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[28504] 虫っ娘ぱらだいむっ! ~布安布里 詩人の研究ノート~【擬人化ほんのりコメディ・連作短編】 ※改題しました
Name: 三郎◆bca69383 ID:0f63ac38
Date: 2011/07/27 16:53
 ことの成り行きは、夢に始まる。

 連日に及ぶ奇妙な夢。
 五感の全てを――末端神経のもたらす些細な情報まで思い出すことの可能な、この限りなく現実に近い空想群は……ひどく不可思議で、それでいて心底“不満”の残るものであったと記憶している。


 そう。例えば、こんな夢を見た。

 虫取り網を振り回し、落ち葉の小道を駆けずり回り、“王様”を捕まえた時の夢。
 黒真珠のような光沢を放つ大柄の甲虫は、手のひらの内でもがきながらこう言った。

「最近……太った気がしますぅ」
 どうやら我らがカブトムシは、ダイエットをしようか悩んでいるようだ。
 ありえない。


 他には……例えば、こんな夢も見た。

 木々の間を目ざとく探し回り、ようやく虎柄のカミキリムシを捕まえた時の夢。
 カチャカチャとキチン質の身体を揺らしながら、“それ”はきんきん声をがなりたてた。

「なあなあ、昨日の阪神。あいつら、今シーズンようやくやる気出してん!!」
 虎柄繋がりだろうか。
 それは少し無理矢理が過ぎるんじゃないかと思わないでもなかったが、残念なことにここは夢の世界であり、批判しようにも何処に批判を投げ込めば良いのかが分からなかった。


 毎日こんな調子である。
 正直、このガッカリ夢攻勢にはほとほと嫌気が差していた。

 そりゃあ、昆虫採集は楽しい。
 何処かの解剖学者や小説家が豪語しているように、人生を賭けた趣味《ライフ・ワーク》にすることもやぶさかではない。
 物言わぬ、彼らと会話ができたなら……意思疎通ができたなら、どんなに素敵なことだろうか――
 確かに、そんな風に考えたことだって、一度や二度ではないのだ。

 でも、だが、しかし。
 だからと言って、“これ”はない。

 あんまりではないかと口を尖らせ、目の前を虫(?)たちを睨みつける。
 今日の対象は、今までの“おさらい”であった。

 ――ぽふんっ。
 むくむくむく。

「あ、ニンゲンのお兄さん。丁度良かった! もう酷いんですよぅ」
 おい、こら近寄るな。
 その、妙に……
 こちらと等身大の、“ふんわりとした柔らかい姿かたち”で近づくな。

「ちょっとばかし力持ちなだけで、『ゴリラにしては可愛いよね』ってナンパの仕方は、ガチでどうかと思いますぅ」
 ……いや、カブトムシにそんなことを言う奴なんざいるわけがないだろう。
 そもそも、お前は昆虫だ。しかも純然たる日本産。
 何時何処で何時何分何十秒に、ゴリラ呼ばわりされたというのだ。一体誰に。 

「なあ、兄ちゃん! 昨日の中継やけど――」
 ええい、雁首揃えて引っ付くな。
 初対面の間柄で、無駄に馴れ馴れしいんだよ。
 つか、虎柄のカラージャージって……お前何処のおっさんだよ。
 一体、何処で実況中継を視聴してんだ。アンテナ工事は終えたのか。


 とにかく……こういう“フレアイ”はない。断じてない。
 もっと、こう……会話ができるにしたって……童話的な、ないしは星新一のショート・ショートにありそうな異種族間交流のあるべき姿があるはずだ。
 少なくとも、こんな“姦《かしま》しいおしゃべり”じゃなく……

「お兄さん」
「おい、兄ちゃん!」
「お兄様」
「マイ・ブラザー」


 心の底から沸き上がる不満を叫びに変えて、“彼”は声高に空想のチェンジを要求した。

「おい、ぼくの潜在意識。言っておくが、ぼくは“女の子”と話したいわけじゃないぞッッ!!」





――1ページ目 「私は蚊。つまり、モスキートです」――





「……良くは覚えていないが、悪夢を見た。確かに見た」
 生物部にあるまじき夢を見て、青少年は目が覚めた。

 手のひらに感じる、びっしょりとした寝汗が彼の感じた恐怖(なのかも良くは分からない、形状しがたい感情)の程を物語っている。
 喉が、やたらと乾いていた。
 寝ている間になにがしかを叫んでしまったのだろうか。
 だとすれば、近所の方々には悪いことをしてしまった。
 今度謝罪参りでもしなきゃならないだろう。

 仏頂面を保ったままで、窓の方へと視線をやると、朝の爽やかな日差しが目に飛び込んできた。
 思わず、片手で陽光を遮りながら、寝ぼけ眼を眩しそうに細める。
 恐らくは5万ルクスくらいの照度といったところか。
 早朝らしい、生物の活動を促すにはうってつけの陽光であった。

 今日が絶好の野外観察《フィールドワーク》日和であることは疑いようがない。
 夢のことがなければ、楽しいアウトドアライフに思いを馳せて、にんまりと頬を緩ませていたことだろう。

「はぁ……」
 疲れたようにため息をつく。
 全身に圧し掛かってくる、この奇妙ながっかり感。
 どうやら目覚めた拍子に、夢の内容を忘れてしまうという奴は事実のようだ。
 まるでもやがかかったように、夢の子細が思い出せない。
 思い出せないのだが、こう――何て言うか……ちっとも知的探究心の刺激されない「コレジャナイ感」だけは、拭いても落ちない頑固な汚れのように頭に残っていた。


 短髪をヘアピンで留めている、しかめっ面のこの青少年。
 布安布里 詩人《ふあぶり しいと》は何処にでもいるような普通の生物部部長である。
 生き物に傾ける情熱は桁が外れており――
 ツバメの雛の口の中を見ると、本当に餌をあげたくなるのか確かめずにはいられずに――
 ミミズに小便をかけると本当にあれが腫れ上がるのか、試してみたくて仕方のない実践派の男子高校生であった。

 好きなものは昆虫採集。
 常ならば……太陽の香り(実はダニの死骸の香りだとされる)を感じ、枕に額をうずめつつ。
 今日はコメツキムシのジャンプ力でも測定しようかしらなどと考えながら、詩人が寝ぼけ眼をそっと開く。
 そんな一日の始まりであったはずなのだ。


「まあ……起きて学校の準備でもするか」
 いくら気力が湧かなくても、登校時刻はやってくる。
 それは悲しいことに現実である。
 詩人は全身に喝を入れながら、上体を持ち上げようとし――

「……すぴー」
 その段になって、聞いたこともない寝息が隣から漏れ出でているのに気がついた。

「……?」
 眉間に皺を寄せて、耳を傾ける。
 そう言えば、いつもよりもベッドのスプリングが深く沈みこんでいる。
 ……何故、ベッドに二人分の加重がかかっているのか?
 不可解だ。
 胡乱げな眼差しで、自分の腰にかかっていた薄手の毛布を持ち上げる。

 すると、隣には夢見心地の言葉を繰り返している一人の少女がいた。


「……」
 ここに至って詩人の表情は、ますますもって険しいものへと変わっていく。
 繰り返すが、布安布里 詩人は生物部部長である。
 生き物に傾ける情熱は常人を遥かに上回っている。
 だが、しかし。
 その対象に人間の――それも可愛い女の子が入っているかと言えば、そんなことは全く無かったのだ。

「おい」
 苛立った声をあげながら、少女の肩を乱暴に揺さぶる。
 一般的なデリカシーなどといったものは、そこにない。
 異性に対する取り扱いとしては、およそあり得ないやり方であったが、遠慮する必要など欠片もない。
 何せ、彼女は“不法にも他人のベッドで寝ると言う狼藉を犯している”のだ。
 蹴り飛ばされない慈悲をありがたがれこそすれども、文句を言われる筋合いはなかった。

「んふぅ。昨日は、満腹でしたー」
 相当乱暴に扱っていると言うのに、少女は一向に起きようとしない。
 それどころか、寝言と共に寝返りを打つばかりだ。

 少しウェーブのかかった藍色の柔らかい短髪に、色白の肌。
 度の大きめなメガネに小柄で華奢な背丈と言い、何処からどう見てもおとなしめな美少女であった。

 まるで、健康的な高校生のあふれんばかり妄想の中から出てきたかのような容貌。
 少し突き出た唇が妙な魅力をかもし出しており、背中から生える二枚翅《にまいばね》が何とも――

「ちょっと待て」
 二枚翅?
 作り物ではない、詩人が日々見慣れた構造物。
 それが巨大化したようなものが、少女の背中から生えていたのだ。

「ふあ」
 あくびを噛み締め、少女が目覚める。
 メガネをずらし、寝ぼけ眼を擦りながら、目の前で驚く詩人に視線を走らせる。
 そして、形の良い唇を詩人の首筋へと近づけると、

「朝ご飯ですー」
 蚊の鳴くような小さな声で、そう言った。
 ちゅう。
 首筋に唇の当たる感触。
 強い吸い付きを感じながら、詩人はこらえようもないむずがゆさを感じて、少女をベッドから突き飛ばした。

「ひゃんっ」
 悲鳴を上げて倒れこむ少女の許へ、ずかずかと詩人は近づいていき、
「答えろ、不法侵入者。おまえは一体何者だ」

 詩人に睨みつけられた少女は、しばし口をぽかりとあけていたが、
「あれ、あれー」
 すぐに、自分の身体をぺたぺたと触っては、うろたえ始める。


「何で私……ニンゲンの身体に?」




「私は蚊ですー。英語で言うならモスキート。ぶんぶと空を飛ぶ、一匹の蚊なのですー」
 結論から言うと、彼女の頭は大分おかしかった。

 まあ……世間には、「俺は荒野の荒鷲だ」と言ってブリリアントな翼の刺青を見せ付ける露出狂や、「ガイアが俺に、もっと輝けと囁いている」とか、「シーンの最前線に立ち続ける覚悟はあるのか?」と言って、ファッション雑誌にその身を晒してすまし顔をしているような、学力偏差値ではおよそ計り知れない何かを秘めた者たちが偏在するので、恐らくは彼女もその類だろう。
 端的に言うなら、不思議ちゃん。
 英語で言うなら、ルイス・キャロル。

「成る程、何の変哲もない不法侵入者だな」
 類良くある不思議ちゃんを前にしても、詩人の心は揺らがない。
 何故なら、詩人は生物部部長であるからだ。
 しきりに縦に頷いた後に、机に備え付けられた電話機に手を伸ばした。

「ちょっと待ってください。何処へ電話をするつもりですか!?」
「勿論、警察に。お前不法侵入だろ。つか、重いから腕にしがみつくの、マジで止めろ」
 自称モスキートちゃんとひと悶着を起こしながら、苛立たしげに首筋を掻く。

 さっきから痒い。
 立てかけてあった鏡で自分の姿をちら見すると、痒い箇所には赤い、大きなキスマークが付けられていた。

「ああ、くそ。痕が残ってるじゃないか……。登校までに消えなかったら、どうするつもりなんだ」
「良いじゃないですか! リア充ライフへの片道切符ですよーッ」
 眼鏡越しに頬を膨らませる彼女。

「おまえは大きな勘違いをしている。少し想像力と言う奴を働かせてみろ」
「は、はい」
「朝クラスに入ったら、普段は空気と同化している、もしくはちょっとだけ生物オタクでほんのりキモイと思っているクラスメイトが、首筋にキスマークをつけて登校してきた。流石に不審に思って『どうしたの?』と問いかけてみると、『別に』とか返された。さて、どう思う」
「クラス食物連鎖の底辺野郎《ボトムズ》に現実を分からせるべく、はり倒したいと思いますー……って、ハッ!?」
 ファイティングポーズを取ったまま、驚愕の表情を浮かべる自称モスキートちゃん。
 詩人は自分のメガネを布で拭きながら、ふんと鼻を鳴らした。

「分かれば良い。だから、ぼくは腹立ち紛れにお前を警察に突き出す――って、いい加減その手を放せッ!」
「待ってください。待ってくださいッ! 何を言っても信じてもらえない、強面さんたちの所は絶対に嫌です! 私の翅は、自由を生きるためにあるのですーッ」
「不法侵入をしでかした、おまえの自己責任だろうがッ」
「人じゃないので、ノー・プロブレムですっ」
 きっぱりと言い切ると、彼女はしたり顔でメガネに細い指を当て、ふふんと翅を動かしてみせる。

「良くも考えてください。こんな翅のある女の子が人間にいますか?」
 蚊の羽音にしては、やけにうるさい(いや、巨大化している時点で当たり前なのだが)音を響かせ、部屋中の家具がぐらぐらと揺れる。
 成る程、やはり作り物ではない。
 彼女の背から生えている翅は、先程の見立てどおり、どうやら本物ではあるようであった。

 詩人はそれだけを確認し、綺麗になった鼻かけメガネをすちゃりと顔にかけた後、

「おまえは何も分かっちゃいない」

 きりっとした表情で、言い切った。

「例えば、魚の顔を備えた直立歩行生物がいたとして、おまえはこれを何と呼ぶ」
「人魚、じゃなくて魚人……。半魚人ですかー」
 モスキートちゃんが口元に手を当てて、ロダンの銅像のように考え込む。

「ふむ。では、人の指の付け根に水かきがあったとして、おまえはその人間を何と呼ぶ」
「先祖がえり。水泳とか得意そうですよね」
 クロールの真似をしながら返って来る、計算どおりの返答。
 その答えを耳にして、詩人はしてやったりとばかりに不敵な笑みを浮かべた。

「はんっ、つまりはそう言うことだ。いくらお前が『私は蚊です』などと言ったところで、お前の大部分はただの女の子ッ!! ならば、どう表現しようとも『空中飛行が得意そうな人間の女の子』以上のものにはなりえないのさ!」
 ずびしっと人差し指を彼女に突きつけて、高々と勝利を宣言する。
 そして、真顔でダイヤルをプッシュ。

「……と言うわけで、ぼくはお前を警察に突き出す」
「ま、待ってください! 飛び甲斐のない、独房の中はとても嫌ですッ」
 ムショ入りした経験があるのだろうか。
 先程よりも声色に悲壮さを漂わせ、彼女は必死に懇願した。
 弱り果てながら、彼女は胸元に手を当て、一、二、三回と深呼吸。

「分っかりましたー。それでは私が蚊であることを証明して見せましょう。何でも聞いてみてください。自分のことなんだから、自分が一番良く知っているのですっ」
 自信満々に、割かし控えめな胸を張る。
 かくして、詩人とモスキート疑惑ちゃんの問答が始まった。





「特技は?」
「空を飛べます。でも強い風は苦手ですー」
 ぶーんと口で言いながら、両手をひらひらとさせる。
 詩人は得られた情報を、手持ちの『野生生物観察メモ』に控えていった。

「ふむ、蚊としては正解だが、少しキャラクターが弱いかな。他に何か」
「人を痒くすることができます。ただのニンゲンに身体を吸われたって、痒くはなりませんー」
 次は少し口を突き出し、蚊の物真似をしてみせる。
 可憐な少女がする物真似は、正直蚊には全然似ていなかった。
 
 詩人はため息をつきながら、これも一応メモに記していく。
「それは有力な情報だが、おまえが蚊であることの決定的な情報足り得ない。何故ならぼくには、“人間の女の子とのそうした経験”が一切ない。だから吸われた箇所が、痒くなるのかも、ならないのかも分からない」
「そ、そうなのですか。それではキスとかまだなのですか? キスを済ませなきゃ、二人の恋のヒストリーは始まらないのですー」
「誰と恋をするんだよ。AだのBだの済ませてないことで、何か日常生活に影響でも出るのか?」
「いえ……」

 心なしか、憐憫の篭った眼差しが非常に腹立たしい。
 詩人は苛立たしげに鉛筆の端をこめかみに当てながら、今のやり取りを一応メモに記して、すぐに黒く塗りつぶした。

「それでは、ええと……そうだっ。人につきまとってはうざがられちゃいますー」
「有力だな。古来より蚊はぶんぶとうるさくつきまとうものと決まっている。これで『おまえ=蚊』理論はぐっと土台が固まった……。だが、ここで一つ問題がある」
 鉛筆をピッと突き立てて、詩人は鋭い眼差しをモスキートちゃんに向けた。
 ごくりと生唾を飲み込む音。


「近頃、世間で流行るもの。その内の一つに妹キャラがある」
「妹キャラ、ですか……?」
 鸚鵡返しの声を聞きながら、詩人は更に続けていく。

「妹キャラも、まわりをぶんぶと付きまとい、ハーレム形成の上で実にうざったいことこの上ないと聞く。つまり……お前は蚊ではなく、妹キャラである可能性もあり得るのだ」
「馬鹿な! そ、そんなことがあり得る筈が……!」
 必死で否定しようとするモスキートちゃんの言葉を遮るようにして、

「いいや、あり得る。これでお前と同型の娘が大量に出てきて、『お兄ちゃん』とか『あにぃ』とか、『兄くん』とか言い始めたら間違いない。お前は妹キャラだ」
 窓をがらりと開けると、初夏の湿った風と共に「兄君様」とか、「兄チャマ」とかいう単語が風に乗って飛んできた。
 恐らくは、野生の妹キャラたちの鳴き声であろう。
 そして、眼前のメガネ娘も、そうした妹キャラの一人であったのだ。

「そ、そんな……私がモスキートじゃないなんて……」
 驚愕の事実を告げられた元モスキートちゃんは、その場に崩れ落ちると、
「これから、どう生きていったら……」
 呆然とした表情で呟いた。
 誰だって等身大の自分を知ってしまうのは辛いことだ。
 特に思春期特有の感情を持ち合わせた人間にとって、別に力んでも凄い技が出なかったり、集中しても目の色が赤くなったり、変な模様が浮き上がったりしないと言う悲しい事実は、ひどく心をささくれ立たせる。
 だから、無理もない。

 詩人は彼女を励ますように、その華奢な肩をポンと叩くと、
「簡単な話さ。『空中飛行のちょっと得意な妹キャラ』として生きていけば良い。何、蚊として生きるよりも人間の女の子として生きる方が人生は至極楽だろう。万が一、『とかくこの世は生き難い』と困る時があったなら、その時ゃ応援もしてやろう。だから、もうぼくの部屋に不法侵入などしてくれるな」
 言った瞬間、「とかくこの世は生き難い!」と彼女の表情が明るく染まっていく。
 ぽっと色白の頬に朱がさして、涙目の瞳が喜びに揺れる。

「はい、ニンゲンのお兄様! これからは、コンビニにたむろしている中学生をで超音波で追い払いながら、立派な妹として生きていきますーッ!」
「うむ。追い払う時の声は、TMNばりのモスキートヴォイス(うぁううぁううぁーうって言うコーラス)で頼んだぞ」
 ラジャったとばかりに敬礼をして、妹キャラになりたての少女は開いた窓から外界へと飛び去っていった。
 日本語と英語を絶妙な配分でミックスさせた、やけにねちっこい歌を歌いながら……。

 かくして嵐は過ぎ去った。
 これにて、一件落着か。
 詩人はため息を一度だけついて、
「全く、朝から騒々しかったな。さて、今日の部活動はどうしたものか」
 何事も無かったかのように、今日のスケジュールを確認し始めた。



 

 入念な調査の結果、コメツキムシの跳躍力は平均して300±20mm程度であると判明した。
 これは比率に直せば、ノミに追随する驚異的な跳躍力と言えるだろう。
 大発見だ。
 まさにエキサイト。興奮と言う奴が抑え切れない。
 程よい満足感を胸に抱き、詩人が家へと帰りつくと、



「おかえりなさい。ニンゲンのお兄様!」
 早朝の不法侵入者が、我が物顔で家の中を闊歩していた。
 キッチンから漂う香りは、ポトフだろうか。
 恐らく、夕食の準備でもしていたのだろう。
 二枚の翅を折りたたみ。
 我が家のエプロンを控えめな胸の上からかけて、不法侵入者がにっこりと両手を合わせて微笑んでいる。

 成る程、健康的な高校生ならば涎を垂らしてもおかしくはないシチュエーションである。
 だが、詩人はその例に当てはまらない類の青少年であった。


 千年の興奮《エキサイト》も一瞬で冷めて、全力で嫌そうな顔を浮かべながら、
「おい、何でまだお前がここにいるんだ」
 再・不法侵入者の袖を引っ張り、家の外へと追い出そうとする。

「ちょ、ちょっと待ってくださいー! おばさまが滞在を許してくださったんです」
「何たる浅慮だ、あのアラフォーめッ! 一体、何考えているんだ……!」
 詩人の怒りをなだめようと、我が家の寄生虫予備軍が人差し指を唇に当て、うーんと唸って考え込む。

「確か……私の翅を見た瞬間、『渋滞知らずで便利だし、渋滞知らずで便利だし、渋滞知らずで便利だから』と言ってくれました。あと、『できれば炊事洗濯家事親父を任せたい』と」
「何てこった。親父までとは……! 家事の大部分を丸投げする気じゃないか。専業主婦としてあるまじき暴挙だぞ、それは」
 信じがたい事実として、寄生虫は母親の方であった。
 そう言えば、ここ8年ほどの家事は詩人がやっていた気がする。
 高校入学を機に、忙しくなるからと母親に頼んでいたのだが……

「あ、あと、あと。こうも言ってました」
「何だッ」
「妹なんだから、家にいたっておかしくないって」
 てへっと舌を出しながら――
 あくまでも我が家の妹と言い張る元モスキートちゃんは、まるで上手いことを言ったと言わんばかりの表情を浮かべていた。

「……上手いことを言ったつもりか」
 こめかみに青筋を立てながら、ひくりとまなじりを持ち上げる。
 そして、妹寸前ちゃんの手を引きながら仁王顔。
「とにかく、許さん。ぼくが許さんッ!!」
「どうか、ご慈悲をッご慈悲をッ」
「いやだッ」
「兄のいない、妹キャラに世間の風当たりは冷たいのですーッッ」
「生き別れの兄を捜し求める設定にでもしておけ!!」
「そんな名作劇場的なッ!?」

 共働きの、両親不在の一軒家に、妹予備軍の声が響き渡る。
 なんやかんやと揉めた後……
 結局のところ、彼女は詩人の妹(臨時)に落ち着いた。




――――――――――――――――

拙作を読んでいただき、まことにありがとうございます。
三郎と申します。
本作品は野生生物の擬人化コメディです。
美少女化に伴う影響などから、現実の生物と異なる部分が出てくるかと思いますが、ご理解いただければと思います。
また、本作品以外にも、たられば戦国記 ~安芸の柊、春近し~【女体化戦国物】というオリジナル作品を、この板に投稿しております。
もしよろしければ、そちらも読んでいただければ幸いです。

それでは、連作短編と言う形式上、不定期な更新になると思いますが、よろしくお付き合い下さいませ。


※6月23日 題名が分かりにくかったため、改題しました。
※7月9日  冒頭の改稿をしました。



[28504] 2ページ目 「セミとしては羽化したくないであります」
Name: 三郎◆bca69383 ID:0f63ac38
Date: 2011/07/11 23:01
 初夏の陽射しに蒸された正午の学校。
 本気を出した気温様が、クラスメイトたちを蹂躙していく。
 口々にのぼる「暑い」と、「マジパネェ」の輪唱を耳にしながら、詩人は鉛筆をくるりと回していた。
 伸びきった前髪を留めるヘアピンを指で弄りながら、今日の部活動に思いを馳せる。

 ――と、待ち望んでいたチャイムが授業の終わりを告げる。
 今日は週末。短縮授業。
 これより、アウトドアライフが始まるのだ。

「よっしゃー、やっと終ったかー」
「なあ、部活前に飯でも食いに行こうぜ」
 クラスメイトが一斉に立ち上がる。
 詩人も部室へ向かおうと、やおら席を立ち上がった瞬間、

「ニンゲンのお兄様ー、お弁当をお忘れですよー」

 がたりと教室のドアが開けられる。
 思わぬ闖入者の声に、詩人の口がぽかりと開いた。

 ウェーブのかかった藍色の髪に、大きめのメガネがきらりと光る。
 余所行きらしい半端丈のボトムスが、華奢な身体に良く似合っていた。
 一見したところでは、何処をどう見ても可愛らしい女の子にしか見えない。
 ただ一つ……背中から生える二枚翅以外は。
 
 彼女こそが、元自称モスキートであり現妹キャラである空を飛べる女の子ちゃんである。
 母親はモッさんなどという、至極男らしい名前を勝手に名づけて呼んでいたようであった。
 モッさんはとっとこ詩人に駆け寄ってくると、

「はい、これ」
 手作りらしい弁当を渡してきた。

「おい、何でバイオタ(詩人のあだ名)の所にに女の子が……」
「え、妹? 全然似てなくね? てか、あの羽根何? コスプレ?」
 周囲に動揺が広まりつつある中、元モスキートのモッさんは少しはにかみながら、

「えへへ、私もお昼ご飯です」

 ちゅう。
 不意打ちの吸血行為をした後で、上目遣いに見上げてくる。

 どうですかー。
 人の見ている前で、身体にキスマーク。
 これでニンゲンのお兄様もリア充の一員ですー。感謝しやがれですー。
 ……などと言う心の声が聞こえてくるようだ。


 眉間に皺を寄せる、詩人の心と同様に。
 勿論、周囲への効果も逆効果。

 ざわっ。
 瞬時にして室内に広がった混乱は、様々な負の感情へとシフトしていく。

 まず、普段から見下されていたリア充層からは、
「バイオタのリア充気取り、マジきめえ」
 むっつりシスコン野郎と罵られた。
 何事においても新参者は参入しづらいものである。
 楽市楽座の時代から続いていたその仕組みは、昨今のリア充界においても依然健在であった。

 
 更に同族と見られていた底辺野郎《ボトムズ》からは、
「レッドショルダーめ……。死ね! 頼むから、俺のために死んでくれ!」
 阿修羅をも凌駕する表情で、睨みつけられる。
 人は同族と思っていた人間に裏切られた時、凄まじい負の感情を発露させるものである。
 ルサンチマンの矛先が、一斉に詩人に向けられた。

「あれー」
 意外そうなモッさんの声。
 馬鹿野郎。あれー、じゃない。
 そんなこんなで、放課後である。





 本日の部活動は、近所の緑地で動植物のスケッチを行うことにした。
 ベッドタウンに残された、だだっ広い自然の空気を満喫しながら、
「観察対象は各自の興味関心に任せる」
 かちゃりとメガネを持ち上げて、詩人は放任にも等しい指示を下した。

 フィールドワーク参加者は部長である詩人を含めて4人。
 お世辞にも多いとは言えないが、これで部員全員である。
 一つの部が存続するための必要人数は最低5人であるらしいから、実は余裕で足りていないのだが、顧問の善意で何とか存続を許されている。
 聞くところによると、顧問の一存で部が存続することは割とどんな学校でも良くあることらしい。
 そのお陰と言うべきか、余計な勧誘活動に煩わされることもなく、のびのびと自分の趣味に没頭できているわけだ。

 だから詩人には、真面目に部の運営なぞする気がない。
 自分の興味関心にしたがって、気の向くままに野生生物の観察に情熱を傾ける。
 来るものはどうでも良く、去るものはさっさと出て行ってもらいたい。
 その結論から来る方針が、放任であった。

 そんな詩人の指示に対して、部員の3名は思い思いの反応を示した。

「かったりい……こんな部活潰れねーかなあ」
 まずは、頭の後ろで手を組みながら、気だるげな声をあげたこの男。
 着崩した制服が、彼の不真面目な雰囲気を一層に強めているように見える。
 彼の名前は間 茂《あいだ しげる》。
 校内序列では、リア充層に若干届かず、底辺野郎までは落ちていない、まさに半端者である。
 当然ながら、生物など好きではない。

 雰囲気イケメンを目指す(顔のつくりは正直並である)彼のような男が、生物などと言う根暗なフィールドに興味を示すわけがないのだ。
 精々遺伝子の受け渡し程度だろう。興味がわく範囲は。
 そんな盛りのついた雄猿が、何故生物部のような明らかにイケメンサークルとは程遠い部活に籍を置いているのかというと……

「なあ、エレーヌちゃんもそう思わねえ?」
 その原因は、身の丈に合わない大きめのスケッチブックを広げて準備を始めた少女にあった。
 小柄な身体をきっちりした紺色の制服に身を包んだ金髪碧眼の超絶美少女。

 彼女は、エレーヌ・ロックフォール。
 フランス中南部、アヴェロン県からの交換留学生である。

 その容貌を喩えるなら、森の宝石・カワセミか、はたまたルリカケスであろうか。
 最高級のシルクのような長い髪に、渇きを知らない清流のような肌。
 誰もが眼を見張るほどのその美貌は、校内美少女ランキング上位層を20馬身はぶっちぎって独走状態にある。
 陸上部の水野さんも。
 皆のアイドル野球部のマネージャー、朝倉さんも。
 まるで超一流の工芸師が作った人形のような彼女の面持ちと並べてみると、どうしても見劣りしてしまう。

 そんな彼女を付けねらう、悪い虫がいないはずがない。
 数多いる発情した雄モンキーの中でも最前線に身を置く茂は、何度も彼女に言葉を投げかけて、何とかその気を引こうと気を揉んでいた。

「……」
 しかし、彼女は一向に反応しない。
 もしかしたら、彼の言葉が理解できなかったのかもしれない。
 何故なら、来日して日の浅い彼女は、まだ満足に日本語を操ることができないのだ。

「あれ、そっか。まだ日本語わかんないんだっけ。それなら……」
 一人納得して、めげずにアプローチを続ける茂。
 ポケットから出した二枚組のチケットには、最近流行の女性歌手の名前が記されていた。

「ほら、これなら分かるんじゃね? レディ・ガガのツアーチケット! ねえ、一緒に行こうよ」
 スケッチの準備を終えたエレーヌは、目の前に出されたチケットを一瞥し、すぐに興味を失い目を背ける。

「……コージ・キッカワ」
「へ、な、何……?」
 突如挙げられた人名の後に、フランス語がぼしょぼしょと続いていく。
 口早に紡がれた内容を小耳に挟みながら、詩人は呆れたようにため息をついた。

「良くわかんないけど、照れるなあ。可愛いからいっか」
 とりあえず、彼女の声を聞けたことで大分満足できたのか、茂はへらへらと気色の悪いにやけ顔を浮かべている。

『コージ・キッカワ以外はどうでもいい。彼にはスペシャルな血が流れている。ツネマツ・マツイと組むことで、その音楽性は世界に通用する』
 エレーヌが今呟いた言葉を日本語訳すると、こんな風になる。
 何故一押しが80年代のシンガーソングライター吉川晃司なのかは理解に苦しむところだが、つまるところ、茂は誘いを断られたのだ。

(まあ、やかましいままだと、フィールドワークに支障が出る。黙っていよう)
 耳にした言葉をそっと胸の内に仕舞う詩人の耳に、残る一人の無骨な声が届けられた。

「部長、道具はここに置いておく」
 まるで熊のような大男――
 詩人にとって数少ない友人、植村 直正である。
 探険家志望である彼は、連休のたびに遠出をしてはは、詩人に貴重な資料を提供してくれるのだ。
 研究活動に欠かせない人物であり、なおかつ学校内において詩人とまともに雑談のできる、唯一の男子であった。

「ああ、植村君か。いつもありがとう」
 てきぱきと準備を進める大柄の友人に短く礼を言いながら、これから始まる観察活動に胸を高鳴らせる。

 さて、今日は何の観察を行おうか。
 タテハチョウの四本足を食い入るように見つめるのも良いし、王道ながらバードウォッチングも悪くはない。
 詩人の住むこの紋白町には、野鳥のサンクチュアリ(自然保護区)があるので、観る対象には困らないのだ。

 膨らむ想像に、わくわくと頬を緩ませる詩人。
 その袖を、エレーヌがくいっと引っ張った。

「部長《プロフェッスール》」
「ん、何だ? エレーヌ君――」
 彼女が指差す方向に視線を向けて、そのまま絶句する。
 大きなエノキの枝に留まる一つの影。

 胡乱げな眼差しは、恨みがましげなじと目へと変わっていき――

「はぁ……やってられねーであります。何で今年こんな暑いでありますか。引きこもりバディにマジ堪えるであります」

 十秒間に最低でも五回は重ねられる恨み言。
 そこには、頭から触角を生やした……どうみても普通ではない少女が。
 先日自分をかかずらわせたものとほぼ同類であろう存在が、何やらぶつくさと腐っていた。






 飾り気のないボブカットの少女が木の上で体育座りをしている。
 その身を包んでいる服は、何処からどう見ても土木作業員が来ているような作業服と酷似している。
 頭にかぶる触覚用穴あきヘルメットには「土の中にも六年」などと良く分からないキャッチフレーズが書かれており、彼女が明らかに“普通でない”ことが見て取れた。

「はぁ……羽化しなきゃ」
 触覚をしょんぼりと垂らしながら、少女は酸欠になるんじゃないかと言うほどの長いため息をついた。

 ぽいっ。

 つけていた土塗れの手袋を投げ捨てる。

 ぽいっ。

 更に上着に手をかけて、やはりこれも放り捨てる。
「うおっ」
 茂が彼女の姿を発見した瞬間、急速に生き生きとし始める。
 彼は盛りのついたショウジョウバエの雄みたいなものなので、目の前で年端もいかない少女が服を脱いでいくと言うありえないハプニングを、ただただ喜びを以って受け入れたらしい。

 汗ばんだインナーウェアに浮き出る白い下着のラインが、柔らかな身体の線が、殊更に茂を興奮させる。
 そして少女の細腕が、ついにインナーの裾にかけられた。

「ごくり」
 茂が固唾を呑んで見守る中、樹上の少女はインナーを半分まくりあげては、すぐに止め。
 また、脱ごうとしては、諦める。
 その繰り返しであった。

 ちらちらと見えるへそに茂の視線は一点に注がれ、

「辛抱たまんねえ」
 恍惚の表情を浮かべて、そのまま笑った。

 そんな彼を、エレーヌはまるでゴキブリでも見るかのようにちらりと見た後、詩人の方へ向き直り、
「コモドオオトカゲの脱皮」
「木に登れるだけでコモドオオトカゲなら、ヤモリもカナヘビも夏休み中の小学生も、コモドオオトカゲだろう」
「虫の羽化」
「断じて違う! あんな物が昆虫の神聖なるイニシエーション。羽化であってたまるものか!」
 聞き捨てならないことを言ったので、かなり語気を強めに反論してしまう。

「いけない。ぼくとしたことが……」
 あくまでも冷静さを忘れずに。
 今やるべきことはフィールドワークである。
 ひっひっふーと呼吸をして、

「とにかく……ぼくらと“あれ”は無関係だ。見なかったことにして、何処か遠くでフィールドワークを行おう」
「うぃ」
「ねー、ちょっと君! ねーってば! 何で樹上でストリップしてんのー!」
「なッ!? おい、ばか! 声をかけるんじゃない!」
 茂の浅慮によって、詩人は余裕で巻き込まれてしまう。


「な、何でニンゲンが……って、う、うわっ」
 どすんと、地面に落ちる音。

「いたた……一体どうして小生の身体までニンゲンになってるでありますか~……?」





「結論から言えば、小生はセミ。正確に言うならば、セミの幼虫であります」
 案の定と言うべきか、彼女も色々おかしかった。
 直正に絆創膏を貼り付けてもらいながら、自称セミ少女がしゅんとうなだれる。


「うんうん。やっぱねー、俺そうだと思ったんだよ。あ、一緒にレディ・ガガのツアー行かない?」
「小生、は虫類的にケバいのと外出と、それからお前みたいなチャラ男は好かないであります」
 自称セミの幼虫にまで振られる茂。
 がくりと肩を落としながら、血相を変えて詩人の肩をがしっと掴み、

「バイオタ、何とかしろよ。虫とか得意だろお前ッ。俺の彼女ゲットに貢献しろよ!!」
 至極自分勝手な要求を押し付けてくる。
 詩人は、彼の手をぴしゃりと払った後、

「ふざけるな。ぼくのパラダイムに従えば、こいつは断じてセミなどではない」
 きりっとした顔でそう言った。

「あん、本人がセミと言ってるんだからセミだろう。みんみん鳴いてりゃ、皆セミじゃね?」
「喧嘩売ってるのか! “みんみん”だけじゃなく、“がーがー”も“じーじー”も“つくつく”もある! 第一セミの幼虫は鳴かないんだよッ」
 聞き捨てならないセリフの連発に、詩人のこめかみに青筋が浮き上がる。
 鳴き声をあげるのは、セミの成虫。それもオスだけなのである。
 生物部の癖にそんなこともわからないのか。
 そう憤る詩人に対し、茂はまるで別世界の生物でも見るかのような視線を送ってきた。


「まあ、いいじゃん。つーか、こんな可愛い女の子がセミ、ねえ。ん……待てよ……?」
 と、茂が急に考え込む。
 何か重大なことに気づいたかのように口元に手を当て、

「!! セミってことはやっぱり、おしっこ――」
 最後の単語は幻聴である。
 のっぴきならない空気を敏感に察知した直正が、信じられない速度で回転飛び膝蹴りを放ったのだ。

「それは、いけない」
 巨体の放つ旋風のような一撃。
 一瞬で意識を刈り取る大質量を顎に受け、茂の身体は宙高く舞い上がった。


 どさり。
 変な角度からまっさかさまに地面へ落ちる。
 詩人は茂の安否を意識の外側へ追いやりながら、

「……とにかく、仕切りなおそう。良いか? おまえが自分のことをどう思おうが、お前はセミの幼虫ではない」
 あくまでも持論を貫こうとする。

「そんな! 小生は、正真正銘セミの幼虫であります! 夏休みには子供たちに乱獲される、あのセミであります!」
「ふむ、あくまでもおまえはセミであると言い張るつもりか。自分はあの――夏の終わりに道端に落ちている、割と自転車で避けるのが大変な昆虫である――と」
「その通りであります!!」
 瞳を潤ませながら、自称セミの幼虫ちゃんが必死の弁明を開始する。
 その姿は異性の欲情を誘うもので、茂でなくとも一般的な男子高校生ならば「ちぇ、しょうがねえな……」と、ツンデレ的に言うことを聞いてしまいそうな魅力を秘めていた。

 ……だが、布安布里 詩人は生物部部長である。
 誇りにかけて、そのような誘惑には屈しない。

 あくまでも理路整然と、
「ならば、おまえがセミであると言う証拠は何処にある。そんなものは何処にもない」
「くっ、それなら……!」
 闘志を燃やして、詩人を睨みつける自称セミの幼虫ちゃん。
 かくして、先日と同様、詩人とセミの幼虫疑惑ちゃんの問答が始まったのだ。







「何かできることは?」
「穴を掘るなら任せて欲しいであります。そんじょそこらの昆虫と比べてもレベルと言うものが違うのであります」
 スコップで土を抉る仕草を見せながら、セミの幼虫疑惑ちゃんが自信満々の笑みを浮かべる。

「ふむ、成る程。セミの幼虫は土壌内生活に適した身体構造を持っている。だから、理屈としては間違っていない」
「うへへ」
 詩人は得られた情報を、手持ちの『野生生物観察メモ』に控えていった。

「好物は」
「勿論樹液であります。あまり甘すぎない、控えめな奴が好物であります」
「ふむ、体重が気になるのか」
 追記しようと鉛筆を動かす手を、疑惑ちゃんが慌てて取り押さえる。

「そ、そうではなく! 勿論、運動不足なのでそこも気になるところなのでありますが、その……甘露化が……」
「? ああ、栄養価の高い樹液では排泄物が甘くなってしまうというあれか。良く勉強しているな」
 一人で感心していると、後ろの方で「ほう。何か起きた方がいいような気がした」とか茂が呟いたような気がした。


「……で、そんなおまえが、何故木の上で腐れていたんだ」
 続く質問に、幼虫疑惑ちゃんの顔色が翳る。
「今年も暑い季節がやってきたからであります。小生も生まれてから6年目。いい加減に羽化頃《としごろ》なので成虫にならなければいけないのでありますが……」
「なるほど、セミは昆虫の中でもずば抜けた寿命を持つ種だ。しかも、そのほとんどを幼虫として過ごすわけだから、筋は通っている。……で?」
「個人的には、羽化なんてしたくないのであります」
「……は?」
 思わず聞き返す。
 疑惑ちゃんは、もじもじとしながらばつが悪そうに、

「ほら、モラトリアムが終る時期って。すごく寂しいでありますよね。大学生活終盤の就職活動期みたいな。新しい環境への不安。でも出なきゃいけない。そういう凄まじい葛藤と、目下闘争中なのであります」
「ふむ……」
 詩人はメモにちりばめられた情報を記していきながら、その一つ一つを拾い取り、大きな形を作り上げていく。
 羽化頃《としごろ》。新しい世界への恐怖。葛藤……。

「分かったぞ。おまえの正体が」
「!! 分かってくれたでありますか! そう、小生は――」
「ああ、おまえの正体は……ずばり、家を追い出された“ひきこもり”だ!」
 詩人の声が緑地に反響し、無音の世界が訪れる。
 ひきこもりちゃんは、口をパクパクとさせながら、

「馬鹿な! 地中で木の根っこから樹液を吸う引きこもりが、一体全体何処にいるのでありますか!?」
 信じられないといった具合に怒り始めた。

「んなもん、日本全国遍くいるね。親の脛《すね》から樹液を吸っている奴らなら」
「誰が上手いことを言えと! 小生を、ノット イン エデュケーション、エンプロイメント オア トレーニングと一緒にすんなであります!!」
 一歩も譲らぬ悶着が繰り広げられる。
 メガネをかちゃりとさせながら、至極真面目な生物部部長に――
 不名誉な称号をつけられまいと必死に食い下がるひきこもりちゃん。

 そして、状況が理解できないその他部員。
 全く互角のやり取りは、ずいっと一歩前に出た詩人の一言によって、一気に天秤が傾いた。

「要するに、だ。おまえは居心地の良い環境から抜け出したくない。そうだろう?」
「うっ、そ、それは……」
 図星であったらしい。
 じりりと、後ずさりをしながら泣きそうな顔で睨みつけてくる。

「そんなの、誰だってそうであります! 外の世界は何処もかしこも恋愛脳で埋め尽くされた出会い系サークルのようであります!」
「行って見なけりゃわからんだろう」
 お互いの目と目しか映らない位置まで顔を近づける。
 不思議とひきこもりちゃんの呼吸は荒かった。

「あ、う……」
 顔を真っ赤にするひきこもりちゃんに、詩人はきっぱりと言い放つ。

「おまえが自分と言う存在を認められるよう、ぼくが外の世界に飛び立つ手助けをしてやる」
 何処かから、キュンという擬音が聞こえたような気がした。








「もっと、熱くなれよぉおおおおおおおお!!!」
「ぎゃああああぁぁッッ!」
「頑張れ頑張れ頑張れ頑張れ!! できる! 君ならできるって!!」
「なに、この。なにこれ、めっちゃうぜーであります! ぎゃあ、お願いだから近寄らないでッ!」
「諦めんなよ! 諦めんなよぉぉぉおおおっ!!!!」

 緑地に響き渡る、生物部部員・間 茂の叫び声。
 茂が追いかけ、ひきこもりちゃんが逃げる。
 まさに決死の鬼ごっことでも言うべき光景を、他の部員たちは地面に腰かけ、静かに眺めていた。


「プロフェッスール?」
 どういうことかと、エレーヌが質問を投げかけてくる。

「往々にして、悩める人間という奴は、自分の中に答えを持っていることが多い。つまり、“悩んでいるアピール”の8割くらいは、単に話を聞いてもらいたいだけなのだ」
「うぃ」
 納得して頷くエレーヌ。

「答えが決まっているのならば、やるべきことなど決まっているじゃないか」
 鼻かけメガネを持ち上げて、
「無理矢理、背中を押す」
 凛とした声で断言した。



「ぜぇ……ぜぇっ……わかったであります。わかったのであります。小生、引きこもり娘と言うことで良いでありますから。外界へと旅立つ決意がついたのでありますから。とにかく、このむさ苦しいのを何処か深い海の底に沈めて欲しいのであります。これは直ちに健康に被害が及ぶレベルであります」
 卒業間近のひきこもりちゃんが涙ながらに訴えかけてくる。

「了解した。おい、植村君」
「ああ」
 こくりと頷き、直正が立ち上がった。

 そして、再び唸る竜巻の如き一撃。

「もう良い、寝てろ」

 空気を抉り取る大鎌の如き蹴撃が。
 茂の身体にめり込んで、嫌な音を立てて意識を刈り取っていった。


 全てが終った緑地に、安寧が訪れる。
「はぁ……小生、何か悩んでたことが全部馬鹿らしくなってきたであります。ここはさくっと大人になって、新しい世界で頑張るであります」
 意を決した卒業間近ちゃんが、すうと深呼吸をした後に、一気呵成にインナーを脱ぎ捨てる。


 そして辺りを埋め尽くす、目映いばかりの光。
 光の繭が少女の身体をすっぽりと覆っていく。

 やがて生まれる七色の翅。
 繭から飛び出した少女は、その背中に立派なセミの翅を備えていた。

「ふむ、これでおまえは“セミの翅が何故か生えた一人前の社会人”になることができた。もう自分はセミの幼虫だなんだのとぐじぐじ言うんじゃないぞ」
 詩人の言葉を受けて、社会人デビューちゃんは恥ずかしげに笑った。

「そうでありますね。まずは就職活動からで、あります」






 それからしばらく経った後。

「頑張れ頑張れ頑張れ頑張れ!! できる! 君ならできるって!!」
「何この相談員、マジうっぜええええええええええ」

 紋白町の教育委員会事務局、教育相談所にてセミの翅を持つ少女を見かけるようになったという。





――――――――

改稿履歴
※7月11日 妹ちゃんのあだ名がブンちゃんだと可愛らしくないような気が今更したので、モっさんに変えておきました。



[28504] 3ページ目 「べっ、別に臭いのが好きなわけじゃっ……」
Name: 三郎◆bca69383 ID:0f63ac38
Date: 2011/08/23 18:51
 七月上旬。
 流行り病のように全国的な節電ブームが蔓延る中で、かような風潮とはまるで縁のない一角が、ここ紋白町には存在する。
 例えば、河川敷に林立するダンボールでできた家の群れ《フリーマンズ・マンション》。
 目まぐるしく移り変わる時間の流れに取り残された、地主のおじいちゃんおばあちゃんたちの家。
 そして、詩人が通う県立せせり高校である。

 ライフラインのブラックボックス・リストに自らが通う高校が堂々とリストアップされていることはまこと不本意ではあったのだが、こればかりはどうしようもない。
 創立120年と、比較的歴史だけはあるこの高校。
 インフラ整備の牛歩具合は、重い歴史と正比例の相関図を描いており、空調設備が整っているのはパソコン室くらいのものであった。

 当然、生物部にも備え付けの扇風機くらいしかないわけで……

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」
「おい、周りに風がいかないから止めろ」
 扇風機のファンに顔を近づけ、宇宙人の真似事をしているのは“飛べる妹”こと自称元蚊のモッさんであった。
 そのうざったさは、十二分にモスキート級である。
 ただでさえ暑苦しい室内が余計暑くなってはかなわない。
 詩人が呆れた口調で彼女を叱り付けると、

「ぶう」
 彼女ときたら、ナメクジも真っ青な具合に、実験机の上に膨れて伸びた。
 一言文句を投げかけたい欲求が、詩人の喉元に押し寄せてきたが、すぐにやるべきことを思い出し、手元の資料に目を落とす。

 先日のフィールドワークの結果をまとめるために、詩人たちは部室で書き物をしていた。
 と言っても、室内には詩人とエレーヌ、モッさん(部外者)の三人。
 茂はそもそも生物部の部活動自体に興味がないから、よっぽどのことがない限り、部室に顔を見せることはない。
 直正はというと、そもそも学校自体に来ていない。
 先日、「ちょっと日本アルプスに一週間ほど篭ってくる」と言ったかと思うと、風のような速さで旅立っていったのだ(学生に有給休暇などは無いから、当然無断欠席である)。
 よって、今現在学校に残っている生物部員は、詩人とフランス人留学生、エレーヌ・ロックフォールのみ。
 自分以外の部室住民が彼女だけなら、至極静かで快適な部室空間が成立したのだろう、などと幾分残念な心地で、詩人は息を吐いた。

 部室の静寂を頓着せずに叩き潰している妹キャラ。
 何故部外者であるモッさんがここにいるのか。
 本人曰く、「家にいてもガチで暇だったから」だそうである。
 普通教師が咎めそうなものだが、「妹ならば仕方ないよな」などと訳の分からない納得の仕方をして、詩人の抗議にも取り合ってくれなかった。

「わ゛れ゛わ゛れ゛は゛~」
「……いい加減にしろ、モッさん」
「はあい」
 いつの間にやら、送風をせき止める作業に戻っていたモッさんを再度注意する。
 扇風機がようやく本来の役割を思い出し、室内の空気が循環し始めた。
 
「暇なら外で遊んで来い」
「こうも暑いと、外で遊ぶ気にもならないですー。お兄様、妹のためになんか面白いこと言ってくださいー」

 翅をばたつかせながら、割とイラっとすることを平気で言う。
 詩人は額に指を押し当て、苛立たしげに目を瞑った。 

「自称元昆虫なら、夏の暑さなんてゆりかごのようなもんじゃないか」
「嫌ですー。お兄様がニンゲンと認識したその時から、私は暑さの苦手な人間の女の子なんですー」
「こいつ……」

 キャミソールをぱたぱたと扇ぎながら、小憎たらしく鼻を鳴らしてくる。
 頭の痛くなる思いであった。
 屁理屈だけは段々と現実の妹レベルになってきた気がする。実際の妹がどんなものかは想像でしか分からないが。
 他人にAだと認識されると、本当にAになってしまう現象をピグマリオン効果などというらしいけれども、彼女にその効果が適用されたのだろうか。

「だったら、ぼくが『お前は真面目で暑さに強い子』だと認識すれば、お前の農業害虫じみた聞き分けは改善されるという理屈だな」
「我思う、ゆえに我あり《コーギトー・エルゴー・スム》ですー。そんな働きアリみたいなライフスタイルに興味はありません」

 ああ言えばこう言う受け答えに、辟易した表情を浮かべる。
(やはり、ぼくの判断は正しかった。こんなどうしようもなくニンゲンくさい奴が、シンプルな美に溢れる昆虫な訳がない)

 昆虫の行動に人格を認める考え方は、大昔から存在する。かの偉大なる先人ファーブルも、その著作の中で人間じみた所作や心情を巧みに描写していた。
 しかし、それはどうやら誤った認識のようだ。
 この時ばかりは偉大なる先人たちの認識を、詩人は声高に批判したいと言う気持ちでいっぱいであった。

 今なら確信できる。
 人間と昆虫は違う。
 と、口元を引きつらせていた、その時である。
「部長《プロフェッスール》」
 相変わらずの可憐で透き通った声が、詩人の耳に届けられた。
 金色のシルクと、碧色の水晶が眼前で輝いている。
 どうやら書き物を終えたらしいエレーヌが、分厚い本を両手に抱えて、机を隔てて詩人の向かいに立っていた。

「早いね、エレーヌ君」
「うぃ」
 彼女は短く答え、先日の観察レポートを実験机の上にはさりと積み上げた。
 書面に踊る文章は、実にたどたどしい日本語ではあったが、その内容は良くまとまっており、彼女の理知的な内面が浮き上がって見えるようである。

 詩人は記述された内容に、ちらりと目を通した後、
「うん、問題なさそうだ。後で目を通しておくよ」
「うぃ。それと……」
 はい、とエレーヌが両手で抱えていた本を詩人に差し出してくる。

「メルシ。ありがとう、この本」
「ん、これは……もう読み終えたのか」

 詩人の問いかけに、こくりと一度だけ頷く。
 彼女の抱えていた本は、『昆虫記』。
 言わずと知れたファーブルの著作である。

 実は、ファーブルと言う人物はフランス人でありながら、フランス国内ではあまりその名が知られていない。
 と言うのも、古来より彼の国においては、「昆虫? ああ、悪魔が造った生き物ね。そんなの見るなんて馬鹿なの? 死ぬの? えっ? ああ、やだなあ。ミツバチは別に決まってるじゃない」という認識が広まってしまっており、その生態に興味を示す者などほとんどいなかったのである。
 恐らく、そんな昆虫を研究する学者なんて相当の変わり者として見られていたに違いあるまい。
 ジャン・アンリ・ファーブルとは偉大なる先人であると共に、不遇の秀才でもあったのだ。

 エレーヌも彼のことは日本で初めて知ったらしい。
 彼の著作を読み終えた彼女の表情は、相変わらず最高級のフランス人形のように整っていた。が、紅潮した頬と気持ちの篭った息遣いが、その例えようもない感動を表しているかのようであった。


「不思議。昆虫の気持ち、分かった気がした」
「彼は修辞法として擬人法を多用しているからね。聖たまこがねの話なんかはとても面白かったろう」
「うぃ。馬糞を取り巻く虫たちに、ドラマがあるなんて、思わなかった。つちすがりも、セミも……。何であんなに不思議?」
「それは認識の問題だろうね。誰だって、自分たちのライフスタイルから隔絶した開拓者の生業を見れば、不思議だと思うものだ」
「開拓者?」
 小首を傾げるエレーヌに対し、「そう」と詩人は一息置いた。

「鰭《ひれ》を持つ魚が大海を回遊し、翼を持った鳥が数万キロの長旅を行う。生物と言うものは無意識の内に開拓精神《フロンティアスピリッツ》をその身に宿している。彼らの行動様式だって、十二分に不思議だろう? それなら――」
「いわんや、翅を持ち、最も多様性に富む昆虫をや」と、締めくくり、詩人は鼻かけメガネを持ち上げる。
 対するエレーヌは、興奮さめやらないようであった。

「もっと、知りたい。教えてください」
 と、詩人も嬉しくなるようなことを言ってくれる。
 心持ち得意になりながら、詩人は口元だけで笑みを浮かべた。

「良いよ。何について知りたい?」
「これ」
 いそいそと、手持ちの図鑑を開くエレーヌ。
 原色刷りのページには、典型的な肉食昆虫《プレデター》のフォルムが収まっていた。

「ゴミムシ……オサムシ科に属する屍肉喰らい《スカベンジャー》だね」
 エレーヌは目を輝かせながら、ゴミムシの項目を指さし、好奇心の固まりを断続的に投げかけてきた。

「聖たまこがねに似てる。ゴミ捨て場で生活する、どんな気持ち?」
「ん……気持ち、か」
 質問に答えようとして、詩人ははたと言いよどんだ。
 食性に関連して、ゴミムシがゴミ捨て場に生息する理由を語ることは容易い。
 何せゴミ捨て場という奴は、肉食昆虫が獲物とする小型の分解者を豊富に養っているからだ。

 だが、しかし。
 彼女の質問は「気持ちが知りたい」である。
 これに明確な答えを返すことは、非常に難しい。

 何故なら人間は虫ではない。
 どんな気持ちで、ゴミ捨て場に住んでいるかなど確認しようが無いからだ――と、そこまで考えた時、
 妙ちくりんなことを言って、まんまと我が家の妹に収まった美少女のことを思いだした。

「おい、モッさん」
「はい、何でしょう。お兄様ー」
「お前、自称元昆虫だろう? ゴミムシの気持ちだって少しは分かるんじゃないか?」

 それは何気ない問いかけであった。
 別段彼女が本当に昆虫であったなどと信じたわけではなかったが、それでも思索の助けになるんじゃないだろうか、などと取り留めもなく考えただけなのだ。

「やだなあ、分かるわけないじゃないですかー。私はただのニンゲンなんですからー」
 モッさんは少し意外そうに目を丸くしながら、頭の後ろで腕を組んで苦笑いした。

「まあ、そうだよな」
「あ、でもでも――」
 そして、納得して話を切り上げようとする詩人に対して、更にこう続けた。

「知ってそうな奴は知っているです」
「ふむ?」
 意外な返答であった。
 モッさんは、ようやく退屈がしのげるとばかりに、控えめな胸を張って、得意げにメガネを持ち上げる。

「はいー、ついてきてくださいー」
「プロフェッスール?」
「そうだな、実地に勝る資料はない。ここは、ひとまずあいつに従ってみるのも手だと思うぜ」
「うぃ」
 かくして、三人は期待を胸に、ぎらりとした太陽の下へ飛び出した。
 まだ自然の残る町内を、猛然と土煙を巻く勢いで駆け抜けていく。

「三丁目の角を右ですー」
「うむ」
 閑静な住宅街を、華麗にターン。
 小走りに目的地を目指す。
「日本共産党紋白町支部を一足飛びに駆け上がりますー」
「成る程」
 不思議な熱気に沸くドヤ街を、他人事の面構えでやり過ごす。

「某軍需産業に片足突っ込んだ企業の社宅の、はす向かいにあるくたびれた一軒家に突入しますー」
「分かった」
 細かいことは考えずに、一段飛ばしで階段を上る。

「そして、このドアを開けば――」
 がたり。
 手入れのされていない扉を開いた向こう側には、

「エッ」
 ぽかりと口を開けた茂の姿。
 彼はベッドに寝転がっていた。
 散乱したティッシュに、スナック菓子。
 手には、あられもない姿をしたプロのお姉さんが載っている本。
 エレーヌが眉間に皺を寄せて、花柄のハンカチで口元を覆う。
 ゴキブリを見る目だ。
 詩人も驚いて目を見張る。
 そこは……不良生物部部員、間 茂の部屋であった。


「ここがゴミムシの巣ですー」
「おい」
 不本意ながら、茂と声が重なってしまう。
 自信を満面に表しながら、モッさんは人差し指をぴょこんと立てている。
 本気で言っているらしかった。

「ああ、いえ。こいつも似たようなものではありますが、お目当ては違いますー」
 周囲を取り囲む、訝しげな表情に気づいたのか、モッさんは頭上にエクスクラメーションマークを浮かべ、ずかずかとベッドに近寄っていく。

「え、何?」
 困惑する茂。
 哲学に耽っている最中、急に美少女が部屋に入ってきて、ずかずかと自分に近寄ってきたのだ。
 そりゃあ驚くのも無理ないだろう。

「こんな可愛い子に部屋を蹂躙されるなんて……やだ、心の準備が――」
 などと狼狽える茂のことなど歯牙にもかけずに、
「えいっ」
 がたんっ。
 勢い良く薄めのベッドをひっくり返した。

「くん、くん……すぅー……」
 少女の呼吸。
 それは寝息ではなく、深呼吸。

「ほら、いました」
 と、得意げな声。
 指さすそこには、昆虫の顎を模倣した髪飾りをつけた、明るい髪色の少女が寝転がっていた。
 触覚のように、ぴょこんと垂れたツインテールとつり目がちのまなじりが、勝ち気な性格を連想させる。
 少女は、色素の薄い手に汚らしいトランクスを握りしめながら、盛んに鼻をひくつかせていた。

「くんくんくんくんくんくんくんくんくん……はぁ……」
「……」
「うわぁ……」
 気まずい沈黙が、茂の部屋に訪れる。
 詩人はこめかみを手で押さえながら、沈痛そうに呻いた。
 まだ一週間と経っていないが、すでに二度の経験を持つ詩人には、この後の展開が容易に想像できた。
 そう、彼女は――

「くん、くん……って、あっ、あんた達一体何なのッ!?」





「……あたしはゴミムシよ。元、だけど……」
 顔中に火がついたような表情で、元ゴミムシちゃんはぽつりと呟いた。
 ツインテールは力なくしょぼんとしており、華奢な身体が傍から見ても可哀想なくらいに縮んでしまっている。
 自らの痴態を見られたことが、たまらなく恥ずかしいと言うような様子であった。

「元?」
 怪訝そうに問い返す。
 この流れは新しい。
 モッさんにしろ、引きこもりのセミちゃんにしろ、彼女たちは現在進行形で、自分のことを虫であると主張していた。
 それなのに、彼女は「自分が虫ではないことを自覚している」のだ。
 何故だろう?
 少しばかりの好奇心を彼女に傾けていると、

「な、何よ。文句あんの?」
「いや、お前は現在進行形で虫を自称しないのだなと、少し意外に思っただけだ」
 元ゴミムシちゃん(人間であるなら、この呼称はいささか失礼であるかもしれないため、これ以降は便宜上彼女のことを五味さんと呼ぶことにする)は、「そんなこと」と呆れたように口を開き、

「ベッドの下が窮屈なゴミムシなんているわけがないじゃない。すぐに自分が虫でなくなったことに気づいたわよ。バカにしてんの?」
 じと目で睨みつけてきた。
(成る程。体長の増大による、外的な違和感が彼女の認識に影響を与えたのか)
 などと、詩人はつい真面目に考察してしまい、後悔する。
 よくよく考えれば、彼女は『端から人間であった』わけだから、体長の変化など起こるわけがないのだ。

 二人のやり取りに口を挟むように、
「私がまだ蚊だった頃に、この子に補食されかけたことがあるですー。あの時は間一髪でしたー」
 モッさんが得意げに口に出したが、彼女の妄言はこの際無視することにする。

「人間と言うことだから話が早いな。不法侵入はいけないことだぞ、いくら茂相手でも止めておいた方がいい」
「いや、バイオタ。手前も不法――」
 先日同様、茂の声は幻聴であろう。
 押し黙って、五味さんの反応を待つ。

「だって、生まれた場所がここだから、ここ以外の場所知らないし。それに……」
 五味さんはばつが悪そうに目を背けたあと、物憂げな声をため息混じりにこぼしていった。
「ここ、“臭い”んだもん」
 その声色は、自分が異常なことを言っていると自覚している風であった。






 結論から言うと、彼女は“くさい匂い”が大好きな、いわゆる変態さんであった。
 天は二物を与えない。
 彼女の場合、整った顔立ちの代償に変態性を獲得してしまったのだろう。
 五味さんが事情を語り終えたあと、辺りにはなんとも生暖かい空気が漂っていた。


「そ、そんな……美少女が俺の部屋の臭いを嗅いでいたなんて」
 衝撃の事実に愕然とする茂。
 そして――

「たたたまんねえ……!」
 茂の鼻の下が加速度的に伸びていき、
「お、俺も君のことを愛してぶぇっぷ!?」
 めこり。
 その鼻頭に、五味さん渾身の右正拳突きが叩き込まれた。

「だだだだだだだだだ誰があんたみたいなゴキブリもどきなんかを!!」
 激怒ゲージを数値化したら、軽く10桁を凌駕しそうな勢いで五味さんが肩を震わせている。
 確かに彼女のような美少女にとって、今の誤解はあんまりだ。
 不作の年に年貢を十割取られたお百姓さんでも、ここまで怒ることはないかもしれない。

「ぎゃああああああっ!? 潰れた、絶対軟骨潰れたってば!?」
 鼻から血を垂れ流しながら、のた打ち回って助けを求める茂。
 自業自得なので、助ける気には欠片もなれなかった。

「うるさいですー。そこらに落ちてるティッシュでも詰めこめですー」
「それを詰め込むなんてとんでもない!!」
 心底ウザそうにモッさんが吐き捨てた言葉を、茂は精一杯否定する。

「ぐおおぉぉっ、鼻奥を通り抜けるような新緑のスメルが――!!!」
 しかし、不幸なことに詰め物が切れていたらしい。
 意を決して、そこらに転がっていた奴を鼻に詰め込んだ茂の絶叫が、部屋中に充満した。


「……で、結局どういうことなんだ?」
 煩そうに片耳を押さえながら、詩人が彼女に話の続きを促すと、
「……あたし、元ゴミムシでしょ? 臭いところが落ち着いちゃってるのよ。……あたしだって、こんなの嫌。絶対嫌よ」
 泣きそうな声で、五味さんが顔をくしゃくしゃにした。
 小さな唇をきゅっと切り結び、伏せた瞳が涙に濡れる。
 ああ、かわいそうだな。
 ……と、女の子に興味がないはずの詩人ですら、同情を禁じえない程の有様であった。


「お兄様、この子のことも助けてあげてくださいー」
 上目遣いで、ちらりと声をかけてくるモッさん。
「彼女は虫であることを辞めたけれど、まだニンゲンになりきれていないんですー。この前、私にしてくれたように……この子もニンゲンにしてあげてくださいー」
 普段はふざけたままのモッさんにしては、不思議と切な瞳をしていた。

「ふむ……」
 口元に手を当て、考え込む。
 詩人とて鬼ではない。
 研究に費やす時間が減ってしまうのは腹立たしいが、このまま五味さんを捨て置いてしまうのも夢見というものが悪かった。
 だから、詩人はエレーヌのほうに向き直り、
「ゴミムシの実地観察は、また今度でいいかい?」
 確認を取ると、エレーヌは少し眩しそうに微笑んだ。
「同じゴミ溜めに住んでいる。参考資料、なる」
 彼女の頬は、少し赤みが差していた。







 試みその一。『くさい匂いに飽きさせる』

「と言うわけで、洗濯機の傍にこんもりと積み上がっていた奴をたんまりと持ってきた」
「ほ、本当にこんなので治るの……?」
 心配そうに詩人を見上げる五味さん。
「分からん」
 確実に治るとは言い切れない所が悩みどころであった。
 だが、数ある可能性の内の一つではある。
 やってみる価値は十分にあるだろう。

「飽きというものは、人の嗜好に甚大な影響を与える。仏陀だって、快楽に飽きたから賢者になったんだ。さあ、一思いにやってみろ」
「そそそそそうね……」
 ごくりと生唾を飲み込んで、意を決した五味さんが汚物の山に顔を埋める。

 すぅー。
 時折むせながら、彼女の深呼吸が重ねられていく。
 恐らく想像を絶するような悪臭なのだろう。
 鼻に詰め物をしている詩人には分からなかったが、人知を超えたおぞましいものであることは、辺りに漂うどす黒いオーラから容易に察することができた。


「どうだ?」
「臭い……この世のものとは思えない。ほんと、このっこのっ、でもっ……」
 楽園へ旅立っていた茂を踏みつけながら、彼女は口惜しそうな表情を浮かべた。

「くうううううっ、快楽に負けそうな自分が……ほんとに嫌ッ!」
 と言って深呼吸。
 試みは失敗であるようであった。

「……お兄様?」
 自己嫌悪に悶える五味さんを心配そうに見つめていたモッさんが、詩人の方をちらりと窺う。

「短期間で効果の出るものではないのかもしれないな」
 とは言え、連日これを続けさせるのは倫理的によろしくないだろう。
 早々に切り上げて、次の手を考えることにした。



 試みその二。『良い匂い』

 紋白町の商店街まで詩人たちは足を運ぶことにした。
「また、臭いの嗅ぐの?」
「心配するな、次は逆だ」
 不安げな表情の五味さんを、心配するなと詩人が諭す。

「心の落ち着くような良い匂いを嗅ぎつづけることで、“くさい匂い”など忘れてしまう。これならば、辛いことなど何もないだろう」
「と言うわけで、おやつを買ってきましたー」
 モッさんの片手には、メロンフレーバーのクレープが四枚。
 きっかり人数分である。

「うん、これなら……」
 ほっと安堵の吐息をつく五味さん。
 作りたての、芳醇な香りが鼻腔をくすぐった。

「いただきます」
「お腹のたるみとか、嫌なことが全て吹き飛ぶ甘さですー」
「ガレット《フランス名》は、好き」
 舌鼓を打つ四人。 
 身も心もただの妹と化しているモッさんが、吟味に吟味を重ねた一品である。
 遊び呆けているだけあって流石の味であったが、果たして効果はあるだろうか。

「どうですー?」
「んっ……」
 五味さんが所在なさげに目をそらす。
 反応から、その効果が芳しくないことは容易に読み取ることができた。

「美味しいわよ……? でも、何ていうか……」
「成る程、良い匂いと悪臭は二者択一というわけではないということだな」
 では、と視線を天井に向けて、次の手を考える。 
 心持ち悲しそうな五味さんのため息が、妙に耳に残った。



 試みその三。『嗅覚断ち』

 暑さを避けるために、四人は喫茶店へと入ることにした。
「私、抹茶オレで」
「レモンティー」
「ぼくはアイスコーヒーで。五味さんはどうする?」
「お金ないから……」
「それくらいなら私が奢りますー。ということでアイスカフェオレもお願いしますー」
「うう……」
 妙な優しさを全力で発揮しているモッさん。
 ほのかに見える後光。まるで菩薩であった。
 もしかしたら、仲間意識のようなものでもあるのだろうか。
 詩人は少し感心しながら、モッさんの握っている財布が自分のものであることを黙っておくことにした。


「次は、嗅覚そのものをシャットダウンしてしまうか。悪臭を忘れるまで」
「うん」
 右ストレートを放っていた頃と比べると、大分五味さんの元気がない。
 鼻に詰め物(エレーヌの持ち歩いていたちり紙)をしながら、申し訳なさそうに呻いていた。

「とりあえず、三時間は見ておこうか」
 腕時計を確認しながら、詩人が頬杖を突く。
 とりあえず日が暮れるまでだ。
 四人は喫茶店で、取り留めのない雑談をしながら時間を潰すことにした。

「くぅ……」
「だ、大丈夫ですかー?」
 一時間ほど経った辺りで、五味さんの顔色が真っ青になった。
 どうやら、茂の部屋に漂っていた悪臭のフラッシュバックが襲い掛かっているらしい。
 触手のようにまとわりつく、不良生物部員の悪臭。
 悪戦苦闘が続けられる。


「頑張れ五味さん! ここで負けたら、君は悪臭の鎖に囚われたままだぞッ」
「私と一緒にニンゲンになるですー!」
「頑張れ……」
 五味さんの心が折れそうになるたびに、周りを囲む三人で懸命に応援し続ける。
 そうして、一時間。 
 更に一時間。

「ご、ごめん……」
 結局、彼女は悪臭の束縛を断ち切ることはできなかった……。






「彼女、落ち込んでますねー」
「ふうむ」
 茂の部屋のベランダで、五味さんは暮れていく陽をぼんやりと眺めていた。
 夕陽が彼女の髪を染め上げてきらきらと輝かせていたが、綺麗なはずのそれすらも何だか涙のように見えてしまう。

 ……彼女の性癖は一筋縄ではいかない強固なものであった。
 恐らくは、長い年月をかけてゆっくりと治療していくようなものなのだろう。
 くたびれ損をさせてしまった三人への罪悪感からか、彼女は帰り道で一言も話さなかった。

「プロフェッスール……」
「うん、分かっている」
 エレーヌの言葉に詩人は頷き、五味さんの傍に近づき、座る。

「……何よ」
「あまり、気に病むな。一朝一夕では効果が出なかったと言うだけだ」
「……気休めは止めてよ」
 五味さんが体育座りをしながら、顔を埋める。
 会わせる顔がないのだろう。
 続く言葉は震えながらのものであった。

「何で、あたしはゴミムシだったのよ……もっと汚くない、チョウチョみたいな綺麗な虫だったら良かったのに」
「……何だって?」
「だから、ゴミムシみたいな汚い――」
「ゴミムシの何処が汚いって言うんだ!! 見当違いも甚だしいッ!」
 慰めの一言でもかけてやろうと思った瞬間、不貞腐れた彼女の言葉が詩人の耳朶を震わせた。
 聞き捨てならない。
 思わず眉根を寄せて反論する。

「近縁のオサムシみたいなきらびやかな甲羅を持っているわけではないけれども、ゴミムシのフォルムは十分に綺麗だし、それに彼らは優秀な掃除屋だぞ。それを――」
「掃除屋……?」
 体育座りのまま、二の腕の隙間からちらりとこちらを見上げてくる。
 一度火がついた詩人の語りは止まらない。

「そう、地球の生態系には欠かせない存在。かれらがいなければ、世の中には死体が溢れかえっているよ。地上に産出された不浄物を清める使命を帯びている、と……考えれば――」
 ……と語っている内に、生まれてくる可能性。
 可能性は確信に変わり、詩人の瞳に希望の灯火が宿った。

「……何だ、簡単なことじゃないか」
「ど、どうしたの?」
 口元に笑みを浮かべる詩人のことを、ぎょっとしたように見つめる少女。

「そもそものスタートラインが間違っていたんだ。お前の癖を、廃絶すべき悪癖と捉えることがそもそもの間違いだったと言える」
「臭い物が好きなんて、悪いことに決まって――」
「そんなことはない」
 断固たる口調。
 詩人は五味さんの肩をがしっと掴み、
「お前は、そのままで良い。そのことをすぐに証明してやる」
 きゅん、という擬音が聞こえたような気がした。





 紋白町の商店街に、ハキハキとした声が響き渡った。

「うっわ、汚っ……。こんなに汚れ物ため込むなんて、どういう神経してんのよ!」
「面倒でなあ。いつもどおり頼むよ、五味ちゃん」
 和気藹々としたやり取りが交わされているのは、『クリーニング屋』である。
 山てこの汚れ物を、ツインテールの少女はずっしりと両腕で受け取り、客に憎まれ口を叩いていた。

「Yシャツに背広……全部で2000円ねっ」
「五味ちゃーん」
「ちょっと待っててー!」
 くたびれた店舗に新たな看板娘ということで、店は概ね繁盛しているようであった。
 彼女の活躍を外から眺めながら、

「悩み事も解決して、良いバイト先まで見つかっちゃいましたねー」
「そうだな」
 モッさんの嬉しそうな声に相槌を打つ。

「悪臭が好きだと言うことは、その臭いに耐えられる鼻を持っていると言うこと。適材適所。物は考えようと言う奴だな」
 やがて、店の外に詩人たちがいることに気づいた五味さんが、いそいそとこちらに駆け寄ってくる。
 エプロン姿にツインテールが映えている。
 悩みの解決した彼女は、夏の陽射しできらきらと輝いていた。


「ちょっと、いるなら声かけなさいよ! 何、洗濯物?」
「いや、通りすがりだ」
「ふうん、そう」
 五味さんは生返事をしながら、落ち着かない様子でもじもじとして、

「ああああんたのだったら、仕事じゃなくても洗濯してあげても良いわよ」
 恐らくはお礼と言うことなのだろう。
 つり目をほんのり細めながら、頬を赤らめ見上げてきた。

 彼女の仕草は健康的な男子高校生が見れば、思わずドキッとしてしまうようなものであった。
 それでも、詩人は揺るがない。
 何故なら彼は生物部部長であるからだ。

「申し出はありがたいが、ぼくの家事スキルを甘く見ないほうが良い」
「そう言うことじゃなくってぇ……」
 しばらくはあの手この手で、何らかの意思を伝えようとする五味さんであったが、

「もうっ、知らないっ」
 その内つん、と臍を曲げてしまった。
 何のことだか分からない詩人は、メガネをかちゃりと持ち上げながら、彼女の不可思議な態度に疑問符を浮かべる。


「まあ、もう自分を虫だと言い張ることもなくなりそうで良かったじゃないか」
「どういうことよ?」
 ぶすっとしながら、五味さんが聞き返す。
 詩人はきらりとメガネを光らせながら、したり顔でこう言った。

「臍を曲げているからだ。虫に臍なんてあるわけがない」
 臭いもの好きのクリーニング屋さんは、開いた口がふさがらないと言った顔をしていた。




[28504] 4ページ目 「とある生物部の野外合宿《アウトドア・バトル》」
Name: 三郎◆bca69383 ID:0f63ac38
Date: 2011/07/27 17:07
 八月、土用明け。
 木々の合間を縫うようにして降り注いでくる強い陽射しは、地面にアメーバ状の明暗を作り出していた。
 その凶悪なコントラストに眼を細めながら、詩人はただ観察に没頭する。
 鉛筆をぴっと立てて被写体の縮尺を計り、シャッ、シャッと綺麗なラインを『野生生物観察メモ』の紙面に引いていく。
 そんな詩人の頭の上で――

「はぁいっ」
 ぽーん。
 弾力性のある音がして、大きな皆既日食が発生した。

「そおれ、いくわよぉー」
 ぽぽぽぽーん。
 茂の奇妙なかけ声が聞こえる。

 先だって五味さんから受けた物理的ダメージが、脳にまで届いていたのだろうか。
 しなを作ったその声はやけに周りに響いており、ぶっちゃけかなりキモかった。

「いや、そんなことはどうでも良い……」
 茂の声色の成分分析なんて、現在の作業に必要じゃない。
 だから、無視だ。無視に限る。
「これは幻聴。幻聴なんだ」と呟きながら、不必要な情報をとにかく思考の外側へ追いやることにした。

 仏頂面に張り付く空気はひんやりとしていて、大気組成は水分過多。
 十二分に夏らしい気候と言えるのだが、それでも不快さを感じないのは、ここが水際であり、新鮮な水分がひっきりなしに供給されているからなのだろう。
 実に過ごしやすい、野生生物観察《フィールドワーク》日和であった。

「……」
 かりかりかりかり。
 一心不乱にスケッチを続ける。
 被写体は、いわゆる水辺の野草である。
 他の対象よりもとりわけ昆虫が好きな詩人であったが、別段他が嫌いなわけでもない。
 むしろ、好きだ。
 いや、愛していると言っても過言ではない。

 そも、一つの種を理解するためには、周辺の幅広い生態系を俯瞰しなければいけないわけだから、観察対象を選り好みなんてしていられないのだ。
 普段からそう胸に刻み込んでいるだけに、植物相手に並々ならぬ情熱を注ぐことも苦ではなかった。

 愛用のメモ帳に命が吹き込まれていく様をにやにやと眺めていると、
「そんな球ではお里が知れるわよレシーブッッ!」
 また茂の声が聞こえてくる。
 やたらと白熱しているようだ。
 いい加減無視しきれなくなって振り返ってみると、色鮮やかなビニールボールが天高く浮き上がるのが見えた。

「とああぁぁぁーっ」
 モッさんらしきシルエットが大地を蹴る。
 陽射しがまぶしくて良く見えなかったが、背中から生える二枚翅をフル活用して、昇竜の勢いでビニールボールを追随しているのは理解できた。
 背後にばひゅうううんという擬音が見えるのは気のせいだろうか……?
 人間の女の子にしてはあり得ない高さまで飛び上がった彼女は、目標を両目で捉えて手のひらを掲げた。
 しなる少女の体躯。
 弓形に身体が折れ曲がり、バネ仕掛けの玩具のようにぎちりと鳴った。

「ほっぷ、すてっぷ、ジェノサイド!」
 タガが外れた身体が跳ねる。
 破壊のエネルギーが手のひらからビニールボールに伝達され、綺麗な真円がココナッツ型へと変化する。
 瞬間、鉛の弾丸と化すボール(塩化ビニール製)。
 強固な鉛の固まりでできたビニールボールは、風を斬り裂き、土を巻き、雰囲気イケメンを目指した軽薄面を貫いた。

「おおっと、軽薄野郎が吹っ飛んだ! ですー」
 旧世代のサッカーゲームのようなナレーション。
 ドット絵の台詞枠まで幻視できるのが癪に障る。

「ゴォォォォォル」
 理解できない。
 一体何のスポーツをやっているのかさっぱり分からなかったが、あれだけ喜んでいるということは恐らく長き戦いに終止符が打たれたのだろう。
 沈黙する茂とは対照的に、ドヤ顔で勝利のダンスを踊っている妹キャラのモッさん。

 詩人は彼らの様子をちらりと見ながら、ふうと物憂げなため息をついた。
「貴重な時間を無駄にするなよ」
 鉛筆の尻で頭を掻きながら、そう不貞腐れる。

 燦々《さんさん》と降り注ぐ陽射しは、熱中症の他にも素晴らしいプレゼントを贈ってくれる。
 それは夏休み。
 学生たちが最も輝く自由時間である。

 ――我らが生物部は、この長期休暇を利用して四泊五日の野外合宿をしている真っ最中であった。





「さて、合宿地についてだが」
 キュキュキュッとホワイトボードに書かれた『野外合宿』の四文字を見た瞬間、部員たち(+1)の間で侃々諤々《かんかんがくがく》の議論が始まった。

「……俺は山が良いかな」
「山が、良い」
「海海海海海海、海海海海海海海海! 海が良いですー!!」
「何故部員でもないお前が参加しようとしている上に、遊ぶ気満々なんだよ。お前あれか? ぬらりひょんの親族か?」
「細かいことはドン・マインッ!」
 ぐっと親指を立てながら、ぺろりと舌を出すモッさん。
 頭が痛くなってきたのは気のせいではないだろう。

「……海は却下だ」
 にべもなく言い放つ。
 別段モッさんが遊びまわろうが、自分の観察に支障がなければ何処でも良い。
 海を却下したのは極々単純な理由――
 それは虫が少ないからであった。

「何でですかぁっ!? スイカ割りですよ! 水着ですよ! うはうはですよっ! 海じゃなきゃ、この場で脳内入水してやるです、某文豪も顔負けのレベルでぇぇぇっ」
「がっつくな! つか、腕がマジ重いから止めろッ!」
「だってぇぇぇぇ!」
 モッさんの両目から滝が流れ落ちる。
 部員たちの間に漂い始める「可哀想だから何とかしたれや」というオーラが胸に痛かった。
 居た堪れなくなって詩人はガリガリと頭を掻いた挙句に、

「くそっ……だったら……」
 ホワイトボードに代替案を書き連ねていく。
「これでどうだッ」
 バンッ。
 板面を叩きながら意見を求めると、
「うぃ」
「悪くないな」
「流石お兄さまですー!」
 色好い返事が×《かける》3。
 こうして吟味に吟味を重ねられた結果、合宿地は隣県のオザワ湖に決定した。

 S県、オザワ湖。
 県の三分の一を占める程の湖域と、日本有数の深さを誇った名勝地である。
 スーパーダーティな政治家と大変良く似た名前が玉に瑕《ちめいしょう》ではあったが、腹黒そうな名前とは裏腹に水質の方は清浄そのもので、シーズン中は淡水浴を目当てに日本中からこぞって観光客が集まる避暑地でもあった。
 そんな場所に足を運べば、誰であっても心が躍るというもの。
 詩人の傍で繰り広げられた謎エクストリーム・スポーツは、天下の観光地を目にした昂揚の産物であったわけだ。



 鼻血を出しながら、どんどん顔が青くなっていく茂を見て、
(そう言えば、最近はこいつも参加するようになったな)
 などと今更ながらに考える。
 不良部員、間 茂はここ何回かの野外観察全てに顔を見せていた。
 お陰様で日陰文化部の典型であった我らが生物部が、「野外観察杯、全員参加で賞」の連続更新を成し遂げてしまっている。

 挙げ句の果てには、
「布安布里もようやく部長としての自覚が芽生えてきたのだな……ぐすっ……。あ、スコッティ取ってくれ」
 などと顧問に褒められてしまう始末であった。
 伝統的に幽霊部員の多い我が部にあるまじき異常事態と言えよう。

(それを野外観察だけならまだしも、合宿にまで参加と来たもんだ。まあ、理由は明白なんだけれども)
 当然のことながら、合宿費用は決して安くない。
 テント生活に抑えるから宿泊費用は不要としても、食費や交通費その他諸々に福沢翁が二枚は飛んでいくだろう。学問をススメるためには軍資金が要るのだ。

 そんなコストを補って余りあるメリット。
 詩人にとってそれは野生生物との触れ合いであったが、茂にとってのそれとは――


「軽薄野郎がグロッキーなので、エレーヌちゃん遊びましょうですー」
「んっ……でも、観察……」
 明るい声をあげながら、色取り取りの綺麗な髪がふわりと踊る。
 彼女らが身に纏う衣は、総じて表面積が少なく……つまるところは水着姿であった。

 モッさんが着ているのは花柄のタンクトップ・ビキニ。
 ふわりとした藍色の髪とカラフルな色合いが良く似合っている。
 普通メガネっ娘は、「あ、あわわわ……これしか持ってないんです」とか言って、えらく野暮ったいワンピースやスクール水着を身に纏い、それでも恥ずかしがって要所を手で隠すものだと思っていたのだが、どうやら彼女の場合は違うらしい。
 小さな肢体に付随する二つの丘を嬉しそうに弾ませて、太陽の下できらきら輝くモッさんは、活動的な色気をふんだんに振り撒いており、何だかとても“女の子”しているように見えた。

 対するエレーヌはフリルスカートの付いたワンピースでその華奢な身体を包んでいる。
 白を基調にしたおとなしめな水着は彼女の印象ぴったりでとても可愛らしい。
 だが、特筆すべきはその透明な肌だろう。
 水着よりも透き通った肌が、神々しささえ感じさせる金髪と相まって、美少女ゲージをカンストさせてしまっている。
 まさにチート。
 あんなものを見せられれば、大抵の男は生唾を飲み込まざるを得ないだろう。
 まるで深海で輝く海月《くらげ》のようとでも言うべきか。
 少なくとも滅多にお目にかかれる代物でないのは容易に理解することができた。


 そんな二人が手を取って遊んでいる光景は、健全な男子高校生にとってはまさに「約束された理想郷」。
 遺伝子のやり取りに並々ならぬ情熱を傾ける茂が、気張って合宿に参加したのも頷ける話ではあった。

(まあ目的はどうであれ……観察用の機材は大概重たいから、こう言った時は助かるんだ。植村君にまかせきりはまずいしな)
 観察用の機材は冗談抜きで本当に重たい。
 撮影用カメラや顕微鏡など取り扱い要注意のものから、押し花作り用の道具まで合わせると、総重量が50kgを優に超えてしまうのだ。
 詩人は元々体格に恵まれている方ではないから、この機材運搬という奴が苦手でたまらない。
 今までだって、部員の植村 直正がいなければどうなっていたことか……。
 詩人は得難い人材が我が部に所属している暁光を感謝せずにはいられなかった。

 生物部の荒事専門係こと、植村 直正。
 寡黙にして実直な好青年である彼ときたら、学校から隣県まで必要機材のほとんどを背負って移動しても、弱音一つ吐きやしない。
 少しでも文句を言ってくれれば、詩人の気持ちも幾分か軽くなるのだが、律儀者の彼がそんなことを言うはずはなく、罪悪感を抱きつつも、つい頼りがちになってしまうのであった。

「植村君?」
「おう」
 テントに戻り、団扇を扇ぎながら当の本人に声をかけてみると、彼は機材の再々チェックを行っていた。
 曰く、「山中では一つのトラブルが命に関わるから」らしい。
 巨体に似合わず細やかな人間だな、と詩人は思わず苦笑した。

(もう少ししたらミーティングでもしようか。折角だからチームワークに挑戦してみるのも良い)
 と、個人主義の詩人にしては柄にもないことを考えていると――

 ぴとっ。
 冷たい何かを頬に押し当てられた。
 肌に当てられていたのは、クーラーボックスから取り出されたらしい、キンキンに冷やされたペットボトルのお茶。
 それを持つ手もひんやりと少し涼やかで、典型的な女の子の手をしていた。

「はい、『そぉいお茶』。暑そうにしてたから」
 甲斐甲斐しい声をかけてくれたのは、キャミソール姿の五味さんであった。
 上目遣いにのぞき込んでくる瞳は大分晴れやかで、先だっての悩み事は完全に克服したように思えた。

「ありがとう」
 素直に礼を言って、ぐびっとお茶を持ち上げる。
 そのまま喉を鳴らして冷たいお茶を流し込んでいると、五味さんは興味深げに首を傾げながら、視線を詩人の手元に落とした。

「スケッチ、何書いてたの?」
「アサツキだ。都会じゃあまり見かけないかもしれないが、これでもスーパーに並ぶほどにありふれた食草なんだぜ」
「へえ、見せて」
 前髪をかきあげながら、こちらに身体を寄せてくる。
 感嘆の声をあげる五味さんに対して、詩人はふと湧いて出た疑問をぶつけてみた。

「なあ、何でお前までついて来たんだ?」
 モッさんがついてきている時点で部外者NGの原則は破られていたから、今更とやかく言うつもりはない。
 むしろ、費用をバイト代から捻出している分、モッさんより善良だ。
 何せ、モッさんの旅行費用の半額は詩人の財布から出ているのだから(母親に、「これも甲斐性だ」と押し切られた)。

 故にこれは他意のない純粋な疑問であったのだが、この問いかけを耳にした瞬間、五味さんの顔が茹で上がった。
 ぼんっ。
 水素爆発を起こした五味さんの表情が見る間に赤くなっていく。
 健全な高校生が見れば、「あれ、こいつ俺に気があるんじゃね?」などと考えて鼻を天狗にする局面なのかもしれないが、それでも詩人は揺るがない。
 なぜなら、詩人は生物部部長であるからだ。

「そそそそれは、その……モッちゃんが行くって言ってたから、彼女とは友達だし?」
「だったら、一緒に遊んでくればいいじゃないか。あいつときたら、エレーヌ君の邪魔ばかりしているぞ」
「良いのよ、別にっ。それに私みたいなのがふらふらしてたら、ほら……変なのにナンパされちゃうかもしれないじゃないっ」
 私は人見知りなの。ふん、とそっぽを向く五味さん。
 ちょっと可愛らしかった。

「ナンパ、ねえ」
 頬を掻きながら、呆れた表情で辺りを見回す。
 一大レジャー地であるS県オザワ湖。
 確かに例年なら、観光目的の人々が水辺にひしめいているはずであり、そんな場所を五味さんのような勝ち気系美少女がふらついていたら、10人や100人のナンパ攻勢に晒されてもおかしくないかもしれない。
 だが、しかし――

「そんな奴ら、何処にも見あたらないんだよな」
 言葉と共に、ひゅうっと夏風が寂しく吹いていく。
 詩人たちの宿営するテントの周辺2km以内には、何故か彼らの他に人っ子一人見あたらなかった。

「……閑古鳥ってどんな鳥なのかしら」
「カッコウのことだよ」
 脊髄反射のやりとりが交わされた後、

「まあ、観察の邪魔にならんから、これはこれで助かるな」
 と、一人で納得する。
 よくよく考えれば、人がいないことで困ることなんてなにもない。
 無論、観光業で生計を立てている地元の方々にしてみたら、このハイパー閑古鳥状態は全然大丈夫じゃないだろう。
 おまんまの食い上げに頭を抱え、今頃樹海とにらめっこしていたっておかしくはない。

 だが、それを止めるのは「思いとどまれよ!」と恩着せがましく書かれている看板とポリスメンだ。詩人たちの仕事じゃない。
 答えの出ない問いかけにいつまでも固執するのはスマートではないだろうと、早々に話題を切り上げようとしたその時――
 “答えの糸口”があちらからやってきた。



「お前の、母ちゃん手際が良いっ。それ、いち、に、さん、はいっ! お前の、婆ちゃん手際が良いっ。おいっちにー。さん、はいっ!」
「ういっちにー、さん、はい……っ。」
「声が小さいであります、社会の蛆虫ども! そんな弱気じゃ、都会の乾いた大砂漠に飲み込まれてしまうであります!! 人生にオアシスなんて存在しないのであります!」
「おいっちにいっ! さん、はいっ……!」
「おう、その調子であります! 帰ったら、蚊の幼虫をファックして良いでありますっ」
「ボウフラとか、マジ無理……」
「サーをつけろ、馬鹿野郎ッ!」
「サー! マジ無理、サー!」
 遠方から軍隊式のジョギングをしながら近づいてくる怪集団。
 その風体は、皆一律にくたびれたジャージ姿であり、一人の例外もなく、皆死んだ魚のような目をしていた。
 思わず、「人生って本当はすばらしいんだよ?」とか、励ましてしまいそうになる痛ましさだ。
 そして、彼らを率いる鬼軍曹。
 蝉の翅をピンと伸ばして、ピッピッピッと笛を吹いているボブカットの少女……。
 それは間違いなく、いつぞやの蝉の幼虫疑惑ちゃんであった。

「何やってんだ、あいつ……」
 思わず両目を白黒とさせる。
 風の噂で教育委員会の非常勤職員になったところまでは聞いていた。
 昨今の教育委員会は軍隊式を導入したのだろうか。
 教育勅語復活であろうか。
 王政復古であろうか。
 がりがりと何かが削られていく感覚に詩人が苛まれていると、

「むむむ、あれに見えるは! 全体ー、止まれ!」
 ピッピッと笛が鳴り、地獄の行程《デス・マーチ》に一時の休息が与えられる。
 幼虫疑惑ちゃんは、鬼軍曹フェイスを美少女フェイスに一変させて、詩人の元へ駆け寄った。

「久しぶりであります、詩人さん!」
「ああ、久しぶりだな。ええっと……」
「蝉塚。蝉塚 ミンミンが小生の名前になったであります」
 中国人? と少し疑問に思わなくもなかったが、そこは華麗にスルーする。
 ついでに、何故か頬を膨らませている五味さんのことも見なかったことにする。

「何やってるんだ?」
「小生、教育相談所に駆け込んでくる問題児たちの中でも、底辺《ボトムズ》連中を担当することになりまして、今は更生の強化合宿中であります」
 どうやら、本当に教育委員会は軍隊式を導入したらしい。
 これは将来が心配になる転向であった。

「名づけて、蝉塚ヨットスクール。グレートティーチャー蝉塚であります! 腐った蜜柑を新鮮な奴に戻すであります、強制的に!」
 ……暴力的な響きしかしない。
 せめて、ポリスメンのご厄介になることはしないようにと、詩人は祈らずにいられなかった。

「しかし、こんな所で詩人さんに会えるとは。詩人さんは小生の心のオアシスであります。きゃっ」
「おい、さっきと言ってること違えじゃねーか!」
「休憩中でもサーをつけろ、馬鹿野郎でありますッ!」
「サー! 理不尽、サー!」
 不満をありありと顔に浮かべる問題児たちを牽制しつつ、

「ところで詩人さんたちは、こんな所で何をしているでありますか?」
 口元に指を当て、蝉塚ちゃんが問いかけてくる。

「野外観察に決まっているだろう。まあ、あちらのあいつらは淡水浴が目当てだろうけど」
 モッさんたちを親指で指し示しながら詩人が答えると、

「淡水浴……?」
 怪訝そうな顔をして、一瞬何事かを考えた後、
「あの……今年のオザワ湖は遊泳禁止でありますよ」
 言いにくそうにそう言った。

 ……。
 てんてんてん。

 放心した思考に飛び込んでくる四文字の単語《ターム》。

「遊泳禁止?」
「はい、遊泳禁止。ほら、あそこにも立て看板が」
 と、指差す方向には『危険! ここは泳げません!』の立て看板。
 聞き間違いかと一瞬思ったが、どうやら聞き間違いではないらしい。
「そんな馬鹿な」
 日本有数の淡水浴場でそんなことをしてしまえば、経済的損失は計り知れないものになる。
 地元の方々が樹海とにらめっこをしながら、何故そんな判断をしなければいけないのか。
 どう考えても、理の通らない話であった。

「普通はそう思いますよね。でも事実であります」
 うんうんと頷きながら蝉塚ちゃんが答える。

「先週から、この湖に怪生物が出没するようになりまして、人を引きずり込もうとするのであります。幸い死者は出ておりませんが、ホテルなんかは受付キャンセルの嵐でありますよ」
「成る程……」
 詩人たちはテント生活を行う予定であったから、そう言った情報に触れる機会がなかったわけだ。

(どうしたものか。一応部員たちに注意を呼びかけなければいけないな)
 口元に手を当てながら思案する詩人。
 今後の予定を組み立て直しながら、情報の反芻を行う。

「ん、待てよ?」
 そして、何かを思い出したように詩人の耳がぴくりと動いた。
 興味深げに一言呟く。

「怪生物?」
「そう、怪生物であります」
 その言葉の意味を計りかねる詩人。
 逡巡する視界の片隅に、正気を取り戻した茂が湖で鼻血を洗い流そうとしている姿が映った。

「うえー、落ちるかなあ。これ」
 ばしゃばしゃやりながら、シャツを手で擦っている。
 うっすらとした赤が、湖に溶け込んでいく。
 血臭が湖水を通じて、辺りに散らばっていき……
 途端に殺気が膨れ上がった――

「――ッ!? 馬鹿、顔を引っ込めろ。茂ッ!!」
「へ――?」
 詩人の制止と、“それ”は全く同時に起こった。

 バシャアアンッ!

 茂の鼻先に巨大な水柱が噴き上がった。
「へ……!? え――ッ!?」
 慌てて茂が、上体を仰け反らしてそれを避ける。
 倒れこむ彼の鼻先から、ぴゅーっと赤い液体が噴き出し……

「ぎゃあああッ、何か鼻先がちょっぴり切れてる! 切れてる! やばいって! 何これっ!?」
 全力の悲鳴。
 それを聞きつけた部員たちが慌てて駆け寄ってくる。

「どうしたですかー?」
「ばばばばば、バケモノが……ッ」
 青ざめた茂の指差す方向で、水柱の収まった水面が不気味に笑っているように見えた。

 ――ごくり。
 全員が渇いた喉をごくりと鳴らしている中で、
「部長」
「ああ、間違いない」
 直正と詩人は、眼の奥の鋭利な光をぎらりと輝かせた。

「未確認動物――UMAだ」






「きぃ、危ない生き物がいて遊泳できないなんて!! 淡水浴の魅力10割減じゃないですかぁぁぁっ!」
 口惜しそうに地団太を踏むモッさんを尻目に、詩人と直正が事態の帰結点を探っていく。
 恐怖などは微塵も湧いてこない。
 ただ湧き上がってくるのは底の知れない探究心。
 怪生物の正体を明らかにしようというフロンティア・スピリッツだけであった。

「植村君、どう思う?」
「水生ハ虫類の類ではないと思う。鼻先が見えなかった」
「ふむ。野生化したワニの線は消えたな。水柱の大きさから考えて、肉食カメというのも考えにくい……いや、あるとすれば突然変異の巨大化、か?」
 鼻かけメガネをかちゃりと持ち上げながら、詩人は脳内で様々な可能性を拾い上げては捨てていく。

「人を水底に引きずりこむUMA、か」
 険しい目つきで水面を見据える。
 湖だというのに軽く水平線が見えるほどの湖域を誇るオザワ湖――
 これだけ広い上に深さも十分。
 ならば、まだ未知の生物が残されていたとしても全く不思議ではない。

「人魚《シレーヌ》?」
 エレーヌが小さく口を挟む。
 西洋出身の彼女らしい発想である――
 が、それを正解とするには少し足りない。
 詩人はゆっくりとかぶりを振って彼女の言葉を否定した。
「着眼点は悪くないけど、ジュゴンやマナティといった海牛類は日本にいないよ」

「ステラーカイギュウの生き残りという線はどうだ」
 続いて直正がエレーヌの援護射撃を行う。
 その無骨な眼には好奇心が渦巻いており、疼く身体を抑えるのに難儀している風に見えた。

「一時期のステラーカイギュウは房総半島にまでいたらしいから、その着想も悪くない……でも、やはりそれだけの巨体が生息しているならば、今までに誰かが発見しているはずさ。それに、血の臭いを嗅ぎつけたと言うのも気にかかる。肉食の水生動物……魚類かハクジラ亜目の可能性が高いと思うが……」
「いずれにしても、判断の材料不十分。“アプローチ”するしかないということだな?」
「その通りだ、植村君。“アプローチ”を開始する」
 “相棒”の言葉に詩人は口の端を、にっと持ち上げた。

「良し」
 詩人の言葉を火種として、直正の表情がきっと引き締まる。
 上着をその場に脱ぎ捨てて、身体を温めるべく準備運動を開始した。


 その姿を茂がぽかんと見つめながら、
「お前ら、さっきから何訳の分からないこと言ってんの?」
 訳が分からないと言った表情を浮かべる。

「「捕まえる算段」」
 当たり前のことを聞くなと言った具合に、詩人と直正の声がぴったり同じタイミングで発せられる。
 既に目の前に潜んでいるUMAのことしか頭にはなかった。

「昨年のタキタロウ発見は、学会で随分評判だった。あれで、ぼくらも三体目。十分中級《ミドルクラス》を名乗っても良い頃合だ。これはチャンスだぞ、植村君」
 昂揚する気分を抑えようともせずに、てきぱきと“アプローチ”に必要な道具をかき集める。
 ロープや、投網。
 釣竿に、携帯魚群探知機。救急セット。
 あらかたの道具を揃えた後、“最も必要なもの”を確保すべく、詩人は蝉塚ちゃんに声をかけた。

「おい、蝉塚ちゃん」
「は、はいっ。あ、いや、できれば小生、ミンミンちゃんと呼ばれたいであります」
「ふむ。では、ミンミンちゃん。ヨットスクールと言うからには船くらい用意してあるんだろう?」
「あ、はい。二人乗りボートでありますが……」
 ミンミンちゃんの返答に、詩人は会心の笑みを浮かべて握り拳を作った。
 喜ぶのも当然と言えよう。
 これで最大の障害はクリアできたのだから。

「少し、貸してくれないか?」
「え、でも……」
「頼む。世紀の大発見に繋がるかも知れん」
 彼女の瞳を真っ直ぐ見据えて、頼み込む。
 あわあわと挙動不審になったミンミンちゃんは、

「うう、惚れた女の弱みであります」
 と、小声で良く聞こえないセリフを呟いた後、二つ返事で了承してくれた。





 ブロロロロー。
 船尾のスクリューが水面をかき混ぜ、二人を湖の沖まで運んでいく。
 鬼軍曹用にと、モーター付きのボートがあったことは実に重畳であった。
 ミンミンちゃんの怠け癖には感謝せざるを得ない。
 ボートの縁には、サッカーボール大の網が布袋がくくりつけられている。
 中身は、近所で買ってきた魚のすり身。
 UMAを引き寄せるための撒き餌であった。

「ここら辺で良いかな」
 ボートのエンジンを止めて、直正に目配せする。
 準備はどうかと問いかけると、 

「問題ない。身体は温まった」
 背中で語る力強い声。
 鍛え上げられた背筋が、音を立てて躍動しているような錯覚すら覚えた。

「行ってくる。戻ってくる時には、UMAをひっ捕まえてくるさ」
 にやりと口元だけで笑みを浮かべ、直正は湖に飛び込んだ。
 巨体にしては不自然なほどに静かな飛び込み。
 水飛沫すら立てずに、ただぶくぶくと直正が潜っていった場所から泡が浮かび上がってくる。

「頼んだぞ、植村君……」
 詩人には彼の武運を祈ることしかできなかった。

 ……。
 …………。

 彼が湖に潜ってから、何分が経過しただろうか。
 直正の最大潜水時間は約13分。
 少なくともその限界にかなり近づいていることは確かであった。

「植村君」
 詩人の手に握られたロープに力が込められる。
 これは彼に万が一の事があった時に、救出するための命綱だ。
 タイミングだけは間違ってはいけない。
 
 さながらタオルを投げ込むタイミングに悩むセコンドのような心地で、詩人は静かにその時を待った。

(もう、駄目だ。引き上げるッ!)
 ……明らかに13分を過ぎたというのに、直正が上がってこない。
 嫌な予感が頭をよぎり、ロープを巻き上げようとしたその時である。

 ――バシャァァァンッッ!

「――ッ」
 大砲でも撃たれたかのように、水柱が立ち上がった。
 続いてその近くで、二本目の水柱が立ち上がる。
 三本目。
 四本目。
 間違いない、彼は戦っている。
 船上の詩人には想像だにできない凄まじい戦いが、水面下で繰り広げられていることは確かであった。

「頑張れ、植村君ッ!」
 その応援が果たして彼の耳に届いたのかは定かでないが……

「どっせぇぇぇぇいッ」
 直正の雄たけびと共に黒いシルエットが水面を突き破り、空中へと跳ね飛ばされていった。
 追うようにして、直正が飛ぶ。
 空中で睨みあった両者。
 その間に、一陣の旋風が巻き起こった。
 ――縦横無尽の殴り合い。
 交わされる打ち合いは数百を軽く凌駕しているように見える。
 詩人の動体視力ではその全てを理解することは不可能だが、正手搦め手織り交ぜられた高度な読み合いが行われていることだけは辛うじて理解できた。
 ……そして、未だに決定打はない。
 風が吹き荒れるたびに、両者の体躯に生じていく戦傷。

 これは千日手になるか――
 そう思われた瞬間、UMAの手元から長い手のようなものが至速で伸びていった。

「くッ」
 思わぬ奇襲。
 避けそこなった直正の肩先がぐさりと抉られた。
 そのまま湖面へ落下していく直正。

「植村君ッ」
 “相棒”の名を叫ぶ。
 巧みにボートを操って、直正を回収せんと慌てて駆けつける。
 体勢を立て直した直正の着地を受けて、船体が一瞬大きく水面に沈んだ。

「大丈夫か」
 気遣いの声をかけて、顔を歪める。
 荒々しい息をつく直正の肩には痛々しい傷跡が残されていた。

「随分手ひどくやられたな。痛みの性質は?」
「断続的な灼熱感」
「……毒だね。すぐ手当てしよう」
 救急セットを引っ掻き回し、最も適した治療を試みる。

「灼熱感と言うと……消化液? ヒトデや貝に似た……いや、むしろ虫刺症の症状が近いか」
 ならばと抗ヒスタミン薬を取り出して、傷口を洗い流し、止血を行った後に迅速に塗布する。
「助かる。だが、すまない。逃がしてしまった」
「君が無事なら問題ない。また挑戦すれば良いさ」
「ああ、次は鯱《オルカ》級の装備で相対したい。用意してくれ」
「そこまでの相手なのか……」
 詩人と直正が戦慄している遥か遠方で……


「お兄様たちが訳の分からない異次元バトルをやってるです。私たちはのんびりと釣りでもしながら待っていましょうー」
 美味い棒(めんたいこ味)を頬張りながら、モッさんが釣り糸を垂らしていた。
 むぐむぐと音を立てながら、浮きの行方をわくわくしながら見つめている。

 浮きがぴくりと反応した。
 そして立ち上がる水柱。
 餌の魚をがっちりと咥えた黒いシルエットが……

「獲ったどー!」
「えっ」
「えっ」
 装備を取りに戻ろうとしていた詩人たちを失望の縁へと追いやった。





 釣り上げられた収穫物は、例のごとく“女の子”であった。
 日に焼けた茶髪に無邪気な双眸。
 可愛らしい八重歯が、その性格を暗示させてくれる。
 背中に背負うは何故か甲《こうら》。
 手に持つ二又の槍の先端は牙のように鋭く、日の光を浴びてギラリと輝いていた。
 これだけでも十分個性の塊だというのに、彼女にはそれらを全て吹き飛ばすような大きな個性が備わっていた。
 ……それはスクール水着。
 彼女の未成熟な凹凸を、あの野暮ったい紺色の布地がぴっちりと覆っていたのである。 

 その筋の変態が見れば涎を垂らすレベル。
 そして、我が生物部の間 茂はその筋の変態を兼任していた。

「スク水の亀っ娘ちゃんとか最高やがなぁぁぁっ!!」
 歓喜の声をあげて乱舞する茂を、エレーヌがゴキブリを見るような目で一瞥した。

「馬鹿、背中の甲を良く見てみろ。あれはオサムシ特有のものだ」
 誤認する茂に、詩人が呆れたようにぴしゃりと言ってのける。
 がっくりと肩を落としながら、ため息をつき、

「オサムシ上科の水生昆虫などそう多くはない。つまり、こいつは――」
「わっちは、ゲンゴロウだどー!」
 無邪気なアイデンティティの主張が、詩人たちの耳朶を揺らした。
「……って、言うと思ったよ」
 一拍の沈黙。
 そして、モッさんが何を思ったのか、「おお」と納得の拍子を打つ。

「どー!」
「どー!」
 鸚鵡返しに真似をするモッさん。
 さらにそれを返すゲンゴロウ疑惑ちゃん。

「また、この手合いとか勘弁してくれ……」
 蚊に、蝉、ゴミムシ。
 お次は何と、水生昆虫ときたもんだ。
 詩人は頭痛がひどくなっていくのを確かに感じた。

「で、今度はどんな理屈で自分が昆虫だと主張するつもりだ? 自称ゲンゴロウちゃん」
 詩人の冷たい声に、ゲンゴロウ疑惑ちゃんが「むっ」と幼い眉を歪ませる。
 そして、控えめな胸をドンと叩いて、良く通る声で見得を切った。

「確かにわっちの身体は普通のとはちょっと違う。でもでも、それがどうした! ご飯を食べれば大きくなる! わっちはちょっと食べ過ぎただけだど!」
「馬鹿も休み休みに言え。お前の身体は明らかにヒト科の特徴を有している。どんな成長の仕方をしたって、昆虫がそんな風にはなるはずがないだろう」
 詩人の答えに、ゲンゴロウちゃんは「ハッ」と馬鹿にしたように笑い出す。

「言うにことかいてヒトとなっ。ニンゲンなど10分以上潜水もできない惰弱な種族じゃないか! そんなのとわっちを一緒にされては困る!」
「ふん、海女さんだって本気を出せばそれくらいは潜水できるだろうに。第一、先程までお前と互角に渡り合っていた人間がここにいるじゃないか」
 言って直正を指し示すと、疑惑ちゃんは訝しげな眼差しで彼のことを上から下までじろじろと眺めては値踏みし始めた。

「うーん。確かに、先程の水中での立ち回り……見てる分には凄まじかったど」
 しばし悩んだ後、
「でも、だーめ! きっとこいつはヒトとは違うナニかだど!」
 盛大に両手で×マークを象って、彼の人間性を否定した。

「ふうむ、人間という種族に対する不信感。これではまるで“アヴェロンの野生児”だな」
「部長《プロフェッスール》?」
 詩人の呟きを聞きつけて、エレーヌが金髪を静かに揺らした。

 アヴェロンの野生児とは、18世紀末にフランスで発見された少年のことである。
 狼に育てられ、狼さながらの生活を行っていたという少年。
 近年になって、宮崎監督の作品『もののけ姫』で美少女化もされているので、知名度の方は割と高い。

「大方、彼女はゲンゴロウに育てられたんだろう。ならば、ぼくの採るべき対応は限られてくる」
 メガネをずいっと持ち上げて、疑惑ちゃんの傍へ一歩進み出る。

「な、なんだど」
 不安げな表情を浮かべて、疑惑ちゃんが見上げてくる。
 手に持つ槍を詩人に向けて突きつけてくるが、実際に突き刺す勇気はないらしい。
 小さな両手がふるふると震えていた。

「これからお前に人間様の素晴らしさを教えてやる。決して脆弱な種族ではない、と。そして感動した挙句、人間社会に回帰するが良い!」
 ずびしっと、人差し指を鼻先に突きつけ宣戦布告を言い放つ。
 疑惑ちゃんはびくっと身体を震わせた後、精一杯に体を仰け反らして見せた。

「ふ、ふん、面白い。ならばわっちと――アウトドア・バトルとしゃれ込もうど!」
 少女の虚勢が響き渡り、何故かモッさんがごくりと唾を飲み込んだ。

「アウトドア・バトル……聞いたことがあるですー。大自然の中では、ただ生きるだけでも困難が付きまとう……その過酷さに目をつけた先人たちが編み出した血塗られた競技。生存能力の高さを競い合い、互いの優劣を判ずる……それがアウトドア・バトル!!」





「……と言うわけで、ここにアユを用意しました。血が苦手という方も多いので、釣り上げた後すぐに血抜きを行っております。司会進行は、颯爽登場銀河美少年の茂様が。解説は彼女候補のモッさんが、ちょっと! 目潰し《サミング》は本気で危ないからッッ!?」
 彼らのやり取りは本筋に関係ないから幻聴ということにする。
 詩人たちの目の前には、煌々と燃えた炭と網。
 既にじくじくと熱せられており、一度食材を載せれば素晴らしいバーベキュータイムが始まるであろうことが容易に見て取れる。

「ふふり、吠え面かくなよー」
 不敵な笑みを浮かべる疑惑ちゃん。
 スク水の上からエプロンをつけるという非常にマニアックないでたちであった。

「ふん、ぼくの料理スキルを甘く見ないほうが良い」
 そして対する詩人も自信に満ち溢れている。
 物心付いた頃から母親《きせいちゅう》にご飯を食べさせてきたという誇りが、彼の自信に繋がっていた。

 両者の間で飛び散る火花。
 一触即発の空気が、辺りに漂う。

「それではアウトドア・バトル。レディィィ、ゴーですー!」
 パァン。
 クラッカーが破裂して、紙吹雪の舞い落ちる中で戦いの幕が切って落とされた。

 一斉にアユを手に取る二人。
 疑惑ちゃんは慣れた手つきで串刺しにして、炭火の近くに立てかけていく。
 詩人は網の上に行儀よく並べ、絶妙な火加減を探るべく、網の高さ調整を行う。

 ――二人に課せられたお題は『焼き魚』。
 シンプルながらも、その腕の差が如実に現れる題材と言える。
 果たして、勝利の女神はどちらに微笑むのか……

 合宿参加者一同が、固唾を呑んで勝負の行く末を見守った――
 一名以外。

「はい駄目! 両方失格ぅぅぅぅっ!」
 強烈な駄目出しをしたのは、茂であった。
 自信のあった題材だけに、二人の顔が不満に染まる。

「良い? 焼き魚ってのは奥が深いの! そんな自己流じゃ駄目駄目! はい、失格。君ら失格だからー! これから、俺の言うとおり精密機械のようにやってみて! 大丈夫。俺、黄金伝説見てたから!!」
 何だか良く分からないテンションでまくし立てられて、思わず頷いてしまう二人。
 それでは、仕切り直しである。

「いくでえ」
 何故かラップ調のかけ声。
 どうやら、彼の指示に従って行動していけばいいらしい。

「食材、塩、塩、塩! 食材、塩、コラー! それ胡椒っ! もう一度やり直し!」
「おい、茂。胡椒は必要だろう、どう考えても」
「うわー、こいつ分かってないわー。何それ、焼き魚の何を分かってるの?」
 したり顔の茂を見ていると、頭痛が明確なる怒りへと変化を遂げ、青筋がピッと浮き上がっていくのが自分でも分かった。

「料理というものは最適解に辿りつくことが非常に難しいものなわけ。適当にやってては、決して至高の一品に辿りつけない。分かる? だからこそ、機械のような精密な動作が必要! さあ、いくでえ」
 再び、仕切り直しである。

「食材、塩、塩、塩! 食材、塩、コラー! それワサビっ! もう一度やり直し!」
「ワサビがないと、寄生虫が怖いど! 魚食ってる気もしないど!」
「それ、都市伝説ですからー! ワサビなんか塗ったって寄生虫に当たる時は当たりますからー! フォーイッグザンプル、俺の親父!!」
 茂の父親のプライバシーなどを織り交えながら、てんやわんやのやり取りがこの後数回ほど。
 何だかんだで二人の前には、完成品の焼き魚がいくつか出来上がった。





 審査員はモッさん、五味さん、エレーヌ、リンリンちゃん。そして、直正の五人である。
 五人が一斉に網で焼かれた料理を口に頬張った。

「あ、このお肉美味しいですー。五味ちゃんが焼いてくれたのですか?」
「ええそうだけど。あっ……ちょっと、野菜も食べなさいよ」
「日本のマイス(とうもろこし)も、とても美味しい」
「野菜は譲らないであります。ちょっと溜まってきたおなかの駄肉には、野菜が一番であります」
 どうやら四人はまともに審査を行うつもりがないようだ。
 幸せなバーベキュータイムがのんびりと流れていく。
 スローライフを満喫するような輩は人間社会の敵である。
 頼りになりそうになかった。

 唯一クソ真面目に、両者の料理を食べ比べてくれた直正に自然と視線が集中する。
 しばし熟考する直正。
 そして、重々しく口を開いた。

「自然の食材を使って、腹にたまれば何でも美味いだろう。常識的に考えて」
 ……確かに正論であった。
 詩人と疑惑ちゃんががくりとうな垂れる。

「これじゃ勝負がつかないど……」
「いや、まだだ! まだ茂が残っている! 茂、お前が責任持って判断しろ!!」
「いや、俺魚苦手なんだわ。親父の食あたりがトラウマでさ」
「「おい」」
 あれは伏線だったのか。
 にべもなく言い放つ茂に、思わず疑惑ちゃんと声を揃えてツッコミを入れてしまった。

「いや、良く考えたら、俺が至高の一品を作れないのに、俺の指示通りに作ってもって、串は危ないからマジ止めてッ!?」
 力を合わせて共通の敵を仕留めた後、詩人と疑惑ちゃんは睨み合う。
 竜虎、両雄相並び立たず。
 ここまで手間をかけたのだから、白黒つけねば気がすまなかった。

「くそっ、結局ぼくらで判断するしかないのかッ」
「こうなったら、二人でお互いのお魚を食べ比べるしかないど!」
「望むところだッ」
 と、自分の焼き魚を手に取ると、相手の口に近づける。

 ぱくり。

「むぐ……ふむ」
「あぐ、あぐ……むむる」
 静かに咀嚼を重ねる竜虎。
 そして――

「割と美味い……」
 口の中に、焼き魚特有のホクホクとした風味が広がっていく。
 塩加減に隠し味。焼き加減など全てに至るまで上質と言って良い出来である。
 更に炭火で焼いたせいだろうか。
 アユの旨みがぎゅっと凝縮されており、いくらでも胃袋に入れることができそうな錯覚さえした。

「やるじゃないか。では、自分のを……」
 更に自分の焼き魚にも噛り付く。
 再び咀嚼を重ねる竜虎。
 果たして、感想は――

「うーむ、あんまり変わらんぬー」
「……屈辱だが、実力は伯仲しているようだな……」
 食感、風味、全てが互角。
 正直、割とショックであった。
 何せ詩人の料理歴は10年近い。

(料理スキルは幼い頃から培ってきた自慢の取り得その一。だと言うのに、こんな年端もいかない女の子すらも負かせないなんて……)
 いや、ここはむしろ少女の健闘を讃えるべきか。
 幼い身空でこれだけのスキルを会得するまでに至ったのだ。
 恐らくは相当の苦労をしてきたことだろう。

「ふふり、人間にしてはやるぬー。少し認めちゃったど」
 彼女の無邪気な歩み寄りが、詩人の敵愾心を大分和らげてくれた。

「お前も大口を叩くだけあって、中々のサバイバルスキルじゃないか」
 ふっと微笑み、彼女を褒める。
 一回の死闘が百万遍の会話と化して、彼らの心を通じ合わせた。

「だが、次は負けないぞ。さあ、再戦だ」
「おうともさー!」
 闘志をその眼にたぎらせ、次なる勝負に思いを馳せる――

 その時である。
 やたら香ばしい芳香が二人の鼻をついてきた。

「くん、くんくん」
 疑惑ちゃんが鼻をひくつかせ、匂いの発生源へと近づいていく。
 ふらり、ふらりと行き着く先には、何やらコンビニ弁当を温めなおしているモッさんの姿が。

「あれれ。ゲンゴロちゃん、コンビニ弁当に興味あるですか?」
 弁当の中身を調理道具《クッカー》にあけ、遠火でゆっくりと加熱しながら、モッさんは疑惑ちゃんに笑いかけた。
「コンビニベントウ……?」
「はいー、食材が現地調達できなかった時用にと買っておいたんですが、無駄になっちゃったんですー。どうせなら一口でも食べておこうかとー」
 それは典型的な唐揚げ弁当であった。
 昨今、食品添加物などよりもセシウムとかが気になる年頃の……あの弁当であった。

「一口、OK?」
「どうぞー、無駄にしたらもったいないお化けが出るですー」
 じゅるりと唾を垂らしながら、ゲンゴロウ疑惑ちゃんが弁当を口にする。

 ぱくり。

「……」
 沈黙の後に紡ぎだされた言葉は、
「コンビニ弁当。こういうのもあるのか」
 何やら賢者の響きを有していた。

「おい、どうした」
「人間。いや、人間様。わっち、悟ったど。こんな美味い物が都会にあるのなら……野生など要らぬ!!」
 瞳をきらきらと輝かせながら――
 ゲンゴロウちゃんは、いとも容易く脱ゲンゴロウを宣言した。

「う、うむ……」
 美味い美味いと弁当にありつく元ゲンゴロウちゃん。
 何か釈然としない詩人。
 その姿を見つめながら、詩人は「どうせ後日、紋白町のコンビニとかでらっしゃーせーとかやっているんだろうなあ」とか考えずにはいられなかったのであった。






 その夜。
 ぱちぱちと焚き火をしながら、部員たちはカードゲームに興じていた。
 無論、仲良くなった元ゲンゴロウちゃんも一緒である。

「はい、ザラキー! 4枚取ってけですー」とか、断末魔の叫び声とかを聞きながら、

「何だか、今日は疲れたよ」
 げんなりとした表情で、詩人は焚き火から少し離れた所に置いてあった椅子にもたれこんだ。
 近くで静かに『昆虫記』を読んでいたエレーヌが、その様子を見てクスリと笑う。

「でも、とても生き生き、してた」
 冗談めかしたその一言に、詩人の眉根が寄っていく。

「そう言うのは止してくれ」
 ひらひらと手を振る詩人。
 そこに、エレーヌが透き通った手が伸びてくる。

「これ、まだ冷めてない」
「ん、ありがとう」
 エレーヌから肉と野菜の串焼きを手渡される。
 かぶりついてみると、確かにまだ温かく、舌鼓を打つには十分すぎるほどであった。

「まあ、こう言うしっちゃかめっちゃかなトラブルは、本当にこれっきりにしてもらいたいよ」
 そう呟いて、夜空を仰ぎながら一度だけ嘆息。
 その願望は心の底から出てきたものであったはずなのだが、何故か少しも叶う気がしなかった。


「そう言えば、ゲンゴロちゃん。何でニンゲンを引きずりこんでたのですかー?」
「んあ、そんなことするわけないど。わっちは魚専門。でもこれからはコンビニ弁当専門だど」
「……?」
 聞き捨てならないその一言。
 闇夜の湖面がゆらりと持ち上がり、巨大な何かが蠢いたように一瞬見えた。





[28504] 5ページ目 「侵略的動植物との戦い」
Name: 三郎◆bca69383 ID:0f63ac38
Date: 2011/08/30 17:52
 蒸し蒸しとした、真夏の夜のことである。
「え、うそ。それ、ホントにっ?」
 山鳥を思わせるはつらつとした声が、部屋の中でぴょこんと跳ね回る。
 つり目がちの両眼を弓なりに細めつつ、その声色は夜の開放感に満ち溢れていた。
 扇風機の緩やかな風が、辺りの空気を控えめにかき回している。
 風に当てられ、彼女のツインテールがふわりと少し浮き上がった。
 声の主は元ゴミムシの美少女、五味さん。
 現在、彼女は畳部屋の端に備え付けられた黒電話を片手に、気の置けない友人と談笑中であった。

『あいつらったら、二人ペアでの訓練は嫌だー。一人にさせてくれーとか好き勝手にのたまうんであります。だから、小生はぴしゃりと言ってやりました。お前等はこのまま体育の時間に惨めな思いをし続けるままでいいのかー! って』
「それ、少し厳しすぎじゃない?」
 すらりと伸びた指先で電話コードを弄びながら、笑い声。肩を揺らして相づちを打つ。
 今の姿を見たならば、誰が見てもこう思うだろう。彼女は幸せそうだ、と。


 現在、五味さんは町内のクリーニング屋に下宿している。
 生物部部長――詩人たちの尽力によって、無事人間社会に参画することのできた彼女を出迎えてくれたものは、数え切れないほどの善意であった。
 例えば、職場のお得意さんにはいつも優しくしてもらっている。
 入店直後に放たれる「五味ちゃんを首にしたら、もう使ってやんねーからな!」という援護射撃には、いつも頬が緩みっぱなしになってしまう。
 女将さんも良い人だ。突然訪れた新参者を疎んじるどころか、むしろ可愛がってもらっている。
 実は来週の休日には一緒に買い物へいく予定だったりする。五味さんとしても、その日が待ち遠しくて仕方なかった。
 そして、クリーニング屋の店主である。
 彼には衣食住の全てを保障してもらっていた。
 手ぬぐいを頭に巻きながら彼が言うには、若い奴は他人に手をかけられなきゃいけないんだそうだ。
 その癖、仕事以外では口うるさいことを言うことがない(勿論、仕事中は鬼のように厳しいのだが……)。
 まさに理想的な上司と言えた。
 ベッドタウンとして発展する前の紋白町を知る、この無欲で、昔気質なお爺さんがいなくては、彼女の生活は成り立たなかったに違いない。

 他にも少しおまけをしてくれる八百屋のおじさんや、色んな物をおすそ分けしてくれる近所のおばあさんなど……一々取り上げていてはきりがない程の厚意を、彼女は受けている。
 恐らく五味さんの“幸せ”を成分分析《クロマトグラフィー》にかけてみれば、こういった無数の真心が抽出できることだろう。
 でも、やっぱり極めつけは……

『およっ、五味ちゃーん。どうしたでありますかー?』
「んっ、どうしたの?」
『あいや、突然反応がなくなったので』
「へ? 今、私……考えごとしてた?」
『それはもうばっちりと。ちょっと電話料金の心配とかしちゃったりしたであります』

 そっかあ、と五味さんは目を少し細めた。
 無意識の内に頭に想い描いていたのは、とある青年の仏頂面であった。
 最初にして最大の恩人。
 瞼に浮かんだ青年は鼻かけメガネをかちゃりと持ち上げ、良く分からない蘊蓄を垂れ流していた。

 五味さんの頬に、さっと朱が差す。
 男のことを考えていたなどと、こんな恥ずかしいことを他人に言えるわけがない。
 これは最高機密《トップシークレット》級の情報と言えよう。だから、
「……なんでもないわよっ」
 その内容については、適当に濁しておくことにした。

『んー??』
 電話越しの友人は、しばらく不思議そうな声を漏らしていたが、
『あ、テレビ。この町のことがやってるであります』
 すぐに好奇心の矛先を別のものに移した。
 どうやら、通話をしながらテレビも見ていたらしい。

「え、何チャンネル?」
『16ch。トンボテレビであります』
 友人に言われて、テレビの電源をかちりと回してみると、一面に広がったひまわり畑が五味さんの目に飛び込んできた。
 黄金色の小さな太陽が、所狭しと敷き詰められている。
 五味さんは目を丸くしながら、その眩しげな映像に釘付けになった。

「これ、近くの緑地よね。もうこんなにひまわり咲いているんだ。っすごい……」
 思わず目を奪われてしまった。
 恐らく感嘆の息を吐く彼女と同様の感想を抱いたのだろう。
 友人は、うんうんと肯定の返事をしたかと思いきや、

『すごく綺麗であります。まさにデートに最適……って、あ、やんっ。詩人さんとは、まだそういう仲じゃないのであります』
 受話器から聞こえる声色が、すぐにピンク色に塗りつぶされた。
 くねりくねりと、身悶えしている姿が目に浮かぶようだ。

 五味さんはきししと笑い声を上げながら、
「あはっ、ばーか」
 面白そうに悪態をついた。
 どうやら、友人と自分の乙女心は同一対象へ向かっているらしい。
 いわば恋のライバルとでも言うべきか。
 出会って間もない頃は彼女の乙女モードに少し妬いたりもしたのだが、すぐに慣れてしまった。
 彼女自身は良い子だし、何より相手が相手だけに……世間で通用しているような――いわゆる恋の駆け引きに意味がなかったのだ。
 下手なアプローチは無意味。ゆっくりと外堀が埋まっていくのを待つしかない。
 そう考えたら、心に大分余裕が生まれた。
 お陰様で、受話器越しの友人とは実に良好な関係が築けているというわけだ。


『ひどっ!? ば、馬鹿じゃないでありますっ! 仮に、馬鹿だとしても、そういうことは人に言っちゃいけないでありますっ!! 第一っ――』
 教育委員会所属っぽい、少し説教がましげな反論が始まりそうであったので、
「そんなことより、時間良いの? もう一時間経つけど」
 機先を制して、泣き所を突いた。

『エッ、ぐわあああ。料金が! 電話料金がレッドゾーンにマッハでありますッ』
「やっぱ馬鹿じゃない。まあ、今度遊び行く時は私がおごってあげるわよ」
『あッ。小生、今度小倉サンデーが食べたいであります――って、とにかくまた今度~~ッ』
「はいはい、おやすみなさい」
 がちゃりと受話器を置き、うんと背伸びをする。
 テレビではまだ紋白町の特集をやっていた。

「うちのももうちょっとで咲くのかな」
 窓際に寄って、玄関先に視線を落とす。
 そこにはまだ開花していない、『彼女の鉢植え』があった。

「ツボミは膨らんでるし、もう少しだと思うんだけどなあ……」
 良い花を咲かせるからと、近所のおばあさんにもらったものだ。
 名前は聞いていない。
 だから勝手に、新種と言うことにして自分なりの名前をつけていた。
 今日の今日までの成長具合は至極順調で、名付け親としても鼻が高い。
 どんな花を咲かせるのだろうか。
 綺麗だろうか。うん、綺麗に違いない。
 彼女がそのまま鉢植えを見ながら、成長した末のことを想像していると、
「あ、もうこんな時間」
 窓に映った時計の長針が、夜更かしの警鐘を鳴らしていた。
 五味さんは慌ててぱちんと豆電球だけを点して、布団へと潜り込む。
 枕元には男物のTシャツ。
 某妹キャラから買い取ったものである(2500円だった)。
 五味さんはそれに顔を埋めながら、一度すうっと深呼吸をした。

「咲くの、明日だと良いな。“詩人草”」
 開花の期待に胸を膨らませて、彼女はうつらうつらと夢の世界に旅立っていく――。
 そう……彼女はこの時、手塩にかけた鉢植えが“あんなこと”になるなど、夢にも思わなかったのだ……。


 後日、夜明けを告げる鶏鳴代わりに、五味さんの怒声が町内に響き渡った。





「なあ。ぼくのTシャツが幾つか無くなっているんだが、何処にいったか知らないか?」
 所変わって布安布里家。
 朝の緩やかな時間が流れていく中、

「樋口一葉に化けましたー」
 詩人の表情が見る間に険しいものに変化していった。
 モッさんはテレビを見ながら、ソファでごろごろしていた。
 彼女が団扇を扇ぐたびに、「ふひい」という気だるそうな声が聞こえてくる。
 二枚翅を折りたたみ、キャミソールをまくって背中を掻いている姿は、凄まじくおっさん臭い。
 ふわりとした妹系美少女がやっちゃいけない禁忌があるのだとしたら、それを全て犯しているような気がする。

 見ている番組はアキバ特集。
 どうやら昨今広がっている擬人化ブームという奴について取り上げているらしい。
 目まぐるしく変化する液晶画面の中で、猫やらイカやら都道府県やら、元素記号といった良く分からないものが美少女イラストになっていた。
 詩人は一度だけ次元の違う美少女群に視線を走らせた後、すぐにだらけた同次元在住オッサン系少女を睨みつける。
 ……どうやら、こいつとは一度決着をつける必要がありそうだ。
 詩人は胸に宿した覚悟の炎に、脳内ガソリンをぶちまけた。


「……そうか、おまえがどんな錬金術を使ったかは聞かないでおいてやる。それで、その『たけくらべ』の作者は何処に旅立ったんだ?」
「胃袋《とおいところ》にですー」
 ぴょこんと翅で返事する。
 静かな怒りが収束していき、詩人のこめかみにぴきりと青筋が立った。


「おい、ちょっとこっち向け」
「何ですかー。今の私は『萌え萌え擬人化特集』に夢中ふぁぶっ!?」
 口答えをするモッさんの頬を、詩人はゴムのように引っ張った。
 ぎりぎりと、それはもう感情を込めて。

「こ、の、馬鹿、妹キャラがッ」
「むい~~ッ」
 涙目のモッさんが対抗するように、詩人の頬を引っ張る。

 ぎりぎりぎりぎり。
 かなり変則的ではあったが、がっぷり四つの取っ組み合いと言えるのではなかろうか。
 両者互角で、全く譲るところがない。
 薄氷の上を渡るような均衡が保たれている中で、詩人の怒りと、モッさんの逆切れが火花を散らしてぶつかりあった。

「今日と言う今日は許さないぞ。おまえ、それ立派な犯罪だからな? おい、聞いてんのか」
「私は恋のキューピッド役をしただけですー。一葉先生だって『正当報酬だから仕方ないわね』って言ってくれました。流石甘酸っぱい恋の人!」
「国語便覧に載るような大先生がそんなこと言うか!」

 このまま壮絶な義兄妹喧嘩に発展してしまうのか――
 両者が決死の覚悟を胸に抱いたその矢先、

 ピンポーン、ピンポン、ピンポン、ピンポン、ピンポン、ピンポーン。
 怪しい商品の押し売りにしたって、相当無礼な来客用チャイムの連打が二人の耳朶を叩いた。

「くそっ、一時休戦だ……」
 居留守を使おうにも、チャイムが鳴り止みそうな気配はない。
 接客のための休戦に、不承不承モッさんも頷く。
 そうして、二人して玄関へと向かい、戸を開けると、

「あれれ、五味ちゃん。どうしたですかー?」
 ツインテールをしゅんと垂らした五味さんの姿があった。
 両手で抱えた鉢植えには、萎れた観葉植物と、それを押し退けるように……


 高い。
 というか、あり得ないくらい長い。
 全長3メートルを超える、明らかにしぶとそうな植物が生えていた。

「ん、それは……」
 詩人が目ざとく瞳を煌かせる。
 二人の問いかけに、俯いていた五味さんが顔をあげ、
「わ゛た゛し゛の鉢植えがあ~~ッ……」
 今にも号泣しそうな勢いでぐずりながら、彼女は悲痛な叫び声をあげた。





「……つまり、朝起きたら、大事に育てていた鉢植えに、あの草が生えていたわけか」
「ぐすっ、なによこいつ……。急に生えてきたと思ったら、鉢植え枯らしちゃうし……無理に引っ張ったら、育ててたのまで抜けそうだし……ぐすっ、何なのよ。全く……!」
 しゃくりあげながら事情を説明する五味さん。
 怒りと悲しみがぐるぐると混在している瞳からは、大粒の涙がこぼれだしている。

「まあまあ、冷たいものでも飲むですー」
 そんな彼女を慰めるモッさん。
 カラン、とグラスを三つテーブルの上に置き、冷たい麦茶をその中に注いだ。

「急成長する植物、ねえ」
 詩人はちらりと軒先に置いた彼女の鉢植えを一瞥した。
 心なしか、さっきよりも丈が伸びている気がする。
 一本の太い茎がすっくと天へと伸びており、そのてっぺん付近で幾つかの枝に別れていた。
 その末端には小さな黄色い花。
 綺麗かしら? と問われると、ちょっと首を傾げざるを得ない。
 何と言うか、こう……荒地が似合いそうなフォルムであった。

「一夜で大きくなる木なんて聞いたことないです。ジブリワールドですか?」
「紋白町にトトロがいてたまるか。というか、あれは木じゃない。草だ」
「え、でもあんなに大きいです」
「植物が木であるか、草であるかは大小では決まらない。細胞壁がどうなっているかで決まるんだ。二階建てくらいなら普通に追い抜く草だって存在するよ」
「ほへえ」
 話半分といった風にモッさんが声を漏らす。
 どうせ理解する気なんぞないのだろうなあと、詩人は諦めの入った吐息をついた。
 そう、今説明をしたとおり、軒先に置いた“アレ”は木ではない。
 と言うか、その正体について詩人は大体の見当がついていた。しかし……

「あれはセイタカアワダチソウの一種だと思う。もっとも、本種は一夜で数メートルも伸びるなんて馬鹿げた成長の仕方はしないはずなんだ」
 鼻かけメガネを持ち上げて、低く唸る。
 詩人の持つ知識の枠外にある、あの植物をどう位置づけたらよいものか。
 突然変異か、もしくは栄養の過剰摂取。はたまた同質倍数体……?
 考え得る様々な可能性を頭に思い浮かべるが、そのどれもがしっくりと来なかった。
 ぶつぶつと口元に手を当て思索にふける詩人とは対照的に、モッさんが小首をかしげて頭上に疑問符を浮かべる。

「せいたかあわだちそう?」
「帰化植物の一つ。キク科アキノキリンソウ属セイタカアワダチソウ。近代に鑑賞目的や養蜂の蜜源植物としてこの国に持ち込まれてから、その生息域を伸ばしている。軒先に置いてあるあの“ドでか草”は、それに良く似ているんだよ」
「違うとしたら、あれは何なのですか?」
「口惜しいことだが、今は分からない。突然変異の類も考えたが、そういったものは群生地で起こるものだ。突発的に五味さんの育てていた鉢植えでのみ起きるなんて――」

 ここまで受け答えした瞬間、詩人の脳裏に一欠片の疑問が浮かんだ。
 一度言葉を切って、新たな可能性を掘り下げる。
 つまり、あれは果たして特別で、彼女の鉢植えにのみ存在するものなのか……? と。

「外に出てみよう。嫌な予感がする」
 詩人がそう二人に声かけようとした矢先、さっきまで『萌え萌え擬人化特集』を放映していたテレビから、驚くべきニュースがもたらされた。

『臨時ニュースをお送りします――』
 若干焦りの漂うアナウンサーの声に、三人の視線が一斉に集中する。

「これは……」
 映された画面は町内の緑地。
 ひまわり畑で満開になっているはずのそこには、件の“せいたかもどき”と同種の植物が席巻していた。
 更に、映像は切り替わっていく。
 どうやら、五味さんの鉢植えで起きていた異変は、町内のかなりの範囲を覆うものであったらしい。 
 こんな大事であったとは思っていなかったのか、五味さんは口をパクパクとさせながら、

「なに、これ……」
 と、乾いた声を漏らしていた。
 モッさんも驚きを隠せないでいる。
 愕然とした表情で、身体をびくりと強ばらせながら、

「ぎゃあああああああああっ!?、今度遊びに行く予定だったひまわり畑が“せいたか地獄”と化しているですッ!」
 ひどく自分本位な怒りをヒステリックに駄々漏らしにしていた。

「ファック。これはファック。このファッキンアワダチソウが」と、女の子が言って欲しくないランキング上位に位置する単語を連呼するモッさんのことは捨て置くとして、

「まずいな」
 やや緊張感をはらんだ声色で、詩人は呟いた。
“あれ”の正体がなんなのかは依然として不明だが、このままでは地域の生態系を壊してしまう可能性がある。
 ……それだけは断固として防がなければならない。今後のアウトドアライフのためにも。

「生物部に緊急動員をかけよう」
 メガネをすちゃりと持ち上げて、二人に声をかける。
 今やらなければならないことは明らかだ。
 思考は一瞬。行動は迅速に。
 詩人は液晶画面の“せいたかもどき”をねめつけて、一つ筋の通った声で今後の指針を二人に示した。

「全力で除草作業を行う。ご町内の生態系をぼくらで守るんだ」






 そんなこんなで、生物部の緊急野外活動は始まった。
「良いか? 既に対象は町内全域に広がりつつある。まずは手分けして、それらを除草するところから始めよう」
 ネコ型ロボットが通っていそうなご町内の空き地に集合した我らが生物部一同(と、+α)は、詩人の声に思い思いの反応を返した。

「おう、了解した」
「うぃ。頑張ってみる」
「任せなさい。絶対仇をとってやるんだからッ!」
「ファッキンアワダチソウを、クッキンしてやるです!」
「うぇえ、面倒くせぇ……」

 しかし、最近の野外活動出席率は本当にパない。
 少し前の6倍である。
 まあ、元々他の部員が直正しかいなかった上に、互いに好き勝手な活動をしていたためなのだが……。
 人手が増えると、やれることも大分増えるのだなあなどと詩人は今更のように考えた。
 感慨深げに一度だけ頷き、

「では、散開ッッ」
 少し心を躍らせて、びしっとリーダーシップを発揮して、部員たちと共に目標目掛けて駆け出していく。
 軍手をした手に鎌を持ち、背中に大きなカゴを背負ったその格好は、思わず「ご職業は何ですか?」とポリスメンに聞かれそうなほど珍妙なものであったが、幸いなことに好奇の目に晒されることはなかった。
 それ以上に珍妙な光景が町中に広がっていたからだ。

 町なのに荒野――。
 それ以外に表現のしようがない。
 アスファルトを突き破り、花壇の植物を押しのけて、排水溝から顔を出す“せいたかもどき”の群れは、育ち盛りの中学生ですら真っ青になりそうな成長速度で、大きくなり続けている。
 あまり綺麗じゃないお花畑だった。


「かなり深刻な状態だ」
 詩人は歯噛みして、道路のひび割れから顔を出す“せいたかもどき”をぎゅっと掴んだ。
 そして、渾身の力を込めて……
 引っこ抜く!

 大魚の手応えを残しながら、ようやく引っこ抜くことができた“せいたかもどき”の根っこは相当深かった。
 恐らく根っこだけでも1メートルはあるんじゃないだろうか。
「これは骨が折れそうだな」
 額を流れる汗をトンボ柄のタオルで拭いながら、鎌を握り締める。
 体力的にご町内の“せいたかもどき”を引っこ抜いていくのはかなり厳しい。
 となれば、根を残すことになるが、鎌で刈り取っていくしかないだろう。

「根競べだ」
 詩人はその場に腰を屈めて、林立するのっぽ草を丁寧に刈り取っていった。

 炎天下での重労働――
 元来、草取りはお百姓さん的にも一番嫌がる仕事である。
 腰は痛めるし、種まきや収穫ほどの楽しみもない。
 いわんや普通の男子高校生をや。

 だが、ご町内の誰もが後込みするようなボランティア活動だというのに、我らが生物部は音を上げない。
 詩人は生態系の保護のため。
 直正は重労働に慣れているがため。
 エレーヌは苦戦していたが、生来の真面目な性格から手を止めることはなく。
 五味さんとモッさんは有り余る復讐心に身を焦がしながら。

 気づいた時には、町内の三分の一ほどを除草すると言うハイペースで、作業をこなしていった……。


「“せいたかもどき”の成長速度には舌を巻いたけれども、幸い繁殖力はそれほどでもないようだ」
 背中のカゴに草を放り込みながら、詩人は安堵の息を吐いた。
 これなら何とかなるかもしれない。
 そう思いつつも、詩人の表情は依然険しいままである。
 温くなったペットボトルに口をつけて、一人思考を整理する。

「でも、そうなると疑問が残る。何故、一夜でこんな繁殖の仕方をしたのかという疑問が。繁殖力を考えれば、人為的にもたらされたとしか――」
 その言葉は最後まで続けることができなかった。




 詩人は突如背後から忍び寄る殺気に全身を竦ませると、反射的にその場を飛びのいた。
 トスッ。
 鋭いものが地面に刺さる音がする。

「――ッ」
 受身を取りながら、襲撃者へと視線を向ける。
 ……どうやら今回の“せいたかもどき”事件の背後には、どうやら黒幕がいるようだ。
 果たして、それは何者か。
 紋白町の観光事業を邪魔しようとする隣接自治体の皆さんか。
 はたまた、ブラックバスを放流している釣り吉のような、輸入ペット(しかし植物)の扱いに困った飼い主たちか。
 ことの仔細を、曇りなき眼で見極めねばなるまい。
 それこそがご町内の生態系を守る、生物部部長の役目であるから――。

 燃えさかる闘志を宿した両の瞳に、犯人の姿が映った。

「アナタタチですか。ワタシのお花畑運動を邪魔するフトドキモノは!」
 太陽を背負ったシルエットが、片言の日本語を投げかけてくる。
 頭から生える、昆虫じみた触覚になまら活動的な翅……。

 詩人の身体から、呆れたように力が抜けていった。
 そう――今回もまたまた“自称昆虫”ちゃんの仕業であったのだ。





「あいむ、はにびー。ヨーロッパ生まれのセイヨウミツバチ。アピス・メリフェラちゃんとはワタシのことデス!」
 自慢げに鼻を高くして、自称ミツバチのメリフェラちゃんとやらがその身をフフンと威張らせた。

 ゆるふわカールな銀髪に、きらきら星でも飛んでいそうな鳶色の眼。
 細身の小剣を携えた、まるで貴公子のようないでたちの女の子が目の前にいる。
 赤と青が混在する、彼女のカラフルな貴人服は、どこか懐かしのミツバチアニメを彷彿とさせた。
 最近、美少女の希少価値が落ちてきている気がするが、彼女もご他聞に漏れずに美少女だ。
 強いて今までと違うところを挙げるとすれば、その体型だろうか。
 背はあまり高くないくせに、出るところがむやみやたらに出ている。
 これが音に聞く『ロリ巨乳』という奴なんだろうかなどと考えながら、詩人は彼女と対峙した。

「ミツバチ云々は聞かなかったことにする」
「ふぁいっ!? ワタシ、正真正銘ちゃんとしたミツバチデスっ!」
 ほら、お尻のところにも針の飾り物が……などと、後ろを向いてふりふりっと腰を振る。
 その扇情的な仕草は、多分茂あたりが見たら噴血ものなのだろう。
 健康的な男子高校生ならば、「うん、君はもうミツバチで良いよ」と鼻を伸ばすこと請け合いの色仕掛けも、詩人にはまるっきり通じない。
 何故なら、彼は生物部部長であるからだ。

 こめかみに拳を当てて、じっと彼女の目を見据える。
「ムッ」
 詩人の剣幕が尋常でないことを察して、メリフェラちゃんが思わず身構える。
 一触即発のにらみ合い。
 今までならば、「私は虫です。いいえ、そんなわけはありません」と始まる段であるはずなのに、今回に限ってはそういった問答が開始される気配がなかった。


「こんなものを植えてどうするつもりだ。破壊された生態系は元に戻らないんだぞ!」
 そして放たれる手厳しい叱責。
 そう、詩人は怒っていたのだ。
 ご町内の生態系を守るという使命感が、正義の炎を轟々と燃やしていた。
 その迫力に一瞬気圧されるメリフェラちゃん。
 だが、すぐに不敵な笑みを浮かべて胸を張った。

「……フフン、勿論蜜を取るためデス。こうやってお花畑を広げていけば、食糧不足はアリマセン。我が眷属、ミツバチさんたちも大喜び間違いなしと言うわけデス。西洋こそ至高! 西洋こそ究極! イエロー列島は我らにひれ伏すが良いのデスっ!!」
 バッ、と両手を広げて列島侵略の野望を宣言する。

「蜜……そうか。やはり、あれはセイタカアワダチソウの一種なんだな」
 詩人は合点が言ったとばかりに舌打ちした。
 ミツバチは花粉と花の蜜を加工した蜂蜜を餌にしている。
 セイタカアワダチソウは特に蜜の供給量が多く、成長も早いために安定した食料源足りえるのだ。

「セイタカアワダチソウ? いいえ、これはチガイマス。そんじょそこらのアワダチソウと一緒にされては困りマスヨ」
 詩人の言葉を受けて、メリフェラちゃんがちっちっちっ、と指を揺らす。

「これはセイタカアワダチソウではアリマセン。“パネェタカアワダチソウ”なのデス」
「何だと!? パネェ……なんだって?」
 思わず聞き返した。

「パネェタカアワダチソウ。通常の何十倍もの成長速度を持つセイタカアワダチソウの突然変異種デス。ジャングルの奥地から、わざわざ取り寄せマシタ」
 えっへん、と鼻を高くするメリフェラちゃんとは対照的に、詩人はげんなりと肩を落とす。
 西洋産こそ究極ならば、ジャングル産とかぶっちゃけどうよ。と少し思わないでもなかったが、口を挟む余裕はありそうになかった。

(しかし、不味いな)
 焦りをあらわにして下唇を噛む。

 どうやら、油を売っている時間はなさそうだ。
 パネェだか、マブイだか知らないが、彼女の言を信じるならば、あれがセイタカアワダチソウの一種であることに違いはない。
 だとするならば、セイタカアワダチソウが備えている“恐るべき生物特性”も継承していると見て良いだろう。


 ――他感作用《アレロパシー》。
 生物が生存競争を勝ち抜くために獲得した妨害機能を、セイタカアワダチソウは有している。
 根から放出される化学物質が、周辺に生える植物の成長を抑制してしまうのだ。
 思い返してみれば、五味さんの鉢植えに植えられていた植物も、一晩で大分元気をなくしていた。
 あれは、アレロパシーの影響を受けたからに違いあるまい。

(時間を置けば置くほど手に負えなくなる。どうする、何とか説き伏せるか……? いや……)
 説得は無理だと判断する。 

 彼女のまっすぐな眼差しは狂信者のそれと大差がない。
 信じるもの以外は全てが排斥すべきものという、狂気に彩られた思考が彼女を支配している。
 現代に甦った征服者《コンキスタドール》は、小剣の剣先を詩人の喉元に向けて、獰猛な笑みを浮かべた。


「……アナタタチさえ邪魔しなければ、我らの征服《コンキスタ》は成るのデス。さあ覚悟シナサイ!!」
 ――交渉の余地は、欠片もなし。

 裂ぱくの気合と跳躍は同時に行われた。
 瞬時にして間合いが詰められ、致死の針が詩人に迫り来る……!

「くっ……!?」
 ハイパーピンチである。
 この場を凌ぐための手段を講じようと、脳を目まぐるしく回転させるが、上手い対処法が思い浮かばない。
 何故なら、詩人は文化系男子であるからだ。
 このまま人生の終幕を座して待つしかないのか――。

 絶望の帳が下りようとしたその時である。
 

 ゴッ。
 抱えるほどの飛来物。 
 それは凶悪な音を立てて、メリフェラちゃんの後頭部に衝突した。

「グウッ……」
 やたら重そうな石だった。
 メリフェラちゃんの口から、冗談じゃなさそうな苦悶の声が漏れ出る。
 まあ、無理はないだろう。あれはかなり痛そうだった。
 というか、常人ならば大怪我クラスだ。
 本気の涙を浮かべるだけで済んでいるあたり、どれだけ丈夫なんだと呆れてしまう。

 その場にうずくまるメリフェラちゃん。
 頭上から、やたらテンションの高い声が届けられた。

「ハッハッハッハッ……! ハッハッハッハッ……!」
「誰デスかっ!? 人に物投げちゃイケマセンって学校で習わなかったのデスかっ?」
 涙目でキッと見上げたメリフェラちゃんが、声の主を探す。
 塀の上にはいない。
 カーブミラーの上にもいない。
 ならば、一体何処に――

「ここですーッ」
 いたのはお風呂屋さんの煙突の上。
 先程のメリフェラちゃん同様、シルエット姿である。
 ただ、そのシルエットはもくもくと立ち上る煙で揺れていた。

 正直ごほごほと咳き込んでいて苦しそうに見えるのだが、まあ……大丈夫なのだろう。
 何せ、馬鹿と煙は高いところが好きだから。

「人の迷惑顧みず、自分の正義を押し付ける。人、それをウザイと呼ぶ……」
 謎(?)の少女が正義の国語辞典を紐解く。
 可憐で尚且つ、偏差値の低そうな声色――。
 ここまでくれば間違えようがない。
 彼女の正体は歴然としていた。

「ええい、Who Are You!」
「あい、どんとすぴーく、いんぐらんどっ!! とうっ」
 くるりと宙を舞い、軽やかに地面に着地する。
 ふわりとした髪に、煤まみれの全身。

 詩人の窮地を救った助っ人は、金食い虫のモッさんであった。
 自称昆虫と、元自称昆虫。
 可憐な美少女とオッサン系美少女が満を持して対峙した。


「ええい、名を名乗れって言ってるんデス!」
「貴様に名乗る名前は無いって、ロム兄さんが言ってました。だから名乗りませんー」
 きいっと地団太を踏むメリフェラちゃんに、にやにやと正義の味方っぽくない笑みを浮かべるモッさん。
 何処の誰だか知らないのだが、勝手に名前を明かされたロム兄さんって人は災難だと思う。


「事情は良く分かりませんが、多分あなたが犯人ですー」
 決めポーズを取って、モッさんが見得を切る。
 最近ヒーロー物のテレビに凝っていたのだろうか。
 その動きに迷いはなく、やたら様になっていた。

「大枚はたいて宣伝したのに、ご町内で青ざめている観光協会の使者――モスキートちゃん見参ッッ」
 ……結局、名乗っているじゃないか。
 詩人は頭を抱えた。






 その後、騒ぎを聞きつけて生物部一同が集結した。
 これで戦力比は6対1。
 形勢は瞬時にして逆転した。
 じりじりと焦りを見せるメリフェラちゃん。

「ふふん、覚悟するですー。めっためたにしてやるです」
 モッさんは数の優勢を頼みに、野獣を思わせる表情を浮かべている。
「ちょっと、相手は女の子なんだから」とか、五味さんが復讐も忘れて冷静になっているのに、「いや、つけあがらせては駄目です」とかぶりを振っている。
 ……元自称昆虫としての仲間意識はないのだろうか?
 異常なほどに溢れ出る闘志。
 そんなにひまわり畑を荒らされたことがイラついたんだろうか。
 モッさんは腰に手を当てながら、ピッとメリフェラちゃんを指差し、

「さあ、生物部の荒事専門家さん、こんなビッチやっちまえですー!」
 と、最高戦力――植村 直正を当てにした。

 ……。
 …………。
 え、お前が行くんじゃないの?
 と言う表情を全員で浮かべる。
「んあ?」
 と疑問符を持ち上げている辺り、どうやらモッさんは素のようだ。
 最も好戦的なのに、前線には出たくない。
 戦時中ならば、こいつはきっと偉くなるに違いないと思った。


「び、び、び……そんなはしたない言葉つかっちゃイケマセーン!」
 ボンッと顔を真っ赤にしたメリフェラちゃんが金切り声を上げる。
 思ったよりも純情な乙女だ。
 可愛らしい。
 色を失くす彼女を困ったように見つめながら、直正は頭を掻く。
 どうしたものかと決めかねている様子。


「……いや、俺は女の子は殴れん」
 ようやく出た言葉は紳士。
 圧倒的に紳士。
 実に紳士だった。

「紳士だ」
「紳士《ムッシュー》」
「紳士ね」
「紳士ですー」
「俺と同じくらいにイケメンだな」
 各界から惜しみない賛辞が上がる。

「ムムム」
 モッさんは紳士ならば仕方ないということで、他の戦力を探すことにしたようだ。
 ちらりと部員たちを見る。
 まず詩人を見て、ため息をつく。すごくイラっとした。
 次にエレーヌを見て、首を横に振る。

「いやいや、エレーヌちゃんに争いは似合いませんー。となると、五味ちゃんに頼むしか……」
「えっ? ちょっと、何で私が喧嘩しなきゃいけないのよ……普通に注意して止めさせれば良いじゃない」
「それは駄目です。何かあのコスプレ女を見ているとイラっと来るんですー。あのぶりっ子フェイスをボコボコにしてやりたいんです」
 真面目腐った顔で紡がれた理由は、凄まじく横暴。
 圧倒的に横暴。
 実に横暴であった。
 じと目で睨む詩人たちの様子などお構いなしに、モッさんは物憂げに視線を落とす。


「コッ、ここコスプ……」
 わなわなと身体を震わせながら、メリフェラちゃん。

「これは一族の正装デスっ。その暴言を撤回してクダサイー!」
 頬をぷくーっと膨らませながら、怒気を吐く。
 元が美少女だけに怒った姿もやはり愛嬌があるのだが、対するモッさんは心底ウザそうな表情を浮かべて耳をほじった。

「何かお前と私、ちょっとキャラがかぶってるんですー。キャラはかぶらないようにしなさいとえらい人に言われなかったのですか」
 五味さんにゲンゴロウちゃん。ミンミンちゃんと比較的良好な関係を構築していた彼女だと言うのに、メリフェラちゃんに対しては随分と激しい敵愾心を抱いているようだ。
 ウマが合わないのだろうか。

 詩人が怪訝そうに眉根を寄せていると、
「キャラが、カブッテル?」
 メリフェラちゃんもきょとんとした様子で、モッさんの言葉を鸚鵡返しにした。

(一体何を以ってキャラがかぶっていると言っているのだろうか。語尾か?)
 詩人と同様の疑問をメリフェラちゃんも持ったらしい。
 モッさんの全身を下から上まで見つめて……
 胸部の双丘で視線が止まった。

 ……うん、似ていない。
 モッさんが“無い”というわけではないのだが、比べてみるとメロン(イルカの体内器官ではない方)とオレンジくらいの差があった。

 ビキィッ。
 彼女の思考を読みとったモッさんが、途端に怒りのオーラを立ち上らせる。
 持たざるもののルサンチマンは凄まじい。
 モッさんは敵を呪い殺しそうな眼差しで、憎らしげに歯軋りした。

「おい、何処を見てるんですかこの野郎ッ!」
「この野郎なんて言っちゃ駄目デスーっ」
「うるさい、やってやるですッ」
「キィッ」
 にらみ合いをする両者。
 そして、しばし経った後。二人はその場を飛びのき、身構えた。
 どうやら意見のすり合わせの結果、決闘を行うことで両者の合意が得られたらしい。

 メリフェラちゃんは小剣を構えて、西洋風の決闘モード。
 モッさんは、ブラジリアン柔術と相撲を組み合わせたような、斬新な構えを取っている。
 女の子の間には剣道三倍段とかないのだろうか。
 武器持ち相手に、モッさんは全く怯まずに対峙して見せた。

「これを」
「むむ……?」
 メリフェラちゃんが、手近に生えていたパネェタカアワダチソウ(以降、パネェ草と略する)の花を小剣で切り取り、モッさんの方へと放り投げる。

「それを胸に挿しナサイ。どちらかの華が散ったときが決着の時デスっ」
「ふん、上等ですー」
 鼻を鳴らして、キャミソールに挿そうとして――
 お気に入りだったのか、やっぱり止めた。
 代わりに胸の谷間に差し込んで、「どうですか? これでも結構あるんです」というような顔をする。
 居た堪れなくなった。

 ……兎にも角にも、これで決闘の準備は終ったらしい。
 勝利の女神は一体どちらに微笑むのか?
 自称ミツバチ、純情外国乙女のメリフェラちゃんか。
 元自称モスキート。ウザイ妹キャラ兼おっさんのモッさんか。

 決戦の幕が切って落とされた!






 先手必勝……!
 モッさんは、大地を蹴ってメリフェラちゃんに肉薄する。

「グーパンっ」
 空気を切り裂き唸りを上げる、少女の豪腕。
 ガッ。
 グーパンは、吸い込まれるようにメリフェラちゃんの鼻頭にヒットした。

「うわぁ……」
 すごく痛そうだ。
 というか、全力で人を殴れるって言うのは一種の才能だろうと思う。
 その意味においては、モッさんは才能に恵まれているようだ。

 メリフェラちゃんは静かに嗚咽を漏らしながらうずくまっている。
 人間、本気で痛い時は声も出ないらしい。
 また一つ勉強になった。

 しばらく、少女の嗚咽が続いた後。
 めげずに、キッと立ち上がったメリフェラちゃんが小剣を構えて、気炎をあげた。

「お返しデス……!」
 聞かされていなかったが、ターン制のようだ。
 メリフェラちゃんの周囲に尋常ならざる闘気が集まる。
 全身にたぎった力が、小剣の先へ先へと集まっていき、小さな点を為した。

 すぅ――と深呼吸をし、

「ついん、びーッッ!」
 掛け声と共に一気呵成に跳躍した。
 翅を用いて天高く舞い上がり、烈風の如く急降下する。
 メリフェラちゃんの放つ至速の一撃。
 その狙いは――モッさんの胸元。
 致死の刃が少女の控えめな胸に迫っていく……!

 だが、モッさんは怯まない。
 落ち着き払った様子で、一息吐いた後、

「茂バリアーッッ」
 手近にあったバリアーで必殺の攻撃を何とか防ぐことに成功する。

「へっ?」
 対岸の火事であった茂の口から素っ頓狂な声が漏れた。
 茂のわき腹へと吸い込まれていく剣先。
 それは茂の服を貫くか貫かないかと言ったところで止まり……一瞬の沈黙。

 ――ドンッ。
 聞き間違いでなければ、今、破砕音が鳴った。
 収束した闘気が茂の身体を通り、背中へと通り抜ける。
 破壊の衝撃が一気に拡散していき、茂の遥か後方に建っていたブロック塀が粉々に爆砕した。


「……遠当てだな。目にも止まらぬ速度で、茂の肉体に二発の攻撃を加えていた。初撃のエネルギーが体内で拡散しない内に、二撃目がそれを外に打ち出したんだ」
 冷静に解説する直正。
 良くは分からないが、とりあえず達人にのみ許される奥義であることだけは、文化系男子の詩人にも理解ができた。

「コウダマリコ……」
 誰にも聞こえないように呟くエレーヌ。
 何で90年代の声優の名前を呟いたのかは分からないが、フランスでは日本のサブカルチャーが結構流行っているから、無意識に言葉に出てしまうのだろうと思い直す。

「ォゥフ……」
 鼻血を出しながら、ばたりと倒れる茂。
 被害は甚大のようだが、命に別状はないようだ。
 あれをモッさんが食らっていたらと思うと、思わずぞっとした。

 ……しかし、メリフェラちゃんがこのような奥義を隠し持っていたとは予想外であった。
 触れてもいないブロック塀を爆砕させるような一撃をまともに人間が食らってしまったら、ひとたまりもないだろう。
 その危険性は、威力を目の前で見せ付けられたモッさんが一番良く分かっていた。

 青ざめた表情で戦慄するモッさん。
 どうする、モッさん。
 勝てるのか、モッさん。

「フフ」
 メリフェラちゃんは勝者の笑みを薄っすらと浮かべ、
「――グフゥ」
 その場に力なく崩れ落ちた。

 ……。
「エッ」
 目を白黒させながら良く見ると、メリフェラちゃんの腕がありえない方向に曲がっている。
 いや、良く見なくても骨折であった。


「……ついん、びーは利き腕を犠牲に絶大な破壊力を生み出す超必殺技……一度限りの大博打なのデス」
 じゃあ、そんな特攻奥義を軽々しく使うなよとか、そんなところだけミツバチっぽいんだな、などと思いつつ、
「勝者はモッさんか」
 モッさんに視線を走らせる。

「イェー、あいむイッチバーンっ!」
 モッさんは勝利を掴み取った喜びで、有頂天になっていた。
「……フフン」
 だが、相も変わらずメリフェラちゃんは不適な笑い声。
 まだ勝敗は決まっていない、いやむしろ自分が勝利したのだとばかりの笑顔であった。

「いいえ、私の勝ちデス」
 彼女の一言に、モッさんがムッと表情を歪める。
「ここに至って負け惜しみですか。ださいですー。くさいですー」
 モッさんの長髪を軽く受け流しながら(五味さんは何故かビクリとしていた)、メリフェラちゃんはふるふるとかぶりを振って、

「……元々、ワタシは時間稼ぎをしていたのデス。パネェ草のアレロパシーは、せいたかなんたらの比ではないのデス。今頃は、パネェ草以外は全滅してるはずデス!!」
 驚くべき事実を口にした。


「なんだって!?」
 驚愕する一同。
 てっきり素で決闘しているのかと思っていただけに、その衝撃は大きかった。
 
「ちゃんと、色んな場所に隙間なくびっしりと植えちゃいマシタ! 抗いようもないヨーロピアンパウァにイエローさんたちは平伏すが良いデス。あっはっはー」
 仰向けに横たわりながら高笑いをあげるメリフェラちゃん。

 どうやら彼女の策にまんまと引っかかってしまったらしい。
「お、おのれぇぇ」
 本気で口惜しがるモッさんや、「どうする……?」と今後の指示を仰ぐ部員たち。
 敗色が辺りを支配していく……

 かと誰もが思ったろう。
 だが、詩人はただ一人、彼女の言葉の中に聞き逃せない部分があったことに気づく。


「なあ、隙間なくびっしりと、と言ったか?」
 ふと問いかける。
 メリフェラちゃんは質問の意図が分からずに眉根を寄せながら、

「むい、Yes。几帳面なくらいびっしりとデス」
「そうか」
 その答えを聞いて、詩人は口元に手を当てた。
 脳内で簡単に情報の整理を行い、予想され得る展開をシミュレートする。
 かかった時間はおよそ30秒ほど。
 シミュレートを終えた後、詩人は大きく安堵の息を吐いて、肩の力を抜いた。

「ならば、紋白町は助かった。危なかった、九死に一生って奴だ」






「ナンデスカー、これは! ワタシの植えたパネェ草が全部枯れちゃってるデスッッ!?」

 ヒマワリ畑に向かってみると、ニュースで見たときには一面を席巻していたパネェ草が全て力なく萎れていた。
 恐らく、一晩もしない内に全てが枯れてしまうだろう。
 直正に背負われながら、現地を見たメリフェラちゃんが絶句する。

「部長《プロフェッスール》?」
 エレーヌがどういうことかと解説を求める。
 詩人は頷き、眼前に広がる怪状況についての説明を始めた。

「他感作用《アレロパシー》だよ」
 前述したように、セイタカアワダチソウの一種はアレロパシー。つまり、他者を攻撃する化学物質を保有している。
 根から放出される化学物質は全ての植物に対して、悪影響を与える。
 そして、それは……セイタカアワダチソウ自身も例外ではないのだ。

「前例があってね。実は関東都市部を席巻していたセイタカアワダチソウの生息域は、近年になってから段々と狭まりつつある。これは地面に蓄えられていた養分を使いすぎたことも影響しているんだが、それ以上にアレロパシーによる自壊作用が大きいんだ。昨今は、在来植物のススキをそこいらで良く見かけるだろう? あれは、セイタカアワダチソウが全滅した地域に新たに芽吹いた植生なんだよ」
 つらつらと説明し、かちゃりと眼鏡を持ち上げる。

 そう、優秀な兵器は時に自らを滅ぼす諸刃の剣となってしまう。
 それは別段人間に限った話ではなく、生態系を広く見た動植物全体に言える話なのだ……。
 これならば、パネェ草が町全体を埋め尽くして生態系を完全に破壊することはないだろう。
 直にひまわり畑以外でも、同様の現象が起こるに違いない。
 まさに一件落着といった奴である。


「そんな……そんな……うぅっ……」
 口惜しげに涙をこぼすメリフェラちゃんの方を、モッさんがポンと優しげな調子で叩いた。
 慰めるのだろうか。
 メリフェラちゃんがきょとんとした様子で面を持ち上げると、

「故郷に帰るです。お前にも家族がいるはずですー」
 勝ち誇ったいやらしい顔が、そこにあった。








「ほら、これ」
 メリフェラちゃん事変の数日後、五味さんの下宿先に詩人が訪ねてきた。
 よいしょっと声を漏らしながら、一抱えもある鉢植えを玄関の前にどさりと置いて、長いため息。
 詩人は見るからに文化系男子だ。力仕事には向かないのだろう。
 額から流れる汗を腕で拭いながら、精も根も尽き果てたとばかりにその場に座り込んだ。

「え、これって……」
 五味さんが目を丸くする。
 信じられないと言った表情でほのかに声を漏らす。
 それもそのはず、今目の前に植わっているものは……もう枯れてしまったと諦めていたものであったからだ。
 五味さんの表情を見た詩人は、してやったりとばかりに口角を持ち上げた。


「ぼくの家に置きっぱなしになっていたからな。パネェ草だけ取り払って、もう一度新しい腐葉土を敷き詰めて植え直した。どうだ、元気なものだろう?」
 事も無げに言い放ってくる。
「あ、パネェ草は渡さないぜ。あれは貴重なサンプルだから」などと繋げながら鼻を鳴らす彼の姿は、実に得意げであった。

「でも、あんなに萎れちゃっていたのに……」
 まだ目の前の現実を受け入れられない。
 自分は確かに生気を失った“詩人草”の様子を目の当たりにしたのだ。
 それが、こんな不死鳥のように復活するわけがない。
 夢でも見ているのだろうか。
 頬でも抓ってみようかとした矢先、詩人の理路整然とした説明が耳に届けられる。
「これは現実なのだ」と、良く分からないながらに確信を抱くことのできる説明であった。


「ふむ。生命の神秘を目の当たりにしたことがないと、得てしてそういう感想を抱くものだな。だが、これは現実さ。そこいらでいくらでも見られる極々ありふれた奇跡なんだ。種明かしは単純明快。この植物は色んな植物と比べても大分丈夫な種であった。ただ、それだけ」

 聞くところによると、この花はクサキョウチクトウと言うらしい。
 別名をオイランソウといって、セイタカワダチソウ同様近代になってから日本へ持ち込まれた園芸種だと言う。

「観賞用ではあるんだが、これは丈夫でね。温度さえどうにかできれば、早々枯れることのない花なんだ」
 詩人の言葉を反映するかのように、土を替えられたクサキョウチクトウは生き生きと瑞々しい姿をしていた。

「生き物に興味を持つなんて見上げた心がけだったからな。ぼくも少し頑張ってみた。これからも大事に育ててやると良い」
 言って、詩人は朗らかに笑った。
 同じ趣味を持っていることが嬉しくて仕方のないのかもしれない。

 クサキョウチクトウ――いや、詩人草は小さな蕾を今か今かと膨らませていた。
 今夜か明日には綺麗な花を咲かせてくれるだろう。

 嬉しい。
 感情が瞼の奥からあふれ出して、五味さんは思わずその場にへなへなとへたり込んでしまった。

「良かったぁ……私の“詩人草”、無事だった……」
 そして、無意識に“自分専用の名前”を口に出して、ハッとする。

「あ、あわわ……」
 見る間に自分の顔が赤くなっていくのが分かった。 
 だが、詩人は気づかない――と言うか、不満げだった。

「違う、クサキョウチクトウだ。またの名をオイランソウ。そんな別名はないよ」
「べっ、べべ別に私がどう呼んだって良いじゃないっ。とにかく、これは詩人草なのっ」
「全く……おまえはあれか。赤毛のアンか」

 ここまで露骨にされれば、「あれ、これって遠まわしな告白なんじゃね?」と気づいても良さそうなのだが、やはりと言うべきか詩人はその方面には全く興味がないようだ。
 まあ、仕方ない。
 何故なら、彼は生物部部長であるから。

「とっ、とにかくっ。鉢植えのことは本当にアリガト。お茶でも出すから上がっていってよ」
 頬に朱を差したまま、ひらりと家の中へ駆けていく。
 心なしか、足が軽かった。

「暑いからな、冷たい麦茶で良いぞ」
 反面、あいつは何処までも偉そうで、乙女心を理解しない男であった……。



[28504] 6ページ目 「源平合戦HOTARU・IXA」
Name: 三郎◆bca69383 ID:0f63ac38
Date: 2011/09/18 23:05
 ――リリリ、リリリ……
 いよいよ活発になってきた虫の声。
 詩人は現在、ブルーシートの上に寝転がりながら、目を閉じて彼らの競奏を楽しんでいる最中であった。

「今日はマダラスズが強いかな」
 と、鳴き声から今夜のプログラムを読みとっては、そっと目を開ける。
 辺りはだいぶ薄暗い。
 今夜は中秋の名月だというのに、曇り空で月は見えなかった。
 だが、今日に限ってはそれで良い。
 お目当ての昆虫を観察するためには、むしろ月明かりは不要なのだ。
 目立った明かりと言えば、ブルーシートの四隅で煙っている蚊取り線香の灯火くらい。
 明かりもない。
 雑音もない。
 この上もなく心地よい環境に身を委ねていると言えよう。
 そう、生物部長――布安布里 詩人は久々に単独での野外観察に興じているのであった。


『むむ、地図を見ながらにやけているとか、マジきめえですー。これは間違いなくどっかに遊びに行く魂胆が見え見えの露出狂さんですか?』
 などとくっついて来たがる妹系モスキート少女もいたのだが、彼女には「めっちゃ蚊に刺される場所だから」と伝えて、あらかじめストーキングモチベーションを減衰させておいた。
 元自称蚊であっても、自分が血を吸われるのは嫌らしい。
 親の仇でも見るように、メガネを光らせてダース単位の蚊取り線香をにらみつけるモッさん。
 その歯がゆさをたとえるならば、まるで無敵のレーザーを水蒸気なんぞでガードされてしまった超古代戦闘メカの如しであった。


(付いていって邪魔をしたい。でも蚊はマジでウザい。とは言え、抹香臭いキラー線香に頼るのは……うぐぐぐぐぐぐぐぐ)
 と言う彼女の心の声をエスパーしていると、アイデンティティを保つことの難儀さというものが丸分かりで大変興味深い。
 今だけは、虫よけスプレーの効果の無さに心の底から感謝をしたい……そう神(ここで言う神とは、ファーブル先生などの偉大なる諸先人たちを指す)に祈りを捧げたい気分であった。

 ――閑話休題。
 とにもかくにも詩人はこうして妹の粘着を振り切り、"緑地の奥にある小さな沼までやってきたというわけだ。

(一人でやってきて正解だった)
 などとつらつら考える。
 秋の夜間観察においては、快適な観察環境を作るために、自分以外の"不自然"は成る丈少ない方が好ましいのである。
 夜長の歌声。
 それを一人で聞く贅沢。
 自分の判断は正しかった――と改めて思い、うんうんと一人で頷く。


「本番までは少しあるけど、これも十分に良いもんだ」
 すぐ後に控えているとっておきの楽しみを想像し、不意に頬を緩めようとしたその時。

 ザッ。
 草を踏み抜く軽い音がした。

 詩人の眉が不機嫌さをあらわにするように、ぴくりと持ち上がる。
 乱雑で人工的な足音が近づいてくる。

 自分以外の"不自然"がこちらへと近づいてきていることは明白であった。


「ねえ、ちょっと君?」
 程なくして、頭上より人慣れた感じの呼び声が降ってくる。
 詩人は眉間に皺を寄せたまま、目線だけで挨拶した。

 眼鏡越しにかすかに見える自信を宿した二つの瞳。
 そこにはジャージ姿の女性が立っていた。
 詩人よりも少し年上であろうか。
 野暮ったいキャップに手入れの行き届いていると一目で分かる長い髪を仕舞いこんでおり、夜だというのに何故か色の入った眼鏡をかけている。
 頭身は高い。というか、足も長い。
 何を食べたらそうなるのだろう。ステーキか。
 女性ならば誰もが憧れるであろうその姿かたちは、まともな格好をして街を歩けば誰もが羨望の眼差しを向けることであろう。
 彼女はほとばしる魅力を、有り余る野暮ったさで仮装していた。

「その席、譲ってくれない?」
「……はぁ?」
 詩人の表情がいよいよ険悪なものになっていく。
 毎年夏の終わりには、この沼で野外観察を行っていたのだが、こんなことは初めてであった。

(冗談じゃない)
 もうじき夏休みが終ろうという貴重な時期(せせり高校はテスト休みの関係で始業式が九月末にまでずれ込んでいる)に、折角の曇り日和。
 さらに言うならば、ここは毎年のように占有しているベスト・プレイスだ。
 ここより条件の良い観察フィールドは近くにない。

 無礼な新参者になど渡してなるものか。
 詩人は彼女の呼びかけを無視して、もう一度目を閉じた。
 侵入者のことを意識的に除外して、再び観察に興じようとする。


「ちょっと……何無視してんのよっ」
 非難の怒声が飛んでくるが、そんなものは気にも留めようとしない。
 あれは置物だ。ファービーだ。
 そう考えてみると、彼女の甲高い声も「ブルゥスコォー……」としか聞こえない気がしてきた。
 ホラーである。

「ああ、もうっ。折角撮影の合間に抜け出すことができたのに……」
 ふぁさり、と髪が流れる音。
 目を開けてみると、彼女が仮装を脱いでやけに女子力の高そうな瞳をこちらに向けていた。

「これで分かったでしょ? ね、後でサインあげるから、ここ譲って?」
 詩人は二、三度不思議なものでも見るように目をぱちくりとさせ――

「知らん」
 再び、観察に戻ることにした。

「な、ななな、何その態度っ? ちょっと、目の前にMKBの小鳥比菜がいるってのに!」
 小鳥比菜と名乗った少女は、えらいショックを受けたようで満面に焦りを見せていた。
 だが、何と言われようとも知ったことではない。
 知らないものは知らないのだ。
 何故なら詩人は、生物部部長であるから。

「誰だよ、お前。MKBって何だよ、自転車ならいつも乗り回してるぞ」
「MTBでしょ、それ!」
「うるさいなあ……」
 散々傍でわめく彼女にうんざりとしながら、詩人は気だるそうに頭を掻いた。

 なるほど。名前の通り、小鳥を思わせる可憐な顔立ちだと思う。
 本人の言から察するに、彼女は恐らく芸能人と呼ばれる類の輩なのだろう。
 いわゆるプロのお姉ちゃんである。
 テレビをほとんど見なくともその程度は簡単に推察することができた。

「芸能人か何かか? 悪いがぼくの琴線に触れるタレントは、千石先生とさかなクンさんくらいのものだ。他を当たってくれ」
「そ、う、じゃ、な、くってぇ~~!!」
 地団太を踏みながら、口惜しそうに歯軋りする比菜。
 そうした仕草すら可愛らしいと思わなくもなかったが、生憎詩人の周りに美少女は飽和状態である。
 ハイパー美少女モードのエレーヌを始め、五味さん。ミンミンちゃん。
 口惜しいことに、モッさんも十二分に美少女としてカテゴライズされている。
 最近無駄に目が肥えてしまっており、「ああ、最近巷に溢れる美少女ね(笑)」程度の感想すらも中々湧いてこなかった。


「で、用件は何だよ。手短に頼む」
 早く話題を切り上げたいため、ぶっきらぼうにそう問いかける。
「ぐ……」
 比菜は口惜しげに一端押し黙った後、苛立ちを隠そうともせずにぶすっとした表情で事情を語り始める。

「蛍を……見に来たの」
「ならば、場所が違う。緑地の入り口に蛍狩りの楽しめる池があったはずだ、そっちで楽しむと良い」
「違うのっ! 私の見たいのはゲンジボタルじゃなくて……!」
「へぇ……」
 彼女の言葉に思わず感嘆の声をあげる。
 てっきりミーハーな一般人が見当違いな場所に迷い込んだだけだと思ったのだが、意外なことに、彼女は"分かっている人間"であった。
 先ほどまでの悪感情など何処かへ吹っ飛んでしまい、

「ならば、ここで見れば良いさ。邪魔さえしなければ咎めない」
 ブルーシートを半分に折り畳み、場所を分けてやることにする。
 秋の野外観察は単独でやるに越したことはないのだが、同好の士が困っている場合には話が別だ。
 何せこの業界はえらく狭い。
 仲間に対しては優しくする方が何かと得であるし、世の中が少しでも虫好きな方向へ向かってくれるのならば、努力を怠ってはならないのがマナーというものだろう。


「い、良いの?」
「どうぞ」
「ありがとう……。あ……つ、ついでにブルーシートも貸してくれない? いそがしくてそこまで準備が出来なかったの」
「どうぞ」
 おずおずといった様子で比菜は詩人の隣にしゃがみこむと、女の子座りで腰を落ち着ける。
 かくして、二人の野外観察が始まった。
 別に話し合うわけでもなく、各々が好き勝手に観察を行う。蛍が最も綺麗に見られる時間までにはまだ余裕があるから、詩人はその時を心待ちにしながら、虫の鳴き声を楽しむことにした。

「えっと」
 対する彼女はなにやらハンドブックを取り出していた。
 灯りには、赤いセロハンを幾重にも巻きつけた懐中電灯を取り出している。
 やはり、彼女は"分かっている人間"だ。
 夜間の観察に余計な光は害悪でしかない。
 そこで、野外観察者《フィールドワーカー》たちは様々な工夫をこらすことになる。
 その内の一つがこれ。
 赤い光は目が光に慣れることをなるべく防いでくれる。
 また、野生動物も警戒心を強めることがない。ムササビやフクロウなどを観察する人々にとっては常識とも言えるテクニックの一つである。
 彼女は熱心にハンドブックを読み上げながら、今後の手順を反芻していた。


「……晩夏から秋にかけての昆虫観察は安全を考慮の上、なるべく単独が望ましい。彼らの鳴き声を堪能するためには、少しでも雑音を減らさなければならないからである。――実際に耳を傾けて見たまえ。その意図が分かるはずだ」
「ん……?」
 違和感があった。
 彼女の読み上げている文言の一言一句、全てに覚えがある。

「まず、周りに人工的な雑音がないことを堪能する。次に虫たちの声に耳を澄ましてみると良い。すると、各自が身の丈以上の自己主張を行っていることが分かると思う」
 彼女が続きを読む前に、その内容を諳んじて見せる。
 彼女の驚きようと言ったら、尋常ではなかった。

「な、何で……?」
「何でも何も、それはぼくが書いた本だぞ」
「え、えええ、えええええええッッ!?」
 彼女の驚きが夜の緑に響き渡った。

 彼女の持っていた本は、『関八州昆虫観察フィールドノート』(放蕩大学出版会 編)と言う。
 野外観察には出費がつきものであり、家計から捻出される軍資金ではいささか物足りないため、一時期バイト感覚で書いたものであった。

「で、でもこれ大学の……」
「原稿を載せるのに年齢制限はないさ。著者略歴を良く見てみろ。ぼくの項目にはきちんと中学生だった時の略歴が載っているはずだ」
 比菜は慌てて奥付に目を通し、二度目の驚きを声に出した。

「ごごごご、ごめんなさい。あなたが関八州UMA学会(略してウ学会)の布安布里先生とは露知らず……!」
「良いから静かにしてくれよ、虫の声が聞こえないだろう」
「ははは、はいっ! あ、あとでサインとか下さい!」
「ぼくは字が汚いんだよ。勘弁してくれ」
「すす、すみませんっ」
 完全に萎縮してしまう比菜。
 これで観察はしやすくなった……のだが、折角自分の野外活動に寄与してくれた貴重な読者が、野外観察を堪能できないというのも少々可哀想に思える。
 だから詩人は彼女の自尊心を傷つけない程度に"観察のガイド"をかって出ることにした。


「……良く、虫たちの大合唱……などという文言を見かけることがあると思うが、あれは真っ赤な大嘘。彼らに歩調を合わせようとする気持ちなどないんだ」
「へ……? あ、はい」
 一度は間の抜けた返事をした比菜であったが、すぐにこちらの意図に気づき、熱心に耳を傾け始める。

「基本的には生存競争。自分がいかに目立てるか、その一念をもって彼らは必死に歌っている。イメージとしては池袋ウエストゲートパークにたむろしている弾き語りの連中が、それに近い」
「リア充同士の骨肉の争いですね! 比菜分かりますっ」
 ぐっ、と憎しみの感情を燃やす比菜。
 同好の士は、得てして似たような境遇にありがちである。
 彼女は芸能人なのかもしれないが、間違いなく『ぼっち』であり、『非リア』であった。


「仮にあそこで鳴いているコオロギを、モテたくて先日バンドを組んだばかりの新米グループ『Red Hat』と名づけよう」
「Linuxですね! 非リアの匂いがぷんぷんします」
 言って哀れみの視線を『Red Hat』に向ける比菜。
 モテたいと一念発起したのに哀れみの視線を向けられる彼らの心情を想像したら、思わず涙がちょちょぎれた。


「隣で鳴いている声の大きな奴は、大手大学サークルバンド『Alright WHITE'S』だ」
「うわぁ」
 露骨に嫌そうな顔をする。
 大手大学のサークルバンドと言ったら、弾き語りの最中に恋人や学内のファンをサクラに大量の聴衆を味方につける、いわばリア充の権化である。
 全く許しがたい存在であった。

「二者の間で縄張り争いが始まる。頑張れ、『Red Hat』。あんな奴らに負けるんじゃない」
「しかし、現実は非常である。ですね、先生」
「ああ、悲しいことに『Red Hat』は負けてしまった。ぼくらは彼らに語る言葉を持ち合わせていない。ただ、ただ哀れむだけしかできないのさ」
「くそっ、なんて時代なんでしょう!」
 本気で口惜しがる比菜。
 どうやら、先ほどまでの萎縮はすっかり解けてしまったようであった。
 
 詩人はほっと一息ついて、静かに虫の鳴き声に耳を傾ける。
 心地よい時間が流れていった。

「先生は、やはりヘイケボタルを狙っているのですか?」
 しばしして、比菜がおもむろに尋ねてくる。
(ああ、やはりな)
 などと思いながら、
「うん、君もそうなんだろう?」
 詩人が問い返すと、比菜は嬉しそうに顔を綻ばせた。

「はい、蛍狩りの名所は大抵が……"本物"じゃありませんから」
 彼女の顔に見え隠れする少し残念そうな心情。
 詩人もそれを察して深く頷いた。

 ……高度経済成長の余波で多くの自然を破壊してきた我が国では今、自然の復興運動が盛んであったりする。
 その最たるものが『水辺の復活』であり、蛍の放流活動であった。
 実は日本全国津々浦々で、蛍狩りのできる場所と言うものはかなり増えてきている。

 理由は簡単。
 手軽に実現が可能であるからである。
 蛍狩りの対象となるゲンジボタルは、ある程度の環境整備さえ行うことができれば簡単に繁殖の可能な昆虫であり、そのお手軽さが政治家たちの眼に止まったのだ。
 
 一つ。「自分たちは自然を大切にしているのだ」と、コストをかけずにアピールすることができる。
 一つ。あわよくば観光財源としても見込むことができる。
 これらの要素は、自然に無理解であった連中がゲンジボタルの放流を決意するのに十分過ぎる動機を与えてくれた。
 こうして日本全国ゲンジボタル放流ブームが始まったのだ。


「はた迷惑な話だよ。本当に」
 眼鏡をすちゃりと持ち上げて忌々しげに毒づく。

 一度蛍のいなくなった場所に蛍を呼び込むには、外部から持ち込む必要がある。
 だが、安易な放流は遺伝子汚染を招いてしまい、その地域の生態系にとって害悪でしかないのだ。
 その癖、彼らは自分が良いことをしていると信じ切ってしまっている。
 全く手に負えない厄介者であった。


「ヘイケボタルまで狙われなかったことは幸運でしたね」
 比菜に言われて苦笑いを浮かべる。

 詩人たちが今目当てにしているのは、ゲンジボタルの近縁種。ヘイケボタルである。
 ヘイケボタルは水田のような止水域に生息する蛍であり、町内のおじいちゃんやおばあちゃんが昔見ていた蛍はむしろこっちになるだろう。
 季節感もあまりなく、群生することがないので蛍狩りには向かないが、そのお陰で『自然保護活動』の獲物として選ばれずに済んだことは幸運であった。
 お陰で、詩人たちは今こうしてヘイケボタルの光を心待ちにできるのだから――


 そうこうしている内に、沼に生物特有の発光がちらほらと見えるようになってきた。
「あ、光りましたよ。先生」
「うん」
 眼を細めて、ゲンジボタルよりも大分小さなその光を堪能する。
 少し光って、また消える。
 再び光って、また消える。
 久しぶりに"真っ当な野外活動"であった。

 願わくば、この幸せが何時までも続きますように……



 何て祈ったのがフラグであった。

 ――ドォーン。ドォーン。
 ――ドドドドドドドド。
 沼の奥から勇ましい太鼓の音がやってくる。
 聞いたことはないが、恐らく陣太鼓と言う奴だろう。
 周りの生き物たちを押しのけて、それはこちらに迫り来る。

 太鼓の音はどうやら二つ。
 音の主たちは、詩人たちの傍まで近づくと姦しい声を張り上げた。

「やあやあ我こそは、ゲンジボタルの総大将。源蛍香《みなもとのけいか》なりー!」
「やあやあ、わたくしこそはヘイケボタルの総大将、平蛍《たいらのほたる》ですわ!」」
 詩人は心底後悔した。
 口は災いの元というが、どうやら"思うこと"すら駄目らしい。






 それは奇妙な双子ような少女たちであった。
 中世特有の大鎧に身を包み、綺麗な黒髪を後ろに流している。
 兜はかぶっていない。
 七三に分けられた前髪からは形の良いおでこが覗いており、ホタルの触覚がぴょこんと突き出ている。
 いわゆる大和撫子そのものと言えよう。
 そんな風体の少女たちが、詩人たちの目の前でにらみ合っていた。

「すわ、今日こそ決着を付けてくれようぞ!」
「あら、良い度胸ですこと。わたくし東ひいきの田舎者なんかには負けませんことよ」
 太刀を引き抜き、決戦の号令を行うゲンジボタルちゃん。
 扇子で口元を隠しながら侮蔑の目線を相手に向けるヘイケボタルちゃん。

 両者が気迫をぶつけ合い、刃の上を裸足で渡るような緊張感があたりを覆う……が、詩人としてはこの展開はいつも通りと言って差し支えないので、辟易としたものである。
 沈黙。
 十秒。二十秒……。
 静寂が三十秒に達しようとしたその刹那、カッと切れ長の瞳を見開いたゲンジボタルちゃんとやらが駆けだした。

「参るッ」
 全身のバネと人間離れした翅をフル活用し、ロシア製のロケットを思わせる勢いでヘイケボタルちゃんめがけて、飛びかかる。

「ふん……」
 対するヘイケボタルちゃんは薄笑いを浮かべると、手にした扇子を高々と掲げ、舞を踊るように相対する殺気を迎え討った。

「ヨルカケルホタルノマタタキ――!!」
「――っ。回転円舞トルネード!」
 良くは分からない奥義を盛大に見舞い合いながら、筆舌に尽くしがたい戦いを繰り広げる両者。


 せめぎあう動と静。
 力のゲンジボタルちゃんに技のヘイケボタルちゃん。
 勝利の女神が微笑むのは果たしてどちらなのか――
 
 とかヤムチャ視点、または明神弥彦視点で考えていたところで、詩人ははたと冷静さを取り戻す。
 ところで結局、あいつら何で喧嘩してるの? と……。

 詩人が冷めた視点で人外バトルを観戦していると、
 事情を知らない比菜が、怒り心頭と言った様子で、彼女らの戦いに割り込んでいった。
 流石芸能人は非現実的なブラウン管(いや、今はデジタル液晶画面か)の中で生きるだけあって、目の前のアニメじゃない戦いにも耐性ができているらしい。

「何やってんのよ! 折角の生き物が逃げちゃうじゃない!」
 その力強い正論に、詩人は魂を揺さぶられる思いであった。
 いつもと違い、今回は得難い味方がこちら側についているのだ。
 あわよくば、野外観察の続きにありつけるかもしれない。
 詩人は切な願いを込めて、前に進み出た同好の士を応援することにする。
 頑張れ芸能人、負けるな小鳥比菜。
 首尾よく奴らを追い出してくれたらCD買ってやっても良いぞ。タイトルとか知らないけれども。
 と、肩を持ちながらも、なるべくかかわり合いにならないよう決して前にはでなかった。


 しかし、やはりこの世はままならぬものである。
「何だ貴様は。我々の決闘に水を差すつもりか!」
 突然の水差しに激高したゲンジボタルちゃんが比菜を鋭くにらみつける。
 こちらの方が、もう片方よりも凛としていておっかない。
「何ですの、あなたは? わたくし、この田舎者に引導を渡して差し上げなければなりませんの。邪魔をしないで下さる?」
 と、胡乱な眼差しを返してくるのはヘイケボタルちゃん。
 こちらの方が、もう片方より雅な雰囲気をかもし出している。

 雰囲気の違いはあれども、各々の対応は大して変わらない。
 ゲンジボタルちゃんは太刀の切っ先を比菜に向け、ヘイケボタルちゃんは弓をつがえて矢先を向けてきた。

「ひっ」
 途端に青ざめる比菜。
 偽物でない。業界用語で言うところのモノホンを突きつけられて、毅然とした対応を振る舞える者などいるわけがない。
 第一、比菜は女の子なのだ。

 ここいらが潮時と言うものであった。

「まあ、待て。お前ら」
 と、比菜の前に進み出る。
 前回のメリフェラちゃんもそうだったが、彼女ら"自称昆虫"はたまに危険な行動に出る。
 流石に女の子に怪我をさせるわけにもいかない上、自分の方が経験者なのだからと考えながら、詩人は諦めたように声をかけた。


「黄色い救急車は都市伝説だそうなので、ポリスメンを呼んでおこう。お帰りはあちらだぞ」
「誰が危ない人だ!」
 裂ぱくの気合とともに、詩人の頬を白刃がかすめていった。
 やはり本物。
 繰り返し言うが、業界用語で言うところのモノホン。
 ゲンジボタルちゃんは銃刀法違反であった。
 一瞬心臓が縮み上がったが、生憎数多くのUMA調査や野外観察を切り抜けてきた詩人は一般人よりもかなり胆力がある方だ。
 この程度は危険の内に入らない。
 詩人は野外観察を邪魔された怒りを何とか押さえ込みながら、言葉を続けていく。

「人がせっかく蛍狩りに興じているというのに、みょうちくりんな喧嘩で水を差すもんじゃない。お母さんに人の迷惑になることはしちゃいけませんって言われなかったのか」
 ちなみに詩人は言われたことがなかった。
 他人の振り見て我が振り直すことができたので、なんとか人間社会に参画することができたのである。
 詩人の注意をつまらなそうに聞いていたホタルちゃんたちであったが、ある単語を聞いた瞬間、凛とした顔を満面の赤色で茹であげていった。

「蛍……狩り――!?」
「ふ、不埒ですわ~~!」
 ズササササッ。
 恥ずかしさに目をぐるぐると回しながら、ホタルちゃんたちは詩人から一斉に距離を取り始める。

「蛍狩りとは何だ! 我らを狩って、ど、どどどどんな嫌らしいことをするつもりなんだっ!」
「き、きっと、こっちの水は甘いから飲めよとか言われてしこたま水を飲まされるに決まっていますわっっ。どうしましょう、お姉さま!!」
 姿かたちが似ていると思ったら、やはり姉妹だったらしい。

 一体どんな想像をしているのだろうか。
 説得の望みは薄そうだと半ば諦めつつも、詩人は一応“当たり前”の指摘をすることにした。

「お前等は人間。ホタルはあっち」
 ぽかんとするホタルなシスターズ。
 しばし経ってから、発言の意図が分からないといった風に返してくる。

「何を言う。我々はホタル。あっちもホタルだ」
 …… 
 …………。
 再び思考の食い違い。
 詩人は深いため息を付いた後、

「黄色い救急車は都市伝説だそうだが――」
「誰が危ない人だっ!」
 鼻先をかすめる上段の一撃を寸でで回避した。
 テンドンである。

「だって、虫じゃないやつが自分を虫だなんて言い張っていたら、間違いなくそういうカテゴライズされるだろう常識的に考えて。ザムザさんは物語の中にしてくれよ、切に」
「あなたに何が分かるんですの!」
「貴様に何が分かるというのだ!」
 綺麗にハモった上に、また頬先を矢がかすめていった。
 理不尽だ。
 家路に着くまでには、何か切り傷だらけになりそうだなあと肩を落とす詩人。

 だが、まあ怒りを覚えるほどの理不尽ではなかった。
 モッさんたちとのやり取りを見ていると、詩人が普段から不機嫌さを撒き散らしているように思えるかもしれないが、こう見えて理不尽な暴力などで激高するほど狭量ではないのだ。
 むしろ、モッさんのあれが特別なのだと言えよう。
 意味もなく馬鹿にされ、意味もなくつきまとわれ、突然下着を何処かに売り払われてしまう。
 真綿で絞められるような精神的侵略。
 一番近い存在としてはあれだ。
 某電車ゲームに出てくる貧乏神が、かなり近い。

 想像していただきたい。
 あれに比べれば、どんな理不尽だって可愛らしいものだと……そう思えるはずだ。
 だから、彼女らの今時を意識した暴力系ヒロインじみた行動も何ということはない。
  1、怒る。
  2、喜ぶ。
  3、どうでもいい。 ←この選択にしますか(Y/N)

 そう、上記の通り、実にどうでも良かったのだが……「何だよ。仲良いじゃねえか」と内心突っ込んでしまったのがいけなかった。
 詩人の内に眠る何かに火がくべられて、勇ましく燃え上がっていく。
 口から飛び出す論破の文言。
 不機嫌に身を任せながら、あくまでも理路整然と、彼女たちが虫ではないことを説き伏せていく。


「コウチュウ目ホタル科は、お前たちのように二足歩行はしない。というか、何処からどう見ても人間にしか見えない。ぼくのパラダイムにおいて、お前らは虫に当てはまらん!」
 機関銃のような批判。
 自分でも良く息が続くなあと思うくらいに延々と正論を吐いてやる。

 一瞬ぽかんと口を開けるシスターズ。
 だが、すぐに顔を真っ赤にして怒り始める。

「侮蔑、もう勘弁がならん。斬る!」
「こんな屈辱。生まれて初めて受けましたわ。死を以って償いなさいッ!」
 いきり立つ彼女らに対して、詩人の反骨心は更に燃え上がっていく。
 皮肉っぽく笑っては、 

「はんっ。自分が自分であることすら暴力でしか証明できないなんて、お笑い種じゃないか。修羅の国に帰ったらどうだ?」
「何だと!」
「だったら、証明してみてくれ。自分たちが蛍だと言う確固とした証拠を以って」
「「上等ッ」」
 火花を散らす両者。
 かくして、詩人とホタルシスターズの問答が始まった。

(何故かこの展開にはほのかな懐かしさを感じるんだが、恐らくは気のせいだろう。きっとそうに違いない)





 にらみ合う両雄。
「まずは我から」
 一歩進み出たゲンジボタルちゃんが、凛とした表情でポーズを決める。

「我々はこの沼地を根城にしている。あっちがヘイケボタルで、こちらがゲンジボタル。故あって領土を巡って戦の最中であるのだが、互いに蛍であることは変わらぬぞ」
 彼女の証言を、『野生生物観察メモ』に書き記していく。

「ふん、確かにホタルは幼虫から成虫にかけてそのほとんどの時間を水辺で生活する……が、足りない。と言うか、この前自称ゲンゴロウちゃんに会ったばかりなので、インパクトが弱過ぎる」

「なッ――」
 詩人のすげない返事に、ゲンジボタルちゃんはショックを受けて肩を落とした。
 その様を見てヘイケボタルちゃんがほくそえむ。

「ふふ、やはり田舎者の御姉さまにできることなどありませんわ。ならばわたくしがこの殿方をギャフンと言わせて見せますわ」
「ほう、ならばお前は何を証明できるんだ」
「蛍といえば、光ること。蛍雪の功ですわ!」
 ぐっと握り拳を作って、ヘイケボタルちゃんが高らかに声をあげる。
 誰が勉強中なんだよとか、色々と言いたいことは多々あったのだが、とりあえず詩人は困ったように比菜と顔を見合わせた。

「なっ、何ですの!? その可哀想なひとを見る眼差しはッ!」
「だって、なあ」
「ですよねえ……」
 光ると言われても、彼女の何処にも発光してる部位などは見られない。
 それでは証明になどなるはずがないのだ。

「だって、お前らのお尻……別に光ってないじゃ――」
 詩人がそう反論しようとした瞬間、二つの殺気が身体を通り過ぎていく。

「破廉恥! 痴漢! 変態! 変態ッ!!」
「死ね、死んでしまえっ。女の子の敵!」
「うおっ!?」
 顔を羞恥に染めあげたホタルシスターズが太刀を振り回し、弓をでたらめに撃ってくる。
 一歩間違えば大怪我をするところであった。
 ヘイケボタルちゃんはぜえぜえと荒い息をつきながら、

「お、おお女の子のそういう部分をそんな風に見るなんて――!」
 と、怒り心頭と言った様子である。

「じゃあ、何処が光るんだよ」
「ココですわ!!」
 瞬間、辺りを目映い光が覆った。

 パァァァッ――。
 生物特有の発光現象。
 その出所は紛うことなく、彼女の――

 形の良いおでこであった。

「……?」
 再び比菜と顔を見合わせる。

「何ですの!? わたしがちゃんと光らせましたのに、その反応はっ!」
「だって、なあ」
「ですよねえ……」
 何と言うか、そうきたか……という感じであった。

「それ、生物発光違うだろ。ただ雲間に覗いた月明かりがおでこに反射しているだけで、あぶねえっ――!」
「誰がでこっぱちですの! うう、蛍香~~ッッ」
 感情の赴くままに弓矢を乱射した後、涙をぽろぽろと零しながらゲンジボタルちゃんに助け舟を求めるヘイケボタルちゃん。

「泣くな、妹よッ。所詮、ルシフェリンを持たぬモノに我々の気持ちなど分からんのだ!」
「ぐす。そうですわね。ルシフェラーゼを持たぬモノに分かるわけがありませんものね……」
 何だよ。仲良いじゃねえかと思わないでもなかったが、ぐっと言葉を飲み込むことにする。
 また斬りかかられてはたまったものじゃないし、今のやり取りでこの女の子たちのおおよその正体が理解できたからだ。


「全く理不尽な……だが、お前たちについてようやく理解が及んだよ」
「なッ――!?」
 驚愕するシスターズ。
 まさか自分たちのことを理解できるものが現れるとは欠片も思っていなかったのだろう。
 固唾を呑んで、こちらに切な眼差しを向けてくる。
 続く言葉を待つようだ。
 詩人は一度だけ咳払いし、彼女らに真実を伝えてやることにした。

「やはりお前たちはホタルではない。お前たちの提示した特徴は全て……“中二病をこじらせた歴女”に当てはまるのだ!!」
 ずびしっと人差し指を突きつける。
 まさかの事実に、二人は一瞬言葉を失う。

「な、な……」
 信じられないと言った表情。
 二人の悲鳴が木霊した。





「くそ、くそっ。何たる無礼。何たる不調法! ここで息の根を止めてやる、覚悟しろッッ」
「わ、私たちの何がどうして中二病なのですか!」
 いきり立つ彼女たちを手で制しながら、詩人はすちゃりと鼻かけメガネを持ち上げた。

「決め手はおまえたちが持っているという発光物質――ルシフェリンだ」
「なん……だと……」
「これはホタルやウミホタル、そして深海魚が発光するために生成する物質のことだが、実はある特性を有している」
「そ、それは一体なんですの……?」
 ごくりと喉を鳴らすヘイケボタルちゃん。
 静寂が辺りを支配する。
 詩人が満を持して解き放つ答え。それは――

「それは……語感がカッコイイことだッ!!」
 ――ドンッ。
 背中に謎の迫力を背負いながらきっぱりと言い放つ。

「な、何を頓珍漢なことを――」
「ならば言い切れるのか? ルシフェリンという単語がかっこわるい、と」
「ウッ……」
 差し出口をしようとしたゲンジボタルちゃんもこれにはたまらず言葉が詰まる。
 カッコイイと思っている証であった。

「そも、ルシフェリンはとある単語を連想させるのだ。西洋において悪魔を指し示す名称。明けの明星を……」
「ハッ、ルシフェルですね。先生っ!」
 理解した比菜が顔を上げて口を開く。
 ルシフェル。
 非リアな精神を持つ者にとって、この単語は蠱惑的な魅力を秘めている。
 口にしただけで眠れる力が目覚めそうな――そんな気がする魔法のタームなのだ。

「うん、その通りだ。小鳥君。字面にしてみれば分かるはず。『私たちは光のチカラ――ルシフェリンを持っている』……どうだろう、何か持っているとかっこ良く思えてくる。そこはかとなく漂ってくる中二スメルを感じ取れはしないだろうか」
 詩人は頷き、こう続ける。

「更に言うならば、お前たちの言うゲンジやヘイケは平安末期の軍事貴族――源氏と平氏に通じている。源氏・平氏と言えば中二病にかかった男子女子が一時は必ず憧れる存在。中二病と源平は親和性が非常に高いと言えよう。『遮那王』なんて名称、中二の極みじゃないか」
「遮那王!?」
 口から赤い何かを吐き出して、ゲンジボタルちゃんが力なく崩れ落ちた。
 相当萌える単語であったらしい。

「ひゃ、百歩譲ってわたくしたちが中二病にかかっていたとして……中二病にかかったホタルっていう可能性だってあるでしょう。平家や源氏なんかと全く関係のない……それだけではただの歴女などとは分からないはず……」
 腰が引けながらおずおずと口を挟むヘイケボタルちゃんの表情は、既に負け戦を前にした公家のようであった。

「分かるさ」
 勝利の確信を抱いた詩人は、ずいっと一歩前に出た。
 するとシスターズは後ろに下がる。
 食う者と食われる者。
 弱肉強食。
 両者のヒエラルキーが、ここに確定する。
 詩人はメガネを持ち上げて、とどめの言葉を紡ぎだした。


「源平武将で萌えるの武将は?」
「源九郎判官義経様! それ以外にあるものかッ。源平の異端児。幼い頃に天狗に育てられたと言うミステリアスな伝説。そして非業の最期ッッ! 美少年に決まっている。美少年に決まっている! あ、大事なことだから二回言ってみただけだからな!」
「平教経様に決まっていますわっ! それ以外に萌える武将など、いるわけが……あ、敦盛様はけっこうありかも。いえ、でもやはり教経様。腐敗した平家の中で孤軍奮闘するそのお姿や、もう何ていうか悲劇のヒーローそのものというか、王子様と言うか。ああ、もう嫁にしてくださいと言うか!!」
 言いたい放題まくし立てるシスターズ。

「「あっ」」
 と、漏らしてももう遅い。
 ここに彼女らの正体が確定した。
 Q.E.D。証明終了である。





 彼女らの提出した諸特徴は、すべてホタルではなく「中二病をこじらせた歴女」が抱くものであった。
 二人が沼地にいたことも、別にホタルの生息地競合によるものではなく、源平合戦の主戦地の多くが水辺であったためだろう。
 なりきりのごっこ遊びという奴だ。

 故に彼女らは虫でない。
 そのことを自覚させた上で、詩人は話を先に進めた。


「全く……大方、互いに一押しの武将を褒め称えておきながら、相手のお気に入りを貶めたりしたんだろう」
 そう、彼女たちの喧嘩の原因について取り沙汰さなければならないのだ。
 このまま長々とここで源平合戦ごっこを続けられては夜が明けてしまう。
 可及的速やかに仲直りをしてもらい、この場を明け渡してもらわねばならない。

 そんなことを考えながら、詩人が答えを待っていると、
「き、貴様は我の考えが読めるのか!?」
 ゲンジボタルちゃんが目を見開いて大口を開ける。

「分かるさ、それこそ良くある光景だからな」
 と、ため息をつく詩人。
 文化系に身を寄せる人々は、誰にも譲れないジャスティスをその胸に秘めているものだ。
 詩人も散々学会で、クワガタとカブトムシのどちらが素晴らしいかについて不毛の論争を繰り広げる学者たちを目の当たりにしており、そこにコガネムシのが優れているよ派の急先鋒として切り込んでいった記憶があるので、痛いほど共感できた。

「うぐ……そうなのだ。こいつが義経様を馬鹿にして! あいつなんて二段ジャンプしかできないチキンだ! とか言ってくるのだっ」
「何を言いますの! あなただって、教経様のことを結局安田なんとかにつかまった雑魚とか! きぃ、思い出しただけでむかっ腹が立ってきましたわ!!」
 互いにおでこを光らせ、突き合せながら、猛獣のように凄み合う。
 全く不毛の極み。
 だが、彼女らを馬鹿だと嘲ることはできなかった。
 それは同じように胸の内にジャスティスを持つ彼にとって、彼女らの言い争いは他人事ではなかったから。
 断じて嘲ることはできない。できないが……
 争いを終結させるために、助け舟を出してやることはできる。
 彼女たちが身を置く歴史というジャンルは、それが可能な数少ない分野であった。 


「……1908年。日本地理学会、鎌倉講演において早稲田大学教授久米邦武が言ったそうだ。『都の武士って実は関東武士より強いんじゃね?』と。これに対して原勝郎という学者が猛反発したらしい。『おい、東国武士ディスってんのか』とは原の言だ」
 シスターズは詩人の言葉に揃って首を傾けた。
 その意図するところが読めなかったのであろう。

「つまり、お前たちの争いはかなり昔から面々と続いている息の長いものであると言うことなんだ」
「だったら、我々でこの負の連鎖を終らせて見せる。無論、我の勝利によってな!」
「くっ、負けませんわ!」
 再びにらみ合おうとする二人を引き離し、詩人は静かに言葉を続ける。

「だが、昨今。それを解決する魔法の法則を世の女の子たちは編み出した。ぼくがそれを伝授してやろう」
「……?」

 詩人は深呼吸をし、
「義経×教経とかどうだろう」
 口を開いた時には、二人は雷に打たれたように硬直していた。

 ――無音の世界が広がっていく。
 二人の身体がわなわなと震えだし、まつげの目立つ綺麗な両目から滝のような涙が流れ出した。

『×』
 それは現代に生きながら未来を突き進む女の子たち――別名、腐女子が生み出した奇跡の方程式。
『×』によってくくられた人間関係は、一般にはボーイズラブとカテゴライズされる。
 ホモホモしいとも呼ばれるその関係は、女の子たちの理性を狂わせる魔性の魅力を持っていると聞く。
 とある偉人などは「美少年同士の絡み合いが嫌いな女の子なんていない」と人目も憚らずに豪語するほどだ。
 正直、詩人には全然理解のできない論理であった。
 だが、この場を収めるにこれほど効果のありそうな言葉もない。

 効果の程は、彼女らの表情が教えてくれている。
 口元がだらしなく緩み、少し鼻血が垂れている。

 今……二人の中に、新たなパラダイムが創出された。
 "負の連鎖"は終末を迎え、新たに"腐の連鎖"が産声をあげたのだ。






 自称ホタルなシスターズは、諍いの種が消えてすっかり仲良くなったようであった。
「池袋の乙女ロードに行きましょう、御姉様」とか。「あらあらうふふ」とか、別の方向性も垣間見せながら、彼女らはその場を立ち去っていった。

 これにて一件落着である。
 詩人はブルーシートまで戻ると、疲れた表情でどっかと寝そべることにした。

「ホタルにまつわる騒動は、全くはた迷惑な話ばかりだな」
「本当ですねえ」
 とは比菜の言。
 彼女もシートに座り込むと、ううんと目一杯に背を伸ばす。

「あっ」
 比菜が声をあげる。
 空には真円の月が浮かんでいた。
 蚊取り線香の結界も既にその効力を失い、全てが灰になってしまって久しい。
 どうやら絶好の蛍狩りタイムはとうに過ぎ去ってしまったようであった。

「うう……折角の野外観察だったのに……ッ!」
 と、心底残念そうに唇を噛む比菜。
 残念なのは詩人も同じであったが、

「まあ、そう言うなよ。野外観察は一年を通して何時でもできるんだから」
 口惜しがり役は彼女に任せて、あくまでも慰め役に徹することにする。
 今日は珍しく同好の士に会えたという幸運が、詩人の心にゆとりを作り出していたのだ。


「で、でも。このまま手ぶらでなんて……そうだ、やっぱりサインください!!」
「だから、ぼくは字が汚いと――」
「せ、せめて連絡先だけでも教えてくれませんかっ?」
 比菜がそれだけは譲れないとばかりに身を乗り出してくる。
 女の子らしい香水の匂いが、つんと鼻をついた。

「ううん」
 詩人は腕組みをして考え込む。
 観察会などの情報交換もあることだし、同好の士に連絡先を伝えることで得られるメリットは限りない。
 サインなどと言うミーハーなものよりもよっぽど有益と言うものだ。
 少し逡巡した後、詩人は名刺を渡すことにした。
 高校生にしてはえらく色気のない個人情報の受け渡しだと思うかもしれないが、仕方のないことなのだ。
 何故なら、彼は色気とは無縁の……生物部部長であるから。


「せせり、高校。生物部部長……?」
 何故か目を丸くする比菜。
 その表情の意味するところが理解できず、詩人が怪訝そうに眉根を寄せていると、

「同じ、高校! 同じ!」
 片言でてんぱりながら、自分と詩人を交互に指差した。
 驚くことに彼女は同じ高校に通う高校生であったらしい。

「芳川友子! 二年です。聞き覚えはありませんか?」
「先輩になるのか。いや、全く聞き覚えはないなあ」
 むしろ小鳥比菜は芸名だったのかなどと考えながら、
「世間は狭いもんだな」
 ぽっと呟く。

 彼女は無邪気にはしゃいでいた。
 その姿を見ながら思わず詩人は苦笑いする。

 彼女も生物部に転がり込んでくるような――そんな予感がした。



[28504] 7ページ目 「強制転生。畜生、トリップしちまった」
Name: 三郎◆bca69383 ID:7e7cbd97
Date: 2011/10/13 04:18
 県立せせり高校は商店街の奥に位置している。
 すすけた校舎に、ガタの来ている時計台。
 校舎全体に漂う重厚なる倦怠感。
 築云年という肩書きだけを無駄に重ねたこの学校は、ベッドタウンにありがちなド田舎臭(重要なのはドである)を、更にゆるゆるとした、かったるいものに変える役割を担っていた。
 そんな名誉を預かるファッキン校舎からそう遠くない場所に建つ雑居ビルヂング。
 その片隅で、何やら見慣れぬ黒ずくめの少女がよからぬ瞳で眼下を窺っていた――



「ふっふっふ、むふふの腑~~」
 少女が含み笑いをつい漏らす。
 ナチュラルハイテンションと言うべきか。
 妙に声の調子が上擦ってしまうのを抑えられていない。
 別段、これは昨晩彼女が同僚たちと夜を徹してドカポンクエストをプレイしていたせいではない。
 デビルマンに転生した同僚相手が阿呆なことに「ひっさつ」をやらかして、彼女の「カウンター」に沈んだせいでは断じてない。
 それは目元にできた大きなクマの主原因であり、今現在彼女が笑顔でいる原因足り得ないのだ。

 ハッピーの原因は他にある。
 双眼鏡をのぞき込み、ドライアイ気味の眼を瞬かせ、彼女はその原因を監視している最中であった。
 ビクセン製の筒状視界が広がる先に、お目当ての青年がいる。
 お目当てと言っても色気付いた話ではない。
 しかめっ面なモヤシ風鼻かけメガネの男など、彼女にとってはまったく恋愛対象外なのだ。
 恋愛なんて浮ついたものではなく……もっと、こう。心躍るような懐的お目当てに当たるのが彼であった。

「あ、ため息ついたでふ」 
 机の上に教材の類は出ていない。
 どうやらメガネ男は現在、学業の合間に訪れる一時の休憩時間に身を委ねているようだ。

「ふむむ」
 ぱくりとスナック菓子を口に放り込む。
 腕時計を見ると、今は丁度お昼時であった。
 誰もがお腹の体内時計をぐうと鳴らす至福の時間だというのに、彼の機嫌は大分悪そうだ。
 まあ、少女がここ数日丹念に観察した結果、どうやら彼の不機嫌は異常事態というわけではなく、平常運転であろうと既に判明しているので、これは特筆すべき話でもないかも知れない。

(常にストレスにさらされているというわけでふね。ちょっと可哀想。でもまあ、矛盾だらけな現代社会に生きているのが悪いのでふ)
 若干の同情を含めつつ。
 黒ずくめの少女は、眠い目を無理矢理こすって覚醒させた後、今回の依頼書に目を落とした。


 ――布安布里 詩人。
 せせり高校一年生、生物部部長。
 経歴省略。
 関八州UMA学会に所属する極悪人。
 DEAD ONLY《絶対に殺せ》。


 手短に書かれた依頼書を再確認し、成功報酬にほくそ笑む。報酬を示す半角文字列は、たっぷり諭吉三人分を表していた。

「こんな依頼で三万円も貰えるなんて、今月はとってもツいてるでふ」
 家賃や保険、それに税金で飛んでいく安月給取りにとって、三万円の臨時ボーナスは非常にありがたいものと言えよう。
 上手く行けば、食生活が改善される上に皆が持っている新型ゲーム機だって買えるかも知れない。

 次々に浮かんでくる妄想に、口元がだらしなく緩んでくる。
 挙句の果てにはメガネ男の顔形が紙幣の浮き彫りに見えてくる始末であった。

「むふふの腐。笑いが止まらないでふ……!」
 歓喜の感情を露わにして、もう一度だけ含み笑い。
 ついでにチョウ目のそれにしては少し細い翅を動かし、リンプンをふりふりとまき散らす。
 うなぎ上りなテンションに比例して、紡ぐ言葉も意気込みMAXそのものである。

「絶対に仕止めるでふ。この黄泉津の死神――メイガちゃんが……っ!」
 虫っ娘系擬人化美少女が吐く気炎が紋白町の空を熱していく。
 この日、生物部長――布安布里 詩人は十六年の短い生涯に幕を下ろす羽目になった。





 突然だが、擬人化美少女――メイガちゃんは冥界からやってきた死神である。
 まず誤解のないよう前置きをしておきたいのであるが、この「冥界」というタームは別に比喩的な意味合いで用いているわけではなく、文字通りの意味で捉えてもらって構わない。
 黄泉の国でもエリュシオンでも、田舎でも何でも良いが、要するに“あの世”と言うことである。

 冥界の歴史は非常に古い。
 数千年前、人類に文明ができた頃からあった気もするが、今の形になったのはつい二、三ヶ月くらい前だったような気もしないでもない。
 とにかく、人々が接する現実世界とは違ったもう一つの世界――死後の国が何時の頃からか存在していたのだ……ということだけ理解していただければ幸いである。
 人文ないしは自然景観、文化などが気になるかも知れないが、それはご想像にお任せしたい。
 ものぐさな場合は、現実世界と大して変わらない程度のイメージを抱いてもらえばそう間違いはない。と言うか、事実ほとんど違いはないのだ。

 それで何ゆえ冥界からメイガちゃんがやってきたのかと言うと、これまた話は長くなるのだが、極悪人を抹殺するためにやってきたのである。
 死神なんだから当然だろうと思う方もいるかもしれないが、話はそう簡単でもない。
 何故ならメイガちゃんは、「地獄道の遣い」ではなく、「畜生道の遣い」なのだ。
 この違いは非常に大きい。
 喩えるならば、北海道と東海道くらいに畑違いと言える。

 そんな明らかにジャンルを間違えた死神が何故、生きた人間様を狙っているのかと言うと……

『おのれ、関八州UMA学会め……。奴らを根絶やしにせねば、余の苛立ちが収まらぬ』
 と、畜生道の大御所。管理者様に睨まれてしまったのが原因である。
 何でも、静かな畜生《じんせい》を送っていたUMAたちを、我欲の赴くままに捕らえたり、すっげー観察したりすることが我慢ならないのだそうだ。

 憎しみの対象は学会全体なので、別に彼だけが凄まじい悪行を重ねている訳ではないのかもしれないが、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」とは良く言ったもので、暗殺対象一覧《スタッブリスト》には、きっちりきっかり彼の名前も載っているのであった。

 何事も管理者様に睨まれると言うのは宜しくない。良い教訓である。


「と、一人経緯をモノローグしながら観察する日々も早一週間。そろそろぽっくりとやりたい所なのでふが……って、やばっ」
 ビル窓から身を乗り出していた身体を、慌てて中に引っ込める。
 顔の上半分だけぴょこりと出して、潜望鏡のようにもう一度確かめてみると、詩人の友人がこちらをじいっと見返していた。
 ハラハラしながらメイガちゃんは息を呑む。

「ば、ばれてないでふよね。どきどき……」
 その心配は杞憂であったようで、友人はすぐに興味を失ったらしく、登山道具のカタログをパラパラとめくる作業に戻っていく。

「あ、危なかったでふ……。ていうか、何であいつは百メートルは離れている場所の殺気に気づくんでふか」
 ホッと額の汗を拭う。
 気炎を上げてから早一週間。
 滅多にない臨時収入を前にして、詩人の暗殺を中々果たせない理由がこれであった。
 彼の友人であるらしい熊のような大男が、やたらに殺意とか人の気配に敏感なのである。
 多分、前世は忍者かゴルゴだと思われる。
 お陰で学校内では手が出しづらいったらない。

 なら学外なら……とも思ったのだが、これまた何だかままならない。
 歯がゆいことに、学外でも予測不可能な行動をする虫っ娘少女が常にストーキングをかましており、不意の襲撃者から詩人をがっつりガードしてしまっているのだ。
 蚊の翅をぶんぶんさせているあの少女と来たら、むしろ大男より性質が悪いのではないかと思えるほどの逸材である。

 先日などは音も立てずに忍び寄ってきて、
「あれれー、私のお仲間でしょうか。何やってるですか、ストーキングですか? 犯罪行為なら現行犯なのですが、私アイスが食べたいですー」
 ナチュラルに脅迫をしてくる始末であった。

(このままでは目標の寿命より懐の寿命がマッハでふ。一刻も早く仕事を終えなければ……)
 切迫した表情で身震いする。
 機を窺うため、メイガちゃんは瞳を閉じて精神を集中させることにした。 

(聞こえてくるでふ。外界のあらゆる音が……)
 メイガちゃんの数あるひっさつわざの一つ、メイガイヤーである。
 メイガイヤーは地獄耳なのであった。
 こうして、メイガちゃんは詩人の周囲に耳をそばだてる。
 意識を闇に溶け込ませ、ほんのわずかな隙も見逃さぬように……







「今朝方、犬のうんこ踏みそうになったですー」
 妹っぽい美少女の発言にクラスのざわつきが大きくなる。
 今はお昼時である。気は確かであろうか。
 果たして天然なのか、それとも狙ってやったのかは知らないが、兎にも角にも教室内にいる大多数に悪感情を植えつけたことだけは確かであろう。

 その教室内だが、かなり異様な雰囲気に包まれていた。
 驚きと妬み……その他諸々がミックスされた複雑な感情の坩堝になっているようだ。

 その矛先は全て詩人に向けられている。
 理由はとても明快。
 彼の周りにやたらと美少女が取り巻いているからであった。

 先ほどからかしましい妹ちゃんは言わずもがな(何故、彼女だけ制服を着ていないのか。現実世界には詳しくないため、メイガちゃんには良く分からなかった)、物静かに詩人の隣に座って昼食を食べている金髪碧眼の文化系女の子も、超絶美少女と言って良い。


 それだけならば……いやそれでも十分にイラっとする話なのだが、更に追い討ちをかけるように、
「布安布里先生! 早速ですが来ちゃいました。えへっ。多分、私みたいにぼっち飯だからって、あるぇー……? 昨日絶対先生フラグが立ったと思ったのに、まさかのToLoveるルートでござった。海のリハクだって見抜けるほど簡単な直線ルートだと思ったのになあ……」

 現役アイドル――小鳥比菜まで混ざってきたからたまらない。
 メイガちゃんはテレビっ子でもあったため、MKBの一員は全員名前が言えるのであった。
 人気アイドルにしては何か妙にオタク的テンションじゃね? とか思わないでもなかったが、そんなことは些末も些末。重要な情報ではない。
 重要なのはこの状況。
 何故、こうも美少女ランキング上位者が、まるで誘蛾灯に引き寄せられた羽虫のように非リアを取り巻いているのか。

 これが通常のリア充が美少女をはべらしていたのならば、クラスもここまで荒れはしなかっただろう。
 誰も文句を言うはずがない。
 否、言える筈がないのだ。

 リア充は同属相手に嫌悪感情を持たないであろうし、非リアはリア充には絶対勝てない。
 視線が交錯すれば慌てて俯き、何か用事があって声をかけようと思っても、「あの……その……もにょ……」とドモってしまうのが関の山。
 一言で言うならばアメリカナイズ。
 学内ヒエラルキーとは非常に根深いものなのだ。

 それなのにヒエラルキーのボトムズにいるはずの青年が豪遊している(と、他人には見える)という、あってはならぬ異常事態。
 周りの悪感情がとぐろを巻いてしまうのも無理からぬことと言えよう。
 クラスメイツの心身にストレスをこれ以上加えないためにも、あの男をさっさと抹殺せねばなるまい。
 メイガちゃんは自我を一端呼び戻し、握り拳をぎゅっと固めた。


「はあ……。ちょっと外出てくる。野暮用だから、お前らはここでご飯を食べていて良いぞ」
 物憂げに息を吐き、詩人は難儀そうに腰を持ち上げた。
 その気持ちは良く分かる。
 恐らくクラス内の雰囲気が最悪すぎたため、気分転換をしようと思ったのであろう。
 確かにあんな悪意の矢衾を受け続けていては、折角のお昼ご飯が美味しくない。
 一般的な感性を持った常識人ならば、この判断は当然と思われる。
 英断である。
 そして、それと同時にこれは――

「チャンスでふ!」
 メイガちゃんは蝶の翅をばさりと広げ、窓の外へと飛び出した。
 上がらぬ速度でふよふよふよと目指すのは、せせり高校の屋上である。
 お昼時ということもあって、大男も脅迫モスキートも教室内で舌鼓を打っていた。
 更に詩人は人の気に辟易していたところなので、なるべく人のいる場所を避けるはずだ。

(つまり、犯行を目撃されるリスクが少ないと言うこと……!)
 これはまさに好機。幸運に幸運が重なった千載一遇の大チャンスと言えよう。
 多分、逃せば次はないんじゃね? と思えるほどだ。

 そのまま空路で校舎まで辿りつく。
 上から見下ろすと、屋上に人の姿はなかった。
 これはますます幸先が良い。

 基本的に屋上を開放している学校は少なく、詩人の通うせせり高校も御他聞に漏れないと事前の調査で分かってはいたのだが、それでもどっかの無個性青年と幼馴染の美少女が、お弁当箱を広げていちゃつきあっている可能性も捨てきれなかったので、内心ビクビクものであったのだ。
 ギャルゲ展開が無かったことに、まず安堵。

「これなら狙撃ポイントにばっちりでふ」
 メイガちゃんは屋上に降りると、急いた気を抑えもせずにいそいそと詩人の姿を探し始めた。

「人ごみを避けるなら、外に出るはずでふが……」
 程なくして予感的中。
 詩人は校舎裏を一人歩いていた。
 屋上から狙うには十分すぎる近さである。
 これはもう千載一遇なんてレベルじゃない。万載一遇十倍界王拳である。

 この機を逃す手はない。
 ……ついに暗殺を実行する時がやってきたのである!

 メイガちゃんは決意を新たに、両の眼をとんびのように鋭くした。
 今から彼女は狩人である。
 そして詩人は獲物である。
 静かな殺気を研ぎ澄ませながら、メイガちゃんはごそごそと凶器を取り出した。

 素焼きのざらついた手触りに、ずっしりとした重みが伝わってくる。
 彼女の凶器は鉢上であった。
 頭上から落ちてきても全く不思議ではない、完全犯罪御用達アイテムである。

 ごくりと生唾を飲み込み、屋上の手すりから鉢植えを外に出す。
 獲物が射程に入るまで後三歩。
 二歩、一歩――

「今でふッッ!」
 かっと目を見開いて、鉢植えを持つ手をすっと開いた。
 自由落下に重みを任せ、加速度的に鉢植えは向かっていく。
 哀れ、詩人はこのまま儚く人生を終えて――

「……危ないな」
 ガシャン!
 鉢植えが地面に衝突し、粉々に砕ける。
 詩人は何と――無事であった。
 衝突の寸前、危険を察知した彼は一歩だけ横にずれて必殺の一撃を回避したのだ。
 すり足に自然体。
 古武道が理想とする高みに近い動きを、彼は無意識の内にやってのけていた。
 前情報では彼は根っからの文化系とあったのに、この身のこなしは何だろうか。
 幾多の修羅場をくぐり抜けてきた故か。
 はたまた天性の才能か。
 彼は果たして人間ですか? いいえ、人外です。

「あ、あわわわわ……」
 大男だけがおかしいと思っていたら、彼もかなり大概であった。
 と、そんなことはどうでも宜しい。
 失敗してしまった。
 メイガちゃんは、まさかの事態に手すりから身を乗り出してうろたえてしまう。
 眼下には胡乱げな眼差しでこちらを睨みつけている詩人の姿が見える。
 もう命を狙っていることも、彼にばれてしまったことだろう。
 ――依頼失敗。グッバイ三万円。

 ニンテンドー3DSが買えない悲しみに涙が溢れそうになっているメイガちゃんを見て、詩人が何か納得したようにため息をついた。

「またこの手の――」
「ボールをお約束に向かってシュゥゥゥゥゥゥウウウッ!!」
 妹っぽい声が届くのと同時に、めこりと鈍い音が響き渡った。

 掬い上げるような鉢植えの一撃。
 隙を生じぬ二段構え。
 素焼きのアッパーカットを受けた詩人は盛大に吹っ飛んで、十六年の生涯に幕を下ろした。







「ああ、くそっ。こんな理不尽があってたまるかよ!」
 詩人が目を覚ますと、そこは“あの世”であった。
 この世ではない。
「おじいちゃんは田舎に帰ったのよ」とか言われるあの“あの世”である。

 原則的に、詩人は非科学的な事物すべてを信じない性分をしているから、当然“あの世”だって信じていない。
 だから、はじめは何の冗談かと、妹の奴がドッキリでも仕掛けているのかと疑った。
 だが、どう頑なに否定したところで頭の上にふわりと浮いている……天使の輪っかというやつが、現実の不条理を突きつけてくるのだ。
「おめでとうございます。JALの冥土旅行パック。当選者はこの方です」とスーパーひとしくんに押しつけられた気分であった。

 今まで色々な理不尽を体験してきたつもりであったが、こんなスペクトラル級の理不尽は初めてだ(何せ一生に一度しかできない経験である)。
 その意味では、ある種貴重なのかも知れないが、貴重であることと歓迎すべきことは抱き合せ販売の関係にあるわけではない。

「平穏な日常は無理そうだから、せめて最後くらいは安らかに……なんて常日頃思っていたのに」
 詩人のささやかな願いは妹系クソッタレ少女の放ったビーンボールで粉々に打ち砕かれてしまった。
 悲劇。
 まさにはらわた煮えくり返る思いであった。
 本当ならこの場でもっと怒り悲しんでも良かったのだが、ずきずきと響く顎痛でいまいちテンションも上がりきらない。
 正直萎え萎えも良いところなので、詩人はとりあえず痛む顎を擦りながら、怒りを横に押し退けて、現状の把握につとめることにした。

 ぐるりと辺りを見回してみる。
「……多分、河原かな」
 色濃く立ち込めた靄のせいで川こそ近くに見当たらないが、周りには背の高いアシが伸び伸びと並んでいるし、他にも経年を重ねた丸い石ころなど、ここが河原であることを示す証をいくらでも見つけることができる。
 無論、“あの世”でも自然の摂理は有効なのかという根本的な問題はある。
 故に絶対にここが河原であるとは言い切れないのだが、現世の摂理に符合する周辺情報から、詩人はとりあえずここでも自分が持っている知識は有効であろうとひとまず判断した。

 興味の灯火をちろちろと燃やしながら、辺りを見回す。
 風でアシ原が揺れている。
 少し潮の匂いが感じられるから、もしかすると海風なのかもしれない。
 風量はかなり強く、靄をぐんぐん上へと押し上げている。
 やがて、靄と靄の狭間に大きなにび色の流れが見えてきた。

「……川だ」
 並々と水を湛えた大河がそこにあった。
 下流特有の緩やかな流れの中、ぽつんぽつんと影が見える。
 目を凝らしてみると小舟のようであった。
 無数の人影が、棹を巧みに操り彼岸と此岸を行き来しているのだ。

「へえ……」
 三途の渡しという奴であろうか。
 どうやら“あの世”と言えども殺風景なつまらない場所というわけではないらしい。
 この調子ならば、生態系の方も期待できるかもしれない。
 などと期待に胸膨らませていると、

「おっ」
 案の定、ぱちゃりと水面で魚が跳ねた。
 思わず目を丸くして、水冠の行方を興味深げに追う。
 鯉だろうか。
 生命感あふれる光景に知的好奇心が沸き上がってくる。

 ここの生態系はどうなっているんだろうか。
 日本と似ているのか。
 もしかすると“あの世”特有の新種がいるのかも知れない。

「やった! 散々な目にあったと思ったが、その実これは幸運じゃないかッ」
 何せここは“あの世”である。
 現世から野外観察《フィールドワーク》をしにくる物好きなんているわけはないから、ライバルのいない完全な独壇場を得たに等しいのだ。
 先刻までの陰鬱な気分などどこかに吹き飛んでしまっていた。
 嬉しさ満面、痛みを忘れて全力でガッツポーズをしていると、

「……頭おかしくなったんでふか?」
 不意に後ろから声がした。





 振り返ると、黒いローブを身に纏う眠たげな目の少女が、こちらを薄気味悪そうに見ていた。
 髪の毛を目元まで無造作に伸ばした、何処かオタク的な雰囲気の漂う少女である。
 彼女は、時折両目をぱちくりとさせていた。
 眠たげというか、実際に寝不足なのであろう。
 ドライアイ気味になる理由は、大概はパソコンかゲームのやりすぎである。
 恐らく彼女は、見てくれの通りに引きこもりな性分なのだ。

 少女の陰気な見てくれを確認した瞬間、嬉しそうにうずうずしていた詩人の機嫌が急速に翳っていった。
 それも当然と言えよう。
 彼女は詩人が今際の際に見た殺人(未遂)犯であった。
 しかも背中から生えるチョウ目の翅が、明らかに妹系モスキート少女と同類であることを示している。
 怨敵も怨敵。
 色んな意味で見紛うことなく自分の仇であった。

「冥界に来たって言うのにそんなに嬉しそうにしている奴、初めて見たでふ」
「……んなもん人の勝手だろう」
 ぶっきらぼうな返答に、納得のできない表情で眉根を寄せるチョウ目少女。

「まあ、どうでもいいでふ。これからお前には地獄すら生ぬるい場所に行ってもらうことになるのだから、そんな笑顔はすぐに失せるはずなので」
「地獄よりも?」
 あいと頷き、彼女はにんまりと黒い笑みを浮かべた。
 ばっと手を広げ、仰々しい声色で、

「万年もの長きに渡って弱肉強食に支配され続ける世界。畜生道!」
「黄金聖闘士の必殺技か何かか」
「いきなり話の腰を折るなでふ!!」
 立腹する。
 正直、畜生道なんて聖闘士聖矢でしかお目にかかったことのないタームである。
 いやはや、バルゴのシャカは本当に強かった。
 必殺技に関しても、天魔降伏やカーン。そのどれをとっても何故か他の奴。特に牛の角のついたやつとは一味違う描写をされていたものだ。
 最近では主人公として外伝まで書かれていると聞く。
 何それ羨ましすぎる。車田先生にはその愛情を節足動物たちにも向けてもらいたかったものである。
 正確には蟹。
 あれの残念さは、筆舌に尽くしがたい。
 幼心に昆虫好きだった詩人は、小学校時代に自分が昆虫と近縁である蟹座であることを好ましく思っていたのに、あれのお陰で自分の星座を他人に語りにくくなってしまったのだ。
 何が積尸気冥界波《せきしめいかいは》だよ、結局冥界に送れてねえじゃねえか。
 それに引き換え、スピンオフ作品の冥王神話は素晴らしいの一言であった。
 まず蟹座が優遇されている。
 それだけで名作であることの第一条件をクリアしていると思う。
 そもそも――

「おい、無視するなでふっ! 無視ってのは一番人が傷つく所業なんでふよ!」
 と、彼女そっちのけで思考の深みに潜り込もうとしているところで怒声が飛んできた。
 どうやら彼女は陰鬱な見てくれに相応しい人生を送ってきたらしい。
 好感情の反対は空気である。
 いじめは犯罪だから論外としておいて、真っ向から喧嘩を吹っかけてくれるような人のいる奴と言うのは存外に幸せ者なのかもしれない。

「ぐ……その同情されるような目つきがやたらに心に響くでふ……ッ」
 何かを思い出すように胸を押さえるチョウ目ちゃん。
 苦虫を噛み潰したような表情で、トラウマを掻き毟るが如く悶えていた。
 が、それも一瞬のこと。
 すぐにフンと鼻を鳴らして、

「そんな態度を取れるのも今のうちでふ。畜生道に一度落ちてしまえば、すぐにこのメイガちゃんに慈悲を乞わなかったことを悔やむはずっ」
 自分に言い聞かせるようにそっぽを向いた。
 畜生道とやらが北海道や東海道と比べてどれだけ過酷な場所かは分からないのだが、とりあえず詩人は聞き捨てならない部分だけ訂正しておくことにする。

「はいはい。メイガって部分は聞かなかったことにしてやる」
「な、何で投げやりっ!?」
「そのやりとりも大概飽きたんだよ。誰それが虫だのそうでないのと……はあ……一々論破するのももう疲れた」
「く、う……っ。その可哀想なものを見る眼差しは、凄くトラウマスイッチオンっ」
 今すぐ止めてくだsai(こんな感じに聞こえた)! と懇願の涙を向けられたため、詩人は目つきを改めることにした。
 どうやら本当にあまり充実した人生を送ってこなかったらしい。

「友達いないのか」
「いっ……、今はいまふ! てか、この話題は早くここで打ち切ってくだはいっ」
 彼女の剣幕から察するに、友達を作れないほど空気に溶け込んだ闇夜の住民と言うわけではないようだ。
 となれば、恐らくは性格に問題がある。
 察するに、桃太郎電鉄やアイスクライマーなどの友情破壊ゲームで本当に友情を破壊してしまうような性格をしているのだろう。この少女は。

「まあ、それはさておき。メイガ、なあ」
 メイガとはチョウ目の中でも特に草木の芯を餌に育つ種類の昆虫である。
 シンクイムシとも呼ばれ、スズメガと並んで農業害虫として日夜農家のおやっさんたちに駆除されているのを良く見かけるのだが……。
 見かけるのだが、あまりにマイナーな昆虫である。
 一応昆虫観察的な視野で見ると、非常に興味深い習性を持っている。
 例えば、夜の到来を視覚ではなく嗅覚で判断したりとか。
 多分冥界に住む自称虫っ娘なので冥蛾《メイガ》を持ってきたんだとは思うのだが、あまりに安直な発想と言わざるを得ない。

「……何かすっごく失礼なことを考えている気もするんでふが。もう無視。無視に限るでふ!」
 ツンとした態度を取るメイガちゃん。
 虫ではないにしても、人の思考をエスパーすることはできるようであった。
 この調子で、人の痛みを読み取ることができれば友情破壊ゲームで友達をなくすようなこともなくなるはずだと思うのだが――

「良いから、きりきり歩けでふ!! さっさと畜生道で、猛獣たちに食われてしまえでふっ!!」
 心の声をかき消すように、金切り声が三途の川を波立てた。






 一言で現すならばドリーム。
 夢のような光景がそこに広がっていた。
 何せ、鬱蒼としたジャングルの中を歩いている最中、絶滅危惧種であるドードー鳥が詩人の前を通り過ぎていったのだ。
 それだけでも感涙物なのに、川沿いに出ればカワウソやヨウスコウカワイルカが泳いでいるし、海辺に出ればニホンアシカ。
 和洋折衷、水陸全ての絶滅動物が暮らしている緑の楽園。
 それが畜生道であった。

「ありがとう。マジありがとう」
 思わず、メイガちゃんに礼を言ってしまうくらいに詩人は舞い上がっていた。

「……何で礼を言われるのかさっぱりでふ……っと、到着でふ」
 どん引き気味なメイガちゃんに案内されてたどり着いた場所は、およそジャングルの中心部に当たる小高い丘であった。
 眼下に広がる緑色の大海。
 それを縦断するようにうねる大河。
 野外観察にうってつけのフィールドと言えよう。

「お前の罰は畜生道への流刑。未来永劫猛獣たちに食われ続けて、お仲間と一緒にいたずらに命を弄んだ罪を悔いるといいでふ」
「……お仲間?」
 彼女の言葉に詩人は首をかしげた。
 お仲間といって思いつくのは生物部の部員くらいのものだが、先の顛末を思い起こしてみると、彼女は明確に自分のみを狙っているように思えた。
 生物部部員でないのならば一体誰が……と物思いに耽っていると、

「ワシです」
 厳かな声色と共に、圧倒的な圧力が飛んできた。
 ぶわりと広がる気迫に、丘に生えた下草が一斉にこうべを垂れる。
 その様たるや、まるで王の到来を畏まっている風ですらあった。
 詩人はこの低い声に聞き覚えがあった。
 関八州UMA学会、略して関ウ学会の先達にして、詩人にとっては昆虫観察の師匠とも言える人間。
 その名は――

「養老……多喜二《たきじ》先生ッッ!」
「Hi《ハァイ》」
 歳を重ねた重厚なる威厳を保ちながら、髭もじゃの先生が応える。
 探検服に身を包んだ初老の男性。
 傍から見ているメイガちゃんが、「何だ、やっぱり知り合いだったのかよ」的な表情を浮かべていたことはとりあえず置いておくとして、

「そんな馬鹿な……せ、先生はアマゾンの昆虫採集に旅立たれたはず。何故、“あの世”におられるのですか」
 詩人はショックが隠せなかった。
 養老多喜二は脳研究の第一人者にしてプロレタリアート文学の急先鋒。
 そして、数多くの昆虫とUMAを発見してきたと言う多彩な文化人であった。
 いわば人類の生み出す文化の大半を彼一人で牽引していると言っても良い。
 そんな偉人がこの世を去ったと言う悲しい事実を素直に受け止めることができなかった。
 人類の損失――。
 そんな言葉が脳裏をよぎる。
 詩人が悲しそうに肩を震わせていると、

「ふむ」
 養老多喜二はおもむろに携帯電話を取り出し、
「昇天なう」
 口に出して打ち込みながら、何処かにデータを送信する。

「何でこいつは平気で呟いて《ツイートして》いるんでふか……」
 何処か疲れた口調のメイガちゃんであった。






 聞くところによると、多喜二先生はアマゾンに昆虫観察に行った際、体長2メートルを超える巨大ジャガーに遭遇したらしい。
 珍獣捕獲を試みてジャガーと死闘を繰り広げていた先生を、背後から虫っ娘が吹き矢で狙った。
 そして先生はあえなくこの世を去った。
 死因はショック死。
 吹き矢によるものではない。虫っ娘のあまりの可愛さによるものだと本人は言っている。
「マジやばかったわい」と語る先生の表情は、とても幸せそうに見えた。

「こんなジジイにいやらしい目つきで見られるなんて……」
 そっちに行かなくて良かったと、メイガちゃんが心の底から安堵の表情を見せる。
 偉人相手に失礼なことこの上ない。
 この上ないのだが、彼女が胸を撫で下ろした際に見えた貧乳《ナイチチ》の凹凸をニヤニヤと眺める先生の目元を見ていると、口惜しいことに彼女の言も一理あるような気がしてきた。

「しかし……」
 それはさておき、詩人は不満であった。
 先刻から「目の前に虫っ娘ヒャッホォォォォィ!」と舞い上がっている多喜二先生の態度がである。

「先生ならば、虫の擬人化なんぞという非科学的なものは真っ向から否定するもんだと思っておりました」
 口を尖らせる詩人に対して、我を忘れていた多喜二先生は意外そうに目を瞬かせた。

「何でじゃ?」
「何でと言われましても……。例えば、ファーブルのように虫の思考を擬人化する手法は……まあ辛うじて受け入れられます。実際にそう思っているわけではないにせよ、見立てることはできますから。しかし、実際に虫が人間と同じ形になることなど、常識から考えてありえないじゃないですか」
 詩人としてはあくまで理路整然と、持論を述べたつもりであった。
 だから、多喜二先生も自分の理屈を理解してくれるものとばかり思っていたのだが、

「ありえなくはないのう」
 まさかの返答に、思わずエッと漏らしてしまう。

「見たことはなかったが、あって欲しいと思っておった。『神様。どうか毎朝わしのことを性的に起こしに来てくれる虫っ娘(美少女)を下さい』と……」
 何処か遠い目をして先生は言葉を紡ぐ。

「布安布里君は“集合的無意識”を知っているかね」
 詩人はむすっとしながらも頷く。 

「ユングの概念ですよね。人間の無意識の深層にある、個々人を超越した共有領域だと勉強しました」
「うむ。人間の想像力と言う奴は様々な制約に縛られている。全くの自由と言うわけではない。まず想像力は“時代性”に縛られる。そして、その根幹では想像力はある種の“共有モデル”に縛られている」
 指折り特徴を数えながら、先生は解説を続ける。

「よくよく考えて見れば、神話に現れる想像上の生物には典型的なイメージがある。洋の東西を問わずに伝わる人魚なんかはその好例と言えよう」
 先生はそこまで一口で語り終えると、「さて」と前置きする。
 持ち上がった口の端には、何やら悪戯を仕掛ける子供のような遊び心が見え隠れした。

「ユングはそうした想像力の共有領域を先天的なものとしたんだが、果たしてそこにモデルはないのだろうか……? 実は人類は有史以前に、モデルとなる“何か”と遭遇した経験はないのだろうか……? そんなことを考えておった時期があったのよ」
「そんなことは――」
 卵が先か、鶏が先かという議論だ。
 詩人はそう反論しようとしたが、

「しかし、あったらいいなと考えることはそこまで罪かね? そういった欲求こそが、知的探究心に繋がるんじゃないかね?」
 先生にこう言われては、もう何も言えない。
 全くもって正論であったからだ。
 概ね全ての分野における研究者にとって、知的好奇心というやつは「あったら良いな」と思うことで始まる。
 野外観察の根源となる感情を否定することなど、野外観察者《フィールドワーカー》たる詩人にできるはずがない。
 それを噛み締めた瞬間、自分の認識が狭窄なものであることに気がついた。
 俯く詩人をフォローするかのように先生は更に続ける。

「否定することは容易い……が、楽しくない。むしろ、事物が確かに起こっていることを受け入れて何かしら理屈をこねくり回す方が楽しいじゃないか。何故、虫っ娘が生まれるのか――人類幼形成熟個体《ネオテニー》説が正しかったとして、現生人類とは別の道筋を辿った亜人類なんじゃないのか。何処かのマッドサイエンティストが人類との融合体を作り出すと言うSF的な展開や、実は人類全体がそうと錯覚している幻影なのだとか。どうだね、好奇心が湧き上がってきはしないかね?」
「……はい」
 今まで頑なになっていた思考が、冗談のようにぽろぽろと崩れ落ちていった。
 成る程、今までモッさんたち自称虫っ娘に対して、自分はあまりにも冷たい態度を取っていたのかもしれない。
 勝手に自分の中で違うと決め付け、やれうざったい妹キャラだの、ひきこもりだの腐女子だのと大概なレッテル張りを行ってしまった……。
 先入観は研究者の敵である。
 これからはもっと彼女たちの持つアイデンティティを尊重して係わり合いを持っていこう。
 そう、心を入れ替える詩人であった。

「もう帰って良いでふか? ドカポンの続きやりたいでふ」
 前言撤回。
 やっぱりこの手合いはただの人間にしか見えなかった。
 そして、「虫っ娘ハァハァ……虫っ娘ハァハァ……」と荒々しい息遣いの先生を見ても、何だかただの変態さんにしか見えないような気がしてきた。







「……何でまだくたばってないんでふか」
 呆れ顔のメイガちゃんとは1週間ぶりの再会である。

「むしろ何でくたばっているという発想になるのか。それが分からない」
「ネー」
 詩人は先生と顔を見合わせた。
 野外観察に赴けば、命の危険の一つや二つ、安売りバーゲンセールのおばちゃんのように襲い掛かってくるものだ。
 絶滅したはずの肉食恐竜の強襲と、東北地方の山奥にいるやたら強そうな熊(弱点は犬)の不意打ち。比べてみたって危険度はそう変わらないと思う。
 更に言うならば、昨今は目に見えなくて回避しようのない、直ちに健康に害の及ぶレベルでないものも積もっている。
 正直言って大自然に置き去りなんぞ、罰と言う罰にもならないというのが正直な感想であった。


「いや、質問に疑問で返されても……って、あれれ?」
 辟易とした表情に不可解の色が混ざる。
 詩人と先生、そしてその隣にもう一人加わっていることに気づいたのだろう。

「何だ、てっきりお前たちがこの方も連れて来たものかと思っていたのだが」
「それはないだろう、布安布里君。理事は明治の激動を生きた方だ。ワシとてお会いするのは半世紀ぶりよ」
 虫っ娘と関ウ学会の視線が一点に集まる。
 視線の先で、漫画に出てくるような獣肉にかじりついている筋骨隆々の男が胡坐をかいていた。
 メイガちゃんに置き去りにされてより一週間。
 詩人たち一行には新たな頼もしい仲間が加わっていたのだ。
 中国拳法を学ぶ修行者が纏うような胴着に身を包み、男は屈託のない笑顔で挨拶した。

「オッス。オラ、ゴドー」
 蟹座のデス様っぽい髪型がえらい特徴的なナイスガイであった。

「何処のサイヤ人が混ざりこんだんでふかッ!」
 半ば半狂乱になってメイガちゃんが頭を抱えた。
 どうやら本当に予想外の事態らしい。
 詩人は顎に手を当てて首を傾げた。

「この方は中西ゴドーさんだ。一世紀以上前の関ウ学会理事にして、日本怪鳥《けちょう》の会の創設者でもあるんだぞ。何故、此処にいるのかというと……どうなんです、ゴドーさん?」
 答えを求められたゴドーさんは飄々とした声で、

「つえぇ奴の気を感じたんだ」
 大方、面白そうな気配を感じて、天国だか地獄だかから瞬間移動でやってきたのだろう。
 彼のあっけらかんとした態度が、メイガちゃんの力(リキと読む)を更に奪っていった。
 ちなみに三人は現在、先ほど仕留めたステゴサウルスの肉を頬張っている最中であった。
 典型的文化系男子の詩人としては菜食オンリーでも全く支障はないのだが、「肉食わねぇと、リキ出ねぇぞ」と先人のありがたいアドバイスを受けたためにご相伴にあずかっている。
 詩人は好き嫌いしない良い子でもあったし、何より恐竜の肉を頬張るなんていうレア体験は中々できるものではない。
 内心有頂天なまま噛じり付いてみると、大味なところがダチョウの肉に似ている気がした。

「アジアで食した昆虫食も割とイケたんだが、これもぼくは結構好きだな」
 頬を緩ませて呟いていると、何故か先生が俄然やる気になった。

「――ッ! おおぉ……っ、メイガちゃん……! おおぉ……っ!」
 そう言えばアジアではメイガの幼虫は貴重な蛋白源として食卓に出るのだと、詩人はふと思い出した。
 恐らく彼の天才的頭脳が一瞬の内に、『メイガ=食料⇒メイガちゃん=解』という図式を組んだのだと思う。
 脱帽である。

「~~っ!?」
 身の毛を粟立たせて、メイガちゃんが後ずさりする。
 その気持ちは分からないでもなかったが、所詮他人事である。

「上様ぁぁぁぁぁっ!!」
 だから泣きつく相手が誰かなんて、正直どうでも良かった。
 詩人は飛び去るメイガちゃんの後姿に視線も送らず、ただただステゴサウルスの味を記憶することにだけ全神経を集中させていた。





「貴様ら大概にせぇよ……」
 灼熱の殺気が肌をひりつかせる。
 かけられた声は怒り心頭といった具合であった。
 デーン、デーンデーン! と日本人にはおなじみのBGMと共に登場したのは、メイガちゃん……と、何故か髷を結ったお侍さん。
 最高級の着物というよりは『御召し物』と言った方がしっくりとくる時代がかった衣装で風を切り、お侍さんは今にも太刀を鞘から抜き放ちそうな雰囲気を放っている。

「……?」
 詩人と先生の頭上にクエッションマークがぴこんと立つ。
 唯一ゴドーさんだけは、相手の尋常ならざる気とやらを感じて口元に笑みを浮かべていた。

「ひ、控えおろう~~。この方をどなたと心得る。この方こそ大分前の将軍様、徳川綱吉公にあらせられるぞ~~!」
 メイガちゃんの前口上が浪々と紡がれる。
 誰かと思ったら、生類憐みの令という動物愛護団体真っ青の御触れを出したお犬公方様であった。
 現世を去って、幾百年。
 どうやらこんな所でお偉いさんになっていたらしい。

「大人しく罰を受ければ、二百年程度で許してやろうと思うておったが、やりたい放題暴れまわりおってからに……。一寸の虫にも五分の魂という名言を知らんのかッ!」
 わなわなと肩を震わせる犬公方。
 名言は知っている。詩人も大好きな諺であった。
 しかしそれと食欲は全く別のベクトルなのである。

「ちゃんと『いただきます』って感謝してるじゃないか」
「何でも神の恵みにすれば良いってもんじゃないわぁっ! 貴様等あれか、切支丹かッッ! UMAを食べちゃ可哀想だろうが!!」
「だって、のう」
 ネー、と先生と顔を見合わせる。
 やはり先生。野外観察者同士は気が合うのである。

「んなこと言ってたからお江戸はカラス対策に苦しんだんじゃねぇのか」
 明らかに頭脳派でなさそうな戦闘民族にツッコミを受けて、お犬公方の堪忍袋がぶちぃっと切れた。

「もう勘弁ならん……余手ずから手討ちにしてくれるわぁぁぁぁっ、成敗!!」
 どう見ても名刀な太刀を高々と掲げると、暴れん坊お犬公方の背後から、ドドドドドと土煙が近づいてくる。
 獰猛な肉食恐竜の大顎に、巨体には不釣合いに小さな前足。
 尻尾を上手く用いて、二足でこちらに迫り来るそれは、お分かりだろうか。
 かの有名なティラノサウルスであった。

「はっはっはっは……! これぞ我が愛馬、赤兎馬よッ!!」
 高笑いする将軍様に呼応するように、明らかに馬ではない肉食恐竜が吼えた。
 まあ元ネタも兎という単語が入っている割には、世紀末覇者の乗り物であったのでどっこいどっこいかとも思う。

「……ほう、こんな大物を観察できるとはのう!」
 喜色満面、多喜二先生が目をぎらつかせる。
 サバイバルナイフを抜き放ちながら言うセリフが『観察』と言うのは一見そぐわないように見えるのだが、これこそが関ウ学会のオーソドックススタイルである。
 知恵と勇気で切り抜ける詩人のようなクレバースタイルは、マイナーなのだ。

「オラ、ツエエ奴見るとワクワクしてくっぞ!」
 先人からしてオーソドックススタイル。
 更に言うならば、ヒットマンスタイルである。
 ウィンウィンウィンと、全身から金色のオーラを迸らせて、ゴドーさんは両手を組み合わせて大砲の形を象った。

「死ねぇぇぇぇぇッッ!!」
 “あの世”で死ねもどうかとは思うのだが、赤兎馬に跨った将軍が怒号する。
 途端に赤兎馬の巨顎に凄まじい量の気(専門用語)が収束し始める。
 ビリビリと収束した気が荷電した。

「か○はめ波!」
 青白い光線とお犬公方様の荷電粒子砲が激突し、大地が鳴動。
 詩人の視界は純白に包まれた――






「あ、お兄様が目を覚ましたです」
 詩人が目を瞬かせると、大きめな目がねに桜色の唇が視界に飛び込んできた。
 若干心配げに見える表情が実に似合わない、モッさんであった。

「いや、本当に死んだかと思ったですー。危うく犯罪者になるところでした」
 心配していたのは自己保身ゆえであった。
 ふざけんな。本当に死んでたんだぞと詩人の記憶が訴えかけている。
 ずきりと痛む頭の中で心の叫びをエコーさせる。

「ぼくがどれだけ大変な思いを――思い、を?」
 口に出しかけて、ふと気づく。
 何故、モッさんが目の前にいるのかと。
 気がつくと、ここは御昼時の校舎裏であった。

「夢、なのか……?」
 夢にしてはあまりにリアルすぎる内容であったように思う。
 いや、一部荒唐無稽な部分があったような気がしないでもなかったが、少なくとも“あの世”で出会った野生生物に関する記憶は、幻想の片隅に押し込めることのできない現実感を持っていた。
 先生は無事なんだろうか。
 ゴドーさんは、お犬公方は、メイガちゃんは……。
 順繰りに彼らの顔を思い浮かべた瞬間、冥界組から「もう、お前ら全員現世に帰れよ」と言われたような気がした。

「どうしました?」
 上目がちにこちらを見上げるモッさんの顔をまじまじと見返す。
 大きめな眼鏡は若干下方にずれており、ふわりとした藍色の髪から覗く睫の長い両眼は、不思議そうにぱちくりとしている。
 瞬きの回数が若干多い。
 メイガちゃん同様、パソコンかゲームのやりすぎなのかも知れない。

「何かついていますか?」
 首を傾げるモッさん。
 現実と非現実がごっちゃになっているようなみょうちくりんな感覚がするせいだろうか。
 普段よりもモッさんとの距離が近いような気がする。
 決して、先生に諭されて虫っ娘を少しでも受け入れようと言う気になったせいではないと思う。

「あ、いや」
 ぼそりと答える詩人の態度がおかしかったのか、モッさんが眩しそうに笑う。
 青春もののストーリーとかでよくあるようなはにかみ笑いであった。

「そうですか」
 モッさんは心持ち優しそうな声色で、

「とりあえず、私のキスで目覚めたと言う設定にして、初物代金くださいです」
 詩人の機嫌を黄泉津の底まで落してくれた。






[28504] 8ページ目 「遊びじゃないレジャー」
Name: 三郎◆bca69383 ID:8f24c1dd
Date: 2011/12/14 02:40

「ああ、空気が美味い」
 なんて呟きを、ひどく月並みな言葉だと思う人もいることだろう。
 けれども、他に言いようがないのだから仕方がないじゃないか……と詩人は常々考えていた。
「空気が濃い」
 では鼻と喉を総動員して現在進行形で感じている、ひんやりとした瑞々しさを表すことができないし、
「日常から隔絶された、静かな空気」
 では場所に重きが置かれすぎている。だからと言って、
「樹木の香り成分であるフィトンチッドが、ホメオスタシスの回復に寄与しておる喃」
 なんて呟く奴がいたら、そいつはただの馬鹿者だ。見敵早速「中学二年生からやり直してこい」と、社長チョップしてやるべきである。
 そもそも、世の中の99パーセント以上が理屈で説明できるにしても、感動という奴に限っては理屈で説明するべきじゃない。
 波瀾万丈、喜怒哀楽。人生の色々を「やれ、吊り橋効果である」とか、「やれ、春機発動期にありがちな万能感だろう」などといちいち字面に起こし、その度に冷や水をかけられるというのは、まるで『役不足』と『力不足』の違いについて、したり顔で語られる(しかも、情報源は田中芳樹である)のと同じくらいのウザったさがある。
 そもそも横文字をずらずら並べているところからして、ありえない。
 横文字を効果的に使えるのはルー大柴とミスター・ジャイアンツくらいのもので、その他の有象無象はみだりに手を出すべき代物ではないのである。
 ――と、随分と回り道をしてしまったが、概ね詩人の言いたいことはシンプルだ。
 ただ一言に集約された、誰もが思う万世の真理。
 そう、それは――

「日常から隔絶された濃いフィトンチッドが、ホメオスタシスの回復に寄与しているので、今日も元気だ空気が美味いです喃」
「おい。お前、他人のモノローグを勝手に読み込んでおきながら、何故敢えてその『ルシがファルシで』みたいな物言い止めようとしないんだよ」
 相も変わらぬ妹系モスキート少女の嫌がらせ攻勢。
 思考の腰を折られてしまった詩人は、沈痛そうに頭を抱えてしまった。
 もてあましてるフラストレーションの果てに得た教訓は『何でも三行に押さえる』こと。
 ……が、それはともかくとして、今回は『空気の美味い山奥』がお話の舞台である。





 ホロホロと、野鳥の声が冷たい空気を震わせる。
 キジの仲間だろうか。
 詩人は鳴き声の主に思いを馳せながら、傾斜のきつい坂道を一歩一歩踏みしめた。
 日照時間の短くなっている秋と言えども、昼はやっぱり明るいものだ。
 転ばないようにと下ろしていた視線を持ち上げると、行く手を阻む緑苔に覆われた倒木には、樹影が色濃く差し込んでいた。
 よいしょっとばかりに丸太を跨いで、
「ふう」
 休憩がてらに腰骨をトトンと叩き、少し労る。反らした身体で辺りを見回し、
「うん」
 満足そうに頷いた。
 細い林道の右手には、今にも崩れそうなむきだしの地肌が見えており、左手には何も見あたらない。眼下に見える渓流へ、ストンと傾斜が落ちているだけだ。
 急勾配の山を登ったことのある人ならば、いくらでも同じような風景を目にしたことがあると思われる、頂上《ゴール》まで続くネジ型の気長な経路。
 どうやら、その中腹辺りに差し掛かったようであった。
 こうした山道を歩く時には、左手に何もないのがむしろ良い。その絶景――遠方に見える色づいた木々をいっぱいに堪能することができるのだから……。
 詩人がほうっと息を漏らしていると、
「あ、葉っぱが爺婆みたいに萎れてるです」「……そこで紅葉の一言が出てこない辺りは、実にお前らしいと思ったよ」
 詩人は押し寄せてくる疲労感に思わずずっこけた。
 折角の登山だというのに、風情も何もあったもんじゃない発言だ。
 四季を愛する我が国の英霊たちが聞いていたら、間違いなく護国の鬼モードにシフトチェンジするに違いあるまい。
 そんな山を舐めまくったモッさんであったが、意外なことに服装だけは一丁前に決まりまくっている。
 青色の鮮やかなノーカラージャケットは、季節の彩りと並べても良く映えているし、登山服特有の野暮ったさが全くない。
 柔らかな髪をまとめているシトロン色のキャスケットも秀逸だ。
 全体として“山ガール”としてのカテゴリにありながらも、街中に出たって恥ずかしくはない良質なコーディネイト――それが今の彼女の服装であった。
 全く見事と言うより他にない……詩人の財布から軍資金を失敬していなければ、もっと素晴らしかったと断言できるだろう。


 苦みばしった詩人の様子と、妹系暴言キャラのあまりにも乱暴な物言いに、横に並んでいた植村 直政が苦笑いを浮かべた。
「……まあ、景色に注意を払えるだけ立派だろう」
 言って後ろを指さす直政。
 なるほど。ぜえぜえと息を切らして、景色どころではない面々がちらほらと見える。
 あまり運動の得意そうではないエレーヌは、可愛らしい吐息の頻度が増しており、若干地面に俯き気味だ。
 首に巻かれていたウォーマーはとうの昔に外されており、膝丈のすとんとしたスカート――いわゆる山スカートの下に見えるサポートタイツですら、ひどく暑苦しそうに見える。
 汗だくになりながらも歩みを止めようとしないのは、彼女の真面目さに由来するものだろう。
 だが、時折、自らの魂を奮い立たせようとするかのように「……二、十四時間戦えますか。うぃ」みたいなことを呟いているのが理解できない。1990年代に流行ったビジネスマンの歌など、今日日の高校生が知っているわけがないはずなのだが、フランスは日本と世界線がずれているのだろうか?
 一方、不良生物部員――間 茂に至っては「疲れない歩き方はないもんか」と凄まじく地道な研鑽を重ねている。
 体重を前に傾けては、ひょいっと足を前に出し……再び体重を移動させて同じことを繰り返す。詩人の見立てによると、アレは通常の三倍は疲れそうな一工夫であった。
 見るからに都会派な二人にとって、この急勾配はさぞ辛かろう。
 詩人が、彼らが置いていかれぬようにと歩みを少し遅らせると、

「まあ、山道は慣れですからねえ」
 先行く芳川 友子(本名)がちらりとこちらを振り向いた。
 世間一般ではMKBの小鳥 比菜というアイドルで通っている彼女であったが、ホタルシスターズの一件を経て、結局生物部に入部することになったのだ。
 彼女はホタル狩りの時に見た野暮ったい服装を更に野暮ったくさせたような分厚いジャージの上にヤッケを着込んでいた。
 万人がダサいと感じる服装だというのに不思議と様になっているのは、恐らく中身の問題だろう。いわゆる※ただし~~と言う奴である。
 数少ない休日を利用して部活動精を出す彼女は、目下のところ、ニコン製の双眼鏡でのバードウォッチングにご執心の様子だ。
 細道で、上ばっかり見ているのが実に危なっかしい……のだが、余程歩き慣れているのか、木の根や岩に蹴躓くと言ったような失態は全く犯さない。
 見事なものだと、詩人は言葉を漏らした。

「慣れているんだな」
 親近感を抱いた詩人が口元を持ち上げると、
「そりゃあもう! 山は好きですから! まず、ホモサピエンスの言葉が飛び交っていないのが良いですよね。『あ、今悪口言われた』とか、気にせずに済むとか、もう最高ッ」
 ぐっと握り拳を固めて力説する彼女の話を聞いていて、思わず涙が溢れそうになった。
 国民的アイドルの一員であるはずの彼女であったが、その思考はひたすら内側へと向かっている。
 恐らくアイドルになる以前は、相当閉鎖的な生活をしていたに違いあるまい。
 文化系魂を持つ詩人の心が確信した。「やはり、こいつは自分と同類である」と。
 例えば、土日の時間の潰し方を例に取ってみよう。
 充実した青春を送っている者は友人と外に出る。出ていないと、とても徒然なる気分になる。
 だが、文化系のメンタルだとそうはいかない。
 金曜までに遊びに行く約束を取り付けていたとしても、金曜の深夜から土曜の朝にかけて凄まじい面倒くささに身悶えする羽目になるのだ。
 もっとひどい手合いになると、そんな約束など端からしない。一人での時間に徒然どころかイケイケになるくらいだ。
 まあ、詩人のことである。
 ……話を戻そう。とにかく、比菜は間違いなく身悶えする側だと断言できる。
「うわあああ、外出たくねえええ。……今から仮病の連絡すっか」と思い悩むクチのはずなのだ。
 そう詩人の中の第六感が告げていた。

 アイドルの身悶え……言葉にしてみると何かエロスのかほりが漂ってくる気もしたのだが、詩人は特に取り合わないことにした。
 何故なら詩人は生物部部長だからである。
 そんな取りとめも無いことを考えていると、迸る憐憫の視線に気がついたのか、比菜は「あ~~……」とばつが悪そうに頬を掻いた。
「アイドルになったのも目的の内なんですよ」
 ちらりと心の奥底を覗かせる。
「ほら、生物オタクって度が過ぎるとキモがられるじゃないですか。中学でもよく言われたんですよ。『あいつ菌とかに詳しいんでしょ。えーやだー、きもーい。世界中バリアー!』とか。……ぐぅ、我が内に眠るトラウマがッッ……」
「ああ、うん。分かる気はするよ。ぼくの場合はバリアーは無かったけどな」
 ちなみに詩人の場合にはあまりに度が過ぎすぎていて、からかうことすら忌避されていた。アンタッチャブルである。こちら側からバリアーである。

「ヒエラルキーを下げないためには、今の立場って割と便利なんですよ。アイドルってだけで学校生活やその他諸々で気を使ってもらえるし」
 なるほどと頷く詩人。
 彼女の話を聞いている内に、段々と彼女の立場と言うものが理解できてきた。
 どうやらトラウマイスターの一員であった芳川 友子(本名)という文化系女子は、己が身を世界の悪意から守らんとするために、敢えてリア充界へと投身したらしい。
 言うなれば、虎穴にいらずんば虎児を得ず、と言う奴だろうか。
 いずれにせよ、彼女の判断は十分に正鵠を射ているものであったと言えるだろう。

 そもそも、『リア充』と言う言葉の意味からして「リアルが充実している奴」のことを指していると思われがちだが、その実本当に充実しているものなど一握りも存在しない。
 その構成員のほとんどは「偶像《アイドル》に憧れる大多数」。トップスターに群がるフォロワーたちなのである。
 故に彼らは肩書きに滅法弱い。

 このことは中学までの典型的リア充の発言を見ていけば分かり易いと思う。
 思い返してもらいたい。中学までの知人の中に、趣味や勉学で自己実現をしようという者がどれだけいたか、ということを。
 恐らく、片手で数えるほども挙げられないはずだ。
 大体の人間がテレビやネットで入手できる話題を転がして、「俺(私)はいずれビッグ(リア充的な憧れポジション)になる」なんて大法螺を1日に3回は吹いていたように思う。

 これが高校生くらいになると少々事情が変わってきて、部活動にいる『憧れの先輩的な何か』の比重が途端に大きくなりはじめるのだが、中学生段階ではまだ外部メディアからもたらされる憧れ職業の占めるシェアの方が大きいと言わざるを得ない。

 だから、芳川 友子(本名)の採った『アイドルになる』と言う選択肢は間違いではない。
 中学生段階における、まさに最強の選択肢。攻防MAXなレアカードであったというわけだ。
 もっとも、レアであるが故にそう容易く取れる選択肢ではない。
 そこは彼女の努力を讃えるべきか。そう詩人がひたすらに感心していると、

「あいやー、あまり大した努力はしていませんよ。デビューの時だけ、禿げた親父たちの遺伝子存続《エロ》欲求を期待させてやれば済んじゃうし」
 今、何かの暗黒の深淵を垣間見た気がするが、詩人は聞かなかったことにした。
 深淵をのぞく時、深淵もまたこちらを覗いているのだ――。ニーチェ御大が、何処か遠くの空から語りかけてきたような気がしたが、恐らくは気のせいだろう。
 当然、背中で青色吐息なエレーヌが呟いた「おにゃんこ」という禁呪も無視を決め込むことにした。
 振り返ったら負けである。

「とにかく、既に目的は果たしてあるので、何時辞めても良いっちゃ良いんです。あ、でも声優さんと役得で知り合いになってからが良いなあ……私、他のオタ要素も持ってるんで」
「成る程。何か良く分からんが……大変なんだな。君も」
「うへへへへ……ん? あれ、今のフラグですか? もしかして立っちゃいました? フラグ」
 気持ち悪い笑顔とともに瞳を輝かせる比菜は、何かとても生き生きしているように見えた。

「でも、今年は結構綺麗に紅葉してますね。当たり年かな」
 ひとしきり笑った後、登山経験の豊富さが窺える言葉をしみじみ口にする比菜。
 詩人は彼女の言に頷きながら、再び色づいた木々に視線を向けた。
 深紅に染まった樹葉の海が、日差しを受けてきらきらと輝いている。およそ町ではお目にかかれない鮮やかさであった。
 山の気温は標高の違いや生活熱の有無などが影響して、麓のそれより数度は低くなる。
 厚手のセーターを着込んでいても、服の隙間から入り込む寒風。それらが葉っぱを色鮮やかに変化させるのだ。

「お兄様」
 詩人が眼を細めていると、モッさんが不意に口を開いた。
 クソ真面目な表情だ。紅葉に感銘を受けた……ようには断じて見えない。

「ん、何だモッさん。休憩にはまだ早いと思うが――」
「はい。実は赤は攻撃色と聞きました」
 そういえば、昨日は金曜日だったと思い出しながら、「風の谷の住民かお前は」と内心ツッコむ。

「北風と太陽の話にもあるように、寒いと人は攻撃的になるものでして……故に私は所望します。私だけの救世主の到来を。『ほおら、明るくなつたらう』と言ってくれる私だけ(←ここ重要)の救世主様を」
「寒いのは懐なのか」
 札束に火をともす、カーネルサンダースフェイスの成金親父を思い起こしながら、呆れ顔の直政と心情が完全にシンクロした。
 曰く、「こいつはいきなり何を言っているんだ」である。
 モッさんは詩人たちの呆れ顔に対して、何やら考え込む素振りを見せた後、
「救世主は、宿主《パパ》さんと言い換えることもできますです」
 凄まじい臑齧り精神《メンタル》を披露した。男女共同参画社会に真っ向から喧嘩を売るような爆弾発言である。
 ……が、結局彼女の言わんとするところが分からない。

「むむむ、お兄様も察しがバッド。つまり私が言わんとしてることはですね――」
 痺れを切らしたモッさんが本題に入ろうとしたその矢先、

「あー、もう駄目だ! もう俺たち十分すぎるほど登ったよ……」
 体力の限界を悟った千代の富士状態の茂が、急に駄々をこね始めた。
「なあ、バイオタ。ここらでもう下りてバーベキューとかにしようぜ。これ以上登るなら、直政とお前だけで――」
 みしり。
 鼻骨の潰れる音がした。モッさんが全力全壊のグーパンを放ったのだ。
「みぎゃあああああぁぁぁ、五味ちゃんにやられた古傷がッ! 古傷がぁぁぁあああッッ!?」
「この……何の生産性も持たぬ消費型の豚め!」
 ごろごろとのた打ち回る茂を足蹴に、モッさんが握り拳を固めて鬼気迫る表情で震えている。
 
「言うにことかいて、山を降りるとか……そんなに下りたきゃ一人寂しく下山しやがれってんです!!」
 一体何が気に入らなかったのだろうか。
 顔だろうか、性格だろうか。いや、うん。全部か。
 しかし、モッさんがこれだけの激情を露にしたのが意外であった。彼女がこんなに怒ることなど滅多に……ありまくるのだが、大抵は損得勘定に根付いたものである。
 詩人は一瞬考えを廻らせ……すぐに「ああ、成る程」と合点がいった。
 つまり、今回の野外観察《フィールドワーク》の対象に損得感情的ロマンを抱いているのであろう。

「けっ、キノコ狩りは……遊びじゃねえんですよっ!」
 モッさんの叫びが山々に木霊する。
「どうでも良いが、キノコ狩りも消費活動だからな。経済学的にも生物学的にも」
 くたびれたように漏らした詩人のツッコミは、彼女の放つ(商)魂の叫びにかき消されてしまうのであった。





 ――キノコ。
 菌界に属する生物群の中でも肉眼で確認のできる子実体をつくる生物を指すこの名称を聞き、反射的に舌なめずりをしてしまう者も数多いことだろう。
 四季折々の食卓を彩るこれら自然の贈り物は、とりわけ秋の代名詞として有名だ。
 マツタケ、マイタケ、ホンシメジ――。
 食欲の秋と言えば? と問われて思い浮かぶ食材たち。それらは入手の困難さから、大抵が高級食材になっている。
 希少だが、美味い。いや、むしろ希少だからこそ食いでがあろう。
 古より……あまたの冒険者たちが夢を追い、美味いキノコを追い求めた。
 その欲求は、平安の御世。信濃守藤原陳忠が生きていた頃から何も変わるところがない。
 藤原信濃守さんときたら、崖から足を踏み外して馬諸共真っ逆さまに落ちていったというのに、途中で「やべえ、ヒラタケ見つけたでおじゃる」とか喜んじゃう剛の者である。
 野外観察者《フィールド・ワーカー》足る者、かく在りたいものだ……と詩人はマジリスペクトを禁じ得ない。
 おお、我らが生物部よ。おまえたちは山に登り、何を見、何を聞き、そして何をつかもうというのか……
 と、前置きはさておいて、要するに「自分たちで採ったキノコが喰ってみてえ」と言う現金すぎる理由が、今回の登山理由であった。

「でも、いくら収穫がメインと言ったって、一番の目的は『キノコ狩りを通じて野山に親しむ』だ。れっきとした部活動の一環であることを忘れるんじゃないぞ」
 眉根を寄せて、詩人が念のためにと釘を刺す。
 こくりと頷く部員たちと、あからさまに不満げな茂。

「事前のリサーチはパーフェクツ。天然のマイタケは一株辺り3000円から4000円で取引されます……つまり、リュックいっぱいに持ち帰れば、売り上げおよそ2、3万……! 素晴らしい……素晴らしすぎます。現代における錬金術を、我今ここに見つけたりですッッ!!」 ガン無視のモッさんは、他とは色んな意味で一線を画していた。
 高らかに皮算用を始めたかと思うと、肉食獣の笑みを浮かべている。

「布安布里先生。天然のマイタケなんて取れるものなんですか?」
 モッさんの皮算用を聞いて、比菜が疑問を口にする。
 細い指を顎に当て、くいっと首を傾ける様は、健康的な男子高校生ならば「あ、やべえ」と思わず心動かされてしまうであろうほどに可愛らしさが溢れている。
 文化系ひきこもり系女子であった筈の比菜が、このような外面を先天的に身につけていたとは思いがたいので、恐らくこれは職業上身につけたスキルに違いあるまい。
 業の深さを感じながら、詩人は肩を竦めて疑問に答えた。

「正直言って無理だろうな」
「ファイッ、何故ですか!?」
 絶望の悲鳴がモスキート少女よりあがる。
 どうでもいいが、モスキートを吸血と言い換えると、途端にカリスマ性が湧いて出て来る気がする。具体的に言うと、ふわふわなナイトキャップを被った弾幕少女とか。
 詩人はそんな益体も無いことを考えながら、モッさんに言い聞かせるように自らの記憶を言葉にしていった。

「モッさんの言うとおり、マイタケの採集は金になる。だが、それはキノコハントという生業が成り立つことと同義であるとも言えるんだ」
「商売人がいるんですか?」
 比菜の驚きに、詩人はこくりと頷いた。

「事実、大抵の里山にキノコハンターは住んでいる。『山のきのこ』という縦看板を見たことはないか? あれはハンターたちが集うギルドだよ。プロが収穫物を売り、情報収集などを行う寄り合い所になっているのさ」
 更に詩人はマツタケ、ホンシメジ、マイタケなどと、代表的なきのこを指折り挙げていく。

「売り物になるきのこは幾つかあるが、特にマイタケは別格だ。マツタケも高級ではあるが、いかんせん数が取れない。その点、マイタケは量がある。見つかる時はキロ単位で見つかることもざらにあるから、大変利益率の良い収穫物と言える」
 だがしかし、と詩人は続ける。

「利益率が良い反面、マイタケの人気は桁違いに高いんだ。『マイタケの生える場所は息子にだって教えない』なんて言われているくらいで、その競争率は折り紙付き。そもそもマイタケと言う名前の由来からして、見つけたら舞い上がってしまうことから付けられた名前なのだから、まともに収穫することがどれだけ難しいことなのかなんて、お察しして下さいとしか言えないな」
 プロとプロが生活を賭けて競い合う。そんな鉄火場に果たしてアマチュアが参入できるものなのか……
 答えは火を見るよりも明らかであった。

「そうなんですか……」
 当ての外れた比菜がしょんぼりとする。
 部員たちの間に漂う空気が、どんよりとしたものに変わっていった。

「ファァック! マジファァァック!」
 ぎりぎりと親指の爪を噛んで口惜しがるモッさんも、プロと張り合う無謀さを理解したのか、凄まじい速度で登山熱を冷却させていった。
 仕舞いには「もう山を下りてバーベキューとかしましょうよ」とか言い始める始末である。

「プロフェッスール。だったら、今回の活動でシャンピニオン(キノコの意)は取れない?」
 しばらくの雑談で十分な休憩時間が取れたのか、エレーヌも心持ち不安げに言葉を挟んでくる。
 もっともな心配だ。キノコの観察会に来てキノコが採れないなんて、本末転倒にも程がある。我が生物部はワンダーフォーゲル部ではないのだから。
 そんな彼女の懸念を和らげるように、詩人はゆっくりとかぶりを振った。

「いや、そんなことはないよ。丸っきり坊主と言うことはありえない」
 口元に自信を漂わせ、やや勿体ぶった口ぶりで答える。

「そもそもキノコ狩りをする輩は大まかに3種類に分かれるんだ。一つ目は、にわかキノコ狩り客。二つ目は、普段からキノコ狩りに人生を賭けている怪しいオッサン。そして、最後が選別されたプロフェッショナルたちと、学術的知識に裏づけされた野外観察者《フィールドワーカー》さ。これらをC・B・Aクラスと分類したとして、ここにはAクラス相当のハンターが二人は確実に存在している――なあ、植村君?」
「おう」
 不敵な笑みを浮かべる詩人の言葉に、直政が短く答える。
 彼の表情に自慢の色は窺えなかった。
 隠しているわけではない。それができて当たり前。別に誇れることでもない……と心の底から思っているのだ。

「エレーヌ君。君はキノコでは何が好物だい?」
「私は……シャンピニオン・ド・パリ、が好き」
 詩人の問いかけに、エレーヌは一瞬思案してからおずおずと答える。
「シャンピニオン・ド・パリ……つまりはマッシュルーム。ハラタケ科の食用キノコで、世界で最も食卓に上る量の多いキノコだね。生憎、日本の野山にマッシュルームは生えていないが、近縁種ならば見つけられると思う……植村君」
「分かった。“チャブクロ”見つけてくれば良いんだな?」
「うん、頼めるかい?」
 直政は部員たちに背を向けて「任せろ」と答えるや否や、右手の斜面を登り始めた。
 傾斜45度は余裕で超えていそうな急勾配を、である。
 今にもがけ崩れを起こしそうな斜面をひょいひょいと渡って行く姿は、何処か小柄な鹿を思わせる……のだが、それを行っているのがもう少しで2メートルに届きそうな巨体だと思うと、正直素直に受け止められない。
 常識を凌駕した身のこなしであった。

「え、いきなりどうしたのあいつ……」
 茂が呆然として、直政の背中を見上げた。 

「あれがキノコ狩りの作法だよ」
 部員たちが驚きの表情を浮かべる中、詩人はさも当然とばかりに言った。
 キノコは枯れた木に寄生するものや、腐葉土の上に出てくるものなど幾つかの種類に分類することができる。
 だから、キノコを見つけるには、まずお目当てのキノコがどう言ったものを養分にして育つのかを知る必要がある。
 倒木の頻繁に起こる場所であったり、あるいは腐葉土の厚く積もった場所であったり……どちらにしても、菌が良く根付くのは、大抵が道になっていない場所が多い。
 故にキノコハントは道から外れて行う。
 いきなり山の奥からぬっと出てくる怪しいオッサンを見かけたら、そいつは100パーセントキノコ狩りに来ているといって良い。
 がけっぷちをひた歩き、藪の中を潜っていく。
 キノコ狩りとは遭難と紙一重の……まさに限界バトルと言えるのだ。
「部長、あったぞ」
 しばらくがさごそやった後、直政が何かをこちらに投げて寄越してきた。
 丸っこい形状の白いキノコ。その上部には何か埃っぽい粉がついていた。
 詩人は満足げにそれを見つめると、部員たちに向かって披露する。

「これはホコリタケ。通称キツネノチャブクロと呼ばれるハラタケ科の食用キノコさ。マッシュルームの親戚で、バターで炒めると美味いんだぜ」
「えー、お兄様……これ、食えるんですか?」
 片手を腰に当てて自信満々と言った詩人に対して、疑い深い眼差しを向けるモッさん。
 確かに詩人の手に収まったホコリタケは、明らかに食えそうにない……スーパーには絶対並びそうにない姿かたちをしていた。

「見てくれはあまり良くないけど、ちゃんと食えるよ。保証する。こう言った流通に乗らないキノコのことを雑キノコと言うんだ。対して、モッさんが欲しがっているような金になるキノコは上キノコ。基本的に上キノコは取れないものと思っていた方が良い。キノコ狩りを生業にしたプロのハンターたちと張り合ったところで、勝てるはずがないからね」
 つらつらと続けられる説明を受けて、ようやく部員たちの表情に理解の色が浮かんできた。
 プロがいるから、上キノコは取れない。
 つまり、今回の目標は上キノコではない――ハンターが狙わない雑キノコなのだ。
 収穫が見込めないわけではないと悟った瞬間、部員たちのモチベーションが上がっていくのが目に見えて分かった。
 比菜とエレーヌはわくわくと瞳を輝かせ、茂は……何故エロイ目つきをしているのだろう。
 大方ろくでもないことだと思うから、詩人はそっとしておくことにした。
 
「マネーにならないキノコなんて、シリーズ・ゴミ! お兄様、上キノコがあっちからやってくるうらわざとか教えてください!!」
「お前なあ……だから、さっきから言っている通り――」
 無理なものは無理だ、と。
 あくまで頑ななモッさんの懇願を突っぱねようとしたその時である。

「おい、部長ッ!」
 焦りを孕んだ直政の大声が、詩人の耳朶を強かに叩いた。
 詩人も色を失い、彼の声がした方向へ振り返る。
 もしや彼の身に何か起こったのか――。

「何だ、植村君!」
 慌てて、道を外れて彼のもとへと急行する。
 万が一があってからでは遅すぎる。部員の身の安全は何としてでも守らなければならない――。
 ほんのちょっと前までは全く持ち合わせていなかった生物部のリーダーとしての責任感が、詩人の背中を強く押した。 軽い身体を躍らせて、直政の待つ茂みの向こう側へと転がり出でると、

「……あれを、見てくれ」
 果たして彼は無事であった。
 五体満足のまま目を見開き、驚きの感情を満面に表しながら彼は更に上方の尾根付近を指差している。
 詩人はほっと安堵した。
 ――が、彼の指差す方向を目で追って、詩人も同様に絶句する。

 黒と茶の入り混じった、波打つ海がそこに広がっていた。
 凹凸の一つ一つが上等なフリルのようにも見え、木々の合間から差し込む日差しを受けて、きらきらと輝いている。
 先ほど詩人は「見つけたら、舞い上がってしまう」などと説明したが、どうやら法螺を吹いてしまったらしい。
 詩人は視界いっぱいを埋め尽くすマイタケの群体が放つド迫力に、驚きのあまり腰を抜かしてしまった。

「ヒャァァアアアアアアアアッホォォォオオオオオオオオゥゥゥゥッ!!!」
 後続から聞こえてくる狂喜の叫びは、無論モッさんのものだった。
 万歳突撃を思わせる、諸手を挙げたダッシュをかけて、彼女は雷速でマイタケの収穫をし始める。
 彼女に続くようにして、他の部員たちもマイタケの海辺へと駆け寄っていく。
 各々の表情は喜びに綻んでおり、「キノコ狩りに来た甲斐があった……」という満悦の色に満ちていた。
 しかし、その一方で詩人の心中は複雑であった。
「何か形がちげえ……」と不満げな茂にツッコむゆとりもなく、ただ部員たちの収穫風景を呆気にとられて眺めている。

「どういうことだ、これは……」
 目の前に広がる光景は、どう贔屓目に見たところでおよそありえないものであった。
 プロのキノコハンターが跋扈している里山において、山の尾根付近などと言う至極採りやすい場所に、上キノコが残っているわけがないのだ。
 しかも、それが大量ときている。 ざっと見たところ、総量は10kgや20kgでは聞かないだろう。それら全てを売ることができれば、最低でも云十万の売り上げは下るまい。
 そんな宝の山を、果たして海千山千のハンターたちが見逃すものであろうか……?

「部長、これは異常だ。あのマイタケは今まで故意に放置されていたものと考えた方が良い」
「……うん、ぼくも全く同感だ。しかし」
 直政の発言に、こくりと同意を示す詩人。
 こんな美味い話があるわけがない。何か、美味い話が転がっている理由があるはずなのだ。
 ……だが、肝心の理由が分からない。
 国有林ゆえの取り締まりの強化が影響したのだろうか。いや、それはありえない。
 ハンターのオッサン連中は、基本的にお金のためならば国家を国家とも思わない荒くれ者が揃っている。
 彼らは熊ですらも恐れない勇敢な戦士だ。彼らが恐れるものは、村八分と小言を言ってくる奥さんくらいのもので、たとえお役人に何か脅しつけられたところで、飯のネタを放り投げるはずがないのだ。
 ならば、昨今話題になっている放射能か。いや、それもありえない。
 ハンターのオッサン連中は、基本的にあまり物事を複雑に考えない荒くれ者が揃っている。
 彼らはいくらセシウムやらが腐葉土に堆積しているんだと言ったって、「あれって元素的には重いんだから、もっと地中深くにさっさと潜ってんだべ」と反論してくること請け合いである。
 ぶっちゃけ、放射能アレルギーにかかっている都会の連中よりは、ずっと正しい物の考え方だと詩人は思うが、とにかく彼らが放射能程度でキノコ狩りを止める連中だとは思えない。
 むしろ、ラジウム的な健康食品とか銘打って値段釣り上げていそうな手合いである。
 ……それでは、目の前の光景は何なのか。
 詩人が考えている内にも、目の前のマイタケは次々に部員たちの背負ったザックの中へと収まっていく。
 そうしている間にも釈然としない何かが、頭の中で存在感を増していった。
 詩人の困惑は、マイタケの量が半分近くなくなった辺りまで続いた。
 別段、疑問が解決したわけではない。光り輝く宝を前にして、物欲を抑え続けることができなかっただけだ。

「部長」
 直政が横でぽつりと口を開いた。「どうするんだ?」とこちらの意思を量っているのだろう。
 詩人は長いため息をついた後、すちゃりと眼鏡を持ち上げた。

「信じがたいことに今年はハンターたちの動きが鈍いようだ。……これはひょっとするとひょっとするぞ。11月の仕事納め《ファイナルテーブル》まで上キノコを採ることのできる、選ばれし9人の戦士たち――ノーベンバー9から収穫を掻っ攫うことができるのかもしれない……!」
 二人の瞳に希望が宿る。
 詩人と直政、二人は今までプロに近い実力を持つセミプロ野外観察者《フィールド・ワーカー》として、あくまでもプロには届かない二番手の地位に甘んじていた。
 だが、今この瞬間。彼らはプロを凌駕することができるのかもしれないのだ。
 二人は部員たちのもとへと駆け出した。
 その足取りは軽く、部員たちの姿が見る間に大きくなっていく。
 喜色にまみれたエレーヌ。記念写真を撮影する比菜。
 そして、何故か呆然としているモッさん――

「ミ、ミンミンちゃん……?」
 モッさんの口から、この場にいるはずのない女の子の名前が飛び出てくる。
 湧き上がる疑念。何故、マイタケを採りながら、彼女の名前を呟くのか。
 詩人は大地を蹴る足を少し速めた。
 あれだけ喜んでいたモッさんが、何故大量のマイタケを天高く掲げながら凍り付いているのか、その理由を知りたかったのだ。
 程なくして、詩人と直政は彼女らのもとへと辿りつく。
 そして、何も言えなくなってしまった。
「これは……」
 上手く言葉に表せない。
 何故なら、モッさんが掘り出した地面には、青い顔をしたセミ型少女のミンミンちゃんが埋まっていたのだから……。


「うーん、うーん。きのこが……巨大なきのこが襲ってくるであります……ッ」
 ミンミンちゃんが苦しげに呻いた。
 土まみれになった作業服から飛び出ている翅は力なく萎れ、触覚用穴あきヘルメットについたセミの複眼は×《もうだめだぁ》印に変わっている。
 更に特筆すべきは頭頂部だ。
 ヘルメットを突き破り、「俺がスーパーベジータだ」とでも言いたげにぴょこんと立っていたもの……それは一本のキノコであったのだ。

「ちょっと、ちょっとミンミンちゃんっ。大丈夫ですか? 生命保険には加入していますかっ?」
 動揺を隠せないモッさんが、ゆっさゆっさと彼女を揺さぶる。
 生命保険に入っている場合どうだというのだろうか。
 まあ、現状を理解するために重要な情報というわけでもないので、詩人はモッさんの言葉を記憶から抹消することにした。
 しかし……と、詩人は口元に手を当てる。
 ここに来て、解決すべき疑問が更に深まってしまった。
 手付かずのマイタケ。その下には頭からキノコを生やしたミンミンちゃんがぐったりと倒れていた。
 これらの情報が指し示す真実とは一体何なのか――。
 風が止み、森林に静寂が訪れる。
 生物部に襲い掛かる、謎が謎を呼ぶ展開。
 その中で困惑を隠せない部員たちをあざ笑うかのごとく、がさりと近くの樹葉が揺れた。

「ん……?」
 違和感があった。
 今、周りに風は吹いていなかったはずだ。そのことは詩人の五感が確かに証明してくれている。
 だと言うのに、樹葉が揺れた――木々が自然に揺れることのない以上、考えられる可能性は……

(何物かの接近――ッ!)
 その答えに行き着くまでに費やした時間は恐らく刹那にも満たなかったであろう。
 だが、それでも“敵”にとっては十分すぎるほどの隙であった。
 駆け巡る戦慄に詩人が身を強張らせるよりも疾く、

「――ッッ!?」
 何者かの攻撃によって直政の巨体が宙に突き飛ばされた。
 ぶわりと空気が巻き上がる。
 まるで10tトラックが目の前を通り過ぎたかのような感覚を覚えた後に、詩人の視界に映ったものは勢い良く斜面を転がり落ちていく友人の姿。
 友人のピンチであった。

「植、村君ッ」
 手を伸ばす詩人。
 だが、既に吹き飛ばされた友人の身体を掴むには距離が離れすぎている。
 徐々に広がっていく友人との距離。届かぬ腕で宙を掻き、詩人は口惜しげに歯噛みした。
 ――一体誰がこんなひどいことを。
 関八州UMA学会の躍進を妬む、鎮西UMA協会の面々であろうか。
 それとも、秘密結社・動物愛護団体《グリーン・ピース》の皆さんか。
 詩人は誰ともつかない“敵”に向かって、刃の鋭さをもって叫んだ。

「誰だッ」
 ざわりと空気が揺れる。
 間を置かずして、詩人の呼び声に応えるかのように、漆黒の影が森の奥から浮き上がってくる。

「……ふむ、何処の盗人かと思えば、変哲もない小僧どもであったか」
 影は詩人に比べると大分小さかった。
 やがて、陽光によって影が見る間に色づいていく。

 異変の主。
 一瞬、山伏かと見間違える見てくれを彼女はしていた。
 引き締まった肢体……というか、あまり贅肉の付いていない女の子の身体を麻の法衣に包み込み、一本足の高下駄を危なげなく使いこなしている。
 頭の上には天狗の好みそうな頭巾。
 太めの眉の下にぎらりと輝く、狼を思わせる両の眼。そして、触覚――。
 背中から生える二枚翅を見た瞬間、詩人は何かもう全てがどうでも良くなってきた。

「あちきの……キノコバエのビビオンちゃんの縄張りに忍びこむとは、まこと無謀と言える喃」 あまり手入れのされていない黒い三つ編みヘアーの虫っ娘が笑う。
 突如現れた正体不明の敵に対し、理解の追いつかぬ生物部員たちは、ただ呆然とすることしかできなかった。
 沈黙が場を支配する。
 埒のあかない現状を打開せんと、誰よりも早く動いたのは詩人。
 怯まぬ態度で、ざっと前に進み出て、キノコバエのビビオンちゃんとやらに語りかけた。

「こんにちは」
「あ、こんにちは……良い天気です喃」
 山での見知らぬ相手と出会った時は、何を差し置いてもまず挨拶すること。
 これ、絶対遵守のルールである。







「よっこらしょっ、と」
 両者の間で交わされた、えらく爽やかな挨拶の直後、何事もなかったように直政が戻ってきた。
 転落中、太めの枝を掴んだ彼は大車輪の要領で身体を回転させ、反動を利用して再びこちらに舞い戻ってきたのだ。
 山篭りやUMAとの戦闘によって培われた人間離れした身のこなしを惜しげもなく披露して、
「転がり落ちてる中途でヒラタケ見つけたぞ」
「マジか」
 涼しい顔で挙げる驚異的な戦果に、詩人は思わず目を丸くした。

 ひょっとしたら彼は藤原信濃守の生まれ変わりなのかも知れない。
 いや、むしろ偉大なる先人の霊魂と憑依合体した可能性もあろうか。
 どうやら夢じゃないらしい、あれもこれも。そんなことを考えていたら、何か直政の背中に後光というか、藤原信濃守の影向が見えるような気がした。
 マジリスペクトである。

 一方、彼の人外っぷりに度肝を抜かれたのはビビオンちゃんである。
「あ、あわわわわ……何かどえらいのに襲い掛かってしまった喃」
 太めの眉を持ち上げて、両手を口元に寄せて大慌てする彼女からは、先ほど感じたシグルイ的な何かは全く感じられなかった。
 雰囲気が変わって声をかけやすくなったことに気がついたのか、
「おい、お前。ミンミンちゃんに何したですか。即刻治療して治療費を私に寄越すです」
 ハイエナの如き速さで喰らいつくモッさん。
「え、えぇぇぇぇ……?」
 更に腰が引けたビビオンちゃんの肩をがっくんがっくん揺らしながら、有り金を巻き上げようとする彼女の態度は、まさにチンピラ。
 圧倒的にチンピラであった。

 詩人は両虫っ娘らの不毛なやり取りに少しばかり頭を痛めつつ、
「いや、まあ大方理解が及んだよ」
 疲れた様子で呟いた。
「どういうことですか、お兄様?」
 モッさんがキョトンとしながら問いかけてくる。
 詩人は彼女がどさりと放り捨てたミンミンちゃんの傍まで近づいて、頭に生えたキノコを指し示した。

「ほら、彼女の頭の上から出ているキノコを見てくれ。これは別段、とあるゲーム雑誌のオマケ漫画真似している訳ではない。恐らくこれはセミタケ……冬虫夏草の一種だ」
「セミタケ……?」
 胡乱げな眼差しでセミタケを見つめる部員たち。
 ミンミンちゃんの頭から出たキノコは、何処かツクシに似た形状をしていた。
 セミタケを見つめる部員たちの表情は、いまいち得心がいかないと言った様子である。
 多分、何故人の頭からキノコが出るのか、とでも考えているのだろう。
 揃って頭を捻っている中、モッさんだけが透き通った瞳を爛々と輝かせていた。

「高級漢方の一種じゃないですか!」
 ぶちっ。
 モッさんは凄まじい手さばきで、ミンミンちゃんの頭からセミタケを引き抜き、
「セミタケは漢方にならないぜ」
「何だ、ゴミか」
 遥か遠方に、全力で投げ捨てた。

「あうっ」
 最初から最後まで被害者であったミンミンちゃんは、キノコを引き抜かれた瞬間、マンドラゴラを思わせる表情を浮かべたかと思うと、
「ハッ、ここは……? 確か小生は『マイタケ採りまくってお金持ちになっちゃおう』ミッションに従事していたはずでありますが……」
 我に返って辺りをきょろきょろと見回し始める。
 だが、そうしていられるのも束の間で、すぐ傍に立っていた詩人の存在に気づいて、愛嬌のある顔をまるで茹でだこのように紅潮させた。
「し、詩人さんっ。女の子の寝顔を近くで見ていちゃ駄目なのでありますっ!」
 ヘルメットを目深に被って完全防備の体勢を取るミンミンちゃん。
 身体まで、まるでアルマジロのように丸くなった彼女は、男の保護欲を掻き立てる可愛らしさをふんだんに振り撒いており、健全な男子高校生ならば思わず頭をポンと撫でてしまいそうになる魔力を秘めていた。
 少なくとも、物欲まっしぐらにマイタケをあさりに来ていた少女のする仕草じゃないことは確かである。

「ミンミンちゃんは元々セミの虫っ娘だ。多分、セミタケの胞子に対する耐性がなかったんだろう。それで説明がつく」
 美少女オーラを迸らせるミンミンちゃんには頓着せずに、彼女の身に何が起こったのかだけを冷静に分析する。

「……へ?」
 頭の中にある情報を整理して、分かりやすくまとめたはずの発言は、何故か周りに奇妙と取られてしまったらしい。
 何を言っているんだと怪訝の色を浮かべる部員たちに、意外そうなモッさん。
「あれ、お兄様。今、虫っ娘って――」
 彼女は何か言いたげに眉根を八の字に寄せた。

「ん……? 何だよ、モッさん」
 モッさんの態度が理解できず、詩人が語気を強めて声をかける。
 すると、彼女は慌てて視線をそらして、
「あ。いえ、何でも」
 と何事もなかった風を装った。
 彼女のそんな態度には多少引っ掛かるところがあったのだが、このままいつまでも雑談に花を咲かせていると、異変を明らかにするまでに日が暮れてしまいかねない。
 詩人はこほんと咳払いをして、ビビオンちゃんとやらに問いかけた。

「このマイタケ畑も、冬虫夏草もお前の仕業か?」
「う、うむ。あちきの力でキノコを育てたのです喃」
「どうやって?」
「えっと、それは……」
 ごそごそと法衣の懐に手をやって、取り出だしたるは一本の太くて長い、ナメコ。

「は、ナメコ……?」
 それは間違いなく、味噌汁の具に入っているあの、巨大バージョンな奴であった。
 天然ものが20センチを超えると言うことは割と有名な話だったりする……のだが、流石に1メートルを越えるものは寡聞にして見たことがない。
 呆気に取られる詩人を尻目に、ビビオンちゃんはナメコを得意げに振り上げた。

「このマジカルステッキで、ぽうっと胞子を飛ばすんです喃」
 マジカルステッキと申したか。
 じわじわと感じる頭の痛みに耐えながら、
「それをマジカルステッキと呼ぶことには、凄く抵抗感があるんだが……本当に、胞子を飛ばせるのか?」
 あくまでも疑いの眼差しを向ける詩人に対して、ビビオンちゃんはむうっと頬を膨らませた。

「試しにやってみます喃」
 ナメコステッキを振り回し、何やら魔法少女のようなポーズを取るビビオンちゃん。
 見てくれが山伏じゃなければ、少しは決まっていたのかもしれない。

「はじめちょろちょろなかぱっぱー。呼ばれて飛び出て、すぷらったー。ええい、マッシュ、オン、マジック☆」
 くるくるくるくる、とまるでバトンのようにナメコステッキが回転する。
 現れる魔法陣。
 だが、その柄はキノコ模様。
「おい、何か縁起でもないワードが混ざってるんだが――」
 詩人の制止の声も彼女には届かず、ビシッと振られたナメコステッキの先端から、何か尋常でない粉吹雪が飛び出てきた。
 あれが胞子なのだろうか。
 白い灰状の奔流は手近な樹木にばしゃあっとぶつかったかと思うと――
 一面に並び立つシイタケに変化した。
「何でシイタケ……?」
 詩人の低い呻きを誉め言葉と取ったのか、
「魔法少女、いやマジックマッシュに不可能はないのです喃」
 胸を張って、大威張りモードのビビオンちゃん。
 マジックマッシュじゃ幻覚じゃねえか、とか思わないでもなかったが、詩人はツッコミの言葉をグッと飲み込み、口元に手を当てた。

 いずれにせよ、これでとにかく状況は理解できた。
 この山に住むキノコバエのビビオンちゃんは、恐らく餌の確保か何かのために、ナメコステッキを使って食用キノコの増殖を行っていたのだ。
 それを何処からか探し当て、無断で失敬しようとしたのがミンミンちゃん。
 冬虫夏草を植えつけられたのは、防犯とお仕置きも兼ねて……と言ったところだろう。
 詩人がそう推測すると、ビビオンちゃんは当たりだとばかりに、うんうんと何度も頷いた。

「はいです喃。ここのマイタケはご近所さんでも結構評判が良いのです喃」
 聞けば、自分で食べる分以外は麓村の人たちにお裾分けしているというのだから驚きだ。
 お裾分けという前近代的な親切をナチュラルに行うことのできる子というのは、生き馬の目を抜く現代において貴重極まりない存在であると言って良い。
 言うなれば、妹系悪徳キャラであるモッさんとは対極に位置する女の子。
 万が一モッさんがナメコステッキを持っていたとしたら、価格破壊や値の釣り上げなど、様々な謀略を駆使して、ご近所さんと血みどろバトルを繰り広げたであろうことは想像に難くない――。
『TPP! TPP! TPP! 最後に笑うのは私ですッ!』
 詩人はモッさんによる蹂躙を思わず想像してしまい、本当にステッキの主がビビオンちゃんで良かったと、少しげんなりしてしまった。
 詩人に対してはあまり優しい顔を見せてくれない運命の女神も、流石にそれくらいの配慮は持ち合わせているということだろう。
 いやはや、本当に良かった……
 などとしきりに感心してしまったのがフラグであった。

「その素敵ステッキ、寄越しやがれです」
「ぴぎゃんっ!?」
 頭蓋がぐしゃりと嫌な音を立て、ビビオンちゃんという人柱が地面に深く突き刺さった。
 いつの間にやら背後を取ったモッさんが、彼女をかつぎ上げて強力なジャーマンスプレックスを見舞ったのだ。
 いや、ジャーマンスープレックスなどという生やさしいものでは断じてない。
 身体を折り曲げての受け身などは許さず、頭で全ての衝撃を受けることを強要されたそれは、最早原爆脳天落とし《スープレックスドライバー》とでも言うべき代物であった。
 当然のことながらよい子どころかプロレスラーだって真似してはいけない殺人技である。

「な、何をするのです喃!?」
 虫っ娘である彼女だからこそ、涙目になるだけで済んだわけだが、一体どんな身体構造をしているのであろうか。
 ギャグ補正でも働いているのだろうか。

「はっはっはっは、はっはっはっはっは……!」
 ビビオンちゃんの涙目の抗議を笑い飛ばしたモッさんは、まんまと奪い取ることに成功したナメコステッキを高々と掲げ、
「こんな便利アイテム。片田舎の人間関係改善ツールとして使うだけでは、独占禁止法に反します! ここは私が友好的に活用してやるです!」
 資本主義に毒された鬼畜っぷりを惜しげもなく披露してくれた。
 
「ま、待って――」
 慌ててモッさんからステッキを取り返そうとするも、
「はじめちょろちょろなかぱっぱー。明智光秀、すぷらったー。ええい、マッシュ、オン、マジック☆」
 ビビオンちゃんは、そびえたつキノコウォールに阻まれてモッさんを追いかけることができない。
「あ、あぁぁああ……一族の宝物がぁぁ……」
 颯爽と森の奥へと走り去っていくモッさんの後ろ姿を呆然と見送りつつ、彼女は滝のように涙とともに、その場に力なく崩れ落ちた。


「ううむ……」
 ぽりぽりと頬を掻き、どうしたものかと考える詩人。
 正直厄介なことになってしまった。
 山奥で平和に暮らしていた虫っ娘に対して、自分が連れてきたモンスターがあまりにも失礼……というか犯罪行為をしでかしてしまったのだ。
 気まずいなんてもんじゃないというか、良心がキリキリと痛んでどうにかなりそうであった。

 部員たちも詩人と同じ気持ちであったらしい。
「おい、部長。このままにしておいて良いのか?」
「不安布里先生、これ……この子ちょっと可哀想じゃ」
「プロフェッスール……」
 縋るようなまなざしの中に、「お前ならどうにかできるだろ?」というような期待が見え隠れしている。
 確かに蛇の道は蛇というか、身内の恥は身内で雪ぐものである。
 詩人は宙を仰ぎ見て、頭の中で今後起こりうる展開を考察、更に最善と思われる策を選別していった。

 ナメコステッキによる金儲け……。
 即席で作れるきのこの山……。
 ちなみに詩人はたけのこの里派である――。
 様々な思考の断片がいくつも複雑に絡み合っていき、一つの絵画を構築していく。
 その題名は、『指針』。
 詩人は長いため息をついた後、涙目の少女に希望を与えるべく口を開いた。

「ビビオンちゃん」
「ぐす……はいです喃」
「おすそ分けしたキノコについては、ご近所さんに感想とか貰ったことあるのかい?」
「え? いや……。そういうのはでしゃばりになっちゃうから、聞かない方が良いっておじいちゃんに教えられたです喃」
「成る程な……」
 ビビオンちゃんはお爺ちゃんの言いつけをよく守る、とても良い子であった。
 こんな善人を泣かしたままにしておいては末代までの恥――と、詩人は意気込みを新たにして、追加情報を元に思案を深め、仮説が正しいかどうかを再検証していく。
 一度目の検証……問題なし。
 二度目の検証……問題なし。
 そうして三度の検証を経た結果、詩人の脳内で構築された計算式がハッピーエンドに至るまでの展開をはじき出した。

「大丈夫だ。ビビオンちゃん。君のところにナメコステッキは必ず戻ってくる。賭けても良いぜ」
「それはどう言う……」
「うん、とりあえずは向かおうじゃないか。採集したキノコの集積地点。山のキノコギルドに」





「嬢ちゃん、これは買い取れねえよ」
 鹿角や蛇の浸け酒、はたまたイノシシの剥製などが雑多に置かれたテントの中。
 その奥にどっかと座り込み、ラジオに耳をぴくつかせ、東スポに眼を走らせる捻り鉢巻の一声によって、モスキート系カツアゲ少女のよこしまなる願いは無残にも粉々に打ち砕かれてしまった。

「ど、どどど、どういうことですか!? このマイタケが全部買い取れないなんてッッ!! 天然ですよ!? 高級品ですよッ!!」
 あくまでも食い下がるモッさんに対して、捻り鉢巻の親父は困ったように笑うと、
「嬢ちゃん、それビビオンちゃんのマイタケだろう? とりあえず左っ側の棚見てみな。モノホンの天然マイタケが並べてあっからよ」
「んぅ? はいです。一杯あります……って、1パック3000円……。おお……やはり伝説はまことであったのか……」
「いや、ジブリネタとかはどうでも良いからよ。嬢ちゃんの持ってきた奴と見比べてみてくれや。天然と偽物の違いって奴が分かるからよ」
 にべもない言葉を放って、再び東スポに戻る親父。
 そのあまりにもぞんざいな態度に、高値で売れると踏んでいたモッさんは不服とばかりに口を尖らせた。

「エロ新聞なんか読んでるから見間違えるんです! どっからどう見ても同じマイタケ……同じキノコじゃないですかっ!」
 いきり立つモッさんの暴言に、流石の親父も眉をひそめる。
「おいおい、節穴アイにも程があんだろうが……良いか? これは――」
 がるるとにらみ合う両者の剣幕を見て、詩人は彼らから少し距離を取った場所で興味深げに観察していた商品を、いったん陳列棚に戻すことにした。
 身内の不祥事、流石にこれ以上は見ていられなかったのである。

「天然物と栽培物の根本的な違いって奴だよ」
「げえっ、お兄様ッッ……と、それに皆までっ!?」
「マジカルステッキ返してくださいです喃!」
「ええい、寄るな下郎。推参です!」
 じゃーんじゃーん、と銅鑼がテント内に鳴り響いた気がしたが、恐らくは幻聴であろう。
 全く三国志の英雄と出くわしたわけでもあるまいし、と内心ツッコミを入れつつも、

「とにかく、ギルドマスター《とっつぁん》の言葉を信じて、二つのキノコの香りを嗅いでみろよ」
 ビビオンちゃんといつまでも店の中で取っ組み合い続けるモッさんを、語気強めに叱りつける。
「ぶう」
 途端に膨らむモッさんの頬。相変わらず見てくれだけは美少女級なので、こうした仕草も一応可愛い……のだが、中身のことを思うと、何とも言えない微妙な気分になってしまうのであった。
 モッさんは不承不承といった態度を隠そうともせずに、陳列棚に並べられたマイタケに鼻を近づけ――

「こ、これはっ……」
 まず驚愕の声があがった。
 続いて、彼女の活発な四肢が雷に打たれたように硬直する。
「その……全然、香りが違うです。これは、う、ん……甘い……?」
 何度も自分の持参したマイタケと嗅ぎ比べるも、その結論が覆ることはなかったようだ。
 詩人は彼女の反応が予想通りのものであったことを確認すると、満足げにこくりと一度頷いた。

「そもそもマイタケというキノコは栽培の可能なキノコだ。原木栽培にも菌床栽培にも適しており、市場に流通しているものは栽培物がほとんど……。そんな入手しやすいキノコの筆頭とも言えるマイタケの天然ものを、1パック云千円も出して買おうとする者がいるのは何故か? それは単純に美味さが段違いだからさ」
「……へえ、良く分かってんじゃねえか」
 親父が口笛を吹いて賞賛を漏らす。

「水の違いや、生育環境の苛酷さなど……美味さに差がつく理由はいくつか考えられるが、とにかく『生物が自らの力で生まれ、育った』ものは、安易に手をかけられたものよりも優れた風味を持つようになる。これが、ビビオンちゃんのマイタケが放置されていた理由と言うわけだね」
 よくよく考えて見れば、いくらビビオンちゃんが見張っているにしたって、プロの闊歩する里山でマイタケがそのまま放置されっぱなしというのは、やはり不自然であったのだ。少なくともあれが天然ものであったのならば――。
 プロのハンターたちは、鍛え抜かれた眼力でビビオンちゃんの育てているマイタケを『売り物にならない劣悪品』と判断した。
 人工的に生育を促している以上、それは栽培ものとなんら変わるところはない。ハンティングの対象とは成り得ない。
 これこそがあのマイタケ群体が放置された理由だったのである。

「まあ、そう言うこった。ビビオンちゃんのキノコは、売りもんにはできねえ。天然物と比べりゃ、やはり味が格段に落ちるからな。そんなもんを棚に置いちゃ、俺たちキノコハンターの誇りに傷がつくってもんよ」
 詩人の推測を静かに聞いていた親父が、照れくさそうに、そして何処か誇らしげに口を開く。
 “本物の魂”というものがあるのだとすれば、それは間違いなく彼に宿っていることだろう。
彼の堂々とした話し振りに、詩人は独りでに持ち上がってくる口元を押さえられずにいた。
 それは偉大な先人の姿を見ることができたから。目指すべき第一線の頂きが、まだまだ遠くにあるであろうことが確認できたからだ。

「そういうことだから、いくらそのナメコステッキでキノコを作ったってモッさんの懐は暖まらない。ほら、さっさと彼女に返してやれよ」
「ううう~~……ごめんなさいです」
 詩人の駄目押しに従って、モッさんが口惜しげにナメコステッキを差し出した。
 詩人はビビオンちゃんの手に件のステッキが譲り渡されるのを確かに見届けると、一仕事終えたとばかりに、うんと背伸びをした。
 これにて一件落着だ。
 謎も解けたし、キノコ狩りも少しは堪能できた。ステッキもあるべきところに戻ったので、もう何も言うことはない。
 だと言うのに、ビビオンちゃんは何故か複雑そうな顔をしていた。

「……とっつぁん、ごめんなさい。美味しくないキノコをおすそわけしていたなんて知らなかったのです喃……」
 心底悲しそうに言う彼女の呟きを聞いて、詩人は思わず吹き出しそうになってしまった。
 やはり、彼女は善人なのだろう。
 何とも優しい空気がテント内に流れる中で、こほんと親父が咳払いした。

「いやいや、ビビオンちゃんから貰うおすそ分けはいつも美味ぇよ。感謝してる」
「でもでも、さっき――!」
 多分親父の言っていることは事実なのだろう。彼の瞳に偽りの色は混じっていなかった。
 それでも信じようとしないビビオンちゃんに対して、にっちもさっちもいかなくなった彼は、
「んなもん、孫みてえに可愛いがってる子からプレゼントもらって美味くねえなんていう奴がいるわけねえじゃねえか!」
がしがしと頭を乱暴に掻き毟りながら、やや顔を赤らめてまくし立てる。
 あまりの剣幕に一度びくりと硬直するビビオンちゃん。
 だが、すぐに言葉の意味するところが自分への優しさであったことを悟り、
「キ、キノコ屋のとっつぁん……」
 ぽろぽろと大粒の涙を流して、彼にひっしと抱きついた。






 その日の晩。
 麓にキャンプを張った我らが生物部は、『山のきのこ』屋で仕入れた各種キノコや、モッさんが無駄に増殖させたマイタケを用いた鍋物を囲み、各々舌鼓を打っていた。

「うーん……」
 キノコ鍋を突っつきながら、モッさんは何やら先ほどからずっと呻き声をあげていた。
「どうしたんだよ」
「いや、天然物とビビオンちゃんの栽培物を一緒くたに入れてみたら、どっちがどっちか分からなくなったです」
 箸の先を突き出た唇に寄せて、困ったように上を向くモッさん。
 度の大き目なメガネ越しに見える深い色の瞳は、テーブルに置いてあったカンテラの灯火を受けて、きらきらと輝いていた。
 意地汚さが発揮されていない時は、モッさんは非常に可愛らしいのだ。意地汚さが発揮されていない時に限っては。
 詩人は彼女の珍しい表情をぼけっと見つめながら、
「……まあ、そんなものだろうな。味に違いがあるなんて言っても、二つが一緒に混ざってしまえば、両方が両方に影響しあうものだろう。だから今更、こっちが、あっちがと選り分けることなんてできやしないさ」
 独り言のように呟いた。
 別に深い意味で言ったわけではない。当たり前のことを述べただけであった。

「お兄様は――あー、いや。何でもないです」
 だから、彼女の含みを持たせた態度が意外に思えたわけで、
「……? 変な奴だな」
 少し、心に残ったのだ。







[28504] 9ページ目 「仮面ホッパーの素顔・前」
Name: 三郎◆8c60de91 ID:1ea651fb
Date: 2012/05/16 20:40
 初夏の日差しに熱せられたポリウレタンの舗装面から、じんわりとした暑さが伝わってくる。
(いける。……いける。がんばれ、私)
 自分を励ますように小さく呟き、大きく息を吸い込んだ。
 三回行われる試技の内、彼女は既に二度の失敗を重ねている。
 もう後がない。後一回で彼女の運命は決定付けられてしまうのだ。
「いきまーす!」
 手を掲げて、彼女はスタートのタイミングを計り始めた。
 勇気を振り絞ったその掛け声に応える応援は遠く、少なかった。ただでさえトラック内で複数の種目が同時進行されている上、自分が建っている場所はインフィールド。だから、歓声の少なさも不思議ではない。

 取り囲むように聞こえてくるトラック競技の歓声を意識の外側へ放り投げ、彼女は目の前のスタンドに取り付けられた縞模様のバーを睨みつけた。
 頬から流れ落ちる大粒の汗。
 既に試技開始までのカウントは30秒を切っている。
(もう、いかなきゃ)
 彼女は急き立てられるようにして、一二、一二と助走をはじめた。初めはゆっくり、徐々にテンポを速めていく。ジャンプ位置と彼女の距離が縮まっていった。
(お願い、クリアさせて)
 無我夢中で踏み込んで……思い切り跳躍。
 彼女は宙に浮き上がった身体を制御すべく、空中で逆足を振り上げた。
 努力は怠っていなかったはずだ。少なくとも、空中での挙動にミスはない。元々、何度も練習してきたベリーロールなのだから、失敗なんてする訳がないのだ。絶対に。
 彼女は腹の先すれすれに横たわっている“着いちゃいけない地平線”を見下ろしながら、天の采配に身を任せた。
(――お願いだから)
 腹部がバーの向こう側へと抜け出でて、逆足がそれに続いていく。後、もう少し。
 重力に従い、彼女の身体がぽすんとマットの上に落ちる。彼女はマットに横たわったまま、目を開いた。
「結果は――」
 彼女の瞳にバーがフィールドへと転がり落ちていくのがはっきり見えて――

 ――カラン。
 ビー球の乾いた音がして、彼女は深いため息を吐いた。
 落ちかけた夕日によって電柱の影法師が林立している。
 アスファルトで舗装された狭い小径《こみち》。彼女は駄菓子屋の壁にもたれかかっていた。
「もう帰んなぁ」
 店主のお婆さんから心配そうな声をかけられる。
 彼女はそれに生返事をしながらも、光の届かぬ陰溜まりの中から動くことができなかった。
 握り締めたラムネ瓶はもう空になっている。
「帰らなきゃ……」
 彼女は瓶を備え付けの回収箱へ押し込み、うんしょっと電柱から背中を離そうとし――
 目の前に落ち行くバーの幻影がちらついて、やっぱり離すことができなかった。
 何時までたっても足を前に向けようとせず、こうして駄菓子屋の前で時間をくさくさと潰している理由など明らかだ。
 家に帰りたくない……ただ、その一言に尽きる。
 現在の高校記録からマイナス15センチメートルという越えられなかった大きな壁が、彼女の心を翳らせていた。

「……姉さんたち、待ってるだろうな」
 我が家では今頃、今日開かれた大会の打ち上げ祝賀会が始まっていることだろう。……もちろん勝利を祝うための。
 今年度の関東高等学校陸上競技大会に、彼女の姉妹は四人が出場し、内三人がインターハイへの切符を手に入れた。明日は学校でちょっとしたニュースになっているはずだ。……でも、労われる対象に自分は入っていない。
 彼女は赤くなった目を擦る。手の甲についた涙は乾く暇がない。自分が何だかとてもちっぽけなもののように感じられたため、彼女は耐え切れなくなってぎゅっと目を瞑った。
 だが、目を閉じたくらいで悲しさが和らぐことはない。網膜に焼きついた失敗の記憶が、幾度となく彼女の心を苛んでいくのだ。
「うぅ……」
 何をしたって逃れられないから、彼女は悲しげに咽ぶことしかできなかった。

『十分に凄いって! これ以上なんて高望みだよぉ』
 と、同級の友人は慰めてくれたけれども、そんなものは気休めにもならない。
 “ヒトと一緒”では意味がないのだ。
 ――何故なら少女は……“バッタの虫っ娘”なのだから。

 そも、元バッタとニンゲンは身体のつくりからしてまったく異なる。
 そのことは姉たちが跳躍姉妹《グラスホッパーズ》と称されて、高校記録を塗り替えていく様を見ていれば良く分かった。自分たちは跳ぶためだけに生まれてきたイキモノで、自分たちが高く跳べることは当たり前過ぎることなんだって。
 すらりと伸びた長い足と、みなぎる自信。緑色の髪を輝かせ、華麗に宙を舞う姉たちの姿を見るたびに、少女はいつも強い劣等感に襲われた。
 ……何故こうも自分は姉たちと違うのだろう。
 少女の足は平均的なスポーツに勤しむ女子高生のそれから何ら逸脱するところがない。ヒト並みの脚力に、平均を超えることのない体格と、他人に誇れる部分が何もなかった。

『姉妹なのにおっかしいなあ……』
 姉の悪意のない言葉が、少女の居場所をなくしていく。
 当たり前がこなせぬ少女にとって、自分がバッタであったことなどは重荷でしかない。むしろ、背中の羽が邪魔をして背面跳びに移行できない分、邪魔ですらあった。

『同じグラスホッパーズなのに、あの子は違うよね』
 純血種《サラブレッド》をやっかむ他人の陰口は、ある意味で正論だと自分でも思う。何と弁明したところで、跳べないバッタはもうバッタではないのだ。
 少女は自分という存在が、そこにいるための意義を見出すことができずにいた。

「オマエの役なんてねーからッ!」
 寄る辺ない心境にあったからだろうか。
 隣の公園から聞こえた幼い罵声は、心に深く突き刺さった。
 思わずもたれていた電柱から身を離し、隣の公園を覗き見る。園内では、小学校低学年と思しき少年たちが何やら諍いを起こしていた。
 少年たちは何やら玩具をじゃらじゃらと身につけている。確か最近テレビで人気放映中の変身ヒーローにちなんだアイテムだったはずだ。ごっこ遊びでもしているのだろうか。
 なじられた子は、泣きそうな顔で俯いていた。しばらく観察して、はたと気づく。なじられた子だけ、玩具を持っていなかった。
 持つべきものを持っていないだけで、居場所を失ってしまう……そう言うことなのだろう。でも、彼女にはそれが耐えられなかった。
 ――何とかしてあげたい。とぼとぼとこちらへ歩いてくる少年に、声をかけて慰めてあげたい。
 胸元に手を当て、意を決した彼女は少年の元へ向かおうとして、気づく。自分が泣き顔であったことに。
 急いで滲んだ涙をジャージの裾で拭いとっても、赤い目はごまかしようがない。
 何か解決策はないかと考えて、駄菓子屋に売っていたヒーローのお面を思い出した。
「これ、ください!」
 彼女は急いでお面を購入し、サブバッグに押し込んでいた赤いゼッケンを取り出した。
 マフラー代わりとして首に巻くには少し長さが足りないが、ヒーローにマフラーはつきものだ。
 燃える赤さは正義のシルシ。おあつらえ向きではあった。
 彼女は負け犬であった自分を捨て去って、少年のために変身する。

「……ねえ、君。泣かないで私と遊ぼうよ」
「……お姉ちゃんは?」
 少年の問いかけに、彼女は胸を張ってこう応えた。

「私は? そう、私は……有言実行完全無欠の正義の味方、仮面ホッパーだよ!」




 暖房に熱せられた晩冬の教室内で、詩人は机に頬杖をついていた。
「はぁ……」
 呆れて物も言えなかった。
 ねめつける先ではひらりとプリーツスカートが踊っている。
(せめてジャージを履けば良かろうに)
 肉食獣と化した男子高校生どもの注目を一身に浴びつつ、ポニーテールのクラスメイトは教室後ろの掲示板高くに、チラシを貼り付けようとしていた。

「おーっとっと、よーっとっと。わわわぁっ」
 彼女――陸上部のアイドル、水野さんは人より大分背が低い。故に踏み台にした椅子だけでは高さが足りずに、教科書や辞書類を継ぎ足していた。
 けれど、彼女がより良い位置にチラシを掲示しようと右往左往するものだから、即席の脚立は変形し、既に崩れかけのジェンガみたいになっている。
 見ているだけでひやひやものだ。なのに、「危ないよ」と声をかける者は一人もいやしない。
 今が放課後でほとんどのリア充が部活や遊びに繰り出していることも原因の一つではあるが、それとは別に大きな問題がある。それは今彼女が取っている体勢であった。
 背伸びした後姿から見えるスカート内の肌色は、地上から高さ1メートル50センチほど上に浮いている。そう……椅子に座れば、完全に“見える”位置だ。
 そんな彼女の後姿を目にした非リアの男子高校生どもが親切心を覗かせて、イケメンスマイルで注意するわけがない。
 彼らの面構えは、今や「千載一遇の好機ッ!」という戦国武将のそれになっていた。目下のところ、普段見ることのできない楽園を、脳内ハードディスクに保存しまくるべく無言で凝視をし続けている真っ最中である。 
 何と言うか……必死すぎる。
 詩人は涙のちょちょぎれる思いであった。

 くしゃくしゃと髪を掻き回し、どうしたものかと思い悩む。
 常ならば、もう野外観察《フィールドワーク》に出かけている頃合なのだが。
(大体、見つけてしまったのがいけなかったんだ)
 彼女を無視してこのまま観察に向かったとして、まかり間違って怪我でもされようものなら、夢見が悪いなんてものじゃない。
 かといって気軽に声をかけられる間柄でもない。
 自慢ではないのだが、詩人は同じクラスに所属していながら、彼女と話したことが一度もなかった。
 何せ詩人は生物部部長。県立せせり高校の生ける腫れ物《アンタッチャブル》、バイオタ君である。クラスのパンピーどもからちやほやされている水野さんとは、住む世界が違うのだ。

 やきもきとした気持ちのまま心を決めかねていると、ついに土台の本が不等沈下を起こし始めた。
「……おい、危ないぞ」
 始めは小声。だが、彼女には聞こえなかったようだ。
「おい、危ないって」」
 次は詩人なりに大声を出した。
 邪魔をするなと非リアの視線が一斉にこちらへと向く。そこまでして下着を見たいというのか。
 全員が全員、「ニンゲン、食ぅ」とか言ってる森の賢人、猩々《しょうじょう》みたいな敵意を発している。……ああ、ぎらぎらとした光が見える。憎しみって目に見えるんだ。詩人は齢16歳にして初めて知った。
「フン、フフーン」
 四面楚歌の睨み合いの中、水野さんの素知らぬ鼻歌が聞こえてきた。
 よもや狙って下着を見せているのかと思ったが、別段そうではないらしい。彼女の耳にはイヤホンが取り付けられており、耳を澄ませばシャンシャンと音が漏れていた。
 上を向きながら聴覚を塞ぎつつ、それでもバランスを崩さないのは陸上部の陸上部たる所以だろうか。何ちゃって部員ではこうはいくまい。

「水野さん!」
 苛立ちながら、席を立って彼女へ近づいた。
 ようやく気がついた彼女は意外そうな顔でこちらへ振り返り――
「きゃっ」
 よりによって、ひどく妙ちくりんなタイミングでバランスを崩してくれた。
 小柄な身体が覆いかぶさってくる。
 詩人は彼女の柔らかそうな体躯を――

「あ、無理か」
 日頃から磨き抜いてきた危機管理センサーを駆使して華麗に回避した。
 彼女の体重+自由落下による加速=受け止めるの、マジ無理。
 それは自分の腕力で受け止められるわけがないという、至極合理的な判断によるものだった。一瞬の間に行われた精密な計算。勉強してきてほんとに良かった。

「へぎゃんッ」
 子犬を思わせる悲鳴がした。
「おっ、おい。へぎゃん! だってよ」
「ああ……へぎゃん! だ。死角のない萌えボイスだぜ。マジ震えてきやがった」
「流石にせ、せせせ拙者のも猛って来んさったばい」
 床にうつぶせに倒れる水野さんを目の当たりにして、非リアたちがざわめいた。
 どう考えてもざわめきの着眼点がずれていると思う。

「いたた……」
 鼻を擦る水野さん。詩人は嘆息しつつ、彼女の教科書を先んじて机の上に救助した。
「気をつけろよ」
 言って、彼女に手を貸してやる。
「えっ、バイオタ君? えっ?」
 起こされた水野さんは呆けた声を上げたかと思うと、何やら首を捻り始めた。
 詩人は礼もないのかとこめかみに手を当てて、苦言を呈する。

「不安定な土台なら、せめて三点確保はするべきだ」
 理路整然と忠告する。
 登山における三点確保は、どんな作業にも応用の利く優れものである。知っておいて損はないはずだ。
 今回の場合は、両足をもう少し広く取って、壁につけた片手を常に離さずに作業していていれば被害が防げたわけで……などと、のべつまくなしに熱弁を振るったものの、どうにも自分の親切は上手く伝わらなかったらしい。
 彼女の耳にはまだイヤホンが取り付けられていた。

「何でバイオタ君が……ええっ、やだ。もしかして。そういうことっ?」
 やだー、とか言いながら、水野さんが急に頬に手を当てて身体をくねらせた。
 言いたいことが伝わらない。
 正直、今日この時ほど異文化理解の歯がゆさというやつを感じたことはなかった。
 苛々しながら耳を指差し、イヤホンを取れと暗に伝える。

「あ、ごめん」
 ようやく察した彼女がイヤホンを取り外し、
「それで、どうしたの?」
 と笑いかけてきた。だが、もう事は起きてしまったのだから、用事という用事も最早ない訳で、詩人は仏頂面で切り返した。
「いや、用事は済んだよ。ぼくはもう部活へ行くから」
「生物部?」
「そう。じゃあね」
 くるっと回れ右をした瞬間、「あっ」と何かを思い出した彼女が呼び止める。

「ちょっとで良いから相談に乗って欲しいんだけど、これから時間空いてない?」
「空いていない。生憎ぼくは忙しい」
 即断即答。きっぱりと断る。
 布安布里詩人は生物部部長である。部長が部活に遅れては、部員に示しがつかないというものだ。
「わわわっ、待って! そんなに時間を取らないから~~!」
 あくまでも部活へ向かおうとする詩人の腕に、ずるずると水野さんがしがみついてきた。結構必死な表情だ。
 だが、知ったことではない。

「駄目だ、ぼくは部活に行く」
「けち! 話聞いてってばっ!」
「あー、もうっ!」
 振り放そうとするものの、流石は運動部と言うべきか。鉄の鎖を取り付けられたみたいに全然ほどける気がしない。
 日頃の鍛錬から生み出された元気パワーのたまものなんだろうか。正直、握力が骨に来る。
 畢竟、文化系男子である詩人と彼女の相性は最悪のようだ。えらく憎たらしい話ではあるが。
 こうなっては仕様がない。勝ち目がないなら、早めに済ませる。根負けした詩人が、
「三十分だ! 三十分だけだからなっ」
 折れた瞬間、側頭部に数多の紙礫《つぶて》が飛んできた。
「美少女、置いてけぇ」
「美少女、食ぅ」
「死ぬるがよかばい」
 猩々たちの、全力投球だ。
 憎しみのこもった制裁を払いのけながら、
「早く森に帰れよ、おまえらっ!!」
 詩人は蝦夷の若者みたいに強く叫んだ。





「実は友達の悩みを解決してあげたいんだ」
 開口一番に発した言葉は、強い意志を感じさせられた。
 空き教室の席に向かい合わせに座った水野さんは、真剣な表情でこちらの反応を待っている。
「幽霊部員の復帰、ねえ」
「うん。私たちも頑張ってはみたんだけどさ」
 聞けば、件の部員は半年近くも部活をサボり続けているという。
 部活に顔を見せなくなったのは、関東大会の翌日から。恐らくは大会での挫折が練習への忌避感に繋がっていると見るべきだろう。
 なるほど、友人であれば心配するのも仕方がない。少なくとも、打ちひしがれている友人を見て捨て置くような輩に友人と名乗る資格はないと思う。しかし――
「だったら、それを何でぼくに相談するんだよ」
 近しい人間の言葉に耳を貸さないと言うのに、別世界を生きる詩人に何とかできる訳がないではないか。
 詩人が面倒くさそうな表情をしていると、

「だって、バイオタ君はバイオタ君じゃん。虫とか、そう言うの得意でしょ? 多分。君も知ってるだろうけど、彼女は陸上部のエースグループ。グラスホッパーズの一員でさ」
 これこれ、と部活勧誘のチラシをひらひらと掲げた。
 経費節約のためか、白黒で刷られたチラシには「中途入部大歓迎!」の文句が謳われており、しなやかな長い足でハイジャンプする少女たちの姿がでかでかと写されていた。
 詩人は彼女らの背中を見て、合点がいった。
 ユニフォームの背中から、直翅目特有のまっすぐな翅が伸びている。
 彼女らはバッタの虫っ娘だったのだ。

「ああ、虫っ娘なのか」
「虫っ娘って?」
 聞きなれぬ単語を耳にしたせいか、目を丸くする水野さん。だが、すぐに本題を思い出し、件の少女について話題に上らせる。
「彼女、蝗田《こうだ》カエラちゃんって言うんだけどね。あ、名前のとおりハーフみたいでぇ。ちっちゃくて可愛いんだぁ」
 蝗田カエラという虫っ娘は、学校が終わるとすぐに何処かへと消えてしまうのだと言う。
 水野さんも何度か自分でも説得を試みたものの、決まって彼女はこう言って頑なな態度を取り続けた。
 跳べないバッタに居場所はないから、と。

「ねえ。バッタの気持ちってどんなの? バイオタ君知らない?」
 愛嬌のある顔に影が差す。
 目と鼻の先にまで寄せられた彼女の顔は、友達への思いやりに満ちていた。
 彼女が身にまとう制汗スプレーの甘い香りが鼻をついた、その時。

「おや、シリアスセンサーにばびっと反応が。私がブレイクしてやるです」
 人をおちょくる声がして、がららと引き戸が開けられた。
 突然の闖入者は藍色の柔らかい短髪をうきうきと跳ねさせて、大きなメガネの乗った形の良い鼻を得意そうに持ち上げている。
 華奢ではあるが、色気と活力に溢れた身体つき。
 彼女はそれをせせり高校の制服で包み込み、背中の二枚翅を震わせていた。
 って、おまえその制服何処で手に入れたんだよ。

「お兄……様?」
 闖入者が口をパクパクさせて仰天する。
 詩人と水野さんを交互に見比べて、「むむむっ」次に両者の距離を定規で正確に計測し、

「デーデーデーン!」
 何故か諸手をあげて、何処かで聞いたことのあるBGMを口にした。
 何のことだか分からずに、きょとんとする水野さん。
 ……だが、詩人には良く分かった。
 既にこの闖入者との付き合いは半年を過ぎようとしている。
 妹系モスキート――つまるところモッさんは、取り溜めた裏番組を一気に消化することをこよなく愛する人種、つまりテレビっ娘なのだ。

「デーデーデーン! でっでっでっでっでっでっでっで、ジャジャジャン!」
「どういう流れで、サスペンス展開になるんだよ」
「勿論、妹系愛人と泥棒猫の間で交わされる三角関係のもつれからに決まってるじゃないですか! ほんの出来心から始まった兄の浮気。湯煙の立ち上る中繰り広げられる愛憎劇の数々。刑事役は『細かいところまで気になってしまうのが僕の悪い癖』なナイスミドル……。そして今明かされる驚愕の新事実。実はお兄様は被害者であり、真犯人だった!!」
「自殺なのか」
「そんなことは些事です、瑣末、枝葉です! 本質なのは湯煙脱衣。だからとにかく、お兄様グッジョブ! こんな美味しい展開を待っていたっ!!」
 親指を立てて、ぺろりと舌なめずりをするモッさん。すげえ嫌な笑い方だ。
 そういえば、昨日は火曜日であった。てか、妹系の愛人って何だよ。

「ええと、水野さん」
 ずきずきと痛む頭を抱えながら、詩人はモッさんを無視して水野さんに声をかける。
「え、は、はい。何?」
「蝗田さんのことは引き受けた。ぼくなりに調べてみるから、期待せずに待っていて欲しい」
 その言葉に水野さんの表情がぱあっと明るくなった。
「うんっ」
 瑞々しいマリーゴールドを思わせる華やかさを取り戻し、彼女は嬉しげにへへっと笑う。

「何かバイオタ君、変わったね」
「何がさ」
「今までクラスメイトと話すことなんてなかったじゃない。話しても植村君みたいな部活メイトくらいで……。もしかして、こんな風に話せたの、生物部員以外じゃ私がはじめて?」
「あー……」
 そう言えばそうだったかも知れない。
 言葉に詰まる詩人を見て、

「デーデーデーン!」
「おい、一々茶化すなよッッ!!」
 モッさん怒涛の合いの手が、驟雨の如く降り注いできた。





 かくして、生物部一同は、夏に起こったパネェタカアワダチソウ事件以来、すっかり集合場所として定着したご町内の空き地に集合した。
 詩人は目の前に整列した部員たちを順繰りに見ていって、思わず口をへの字にする。
 何か二人ほどおかしな格好をしたのがいた。

「美少女を拉致すると聞いて、泳いで参った」
 山田君、ちょっと警察呼んできて。
 初弾から危険発言をぶちかましたのは、モテたいワナビの間茂であった。
 大人の映像作品を作る監督みたいなサングラスをかけて、何故かデジタルビデオカメラを携帯している。
 そのカメラで、一体ナニのどういうところを撮るつもりなんだろうか。
 詩人は深く考えないことにした。 

「陸上部の幽霊部員を説得するんだろ?」
「あ、陸上部だったんですか。私てっきり、生物部に幽霊部員がいるのかと」
 生物部の比較的良識派――植村直政と芳川友子(本名)こと小鳥比菜が頭上にクエスチョンマークを浮かべる。どうやら、彼らには正確な情報が伝わっているようだ。
 詩人はミッションの事前準備として、水野さんに蝗田カエラちゃんなる虫っ娘に関する聞き込み調査を行っていた。
 部員への連絡はモッさんに一任したはずなのだが、何ゆえ伝達情報に違いがあるのだろう。

「……っ」
 二人の会話を聞いて、隣にいたエレーヌが心持ち顔を赤くして俯いた。
 ちなみに、おかしな格好をしているもう一人はエレーヌである。
 彼女は何故か、でかでかと光る十字架を首からぶら下げていた。服も明らかに教会か何かで布教活動に勤しむ面々のそれである。
 黒を基調とした修道服に、純白のヴェールが映えている。
 金髪碧眼、文字通り超絶美少女がシスターの格好をすると凄まじく似合う……似合うのだが、別にここは教会ではないし、彼女が出家したと言う話も聞いていない。
 首をかしげて、思案する。
 普段あまり突飛な行動をしない彼女だというのに、これだ。
 部活動の後でコスプレパーティーにでも向かう予定だったのだろうか。よもや。
「エレーヌ君?」
 詩人が問いかけると、彼女は所在無さげに視線を泳がせた。
「うぃ……私はファントーム(幽霊の意)とお話するって聞いた」
 恥ずかしそうに縮こまる彼女の姿に、ようやく合点がいく。
 なるほど、真面目な彼女はモッさんの連絡を言葉どおりの意味で捉えてしまったわけだ。
 修道服や十字架は、幽霊と対峙するための退魔装備。素直なだけだとするならば、彼女には情状酌量の余地がある。
 むしろ、彼女の誤解をフォローしなかったモッさんにこそ非があろう。
 ニヤニヤしては和んでいるモスキート少女のキモスマイルを見ていると、狙ってやったのではないかと言う疑問が湧いてくるが……
 そんなことは今、重要ではない。
 問題は茂だ。

「軽薄野郎には嘘教えといたです」
 理由は三秒で明らかになった。
「え、何。俺いじめられてんの? ねえ――、ねえってば!?」
 涙目でモッさんに詰め寄る茂が何だか可哀想に思えてきたが、どちらにせよ無垢な陸上少女にナニカをしようとしていた外道である。情状酌量の余地はないだろうと考え直して、号令する。

「陸上少女――蝗田カエラちゃんなる虫っ娘の悩みを解決する。彼女は傷ついているそうだから、慎重に接触しよう」
 人差し指を立ててそう言うと、モッさんがハイっと手を上げて疑問を口にした。
「けれど、お兄様。部活動はどうするんですか? 何と言うか、“らしくない”です」
 今回、部活動はお休みと言うことになっている。
 生物部に命をかけているはずの詩人らしくない判断と……大方そう考えたのだろう。
 別に人助けをすることに異議はない、と彼女は続いて補足する。彼女の言葉は一同の総意であったらしく、貴重な時間を費やすことに異論を差し挟む者はいなかった。
 詩人は彼女の質問に頷き、答えた。

「今はオフシーズンだから、時間に余裕がないわけじゃないさ。それに、虫っ娘の悩みと言う奴にも興味がある」
 カエラちゃんは大会での挫折によって、思い悩んでいると言う。
 虫から人へ変化したことによる戸惑いは、既にゴミムシ少女――五味さんの一件で目の当たりにしている。
 彼女はヒトになってしまったことに戸惑いを感じていたが、カエラちゃんはどうなのだろうか。
 頭の中でずらりと列を成す推論の数々。詩人としては、できることならこの疑問に対する答えが欲しかった。
 決して他人に対する親切心からではない。詩人としては、そこは譲れないポイントだ。

「何なら、ことが解決した後でバッタの気持ちについてのレポートでも書けばいいさ。そうすれば、部活動の一環になるだろう?」
 肩を竦めて、話を切り上げる。
「さあ、公園に行こう。事前に得た情報によれば、彼女はそこにいるはずだ」
 時間は有限だ。
 詩人らしい、らしくないなどということで無駄に時間を浪費したくはなかった。





「ふむる、ホシはあれですかぁ」
 強面の刑事がかけてそうなフレームのしっかりしたサングラスをかけたモッさんが低く唸る。多分、刑事ドラマの役になりきっているのだろう。
 そう考えると、「モッさん」という呼び名が急に年配刑事を指すあだ名に思えてくるから不思議である。多分、はぐれていたり、さすらっていたりするに違いあるまい。
「んー……何やってるんでしょうか」
 遮光ガラスを隔てて向ける視線の先には、小学校低学年と思しき男の子たちに囲まれた、背の小さな女子高校生がいた。
 おそらく、彼女が陸上少女――バッタの虫っ娘、蝗田カエラちゃんなのだろう。
 傷心の少女らしく、公園のブランコを揺らしている――のかと思えば、そんなことは全然なくて、せせり高校の制服はそのままに、赤いマフラーをひらひらと風にたなびかせている。
 黒みがかった茶色い短髪。顔は……変身ヒーローのお面で隠されていた。
 ここで詩人は眉をしかめる。
 え、何で? ……正直、意味が分からない。

「完全無欠のヒーロー……仮面ホッパー!」
 カエラちゃんが叫ぶ。すると、周囲の男の子たちがわぁっと喝采をあげた。
 彼らの反応に気を良くした彼女は、さらに様々なポーズをビシッと決めていく。
 その姿は、小柄ながらも実に堂に入ったものだった。
 水野さんが言うには半年近くも部活をサボっていたそうだから、その間に子供たちと遊び続けてきたのだろう。試行錯誤をするうちに子供が喜ぶツボというものを学んだのかも知れない。
 詩人は彼女が小学生と語らう姿を遠巻きに眺めながら、
「これは……」
 険しい顔で呟いた。
 彼女がなりきっているヒーローは、有名な作品のものだった。
 仮面ホッパーシリーズは、悪の秘密結社に改造された孤独な復讐鬼が主人公の人気特撮番組である。昆虫をモデルにした造形に定評があり、詩人もこまめにチェックしている作品だ。
 彼女は数あるホッパーの中でも初代のお面を被っていた。初代のモデルはトノサマバッタ。
 バッタの虫っ娘がなりきるには、まさにうってつけのヒーローと言えるだろう。
 だが……何故? 何故彼女は変身ヒーローになりきっているのか?

「部長、彼女に声をかけなくていいのか?」
「……状況も把握せずに、いきなり話しかけるのは得策でないと思う」
 直政の言葉に首を振って答える。
 下手に水を差すことで警戒されてしまっては元も子もない。
 どうしたものかと頭を捻っていると、

「簡単です」
 モッさんがずいっと前に出た。
「何か策はあるのか。モッさん」
「彼女が虫っ娘だと言うなら、今までのお約束が通じるはずです。そう、あの西洋ビッチの時のような……。とにかく、某少年探偵バーローに出てくるシャア声の人に任せた気分で待っていてくださいー」
「待て。赤井さんは確かに有能だが、嫌なフラグがハンパないぞ」
 モッさんは自信ありげに笑みを深めると、翅を動かし宙を舞った。
「西洋、女の子が言っちゃいけない言葉の時と言うと、セイヨウミツバチのメリフェラちゃんの時のことか……。いや、うん? おい、モッさん、それは――」
 詩人の制止は一歩遅かった。
 厳しい寒さを和らげる穏やかな日差しを四肢に浴びて、モッさんはカエラちゃんの頭上へと飛び上がる。
「とわーっ」
 ふと現れた影と奇声に、上を見るカエラちゃん。

「虫っ娘の接触とは、鉄拳交際と見つけたり! いざ、ヒーロー覚悟! イ、ナ、ズ、マ……キィーック!!」
 それ拳ちゃう、キックや。
 詩人のツッコミよりも早く、雄たけびをあげたモッさんの蹴撃がカエラちゃんに襲い掛かる。
 二枚翅を活用した急降下。瞬時の内に最高速度にまで達したモッさんの身体が、周囲の空気を切り裂きながら、大地目掛けて落ちていく。
 その様はさながら、獲物を狩る隼の如く。
 ドゴォッ!
 少女の生み出す雷が、カエラちゃんの脳天に吸い込まれていった。
 というか、いきなり敵対行動とかマジやめろよ。

「みぎゃん!」
 子犬を思わせる悲鳴がした。
 陸上部の悲鳴には法則性があるのかもしれない。

「おっ、おい。みぎゃん! だってよ」
「ああ……みぎゃん! だ。ぜったいむてきのホッパーがだぜ? マジふるえてきやがった」
「フッ、ピンチ到来と言うわけか。自他共に天才と認めるこの俺の出番も、すぐということだな……」
 急襲を受けて、地に這い蹲るカエラちゃん。その様を見て、男子小学生たちが色めきたった。
 無敵を謳うヒーローが負けることなどありえない。あってはならない。
 ゆえに、彼らの動揺も無理からぬことであった。
 ドヤ顔ファイティングポーズ、いわゆる車田の構えで地上へと舞い降りた破壊天使モッさんは、
「へ、あれ~~?」
 何故か当てが外れたとばかりに頭を掻いた。

「きゅぅ……」
 踏みつけた少女から反応がない。カエラちゃんは完全に伸びていた。
「こら、虫っ娘がそんなことでどうするんですか。ギャグ補正を思い出すんですよ」
 ぺしぺしと頬を叩き、カエラちゃんの覚醒を促す。
 しばらくうなされていたカエラちゃんであったが、
「ハッ」
 目を覚まし、事情を理解すると、
「痛いじゃない! 半ば死ぬかと思ったわよッ!!」
 お面をずらして、烈火のごとく怒り始めた。
「いやいや、ちょっと待ってください。これには深い訳が……」
「ワケもキヨマロもないでしょッ! どういう了見よッッ」
 どうどうと宥める加害者も、勝手の違いに困惑気味だ。
「お、お兄様ぁ」
 助け舟を求めてモッさんがこちらに視線を向けてくる。
「何? あんたたちもこの子の仲間っ?」
 カエラちゃんの眼差しがそれに続く。
 凄い目つきだ。ファーストインプレッションは最悪と言っても過言ではないだろう。
「確かにそいつはぼくたちの連れだ。でも……」
「何!」
 詩人は目線でカエラちゃんを促した。
 怒り心頭のまま彼女は促された方向を見て……顔色を一変させる。
 口をぽかんと開けているわんぱくたちに混じって、線の細い男の子が顔を真っ青にしていたのだ。
 このまま彼を放って置いて良いのか? 詩人が言わんとすることは、つまるところそういうことだった。

「ホッパーが何で負けちゃうの?」
 男の子が泣きそうな顔で口を開いた。
「あ、え、え、ええっと。こここれはねッ」
 うろたえるカエラちゃんが、手をあたふたと動かしながら必死に弁解の言葉を口に出そうとする。
 だが、うまい言葉が見つからなかったらしく、
(ちょっと、何かフォローしてよ……!)
 と、目で訴えかけてきた。

「えっと、これはただの練習ですよ! れんしゅう! とれーにんっ。あーゆーおーけーっ?」
 要請に応えたのは、加害者であるモッさん。 
「練習……なんの?」
「なんのって、ええっと……」
 困り果てたモッさんが、カエラちゃんに目配せする。
「ひ、ヒーローと言えば悪党退治でしょ! 悪党退治の練習だったのよっ」
 びしっとポーズを取り直したカエラちゃんが取り繕うが、この流れは些かまずい。
 何故なら、その理屈で言うならば……
「じゃあ、このお姉ちゃんもヒーローなの?」
 そう、モッさんもヒーローでなければ筋が通らないのだ。
「えっ」
 思ってもみない質問に二人の表情が凍り付いた。
 モッさんは恐る恐る自分の身体を確認する。
 何処からどう見ても、彼女の姿は学校帰りの女子高生にしか見えない。いや、厳密には女子高生ではないはずだけれども。
 女子高生のコスプレをする少女? いや、細かいことはどうでも良い。
 いずれにせよ、この展開は泥沼であることに変わりはないのだから。
 現局面を打破するためには、新たな要素を提示してやる必要があるだろう。
(仕方がないな)
 詩人はこほんと咳払いをして、男の子に声をかけた。

「なあ、君。実はこのお姉ちゃんだけでなく、ここにいる皆がヒーローなんだ」
「へ?」
 何を言っているんだ。一同が目を丸くして驚きの声をあげるが、詩人は顔色を変えずにエレーヌを指し示す。
「ほら、あの金髪のお姉ちゃんを見てくれ。あんな格好をした一般人がいるわけないだろう? 今日は映画によくある『ヒーロー全員集合!』の顔合わせってところ。分かったかい?」
 言って、人差し指を口元へ持っていく。「クラスの皆には秘密だぜ?」と暗に伝えるべく、そのまま柔和な笑みを浮かべてみせた。
「そうなんだ……」
 男の子が上気した顔で瞳を輝かせる。
(ひとまず乗り切れそうだ)
 彼の反応を見て、詩人は安堵の息を吐いた。
 エレーヌのコスプレ(と言って良いものかどうか)がなければ、彼をここまで欺くことはできなかっただろう。
 純白のシスターという場違いな格好でありつつも、まるで本職のように似合っている。しかも白と言えば正義っぽい王道カラー。これなら信憑性もひとしおだ。
 まさしく、不幸中の幸いというやつだった。
「あんな格好……」
 当のエレーヌはエレーヌは複雑な表情を浮かべていたが、子供の夢を守るためだ。ここは涙を呑んで耐えてもらうことにしよう。
「ほら、皆」
 口裏を合わせろよ、と部員たちを急かす。
 道は示した。
 複数人で活動する変身ヒーローといったら数が限られてくるはずだ。
 例えば、日曜朝にやっている五人でヒーローをやっているお決まりの……
「え、あ。はいっ。私も変身ヒーローですよ。ほら、えと……ハイパーブロッサム!」
「パワパフガールズZは変身ヒロインだろう……」
 がっくりと肩を落とす。
 ファンなのか、中々様になったポーズを取っていたが、残念ながら変身少女ものなど男の子の守備範囲外である。
 わかるわけがないだろう。
「じゃ、じゃあっ」
 切羽詰まったモッさんが、カエラちゃんとエレーヌを引き寄せた。
「実は三人は正義の戦隊なのです。三人揃って――」
 そうだ。その流れだ!
 詩人が期待に拳を握り固めるが、続く言葉が出てこない。
「あー、うー」
 モッさんはきょろきょろと目を左右に動かして、
「タッチ」 
 二人に名乗りを丸投げした。
「あ、いやっ。その」
 一人目、カエラちゃん。
 アドリブは失敗に終わる。土壇場に弱いヒーローのようだ。
「……っ」
 一方のエレーヌはどきりと身体を強張らせたが、すぐに自らに課せられた役割を理解して、

「有言実行、シュシュトリアン。きりっ」
 ……いや、それは駄目だ。
 90年代前半に放映していた東映不思議コメディーシリーズなんて、今のちびっ子に分かるはずがない。
 と言うか、彼女は本当に高校生なのだろうか。
 以前から疑問に思っていたが、彼女の祖国フランスの世界線がずれていると言う可能性が、これでより一層濃厚になった気がした。

 ……気まずい沈黙が訪れる。
「ダークパワー!」
 茂が何か言ったため、より重々しい沈黙が訪れる。
 彼にしては珍しく気を利かせたのだろうと思うが、流石にサングラスをかけた盗撮男は正義にもダークヒーローにもなれないだろう。邪悪なのは間違いないと思うが。
 詩人が頭を抱えていると、困ったように頭を掻いていた直政がふと上体を屈めた。

「よっと」
 そして何でもないという風に、その場でトンボを切ってみせる。宙を豪快に舞う巨体。
 それを見た子供たちは、「うおおお」と諸手を挙げて喜んだ。

「ホッパージャンプだ!」
「すげーっ! 本物だ!」
「マジリスペクトっすわ!」
 あっと言う間にちびっ子たちに囲まれる直政を、一同は呆然と見つめる。
「……何その隠し設定」
 茂が割と本気で悔しがるが、よくよく考えれば別に不思議でも何でもない。
 彼は今まで関八州UMA学会の戦闘会員《かいぞうにんげん》として、各地で強敵たちと死闘を繰り広げてきたのだ。
 いわば生ける英雄。
 この程度の芸当はできて当然と言って良い。

「そうか、はじめから彼に振れば早かったな」
 詩人がぼやくのと同時に、ことの成り行きを見守っていた比菜が口を開いた。

「……私のこともテレビで見たことあるんじゃない? 一応ホッパー・ブレイドに出てたんだけどなあ」
「あれ、マジだ」
「おー、すげー!」
「出演してたのか、芳川さん」
「しっ、本名は駄目です! 布安布里先生」
 中の人の名前に興味などなかったため、とんと気がつかなかった詩人は、驚きを短く口にした。
 だったら、はじめから助け船を出してくれよと思わないでもなかったが、そこは芸能人特有の悩みがあるのだろう。
 比菜のあまり嬉しそうではない表情から、それを読みとり、詩人は憎まれ口を呑み込んだ。
 いずれにせよ、まさかの番組関係者登場だ。
 比菜の言葉が決め手となり、にわかに空気が沸き立った。
 先ほどまで疑いの目で見ていた子供たちが一転、完全に舞い上がってしまっている。

「良かった……じゃあ、おねえちゃんは本物のホッパーなんだよね」
「え、ええ。当たり前でしょっ」
 つい先ほどまで泣きそうな顔をしていた男の子も、つられて笑っている。
 何処かほっとした表情で胸を張るカエラちゃん。
 その様子を見て、詩人は一つ確信した。
 彼女がヒーローを演じているのは、何か訳があるのだと。

「えっと、蝗田カエラさん?」
「……何?」
「少し、話があるんだけれど。良いかな」
「……少しだけだからね」
 言って、カエラちゃんはばつが悪そうに俯いた。
 仮面ホッパーは悪の秘密結社に改造された、悲劇のヒーロー。
 彼女も望んでヒーローになったわけじゃなさそうだ。




[28504] 10ページ目 「仮面ホッパーの素顔・後」
Name: 三郎◆8c60de91 ID:1ea651fb
Date: 2012/05/16 21:11
「あ、あわわ……っ! 自宅イベントとかフラグですか。絶対フラグですよね、これ! 偉大なる乙女ゲーの神々よ、私の身体に降りてきてくれぇー!!」
 意味の分からない叫びを繰り返す比菜はさておき、カエラちゃんから事情を聞いた生物部一同は、詩人の自室でデスクトップパソコンの画面を睨みつけていた。
 無論、カエラちゃんの悩み。“バッタらしくない原因”について探るためだ。
「そういえば、エレーヌ君が見当たらないけど、何処へ行ったんだ?」
「ああ、エレーヌちゃんなら、途中で宗教関係の人に捕まって教会へ連行されてったです。『そろそろ、第四次宗教戦争が~~』とか何とか」
「大丈夫なのか、それ……まあ、良いけど」
 ぽちぽちと、慣れない手つきでキーボードを叩く。

「おおう、意外も意外。雨垂れ打ちとは」
「アウトドア派を謳おうとは思わないけれど、デジタルより書籍《アナログ》がモットーなんだよ。放っといてくれ」
「ギャップによる萌え要素ですね。比菜分かります」
 さっきから比菜のテンションが無性にウザったい。
 受け流せずに苦虫をかみつぶした表情をしていると、隣でカエラちゃんが不審そうに眉を持ち上げた。

「……パソコンなんかで何が分かるって言うの?」
「分からないことも多いけれど、分かることだってあるだろうさ」
 言って、ブラウザのお気に入りバーから緑を基調とした壁紙のサイトへジャンプする。
 画面上部には「ようこそ関八州UMA学会へ!」とゴシック体でタイトルが記されていた。

「HP……?」
「そう、関ウ学会HP。世の中の生物学に関するすべての英知がここに集まっているといっても過言ではない聖地だ。彼らに聞けば、何かヒントを得られると思うよ」
「そんなに凄い人たちなの?」
 あくまでも訝しがるカエラちゃん。ここは、関ウ学会の何たるかを骨の髄まで伝道せねばなるまい。
 そう考えた詩人は「それはもう!」と声高に叫び、関ウ学会の素晴らしさについて熱弁をはじめた。
「まずは南極で繰り広げられた巨大ペンギンとの死闘だな。あれは最近の話では欠かせないビッグニュースになっているね。成し遂げた野外観察者《フィールド・ワーカー》はルーキーを出たての中級者だって言うからたまらない! 後は伝説の猿人を探すために、一ヶ月近くも樹上生活を続けた人なんてのもいる。彼の体験談を聞けば、魂を揺さぶられること請け合いだよ! それにアマゾンの奥地で年中暮らしているSENGOKU先生なんかは、生物学者の鑑とも言うべき存在だね! 何故ならば……」
「ま、待って! もう分かったから! もう良いから!!」
 滝の如く流れ出した詩人の弁を、カエラちゃんが慌てて押しとどめる。
 何故だろうか。周囲から向けられる視線が痛い。
 見回すと、同類の直政や比菜を除く半数が驚きと呆れと気持ち悪さをごちゃ混ぜにしたような表情をしていた。
 ……まあ、驚きや呆れ、気持ち悪さは先駆者の先駆者たる異常性を受け止めたことによるものであろうから、詩人の語り口は彼らに関ウ学会の何たるかを伝えることができたのだろう。詩人はそう考えることにした。

「それで、お兄様。どうやってそのきもい奴らとコンタクトを取るんですか?」
 仕切りなおしたモッさんの言葉に、詩人は指をぴんと立てて応えた。
「きもい奴ら言うなよ……“チャット”さ」
「チャット?」
 部員たちから疑問の声があがる。
 詩人は一度頷くと、マウスホイールを転がして、HPをスクロールさせていく。
 やがて、持ち上がってくる『交流チャット』という文字リンク。詩人はそれをクリックし、チャット画面へと切り替える。
「この時間なら誰かがチャットにいると思うんだが……っと」
 一同の注目を集める中、まず目に入ったのは暖色系の壁紙であった。
 画面は二画面に分かれている。確かフレームとか言うらしい。上部は情報を入力するためのフォームになっており、下部には既に入室しているであろうハンドルネームがずらりと並んでいた。
 参加者は8人。まだ昼間だから、かなりの人数が集まっていると言って良いのではないだろうか。
「この人たちが、HPに集う生物学に関する英知……」
 誰かがごくりと唾を飲み込む中、30秒ごとの自動更新が作動し、チャットログが動きを見せた。

16:21 なぅ 参加者(8)TAKIJI☆SENGOKU☆SAKANA☆GODO☆SETUNA☆SHIGERU(退席中)☆RORIGAMI☆OPPAI☆

SETUNA >今期のBRSどうよ
RORIGAMI >OVAより厨二要素強くてかなり好きだわ。あのサイコレズっぷりが、とってもほむほむでよろしい。まあ、今期一択じゃね
SENGOKU >は? ミルキィとプリティーディスってんのか
SETUNA >ないわー。ミルキィ抜かすとかないわー
TAKIJI >エルキュールちゃんペロペロ(^ω^)
GODO >ペロry
SETUNA >えるきゅるたん、路地裏でスタンガンバチィッ
TAKIJI >バチィッは止めろと言っているサル!!
SENGOKU >一向に構わんよ
RORIGAMI >緑は不人気
GODO >屋上

 自室の時間が止まっても、チャットログは時を刻み続ける。
 花咲く雑談。打ち込まれた文字から伝わる熱意。
 …………。
 ……。
「……何か言いたいことは?」
「至って普通のチャットルームだな」
「んなわけあるかぁっ!!」
 カエラちゃんがテーブルを力いっぱい殴りつける。ジュースを注いだコップがいくつも宙に浮き、そのままこぼれずに着地した。器用だなぁ。

「いくら私だって、こいつらが生物の話してないことくらい分かるわよ! て言うか、キモッ! どういうことなのこれ!! 少しでも信じた私が馬鹿みたいじゃない!!」
「そうです! 何ですか、特にこのSHIGERU(退席中)って奴は! いちいち(退席中)なんてつける自己アッピルがマジうぜえです!! こんなのがいようがいまいがどうでもいいのに!」
「そんな!? ひどいよ、モッさん!」
「いつも誰だか分からなかったんだが、茂だったのかこれ……」
「ええいっ、と、に、か、く!! こんな底辺《ベントス》どもに大事な虫っ娘を任せられますかっ。事件はニート御用達箱の中で起こってるんじゃねえんです!! もう、こんな部屋にいられない……私は一人で聞き込み調査に行ってきます!」
「待て、モッさん。地味に死亡フラグを立てまくるんじゃない」
 詩人の制止を振り切って、ぷんすか息巻くモッさんがドアを蹴り飛ばす。
 間髪おかずにドアが乱暴に閉められ、室内に行き場を失った険悪な空気が充満した。

「むむむ」
 そんな中、一人他所事を考える素振りを見せていた比菜。
 何を思ったのか、スマートフォンを取り出し、高速で文章を打ち込み始める。

16:25 なぅ 参加者(9)TAKIJI☆SENGOKU☆SAKANA☆GODO☆SETUNA☆SHIGERU(退席中)☆RORIGAMI☆OPPAI☆HiNA

HiNA > HiNAさんぱおーん。 (20XX 16:25:45)
HiNA >あけにゃんぺろりんこ
SENGOKU >ぬぅ、新手のペロリストか!
SETUNA >明にゃんマジアルセーヌ様
TAKIJI >待て、その考えは間違っているぞ。あけにゃんと言えば、gdpyのコロちゃん
HiNA >どっちにせよぺろぺろ
TAKIJI >ペロペロ(^ω^)
GODO > ω

「ふぅ……」
 何かをやり遂げたような表情が実にウザイ。
「こんな有意義なアニオタチャットがあるとは、キモオタの私ですら知りませんでした。まとめサイトのお供にこれから居座らせてもらうことにします」
「い、いやいやいや、ここはそんないかがわしい場所ではない。断じて!」
 遠い目をして感傷に浸る彼女を放置し続けると、伝統ある学会の交流チャットがただのキモオタ交流所に定義されかねない。
 詩人は慌てて声をあげ、彼女らの誤解を訂正しようとした。

「彼らは多趣味なんだよ! とにかく、茂を除く彼らが生物学の権威であることは確かなんだ。騙されたと思って、質問してみることにしよう!」
 胡乱げな眼差しを背に受けながら、詩人も比菜を追ってチャットに入室する。
 どういう情報が今自分たちにとって必要なのか。頭の中でそれを整理して、打ち込む発言を考える。まずは……


16:29 なぅ 参加者(10)TAKIJI☆SENGOKU☆SAKANA☆GODO☆SETUNA☆SHIGERU(退席中)☆RORIGAMI☆OPPAI☆HiNA☆SI-TO

SI-TO > SI-TOさんぱおーん。 (20XX 16:25:45)
SI-TO>こんにちは。
TAKIJI>おいう
GODO>oiu
SENGOKU>おいうー
HiNA >布安布里先生ぺろぺろ

 息を吐くように他人の個人情報を晒してくれた比菜はさておき、
「おいうって何……?」
 カエラちゃんが訳が分からないといった風に眉根を寄せる。
 彼女の反応も無理からぬことだろう。詩人も最初は意味が分からなかった用語《ターム》だ。
「あれは、『おいすー』の略らしい。以前、GODOさんが『おいすー』と発言することを面倒くさがって『おいう』と発言した時から、爆発的に広まっていったんだ」
「……」
 疑念が更に強まった。
 このままだと、カエラちゃんまで席を立ちかねない。早めに本題を切り出すことにしよう。
 詩人は雨垂れ打ちでぽちぽちと発言を打ち込んだ。

16:31 なぅ 参加者(10)TAKIJI☆SENGOKU☆SAKANA☆GODO☆SETUNA☆SHIGERU(退席中)☆RORIGAMI☆OPPAI☆HiNA☆SI-TO

SI-TO > 実は知人の虫っ娘が悩みを抱えて困っています。皆さんのお知恵を拝借したいのですが。
GODO>スペック
SAKANA>詳細うp
HiNA >先生の詳細もうp

「詳細? スペック……? こいつら一体何を言ってるの?」
「君の立場と状況が知りたいってことだよ。待っててくれ、打ち込んでみる」

16:33 なぅ 参加者(10)TAKIJI☆SENGOKU☆SAKANA☆GODO☆SETUNA☆SHIGERU(退席中)☆RORIGAMI☆OPPAI☆HiNA☆SI-TO

SI-TO > 知人はバッタの虫っ娘で、とある高校の女子陸上部に所属しています。ですが、同じくバッタの姉たちのようにバッタらしい成績を残すことができません。成績を残せないのには何か原因があるのでしょうか。また、どうすれば現状を改善できるでしょうか。皆さんのお知恵を拝借できればと思います。
TAKIJI >現役女子高生……だと……
SAKANA >ぎょぎょっ
SENGOKU >すげぇ
SETUNA >マジクール
RORIGAMI >これは成果によってはワンチャンあるで
GODO >スペック抜けてっぞ
TAKIJI >ああ、そうだ。詳細、いやスリーサイズ……いや、脚の太さや長さなどうp
OPPAI >バカ野郎、おっぱいだ!!
SHIGERU (退席中)>!!11 おみあしのデータをおなしゃす!
HiNA >何で無視するんですか。放置と言う名の責め苦ですか。ん? 良く考えたら、それも一向に構わんな!

 にわかに色めき立つチャット内。
 口々に欲する情報は、どうにも必要とは思えないものばかりだ。
 とは言え、生物学会における英知が求める情報である。なんぞ深謀遠慮があるのやも知らんと思い、
「なあ、ちょっとスリ――」
「ばっかじゃないの! 絶対に教えないからッッ!!」
 あまりの衝撃に脳みそが揺れた。詩人が言葉にする前に強烈な張り手が飛んできたのだ。
 顔を真っ赤にするカエラちゃんは、若干涙目になっている。多分本気でキモイのだろう。自分も若干「うわぁ、キモイ」と思ったのだから、彼女がそう思うのも無理はない。
 だが、いくら変態でも相手は腐っても生物学会における重鎮である。
 虎穴にいらずんば何とやら。問題解決のためには彼らに情報を晒すしかない。
 申し訳ないと思いつつも、詩人は目の前でちかちかと輝く星を払いながら、なおも説得を続けた。
「分かった。だが、スリーサイズはともかくとして、脚の詳細は説明した方が良い。ジャンプに関係する大事な部位だろう?」
「……自分の脚の長さなんて正確に知ってるわけないじゃない」
 成る程、確かに正論だ。
 口を尖らせる彼女の言に、詩人は是と頷いた。
「確かにそれもそうだな。じゃあ――」
「測らせないわよ」
 有無を言わさず、舌をべえっと出して抗うカエラちゃん。
「……比菜君に測ってもらうか、もしくは自分で測ってはもらえないだろうか。ぼくたちは見ないように外に出ているから、さ」
「うっ……」
 詩人の譲歩に、彼女もそれならばと渋々頷いた。
 血の涙を流して悔しがる茂を無理矢理室外に引きずり出して、手早く測定。かくして情報収集は仕切り直しである。

16:43 なぅ 参加者(10)TAKIJI☆SENGOKU☆SAKANA☆GODO☆SETUNA☆SHIGERU(退席中)☆RORIGAMI☆OPPAI☆HiNA☆SI-TO

SI-TO > 彼女の身長は152cm、股下は74cmでした。
TAKIJI >ふむ
SAKANA >成る程
SENGOKU >そういうことか
SETUNA >ちょっと待ってろ。データ打ち込んでくる
OPPAI >期待
TAKIJI >wktk

 詩人たちの情報提供によって、ログが色良い言葉で埋め尽くされる。
 否応なしに高まる期待。
「聞いたか。調べてくれるみたいだぞ」
「ほんとにそうなら良いんだけどね……」
 それでも、カエラちゃんは未だ信じられずに眉根を寄せていた。
 先だっての疑念があるのだ。彼女が不安に感じるのも無理からぬことであろう。だが、悩みへの解決策が示されれば、疑念も自ずと融けていくはずだ。
 そうして答えを待つこと数分間、

16:49 なぅ 参加者(10)TAKIJI☆SENGOKU☆SAKANA☆GODO☆SETUNA☆SHIGERU(退席中)☆RORIGAMI☆OPPAI☆HiNA☆SI-TO
SETUNA >メタセコデータできたお。ttp://XXXXX
OPPAI >女子高生のおみあしコンピュータグラフィックスwww
TAKIJI >神降臨
SHIGERU >やべえ、エロい……百万回保存した

 これは予想外。
「な、ん、な、の、よ~~~~っ。こ、い、つ、ら、はぁ~~~~ッッ!!」
 カエラちゃんの怒りが沸点を通り越して、瞬時にして気化爆発を巻き起こした。
「ちょっと貸しなさい!」
「あ、ちょっと――」
 ガタリと椅子から立ち上がったカエラちゃんは詩人からマウスを引ったくり、猛烈な勢いでタイピングを始める。

16:50 なぅ 参加者(11)TAKIJI☆SENGOKU☆SAKANA☆GODO☆SETUNA☆SHIGERU(退席中)☆RORIGAMI☆OPPAI☆HiNA☆SI-TO

SI-TO >何よ、これ。ほんと変態! 消しなさい!!
OPPAI >中の人交代?
SHIGERU >だべ
TAKIJI >成る程、これがご褒美か
SENGOKU >ツンデレいただきましたーありがてえ
SAKANA >ツンデレの包み隠さない罵倒。これこそツンデレの徒然草やー
RORIGAMI >たとえ、ここで消しても第二、第三のエロ画像が……
SETUNA >ふむ、続けて
RORIGAMI >そして伝説へ
TAKIJI >後の竜馬である

 風に押される暖簾のようなチャット面子の受け答えにカエラちゃんは怒り心頭と言った様子である。
「ああ、もう! なに、この、なに!?」
 両手で頭をかきむしっては、拳をデスクに叩きつける。紅潮した頬を膨らませ、浮かべる表情は般若からせつそのものと言った具合であった。
 堪忍袋のぶちぎれた彼女に、もうまともな返答は期待できない。ちょっと机に傷が走ったが、こちらの修理も期待できそうにない。厄日か。

GODO >つかよ、バッタの虫っ娘って言うけど、何のバッタよ? さっきからスペック抜けてんだよ
SI-TO >何のバッタだって良いじゃない! またおちょくる気でしょ!
GODO >いや、そこは重要な部分だろが。同定的に考えて
SI-TO >何がドーテーよ。ほんと変態! もう、最悪! 死ねっ!!

 真っ赤な顔をしたカエラちゃんの手が、机の下へと伸びていく。
 分かる。あの位置は、コンセント密集地帯。つまりは、パソコンの主電源狙いである。
 パソコンの主電源が引き抜かれ、本体が音を立てて急停止する。
 これをモッさんがやったのなら激怒物だが、相手は生憎カエラちゃん。
 抗議なんて言える訳がない。

「よーく分かったわ。つまりあんたたちは、私を馬鹿にするつもりだったってわけ!」
 睨みつけてくる目元には、ほのかに涙が浮かんでいた。
 彼女にしたって、もしかしたら……という期待があったのかも知れない。
 失望、憎しみ。彼女の内に起こった感情は、ひとえに詩人がもたらしたものだ。
 そんなつもりはない。悪気なんてなかった……なんて言える訳がないではないか。
「二度と私に話しかけないで!!」
 だから、顎に走った衝撃を甘んじて受け入れることにした。
 思い切り顎を蹴り上げられて目を回す詩人を一瞥したカエラちゃんは、踵を返して肩を怒らせ家を出ていった。


16:55 なぅ 参加者(11)TAKIJI☆SENGOKU☆SAKANA☆GODO☆SETUNA☆SHIGERU(退席中)☆RORIGAMI☆OPPAI☆HiNA☆SI-TO

GODO >あー、マジで種の特定はした方が良いと思っぞ
GODO >直翅目って“変異”が激しい種だしよ





 ……詩人たちと喧嘩別れしてから数日。
 蝗田カエラは、今までどおり子供たちと遊ぶ毎日を送っていた。
 部活には顔も見せていない。
 半年以上練習をしていないのだから、もう真面目に部活を続けている友人たちにも大きな差をつけられていることだろう。今更、以前の自分に戻ることなどできやしない。……カエラは自分を捨てたのだ。
 その代わりに得たものは、子供たちの人気。ヒーローの座であった。
 少なくとも変身ヒーローの仮面を被っている間は、自分は誰かに憧れられる存在でいることができる。
 はじめは遊びの輪に入れない男の子のための演技であったが、今は違う。すべてが自分のためであった。
 居場所を得るため、かりそめのヒーローであり続ける。
 カエラは心の傷が癒えるまで、この生活を続けるつもりだ。いや、つもり“であった”。
 件の男の子から、とある相談を持ちかけられるまでは――

「え、ヒーローの証拠……?」
「うん……」
 彼女との縁がきっかけになり、最近は笑顔を見せることが多かった元いじめられっこの男の子は、口惜しげに俯いた。
「この前のお兄ちゃんが空中をくるってして、それでホッパーもできなきゃおかしいって……」
「空中を……」
 カエラは自分を小馬鹿にした連中のことを思い出す。
 確かに彼らの仲間にいた大柄の男は、その場で見事なとんぼ返りを行ってみせた。
 尋常でない脚力といえる。少なくとも……高校生記録を超えることのできない自分には、逆立ちしたってできやしない芸当だ。
 ずきりと胸の奥が痛む。やっぱり口惜しいものは口惜しかった。

「だから、ホッパーにあいつらの前で同じことをやってもらいたいんだ」
 男の子の真摯な眼差しを痛いほどに感じる。
 彼の疑問は、摩訶不思議を信じる世代が抱く当然過ぎる疑問と言える。だが、彼女はそれに応えてやることができない。
「あ、う……」
 言いよどんで、考える。
(どうしたら良いの……)
 答えが浮かばず、カエラはほとほと困り果てた。
 実は彼が言っているようなお願いを受けることは、今が初めてというわけではない。
 これまでにも彼女は子供たちとの徒競走やプロレスごっこなど、様々な形で『ヒーローであることの証』を見せつけていたのだ。
 けれど、それはあくまでも高校生としての体力と陸上部で培った杵柄によるものに過ぎない。
 本物のアクションと比べられてしまえば、容易に瓦解する程度の子供だましなのだ。
 大柄の男と張り合うことができない以上、自分にできることはただ一つ。
 カエラは苦笑いして、男の子に答えた。
「えっとね、その……ちょっと今は力を出せないんだ」
「何で?」
「そ、それは……ヒーローは簡単に力を自慢しちゃいけなくて……」
「……」
 言葉をつむぐたびに恥ずかしくなってくる。自分がしていることは、自分がどれだけつまらない人間であるかと言う証明だ。少なくとも、ヒーローがやって良い行為ではないはずだ。
 でも、これ以外にしようがないではないか。
 何せ、中身はヒーローではなく……単なる挫折した幽霊部員に過ぎないのだから。
「その……。とにかく、ごめん……」
 小声の謝罪を皮切りに、しんと公園が静かになった。春の気配はまだ見えない。
 心なしか、気温も下がった感じがした。
 異様な空気に耐え切れず、カエラが場を茶化そうとしたその瞬間、
「うそつき」
 身を切り刻まれたような心地がした。
 元より仮面を被って嘘を吐いていたのだから、弁明のしようなどないのだが。
 ……それでもここまで悲しまれるとは思わなかった。
 男の子は大粒の涙をぽろぽろと零し、小さな身体を大きく震わせていた。
「もう良いよ!」
 新たな寄る辺を探すべく、この場を立ち去る男の子の背中を、カエラは追いかけることができなかった。
 追いかけて何になる。今の自分にしてやれることなんて、何もない。そう考えてしまったのだ。
 彼女は俯き、表情を歪めた。
 何かが落ちる、乾いたような音が聞こえた気がした。





「……長い長い旅路でした」
「ほう、それで。うちの母さんが捜索届けを出してしまう程の期間、お前は一体何処をうろついていたんだ」
 詩人の視線などまったく気にする素振りを見せないモッさん。
 健康的に膨らんだ小さな胸をずいっと仰け反らせると、

「刑事たるもの、張り込みで一ヶ月くらい家を開けることなどチャメシゴトです。そして、家に残した一人娘だか息子がぐれて、家庭問題が勃発するまでがお約束じゃないですか」
「……確かにぼくは、今にも怒りと呆れでぐれてしまいそうだ。で、それで?」
 詩人の問いかけに、きょとんとする。
 何を言ってるんだこいつは? とでも言いたげな表情だ。
「それで、とは」
「何を調べてきたんだよ。名刑事《おまえ》は」
 ああ、と両手をぽんと合わせると、モッさんは自信ありげに笑みを深める。
 嫌な予感も正比例だ。
「ふふふ、それはですね。まずは驚きの新事実、デーデーデーン!」
 両手をいっぱいに広げて語る、驚愕の事実第一弾は――
「カエラちゃんの家の隣の奥さんが浮気をしているらしいのです! いや、おとなしそうな顔をやることはやりますね。若奥さんと言う奴は」
「確かに明日辺り事件になりそうなネタだけど、今回の件には関係ないよな。それ」
 やはり、期待はずれであった。いや、ある意味期待通りなのか。

「ぶう、何とわがままな。それでは、三丁目の角を右にいった先にある日本共産党紋白町支部が武力革命を画策しているとか、いないとか」
「女の子の悩みの原因ではないよな、それ。むしろ国が悩みそうな話だ。てか、どうやってその情報を掴んだんだよ」
「じゃあ、今日は何かお肌の荒れがひどいです。私の」
「お前のかよ! そりゃあ数日も外出してれば肌だって荒れるだろうがっ」
「それはさておき、近所の八木君がトノサマバッタを捕まえたらしいです」
「女の子から離れた上に、いきなりスケールダウンしたな。他には?」
「フムン、他に?」
 腕を組んで、モッさんが黙り込む。
 勿体ぶった沈黙だが、詩人にはよおく分かっている。
 これはノリだけの行動だ。間違っても、期待などしてはならない。
「あ、ねた切れです。拷問されても何も吐けません」
 清々しい笑顔は、いっそ潔さすら感じさせる。
 あまり表情が華やかであったため、詩人は怒る気も失せてしまった。

「はぁ……。んで、結局何してたんだ?」
「五味ちゃんとこに遊びに行ってたです」
「ただのお泊り会かよ」
「そうとも言います」
 お気楽な物言いだ。
 五味さんの時などは、悩みの解決に自身も奔走していたと言うのに、今回はまるでやる気がない。
 一体、どういうことだろうか。
 詩人が尋ねてみると、
「んんん、だってお兄様が頑張ってるみたいだから」
 これである。
 まったく意味が分からない。
 確かに自責の念もあって、詩人はここ数日の間、バッタとカエラちゃんに関する調査を継続して行っていた。
 だが、自分がやっていたからと言って、他がやらなくても良いという道理はない。
 理不尽だ。詩人が不機嫌そうに眉根を寄せていると、彼女は自分とは対照的な明るい表情で、お泊り会の仔細について語り始めた。

「基本は恋バナが多かったです。後はミンミンちゃんの慰謝料の話とかー」
「……慰謝料?」
「おっと、これは失言でした。それより五味ちゃんとこのおじいちゃんのお話、凄く面白かったですっ! あのおじいちゃん、今でこそしがないクリーニング屋の店主だったのに、昔は虫取りの名人だったそうなんです! 黒だとか緑のトノサマバッタを何匹も捕まえては佃煮に……おお、恐ろしい。人に歴史あり、ですねー」
「はぁ」
 肩を落として、彼女の土産話を聞き流す。
 まあ……何にしても、楽しそうなことは良いことだ。友人だけではなく、友人の家族とも良好な関係を取っているようで――と、
「今、何て言った?」
 詩人は慌てて聞き返した。
 彼女の話に聞き捨てならない単語が混じっていたような気がしたのだ。

「え? だから、あのおじいちゃん昔は虫取りの名人で――」
「違う、その後だ」
「あぅ……えっと、黒だとか緑のトノサマバッタを何匹も捕まえて……」
「それだ。黒いトノサマバッタ、イナゴじゃなくて?」
「はいー、イナゴ取りも得意だったそうですが、黒いのはトノサマバッタだったと思うです。それがどうしましたか?」
 何が何だか分からず首を傾げるモッさん。
 彼女は、自分がどれだけ重要な情報を持ってきたか理解できていないようだった。
 詩人は慌ててデスクトップパソコンの主電源を入れ、インターネットを立ち上げる。

「また、キモオタサイトです?」
 その問いかけに、詩人は首を横に振った。
「せせり高校のHPだ」
 検索ワードからジャンプした途端、殺風景な壁紙と学校の画像が目に飛び込んでくる。
 主なコンテンツは学校の概要、経営について、学習・進路指導。そして……
「あったッ」
 最後の項目、学校生活から陸上部のページへとアクセスする。
 ずらりと並んだ生徒の業績。
 その頭には、関東高等学校陸上競技大会成績上位者の名前と、カエラちゃんの姉たちの雄姿が写っていた。

「あれ?」
 モッさんもおかしな点に気づいたようだ。
 成績上位者《グラスホッパーズ》の画像は、水野さんが貼り付けていたチラシのものと変わりない。
 唯一違うところは、白黒ではなく鮮やかなカラー画像であるところだが……この唯一が問題であった。
 彼女らはすらりと伸びた長い足で大地を蹴り、“緑色の髪を輝かせ”、華麗に宙を舞っていた。
「カエラちゃんと髪の色が違うです?」
 そう、それが答えだ。
 詩人の頭の中で、瞬く間に因果が規律正しく整列していく。
 組み上がった答えに感極まって、詩人は思わず声高らかに叫んだ。
「原因は“これ”だ……!」
 びくりと目を大きくするモッさんに振り返り、
「でかした、モッさん!! 彼女の悩みはこれで解決するッ」
「えっ? へっ?? 良く分かりませんが、え、えへへ~~……」
 モッさんが照れくさそうに頬を掻く。そう言えば、まともに彼女を褒めたのは初めてのことかも知れない。
「ともかく、カエラちゃんと連絡を取らないと……モッさん携帯持ってるか?」
「あ、はいー」
 机の引き出しからクラスの連絡網が書かれたプリントを取り出して、モッさんのガラパゴスケータイに番号を打ち込んでいく。
 カエラちゃんはクラスが違うため、番号が分からない。
 故にかけるべきは水野さんだ。
「良かったですね、お兄様」
「ああ、これで彼女らの悩みは解決できる」
 モッさんがにへらっと笑い、詩人もそれに応えて力強く頷く。
 呼び出し音が止まる瞬間が待ち遠しかった。
『はい、水野です』
 程なくして電話が通じ、何処か気落ちした水野さんの声が聞こえてくる。
 やはりカエラちゃんが心配なのだろうか。それだけ彼女が友達思いだということだろう。
 詩人の口元がひとりでに持ち上がっていく。
 自分のもたらすニュースによって、彼女が驚き喜ぶ様が目に浮かぶようだ。
 詩人は心を高ぶらせながら、少し自慢げに口を開いた。

「水野さんっ。布安布里だ。実は彼女の悩みの解決法がようやく――」
『あ、バイオタ君……あのね、あのね……っ!』
 だが、切り出そうとした本題は、電話機の向こう側で遮られる。
 ……妙だ。彼女の言葉の端々から何処か憔悴した様子が窺える。
 友人の悩みだけでここまで困り果てるものだろうか……?
 詩人の疑問に答えるように、水野さんの鳴き声が電話機を震わせた。
『カエラちゃんから電話があって……男の子が危ないから、助けて……って。私、どうしたら良いのか……』
 何か、ただ事ではない事態が起こっている――。
 詩人は愕然としながらも、彼女をこれ以上混乱させないためにも言葉を選んで仔細を問いかけた。





 典型的なベッドタウンである紋白町にも、高度経済成長期に作られた工場が多数残されている。
 兵どもが夢の跡――そんな言葉がしっくりと来る程に、広大な土地に並んだ工場群からは活気と人気が感じられなかった。
 工場の内のいくつかは無惨な廃墟と化しており、むき出しになった鉄筋の向こう側には、赤錆びた機材の数々が置き去りにされている。 
 かつて世の中を沸かせた熱狂も、今となっては見る影もない。
 時の止まった廃墟の中で、男の子とカエラは悲壮な表情で向かい合っていた。

「も、もう止めようよ! こんな所にいたら怪我しちゃうよっ」
 呼びかけても男の子は意固地になったまま、口を開こうとしない。
 彼の立っている場所は老朽化の激しい廃工場の屋上。更に言うならば、その突端……フェンスの壊れた一角であった。
 地上から吹き上がってくる突風が彼の小さな身体を大きく揺らしている。地上五階建ての比較的大きな建造物だ。
 まかり間違って足を踏み外せば……まず間違いなく命はない。
「あっちいけよ!!」
 ようやく男の子が口を開く。こちらを睨みつけてくる眼差しは、裏切り者へ向ける冷たさを持っていた。

 ――件の諍いから翌日のことだ。
 放課後、いつもグループを牽引しているリーダー格の腕白が、何故か自分のところへ相談に来た。
 曰く、「“あいつ”が何か無茶しようとしている」と。
 カエラは表情を強張らせた。
 彼が変心した原因は一つしかない……。それは自分の不甲斐なさからくるものだ。

「ぼくが代わりにホッパーになってやるんだ!!」
 昼休み、別人のように苛烈な物言いをする男の子に対し、腕白は驚くと同時に反感を覚えたらしい。
 そんなこと、弱虫にできる訳がない。
 腕白は彼を罵った。腕白にとってもヒーローという存在は絶対の理想。
 安易になれてたまるものかと考えたのだ。
「ホッパーは空だって飛べるんだぜ。この前だって、ビルからビルへびゅーって。お前にそんなことできんのかよ!」
「……っ」
 挑みかかるようにそう言うと、男の子は涙をこらえて押し黙った。
「できねーことをできるとか言うなよっ」
 その後、ひとしきりからかってやると、男の子は自分のクラスへと逃げ帰ってしまった。
 いじめられっこを思うがままにいじめる。腕白にとってはいつも通りの日常であるはずだった。
 だが、放課後に残された置手紙によって、事態は思わぬ方向へ急変した。
『3時30分にお化け工場。証拠を見せてやる』
 腕白は何だか怖くなって、普段一緒に遊んでくれる年長者――つまりカエラに相談を持ちかけることにした。
 そして今に至るというわけだ。

 カエラは渇いた喉に唾液を送ると、男の子への注意は逸らさずに周囲の気配を窺った。
(時間を稼がなきゃ……)
 腕白たちには大人たちへの連絡を頼んでいる。自分も出来得るすべての連絡先に予め事情は説明した。
 だが、思ったよりも対応が遅い。
 もう約束の時間になるはずなのに、警察も大人たちも姿を見せる気配はなかった。

 じりりりり、と男の子のポケットから甲高いアラーム音が鳴り響いた。
 約束の時間が来てしまったのだ。
 男の子が顔色を真っ青にしつつも、フェンスの向こう側へと振り返る。
 “証拠を見せる”とはどういうことか――。
 男の子の目線が何メートルも先にある別棟へと向けられていることを察知したカエラは、彼があまりにも危険な挑戦をしようとしていることを即座に理解した。
「だっ、駄目だよっ! 無理しちゃ駄目……っ! そんなことしたら死んじゃうよ!!」
 そう、彼は廃工場の屋上から屋上へ飛び移ろうとしているのだ。
 工場と工場の間隙は明らかに5メートルを越えている。助走をしたって小学生が飛び越えることのできない距離だ。
 できることとできないことの違いを痛い程に知っていたカエラは、泣きそうな声で必死に男の子へ呼びかけた。
「無理なんて言うなよ!」
 だが、語りかければかけるほど、男の子は心を固く閉ざしてしまう。
 何で……ッ? カエラは絶叫したい衝動に駆られる。

「まっ……まだ、きみの友達来てないよ! ね、だからまだ止めようよ。ね?」
 それでもなけなしの頭を使って、彼の意思を解きほぐす手を考えに考える。
 彼が飛んでしまったら、すべてが終わってしまうのだ。
 男の子が背中を向けたまま俯いた。
 カエラはすぐにでも彼を引き止められるよう、じりじりと彼に近づいていく。
 男の子が頭を持ち上げた。
「……やだ」
 瞬間、カエラの全身が粟立った。
 まずい。計算もすべてかなぐり捨てて、カエラは男の子に向かって全力で駆け出す。
 嫌な予感が的中し、男の子の身体が宙へ飛び出していった。
 助走はつけていなかった彼の身体は、すぐに重力に囚われ地上目掛けて落ちていく。
 が、勢いをつけていなかったからこそ、カエラは男の子の足首を辛うじて掴むことができた。
 男の子の体重を片手に感じながら、カエラは懸命に身体を持ち上げようとする。
 しかし、既に自分も全身を半ば以上外へと投げ出してしまっている。掴めそうなフェンスは遥か後方。縁に指を引っ掛けるが、二人分の体重を支えるには不足だった。
「うぅっ……」
 逆さまになって、カエラの身体がずるりと壁沿いに落ちていく。
 男の子の泣き声が胸に響いた。
 こんなことになってしまったのも、自分が余計な望みを彼に持たせてしまったからだ。
 仲間外れにされていた彼に声をかけることさえしなければ、ここまでヒーローなどというものに執着することはなかっただろう。
 ……悔やんだところで、もう遅い。
 ついに支えていた指が、屋上の縁から離れてしまう。
 もう駄目だ。
 胃の奥が押し上げられるような嫌な感覚に身を委ね、
「ごめんね」
 カエラが諦めかけようとしたその時――

「ああっ、くそっ。予感的中じゃないか!!」
 すぐ下の階から、憎まれ口と共に見知った青年の上半身が飛び出してきた。
 落下していく自分の身体が、細くて弱々しい筋力によって抱きとめられる。だが、間違いなくそれは男のものだった。

「え、あ、あんた……」
 目と鼻の先で、眼鏡をかけた青年が歯を食いしばっている。
 初めて会った時と変わらぬしかめ面で、自分と男の子の落下を食い止めようとしていた。
 片腕はカエラを、もう片方で男の子を、腹にはぼろぼろの鉄鎖が巻きつけられており、変形して飛び出た鉄骨に絡められていた。
 ぎちりと鎖が青年の腹を締め付ける。

「水野さんに頼まれた……っ! 余計なお喋りはしない。良いか、今から言うことを良く聞けよ!」
 呻きながら青年が、カエラに語りかける。
「準備する暇が……なかった。あのコンクリートの老朽具合じゃ、あまり……長い時間体重を支えきれそうに、ない」
「だったら、私が――」
「最後まで話しを聞け!」
 青年が叫ぶ。
 カエラが身体を動かそうとした瞬間、鉄骨がぐにゃりと曲がって絡められていた鉄鎖がずるずると落下を始める。
 がくんと、身体が少し下へ落ちた。

「……うちのバカ妹も、強風のせいで近寄れない。このままじゃ、三人……まっさかさまだ」
「お兄様!」
 遠くで青年を呼ぶ声がした。声の出所へと視線を向けると、出会い頭に蹴りを入れてきた少女が宙に浮いている。
 そう言えばと、思い出す。
 彼女は自分と同じ虫っ娘であった。

「あ、あの子……」
「そう、モッさんは蚊の虫っ娘だ。君が……トノサマバッタの虫っ娘であるのと同様に」
 不安げな表情を浮かべる少女は、何度もこちらへ近づこうとしては強風に押し飛ばされている。
 蚊は飛行能力を持つ昆虫の中でもとりわけ風に弱い種だ。
 現れた援軍も、現状を打開することはできそうになかった。

「君が飛ぶんだ」
 だが、眼鏡をかけた青年から意外な言葉がかけられる。
「何言ってるのっ! 私はバッタなんだから、そんな上手く飛べるわけがないじゃないッッ」
 目を見開いてカエラが答える。しかし、青年は提案を取り下げようとしない。
「いや、できる。君がトノサマバッタだからこそできるんだ。何故なら、君は――」
 言葉尻が青年の口から紡がれるよりも先に、その時は訪れる。
 がららと音を立て、鉄骨の刺さっていたコンクリートに大きな亀裂が走った。
 長年の老朽化と、大きな加重を受けたコンクリートは破砕し、いくつものブロックと化して崩壊する。
 露出した鉄骨は大きく前屈みに折れ曲がり、絡み付いていた鉄鎖とともに三人の身体が落下運動を再開した。

 声にならない悲鳴を上げるカエラ。
 眼鏡をかけた青年は、そんな自分を叱咤するように――
「飛べッッ!! 君は、“群生相”だろうッ!!!」
 彼女はやけになって翅を広げた。
 身体の割には少し大きな、直翅を。




「これって……」
 カエラちゃんの漏らした驚きの声に、詩人は安堵の息を一度だけ吐いた。
 三人は強風をも物ともせずに、巻きついた鉄鎖すらも持ち上げて、瓦解するコンクリートを避けるようにして縦横無尽に飛び回っていた。
 カエラちゃんの直翅が羽ばたくたびに、大きな推力が三人の身体を持ち上げていく。
 ぐんと感じる加速は、まるで軍用ヘリを思わせる。
 尋常でない飛行能力だ。跳躍に特化したバッタが本来持つべき能力では断じてないと言えよう。
「……言ったろ。君はトノサマバッタの“群生相”なんだ」
 今も鎖が腹を圧迫するため、詩人は顔を苦痛に歪めながらそう答えた。
 正直早く投げ捨てたいが、生憎両手は塞がっている。
 だから、しばしの間だけ苦痛を甘んじて受け入れることにした。

「何よ、それ……」
 納得のいかないといった風にカエラちゃんが返してくる。
「……トノサマバッタはある特殊な環境下に置かれると、その身体構造を大きく変異させる。様々な能力を飛行能力の一点に特化させてしまうんだ」
「それが“群生相”なの?」
 彼女の問いかけに、詩人は然りと頷いた。
「“群生相”のトノサマバッタは、仲間と傍にいるために身体や後ろ足を小さく変異させると言う。君が抱いていた身体の悩みと見事に合致しているだろう? 君は……より集団行動を取ることに適した相へと身体を変異させた虫っ娘だったってわけさ」
 その証拠がこれと、彼女の直翅を目線で指し示す。
 カエラちゃんの翅は小さな身体と比して、とても大きなものだった。

「“群生相”の飛行能力は、多種多様にある昆虫の中でも一線を画している。何せ、あの小さな身体で一日に数十キロ単位で飛行できるんだぜ? それが虫っ娘となれば……ご覧のとおりってわけさ」
 コンクリートシャワーの危険地帯から飛び出した三人は、傾きかけた日差しを半身に浴びて、しばしの遊覧飛行を開始した。
 言葉を発する者はいない。男の子も落下の瞬間気絶してしまったらしい。
 賑やかな雰囲気をかもし出しているのは、後ろをふよふよと追ってくるモッさんだけだ。
 彼女の表情を見て、詩人は軽く苦笑した。
 彼女は明らかに怒っていた。
(心配させるなとでも言いたいのか? いや、彼女のことだから、あるいはろくでもない……)
 そんなことを考えていると、未だ釈然としないといったカエラちゃんの呟きが聞こえてきた。

「……良く分からない。何で私だけがその“群生相”ってのになっちゃったの……?」
 もっともな疑問と言えた。
 現象には原因が存在する。詩人も彼女に何が起こったのか、ある程度の推測を立てていた。
「そうだな。トノサマバッタの“群生相”は、大体が生息環境の圧迫によって起こるとされている。確か、君が一番下の妹なのだろう? 一番狭苦しい生活環境でストレスを感じていた可能性はあるし、それによって変異が起こったのかもしれない。けれど……」
「けれど?」
 怪訝な表情を浮かべる彼女に笑いかける。
「どうだって良いじゃないか。そんなの」
「……はぁ?」
 素っ頓狂な反応に、浮かべていた笑みが更に深まっていく。第一、自分がこう言った結論に達したことが一番“おかしい”。
「良く考えてみろよ。虫っ娘って存在が、生物学の常識を揺るがす非常識的な存在なんだぜ? なら、相変異が常識的に起こるとは限らないじゃないか」
「それは……そうかも知れないけれど」
 言いよどむカエラちゃん、自分が生物学の非常識的存在であると言う自覚はあるようだった。
「生命の進化は全てにわたって意志の力によるものだよ。だったら、君の変異だって多分意思によるものだ」
「意思、の?」
 そう。と詩人は自信を持って答えた。

「君は姉さんたちみたいに高く跳ぼうと人一倍努力してきたんだろう? 案外、その努力が回りまわって飛行能力の強化に繋がってしまったのかもしれないぜ?」
 渾身のジョークを付け加えて。





「結構面白いですね。仮面ホッパー。これで俳優さんが水谷豊だったらモアベターでした」
「何だよ、その仮面ホッパー・相棒……」
 日曜の緩やかな午前十時台。
 ラングドシャをむしゃむしゃと頬張るモッさんは、先ほどから仮面ホッパーの最新作を鑑賞している真っ最中であった。
 綺麗どころのヒロインが出てくるたびに「ファック!」とか、女の子らしからぬ発言が飛び出てくることが若干気にはなったが、特に悪戯をしでかすわけでもなく、概ね何時も通りの平和なひと時といって良い。
 詩人は相変異に関する論本をぱらぱらと読みながら、もう一方で放送中のホッパーをちら見していた。
 先述したかと思うが、ホッパーも昆虫がモデルになっている。
 生物部部長――詩人的にはチェックの必要な神番組なのだ。

「そう言えば……カエラちゃん、結局陸上部に復帰したんですよね」
 EDテロップをぼけっと見ながら、モッさんがふと思い出したように声をあげる。
「ああ、相変わらず陸上の成績は振るわないけどな。試技で飛行は反則だろうし、多分」
 パラ見とちら見の並行作業を続けながら、生返事でそう答える。
 今週の怪人は中々自分好みの造形だった。

「それってホッパーごっこをやめちゃったってことですよね? あの男の子が悲しみそうです」
 モッさんの言葉に作業を一旦止めて、眉根を寄せる。
 世論の誤解は是正すべきだ。
 詩人は間違いを指摘すべく、彼女を見ながら口を開いた。
「何言ってるんだ。そんなわけないだろう」
「何でです?」
 首を傾げるモッさん。
 本気で理解ができていないようだ。ならばと、詩人は咳払いをし、

「ホッパーはビルからビルへと飛び回るヒーローなんだぜ? 彼女は現にそれをやってのけたんだから、“ごっこ”なんかじゃない。正義の味方が本当にいるんだと分かったんだから、あの子だってもう無茶はしないだろうさ」
 自論をつらつらとそらで語った。
 そして訪れる沈黙。
 ……何故沈黙が訪れたのか分からない。
 はじめはぽかんとしていたモッさんの顔が、徐々にいやらしい笑顔へと変異していき――

「デーデーデーン!」
「……一応聞いといてやる。何で、サスペンスのBGMなんだ?」
「いや、お兄様の発言が私的にはとってもサスペンスでした」
「ほっとけよ!」
 ……結局モッさんは終日、からかうような笑顔のままであった。




PS、
年度末やら怪我やらで、えらい更新が遅れました。。。
ごめんなさい。
次回は、いよいよ最終回で<11ページ目 「啓蟄までさよなら」>ってタイトルです。
あまりスパンが開かないように頑張りますので、どうか最後までお付き合いくださいー。

あ、HP作りました。「俺得ボーイミーツガール」って名前です。見かけたらよろしくですー。



[28504] 差し込みページ 1枚目「バーチャル何たら 前編」
Name: 三郎◆8c60de91 ID:7344717f
Date: 2012/06/24 20:52
 故老……というかチャールズ・ダーウィン先生曰く、野生に在る生物は総じて自分勝手であると言う。
 これはいわゆる生存競争、古典的な生物学の大原則に基づいた考え方だ。この理から外れるのは、利他行為《ヘルピング》を積極的に行う種……例えば主君を守るために矢を全身に受けて立ち往生した豪傑とか、豪華客船から海に投げ出されたディカプリオの外の人とか、地球を守るために隕石に突っ込んだドワナクローズアイなアメリカ人のような“人間”と呼ばれる生物群くらいのもので、基本的に利他主義は反自然的な概念だと言って差し支えない。
 こう言い切ってしまうと、「いや、その考えは間違っている。自然界にだって、雛を守る親鳥の例があるじゃあないか。そもそも、挙げられた例自体、ひどくマッチョなものばかりだ。子を守る母の愛のような献身的なありかたをまったく無視した暴論であろう……」と反感を覚える方もおられるかも知れない。

 だが、子どもという存在が親の血縁を次代へ遺すための渡し船であると言うことを考えれば、親が子を守ることは当然の行為、利己主義の枠外へ逸脱するものではないことが分かるはずだ。
 母の愛は自然的であり、当たり前の代物と言える。もし愛されていないように見えるのならば、それはツンデレである。まったく気にする必要はないだろう。
 ……などと、詩人は取り留めのないことを考えていた。
 何故そのようなことを考えているんだ? と問われれば、こう答えよう。

「お、おろろろーん。お、お兄様、ごめんなさ……うっぷ」
 吐血音。
 それは現在、血だまりの中に横たわるモスキート系少女を抱きしめている……という夢を見ていたからである。
 彼女は怪我をしていた。どういう怪我なのかはさっぱり分からないが、聖闘士ばりに口から血を流し、息も絶え絶えな様子からして、とりあえず怪我をしていることは間違いないだろう。
「良いか、気をしっかり持て! 傷は浅いぞ!!」
 そんな彼女を必死に励ましながら、何故かせっせと献血し続けている詩人が見える。
 ……と、いかにも他人事のように述べているが、実際自分以外の詩人が目の前にいるのだから、それ以外に表現しようがないのだ。
 驚いて自分の身体を見ると、何故か透き通っていて裏側まで覗き見ることができた。
 幽体と言うやつだろうか。
 “自分でない自分”とモッさんが繰り広げる寸劇を、傍で幽体になって鑑賞すると言うのは中々稀有な体験だと思われる。
 だが、嬉しくない。
 むしろ、見るに耐えないと言って良い。何せ、この自分ときたら――
「ああ、くそっ! 神は彼女を見捨てたもうたのか!? ぼくは何て無力なんだッ!!」
 身が悶えるほどに、暑苦しくて気持ち悪いのだ。
 こんな自分は断じて自分ではない。だから、これは夢に間違いない。

 第一、彼女がいずこから出血しているのか分からないが、このシチュエーションが現実ならば、普段の詩人がとる行動はまず止血。おって救急車を呼んでいるはずだ。
 だと言うのに、自分の身体には応急処置を始めようとする兆候が見られない。ただ、利他主義の正道、愚直に献身を行っているのみである。
 もしかすると、思った以上にこの妹系モスキートに情が移っていたせいで彼女の負傷に動揺し、正常な判断能力を欠いている可能性もあるのかも知れないが、それにしたって生き血の直結献血なぞ、古今東西聞いたことがない話だ。血液型くらい考慮すべきである。
 ……と言うか、輸血針の直結とか衛生面から考えても大分ダメだろう。

「おぅふ、いつもいつもすみません……。あ、生き血うめぇ」
 大怪我して息も絶え絶えなはずなのに、彼女の顔色は頗る良かった。ふわりとした藍色の髪は、相変わらず無駄に手入れが行き届いているし、身体から感じる体温は温かいままである。
 その代わりと言ってはなんだが、詩人は今にも死にそうだった。
 何せ、布安布里詩人は今をときめく生物部部長。持ちうる生命力《ヒットポイント》には自信がないのである。
 献血して貧血になるなど、当たり前すぎる帰結であった。

「ああ、くそっ。いくらいくら献血しても良くならない。ぼくは一体どうしたら……っ!」
 芝居がかった悲嘆の声をあげる詩人。おい、止血しろよと、自分につっこんでみるのだが、それでも愚行は一向に改善されない。
 力ずくで止めようとも思ったのだが、幽体になった身体は思うように動いてくれなかった。
 生き地獄である。

「お兄様のその優しさだけで私は、げぇっぷ」
 幸せそうな返答が、満腹の身体表現にかき消される。ん、満腹?
「……む」
 ここに来て、ようやくこの釈然としない夢が何を意味しているのか、詩人は理解することができた。

「……なるほど、そういうことか」
 理解が及んだ瞬間、二つに分かれていた自身の身体が一つに戻っていく。
 幽体が、熱演していた詩人の身体に吸い込まれるようにして重なっていき、自由がきかなかった身体に再び力が舞い戻った。
 わきわきと指先を動かして、具合を確かめる。
 普段通りの感覚だ。これなら殺《や》れると確信する。

「あん、後一杯だけ。後一杯だけとダイエットに喧嘩売りまくっていますが、アイデンティティ故致し方なく……って、どうしたんですか? お兄様」
 詩人の腕の中で頬に手をやり、くねりくねりとしているファッキン妹の額をがっしと掴み、
「もがっ!? ぬ、ぬぐぉぉぉ……」
 万力の如く締め付けた。
 重圧を受けた頭蓋骨が悲鳴をあげる。いかに握力のない文化系男子であっても、激怒による補正さえあれば、敵を悶絶させることができるらしい。彼女は、涙目で歯を食いしばっていた。
 そう、彼女……目の前の少女は敵である。
 名状しがたい思考を持った、冒涜的な怨敵なのである。
「人が寝ている間におまえはッ! おまえはぁぁっっ!!」
「みぎゃあああぁぁぁっ!?」
 と、怒りのスーパーモードに覚醒したところで、詩人は地獄の微睡みから脱出することができた。



「……成る程、寝苦しかった理由はこれか」
 気だるげにベッドから起きあがると、詩人は力の抜けた腕を忌々しげに見下ろす。
 腕には何と注射針が刺さっていた。取り付けられた管から毛細管現象で吸い出された血液が、輸血パックに今も送り込まれている。

「ぐ、ぐぉぉぉ……」
 そのすぐ傍で、吸血少女ことモッさんが脳天を抱えてうずくまっていた。どうやら、無我の境地に達した詩人は、ほぼ反射的に彼女の脳天へ拳骨を落とし込んだらしい。
 もやしボディに秘められた真なる戦闘センスに、詩人は思わず喝采を送った。
 注射針を引き抜き、放り投げる。
 ほぼ満タンになった輸血パックも何処かに放り投げたい衝動に駆られたが、中身が飛び出てしまっては室内がハイパースプラッタ映像である。ここはぐっと我慢することにして、

「おい、モッさん」
 一応、弁解の機会を与えることにする。質問は至極単純なもの。曰く、おまえは一体何をしていたのか? である。
「はい、何か最近キャラ崩壊が激しいとのご指摘をいただいた関係で、久方ぶりにアイデンティティの失地回復《レコンキスタ》を行おうかと」
「キャラ崩壊って何だよ……てか、アイデンティティの回復というと、吸血か? まったく、いくらモスキートの虫っ娘だからと言って……」
 くどくど説教を始めようとする詩人の言葉を遮って、モッサンは笑顔でそれを否定する。
「いえ、売血です」
「なおさら悪いわ、馬鹿野郎っ!!」
 思わず、輸血パックを投げつける。
 よりによって、売血とは。献血が主流になった我が国において、嘆かわしい!
 一体何処に売るつもりなのだろうか。アジアか。
 と言うか、アイデンティティの根幹が血からマネーへと変わっていることにびっくりであった。

「何を驚いているのか分かりませんが、お金で栄養素を買った方が効率的じゃないです?」
 どこか誇らしげなモッさん。メガネがぎらりと光を放ち、形の良い眉は逆八の字を描いている。これが新時代の在り方だといわんばかりのドヤ顔である。
 詩人は眉間に指をやる。ストレスで寄った眉間が凝り固まりそうだ。
 一息ついて、反論する。
 彼女の進歩的文化人のような論には致命的な欠陥があった。
「なら、自分の血を売れば良いだろうが。ぼくからむしりとること自体がおかしな話だろう」
 そう、何も詩人の血でなくとも良いはずなのだ。
 理不尽なことに巻き込んでくれるなと、視線に苛立ちをこめて睨みつける。
 詩人の体躯はもやしだが、その内に眠る精神に関しては種籾を奪われかけている村長に収まらぬ、類まれなる闘争心が備わっていた。果敢なモンロー主義だ。日々のへいおん! を維持するためにもこればっかりは譲れない。

 だが、視線を受けたモッさんは、わざとらしい仕草で思案する。
 そう、思案。この反応だけで、詩人はがっくりと肩を落とした。
 半年以上の付き合いで、彼女のことは良く分かっている。ああ言う反応を見せた時は、十中八九“物事をまともに考えていない”時だ。

「アメリカ的なグローバリズム、略して搾取って羨ましいです。何か楽そうだし」
 ああ、やっぱり!
 やまとんちゅにあるまじき暴言だ。いや、ある意味日本人らしいのか?
 まあ、日本人的であるかないかはさておき、彼女の言動により、その迷惑行為が止むことはないであろうと確定した。
 相変わらずの疫病神ぶりである。
 ……やらねばならない。
 詩人は頬を引きつらせ、不快感をこれ見よがしに表した。
 拳を握り固める。
 メガネの奥でモッさんの瞳がぎらりと輝く。
 張り詰めた空気。一触即発。お互いの背中に竜虎が浮かび上がる。
 かくして昨今では珍しくもなくなった血で血を洗う義兄妹喧嘩が勃発――せんとした、その時である。


「フンっ、相変わらずイエローモンキーは他人様に迷惑をかける、仕方のないやつデスー。そんなんじゃ祖母《グランマ》に叱られちゃうデスよ」
 窓の外から聞き覚えのある声がした。聞こえる発言はとても幼い、詩人の心を癒すものである。
 どういうことだってばよ。不思議に思い、視線を動かすと、窓の桟に一人の少女が腰をかけている。
 額からミツバチの触覚がぴょこんと飛び出ており、背中の翅は行儀良く折り畳まれて、休憩モードになっている。
 ゆるふわカールな銀髪は以前会った時と変わらぬ輝きを放っており、鳶色の眼もきらきらとしていた。
 鼻にかかった高い声色は、何処までも偏見に凝り固まりながらも、内からにじみ出る無邪気さを隠し切れていない。

「君は……」
 ここは二階で、外部から窓に渡れるような足場は何処にもない。そんな場所に出入りできるような人物は自ずと限られてくる。
 そう、彼女はセイヨウミツバチのメリフェラちゃん。
 昨年の夏休みに、この紋白町にて一騒動を起こした張本人であった。

「いえす、あいむはにびー! 全く、何がグローバリズムデス! あなたみたいなイエロー国家産の虫っ娘が、世界の中心、ステーツの物まねをしたところで――」
「じいす、伊豆、ふぁっきん、すぴーく、いんぐらんど!」
 ゴッ。
 メリフェラちゃんお決まりの前口上は、モッさんの一本足打法によって阻止された。
 得物は椅子。詩人お気に入りのパイプ椅子である。クッションと背もたれに匠ならではの工夫がなされていて、軽量ながらも座り心地に優れた一品である。しめて7800円なり。
 と、現実逃避はこれくらいにして、メリフェラちゃんである。
 詩人の動体視力がつぶさに捉える。プロレスラーもかくやと思われる思い切りの良さで振り回されたアルミ製の凶器が、彼女の鼻頭を高速で打ち抜く様を。
 ああ……痛そうだなァ。
 大きく変形する顔。そして7800円。
 一発で意識が飛んでしまったのか、苦悶の声は聞こえなかった。
「うわぁ」
 見ているだけで、三途の川を身近に感じる一撃であった。
「……いや、三途の川へ行くくらいなら、たいしたこともないのか?」
 何故か、脳裏に過ぎる恩師の姿。
 いつぞや夢で見た冥界ライフに思いを馳せて、遠い目をしている間に、メリフェラちゃんの姿が見えなくなる。
 どうやら、二階から庭に落ちてしまったようであった。

「ぐえ」
 蛙のような鳴き声。白目を剥いた彼女の表情が容易に想像できた。
 あんまりだ。相手が相手ならば殺人にもとられかねない暴挙である。
 詩人がモッさんに若干非難の色を込めた視線を送ると、
「私のログにはなにもなかったですー」
 鬼畜色に染まった潔い台詞で、全てを白紙に戻そうとする。
 成る程、そこもステーツ的なのか。と、妙な部分に納得し、義妹の凶刃にかかった哀れな舶来少女に黙祷を送った。
「……まあ、小一時間で復活するだろう。その間に朝飯でも作って詫びに代えれば良いかな」
 メリフェラちゃんはモッさん言うところのギャグ補正があるれっきとした虫っ娘である。多分大事無いのだと思い直し、次のシーンと相成った。




「それで、布安布里先生。私を呼んだのは、何のご用でしょうか? まさか、【これは】【フラグ】【ですか】」
「何だよ、その妙な音節の区切り方。単にメリフェラちゃんが人手を欲していただけなんだが……それに、“私”じゃなく、“私たち”だろう」
「ガッデム、神は死んだ! だがbutしかし、女神転生。次は乙女ゲーの神でオナシャス!」
 相変わらず、理解のしがたいテンションの高さでまくし立ててくる芳川友子(本名)を適当にあしらいつつ、詩人は集合した部員たちに声をかけた。
 部員たちは居間のテーブルを囲んで腰をかけている。
 右から順に芳川友子こと小鳥比菜、植村直政、エレーヌ・ロックフォール、間茂。
 ……間茂?
「何というか、茂まで二つ返事で来るとは思わなかったよ」
 不良部員であるはずの雰囲気キモメン、間茂が極々自然にメンバーの中にいたことに、まず驚く。
 すると、茂は当然のことを聞くなとばかりに口元を持ち上げて、ぐっと拳を掲げて親指を持ち上げた。ナイスガイにのみ許される約束された肉体言語、サムズアップである。
「何言ってんだ。俺たち友達なんだから、これくらい普通じゃね?」
 言葉だけ聞いていたら、世の善性――いわゆる孟子さんのありがたい言葉を信じかけてしまいそうになるが、生憎彼の視線はメリフェラちゃんに向けられている。
 ちらっ、ちらっと盛んに動く眼はいやらしい……の一言で表現できるほど、ゲスい何かを秘めていた。
 おおかた、彼女の訪問を第七感《セブンセンシズ》で感じ取ったのだろう。
 何せ、メリフェラちゃんは小さい背丈に出るところの出ている豊満な身体、いわゆるロリ巨乳と言う奴である。
 たまらぬ者にはたまらないのだろう。多分。いや、きっと。
 ぐぬぬぬぬ、ロリ巨乳。
 と、何故か何処か遠い場所で水野さんやカエラちゃんといった地平の民が叫び声をあげているような気がした。
 
「えっと、わん、つう、すりー。うん、人手としては十分デス」
 少々本筋から逸れてしまったが、どうやらメリフェラちゃんはいやらしい視線にまったく気づいていないようであった。
 明るい色のミニスカートから覗く白い足を存分に伸ばし、揃った面子を指折り数えている。
 いつぞやの貴人服は止めたのだろうか。今日は普通の出で立ちをしている。
 彼女の振る舞いを観察する。
 ……こうしてみると、茂の視線が釘付けになるのも頷けるものであった。
 何せ、ボトム下露出度を比較してみると、メリフェラちゃんを筆頭に、モッさん、エレーヌ、比菜となる。それだけ露出度が高いのだ。
 ほとんどが春を意識した色合いのパンツスタイルである中で、少し季節の早い薄着でいるということは、健全な男子高校生にとって格別の意味を持つ。
 無防備な夏の子はモテるのだ。

「イエローにしては中々良い手際デス! 名誉白人に認定してやっても良いデスよ」
「はあ、それはどうも」
 邪気のない笑顔で喜ぶ彼女に、生返事をする。
 ソーサーを手に持ち、振る舞われた紅茶に口を付ける様は、舶来っぽい本物っぽさに溢れていたが、額の絆創膏がそれを台無しにしていた。
 思うに、この場で最もエレガントと言えるのはエレーヌであろう。やはり、ステーツは気品において本場おフランスには勝てないのか。
 などと、つらつら考えていると給仕に専念していたモッさんが苛立たしげに声をあげた。

「お兄様。こんな奴の言うことを聞くなど、正気ですか! こんな各方面に媚び媚びなビッチボディの腐れ虫なんぞに!!」
 腕を組み、ぷりぷりと怒る様は大層不満げに見える。モッさんとメリフェラちゃんは、ファーストコンタクトから何故か馬が合わないのである。
 モッさんの剣幕にびっくりし、
「び、びっ!?」
 例の如く、羞恥のあまり顔を赤くしたメリフェラちゃんであったが、
「フ、フフン。メリもハリもない身体をしてるせいか僻みっぽくなってるデス」
 すぐに鼻をつんと上に向けて、人を小馬鹿にした表情を作る。
 表情はさておき、今の発言は地雷であった。
 胸を張った時の盛り上がりと相まって、倍率ドンである。
「こ、ここここのっ……! この野郎!!」
 顔を憎しみで染め上げて、歯をぎりぎりと鳴らすモッさん。嗚呼、このままでは鉄火場一直線である。
「なら、お前にあるものを言ってみると良いデス。持たざる者に権利は無いのデス」
「バ、バカヤロー! ロリがありますよ!」
 ドン、とテーブルが縦に揺れた。震度にして4は記録していたように思う。
 かくして得るもののないバトルが始まった。
 ジャッキーチェンばりに家具を使いこなしながら、奮迅の連撃を加えるモッさんに、涙目で抵抗するメリフェラちゃん。
 そしてそれらを横目で眺める詩人。
 お茶を啜り、一度だけため息。どうしたもんかなあ、と。
 すると、茂が何故か達観した表情で語りかけてきた。

「なあ、バイオタ」
「ん、どうした。お前から話しかけてくるなんて珍しいな」
「いや、イルカにはメロンってのがあるんだよな」
「はぁ……?」
 思わず聞き返す。
 疑問の声は二重の意味をはらんでいた。一つは、何故そんなことを今聞くのか。もう一つは、生物に興味のない茂が、何故そんなことを聞いてくるのか。もしや、生物学に目覚めたのか。
「いや、イルカも巨乳なのかなって」
 成る程、最初から茂は一貫していたというわけだ。彼の視線は、先ほどからメリフェラちゃんの胸元を離れていない。
 だから、その後彼がモッさんから飛んできた電動鉛筆削りの流れ弾を顔面に受けたとしても、少しも同情する気にはなれなかった。

「部長《プロフェッスール》」
「ん、あ。お代わりか。気が利かなくて悪かったな」
「メルシ。ううん、そうじゃなくて」
 いい加減止めてやれよと、エレーヌが詩人に目配せしてくる。
 確かに、このまま家具に被害を出されるのは不本意極まりない。
 詩人はこほんと咳払いをして、
「脳天」

 瞬間、何かを察したモッさんが椅子を頭上に掲げて防御態勢をとった。
 古典的な条件反射、パブロフのあれである。先ほど激怒のファーストブリッドを打ち込んでおいた伏線がここで活きた。
「まあ、落ち着けよ。順序立てて説明する」
 と、モッさんをなだめて、メリフェラちゃんの頼みを聞いた理由を提示する。

「まずは、彼女の要求を聞いた理由について。それはパネェ草の一件があったからだよ」
「パネェ草……? ああ、あの不気味な侵略的外来生物ですか」
「え、何ですか。それ、私気になります」
 比菜以外が、ああ、あれか……と言った表情を浮かべる。真夏の汗ばむ時間帯に対峙した、あの植物は部員の心に忘れられぬ印象を残していたようであった。

「そう、パネェ草! この間はよくもやってくれたマシタ!! お陰で私のコンキスタは大失敗……。なけなしのお小遣いで買ったパネェタカアワダチソウは全て水の泡になったのデス。再来日するのに半年も新聞配達する羽目になったし、どれだけ苦労させられたことかーー!!」
 水の泡! と両手をばっと広げて怒りを表現する。
 それにつけても新聞配達……割りと真面目に健気だなあなどと感心しながら、詩人は人差し指を立てて、自分のその後を報告する。

「ちなみにうちの庭では生育に成功して、良い研究レポートのネタになったんだ、あれ。できた種をプラントハンターに売ったら、割と良いお金に化けたぜ」
「わ、私の水の泡が~~っ!」
 ガチ泣きを始めそうであったので、慌てて話を本題に戻す。

「いずれにせよ、彼女の引き起こした迷惑は巡り巡って利益になった。故に何も聞かずに追い出すのは如何なものか? と思ったわけさ」
「……フムン」
 不承不承という風に頷くモッさん。良く言えば聡い、悪く言えば銭ゲバな彼女に対する説得は、利益を明確に提示してやる方が良い。
 本当はモッさんによって物理的に追い出されたことへの謝罪も多分に含んでいるのだが、それはあえて口にしないことにする。

「それで今度はどうするつもりだ? また未知の動植物を提供してくれるなら、こちらもいくらか協力できると思うが。一番研究しがいのある奴を頼む」
「いつの間にか、ウインウインの関係になってるデス……まあ、良いですケド」
 何処か釈然としないメリフェラちゃんであったが、これ以上の回り道は本意でないようで、何故か照れながら今回詩人宅に訪ねてきた理由を語り始めた。

「ふんっ、私は一度した失敗を二度も繰り返すフーリガンじゃアリマセン。一度言ったことは覚えなさいって、いつもパパに言われてました!」
「そうか。立派だな。それで何を提供してくれるんだ?」
「何もアゲマセン! そう言う直接的な侵略じゃなくて、今回のリベンジでは頭を使うことにシマシタ」
 おや? と思い、首を傾げる。
 武力制圧が目的でないとすると他には……
 可能性をいくつか頭の中に浮かべていると、彼女は大きめの紙袋をテーブルの上にドスンと置いた。
「賄賂?」
 呟く詩人と時を同じくして、エレーヌが口元に指をやって、首を傾げた。
「それは、何?」
 エレーヌの反応に大いに気を良くしたメリフェラちゃんが笑みを浮かべる。
 会心の表情だ。早く答えを言いたくてたまらないと言った様子であった。

「そうデス? そうデスか、気になりマスか! えっと、武力制圧が無理ならば、お次は相場が決まっています! それはすなわち経済侵略、T! P! P!」
 言い終えるや否や、びしっと決めポーズを取るメリフェラちゃん。
「何の略なんだ、それ?」
 世辞に疎い直政が問う。確かにニュースではあまり取り上げないタームなので、詩人も農業関係に迷惑がかかりそうな何かだとしか認識していなかった。
「Takeee、Price、Productの略デス」
「ただの押し売りじゃないか、それ」
 こちらのツッコミにもうろたえる様子はなく、メリフェラちゃんのテンションは加速度的に上昇していく。

「押し売り、霊感。結構デス! ハゲタカ希望の私が今回提供する商品とは……これ!!」
「あれ、ゲームソフトですか?」
 盛大な効果音(ボイスパーカッション)を背景に、メリフェラちゃんがごそりと取り出したるは、何やらごつい虫の絵がパッケージに描かれたゲームソフトであった。

「何だ、ファミコンか。それはぼくの専門外だな……」
「ちょ、先生。そのお母さんみたいなゲームのくくり方止めてくださいよっ! 何で、ゲーム全般をファミコンにしてしまうんですか。今はもう8ビットの時代じゃないですよ!! セガの、セガの、うっ……うっ……」
 あからさまにがっかりする詩人に対して、比菜が思わず声をあげる。
 後半の発言は良くわからなかったが、とりあえず十把一絡げな言い方が癇に障ったらしかった。

「ハイ! 親戚の叔父ちゃまがゲームクリエイターで、とっても面白いPCゲームを開発シマシタ! 是非やってみてくださいデス」
 詩人の反応など気にも止めないといった具合で、メリフェラちゃんはゲームソフトを押しつける気満々であった。
 その意欲に押される形で、部員たちが戸惑いを見せる。

「だが、これ高いんだろう? 俺たちは校則に縛られた学生でそう金銭的に余裕のある立場じゃない」 
 直政も乗り気ではないようだ。何度も困難な探検を乗り越えてきた彼にとって、架空の神秘はあまり興味の惹かれるものではないらしい。
 他の部員たちを見てみると、やはり色良い反応を見せていない。興味を惹かれているのは比菜くらいのもので、モッさんは不貞腐れていたし、茂は別のものに惹かれていた。

 しかし、メリフェラちゃんは引き下がらなかった。
「え? いや、ううん。無料で良いデスよ! 叔父さんからも『これでいっぱい遊んできなさい』って言われてマス」
 思ったよりも反応が良くないことに、少し残念そうな表情を浮かべつつも、強気で啓蒙活動を続ける。

「ははあ」
 ここまで聞いて、ようやく話の流れが飲み込めてきた。
 要するにメリフェラちゃんの親戚は、勘違いしているのだ。詩人たちが彼女と仲の良い友人であると。
 確かに、わざわざ半年もアルバイトで資金を稼ぎ、海を越えてまで会いに行く相手だ。リベンジしにいくなどと考えるよりも、ずっと自然だろう。

「成る程なあ……」
 そう考えると、彼女の提示したゲームソフトを受け取らないと言う選択肢はないように思える。
 詩人は鬼でも悪魔でもないのだ。
「分かった、少しそれで遊んでみようか」
 受け入れた瞬間、メリフェラちゃんの表情が花咲いた。
「それでどんなゲームなんだ?」
 パッケージを開いて中身を取り出す。
 パッケージは人数分。中には頭に装着する形のディスプレイが緩衝材と共に梱包されていた。

「ふふり、最近巷に流行るもの……異世界ちーれむ、ばーちゃるMMO。今回は……これデス!!」
 パッケージ裏側の内容明細を指さし、
「バーチャル……リアルタイムストラテジー。何だこれ。ライズ・オブ・真†社会性昆虫……?」
「イエス、ウィル=ライト!!」
 ぐっと拳を天に突き出すメリフェラちゃん。
 良く分からない。と、詩人は眉根を寄せて裏側が透けて見えるディスプレイを持ち上げた。



――――――――――――――――――――――――――――――――――

読了ありがとうございます。三郎です。
前回、理不尽さが足りないんじゃないかと言うご指摘をいただいたので、少しお口直しを兼ねて、突発的外伝を挿入しようと思います。
多分、前後編で終わるはず。

それでは宜しくお願いします。





[28504] 差し込みページ 2枚目「バーチャル何たら 中編」
Name: 三郎◆8c60de91 ID:7344717f
Date: 2012/06/24 21:01
 HMD《ヘッドマウントディスプレイ》によって真っ暗闇に包まれた視界に、ぱあっと目映いばかりの光が射しこんだ。
 次いで厚みのある音楽が聞こえてくる。オーケストラによる壮大な演奏だ。それは立体音響で詩人の身体を包み込み、まるでコンサートホールにいるかのような錯覚を起こさせる。

「……へえ」
 どうやら光の正体は、青い天体と太陽が重なることで生まれたダイヤモンドリングの輝きによるものらしい。すると、今自分が立っているこの場所は月で、あの天体は地球ということになるのだろうか。

 薄暗い海と外面を包みこむ雲の色。そして、ほのかに見える大地の色合いは、詩人の知る地球の姿とは少し異なっていた。現実の地球をそのまま模しているわけではないのかもしれない。
 だが、眼前の“地球もどき”が醸し出すリアリティは、決して虚像の一言で切って捨てることのできない生命の脈動を感じさせる。思わず、これがゲームであることを忘れてしまうほどに。
 詩人は息を漏らしてそれを見つめた。

 少しして、地球もどきと太陽が織りなす金環日食がおさまった。すると、天体の手前に仰々しい西洋剣を思わせる鋭角な書体で、「デデデデーン、デデデデーン」とゲームタイトルが浮き上がってきた。

 ――ようこそ。リアルタイムストラテジー『ライズ・オブ・真†社会性昆虫』の世界へ!
 野太い男のアナウンスがあたりに流れる。

「わわ、わわわっ、始まりましたよ。布安布里先生っ」
 比菜が興奮を隠そうともせずに、こちらの肩をばしばしと叩いてきた。
「……ちょっと落ち着けよ」
 非難めいた視線を向けると、彼女が口から唾を飛ばしながら、頭身の高い四肢でいっぱいに喜びを表現しているのがうっすらと見える。日食が終わったお陰で、暗闇は地平線の向こうへと逃げていき、この月のでこぼこした表面にも光が届くようになっていたのだ。
 光を受けた砂はさらさらと輝いていて、まるで砂漠を思い起こさせてくれた。
(ええと。確か、棘々しているんだっけか。月の砂は)
 吸い込まないようにしなければと考えたところで、はっと気がつく。
 詩人も、一連の光景を見上げている部員たちも宇宙服を着ていなかったのである。
「それどころか、普段着じゃないか!」
「へ、いきなり何です?」
「だから、宇宙空間で普段着でなんて――」
「いや、これゲームじゃないですか」
 当たり前のことだと返す比菜の言葉を受けて、「ああっ」と間の抜けた声をあげてしまった。
 ……よくよく考えてみたらこれはゲームなのだ。
 今見えている映像はコンピュータが作り出した架空のもので、詩人たちの姿もそれは同様。
 目に見える全員がHMDを装着していないことが何よりの証拠であった。

「……だけれど、良くこんなに再現できるものだな」
 しきりに感心しながら、きょろきょろと自分や皆の服装を観察する。
 布の質感や感触などは、まるで本物と変わりないように思える。
 女性陣の春めいた衣服は言わずもがな、安物のシャツ――その多くはFSS《しまむら》である――にサンダル履きな直政の姿も完璧に再現されている。そして、茂のあられもない姿。
 ……え? あられもない?

「お、おい、何だその格好」
 詩人の呆れた声につられてそちらを見てしまった女性陣が、短い悲鳴をあげた。
「な、なんじゃこりゃぁー!?」
 茂だけが普段とは違った格好で再現されていた。半裸にボディペイント、ご丁寧にも股間にはコテカがそそり立っている。
 どういうことだろう……。何故、茂だけが東南アジアの部族民に伝わる歴史あるシンボルケースを身につけているのだ。
 主義信条によるものか。
 はたまた実は彼は日本人じゃなく、熱帯地域からやってきた隠された血統の由緒正しきやんごとなきお方だったりするのだろうか。
 いずれにしても止めていただきたい。悪い意味で目の毒である。

「うぉぉっ。キモっ! あ、あっち行きやがれです!」
「ぉぅふっ」
 モッさん渾身のキックを股間に受けて、茂は力なくその場に崩れ落ちた。
「言い忘れマシタが、プレイヤーキャラは操作者の脳内イメージが反映されるデス」
「な、なんだと」
 す、すると、この格好は茂の……と詩人は顔をしかめて茂を見下ろしたが、彼の表情に柔和な微笑み《アルカイック・スマイル》が浮かんでいることに気づき、少し納得してしまう。
 そう言えば、彼は中々由緒正しき変態さんであった。

「……今見たものは不幸な事故と言うことで」
 とりあえずあれは捨て置こう。
 鼻かけメガネを持ち上げて、詩人はゲームタイトルに意識を戻すことにする。
 今、重要なことはこのゲームを理解すること。
 手始めに、リアルタイムストラテジーという用語にかかわる疑問を解決していこう。
 まず、このタイトルは一体どういう意味なのだろうか。
 先ほどもメリフェラちゃんが同じ単語を口に上らせていた。おそらくゲームのジャンル名だとは思われるが、ゲーム知識の浅い詩人には詳しいところまでは分からない。
 手近なところに解決を求め、詩人は隣のゲーム玄人たる比菜に問いかけることにした。

「……何なんだ? そのりあるたいむすとらてじーってのは」
「んー、すごく説明が難しいです。広い意味ではシミュレーションなんですけれど……」
 比菜が苦笑いして言いよどむ。説明が難しいと言うことは、ルールが難解だと言うことだろうか。それとも、ジャンルの定義が曖昧だとか?

「えっと、シムアントが分かれば想像しやすいかも?」
 その言葉に、詩人は「ああ」と頷いた。
「それならば、分かるぜ」
「おお、私ご明察。やっぱり知ってるゲームはそっち系ってことかー」
「うん、あれは面白かったな」
 何度も頷きながら答える詩人を見て、ぶれないなあと比菜が笑う。
 シムアントとは、シムシティという都市開発シミュレーションゲームで有名な天才ゲームデザイナー、ウィル・ライトが手がけたアリの巣運営ゲームのことである。
 プレイヤーは働きアリに指示を出しながら、マップ上に転がっている餌を集め、自勢力の拡大を目指す。時折、肉食性昆虫やライバルのアリと争うこともあり、なかなか手に汗握る展開を楽しむことができるのだ。 
 詩人が知っているゲームと言えば、これと46億年物語という神ゲーくらいのものであった。
 ちなみに46億年物語において一押しの時代は両生類の時代である。何せ、ボスが巨大な虫であった。
 巨大昆虫が住む時代とは、何という楽園か。詩人の望む理想郷は石炭期にあった。ただのエネルギーにするなんてもったいない!

「RTSって言うのは、簡単に言えばリアルタイムで繰り広げられる戦略ゲームのことなんです。将棋みたいに先手後手に分かれずに、各々が自分のペースで作業をしていくことに特徴があります」
「……エ、エイジオブ・エンパイアなんかが有名だよな」
 よろよろと立ち上がる茂から意外な補足が飛んでくる。

「あれ、エロ男君。RTSゲーマー?」
「フフフ、得意文明はフン族とモンゴル。“騎兵荒らしのしげちゃん”なんて呼ばれているくらいです」
「うわ、露骨に荒らし民族を使ってくるとか……いやらしい。へんたい!」
 エロ男呼ばわりはスルーなのかと詩人が余計なことを考える間にも、彼らの専門トークは進んでいく。
「私はBoom《経済発展》専。一応、Rush《速攻》もいけるよ」
「RoNならイギリスあたり?」
「うんや、いっちゃん好きなのはヌビアかなあ。……諸君、私が何よりも愛するものは“ぬくり”と後衛である!」
 ビシっと宣言する比菜に、茂がサムズアップを返す。

「“イカすね”」
「あはっ。それ、ボイチャのレパートリー? なら、攻めの姿勢たる貴君には“男の中の男だ”と返そう」
 眼をきらきらさせてゲーム談義が交わされる。が、詩人には彼らが話している単語の五割も理解できなかった。分かったことと言えば、辛うじてヌビアというのがアフリカ大陸のヌビアピラミッドにまつわる何かであろうということと、“イカ”くらいのものである。どうやら魚介類が関係しているらしい。

 むむむ、かなり複雑なゲームらしいぞ……と、詩人は若干のとっつきにくさをおぼえた。

「まあ、AoCやRoNなんかよりはEoAのにおいがプンプンするけどね、このゲームは」
「何それ?」
「エイジオブ・ジ・アント。アリの巣拡張RTS。私は意外にイケた」
「何そのマイナーゲー……」
 と茂が比類無き比菜のゲーム知識に辟易したところで、ゲーム談義は一端打ち切られることになった。
 メリフェラちゃんが、ゲームの開始を促したからである。

「二人とも、おしゃべりはそのくらいにするデス。それではゲームスタートの文字をクリックしてクダサイ!」
 言われるままに、部員たちが目の前に浮かんだメニューボタンに手を伸ばす。
 触れたボタンがひときわ輝き、続いていくつかの昆虫名とともに、昆虫の画像がずらりと展開した。
 ここで操作する昆虫を選択するようだ。
「わわ、結構種類がありますね。えっと、クロオオアリにニホンミツバチ、サムライアリに……うわっ、オオスズメバチ? どっかのアメリカ文明ばりの最強厨ご用達臭がしますなっ」
 黄色い歓声をあげる比菜。
 詩人もそれらを確認していく。一応、各種パラメータなども画像の隣に記載されてあったが、初心者である詩人にはその意味するところがあまり理解できない。
 まあ、勝ち負けにこだわる必要もなし。個人の趣味で選んでしまっても問題はあるまい。
 詩人は特に深く考えずに、画像だけをちらちらと流し見していく。
 表示された昆虫は、すべてが一般的に社会性昆虫と呼ばれているカテゴリに含まれるものであった。
 比菜の言葉から類推するに、プレイヤーは社会性昆虫を率いて繁栄に導く……と言ったところだろうか。
 良い趣味をしている。と詩人は思った。勿論、虫を主人公にしているところがである。

 詩人は常々思っていたのだ。
 幼い時分、アリの通り道に水をぶっかけてしまうのは何でだったのか。何気なく、餌と称して他の昆虫を道筋に置いてみたりしたくなるのは何でだったのか。アリ地獄ごっことか言って、砂場にアリを落とすなんてのもあった。

 これらを子供ながらの残虐性などと説明している訳知り顔も多いのだが、あれは要するに「神様になってみたいのだ」と思う。
 昆虫をそれと無く誘導してみたり、苦難を与えてみたり……それによって起こるリアクションに対して、子供たちはいつも好奇心を膨らませている。
 あれは残虐なのではない。彼らが生まれながらの野外観察者であるだけなのだ。
 このゲームならば、原初の探求心を満たしてくれるかも知れない……。
 膨らむ期待に伴って、詩人の瞳も熱を帯びていく。

「おっ」
 そして、並べられた画像の内の一つに思わず目が留まる。
 詩人の興味を引きつけてやまない一種が、そこにいた。
 火の灯る詩人のマニア心。
 こんなものまでいるのかと少なからぬ感動を覚え、迷うことなくその昆虫をクリックする。

「皆さん、昆虫は選びマシタか? それではクイックマッチ。れっつごー!」
「goodgame」
「GG」
「……頑張る」
「はっはっは、はっはっは。他の連中なぞなぶり殺しにしてやりますよ。特にそこのビッチと変態野郎!」
 メリフェラちゃんによるゲーム開始の合図がもたらされ、一同の胸に闘志が宿る。

 選んだ昆虫の画像がクシャクシャと折りたたまれ、一塊の隕石に変化。部員たちの身体をその質量内に取り込んで、地球目掛けて出発した。

 ――次に出会った時、君たちは果たして敵同士になるのか、それとも味方として力を合わせるのか……。いずれにせよ君たちは今、虫たちに勝利の美酒をプレゼントする責務を背負ってしまったのだ。それでは武運を祈る。

 いかにも翻訳したのだなと感じさせる回りくどい男の台詞が聞こえた瞬間、部員たちの宿った隕石群は大気圏へと突入する。
 灼熱色に染まった質量の塊は、尾を引いて定められたエリア内の各所に散っていくのであった。





「偉大なる統率者さまが降臨なさったでゅ!」
「ははーー」
「はいやーー、そいやーー」
 隕石の落ちたクレーターの中心。ひび割れた隕石の中から這い出してみると、周囲で黒い直線的な触角が幾つもぴょこぴょこと揺れていた。
「えっと……」
 その持ち主は案の定と言うべきか、丸みを帯びた虫っ娘であった。
 丸みを帯びた、と言うのは女の子に対して失礼に当たるかもしれない。
 より正確に言うならば、少しデフォルメされた造形と言ったところか。昨今、みかんとか炭とかあそこら辺のご当地土産に良く見られるようになった、低頭身のアレである。
 オレンジ色のふわふわとした癖毛が特徴的で、黒目がちの大きな眼や小柄な体躯と相まって、無邪気な明るさに満ち溢れている。
 服装は統一されており、皆が緑色の広いポンチョを羽織っていた。遠目でみれば、どこかの妖精さんかスナフキンかと見間違うこともあるかも知れない。

 ……これはどういうことだろう。
 選択画像を見た感じでは、てっきりリアルな昆虫集団を指揮することになるのだろうと思っていたのだが……。

「君たちが?」
 詩人が問うと、彼女らはへへーっと平伏して恭しくそれに答える。
「はい! 私たちが統率者様に率いられることになったアブラムシでゅ!」
「完璧で幸福なっ」
「アブラムシでゅ!!」
 どうやら、一応選択した昆虫の群れには違いないらしい。
 詩人が選んだのは社会性昆虫の中でもかなりマイナーな、それでいて最近一番ホットな種――アブラムシだったのである。

(……まあ、虫っ娘の親戚が作ったゲーム。そういうこともあるんだろう)
 敢えて深くはツッコむまい。無邪気そうな外見とは裏腹に完璧とか幸福とか、何やらイデオロギッシュな単語が聞こえてきたような気がしたが、そこも加えてスルーすることにした。
 それよりもまずはゲームの進め方についてだ。

「この後どうすれば良いんだろうか」
 言って頭を掻いていると、聞き覚えのある野太い男の声が頭に響いてきた。

 ――さあ、君はめでたく昆虫たちの支配者として君臨することができた。早速、虫っ娘《ユニット》を動かして自勢力の拡充に努めよう。
「拡充するためには、まず何をすれば良いんだ?」
 ――食糧を採集し、群れの数を増やすことが先決だ。数は力であると、認識しよう。
「成る程……」
 腕組みしながら考える。
 どうやら基本的なゲームの進め方は、シムアントの時代からそう変わらないようだ。
 アブラムシの食料と言えば、植物の師管液。
 辺りを見回してみると、緑の草花が所狭しと茂っていた。
 そのどれもが大木のように巨大で、外面に生えているうぶ毛さえもくっきりと見ることができる。

「大きいな……。いや、自分たちが小さくなっているだけなのか?」
 真偽はさておき、この調子ならば餌に不自由することはなさそうだ。
 早速群れの虫っ娘たちに食料採集の指示を出すことにする。

「良し、皆。まずは食料の確保を行おうか」
 詩人の指示を聞いた虫っ娘たちが、弾かれたように反応する。
「あいっ。それでは“役割分担”を行ってくだぁいっ」
「役割分担……?」
 返ってきた答えに眉根を寄せる。答えたリーダー格らしき虫っ娘――これ以降は便宜上アルファーちゃんとする――は、元気の良い舌っ足らずな喋り方で更に続けた。
「基本的な仕事をこなすメンバーを“ワーカー”と呼ぶでゅ。“マザー”と同じくらい大事な役割でゅ!」
「ははあ」
 成る程、このゲームは社会性昆虫の生態をかなり忠実に再現しているようだ。
 “ワーカー”とは、いわゆる働きアリのような役割を担った階級のことを言っているのだろう。“ワーカー”に様々な作業をさせ、“マザー”が新しい子を産んでいく。
 個体よりも血縁を重視する社会性昆虫のライフスタイルとしては、極めてオーソドックスなあり方だ。
 詩人の口元が緩んでいった。
 この予期せぬ本格志向は嫌いじゃない。

「分かった。それでは“マザー”を一匹だけ残して……最初に答えた君、君が“マザー”だ。んで、後は全員“ワーカー”として働いてくれ」
 上がったテンションに合わせて、指示を修正する……が、
「統率者様、それはできまぇん!」
「へ……?」
 あっと言う間に、その勢いは止められてしまう。
 眼をぱちぱちとさせて、アルファーちゃんに答えを求めると、
「ええっと、今群れの皆が10匹だから……これくらいっ。“ワーカー”にできるのは3匹まででゅ!」
 彼女は指折り数えながら、そうぶつぶつと呟いた後、三本指をこちらに突きつけてきた。
 え、3匹だけ?

「……は? んじゃ、一人をマザーにするとして、後の6匹は?」
「“ニート”でゅ!!」
「おい、ニートも役割に含まれているのかよ!!」
「イエス、ウィル・ライト!」
 思わずずっこける詩人。
 こんなゲームにまで現代社会の荒波が押し寄せてきているとは! しっかりしてくれよ、地方自治体と国!
 ……などと内心叫んでしまったものの、よくよく考えてみると納得できる話ではあった。
 そもそも野生生物の作る集団と言うものは、その構成員の7割が無意識にサボタージュを行っているものなのだ。
 御伽噺では働き者で有名なアリも、巣のために花の間を飛び回っているミツバチも、実はほとんどが仕事をサボっていると聞けば、驚かれる方もいるかもしれない。
 だが、これは昨今の生物学界では常識になっている説なのである。

 ちなみに3割に当たる働き者の寿命は、他のサボり集団よりもずっと短いと言うのだから切ない話で……
 と、話がずれたが、これもいわゆる本格志向の一環ということなのだろう。
 釈然としないものを感じながらも、詩人は集団の中から3匹を無作為に抽出し、彼女らに“ワーカー”としての役割を与えた。

「君と、君と、そして君に決めた」
 役割を与えた瞬間、彼女たちの頭上にピコンと半透明なテキストウインドウが現れ、職名が表示される。
 マザーにワーカー。それに、ニート。ニートを職名としても良いんだろうか……? ハローワークでニートの求人はしていないと思うのだが。
 詩人の疑問などお構いなしに、彼女らは与えられた役割の差に一喜一憂する。

「マジかよ!」
「ぐ、まさか私たちとは……」
「む。不服があったりするのか?」
「いいいいいや、文句はごじゃあません! 私たちは完璧で幸福なアブラムシでごじゃあますから!!」
 言葉と態度が合っていない。ワーカーに選ばれた3人は、明らかに死ぬほど残念そうな顔をしていた。
 少々蓮っ葉な物言いをする一人目は、うんざりとした表情を見せている。頬にやんちゃ傷がついているので、便宜上ヤムチャと呼んでおこう。
 二人目は周りより落ち着いた雰囲気を漂わせており、ご丁寧に眼鏡までかけている。他に目立った特徴もないので、とりあえずハカセとでもするべきか。
 そして、三人目はサル顔であった。もうあだ名はサルで決定である。

「労役から免れた!」
「ばんざぁーい! ばんざぁーい!」
 やたら落ち込む3匹とは対照的に、労役から免れた6匹が後ろで万歳三唱を行っていた。何となく不公平な気がしたので、
「単にサボるだけじゃなく、仕事を割り振られたときに備えて、何か勉強してろよ」
 ピシャリと言ってやったら、
「な、何とゆう……」
 全員がビクっと静まり返り、とぼとぼと座り込んでいった。
 皆が皆、食物連鎖の下のほうにいることが良く分かる性格をしているようであった。
「まったく……」
 ため息をついて、3匹の方へ向き直る。
 気を取り直して、食料採集の開始である。

「まずは、どうしたもんかな」
 先述したように、周囲には巨大な雑草のジャングルが広がっている。
 屋敷ほどもある葉脈が日差しを遮る光景は、神秘的な雰囲気を作り出していた。この光景は確か……そう、何処か映画の『ミクロキッズ』を髣髴させる。
 葉脈の向こう側には太陽を遮る木々の類が見あたらない。
 多分、ここは雑木林や原生林などではなく、ここは庭先の芝生広場のような場所なのだ。
 森林性の昆虫には住みづらいエリアだろうが、アブラムシにとっては特に不自由のある場所ではない。

「これが餌になるのか?」
 詩人は大木と化した雑草の一本に近づいていき、軽くその外面をこつんと拳で叩いてみる。
 堅い。
 木部のある木々と比べれば、確かに幾分か柔らかく感じられるのだが、到底食べられるものとは思えない。こんなものから果たして食料が取れるのだろうか。
 いや、れっきとした本物のアブラムシならば、口吻を外面に突き刺すだけで事足りるのだろうが、彼女たちは虫っ娘だ。
「人間の姿かたちで師管液は吸えないよなあ」
 どうしたものかと首をかしげていると、3匹の内の1人が鼻を擦りながら答える。ヤムチャちゃんだ。

「そこらへんにある草を切り倒して、ごはんを搾り出すと良いんじゃねえか?」
 先程はいかにも不満げな表情であったのだが、どうやら一旦仕事にさえ就けば、言われたことに対して真面目に取り組むようだ。
 今、彼女は切り倒すと言った。どうやるのか皆目見当がつかないが、やると言っているのだから、やらせてみよう。

「んじゃ、試しにやってみて」
「おうよ! ぬおぉぉぉぉっ」
 詩人が許可を出すと、ヤムチャちゃんは気合と共に、取り出したノコギリで大木サイズの草の根元を挽きはじめた。
 全力だ。真っ赤にした顔には修羅が宿っている。
 
「おお、これはなかなか……」
「ほぁぁぁぁぁぁっ!!」
 片足で雑草の外面を踏みつけて、全力で背筋を活用した漢《おとこ》挽き。
「まったく、汗臭い肉体労働ねえ」
「血眼になって腕を動かしてごじゃあますなあ。まさに馬車馬! 私ならもちょっと効率よくやりますがのう」
「馬に腕はねえ! ああ、くそっ。他人事みたいに見物しやがって!」
 他の二人が感心し、ヤムチャちゃんが吠える。
 確かに感嘆すべき勢いで伐採作業は進んでいたが、同時に彼女の寿命もマッハで縮んでいきそうである。
 そのことを哀れに思うに暇もなく、体感時間できっちり3分後には、音を立てて切り倒された雑草と、生ける屍と化したヤムチャちゃんが大地に伏していた。

「お、おお。早いな。よし、お疲れさま。ヤムチャちゃん。しばし、休んで良いぜ」
「ぜぇっ、ぜぇっ……! ヤ、ヤムチャちゃんって何だ……?」
「君の名前だぜ。便宜上付けさせてもらった。それじゃあ、圧搾作業はハカセちゃんとサルちゃんに任せた」
「ふむ、分かった」
「あいっ、承りごじゃあましたぞーーっ」
 バトンタッチを受けた虫っ娘二人は、何処からか取り出したペットボトルに師管液を注ぎ込む作業を始める。
 ちなみに圧搾には、またまた何処からか取り出したハンマーを用いていた。

「……結局肉体労働じゃねえかっ!」
「断じて違う。主に振り下ろす角度」
「うははは、私も小刻みに休憩入れてるから、ヤムチャと同じじゃにゃあですわ!」
 ヤムチャちゃんの抗議を、二人は涼しい顔で受け流す。
 ドーン。ドーン。と、リズミカルに続く労働の音を耳にしながら、
「成る程……これなら、まあ食料を数量化することも可能だな」
 と、詩人は一連の作業にゲーム的なデフォルメを感じた。

 体感時間で三十分ほど経った後、詩人と愉快なアブラムシ群の周りには、ずらりと食料(ただし、ペットボトル)の山ができあがっていた。
 ちなみに、やはりハカセちゃんとサルちゃんは青い顔をして死にかけている。
 結局重労働だったらしい。恐らく寿命が半年分は縮んだはずだ。

「ヒャッハァ、新鮮な食料だぁーー!!」
 先ほどまでうなだれながら、地面に落書きをしていたニート集団が、急に活気づいた。
 我先にとペットボトルの山に飛びついていく様は、まるで池に落ちた昆虫を狙うアメンボのごとくである。
「ひゃああ、うみゃぁぁー」
「ありがてぇ……ありがてぇ……」
 これを見るに、給餌は自動で行われるものなのだろう。

「腹が膨れたら、別の三人をワーカーに選び直して仕事させるからな」
「ぎゃあす!? そんな御無体な……そんなことが許されるというのですか……!」
「ええと、できるよな? 神の声《おっさん》」

 ――群れの統率者になった君は、自由に保有ユニットの職業を選び直すことができるぞ。ただし、特殊職業を選ぶにはある程度の進化ポイントと時間が必要だ。

「ありがとう。と言うわけで、キリキリ働いてもらうからな」
「なんとゆう……」
「ああ、後“マザー”になった君。アルファーちゃん」
「げぷぅ……。あいっ、何でゅか?」
 ニート連中と比べて、アルファーちゃんの顔色は明るい。
 マザーになったために、ワーカーにされる恐れは無いと判断しているのだろうか。
 口周りを師管液まみれにしながら、幸せそうな顔で返事してきた。
「群れの虫っ娘を増やしたいんだが、どうすれば良いんだ?」
 数は力だと神の声《おっさん》も言っていた。
 詩人もこれには同感だ。餌を蓄えるにせよ、何をするにせよ、群れの生存を考えれば、数を増やすことに越したことはない。
 ここはできるだけ早く、群れの構成匹数を増やしておくべきだろう。
 そう考えた詩人は、アルファーちゃんに問いかけた。
 虫っ娘を増やす方法が分からなかったからだ。

「アブラムシは単為生殖だが……出産とかはどうなっているんだ?」
 まさか、そこまで忠実に作っているとは考えにくい。いや、まさか。そんなことは。
 問いかけられたアルファーちゃんは「ああ、それなら……」と思い出したかのように人差し指を立てて、クレーターの最深部を指し示した。

「ついてきてくだぁい」
 クレーターの最新部にあった隕石には、いつの間にやら注連縄が巻き付けられていた。
 何だ、これ? と怪訝そうなまなざしを向けていると、
「これは祭壇でゅ。新メンバーが欲しいときには、祭壇に食料を捧げて乞うのでゅ」
 彼女はそう言って、隕石の前にペットボトルを何本か捧げると、
「うんにゃらーー、ほんにゃらーー! いあ! いあ! アブラムシ、たん!」
 何だか良く分からない呪文をそらんじて、祭壇に恭しく平伏した。
「いあ! いあ! アブラムシ、たん!」
 さらに何時の間にやら集まっていたニート連中も、同様の呪文を合唱する。
 異様な光景だが、一つだけ分かることがある。
 それはニートも集まって祈祷するなら、マザーって役割要らなくね? と言うことだ。
 詩人はその疑問を、そっと胸の奥底に仕舞い込んだ。
 何かツッコミは無粋な気がしたのだ。
 ただ、マザーも別に誰でも良さそうな感じがしたので、後で選び直せるなら、直してみようと考える詩人であった。

 その後寒気を感じたアルファーちゃんが途中激しくせき込むなどの小イベントはあったのだが、祈祷はつつがなく終了し、しばらくしてから生まれたてとは思えないテンションの笑い声が、頭上から聞こえてくる。
「ふはははは、私参上!」
 翅の生えたアブラムシの虫っ娘だ。
 彼女は大地に降り立つと、折角生えていた翅をはらりと落として、群れの中にとけ込んだ。わざわざ没個性的になる必要はないと思うのに、もったいない。

「おお、仲間が増えた! 祭りだ。カニバルだ!! 統率者様、祭りやっていいですよね? 答えは聞いてなぁい!」
「わっしょぉーーい!」
 かくして記念すべき新メンバーの爆誕は、何やら訳の分からないテンションでのお祭り騒ぎへと移行していく。
 すっかり、明るくなった彼女らを観察しながら考える。
 労働でエネルギーを消耗することは嫌がるのだが、祭りでエネルギーを消耗する分には問題ないらしい。

 この段階になると、詩人にも彼女らの性格がおぼろげながらも理解できるようになってきた。
 生来気楽な師管液食らいのアブラムシちゃんは、明るくマイペースな人となりをしているものなのだろう。

 真っ当な昆虫である方のアブラムシを観察していると、稀に「こいつら何考えて生きてんだろうな?」と素朴な疑問を感じることがある。
 ひたすら、師管液を吸い、子孫を増やすだけの生。
 現実のアブラムシも、目の前の彼女らと同じようなことを考えて生きているのだろうか?
 ニート願望の強いアブラムシ……。
 あまりそうであって欲しくない予想であった。

「……これはゲーム終了時までこの調子なのかな」
 苦笑いしながら導き出された予想は、この後すぐに裏切られることになる。
 げに恐ろしき脅威が、詩人の率いる群れの近くにまで忍び寄ってきていたのだ。




「ぬ、ぬわーっ!?」
 気の向くままに師管液を堪能していたアブラムシ村(便宜上、村と定義づける)にて、空気を切り裂く絶叫があがった。
 叫び声の主は宙を浮いていた。……いや、“はね飛ばされた”と表現した方が正しい。
 空高く舞ったアブラムシちゃん多分その10は、真っ逆様に地面へと落ちていき、車田漫画のように崩れ落ちていった。
 突如として起こった惨劇。
 地面に伏したその10の身体から天使のわっかを頭上に浮かべた半透明の霊体がぬっと抜け出て、涙を流して天へと昇っていく。
 霊体は捨て台詞を残していく。
「飲みかけの師管液は誰にも……誰にもぉぉ……!」
 本題ではなさそうなので、ここでは省略することにしよう。

 ともかく、魂を失ったその10の側には巨大な黒い影がうごめいていた。
 それを見た瞬間、アブラムシたちがびくっと体を震わせて、その表情を恐怖で染めあげていく。
 その10を手に掛けた影……彼女らは、それが何なのかを正確に理解しているようであった。

「て、ててて、天敵だぁーーっ!」?
「あ、こらっ」
 あたふたしながら、彼女らは四方に散らばり始める。
 理性も何もあったものではない。彼女らは完全にパニックに陥っていた。 
「天敵だって……?」
 詩人は表情を引き締めて、影に焦点を合わせる。
 大きさはヒグマほどもあるだろうか。
 苔の生えた地面を広く占有した、芋虫状の体躯。その外骨格は分厚い鎧で覆われている。
 胸部からは頑丈な六本足が生えており、背中には星を思わせる斑点がいくつか見えた。
「まさか!」
 アブラムシの天敵。背中の斑点……。
 詩人の昆虫知識が答えを割り出していく。
 詩人は影を睨みつけて、力の限り叫んだ。
 アブラムシの幼虫と! ……あ、いや?

「お前みたいなテントウムシの幼虫がいるか!!」
「うにょーん」
 恐らく、テントウムシの幼虫なのであるその怪物は、ゲーム的なデフォルメがなされており、その頭部に彦根城のマスコットみたいなゆるキャラフェイスが張り付いていた。
 中途半端にテントウムシのフォルムを残しているのが非常にいけない。
 これは、何というかひどく冒涜的だ。主に昆虫学界に対して。

「と、ととと統率者様。危ないでゅ……! テントウムシは残虐なハンターでゅ!! 」
「やかましい! あんなひこにゃん芋虫モードに負けるのは色々としゃくだろうが! 何を考えてあんなデザインにしたんだ。制作者は!!」
「にょろーん」
 鳴き声がまた腹の立つハンターであった。
 憤る詩人を村の幾人かが引き留める。
 最初に名前を付けたメンバーだ。他のメンバーと違い、青ざめた顔色をしながらもこの場から逃げ出さずに、詩人の側に侍ろうとしている。
 その様は、まさに健気の一言につきよう。

 ――さあ、君の率いる群れは遂に異なる知的生命体と接触したようだ。平和的に接するか、それとも暴力でもってこれを制するか。統率者としての手腕が問われるだろう。
「あれの何処に知的な部分があるんだよ!」
 直接怪物にツッコみたいのだが、言語の壁がそれを阻む。
 異文化理解とはかくも難しいものなのか……。
 悲しむ暇もなく、芋にゃんがこちらにまなざしを向ける。
 つぶらな瞳が赤色に染まる。まさか……攻撃色だというのだろうか。
 芋にゃんが跳ぶ。
 狙いは詩人たち、その場から逃げなかった面々だ。
 あれがテントウムシだというなら、自分たちはさぞ涎を催す美味そうな獲物に見えていることだろう。
 捕食者と獲物の間に平和的な関係の構築はあり得ない――。
 つまるところ、詩人はハイパーピンチに陥っていた。

「くっ!?」
「うにょーん」
 気の抜けた鳴き声とは裏腹に、芋にゃんの動きは機敏そのものだ。
 頑丈な六本足で大地を蹴り、地響きとともに突進してくる。
 まるでタタリガミかカオナシのようなおぞましさであった。
 一歩ごとに、彼我の距離が大きく縮まっていく。
 体感でその勢いは時速60キロ程に達しているように見える。
 その威圧感たるや凄まじいの一言だ。
 真正面から突っ込んでくる10トントラックを見たって、こうはならないかも知れない。

「一端散開しろッ!」
 あの大質量による突進を受けては、ひとたまりもないだろう。
 詩人は近衛の4人に指示を下し、自身も斜め前方二時の方向へ駆けだした。
 どれほど効果があるかは分からないが、巨体の突進に対し、そのまま後ろに下がるよりはマシだろう。
 ごうっと、肌で巨体が通り過ぎたのを感じる。
 迅速な判断もあって、詩人と近衛たちは何とか無事に初撃をやり過ごすことができたようだ。
 だが……

「うぎゃっぁー!?」
 交通事故を思わせる衝突音と、悲鳴。
 先ほどに続いて、パニックになって蜘蛛の子を散らした一匹が、突進の犠牲になってしまったのだ。
 ゴム鞠みたいに吹っ飛ばされたアブラムシ恐らくその9ちゃん。彼女は、雑草の壁にひどく身体を打ちつけて、磔になった状態で即時昇天してしまう。
「私昇天、なう……」
 やはり、芋にゃんの体当たりは致命的な破壊力を備えているようだ。
 詩人は焦る。
 このままでは自分の率いる群れが全滅しかねない。
 どうすれば……どうすれば、あの芋にゃんを退散させることができるのか。

「現実の自然界なら、こう言う時は……」
 近くに共生関係にあるアリがいれば、アリに頼んで幼虫を退治してもらうこともできるだろう。
 だが、不運なことに詩人の群れは未だアリと接触していない。
 では、全員で団結して攻撃するしかないのだろうか?
 テントウムシという昆虫は、小型昆虫の中ではかなり強い部類に入るハンターだ。
 頑丈な身体と機敏な動き、おまけに強力な顎も持っていて、攻防共に隙の無いスペックを秘めている。
 農家のおっちゃんに名づけられた生物農薬という名は伊達じゃないのである。
 そんな強大な敵に、師管液を吸うだけのきままな底辺暮らしが立ち向かって、勝てるのか。
 攻撃手段もない彼女たちが――いや、

「……無いことはない、な」
 少なくとも、反撃の可能性の一つとして詩人の脳裏に閃くものはあった。
 最近の研究で、実はアブラムシは補食者を撃退するための武器を持っているということが判明しているのである。
 問題はその事実が、ゲームに反映されているかだが……。
「おい! アブラムシに“兵隊”を作ることはできるのかッッ」
 声を張り上げ、おっさんに問いかける。

 ――“ソルジャー”の設定には、1体につき1分の時間と50の進化ポイントが必要だ。
 すると、おっさんの答えが返ってきた。
 来た。望んだ答え、そのままだ。
 どうやら、このゲーム内のアブラムシは最新の研究内容がスペックに反映されているらしい。
 ならば、兵隊さえ生み出せれば十分に勝機はある。

「ならば、今何ポイントだ。その進化ポイントは!!」
「ちょ、丁度50でゅ。統率者様ーー!」
 アルファーちゃんが指さした先には、仲間の召喚場と化した隕石がある。隕石には深々と「進化50なう」と刻みつけられていた。あれって、どうやって更新するんだろうか。

「良し。だったら、ヤムチャちゃん。君が兵隊になれ!」
「お、おう! それじゃマザー、行くぜっ」
「ぁ、あいっ」
 急ぎアルファーちゃんに指示を出すと、彼女たちは隕石の祭壇へと駆けつけて、先程と同様の祈祷を開始した。

「むにゃ、むにゃ。いあ、いあ!」
 呪文を呟いた直後、ヤムチャちゃんの前にどすんと毒々しい色をした麻袋が降って来る。
 袋には「特訓用」とマジックででかでかと書かれている。中に砂がみっちり詰まっているのだろうか、袋はパンパンに膨れ上がっていた。

「……え、何だこれ?」
「こ、これは一族に伝わる毒手の鍛錬袋でゅ。多分! 1分間、感謝を込めて100回の正拳突きをすることで、秘伝アブラムシ真拳が身に付くのでゅ。多分!」
「えらくインスタントで信頼性の乏しい修行だが、効果がありそうならやるべきだな。残るは時間稼ぎか……!」
 キッと芋にゃんを睨みつける。
 1分間、アルファーちゃんは祈祷を、ヤムチャちゃんは正拳突きをし続けなければいけないわけだから、祭壇の近くから動くことはできないだろう。
 その間、詩人たちは彼女を守らなければいけないのだが……
「くそ、長すぎる」
 あの高速機動の突進は、一撃でアブラムシを昇天なうさせることが可能だ。
 下手をすれば、兵隊は完成したけれども、他の面々が全滅していたなんて言うことにもなりかねない。
「何とか時間稼ぎを……何か手は……」
 下唇を噛む詩人の肩を、ぽんと叩く手があった。

「統率者様……ここは私がやる」
 ハカセちゃんであった。日本男児の風格を漂わせ、彼女は芋にゃんに対して、仁王立ちで向かい合った。
「……やれるのか?」
「やれるか、じゃない――ここでやらなきゃ……村が全滅する」
 瞳に宿るは囮になる悲壮感ではなく、群れを救わんとする覚悟。
 彼女は男前に力こぶを作り、詩人たちを背にして走り出した。
 肉体労働を汗臭いと馬鹿にする彼女らしからぬ、決死の万歳突撃。それが功したのか、彼女は奇跡的にも芋にゃんの背中に回り込むことができた。
 ハカセちゃんはすうっと息を大きく吸い込むと、
「……やぁっ!」
 意を決して芋にゃんの背中にとりついた。

「うにょろーん!」
 これには、さしもの怪物もたまらない。
 背中の異物が邪魔なのか、芋にゃんはハカセちゃんを振り落とそうと暴れ出す。
「くぅぅぅぅぅ!」
 だが、ハカセちゃんは耐え続ける。
 頑丈な六本足も背中にまでは届かない。彼女が力尽きるまで、芋にゃんの矛先は背中の異物に引きつけられることだろう。
 大健闘である。
 彼女の踏ん張りは、貴重な時間を十二分に生み出してくれるに違いあるまい。
「あ、もう駄目……」
 と思ったら、20秒で音を上げた。

「おい、諦めんなよ! 群れの命を背負っての突貫じゃなかったのか!!」
「い、いや、最近運動不足気味だし。さっきの労働で溜まった乳酸が……。あ、痛っ、足つった!?」
「哺乳類みたいなことを言うんじゃないよ! 後25秒だ! それだけ耐えたら、あとで十分休めるんだからっ!」
「さようなら、天さん……」
「馬鹿、天さんはあっちだろうがぁ!!」
「……ホアッー! ……ホアッー! ……ホアッー!」
 必死に詩人がハカセちゃんを応援している脇で、ヤムチャちゃんが砂袋に正拳突きをしながら奇声をあげている。
 突きを放つ際には奇声をあげねばならない掟でもあるのだろうか。
 事情を知らない者が見たら、一体何事かと首を傾げる不思議空間である。
 詩人も恥をしのんで呼びかけ続けたのだが、

「やっぱりもう駄目……」
 結局、芋にゃんの背中からハカセちゃんの身体が離れる。
 ぽしゃりと地面に力なく落ちた彼女に、かなり苛立った芋にゃんの前足が迫る。
 研ぎ澄まされた槍と化した前足は、ハカセちゃんの喉元目掛けて一直線に向かっていき――

「……待たせたな」
 致死の一撃は、寸でのところで身体を割り込ませたヤムチャちゃんによって防がれることになった。
「――はっ?」
 詩人は慌てて隣を見る。
 先刻まで延々と突き続けた来た麻袋には「終了」とマジックで書かれていた。
 どうやら、ぎりぎりで兵隊の生成が間に合ったらしい。
 “ソルジャー”となったヤムチャちゃんは、矢のように飛び出してハカセちゃんの窮地を救ったのだ。まさに一瞬の早業で。

「何だ、この突きは……」
 ヤムチャちゃんは片手で芋にゃんの前足を受け止めながら、口元に笑みを浮かべる。
 眉毛が濃い。何だか人相まで変わってしまったようだ。先程まで、少なくとも可愛らしい風貌をしていたはずなのに。これではヤムチャちゃんではなく、ヤムチャさんである。
「ぐ、ぐぬーん」
 ただならぬ気配を感じたのか、芋にゃんも前足を下げて、ヤムチャさんから距離をとる。
 彼女は不敵に笑い、指関節をばきばきと鳴らした。

「仕方がない。手本を見せてやらんとな……」
 と、声だけを残して彼女の姿が消えた。
 高速で芋にゃんとの距離を詰めたのだ。
 ヤムチャさんは懐から怪物を見上げると、
「突きとは……こう、放つんだ! ホァーッ!!」
 雷速に達した猛烈な一撃を、芋にゃんの腹部目掛けてお見舞いした。
 ――ズン。と空気が震え、辺りに静寂が訪れる。

 やがて、びくんと震えた芋にゃんの巨体が力を失い、崩れ落ちていく。
「そんな……たった一撃で……」
 ハカセちゃんが驚くのも無理はない。
 だが、詩人としてはこの結果はある程度予想のできるものであった。

 ――兵隊アブラムシ。近年アブラムシの中でも社会性を有する一部の集団には、外敵からコロニーを防衛するための特殊階級が存在することが分かってきた。
 彼女らは、体内でタンパク質分解酵素《プロテアーゼ》を生成し、外敵を見つけると口吻からそれを毒液として注入し、文字通り敵を“殺虫”してしまうのだ。
 ヤムチャさんが行っていた修行は毒手の習得。
 恐らく、彼女の繰り出す突きには強力なポイズンの効果があるのだろう。

「……かなり大型の種、哺乳類ですら撃退してしまうと聞いていたから、恐らく効果があるとは思っていたけど」
 まさかこれほどとは……と。詩人は息を吐く。

 感嘆の的になったヤムチャさんは、悠然と詩人の傍まで歩み寄ってくる。
「……フッ」
 そして、その場で丸くなった。

「えっ?」
「……お願いします。ご飯をください」
 思わず、キャラを忘れて丁寧語で懇願するヤムチャさんからは先程の頼もしさはまったく感じられない。
「お腹が、空いて。まじやべぇ」
 魂の抜けかけたヤムチャさんの七五調を聞いて、詩人はようやく気がついた。
 現実の兵隊アブラムシも、毒液を吐き出した後は身体が縮む。
 ならば、ヤムチャさんだってお腹ぐらい空くよな、と。




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すいません。外伝的なのを前後編でやろうと思ったら、思ったより長くなりました。次で、外伝は完結します。


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