<このWebサイトはアフィリエイト広告を使用しています。> SS投稿掲示板

その他SS投稿掲示板


[広告]


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

[29583] 【完結】溶けた氷が消え行くまで【ランスクエスト】
Name: 基森◆8cb04620 ID:0593a267
Date: 2012/09/01 06:48
本編クリア後推奨。無印エンディング直前よりの分岐。
しかし、マグナム的要素も若干入っています。



[29583] 餓狼
Name: 基森◆8cb04620 ID:0593a267
Date: 2011/10/01 12:06


振り下ろした一刀。
それが何の抵抗もなくある物体を通り抜けた後、ふと思い出したかのように震え、音を立てた。
戦闘用に作られた武具が立てるとは思えないほどの華奢な音の正体は、武器の悲鳴だ。
降り抜かれた流麗さとは裏腹に、その速度を忘れるがごとき速さで振るわれた剣がこれまた尋常ではない力で一気に勢いを殺されたことで、自分が通り抜けた固いものの感触を今更ながらに感じたことに、思い出させたことに、悲鳴を上げているのだ。

きっと、振るわれた力に耐え切れないのだろう……魔法技術と希少材料の粋を尽くして名も知れぬ誰かに作り上げられ、その上で数多の経験を注ぎ込まれたことで成長していったこの魔法剣たる『氷山の剣』さえも、この男の武には。

そんな今まで見たことも聞いた事もないありえない現象に、周囲が目を見張る。

だが、そんな周囲などを歯牙にもかけずにその現象を作り出した男が、周りなどまるで存在しないがごとき口調で怒りを吐き捨てた。


「ちっ、なまくらが……」


若い、若い男だった。
少なくとも、ダンジョンの奥地以外に入手方法のない、市価にして数万ゴールドを下らない名刀『氷山の剣』を保有するほどの財力を手に入れているにしては、あまりに若い。
いらだたしげに、振動して音を立てる剣を睨みつけているその横顔は、到底それほどの財を成したというには若すぎ、そして先祖よりなる財によってそれを無理やり手に入れた、というにはあまりにも力に満ち溢れていた。

財によって、金銭により購ってこの剣を得たもの特有の雰囲気はまるでなかった。
ならば、答えは一つ。
この男は、冒険によって己自身の手でレアアイテムを手に入れることが出来るほどの「力」の持ち主だ。
だが、よもや氷山の剣でさえも足りないほどの力量とは!

やがて、その名刀がたてるにはありえない不愉快な音が消えるごろに。
どさり、と何かが落ちる音がした。
男以外が描いていた、剣に行っていた数多くの目線がそちらに移り、同時に声なき悲鳴が叫ばれた。


こちらもまた驚くべきものだった。
それは、首だ。
魔物と呼ばれる存在の、首だった。

もっとも、その言葉だけならばそれはさほど珍しく感じられないだろう。

確かに魔物という存在は一般人、普通の庶民の存在からしてみれば脅威だ―――最弱の魔物であるイカマンでさえも、その命を奪いかねないほどに。
ただ、それはあくまで一般人、才能限界で言うところの10にも満たない九割以上の大多数の凡人の話だ。
現在レベルが10ぐらいにもなればイカマンなぞに苦労することなどありえないし、それに戦闘系の技能レベルが1でもついていればそれこそヤンキーやメイジマンといった人型の魔物の首を落とすことだって、無理ではない。

が、落ちた首。
その種類が問題だった。


「クソが、クソが! 雑魚が俺様の前に立ちふさがるな」


そう述べて、男はその落ちた首に対して全く敬意も畏怖も払わず、躊躇なく足蹴にして蹴飛ばした。
そこには、死者に対する憐憫も、己と戦った相手に対する尊敬の念も欠片もなく、ただひたすらに苛立ちだけがあった。
その何に起因するのかも不明な苛立ちを受けて、重さ数十キロをくだらないと思われる首は、しかしその勢いに負けて血色を散らしながら木々の向こうへと消え入く。

その、飛ぶ首に周囲の視線が一層集まる。
隆起した筋肉に覆われた太くたくましいその首は、禿頭で褐色の肌に覆われていた。
そして、徐々に光を失いつつあったその目には、もとより瞳がなかった。

種族、デカント。
巨人系に位置するその魔物は、村などを襲った場合たった一匹ですべての命を飲み干すほどの強さを持つ化け物。
村人どころか、そこそこの強さを持つ冒険者や兵士でさえも、たった一撃で叩き潰すことが出来るだけの力を持つ存在だった。


それが、そんな強者の首が、何の抵抗の後も許さずにただ単に実りきった稲穂が頭を垂れるがごとき自然さで下がり、落下して転がっている。
勿論、先ほどの響きを立てていた剣によるものなのは状況から見て間違いない。
だが、それを全く感じさせないほどの自然さで、まるで初めからそうであったかのように、この首はそれこそ「ころん」と音をたてんばかりにあっさりと転がり、蹴り飛ばされたのだ。

たった一人。
パーティさえ組んでいない、たった一人の、たったの一撃、たったの一蹴で。


その異常さをようやく悟ったのか、すぐに事情に気付かなかったものも居た周囲のあいだに、もはや声無きではないざわめきが起こった。
が、そのざわめきは歓声でも、感嘆でもない。
呆然だ。動揺だ。そして……恐怖だ。

今まさにその場を囲う大多数の者たち。
それもまた、倒されたデカントと同じ魔物だった。
同じ魔物であるが故に、デカントの強さを知り、人間のひ弱さを知っていた。
それゆえ己の中の定説をこうもたやすく覆した相手に対して向けられた感情は、紛れもなく負によるもの。
この男を囲う十重二十重にもなる包囲を作ったとき、彼らが浮かべていた獲物を見つめる飢えた狂喜は、もはやそこにはなかった。


くだらなげに周囲を見渡す冷めた瞳の男の行動に、すべての行動を縫いとめられていた。
薄い茶色の髪を晒して兜もつけぬまま、鈍色の鎧と緑の衣装に身を包み、青い剣を持つその男の凶悪なまでの面構えを前に、何一つ出来ない。


「どいつもこいつも歯ごたえが無い。だったらさっさと死んで、経験値となれ」


吐き捨てる言葉も、その態度も、どこまでも場違いで、不遜だ。
少なくとも今まで、こんな態度を彼らの前で取れた人間など、存在しまい。
魔人や魔王とでもいった存在でもない限り、許されるわけのない態度だった。
だが、その男にはそんな態度がこの上なく似合うものである。
少なくとも、世界にはそれが許されている、それを信じさせるだけの力量を感じさせた。


たった一人でこの魔物の森に飛び込んできたこの男を見つけ、その身を砕いて潰してちぎって擂り潰すことで今宵の宴の余興の一つにしようとしてもてあそんでやるつもりだった彼らは、その予想外の事態に対してある意味ついていけていなかった。
そもそも、こんなこと本来であれば絶対にありえないのだから。

この状況を他者に聞かせたところで熟練の冒険者のその才能の果てにようやく打ち倒すことが出来るものの首が、先の一刀で落とされたものなどと誰が信じるだろう。
それこそ、大国の将軍や伝説に残る英雄でなければ打倒するにも難しいその存在が、たった一人のそれらのどれでもない者にこうも容易く殺される、などと。


だから、その数十にも及ぶ魔物の群れの中で熟考してすぐに行動できたものなどいなかった。

しかし、数の多さはその愚鈍さを少しばかりならば補いうる。
その中でも、僅かにマシに。多少なりとも。
反射的にその状況を覆そうとして動いたのは、聖骸闘将であるゲーリング。
動けたこの魔物でさえも、それは勝利への目算が立っているがゆえの巧遅の限りを尽くした行動ではなく、他の行動が取れなかったための拙速を重視したものだったが、それでも他よりはマシだった。
聖魔教団の遺産であるその人造生命体は、もはや魔物と同じ行動原理である人類撲滅のコマンドという至上命令が未だに入力されているが故に、他の生物よりも予想外の事態に対するフリーズは少なくてすんだ。


『ティー……』


放とうとした魔法は、ティーゲル。
闇の砲弾を打ち出すその魔法は、下級魔物であるレジェクションやルストが放ったものならばさておき、ゲーリングクラスの放つものを耐えることなど、ほとんど人類には不可能だ。
そしてこの世界において、魔法は絶対にかわせない。


「……ふんっ、雑魚が」
『ゲル!』


が、その死を呼ぶ暴風を前にして、その男……たった一人でこの魔物の渦の中に居座っている男が述べたのは、ただの侮蔑の言葉。
高速で放たれた決して回避を許さぬ魔法の弾丸が迫っているにもかかわらず、そこには死への恐怖などは欠片たりとも見えなかった。

はき捨てるように告げられた言葉と同時に着弾。
常人ならば四散し、熟練の冒険者であっても激痛で身を固めてしまう、そんな一撃。
それが、ゲーリングの魔法力だ。


「効くか、そんなものが!」


が、その闇の残滓が消え去る前に、男は当然とでもいうような態度で突撃を開始した。
耐えられるはずがない、という驕りとも油断ともいえるゲーリングの今までの経験から機械的に導き出された金属の脳による命令は、当然それについていけなかった。

爆発的な加速。
いや、実際に蹴りつけた大地が大きくえぐれている。
それくらいの異常なまでの脚力―――ステータスに裏付けられた男の急加速は、当然ながらそれによって振るわれる一撃に絶大な威力を与えた。

先ほどの滴り落ちる水をイメージさせた流麗な剣捌きとはまるで裏腹な、巌のような豪快な一撃に、ゲーリングはもはや反応さえ出来ない。元々魔法使いの系統であるこの魔物は、その常として当然ながら物理的な攻撃に極めて弱い。
初めの一撃を耐えられた―――それも、ほとんど行動に支障がない程度にまで軽微に―――時点で、ほとんど詰んでいたとはいえ、上位の魔物であるが故に保有する強大な生命力さえもたちどころに消費してしまった絶大なる一撃を喰らって、ゲーリングは吹き飛んだ。
その勢いのまま背後にあった木々をへし折りながら吹き飛んでいき、やがて一際太く立派な大木にぶつかることでその目に宿った光を失うと同時に動きを止めた。
もはや、修復は不可能であろう。

またも異常な光景に、ようやく魔物達の思考に一部の理が入り込む。

違う。
この男は、今まで自分たちが殺してきたような凡百な人間たちとは明らかに違う。

男の次の行動により、それは確信へと変わった。


「けっ、もういい、まとめて消し飛ばしてやる」


男の闘気が一点に集中していく。
それも、ただそこにいるだけで怖気を催すほどの膨大な量の闘気だ。
それが一条の乱れもなく、男の体に収束していく様は、でたらめとしか思えない、しかし確かな現実だった。

ようやく回るようになって来た大小さまざまな頭でしかし一律にそれを感じ取って、彼らはもはや半狂乱になった。
逃げようとするもの、攻撃を加えて何とかその行動を阻止しようとするもの、防御用の体制を取るもの、様々だ。
だが、そのすべての行動にもはや自分たちが狩る側ではなく狩られる側になってしまったのだ、という恐怖と焦りが共通していた。

その魔物達が一気にとった怯えた態度に、男はもう一度つまらなさげに鼻を鳴らして、告げた。


「詰まんねえ……詰まらねえんだよ、お前ら! 暇つぶしにもなりはしねえじゃねえか!」


あまりに不遜。あまりに無礼。
たった一体でも百を超える人間たちを容易に殺すことが出来る魔物の群れに対する言葉としてはあまりに場違いなものであり、普段であればそんな行為をとったものに対して彼らはその命を奪うことで大いに後悔を刻み込んできたはずだ。
だが、この男に対してだけはその不遜なまでの行為でさえもはや必死の魔物たちには笑えない。

彼らはようやく現状を理解し、悟ったのだ。

これは。
この男は……違う。違いすぎる。
逃げろ。いや、それも間違っている。
すでにこの場にいる時点で間違っている。逃げるのではなく、逃げておくべきだった。
出会った瞬間に、踵を返して逃げるべきだったのだ。
さもなくば、訪れるものは、間違いなく。





彼らの頭の中は、その言葉で埋まっていた。


「すべて消えうせろ……『ランスアタック』!!」


だが、今更もはやその言葉も、すべてが遅かった。
その男の名を冠した必殺技が炸裂し、白光が埋め尽くす。
木々も、岩も、虫も、魔物も一切合財を飲み込み、喰らい、無に返していくその力を前にして、耐えられるほどの存在は残念なことにその場にはいなかった。
いや、世界全体を見ても、それこそ魔王や魔人といった存在でもない限り不可能なその威力を見れば、それも当然でしかない。
故に結果は、一つしかない。


消え行く意識の中で、魔物たちはようやく自分達の愚かさに気付き、思い出した。
紛れもない強者、現在レベル50を越えた、英雄クラスの存在というものを。









すべてを塗りつぶすその殺意の渦の中で、残っていたのはたった一人だけだった。
そのほかのすべてがその死の暴風に巻き込まれて死体さえ残さずに消え去った。
魔物たちが体内に溜め込んで持っていたゴールデンハニーの欠片や運良く消し去られずにすんだ財宝などが見え隠れはしていたが、もはやそこに生命の息吹はない……その光景を自らの意思で作り出した男以外は。
魔物も、木々も、それどころか大気でさえ、もはや生きた気配を残していない。
たったの一撃で、すべてが消し去られてしまった。

が、剣を振るい、命を押しつぶし、殺戮を楽しんだ男の顔に笑みは無い。

いらだたしさは多少は鳴りを潜めたが、代わりに残った廃退感を表情に浮かべたまま、剣を振るってもはやすべてが弾き飛ばされてついてもいない架空の血潮を振り払うと、男は鞘に収めてその手を見る。
そこには、僅かばかりの傷があった。ゲーリングのティーゲルを喰らって、無傷とは行かなかったのだろう。が、同時に彼ほどのつわものが気にするほどのダメージでないことも確かだった。
ティーゲルを受けた後でさえも全く行動を鈍らせなかった彼が気にするには、もはやあまりに些細な怪我であるといえよう。
はっきり言って、かつての彼であれば気にもしなかった程度のものだ。こんな攻撃、十や二十、それどころか百喰らったところでどうということは無い。

だが、すべての敵意を消し去った彼は、そのまま動こうとしなかった。
わずかばかりに、ほんの言い訳とばかりに傷ついた左腕に目をやって、さびしげに、悲しげに、いらだたしげに見つめるばかり。
似合わない。
この男、鬼畜戦士とまで言われるほどガキ大将がそのまま大人になったような男がとるにしては、その感傷と廃退的な雰囲気は、あまりにも似合わない態度だった。
どんな窮地であっても自身の力と強運を信じ、己の絶対的な正しさを確信し続けてきた彼が取るには、その停滞はあまりにも不自然に思える。

彼を見知っているものであれば不思議がり、そして彼を心底知っているものにとっては痛ましげなその態度は。
いつも些細なものであっても彼の傷を心配し、過剰なまでに回復魔法を掛ける桃色の奴隷の不在によるものであることは、もはやいうまでも無いだろう。

それを彼自身も何処か内心では認めているからこそ、そんな態度の節々に表れるのだ。
どれほどそれが不快で認めたくないものであっても……

照れ隠しとそれを遥かに凌駕する苛立ちと喪失感が、彼の内心を支配する。
だから、彼はつまらない言葉を宙に投げた後に。


「クソが、これもそれも俺様の薬箱の分際でいつまでもサボり続けるからだ……」


小さく一人の少女の名前を呟いて。
無理やり必要も無い世色癌を取り出して飲み込んだ後、歩き始める。

殺戮しても、冒険しても、この苛立ちはやはり消えなかった。
やはり、この感傷を一時的であっても消し去るには……暴力的なまでの性交しかないのだ、と悟って。


数多くの血潮にまみれた希少な財宝たちと傷ついた木々、そして何よりも大勢の魔物の破片を後ろにおいて、彼は自分の城へと戻っていった。


いつか与えられる偽りの希望が訪れるまでの、彼の日常を繰り返す為に。



[29583] 獅子
Name: 基森◆8cb04620 ID:0593a267
Date: 2011/12/02 06:09



そこは、綺羅の空間だった。
どこもかしこもまばゆいばかりの輝きと光に包まれており、富と名誉の象徴のような空間だった。
多くも少なくもなく厳選された上で贅を尽くして飾られた名工の手による調度品のなんと見事なことよ。
部屋のいたるところに見受けられる計算されつくした黄金比による設計のなんと壮観なことよ。

このすべてが主の独特の感性にてありとあらゆるものがごちゃ混ぜになっているこの城の中において、この部屋だけは計算されつくした美に満ちている。


そんなすべてが豪奢で絢爛な部屋のほぼ中央に、一人の少女が跪いていた。
臙脂色の実用を意識した丈の短い着物と呼ばれる衣装はこの空間において彼女が主賓の一人として出張るには相応しいとはいえないが、その彼女が這い蹲っているのであれば、それはいかにも違和感は無い。
そう、思わせるほどにこの豪奢可憐な空間の雰囲気をすべて掌握した少女が、その這い蹲る忍者―――見当かなみの前にはいた。
かなみにとってはあまりに豪奢すぎるその部屋さえも、その部屋の主たる彼女にしてみれば珍しくもなんとも無い日常の一風景。

それゆえ、水晶で出来た光り輝くシャンデリアも、塵一つないほど掃き清められた深紅のカーペットも、その一本一本に丹精込めた彫刻がなされている大理石の柱も、ごくごく当たり前なものとしてほとんど無視してただ会話―――否、命令とそれによる報告の声だけがその部屋の空気に響いた。


「以上がランスの行動です」
「そう……やっぱり、ダーリンは魔物狩りに行ってたんだ」


配下の報告を聞いて、リア・パラパラ・リーザスは溜息を吐いて座り込む。
その座する場所は豪奢な椅子。それ一つで何百もの民を一年以上養えるものだったが、彼女がそれを気にすることはなく無造作に体重を叩きつけた。
どれほどこれに富が費やされようと、どれほど彼女自身が乱暴に扱おうとも、誰に何もいわれる筋合いはない……この本物の四分の一の大きさしかない部屋と同じく簡易的な、間に合わせのものとはいえ、その椅子の名は紛れもない玉座なのだから。

当然、その光景を見ていた背後に控える筆頭侍女も、下に控える御付の忍者も、何も言わない。
彼女たちにしてみれば、気にすべきなのは主君の機嫌だけだ。
その機嫌が最近下降の一途を辿っていることを考えれば、その他のことなど塵芥も同然だ。
それゆえに彼女たちは、それぞれがそれぞれの確固たる意思を持って、その脳裏を最大限に回転させてこの現状における取り得ない正解を探し続けている。


そんな配下の気遣いなど歯牙にもかけずに、きしり、とリアはその形のよい歯を食いしばった。その感情は苛立ち。
理由は明白だった。彼女の「ダーリン」が隣にいないからだ。

幼少の頃よりという筋金入りのサディストにして、ランス限定のマゾヒストである彼女は、彼に対してはどんな行為をされたとしてもそれを厭うことはありえない。
たとえ鞭打たれようが歯形を付けられようが媚薬を盛られようが、嬉々として付き合っていた。むしろ、何故か今まで自分を避けていたように見えるランスが、無理にでも自分にそういった行為を強いてくる今の現状だけを切り取ってみるのであれば、望ましいものだった。

だからこそ、彼のすべてを受け入れ、許容した。

しかし、彼女は同時に肉体的にはどこまでも普通の人間だった。才能限界20というそこそこ恵まれた才能ではあるが、それとて高いとまでいえるほどのものではない。ぎりぎり一般人の範疇に入ってしまう。当然、体力だってランスに比べればかなり落ちる。
それゆえここ数日ほど異常なまでに荒れていた彼と連日閨をともにしていたときは極めて上機嫌だったのだが、どうしても限界がある。彼に対して疲れにまみれた醜い姿を見せたくないと考え、ほんの僅かな休息と化粧の時間をと彼から眼を放した隙に、ランスは消えていた。
ほんの僅かな時間の停滞が、彼を我に帰らせてしまいこの肉色の鎖につなぎとめることが出来なかったのだ。

彼女が全身全霊を尽くしてすべてを捧げていた彼は、一体何が不満だったのか。


20にもならぬ年にて己の父さえも追放して世界有数の大国を支配するほどに優れた知能を持つ彼女は、当然ながらその答えを十分に知っていた。


「あんな、あんな奴隷なんかより、リアのほうがずっと美人でお金も権力もあるのに……」


そのいかにもなお姫様な外見とは裏腹に、将来の夢が世界征服であり、好きなものが権力であると豪語する彼女の口から出た言葉は、猛烈なまでの悪意が篭っていた。
幼少の頃より権謀術数の渦巻く王宮で育ってきた彼女は、断じて見た目どおりの可憐でか弱い天真爛漫な少女ではないが、それにしてもその言葉に篭った怨念は凄まじいものだ。

大抵の敵対者でさえも自分の敵や競争相手ではなく、単なる障害物であるとして内心ではすべてを見下しさげすんでいる彼女がもつには余りに感情の篭ったその言葉に含まれているものは、嫉妬だ。


「マリス。手段どころか生死も問わないわ。あの氷を割る方法は本当に無いの? もう、真っ二つになってもかまわないわ」
「……申し訳ありません、リア様」


絶対の信頼を持つ己の侍女が、もしそんな方法を知っているのであればとっくに自分に対して教えているだろうことはわかりきっているにもかかわらず、そんなせんの無い問いを投げかけてしまうほどに、その感情の炎は彼女の身の内を猛烈に妬き焦がす。
その対象は、そんな妄念の炎でさえも妬くことの出来ない場所でひたすら今も眠り続けている。


シィル=プライン。
忌々しく憎らしい、桃色の髪を持つランスの奴隷。
地上最強の生物、魔王の作った氷の檻に彼を庇って巻き込まれた、永遠の囚人。
そして、ランスにとっておそらく唯一の……



ただひたすらに美食を喰らい、女を犯し、そして時折それにさえも耐え切れなくなったかのようにたった一人で飛び出して殺戮で気を紛らわせる。
ランスの現状は、彼女の帰還が叶わないと彼が知ったときに、生まれたものだ。
そんな彼さえも彼女は受け入れていたが、それは決して望ましいものではない。

ああ、いっそあの女に対して死という形をくれてやることが出来れば、すべてが解決するのだろう。
たとえ、ランスにとって不可避の影響と憎しみをもたらすであろうその選択さえも、もし手中にあるのだとすればリアは今の焦燥に身を削り続けるかのごときランスを見続けるぐらいであればためらうことなく殺害を支持しただろう。
今まで何度も失敗してきており、しかしそれでもなお自身の能力であればランス自身の意向に背くという彼女からすれば信じられないほどの大罪を誰かに被らせて彼の憎しみをそちらに向けさせることなど容易いことだと信じているが故に。

だが、英雄たるランスをも苦しめる魔王の力はそれさえも許しはしない。
大国の女王であるリアでも、個人において最強と信じるランスにも、そして最高の呪術師であるカラーの女王にさえも無理なことを、一体誰が出来るというのか。
しかし、それでも忌々しいことに死んで骸になって朽ちてはいかず、そのままの姿をいつまでも晒し続ける……おそらく、リアが年老い、その美を失い、やがては老いて死ぬその日にも。
僅かな希望だけは常に示し続けながら、永遠の停滞をすべてのものに強いるその態度に、リアは強い怒りを抱いた。

生者に対してならば、どんな手段を使ってでも今後に築く未来で勝ち取って見せる。
死者に対してならば、ありとあらゆる方法でその存在した過去を忘れさせて見せる。

だが、よりにもよってあの女は。
脳裏に浮かぶ少女は、氷に囚われてもなお穏やかな顔をしていた。

どこまで自分を不快にさせれば気が済むというのか。

手に持った冒険用の鞭を固く捻って絞るが、そんなことではこの胸の中に宿る不快感はまるで消えやしない。これを思いっきりぶつけたとしても今のあの女はまったく意にも解さないだろう。
もともとはライトニングドラゴンという高位の存在であるはるまきのブレスでさえ、わずかばかりに傷をつけるのが精一杯だったのだ。
非力なリアの腕でどれほど打ち据えたとしても、あの非常識な強度を持つ氷に対して傷をつけることが出来るかも怪しい。
そして、仮に傷を付けられたとしても、それは彼女の気をわずかばかりに晴らすだけの役にしかたたないことも、分かっていた。

何も。
何も、出来ない。
世界最大の規模と文化を持つリーザス国の王たる、このリア・パラパラ・リーザスが。
富も、権力も、兵力さえも保有する世界最高の人類である、「王」が。
いかに魔王の力によるものとはいえ、何一つ出来ないのか。

彼女の顔に、らしくない焦りさえ見え始める。
己こそが世界最高だと、紛れもなくその全身全霊を持って信じ込んでいる彼女をして、めったにはありえないその表情に、側近たる侍女は悲しげに眉根をひそめ、配下たる忍びはそっと目を逸らした。
リーザス王国始まって以来の智謀と知識を持つ大陸最高の侍女でさえ氷を破る術を持たず、数多の経験を積んでしのびとして闇のつぼみを花開かせつつある忍者でさえも開放する手がかりさえつかめない。

最愛にして至上の主の願いをかなえられないこと。
敬愛する主君の助けになれず、またそれと同時に未だ囚われる友人の力になれないこと。

理由は違えど、それぞれがそれぞれなりに無力を感じ、絶望を受けている。

どれほど彼女たちが死力を尽くそうとも、どれだけ彼女たちが思案を続けようとも、リアのその迷いが晴れることは無い。

どこまでも、どこまでもこの世界は、残酷で、気紛れだった。


「まあいいわ。どうせ今回だって、ダーリンが何とかしちゃうに決まってるんだから」
「フフ、そうですね。リア様」
「まあ確かに、アイツが誰であろうと女の子とやることを諦めるとかありえませんしね。多分そのうち何とかしちゃうに決まってます」


だが彼女たちはあきらめることはなかった。
あえて明るい声を作って自分を奮い立たせようとする主君の顔に演技を感じはしても、嫌だからこそその側近たちもそれに同調する。

そうだ、今までだって、絶望的な状況なんて数多くあったではないか。
魔人と手を組むなどという狂った手法によって危険な隣国に一度は支配され、その至高の身さえも危うくなったことだってあったのだ。
自軍が崩壊し、時に裏切られ、生き残った忠義の士でさえもその力を発揮できずに潰されていったそんなさなかで、よりによって史上最悪の魔王が蘇りさえした。
あの、人類全てを奴隷へと貶め、終わらぬ夜を千年にもわたり紡ぎ続けたジルの復活。そんなことさえ、このリーザスの王を襲った。



しかし、それさえも覆した男がいるのだ。
きっと、きっと今回だって、何とかなる。
一度は悩み迷っているような彼だって、きっとそのうち立ち直ってくれるはずだ。


なぜなら彼は、英雄なのだから。
そして自分は、その妻であり、それを支える侍女であり、忍びなのだから。



そう、それぞれがそれぞれ決意を胸に秘めたところで、部屋の隅より一人の少女が現れた。
何の変哲も無い、ただのメイド。マリスの部下だ。
英雄譚の登場人物たる彼女達の行動を動かすには、あまりに不足な人間。


「リア様……ランス殿がご帰城なさったそうです」


しかし、その人間は平凡であっても、それによってもたらされた情報は違った。
それをマリスごしに聞いたとたん、リアが表情を一気に輝かせて叫ぶ。


「え! マリス、すぐに湯浴みの準備をしてちょうだい」
「はい、分かっております、リア様。すでに整えるよう命じておきましたので、今からお向かいになられても大丈夫ですわ」


もはや、思案のときは終わった。
リアの体力も自身の保有する貴重な秘薬や配下の希少な技能で十分に回復が出来た。
ならば、今しなければならないことは……女としての己の体を磨き上げるのみ。


「かなみも一緒に来なさい。ことによってはあなたの……まあ、正確にはあの幽霊の力を借りるかもしれないわ」
「え゛っ……はい、リア様。うう、やっぱり今回私も巻き込まれるんですね。鈴女さんのおまけで」


英雄たる彼を支える為に、彼が立ち直ってくれるまでに、全力を尽くせるよう自分自身をもっとも魅力的な女にするために、大陸有数の権謀家にして誰にも劣らぬほどランスという男を愛する少女、リア・パラパラ・リーザスは彼の帰還という報を聞いて、憂さ晴らしの戦闘を終えてすぐさま彼が望むであろうことを自分の体というもので用意する為に、準備を整えにいった。


「ダーリンのためだったら何でもするわ。あのおデコちゃんとか、軍神とかいうのなんか相手にもなんない。あの奴隷女だって……そのうち何とかした上で、ボロ雑巾のようにしてあげる」



だから、ダーリンのためにさっさとそこから出てきて、その上で捨てられなさい。



残酷で、怜悧で……そして、何処かそれらとは裏腹な天真爛漫さを漂わせて、彼女は大きく高笑った。





[29583] 黒耀
Name: 基森◆8cb04620 ID:0593a267
Date: 2011/10/14 19:53



聖魔教団の遺産と呼ばれるものは今の世にもまだ数多く残っている。
一時は世界を支配した教団だ。それはある意味当然なのかも知れないが、実際にその数を数えてみたならば、きっと誰もが驚くことになるであろう。
生活、軍事、文化。ありとあらゆるところにその根は張り巡らされており、人類はその恩恵を大いに受け取っていた。
少なくとも、スイッチ一つで灯りがともる便利な道具も、魔法力を溜め込んでその力を保存できる魔池も、自分の意思で喋る石像も、すべて聖魔教団以前にはなかったものだ。
詐欺師や道化も同然の扱いを受けていた魔法使いの技術をここまで昇華した教団の残した功績の数々はもはや称えることさえおこがましい。

だが、同時にその遺産は、決して人間に対して恩恵だけを与えるものではなかった。




迷宮奥深く。
冒険者でさえもめったに立ち入らない高難度のダンジョン。
そこに、それはいた。

ぐぉぉぉおおおおおお

唸るような声と共に出現したのは、ストーンガーディアンという「魔物」だ。
出現するだけで周囲に途方もない威圧感と実際の効果を伴った熱気が迷宮一帯に溢れる。何かの間違いでこの階層まで紛れ込んでしまった弱小の魔物が怯えて逃げていくが、それも無理はあるまい。
トンを超える超重量とマグマの熱、そして迷宮に身を溶け込ませて決して相手を逃さない神出鬼没さを併せ持つ、岩石で形作られた上半身のみの動く石像。
聖魔教団において拠点防衛の要として生み出された人造生物は、すでに教団が崩壊して長い年月が立った今でもなお、最後に打ち込まれたコマンドである人類撲滅を忠実に果たそうとその生息拠点を徘徊している。
世界を席巻し、魔人にさえも対抗しえた聖魔教団―――闘神都市の技術の粋が作り上げたその力は、並みの魔物と比べてもあまりに強く、凶悪なものだ。

デカントやバウといった上位の魔物さえ上回る巨体と重量は、地に溶け込んで回り込むことが出来る故に決して逃げられない、というストーンガーディアンの特性とあいまって、この石造りの彫像に計り知れぬ一撃の重みと遭遇した大概の人類に確実な死を保障した。


「ちっ、面倒な……」


だからこそ、そのデカントでさえも一撃で打ち倒すランスでさえも、そろそろ疲れてきたという事情はあれども、その出現に対して嫌な顔をした。
どれだけ疲労していても、どれだけ負傷していても、ストーンガーディアンからは逃げられない。
歴戦の冒険者である為、それを重々承知していたランスはだからこそ逃げることなど全く考えもせずに溜息一つを吐いただけで、瞬時に剣を鞘走らせた。


凶悪な魔物。
だが、同時に彼らはどこまでも創造体だった。
かつて聖魔教団に製造され、そしてそのまま放置された。
ただただ命ぜられたとおりの動きを行い、そして戦う。多少の傷であれば周辺の岩石を取り込んで治すことが出来る機能も、本体ともいえる核にまで至る傷には全くの無力だ。
致命的な損傷を受けてしまえば、もはやその体を直すことが出来る人間―――魔工匠が現代にはほとんど存在しないことによって、ただ何も出来ずに朽ちていくことしか出来ない。

眠ることも、食することも知らぬ体は、当然ながら繁殖の欲求なども持たない。
そして、新たに彼らを創造しようとする者もまた、いない。
それゆえにどれほど年月を重ねても意にも介さぬ強度を保とうと、どれほど強靭な鎧を纏っていようと、どれほど強力な攻撃を持っていようと、ごくごくわずかとはいえ彼らを殺すことが出来る者が存在するこの世界において、彼らは紛れもなく滅び行く「種族」だった。


「おお、りゃーー!」


出現したストーンガーディアンがその豪腕を振りかぶって振り下ろすよりも速く、ランスの繰り出す一撃がその左肩に炸裂した。
レベルアップシステムの恩恵によって与えられた強力により大地を蝕み、岩をも砕く一撃は、当然ながらストーンガーディアンにも通用する。切れ味よりも衝撃を叩き込むことを重視した一撃は、硬く圧縮された岩石という装甲を持つその巨腕を根元からもぎ取り、吹き飛ばす。
紛れもない強者であったストーンガーディアンに抵抗さえ許さない高速精密剛力な一撃。
今までの千年単位での歴史の中でもありえなかった事態に、ストーンガーディアンの挙動が一瞬止まる。
聖魔教団の作った『雑兵』のなかでも上位のそれらしく、その停滞は僅かに一瞬であった。
だが、それで終わりだ。


「死ねーーー!!」


着地と同時に振り下された右腕の攻撃が先の衝撃でわずかに戸惑うように勢いを削がれたのを見て瞬時に、盾技能を利用した剣による防御によって威力を削ぎ、止めた腕をランスはまるで通路のように駆け上がる。
高温の体による攻防も、異常ともいえる生命力に裏付けられたランスの攻撃を戸惑わせるほどのものではなかった。

迷いの欠片も見えない天性の判断は早く、レベルアップに裏付けられたその身体能力による動きの早さもまた、ずば抜けたものだ。
鈍重な魔物ごときがなんとか我に返ったとしても、片手がなくなった今では払いのけることさえ出来はしない。
そのため、相手がはしご代わりにされていた腕を振るってランスを振り落とすよりも速く、剣の持ち手はストーンガーディアンの頭部を攻撃可能範囲の中へと捕らえていた。

勿論、今のランスによるものとはいえ剣の一撃だけで倒れるほどこの岩石の魔物は脆くない。
それを知ってその大きな口の中に剣を突っ込んだランスは、だからこそさらに致命的な一撃を与えようとその状態で闘気を集め、そして開放する。
早い。収束から開放までがあまりにも、早かった。闘神や魔人でもないストーンガーディアンが反応できるような速さではない。
それゆえに、致命の一撃はあまりにもあっけなく発動した。

瞬時に起きた剣を媒体とした爆発は、そしてそれを伴った斬撃は、ランス自身の尋常ではないレベルの高さに比例する威力によって一瞬にしてストーンガーディアンの頭部を吹き飛ばし、胴体にさえもその余波を伝わらせた。
当然、頭部にあった核などもはや、跡形もない。
たったの一撃、剣の一突き一振りだけで、ランスは千年を生きる魔物であるストーンガーディアンの命全てを縫いとめて見せた。

巨体が、ゆっくりと動きを留めてゆき、やがては完全に停止していく。
もっとも、片腕を吹き飛ばされ、頭部ももはやない上半身だけの岩の塊など、もはや体と呼ぶにも奇妙で悪趣味なオブジェにしか見えないため動きを止める、という表現さえもおかしく聞こえるが、とにかくもはや起動することは二度とないまでに、ストーンガーディアンは「殺された」のだ。
千年を生きた歴史の異物は、もはやこれ以上後の歴史に干渉することはあるまい。
聖魔の時代より生きた「魔物」がまた一体、何の意味も持たせることも出来ずに滅んだ。





それに伴い、人造物の体の起動の為に使われていた、聖魔教団が滅びてもなおその石の体を動かし続けていた魔法力が、経験値という名に変わってランスの体に吸い込まれていく。
生き物でこそなかったが、並の魔物や人間などを遥かに凌駕する存在であったストーンガーディアンがその生涯をかけて殺し、奪い取った魂を体内にて精錬したものだけあって、その経験値は膨大なものであった。
それこそ、一般市民であれば生涯かけて稼ぐものよりも遥かに多い経験値だ。
それら全てを誰にも分け与えることなく、誰とも分かち合うこともなく、たった一人でランスは受け取り、飲み込んだ。
だが、それすらも今の彼にしてみればたいした量ではあるまい。
あたりを見渡せば、同じような石の残骸や何かの肉片、真っ二つに割られた丸い玉など、様々な魔物の死骸が転がっているのだ。それら全てをたった一人で作り上げたほど高レベルのランスからしてみれば、その膨大な経験値さえもただのひとかけらでしかなかった。

ただ、ちりも積もれば山となる、という。
たとえそのレベルの高さゆえにストーンガーディアン一体分の経験値ではもはや全体としてはすずめの涙ほどの量であったとしても、周辺の魔物の死骸をすべて集めれば、少しはものの足しになることを、ランスは実感として知っていた。

そのため、小さな光球が自分の体に吸収されるのが終わったのを察知するや否や、先ほど叫びを上げていたのとはまた違う声音で、ランスが述べる。


「ウィリス。来い」


呟くような低い声でも、神への敬意など欠片も込められていない声でも、「祈り」は必ず届く。
願いなんて一つをのぞいて全く叶えてくれないが。


『頑張る人の味方、レベル神ウィリスです……ああ、ランスさん』


独特の後光と音楽と共に、一人の女が唐突に現れる。
四肢の先や髪につけた僅かな飾りをのぞくと下着さえ纏わぬ全裸でしかない彼女を、その後光と音楽、そして宙に浮かぶ水晶玉だけがレベル神であることを保障していた。


『また、レベルアップですか?』
「お前を呼ぶ理由なんてそれしかないだろうが。さっさとやれ」
『……はい。では、始めます』


何かをいいたげな気配と複雑な色を称えた瞳と共に、こちらに対して声をかけてきた女の言葉を、ランスはにべもなく切り捨てた。
日に日に荒んでいくその態度に、彼の乱暴さと下品を嫌いながらも、しかしその邪気のなさと迷いのない行動には女神としての慈愛を注いでいたウィリスは心を痛めた。

ウィリスとランスの付き合いは、正直それほど長いものではない。
彼女がレベル屋からレベル神へとなったのは数年前だし、ランスに担当のレベル神が着くようになったのはさらに後だ。

しかし、ウィリスはレベル神であるためランスの冒険のほとんどに付き合い、レベルアップの作業のさなか、その水晶玉を通して全てを見てきた。
リーザスにも、カスタムにも、闘神都市にも、ゼスにも、JAPANにだって、彼女はずっとランスのそばにいたのだ。
彼が何を感じ、何を行い、何をしてきたのか、傍観者という立場ではあったが、その全てを見知っていた。


『うーら、めーた ぱーら ほら ほら。らん らん ほろ ほろ ぴーはらら。』


ウィリスの唱えた謎の呪文とともに、ランスの全身を光の粒が包んだ。
目を閉じて、剣をだらりと下げて、ランスは無言でそれを受け入れる。
先ほど魔物を嬉々として殺戮していた男とは思えないほど、何故かその姿は疲れを感じさせるものだった。

ランスは尋常ではないほどレベルが上がる速度が早く、それに伴ってサボって経験値を失って力を失うのも早い。
仲間も多いからその分のレベルアップもウィリスが受けることになるし、どういうわけか才能限界無限などという異常極まりない特性を持っているため、冒険の種類によっては尋常ではないレベルまで上り詰めることもある。
その全てを見つめて、ウィリスはレベルを上げ続けてきた。


『ランスさんは経験豊富とみなされ、レベルが1上がります』
「ふん……それが分かってるからお前を呼んだんだ」


だからこそ、シィル・プラインを失って日に日に荒れていく彼の姿は、正直なところ見ていて辛かった。
過去を見通す水晶玉を通して見た、かつてシィルと出会う前よりも遥かに強くなった彼は、だからこそかつての時よりも一人になったときの行動はより荒々しいものとなっていた。


『ところでランスさん。最近、寝てますか? 顔色が悪いですよ』
「……」
『レベルアップも健康が命です。ちゃんと三食取ってしっかり寝ないと、経験値の吸収効率が落ちてきますよ?』


彼には神より与えられた才能、冒険技能レベル1がある。彼が保有する剣戦闘レベル2ほどの希少性こそないものの、それでもこれは相当なものだ。
シィルがいたときには面倒がって全てをやらせていたが、その気になれば鍵空け索敵料理にキャンプとその全てをそつなくこなせるだけの才能があるはずである。
だからこそ、その彼がただレベルの高さだけにかまけて爆発覚悟で宝箱を叩き壊して開け、罠を引きちぎり、乾し肉と水場で適当に汲んだ水だけを携えてひたすらに迷宮に篭って殺戮を繰り返している現状が哀れでならない。
本来であればきちんとした寝床で寝て、ちゃんとした食事を取って、それなりに規則正しい生活と合理的な戦闘をしていた、出来たはずのこの男が、たった一人の少女がいないばかりにそれら全てを投げ捨てて獣のようにひたすら戦い続けている。
シィルが生きていれば止めてくれたであろう事も、何も気付かずに進んでしまっている。

それが、ウィリスには何より悲しい。


「うるさい、黙れ。お前はただレベルアップだけしてればいいんだ」


しかし、今のランスは人のいうことなど聞きはしない。
いや、普段からただ一人の少女の言葉以外ほとんど聴く耳を持たなかった彼のことだが、それはあまり驚くことではないが、それでも今は微塵も影響を及ぼさなくなってしまっている。
ランスのことを心配してのウィリスの言葉も、ランスには届かない。
だからこそ、直接的に彼と触れ合うことさえも許されていないウィリスでは、眉根を寄せて悲しげな表情をする以上は何も出来ない。


レベルアップをすることが仕事であり、その成績によって位階をあげることが目的であるレベル神にしてみれば、本来こういった経験値稼ぎだけの行動は望ましいことだ。
ビジネスライクに徹するのであれば、こちらの言葉など届かなくてもただ死ななければそれでいい。
才能限界無限というどこまでも、どこまでも強くなれる男が自分の担当になり、その男が寝る間も惜しんで戦い続けている、というのであればこれは勤務成績だけを考えるならば喜ばしいことであるはずだ。
経験値、という名によって溜め込まれた命の欠片を、身体能力の上昇や技能の獲得と引き換えに奪い取って自分の力にする神々にしてみれば、今のランスは理想の顧客となる。

実際、上位の神々であれば今の彼の行動を喜ぶか、あるいは邪魔に思うかは別としてさして心を動かされることはないだろう。
神としての位階を上げ、あまりにも人とはかけ離れた最上位者、創造神に近付くとはそういうことだ。


『ランスさん……』
「ほら、仕事がすんだならさっさと帰れ。それとも……そんな格好してることだし、犯されたいのか? それならば遠慮なく」


だが、レベル神というもっとも人に近い神であり、未だ人としての心を持ってしまっているウィリスには、そう割り切ることが出来なかった。

ただひたすらにランスが哀れで、痛々しく悲しい。
彼と彼女の関係を知ってはいても、シィル・プラインという少女を失うことがこれほどまでに彼を追い詰めるとは想像さえしていなかった自分が、同時に愚かに思える。
だが、彼の担当の神と名乗ってはいても、実際にはほとんど彼の役に立つことのできないウィリスは、氷に閉ざされて未来永劫そのままになったシィルはもとより、残されたランスに対してもレベルアップとその後の体力の回復を除いてしまえば、ほんの僅かな手伝いぐらいしか出来ることはない。


『はぁ……もう! それじゃあ、また』


だからこそ、ウィリスはほんの少しだけ神力を使ってこの周辺の宝箱に干渉するだけで、溜息一つを残して。
レベル神の身でありながら、シィルが『亡くなった』ことで荒れるランスの心を、どうか神が救ってくれますように、と祈りながら。
誰よりもランスに近く、誰よりもランスを知っていた神は、姿を消した。


「ふんっ、ウィリスごときが余計な差し出口を」


それと共に後光も妙なる音楽も消え去り、あたりを静寂が包む。
女の子モンスターであるメイドさんが入れるレベルの迷宮ではないが故に常にかび臭い匂いと埃とぬるぬるとした苔、そして不気味な悲鳴と物音にまみれた薄暗い迷宮が帰ってきた。
女神の残り香さえ、すぐに薄れて消えた。

その中に一人ランスが佇む。
先に殺したストーンガーディアンの残骸が目の前にあるそんな状況において、ランスは鼻を一つ鳴らすと再び踵を返した。


迷宮を、進む。
冒険を、続ける。
後悔も、倦怠も、無気力も、全て忘れて。
ただひたすらに、力と命を求めて。

誰の助けもなく、必要とせず、ランスはたった一人で迷宮の闇の中へとその身を躍らせた。




[29583] 玉響
Name: 基森◆8cb04620 ID:0593a267
Date: 2011/10/22 12:08


雪上にて。
一人、少女が剣を振るう。


「ふっ、はぁ!」


何度も、何度も似たような動作を繰り返す。
迷いよ、ここに消えよ、とばかりに。
力よ、ここに宿れ、とばかりに。


速く、鋭く、見事な一撃。


その動作の対手、その眼前において立ちはだかる魔物はその少女の相手に相応しく、大きく、力強かった。
八甲田山隠しボス、桜花にほん兵。通常のにほん兵をさらに大きくして、Japan風の意匠の兜を付けたモンスターだ。
その大海より出でる津波を思わせる体当たりを、かわすのではなく同じ力をぶつけることで受け止めるべく、その少女、Japanにおいて軍神とまで称えられる剣の妙手、上杉謙信は刀に力を入れた。

だが、大きさとはすなわち強さだ。
デカントやバウのような巨体を武器にする魔物が非常に強力な分類に位置することも、それを如実に物語る。
桜花にほん兵の純粋な質量により生まれる威力は、大地を穿たんばかりであったが、それを受けるには謙信はあまりに普通の女性だ。
女性にしては多少大柄ではあるが、とある女傑のように男に混じっても全く体格負けしないというほどではない。その外見はごくごく普通でしかし美しい、華奢ではかない少女である。
敵の突撃を前に、その少女の姿はあまりに小さく見えた。


『カミカゼ、アターーック!!』


桜花にほん兵の叫びが、雪山をこだまする。
激突のために雪の大地を踏みしめる衝撃と爆音が、それに追随した。
ガードの盾さえも貫きかねない強力な突進だ。並の人間に耐えられるものではない。
しかし、謙信はそれを避けようとはしなかった。
ただ、一歩足を真横に滑らせて、大きく刀を振りかぶる。剣を返して一瞬だけ刃の状態を確認した後、脱力したこぶしに包んだ柄を徐々に緊張させながら、思いっきり握り締め、振り下ろした。
その巨体に相対するにはあまりにも細い剣と、桜花にほん兵の頑丈な頭の距離は、高速で迫りつつあった。

爆音。
ついで、衝撃。

雪煙が舞い、あたりの景色を白で埋め尽くしてその中心にいる謙信を飲み込んだ。
だが……


「はぁあ!」


裂帛の気合が、響き渡る。
瞬間、雪煙が吹き飛んだ。
中心部から生まれた闘気を伴う刃の竜巻が、その全てをかき消し、巻き込んだのだ。

大きさの違いも性別の優劣も種族の差異もすべてを吹き消すその刃は、剣戦闘LV2という事実によって形作られたものである。
人間というこの世界のこの時代のメインプレイヤーの中でも、ごくごく一部にしか与えられていないそれは、しかしその希少さに相応しく戦場の中では猛威を振るう。
魔物相手であろうと、ハニー相手であろうと……人間相手であろうと。

彼女は強かった。
そして、その心に宿る義を通す為には、強くなければならなかった。

ただの一本の剣のたった一振りで巨大な砲弾にも似た一撃を受け止めた謙信は、しかしそれだけにとどまらずに連続で剣を振るう。
一合、二合、三合……繰り返される剣戟に、初めは応えた様子も無かった桜花にほん兵は、やがてその勢いにたたらを踏み、ついで押され、ついには仰向けになって無防備に請け続けるしか出来なくなる。


「ふぅ……」


やがて、剣戟が終わった。
合計、八つの斬撃が一瞬のうちに叩き込まれた結果は、ほとんど無傷の謙信と、傷だらけで全身から血を流しながら倒れふす、桜花にほん兵だった。

ボスモンスターでさえ、敵わないほどの高速精密な連撃連斬。
名を、「車懸かりの剣」。
剣戦闘レベル2のなせる業だ。
数多の魔物と人とハニーを切り裂いてきたことで得た力を持って、謙信はこの雪山の隠しボスを打倒した。


だが。
『桜花』にほん兵。
この白一色に染まる雪山の隠しボスが、何ゆえその桃色の花の名を冠されたのか、謙信はこのあとその身で知ることとなる。


『ニッポ……バンザーイ…』
「むっ……しまった」


瞬間、桜花にほん兵に積み込まれたぷちハニー十匹分のはにはにが、母体の死を感知する。謙信が気付いたときには遅かった。
必殺技の終わりの僅かな間。


『オウカ…アターーック!!』


生命の灯火と引き換えに、大量の爆薬に火がともる。
全身の闘気を使い果たし、ほんの刹那の合間にその意思をとぎらせた謙信に、桃色の大爆発が襲い掛かった。


「くぅ、毘沙門天よ!」


八甲田山に爆音が轟く。閃光と共に破壊の意思を撒き散らしたその轟音は、山々に連呼する。
こだまがこだまを呼び、その桜花にほん兵の命と引き換えに起こされた大爆発は大気を、そして大地を揺らした。
爆発自体によって謙信に与えた衝撃もさることながら、パウダースノーの降り積もるJAPANの霊峰の中央にて、そんなことを行えば起こることなど唯の一つだ。


どどどどど

重苦しい音と共に、反響によって崩れた一塊の雪が周りを巻き込み、その勢力を増やしながらさらに規模を大きくしていく。
雪崩だ。
雪原に突如現出した、白の津波が全てを飲み込む。
いくら戦闘力が高くとも、流石に山一つの雪は大きすぎた。
突然巻き起こった雪崩の中に、謙信はなす術もなく飲み込まれた。
当然ながらそれは、彼女たちが雪上に残した足跡や剣撃の痕、桜花にほん兵の血しぶきや肉片といったものも一切合財区別することなく、全てを飲み込んでいった。

それら全てが通り過ぎた後に、まるで何一つ変わらなかった雪山の光景を再び形作る為に。









どどどどどどどーーーー


ふもとにまで流れてきたときには、雪の勢いは随分とおさまっていた。
タネを流し込んだパンケーキがやがて丸くまとまるように、流れに流れた雪の波はやがてゆっくりと流れを弱くし、やがて止まった。

てばさきの放牧に使われていたであろう、休耕地に突如雪の水溜りが広がる。
いずれは日に照らされ、消えていくであろういきなり出来た大きな雪原。なだれの成果だ。
周辺にいたものが、ああ、よくあるよくある、見たいな目で見ているそのど真ん中あたりに、何かうごめくものがあった。
雪の真ん中でうごめくそれは、やがてかんしゃくのような暴風を巻き起こした。当然、撒き散らされる雪。
剣を振るった体勢のままその中央にいた謙信は、ふう、と一息吐いてその振るった成長つきの日本刀を鞘に収めた。


「何とか無事であったか。しかし……我ながら、未熟」


自爆と雪崩に巻き込まれたことは桜花にほん兵の攻撃以上に謙信の体力を削ったが、謙信の持つレベルの上昇による補正全てをぶっちぎるほどではなかった。
眩しげに目を細めてその日が照らす自分が先ほどまでいた霊峰を見つめる謙信は、紛れもなくこの国において軍神と呼ばれるに相応しいだけの力があるのだから。
しかし、遅れを取ったことは紛れもない事実。
自分の求める強さが己にはまだまだ足りないことを痛感して、謙信は眉根を寄せてわずかばかりに悲しげな表情を浮かべた。


ぐう
「……お腹が空いた」


とはいえその次の瞬間に、激戦に継ぐ激戦、その後の死闘の上で雪崩に巻き込まれてまで、そんなことがまず言えるあたりレベルによる補正だけではない胆力も見て取れるが。
周囲に響くほどの腹の音を立てても特に恥じることもなく、ぽつりと呟いた謙信だったが、もって来たせんべいその他はすでにとっくに食い尽くしていたために手持ちに何もないことを思い出したのか、切なげな顔になる。
食べるのがとかく好きな謙信であるが、もともとは一国のトップであり、将であり、ある意味お嬢様だ。
お供といえる直江愛が料理好きであったため正直城内の厨房にさえ入ったこともろくにない(そもそも、自分で作っている間に腹が鳴る)し、冒険だってこの間からランスにつれまわされたのが初体験といってもいい。
山篭りの時だって、基本的に誰かお供がついてくるか、あるいは大量に持ち込んだ調理済み食料がその生命線だった。

そんな彼女が山に分け入って食べられるものと食べられないものを見分け、その上で美味しく調理する、などという高等技能を身に付けているわけもない。


「謙信様、はい、どうぞ」
「おおっ!」


だからこそ途方にくれ、しかし空腹で動くこともままならずにただ中天に差し掛かった太陽の日差しに照らされていた謙信だったが、捨てる神あれば拾う神あり。

餌を取られた犬のような切なげな瞳をしていた彼女を見かねたのか、突如空よりおにぎりが取り出されてきた。
いや、違う。いつの間にか近くによって来ていた少女がその小さな手によって謙信に対して手渡したのだ。


「おお! ありがとう、香殿」


反射的に受け取った後に、おもわず脳を通さずに返された言葉であったが、その対象は間違ってはいなかった。
だからこそ、そんなはらぺこな彼女に対して特大のおにぎりを作って待っていたJapan国主、織田香はその礼を笑顔で受け取った。

雪崩に巻き込まれて雪山を下ってくるとは流石に予想外であったが、それでもそろそろ、と考えて用意していた用意が見事に用を成したことは待っていた甲斐があったというものだ。
意外と神経が図太い香は、そんなことを考えながらも謙信に深刻な怪我がないようであることを確信して密かに安堵の息を吐いた。


「いえ、山篭りお疲れ様でした」
「うむ……とはいえ、最後の最後で気が抜けていたのやも知れない。やはり私は修行が足りないな」
「謙信様でも、ですか?」


だが、そんな香の気遣いを知って知らずか、謙信は厳しい顔で自分が流れ落ちてきた雪山を見つめた。
正直、今の段階でさえ並の修験者ならばはだしで逃げ出すような荒行であるように思えてならなかった香は、彼女の身を案ずる意味もあってその言葉に疑念を投げかける。
Japan一の剣豪であるのみならず、大陸での冒険においてもいくつもの戦果を上げてきた彼女の鍛錬が足りない、などといえる人間などいまい、と思ったからだ。

だが謙信は、どこまでも敬虔で、どこまでも恋する乙女だった。


「うむ。最近のランス殿はまた迷宮に篭っておられるのだろう? やはり私もまた呼ばれたときにはあの方の僅かなりとも助けになるように力を付けておかねば」
「……そう、ですか」


ここしばらくはJapanにきていて会っていないものの、大陸に残してきた二人の部下からの定期的な長距離魔法電話による通信によって、大体のところを聞いている謙信は、そう答えて一通りの冒険を終えたにもかかわらず一人鍛え続けている自らの愛する人を思って、頬を染めた。

その謙信の答えに、香はおもわず答えに窮した。
結果、兄に対する謙信の思いを眩しく思い、しかしだからこそその瞳を揺るがせて目線を僅かに逸らした。

謙信が山に篭っている間に、彼女が冒険にいっている間により詳しい情報を見聞きした香にとって、ランスの行動はそんな褒められるようなものではないように思えたからだ。


ランスのあの自暴自棄ともいえる単独行動による迷宮踏破。
実際に出発を見送り、その帰りを迎え、その間の行動を忍びより聞いていた香にしてみれば、あれは断じて謙信が語った修行などではない。
謙信のようにいずれ来るかもしれない災厄に備えての鍛錬などではない。


あれは……あれは逃避だ。
シィル・プラインという誰よりも彼にとって大切な少女を失ったことによる、自責の念と無念さと理不尽に対する怒りが形となったものだ。

ランスがJapanに渡ってきてよりほとんどずっと同じところにいた香は、途中に加入した謙信よりもずっとずっとランスとシィルのことをよく知っている。
漁色家であり、ガキ大将のような乱暴ささえ持ち合わせていたあのランスが素直ではないものの、どれほどシィルを頼り、求め、愛していたのかをつぶさに見てきた。

きっと、ランスを心底心配する気持ちは二人同じだったとしても、その事実の差は二人の中に違ったものを生み出す。
謙信とて察していないわけではあるまいが、しかしその彼女が考えているものよりも遥かに大きな存在であった桃色の少女は「あの」ランスをして特別な存在だったのだ。
自身も彼にある意味特別に愛されている自覚がある香は、だからこそ謙信以上にカラーの女王でさえも魔王の掛けた呪いを解除できないと聞いたときにランスの感じた衝撃を、謙信よりもずっと正確に推し量っていた。



きっと、これからどれほどの冒険を続けようと、どれだけの戦いを乗り越えようと、どれほどの美女を手に入れようと……きっと、誰一人、何一つ、彼女の代わりにはなれない。

それは、心底彼を愛している謙信の献身が今のランスにほとんど届いていないことは明らかだ。
彼女と比べても負けぬほどランスを慕っているつもりの香であったが、だからといって己がランスにとってのシィルの代わりになれるとは微塵も思えない。
今はまだ幼いが故にそんな一助も出来ぬこの体を投げ出したところで、きっとほんの一時の慰めにしかならないだろう。
勿論、男性としてではなく兄としてであってもその身を引き換えにしてもランスを救いたいと思う香は、己が成長した暁には一時の慰めのためであってもそれを厭うものではないが、それでもかつての彼がそこまで悲しみに身を浸しているそんな事実がとても、とても悲しかった。

ただ、それを彼女に対していったところで意味はないことも分かっている香は、割り切れぬ思いを抱えたままでも笑顔を見せてその謙信の建設的な態度を見習おうと明るく声を掛けた。


「そうですね、私も頑張ります。あ、そうだ……謙信様、一度稽古を見ていただけませんか?」
「香殿はまだまだ強くなれるだろう。その僅かばかりの助けになるのであれば、よろこんで」


だからこそ笑顔でそう語りかけ、了承を貰う。
軍神と呼ばれる彼女との稽古は非常に人気が高く、競争率からして中々確約がもらえない。
だからこそわざわざここで彼女を待ち構えてまで求めていたそんな約束を得られて、当初の目的を果たすことが出来たことで香は安堵の息を吐いた。
これでもっと自分も強くなって……兄様の役に立てる、と。


(でも……きっとこのままでは)


だが、当初の目的は確実に果たしたにもかかわらず、内心の憂鬱は全く消えようとしないことに香は気付いた。
謙信が知らぬシィルとの絆以外にも、懸念事項はまだある。


逃避であろうと、八つ当たりであろうと、奪われた命は経験値という名で紛れもなくランスの中で蓄積されていく。
そして、才能限界無限という世界に愛された希少中の希少技能を保有するランスは、戦って、戦って、どこまでも、どこまでも強くなる。
イカマンを吹き飛ばし、ハニーを叩き割り、サメラ~イを断ち切り、クロメを突き刺し、デカントをばらばらにして、ドラゴンを喰らい、全てを叩き壊し、殺し尽くして……いずれ魔人や魔王、そして神に届くまでに。

そして、才能限界に恵まれ、技能レベルを持って生まれてきた自分たちだっていつかは全く届かない高みにまで上がってしまう。
無限に成長を続ける彼の歩みを考えれば、いかに自分が成長期とはいえそれが間に合わないという悪夢を振り払うには足りない。
このまま行けば、どれだけ鍛えても、どれだけ鍛錬を重ねても、どれだけ彼を愛しても、足手まとい以外の何物にもなれないときが来るに決まっているのだ。


シィル・プラインを助けることにも、戦場にて彼の背中を守ることにも、そして女として彼を癒すことにも、何の役にも立てないときが、いつか必ず……


「(私では、軍神と呼ばれる謙信様をそのまま見習うことは出来ません)」


それを謙信と語り合ったことはない。
しかし、おそらくそれを知ってもなお強くあれる謙信と違い、その事実は香にはあまりにも重かった。


ぐぅ~


そんな思案を全く置き去りにするように突如、鳴り響いた腹の音に謙信が恥ずかしげに頬を染める。
それを見て香は、おもわずかすかな笑いを浮かべた。


「す、すまぬ」
「ふふ、稽古のときもご飯たくさん用意しておきますね。とりあえず、城に着くまではこれでおなかをもたせておいてください」
「おお、本当にありがとう」


先ほど渡したおにぎりだけではきっと旺盛な食欲を誇る謙信には足りなかったのであろう。
先ほど用意していた食事のいくらかは雪崩に流されてしまっている。
今残っているだけではおそらく足りるまい、と考えた香は自分の手元に残っていた最後の食料を謙信に渡すと同時に、彼女を先導するように声をかけて歩き出した。


(兄上……どうか、ランス兄様を助ける力を私に下さい。迷いを振り切る心の強さを教えてください)


自分の限界。

それを知ってもなお、己が謙信のようにどこまでも、どこまでも信じ続けてただひたすらに鍛錬をつむことが出来るか、ということを香は疑わざるを得ない。
軍神と呼ばれるJapan一の傑物には出来るかもしれないが、未だ心も体も技も亡き兄にも及ばぬ未熟な自分では……


Japanの唯一無二の国主にして、ランスの未来の女たる織田香は、己に付いて離れぬ老いと限界を恐れて謙信に見えぬ位置でそう願い、溜息を吐いた。





[29583] 落日
Name: 基森◆8cb04620 ID:0593a267
Date: 2011/11/16 07:28

「カオスをよこせ」
「お断りします」
『(っ、クルックー!)』


パイプオルガンを中心とした妙なる音楽がどこからともなく聞こえてき、それを彩るようにステンドグラスの奥から差し込む日光が極彩の虹を映し出してその白を基調としている床や壁面を飾る。
白の大理石は歴史を現すのかところどころ乳白色から琥珀色まで様々な色彩を見せていたが、それでもその建造時に想定していた美しさをそのまま今にも備えていた。

大陸一の大富豪、コパンドン・ドットがとある歴史ある小村からそっくりそのまま移転させたその教会は、実際にこの町で営んできた歴史とは裏腹に赴きあるたたずまいを整えていた。

が、そこにたつ二人の男女は、そんな歴史や風格などまるで意に介した様子も無かった。
唯一、人とも魔物ともいえぬわけの分からぬ生物だけが、その緊迫した雰囲気に息を呑んだ。


「あれは元々俺様のものだ。お前が勝手に取っていっていいものではない」
「取ってはいません。ただ、管理を行っているだけです」
『(やべえ、こいつはマジでやべえぞ。こないだはこいつも封印に乗り気に見えたんだが、またなんか気紛れ起こしやがったな)』


男の名前はランス。大陸最高の冒険者にして、魔人殺しの魔剣カオスの所有者。
女の名前はクルックー・モフス。現在のAL教団における最高位の四人の中の一人にして、封印者。
そしておまけのトローチ先生。謎生物。

ランスとクルックーは付き合いが長いとは言えず、また決して仲がいいともいえない。
クルックーはランスの射程範囲内の女ではあるものの、男除けの指輪を普段はつけているため、ランスとしてもそこまで普段からむらむらとしてクルックーを見ているわけではなく、またクルックーがランスと行動を共にしているのは、生けるバランスブレイカーたる彼の近くにいればバランスブレイカーの封印がしやすい、という打算によるものだ。
女好きの彼をして基本的に女として普段は意識していない相手と、利害関係だけで結びついている相手。
どちらも慕情や信頼といった善の関係によるものではなく、どちらかというとビジネスライクでドライな関係だ。
クルックーの人としての危うさを知るトローチ先生にしても、ランスだけは見習って欲しくないと思っている。


「俺様の邪魔をするな」
「……邪魔などしていません」
『(断るにしても言い方ってもんがあるだろうに! こいつは確かにただのチンピラだが、化けモンじみた強さを持ってやがるんだよ)』


それでも彼らが今までたいした衝突もなくやってきていたのは、利害が反しなかったからだ。
ランスからしてみれば、自分がしたくなれば力ずくで指輪を外して好き勝手やれる相手であり、またクルックー自身に自分のやりたい何かを妨害されたこともないから、別に近くにいても不愉快ではない。何かたくらんでいるのは分かっているが、それが己の欲望を満たすことの邪魔にならないのであれば、俺の女としてある程度は好きにすればいいと思う。
クルックーからしてみれば、ランスに多少バランスブレイカーの収集を邪魔されることはあれど、彼のそばにいればそれ以上のペースで集められることを考えれば許容範囲。側にいる間ランスの邪魔さえしなければ、自分の使命は果たせるのだ。犯されることなどそのメリットと比べれば、何のディメリットにもならない。

誘導されていることを知ってはいても意にも介さない男と、邪魔されることもあると知っていながらそれ以上の利益を得られると感じる女。

だからこそ彼らは、ごくごく一部の趣味を除いてほとんど共通点も思想の共通性も持たないにもかかわらず、今まで大した障害もなく行動を共にしてこれた。


「いいか、あの馬鹿剣は確かに馬鹿だが、俺様の剣だ。ウザイしエロイことばかり喋るから正直うっとうしいが、今手元にちょうどいい剣がないからとりあえずアイツで間に合わせる」
「……」
「だから、さっさとよこせ」
『(くっ、どうする。魔剣カオスの封印は確かに惜しいが、このままじゃ、こいつは)』


だが、その利害が相反するものとなった場合、その薄い薄い蜜月はとたんに霧散する。

もともとAL教徒としてバランスブレイカーの封印ということに対してはもはや確信にも似た信仰を持っているクルックーだが、その己の行動原理がランスを押し留めるだけの役には立たないこともまた理解している。
神を信じず、罪を悔いず、信仰を持たぬランスにその意義を説いても理解を得られぬであろうことは重々承知であり、だからこそ今まで彼の目を盗んで封印作業を続けてきた。
だから、いざランスがそれに対して反意を示した場合、彼女はそれに反論する術を持たない。

カオスがランスの物である、ということはリーザス王とカオス自身の許可を得ている以上正しく、また実際地上に彼以上にカオスを使いこなせるものがいないことも、真実だ。
過去にカオスを盗み出した盗賊は心を壊され、盲目的な正義と才能限界に恵まれた格闘家の少女でさえ耐え切れず、勇者でさえも魔剣にとっての使い手としては否定された。
心弱いものであれば持っただけでもただの殺人機械へと成り下がり、たとえ強者であろうとも徐々に心を蝕まれる魔性の剣が現在地上にて唯一認めた保有者。

その彼を前にして、ただAL教の教義のみを盾に立ちふさがるのは難しく、またそれを伝えるにはあまりにもクルックーは無情でまた戦う力も弱かった。
今までだって、見えないところでこっそりと封印作業をしていたことからも、それは裏付けられる。ばれれば邪魔される、力ずくで邪魔されれば自分では何も出来ない、ということは分かっていたのだ。
が、彼を上手く誘導することで利用できていたクルックーをしても、今の彼相手にはそれは難しい。


あの馬鹿みたいに前向きで根拠のない自信に溢れていたランスは外見的なものや言動はそこまで変化したようにクルックーには思えない。
もともと、男は出会った瞬間に殺し、女を無理やり犯すようなことを平然と行う鬼畜だ。
マリア・カスタードや見当かなみほどの付き合いのないクルックーではその一面のみ強調されているから、シィル・プラインとかいう奴隷を助けられないということがどんな意味を持つのかはイマイチよくわからず、今まで以上に荒れて犯して殺しているランスを見ても、多少の違いはあれども今までと方向性自体は変わっていないようにも見える。


「邪魔をするなら犯す。無理やり、犯すぞ」


だが、AL教の司教たるクルックーだからこそ、わかることもある。

ランスの汚染率。
それが、最近急速に上昇している。

元々、同じような原理の特殊なおみくじでその汚染率を鑑定し、その身に宿した汚染率を巫女の体に吸収させていたと聞くJapanの巫女機関では汚染がほぼゼロであったという噂も聞き、それはいくらなんでもガセだったのだろうと思っていた彼女だったが、この短期間でのランスの汚染率の上昇は目に余る。
これだけ短い期間、あの奴隷を助けられないと聞いただけであがるのであれば、その噂も本当であったのかもしれない、そう思わせられるほど最近のランスの汚染率は悪化の一途を辿っているのだ。

汚染率の上昇は人格の凶暴化や性衝動、暴力衝動の発露といった形で現れる。
もともとそういった要素を素の状態でさえ持ち合わせていたように思われるランスだ。
故に、今のランスはさらに危険な人物だ。


「どうぞご自由に。ですが、カオスは渡せません。あれは、危険ですから」
『(クルックー!!)』


しかし、クルックーの答えは変わらない。
己の体に意味を感じず、それは己の命も同じ。
権力にも、正義にも、愛情にも何の興味も持たずにただひたすらに使命を果たす。
ムーラテストだって、特に関心を抱いていない。
ただ、敬虔なる一途で迷いのない信仰心と、その類稀なる才能、そしてほんの僅かな周囲の手助けがあったからたまたま時期法王候補にまで上り詰めただけである。

だからこそ、彼女に対して無理やり犯すと告げることは、脅しとしては何の意味も持たない。
故に、答えは変わらない。


「ちっ、強情なやつめ」


そのあまりに妥協を知らぬ答えにより、ランスの米神に青筋が走る。
彼は少女には優しく、美女にはさらに優しい。時には性愛の対象ではありえない老女にだってやさしさを見せるときもある。
彼に助けられ、一生を彼に尽くすと決めた女性がいた。彼に救われ、兄と慕う少女がいた。彼に守られ、国を助けられた王女がいた。彼に止められ、涙と笑顔で消えていった死者さえもいた。
彼の行動によって救われた女性の数は、きっと両手の指の数では足りないだろう。


だが、彼は断じて正義の味方ではない。彼は無私と正義の勇者などではない。
彼の名はランス。キースギルドの鬼畜戦士。
男は殺し、女は犯す。圧倒的なまでの戦の才能と、それに反比例するほどの人格の下劣さを持って、その悪名を轟かせる男だ。殺した数も、犯した数も星の数ほどだ。
そして、その彼を僅かばかりにであっても止められるストッパーの少女がいない今となっては、他者への気遣いよりも、人の正義よりも、女の涙よりも、己の欲望こそが優先される。

だからランスはあっさりと剣を抜いた。
ヒデオの剣と呼ばれるその黄金に輝くAAクラスの名剣は、しかし刃こぼれがひどい。
ある程度の自己修復能力をもつはずのその高ランクの武具さえそこまで傷ついている様はランスの言う他の武具では到底足りないという言葉の正しさを証明し、その刃のきらめきが一応冒険に同行していた仲間であるクルックーに向けられることの異常さもまた指し示す。
もはや、ランスは自分の欲望を発露することに何一つ躊躇することなどない。


「ああ、そうか。だが……」
「……」
『(っ!! しまった!)』


それでも顔色一つ変えぬクルックーに、ランスの口元が凶悪に歪む。
悪巧みを考え付いた悪役そのものの表情にもクルックーが何の反応も見せないことに苛立ちを隠しきれずに鼻息を一つ荒くついた彼は、その剣先を変えた。
そのことにより、クルックーが僅かに瞬きを行う。表情のほとんどない少女の僅かな反応に、ランスは気をよくしてその八重歯をむき出して笑う。

ランスが瞬時に伸ばした手に捕まえられた白い物体に対して、剣を向けたことがその原因だ。


「ふふん、クルックー。お前がこのちんちくりんとなにやらたくらんでいるのは分かっているんだぞ。こいつを殺されたくなければ、さっさとカオスを出せ」
『くぼー、くぽぽー!!(や、やっちまった……)』


手に掴んだ謎生物に剣を突きつけ、ランスは得意げに笑う。
その手の中には、突然のランスの行為に一切反応出来ずにつかまり、そのことに今更ながらようやく気付いてじたばたとし始めた白い生物がいた。
トローチ先生だ。どうやらランスはその彼の命と引き換えに、カオスを返せと交渉するつもりらしい。
それを見てクルックーは確かに僅かに戸惑っていた。


トローチ先生は確かにクルックーの世話役であり、相棒だ。
いろいろと自分に対して無駄なことを強いてくる相手ではあるが、同時にその知識は己にないものが多く、またその判断もよくわからぬ基準ではあるが、的確なことも多い。
今までのバランスブレイカー封印の為の旅でもいろいろと役に立ってきた。
今ランスの提案を断れば、その彼を失うかもしれない。
いや、ランスの性質からいって確実に取引をぶち壊された苛立ちだけであっさりと殺害するであろう。
トローチ先生はランスの好きな15~29歳の美女ではないのだから。
別にトローチ先生が死んだところでクルックーはなんとも思わないが、今後のバランスブレイカーの回収に不都合が出るのは、困る。
そして、ランスにへそを曲げられ今後の同行を断られてしまえば、それはそれで更なるバランスブレイカーを封印する機会を逃すことになるかもしれない。


「さあ、どうする? どうする? 俺様はこいつを殺したところで何一つ困らんが、お前はどうだ、クルックー!」
「…………」


苛立ち混じりにクルックーに回答を強制するランスの顔は確かに凶悪なものであり、実際に何が何でもカオスを手に入れてやる、という強情さも入った譲れないものを示したものだった。
これでトローチ先生を殺して、それでもカオスが手に入らなければ今度はクルックー自身を惨殺するかもしれない、そう思わせるほどの鬼気が今のランスからは漂っている。


だか、彼女はそれを見て怖い、と思うことはない。
感情ではなく利の面だけを見る彼女なのだから、それも当然。
しかし、そんなクルックーでもランスの言い出したこの行為には僅かながらも動揺した。

といっても、その源泉はいろいろと世話を焼いてきてくれたことに対する家族的な愛情でもなければ、今まで培ってきた時間による信頼でもない。単純に今後の利益との比較によって鉄壁の表情筋を持つ彼女が揺れ動く。
彼女もある意味、ランスと同じだけ狂っていた。その行動思考、そして実際にやってきたことを考えれば、彼女こそ鬼畜外道と呼ばれてもおかしくはないほどに。


『(……悩んでやがるが、絶対あれは俺を気遣ってるとかじゃねえ。単純に今後のことだけを考えてる顔だ)』


それを重々知っている唯一の世話役は、しかし今は囚われの身である。

元々彼女はこういった深く考える決断を得意としない。
教義に従ってただただ基本に忠実に答えを返すことであったり、経典にしたがって市民の懺悔について判断を下したり、ということには長けてはいても、こういった自分を含めた利益と不利益が入り混じった選択肢を選ぶ能力は、基本的に捕まっているトローチ先生の領域だったのだ。
だからこそ、その決断はあっているとも間違っているとも言いがたい曖昧なものとなってしまった。
彼女が現時点で最良の利益が出る、と判断する、世間一般の常識のない教義と使命だけを見たものとなる。もっとも、なんだかんだいってトローチ先生の判断も大してそれと変わりはしない。


「ふぅ、分かりました」
「ぐっふっふ、いい子だ。よし、ご褒美に抱いてやろう」
「いりません」
『(……これは俺のミスだ。アイツに俺を無視して断れといってもどうせ通じないしな。すまん、クルックー)』


だから、ランスとの関係悪化による回収率とトローチ先生の不在による情報収集能力の低下だけを考えて、その上でランスに力ずくで家捜しされた場合防ぎきれないという冷徹な判断の元クルックーはランスの言葉を呑んだ。
せっかく稼いだポイントを失うことによる悲哀も、カオスが危険なものである為封印したのだという信念も、暴力により無理やり自分の意思を曲げさせられることによる不愉快さも一切出さずに、あっさりとクルックーはカオスを取り出して、ランスに渡した。

実際彼女は何一つ感じていなかったのだから。


『おお、心の友か……じゃ、おやすみ~』
「こいつ、まだ寝てやがるな……まあいい。どうせ出番になれば勝手に起きるか」


そしてそれは、ランスも同じ。
脅迫をしたという後ろめたさを微塵も感じることもなく、ぽい、とその今まさに殺害しようとしていた命を放り出して女子供を剣で脅した成果を意気揚々と持つ。
その顔には、久方ぶりに自分が全力を振るえる武器があることに対する戦士としての純粋な喜びと、クルックーを脅す際に結局実現しなかった血を見ることを好む暴力的な衝動、そして無駄な時間を使ったという意味のない苛立ちが浮かぶ。


「じゃあな、クルックー」
「はい。では、また」
『(まあ、仕方がねえ。ムーラテストの終わっていない今の時点ではアイツの助けをこれ以上いらない、ということは出来ねえ。カオスは確かに惜しいが、ある意味これでよかったのかもな)』


それを生み出したクルックーを見て、しかし彼女が未だに男除けの指輪をつけているのに気付いてランスはいらだたしげに頭を一つふると、彼女を犯そうとするのを「面倒そうで気が乗らない」のただそれだけの理由で諦めて、さっさと歩きさった。

後に残るクルックーとトローチ先生―――正義も命の重さも何一つ考えず、ただひたすらに教義に従う理の使徒でさえも、それをただ見つめるほかに何も出来ないほどに、その全てには強者としての傲慢さと強烈な覇気が伴っていた。
その前には、クルックーの計算も、トローチ先生の考えも、何の意味もない小ざかしい皮算用だ。










「さて……とりあえず、こいつを使うのもJapan以来だからな。とりあえず、試し切りに行くか。おい、シィ……ちっ」


ランスは、カオスを手に入れたその足で自室に戻り、鎧を着ていた。
常人では持つことさえ不可能なほどの重量のそれを反射的に後ろに投げようとして舌打ちを打った後は、誰の助けも借りずに軽々と身につけ、最後にマントをつける。
鈍色に輝く鎧も、はいた靴も、纏ったマントも、その下の鎧下も、そして勿論手に持つ武器も、全てが一流。
魔法技術と職人の技がふんだんに込められた、身にまとうだけで昂揚するような武器防具を全身に帯びていながら、ランスは不機嫌そうだった。
だが、それをあたりに当り散らすことさえももはやなく、ランスは一度鼻を鳴らしただけで一人で扉を開き、外へと飛び出した。

門番をしていた自称騎士団長の少女でさえ、声を掛けられないほどの歪んだ空気を纏いながら。


ランスが向かった先は、もはや語るまでもなくまたもダンジョンだった。
もはや日課となったダンジョン踏破に向かうのだ。
いや、踏破ではなく走破か。
野獣のごときしなやかさ、すばやさでランスはダンジョンをいきなり全速力で駆け抜ける。その途中に立ちふさがるものを、全て切り捨てて。
その恵まれた身体能力、レベルアップによって獲得した知覚能力、生まれ持っての戦いの天才たる迷いのない決断力を持って、ランスは次々と層を超えていった。
それを邪魔するものなど、もはや存在しなかった。
まるで無人の野を行くかのごとき自然さで、木々を切る、女の子モンスターを切る、罠を切る、同業者を切る、ハニーを切る、宝箱を切る、魔物を切る、大気を切る、武器を切る、命を切る。
誰も耐えられない、何も止められない。並の人間の命であれば容赦なく飲み込むこのダンジョンに用意された障害は、もはや今のランスに何一つ影響を与えることも出来ずに次々と破壊されていった。
ランスが通ったあとには屍と破壊しか残らない。通り過ぎた後には命の息吹はなく、そのあまりの殺戮の雰囲気に進む先にさえからも命の気配が慌てて遠ざかっていく。
それでもランスは気にも留めず、むしろその遠ざかりつつある命を追ってさらに速度を上げた。そいつたちも、まとめて切り裂く為に。

そんな狂気じみたことでもしていないと、今のランスの鬱屈した気分は晴れなかった。

夜行性の巨大なけだものが走る、飛ぶ。それも、猫科や猛禽といった肉食のだ。
忍者やスカウトでもないにもかかわらず、ランスの動きはそれほどまでにしなやかで洗練されたものだった。
後に暴風による凄惨な爪あとが残るその進路に、ふと哀れなアイボールが通りかかる。
よっぽどその生まれつきの性質が暢気だったのか、あるいは寝ぼけていたのか、はたまた相対的にレベルが凄まじく低いのかはしれぬが、今の今までそのランスが巻き起こしてきた死の旋風に気付けてもいなかったらしい。
だからこそ、あらかじめ隠れることもせずにランスの冷徹なまでの殺気と隠しきれぬほどの怒りの表情をその巨大な目で見て始めて、慌てて道を譲ろうとしたとはいえ、それも遅い。ランスが通り過ぎるのとほぼ同時に、その空を飛び異様に細い腕を持つ大きな目玉の魔物は悲鳴さえ上げることが出来ずに二つに分かれて石畳に転がった。
瞬時に通る鋼の冷たさに気付くことさえなかったのは、ある意味幸せだったのだろう。その鮮やか過ぎる断面から、今更思い出したかのように黒い血を噴出して、アイボールは絶命し、僅かばかりの経験値の光だけがすでに走り去ったランスの背を追った。

だが、今日の彼はそんなものなど意にも介さない。
そろそろ、試し切りは終わりだ。せっかくこいつを再び手にいれたのだから、今から本当の戦い、メインディッシュが始まるのだ。
そんな前菜なんぞにいつまでも時間を費やすことなど出来るはずがないではないか!




そしてやがて、ランスは一つの場所にたどり着いた。
その場所の瘴気に、ランス以外の一つの声がまず響く。


『ふぉ! こ、この気配は!』
「や~っと起きやがったか、この馬鹿剣」
『クカ、クカカカカカ、いい、いいぞ。そうだ、たしかにそうだ。最近退屈で退屈でずっと眠っておったが、確かにワシが悪かった……こんな近くに来るまで寝ておるなんてのう!!』


ランスが肩に乗せていた魔剣の歓喜の声が響き、それに伴ってカオスの刀身からこの場の瘴気に負けぬオーラが迸り始める。
そのオーラはランスの肉体に作用し、さらに彼の力を高める。
そして、ランスの放つ覇気がその刀身からのオーラをさらに引きずり出す。


『しかし、心の友よ……いまさらワシ我慢できんのは確かなんだが、一人で大丈夫か? 話によると奴らの中でも相当強いらしいぞ』
「ふん、足手まといなんぞいらん。大体、あんな雑魚俺様一人で十分だ」
『……くっくっく、カーカッカッカ。そうじゃな。それでこそワシの認めた使い手だ! アンタが世界最強だ!』


ランスがカオスの力を最大限引き出し、そのカオスがランスの力をさらに強化するぐるぐると何度も巡る相乗効果は、確かにランスこそがカオスの唯一無二の所有者であるという証明であった。
もはや人類の枠に入れるのが間違っているとしか思えないほど、その力は大きい。


「あら、あなた……たった一人でここまで来たの?」


そんな彼らに掛けられる声があった。甲高い独特の反響を伴う声は、口調から僅かに女と分かる程度。
今の自分の気分に水をさせるとは、どれだけの存在なのか。冒険者であるが故に一方的にその種族を嫌っているランスは、不快感を隠そうともせずにその声のありかを睨みつけ、ふと考えた挙句にようやく脳裏からその姿を取り出した。
たしか……ハニ子とか言ったか? そうランスは、わずかばかりに思い出した。
ああ、そういえば前もこいつはこんなところにいたな、と。


「でも、ごめんなさい。今日のますぞえ様はご機嫌が悪いみたい」
「ふん、何で俺様がそんなやつの機嫌なんぞを窺わなければならん」
『クックックックック』


ピンク色のハニーは、到底ランスに敵うほどの強さを持っているようには思えない。それどころか、この場所にいるのが場違いに思えるほどの脆弱さだ。
それでも、その声に震えはなく、むしろランスたちに対するなんとも無意味な哀れみと確信があった。
それが一層ランスの不快感を煽り、その全身から怖気さえ感じさせる殺気を噴出させる。

が、果たして場所柄他者の放つ殺気や瘴気に耐性があるのか、はたまたランス達のあまりの大きさに感覚が麻痺しているのか、あるいはこの場所を守るものに対する信頼と愛情ゆえか、ごくごく普通の口調で掛けられる声。
そこには、むしろランス達を見下すような気配さえ感じられた。彼女の立場からすれば、それも当然なのかもしれない。彼女は、世界最強の一角の側に侍ることを許された存在なのだから。


だが、しかし。


「そう……戦うつもりなのね。でも、無駄よ。今日はなんでもない普通の一日。ただの人間であるあなたに、魔人であるますぞえ様の無敵結界は絶対に破れな「黙れ、陶器」きゃーー!!」


パリーン、と独特の音を立てて、そのピンク色の瀬戸物は割れた。
尋常ではないレベルの鬼畜戦士の一撃に、伝説の武具たる魔剣の一撃に、魔人でもないただのハニー風情が一度たりとも耐え切れるはずがない。

ハニ子は魔人の中でさえ鼻つまみ者とされ、ハニーの中でさえ恐れるものは多くとも慕うものなどほぼいない奈落の王に唯一付き従い彼を愛した存在ではあったが、しかし魔人は愚か使徒でもない存在で今のランスの前に立ちふさがるなど、無謀以外の何物でもなかった。
どれだけ愛を語ろうと、どれだけ真摯な思いを抱こうと、ランスの前ではそんなものなどゴミの役にも立たないのだから。


だが、その事実―――何の役にも立たずにあっさりとハニ子が割られたということ―――はまったくの無意味、無価値ではなかった……少なくとも、ランス達以外には。
その音に、今まで動きを見せなかった赤褐色の巨体がようやく僅かに動いたのを、ランスたちは察した。その者の気配もまた、ランスに負けず劣らず剣呑なものだった。
表情の分からぬ瞳と、丸くあいたままの口はハニーそのもの。だがそれは頭部に位置する一つだけではなく、その体そのものがいくつものハニーで構成されているようにも見えるほどの異形。
ところどころ盛り上がり、そこからはプチハニーが零れ落ちているその巨体は、ランスの2倍以上は優にあるように見える。
手に持つ武器も、ぱちぱちと迸る紫電も、口内より今すぐ放たれそうなハニーフラッシュの波動も、全てが普通のハニーとは桁違い。

そんな巨体が唯一の理解者であるハニ子を割られて怒ったのか、今までの無反応から一転変わって、突如咆哮を上げた。

その名は……魔人ますぞえ。


『くっくっくっくっく、さあ、相棒。心の友よ! 魔人を切ろう。魔人を殺そう。魔人を壊そう! わしに魔人の血を味わわせろ!』
「おうよ、さあ、とっとと死んで経験値となれーー!!」


真なる奈落の王にして、今日のランスの獲物だ。




[29583] 雅楽
Name: 基森◆8cb04620 ID:0593a267
Date: 2011/11/22 23:26

奈落の王、魔人ますぞえの武器は、主に二つ。
手に持つ武器であるトグロット―――殺害されたハニーの怨念を集めたトライデンをつかった、相手の行動を封印して制限する差し押さえシール。
そして、ハニーフラッシュとしての特性と魔人ゆえの強大さ持つますぞえフラッシュ。
この二種だ。

相手を弱体させ、自分の強力な攻撃をぶつける。
魔人最強の魔法力を持つレッドアイの攻撃さえ完全に無効化するハニー種族ゆえに保有する特性・絶対魔法防御とあいまって、それは彼を魔人の中でも一際強大な存在として印象付ける。
攻撃は強く、防御は硬い。
ケイブリス派もホーネット派も味方に引き込もうとし、それでも断わって、未だに独自の地位を保ち続けている。
それは人に封印された上にその性格ゆえに見下され見捨てられたザビエルや、雷を自在に操る強大な力を持っていながらケイブリスの力に屈した「怒れる王」レイでさえも出来なかったことだ。

どの魔王に作られたのか、一体どういう経緯で魔人になったのか。
そういったことを一切語らずただひたすらに己が領域に篭り続ける魔人は、しかしその態度とは裏腹に魔人屈指の実力者でもあったのだ。

ならば、その魔人に対して魔剣を持つとはいえ、たった一人で挑んだ男は、一体何と評価すればいいのだろうか?




『……“ますぞえフラッシュ”!!』
「……ちっ、鬱陶しいんだよ、ハニワが!」


ハニーフラッシュというハニー種族に与えられた独自の攻撃手段は、二つのおそるべき特性を持つ。
一つは、絶対命中。どれだけすばやく動こうと、どれほど距離が離れていようとも、その衝撃は絶対に命中する。たとえ世界最高峰の戦士であろうとも、最弱のハニーの攻撃でさえ避けられないのだ。魔法でもないにもかかわらず、彼らの攻撃が忍者の天敵と呼ばれる所以である。
そして、もう一つの特性が防御無視。伝説級の防具で身を固めたとしても、ハニーの攻撃は阻めない。魔法で防御壁をつくろうとも、その全てを貫いてくるそれは、体力の低い魔法使いなどには致命的な攻撃だ。

実際に、下位のハニーの放つそれならばさておき、スーパーハニーや凶悪ハニークラスの放つそれを普通の冒険者が耐えられるはずがない。
彼らのその攻撃に対応する方法はただ一つ。耐久型のスパルタやガード職による圧倒的なまでの生命力を使った肉の壁だ。
ただ、耐え切る。それしか方法はない。

しかし、ますぞえの放つますぞえフラッシュは一度に数発が放たれる上に魔人故に強大なもの。一撃や二撃ならばさておき全てとなると、それこそ、同じ魔人でもなければ耐えられまい。
世界最強の一角を築く魔人にたいして、人類が出来ることなどほとんどないのだ。


「そんなモンが俺様に効くかーー!!」
『っ! オオオオオオォォォォ』


しかしランスは、それに耐え切った。
確かに全身は傷ついており、そのところどころからは血も流れている。
言葉とは裏腹にしかめられた顔には、その攻撃が彼をして決して小さなものであったわけではないことを如実に証明している。
だが、それでも彼はたった一人で、神官による回復もなく、耐え切ったのだ。

叫ぶ声は確かに自身を鼓舞するハッタリという側面がほとんどだろう。だが、同時にそれは心底ランスの本心でもあった。
圧倒的なまでの高レベル。それによって彼に神から与えられた圧倒的な生命力がその必殺の攻撃を、致死の連撃を、「ただ痛い」だけの攻撃に成り下がらせた。


『オォォオオオオオォ……』


そのありえない状況におもわず動揺したのか、ますぞえが叫ぶ。
もともと思考の読めない魔人ではあるが、戦場において必要なのはそんな細やかな感情を細かく読み解くのではなく、相手の大雑把な思考とそれに基づく行動が読めればいい。
瀬戸物ゆえに分かりにくい表情と声音だが、ランスとカオスにはそれに恐怖の声が混じっているようにも聞こえた。
勿論、それが間違っている可能性は極めて高いのであるが、それがどうしたというのか。


「へっ、雑魚が! 所詮魔人になってもハニーはハニーだな」
『クカカカカ、そんなことをいえるのはアンタだけじゃろーがな!』


その内心の思い込みと勢いを生かして、ランスは急加速して一気に間合いを詰めながら剣を振りかぶり、技を放つ。


「喰らえ、俺様スーパー列車斬り!」
『……っ!!』


もはや技と呼ぶのもおこがましい純粋な力ずくによる横一線に振り切られた攻撃は、しかし低レベルの剣豪なんぞが熟練によって放つ技術とは比べ物にならない高威力で、その黒い魔剣の通り過ぎる範囲の全てをなぎ払った。

当然、その範囲内に含まれる赤褐色の巨体にも、それは命中する。
鋼をも断ち切るランスの剣は、しかし硬質の音を立てて止められた。
今まで全てを巻き込み、吹き飛ばしてきたランスの一撃に、それは確かに吹き飛ぶことはなかった。ランスが思い描き、その空想の具現を願った必殺の一撃は、魔人たるますぞえの前には確かに必殺ではありえなかった。

が、ますぞえは吹き飛びはしなかったもののその衝撃を受けてたたらを踏み、数歩後退している。
効いている。ランスの一撃は、確実にますぞえにダメージを与えていた。
神に与えられた無敵結界を、ハニー種族ゆえの絶対魔法防御を、上位ハニーたる凶悪ハニーの能力値を、全てを踏みにじる魔人の力を、ただの人が放った一撃が下がらせたのだ!


「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ねーーー!」


それに調子に乗ったのか、ランスは勢いに乗ってかさにかかって責めかかる。
でたらめな運剣だ。少なくとも、そこに真っ当な剣術があるとはとうてい思えない。

剣を振り下ろしたかと思えば跳ね、かと思えばいきなり体重を乗せて突きかかる。首を狙った剣を途中で強引に止め、その直後腹部に向かって再度侵攻する。
全て首や目といった急所を狙った必殺の一撃だが、それが阻まれたとしても意にも介さず、防がれそうなら剣筋がぶれるのさえ厭わず、ひたすらに攻撃を続ける。
普通の人間ならば、こんなことなど何の意味もない。相手に動きを読ませないという利点以上に、元々剣術という長年の経験によって積み重ねられてきた理にかなった動きを無視することによる不利益の方が多いに決まっている。
こんなでたらめな運用では、筋力や重力の助けを借りることがほとんど出来ないのだから。
だからこそ、普通は剣術といった理にかなった戦闘方法が使われ、それが共通の認識となっているからこそ攻撃の軌道先の読みあいによる硬直状態、千日手が戦場において生まれるのだ。

が、それら全てはランスには関係なかった。
剣術も、読心も、気組みも、すべて無視してその誰よりも恵まれた身体能力によってそれを乗り越える。凡人の作り上げた、凡人の為の剣術の理など超人の彼には関係がない。
才能限界無限というレア中のレアスキルを保有する彼が、ただひたすらに命を奪い、女神に祈り、延々と戦い続けた成果としての魔人にも匹敵する身体能力だけが、それを可能として魔人を凌駕した。


ランスの振り下ろした黒剣が、ますぞえの持つトグロットに受け止められる。しかし、その赤褐色の巨体に相応しい絶大なる臂力に支えられたその魔人の力を前に、ランスの剣は拮抗して見せた。
人間と魔人の鍔迫り合いなどという現象が、この場では起こっていた。
そう、ランスはますぞえとの力比べで負けていないのだ……少なくとも、一方的には。


「遅いし、弱っちいぞ、魔人!」


それはもはや、人と魔人の戦いではない。
魔人であるが故に当然の力を持つますぞえはさておき、人間の持つ種族としての能力値とその延びしろである才能限界という成長を阻む二つの壁を乗り越えたランスのそれもまた、むしろ魔人や魔物の戦い方だ。
生まれ持った力、魔人となったときに与えられた力を最大限生かした、その者だけにしか使えない一代終結の絶大なる身体能力に基づいた戦闘法。ランスが使うのは、そういった力である。

そう。
その戦いは、「絶対の生物の力」対「人の技術と執念」ではなく、魔人と『超人』の単なる力と力のぶつかりあいだった。


「カミーラやあの糞ザビエルよりずっとずっと弱いじゃねーか!」
『違う違う、あんたがあのときより強くなりすぎてるんだ……って、うおっと! もうちょっと上手に扱えぃ、ラーンス!』


そして、両者が対等であるならば、力と速度と技がほぼ同等であるならば……ランスが負けるはずがない。

寿命を持たぬ魔人故にますぞえが積み重ねてきた戦闘の歴史は優にランスの数十、数百倍はあるものの、その中身の質という意味ではあまりに薄く低質なものだ。
魔人であるが故に自分より上位者は愚か、対等のものとさえろくに戦ったこともなく、無敵結界によって一方的に守られた上で一方的な弱者をその圧倒的な力で嬲り殺すことしかほとんどした覚えがなかったますぞえが、ここまで命を積み上げてきて上り詰めてきたランスほどの「自分より強者や対等者との戦い」といった経験を持ち合わせているはずがない。
人間出身であり自らが強くなることを今なお望みつづけて鍛錬を欠かさぬ魔人カイトのような日々を過ごしたこともなく、それこそ先日同じくランスに破れたカミーラと同じような生まれ持っての力を持て余す怠惰な生活をしてきたますぞえにとって頼るものは、魔王より与えられた力とスキルだけだ。

それを同等の力で封じられては……もはや彼に勝機などありえない。
魔人が強いのは、結局その能力地によるものなのだから。


『……“差し押さえシール”』
「うおっと、クソ面倒な!」


だからこそ、徐々に押され続けている状態においても、ますぞえの出来ることはあまり変わらなかった。
身体能力が対等というのであれば、別の力でひたすらに力押し。
力が封じられるというのであれば、スキルで人間を凌駕する。それが魔人の強さだ。
そしてそれは、ある意味魔人という力に満ちた存在が行う方法としては極めて正しいものでもあった。

叫びとともにますぞえは相手の行動を制限する赤札をトグロットから突如何枚も生み出し、それをランスに向かって吹き付ける。
光の乏しい闇の空間の中でますぞえの体と同色のその札は、まるで赤い彗星のように宙を裂いて飛来した。
広範囲における攻撃であるそれは、流石のランスもかわせない。
まとわりついてきたそれは、濡れ落ち葉のようにくっついて離れない。完全に動きを封じるほどのものではないにせよ、ある程度の動きが制限されることは間違いなかった。


『っ、解除にはちっとばかり時間が掛かるぞい、ランス!』
「いるか、そんなもん。その前にぶっ殺してやる」


しかも、何らかの呪術的な性質を帯びているのか、容易には剥がせそうにもなかった。強度も高そうだ。

利き手である左手の二の腕辺りの一部が引きつり、封じられたのを感じて、ランスは舌打ちをした。それでも、カオスの焦ったような声には強がりで返す。
だが、それは確実にランスの体に障害を残した。気合で打ち払えるレベルではなく、これでは全身全霊を持って終わりの一撃を放つ全力の斬りは放てないだろう。
ますぞえにとっては極めて戦略的に正しい攻撃を前に、ランスの持っていた余裕が消えた。

カラーの女王が使うものとはまったく性質の異なる、直接戦闘用の呪いによる、回避不能、防御不可の広範囲制限。おそらく、大陸最高の呪術師を自称したパステル・カラーにも瞬時に解呪は不可能だろうし、彼女の掛けられる最高の呪い、禁欲モルルンを受けていたとしても、おそらくそれを貫通してくるだろう。

魔人ゆえの力を持つ非常に強力なスキル。強力なハニーフラッシュ以上に厄介な攻撃。

しかも、時間経過で解除されそうな気配がまったくない以上、このまま戦いが長期戦の形相を見せたときに受け続ければ、何一つ出来ない状態まで全身を封印されることになる。そうなれば、待つのはなぶり殺しだ。

短期決戦。それしかない。たとえそれが、リスクを抱えたものであったとしても。
ランスとカオスの思惑は、一致した。


「ちっ、しゃーねー。久しぶりだが、気を抜くなよ、カオス!」
『お前さんこそ、自分で自分をふっとばしたりしたらおもいっきり笑ってやるわい』


ますぞえが振ったトグロットの強烈な勢いをカオスで受けながら、ランスはその反動で一気に飛び下がった。数メートルは飛んで、後方に着地する際、具足と大地がすれる音が大きく響いた。
片手が不自由であるが故にその着地は完璧なものとはいえなかったが、しかし大きく体勢を崩すようなものでもなかった。
だからこそ、ランスは必殺の一撃をそのまま放つつもりとなった。

一瞬、間合いを詰めるべきかそれともますぞえフラッシュを連発するかあるいは差し押さえシールを再度放つかでますぞえが戸惑っているようにも見えた。が、その判断は僅かに一瞬。


『“ますぞえフラッシュ”!!』
「くっ……」


ますぞえの腹部の巨大なハニーの顔から、再度不可避の衝撃が放たれる。地を削って前に進むそれは、ハニーの域を超えて巨大で強力なものだった。

どれだけ距離が離れても、どれだけ回避を心得ようと、ハニーフラッシュは避けられない。
それを痛感しているランスは、だからもはや回避を試みようともしなかった。

そもそも、ランスという男は、自分以外の「最強」を許すほど寛大ではないのだ。
絶対命中、防御無視。上等だ、全部受けきってやろうではないか。
そんな心持だった。


はわわーーーー
『“フラッシュ”! “フラッシュ”! “フラッシュ”! “フラッシュ”!!』
「うっ、ぐっ、つぅ、くぅぅ!!」


ただひたすら、ランスは身構え、苦痛に耐え続ける。
高レベルゆえに膨大な生命力が、それでもなお一撃ごとに大きく削られる。もはや、過半数を割ったそれに余裕はない。このまま受け続ければ、人とは思えぬ域にたどり着いたランスとてこの場で息絶えることとなるであろう。
だが、それでもランスは動かない。
きたるべき、『必殺』のために。

ただひたすらに己のうちに篭り、体内の闘気をかき集め、奪ってきた他者の命、経験値を力に変換する作業を続ける。
身体能力を上げる神への捧げ物は、ランスの中でひたすらに溜め込まれていたそれは、やがて一定の流れを巻き起こし、渦となって彼の体を巡り始める。
神でもない身で命そのものの欠片であるそれを操作するのは、剣戦闘レベル2を持つ天才たるランスをもってしても非常に困難なことだ。
レベルがある程度まであがるまではそもそも使うことさえ出来ないし、実際にそれの制御に失敗して、溜め込んだ経験値のほとんどを失ったりレベルダウンしてしまったことは一度や二度ではない。加えて、それを伝わらせる剣が耐え切れずにへし折ったことだって数え切れないほどもある。
だからこそそれは、カオスを手に入れるまではほとんど使うことも稀となっていたものだ。
必要がなかった、ということもあったが、確かに使いこなせてもいなかったのは事実なのだから。

だがしかし、もはや彼はかつての彼ではない。規格外のレベルはどれだけ闘気を集めたとしても容易に耐え切れるだけに肉体を変革し、数ある経験はやがてその高難度の操作さえも自在に可能とした。
そして、彼の手にはある意味魔王と同等の品であり、彼の全力全開に耐え切れる武器である魔剣カオスがある。


それでもなお、リスクは残る。全てを整えた上で行ったとしても、以前消しきれぬ巨大なリスクはそのままに……しかし、それを超える自信が、ランスにはあった。

故にこの場で放たれるのは、彼の代名詞でもあるよく知られた必殺技、ランスアタックではない。
バイ・ラ・ウェイや武舞乱舞、疾風点破といった『才能ある人間の必殺技』と同等に並べられてしまうようないつもの普段使いの技ではない。


『来たぞ来たぞーー!! わかる、わしに力が集まってくるのが分かるぞ、ランス!』
「ふん、無駄口を叩くな、気合を入れておけよ、カオス!」
『おうともさ! さあ、魔人め! 魔王の下僕、人類の敵め! 今こそ、死ね!!』
「お前が偉そうに言うな、殺すのは俺様だ!」


一点に、カオスの黒い刀身に集まっていた力が、やがて臨界を迎える。
ますぞえの強力なハニーフラッシュがまるで児戯にも思えるほどの力の片鱗が、見え隠れしながら迸る。
ついに準備が終わった。後は放つだけだ。

ますぞえは動きを見せない。ただひたすらにハニーフラッシュを放ち続ける。
気付かないのか、それとも気付いていて必死になってその完成を防ごうとしているのか、その無表情からは読み取れない。

だが、苛烈なまでのその攻撃でさえ、ランスを阻みきることは出来なかった。
そしてそれがもう、永遠を誇った魔人にとっての最後の時間だ。


「さあ喰らえ、俺様の最強必殺技……」


準備が整ったランスは一気に間合いを殺し、痺れる左腕を無理やり押しやって、両手で思いっきりカオスを振り下ろしたと同時にその「必ず殺す技」を発動させた。

彼の名はランス。

孤児であったランスに姓はない。名だけだ。
だから彼を呼ぶとき、人は生まれや身分で彼を呼ぶことはない。
呼ばれるのは、畏怖と恐怖とともに語られる傍若無人、絶対の強者の名前。

鬼畜戦士。

その彼の代名詞こそが、ランスが今まで築き上げてきた歴史そのものであり、苗字の変わりだ。


「鬼畜、アターーーーーック!!!!」
『“フラッ”……オ……オオオ……オオォォォ!!』


その名を冠した、全てを押し通す強大な意志と力の奔流は、魔人たるますぞえの攻撃さえも飲み込んで、その大海の中へと沈めていった。




[29583] 晴嵐
Name: 基森◆8cb04620 ID:0593a267
Date: 2011/11/26 10:27

彼女にとって剣を振るということは、剣を取って強い、ということは一種の信仰だった。

朝日に照らされながら大気を切り裂く素振りを放つ一人の少女がいた。
少女が剣を振るたびにその髪が揺れ、汗さえもこぼれる。息は荒く、肌は上気していた。
早朝という時間を考えると、いかに彼女が長時間、この場において剣を振り続けたのか、ということがまるで目に見えるような情景だ。
皆が寝ている時間でも意にも介さず早く起き、誰にも見つからないようにこっそりと隠れて、しかし長時間真剣に鍛錬を行った、その証だった。


「ふっ、はっ、やっ!」


剣閃は、早い。
まるで閃光のように煌き、一瞬で元に戻り、再び跳ね上がる。
風を切って振るわれるその剣風に吹かれたのか、一枚の葉がそこに舞い込んだ。
少女はそれを見て僅かに笑顔を浮かべて、剣を再び放つ。
間合いに入った葉は、その剣の巻き起こす風に乗ることも出来ずに、綺麗に半分に分かれて二つとなってひらひらと大地へと落ちていった。
才能任せでは決して振るえない、努力の跡がそこには隠し切れないほど光っていた。
しかし少女は、切り裂いたその成果にはもはや微塵も興味がないとでも言わんばかりに目もくれずに、再び素振りを開始する。
成果を生むのは、たゆまぬ努力であることを彼女は知っているのだから。


幼い頃「剣を取れ」と命じる神よりの天啓を受け、それにしたがって彼女は生きてきた。
そして、血の滲むような努力の成果とはいえ、その努力に相応しい結果を出してきたことに彼女は確かな満足を覚えている。
凡百の普通の人々に比べると初めから神から成功を約束されている自分の努力は容易いものではあるであろうとは思っているが、それでも自分が磨き、築き上げてきた力は彼女の中では紛れもない正義だ。

がさり、と突如彼女の横に位置する藪が音を立てる。
極限まで集中していた彼女はそれを事前に察することなど出来ず、音がしてから慌ててしまった、といわんばかりに肩をすくめてそちらに対して視線をやった。

彼女は自身の力を自負してはいるが、同時にそれを築いている努力を他人に見られることは好まない。
水鳥はあくまで優雅に泳ぐべきであり、水面下で動かしている足を見られることは美しくないとするその感性からは、この鍛錬を見られるということは非常に好ましくないものだ。
凡人よりも才能に恵まれ、凡人よりも鍛錬を行い、そしてそれを凡人に気付かせないからこそ己は天才である、と誇るのである。

だからこそ、その己の力を上回る人間に対しては、彼女は嫉妬だとか尊敬だとかいった正負どちらにせよ、心を動かさざるをえない。


「えっ? ちょっと、ランスさま。いったいどうなさったんです?」


故にこっそりと城の外の森で日課の鍛錬を行っていたところに彼女に一番興味を抱かせている男が血まみれで現れたときには、自分の鍛錬をまたも見られてしまったことと、よもやランスがこれほどまでの傷を負うとは、という両方で心底狼狽した。
そしてその狼狽は、その男が自分に抱きつくかのように倒れこんできたことで頂点へと達した。

彼女の名前はチルディ・シャープ。
幼いころに神から受けた『お菓子職人になったら大成するよ』という天恵を、何をどう間違ったのか『剣をとりなさい』というものであると勘違いしてしまって騎士を目指したが、何の因果かそっちの才能もあったためにそれなりに騎士として成功しているといういろいろ才能に加えて幸運と不運の両方に恵まれた少女である。







チルディはリーザス王国金の軍、リア女王親衛隊の小隊長である。
新興勢力であるコパcityや小国であるパランチョ王国とは違い歴史ある大国の親衛隊に入る、ということは並大抵のことではなく、その中でも長と名の付くものに任命されるのはさらに限られたエリートだ。
身体能力や学力のみならず、身元の確かさから思想の安定性は愚か外見のよさなどまで考慮されて選ばれるその狭き門を潜り抜けたチルディは、当然ながらそれなりに頭も回る。
だからこそ、この場においても比較的正しいと思われる選択肢を即座に選んだ。


「ふう、それにしても重たいですわね……わたくしももうちょっと大きくならないものかしら」


その第一の選択の結果として、とりあえずチルディは彼女を見つけた瞬間にまるで倒れるように気を失ったランスを城の中に引っ張り込んだ。
男性と女性という性差に基づく体格差と、ランスが身につけた超一級の武具の重さは、体の小ささゆえに今一歩伸び悩んでいるチルディには少々厳しいものであったが、それでも流石に騎士を目指して日々鍛錬を続け、現在レベルも高い彼女にとっては無理な労働ではなかった。


「さて、と。どちらにお連れすれば……って、まあこの場合考えるまでもありませんわね」


門を潜り、どこに運び入れるのか、ということを少し考えたあと、彼女は進行方向を決めた。

目指したのは主君であるリア・パラパラ・リーザスの私室だ。あいにくその部屋の主は今は政務の為リーザス城にいってしまっているが、それはこの際あまり関係ない。
重要なのは、怪我をして気を失っているランスを運び入れる際にどこに運ぶのが一番自分のメリットになるのか、ということだ。

ここでメイドなどを呼んでランスの看病を任せて自分は去ってしまう、ということは論外。
かといって、あの場所で膝枕などして待っていた場合、そのまま何事もなく目を覚ませばランスからチルディへの好意と行為が発生するかもしれないためそれはそれで悪くないが、ランスが致命的なダメージを受けていた場合神官系魔法を一切使えないチルディだけでは万が一ということがありえてしまう。
自身も相当な剣士であるチルディの目からすれば、ランスにそこまでの傷はないように思えるが、それでもランスという存在の大きさを考えては念には念を入れてそんな危ない橋は渡りたくない。

となれば、自分だけランスの好感度を稼ぐことはもうすっぱりと諦めて、誰かと協力してランスの看病をするしかない。ならば、治療の出来る場所に行くのが得策な訳だが、彼女の立場的にはゼス市民の看護婦プリマやAL教の上層部であるクルックーのところに運び入れるのは不味い。
自由都市であるレッドの町所属のセルやフリーの冒険者であるノアならばその心配はないが、同時に彼女たちはこの城の正規の住人ではなくあくまで通っているだけなので、少々探すのに手間が掛かる。
そのためにうろうろしていれば、マジックやコパンドンといった他の己よりも身分の高い住人に見つかり、横取りされるかもしれない。
あと、一応回復魔法も使える上に居場所もほぼ固定されている大魔女フロストバインは……正直なところ腕前と人格の両方の意味でイマイチ信用できない。


そういった危険性を考えると、彼女の所属上運べる場所は結局ひとつしかない。
すなわち、大陸一高貴な身分であるリアのためなどを考え、常に神官が常駐しているリアの私室だ。
立場上ランスの機嫌を誰よりも取っておきたい陣営の一つであり、さらに自分が所属している。親衛隊の小隊長であるチルディの採りうるものとしては自然なものであり、しかも主君の覚えもさらによくなるであろう。


「あそこなら、かなみさんにも連絡していただけるように伝えられるでしょうし……リアさまもきっと飛んで帰っていらっしゃいますわね。ふふ、それまでわたくしが精一杯看病させていただきますわね、ランスさま」


結果それは巡り巡って自分の利益になるであろう、という打算の結果ではあるが、同時にそれは誰一人傷つけることもなく、誰一人困ることもない非常に平和的な選択肢だ。喜ぶ人間はいても、悲しむ人間はいない。事実を知れば悔しがる人間ぐらいは出るかもしれないが、このこと自体をこっそりリアの私室の中で納めてしまってばれなければそれさえない。

看病を行う環境としても最上のものを用意出来るであろうし、何よりリアとマリスが喜ぶ。だから彼女は迷うことなくランスをリアの私室へと運んだのである。
こういった気の利きようが、あの大国の女王として相応しい威厳と冷徹さと高慢さと有能さを持つリアをしてチルディがそこそこ評価される一因だった。


が、彼女はその恵まれた才能とは裏腹に、運が微妙だった。
勿論、順調に出世して実力をつけてきている彼女のことだ。運とて決して悪くはない。悪くはないのだが……何かと思い通りにいかないのだ。


「え……おじ様!」
「(……見つかってしまいましたわ)」


そのことを改めて自分で痛感した彼女はこっそりと溜息を一つ吐き、その突然掛けられた声の持ち主の方へと視線をやった。
ランスを運んでいるチルディを見て大きな声を上げた少女であったが、その声量とは裏腹にチルディの視線が己に向いたと知るや否や、すぐさま目線を下げてうつむき、もじもじと手遊びを始めてしまった。
声音に聞き覚えはあっても、よもや彼女があれほどまで大きな声を出すとは思ってもいなかったチルディは、その態度に見つかった相手がまぎれもなく自らが知る彼女であったことを確信できた彼女の態度に落ち着きを取り戻した。


「アールコートさん、ちょうどいいところにいらっしゃいましたわ。ちょっとお手伝いしていただけませんか? ランスさまが大変なことになってますので」
「は、はい……ああ、おじ様。一体どうして」


整えられた癖のない紫の長い髪と、その華奢な体はまるで荒事を得意とする冒険者には見えず、背伸びした女学生そのもの。しかしその外見とは裏腹に、彼女もまた巨大な獣を内に秘めている―――目先の先にいたのは、そんな少女だ。
そう、見つかったのが目の前の気弱そうな少女、お肉屋さんの娘ながらランスが気紛れで出した『アレ長おじさん基金』によって士官学校に入学し、首席で卒業した少女、アールコート・マリウスでよかった、と彼女は感じていた。

よっ、とちょっとだけ気合を入れて改めてランスを背負いなおしたチルディを見て、慌てて後ろに回ってその非力な細い腕で一生懸命ランスの背中を支えようとするその様からは、尖ったところがまったく見受けられない。
改めて、このリーザス陣営とゼス陣営、Japan陣営などといった対立関係にある人間の部屋をそばに置かず、その間間にこういった無害な人間を配置したメイド長の采配の非凡さを感じるチルディは、背面のアールコートに対して思いを馳せた。


アールコート・マリウス。
ランスを慕っている彼女であるが、その方向性はあくまで援助し、自分の窮地を救ってくれた恩人に対する感謝であって、性愛を含む恋慕にまではまだ至っていない。そしてランス自身も彼女とのそんな淡い恋愛とも言えない何かを楽しんでいるようで、決して強引にそういった行為には持っていかないようにしている……最近はさておき、少なくとも以前は。
彼女自身の争いを好まぬ穏やかな性質から考えて、たとえ恋慕が生まれたとしてもあの主君や大富豪、王女を押しのけてまで争奪戦に参加することなどあるまい。

また、リーザス士官学校を首席で卒業した彼女であるが、その才能はチルディの目指す直接の戦闘力、現場での指揮官としての能力ではなく、むしろ後方での分析、立案を得意とする軍師としてのそれだ。
彼女の才能自体は実際に冒険の場にて何度も見て、ひとかどのものどころか百年に一度の天才と呼ばれても過言ではないとまで思わされたものだが、そういった才覚の持ち主はチルディの役に立つことはあっても、邪魔にはなるまい。むしろ、お互いに協力し助け合って共存共栄を図りたいものだ。

おまけに彼女はリーザスの国民であり、さらに士官学校を卒業後ランスに恩返しをしたいあまりに主席卒業という輝かしい経歴を捨ててまで冒険者としてランスの仲間に志願した……要するにそれは、未だどの国にも入っていないリーザス在住のフリーの冒険者だということでもある。

つまり、どの方面においても現状において彼女とリアやチルディの利害が相反することはありえない、とチルディは出会った一瞬で分析していた。
いや、それどころかむしろ彼女の力は、リーザスにとって……


「ふう、アールコートさん。申し訳ありませんけど、私の腰の袋からこの部屋の鍵を出していただけます? ちょっと今手を伸ばせなくて」
「あ、はい」


だからこそ親衛隊の小隊長―――今回のこのランス城における親衛隊の長であるからこそリア(というよりマリス)に預けられている予備の鍵を使ってリアの私室の鍵をあけてもらうことにもためらいはなかった。
たとえランスを背負っていてバランス上うまく運ぶことが難しくなったとしても、チルディは彼女以外のものに見つかったのならばその王の私室の鍵を開けさせることはなかったであろう。

扉をアールコートに開けてもらってそこにはいることに成功したチルディは、更なる奥の扉も同じように開けさせる。そここそが彼女の目的地、リア・パラパラ・リーザスの寝室なのだ。
その極上の天蓋つきの寝台にランスをそっと下ろして寝かせたチルディは、すぐ隣の部屋に控える不寝番の彼女の部下を呼びつけ、ランスに不快を与えぬように、誰かにこの秘事をかぎつけられぬように小さな声で、こまごまとした指示を下す。
そしてその合間合間に寝台のはたの水差しに新しい水を注ぎ、ランスの鎧を外して傍に纏めておき、その服を捲り上げて清潔な布で傷口を清める。そのあまりの手際のよさに見るだけだったアールコートも、ようやくその段階になっておぼつかない手つきとはいえチルディを手伝い始めた。
侍女頭のマリスの置いておいた気の利いたメイドもいないではなかったが、その者に命じるのではなく二人は自分達の手でその全てをやろうとした。

二人がかりでランスの上体を起こしその埃と汗と血にまみれてどろどろになっていた衣服も脱がせる。その作業で少しばかり寝台が汚れたが、アールコートはさておき主君の寝台を勝手に使用した挙句に汚したにもかかわらずチルディは気にもしなかった……そしてその感覚は、まったくもって正しい。
ランスのために必要であったそれは、リアをして気に求めないであろう程度の些細なことだ。マリスとて少し眉根を寄せはするかもしれないが、それとて数秒後には消えるものであろう。


「お手伝い、ありがとうございました」
「いえ……そんな」


故にそのシーツがこっそりと時間を掛けて丁重に、しかしランスにはいささかの不自由もかけぬように細心の注意を払って交換されたのは、リア付の神官がランスを診断、治療し、「ただの疲労が蓄積されて気力が限界に達しただけだ」という診断を下したのちの一時間後の話であった。それまで、王の寝台に汚れたシーツが置かれている、という異常事態は続いたのである。
全てが終わって他の者全てを下がらせて枕元に侍る二人の体にはそれなりの疲労感があったが、それは同時に協力して事を成し、そして大過がなかったことによる満足感も同居していた。

理由は若干違えど、両者ともランスを好いていて、またここで死なれるわけにはいかなかった彼女たちには一つ冒険を終えたときのような仲間意識さえ芽生えはじめていた。


「……チルディさん。その……おじ様は、どうして……」
「それがわたくしにもわかりませんの。ただ突然目の前で倒れられたので」


故に彼女がアールコートにかけるのは、優しげなものだった。
元々彼女とアールコートはほぼ同年代ということでそれなりの付き合いがあった。勿論、趣味思考その他がほとんど正反対といっていいほど食い違っているのでそこまで親しく付き合っているわけではなかったが、それでも一緒に温泉にはいって会話をしたりぐらいはする。
だからこそ内気なアールコートであってもランスへの思いを胸に抱けば他人に声を掛けられたのであろうが、残念ながらチルディもその答えは持ち合わせていない。


「その……心配なんです。最近、おじ様いつもダンジョンに一人で向かっています。私とあまりお話しもしてくれないですし」
「本当ですわね……何度かご一緒させていただこうとしたこともあるんですけど、ちょっとわたくしではついていけませんでしたし」


思いつめたような声でこちらに対して思いのたけをぶちまけてくるアールコートに対して、チルディも溜息とともに同意を示した。

最近自暴自棄にも見えるランスを心配している者はこの城には数多くいるが、実際にランスが何をしているのか、ということを知っている者はそう多くない。
なんといってもランスは高難度の複数人で組んでも進むのが難しいダンジョンをたった一人で身軽に、尋常ではない強さで踏破し続けているのだ。
罠や戦闘、環境といった面で他者の補助が得られない状態でたった一人でダンジョンに挑む場合の難易度はパーティでのそれの数倍以上に容易に跳ね上がる。ランスはそれを全て、力だけで食い破っていると聞く。

ランスと同じファイターではあっても、ランスほどの強さを持たないチルディではついていくことも出来ない。他者と組むことでその力を引き上げる軍師であるアールコートにしてもそれは同じだ。
それこそ、今ランスの行き先や行動をかろうじて把握しているものなど、JAPAN一の天才クノイチであり、探索・暗殺系に特化しているスカウトである幽霊の鈴女か、あるいはその教授を受け、肉体を貸与することで能力を鈴女と同等以上に引き上げることが出来るリーザスの忍者見当かなみぐらいであろう。
迷宮の最深部までもぐられてしまっては、もはや彼女たちでも追跡できないかもしれない。それほどまでにランスのやっていることはあまりにも無謀で無茶なことなのだ。


「……何か、したいことがあるんでしょうか。だったら」
「……」


その無茶と無謀の源泉を探そうとするかのように、アールコートが呟く。
少女ゆえの潔癖さで、思春期ゆえの純粋さで、彼女はひたすらに「愛しのおじ様」の為に自分が出来ることがないかと考え続けているのだろう。
同姓の目から見ても無垢で従順なその様は、普通の男を狂喜させるには十分なほどの愛らしさだ。

だが、それでも今のランスには届くまい。
リアの直近に侍る親衛隊の小隊長として、ランスの現状の理由をある程度は知っているチルディは直感的にそう思った。
シィル・プラインというのがどういった少女なのか、一体どんな態度でランスに付き従ってきたのか、ということをチルディは伝聞でしか知らない。
しかし、あれほどリアが憎み、ランスが荒れる原因となった少女がそこまで普通の少女ではあるまい、とは思っていた。

それを永遠に失ったと突きつけられた悲しみを癒すには、まだ彼女では足りない。
アールコートでは情報と歴史と時間がまだまだなのだ。


そう、分析したチルディであるが、それがそっくりそのまま自分にとっても当てはまることもまた理解していた。
己の力量に自信のあるチルディは、自分がリーザスでもっとも強い女である、という自負がある。
剣技ではリック・アディスンに劣るだろう。軍略では、バレス・プロヴァンスに敵いはしない。他にも、大国たるリーザスに数多くいる男の将軍には負けている部分も多い。
だが、それでもなお、少なくとも女という範疇においては自分がリーザス一だ。
それは客観的に現状を見れば正直思い上がり以外の何物でもないにせよ、彼女の中では真実なのだ。

にもかかわらず、ランスにそれを問うた際、彼には「レイラ・グレグニーの方が強い」といわれてしまった。
これは己が彼女ほどランスに対して媚びれなかった、そしてランスにも自分を知ってもらえなかった結果である、と彼女は思っている。
真実実力が及んでいない、というわけではなく、自分の実力をレイラほどにランスに見せることが出来なかった。いくつかの冒険をともにした彼女ほど、自分とランスの間には信頼関係がなかったということだ。彼女の中では、そうなる。

つまり結局、己もアールコートとあまり変わることはない。


「まあ、考えてもしかたありませんわ。いずれランスさまの方からわたくしたちにおっしゃっていただけるのをお待ちしましょう」
「……はい」


おそらく、ある程度はそういったことも推測できているのであろうアールコートに対して、チルディは無理に明るい声をかけて会話を終わらせた。
リアが帰ってくるまではまだ少々時間があるが、かといって現状では彼女を迎えるに相応しいほどの準備が整ったというにはまだ少々足りない。

ランスが目を覚ましたとき、おそらくこの場は桃色に染まる。
リアがなおのこと。彼女がその目覚めた場にいればそれが加速することはあっても押し留められることはないだろう。
それ自体には何の不満もなく、それどころか参加する気満々のチルディであったが、そのためにはまだいくつかしなければならないことがあることもまた、感じていた。


「とりあえず、ちょっとだけ鎧などの手入れでもしておきましょうか、見たところ結構汚れているみたいですし」
「あ……はい、お手伝いします!」


戦士としての心得の一環として、眠っているランスの側からシーツは変えさせはしても彼の武具を片付けさせることはなかったものの、それでも埃まみれの血まみれの鎧が情事のそばにあるのはあまりにシュールな光景だろう。
美術品にも勝る芸術性を持つランスの一級の武具をこのまま手入れせずにほっておくのも一人の剣士として好ましく思えなかったがゆえのチルディの提案は、ランスのために僅かでも何かを、と思っていたアールコートの思いにも合致した。
後の肉欲の宴を考えるに未だにランスに抱かれていないであろう彼女をそれとなく遠ざける機会を探すチルディの思惑通りに。

だから、とりあえず手入れの音がランスに響かないところまで鎧を運ぼうとして取り上げた瞬間に、差し込む日光に反射して凄まじいまでの朱色がこの部屋で煌いた。


「「え?」」


それはランスの鎧の隠しに入っていたのが動かしたことで外に現れたのだろう。
今まで彼女たちが気付きもしなかったことをあざ笑うかのようにそれは唐突に落下したかと思うと、部屋に敷かれた分厚い絨毯ゆえにわずかばかりに弾んだだけで転がっていくこともなく音もなく静かにその場に鎮座した。

だが、その小さく無音のそれの存在は、そんなものだけで気にも留めずに忘れ去れるようなものではなかった。

ランスの装備していた鎧の隙間から転げ落ちたもの。それを見てアールコートは目を丸くし、チルディはそのつややかな唇を震わせた。
二人の瞳には驚愕が映っている。
それも、無理もないことであった。

落ちたのは大粒の宝石だ。少女らの握りこぶしほどの大きさで、完全な球体をしている。
その大きさと表面の磨き上げられたすべらかさを考えると、安価なものであると考える方が間違っているが、問題はそこではない。


「これは……まさか」
「そんな、おじ様が……これを」


そう、それは血の色と不壊の力に染まった真紅の宝石だった。
邪悪な波動と無味乾燥な思念を垂れ流し続ける悪意の結晶だった。

チルディは高級士官としてリーザス上層部よりの情報によって、アールコートはその類稀なる知力でいくつもの文献を紐解いて暗記している結果として。
地上でもっとも貴重な宝石の一つであるその正体を知っていた。

そう、それはただの高価な品ではない。それどころか、本当は宝石ですらない。
それは魔人の本質であり、魔王が与えた血の一部だ。
絶大なる生物の源となる魔王の力の一欠けらだった



ランスが魔人を切れる伝説の武器、魔剣カオスの所有者であることは二人とも知っていた。
彼が何人も魔人を倒した、と嘯いているのも二人は知っていた。
リアやマジック、香姫といった大国の王達が、それを正しいこととして話していたこともまた、知っていた。
だが、それでも何処か信じていなかった。

魔人を人間が倒せるわけがない。
魔人を人類が殺せるわけがない。
たとえ英雄だろうと、大国の王であろうと、世界一の剣士だろうと。

大陸に住む人間にとって、魔人とはそういう存在だ。
だが、この目の前にあるものはそれら全ての認識を一瞬で覆し、修正した。


魔血魂。

魔人の死をもって凝固するそれの所有はすなわち、魔人の打倒と同義である。
それがこの場にあるということは……


「っ……魔人を、おじ様が」
「……素晴らしい。素晴らしいですわ、ランスさま。最近の御行動に少々腑に落ちないことを感じておりましたが、このためだったのですわね」


魔人は倒せない。
魔王は殺せない。
この世でただ一人、ランスを除いては。
彼女達の中にあった先ほどの常識は、このちっぽけな宝石一つによって完全に打ち砕かれ、再構成された。


「……ランスさま。わたくしは今本当に心の底から、あなたのことを尊敬し、お慕い申しておりますわよ」


魔人をも超える強者、ランス。

その前人未到の記録を前に、アールコート・マリウスは事実を受けとめきれずに怯えたが、チルディ・シャープは笑みを隠しきれなかった。
彼女にとって剣を取ることは信仰であり、強いということは正義であった。

それゆえに自分を抱かせる男がこれほどまでの価値がある、ということにチルディはまぎれもない満足と尊敬を抱いたのだった。




[29583] 八咫
Name: 基森◆8cb04620 ID:0593a267
Date: 2011/12/01 21:20

全てを埋め尽くす閃光と爆音と衝撃の後、長年蓄積された埃と土とその他もろもろが大きく巻き上がっているさなか、二つの声だけが聞こえる。
それは、爆音の直後である為に逆にすべての音が死んでいる沈黙にいっそうよく響いた。


『お~い、ランス。生きておるか?』
「ふん、あたりまえだろう。お前こそひびとか入ってても今回からは二度とセルさんは渡さんぞ」
『何で!? ワシだってこんだけ体張って頑張ってるのに、どうしてそんなことを言うんじゃ!』


どちらも疲労か傷によるものか、声には若干力がない。それも無理はないだろう。

鬼畜アタック。
獲得した経験値、今まで奪ってきた魂の欠片を剣に込めて全てを吹き飛ばす、ランスの奥義。
地形さえ変えてしまったほどの衝撃をただの人の身で生み出した反動は、確かにランスに刻まれていたし、それを自分自身の体で生み出すことになったカオスにも、それなりの疲労を与えていた。
そもそも、あたりの光景を一変する爆心地のほぼ中央にいたにもかかわらず耐え切れている方が異常なのだから。

だが、その身を削ってまでも生み出した破壊の効果は絶大だった。
もはや音も光も振動も消えても余韻が残るだけのその場においても、破壊痕だけを見ればその威力の凄まじさは容易に読み解ける。
石畳の大地は大きく抉れ、周囲の壁は今にも崩れそうなほどに傷ついている。巻き起こった土煙がようやく落ち着いてきた今見えるものは全て、ほとんど壊れているかあるいは壊れそうなものばかり。
それが単なる余波によるものでないことを考えれば、未だ晴れていない土煙の中心、技の直撃を食らった場所に加えられた力がいかほどのものだろうか、もはや推測も難しいほど。

それが分かっているからこそ、ランスとカオスの声は疲労を滲ませた、しかしもはや戦闘が終わったかのような落ち着いたものだった。

凡人は愚か、英雄たちさえも置き去りにするランスの究極の力は、まぎれもなく魔人にさえ届くものだった。
そしてその証明が、そこにはあった。


「黙れ……それよりも、終わったか?」
『ああ……あそこを見ろ、ランス』


ようやく見えてきた視界に、一つの物体が飛び込んできた。
ふよふよと半端な位置で宙に浮かぶそれは、ランス達もかつて何度か見たことのある赤い塊―――紛れもない魔血魂である。すなわちそれは、ますぞえの確実な死を意味した。
もっとも大切なものを失ったことにより全てを怨み、憎み、殺意と憎悪にまみれた鬼畜戦士の鬼神がごとき一撃は、まぎれもなく魔人を打破することに成功したということを、その緋色の宝石は何よりも雄弁に語っていた。


奈落の王、魔人ますぞえは倒れたのである。


「ふん、ハニーでもいっちょ前にこれはあるんだな」
『まあ、魔人だしな。とはいえ、このまま放っておく訳にもいくまい』
「そりゃそうだ」


空中に浮かぶ、その魔血魂にランスが何の気なしに手を伸ばした……そのときに。
今までの狂った次元での戦闘をまるでぶち壊すようなものが飛んできた。


「あいやーっ!」
「魔血魂は僕んだーっ!」
「いいや僕んだーーっ!」


どこからともなく現れた何人ものハニーたちが、魔血魂へ群がりだしたのである。

そう、魔血魂を体内に入れることが出来れば、そのものは魔人となることが出来る。
それを狙って、このハニーたちは漁夫の利を得ようと虎視眈々と魔人が倒されるのを待っていたのだ。
彼らがきた方向を見るといくつもの割れた闘気の欠片が転がっているところを見ると、そのほとんどは鬼畜アタックの余波だけで壊滅したのだろうが、運と能力値のよかったごくごく僅かなハニーが生き残り、今争奪戦を演じているようだ。


「とりゃーっ」
ハニーパーンチ。
「あいたっ、うわーん」
「とう、魔血魂いただきっ」


醜く貧弱な争いだ。罵る言葉も繰り広げられる戦いも、全てが低レベル。先ほどのランスとますぞえの戦いのことを考えると、よくもまあそんなことが出来るものだとあきれてしまうほど。

だが、こんなハニーでさえ、魔血魂さえ手に入れれば魔人になる。
聖刀と魔剣以外では絶対に傷つかない24人の一人となるのだ。


「よこせ、奈落の王になるのは僕だっ!」
ハニーターックル。
「あっ、返せ! 僕が取ったんだぞ!」
ドタバタ、ドタバタ。


それを知っているからこそ、彼らは彼らなりに必死なのだろう。
たとえハイエナのごとき所業と罵倒されようと、誇りがないのかと軽蔑されようと、魔血魂さえ手に入れることが出来れば、全てがチャラになる。
自分も『最強』になることが出来るのだ。

そのハニーの一匹でもが勝利し魔血魂を飲み込めば、その瞬間に魔人が生まれる。たとえそれがますぞえに体を乗っ取られるだけになり自分の意思など速攻で消去されるとしても、万が一、億が一、己が魔人になれるかもしれない、というその甘美な誘惑はどこまでも弱者である彼らにとっては魅力的だったのだろう。

たとえ、それがありえないほど自分に都合のいい夢想だったとしても。


「とったーー!」
「……消えろ、お前ら」

ぱりーん


眼前で繰り広げられたその出来の悪い喜劇は、当然ながら疲れているランスの気に障った。
あっけに取られることさえ面倒だ、といわんばかりの面倒くさそうな表情でランスが振るったたったの一太刀で、そのハニワどもはことごとく割れ砕けた。


「あーーーー!」
「アイヤー!!」
『そりゃ、そうなるじゃろ……』


カオスの言葉もむべなるかな、それが当たり前である。
魔人を倒せるほどの強者が、なぜ彼らなぞに遠慮してボーっと見ていなければならないというのか。
相打ちであったというならばさておき、傷つき疲れているランスであってもこいつらをしごく簡単に蹴散らす程度の力など有り余っている。
ひたすらにうざったく、面倒で、空気を読め、というイライラした気分にはさせられても、それが理由でその魔人を殺した一撃が止められることなど、ありえないのだ。

だからこそ、そんな手段で魔人になったものなどほとんどいない。魔王からの直接任命以外で魔人になった存在なぞ、千年を生きるカオスをもってしても、たったの数例しかしらないのだ。


「これが魔血魂か」


無造作にそんな雑魚どもを蹴散らしたランスは、今度は邪魔されることなくその空中に浮かぶ宝石を掴んだ。
何人も魔人を倒してきた彼であったが、考えてみれば魔血魂をその手に握ったのは初めてかもしれない。

イラーピュにてレキシントンのものをつかんだことはあったが、今考えるとあれは柔すぎるし、色も違う。魔血魂ではなかったようだ。おそらく、万が一にもレキシントンの意識が消えぬよう、使徒であるアトランタが長年をかけて何か調整をしていたのであろう。
リーザスで倒したアイゼルとノスのものは戦争のドサクサとその後のジルの影響によってランス自身は確保していない。
ゼスに現れたジークのものも、ゼス側に完全に管理を任していた。Japanのザビエルは不快感から即座に魔王である美樹に消去させる為に手渡した。
それを考えると、彼自身が魔血魂を手にするのはある意味初めてだった。


「ふんっ……ぐぎぎ、生意気な。いっちょ前に硬いぞ。ムカツク」
『握ったくらいじゃさすがにどうにもならんか……かといって、ワシでも切れんとは』


握りつぶす。踏みつける。カオスで切る。
始めてみるような好奇心でいろいろと試行錯誤を繰り返してみたが、変化はない。流石に硬い。
ランスの力を持ってしても壊せないそれに、彼はそれなりに興味を持った。
元々、根っからの冒険者だ。こういったわけの分からぬアイテムは割と好きなのだろう。


「ま、とりあえず持って帰るか」
『そうじゃな……こんなとこに置いておいたらまたさっきみたいなことになるじゃろうし』


魔人の魂、という意味ではなく、単なる戦利品として扱うランスの態度は決してその希少性に相応しいものというわけではなかったが、別に問題はない。
これは彼がますぞえを倒したことで得た報酬だ。気に入れば珍重し、気に入らなければ売り払うなり大陸の端っこから投げ捨てるなり、好きにしてもいいものなのだ。
その結果として何処かで魔人が生まれようとますぞえが復活しようと、カオスならばさておきランスにはもはや興味がない。
何もしないならば放置するし、己の邪魔をするというならば再度殺すだけだ……たとえそれが、ハニーが魔人になるなんて生意気だ、などという言いがかりに近いような『邪魔』であったとしても。
ランスにとっては全て、己の自由に出来るものだ。

それにケチを付けられるいわれはないし、万が一そんなことされたとしても……関係がない。魔人をも超えるランスの力で、そんな愚かなことをぬかす輩を踏み潰せばいいだけの話だ。
故に広い地上に24しかない希少な魔血魂の一つを手に入れたとしても、ランスの態度はさして変わることはなく、普通に懐に収められた。
それを持って何をなそうと思うわけでもない、しかし他者にそれを渡すことなど考えもせずに実に自然な動きでランスはいつも通り戦利品を手にした。

それで、今回の冒険は終わりだった。


「しかし、少しばかり疲れたな……よし、城に帰って一眠りしてから乱交パーティだ。あ、お前はサーナキアちゃんのいる門の前にぶっさしておいてやるから安心しろ」
『だ~か~ら~! さっきからワシの扱い、なんかおかしくありません? 魔人を倒せる魔剣をいたわる気持ち、生まれてきませんか? ワシも参加させるべきじゃろ!』
「黙れ。ここに置き去りにするぞ」
『ぐ、ぐぐぐぬぬぬ……ず~る~い~、心の友ばっかり美味しい目を見て、ずるいぞい!!』


溜息とともに歩き始めたランスの足取りは、疲労のためか重い。彼の戦士としての類稀なる勘からすれば別に後に残るような傷ではないと分かっているにしても、もはや全身の傷を治療するのも面倒なのだろう。全身の損傷が睡眠という形での休息を求めている。
カオスと漫談をしているその声にも、疲れの色が見え隠れしている。


そして、それをすぐにでも癒してくれるような桃色の少女は、ここにはいない。
どこにも、いない。


だからランスは、胸の奥に眠るなんとも言いようのない空虚さとムカつきを眠気と疲労とともに押し殺して、ただ一人で帰路についた。それ以外、出来ようはずもなかった。
後に残るのは、破壊しつくされた大地と、僅かに残る陶器の破片だけ。












帰り着いて傷の痛みで気絶したとかそういうことはもう全然なく、ただ単に不眠不休で戦い続けたことに体が飽きが来たのか、まるでヘルマンの軍勢を一人で平らげた後にパラオ山脈を越えてきた後のように自分の女を発見した瞬間に眠ってしまったランスは、すでに一日近く眠り続けていた。
その大の字になって眠る体と大イビキからは、もはやほとんど激戦の疲れや傷の痛みなど感じられぬ、気持ちよさげなものだった。
強靭なランスの肉体は、たった一日の睡眠で魔人との戦いさえも忘れようとしていた。


「そろそろ起こして差し上げたほうがいいかしら……って、あら。もう着かれたんですね。流石は」


いい加減健康の為に起こすことを試みようか、とチルディが考えるほどに長時間眠っていたランスであったが、残念ながらそのチルディによる甘いささやきを耳元に受けて気持ちよく目を覚ますことはなかった。
その前に、乱入者が存在したのだから。

もはやゆっくりあけるのももどかしい、といわんばかりの音量で大きく扉が開け放たれ、それと同時に蒼白のドレスに身を包んだ美女が飛び込んで、まるで飼い主に出会った愛犬のように一直線にそのけたたましい音で僅かにまぶたを震わせたランスに向かう。


「ダーーーリーーーン!!」
「うおっ……リアか!」
「何処か痛いところはない? 食べたいものとかある? ああ、こんなに怪我しちゃって」


いや、彼女を乱入者と呼ぶのは少々おかしいか。彼女こそがこの部屋を割り当てられているものなのだから。
そう、リア・パラパラ・リーザスのお帰りである。
どうやら政務の大多数をぶっちしてリーザスからうし馬車を飛ばして帰ってきたようだ。

激しい音とともに甲高い声が突然発生したことで、いい加減眠りすぎて浅くなっていたランスの眠りは一気に吹き飛んだ。
もうその声だけで誰か寝起きにでも判別出来るぐらいの長さの付き合いになりつつある少女の乱入は、そもそもランスにそれ以上睡眠を許すつもりなど欠片もないらしい。
矢継ぎ早に放たれる確認と嬌声は、少々耳にきつい。おもわず寝起きのランスの顔がしかめられる。
だが、リアはそれを察することもなくまるで速射魔法のように立て続けに言葉を続けた。それは、誰か他のものに命じるのと同じトーンでランスの鼓膜に突き刺さる。


「……でも、大丈夫。すぐマリスに治させるから。マリス、マーリース!」
「はい、リア様。では、ランス殿。ちょっとお待ちください『いたいのいたいのとんでいけ~』」
「……いや、分かってるんだろうが、マリス。もう治ってる」
「ええ。ですがリア様のご命令ですので」


が、リアとは対照的な落ち着いた声を持つ美女―――神魔法LV2という稀有なる才能のみならず剣戦闘LV1まで持つ有能な神官戦士であり、リアの筆頭侍女であり、実質的には秘書とも共犯者とも言えるリーザス王国の陰の実力者、マリス・アマリリスは残念ながらそれを留めようとはしなかった。
リアのことだけを思い、リアのためだけを願い、リアのためだけに働く緑髪の美女は、そんなランスの不快感よりもリアの幸せだけをかなえるためにここにいる。
だからこそ、すでにほとんどの傷がふさがれていて意味がないとは分かっていても、ランスに対して回復魔法を掛けることだってリアが望むのであれば否はない。


「……」
「さあさあ、リア様。お話もよろしいですが、ランス殿がお待ちかねですよ」
「あ、そっか。ゴメンね、ダーリン。ちょっと待ってて」


とはいえ、彼女はとんでもなく有能だ。冷酷で残忍なリーザス女王であるリアが本気で頼りにするほどに。
そんなリアの他者を気遣わぬ己の為の態度を受けて、最近とみに凶暴化しているランスの顔に大きな不快感が走ったのをマリスは瞬時に読み取り、その怒りがリアのところに降り注がないように計算し、ランスの機嫌を取ると同時にリアの望みとなるようなことを即座に口に出した。

本来であればリアとて気付かないわけではあるまいが、しかしランスの側でのみ彼女は時に盲目だ。
感情を操り、表情を演じ、計算をめぐらせるそのリアリストな普段とは裏腹に、どうにも子供っぽい態度でリアは自分のドレスの胸元に手をかけ、一気に引き降ろした。
下着を着けていなかったのか、豊かな胸があっという間に外気に晒され、ぷるん、と震える。


「おお!」
「ダーリンは寝てていいからね。リアが全部してあげる」


そして妖艶な笑みを浮かべながら、しなだれかかってくるリアを見てランスの相好が見る間に崩れる。
ニヤニヤとした笑みをその大きな口元に浮かべている表情からは、先の不快感は跡形もなく拭い去られていた……マリスの思惑通りに。

そのまま二人ベッドでいちゃつく様をみて、マリスは満足げに笑う。
いちゃつくといっても付き合い始めの恋人同士が抱きしめあうような淡いものではなく、まるで蜜のように甘くてねっとりとしたものであるが、それこそまさにリアが望んでいたものである以上、マリスにとってこの結果は最上のものだ。


「チルディ殿、ご連絡ありがとうございました」
「いいえ、マリスさま。リアさまのお役に立つことこそが親衛隊員の勤めですから、当然のことをしたまでですわ」
「ええ、それはそうです。それでも、あなたの忠誠にはきっとリア様もお喜びになっておられますでしょう」


故にその結果を導いた功労者に対して評価をさらに上げることは当然のことだ。
実質的なリーザス王国の参謀である彼女に対してそうしてもらうことこそが、このリアとランスの逢瀬を企画した少女の望みでもあったことを考えると、実に的確な判断である。
二人の会話は、これ以上ないほど望みと答えが一致したスムーズなものだった。

形式的にはマリスは単なるリア付きの侍女頭である。
役職としては何一つ公的なものを持っていない、リアが頼む私的な役割である。
だが、少なくともリーザス城内において彼女を侮る者はいない。

リアがお気に入りの侍女である。その考えは正しい。苛烈で逆らうものには容赦のない暴君かつ名君である彼女の気に触らずに長年仕えることが出来ているほどに気に入られている彼女に対して害をなせば、どんなことが起こるのか。
そんな想像力のない者は城内にはいない。
だが、それだけで終わっているものも少なくはないが、それ以上に彼女を評価しているものも多い。少なくとも、チルディの知っている自分より上位の将軍で彼女を軽く見るような無能はそうはいない。あの俗物にしか見えない青の副将でさえ、彼女に対しては恐れはしても侮りはない。
それも当然だとチルディは思う。リアをのぞいたマリス自身の能力を考え、それが実際国政のどれほど多岐に渡るまで影響を与えているのか、少しでもまともな政治的センスを持っていればすぐさま理解できるはずなのだ。

だからこそ、単なる侍女に対しても親衛隊の小隊長であるチルディは礼を尽くすことにためらいを覚えなかった。


「ところで、マリスさま」
「はい」


故に声を潜めてマリスに対してさらに礼を尽くす……媚を売る。このリアの為にリーザスをもっともっと大きく、強くしようとする大陸一の陰謀家に。
そのチルディの態度をよくあるものとして受け取りながら、即座にマリスはチルディに答えて見せた。
その打てば返す返答とあまりに変わらぬ笑顔に同性ながらもおもわず背筋に走るようなものを感じながら、しかしそれをある程度は隠してチルディはランスに聞こえぬように声を潜めて言った。


「……ランスさまがなんと魔血魂をお持ちかえりになられましたわ」
「まあ……」
「先ほど落とされたのでなくしてはならないと思いお預かりしているのですが、いかがいたしましょうか?」


声を潜めたその内容の意味は、彼女たちにとっては明らかだった。
魔血魂は魔人を倒した証であると同時に魔人を知るための研究材料であり、さらに「人間が魔人になる」ための必需品だ。
どれほど大国の王たるリアが望んでも手に入れられない珠玉の結晶であり、同時に巨大な爆弾だ。これをもっていることで、魔物や魔人の使徒に付けねらわれることになるのはもちろんのこと、他国の侵攻を招くかもしれない。
戦闘力はさておき、立場的には一冒険者でしかないランスがもっていていいものではなく、またいくら強いとはいえ睡眠も休憩も必要とするれっきとした人間の彼一人でその宝玉を魔物の進行から守りきれるとも思えない。
ヘルマンによるリーザス侵攻の際、ランスが城内で倒した魔血魂の一つを来水美樹に回収されてしまい、それが新たな魔人小川健太郎を生むためのものとなったことを考えると、その状況は決して放置していいものではないだろう。
誰か力を持つもの……ランスのようなものではなく、人員と権威という意味での力を持つものが管理しなければ、せっかくの魔人打倒という人類の福音がまたも無意味になってしまうかもしれない。
魔血魂は確かにランスのものだ……だが、同時にランス一人で管理しきれるものではないだろう。
それが、彼のような超人―――気に食わないというだけで魔人を打倒できるような英雄以外のごくごく普通の人間の考え方だ。


ならば、マリスとリアの立場としてみれば、そんな危険でしかも魅力的な副次効果を持ち合わせた物体は、他国ではなく自身で管理したいと考えるのが普通であろう。
それを確保している、とチルディは暗にマリスに伝えたのだった。

封印して二度と魔人が現れないようにするのはもちろんのこと、いざというときの取引材料に、あるいはリアに永遠の命を与える為にもぜひとも魔血魂は自国で確保しておきたい。
通常ならば、どれだけ対価を積んだとしても手に入らないものが、ランスの機嫌次第では破格の値段で譲り受けることが出来るだろう、ということをチルディは示唆する。
それは、彼女としてはごくごく当然の考えであり、実に気の効いた彼女らしい説明である。リーザス軍精鋭の金の軍 親衛隊の小隊長まで上り詰めたのは伊達ではない。


「とりあえずわたくしはリアさまとご一緒したいと思いますので、マリスさまがお持ちになっていてくださればと思うのですけれど……」
「……」


手元から深紅の宝石を掲げ、マリスにさりげなく渡そうとするチルディ。それは、ランスに対する敬意と同じぐらい自然な動作だった。
彼女にとって、その判断は迷う要素が欠片たりともないものだった。

だが、ランスとの付き合いが彼女以上に長いマリスにしてみれば、即座に頷くのはどうかと思われた。
理屈ではなく、培ってきた勘が警鐘を鳴らす。
これを手にとってはならない、と。
理性は大事であるが、時にこういった勘はそういったもの以上の働きをもたらすことを知っていたマリスは、それを無視してチルディの言葉にうなずくことを是としなかった。
しかし、チルディの提案は紛れもなく大きな利益を生むものだ。理由もなく却下するには、氷の女たる彼女でもいささかの躊躇が必要だった。

だからこそ、それに対してどういった答えを返そうか、珍しく僅かにマリスが悩み、しかし瞬時に判断を下して唇を開いて吐息とともに声を出して今後の応対を答えようとしたそのとき。



低い声が、その部屋の中に響き渡る。



「マリス」
「っ!!」
「……はい、ランス殿」


その声が夢中になってランスの腰元あたりに跪いているリア以外のこの部屋にいた全員の耳朶に届くのとほぼ同時に、極寒の冷気を思わせる殺気が寝台の方向より一瞬にして膨れ上がった。
それは直接向けられたマリスとチルディだけではなく、彼女達の背後に空気のようにしたがっていた応急から連れてきた一般メイド、そして天井裏に潜んできた見当かなみにさえも感じられるほどの滅茶苦茶な規模の威圧だった。
リアが気付かない、あるいは気付いてはいても無視しているのが信じられないほどの邪悪さだ。悪魔にさえも、劣るまい。

常人ならば震え上がり、舌の根さえも凍りつきかねないそれを受けて。
マリスは先の考えにもかかわらず表面上は一切動揺を表に見せず、従順にランスに対して顔を向けて見せた。
目はまっすぐ、唇は侍女らしい笑みの曲線を描き、顔色はかわらず。
隣のチルディがいつもの笑顔さえ凍りつかせて硬直しているのと比べれば、あまりに対照的でその姿は何処か不自然でさえあった。

どこまでも普段の彼女そのままのその姿に対して、ランスはふん、と一つ鼻を鳴らした後冷たく言い放つ。


「それは俺様のものだ。勝手に触るな……チルディもだ」


ランスの目先の先には魔血魂があった。リアに奉仕させたそのまま向けたその瞳は暗い。
その視線と言葉は、常のランスとは思えぬほどに冷たいものであった。

大金や高級品は好きで、楽なことを好み、権力を行使することにためらいがないにもかかわらず、どこかそれらに対して興味がないように見えるランスにしては今までなかったことだが、どうやら今回は己の戦利品を勝手にどうにかされることが気に食わないようだ。
それを悟ったマリスの行動には迷いがない。


「申し訳ありませんでした」

魔人を打倒する強者であり、主君の思い人の機嫌を己が損ねてしまったことを察したマリスは、即座に真摯に謝罪を返す。
そして、ゆっくりとした動作ながら、丁重にその場に魔血魂を置いた。
近場にテーブルがなかったからか、鎧の真横の床に置いたわけだが、直にではなく即座に取り出したハンカチを一枚敷くだけの気遣いさえ見せた。
それをみてようやく、若干ランスの目線が和らいだ。安堵の息さえ吐かず、しかしこの上ない歓喜を持ってマリスはそれを受け入れた。

ああ、実に危ないところだった、と。


魔血魂は確かに重要だ。だが、同時にそれはランスの機嫌を損ねてまで入手するほどのものではなく、またそれを可能とするだけの戦力も利も今現在この場には存在しない。価値は確かにこれ以上ないほど高いとしても、『魔人』を一人敵に回してまで得ようとするようなものではないのだ。

そこの判断が、チルディには足りなかった。今のランスを見てもなお、己の愛嬌等などで十分買い取れる、と安易に考えてしまったのだ。それが駄目であったときのことまで考えるべきであったのに。
いくら腕利きの神官戦士と親衛隊小隊長がいるとしても、いまのランスの前ではそんな程度では戦力として数えるのも愚かしい。万が一交渉が決裂したときに力ずくで奪い取るなど論外だった。
そして何より、リアの思い人と刃を交えることこそがまったく持ってありえない。
勝てる要素などほとんどなく、また万が一、億が一でも勝ってしまえばそれはそれで大問題だ。
だからこそ、この場ではチルディの先走りを咎め、謝罪することこそが正解だった。


「二度とこのようなことは」
「まあいい。それよりお前たちも参加しろ」


言葉に含まれていた誠意と深く下げられた頭から滑る長い髪、そして自然に揺れた大きな胸元を見てランスは殺気を消した。
いや、もとより彼とて脅すつもりで出したわけではあるまい。マリスとの付き合いもそこそこ長いランスは、彼女にはリアに関すること以外の全てに関して自分が命じるだけで従うことなど分かりきっているはずだ。リアの思い人であり、それに相応しいだけの力を持つランスはその立場を今までだってたびたび当然のように利用してきた。
だから、先ほどの殺意だってその存在の大きさゆえに意識しないまま隠し切れずに漏れ出た程度のものなのだろう。

だが、あまりに強大な鬼気は周囲のものをおびえさせずにはいられないものだった。侍女としての働きはさておき戦闘レベルが低いが故に余波だけで使い物にならなくなったメイドたちには退室を目線で命じた後、自分の後ろで同様に直接的に殺気を浴びせられて硬直しているチルディの肩をぽん、とマリスは叩いた。
それで初めてランスの殺気が収まったことに気付けたのか、チルディはようやく我に返り、普段の彼女からは考えられないほどのぎこちなく、されど意地を見せて笑顔を浮かべてランスのほうへと歩いていった。

彼女は誇り高く、同時に頭も良い。
今の対応の何が悪く、何が間違っていたのかをマリスに言われずとも理解している。
ならば、己が犯した大きな罪を償う為にベッドの上で娼婦じみた真似を演じてみせることに、微塵も躊躇など見せないだろう。


「かなみ」
「……」


そしてチルディが妖艶に肩の鎧から外して、されど慣れていない感じで少しずつ脱いでいくことでランスの気を引いているほんの僅かな隙に、マリスは小さな声を呟いた。
それはきちんと、天井裏に潜む忍者へと伝わる……なんだかんだで彼女―――見当かなみもJapanやここ最近の冒険の結果として、随分鍛えられているのだ。
ただ、ランスの機嫌を取る為だけに生贄にさせられるのはゴメンなのか、ぎくり、とした態度を天井越しにさえも感じさせるのは正直忍びとしてはどうかと思うが、それもまた彼女の愛嬌なのだろう。
だからこそマリスは、彼女のそのうかつさにかすかに溜息を吐き、しかしその能力は信用していた。


「魔血魂を見張っていてください。他の誰にも触れさせぬように」


だからこそそれを当然のこととして、マリスは呟く程度の音量で頼み、命じた。
彼女がランスたちに巻き込まれて天井裏から出てこないのはまあ許容範囲であるが、この場を離れることは許さない。
そんな、断固たる決意を秘めた声はくちゅり、とチルディの桃色の舌が這い回るランスの耳に届いたかどうかは分からなかったが、届いたとしてもこれならばランスの気に触ることもあるまい。
そう考えながら、この場において出来ることは大概終わったとマリスも歩を進める。
後、この場で己がやらねばならぬことは一つだけなのだから。


魔血魂を保有している。
魔人を倒せる魔剣カオスの所有者である。
ここ、ランス城の主である。
ゼス、Japanに並々ならぬ影響力を持つ。
カラーの次期女王の父親である。

そしてなにより、敬愛してやまないリアの思い人である。


そんな重要性を持つ男性に対して、可能な限りの誠意を言葉と体で語り、次に繋げる為に、マリスもまたしゅるり、と帯をはずすことでランスの目を釘づけにした。


「では、ランス殿。私にもお願いいたします」


笑みは変わらず。誰に向けるときも変わらない博愛たっぷりの慈母じみたものでありながら、その場にいる誰よりも計算をめぐらせ、しかしリアの為にランスに心底尽くす心持で、マリス・アマリリスはその肉欲の宴に心から望んで参加した。

なにせ、ランスは実にいい男なのだから。



[29583] 昔歳
Name: 基森◆8cb04620 ID:0593a267
Date: 2012/01/05 21:30



荒れた大地。視線を走らせれば時折何が潜んでいるか分からないような大穴と醜く開いた亀裂が走る、そんな大地だ。
僅かばかりの言い訳のような雨さえも無残に吸い込んで吐き出さない貪欲さがそのまま表に出たようなそんな砂礫と石と乾燥した死骸と褪せた色の植物の残滓。
全体的に暗褐色で染まったそんな光景は、その場において農業だの酪農だのといった生産的な行いの一切を拒絶していた。

その場が望むのは緑の囁き、小川の微笑、生まれたての生き物の色濃い息吹などではない。
死と、血と、鉄。
戦いこそが、この世界の全てが望むものだった。


だからこそ、その光景のとおくから突如響いていた音を巻き起こしている現象ももはや定められきったものである。
拭き落ちる疾風に枯れ草や何かが倒れる音がして、白骨の欠片と塵芥がまるでそういった生物でもいるのかのように走っていった。

そんな中、煌く鋼の輝きが目に刺さる。


「ぐふっ………うぅ」


剣戟。次いで苦悶、嘲笑。
飛び散るのは血潮と汗と埃と唾液と胃液。
その場に香るのはいくつも重なった死臭と臓物と糞の匂い。
どれも、自分の仲間を呼んでいた。


「ふん、お前、確かランスとかいったか。その程度の腕前で俺に逆らおうなぞとよくも思えた物だ」
「くうっ、お前なんぞが名でよぶなっ!」
「大口は相手を見てたたくんだな」


そんなど真ん中で少年と男がお互いに武器を交わしていた。
それも、訓練や鍛錬といった性質のものではなく、紛れもなく相手を傷つけて己の我を通そうという本気の戦いだった。
振り下ろされる剣は相手の死を望み、それを受けて返す刀で放たれた突きは相手を地面に転がして血反吐を吐かせること以外の全てを拒絶していた。

しかし、男の体格がかなりの大柄な成人男子位はあるのに対して、少年のほうは未だ発達しきっていない四肢であった。十を数えたかどうか……実際の年齢差は倍では効くまい。
つまりそれは、その分だけくぐってきた修羅場の数という名の戦闘経験が圧倒的に違うということを意味していた。
素質では男を凌駕しているかもしれない少年だったが、それが未だに開花していない現状においてはそんなものなど何の役にもたちはしない。
かろうじて少年に振るえる程度の大きさの剣の軽さは、ごく普通のロングソードより短いもの。当然ながらそれはいまだ力の足りない少年でも扱える取り回しのよさと引き換えに威力の欠如につながり、男に軽く捌かれる。

その結果として当然少年の力は男に及ばず、圧倒的不利な情勢に押し込まれていた。一撃に載せられる重みの無さは、相手に与える威力を足りさせず、自分に向けられた攻撃を捌くにもまた足りない。
そして、この少年はそれを覆せるだけの「何か」別のものを持っている、というわけでもなかった。
ならば、結末は分かりきっていた。


「ふんっ」
「がぁつ!」


やがて、必死にかわしていた少年に終末の時が来た。
上から振り下ろす一撃目は何とかかわしたものの、返す刀で跳ね上がった下段からの攻撃をかわしそこねてしまったためだ。
小さな肉体を男が手に持った鉄杖でしたたかに打ち据えられ、それでも剣を放さないようにしながらも少年は吹き飛んだ。
 
相手は領主の館に勤める者である。ランスと呼ばれた少年は知らないが、その男はその中でも音に聞こえた剛の者だ。
しっかりとした地位すら持っていない少年なぞ当然手も足も出ないはずの相手であり、本来であれば出してはいけない相手である。
その地位の差異は、そのまま両者の戦闘における力量の違いをそのまま表していた。
位階の違いは決して常に戦闘力とイコールで結ばれるような絶対的なものではないが、それを考慮することは基本的にこの世界においては正しい。
故に、二人の間には隔絶した力の差というものが身分と戦闘の両方において聳え立っていた。

だからこそ、その男が少年に放った一撃の醜さがよくわかる。
それは、相手を殺そうというのでもなければ、怪我をさせずに戦闘力を奪おうとするものでもない―――それを容易く可能とするだけの力量を前提とするならば、それはただ純粋に相手を嬲って楽しもうという下種さの出た一撃だった。

しかし、そんな中途半端な醜い一撃にさえ耐えられず、少年はあっという間に敗れ地面に這いつくばっていた。
ほとんど障害にすらならない自分の弱さを少年は内心で自嘲する。
鼻の奥がつんとする感覚とともに瞳を水が覆ってゆく。
地面に水滴が落ちると共に自分の無力さを嫌というほど思い知らされた……くやしい。

 いつもそうだ。

 自分は弱い。

いつも大口をたたくものの、実際にはその口にした十分の一もはたせやしない。
この間口にしたことだって、周りと運に助けられてようやく何とかしたようなものだったと思い出す。
自分はあの男を殺せるほど強くなれないのか、そんな諦めのような感情が胸によぎる。
それでも、自分は倒れるわけには行かないと、その手に持った魔剣を杖にして必死の思いで立ち上がる。
だが、四肢が萎えるかのように力が抜けていき、このままはいつくばっている方がどれだけ楽なのか分かるだろう、と自分に対して敗北を受け入れるように誘惑の吐息を投げかけてくる。


「ふん、もう終わりか。まあいい。あの女を確保した後に存分に嬲ってやるからそこで待っていろ」


が、そんな感情もその相手が少年を鼻で笑い、倒れている女性に向かっていくのを見た瞬間まるで水が沸騰する瞬間のようにあっという間に反転した。
自分の思考の中から傷の痛みと戦い続けた疲労があっという間に抜けていく。
消え去ったわけではない。それでも、それら全てを忘れさせるだけの衝動に彼は恐れおののき、怒ったのだ。

        その人にだけは………触れさせない。

薄い布一枚を身にまとったその女性は男の最初の一撃で気を失っている。
男を倒すことは無理でも本来であれば逃げるくらいは十分出来るはずの力を持っているはずの女性だが、その性質ゆえか相手に危害を加えることも出来ず、すでにあっさりと倒れてしまっている。
見目麗しいその容姿を蹂躙することを期待してか男が少年に背を向け、大股で彼女の元へと歩いていったそれを見た瞬間、それまで指一本動かせないと思っていた少年の体は怒りによって巡った血が全身に回ることであっというまに力を取り戻す。

その原動力は、限りない憎悪。
その男に対してだけではなく、己の無力さに、誰も助けてくれない慈悲のなさに、こんな環境に陥っている現状に、それを許容する世界の全てを恨み憎み怒る。
その憎しみだけが少年の体の中を巡っていき、それはやがて内に眠る力を無理やりくみ上げて外に引き上げていった。


「ま、待て……」


剣を杖にして立ち上がるが、相手はまたも鼻で笑うだけだ。向けた背を返そうともしない。
先の戦いで全てを見切ったときとそのままに、もはや少年には何も出来ないと思っているのか、歯牙にもかけていない様子であるが………いまや少年にとってもそれは同じだ。
怒りは、彼の体に幻想ではない力を与えているのだから。

 おまえごときがそのひとにふれるな

少年は思考とともに戦闘法を今までからはっきりと切り替えた。
目に焼きついた憎い憎い男の動き。それを自分の小柄な身体で使用できるように無意識に微調整しながら忠実にトレースする。
決して使いたくなかった、使うべきではなかったこの動き。
しかし、その効果は今までの戦いで十分知っている。十分すぎるほど、知り尽くしている。

これに頼ってしまう自分が情けなく愚かであり、愚かだと知っていながら頼らざるをえない自分に怒りが宿る。
そしてその自分に対する怒りと相手に対する憎しみが、いっそう剣に力を込めることとなり、自分の低いレベルでは本来であれば使用できないはずの『必殺技』を、そのための体勢を完全に再現する。
それはあまりにも唐突で、しかし完璧なまでの戦闘法であった。


「オオオオオオォォォォ!!」
「なっ!」


数メートルはあった間合いを一瞬にして消し去り、飛び上がって剣を振り下ろす少年。
その速度は、先の戦いのものとはまるで別人のような力が伴っていた。

突然現れた死の具現に、男は慌てて全身の筋肉を総動員して防ごうとする。

油断はあった。侮りはあった。
が、そんなレベルでは説明しきれないほど唐突な相手方の戦力の倍化は、歴戦の兵たる彼に対してそんな焦りを感じて必死にさせるのに十分なものだったのだ。

足首から力を登らせ、腰を捻る。怪鳥のように飛びかかってきた少年の行動を阻むにはあまりに遅い動きだ。
それが自身にも分かったのだろう。男の顔がおもわず引きつる。
だが、それでも習い覚えた技を、積み重ねてきた経験を、必死になって発揮して何とかその必殺の一撃を防ごうとする。それは、急ごしらえ名少年の動きとは異なり紛れもない熟練を感じさせるものであった。
腰の捻りを大胸筋に伝わらせ、その勢いを殺さないように反動として利用して、腕を振り上げる。

だが、そんな熟練や経験などでは、その剣の前ではまったく足りていない。

黒く輝く殺意の剣が、頭部に迫る。ありえないはずの冷や汗が流れる。
跳ね上げた腕の力を出来る限りロスさせないように肘の関節、手首の関節に伝わらせ、思いっきり捻る。限界を超えた無理な動きに男は引きつるような痛みを感じた。だが、そんなものなど今はかまっていられない。この唐突な殺意は、それを可能とする必殺は、あまりにも驚異的なものだ、その焦りだけが彼を突き動かす。

しかし、それは何とか間に合った。限界を超えた焦燥は、それに突き動かされた無駄で無様な挙動は、そのかいあって目の前にまで来ていた剣と己の頭部との間に何とか杖を割り込ませることに成功した。
見くびっていた相手に一刀の元切り殺される、という最悪の結果だけは防げたのだ。


「おおおおおお!!」
「く、クソがぁ!!」


が、重い。防げた、と笑みを浮かべる余裕もない。
先の一撃とはまるで違う、超重量と超加速を片腕で、しかも無理な体勢で受けることになった男は、もはや直撃を食らったかのような片腕の傷みを必死になって押し殺し、力を込め続ける。
握り締める握力が徐々になくなっていくような予感の中、徐々に剣が彼の瞳に近づいてくる。死が、迫る。
ただ、逃亡者を始末するだけの簡単な仕事。彼の身分や力を考えれば、ほとんど遊びのような仕事だったはずなのだ。なのに、どうしてこんなことに! 脳裏によぎるのはそんなせんのない愚痴だった。そんなことしか考えられないほど追い詰められていた。
あと、五センチ、三センチ、一センチ。瞳が血走る。歯を食いしばる。喉の奥から声にならない声を絞り出す。
全身全霊を使って、彼は己の命を保とうとする……そして、それは報われた。
そこまでやって、ようやく止まった。

落下の勢いを借りて放たれた一撃は、当然ながら位置エネルギーを威力に変換しきった瞬間が一番強く、後は弱くなる一方だ。
最初の一太刀で決められなければ、体格にも力にも劣る少年ではそれ以上の一撃を放てるはずがない。だから、これは当然のことなのだ。
さきほどもそんな思い込みによって思いもよらぬ攻撃をされて死地へと陥ったにもかかわらず、そんなことを考えてしまうのは今まで重ねてきた経験がゆえの過ちか、それとも愚かさか。
とにかく、徐々に少年の剣は力を失い、それに伴いかけられる力も弱くなってきた。


「焦らせやがって……っ!」


故に彼は、ようやく先ほど被っていた余裕という名の仮面の帯に対して手を伸ばそうとして少年の瞳を見据え、そして気付いた。
瞳の奥に篭る殺意の色が何一つ変わっておらず、それどころかこれからが本番である、とでも言わんばかりの力を帯びていたことに。
瞬時に彼の背筋が総毛立つ。まだだ、まだ終わっていない。
まっすぐに振り下ろされた剣を杖で止めることが出来た。それは、己の命を救うには何の役にも立たない。今この瞬間、このガキを殺さなければ、己の命が危ない。

先ほど迫り来る剣を見据えたときよりもなお強くなった感覚におもわず己が鍛え上げた技を全力で、後の余力などまったく考えないで、彼は必死になってその技を放とうとして……間に合わなかった。


「うおぉぉぉ!! ランス、アタック!」
「っちぉ」
ぶしゅ!


少年が入れた気合と掛け声とともに爆音がはじけ、相対していた男が崩れ落ちる。止められた剣の威力も、それを維持する杖の力も、全てを無視してその爆音は当たりに響き渡った。そして、それですべてが終わりだった。
先の戦闘を考えるに、あまりにもあっけない決着だった。
受けていた杖が突如巻き起こった爆発の直撃を受けて粉みじんになって吹き飛んでいき、その勢いそのままに赤黒い波動にその頭部を、肩を、腹部を、足を、全身飲み込まれた男。
やがて、残骸と荒い息の少年だけが残った。

ランスアタック。闘気を剣に集中して直撃と同時に爆発させるという異能。
防御も、回避も許さない。止めようが、避けようが、全てを飲み込む一撃必殺。
地上において最強の必殺技の一つといえるその技は、その力量差も経験の差も地位の差もまるでなんでもないことのように飲み込んで、少年達の追っ手であった男を一瞬でミンチにしたのだ。
女性に向かって進んで、少年に背を向けるなんてことをしていた男に後悔や驚愕といった感情を浮かべる暇すら与えずに。
自分よりも遥かに格下の相手に一撃で殺されるというありえない状況を作り出したのだった。

たった一つの技だけで、地位の差も力量の違いも経験の歴史も全て意味をなくして、その立場を一瞬にして逆転させるという現象が起こったのだ。
それは紛れもなく、異常な光景だった。






「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ」


荒い息を吐きながら、少年は今のレベルでは本来使えぬ技を無理に使ったことで肉体に生じた反動を必死で押さえ込む。
持ち主の憎悪を食らって力を振るう魔剣の助けは、あくまで一時的なものだ。彼自身の力が足りていない、未だに未熟だ、ということには何も変わりはしない。
だからこそ、無理に背伸びをすれば当然ながらその直後に反動がくることは分かりきっていた。
それでも、彼はそれに頼らなければ勝てなかった……生き延びられなかった。
その事実を、この苦痛により彼は誰よりも思い知っていた。

貪るように空気を摂取し、辺り一帯の気を吸い尽くすようにして集めて、失った体力と気力を少しでも回復するように努める。
こんなところで時間を食っているわけにはいかない。すぐに逃亡に移らなければ新たな追っ手が来てしまう。
彼らはお尋ね者だ。この世界において、安全な場所などどこにもないことは確かだが、それでもこんなだだっ広く見通しのよい隠れる場所のないような場所よりも比較的安全な場所はある。自分が打倒した男からの連絡がないことを不審に思われるまでに、このあたりを統治する領主軍に追われる前に、少しでも遠くに逃げないと。
しかし、そうは思ってはいても一度限界を突破した身体は容易には元に戻ってはくれない。貪る空気は、とめどなく流れる脂汗は、遅々としてしか体力回復の役に立ってくれない。

仕方なく、手に握る短剣に力を込める。ままならぬ現状に苛立つ心はそのままに、それでもどこからともなく力が湧き出てくるような幻覚を覚えながら、彼は行動を始めた。未だ回復しきったとは言い切れないが、それを待つことは難しそうだと知っている頭は、肉体に苦痛を無理やり無視させて次の行動へと移らせたのである。


僅かな時間である程度は整えたもののその荒い息のまま女性の下へと赴き、女性の様子を調べる………よかった、たいした外傷は無い。
あの野蛮そうな男に触れられるという一種の精神的ショックによって気絶しただけだったようだ。
そんな安堵とともに後悔とも謝罪とも区別の付かぬ感情が生じる。
彼女は、自分のせいでこんな目にあっているのだ。自分が命を掛けて守らなければならない。
しかし、今の自分では追っ手から逃げるのが精一杯だ。
先の男は、あくまで彼を―――彼女を取り巻く状況のごくごく一部。あの程度であれば、いくらでも沸いてくる。しかも彼はそんな相手にさえも敵わなかった。

守りたい、なのに守れない。

たった一人の女性さえ、彼のその小さな体では守りきれない。
たとえその対象と敵対するものがこの世界すべてという大きなものであるにしても、そんなこんなちっぽけな背に背負えてしまう程度の大きさのものさえも、己は守りきれないのだ。
今は確かにそうである。だが、それが将来にわたってまで続くなんてこと、ありえないし、ありえさせない。
だからこそ、今は今日を生き延びる為に、明日に繋げる為に、無様に、みっともなく、逃げ惑う。

そう思って逃亡に移るために女性を背負おうとしたところで身近で動く気配を感じたのか、女性の口元から吐息が流れ出た。


「う………ふぅ」


ゆっくりと女性がまぶたを開き始めた。
よかった。
心の底からそう思うが、肩越しに見つめる彼の瞳が揺れる。
自分に背負われている、という状況が彼女にどういう影響を与えるのか、そういうことに思い至ったからだ。
だが、自分たちが逃げるにはこの状況が最適なのもまた、分かっている。
そのジレンマが彼を縛り続けているうちに、やがて女性が目を開き、彼の名を呟いた。


「……………ランス?」


自分の名が呼ばれた。だが、そこに喜びはなかった。彼女の認識に足りないものが、その呼び名にそのまま現れていたのだから。
未だ半ば思考が眠りにおちていることを示すかのようにとろんと開いていた彼女のまぶたから覗く瞳が自分を認識して見開かれた瞬間。
彼は、ぎゅっと歯を食いしばって悔しそうに目線を下へとやった。

それを待っていたかのように、その茶の髪と鋭い瞳、大きな口を見て完全に彼と認識したとたんに、その口から絶叫が迸る。


「キャァアァァァーーーーーー、嫌ぁーーーーーーー」
「っ…っ……っ!!」


いつものことである以上、彼の体はそれになれたものだった。しかし、それでも彼の心はその声に切り裂かれるような痛みを感じていた。自分が受けたものではないものを思って、しかし自分を理由とする彼女の苦痛を感じて、それを己の痛みとして感じていた。

フラッシュバック。
それが彼女に今まさに与えられている痛みの理由だ。

おそらく、今まで受けてきた陵辱の過程を思い出しているのだろう。
自分の背で悲鳴を上げる女性は、しかし抵抗した結果のことも思い出しているのかことのほか暴れることはなかった。心を壊してもはやまともな思考が出来なくなっても、そういったことは彼女の根底にまで刻まれてしまっている。
だから、彼の背に背負われ続け、しかし恐怖に怯える瞳と徐々に小さくはなりつつあるものの、未だ続く恐慌の叫びは、この世界においても悲痛といって何の問題もないほどのもので……しかし、彼の逃亡を邪魔しないものだった。

それゆえに彼は、背に彼女を背負ったまま足を速める。後ろの彼女をなだめることもなく、
背は若干延び、体力も付いたことで彼女を背負えるほどになり……そして未だなお彼女を狂気から救い出すことの出来ない無力な自分が出来る最大の努力として。
この場から、必死になって逃げ出した。


「(ちくしょう、ちくしょう……ちっくしょーー!!)」


悲鳴をBGMに必死になってかける彼の顔は歪んでいる。
自分の無力に、世界の残酷さに、こんな現状を生み出したものに対する怒りに。
それは疲れきった彼の体に確かに力を与える「負」の感情だった。

逃亡しながら、未だに続く彼女の悲鳴を聞きながら、彼が思うのはいつもひとつのこと。
それだけを望み、それだけを祈り、それだけを願いながら彼はいつも通り逃げ続ける。


「(強くなりたい……早く、強くなりたい!)」


それはもはや願望ではない。
己の未来にかける呪いであり、その間の苦痛を無視する心の鍛造である。


強くなってやる。強く、ただ強く、ひたすらに強くなってやる。
邪魔するもの全てを切り捨てられるだけの強さを、苦痛を強いてくるもの全てを破壊できるだけの強さを、縋ってくる過去全てを踏みにじることの出来るだけの強さを!


世界に自分達を認める場所が無いというならば……………その強さでもって必ず世界を奪って作り出してやる


「母ちゃん……すぐに、すぐに強くなるから、もうちょっとだけ待っててくれ」


三魔子が一人―――悪魔界の財宝全てを管理する最高位の悪魔レガシオに与えられた、怒りと悲しみを食らって力と化すねじれ狂った深紅の剣がどくん、と腰元で脈打ち、乾いた悪魔界の風の中彼―――心を壊してしまった母を守るため階級外の身でありながらたった一人で全ての悪魔を敵に回す少年、ダークランスの背を力強く押した。



[29583] 瑠璃
Name: 基森◆8cb04620 ID:0593a267
Date: 2012/02/06 22:04




頭上より差し込んでくる日光は、この場所に届くまでには弱くなっている。だがそれは闇が全てを飲み込んだ、というわけではなく、木々の幹や葉に乱反射する光となって拡散して柔らかで僅かな木漏れ日となっているだけだ。
だからこそ、森の奥深くであるにもかかわらずここにはこんなに光が満ち溢れている。
吹きぬける風は水を適度に含んで甘く、その大地でさえも一歩踏み出すごとに花と蜜と果の香りを伴っており、耳に聞こえるのは小動物達の笑い声。

ここは、ペンシルカウ。
カラーのすむ村だ。

今は村を覆う結界はその要が強奪されてしまったことによりなくなってしまい、それがために以前と同様の絶対的な防衛網を誇る、とはいかないが、それを補うかのようにリーザス、ゼスの庇護の一部と女王の呪いの力によって守られている。
悪意も脅威ももはや寄せ付けることのない、堅固な守りだ。

だからこそ、先のヘルマンの侵攻によって大幅に数を減らしたカラーたちも、その中でならば今では笑顔で行きかうことが出来ていた。
失われた尊い命のことを忘れたように、笑顔で。


わー
きゃー


そして、そんな平和の象徴があった。
先代の気質を受け継いで僅かに緩みつつあった秩序が今の女王になってからは二代前の女王の治世と同様厳しい掟と規律が敷かれているはずのそこでは似つかわしくないほど落ち着きのない幼い嬌声がそこらかしらで聞こえる。
ついこの間の虐殺さえも忘れたかのような嬉しげな声音は、事実そんな血なまぐさい事実を知らないそこらかしらに見え隠れする子供のカラーによるものだった。
ついこの間まではほとんど村にいなかった彼女達の存在は、いまやペンシルカウのほとんど主役といっていいほどの騒がしさと活気を生み出していた。

これは、カラーの歴史から言っても極めて珍しい風景である。
見た目では中々区別が付きにくいが故にわからないかもしれないが、そもそもカラーという種族はこんなに同世代のものが成長を同じくすることはないのだ。
本来極めてフラットな安定した同数の年齢のものによって社会構造そのものが構成されているはずである。

だが、二代前の女王より役割分担と人口調整を徹底することによって女王指揮の下安定した生活を営むようになっていたカラー社会にとって、この間のヘルマンによって殺害された人員の数は無視できないものであった。
もともと、ある程度は余裕を見ていたとはいえ、完全に人口を理性の抑制化においていたカラーの村には無駄な人員などいない。戦士階級は戦士として村を守り、生産階級はそのものたちを支えるという社会構造そのものの構成員が、ひどく大きく削られてしまったことは村の存続自体を怪しくした。
とある男の要請を受けて村の守りや補給をある程度リーザス・ゼス軍が引き受けているとはいえ、同じ人間についこの間蹂躙された彼女たちがそれを全面的に信頼できるはずもなく、またその気紛れにいつまでも頼り続けるわけにもいかない。
そうである以上、今まで村を守っていた結界以上の防備を調えるために人員が必要、ということで早急に人員増産の必要性に迫られていた。


そんなわけで、生産性を落とさない最大限の規模で、現在ペンシルカウは幼女祭りである。
一刻も早く国力を回復するための人口を増やすということを目的に、今この村ではまさに生めよ増やせよが称えられている。
流石に同胞を家畜のように産む機械にするほどの冷酷さをもてなかった女王の意思を汲んで、ある種非常に自然な方向性で。

その中の一人がとことこと門の方へと歩いてくる。だが、彼女たちは未だに村の外に出ることは許されておらず、それはこの幼い少女も知っていた。
だから門にはむかってはいるものの彼女の目的地は外の世界ではなく、門そのものであった。


「パーパ?」
「ち、違います! 自分はリーザス第4軍の…」


幼女に裾を掴まれて父と呼ばれた男がひどく狼狽する。
女王の命により門を守っているらしきリーザス兵士の彼はまだ若い。唐突に身に覚えもない父親呼ばわりされて慌てるのも無理もない若さだ。
女しかおらず、しかも妊娠を望んでいるカラーの事情はある程度分かっていてもしかし女王や上官怖さに悪いちょっかいをかけようとは思わないほどスレてない、いまだ輝かしい軍歴を夢見ているであろう青年なのだろう。

だからこそ、女王より―――正確にはその女王に対して唯一命令できる人間の命令により、絶対にカラーに手を出してはならないと言明されている彼にとって、そんな命令違反を疑われるような幼女から父親呼ばわりされるという自体は許容できるものではなかった。


「そっか……わたしのパパ知らない?」
「知りません!」
「……あっちかな?」


その否定を見てあっさりと了解をして裾を掴むのをやめ、しかし遊んでいる途中に唐突に浮かんだ己の父親となる人は誰なのだろう、という疑問を解決する為にその幼女は次に門の側にいた兵士の方向へと駆け寄る。
望む答えはきっと返ってこないだろうが。何せ、彼女の母親さえもその疑問の答えは知らないのだ。


「あ、森の外には出ないように!」
「は~い!」


彼女たちの身を命を懸けてでも守るようにと言明されているリーザス兵士の慌てた声を背に受けながら、その足で楽しそうに少女は駆けていく。
大人のカラーにとっては同胞を殺した狼藉者と同じ種族、としてどれほど誠意を尽くされたとしても未だ遠巻きにしか出来ない相手であろうとも、彼女たちには関係ないらしい。
この村において、決して珍しくなくなった光景だった。



早急に人口を増やさなければならない。ただ、そこには問題もあった。
というのも、カラーは女性ばかりの種族だ。それゆえに、妊娠するには当然ながら男が必要なのである。しかし、掟によって性交そのものは禁じられているので、基本的にその子宝は勝手に進入してきた男を捕らえて精液だけ出させることでなんとかしているのだが、この間の襲撃でそのストックも破棄されてしまった。
当然混乱時に捕虜たちも逃げ出している以上、正直人口調整を計画している上層部も困っていた。

リーザスやゼスの兵士に協力を、という考えも正直頭をよぎりはしたのであるが、体を交わすことは情と欲を交わすことにつながる。
額のクリスタルが極上の魔法素材になるカラーの性質上、それは不味いというのが掟の理由だ。最上級の魔法の材料となるホワイトクリスタルは、カラー一人に付き一つしか存在せず、またカラーの数自体も少ないことから極めて高価だ……高潔で知られるような人でさえも金銭欲で狂わせるには十分なほどに。
ことの最中にもし男が僅かにでもとち狂ったら、防ぐ術もなく無防備なカラーはその額のクリスタルを捕られる羽目となる。いくら存亡の危機とはいえおいそれとその最大の危険を無視するわけにはいくまい。

かといって、精液だけの提供を求めるには、カラー側から支払える対価がない。今は食料も医療も人材も戦力も、そして勿論クリスタルだって不足はあっても余剰はない。
そして、かの王達の好意や打算に甘えて借りを作るなど、カラーという一つの国家にしてみればなおのことお断りだった。


「ねえ、あなたがパパ?」
「違う! うう、やることやってないのに父親呼ばわりなんて、心臓に悪い」


だが、その問題もどこからともなく女王パステルが入手してきた大量の精液によって解決した。パステルは入手経路を頑として語ろうとはしなかったが、とにもかくにも必要な分量だけの精液を確保できたことは僥倖であった。
カラーは何とか独立独歩を保てる兆しを女王の機転により得ることが出来たのである。


かくして、カラーは女王以外その父親を知らぬ子供により一大ベビーブームを迎えてることとなったのであるが、その立役者はというと……


「うう……やはり、浅慮だったかも知れぬ」


その腰掛ける椅子も、傍らに見える寝台も、磨き上げられた鏡台も、隣に置かれた水差しも、手間は掛かってはいてもそれほど豪奢なものではない素朴なもの。
自然とともに生きるカラーという種族の女王に相応しい私室の中で一人ウンウンと唸り続ける女が一人。
普段ならば側に控えている事務総長さえも遠ざけて、ただひたすらに唸り続けている。
その細く形のよい眉をゆがまし、その白磁のような歯を食いしばって苦悶の表情を浮かべるという不審極まりない彼女こそが、今代のカラー女王、パステル・カラー。

その歴史上類を見ないほどの苦難の時代を収めることになった彼女がそんなに唸っているのは勿論統治上の難問奇問……というわけではなく、至極個人的なことに起因していた。
それにより彼女は、最近ひどく悪夢に悩まされているのであった。


「いかに村が存亡の危機に立っておるとはいえ、いくらなんでもあの男のものを使うなどと」


というのも、どういうわけかここの所彼女は、がははと下品に笑ってそこらじゅうに迷惑を掛けまくるカラーが将来村に大量に生まれるのではないのか、という心配を持っている。
それがため、連日果たして自分のやったことは正しかったのか、ということを後悔し続けているのだ。

彼女が以前何故か心底憎み嫌っている男の住まう城にいって、その乱交パーティの会場の中にまで入っていったことと何か関係があるのだろうか?
とにかく、村の大事のために自ら解決策を持ってきた割には、彼女は謙虚を通り越して杞憂が過ぎる状態で、そんな随分と偏った未来を心配し続けている。

だが、そんなさなかでも女王としての責務は忘れていないところが、どうにも生真面目すぎて融通の利かない彼女らしいところである。
自分がやったことはそんな杞憂としか言えない心配事をのぞいてしまえば、もはやどうしようもないことであった、ということは理解しているようである。


「だが、今の村の現状では将来少しでも戦力になるカラーが欲しいのは事実。そして、戦士としてのあの男の素質は否定しようがない。じゃが、いくらなんでも」


逆に言えば、それだけ分かっていながらもその種の元にこだわっているところが不可解にさえ思えるほどだが。
正直なところ、カラーは文化的にそれほど種にはこだわらない。元々、カラーのクリスタルを狙って不法侵入してくる密猟者を捕獲して採取していたぐらいだ。
畑がよければ、そしてその後の教育さえしっかりしていればきちんと育つ、という思想の元、処女懐胎が推奨されていたぐらいなのだ。

が、いろんなもののめぐり合わせで最近のカラーとしては非常にめずらしくそれ以外の方法で子を産んだパステルにはいろいろと考えることがあるのであろう。
あるいは、彼女の祖母であるビビッド・カラーはそういった感情が生まれることを危惧して掟を作ったのかもしれない。

今のある意味錯乱したパステルを見ると、それも正しいようにも思えた。


「いや、まてまて。大丈夫じゃ、リセットを見れば分かる。あんな、妾のようなダメダメ女王の血を引いてでもあんなにリセットは賢く優秀じゃ。きっと育て方さえ間違わねば」←親馬鹿


自分の娘の愛らしさ、賢さ、才能等を持って、その危惧が的外れではないか、と必死になってよかった探しをするその様は、いっそかわいそうなほどである。

基本的に彼女はリセットに対して一線を引いているつもりである。
現状、パステルの子が独りしかいない状態において、血縁によって連なるカラーの次代の女王は彼女しかいないからである。
モダンの数十人の子のうち、死別した二人の姉の次の順に生まれてきたパステル自身が望むと望まざるとを関係なく女王になったように、それは絶対だ。
ましてや、パステルはこれ以上子作りなどという野蛮な行為を行うつもりなど欠片もない。それはその子の父親があの男であろうとそれ以外であろうと、同じことである。
そうである以上、リセットにはことさら厳しく女王として教育しなければならない、と思っている。

それに加えて、リセットは望まれぬ子だ。
カラーにとって掟は絶対。そして、掟では人間との間に直接性交を行うことで子をなすことは、禁じられている。まあ、正直なところ彼女の父親はいろいろと規格外なので、今のところそれがばれたところでカラーの村ではたいした混乱は起こっていない。
カラー、人口が僅か二千人程度であり、この間の事件によりそれさえ減っているのでパステルの一存で変えたとして説得できないことはないであろうが、掟は掟だ。
故に、彼女は掟により父親である人間の男を殺さなければならない……あの桁外れの戦闘能力を持つ男を、だ。

だからこそ、パステルは真剣にリセットに対して厳しく接しているつもりであった。


「それに、リセットにも妹がいた方がよいに決まっておるじゃろうし。まあ、母が違うゆえにおおっぴらに言うことは出来ぬが、それはそれじゃ」←馬鹿親
「おかーさん!」
「おお、リセット! ……っ、なんじゃ、いきなり入ってきよって。ここをどこじゃと思っておる。ほれ、泥だらけではないか」


あくまで、本人は、であったが。


突然開かれた扉に戸惑っていたのはほんの一瞬のこと。
言葉だけ聞けばしかめっ面で、しかし現実には少女が自室に飛び込んできた瞬間に輝かんばかりの笑顔を必死に押し殺そうとして全然出来ていないそんな顔で娘に付いた泥を払ってやるその姿は、そんな本人の考えに微塵の説得力も有していない。

そんな彼女に負けぬほどの笑顔でつい先ほどまで元気に遊びまわっていたであろう少女、次代の女王候補、リセット・カラーは鈴のような笑い声とともにこの部屋に入ってきた目的を告げる。


「くふふー、あのね、お願いがあるの」


青く輝く長い髪に抜けるような白い肌、尖った耳はカラーの特徴をそのままに、しかし何処か他のカラーとは違う力を持つような幼い少女は、その小さな手をふりふり、まっすぐとパステルを見つめながら声を放つ。
父親を殺すつもりなど欠片もない彼女にとって、掟なんてものは何の価値も持っていない。それゆえ、悩みなどとはまるで無縁などこまでも楽しげな笑顔だった。
それにおもわずパステルは目を逸らす。己への劣等感とそれが為に厳しくせねば、と思う思い込みは、そんなに甘やかしてはならない、と彼女の中で強く警告を放ち続ける。


「ふう、リセット。母は女王の仕事に今忙しい」


故に、内心はさておき何とか表面上は取り繕って娘に対して甘い顔を見せようとはしなかった。
大国とは違いいろいろとアットホームなカラーの村でその態度は正直なところいろいろと無理があるのであるが、それでも意地っ張りな女王は断固としてその態度を変えようとはしないのだ。

しかしリセットは、あっさりと自分の願いが断られたことを意にも介さなかった。そんなことなど今まで何回もあったため、彼女はこういった場合に自分がとるべき態度を幼いながらも十分理解していた。

そしてそれは、決して難しいことではない。
笑顔はそのままに、ただ無言で見つめる。それだけでいいのだ。


「じー……」
「……な、なんじゃその目は」
「じじー……」
「くっ」


人間ならば年のころ四五歳の子供―――しかも最愛の実の娘―――に笑顔のまま見つめられる。無言の要求とともに。
それだけでパステルの紙の理性はあっさりと揺らいだ。
天真爛漫な娘にはある意味完全に嘗められているほどの態度は、ある意味駄々甘な娘の父親と同レベルであるほどの親ばかである。
自分が見つめれば、母は全てを叶えてくれるはずだ、というその幼い打算の混じった眼差しにパステルは抗う手段を持ち合わせていなかった。

将来の女王を継ぐものとして厳しくせねば、己のような過ちを犯さぬ立派な女王へと教育せねば、憎い男の血を引くものとして何とかあの男を倒せるほどまで育てなければ、とは思ってはいても……娘は可愛い。
その一挙一動から眼を放せず、大口上げて笑う様に憎い男の影を見てもその様さえ可愛く思える。他の子どもたちも等しくカラーの次代を担う大切な子供であると分かっていてもなお、己の血を引く娘はあまりにも可愛く、いとおしく思える。

それゆえに、根負けは早かった。


「ええい、わかった! 言ってみるがいい」
「あのね、リセットに魔法を教えてほしいの!」
「は?」


だが、リセットがねだったのはパステルにとって想定外のことであった。
彼女が考えていたような甘やかしでは点でないそのことに、おもわずパステルの拍子が抜ける。

こちらから強いることはあっても、正直リセットは子供である。
学業に属する魔法の勉強を自ら望むなど今までなかったことである。
いや、そもそも彼女には多忙なパステルの代わりに教育係りとして何人かのカラーが付いている。大概の魔法であれば、彼女らに聞けばいいのでは?

その疑問を解消すべく、パステルは問いを投げる。


「魔法? スリープまで使えておるのではないのか?」


カラーは魔法と弓術に優れた種族だ。
その中でもあまりに桁外れの曾曾祖母の血を色濃く受け継いだのか、あるいはこれまた規格外の父親の血を引いているからなのか、リセットは魔法においてこの年頃にしては極めて優秀だ。
この歳にて対象を強制的に眠らせるスリープという高等魔法を使いこなすなど、中々ないことである。世間一般に対して魔法使い、と名乗ってもなんら恥ずかしくない力量である……まあ、戦闘用魔法ではないのは確かなので、どこぞのぷるぷる親父のように実際の戦闘能力はほとんど皆無なわけだが、それはこれから体が出来上がっていく過程で鍛えればいいことである。
パステルの親の贔屓目を抜きにしても、年齢から考えれば極めてリセットは優秀だった……それこそ女王を継いでも不足ではないほどに、今の時点で将来の器量が見え隠れする。

その彼女がそれ以上を望む。請われれば次代の女王に対して更なる教師をつけることもいとわないパステルではあるが、それはどちらかというと教師役もしているサクラ事務総長の領域であることをこの賢い娘が悟っていないのはどうにもおかしく思えた。
彼女の言い出したこと自体はパステルにとっては願ってもないことであり、それが故に少々不信が頭によぎったのだ。

そんな疑問に、リセットは満面の笑みで答えた。


「違うの、教えてほしいのは呪いのほうなの……おかーさんはカラーの女王なんだから、世界で一番呪いが上手なんでしょ?」
だから、教えて。

答えにもならぬ答え、結局「何故学びたいのか」ということについては一切解答していない。
だが己の可愛さを自覚する幼い媚びを遥かに凌駕する信頼が込められたその声とまっすぐな瞳に、パステルは射抜かれた。


(自分が世界一ということをリセットは心底信じている)


愛する娘から向けられる直接的な尊敬と信頼に、おもわずパステルの目頭が熱くなる。
パステル・カラーはカラーの女王であるが、それとは別に彼女補人が保有するスキルとしては大陸最高の呪術師である。魔王や神といった存在自体が違うものによるものはさておいて、それ以外にであればこの地上において彼女に掛けられない呪いはなく、彼女に解けない呪いもない。男だけを殺す呪いに内心を強制的に暴露する呪い、低レベル者とは性交そのものを禁ずる呪い等掛けるも消すも自由自在。
それは、たとえ彼女が史上もっとも大きい失策を行ったカラーの女王であっても紛れもない事実だ。

女王としてはダメダメであっても、現在の地上においてもっとも呪いに詳しい専門家である、という彼女に残る唯一の誇りを娘は認めてくれているのだ。
これほどうれしいことはない。


「……しかたあるまい、次代の女王を鍛えるのも現女王の重要な役目じゃ」
「やったー!!」


それゆえ、思いっきりもったいぶった挙句に嬉々として教えようとしたのであるが……


「とはいえ、妾も多忙の身ではあるがゆえにそうそう時間は取れぬゆえ、しかとそのことを『ねえねえ、リセット、それなら私に教わってみない?』……え?っ、お母様!」


世の中は徹底的に彼女の思い通りにはいかないらしい。
パステルの内心の歓喜と願いを完全にまるっと無視して、リセットの声にひらひらと手を振ってみるような半透明のカラーが唐突に出てきたのである。
そう、パステルの声のとおり、出てきたのは彼女の母……そして当然ながらそれは。


「あー、おばーちゃん!」
『はーい、おばーちゃんですよ~』


リセットの祖母である先代女王を意味する。
半透明のままでもなお当時の春風のような美貌をそのままに、リセットの嬌声に笑顔で手を降るその姿からは尖った部分はほとんど見られないほど、極限までのほほーんとしている。
モダン・カラー。パステルの一つ前のカラーの女王だ。
英霊という名の幽霊状態になってマザーカウでカラーの森を守護する役目についているはずのパステルの母であるが、最近結界が要の神具を失ったことでほとんど機能不全を起こしている為案外暇なのか、やたらとこの幽霊状態で現れるのである。


『パステルが忙しいって言うんならリセット、おばあちゃんに呪術教わってみない? これでも元女王ですからね。そんじょそこらの人には負けないわよ?』
「ホント、おばーちゃん!」
「ちょ、お母様!」


歴代女王において最多の50人もの子を産んだ祖母は当然ながら子供の相手が好きで、あやすのも上手いために孫も幽霊ということを無視して割となついている。
そのため、彼女の行った唐突な提案は割りと好意的に受け入れられた。

思いも寄らぬ方向へと話が転がっていく雰囲気を感じて、パステルは焦った。
なにせ幽霊とはいえ、モダンは元はれっきとしたカラーの女王だ。
そんじょそこらの幽霊のように体力だけとかエロ動画を見せ付けるだけとか言うわけではなく、相応の力と当時のままの高度な人格を今でもなお持ち合わせている。加えて女王としてそれなりに多忙なパステルとは違い、暇をもてあましている……ある意味理想の教師役だ。
肉体はないがゆえの不都合はあるが、カラーの女王レベルになれば無理やり生者の肉体を借りることも出来るし。

パステルとしては母として愛し、女王としては尊敬している相手であっても、今回ばかりは出てきてほしくなかったのであるが……彼女の受難はそれだけでは終わらない。

唐突さはモダン同様、新たな声が会話に加わったのだ。


『モダンの孫……私が教えても良い』
「あーー!! ひぃおばーちゃん!」
『あら? うふふ、お母様もですか?』
「お祖母様まで!!」


低く落ち着いた声が発せられた位置はパステルの胸元ほどで、リセットよりも僅かに高い程度でしかない。実際にその容姿はカラーとしては老年に達してから英霊になったにもかかわらず極めて幼く見えるものであり、大きくくくった長い髪はふとすれば外見上のその印象を一層強めそうにも見える。
しかし、その全身から放たれる威厳は英霊になってもなお背筋を正させるほど、女王の権威というものを肌で感じさせる。

パステルの祖母、モダンの母、そしてリセットの曾祖母、ビビッド・カラー。
現在のカラーの社会制度と掟の大半を築き上げ、それを守り通した上で後世へと伝えた大政治家にして偉大なる女王だ。

幽霊になり、その後とある男と交わったことで現役時代と比べればある程度の柔軟性を得た彼女であるが、それでも肉親への愛情と同じぐらいカラーという種族を愛している。
いっそ冷徹なまでに民に掟を守らせ、そして誰よりも己がそれを守ることで一人のカラーによってめちゃくちゃにされた種族をたて直らせた彼女にとって、次代の女王を鍛え上げる、という事実は極めて彼女的に重要なことであったのだろう。
今は隠居の身ではあっても放ってはおけなかったらしい。

モダンの甘やかしがパステルという失敗を生んだと思っている彼女にとって、神具がなくなったことで生まれた己の自由の訳は、当然ながらカラー全体のためにほかならなかった。
だからこそ、肉体のない身でもなおリセットの教育に干渉する気が満々だった。


「いや、お祖母様……リセットは妾が」
『お前はそれよりもまず女王としての責務を果たせ』
『お母様! パステルはパステルなりに頑張っているんですよ!』
『結果が全てだ。案ずるな……その間にきっちりと仕込んでおいてやる』


それを見て、ただでさえモダン登場で青くなっていたパステルの顔色がさらに悪くなる。

パステルは地上で最高の呪術家だ。だが、それはあくまで現在の、が付く。
彼女よりも弓の腕が遥かに上であるが故に呪術では若干劣るモダンはさておき、精霊に愛されまくっているビビットはカラーの歴史上においても有数の魔法と呪いの使い手である。少なくとも、未だに歳若いパステルにはいまだ追いつけているとは思えない。
勿論、名選手がすなわち名監督というわけではないが、それを言うならばパステルに呪術の講師をリセットが頼むこと自体が間違いな訳で……そこまで考えたあたりで、彼女は更なる嫌な予感を感じて、おもわずあたりを見渡した。

その理屈と今までの流れで行くとおそらくこのあたりで……


「はっ、もしや!」


唐突にあたりを見回し始めたパステルを見てリセットは首をかしげていたが、先代、先々代の女王はその意味がわかったらしい。
笑いながらも彼女の危惧は意味がない、ということを述べた。


『流石にお祖母様はこないわよ~少なくとももう少しは』
『あの男に敗れて以来、放心状態だからな……くくっ、いい気味だ』


流石に三度目はなかったらしい。
そのことにほんの少しだけ小さな溜息を吐くことで緊張を緩めるパステル。

そう、万が一ありとあらゆる意味でカラーとしては規格外のフル・カラーまで出てきてリセットに呪術を教えるとか言い出してしまえば……母である自分の立場はリセットの前で完全になくなる。自分が女王としてはもとより母親としてもいい母親ではないと思い込んでいるパステルにとって、今回こそが娘に威厳を示せる千載一遇の機会であるというのに。
カラー史上最強といっても過言ではないフルに対しては体を乗っ取られた恐怖と苦手意識もあって、絶対に来てほしくなかったパステルは、最悪の事態が回避できたことに心底安堵していた。

だが、歴代三人そろってではない、ということは実のところ現状には何の助けにもならなかった。
というか、力はあっても明らかに教育などには向いていないフルとは異なり、この二人の元女王たちのほうがかなりの熱心さと、それに伴う実力を備えているのだから、彼女のピンチは微塵も助かっていなかった。


『いい、リセット? まず、大きく息をすって、自分の中の力を自覚することから始めるのよ?』
「う、うん……」
『……そんなことをしなくても感覚を覚える為に埴輪どもにでも呪いを掛けてくればいい。まあ……まずはその辺のムシからだな』
「えっ!」
『そんな、リセットには危険すぎますよ、お母様!』
『……甘すぎる。呪いは掛けて返されて覚えるものだ』
「……よし、とりあえず同時にやろっと」


善は急げとばかりに早速リセットに対して極めて教育方針の異なったそれぞれの教育とそれに対するこだわりの議論を始める二人を見て、そしてそれを少し戸惑いながらも素直に受け入れている娘を見て、おもわずパステルの頭がくらくらとしてくる。
己に唯一残るアイゼンティティまで奪われそうになって、パステルは娘の前にもかかわらずおもわず涙目で叫んだ。


「リセットは……リセットは妾の子です! だから妾が教え、鍛えます!」
『あらあら』
『……ふっ』
「リセットは別に皆に教わってもいいけど……」
「リセット!!」


自然とともに生き、四季とともに暮らすが故に時が極めてゆっくり流れるペンシルカウにおいても、ゆっくりと変化自体は流れ続ける。
ついこの間この場所において虐殺が、殺戮が起こったとは思えぬほど、それはカラーの女王達による穏やかな時間であった。








「おとーさん、ピンクのおねーちゃん助けるの、もうちょっとだけ待っててね、くふふ~」


娘が何故そんなことを急に言い出したのか、その動機に最後までパステルは気付かなかったが。




[29583] 無窮
Name: 基森◆8cb04620 ID:0593a267
Date: 2012/03/21 21:31

ランスの移動速度は、あまりに速い。
彼はファイターであり、決して斥候を得手とすることで同時に逃げ足、移動速度の向上を重点的に図っているレンジャーではない。そんな「無駄」な鍛錬を必要とするような技術など、ランスは欠片たりとも身につけたことはなかった。
だが、レベルアップによって向上した脚力は、才能に裏づけされた野生の勘働きは、そんな訓練により培われた歩行法や速度特化の鍛え方、などというものを必要としないだけの力を彼に与えている。
大地を蹴る。腕を振る。ただ、それだけの動作が彼に全てを踏破させるのだ。

電撃はそのわずかな障害にしかなりえず、落とし穴は片足を落とした時点で残った片足だけで飛び越えられ、無気力キノコがその胞子を散らすよりも早く駆け抜け、警報はそれによって呼び出した魔物がことごとく切り捨てられては無意味だ。
障害は全て踏み潰し、雑魚は全て切り捨てて、迂回路は全て駆け回って、迷宮という迷宮はことごとく黒い魔剣を握ったランスの前には跪く。


「クソが、クソが、クソが、クソがーー!!」
『……』


全てを切り捨て、踏みにじりながらも罵声は止まらない。
何か特別に気に触ることがあったわけではないのだが、最近のランスにとってそれはもはや口癖のようなものだった。

何が出来なかったわけでもない。誰を倒せなかったわけでもない。
望むままに喰らい、犯し、殺しているように見えるのに、ランスから延々とくすぶる苛立ちが消えることはない。
目に付くもの全てを怒りの捌け口にして、しかしそれでもなおなくならない新たな怒りこそが、今のランスの全てを動かしていた。


「死ね氏ね死ね死ねーー!!」
『(ランス……)』


何をしても収まらない暴力的な衝動を抱えて、ひたすらに手も付けられないほど虐殺を、破壊を続ける。
何をしても満たされない、何があっても空虚は埋まらない。
今まで感じもしなかった当たり前だった存在は、しかし失って始めてそのあまりの大きさに気付ける。
当たり前のあの日々が、いかに貴重だったのか。
笑って過ごした平凡な一日が、どれほど大切なものだったのか、今になってようやくランスは気付き始めたのだ。
その気持ちがわかるからこそ、カオスは無言でつき従うしか出来なかった。


「そこかーー!!」
「っ!!」


その彼の前に次に現れたのは―――出てきてしまったのは、一体の女の子モンスターだった。
桃色の髪は氷付けの少女とよく似た色合い。だが、その目つきと顎辺りで切りそろえられた髪の鋭敏さはその印象を遥か遠くにかすませる。
両手に持つのは、それぞれ長剣。無骨で装飾もないそれは、しかし今までの戦闘を物語っているのか手入れが行き届いていてもなお全体を覆う細かな使用跡が見え隠れしていた。
ランスがその手に持つ神の手からなる魔剣カオスには及ばないだろうが、それでもその使い込まれた様はある種の凄みを漂わせており、その少女にも似た魔物のことを誰よりも雄弁に語っていた。

ソードマスター。
最強クラスの女の子モンスターだ。生息地域は迷宮の極めて奥深く。普通の場所にいていいような脆弱な存在ではない。
物理系最強種のバルキリーには及ばないかもしれないが、それでも剣技の腕だけならば彼女にかなう者は大国の将軍の中でもごくごく僅かであろう。二剣から繰り出される絶技は、ありとあらゆるものを切り刻む。
言い寄る男の子モンスターのことごとくを切り捨ててきたその無表情な顔は、世界最強種のひとつとしての誇りを宿したがごとく完璧な美を体現していた。


「ちっ、ソードマスターか……面倒な」


それを見て、ランスもほんの少しばかり真面目な顔になる。
実際のところ、ソードマスターに苦戦した記憶は歴戦の冒険者であるランスにとっても数多くあるのだから。
そのランスの対応に応じるように、ソードマスターもいつも通りの表情のうかべない顔はそのままに、愛剣を振りかぶって構えを見せた。
その後、一切の音が消えた。
剣鬼と鬼畜戦士の戦いが始まるこの場には、魂なきムシでさえも避けて通っているようだった。


「……」


だがしかし、両者の間に歴然とはびこる力量差という壁を考えると、それはもはや戦いと呼べるようなものではないかもしれない。
ありとあらゆる剣技を極めたといわれるその女の子モンスターは、しかしランスの前に立った瞬間、己の命を諦めた。種族ゆえの特徴として反射的に刀を構えはしたが、それが今この場において役に立つなどと本気で信じているわけではない。
己の前へと駆け寄ってきた男のその何も移さない透明な殺意だけが秘められた瞳を見た瞬間に、この世に生を受けてよりその二腕に宿った剣の腕が今この場ではほとんど何の役にもたたないことを悟ったのである。

そしてランスは、それをごくごく当たり前の認識するまでもない当然の事実であると考えていた。


「おりゃっ!」
「っ!!」


だから、その女の子モンスターが剣を捨て跪き許しを乞う間もなく、ランスの具足が音を立てる。剣が大気を裂く。
刃が、煌く。
その音が、その光が、洞窟に反響して反射してソードマスターの耳に届く前に、すべてが終わった。


どさり
「ふん、雑魚が」


一瞬で間合いを盗んだランスの力任せに一撃が、ソードマスターの体をずるり、とずらし、その手に握られていた長剣を二つともカラン、と軽い音を立てて石畳の上へと転がす。
たったの一撃で、剣によって培われた人生を持つ魔物が、剣によって切り捨てられた。最強の魔物の一体が、いとも容易く葬られたのだ。
かつては死力を尽くし、仲間と協力してどうにか倒すことが出来たレベルのモンスターさえ、今の彼にはちょっと面倒、程度の雑魚でしかない。
それこそが、今の彼の現状をこれ以上なく端的に表す象徴だった。

やがて赤い血を撒き散らして崩れ落ちた人間と同じサイズの生き物の体を踏みにじり、ランスが呟く。


「ちっ、しかし本当にこんなところに美女がいるのか?」
『別に美女とか言う話はなかったろうに……』
「黙れカオス。美女だ。この塔に住んでいるのは美女以外にありえない」
『いや、ありえないとか言われても……まあ、そっちの方が嬉しいのはワシも同意するがの』


話す内容自体にはずっと以前の彼からたいした変化はない。
美女を求める為ならばどこにでも挑み、しかし途中で段々面倒くさくなってきて帰ろうとするが結局は強運で目的地までたどり着く男のせりふとして、実にそれはありそうなものであった。
だが、久々に見た女の子モンスターを面倒の一言だけで切り捨て、いらだたしげに呟くその姿に、その彼に握られる魔剣は確実に以前の彼との違いを感じていた。

だが、それでもカオスは剣だ。
その彼の肩を叩いて慰めることも、ともに酒を飲んで忘れてやることも出来ないが故に、カオスはランスの為に強き剣であることしか出来ない。
じわり、とソードマスターの血を飲み込み、わずかばかりに剣であるカオス自身にも経験値を取り込むことで切れ味を向上させた彼は、だからこそランスのその言動をとめることもせず、自分の考えだけを述べた。


『あのキースという男のよこした情報からするならば、ここに間違いないとは思う。まあ、そんな奴が実在する、というのならばじゃが』


技能として、冒険レベル1を持つランスに対してわざわざいう必要はない、とはわかってはいても、その千年を超えて生きる己の経験からする答えを返すカオスの言葉に、ランスは鼻で笑うだけで一顧だにしなかった。
ただひたすらに、大好きな冒険の最中でさえも面倒だ、という姿勢を崩そうとはしない。


「くそう、せめてサチコの奴でも連れてくるべきだった。疲れたが、キャンプ張るのも面倒になってきたぞ」
『いや、流石にサチコの嬢ちゃんでもおぬしと二人じゃこのレベルは無理だぞい。せめてあの魔想の嬢ちゃんとか謙信ちゃんとかじゃないと……まあ、その二人でもちょっときついけど』
「志津香は俺様の言うこと聞かんし、謙信ちゃんはキャンプなんぞ出来ん上に燃費が悪すぎる……ちっ、もういい。きゅーけーきゅーけー、ここで休憩だ」


パーティを組んで慎重に階層を越えるならばさておき、力任せ、レベル任せにひたすらがむしゃらに突き進むランスの冒険には、もはやはや誰も付いてこれない―――力を奪う呪いの指輪さえ超えてきた天才魔法使いであろうとも、JAPAN一の大剣豪であろうとも。
それをカオスに言われるまでもなく知っていたランスは、だからこそ今度は不機嫌に鼻を鳴らすだけで積極的な賛同とそれからなる過去の悔恨を見せることもなく、いらだたしげに反論するだけに留めた。
その言葉には、ある種自分以外の全てを雑魚、足手まといだ、とするような残酷ささえ篭っていた。

が、しかしカオスが告げた二人の名前をばっさりと切り捨てるその言葉には、まだかつての彼らしさが見えた。少なくとも、カオスにはその二人が自分についてこれないことに対する大きな苛立ちはないように見えた。
その顔には自分自身が強すぎることに対する物足りなさはあっても、それを他人の弱さに対する八つ当たりとまでは達していないらしい。それを声で聞いて、おもわず無い胸をなでおろすカオス。

むさぼるように戦い犯す彼をして、未だに彼の女は無意味とはなっていないのだ。
よかった。
まだ彼は、己の闇には溺れていない。
敵は殺し、味方を振り捨てて前に進んでいても、まだ戻る場所は、繋ぎとめる場所の意味は失っていない。

それこそ、桃色の少女を失って以来それなりにランスと付き合いの長い彼が見たことがないほどに荒れに荒れている現状から心配していたこと―――彼の知る最悪の権化、魔王ジルや魔人ケイブリスのようにひたすらに他者に陵辱と苦痛を強いること「のみ」が快楽とはなっていないことは、カオスにとっては何よりもの救いだった。

その喜びを隠して、カオスは出来る限り彼の助けとなることを望んで言葉を発した。


『お、ランス……なんか今、先のところで仕掛けが動いた音がしたぞ』
「あ? まあいい、後で見にいってみるか……」


おそらく、この階層のボスモンスターであったソードマスターを倒したことで仕掛けが動いていたのだろう。それの完了とともにおそらく階段でも現れた音を察知したカオスの声で、ランスはだるそうに顔をそちらに向けるが、立ち上がることはせずにそのまま頭を戻した。

どっかりとその場に座り込んだランスは、そのまま後ろに背負った荷物から水筒を取り出し、さっき水場で汲んだ水を口に含む。
かと思えば、その水筒をほうり投げ、鎧も脱がぬままその場で唐突に後論、と横になったばかりではなく、目を閉じさえもした。
ここが城壁と兵士に囲まれた安全な街の中ではなく、魔物やハニーが跳梁跋扈する魔窟であるにもかかわらず、だ。

自身の耐久力への絶大なる自信と、返す刀の鋭さで敵対者を一撃にて切り捨てることができることを事実と知っているがためのそのあまりに無用心な態度は、しかし今まで数多の迷宮をたった一人で制覇してきたときと同じように、ランスの身を脅かすことはない。
普通のダンジョンであればボスモンスターとして君臨することさえ出来そうなこのあたりに住む魔物はしかし、ソードマスターさえも一撃で切り捨てた彼の鬼気に怯え、ただ彼に存在を見つからないように息を小さくすることしか出来ていないのだ。
結果として、彼の傍若無人なまでの油断は未だに崩れない。

それを見たカオスには、複雑な感情が宿る。
そのランスの人類の域を凌駕した桁外れの強さは、魔人の打倒を、魔王の撲滅を目指すカオスにとっては好ましいものだ……だが。

彼は魔人にはなっていない。魔王にはたどり着いていない。
だがその様は、魔人を殺すことだけを生きがいにしてきたカオスにとって何処か懐かしい様だった。
絶大なる力を背景とした世界すべてに対して無遠慮で無思慮なその様は、魔剣に対して千年前の自分を思い起こさせた。
恋人を奪われ、その怒りと憎しみで魔物全てを殺すことを目的として世界最強のパーティー、エターナルヒーローに入ってすぐ、飢えた獣のようにただひたすらに魔物と敵対者に死を撒き散らしていたときの、人の身であったかつての自分を。


しかし、とカオスは考える。
千年前の彼にとって、今のランスのごとき形相であったのはそう長い期間ではなかった。
なんといっても、彼には『仲間』がいたのだから。

誰もが望み憧れる最強の戦士にしてリーダー、ブリティシュ。
性格には難があれども、M・M・ルーンにも迫る天才魔法使い、ホ・ラガ。
カオスと同様に家族を奪われ、しかしそれでもなお無益な殺生を嫌うサムライ、日光。
そして、ついこの間、予想だにしない再開がかなうこととなった小さな、しかし強靭な精神を持つ神官、カフェ・アートフル。

世界最高のシーフとして気紛れを装って魔人を殺す力を求めて彼らに近付いたカオスは、しかしその最初の利用してやろう、というだけの気持ちとは裏腹に彼らと真に仲間として今なお結ばれている。
結成当時でさえ世界最高のパーティであった彼らは、ともにいくつもの冒険を潜り抜けて等しい歩みでさらに成長していった……それこそ、失敗作であるとはいえ「神」をも殺せるほどに。

そう、『等しい』歩みで『共』に成長していったのだ。

ガード   ブリティシュ 才能限界:100 技能:剣戦闘LV2 盾防御LV2 
ファイター 日光     才能限界:71  技能:剣戦闘LV2
ソーサラー ホ・ラガ   才能限界:80  技能:魔法LV3
ヒーラー  カフェ    才能限界:66  技能:神魔法LV2

どれも、当時最強のシーフであったカオスの仲間に相応しい最高のパーティだ……そして今のランスには、当時のカオスを含めて誰一人敵わない。

極めて才能に恵まれたエターナルヒーローたちは、しかし誰一人神の定めた理を超えることは出来ていなかった。
魔人を、魔王を殺すことを、そのための手段を探すことを目的として幾重もの迷宮に潜り、数多の宝を得た彼らでさえも、ランスしか持たぬ世界のバグ、才能限界無限の特性には追いつけない。
仮に当時の自分が今ここにいたとしても、今のランスの力になれるなどとは、カオスには到底思えなかった。

冒険者である彼の本業である「冒険」に誰ひとり付いてこれない今のままでは、たとえ帰るところがあるとはしてもあまりにも辛すぎる。恵まれた才能と天運により全てを越える万能感をもっていたランスが、たった一人の少女さえも救えないとは。
出会った神によりあまりこの世の善意を信じていないカオスをして、あまりにもこの歳若い冒険者に対する運命の理不尽さを嘆かずにはいられない。


「うし、そろそろ終わらせるか」


水を飲み終わり、しばし目を閉じ、やがて開ける。カオスとさえ会話することなく、ランスのたった一人だけの休憩はその一言で終わりを告げた。
気の合う仲間との冗談も、今後の作戦会議も、これが終わった後のお楽しみの計画さえなく、ただひたすらに次の戦いのための休息。
血と埃にまみれた薄暗いダンジョンを駆け抜けるための、灰色の休憩だった。
投げ捨てた水筒を拾おうともせずに、ただズボンに付いたほこりを僅かに払い、防具の様子を軽く撫でて調べる。たったのそれだけで、キャンプも終了だ。後片付けさえほとんどない。

若さゆえか才能によるものか、僅かばかりの休息を取っただけでランスの疲労はほとんど消えて見えたが、同時にそこにはそれだけしかなかった。
体力と気力の回復だけを目的としたそれは、冒険を楽しんだ上で進めさせるのではなく、単なる作業の一つへと変えるものだった。


『ならばまずは右のほうじゃな。さっきそっちから音がした』
「お~、よくやった、カオス。じゃあまずはそっちからだ」


孤立は力を生み、しかし余裕を奪っていくことを実感として知っているカオスは、だからこそ今回の冒険がその打破になることを心底願ってやまない。
魔人を殺す、それこそが彼の目的であったとしても、それさえ出来れば後はどうでもいい、などといえるほど彼はこの世界に絶望していないのだから。


「すべての知識を知っているという美女ちゃんに、さっさと会ってエッチして帰るか」
『じゃから、美女は付いておらんかったっちゅーに』


彼の仲間である全てを知る賢者となってしまった魔法使いとは違って。

一人と一本はこうして冒険を再開した。
ランスが所属するコパCITYのキースギルドより得た情報、「全知の賢者が住まう塔」を制覇し、永遠の少女を救い出すために。
ランスは愚かカオスも知らないが、正式名称「ホ・ラガの塔」を登っていったのである。



[29583] 近縁
Name: 基森◆8cb04620 ID:0593a267
Date: 2012/03/31 23:46

ありとあらゆる設備・施設を詰め込んだ上でめちゃくちゃに設計され、その上でリーザス・ゼス・JAPAN・コパ帝国の援助によってそれなりの形になるように修正されたランス城は、その冗談のような建造経緯とは裏腹に世界屈指の名城といってもいい。
確かにランスのセンスが前面に出た統一感の欠片もない意匠の数々は伝統を重んじるものにとっては眉をひそめるようなものでもあるのだが、高額な建築費とリアとコパンドンによる異常なまでの監視と圧力によって建築が行われたことにより、世界唯一の品としては極めて完成度の高いものだ。
リーザス風でもゼス風でもJAPAN風でもないその独特の外見や内装は、CITYの中でも一際異彩を放ち、ランスの悪名によるものもあってひどく注目を浴びている。
大国の名城に比べれば規模こそ小さいもののその豪奢さと設備は、はっきりいって一冒険者が持つようなものではない。

その中の施設の一つ、露天風呂。
わざわざ地下まで掘り当てた天然の温泉を、これまた手間隙と技術とコストを掛けて屋上まで引き当てたその施設は、ほとんど彼の女であることと同義である城の住人には常に解放されている。そしてついでに言うと、ランス以外の男メンバーは常に城主命令で拒絶されている……一応、混浴とはなってはいるがそれが例えばロッキーやバーナードに適用される事はない。実質、利用者の9割がたが女性だ。
もっとも、ランスがいるときは覗かれる事は愚か突然乱入される事さえも覚悟しなければならない、という事もあって屋内にある大浴場同様普段からはそこまで利用者層が多いわけではないが、彼の不在時には話が別だ。

可能な限り部屋から出たくない、むしろ風呂にも出来るだけ入りたくないアテン・ヌー。
修行どうこうでドラム缶に自分で湯を沸かして入っているマチルダ・マテウリ。
世話する側であるという自覚からか自室で済ませ進んで入ることはないビスケッタ・ベルンズ。
体質上、このランス城の中さえも他人がいる以上は全幅の信頼は寄せれず装備をはずすようなことは中々出来ないクレインとフェリス。
入ろうとするたびに城内であるにもかかわらず何故か出現するハニーに邪魔される沖田のぞみ。

こういったごくごく例外をのぞけば、ランス不在時にはわりといろいろな人間が入りに来る施設だ。
日によっては魚がいないのにガチンコ漁法を試みるキバ子がいたり、あてな2号がアルカネーゼと泳いで競争していたり、カパーラが気持ちよさげに一人リサイタル(あまり上手くない)を行っていたり、メグがコパンドンの前にもかかわらず湯船で乳を浮かべ谷間で波を作っていたりと日によって様々なメンバーが入れ替わり立ち代り利用している。


「ふ~んふ~んふ~ん」


それゆえ、この日もこの豪勢な露天風呂には一人の女の姿があった。
流れるような金の髪に均整の取れた長身、そして女性ならば誰もが憧れるようなスタイルの美女が、鼻歌交じりに湯船で手足を伸ばしていた。


「ここのお風呂はJAPAN風でいいですね~。ああ、なんだかハニワ平原を思い出します。景勝は元気でしょうか?」


ぐぐー、と伸びをすると、その大きな胸がぷるん、と揺れる。と同時に、湯で温められた彼女の肌から甘い匂いが立ち上り、あたり一帯へと漂っていく。

リズナ・ランフビット。ランスの女の一人だ。
性的に調教されつくしたその体の動作の一つ一つが男殺しな魅力を持っている彼女は、しかし今ばかりはそんな自身の体質についてはまるで考えていないような幸せそうな笑顔を浮かべて、改めて岩に囲まれた湯船に肩までつかる。
ランスと僅か数センチしか変わらぬその長身を考えても随分と大きな胸をぷかぷかと浮かばせて、リズナはその湯から伝わってくる快に目を細めた。

今までの人生において割りと不幸なことが多かった彼女であるが、実のところ今の彼女は随分自分は幸福であると感じていた。
基本的に人がいいランス城の住民たちには自分を悪質な嘘で騙そうとする人間はあまりおらず(たまにランスがからかうが最近はそれもない)、金銭的にも魔法戦士として恵まれた才能を持つ彼女はそれなりの冒険者家業をしていれば特に困る事もない。
上げ膳据え膳の玄武城でもあまりに暇であった為家事をやっていた彼女はメイドの存在に戸惑う事もないでもないが、それとてビスケッタの気遣いにより出来るところは自分で、そして困るところは助けてもらっている。
体質は相変わらずであるがそれとてランスに一声掛ければ嬉々として付き合ってくれる以上、最近ではあまり利かなくなってきた薬に頼ることも少なくなった。
御世話になった先生の墓参りも出来たし、たまには景勝のところに遊びに行っているし、あの小さな王子様は立派になっていたし、友人だって出来た。

ランスのことは気に掛かっているが……それは考えても仕方がないのかもしれない。ランスのことを考えたその一瞬はリズナの顔が曇ったが、正直なところ彼に関しては手詰まりになっている感があるリズナはだからこそこの自分に対する幸福を改めてかみ締めており、それと同時にある種の後ろめたさを胸に押し殺したまま生活していた。

だがそれは、彼女にとって心苦しいことではあっても確かに平和で幸せな日々だったのだ。


「おじゃましま~す」
「あ……どうぞどうぞ」


故に以前に比べれば多少なりとも心の余裕が出来ていた彼女は、唐突に浴室の扉がひらき小さな影が入ってきたときにかつてのように反射的に「騙されないようにしないと」とわずかに身を固めるはしたものの、すぐにのほほんと歓迎の声を上げた。
目線をやった先に見えた姿は今まであまり親しく話した事がない相手であったが、だからといって拒むようなことなどなど考えもしなかった。

促した声にしたがって、長くウェーブした髪をなびかせながら一人の少女が入ってきた。
ミル・ヨークスと対して変わらぬ程度の体格の少女は、いつも騒がしい彼女とは打って変わって落ち着いた様子で、しかしあまり慣れていないようで辺りを見渡している。
入ってきた彼女の名はたしか……カフェといっただろうか?


「ねえ、この時代のお風呂って何か作法があったりするの? 私、あまりよく知らないの」
「いえ、お湯を体にかけてから入っていただければ……あ、タオルは湯船につけない方がいいかと」
「そっか、ありがとう」


それゆえ、こちらに対して質問してきた相手に実に友好的にリズナはこたえた。
カフェの言い回しに若干の疑問を感じないでもなかったが、それでも彼女の回答は適切だったのか、カフェは現代の風俗から考えるにあまり変なこともなく湯船に浸かって、ふう、と一息はいた。
そのカフェに対して、今度は最初の位置から割りと声が届く近くに座っているリズナから声を掛ける。
温泉でゆだった彼女の声は、いつも以上にゆるゆるとしたものであった。


「えっと、カフェさんでしたよね? 私はリズナ・ランフビットといいます」
「あ、最近ここに住むようになったばかりだったからあまり知らないよね。カフェ・アートフルです。よろしくね」
「……? カフェさんは」


それとは対照的に、カフェの答えはその外見からすると不釣合いなほどしっかりしたものだった。リズナと比べると頭半分ほど小さいようにしか見えないが、外見上の幼さはあってもそれ以上にしっかりとした声。
どう考えても子供ではないその様では、リセットやカーマの友達ということもあるまい。はて、一体この女の子はどういう経緯でランス城にいるのか、とリズナは頭をひねったが、ようやく思い出してぽん、と手を叩いた。


「あ、あのクグ、の……すみません」
「あ、別にいいよ」


そして、即座に謝った。
ダンジョンの奥地に転がっているパーツを三つ集め、その上で中の人間の本名を答えなければ解放できない拷問アイテム「クグの拷問機械」に囚われていた女性であったと聞いた事を思い出し、おもわず声に出してしまったリズナだったが、それはすぐに小さな声となった。
パーツの状態ならばさておき拷問を受けている直接の光景についてリズナは直接見たことはないが、拷問機械、拷問アイテムに囚われていた相手にとって愉快な過去ではない事は明白だったからだ。
自身もある意味『経験』があるにもかかわらず、無配慮にその過去に踏み込んでしまったことに即座にリズナは謝罪を行ったが、カフェはそれを笑って受け入れた。
どう見てもリズナ本人よりも年下に見える少女は、しかし今この笑顔ばかりは遥かに年上に見えた。


「だって、正直あの機械は一回ごとに記憶がリセットされるから今じゃあんまり覚えていないし」
「ですが……」
「それにあなたもあのパーツを集めるの、手伝ってくれたんでしょ? だから私にとってはあなたは恩人だもの。そのくらい、気にしないで」


リズナがカフェを助けた……少なくとも、その手助けをした。
彼女の言う事は確かに事実であるが、同時にそこまでいうほどの貢献を彼女に出来たとはリズナは思えなかった。
確かに彼女はなんどかクグのパーツを見つけたことはあったが、それはあくまでそのパーツがダンジョンの低階層にあったときの話だ。リズナが知る限り、クグのパーツがそろったのは最低でも四回……つまり、三度は助けられなかった。
3回目までについては幾つかの破片を見つけるときにパーティメンバーにいたこともあってある程度の貢献をしたということもいえなくはないだろうが、それが限界だ。
リズナは鈴女に見せられた写真でカフェ・アートフルという名前を出す事は出来なかったし、4回目以降パーツが眠っていたのであろう深く険しいダンジョンを踏破することもできなかった。
それら全て―――たった一人で高難度のダンジョンを駆け巡ってパーツを集め、見ず知らずの女性の名前を探し当てた―――をやったのは、ランスなのだから。

だからこそそれを言われても罪悪感はまるで消えようとしない。
そのリズナの眉根を寄せた表情にそれを悟ったのか、ばつの悪い苦笑いのような表情をカフェは浮かべた。


「でも、それをやったのは全部ランスさんですし……」
「だから、年上の話は聞いておきなさい。ランス君のおかげなのは確かだけれども、もう終わった事だからいいじゃない?」


年上、という言葉に違和感を覚えたリズナだったが、すぐに納得する。
彼女が拷問機械に囚われ続けていた、というならば外見年齢などあてにならない。
何せ自身も今年で51歳だ。この自分よりも幼く見える少女とて、実際に百年以上生きていてもおかしくはない。
クグの拷問機械の力は、使徒による永久保護魔法の力は、それを可能とする。
永遠を可能とする牢獄の住人だったのだから。


「それに……たかが『50年』の話だもの。私に―――私たちにとってもその期間は決して短くはないけれども、それだけですべてを捨てて絶望するほどの長さでもないから」
「え?」


にもかかわらず、慈愛に満ちた笑顔を投げかけてくるカフェの事が、リズナは理解できなかった。
クグの拷問機械はマジックアイテムだ。AL教団のリストにはあがっていないとのことなのでバランスブレイカーと呼ばれるようなものではないらしいが、それでも今の言だと不老不死にされて50年も性的拷問を受け続けていたらしい彼女が、どうしてここまで強靭でいられるのか。
時の止まった世界、玄武城に31年間囚われ、その中で心が壊れるほどの性的調教を受け続けたリズナにとって、その年月を「たかが」と言い切ってしまうカフェの笑顔は、その幼さの残る容姿とは裏腹にずっとずっと長い経験を感じさせた。

ずきり、と彼女の胸が痛んだ。
自分はあのとき、誰かを身代わりにしてでも助かりたいと思ってしまった。
心底親切心より自分を助けると告げてくれたランスとシィルの気遣いを無視して、その彼らを騙す事によって助かろうとしたのだ。
たとえそれはアベルトやチドセセー他幾人にも騙された事や、それを心配した景勝の誘導があったとしても、決して罪が一等減じられるものではない。
カフェがたかが、と言い切っただけの年月さえもリズナは耐え切れなかった。ならば、どうして……リズナの口から、おもわず声が転げ出た。


「どうして……どうしてカフェさんはそんなに強いんですか?」
「え?」


それはまるで、自身に対して断罪を願う声にも似ていた。
つらつらと、リズナは自分の身に起こった数々の試練に、そしてそんなものなどあっさりと解決してくれたランスの行動を語り始めた。
頭ではそんなこと、初対面にも等しい相手に語ることではない、ということはわかっていた。こんな温泉で語り、聞くような軽い話でもない。いくら表面上は平然としているとはいえ、開放されたばかりの相手に対してその傷を抉るような真似など恥じるべきだ、という事もわかっていた。
それでも、震える声は、漏れ出た言葉は止まらなかった。

ランスもシィルも気にしない、終わった事だ、といってくれた。
だが、それでも自分ではランスに対して恩を返しきれたとは思えない……それどころか、この体質の性で日々借りが増えていくばかりであるような気さえしていく。
才能限界から生まれるレベルの差によって、冒険についていってそこでの働きでランスに恩を返すことが出来なくなったリズナにとって、それは出来る限り考えないようにしていることであったが、それでも自分が何もしないでもいいと思っているわけではない。自分が何かをしなければならないことを忘れているわけではない。
だが、実際のところこうやって体を磨いて待っていることだけしか出来ない事に、未だにシィルが氷付けのままでいることに、内心忸怩たる思いは常にあるのだ。

だからこそ、自力で呪いに耐え切ったカフェに、自身が歩めたかもしれない強い心に、なんとしても答えを教えてほしかった。


「そっか……あなたも私と同じ。でも、きっとあなたも大丈夫。私だって大きな間違いをしちゃったけど、きっとやり直せる、って信じている」


そのリズナの願いに対して、カフェは……1500年をカオスや日光のように物としてではなく、人として生きてきたエターナルヒーローの一人は、熟考の上答えを返す。
どこまでも英雄と呼ばれるに相応しい高潔さが、浴場ゆえに一糸も纏わぬ裸身の上からでも見て取れる。そしてその外見に相応しい落ち着いた声で、カフェは言う。
リズナと彼女の決定的な違いを。



「だって、私には仲間がいるもの」
「仲間……」



仲間。嬉しそうに、大切そうに、カフェはその言葉を語った。
身体的にはリズナのほうがずっと大人であるにもかかわらず、そこに積み重ねてきた実際の年月の違いゆえか、その声はすっとリズナの耳に、心に入ってきた。


「カオスにも再開できたし、聞いた話によると日光さんだって元気なんだって。ブリティシュっていう私達のリーダーだってきっとまだ何処かにいるはずよ」
「……それが、仲間の方のお名前ですか?」
「うん、そう。あと、ホ・ラガっていう魔法使いも仲間なの。全部で五人のパーティだったのよ?」


その仲間の名前を次々と上げていくカフェの声は、実に弾んだものだった。一人一人の名前を上げるたびに、その相手に対する信頼と愛情がリズナにまで伝わってくる。
じわり、とその声を聞いたとたんに何かわからぬ感情が胸を浸した。
ああ、自分にもそんな声で語れる仲間がいるだろうか。自分が彼らを仲間と呼んでもいいのだろうか?
それを知ってか知らずか、カフェは言葉を続ける。


「私ね、みんなを探してみようとおもっているの。私だけ、馬鹿な願いをしちゃったけれど皆きっとまだ頑張ってると思うから、駄目だっていわれなければ助けに行きたいな、って」


真っ先に、ある男の姿が思い浮かぶ。ハニーの彼は友達ではあるため、仲間という言葉では連想しにくい。だからこそ、その最初に脳裏に描いた男の衣服は緑色だった。

彼にとって自分の存在はきっとそれほど大きくは無いだろう。
彼は一流の冒険者であり、いくつもの冒険を乗り越えてきた歴戦の戦士だ。
ともに戦場を駆けたというにはあまりにリズナとは出会った時期が遅すぎる。そして、彼の女としても数多くいる中の隅っこにおいてもらっているだけの一人に過ぎない、と自覚している。
自分では、到底カフェと彼女の仲間が築いたのと同じ関係が出来ているとはいえない。
だから、彼に対して自分が仲間、と告げるのはおこがましい事なのかもしれない。


「ちょっとランス君とカオスにはこれ以上ついていけそうにないから……う~ん、まずはホ・ラガを探そうかな。ブリティシュは……まだちょっと心の整理が付かないから会えないし」


楽しげに仲間のことを語るカフェの言葉を聞いていると、まるで見たことのないその者たちがありありと目に浮かぶようだ。
それはリズナにとって目もくらまんばかりに眩しい。

それと同じ関係をランスに望むには、あまりにもリズナの力量はつりあっていない。薙刀も魔法もよく使う彼女をして、今のランスにとっては背を預けるにはあまりに不安な脆弱な存在であろう。

だがそれは、あくまでランスからリズナにむける感情の動きに対する事実だ。
リズナが一方的にランスを心底仲間であると信じ、動く為には何の問題もないはずだ。
彼の助けになりたい。彼の傍にいたい。彼と同じ時を過ごしたい。
この胸の奥でたぎる思いがカフェのそれに劣るとは、己にいろいろな意味で劣等感を抱くリズナをしてどうしても思えなかった。
互いに助け合えるカフェたちとは違い、その思いは勝手な一方通行のものかもしれないが、だがだからこそ彼に切り捨てられる一時の盾としてでも力になりたいというその感情は実に強いものであってもいいはずだ。

それこそ、ランスの為に道の魔物をほんの僅かに片付ける。
意味なく撃たれた、今のランスにとっては取るに足らないグリーンハニーの攻撃を、その身で受けて防ぐ。
またランスに対して呪いなぞが向けられようものならば、今度こそこの身の絶対魔法防御で身を挺して防ぐ。
疲れた体を揉んであげる。道中のうし馬車を代わりに運転してあげる。代わりに何か依頼の情報を集めてあげる。
彼の仲間として、女として、出来ることはいくらでもある。勿論、同じことを考えている『仲間』も大勢いるだろうが、だからといってリズナが何もしなくてもいい、というわけではない。
今まではそれさえも邪魔になりはしないかと慮り、そういったでしゃばりじみたことには手を出さなかったリズナであるが、そういったことで『邪魔』をする方がまだ無為に時を過ごすよりも自分の好きなランスが望む態度ではないか、と思ったのだ。

それこそ彼が、エッチな事がしたくなったときに、すぐに濡れる自分の体は彼にとっても決して使い勝手が悪い、ということもないだろう。
それでも足りないところは多々あるだろうし、隔絶した力量を持つランスの隣に立つのは並大抵のことではないだろうが……そのときは『仲間』に頼ろう。きっと、同じように考えている人間はあの青年の側にならばいくらでもいるだろうから。
自分と同じぐらいの力を持ち、同じ経験を積んでいくことでランスから一方的に助けられるのとは違う、お互いに助け、助けられるカフェのような仲間をこれから作っていこう―――ランスを助ける、という同じ目的の為に。

今までは無理だった。人を信じるには、リズナはあまりにも多くの人に騙され続けてきた。
また今度も嘘をつかれるかもしれない。それを疑いながら、しかしそれでも信じる心を捨てきれずに磨耗しきっていた彼女は、アイスフレームなどで今まで行動を共にするものとも昔からの知り合いを通じてでもない限りそれほど親しく語り合うことはせず、ある程度の一線を引いてきた。友達は出来ても、自分から進んで冒険へといざなう「仲間」は出来なかった。
彼女はもはや女学生ではなくれっきとした冒険者なのに、実際にはランスについていくか、あるいはソロで格下相手に戦うだけ。

だが。
仲間を作る。仲間とともに歩んでいく。
そんな、かつての何も知らなかった少女のときのように何の打算もなく、利害もなく、相手を信じ、信じられる……そんな夢のような未来も。
ここランス城なら、彼を慕う女が数多く集まるこの場所なら、叶うかもしれない。


「ホ・ラガさんって方はどのような方なのですか?」
「それがね、おかしいの。見た目は凄く格好いいんだけれども性格がすごく変。しかも女嫌いだから私もよく自然に意地悪みたいなのされたもの」


だからこそ、浴場の湯気にまぎれて浮かんだ涙をそっと拭ったリズナは、先輩であり、仲間としてやっていけるかもしれない少女と談笑を続けた。
仲間の輪を広げ、ランスを助ける為に。幸せな少女の時代をもう少しだけ続けて、そこから一歩進むことを決めたのだった。







そして、そのリズナの決意と時を同じくして。未だに仲間を愛している、しかしそれを現すことを許されない男が言った。


「ふむ、私はその問いに答えることが出来る」


シィル・プラインを助ける方法。
かの大国の諸王たちでさえ手がかりもつかめないランスが求めてやまないそのことが、まるでたやすいことであるかのように男は答えた。
その低くよく響くバリトンはその内に眠る計り知れないだけの知力を感じさせ、先の言葉が真実である、と信じさせることを補強していた。

おもわず勢い込んで体を乗り出したランスをみて、しかし男はその興奮を抑えるかのように手のひらを前に突き出してランスを制する。
常に彼と行動を共にする魔剣のおしゃべりさえも止めるほど、その手の隙間から見え隠れした眼光は鋭いものであった。

なるほど、男の宿す知はまさに神の領域のものである。
だが、同時に彼は『慈悲深い神』などというものではなく、紛れもなく人間である。
無償で『見ず知らずではない』とはいえ赤の他人を助けられるほど彼はこの世の善意を信じておらず、むしろそんなものをせせら笑わざるを得ないほどにこの世の悪意を『知りすぎて』いた。
仲間、信じる、決意、信念。そんなものに対して斜に構えずにはいられないほどに、彼は世の中を見知っているのだ。


「だが、条件がある」


だからこそ、その後に出た女嫌いのおかしな賢者が発した言葉は実に真っ当な、対価を求めるものであった。





[29583] 聖賢
Name: 基森◆8cb04620 ID:0593a267
Date: 2012/06/19 19:56



「うおりゃぁぁあああぁぁ!!」
『ッ! ……ッ!!』


ランス渾身の一太刀が空を切り、大地を砕く。当然ながらそれは、その進路上にあったいかなるものの命も断ち切っている。
声にならぬ断末魔の後、海栗のように棘だらけの魔物は倒れた。迷宮の最深部に位置するには相応しいだけの力を持ったモンスターは、しかしランスの歩みを止めるには僅かではないほどに力が足りなかったという事か。


「ふう、終わったか」
『お疲れー』


そして、その―――この階層のボスであろうと思われるモンスター、ヘクタピラーを撃破した―――直後、ランスは今までとの違いを感じていた。まるで何かの仕掛けを解除したときのように、何かが大きく動いて自分の道を空けたような、そんな感覚。
歴戦の冒険者としていつも感じていたダンジョンクリアの感覚は、決して絶対のものではないがそれでも今回のランスにはこれで終わりだろう、という確信があった。
まるで針山のように尖っていた魔物の死骸を避けて進むと、その先にあったのは今までのように階層を越えるための階段ではなく、精緻に彫刻の施された扉だった。

それを見てランスが、ようやく目的地にたどり着いたのか、と牙をむき出しにして笑う。
これは明らかに、アタリだ。


「お、それっぽい扉にたどり着いたぞ」
『……待て、ランス』


だが、その今回の冒険の目的地と思われる扉を前にして、カオスが止めた。
珍しく真剣な声に、ほんのわずかばかりランスがカオスに対して注意を向ける。
そこには決してカオスを己と対等と見ているような様子は無いが、それでもそれなりに彼の言動を無視しないだけの注視が見て取れた。
少なくともカオスだけは、ランスの冒険についてくることが出来ている……だからこそ、わずかばかりに気を止めることだけはしているのだ。
それを受けて、カオスが重々しく呟いた。


『猛烈に嫌な予感がする……トラップがどうとかそういうのじゃなくて、なんかこうもっとねっとりとした』
「……ついにボケたか?」


が、あくまでそれは一応耳に止める、程度のものであってランスの行動を縛るとまではいかない。
なんか剣になったにもかかわらず、ありもしない尻の辺りがむずむずする、という彼の予感は所詮ランスにとってはほとんど重みを持たないモノであるため、あっさりとスルーされる。


『ボケとらん! ワシはまだボケとらんもん……あ~、婆さんや、飯はまだかね?』
「ボケてんじゃねーか……大体ここまで来て帰るなんてこと出来るか」


まあ、普通に考えて苦労してここまで上ってきたにもかかわらず、そんな予感、などというあやふやなものを元に引き返す事など出来るはずもないことはカオスもわかっていたのだが、それでも嫌な予感は一向に消えない。歴戦のシーフにして千年を生きる魔剣である己をここまでおびえさせる正体が何なのか、カオスにはさっぱりつかめなかった。


『そりゃそうなんじゃが……いや、なんか覚えのある嫌な予感がするんだよ。なんじゃったかなぁ、この感じ』
「お前の勘なんぞ当てにならん」


だからこそ、ランスが自分の言葉なぞ気にも留めずに扉をばたん、と開け放ったとしても何も言えず、ただその瞬間おもわず目を閉じ身をすくめてしまっていた自分にむしろ違和感を抱いていたほどだった。


「よく来たな、ハンサムボーイ……」
「ちっ、爺じゃねーか。キースの奴ガセを掴ませやがったな……誰だお前」


それゆえに、扉が開くのとほぼ同時に響き渡った老成した声を聞いても、一体それが誰のものか瞬時には判断が付かなかった。
声の質、トーン、そして内容。なんだか聞き覚えのある嫌な予感はしても、流石に年月が経験を押し流していた為、ランスの突っ込みのように即座に対応が出来なかったのだ。
そのためカオスは、なんだか嫌な予感を覚えはしていても、おそるおそるそのぎょろ目を開いてあたりを見渡した。

そして、わずかばかりに驚いた。
あたり一面、草原だ。遠方には澄み切った山脈、花と緑が咲き誇り、さわやかな風が吹いている。
普通の人間ならば、何の冗談だ、と思ったに違いない。
なんといってもここは雪国ヘルマンの中でもさらに厳しい豪雪地帯だ。
ランスにはこの間ダンジョンで見つけた「雪のおまもり」というレアアイテムがあったからよかったようなものの、それ以外の人間であればたどり着くことさえ難しい雪と氷に閉ざされた地帯にひっそりとそびえ立つ、塔の中なのだ。
それなのに、見渡す限りの植物が広がっているなどと、一般的な人間であれば目を向くような様だった。

ただ、ランス達のような高レベルの冒険者にとってはある程度の驚きはあってもありえない、とは感じない。
ここはダンジョン……迷宮だ。
かなり高度な術式であるとはいえ、高レベルの魔法技能を持っていれば迷宮を生成する事が出来ることを知っているカオスは、だからこそこの塔という限定された空間を捻じ曲げてこんな地平線さえ見えそうな広い草花を作り出した魔法使いの技量には感心したが、目の前の現状が異常であるとはしなかった。

ランスに所有されてからしばらく、魔想志津香やアテン・ヌー、アニス・沢渡といった人であったときでさえあまりお目にかかったことのない高レベル術者に短い期間で立て続けに出会うこととなったカオスは、だからこそ「またか、ランスと行動するようになってからは本当によく実力者と会う」という思いで今度は術者を探した。
ここまで平和そうな空間を作り出すような魔法使いだ。まあ、いきなり攻撃を仕掛けてくることはないであろうし、仮にそうだとしても今のランスをたったの一撃で打倒できるような存在なぞ、それこそ魔人の中でも数少ないであろう。

だからこそ、脳裏に浮かんだ嫌な予感は気のせいであった、としてこんな迷宮を花で埋め尽くすような乙女チックな魔法使いを探して、一軒だけ有る赤い屋根の山小屋の前のロッキングチェアーに座っているその姿を見つけて……凍りついた。

先の予感は、実に正しかったのだ。


『んっごぅぉうあぁぁああ!!』
「なっ…なんだ!?」


ランスに握られたままだったカオスは、おもわず雄たけびを上げてしまった。
それはまさにコカトリスの断末魔というか、肉にされる寸前のうしのいななきというか、ハニーの割られる瞬間の声というか、まさにそんな感じのありとあらゆる負の感情の入り混じった『悲鳴』だった。

仮にも魔人や魔王さえ切れる伝説の魔剣が突然挙動不審になったことにランスが戸惑ったような声を上げるが、残念ながらカオスにそんなランスを気遣う余裕はない。
逃げなければ。とにかく、後ろを見せないように逃げなければならないのだ。だが、ランスに対して逃亡を促す言葉さえ、凍りついたカオスの無機物の声帯からは出てこなかった。

彼は、この空間を作り出した魔法使いのことを知っているからだ。当時とは、まるで外見は変わっている……まるで、己のように。かつての若さに溢れていた魔法使いは、しかし今ではまるで老人そのものの姿へと変わり果てていた。
だが、忘れるはずがない。忘れるはずがなかった。一目見ただけでわかった。いや、本来であればそれさえも遅すぎる。声を聞いた時点で理解するべきであったのだ。
こいつは、この老人の姿を取っている男は、自分と同じく神に謁見を果たしたやつだ!


「やはり…ハンサムボーイの腰にある羨ましい剣はカオスだったか…久しぶりだな…」
『よるな、変態!!』


カオスの大きな声をまるで「知っていた」のかのように驚きもしないで皮肉げな目線と笑いだけで納めた男は、まさしくカオスの同類だ。

カオスの所属していた千五百年前の最強パーティ、エターナルヒーローが一人、ホ・ラガ。
人類統一を成し遂げた唯一の人間、M・M・ルーンと同じ魔法LV3を持つ、魔人を殺す事を願った最強の魔法使い。

かつての仲間と久しぶりの再開をしたカオスは、しかし嬉しさを込め親しげに話しかけるどころか、嫌悪感いっぱいの声で叫ぶ。
だが、カオスの必死の拒絶をもホ・ラガはおかしげに笑いを含んだ声で言うだけだった。あまり、堪えた様子は無い。


「ふ、久々の再開だというのにな……私としても君よりも他の仲間たちに会いたいのだが。まあ、君もそんな姿では以前ほどむさくるしくはないがね」
『最悪だ……くそう、依頼を受けた時点で気付くべきじゃった。そうすれば絶対にこんな奴のところになんぞ来んかったというのに』
「なんだ、お前ら…知り合いなのか?」


いつもある種飄々として他人とは一線を引いているように見えるカオスにしては珍しいその態度に、ランスが不思議そうな表情を浮かべた。
そんなランスの表情を見て、何故か顔をほころばせたホ・ラガと、それを見てさらにどん
引くカオス。ランスは未だに理解していないが、カオスにとってはホ・ラガが微笑んだ理由など明白であったからである。
微笑む爺と悲鳴を上げる剣と事態についていけていない男。
総計して、あまりにもここは変な空間だった。


『ああ、そうだ。ワシはこいつが嫌いだ』
「自分よりいい男は、皆嫌いなんだろう…? ふっ…」
『馬鹿野郎! お前は嫌われる要素が多いんだよ! ああ、よるな、よるな! 変態がうつる!』


カオスが嫌悪感たっぷりに叫び、それをホ・ラガがいなす。
仲のよい仲間との会話というには少々ギスギスしたものであったが、二人がそれなりの長い時間をともに過ごした、気心のしれた仲であることはよくわかるのだが、兎にも角にもカオスがホ・ラガの一言一言に反応して怒鳴り散らすので話がまったく進まない。
ランスの米神にビシリ、と怒りのマークが浮かぶ。


「……まあ、爺同士の思い出話なんぞどうでもいい。後でやれ」
『お、おい、ランス辞めておけ! お前がこの男に関わると、ろくな事にはならんぞ』
「黙れ、カオス。お前の昔の仲間だろうと俺様には関係ない。邪魔するならば殺すだけだ」
『いや、そうじゃなくてだな。ワシはお前さんの心配を』


その怒りがそのまま殺意へと変換されるその様は、まるでゼスやJAPANで随分と丸くなる以前の彼のようであった。
犯している最中に抵抗する女の腕をへし折り、すれ違った男の顔が気に食わないと切り捨てる。当時の彼のそんな暴虐を現すかのように、自分の言葉を遮る老人たちを今にも叩ききりそうな凶悪な面相を現すランス。

が、カオスはそれを受けてもホ・ラガのほうではなく、ランスのほうを心配する声を上げた。
そう、ホ・ラガが恐ろしいのは、その魔法による戦闘力ではない。
いや、それも確かに一員ではあるが、それ以上に彼自身が恐ろしいのである。
事情を知るカオスの親身なアドバイスを、しかしランスは鼻で笑った。そもそも、ランスにとってカオスの言葉なんてキースや言裏の戯言と変わらない程度のものだ。
だからこそ、思いっきり彼を軽んじる発言を重ねる。


「ふん、えらそうなことを言ってもお前ら結局魔人一匹殺せなかったんだろうが。俺様の敵じゃない」
『……ああ、そーですかそーですか。せっかく人が心配してやってるというのに! もう、わしは知らん、忠告はしたからな!』


その言葉に、流石にカチン、ときたカオスは、その言葉を最後に沈黙を選んだ。
実際彼にしてみればホ・ラガに聞かねばならないことがいくつかあるのであるが、それ以上にこの男と関わるとろくな事にはなるまい、という実感もあって、もうどうにでもなれ、と思ったのである。
そしてそれは、今の状態では実に正しい態度だった。
事態はもはや、カオスの手などとっくに離れていたのだから。


「何を言っているんだ、この馬鹿剣は……まあいい。やい、爺。その老い先短い命を無駄に散らしたくなければ、俺様の質問に答えろ」
「くっくっく、私に向かって老い先短い、とは……『知っていた』とはいえ、やはり君は良い」


ホ・ラガの意味深な言葉も、今のランスには届かない。
いらだちを強めるばかりで、口調もさらにとげとげしくしたランスは、投げつけるかのようにここに来た目的である質問を一方的に行った。


「俺様の奴隷が余計なことをしたせいで魔王の魔法をくらって凍っていやがる。そこから出す方法を言え」
「ふむ、私はその問いに答えることが出来る」


そして、神と謁見した事により『全知』を与えられているホ・ラガにはランスの問いの答えは愚か、その問いを彼が行う、ということでさえわかりきったことであった。
だからこそ、彼は自分が次に告げる言葉によってどのようなことが起こるのかさえ理解したうえで、ランスが望んでやまない桃色の少女を取り戻す為の手段について、注文をつけた。


「だが、条件がある」






「……死ね」


今のランスに対して、自分の我を通そうとする「交渉」など、愚考以外の何物でもない。
自分の意思を阻まれた―――それを悟ったランスは、即座に行動に移る。
ホ・ラガは魔法使い。当然、戦士たるランスの動きなどろくに読めはしない。ましてや、ランスのほうが彼より相当レベルが高いのだから、回避が許されないのはむしろ当然の帰結だった。
それを端的に現すかのようにランスはホ・ラガに対して瞬時に距離を殺し、エターナルヒーローであろうとも反応できぬほどの速度で剣を振りかぶった……完全無欠にホ・ラガの予想した通りに。
かつて仲間だった黒剣が自身の頭部に迫るのを何の色も見せない瞳でホ・ラガは見つめ、それはその剣が自分の頭上でぴたりと止まったときもまた同じだった。

その強大な魔法力で障壁を作って防ぐのでもなく、絶大な先読みでかわすのでもなく、ホ・ラガはただそこにいるだけでランスの攻撃を防いで見せた。
かつての彼のパーティリーダーさえ凌駕する、ランスの一撃を。


「やはり君は素晴らしい……まるで彼を思わせるほどだよ」


ランスが自分を攻撃する事、そしてそれが己に傷一つつけないことを知っていたホ・ラガはだからこそその唐突な行為の帰結に対して一切の感情の動きを見せずにただ見つめていた。
知っていてもなお、見とれるほどに華麗な一筋の斬撃。
そのランスの鮮やかな動きに、かつての薔薇色だった過去を振り返る余裕さえ見せて。


「なっ!!」


が、ランスはそうではない。
脅しを込みとはいえ、それでも死んでもかまわないという心持で振るった剣が、何の反応も見せることが出来なかった相手の前に止められた、ということに彼は驚愕し……そして、気付いた。
自身の剣が止められたこの感覚は、以前にも覚えがある、と。
凄まじい殺気とともに周囲を睥睨したランスの目先の先には、彼の予想通り不気味な魔物の姿があった。
舌打ちとともにランスは罵倒を吐き捨てた。


「ちっ、小細工を」
「まあ、そうだね。君の前にはトロールなんて本当に小細工でしかない」


目先の先。
そこにはランスの予想したとおり、狂った造詣をした緑と紺の化け物が踊り狂っていた。

紺の水着を着た落書きドラゴンのような生き物。
世界のバグ。神の想定外。
二種の例外の一つ、トロール。
力の代償を問わず存在するエリアの物理攻撃そのものを全て禁ずる魔物の前に、ありとあらゆる戦士の攻撃は意味を失う。
ホ・ラガがあらかじめ用意していたその魔物は、力でも技でもなくただそこにいるだけでランスの攻撃の一切を無意味とした。

種族の壁、人類の限界を超えるほどの力を持つランスでさえ、その世界の法則を書き換えてしまう魔物の前では、攻撃を禁じられてしまう。
そのことをランスは以前の体験として知っているだけにいらだたしげに鼻を鳴らしてホ・ラガを睨んだ。
涼しい顔をして彼を見つめるホ・ラガに一層怒りを掻き立てられたのか、ランスは二人を一度に視界に納めることが出来る位置まで飛びさがって魔法を放つ。


「けっ、失せろ、雑魚が! 『ライトニング・レーザー』!」
「そう……それが正解だ。物理攻撃には無敵を誇るトロールも、魔法にはてんで弱い……もっとも、私にはその程度の魔法力では効かないがね」


雷光をまじえたレーザーが四本。二つはトロールへ、二つはホ・ラガへ。今度は脅しなどではなく、頭に血が上ったランスの本物の殺意をまとってその必殺の四条は空を切る。

怒りの衝動とともに放たれた魔法はトロールをまるで紙のように容易く貫く。
あたりまえだ。戦士たる彼の魔法力など所詮は余技でしかないが、同時にその極端なまでに上がりきったレベルの恩恵は、その余技でさえ雑魚モンスターの命を終わらせるには十分なものだ。
だがしかし……流石にそれが限界だ。いかに相当なレベル差があるとはいえ魔法技能を持たないランスのそれでは魔法レベル3を持つホ・ラガの魔法防御を無視できるほどではない。
シィル・プラインから与えられたランスの魔法はレベルアップによって相当強化されはしたものの、大賢者を殺せるほどではなかったのである。
それをもはや語るまでもない常識であるとでも言わんばかりに、ホ・ラガが腕を一振りするだけでその身に向けられた雷光纏ったレーザーは霧散した。


「てめぇ……死ね!」


が、トロールを打破した事によりこの場を縛る物理攻撃無効の縛りはなくなった。ならば、彼にはそれで十分だった。
自分の攻撃をこんな姑息な手段で防がれた怒りをそのままに、再度の攻撃。
その勢いはまるで時を止めたような速度を伴ったものだった。


「ところで……実は君がこの場に入ってくるほんの少し前、魔法を唱えたのだ。たまには、と思ってね」
「っ!!」


しかし、それさえもホ・ラガの予想は超えられない。
一手一手、着実に、堅実に積み重ねていく。

魔人を殺した、神にも届く踏み込みで再度間合いを詰めようとしたランスは、しかしその意思に反して場から動けなかった。
再度の罵倒が、口を付いて出る。


「くそ、志津香の使ってた奴か!」
「ああ、『粘着地面』という。君が部屋に入ってくるほんの一呼吸前からそこにしておいた」


さきほど魔法を撃つ為に間合いを取り、足を止めた場所が悪かった。
魔法によるとりもちにも似た効果がその場には仕掛けてあったらしい。もともとは彼の仲間である魔想志津香の得意とする魔法であったそれは、ある意味彼の天敵だ。今までどれほど煮え湯を飲まされてきたか。
そして、ホ・ラガはそれを誰よりも効果的に使える。


「この、クソ爺が!!」


必死になってもがくランス、しかしそれは全て届かない。今までだって破れた試しがないそれは、そもそも力で破れるものではないのだから。
効果範囲は狭く、その割には使用する魔力が多いそれは戦場では使い物にならない類の魔法。実際、志津香だって本気でランスを殺害するつもりのときはこんなもの使ったことがない。
本来であればこんな欠陥魔法でランスの動きを留めることなど出来るはずがないのは、術者ならばわからないはずがないからだ。
当らなければ意味がなく、当てるにはあまりに狭く、遅く、無駄。

いかにホ・ラガの魔法レベルが伝説級であろうとも、効果範囲を通常のよりも絞り込んで、それこそハニー一匹分ぐらいにまで狭めるその代わりに粘着力を高めてでもなければ今のランスの動きを封じることなどできはすまいし、そんなことをすれば当然ながら運良くランスがその場所に行かなかった場合はまったくの無駄になる。
普通であればありえるはずもない選択肢であり、だからこそそれはランスもまったく考慮していなかった「攻撃」である。


「くそう、こんな程度で!」
「ああ、いっておくが靴を脱いで逃れようとしても無駄だよ。そこにもきちんと仕込んであるから」
『ああ、薄々そうじゃないかと思ってたが今のでわかった。やはりそうなのか、お前。お前の願いもワシらと同じように……おい、ランス。こいつの前じゃ何をやっても無駄じゃ、諦めろ』
「何ぃ!!」


だが、現実はこうだ。
ホ・ラガの魔法の前では、いかにランスが猛ろうとも、いかに剣を振り回そうとも、その力は届かない
真正面からやれば負けるはずも無いにもかかわらず、こうもあっさりと攻撃が止められたというそれは、まるで赤子と大人ほどの差を逆に物語る。
それをあらかじめ予想していたのだろう。何処か疲れの滲んだ声でカオスは囁くような小さな声で、ランスに向かって語りかけた。


『ワシらは神に会ったときそれぞれひとつずつ願いをかなえてもらったんじゃ。ワシと日光は魔人を殺せる力を。カフェは絶対の美貌。そのワシらについての結果はお前さんも知るとおり。願いは叶ったが全員胸糞悪くなるような曲解をされた』
「だったらなんだ!」


魔人を殺す力を願った二人はその代償として己一人ではろくに動く事も出来ないほどに己自身を武器へと変えられたあげく、永遠の生を与えられ、その中では魔人の帯剣となるような屈辱さえ味わった。
コンプレックスによって自分を絶世の美女にすることを願った少女は、その美貌ゆえにありとあらゆる男から欲望を叩きつけられ、絶望の檻に捕らえられることになった。
どちらもそれによるカオス達の苦しみを予想していたのであろう、残酷な神の思惑通りに。
ならば、神と対面した最後の一人であるホ・ラガにだけその邪悪な思惑が降りかからないことなどあるわけがなかった。
じかに再会した事で改めてそれを思い知らされたカオスは、その意味をランスに対して説明する。


『そしてこの男、ホ・ラガが願ったのは魔人を倒す為に必要なことも含めた……すべての知識だ』
「そう……そして私には全てがわかっている。世界の成り立ちから、ありとあらゆることの存在意義までね」
『その挙句の果てが無気力になっての引き篭もりなんだろう……ある意味ワシらよりもしんどかったんだろうな』
「知るか、そんなこと!! 俺様には関係ない」


神によって与えられたのは、文字通りの全ての知識。
砂の一粒の位置から、この世界を縛る絶対の法則、そしてすべての楽しみも喜びも悲しみも怒りもそれはホ・ラガにとっては既知の情報でしかなくなった。
そしてその中には当然、ランスが生まれてから死ぬまでどのような行動を取るのか、指の一本の動きまでも含まれている。

どれだけランスが桁外れの力を持って地を蹴ろうとも、どれだけランスが人を超えた力で剣を振ろうとも、それはすでにホ・ラガの知っているそのままでしかない。
いかにランスがレベルアップで強くなろうとも素手では魔人や魔王に傷一つ付けられないように、いかに力を付けようともホ・ラガの予想は超えられない……それゆえに怒りに任せたランスの行動の全てが、最上位の神によって「この世全ての知識」を与えられたこの男の手の中で踊るだけとなる。
カオスが悟ったように、ホ・ラガ自身が創造神の見えざる手の範疇から逃れられないがごとく、ランスもまたホ・ラガの知識の範囲からは逃れられない。


「ふふ、元気で動けない君とこのまま楽しむのも悪くはないが……それはまたの機会にしておこう。さて、これで私の力はわかったはずだ」
「……殺す、殺す殺す殺す!!」
「その上でもう一度言おう。私は君の問いに答えることが出来る。だが、条件がある」


こんな説得の仕方がランスとの関係にとって良いはずがないことを知ってなお、ホ・ラガは圧倒的な高みからランスを見下す。
それこそが己にとって最善であると知っているが故に。
これにより彼も最後には願いを叶えられると知ってるが為に。
彼こそが自分の待ちわびた、『神』に一泡吹かせるために必要な人間であると知っているからこそ。

不死の体に全知の頭脳。
それによって得られたのは世界の残酷さと永遠の灰色。

絶望や悲観は愚か、魂の汚染さえも乗り越えてしまったかつての英雄は、しかし世界の破滅を願う呪い付きの女や神に絶望し堕落した聖女ともまた違う。
混乱を呼び起こすのではない。
人々を殺すのではない。
ただ、何もしない。この塔に篭って、世界を終わりまで見つめ続けるだけだ。
それしか、しない……それしか、出来ない。


「君に一つのクエストを頼みたい。なに、君になら実に簡単なことだ」


そこには善意もなければ悪意はない。
善も、悪も、正義も、邪も、魔王も、神も、意味などないことを知っているが故に、ホ・ラガは自分から動く事はない。
たった一人の力になることだけを考えて魔人に挑んだ愛深き賢者は、その愛ゆえにこの場にとどまっている。

この今の自分の現状が、絶望が、この知識を与えたものの思惑通りであることを心底理解しているからこそ、この場を動けない。
すべての答えを知っている、すなわち神々が仕掛けたたった一柱を楽しませるために作った仕掛けを何のドラマもなく淡々と攻略していくことの出来る己がこの塔から一歩でも出れば即座に殲滅される事を理解しているのだ。
だからこそ、彼は仲間であるカフェ・アートフルをクグの拷問機械から助け出さなかった。破片の場所から囚われた美女の名前まで知っている彼は、だからこそその行為が誰にとっても救いにならないこともまた、同じぐらい知っていたのだから。
そしてそれこそが、彼が今まさに永遠の牢獄に囚われている最愛の者を救いにいかない理由でもあった。

最愛の者を助けることは愚か、その者が願った魔王打倒さえ、ホ・ラガにはそのためのわかっていながら何も出来ない。
彼に出来ることは、神の機嫌を損なわない範囲において、彼らが設定した「プレイヤー」の為の都合のいい舞台装置になること、それしかない。
自分がわずかばかりにかつての仲間の助けとなり、自分の内に秘めた夢をかなえるためのほんの一度だけ背中を押す、それだけが自分の出来る限界。

そんな彼の絶望はきっと、己が手で魔人打倒を出来ぬような体にされたカオスのそれともまた異なる形のものなのだろう。
事前の知識とまったく同じに、同朋意識とともにホ・ラガからすれば何処かずれた同情をカオスに寄せられたとしても、ホ・ラガは動じなかった。


『……お前もやっぱり、変わっちまったんだな。ホ・ラガ』
「君ほどではないと思うがね、カオス」
『けっ、ワシは大して変わっとらん。魔人を殺す、今も昔もそれだけが望みだ』
「(それが変わったというのだよ、カオス……)」


きっとこの心は、誰にも理解されないであろう。
かつての仲間であるカオスや日光、カフェ、そして己の最も愛する人でさえ、今の己の考えは理解できないとホ・ラガは思う。

それは千年以上もの間剣として過ごしてきた己との類似点を感じているカオスの歪んだ顔が如実に表している。
全てを知り、それが故に絶望して捨て鉢になっている、そう思われていることは明白だ。
だが、それでいいとホ・ラガは思う。
それでこそ、あいつたちを欺けるからだ。彼を、助けられるからだ。
そして、そのために待ち望んだ第一歩がようやく今まさに目の前に来たのだ。

未来という希望さえ奪われて定められた枠をほんの僅かにさえ超えることが出来ないホ・ラガは、だからこそランスという人類の枠さえ超えた無類の戦士が自分の前に到達する今この一瞬を誰よりも待ち望んでいた。


「……さて。私達の時間は永遠だが、彼はそうではない。ならばさっさと話を進めよう。彼と彼女を助ける為……そして魔王を、超えるために」
『…………』
「殺す!」


だからこそ、ひっそりとした笑みを浮かべたエターナルヒーローの一人は、ランスに対して魔王の呪いを解く方法を教える条件として塔の中で暇を潰せる自分の愉しみを求め、その因果によって起こるであろう今後のことを考えて喉の奥で笑ったのであった。
そしてそれを、全能ではあるが全知ではない―――彼らの全知は己が楽しみがためにあえて封じている、とホ・ラガの脳裏にある知識ではなっている―――創造神たちは、知らなかった。






[29583] 明星
Name: 基森◆8cb04620 ID:0593a267
Date: 2012/09/01 06:49



門を潜るランスを、見慣れた顔が出迎える。


「あ……ランスさん、おかえりなさい」
「……おう」
「う……ぼ、冒険、お疲れ様でした。浴室はもう準備してありますからまずは汗、流してきてください」


ランスが帰ってきたことを見つけたサチコ・センターズはその鬼気迫る表情に一瞬怯えはしたが、すぐにその怯えを押し殺してあえて明るい声をかけた。


なにやら最近、酒場で飲んだくれていたらしいバードという名前の冒険者とか、JAPANのお坊さんの兄弟とかを捕まえては何処かに連れて行っていた(サチコに卑猥な冗談をかけた僧侶の片方は何故か置いてこられずに帰ってきていたが)ランスだったが、よくわからないその目的がようやく終わったのか城に帰ってきていた。
その表情には先に見つけたときの嫌悪感はすでになく、何と言うかランスには似つかわしくない疲れたものであったのをみたサチコは、何を言うか迷った挙句に言わずもがなの事をランスに告げた。

テンプルナイトである父に冒険者となることを正式に認められたことでサチコの住居はここランス城になっている。
だからこそ、この城にいる二十数人のメイドたちが常に住民に快適な環境を提供しようとしていることは理解していたのだから、先の言葉はまったく無駄そのものだ。


(あ……ひょ、ひょっとして誘ってるって思われた? うう、そんなつもりないのに)


とまあ、二十四時間常に使用可能となっている浴場をあえてせかすその言葉がすなわち欲情を示しているように聞こえかねないその拙さに気付いた彼女はおもわず冷や汗を流す。
ランスにほとんど勢いのようなもので襲われてからしばらく、それなりの回数を彼と繰り返しているはずのサチコであるが、未だにまったく持ってなれない。
痛みを感じる事はなく、それどころかそれなりの気持ちよさはつかんできた彼女であったが、年頃の娘としては割りと真面目な彼女はやはり悦びよりも気恥ずかしさの方が未だに勝っているらしい。


「ああ……ビスケッタさんにピンクウニューンを持ってくるように言っておけ」
「は、はい。わかりました」


そのため、あうあうと声にできない戸惑いと、しかしここで強引に否定に持っていくのもランスに悪いか、というためらいによってあたふたとする彼女を尻目に、ランスは一声だけかけて荷物をサチコに放り投げる。

ぽ~んと軽々しく投げつけられた荷物はしかしランスの筋力があってのもの。実際に冒険用の多種多様な道具が入っている背嚢は、慌てて受け取ったサチコには少々重たいもので、落とさないようにあたふたする。
しかし、ガードとして鍛え上げられたサチコはなんとか落とすことなく受け取った。ランスほどではないとはしても、彼女とてもはや肉体的には常人ではないのだ。

そんな彼女の姿に、以前同じように荷物を受け取ってしかし魔法使いの筋力では持ちきれずに落としてしまった彼女のことを思い出したのか、ランスは面白くなさげに鼻を鳴らしてずんずんと前に進んでいった。


後に取り残されたサチコはその後姿に声をかけることも出来ずに見守った。とりあえず、この場で襲われることがなかったことは以外であったが、最近のランスの気落ちを見ると仕方がないのかなあ、などとも思えてくる。
シィル・プラインのことを聞いて涙を流しはしてもランスとの付き合いは長くはないサチコではそのランスの心の動きを今までの短い経験からしか推し量れない。
まあ、自分の魅力のなさが原因かも、とは思いへこみはしたのであるが。

と、その背が視界から消えたぐらいでようやく、サチコはせっかくここで待っていたのに全然ランスに言いたいことが言えていないこと&この手の中にある荷物をどうしようか、と頭を悩ませる。
悩んだ挙句手慰みに、預けられたのだからよかろうと勝手に解釈して開いてみたその袋の中身は、旅の埃と汗にまみれているように見えた。
勿論、この程度で潔癖症を発揮して顔をしかめる事がないほどには冒険者としての経験を積んできたサチコであったが、同時に今だ学生としての性質も持っているだけにこのまま荷物を整理して欠損した食料品その他を補充するだけではいいとは思えなかった。
それを見たサチコに、ランスが風呂をあがるまでのちょうどいい時間つぶしが思い浮かんだ。


「と、とりあえずランスさんに頼まれた事をビスケッタさんにお願いするとして……わたしはお洗濯でもしようかな? 宿題も終わったし……」


ビスケッタに頼むついでにやってもらえばいいことだ、とはわかっていたのだが、なんとなく自分でやりたい気分になったサチコはそう呟いて、ランスの背嚢を抱きしめたままこちらも踵を返した。





叩きつけるかのようにランスは籠に衣服を脱いでいく。
鎧はとうにそこらに脱ぎ散らかされており、カオスはその辺に適当に立てかけられている。
汗と埃と血にまみれた衣服が体に引っかかるたびにいらだたしげな表情を浮かべ、引きちぎらんばかりの勢いで力が込められる。
糸がほつれ、僅かに襟首が広がり、ようやく首を通し終えてそれも投げつけ、ランスはついに最後の一枚である下着も脱ぎ捨てる。


「ふんっ」


やはりというべきかこんな中途半端な時間帯では誰も入っていないようである。
端から大して期待していたわけではないが、さりとて誰もいないとなると思い通りにならないようで腹は立つ。
実際今の彼ならば呼び出せばこの場でストリップしてくれるぐらいの仲の女性がいないわけでもないのだが、とにかくその一手間が彼にとっては不快だった。
ひとしきり浴場の中を睨んだ後、汗を流すのももどかしい、といわんばかりにランスは湯船に飛び込む。
ざぶり、と大きな音と波しぶきを立てて湯船の湯が揺れた。

屋敷を管理する者達によって、常に湯温は一定に保たれている。
ランスは一瞬その温度に眉をしかめはしたが、すぐに肌が温度になれる。少し熱めのそれが肉体労働者であるランスの疲労をとかしていった。

最近のランスの顔に常に走る苛立ちがほんの僅かにほどける。
いくら冒険者とはいえ、風呂にも入らずに何日も過ごす事を好き好んでやっているわけではない。
広い湯船の中で手足を伸ばす事は、ランスだって嫌いではないのだ。


「ふぅ……」
「失礼いたします、ご主人様……お飲み物をお持ちしました」


しばし目を閉じて体を温めた上で、おもわず息を吐いたランスをまるで見計らっていたかのように、外から声が掛けられた。
ランスにとって裸体を見られることは恥じるべきことではなく、彼以外の人間で同姓に見られるのを恥じるものであれば慌てて声を上げるだろう。
脱衣場にランスの服しかおいていない現状も鑑み、否定の声がないことが是の現れであることを知っているその声の主はためらうことなく扉を開けて中に入ってくる。


「おう、ご苦労だったな、ビスケッタさん」
「いえ、とんでもございません。ご主人様こそこのたびの冒険、御疲れ様でございました」


流石に靴こそはいていないが、この浴場においてもロングのスカート丈のエプロンドレスを身にまとい、眼鏡を曇らせる事もなく楚々としてランスの側まできてグラスを捧げ持っているのは、ここランス城のメイド長を勤めるメイドLv2を持つ才媛、ビスケッタ・ベルンズ。
渡されたグラスが湯に浸かっていた自分にはまるで氷のように冷たく感じられるにもかかわらず、丁重に拭ってから渡されたのか水滴一つ付いていないことをランスは乱暴に掴む事で確かめた挙句に、一気に中身を煽った。
桃色の液体はそのグラスの冷たさと同様の冷気で持ってランスの口内へと滑り込み、そのほてった頬を冷ます。

その後、ぽい、っと投げるように渡し返されたグラスをごくごく自然な動作で受け取ったビスケッタは、次のランスの言動を予想してグラスを遠ざける。

その予想通り、ざばっと勢いつけて立ち上がったランスは前を隠すことなど考えもしない様子で湯船からあがる。


「よし、ビスケッタさん、俺様の体を洗わせてやろう、がはははは」
「かしこまりました、ご主人様。誠心誠意御手伝いさせていただきます」


口調と表情こそ平坦で無表情のままと変わらず、しかし主人より無防備な背を預けられることに対する歓喜を確かに感じながら、ビスケッタはエプロンドレスの前に入れておいた手ぬぐいに石鹸を擦り付けて泡を立てる。
彼女に対してランスはこのシチュエーションで手を出す気がまるでないことはビスケッタもよく知っているので、特にいやらしい触り方はあえてしない。
彼には彼なりの美学的なものがあることを理解しているビスケッタは、だからこそ一流のメイドとしてこの鬼畜戦士に対して極めて例外的なことに性的な奉仕を含まずに、あくまで体の汚れをとるための洗い方をする。
馬鹿笑いとともにそれを当然の忠誠と受け取って、ランスはその繊手に体を委ねた。

決して弱くはないしっかりとした力で体が擦られると、それに伴って泡に混じってランスの皮膚が一皮むけていくようだった。


「ああ、そうだビスケッタさん。俺様はしばらくこの城を留守にするぞ」
ぴた
「……左様ですか」


ランスの唐突な発言によってよどみなく動いていた手が一瞬だけ止まったかと思うと、再度再開される。
それは、自身の理想の主人であるランスの不在という事実がビスケッタに対していかなる感情をもたらしたのか、それだけで挿し量るには少々情報量が少なすぎる程度のものだ。


「うむ、とあるクソ爺によるとヘルマンに美女がいるらしいのでな。ぐふふ、シーラちゃん以外にもいろんな楽しみができたというものだ」
「それはようございました」


ぎゅ、と握り締めるかのように手を細かく動かして指の一本一本まで洗うビスケッタの奉仕を受けながら、そうランスは楽しげに笑う。
鬼畜戦士らしい台詞の内容は以前のままに、しかしその声音はどこか以前と違って聞こえた。
そのビスケッタの印象を知ってか知らずか、何処かきまりわるげに続けられた言葉があった。


「……ああ、そうだ。ついでにあの駄目奴隷の入った氷を溶かす方法ももって帰ってくるぞ」
「……」
「だからアイツの部屋を……いや、部屋なんぞいらんか。俺様にほんのちょっぴりとはいえ面倒なマネをさせた罰として、床でいいな」


言わずもがなのことをまるで自分への言い訳のように言うランスの声を聞きながら、ビスケッタは桶に溜めた湯でゆっくりとしぶきが上がらぬようにランスの裸体についた泡を流していく。
そのさなかにもランスの声は止まらない。


「俺様は最強だ。ヘルマンにはケイブリス派とかいうのの魔人がいるらしいが、関係ない。邪魔する奴は男は殺す。女は犯す。それだけだ」


ランスは確かに強い。それは周知の事実だ。
だが、呪いを解くためにはまだそれでも足りぬ。
カラーの女王さえ解けなかった魔王が掛けた呪いを解くために、魔王並みとまではいかないまでもそれに近いまで解呪者の力を高めなければならない。そして、その強者を従わせる事が出来なければならない……そう、パステルを魔人に出来るぐらいの力がランスには必要なのだ。
その渇望が、にじみ出る。


永遠の賢者からランスを何を聞いたのか、ビスケッタは何一つ知らない。
そもそも、ランスがホ・ラガとあった事さえ知らないのだ。

彼女はメイドだ。ランスが滞在するその一瞬一秒を快適にする事こそが、彼女の勤めであり、存在意義であり、生きがいだ。
ランスの不快を先回りして取り除けるだけの気遣いを持つ彼女は、だからこそ私においてこれ以上なく関わっておきながら、冒険者たるランスの公の部分である冒険そのものには一切口を挟まない。
全ては、主の為に。


全知の老人にランスが何を吹き込まれ、何をなそうとするのか、ビスケッタはまるで理解していない。
全ての泡を流し終わったことで、どかどかと歩き出す主の前に小走りで先に回り扉を開け、脱衣場に入ってきた主の体を持参した柔らかいタオルで優しく拭っていきながら、それらのことについてビスケッタは完全に脳裏から消し去っていた。
ただひたすらに今この時間が有意義なものになるように全身全霊を使って尽くし続ける。
洗濯の終えたランスの服を彼の邪魔にならないように、しかし僅かたりとも不都合を感じさせないように丁寧に着せ付けていく。
その様は母が乳飲み子に対してかまいつけるよりもなお丁重だ。
戦闘で彼の前でスパルタとして戦っているときよりもその姿は数倍も美しく見えた。

それこそが彼女の本分であり、だからこそヘルマン行きが告げられたとしても彼女の仕事は何一つ変わることもない。


ランスの力を知っていても、彼が保有する血色の宝玉のことを知っていても、ヘルマンに魔王がいるといううわさを耳にしていても、魔王さえ切れる剣と語っていたとしても……魔王の血を飲んだものが次の魔王になるという御伽噺を覚えていたとしても。


メイドたる彼女には何一つ関係ない世界のことだ。


それも当然なのだ。
メイドたるものに求められるのは気遣いであり、日常でのサポートだ。
とある侍女のような特殊な事情でもなければ謀略や諜報はそこには入っておらず、また求められてもいない差し出口となる。
メイドLv2という才能を持つ彼女はそれを極めてよく知っていた。


「お待たせいたしました、ご主人様」
「おう、さすがだな、ビスケッタさん」
「恐れ入ります」


だからこそ、下着に首を通すのを助け、帯をきつくならないようにしかし動きの邪魔にならないようにしっかり絞め、鎧下を着せ付け、配下に命じて各所に油を刺させた鎧を一つずつ止めてゆき、最後に剣を渡して。


「留守は任せた。適当にやっていろ」
「ありがとうございます」


最強の冒険者としての身支度を瞬く間に整えたランスが全てのステータスを完調に整えた上で再度の冒険に出るその後姿に対して。


「じゃあな」
「お帰りを心よりお待ちいたしております、ご主人様」


この城を守る事こそが己が定めと。
ランスが帰ってきたときに全てを委ねてもらう事こそが自分の仕事だと。

魔人を倒し、魔王を倒し、悪魔を平らげ、天使を倒し、創造神を滅ぼす。
そんな未来さえありえる己の主人の背を見て。
この場にとどまり、深く深く頭を下げてそれを見送ったのであった。












汚れないよう、普段着となっているセーラー服の上から大きめなエプロンをつけて。
じゃぶじゃぶと洗濯板でランスの衣料を洗ううちにサチコからはおもわず鼻歌が出てきていた。
本来であれば隣に設置されている魔洗濯機を使えばいいだけなのだが、さすがにダンジョンに篭っていた事による血と泥の汚れはそれだけでは落ちきれない、という判断の元手作業だ。


「るん、るら、るらら~」


心底幸せそうな彼女の姿からは、到底世界有数のガードらしさなど欠片も残っていない。
本当に彼女はこういうことが好きなのだ。パンを焼くのも得意だし、近所の子供を預かったりリセットと遊んだりしているときは本当に輝いて見える。
神から与えられた才能などを考えると、きっと彼女はガードなどをやるよりもごくごく普通の主婦となることを定められていたのだろう。

まさにそれを思わせる手馴れた手つきでサチコは延々と汚れを落としていく。流石にその手つきは洗濯を本職とするものではない。
しかし、主婦としては最上級に手馴れた動きで楽しげに洗濯を続ける彼女の背後の扉が突然開いた。


「ばばばばーん、あてな様のお通りれす、跪け、愚民ども~!」
「!!」


突然の音と乱入に洗濯の為かがめていた背筋がおもわずびくん、と跳ね上がり、その動きに連動して手に付いた僅かに汚れた泡がサチコの顔にまで飛ぶ。
そんな間の抜けた顔で振り向いたサチコの顔を見て、まさかサチコがいるとは思わなかったのか僅かに驚いた顔で、しかしいないと思っていた部屋に対して自己紹介しながら入ってきたときと同じテンションで彼女―――人工生命体、あてな2号は楽しげに語りかけた。


「おお、したっぱ~」
「下っ端じゃないです! もう、びっくりするじゃないですか、あてなさん」
「ふふん、今日のあてなはそれどころじゃないのれす。さあ、ご主人様はどこれすか?」
「え?」


どうやら彼女はご主人様であるランスを探しにきたらしい。が、彼はおそらく大浴場、あるいは露天風呂に行っているはずである。
そしてここは洗濯場。水場という点は共通しているが、使用人しか使わないような場所と主の利用する場所が近いはずもなく、位置的にはまったく別の場所。
そもそもなんで彼女はここにランスがいると思ったのであろうか?


「ご主人様の匂いがしたのれす。隠すとためにならないれすよ?」
「匂いって……」


CO2とかいう物体さえ見えるという彼女の言だ。もとより人とは異なる世界を見聞きしているらしいあてなにとってはごくごく当たり前のことなのかもしれないが、予想さえ出来ない答えが返ってきたことでサチコは絶句した。
その最中にもあてなは衛星のようにサチコの周りをくるくると回りながら、鼻を鳴らす。
それがようやくひと段落着いたあたりで、あてなは仰々しくポーズを決めた上でびしり、と指をさした。


「迷探偵あてなの推理によると……ご主人様はその鞄の中れす、ばばーん!!」
「……ランスさんの匂いはしてるでしょうけど、まだ手の付けてない洗濯物しかはいってないです」
「およ?」


どう考えてもランスが中に入るには小さすぎる背嚢を自信満々の笑顔で指差すあてなに対して曖昧な笑顔を浮かべるぐらいしかサチコに出来ることなんてない。
その指摘を受けて、今までの笑顔から一転してしょんぼりとした顔になるあてな。
呟く声にも力がない。


「くくう、また間違ってしまったのれす。せっかく修行してパワーアップあてなになったというのに」
「しゅ、修行?」


本当に喜怒哀楽の感情の触れ幅が大きいあてなを前に、サチコは彼女が人工生命体である、ということをたびたび忘れそうになる。
売店で会う魔女は正直なところ若干うさんくさいと思ってしまっていたサチコであるが、こうまで人に近い生き物を手ずから作れるあたり、やはり天才なのであろう。
それにしても彼女が修行とは。
どちらかというと香姫やキバ子と遊んでいる姿の方をよく見かける彼女にはあまり似つかわしい言葉とは思えない。
だが、それはあくまでサチコの思い込みであり、あてなは常に彼女なりとはいえ真剣だったのだろう。


「そうれす。今度の冒険こそ、あてなを最初から連れて行ってもらうのれす」
「……え?」


次につながる言葉の意味も、きっとそのことからきたものだ。

今度の冒険に連れて行ってもらう。
あてなは、そういった。
「あの」ランスの冒険に、付いていく。
レベル50をとうに超えたサチコだったが、その言葉のあまりの現実味のなさに言葉を失った。

世界最大宗教における戦闘面でのトップである父にさえも己を超えたと太鼓判を押されたサチコは、世界有数のガードといっても誰も否定出来まい。
先ほどあまりにも幸せそうに洗濯を行っていた彼女であるが、同時にひとたび盾を掲げれば巨大なモンスターの一撃であろうと大国の騎士団の突撃であろうとも、容易に阻めるだけの力を持っている。
セーラー服を着た平凡な女学生以外の何物でもない容姿とは裏腹に、彼女はもはやパーティさえ組めば魔人にさえも挑める実力者の一人なのだ。

だが、その彼女をしてここ最近のランスの冒険についていこう、などとは欠片も思っていなかった。それはあまりにも危険すぎる行為だ。
一流が集っているこのランス城においてさえ、誰一人出来ていないことである。
それなのに、なぜあてなは……


「あてなさん。ランスさんと一緒に冒険ってそんなの危険です」
「ちっちっち、下っ端はわかってないのれす。ご主人様にはこの優秀なあてなの助けが必要なのれす」
「で、でも……」


あてな2号は人工生命体であるがため、神の愛であるレベルアップの恩恵にあずかれなかったはずだ。確かにかつて冒険をともにした際のその能力は雑魚モンスターとは比べ物にならないものではあったにせよ、今のランスについていくにはあまりにも不足なもの。
マッピング、キャンプ。確かに戦闘能力以外でもランスの助けとなれるだけの力を彼女は持っているが、だからといって彼女のステータスで今のランスに付いていくのは……
人のいいサチコは一人で冒険を続けることとなっているランスも心配だが、それ以上にあてなの身が心配だった。

そのため、余計なおせっかいとは知りつつもおもわずその行動に何らかの口出ししようと思ってしまった。
そのため……


「(こっそり)『システム、ゴー』です」
『(ぽん)あら、こんにちは、サチコさん』


掛け声にあわせて独特な音楽とともにサチコの手の中に緑のドレスを着た女性が浮かび上がってくる。
少女の手の中に納まってしまうぐらいのサイズというポピンズともみまごうばかり小ささの女性は、しかし等身が明らかにその種族とは異なる。
それを当たり前の事実として流したまま、サチコは再度その女性に語りかけた。


「こんにちはです、システム神さま。さっそくですがあてなさんのステータスを……」
『は~い、お任せを。えいっ☆』


こっそりと身長5センチのステータスの閲覧等を司る神、システム神を呼び出して彼女のレベルが1から上がっていない事を確認したサチコはそのあまりの無謀さにあてなを何とか止めようといろいろと考えた挙句に……気がついた。

確かに、あてなのレベルは1のまま変わっていない。
だが、そのステータスは……


「い、一万! あ、あてなさんこれどうやって!?」
『きゃ~(ぽん)』
「ほへ?」


弓兵でありレベルも上げられないあてなが、攻撃にどれだけ耐えられるのかという事を示す数字がガードである自身よりも遥かに上となっていることにサチコはこっそりとステータスを覗き見ていた事も忘れて驚愕の声を上げた。
慌ててシステム神が掲げるステータスボードを流し読むと、他の攻撃力などについても凄まじい数字になっていた。
レベル1のガンナーが、いくつもの面で世界有数のガードであるサチコをも上回っているのだ。
驚愕によって勢い込んであてなを問い詰めるサチコ。その勢いで手のひらまで握りこんでしまいシステム神を握りつぶしたことによってステータス表が消える。


「ステータスですよ、ステータス! いったいどうやってこんなに」
「おお~、ふっふっふ、それこそがあてながスーパーあてなになった証なのれす。そう、あてなは賢いので毎日学習していたのれすよ?」
「なっ……」


自慢げに割と豊かな胸を張るあてな。
だがその物言いとは裏腹に、内容自体は絶句せざるを得ないものだ。

確かに彼女はレベルアップが出来ない代わりに自分のステータスを上げていく学習能力を持っているのは知っていた。
だが、かつて行動をともにしたときにその能力があまり有効になっていない程度の成長速度しか見れていなかったにもかかわらず、今の彼女の能力。
一体どれほどの戦闘を繰り返したというのだろうか。
毎日暢気に遊んでいる彼女の姿しか知らなかったサチコが驚愕せざるを得ないほど、その数値は彼女の努力の証だった。


「ど、どれだけ戦ったんですか、あてなさん!?」
「? 覚えてないのれす。でも、ご主人様に今度こそ置いていかれないためにあてな頑張ったのれすよ」
「っ!!」


確かに、城内で彼女の姿を見かけなくなってきたな、と思ってはいた。
だが、それでもどうせ何処かに遊びに行っているだけだ、とある種軽くサチコが考えていたその裏で、あてなはこれほどまでに努力を重ねていた。
その事実に衝撃を受けるサチコ。彼女ほどの敬愛は持っていないにせよ、自分も何とかランスの役に、と考えていたにもかかわらずそれがあてなの覚悟や努力の数分の一にも満ちていない事を明確に指し示されたことは彼女にとって想定外のことだったのだ。
動揺がおもわず明確でない質問として口に付いた。


「あてなさん、どうしてそこまでランスさんについていこうとするんですか? 今のランスさんのことを考えると、私たちじゃ足手まといにしか……」
「? あてなのことを好き好きなご主人様れすが、いっつも邪魔するシィルの性でいつも付いていけていないのれす。すなわち、今こそ大ちゃ~んすなのれす。お城はメイドの人が守るから今度こそあてなは付いていっていいのれす」
「……」


付き合いが浅い為にランスの家庭事情などそこまで詳しくないサチコであるが、他の古くからの知り合いの話を聞く限りはおそらく間違っているであろうあてなの自己評価にもどかしさが募る。
どう考えてもあれだけあてなを邪険にしているランスとそれでもなお彼を慕うあてなの姿を見る限り、彼女自身が口にした理由で今まで同行を断られていたわけではないだろう。

そもそもそれはランスほどの力量を持つものに自分たち程度が付いていっていい理由にはなっていないはずだ。
彼の力の前ではサチコの力など微力でしかないし、それはサチコより強くなったあてなだって同じだろう。足手まといになりこそすれ、自分がランスの戦闘での助けになれるとは思えない。
にもかかわらず、何故付いていく……付いていくべきだと思ったのか、そこをサチコは知りたいのだ。

だが、やはりあてな2号の独特な思考では理解しきれない、と諦めかけたそのとき、あてなが言った。


「それにご主人様はあてながいないとダメダメなのれす。地図もかけないし、毒ガスも見れないし、カブトムシを見つけるのも下手なんれすよ?」
「!!」


自慢げに語る後ろ一つはさておき、前の二つがサチコの心に突き刺さる。
確かに以前ランスが自分で冒険中に書いたと思われるマッピングを見たことがあるが距離感覚がめちゃくちゃで線も歪んでいたあげくに飽きたらしく途中で空白になっていた。罠にしたところで体力任せに踏み潰す事はあっても、ランス自身はよく罠も宝箱も解除に失敗していた印象しかない。
勿論、絶大なる戦闘能力を誇る今のランスにとってはそんなものなど無視してもかまわない程度のものでしかないが、同時にそれらに対応する技能がもしあったならばさらに効率よくダンジョンにもぐる事が出来るであろう。

そして、今のステータスならばランスとともに正面から戦うならばさておき、彼の露払いや道中の案内、あるいは危険なモンスターとであったときに逃げる程度のパーティをランスとは別に組むぐらいならば出来る。


「そう、ですよね。ふふ、ランスさん、お洗濯も苦手みたいです」
「……それは完璧なあてなにも求められていない事だから、別にいいのれす。あてなの服も汚れないれすし」


汚れた衣料を指差すと、彼女の普段着であるタランピスーツは女の子モンスターの服と同じような素材でほうっておいても自動で綺麗になるということもあって洗濯などは苦手らしいあてなが言葉を濁すのを、サチコは軽く笑う。
味覚と消化器官が微妙に人間と異なるあてな(例:どれだけ酒を飲んでも平静だが柿ピーで酔っ払う)は洗濯同様料理も苦手だったはずだし、整理整頓も上手ではない―――自分ではまともにしないランス同様に。

言葉の合間合間にも手を止めずに見事な主婦っぷりを発揮して、やがて洗濯物を全て洗い終わったサチコは、パン、と生地をはってそれを全て乾し、濡れた手を前につけたエプロンで拭った後、笑顔で頷き、あてなを促した。


「ランスさんは浴場に行っていたはずですからもう少ししたらきっと出てきます。迎えに行きましょうか、あてなさん」
「おお、下っ端にしてはいい提案なのれす。さっそくいくれす」
「ですから、下っ端じゃないですってば~って、ちょうどいいタイミングみたいです」


彼女は街の人に笑顔を届けるパン屋ではなく、優しい夫と子供に囲まれた幸せな家庭を築く主婦でもない。
そのどちらも選べた彼女は、しかしランスに出会ったことによってその神より定められた未来を拒んだ。
呪いによってガードとしての才を得た彼女は、しかしそれこそが己の生きる道だと胸を張って誇る。

そして。
誰かを助ける為、誰かを守る為、己の力を生かすと決めた彼女は、だからこそ届かぬと、足りぬとわかっていてもなおその夢の為に一歩を踏み出す事を定めて、笑顔で告げる。


「遅かったですね、ランスさん。荷物の準備は出来てますよ。さあ、次の冒険を始めましょう!」


自分の後ろから歩いてきた男が驚いたようにこちらを見つめたというただそれだけで、サチコは命の危険さえもありえる冒険についていくことこそが自分にとって正しい事だと信じる事が出来た。











雑兵をなぎ払い、将を倒し、竜を殺せ。
魔人を倒し、魔王へ至り、天使と悪魔を平らげろ。
それこそが神に至る道であり、彼の望みをかなえ、そして全人類を救う道である。
そう、全知の賢者は予言した。

その言葉は、ランスには響かなかった。
誰かに命じられてそんな「勇者」のような事をすることなど、ランスにとっては欠片たりとも興味を覚えるものではない。
彼は時折英雄を自称するが、それは英雄になりたい願望を表すのではない。己が押し通る道筋すべてが自動的に英雄と呼ばれるものの過程となるのだ、と心底信じているのだ。
誰かに褒められる為、喜ばれるための行為など、赤毛の冒険者にでも任せておけばよいのだ。

勿論、ランスがそう思うことをホ・ラガも知っている。
だからこそ、彼はこう言葉を変えた。


言い換えよう。
ヘルマンへ向かえ。
そしてそこで、男は殺せ。女は犯せ。
権威を蹴飛ばせ。伝統を破壊しろ。
全てを望むがまま、思うがまま暴れるといい。


ランスの琴線に触れることを知って放たれた言葉は、紛れもなく彼を動かす原動力となった。


「サクッとヘルマンなんぞ、けちょんけちょんにしてくるぞ」


未来は定まらず、時は満ちず。
永遠の少女は今なお囚われの身。
次の冒険がいつ語られるのかも、全知の賢者ならぬ身ではわからない。


「がはははははははははは!」


いまだかつて踏み入れた事のない極寒の地で出会うのは、希望か、それとも絶望か。
追う者、留まる者、鍛える者、同行する者、待つ者、願う者、眠る者。
彼を囲う全ての女たちをそのままに、新たな冒険が始まろうとしている。
入り組んだ人間関係の網を、複雑に影響しあう蝶の羽ばたきを、全てを当然に自分の物として。
願いも、希望も、絶望も、苦しみも、痛みも、快楽も、興奮も、全て飲み込んで。


「行くぜ、ヘルマン!!」
「とーーーーっ!」


吹き込まれた偽りの救いを胸に、鬼畜戦士は再び血と色にまみれた道程へと旅立った。

【終劇】


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

SS-BBS SCRIPT for CONTRIBUTION --- Scratched by MAI
0.0713210105896