じ魔物であるが故に、デカントの強さを知り、人間のひ弱さを知っていた。
それゆえ己の中の定説をこうもたやすく覆した相手に対して向けられた感情は、紛れもなく負によるもの。
この男を囲う十重二十重にもなる包囲を作ったとき、彼らが浮かべていた獲物を見つめる飢えた狂喜は、もはやそこにはなかった。
くだらなげに周囲を見渡す冷めた瞳の男の行動に、すべての行動を縫いとめられていた。
薄い茶色の髪を晒して兜もつけぬまま、鈍色の鎧と緑の衣装に身を包み、青い剣を持つその男の凶悪なまでの面構えを前に、何一つ出来ない。
「どいつもこいつも歯ごたえが無い。だったらさっさと死んで、経験値となれ」
吐き捨てる言葉も、その態度も、どこまでも場違いで、不遜だ。
少なくとも今まで、こんな態度を彼らの前で取れた人間など、存在しまい。
魔人や魔王とでもいった存在でもない限り、許されるわけのない態度だった。
だが、その男にはそんな態度がこの上なく似合うものである。
少なくとも、世界にはそれが許されている、それを信じさせるだけの力量を感じさせた。
たった一人でこの魔物の森に飛び込んできたこの男を見つけ、その身を砕いて潰してちぎって擂り潰すことで今宵の宴の余興の一つにしようとしてもてあそんでやるつもりだった彼らは、その予想外の事態に対してある意味ついていけていなかった。
そもそも、こんなこと本来であれば絶対にありえないのだから。
この状況を他者に聞かせたところで熟練の冒険者のその才能の果てにようやく打ち倒すことが出来るものの首が、先の一刀で落とされたものなどと誰が信じるだろう。
それこそ、大国の将軍や伝説に残る英雄でなければ打倒するにも難しいその存在が、たった一人のそれらのどれでもない者にこうも容易く殺される、などと。
だから、その数十にも及ぶ魔物の群れの中で熟考してすぐに行動できたものなどいなかった。
しかし、数の多さはその愚鈍さを少しばかりならば補いうる。
その中でも、僅かにマシに。多少なりとも。
反射的にその状況を覆そうとして動いたのは、聖骸闘将であるゲーリング。
動けたこの魔物でさえも、それは勝利への目算が立っているがゆえの巧遅の限りを尽くした行動ではなく、他の行動が取れなかったための拙速を重視したものだったが、それでも他よりはマシだった。
聖魔教団の遺産であるその人造生命体は、もはや魔物と同じ行動原理である人類撲滅のコマンドという至上命令が未だに入力されているが故に、他の生物よりも予想外の事態に対するフリーズは少なくてすんだ。
『ティー……』
放とうとした魔法は、ティーゲル。
闇の砲弾を打ち出すその魔法は、下級魔物であるレジェクションやルストが放ったものならばさておき、ゲーリングクラスの放つものを耐えることなど、ほとんど人類には不可能だ。
そしてこの世界において、魔法は絶対にかわせない。
「……ふんっ、雑魚が」
『ゲル!』
が、その死を呼ぶ暴風を前にして、その男……たった一人でこの魔物の渦の中に居座っている男が述べたのは、ただの侮蔑の言葉。
高速で放たれた決して回避を許さぬ魔法の弾丸が迫っているにもかかわらず、そこには死への恐怖などは欠片たりとも見えなかった。
はき捨てるように告げられた言葉と同時に着弾。
常人ならば四散し、熟練の冒険者であっても激痛で身を固めてしまう、そんな一撃。
それが、ゲーリングの魔法力だ。
「効くか、そんなものが!」
が、その闇の残滓が消え去る前に、男は当然とでもいうような態度で突撃を開始した。
耐えられるはずがない、という驕りとも油断ともいえるゲーリングの今までの経験から機械的に導き出された金属の脳による命令は、当然それについていけなかった。
爆発的な加速。
いや、実際に蹴りつけた大地が大きくえぐれている。
それくらいの異常なまでの脚力―――ステータスに裏付けられた男の急加速は、当然ながらそれによって振るわれる一撃に絶大な威力を与えた。
先ほどの滴り落ちる水をイメージさせた流麗な剣捌きとはまるで裏腹な、巌のような豪快な一撃に、ゲーリングはもはや反応さえ出来ない。元々魔法使いの系統であるこの魔物は、その常として当然ながら物理的な攻撃に極めて弱い。
初めの一撃を耐えられた―――それも、ほとんど行動に支障がない程度にまで軽微に―――時点で、ほとんど詰んでいたとはいえ、上位の魔物であるが故に保有する強大な生命力さえもたちどころに消費してしまった絶大なる一撃を喰らって、ゲーリングは吹き飛んだ。
その勢いのまま背後にあった木々をへし折りながら吹き飛んでいき、やがて一際太く立派な大木にぶつかることでその目に宿った光を失うと同時に動きを止めた。
もはや、修復は不可能であろう。
またも異常な光景に、ようやく魔物達の思考に一部の理が入り込む。
違う。
この男は、今まで自分たちが殺してきたような凡百な人間たちとは明らかに違う。
男の次の行動により、それは確信へと変わった。
「けっ、もういい、まとめて消し飛ばしてやる」
男の闘気が一点に集中していく。
それも、ただそこにいるだけで怖気を催すほどの膨大な量の闘気だ。
それが一条の乱れもなく、男の体に収束していく様は、でたらめとしか思えない、しかし確かな現実だった。
ようやく回るようになって来た大小さまざまな頭でしかし一律にそれを感じ取って、彼らはもはや半狂乱になった。
逃げようとするもの、攻撃を加えて何とかその行動を阻止しようとするもの、防御用の体制を取るもの、様々だ。
だが、そのすべての行動にもはや自分たちが狩る側ではなく狩られる側になってしまったのだ、という恐怖と焦りが共通していた。
その魔物達が一気にとった怯えた態度に、男はもう一度つまらなさげに鼻を鳴らして、告げた。
「詰まんねえ……詰まらねえんだよ、お前ら! 暇つぶしにもなりはしねえじゃねえか!」
あまりに不遜。あまりに無礼。
たった一体でも百を超える人間たちを容易に殺すことが出来る魔物の群れに対する言葉としてはあまりに場違いなものであり、普段であればそんな行為をとったものに対して彼らはその命を奪うことで大いに後悔を刻み込んできたはずだ。
だが、この男に対してだけはその不遜なまでの行為でさえもはや必死の魔物たちには笑えない。
彼らはようやく現状を理解し、悟ったのだ。
これは。
この男は……違う。違いすぎる。
逃げろ。いや、それも間違っている。
すでにこの場にいる時点で間違っている。逃げるのではなく、逃げておくべきだった。
出会った瞬間に、踵を返して逃げるべきだったのだ。
さもなくば、訪れるものは、間違いなく。
死
彼らの頭の中は、その言葉で埋まっていた。
「すべて消えうせろ……『ランスアタック』!!」
だが、今更もはやその言葉も、すべてが遅かった。
その男の名を冠した必殺技が炸裂し、白光が埋め尽くす。
木々も、岩も、虫も、魔物も一切合財を飲み込み、喰らい、無に返していくその力を前にして、耐えられるほどの存在は残念なことにその場にはいなかった。
いや、世界全体を見ても、それこそ魔王や魔人といった存在でもない限り不可能なその威力を見れば、それも当然でしかない。
故に結果は、一つしかない。
消え行く意識の中で、魔物たちはようやく自分達の愚かさに気付き、思い出した。
紛れもない強者、現在レベル50を越えた、英雄クラスの存在というものを。
すべてを塗りつぶすその殺意の渦の中で、残っていたのはたった一人だけだった。
そのほかのすべてがその死の暴風に巻き込まれて死体さえ残さずに消え去った。
魔物たちが体内に溜め込んで持っていたゴールデンハニーの欠片や運良く消し去られずにすんだ財宝などが見え隠れはしていたが、もはやそこに生命の息吹はない……その光景を自らの意思で作り出した男以外は。
魔物も、木々も、それどころか大気でさえ、もはや生きた気配を残していない。
たったの一撃で、すべてが消し去られてしまった。
が、剣を振るい、命を押しつぶし、殺戮を楽しんだ男の顔に笑みは無い。
いらだたしさは多少は鳴りを潜めたが、代わりに残った廃退感を表情に浮かべたまま、剣を振るってもはやすべてが弾き飛ばされてついてもいない架空の血潮を振り払うと、男は鞘に収めてその手を見る。
そこには、僅かばかりの傷があった。ゲーリングのティーゲルを喰らって、無傷とは行かなかったのだろう。が、同時に彼ほどのつわものが気にするほどのダメージでないことも確かだった。
ティーゲルを受けた後でさえも全く行動を鈍らせなかった彼が気にするには、もはやあまりに些細な怪我であるといえよう。
はっきり言って、かつての彼であれば気にもしなかった程度のものだ。こんな攻撃、十や二十、それどころか百喰らったところでどうということは無い。
だが、すべての敵意を消し去った彼は、そのまま動こうとしなかった。
わずかばかりに、ほんの言い訳とばかりに傷ついた左腕に目をやって、さびしげに、悲しげに、いらだたしげに見つめるばかり。
似合わない。
この男、鬼畜戦士とまで言われるほどガキ大将がそのまま大人になったような男がとるにしては、その感傷と廃退的な雰囲気は、あまりにも似合わない態度だった。
どんな窮地であっても自身の力と強運を信じ、己の絶対的な正しさを確信し続けてきた彼が取るには、その停滞はあまりにも不自然に思える。
彼を見知っているものであれば不思議がり、そして彼を心底知っているものにとっては痛ましげなその態度は。
いつも些細なものであっても彼の傷を心配し、過剰なまでに回復魔法を掛ける桃色の奴隷の不在によるものであることは、もはやいうまでも無いだろう。
それを彼自身も何処か内心では認めているからこそ、そんな態度の節々に表れるのだ。
どれほどそれが不快で認めたくないものであっても……
照れ隠しとそれを遥かに凌駕する苛立ちと喪失感が、彼の内心を支配する。
だから、彼はつまらない言葉を宙に投げた後に。
「クソが、これもそれも俺様の薬箱の分際でいつまでもサボり続けるからだ……」
小さく一人の少女の名前を呟いて。
無理やり必要も無い世色癌を取り出して飲み込んだ後、歩き始める。
殺戮しても、冒険しても、この苛立ちはやはり消えなかった。
やはり、この感傷を一時的であっても消し去るには……暴力的なまでの性交しかないのだ、と悟って。
数多くの血潮にまみれた希少な財宝たちと傷ついた木々、そして何よりも大勢の魔物の破片を後ろにおいて、彼は自分の城へと戻っていった。
いつか与えられる偽りの希望が訪れるまでの、彼の日常を繰り返す為に。