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[2785] Muv-Luv ALTERNATIVE -Second World Was Failed-
Name: Vollmond◆d2a8c8a6 ID:d7498c84
Date: 2009/12/02 01:54
 2001年10月22日(月)


「……ここ、は……?」
 目を覚ましたとき、白銀武は強い違和感に襲われた。
 そして体を起こして周囲を見回し――その違和感の正体に気付いた。
「……オレの……部屋、か?」
 呟く。その瞬間武は、自分が『元の世界』の自分の部屋にいるのだという事実を、はっきりと認識した。
 ――帰ってきたのか……。
 だが、武がその事実に無邪気に歓喜することはなかった。
 ベッドに視線を落としても、そこには誰もいない。元の世界の10月22日、武に寄り添うように眠っていた少女の姿はなかった。
 閉められたカーテンに手を掛ける。ごくりと喉を鳴らし――一気に開け放った。
 朝の陽射しに網膜が焼かれ、視界が奪われる。
 やがて光に目が慣れたとき、武の目に映ったのは、毎晩のように言葉を交わした幼馴染みの部屋の窓――ではなく、下半身を失った戦術機、撃震の残骸によって押し潰された、無人の廃屋だった。
「…………」
 思ったより、落胆はなかった。
 既に同じ経験をしたことがあるからか、それとも『この世界』でなすべきことが定まっているからか――あるいは、十年前から覚悟していたからか。
 ――それとも。そこに、どこか黒く濁った昏い悦びがあったからか。
 一瞬、思考にノイズが走る。ざらざらと頭の内側が削れる音を聞いた気がして、武はかぶりを振った。
 最後の記憶は、曖昧だ。2011年の末頃……だったように思う。
 帝国軍――元々帝国に所属していた軍に加え、接収された元国連軍横浜基地所属の軍――によって構成された大隊を率い、大反攻作戦として甲20号目標――鉄源ハイヴに突入したことまでは憶えている。
 それが今ここにいるということは、任務は失敗したか、超高性能爆弾G-11でハイヴの中枢たる反応炉諸共自爆したかのどちらかだろう。
 どちらにせよ、今の武には関係ないことだ。こうして、戻ってきてしまった――戻ってこられたのだから。
「夕呼先生の言った通りだったな……」
『前の世界』での2002年6月8日の出来事を思い出す。
『あんたはきっと、もう一度この世界をやり直すことになる。あんたがループすることになった原因を取り除かない限りね』
 泥酔しながらではあったが、夕呼ははっきりとそう言った。
 そして、現実にその通りになったのだった。前回の記憶は保ったまま、肉体も鍛え上げられたまま。どちらも、前の世界で目覚めたときと同じだ。
 夕呼はこうも言った。
『あんたになら、きっと世界を救うことが出来るはずよ。この世界の因果には縛られないあんたになら。だから……あんたに託すわ。世界を頼んだわよ――白銀武』
 込み上げてきた悔しさに、武は苦虫を噛み潰したように表情を歪めた。
 ――まただ。
 また、届かなかった。『こちらの世界』を経験するのは、これで三度目になる。
 これまでに辿ってきた二度のループ、どちらの世界でも、人類がBETAに打ち勝つための切り札であるオルタネイティヴ4は成功しなかった。半導体百五十億個の並列処理装置を手のひらサイズにすることが出来なかったのだ。
 そのために必要な理論が完成していなかったのか。あるいは、夕呼の理論に対応するだけの技術力が人類になかったのか。
 ……どちらであるかを論じても、それは詮無きことだ。武は夕呼の理論について詳しくは知らないし、人類の詳細な技術力についても知らないのだから。
 明確なのは、オルタネイティヴ4が失敗に終わったという事実と。
 そしてオルタネイティヴ5が発動し――人類は、敗北したという、動かしようのない結果のみである。
 何かが足りなかった。世界を救うには、武の持っている力では足りなかったのだ。
「……でも、今度は違う」
 そうだ、今回はこれまでとは違う。今の武には、情報がある。『二度目の世界』の2002年6月8日に、オルタネイティヴ4の責任者である香月夕呼から託された情報が。
 そして……強い、強い想いが――。

 ――ざ、ざざ……。

 ノイズが走る。
 沸々と湧き上がる熱い想いに、衛士という自分の殻で蓋をする。奥歯を噛み締め、白銀武の一部を削り落とす。
「今度こそ……今度こそ、オルタネイティヴ4を成功させてみせますから……。見ていてください、夕呼先生……!」
 もう二度と、地球は棄てさせない。
 もう二度と、誰も犠牲にはしない。
 護るのだ。この地球を。掛け替えのない故郷を。そして――仲間達を。護り抜くのだ。今の自分にはそれが出来るはずだ。
 今でもはっきりと憶えている。自分の目の前でBETAに食われて死んだ恩師を。戦場で散っていった仲間達を。人類を救うことが出来ずに泣いて悔しがったもう一人の恩師を。
 そのいずれも、決して忘れまいと、深く心に刻み付けた記憶だった。とりわけ最後の一つは、出来の良くない頭に、ただただ刻み込んだ。
 一度目は12月24日。二度目は6月8日。そしてその日……どちらの世界でも、武の信頼する香月夕呼は、溺れるほどに酒を飲み、ベロベロに酔って――泣いていた。
 武が彼女のそんな弱さを見たのは、元の世界を含めてもその二回だけだった。
 だが、オルタネイティヴ4の終了、そしてオルタネイティヴ5への移行は、強い彼女をそれほどまでに打ちのめすほどの出来事だったのだ。
 戦場で散っていった仲間達の無念は背負うことが出来る。語り継ぐことが出来る。……でも、彼女の無念を、一体誰が語り継ぐことが出来たというのだろう。
 それが出来たのは、武と、社霞という名の少女……そして、シリンダーの中の脳だけだ。
 その無念を背負って、武はここにいる。
 夕呼だけではない。戦場を共にした仲間達、武の目の前で犠牲となっていった家族のような人達、そしてBETAとの戦いに命を懸けた数多の人々の無念を、白銀武は背負っているのだ。
 ――だから、まだ。まだ、抑えられる。
「…………行こう」
 時間を無駄にすることは出来ない。
 もう二度と立ち止まることは許されない。他の誰でもない白銀武自身によって、そんな真似は許されないのだ。
 オルタネイティヴ4を完遂するためには、一分一秒さえ惜しい。
 衛士訓練校の制服によく似た、元の世界の白稜柊の制服に着替え、部屋を後に――する直前で踏み止まった。
 二度目の世界では、武が横浜基地に行っている間に、この家は廃墟――恐らくはこの世界の白銀武の家本来の姿――になってしまったのだ。一度目の世界でも、確かめることは出来なかったが、たぶんそうだったのだろう。
 ならば、必要なものは今の内に持ち出しておく必要がある。特に、武が別の世界から来た人間であることを裏付けることの出来る物があるのとないのとでは全然違う。
 三分ほど掛けて、ゲームガイを始めとしたいくつかの品を集め、元の世界で使っていた通学鞄に押し込むと、今度こそ武は家を後にした。


 まだ午前9時にもならない頃、武は横浜基地へと続く、長い坂道を登り始めていた。
 多少前回と異なる行動を取ったところで、そこまで大きく未来が変わることはないということは、前の世界で経験済みだ。逆に言えば、未来を大きく変えるには、前回とは大きく異なった行動を取らなくてはならない。
 つまり、オルタネイティヴ4を成功させるためには、これまでの二度のループとは決定的に違う何かをしなくてはならないということでもある。
 前回のループでも大きく変わった部分はあったが、それでもまだ足りないということだ。
 何かが足りないのだ、人類の最後の希望――オルタネイティヴ4の根幹たる00ユニットを完成させるためには。
 当面の目標は、その足りない何かを見つけ出すことになる。
 それが出来なければ、今回のループもまた失敗に終わるだろう。
 ……そんなことは、許されない。
 絶対に今回のループで決着を着ける――武は決意を新たにした。
 それとほぼ時を同じくして、武は桜並木の坂道を登り切った。目の前には、見慣れた建物が横たわっている。
 国連太平洋方面第11軍横浜基地。
 建物の上には、かつて死ぬほどバカにしたレーダーのアンテナがくるくる回っている。ゲートの前には、前の世界でもそれなりに顔馴染みだった二人の衛兵が立っていた。
 全てが記憶の通りだ。当然だろう、時間を遡って、同じ世界をやり直しているのだから。
「こんなところで何をしているんだ?」
 ゲートの前に突っ立ったまま、武が建物を見上げていると、二人の衛兵の内、東洋系の方が話し掛けてくる――これも記憶通りだった。
「外出していたのか? 物好きな奴だな。どこまで行っても廃墟だけだろうに」
「隊に戻るんだろう? 許可証と認識票を提示してくれ」
 訓練校の制服に瓜二つの制服を身に着けた武を不審者と思うはずもなく、気さくな態度で身分照会を求めてくる。
 だが、今の武の身分を証明してくれる物など、世界中のどこを探してもありはしない。許可証は勿論、認識票も認識番号も当然ながら持っていない。
 しかし、ここで無駄なトラブルを起こすわけにはいかない。そのための方法も考えてある。
「いや、許可証はないんだ。オレはこの基地の人間じゃない」
 武が軽い調子で言うと、衛兵達は一瞬呆け――すぐさま厳しい顔付きになって銃を構えた。銃口は武へと正確にポイントされている。
 だが、武は動揺することなく言葉を続けた。
「オレは白銀武。夕――香月博士に会いに来た。詳細については軍機につき答えられない……博士に取り次ぎを頼みたい」
「香月博士に……? 何のために?」
「言う必要はない……今言ったように、これ以上は軍機につき答えられないんだ。いいから連絡してくれ」
「……わかった」
 東洋系の衛兵が頷く。それに、もう一方の黒人の衛兵が驚きの声をあげた。
「いいのか!?」
「博士に関係することについては、全て報告しろって言われてるだろ?」
「それはそうだが……とにかく、全てがハッキリするまではおとなしくしていてもらうぞ」
 渋々といった様子で、銃口を武に向けたまま、黒人衛兵は頷いた。
「わかってる……伍長、『白銀武という男が五番目ではなく四番目を成功させるために隣からやって来た』と伝えてくれ」
「なんだそれは? 何かの暗号か?」
「みたいなものだよ……たぶん、夕呼せ――香月博士なら、それでわかってくれると思う」
 東洋系の衛兵は首を傾げながらも詰所へと向かっていった。
 しばらくして、内線で夕呼の執務室に連絡し終えたのか、衛兵が戻ってくる。
「おい、シロガネタケル……」
「なんだ?」
 武が呼び掛けに答えると同時、
「――おいっ!?」
 武は驚呼した。東洋系衛兵が、銃口を武へと向けたのだ。
「しばらくおとなしくしていてもらおう……」
「どういうことだ!?」
 武は思わず声を荒げた。一度目の世界や前の世界とは違い、今回はちゃんと夕呼の興味を惹く材料をちらつかせたはずだった。これでは、何も考えず闇雲に夕呼との連絡を頼んだ前回と変わらないではないか。
 だが、衛兵はそんな武を見て、にやりと笑って言う。
「慌てるな。じきに香月博士が来られる。それまで、お前を拘束しておけというお達しだ」
「――! ……そう、か」
 武の顔に、微かな安堵が浮かぶ。
 思惑は成功したらしい。ここに夕呼が来てくれれば、事情の説明もしやすい。

 やがて、黒い軍服に白衣というお決まりのスタイルで夕呼が現れた。
 その懐かしい姿に、武の視界が僅かに滲む。
 二人の衛兵が敬礼する。それに呆れた様子で、夕呼は問うた。
「連絡をくれたのはあなた?」
「は! そうですっ!」
 敬礼したままの姿勢で衛兵が頷く。
「で、この男が……シロガネタケル?」
 夕呼は武へと視線を向けた。前回や前々回は気付かなかったが、その視線には、じっくりと武を見定めようとする意図が感じられた。
 ――チャンスだ。
 あとは手持ちの材料を用いて夕呼と交渉するだけだ。幸い、夕呼の興味を惹く材料はまだまだいくらでもある。
「お久しぶりです……先生」
「先生? あたしは教え子を持った憶えはないわよ?」
 呆れたように言う夕呼。だが、その言葉に食い付いてくれた時点で、既に武の思惑にはまったも同然だ。
「ああ……すみません、隣ではそうだったもので、つい」
「…………!」
 隣という言葉の意味するところが、夕呼にわからないはずはない。さらに畳み掛けるように武は続けた。
「時間はもうあまりありません。のんびりしていると手遅れになりますよ、先生。……今だってたぶん……空の上では……造っているんでしょうね?」
 夕呼は無言で武を睨め付けてくる。
「ああ、そうそう。霞は元気ですか? 純夏の相手をして疲れてたりはしませんか?」
「――!」
 霞と純夏の名前は決定的だったのだろう、夕呼の表情が一瞬凍り付いたのを、武は見逃さなかった。
 これまでの時点で、夕呼が武に強い興味を抱いたことは間違いない。
 あとは夕呼次第だ。ばらまいた餌に食い付いてくれるかどうか。だが、武は確信していた。オルタネイティヴ計画をここまで知っている男を、夕呼がむざむざ野放しにするはずがない。
「あなた……あのシロガネタケル?」
 ――食い付いた。
 よし、と武は内心で笑みを浮かべる。
「ええ……ご無沙汰してます、先生」
 小躍りしたい内心の喜びを押し隠し、武はにやりと笑って頷いた。
「あんまり変わってたものだからわからなかったわ」夕呼は衛兵へと視線を横目に投げ掛け、「……連れて行って……いいわね?」
「は!」
 敬礼する伍長。しかし、その内心には武に対する疑念が浮かんでいるのだろう。じっと睨んでくる。
 それに苦笑しながら、武は夕呼について基地内部へと……戻っていった。


 数時間後、武は微かな疲れの色を顔に浮かべたまま、B19フロアのエレベーターホールに立っていた。何しろ、これまで四時間にも及ぶ厳重な身体検査や血液検査を受けていたのだ。前の世界でも経験があるとはいえ、慣れることではない。
 先程まで武を案内してくれていた、夕呼の秘書官も務めるイリーナ・ピアティフ中尉はもういない。今更案内など必要なかったのだが、今の武は初めてこの基地へとやって来た、いわば客人ということになっている。断るわけにもいかなかった。
 慣れ親しんだ廊下を進み、夕呼の執務室の自動扉を潜り……武は、部屋の中に入った。
 最初に抱いた感想は、懐かしい、というものだった。武にとっては、前にこの部屋に入ってから、既に八年が経過している。至極当然の感慨だった。
「単刀直入に聞くわね……オルタネイティヴ計画のこと、どこで知ったの?」
 部屋に入ってきた武の姿を認めるなり、夕呼は怪訝も露わに言った。
 本当に単刀直入だ、と思いつつ、武は答える。
 まだるっこしい腹のさぐり合いをするつもりはなかった。
「……初めてその言葉を聞いたのは、12月24日の夜……基地司令の口からです」
「12月24日? 一体いつの12月?」
「今年です…………今から二ヶ月後……」
 夕呼は黙って武の言葉を聞いている。沈黙は先を促すサインだ。
「その日、基地司令はこう言いました。この横浜基地は、対BETA戦における極東防衛の要であると同時に、人類勝利の鍵を握る極秘計画――つまり、オルタネイティヴ4の研究拠点だって。……けど、オレ達がそれを知ったときには、既に全てが終わっていた。そのときにはもう、オルタネイティヴ4は挫折し、オルタネイティヴ5への移行が決定していたから」
「それが……12月24日……」
「そうです。オルタネイティヴ4は何の成果も残せなかった。だから、5に移行した。……時間がないのは、さっきも言った通りです。何も成果を残せなければ、オレの知る限り、早くてクリスマスにはオルタネイティヴ4は打ち切られる」
「早くて……?」
 夕呼が眉をひそめた。
 頷いて、武は答える。
「一度目の世界では12月24日、二度目の世界では6月8日――それが、オルタネイティヴ4のリミットでした」
 その半年のズレは、12・5事件や新型OSであるXM3の開発によってもたらされたものだろう。二度目の世界と一度目の世界の決定的な違いはそのくらいだった。
「……あと……二ヶ月?」
「実際には正味二ヶ月もないかもしれません」
 一度目の世界でオルタネイティヴ4の終了が告げられたのは12月24日だったが、その何日も前から、武達207訓練小隊は基地内待機を命じられていた。武の知らないところで、基地上層部や国連、米国のオルタネイティヴ5推進派との駆け引きがあったのだろう。
「だから先生はそれまでに半導体百五十億個の並列処理装置を何とか手のひらサイズにしなくちゃいけない。純夏を――00ユニットを完成させるために!」
「――!?」
 武が00ユニットの、そして純夏の名を口にした途端、夕呼の表情が一変した。
 これまでの怪訝そうに武を探るような表情から、一瞬明らかな狼狽へと変わり――すぐさま取り繕われ、猜疑と警戒に満ちた厳しい表情の仮面が被られる。
 同時に、白衣から銃を取り出すと、右手を武へとまっすぐに伸ばして銃口を向けた。
「…………何が目的なの?」
「オルタネイティヴ5の発動の阻止、オルタネイティヴ4の完遂……そして、BETAに勝利することに決まってます。……信じられませんか?」
 夕呼の指の動き一つで命を奪われるという状況にあって尚、武は完全に平静を保っていた。
「……あなたが、反オルタネイティヴ派の工作員である――って話の方に、より信憑性を感じるんだけど」
 そういえば前の世界でも同じことを言われたな……と、武はぼんやりと思った。
 あのとき自分は、突き付けられた拳銃に怯え、その現実が何故だかあまりにも悲しくて、ただ感情のままに言葉を吐き出すことしか出来なかった。
 ――でも、今回は違う。
 勿論、頭の奥で燻る熱と、胸の奥で燃える炎、抑えようのない悔しさと哀しさ。それらが失われたわけではない。
 むしろ、熱はどんどんと膨れ上がっている。
 それでも武は、自分の感情を押し殺して、問うた。それが出来るくらいには、成長していた。
「本当にそう思ってますか?」
 冷静に、言葉が出た。
「……どういう意味?」
「オレを本当に工作員だと思ってるんなら、護衛も監視も付けずにオレを部屋に入れるなんてこと、あり得ません。もしオレが工作員だったら、部屋に入った時点で勝負は決まってます。これでもオレは軍人ですよ? 武器なんかなくったって、夕呼先生一人殺すくらいわけありません。
 オルタネイティヴ4を潰すには、その中心にいる先生を殺すだけでいい。香月夕呼の替えも、社霞の替えも……そして、鑑純夏の替えも、この世界には存在しないんですから」
「――ッ!」
 再び、狼狽に夕呼の表情が強ばる。だが、顔の神経に意識を集中させているのか、仮面が剥がれ落ちるということはなかった。
「……この状況でよくそんな落ち着いてペラペラ喋れるものね」
「そりゃそうですよ。射撃訓練も受けたことない人間がいきなり9mmなんて、この距離でだって当てられるはずありませんから。当たらないってわかってれば恐いはずがないです」
 夕呼は典型的な学者肌の人間だ。筋肉も付いていないし、構え自体がなっていない。命中率は一割にも満たないだろう。
 今だって、銃把を握る手は姿勢を保持することが出来ずに、小刻みに震えている。

 ふう、と武は腹に宿った熱を吐き出すように、一つ溜息を零した。
「……ねえ、先生。もうくだらない駆け引きはやめませんか? こんなまだるっこしい真似しなくても、先生はオレのこと工作員だなんて思ってないでしょ? ……それに、少なくともオレが嘘を言ってない――嘘だと思ってないことは、霞のリーディングの結果を見ればすぐわかるはずです」
「……それも、基地司令が言ったわけ?」
「いえ……霞については、夕呼先生から聞きました。前の世界でオルタネイティヴ4が打ち切られたときに。『次の世界』……要するにこの世界で人類を救ってくれ、って。そのための情報は殆ど全て託されました」
 オルタネイティヴ計画の概要、これまでの米国や帝国との水面下での遣り取り。記憶が曖昧な部分もあるが、その大半は克明に憶えている。
「本当なら、次の世界に賭けるなんてこと、しないで済めば良かったんですけどね……」
 湧き上がる悔しさを堪えて、武はそう付け足した。
「…………あなたが言っていることをあたしが信じられるという保証は?」
 銃を構えたまま夕呼が問うてくる。
「そんなものありませんよ。強いて言えば今言ったように霞のリーディング……ですかね。オレが未来から来たってことについては、先生の因果律量子論で説明出来ると思いますけど」
「……!」
 因果律量子論という単語に、夕呼は息を呑んだ。
 何しろオルタネイティヴ4の根幹を成す理論だ、武の存在はそれで説明出来るし、自分自身の理論を疑うわけにもいかない。
 尤も、武は、それで自分がここにいることについて説明出来るとしか知らないのだが。
「……それじゃ、もう一つ。あなたが秘密を暴露しないという保証は……あるのかしら?」
「オレの知ってる情報に根拠がないのは事実です。因果律量子論を提唱する先生や真実を知る一握りの人間以外、誰がオレの言うことを信じるっていうんですか」
「…………」
「この世界でオレの身元を保証出来るものは……何もない。何しろ、この世界の白銀武は、もう死んでるんですから」
「――! 知っていたの……」
 武は無言で頷いた。
『何故死人がここにいる』というのは、既に何度か言われてきた台詞だ。初めて言われたのは一度目の世界の帝国斯衛軍第19独立警護小隊の月詠真那中尉。二度目も前の世界の同じく真那で、三度目が情報省外務二課鎧衣左近課長。
 前の世界で夕呼にも確かめた今、それは武にとっても認めざるを得ない事実だった。
「オレは未来の情報を持っている。オレはその情報を活かしたいし、先生はそれを利用出来る。けど、オレの持っている情報は、先生がいなきゃ何の役にも立たない……」
「あたし達は……ある種の利害が一致している……ということかしら?」
 武は頷いた。
 深い溜息を吐いて、夕呼は銃を下ろした。セーフティを掛けて白衣にしまう。
「それにしても、12月24日に6月8日か……連中も随分と皮肉な真似してくれるわ。クリスマスプレゼントにバースデープレゼントのつもりかしら」
 夕呼は呟いた。
 そう言われて、武はふと元の世界での出来事を思い出していた。2001年の6月8日、夕呼の誕生日を盛大に祝わされたのだ。

「……じゃあ、仕切直しといきましょうか。いくつか質問をさせてもらうわ」
「はい」
「あなたは何某かの原因によって、死ぬたびに時間を遡るようになった。そして三度目のこの時間を体験している……ってことでいい?」
「はい。……その前には、別の世界にいたんですけど」
「別の世界?」
「オレは元々、この世界の人間じゃないんです。BETAのいない、人間同士の戦争はあるけど、概ね平和な世界で……その世界の日本でオレはただの学生だったんです」
「……BETAが……いない世界? それがあなたの言っていた隣で、あなたが持ってたあの小さな端末もその世界の品だってワケ?」
 小さな端末――ゲームガイのことだ。
 あれは明らかにこの世界にはない技術を用いて作られている。網膜投影技術が発達したこの世界では、美麗な液晶が発達することはなかったし、そもそも科学技術を娯楽に利用する余裕などありはしない。そんなものを見て、夕呼が武に興味を持たないはずがない。
 頷いて、武は答えた。
「その世界じゃ、207小隊の連中はオレのクラスメイトで、神宮司軍曹は担任、夕呼先生は物理の先生でした。……そしてある朝、目が覚めたら、この世界だったんです。夢だと思って学校に行ったら……それがこの横浜基地だった」
 それから武は、今までに経験した二つの世界のことを話した。
 衛兵に捕まり、営倉に入れられ、夕呼と会ったこと。突然現れた武に夕呼が興味を抱き、セキュリティの高いIDをくれたこと。207B分隊に配属されたこと。クリスマス、オルタネイティヴ4の終了が告げられたこと。霞を乗せた駆逐艦を送り出したこと。
 気付いたら時間を遡っていたこと。今と同じような問答の末、再び207B分隊に配属されたこと。帝国軍のクーデターが起こり、鎮圧後任官したこと。新型OSのトライアル中にBETAが現れ、まりもが死んだこと。その後、A-01第9戦術機甲中隊に配属されたこと。6月8日、再びオルタネイティヴ4の終了が告げられたこと。その後、バビロン作戦――G弾の集中運用による全世界のハイヴへの攻撃――を実行し、いくつかのハイヴの攻略には成功するものの、G弾が無効化され、世界は恐慌状態へと陥ったこと。2007年1月1日に国連軍横浜基地は帝国軍に接収され、さらにその数年後、甲20号目標――鉄源ハイヴ突入時に恐らくは死亡――再び時間を遡ったこと。
 それ以外にも、霞のこと、純夏のこと、元の世界のこと、三つの世界での人間関係、現時点では見つかっていない新種のBETAのこと、そして現在武が知っているオルタネイティヴ計画についての情報などを、出来るだけ子細に、ただし後の交渉材料となるであろう要素を少しだけ残して説明した。
「……正直、やりにくいわね」
 一通り説明し終えたところで、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、ぽつりと夕呼が呟いた。
「やっぱりオレ、知りすぎてますかね?」
「その通りよ……中途半端にしか知らないんであれば、都合のいい駒として使えたかもしれないのに」
「そうは言っても、先生の下に就いて動かされるだけじゃダメなんだってことはもうわかってますからね。出来るだけ対等にやらせてもらいますよ」
「へえ……言うじゃない」
 にやりと夕呼は笑う。それは、武の見慣れた夕呼の笑顔だった。
「それじゃ、あなたの今後について話をしましょう……確認だけど、あたしがあなたを衛士訓練学校に入れたのよね? 我ながらいいアイディアだわ……今回もそうしましょう」
「先生……さっきも言いましたが、時間がないんです。それに、訓練兵なんかじゃ何も出来ない。すぐに衛士として配属してください」
「こっちにも事情があるのよ……あなたがさっき言ったように、この世界の白銀武は死んでるの」
「国連のデータベースを改竄するくらい、先生にとってはわけないでしょ? かなり念入りにやらないとバレちゃいますけど……オレとしてはむしろ多少バレた方が都合がいいです。基本的には、夕呼先生直属ってことにしておけば、誰も追及なんてしてきません。多少の追及なら、オレの方で誤魔化せますし……それに、オレが何者かってことを気にしてる余裕なんて、今の人類にはないでしょ?」
 事実、一度目の世界でも二度目の世界でも、武の身元を疑問に思っていたのは月詠真那中尉率いる帝国斯衛軍第19独立警護小隊や鎧衣課長だけだ。実際にはもっといたのかもしれないが、表立って疑問視してきたのはその五名だけ。問題にはならない。
 そのことを話すと、
「それなりには頭が回るってことね」
「そんなんじゃありませんよ。前の世界のことを考えれば当然です」
「……わかったわ……ただし、実際に衛士として配属するかどうかは、あなたの実力次第よ」
「望むところです。使いものになるかどうかは、先生がその目で確かめてください」


 シミュレーターの操縦桿を握って、武は目を瞑った。
 身に纏うは黒い99式強化装備。体にぴったりとフィットするその着慣れた服は、ある種の心地良ささえ感じる。しかし同時に、フィードバックデータがないという事実が、武に違和感を与えていた。たとえるなら、おろし立ての服を着ているような感じ。
 フィードバックデータがないということで、加速度病対策にスコポラミンを三錠服用してある。今まで加速度病というものに罹ったことのない武ではあるが、フィードバックデータなしの実戦機動などして、嘔吐しては目も当てられない。
『確認するけど……本当に管制はいらないのね?』
 網膜に映し出される、無表情な夕呼の顔。微かな苛立ちを見て取れる気がするのは、付き合いの長さ故か。
 目を開き、武は答えた。
「はい。本当のハイヴじゃ、管制なんてものありませんからね」
『……まるでハイヴに潜ったことがあるみたいな物言いね』
「ありますよ、四度ほど」
『――!』一瞬絶句し、『……いいわ。それだけの大口を叩くなら、相応の結果を出してみせなさい』
 了解、と頷いて武は自己に埋没する。
 自分の中に、黒い濁流が渦巻いているのがわかる。肚の裡に溜まった、どろりとした澱。

 記憶が津波のように押し寄せる。
 目の前で恩師が死んだ。
 仲間が一人死んだ。二人死んだ。
 強くなろうと誓った。もう二度と誰も失わなくて済むように、と。
 しかし、それも虚しく、仲間達は三人、四人……そして十一人いた戦乙女は皆、武を残して一人残らず逝ってしまった。
 それでも尚、武は強さを求め続けた。飽くなき強さへの探求は続いていた。
 夕呼の言葉があったからではない。理由も目的もなかったように思う。仲間を失い、将軍殿下を失ってからはもう、護るべき者など誰もおらず。帝国に横浜基地が接収されて三年が経った頃には、白銀武という人間を知る者は誰もいなかった。知っている者はいたとしても、親交などないに等しかった。
 敗北が決定的となってから数年が過ぎた頃には、お互いを識別するのは最早、個人の名前ではなく、階級とかつての所属――それぞれが最も愛着のあるかつての所属部隊――に由来するコールナンバーだったから。
 ――エインヘリヤル1。それこそが、武の選んだコールナンバー。
 戦乙女達に仕える、神々の尖兵。
 またの名をベルセルク――その名の通り、狂戦士となってBETAと戦い続けた。
 だから、きっとそれが理由だったのだろう。狂熱に冒されたかのように。ただ、戦うために戦い、強くなるために強くなった。
 ただ、それだけ――。
 ――さあ、行くか。
 ガチリ、と頭の中でスイッチが切り替わる。ここから先は衛士としての白銀武の領分だ。
 目に映るのは、薄暗い洞穴。青白い燐光に照らし出された、吐き気を覚える光景だ。シミュレーションとはいえ、この景色はあまりにもおぞましい。
 ヴォールク・データ。二十三年前、パレオロゴス作戦にて、ソビエト陸軍第43戦術機甲師団ヴォールク連隊がH05ミンスクハイヴより持ち帰ったハイヴのデータを用いた、ハイヴ制圧シミュレーション。
 現在と当時とでは戦術機とその兵装のスペックが大幅に異なるために一概に判断することは出来ないが、歩兵と戦車、戦術機の混成部隊であるヴォールク連隊は、僅か三時間半で壊滅した。生還したのは、三十分ごとにデータを持ち帰った七半小隊――十四名の衛士のみ。
 ハイヴとは、それほどまでに絶望的な戦場なのである。
 ――故に、この武の提案は無謀としか言い様がない。
 手っ取り早く自分の力量を確かめさせるためとはいえ、単機でヴォールク・データに挑戦しようと言うのだから。
 連携する相手はおらず、兵站も皆無、地上陽動の機能率は50%。
 シミュレーションとはいえ、絶望の上に絶望を塗り重ねたような想定状況。世界中の衛士が無茶だ無謀だと断じ、そんな挑戦をする衛士は狂っていると言うだろう。
 ――だが、それがどうしたというのだろう。
 狂っている? その形容は、狂戦士にとっては褒め言葉以外の何物でもない。
「く、は……は、はは……」
 唇の隙間から零れるのは、乾いた笑声。
 武は唇の端を歪め、スロットルペダルを踏み込んだ。
 機体はタイプ94不知火、日本帝国の生み出した初の実戦用第三世代戦術機。武にとって、最も身に馴染む機体の一つ。装備は87式突撃砲が二門、74式近接戦闘長刀が二振り、65式近接戦闘短刀も同様に二振り……前の世界と同じ、突撃前衛でありながらの強襲前衛装備。
 兵装を確認する武に向かって、BETAの群が前方から迫り来る。見る間に不知火とBETAとの距離は狭まり、

 ――そして、侵攻という名の殺戮劇が始まった。

 愚直に直進する突撃級の壁を噴射跳躍で飛び越える。着地地点の要撃級に36mm砲弾を点射、動きが止まった一瞬の隙を突いて唐竹に割り、次いで迫る皺塗れの白い巨体を三発の砲弾で無力化、死骸を踏み付けて跳躍、うじゃうじゃと待ち構える戦車級に劣化ウラン弾の雨をプレゼントしてやる。
 一瞬とて止まることなく、撃ち、斬り、刺し、立ちはだかる異形の生命体を骸へと変え、蹂躙し、冷徹に冷酷に残酷に残虐に暴虐に暴疾に迅疾に迅速に惨殺を虐殺を抹殺を暴殺を残殺を鏖殺を撃殺を斬殺を繰り返しながら突き進んでいく。行く手を遮る全てに容赦なく、迸る憤怒と憎悪を弾と刃に込めて。
 その姿、正しく突撃前衛――嵐纏いし尖兵ストーム・バンガードの名に相応しい。
 無数のBETAを飛び越え、あるいは壁を、あるいは天井を蹴り、群がるBETAさえをも足場と変えて、己が道の障害となる全てのBETAを駆逐しながら、誰もが成し得ぬであろう単機での中階層突破を易々と果たす。
 尚も武は止まらない。暴風は止まず、尚も最下層へと向けて侵攻する。
 体現するは疾風迅雷、開く血路、踏破した道筋に無数の亡骸を積み上げ、不知火はただただ前へと進み続ける。
 シミュレーターの筐体の中、武は歪な笑みを浮かべてスロットルペダルを強く踏み込んだ。
 一瞬の噴射跳躍。同時にぐるりと上下を反転。36mm砲弾で肉片へと変えた戦車級の死骸を踏み潰すように天井に着地、重力を無視するかのように、不知火はハイヴの天井を駆ける。
 ――単機でのヴォールク・データ。武にとって、こんなにも楽なことはなかった。
 誰かの命を心配する必要もない。自分の命をベットする必要もない。討ち漏らしを無視して、己が最速を以て突き進むだけでいい。
 光線属種のレーザー照射がないが故に、武の最大の持ち味である、本来想定されている以上の三次元機動を阻むものなど、OSの性能以外には何もない。
 ましてや、現れるBETAはシミュレーターにより生み出された紛い物でしかなく、その数は現実のハイヴには遠く及ばない。これまでに四度のハイヴ突入を経験したことのある武にとって、この程度の数のBETAが問題になるはずがなかった。
 攻撃を躱し、奴らを殺害し、進んでいくだけでいい。こんなにも楽なことはない。
 まるでゲーム。もう十年以上も遠ざかっているバルジャーノンを思い出す。
 ――このテストは、楽しい。
 誰に憚ることもなく、たとえ虚像であろうとも、好きなだけBETAを殺すことが出来るのだから。
 ぞわぞわと胸の奥で昏い愉悦が触手を動かしている。武の心臓を締め付け、全身を支配する。
 ――恍惚とする。
 トリガーを引いた次の瞬間、BETAの体に穴が開き弾け飛ぶ光景に。
 長刀を振り下ろす主腕から伝わる、肉を裂き血を噴き出させる感触に。
 武にはわかっていた。自分が異常であると。
 緩やかに壊れていく――否、白銀武はとうの昔に壊れていた。次々と仲間を喪っていったあのときから。自覚的に壊れていった。
 ――今ならばわかる。
 体中から血を噴き、双眸から血を流し、胃の腑から血反吐を吐いたあの日々は、このためにあったのだと。
 BETAを殺すために。ただ、そのためだけにあったのだと。
 この世に存在する全てのBETAが赦せなかった。
 大切な仲間達を護れなかった自分が赦せなかった。
 ――だから、抑え付ける。記憶という感情の奔流に流されてしまわぬように。壊れても尚白銀武であり続けるために。衛士として戦い続け、もう二度と失わぬように。そして、オルタネイティヴ4を成功させるために。
 決意は固く。全身を焼き尽くすような憤怒と憎悪を体の内に滾らせようと、氷のような冷徹さを内に秘め、決して呑まれはしなかった。
 しかしその刹那、前の世界の戦場の光景が、脳裏に過ぎった。

 壊れた戦術機。血塗れの肉塊。食い散らかされた屍体。散っていった、仲間の姿――。

 ――ざりざりとノイズが思考に混じる。
 視界に走る一瞬の砂嵐。
 白銀武が停止する。荒々しく雄々しく猛々しく、その実精密に精緻に精確に突き進んでいた不知火が、僅か一瞬、最下層に到達しようという瞬間にその動きを乱し。
 その刹那、機体は一斉に現れた数百単位のBETAの怒濤に飲み込まれ――シミュレーションは失敗に終わった。

 ――武の全身を支配していたどす黒い感情が、一斉に引いていく。前の世界の戦いの記憶に蓋をして、鎖で縛り付けて心の奥深くへと閉じ込める。

 偽装横坑と偽装縦坑――その入口が薄い構造材で閉塞されている横坑と縦坑――に警戒するというハイヴ突入時の基本を、武はすっかり失念していた。
 実戦であれば、取り返しのつかないことになるところだ。
「失敗したなぁ……」
 ぼやきながら、けれどさほど悔しくもなさそうに、至極平然とした様子でシミュレータから降りてくる武を、夕呼は呆気にとられた様子で出迎えた。鳩が豆鉄砲を食らったような、とはこのことだろう。少なくとも武は、夕呼がこんな顔をしたところを見るのは初めてだった。
 いつも夕呼にはしてやられてばかりだったから、一種爽快ではある。
 だからといって、諸手をあげて喜ぶことは出来ない。シミュレーションと実戦は違う。実戦において、単機で出来ることなど、陽動程度のものだ。BETAの群の中での孤立は即、死へと繋がる。実際、今もそうだった。
 たった一人優れた衛士がいたところでBETAには勝てないということは、前の世界で証明されてしまっているのだ。
「えっと……どうですか?」
 結果はわかっているものの、一応訊ねてみる。
 強化装備のフィードバックデータもなしにこれだけの成績を叩き出してみせたのだから、夕呼も武の実力を認めざるを得ないだろう。少なくとも、一訓練兵として扱っていい腕では決してない。
「どうもこうもないわ……あなた、ほんとに人間?」
 驚きと呆れ、それに少しだけの恐れを混ぜた表情で夕呼は答えた。
 機動を指して変態呼ばわりされたことは多々ある武だが、人間であるかを疑われたのは初めての経験だった。
「これでも、戦術機乗ってもう十年以上ですからね」苦笑しながら答える。「実戦経験も十一年ですから。前の世界の不知火と勝手が違うんで、最初は戸惑いましたけど……」
 正確には、挙動が違うというよりも、機体が武の操作に追い付いてくれていないのだった。
 キャンセルや先行入力が使えないために動きに制限があること、コンボがないために一手間二手間余分な操作が必要になるということ、そして即応性の低さのために、何度かひやひやさせられた。
「勝手が違う……? ああ、そういえばそんなこと言ってたわね。新OSを開発したんだったかしら?」
「はい。試作段階だけど、戦術機には十分すぎるくらいの並列処理能力を持ったコンピューターがあるって言って……」
 そこで武は前の世界でXM3と呼ばれていた新OSに組み込まれていた、コンボやキャンセル、先行入力といった、操作の簡略化や、パターン認識と集積による機動制御の簡略化について説明した。
 それらは既存のコンピューターでは不可能な要求であるはずであったが、自他共に認める天才である夕呼の手によって可能となったのだった。前の世界では流石先生だ、くらいにしか思わなかったが、今思えば、00ユニット用に試作した並列処理回路を転用したのだろう。
 夕呼は武の説明を黙って聞いていたが、「ストップ」と言葉を遮った。
「あなたの言いたいことはわかったわ……けど、それを開発することによるあたしのメリットは?」
 メリットとデメリット――それは、武と夕呼の間において最も重要な要素の一つだ。
 二人は、互いに利害が一致しているから協力しているに過ぎない。少なくとも、夕呼にとってはそうだろう。霞のリーディングや自身の理論という裏付けがあるにせよ、今の武は、情報を知りすぎている厄介な協力相手でしかない。
 武もそれはわきまえていた。
「少なくとも、ある程度は帝国や米国、他の国連軍との取引材料として使えるはずです。戦術レベルでは対BETA戦における人類の劣勢を覆す一つの鍵になりますから」
「へえ、大した自信ね」
「そりゃ、夕呼先生が開発したOSですからね。実際に使ってきたオレが言うんですから間違いありません」
 唇の端を吊り上げて言う武に、「参ったわ」とでも言うように夕呼は一つ息を吐いた。
「わかったわ……考えておいてあげる」
「ありがとうございます」
 武は軽く頭を下げた。


 その後、二人は夕呼の執務室へと戻り、今後の調整を行った。
 まず、武に与えられる階級を決めることになったのだが、夕呼は武に問うた。
「あんた、指揮官教育は?」
「簡易教育ですけど、受けてます」
「そう……じゃあ、とりあえず少佐にでもなってもらいましょうか」
「少佐……ですか」
「あら、不満?」
 なんなら中佐にでもしてあげましょうか、と夕呼は言い放つ。慌てて武は固辞した。夕呼のことだから、それくらい本当にやってのけるかもしれない。
 不満などあろうはずもなかった。
 夕呼直属の部下、オルタネイティヴ4における片腕として動くには、それなりの地位が必要となる。
 地位の重要性を痛感したのは、一度目の世界でも二度目の世界でも同じだった。
 尉官が言うのと佐官が言うのとでは、同じ言葉でもまるで重みが違ってくる。
 それに、夕呼の部下として動くなら、ある程度の自由を確保しなくてはならない。少尉程度では制限が多すぎるし、面倒な妬み嫉み、周囲からの悪意を避けることは出来ないのだ。夕呼直属として与えられる特権を最大限に活用するには、それらを実力ではなく階級で手っ取り早く抑え付け黙らせる必要があった。
 そういう意味では、少佐という立場はありがたかった……が、同時に驚きもある。
 未だに武を完全に信じ切っているわけではないであろう夕呼が、武にそれだけの地位を与えてくれたのだ。これは夕呼からの信頼の証か――あるいは、首輪ということなのかもしれない。「たとえ少佐の地位にあったとしても、あんたはあたしの手の平の上なのよ」という。
 それについては文句などない。むしろそれくらいの方が夕呼らしくて安心出来る。
 そして武には、それ以外にも感慨があった。
「前の世界じゃ、最後は少佐だったんですよ」
「あら、そうなの」
「早く死ねとばかりに戦場に送り出されては手当たり次第BETAを倒してたら、いつの間にか昇進してただけですけどね」
 夕呼の腹心であったA-01は、オルタネイティヴ5推進派からしてみれば、邪魔な存在でしかない。皆実力はあるから尚更疎まれ、最前線へと何度も派遣されていた。
 仲間を喪い、それでもがむしゃらに戦場を駆けていた結果だ。指揮官教育も、指揮官であった上官が命を落としていくに連れ、必要に迫られて受けさせられたものだ。
 オルタネイティヴ4が失敗して、階級にはさほど執着もなくなっていたと思ったのに、意外にも少佐という肩書きは武にとって思い入れの強いものになっていたらしかった。尤も、少佐になってからは昇進を蹴っていたりもする辺り、やはり階級そのものには特別な執着はなかったのかもしれない。
「それじゃ、IDや制服なんかは後でピアティフにでも届けさせるわ。あなたはA-01とは別の、あたし直属の特務兵ってことにしておくから。……他に何か希望があれば聞いておくけど?」
「そうですね……207小隊の教官とかって出来ます?」
「どうして?」
 訝しむように――けれどそんなことはおくびにも出さずに――夕呼は問い掛けてくる。恐らく今、彼女の頭の中では、武に207B分隊を預けることのメリットとリスクが瞬時に計算されているに違いなかった。
 夕呼は武の実力を認め、高い地位を用意してはくれたが、それがイコール無条件の信用や信頼を意味するわけではない。夕呼がリスクの計算をするのも当然だった。
 それを見ながら、武は懐かしむように目を細めて答える。
「あいつらはみんな、オレの大切な仲間なんですよ。だから、もう二度とあいつらを喪いたくない……そのためには、出来る限り強くなってもらうしかない。それには、オレが鍛え上げるのが一番です。そうすれば、いざというときにオレが護ってあげられます。」それに、と言葉を句切って、「――あいつらは、ただ護られてるだけじゃ満足してくれませんしね」
 武の顔は夕呼に向いているが、その目は夕呼を見ていない。彼が見ているのは、前の世界で共に戦場を駆けた、掛け替えのない朋友達の記憶だった。

 ――ああそうだ、護るんだ。今度こそ。絶対に死なせない。死なせてたまるか。あんな穢らわしいイキモノごときに、アイツらを殺させてなんてやらない。オレの仲間を殺そうとするなら、奴らの全てを根絶やしにして――

「そうね……」
 夕呼の言葉に、武ははっとして意識を浮上させた。
 ――駄目だ。
 意識という現在が、記憶という過去に引きずられそうになる。
 ノイズ混じりの思考に蓋をして鎖で封印し、意識の底へ底へと追いやっていく。
「あたしとしても、使える駒が増えるのは望むところだわ」
 どうやら、メリットの方がリスクに勝ったらしい。武は体内の熱を吐き出すように、ほっと溜息を零した。
「……それじゃあ、まりもは用なしってこと?」
「まさか。オレが教えられるのは戦術機の機動くらいです。多少口出しはするかもしれませんけど、神宮司軍曹には教官続けてもらいますよ。……それに、まりもちゃんの夢を奪うわけにはいきませんから」
「へえ……先生になりたかったってまりもの夢、知ってるんだ。それに……何? まりもちゃん、だって。随分仲良かったみたいじゃない」
 にやにやといやらしい笑みを浮かべる夕呼。元の世界で何度も見た、猫が鼠をいたぶるときに見せるような、嗜虐心に満ちた笑みだ。
 ぞわりと背中に寒気が広がる。
 慌てて武はばたばたと手を振った。
「元の世界じゃ、そう呼んでたんですよ。こっちじゃ……たまにぽろっと呼んじゃってましたけど」
 それで睨まれたのも一度や二度ではなかった。それも、今となってはいい想い出だ。XM3のトライアルのあの日を境に、武の前から“まりもちゃん”はいなくなってしまったのだから。
 その時を境に、甘さを捨てようと決めた。神宮司教官は、武の中で、最も尊敬すべき人となった。
 訓練兵であった頃の武にちゃん付けで呼ばれて怒るまりもを想像したのか、夕呼はけらけらと笑っていた。
 気恥ずかしくなって、武は俯くしか出来なかった。
 どうやら、内面の年齢は並んでも、一生この人には頭が上がりそうにない。
「ま、いいわ。それじゃ、教官として軍曹って階級も付けておいてあげる」
 笑いながら夕呼はそう付け加えてくれる。
「……二重階級ですか?」
「まあ、訓練校の教官をやってもらう以上、便宜上ね。基本的には少佐として動いてもらうから、教官をやっている時間だけ、一時的に軍曹っていう扱いになるってだけよ」
 訓練校の教官としての最高階級は軍曹となっている。教官を務める場合、必然的に階級は下がってしまうことになるのだった。
 また、本来ならば二重階級は禁止されているのだが、軍曹という階級に就くのは、207B分隊の訓練中のみの特別措置。それならば混乱も来さないで済むだろうということだった。
 無論、こんな無茶が許されるのも、香月夕呼副司令の名と力があってこそなのだが。
「あ……あと、新OSが形になり次第、A-01の方でもたまに戦技指導の教導官やらせてもらえると嬉しいんですけど。どうせ、OSのテストやらせるんでしょ?」
 一頻り夕呼が笑い終わった頃、武は言った。
 伊隅戦乙女隊――彼女達もまた、武にとっては掛け替えのない戦友だった。
「ああ……伊隅達のことも知ってるんだっけ……ま、その辺はあなたの好きにしなさい。報告さえしてくれれば、好きにしてくれて構わないわ」
「そうさせてもらいます」
 一礼して、何かあったときには遠慮なく呼び出すということで、武は夕呼の部屋を後にした。



[2785] Muv-Luv ALTERNATIVE -Second World Was Failed- 第02話
Name: Vollmond◆d2a8c8a6 ID:d7498c84
Date: 2009/04/28 23:49
 ブルーの戦闘服に身を包んで、武は訓練校のグラウンドへと続く道を歩いていた。
 仮にも教官を務める人間が、訓練校の制服に酷似した白陵柊の制服を着たままというのはまずいということで、ピアティフ中尉を通じてまず夕呼から渡されたものだ。
「さて……これからどうするかな……」
 歩きがてら、武は思考を回らせる。
 二度のループによる未来の記憶が有利に働くのは間違いない。だからといって、安心は出来なかった。現に、未来の記憶があった『前の世界』でも武は失敗している。
 そういう意味では、最初から少佐として任官出来たのは大きかった。
 訓練兵や少尉であったこれまでの世界よりも、よりオルタネイティヴ計画の中枢に食い込めるはずだからだ。
「オルタネイティヴ計画……か」
 人類に残された最後の希望。
 BETAの言語・思考解析による意思疎通を目的としたオルタネイティヴ1に始まり、BETAを捕獲し生態解明を図った2、人工ESP発現体によるBETAの思考リーディングを図った3。
 そして――炭素系生命体である人類を生命体と認識しないBETAに生命体と認識され、コミュニケーションを取り得る非炭素系擬似生命体00ユニットを生み出そうとするオルタネイティヴ4。
 その中心にいるのは――
「――純、夏……」
 立ち止まって、武は呟いた。大切な……二度と会う事は叶わないと思っていた幼馴染みの名前を。
 沈みかけの夕陽が、やけに眩しい。じんわりと滲んだ視界の中、突き刺すような光が武の網膜を焼いた。
 今すぐにでも会いに行きたい――胸を掻きむしられるような想い、津波のような衝動。ぐるぐると肚の内側で狂気が渦巻く。BETAに対する、燃えたぎるような憎悪が。彼女は、一体どんな目に遭わされたのだろう。脳髄だけで生かされるという、拷問という言葉ですら生温い生き地獄。その地獄の中で、純夏は何を思ったのか。
 ――赦さない。純夏をあんな目に遭わせたBETAを、絶対に赦しはしない。
 どろりとした、コールタールみたいにどす黒く粘ついた感情の澱――全身から噴き出しそうなそれを、強引に抑え付ける。
 深呼吸で体内の熱を外に排出して、武は夕陽を見つめた。
 あの部屋には、霞もまたいるはずなのだ。『二度目の世界』でも『一度目の世界』同様、移民として駆逐艦に乗せたから、霞と会うのももう九年振りになる。
 だが、B19機密フロアにあるあの部屋には、パスがないと入れない。
 だから武は、ピアティフが制服やIDカードを届けてくれるのを心待ちにしていた。
 しかし、今は一分一秒さえもが惜しい。じっと待っていられるほど落ち着いていられなかったということもある。
 そこで武は、それらが届けられるのを待つのではなく、前の世界同様にグラウンドへ向かうことにしたのだった。
 夕呼のことだ、とっくに武が207B分隊の教導官となる旨はまりもに伝えてあるだろう。
「まりもちゃん……」
 ぽつりと呟く。
 今でも、はっきりと憶えている。
 不平不満ばかりを漏らす、もやしの様に貧弱な、ただのガキでしかなかった武を鍛え上げ、一端の衛士に育て上げてくれたことを。
 初めてBETAと遭遇し、何も出来なかった自分に絶望していた武に投げ掛けてくれた、優しい言葉を。

 ――そして、兵士級BETAに食われ……死んでいった、最後の姿を……。

 忘れられるはずがなかった。
 だから、心に深く刻み付けたのだ。自分への戒めとして。BETAを駆逐し、オルタネイティヴ4を必ず成功させてみせると。
 白銀武という人間をどんなに押し殺してでも、その使命を忘れてはならない。仲間達の、恩師の想いがあるから。
 やってやる……今度こそ、絶対に――決意を新たにして拳を握った……そのときだった。
「失礼……よろしいでしょうか……」
 遠慮がちに投げ掛けられた声に、武の心臓は高く飛び跳ねた。
 殆ど不意打ちだった。その声に対する気構えが、まるで出来ていなかった。耳の後ろでどくどくと血流が音を立てている。
 油の切れたブリキの人形みたいに、ぎこちない動作で武はそちらを見やる。
 ――果たして。そこに立っていたのは、思った通りの相手だった。

 ああ――変わらない。その気高く美しき姿は、どんな世界であろうと変わりはしない。
 武が護り抜くことが叶わず失ってしまった、大切な人と寸分違わず――ざらり、とノイズが思考を削り取る。
 暖かな感情と共に込み上げたどす黒い感情に蓋をして、心の底に深く沈める。

 一秒後には記憶にさえ残らない、刹那のフラッシュバック。前の世界の記憶が武を焦がす。
「め、い……や……」
 懐かしく――同時に、前の世界でも覚えた言い表しようのない奇妙な違和感を覚えつつ、武は無意識の内にその名を口にする。
 その呟きに、少女――御剣冥夜が首を傾げた。
「……何故、私の名を……?」
 しまった、と内心で思いながら、すぐに武は外面を取り繕った。視界が微かに滲むのだけは、抑えられずに。
「あ、ああ……夕――香月副司令から聞いたんだ」
 武の返答にも、冥夜は怪訝そうな表情を崩さない。
「副司令から? ……失礼ですが、これより先は訓練校です。部外者の方は立ち入りを御遠慮ください」
「――御剣、いいんだ!」
 冥夜の背後から声が響き、「教官」と呟いて冥夜が振り向いた。
「ぁ……」
『白銀……良い事おしえてあげる』
 頭の奥の方で、懐かしい声が鳴り響く。
 もう十一年も前のことなのに、その声の記憶は決して色褪せることはなかった。
『自分の失敗を笑って話せるようになる頃には、白銀が失ってしまったものも、また見つかっているはずよ』
 駆け足で女性が近付いてくる。その女性は冥夜の隣で立ち止まり――武に向かって敬礼した。
 一気に、その輪郭がぼやけていく。
 まりもちゃん……お久しぶりです――万感の想いを込めて、武は胸の内で呟いた。
「……白銀武少佐ですね」
「…………ああ。よろしく、神宮司軍曹」
 武が自分の名前を知っているとは思わなかったのか、まりもは驚きにぽかんと口を開いた。
 冥夜は、目の前の男の肩書きに目を見開いている。
「小隊集合ッ!」
 武に背を向け、まりもは大声で言った。凛とした、優しさと強さを併せ持った声が夕闇の中に響き渡る。
 武は自分の頬に手を触れた。そこには、熱い雫が伝っていた。
 胸が熱い。体が熱い。責め苛むほどの歓喜と後悔が、武の身を炎のように包み込む。
 軍靴の底を鳴らしながら、かつての仲間達――207小隊の残りの三人が一斉に集まってくる。
 慌てて武は目許を袖で拭った。
「207小隊集合しましたッ!」
 最後の記憶のそれよりも、まだ若干のあどけなさを残した顔立ちが並んで、武を見つめている。その瞳にあるのは、怪訝と疑問、そしてほんの少しの興味。
「よし……では紹介しよう。こちらが新しく207訓練小隊の特別教官に就任された、白銀武少佐だ。貴様らの教官を務めて下さることとなった。敬礼!」
 まりもの声に従い、小隊の四人が一分のずれもなく揃って敬礼する。
 返礼しながら、武は内心で苦笑した。彼女達に敬礼されるようなことがあるとは、夢にも思わなかった。
「白銀武だ。本来の階級は少佐だが、教官を務める際は軍曹という形になる。混乱を来さないよう、普段は教官と呼んでくれればいい。それから、オレが担当するのは、基本的には戦術機教習の応用課程だ。基礎訓練でも多少は口出しさせてもらうが、基本的には神宮司軍曹に一任することになる。要するに、貴様らが総戦技演習を突破しないことには、オレの出番はないわけだ。一日も早く教官としての役目を果たせることを期待する」
「――了解!」
 四人が揃って敬礼し、
「それでは訓練兵の紹介を――」
「ああ、その必要はない。香月博士からもらった名簿に、既に目は通してある。向かって左から順に御剣冥夜、榊千鶴分隊長、珠瀬壬姫、彩峰慧。それから、今入院中なのが鎧衣美琴……で合ってるな?」
 先程名前を呼ばれた冥夜を除く四人が、一斉に息を呑んだ。
 勿論、実際は名簿など渡されてはいないのだが、武は改めて夕呼の名の有用性を再認識した。夕呼直属の特務兵として動くにあたって、彼女の名前をうまく使うことは、大きなプラスとなる。
「それじゃ、訓練に戻ってくれ。いいな、神宮司軍曹?」
 頷いたまりもの指示で、五人は再びグラウンドを走り出す。
 それを長めながら、美琴が退院する日付を思い出して、今後の予定を組み立てる武だった。


 支給されたばかりの制服に着替え、武がPXにやって来ると、丁度207小隊が食事を受け取るべくカウンター前の列に並んでいるところだった。本日のメニューは焼そば。勿論、それ以外の定食メニューもある。見れば、慧が京塚曹長相手に焼そば大盛りの交渉に励んでいた。無表情に無言の催促をする慧。やがて曹長が根負けして焼そばをさらに盛り付けると、慧は無表情のまま、けれど満足げに皿を受け取っていた。
 ――もう、見ることなど叶わないと思っていた、かつての日常の光景が、そこにはある。
 彩峰は相変わらずか、と苦笑する武の目尻には、光る粒が滲んでいた。
 袖で目許を拭って、武は列へと並び、
「お前達もこれからメシか?」
「し、白銀少佐!?」
 声を掛けると、千鶴は裏返る寸前の高い声をあげた。
 そのすぐ傍で順番を待っていた冥夜達もまた驚きに目を丸くし、声にならない悲鳴を各々唇の隙間から零すのだった。
「敬れ――」
 千鶴の号令で四人は慌てて敬礼しようとするが、「待った」と武はそれを手で制した。
「今は夕食の時間だ。こんな時にまで軍規を持ち込むほど、オレは無粋じゃない。楽にしてくれ」
「しかし少佐――」
「榊。そう四六時中肩肘張ってると、肝心なときに判断力が鈍るぞ。固定観念に囚われて思考が凝り固まるのはお前の悪い癖だ。そんなことだから彩峰にいいようにからかわれるんだぞ? 指揮官なら、もう少し柔軟な思考を身に着けとけ」
 こっちも相変わらず“委員長”か――と思いながら武は、早くも今の自分の言葉を後悔していた。取りようによっては、武が千鶴のことをずっと以前から見てきたかのようにも解釈出来てしまう言葉だったからだ。
 久し振りに彼女達を前にして、気が緩んでいるのかもしれない。
 案の定というべきか、千鶴は訝しむような視線を武に向けている。
「それに、見てみろ」矛先を逸らすために、武は慧へと視線を向けた。「そんな状態でどうやって敬礼するつもりだ、彩峰」
 慧の持つトレイの上には、山盛りという言葉こそが相応しい、焼そばてんこ盛りの皿。それに合成宇治茶の湯呑みも乗っている。慧のバランス感覚ならば片手で持てないことはないだろうが、大惨事になる可能性の方がずっと高い。
 そもそも、そんな物を持って敬礼などしたところで、敬意など皆無だ。近くにトレイを置ける場所もなく、訓練兵である彼女達が誰かにトレイを持たせるなどということも出来るはずがない。
 つまり、敬礼しろということ自体、最初から無理だったのである。
「彩峰。あなたね……」
 千鶴は頭痛を堪えるように指でこめかみを押さえ、盛大な溜息を吐くのだった。
 冥夜は腕組みをして眉根を寄せ、壬姫は困ったように苦笑している。慧は相変わらずの無表情だが、これまでの世界で付き合いの長い武には、彼女が照れているのだとわかった。
「ところで――」冥夜が問うてくる。「『お前達も』ということは、少佐もこれからご夕食ですか?」
「ああ。折角だから、お前達と親睦を深めようと思ってな。夕飯、一緒させてもらってもいいか?」
「はあ……私は構いませんが……――榊、彩峰、珠瀬、そなた達も構わぬな?」
「ええ」
「は、はい」
「ん」
 冥夜の言葉に、三者三様の了解の声が返ってくる。命令というわけではなくとも、少佐からの提案。訓練兵である彼女達にとって、武はそれこそ雲上人のような存在だろう。彼女達に断れるはずがなかった。が、その声はどこかぎこちなく、隠しようのない戸惑いと疑問の念が見て取れた。
 階級が彼女達よりも高くなるというのは初めてのことではないが、それは前の世界での、A-01という、ある種特殊な集団においてのことだ。彼女達の抱える事情を別にすれば一介の訓練兵である彼女達に、ヴァルキリーズの先達達のように振る舞えという方が無理がある。
 しかし、敢えて武は、その無理を彼女達に要求しようとしていた。
 武にとって彼女達は特別な存在だったから。
 だが、彼女達はその事情を知らない。知るはずがない。
 彼女達の反応は、猜疑の念さえ抱いているようだった。
 それに気付けないほど、武も鈍感ではない。むしろ、前の世界ではA-01最後の生き残りとして、また日本国内の国連基地が帝国に接収されてからは元国連軍の筆頭として、周囲からやっかみや敵意の籠もった視線を向けられることもしばしばだったため、自然、そういった類の感情には人一倍敏感になっていた。逆に言えば、それらに属さない感情には人一倍鈍感であったとも言えるのだが。
 合成鯖味噌定食を注文してトレイを受け取ると、武は、一足先に席に着いていた207B分隊の許へと向かった。千鶴達は武よりも先に椅子に腰を下ろすことに抵抗があったようだが、「そんな無駄なことしてないでさっさと座ってろ」と言って、半ば無理矢理に座らせたのだった。
 武が席へと近付くと、その姿を認めた――実際には、ずっと武を注視していたようだが――千鶴が立ち上がった。それに続いて、冥夜、壬姫、慧の三人も立ち上がる。が、武は苦笑しながらそれを手で制した。
「だから、そういうのはいらないって言っただろ? 今は食事時間だ、楽にしてくれ」
 武はそう言ったものの、千鶴達は座ろうとはしない。
 武が冥夜の正面――慧から一つ空席を挟んだ席に腰掛けると、四人はようやく腰を下ろした。
 この辺の融通が利かないのは相変わらずか――武は内心で呟き、小さく吐息した。前の世界の彼女達が持っていた、いい意味での適当さ、柔軟さというものは、任官後にヴァルキリーズで学んだものだった。無論、武に限っては最初から持ち合わせていたものであるのだが。
 それについて、今どうこうしようとは武も思わない。
 しかし、武にとって、一つだけ譲れないことがあった。それは、
「今の内に言っておくが、軍務中以外……たとえば今みたいな食事中やプライベートな時間なんかは、よその隊の人間がいない限り、わざわざオレに敬礼する必要はないし、敬語も使わなくてもいい。それから、出来れば呼ぶときも教官とか少佐とかじゃなくて、白銀なりタケルなり呼んでくれ。訓練中や任務中だけけじめを付けてくれれば、それでいい」
 武の言葉に、四人が四人、目をぱちくりとさせた。
 それも当然だろう、訓練兵と正規兵の間でさえ如何ともしがたい隔たりがあるのに、ましてやそれが佐官ともなれば、山よりも高い壁が、海よりも深い隔たりがあると言っていい。そんな相手に、敬礼敬語敬称どれもいらないと言われて、彼女達が平静でいられるはずがない。
 だが武にとって、これだけは譲れなかった。たとえ違う世界であろうと、武にとって彼女達は戦友なのだから。
 ――これが甘えでしかないということは、武にもわかっている。
 軍人として上を目指し、この世界を救うことを決意した以上は、彼女達に対しても、軍人として接しなくてはならない。その覚悟は出来ていたはずだった。
 けれどその覚悟は、冥夜達の姿を見たその瞬間に、あっけなく崩れ去ったのだった。
 白銀武にとって、彼女達は、どうしようもないほどに大切な存在であったのだと、思い知らされる。――同時に、いかに自分が脆弱で卑小な人間であるかも。
 だが、それがどうしたというのか。その弱さは認めよう。その弱さは彼女達を大切に思う心の裏返しだ。ならば、何も恥じることはない。――ただ、己を戒めねばならぬだけ。
「ですが、少佐……」
 尚も食い下がる千鶴に、武は溜息を吐いた。やはりどの世界でも千鶴は堅物のようだ。
 今回は訓練兵として、彼女達と辛苦を共にし、相互の信頼を積み重ねていくことは出来ない。その分、彼女達と打ち解けるには、多少強引に迫るしかない。
 その第一歩として、武はここにやって来たのだった。列に並んでいる時点で彼女達を捕まえられたのは僥倖だった。
「ですがも何もない……言ったはずだぞ、榊。お前はもう少し柔軟性を身に着けろ。――それに、同い年相手に敬語使うのなんて、お前らも疲れるだろ?」
 涼宮や柏木と会ったりしても――A-01に所属している彼女達と出会う可能性は皆無なのだが――敬語使うのか? と武は続けようとしたが、
「え……えぇええ――ッ!?」
 四人が――普段は寡黙な慧までもが――悲鳴のような声をあげ、武に言葉を続けさせなかった。
 そんなに驚くことか? と武は首を傾げる。が、続く千鶴の言葉ですぐに納得することとなった。
「わ、私達と同い年で少佐なのですか!?」
 そういえば委員長は上を目指してたっけ……と武は朧気に思い出す。
 同時に、自分が少佐へと昇進したときのことを思い出していた。
 第一次甲20号作戦後の旧鉄源ハイヴ――国連軍鉄源基地防衛戦にて、当時――その時には伊隅みちるが逝き、宗像美冴もまた逝っていた――ヴァルキリーズの中隊長を務めていた速瀬水月が重傷により戦列を長期離れることになったことで、武はA-01第9中隊長代行を務めることとなった。
 しかし、やがて仲間達は――武よりも数段優れていた先達も含め――度重なるハイヴ侵攻作戦や防衛戦によって段々と命を落とし……そして、最後には鉄源基地がBETAに奪還されてしまう。
 その後、戦列に復帰した水月が――しかし、既にこの時には伊隅戦乙女隊という部隊は既に存続していなかった――甲26号作戦での功績などから中佐に昇進……しかしその水月も散ったことで、ヴァルキリーズには武一人が残ることとなったのだった。
 そうして水月が逝った後、日本国内の国連軍基地は帝国軍に接収されたことで、武は、元国連軍大尉として、帝国軍へと編入させられることとなった。
 その後は、新しく部下を割り当てられ、中隊を率い、やがては大隊を率いることとなって、数度の防衛戦に当たることとなった。少佐という地位に就いたのは、そんな時のことだ。
 最終的には、彼らと共に第二次甲20号作戦で鉄源ハイヴへと侵攻し、そこで命を落としたのだったが。
「一体どのようにすればそのようなことが……」 
「……色々あってな。悪いが、その辺の事情は話せないんだ」
 腕組みして唸る冥夜の声ではっと意識を揺り戻された武は言う。
 こう言ってやれば、それ以上追及してはこないだろう。特に、この207B分隊は色々と特別な人間の集まりだから、尚更だ。
 それに、武個人の心情としても、これ以上は追及して欲しくなかった。
 前の世界での、少佐に昇進してからの記憶は、辛い物が多すぎる。仲間達の生きてきた道程を誇らしく語り継ぐことこそを弔いの手段としている衛士としては失格かもしれない。
 けれど、もう誰にも語り継ぐことなど出来ないのだ。
 だから、思い出すだけならばともかく、たとえ許されていたとしても、誰かに語りたくはなかった。
 前の世界の記憶……それは武にとって、大切な人達を護ることの叶わなかった、罪の記憶だったから。

 武は小さく息を吐いて、四人の顔を見渡した。
 もう何年ぶりになるだろうか。ここが、武の指定席だった。懐かしさが込み上げてきて、武は微笑した。
 これで美琴がいれば言うことはないのだが、彼女は今、ラペリング中の事故により入院している。こればかりは武がこの世界へと遡る以前の出来事なのだから、仕方のないことだ。再び彼女達と同じ食卓を囲めたということを思えば、これ以上を望んでは罰が当たるというものだ。
「……とまあ、そういうわけだから、食事中は堅苦しいのはなしで。追々慣れていってくれればいい。今すぐ敬語使うな、なんて言ったって無理だろうからな。特に榊や御剣辺りは」
「……それはどういう意味でしょう、白銀少佐」
「是非とも私もお聞かせ願いたい」
 眉尻を吊り上げた千鶴と冥夜に、ほらな、とでも言うように武は肩を竦めてみせる。
「お前らが人一倍生真面目だってだけさ。――それより、だ」
 そこで言葉を句切って、武は、じっと千鶴を見つめた。
「な、何でしょうか」
 異性に見つめられた経験がないのか、千鶴は頬を紅潮させる。勿論武はそれに気付くことなく、
「榊のこと委員長って呼んでいいか?」
「……はあ?」
 目が点になる千鶴。
「名前の呼び方だよ。みんな苗字ってのも芸がないしな。榊はオレの知り合いのクラス委員長にそっくりなんだ。だから委員長。それから……冥夜、たま、彩峰……というのがオレの希望だ。さっきも言ったように、オレのことはタケルでも白銀でもいい」
 順繰りに顔を見つめながら、武は言う。
 自分の弱さに気付かされた今、今更彼女達に他人行儀に接せられるのなんて、武にはとても耐えられなかった。
「――ただし、さっきも言ったが、公私の区別はしっかりと付けること。訓練中にオレを呼び捨てにした場合、容赦なく罰を与えるから、そのつもりでいろよ?」
 それでも、けじめだけは付けねばならない。昔の自分を思い返しながら、武はそう付け足した。
「……私だけ普通」
「名前で呼んでやろうか……慧?」
「…………いい」
 本当に嫌そうに否定する慧。彼女風に言うなら、とてもすごく嫌、といったところか。
 一度目の世界のようにヤキソバというあだ名も考えてはいたのだが、それは言わない方が良さそうだ。
「なんか、私猫みたいですねー」
 嫌がっている風はない。父親からもたまと呼ばれているのだから当然か。
「あとそうそう、たまはオレのこと『たけるさん』て呼んでくれ。たまの場合、なんかそれがしっくり来るんだ」
「は、はい……頑張りますっ!」
「うむ。頑張れ、珠瀬訓練兵」
 それからも他の兵達に示しが付かないだのなんだのと千鶴を中心に食い下がってきたが、白銀武は香月夕呼直属であるということで、完全に封殺した。夕呼と直接言葉を交わした経験など殆どないだろうが、まりもとの遣り取りを見て思い知っていることだろう。

 空になった食器をまとめて武は席を立つが、
「ああ、そうそう……一つ言い忘れてることがあった」
「何でしょ――なんだ、タケル?」
 意外にも、冥夜は早速順応してくれている。先程の一言が思いの外効いたらしい。それを嬉しく思いながら、武は教官としての顔で言った。
「総戦技演習の予定を繰り上げるから、そのつもりでいろ。そうだな……鎧衣が退院したらすぐだと思っておいてくれればいい」
「――!」
「それまでに自分達の課題を見つめ直しておけ。仲間同士、ちゃんと力を合わせてな。オレや神宮司軍曹のところに相談にきてもいいぞ……じゃあな」
 一通り伝えることを伝えると、武は食器を片付け、PXを後にした。


 夕食後、食休みを取ることもなく、武はB19機密フロアの奥、夕呼の執務室の隣のドアから続く廊下を歩いていた。
 IDは夕食前の時点で届いていたのだが、207小隊との顔合わせを先に回したのだ。そして夕食の後は夕呼に武用の戦術機の手配を頼み……そして今、逸る気持ちを抑えながら、武は床下から青白く照らされた廊下を歩いている。
 足音が妙に反響する廊下は、主観時間ではほんの数日ぶりだというのに、何故だかひどく懐かしい。
 廊下の最奥部。扉の前で武は一度立ち止まり――一歩を踏み出した。
 扉が開く。
 薄暗い部屋。足の踏み場もないほどにコード類が交差し、壁際には様々な機器が立ち並んでいる。
 そして、その中央。青白い光を発するシリンダーが天井と床を繋いでいる。
 その中には、人間の脳髄が浮かんでいる――。
「純、夏……」
 その名を、呼んだ。決して届かないとわかっていて尚、呼ばずにはいられなかった。
 BETAに捕らえられ、解剖され……脳髄の状態で生き長らえていたという、幼馴染みの名前を。
 武はこの世界の白銀武ではない。それでも、もう一度その名を呼んでいた。
「純夏――」
 かつん、と足音を響かせて部屋の奥へと進む――と、武の視界の端に、特徴的な形の髪飾りが映った。
 そちらに視線をスライドさせる。ぴょこん、とウサ耳を彷彿とさせる髪飾りが動いた。
「霞……」
 思わず、呟く。髪飾りを逆立て、霞が一歩後退る。
 流石に、いきなり名前を呼んだのはまずかったか。武にとっては七年振りの再会でも、霞にとっては初対面なのだから。
 リーディングで読み取った記憶があるにしても、戸惑うのは当たり前だろう。
 ――あるいは。武の裡にある昏い感情を読み取ってしまったのか。
 瞳には、微かな怯えの色があった。
 恐い思いさせちまったかな、と武は内心で申し訳ないと謝った。
「よう」
 ひとまず、前の世界同様、フランクに話し掛けてみる。
「…………」
「…………」
 返事はなかった。というよりも、リアクションすらなかった。
 一歩近付く。一歩逃げる。二歩近付く。二歩逃げる。三歩近付く。三歩逃げる……。
「……こら」
 そう言うと、霞は立ち止まった。
「そう露骨に逃げるなよ、霞――って、一応はじめましてなんだよな……」武にとってはそうでなくとも、霞にとってはそうであることを思い出す。「はじめまして。オレは白銀武。君の名前は?」
 武は霞のことを知っているし、霞はリーディングで武の名前を知っているとはわかっている。
 それでも、この遣り取りにはちゃんとした意味がある。友達になるためには、自己紹介は必要なのだ。
「……霞……社霞です」
「お!?」
 一度目から名前を聞き出すことに成功すると思っていなかった武は、喜びの声をあげた。
 どこの世界でも霞は霞なのだ。またここから仲良くなっていけばいい。
「じゃあ霞、記念に握手だ」
「…………はい」
 やはり握手を知らなかった霞の手を取る。軽くお互いの手を握って、小さく上下させる。
 小さな霞の手は、心まで温かくなるくらいに、温かだった。
「……白銀さんは」
 繋いでいた手を解いてしばらく経った頃、ぽつりと霞は言った。
「ん?」
「白銀さんは……私を知っているんですよね……」
「……ああ……って言っても、こことは違う世界だけどな」
「……ごめんなさい」
「何謝って……ああ――そういうことか」
 きっと、リーディングで武の記憶を読み取ったことを詫びているのだろう。
 そんなこと気にしないでいいのに、と武は微苦笑を浮かべ、霞の頭の上に手を置いた。
「いいんだよ、別に。霞が謝る必要なんて、何もない……むしろ感謝してるんだ」
「…………」
「まず、オレの身柄が一応保証されてるのは、霞のお陰だからな。霞がいなきゃ、オレはここにはいられないんだ。
 それに、『前の世界』でも『その前の世界』でも、霞はずっと純夏の傍にいてくれた。こんな姿になって独りぼっちになっちまった純夏の友達でいてくれたんだ……今だってそうだろ? プロジェクションで純夏に話し掛けてくれてたんだよな?」
 こくり、と、霞は躊躇いがちに頷いた。
「だから、ありがとな」
 そう言って、武は軽く霞の頭を撫でた。
 何年もの間操縦桿を握り続けた無骨な手の平の乱暴な感触に、霞は目を細める。さらさらとした柔らかな感触をたっぷり堪能してから手を離すと、頬を紅潮させて、霞は恨めしげな視線で武を見上げてきた。
 悪い悪い、と謝って、武は霞から顔を背けた。霞の視線から逃れるためではなく、この場にいるもう一人の人物と向き合うために。

 靴底を鳴らして武は部屋を横切り、脳髄の浮かぶシリンダーの前で立ち止まった。
 青白い光を発する、BETA由来の設備に手を触れる。皮肉なものだ。BETAの所為でこんな姿にされてしまったのに、今純夏が生きていられるのはBETAの技術のお陰だなんて。
 ああ――BETAが、憎い。奴らさえいなければ、純夏はきっと、今もこの世界の白銀武と共に笑っていたはずなのに。
 武の住んでいた元の世界と同じように、犬のように後ろを付いてきて、タケルちゃん、と何度も名前を呼んでは、ころころと変わる表情で『白銀武』を楽しませていたはずなのに。
 ――奴らさえ、いなければ――。
 ループしそうになったざらついた思考を無理矢理に断ち切って、武はかぶりを振った。
 ……それらはもう過ぎ去ったことだ。2001年10月22日以前のことを変えることなんて、武には出来ない。
 ならば、今出来ることをしよう。今後、出来ることを。
「純夏……久し振り、かな……それともはじめまして、かな。オレはこの世界の白銀武じゃないから……はじめましてになるのか。何か変な感じだな……お前に向かってはじめましてなんて。ガキの頃から、隣にいるのが当たり前だったんだから、当たり前か……主観時間じゃ、お前と初めましてなんて、二十年ぶりだもんな」
 脳髄に向かって、武は語りかける。目を瞑り、目蓋の裏に純夏の姿を描きながら。
 もう十年以上もの間会っていないというのに、純夏のことはまるで昨日のことのように思い出せる。赤い髪、黄色いリボン、赤い瞳。笑ったり泣いたり怒ったり、ころころ変わる表情。犬みたいにいつも後ろを付いてきた。お隣さんで、幼馴染みで、大切な存在で。
「――オレ、絶対に負けないから。オルタネイティヴ5にもBETAにも、絶対に負けないから。今度こそオルタネイティヴ4を成功させて、みんなを護ってみせるから……だから、待っててくれ。そのときに会える純夏はオレの知ってる純夏じゃないのかもしれないけど……そのときに会えるオレは純夏の知ってる白銀武じゃないのかもしれないけど…………」
 シリンダーに押し付けられた武の手は震えていた。手から腕、腕から肩へと伝わった震えはやがて全身に伝播し、
「うぁ……あ……っく…………」
 武は声を押し殺して涙を流した。
 泣くのはこれで最後だ。世界を救うそのときまでは、二度と泣かない。泣いてはならない。
 胸に揺るぎない誓いを宿して、武は最後の涙を流すのだった。

 ――安心しろ、純夏。
 お前をこんな目に遭わせたBETAは……オレが、絶対に根絶やしにしてやるから――。


 2001年10月23日(火)


 午後、訓練の教官をまりもに任せ、武は夕呼の執務室へとやって来ていた。元々、基礎訓練の間は武の出番はない。その間に、出来ることをやってしまおうと考えたのだ。
 そこでまず取り掛かったのが、昨日は話さなかった、前の世界でのバビロン作戦以降の出来事をレポートとしてまとめる作業だ。
 17時頃にようやく完成し、それを持ってきたというわけだった。
「……このミョルニール作戦っていうのは?」
 武の持ってきたレポートをぱらぱらとめくっていた夕呼が訊ねた。
「ああ……とんでもなく馬鹿げた作戦ですよ」
「構わないわ。甲3号目標の破壊に成功したっていうんなら、どんな馬鹿げた作戦だろうと、聞く価値はあるわ」
「簡単に言うと、超特大のG弾でハイヴを根刮ぎ吹っ飛ばしたんです」
 武が答えると、夕呼は俄に眉をひそめた。彼女はG弾を好んではいない。オルタネイティヴ5を支えるのがG弾なのだから、オルタネイティヴ4の最高責任者としては当然かもしれない。
「軌道上にXG-70を打ち上げて、AL弾頭で重金属雲を発生させたところでムアコック・レヒテ機関を臨界運転させて再突入。あとは地上の衛士のことはお構いなしに、ML機関を暴走させて全部まとめて消し飛ばす――ね、馬鹿げた作戦でしょ?」
 実際に見たわけじゃありませんけどね、と武は最後に付け足した。
 そのとき武は、旧甲21号目標――佐渡島基地の防衛戦に当たっていた。だから、ミョルニール作戦については人伝に聞いただけだ。
「……そういえば、G弾が無力化されたって言ってたわね。それはどういうこと?」
「オレもよくはわかりません。ただ、G弾――グレイ・イレブンがBETA由来の元素である以上、BETAがそれを利用してもおかしくない……ハイヴの内壁にそれが使われていて、G弾の重力異常を無効化するようになった……っていうのが、お偉いさん方の推測です」
 G弾――その正式名称を、Fifth-Dimensional Effect Bomb。即ち、五次元効果爆弾。局地的な重力崩壊現象を引き起こし、周囲の空間そのものに破壊を撒き散らす、最強かつ最凶の爆弾。
 環境への影響などの要素を考慮の外に置けば、G弾は紛れもなく人類最強の兵器だ。
 それが無力化された――その事実は、強烈な驚愕と絶望の怒濤となって、瞬く間に全世界を覆い尽くした。
 それにより、バビロン作戦は失敗――人類の敗北が決定付けられることとなったのだった。
 しかし、地表を薙ぎ払う分にはG弾は未だ有効であったし、小型化することで、G-11――帝国戦術機に搭載されている自決装置S-11とグレイ・イレブンを掛けた名称と思われる――と呼ばれる、たった一発で反応炉の破壊を成し遂げるハイヴ侵攻用の兵器として、G弾は運用され続けていた。
 武自身、前の世界で最期を迎えることとなった鉄源ハイヴ侵攻時には、G-11を機体に搭載していたのだった。
 G弾を忌み嫌う夕呼の手前、それを口にすることはしなかったが。

母艦級キャリアー……ね」
 次に夕呼が興味を示したのは、現在は確認されていない、新種のBETAについてだった。
 ただし、今現在この世界で確認されていないというだけで、今も奴らはこの世界のどこかにいるに違いないと武は睨んでいる。
「……BETAが攻めてきたときにこいつに出て来られたら、その時点で戦線は半壊が決まったようなものです。防衛線も何もかもお構いなしに、こっちのど真ん中に飛び出してくる上、一瞬で何千っていうBETAがわらわら出て来るんですから。言ってみれば、戦域にいきなりハイヴの門が出来るようなもんです」
 そもそも、千単位でBETAの増援が現れるというだけで脅威なのだ、それが戦線の中央に突如として出現する――たった一体母艦級が出現しただけで瓦解した戦線は少なくなかった。
 出現の予兆として地震波が観測されはするものの、見落としてしまうことは多いし、面制圧の震動に紛れて現れるということも多々あり、戦場では死神として恐れられていた。
「……幸いなのは、基本的に母艦級自体に攻撃能力はないことくらいですかね……とは言っても、何十トンっていう巨体ですから、ちょっと体当たりされただけで、戦術機諸共ぺちゃんこですけど。対処法っていったら、電磁投射砲か戦車砲を大量に撃ち込むか、S-11を口から放り込んでやるくらいしか方法がありませんでした」
 しかし、その対処法が確立されたのも、かなり後のことだ。99型電磁投射砲が実戦配備されるまでは、かなりの期間を要した。それまではS-11を時限起爆で投げ込むか、出て来たBETAに砲弾の雨を降らすくらいしか母艦級への対処法はなかったのだ。
 電磁投射砲が配備されて以降、戦局を持ち直すことが出来たとはいえ、母艦級の吐き出す大量のBETAは、電磁投射砲を以てしても完全な排除は叶わなかった。
 それに、電磁投射砲はかなり大型であるため、前衛に装備させることが出来なかったという問題もある。武のような突撃前衛が駆る近接戦仕様の機体には装備させられないのだ。
「120mm弾じゃなくて36mm弾を使えば、威力は落ちても小型化出来たんでしょうけど」 武は独り言ちた。夕呼は「ふうん」と唸る。その場合、どの程度破壊力が落ちるかわからないし、そんな新兵器を開発している余裕が人類側にはなかった。各国がこぞって励んでいた第四世代戦術機開発計画も軒並み頓挫したのを、武は覚えていた。結局、各国の有する既存の第三世代戦術機を改修することで準第四世代機へとチューンナップするのが限界だったのだ。尤も、それが出来たのは日本と米国のみであったが。
 また、武は知らなかったことであるが、電磁投射砲を装備出来る機体自体がごく限られていたということもある。いくら強力な兵器であろうとも、汎用性のない兵器など、なんの役にも立たないのだ。
 その後も、夕呼からの質問に武が答えるという形で、レポートに関する質疑応答が続いた。
 中でも夕呼が興味を示したのは、ハイヴへの帰巣本能というBETAについての仮説を裏付ける、数度にわたる制圧後のハイヴに対する再侵攻があったということ、特に反応炉が残っているハイヴ――横浜基地――への再侵攻が頻繁に行われたということだった。
「それから……ミョルニール作戦で甲3号目標を破壊しても、BETAの行動に目立った変化はありませんでした」
「――BETAの戦術情報伝播モデルは複合ピラミッド型ではなく、全てのハイヴがオリジナルハイヴの直下に属する箒型構造……ってワケね」
「……はい。2008年時点で、そういった仮説が出されてたはずです」
 甲3号目標が破壊されて尚、その他のハイヴに影響がなかったという事実があるにもかかわらず、それが仮説に留まったのは、それを証明する手立てがなかったからだ。BETAの思考を読み取ることが出来ない以上、全ての理論は仮説以上の何物でもない。
 終始、夕呼は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて武の話を聞いていた。


 夕食を摂りに武がPXにやって来ると、207B分隊の四人が固まって食事を摂っていた。
 昨日と同じように合成鯖味噌定食を注文すると、武は彼女達の元へ向かった。
「今日も一緒させてもらっていいか?」
「あ、きょ――」
「あ、たけるさん」
 教官、と言い掛けて千鶴が口を噤んだところで、壬姫が武の名を呼んだ。千鶴の右腕は、敬礼する寸前で、宙をさまよっている。頬を赤らめて、千鶴は誤魔化すように前髪を手櫛で梳いた。
「お、昨日の今日で早速か。たまは偉いなー。ご褒美に頭撫でてやろう」
 テーブルの上に身を乗り出して、ぐりぐりと壬姫の頭を撫でる武。傍目にはかなり乱暴だが、壬姫も嫌がってはおらず、くすぐったそうにしている。
 思う存分壬姫の頭を撫で回した武は、鯖味噌定食に箸を付けた。
 その、数分後。
「――さて、一つ聞いておくか。……お前ら、戦う理由……ちゃんとあるか?」
「え……?」
 前置き通りに唐突な質問に、慧が目を丸くした。慧だけではない。他の三人も同じような表情を浮かべている。
「今の内に聞いておきたいと思ってな。詳しく言う必要はないけどさ……そのために命を賭けられるような、そういうものあるか?」
「一体どうしたので――どうしたの?」
「目的があれば人は努力出来る――オレの尊敬する戦友の言葉だ」
 武は冥夜を一瞥した。その視線に冥夜が気付いた様子はない。
「その目的……戦う理由がちゃんとあるか、お前らに聞いておきたいんだ」
 武の言葉に、昨日とは違う真剣なものを感じ取ってか、四人は居住まいを正す。
 彼女達の戦う理由は、既に前の世界で聞いて知っている。だが、それは前の世界の彼女達の理由であって、この世界の彼女達の理由ではない。
 この世界に生きる者として、彼女達と共に戦うに当たって、これだけは聞いておきたかった。
「どんなに大切なものであっても、自分一人の力じゃ守れない。誰か一人が失敗して失うものは、そいつのものだけじゃない……それを、わかっておいて欲しい」
 一人の失敗が二機連携の失敗を生み、二機連携の失敗が小隊の失敗、小隊の失敗が中隊の失敗を、中隊の失敗が大隊の失敗を生む。やがてはそれが戦線の崩壊を引き起こし……敗戦を喫することにもなりかねない。
 たった一人の失敗が、ひいては人類全体の敗北へと繋がることだってあり得るのだ。
 そのことを、武は、文字通り痛いほどに思い知らされていた。
 そして……この場にいる、武を含めた五人は、その失敗が人類の敗北へと繋がるかもしれない位置に立っているのだった。
 ――武は、嫌というほど知っていた。己の無力を。自分がどれだけ力を追い求めたところで、自分の力だけで護れるものなど、何もないということを。
 だから、武には仲間が必要だったのだ。
 立ち止まったとき、背中を押して再び歩き出させてくれる仲間が。俯いたとき、背中を叩いて再び顔を上げさせてくれる仲間が。挫けそうなとき、背中にそっと触れて再び戦わせてくれる仲間が。
 強い、理屈抜きに信頼することの出来る、本当の仲間が。
「……無理に今聞こうとは思わない。けど、自分にはっきりとした理由があるかどうか……その決意が本物かどうか、もう一度考えてみて欲しい。――その理由がない奴は早死にするか……肝心なときに、何も出来なくなるからな」
 武の纏う真剣な空気に圧されてか、四人は無言のまま、ぎこちない動作で頷いた。
 武は死ななかった。世界を救うという決意が空虚なものであったことを思い知らされ、あっさりと覚悟が折れてしまっても、死ななかった。
 ――だが、その代償はあまりにも大きく。
 尊敬する教官を、最大の恩師を、自らの弱さの所為でみすみす死なせることとなってしまったのだった。その時、武には何も出来なかった。ただ、まりもが兵士級に食われ、死んでいくのを見て、悲鳴をあげることしか出来なかった。
 ……今思えば、あれまでの決意は、張りぼてでしかなかったのだろう。
 世界の終わりを見て、いい気になっていた。クーデターやXM3トライアルを通して、自分は他のみんなとは違うと、有頂天になっていたのかもしれない。――そのツケが、あの結果だ。
 まりもの死は、武の罪であり、永久に背負わなくてはならない咎である。
 今もまだ、彼女の死は、武の心の片隅に暗い影を落としていた。
 ちくり、と心臓を縫い針の背でつつくような、微かな痛みが胸に走った。

「参考までに、一つ教えておく」武は四人を見渡し、「前線で戦う衛士にとっての、最も多い一番の戦う理由……それは、仲間のためなんだ」
「仲間の……ため……」
「国や世界……あるいは家族や恋人のためではないのですか?」
 この国のため――それは、冥夜自身の戦う理由だろう。
 だがそれは、戦場を知らないからこその、建前や理想、教育の影響による答えだ。あるいは、戦場に送り出す側が望む答えでもある。自分のために戦ってくれるのだと思えば、大切な者を死地へと送り出すことの苦痛にも耐えられる。国や世界のためだと思えば、仕方がないと諦められる。
 ――はっきり言ってしまえば、現実を知らない、無邪気な答えだと言える。
 とはいえ、前の世界で記憶にある限り初めての実戦を経験するまでの武もそうだったのだから、人のことは言えない。
「御剣が言うことも間違ってはいない」敢えて武は、冥夜を御剣と呼んだ。「そういった理由を一番に挙げる衛士だっているし、多かれ少なかれ、そういう理由を持ってる衛士が殆どだ。オレ自身そうだしな。だが、昔の米国の調査結果――それとオレの経験談から言っても……人間同士の戦争でも、BETAとの戦争でも、一番の理由は仲間のためなんだ」
 米国の調査結果は、武が実際に調べたわけではない。先達――伊隅みちるからの受け売りだった。だが、後者――経験談は、紛れもなく、武自身が感じたことだ。
 BETAを斃すときも……そして、反乱を起こした人間を殺すときも、そうだった。
「最初は国や家族、大切な人達のためだったのが、いつの間にか変わってくるんだ……隣で戦っている戦友を、一秒でも長く生かすために……ってな」
 実戦を知れば知るほど、身近な理由が大きくなってくる。戦場という現実に立ち向かうには、理想論だけでは自分を支えきれないのだ。
 目の前にある何かのために命を懸けたいという願望。自分の死は決して無意味ではないという何某かの意味を欲する心。そういった、ある種のセンチメンタリズムが、実戦を経験するたびに、深く心に染み渡っていく。
 自分を生かそうと命を懸けてくれる友の想いに応えようと、自分も同じように友を生かしたいと思わずにはいられなくなっていくのだ。
「だからって、国や家族を護りたいっていう想いがブレているわけじゃないぞ? ……けど、その理由以上に、仲間を護りたいっていう理由が大きくなってくるんだ」
「白銀少佐……あなたも仲間のために戦っているのですか?」
「……そう、だな」
 武は微かに口許に皺を寄せた。
 最初はなし崩し的にだったが、一度目の世界の途中からそれは確たる理由へと変わっていた。
 ずっと世界を救いたいとばかり思っていた。――けれど、その想いはどこから生じた物だったのか。
 人類を救うため。大切な仲間達を護るため。武にとって、それらに優劣を付けることは出来ないが、この世界を救うことが仲間達を護ることに繋がるのだと思えば、やはり仲間を護るという理由は大きい。
 この世界に依って立つ物がない武にとって、白銀武が白銀武であり続けられるのは、仲間がいたからだ。仲間達がいたから、この世界で戦うことが出来るのだ。
 だから、彼女達を護りたい。
 オレがこのループを繰り返してるのはそのためなんだ――と、武は思う。
 武は自分の周囲に座る四人の少女を順繰りに見つめた。
 かつて武が護りたかった仲間達は、もういない。けれど、時間をループした武の前には、二度と会えなかったはずの戦友達が座っている。
 武が護りきれなかった彼女達、武の所為で死んでいった彼女達――けれど、絶対に武を恨んでなどいないであろう彼女達。
 記憶の中の彼女達と目の前の彼女達は別の存在だ。それはわかっている。
 だが、どの世界であろうと、彼女達は彼女達だ。掛け替えのない仲間であるという事実は変わらない。
 失したものを取り戻すことは出来なくても、今あるものを護ることは出来る。
 ――ああ、護るさ。護ってみせるさ。もう二度と、誰一人として泣かなくていいように。もう二度と、泣かないでいいように。
 誓いがある。みんなを護ってみせると、純夏に誓った願いが――。
「だから、大切なもの、護りたいものを護れるように……自分に出来る最大限の努力をしろ。――後悔だけはするな」

 ――どうか、オレみたいにだけはならないでくれ……。



[2785] Muv-Luv ALTERNATIVE -Second World Was Failed- 第03話
Name: Vollmond◆d2a8c8a6 ID:d7498c84
Date: 2011/02/06 12:24
 2001年10月25日(木)


「神宮司まりも軍曹、参上致しました」
 敬礼するまりもは、いつもの軍服ではなく、衛士強化装備という出で立ちだった。武にとっては見慣れた、黒い99式だ。しかし、まりもの強化装備姿を見るのは、『前の世界』の12・5事件以来のこととなるので、武にとってはあまりにも懐かしい記憶である。
「軍曹には、シミュレーター7号機に乗って、オレと模擬戦をしてもらう」
「少佐と私で……で、ありますか?」
 そうだ、と頷く武。同時に、言い様のない窮屈さを感じていた。
 やはりと言うべきか、まりもに上から接するのは、精神的な疲労を伴う。何しろ。前の世界での最後が最後だ。十年以上の衛士生活で、技量だけならば彼女を上回っているとしても、今以て彼女を超えたなどとは、口が裂けても言えやしないし、天地が二、三度ひっくり返りでもしない限りは思えない。
 それでも慣れないわけにはいかないか、と自分を納得させながら、武は続けた。
「現在、シミュレーター6号機及び7号機には、香月博士の開発した新OSが搭載されている」
「新、OS……でありますか?」
 俄にまりもの表情が曇った。
 テストパイロットと言えば聞こえはいいが、要するに新兵器の実験台だ。衛士というものは、ベテランであればあるほど、新兵器というものを嫌う。たとえスペックデータにおいては既存の物を大きく上回っていたとしても、実戦でその有用性が証明されていないようなものに、自分の命を預けられるはずがないからだ。まして、OSのような、戦術機の機動概念その物を覆してしまうようなものであれば尚更だ。
 そのためか、たとえシミュレーターであっても、新兵器のテストパイロットを好まない者は多い。まりももその御多分に洩れず、新OSというものに対して、難色を示しているようだった。
「文句は後で聞かせてもらう……ただし、文句があれば、だが」
 武は唇を斜めに歪めた。挑戦的な笑みに、まりもも不敵な笑みで返してくる。
 彼女とて、任官と同時に新任衛士ばかりの部隊とはいえ中隊長を任され、かつてはエリート中のエリート、富士教導隊に所属していたほどの衛士だ。相応の矜持がある。いかに相手が少佐とはいえ、自分よりもずっと年下の衛士相手に退くつもりはないだろう。
「了解。慎んでお相手を務めさせて頂きます」
 二人はそれぞれシミュレーターの筐体へと乗り込み、
「霞」
『はい。準備は出来ています』
 武の呼び掛けに、オペレーターを務める霞が応える。予想外の人選だったのだろう、武の網膜に映るまりもは、驚きの表情を浮かべていた。
 しかし、すぐに網膜投影からまりもの姿は消え去り、替わりに、ビルの建ち並んだ街並みが広がる。ここがシミュレーターの筐体の中だということを忘れてしまうほどに精巧な映像。等倍のジオラマに迷い込んでしまったような感覚を覚える。
『使用機体はどちらも不知火。使用兵装は網膜に投影されている通り――突撃前衛装備です……何か質問はありますか?』
「いや」
『いいえ』
 霞に武とまりもが同時に答える。
『では、開始します――』
 そうして、演習は開始された。


 ――さて、少佐のお手並み拝見と行こうかしら……。
 まりもは、どこか肉食獣を思わせる、凶暴な笑みを浮かべて、唇を舐めた。
 実際に武の戦術機機動を見たことはないが、彼が相当な力の持ち主であることはわかる。それは少佐という階級や、副司令直属の特務兵という立場のためだけではなく、まりも自身の、衛士としての直感によるものだ。
 富士教導隊の一員として、横浜基地衛士訓練校の教官として、多くの衛士を育ててきたまりもは、自身には衛士を見る目があると自負を持っている。
 一目見た瞬間から、白銀武という衛士がただ者でないことはわかっていた。
 年齢など関係ない。重要なのは、力量のみ。ただ一つそれだけが、衛士の優劣を決めるのだと言っていい。無論、精神面なども考慮すべきだろうが、今は無視していいだろう。
 ――当然、まりもとて一歩も退くつもりはない。
 相手は自分よりも十歳ほども年下なのだ。自分にも長年の経験がある以上、負けてやるわけにはいかなかった。
 勿論、新OSとやらの性能を確かめることも忘れてはならない。
 いかに夕呼が開発したOSとはいえ、無条件に信頼するわけにはいかない。親友である香月夕呼の頭脳や主腕、そしてその類い希な精神力については認めているが、彼女は戦術機については門外漢であるはずだからだ。
 餅は餅屋と言う。戦術機開発の専門家でもない人間の造ったOSを信用出来るはずがない。
 それでも、もしかしたら、という思考がまりもの脳裏を過ぎる。香月夕呼が天才であることを誰よりも知っているのは、他ならぬまりも自身だ。だから、もしかしたら。彼女は、何か革新的なOSを造ってしまうかもしれない――。
 まさかね、と苦笑しながら、まりもは操縦桿を握ってスロットルペダルを踏み込み、
「きゃ……ッ!?」
 まりもは、悲鳴をあげた。ぐらり、と視界が揺らいだのだ。急激なGの変化を再現しようと、大きく筐体が揺れ、鼓膜に重低音が伝わってくる。
 一瞬経って、己が身に何が起きたのかを把握したまりもは、かあっ、と顔が熱くなるのを感じた。
 倒れたのだ。戦闘を開始するどころか、一歩目を踏み出そうとした、その瞬間に。
 初歩の初歩、基本動作教習過程Aで習うような内容を失敗する――戦術機を動かす者が絶対に犯してはならないミスの一つである。
 ――失敗した……?
 いや、とまりもは、自分の操作を思い出しながら、その可能性を否定する。自分の操作にミスはなかった。これまで最も多く乗ってきたF-4J撃震に比べ、第三世代機であるタイプ94不知火は、遥かに繊細な操縦が求められる。しかし、まりもの操縦技術があれば、その程度の誤差は問題にならないはずだ。
 OSの所為か――まりもは歯噛みする。
 やはり、いくら夕呼の開発した物とはいえ、安易に新兵器など開発するものではないのだ。それが、OSのような、戦術機の根幹に関わる部分であるならば尚のこと。
 倒れ込んだ機体を起こし、まりもは網膜に投影された前方の空間を睨み付ける。
 レーダーに敵機反応がないことを確認しながら、一歩、二歩と足を踏み出し、次第に滑らかに機体を制御出来るようになって――ふと、気付いた。
 先程は換装されたというOSが動作の妨げになったと思っていたが、そうではない。入力したコマンドに対する動作が、異様に早いのだ。
 端的に言えば、遊びがない――なさすぎる。
 撃震と不知火の誤差どころの話ではない。これでは、たとえ不知火の挙動に慣れていたとしても、新OS搭載の撃震に乗り換えたら、その繊細さに戸惑いを覚えるに違いなかった。
『気付いたか、軍曹?』武の声だ。『新OSは、理論値で約三十%即応性が向上しているんだ』
 ――三十%……!?
 まりもは驚愕を禁じ得なかった。
 即応性がほんの数%向上しただけで、衛士にとっては革命に近い。それが、一気に三割も……?
 武は続ける。
『その分、操縦には、これまでよりも遥かに繊細さが求められる。今までと同じような感覚で操縦していれば……さっきみたいなことになるぞ』
 一瞬、見えないはずの武の笑みが見えたような気がして、まりもの頭に血が上った。
 自分よりもずっと年下の人間に――たとえ上官であるとしても――からかわれるのは、まりもとしては甚だ面白くない。
 ――やってやろうじゃない。
 意識的に唇を吊り上げ、まりもは笑みを浮かべた。
 既に、おおよその感覚は掴んだ。操縦の繊細さには未だ若干の戸惑いがあるが、気を配っていれば問題はない。慣れていけば、次第に意識せずともよくなるだろう。
 後は、このOSの実際の性能――即応性以外の部分――を確かめること……そして、白銀少佐の力量を計ることだ。
 大方、夕呼が一枚噛んでいるのだろうが、あの年齢で少佐に就くくらいだ、生半可な腕前ではあるまい。自分の直感だけでなく、純粋にその実力を見てみたいという思いもまたあった。
 操縦桿を小さく動かして機体のバランスを取りながら、スロットルペダルを踏み込む。噴射跳躍によって、まりもの不知火が舞い上がった。
 よし、とまりもは内心で拳を握った。もう問題はない。それどころか、これまでに感じたことのない、軽やかな戦術機の挙動に胸が躍る程だ。使い古された陳腐な表現に頼るなら、翼が生えたかのよう、とは正にこのことだろう。まりもは隠すことなく、頬に喜色の色を散らした。
 そこへ、『流石は軍曹』という武からの通信。まりもの網膜に、感心したように口を斜めにした武の顔が映る。
『もう慣れてきたみたいだな。――それじゃ、始めるか』
 通信が跡切れるのと同時に、レーダーに敵機を示す赤色の光点が浮かび上がった。


「はぁ~……」
 合成宇治茶の湯呑みを両手で包み込むようにして持ったまま、まりもは盛大に溜息を吐き出した。それを見て武は苦笑する。
「そんなに落ち込むことないのに」
 まるで、『元の世界』に戻ったかのような錯覚を覚える。まりもには申し訳ないが、こういうふとした時に、神宮司軍曹と神宮司先生とを重ねてしまうことがあった。それはまりもに限ったことではなく、元の世界で面識があった相手には、どうしてもそのフィルターが掛かってしまうことがあるのだった。もう、こちらの世界で過ごして十年以上にもなるというのに、だ。
 直さなくてはと武も思うのだが、そう簡単にいけば苦労はしない。どうしようもないほどに甘いな、と武は自省した。
「まさか、手も足も出ないとは……」
 どんよりと、黒い陰を背負うまりも。
 先程のシミュレーターでの模擬戦の結果は、武の五戦五勝。戦術機操縦技術については相当の自信を持っていたはずのまりもだが、それをあっさりと挫かれてしまったのだから、無理のないことである。
 惨敗と言う外ない――内容だけ見れば、五戦目は接戦と言えたのだが――結果に落ち込むまりもをPXにまで引っ張ってきたのが、つい先程のことだ。
 シャワーを浴びれば、多少は気も紛れるだろうと思っていたのだが、どうやら甘かったらしい。基本的に落ち込みやすいタイプなのだ、この人は。
 それでも、コーヒーモドキで一息吐いて多少は気を持ち直したのか、まりもが訊ねてくる。
「少佐はどちらであれほどの技術を?」
「訓練兵の時の教官と……仲間達から、かな」
 A-01の仲間達や、月詠真那といった戦友から学んだことは、あまりにも多い。突出した――突出しすぎた――機動制御以外に取り柄のなかった武が、それ以外の分野でも高い技術を得ることが出来たのは、彼女達のお陰だった。
 それがなければ、武はまりもに敗北していたかもしれないし、そもそも十年以上も戦場で生き延びることは出来なかっただろう。
 他者の操縦技術を模倣する――ゲームで巧者の技術を取り入れるということに慣れた武だからこそ、高い水準でそれらを吸収することが出来たのかもしれなかった。
「成る程……良いお仲間に恵まれたのですね」
 そうなるな、と言いながら、武は、柔らかく微笑するまりもを見つめた。
 声に出して言いたかった。今のオレがあるのはあなたのお陰なんです、神宮司教官――と。
 彼女がいなければ、武は衛士を続けることなど出来なかっただろう。彼女がいたから、武は前を向いて戦うことが出来たのだ。彼女のくれた言葉が、白銀武という、何の力も覚悟もないガキを、一人の衛士にしてくれたのだ。
 ――本当に、感謝してもしきれないな……。
 声に出すことは出来ないけれど。ありがとうございます、と武は胸中で呟いた。

「それより」目尻に微かに浮かんだ涙を指先で拭い、問うた。「新OSについて、神宮司軍曹はどう思った? 忌憚のない感想を聞かせて欲しい」
「はっ」まりもは背筋を伸ばし、「しかし……その前に、一つだけ質問させて頂いてもよろしいでしょうか?」
「いいぞ。言ってみてくれ」
「先程、少佐の砲撃を躱そうと、咄嗟にペダルを踏んだ時のことなのですが……その前に入力した動作が終わっていないにもかかわらず、入力したばかりの命令が動作に反映されたことがありました。最初は偶然かと思いましたが、数度の試行で再現性があることがわかりました。あれは新OSの機能なのですか?」
 へえ……と武は感嘆の声を零した。
 新概念について説明していなかったため、大幅に向上した即応性にばかり目がいくと思っていたが、流石と言うべきか、まりもはしっかりとキャンセルに気付いていたらしい。
「それはキャンセルだ」
「キャンセル?」
 オウム返しするまりもに、武は頷いて、
「最初に言った即応性の向上は、おまけみたいなものだ」
 まりもは、表情を驚駭の色で染めた。
 彼女にしてみれば、三十%という即応性の向上は、正しく大革命だったに違いない。それをおまけ――ついでの付属機能だと切って捨てられれば、驚かない方がおかしいだろう。
 武は気にせずに続けた。
「むしろ、新OSの真価は、軍曹が気付いたキャンセルの他、先行入力やコンボといった、旧OSにはなかった概念にある」
 動作の終了を待たずに次の動作を入力・反映出来るキャンセル。
 事前に次の動作に必要なコマンドを入力しておくことの出来る先行入力。
 そして、フィードバックデータを利用して、特定の連続入力が必要な動作を簡単な入力で行うことの出来るコンボ。コンボを途中でキャンセルすることも出来る。
 三つの新概念について説明し、
「これらの新概念を実現するために、香月博士の開発した高性能CPUを利用している。即応性が向上したのは、このCPUのお陰だな」と締め括った後、「この新OSを使えば、誰にでもオレのような三次元機動を実現出来るようになるはず。元々、オレのイメージする機動を完全に再現するためのOSだからな」
 と武は付け足した。
 前の世界では、武を手本とした、飛び回るような三次元機動を扱える者も少なくなかったが、この時点では、一人としていないだろう。元々三次元機動を念頭に置いて開発されたとはいえ、光線属の脅威の前に、戦術機の機動の主体は、平面に重きを置いた二次元機動が主体となっている。
 それらを吟味した上でどう思うか、もう一度武は問うてみる。すると、
「私見で言わせてもらうならば、新OSの特性を完全に理解していない状態であったとしても、この新OSが実戦配備されれば、命を落とす衛士の数が激減することは間違いありません。そして仮に……仮にですが、少佐の機動を全ての衛士がほぼ完全に再現出来るようになったとすれば――人類の劣勢は完全に覆ることでしょう。近い未来……十数年の先、この星を取り戻すことも不可能ではないと考えます」
「…………」
「――少佐……?」
 怪訝そうなまりもの声で、武ははっと我に返った。
「あ、ああ……すみません」
 自然と、口調も目上の人間に対するそれに戻ってしまう。
 前の世界でのXM3トライアルの際にも随分と褒めそやされたものだったが、まりもにこう言ってもらえると、感慨が違う。
 勿論、まりもが言うようにうまくはいかないだろうが、XM3はそれほどの可能性を秘めているということだ。
 確かに、前の世界では、武の機動を再現出来るようになった部下だけを率いた一個中隊だけでハイヴを陥としたことだってある。勿論、地上陽動を引き受けた多くの英霊の挺身があってこそだが、フェイズ2程度のハイヴならば、一個中隊で陥とすことは夢ではないのだ。まりもの言うことは少々大袈裟ではあるが、決して夢物語とは言えまい。
 込み上げてくる喜びを噛み締め、武は言う。
「新OSは、基礎となる機動データを蓄積する必要がある。可能な限り上質なデータを、だ……そこで、神宮司軍曹にも協力してもらいたい。――頼めるな?」
「――はっ。このような新兵器の開発に携われること、心より光栄に思います」
 敬礼するまりも。返礼する武の顔には、隠しきれない歓喜の色があった。

「……ところで、一ついいか、軍曹?」
「なんでしょう、少佐」
 居住まいを正すまりも。その顔を正面から見つめ、武は言った。
「その少佐っていうの、やめてもらえないか?」
「……は?」
「神宮司軍曹に少佐って呼ばれるの、何か変な感じするんですよ」目をぱちくりさせるまりもに、武は砕けた敬語で言う。「だから、軍務中以外は少佐って呼んだり、敬礼とか敬語使うのもやめてもらえると嬉しいんですけど。――あ、オレはオレで、こんな感じに敬語使うことあると思いますけど、あまり気にしないでください。軍曹に対しては、そっちの方が楽なんで」
 どんなに自分の方が階級が上になったとしても、武にとってまりもは、尊敬すべき教官である。そんな彼女に、プライベートでまで上官扱いされるのは、前の世界で彼女を死なせてしまった――最後の最後まで散々弱いところを見せてしまった――武としては非常に居心地が悪い。
 今でこそ強くなったと多少なり自負している武ではあるが、自分は彼女に軍務以外の部分でまで敬意を払ってもらえるような人間ではない……武はそう思っている。
「少佐、流石にそれは……」
「ダメですかね?」
「当然です」
 にべもなくまりもは答える。
 やはり、夕呼の親友とはいえ、生粋の軍人であるまりもにとっては受け入れがたいことらしい。
「207B分隊の連中は一応受け入れてくれたんですけどね……ほら、オレってあいつらと同い年じゃないですか」
「あいつら……」
 まりもは頭痛を堪えるように、額を指で押さえた。
 そのまま、軍規をしっちゃかめっちゃかに掻き乱した元凶たる武を睨み付けてくるのだが、階級差の所為か、強く睨むことが出来ず、拗ねたような表情になってしまっている。
 ――まりもちゃんだよなあ……。
 一瞬頭の中に思い浮かんだ、可愛い、という形容詞を振り払うように、武は苦笑した。
「出来ればオレのことは白銀って呼んで下さい。理想としては、優しい先生みたいな感じで、白銀君、っていうのがお勧めです」
「し……白銀君、でありますか?」
 戸惑いながら言うまりもに、「ぷっ」と武は噴き出した。これでは、すっかり“まりもちゃん”だ。
 まりもは顔を真っ赤にして、「少佐!」と声を荒げてくる。
「く、くく……ははは……す、すまない。冗談だ、軍曹」
「もう……」
 顔を隠すように恥ずかしげに俯いて、湯呑みを傾けるまりも。
 こうして彼女と談笑するような機会があるなど、十一年前からは想像も付かないことだ。……いや、想像することさえ許されなかった。彼女を死なせたのは、武の弱さが原因だ。自分一人の所為ではない、ということはわかっているが、それでも、最大の原因は自分にあると、武は思っている。
 ――もう、死なせない。
 湯呑みを握り締め、武は固く誓った。もう二度と、目の前で彼女を失いたくない――と。
「まあ、すぐに慣れますよ」
 内心を悟られぬよう、武は努めて明るい声音で言った。
「慣れるも何も……夕――香月博士じゃないんですから……」
 呆れに満ちた溜息と共に漏れたまりもの呟きに、武の目が光る。
「あ……それいいかも」
「は?」
「軍曹言ったでしょ、香月博士じゃないんだから、って。オレ、夕呼先生の直属ですし、そういうもんだってことで我慢してください」
「う……」
 夕呼の直属というのは、あまりに納得しやすい理由だったらしい。
 武が夕呼直属の特務兵であるということは、夕呼が常に手の届くところに置いておきたいという意味でもあり。故に、夕呼が気に入る人間でなくてはならないのだから。
「勿論強制はしませんし、よその隊がいるときや訓練中は今まで通りで構いません……ていうか、そうじゃなきゃ困りますしね。プライベートの時間以外はオレも今まで通りにやらせてもらいますから。それならどうです?」
 しばらく渋っていたまりもであったが、最後には根負けして「仕方ありませんね……」と呆れたように了承してくれた。


 2001年10月27日(土)


「――違う。榊、そうじゃない」
 基礎訓練にも顔を出しておくべきだと考え、207B分隊の射撃訓練を見ていた武は、突撃銃を構える千鶴に向かってそう言った。訓練中、彼女達を姓で呼ぶのにも、慣れてきていた。
「そうではない、とは……どういう意味でしょう、白銀教官」
 安全装置を掛けた千鶴は、背後の武に振り向くと、むっとした表情で問うてくる。
 壬姫のように的の中央を撃ち抜いているわけではないが、千鶴の放った弾丸は的の中央付近を貫いている。にもかかわらず、『そうじゃない』と指摘されたことが気に入らないようだった。
 ――参ったな……。
 内心で嘆息して、武は千鶴以外の三人の姿を見回した。
 やっぱりか――今度は実際に溜息を吐く。朧気ながら、前の世界でも似たようなことがあったのを思い出しながら、武は首から提げていたホイッスルを力一杯吹き鳴らした。銃声にも劣らぬ大音量が鳴り響き、冥夜達が顔を上げる。
「――射撃止めッ! 小隊集合ッ!」
 武が声を張り上げると、慌てて小隊の四人が駆け寄ってくる。後ろの方から、何事かとまりもが歩いてくるのがわかった。
 四人の顔を順繰りに見つめ、
「お前達は何のためにこの訓練をしている? ――御剣」
「はっ」冥夜は姿勢を一層正すと、「衛士になるためです」
「その通りだ……じゃあ次の質問だ。お前達は今、何を考えながら訓練をしていた? ――榊」
「は――確実勝つ迅速に的に当てる事です」
 コンマ一秒でも早く標的に弾丸を撃ち込み、無力化する……それは、確かに間違ってはいない。――これが、歩兵のための訓練であるならば。
「それが間違いだと言っているんだ」首を横に振って、武は答える。「いいか? お前達は衛士になるために訓練を受けているんだ。歩兵になるために訓練を受けているんじゃない」
 彼女達は、射撃場に馴れた撃ち方が染み付いてしまっている。構えてから撃つまでが早すぎるのだ。
 しかし戦術機ではロックオン機能などが搭載されているため、生身と同じ感覚で撃つと、無駄弾を増やすことになってしまう。IFFがあるとはいえ、戦場では敵味方が常に動き回っているのだ、見方誤射の可能性はゼロではない。
「命中精度を重視するつもりで、射撃のタイミングを一呼吸遅くすれば、的確な状況判断をする余裕も出来るし、戦術機に乗った時も違和感を感じないで済む。
 忘れるな、お前達は衛士になるために訓練を受けているんだ。何を目標にするかで、訓練効率は大きく変わってくる。常に戦術機に乗った時のことを考えておけ、いいな?」
「はいッ!」
 四人が声を重ね、敬礼する。
 よし、と頷いて、「では今の指示を念頭に置いて射撃訓練再開ッ!」と声を張り上げる武。
 それに従い、四人は一斉に散開し、再び射撃訓練を再開した。鼓膜を劈くような銃声が立て続けに鳴り響き、外耳道を振動させる。四人は武の指示通り、正確な狙いを付けるために一呼吸置いていた。
 流石、飲み込みが早いな――武は頬を緩めた。
 まだ指示したばかりだというのに、四人ともがしっかりと武の言葉を実践している。まだぎこちない部分があるが、彼女達のことだ、すぐにそれも解消して意識せずとも一呼吸のタメを作れるようになるだろう。
 こうして外部から見るようになって、改めて思う。
 コイツらはすげえ――と。
 そんな武を見て、まりもは微かな笑みを浮かべていた。

 ――そんな二人を――いや、武を見つめる、一対の視線があった。
 そこには、訓練に真剣に取り組んでいる以外の理由で、唇を引き結んでいる少女。血が滲むのではないかというほどの強さで、瑞々しい唇に歯を立てている。

 それに気付かぬまま、武は壬姫へと目を留めた。
 ――流石だな……。
 双眼鏡で壬姫の狙っている的を見てみると、真ん中に一つ穴が空いているだけ。つまり、全ての弾丸が的の中央に殆どブレなく集中しているということだ。
 突撃銃の銃弾は軽く、僅かな風や砂埃などでさえ簡単に方向が変わってしまう。
 それでこれだけの精度。壬姫の腕が並大抵でないことは武もよく知っているが、数年ぶりに見ると、改めてその凄まじさを思い知らされる。
 そういえば……と、武はふと前の世界のことを思い出していた。
 今と同じように、彼女達の射撃について指摘したときのことだ。必要以上に自分に注目を集めてしまった武は、少しでもそれを逸らそうと、壬姫に五百メートルの狙撃をやらせたのだった。その数日後、今度は武が壬姫の組み立てたライフルで狙撃をすることになって、結局再び注目を集めることとなったのだが。
 もう一度やらせてみるか――武は一瞬だけ思案して、「珠瀬」と声を掛けた。
 武の声に、壬姫はトリガーから指を放し、安全装置を掛けると、どこか不安そうに振り向いて敬礼した。
「な、ななな何でありますか、ししし白銀教官!」
「そう緊張するな」しどろもどろな壬姫にくすりと笑みを零し、「少し見ていたが……話に聞いていた以上だな。突撃銃であれだけ弾を集められるなら大したもんだ」
「あ、ありがとうございますっ!」
 褒められたことが余程嬉しかったのか、壬姫は頬を赤く染めた。
 こういう仕草のために、壬姫は武よりも幼く感じられる。精神年齢で言えば、武よりも十歳以上年下なのだから、当然と言えば当然なのだが。
「そこで、だ」武は遥か遠く離れたところにある的を指差す。「あれ、撃てるか?」
「五百メートルですか……? どうでしょう……」
 壬姫は目の上に手で庇を作ると、武の示した的を細めた目で見つめながら答える。
「三百ならこいつの有効射程ぎりぎりだ。それくらい狙える衛士なら、ごまんといる。だが、お前は狙撃が得意なんだろう? 今見ていた限り、五百程度なら狙えると思ったんだが……」
 壬姫ならば、突撃銃でそれ以上の距離を狙い撃てるかもしれないことは、百も承知。その上で、自信を付けさせるために、武はそう言ったのだった。
 しかし尚も自信なさげな壬姫。人に見られているのだと思うと緊張してしまうのかもしれない。そこへ、
「謙遜することないわよ。白銀教官に珠瀬の実力を見せつけて差し上げたら?」
 どこか刺々しい声音で、隣にいた千鶴がそう言った。
 ――参ったな……。
 一つ溜息。武は頬を掻いた。
「あはは……見せつけるほど凄くないよー」
「何言ってる。榊の言う通りだ、謙遜するな」
「ほら、教官もこう仰ってるわ。教官の度肝を抜いて差し上げてよ」
 そう言って、千鶴は武を横目で一瞥した。同い年で少佐、ひいては自分達の教官に収まったこの男を驚かせてやれ、と言っているのだ。客観的事実で負けているのはともかくとして、ここで一矢報いてやらねば気が済まないらしい。
 ――委員長らしいよ、ほんと。
 武は唇の端に笑みを散らした。
 千鶴の言葉に触発されてか、「それもそうだね…………うん、がんばる!」と言って、壬姫はその場に右膝を突いた。武を見上げ、
「教官、射撃姿勢は伏射でもよろしいでしょうか?」
「ああ。好きなやり方でやってくれ」
 了解――頷いて、壬姫は狙撃へと取り掛かる。右膝を曲げた、英国式プローン。細い指先が引金を撫でる。風の影響を考慮し、スコープを覗き込みながら銃口の向きを微調整し――トリガーを、引いた。
 高い銃声が大気を震わせる。
 一度、二度、三度……火薬の爆ぜる音に一瞬遅れて、的の中央に穴が空いていく。
 一通り弾丸を撃ち終えた頃には、的にはやや大きめの穴が一つ穿たれているだけだった。
「流石だな……狙撃の腕だけなら、珠瀬、お前は正規兵にだって負けてない――いや、純粋な狙撃だけなら、オレ以上か」
「ほ、ほほ本当ですかッ!?」
 顔を上げ、頬を先程以上に紅潮させる、満面の笑みの壬姫。その瞳が潤んでいるのは、歓喜のためか、緊張のためか。きっと両方だろうな――そう結論付けて、
「――ああ」
 武は、微笑を浮かべて頷いた。


「流石ですね、少佐」
 午後の訓練のメニューを組み立てがてら共に食事を摂っていたまりもが、突然言った。
「ん?」
 何が流石なのだろう、と武は合成鯨の竜田揚げを頬張りながら首を傾げる。
「先程の射撃訓練のことですよ」武の仕草がおかしかったのか、まりもは笑みを浮かべていた。「私は、彼女達の体に染み付いた癖を指摘するどころか、それに気付くことさえ出来ませんでした」
 これでは教官失格です、とまりもは笑みを浮かべたまま、眉尻を下げた。
 まりもの言葉遣いは、表面上こそ上官に対するそれだが、口調は彼女本来の、どこか親しみを感じさせるものだ。丁度、武が先日リクエストした、教師が生徒に接するような――あるいは、元の世界での武達がまりもに接していたような感じ。
 やはり、どう言われても上官と対等に接することは出来ないのだろう、これが互いの妥協点だった。
 武としては、まりもから堅苦しく接せられるよりは何百倍もいいので、文句などあろうはずもない。
 軍人として生きるならば、武はまりもと階級通りに接しなくてはならないはずだった。
 だが、やはり駄目なのだ。たとえどんな理由があって、どんなに階級が違っていたとしても、武にとってまりもは尊敬すべき教官で。だから、プライベート――今の話題がプライベートに分類されるかどうかはさておき――の空間では、こういった関係でいたかった。
 ――教官どころか、オレは軍人失格かもな……。
 まりもに応えるように自嘲の笑みを散らすと、武は「そんなことないですよ」と返した。
「神宮司軍曹は、オレの知る限り、最高の教官です。オレが保証します」
「少佐……」
「自信を持って下さい。軍曹がそんなことじゃ、アイツらにも……それに、今までの軍曹の教え子達に失礼です。みんな、心から軍曹のこと尊敬してるんですから」
 たとえば、オレみたいに――言葉には出来ない想い。せめてもと、武はまりもに、泣き出しそうな笑顔を向けた。そこには、抱えきれないほどの感謝の想いが込められている。
 武の想いが伝わったのか、まりもは笑みを零して口許に手を当てた。が、何気なく発せられたまりもの次の言葉に、武は凍り付くこととなった。
「まるであの娘達のことをよく知っているみたいな口振りですね、少佐」
 ぎくり――武の背筋に冷たい汗が伝った。自らの迂闊を呪わずにはいられない。
 まりもの言葉に、武に対する疑念は込められていない。単純に、武の物言いに笑ったというだけ。だが、武にとってはそれだけでは済まなかった。
 自分の心臓がうるさいくらいに脈拍を刻むのを感じながら、武は努めて平静を装って言った。
「“計画”に関連する情報はある程度与えられてますから」
「っ……」
 まりもが微かに息を呑んだ。
 オルタネイティヴ計画……その詳細を知る権限は、まりもにはない。それは彼女の階級が軍曹であることに起因するのではない。たとえ将官階級にあろうとも、オルタネイティヴ計画の存在さえ知らぬ者もいるだろう。
 まりもは、A-01――オルタネイティヴ計画第1戦術戦闘攻撃部隊に所属する衛士を育て上げる教官としてこの横浜基地に召喚された関係で、その存在と、それが人類を救う切り札であるという事実だけを知らされている。
 Need to know……軍において情報とは、知る必要があるとき、知る必要のある情報だけ、知る必要のある者にのみ与えられるものだ。今後、彼女の階級が上がり、計画の中枢に食い込むことを許可されたならばともかく、今のまりもに武の発言を追及する権利は与えられていない。
 とはいえ、かつての教え子達だ、気に掛からないはずがない。
 夕呼の好意――あるいは気遣いによって、A-01が動員される戦闘があるたびに彼女達の安否などについては知らされるものの、詳細な情報を教えられてはいないのだ。
 まりもは唇を噛んだ。
 少しずるかったか……と武は一つ溜息を吐いた。
「それより、今は207の話でしょ?」
「……ええ、そうでしたね」まりもは内心を抑え付けるように一つ吐息し、武の顔を見つめた。「少佐から見て、彼女達のことをどう思われますか?」
「単純な歩兵としての実力だけなら、正規兵と殆ど変わらないな」少佐としての口調。「勿論、歩兵として優れているからといって衛士として優れていると一概に言えるわけではないが……」
 しかし、彼女達が衛士として優れているのは、紛れもない事実だ。そのことは、他の誰でもない武がよく知っている。
「アイツらの才能には目を見張る物がある。御剣の剣術、彩峰の格闘能力、珠瀬の狙撃……榊の――」
「――指揮能力、ですね」
 その通りだ、と頷いて、
「本人はまだ気付いていないみたいだがな」
 千鶴の指揮官適性は、非常に高い。柔軟性を身に着け、冷静さを保つことさえ出来れば、彼女は稀代の指揮官になれることだろう。
 前の世界で指揮官の経験もある武だから、よくわかる。
 自分よりも千鶴の方が、指揮官としてはずっと上だ――と。
 今の千鶴は最初に決定した作戦に固執しすぎるきらいがあるが、作戦遂行能力に関してはかなり秀でている。自らは後方支援を主とし、時には手持ちの材料から新たな作戦を編み出し、部隊全体を動かして作戦を成功させる――。
 それは、指揮をしながらも自らが最前線に立ち、己の戦う姿を以て士気を向上させ、作戦を成功させる武とは見事に対照的だ。本来ならば武のような指揮官は言語道断なのだろうが、後方支援に秀でた優秀な副官の存在や、武自身の高い技量――殊にずば抜けた機動制御――によって可能となっていた。
「まあ、こればかりは実戦の中で磨くしかないだろうな……まずは、最初の作戦に固執しない柔軟性を身に着けてから、か」
 それがないことには始まらない。
 戦況は刻一刻と変化する。当初の作戦を無事成功させられるのが最良だろうが、そんな状況は実戦では滅多にない。何しろ、相手はBETAなのだ。人間相手と違い、行動が読めない。奴らの行動パターンは単純明快ではあるものの、それが故にこそ読みにくい。そこに理論がないためだ。
 つまり、真に優れた指揮官とは、その変化する状況に合わせて、最善あるいはそれに準ずる作戦を起草・実行し、任務を成功させることの出来る者を言う。
 そういう意味で、武も前の世界の千鶴も優れた指揮官であったことは間違いない。
 ――だが、この世界の千鶴は、まだまだその域には遠い。
 剣術や狙撃とは異なり、指揮能力ばかりは、個人訓練では身に着けられないためだ。身に着けようと思えば、実戦の中で先達から吸収するしかないのだ。
 いくら才能を有していたところで、磨くことが出来なければ何の意味もない。

「ただ、なあ……」
 コーヒーモドキのカップを傾けながら、武は眉をハの字に歪め、宙を睨んだ。
「どうかなさったのですか?」
 心配そうに訊ねるまりもに視線を下ろし、溜息を零す武。
「今のアイツじゃ、それ以前の問題なんですよ……」
「ああ――」得心がいったように頷き、「やはり少佐もそう思われますか……」今度はまりもが溜息を吐いた。「チームワーク……ですね?」
「チームワークの前に、チームが成立してませんけどね」
『……チームをまとめられない無能な分隊長と、指示に従わない部下、見切りをつけて独断した部下……主にこれが理由』
『……違うね。最後はアンタの指示に従って、地雷原の餌食になったんだ……』
『……鎧衣は迂回すべきだと言っていた。鎧衣の勘が尊重されるべきことは事前に了承済みだと思っていたのだがな……』
 かつての仲間達の口にした言葉が、武の脳裏に蘇る。
 何故こんなにも鮮明に覚えているのかという驚きと疑問が込み上げてくるが、それだけ武にとっては印象的な言葉だったということだろうか。
 二度聞いた会話であることと、彼女達の関係を如実に表す会話であったからかもしれない。
 ……いずれにせよ、重要なのは、前回の総戦技演習時点では、207B分隊はチームとして成立していなかったということだ。207A分隊について、武も詳しいことは知らないものの、分隊長である涼宮茜を中心に、しっかりとまとまっていたはずだ。武の知る207A分隊の二人、茜と柏木晴子の前の世界での信頼関係から、それは推察出来た。
 つまり、チームとしての信頼関係……それだけが、二組の明暗を分けたのだ。
 尤も、そこに政治的な思惑があった可能性は否めないのだが。
 ――急いで衛士になったのは失敗だったかもな……いや、そんなことはない。これでいいはずなんだ……。
 自分が207B分隊の中にいれば、前回までのように彼女達の関係を内側から改善出来たかもしれないという後悔。だが、夕呼の力となるには――オルタネイティヴ4にもっと関わるためには――衛士としての階級は必要不可欠だ。
 だから、自分の選択は間違っていない。武は、無理矢理にそう自身を納得させる。
 ――人類を救うためには、護るべき人達をも切り捨てる覚悟さえ必要だというジレンマ。
 護らなくてはならない。どちらかなんて、武には選べない。それでも……それでも武は――。
「少佐はご存知でしょうが、あの娘達は色々と複雑な事情を抱えていますから……」
 まりもの声に、武の意識は浮上する。まりもは、マグカップの中の水面を覗き込むように、ほんの少し顔を俯けていた。垂れ下がった前髪で、表情を窺うことは出来ない。
 そんなまりもに向かって、吐き捨てるように武は言った。

「――それがどうした」

 びくっ――まりもの肩が震え、弾かれたように顔を上げる。
「そんな言い訳が通用すると思ってるんですか? 自分には他の人間よりも複雑なバックグラウンドがあるから、仲間と信頼関係を築くことが出来ない、って。――そんなのは、ただの甘えでしかない。衛士になろうって連中に、そんな小さなことに拘っていいはずがないんです」
「――少佐。お言葉ですが、彼女達の事情は決して小さくなど……」
「小さいですよ」しかし武は、まりもの進言を即座に切り捨てる。「確かに、絶対に公に出来ないような事情だってあるかもしれません。……けど、それが仲間に壁を作る理由になるんですか? そういう要素抜きに信頼し合える関係が、仲間なんじゃないんですか……ッ!?」
 武にとって、仲間とはそういう存在だった。
 決して誰にも明かすことの出来ない、この世界の人間ではなく、この世界に本来いるべき白銀武は、とうに死んでしまっていて、自分は夕呼の力でその席に居座った、文字通りの異邦人であるという事実。
 だが、武はそれを理由に仲間達を遠ざけることはしなかった。
 冥夜の、千鶴の、慧の、壬姫の、美琴の事情全てを知って尚、彼女達を誇るべき最高の仲間達だと、胸を張って言うことが出来た。
 それが仲間だ。
 無条件に自分の命さえ預けることの出来る関係――それが、武にとっての仲間なのだ。
 ――そんな単純なことが、彼女達にはわかっていない。今共に訓練に励んでいる相手が、どれだけ掛け替えのない存在であるか、未だに気付いていないのだ。
 それが――ひどく、腹立たしい。
「仲間より優先していい事なんて、ない……!」
 あるとすれば。それは、勝利だけだ。否、勝利とは仲間の死に報いる、たった一つの手段だ。決して仲間を蔑ろにするわけではない。
 歯軋りの耳障りな音と共に、武の手の平には爪が食い込み、血の珠を浮かび上がらせていた。
 そんな武を見て、まりもは苦笑するように頬を緩める。
「成る程……榊が反目するわけですね」
「え?」
 目を丸くする武に、今度こそまりもは笑みを零した。
「気付かれていませんでしたか? 今日の午前の訓練の間中、榊はずっと少佐のことを睨んでいたんですよ」
「はあ……そりゃまた何で……?」
「先程少佐が仰ったじゃありませんか。少佐とあの娘達は同い年だ、って。自分達が訓練兵に甘んじているというのに、少佐という階級にまで上り詰めた同い年の存在が許せないのでしょう」
「……負けず嫌いですからね、い……榊は」
 委員長、と言い掛けたところで、慌てて修正する。
「非の打ち所のない相手となれば、尚更です。他の三人……特に珠瀬は、少佐に随分と憧れているようですから。ご存知でしたか、白銀少佐。嫉妬は尊敬の裏返しなんですよ?」
 悪戯っぽく微笑みながら言うまりも。
 褒め殺しとも取れるまりもの言葉に、武は顔が熱くなるのを感じた。所在なさげに視線を逸らし、頬を掻く。気恥ずかしさから逃れるように、武の脳は思考の向きを変える。
 ――この人のこんな顔、初めて見たかもな……。
 ……いや、初めてではない。かつて――十一年前。トライアルでの失態に消沈する武に、自らの失敗を話してくれた時と同じ笑顔だ。それは、今となっては朧気にしか思い出すことの出来ない、“神宮司先生”の優しい微笑みだった。
 目頭が熱くなる。この人には、どんなに感謝してもしきれない。
 ありがとうございます――声には出せないけれど、武はそっと胸の中で呟いた。


 その日の、夕食でのこと。
「たけるさんはやっぱりすごいですっ!」胸の前で拳を握り、頬を上気させて、壬姫は言った。「午前中は一目で私達の弱点を見抜いちゃうし、午後だって御剣さんも彩峰さんも勝てないなんて……!」
「まあ、一応教官だからな」
 先程から、こればっかりだ。「むう」と冥夜が武の向かいで腕を組んで唸る。
 午後は近接格闘訓練だった。模擬短刀を用いた、体術の訓練だ。そこで、冥夜と慧の相手を武が交互に務めることになったのだ。これには、二人の現時点での格闘能力を確かめるという目的以外に、武自身の力を確認するという意味があった。この世界にやって来てからというもの、シミュレーター以外では殆ど体を動かしていない。ほんの数日とはいえ、体が鈍っていないか、見ておきたかった。
 ――果たして、武は無敗という結果を収めた。
 とはいえ、
「けど、彩峰だって大したもんだぞ。危うく負けるところだったからな」
「でも勝てなかった……」
 あまり感情を表情に表すことのない慧が、悔しそうに言う。体術は自分のフィールドだという自信があったのだろう。
 武は冥夜と慧二人と、それぞれ十戦ほど行ったのだが、冥夜には全勝することが出来たものの、慧とは四戦を引き分けている。
 無敗であって、全勝ではない。そこには、大きな隔たりがあるのだ。
 ――本当なら、勝てなきゃいけなかったんだけどな……。
 前の世界の彼女達から授けられた力。自らの無力を痛感し、仲間達に教えを請うた。その結果として、今の武がある。にもかかわらず、彼女達の過去を凌駕することが出来ていない。そのことが、武にとってはたまらなく悔しかった。
「当たり前だ。教官が訓練兵にそう簡単に負けてたまるか――と、言いたいところだけど、純粋な技術だけだと、オレより彩峰の方が上かもな」
「……本当?」
 ほんの僅か――注意しなければ気付けないほどに僅かに頬を染めながら訊ねてくる慧に、「ああ」と武は頷いた。
 それは冥夜についても言える。
 冥夜の本分は剣術だし、慧とだって体力の差というものがある。もしも剣術で勝負していれば、技術で劣る武には冥夜に勝つことは出来ないだろうし、筋力や体重といった要素が等しければ、慧に勝てたかは怪しいところだ。慧から挙げた勝ち星の大半も、体力の差を利用した強引な攻撃のお陰だ。武が体術で慧を上回っているなどとは、間違っても評せまい。
 ――尤も、それは生身での話。たとえ彼女達が今後どんなに研鑽を積んだとしても、戦術機で負けてやるつもりは、武にはなかったが。
「自分自身だけではなく、相手の力も認める……流石は白銀少佐――タケルだ。榊、そなたもそう思わぬか?」
「…………」
「どうした、委員長?」
「――ッ!? な、何でもありません、白銀少佐!」
 何やら考え事をしていたのか、冥夜と武の呼び掛けに気付いた千鶴は、慌てて答える。ただし、その視線はずっと武へと向いていたし、決して心ここにあらずといった状態であったわけではなかった。
 そのことに気付かないふりをしながら、武は笑みを浮かべた。
「委員長、また“白銀少佐”になってるぞ……と、冥夜もだったな」
「む……すまぬ」冥夜は眉間に皺を寄せる。「タケルの人となりは既に理解したが、上官を呼び捨てにするのにはやはりまだ慣れぬのだ。許すがよい」
「まあ、そう深刻に考えなくていいよ。言ったろ? 少しずつ慣れてくれればいいって」
 微笑を浮かべ、「うん」と頷く冥夜。それとは対照的に、千鶴は未だに額に皺を寄せ、難しそうな顔をしている。やがて、意を決したように口を開く。
「――白銀少佐。やはり、私達訓練兵が少佐を呼び捨てにするのには問題があります。このままでは正規兵の方々にも示しが付きません。このようなことはすぐに――」
「榊」
 千鶴の言葉を遮り、武は軍人として千鶴の名を呼んだ。こう呼ばれると、千鶴はすぐに黙ってしまう。上官には逆らえない、というわけだ。
 ――まったく、委員長らしいよ……。
 良くも悪くも、頑固で融通が利かない堅物。
 案の定と言うべきか、訓練中以外にも何度も武を“白銀少佐”あるいは“白銀教官”と呼び、これまでにも数度このような提案をした千鶴である。
 そろそろ、しっかりと言って聞かせる必要がある。
「あのな。別に軍規を乱せ、なんて言ってるわけじゃない。軍規を守ることは当然だ」
「なら――」
「けど、それとこれとは話が別だ。けじめさえ付けてくれれば、それでいい。……オレはこれでも、お前らとは、一個人として向き合ってるつもりなんだけどな」
「…………」
 四人は一様に沈黙する。
 彼女達にとって、武の言葉が嬉しくないはずがない。
 多くの現役の衛士にとって、訓練兵は取るに足らない存在だ。彼らもかつては訓練兵であったにもかかわらず、だ――否、彼らもかつては訓練兵であり、厳しい日々を乗り越えてきたからこそ、未だに訓練課程を修了していないヒヨッコを対等に扱うことなど、出来ようはずもない。
 無論、階級の差も大いに関係しているのだが。
 にもかかわらず、武が――現役の少佐が彼女達を対等の人間として見ている。言葉にこそしないが、四人が少なからず喜んでいるのは明らかだった。
「お前らが嫌だって言うんなら、これ以上無理にオレの考えを押し付けるつもりはない。……でも、これだけは覚えておいて欲しいんだ。お前らは、訓練兵だとか教官だとか抜きに、オレにとって、大切な存在なんだってことを――」
 そう言うと、武はトレイを持って立ち上がった。いつの間にか、器はどれも空になっていた。
 踵を返し、食器類を返却してPXを後にする。その背中を、千鶴達がじっと見つめていた。


「はあ……」
 夕食後に夕呼や霞、まりもと共にβ版XM3のデータ取りを終えた武は、シャワーで汗を流すと、ベッドの上に大の字になって身を投げ出した。ぎしり、と安物のベッドが軋む。
「はぁ……」
 もう一度、溜息。
 その原因は、データ取りによる疲労ではなかった。シミュレーターに高々一時間程度搭乗した程度で音を上げるほど、武は柔ではない。そも、実機に搭乗して二時間三時間と実戦機動を繰り返すことさえ、前の世界の武にとっては日常茶飯事だったのだ。シミュレーターに一時間乗るくらい、何でもない。
 溜息の原因は、偏に心労だった。誰が悪いのでもない、武の個人的な悩み。
 武の頭を悩ませているのは、207B分隊との関係だった。
 思えば、前の世界でも、彼女達と打ち解けるのは易しくはなかった。最初の世界では、武の弱さや情けなさが、彼女達との間にある壁を取り払ういい切っ掛けになっていたのだが、前の世界や今回は、それがない。
 ましてや、今回は階級自体に大きな隔たりがある。前の世界とは違い、元々対等な関係でさえないのだった。
 先日、プライベートでは敬語が不要だと言っておいたために、表面上はほぼ対等な関係を築けているように見える。だが、やはりそれは表面上の関係でしかない。……いや、それさえも武の勘違いであったことが、今日の夕食で浮き彫りになったのだった。
 前の世界で多くの衛士と関わり合いになったためもあるのだろう、本当の意味で信頼関係が築けているか否かということに、武は敏感だった。
 武自身は決して人見知りするというようなことはないが、そういった関係を構築出来たのは、伊隅戦乙女隊(ヴァルキリーズ)の仲間達を除けば、百人にも満たなかったように思える。十年間で百人足らずだから、それは少ないと言わざるを得ないだろう。ただし、裏を返せば、それだけ武の知人の増減が少ない――即ち、部隊の損耗度が低かったということでもあるのだが。
「……そういえば、アイツらもいるはずなんだよな……」
 不意に思い浮かんだのは、前の世界での部下達の顔だった。
 岡野由貴、樋口一菜、ティアナ・リーベルト。武が最も信頼を置いていた三人の部下は、いずれも、横浜基地が帝国軍に接収される以前――国連軍時代からの付き合いだった。彼女達もこの基地に所属しているのだろうか。
 いや、樋口は三つ年下だったから、まだ訓練兵にもなっていないのか――かつての部下が、まだ一般民衆であるという事実に気付いて、武は頬を緩めた。が、その表情はすぐにまた硬くなってしまう。
 前の世界での部下達とは、階級の差を超えた信頼関係を築くことが出来ていた……ように思う。にもかかわらず、掛け替えのない仲間達との間では、それが出来ていない。
 まだ出会って数日だし、今いる彼女達は武の知る彼女ではないということもわかっている。それでも、こんなどこかぎくしゃくした、フィルター越しの関係を続けていける自信は、武にはなかった。
 ――オレってこんなに弱かったんだな……。
 自分が強いなどと自惚れたことは、前の世界で最悪の醜態を晒したあの日以来、一度もない。
 戦術機をうまく乗りこなすことがイコール強いではないのだということを、武は身を以て知っていた。
 さりとて、まさかこれほどとは武も思っていなかった。改めて自分の弱さを、他でもない自分自身と掛け替えのない仲間達から突き付けられたように思えて、気が滅入ってくる。
「どうするかな……」
 電灯の光を遮るように手で顔を覆いながら、武は呟いた。
 これまでの世界のように、美琴を利用することも考えた。が、美琴が隊に復帰し次第総戦技演習を行うと既に明言してしまっている。たったの二、三日で関係が劇的に改善されるとは思えないし、悠長にそれまで待っているわけにもいかない。それに何より、訓練兵にセクハラ紛い――正しくセクハラその物なのだが――の行為をしでかす少佐と思われてしまっては、関係改善どころではなくなってしまう。
 総戦技演習まで、残り約一週間……その間に、何らかの対処をなさねばならない。
 目下最大の障害は、委員長こと榊千鶴。元の世界からの付き合いでわかりきっていたことではあるが、彼女は筋金入りの負けず嫌いなのだ。
『榊が反目するわけですね』
 脳裏に蘇るまりもの言葉。
 午後の訓練や夕食中にそれとなく観察してみたのだが、確かに千鶴は随分と武に敵愾心を燃やしているようだった。
 武としては、こうも明け透けな感情の表れに、今まで気付けなかった自分自身に驚きを禁じ得ないところだ。前の世界では、敵意には敏感であったはずなのに。どうやら、自分が思っている以上に、このぬるま湯のような環境に毒されてしまっていたらしい。別に、穏やかな時間が悪いわけではない。むしろそれは、歓迎すべき物だ――白銀武という存在が、人類の命運の一端を担う場所に立っていないのであれば。
 武はかぶりを振って、その思考を追い出した。今の問題は207B分隊だ。
 たとえ階級が違っていたとしても、同年代の人間に大きく後れを取っていることが許せないらしい。いや、それを言うのであれば、そもそも同年代の人間に、佐官と訓練兵という絶対的な差を付けられていることそれ自体が、彼女にとっては受け入れがたいことであるに違いなかった。
 前の世界でだって武の方が実力は上だったし、階級も上になることもあったが、それはお互いに打ち解けた後での話だ。同じ訓練兵という立場からのスタートと、あまり開きすぎていない実力差も良かったのかもしれない。
 そのことを、すっかり失念していたのだ、武は。

 そして、問題は千鶴一人ではなかった。
 衛士や訓練兵というものは、当然ながら207B分隊の少女達も含め――周囲との和を重視する壬姫でさえ――少なからず負けず嫌いなものなのだ。それは衛士にとって、戦場で自らを奮い立たせるために、重要な要素でもある。
 大なり小なり、武に敵愾心を抱いたとしても、それは仕方のないことだろう。
 それは決して悪いことではない。武に対する敵愾心は、彼女達の飽くなき向上心へと繋がるだろう。それは即ち、彼女達が強くなるということだ。強いから生き延びると一概に言うことは出来ないが、それでも、強いことに越したことはない。少なくともそちらの方が、生き延びる可能性は高いのだから。
 彼女達との関係と、彼女達の実力……その二つを天秤に掛けることは、武には出来なかった。秤がどちらに傾いても、武は片一方を手放すことなど出来ないのだから。
 だが、それだけではない。千鶴も含め、207B分隊の彼女達が武に向けている感情は、一つには敵愾心……そしてもう一つは、憧憬だった。
 理由はわざわざ問うまでもない。少佐という地位にあるだけで、尊敬を集めるには十分すぎる。事実、前の世界でも、白銀武少佐の名はそれなりに売れていたし、多くの部下や戦友から羨望の眼差しを向けられたものだ。それが同年齢だというのであれば、尚更だろう。そして、武はこれまでに、その地位に見合うだけのことをやって来ていた。
 ――だが、それは武の望むものものではない。
 憧憬と理解は、最も懸け離れた感情だ。憧憬は見る者の目を曇らせ、実像を見ることを不可能にしてしまう。自分の望む相手の姿……虚像だけがそこにあれば、それで十分なのだから。
「……特にたまは問題だよな……」
 ぽつりと呟く。
 はっきり言って、壬姫は重症だ。そのことが、今日の午後の訓練と夕食ではっきりとわかった。『たけるさんはやっぱりすごいです』という台詞を、今日だけで何度聞いたことだろう。夕食の席での回数を指折り数え、その不毛さにすぐさじを投げた。
 一度目の世界から、その兆候はあった。
 彼女は、他者の力を素直に認めてやることが出来る――否、認めすぎる。
 誰かが訓練で優れた成績を残したり、実戦で大きな成果を上げれば、諸手をあげてそれを喜ぶのが壬姫だ。それは精密狙撃の腕と並んで彼女の美点でもあったし、上がり性と並んで彼女の弱点でもあった。
 きっと今頃、武のことを純粋に尊敬していることだろう。
 それ自体は嬉しくないことはない。武にしてみれば、珠瀬壬姫という女性は尊敬に値する相手でもあったので、面映ゆいくらいだ。
 しかし、壬姫にはもっと闘志を燃やしてもらわなくてはならない。
 いつか、彼女の狙撃の腕が必要になる時が来るだろう。その時までに、彼女の力を本当の意味で引き出してやる必要がある。
 そのためには、まず自信を付けさせることだ。自信が付けば、もっと上を目指したいと思い、苦しいときに誰かに頼るのではなく、自分の力で解決しようと思えるようになる。
 ――そしていつかは、武を超えたいとも思うようになるだろう。武とてそう易々と超えられてやるつもりなどないが、それくらいの気概を見せてくれるようになれば、恐らく壬姫はメキメキと力を付け……やがては世界一の狙撃手の名を恣にすることさえ出来るようになるに違いない。
 事実、前の世界の壬姫は、世界一の狙撃手と言われていた。
 前の世界の壬姫に出来たことが、この世界の壬姫に出来ないはずがない。ましてや、今回は武が彼女達の教官を務めるのだ。それが出来なければ、武がわざわざ彼女達の教官に立候補した意味がない。
 ――冥夜と彩峰……それから美琴は大丈夫……だよな。
 冥夜は自己の目的意識がはっきりしているし、分隊の誰よりも向上心が強い。負けず嫌いであることには違いないが、自分より強い者、目上の者に対しては単純な憧れとは違う礼節を見せてくれる。彼女については、最初から心配はしていなかった。
 慧は千鶴に負けず劣らずの負けず嫌いではあるが、相当なマイペース。武に不要な敵意を向けるようなことはない。内心では炎を燃やしても、それを抑え付けることが出来るのが慧だ。
 この世界の美琴とはまだ面識がないが、彼女は慧以上のマイペース。しかし向上心は保ち続けているだろうし、彼女は壬姫以上に誰かと好意的に接することの出来る性格の持ち主だ。
 冥夜や慧とはこれまで通りに、美琴とは前の世界と同じように接すれば、問題はないだろう。まだ少々ぎこちないが、彼女達とは時間が解決してくれるに違いない。
 だから、今は千鶴や壬姫をどうにかすることから。まりもにでも相談してみた方がいいかもしれない。

 意外なところに潜んでいた厄介事の種に、武は頭を抱えるように寝返りを打つのだった。



[2785] Muv-Luv ALTERNATIVE -Second World Was Failed- 第04話
Name: Vollmond◆d2a8c8a6 ID:d7498c84
Date: 2011/11/15 03:06
 2001年10月29日(月)


 御剣冥夜は、日が沈んで暗くなったグラウンドを、一人走っていた。日課の自主訓練だ。
 この基地に来た当初は、それまで自主的に鍛錬を重ねてきたはずの彼女でさえ、毎日の訓練だけで全身が悲鳴を上げていたものだった。だが、今ではこうして毎日、規定の訓練以外に自主訓練を積んでも何ら支障がない程度の体力が身に付いている。
 それというのも、明確な目的意識を持って、たゆまぬ努力を続けた成果だった。無論、良い仲間達に恵まれたことと、良い教官に師事していることも無関係ではない。
 しかし、かつては同期であった五人の少女達――207A分隊は、半年前に総合戦闘技術評価演習を乗り越え、既に任官を果たしたであろうことを考えると、喜んでばかりもいられない。今の自分の体力は、戦術機を駆りBETAと戦い国を護る衛士にとっては、当然のものだと、冥夜は考えていた。
 ――いかぬな……。
 走りながら、冥夜はかぶりを振った。意識が散漫になっている。
 剣術や体術、射撃のような研ぎ澄まされた集中力を要する技能の訓練とは違い、ある意味で単純作業とも言えるランニングは訓練以外の部分へと思考が傾いてしまう。ただし、同じランニングでも神宮司軍曹にしごかれている時などは、何一つ考える余裕を失ってしまうのだが。
 総戦技演習での失敗へと思考が及んだのは、先日の夕食で、白銀武少佐からその予定を繰り上げるという話があったからだろうか。あるいは、単に前回の失敗から半年……二度目の総戦技演習が近付いてきているという事実を、知らず知らずの内に強く意識してしまっているからかもしれない。
 ――白銀武少佐、か……。
 息を弾ませながら、冥夜は脳裏に一人の男の姿を思い描いた。
 不思議な御仁……というのが、冥夜の率直な感想だった。
 香月夕呼副司令の直属。冥夜と同年齢にして少佐。その二つの事実だけで、彼の特異性は十二分に説明出来る。
 だが、彼の人間性は、白銀武という人物の特異性をさらに際立たせていた。
 夕呼から名簿を受け取っているとはいえ、初対面でありながら、武は冥夜達を名前で呼んだのだ。それだけではない。まるで旧知の仲ででもあるかのような、砕けた態度で接してきたのだった。少佐と訓練兵という、天と地ほどの階級の差などまるでないかのように。そして、冥夜の抱えるもう一つの事情など知らぬとばかりに。さもそれが当然のように、自分達207B分隊の中へと入り込んできた。
 冥夜にとっては、初めて見るタイプの男だった。少なくとも、冥夜の見聞き知るどの軍人とも違う。はっきり言ってしまえば、あまりにも軍人らしくない。
 初対面の相手をいきなり名前で呼んだり、あだ名を付けたり、あまつさえ自分の呼び名を指定する者など、軍人でなくとも初めてだ。
 しかし、その鍛え上げられた肉体と、時折見せる物憂げな顔や鋭い眼光、そしてその知識や技術は、やはり歴戦の勇士のそれだった。――自分達と同年齢でありながら少佐という地位に就いているという、異常の極みにさえ、思わず納得しかけてしまうほどに。
 たとえば、先日の射撃訓練。冥夜達207B分隊の四人が訓練に慣れて射撃場に馴れた撃ち方が体に染み付いてしまっていることを、ほんの数分間見ただけで指摘してみせた。あの神宮司教官でさえ気付いていなかったにもかかわらず、だ。
 きっと、あれが目指すべき高みなのだろう――漠然と、冥夜はそう思った。
 少佐になるまでには、想像を絶する程の苦難を乗り越えてきたに違いない。いや、武がこれまでに歩んできた道について想像を巡らせることすら、しがない訓練兵である冥夜には許されないのかもしれない。
 それでも尚前を向き、戦い続けようとしている。人類の勝利を願い、信じ、目指し、さらなる高みへと歩んでいく――それこそがきっと、人類の守護者たる衛士の辿り着くべき遥か高みであり……あの男の在り方なのだろう。
 身近に最高の目標が得られたことが、冥夜には素直に嬉しかった。

 同時に、個人的にあの男に対する興味もある。
 こうも容易く冥夜の内側へと入り込んできた人間は、今まで誰一人としていなかった。家族や、血の繋がった……もう家族ではない人でさえ、冥夜には、どこか薄膜一枚隔てたようなところにいるように思われた。
 207B分隊の仲間達も同様だ。追及はしてこないが、彼女達は、冥夜の出自について勘付いているだろう。正解に辿り着いているとは思わないが、当たらずとも遠からじといったところか。
 彼女達は、未だに冥夜に深く踏み込んでこようとはしない。尤も、それを言うならば、冥夜もまた彼女達に踏み込もうとしていないのだが。
 副司令直属の特務兵だというからには、武もまた、冥夜の背負う背景――いや、冥夜に限らず、207B分隊全員の背景について知っているに違いない。
 にもかかわらず、あの男は、驚くほど自然体で冥夜達に接してくるのだった。初対面でありながら、207B分隊の仲間達の誰よりも冥夜に親しげな態度で。
 彼が来てまだ僅か一週間だが、その一週間の間に、仲間達の自分への接し方が少しずつ砕けてきているのを、冥夜は感じていた。彼女達が半年以上掛けて縮める事の出来なかった距離を、たったの二日で飛び越えてしまったのだ、白銀武という男は。それも、207B分隊全体を巻き込んで。
 勿論、そのことに抵抗がないわけではない。
 仲間達と距離が縮まるのはいいことだが、武のそれは、些か近すぎる。こちらは訓練兵であるのに対し、向こうは少佐だ。プライベートでは呼び捨てにしろと言われたり敬語を使うなと言われたり。冥夜が戸惑うのも当然である。
 かと思えば、訓練中は上下関係を徹底するのが、白銀武という男だった。
 ……まるで、衛士としての白銀武と個人としての白銀武、二人の人物が一つの体の中に同居しているかのよう。
 どこかちぐはぐな人間だと思う。
 だが、少なくとも彼が信頼出来る人物であり、同時に好ましい人格であることは、この一週間でわかっていた。
 冥夜もまた、武を呼び捨てにすることに慣れ始めていたし、対等に接せられることにも慣れてきた。今もまだ抵抗はあるが、最初に比べれば、ずっと小さい。白銀武という人物の人となりを把握出来てきたからだろう。
 馴れ馴れしいとも思うが、彼にはそれを不快に感じさせない、不思議な魅力があるのだ。
 あれをカリスマというのだろうか――そう考える冥夜の脳裏には、もう一人の類い希なカリスマの持ち主の姿が過ぎっていた。
「ッ……!」
 ――その姿を、慌てて振り払う。
 気付けば、日課として定めている距離を大幅に超えて走っていた。走るペースをゆっくりと落とし、そのまま歩き始める。
 不意に、視界の端に人影が映った。そちらに視線をやると、
「――よう、冥夜。自主訓練か?」
 とくん、と自分の心臓が一つ強く鳴ったのを、冥夜は感じた。それが何故なのかはわからなかったが、きっと、丁度考えていた相手が、突然目の前に現れたからだろう――と結論付けた。


「精が出るな」
 武は言った。武の前で立ち止まった冥夜は僅かに肩を上下させながら頷き、
「はい。私は一刻も早く衛士となり、そして戦場に立ちたいのです」
 ああ――武は目を細めた。
 この会話をするのも、もう三度目だった。ほんの少しだけ、記憶の中の過去とは違う言葉。
 今は敬語なんて使わなくていい、と前置きしてから、
「何でそう思うんだ?」
「まだ私が実戦を経験していないからかもしれぬが……」武の要求通り言葉遣いを改める冥夜。「そなたが仲間のために戦うと言っていたように、月並みだが……私にも護りたいものがあるのだ」
 知っている。彼女の決意を、誓いを、願いを、想いを。武は、知っている。痛いほどに。悲しいほどに。辛いほどに。苦しいほどに。
「……そうか。それは何か……と聞いてもいいか?」
 自然と、問いが口を突いて出た。いつか訊ねたこと。答えを知っていても尚、訊かずにはいられなかった。
「……この星……この国……そして日本という国だ」
 冥夜は、はっきりとそう答えた。誇らしげに――いつか、この日本という国を護る力となれるであろうことを、心の底から嬉しく思っている様子で。
 それを甘っちょろい理想だと切り捨てるのは簡単だった。冥夜自身が言ったように、冥夜の護りたいもの、その願いは、実戦を――あの地獄を知らないからこそ、口に出来る大言壮語だ。良くも悪くも現実を知らない、訓練兵の理想。
 ――彼女を知らぬ者ならば、そう断じたかもしれない。
 しかし、武の記憶が正しければ、彼女は最期の瞬間まで、その理想を、願いを、誓いを、胸に秘め続けていたように思う。
 御剣冥夜とはそういう人間だ。
 きっと、今ここにいる冥夜も、その想いを抱き続けるに違いない。
 そんな彼女だからこそ、武は彼女と共に戦いたいと思い――そして、戦い続けたのだから。
「そうか……冥夜らしいな」
 万感の想いを込めて呟く。
 まるで眩しい物を見るように――事実、今の武には冥夜が眩しく見えた――武は目を細めた。
 彼女はいつだって、武にとって眩しい存在だった。彼女だけではない。『この世界』に生き、大切な何かを護るために命を懸けている人達は、いつだって美しく武の目には映った。目先の利益に対する執着も、歪んだ利己心も、他者への妬み嫉みもなく。ただ、本当に大切な人達のために命を懸けられるその姿を。この世界の生まれではなく、されどこの世界で生きることとなった武は、心から美しいと――。

「タケル、そなたは以前、衛士の戦う最たる理由は仲間のためだと申したが、他にはないのか?」
 半ば興味本位での質問なのだろう、冥夜の瞳には好奇心が宿っている。
「あるよ」
「聞いてもよいか?」
 勿論だ、と頷いて。
「――オレは、この世界を護りたい」
 心の底から、一点の曇りもない決意を宿して、武は答えた。
 勿論、冥夜に対抗したわけではない。それを言うと、「誰もそんなことは言っておらん」と冥夜は呆れたように言った。
「この世界は、オレの仲間達の護りたかった世界なんだ。オレの仲間と、その大切な人達の暮らしていた世界なんだ。みんなの護りたかった人達を……みんなの護りたかった世界を、オレは、護りたい。アイツらの想いを、無駄にしたくないんだ」
 その想いを背負う事しか、オレには出来ないから――その言葉を、すんでの所で呑み込んだ。
 ――『あの世界』は、もうない。
 彼女達の護りたかった世界は、護りたかった人達は、既に滅んでしまっただろう。いや、もしかしたら、何らかの奇蹟でも起きて、人類はBETAに勝利することが出来たかもしれない。
 ……それでも、彼女達の想いを背負い戦うことの出来る者は、あの世界には、もう――いない。
 それが、オルタネイティヴ計画第1戦術戦闘攻撃部隊――オルタネイティヴ計画のためだけに存在する特務部隊であるA-01の宿命だ。オルタネイティヴ4の終了と5への移行が決定され、夕呼が失脚した後も、特務部隊という性質は変わらなかった。存在は秘匿され、過酷な任務に投入され、集団自殺のような損耗率の中、戦場を駆け続けた。
 だから、誰もその想いを受け継いでくれる者はいない。
 A-01第9戦術機甲中隊――伊隅戦乙女隊(ヴァルキリーズ)の部隊長でもあった伊隅みちるには、三人の姉妹がいるという話を聞いたが、彼女達の下に届いたのは、訓練中の事故により死亡したというだけの、素っ気ない死亡通知だけだ。
 A-01が部隊の形を保てなくなった後、数度にわたって戦線を共にするなど、公私で繋がりを持っていた伊隅あきらや伊隅まりかからは、そう聞かされていた。――いかに血の繋がった妹といえど、そんなもので想いを受け継ぐ事など出来るはずがない。
 冥夜も同様だ。彼女の姉は、冥夜の意志を背負うことは出来るかもしれない。けれど、その想いを背負って歩むことは許されない。彼女に、一人の人間を背負うことなど、許されてはいない。
 ――だから、武が背負うのだ。
 彼女達の無念を。想いを。覚悟を。願いを。
 それが、彼女達を語り継ぐことの許されない武に出来る、たった一つの衛士としての弔いだから。
 ――そして、この世界から、BETAというイキモノを完全に滅ぼしてやる――――。
 はっきりと口に出したことはない――けれど、白銀武にとって、決して変わることのない、譲れない誓いだった。
「流石は白銀少佐……感服しました」
「そんなんじゃない……」
 立派なんかじゃない――いつの間にか戻っている冥夜の言葉遣いを指摘することも出来ぬまま、武は口の中で言葉を転がす。
 ――オレは、仲間がいなきゃ立ち上がることだって出来やしないんだ……。
「それしか知らないからな、オレは」
 白銀武には何もない。衛士として戦い続ける以外に、白銀武という人間に価値などない。家族も友もいない武がこの世界で生きていけるのは、衛士としてのみ。
 この世界で他に何も持たないからこそ武は、他の誰より、仲間という存在を大切に思う。
 何も持たない武だからこそ、仲間から、抱えきれない程の多くの物を受け取ってきた。
「オレがこの世界で出来るのは、仲間のために戦うことと、仲間の大切な物を護ることだけだ」
 ――だからオレは、この世界を護りたい。
 どんな犠牲を払っても。どんな重圧に潰されても。どんな罪咎に責められても。全てを背負い、大切な人達を護り抜く……。
 衛士ならば誰もが持っているであろう、誓い。――そして武のそれは、ひどく重く、固い。
「……昔、仲間に言われた言葉があるんだ。目的があれば、人は努力できる――って」
「ほう……? 簡潔で良い言葉だ……目的があれば、人は努力出来る……か、私も倣わせてもらおう」
 元々は冥夜の言葉だけどな、と言い掛けて、武はそれを呑み込んだ。『前の世界』では、それで冥夜に疑惑の眼差しを向けられたことを、寸前になって思い出したのだ。
「それより、もう上がるのか?」
「ああ。ところでそなたは何をしに来たのだ?」
「ちょっと走ろうかと思ってさ」
 この世界に来てこちら、自主鍛錬をしている時間は全くと言っていいほどなかった。XM3のデータ取りなどがあるから戦術機操縦の勘が鈍るということはないが、生身での訓練もある程度こなしておかないと、体は鈍る。体が鈍るということは即ち、戦術機に搭乗していられる――冷静な判断力を保ったまま実戦機動を続けられる――時間が減少するということだ。
「そうか……明日は時間が合うといいな」
 冥夜は言った。彼女は勿論のこと、武もまた明日も走ることになっているのだろうか。
 前の世界ではよく一緒に走ったっけ――と武は懐かしい記憶を呼び起こす。
「ああそうだな……じゃあお疲れ」
「うん、またな……」
 冥夜の後ろ姿を見送って、武は一つ息を吐いた。
 目的があれば、人は努力出来る――その言葉を胸に、武は努力を続けてきたつもりだ。だが、その努力が報われる事はなかった……報わせる事が出来なかった。
 ――今度こそ何としてでも報わせてみせる。
 あの頃とは違う。無力で何も出来ないガキだったあの頃とは。今の自分には、力がある。
 それでも、武は今でも思う。
 強くなりたい――と。


 2001年10月31日(火)


 武は衛士用の強化装備に着替えて、ハンガーへとやって来ていた。
「やっと来たわね」
 武を見付けるなり、挨拶もなしに夕呼が悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。
 そこには一機、新品の不知火が運び込まれている。もう一機不知火が運び込まれているが、こちらはまりものための機体で、中古品だった。勿論、一日も整備すれば、翌日には使えるであろうほどに状態はいい。
「よく新品の不知火なんて引っ張ってこれましたね……」
「まあね」
 得意気な夕呼に、流石先生だ、と思いつつ武は不知火を見やった。
 タイプ94不知火。日本帝国初の純国産戦術機であり、武にとっては前の世界でも長く慣れ親しんだ第三世代戦術機だ。
 わざわざ新品を搬入したのは、武のために出来るだけ状態のいい機体を手に入れたかったのか、あるいはシートの保護ビニールを破るためか……あるいは両方かもしれない。
 武としては、新品の戦術機はレバーが固かったりして扱いにくかったりもするのだが、状態のいい機体が手に入るというのはありがたい。前の搭乗者のデータが残っていないというメリットもある。武の場合、起動概念からして異なるので、そのメリットは思いの外大きいのだ。
 前の世界では新造の吹雪の搬入に一月掛かると言われて妥協したのだったか。
 これほど状態のいい機体を用意してくれたというのは、武に対する信頼と期待の表れだろうか。少なくとも、衛士としての武に夕呼が強い期待を寄せていることは確かだった。
 夕呼先生に認めてもらえたってことか――その喜びを噛み締めながら再び新しい相棒を見上げ、
「……あれ……?」
 ――ふと、武は違和感に気が付いた。
 見慣れたはずの不知火の機体だと思っていたはずのそれはしかし、武の知る不知火とは明らかに異なっているのだ。
 たとえば肩部装甲ブロック。本来、不知火には存在しないはずのスラスターノズルが追加されている。正面からは見づらいが、腰部にも新たなスラスターモジュールが組み込まれていた。よく見れば頭部レーダーユニットにも見慣れないパーツが組み込まれているし、脚部も通常のそれに比べてやや長いように思える。
 ――これは不知火じゃない。
 一瞬の違和感から生じた疑念は確信へと変わり、この戦術機に対する強い興味へと変わっていく。
「気付いた?」
 悪戯の成功した子供みたいな笑みで夕呼。武は頷き、
「あれ……普通の不知火じゃないですよね?」
 先程の夕呼の笑顔の理由はこれだったのだ。にやりと夕呼は唇の端を吊り上げ、
「そうよ。XFJ-01不知火・弐型。簡単に言えば不知火の強化型ね」
 初めて耳にする名前だった……と、思う。
 武の記憶が正しければ、不知火は困難な要求仕様を実現するため、発展性のための構造的余裕までもが極限まで削ぎ落とされていたはずだ。その強化は事実上不可能に近いと言われていた。
 そのことを夕呼に訊ねると、
「不知火・弐型は、不知火をフレーム強化して出力向上させた改良型である不知火・壱型丙をさらに発展させたものなの。壱型丙は大幅に主機出力を向上させた反動で稼動時間が低下してね。百機程度しか製造されなかったのよ。その壱型丙を、米国産パーツを利用することで改良、稼動時間の減少やピーキーな出力特性という欠点を補ったのが弐型ってワケ。その他にも色々と仕様変更してあるし、実質的には新型機みたいなものね。帝国はこれを次期主力機にするつもりらしいわ」
 型番のXFJというのは、日米共同戦術機開発計画の略称なのだという。
 武としては、帝国が米国との協調路線を取ったこと自体が意外だったが、無駄に拘るよりも、こうして、腹に一物抱えながらであっても、互いを利用し合ってくれていた方が何かと都合がいい。文句はなかった。
「一時期は電磁投射砲とセットでの運用試験も行われていたらしいわよ」
 そこでようやく、武は前の世界で聞いた、99式電磁投射砲を運用する部隊には、通常とは異なる仕様の不知火が配備されていたという話を思い出した。
 成る程あれが弐型だったのか――と、数年を経て完成された機体を目蓋の裏に描く。尤も、武の知るそれは壱型丙であったり、資金難のためにXFJ計画フェイズ1で運用されていた状態のままの機体であったりしたのだが。
「尤も、裏じゃ色々と各国の思惑があってね」夕呼は不機嫌そうに柳眉を寄せ、鼻を鳴らした。「仮仕様のまま実戦投入されたり、本来の仕様にはなかなか出来なかったそうよ……これも、搬入した時には、実質的には仮仕様のままだったわ。勿論、パーツ自体は手に入れられたから、整備班に頼んで換装してあるけど」
 連中随分と張り切ってたわよ、と夕呼は眉の確度を和らげた。
 つまりこれは、まだ実証実験機段階の機体とパーツを、オルタネイティヴ計画権限で接収したというわけだった。
 当然、そんな機体をそう簡単に手に入れられるはずがないから、何らかの交渉をしたのだろう。もしかしたら、開発途中のXM3を餌にしたのかもしれない。あるいは、単独ながらヴォールク・データでほぼ最下層まで到達した武の操作記録や機動データか。
 実戦証明主義の軍隊と交渉するのだから、前者はともかくとして後者はそれなりの価値があるはずだ。
 試作版XM3は現在、武やまりも、そしてA-01の使う一部のシミュレーターとA-01の機体にのみ搭載され、データを収集中だ。
 207小隊の慣熟なども考えると、出来る限り早い段階――207B分隊の総戦技演習までには完成させておきたい。
 当然、新しく搬入された不知火と不知火・弐型の換装作業はとうに済んでいる。発案者である武と、横浜基地では武に次ぐ実力を持つまりもの実機でのデータを取るためだ。
 ……あるいは、あちらも、武による弐型の搭乗データを欲しがっているのかもしれない。ヴォールク・データの結果を見れば、それを叩き出した衛士のデータを欲するのも当然だろう。それも、XM3という革新的OSのデータならば尚更だ。それ自体には悪い気はしない。
 ――が、武には一つだけ不安なことがあった。

「一応聞いておきますけど……これ、大丈夫なんですよね?」
 信頼性はどうか、と武は聞いているのだった。
 夕呼に限って役に立たない巨大な鉄くずを掴まされるようなことはないだろうが、一人の衛士として、そこは気になるところだ。
 武は、この世界に生きる多くの衛士のように、実戦証明主義に偏重してはいない。
 だがそれでも、文字通り自分の命を預けることとなる剣であり鎧である戦術機に関しては、ある程度の実戦証明がなければ、乗りたいとは思わない。実証実験機とは、新型機であるとも言えるが、同時に、未だにその有能性も安全性も実証されていないということでもある。それらは、理論値以外では証明されていないのだ。
 元の世界にあったアニメやゲームに登場する新兵器とはわけが違う。
 証明されていない危険が現実に起こった場合、失われる物は武の命だ。
 そんなものにそう易々と命を預けられるはずがなかった。武は自殺志願者などではない。未来では実戦投入されているといっても、それは現在の信頼性を証明してくれるわけではないのだ。
 しかし、夕呼は不敵に唇を吊り上げると、
「安心しなさい。言ったでしょう、仮仕様ではあるけれどBETAとの実戦も経験済みよ。元々が不知火の改修機だからね。不知火の実戦データと、帝国や米国、国連軍の技術を集めて作られたのがこの弐型なの。あんた達衛士の大好きな実戦証明主義にもちゃんと適ってるわよ。――ただし、換装した状態でのテストに関しては、少しばかり不足してるかもしれないけどね」
 どうやら、武の質問など予想通りだったらしい。本当にこの人はこっちの一枚も二枚も上を行くな……と武は思わず溜息を吐いた。
 そもそも、夕呼が武という優秀な駒をみすみす失うような下手を打つはずがないのだ。テストが不足しているという点は少々気懸かりではあるが、不知火をベースにしていることを考えれば、そう心配はいらないだろう。
 夕呼は説明を続ける。
「通常の不知火よりも機動力・出力共に大幅に向上してるわ。生産性や汎用性を無視した試作機で、機動力を重点的にいじってあるから、そんじょそこらの衛士じゃ扱いきれないでしょうけど……どう?」
 にやりと唇の端を吊り上げ、夕呼は目線で問うてくる。乗ってみる? と。
 武の返答は決まっていた。
 

 2001年11月1日(木)


「むー……」
 昼食を摂りにPXへと向かう途中、武は訓練校の廊下で一人唸っていた。
 武は特務的に207B分隊の教官を務めているため、この場所にいること自体は決して珍しいことではない。だが、基本的に基礎訓練では武の出番はないし、ましてや座学とあっては尚更だ。知識自体は豊富に持っていても、誰かに物を教えるのはあまり得意ではなかった。
 それに、今日の午前中、武はJIVESを利用してで不知火・弐型の慣熟訓練をしていたので、本来ここにいるべきではない。
 では、その武が何故こんなところにいるのかといえば。
「折角みんなでメシ食おうと思ってたのになー」
 単に207B分隊の面々を昼食に誘いに来たというわけだった。
 ただし、昼食の時間帯は殆ど決まっているし、座席だって自然と割り振られている状態だから、PXの彼女達の席で待っていれば、自然と鉢合わせることになるものだ。
 十年以上も軍人を続けていて、それがわからない武ではないのだが、今の武は、いてもたってもいられない状態だったのだ。
 昨日の夜から始めた、不知火・弐型の慣熟訓練。
 従来の不知火と比べ、大幅に向上した主機出力に加え、ジネラルエレクトロニクス製エンジンに換装された跳躍ユニット、肩部と腰部の追加スラスターなどによって、こと機動力や出力に関してのみ言えば、XM3を搭載した不知火・弐型はF-22Aラプターや武御雷にも匹敵するほどだ。
 いや、接近戦での機動力だけならばF-22Aは勿論、武御雷さえも凌駕するかもしれない……武にそう思わせるほどのポテンシャルを秘めた機体だった。
 その性能を見事余すことなく引き出すことに成功し、弐型のデータを用いたシミュレーターによる、単身でのヴォールク・データC難度で、殆ど満身創痍ながらも反応炉到達を果たしたのが――結局、反応炉ブロックでBETAの餌食となったのだが――つい先程のこと。
 それを達成出来たからと言って、手放しで喜べるわけではない。実戦とシミュレーションは違うのだ。
 実戦であれば、いかに武といえど単機では中階層到達さえ不可能だろう。たとえ、フルチューンの武御雷を駆っていたとしても。それだけ実戦とヴォールク・データの難度には開きがあるのだ。それでも、単機で反応炉到達を果たしたのは、快挙と言っていい。
 武が舞い上がるのも仕方のないことだった。
 未だに訓練兵である207B分隊の四人にそのことを話すことは出来ないが、喜びは誰かと分かち合いたいものである。
 ……それが、何故唸るほどに不機嫌で、一人こんなところにいるのかといえば。
「もう遅かったか……」
 とうに午前中の座学は終わり、彼女達は既にPXへと向かってしまっていたのだった。最初からおとなしくPXに行ってさえいれば、今頃は席を共にしていただろう。
 武は一つ溜息を吐いて、「結局、遠回りしただけだったか」と独り言ちた。
 一昨日のことがあるから、昼食を摂りながら親睦を深め直したかったのだが。
「くそっ……」先程までの歓喜から一転、不機嫌も露わな悪態が武の口を突いて出た。「もう時間がないってのに……」
 今日の日付は11月1日。武が設定した総戦技演習の日程まで、あと数日とない。それまでに彼女達に本当の意味でチームとなってもらわねば、合格はあり得ないだろう。
『一度目の世界』では、白銀武というお荷物がいたお陰で、各々がその穴をカバーしようと全力以上の力を発揮し、彼女達は無意識の内に団結出来ていた。
『二度目の世界』では、武が経験や実力を生かして彼女達を引っ張り、軸となって分隊を纏め上げたことで、一枚岩でないにしろ団結出来ていた。
 ――どちらも、白銀武という異分子が入り込んでいたお陰だ。
 良くも悪くも彼女達の抱える事情について無知であった武は、分隊の中にあった壁を飛び越え、限りなく自然体で彼女達と接することが出来ていた。それが、他の仲間達の間にあった壁を取り払うことにも繋がっていたのだ。
 しかし、今回の武は、外部の人間だ。
 彼女達の抱える事情に遠慮するつもりは一切無いが、これまでと同じようにはいかないことは、既にたっぷりと思い知らされた。
 どうしたもんかなあ――廊下を歩きながら、武は思案する。

 同時に、脳の片隅に引っ掛かっていることがあった。
「それにしても、11月1日……何かあったような気がするんだが……」
 そうなのだ。どうしても、何かを思い出せないのだ。
 11月1日と言えば、武にとっては、かなり大きなイベントがあった日のはずだ。
 しかし、何かあったことは思い出せるのだが、何があったのかは茫漠として思い出せない。何しろ、武にとっては十年以上も前のことだ。一週間後のBETA侵攻のような大事件についてならばはっきりと思い出せるのだが、生憎と武の記憶力は、全ての出来事を思い出せるほど出来が良くはないのだった。
 唸りながら、武は半ば無意識下で歩を進めていく。
 その所為で注意力が散漫になっていたのだろう、体が距離感と方向感覚に従って九十度の方向転換をした瞬間のことだった。
「きゃっ!」
 胸部への衝撃と共に、武はその悲鳴を聞いた。
「あ……申し訳ありません、お怪我はありませんか?」
「あ、ああ……こっち……こ、そ…………」
 武は硬直し、目をしばたたかせる。耳朶を打った悲鳴が、聞き覚えのある声だったためだ。
 そしてそこに立つ人物を見た途端、満面の喜色を浮かべた。
「来たッ! 来た――――!!!」
 思わず、年甲斐もなく歓喜の声をあげてしまう。
 ――そう、そうだよッ! 今日は美琴が退院してくる日だったじゃねえか!
 不知火・弐型とXM3のことばかりに気を取られて失念していたが、今日は11月1日、それは即ち美琴の退院日に他ならない。
「あ、ボク教官のところに行くんでした。失礼します」
 奇声を上げる武のことなどまるで気に留めずに駆け出す美琴。
「ち、ちょっと待て! 待ってくれ!」
「え? なに? どうしたんですか?」
 見ず知らずの相手に引き留められ、美琴は怪訝そうに眉根を寄せる――が、すぐにそれも屈託のない笑みへと変わり、
「ボク、怪我でちょっと下の病院に入院してて、今日退院してきたんです」
 懐かしい遣り取り。
 知ってるよ、と武は言うが、
「それでですね、ボクの所属してる部隊に、新しい教官が来たらしいから楽しみで。しかも、ボク達と同い年なのに、少佐だっていうんですよ!」
「それ、オレだ」
「あ! もしかして……あなたがその教官でありますか!?」
「だから今言っただろ?」
「失礼しました、教官!」
 敬礼する美琴は、相変わらずマイペースだった。なんとなく、同じような遣り取りを前の世界でもやったような気がする。
 少しは人の話を聞けよ……と武は頭痛を覚えずにはいられなかった。
 だが、これでこそ美琴だ。人の話をちゃんと聞く美琴など、美琴ではないと言っていいくらいだ。思わず武の頬は緩み、呆れたような溜息が零れ出る。
「……まあいい……一応自己紹介しておくか。オレは白銀武。お前達207B訓練分隊の教官もやらせてもらってる。教官をしている間は名目上軍曹ってことになってるが、面倒だから訓練中は教官って呼んでくれればいい」
「鎧衣美琴訓練兵であります!」敬礼し、「よろしくお願いします、白銀少佐!!」
「……そう畏まらなくていい」
 意外にも――と言っては失礼だろうが――美琴は驚くほどに礼儀正しく武の言葉に応えたのだった。先程の遣り取りや自身の記憶から、きっと失礼極まりない……あるいは最初からフレンドリーに接してくると考えていた武は、目を丸くしてしまう。
 他の誰と接する時以上に、美琴のこの態度には違和感を感じずにはいられない武だった。
「少佐?」
 不思議そうに問うてくる美琴に「何でもない」と武は答え、
「他の四人には前々から言ってあるが、軍務中以外……今みたいなプライベートな時間は、オレに対して堅苦しく接する必要はない。一個人として、対等に付き合っていこう」
 勿論軍務中はけじめを付けてもらうが、と念を押すことも忘れない。
 武の申し入れに、美琴は困ったように眉をハの字に歪めていたが、「わかり……ううん、わかったよ」と笑顔を浮かべて答えてくれた。
 こういったことに臨機応変に対応するのは、彼女の得意とするところだ。抵抗はあるだろうが、元々が人懐こく細かいことを気にしない性格であるため、他の四人よりもずっと早く受け入れてくれる可能性もある。
 実際、これまでの二度の世界では、美琴は一日や二日で武に打ち解けてくれた。尤も、他の四人とは異なり、美琴に関しては武の側が打ち解けられていなかったのだが。それも三度目ともなれば慣れるし、今となってはミコトは女であることが当然となっていた。
「それより、教官――神宮司軍曹のところに行くんだろ? 早く行ってこい。あまり待たせない方がいいからな。それに、急がないと、昼飯食いっぱぐれるぞ」
 退院したはいいものの、これまでの世界では様々なハプニング――その原因は武にあったのだが――のために、美琴が昼食を満足に摂ることが出来ずにいたことを思い出す。
 武がそう言ってやると、美琴は大きく目を見開き、
「あ、そうでした! 失礼します、白銀少佐!」
 再び敬礼する美琴に返礼しながら、
「タケルでいいよ――美琴」
「うんっ。じゃあね、タケル!」
 美琴は額にかざしていた手を下ろすと、武の脇を擦り抜けて駆けていく。
 その後ろ姿を眺めながら、武はぽつりと呟いた。
「……よろしくな、親友」
 もう二度と会うことのないであろう鎧衣尊人のことを思い出しながら、武は、心強い仲間の小さな背中を、じっと見つめていた。


「4日……ですか……? 失礼ながら少佐、それは些か性急ではないでしょうか」総戦技演習の日程を武の口から伝えられたまりもは、右眉を微かに下げた。「4日に総戦技演習を実施するのであれば、3日にはここを発つことになります。鎧衣が今日退院して訓練に合流したばかりであることを考慮しますと、最低でも一週間は猶予を持たせるべきかと愚考致します」
「――駄目だ。それでは遅すぎる」
「少佐……?」
 武は、ブリーフィングルームのテーブルに肘を突き、指を組み合わせた両手の上に顎を載せていた。視線を持ち上げ、顎を浮かすと、睨み付けるような鋭い視線でまりもを見つめる。
「軍曹の言う通り、鎧衣への負担は大きいかもしれない……だが、それくらいカバー出来ないようじゃ、衛士になんてなれっこない」
 そう言って、武は立ち上がった。
 武と向かい合って座っていたまりもは、武の顔を見上げ、複雑な胸中を表すように眉間に皺を寄せ、唇を引き結んでいた。
 彼女には武の言わんとしていることがわかっているのだろう。つい先日言ったばかりなのだから、それも当然か。
 軍靴が床を叩く。高い音を六つ打ち鳴らして、壁際のホワイトボードに手を置く武。
「……一種の荒療治だと思ってくれて構いません」白銀少佐ではなく、白銀武としての言葉。「自分が合格するためでもいい。仲間を支え、仲間の穴を全力でカバーすることを、理屈じゃなく経験として覚えてさえくれれば。――戦術機戦闘じゃ、二機連携や小隊がしっかりとした信頼関係で結ばれてなくちゃ話になりませんからね」そこで一度言葉を句切って武は振り返る。「それを覚えてもらうためにも……美琴には悪いですけど、お荷物になってもらいますよ」
 要するに、一度目の世界での武の役割を美琴にやらせようというのだ。彼女ならば、ムードメイカーとしても申し分ない。
 尤も、サバイバル技術に長けた美琴のことだ、目論見通り足を引っ張ってくれるかどうかは怪しいところだが。
 あるいは、復帰早々の演習ということで、彼女本来の能力が殆ど発揮出来ないかもしれない。そうなってくれれば、武としてはしめたものだ。仲間同士の連携を強化するのに、これ以上のシチュエーションはない。
 不合格になりかねないという懸念もあるものの、一度目の世界では、お荷物以外の何物でもない武がいて合格出来たのだ、今更お上の政治上の都合とやらに付き合ってやるつもりもないし、チームワークさえ改善出来れば、彼女達の実力ならば間違いなく合格出来るだろう。
「内容についても多少いじらせてもらうつもりだ」再び少佐として振る舞う。「そうだな……長くとも五日以内に終わるようにさせてもらうことになるだろうな。大まかな演習内容については既に決定済みだ。後程、軍曹にも確認してもらうだろうから、そのつもりでいてくれ」
「……了解」
 まりもの敬礼に返礼して、武は細く吐息した。まりもと向かい合うように、再び椅子に腰を下ろす。
 元のように肘を突き、組み合わせた手の上に顎を置いて、武はじっとまりもの顔を見つめた。

 沈黙。二人は見つめ合ったまま動かない。時折眼球が視線を逸らさぬ範囲で揺れ、目蓋が無意識の瞬きで上下し、呼吸に合わせて微かに唇と胸が震える程度。
 しかしそれは、決して重苦しくはなく、かといって心地良くもない、無音以外の意味を持たない無音。
 空気がそよとも動かぬ、数秒の静寂を経て、
「……我が儘だと、思いますか?」ぽつりと、武は囁くように言う。「オレがやってることは、ただの我が儘でしかないって……軍曹は、そう思いますか?」
 これまでのことは、全て良かれと思ってやってきた。そうすることで少しでも彼女達が強くなれると――本物の衛士に近付くことが出来ると、そう考えていた。
 ……だが、武が彼女達に求めているものは、訓練兵にはあまりにも酷なのかもしれない。
 彼女達にそんなつもりはないだろうが、彼女達には少なからず甘えがある。一度であれ本物の戦場に立った者であれば拭い去っているであろう甘え――今隣にいる者が死ぬことなど、夢にも思っていないに違いない。
 事実として人間の死を知っていても、現実としてそれを実感したことがない。
 それは仕方のないことだ。武とて、任官して初めてその現実を思い知らされたのだから。
 仲間の大切さ。ほんの少しの甘えが原因で、大切な人が死んでしまうという、あまりにも無慈悲なこの世の真実。こちらの事情も想いも、何もかもお構いなしに根刮ぎ奪い去っていく。それが戦争で――それが、BETAだ。
 彼女達には、そんな思いをして欲しくない……いや、もう二度と、大切な人を失いたくない。だから、彼女達には強くなってもらはなくてはならない。
 ……それは、なんて自分勝手で傲慢な理屈だろう。武は唇を斜めにして自嘲の笑みを散らす。
 いつから自分はこんな風になってしまったのだろう。成長するってのもいいことばかりじゃないな、と武は溜息を零す。
 そこへ、
「――私は、少佐のしてきたことが我が儘であったなどとは、決して思いません」慈しむような、どこまでも穏やかな、けれど確かな強さの込められた、まりもの声が投げ掛けられる。「少佐の厳しさは、優しさの裏返しではありませんか」
 あ……と武の喉が震えた。
 その笑顔は。まりもの浮かべる笑顔は、神宮司先生の……そして、前の世界で最後に見た、神宮司軍曹の笑顔その物だったから。
「少佐は、戦場の厳しさを知っているから、彼女達にそんな思いをさせないように彼女達に厳しく当たっておられるのではありませんか?」
 まりもは、聖母のような微笑を湛え、武を見つめていた。まるで、全てを見透かすみたいに。武の内心を、自分は理解しているのだとでも言うかのように。優しく、優しく……包み込むような空気を纏い、そっと武に微笑みかけてくる。
「どうして……そう思うんですか?」
「――私が、そうですから」
 震えを押し殺した声での武の問いに、まりもは短く、けれどはっきりと答えた。
 あ……と武の唇の隙間から声が漏れた。
 唐突に、記憶が鮮やかに蘇ってくる。
『ひとりでも多くの衛士を、一秒でも長生きさせるために、その経験を生かす……そうする事でしか私が部下に報いる方法はないのよ』
 あれは、そう……前の世界で、まりもと交わした最後の言葉。
 まりもが教えてくれた、彼女が軍曹として戦う理由。
 教え子達が一秒でも長く生き延びてくれることを願いながら、心を鬼にして……けれど誰よりも優しく、訓練兵を見守る……それが自分の戦いなのだと。多くの仲間を犠牲にし、そして皮肉にも夢を奪った戦争によって叶えられた夢――教師としての、彼女の誓い。
 それこそが、自分に出来る――自分にしか出来ない戦いなのだと。そう、彼女は教えてくれた。
 以前――前の世界で、まりもに関する逸話を、当時A-01の中隊長であった伊隅みちるから聞かされたことがある。
 戦術機の訓練中、みちるの同期の一人が、事故から命を落とすこととなった。
 だが、哀しみに暮れるみちるらに向かって、まりもはこう言ったのだという。『この程度で死ぬ奴は、どのみち戦場で生き残ることは出来ない。それどころか必ず味方に大損害を与える。――だから今日死んだ事が、奴が軍人として行った最大の貢献だ』と。
 その無慈悲かつ冷酷極まりない言葉によって、みちる達は、仲間の死を哀しむ以上に、まりもを憎悪した。だが、それこそがまりもの狙いだった。打ち拉がれる訓練兵を奮起させるために、まりもは敢えて彼女らの怒りを煽る発言をしたのだ。
 そしてその夜、頂点に達した仲間の怒りを抑えようと、そして自分の憂さを晴らそうと、みちるがまりもの部屋を訪れたとき……まりもは、泣いていたのだという。
 今更何を泣いているのか、そんな資格、軍曹にはない――そう腹を立てて殴りかかったみちるを、まりもは泣きながら殴り続けた。『そんな事で、貴様は生き延びる事が出来るのか』と、何度も何度も繰り返しながら。
 それ以来、みちる達はまりもを『狂犬』と呼んで恐れたのだそうだ。
 ……だがその後、初陣――死の八分を超えたその時、みちるはまりもの本当の想いに気付かされることとなったのだという。
 全ては、一分一秒でも長く生き延びて欲しいから。死の八分を超え、少しでも長く生き延びて欲しいから……たったそれだけのために、彼女は、永遠に報われぬかもしれない憎まれ役を買って出たのだと。
 それが教官の役目なのだと、彼女は知っていたから。
 自分が軍人となって初めて、サディストだと蔑んでいた自分の教官達の想いに気付けたから。
 そうすることでしか、かつての仲間達の死に報いることは出来ないと、理解していたから。
 だから、そのためならばどれだけ自分の心が傷を負っても構わない。それで、一人でも多くの訓練兵が生き延びることが出来るなら。
『臆病でも構わない。勇敢だと言われなくてもいい。それでも何十年も生き残って、ひとりでも多くの人を守って欲しい……。そして、最後の最後に……白銀の……人としての強さを見せてくれればそれでいいのよ』
 かつて、まりもが最後に授けてくれた言葉だった。教わりたいことはいくらでもあったはずなのに……それが、神宮司教官の最後の教えとなった。
 全ては、その言葉に集約されるのだ。
「あの娘達に憎まれようと恨まれようと疎まれようと、私は構いません」にっこりと笑ってまりも。「それであの娘達が少しでも長生きしてくれるのなら……それで、十分です」苦笑するように今度は眉をハの字に歪め、「これでも、あの娘達には愛情を持って接しているつもりなのですが」
 まりもの言葉に、武は破顔した。溢れ出しそうな涙を堪えながら。
「……大丈夫。ちゃんと伝わってますよ」
「そうでしょうか?」
「はい……オレが保証します」
 他の誰でもないオレが、あなたには本当に感謝してるんですから――吐息にその想いを乗せて、武はそっと目を瞑った。
 ――迷う必要なんてない。
 たとえ彼女達に強くなってもらいたい……長く生きてもらいたいというのが武のエゴであったとしても、それは紛れもなく彼女達のためでもあるのだから。
 そうだ、何を迷うことがある。
 誓ったではないか。自分自身に……そして、純夏に。今は物言わぬ脳髄だけになってしまった、大切な幼馴染み。彼女に、誓ったのだ。もう誰も死なせないと。大切な人達を護り抜いてみせると。
 そのためならば、彼女達に憎まれ、恨まれ、疎まれることになろうと、構いはしない。
 彼女達に生き抜いて欲しい――その想いが間違いであるはずがないのだから。
「ありがとうございます、神宮司軍曹。お陰で……お陰で、迷いがなくなりました」
「お役に立てたようで何よりです、白銀少佐」
 まりもは、柔らかく微笑んだ。
 その笑顔に武は、遠い異世界の――そして今は亡きかつての恩師の姿を見たのだった。



[2785] Muv-Luv ALTERNATIVE -Second World Was Failed- 第05話
Name: Vollmond◆d2a8c8a6 ID:d7498c84
Date: 2008/11/25 02:26
 2001年11月2日(金)


「――……なたが…………でしょう!?」
「……んだ……――」
 まりもと総戦技演習の日程についての最終確認を終え、武が夕食を摂りにPXへと向かっていると、この基地には似つかわしくない、姦しい喧噪が耳朶を打った。
 いや、PX内に限れば、そのようなことも珍しくはない。この横浜基地は日本帝国領内にあるが、国連軍領として一種の治外法権下に置かれている。PXは――殊に京塚志津江曹長が取り仕切るこのPXは――その横浜基地内において尚、さらなる一種の治外法権地域なのである。
 無論、軍施設であるからには軍規による束縛を免れないものの、京塚曹長からして自分を曹長とは思っていない。臨時曹長という立場にありながら訓練兵にだって対等な立場で接するし、さらには相手が衛士であろうと容赦なく背中を叩くような人物だ。そんな彼女が取り仕切る空間が、通常の軍施設と同じように扱われるはずがなかった。
 そんな空間であるからか、PXには怒号が響き渡ることもしばしばだった。
 隊の仲間同士で訓練内容や考えについて意見の対立が生じた場合など、周囲の迷惑も顧みず食事中に舌戦を繰り広げ、それがヒートアップしてしまうということもままある。武自身にも経験があった。
 だから、そう珍しいことではない。時折目にする、日常の範疇での非日常の光景。
 しかし武は、その声を聞いた途端、半ば駆け出すようにして歩調を速めていた。
 ――歴史は繰り返す。
 簡潔すぎるその言葉が脳裏を過ぎり、武は思わず苦々しげに表情を歪めた。
 本来の意味とは違うが、武にとっては、正しくその通りだった。
 歴史は変えられることを、武は知っている。歴史を変えるために、武はここにいる。……だが、どの世界でも必ず起こること、起こりやすい事象があることもまた、武は知っていた。
 双六において、必ず止まらなくてはならないマスがあるように、避けられぬ事態というものがある。あるいは、それはきっと、確率の問題なのだろう。ある場面では、少しだけ欠けた、もしくは少しだけ形が歪んだダイスを投げなくてはならないという決まりがあって、それによって確率がほんの少しだけ偏ってしまう……世界は、そんな風に出来ているのだろう。
 もしかすると、夕呼の因果律量子論でならば、説明出来るのかもしれない。だが、そんな説明は必要ないし、欲しくもなかった。
 何故だとかどうやってだとか、そういった概念が物を言うのは、全てが終わってからだ。
 現在進行形で起こっている事象に対して、理論による説明ほど無力な物はない。
 だから、武は駆け出し――そして、PXへと飛び込んだ。
「あなたが指示に従わないからいけないんでしょう!?」
「……アンタの指示に従ってたら、また失敗する」
「――ッ!」
「……いい加減よさぬか、二人とも。それについては既に検討したはずだ、今更蒸し返して何になる」
 PXの一角で漂う、険悪なムード。それを認めるなり、武は苛立ちに任せて舌を鳴らした。
『……チームをまとめられない無能な分隊長と、指示に従わない部下。見切りをつけて独断した部下……主にこれが理由』
『前の世界』で耳にした、自嘲するような千鶴の声が蘇る。
 ――オレがいてもいなくても、結局こうなるのかよ……!
 もう一度舌打ちした武は、遠巻きに眺めている野次馬を押し退けて、騒動の中心――あるテーブルへと向かっていった。
「あなたが……」
「あんたが……」
 騒動の中心――千鶴と慧、二人の声が重なり、

「――いい加減にしろ、貴様ら!!」

 それを、絶対零度にまで凍て付いた武の怒号が、断ち切った。
 その声に加え、灼熱の憤怒を孕んだ眼差しに射竦められ、少女達は小さく体を震わせることしか出来なかった。椅子から立ち上がり、敬礼することさえも忘れている。がちがちという固い物同士のぶつかり合う音は、一体誰から発せられた物なのか。――そんなことには、微塵も興味がなかった。
 武を見て、少女達は、ぱくぱくと酸素を求めて喘ぐ魚のように口を開閉する。
 それも仕方のないことだろう。
 今の武が纏う怒気は、最早殺気に近い。そんな物に当てられて、戦場や本物の殺意を知らぬ彼女達が平静まで保てるはずがなかった。
 武は周囲の者全てを威圧するような、刃じみて鋭い眼差しで睥睨し、
「廊下まで聞こえるようなでかい声で何してるのかと思えば、半年も前のことで今更責任の擦り付け合いか」ふん、と鼻を鳴らし、「――総戦技演習の予定はキャンセルした方が良さそうだな」
「……っ!?」
 息を呑む音の重奏。
 総戦技演習への出発は明日だ。関係各位への調整は難航するだろうが、今ならばまだ取りやめることも可能だろう。その場合、繰り上げた予定を元に戻すことになるのか、それとも完全に中止することになるのかは、武にもわからない。夕呼の采配に全てを委ねることとなる。
「それは……」震える声で、千鶴は言う。「それは、私達では合格出来ないと仰りたいのですか……?」
「ああ、そうだ。結果がわかってるなら、やる意味なんてないだろう?」
「神宮司教官は、日程を繰り上げたのは白銀教官だと言っていました……」
 むっとした様子で慧。だが、その表情には隠しきれない怯えの色が見え隠れしている。
「その通りだ。軍曹の言う通り、総戦技演習の日程の変更を香月副司令に進言したのはオレだよ」
「白銀教官は、我々が合格に値する実力を持っていると判断したから日程を繰り上げたのではないのですか!?」
 武を上官と認識しながらも珍しく食って掛かる冥夜に、武は冷笑するように溜息を零した。
「お前らなら合格出来ると思ってたのは本当だよ――さっきまではな」そこで一度言葉を句切って、武は鋭く細めた双眸で、五人の顔を順繰りに見つめる。「だが、今の口論ではっきりとわかった。今のお前達じゃ、合格なんて夢のまた夢だ。奇蹟でも起きない限り、合格なんて出来やしねえよ」
「そ、それはミキ達が実力不足っていうことでしょうか……?」
「実力以前の問題だ……」一つ息を吐き、「一つ訊くが、お前達は涼宮達A分隊と比べて、自分達の技能がそんなに劣ってると思ってたのか? 同じ訓練小隊なのに、二つの分隊でそんなに力の差があったとでも、本気で思ってるのか? ――だとしたら、相当おめでたいな。そりゃ合格も出来ないはずだ」
 誰もが聞き間違えることのない、明確な嘲弄の言葉。五人の顔に、反発がありありと浮かんだ。
 しかし武は、まるでそれに頓着することなく、さらに言葉を紡いでいく。
「部下の考えに耳を貸さず、最初の計画に執着して自分の意見を押し付けることしか知らない分隊長」
 千鶴がはっと顔を上げ、目を見開く。
「分隊長の命令に従わず、自分の考えやその理由も説明せずに、自分の考えを押し通そうとする部下」
 慧がテーブルを睨むように視線を落とす。
「本来ならばその二人の衝突を仲裁すべき立場にありながら、二人に見切りを付けて独断した部下」
 冥夜が硬く握った拳を震わせる。
「それに、自分の意見を言うこともせず、右往左往していただけの部下が二人」
 壬姫と美琴は目を潤ませ、俯いていた。
「――それがお前ら五人の姿だ。チームだなんて、間違っても呼べやしないな」
 容赦なく浴びせかけられる武の言葉に青ざめていく五人。だが、武は微塵もそれを気に掛けた風もなくさらに口を開く。――己が心臓に、言葉という名の楔を打ち込みながら。
「言ったはずだよな……最前線の衛士が戦う一番の理由は仲間のためだって。隣で戦う仲間を、一秒でも長く生き長らえさせたい……そう思うから、オレ達は最後の最後まで足掻けるんだ。どんなに絶望的な状況だろうと、力を振り絞って立ち上がれるんだ」
 武は拳を固く握りしめる。手の平に爪が食い込んだが、その痛みさえ感じなかった。武の双眸には、刃を思わせる鋭い眼光が湛えられている。
「それがお前らはなんだ? 味方同士で足を引っ張り合った挙げ句、それを今更になって非難し合う……それが仲間か? お前達にとって、仲間ってのは何だ!? ――それが……そんなのが、お前達の目指す衛士の姿なのかよッ!?」
 武は拳をテーブルに叩き付け、喉が張り裂けんばかりの大声で叫んだ。
 湯呑みが倒れ、合成宇治茶がゆっくりと白いテーブルの上に緑色の水溜まりを広げていく。
 悔しかった。あまりに悔しくて、涙が出そうになる。腹の奥底から沸々と激情が湧き上がってくる。何故こんなにも悔しいのだろう……何故彼女達は――――。
 ぎり、と音がするくらいに奥歯を噛み締めて一度感情を制御し、武は続ける。
「まだわからないのか? オレがお前らに衛士の戦う一番の理由を教えた訳が。それはな……仲間って存在の意味を、お前らがわかってないからだ」
 誰だって、死は恐い。けれど、その恐怖さえ乗り越えられる理由をくれるのが、仲間という存在だ。自分の願いを託せる、自分の想いを継いでくれる、自分がいたことを語り継いでくれる仲間のためであれば、衛士は死ぬことさえ厭わずにBETAと戦えるのだ。
「お前達はチームでもなんでもない。なんてったって、お互いを本当の意味で信頼出来てないんだからな。人に話せないことがあるのは構わない。だからって、それを理由に仲間を遠ざけていいことにはならないんだ……ッ! 隣に立つ仲間を、信じられてないから……だから、だからお前らは……ッ!!」
 最後は、言葉にならなかった。
 それは、まりもにも言ったことだ。
 どんなバックグラウンドを背負っていようと、そんなことに関係なく信頼し、全てを預け合える関係……それが、仲間だ。少なくとも、武にとってはそうだった。生まれた世界が違うとか、そんなことは、まったく関係なかった。
 鋭く舌を打ち鳴らして、武はかぶりを振った。くしゃりと前髪を掻き上げる、掻き混ぜる。それから、五人を見つめて言う。
「これだけの時間があって、その程度の信頼関係しか築けてないんじゃ、総戦技演習なんかやるだけ無駄だ。衛士なんてさっさと諦めた方がいい……そんな奴らに衛士になられたって、迷惑なだけだ」
 そんな人間は、早死にする。それも、大勢の仲間を巻き込んで。
 けれど、彼女達には死んで欲しくない……ならば、戦場に立たせなければいい。その分、きっと長生き出来るだろうから。
 ――苛立ちが募る。ぞわぞわと、胸の奥底に沈めたどす黒い感情が心臓に触手を伸ばしている。
 目の前の彼女達と、かつての仲間達を重ねて見てしまっている部分があるのは否定しない。彼女達のルーツは、紛れもなくここにいる五人なのだから。
 それが甘さだと、わかっている。自分の感情が理不尽だともわかっている。
 わかっていても尚、武の吐露は止まらなかった。
 仲違いして足を引っ張るような人間は必要ないのだから。

 ――世界を救うために、修羅の道を歩む女性がいた。
 誰からも理解されず、全ての罪と咎を背負う覚悟で、それでも人類の未来のために、あらゆる汚名を被り、あらゆる誹謗を甘んじて受け止め、あらゆる悪意を拒まず……人道に反した行為にさえ手を染めた女性がいた。
 ただ、人類を救いたい……その一心で、彼女は戦い続けた。
 けれど、彼女の敵は、BETAではなかった。彼女の敵は人類――護るべき者達こそ、彼女の最大の敵だった。
 それを、白銀武は、誰よりも知っている。
 もし全人類が彼女の計画に力を貸していれば、あの世界は救われていたかもしれないのだから。
 それが絵空事であることくらい、わかっている。
 今では武も対立する利害の中で利用し利用される関係の中に身を置いているのだから、そのことは身を以て思い知らされ、自分自身が誰かを利用することだって覚えた。
 それでも、もしも力を合わせることが出来ていたら。くだらない駆け引きをしなくてもいいような関係を築けていたなら。そう夢想せずにはいられない。だって、そうすれば、未来は――。
 だからこそ、許せなかった。誰かの足を引っ張るような人間を。未来のために努力する人間の道を阻む者は――未来のために最大の努力を為そうとしない者は、何人たりとも赦しはしない。
 たとえそれが、自分の大切な仲間達であっても。

「演習で良かったな。実戦だったら、お前らみんな、とっくにあの世行きだ」
 吐き捨てるような武の物言いに、五人は一様に沈黙していた。
 驚愕と、反発と、自省と、悔恨。様々な感情の入り混じった、苦々しげな表情。唇を噛み締めている者もいる。
 総戦技演習は、確かに死人が出るかもしれないという過酷な物ではあるが、かもしれない、という可能性の話だ。三年ほど前の総戦技演習では、確かに死者が出た。しかしそれは、同時に不幸な事故の産物でもあった。
 実戦は違う。誰かが死ぬかもしれないのではない。むしろその逆……誰かが死なずに済むかもしれないという次元。誰もが常に首に死神の鎌を宛われ、ほんの少しの確率の差で死を迎えることとなる。経験や実力によって多少なりその確率を変えることは出来るだろうが、死と背中合わせであることに、ベテランも新人も変わりはない。
 死者の出ない戦場など、いかなる奇蹟が起ころうともあり得ないのだから。
 自分でもかなり厳しいことを言っていると、武も理解している。それでも、言わずにはいられなかった。
 一概に彼女達の甘さだけを悪く言うことは出来ないだろう。十一年もの間戦場に身を置いていた武とは違い、彼女達は実戦どころか、戦術機に乗ったことさえないのだから。近い将来、本物の戦場に立つことになるということさえ、実感が伴わないに違いない。
 ――だが、それでは駄目なのだ。
 訓練兵もまた、兵士であることに変わりはない。非常時ともなれば戦場に駆り出されることも珍しくはないし、その結果命を落とす訓練兵もまた多い。だが、それは軍人として当然のことなのだ。衛士を目指すからには、常にその気構えが必要となってくる。
 あと一ヶ月もすれば、前の世界で武が初めて経験した実戦――12・5事件が起こる。12月10日には、XM3トライアル――即ち、彼女達の前に初めてBETAが現れる瞬間が待っている。
 つまり、残りたったの一ヶ月で、武は彼女達を一人前の――いや、最低でも実力だけは一人前以上の衛士に育て上げなくてはならないのだ。まりもと協力してとはいえ、それは決して並大抵のことではない。
 いつしか、野次馬達のざわめきも、水を打ったように静まり返っていた。
 武の言葉は、彼らにとっても、決して他人事ではない。ここにいる多くの人間が衛士であり、兵士であるからには、実体験から、武の言を少なからず身を以て知っているはずだ。
「オレが言った仲間のためっていう言葉の意味……よく考えておくんだな」
 そう言って、武は緩やかに吐息した。
 PXはしん――と静まり返っている。普段ならば諍いの仲裁にはいるはずの志津江も、黙って成り行きを見守るばかり。それくらいに今の武には他を寄せ付けない迫力があったし……言っていることも、決して間違ってはいなかった。
 間違っているとすれば、それは。武が、今の彼女達と記憶の中の彼女達を混同してしまっているという、その事実だけ。
 そもそも、未来の――武にとっては過去の――彼女達と現在の彼女達を比較する事自体、無理がある。未来の彼女達は、その時間の分だけ成長していた。それは正しく、武自身があの頃とは比べ物にならないほどに成長したように。
 そしてそれは、今と未来、双方の彼女達に対する冒涜に他ならなかった。
 彼女達の知らない――知るはずのない人間、今の彼女達では届くはずのない高み。それと比較して――否、勝手に混同して怒りを叩き付ける……最低の八つ当たりだった。
 数年の月日と、異なる時間軸。それらが横たわっている限り、たとえ端を一にしていようとも、既にそれは別人だろう。彼女達は、既に違う人生を歩んでいるのだから。
 例えば、もし今武の前に、訓練兵時代の武がいたとして、彼はそれを自分自身とは認められなかっただろう。かつての自分ではあっても、自分自身としては見られなかったに違いない。
 事実、それは既に他人だ。
 自分の弱さを自覚し、受け入れているとはいえ、あまりにも弱すぎる過去の己を、自分自身と同一化することなど出来はしない。故に、それは白銀武でありながら白銀武ではない――もう一つの可能性でしかないのだった。

「……騒がせて悪かった。みんな、食事に戻ってくれ」
 周囲を見渡しながらそれだけ言って、武は踵を返した。軍靴の靴底が床を打つ音に呼応するように、彼らを取り囲んでいた野次馬達が道を譲る。
 まるでモーセの前の海だ。
 ――前の世界でもこんなことあったな……。
 思い出しながら、武は自嘲の笑みを浮かべかけ――それを塗り潰すように意識的に顔をしかめた。
 あれは確か、鉄源基地防衛戦の直後のことだ。
 基地防衛に多大な貢献をした武は、英雄として讃えられると同時に、その壮絶な……壮絶すぎる虐殺の光景に、多くの衛士が武を恐怖した。結果、丁度今のように、雑踏を歩くだけで道が出来上がるというようなことになったのだった。
 そんな扱いにはもう慣れていたから、今更特別な感慨もない。ただ、少し昔のことを思い出しただけだ。
 かつん――軍靴が一つ高く鳴った。その直後、
「じゃあ……じゃあ、ボク達はどうすればいいんですか……」
 歩き出した武の背中に向かって、今にも泣き出しそうな声で、美琴は言う。
 武は立ち止まり、振り返った。
 それくらい自分で考えろ、と突き放すことも考えたが、先日、相談に乗ると明言してしまった手前、答えないわけにはいかない。
 肺の内に凝った負の感情をゆっくりと吐き出し、武は口を開く。
「……言ったはずだ。本当の信頼関係を築く、それだけでいい。技術だけなら、お前達は訓練兵としてはかなり優秀だからな。だけど、それだけじゃ駄目なんだ。お前達が本当に衛士になりたいと思ってるんなら、技術や体力だけじゃなくて、心も鍛えろ。心技体……どれだって、衛士には絶対に必要な物だ。もっと意見をぶつけ合って、もっとお互いを理解して、もっとお互いを信頼しろ」武は、ふっと、ほんの僅か、気付かれない程度に表情を緩めた。「……お前達なら乗り越えられるはずだ……お前達五人なら。自分の隣にいるのは、みんな同じ志を持った仲間なんだからな」
 武は知っている。彼女達の志の高さを。想いの強さを。願いの尊さを。
 だから、大丈夫。このくらい、きっと乗り越えてくれるはずだ。そう、信じている。
 だって、彼女達は、武が共に戦った彼女達でもあるのだから。
 先程胸の内を吐き出したからだろうか、武の心はやけにすっきりとしていた。こんな時、自分のあまりのガキらしさを突き付けられた気分になる。もう三十年以上生きているのに、中身は相変わらずだということか。
 苦い自嘲の笑みが武の口許に散った。
「……一つ、オレのよく知っている衛士の話をしてやる」
 武はそう前置きをして、207B分隊の五人に視線を巡らせた。五人は返答の言葉を発することも出来ないまま、ただ条件反射で頷きを返してくる。
「そいつには、何の力もなかった。銃の扱いもだめ、走れば周回遅れ、体術なんてからっきし、刀の振るい方も知らない、サバイバルの知識もない……そんな訓練兵だった。甘えてばっかりで、いつだって仲間の足を引っ張ってばかりの、どうしようもない馬鹿だったよ。――けどな、そのどうしようもない馬鹿は、死ぬ気で総戦技演習をくぐり抜けた。何でだかわかるか?」
 武は問い掛けるが、誰も答えない。
 答えを知らないのではなく、ただ武の怒気に当てられて答えられないのか。あるいは、本当に答えを知らないだけなのかもしれない。武は続けた。
「自分の所為で、頑張ってる仲間達まで不合格になるのが嫌だったからだ。ほんの少しでも自分を仲間だと認めてくれた奴らの信頼に、少しでも応えたかったんだよ。仲間の努力を無駄にすることなんて出来ない……だからそいつは、文字通り死ぬような目に遭っても、それでも乗り越えたんだ。プライドなんかどこにもない、無力なガキだったけどな……仲間のためっていう意地だけはあった。だから、頑張れたんだよ」
 武が、衛士として最初に学んだこと……それは、自分一人では自分の命さえ守れないということだ。そしてもう一つ……仲間のためならば、自分の限界さえも超えられるということ。
 それらが、初めて神宮司教官と、仲間達から教わった、衛士としての心構えだった。
「今すぐ仲間のために戦うことを覚えろなんて言わない。けど、仲間と力を合わせて戦うことは、すぐに覚えられるだろう?」
 それは、決して難しいことではない。ほんの少し……ほんの少しだけ素直になって、心を開けばいいだけなのだから。


 部屋に戻った武は、ベッドに倒れ込んで天井を見上げていた。
「あー……何やってんだろうな、オレ」
 ぼんやりと呟く。声には、苦々しげな響きがたっぷりと含まれていた。
 武からしてみれば子供相手に腹を立てたようなものなのだ。自分の言い放った一言一言が、ずしりとのしかかる。
 それだけ彼女達を想っているということなのか……結局はそれも押しつけの感情に過ぎないのかもしれないけれど。
 武が頭を抱え、煩悶としていると、不意にドアがノックされた。こっこっ、という控えめな音。なんとなく懐かしくて、武にはそのノックの主が誰なのか、想像が付いた。
「開いてるよ」
 だから、体を起こして、出来るだけ優しく言ってやる。
「し、失礼します……」
 ドアがゆっくりと開いて、予想通りの人物――社霞が顔を覗かせた。そのまま開いていったドアは、霞が通るのには十分すぎるほどの隙間を作っている。
 かと思えば、霞はその場にしゃがみ込んだ。
 再び立ち上がった霞の手には、木製のトレイがあった。
「あ……」
 武はようやく自分が昼食を食いっぱぐれていたことを思い出した。それを知って、わざわざ持ってきてくれたらしい。
「わ、悪いっ」
 慌てて立ち上がり、霞の手からトレイを受け取る。そこには合成鯖の味噌煮定食が二人分。どうやら、ここで自分も食べるつもりな模様。
 椅子は一つしかないので、ベッドに腰掛け、「ほら霞、ここ座って」ぽんぽんと自分の隣を叩いて示してやる。すぐ隣ではあったが、それはトレイが一つしかないからだ。他意はない。
「ごめんな、気ぃ遣わせちまって」
「いいえ……私がやりたかったんです」
 口許に、文字通り微かな笑みを浮かべて、霞は言う。そのまま霞は小柄な体に似合うちょこちょこという足取りでやって来ると、武の隣に収まり、無言で武の膝の上からトレイを奪うと、
「どうぞ」
 箸で摘んだ合成鯖の味噌煮を武の口許へと差し出してきたのだった。

 ――ッ……!?

 どくん、と武の心臓が飛び跳ねる。
『はい、あ~ん……』
 一瞬にして脳裏に沸き立つイメージ。映像も、声も、空気さえも、全てが鮮明に蘇ってくる。
 それは十年以上も前に別れを告げた、かつての日常の一コマ。今となっては夢幻のような、幼馴染みと共に過ごした当たり前の尊い光景。もう二度と取り戻すことの出来ない、賑やかで穏やかで心地良い……霞のように儚い日々。
 武は知っている。これは、純夏の真似なのだと。自分自身の想い出を持たない霞が、リーディングした武と純夏の想い出を模倣しているだけなのだと。
 けれど。だからこそ、霞のその行為は武の胸を打った。
「……白銀、さん…………」
 霞は箸をトレイの上に置くと、武の方へと身を乗り出してくる。武は微動だにすることも出来ないまま霞の接近を許し、
「泣いてるん……ですか?」
 目許に触れた温かい指の感触に、はっとした。
 ――泣い、てる……?
 呆然としたまま、霞からは遠い方の目許……左目にそっと触れてみた。そこには、確かに濡れた感触があって、頬を熱い雫が流れていく感覚があった。
「……ごめんなさい」
「え?」
 突然謝られてしまい、武は困惑してしまう。霞は何一つとして謝ることなどしてないではないか。そう言うと、
「でも、泣いています……」
 霞はしゅんと項垂れてしまっていた。
 きっと、霞は自分の所為で武が傷付いてしまったと思っているのだろう。リーディングで武の記憶を読み取ったことを、申し訳なく思っているのかもしれない。
 けれど、それは間違いだ。
 純夏との想い出は一つとして、武を傷付けたりはしない。白銀武が鑑純夏との想い出で傷付くなど、決してあり得ない。
 だって、純夏との想い出はいつだって、最後には笑顔があったから。
 だから、実際はその逆。
「いいんだ、霞。気にする必要なんてない」武の顔に浮かぶのは、少年のあどけなさが残る、優しい笑みだった。「オレはさ、きっと……嬉しかったんだと思う」
「嬉しかった……ですか?」
「ああ」目を丸くする霞に頷く武。「何ていうか、純夏のこと思い出せてさ。アイツとはガキの頃からずっと一緒にいたのに、もう十年以上も離れ離れでさ……けど、それでも、アイツと一緒にいた頃のことをまだ思い出せる……それが、嬉しいんだ」
 BETAとの戦いの日々で、すっかり摩耗してしまったと思っていたのに、それでも純夏と共に過ごした記憶は少しも失われていない。
 そのことが、ただ嬉しかった。
「だから、霞が悩む必要なんてないぞ? ――あ、けど……」
 ぽん、と武は霞の頭に手を置いた。目をぱちくりさせる霞だが、嫌がってはいないらしい。武は少しだけ上体を前に倒して、目線を霞の高さに合わせる。
「それはやっぱり、オレと純夏の想い出なんだよ。霞の想い出じゃない」
「……はい」
 それを聞いて項垂れてしまう霞。叱られたと思ったのか。
 こういう時こそリーディングを使えばいいのに、と全く怒ってなどいない武は内心で苦笑する。
「だから、霞は純夏の真似をする必要なんてないんだ。想い出っていうのは、そうやって積み重ねていくもんじゃないと思うんだよ」
「え……?」
「純夏には純夏の、霞には霞の想い出があっていいんだ。霞は霞であって純夏じゃない。そうだろ?」
「……私には、わかりません……」
 うーん……と武は唸る。
 この少女には、想い出という概念そのものが存在しないのかもしれない。だから、純夏の想い出をなぞることで、自分も想い出を手に入れられると考えたのだろうか。
 だが、それは大きな間違いだ。武が言ったように、社霞は鑑純夏ではないのだから。
 だから。
「――じゃあ、今度、一緒に想い出を作ろうぜ」
「……?」
 霞が首を傾げる。武は悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。
「だから、オレと霞の想い出を作るんだよ。オレと純夏の想い出でも、純夏を真似た想い出でもない、オレと霞だけの想い出を、さ。今は無理かもしれないけど、いつか……いつか、一緒に想い出作ろうぜ」
 霞は数度目をしばたたかせる。武の言葉の意味を吟味しているのか、ほんの少し俯いて、武の胸当たりに視線をさまよわせている。
 やがて顔を上げた霞の頬は、微かに紅潮していた。
「私にも……出来るでしょうか」
 期待の籠もった眼差し。武の答えは一つしかなかった。
「当たり前だ」武は頷いて、十年前に戻ったかのように笑う。「覚悟しとけよ、抱えきれないくらいの想い出作らせてやるからな」
「はい……楽しみにしています」
 彼女の名前の通りの花のように、霞はそっと微笑んだ。

 余談ではあるが。結局合成鯖の味噌煮定食は、全て霞のあーんによって平らげた武であった。


「聞きましたよ、PXでの一件」
 日課となったシミュレーターによるXM3のデータ取りを終え、管制室でその映像を再生し終えたのとほぼ同時、思い出したようにまりもが言った。
 一分一秒でも早くXM3を完成させたい武としては、たとえ総戦技演習の前日であろうと、このデータ取りを休むつもりはなかった。そこで、まりもや霞に無理を言って、データ取りに付き合ってもらったのだった。
「ああ――」武は照れたように頬を掻き、「あまり思い出させないでくださいよ。恥ずかしいんですから」
「恥ずかしい……のですか?」
 まりもは意外そうに瞳を丸くした。
「訓練兵相手にムキになって怒鳴る少佐なんて、いい笑いものですよ」
「言われてみればその通りかもしれませんね」
 苦笑を浮かべるまりも。
 肉体的には同い年とはいえ、本来ならば武の方が十は年上なのだ。
 それに、経験だけで言うならば、そこいらのベテラン衛士では及ばないほどである。現に、前の世界では、今回のように夕呼の力を借りることなしに、自らの功績だけで少佐の地位まで上り詰めたくらいなのだから。
 だから、武にとって、少佐という肩書きは、決して張りぼてではないのだ。
 その階級の持つ重みも知っているつもりだった。
 にもかかわらず、あのような醜態を晒してしまったのだ、武は。
 これで自己嫌悪に陥らない方がどうかしているというものだろう。風評などというくだらないものに対する興味はとうの昔になくした武であったが、自己評価というものはある。ここ数時間、武の自己評価はナイアガラの滝もかくやの急転直下を起こしていた。鳥の雛よろしく霞に昼食を食べさせてもらったことも含めて。
 精神年齢というものは、肉体年齢に引きずられてしまうものなのかもしれない。
 武は天井を見上げて、ゆっくりと肺の中身を押し出した。それから、まりもに視線を戻して問う。
「それで、あいつら、午後の訓練の時はどうだった?」
 電灯のスイッチのオンオフみたいに、武は白銀少佐へと自分を切り替える。とはいえ、これは207B分隊に関わることだからと、建前としてそう振る舞っているだけだ。
 それが証拠に、まりもは柔らかな表情で、眉尻を下げて答える。
「随分としょげ返ってましたね。少佐に言われたことが、相当堪えたようです。明後日からは総戦技演習だというのにそんなことで合格できると思っているのか――って言ったら、ますます落ち込んでしまって」
「……悪かったな、軍曹。総戦技演習直前だっていうのにアイツらの士気を下げてしまって」
「とんでもありません」まりもは首を横に振る。「少佐自身が仰ったではありませんか、いつかはあの子達にも気付かせなければならなかった問題です……私には出来なかったことを、少佐がなさってくださったのです、感謝こそすれ、そのように思うことは決してありません」
「そう言ってくれると助かるよ」
 これがプラスに働いてくれればいいのだが。
 要は意識の問題なのだ。短期間で抜本的な問題解消を図ることは出来ずとも、意識を改善することは出来る。それを促進する外的要因として、武は美琴の病み上がりにぶつけるように、総戦技演習の日程を前倒ししたのだった。
 ただ、とまりもは表情を曇らせた。
「彼女達の中に、少佐への反発があることは否めません」
 頭ではわかっていても、同い年の人間に頭ごなしに自分達を叱られれば、敵愾心が生まれるのは仕方がない。それは理性とは別の問題だからだ。
 武自身、『元の世界』では覚えがある。悪いのは自分自身だとわかっていても、委員長である千鶴に注意されると、それを口うるさいと思ってしまったり、煩わしいと思ってしまったりしたことが何度もあった。
 軍人としての階級の差があるとはいえ――いや、だからこそ、そこには嫉妬や羨望といった感情が生まれる。同い年であるにもかかわらず、自分達よりも遥か先を行ってしまっている、手の届かない存在……プライベートでは階級の壁を取り払おうとしている武だからこそ、軍人としての格の違いを、よりまざまざと見せつけることになってしまう。
 まだまだ未熟な彼女達が、それを素直に受け入れられるかといえばそんなことはない。
 何しろ負けん気が強いのだ、あの五人は。
 けれど、武の言葉が正しいことも理解してしまっている。だから余計に、行き場のない感情を持て余してしまうのだろう。それを抑え込んだ結果、どうしようもなくなってしまい、落ち込んでしまうというわけだ。
 それでも、武は笑った。
「構わないさ。恨んだり出来る相手が身近にいて、しかもそれを共有できる仲間がいれば、結束しやすいからな……それに、落ち込んでいる時にこそ、仲間の大切さがわかるってもんだ。昨日、軍曹も言っていたことだろう?」
「少佐……」
「オレにだってその覚悟はあるさ。どんなにあいつらに憎まれたって、恨まれたって、蔑まれたって……それでアイツらが強くなれるなら……それでいい」
 耐えられるかどうかはわからないけれど。少なくとも、覚悟は、ある。迷いは、もうない。
 心に傷を負うことは怖くない。誰かに傷付けられることは、怖くない。ただ、失うことだけが怖い。
 彼女達が強くなれるのなら。彼女達が一分一秒でも長く生きられるのなら。彼女達が一人でも多くの人達を守れるのなら。彼女達が最後の最後に人としての強さを発揮できるのなら。
 一人でも多くの、大切な人達が生き延びることが出来るなら。
 ――オレは、世界中に呪われようとも、アイツらを……この世界を守ってみせる。
 それが、死んでいった『彼女達』に対して報いる、たった一つの方法だと思うから。
 ……だが、あのときの武に、そこまでの考えがあったというわけでは決してない。感情に任せて彼女達を叱責してしまったという事実は拭えない。
 それが、甘さだ。
 それが、弱さだ。
 結局のところ、後付の理由でしかないのかもしれない。自らの苛立ちを、彼女達への想いで塗り潰しているだけに過ぎないのかもしれない。
 ――一回りも年下の訓練兵相手に、何やってんだかな、オレは……。
 まだ二十歳にも満たない訓練兵である彼女達に、自分と同じことを要求する方が無理なのだ。彼女達はまだ子供なのだから。それがわからない武ではない。
 ――こんなんじゃ、オレの方がずっとガキじゃねえか。
 自嘲するように、武はもう一度天井を見上げた。
 不意に、何故か無性に酒を飲みたいと思った。それが弱さだと考え、押し殺した。

 武は天井に向けていた視線を、今度はモニタに向けた。
「それより、XM3はこれでほぼ完成だ」そう言ってまりもを見る。「軍曹がデータ取りに協力してくれたお陰で、予定よりもずっと早く完成させられたよ。ありがとう」
 軍靴の靴底を鳴らし、まりもが敬礼する。
「は。このような名誉ある任務に携わることが出来、光栄に思います」
「ああ……これが完成すれば、戦場で犠牲になる衛士は今よりもずっと減るはずだ」武は先程のシミュレーションで得た感触を思い出しながら、拳を握る。「それに――」
 ――それに、これで、もっともっとBETAを殺せるはずだ……。
 ぞくり、と寒気にも似た甘美な喜悦が、背筋を駆け抜ける。
 XM3は力だ。武や夕呼が帝国や米国と戦うための力であり……そして何より、衛士がBETAと戦う力でもある。それは即ち、武にとっては、BETAをより効率的に滅却するための力ということだ。
 一秒でも早く、一体でも多くのBETAを殺すことが出来るようになる……それは、想像するだけで打ち震えずにはいられない、殺戮の予感だった。
 思わず唇の端が吊り上がる。
「どうかなさったのですか、少佐?」
 途中で言葉を句切った武を疑問に思ってか、まりもが問うてくる。「なんでもない」とだけ答えて、武はかぶりを振った。
 肺の中でどろどろに凝っていた感情を、ゆっくりと吐き出していく。
 この手の感情のコントロールだけは、この十年間でしっかりと身に付いていた。こうして一度深呼吸をすれば、それだけで肚の裡の澱を抑え込むことが出来るようになっていた。これを成長と言うのかもしれない。
「後は今日までのデータでβ版を修正してもらうだけだ」武は管制室の一隅に設けられた椅子へと目をやり、「悪いけど頼めるか、霞?」
「はい」
 その椅子の上に座っていた霞は、インカムのヘッドセットを着けたまま頷いた。
「どれくらいあれば出来る?」
「あと……二日もあれば出来ると思います」
「二日か……」
 丁度総戦技演習の最中だ。機体OSの書き換えなども含めて、長く見て四日……武が総戦技演習から戻ってくるまでには、XM3は完全に使用可能となるというわけだ。
 ――それなら、十分間に合うか。
 さしあたってXM3が必要になるのは、今から九日後――11月11日のBETA上陸戦においてだ。その時点で完成したXM3を使えるというのは、かなり大きい。
 11日にBETAが上陸してくることを告げれば、夕呼は間違いなくA-01を動員するだろう。前の世界ではその際、A-01からも二人の死者と一人の重傷者が出た。もしもXM3があれば、その犠牲もなくせるかもしれないのだ。
 ……いや、かもしれない、では駄目だ。必ず彼女達を護ってみせる。この手で。BETAどもを殺し尽くして――。

 拳を握る武の傍で、霞が目を伏せていた。武は、それに気付かない。


 ――XM3が完成する……それも、こんな早い時期に。
 前の世界では、12・5事件の後、ようやく完成したわけだから、それよりも一ヶ月も早い。それがもたらす恩恵は計り知れないだろう。これというのも、まりもやA-01といった優れた衛視達の協力があったからだ。
 207B分隊も、最初からXM3で訓練を受けられるわけだから、かなりのレベルアップに繋がる。
 A-01の損耗率も激減するだろう。207B分隊が任官した暁には、変則的な二個中隊を組むことだって出来るかもしれない。
 これが喜ばずにいられるかというのだ。
 自分の部屋に戻ってきた武は意気揚々とドアノブに手を触れ――誰かの気配を感じて、振り返った。
 が、そこには誰の姿もない。しんと静まり返った廊下が左右に伸びているだけだ。
 おかしいな、と独り言ちて武は首を傾げる。視線を感じたのは確かだ。武に限って、気配の有無を間違えるというようなことはない。前の世界で過ごす内に身に付いた、あまりありがたくない技能の一つだ。それが誰の気配であるかはわからずとも、他者の気配には人一倍敏感だという自負があった。 
 武に気付かれずに接近と離脱を行える人間など、そうそうはいない。
 現に、最初に気配を感じてから十数秒ほど経った今でも、まだ誰かの気配を感じる。
 ――一体何が目的だ……?
 無意識の内に、武は一見では気付かれない程度に重心を落として身構えていた。
 B4フロア――個室のある兵舎フロア。普通なら、こんな場所に来る人間は、兵士以外にはいない……が、ここにはその普通が通用しない事柄があった。
 このフロアには、207B分隊の部屋もある。彼女達の存在には、政治的な意味がある。そうそうこの基地内に侵入できるとも思えないが、鎧衣課長の例もある。警戒しておくに越したことはない。
 お誂え向きに、十メートルほど向こうに三叉路があった。恐らく、そこに身を隠しているのだろう。
 足音を潜めながら、ゆっくりとそちらへと移動する。
 手元に武器がないのは少々心許ないが、長い軍人生活で培った身体能力と、慧仕込みの格闘技術が、武にはある。STAの真似事ぐらいは出来るつもりだ。
 ――おかしい。
 そろそろと三叉路の数歩手前までやって来たとき、武はふと違和感に気がついた。
 相手に、気配を消そうという意図がまるで見られないのだ。壁の向こうからは微かな息遣いさえ聞こえてくる。横浜基地に侵入し、要人の血縁者を暗殺なり誘拐なりしようと企んでいる――と決まったわけではないが――人間が、こうも自らの存在を明け透けにするものだろうか。
 よほど自信があるのか、あるいは武の思い過ごしか。
 ……いずれにせよ、問い質してみればわかることだ。
 残り一歩。息を殺し、壁に背を付け――一気に飛び出した。
「――動くなッ!」
 左手で相手の右手首を掴み、ねじり上げるようにして壁に押し付けながら、右手は相手の首へ。
「きゃぁっ!?」
 相手が高い声で、やけに可愛らしい悲鳴をあげた。
 どうやら若い女らしいが、そんなことは関係ない。変な動きをすれば絞め殺すという意思を示すために、武は白い首筋に添えた手に力を込めようとして、
「――――委員、長……?」
 床に落ちた眼鏡が、乾いた音を立てた。


「悪かったな。さっきも言ったけど、侵入者かと思ったんだ。右腕、痛まないか?」
「は、はい……大丈夫、です……」
 ベッドの上に座った千鶴は、彼女らしくないしどろもどろな様子で答える。何故だか居心地悪そうに縮こまっていて、仄かに頬を紅潮させながら、忙しなく部屋中に視線をやっている。
 その視線に気付いた武は二人分のコーヒーモドキを用意しながら、
「何もない部屋で驚いたか?」
「えっ!? そ、そんなことは……いえ、はい……」
 どうやら、千鶴は相当緊張しているらしかった。彼女にしてみれば、上官の部屋に一人で訪れるという大それたことをやってのけているわけだから、仕方がないかもしれない。
 武の部屋にあるのは、備え付けの簡素なベッドとデスクセット、ロッカー。他にもデスクの上にはコンピューター端末やコーヒーモドキメーカーが、壁には時計があるが、それらは全て支給品だ。私物は、ベッドの脇に立て掛けられた、黒い学生鞄くらいしかない。
 訓練兵の部屋だって、もう少しぐらい飾り気があるだろう。
 尤も、武の鞄に無造作に収められている品々は、そのような言葉では到底及ばない物ばかりなのだけれど。
「まあいい。それより、何の用だ? ああ……いや、その前に一つ訊いておくか」
 先程廊下で千鶴を侵入者と間違えた直後、武は慌てて千鶴を解放した。それを謝る武に向かって、千鶴はこう言ったのだった。『白銀少佐、お時間はあるでしょうか』と。
 きっと、彼女なりに、分隊長として総戦技演習に向けて自分に出来ること――自分のすべきことしようとしているのだろう。
 現時点で、207B分隊の中で最も武を快く思っていないのは千鶴だ。それは間違いない。その彼女が、わざわざこんな時間に武の部屋を訪ねてきたのだから、その決意は並大抵のものではないはずだ。
「何でしょうか」
 若干緊張が解れてきたのか、千鶴の声音は平静のそれに近い。
「いや、お前の用ってのは、白銀武個人に対してなのか、それとも白銀武少佐に対してなのか……どっちなのかと思ってさ」
 その答えによって、武も態度を変えなければならない。
 プライベートで武を訪ねてきたのであればこのままだし、一軍人として武を訪ねてきたのであれば相応の態度を取らなくてはならない。
 ……尤も、その答えは問うまでもなく明らかだったのだが。質問したのは、一応だ。
 武はコーヒーモドキのカップを千鶴に手渡すと、自分はデスクの椅子に腰を下ろし、
「何の相談だ、榊訓練兵?」
 片目を瞑って戯けたようにそう言った。
 千鶴は一瞬だけ肩を震わせたが、何も言わず両手でマグカップを持ったまま、俯いてしまっている。
 武とてそう急かすつもりはない。先程壁の陰に隠れていたのは、言いづらいことがあったからだろう。元々、すぐに口を開いてくれるとは思っていなかった。
 消灯時間も近いが、武が緊急で呼びだしたと言えば、千鶴に累が及ぶことはないだろう。
 かちこちと時計が時を刻む音だけが部屋に響く。
 黙ったままの千鶴を迷惑に思うようなことはなかった。むしろ、プライドの高いはずの彼女が、上官とはいえ武に相談に来てくれたことを、素直に嬉しく思っていた。だから、何も言わず、ただじっと待っている。

 そうして数分。すっかり微温まったコーヒーモドキに武が口を付けたときだった。
「――少佐は……白銀少佐は、何故衛士になろうと思われたのですか?」
「…………は?」
 あまりにも予想外の質問に、武の目が点になる。
 ――衛士になった理由……?
 時期が時期なだけに、総戦技演習についての相談か、今日の昼の出来事についての相談だろうと思っていたのだが。まさかこんな質問が来るとは思ってもみなかった。
 その責任感の強さには、何度助けられてきたことか。
 ありがとう――内心で感謝の言葉を紡ぐ。
 ――まあ、隠す必要もないしな。
 包み隠さず全てを話すわけにはいかないが、武の経歴のごく一部――訓練兵として過ごしたのは、武の人生の一割にも満たない期間だった――を話すことには、何の問題もない。
「最初は成り行きだったな」
「な、成り行きっ!?」
「……どうした、そんな驚いて?」
「い、いえ……白銀少佐ほどの方が、成り行きで衛士になられたとは思わなかったので……」
 武の年齢を考えれば、徴兵制による兵ではなく志願兵であると考えるのは自然なことだ。成り行きでの志願兵など、そうそういないだろう。しかも、それが少佐にまで上り詰めたとあっては、千鶴が驚くのも無理はない。
「衛士を目指すしかなかったからな、オレは……」
 それ以外に、この世界で生きていく方法を知らなかった。いや、用意されていなかった、と言うべきか。
 武の前に示された道は、香月夕呼の部下――因果律量子論を証明する存在――として生きることだけだった。衣食住を保障してもらう代価として、衛士を目指すしかなかった。
「やっと衛士になったと思ったら色々なくして、この世界を護りたいって思って……また色々なくして、今まで以上にみんなを護りたいって思って……それで今ここにいる、ってとこだな」
 中空を彷徨う武の視線は、今ではない時間、ここではない場所へと向けられていた。
 なくした物は取り戻せない。全く同じ物が目の前にあったとしても、それは決して取り戻したことにはならない。
 ――二度も……いや、三度も全てを失った。
 だから、もう二度と失わないために、武はここにいる。衛士として。これまでよりもずっとオルタネイティヴ4に関わることの出来る立場で。
 階級という力と、実力という力。二つの力が、今の武には、ある。
 ――一番重要な力がまだ足りてない気がするけどな……。
 自分の不甲斐なさを思い出して、武は膝に向かって吐息した。
「最初は成り行きだったけど、今は違う。はっきりした目標があるから、オレは衛士を続けてられるんだ。――この世界を護る……それが、今のオレの目標だ。目標があれば人は努力できる……オレの尊敬する戦友の言葉だ」
「いい言葉ですね」
 千鶴は微笑して言った。
「ああ……榊、お前にだって目標はあるだろ? なら、そのために努力してみろ。馬の合わない相手と力を合わせることだって、目標のためなら出来るはずだ」
 びくっ、と千鶴は肩を震わせた。
 わかりやすいヤツだ、と笑みを浮かべ、武は椅子の背もたれに体を預けた。
「さっきも言ったけど、お前らは仲間なんだ。その仲間同士を信頼し合えないんじゃ、これから先、衛士なんてやっていけないぞ?」
「しかし彩峰は――」
「ストップ」手を前に突きだして千鶴の言葉を遮り、「“でも”とか“けど”とか“しかし”とか、そういうことを言ってたらキリがないだろ。――それに、何だかんだ言って、一番彩峰の実力を認めてるのは榊、お前だと思うんだがな」
「…………」
 千鶴は俯いたまま何も答えない。図星ということか。
 実力を認めているからこそ、慧の態度や考え方が気に入らないのだろう。その気持ちはよくわかる。帝国にとっての米軍や国連軍のようなものだろうか。実力云々ではなく、方針その物が許せない……過去の行為がどうしても許せない、という。
 武に言わせれば、そんなくだらないことに拘るなんて、馬鹿げている。
 確かに今現在、オルタネイティヴ4陣営としては、反オルタネイティヴ4派となり得る米国は脅威であり、一歩間違えば敵にもなりかねない相手ではあるが、それさえ除けば、BETAと戦う上で、米軍は強力な味方だ。
 F-22Aの性能は折り紙付きだし、BETAの侵攻を受けた各国から流入した移民には優れた衛士も多い。米国人だって、BETAと交戦したことはない者も多いが、相当な手練れ揃いだ。
 実際、前の世界で彼らと共に駆けた戦場は心強く、畏れを知らずに戦うことが出来た。
 射撃がお家芸というだけあって、援護射撃をさせれば、米軍は世界でもトップの軍隊だろう。武達帝国軍を前衛に、米軍を後衛に置いたトップ&バックのスタイルは、当時の最強の布陣だったと、武は自信を持って言える。
「まあ、衛士だって人間だからな。性格の合う合わないは当然ある……けど、それを言い訳にしていいってことにはならない」
「それはわかっていますが……ッ」
 唇を噛む千鶴。頭ではわかっていても、感情が制御しきれない。それは、彼女がまだ子供だということなのだろう……いい意味でも悪い意味でも。
「性格の不一致なんかでごちゃごちゃ言ってたら、誰も護れない。何も守れない。自分一人じゃ、自分の一番大切なものだって護れないんだ。それはわかるな?」
「……はい」
 彼女がそれをわかっていないはずがない。この言葉は、武が『一度目の世界』で千鶴から聞かされた言葉なのだから。
「……少し話を変えるか」一度言葉を句切って、コーヒーモドキで唇を湿らせる武。「――榊。お前は、今分隊長をやっているように、衛士になった後でも、いつかは人を率いる立場に就くことになるはずだ」
「私が……ですか?」
「ああ」武は頷き、「お前は高い指揮官適性を持ってるからな。視野も広いし、作戦立案能力もある……最初の作戦に固執するのは悪い癖だけどな」
 そう言って武が笑うと、千鶴はしゅんと俯いた。
 武は続ける。
「指揮官に求められるのは、部下の手綱をしっかりと握ることだ。部隊全体のことを考えて、常に部隊全体をコントロールする……身も蓋もない言い方をしちまえば、部下の力を利用し尽くす、ってことだな」
「本当に身も蓋もありませんね……」
 千鶴は呆れたように笑みを零した。
「――逆に言えば」
 武の低い声音に、千鶴は表情を引き締める。
「部下の力を引き出せるかどうかも、指揮官次第ってことだ」
「――ッ……!」
「刻一刻と変わる状況に合わせて、部下が最も効率的に力を発揮できるような作戦を組み立て直してやる……それが指揮官の仕事なんだよ」
「ですが、その都度作戦を変更していては、任務の遂行に支障が出ます……!」
「……あのな」武は盛大な溜息を零した。「お前らが戦う相手はBETAだぞ? オレ達人間の常識が通用しない相手と戦うのに、予想外予定外が起きないとでも思ってるのか?」
「それは……」
「実戦に於いて、計画通りに事態が推移することは希だ。だから、タイミングや運といった要素も重要になる。それら全てを味方に付け、結果として目標を達成すれば『それが正しい判断だった』ということになるんだ」
 かつて、二度目の総戦技演習の際に言われた言葉だ。随分前のことなのにはっきりと覚えている自分に、少しだけ武は驚いた。それと同時に、嬉しくも思う。彼女の言葉が、今も自分の中で生き続けていることを。
「覚えておけ、軍において最も優先されるのは結果だ。人類をBETAから護れなければ、何の意味もないんだ」
 そのことを、武は文字通り痛いほどに痛感していた。どれだけの戦果を上げようとも、何千何万のBETAを屠ろうとも、人類が敗北してしまえば、そんなものには塵芥ほどの価値もないのだ。
「そのためにも、状況が変わるごとに、その時その時で最善の判断を下せ。最善が無理なら、全員で次善を考えろ。ゴールは一つでも、そこに至る道筋は一つじゃないんだ。お前に足りないのは柔軟さだよ。部下は隊長の命令通りに動く駒じゃない。背中を預ける仲間なんだ。だから、お前はもっとみんなに頼っていい。分隊長だからって気負う必要なんかないんだ。もう少し肩の力を抜いて、仲間の意見を聞いて、要領良くやることを覚えろ」
「……はい」
 千鶴はしょげ返っているようにも見えるが、それでも、伏せられた目はしっかりと開いて、瞳には力強い光が宿っている。
 頑固者揃いの207B分隊の中でもとびっきりの頑固者の千鶴だが、上官の言うことを聞ける素直さは持ち合わせている。それは、武がとうに失ってしまったものだった。
「……と言っても、彩峰ほど力抜くのも考え物だけどな」
「それには同感です」
 千鶴は唇の端を吊り上げて笑った。それから、もうすっかり冷めてしまったコーヒーモドキを口に含む。
 武もそれに倣うようにマグカップに口を付け、中身を干した。


「ありがとうございました、白銀少佐」
 千鶴が立ち上がったのに合わせて武も立ち上がり、マグカップを受け取る。
「それがオレの仕事でもあるからな」武は微笑し、「あまり気張らずにいけ。――そうそう、鎧衣の体力が落ちてるだろうから、お前ら全員でちゃんとサポートしてやるんだぞ?」
「あ……」
 千鶴は何かに気が付いたかのように声を漏らした。が、何も言わない。ただ微笑んだだけだ。
 流石は委員長ってことか――その聡明さに、武は感謝した。
「総戦技演習、頑張れよ。手を抜いてやるわけにはいかないけど、教官として……いや、白銀武として、応援してる」
「はい……」それから千鶴は僅かに躊躇ったような素振りを見せ……意を決したように、もう一度口を開いた。「……ありがとう…………白銀」
「え……」
 今度は、武が声を漏らす番だった。それを見て千鶴は満足げに笑みを浮かべ、
「それでは失礼します、白銀少佐。おやすみなさい」
 敬礼すると、武の返礼も待たずに部屋を後にしてしまった。
 武は呆然と閉じたドアを見つめている。
「……まさか委員長が、なあ……」
 そう呟くだけで、精一杯だった。



[2785] Muv-Luv ALTERNATIVE -Second World Was Failed- 第06話
Name: Vollmond◆d2a8c8a6 ID:d7498c84
Date: 2011/02/06 12:24
 2001年11月4日(日)


 鎧衣美琴が207B訓練分隊に復帰して、未だ三日。武達は、赤道付近の洋上に浮かぶ無人島へとやって来ていた。言うまでもなく、その目的は総合戦闘技術評価演習……の、はずだったのだが。
「……今回もか…………」
 武の前には、際どい水着を身に着け、ビーチチェアの上で惜しげもなく均整の取れたボディラインを陽射しに晒す夕呼の姿があった。サングラス越しの太陽に目を細め、シャンパングラスを揺らすその姿は、『こちらの世界』にはあまりにも似つかわしくない。
 局地的に、演習場は観光地へと様変わりしていた。
 僅か十数メートルの距離に訓練兵がいるにもかかわらず、夕呼は完全にバカンスを楽しんでいる。
 まるで、ここだけが『元の世界』に戻ってしまったかのような錯覚を覚えるほどだ。
 構うだけ無駄だと判断した武は、207B分隊の面々に向き直った。背後から聞こえてくる声は無視することにする。
 二度目の失敗は許されない――もう後がないという自覚からだろう、皆一様に面持ちは硬い。だがそれは、緊張だけではなく、漲るやる気の表れでもあった。
 大丈夫そうだな――武は安堵の溜息を漏らす。
 武が彼女達の甘さを指摘し、徹底的に扱き下ろしてから二日。しかし、武のブリーフィングを待つ五人の様子に、一昨日のことを引きずっている様子は見られない。
 時間的な猶予は殆どなかったが、出発前もぎりぎりまでPXで額を寄せていたみたいだし、ここへの道中も潜水艦の中で色々と話し合っていたようだから、心配はいらなさそうだ。
 ごほん、と咳払いを一つ。五人が姿勢を正す。
「本作戦は、戦闘中、戦術機を破棄せざるを得なくなり、強化外骨格も使用不能という状況下で、いかにして戦闘区域から脱出するかを想定した物である――」
 簡単に言ってしまえば、この無人島を利用したオリエンテーリングだ。島の各所に配置された三つのチェックポイントを順に巡り、三日――七十二時間以内に第四チェックポイント、即ち回収ポイントへと辿り着くこと……それが第一目標。
 制限時間が短めに設定されているのは、コースが島をほぼ一直線に横切るように定められており、さほど距離が長くないためだ。対人トラップは数カ所設置されているものの、面倒な後方撹乱任務などもない。今の武なら、二日と半日もあればまず間違いなく踏破できる。武と207B分隊の平均的な技術や体力の差を考慮しての、七十二時間だ。
「ただし、地図中に斜線で示したエリア内では、仮想敵としてオレと神宮司軍曹がお前達の妨害をする。オレ達のどちらかに捕まったら、その時点でアウト。捕まった者には、ここに帰還してもらう」
 つまり、機体をベイルアウトした後、対人探知能力に長けた小型種BETA――特に兵士級――という追っ手を振り切り、戦闘区域を離脱するという状況を想定している……ということになっている。
 戦術機に乗っている限り、兵士級や闘士級は無視しても構わない存在だ。
 だが、それがベイルアウト後、それも強化外骨格も使用不能となれば、話は違う。奴らの恐ろしさを、武はこの場の誰よりも知っているつもりだった。
 肚の奥底から湧き上がる感情を押し殺して武は続ける。
「尚、オレ達を返り討ちにすることも許可する。その際、作戦区域内で鹵獲した装備を利用することも可能だ。撃破された場合、オレ達は十分から三十分間、行動を停止することとする。――どうせ無理だと思うがな」
 にやりと笑って、武はそう付け足した。彼女達の戦意を煽るために。
 だが、武の言っていることは、あながち誇張であるとも言い切れなかった。
 格闘能力で武達と対等に渡り合えるのは、慧くらいのものだ。銃があれば狙撃で二人を無力化することも出来るかもしれないが、密林の中では視界が悪く、またゴム弾を使っている関係で、木々が一層凶悪な障害物となって立ちはだかることとなる。
 それらの条件を加味すると、武達を彼女達が無力化するのは、非常に難しいと言わざるを得ない。
「全員、発信器は身に着けたな?」
 武が言うと、五人は各々の手首にはめられた発信器付きのブレスレットを示して頷いた。
 この発信器は、小型種BETAの対人探知能力を再現するためのものだ。武とまりもは衛士強化装備の戦域データリンクシステムを利用した受信器であるヘッドセットを装着し、これを頼りに彼女達を追跡することとなる。ただし、ハンデとして、有効距離は半径百メートル、正確な位置情報や圏内の人数まではわからないようにしてある。
 五人には、単に脱出任務の困難さをより再現するためだと説明してあった。
「三つのチェックポイントを回って、時間内に一人でも回収ポイントへ辿り着ければ良し。そのときは文句なしに、晴れて戦術機だ」
 戦術機という言葉に、微かな反応があったのを、武は見逃さない。『一度目の世界』での武もこうだったのだろう。
 武はにやりと笑って、
「さて、神宮司軍曹」通信機に向かって言う。「そちらの準備はいいか?」
『は。万事問題ありません』
 まりもには既に既定のエリア内で待機してもらってあった。
「よし。各自時計合わせ……57、58、59――作戦開始!」
「了解!」
 地図と地形から方角を割り出し、207B分隊の五人は一斉に駆けていった。その後ろ姿を眩しそうに眺め――武は、夕呼へと目をやった。

 夕呼のバカンスゾーンへと向かっていく武。それを認め、
「――あら、白銀。あたしに今更何か用?」
 ビーチパラソルの下、サングラスをずらして本――文庫本などではなく、何やら小難しい学術書だった――を読んでいた夕呼が顔を上げる。
 その顔には不満がありありと浮かんでいる。先程無視されたのが、大層お気に召さなかったらしい。
「先生、拗ねないでくださいよ……ていうか、そういうのが許されるのは二十代前半までと神宮司軍曹くらいです」
「けっこう失礼なこと言うわね、あんた……」
「そりゃ、夕呼先生の教え子ですから」
 うぐ、と夕呼は一瞬言葉に詰まった。夕呼を言い負かしたようで、何となく気分がいい。
「……仮想敵やりに行かなくていいわけ?」
「そんな露骨に話を逸らさなくても……夕呼先生らしくないですよ」
 うるさいわね、と夕呼は苛立った様子で言う。とは言っても、本当に怒っているわけではなく、本当に拗ねているだけにしか見えないのだが。南の島に来て激務から一時的にしろ解放され、夕呼も気が緩んでいるのかもしれなかった。
 仕方ないので、武は夕呼の質問に答えることにした。が、その前に溜息を一つ。
「第一チェックポイントはけっこう遠くに指定してありますから。あいつらがエリアに入ってくるのは、どんなに早くても明日の朝日が昇る頃です……まあ、美琴単独ならもっと早いかもしれませんけど」
 だがそれは、体力を顧みずの強行軍の場合でだ。体力の限界に近い美琴一人では、まりもの相手ではないだろう。
「それで? あなたは何しに来たわけ? 悪いけどあたし、年下は性別認識圏外よ」
「知ってますよ、散々言われてきましたから。ちょっとだけ残念ではありますけど」
「よく言うわ」
 ふん、と鼻を鳴らし、夕呼はルージュを塗った唇を吊り上げた。
「それより……真面目な話してもいいですか?」
「――何?」
 バカンスを楽しむ姿勢から一転、瞬時にして横浜基地副司令の顔になる。この辺りの切り替えの速さは流石と言う外ない。
「佐渡島からBETAが本土に上陸します」
「……なんですって?」
 夕呼の待とう雰囲気が一変した。それこそ、この一角だけが、常夏のビーチから国連軍横浜基地副司令室へと変化してしまったかのように。
「佐渡島から、BETAが侵攻してくるんです」
 武はもう一度言った。夕呼は双眸を鋭く細め、無言で威圧を投げ掛けると共に先を促してくる。
「日付は11月11日。一度目の世界でも二度目の世界でも同じ日に起こったことですから、間違いないと思います」
 二度あることは三度ある――正にその通りだ。
「……詳しく話してちょうだい」
「まず、6時過ぎに旅団規模のBETAが出現、新潟に上陸します――」
 武は覚えている限りのBETAの経路を話した。
 一度目の世界では帝国軍が交戦するがロスト、第二次防衛戦を突破され、そのまま北関東絶対防衛戦まで到達されるものの、苦戦の末撃退したこと。二度目の世界では武の言を受けて夕呼が発令した防衛基準態勢2により、水際での撃退に成功。
 ――そして、共にその目的地は横浜基地だった。
「白銀……ひとつ確認するけど……今の話が事実だって言う証拠はあるの?」
「まさか。あるわけないじゃないですか」
 悪びれた様子もなく肩を竦め、武は答えた。
「そりゃそうよね……」夕呼は長く吐息し、マニキュアを塗った指で髪を掻き上げた。「あたしはこれまで、あくまでもあなたの情報が信じられるものと仮定して接してきたつもり。けど、そこまで話が大きくなると……ちゃんとした証拠もなしには動けないわね」
 新潟の防衛は帝国軍の領分だ。国連側から帝国軍を動員する命令をねじ込むだけでも大問題なのに、それが取り越し苦労であった場合、ただでさえ険悪な国連と帝国の関係がさらに悪化し、致命的な国際問題にも発展しかねないのだ。能力的に出来ることと、現実に出来ることとは違うのである。
 ならば国連軍を動かせばいいのかというと、それも違う。基本的に国連軍は、現地国家の政府――この場合は日本帝国――の要請なしには軍事行動を取ることは出来ない。
 帝国の意向にかかわらず動員できる兵力は、A-01しかないのだ。無論、それだけで防衛戦をするというのは、自殺行為だ。蟻の群の中に角砂糖を落としてやるようなものなのだから。
 だが、夕呼の懸念は、武にとっては問題にならなかった。
「無駄ですよ、先生。そんなの、オレには揺さぶりにもなりません」
 武の言葉に、夕呼は不快そうに顔をしかめる。武は気にせず続けた。
「11日付近に佐渡島ハイヴのBETAに本土上陸を企てていると思しき動きがあれば、それが証拠になる……何故なら、オレはBETAの動きに関与していないから。――違いますか?」
 ち、と夕呼ははしたなく舌を鳴らした。
「ほんと、あんたってば嫌な性格してるわね。大人しく手駒になってればいいのに。今のも前の世界で経験済みってワケ?」
「ええ、まあ」武は苦笑した。「何の覚悟もないガキだから、よく試されましたよ」
 今思えば、当時の武を夕呼が信頼出来たはずがないのだから、あれも当然のことだったのだ。夕呼の言葉を全て額面通りに受け取って、一喜一憂していた武を見て、さぞや夕呼はストレスを解消していたことだろう。
「一応訊いておきますけど、BETAの動きを見てから防衛基準態勢を発令したとして、上陸を阻止できる確証はありますか?」
「帝国の動き次第ね……」夕呼は親指の爪を噛んだ。「ぎりぎりで間に合うかどうか……ってところかしら」
 前の世界ではぎりぎりで間に合った……ならばこの世界でも間に合う可能性は高い――が、どの程度までが武の干渉と見なされるかは難しいところだ。ほんの少し未来が変わってしまい、結果、間に合わないという可能性もある。
 やはり、余計な犠牲を最大限減らすためには、前もって帝国軍を動員するのが最善だ。
 だが、万が一億が一ではあるが、BETAが上陸しないということもあり得る。その万が一で夕呼の立場が危うくなり、オルタネイティヴ4の支障となるようなことはあってはならない。
 そうだとわかってはいるのだが、感情はそれを素直に受け入れられない。
 十年も実戦の中で生きてきたはずなのに、まだまだ青臭いガキのままだな――武は内心で自嘲した。
 その自嘲もすぐに消え去り、武の顔には、衛士としての厳しさと真剣さが満ちる。

「――10日付で越中と下越新潟地域の帝国軍に防衛基準態勢2を発令してください」

 意を決して、武は言った。
 すぐに夕呼は不機嫌そうに武を睨め付ける。先程のような演技ではなく、今度は本当に苛立っているのが見て取れた。
「……白銀。あんた、本気で言ってるの?」
「確実にBETAを叩くためです。上陸と侵攻を許せば、必要以上の犠牲が出る……オレは、それを見過ごしたくない」
「――意外ね」ふん、と夕呼は鼻を鳴らした。「あんたがそんな甘いことを言うなんて。オルタネイティヴ4を成功させるためなら、多少の犠牲は黙って受け入れるとばかり思ってたわ」言葉の端々に嘲弄するような響きを滲ませて、夕呼は言う。「十年以上も戦場で生きてきたって言う割に随分と青臭いわね」
 そんなことは言われなくても百も承知だ。自分がガキのままだということは、他の誰でもない武自身が誰よりも知っている。
 それでも、譲るつもりはなかった。
 ここで不要な犠牲を受け入れてしまったら、世界を救うなど、もう口に出来なくなってしまうように思えた。
 手を汚すことは厭わない。必要であれば、いくらでもこの手を血溜まりに浸そう。血の海に身を投げたっていい。
 けれど。
『道を指し示そうとする者は、背負うべき責務の重さから……目を背けてはならないのです。そして……自らの手を汚すことを、厭うてはならないのです』
 その言葉は……武に道を示してくれた彼女の言葉は、そんな軽い物ではない。
 背負うつもりもない犠牲を出すことは、決して認められない。
「必要な犠牲は受け入れるし、ちゃんと背負います……でも、余計な犠牲を出すつもりはないと言っているんです。――それが、オレがこれまでに犠牲にしてきた人達への、せめてもの礼儀です」
 前の世界、武は多くの人達を犠牲にした。何十何百……いや、それこそ何万もの英霊達の挺身の上に、武の生はあった。何も残すことの出来ない死を引き起こしたとあっては、彼らに合わせる顔がない。
 衛士は、決して英霊達の挺身を無駄にはしない。
 そして、その重さを誰よりも理解しているのは――。

 武は、夕呼の顔を正面から見つめた。
「……夕呼先生、あなただってそうじゃないんですか? オレには、先生が必要以上の犠牲を黙って受け入れられるような冷酷な人間には思えません」
 そんな女性であるからこそ、武は彼女を尊敬し、彼女の力になりたいと、心から思えるのだ。
 単にオルタネイティヴ4の中心人物であるから……この世界を救える可能性を持つのが夕呼だけだからというわけでは、決してない。
 香月夕呼は、白銀武にとって、いかなる世界においても先生だった。
 十三年前のクリスマス……あの日、夕呼が流した涙を知っている。あの涙は、嘘ではない。
 十年前の6月8日……あの日、夕呼が託した想いが息づいている。あの想いは、嘘ではない。
「…………」
 夕呼は、武を見つめ返したまま、何も言わない。まるで、この沈黙をどうにかするのはあんたの仕事でしょ、とでも言っているかのようだった。
 自分のそういった甘さを、表立って認めるのが嫌なのだ、香月夕呼という女性は。そういった意地っ張りな一面があることも、武は知っていた。
 だから、沈黙を破る。声に、確固たる決意を宿して。
「オレに賭けて下さい、夕呼先生。今更オレのことを疑ってるわけでもないでしょう?」
「まあ……社のリーディングの結果もあるからね。――けど、あなたを疑ってはいないからといって、無条件に信用するわけにはいかないわ。信頼と信用は別の問題よ」
 XM3の開発や207B分隊の錬成といった実績で、既に夕呼の信頼は勝ち取っていると言える。それは、先日搬入された不知火・弐型からも明らかだ。
 では、信用はどうか。
 それについては、半々といったところだろう。軍人としての武は信用していても、それがイコール武の持つ未来の情報への信用を意味するわけではない。
 当然だ。これで危険な橋を渡るのは夕呼だけではない。夕呼が危険な橋を渡るということは、オルタネイティヴ4という大荷物までもが、ひいては全人類が共に渡るということでもあるのだ。
 背負っている物が大きすぎる。
 おいそれと危険な橋――綱渡りのような可能性の上を渡ることは出来ないのだ。ベットの額が大きすぎる。
 ならば、武がその橋を堅固にする手助けをしてやればいい。
「――オレに考えがあります」
「……いいわ。言ってみなさい」
「はい。11日の早朝から、新潟帝国軍に越中・下越での実弾演習の予定をねじ込むっていうのはどうですか? 出来れば厚木基地の帝国軍との合同演習という形で。有事に際しては共同防衛に当たる、っていうおまけを付けてくれれば、言うことありません」
「つまり、BETAが侵攻してきたとき、たまたま上陸場所に軍が展開していて、たまたま実弾演習が行われていた……だからそのままBETAとの戦闘に突入した……っていう体裁を取れってことかしら?」
 夕呼はにやりと唇の端を吊り上げた。それを見て武も口許に笑みを散らし、頷く。
「それなら、先生の言う危ない橋っていうのも、少しは丈夫になるんじゃないですか?」
 見方によっては、直後の有事に備えて実弾演習を始めたとも取られかねないが、そもそもBETAとはその行動が一切予測不可能な、一種の天災である。まさか未来を知る人間がいるとは誰も思わないだろうから、どれほど追及しようとも、“たまたま”以上でも以下でもなくなってしまうだろう。
「わかったわ。あなたの言うとおり、越中・下越新潟地域で新潟と厚木の帝国軍の実弾演習をねじ込んでおいてあげる」
「――ありがとうございますっ」
 深々と武は頭を下げた。
「やめてよ、もう……こっちとしても試したいものがあったし、丁度いいわ」武は首を傾げるが、夕呼はそれを追い払うように手を振ってくる。「ほら、さっさと自分の仕事に行きなさい。あたしは脳細胞休ませるのに忙しいんだから」
 了解、と口だけで答えて、武は夕呼に背を向け、駆け出した――が、ジャングルの手前で振り向いて、思い出したように言った。
「あ、そうそう……11日、A-01にオレ、同行しますからね。演習なら特別参加ってことで誤魔化せるでしょ?」
「は……?」
「――それじゃっ」
「ちょ、ちょっと待ちなさーいッ!」
 背中に投げ掛けられる夕呼の声を無視して、武はジャングルの中へと飛び込んでいった。


「……鎧衣、体は大丈夫?」
 その夜、207B分隊の五人は、第一チェックポイント付近の、ぽっかりと木々が跡切れた小さな空間で野営をしていた。
 現在の哨戒は千鶴。そろそろ交替の時間だということで、冥夜と美琴を起こしたところだった。
 ちろちろと揺れる焚き火の橙色の炎が、千鶴の頬を濡らすように照らし、眼鏡に反射している。
「大丈夫だってば。千鶴さんは心配性だなぁ、もう」
 美琴は笑って答えた。
 つい先程まで仮眠を取っていたからか、言葉通り、表情に疲れの色は見えない。だが、まだ一日目。依然油断は許されない状況だと言える。
 美琴が千鶴を心配性と言うのも無理はない。何しろ、これでこの質問は今晩五度目。美琴だからまだしも、他の人間ならば、煩わしく感じてもおかしくなかった。
「でも……」
 尚も心配そうな千鶴に、
「確かに、榊は鎧衣を心配しすぎだ」美琴と同じく仮眠から目覚めたばかりの冥夜が言った。「復帰して間もない鎧衣の体力を気遣う気持ちはわかる。だが、もう少し鎧衣を信じてはどうだ? そなたらしくもない」
「私らしくないって、どういう意味よ、御剣」
 言葉は刺々しいが、口調はむしろ朗らかで、笑みさえ滲んでいた。が、
「……人の心配よりもまずは自分の心配」
 いつの間にか目を覚ましていた慧が、千鶴には聞き取れない程度の小声でぼそりと言う。しかし、静まり返った無人島の夜、他の四人が黙っていれば、それが千鶴の鼓膜に届かないはずがなかった。
「何か言ったかしら?」
「……何が?」
「何がじゃないでしょう」
 腕組みをして千鶴は言う。
 ――いかぬな、これは前触れだ……。
 冥夜の内心を知ってか知らずか、慧はにやりと笑い、
「…………どういう意味?」
「あなたって人は……ッ!」
 握った千鶴の拳が震えている。怒髪天を衝くの言葉通りか、千鶴の太い三つ編みが、体の震えに合わせるようにして反り上がる。
 またいつものパターンか――冥夜が思わず溜息を吐き、仲裁のために声を掛けようとした瞬間だった。
「喧嘩はいけませーんっ!」
「喧嘩は駄目だよっ!」
 壬姫と美琴、二人の大音声がユニゾンしたのだった。
 誰もが予想しなかったであろう仲裁の言霊に、五人――声の主である壬姫と美琴まで含め――は揃って無言になり、顔を見合わせ――今が総戦技演習中であることを忘れたかのように、笑い合ったのだった。

「もう、今は眠って体力を回復しなくちゃいけないはずなのに……」
 一頻り笑い終えた後、千鶴は木の棒で焚き火を突きながら呟いた。桜色の唇は緩やかな孤を描いている。
「まったくだ。哨戒の交替時間であった故、私と榊、それに鎧衣が起きていたのは自然だが……」ちらりと慧と壬姫を見やる冥夜。「まさか彩峰と珠瀬までもが目を覚ましているとはな」
「うん。あれには驚いたよね」
「……びっくり」
「あはは……彩峰さんが驚く場面じゃないよー」
 今は五人揃って火を囲んでいた。
 千鶴、冥夜と美琴、慧と壬姫の三グループに分かれて、順に仮眠と哨戒を担当する手筈になっていたのだが、五人が五人すっかり目を覚ましてしまっている。本来は冥夜と美琴が担当するはずの時間だった。
 千鶴は一つ吐息し、
「まあいいわ。折角だから、今の内に明日の作戦について話し合っておきましょう……いいわね?」
 千鶴の言葉に頷くと、「それじゃあ、こっちに寄ってもらえる?」と続いた言葉に従い、五人は千鶴の傍へと集まっていく。
 四人の顔を見渡し、千鶴は地図を広げた。辺りは闇に覆われているが、焚き火の明かりでどうにか読み取ることが出来た。
「今私達がいるのが……」千鶴は地図に記された赤い×印の一つの隣を指差す。「この辺り。そして――」つつ……と指を滑らせ、丁度地図の中央辺りに書かれた×印の上に置く。「ここが、次に私達が目指すことになる第二チェックポイント」
 四人――いや、千鶴を含めた五人の顔が、一斉に強張る。
 それも当然だろう。第二チェックポイントを示す×印は、斜線に囲まれている。即ちそこは、仮想敵出現エリア……武とまりもという二人の狩人の狩り場なのだ。
 武の白兵戦能力に関しては、先日思い知らされたばかりだ。まりもの実力に関しても、これまでの訓練で嫌というほど見せつけられている。
 数時間前に武が口にしたことではあるが、あの二人を無力化するのは、あまりにも非現実的と言わざるを得ない。
 何しろ、あの二人を倒すどころか、地に膝を突かせる光景さえイメージできないのだ。
 それが、自分達とあの二人との間に横たわる、実力と経験という絶対的な差なのだろう。
「正面から当たっても、全滅するのは目に見えてるわ」
「うむ。白銀教官も神宮司教官も、歴戦の強者だ。五対二という数字がアドバンテージになるとは考えぬ方が良いであろうな」
「やっぱり、どうやって二人を避けてチェックポイントに進むか考えなくちゃねー」
「……逃げる?」
「けど、教官達は受信器でボク達が近くにいるってわかっちゃうんだから、それは難しいんじゃないかな」
 どこかで武かまりもと出会すことは覚悟しなくてはならない。
 あの二人を完全に出し抜くことなど不可能だろう。発信器なしにこちらの動きが読まれたとしてもおかしくない。
 彼女達にとっては、それほどの存在なのだ、あの二人は。
 五人が五人、無言で地図を見つめている。何も、手がないわけではないのだ。斜線の引かれたエリアは、丁度Gの字を描くように縁取りされた空白部分が広がっている。第二チェックポイントは、そのGの字型の空白部分に位置していた。
 つまり、遠回りすれば、確実に二人に出会さないようにしてチェックポイントに辿り着くことも可能なのだ。
 千鶴がそのことを口にすると、
「でも、それだと間に合わないんじゃ……」
「珠瀬の言う通りだ。七十二時間は、迂回しなかったとしても、余裕があるとは言えぬ。可能な限り時間の短縮を目指すべきではないか?」
「そうね。私もそう思うわ……彩峰、鎧衣、あなた達はどう思う?」
 ほう――千鶴のその言葉に、冥夜は内心で感嘆の声を漏らした。
 先程から感じていたことではあるが、千鶴はやけに周囲に気を配っている。冥夜達の考えを積極的に取り入れようとするなど、これまでのような頑なさがなくなっているように思える。
 千鶴の頭の中には、既に作戦の形があるのだろう。だが、無理にそれを通そうとするのではなく、仲間達の考えを取り入れることで、隊全体としての作戦をそこから構築し直そうとしている。今日一日だけでも、作戦立案に関しては、随分と余裕が出て来たようだった。
 自分の欠点を改善しようと必死なのだろう。
 ただ、千鶴の場合、少々行きすぎているような気もするが。それが何とも千鶴らしくて、冥夜は唇の端を緩めた。
「そうだね……ボクも遠回りは出来ないと思う。どんなトラップがあるかわからないし、もしもに備えて出来るだけ時間には余裕を持っておきたいかな」
「同じく」
 そういえば、壬姫や美琴も積極的に自分の意見を発しているようだった。
 誰もが、この総戦技演習に合格するために、自分に出来ることをしようとしている。
 こうも隊の空気が変わったのは、やはり武が来てからだ。あの若い少佐がこの基地に現れてから、沢山の変化が、彼女達にはあった。明確な目標が出来て、その目標に叩きのめされて、諭されて。
 少しずつではあるが、確実に前進している。
 この総戦技演習に入ってから、冥夜はそのことを実感し始めていた。
 ――私も成長出来ているのだろうか……。
 今はまだわからない。けれど、この演習に合格出来たら、その時は胸を張って成長したと言えるに違いなかった。

「それじゃあ、作戦を説明するわよ」全員の顔を見回して、千鶴が言った。「……まず、装備の確認をしておきましょう」
 それに頷いて、五人はそれぞれ所持していた装備品を各々の前に置いた。
 拳銃が三挺、マガジンが予備と合わせて三つ。突撃銃が一挺、マガジンが予備含めて二つ。模擬短刀が五振り。それにロープが一本。
 いずれも、第一チェックポイント――友軍基地跡と思しき廃墟――で見付けた物だ。他にも幾つかの装備を見付けたものの、全て使いものになりそうもない状態だった。
「まず、短刀が一人一本……これは確定ね。あとは拳銃と突撃銃の分配だけど……」
 何か考えはある? と問い掛けるような千鶴の視線に応えるように、一本、手が上がった。
 千鶴が何度も目をしばたたかせる。同じように、残る三人の表情もまた、凍て付いたと紛うほどに驚愕で固まりきっていた。だが、それも無理ないことだろう。――何しろ、その腕の主は彩峰慧その人だったのだから。
「……やっぱりやめた」
「言いなさいよッ!」
 ぷいとそっぽを向いてしまった慧に向かって、千鶴ががなるが、
「…………何を?」
「あなたねぇ……」
「……落ち着け、榊」こめかみを押さえて呻く千鶴を宥めると、冥夜は慧へと視線を向けた。「そなたもだ、彩峰。今はそのようにふざけている場合ではなかろう」
「ん」
 反省しているのかいないのか、表情から読み取ることは出来ないが、慧はこの期に及んで冗談を言うような人間ではない。
 慧は威圧するような鋭い視線を千鶴に注ぎながら、ぼそりと言う。
「私がロープ。榊と御剣と鎧衣が拳銃で珠瀬が突撃銃……それが一番」
「意外と普通だね」
 拍子抜けした様子で美琴。彼女としては、慧のことだから奇抜なアイディアを提案してくると思ったらしい。
「ま、ね」
 慧はそれに気を悪くした様子もなく、何故か不敵に笑って応える。
「確かに意外性はない考えだけれど……」
「……何?」
 不満そうに千鶴を睨む慧。千鶴はその視線に、慧のお株を奪うかのような不敵な笑みで応え、
「私は彩峰に賛成よ。下手に奇を衒うよりも、装備は各々の力を最大限に発揮出来るようにすべきだわ」
 慧には、武をして『純粋な技術だけだと、オレより彩峰の方が上かもな』と言わしめる体術がある。慧にはナイフ一本で武と渡り合えるだけの能力があるのだ。それに、身体能力を考慮すれば、様々な使い道のあるロープは、慧に持たせるのが妥当なところだ。
 冥夜も慧に負けず劣らずの近接戦闘能力を有しているが、その本分は剣術。ナイフで不足する分は、拳銃で補うのが妥当だろう。
 突撃銃を壬姫に持たせるのもまた必然と言える。何しろ壬姫は、上がり性という欠点さえ除けば、紛れもない東洋一の――それどころか世界一さえ狙える――スナイパーなのだ。壬姫の狙撃能力があれば、障害物となる木もさほど問題にはならないだろう。
 千鶴と美琴に拳銃を持たせるのは、冥夜の理由に近い。近接戦闘能力で武やまりもに後れを取る二人は、拳銃でその差をカバーするしかなかった。
 特に美琴の場合、身体能力に秀でているわけでもないし、何より病み上がりなのだ。近接戦闘をせずに、中距離からの銃撃が彼女の攻撃手段の主となる。それでも、接近を許した時のために、短剣は必要だ。それは壬姫も同じことだった。

「それじゃあ、基本的な隊形はこれでいいわね?」
 四人が黙って頷く。
 東の空には、薄紫色の光が広がり始めていた。
 木の棒を使って地面に描かれているのは、三角形に近い台形だった。前衛として左に冥夜、右に慧を配置し、中衛の左翼が千鶴、右翼が美琴。後衛に壬姫を配置する、楔形の陣形だ。
 理想としては武やまりもと接敵することなしに第二チェックポイントまで辿り着きたいところではあるが、遠回りという選択肢を捨てた今、それは不可能だろう。
 だからこそ、その時にどれだけ早く、どれだけ少ない犠牲で、どれだけ効率的に二人を足止め――あわよくば排除――出来るかどうか……それに、この演習の合否は懸かっていると言っていい。
 それが故の楔形陣。何よりも突破力を重視し、一分一秒でも早く仮想敵出現エリアを抜ける必要がある。下手な戦力の分散は、却って全滅を招きかねない。二対一三対一で撃破出来る相手ではないのだから。
 千鶴のその提案に異を唱える者は、一人としていなかった。
 この場の誰もが意外に思っていたかもしれない。
 五人全員の意見が一致し、全員の意思が完全に一つにまとまっている。自分だけでなく、隊全体として力を最大限に発揮する方法を、誰もが模索している。
 だから、これは必然。ようやく形になり始めてきた、207B分隊というチームの、あるべき姿だった。


 2001年11月5日(月)


「はっ、はっ、はっ……!」
 幾つもの荒い呼吸が重なり合っている。見事な重奏とはとても言えない、てんでばらばらな、雑音の集合。だが、それこそが彼女達の置かれた状況、彼女達の抱えた緊張、彼女達を取り囲む重圧を物語っていた。
 張り裂けそうな肺も、胸郭を突き破りそうな心臓も、枝葉に切り裂かれる肌も、震え崩れ落ちそうな脚も意識の外に無理矢理に追いやり、は脇目も振らずにただただ走っていた。
 ――何だというのだ、あれは……!
 木々の間を全力で駆け抜ける冥夜の脳裏に、幾度目かの問いが過ぎる。
 答えなどない。けれど、自問せずにはいられなかった。
 ――アレは何なのか、と。


 一瞬だった。正しく、一瞬の出来事だったのだ。

 周囲に注意を巡らせながら、密林の中を五人は行軍していた。口数は少ない。時折、既に恒例となった『鎧衣、体は大丈夫?』という千鶴の声と『まだまだ大丈夫だよ、千鶴さん』という美琴の返答が繰り返されるくらいだ。
 冥夜は、ベルトに差した模擬短刀の柄に右手をかざしたまま、じっとりと額に滲んだ汗を拭った。
 背筋を伝う冷たい感触は、暑さの所為だけではない。最大の原因は、言うまでもなく二人の仮想敵だった。
 既にここは仮想敵出現エリア。いつ武達が襲い掛かってくるかわからない。
 神経が擦り切れていくのを、冥夜は生まれて初めて実感していた。冥夜だけではない、五人全員が、極度の重圧に精神を磨り減らしていた。
 いつ、どこで、どのように、敵が襲い掛かってくるかわからない恐怖。
 精神への負担はそのまま肉体への負担へとその性質を変える。次第に足取りは重くなり、呼吸は荒くなる。熱帯特有の熱く湿った空気がそれに拍車を掛け、前を向いていたはずの顔が地面を睨もうとする。
 しかし、この場にいる五人はいずれも、そのような弱音に屈する程度の器の持ち主ではなかった。
 前を向き、大地を踏み締める。一歩一歩前へ進む。見据えるは地面ではなく未来。戦術機を駆り、己が手で人類の仇敵たるBETAから人々を護る、衛士という遥か高き目標を見つめて。
 ……それでも、刻一刻と奪われていく体力を誤魔化し続けることは出来ない。
 最初に表情を苦悶に歪めたのは、十分な体力を取り戻していない美琴だった。それを見かねて、幾度目かの『鎧衣、体は大丈夫?』が千鶴の口から発せられようとした――その時だった。
「――何か、嫌な予感がする」
「――走って」
 美琴と慧、二人が唐突にそう訴えたのだ。二人ともほぼ同時。何事かと美琴と慧は顔を見合わせた。
「……どういうこと?」
 無意識の内に声を潜めて、千鶴は問うた。
「何となくだけど、このまま進んでいくと、罠がありそうな気がするんだよね」
「……急がないと手遅れになる。早く走って……!」
 進むなと言う美琴と、走れと言う慧。相反する二つの主張。
 どちらの主張を優先すべきか……それは、一見以上に難しい問題だった。美琴も慧も、虫の知らせとでも言うのか、類い希な鋭敏な勘の持ち主だ。
 特に、美琴の勘を尊重すべきだということは、半年前の総戦技演習で嫌と言うほど身に染みている。
 かといって、慧の直感を無視することも出来なかった。彼女の必死な表情を見れば、それが切り捨てられる類のものでないことは、千鶴には経験から類推出来る。
 どうする? と冥夜は視線で千鶴に問い掛ける。壬姫は不安そうな眼差しを千鶴に向けていた。この場で不要な主張をすることは、千鶴の思考の妨げにしかならない。そうと理解しているからこその無言であり、千鶴を信頼しているからこその沈黙であった。
 やがて千鶴は足を止め、
「――走るわよ」
 そう、結論を下した。
「榊!?」
「千鶴さん!?」
「榊さん!?」
 冥夜、美琴、壬姫の三人が一斉に驚呼した。そして当の慧本人もまた、自分の意見が採用されたことに驚きを隠せずにいる。見開かれた目と、中途半端に開いたままの口が、その証左だった。
「みんな落ち着いて」と千鶴は四人を宥め、「鎧衣の勘を軽んじているわけじゃないわ……いいえ、むしろ鎧衣の直感は尊重するつもりよ」
 それが前回の総戦技演習で得た教訓であり、この言葉が、武の言を受けて身に着けつつある、千鶴の柔軟さの表れでもあった。
 千鶴は続ける。
「少しだけ遠回りになるけれど、ルートを変更するわ」微かな木漏れ日と体に染み付いた感覚で方角を確かめ、「一度北西に進路を変更した後、北北東に向かって、元のルートに戻すことにしましょう……鎧衣の直感で最低限の安全は確保しておきたいものね」
 現在の進路はほぼ真北。それを一度北西に向け、北北東に向け直すことで修正すると言えば単純そうに聞こえるが、実際はそう容易いことではない。
 土地の起伏、崖や川などの地形的障害、群生する木々の密集の度合い、予め仕掛けられていた人為的トラップなどなど。そもそも進路とはそういった条件により変更を余儀なくされるものだし、予定通りの進路で行軍出来る可能性自体が小さいのだ。
 だから、大幅に進路を変更する千鶴の案は、無謀であると言わざるを得ない。
 最悪、自然という最悪の障害物に遮られ、進退窮まる可能性だってあるのだから。
 それでも、誰一人として千鶴の決定に異を唱える者はいなかった。
 この五人ならば乗り越えられる――そんな、奇妙な確信があった。根拠などない、けれど揺らぐことのない自信。一人では無理でも、この五人でなら……誰もが、そう思っていた。
 故に言葉は不要。首肯という沈黙は、けれど何よりも雄弁に団結を物語る。
 信頼関係というゴルディオスの結び目よりも強固な、いかな利刀を以てしても断ち切ることなど出来ぬであろう絆の確かな存在を確かめ合い、五人は一斉に大地を蹴った。

 ――その刹那だった。
 閃光と見紛うばかりの影が、一陣の風となって駆け抜けたのは。

「――ッ!?」
 予期せぬ衝撃に悲鳴をあげることさえ出来ずに、壬姫の体は宙に浮いていた。
 凍り付く四人。今目の前で起こった光景が理解出来ない。理解出来たのは、突然壬姫の姿が掻き消えたということだけ。
 驚殺は、声と感情と思考を、四人から――否、壬姫も含めた五人から完全に奪い去っていた。
 ――そして、それが次なる致命的失策の引金だった。
 影は着地と同時に壬姫の体を地面に――余裕の表れか気遣いか茂みの上に――横たえると共に手を突き、その手を軸に独楽のように反転、再び高速の弾丸と化して残る四人に襲い掛かる。
「散って!!」
 真っ先に我に返ったのは慧だった。臨機応変を信条とする彼女だからこそ、いち早く影の襲撃に対して反応出来たのだった。
 三人がその場を飛び退く。
 そう、三人だ。その場には、一つの影が残っていた。美琴の姿が。
 普段の彼女であれば、慧とほぼ同時に思考力を取り戻し、誰よりも迅速に回避行動に移ることが出来ただろう。それが出来なかったのは、偏に、万全からはほど遠い体調の所為だった。低下した体力が極限の緊張状態を助長し、それが精神力を削ぎ落とし、ここぞという瞬間での反応速度の低下を招いた。
 だが、それこそが実戦。体調不良であろうと、準備不足であろうと、容赦なく襲い掛かる。何一つとして言い訳になどならない。万全の状態で待ち受ける戦場など、奇蹟の産物だ。重要なことはいつだって準備不足で、いつだって十全には届かない。
 彼女達は知らない。襲い来る“影”はその戦場に生き、そして死んだ人間であることを。絶えず死の危険と隣り合わせの、死に塗れ死に溢れ死に埋め尽くされた戦場で、満身創痍のまま、半死半生に陥ろうとも、壊れかけの鋼鉄の巨人で戦場を駆けた、歴戦の衛士であることを。
 ぐるん――美琴の視界が、突如として回転する。
 脚を刈り取られたのだと気付いたのは、腹と背に鈍い衝撃が走るのと同時だった。
「珠瀬! 鎧衣――ッ!」
 誰かが名前を叫ぶ声が、二人の耳朶を打った。
 一人か、それとも二人か……あるいは三人。仲間達が呼んでいる。少しずつ遠ざかっていく声。
 大丈夫。三人は目的を見失っていない。この総戦技演習の至上命題は、三つのチェックポイントを回り、一人だけでもゴール地点に到達することだ。制限時間は七十二時間。
 あの三人なら、きっと乗り越えてくれる――二人は、そう信じていた。
 だって。
「――アイツらを信じろ、鎧衣、珠瀬。アイツらなら、きっと大丈夫だ」
 こんなにも心強い太鼓判を押してくれる人がいるのだから。
 だから、二人は呟くのだ。
「頑張って、みんな」
 と。


 それが、今から数分前。
 先程取り決めた進路など、誰一人として覚えていなかった。散った三人は気付けば再度合流し、第二チェックポイントに向かって、ただただ全力で疾駆するだけだ。一秒でも早く、一メートルでも遠くへ逃げなければ、次に捕まるのは自分だという確信があった。
 時間にして三秒となかっただろう。だが、その僅か三秒足らずの間に、二人が完全に無力化されてしまったのだ。
 確かに壬姫も美琴も白兵戦が得意とは言い難い。
 だが、不意打ちであったとはいえ、これまで厳しい訓練を共にくぐり抜けてきたあの二人が、ああも簡単に倒されてしまうなど、誰が予測出来よう。
 壬姫が潰されてしまったのは、五分の一が欠けたという以上に大きな痛手だった。207B分隊にとって最大の攻撃力を持つ武器であった突撃銃もまた壬姫と共に失われてしまったためだ。あれがあれば、足止めどころか、武を撃破することだって出来たのかもしれなかったのに。
 まさか武は、それを見越して真っ先に壬姫を撃破したのだろうか。
 207B分隊の教官である武には彼女達の特性など全てお見通しなのだ、作戦まで完全に見抜かれていたとしてもおかしくはない。
 ――あれが、本物の衛士の力……!
 ぎり、と千鶴は奥歯を噛み鳴らし、次いで熱っぽい呼吸を零した。
 まさか、楔形陣の後方から襲い掛かってくるとは、思いもしなかった。全速力で行軍しようという楔形陣が、そのような方向から崩されるという可能性を、最初から切り捨てていたのだ。
『――走って』
 切羽詰まった様子の慧の言葉が思い出される。
 決断があと一秒早ければ。いや、あと一瞬でも早ければ……そうすれば、二人もの犠牲を出すことなどなかったかもしれない。
 そして、『散って!!』という慧の叫び。あれがなければ、今頃207B分隊は全滅していたかもしれない。
 慧の直感には感謝してもしきれない。
 ちらりとそちらに視線を送ると、何? という視線が返ってくる。
 ……不思議だ。姿の見えない武に追われているというこの絶望的な状況にもかかわらず、奇妙な安心感がある。このままがむしゃらに走り続ければ、武を振り切れるのではないかと、そう思えてしまう。
 千鶴は、先日武に言われたことを思い出していた。
『何だかんだ言って、一番彩峰の実力を認めてるのは榊、お前だと思うんだがな』
 まったく、その通りだった。頭を掻きむしりたいくらいに癇に障ることではあるが、今この状況において、千鶴が最も信頼を寄せているのは、実質的な隊の副官である冥夜ではなく、彼女にとって最も信頼という言葉から遠い位置に立っていたはずの慧だった。
 どうかしていると、自分でも思う。よりにもよって、彼女の存在をこの上なく心強く思うなんて。

 だが、その微かな胸中の穏やかさも、長くは続かなかった。
「――急いで、追い付か、れる……!」
 喘ぎ喘ぎ慧が言う。
 まさか、もう追い付いてきたなんて――そんな甘い思考が一瞬脳裏を過ぎるが、千鶴はそれをすぐに切り捨てる。
 相手はあの白銀武だ。この密林の中での行軍速度だって、千鶴達よりもずっと速いに決まっている。
 ――ぞくり、と背筋に凍り付くような怖気が走った。
 全身の肌に滲んだ汗が一瞬で冷たくなり、灼熱の大気が喉を焼いていくかのようだ。
 来てる――千鶴は確信していた。
 武の気配はない。どこに武がいるのかなど、想像も付かない。――だが、武が迫ってきていることだけは、間違いなかった。
 この重圧こそがその証明。ただ、どこかにいる……近付いてきている……ただそれだけで、膝が屈しそうになる。
 それでも千鶴が駆け続けることが出来るのは、自分が一人ではないという安堵のためだった。
 追い込まれた状況だからこそ、仲間がいることの心強さがよくわかる。
 正しくそれは武の思惑通りであったのだが、千鶴はそれを知る由もない。いや、そもそも、そんなことを考えている余裕などありはしなかった。
「ッ……!」
 背中にのし掛かる重圧に、千鶴は思わず首だけで振り返る――が、直後にそれを後悔することとなった。
 ――いる。
 確信が、確証を得た。視界の端に一瞬映った影、それは紛れもなく武のものだった。三人よりもずっと速く、滑らかに、武は密林の中を駆けてくる。
 武は、既に三人を射程圏内に捉えていたのだ。
 このままでは追い付かれることは、最早、火を見るよりも明らかだった。追い付かれれば犠牲が出るのは必至。三対一であろうとも、一人の犠牲もなく武を無力化することなど出来ようはずもない。最悪、三人全員がここでリタイア、衛士への道が完全に閉ざされることにもなりかねないのだ。
 どうすればこの状況を打破出来るのか……千鶴の脳は、瞬時にその答えを導き出していた。
「二人、とも……聞い、て……ッ」弾む息に言葉を跡切れさせながら千鶴は、併走する冥夜と慧に呼び掛ける。「この、まま、じゃ……全滅、するわ……ッ……だか、ら――」
「――ならん、ぞ、榊……ッ!」
 しかし、作戦を伝えようとした千鶴の声は、最後まで紡がれることなく遮られた。
「みつ、る、ぎ……!?」
「そなた、が、いなく、なったら……ッ、誰、が隊、を……まとめ、ると、いうのだ……ッ!」
「それは、あなた、が――」
「甘えるで、ない――ッ!!」
 弱々しく上擦った、けれど体の芯を震わせるほどに力強い冥夜の声に、千鶴だけでなく、二人の会話に耳を傾けていただけの慧までもが、目を大きく見開いていた。
「榊、そなた、が……我、々……ッ……の、隊、長、なの、だ……ッ! その、責務、を、このよう、なところで、放棄、しよう……と、いう、の、か……ッ!」
 彼女は、ただまりもから分隊長の役割を押し付けられただけではない。たとえ始まりはそうであったとしても、彼女自身が率先して分隊長という役割を果たし、彼女なりに分隊をまとめあげようとしていたのだ。
 彼女の中の甘え――各々の抱える政治的背景を理由とした相互不干渉――が邪魔をしてそれは叶わなかったが、207B分隊の分隊長であろうとしたのは、他ならぬ彼女の意思だ。
 自らの意思で人の上に立った者は、一つの集団の軸となった者は、決して逃げ出してはならない。揺らぐことは許されない。それが力ある者の責務だ。
 だからこそ、冥夜は千鶴にその先を言わせなかった。
 それは、分隊長という役割を放棄して逃げ出すことにも等しいから。
 挺身とは尊い行為だ。それが褒め讃えられることもあるだろう。だが、今はその時ではない。分隊長――この分隊の中心たる千鶴が分隊から欠けていいのは、もっと先のことだ。
「――榊、マガジン、を……!」
「みつ、るぎ……」
 千鶴の顔に浮かぶ、一瞬の逡巡。しかし千鶴はそれを振り払い、ベルトキットに差していた弾倉を一つ、冥夜に向けて差し出した。
 交差する二人の視線。
「……二人、とも、あとは……頼ん、だ、ぞ……ッ!」
 後方を確認しながら言う冥夜。
 それに応えたのは、
「……任せて。私達なら――負けない」
 これまで会話の傍聴人に徹していた、慧だった。

 苦悶に歪む顔に不敵な笑みを浮かべる冥夜。
 弾倉を受け取るや否や模擬短刀を引き抜きながら反転、スライドを引き、武がいると思しき場所に向けて、冥夜は十五発の銃弾を続けざまに撃ち放った。
 9mmパラベラム弾を模した褐色の塗料が木肌を、地面を染め上げる。だが、命中はゼロ。既に武の姿はそこにはなかった。
「くっ……」
 舌打ち代わりに喉を鳴らし、マガジンをリリース、すぐさま予備のマガジンを装填、スライドを引いて薬室に銃弾を送り込む。
 それらの作業を終えたところで、ようやく摩擦力に打ち消された慣性が、冥夜の体を静止させた。
「はっ、はっ、はっ……ッ――」
 運動は止まったというのに、いつまで経っても呼吸は落ち着いてはくれない。それどころか、早鐘を打つ心臓ともども、さらに激しくなっていた。
 鎮まるように自分自身に言い聞かせても、何の意味も成さない。まるでボールが坂道を転がり落ちるように、際限なく加速していく。
 ――それでも、冥夜は、昂揚を御する術を知っていた。
 体の熱に逆らうのでもなく、暴れそうな心を抑え付けるのもはなく、ままならぬ心配に苛立つのでもなく。明鏡止水の境地で、ただ真っ直ぐに己と向き合う。
 光風霽月、輪をもって為す――冥夜が修めた剣術、無現鬼道流の極意の一つ。
 冥夜の心は、限界に近い体とは裏腹に、どこまでも澄み切っていた。不思議なほどに穏やかな心境には、一点の迷いもない。覚悟が力に変わる。決意が一歩を踏み出させる。己の全てを信じることが出来る。
 その全ての後押しは、背を向けた先へと遠ざかっていく二人の朋友の存在だった。
 ――ここで、タケルを食い止めてみせる……。
 それが不可能であることぐらい、冥夜にもわかっている。刀があればともかく、冥夜と武とでは、近接戦闘能力があまりにも異なる。
 しかし、今の冥夜に悲壮感はなかった。
 自分のなすべきことをする……ただ、それだけだ。

 ちりちりと首の産毛が火花で炙られているような感覚。心地良い緊張感と、身を削るような重圧――それが、突如として燃え上がった。
「シッ――!」
 鋭く息を吐き出しながら、冥夜は短刀を振るった。
 そこには、黒い影。肉食獣を思わせる低い体勢での疾駆で冥夜へと肉薄する、武の姿があった。
 しかし、敵も然る者、すんでの所で地面に手を突き、突進の速度を殺すと、転げるようにして短刀の軌道から身を躱してみせる。
 そしてその隙を逃す冥夜ではない。武へと銃口を向けて、引金を引き絞る。けたたましい銃声と共に吐き出される弾丸。地面に穿たれる孔と撒き散らされる塗料。
 極度の疲労により、銃把を保持する腕には十分な力が入っていない。それでは、武に命中させることなど出来るはずがなかった。
 焦燥が募る。次の攻撃を捌ききれる確証はない。水鏡のような心境に小さな波紋。一瞬の漣――それが、再びの武の接近を許した。


 ……時は僅かに遡る。
 壬姫と美琴を捕まえることに成功した武は、二人にスタート地点に戻るように指示した後、再び駆け出した。
 武とて、彼女達五人を衛士にしたくないわけではない。むしろ、彼女達には衛士になって欲しいと思っている。五人は、いずれも一流の衛士になれる素質を持っている。その素質は、必ずや人類を護る剣と盾となるであろうし、武にとっても、彼女達ほど心強い仲間はいない。
 だが、衛士とはお情けでなっていい物では決してない。
 武が手を抜き、その結果総戦技演習に合格出来たとあっては、彼女達だって納得出来ないだろう。負けず嫌い揃いの207B分隊が、素直にその結果を喜ぶとは思えない。
 だからこそ、武は全力を出すのだ。
 あの五人であれば、きっとこの演習を乗り越えてくれると、そう信じて。
 そうして走ること、およそ十分。受信機が圏内に207B分隊の少なくとも一人がいることを伝えてきた。
 圏内に入ったばかりだから、距離は恐らくまだ九十メートル強。走る方向を間違えれば、すぐに見失ってしまう。
 チェックポイントの位置は無論把握しているが、そちらに先回りするような真似はしない。発信器の反応だけを頼りに追ってこそ、仮想敵の意味があるのだ。
 まだ大雑把な位置も把握出来てはいないが、先程三人が駆け出した方向を考えれば、おおよその見当は付く。
 唇を舐め、武は態勢を低くした。疾走しながらも呼吸を落ち着け、息を潜める。高い心肺機能と、何より強い精神力があってこその芸当だ。実戦でこういった白兵戦技術が役立った経験はないが、鍛錬だけは欠かさなかった恩恵だった。
 やがて、風に靡く青い髪、揺れるおさげ、そしてその先頭を行く後ろ姿が視界の端に映った。
 スピードを落とさずに出来る限り足音を消す。殺気にも似た威圧感だけは発したまま。そして気配を断ったまま、武はまず千鶴へと狙いを定めた――が、次の瞬間だった。
 突然冥夜がスピードを落としたかと思うと、反転して拳銃を撃ったのだ。
 舌打ちして、横へとステップを踏む。通り過ぎたペイント弾が、粘着質な音を立てて散った。
 ――オレを足止めしようってことか、冥夜。
 武は微かに唇の端を歪めた。冥夜が自らの意思で足止めを買って出たのであれば、それは千鶴と慧の二人ならばゴール出来ると信じたからだろう。
 彼女達を追い詰めたのは他ならぬ武自身だが、こうもうまくいってくれると、自分には策士としての才能があるのではないかと調子に乗ってしまいたくなる。
 まだ五合目といったところではあるが、既に武は確信していた。
 コイツらなら大丈夫だ――と。
 誰かが犠牲になって先へ進むというやり方は武の好むところではない。だが、挺身とは残される仲間達への確固たる信頼がなければ成り立たないのも確か。
 それはつまり、彼女達に欠けていた物が、既に構築されたという証左に他ならない。
 千鶴と慧の二人が力を合わせることが出来たなら、まりもとて二人を撃破することは出来ないだろう。勿論、武もまた。
 だからといって、冥夜をこのまま逃がすという選択肢はない。
 素早く冥夜の死角に潜り込むと、
「ッ――!」
 鋭く息を吐き出すと同時、低い姿勢からのタックルを、冥夜の腰目掛けて見舞った。
 これで終わりだ――しかし、そんな武の確信は、予想だにしなかった冥夜の反撃により覆されることとなる。眼前に模擬短刀の刃先が迫っていた。
「っ……!?」
 武の呼吸が止まる。武の攻撃は完全に死角を突いていたはずだ。にもかかわらず、冥夜は完璧に反応して見せた。これが無現鬼道流免許皆伝の実力ということか。
 つくづく、自分の仲間には大した連中が揃っていることを、武は改めて実感する。
 回避は反射に近かった。手を地面に突くことで態勢を崩すと、そのまま横へと転げる。今まで自分がいた場所をペイント弾が染め上げるのを知覚しながら、二回転目が終わると同時に武は跳ね起きた。
 そのまま再び茂みの中へ。ジャングルということで、障害物には事欠かない。
 足音を消し、呼吸を潜めながら、もう一度死角へと潜り直し。
 ――冥夜の意識に生じた一瞬の隙を突いて、地面を蹴った。
 一瞬遅れて冥夜が振り返る。だが、とうに手遅れ。武を迎え撃たんとするならば、刹那の遅れすら許されなかった。
 既に武は冥夜の懐へと飛び込んでいる。
 そしてそのまま、冥夜の腰にしがみつくようにして、タックルを見舞った。
「ひゃぅっ!?」
 何だかとても冥夜らしくない悲鳴が聞こえたような気がしたが、お構いなしに武は体重を預ける。そのまま二人は一体となって、ジャングル独特の湿った地面へと倒れ込んだ。

「あ……」
「ぅ……」
 じくり、と腹部に走った鋭い痛みに体を起こそうとして、はたと武は気が付いた。
 ――顔が、近い。
 先程壬姫を捕まえたときにはすぐに美琴へと標的を切り替えたし、美琴に対してはこのような体当たりを放つ必要はなかった。
 だから、完全に失念していたのだ。タックルなどすれば、体が密着するという当然の帰結を。
 お互いの吐息を肌に感じるほどの至近距離で、武と冥夜は見つめ合う。冥夜の頬は赤く染まっている。もしかしたら、武もそうなのかもしれなかった。
「わ、悪い……」
 そう言って、今度こそ体を起こそうとしたそのときだった。
 ――どくん、と。
 心臓が。
 脈打ち。

 視界一杯に広がる冥夜の顔、唇が重なり合う感触、御剣本家の巨大な屋敷、真っ暗なコクピットで抱き合う、花嫁姿の冥夜、破れた強化装備、そして――

 脳裏に、突如として覚えのないイメージが湧き上がったのだ。
 ――なん、だ……?
 湧き上がった――いや、どこかから流れ込んできた、驚くほどリアルなイメージに、武は体を起こしきることも出来ず、地面に手を突いた格好のまま、冥夜の上に覆い被さっていた。
 数秒が経って、はっとして武は慌てて立ち上がった。
「悪い……ボーっとしてた……」
「き、気にするでないぞ……」
 冥夜の手を取って体を起こしてやる。
 触れ合った手の感触に、武の鼓動はさらに加速していく。自分のそれとは似ても似付かない、白くて柔らかな手の平の感触。
 それを知っているはずなのに、思い出せない。
 何か、大切なことを忘れている気がした。
 それは決して忘れてはならないはずだったのに。強い強い……全てを擲ってでも手に入れようとした物があったはずなのに。
「タケル……? どうかしたのか?」
 心配そうに冥夜が武の顔を覗き込んでくる。
 心臓が脈打つのを感じながら、「なんでもない」と武は平静を装って答えた。
「ならばよいが――」はっとして冥夜は一度言葉を句切る。「申し訳ありません……白銀教官、一つだけお訊ねしてもよろしいでしょうか?」
 今が演習中だということを思い出したのか、冥夜の口調は、教官に対するそれへと変わっていた。
「なんだ?」
「このようなことを私が言うべきではないのかもしれませんが、榊と彩峰を追わなくてもよろしいのですか?」
 冥夜は、ここに武が留まるべきではないと考えたのだろう。二人を追い掛けることこそが仮想敵たる武の役割であり、責務だ。
「あー……それなんだが……」がしがしと頭を掻いて、武は苦々しげに笑みを浮かべた。「冥夜、ここに注目」
 先程のビジョンの所為か、思考の切り替えが出来ていない。そのことに、武は気付いていなかった。
 武が指差したのは、先程痛みを感じた腹部だった。そこだけ、細く表面の汚れが刮ぎ落とされている。首を傾げる冥夜に、武は続いて足許に転がる金属――冥夜の落とした模擬短刀を示した。
 冥夜が拾い上げたそれの先端には、薄く汚れが付着している。
「致命傷とは言えないが、行動を制限するには十分だ。撃破された場合、オレ達は三十分間行動を停止する――そういうルールだったな?」
 それは、単なる偶然。タックルで冥夜を押し倒した時、たまたまナイフの先端が武の腹部を抉ったという、それだけ。それだけのことではあるが、それは武の油断が招いた、立派な負傷である。模擬短刀でなく本物の短刀であったなら、戦闘には大きな支障が出ていただろう。それだけの傷を負ったのであれば、それは撃破されたのと変わらない。
 無力化、行動停止。まさかの結果だった。
「そういうわけだから、安心しろ。三十分あったらオレを振り切るのには十分だ。ここでオレは仮想敵のお役御免ってわけだ」
「そうですか……」
 少なくともこれであの二人は当分逃げ延びることが出来るのだとわかって、冥夜は安堵の息を零した。
「――ただし」
 武の言葉に、びくっ、と冥夜が反応する。
「神宮司軍曹を忘れてもらっちゃ困るけどな」
 む、と眉根を寄せて冥夜は小さく唸る。
 その肩を叩いて、朗らかに武は言った。
「ま、仲間を信じろ」
「……は」


 浜辺へと向かった冥夜を送り出して、武はゆっくりと歩き出した。
 先程冥夜に言った通り、もう武が仮想敵を務める必要はない。お陰で、心置きなく物思いに耽られるというものだ。
 思索の内容は、先程冥夜と折り重なったときのビジョンだった。
 ただの妄想や気の所為で済ませてしまうには、あまりにもリアルすぎた。子細には憶えていないが、顔に掛かる吐息の感触も重ね合った唇の感触も抱き合った肌の感触も、全身がそれを憶えているような錯覚さえしたほどだ。
『時間をループする際、あんたは記憶という因果情報を虚数空間にばらまいている可能性があるわ』
 前の世界で、一度目の世界の記憶がある時点――霞を乗せた最後の駆逐艦の打ち上げ――を境にぷっつりと跡切れていると言った武に対し、2002年6月8日――オルタネイティヴ4最後の日――に夕呼が言った言葉だ。
 駆逐艦打ち上げの日以前にも、ところどころ記憶が曖昧な部分がある。たとえば、オルタネイティヴ4の中止が告げられた12月24日から打ち上げまでの二年間。後方の横浜基地で警備や訓練に励む毎日だったが、やけに虫食い状態であるように思える。
 何もなかった日々を忘れてしまうのは自然なことだろうが、あの日々は武にとって、自身の無力を呪った日々でもあったはずだ。それをこうも忘れてしまうとは考えにくい。
 若年性健忘症に罹った憶えなんてないから、夕呼の仮説を信じるべきだろう……が。
「まずいよなぁ……」
 何がまずいって、一度目の世界で冥夜とそんな関係になっていたかもしれないことである。
 武自身にはっきりとした記憶がないし、戦友として過ごした時間が長いから、今更冥夜との間柄がぎくしゃくするということはない。
 しかし、相手は現日本帝国将軍である煌武院悠陽殿下の実の双子の妹なのだ。今は煌武院家の仕来りや政治的理由によって、遠縁の御剣を名乗り、将軍とは無縁の一訓練兵として生きているとはいえ、将軍の血縁者にそんな真似をしていたとなれば、真実を知る者全員を敵に回し、抹殺されたとしても文句は言えない。
 幸いなのは、この世界の出来事ではないということか。
「……それに……」
 花嫁姿の冥夜のビジョン。綺麗だったな……と、武は妄想紛いの記憶に鼻の下を伸ばした。
 何しろあの冥夜の花嫁姿だ。完璧と言う外ないプロポーションの肢体を最高級のウェディングドレスで着飾り、頬を染めて愛の言葉を紡ぎ、そして――
「――って、何考えてんだオレはッ!!」
 ぶんぶんと頭を振って、武はイメージを追い出した。
 そうだ、頬を緩めてばかりもいられない。問題は別のところにある。
 花嫁姿の冥夜は、こちらの世界の冥夜ではなく、元の世界の冥夜だった。そう断言出来るのは、記憶の中の空気が違っていたこと、そして冥夜がいた場所が御剣本家の屋敷――大御殿だったからだ。こちらの世界に身も心も順応している今の武にとって、元の世界のどこか弛緩した空気は、強い違和感を呼び起こすのだった。
 しかし、元の世界で武は冥夜と付き合っていたのかと言えば、そんな記憶はない。
 そういえば、元の世界の記憶にも、色々と曖昧な部分がある。突如現れた冥夜、球技大会、誕生日、温泉……断片的な記憶はあるのだが、やはり虫食いなのだ。
 あれだけ奮闘した球技大会の経過や結果さえ思い出せないというのもおかしい。
 夕呼の言う通り、元の世界からこちらの世界へやって来たときに、記憶の一部を失ってしまったらしかった。
「後で夕呼先生に聞いてみるか……」
 小さく呟き、武は思考を切り替えた。今は教官として総戦技演習に臨まなくては。尤も、既に武のすべきことは殆ど終わっていたのだけれど。


 2001年11月7日(水)


 現在生存している――仮想兵士級BETAに捕らえられたイコール死を意味するためだ――207B分隊の全員が仮想BETA出現エリアを抜けたものと判断して、武はヘッドセットのデータリンクシステムでまりもに連絡し、回収ポイントへと向かった。
 教官が回収ポイントにいないと、合否の判定が出来ないためだ。
 勿論、チェックポイントの位置は、そのための時間を稼げるように決めてある。
 時刻は正午をとうに過ぎ、14時30分を回っていた。演習開始時刻が3日の15時00分だから、残り三十分弱でここに辿り着けなければ失敗ということになる。
 じりじりとタイムリミットが迫る。十分、二十分と時間が過ぎ……気付けば、時計の文字盤は14時58分を指していた。
 一秒一秒削られていく時間。
 ――やがて、一つの影が現れた。
 丘の上にある回収ポイント目掛け、駆け上がってくる。短い髪は泥と垢に塗れ、ぬらりとした不快そうな光沢を放っている。
 肺が干上がっているかのような荒い呼吸を繰り返しながらも懸命に走るその姿は、武を懐かしい気持ちにさせた。一度目の世界での初めての総戦技演習、タイムリミットぎりぎりで丘を駆け上がっていた自分自身を思い出す。
 武が過去の記憶に想いを馳せ終えるのとほぼ時を同じくして、一人の少女が武の前で立ち止まった。
「回収ポイント確保!」
 ふらふらになりながらも敬礼してみせる少女に、武は内心で称賛の言葉を贈った。
「状況終了――只今を以て、総合戦闘技術評価演習を終了する……お疲れ、彩峰。少しの間、楽にしてていいぞ」
 武が労いの言葉を掛けると同時、慧はその場に崩れ落ちるように座り込み、そのまま地面に倒れ込んだ。
 丸三日間、気を張り詰めっぱなしだった上、ジャングルという過酷な状況の中にいたのだからそれも仕方ない。
 夕呼とまりもに無線で連絡するなり、武は慧の体を抱き上げた。
「……何やってるの」
 相変わらずの抑揚のない声で言う。頬が赤いように見えるのは武の気の所為だろうか。
 今は演習中だぞ、と武が言ってやると、「何をなさっているのでしょうか、教官」と慧はやはり抑揚のない声で、赤く染まった頬を背けるようにして言った。
 それに満足そうに頷いて、
「見りゃわかるだろ。みんなを呼び寄せたら二度手間だし、お前は動けないし、そんなわけで特別にオレが運んでやるよ。感謝しろ」
「少佐……優しい自分に酔ってる?」
「自分で歩くか、彩峰。オレより遅かったら腕立て二百な」
「ぶんぶんぶん」
 力一杯首を振る音を口にしつつ、慧が大胆に、けれど器用にもどこか遠慮がちにしがみついてくる。
 ――一瞬、奇妙なビジョンが見えた気がした。

 突然のキス、病院のベッドの上、基地の武の自室、互いの全てをさらけ出し、基地裏の山で肩を寄せ合い、唇を重ねる――。

 そんな、起こらなかったはずの、過去の記憶。矛盾した想い出。忘れ去られた記録の奔流。
 ――何だ、今の……?
 先程、冥夜を捕まえた時と同じだ。身に覚えのないはずの映像が、自分の記憶として蘇ってくる。思考がそのイメージを反芻しようとする。何かを思い出しそうになる。けれど、まるでコネクタのピンが一本だけ折れてしまっているかのように、うまく繋がらない。
 だが、武はそのイメージを振り払うと、気を取り直し、「仕方ねえヤツだ」と苦笑するのだった。


「評価訓練の結果を伝える」
 合流してすぐ、武のその言葉で、デブリーフィングが始まった。
 ちなみに、武にお姫様抱っこされたまま仲間達の前に出るのが恥ずかしかったのか、最初の浜辺に着く少し前、慧は武の腕から下ろされての合流だった。
「回収ポイントに到達したのは一名……ま、妥当な結果だな」
 壬姫、美琴、冥夜と三人が武によって仕留められ、残ったのが千鶴と慧の二人。まりもの足止めを千鶴が買って出、最終的には慧一人が残ったというわけだった。
 美琴には劣るとはいえ、慧はサバイバル能力も高いし、ラペリングやロッククライミング技術は分隊一だ。一人で進むのであれば、単独での行軍能力が最も高い慧を回収ポイントに向かわせたのは、正しい選択だったと言える。
 重要なのは、仮想敵の足止めをすることになった冥夜と千鶴が、囮役を押し付けられたのではなく、自分から志願したという点だ。
 自己犠牲の精神は武の好むところではないが、彼女達は彼女達なりに、たった一人の仲間を生き残らせるために、互いの力を認め合い、それを合わせたのだ。
 果たしてその結果は――。
「……さて、彩峰が回収ポイントに到達した時刻だが――」
 武は、慧の到着と同時に止めていた時計に視線を落とした。
 ごくり、と喉を鳴らしたのは誰だったろう。あるいは207小隊全員かもしれない。
「――14時59分56秒」
「……、――…………!!」
 一拍遅れで、五人の顔に喜色が満ちた。そして、
「……良くやった。――合格だ」
 満面の笑顔で紡がれた武の言葉に、207B分隊の五人が鬨を上げた。
 感情が、一斉に爆発する。歓喜し、涙を流し、笑顔を浮かべ、声をあげ。それはまるで咲き誇る満開の桜のように。溢れ出した想いが声となり、青天へと響き渡る。
 思い思いにその感情を表し、互いを讃え合う五人の少女。
「――嬉しいだろ」
 歓びの渦が鎮まった頃、武は静かに、けれどはっきりとした声で言った。その言葉は、確かに五人の少女と二人の女性の耳朶を打った。七人が一斉に武へと視線を向ける。
「今、最高に気持ちいいだろ。それが、仲間と勝ち取った勝利の味だ。誰か一人が欠けてたって絶対に味わえなかった、最ッ高の瞬間だ。――お前らが……207B分隊が初めて掴んだ勝利なんだ」
「……はいッ!!」
 五人が声を揃え、腕を揃え、脚を揃えて見事な敬礼を武に贈る。武はそれに応えながら、じっと彼女達を見つめていた。
 総戦技演習の合格を喜ぶ訓練分隊。その輪の中に、かつては自分もいたのだと思うと、武の胸には、微かな寂しさが湧き上がるのだった。


「さっきまではへばってたってのに」
 武は上着を脱いだだけの姿で浜辺に立ち、水と戯れる、総勢六人の少女と女性を眺めていた。
 皆しっかりと水着を持参しているのは、前回の教訓だろう。この場で水着を所持していないのは、武一人だった。これまでの世界とは違い、忘れていたのではなく、最初から泳ぐつもり自体なかった。
 美女美少女ばかりが集まったこの光景は、強化装備を見慣れた武にとっても眼福と言って差し支えない。
「あーあ……まりもまで一緒になっちゃって……いい年して情けないわねぇ……」
 ビーチチェアに寝そべったまま、夕呼が呆れたように呟く。
「演習の間中ここでくつろいでた夕呼先生にだけは言われたくないと思いますよ」
 彼女が一人高みの見物を決め込んで、天然物のステーキやらシャンパンやら、驕奢の限りを尽くしていたのを、武は、三度目にして初めて知ることとなった。
「あら、言うじゃない。そう言うあんたは、ここで水着姿の鑑賞なんてしてるワケ?」
「違いますよ。貝殻探してるんです」
「貝殻?」
「霞にお土産持って帰るって約束したんですよ。前の世界でも貝殻あげたんで、それで」
「ふうん……ま、精々頑張りなさい」
 そうさせてもらいます、と頷いて、武はビーチを歩き始めた。
 前の世界でビーチのどこにあの貝殻があったかは思い出せない。半月もずれているから、同じだとは考えない方がいいだろう。
 しばらく歩き回り、拳大ほどの大きな貝殻をようやく見付けると、武はそれを持ち帰ることにして、その場に腰を下ろした。
 星の砂とも呼ばれる有孔虫の殻を手の平で弄ぶ。
 ここから見える風景からは、世界が滅亡の危機に瀕しているとはとても思えない。
 だが、横浜基地に戻れば、そのときには容赦なく過酷な現実を思い知らされることになるだろう。
 それまでのほんの少しの間だけでも、こうして平和を甘受しておきたかった。
「白銀教官」
 呼び掛けられた声に顔を上げれば、そこには眩しいほどに白い水着に身を包んだ冥夜が立っていた。
「タケルでいいよ」武は微笑して応える。「演習は終わりだ」
「ではタケル」冥夜は微笑し、「隣に座ってもよいか?」
「ああ、遠慮すんな」
「うん」
 武の隣に腰を下ろした冥夜は、陽射しに焼かれた砂の熱さに、少しだけ顔をしかめた。
「とりあえず総戦技演習合格おめでとう」
「うん。そなたに感謝を」
「感謝されるようなことは何もしてないさ。冥夜達の力だろ」
 自分がしたことと言えば、二週間分の予定を繰り上げて、準備不足のまま総戦技演習に放り込んだくらいだ。
 顔に出してはいないが、病み上がりの美琴には相当きついものとなっただろう。
 彼女達の技能を高めるためとはいえ、少し無理をさせてしまったかもしれない。
「タケル達の総戦技演習はどんな風だったのだ?」
「オレの?」
「今回の演習内容を変更したのはタケルだと聞いた。今回のような提案をしたそなたの経験した演習内容を、よければ聞かせて欲しい」
「…………」
 一瞬、武は話すべきかどうか迷った。下手をすると、演習の話から冥夜に怪しまれてしまうかもしれないからだ。
 だが、仮に怪しまれたとしても、武が未来から来たなどという突飛な発想を冥夜がするはずがないし、隊のみんなの名前を伏せておけば問題ないだろうという結論に達して、武は訥々と語り始めた。
「ちょっとした事情で、オレは訓練小隊に途中から参加したんだ。その隊が、一度総戦技演習に失敗してて後がないって隊でさ」
「ふふふ……まるで私達のようだな」
「ああ……そうだな……」
 無邪気に笑う冥夜を見ていると、心が穏やかになってくる。そして同時に、締め付けられるような、まるで心臓を万力で押し潰されているかのような、言い様のない苦しみを覚えた。それを表情に出すことのないよう、必死で抑え付けながら、武は続ける。
「……それからしばらく訓練をして、総戦技演習が始まったんだ。第一目標はお前らと同じ、戦闘地域からの離脱。第二目標が後方攪乱としての破壊活動。期限は百四十四時間。オレのいた隊は六人だったから、破壊目標の数に合わせて三つの班に分けたんだ」
 ふむ、と冥夜が相槌を打つ。自分が饒舌になっているのを武は感じていた。
「その隊の一人が殆ど素人でさ。最悪なことに前日に風邪ひくわ、そのことにも気付かないで、蛇に噛まれた挙げ句、毒蛇だって勘違いして大慌て。合流にも一日遅れて、その所為でスコールに降られて、川が増水して足止め食らったりもしたっけ……一応、タイムリミットぎりぎりで合格出来たんだけどな」
 懐かしくなって、武は目を細めた。
 主観時間でいえば、もう十三年も前のことになる。そんな昔のことなのに、はっきりと憶えていた。
「もしや、それは先日話していた御仁のことか? ……しかし、それはなんというか……言っては悪いが、どうしようもない人物だな……」
 冥夜は困ったように言う。それに苦笑しながら、
「オレのことなんだけどな」
「た、タケルがかっ!?」
 この年齢で少佐という地位にある武が、まさかそんな無能だとは思っていなかったのだろう、冥夜は驚愕で溢れかえった声をあげた。
 彼女達が自らの欠点と向き合い、それを克服した今、出来の悪い訓練兵の正体を隠す必要はない。
 武にとっては十三年も前の話だから、多少の気恥ずかしさは覚えるものの、客観的にそれを見つめ、分析できるようになっていた。
「おう。オレは戦術機しか能がなかったからな」
 逆に言えば、こと戦術機に関しては多大な才能があったということでもある。
 国連軍における衛士の階級は普通、実戦での功績で決まる。余程の理由でもない限り、実力がない人間は上には行けないのだ。
 武の場合、実力と“余程の理由”が両方揃っているが故の少佐だった。
「そんなヤツが少佐になれるくらいなんだ、お前らはもっと自信持っていいと思うぞ? 一遍失敗したくらい、気にすんな」
「……しかし――いや、もうよそう」冥夜はかぶりを振って、「タケル……私達もそなたのように強くなれるだろうか」
 笑って言う武とは対照的に、冥夜は不安そうだ。
「なれるさ。何しろ、オレと神宮司軍曹が教官なんだからな」
 ――絶対に強くしてみせる。
 もう二度と失うことのないように。
 冥夜に微笑みかけながら、武は強く決意した。



[2785] Muv-Luv ALTERNATIVE -Second World Was Failed- 第07話
Name: Vollmond◆d2a8c8a6 ID:05704cd7
Date: 2011/11/15 03:06
 2001年11月8日(木)


「……香月副司令、流石にこれは無理があるのではないかと愚考しますが」
『XM3の考案者が何弱気なこと言ってるのよ? それに、機体性能はあんたの方がずっと上なのよ?』
 夕呼からの応答はにべもない。
 今日の午後突然決まった模擬戦闘。想定する状況は『CASE:47』――戦術機同士の戦闘だ。
 場所は旧市街地。周囲には打ち捨てられたビルや家屋が風雨に晒されている。
 それだけならば、もう何十何百と繰り返してきた実機演習となんら変わらない。
 武をして無理と言わしめるのは、相対する敵機。
 ――その数、総勢十二。それも、いずれもが蒼穹色の不知火……この横浜基地に、不知火を駆る部隊は一つしかなかった。
 A-01――オルタネイティヴ計画第1戦術戦闘攻撃部隊第9戦術機甲中隊、通称・伊隅戦乙女中隊。夕呼直属の特務部隊であり、オルタネイティヴ4の計画の一部として集められた、精鋭中の精鋭部隊。ただし、第9という名は付いているものの、当初連隊として構成されたA-01の、現在唯一の隊なのだが。
 彼女達の演習の仮想敵機を務めることとなった武の不知火・弐型のレーダーには、総勢十二機分の光点が表示されていた。
「機体性能や経験では上でも、人数が全然違いますよ」
『あら? 物量の比なら、BETAの方が圧倒的に上だと思ったけど?』
「A-01の精鋭が一人BETA十体程度とイコールだったら大問題ですよ」
 中隊に対し単機で挑むという時点で、既に無謀を通り越している。それも、A-01といえば横浜基地有数の精鋭揃いなのだから尚更だ。
 端から見れば、最早私刑と変わらない。
『出来ないなら構わないわよ? そのときはあんたの新潟行きもなくなるけどね』
「やるしかないってワケですか」
『どうしてもA-01に同行したいって言うんならね。あんたは、あたしにとっては最も重要な駒の一つなのよ……それをこのタイミングで、放っておいてもどうにか出来るような出来事で失うわけにはいかないわ』
「……つまり、この十二人全員を倒して、簡単にはオレが死なないって証明しろ、と」
 無茶言ってくれるよ、と苦々しげに呟きながらも、武の口許には薄い笑みが浮かんでいた。
 最近はヴォールク・データと弐型の慣熟を兼ねた機動訓練程度しか行っていないから、生きた相手と戦うのは久し振りだ。その相手がA-01の精鋭達とくれば不足などあろうはずもない。
 それに、今後A-01の教官としてXM3を最大限に活用する戦術機の操縦方法を教えるには、この辺りで一度彼女達の戦力を知っておく必要がある。
 欲を言えばJIVESを利用したいところではあるが、戦術機同士の戦闘なのだから、ペイント弾を利用した通常の演習でも十分だろう。
「ところで……ヴァルキリーズにはオレのことは何て?」
『A-01のヒヨッコを叩き直すって息巻いてる新任少佐――って言ってあるけど?』
「思いっ切り悪役じゃないですか、オレ……」
 だが、それはそれで都合がいい。
 心証が悪ければ悪いほど、彼女達も全力で向かってきてくれるだろう。そうでなくては意味がない。
 元より仮想敵機、悪役は百も承知だ。『CASE:47』とは戦術機を使用するテロリストとの戦闘を想定したプログラムなのだから、それくらいで丁度いい。
 彼女達の実力を知ると同時に、武の実力を彼女達に知らしめてやらねばならないのだから。
「――なら、全員倒して自信へし折っちゃってもいいってことですよね」
『強気ね……』夕呼は唇の端をにやりと吊り上げ、『構わないわ。思いっ切りやりなさい』
 了解、と答え、武は操縦桿を握り締めた。


 ――その、およそ十分後のことだった。

 A-01部隊長である伊隅みちるは、驚愕していた。
 演習が始まって、僅か十分。その十分の間に、国連軍横浜基地の誇る精鋭部隊A-01は、既に半壊という窮地に立たされていた。
 演習場には、実際に打ち捨てられた廃墟やダミービルが入り混じって林立している。そんな状況では各種センサーは、戦術機単体では殆ど役に立たない。僚機とのデータリンクによって、敵機の位置候補を三角測定で導き出すのだ。
 そういう意味では、この時点で彼女達の有利は揺るがない。
 十二対一という機体数の差は、そのままレーダーの精度にも直結する。相手の位置はこちらに筒抜け、だが相手はこちらの正確な位置はわからない。
 尤も、最新のアクティブ電子走査レーダーと新方式の戦術前方監視赤外線装置を装備した不知火・弐型の索敵能力は、みちるらの乗る不知火の比ではないのだが。そのことを、みちるは知らなかった。
 みちるが副司令である香月夕呼から聞かされた話によれば、敵機は不知火を改良した不知火・弐型と呼ばれる実証実験機であり、みちる達が現在データを取っている新OSを搭載しているらしいが、たった一機相手なら、自分達が負けるはずがない……そう考えていた。
 だが、その考えが容易く覆され、木っ端微塵に打ち砕かれるまで、そう時間は掛からなかった。

 演習開始早々、馬鹿げたことに、敵機はこちらの陣目掛けて真っ正面から突っ込んできたのだ。
 十二機の不知火が一箇所に固まっているのだから、音響センサーで隊全体の大まかな位置を割り出すことは難しくないかもしれない。
 だが、命知らずに吶喊を仕掛けてくるなど、誰が思うだろう。
 かなりの速度で、ビル群の隙間を縫うようにして敵機が迫ってくる。
 自分達を無礼ているのか、余程自信があるのか、それとも単なる馬鹿か――あるいはその全て。
 いずれにせよ、A-01のヒヨッコを叩き直すという大口を叩くような相手だ、油断はならない。
 みちるは微かな苛立ちを混ぜて、意識的に唇の端を吊り上げた。
「貴様ら、敵機の動きはわかっているな? お望み通り、ペイント弾のシャワーで存分にもてなしてやれ!」
『――了解ッ!』
 全機が一斉に応え、87式突撃砲を構えた。
 網膜に投影されたレーダーの光点に注意を払いながら、胸中でカウントダウンを開始する。
 ――4、3、2、1……
 ビルの陰から青い国連軍カラーの機体が躍り出た瞬間、カウントは0に達し、
「――てっ!!」
 十門を軽く上回る突撃砲から、一斉にペイント弾が放たれた。
 けたたましい砲声の重奏と共に文字通りの弾幕が張られ、地面やビルを瞬く間に橙色に染めていく。
 数秒後、そこには見るも無惨なカラーリングが施された不知火・弐型が……
「いない……!?」
 そこには、何もなかった。あるのは、ペイント弾で塗り潰されたビルの林だけ。
 ――レーダーに感あり。
 敵機を示す赤い光点は消えることなく、尚もそこに――
『きゃぁッ!?』
 誰かの悲鳴が聞こえた。
 一つだけではない。続けざまに、まるで連鎖するかのように悲鳴が連なっていく。
「なっ……」
 みちるは息を呑んだ。
 一瞬だ。ほんの一瞬の間に、十二あったはずの緑の光点が、七つにまで減らされていた――さらにもう一つ消え、ついには残り六機。
「全機散開! 小隊内で二機連携を保ったまま離脱しろ! 涼宮、貴様は速瀬とだ!」
『了解!』
 即座にみちるは指示を飛ばし、残った六機が三方へと散っていく。
 一度散開してしまえば、センサーの精度が低い敵は自分達を見付けることが出来なくなる。そうすれば、後は一方的に狩るだけ……のはずだった。
 数分後、網膜に投影されたレーダーが、さらに変化する。
 その変化は、みちるの顔を驚愕で埋め尽くすには十分すぎるものだった。
「馬鹿な……速瀬がやられただと……!?」
 突撃前衛長・ヴァルキリー2――A-01におけるナンバー2、そして近接戦闘最強の称号。その称号を持ち、みちるが最も信頼を寄せる一人である水月が、為す術もなく撃墜されたのである。
 これで、残り四機。みちる以外に残っているのは、みちるの緊急の二機連携の相手である制圧支援の七瀬凛少尉、そして左翼の迎撃後衛である秋山楓中尉と砲撃支援の宗像美冴中尉。
 前衛が一人もいないという状況は、いささか厳しい。みちるも楓も前衛の経験はあるが、敵は恐らく本職の突撃前衛。経験があるのと現役とでは大きな隔たりがあった。
 ぎり、とみちるは奥歯を鳴らす。その美貌は、不機嫌に歪められていた。
 ――あり得ない。何なのだ、あの機動は。あんな機動があり得ていいのか……!
 一瞬の出来事ではあったが、みちるははっきりと憶えていた。
 奴は、飛んだのた。一片の躊躇もなく。衛士にとって、鬼門であるはずの空へと。空を飛ぶということは、光線属の餌食となることを意味する。BETAとの戦いが始まって以来、人間達は制空権を完全に失っていた。
 にもかかわらず、奴は飛んだのだ。
 当たり前のように。そうすることが必然であるかのように。
 あの不知火・弐型は、弾丸の雨を跳び越え、まるでそこが予め敷かれていた赤絨毯の上みたいに中隊の直中へと飛び込んでくると、スキップするかのような気軽さで剣林弾雨をかいくぐり、内側から陣形をずたずたに引き裂いたのだった。まるでこちらの目論見を嘲笑うかの如く、ペイント弾のシャワーを降らすことで。
 刹那の間、我を忘れてその機動に魅入っていた自分を思い出し、みちるは自らを恥じた。
 演習中とはいえ、敵機の動きをまるで洗練された舞踏のようだと考えるなど、衛士失格だ、と。
 しかし、あの不知火・弐型の動きは事実、みちるをしてその思いを禁じ得ないほどだったのだ。
 馬鹿げている――それが、率直な感想だった。
 この状況をそう言わずして何と言えばよいのか。
 最初は機体性能の差かとも思った。だが、不知火・弐型は不知火の強化型であり、根本的な機体概念は同じなのだ。改修型と旧型とはいえ、両者は同じ第三世代機。その物量の差は、単純な機体性能差だけで覆せるようなものではない。
 だから、その差は衛士の腕。
 十二機の攻撃全てを飛び越え、あまつさえその半数を瞬時に撃墜する、その圧倒的な機動制御技術。あの衛士は恐らく、たとえ不知火に搭乗していようとも同じことをやってのけただろう。そんな確信が、みちるにはあった。
 機動概念が根本的に違うのだ。
 戦術機とはそもそも三次元的な機動を可能とする兵器ではあるが、弐型の動きはその遥か上をいく。
 たとえるなら――四次元的な機動なのだった。
 それだけ、奴の腕が異常だということだ――。
 くっ、と喘ぐようにみちるは喉を鳴らした。
「――ヴァルキリー1よりヴァルキリーズ各機」
 だが、負けるわけにはいかない。自分達はオルタネイティヴ4の進行を担う香月夕呼副司令直属の特務部隊。たとえ相手が上官であろうと、たった一機ごときにA-01が敗北するなどということは、あってはならないのだ。
「作戦を伝える――」


 ビルの間を走りながら、武は深く吐息した。
 奇襲は概ね成功だった。あえて水平噴射跳躍により自分の位置をアピールすることで、部隊全体の狙いを絞らせたのだ。
 真正面から突っ込んでくるわけだから、そこに弾幕を集中させてくる。
 最初の集中砲火さえ抜けてしまえば――それも弐型の機動力を以てすれば、決して難しいことではなかった――後は狩るだけ。
 短刀で近距離の不知火を撃破しながら、突撃砲と滑空砲で中距離以遠の敵を狙い、その半数を撃墜するまでは良かったが、そこはA-01、隊長である伊隅みちるの命令で一斉かつ迅速に散開されてしまった。
 どうにか突撃前衛長という尤も厄介な相手の一人、速瀬水月を撃墜することには成功したものの、残る四機については完全に見失ってしまった。
 敵が固まっている内に、もっと片付けてしまいたかったのだが。
「……まあ、速瀬中佐を墜とせただけよしとするか……っと、今は中尉だっけ」
 みちるか水月のどちらかをいかに早い段階で撃墜出来るか否かが、この演習の分かれ目だったと言っていい。
 そして、それは見事成功した。
 半数近くを撃墜されれば、少なくとも一度散開するなりして体勢を立て直そうとするのが常道だ。各小隊の位置は掴めていたから、A小隊もしくはB小隊を追撃し、みちるか水月のどちらかを撃破する――当初の予定通りに事は進んだ。
 B小隊は水月を残して全滅していた。みちるが水月の二機連携の相手として送り込んだのだろう、水月と共にもう一機の戦術機の姿があったが、近接戦闘に持ち込んでしまえば武の相手ではない。結局、武と水月の一対一となったのだった。
 無論、一対一とはいえ、水月を墜とすのはそう容易いことではなかった。
 突撃前衛長とは、近接戦闘部隊最強の称号だ。
 かつて伊隅戦乙女隊(ヴァルキリーズ)の突撃前衛として戦い……水月からその称号を受け継いだ武にとって、速瀬水月という女性は、特別な存在だった。
 誰よりも身近な目標。幾度と教えを請うた、最も尊敬すべき先達の一人である。
 相手にとって不足はなかった。彼女をして役不足などと嘯けるほど、武は慢心してはいない。


 数分前。
 武の駆る不知火・弐型は、左手腕に87式突撃砲を装備し、旧市街地のビル跡の間を翔ていた。
 前方には、二機の不知火の機影が見える。従来の機体に比べ、大幅に強化された弐型の索敵・目標捕捉能力があれば、廃ビルの林の中とはいえ、敵影を見失うことはあり得ない。
 逃げる不知火と追う不知火・弐型、ぐんぐんと縮まっていく距離に、機動力の差が如実に表れていた。
 ――夕呼先生の言った通りだったな……。
 大出力のジネラルエレクトロニクス製エンジンに換装された跳躍ユニットは勿論のこと、単純な運動性能自体が違う。後者に関しては僅かな差違でしかないかもしれないが、武やA-01といった一流の衛士同士の戦いでは、その差違こそが決定的な差となって現れる。
 こうして実際に不知火と相対してみると、その差がよくわかる。
 やがて、逃げ切れないと判断したのだろう、不知火の一機が反転――突撃砲弾を武目掛けて撒き散らしてくる。
 ――来た……!
「ッ!」
 喉を引きつらせながら、弐型の右肩部スラスターを噴かす武。その回避行動は、不知火が反転しようとした瞬間に、既に反射的に入力されていたものだ。
 肩部スラスターの噴射をキャンセル、一瞬だけ左肩部スラスターが火を噴く。それにより慣性を相殺すると同時、曲げられた二本の脚が蓄えられた力を爆発させたかの如く、鋼の巨人が宙を舞った。
 それを待っていたとばかりに、36mm砲弾の雨が出迎えてくれた。
 だが、それは武の頭上を通り過ぎていく。
 武は跳躍をキャンセルし、腰部装甲ブロックに追加されたスラスターモジュールを上方へ向かって噴射させたのだ。
 上へのベクトルが瞬時に下方へのベクトルへと切り替わった結果、内臓を引きずり上げられるような強烈なGを全身に受けながらも、武はスロットルペダルを強く踏み込んだ。
 本命の大出力エンジンが、咆哮をあげるかのごとく炎を吐く。
 主脚、腰部スラスター、跳躍ユニットという三段跳躍。従来の西側戦術機では不可能であった機動を、武は完全に物にしていた。
 ――やっぱりコイツは最高だ……!
 思わず唇の端が吊り上がる。
 キャンセルによる多段跳躍を多用する武にとって、弐型ほどの相棒はない。
 前の世界で一時期だけ乗ることとなった武御雷――武家の出身でない武が乗っていたのは黒だった――やF-22A、あるいは話に聞くEF-2000タイフーンにはスペック上でこそ劣るものの、XM3との相性という観点で言えば、弐型は間違いなく最強の一角に数えられる機体だ。
 夕呼がそれを見越して弐型を接収したのかはわからない。
 いずれにせよ、白銀武は、自身三度目の世界にしてようやく、最高の相棒と巡り会ったのだった。
 網膜に投影される機影は二つ。一つは強襲前衛装備の突撃前衛――速瀬水月。もう一つは、装備から察するに強襲掃討。
 水月のサポートとして、後衛を一人こちらに回したというわけだ。トップ&バックのスタイルを取るのであれば、成る程、理に適っている。
 ――ってことは、あれは涼宮か……。
 どことなく、動きに見覚えがある。
 水月に憧れている茜は、水月の動きもよく知っている。だからこそ、彼女を水月の後衛としたのか。流石伊隅大尉だ、と武は感嘆の息を漏らした。
 それでいながら、弐型のカメラは迫り来る不知火を確と捉えていた。
 水月も腹を括ったのか、それともここで倒すしかないと踏んだのか、74式近接長刀を片手に、武目掛けて突っ込んでくる。
 その向こうから撒き散らされる36mmの弾幕が、左右への逃げ道を塞ぐ。さらに水月が、兵装担架にマウントしたまま、突撃砲撃で牽制してきた。
 だが、速瀬機がある以上、茜が張る弾幕には、放射状に死角が広がることとなる。IFFによって味方誤射が起こり得ないからには、そこは絶対の安全圏。
 決して広いとは言えない範囲ではあるが、それで十分だった。
 突撃砲の砲口の向きから弾道を割り出し、先読みして回避する。無論、こちらから牽制することも忘れない。武が突撃砲を撃てば、水月はそれを躱すための機動を取らざるを得ない。その結果、水月の生み出す死角も広がるというわけだった。
 ――そろそろ仕掛けるか。
 乾いた唇を濡らすように舌先で舐める。獰猛な肉食獣じみた仕草だった。

 残り距離50。跳躍ユニットを装備した戦術機にとっては、一足一刀とまでは言わないまでも、十分に近接戦闘の間合いの内。
 二つに割れるようにして開いたナイフシースから短刀を引き抜き、右手に保持する。
 長刀に対し短刀。リーチの差は歴然、こちらが不利。しかし、武に焦りはなかった。模擬とはいえ戦場独特の空気がもたらす張り詰めた昂揚。それに身を浸しているだけで、ひどく心が落ち着く。
 鳴り響く砲声がうるさい。鳴り響く砲声が心地良い。
 そんな矛盾から目を背けながら、武は三日月型に唇を歪めた。
 残り距離二十――一足一刀の間合い。振りかぶられる長刀。その切っ先が揺らめくのをメインカメラが捉えたその瞬間、武はスロットルを全開にした。
 鋼の足が地面を蹴る。
 同時に、大気を引き裂くような爆音。二基の跳躍ユニットと腰部スラスターが一斉に炎を噴く。
 噴射炎の残光の尾を曳きながら、舞い上がる弐型。
 強烈なGが、目には見えない巨人の手のように武の体をシートに押し付ける。
「ぐ、ぅっ……!」
 衛士強化装備によって軽減されているとはいえ、肺を直接押し潰されるような圧力に、武は思わず呻いた――が、呻きながらも、その目は確と見開かれている。武の網膜には、機体のすぐ脇を通り抜けていく長刀の映像が映し出されていた。
 空中で機体を倒立反転させ、砲口を下――速瀬機へと向ける。ロックオン。照準は後部からのコクピットユニット。
 とった――確信と共に突撃砲の引金を引き絞る。
 ――だが、放たれたペイント弾は、地面を褐色に塗りたくっただけだった。
 一瞬遅れて耳朶を打つ轟音と網膜に残像を焼き付ける閃光。それが速瀬機の跳躍ユニットのエンジン音と噴射炎であると認識した瞬間には、武は既に次の行動に移っていた。
 肩部スラスターが咆哮する。
 倒立反転から一瞬にして正立へと転じ、照準が補正されるまでの間にサブカメラとレーダーで後方の速瀬機の様子を窺う。メインカメラは、残るもう一機の不知火――涼宮機をその中心に見据えていた。
 ――まずは邪魔な涼宮に大人しくしといてもらうか……!
 ロックオンした瞬間、120mm滑空砲弾が巨大な砲声と共に奔った。
 それは、半ば反射の域にまで高められたキャンセルとコンボ、先行入力が可能とした、XM3搭載の戦術機をして機体の限界にも肉薄する機動だった。
 それでいながら、機体への負荷は最小限に抑えてある。関節系の構造に逆らわず、機体にとって最も自然な動きを、最速で行っているのだ。
 いずれも、前の世界での十年間での弛まぬ努力が授けた、血と汗と涙、そして反吐の結晶だった。
 だが、茜とて伊達にA-01の一員なのではない。武が速瀬機を飛び越えた瞬間には、既に回避行動に移っていた。
 不知火が地面を蹴り、軽やかにサイドステップを刻む。
 120mmペイント弾は敢えなく空を切り、ビル壁で炸裂した。
 ――流石……後衛じゃ機動力はピカ一だったからな、涼宮は……。
 前の世界で幾度となく共闘した彼女は、強襲掃討という後衛よりのポジションでありながら、水月に憧れていただけあって、前衛の適性も十分にあった。
 遙の分も戦わなくてはという気負いや、武ら207B分隊から優れた前衛適性を持つ衛士が入隊したために強襲掃討のポジションに就き続けることとなったが、こと機動力に限っては突撃前衛にも肉薄しようというほどだったのだ。
 一瞬の噴射によって速度を殺し、膝のクッションを最大限に利用しながら着地――その反動を利用して、弐型は再び跳躍するようにして涼宮機へと突進する。
 近接戦闘を受けて立とうということなのか、涼宮機はナイフシースから短刀を抜き放ち、両の主腕に装備した。
 不知火に肉薄せんと迫る弐型目掛け、背部マウントに装備した都合四問の突撃砲が一斉に弾丸を放ってくる。
 それを噴射跳躍で躱すと、茜が照準を上方に修正すると同時、武は反転噴射と肩部スラスターを併用してあっさりと懐に潜り込む。
 そんなことはお見通しだとばかりに、涼宮機の手にした短刀が翻った。
 玲瓏たる鋼の音。武が茜の一撃を受け流したのだ。そこへすかさず振るわれる第二刀――しかし、それさえも弐型を捉えることは叶わない。
 初撃を受け流しながら、さながら流水のごとくゆらめく弐型。戦術機という機械の動きでありながら、それは生身の人間のそれに限りなく近い。決して速くはない……けれど捉え所のない、滑らかな回避動作――かと思えば、次の瞬間には、雷光じみた斬撃が不知火のコクピットを引き裂いていた。
 模擬短刀でなければ、中の衛士ごと両断していたであろう一撃を受け、不知火は完全に沈黙した。

 涼宮機を黙らせるなり、白銀機は反転――振り向いた速瀬機と正対する。その距離、およそ150。
 武の脳裏に浮かび上がるのは、先程の交錯の一瞬だった。
 確実にコクピットを撃ち抜いたと思っていた。いかに水月といえど、あの位置から、あのタイミングで放った砲弾を躱すことは出来ないと踏んでいたのだ。が、結果はあの通り。彼女のポテンシャルを完全に見誤っていた。
 かつて水月と共に戦場を駆けた頃よりも実力を上げたからといって、自惚れていたのかもしれない。
 XM3の特性をフルに引き出せてはいないとはいえ、水月はA-01伊隅戦乙女隊の突撃前衛長、近接戦闘最強の称号の持ち主なのだ。その水月が、そう容易く倒されてくれるはずがない。
 水月は、振り下ろした長刀が空を切るや否や、跳躍ユニットを全開にしたのだった。
 あと刹那でも遅ければ、蒼穹色の不知火は見るも無惨に染め上げられていただろう。
 そうならなかったのは、偏に水月の判断の早さと正確さ、思い切りの良さ、そしてXM3によって三十%向上した即応性のお陰だった。水月でなければ被弾していたに違いない。だが、
 ――付け入るならそこだな……。
 今の交錯は同時に、水月の弱点――いや、正確には現在の彼女が未来の彼女に及ばない最大の理由を浮き彫りにしていた。
 ヴァルキリーズが散開した今、武と水月の一対一に水を差す者は誰もいない。水月の援護に向かっている機体があればレーダーでわかる。しかし、レーダーに浮かぶ赤い光点は水月を表す一つだけだ。
 ならば、この戦局で武が負けることはあり得ない。
 先程のような自惚れでもなければ、水月を見くびっているということもない。それは、厳然たる事実。
 第一に機体性能差。不知火・弐型は、弐型の改良機である不知火・壱型丙を米国製パーツを用いて、さらに大幅な改良を施した機体だ。各国の機体が集まることから戦術機の見本市とも呼ばれるアラスカはユーコン基地での改修は、日本や米国だけでなく、ソ連製戦術機のノウハウまでも取り入れることに成功していた。
 第二に操縦技術。かつての武であれば、水月を上回る点は機動制御だけだった。剣術や格闘、狙撃といった技術においては、武は水月には遠く及ばなかった。だが、多くの仲間や先達の教えを受け、文字通り血の滲むような努力を重ねた今、機動制御以外の各個の技術においても武は、水月を上回ろうとも劣ることはない。
 第三にXM3の練度。そしてこれこそが、最も大きな差。XM3という新OSの特性を誰よりも知り尽くした武と、完全には把握し切れていない水月。訓練兵の吹雪三機がエース級衛士の撃震四機を全く寄せ付けないほどのポテンシャルを秘めたOSなのだ、その真価を発揮できるか否かは歴然たる差として現れる。
 ――もう一つ、第四の差。それは、背負っている物の重み。
 武は、かつて彼が共に戦った水月の無念を背負っている。彼女だけではない。あの滅びてしまった世界、終わってしまった世界、零れ落ち二度と戻らない世界全てを背負っていると言っても過言ではない。
 だから彼女に教えを請うた。どうすれば強くなれるのかと。どうすれば大切な人を護れるのかと。自分に出来ることは全てやったし、これからもやり続けていくつもりだ。
 武は水月を知っている。水月の戦い方、癖、実力……それら全てを知り尽くしていると言ってもいい。
 ……それでも尚、水月は、武にとっての越えるべき壁として君臨する。
 武の強みが他者にはない発想から来る機動制御技術ならば、水月のそれは状況判断の早さと操縦技術、そしてそれを実行に移すことの出来る、内面の本来の繊細さを精神力で鎧った度胸だ。
 その強さを、武は誰よりも知っているつもりだった。
 だからこそ、武は水月を心から尊敬しているのだ。彼女からは何より、心の強さを教えられた。
 故に。
 ――負けられない。
「勝たせてもらいますよ、速瀬中尉――!」
 油断なく慢心なく傲慢なく。ただ揺るぎない意志を込めて、そう呟いた。

 二機の距離が縮まっていく。
 両者とも噴射跳躍は使用せず、主脚走行だけで互いへと接近する。それは、二人共が噴射跳躍を使用した瞬間こそが勝負の分かれ目であると理解しているが故だった。
 やがて来るべき咆哮の時を待ち望んでいるかのように、都合四基の跳躍ユニットは今、沈黙を守っていた。
 武の弐型の手腕に握られているのは突撃砲と65式近接戦闘短刀。対して水月の不知火は突撃砲と74式近接戦闘長刀。どちらも先程と変わらぬ武装だった。
 しかし、内面は違っていた。
 武はこの場で水月という最大級の障壁を越えるという決意を新たにし、水月は白銀武アンノウンという強大な敵に対する評価を限界まで引き上げて。
 ――両者ともに、この場で相手を倒すという気概に満ち溢れていた。
 徐々に狭まっていく機間距離。網膜に映る敵影が次第に大きくなっていく。
 残り距離50。
 残り距離40。
 残り距離30。
 残り距離20――その瞬間、青白い炎が閃光と共に噴出した。
 先に仕掛けたのは水月だった。火を噴く突撃砲――一瞬の牽制が、白銀機の前進を僅かに遅らせる。次の刹那には、水平噴射跳躍による超高速の突進から、長刀が袈裟懸けに振り下ろされる。
 回り込むようにしてそれを回避する武、しかし返す刀、長刀が閃き、刃が横薙ぎに弐型へと襲い掛かる。
 斬り上げ気味に放たれた第二撃を、上体を反らしながらのバックステップで躱す弐型――が、水月の斬撃はフェイントだった。
 弐型が突撃砲を構えるより先に、長刀を振るった不知火の右腕が折り畳まれる。限界まで引き絞られた弓矢のように漲るエネルギー。そこから、コクピット目掛けて刺突が放たれた。
「――ッ!」
 喉を引きつらせるようにして呼吸音を漏らしながら、武は跳躍ユニットを噴かした。
 まるで先の焼き直し。異なるのは、弐型がスラスターモジュールを利用した突進を行っていないということ――そして、水月が放った渾身の一撃が、斬撃ではなく刺突であったという二点。
 刀身を水平に構える平突きの状態から、刃が上を向き。
 発泡樹脂製の模擬長刀が跳ね上がった。真下というある意味での死角から、噴射跳躍による爆発的な加速を得た斬り上げが弐型目掛けて迫る。
 最初からこれが狙いだったのか。そうでなくては、この速度域での連続技は不可能だろう。水月には、武が噴射跳躍によって上方へと逃げることもお見通しだったのだ。
 が、この程度の攻撃で捉えられる武ではない。
 腰部スラスターが爆音を轟かせる。さらなる加速度を得る二段跳躍が、機体を剣戟の間合いから離脱させ。
 ――やっぱりそう来るか……ッ!!
 背部パイロンにマウントされた突撃砲の砲口が、奈落の眼で弐型を睨め付けていた。
 長刀の二連撃は最初から全てフェイク。機動の自由を制限させた上で、兵装担架に保持したままの突撃砲で砲撃する――それこそ、水月の真の狙い。
 だが、それを実行に移すことは決して容易ではない。二段加速により、弐型は最高速に達している。それを、ここまで接近した状態から、主腕に保持してさえいない突撃砲で狙い撃とうというのだ。
 照準は自動補正で行われるとはいえ、神業の領域と言っても過言ではない。
 それでも、水月ならばそんな馬鹿げた芸当すらやってのけるだろう。それだけの技術と度胸が、彼女にはある。
 ――だが、武はさらにその上をいく。
 水月ほどの衛士が、たった二度の斬撃で武を仕留めようとするはずがない。ならば、それを布石に本命の一撃が待ち構えているに違いない――武の読みは、正鵠を射ていた。
 先行して入力されていたコマンドが機体の動作に反映され、跳躍ユニットと腰部スラスターが同時に咆哮する――上空へと向かって。
 強烈極まりないGに呼吸が止まり、慣性によって取り残された全身の血液が頭部に集中する。頭蓋が破裂しそうだ。苦悶の声を漏らすことさえ出来ない。眼球が押し出されるかのよう。心臓が張り裂けそう。
 機動力に優れるということは、それに伴う搭乗者への反動も大きいということだ。
 弐型とXM3双方の性能をフルに引き出した機動は、武に筆舌に尽くしがたい苦痛を与えていた。それこそ、死をも覚悟せねばならないほどの――。
 しかし、それがどうしたというのだろう。
 戦場では常に死と隣り合わせなのだ、それはたとえ模擬戦であろうとも変わらない。ならば、命を懸け、命を削り、命を燃やすことに、何の躊躇があろうか。
 デッドラインは弁えている。どこまで無茶で無謀な機動を行えるかは、経験から把握している。
 ――そして、限界を超える。
 少しずつ無色の死に近付いて――

 ――どくん、と。
 不意に心臓が脈打ち。
 ざらざらというノイズが武の脳味噌を削り取っていく。
 一瞬のホワイトアウト。
 戦場。原色の海。臓物の絨毯。死骸の森。突撃級。要撃級。戦車級。要塞級。光線級。重光線級。兵士級。闘士級。母艦級。無数のBETA。無数のバケモノ。白。緑。翠。紫。黒。赤。紅。殻。腕。尾。眼。牙。押し寄せる。溢れかえる。津波。雪崩。怒濤。瀑布。山。壁。滝。食われる。溶かされる。殴られる。焼かれる。潰される。壊れる。砕ける。蒸発。溶解。灼熱。崩壊。死んでいく。為す術なく。死んでいく。無慈悲に。死んでいく。残酷に殺されていく。抵抗できず。殺されていく。無感情に。殺されていく。残虐に。生きて。失って。生きて。奪われて。生きて。殺して。生きて。死んで。生きて。殺されて。生きて。生きて。生きて。生きて。数えきれぬほどの死。溢れかえるほどの死。死。死。死。死。死。死をばらまく。死神のように。死を撒き散らす。災厄のように。殺して。殺して。殺して。殺して。殺し尽くせ。現実。夢幻。記憶。未来。過去。喪失。獲得。そして死――。
 ――認識しきれないほどの情報の奔流。
 一瞬後には欠片さえも残らないイメージの渦。
 けれどそれは、武の胸に、深く深く……癒えることのない傷を刻んで。そして、消えていった。

 暗転した視界が、色を取り戻す。砲声が大気を震わせ、機体に衝撃を叩き付けてくる。――しかし、それ以上の衝撃はなかった。
 十近く射出された36mm砲弾は尽く宙を貫き、放物線を描いて遠い大地に斑を広げるのみ。
 全ての動きをキャンセルしての反転噴射は、見事水月の渾身の策を躱しきったのだ。
 だが、武は息吐く暇もなく、肩部スラスターを作動させていた。横方向のモーメントにより旋回する弐型。
 そして、その右主腕に握り締めた短刀をコクピットに突き立てたのだった。


 それが、今からほんの数分前。
 網膜に投影された機体状況をチェックしながら、戦況を整理する。
 推進剤残量はもうさほど多くはない。水月との戦闘で些か消費しすぎたか。しかし、推進剤残量を考慮している余裕はなかった。
 XM3を使いこなせていないにもかかわらずあれほどの戦闘力……それを思うだけで、武の頬には汗が伝った。
 残る四機に備えて長刀を温存した所為もある。長刀を使っていれば、最初の交錯で決着は付いていただろう。
 それでも、武をああも手こずらせたのは、他ならぬ水月自身の戦闘力故だった。
 やはりいつになっても……どの世界であっても、彼女は武にとって越えるべき壁なのだ。尤も、この世界においては、あの瞬間を以て、武が水月の越えるべき壁として設定されてしまったのだが。
 各部関節については、目立った損耗はない。主脚の耐久力が心配ではあったが、こうして見る限り、問題はなさそうだ。現状のまま戦闘を続けたとして、少なくとも数時間は耐えられる。この模擬戦中に問題が発生するということはまずない。
 ……それよりも問題は、先程脳裏に到来した、炸裂する白濁と暗黒だ。
 あれは一体何だったのか。死に限りなく漸近したあの瞬間、不意に思考を焼き尽くした強烈なビジョン。
 その内容ははっきりとは覚えていない。ただ、体の中身を全て吐き出してしまいたくなるような、忌々しい不快感だけが、胸の奥でわだかまっていた。
 奔流が一体何であるかは忘れられても、奔流そのものは決して忘れられそうになかった。
 ――そんなことよりも今は、模擬戦に集中しないと……!
 かぶりを振って、武は無理矢理に思考の方向を修正し、網膜に投影される現実の情報に意識を集中させる。
 先程の水月と茜も合わせて、これまでの撃墜数は八。
「残り四機――けど、伊隅大尉に宗像大尉か……面倒なのが残ったなぁ……」
 水月を追撃することを選んだのだから仕方ないとはいえ、ぼやかずにはいられない。美冴は、前の世界では大尉に昇進していた。
 特にみちるが問題だ。接近戦でこそ水月に軍配が上がるものの、総合面では頭一つ飛び抜けている。流石は大尉という階級に就き、ヴァルキリーズを率いているだけのことはある。元々は連隊であったA-01も今や中隊にまで損耗している。その中で今も生き残っているのだから、その能力は相当なものだ。国連軍全体を探しても、彼女以上の衛士はそうそういないだろう。
 かつては共に戦場を駆け抜けた仲間であり、尊敬すべき先達であり、水月同様に越えるべき壁でもあった……けれど永遠に超えることが出来なくなってしまった人。
 白銀武という衛士を形作る上で、彼女の存在はあまりにも大きかった。
 味方であればこれほど心強い存在もいないが、敵に回せばここまで厄介な相手だとは思わなかった。かつての演習とは違う。今立ちはだかるのは、敵としての伊隅みちるなのだ。
 だが、この程度で負けてはいられない。
 十一年もの間実戦をくぐり抜け、『前の世界』の彼女達の想いを背負った自分が負けるわけにはいかないのだ。
 ――オレの邪魔をするのなら。
 誰であろうと、叩き潰す――。
 どす黒い衝動が、鎌首をもたげようとする。全身に絡み付く、悪意と敵意の触手。胸の奥にざわつきを覚える。
 一瞬の暗転。走馬燈のように、意識の暗幕に映し出されようとする闇よりも尚黒い闇色のフィルム。
 ――それを、必死に抑え付ける。
 戦術機を操る理性とは切り離された、白銀武を構築する本能が。人類の守護者――衛士たる白銀武が。触手を切り離し、衝動に蓋をし、ざわつきを閉じ込める。
 相手は人間であり……護るべき、大切な人達だ。
 命を懸けて護らなくてはならない――掛け替えのない仲間なのだ。
 だから。

 ――オレが、オレの邪魔をするんじゃねえ……!

 ぎり、と奥歯が鳴って。つぅ……と一筋、赤い雫が唇の端から伝った。
 常人ならば、顔をしかめずにはいられないであろう痛みに、けれど武は頓着しない。思考は冷徹に、戦況を整理していく。データリンクが使えない今、相手の正確な位置を知ることは出来ない。精々、複合センサーで一機につき三つ程度の候補に絞るのがやっとだろう。
 これが高速走行や噴射跳躍をしてくれれば楽なのだが。まさかそんなへまはしてくれまい。
 武は演習場のマップデータを呼び出し、これまでに見付けた潜伏に適した場所、敵にいて欲しくないと思う場所を頭の中でリストアップしていく。
 散開は二機連携だった。当然、潜伏も同様だろう。砲撃支援や制圧支援の近接戦闘能力は低い。後方迎撃の二人がそのサポートを務めるはず。
 当然二組の二機連携の間でも連携は取るだろうから、自ずと潜伏場所は特定されていく。
 候補は三箇所。三分の一の確率なら上々だろう。ある程度近付けば、強化された索敵能力で敵機の位置を割り出すことは難しくない。
 改めて兵装を確認すると、主機の出力を高く保ったまま、不知火・弐型は目的地へと向かった。


 七瀬凛と宗像美冴をそれぞれO-11とM-21とに待機させながら、自らはI-13に待ち構え、みちるはレーダーを注視していた。
 高速走行で、敵機を示す赤の光点が段々と近付いてくる。敵機の各種センサーは役に立たないはずだ。にもかかわらず迷いなくここを目指してくるということは、みちるたちの狙いが看破されているのは明らかだった。
 一見無謀とも言える吶喊、しかし独創的と言う外ない機動概念を併せ持っている上、セオリーもきちんと踏まえている。
 やりにくいどころの話ではない。
 操縦桿を握る手に汗をかいているのがわかる。スロットルペダルに置いた足は今にもつりそうだ。
 人間相手にここまでの脅威を抱いたのは初めてのことだった。
 相手はたった一機なのに、何百ものBETAを相手にしているようなプレッシャーを感じる。
 ……いや、たとえBETAの直中にあっても、これほどの緊迫感を与えられることは少ないかもしれない。
 これは、単なる演習だ。ペイント弾と模造刀を用いた、実戦形式の演習に過ぎない。
 にもかかわらず、みちるは、死を覚悟せねばならない戦場以上に――敵機の衛士に、畏怖を覚えずにはいられなかった。
 何故かはわからない。確かに、その実力は、恐ろしくさえある。
 ――だが、そうではない。畏れという感情は、そんなものに端を発するようなものではない。畏という字が鬼という字より生じたものであるように。この感情は、本能的に忌み憚らずにはいられぬ物に対して生じる感情である。

 もしかしたら、伊隅みちるはこの時、衛士としての勘で感じ取っていたのかもしれない。
 白銀武という衛士の危うさ――歪さを。
 
 敵機を操る衛士は一体何者なのか……興味は尽きないが、まずはこの演習に勝利することが先決だ。
 弐型が目的のポイントへとやってくる――瞬間、
「ヴァルキリー1――バンデッド・インレンジ! エンゲージ・オフェンシブ!」
 みちるは全開の水平噴射跳躍で肉薄した。
 放たれるペイント弾を躱し、一気に懐に入り込む。ナイフシースから抜き放たれた短刀が、稲妻めいた速度で弐型へと振るわれる。
 無論この程度で終わるはずがない。不知火・弐型は最小限のステップでそれを躱し、長刀を振りかぶった。
 みちるはすかさず左主腕に保持した突撃砲の引き金を続けざまに引く。
 だが、ほんの数メートルしか離れていないにもかかわらず、ペイント弾はただ一つとして弐型を捉えることはなかった。
 左右へのステップを繰り返しながら、まるで舞踏のように軽やかな動きで、不知火・弐型はみちるの不知火へと近付いてくる。
 そして一足一刀の間合い、振り上げられた弐型の短刀が煌めいた。
『ヴァルキリー3、フォックス2!』
 そこへ、絶妙のタイミングで楓の120mm滑空砲弾が放たれる。
 しかし弐型は、みちるがバックステップを踏むと同時にアスファルトを蹴り跳躍、それさえも躱してしまう。
 ――だが、それで詰みだ。
 いかに常軌を逸した機動をするとはいえ、ジャンプの直後は、戦術機といえどその動きに制限が掛かる。後はそこを凛と晴子に狙撃させるだけだ。
「七瀬、宗像!」
『――ヴァルキリー7、フォックス3!』
『――ヴァルキリー4、フォックス3!』
『――ヴァルキリー3、フォックス3!』
 みちるの掛け声と同時、凛と美冴に加え楓、都合三門の突撃砲が一斉に火を噴いた。
 これで終わり――誰もがそう油断した時点で、A-01の敗北は決まっていた。


 無数のペイント弾が不知火・弐型の頭上を通過していく。
 滑空砲を前方へのジャンプで回避すると同時に、武は逆噴射を先行入力していたのだ。さらにその先をも先行入力し――着地の瞬間に跳躍ユニットのバーニアを噴かして衝撃を相殺、肩部スラスターを利用して反転、74式近接戦闘長刀で、跳び越えたばかりのみちるの機体を斬り付ける。
 流れるような動作で隊長機を撃墜すると、躱した弾丸の軌道から残る三機の位置を捕捉、残る五発の滑空砲弾全てを射出した。
 それによりさらに一機を撃墜――残るは二機。
 一機は滑空砲を躱す際に噴射跳躍し、もう一機は横へと飛び退いた――状況を把握すると同時、武は噴射跳躍で空中の機体目掛けて追いすがる。
 ここにきて、不知火と不知火・弐型の機動力の差が如実に現れていた。逃げる不知火と追う弐型、両者の距離は見る間に縮まっていく。
 恐らく敵機の衛士はC小隊の隊長。
 ――宗像大尉じゃない……?
 武は、はたと気が付いた。敵機の動きが、武の知る美冴のそれではないのだ。もしかすると、先任の衛士なのかもしれない。武が知ることはなかったが、美冴がC小隊長に任命されたのは11月11日以降のことかもしれなかった。
 武の想像は当たっていた。現在のC小隊長――左翼迎撃後衛は、水月達の一期先任である秋山楓中尉である。
 弐型の主腕には長刀と突撃砲。
 突撃砲で相対する敵機を牽制しながら、下方からの砲撃を、躍るようなローリングで躱して、数瞬の内に間合いを詰める。
 36mm弾は、尽くが92式多目的追加装甲により阻まれていたが、それでいい。それでこそ牽制の意味がある。
 弐型の背で兵装担架のロッキングボルトが炸裂し、残るもう一振りの長刀がパージされる。続けてもう一門の突撃砲もパージ。
 身軽になった機体は、これまで以上の速度で敵機へと肉薄する。
 迎え撃たんと放たれる突撃砲弾を肩部・腰部両スラスターを利用することで速度を殺すことなしに回避――長刀を振り下ろす。
 多目的追加装甲がそれを受け止めた――だが、斬撃の重みに耐えきれず、不知火は失速、大きくその体勢を崩すこととなった。
 それでも尚果敢に突撃砲を構える敵機――しかし、武がトリガーを引く方が一瞬早かった。狙い澄まして放たれた36mm砲弾が不知火の動力部を撃ち抜き、蒼穹色をオレンジ色に染め上げる。
 ――これで残り一機!
 武装を構えたまま、武は空中で機体を上下反転させる。強烈なGが武をコクピットのシートへと押し付け、肋が軋むかのようだった。
 その状態のまま、跳躍ユニットから青い炎が迸る。
 超高速での落下から、振りかぶられる長刀。まだ近接戦闘の間合いにはやや遠い……それで油断しているのだろう、最後の一機は支援突撃砲と突撃砲を構え、白銀機を狙っている。
 だから、それこそが彼女の敗因。
 凝り固まった発想しか持たないが故に、武の狙いを察することが出来なかった。

 事もあろうに、武はその長刀を大上段から投擲したのだ。

 その速度は弾丸には遠く及ばない。だがしかし、その破壊力は弾丸を大きく上回る。どこに当たろうとも――否、掠めただけでも機体には致命的な損傷が刻まれるのだから。
 地上の残る一機は思わぬ攻撃に、ただ全力の噴射跳躍で発泡樹脂の塊を回避――そして着地した瞬間だった……その、本来ならば打ち消せるはずの硬直を狙い、武がトリガーを引いたのは。


「……呆れたわ。まさか本当に勝っちゃうなんてね」
 ガントリーに収まった不知火・弐型のコクピットから整備パレットに降り立った武を、夕呼は発言の通り、いかにも呆れた風な様子で出迎えた。
 ――負けると思っててやらせたんですか。
 込み上げてきた文句を、武はぐっと飲み込む。
「次やったら、多分オレが負けるでしょうけどね」
 幾度もGに振り回された疲れを顔に浮かべて、武は答えた。
「へえ……勝ったってのに随分と弱気じゃない。どうして?」
「最初の奇襲で六機倒せたのが大きかったんですよ。あのときはみんな油断してくれてたお陰で、簡単に墜とせました。お陰で実質的には二対一と四対一……ヴァルキリーズはまだまだXM3を使いこなせてないですから、そのくらいならまだどうにかなります」
 彼女達はまだXM3の本当の特性を理解出来てはいない。
 従来より遥かに優れた即応性などにばかり目がいきがちだが、それはXM3を搭載するために換装された高性能CPUの賜物だ。強化装備に蓄積されたデータによる操縦の最適化という面もあるが、それは既存のOSでも行われていたことを強化しただけに過ぎない。
 XM3の最大の特徴は、先行入力に加え、キャンセルやコンボといった、武がバルジャーノンから持ち込んだ概念によるものだ。
 コンボに関しては彼女達もその恩恵を存分に受けているだろうが、キャンセルと先行入力に関してはまだまだ使いこなせていないどころか、その有用性を実感出来ていないのだろう。
 その証拠に、投擲された長刀を回避した最後の一機は、着地後の硬直をキャンセルすることが出来ていなかった。
 尤も、それまでの動きからキャンセルや先行入力を扱えていないと判断したからこそ、あんな真似をしたのだが。
「オレ自身の機体慣熟とか207Bの総戦技演習に掛かりっきりで、結局まだA-01の教官やれてませんから、仕方ないって言えば仕方ないんですけど」
 およそ半月前、武は207B分隊だけでなくA-01の教官も希望した。夕呼にXM3を開発してもらったところで、それを完璧に使いこなせるのは、バルジャーノンという大元の概念を知っている武だけなのだ。だから、その使い方を彼女達に教えてやる必要があった。
 中途半端に慣れられるより、先に教えておくべきだったか、と武は少しだけ後悔する。
 だが、そんなことをすればこの演習で武が負けていた可能性もあるのだから、これで良かったと言うべきか。結果オーライ、という“白銀語”が武の脳裏を過ぎった。
「それに、夕呼先生が言った通り、機体性能はこっちの方がずっと上でしたしね」
 不知火・弐型は、米国のボーニング社が手掛けたとは思えないほど、近接戦闘能力に重点を置いて設計されている。特に機動性の強化に顕著に現れている。たとえば、十二機の不知火のただ中に飛び込んでも、全ての弾丸を回避出来たように。
「それより、A-01の明日の予定ってどうなってます?」
 思考の焦点を先程の模擬戦から11日の上陸戦へと移して武は問うた。
「そんなの、あたしに聞かれたってわからないわ。本人に直接聞いてちょうだい。――伊隅」
「――はっ」
 夕呼の声に、凛とした響きが返ってくる。
 いつの間にか、ハンガーの扉を背に、一つの影が立っていることに武は気が付いた。
 その影は武達の方へと近付いてくる。
「……伊隅、大尉……」
 その暗赤色の髪を目にした途端、武の口からは自然とその名が零れていた。
「私の名をご存知でしたとは。光栄です、白銀少佐」
 立ち止まり、敬礼。
 一瞬、強い違和感を覚えたが、すぐにそれも仕方のないことだと納得する。
 前の世界では彼女の部下だった武だが、この世界では彼女の上官に当たるのだ。生真面目なみちるの性分を考えればこの対応も当然のことだが、寂しさを覚えずにはいられなかった。
「軍務中以外は少佐なんて呼ばなくていい。気軽に白銀って呼んでくれ。敬礼もいらない」
「しかし、上官に向かってそんなことは――」
「オレにはそれでいいんだ、伊隅大尉。堅っ苦しいのは好きじゃないからな。夕呼先生――香月博士だって敬礼は嫌がるだろう? それと同じさ。それに、年上にそういう態度取られるのは苦手なんだよ」
 ましてやそれがかつての直属の上官ともなれば、尚更だ。夕呼にはそのことを話してあったから、余計な茶々を入れてくるということもなかった。
「……仕方のない方ですね」
 みちるは唇の端を片方だけ吊り上げるようにして苦笑した。
 それに応えるように、武は白銀武としての言葉で言う。
「何しろ、夕呼先生直属の特務兵ですから。諦めてください」
「本人の目の前でそんなこと言うなんて、いい度胸してるわね、白銀?」
 う、と武は小さく呻いた。
 こんなことで夕呼が怒るはずはないが、代わりに目にはしっかりと悪戯っぽい光が宿っている。まるでハンガーではなく、元の世界の物理準備室にでもいるような気がしてくる。夕呼の場合、本気で怒っている時以上にこちらの方が危険なのだ。
「ま、いいわ。白銀が失礼なのなんて今更だし?」戯けたように言う夕呼だったが、すぐに表情を引き締めて続けた。「……それより、頼んだわよ」
「任せて下さい」
 武の言葉に「頼もしいことね」と夕呼は不敵に笑うのだった。


 207B分隊の訓練や着替えが終わるであろう頃合いを見計らって、武はPXへと向かった。案の定、五人の少女達は、揃って夕食を摂り始めたところだった。
「よう。みんな、お疲れさん」
 いつものように武は声を掛ける。
 しかし五人は弾かれたように立ち上がり、
「敬礼!」
 千鶴の号令で、一分の隙もない、武の目から見ても惚れ惚れするほど見事な敬礼を決めて見せたのだった。
 ――が、武は表情を曇らせるばかり。
「……これ、何の嫌がらせだ?」
 折角打ち解けてきて、総戦技演習の前後にはすっかり敬語も敬礼も取っ払うことが出来たはずだったのに、これでは逆戻り――いや、当初よりも悪化しているくらいだ。
「何考えてるか知らないけど、頼むからそういうのはやめてくれ。背中が痒くなる」
 ただでさえ畏まった態度というのには慣れないのに、同い年の、それも前の世界での仲間にこんな態度を取られるというのは、武にとっては拷問にも等しい。
 軍務中は武としても毅然たる態度を取って欲しいと望んでいるが、平時は出来る限り対等に接したいのである。
「しかし……」
「委員長。まだ言うんなら、教官権限で全員罰与えるからな」
 些かどころでなくかなり横暴だという自覚はある。このような権力の使い方は、武の最も嫌うところだ。
 しかし、どんなことがあったか知らないが、武もこればかりは譲る気はなかった。
 仲間に仲間と思ってもらえないことほど辛いことはない。
「……すまなかった、タケル」
 そう言って、冥夜は目を伏せた。
 武の軍務中以外での敬語や敬礼は不要という方針は、単なる堅苦しいのが苦手というだけではないのだと、理解してくれていたのかもしれない。
「わかってくれればそれでいい。オレはお前達の上官で教官かもしれないけど、それ以前に仲間だと思ってる……だから、訓練中以外は今まで通りやってくれ」
「……ごめん」
 珍しくしおらしい表情で慧。千鶴や壬姫、美琴も「ごめんなさい」と謝っていた。
 彼女達に謝られるというのは殆ど覚えがなかったので、武はなんだかくすぐったくなって、微苦笑を浮かべた。
 まったく、一体何があったというのだろう。予想も付かない原因に、武は思索を馳せるのだった。


 2001年11月9日(金)


 早朝、武がブリーフィングルームに入ると、そこには総勢十三名の伊隅戦乙女隊が勢揃いしていた。
 ほぼ全員が、武に興味を孕んだ怪訝そうな視線を向けている。
「こちらが、昨日の演習で我々をコテンパンに伸してくださった白銀武少佐だ。白銀少佐は207B訓練分隊の特務教官をされているが、我々の戦技教官も務めて下さることとなった」
 視線の中に、ほんの僅かな敵愾心と、強い驚きが混じった。
 敵愾心の主は言わずもがな、速瀬水月と涼宮茜である。両者の負けん気は、他の隊員のそれを遥かに上回っている。加えて、水月は突撃前衛のお株である近接戦闘で撃墜されたのだから尚更だろう。
 驚きは、まさか自分達十二機を単機で撃墜したほどの衛士が、同世代だとは思わなかったことによった。
 普通はそうだよな……と武は内心で苦笑して、ヴァルキリーズに視線を巡らせた。見知った顔は、あまりにも多い。
 中隊長にしてA小隊長を務める右翼迎撃後衛・伊隅みちる大尉。強く気高く、軍人としても一人の人間としても、白銀武を大きく成長させてくれた人。
 CP将校として部隊を支え見守る涼宮遙中尉。優しさの中に強い芯を宿した、涼宮茜の姉。戦術機に乗ることは出来なくても、間違いなく彼女は戦乙女の一人だった。
 B小隊長即ち突撃前衛長を務める速瀬水月中尉。自分の弱さを自覚し、それでも自分のなすべきことのために強気の鎧を纏っていた、武の目標だった人。
 C隊長の左翼迎撃後衛・宗像美冴中尉。持ち前のクールさで戦局を冷静に見つめながら、常に飄々とした冗談で部隊の緊張を解してくれた。
 美冴の良き相棒である制圧支援の風間祷子少尉。前衛と後衛のパイプ役として機能し、その穏やかさで部隊全体に気を配っていた。
 水月に憧れる強制掃討の涼宮茜少尉。元の世界では千鶴を、前の世界では千鶴に加え武をライバル視しながらも、誰よりも仲間を大切に思っていた少女。
 笑顔を湛える砲撃支援の柏木晴子少尉。元の世界ではクラスメイトとして、前の世界ではどこか似通った仲間として武を認め、信頼してくれていた。
 前の世界で幾度となく世話になった、信頼し合える仲間達――そして、いずれもが武よりも早く散っていってしまった、救えなかった人達。

 ――一瞬、感情がささくれ立つ。

 けれどその波を、彼女達が目の前にいるという事実が堰き止めた。
 207B分隊のときと同じだ。
 ……今、自分は笑えているだろうか、泣いたりしていないだろうか……不安が湧き上がるが、武の顔は、しっかりと微笑していた。今にも泣き出しそうな笑顔だった。
「これから、A-01の戦技教導官を務めさせてもらう白銀武だ。よろしく頼む」
 そう言って、武は残る六人に視線を走らせた。
 武の視線に気付いてか、みちるが部隊員を端から順に紹介してくれる。
 そこで武は、今の美冴のポジションが砲撃支援であることを知った。やはり、昨日の迎撃後衛は美冴ではなかったのだ。
 前の世界で関わることはなかったが、朧気ながら見覚えがあるのは四人。突撃前衛の築地多恵、同じく突撃前衛の高原小雪少尉、制圧支援の七瀬凛少尉、強襲掃討の麻倉千景少尉。
 凛を除く三人は、確か球技大会のラクロスにD組の一員として出場していた気がする。多恵は茜と仲が良かったから、直接の面識はなくともそれなりに見知っていた。元の世界で猫に変化していたことがあったが、確かにどことなく猫っぽい印象を受ける。
 凛はといえば、武が遅刻した際などに度々お世話になった風紀委員だ。当初こそ眼鏡のないミニチュア版委員長と心中で呼んでいた武だったが、実際に私的に言葉を交わしてみれば、生真面目な割になかなか融通の利く相手だった。尤も、職務には嫌というほど忠実であったが。確か一年後輩だったはずだが、こちらの世界でも優秀ということだろうか、祷子達と同期らしい。徴兵年齢を考えれば、相当な好成績を叩き出さなくてはこうはいかない。恐らく、志願兵であったところを、衛士適性の高さから引き抜かれたのだろう。もしかすると、帝国士官学校の出身なのかもしれない。
 残り二人とは、面識もなければ知識もなかった。ダークブラウンの髪を長く伸ばし一つに括ったのが突撃前衛の神崎月乃少尉、漆黒のショートカットがC小隊隊長にして左翼迎撃後衛の秋山楓中尉……とみちるは紹介してくれた。楓は水月達の一期先任であり、月乃は祷子と同期だということだった。
「じゃあ、自己紹介も終わったことだし、早速戦闘訓練――」
 ぎらりと水月の瞳が光る。全身からは、これでもかというくらいに武への敵愾心を燃えたぎらせている。よっぽど昨日墜とされたのが悔しかったんだろうな、と冷静に武は分析し、その視線に答えるように唇の端を吊り上げ、
「――と行きたいところだが、まずXM3――新OSの特性についての座学から始めようか」
 盛大な肩透かしを食らい、水月がつんのめった。


「神宮司軍曹、こっちの調子はどうだ?」
 シミュレーターの管制をしていたまりもに、武は強化装備のまま問い掛けた。つい今し方A-01の訓練が終わったところだ。
「は。まだ訓練を始めたばかりなのではっきりとは言えませんが……皆適正値は非常に高く、かなりの期待が出来ると思われます」
 言葉遣いこそ軍人としてのそれだが、207小隊の面々には決して見せない、柔らかな笑顔を浮かべて答えるまりも。その微笑の中に、武は“まりもちゃん”を確かに感じ取っていた。
「神宮司軍曹のお墨付きなら、確かに期待出来そうだ」
 実際、彼女達の力を見てきた武にとって、それは揺らぐことのない事実だ。それにまりもが太鼓判を押してくれたのであれば、心強いことこの上ない。
「やめてください、もう……」照れたようにはにかみ、「それに、まだ適正値を見ただけですから、実際のところどうなるかはわかりませんよ」
「大丈夫さ。神宮司軍曹が鍛えるんだからな」
「白銀教官もですよ」
 にこやかにそう言ってから「はあ」とまりもは溜息を吐いた。
「いきなりどうしたんですか? 溜息なんて」
 白銀少佐ではなく、白銀武として、武は問うた。それに合わせて、まりもも砕けた口調で返してくる。
「まさか十二対一で勝ってしまうなんて……」
「ああ――昨日の演習ですか」
 旧市街地演習は、決して非公開ではない。A-01は秘密部隊ではあるが、市街地演習ともなれば、完全に隠し通すことなど、出来ようはずもないからだ。
 管制室から見ることが出来る人間は少ないが、その立地条件故、横浜基地からは麓の柊町と橘町を見渡すことが出来る。その気になれば、模擬戦を見ることは難しくない。
 ただし、どう足掻こうとも、ごく一部の人間以外は、不知火に誰が乗っているのかを知ることは出来ないのだが。A-01の訓練兵時代の教官であるまりもは、そのごく一部の人間に当たる。
 自分の教え子達と、共に207B分隊を指導する同僚の模擬戦だ、まりもも気になっていたのだろう。
「あの娘達、私の教え子の中でも優秀な娘ばかりなんですよ? 特に伊隅大尉や秋山中尉に速瀬中尉、それに宗像中尉なんて、飛びっきりに自慢の教え子だったんですから」
「神宮司軍曹がそう言ってたって知ったら、四人とも喜びますよ……ま、昨日の勝ちは拾ったようなもんですし」
 夕呼に聞かせたのと同じ、奇襲とXM3の練度について説明してやる。それに加え、不知火・弐型のことを付け足しておくことも忘れない。まりもは模擬戦で不知火・弐型と何度か手合わせしているから、その凄まじさは身を以て知っている。
 まりもは「成る程……」と武の言葉に頷いていた。
「それに、向こうがオレのことをただの調子に乗ってる少佐だって思ってくれてたのも大きいですね……同じ条件なら、神宮司軍曹だってまず七、八機は墜とせますよ。勝つ確率だってオレとそう変わりません」
 対人戦において、油断とは最も付け入りやすい隙だ。
 事前に武がXM3の開発者であることや、ヴォールク・データの結果を知られていたなら、こうはいかなかっただろう。
 武自身、今の自分と彼女達との間にかなりの練度の差があることは自覚しているが、十二対一という圧倒的な数の差を覆せる程だとは思っていない。その数の差によって生じる慢心がなければ、半数と少しを墜としたところで手詰まりになっていた可能性は高い。
 勿論、その手詰まりを打破することが出来ないわけではないが。
「――そんな油断に付け込まれるなんて……もっと厳しく鍛えておくべきでしたか」
 やれやれといった様子でまりもは嘆息した。かつて鬼教官として恐れられていた彼女がさらに厳しくなったら、一体どうなってしまうのか。
 少なくとも、まりものこんな一面をはっきりとは知らない彼女達は、この会話を伝えるだけで戦慄してくれることだろう。
 思い浮かべて、武は苦笑した。
「それより、今日からA-01の戦技教導始めたんですよね? ご迷惑をお掛けしてはいませんか?」
「どっちがどっちにですか?」
 武の問いに、「勿論、あの娘達が少佐にですよ」とまりもは微笑した。
「……まあ、みんな流石ですよ。ちょっと教えただけで、格段に上達してくれます」
 A-01の訓練は、一通りXM3についてのレクチャーを終えた後、ひたすら武の動きや操作記録を手本に、シミュレーターでの反復訓練をするというものだった。
 最初こそ戦術機に長く親しんだ先任ほど、常識を投げ捨てるような武の操縦概念に戸惑っていたが、そこはA-01、一通り訓練が終わる頃には、見違えるほどにXM3の特性を引き出していた。
 中でもやはり、突撃前衛組の上達は著しい。
 ただし、今日一日の伸びしろが突撃前衛の中では最も少なかった水月はいたく不満だったようだが。衛士としての経歴が長い分、既存のOSに慣れすぎてしまっているためだろう。
 その後、どうしてもということで一対一の勝負を受けたのだが、これに武があっさりと勝ってしまったから手が付けられない。
『憶えててくださいよ、少佐ぁ!』という捨て台詞は記憶に新しい。今頃酒を飲んでたりしなければいいのだが。
 そのことを言うと、
「速瀬ったら……相変わらずなんだから……」
 言葉にこそ出さなかったが、まったくです、と武はまりもに心から同意した。


 その夜、PX。
「ここ、空いてるか?」
 武は、食事中の十数名に向かって訊ねた。
「白銀少佐!?」みちるは驚きの声をあげ、「敬れ――」
「敬礼はいらないって言っておいただろう?」
 ひらひらと手を振って苦笑しながら、席は空いているものと勝手に判断し、武はみちるの向かい側に座った。
「少佐はどうしてこちらに?」
 柔和な顔立ちに優しげな微笑を湛えて、遙が問うてきた。
「曲がりなりにもこれから色々教えるわけだからな。207小隊の訓練もあるし、毎日は見られない分、今の内に親睦を深めておこうと思って。――あ、みんなには今更かもしれないが、訓練中や任務中以外は敬礼も敬語もいらないからな。オレ、207と同い年だし、みんなも年下相手にそれはやりにくいだろう?」
「それは殊勝な心懸けだな」早速順応した美冴が言う。「速瀬中尉を大したことないと言う天才衛士らしくもない」
「しょ~う~さ~!?」
「言ってません! どう考えても宗像中尉の創作でしょうが!」
 どんなに立場が変わっても、この関係は変わらないのか。敬語や敬礼はいらないと確かに言ったが、今日初めて会ったばかりの上官相手にこれとは、なかなか侮れない。やはり、夕呼で慣れているだけのことはある。これでこそのA-01だ。
 こんなやりとりが懐かしくて、武の顔いっぱいに笑みが広がった。
「そんなことより白銀少佐。君に一つ聞きたいことがあるんだが」
 そう言ったのは、楓だった。今のやりとりをそんなことと切って捨てる辺り、美冴の同期なだけあって、もう慣れっこらしい。
「秋山中尉……それ、どういう意味です?」
「速瀬、そうやって一々突っかかるから、君は宗像にからかわれるんだ」
「う……」
 美冴とはまた違った、涼やかな声で言う楓に、水月は呻いた。前の世界とはまた違った力関係が見えて、なんだかおかしかった。尤も、水月が弱いというのは変わらないようだが。
 一方、水月の同期である遙はといえば、にこにことその光景を見守っている。
 ――この人、天然だからな……。
 水月に同情しつつ、武は吐息した。遙のことだ、楽しそうでいいな、程度にしか思っていないのだろう。
「秋山中尉、聞きたいことっていうのは?」
「ああ……そうだった。大したことじゃないんだが、白銀少佐、君はやけにXM3に詳しいだろう? それで何故だろうと思ったんだ」
「あれ? 言ってませんでしたっけ。XM3考えたのってオレなんですよ」
「――は?」
 唖然とした、とでも言うべき、間抜け極まりない声が十数、重なった。
 それを気にした風もなく、武は続ける。
「伊隅大尉は知ってましたよね?」
「ん? ああ……私は昨日、香月博士から窺っていたからな」
 突然話の矛先を向けられたみちるは、スプーンを持ったまま頷いた。
「先行入力やコンボ、キャンセルっていった概念をオレが考えて、夕呼先生がOSを組んだんです。……あ、あと夕呼先生の作った高性能CPUも使ってますけど。即応性が上がってるのは殆どCPUのお陰ですね」
 勿論、OSの基礎概念の大幅な変革も、それに一役買っている。
 だからこそ、武は訓練の前に、XM3についての座学を行ったのだ。進化したCPUだけで満足している彼女達に、XM3の真価を理解してもらうために。武は座学はとんと得意ではないのだが、これをしなくては始まらない。
 目前に迫った11日のBETA侵攻での生存率は、XM3を使いこなせるかどうかで、大きく左右されるのだ。
 勿論、武としては、生存率に一パーセントの傷も付けるつもりはない。
「この年齢で少佐になるくらいですから、ただ者ではないと思ってはいましたけれど……」
「……すごいどころじゃないですねー……」
 祷子と月乃が感嘆の言葉を漏らした。
 本来ならば自分の先任に当たる相手に称賛されて、嬉しくないはずがない。無性に気恥ずかしくなって、武は頬を掻いた。が、
「それにしても、この頭の中からあんな凄いOSの理論が出て来るなんてねえ」
「人は見かけによらない、ということですか」
「……速瀬中尉に宗像中尉。こんなときだけ結託して失礼なこと言わないでもらえます?」
 普段はこれでもかというほど舌戦を繰り広げているというのに。もしかするとこの二人、本当はとんでもなく仲が良かったりするんじゃないだろうか。
「あはは……けど、これで少し納得いったかな」
 一頻り笑って、晴子。
「何のこと?」
 千景が問い掛けると、
「どうして白銀少佐の機動が飛び抜けてるかってこと。要するに、XM3は白銀少佐が必要だと思ったから作ったんでしょ? 普通、あんなの思い付かないよ」
 元々XM3は、武の特殊な機を誰でも再現出来るように、ということで夕呼に作ってもらったものだが、武自身、自分のイメージする通りの動きを出来るように、という思惑は少なからずあった。
 常に一歩引いたところで全体を見渡しているからか、こういったことに関する晴子の洞察力は大したものだ。が、
「なんていうか、こう……変態?」
「おい」
 もう少し言い方というものがないのだろうか。まるで褒められている気がしないが、ああそういえば柏木はこういうヤツだったよ畜生、と武は盛大に吐息した。
「あ、それそれ、あたしも思ったかも。白銀君の動きって、なんだか独特なんだよねー」
 うんうん、と多恵は頷いている――が、彼女を除く、その場の全ての人間が、呆れたような目で多恵を見つめていた。その視線に気付かないのは本人だけだ。
「それには同意だけど……多恵だけには言われたくないと思うな……」
 全員の意見を代弁するかのように、茜は溜息混じりに呟いた。
「んにゃ?」
 やはりわかっていない様子で、多恵は奇妙な鳴き声をあげた。
 武も、自分の機動が特殊であり独特であるということは理解していたし、当然その自覚もあるのだが……多恵のそれは、ある意味で武の上をいく。
 この世界でこそ特殊な武の機動だが、元の世界のバルジャーノンではごく一般的な機動なのだ。
 しかし、多恵の場合、まるっきり――そう、まるっきり、読めないのだ。思考回路が良く言えば独特、悪く言えば突飛なのである。
 XM3はコンボという概念を組み込んであるため、その機動には、旧OSに比べて、衛士の特性がより強く反映される。
 その中で、多恵の動きは、あらゆる意味で突き抜けていた。ぴょんぴょんと飛び跳ね、ひらりと敵の攻撃を躱しながら、肉食獣を思わせる俊敏な動きで接敵、敵を仕留める――まるで、気紛れな猫のようだ。
 武と似通っているようで決定的に違う。武が剛ならば、多恵は柔だろうか。
「……けど、A-01で一番XM3使いこなせてるのは築地なんだよな……」
 ぽつりと武は言った。
 多恵の変則的極まりない機動を可能としているのは、XM3を使いこなしているからに他ならない。
「――勿論、それが即強さに直結してるってワケじゃないけど」
 妙な殺気を感じて、武は慌ててそう付け足した。きっと水月だろう。突撃前衛長である自分を差し置いて多恵が褒められたのが気に食わないに違いない。
 前の世界では頼れる先任だったが、精神年齢が大きく上回っている今、やけに子供っぽく見えた。
「XM3を使いこなせてても、戦術機を使う衛士の練度の差を丸ごとひっくり返せるワケじゃない」
 思い出すのは、前の世界での12・5事件。あのときに見た沙霧尚哉大尉や月詠真那中尉の強さは、鮮烈に武の脳に焼き付いていた。あのときの自分の練度で、機体性能が同じであったとして、果たして対等に渡り合うことが出来たか……答えは否だろう。
 練度の差は絶対だ。高い練度と確固たる覚悟があって初めて、戦場では一人前たり得るのだから。
「突撃前衛の中じゃ速瀬中尉が頭一つ飛び抜けてるし、部隊全体として見ると伊隅大尉が断トツ。それに速瀬中尉、秋山中尉、宗像中尉と続いて、風間少尉、七瀬、神崎少尉。元207A組は殆ど横一線だけど……涼宮と柏木がちょっと上かな? ……昨日の模擬戦と今日の訓練を見た限りでは、そんな感じです」
 先任達はまだXM3を使いこなせているとは言い難いが、それを補って余りある練度の差がある。
 今のところは、XM3の慣熟の度合いによって、新任達が練度の差を僅かに埋めているといった感じだ。
 武としては、最低でも年内に部隊全員が今のみちるレベルには辿り着いて欲しいと思っているのだが、それを口にはしなかった。そんな遠い目標よりも、今は目の前のことに集中したい。
 だが、現状で満足されても困るので、武は一つだけカンフル剤を投入することにした。
「まあ、今の伊隅大尉より、神宮司軍曹の方がずっと上ですけどね」
 何しろまりもは、XM3を開発した直後から、武の指導の下、それを使いこなすべく訓練を重ねているのだ。今のみちるでは肩を並べることさえ難しいに違いない。
「かつての教官とはいえ、相手は軍曹――現役の衛士が負けているわけにはいかないぞ、みんな?」
 十二人の戦乙女達の目に、強い光が宿る。
 みちるの下に就き、楓や水月にしごかれてきた面々だ、負けず嫌いは当たり前。その相手が尊敬する教官であろうとも、その性が覆るはずがない。
「最低でも一週間の内に、全員に今の神宮司軍曹のレベルには達してもらう。いいな!?」
 威勢のいい返答は、聞くまでもなかった。



[2785] Muv-Luv ALTERNATIVE -Second World Was Failed- 第08話
Name: Vollmond◆d2a8c8a6 ID:05704cd7
Date: 2011/11/15 03:06
 2001年11月11日(日)


 まだ日も昇らぬ頃、武は新潟の帝国軍基地へとやって来ていた。正確には、昨日の夜から。
 一人ではなく、伊隅戦乙女隊(ヴァルキリーズ)の面々も一緒だ。ただし、演習に参加するのは武一人ということになっている。ヴァルキリーズの演習参加は非公式扱いなのだ。
 現在時刻、6時10分。武は演習場の外れに、ヴァルキリーズもまたそこから数キロ離れた旧国道沿いに展開していた。
 武が夕呼に頼んだ命令内容は、帝国軍新潟基地と厚木基地の実弾合同演習。そこに国連軍横浜基地所属の武達がいるのは、少々奇妙と言えるが、武達は最初からそのつもりだったし、夕呼とてそのつもりだったに違いない。
 勿論、名目上の理由は用意してある。
 ――第一は、非公式ではあるがXM3のお披露目。武らの機体に開発中の新型OSが搭載されていることは、既に喧伝済みである。実戦証明主義に偏重する多くの衛士はそれを馬鹿にしていたが、そんなことは予想の範疇だ。
『その落ち着きが、驚きに変わる瞬間が面白いんだから』とは『前の世界』での夕呼の弁だ。
 今ならば武もその気持ちがよくわかる。
 ――あの嘲笑を驚愕に変えてやろう。
 ここでXM3の存在を知らしめてやれば、今後の交渉を有利に進めることが出来るのは間違いない。XM3はたとえその存在を知っていても、従来の戦術機で対処出来るものではないのだから。
 ――第二に、不知火・弐型の存在を国内に知らしめること。
 XFJ計画により生み出された不知火・弐型は、今年の八月末にロールアウトしている。にもかかわらず、弐型の配備は遅々として進まないどころか、その存在を知る衛士自体が少なすぎる。
 ここで武が弐型の性能を見せつけてやれば、現場の衛士の多くから、俺達もあれに乗せろ、あの機体を早く配備してくれ、といった要望が出て来るだろう。不知火は優れた機体であるが故に、改修要望も大きいのである。そうなれば、帝国政府も米国との交渉に力を入れざるを得まい。
 弐型が早く配備されればされるほど、甲21号目標攻略もやりやすくなる。
 00ユニットを完成させることが出来れば、オルタネイティヴ4の成果を証明することが出来るだろうし、そこまで辿り着けなかったとしても、帝国の力を見せつけてやることで、米国政府の動きを牽制したり、交渉を有利に進めることが出来る。
 そのためには、ここでXM3と不知火・弐型の性能を多くの衛士の脳に焼き付けることだ。
 ――第三に、武の不知火・弐型に搭載されている新兵器の試し撃ち。
 試製01型小型電磁投射砲――国連軍横浜基地からの技術提供を受け帝国軍技術廠が開発した試製99型電磁投射砲とは別に、横浜基地で新たに開発したものだ。いつまで経っても具体的な成果を上げられない帝国軍技術廠やアラスカ・ユーコン基地での各国の思惑に業を煮やしたのか、横浜基地でも電磁投射砲を開発すべきであるという声はかねてよりあったのだ。
 横浜基地で保管されていた電磁投射砲の核となる心臓部ブラックボックスたるコアモジュールに、帝国軍技術廠やユーコン基地で得られたデータを掛け合わせ、36mm弾を採用することで小型化を図った、試製品第一号。
 母艦級のことを話した翌日から、夕呼は早速技術部を総動員してくれたらしい。XM3のこともあるから、相当無理をさせたのだろう。
 無理をしてくれたのは、技術部だけではない。夕呼もまた、慣れないおべっかを使って、技術部の機嫌を取ってくれたはずだ。そうでなくては、技術部がこんな殺人的な無茶をしてくれるわけがない。彼らとて人間、応えられる要求と応えられない要求とがある。
 前の世界でXM3を開発してもらった際、それで苛立っていたのを覚えている。流石と言うべきか、それで誰かに怒りをぶつけるということはなかったが。
 従来の99型に比べ、小型化された分、破壊力は低下しているが、その分取り回しが聞くようになっている。尤も、いずれにせよ87式突撃砲に比べれば威力は遥かに高く、また大型ではあるのだが。
 何しろ、その連射性能に対応するための弾丸を搭載したバックコンテナだけで、背部マウントを二つも占有してしまうのだ。バックコンテナに電磁投射砲用のウェポンラックが設置されているため、予備兵装を二つ装備することは出来るが、兵装が一つ減るのは痛い。
 武が選んだのは74式近接戦闘長刀二振り。近接戦闘での電磁投射砲との組み合わせを考慮しての選択だった。
 そのため、突撃前衛向きの武に適した装備とは言い難いが、夕呼の命令で電磁投射砲は開発されたのだから、今現在彼女が最も信頼する衛士である武にこそ、その試射を務める役は相応しい。
 それに、01型にはまだまだ改良の余地が無数にあるというのも理由の一つだ。試射は済んでいるが、実戦でのデータは皆無だし、何より、小型化を図った関係で、99型最大の問題点であった砲身冷却系の防御力が大幅に低下してしまっているのだ。欠陥兵器と言われる試製99型電磁投射砲以上の欠陥兵器と言わざるを得ない。
 そんな欠陥兵器に何らかの不具合が起こった際、生還できる可能性が最も高いのは、他ならぬ武である。武の機動制御技術と弐型の機動力があれば、緊急回避の成功率は倍近くにまで跳ね上がる。
 武が命を落とす危険は最小限に抑えたい夕呼ではあるが、無駄に駒を失うのも彼女の望むところではないだろう。
 様々な理由を吟味した結果、武以外に01型試製電磁投射砲の射手を務められる者はいないという結論に達したのだった。
 ここまでが表向きの目的。

 ――しかし、本命の第四の目的は決して明かされることはない。
 佐渡島ハイヴから上陸してくるBETAの殲滅――及び捕獲である。
 武は知っている。今日、ここで捕獲されたBETAは、来るべき量産版XM3のトライアルにて放たれ、多くの衛士の命を奪うのだという未来を。
 その多くの衛士の中には、彼にとって掛け替えのない恩師も含まれていた。
 コクピットの中で、ぎり、と武は奥歯を噛み締めた。
 そんなことはさせない。まりもちゃんは絶対に死なせない、と。
 だが同時に、A-01に課せられたその使命を妨げることなど許されないとも、武は知っていたし、理解していたし、何より、受け入れてもいた。
 あのトライアルは、緩みきった横浜基地を引き締めるためのカンフル剤、荒療治に過ぎる荒療治であると同時に、実戦というものを知らない207B分隊に実戦を教え込み、『死の八分』を乗り越えさせるためのものであったのだと、遠く過ぎ去った2002年6月8日にその首謀者たる香月夕呼から直接教えられた。
 まりもを殺す原因を作った彼女を恨みもした。だが、彼女が死んだ最大の原因は武であり、同時にあの場にいた全ての人間の責任でもある。
 感謝もしていた。あそこで死の八分の本当の意味を、身を以て教えられていなかったなら、武は初めての実戦で死んでいたかもしれないのだから。
『白銀少佐、時間です』
 網膜にみちるの顔が映し出される。「ああ、わかってる」と応え、武は主機を起動した。
 低速歩行で、武達は演習場へと機体を移動させる。
 国連軍において、不知火が配備されているのは横浜基地のA-01のみである。蒼穹色の不知火は、帝国軍基地においてはひどく目立った。武の弐型ならば尚更だ。
 加えて、帝国軍と国連軍の仲はすこぶる悪い。日本人でありながら国連軍――日本にとっては忌むべき米国の手先――に従じているA-01や武に対しては、明らかな敵意が向いていた。
 戦術機のメインカメラという名の無数の視線が、自分達に集中しているのがわかる。
『人気者は辛いですねぇ、少佐?』
「何を言ってる、速瀬中尉。人気者なのはオレじゃなくてヴァルキリーズの美人所だろう? なんだかんだ言っても、男の衛士は多いからな」
 尤も、外部の部隊に、ヴァルキリーズの素性は一切知らされていないのだから、横浜基地やオルタネイティヴ計画に関わる一部の人間以外、ヴァルキリーズが美人揃いだという事実を知る者はいないのだが。
 対し、武は違う。
 横浜基地所属第1独立特務小隊白銀武少佐――その存在は、全く隠されていない。むしろ、喧伝されているくらいだった。白銀武という卓越した衛士の存在を以て、反オルタネイティヴ4勢力への牽制とする――それが夕呼の判断。
『あら少佐、なかなかいいことを言うじゃないですか』
 真意か御世辞かはともかく、美人だと言われたのは満更でもないらしい。が、
『お言葉ですが、美人所というのに速瀬中尉が含まれている保証はありませんよ?』
『なぁんですってぇ~!?』
『――ってし』
「オレは言ってないからな」
 白銀少佐が言ってました、という美冴お決まりの文句を遮ってやると、『――ち』という舌打ちの音が聞こえた気がした。
 舌打ちするなら、通信くらい切ってやってもらいたい。
『今回は一本取られましたわね、美冴さん』
 くすくすと笑いながら言う祷子。対して、美冴は面白くなさそうだ。前の世界で散々からかわれたのだ、一矢くらい報いてやらなくてはなるまい。果たしてそれは成功したのだが。
『あはは……一番の人気者はやっぱり白銀少佐だと思いますけどね』
『おいおい。お前もか、柏木』
『いいじゃないですか。人気者っていうのも悪くないと思いますよ?』
 茜に言われると、なんとなく納得出来るような気がする。いや、元の世界の彼女は、勝手なイメージで作り上げられた自分の虚像に辟易していたんだったか。
 ――あ、れ……?
 ふと、不思議に思う。
 オレってそんなに涼宮と親しかったっけ――と。今更ながらに、そんな、当たり前すぎて見過ごしていた異常に気が付いた。
 彼女と親しかった記憶はない。そもそも、親しくなるような切っ掛けがあったとも思えない。
 首を傾げた武に『白銀少佐?』と凛が不思議そうに問い掛けて来たので、「なんでもない」と武は答えた。唯一の年下にまで心配されてしまっては、夕呼に笑い飛ばされてしまう。
「まあ、演習が始まれば、誰が一番の人気者か、嫌でもわかるさ」
『そうですね』
 意外にも真っ先に返事をしたのは美冴だった。まだどこかで武をからかう心算を企てているのだろうか。
 網膜に投影されたヴァルキリーズの顔を何とはなしに眺めていた武だが、これまで会話に参加してこなかった面々の表情が硬いことに気付いた。いや、よくよく見れば、晴子や茜の表情も強ばっている。
 緊張しているのだろう。それは実弾演習だからか、それとも――。
「――伊隅大尉」
 回線を切り替え、武はみちるに呼び掛けた。
『何でしょう、白銀少佐』
 作戦遂行中だからだろう、みちるの言葉遣いは上官に対するそれだ。水月らのように親しみを感じさせるものではなく、軍人としてのそれ。
 それを受けて、武の思考が、少しずつ冷ややかになっていく。戦場に立つ、無慈悲な衛士へと切り替わっていく。
「隊形を変更する」
『それは……どういう意味ですか?』
 みちるは明らかに困惑していた。作戦の直前になって、事前に決定した隊形を変えるというようなことは滅多にないからだ。それも、BETAの出方もわからないというのに、だ。
「オレが突出して、前線でBETAの数を減らす。ヴァルキリーズはその残党を仕留めてくれ」
『少佐――ッ!?』
 みちるは驚きの声をあげた。
 戦場での孤立は、即、死に繋がる。本来突撃前衛隊に組み込まれるはずであった時点で、武が命を落とす危険性は高かったのだが、そこからさらに突出する――ヴァルキリーズの遥か前方でBETAの第一陣を迎え撃つ――となれば、その危険性はさらに跳ね上がる。
「オレに与えられた任務はBETAの捕獲じゃなくて、新兵器の試用とヴァルキリーズの補佐。BETAの捕獲そのものは入っていない……電磁投射砲の試し撃ちもオレの重要な任務なんだよ」みちるの驚きの声に、平然として武は答える。「――そもそも、オレの専門はBETAを殺すことだけ……奴らを一匹でも多く殺して、新任達を護るくらいしか、今オレがヴァルキリーズのためにしてやれることはないんだ、大尉」
 五人の新任をこの戦場に立たせることを決めたのは、武だった。
 彼女達の実力は、平均的な新任少尉のそれを遥かに上回る。それどころか、XM3を使いこなし始めている今、実力だけならばエース級の衛士にも引けを取らないとさえ言える。
 十分な実力があるのならば、残るは実戦経験のみ。
 今回の上陸戦は、その貴重な本物のBETA相手の実戦経験を新任に積ませるいい機会だった。
 帝国本土防衛軍第12・14師団という優秀な部隊が、実質的にはA-01の護衛となってくれる。ヴァルキリーズはその討ち漏らしを相手取ればいい。初陣としては破格の条件だろう。
 だがそれでも、初陣という言葉が、死の八分という言葉とワンセットである事実は変わらない。
 ――初めての実戦……初陣。衛士にとって、超えねばならぬ、厳然と立ちはだかる八分の壁。
 今でこそ多少緊張している程度だが、いざ戦闘が始まれば、ほぼ間違いなく彼女達は混乱の極みに陥るだろう。
 そうなったとき、BETAの群の直中にいれば、死は免れまい。
 自惚れるわけではないが、現時点での新任達と、初めてBETAと遭遇した際の武とでは、その練度は当時の武の方が上だろう。だからこそ、武は興奮剤と後催眠暗示のバッドトリップの中、持ち前の機動力だけでBETAの猛攻を凌ぐことが出来たのだ。
 いかに不知火に乗っていようとも、機体性能だけで初陣の結果が変わるわけではない。
 錯乱していようとも、身に着けた技術は裏切らない。どんなに怯えていても、指は反射的にトリガーを引く。頭が真っ白になっても、体は自動的に敵を倒す。
 しかし、それだけで初陣を乗り越えることは出来ないのである。
 新任だけではない。前の世界におけるこの戦いでの脱落者は三名。一人は病院送りで済んだようだが、隊に復帰することは叶わなかった。実質的に、衛士としては死んだようなものだ。
 今回は前の世界とは違い、既にXM3を搭載しているとはいえ、楽観することはとても出来ない。
 武が加わることで、少しでも彼女達の犠牲を減らすことが出来るならば、それに越したことはない。
 今更武が彼女達のお守りをする必要はないだろう。新任達の面倒を見るというのなら、武よりもみちるの方が、ずっと良くやってくれる。
 下手に自分が傍にいて彼女達を萎縮させるより、みちるや水月に任せた方が、新任達も自分の力を発揮出来るだろう。

 ――それに、BETAと戦っている最中の自分を、彼女達に見られたくはなかった。

『しかし、少佐一人では……』
「心配ないさ。こっちはこっちで帝国軍と協力して、手っ取り早く片付ける。そっちは生き残りがいたら捕獲するくらいの気持ちでいてくれていい」
 もしかしたら全てのBETAを殲滅させてしまうかもしれないから、ヴァルキリーズは任務を達成出来るかはわからない、と武は言っているのだった。
 そう言われて黙っているみちるではない。
『では、少佐の獲物を横からかっさらってでも捕獲させていただくとしますよ」にやりと唇の端を吊り上げるみちる。『それが我々の任務ですから』
「あまり期待しないでおこう」
 武とみちるは笑い合った。
 だが、すぐにみちるの表情が曇る。
『……しかし、本当にBETAが現れるのでしょうか……香月博士からは上陸したBETAを捕獲しろと言われていますが、そう都合良くBETAが現れてくれるとは思えません』
 BETAの行動は予測出来ない――それは、世界の常識だ。
 だが、BETAは来る。間違いなく。
「香月博士が言ってるからには、来るはずだ」
『……そうですね』
 夕呼の名を出した途端、みちるは納得してくれた。
 香月夕呼の名は、それだけの力を持つということか。
「来なければ来ないで、他の部隊への通達通り、実弾演習をやればいいだけだ」
 武がそう言ったのと同時だった。
 演習場全体にけたたましい警報が鳴り響き、コード991の発生が宣言される。それに続けて、遙からの通信が入った。
『ヴァルキリーマムよりエインヘリヤル1及びヴァルキリーズ各機。0620、佐渡島より旅団規模のBETAが南下を開始。即時戦闘態勢に移行せよ。繰り返す、佐渡島より旅団規模のBETAが南下を開始。即時戦闘態勢に移行せよ――』
 来たか、と武は呟き、主機出力を向上させた。


 中空には帝国海軍が放ったAL弾頭弾によって発生した重金属雲が立ち込め、辺りに暗い影を落としていた。黎明を過ぎた頃であるにもかかわらず、世界はまだ日が昇ってさえいないかのような薄闇の中に沈んでいる。
 これでレーザー属は光線級・重光線級共に、ほぼ無力化されたも同然。
 武は安心して自分らしい戦い方をすることが出来る……が、その前に。
「まずはこいつの試し撃ちから……と」
 武は、第三の目的として掲げられた電磁投射砲の試射準備に入った。
 弐型の背部には、補助電源と弾倉という役割を持つ小型のコンテナが積載されている。小型とは言っても、本来ならば87式突撃砲が収まるべき兵装担架を二つとも占してしまっているので、小型という単語の前には、従来に比べれば、という但し書きが付く。
 突撃砲がないのは些か不安ではあるが、そこは電磁投射砲に頑張ってもらうとしよう。変則突撃前衛装備と思えば、何も問題はない。
 不知火・弐型の遠視カメラは、迫り来る、水際での砲撃をくぐり抜けた突撃級の敵影を捉えている。
 距離三千。およそ一分で武の元へと到達する計算だ。
 一分……その長くも短い六十秒は、けれど今の武にとっては、あまりにも長い。
 武は無造作に電磁投射砲の砲口をBETAの群へと向けた。装填される弾丸は36mm。とうに安全装置を解除された新兵器は、やがて来る砲声という名の咆哮をあげるその瞬間を待ちわびているかのように、甲高い充電音を発していた。
『尻に穴開けろなんてケチなことは言わないわ。正面から撃ち込んでやりなさい』
 どこかふざけたような口調で、その実冗談ではなく、夕呼は真剣に言っていた。ならば、武はそれを信じるだけだ。武は、夕呼は勿論、横浜基地の整備班や技術部も信頼している。彼らの仕事に間違いはないだろう。
 たとえ欠陥兵器であろうと、その破壊力は折り紙付きだ。
「こちら国連軍横浜基地所属第1独立特務小隊白銀武少佐だ。これより当機は11時方向へ向けて試製新兵器の試射に入る。帝国軍各機は、射線から即時退去せよ――!!」
 抑えきれない昂揚を抱えたまま、オープンチャンネルで命令を発する。元より射線上に機影は一つもなかったが、万が一ということもある。
 スウェイキャンセラーにより緩和された支援砲撃の微かな震動を感じながら三秒ほど待って、武は長く吐息した。

 ――古来より、日本人にとって、刀を鞘から抜くという行為は、精神を作り替える行為であった。
 それは、今この時に生きる衛士であっても変わらない。多くの帝国軍衛士が、背部パイロンから長刀を引き抜くという行為によって、自身の精神を、平時のそれから戦時のそれへと切り替える。
 しかし、武にとって、その感覚は稀薄だった。
 御剣冥夜や月詠真那といった、剣術に秀でた衛士を師と仰ぎ、一応の剣術を修めても、それは変わらなかった。
 この世界の人間ではない武にとって、抜刀という行為は、特別な物として位置づけられることはなかったのだ。
 ――ならば、白銀武は、どのようにして自らの精神を切り替えるのか。
 答えは単純。
 この鋼鉄の揺り籠の中で操縦桿を握る――ただ、それだけである。
 それだけで白銀武は、容赦なくBETAを屠る最強の衛士へと己を作り替える。
 網膜に映し出されたメインカメラの映像。遙か遠く、濛々と粉塵を巻き上げ、その名の通りに突撃を仕掛けてくるBETAの群。
 それを認めた瞬間――白銀武は、完全に切り替わっていた。

 ――迸る殺意。憎悪が全身を焼き焦がす。

 距離は残り三千弱。残り六十秒。しかしそれは突撃級の進軍速度で計算した場合であり。この電磁投射砲を以てすれば、僅か三秒さえ必要ない――!
「――エインヘリヤル1、フォックス1!!」
 瞬間、曇天の空に、強烈な砲声が響き渡った。
 火薬により撃ち出される通常の砲声とは根本的に異なる、遠雷めいた砲声と閃光。円環状の極光を貫いて、灼熱の光条が奔る。
 機体を反動に揺さぶられながら、武はそれを見た。
 モース硬度十五以上――ダイヤモンドさえ凌駕するはずの突撃級の甲殻が、まるで粘土のように拉げ、醜悪な化け物の軍団が赤黒い血を撒き散らしては絶命していく光景を。悪夢を塗り潰す光の奔流を。
 瞬く間に血煙を吐き出す肉片へと化していくBETAの群。そこに種別は関係ない。それはさながら、射線上に存在する全てに破壊と殺戮を撒き散らす、戦神の鉄鎚の具現だった。
 恐らくはこの場の誰よりもBETAとの戦闘を経験してきた武だからこそ、その破壊力はより驚異に見えた。
「す、すげぇ……ッ!」
 自然、驚愕と感嘆と歓喜の入り混じった声が、武の口から漏れた。
 突撃級の第一陣の大半をあっさりと退け、さらにその後方に控えていた要撃級をもミンチへと変えていく。
 36mm弾でありながら、その破壊力は120mm滑空砲さえも軽々と凌駕している。
 ――これがあれば……これがあれば、より効果的にBETAを殲滅出来る……!
 武は歓喜に打ち震えた。
「は、はは……ははははは……!!」
 口から漏れる笑み。武はニィ、と唇の端を吊り上げる。
 砲口が迸らせる咆哮と共に射出された36mm弾はプラズマの尾を引く灼熱と化し、BETAの群を次々に死滅させていく。
 突撃級はその突進力を活かすことも許されぬまま、要撃級は両腕が盾の役目さえ果たせず、戦車級は数の暴力を無力化され、光線属はレーザー照射の間さえも与えられぬまま、極超音速の弾丸によって瞬く間に撃殺されていった。
 これがたった一機の戦術機によって為された戦果であると、誰が信じよう。支援爆撃にも相当する圧倒的な制圧能力。
 新兵器の実戦運用試験は大成功と言っていい。数多の実戦をくぐり抜けてきた武が保証するのだから間違いなかった。
 しかし、その破壊力に浮かれてばかりいる武ではなかった。
 レーダーには無数の赤い光点がひしめき合い、砂塵を巻き上げながら、緑色の甲殻が突進してくる。突撃級の第二陣だ。
 津波じみた突撃級の群を眼下数十センチに見下ろす低空噴射跳躍で飛び越えながら、
「エインヘリヤル1よりヴァルキリーズ各機! 突撃級を何体か抜かせる! その後は要撃級、小型種の順だ! 各機迎撃準備! 捕獲は数を減らしてからだ!!」
『――了解ッ!』
 自らの後方に位置するA-01へと、通信機を通じて武は叫んだ。
 こんなところで彼女達を死なせるわけにはいかない。かつての仲間も新たな仲間も、まだ死んでいいはずがない。
 故に、その名はエインヘリヤル。戦乙女の尖兵として戦場を駆ける戦士。
 またの名をベルセルク――狂気に身を任せ、本能の赴くままに敵を滅する暴虐の使徒。
 ――ああ……狂戦士の名の通り、一切の躊躇なく慈悲なく容赦なく殺して殺して殺し尽くしてやる――!


「……BETAの動きがおかしい、だと……?」
 それより数分前。CPからの通信を受けて、帝国軍本土防衛軍第12師団第231中隊長(かつらぎ)葛葉(くずは)大尉は、訝しげに呟いた。
 確かに、レーダー上のBETAを表す赤い光点が、奇妙に密集しているように見える。まるで鉄砲水のように、BETAの群が駆け抜けていっているようだ。溢れかえった後続が砲弾の雨に吹き飛ばされるのもお構いなしに、続々とBETAは集まっていく。そしてそれらは、ただ一箇所を目指して猛進しているようであった。
 その目指す先に、一体何があるというのか。その行方をレーダーで追って、
「ん……?」
 葛葉は、ふと気が付いた。
 その赤い津波のただ中に一つ、緑色の光点が浮かんでいる。まるで、波間を漂う小さなブイのように。
 不意に、彼女の脳裏を過ぎる言葉があった。
『こちら国連軍横浜基地所属第1独立特務小隊白銀武少佐だ。これより当機は11時方向へ向けて試製新兵器の試射に入る。帝国軍各機は、射線から即時退去せよ――!!』
 緑の光点の位置は、先程その通信を投げ掛けてきた機体の位置とぴたりと一致する。
「まさか――」
 レーダーを注視する。赤い光点がまるで重機に削り取られる土砂の如く消滅し、そしてまた後から後から湧き出てくる。
 ――すごい……!
 これが新兵器。これが横浜の造り出した切り札。単機でありながら、支援砲撃にも劣らぬ圧倒的な制圧能力。
 レーダー越しにでさえ、その火力が伝わってくる。
 先程目にした光景は、忘れようと思っても忘れられるものではない。それほどに衝撃的で、鮮烈な一瞬だったのだ、あれは。心が躍った。あの瞬間、誰もが己の戦いを忘れて、あの禍々しいほどに壮麗な、神々しくさえある壮絶な破壊に魅入っていた。
 ――それが今、BETAの雪崩という危機に見舞われている。
 先程から、疑念はあったのだ。
 最前線とまではいかぬものの、ここは紛うことなき前線。しかも、戦術機――人間の搭乗する高性能機械――という、統計上BETAの最優先目標が部隊を組み、その後方に自走砲や戦車を従えているのだ。突撃級の一陣やそれに連なって要撃級あるいは戦車級の群が押し寄せてきてもおかしくはない――にもかかわらず、こちらへとやって来る数があまりにも少なすぎる。
 だが、BETAがあの一機に集中しているのであれば、それも納得だ。
 こちらへとやって来るはずだった獲物は、悉くが彼の白銀武少佐に奪われてしまったというわけだ。
 ――これは些かまずい状況である。今回の合同実弾訓練では、有事の際には新潟基地と厚木基地双方が協力して対処する予定だった。これは今回に限ったことではなく、合同訓練においては毎回行われている取り決めであり、マニュアルのような物もある。当然、半ばゲスト扱いで合同訓練に参加する予定であった横浜国連軍も対処に当たる義務を負っている。
 だが、有事に備えての従来の作戦内容に、国連軍は存在していない。
 言い換えれば、支援車輌等の隊形も、国連軍を想定していないのである。まさかこのタイミングでBETA進攻が起こるとは思うまいという楽観視が裏目に出たのだ。
 つまり、現在、獅子奮迅の働きを見せている国連軍少佐は、文字通りに孤立無援の状態で孤軍奮闘しているということになる。
 従来想定していたルートから外れた侵攻ルートの所為で、支援砲撃は雀の涙程度しかないだろう。
 ――あの衛士を死なせるわけにはいかない。
 この戦場に希望の花を咲かせたあの新兵器を墜とさせるわけにはいかないのである。
 ならば、やるべきことは既に定まっていた。
「フロスト1より中隊各機! 我々はこれより国連軍白銀武少佐の援護に向かう!!」
『――了解ッ!』
 十一の部下全てから、一斉に声が返ってくる。一糸乱れぬ部下の呼吸に頼もしさを覚えながら、葛葉は南下を開始した。
 葛葉が武の援護という判断を下した理由は、電磁投射砲を装備した機体を墜とさせるわけにはいかないというだけではなかった。
 白銀武。横浜基地の少佐。そしてその機体に搭載されているという新OS。
 今回のBETA侵攻がなければ、今回の合同演習でお披露目される予定だったという。日本人であるからには葛葉も国連軍――特に横浜基地――に良い感情は抱いていないが、電磁投射砲という新兵器を開発するような基地だ、わざわざ前もって喧伝していた新OSに興味がないはずがない。しかも、それを帝国軍の演習に放り込むというのだから、相当な自信があるのだろう。
 ――件の新OS……その性能を見せてもらおうかしらね。
 無意識に口許を綻ばせる葛葉機を先頭に、十二機のF-15J陽炎が戦場を駆けていく。


 戦車級の影が見えた瞬間、そちらへと照準を合わせて武は36mm弾の雨を降らせる。だが、毎分五百発以上の弾丸を音速の十倍近い速度で発射することの出来る電磁投射砲を以てしても、その全てを蹴散らすことは叶わない。突撃級の装甲殻を盾に、あるいは舞い上がる肉片と砂埃の影に隠れて、戦車級の群はじりじりと接近してくる。
 やはり、120mm弾を使用する99式に比べて、36mm弾の01式では少々破壊力に劣る。99式であれば突撃級ごと背後の戦車級を数体まとめて屠ることが出来るだろうが、01型では一体か二体が関の山だ。
 無論、従来の突撃砲の威力を考えるなら、それでも十分すぎる。
 しかし、前方の電磁投射砲、後方の支援砲撃……二種類の強力な殲滅兵器をくぐり抜け、幾百幾千ものBETA群が進軍してくるという事実は変わらない。
 距離二百――限界だ。
 弐型の左主腕が背へと伸ばされ、背部パイロンに保持されていた長刀の柄を握る。ロッキングボルトが炸裂し、火薬式ノッカーが長刀を跳ね上げる。
 右手に電磁投射砲、左手に長刀。突撃砲と電磁投射砲という違いこそあれど、砲と刀という、武にとっては慣れ親しんだ組み合わせ。
 半ば無意識的に斜線軸を水平に薙ぎ、津波のように殺戮を撒き散らしながら、武はレーダーの表示を見つめていた。
 ――何だ……?
 抱いたのは、疑問。次いで、驚愕だった。
 レーダーには、敵性存在――BETAを示す赤い光点がひしめき合っている。振動センサーから察するに、ここに向かっているBETAは小型種を除いておよそ四千……四千ものBETAがここ目指して進軍しているのだ。
 ――あまりにも、多すぎる。
 BETAの目的地が横浜基地である以上、奴らにとって武は、それを妨害せんとする障害だ。BETAの性質を考えれば、障害は物量という名の最悪の戦術を以て蹂躙するのが常。だから、それ自体はおかしくはない。
 ――だったらどうして、BETAはまっすぐに横浜を目指さないんだ?
 明らかに、武と交戦する必要のないはずのエリアのBETAまでもがこちらへと進路を変更している。まるで、武と弐型こそが目的であるかのように。
 日本海に展開した帝国軍日本海艦隊からの支援砲撃は、ここまでは届かない。精々、雪崩のような軍勢の後方部分を吹き飛ばすか、時折、空を貫く白い光条に黒い爆炎を弾けさせるくらいのものだ。
 自走砲もまた幾度となく轟音と共に砲弾を放ち、レーダーの赤い光点の中に小さな穴を空けるが、瞬く間に穴は埋められていく。
 距離50――BETAの進路変更の理由を考察しながらも、まるで脳の思考領域が二分されているかのように、武は冷静に今自分のなすべきことだけをなしていた。
 噴射跳躍で小型種を跳び越えつつ、砲撃を加えていく。だが、その大きさ故の取り回しの悪さの所為で、取りこぼしは徐々にではあるが、右肩上がりに増加していく。

 ――にもかかわらず、BETAはそのまま進攻しようとはしなかった。
 まるで武を待ち構えるかのように、その場に残っているのだ、BETA達が。一度は通り過ぎたものまでが――先程ヴァルキリーズ達の方へと抜かせた突撃級も含めて――わざわざ反転し、弐型の周囲へと集まってくる。
「――結局オレが一番の人気者ってわけかよ……!」
 チィ、と武は忌々しげに舌打ちした。
 やはり、電磁投射砲は突撃前衛向きの装備ではない。強襲掃討や制圧支援、砲撃支援といった、後衛向きの装備だ。こうして一度懐に入り込まれてしまうと、あまりにも取り回しが悪く、最早デッドウェイトでしかなかった。
 今のように飛んでさえいれば問題はないが、それでは推進剤の消費が激しすぎるし、光線級のいい的だろう。今でこそ重金属雲が発生していて、周囲に光線属がいないものの、常にその加護を受けられるわけではないのだ。
 いつまでも噴射浮遊を続けるわけにもいかず、着地地点のBETAを電磁投射砲で一掃すると、そこへ着地、押し寄せてきた化け物の群を長刀で薙ぎ払う。
 いくら殺してもきりがない。
 底などないとでも言うかのように、BETAの包囲網はその数を減らすことなく押し寄せてくる。
 それを蹴散らしながら、暗い愉悦を押し殺して武は考えていた。
 ――どうして突然オレの優先度が跳ね上がったんだ?
 二体の要撃級を蜂の巣にし、三体の戦車級をまとめて薙ぎ払いながら、武はそう自問する。
 武を脅威と見なした? ――否、ここはこの世界での初陣、武に脅威度は設定されていないはずだ。
 弐型に搭載されているXM3対応のCPU? ――否、前の世界ではこのようなことはなかった。
 ――なら、電磁投射砲か……?
 それ以外には考えられない。
 BETAは人間よりもむしろ機械に興味を示している。だから、兵器である電磁投射砲に奴らが興味を示してもおかしくはない。
 ……だが、BETAが興味を示すほどの高性能なコンピューターが電磁投射砲に搭載されているとは考えにくい。通常の火薬を用いた砲とは仕組みが異なるとはいえ、砲は砲なのだから。
 いや――武は、ふと一つの可能性に思い当たった。
 ――ブラックボックス。
 試製01型電磁投射砲の心臓部は、99型電磁投射砲の心臓部として帝国に提供されたものと同一……いわばブラックボックスなのだ、そこに規格外の機構が利用されていたとしてもおかしくはない。
 何しろ、このサイズでこれほどの破壊力を引き出すような兵器なのだから。
 ――待てよ……?
 武は、そこでほんの僅かな引っ掛かりを覚えた。
 どうすればこのサイズでこんな威力を引き出すことが出来るんだ――と。
 電磁投射砲の仕組み自体はそう複雑なものではない。電流により磁界を発生させ、ローレンツ力を利用して弾丸を射出する……フレミングの法則については、武も『元の世界』の中学校で習ったことがある。
 だが、弾丸を極超高速で撃ち出すためには、膨大な電力が必要になる。それほどの電力を、一体どこから取り出しているというのか。
 戦場という極限まで神経と思考が研ぎ澄まされる空間の為せる業だろう……武の脳裏に、一つの仮説が閃いた。
 ――G元素……ッ!!
 前の世界で耳にした、究極の欠陥兵器――XG-70を思い出す。あの戦略航空機動要塞は、ムアコック・レヒテ機関と呼ばれる、グレイ・イレブンを利用して造り出された主機を搭載していた。
 ラザフォード場と呼ばれる強力な重力場を周囲に作り出すことで光線属のレーザー照射を無力化するのだ。主機を暴走させれば、巨大なG弾として利用することも出来る。
 当然、機動要塞と銘打っているからには、XG-70には強大な破壊力を有する攻撃能力が付与されていた。
 それが荷電粒子砲。数千数万のBETAを一瞬で打ち砕く神の雷である。
 だがそれも、ムアコック・レヒテ機関がラザフォード場を発生させた際に発生する莫大な余剰電力を利用しているに過ぎない。
 ――なら、電磁投射砲に必要な電力を発生させることだって出来るんじゃないのか……!?
 これにより、一つの仮説が立てられる……即ち、BETAは、G元素に引き寄せられる性質があるのではないか。
 そう考えれば、BETAが横浜基地を――かつてのハイヴへの再侵攻を繰り返す理由にも一定の説明が付く。単なる帰巣本能だけではなく、ハイヴに置き忘れていたG元素の回収がその目的であったとしたら。ましてや、横浜基地は今尚“生きた”ハイヴなのだ。反応炉について、武は殆ど無知であるが、あれはBETA由来の物質の巨大な結晶、それにBETAが並々ならぬ執着を見せたとしてもおかしくはない。
 そして、もしそうであれば、前の世界でBETAが反応炉が健在であるハイヴ跡地に建設された基地にばかり再侵攻を行っていたことも説明出来る。
 勿論、これは武が現在持っている情報から導き出した仮説でしかないから、間違っている可能性も多分にある。
 それでも、仮説が建てられるというだけで、人間は安堵するものなのだ。たとえそれが、実際には何の役に立つかわからないとしても。

 ――そして、それは武にとって、昏い愉悦をもたらす要素でもあった。

 孤を描く長刀で要撃級の首を刎ね、そのまま肩部スラスターを利用して回転運動へ移行、にじり寄ってきていた数体の戦車級を一刀の下両断する。
 そこから一瞬の噴射跳躍で飛び上がると、下方のBETAの群目掛けて電磁投射砲を掃射、肉塊と化したBETAの残骸の上に着地する。
 網膜には、未だに数十体のBETAの影がある。
 武は思わず口許を綻ばせた。どこまでも凶暴な、壊れた笑み。
 ――後から後から、わざわざ殺されに来てくれやがる……!
 まるで、G元素という名の角砂糖に群がる蟻の群。だがしかし、この角砂糖は猛毒である。角砂糖に辿り着くまでには劣化ウランの弾雨を潜り抜け、閃光の如き剣戟を躱しきらねばならない。
 白銀武という絶対の防壁を乗り越えることの出来るBETAなど、存在しない。
 試製99型電磁投射砲を以てすれば、旅団規模はおろか、師団規模のBETAでさえ制圧可能であるという。破壊力こそ劣る01型であるが、この程度のBETAであれば、制圧出来ないはずがない。
 仲間の――仲間という概念がBETAにあるかは不明だが――死骸を盾に迫ってきていた要撃級を、電磁投射砲から放たれた36mm弾が撃ち抜く。
 その向こうからさらに要撃級が三体。しかし武は慌てることなく、冷静にそれを射殺し、あるいは斬殺する。
 装甲殻や前腕の欠片の隙間を縫うようにして迸る弾丸がBETAを貫き、血と肉をぶちまけて弾けさせ、地面を赤黒く染めていく――その時だった。
 明滅するボアサイト・マーク、けたたましく鳴り響く警告音、そして表示される機体異常のメッセージ。
 それが、武の中で燃え上がっていた熱を一瞬にして奪い去っていた。
「こんな時に……ッ!!」
 苛立たしげに武は吐き捨てた。
 砲身過熱。
 要撃級の前腕、あるいは突撃級の装甲殻の破片がぶつかったか。それとも単なる作動不良か。いずれにせよ、試製01式電磁投射砲の冷却装置は故障し、今や砲は使いものにならない、巨大なデッドウェイトに成り下がったのだった。
 危惧していた事態が現実の物となった。やはり、あまりにも防御力が弱すぎるのだ。
 しかし、それでも押し寄せるBETAの勢いは止まらない。電磁投射砲が兵器として作動しなくなろうとも、ここには今も奴らの求めるG元素があるのだ。
「これだから実戦証明出来てない新兵器は……ッ!」
 舌を鳴らしながら、電磁投射砲を背部マウントに格納、代わりにもう一振りの長刀を装備。ノッカーにより跳ね上げられた長刀をそのまま振り上げ、一閃――要撃級を唐竹に割る。
 電磁投射砲によりその大半を撃殺したとはいえ、まだまだ敵の数は多い。支援砲撃が期待できない今、それら全てを、たった二振りの長刀と二振りの短刀だけで乗り切らなければならない。加えて、弐型の背には試製01型電磁投射砲とバックコンテナという大荷物があるのだ。
 それは、あまりに骨の折れる仕事だ。
 仲間達に通信を入れたいという欲求に駆られる。A-01がいれば、この程度のBETA、物の数ではない。
『――白銀少佐! ご無事ですか!?』
 まるで武の内心を見透かしたように、みちるから通信が入る。武は苦々しげに微笑した。
「伊隅大尉……どうした、ッ……!」
 突撃級の突進を旋回するような軌道のステップでやり過ごし、擦れ違いざま長刀を横一文字に振るいながら、武は応える。
『BETAが白銀少佐の周囲に集中しているはずです……先程の通信の後、こちらには一体も来てはいません……!』
「……そうか」
 武の声音には、はっきりと安堵の響きが宿っていた。
 やはり、BETAは皆武にご執心らしい。
 ――思案は一瞬、決断は刹那。今の会話で、決意は固まっていた。
『白銀少佐、これから援護に――』
「――必要ない」
 予想通りのみちるの進言を、武は一言で切って捨てた。
 自分の役目を忘れるな。何故ここで戦っているのか。――決まっている、護るためだ。彼女達を護るために、白銀武はここにいる。
 護るべき者達を敵のただ中に呼び込んでしまっては、本末転倒だ。
 ただでさえ、夕呼にBETAの捕獲を命じられているA-01は、その半数が通常弾ではなく、特殊な麻酔弾を装備しているのだ。その他の装備も電磁ネットや捕獲コンテナといった、通常の対BETA戦では決して用いられないような物が目立つ。
 いかに彼女達が精鋭揃いであるとはいえ、大幅に戦力が低下してしまっていることは否めない。しかも、今回の作戦には、これが初めての実戦となる元207A分隊の新任が参加しているのだから、さらに戦力は低下しているだろう。
 既に昨日の段階でブリーフィングも済ませ、覚悟もしているとはいえ、初めての実戦の空気に耐えられる者はそうそういない。安全圏で打ち立てた覚悟など、本物のBETAを前にすれば、木っ端微塵に砕け散る。
 よって、現段階では元207Aの五人を戦力として期待することは出来そうにない。それどころか、しばらくは数字の上ではマイナスのようなものだ。
 実質、ヴァルキリーズは二個小隊以下の人数で、それも新任を護りながら戦わなくてはならないようなものだ。
 そこに、新しく負担を掛ければどうなるか――考えるまでもない。
 そんな彼女達の負担を少しでも減らすために武に出来る事は、最前線で敵を討滅してやることだけだ。そうすれば、彼女達は生き延びられる。
 後方で震えていただけだとしても、まずは死の八分を乗り越えてくれればそれでいい。
『少佐!? そんな、無茶です!!』
 援護は不要だという武の言に対し声をあげたのは、みちるではなく、これまでの通信を聞いていたのであろう水月だった。
『速瀬! 貴様は黙っていろ!』
『で、でも大尉……!』
 尚も食い下がる水月。彼女は、戦場で孤立することの恐ろしさをよく知っている。突撃前衛とは、ともすれば孤立しがちなポジションでもあるからだ。水月とて孤立したことは一度や二度ではない。それでも生き延びてこられたのは、彼女自身の技術と、運の為せる業だ。
 みちるもそれをわかっていながら、上官同士の会話に口を挟んだ水月を一言で黙らせたのだった。
 それが、軍というものだから。
「ここはオレ一人で十分だ。ヴァルキリーズは帝国軍の援護に向かってやれ」
 そちらでならば、武の援護よりもずっと危険は少ない。
 そもそも襲ってくるBETAの数自体が少ないだろうし、彼女達はBETAの標的にはなりにくいからだ。
 聡明なみちるのことだ、武には大量のBETAに狙われる理由があり、そしてそれを知ることは機密情報に抵触することになることくらい、とうに気付いているだろう。もしかしたら、水月を諫めたのも、そのためかもしれない。
 それに感謝しつつ、武はにやりと笑って、付け足した。
「――オレと違って、連中の方なら取りこぼしだって大量にあるだろうしな」
 口を動かしながらも、手足は全く別の思考に制御されているかのように、BETAを殺害している。蒼穹色の不知火・弐型は、今や見る影もなく赤と紫の混じったどす黒い色に染め上げられている。
 それでも尚、その猛々しさは少しも損なわれてはいなかった。むしろ、返り血を浴びれば浴びるほど、雄々しく研ぎ澄まされていくかのようでさえある。
「――死力を尽くして任務にあたれ。生ある限り最善を尽くせ。決して犬死するな」
 ぽつりと武は言った。
『白銀少佐……』
 みちるが吐息と共に武の名を呟く。
「ヴァルキリーズの任務は、オレの援護じゃない。BETAの捕獲のはずだ。――自分達の任務を果たしてこい」
 そしてヴァルキリーズの力を帝国軍の連中に見せつけてやれ――ここが戦場であることが嘘のような、穏やかな微笑を浮かべて言う武に、
『――了解……ッ!』
 みちるは敬礼と共に応えたのだった。

 通信を切ると同時に、武はスロットルペダルを踏み込んだ。ジネラルエレクトロニクス製エンジンが轟音と共に火を噴き、弐型を宙へと押し上げる。
 即、水平噴射跳躍へ移行、要撃級の前腕を躱しながらその脳天に長刀を突き立てる。
 噴射を停止させ、要撃級を踏み台に跳躍、着地地点の要撃級を薙ぎ払いながら着地、二刀で十字を描くように次なる一体を斬り裂いた。
 流れるような機動と剣戟が、瞬く間に三体の要撃級を血祭りに上げる。
 ――殺させるものか。
 ぎり、と奥歯を噛み締める。
 覚えている。壊れた戦術機を。血塗れの肉塊を。食い散らかされた屍体を。散っていった、仲間の姿を――。
 だから、強くなった。
 全てを刻み込んだ。体に、心に、脳に。一切を忘れることのないよう、この胸の奥の黒い炎が消えることのないように。あらゆる憎悪を、憤怒を、悔恨を、悲哀を、怨嗟を、恐怖を、絶望を全てを血肉として取り込み、力の糧とするために。――強くなるために。
 力を渇望した。奴らが赦せなかった。BETAという存在その物が許容出来なかった。
 だから、殺す。殺される前に、殺すのだ。
「お前らなんかに、オレの仲間は二度と殺させない――!!」
 ――だから、お前達が死ね……オレがお前達を殺してやる……!!
 後方に配された戦車隊が放ったのであろう、数発の砲弾が着弾、爆発する……それが合図だった。
 噴射跳躍ユニットの推進剤の残りは十分。武はスロットルペダルを踏み込み、水平噴射跳躍でBETAの群の直中へと突っ込んでいった。
 武の記憶が正しければ、前の世界でのトライアルの際出現したBETAには要塞級や重光線級といった大型種は含まれていなかった。
 ならば、その二種を早々と狩ってしまうに越したことはない。
 そのためには、目の前の雑魚共を片付ける必要がある。
「邪魔、だぁぁあ――ッ!!」
 咆哮し、行く手を遮る中型種を二振りの長刀で斬り刻む。
 流麗ながらも荒々しく、壮絶な剣の舞。一切の無駄を省いた――殺すためだけに存在する、剣戟の極致。故にそれはどこまでも美しく……そして凶々しかった。
 だが、そも、剣とはそういうものである。
 殺すために生まれ、殺すために研ぎ澄まされ、殺すために振るわれ続ける――武はただその本懐に忠実に、目の前の敵を鏖殺するためだけに長刀を握り締める。
 ……が、いかんせん数が多すぎる。
 尽きることなく湧き出すBETAの群の向こう、巨大な昆虫のようにも見える大型種……要塞級の姿がある。そこに辿り着くまでに、一体どれだけのBETAを殺せばいいのか。小型種を除いてさえ、優に四桁はあるだろう。
 だがしかし、普通ならば絶望するであろうこの状況の中、武は嗤っていた。
 頬が裂けたかのような唇の歪みは、歓喜の表れである。肉を裂く感触に、血飛沫の感触に、実際には感じられぬその幻覚に酔い痴れる。
 狂気が狂喜し凶鬼と化して殺し続ける。
 その姿、正しく一陣の暴風。爆音をマーチングドラム代わりに、一直線に突き進む。
 群がるBETAを巻き込み、斬り刻み、吹き飛ばす。装備は二振りの長刀でありながら、それが撒き散らす殺戮は、突撃砲のそれをも凌駕していた。
 それは、これまでの人類の劣勢を嘲笑うかのような、多くの衛士が命を散らしてきたという事実がまるで冗談であるかのような――一方的な虐殺だった。
 物量という絶対の力を無に帰す暴虐の嵐。立ちはだかる異形の生命体を瞬く間に葬り、蹂躙していく。容赦などあるはずもない。己が周囲に存在する、生きとし生ける全ての命を潰えさせねば気が済まぬとばかりに、降り注ぐ砲弾と撒き散らされる爆炎を背景に、剣舞はさらにその苛烈さを増していく。
 人類に死をもたらす災害に死を撒き散らす、さらなる災害。それが、白銀武だった。
 累々と築かれていく屍の山。サブカメラに映し出されたその光景に、武は笑みを隠すことが出来なかった。
 昂揚する。胸が躍る。まるで子供の頃に帰ったかのよう。幼い子供が小さな虫の命を弄ぶような、死を与えるという最も下劣な行為がもたらす至上の愉悦。
 壊れている。エインヘリヤルというコールサイン。ただ殺し殺されるためだけに存在する狂戦士。
 幻と現の境が曖昧になっている。これは幻実か現実か。
 どちらでもいい。奴らを殺せるのなら。この手で、殺し尽くせるのなら――。

 ――不思議な感覚が、武の体を支配していた。

 戦場独特の昂揚の中、不思議な懐古の念が湧き上がってくる。前の世界とはまた違った、遠く遠く過ぎ去った過去の光景と、今眼前に展開している戦場とが重なり合う。
 壊れた戦術機。血塗れの肉塊。食い散らかされた屍体。散っていった、仲間の姿――そして、無数のBETAの死骸。

 どこか現実感が稀薄だった。にもかかわらず、思考はかつてないほどクリアに研ぎ澄まされて、体に染み付いた衛士としての本能が敵を討っていく。体が熱い。脳髄の奥に火種が灯る。抑え付けていた感情の箍が外れようとする。
 ここには、こんなにも沢山の敵がいる。
 殺していい。こいつら全てを殺していいのだと思うと――恍惚とする。
 殺しても殺しても底を突かない。永遠に殺し続けられる。まるで悪い夢のよう。最上の悪夢――かつて夢想し続けてきた、希望通りの状況。
 抑えきれない。歓喜が。喜悦が。愉悦が。感情の箍にひびが入る。
「く、くく……はは……はははははは……!!」
 壊れた笑声がコクピットの中で木霊し。
 同時に、肚の奥底で燃え上がる、憎悪という名の地獄の業火が、武の体を、心を焼き焦がしていく。
 ――殺させない。お前らなんかに殺させない。お前達ごときに、オレの仲間は、部下は、絶対に殺させない。貴様らBETAがそのつもりなら、オレが貴様ら全てを殺して殺して尽くして、駆逐して駆逐して駆逐し尽くして、BETAという種をこの手で根絶やしにしてやる……!!
 乖離する心。炎と氷。護りたいのか、殺したいのか。どちらが本当の白銀武の願いなのかわからない。
 その心を映し出したかのように、武が駆る戦術機は狂ったように長刀を振るう――されどその斬撃は、一切の無駄なくBETAから命を刈り取っていく。
 小型種を踏み潰し、踏み躙り、踏み砕き。中型種を斬り裂き、斬り刻み、斬り伏せる。
 殺して殺して殺して殺して殺して殺し尽くす狂気の舞踏。風よりも疾く、雷よりも迅く。際限などないかのように、殺し滅ぼすための剣劇は加速を続けていく。
 刃に込めるは、滾る憤懣と衰えることのない憎悪。
 壊れていく。一体を殺すごとに軋んでいき。
 壊れていく。二体を屠るごとにひび割れて。
 壊れていく。三体を葬るごとに砕け散る――。
 どす黒い感情が、記憶の海の底から浮上する。
 言うなれば、それはパンドラの匣。
 白銀武が衛士であるために、オルタネイティヴ4を完遂するために抑え付けてきた激情の渦。その匣が二度と開くことのないよう、雁字搦めに縛り付けたはずの鎖が軋みを上げて外れかけている。
 感情が加速していく。奈落に向かって、どこまでも昏く――。
 ――それでも尚、武の思考は氷のような冷静を保っていた。
 最近距離の要撃級を駆逐すると、武は続けざまに突撃級の第二陣へと狙いを定め、水平噴射跳躍で接近すると、その脚を次々に斬り落とす。地面を滑っていく原色の塊には目もくれず、すぐさま次なる要撃級の前へと機体を移動させる。
 すかさず振り下ろされる前腕、しかしそれよりも早く、弐型の腰部スラスターが咆哮した。
 一瞬にして懐へと潜り込み、腹部と思しき箇所へと長刀を突き立てる。赤黒い体液が噴き出す中、そのまま噴射跳躍により縦に引き裂き、完膚無きまでに殺害する。
 肩部スラスターを利用して機体を空中でスライドさせつつ、跳躍ユニットと腰部スラスターの逆噴射で要撃級の背後へと回り込むと、その高い旋回性能をも上回る速度でその首を刎ねた。
 返り血を浴びて、蒼穹色の機体が赤く塗り込められていく。
 血の雨の中、不知火・弐型はさらなる惨劇を求めて戦場を駆け巡り、剣舞が屍体を次々に積み上げていく。

 ――不思議な感覚はまだ続いている。

 嘘のように体が軽い。人馬一体の境地。機体が自分の手足の延長ではなくそのものであるかのような一体感。XM3と不知火・弐型のポテンシャルを最大限に引き出した三次元的な挙動によって全身にのし掛かっているはずの強烈なGさえ気にならない。
 着地地点に待ち構えていた要撃級を一刀の下に切り伏せる。
 着地の硬直をキャンセル、再び噴射跳躍ユニットを噴かした。大出力のジネラルエレクトロニクス製エンジンは、一気に弐型の機体を宙へと舞い上げる。
 凶暴な笑みを浮かべながら空中で倒立反転、逆噴射で下降し、近付いてきた要撃級を二体まとめて絶命させる。
 背面サブカメラに映った戦車級の姿を認めるや否や、意図的に機体を傾け、バランスを崩すとともに回転、孤を描いた長刀の切っ先が数体をまとめて膾斬りにした。
 息吐く暇もなく跳躍、旋回して迫ってきていた突撃級を飛び越えるなり、再度旋回しようと速度を落とした突撃級の柔らかい臀部に長刀を突き刺してやる。
 中型種以上だけで数千にも上っていたBETAの群は、既にその半数近くが死滅している。即ち、それだけの数のBETAを――支援砲撃の助けがあったとはいえ――武が一人で屠ってきたということである。にもかかわらず、武はそれを些かも苦に思っていなかった。
 ――まるで、以前にも同じことを、もっと困難な条件下でこなしたことがあるような感覚。
 しかし、たった一人でこれほどのBETAを相手にした記憶は、武にはない。少なくとも、前の世界ではなかったはずだ。
 こんな、孤立無援の状況の中、ただ一人で戦い続けたことなど――。

 ――何か。ざりざりと。ノイズ混じりの。イメージが。

 どくん、と心臓が跳ねる。抑え付ける。自分自身を。衛士たるべき自分を、全力で律する。
 記憶に引きずられそうになる。引きずられるわけにはいかない。そうして死ぬのは自分一人ではない。自分に巻き込まれる者、自分が護るはずだった者、そして彼らが護るはずだった者、一人の死は一万人の死へと繋がっていく――否、今ここで白銀武が死ねば、この世界が救われる未来はあり得ない。その双肩には、億単位の人命が懸かっているのだ。
 嫌というほどわかっている。自分を殺してしまいたくなるほどわかっている。
 何人もの仲間を、何十人もの部下を失ってきたからこそ。
 今はまだ、このどす黒い記憶に呑まれてやるわけにはいかなかった。
「うぉぉぉおおおお――!!」
 体内に凝った熱を吐き出すように、裂帛の咆哮が迸る。精神の奥深くに巣くったどす黒い触手が千切れ飛ぶ。
 張り裂けそうな喉が痛みを訴えてくるが、そんなことには気にも留めずに武は操縦桿を握り締める。
 メインカメラの視線を上げれば、要塞級の威容が先程よりも圧倒的に大きくなっている。こちらが進んだのか、あちらが進んだのか。――どちらでもいい。距離が近付いたというだけで十分。だが、
「くそっ、流石に数が多い……!」
 要撃級の前腕を躱し、交差法で長刀の一撃を叩き込みながら、武は上擦った声で呟いた。大量に分泌されたエンドルフィンでも誤魔化しきれない疲労の所為だろう、額にはじっとりと汗が滲んでいた。
 武は、物量というBETA最大の脅威を、改めてひしひしと全身で感じ取っていた。
 ――それがどうした。
 それでも武は止まらない。
 どす黒い衝動が、疲れなど知らぬとばかりに武を突き動かす。この身は鋼の巨人、ならば生身の消耗など何の問題があろう。
 操縦桿を握り締め、マニピュレーター越しに長刀の感触を確かめる。
 一刀で一体、二刀で三体、振るわれる刀は血を吸って赤黒く曇り、尚も新たな血を求めて猛り狂う。
「来いよ、バケモノども……!」
 跳躍ユニットを噴かそうと、スロットルペダルに置いた足に力を込める――その瞬間だった。
 BETA達の体に次々と穴が開き、赤紫色の体液を流しながら、骸の山が出来上がっていったのは。
「何だ……?」
 思わず疑問の声を漏らす武。そこへ、
『フロスト1よりエインヘリヤル1へ! こちらは帝国本土防衛軍第12連隊第231中隊長桂木葛葉大尉であります! これより我々は白銀武少佐の援護に入ります!!』
 水平噴射跳躍で移動していた黒い烈士仕様の陽炎が十二機、白銀機の周囲へと降り立ち、36mm弾の斉射でBETAの群に穴を空けていく。
 帝国軍が、要請もなしに国連軍、それも横浜基地の衛士を助けにやって来た。犬猿の仲とも言うべき両者が、ごく限定的な状況ではあるが、手と手を取り合おうとしている。
 ――これが戦場だ。たとえ見ず知らずの相手であろうと、命を懸けて互いを護り抜こうと協力し合う。誰かが指示を飛ばせば、それに対し必ず応答が返ってくるし、お互いの動きに合わせて、各々が最適と信じる戦術を執る。
 そこには、国連軍も帝国軍も関係ない。全く異なる軍に籍を置いていようとも、その根底にあるものは同じ――BETAを倒すという共通の目的に向かって邁進する仲間なのだから。
 かつて、武が求めてやまなかったものが、ここにはある。軍籍や国家の思惑に縛られず、共に戦おうとしている。
 だがそれ以上に、桂木大尉という名前、フロスト1というコールサインに、武は目頭が熱くなるのを感じていた。
 ――桂木少佐……っ……。
 前の世界の2007年の初めに横浜基地が帝国に接収されてすぐ、武の直属の上官となったのが、何を隠そうこの桂木葛葉であった。本土防衛軍所属だということだが、後程帝都に召喚されたのだろう。
 当時大尉であった武は、彼女の指揮する大隊の一中隊長を任され、彼女の下で指揮官としてのいろはを教え込まれたのだ。みちるや千鶴から教わったことをどのように生かせばいいのか、徹底的に叩き込まれた。BETAを屠るだけではなく、仲間を護る方法を教えてくれた、武が師と仰ぐ者の一人。
 ありがとうございます――そっと目を瞑り、武は胸の奥で礼を言った。
 再び視線を上げたときには、武の眼差しはBETAだけを見据えていた。
「助かった。ありがとう、桂木大尉」
『お気になさらないでください、白銀少佐。少佐の新兵器のお陰で、多くの部隊が救われたのです。むしろこちらが礼を言わねばなりません』
 網膜に映し出されたバストアップの映像は、武が知る彼女よりもやや若い。
 帝国軍人は往々にして頑なだ。今はどちらが礼を言うべきかという押し問答をしている場合ではない。
「では、お互いに感謝し合っておくか」
『そうですね、白銀少佐』
 二人は笑みを交わした。が、一瞬後には電灯のスイッチを切り替えるみたいに、二人の表情には日本刀を思わせる鋭さが戻っていた。
「感謝ついでに、突撃砲を一挺と予備弾倉をいくつか分けてもらいたいんだが」
『少佐には先程の新兵器があるはずでは……』
 訝しげに言う葛葉。武はそれに唇の端に苦笑を散らして応えた。
「試製新兵器って言っただろう? まだまだ欠陥だらけなんだよ」
『成る程……実戦証明されていない兵器はこれだから――』
「だが、実戦で使わなくては証明は得られない……そうだろう、大尉?」
『ええ……厄介なものです』
 二人は苦笑を交わし、頷き合った。
 フロスト7から突撃砲と予備弾倉を受け取り、代わりに長刀を一振り手渡す。
 やはり、長刀と突撃砲を装備したこのスタイルが、武には一番しっくり来る。
 様々な人間に師事した武であったが、国連軍時代は冥夜や真那、慧といったインファイトが得意な人物が多かったし、帝国軍では、帝国軍衛士の特色とでも言うべきか、やはり長刀を重んじる傾向が強かった。
 しかし、武としては水月の戦いぶりが目に焼き付いていたことと、壬姫や晴子に砲撃について色々と教わっていたこともあって、突撃砲に頼る場面も多かったのである。
 武は機動制御のスペシャリストであると同時に、剣術・狙撃双方に秀でたゼネラリストでもあるのだ。――尤も、それは突き詰めればBETA殺しのスペシャリストそのものなのだが。
「――エインヘリヤル1よりフロスツ各機! 全機続け! BETA共を殲滅する――!!」
『了解!!』
 込み上げる懐かしさと共に、武はスロットルペダルを踏み込むのだった。



[2785] Muv-Luv ALTERNATIVE -Second World Was Failed- 第09話
Name: Vollmond◆d2a8c8a6 ID:05704cd7
Date: 2011/11/15 03:06
『あ、あぁ、ぁ……』
 ――その震える声は、一体誰のものだったのか。
 白銀武少佐の命令で一度は後方に下がったヴァルキリーズが、いつまで経ってもやって来ないBETAに業を煮やして、前線に向かったのが数分前。
 そして、蠢くバケモノ共の群を目の当たりにしたのが、十数秒前だった。
 ソレはあまりにも醜悪で。汚穢に満ちていて。なんて、おぞましい――。
 あんなに訓練したのに。シミュレーションでは、これまでに何千何万というBETAを葬ってきた。ヴォールクデータ上とはいえ、ハイヴに侵攻したことだってある。
 ――なのに。それなのに……!
 恐るべきは、その物量。シミュレーションで何度も煮え湯を飲まされて、その脅威を理解していると思っていた――実際はどうだ、このひしめき蠢く化け物の群は。この圧倒的な存在感は、威圧感は何だというのだ。
 辺りには、押し潰された幾つもの戦術機の残骸。人間の亡骸と思しき模様が、点々と大地に散らばっていた。
 BETAの軍勢の周囲には、交戦中の黒い帝国軍の戦術機の姿がある。しかし、戦況は決して優勢とは言えなかった。――ほら、今も一機、撃震が破壊されて――。
 ――その撃震と自分の乗る不知火が、一瞬重なり合う。
 どくどくというノイズが、やけにうるさい。体の内側から聞こえてくるそれは、まるで左胸に時限爆弾でも仕込まれているかのようだった。
 時限爆弾……不意に浮かんだそのたとえに、涼宮茜の口許は引きつった笑みを象った。それは余裕の現れなどではなく……むしろ、逆。
 そのイメージは、あまりにも洒落にならない。八分――本来のタイムリミットの概念とは逆だが、八分という時間を超えて爆発しないでいられるか否か。死の八分という、数多の衛士の命を容赦なく散らしていった時限爆弾を、今茜は抱え込んでいるのだった。
 呼吸がうまく出来ない。頬を冷たい雫が滑り落ちていく感触。体の中に燃え上がるような熱と凍り付くような冷気が同居している、矛盾した感覚。時限爆弾が時を刻む音が、際限なく膨れ上がっていく。
 ――これが、戦場……速瀬中尉達が戦ってきた場所……!
 噛み合わぬ歯の根ががちがちと音を鳴らす。その音が、ますます以て時限爆弾を思わせた。
 ぐらぐらと視界が揺れるかのようだ。平衡感覚が失われている。目の前が真っ暗になる。白濁する意識。飢えた獣が喘ぐみたいな呼吸音は、紛れもなく茜の口から零れている物だった。
『――貴様ら、準備はいいか!?』
 網膜に像が映し出されると共に、部隊長である伊隅みちるの声が鼓膜を強く震わせた。それに対し、水月が笑顔で応える。
『勿論ですよ、大尉。さっきから体がうずうずしちゃって』
『あまり性欲を溜め込むのは体に毒ですよ、速瀬中尉』待ってましたとばかりに、美冴が合いの手を入れた。『……っと、速瀬中尉は戦闘に性的快感を覚える変態でしたか。成る程、そのために性欲を溜め込んでいたわけですね』
『む~な~か~た~!?』
『――って神崎が言ってました』
『あ、あたしっ!?』
 突然、上官侮辱罪の汚名を着せられた神崎月乃少尉が、驚いたように声をあげる。ダークブラウンのポニーテールが、ぴょこんと跳ねるように揺れた。
『――神崎、任務が終わったら覚えときなさいよ~?』
『なんでそうなるんですかぁ!? 宗像中尉、あたしをダシにしないでくださいよ!』
 月乃の抗議もどこ吹く風、美冴はいつもの不敵な笑みを崩さない。この涼やかな微笑こそが、彼女のポーカーフェイスなのだ。
『……貴様ら、少しは真面目にやったらどうだ? 神崎、君も速瀬も、そんなことだから宗像にいいように遊ばれるんだ』溜息混じりに秋山楓中尉が言う。『宗像、君も君だ。あまり上官を玩具にするんじゃない』
『そうですわ、宗像中尉』任務中だからだろう、祷子は美冴の呼び方を改めていた。『あまり月乃さんをいじめないで差し上げてくださいな』
『いつものことですから、神崎さんももう慣れてもいいと思いますけど……』
 微苦笑を浮かべながら、七瀬凛が呟く。『七瀬、それじゃあたしが悪いみたいじゃん!』という月乃の抗議に、笑声が巻き起こった。
 ここが戦場であることを忘れてしまいそうになるような、一種和やかな先任達の軽口。
 何故この状況で、こんな風に笑えるのだろう。彼女達は、BETAが怖くないのだろうか。死と隣り合わせで、こちらはいつ爆裂するかさえわからない時限爆弾を抱え込んでいるというのに――。
『ヴァルキリーマムよりヴァルキリーズ各機、周辺に光線属はいない模様。繰り返す、光線属はいない模様――』
『だ、そうだ』遙からの通信を受けて、みちる。『お喋りはもう十分楽しんだか?』にやりと笑い――すぐに表情を引き締める。『――行くぞヴァルキリーズ! 全機兵器使用自由! 帝国軍に我々の力を見せつける! そしてBETA共を平らげろ!!』
 裂帛の気合を迸らせながら、みちるが命令を下す。
 彼女は、これがXM3の性能を見せつけるための場でもあることを、十二分に理解していた。
『了解!』
 それに応じる声が重なり合い、
『――B小隊続け! 突撃前衛の意地を見せろッ!!』
 咆哮じみた水月の声に、威勢のいい『了解』が一つと、やや弱い『了解』が二つ応えた。一つは月乃の物、残る二つが元207A分隊の築地多恵と高原小雪の物だ。
 蒼穹色の不知火が四機疾駆する。戦闘を駆けるのは、言うまでもなく部隊長である水月。
 津波のようなBETAの行進のただ中に飛び込んだ水月は、近接戦最強の名の通りに、BETAを蹴散らしていく。
『――A小隊は右翼からだ! 行くぞ!!』
『――左翼はC小隊の獲物だ! ついて来い!!』
 みちると楓がB小隊の奮闘に続けとでも言うように、それぞれの率いる小隊に告げた。
『了解!』
「っ、りょ、了解ッ……!」 
 一拍遅れてみちるの声に応答を返し、茜はスロットルペダルを踏み込んだ。
 時限爆弾のタイムリミットは刻々と近付いている。そのタイムリミットを過ぎても爆発しなければ、茜の勝ち――否、たとえ八分を過ぎたとしても、この戦場を乗り越えられねば意味がないのだ。決して死ぬわけにはいかなかった。

 突撃砲の引金を引く。涼宮機が装備しているのは、通常の劣化ウラン弾だ。
 しかし、弾丸は要撃級を捉えることなく空を貫き、あるいは地面を抉るのみ。戦術機による自動補正があるというのに、茜の狙撃には、普段の半分ほどの精度もなかった。
「どうして……どうして当たらないのよ……ッ! 当たれ、当たれ、当たれぇ……!!」
 懇願するような吐露と共に、強襲掃討仕様装備――都合四門の突撃砲が一斉に火を噴く。無数の砲声の重奏が放たれた弾丸の数を物語っている――にもかかわらず、BETAに穿たれる砲創はごく僅か。
 当たれと思えば思うほど、当たってくれない。
 ――こんなに撃ってるのに……!
 涙が溢れそうになる。滲んだ涙で視界がぼやけ――突如として、白い巨体が、一杯に映った。
「えっ……?」
 呆然とする。がむしゃらに弾丸をばらまいている内に、気付けば要撃級の接近を許してしまっていたのだ。
 気付いたときにはもう遅い。
 しわくちゃ顔の魔物が、ダイヤモンドさえ砕く巨大な前腕を振りかざし、
「――ッ……!」
 茜が目を固く閉じたその瞬間、120mm滑空砲弾によって弾け飛んだ。
『落ち着け涼宮ッ!!』
「っ!」
 怒号じみたみちるの声に、茜はびくりと体を震わせた。恐る恐る目蓋を持ち上げてみれば、そこには既に骸と化した要撃級と、砲口から硝煙を燻らせる01のナンバリングがされた不知火の姿があった。
「た、大尉……!」
 すみません、と続けようとした言葉は続かなかった。声が震えていて、それ以上を口にすることが出来なかったのだ。
『落ち着け、涼宮』今度は優しげな声音でみちるは繰り返す。『訓練通りにやれば大丈夫だ』
 そう言いながらも、みちるは凛や晴子を的確に支援しつつ、自分自身も長刀や突撃砲でBETAを斃していく。そうして数を減らしてやらなくては、呑気に捕獲することも出来ないのだ。
『貴様の不知火には、新OSが搭載されているんだ、いつも通りにやれば、この程度のBETAに後れを取ることはないはずだ。新任のリーダーは貴様だろう? 涼宮が不安がれば、他の四人も不安になる』
 それが、207A分隊の分隊長であった茜の責務だ。たとえ不安であったとしても、気丈に振る舞わねばならないのだ。特に、このような初陣では。
『速瀬のようになりたいんだろう?』
「っ――!?」
 息を呑む茜を見て、みちるは微笑してみせた。
『それなら、まずはいつも通りに戦うことだ。そんなことでは、速瀬を追うことも出来ないぞ?』
『そうそう』
 みちるとの会話に割り込むように、通信が入ってくる。
「ちゅ、中尉!?」
『このあたしを目指そうって言うんなら、こんなところで怖がってちゃ、話にならないわよ?』
「中尉……」
 ほぅ、と茜は溜息を零した。
 本当に、この人達には敵わない。思えば、先程の軽口も、普段通りの部隊の雰囲気を演出することで、新任五人の緊張を解そうとしてくれたのだろう。
 要するに、今の涼宮茜では、敬愛する速瀬水月の足許にも及ばないということ。今はまだ手が届かない目標。けれどいつか、その高みに手を伸ばしたい。
 すぅ……と茜は大きく息を吸った。
 恐怖がなくなったわけではない。今だって胸の時限爆弾は刻一刻と時間を刻んでいる。まだまだヒヨッコで、衛士として胸を張れるわけではないけれど。大好きな人達を護るために、少しでも頑張りたいと、そう願った。
「――ヴァルキリー8、フォックス3!!」
 放たれた36mm弾は、寸分違わず戦車級を撃ち抜いていた。


 要撃級の前腕を噴射跳躍で飛び越え、擦れ違いざま長刀で真一文字に斬り裂く。さらにその背後に控えていたもう一体の顔面に、36mm弾が風穴を穿った。
 尽きることがないと思われたBETAも、今では随分とその数を減らしている。しかし、
「やっと本命のおでましか……!」
 武の口許に獰猛な笑みが浮かんだ。
 BETAの群の奥に、要塞級の巨体が三つ、重光線級が五体、光線級はおよそ二十。要塞級から吐き出されるであろう個体を含めれば、さらに増えるだろう。
 その時、突如としてコクピット内にけたたましいアラーム音が鳴り響いた。網膜にはレーザー照射警報の真っ赤な文字。同時に自律回避モードに移行、武の意思とは無関係に機体が大きく揺さぶられる。
 一瞬前まで弐型のあった場所を、白い光条が貫いていった。
 重金属雲が発生しているために威力が殺がれていようと、直撃の威力は必殺に等しい。
 かといって、このまま自動回避に身を委ねてばかりもいられない。
『フロスツ、援護を頼む!』言いながら武は自動回避を解除、『エインヘリヤル1、フォックス3!!』
 そのまま36mmを光線級の群目掛けて乱射する。数が数だ、正確に狙いを定めずとも、弾丸は当たる――しかし武の放った弾丸はいずれも、無駄弾なく吸い込まれるようにして碧色の体を炸裂させていく。血と臓物らしき物が弾け飛んで地面を汚していった。
 さらにそこへ、
『フロスト4、フォックス1!』
『フロスト7、フォックス1!』
 231中隊の制圧支援二人が放った自律制御型ミサイルが白煙の尾を引き、光線属の中へと飛び込んでいく。数発が迎撃されたが、AL弾頭を使用した誘導弾はそのまま重金属運を発生させ、レーザーから身を守る盾として展開する。
 詰め寄ってくる戦車級を突撃砲の掃射で薙ぎ払い、弐型は地面を蹴って跳躍する。
 これだけ濃密な重金属雲があれば、地べたに這いつくばる必要などない。
「邪魔を、するなぁぁあッ!!」
 咆哮。血潮の猛りに身を任せ、不知火・弐型はBETAの群を蹂躙、虐殺を繰り広げる。
 噴射浮遊の状態で、下方の戦車級をミンチに変え、反転、猛烈な速度で噴射降下。その様は正しく雷、要撃級の前腕を根元から切断、返す刀、その白い醜穢な巨体を両断する。
次の瞬間には、滑空砲弾がBETAの群に突き刺さり、血飛沫を撒き散らしていた。
 ――その直後だった。
 群がる戦車級を長刀の一閃と36mmで薙ぎ払った瞬間、BETAの群が一斉に割れたのだ。
 さながら、出エジプト記に記されたモーセの奇蹟。
 されど、そこを通るのは預言者とイスラエルの民ではなく、数多の人類を焼き尽くしてきた悪魔の一撃である。
 それに気付いた瞬間、武は無数のBETA共々横へと飛び退いた。数錠の光芒が、直前まで武がいた場所を射抜き、宙に白い軌跡を残して重金属の雲を焼いていく。
 当然ながら弐型は無傷。
 反転倒立から腰部・肩部両スラスターで機体を支え、36mm弾を要撃級の壁へとお見舞いしてやる。
 レーザー照射のインターバルは光線級で十二秒、重光線級で三十六秒。
 その隙を狙い、武は着地後の硬直をキャンセル、跳躍ユニットを全開で噴かした。大出力のエンジンが、轟音と共に青白い炎の残像を虚空に刻んだ。
「エインヘリヤル1、フォックス3!」
 都合三射のレーザー照射を自律回避でやり過ごすと、武は即マニュアルに切り替え、36mm弾を雨のように降らせた。
 超音速の弾丸が、残っていた光線級の群を、次々に物言わぬ肉塊に変えていく。最大の憂いであった光線級の排除に成功し、武はほっと一つ息を吐いた。
 だが、未だ重光線級は健在――武はさらにセレクターを滑空砲に切り替え、
『エインヘリヤル1、フォックス2!!』
 重光線級へと狙いを定めると、残弾全てを続けざまに撃ち尽くした。それが命中したかも確認しないまま、反転噴射で高度を下げる。
『フロスト1、フォックス2!』
『フロスト3、フォックス2!』
『フロスト8、フォックス3!』
『フロスト11、フォックス3!』
 光線級の脅威がなくなったことで、231中隊は水を得た魚のように戦場を縦横無尽に駆け巡る。武の一騎当千――否、万夫不当とも言うべき獅子奮迅の戦いぶりに感化されたのだ。
 優れた衛士は、ただそこにいるだけで多くの衛士の士気を大幅に向上させる。
 帝国軍衛士にとって、それは斯衛軍であり、武御雷であり……そしてこの231中隊にとっては、他ならぬ白銀武がそうだった。
 常軌を逸した機動、たったの一機で千以上ものBETAを屠るその手腕、故障したとはいえ数十秒で千近いBETAを滅ぼした電磁投射砲。そして、彼らの知る不知火とは似て非なる新型の戦術機。本来ならば忌むべき蒼穹色は、今この時に限っては、希望の象徴そのものであった。
 今の武は、斯衛軍にさえ匹敵する旗印なのである。
『白銀少佐、予備弾倉をどうぞ……長刀も私の物を』
 12のナンバリングが施された黒い陽炎が予備弾倉と長刀を手渡してくる。
「すまない、フロスト12」
 丁度残弾数と長刀の耐久力が心許なくなっていたところだ。ありがたく受け取ることにした。マガジンカートリッジを交換し、装填してやる。刃毀れの目立つ長刀はその場に投げ捨て、真新しい長刀を右主腕に保持する、
 ――電磁投射砲さえ使えればな……。
 背中のバックコンテナには、五千発もの36mm弾が死蔵されている。残存BETAの数を考えれば、特に問題はない数字のはずなのだ。が、既に電磁投射砲は完全に沈黙してしまっている。
 コアモジュールも、過熱により機能を停止していた。
 今となってはBETAを引き寄せる誘蛾灯の役割しか果たしていないのが現実だった。
 ――無いものねだりしても仕方ない、か……。
 そう言い聞かせて、武はかぶりを振った。手持ちの装備で何とかするしかないし、これまでだってそうしてきた。ろくな装備もないままBETAを迎え撃つことだって珍しくはなかった。
 デッドウェイトごときに文句は言っていられない。

『あぐぁぎぃあうあぅぁあぁがぁぁあああ――!?』

 唐突に、鼓膜を劈くような悲鳴が、武の鼓膜を強かに打った。
 何事かと網膜上のウィンドウを見れば、フロスト5が目を見開き、血走った白目を剥き、顎が外れるほどに口を開いた、惨たらしいまでの形相を浮かべ、言葉にならない音の羅列を喉の奥から迸らせていた。
 メインカメラに、それが、映る。
 地面に横たわる黒い機体。その、胸部から腹部にかけてが――存在しなかった。白い煙が立ち上り、抉られた機体は、まるで超高熱の青い炎の塊でも押し付けられたかのように、どろりとひしゃげ、熔けていた。
『しっかりしろ、玉城!』
 機体の上に落ちる影。昆虫めいたフォルム。赤い十本脚と、長い尾。
 衛士であれば誰もが知っている、その恐怖の象徴。最強とも言われる、最大のBETA。
 その名を、要塞級――。
『ぁがぁああぐぅぁぅうぁああ熱い熱い熱い……! 脚、脚、俺の脚が脚がな――』
 ない、という言葉が最後まで紡がれることはなかった。まるで人間が路傍の石ころでも蹴飛ばすかのように、無慈悲に、無造作に、悪意も意図もなく――巨大な槍めいた要塞級の脚が、フロスト5――玉城機を踏み潰したのだった。
『てめえ、よくも玉城を――!』
 激昂の怒声を張り上げ、フロスト6が噴射跳躍で要塞級目掛けて突進する――だが、次の瞬間、どこからともなく極太の光が放たれ、容赦なく陽炎を撃ち抜いていた。
 瞬く間……とは言わぬまでも、対レーザー蒸散塗膜はほんの数秒と保たず、動力をやられたのだろう、空中で爆発、炎上……無数の破片と化して、地上へと降り注いだ。
『藤代……!』
 葛葉が悲鳴のように上擦った声でその名を呼んだ。
 ――くそ……ッ!
 奥歯を鳴らしながら、武の弐型は藤代機の後を追うように空中へと跳び上がっていた。
 インターバルは三十六秒。ここを逃せば、藤代の死が無駄になる。
 怒りに我を忘れ、不用意に飛行を選んだのは藤代の落ち度だが、仲間を想っての彼の行為を責めることなど、誰にも出来はしない。
 責めるのではなく、活かすのだ。彼の死を無意味にしないためにも。
 重金属雲による乱反射で、光線の軌道は完全に把握していた。頭部センサーマストとナイフシースの操作で機体姿勢を制御すると、砲口をそちらへ向け、重光線級をロックオン――120mm滑空砲を二発連射した。
 砲弾は針の穴を通すかのような精度で重光線級のレーザー照射粘膜へと直撃、保護膜ごと粘膜を穿ち、内部からその体を破壊したのだった。
 再び頭部モジュールとナイフシースを利用して姿勢制御――空中で方向を転換し、要塞級をメインカメラに映す。
「――要塞級を片付ける! フロスツは援護を頼む!!」
 言うが早いか、弐型の主脚が力強く地面を蹴った。一拍遅れて『了解ッ!』と応えが返ってくる。
 地を駆けながら、推進剤の残量に気を配る。これまでの戦闘で相当量を消費してしまったが、まだ要塞級三体を相手にするには十分な量が残っていた。
 白銀機が接近するなり、要塞級の誇る鉤爪型の衝角が弐型目掛けて迫る。それをステップ一つで躱すが、それ自体がまるで一個の生物であるかのように自在に動く触手は、弐型目指して、即その軌道を変えていた。
 しかし、その衝角がもう一度振るわれるよりも早く、腰部スラスターにより水力を得た弐型は、その尾節に長刀の一撃を加えていた。
 尾節を深々と斬り裂かれた要塞級が悲鳴をあげるように身を捩り、がむしゃらに脚をばたつかせ、触手を振り回すものの、それらが弐型を捉えることはなかった。
 すかさず武は要塞級の懐へと潜り込むと、噴射跳躍で飛び上がり、その弱点たる三胴構造結合部を斬り裂いてやる。強靱な外殻を保つ要塞級といえど、そこだけは比較的脆いのだ。
 崩れ落ちる巨体。押し潰されぬよう、肩部・腰部両スラスターで要塞級の下から飛び出すと、武はゆっくりと息を吐いた。
 巨大な昆虫めいたBETAは、その下の中型種や小型種を押し潰して、道連れにしていく。
 ――まず一体……!
 しかし、そのことに安堵する暇はない。滑空する弐型の着地地点には、多数の要撃級と戦車級がひしめき合い、待ち構えている。
 砲口をそちらへ向ける武――それと同時、
『フロスト1、フォックス3!』
『フロスト2、フォックス3!』
『フロスト7、フォックス3!』
 都合四門の突撃砲から放たれた36mm弾が、BETAの群を蜂の巣にしていく。武が着地姿勢を整えた時には、そこに生き残ったBETAはいなかった。
「――次も接近戦で仕留める! 120mmで援護を!」
 鞭のように自在に振るわれる触手を回避しつつ、武は吐き出されるBETAを長刀と突撃砲で薙ぎ払いながら、二体目の要塞級の懐へと飛び込んだ。
 要塞級の攻撃が苛烈さを増す。
 だが、奴らと戦っているのは武一人ではない。全てのBETAの目標が武だというのであれば、自由になった部隊が援護するのみ。
『フロスト1、フォックス3!』
『フロスト4、フォックス2!』
『フロスト7、フォックス2!』
『フロスト9、フォックス3!』
『フロスト12、フォックス3!』
 要塞級には120mm、要撃級や戦車級には36mmが容赦なく浴びせられる。
 時には120mmでさえ弾くその甲殻ではあるが、ダメージがないわけではない。着弾すれば動きは止まるし、当たり所によっては撃ち抜くことも可能である。全く効果がないということはあり得ないのだ。
 その隙に、武もまた要塞級の下から滑空砲で弱点を狙撃する。
 穿たれる砲創。
 それで最優先目標の存在を思い出したか、弐型を穿たんと雷のように落とされる触手。それを肩部装甲の重量を利用した回転しながらのステップで躱すと、遠心力を利用しての斬撃が触手を半ばから斬り落とす。
 槍のような脚をかいくぐり噴射跳躍、一瞬の内に巨体の上まで舞い上がると、すかさず逆噴射――噴射ユニットと腰部スラスターが揃って唸りをあげた。
 機体重量に加えバックコンテナの重量、さらに重力と逆噴射の推進力全てを集約した一撃が、ただの一閃で胴体を両断した。
 ――これで二体……!
 崩れ落ちる巨躯を蹴り、武は残る一体へと飛び掛かった。
 弐型を迎え撃たんと、一見でたらめに、その実正確に振り回される触手をかいくぐり、その根元に120mm弾の連射をお見舞いしてやる。
 付け根から触手が千切れ飛び、粘性の強い赤紫色の血が噴き出した。
 こうなってしまえば、要塞級などただ図体がでかく、防御力が高いだけだ。最早脅威でも何でもない。
「――死ね」
 冷酷に吐き捨て。
 逆手に持ち替えた長刀を関節部に突き立て、跳躍ユニットを全開にし、その腹部を斬り裂いた。


 都合十二機の、蒼い国連軍仕様の不知火を、呆然と見つめている一団があった。否、それは一団などという数ではない。二個中隊にも上る戦術機甲部隊が、ただただその美しくも激しい舞踊に魅入っていた。
 たった十二機の不知火が、多くの衛士が為す術なく押し潰されていったBETAの群に、苦もなく対処しているではないか。
 圧倒的な機動能力。まるで、翼を手に入れたかのように自由自在に宙を飛び回り、BETAを逆に蹂躙していく。
 新型機? 否、新型機は一機だけだった。電磁投射砲と呼ばれる新兵器を装備した不知火・弐型と呼ばれる改修機のみ。
 今目の前で戦っているのは、紛れもなく彼らのよく知る不知火だ。
 ――にもかかわらず。その動きは、不知火本来のそれを遥かに凌駕している。それどころか、斯衛の精鋭達が駆る武御雷にさえも比肩するであろう。
 誰もが、演習前のブリーフィングで聞かされた言葉を思い出していた。
 あれは、若い国連軍衛士の言葉だった。
『今日の演習に参加する国連軍仕様の不知火には、現在運用試験中の新OSが搭載されている』
 白銀武少佐と名乗ったその男の言葉に、誰もが嘲弄の笑みを零した。どうせ大したことないに決まっている、所詮国連の思い付きでしかない、こんな若い男が少佐という時点で横浜はもう駄目だ――と。
 だが、蓋を開けてみればどうだ。
 誰もが、戦慄していた。
 新OSのもたらす、絶対的な力に。これまでの戦術機機動に関する一切の常識を覆し、木っ端微塵に粉砕する、革命的な代物に。
 誰もが思ったに違いない。
 今日、この日が始まりだと。今この瞬間、日本帝国は、BETAに対し、反撃の狼煙を上げるのだと。白銀武というあの男が放った電磁投射砲、そしてこの新OS。これらが揃えば、この国からBETAの脅威を排除することとて、夢ではないと。
 ――勝てる、と。BETAに勝てる、と。
 希望の光が差している。
 今日の夜明けと共に訪れた絶望は。その実、希望の黎明であったのだと――。


 ――戦慄。
 それが、桂木葛葉が白銀武の戦いを見て最初に抱いた感情だった。
 たった一機の戦術機が、津波のように押し寄せるBETAの大群を蹂躙していたのだ。全てのBETAが、人類の怨敵が、絶望の軍団が、為す術なく殺戮されていく様を、葛葉は、怖気すら覚えながら見つめていた。
 彼女が自らの指揮する帝国本土防衛軍第12師団第231中隊に発砲命令を下したのは、脳裏に過ぎった人間を形容するにあるまじき言葉を振り払ってからのことだった。
 ――化け物。
 人間でありながら人間を――あまつさえBETAをも超えた存在だと、葛葉は思ってしまったのだった。
 戦術機という鋼の巨人に乗り込んでいるとはいえ、数千のBETAを相手に、たった一人の人間が出来ることなど、あまりにも小さい。雪崩の中に一本の大樹が立っていたところで、容赦なくへし折られるであろうことは目に見えている。
 しかし、その大樹は、異形達の雪崩に倒れぬどころか、押し退けさえしたのだ。
 当初、目の当たりにしたその光景を、葛葉の脳は受け入れることが出来なかった。事実を理解しても、心がそれを拒んでいた。
 だが、その感情は、今では絶大な信頼と昂揚――そして希望へと変わっていた。
 彼のような衛士がいれば、日本はまだ戦える。それだけではない、いつかはあの忌まわしきBETA侵略の象徴たる佐渡島ハイヴを取り除くことも不可能ではないと思えた。
 そして今、それは確信へと変わっていた。
 葛葉だけではない。彼女の部下達もまた、同じ感情を共有していた。
 信じられない物を目の当たりにして、ぽかんと口を開けている面々。だが、彼らの口許には、次第に歓喜の色が浮かんでいく。
 しかし、それも無理ないことだ。何しろ、三体もの要塞級が、ほんの数分と経たずにまとめて屠られてしまったのだから。
 要塞級が現れたというだけでパニックに陥る衛士も少なくないというのに。
 これは夢かと、葛葉も一瞬疑わずにはいられない。しかし答えは否、夢でもシミュレーションでも得られない、機体を揺らす砲撃の反動の感覚が、今も全身に残っている。
 三体の要塞級を墜としたのは白銀武の手によるものだが、自分達も援護という形でその一端を担ったのだ。この驚くべき光景に、ほんの僅かであろうとも加担したのだという事実が、葛葉とその部下の心を躍らせると同時に、小さな楔を打ち込んでいた。
『す、すげえ……』
 副隊長であるフロスト2が、歓喜と驚駭の響きを隠そうともせずにそう言った。何の芸もない感嘆の言葉には失笑を禁じ得ないが、それ以外に紡げる言葉がないのもまた事実だった。
 ――あまりにも、凄まじい。
 常軌を逸したその機動制御。戦術機でこのような動きが出来るのかと、まるである種の悪い夢を見ているかのようでさえあった。あれを戦術機本来の力だとするならば、自分達のそれは何なのだろう。彼の前では、精鋭揃いの本土防衛軍のそれは、児戯にも等しい。
 要塞級を斃す援護が出来たのではない。援護することしか出来なかったのだ。
 彼女とその部下が白銀機とともに要塞級に近接戦を挑むよりも、弐型単機の方が、遥かに効率がいいのだと、理解させられてしまっていた。
 そのことに悔しさを覚えると同時に、極致とも言うべき力を見せつけられ、年甲斐もなく興奮していた。まるで、幼い子供が、おとぎばなしの主人公に憧れるかのように。
 しかし同時に、彼女は、決してああなってしまってはならないと、半ば本能的に悟っていた。
 それは、彼女が兼ね備えた、本来ならば気付かなければ良かったことにまで気付いてしまえるだけの洞察力と推察力故。だからこそ、彼女は白銀武を“化け物”と評さずにはいられなかったのだ。
 あの衛士は……あの新型機の戦いは、あまりにも凶々しい。さながら、鬼神のよう。
 ――虐殺だった。BETAに対する一方的過ぎる殺戮。
 辺りに散らばる無数のBETAの死骸は、狂気の産物としか言い様がない。この光景を生み出せるその技量もさることながら、この地獄の中、平然と戦い続けるその精神こそが、何よりの異常。殺すのではなく滅ぼす……そういった表現の方が的確だろう。いかに敵が異形の地球外生命体であるとはいえ、こうも暴虐の限りを尽くせる人間は、そうそういまい。
 白銀武という男は、人間として壊れている――葛葉は、そう思わずにはいられなかった。
 それでも、憧憬を抱かずにはいられない。目の前には、衛士の極致。それに尊敬の念を抱かずにいられぬ衛士はいないだろう。
 だが、それだけではならないと理解出来るのが、彼女が本土防衛軍の一中隊を任されている所以でもあった。
「私達も負けてはいられないな……」
 葛葉は操縦桿を握り締めて独り言ちた。
 中隊全ての戦力を合わせても、武と同等とは言えないだろう。だが、彼女達は栄えある日本帝国防衛の任に就いた帝国軍衛士。この国を護るのは彼女達の任務であり、意思であり、何よりの誉れなのだ。
『そうですね、大尉』先程まで感嘆の声をあげてばかりいたフロスト2が、葛葉の独り言に応えた。『たった一人の国連衛士に頼り切ってちゃ、俺達本土防衛軍の名が廃るってもんです』
「ああ、その通りだ」にやりと笑い、「フロスト1より中隊各機! 残るは中型種と小型種だけだ! まとめて蹴散らしてやれ!! 帝国軍の意地を見せろッ――!!」
 今はすっかり霧散しているとはいえ、国連軍に対する敵愾心は、帝国軍人であれば、ほぼ全ての衛士が宿している物だ。それに火を点ける葛葉の発破に、『了解!!』と、この日最大の応答が返ってきた。
 まだまだ獲物は大量にいる。十機の陽炎に搭乗する衛士達には、その全てを中隊で血祭りに上げようという気概に満ちていた。


『ヴァルキリー7、フォックス3!』
 叫ぶような凛の声。突撃砲口から放たれるのは、劣化ウラン弾ではなく、対BETA用の麻酔弾だ。これもまた、一連のオルタネイティヴ計画の産物である。
 放たれた36mm弾は要撃級の前腕の隙間を縫って皺まみれの頭部に着弾――数秒の後、BETAは活動を停止した。
 同様にして沈黙させられたBETAは、小型種も含めて現在およそ三百体。どこか――恐らくは白銀機――を目指して真っ直ぐに進むBETAに麻酔弾を撃ち込み、捕獲するのは、難しいことではなかった。
 最初は動きの堅かった新任達も、今では十分に戦力として数えられる。
 ――頼もしいことだ……。
 新たな仲間達が揃って死の八分を乗り越えてくれたことに、思わずみちるは頬を緩めた。
 やはり、衛士育成プログラムの進歩もさることながら、最大の理由はXM3だろう。既存のOSとの性能差はあまりにも歴然としている。一度XM3に慣れてしまったら、旧OSにはもう二度と乗れないだろう。
 現に、そこいらで帝国軍衛士が、呆然とこちらにメインカメラを向けている。まるで一挙手一投足さえ見逃さず、全てを記憶に焼き付けようとしているかのようだ。
 彼らは動かない。彼女達A-01の動きに魅入って、動けないでいる。
 それでも、動きがなくとも、彼らの士気が大きく向上していることは見て取れた。
 それほどのOSなのだ、XM3は。十二人のヴァルキリーの姿だけで、衛士の戦意昂揚に一役買ってくれる、新たな希望なのだ。
 だが……だからこそ、思ってしまう。――何故あの頃にこれがなかったのか、と。
 もしこれがあれば、かつての仲間達は、部下達は、命を落とさずに済んだかもしれないのに。過ぎ去った日々を取り戻すことは出来ない。そんなことは叶うはずのない子供の夢想だ。けれど、願わずにはいられなかった。
 五年前に、白銀武がいたなら――と。
 無論、それはただの願い以上の意味を持つことはない。五年前といえば、白銀武はまだ訓練兵にさえなっていない、一介の民間人だ。そんな彼につい数日前に完成したばかりの新OSの概念を提供しろという方が無理というものだろう。
 彼ほどの衛士がつい先日まで無名であったことは不思議でならないが、香月夕呼曰く、それは機密情報だという。それはつまり、みちるには追及する権利さえないということ。
 だが、それがどうしたというのか。
 あの青年はヴァルキリーズ十二人を手玉に取るほどの使い手であり、人類の救世主となるかもしれない男だ。
 ましてや、夕呼はみちるの最も尊敬する人物である。夕呼の懐刀、秘蔵っ子とあれば、警戒する方が馬鹿げている。
 今のみちるに出来ることはただ一つ。
 夕呼を、武を信じ、仲間達と共にオルタネイティヴ4成功のために全力を尽くすこと――ただ、それだけだ。


 弐型の周囲には都合三体の巨大な死骸と、無数の肉片が転がっていた。残るBETAはごく僅か。
 撃破数は小型種を除いても二千近い。蒼穹色は見る影もなく返り血で染まり、手にしていた長刀は根元から折れて、今では二振り目の短刀を手にしていた。
 弐型を包囲し、にじり寄ってくる要撃級と戦車級を噴射跳躍で躱すと、待ち構えていたとばかりに『フォックス3』という通信が入り、BETA達は瞬く間に肉片と化していった。
 とどめとばかりに、短刀を要撃級のしわくちゃ顔に突き立てて引き裂いてやると、周囲に生きたBETAの姿はなくなった。
「これで打ち止めみたいだな……」
 強化されたセンサーモジュールで索敵しながら、武は独り言ちた。レーダーに映る敵影はない。
 後続のBETA達は、その大半が支援砲撃によって殲滅されており、僅かな残党が散り散りに戦いを繰り広げている程度。それもじきに終わることだろう。
「エインヘリヤル1よりヴァルキリーマム」遙に通信を繋げ、「周囲に敵影なし。状況の解析と説明を頼む」
『ヴァルキリーマム了解。――ヴァルキリーマムよりエインヘリヤル1及びヴァルキリーズ各機。作戦領域内にBETA反応なし。繰り返す、作戦領域内にBETA反応なし……これにて任務完了とする』
「エインヘリヤル1了解」
『ヴァルキリーズ了解』
 やはり、これで襲撃を仕掛けてきたBETAは全て退けることが出来たようだった。
 緊張で張り詰めていた精神が弛緩し、同時に疲れがどっと押し寄せてくる。大きく吐息して、武は深くシートユニットに体を預けた。
『お疲れ様です、白銀少佐』
 葛葉が敬礼しながら、そう言った。
「ああ、桂木大尉もご苦労だった」姿勢を正し、返礼する武。「本当に助かったよ。231中隊がいなかったら、あの数のBETAを相手にするのは流石にきつかっただろうからな」
 決して不可能ではないが。
『何を仰るのです、白銀少佐。先程も申し上げたように、助かったのはこちらの方です』
『あの新兵器が敵の第一陣を殆ど蹴散らしてくれましたからね。ありゃ化け物ですかい?』
 とフロスト2。帝国軍人の割に、随分と軽い男のようであったが、堅苦しい関係を好まない武にとっては、好ましいタイプだった。
『あれが実戦配備されれば、BETAとの戦いもかなり楽になるでしょうね』
「大きい分、取り回しが悪い上に機動力が殺がれて、今のままじゃ後衛でしか使えないがな。携行出来る装備だって限られるし、何より耐久力に難がありすぎる。言っただろう、欠陥だらけの試作兵器だって。実戦配備はまだまだ先の話だ」
 武にしてみれば、BETAをおびき寄せる作用は望むところなのだが、それも試製01型電磁投射砲最大の欠陥の一つだろう。BETAを集めて一度に薙ぎ払うという意味では有用と言えるが、このままでは拠点防衛にも使えない。一度抜かれればそれで終わりだからだ。
 攻めて出るにせよ、現状では従来通りの突撃砲と長刀の組み合わせの方が優れていると言えた。
『それ以上に驚いたのは少佐の機動です』と葛葉。『あれが件の新OSの力なのですか? それとも、その弐型の機体性能でしょうか』
『隊長、流石にそりゃないでしょう。OSや機体性能もあるかもしれませんが、ありゃ白銀少佐の力ですって。俺達にゃ逆立ちしたってあんなこと出来やしないですよ』
 フロスト2が茶化すように言うが、
「いや、XM3――新OSは、誰でもオレの機動が再現出来るように開発されたOSだ。この機体――不知火・弐型だからこそ出来る動きもあるが、OSの特性を理解して訓練を積めば、誰にだってあの動きの殆どが出来るようになる」
『そいつぁすげえ! 早くこっちにも回してもらいてえもんだ!』
 興奮した様子で声をあげるフロスト2に、武と葛葉は揃って苦笑した。
 歓声をあげるフロスト2はそのままにして、葛葉が訊ねてくる。
『しかし少佐、その不知火・弐型という機体は……?』
 ――流石桂木大尉、食い付いてくるか。
 武は内心で唇を三日月型に歪めた。
 弐型は殆ど全ての衛士にとっては、目にしたこともない機体だ。それも不知火の改修型とくれば、興味を示さないはずがない。今朝のブリーフィングや基地内でその存在を知っていても、実際にその機動を目の当たりにすれば、興味はさらに膨れ上がる。だからこそ武は、意図的に弐型の名前を出したのだ。
「日米が共同開発した、不知火の強化型さ」
 日米、という単語に、葛葉は目に見えて眉をひそめた。米軍に対する嫌悪は根強く残っている。葛葉の年齢を考えれば、BETAの横浜侵攻や明星作戦の際にも従軍していたはずだ。ならば尚更、米国に対する敵意は強いだろう。
 しかし、武はそれに気付かぬふりをして続けた。
「連中、流石に技術力はあるよ。限界まで設計を突き詰めてたはずの不知火をここまで強化してみせるんだからな。――こいつが配備されるようになれば、この国はもっと強くなれる」
 主席開発衛士こそ米軍所属のユウヤ・ブリッジス少尉であるが、弐型は元々が不知火であるため、日本の戦術機運用思想に則って設計されている。
 この機体性能を本当の意味で引き出すことが出来るのは、やはり日本人だけだろう。
 今のところ、不知火・弐型は、弐型を開発・研究しているアラスカはユーコン基地と、オルタネイティヴ計画権限で接収した横浜基地くらいにしかない。
 これほどの性能を秘めた機体なのだ、今後の戦局を有利に進めるためにも、出来る限り早い段階で実戦配備を進めていきたい。
 だが、そう簡単には事は運ばない。XFJ計画は国連の主導による日米の共同計画ではあるが、不知火を強化し弐型を完成させたのは、米国の主要軍需産業企業であるボーニング社なのだ。
 そして、その裏にはさらに複雑な事情がある。
 ボーニング社は現在、G元素応用兵器部門にその資本を最優先で投下している――即ち、オルタネイティヴ5派に属する企業なのだ。オルタネイティヴ4を主導する日本との関係は最悪だと言っていい。
 武が今弐型に乗ることが出来ているのは、弐型という優れた機体を横浜基地に提供しないということはオルタネイティヴ4に反対していることを公に宣言するようなものだ、というようなことを言って、夕呼が口八丁手八丁で丸め込んだためだった。
 弐型の配備を進めるには、日米両国、そしてオルタネイティヴ4とオルタネイティヴ5という二つの対立関係を解消するか、あるいはそれをも乗り越えるだけの何かを用いるか……そのいずれかが必要になるのだ。
 やはり、弐型の実戦配備はかなり先になるだろう。今のままでは材料が足りなさすぎる。精々、複数ある条件の内の一つをクリアしたという程度でしかなかった。
「大尉達も上に掛け合ってみてくれないか? 今日のガンカメラの映像を見せれば、帝国上層部だって乗り気になるはずだ」
 そしてそれは、同時に帝国軍上層部にXM3を印象づけることにもなる。
 XM3欲しさに、帝国は喜んで横浜基地の思惑に乗ってくれることだろう。勿論、素直にそれをくれてやるつもりはない。12・5事件――あのクーデターが終わるまでは。
 流石の武も、XM3搭載機に搭乗した沙霧尚哉大尉に確実に勝てるとは断言出来ない。スペックで劣る不知火で、有利な条件でとはいえアルフレッド・ウォーケン少佐の乗るF-22Aを撃墜してみせたのだ。
 武がこれまで目にしてきた衛士の中でも、彼は間違いなく十指に入る腕の持ち主だろう。
 念には念を入れて、保険を掛けておく必要があった。
『しっかし……』フロスト2がしみじみと言った。『こんなこと言っちゃあなんですが、国連軍にも少佐みたいな人がいるんですねえ』
 その物言いに眉をひそめたのは、武ではなく葛葉だった。恐らくは部下の不躾な発言を快く思っていないのだろうが、そんなことを気にする武ではない。
『申し訳ありません、白銀少佐。部下が失礼なことを……』
「いや、気にするな。国連軍が帝国の嫌われ者だって自覚はあるさ。国連が一国家の思惑で動かされてる部分は大きいからな」
 米国の私兵集団、などという揶揄が飛び出すこともある。実際、一部は完全に米国の傀儡としてしか機能していないのだ。
「――ただし」そう前置きして、「オレ達横浜は、あっちよりも帝国寄りだよ。少なくとも、オレはそうだ」
『少佐……』
 この国には、大切な人達が大勢いる。それはたとえば、今会話をしている桂木葛葉のように。
 かつて帝国軍の一員として戦った日々は、武の胸の奥で、確かに息づいていた。

 一通り葛葉らとの会話を終えると、武は通信回線を切り替えた。
「――エインヘリヤル1よりヴァルキリー1。そちらの調子はどうだ、伊隅大尉? 任務は滞りないか?」
『ええ。少佐がかなり数を減らしてくださいましたから。それに、連中は何故か我々には目もくれず、少佐の機体ばかりを目指していましたからね』苦笑を唇の端に散らすみちる。『群の横っ腹から麻酔弾を撃ち込んでやるだけ。多少の反撃はありましたが、殆ど鴨撃ちのような物です』
「損耗率は?」
 武は、最も気になっていた問いを発した。それに、みちるは穏やかな微笑を浮かべて答えた。
『ご安心ください。零パーセント、誰も命を落としてはいません』
「良かった……」
 ほう、と武は安堵の溜息を漏らした。
 全てのBETAを撃退してすっかり気が抜けたと思っていたが、さらに全身から力が抜けていくのがわかった。ヴァルキリーズの安否を心配するあまり、知らず知らずの内に力が入っていたらしい。
 彼女達には失礼な話かもしれないが、部下の安否はどんな作戦であっても気になるものなのだ。
「……新任の調子は?」
 損耗率から考えれば心配はいらないだろうが、訊ねずにはいられなかった。
『当初こそ混乱が見られたものの、今では落ち着いています。まだまだヒヨッコですが、頼もしい限りですよ』
「そうか……まだたった二日の戦技教導官だが、これなら満点をあげられそうだ」
『少佐の指導のお陰です」
「大尉達の力さ』武は微笑して首を横に振った。『何しろヴァルキリーズは、みんなあの神宮司軍曹自慢の教え子なんだからな。オレが教えたことなんてほんの少しだ」
『ええ――母親の顔に泥を塗るような真似は決してしません。ご安心下さい』
 心強いな、と頷いて武は通信を切った。
 彼女の存在に『前の世界』でどれほど武が救われてきたことだろう。共に戦っている間は勿論、彼女が先に散ってしまった後も、彼女は武にとって特別大きな存在だった。
 神宮司まりもによって兵士として鍛え上げられた武を一人前の衛士にしてくれたのは、他ならぬ伊隅みちるなのだから。
「伊隅大尉……あなたの部下だったことは、オレの一生の誇りです……」
 面と向かってはもう決して言えない言葉だったけれど、武は小さく呟いた。


「失礼します」
 その日の夜、武は夕呼の執務室のドアをくぐった。
「……お疲れ様。首尾はどう?」
 武の姿を認めても、夕呼は表情を変えなかった。
「上々です。これ、レポートですけど……読むの面倒だったら、概要だけ口頭で伝えますけど、どうします?」
「そうね……お願いするわ」
 了解、と答えて、武は紙の束を捲った。
「まず電磁投射砲から。正直言って、まだまだ問題は山積みですね」
「急造品だからね。それは仕方ないわ……それで、問題っていうのは?」
「まず第一に耐久力」夕呼に促され、武は人差し指を立てて答えた。「99式でも言われていたみたいですけど、冷却系の防御力が低すぎます。BETAの破片が当たっただけで故障するんじゃ、乱戦になることが予想される実戦では使いものになりません」
 かといって、無理に耐久力を引き上げれば、重量が増して機動力を奪ってしまう。この天秤の傾きばかりは、新技術によるブレイクスルーがなければ、どうにもならないのだった。
 次に、と前置きして武は中指も立てる。
「小型化に成功したとはいえ、まだまだ大型であること。今のままじゃ取り回しが悪い上に機動力が殺がれて、乱戦になったとき、BETAに対処しきれないんです。それに、他の兵装も制限されますしね。本体・コンテナ共々もう一回り小さければ、前衛でも使えると思うんですけど」
 今日の戦闘で、突撃砲が使えない状況下で戦闘を続けることがいかに困難かを、改めて思い知らされた。
 尤も、それは武が近接戦闘を考慮して突撃砲ではなく長刀を選択した結果でもあるのだが。
 今後も電磁投射砲を装備・運用するのであれば、突撃砲と長刀という組み合わせにすべきだろう。
「そして、三つ目――これが一番重要なんですけど……」薬指も立てて、武は一度言葉を句切った。「その前に、一つだけ質問させてもらってもいいですか?」
「……いいわよ」
 僅かな間の後、夕呼は先を促すように答えた。武はそれに頷き、作戦中からずっと抱いていた、確信という名の疑問を口にする。
「電磁投射砲のコアモジュール……あれ、G元素が使われてますよね?」
「ッ――!」
 夕呼が息を呑んだ。その表情が、刹那、驚駭に歪む。間違いなく、それは夕呼の仮面がひび割れた一瞬だった。
 それで、完全に確証を得た。そも、質問ではなく、単なる確認である。その裏付けが完了したというだけ。
「……そうよ。電磁投射砲のコアモジュール……動力源にはG元素を使ってるわ……でも、それがどうしたのよ」
 不機嫌も露わに夕呼は言った。
 人を射抜くような視線とはよく言うが、今の夕呼の視線が正しくそれだ。眼差しだけで、心臓を貫かれるような錯覚を覚える。
 しかし、この手の視線は何度となく向けられてきた武だ、臆するはずがなかった。
「――BETAには、G元素に集まる習性があるんじゃないでしょうか」
「……何ですって?」
 一層夕呼の柳眉が吊り上がる。内心でそれに苦笑しながら、武は続けた。
「今日の襲撃……ほぼ全てのBETAが、一直線にオレを目指していました。一度はオレの後ろに抜けた奴らでさえ、律儀に戻ってきて……ね」
 結果、武は上陸したBETAの半数以上を一人で相手にすることになったのだ。
 電磁投射砲の制圧能力で序盤に多くの敵を葬ることが出来たからいいものの、もし故障があと数分早ければ、武とて危なかったかもしれない。
 何しろ、BETA最大の脅威たる物量を、その一身に受け止めるようなものなのだから。
「色々理由を考えてみたら、電磁投射砲しかあり得ない。そこから考えを進めていったら、そういう結論に至ったってわけです」
「……BETAがここを狙うのは、ハイヴだからっていうだけじゃなく、G元素があるから……ってこと?」
「あとは反応炉でしょうね。前の世界でも、反応炉が生きてたハイヴの方が、優先順位は高かったですから」
 反応炉もまた、BETA由来の物質だ。新種のBETAなのか、あるいは新たなG元素なのか。それは判然としないが、BETAがそれを取り戻そうとしていることは想像に難くない。
「……もしかすると、前の世界でXG-70が優先的にレーザー照射を受けていたのも、その所為かもしれません」
「人間が搭乗しているか、搭載されている機械の性能……それ以外に、G元素を積んでいるかどうかっていう優先順位の基準があるってことかしら……あんたを新潟に行かせたのは成功だったかもね」
 夕呼は満足げな笑みを浮かべた。
 武が不要なことに気付いたというマイナスを差し引いても、BETAの習性について一つ有力な仮説が得られたことは、夕呼にとってかなり大きな収穫だったに違いなかった。

「次にXM3。こっちはかなりうまくいったと思います。不知火・弐型と電磁投射砲で、元々オレにはかなり注目が集まってましたから。電磁投射砲が故障したお陰で、近接戦闘能力の格の違いを見せつけてやりましたから。基地に戻ってからもたっぷりとXM3や弐型はアピール出来ましたしね。ヴァルキリーズの方も宣伝に一役買ってくれたみたいです。
 帝国軍にも他の国連軍にも……勿論米国にも、有効な交渉材料として使えると思いますよ。――と言っても、当分よそに使わせてやるつもりはありませんけどね。先生だってそうでしょ?」
 当然じゃない、とばかりに夕呼は頷き、
「どっちにしろ、あんたが言った通りの結果になったってワケね」
「むしろ予想以上ですよ。前の世界のXM3と比べても遜色ないどころか、性能はむしろいいくらいですし。宣伝の効果もずっと大きいですよ、きっと」
 何度かマイナーチェンジではあるもののバージョンアップを施された前の世界のXM3であるが、『この世界』のXM3は、既にバージョン3と同等の完成度を誇っている。武自身の経験が反映されているためだった。
「まあ、オレが弐型に乗ってるから、余計にそう思うのかもしれませんけど」
 先日のA-01との模擬戦からずっと感じていることだった。
 XM3は、高機動高出力の、特に近接戦闘に長けた機体に良く合う。
 弐型は通常の不知火よりもフレームが強化されているお陰で、多少無茶のある動きも――普段は余計な損耗を発生させないように無意識に心掛けているのだが――出来る。そして何より、追加された肩部スラスターと腰部スラスターによって、機動の幅が大きく広がっている。
 これ以上に相性のいい機体はないだろう。武御雷やEF-2000タイフーンでさえ、弐型には及ばないかもしれない。
 最強と名高いF-22Aも、高機動高出力という点では同じだが、お国柄か不知火ほどの相性は期待出来ない。
「――最後、BETAの捕獲について……こっちも概ね成功です。オレは直接関わってはいませんから、詳しくは伊隅大尉から聞いて下さい。あ……それとも、もう聞いてます?」
「ええ……ついさっき。損耗率零パーセントだって喜んでたわよ」
「前の世界じゃ、今日の時点で三人退場でしたからね。実戦経験のない新任まで投入して損耗率0っていうのは、なかなか出来ることじゃないです。XM3か電磁投射砲かはわかりませんけど、役に立てたようで何よりですよ」
 仲間を喪うのも部下を喪うのも何百回繰り返したって慣れやしませんから――声には出さず、武は胸の内で呟いた。
 私情抜きにしても、損耗率0というのは喜ばしい事態だ。部隊の損耗率を減らすということは、次の作戦の成功率を高めることに直結する。A-01のように、異常とも言えるほど損耗率の高い部隊であれば尚更だ。
 次の作戦――恐らくは12・5事件での反乱軍の足止め――での損耗率も大きく減らすことが出来るだろう。前の世界では12・5事件が初の実戦となった元207A分隊にここで実戦を経験させられたというのも大きい。
 XM3の存在を帝国軍に知られてしまったことは、大した問題ではない。やがてはクーデター軍の耳にも入るだろうが、対策を立てようと思って立てられるようなものでもない。適当な理由を付けて、12・5事件までXM3を提供しなければいいだけだ。
「――その割には浮かない顔だけど?」
「……夕呼先生の方こそ」
 指摘される前から、武は自分の顔の筋肉が強張っていることに気付いていた。武と同様に夕呼の表情も硬い。
「……気になることがあるんだったら、先生から言ってください。オレの方は、大したことじゃありませんから」
「あたしも大したことじゃないわ……ただ、これで一層あんたの言葉に信頼性が出て来た、ってだけ。あんたが大きく干渉しない限り、あんたの見てきた未来と同じ結果を歩むことになる……つまり、人類が近い内にBETAに敗北するって可能性が現実味を帯びてきたってことよ」
「ッ……!」
 今回のBETAの襲撃で、この世界の未来と前の世界の歴史とに大きな差はないことが証明された。
 これまで、武の周囲では大きな変化を起こしてきたつもりであるにもかかわらず、だ。
 それはつまり、武では干渉し得ない、反オルタネイティヴ4勢力やオルタネイティヴ5推進派の動向にもさほど影響を与えられていない、ということでもある。
 このままいけば、来る2002年6月8日には、ほぼ確実にオルタネイティヴ4の終了が宣言されることだろう。
 半年。長いようで、それはあまりにも短い。短すぎて、かつては何も出来なかった。
「……前の世界の先生が言ってました。後一つ何かが足りなかったんだ、って」
「何かって?」
「それがわかってたら二度も失敗しませんよ」
 武はわざと戯けるように肩を竦めてみせた。笑えていないだろうから、夕呼がそれをどういう意味として受け取ったかはわからなかった。
 この程度では歴史は変わらない――武は思案する。
 ならば、もっと大きな変化を起こす必要がある。少なくとも、個人レベルではどんなに大胆なことをしようとも、オルタネイティヴ計画に影響を与えない限り、何をしてもいいということになる。
 限度はあるだろうが、実質的にはそういうことだ。
「――もういいわ。回れ右してそのまままっすぐ歩きなさい」
「……わかりました」
 夕呼が苛立っているのがわかる。
 その苛立ちが私的なものであれ公的なものであれ、こういうときの夕呼には関わらない方が賢明だということを、これまでの三つの世界で武は思い知らされてきた。
 夕呼の言に従い、入り口のドアへと向かって歩いていく。
 ドアが開く。その敷居を跨ぐ直前、武は振り向いて言った。
「オレに何が出来るかはわかりません……けど、オレを使えるときは、容赦なく存分に使って下さい。これでも、前の世界じゃ二番目に優れた00ユニット候補だったって言われたくらいですから」
「…………」
 返答はない。元より期待はしていなかった。



[2785] Muv-Luv ALTERNATIVE -Second World Was Failed- Intermission 01
Name: Vollmond◆d2a8c8a6 ID:05704cd7
Date: 2011/02/06 12:25
 ――夢を見た。
 仲間達に囲まれ、毎日が喜びに満ちていた、懐かしい日々の夢を。
 彼女達を失い、全てが色褪せて鈍色に染まっていった日々の夢を。
 強くなろうと誓った、鈍色が血で塗り潰されていった日々の夢を――。


 2004年4月8日(木)


 オルタネイティヴ4の終了が宣言されてから、二年の月日が流れようとしていた。
 現在、世界の命運を握っているのは、オルタネイティヴ4の後を引き継いだオルタネイティヴ5――米国であった。
 遡ることおよそ五ヶ月前、オルタネイティヴ5の片翼である移民船団がバーナード星系へと向かって去り……そして、人類の反撃が始まった。
 それこそがオルタネイティヴ5の本命、G弾の大量運用による一大反攻作戦――その名を、バビロン作戦。
 人類の未来を決定付ける、最後の希望だと言ってもいい。
 大量のG弾による全世界ハイヴへの同時攻撃。人類が保有する兵器の中で、最もBETAに対して有効な五次元効果爆弾は、横浜の悲劇――あるいは惨劇か、それとも喜劇か――を見事に繰り返した。
 一瞬にして万単位のBETAを死滅させる、黒紫の明星。
 それは希望の象徴であり……同時に、日本人にとっては絶望の象徴でもある。しかし、この世界に生きる人々にとって、G弾はやはり希望なのだ。G弾さえあれば、BETAに勝利することも、夢物語ではなかった。
 ――これは、まだその希望が潰えていない頃の話。人類が勝利を信じ、戦い続けていた頃の話である。
 希望を懸けた戦いが、続いていた。


 ――そして戦いは、ここ甲21号目標でも繰り広げられていた。

「どけぇぇぇええッ!!」
 裂帛の咆哮を喉から迸らせながら、ヴァルキリー10――白銀武は、目の前に迫った要撃級を長刀で斬り裂いた。
 すぐさま主脚跳躍、そこへ、
『ヴァルキリー11、フォックス3!』
 御剣冥夜の放った36mm砲弾が、戦車級の塊を殲滅する。
 障害の失せた空間に白銀機が着地、『フォックス3』のコールと共に、ばらまかれた劣化ウランが要撃級を屠っていく。
 甲21号――別称を佐渡島ハイヴ。日本国内に存在する第二のハイヴであり、日本がこれまで幾度となく辛酸を舐めさせられてきた、忌まわしきBETAの象徴。
 彼らが今いるのは、正にその内部。中階層を突破し、下階層へと差し掛かっている。
 ここに至るまでの部隊損耗率は、驚くべき事に零パーセント。十二機の不知火は、一機たりとも欠けてはいなかった。
 ……だがそれは、直援部隊の犠牲があってこそだ。ここに辿り着くまでに、補給などの直援の任を帯びていた帝国軍二個中隊が、A-01を先に進ませるための礎となっていた。
 ――だから、彼らは決して止まることはない。
 このハイヴ内で、地上で、過ぎ去った戦場で散っていった英霊達の挺身に応えるためにも。
 日本で二度とG弾を使わせてなるものかと、甲21号目標攻略をバビロン作戦の例外とするために昼夜を問わず駆けずり回った煌武院悠陽将軍殿下の尽力に応えるためにも。
 この戦い、負けるわけにはいかないのだ。
『雑魚に構うな! 我々の目標は反応炉だけだ、急げ!!』
『了解!』
 隊長である伊隅みちるの声が鼓膜を震わせれば、残る十一人のヴァルキリー達が一斉に応える。
 一瞬の噴射跳躍。蒼穹色の不知火が立て続けに宙を舞った。描かれる緩やかな放物線。下を通り抜けていく突撃級との間隔は三メートルとない。
 伊隅戦乙女隊(ヴァルキリーズ)が血の滲むような努力の末完璧に身に着けた、BETAをぎりぎりで飛び越える高さでの噴射跳躍だった。これにより跳躍のエネルギーを最大限に前方へのベクトルとして活用出来るのだ。
 着地ポイントのBETAを砲弾で仕留めると、肩部装甲ブロックを前方に突き出すような姿勢で着地、滑走、迫り来る醜悪な生命体達を嘲笑うかのように、再びの噴射跳躍が置き去りにする。
 それを迎え撃たんと展開したBETAは、悉くが弾丸の前に轢死体のように拉げていく。
 これがA-01伊隅戦乙女隊。横浜基地の誇る最精鋭部隊。オルタネイティヴ4が終了しようとも、その忠誠心には一片の曇りもなく。いかなる任務とて死力を尽くして成功させてみせよう。
 オルタネイティヴ5推進派は、このオルタネイティヴ4の置き土産をひどく嫌悪していた。
 この場の十二人にヴァルキリーマムことCP将校の涼宮遙を加えた十三人全員が、香月夕呼に心酔していると言ってもいい。彼女達がこれほどの部隊に育ったのは、他ならぬ香月夕呼元副司令と……今は亡き神宮司まりもの存在があってこそなのだ。
 そんな部隊を、オルタネイティヴ5陣営が歓迎するはずがない。
 だが、それはA-01も同じこと。夕呼を失脚させ、彼女達に計り知れない絶望を与えた者達に好意を抱けようか。
 ましてや、彼女達はそのいずれもが日本人なのだ。忌まわしきG弾により破壊された横浜の街で鍛え上げられた日本人部隊なのだ。
 両者の対立は必至――故に、オルタネイティヴ5陣営は彼女達を幾度となく死地へと送り込んだ。
 だが、ヴァルキリーズがそのような策に負けるはずがない。
 彼女達は全ての戦場を乗り越えてみせた。一戦ごとにさらに強く、気高く、その意志を固く。戦い続けてきたのだ。
 だから。
 ――オレは負けない……オレ達は……!
「てめえらなんかに負けてたまるかよぉおおお――ッ!!」
 武の咆哮は、ヴァルキリーズ全員の――否、全ての人類の悲願を込めた叫びであった。


『後から後から……きりがないわねぇっ!』
 苛立たしげに吐き捨てながら、速瀬水月――昇進して大尉になっていた――は36mm弾を放つ。だが、底などないとばかりに湧き続けるBETAは、その死骸さえもが巨大な壁となってヴァルキリーズの前に立ちはだかる。
 ――そう、壁だ。
 数千のBETAがひしめき合う横坑には、堆く積み上がったBETAの壁が出来上がっていた。
 要撃級と戦車級の集団に、後から追い付いた突撃級が重なり合い、進軍速度が落ちたところに後続がさらに積み重なり……それを繰り返して造り上げられた、BETAの山。――その山が、迫ってくる。
 圧倒的な数とは、最早暴力でさえなく、地獄をも想起させる最悪の悪夢であった。
 物量はBETA最大の武器であるが、これはそんな単純な物ではない――いや、あるいはさらに単純な攻撃。質量という、あらゆる物質が保有する、至極原始的な破壊能力を最大限に活かした攻撃であった。土砂崩れのように、あるいは雪崩のように押し寄せる、巨大な塊。
 既に絶命している物もあるだろう。だが、自力で動くことは出来ずとも、その質量は保存される。故に、これは、かつて目にしたあらゆるBETAの戦術の中でも、最も恐るべき物であると言えた。
 狭い横坑の中では、逃げ場などない。上下左右、全てが壁に覆われている。退却など以ての外だ。ヴァルキリーズの任務は反応炉の破壊ないしは反応炉を確保した上でのハイヴ占拠。彼女達に許されるのは、ただ前に進むことのみ。
 これまでにも無数の――何千何万でも数えられなければそれは無数と同義だろう――BETAを屠ってきたヴァルキリーズであったが、にもかかわらず、ここにきて、これまで斃してきたのと同数……あるいはそれ以上のBETAが立ちはだかっている。これを悪夢と言わずして何と言おう。
 水月の苛立ちも当然のことで、それは即ち、ヴァルキリーズ全員が、押し潰されそうなほどの精神的な負担を強いられているということでもあった。
『風間、鎧衣! 奴らを吹き飛ばせ!!』
 さしもの彼女も我慢の限界だったのか、みちるが上擦った声で叫んだ。
『了解! ヴァルキリー4、フォックス1!!』
『了解! ヴァルキリー8、フォックス1!!』
 これまで温存し続けてきた、虎の子の自律誘導弾。光線級の存在しないハイヴ内ということで、弾頭は全てが通常の爆薬を搭載している。
 都合72発の誘導弾がBETAの壁へと突き刺さり、炸裂、数千単位のBETAを爆散させた。
 無数の肉片が飛散し、ハイヴの内壁は勿論、百メートル以上も離れた不知火にまで付着する。しかし、いずれもその原型を留めてはいなかった。
 すぐさま二機の制圧支援仕様機は92式多目的自律誘導弾システムをパージ。
『よくやった、風間、鎧衣……よし、行くぞ! 楔複一陣で全機進軍!!』
『了解!』
 こんなところで立ち止まるわけにはいかない。
 虎の子が尽きたならば、残るは切り札――戦術核級の高性能爆弾S-11がある。たとえ次また同じような光景に出会したとて、再び根刮ぎ吹き飛ばしてやるだけだ。反応炉の破壊には、五発程度のS-11があれば十分だろう。
 胸中に覇気を漲らせ、必ずやり遂げるという使命感を滾らせるヴァルキリーズ。だが、その炎に、言い知れぬ不安が、密やかに影を落としていた。


 ヴァルキリーズが甲21号目標に侵入してから、既に二時間が経過していた。
 部隊は損耗率0パーセントのまま、主縦坑を通って、最下層付近へと到達している。二時間でのフェイズ4ハイヴ最下層到達は、驚異的な速度と言っていい。
 途中からは一切の補給もなく進軍しているために、兵装は半ば尽きかけていた。唯一の救いは、道程にちらほらとBETAの餌食になった戦術機の残骸が散らばっていて、そこから装備を拝借出来たことか。
 恐らくは機動降下部隊の先遣隊だろう。かなり下の階層まで潜ってきたのだから、相当な手練れの部隊だったのだと見ていい。
 誰かの死のお陰で自分達が先に進める……挺身と呼べば言葉はいいが、装備の充実を喜ぶ者は、誰一人としていなかった。
 BETAの影はない。そのためか、緊張の中にもどこか安堵したような弛緩があった。
 しかし、精神的に疲弊しているためだろう、誰もが口数は少ない。重苦しく張り詰めた空気は、この先に待ち受ける地獄を暗示しているかのようでもあった。
 それを理解しているからだろう、その沈黙を、破った者がいた。
『基地に戻ったら、パーッっとやりたいですねえ、伊隅大尉?』
 ヴァルキリーズのナンバー2である水月だ。部下に弱さを見せまいと本当は繊細な心を固い意志で鎧った彼女は、こういった部隊の沈鬱な空気を払拭することも己が役目としていた。部隊の槍たる突撃前衛の長は、BETAだけでなく、あらゆる壁を貫くべきだ、とでも言うように。
 そんな水月の意思を読み取って、みちるはにやりと笑う。
『それはいい提案だな、速瀬。――よし、みんなも聞いたな? 基地に戻ったら、速瀬が豪勢な食事を全員に御馳走してくれるそうだ』
『ちょ、ちょっと大尉!?』
 まさかの展開に声をあげる水月。だが、
『流石は速瀬大尉。暴れるだけが能ではないというわけですね』
 宗像美冴が外堀を埋め始め、
『ちょっと宗像、それどういう――』
『御馳走になりますわ、速瀬大尉』
 水月の言葉を敢えて遮りながら風間祷子――彼女もまた中尉に昇進している――がさらに埋め、
『いやー、悪いですね、速瀬大尉』
『ありがとうございます、速瀬大尉』
 晴子と茜がそれに続くと、
「流石は我らが突撃前衛長、頼りになりますっ!」
 武が駄目押しした。この辺りの畳み掛け方は、すっかり身に付いている。『元の世界』ではよくあったことだし、『こちらの世界』に来てからは、伊達に水月共々、美冴の餌食になっているわけではない。
『ああもう、いいわよっ! 全員私が奢ってやるわよっ!』
 やけっぱちな水月の台詞に、歓声が沸いた。みちるが呆れたように吐息しながら、けれどどこか嬉しそうに肩を竦めているのが見えた。
 誰もがこの空気をどうにかしたいと思っていたのだろう、みちるが渡りに船とばかりに水月の言葉を曲解し、美冴が言葉尻に乗ったのもそのためだ。
『だから――』
 静かに、けれどはっきりと紡がれた水月の言葉に、歓声が一瞬で水を打ったように断ち切られる。網膜に映る水月の表情は力強く前を見据えていて。
『一人だって欠けることは許さない。いいなッ!?』
 一瞬の沈黙。
 誰もがきょとんとしていた。水月の口から、突然そんな事を言われるとは思ってもみなかったのだ。
『――速瀬大尉、何を当たり前のことを仰っておられるのですか』
 不敵な笑みを浮かべ、冥夜が言った。
『御剣の言う通りです、速瀬大尉』
『そう簡単にやられたりなんかしませんっ』
『そうですよ、大尉。そうだよね、慧さん?』
『……当然』
 元207B分隊の少女五人が、微笑して言った。
 ……そう、誰もが予想だにしなかったのだ。水月が、そんな当たり前のことを口走るなんて。
『あんた達……』
 驚いたように声を漏らす水月。
 いつまでもヒヨッコだと思っていた後任達の思わず成長を目の当たりにしてか、ほんの少し、目が潤んでいた。
『三期も後任の少尉達に諭されるようでは、まだまだですね、速瀬大尉』
 やれやれ、と言った様子で美冴。それに祷子と武が続いた。
『そうですわ、大尉。そんな弱気なことを仰らないでください』
「速瀬大尉がそんな後ろ向きでどうするんです? 大尉にはそんなの似合いませんよ」
『――それもそうね……ごめん、ちょっと変なこと言った』
 水月はかぶりを振ると、照れたように笑った。
 本当に、らしくない。らしくないが……ここは、そういう場所なのだ。いつも弱さを見せることのない水月さえもが、心に纏った鎧を支えきれなくなってしまう――地獄の底。BETA達の胃袋と言ってもいい。本来は誰より繊細な水月だ、センチメンタルな面を覗かせてしまっても無理はない。
 無理はないのだが。彼女の肩書きは、それを許さない。
『まったく……副隊長がそんなことでどうする、速瀬』
『う……すみません、伊隅大尉』
『基地に戻ったら腕立て伏せ五百回だ、いいな!?』
『了解! 基地に戻り次第、腕立て伏せ五百回を行います!!』
 普段はすることのない敬礼をして、水月は声を張り上げた。
 腕立て伏せ五百回とは、また随分と多い。普段ならば精々二百回だというのに。それだけ、水月の失言が部隊に与える影響は深刻だということでもある。尤も、その程度では誰一人動揺することはないくらいに、この部隊は強い。
 こんなことで、速瀬水月に対する信頼が揺らぐはずもなかった。
『伊隅戦乙女隊隊規斉唱!!』
 みちるの言葉に、誰もが笑みを浮かべた。この言葉を紡ぐだけで、何だって出来そうな気がする。ハイヴという、この絶望に全方位を取り囲まれた状況にあって尚、希望を見出し、光り輝く未来を手繰り寄せられるような気がする。
 ――たとえオルタネイティヴ4が終わっても……オレ達は、負けたりなんかしない……!!
『死力を尽くして任務にあたれッ!!
 生ある限り最善を尽くせッ!!
 決して犬死するなッ!!』
 十二人による斉唱。伊隅戦乙女中隊隊規――それは、伊隅戦乙女隊全員の胸に燃え上がる炎の名だ。疲弊していた心が、再び強く脈打つのが、武にはわかった。
『反応炉まではもうすぐだ! 一気に駆け抜ける!!』
『了解!』
 誰もが、覇気に満ちた顔でそう応える。
 その、ほんの僅か後だった。
『前方に敵影あり……し、師団規模のBETA群が接近中です!!』
 祷子が、悲鳴めいた声で叫んだのは。
 ――だが、事はそれだけでは終わらない。
 突然、後方距離五百程度のところで、轟音が鳴り響いたのだ。まさか、という想像が全員の脳裏を過ぎった。そして、恐らくはその想像が外れてはいないことを、数秒と経たずに知ることとなったのだ、振動計によって。
『旅団規模のBETA群接近中! 後方距離五百!!』
 今度は千鶴だった。その声には、悲痛な響きが宿っている。
 偽装横坑から、BETAが現れたのだ。下階層の横坑は、中階層以上のそれと比べると、ずっと広い。そのため、偽装横坑も必然的に大きな物となり、多くのBETAが一斉に、それも予期しないところから現れるのだ。

 前方に師団規模、後方に旅団規模。絶体絶命という言葉がこれ以上似合う状況もあるまい。
 この状況に陥れば、誰もが思うに違いない。ここまで来て、折角ここまで来たのに、ここで終わりか――と。
 ――けれど。
「上等だ……!」
 武は、そう呟いていた。強がりなどではなく、本心から。
 武だけではない。
『良く言ったぞ、白銀。それでこそヴァルキリーズの一員だ!』
『わかってるじゃない、白銀ぇ!』
『ふん……このくらいでないと張り合いがない……そうだろう、祷子?』
『ええ、美冴さんの仰る通りですわ。最初からすんなり行くとは思っていませんもの』
 中尉階級以上の四人が、不敵な笑みを浮かべて武に同調すれば、
『そうそう、ここで止まるわけにはいかないってね』
『私達も負けてられないよ、千鶴』
『ええ。ここで退いたら、伊隅戦乙女隊の名に傷が付くわ』
『我ら伊隅戦乙女隊の力、BETAに見せてくれようではないか』
『……白銀、いいこと言ったね』
『ボク達なら、これくらい乗り越えられるよ! ね、壬姫さん?』
『うん! だって私達は反応炉を破壊するためにここまで来たんだから!』
 残る七人の少尉もそれに共鳴する。
 ――これが、伊隅戦乙女隊の強さだ。二年間、各地の激戦区を転戦しながら、ただ一人の死者も出さずに戦い続けたからこその自信。
 そして、この戦場をも乗り越えるという揺るぎない意思と。
 人類は負けないという強い願い。その願いを実現するために。彼らは、死力を尽くすのだ。
『貴様ら、いい心懸けだ……』みちるは顔を綻ばせながらも、厳しい眼差しでカメラ越しに前方を睨め付けながら言った。『全速力で突破する! いいな!?』
『了解!』
 応答の声には、一糸の乱れもない。それこそが、ヴァルキリーズを今日まで生きながらさせてきた最大の理由だった。
 個々の練度の高さも勿論ある。XM3の発案者である白銀武の機動を目の当たりにして鍛錬を積んできたのだ、世界中どこを探しても、彼らほどXM3を使いこなしている部隊はあるまい。
 だが、それ以上に、信頼関係、阿吽の呼吸があって初めて、部隊という物は本来の意味で機能するものである。
 十三名の心を繋ぐ絆は、いかなる快刀を以てしても断ち切ることは叶わない――。
『速瀬!』
 みちるが言うが早いか、微かに蒼穹色を残した赤黒い不知火が十二機で構成された楔形編隊から飛び出した。
 近接戦闘最強の称号、02のナンバリング。水月だ。
『B小隊行くぞッ! 道を切り開く――ッ!!』
『――了解ッ!!』
 10、11、12のナンバリングが施された白銀機、御剣機、彩峰機が速瀬機に続いた。
 立て続けに火を噴く砲口。マズルフラッシュが辺りを一瞬だけ薄明るく照らし、薄闇の中に浮かび上がったBETAの群が弾け飛ぶ。
 四機の強襲前衛仕様の突撃前衛機が、BETAの群に風穴を空ける。着地点の確保。それは正しく活路という名の、ハイヴ最奥部へと続く道だった。
 後方から噴射跳躍でA・C両小隊が前衛により生み出された活路へと飛び込み、次なる道を切り開こうとするB小隊の援護に奮闘する。飛び交う無数の砲弾はけれど、その悉くが的確に敵を穿ち、足止めしていた。
 突撃前衛ストーム・バンガード――それは、立ちはだかる全てを蹴散らす、嵐を纏いし尖兵の称号である。
 その名の通り、BETAの壁に、四陣の蒼い暴風が吹き荒れる。
『どけぇええッ!』
『邪魔……ッ!』
『はぁああああ!』
「うおぉぉおおおおおお!!」
 思い思いの咆哮を迸らせながら、噴射跳躍で波のように迫るBETAを飛び越えては、次なる着地点を確保し、さらに前方へと突き進む。
 その時、武の網膜に映し出されたメインカメラの映像に、不吉な影が過ぎった。
「――ッ!? くそッ……要塞級までいやがる……!!」
 現在確認されているBETAにおける最大種であり、動きこそ鈍重なれど、その攻撃力と大きさから、最も人類に恐れられているBETAの一つだ。モース硬度十五以上の甲殻に全身を包み、同じくモース硬度十五以上の槍のような十本脚を有し、さらに内部には数体の小型種を飼っているという、攻撃力・防御力共に正しく要塞の如き怨敵。
 だが、げに恐ろしきはその尾節。そこには五十メートルもの長さを誇る触手が格納されており、あまつさえ、その衝角からは、触れた物を容赦なく溶解する強酸性溶解液が分泌されるのである。
 その威容から発せられる重圧は、人類にとって、恐怖の象徴だった。
 ただし、何も倒せない相手ではない。長刀で三胴構造各部の結合部を斬り裂いてやれば打倒は難しいことではない。XM3によって大幅に高められた機動力を以てすれば、単機で斃すことも不可能ではないだろう。
 だが、それは地上での話だ。
 このハイヴという奴らのホームグラウンド、三次元機動の幅が制限される狭い空間の中で、さらにはBETAの群のただ中で相手取るのは、些か伴う困難が大きすぎる。
『――怖じ気付いたの白銀!?』
「――冗談じゃない! 要塞級程度にビビってなんかいられませんよ!!」
 自らを鼓舞するかのように大声で答える武。
『白銀、よく言った!』
 みちると水月、部隊のナンバー1とナンバー2が口を揃えて言った。
 ここはハイヴの最下層なのだ、要塞級が現れた程度で尻込みしてはいられない。それに、ここに至るまでには、何体もの要塞級を斃してきた。今更恐れるべき存在ではない。
 それでも、警戒レベルは最高に保つ。――否、ハイヴ攻略戦……ひいては対BETA戦において、警戒を緩めることなど、一瞬たりとも許されない。
『白銀の言う通り……こいつらを倒さなきゃ、前には進めない』
『我ら突撃前衛が要塞級の一体や二体に恐れを成してはいられぬ……そうであろう、タケル?』
 にやりと唇を吊り上げる二人の少女。それに同調するように武もまた笑みを浮かべ、
「そういうこった! 行くぞ、冥夜!!」
『――任せよッ!!』
 二人の突撃前衛が陣形から飛び出し、
「おぉぉぉおおおおお――ッ!!」
 裂帛の声に応えるように、跳躍ユニットから青い炎が噴き出した。噴射跳躍、その向かう先には一体の要塞級。
 誰の目にも、それは無謀極まりない、命知らずな吶喊としか映らなかった。
 自身に向かってくる鋼の巨人――それでさえも要塞級に比べればずっと小さい――をせせら笑うかのように、要塞級が奇妙な声を発した。
『あの馬鹿……ッ!』
 水月が上擦った声をあげる。この狭いハイヴの中で、たった二機で要塞級を相手取ろうなど、無茶だ。
 最下層とあって横坑の直径はかなりの広さだが、要塞級の触手を躱すには手狭と言わざるを得ない。
 しかし、それでも二機の不知火は止まらない。
 どのみち相手にせねばならないのであれば、今すぐに潰すだけだ。
 六十メートルもの巨体が、鈍重な動きで前進してくる。しかし、その動きとは裏腹に、まるでそれ自体が一個の生物であるかのように、尾節に収められた触手が、自由自在かつ俊敏に虚空を動き回る。
 まるで鞭のようにしなやかなその先端にはモース硬度十五以上という衝角。
 跳躍ユニットによる飛行が可能であるとはいえ、空中では戦術機の動きの自由度は著しく低下する。そこ目掛けて、衝角が白銀機を貫かんと迫る――だが、武はその直前、反転噴射により運動ベクトルの方向を大きく変え、
「――柏木ッ!」
『任せてッ!!』
 直後、ヴァルキリー6――柏木晴子が放った突撃砲弾が要塞級の尾節へと続けざまに叩き込まれ、さらには、寸分違わず要塞級の弱点たる関節部を射抜いていた。いかに高い防御力を誇る要塞級、威力に劣る36mm弾といえど、連続して受ければ、平然としてはいられない。
 一瞬、要塞級の動きが止まる。
 その隙を、この二人が見逃すはずがなかった。
『タケル!』
「冥夜!」
 互いの名を呼ぶ二人の声が重なり合う。訓練兵時代から切磋琢磨してきた仲間だからこそ、二人には互いの動きが手に取るようにわかる。
 都合四発の跳躍ユニットが同時に火を噴き、まるで鏡写しのように、要塞級の体を左右から斬り裂いていた。
 血と肉片の雨の中、武と冥夜、そして晴子の三人は、網膜投影越しに視線を交わした。それは、確かな信頼と、それぞれの技量を完全に把握しているが故の業だった。
『私達も負けてらんないわよ! 彩峰!!』
『――了解!』
 武達に触発されたとばかりに、今度は水月と慧の二機連携が要塞級を相手取る。
 他のBETAとは違い、要塞級ばかりは噴射跳躍で飛び越えれば安全、というわけにはいかないからだ。
『A小隊各機、B小隊を援護するぞ!』
『C小隊各機、援護用意!』
 みちると美冴が声を揃えて命令を下した。
 打てば響く応の声と共に、巨大なエンジン音が一斉にハイヴ内に轟く。青白い光が、地獄の底へと続く地下構造の中、空の色を浮かび上がらせていた。
 都合十二機の不知火は、三体の要塞級を前にしても、その進軍速度を緩めることはしない。主脚跳躍と噴射跳躍、水平噴射跳躍を効率的に併用しながら、ハイヴの中枢部へと向けて侵攻する。
 武達が沈黙させた一体に加え、水月と慧の手によって、二体目までもが屠られる。昆虫の頭部に相当する箇所に空いた眼窩にも似た穴から水月が体内に突撃砲弾を撃ち込み、慧が65式近接戦闘短刀で弱点の関節構造を立て続けに斬り裂いたのだった。
 視線を転じれば、既にそのさらに奥、最後の要塞級へと白銀・御剣両機が肉薄していた。
 武が持ち前の、そしてこの二年間でさらに磨きを掛けられた機動制御技術を用いて触手を躱せば、その隙を突いて冥夜が弾丸の如き速度で突撃、要塞級の意識――と呼べる物があるかどうかは不明であるが――を冥夜に転じようとするのを、まず風間機の放った滑空砲弾が食い止め、さらにそこをみちるや壬姫を筆頭とする後衛陣が的確に援護する。
 その間に冥夜は要塞級の懐へと潜り込み、長刀を一閃、二閃――一切の無駄が省かれた剣術が、全高六十六メートルにも及ぶ巨大な異形を絶命させていた。
 命がなくなれば、その巨体を支えていた十本の脚も力を失うのは必然。頽れる要塞級……それが、その下にいたBETAをも押し潰す。
 最後の要塞級を始末すると、ヴァルキリーズはその要塞級の上に降り立った。
 要塞級の死骸は、小さな丘のようなものだ。生きている限り、他のBETAは要塞級の上には存在しない。死した今でこそわらわらと砂糖菓子に群がる蟻のように集りつつあるが、その先頭陣がヴァルキリーズに迫るまでには、数秒の猶予がある。
 僅か数秒、しかしそれは掛け替えのない時間でもあった。
 要塞級の上は、今の攻防によって作り出された、完全なる空白、絶対の安全圏なのだ。跳躍の着地ポイントであり、次の跳躍に繋がる一歩を踏み込むための大地であり、周囲を改めて見渡すための櫓でもあった。
『宗像、鎧衣、涼宮! S-11の用意をしろ!!』
 無論、みちるが命じたのは、断じて自決の用意などではない。S-11での自決が持つ意味は、ヴァルキリーズにとって、あまりにも重い。
 死力を尽くしきり、最善を尽くすことが叶わなくなった時、犬死という最も忌避すべき事態を避けるため……己が死に最大限の意味を込めるために、彼女達はSDSと書かれたボタンに拳を叩き付けるのだ。
 今はまだ、その時ではない。
 まだ死力を尽くしきってもいないし、最善を尽くす道はあるし、何より、自決などすれば、それこそ犬死だ。
 故に、みちるが命じたのは、己が機体からS-11を取り外し、使用準備をしろということ。
『このBETA群を越えた直後、ハイヴの内壁を崩し、追撃を阻止するんだ! いいな!?』
『――了解ッ!』
 みちるの声に応えるとすぐに、美冴と美琴、茜の三人は、機体腰部に搭載されたS-11を取り出した。
 ハイヴの内壁は複雑な構造パターンを組み合わせることで、内壁全体で高い強度を維持していることが、振動パターンを解析した冥夜の指摘から判明していた。彼女はそういった構造力学などにも造詣が深く、その観察眼と推察力はこれまでにも幾度となく隊の危機を救ってきたのだった。
 そもそもの個体数が少ないことと、地上陽動で大部分が引きずり出されたこともあってか、前方に迫り来るBETAの群に、もう要塞級は含まれていない。
 各自が自然と推進剤の残量を確認する。最も心配すべきは、部隊でも突出した機動制御技術を持ち、キャンセルと先行入力を多用した三次元機動を得意とする白銀機の残量だ。だが、ここから反応炉ブロックへ辿り着き、そこでBETA相手に戦闘を繰り広げられるだけの推進剤は残っている。
 網膜投影越しに視線を交わすと、心配いらないと理解したのか、みちるは頷き、
『よし! 全機水平噴射跳躍! 雑魚に構うな、BETA共を置き去りにするぞ!!』
 みちるの声を受け、十二機の不知火が、彗星のように尾を引いて宙を翔る。下方にBETAの大群を見下ろしながら、武は兵装の確認をした。
 武に残されているのは、長刀が一振りと短刀が二振り、それに突撃砲が一挺、弾丸は36mmが約千百、120mmが二発。大広間で待ち受けているであろうBETAの数を思うと、些か心許ない。
「ヴァルキリー10よりヴァルキリー7」
『白銀? 一体どうしたの?』
 千鶴は怪訝そうに首を傾げる。
「予備弾倉、余ってないか? 出来たら分けて欲しいんだが」
『突撃前衛は弾薬の消耗が激しいものね……』得心がいったというように頷き、『いいわよ。36mmが二つ、120mmが一つでいいかしら?』
「ああ、十分だ」
 それだけあれば心強い。そこへ、
『白銀……長刀、いる?』
 二人の遣り取りを見ていた慧から、通信が入った。
「いいのか?」
『ん……私はあまり長刀使わないから』
 ヴァルキリーズのB小隊は、同じ突撃前衛でも、それぞれに得意とする戦法が大きく異なる。
 水月は砲も刀も高いレベルで使いこなすオールラウンダー。武は砲も刀も満遍なく使うという点では水月と同じだが、機動制御技術に秀でており、その他の技術は水月に比べれば大きく劣る。冥夜はその出自等も関係あるのだろう、長刀による剣術がメインであり、転じて慧はといえば、短刀を用いた近接格闘を得意とする。
 だから、慧は近接戦闘といえば短刀での格闘であり、長刀による剣戟を使用する頻度は少ないのである。その為か、74式可動兵装担架に収められた長刀は二振りとも――多少はBETAの血や肉がこびり付いているとはいえ――まだ綺麗なままだ。
 逆に言えば、短刀の消耗は相当なもののはずだろう。
「悪いな、彩峰……っと、そうだ、短刀いるか?」
『もらっとく』
「じゃあ、美琴達がS-11を設置してる間に交換するってことでいいか?」
『ええ』
『うん』
 同じような遣り取りは、他にも行われていた。冥夜と水月も、弾薬や刀を渡してもらう約束を取り付けているようだった。
 常に先陣を切ることになる突撃前衛は、必然的に弾薬の消費や刀の損耗が激しくなる。途中、力尽きた戦術機の残骸から回収した装備も優先的に割り振られていたのだが、撃墜数だけを見ても頭二つは飛び抜けているB小隊の装備は、他の二つの小隊と比べると、遥かに兵装減耗度が高くなっていたのだった。

 BETAの大軍を後方距離二千の位置に置き去りにすると、美冴、美琴、茜の三人がS-11を設置し始める。36mm弾を撃ち込んだりBETAが移動する際の音の反響を利用して、構造が弱い箇所は既に割り出してあった。
『ヴァルキリー8、設置完了!』
 いち早く作業を終えたのは美琴だ。彼女の得意とするサバイバル技術は、こういった作業においても発揮されていた。
 それから十数秒の後、
『ヴァルキリー4、設置完了!』
『ヴァルキリー5、設置完了!』
 美冴と茜もS-11を壁面に固定し終えたようだ。それを見計らって、みちるが声を掛ける。
『よし、タイマーを百にセットしろ』
『了解――セット完了!』
『ヴァルキリー1より中隊各機、全機NOEで全速進軍! 爆発に巻き込まれるな!?』
 S-11は効率的に反応炉を破壊するために、爆発に指向性を持たせてある。とはいえ、何しろ戦術核級の爆弾だ、壁面以外の方向への爆風も当然存在するし、崩落した壁の下敷きになる可能性だってある。
 三十秒という時間は、全速でのNOEで爆風の影響を大きく受ける範囲から離脱可能かつBETAが追い付いてこない、ぎりぎりのラインだった。
 刻一刻とタイムリミットが迫る。
 誰もが、コンマ一秒でも早く安全圏へと離脱することだけを考え、スロットルペダルを踏み込んでいた。
 ――そして。世界をモノクロームに落とし込む眩い閃光が迸り、灼熱が大気をも焼き尽くす嵐となって吹き荒れ、地球をも揺るがしたと錯覚するほどの炸裂音が轟き――爆風その物が不可視の物質と化したかのように、巨大な地下空洞を貫いた。
「ぐぅ……ッ!」
 機体に叩き付けられた衝撃に、思わず武は呻いた。こちらの意思とは無関係な動きが相手では、衛士強化装備の耐G機構も殆ど用を為さない。奥歯を噛み締め、振動と不規則な揺れに耐える。
 ようやく揺れが収まっても、万全な状態とは言い難かった。メインカメラの映像ももヘッドセットの音声もノイズばかりだ。
 三発ものS-11を同時爆発させたことにより、膨大な粉塵が舞い上がったことと、電波障害が起きたためだった。
『……ー1……ちゅ……っき……答……よ……』
 ザーザーという砂嵐のような音の混じった通信。やがて電波障害が解消されたのか、
『ヴァルキリー1より中隊各機、応答せよ。繰り返す、ヴァルキリー1より中隊各機、応答せよ』
 みちるの声が鼓膜を震わせた。『ヴァルキリー2よりヴァルキリー1。異常なし』という水月の言葉を皮切りに、順々に無事を伝える声が返されていく。十二機全てが、どうにかS-11の効果圏外に脱出出来たようだ。
 後方では、未だ崩落が続いているのか、地響きがしていた。
 周囲にBETAの姿はない。推進剤を節約するために、主脚走行に切り替え、大広間を目指していく。
 ――その時。突如として、世界が唸りをあげた。
『な、何だ!?』
 誰かが上擦った声をあげた。一人ではなく、何人もが同時に。声をあげなかった者もまた、驚駭に目を見開いていた。
 まるで、大地が下から突き上げられているかのような、巨大な地鳴り。
 ――もう次のBETAが来たってのか……!?
 たった今横坑を崩落させたばかりだというのに。
 だが、振動センサーが読み取った波形パターンは、今までに近似例のない物だった。BETAの群が移動している際に発生した物でないことは明らかだった。
『大尉、どうします!?』
 大地の鳴動の影響で震える声で水月が問うた。
 パニックに陥っての質問ではなかった。彼女とて優秀な指揮官となり得る素質を持っている。だから、既に水月の頭の中には、単純な二択の構図が出来上がっていた。
 即ち、進むか、留まるか。
 この不可解な地震に警戒しつつ進むのか、この場で地震の原因に対処してから進むのか……二つに一つだ。どちらにもメリットがあり、デメリットがある。どちらがいいのかは、蓋を開けてみなければわからない。
 だが、一つだけはっきりしていることがあった。それは、こうして対処法を思案しているほんの数瞬の間にも、鳴動は激しくなっていくということだ。
『……進もう』やがて、みちるはそう決断を下した。『我々には、一秒でも早く反応炉を破壊する義務がある。こんなところで立ち止まっているわけにはいかない』
 今も、地上では陽動を仕掛けている多くの同胞達が、ハイヴ内部ではヴァルキリーズ同様に侵攻した部隊が、命の危険に晒されているのだ。彼らの挺身に応えるためにも、これ以上命を散らさないためにも、ヴァルキリーズには一心に前に進む道しか残されていなかった。
『――ヴァルキリー1より中隊各機! 周囲に警戒しつつ、全速進攻! 反応炉を破壊すれば歩いて帰れる、推進剤の出し惜しみはするな!!』
 これまでの作戦の経過により、反応炉を破壊されたハイヴからは、BETAが一度去っていくことがわかっている。エネルギー源を求めて、手近な既存のハイヴへと大規模な引っ越しをするわけだ。
 反応炉を破壊することさえ出来れば、ハイヴ内とはいえ、赤絨毯を悠々と歩くのと大差はない。
 主脚走行から水平噴射跳躍に切り替える。甲高いエンジン音を響かせながら、蒼穹の巨人が舞い上がる。
 不知火の機動力は、時速数百キロでの長距離航行をも可能としている。
 反応炉のある大広間までの距離は定かではないが、おそらく五千はないだろう。噴射飛行で抜けてしまえば、反応炉はもうすぐそこ――

 ――だが、その眼前に。巨大な壁が、突如として立ち塞がった。

『――ッ!?』
 誰もが、その威容に息を呑んだ。
 それは、壁ではなかった。円筒状の何か。驚異的な大きさは、彼の秦の始皇帝が建造させた万里の長城を彷彿とさせる。そんな、想像を絶するサイズの、芋虫のような何か。
 数瞬と待たずに、この場の十二人全員が、一斉に、直感的に理解する。――こいつはBETAだ、と。
 こんなBETA、知らない。見たこともなければ聞いたこともない。だが、そんなことは確信を覆す理由にはならない。BETAとはそもそも人類の常識を超越した生物群なのだ。こんな化け物がいたとしても、おかしくはない。
 それでも尚、驚愕を隠すことは、誰一人として出来なかった。
『な、何なのよこいつは!?』
 茜が上擦った、悲鳴じみた声をあげた。
「で、かい……ッ!」
 何の捻りもない言葉が、武の口から零れる。
 その姿、あまりに巨大。要塞級が可愛く見えるほどだ。何しろ、たった一体のBETAによって、横坑は殆ど塞がれていたのだから。
 巨大な芋虫メガワームの一端には、牙のような突起物が放射状にずらりと並んでいて、その様は掘削機を思わせる。その中央には、一つ一つが戦術機ほどの大きさもある嘴が円環をなしており、恐らくはそれが口に相当する器官なのだろう。
 その口が、ずるり――と突き出して。
『……ッ!?』
 ヴァルキリーズが息を呑む。それと、同時。
 捲れ上がった掘削機、その中央から――昆虫に類似したフォルムの化け物が。一体、二体、三体と、続けざまに。
『要塞級!?』
 それだけではない。突撃級、要撃級、戦車級。これまでに嫌というほど出会して、屠って、置き去りにしてきたはずのBETAが、わらわらと溢れ出してくるではないか。
 その数、連隊規模。ならばあの新種の大型BETAは、母艦キャリアー級とでもいったところか。
『そんな馬鹿な……!』
『こんなことって……』
 美冴と祷子が、呆然と言葉を零す。その声音には、絶望が色濃く滲んでいた。
 もう反応炉は目の前だというのに。ここに来て……ここに来てこんな大物を相手にしなくてはならないなんて。
 最早、悪夢という言葉ですら生温い。
 誰もが、少なくとも一瞬、その脳裏に最悪の想像を過ぎらせたに違いなかった。
 じわりじわりと、恐怖が心の裡へと侵蝕してくる。武は、強張っている体を自覚して、頬から顎へと伝ってきた汗を手の甲で拭った。今覚えている緊張は、ここまでに至る道の中でも最も重い。顔中の筋肉が引きつっているのがわかった。
 ――それでも。やるしかないんだ……ッ!
 こんなところで挫けるわけにはいかない。戦場で散った多くの英霊達のためにも。G弾の不使用という無理を通してくれた方のためにも。かつて自らの弱さの所為で失ってしまった恩師のためにも。――そして、武に希望を託し絶望の淵の中で星の海へと恩師のためにも。
 神宮司まりもの命を糧に生き延び、香月夕呼に未来を託されたからには、白銀武に、絶望という二文字はあり得ない。
 恐怖は乗り越えられる。もう二度と、あんな失態はしない。
「大尉、指示を!!」
 操縦桿を握り締め、武は叫んだ。
『……っ!』一瞬、呆けていたみちるが、武の声で正気を取り戻す。『まずは要塞級を狩るぞ! 見たところ、あの新種に攻撃力はない……が、油断はするな!!』
『――了解ッ!』
 母艦級に道を塞がれてしまっているからには、前には進めない。進もうと思えば進むことも出来るだろうが、リスクが大きすぎる。
 まずは、この場の最低限の安全を確保する必要があった。
 外見から判断して、母艦級の防御力は相当高い。要塞級を内部に抱え込むほどなのだから、それも当然だろう。あれをどうにかしようと思うなら、S-11が必要だ。
 推進剤を無駄遣いするわけにもいかず、地に降り立つ不知火。一斉に殺到するBETA。それを突撃砲弾が迎え撃ち、醜穢な化け物に血と臓物を噴き出す穴を穿っていく。
 要塞級の担当は、先程と同じく突撃前衛だ。後衛が36mmで小型種と中型種を排除しながら、時折120mmで要塞級の動きを止める。そこを、触手を躱しながら肉薄、三胴構造の結合部を長刀や短刀で斬り裂いていく。
 それを繰り返すこと七度。それと同じ数の要塞級の骸が、地に横たわっていた。
 武の乗る10ナンバーの不知火のメインカメラが、残る一体の姿を捉える。
「冥夜!」
『タケル!』
 示し合わせたように、武と冥夜は互いの名を呼び、最後の要塞級へと吶喊、振り落とされる触手を躱し――それと同時、その首を斬り裂かれ、要塞級は絶命していた。
『ふっふーん……私達から獲物を横取りしようなんて、百年早いわよぉ?』
『白銀達には負けてられないね……』
 得意気な笑みを浮かべて言う水月と慧。
「まあ、これで四体ずつですしね」
『我らの方が、撃破は先でしたな』
 武と冥夜もまた不敵な笑みを浮かべて応える。互いに発破を掛け合う、B小隊いつもの遣り取り。
『言ったわね、白銀、御剣! それじゃあ、どっちが残りを多く倒せるか勝負よ!』
「上等ですよ、速瀬中尉! なあ、冥夜!」
『うむ。我らとていつまでも速瀬中尉の後塵を拝し続けるわけにはいかぬ』
『……負けないよ?』
 こんな状況の中でも、決して精神が折れることはない。
『よく言ったわ、あんた達! B小隊、続けぇっ! BETA共を殲滅するわよッ!!』
 嵐纏いし尖兵達が、暴風と化して異形の群へと襲い掛かる。さながら、神話に謳われる真の戦乙女達のように。
 伊隅戦乙女隊のB小隊は、小隊単位であれば、この世界全てにおいても、有数の攻撃力を誇る。次々にBETAを血祭りに上げていくその獅子奮迅の戦いぶりに感化されてか、A・C小隊の撃破速度もまた高まっていった。
 熱が高まる。この規模のBETAであっても殲滅出来るという昂揚。もうすぐで反応炉に辿り着けるという希望。
 ――だからだろう。
 この場の誰もが、失念していた。ハイヴに侵攻する上で、最も気をつけねばならないはずのことを。ここに至るまでに疲弊した精神が、ほんの少しだけ、ヴァルキリーズから注意力を奪っていたのだった。

 真っ白に振り切った振動センサー。突然崩れた側壁。それは、偽装横坑と呼ばれる、薄い構造材で蓋をされた枝坑だった。そしてそこから現れたのは――百体あまりの突撃級と要撃級の群。

「柏木ぃいいいッ!!」
 いち早くそれに気付いた武が声をあげた時には、もう遅かった。 
 原色の甲殻が、柏木機目掛けて迫る。火を噴く跳躍ユニット――だがそれも間に合わず、数トンの質量を有するはずの巨人が、まるでダンプカーにはねられた人間のように宙を舞っていた。
 硬く重い物質が床に叩き付けられ、鈍い低音が響いた。
『晴子……ッ!』
 茜が悲鳴をあげる。晴子の下へ向かおうとするものの、雪崩れ込んでくるBETAがそれを許さない。そればかりか、奥歯を噛み締める彼女達を嘲笑うかのように、柏木気目掛け、突撃級や要撃級が殺到する。
「やらせるか――ッ!」
 それを蹴散らす一陣の疾風。36mm弾の雨と長刀の乱舞が、汚穢に彩られた血の花を咲かせる。要撃級の前腕や突撃級の甲殻を立て続けに無理矢理斬り裂いた所為で、長刀が半ばから折れ飛んだ。
『白銀! 柏木は大丈夫か!?』
 晴子の属するC小隊長である美冴が訊ねてくる。
「……はい、バイタルデータに異常はありません!」
 データリンクによって晴子の衛士強化装備から呼びだしたバイタルデータを網膜に映しながら、武は答えた。
 噴射跳躍で離脱しようとしていたことが功を奏したのだろう、幸か不幸か、06ナンバーの不知火は未だ原型を留めていた。
 ――しかし、それが戦闘の続行可能を意味するかどうかは、別の問題だ。
 両主脚が見るも無惨に根元からねじ曲がり、内部の電線がショートしているのだろう、割れた装甲の隙間から、オレンジ色の火花が散っているのが窺えた。叩き付けられたショックで、左手腕は肘関節で千切れかけている。フレームは完全に歪んでいた。
 満身創痍。人間であれば、生きていること自体が不思議なほどの損傷だった。辛うじて動かせる状態にあることが既に奇蹟と言える。
 バイタルデータは落ち着いているが、気絶してしまっているためという可能性は否めない。
 が、それであっても、未だ晴子が無事であるという事実が、部隊内に微かな安堵の空気を広げていた。この二年間、A-01が保ち続けている部隊内損耗率零パーセントという奇蹟的な数字は、伊隅戦乙女隊の強さを示すと同時に、仲間を失うことから彼女達が遠ざかっているということを意味している。
 故に、彼女達は誰かの死に対して、ひどく臆病だった。
 それがもたらした、一瞬の弛緩。
『――宗像ッ!』
 部下を叱責するように飛ぶ水月の声。その声に、緩んでいた糸が一瞬にして張り詰める。
 気付くのが遅すぎた。不知火の背後、皺まみれの白い肉。美冴が振り向き、みちるが砲口を向けるが、間に合わない。
 まるで十一人全員の意識の間隙に滑り込むように宗像機へと迫った要撃級が、その前腕を振り上げ――頭部に三発の砲創を穿たれ、
『――!?』
 誰もが息を呑む中、絶命した。
 気付いたときには既に遅かったはずであるにもかかわらず、要撃級は宗像機を捉えることが出来ぬままに骸と化していた。
 一体誰が……と疑問が過ぎる。だが、美冴達はもう気付いていた。
『宗像中尉、余所見してる余裕なんてありませんよ?』
 いつも通りの、薄い笑みを湛えて、晴子は言った。
『柏木の言う通りだ! まずは周りのBETAを片付けるぞ! 柏木に敵を近寄らせるな!!』
 みちるの声に気を引き締めるヴァルキリーズ。
『……助かったよ、柏木』
『気を付けてください、宗像中尉。何かあったら、風間中尉が哀しみますよ?』
 礼に軽口で応える晴子に、美冴は涼やかな笑みを浮かべ、不知火を躍らせた。


 宗像機と、それに続いて戦線へと復帰した白銀機の後ろ姿を見送るように、右腕のマニピュレーターが、未だ微かな硝煙を燻らせる突撃砲を構えていた。しかし、砲撃の反動によって、亀裂の走っていた右腕は半ばからハイヴの床へと落下してしまう。
 あちゃー、と晴子は誰にともなく苦々しげに戯けてみせた。
 網膜に映る機体状態は最悪の一言だった。赤の中に点々と置かれた黄色。警告の出ていない箇所は針先ほども存在しない。損傷がひどいことは承知だったが、ここまでとは思わなかった。余程酷い叩き付けられ方をしたのだろう。
 唯一の幸運は、跳躍ユニットがどうにか使いものになってくれそうなことか。
「ベイルアウトも無理、と……」
 フレームが完全に曲がってしまっている。尤も、この状況でそんな真似をすれば、瞬く間に戦車級の餌になるか、要撃級や突撃級に飛沫にされるのがオチだろう。
 安全になるのを待っていれば、いつになるかわからない。敵の数が多すぎるし、いつ後続のBETAがやってくるかわからない。崩落させた壁はしばらく保つだろうが、あの新種がもう一体現れれば、数分と保つまい。
 今の自分は部隊のお荷物でしかない――晴子は、持ち前の冷静さで自らの置かれた状況を冷徹に割り出していた。
 それは彼女の長所であり、短所でもあった。自分自身さえも切り捨てることが出来る彼女は、間違いなく一人の衛士であり……その犠牲を最大限に活用しようという彼女は、間違いなくA-01の一員であった。
「――伊隅大尉、S-11の使用許可をください」
 静かな――晴子自身驚いてしまうほどに落ち着いた――声で、晴子は、そう志願した。
『柏木!?』
『晴子!?』
 武と茜が揃って声をあげた。それでもBETAを斃す動きに淀みがないのは流石と言うべきか。
「私の機体状態を転送します」武と茜の声を嬉しく思いつつも、晴子は凍て付いたように抑揚の欠けた声音で続ける。「戦闘続行は不可能……ですが、S-11を抱えたまま飛ぶぐらいなら出来ます。いくらあの新種のBETAだって、S-11の直撃を食らえば、ただでは済まないはずです」
『…………』
 迫り来るBETAを屠りながらみちるは、ただ黙って晴子の言葉に耳を傾けていた。
「いつ後続のBETAが来るかわかりません……伊隅大尉、許可をください!」
 ――私だってヴァルキリーズの一員なんだから……足手纏いのままでなんかいたくない……!
 自分を護るために仲間達が死んでいくなんて、晴子には耐えられなかった。大切な仲間を護りたいという気持ちがわかる――本人は必要とあらば仲間を切り捨てられるくらい、ある種非情な人間であると自己を評価しているのだが――からこそ、自分の所為で仲間が犠牲になることを受け入れられるはずがなかった。
「大尉……ッ!」
 晴子の声音は、既に懇願のそれに近い。
 みちるは、押し黙って何も言わない。だが、やがてみちるはゆっくりと口を開き、
『……わかった。S-11の使用を許可する』
『伊隅大尉!?』
 すぐさま反論の声をあげたのは、やはり武と茜。
 ――ありがとう、白銀、茜……。
 そっと目を瞑って、晴子は噛み締めるように二人の名前を胸に深く深く刻み付けた。それから、網膜に映ったヴァルキリーズの仲間達の顔を順繰りに見つめていく。何度も助けられた先達。支え合った同期。晴子にとって、大切な大切な仲間達。
 それでもやはり、死に向かう最期の最後、晴子の心に最も強く焼き付いていたのは、訓練兵の頃から同じ分隊の一員として苦楽を共にした茜と――。
「……やっぱり、そういうことなのかなあ……」
 自然、苦笑が零れる。今まで気付かないようにしていたこと。気付かないふりをしていたこと。それを自覚したのが、こんな時だったなんて。
 うっすらと目尻に涙が浮かんでいるのに気付いて、晴子は慌ててそれを拭った。
 こんな顔は自分らしくない。柏木晴子は、いつだって笑っているべきなのだ。
『柏木……』
『晴子……』
 武と茜の二人が、同時に晴子の名を呼ぶ。それに対し晴子は、
「ほらほら、手が止まってるよ、お二人さん」努めて普段通りに、笑顔を向けた。「――大丈夫、私はただ死にに行くわけじゃないんだから」
 ――死力を尽くして任務にあたれ。
 ――生ある限り最善を尽くせ。
 ――決して犬死するな。
 簡潔な三つの言葉。晴子の胸の中にも息づいている、ヴァルキリーズの隊規。
「私は、みんなの道を切り開くんだよ。だから、そんな顔しないで」
 晴子の死は、決して犬死になどならない。道を切り開いた晴子の挺身を犬死に貶めるような衛士は、この部隊にはいない。そう、信じているから。だから、命を擲つことだって出来る。


 ――柏木……お前、強いよ……。
 武は、要撃級に短刀を突き刺しながら、そう思った。
 元の世界も合わせれば、晴子との付き合いはもう三年以上にもなる。その三年間で、彼女のことは随分知ったつもりでいた。だが、そんなのは大きな間違いで、どうしようもない思い上がりだった。
 今になって武は、晴子のことを全くわかっていなかったことを思い知らされた。
 晴子のこんな強さを、武は知らなかった。
「おぉぉぉおおおおお――ッ!!」
 裂帛の咆哮がコクピットの中で反響する。短刀が斬り裂き、突撃砲が撃ち抜く。
 ――やらせねえぞッ! やらせねえぞォッ!!
 晴子が命を擲つ覚悟を決めたのだ。その覚悟の邪魔だけは、絶対に許さない。
 柏木機に迫る戦車級、その尽くを突撃砲で殲滅する。
 これは、本来ならば、突撃前衛たる武の役目ではない。B小隊の武が、C小隊の晴子を付きっきりで守護するなど、あり得てはならない。
 それでも、武は、この役目を放棄するつもりはなかった。
 冥夜は孤立してしまうが、武は冥夜の強さを信じているし、C小隊の援護があれば、冥夜がここで後れを取るはずがない。二年間以上も二機連携を組んできた相棒として、白銀武は誰より、御剣冥夜を信頼していた。
『白銀……これ、もらってくれるかな?』
 兵装担架をパージする音。そこには、未使用の長刀が各一振りと、数個の突撃砲弾倉。転がった腕には短刀が一振り。晴子に残された、残存装備の全て。
「いいのか……?」
『白銀に使って欲しいんだよ。さっき、私の所為で長刀折れちゃったしね』
「……わかった。使わせてもらう」
 装備を拾い上げる。弾倉と短刀を格納すると、残った74式近接戦闘長刀を、白銀機は強く握り締めた。
 ――これは、ただの長刀なんかじゃない。柏木がオレに託してくれた希望なんだ……ッ!
「どけぇぇええええッ!!」
 長刀の一閃が、要撃級を二体、まとめて薙ぎ払った。


「伊隅大尉……今までお世話になりました」
『柏木、貴様の挺身、決して無駄にはしない』
 コクピットの中で敬礼する晴子に、みちるが同じく敬礼で応えてくれる。本当は、この戦場でそんな余裕などないはずなのに。
 そんな上官の優しさに感謝しながら、晴子は跳躍ユニットに火を入れた。
 もう他の十一機は安全圏への退避を始めている。後は晴子があのBETAの集団を吹き飛ばすだけだ。
 金属の軋む嫌な音、そしてそれを掻き消す轟音と共に、不知火が宙に浮かび上がる。
 ――さようなら、みんな……。
 晴子は、頬を伝う涙を拭おうともしない。死ぬことは怖くない。けれど、みんなと離れ離れになるのは怖かった。それを振り払うように晴子はスロットルペダルに置いた足に力を込め――その瞬間だった。
『柏木』
 突然、武からの通信が入った。晴子は慌てて涙を拭う。
「何、白銀?」
 ほんの少しだけ自分の声が弾んでいるのがわかる。こんな時なのに現金だなあ、と晴子は内心で苦笑した。ポーカーフェイスは得意だ。きっと、今だって武には気付かれていないはず。だって、武は鈍感だから。
『――一足先に横浜に帰っててくれ』
「っ……!」
『……それと、神宮司軍曹に伝えて欲しいんだ。白銀はもう大丈夫です、って……いや、自分で言わなくちゃな。――桜並木で、待っててくれ。絶対に……絶対に生きて会いに行くから……! だから……だから……ッ……!』
 武の瞳が潤んでいる。けれど、彼は決してその涙を零すことはなかった。歯を食いしばって、涙を堪えて。
 それを晴子は、強いと思った。
 ――ありがとう、白銀……。
 三度目の言葉を、胸の内で呟く。
『ありがとう、柏木……オレ達は負けないから……お前のくれた時間を、生きて生きて、生き抜いて見せるから……ッ!!』
「…………うん。人類を頼んだよ、白銀」
『ああ!』
 スロットルペダルを、思い切り踏み込む。青い炎の尾を引く蒼穹色の彗星となって、06ナンバーの不知火が宙を翔る。
 BETAの群を飛び越え、要塞級の触手をくぐり抜け、母艦級の口の中へと飛び込み――横殴りに強烈な衝撃を受け、再び、地面に這いつくばることとなった。
 跳躍ユニットが左右まとめて砕け散る。今度こそ身動きの一つも取れない状態になった。
 まるで巨大な芋虫だ。けれど、晴子がいるのは、さらに巨大な芋虫の腹の中。それがなんだかおかしかった。
 やけに気持ちは晴れ晴れとしている。
「――もう、限界かな……」
 耳障りな音が周囲から聞こえてくる。戦車級が装甲をかじっているのかもしれない。――けれど、戦車級が装甲を食い破るよりも、晴子が腕を振り下ろす方が、ずっと早い。
 最後に、一つだけ言っておきたかった。聞こえることなんてないけれど。届くことなんてないけれど。
 この想いを口にしないで逝くなんて、そんなのは嫌だった。
「――白銀、きっと君のこと、好きだったよ……」
 こんな遺言も悪くないかもしれない……そんなことを思いながら。
 晴子の拳が、SDSの文字目掛けて叩き付けられた。



[2785] Muv-Luv ALTERNATIVE -Second World Was Failed- Intermission 02
Name: Vollmond◆d2a8c8a6 ID:05704cd7
Date: 2011/11/15 03:09
 閃光、轟音、震動。その後に残ったのは、焼き尽くされたBETAの骸と崩落した内壁構造の残骸のみ。生命は、ただの一つも存在することを許されてはいなかった。
『晴、子……』
 茜が、命を散らした親友の名を呟く。元207B分隊の五人も、同期の死に動揺を隠せず、俯いて唇を噛んでいた。涙を流している者もいる。五人にとっては、初めて直面することとなった仲間の死であり、茜にとっては、最後の分隊からの仲間を失ったことになるのだ。そのショックは、並大抵ではないだろう。
 だが、それでも。
「――早く進みましょう、伊隅大尉」
 白銀武は、立ち止まることを良しとはしなかった。
『白銀……お前……』
 美冴が驚いたように呟く。名前を呼んだ瞬間は強かった声音も、後半はすっかり弱まっていた。
 水月や祷子、そしてみちるまでもが、何も言えずにいた。真っ赤な目に涙を浮かべ、けれど決して泣き出すことはなく、歯を食いしばって必死に耐える武を見て、それ以上の言葉を紡げる者など、いるはずがなかった。
「オレは柏木と約束したんです。生きて桜並木に会いに行くって……だから、早く進みましょう。あいつの挺身に応えるためにも、オレ達には、一秒でも早く反応炉を破壊する義務がある……!」
 晴子のくれた時間は、一分一秒たりとも無駄には出来ない。
『白銀の言う通りだ。我々のために命を懸けた多くの兵の……そして柏木の死に報いる方法があるとすれば、それはたった一つ……反応炉を破壊することだけだ。――貴様らにヴァルキリーズの一員としての自覚があるなら、下を向くな! 前を見ろ! 自らの為すべき事を為せ……ッ!!』
 まるで慟哭のように。喉の奥から声を絞り出すみちる。いつになっても、部下を失うことに慣れることは出来ない。
 だから、彼女は知っている。その死に報いる、たった一つの方法を。
 ――決して犬死するな。
 それは、死に往く者ではなく、生者に向けられた言葉だった。仲間の死を、犬死にするなという、生者への戒めである。
 その隊規を定めたみちるが、晴子の死を無駄になどしようはずがなかった。
『反応炉は目の前だ! こんなところで立ち止まることは許さん! ヴァルキリーズ全機、大広間を目指せ……ッ!!』
『――了解ッ!!』
 応える声は、今日のどの声よりも大きかった。


『――こ、これが……』
『反応炉……!』
 ようやく辿り着いた大広間、その中央部に鎮座するのは、脈動するように明滅しながら青白い光を放つ、巨大な物体だった。煌々と輝く不気味なそれ――反応炉は、まるで脈打つ心臓のようだ。ならば、木の根を思わせて広がる数十本の筒は血管だろうか。ますます以て、このハイヴという巨大な地下構造を、単なるBETAの巣ではなく、巨大な魔物の腹の中と思わされる。
 反応炉だけで、二百数十メートルにも及ぶ大広間の半分以上を埋め尽くしてしまっている。母艦級を見た直後とはいえ、それが与える威圧感は、あまりにも大きい。この圧倒されるような威容ばかりは、いかにシミュレーターを用いようとも再現出来るものではなかった。
 だが、実を言えば、武が反応炉を目にしたのは、これが初めてではない。
 今からおよそ二年前……2002年6月8日に、夕呼の案内で横浜基地地下の反応炉を見に行ったことがあった。反応炉を見たからといって何の役に立つというわけでもないのだが、自分の持てる情報は全て武に教えておきたかったのだろう。
 尤も、『次の世界』があるかどうか自体定かではないし、武としては、『この世界』を救うことを諦めたつもりなど毛頭なかった。
 いずれにせよ、夕呼のお陰で、反応炉を目の当たりにしても、武の受けた衝撃は他の十人に比べれば、ずっと少ない。
 ――そう、十人だ。
 ぎりっ……という不快な音が武の口の奥から響いた。
 そのまま、反応炉を見上げていたメインカメラの向きを下方へと正す。そこには、ひしめき合うように反応炉に群がる無数のBETA。それこそ、BETAの絨毯とも呼ぶべきか。これまでに葬ってきたBETAの総数もまた想像を絶する程であったが、この大広間に集うBETAは、あるいはそれ以上かもしれない。
 レーダーは、悪夢の具現でもあるかのように、真っ赤に塗り潰されていた。
 それを睥睨すると、沸々と胸の裡に何かが湧き上がってくるのを、武は感じていた。
『これよりS-11の設置に取り掛かる!』
 みちるの声で、呆けていた数人が正気を取り戻す。網膜には、十人分の顔。先程までもう一人表示されていたはずのそこに、晴子の姿はない。
 その事実に暗澹たる思いを募らせながらも、武は続くみちるの言葉を待った。
『ヴァルキリー1より中隊各機! ヴァルキリー7、9、11、12はS-11の設置! 私とヴァルキリー2、7、10はその直援だ! 残るヴァルキリー3、4、5は部隊全体を援護! ――反応炉を、陥とすぞッ!!』
 了解の声と共に、十一機の不知火が一斉に前進を開始する。
 津波のように押し寄せる異形の大軍。
 ここに至るまでに多大な犠牲を払ってきた武達を嘲笑うかの如き、物量という名の限りない暴虐。質量その物を武器――否、兵器として、BETAの雪崩が、巨大な瀑布のような勢いで迫り来る。
 大海原の中で数人の人間が寄り添ったところで、何が出来るだろう。
 この絶望の中心で、僅か十一機の戦術機に、一体何が出来るだろう。
 ――けれど。
「どけぇぇぇええッ!!」
 咆哮が、絶望の暗闇に一点の光を灯す。何が出来るかではなく。何を為すかという、ただそれだけの強い意思を宿して。
 そして、輝きは一つではなかった。
 十一機の不知火は、この圧倒的なまでの物量差に、ただ一人として臆することはない。それどころか、闘志の炎はさらに燃え上がっていく。
 それは正しく、BETAという海の上に浮かび上がる不知火の如く。
 道を切り開く。晴子が、自らの命と引き替えにそうしてくれたように。けれど、彼らに死ぬことは許されない。晴子と、約束したから。必ず生きて帰ると、約束したから――。
 一歩一歩、着実に。敵を葬りながら、進んでいく。
 接敵するや否や長刀あるいは短刀で敵を斬り裂き、中距離以遠の個体には弾丸の雨を降らす。既に数百もの死骸が転がっていたが、それ以上のBETAが、残骸の川を乗り越えてやって来る。
 額に汗が滲むのがわかった。しかし武に、それを拭う暇など与えられていない。
 道を切り開く尖兵は突撃前衛の役目だ。近接戦闘最強の称号たるヴァルキリー2の名を冠する水月と共に、武は長刀を振るい、砲弾を撃ち放つ。
 突撃前衛のナンバー1とナンバー2。誰が何と言おうとも、この部隊における最強の戦闘能力は、この二人に他ならない。
 S-11の設置を命じられた冥夜と慧を守護しながら、二陣の暴風は殺戮の烈風を巻き起こしながら突き進む。
 それを援護する戦乙女達。前方に、左右に、後方に、あらゆる方向に屍の山を築き上げる。
 そして、ほんの一瞬、ヴァルキリーズの周囲に空白の空間が生まれ、
『――今だ! 全機噴射跳躍――一気に反応炉に取り付け!!』
 瞬間、みちるの命令が走り、二十二発の跳躍ユニットが青炎を迸らせた。
 津波が押し寄せるならば、その津波よりも高く。雪崩が押し迫るのであれば、その雪崩よりも速く。秒速にして百メートル超。
 ヴァルキリーズは僅か三秒足らずで反応炉まで到達するや否や、36mm弾の雨を降らせる。
 そして生まれた空白へと降り立ち、
『S-11の設置を開始しろ! ――反応炉に一匹たりとも近付かせるなッ!!』
 みちるの声と共に、それぞれがそれぞれの為すべき事を為す――。

 武は、肚の奥底で滾る激情の赴くままに剣を振るっていた。
 晴子から託された長刀が要撃級の首を刎ねる。晴子から託された突撃砲弾が戦車級をミンチに変える。――晴子から託された時間を、護り抜く。
 衛士とは人類の守護者である。だが今この瞬間、白銀武は、御剣冥夜ただ一人の守護者であった。
 冥夜には指一本触れさせない。もう誰も奪わせない。もう二度と、あんな思いはしたくない。
 耳鳴りのように鳴り響くけたたましいアラーム。機体の過負荷を伝えるイエローシグナル。だからどうした、まだ赤信号は灯っていない。まだ戦える。
 機体状態など微塵も考慮せず、ただ殺せる範囲の敵を殺すだけ。
『宗像、風間、涼宮! 逆側の敵を殲滅しろ! 劣化ウランのデザートを腹一杯に食わせてやれ!!』
 切羽詰まった叫び。
 反応炉とはハイヴの中心であり、大広間の中央に位置している。故に、放射状に延びる横坑全てから――三百六十度全方位から、無数のBETAが押し寄せるのだ。
 三機の不知火が噴射跳躍で舞い上がる。そして残弾全てを撃ち尽くせとばかりに、宗像機、風間機、涼宮機が突撃砲のトリガーを引き絞った。
 瞬く間に肉片と化していくBETAの群、しかしその数は一向に減ることはない。この大広間のBETA総数からすれば、撃滅された個体数は、僅か一パーセントにも満たない。奴らにとっては痛手でも何でもないだろう。
 それでも、意味はある。反応炉に近付くBETAに片っ端から砲撃を加えることに、確かな意味はあった。一瞬……ほんの一瞬、ごく僅かにであろうとも、BETAの進軍速度は落ち、結果、S-11の設置はスムーズに行われることになるのだから。
 ――まだか? まだなのか……!?
 一秒一秒時間が過ぎていくたび、焦燥が募る。削り取られていく精神。張り詰めた精神の糸は摩耗して、今にも切れそうになる。そのたびにどうにかそれを繋ぎ止めて、いつ終わるとも知れぬ、敵陣のただ中で防衛戦を続けるのだ。
「はっ、ぁ……ぁあ――ッ!!」
 疲労が押し出そうとした吐息を、裂帛に変える。
 その、直後だった。
『――ヴァルキリー11、S-11設置完了しました!!』
 勝ち鬨のような声が、あがったのは。
 最初は冥夜、それから続けざまに、
『ヴァルキリー7、完了しました!』
『ヴァルキリー9、完了です!』
『ヴァルキリー12……完了!』
 千鶴、壬姫、慧の三人からも同様にS-11設置完了の報告が入った。
 肉体的にも精神的にも限界近くまで疲弊していたはずの体に、再び熱が宿る。操縦桿を握る手に力がこもる。超えかけていた限界が、遥か遠くにまで遠ざかり。
『聞いたな!? ヴァルキリー1より中隊各機! 全機反転、最高速度で撤退だッ!! 爆発に巻き込まれるような醜態は晒すなッ!?』
『――了解ッ!』
 ここで推進剤を使い切ろうとも構わない。反応炉を破壊しさえしてしまえば、後はスキップしながらでも退却出来るのだから。その気になれば、生身でハイヴ外への脱出だって可能だろう。
 誰一人として出し惜しみなどするはずもなく、思い切りスロットルペダルを踏み込んでいた。
 甲高いエンジン音。青白い炎が、虚空に光の残像を焼き付ける。
 十一機の不知火は一斉に最近の横坑へと飛び込み――その直後、物皆焼き尽くす破壊の灼熱が、大広間を呑み込んだ。
 その破壊は大広間内部だけに留まらず、武達の避難した横坑にまで伝播してくる。熱が、機体表面のレーザー蒸散塗膜を焼く。音が、音響センサーを真白く振り切る。光が、メインカメラをモノクロームに染め上げる。
 機体を軋ませる衝撃は、けれど今だけは決して不快ではなかった。
 この火焔は。この閃光は。この衝撃は。この轟音は。全てが、人類の勝利の声だ。人類は決してBETAに負けはしないという強い意思がもたらした、未来への咆哮なのだ。
 真白く染まった世界で、武は硬く拳を握り締めていた。
 ――柏木……見ててくれたか……? オレ達は……オレ達はやったんだ……! 反応炉を壊したんだよ……!!
『やった……』
『私達、とうとう……』
『これで……』
『この国は――』
 皆が、思い思いの歓びの声を発する。涙を流していた。それは哀しみではなく、喜びによって。
 失ったものは大きかった。けれど、彼女達は知っている。なくしたものに報いるたった一つの方法を。衛士の弔いを。
 だから、大丈夫。胸を張って地上へ戻れる――。
 しかし。そんな彼女達の想いを裏切るように。
『――そんな……馬鹿、な……!?』
 みちるが、凍り付いた声を――驚殺に打ちのめされた声を、漏らしたのだった。
「え……?」
 次いで、呆然と声を零したのは、武だった。我が目を疑う。機体のセンサーが故障したのだと信じたい。だが、センサーには一切の異常は認められなかった。
 だから、これは現実。各センサーやレーダーが伝えてくるこの絶望は、悪夢などではなく、今実際に起こっていることなのだと。そう、認めるしかない。
 あり得ない。あり得るはずがない。あり得ていいはずがない。

 反応炉を破壊したはずなのに、旅団規模のBETAが、大広間へと向かっているなんて。

 だが、事実としてBETAは反応炉に向かって移動している。ここから導き出される結論はただ一つ。
『――破壊に、失敗した……?』
 その、あまりにも残酷な事実以外にはあり得ない。
「四発じゃ足りなかったってことですかッ!?」
 水月の呟きに、武が食って掛かる。それを、『やめぬかタケル! 今はそのようなことをしている場合ではなかろう!』と冥夜が制した。
 武は呻くように喉を鳴らし、「すみません」と謝罪の言葉を呟いてかぶりを振った。
 冥夜の言う通りだ。今はそんな議論をしている暇はない。先程の爆発で破壊出来なかったなら、残るS-11も食らわせてやるだけだ。
 現在、S-11を装備しているのは武、みちる、水月、祷子の四人。S-11四発では反応炉を破壊するのは難しいことは先の一件で判明しているが、既に四発分のダメージが蓄積していることを考えれば十分だろう。
「……伊隅大尉、オレと伊隅大尉、速瀬大尉、風間中尉の四人で大広間に戻りましょう」
『白銀!?』茜が声をあげた。『そんな、無茶だよ……孤立しちゃう!』
 同じ訓練分隊の仲間全てを失った彼女は、仲間を失うことに対して、ひどく臆病になっている。かつて、他とは一線を画す武の機動が部隊の連携を崩すとして口論になったこともあった。
その時、仲裁に入ってくれたのが晴子であったことを、武はふと思い出していた。
「さっきの爆発で、大広間にいたBETAはほぼ全滅しているはずです。それなら、S-11を残しているオレ達四人だけで大広間に向かい、戻ってくるのが一番早いでしょう。それが最も効率的かつ安全であると愚考します」
 それが、武の導き出した最善だった。最悪を想定しても、最も犠牲が少なく、かつ最も最悪を想定する必要のない行動。
 だがそれは、
『――却下する』
 みちるの一言によって切り捨てられた。
「大尉!? どうしてですか!?」
『白銀、自分の機体状態をチェックしてみろ』呆れたようにみちるは言う。『白銀の機体では、大広間とここの往復は出来ないはずだ』
 みちるの言う通りだった。白銀機には、最早十分な推進剤は残っていない。S-11の設置には成功しても、爆発の範囲圏内から脱出することはほぼ不可能だろう。タイマーを遅らせれば可能だろうが、それでは武が言った最速の意味がない。
 他の機体は、途中での補給によりある程度の余裕を残している。白銀機の推進剤だけが底を突こうとしている原因は、偏に跳躍ユニットを多用する武の機動制御の方法にあった。キャンセルと先行入力により他とは一線を画す機動力を得ていた代償が、ここに来て現れたのだ。
 余裕があるとはいえ、水月を始めとするB小隊機は、A・C両小隊機と比べれば推進剤残量は些か心許ない。最も推進剤を多用するのが突撃前衛である以上、それは仕方のないことだった。
『だが、白銀の提案は悪くはない』
『大尉……?』
 訝しげに水月が問うた。
『大広間へは、私と風間だけで向かう』
『そんな、無茶です……!』
 今度は美冴が驚呼する番だった。だが、みちるは表情一つ変えずに続ける。
『機動力という点で言えば、二機連携が最速だろう。部隊全体で向かうより、私達二人の方が速い。幸い、私達にはまだまだ十分な推進剤が残っているしな。そうだろう、風間?』
『ええ。お供しますわ、伊隅大尉』
 まるでみちるの言葉を予見していたかのように、たおやかに微笑む祷子。いや、まるでではなく、実際にそうだったのだろう。武が思い付ける程度の方策を、この二人が思い付けないはずがない。
『速瀬、貴様らは円壱型陣形で待機しろ』
『待ってください、伊隅大尉! せめて直援を一機付けさせてください!』
『速瀬大尉の仰る通りです、伊隅大尉。S-11の設置中は無防備になります。一機あるいは二機の直援であれば、移動速度を落とす心配もありません』
 水月に美冴が同調する。小隊長二人に進言されてしまえば、みちるもそれを受け入れざるを得ない。
 大広間のBETAは完全に駆逐されたとはいえ、大広間に繋がる横坑からBETAが雪崩れ込んでいると見ていい。今だって、旅団規模のBETA群が後方から押し寄せてきているのだ。
 そんな中にたった二機でS-11を設置するために飛び込めば、結果は目に見えている。
『……わかった。涼宮、貴様が来い。速瀬、白銀、貴様ら二人のS-11をこちらに』
 強襲掃討である茜は、単機で考えるなら、最も制圧力が高い。条件的には千鶴も同様だが、機動制御という点で茜に軍配が上がる。
 任官前に武のそれを模倣することで千鶴ら元207B分隊組が得ていたアドバンテージは、この二年間でほぼ帳消しになっていた。その分、それ以外の技術では元207B分隊組が目覚ましい進歩を遂げていたが。
『――わかりました。直援に付かせていただきます』
 きっとみちるは、仲間が孤立することを誰よりも恐れる茜の性格も考慮した上で、茜を直援に選んだのだろう。晴子を失った直後だ、その傾向は余計に強い。
 茜も思い出しているはずだ、『その時こそ強襲掃討、つまり茜がオーバーラップして威力制圧すれば良いんじゃない?』というかつての晴子の言葉を。仲間が孤立したならば、茜がそれを助けてやればいい。そのための強襲掃討だ。
 今の茜は、かつてほど突撃前衛――水月に拘ってはいない。むしろ強襲掃討という自分のポジションに誇りを持ってさえいるようだった。
「――伊隅大尉、風間中尉……反応炉をよろしくお願いします」
『ああ、任せておけ』
『わかっていますわ』
「……涼宮、二人を頼む」
『勿論。白銀に言われるまでもないよ』
 何も出来ない自分が悔しくて歯痒くて――けれど心強い仲間達を信じて、武は瞑目した。
 ――必ず、全員で生きて帰りましょう……。
 それはもう叶わない願いだけれど。せめてこの十一人で、桜並木で祝杯を上げたいと、そう願った。


 円陣を作る八機の不知火を背にして、三機の不知火が疾空する。大広間を目指して、最大戦速で空を翔る。
 ここから先は時間との戦いだ。BETAが大広間に集まる前にS-11を設置しなくてはならない。推進剤を節約することなど思考の端にも上らず、全力でスロットルペダルを踏み締める。
 やがて、つい先程後にしたばかりの大広間から、不吉な青白い光が漏れ出ているのが目に入る。彼女達にとっては忌むべきBETAの象徴であり、ここにはいない白銀武にとっては、それ以上の意味を持つ、本能的な嫌悪を呼び起こす光が、ぽっかりと口を開けた横坑の出口から飛び込んでくる。
『涼宮!』
「はい!」
 大広間に飛び込むなり、すぐさまみちるが茜の名を呼んだ。それに応え、茜は両主腕と背部パイロン、都合四門の突撃砲でBETAに砲撃の雨を降らせていく。
 今大広間にいるBETAは未だおよそ百体ほど。この程度であれば、一機で十分一掃出来る。
 その間にみちると祷子は反応炉に取り付き、S-11の設置を開始する。先程の四発の影響か、反応炉が発する光は僅かに弱まっていた。
 とはいえ、反応炉が機能を停止したわけではない。未だここは魔窟の最深部なのだ。事は急を要するという方針に変わりはない。
「このぉおお――ッ!!」
 喉の奥から叫声を迸らせながら、茜は突撃砲のトリガーを引き続ける。残弾を確認しながらそれぞれの砲の連射速度を調整、弾倉をリロードする間も弾幕を跡切れさせない。
 ――晴子、晴子、晴子……ッ!
 今は亡き親友の名を、声には出さずに呼び続ける。そうしていれば、彼女が力を貸してくれるような気がして。
 事実、今の茜の砲撃は、まるで晴子が乗り移ったかのようだった。
 広い視野で大広間全体を俯瞰し、必要な標的にのみ必要な数の弾丸を撃ち込んでいく。強襲掃討という、戦場での威力制圧を求められるポジションでありながら、同時に今の茜は、砲撃支援にも似た精度を発揮していた。
 ――これが、晴子の生きた証だった。
 共に戦い続けたからこそ、親友である晴子の技術は、戦い方は、茜の中で息づいている。そのことに茜は気付いていない。しかし、みちるだけは、気付いていた。柏木晴子という衛士は、涼宮茜という衛士の中で今も行き続けているのだと。
 やがて、
『――ヴァルキリー1、S-11設置完了! ヴァルキリー4、そちらはどうだ!?』
『こちらも終わりました! いつでも行けます!』
 茜が待ち望んでいた言葉が、鼓膜を震わせた。精密狙撃の連射は、ひどく精神力を消耗する。ましてや、たった一人で二人の援護を一手に引き受けていたのだ、茜本人は意識していなかったが、既にその精神力はいつ跡切れてもおかしくない状態だった。
『よし――全機反転! 推進剤を使い切るつもりで飛べッ! 横坑に入ればあとは赤絨毯だぞッ!!』
 了解、と祷子と口を揃え、茜は脚に力を込めた。筋肉が張って、気怠い重さがあったが、それも今だけの辛抱だと、歯を食いしばって耐える。この辛さが、生きているということなのだから。それを忌々しく思うことは、これまでに命を捧げてきた英霊達に対する冒涜だ。
 ――あと80……!
 網膜に投影されたカウントダウンタイマーを茜は無言で読み上げる。あと八十秒。先程の横坑に再び飛び込むのには十分すぎる時間。
 ――晴子……私達、今度こそ……!
 操縦桿を握る手に力がこもる。しかしそれは、鬨の声と共に突き上げそうになる拳を押さえようとしてのこと。
 都合八発ものS-11の爆破を受ければ、反応炉といえど一溜まりもないだろう。
 横坑へと飛び込む。仲間達はもうすぐだ。
 今度こそ自分達はやり遂げたのだ。人類史上初の、G弾なしでのハイヴ攻略を成し遂げたのだ――その確信が、自然、茜の頬を緩ませる。抑え付けていた涙腺の箍が外れ、透明な雫が幾つも頬に筋を描いていく。

 ――不吉な波形パターンを振動センサーが表示したのは、正にその瞬間だった。

 これまでに例のない――否、たった一例だけ相似した例のある波形。忘れられるはずのない、数十分前に直面した、絶望の具現。
「そん、な……」
 鳴動する大地。間違いない。間違えようはずもない。
 地震が激しくなっていく。ごりごりという轟音が幾度となくハイヴの内壁に反響し、次第に大きくなっていく。そして突如として内壁が崩れ、無数の岩石を撒き散らしながら、それが、現れる。
 ――立ち塞がる、巨体。常識外れ揃いのBETAの中でも一線を画す、規格外の脅威。
 後に母艦級と呼んで恐れられることになる新種のBETAが、茜達の前に再びその姿を現していた。
 それに驚呼する間もなく、掘削機めいた口が開く。ぞろぞろと這い出るBETAの群。
『――急げッ! 奴に道を塞がれる前に突破するぞッ!!』
 ここではまだ安全圏とは言い難い。たとえ反応炉の破壊に成功しても、爆風と爆炎に巻き込まれてKIA、では笑い話にもならない。むしろ、最悪の死に様だ。
 しかし、既に三機の不知火の飛翔は最大戦速に突入している。これ以上は不可能だ。ただ一つ加速する手段があるとするなら。
 音を立てて地面に落ちていく兵装。
 考えることは、皆同じだった。既に無用の長物と化した突撃砲や長刀に短刀、さらには装甲までもを尽くパージしていく。デッドウェイトを放棄することで、ほんの僅かでも機体重量を軽減し、雀の涙ほどの加速を得ようという苦肉の策。本来ならば、ハイヴ内で執るには下策極まりない愚行である。
 しかし、既に生か死かの二択を突き付けられている今、生を掴むためにはこれしかない。
 ――心臓の鼓動がうるさい。肺が押し潰される感覚。けれど呼吸音はひどく耳障りで。
 わざわざ確認せずとも、バイタルデータが乱れに乱れているであろうことがわかった。これまでも極度の緊張に置かれることは多々あったが、今はその中でも頂点と言う外ない。
 伸るか反るか――単純故に重圧は果てしない。
 三機の先頭を行くは涼宮機。それから二十メートルほど遅れて、伊隅機・風間機と続く。
 ――届け届け届け届け、届け……!!
 祈るように繰り返す。もうパージ出来る物はない。これ以上の軽量化は不可能。
 悠然と迫る母艦級が、じわじわと道を塞いでいく。最早、壁との隙間は、戦術機が一機どうにか通れるという程度しかない。
 一秒が長い。一メートルが果てしなく遠い。僅か百メートルの距離が無限の彼方に思える。
 それでも。
 ――私は、死ねない……ッ!!
 晴子がくれた時間を、無駄には出来ない。彼女との約束を反故にすることなど、決して出来ない。必ず、生きて横浜の桜に会いに行く――。

 ――そして――――祈りは通じた。

 母艦級が道を完全に塞ぐより僅かに早く、涼宮機は翔け抜けたのだ。
 だが、その僅か。その僅かが、命運を分けた。
『くぅっ――!』
『きゃぁッ!?』
 二つの悲鳴。鼓膜を貫く衝撃にも似たその声に、茜は逆噴射で急制動を掛けた。百メートルほどの制動距離を進んだところで振り返る――だがそこに、あるべき姿はなかった。
「大尉!? 中尉!?」
 先の二人のそれとは根本的に異なる、悲痛な叫びが茜の喉から迸った。
 ない。不知火が。
 いない。二人が。
 いるのは。あるのは。内壁に向かって巨大な削岩機めいた頭部――と形容すべきかも定かではない一端――をめり込ませている、巨大な芋虫状の化け物だけ。
「伊隅大尉! 風間中尉! そんな……そんな……」
 噴射浮遊の状態を保ったまま、茜はただうわ言のように「そんな……」と繰り返していた。目の前で起こっている現実を、どうしても受け入れられなくて。
 母艦級からは、夥しいまでの数のBETAが吐き出されていく。しかし茜はそれには目もくれず、ただ母艦級だけを呆然と見つめている。元より兵装はないのだ、この数のBETAに対処することなど、出来はしない。
 そんな茜に、忍び寄る影があった。
 全高にして六十メートルにも達する、既存のBETAの中では最大の種――要塞級。他のBETAとは異なり、要塞級に限っては、ハイヴ内であっても中距離からの攻撃を可能としている。
 数多の衛士の肉体をこの世から消し去ってきた尾節がゆらりと動く。それが茜に狙いを定めて、放たれようとして、
『何をぼけっとしているッ!?』
 突然の怒号が、茜の脳を揺さぶった。同時に、サブカメラに映っていた要塞級の姿に意識が向く。
「――ッ!」
 息を呑み、茜は跳躍ユニットの出力を上げた。瞬く間に上昇する不知火――だが、間に合わない。衝角は今正に涼宮機を貫こうと――
『ヴァルキリー10、フォックス2ッ!!』
 瞬間、蒼穹色の疾風が、超音速の弾丸を異形目掛けて三発。触手はあらぬ方向へと伸びて虚空を薙いだ。しかし急所を捉えることのなかった滑空砲弾ではを絶命させるまでには至らず、要塞級は次なる攻撃を放とうと触手を振り上げた……が、それよりも長刀が振り下ろされる方が早い。
 晴子の形見である長刀が一閃された次の瞬間には、巨大な球体めいた要塞級の頭部が、ごろりと音を立てて地面に転がっている。
『危なかったな、涼宮。大丈夫だったか?』
「白銀……!? 一体どうして……」
『例の振動パターンを検出したから、慌てて飛んできたんだよ。ここまでなら往復の推進剤もあったしな』武の視線が、茜から外れる。『涼宮……大尉達はどうなった?』
 そう言われて、茜は慌ててメインカメラを母艦級へと向けた。
「ヴァルキリー5よりヴァルキリー1及び4! ご無事ですか、伊隅大尉、風間中尉!?」
 先程の声は、間違いなくみちるのものだった。ならば、みちるはまだ無事ということだ。――ならば、まだ希望はある。彼女を助けられる可能性は、残っている。
 ――だが、現実は、そう優しくなかった。
『……残念ながら、無事とは言い難いな』
 諦念を乗せた言葉を紡ぐみちる。本来ならば茜の網膜に映し出されるはずのみちるの顔は見えず、代わりに砂嵐のようなノイズだけが投影されていた。
『私の機体は主機が停止してしまっている。もう動けないだろう』そして、と一度言葉を句切り……永遠にも思える半秒の後、みちるは言った。『――現時刻を以て、風間祷子中尉をKIAと認定する』
「――――え……?」
 一瞬、何て言われたのかわからなかった。
 ――KIA? 誰が? 風間中尉が?
「死ん、だ……?」
『風間中尉が……?』
 感情の欠落した二人の声が連なる。みちるの口から発せられた言葉は、茜達の思考を停止させるには十分すぎた。
 それを承知の上なのか、みちるは淡々と続ける。
『……もう時間がない。白銀、涼宮……貴様達は行くんだ』
 茜の網膜に表示されているS-11の爆発のカウントダウンは、もう五十秒を切っていた。急いで退避しなければ、爆発に呑み込まれる可能性がある。
『でも……!』
 武は語気を荒げて食い下がる。武の網膜投影にも爆発までのカウントダウンは転送されているはずだ。だから、ここでこんな無駄な時間を過ごすのは愚の骨頂。それがわかっていながら、茜には武の気持ちが痛いほどわかった。
『……貴様達との最後の会話を、命令にはしたくないんだ。わかってくれ』
「ッ……!」
 そんな言い方は卑怯だ。そんな風に言われてしまっては、大人しく従うしかないではないか。
 つぅ――茜の頬に、一筋の涙が伝った。


 みちるの声音はひどく穏やかで、いっそ清々しいほどだった。だから、武も、もうみちるの死を受け入れるしかなかった。彼女は、もうこれ以上に尽くせる最善を持っていないのだと、気付いてしまった。
 視界が歪む。それを必死で堪える。鼻の奥にツンと熱い物を感じてしまう。
 教わりたいことはまだまだ沢山あった。見て欲しいこともまだまだ沢山あった。ずっとずっと――共に戦い続けていきたかった。
 けれど、それはもう叶わない願いだ。
 それが、哀しい。哀しくて……涙が、溢れた。
『泣くな…………男だろう……』
「……ッ……す……すみませ……ッ……」
 涙を押し止めようとすればするほど、堰を切ったように雫が零れてくる。心から尊敬する彼女に最後に向けるべき表情は、泣き顔であっていいはずがないのに。
 ふ……とみちるは柔らく笑んだ。
『白銀……貴様は衛士としての申し分のない才能を持ち合わせている。だが、貴様はそれだけじゃない。貴様の持つ「甘さ」……というか、独特の優しさは、貴様のもう一つの強さだ』
 武は子供のように首を横に振る。
 みちるの言う優しさは武にとって、強さなどではなかった。覚悟が足りていない証拠であり、弱さだ。この世界に生を受けていない武は、自らの信念の立脚点が持てなかった。その甘さ故に恩師を死なせ……ようやく、その弱さを自覚して自らの脚で立つことが出来たのだ。
 今だって、弱さを拭えていない。白銀武は、ずっと弱いままだ。
『安心しろ。貴様は、貴様が思っているよりもずっと強い。――どうか、その優しさを、忘れないで欲しい』
 こんな弱さ、邪魔でしかないはずなのに、みちるはそれを忘れるなと言う。不要だと思っていたのに。
 ――オレは、弱くても……甘いままでも、いいっていうのか……?
 みちるの言わんとすることを理解出来ない。それでも、ただその言葉だけを素直に受け入れる。みちるの言葉は、まるで乾いた土の上の水のように、武の心にすっと染み込んできた。
「は、い……っ」
 いつか、この言葉を理解することが出来るのだろうか。
 みちるは武の返答に満足げに微笑を零すと、
『速瀬に、みんなを頼むと伝えて欲しい。それと……みんなに――貴様達は最高の部下だった、と』
「伊隅大尉の部下であれたことは、オレの……オレ達の、最高の誇りです……!」
『大尉……お世話になりました……ッ!」
 武と茜は、今の自分に出来る、最高の敬礼を、敬愛する上官へと向けた。
 何故か、きっとみちるも敬礼を返してくれているのだという確信があった。
 機体を反転させ、スロットルペダルを踏み締める。背後へと遠ざかっていく母艦級の威容。
 武は、奥歯を噛み砕かんばかりに、歯を食いしばっていた。
 ――ちくしょう! ちくしょうォ! ちくしょおォォォッ!!
 悔しかった。教えを請いたいと思っている人、尊敬する人が死んでいく現実が。
 赦せなかった。大切な人達を護れない、生きていて欲しい人達を救えない自分の無力が――。
 やり場のない、感情の奔流。慨嘆の声が頭の中で木霊する。それを胸の奥に押し込め、スロットルペダルを踏み込む力に変える。止めどなく溢れる涙。けれど、網膜に映るハイヴの光景は、決して揺らぐことはなかった。
 刻一刻とS-11のカウントダウンが近付き。
『――白銀……人類を、頼んだぞ』
 閃光と轟音の中、そんな声が、聞こえた気がした。


 2004年4月11日(日)


 甲21号作戦の成功から三日が過ぎた現在、武達A-01は、横浜基地ではなく、帝都に滞在していた。甲21号目標の陥落――それも人類初のG弾不使用での――を記念しての祝勝会が行われているためだ。同時にそれは、英霊達に対する慰霊祭でもあった。
 今回の戦闘で得た物は、今の人類にとっては計り知れないほどに大きかった。だが、同時に失われた物もまた大きい。
 地上部隊の損耗率は八十パーセント以上。本来ならばとうに戦闘続行など不可能な状態で、地上部隊は命懸けの陽動を続けていた。
 突入部隊に至っては、ヴァルキリーズの九名を除けば全滅――損耗率は優に九十パーセントを上回っている。
 それでも、ハイヴに突入して生還したどころか、G弾を使わずに反応炉を破壊したという快挙は、人々に希望を与えるに十分であった。
 大切な人達を失った哀しみを忘れるように、人々は歓喜の声をあげ、ヴァルキリーズを褒め讃えた。
 今のA-01は、かつての秘密部隊ではない。特殊部隊という性格こそ変わらないものの、その存在が秘匿されることはなくなっていた。
 最早、横浜基地は極東最大の国連軍基地ではあっても、オルタネイティヴ計画の中心ではないのだ。オルタネイティヴ計画直轄の秘密部隊を抱える必要はなくなっていたし――何より、帝国内ハイヴの排除に成功した部隊を秘匿し続ける利益もない。
 また、オルタネイティヴ4の凍結により、現在横浜基地は国連の中でも爪弾きに遭っている。帝国との繋がりを強化するという目的でも、A-01の存在の公表は大きな意味を持っていた。ただし、これまでの経歴を考慮して、そこに所属する人員については明かされなかったが。
 これが後に横浜基地の帝国への接収に繋がるとは、この時点では誰も予想していなかったのだが。

 そんな周囲の喧噪をよそに、武は一人、立ち尽くして星空を見上げていた。
 帝国軍の歩兵演習場。まるでここだけが周囲から切り離されたかのように静寂に満ちている。普段ならば訓練に励む兵の姿が見られるはずの場所であるが、武以外の人影はない。夜間だということもあるが、やはり祝勝会に出席しているのか……あるいは、訓練に励むことの出来る環境がないということなのか。
 どちらなのか、武にはわからない。
 だが、希望は繋がった。明日はある。人類は――負けない。
 たとえオルタネイティヴ4という希望が潰えようとも、武は足掻き続けるしかない。それが、夕呼に知識を託され、晴子に時間を託され、みちるに未来を託された者の責務だ。
 ざり――不意に、武の背後で、土を蹴る音が鳴った。虚空に広がった空気の振動は、夜闇に融けて消えていく。
「お待ちしていました――月詠大尉」
 振り向いたそこには、真紅の軍服に身を包んだ斯衛軍衛士――月詠真那の姿。翡翠色の長髪は、星明かりを受けて輝いているようにも見えた。
 武はすかさず敬礼し、
「突然呼び出してしまい、申し訳ありません」
 本来ならば、国連軍衛士である武が、斯衛の、それも上官である真那をこのような場所に呼び出すなど言語道断である。しかし真那は涼やかな微笑を浮かべ、
「よい。貴様は救国の英雄だ。――それに、貴様の無礼は今更であろう?」
「手厳しいですね」
 武は苦笑する。それを見て、真那は表情を和らげたように見えた。
「昇進おめでとう、中尉」
「――は。ありがとうございます」
 真那の言葉に、敬礼で応える。
 今回の作戦の成功を受けて、反応炉を破壊した部隊である伊隅戦乙女隊(ヴァルキリーズ)――隊長であるみちるが逝った後も、部隊名を変えるつもりはないと水月は言った――の面々は、それぞれ一階級昇進していた。
 真那はおおよそ彼女らしくない――けれど武にとっては、かつて当たり前にそこにあった――柔らかな微笑で返礼したが、それも一瞬、表情を引き締めると、
「――よくぞあの忌まわしきハイヴを陥としてくれた。一人の帝国国民として……礼を言わせてもらう」
 深く、頭を下げたのだ。
「ちょ、ちょっと……やめてくださいよ、月詠大尉!」面食らってしまい、武は思わず声をあげた。「顔を上げてください! 大尉がオレに頭を下げる必要なんてありません!」
 確かに武は佐渡島ハイヴを陥とすのに一役買ったかもしれないが、それは武――あるいは彼の所属するA-01――の功績ではなく、あの作戦に参加した全ての人間の功績だ。武だけが彼女から礼を言われるなど、筋違いも甚だしい。
「それでも……礼を言わせて欲しいのだ、白銀中尉」
 そこで一度、真那は言葉を切った。表情は見えないが、その声音には、有無を言わせぬ迫力があった。
「――冥夜様をお守りいただき、感謝する」
「あ……」
 これが、彼女の最も言いたかったこと。今はもう全うすることの叶わない、彼女の忠義。心より護りたいと願った、もう一人の主君。
 御剣冥夜という女性が無事で良かった、と。真那は、その想いから武に頭を垂れたのだ。
 武達が任官してしばらく経った頃……武達が初めて参加する対BETA戦である甲21号目標の間引き作戦に向かう直前、武は真那の呼び出しを受けていた。そして、彼女の個人的な頼みを受けたのだった。
『もし万が一、戦場に於いて冥夜様が死に急がれようとされた時……ひと言諫めて差し上げてくれるだけで良いのだ』
 そう言って腰を折った真那の姿を、武は今もはっきりと覚えている。その時の真那と今の真那の姿が、網膜の上で重なっていくかのようだった。
 今でも真那は冥夜のことを心から想っている。冥夜が冥夜の生を全う出来ることを願っている。
 それが嬉しくて――だからこそ武は、これ以上真那にこのようなことをさせるわけにはいかなかった。
「顔を上げてください、月詠大尉」
 自分でも驚くくらい、穏やかな声音だった。
 ゆっくりと真那が顔を上げる。武が微笑みかけると、真那もまた口許に微笑を散らした。かつては殺意にも似た敵意を向けられていた間柄だというのに、今の二人の間には、強い絆があった。それを感じられることが、武には嬉しかった。
「冥夜が……御剣中尉が生き残ることが出来たのは、オレがいたからじゃありません。アイツは、オレが何か言うまでもなく、ちゃんと自分のために生きてるんです。今までも……そしてこれからも」
 冥夜は、決して死に急ぐような真似はしなかった。伊隅戦乙女隊の一員としてその隊規を遵守し、そして煌武院悠陽殿下の影ではなく、御剣冥夜としての生を貫くために。誰かの思惑といったしがらみなどに惑わされず、一人の衛士として、戦い続けてきた。
「今回、冥夜が生き残ることが出来たのは、冥夜自身の……そして、伊隅大尉や風間中尉、柏木の――散っていった英霊達の力です。オレは……何もしていません」
 ――何も出来なかった。
 無力を痛感する。これまでの戦場で戦果を上げることが出来ていたからと、慢心していたのかもしれない。ハイヴという、衛士にとって最大の戦場では、武に出来ることは、自分の敵を倒すことと、自分の身を守ることだけだった。
 仲間を護ることなど、夢のまた夢だったのだ。
「月詠大尉……本題に入らせていただいてもよろしいでしょうか」
「ああ」
 真那が頷いたのを確認して、武は手に持っていた物を――一振りの模擬刀を真那に向かって差し出した。突然のことに、真那は怪訝そうな表情を浮かべる。
 武は続けた。
「――手合わせをしていただきたい」
 それは、何とも身の程知らずな言葉だった。
 特殊部隊所属とはいえ、一介の国連軍衛士が、斯衛軍の大尉に向かって、剣術での手合わせを申し込むなど、あまりにも馬鹿げている。手合わせなどするまでもなく、結果は明らかであり、本来ならば真那にとっては、受ける価値のない申し込みだった。
 しかし、
「よかろう……手加減は出来ぬが、それでもよいな?」
 真那は当然のように模擬刀を構えていた。
 そう、真那が武の申し込みを受けるのは、当然だった。どうして武の頼みを――この青年の悲痛なまでの嘆願をはね除けることが出来よう。
 瞳に宿る強い輝きには、微かな翳りがある。慟哭を押し込めた、昏い光だ。真那にとっては、もう幾度となく見てきた物に違いなかった。
 ありがとうございます、と頭を下げて、武は模擬刀を正眼に構えた。対する真那もまた同じく正眼。奇を衒わぬ純粋な剣術の力で勝負をしようという心の表れだった。
「行きます――ッ!」
「――来いッ!」
 地面を蹴る。全速力から、武は渾身の一刀を放った。


 それから、およそ三十分。武は、地面に大の字に寝転がっていた。軍服はところどころが破け、そこから青黒く変色した肌が覗いている。少しでも酸素を体内に取り入れようと、荒々しく呼吸を繰り返す武。
 それとは対照的に、真那は涼しげな表情を崩さず、息一つ乱してはいなかった。
「これで終いか、白銀?」
 浴びせかけられた冷ややかな声に、武の呼吸が一瞬止まり、
「まだまだぁッ……!」
 強引に呼吸を制御しながら、武は立ち上がった。その反動でか、武は咳き込んでしまうが、その眼差しだけは確と真那を見据えていた。今にも倒れそうに、けれどしっかりとその両脚で地面を踏み締めて。
 正眼に構えた切っ先が不安定に揺れる。
「ふ……そんな状態でよく立ち上がれるものだ」
 真那の表情には、ほんの少しの驚きが浮かんでいる。
 武の体には、既に何十箇所と打ち身や裂傷――模擬刀とはいえ、高速で振るえば皮膚は容易く裂ける――が刻まれている。普通の衛士であれば、しばらくは立ち上がることも出来ないだろう。
 多少は期待しての発破ではあったのだろうが、実際に立ち上がるとは思っていなかったらしい。
 武は模擬刀を構えると、唇の端を僅かに吊り上げ、
「まだ、まだぁッ!」
 再び地面を蹴る。
 上段から振り下ろされる一撃を、真那は切っ先をほんの少し揺らしただけで受け流す。
「ッ……、のッ!」
 これまでに蓄積したダメージや疲労もあって、武はたたらを踏んだ。曲がった右膝が体を支えきれずに折れる――が、地面に膝を突く直前、強引に右脚をさらにもう一歩踏み込み、体を支えると、その反動を利用して真那の胴目掛けて刀を横に薙ぐ。
 しかし、そんな無茶な態勢で放った一撃が通用するはずもない。
 半歩体を引いただけで武の剣閃をやり過ごす真那、大振りなそれで武の上体が泳ぐ。まずい、と武が思う間もなく、深い踏み込みから交差法で放たれた袈裟斬りが、武の左僧坊筋を強かに打ち据えていた。
「ぐぅっ!?」
 あまりに強烈な一撃に、武は呻き声と共に倒れ臥すしかなかった。
 剣戟の重みが、違いすぎる。筋力に任せた武の剣とは違い、真那のそれは確かな剣術に裏打ちされている。
 今の一撃は、その証左だった。そのまま鎖骨を砕くこととて可能であったにもかかわらず、真那はわざわざ半歩深く踏み込み、僧坊筋を狙ったのだ。
 かつての武であれば、それに気付くことなど出来なかっただろう。
 だが、衛士として二年以上の実戦経験を積み――そして死というものに触れた今、はっきりと理解してしまう。
 ――真那の剣には、一片の殺気もない。
 力の差があるのはわかっていた。自分では真那には一太刀たりとも浴びせられないであろうことも。
 だが、その差はこれほどだったのか。
 自分の精一杯が容易く……何の苦もなくあしらわれてしまうほどに、自分と彼女の間には絶対的な差が横たわっていたというのか。
 戦術機に乗っていなかったから、などというのは言い訳にならない。生身での強さは、戦術機での強さにも反映される。武のように機動制御に秀でた者であっても、最期に物を言うのは近接戦闘能力、あるいは狙撃能力だ。
 生身での戦闘能力における絶対の差は、たとえ戦術機に乗ろうとも覆らない。
 要するに、これが白銀武と月詠真那の、実力の差だった。
 ――オレは……オレは、こんなに無力だったのかよ……ッ!
 地面に拳を突き、震える腕で体を起こす。ぱた、と小さな音を立てて、地面に丸く黒い跡。衝撃で思わず取り落とした模擬刀の柄を掴み、それを杖代わりに立ち上がる。
 肩で息をしながら、武はゆっくりと顔を上げた。体に力は入らず、杖代わりの模造刀がなければ、あっさりと頽れるだろう。
 それでも、立ち上がったことに変わりはなかった。
「白銀……まだ立ち上がるか……」
 真那の声音には、驚愕と……そしてほんの少しの、憐憫が宿っていた。それに、武は気付かない。
「意地があるんですよ……男の子にはァッ――!!」
 全身全霊の力を込めて模擬刀を振りかぶる――が、次の瞬間には、真那の振るった刀が、武の腹へと吸い込まれるように振り抜かれていた。
 呻き声を発することも出来ずに、武の体はくの字に折れ曲がり、ボロ雑巾のように地面を転がっていく。
 ――ああ……オレは、こんなに弱かったのか……。
 もう、立ち上がる気力もなかった。指一本さえ動かせそうにない。
 体は動かない。その中で、唇だけが震え――頬を、透明な雫が伝っていく。地面を濡らす一粒の涙。口の中に広がる鉄錆の味と、ざらざらとした感触。
 がり――砂の粒を噛み砕く。
「糞ッ垂れ……」
 吐き捨てるように呟いて、武は動かない体に鞭を打つ。気力だけで限界をねじ伏せる。拳を固く握りしめ、肘を突いて武は上体を僅かに持ち上げる。それを見た真那は、
「やめておけ、白銀。貴様の意地とやらには感服するが、これ以上は無駄だ。それは貴様が最も良くわかっているはずであろう」
 と冷ややかな声を浴びせかけた。
 その通りだ。この如何ともしがたい力の差を誰よりも理解しているのは……これ以上続けても無駄であると理解してしまっているのは、他ならぬ武自身。
 それでも体を起こそうとする武を見下ろす真那の瞳には、少なからず感嘆の色が宿っていた。同時に、歓喜と、期待も。
 ――だから。きっと、武のその行動は、真那の予想を裏切るものであったに違いなかった。

「何の真似だ、白銀」
 真那の言葉には、驚きと共に、刺々しい冷たさが宿っていた。
 だが武は真那の声に臆することなく、両脚を揃えて膝を曲げ、前に手を突いて体を倒し、そのまま地面へと頭を擦り付けたままだった。
「――月詠大尉……オレに……オレに戦い方を、教えてください……!」
 涙声で武は懇願した。
 武はこれまでに地を這ったことだってある。だが、土下座してまで真剣に誰かに何かを請うというのは、『前の世界』も合わせた都合二十数年間の人生の中でも、初めての経験だった。
「白銀……頭を上げよ」
 武の真剣さを感じ取ったからだろう、真那は戸惑うように言った。
 しかし武は、決して顔を上げようとはしなかった。しゃくり上げるような泣き声が、静かな夜半の空に上って消えていく。
「オレは……オレは、もう後悔したくないんです……」嗚咽ごと全てを吐き出すような声だった。「もっと自分に力があればって……そんな後悔、もう嫌なんです……ッ!」
 ずっと、武の胸の中に渦巻いている想いがあった。
 ――オレが弱いから……だから、大切な人達を護れないんだ……。
 晴子が逝った。祷子が逝った。そして、みちるが逝った。
 彼女達の死の責任は、武にはない。彼女達の死の責任は彼女達にしかないし……もし生きている者達にそれがあるというのであれば、それを背負うべきは生き残った十人のヴァルキリー、あるいはあの戦いに身を連ねた全ての人間だ。
 武が自身を責めるのはお門違いであり、傲慢が過ぎる。死した者達への冒涜と言っていい。
 そして、それがわからない武ではなかった。
 かつて、武の目の前で命を落とした恩師がいた。地べたに座り込み、子供のように喚き散らした武に優しくも厳しく叱咤し、立ち直らせてくれた、誰よりも尊敬すべき人。
 彼女の死の直後、伊隅戦乙女隊に配属された武は、衛士にあるまじき発言をしたのだった。『あの時……神宮司軍曹を守りきれなくて……すみませんでした』と。
 その頃の武には、衛士の何たるかがわかっていなかった。かつては数年間衛士であったこともあるにもかかわらず、彼は衛士の本質を理解していなかったのである。
 衛士とは、ただBETAと戦うためだけに存在するのではない。BETAとの戦いの中で散っていった者達の生き様を語り継ぐためにも、彼らは生きるのだ。
 故に彼らは、人類の剣であり盾であり、同時に語り部でもあった。
 武がヴァルキリーズの一員となって最初に教わったのは、衛士という言葉に込められた、本当の意味だった。それを、武は水月から拳で叩き込まれたのだ。
 だから、武は知っている。自分を責めることが無意味であることを。そんなことは、衛士のすべき英霊達に対する弔いとしては下の下――否、それ以下だ。武がすべきは、誇ること。散っていった仲間達を誇ること以外にはあり得ない。
 ――それでも。白銀武は、自らの弱さを呪わずにはいられなかった。
 自分にもっと力があれば……そう思わずにはいられない。そうすれば、彼女達を護れたかもしれない。偽装横坑に警戒を続けられるだけの集中力と精神力があれば、晴子は死なずに済んだかもしれない。もっと効率的に推進剤を運用出来るだけの技術と戦術眼があれば、みちるや祷子は死なずに済んだかもしれない。
 もし、たら、れば……イフは尽きることはない。
 だから、武は己の弱さを呪うのだ。
 ――そんな仮定を抱いてしまう弱さを。
「強くなりたいんです……身も心も……自分の未熟を言い訳にしないでもいいように……オレは、強くなりたい――」
 強くなれば、大切な人を護ることが出来るかもしれない。自分に力が足りないからと後悔しないで済むかもしれない。
 ――何より、もうこんな悲しい想いは、二度としたくない。
 そのための、力が欲しかった。
「白銀……」
 武の名前を呼ぶ真那の声音は、どこか弱々しい。まるで何かを拒絶しようとしながらも、それを拒絶出来ない……それは丁度、彼女が訓練兵であった頃の冥夜と接していた時のように。
 ふう、と真那は一つ溜息を零した。それは、仕方のない奴だ、と武に言っているようでもあり、自分自身に言っているようでもあり。どこか苦笑する響きを伴っていた。
「……一つだけ訊かせてもらおう。白銀、貴様は何故私に教えを請おうと考えた? 私は斯衛……貴様にはより身近に師事すべき相手がいるのではないか?」
 真那の言う通りだ。武の周囲には、尊敬すべき上官や同期達が数多く存在する。たとえば新たに伊隅戦乙女隊の中隊長となった速瀬水月。同じ突撃前衛として――彼女は迎撃後衛へとポジションを下げることとなったが――見習うべきことは数多いし、彼女達から得られる物は大きいだろう。
 何しろ、伊隅戦乙女隊は、横浜基地の誇る最精鋭部隊である。中隊規模であれば、これ以上の中隊はそうそういまい。
 しかしながら、そんな中隊に属しているにもかかわらず、武は真那以上に師と仰ぐべき人間はいないと思っていた。何故なら、
「月詠大尉が、斯衛だからです」
 顔を上げた武は、たったそれだけを口にした。けれどその一言だけで、真那に武の意思を伝えるには十分だった。
 武は続ける。
「オレは、大切な人達を護りたい……それなら、殿下を護る使命を負った斯衛――月詠大尉に教わるのが一番いい……そう思ったんです」
 同時に、月詠真那という衛士は、武の知る限り――武が直接渡りを付けられる人物という意味で――最も優れた衛士だ。
 先日の甲21号作戦、ハイヴ突入前に見た斯衛軍の勇姿は、今でもはっきりと目蓋の裏に焼き付いている。
 BETAの山津波を蹴散らしていく武御雷の中隊。その様はあたかも日本神話に謳われる剣神が乗り移ったかのようですらあった。自他共に認める精鋭部隊たるヴァルキリーズをして見惚れずにはいられぬ剣戟の舞。その中でも一際目立っていたのが、中隊長たる青き武御雷と、副隊長である紅き武御雷――真那だった。
 衛士としての実力は当然ながら申し分なく、何より武の目指す仲間を護る戦闘技術を身に着けている真那を、武が師事すべき相手として選んだのは、必然であったのかもしれない。
 武の知る限り、衛士という名を最も体現しているのは、他ならぬ真那であったのだから。

 ――もしかしたら。白銀武は、あの甲21号作戦を経て、ようやく一人前の衛士となれたのかもしれない。
 二年前、教官であった神宮司まりもの死によって、武は初めて身近な人の死というものに触れた。そして今回、初めて仲間の死という物に直面した。彼女達の死を乗り越え、武はようやく一人前の衛士――散っていった仲間達を誇らしく語り継ぐ語り部――となれたのだ。
 それは、ある意味では異常だった。二年間以上もの実戦を通して、初めて仲間を失ったのだから。
 大抵の衛士は、初陣で同期の仲間の半数以上を失うこととなる。それが死の八分という壁だ。
 XM3の恩恵は勿論のことであるが、まりもの錬成、そして207B分隊全員が持っていた強い意志……これらのお陰で、武の仲間達は全員が初陣を無事乗り越えた。
 そしてヴァルキリーズに配属され、困難な任務に身を投じることとなっても、その高い技量と一糸乱れぬ連携により、誰一人として欠けることがなかったのである。
 かつてのA-01の損耗率から考えれば――この世界一般から考えても――奇蹟としか言い様がない。
 しかし、その奇蹟の恩恵もここまで。
 武は、この世界の現実を改めて思い知らされることとなった。これまで薄膜一枚を隔てた向こう側にあった、世界の真実。けれど、もう、その薄膜はない。元より薄氷の如く脆い壁だったのだ、これまで破られなかったことが不思議なくらいだった。
 ――だから、武は強さを求める。
 これまで彼の仲間達の命を――そして彼の心を護り続けていた奇蹟の薄膜が取り払われた世界で、戦い続けるために。
「お願いします、月詠大尉……オレを、強くしてください――」
 もう一度、頭を垂れる。これ以外に、誠意の見せ方を、武は知らなかった。
 そのままの姿勢でいること、数秒。やがて、「ふ……」と真那は小さな笑みを零したのだった。
「顔を上げよ、白銀」
 真那の言葉に、武は大人しく従った。意固地になって、頷いてくれるまでは上げられません、と言ったとしても、それが逆効果であることを、武はこれまでの付き合いの中で学んでいた。
「ぁ……」
 そうして、武は思わず声をあげた。そこにあった真那の微笑は、武がこれまでに見たことがないほど、綺麗な笑顔だったから。
『元の世界』の真那の笑顔とは似て非なるその表情に、武の胸が思わず高鳴る。
 かぁっ、と熱くなる顔。速まる脈拍と赤くなっている顔を自覚すると、一層それは激しくなるのだった。
「白銀? どうかしたか?」
「い、いえっ! 何でもありません!」
 左様か、とどこか不思議そうに頷く真那。どくどくという血流の音を耳の後ろに聞きながら、武はその涼やかな相貌に魅入っていた。
 ――こんな顔も出来たんだよな、月詠さんは……。
 かつては見せてくれていた笑顔を見せてはくれないという寂しさと、こんな一面を頑なに隠し続けることの出来る真那の強さに尊敬を覚えずにはいられない。
 感銘に打ち震えながら、武は続く真那の言葉を待った。
「白銀。先の貴様の言葉、真に相違ないな?」
 武は無言で頷く。
 僅かに唇の端を吊り上げる真那。
「よかろう――白銀武、これより貴様に我が全てを叩き込んでくれよう」
「ほ、本当ですか!?」
「ああ、真だ。ただし――」
 一度言葉を切った真那の浮かべる笑みに、武は背筋が凍り付くような戦慄を覚えずにはいられなかった。
 ――壮絶な笑み。
 どこかで見覚えのある、脳が無意識の内に忘却しようとしていた種類の表情。だが、真那はそんな武の内心など気にした様子もなく――あるいはむしろそれを楽しむかの如く――言葉を続けるのだった。
「――私の教えは微温くはないぞ?」
 その笑顔は、かつての恩師が武達をしごく際に浮かべていたそれと、同じであった。


 こうして、白銀武の新たな日々は幕を開けた。
 零した血反吐と引き替えに力を得ていく、地獄の日々が――。



[2785] Muv-Luv ALTERNATIVE -Second World Was Failed- 第10話
Name: Vollmond◆d2a8c8a6 ID:590d70fd
Date: 2011/11/15 03:07
 2001年11月12日(月)


 ――夢を見た。
 仲間達に囲まれ、毎日が喜びに満ちていた、懐かしい日々の夢を。
 彼女達を失い、全てが色褪せて鈍色に染まっていった日々の夢を。
 強くなろうと誓った、鈍色が血で塗り潰されていった日々の夢を――。


 ゆさゆさ、ゆさゆさ――誰かが、体を揺すっている。それも、いつもよりもずっと激しく。とても無視出来ないそれに、武はゆっくりと目蓋を持ち上げ、
「おはよう、かす――あ、れ……?」
 いつものように瞳に映った霞の顔が、ぼやけていることに気が付いた。ごしごしと目を擦り、頬に触れると、そこには冷たい雫の感触。
 ――泣い、て、る……?
 寝覚めの胡乱な頭で、武はぼんやりと思考する。
 涙の筋は一つではないのか、頬が突っ張った感触もあった。尚も雫はぽろぽろと零れていく。わけもわからず涙を拭う武を、霞がじっと見つめていた。
「わ、悪い……変なとこ――」
「辛いこと……いっぱいあったんですね……」ぽつりと、霞は言った。「悲しいことも……いっぱいあったんですね……」
 霞は、今にも泣き出しそうな顔を伏せ、何かに耐えるようにぎゅっとスカートを握り締めていた。
 ――ああ、そうだった……。
 武は、今し方見ていた夢をゆっくりと思い出していた。
『前の世界』の夢だ。武が初めてハイヴに潜り……そして、仲間の死というものに直面した時の夢。思い出してみれば夢というにはあまりにも鮮明で、まるで録画した映像を再生しているかのような――あるいは追体験しているかのような感覚だった。
 だからだろう、眠りながら涙を流してしまったのは。
「――もう泣かないって決めたのにな」
 前髪を掻き上げ、武はかぶりを振った。
 幾ら前の世界の夢を見たからといって――否、見たからこそ、涙を流してはならなかったのに。ここで涙を流すことは、彼女達に対する冒涜だ。大切な人の死は哀しい。だからこそ、衛士はそれを誇らしく語り継ぐのだから。
 たとえ、武にはもう許されないことであったとしても。
 けれど、それで構わない。いつかの覚悟、その原点を再び見つめ直すことが出来たから。
 ――それにしても、けっこう忘れちまってたんだな……。
 もう六年も前のことになるのだからある程度は仕方ないとはいえ、自分が思っているよりも多くのことを忘れてしまっていることに気付かされた。
「大丈夫だ、悪い夢じゃなかったから」
 霞の頭に手を置いて、武は言う。
 辛い日々ではあったし、悲しいことだって数え切れないくらいあった。
 けれど、決して悪い想い出ではなかった。そんな日々の中にも――否、そんな日々の中だからこそ、輝きを見出すことが出来る。
 それは、武がようやく手に入れた衛士としての強さだった。
「……白銀さんは……」
 霞は、そこで一度言葉を切った。それを不思議に思って武が首を傾げると、「……いいえ、何でもありません」と首を横に振る霞。
 武はますます首を捻ることになるが、霞がその先を告げようとすることはなかった。
 仕方ない、と一つ吐息し、
「それじゃ、朝飯食いに行くか」
「……はい」
 顔を見合わせて微笑み合うと、二人は連れ立って部屋を後にした。


 霞は自分の部屋――武がかつて脳みそ部屋と呼んでいた純夏のいる部屋――で朝食を摂るということなので、武は一人PXで食事を摂りながら、ぼんやりと思考の海に自己を埋没させていた。
 内側に向く思考とは対照的に、体だけは機械的に朝食を口に運んでいく。
 意識を占めるのは、やはり今朝の夢のことだった。
 ――何で今更あんな夢見たんだろうな……。
 真那に師事し始めた頃こそ悪夢にうなされたものだが、今まで、あの頃のことを夢に見ることはなかった。
 それは、それだけ武が強くなったということでもある。着実に武は、かつての無力なガキからは脱していた。
 だからこそ、突然あのような夢を見た理由がわからない。しかも、あんなにも鮮明に。
 久しぶりの実戦の直後で、知らず知らずの内に気が昂ぶっていたのだろうか。それとも、もう二度と会うことは叶わないだろうと思っていた仲間達と同じ戦場に立つことが出来たからだろうか。あるいは、かつて尊敬した上官と再会出来たからかもしれない。
 だが、所詮はいずれも可能性に過ぎない。武が知恵を振り絞っても、とても正解に辿り着けそうにはなかった。
「……やっぱ、まだまだ弱いってことか」箸をトレイの上に置いて、武はぽつりと呟いた。「覚悟が足りないんだろうな……」
 合成宇治茶の湯呑みを半ば無意識の内に口に運ぶ。
 武は、自分の弱さには敏感すぎた。自分の中の弱さが許せなかった。
 自嘲するような笑みが、武の口許に散った。
「――いい加減、甘えはなくさなくっちゃな」
 呟き、一気に湯呑みを煽る。喉を焼かれるような痛みが、不思議と心地良かった。


 手早く朝食を済ませた武は、一人ハンガーへとやって来ていた。
 そこには、207B分隊の姿がある。誰一人として武がやってきたことに気付かず、ガントリーに収まった都合七機の戦術機を、目を輝かせて見つめている。
 主観で言えば十三年前の自分もそうだったことを思い出し、苦笑しながら武は声を掛けた。
「よう。夕呼先生からのプレゼントは気に入ってくれたか?」
 五人が一斉に振り向き、武の元へと駆け寄ってくる。随分嬉しかったみたいだな、と武は頬を緩ませたのだが、
「タケル!」
「白銀!」
「……白銀」
「タケルゥ!」
「たけるさん!」
 何故か、五人揃って物凄い剣幕で睨み付けられた。
「……あれ? なんで怒ってんだよ、みんな?」
 怒られるような真似をした憶えはない。少なくとも、武の脳の中に、そんな記憶はなかった。
 武が首を傾げていると、千鶴が呆れたように溜息を吐いた。慧は普段と同じ無表情。美琴はジト目で武を見つめ、壬姫は何故か涙ぐんでいる。そして未だ不機嫌も露わな冥夜。
 五者五様の態度に、武の混乱はますます進行する。
 そんな武の様子に痺れを切らしたのか、冥夜が口火を切った。
「無事に戻ったならば、連絡ぐらい寄越さぬか!」
「あ……」
 冥夜の一言で、ようやく武は理解した。
 特務部隊としてその存在自体が秘匿されかねないA-01とは異なり、今回武は、新兵器のテストという名目で、いわば横浜基地の代表として合同実弾演習に赴いたことになっている。
 それ自体は隠すようなことでもないから、彼女達が知っていてもおかしくはない。
 そして、佐渡島からBETAが南下、演習中の部隊と戦闘になったことも知っているはずだ。『一度目の世界』『二度目の世界』共に、11日の朝、BETAの目的地である横浜基地には、防衛基準体勢2が発令された。そして皆一様に不安な面持ちで事態の推移を見守っていた。
『この世界』の彼女達が不安に思うのも当然かもしれない。
「……悪い……そういうの、全く考えてなかったんだ」
 連絡を入れることは勿論、心配されているという可能性自体、完全に失念していたのだ。
 そんな彼女達の気遣いを根本からひっくり返すような武の言葉に、今の今まで武に食って掛かっていたはずの冥夜までもが呆然とする。
「……正直、ここまで心配してもらえるとは思ってなかったんだ。BETAを撃退した後も報告書とかあって連絡するの後回しにしちまった……みんな、ごめん。心配掛けたな」
 そう言って、武は軽く頭を下げた。
 彼女らの気持ちは、武には痛いほどわかったからだ。自分の見知った人間が戦場へ赴くというのはつまり、その人間を失うかもしれないということだ。
 自分もその戦場に駆り出されるならまだいい。サポートし、護ってやることが出来るかもしれない。
 だが、自分の仲間達が、かつて共に駆けた戦友が、尊敬する上官が、可愛がっていた部下が、自分の手の届かない戦場に向かうというのは、戦争の現実を知っていても尚、そう簡単に耐えられることではなかった。
 にもかかわらず、武は自分がその戦場へ向かう側であることに慣れすぎ、また次々と彼の仲間が散っていってしまったがために、その意識が希薄になっていたのだった。
「……反省してる?」
 問い掛けて来たのは慧だ。
「とてもすごく」
「……なんだか、全く反省の色がないみたいだけど?」
 滅相もない、と武は呆れ顔の千鶴に答えた。
「まあまあ、たけるさんも無事に帰って来たんだし、それでいいじゃないですかー」
「おう、たまはいい子だなー」
 こういうとき、仲間同士の輪というものを重視する壬姫の存在はありがたい。
 くしゃくしゃと壬姫の頭を掻き混ぜる。「はうあうあ~」という独特の呻き声に、武はほんの少しだけ苦笑した。頬を赤く染めているが、嫌がっている様子はない。
 何故か、そんな二人のことを、冥夜が無言で見つめていた。
「……ま、悪かったって思ってるのは本当だよ」壬姫から手を離して言う。「長いこと心配なんてされてなかったもんだから、すっかり忘れてた」
 彼の身を案じていた者は数多かっただろうが、それは白銀少佐を心配しているのであって、白銀武を心配していたわけではない。それも仕方のないことだろう。あの人類が絶望の淵に立たされた戦場において、衛士を個人として捉える余裕など、人類にはなかったのだから。少なくとも、武はそう感じていた。
 しかし、武にとっては何気ない会話であったはずが、五人は一様に息を呑んでいた。
 今度ばかりは、流石に武も理由に思い当たった。
「変に気ィ使うなよ? 今は、オレのこと心配してくれるヤツらがちゃんといるんだからな」
 武は柔らかく笑って、ガントリーのタイプ97、吹雪へと視線を向けた。これ以上この話題を続けても、いいことなど一つもない。
 彼女達に感謝の気持ちが少しでも伝わればいいと、そう思う。
 武の言葉に驚いていた五人であったが、今では口許に微笑を散らしている。
「にしても、流石はゆ――香月博士だよなぁ……随分いい状態のを引っ張ってきたもんだ」
「同感です、白銀少佐」声のした方へ視線を投げると、そこには敬礼をしたまりもが立っていた。「香月博士も無理をするものです」
 207B分隊の視線があるからか、言葉遣いは普段の武に対するそれではなく、軍曹としてのそれだ。身内なんだから構わない、と武は思うが、それでは訓練兵に示しが付かない、とまりもは頑として譲らない。
「――敬礼!」
 千鶴の号令で、武も含めた六人が一斉に敬礼する。武に敬礼されたことに対し、まりもはほんの少しだけ困ったように表情を緩め、答礼した。
「まったくしょうがないな、貴様達は……」
 微苦笑するまりもに、五人は力なく笑った。何しろ、五人が五人朝食も摂らずにここへやって来てしまっているのだから、彼女が呆れるのも当然だった。
「無茶するっていうのには同意だな。本当は新造機を要求したんだったか?」
「はい。搬入に一ヶ月掛かると言われて妥協したそうです」
 新造機を要求したのは、シートの保護ビニールを破るためだろう。実際、弐型の時は思い切り破り捨てていた。そんな子供っぽい趣味も、研究に副司令の職務にと忙殺されがちな彼女のストレス発散の手段だと考えれば、馬鹿にする気にはなれなかった。
 尤も、衛士としては、レバーの硬さなど、新造機よりは少々使い古した物の方がありがたかったりもするのだが。ただし、新造機には前の衛士のデータが残っていないというメリットもあるから、一長一短だ。。
「私達はいつから搭乗出来るのでしょうか?」
「今日一日は無理だろうな。基本整備と再塗装だけで済むから、今日中に全て終わらせてくれるそうだが」
 本来ならば、こんな無茶なスケジュールに応えられる整備兵など普通はいない。
 通常、訓練部隊に回されてくる機体は、破損機などの程度の悪い機体が殆どだ。その場合、たとえ丸一日掛けようとも、実機訓練に耐えるレベルにまで整備することは難しい。
「オレ達の撃震も?」
 まりもは無言で頷いた。
 吹雪と共に搬入されたF-4J撃震は、武やまりもが模擬戦の仮想敵機を務めるためのものだ。二人と207B分隊との実力差を鑑みれば、この機体の選択は当然と言えた。
「配備頼んだオレが言うのもなんだけど、この二週間だけでオレの弐型に神宮司軍曹の不知火、撃震二機にほぼ新造の吹雪が五……今頃お上は頭抱えてたりして」
 あり得ますね、と苦笑するまりも。
 ――無論、武の言は事実であった。


「お…………」
 集合には遅れるな、と言い残してハンガーを後にしたまりもに一同が敬礼したのと殆ど同時、一番奥のガントリーには、遠目にも見間違えようのない戦術機が一機、新たに運び込まれてくる。
 やっぱり来たか、と武はその機体を見つめた。
 帝国城内省直属……斯衛軍制式の特別仕様機。そしてこれは、冥夜のためだけに存在する特別な機体。――その色は、全ての頂点に立つ高貴なる紫。
 冥夜に視線をやると、なんとも言い難い、複雑な顔をしていた。
 だが、それも仕方のないことだろう。
 彼女はきっと、誰よりも自分の立場を理解しているはずだ。帝国から国連へ差し出された人質でもある彼女は、一訓練兵でありながら、同時に決して一訓練兵ではあり得ない。
 国を分けるとして分家に養子に出され、有事に際しては実の双子の姉である現日本帝国将軍煌武院悠陽の影としてその命を差し出すことを、生まれたその瞬間から義務づけられ――そしてその道を、自らの意思で選び取ったのだから。
 だから彼女は、悠陽の心遣いを、悠陽の想いを、受け止めることが出来ないのだ。
 皮肉なものだ。お互いがお互いを心から想っているが故に、その想いが届かないなんて。
「武御雷か……」
 わざと冥夜に聞こえるように、武は言った。
「――! ……そなた……知っていたのか……?」
「まあ、人並みには……ね」
 韜晦するように答え、武はデッキから降りていく。そのすぐ後ろを冥夜が付いてくる。
 本当は、人並みどころではない。全てを知っていると言ってもいいくらいだ。斯衛軍の中でも、ごく一部しか知らないであろう、煌武院悠陽と御剣冥夜の真実を、全て――。
 濃紫の機体を見上げ、武は深い溜息を吐いた。
 武自身、この機体との因縁は決して浅くはない。
「……そなたは不思議な男だな」
「彩峰の方が不思議なやつだぞ」
「ばか……そういうことではない」
 拗ねたように冥夜は言う。流石にふざけ過ぎただろうか。
「あれを武御雷と知っても……そなたの態度は自然だな」
「……ま、な。冥夜は冥夜だ。こんな大層なもんが運び込まれたとしても、冥夜が変わっちまうワケじゃない」
「…………そなたに感謝を」
 冥夜の言葉に、胸の奥がくすぐったくなる。
「それよりこれ、どうすんだ? 乗るのか?」
 武の問いに、冥夜は首を横に振った。
「己の分はわきまえているつもりだ。一介の訓練兵には、吹雪でも身に過ぎるというもの」
「訓練兵が乗らなかったら、誰が吹雪に乗るんだよ……ま、こいつに乗せてやるつもりなんて最初からないけどな。今のお前じゃ、武御雷に乗ったって振り回されるだけだ」
「それでよい」
 自分の力量を決して過大評価しないのが冥夜のいいところだと、武は思う。尤もそれは、自分を過小評価するという短所でもあるのだが。謙虚なのは美点であるが、彼女は些か己を律しすぎるきらいがある。
 武はじっと武御雷を見つめている。そうしていると、不意に湧き上がってくる想いがあった。
「……大事にしろよ」
「え……?」
 不意打ちを食らったみたいに、冥夜は目を白黒させた。
「この武御雷に込められた本当の意味なんて、オレは知らない……けど、これを贈った人がお前のことを大切に思ってるってことはわかる。だから、その想いを踏み躙るような真似だけは絶対にするな。この機体に恥じない衛士になって、いつかその想いに応えてみせろ」
「…………」
 この紫の武御雷は、煌武院悠陽から御剣冥夜へ贈られたものかもしれない。けれどそこには、立場も肩書きも家柄も関係ない、悠陽から冥夜、姉から妹への純粋な想いが込められている。
 今は届かないとしても、届いて欲しい。通じ合って欲しい。
 二人の間には、何者にも断ち切ることの出来ない強い絆があるのだと、武は知っていたから。
「……私は……私は、そなたの言う、この機体に恥じない衛士に……なれるだろうか」
「なれるさ。言ったろ? オレと神宮司軍曹が教官なんだ、ならせてみせるさ」
「…………うん。――そなたに感謝を」
 ああ、と武は短く応え、二人は微笑みを交わした。
 そこへ、カンカンカン、という軽快な音と共に、壬姫が駆け下りてくる。
「うわぁ~武御雷だー!」
 何しろ昨年から実戦配備が開始された、斯衛軍専用機体。武御雷という機体は知っていても、実物を見るのは初めてなのだろう、その視線は物珍しげに濃紫の戦術機を見上げていた。
 瞬間、武の脳裏に一度目の世界の記憶が蘇ってくる。
 このまま行けば、壬姫はぺたぺたと武御雷に触り、月詠真那に顔をはたかれることになる。
「たま! ちょっと待て!」
 慌てて武は壬姫を呼び止めた。
「え? どうして?」
 壬姫は不思議そうに武を見つめた。
「武御雷が珍しいのはわかるが、そいつは斯衛軍の機体だ。どんな理由で置かれてるにしろ、国連軍のオレ達が勝手に触っていいもんじゃない。遠くから眺めるだけにしとけ」
「あ、そ、そうだねぇ~」
 武の言葉に頷いて、壬姫は武達の元へとやって来る。
 並んで武御雷を見上げる三人だったが、その想いは三者三様だった。
「……そういや、お前ら朝メシまだなんだろ? さっさと行かないと、遅刻して神宮司軍曹に怒られるぞ」
「そうであったな。珠瀬、我々もPXへ行こう」
「そうだねー。たけるさんは?」
「オレはもう食った。整備班長と話があるから、二人は気にせず行って来てくれ」
「うむ」
「はーい」
 残りの三人と合流する冥夜と壬姫の後ろ姿を見送り、武はもう一度だけ武御雷を見上げた。そろそろか、という確信を抱きながら。
「……何をしている?」
 投げ掛けられた声にその視線を下ろしていくと、そこには、この基地では見掛けることも稀な、帝国斯衛軍の制服を着た四人組が立っていた。三人は白……そして一人は赤。
 翡翠色の髪と瞳を持つその女性のことを、武はよく知っていた。知らないはずがなかった。
 不意に、脳裏に沸き立つイメージがあった。そのイメージの名を、武は自然と呟いていた。
「――月詠さん……」
「――!」
 武を睨んでいた真那達の表情が、輪を掛けて険しくなる。
 当然だ、この世界では武と彼女達は初対面。加えて、危険人物としてマークしていた人間が、さもそれが当たり前のように自分の名前を口にしたのだから。警戒のレベルを引き上げない方がおかしい。
『元の世界』での優しさに満ちた彼女を知っており、また、前の世界では信頼も勝ち取っていただけに、突き刺さる視線は痛みさえ伴った。
「そう身構えないで下さいよ、月詠中尉……それから、神代少尉に巴少尉、戎少尉」
「……名を呼ぶ許しを与えた憶えはないな、白銀武」
 武が自分達の名を知っていることに微かな驚きを見せながらも、真那は険しい表情を崩さない。 武が夕呼の懐刀であることくらい、彼女達も承知のはずだ。それならば、自分達の名を知っていてもおかしくはないと思ったのかもしれない。
 その背後に控える神代巽、巴雪乃、戎美凪の三人も、射抜くような視線を武に向けている。
「それはお互い様だろう? これでも一応佐官なんだがな」
 冗談めかした、わざとらしく佐官ぶっての武の言葉に、「ふん」と真那は鼻を鳴らした。
「生憎だが、不審人物に払うべき敬意など、我らは持ち合わせてはおらぬが故な」
 たとえ斯衛軍の中尉、それも赤色であろうと、武は上官に当たる。尤も、それを気にする武ではないが。今のは、単なるポーズだ。ここで敬語など使われては、逆にこちらも警戒するというものだ。
「お前は何者だ?」
 予期していた問いに、用意していた答えをぶつける。
「何者も何も……白銀武、としか言えないな。今、オレの名前を呼んだのは誰だったかな」
「……とぼける気ですか?」
 強烈な怒気を孕んだ声で美凪。武はそれをあっさりと受け流す。
「とぼけるつもりはない……ああ――聞きたいのは、死人が何故ここにいるのか、か?」
「なっ――!?」
 真那は息を呑み、酸欠に陥ったかのように口を小さく開閉している。他の三人も同様だ。
 だが、すぐに表情を取り繕うと、厳しい視線を向けて、詰問するかのように武に問うてくる。
「国連軍のデータベースを改竄して、ここに潜り込んだ目的は何だ!?」
「城内省の管理情報までは手が回らなかったのか? それとも、追及されないとでも思ったのか?」
 四人の視線は、まるで質量を伴っているかのようだ。強烈な圧力が武にのし掛かる。しかし、三度目ともなれば、慣れのようなものが武の中にも生じていた。
「前置きはいらない。本命は、冥夜に近付いた目的は何か……だろう?」
 武は戯けたような口調で言った。だが、対照的に斯衛の四人の顔は、見る間に青ざめていくようだった。
「驚くことはないだろう? 状況と情報を正しく整理する当たり前の頭があれば、誰でも考え付くことだ」そう言って三人を睥睨し、「――返答次第では、ここでもう一度死ぬことになる、とでも言いたそうだな。そう何度も死ぬのは、正直御免なんだがな」
 死の瞬間をはっきりと記憶しているわけではないが、ループする際にそれを綺麗さっぱり忘れてしまうような――忘れずにはいられないような――衝撃的な体験であることくらいはわかる。それこそ、生きていられなくなるほどだろう。
 そんな経験は二度で十分だ。
「貴様、一体何者だ……!」
「だから、白銀武だと言っているだろう」
 溜息混じりに武は答えた。
 真那達は、明らかに戦慄いていた。敵意を剥き出しにしていた瞳には、今や恐怖さえ宿っている。
 目の前の男に、得体の知れない何かを感じ取っているようだった。
 何しろ、自分達の言おうとしていた言葉を先回りしたかのように見透かされているのだ。それも、確信を持って。武に前の世界の記憶があると知らない人間にしてみれば、自分の思考を読み取られたと思うに違いなかった。
 武自身、こうも鮮明に前の世界の出来事を憶えているのは意外だった。真那達と相対した瞬間、何故か唐突に思い出したのだ。思い出したというよりも、前の世界での出来事がそのまま、脳裏に蘇ったと言うべきかもしれない。
「……質問に答えておくか。オレがここにいる目的はただ一つ……BETAに勝利すること、それだけだ。そのためには香月博士の力が必要不可欠……だからオレはここにいる。城内省の管理情報については、手を回さなかった、っていう方が正しいな。国連のデータを改竄するならともかく、博士に城内省のデータ改竄なんて危険な橋を渡らせるわけにもいかないからな。――勿論、追及の可能性は考えていたさ」
 むしろ、その追及の可能性を残すために、城内省の管理情報には手を出さなかったのだ。
 この四人と鎧衣左近、これらとのパイプを手に入れ得るのは、白銀武という死人が生きているが故なのだから。
「冥夜に近付いたのに、アイツを利用しようという思惑はない」武は続ける。「あるとすれば……アイツらを強くして、一緒に戦場に立ってもらうってことくらいか。冥夜に限らず、207小隊は皆かなりの才能を持っているからな。アイツらを強く出来れば、これ以上心強い仲間はいない」それに、と武は一度言葉を切って、微笑を浮かべた「――それに、死んで欲しくないから、な。そうならないように、少しでも強くしてやりたい……というところだ」
「……それを、私達に信じろと?」
 黙って武の話を聞いていた真那が、感情を押し殺した声音で訊ねてくる。
「ああ……と言いたいところですけど、そんなの無理でしょ?」これまでとは意図的に口調を変えて答える武。「むしろ、これで信じてくれるようなら、冥夜の警護なんて任せられませんよ」
 そう言って、武は唇を三日月型に歪めた。
 挑発的な武の言葉に、真那も同じように笑みを浮かべる。ただしそれは、元の世界の真那のそれとは、似ても似つかぬものであったが。
「ああ――そうそう、どうして死人がここにいるのか、という質問に答え忘れていたな」
「…………」
 真那達は無言で武に先を促す。
 武は悪戯っぽい笑みを浮かべ、
「――死人が黄泉帰ったから、というのはどうだ?」
「な、に……?」
 真那の笑みが、一瞬にして剥がれ落ちる。
「詳しくは言えないがな……まあ、信じるのも信じないのも月詠中尉、貴様の自由だ」
 はぐらかすような武の言葉に、真那は、苦虫を噛み潰したみたいに表情を歪めた。その瞳には、燃え盛る感情の色が見て取れる。巽達三人は、今にも武に飛び掛かってきそうですらあった。
「それは冗談として、だ」戯けるように唇の端に笑みを散らす。「死んだことになってた方が、香月博士にとって都合が良かった――というだけのことだ。死人であれば、余計なしがらみに悩まされずに済むからな」
 その言葉を最後に、武の纏う雰囲気から、これまでのどこか戯れを感じさせるものが消え、真剣の言葉通りに鋭利なものへと変わっていく。
「……月詠さん達がどれだけ冥夜を大切に思ってるかはわかってるつもりです。上に言われたってだけで冥夜を護ってるわけじゃないことも、オレみたいなのが冥夜の傍にいるのが心配だっていうことも」
 敢えて武は彼女を月詠さんと呼んだ。
 帝国斯衛軍の月詠中尉に対してではなく、冥夜を大切に想う月詠真那という個人に対して、その言葉を口にするために。だから、その口調も白銀武として、月詠真那に向けた物になる。
 月詠真那は、白銀武にとって、特別な存在だった。師として、共に戦う同胞として、心から尊敬している。
「でも……だからこそ、これだけは言えます。――オレは絶対に冥夜を裏切らない」
 強い語調で、武は断じた。 
 何が起ころうとも、人として冥夜の心を踏み躙るような真似だけはしない、と。
「……それを誓えるか」
 押し殺したような真那の声に、武は頷き、
「この首に」親指で自身の首を指し、「この横浜基地と、香月夕呼の名に」人差し指で床を指し……そして、その手を水平に伸ばした。「――そして、桜の下に眠る全ての英霊達に懸けて」
「ッ……!」
 衛士――とりわけこの横浜基地に所属する日本人衛士――にとって、正門前の桜の木の下に眠る英霊達の魂は、あまりにも重い。
 彼らの挺身なくして、この基地は……否、現在の日本という国はあり得ないのだから。
 とはいえ、武にとって、彼らの存在は特別大きなものではない。武の知るこの世界は、二発のG弾によって横浜の地を奪還した後の世界だけだったから。
 だが、この世界にはなくとも、かつての世界には、ある。
 武の知る多くの先達。散っていった仲間達。彼ら彼女らの魂は、武の胸の中で、今も息づいている。たとえ世界は違っていても、過去に戻っていても、あの桜の樹と向かい合えば、いつだって会えるような気がした。
 だから、それはきっと、真那が思うよりも、ずっと重い。
 それが、武の誓い。仲間だけは裏切らないという、確固たる誓いだった。
「……それじゃあ、オレは訓練があるので……これで」
 無言のままの真那達に敬礼して、武はハンガーを後にした。


 真那達と別れた後、武は急いでブリーフィングルームに向かった。訓練内容が戦術機へと移行した今、まりもにばかり任せておくわけにもいかない。
 その途中、武が廊下を小走りに移動していると、前方にまりもの姿が見えた。それを認めるのと、まりもが武の足音に気付くのとは、殆ど同時だった。振り返ったまりもが敬礼してくる。
「遅くなってすまない」
 構いません、とまりもは、他の人間には滅多に見せない、柔らかな語調で武の謝罪に返した。
 訓練校の廊下に他の人影はない。207B分隊の面々はブリーフィングルームの中だから、軍人然として接する必要はなかった。
 それでも、今からは207B分隊の訓練時間だ。二人の間には厳然として階級という絶対の隔たりが横たわっていた。
「後れ馳せながら……少佐、昨日はお疲れ様でした。ご無事で何よりです」
「ありがとう、軍曹」
「万夫不当のご活躍であったと聞き及んでいますよ」
「まあ、戦場でいい仲間と部下に恵まれたからな」
 武は別段肯定も否定もせず、微苦笑で応える。中途から武の指揮下に編入され共闘することとなった帝国本土防衛軍第12連隊第231中隊は、なかなかの粒ぞろいだった。支援も的確で、武はいかんなく実力を発揮することが出来たのだ。
 流石桂木大尉の部下だ、と武は思わずにはいられなかった。
 指揮官側に回っての戦場は久し振りだったが、かつての仲間から教わった指揮能力は錆びついてはいなかった。
「僭越ながら、207B分隊の五人にお言葉をお掛けしてはいただけないでしょうか。皆、少佐のことを心配しておりましたので」
「それはもう。今朝ハンガーでたっぷりと」
「では、余計なお世話でしたね」
 笑みを浮かべながら言うまりもに、「そんなことはないさ」と武は答えた。
「私としても、少佐が無事に帰ってきてくださって安心しました。少佐のことだから心配は不要とは思ったのですが」
「BETAと戦って無事に帰ってこられる保証なんて、いつだってないさ。昨日だって、一歩間違えば死んでたかもしれない」
「……それもそうですね……白銀少佐、お疲れ様でした」
 微笑と共に会釈するように頷いて、まりもはシミュレーターの管制に戻る。
 真剣な眼差しの中には、どこか母親を思わせる優しげな光があった。
「――この世界でも、神宮司軍曹はまりもちゃんなんだよなぁ、やっぱり」
 まりもには聞こえないような小さな声で呟いて、苦笑した。当然だ、神宮司まりもという人間の本質はどの世界であろうと変わらない。
 そして同時に、白銀武にとっては、どの世界であろうと、尊敬すべき恩師であるという事実もまた、変わることはないようだった。

 ブリーフィングルームに入ると、挨拶もそこそこに武は、9日と10日、二日間にわたる訓練のデータが記された書類を捲って言った。
「二日で動作教習応用課程Dまでクリアか……大したもんだ」
 書類を見つめる武の目は僅かに見開かれていた。
 武が驚くのも無理はない。これまでのシミュレーター訓練開始から動作教習応用課程Dのクリアまでの公式な最短記録は五日間であった。
 それを、全員が全員、大幅に塗り替えてしまっているのだから。才能という点では誰よりも優れた武のそれと、ほぼ同等の記録である。
 XM3という革新的なOSの加護があったとはいえ、これは彼女達の才能と努力があってこその結果だった。
「これなら、早速今日から実戦機動の教習に移れるな」
 武は嬉しそうにそう付け加えた。当初の予定では、今日は様子見で、実際に武が教官役を務めるのはもう少し先になると思っていたのだから、嬉しい誤算だった。
 五人の頬が微かに上気しているように見えるのは気の所為ではないだろう。現役の少佐に褒められて嬉しくないはずがない。
「――では、シミュレーター教習に移る前に、実戦機動における留意点を説明する。このことを知っているか否かで、貴様らの操縦能力に雲泥の差が生じる。決して聞き漏らすな」
 武がそう言った途端、五人は一様に表情を引き締めた。それに満足しながらも武は、教官という役に徹し、硬直させた表情を些かも変えず、
「忘れてはならないのが、戦術機は貴様らの手足の延長であり、貴様らの手足とは無関係の、言ってしまえば乗り物でしかないということだ」
 どこか矛盾した武の物言いに、五人は――いや、まりもも含めた六人が、一様に訝しむように眉をひそめた。
 しかしこの反応は予想の範疇。戦術機はただの乗り物である、という発想が、そもそもこの世界にはないのだ。
 その発想の違いこそが、武とその他の多くの衛士の機動力を隔てる大きな壁だった。
「まず一点目。戦術機とは貴様らの手足の延長だ。知っての通り、戦術機の形態は人間を模して造られている。――さて榊、戦術機には何本の腕がある?」
「は。四本であります!」
 千鶴らしい――いつも以上にであったが――きびきびとした声で答える。だが、
「外れだ」
「え……?」
 素っ気なく不正解を告げる武に、千鶴は小さく声をあげた。ぎろり、とそちらを睨め付け、
「何か文句でもあるのか、榊訓練兵?」
「は……はい、いいえ……ありません」
 そうか、とだけ武は応えると、
「では御剣。貴様は戦術機の腕の本数は何本だと思う?」
「は――六本であると考えます」
「ほう……何故だ?」
「は。主腕が左右二本、上腕部にあるナイフシース内の補助腕が同じく左右二本、突撃砲パイロンが二本……計六本です」
 淀みない冥夜の解答に、感嘆の溜息が幾つか零れた。勿論、全てが207B分隊の残る四人の物。武とまりもは、当初こそ感心したように眉を持ち上げていたが、今ではそれも元に戻っている。
「残念ながら不正解だ……腕が六本、というのは正解だが、内訳が違う」
 むぅ、と冥夜は唸るように目を瞑った。
 武はまりもへと視線を向け、
「神宮司軍曹。戦術機の腕の内訳を」
「は。主腕とナイフシース内の補助腕がそれぞれ一組二本ずつ、そして肩部装甲シールドを支える副腕が一組……この計六本が、戦術機の腕と呼ばれる部位であります。御剣が言ったように突撃砲のパイロンを腕と考えることも出来ますが、それでは跳躍ユニットを保持するアームや腰部装甲シールドを保持するアームも含まれてしまいますので、通常これらは腕として数えることはありません」
「軍曹の言った通りだ。戦術機の腕といえば、機体側にその動力系が存在する物のみを数えるのが通例だ。――尤も、昔はオレも御剣と同様の勘違いをしていたがな。貴様らもこの機会に認識を正しておけ」
「はっ!」
 五人が一斉に声を返した。
 自分自身の訓練兵時代が自然と思い出されて、武は頬が緩みそうになるのを感じた。無論、そんなことはおくびにも出しはしないが。
「では、肩部装甲シールドの副腕は何のために設けられている? ――鎧衣」
「は、はい……えっと……肩関節の自由度を高めるためです」
 詰まりながらも答える美琴に武は頷き、
「その通りだ。肩部装甲には、センサーやコクピットといった最重要部の保護、上半身の運動に対するカウンターウェイト若しくはバランサー、そして高重心化といった役割があるが、それを機体に直接固定したのでは、腕や脚の可動範囲を著しく制限してしまう。各部の装甲シールドは、各所の動きと連動して、それらと干渉しないように統合制御しているんだ」
 統合制御の重要性は、特に吹雪や不知火といった第三世代機に顕著だ。
 OBLやアビオニクスの進化によって向上した反応速度も、重い肩部装甲シールドを動かす副腕の反応もまた速くならねば意味がない。
 軽量装甲材の採用によって肩部装甲シールドを大幅に軽量化することに成功した結果、副腕や主腕を含む上半身の反応速度が飛躍的に向上し、装甲同士の干渉を避け、OBLやアビオニクスの進化の恩恵を最大限に発揮することが出来るのだ。
「この副腕の統合制御により、装甲同士の干渉が回避され、結果、戦術機は人間と同様の――いや、人間以上に自由な動きが可能となる。これについては、神宮司軍曹の座学で既に学んでいるはずなので、割愛することとする」
 戦術機の各関節は複合多重構造で人間以上の自由度を誇る。事実上、人間に出来て戦術機に出来ない動きはないのだ。
「貴様らには、新たに開発された新OS――XM3のテストパイロットも務めてもらっているが、XM3は従来のOSとは一線を画すさらなる自由を戦術機に与えてくれる」
 五人は小さく頷いていた。他の誰でもない彼女達が、誰よりXM3の恩恵に授かっているのだ。シビアな挙動にさえ慣れてしまえば、それこそ翼が生えたかのような、圧倒的な自由度を約束してくれる。XM3が革新的なOSと呼ばれる所以だった。
「さて、ここで戦術機は貴様らの手足の延長であるという点に話を戻すが――彩峰、ここまでを通して、オレの言いたいことがわかったか?」
「はい。戦術機に人間の全ての動きが出来るということは、私達の技術全てを活かすことが出来るということです」
 慧には珍しく、はっきりと良く通る声で言った。
 それだけ戦術機の訓練に移れたことで気合いが入っているのか、それとも現役の少佐から教導を受けられることが嬉しいのか。武にはわからなかったが、やる気になっているのはいいことだ。
「正解だ。剣術、格闘技、狙撃能力……貴様らがこれまでに培ってきた歩兵としての能力の全てが、貴様らの糧となる。貴様らが耐え抜いてきた日々は、一分一秒たりとも無駄になりはしない」
 そこで一度言葉を切って、武は一同を睥睨する。
 いずれもが一芸に関しては武をも上回る珠玉の才能達だ。
「――まずは戦術機を思うままに操れるようになれ。そして、この星からBETAを駆逐する剣となるんだ、いいな!!」
「はいッ!」
 五人の声は、武がこれまでに聞いたどの言葉よりも力強かった。

 戦術機を手足の延長として操る……それは、前の世界で武が真那に弟子入りしてすぐに叩き込まれたことだった。
 当時の武の機動力が超一流と呼ばれるものであったことは間違いない。だが、それだけだ。
 それ以外の技術――たとえば砲撃や剣術――に関してはそれほどでもなかった。A-01の中では下から数えた方が早かったくらいだ。歩兵としての技術であれば、元207B分隊随一であったにもかかわらず、だ。
 これは、武が戦術機を乗り物――あくまで機械として捉えていたことにあった。
 それは武の強みだ。
 自分の肉体とは完全に切り離して考えられるから、人間では到底不可能な機動を思い描き、それを実行することが出来る。バルジャーノンの操作をしている感覚に近い。
 だがそれは、歩兵として身に着けた技術を十分に戦術機の操作に反映出来ないという弊害ももたらしていたのだった。自分が歩兵として行う動作と戦術機を操作して行う動作とが乖離してしまっていたためだ。
 それを真那に矯正されると共に、一流の業を、ということで冥夜や慧、壬姫といったスペシャリスト――無論、秀でた以外の分野はからきしという意味ではない――に歩兵としての技術を改めて教わることとした。
 週に一度帝都に通い、真那の錬成を受けては、一週間ヴァルキリーズの訓練の中で自身を磨く……そんな生活を、武は続けていたのだった。
 それにより、今の武は、歩兵として培った自身の技術を、持ち前の機動力と併存させることに成功している。
 その成果は、昨日のBETA迎撃戦に如実に表れていた。

 それから十五分後。武達は、シミュレータールームへと集合していた。
 一点目についての説明を終えた後、
『続いて二点目。戦術機は貴様らの肉体とは完全に独立した、あくまで機械であるということを忘れるな。……これについては、言って聞かせるより、実際に見せた方がわかりやすいだろう。――全員、十五分後に衛士強化装備に着替えてシミュレータールームに集合!』
 と武が指示したためだ。
 武の隣には、武同様、黒い衛士強化装備に着替えたまりもが立っている。
 207B分隊の五人は、ここ数日、すっかりシミュレータールームに居着いてしまっている。食事や睡眠、入浴といった生活のための時間以外は、全てシミュレーター訓練に費やしているといっていい。
 だから、五人ともシミュレータールームにはもう慣れ親しんでいるはずなのだが、慧を除く四人の面持ちは皆一様に硬い。
「戦術機と貴様らに出来る事の間には絶対的な差があるということを、改めて理解してもらう。まずはオレが実演してみせるから、よく見ておけ」
 武の言葉に真剣に耳を傾けているのは確かだ。だが、意識が十全にそちらに向いているとはとても言い難い。
 冥夜や千鶴などは腕を組むようにしているし、美琴はその小さな体をさらに縮こまらせ、壬姫に至っては茹で蛸のように真っ赤な顔を俯かせている。間違っても上官の言葉を聞く態度ではなかった。
 ただ一人、慧だけがいつも通りだった。
 それが仕方のないことだとはわかっている。訓練兵用の衛士強化装備は、体の前面を薄膜一枚越しに殆ど露出している。しかも、肌に密着するラップスーツの性質上、体の線をはっきりと浮き上がらせてしまう。思春期の少女達にとって、その羞恥心は耐えられるものではないだろう。
 が、耐えてもらうしかない。それが軍であり衛士というものだ。
 ふう、と武は溜息を吐くと、
「榊、御剣」
 その呼び掛けに、千鶴と冥夜はびくっ、と身を震わせた。そちらを睨みながら、武は続ける。
「腕組みしながら上官の話を聞くとは、いいご身分だな」
 底冷えするような、重い声だった。
 一対一で話している際にこのような態度を取られる分には構わない。だが、今はブリーフィング中、紛う事なき軍務中なのだ。それを許容する武ではなかった。
「珠瀬と鎧衣もだ。お前達四人は、少しは彩峰を見習え」
「……自信あるから」
 ぼそりと囁くように、けれど千鶴の耳には確実に届くように、慧は言った。ご丁寧に視線は腕で隠された千鶴の胸へ。
「あなたねぇ……ッ」
 千鶴が声を荒げるが、慧はどこ吹く風。それどころか、自慢のバストを誇示するかのように、僅かに胸を張ってみせる。
 しかし今回ばかりは慧への敵愾心よりも羞恥心が勝ったのか、千鶴は腕を組んだままだった。
 それを見て武は思わず盛大に吐息した。
「……お前達、本気で衛士になるつもりあるのか?」
 前線では風呂トイレ共同は当たり前、個室など以ての外で男女の別なく一つの部屋に押し込まれる。本来ならば訓練兵も羞恥心を取り除くためにもそういった扱いをされるものなのだが、彼女達は政治的な理由によって個室が与えられているのだ。
 それでも、訓練兵の装備を変えることだけは出来ない。たとえば吹雪がそうだし、彼女達が現在身に着けている強化装備などはその最たる物だ。
 この強化装備には、訓練兵の羞恥心を取り除くという意図もある。前面が殆ど肢体を隠す用を為さないように出来ているのはそのためだ。
 そういう意味では、確かにその目論見通りと言えるのだが。
「……まあいい。今日だけは大目に見てやる。こんなことで時間を無駄に使うのも馬鹿げているからな」
 武の言葉に、四人は一斉に頬の緊張を緩めた。しかし、ぎろりとそちらを睨め付けた武の視線によって、これまで以上の緊張を強いられる。
「――ただし、今回だけだ。明日からはこのようなお目こぼしはないと思え。この程度、衛士を目指す者にとっては障害になどなり得ないんだからな」
 そう言って、武はくしゃりと前髪を掻き混ぜた。
 ――ったく……オレも随分甘いな……。
 自嘲するように一つ吐息すると、武はシミュレーターの筐体へと向かって歩を進めるのだった。


 ――その晩。
 伊隅みちるは、ディスプレイに映し出された映像に、食い入るように魅入っていた。彼女がその目で追っているのは、ある戦術機の影である。国連軍カラーの特別仕様機――白銀武の駆る、不知火・弐型。
 昨日のBETA上陸戦において、武と共に戦ったという国連軍厚木基地第2戦術機甲大隊D中隊。送られてきた彼らのカメラデータを解析し、武に関連した部分だけを繋いだ映像を、夕呼に無理を言って見させてもらっているのだ。
 白銀武は、みちるが見てきた中では、紛れもなくトップの実力を持っている。それは、これまでの僅か二日間の訓練と、先日の一対十二での苦い敗戦で思い知らされたことだった。
 その武の、掛け値なしの実戦機動。
 彼の対BETA戦闘を、間接的にであれ見ることが出来る、初めての機会だ。
 試製01型小型電磁投射砲を装備しているが故に、一概に断じることは出来ないだろうが、それでも、彼女達との訓練では未だ見せない、BETAとの戦闘における実力を目にすることが出来る――みちるは、逸る気持ちと興奮を抑えきれずに、その映像を再生した。
 だが、みちるは、再生を開始して十分と経たぬ間に、己の軽率さを後悔することとなった。

 ――それは、吐き気さえ覚えるほどの、暴虐の嵐だった。

 理解出来ない。その機動概念を。その思考も意味も理由も目的も。自分達とは、根幹から異なる戦術機機動。
 それを少しでも理解出来ると思った。
 XM3という新OSの力を余すことなく引き出し、今よりももっと強くなれると思った。
 だが、最早、みちるの意識は、弐型の動きから武の機動概念を読み取ることを、完全に放棄していた。
 ――なんだ、これは……!?
 喉が痙攣する。
 理解出来ない機動概念――理解せずにはいられない根幹思想。
 何故そこで跳躍を選択するのか、何故そこで反転降下するのか、何故そこで横に駆けるのか、何故そこで急停止するのか、何故そこで方向転換するのか……XM3を使うようになって、多少は理解出来たつもりでいた武の戦術理念。その認識がいかに甘かったかを思い知らされる。
 その動きを先読みして追うことが出来ない。自分の思い描く最善を容易く覆して、その上の最善をモニタ越しに見せつけられる。
 一体、どのような戦術理論に基づいて、この機動は繰り広げられているのか。みちるには理解出来ない。
 ――だが、何故こんな、自分への負担を無視した、常識を打ち砕く機動を行うのか……その根幹思想だけは、理解出来てしまう。理解させられてしまう。
 それを、恐ろしいと思った。
 ここまで至れてしまうことを。人間がこれほどの境地に達してしまうのだという事実を。
 ――これは、ただ偏に、敵をいかに効率的に排除するか、ただそれだけを突き詰めた機動だ。
 他の衛士が一体を斃す間に二体を屠り。他の衛士が二体を殺す間に五体を滅ぼす。
 白銀武がやっているのは、ただそれだけ。誰よりも疾く、誰よりも強く、誰よりも多くのBETAを殺している……たった、それだけのこと。
 敵の攻撃を躱し、回避と同時に攻撃を行い、その瞬間には既に次の行動に移っている。
 止まらない。一瞬たりとも。静止することなどなく、敵を斃す。
 それは、ただただ殺して殺して殺して殺して殺し尽くすための――究極だ。
 どこからあのような機動概念が生じたのか、みちるにはわからない。だがそれでも、彼がBETAを倒すため、ただそれだけのためにあの技術を研ぎ澄ませたことだけは、嫌でもわかってしまう。
 瞬きをすれば、その間に、無数の血の花が咲いている。一体のBETAを斬り殺したかと思えば、血の雨が降り注ぐよりも早く、次の一体が壊れたスクリンプラーと化している。
 BETAという憎むべき敵に哀れみすら覚えてしまうほどに、白銀武の戦いは、一方的な虐殺でしかなかった。
 胃が拡縮を繰り返す。内臓の蠕動と同時に、嘔吐感が込み上げてくる。
 白銀武という、自分よりも五つも年下の少年が、途端に恐ろしい存在のように感ぜられてしまう。
 戦場に立つ者として、多くの先達を、仲間を、部下を見てきたみちるではあったが、武はその中でも群を抜いて……異常だった。
 ――壊れている。致命的に。
 こうして、戦場という異常な精神状態をこそ常とするフィールドから離れ、基地という半ば平静を約束された空間で、戦闘を見ているだけなのに……それなのに、はっきりと、わかってしまう。モニタ越しにさえ、みちるを圧迫してくる、どす黒い負の感情。
 まさか――と、脳裏に奇妙な想像が過ぎった。
 まさか白銀少佐は、BETAと戦っているこの姿を我々に見られたくないからこそ、ヴァルキリーズから離れ、一人で戦うことを選んだのではないか――と。
 そんなはずはない。きっと自分の思い過ごしだ。
 戦場での孤立は、即、死へと繋がる。帝国軍の援護があったとはいえ、そんな奈落の上の薄氷の上で躍るような真似をする命知らずが、この世界に存在するはずがない。そんなことが出来るのは、最初から自身の命を勘定に入れていない飛びきりの愚か者だけだろう。
 よりにもよって、白銀少佐が……尊敬に値する上官が、そんな最低最悪の愚者であるはずがない、とみちるは己に言い聞かせる。
 ……しかし、みちるの想いとは裏腹に、一度思考にこびり付いてしまったその仮説は、なかなか意識から離れてはくれない。
 今更ながらに、後悔する。
 こんな映像を見てしまったことに。
 これは、パンドラの匣だ。決して開けてはならない、絶望と災厄を閉じ込めた神話の匣。自分はそれを開けてしまったのではないか……みちるは、そう思わずにはいられなかった。
 映像の再生を停止する。スイッチを押すみちるの指は震え。
 ――白銀少佐……あなたに一体何があったというのですか……?
 その頬に、一筋の涙が伝っていた。


 2001年11月13日(火)


「一昨日はご苦労だった。先任も誰一人欠けることなく、また新任全員が『死の八分』を乗り越えてくれて何よりだ」
 ブリーフィングルームに集まったA-01の面々を見渡して、武は言った。
 任務の翌日ということで、昨日は一日休養に充てた。尤も、武は207B分隊の訓練の教官を務めていたのだが。
 水月を始めとした先任達の仲には微笑している者もあったが、新任達の面持ちは、初の実戦を超えて初めてのブリーフィングということで、皆一様にどこか緊張しているように見える。唯一、晴子だけが笑顔を浮かべており、それとは対照的に、先任組の中にあって一人、みちるの表情だけが硬かった。
 武には、みちるの顔の強張りの理由がわからなかった。
 新任達の表情の硬さは、二日前の上陸戦において、自分達が武に褒められるようなことを何もしていないという、一種の悔恨によるものだろう。
 最初、新任は何も出来なかった。先任の陰に隠れて震えているだけだった。
 武に後方に追いやられ、しばらくBETAと戦わずにいられたことに、安堵を覚えてしまったくらいだ。そしていざBETAその姿を目の当たりにした途端、震えが止まらなくなった。
 後半こそそれを乗り越えてBETAと戦うことは出来たものの、自分達が震えていたという事実は動かない。
 それは初陣の衛士にとっては普通のことであり、恥じることなどでは断じてないのだが、彼女達の中の特殊部隊の一員としての矜持がそれを許さないのだろう。
 その思いを感じ取って、武はもう一度口を開いた。
「……そうだな……折角の機会だし、ブリーフィングの前に、一つオレの初陣の話でもしてみるか」
「――!?」
 ブリーフィングルームに驚きが広がった。
 新任達の表情が一層険しくなる。ただでさえ初陣で震えていた自分達を恥じているのに、さらに追い討ちを掛けるつもりか、と。同様に思ったのか、水月を始めとした先任達の視線も鋭い。
「白銀少佐、あなたが何を考えてるかわかりませんが、徒に新任達を刺激するつもりならやめて頂きたい」
 そう言ったのは秋山楓中尉。漆黒のショートカットの女性は、釣り目がちな猫目で武を睨み付けてくる。
「そういうつもりはない。ただ、オレの昔の話を聞いて自信を付けてもらおうと思っただけだ」
「自信……? 白銀少佐、どういうつもりですか?」
 怪訝そうな水月の言葉に「そのままの意味だ」と答えて、武は口を開いた。
「オレが初めてBETAと出会したのは、任官したてのときの、大規模な演習中だった。演習中に突然BETAが現れたわけだ。全く予想してなかった襲撃だから、みんなパニックになってさ」
「少佐は……どうだったんですか?」
 七瀬凛少尉が訊ねる。この後に続く武の言葉に、僅かながらの期待を滲ませて。
 だが武は、その期待をあっさりと裏切ってみせる。
「ひどいもんだったよ」自嘲するように唇の端を吊り上げる武。「BETAに先任の衛士がやられてくのを見たら頭の中が真っ白になって……BETAを見た途端、後催眠暗示と興奮剤でバッドトリップだ。錯乱して喚き散らして、そこら中にペイント弾撃ちまくりながらBETAに突っ込んで……挙げ句の果てに乗ってた機体が破壊された。救助が入るまで、小便漏らして、いやだいやだ死にたくないって叫び続けてたっけな。助けられてからも、助けてくれた衛士がいなくなった途端、置いてかないでくれって喚いてガタガタ震えてた。
 ――どうだ、お前らよりずっと情けねえだろ」
 本当なら、一生秘密にしておきたいような過去を、けれど武は笑いながら話すのだった。
 彼女達は、白銀少佐に限って……という思いもあったのだろう、武の言葉に驚いている様子だった。
 ……もう、十年も前の話だ。
 あの日なくしたものの重さを忘れたわけではない。むしろ、多くの仲間を、部下を喪ってきたからこそ、今の方がその重さをより深く感じている。
 けれど、それが故に、武はかつての記憶を笑みさえ浮かべて口に出来るのだった。
「少佐は……」
「ん? 何だ、涼宮?」
「……少佐は……そんな恐い思いをしたのに、どうしてまた戦おうと思ったんですか?」
「……一人じゃなかったから、かな」
 遠くを見るように目を細めて、武は答えた。
 十年前――2001年12月5日に想いを馳せて。
「オレはさ、天才衛士とか言われて舞い上がってたんだ。それ以外はからっきしだったけど、戦術機特性だけは高くて、実際にみんなに認められるだけの操縦技能を持ってたから。その自信が初めての実戦で打ち砕かれて、オレは壊れた戦術機の脇で項垂れてた……そこに、声を掛けてくれた人がいたんだ」
 武の目には涙が溜まっていた。少し頬をつつけば、その衝撃で伝い落ちるであろうほどに。けれど、決して泣きはしなかった。涙を流しはしなかった。
 誰もそれには触れず、武の言葉に耳を傾けている。
「オレが訓練生だった頃の教官だった。その教官は、オレにこう言ってくれたんだ。『戦術機の換えは利いても、白銀の換えは利かない』『そのあなたの命が失われなかったことを……丸腰でBETAと戦って生き残ったことを誇りなさい』って」
 なあ、と言って武はA-01の新任――元207A分隊の五人――茜、晴子、多恵、小雪、千景を見つめた。
「お前らは、自分が臆病だと思うか?」
「――!」
 十三人のヴァルキリーが一斉に息を呑んだ。
 五人の新任の顔に見られるのは、明らかな狼狽。目を逸らしたかった事実を容赦なく突き付けられ、彼女達の心が大きく揺らいでいるのが、武にはよくわかった。
 自分も、そうだったから。
 武は微笑する。
「臆病で何が悪い?」
「え?」
 幾つもの声が重なった。その声の主達を順繰りに見渡す武。
「オレは臆病だぜ。戦場に立つたび、恐くて恐くてたまらない。自分が死ぬのも、仲間が死ぬのも、恐くてたまらない。想像するだけで逃げたくなることだってある」
 十三人の少女達は、呆然として武を見つめていた。
 彼女達は知っている。自分達をたった一人でねじ伏せたその強さを。BETAの群に臆することなく戦いを挑んでいった雄々しさを。そして何百というBETAを寄せ付けぬ猛々しさを。誰よりも強く、雄々しく、猛々しく。
 未だ二十にも満たないながら、少佐という地位に就き、それに見合う力を持つ少年が。
 そんな弱さを持っているということが――そしてそれをさらけ出しているということが、彼女達には信じられなかったに違いない。
 そんな彼女達に、武は笑って言った。
「『臆病でも構わない。勇敢だと言われなくてもいい。それでも何十年も生き残って、ひとりでも多くの人を守って欲しい……。そして、最後の最後に……白銀の……人としての強さを見せてくれればそれでいいのよ』……オレが、その教官に掛けてもらった言葉だ」
「…………」
「臆病で何が悪い? そうじゃねえだろ。誇っていいんだよ。お前達はこれまで何千、何万の衛士が突破出来なかった死の八分の壁を突破したんだ。泣こうが喚こうが怯えようが震えようが護られようが……お前達はBETAと直接戦って、デッドラインを超えて生き残ったんだ。それも、たった一人も死なないでだぜ? ――オレは……オレは、誰一人欠けることなく任務を達成した、この伊隅戦乙女隊(ヴァルキリーズ)を、一人の衛士として、誇りに思う」
 しん、とブリーフィングルームが静まり返る。
 十三人の少女達は、先任新任の別なく、皆一様に武の言葉を噛み締めていた。
 BETAと戦って生き延びることが出来る者は、決して多くはない。新任衛士であろうと熟練衛士であろうと、ヒヨッコであろうとエースであろうと、死ぬときは誰もが呆気なく死ぬ。戦車級に食われ、突撃級に押し潰され、要撃級に叩き潰され、光線級に焼かれ、要塞級に刺され溶かされ。
 戦場では、誰もが平等に無慈悲に死ぬのだ。
 そのことは、先任達の方が、より深く理解しているだろう。その、誰にとっても優しくない事実を。
 彼女達はこれまでに何人もの戦友を、先達を、部下を失ってきている。特に伊隅など、その数は両手の指ではとても数え切れないほどに違いない。

 武は知っている。仲間を喪う苦しみを。部下を失う切なさを。十一年間、地獄のような戦場での日々を超えてきた武は、誰より――

 ――ざり、と。
 唐突に、ノイズが走った。
 刹那の思考が断ちきられる。どろりと腹の奥で渦巻く感情に蓋をする。そうしないと、白銀武は衛士ではいられない。
 ごほん、と武はわざとらしく咳払いをした。この空気を、記憶に呑まれそうになる自分を抑えるために。
「……ちょっとクサかったかな? 教官の受け売りだったんだけどさ」
 その一言で、張り詰めた空気が僅かに弛緩する。
「うんうん、クサすぎですって、少佐」
 からりとした笑顔で言ったのは、高原小雪。
「高原の言う通り。少佐はカッコつけすぎです」
「神崎少尉まで。ひでえなあ、もう」
 神崎月乃もまた、千景と同じようにダークブラウンの髪を揺らす。武より一つ年上の少女は、少しだけ唇の端を持ち上げた。
「少佐の言葉がクサいのには同意だが……高原、神崎、君達はもう少し上官を敬うことを覚えろ」
 呆れたように言う楓。
 つい今の今まで沈んでいたのが嘘のように、ブリーフィングルームには笑い声が溢れていた。
 これでいい。これで彼女達は前に進めるだろう。自信を失ったとき、立ち直らせてやるのは先達の役目だ。立ち止まった武を、まりもが導いてくれたように。戦術機を動かすしか能のない自分にももう一つ、十一年にも及ぶ実戦経験という力がある。その力が少しでも彼女達の導となるのであれば、こんなに嬉しいことはないと言えた。
 初陣を生き残った。仲間を一人として失うことなく。それは、それだけで価値があることだ。
「白銀少佐はその教官のこと好きだったんですねぇ」
「ああ……大好きだった」
 多恵の言葉に、武は一瞬の躊躇もなく頷いた。
 何の臆面もない武の肯定に、ヴァルキリーズは一斉にギョッとした……かと思えば、水月や美冴、晴子を筆頭ににやにやといやらしい笑みを浮かべる。
 それに気付かず、武は続けた。
「オレが一番尊敬してる二人の内の一人だよ、軍曹は。あの人の錬成を受けられたことは、オレの一生の誇りだ」
「もう一人は?」
「任官して配属された部隊の中隊長。二人の内どっちかがいなくても、今のオレはいないだろうな……」
 そう言って、武は目を瞑った。いつでも会えるのに、もう二度と会えない人達へ語りかけるように。
 そんな武の様子に、どうやってからかってやろうと思案していたに違いない三人はしかし、白けるでもなく、無論からかうでもなく、武を見つめていた。
 武は気付かない。自分が今、どんな顔をしているのか。
 だから気付けない。自分を見つめる十三対の視線に込められた感情に。
「その教官と中隊長は今……?」
 麻倉千景がおずおずと訊ねてくる。
「ああ……死んだよ、二人とも」
「…………」
 しん、と静まり返るブリーフィングルーム。
 武はそれに溜息を吐くと、がしがしと頭を掻いた。
「今、麻倉に何でそんな質問するんだよって思った人、正直に手挙げろ」
 挙がった手は四本。いずれも新任、即ち元207A分隊のものだ。四人は先任が誰一人として手を挙げていないことに、戸惑いの色を隠せないでいた。
 先任の九人は、武が話をしている時点で勘付いていたに違いない。
「お前ら四人、後で腕立て伏せ二百回な」
「えぇーっ!?」
 四人の悲鳴じみた声が、異議を申し立てるようにユニゾンした。しかし、
「多少厳しいかもしれんが……」
「妥当ですわね」
 みちると祷子が武の課した罰に同意し、
「大尉の言う通りだな。今回の罰は道理だ」
「そうですね。白銀少佐の言うことも尤もですし」
「あたしも同意」
 楓と凛、月乃がさらに続く。
「待ってよタケル君、なんでそうなるのさ!?」
「小雪の言う通りだよ。白銀、ちゃんと説明してもらわないと納得出来ない」
「茜ってば……白銀少佐は上官だよ? 今はブリーフィング中なんだから、そんな口の利き方……」
「いいんだ、涼宮中尉」
 茜を窘める遙を制する武。
 元207A分隊の五人は、まだ任官して日が浅い。自分の不知火も搬入されているし、先日BETAとの実戦も経験した。単純な実力だけならば、任官して一年以上の衛士にも引けを取らないだろう。
 だが、それでもやはり、まだまだ彼女達は新任衛士なのだ。精神的な経験の絶対値が、あまりにも足りない。だから、死との向き合い方を、まだ知らない。
 戦場で理不尽に散っていく命という、狂的な現実を乗り越えてはいないのだ。
「いいか貴様ら」呆れたようにみちる。「少佐が言いたいのは――」
「――少佐は婦女子が苦痛に耐えている姿に性的興奮を覚える変態だということだ」
「…………はい?」
「苦悶の表情、滴る汗、紅潮した頬……そういうのが、白銀少佐はたまらなく好きなんだ」
 部屋の温度が一度は下がったような気がしたのは、きっと武の気の所為ではないだろう。
 美冴は唇を斜めにしたいつも通りの笑みを浮かべて、白銀武という人間の尊厳をざっくざくに切り刻むような暴言を吐いている。
 普通なら誰一人として信じないであろう妄言をしかし、
「し、しししし白銀君!? あ、あああ茜ちゃんが訓練してるのさ見て、そ、そそそったらさ事思ってただか!?」
「思ってねえよ! ていうかなんで涼宮限定なんだよ!?」
 あまりにも的外れな多恵の言葉に、武は今がブリーフィング中だということも忘れて、声を荒げる。勿論、茜以外にも興奮するという意味では断じてない。
 元の世界と前の世界、共に関わり合いがなかったために知らなかったが、この猫のような少女はそのケがあったりするのだろうか……思い返してみれば、あながち的外れでもないような気がする。
 茜は何故か顔を赤くして武を睨み付けてくるが、それを無視して、そのまま睥睨するように武は視線を美冴へと向け……にやりと笑った。
「じゃあ、ご期待に応えて、宗像中尉が苦しんでる姿でも見て楽しむことにしようか……というわけで、後で腕立てを五百回やらせてやろう」
 うぐ、と美冴が呻いた。
「……少佐。わかっているとは思いますが、今のは……」
「オレは本気だぞ、宗像中尉?」
 しれっと言ってのける武に、美冴は呻くことさえ出来ずに言葉に詰まった。
「宗像、お前の負けだ。権力を持った人間を敵に回すとどうなるかわかって良かったじゃないか」
 みちるはくつくつと笑う。
 普段は年齢相応の扱いを臨んでいるとはいえ、武は少佐、それもこの横浜基地の実質的な最高権力者である香月夕呼の懐刀なのだ。
 権力は使ってナンボ――武が夕呼から学んだことの一つだった。
「宗像中尉……一応真面目な話してるんだから、ふざけるのやめてくださいよ」
「わかっています……」
 渋々といった様子で頷く美冴に武は苦笑してしまう。思えば、前の世界では彼女をやりこめたことは殆どなかった気がする。いつも飄々と振る舞って武をからかっていた彼女も、武を残して戦場で散ってしまったのだった。
 それでも、今ここにいてくれるのだから、何も文句はない。
 しかし、仮にも佐官だというのにからかわれている辺り、まだまだ自分には威厳が足りないということを自覚して、武は一つ溜息を吐いた。戦場に出れば武に逆らう者などいないのだが、ここでは少々分が悪い。
「……宗像中尉の戯言は置いといて、だ」
 戯言とはなんですか少佐、という声が聞こえてきた気がしたが、それは黙殺して武は続ける。
「死んでいった先達、仲間、部下……そういった人達のために、残されたオレ達がしてやれること……それは、その人達の想いを背負って生きていくことなんだ。志半ばで散っていった仲間の分も、生き残った人間が、一つでも多くの命を救うんだ。そして……その仲間のことを、誇らしく語り継いでやる……それが、衛士が衛士のためにしてやれる、精一杯の弔いなんだ」
 武は思い出す。まりもに、最後に託された言葉を。
『臆病でも構わない。勇敢だと言われなくてもいい。それでも何十年も生き残って、ひとりでも多くの人を守って欲しい……。そして、最後の最後に……白銀の……人としての強さを見せてくれればそれでいいのよ』
 あの日の言葉は、武の胸の中で息づいている。
 きっと、だからこそ武は今もここにいるのだろう。大切な人を護るために。一人でも多くの人類を救うために。
 弱くて、臆病で、情けない……自分がまだまだ青臭いガキでしかないとわかっていても、人類を救うのだと、決意出来るのだ。一度は底のない絶望の沼に引きずり込まれても尚、もう一度立ち上がり、戦うことが出来るのだ。
「だから、オレは二人の――いや、仲間達の死をこれ以上哀しまない……いや、どんなに哀しくても、みんなの生き様を誇らしく語ってやる。それが、みんなの想いを背負ったオレの義務で、権利だから」
 そう思えるようになったのは、前の世界で207B分隊の五人に支えられ、みちるに導かれ、水月に殴られ……伊隅戦乙女隊という掛け替えのない仲間がいたからだ。
 彼女達がいなければ、武は今もまりもの死から立ち直ることなど出来ずにいただろう。
 だから、今度は武が彼女達に恩返しする番。前の世界の彼女達から受けた恩を、この世界の彼女達に返す番だ。
 あんなに頼りなかった自分が、今では少佐として彼女達を導く立場にいる……今更ながら、おかしな因果だと、武は思う。
「……だからみんな、全力で戦って、最後の最後まで、自分のためにも、仲間のためにも、精一杯生きて欲しい。自分のことを、仲間達が誇れるように……」
「はい――」
 武の言葉を噛み締めるように、少女達は頷いた。
 流石神宮司軍曹の教え子だ、と武は思う。武がまりもから教わった言葉を、彼女達が受け止められないはずがない。
「――伊隅中隊隊規斉唱ッ!」
 武は声を張り上げる。
 それに呼応して、十三人の少女も同じく声を張り上げた。
「死力を尽くして任務にあたれ! 生ある限り最善を尽くせ! 決して犬死するな!」
 もう何十何百と口にしてきたその言葉。その言葉の中に、武の伝えたいことは詰まっている。元207A分隊の五人も、その真に意味するところを理解出来たことだろう。
 だから、武には本心を口にすることは出来なかった。もう誰も死なないでくれ――その一言を口にすることが、出来なかった。



[2785] Muv-Luv ALTERNATIVE -Second World Was Failed- 第11話
Name: Vollmond◆d2a8c8a6 ID:590d70fd
Date: 2011/11/15 03:07
「むー……」
 A-01のシミュレーター訓練の後、武は唸っていた。ブリーフィングルームに向かって廊下を歩きながら、腕を組み、眉間に皺を寄せている。
「それ嫌味ですか、少佐ぁ?」
「いや、そういうワケじゃない」
 水月に見咎められ、武はすぐに取り繕った。
「六対一で完勝しといて、不満そうな顔しないでくださいよ。それとも、私達が弱いって言いたいんですか?」
「そうじゃない」やけに絡んでくる水月に、武は首を横に振った。「オレが言うのもなんだが、中隊規模でなら、ヴァルキリーズ以上の部隊なんて、そうそうありはしないさ」
 それは武の本心だ。自分がかつて所属していた部隊であり、今現在教導している部隊であるという贔屓目を抜きにしても、これほどの練度を誇る部隊など、世界中を探しても片手で数えられる程度だろう。
 しかしそれが逆に逆鱗に触れたのか、水月はトレードマークのポニーテールを振り乱し、
「それに勝ったあんたは一体何なのよ白銀! あー、もう! 腹立つわねぇ~!」
 やはり、訓練がうまくいかなかった後の水月には近寄らない方が良さそうだ。『前の世界』でも随分と絡まれたものだが、それにも増して酷い。
 一応まだ訓練中に当たるのだから、言葉遣いを改めて欲しいところなのだが、これ以上無用に刺激するわけにもいかない。君子危うきに近寄らず――最近、とみに実感する言葉だった。
「速瀬中尉は欲求不満のようですね。戦闘に性的興奮を感じる変態はこれだから……」
「なぁんですってぇ!?」
「――って少佐が言ってました」
「言ってねえッ!?」
 美冴の言葉に、武は反射的に声を荒げた。しかし、美冴はまるで気にした様子もなく続ける。
「そんなに満たされないなら、オレがベッドの中でたっぷり相手をしてやるから、夜まで我慢してろ……とも」
「言ってませんから!」思わず素が出る武。「ていうか、そんなこと間違っても言いませんから!」
「どういう意味よ!?」
「あちゃー、自分から地雷踏んじゃいましたねぇ、少佐」
 にこやかな笑顔で言ったのは晴子だ。武達のやりとりを止めるでもなく、愉快そうに眺めている。
 いつもはそろそろ止めに入ってくれるはずの祷子も、今日ばかりは傍観に徹していた。
 その他みちるを始めとした八人も、見ているばかりで仲裁に入る様子はない。四面楚歌の状況。
 どうやら、六対一のシミュレーター訓練――実機は一昨日戦闘があったために整備中だ――とはいえ、またもや武に敗北を喫したのが気に食わないらしかった。
 思わず盛大な溜息を一つ零してから、武は上官としての態度を再び纏って言った。
「速瀬中尉の場合、オレは端から恋愛対象外だろう?」
「……それもそうですね」
 彼女が今は亡き戦友に思いを寄せていることは知っているが、こうもあっさり認められてしまうと、なんだか切なくなる。
「つまり、速瀬中尉は若い男には興味がない……女にしか興味がないわけですね」
「それはあんたでしょうが」
「私は気持ち良ければ何でもいいだけです」
 前の世界でも聞いたフレーズだが、それはそれで問題があるような気がする。フリーセックスの国連軍所属らしいといえばらしいのだが……十一年もの間、戦場に立っていた武の経験談からしても、美冴は極端な例だろう。
「速瀬、宗像。二人とも遊ぶのは結構だが、それは白銀少佐に勝ってからにするんだな」
「――はっ!」
 いい加減見るに見かねてか、みちるが助け船を出してくれる。みちるの言葉には逆らえないのか、水月と美冴はあっさりと引き下がった。
「今から二十分後、ブリーフィングルームルームに集合! 決して遅れるな!」
「了解ッ!」
 みちるの声に、十一人が一斉に応えた。


 A-01のデブリーフィングで先行入力の効率を高めることやキャンセルの積極的活用、武の機動を支える操縦概念などを改めて説明した後も、武は胸にもやもやしたものを抱えていた。
 水月の言う通り、間違っても今日の訓練の調子が悪かったということはない。精鋭揃いのヴァルキリーズに対し六対一で勝利を収めておいて、調子が悪かったなどと言ったら、罰が当たる。もっと具体的に言うなら、戦乙女による神罰という名の制裁――もとい不機嫌な数名による階級無視の折檻が下る。
 だから、むしろ逆なのだ。
 ――調子が良すぎる。
 余人が聞けば、何を言うかと思うかもしれない。それはしかし武にとって拭いようのない違和感であり、覆ることのない事実だった。
 衛士にとって、自分の力量を正確に把握することは、必須技能だと言える。
 だからこそ、武は戸惑っていた。
 シミュレートしたのは、間違いなく不知火・弐型だ。今更その性能を量り間違えるということはない。
 加えて、本来ならば、三対一や四対一ならまだしも、六対一でヴァルキリーズに勝てるはずがなかった。先日十二対一で勝てたのは、あくまで奇襲により半数を減らし、二対一と四対一という状況を作り出すことが出来たからだ。
 しかも、以前に比べ、ヴァルキリーズの練度は格段に上がっている。武の教導により、十二人全員が、XM3の可能性を余すことなく引き出せるようになりつつある。
 ――にもかかわらず、勝ててしまった。
 それというのも、今日の武は、どう考えても動きが良すぎたためだ。自分のイメージよりもさらに一段上の動きが出来ていた。
 ……いや、今日だけではない。正確には一昨日からだ。一昨日の、佐渡島から上陸したBETAとの戦い。あの最中から武は、自分の操縦技術が竹の伸びるような速さで向上していくのを感じていた。
 十一年間も実戦を経ておいて、今更技能が向上するというのもおかしな話だ。
 しかし、それ以上に武を戸惑わせている要因があった。
 ――あれだけの操縦技術を、どこか当然だと受け止めている自分がいるのだ。
 突然向上した自分の力量に対する戸惑いと納得が同居している。それによる居心地の悪さが、胸のつかえの正体だった。
 もしかすると、一昨日の既視感も関係あるのかもしれない。
 そう思い、武はB19フロアへとやって来ていた。武の疑問に推測であろうとも答えを返すことが出来るとすれば、それは香月夕呼その人以外にはあり得ない。

「……って、ワケなんですけど」
 武が一通り説明し終えると、夕呼は執務室の椅子に座ったまま、呆れたように溜息を吐いた。
「贅沢な悩みねぇ。いいじゃない、強くなってるんなら」
「それはそうかもしれませんけど……」
 武とてわかってはいるのだ。強さとはあって困るものではない。あればあるほどいい。武のように、部隊を率いることとなるであろう佐官であったり、最前線で戦うことになる衛士にとって、それは不可欠と言ってもいい。
 それが突然向上したから悩むなど、力不足を嘆く衛士が多い現状を鑑みれば、贅沢どころではない。
「……ま、いいわ。悩んだままでいられても面倒だし。仮説でいいなら答えてあげる」
 そんな余計なことに貴重な時間使わせないでよ、とでも言われると思っていたのだが、意外にも夕呼はあっさりと承諾してくれた。
 一昨日の成果のお陰か、随分と機嫌がいいらしかった。
「お願いします」
「その前に確認するけど、白銀、あんた『一度目の世界』の記憶は途中で跡切れてるのよね?」
「はい。オルタネイティヴ4が終わった二年後くらいで。霞を最後の駆逐艦に乗せた辺りで、ぷっつりと」
「そう……ということは、その後の記憶を少しずつ取り戻しつつある……って考えるべきでしょうね」
「――成る程……」
 夕呼の言葉で、武は総戦技演習のときのことを思い出した。
 冥夜を捕まえた際、身に憶えのないイメージが、突如として脳裏を過ぎったのだ。単なる妄想と片付けるにはあまりにもリアルなそれは、確かに一度目の世界の記憶だったのかもしれない。
『時間をループする際、あんたは記憶という因果情報を虚数空間にばらまいている可能性があるわ』
 武の一度目の世界の記憶が虫食いであったことに対する、『前の世界』の夕呼の仮説だ。それについては、武も疑うところはない。
「その様子だと心当たりがあるみたいね」夕呼は満足そうに微笑し、「あんたの言う一度目の世界であんたが死んだ原因は、BETAとの戦闘だと考えるのが妥当よ。あんたほどの衛士が、戦場以外の所で死ねるとは思えない。つまり、あんたは一度目の世界の時点で、既に実戦を経験していてもおかしくはなかった――いえ、そうでなくてはおかしかった……にもかかわらず、あんたにとって、初めての実戦経験は『二度目の世界』でだった。――そうよね、白銀?」
 武は頷き、
「……つまり、何らかの原因で、オレは一度目の世界での実戦経験の記憶――因果情報をなくしていた……ってことですか?」
「そうよ。それを、昨日の戦闘中に何某かの切っ掛けで取り戻した。多分、流入した因果情報と記憶の関連付けが出来たことで、その記憶を認識出来るようになったんでしょうね。今のあんたは、二度目の世界での戦闘経験に、一度目の世界の経験が数年分上乗せされている状態。たとえ一度目の世界での操縦技能は今より低くても、その頃の経験が無駄になるわけじゃないわ」
 むしろ、一度目の世界では機体性能――XM3の有無も含めて――も衛士としての技能も低かった分、その経験は今の武には大いに役立つと言っていい。
 複数ある選択肢の中から、最優の選択肢を最短の時間で選択し、最適な瞬間に己の最高の技術で実行する――という技能が、戦場では常に衛士に求められる。その技能を持たぬ衛士は、自分の命を守れないばかりか、数多の仲間をも危険に晒すこととなる。
 その技能を支えるのは、他ならぬ経験である。
 そしてそれはBETAという人間の思考の及ばぬ相手であっても変わらない。不確定要素までもを含めた最適な選択肢を選び取るのもまた、経験の為せる業なのだから。
「どうしてそんな事になったのか……わかりますか?」
「残念ながら」夕呼は首を振ることもせずに、「今ある材料じゃ、あんたが因果情報を虚数空間にばらまいた原因については仮説も立てられないわね。一応聞いておくけど……二度目の世界の記憶は、殆ど丸ごと残ってるのよね?」
「そう……だと思います。そりゃ勿論、細かい部分は忘れてたりもしますけど」
 あ、そ――と夕呼はつまらなさげに相槌を打った。最後の問いは、本当に単なる確認作業だったのだろう。
「一度目の世界の方が記憶に穴があるっていうことは、因果情報の引き継ぎに何らかの条件があるか、あるいは逆に、因果情報の流出に条件があるか……まあ、今ある情報じゃ何とも言えないわね」
「そうですか……まあ、そういう仮説を立ててもらえただけで十分です。何もわからないままっていうのも気持ち悪いですから」
「まるで科学者みたいな台詞ね」
 そうですね、と武は困惑顔で頬を掻いた。
 夕呼の仮説は、正解とは言えないだろうが、ある程度の近似値ではあるだろう。夕呼に限って、的外れな仮説を立てるとも思えない。
 完全とはいかないまでもある程度疑問が解消されたお陰で、先程までの胸のつかえはすっかり取れていた。やはり、夕呼に相談したのは正解だった。
「じゃ、もう行きなさい。知ってるでしょ? あたしは忙しいのよ」
「はい。失礼しました」
 言われた通り、武は軽く会釈をして夕呼の執務室を後にした。

 このまま自室に戻ろうかとも思ったが、武はそこで立ち止まった。
 B19フロアの廊下。夕呼の執務室から出たばかりの武の脇には、もう一つの扉がある。迷わずその扉を開け、武は奥へと続く廊下へと足を踏み入れた。
 青白い光に照らし出された細長い廊下。反響した足音が幾度も耳朶を打つ。
 廊下を抜けた先には、薄暗い部屋がある。その中央には脳髄の浮かぶシリンダー。白銀武にとって、最も大切な人の内の一人――幼馴染みの、脳髄。
「霞。こんにちは」
「……こんにちは」
 ぴょこぴょことウサ耳のような髪飾りを動かす霞。
 いつも通りの無表情……いや、無表情に見えて、微かな翳りが顔にはあった。きっと、武の心をリーディングして、心配してくれているのだろう。
 彼女に空元気は通用しない。空元気を振りまく必要もない。
 だから、少しだけ……少しだけ、この小さな少女に寄り掛かりたいと、武は思ってしまった。
 ――思い出すのは、訓練の前のブリーフィングルームでの会話。
 あれからずっと、拭えない鬱々とした感情の残滓が胸の中を漂っている。弱気、と言ってもいい。白銀少佐としての自分と、白銀武個人としての自分が、乖離しているのがわかった。
 自然、武の口からは弱音のような言葉が零れていた。
「霞……手、握っててくれないか……?」
「こうですか?」
 差し出された武の手に、霞の小さな手が重ねられる。武の手の平の中にすっぽりと収まってしまうような、小さな小さな手。
 けれど、その温かな感触に、武は感謝した。
「あったかいな、霞の手は」
「……そうですか」
 微かに霞の頬に朱が差した。しかし、部屋が薄暗いことと、俯き気味の霞の頬を青白いシリンダーの光が照らし出している所為で、武からはそれを見て取ることは出来ない。
「死んで欲しくないのに死を覚悟しろ……ってのは、矛盾してるよな、やっぱり」
 きっと、まりももこんな気持ちだったのだろう。
 我が子のように思っていた自分の教え子達。誰一人として死んで欲しくないと願いながらも、自分に出来るのは戦場に立つ術を教えることだけ。武もまた、誰一人死んで欲しくないと願っているのに、出来るのは戦い方と死への向き合い方を教えることだけ。
 ……いや違う、と武はかぶりを振る。
 教えるだけじゃない。自分は彼女達と共に戦場に立つことが出来る。そうして、彼女達を護ることが、出来るはずなのだ。
 けれどそれが不可能であることを、武は誰よりも知っている。
 そんな真似が出来るくらいなら、『前の世界』で仲間達を死なせることはなかったのだから――。
「――大丈夫です」
 不意に。武の手を強く握り締めて、霞が言った。
「白銀さんなら……きっと、護れます」
「かす、み……」
 目の前が滲む。青白い光が網膜に突き刺さる。
『この世界』の誰よりも武を知っているであろうこの少女の言葉だからこそ、その言葉は胸の奥へと届き、全身を包み込んでくれる。
「ああ……そうだな……。――オレには……出来るはずなんだ……」

 ――憶えている。一度目の世界、心が、体が押し潰されそうな後悔の中、自分には何かが出来たはずだと、護るべき者を本当に護りたいという強い意志が最初からあったなら、自分には誰にも出来ないことが出来たのかもしれない、と……そう、強く思ったことを。

 ――どくん……
 心臓が、大きく脈打った。
「あ、れ……?」
 知らない。そんな記憶は知らない。
 そんなことを思った記憶なんて、白銀武にはない。

 冥夜と千鶴と慧と壬姫と美琴と夕呼と抱き合い唇を重ね言葉を交わし心を通わせ体を重ね涙を流し別れを惜しみ無念を分かち合い最後の時を過ごし未来を託し最後の別れも告げられぬまま駆逐艦に乗せた乗せられなかった目の前で殺されたなんていう記憶を、武は知らない。知っているはずがない。知っていていいはずがない。

「白銀、さん……?」
 心配するように揺れる霞の声も、武の耳には届かない。
 痛い痛い痛い痛い頭が割れそうに痛い痛い痛い――。
 脳髄が灼熱する。知るはずのない情報が流れ込んできて意識が圧迫される。頭蓋が内側から弾け飛びそう。ちかちかと視界が明滅し、噛み締めた奥歯がぎりぎりと悲鳴をあげる。破裂しそうなほどに暴れ狂う心臓、毛細血管がはち切れていく感覚。世界中の音を塗り潰してしまいそうな血流の音。
 体が熱くて、ひどく寒い。
 苦しくて苦しくて苦しすぎて涙が出る。

 ――こんな苦痛、オレは知らない。知らない知らない知らない知らない知らない……!!
 大切な人を護れなかった大切な人を送り出した避けられない別離二度と会えない別離無事かどうかさえわからない希望が実ったか潰えたかさえわからない散って散って散って死んでいく仲間好きだと言ってくれた仲間愛していた愛してくれた別れは笑顔で別れを告げることさえ出来ず誰より大切な人を喪って――。

「あ、あ……」
 苦しすぎる。こんなの、苦しすぎる。
「ああぁぁぁぁぁああああああああああああ――――!!」
 慟哭が響き渡る。喉が裂け血を吐くのもお構いなしに、武の口から咆哮が迸る。
 ――痛い。
 肉ではなく。心が、痛い――。


 2001年11月14日(水)


 ――夢を見た。

 平和の意味も知らず、無邪気に暮らしている人々の夢を。
 命を危険に晒しながら、護るべき者のために生きる人々の夢を。
 後悔と絶望の中、それでも懸命に抗い戦い続ける誰かの夢を。
 ふと……思う。自分には何かが出来たんじゃないかと。
 これが避けられぬ運命だったのなら、この世界で自分という存在はなんだったのだろう、と。
 悲しい別れも、人類の運命も、そして自分の運命も……変えられたんじゃないかと……思う。
 護るべき者を、本当に護りたいという強い意志が、最初からあったなら。
 別離を、自分を、世界を変える……そんな、誰にも出来ないことが、出来たのかもしれない。
 だから……だから、せめてこれから、生きて……生き延びて、全てを護ろうと思う。
 誰もが諦めたこの星を護り抜きたい――そう思う。
 残された人々を、残された想い出を……そして愛する人を、命を懸けて護る。
 何かが出来るはずだ。その力があるはずだ。この手の平はきっと、未来を掴むためにある。
 人類は負けない。絶対に負けない――。

 ――そんな、泡沫のような、過去の想いを。


 目を開いたとき、そこにあったのは、無機質な白い天井だった。前の世界で何度も目にしていたから、ここが救護室であるということは、すぐにわかった。

 ――ざ、ざざ……ざり……

「っ、つ――」
 思考に一瞬ノイズが走り、こめかみを刺すような頭痛が武を襲った。
 ベッドに手を突いて体を起こそうとするものの、腕に力が入らず、ほんの少し体を浮かせたところで、武の体は為す術なく再びベッドへと沈み込んだ。救護室ということで、マットレスは武の自室のそれより遥かに上質だ。柔らかな感触が、全身を受け止めてくれる。
 時計を見ると、既に午前の9時を回っている。昨日の夕食前に純夏と霞の部屋で記憶が跡切れているから、丸十二時間以上――十五時間は眠っていた計算になる。
「ん……」
 声。しかしそれは武のものではなく、もう少し高い、女の子の声で……
「……女の子?」
 首を持ち上げて、自分の体を見下ろしてみる。するとそこには、武の腹の上に上半身を載せて寝息を立てる霞の姿があった。
 気付いてみれば、確かに微かな重みがある。霞が名前の通り霞のように軽いのか、あるいはその重みを認識出来ないくらいに武の体が不調なのか、目で見なければ気付かないくらいの、本当に僅かな重みだった。
 こりゃ起こすわけにはいかないな、と苦笑し、武はおとなしく天井を見上げた。
 いつも起床ラッパ五分前に起こしてくれている霞だから、きっとこれは寝坊ではないのだろう。心配して付きっきりで看ていてくれたのだろうか。そう言えば、前の世界でXM3を作ってもらったときには、徹夜明けだったのか霞がふらふらしていたような記憶がある。
「記憶……」
 そうだ――記憶だ。
 洪水のように、知らないはずの情報が押し寄せてくる。しかしそれは知っているはずで、知らなくてはおかしいはずで、知っていなくてはならないはずの記憶で――けれど、知っていることの許されない、誰かの記憶だった。
 ずきずきと鈍く頭が痛む。脳の一番奥でごろりとした岩の塊が転がっている感じ。
 それでも、昨日よりはずっとマシだ。
 この程度の頭痛は、戦術機に乗って自分の身を顧みない機動を繰り返したときなどには、そう珍しいことでもない。今回の原因がそうだとは思えないが、耐えられないほどではなかった。
 どうせうまく体が動かせないのだ、霞を起こすのも心苦しいし、もうしばらくここで休んでいこう。
 それに、考えたいこともある。
 あの記憶は、一体何だったのか。やけにリアルな、けれど取り留めのない映像の洪水。まるで妄想、都合のいい夢。だが、それで終わらせられるはずがなかった。
 前の世界での夕呼の言によれば、武はループする際に記憶という因果情報をばらまいてしまっているらしい。何らかの要因でその因果情報を取り入れ、記憶の関連づけが行われることで、それを“思い出す”のだという。
 つまり、あれは間違いなく武の記憶なのだ。今の武に憶えがなくても、『これまでの世界』で武が経験したことだ。
 他の誰かであればともかく、彼女達とならそういった関係になっていてもおかしくはない、とも思う。武自身、そういった感情には鈍感だという自覚はあるが、彼女達に向かっている自分の想いが、単なる友情を超えているものであることには気付いていた。同時に、彼女達から自分に向いている想いについても。
 恋愛感情というほどではないが、ちょっとした切っ掛けでその域まで高まったとしても、何ら不思議ではない。
 ――だが、と武はその思考を断つ。
 それは、相手が一人であればの場合だ。何人もの人間に対してそんな感情を抱くほど、武は軽薄ではない。
 総戦技演習の時に脳裏に過ぎった、冥夜との情事の記憶。あれが一度目の世界の記憶なら、他の四人との記憶は? 二度目の世界だろうか。否、二度目の世界では駆逐艦打ち上げの後、誰か一人が駆逐艦に搭乗して欠けるということはなかったはずだ。
 だから、あるとすれば一度目の世界。けれど一度目の世界では武は冥夜と結ばれていたはずで――。
「あぁーっ! ワケわかんねえ!」
 脳味噌がパンク寸前になって、武は大きな声をあげた。
 びくっ、と腹の上で何かが小さく動く気配。「あ」と声が漏れるが、もう遅い。眠っていた霞は、すぐ傍で発せられた大声に、完全に目を覚ましてしまった。
 顔を持ち上げて、ふるふると小さく首を動かす。ぴこぴこと動く耳。その様は、まるで本物の兎のよう。
「お、おはよう……霞」
「……おはよう、ございます……」
 顔を上げて武を見つめる霞の目は赤い。髪飾りも相まって、本当にウサギのようだ。白い頬には、乾いた涙の痕が残っていた。
 そんな霞の顔を見ている内に、彼女を起こしてしまったという後ろめたさは霧消していた。
「……心配掛けちゃったな」
「いいえ……気にしてません」
「そっか」
「はい」
 霞が微笑する。
 武がこの世界にやって来た当初よりずっと、霞は表情豊かになった。こうして柔らかく微笑むということも、以前にはなかったことだ。
 可愛い笑い方するもんだ、と武が思うと、霞は頬を紅潮させた。それを振り切るように問うてくる霞。
「体の具合はどうですか?」
「あんまり良くないな……体に力が入らない。あと、色々混乱してる」
 武は苦笑しながら答えた。
 尚も思考はぐるぐると回り続ける。この記憶は一体何なのだろう。前の世界の記憶? それとも、もっと前? あるいは、さらに前――。
 馬鹿馬鹿しい、と武は目蓋を閉じてその思考を追い出した。これが『三度目の世界』であるからには、そんな前の記憶は存在しないはずだ。それとも、実際は本当に『もっと前の世界』があって、ただ武が憶えていないだけなのか。
 昨日の今日ではあるが、もう一度夕呼に相談してみるべきだろうか。
 ……それがいいだろう。疑問は早い内に解消しておくに限る。訓練中に余計なことを考えたりすることはないが、食事中などにふと思い出して周りに訝しがられるのは避けたいところだ。
 そうと決まれば善は急げ、武は体を起こそうとベッドに腕を突くが、
「え……? あ、れ…………?」
 武の体は、力なくベッドに沈み込むばかり。
 体に力が入らない。いや、力を込めようと思えば込められるのだが、思い通りに――いつも通りに体が動かないのだ。神経の配線が一つずつずれているような違和感。まるで、自分の体ではないみたいだ。たとえるなら、OSに致命的エラーの発生した戦術機。脳から下される命令が体に伝わっていかない。
「無理をしないで下さい」
 ぽつりと霞が言った。
「無理しようにも出来なさそうだな、これじゃ……」自身の現状を顧みて苦々しげな笑みを散らす武。「霞、悪いけど夕呼先生かピアティフ中尉に連絡頼めるか? 207BとA-01の訓練はどっちも見られそうにないって、神宮司軍曹と伊隅大尉に伝えて欲しいって。……あ、あと、夕呼先生に暇だったら来てくれるように言ってくれると嬉しいんだけど」
「はい。わかりました」
 こくりと頷く霞。
 夕呼については駄目元だ。彼女に限って暇というのは希望的観測が過ぎるというものだろう。相談出来れば御の字、くらいに考えておくべきだ。
 ばいばい、と手を振るお決まりの遣り取りで霞を見送ると、武は目を瞑った。何故だか、いつも通りの遣り取りに違和感を覚えずにはいられなかった。しかし、その拭いようのない違和感を、鈍い倦怠感が塗り潰していってしまう。
 やけに体が重い。一人になった途端、鉛のような眠気が武を包み込み……抗う術もなく、武は眠りに落ちた。

 ――さようなら……。

 そんな、過去の後悔の残滓が頭の奥に響くのを感じながら。


 ゆさゆさ……体が揺さぶられる。
「霞、頼むあともうちょい……」
 全身を眠気が支配している。起床ラッパまでのあと五分、ゆっくり眠らせてもらおう――
「このあたしを呼びつけておいてお休みとは、いいご身分ね、白銀」
 その声に武は、がばっ、と一気に体を起こした。彼の体を揺すっていた霞が驚いて髪飾りを立て、一歩後退る。
「ゆ、ゆゆゆゆ、夕呼先生!?」
「何驚いてるのよ。呼びだしたのはそっちでしょう?」
 呆れたように夕呼は言うが、
「いや……正直、来てもらえると思ってなかったんで……」
「あ、そ。なら帰っていい? あたし、忙しいの」
 くるりと踵を返す夕呼。音を立ててドアがスライドし、
「待って下さい! 来てもらえると思ってなかったけど来てもらえてものすごく嬉しいです、光栄の極みです!!」
「そう? ならしばらくいてあげるわ」
 にやりと笑って、夕呼は霞と並んで救護室の椅子に腰掛けた。完全に遊ばれている。
 忙しいというのは事実だろうが、首が回らないほどではないのだろう。暇だったら来てくれとは伝えてもらったが、暇ではないにしろ、その時間を捻出出来る程度には余裕があるということだ。
「それで? わざわざあたしを呼びつけた理由は何? 世間話したいだけとか言ったら、まりもの部屋に酒と一緒に全裸で投げ込むわよ」
「……それだけは勘弁して下さい」
 まりもの酒癖の悪さは元の世界で身を以て体験している。白陵大には狂犬伝説というまりもの武勇伝が伝わっていることを、伝説そのものも含め、温泉に行ったときにたっぷりと思い知らされた。
 やはりというべきか、この世界でもまりもは独り身らしい。酒の入った彼女の元に全裸で放り込まれれば、おいしくかどうかはさておき、骨の髄まで食べられてしまうことは間違いない。
 ――その瞬間、武の脳裏に過ぎるイメージがあった。

 まりもに押し倒され、そのまま肌を重ねてしまう――あまりにも鮮烈な、記憶。

「――っ!?」
 武の思考をリーディングしてしまったのだろう、霞の顔が真っ赤に色付く。まるで茹で蛸だ。対照的に武の顔からは、さぁ、と血の気が引いていく。
「社? どうかしたの?」
 ぶんぶんと、霞にしては珍しく大きな動作で首を振って、夕呼の問いを否定する。
 勿論、そんなわかりやすい挙動を見れば、何かあったのは一目瞭然。夕呼は呆れたように武に視線を投げてきた。
「白銀ぇ、あんた社に欲情しちゃってるワケ? 言っとくけど、それって犯罪よ? は・ん・ざ・い」
「人聞きの悪いこと言わないでください!」
 武が声を荒げ、
「し、白銀さんが思い浮かべたのは私じゃありません……」
 霞がフォローになりそうでならない援護をする。「つまらないわね」とでも言いたげな様子で夕呼は、「じゃあ誰なのよ?」と問うた。
 まずい、と武が思ったときにはもう遅かった。「霞、言うな!」と必死でイメージするも間に合わず、
「……神宮司軍曹です」
 霞は、はっきりとそう言った。
「――まりも……?」にやりと意地悪く笑い、「何よ、あんたも乗り気なんじゃない。まりもも喜ぶわよー? 割とご無沙汰みたいだし、あんたのことも割と気に入ってるみたいだしー?」
「違いますって! そりゃ神宮司軍曹は美人かもしれませんけど、そうじゃなくって……ああもう……! 丁度いいからこのまま説明しちゃいますよ!? オレが相談したかったのは、正にそのことで……」
「まりものこと?」
「そこから離れてくださいよ……」
 夕呼としても、なんだかんだでまりものことは気に掛けているのかもしれない。それがまりもの意思を反映しているか否かは別として。
「本題に入りますよ? 昨日、一度目の世界の記憶が戻ってきてる、って話したじゃないですか……けど、それがどうも変なんです」
「変?」
 顎に手を添えて、夕呼は柳眉を寄せた。
「はい。えっと……一度目の世界で、オレは誰かと相手と付き合ってたみたいなんです。けど、その相手が一人じゃなくて、かといって同時に何人もとか、そういうんでもなくて……」
「――同時に起こり得るはずのない、同じ時間での並行した出来事の記憶が併存してる……ってこと?」
 武は無言で頷いた。
 一度目の世界での最後の駆逐艦の打ち上げの記憶が、いくつも存在するのだ。冥夜を送り出した記憶、千鶴を送り出した記憶、慧を送り出した記憶、壬姫を送り出した記憶、美琴を送り出した記憶――それらは全て同じ日、同じ時間の記憶だった。駆逐艦の打ち上げの日程になど干渉のしようがないから、それは間違いない。
 だから、そんなことはあるはずがないのだ。
 しかし、そのあるはずがない事象が実際に起こっている。
 だが、それを言うなら、武が『こちらの世界』に来たこと、時間をループしていること、それら自体があり得ないはずなのだ。
「……もしかしたら、あんたはあんたが憶えていないだけで、何度も時間をループしているのかもしれないわね」
 そしてやはり、夕呼はあっさりと一つの仮説を立ててみせた。一度目の世界よりももっと前の世界があるのではないか……それは武も考えたことではあったが、夕呼が口にするのとでは信憑性に雲泥の差がある。
「ループした際に記憶を失うのは、あんたが因果情報を虚数空間にばらまいているから――というのは昨日も言ったわよね?」武が頷くのを確認して、夕呼は続ける。「逆に言えば、ループしているという記憶自体を失ってしまえば、あんたはこの世界に初めて来たことになる」
 未来の記憶がないから、未来を変えることもなく、結果、同じことを繰り返すことになるというわけだ。そもそも、記憶がないのだから、それが既に繰り返している出来事だということにさえ気付けない。
「けど……体はどうなるんですか? 前の世界でもこの世界でも、体は鍛えたままでしたよ」
「それも、体を鍛えたっていう因果の結果だと説明出来るわ。『一つ前の世界』という原因があるから、『今いる世界』では鍛えられた肉体という結果がもたらされる……年齢が若返っているのも同じね。一つ前の世界で歳を取ったっていう原因の因果情報が失われた結果、2001年の白銀武に相応しい年齢にまで若返った、ってワケ」
「成る程……」
「記憶を取り戻すのは、記憶という因果情報をあんたの脳が受け取って、現在持っている記憶と関連付けするから。関連付けすることで、その記憶を自分の記憶として認識出来るようになるのよ」
「ただし、どうして因果情報を受け取っているかはわからない……と」
 その通りよ、と夕呼は頷いた。
 一度目の世界の記憶が複数あることについては納得がいった……が、しかし、これでは元の世界の記憶までいくつもあることに説明が付かない。
 総戦技演習の際、冥夜と結ばれた記憶を取り戻した武だったが、つい先程脳裏を過ぎったのは、温泉での記憶だ。それらが同時に存在する可能性はないだろう。
 まさかこちらの世界と同じように、死ぬたびにループしているわけでもないはずだからだ。
 そのことについて訊ねると、
「……もしかしたら、あんたの言うところの元の世界の因果情報の一部を受け取っているのかもしれないわね」
「どういうことですか?」
「あんたには元の世界の複数の確率分岐未来の因果情報を観測出来るのかもしれないってこと。分岐した世界……たとえば、サイコロを振って一が出た未来と六が出た未来と、その両方を見ることが出来るってワケ」
 つまり、冥夜と結ばれた未来が一の目、まりもに押し倒された未来が六の目、といったところだろうか。一の目と六の目が同時に出ることはないから、普通は片方の未来にしか辿り着くことは出来ないはずだが、武にはその両方の未来を見ることが出来る。
「剃刀捨てて仮説に仮説を重ねてるから、信憑性はかなり低いけどね……まあ、あんたは平行世界を渡って時間をループするくらいだから、それくらいのことが出来ても不思議じゃないわ」
「酷い言い様ですね……」
 武は苦笑するが、「ほんとのことでしょ?」という夕呼の言葉には頷くことしか出来なかった。
 武は天井を仰いで、目を瞑った。
 207B分隊の仲間達と愛し合った記憶。詳細な記憶がないので、まるでもう一人の自分が演じた演劇のビデオでも見ているみたいに、どこか現実感が稀薄ではあったが、それらは確かに自分の記憶だ。
 ――だから、か……。
 ようやく、武は気付いた。何故、自分がこの世界で生きていくことを、この世界で死んでいくことを決意したのかを。
 愛する者がいたから。護るべき人がいたから、この世界に骨を埋めようと思ったのだ。
 それも、一度や二度ではない。大切な仲間達と共に過ごし、生き、愛し合った日々が、世界が、いくつも積み重なっていたから。だから、こうもこの世界を護りたいと思うのだ。
 何度、終末に直面したのだろう。何度、記憶を失ったのだろう。何度、やり直したのだろう。
 たとえ全ての記憶を失ったとしても、消えない想いがある。
 彼女達を大切に思う気持ちは。絶対に……何があろうとも、消えはしない――。
 ここにはいない、ここにいる彼女達の想いは、今も武の中に息づいている。取り戻した記憶は、彼女達から武へと託された希望だ。
 そう思うと、武には、全身を襲うこの苦痛さえ愛おしく思えた。


 2001年11月16日(金)


「やっぱり、XM3の慣熟はこっちの方が早いか……」
 F-4J撃震に乗った武は、ぽつりと呟いた。
 先日、B19フロアで倒れた後遺症などは一切なかった。
『それは伊隅大尉達と比べてでしょうか?』
 武と共に撃震で仮想敵機を務めるまりもが、武の独り言に対して訊ねる。
 通信しながらも、二人の操る撃震の動きに淀みはない。
 吹雪が搬入されてから四日、207B分隊は予定を繰り上げて、昨日から実機での旧市街地演習を開始していた。
「操縦技術だけなら断然ヴァルキリーズなんだが、207B分隊は前のOSを知らないからな。固定観念がない分、素直にXM3に順応してくれてるよ」
 勿論そうは言っても、バルジャーノンという直接の発想の源がないため、武のような機動は出来ていないのだが。それでも、先任達よりはずっとそれらしい機動を物にしていると言える。
『少佐の実戦機動を直に見たことも大きいでしょうね』
「え? オレ、あいつらに弐型乗ったところを見せたことなんてあったか?」
『以前のA-01との模擬戦を見せておいたのです。自分達の教官と任官後所属することになる精鋭部隊との戦いなら、見ておいて損はないですから。尤も、A-01については明かしていませんし、自由参加でですが』
「ああ……あの後、あいつらの態度がなんか仰々しいと思ったら、そういうことか」
 それまで通りPXで一緒に夕食を摂ろうとしたところ、何故だか強烈な尊敬の念を孕んだ眼差しで見つめられ、一分の隙もない敬礼をされてしまったのを思い出す。折角打ち解けてきたはずだったのに、と悩んだりもしたが、そういうことなら仕方ない。
 勿論、今ではすっかり元通りだが。
「それより、神宮司軍曹から見た感想は?」
『そうですね……概ね少佐の言う通りかと。操縦技術はともかく、XM3の特性はうまく引き出せていると思います』
「とは言っても、まだまだ神宮司軍曹には及ばないけどな」
 武を除けば、XM3に最も長い時間触れているのはまりもだ。207B分隊にXM3の使い方を教えるために、彼女は武からじきじきにXM3を最も効率よく運用するための機動概念を教わっていた。
『当然です。実機に触れたばかりのヒヨッコ達には負けられません』
 そう言って、まりもの乗った撃震は噴射跳躍しながら87式突撃砲のトリガーを引く。相対するは千鶴のタイプ97吹雪。
 ペイント弾を躱そうと退却する吹雪だが、退路へと放たれた新たな弾丸に一瞬、硬直してしまう。
 まりもはその隙を見逃さなかった。
 ポイント、ロックオン、トリガープル。
 一連の動作に淀みはなく、都合二十の弾丸が、青い吹雪の機体をオレンジ色に染める――ことはなかった。
 千鶴に生まれたその隙を、狙い澄ましたように一つの弾丸が埋めたのだ。直撃こそなかったものの、撃震を弾丸が掠めていく。
『珠瀬か!』
 さらにそこへ、美琴が掃射を仕掛けてくる。
 千鶴への威嚇射撃は続けたまま、まりもはバックステップで後退、ビルの陰に身を隠した。
 生身での射撃能力も高い壬姫だったが、戦術機での射撃能力、殊に遠距離狙撃に関しては、まりもが知る中でもトップクラスと言っていい。
 やるわね、と呟いてまりもは舌先で乾いた唇を舐めた。
 そこに肉薄する一つの影。65式近接戦闘短刀を構え飛び込んでくるのは慧。
 まりもは紙一重で回避、後方への噴射跳躍で距離を取るが、慧はそこへ追いすがってくる。
 いや、慧だけではない。慧と二機連携を組む冥夜の吹雪が、その後方からまりもの撃震目掛けて突撃砲を撃つ。
「イェーガー1、フォックス3!」
 武はすかさず横から援護射撃、二人の追尾を阻止する。
 やはり、練習機とはいえ第三世代機である吹雪と撃震の差は大きい。主機出力こそ撃震が勝っているものの、根本的な機体性能が違いすぎる。最新のブロック214にβ版XM3を搭載した程度では、機体性能の差は覆せるものではない。
 ただし、衛士の練度の差によって、それを覆すことは出来る。
 訓練兵と熟練の衛士。むしろ、少しでも差を埋めるためには丁度いいハンデだろう。
「軍曹、オレが前に出る。援護を」
『了解』
 武を前衛、まりもを後衛に置くトップ&バック。
 ここまでは207小隊のXM3に対する練度の確認に徹していた武だったが、それはもう必要ないという判断だった。
『一度目の世界』『二度目の世界』、そして『この世界』、どの世界でも彼女達の上達は目覚ましい。彼女達を教導する立場に立って初めてわかった、その才能。全員が揃って動作教習応用課程Dを三日足らずでクリアしたことからも、その片鱗が窺える。
「これなら一安心……かな。――だが」
 小さく呟いた武の撃震が、アスファルトを蹴った。
 前衛として突出する形になっていた冥夜の吹雪目掛けて吶喊する。
 迎え撃たんとする御剣機の装備は長刀。
 その背後から榊機と珠瀬機によって放たれるペイント弾の第一陣を飛び越え、第二陣を二弾ジャンプで、第三陣を逆噴射でやり過ごす。その間、冥夜の機動を弾幕で封じることも忘れない。
「御剣! お前は長刀に頼りすぎだ! 近接武器は突撃砲と併せて使えと言っただろう!!」
 オープンチャンネルで冥夜のミスを叱責しながらも、さらに逆噴射をキャンセルしての水平噴射跳躍で、一瞬にして武は冥夜の懐へと飛び込んでいた。
 後退しようとする冥夜を、しかしまりもの援護が許さない。白銀機から僅かに射軸をずらしての援護射撃は、後退だけではなく、左右は勿論上方にまで弾幕を張り巡らせ、完全に機動を封じている。
 そして、御剣機の動きが一瞬止まった。
「この程度で動きを止めてどうする!」
『……ッ!』
 武の口から怒号が飛ぶが、操縦の手は些かも緩められはしない。
 先程から、この繰り返しだった。たった一つのミスをも見逃さず、もしそんなものがあれば、容赦なくそこを突き、通信を通してそこを指摘する。しかし指摘した瞬間には手遅れになっている――武あるいはまりもに撃墜されている――こともしばしばであった。
 今回は、撃墜よりも叱咤の方が先だった。
 飛び込んできた白銀機目掛けて冥夜は慌てて突撃砲弾を放とうとするが、武の方が早い。振り抜かれた短刀が突撃砲を叩き落とす。さらに一歩踏み込み、武は返す刀で短刀を振るった。容赦のない一撃がコクピットを叩く。
 致命的損傷と判断された冥夜の吹雪が完全に沈黙する。すかさず武はその陰にしゃがみ込んだ。
「02――」
『――了解』
 一瞬で意図は伝わった。
「御剣、歯を食いしばれ。舌を噛みたくなかったらな」
『え?』
 通信で冥夜に言い放つと、間抜けな声があがり終わるより早く、白銀機が吹雪を押し倒した。膝から崩れ落ちた格好の吹雪が、後ろへと倒れていく。同時、
『イェーガー2、フォックス2!』
 120mm滑空砲の使用を告げるまりもの声、倒れ込んだ機体の上を滑空砲がその名の通りに高速で滑空し、千鶴の吹雪を撃墜する。予想だにしなかった砲撃に、千鶴は回避行動に移ることさえ叶わなかった。
「ボケッとするな! 戦場に安全圏なんて物はないんだぞ!!」
 たった一瞬の油断から命を落とした衛士を、武は何人も知っている。気を抜いてもいいのは、戦場から全ての敵を駆逐した時のみだ。
『02より01、20704接近!』
「了解ッ!」
 冥夜と連携を組んでいるからには、慧が控えていることは必定。
 短刀を振り上げた彩峰機が、跳躍ユニットから炎を吐き出しながら白銀機へと迫る。
 振り下ろされる長剣の一撃を機体を捻ることで躱し、お返しとばかりに、着地の瞬間を狙って突撃砲を撃ち込んでやる。
 だが慧は、着地の硬直をキャンセル、短刀を手放しながら横へと転がるように跳躍すると、噴射ユニットを利用してバランスを取りつつ、さらに武へと36mm弾を放ってきたのだ。
「っ……!」
 これには、流石の武も息を呑んだ。
 武が教えた、一動作ごとの隙を限界まで解消して連続させる、キャンセルとコンボ、そして先行入力を駆使した機体制御を、多少の粗はあるとはいえども、慧はほぼ完璧にこなしてみせたのだ。
 元々207B分隊の中では機動制御に秀でた慧であったが、これほどまでとは武も思いもよらなかった。
 少なくともこの一瞬においてのみ、慧はA-01にさえ引けを取らない操縦技術を発揮していたのだ。
 武は唇を吊り上げる。
 撃震の噴射跳躍ユニットが、盛大に粉塵を巻き上げながら火を噴いた。
 飛ぶ方向は上でも横でもましてや後ろでもなく――前方。
 弾丸の雨を、限界まで機体姿勢を前傾させての極低空匍匐飛行でくぐり抜ける。ほんの一瞬の操縦ミスが大惨事となりかねない、曲芸紙一重の機動制御。
 青色の疾風と化した撃震は、背部のパイロンに手を伸ばすと抜剣、そのまま高速で吹雪へと肉薄、擦れ違いざま、彩峰機を袈裟懸けに両断した――無論、模造刀であるから、実際には両断とはいかないのだが。
「敵が動けなくなるまで油断するな! 死にたいのか!?」
 長刀を振るった勢いそのままに、撃震が前方への回転運動を始める。跳躍ユニットを動かして制動を掛けながら武は長刀を手放し、ナイフシースから短刀を抜き放った。
 残るは制圧支援の美琴と砲撃支援の壬姫のみ。
 前衛と司令塔を失った時点で、この模擬戦の結果は既に決まっていた。


「やっぱりタケルと教官は強すぎだよー」
 デブリーフィングを終え、PXで昼食を摂っていると、美琴が言った。
 PX内は暖房が効いているので、武は上着を脱いで椅子の背もたれに掛けている。
「そうですよねー……ミキ達、まだ一回も掠ったことさえないですしー」
「同い年だっていうのにこんな差があるなんて、まったく嫌になるわ」
「それは仕方があるまい。何しろタケルは少佐、訓練兵である我々とは違うということだろう。神宮司教官も、かつては教導隊に属していたほどだと聞いている」
「……特別だね」
 褒め殺しとも言うべき五人の攻勢に、武はたじたじだった。
「経験の差だろ。オレも神宮司軍曹も、お前らよりもずっと長く戦術機乗ってるんだから。乗ってる機体が違うとはいえ、こんな短期間に追い付かれてたまるか」
 尤も、五対二という前提がある以上、たとえ彼女達に負けたとしても追い付かれたということにはならないのだが。
 それでも、まだまだ負けてやるわけにはいかない。
 目的があれば人は強くなれる。目標があるから人は強くなれるのだ。
 だから、もうしばらくの間、武は彼女達の目標であり続けなくてはならない。彼女達の目指す、辿り着くべき強さの象徴として。
「ちなみに、今日の演習は彩峰の出来がかなり良かったぞ」
「……本当!?」
 褒められたことが余程嬉しかったのか、慧はテーブルに手を突いて身を乗り出してきた。
「お、おう……ほんとだぞ」
「……そう」
 勢いに気圧された武が頷くと、慧は珍しくいかにも嬉しそうに唇の端を吊り上げた。
 コーヒーモドキを一口飲んで、武は言う。
「最後の動きは殆ど完璧だったよ。もう一個先を読んで、回避行動に移れれば文句の付けようがなかったけどな……ま、そのときはそのときで神宮司軍曹が撃墜してただろうけど」
 横に跳んで回避すれば武が追い討ちをかけるし、上に跳べば即まりもの餌食だ。だから、突撃砲での攻撃を躱された時点で、既に慧は詰まれていたと言える。
 しかし、評価すべきは、噴射跳躍からの斬撃、着地と同時に短刀のパージと側転、跳躍ユニットによる機体制御、36mm弾の掃射という一連の動きをこなしたという事実。
 この横浜基地であの動きに対処出来るのは、武とまりも以外にはみちるを始めとしたA-01の数名くらいだろう。
「多少のまぐれはあるかもしれないけど、あれだけの動きが出来るようになれば上出来だ。あれがいつでも出来るようになれば、実戦部隊の突撃前衛だって出来るよ」
 少々過大評価かもしれないが、実際に『前の世界』で慧がA-01の突撃前衛であったことも考えて、武はそう締め括った。
「むう……」
 同じ前衛として慧ばかりが褒められていることが気に食わないのか、唇を尖らせて唸る冥夜。
 こんな仕草を見ていると、冥夜が、衛士を目指す訓練兵ではなく、ただの少女のように見えてしまう。だが、それを口に出すことはしない。それはきっと、彼女に対する侮辱以外の何物でもないだろうから。武にそのつもりはなくとも、冥夜はそう感じてしまうに違いなかった。
 ……それにしては、慧を除く四人が四人、揃って慧をジト目で見つめているようだが。
「ま、オレから言わせりゃ、全員まだまだだ。何度も言ってるだろ、動きを止めるなって。撃震と吹雪とじゃ機動力が段違いなんだ、その差を活用しないでどうする」
 主機出力こそ撃震の方が上ではあるが、そこには第一世代機と第三世代機という歴然たる差がある。機体重量は勿論、OBLやアビオニクスの進化といった即応性の向上。機動力に関しては吹雪に軍配が上がる。
 ましてや、XM3はキャンセルにより動作間の隙を限界まで減じることに成功している。常に動き回れること……それがXM3の最大の強みなのだ。
「ねぇタケル、もしタケルが二機連携を組むとしたら、その相手は誰になるのかな?」
「――!?」
 突然、美琴はそう訊ねた。
 不意に空気の温度が急激に下がり、張り詰めたようだった。もしこの場に第三者がいれば、背筋に冷たい汗を伝わせていたことだろう。それほどの重圧が、空間を軋ませるほどにこの場を支配していた。
 しかし、
「普通に考えたら神宮司軍曹だろうなあ。相性いいし」
 自他共に認める鈍感男白銀武には、何の意味も持たなかった。
「…………はあ……」
 千鶴の溜息と共に、張り詰めた空気が一気に弛緩する。まさかこの場にいない人間の名を出されるとは思いもしなかったし、誰もが納得せざるを得ない順当な答えだったからだ。が、
「お前らの誰かだと……冥夜か彩峰になるのかな、やっぱ」
 自分に向けられた溜息の意味も視線の意味も理解出来ぬまま、武はそう続けたのだった。
「ほ、本当か!?」
「……本当?」
 がばっ、と先程のように冥夜が、それに加えて慧までもが身を乗り出してくる。
「オレも元々前衛だからな。組むなら前衛同士だろ」
「……そういうことか」
「……なんだ」
 咲き誇った花が一晩でしおれてしまうように、冥夜と慧は椅子に座り直した。
 五人の一喜一憂する姿に、武は首を傾げるしかなかった。

「……ねぇねぇ、タケル?」
「今度は何だよ?」
「なんか正規兵の人達が、こっちをチラチラ見てるんだけど」
 美琴の視線の先を追うと、成る程、確かにこちらを見ている男女二人組の衛士が立っている。
 その姿を認めた途端、武の脳裏に沸き立つイメージがあった。
 ――間違いない。武御雷のことでくだらない因縁を付けてきた国連軍の衛士だ。
 この世界でもあんなくだらない真似をするつもりだろうか。ほとほと呆れ果てた連中だった。
「気にすることねえよ。ほっとけ」
 関わるだけ時間の無駄だろう。いざとなれば、自分が出て行って黙らせてやればいい。
「……でも、なんか目つきが」
「気にするなって。オレはお前らと静かにメシ食いたいんだよ」
「…………」
 武の言葉に沈黙する一同。
「……けど、確かに見てますねー」
「なんだ、たまも気になるのか?」
「え? えっとー……はい……」
 仕方ねえな、と内心で溜息を吐いて、武は箸を置いて立ち上がった。
「白銀? どこ行くつもり?」
「京塚のおばちゃんに合成宇治茶お代わりもらってくる。ガキのお使いじゃないんだから、ついてくんなよ」
 武は宣言通りカウンターへと向かっていく。
 二人組は、武が207B分隊と共に食事を摂っている光景を見ていた。だから、近付けば向こうから勝手に話し掛けてくるはずだ――だが、武の記憶の通りにはいかなかった。
 衛士の二人は、自分達へと近付いてきた武を避けるように歩き出し、素通りしてしまったのだ。いつ絡んでくるかと待ち構えていた武としては、肩すかしを食らったような気分だ。
 その行き先を反射的に目で追って――武は、脳髄の奥で白い炎が爆ぜるのを感じた。
 こともあろうに、二人は、わざわざ武から逃げるように大回りにテーブルの間を縫い、207B分隊の許へと向かったのだ。
 そも、武の階級は階級章を見れば一目瞭然。これまでの世界で、真那が現れただけで震え上がってしまったような二人が、武に問うてくるはずがなかったのだ。
 自らの愚かさを呪いながら慌てて踵を返す武だったが、既に二人組の衛士は、横柄極まりない態度で、少女達に話し掛けて――否、絡んでいた。
「ハンガーにある特別機……帝国斯衛軍の新型は誰のだ? お前の隊の中の誰か用だと聞いたが」
 お前のか? という問いに、千鶴は首を横に振った。その後も、品定めでもするみたいに、二人は順繰りに207B分隊へと視線を巡らせていく。
 向けられた視線に壬姫が身を縮こまらせたその時、
「――少尉、私の機体です」
 これ以上は黙っていられないと思ったのだろう、冥夜が名乗り出た。それを遠目に見ていた武は、周囲など気に掛けず、大きく舌を鳴らした。
「……お前の名は?」
「御剣冥夜訓練兵です」
「お前……あれ? ……なんか……」
 そのとき、男の方が何かに気付いたようだった。が、すぐにそれはないと否定したらしく、態度を変えることはなかった。
「ああ……どうなってる? 何であんなモンがここにあるんだ?」
「…………」
 冥夜は答えない。答えられるはずがない。
 沸々と、腹の中に、煮えたぎるような激情が湧き上がってくるのを武は感じた。
 自分に対してならば何を言おうとも構わない。
 ――だが、御剣冥夜という、白銀武にとって掛け替えのない仲間への仕打ちだけは、見過ごすことは出来なかった。
 人間だろうとBETAだろうと、仲間に、部下に手を出す者は絶対に許さない。
「少尉」
「あ? 何――ッ……!?」
 後ろから投げ掛けられた声に、男が振り向く。
「それは貴様の個人的な興味を満足させるための質問か?」
 まるで鉄仮面を被ったかのように、努めて無表情を装い、敢えて軍人然とした、毅然とした態度で武は問う。そうしないと、自分を律することが出来そうになかった。
 軍人たらんとする意思は、反吐が出るほどに白銀武を白銀武の形に留めてくれる。
「なっ……!? しょ、少佐殿……!?」
 女の方が声をあげた。当然だ、少佐階級にあるような人間に話し掛けられるような覚えは――それも、こうも攻撃的に――彼らにはないはずなのだから。あるいは、間近で見た少佐の若さに驚いたのかもしれない。
 武は二人の驚駭を無視して続ける。
「それとも、『あの機体に搭乗する衛士を探せ』という雑役を遂行中なのか?」
「そ、そんなことは……」
「ああ、そんなガキのお使いみたいなことをする衛士がいるはずがないよな。――おっと、ここにいたか」
 武は、冷ややかな――氷のような侮蔑を込めて、吐き捨てるように言った。その薄氷一枚の下に、地獄の業火じみた憤怒を燃やしながら。
 そんな武の態度が気に食わなかったのか、男の顔に赤みが差した。
 階級が上とはいえ、明らかに年下の――それこそ先程まで自分が絡んでいた訓練兵と同年齢程度にしか見えない――人間に、ここまで見下されたことが癇に障ったのかもしれない。
 武も自分が精神的に未熟であるという自覚はあったが、この程度で感情を表に出すなど、この男はそれ以上だ。
 訓練兵であった頃は散々教官に罵倒されたであろうに、任官した途端、すっかり忘れてしまったらしい。
「そんなくだらないことより、貴様には他にやるべきことがあるんじゃないのか?」
「…………」
 男は歯を食いしばっていた。口を開けば飛び出しかねない罵詈雑言を抑え込んでいるようでもあった。
 それを見ても武の顔に貼り付いた薄氷が溶けることはなく、軍人然として問いを続ける。
「少なくとも訓練兵相手にイキがるより有意義なことはいくらでもあるだろう、少尉?」
 武がわざと挑発的に言ってやると、二人組は揃ってわなわなと震えだした。固く握りしめた拳は、今にも振り上げられそうだった。
 武はにやりと口元を歪め、
「どうした、何か言いたそうだな?」
「……はい、いいえ。何も……ありません」
 そうか、と武は唇の端を吊り上げた。
 だが、表情とは裏腹に、武の腑は煮えくりかえっていた。
 あの武御雷は、単なるこの国を象徴する紫色の将軍専用機であるだけではないのだ。
 むしろ、ただの専用機であれば、いくらでも貶めて構わない。国連軍衛士に、武御雷に価値を見出すことは難しいだろう。武にとっても、この国その物には特別な価値などない。だから、ただの国の象徴などというものに、武が意味を見出すことなど出来るはずがなかった。
 ――だが。その将軍専用機が、他ならぬ煌武院悠陽から御剣冥夜に贈られた物であるならば話は別だ。
 あれはただの戦術機ではない。悠遠の距離を遥か引き裂かれた姉妹の、しかし跡切れることのない絆の形なのだ。
 煌武院悠陽が御剣冥夜に、己が想いを託して贈ることの出来る、たった一つの物。
 ――ああそうだ、こんな連中に冥夜が、殿下の想いが込められた武御雷が貶められていいはずがない……!
 どろりと。澱が、凝っていく――。
 強い粘性を持つ何かが、肚の奥底で渦巻いている。
 毛穴という毛穴から噴き出し、武の全身を染め上げていく、不可視の澱。漆黒の炎に体を焦がされていくような感覚。
 それは、一点の曇りもない、害意と敵意と、そして――。

「――少尉、貴様らの本分は何だ」
 内側の灼熱と反比例するかのように、武の外側は凍て付いていく。
 その声は、静かに紡がれたものであるにもかかわらず、ただの一言で、PX全体をしんと静まり返らせるほどの強い言霊を宿していた。
「は――人類の尖兵となり、人類に仇なすBETAを滅ぼすことであります」
 女が淀みなく答える。訓練兵の頃から、幾度となく教え込まれ、繰り返させられたであろう言葉、衛士の原点を。
「その通りだ。――なら、階級を楯にした個人的な憂さ晴らしはもう十分だろう? 貴様に与えられた権限や力は……護るべき者達を……人類を護るためにあるんじゃないのか? ――そんなことで、大切な人を護れるとでも思っているのか、貴様らはッ!?」
 一喝する。PX全体の空気が震えるような大音量だった。その怒声を直に叩き付けられた二人は、まるで雷に打たれたかのように、びくっ、と体を震わせた。その瞳は涙で潤み、喉からは声にならない、嗚咽にも似た悲鳴。
 ――くそ……ッ!
 それを見ながら、武は内心で毒突いた。
 この程度か。この男の覚悟は、この程度でしかないのか。
 こいつらは何のために衛士になったんだ――沸々と湧き上がる怒りと共に、そんな疑問が脳裏を過ぎった。護るべき者が、大切な人達、後世に遺したい何かのためじゃないのか。
 こんなことをしている暇があれば、一秒でも長く訓練をして、少しでも強くなるべきなのに。
 どんなに強くなっても、足りないのだ。大切な人達を護るには、どんなに力があっても足りない。どんなに血の汗を流し、血の涙を流し、血の反吐を流し、どんなに強くなろうとも、理不尽に全てが奪われる。
 それが戦場であり、それがBETAというものだ。
 それでも。それでもその理不尽に、少しでも抗うために、強くなるのだ。
 大切な人達を、護るべき者達を……人類を護る、そのために――。
 ――なのに、こいつらは……!
「貴様らは何を勘違いしている……」武の声は、抑えきれない激情で震えていた。「その少尉という階級は、目下の人間に威張り散らすためにあるんじゃない。階級とは、責任の重さだ。どれだけ多くの部下を、仲間を背負わなくてはならないという、責任の重さなんだよ……!」
 たとえば、少尉であれば自分自身。中尉であれば小隊の四人、大尉であれば中隊の十二人……直接背負うべき命は、少しずつ増えていく。
 さらには歩兵や戦車兵、CP……実際に背負う数は、その十倍以上だ。
 権利とは、義務の裏返しだ。強い権限を与えられた者は――道を指し示そうとする者は、背負うべき責務の重さから目を背けてはならない。
 望むと望まざるとに関わらず、力を持つ者には常に責任がついて回る。それが、力ある者の宿命だ。
 武は無造作に腕を伸ばし、男の軍服の襟を掴むと、自分の方へと男を引き寄せた。たたらを踏んで、男は武にもたれ掛かるような格好になる。
「あの武御雷は、日本政府と国連軍総司令部の合意の下、ある事情で配備されたものだ。一介の衛士が知っていいことじゃない」男の耳許に口を寄せ、武は囁くように言う。「Need to know……この言葉の意味、わかるな?」
 男は、がくがくと、壊れた操り人形のように、何度も首を縦に振るばかりだった。
 それを見届けて、武は満足げな笑みを浮かべて男の胸座から手を放すと、軽くその胸を押した。脚をもつれさせながら後退する男を、女が慌てて支える。二人の顔は、揃って色を失い、蒼白になっていた。
「――さっさと失せろ。そうすれば、特別に今回の件は不問にしてやる。――その分、死ぬ気で実力を磨くんだな」
 顔に浮かべていた笑みを消し、冷酷に言い放った。
 二人は慌てて敬礼すると、逃げるように去っていく。その後ろ姿を見ながら、「――チ」と武は短く舌打ちした。
 一度目の世界でも二度目の世界でも同じことをしていたが、あんな衛士がのさばっていること自体、弛んでいる証拠だ。極東の最前線とは言っても、日本全体で見れば、ここ横浜基地は後方に当たる所為だろうか。夕呼がXM3のトライアルに際して、わざわざBETA奇襲を演出してみせたのも、仕方のない事だったと納得してしまいそうになる。
 あの二人もこれに懲りて、こんな無駄な事をしている時間を訓練に充ててくれればいいのだが。

 ふう……と一つ息を吐いた武は、自分をぐるりと取り囲んでいる野次馬を見渡した。
「騒がしくして悪かった。みんな、気にせず食事なり休憩なりに戻ってくれ。――おばちゃんも、すみませんでした」
 武の言葉で、野次馬達が散り散りに去っていく。興味はあるのだろうが、一応少佐の命令とあっては、逆らうわけにもいかないのだろう。
 後には、武と207B分隊、京塚曹長だけが残された。
「別に構わないさ。タケルの衛士らしいところも見れたしねえ」
「おばちゃん、それじゃまるで、オレが衛士らしくないみたいじゃん」
「おや、自分が衛士らしいとでも思ってたのかい、この子は?」京塚曹長は大きな口を開けて笑う。「けど、今のは随分と格好良かったじゃないかい、タケル。……まったく、ヒヤヒヤさせるんじゃないよ」
「ついカッとなっちゃってさ……冥夜にあんなことされて我慢してられるほど、人間出来ちゃいないんだよ、オレは」
「タケル――」やや目を伏せながら、冥夜は小さく武の名を呟いた。「そなた……あの者達が何をしたがっていたか、知っていたな?」
「知ってたわけじゃない……ああいう連中の考えることは、目を見れば大体わかるよ」
「そうか……」
 どこか納得のいかないといった面持ちで、冥夜は言った。
 そんな冥夜に向かって、武は微笑を浮かべてみせる。先程の剣幕が嘘のような、穏やかな笑みだった。そのまま、駆け寄ってきた207B分隊の面々を見渡し、
「それよりほら、もう昼休みも終わるぞ? 遅刻して神宮司軍曹に怒られないように、さっさと行ってこい」
「――あ、本当だわ。みんな、急ぎましょう」
 千鶴の号令で207B分隊は廊下を駆けていく。途中、何度も振り返る冥夜に、武は手を振って応えた。


 PXを後にした武が廊下を歩いていると、曲がり角の向こうから、真紅の軍服を纏った女性が現れた。帝国斯衛軍第19独立警護小隊隊長――月詠真那中尉だ。
「あ……月詠さ――中尉……」
「……名前を呼ぶことを許した憶えはありませんが……よいでしょう」ほんの一瞬、柔らかな微笑を口許に散らして、真那は言う。「……冥夜様に対する心遣い……感謝致します」
 そのまま、真那は深く頭を下げた。どうやら、先程の件、一部始終を見ていたらしい。警護すべき相手である冥夜が絡まれていたのだ、それも当然だろう。
 だが、武は面食らわずにはいられなかった。あの真那が、未だ疑われたままであるはずの武に対し、腰を折ったのだから。つい先日は階級の差を指摘しても、敬語の一つも使わなかったにもかかわらず、だ。
「やめてください、月詠中尉。オレはアイツの教官です。あれくらい当然ですよ」
 自分の仲間があんな目に遭っていたのだ、感謝される謂われはない。
 そういえば……と武は、これまでの世界でも何故か感謝されたこと、そして二度とも彼女に助けられることとなったことを思い出していた。
 顔を上げた真那は、「ですが」と言って表情を引き締めた。視線に敵意はないが、その眼差しはやはり険しく、厳しい。
「……貴殿の嫌疑が晴れたわけではありませぬ……それを忘れないでいただきたい」
「わかってますよ。あれくらいで信用してもらえるとは思ってません」
 真那にとって、武が死人――いや、死人の名を騙る存在であるということに変わりはない。
「……一つだけ、聞いていいですか?」
「どうぞ……ただし、答えるかどうかは別ですが」
 それで十分です、と前置きして、
「――どうして、白銀武の名前が城内省のデータベースにあるんですか?」
「ッ……!」
 予期していなかった質問なのだろう、真那の呼吸が一瞬止まった。
「おかしいと思ってたんですよ。少なくともオレが知ってる白銀武は、柊町で暮らしている普通の人間でした。そんな人間の名前が、内務省や地方自治体ならともかく、将軍家の諸々を管理する城内省のデータベースにあるなんて、普通は考えられません。それも、写真付きで」
 自分で自分の過去を洗うってのも変な感じでしたけどね、と武は最後に付け加えた。
 この奇妙な点に気付いたのは、前の世界でオルタネイティヴ5が発動された後のことだ。
 時が経つに連れ帝国の仕組みなどを知っていくと共に、それまでは見えなかったものも見えてくるようになる。
 その一つが、白銀武の名が城内省のデータベースにあるという事象の異常性だった。
 自分とは全く別の存在であるとわかっていても、武とこの世界の『白銀武』は無関係ではない。武が白銀武として生きている以上、『白銀武』の過去を継承することになるのだから。
「……答えてはもらえませんか?」
「…………」
 真那は口を噤み、頑なに沈黙を守っている。
 要するに、一種の機密なのだろう。部外者、それも将軍家に仇なす疑いを掛けられた人間に教えていいことではない、ということか。まあ、城内省のデータなのだから、それも仕方がない。
「わかりました。じゃあ、質問を変えます。イエスかノーかで答えてくれればいいですから」
「……そうしていただけると助かります」
 質問は一つと言ったが、答えてもらっていない以上はノーカウントだろう。武は問うた。
「オレの……白銀武の名前は、情報省や城内省――特に斯衛軍にとって、特別な名前なんですか?」
「…………」
 真那は答えない。だが、この沈黙こそが、何よりも雄弁な肯定だった。
 やがて武が、真那が答えないことに乗じて次の質問を練り始めた頃、
「……イエス、と言っておきましょう」
 重い口を開いて、真那は言った。「そうですか」と武は頷いて、思案を巡らせる。
 夕呼に助力を仰ぐべきか。前の世界では城内省のデータベースさえ改竄していたはずだから、そういった情報まで収集することは難しくないはずだ。だが同時に、そんな些末なことで夕呼の手を煩わせるわけにはいかないという思いと、夕呼に知られずにことを運ぶことで今後の交渉材料に出来るかもしれないという考えもあった。
 武は夕呼を信頼しているが、完全には信用していない。
 前の世界の6月8日、夕呼は武に教えられることは全て教えたと言っていた。だがそれは、武が知っても問題ない――つまり、この世界の夕呼が武を駒として動かす上で支障とならない範囲内でしかないということでもある。現にこれまで、武には自分が夕呼の思惑通りに動いている――動かされているという確信があった。唯一のイレギュラーは先日のBETA退治だが、それも誤差の範囲だろう。
 夕呼の駒で終わらないためには、夕呼と交渉出来る材料を持っておく必要がある。
『白銀武』の過去を知ることは、そのときのカードになる可能性がある。過去を知れば、そこから新たなカードの手掛かりが手に入るかもしれない。
 しかしそれには、自分の力で全てを知らなくてはならないということでもある。コネがない武にとって、それが困難であることは言うまでもなかった。
 現段階で武が持っている、カードとも言えないカードは――目の前にいる真那だけだ。
「――白銀武殿」
「は、はい」
 突然名前を呼ばれ、武は思わず背筋を伸ばした。
「……何ですか?」
「貴殿が何者かは知らぬが……冥夜様が貴殿を頼りにされていることは確か。私個人として貴殿にお頼みしたいことがあります」
「なんですか……」
「人として、冥夜様のお気持ちを裏切ることだけは……してくれませぬよう――」
 声音に切実な響きを宿して、真那は言った。
 誰よりも冥夜を心配しているが故の言葉。元の世界からずっと真那を見てきた武には、その気持ちが痛いほどわかった。
 ――だからこそ、言わずにはいられなかった。
「それ、本気で言ってるなら……怒りますよ?」
「何――」
 真那は怪訝そうに眦を下げた。
 武は、真那の双眸をじっと見つめながら続ける。
「言ったはずです、オレは絶対に冥夜を裏切らない。オレを信用出来ないのは構いません。けど、その言葉だけは、命を懸けたっていい――オレの誓いです」
「……そうでありましたな」
 ふっと口許に自嘲するような笑みを浮かべる真那。
「どうやら無駄な言葉だったようだ。貴殿を信用することは出来ないが……その言葉だけは信じてみるとしましょう――」
 そう言って、真那は踵を回した。
 翡翠色の髪を揺らしながら遠ざかっていく赤い軍服の背中を、武は無言で見送った。


「聞いたわよ? PXで大立ち回り演じたんですって?」
 その夜、武が執務室に入るなり、ふふん、と笑いながら、夕呼は愉快そうに言った。「あたしも見たかったわぁ~」などと宣う夕呼に嘆息する武。
 出来るだけ穏便に済ませたかった武としては、PXという衆人環視の中、自分の年齢――肉体年齢こそ十八の若造だが、主観で言えば既に三十歳なのだ――も考えず、感情に任せて怒鳴り散らしたなど、出来れば今すぐ記憶から消し去ってしまいたいくらいだ。
 この世界に来てからというもの、自分の精神年齢が低下しているように思えてならなかった。
「それで、呼びだした用件はなんですか?」
 夕食を摂って食休みを取った後、グラウンドを軽く走ろうと思って部屋を出た武の前に現れたのは、夕呼の腹心たるイリーナ・ピアティフ中尉だった。『香月博士がお呼びです』という彼女の言葉に従い、武はここへとやって来たというわけなのだが、
「別に? 何も用なんてないわよ?」
「…………オレ、帰っていいですか?」
「駄目に決まってるじゃない」
 どこまでも理不尽だった。
 だが、特に用もないのに呼び出されることなど、武には慣れっこだ。元の世界にいた頃から、夕呼には暇潰しに付き合えと呼び出されることは多々あった。その場合、大抵まりもが生贄として先に用意されていたのだが、流石にこの世界ではそんなことはないらしい。
「研究……行き詰まってるんですか?」
 ソファに腰を下ろしながら、武は言う。
「……まあね」
 苦虫を噛み潰したような表情で、夕呼は答えた。
 今となっては確かめる術はないが、もしかすると、元の世界の夕呼が武やまりもを玩具にしていたのも、研究が行き詰まった際のストレス解消のためだったのかもしれない。
 武にしてみればいい迷惑だったが。
 ――あ……そうだ。
 ふと思い付いて、武は訊ねてみることにした。
「先生、ゲームガイでも持ってきましょうか?」
「ゲームガイ? ああ……あんたの持ってた小さな機械ね。いらないわよ、あんなの。今更液晶技術なんか解析したって、何にもならないもの」
 この世界では、網膜投影技術が発達しているために、武の元いた世界に比べ、液晶やブラウン管といったディスプレイに関する技術は、さほど発達していない。武にしてみれば、十年二十年前のディスプレイが、最新設備として用いられているのだ。
 とはいえ、夕呼も言う通り、ゲームガイの液晶技術を解析したところで、何の意味もない。網膜投影技術があれば、液晶は無用の長物だし、文官には喜ばれるかもしれないが、オルタネイティヴ4の進展に一役買うわけでもない。XM3とは違い、ディスプレイが進歩したところで、人類の存続に一石を投じることなど出来ないからだ。
 だから、武が言ったのは、そういう意味ではなかった。
「そうじゃなくって、ゲームガイでも使って、気分転換してもらおうかと思ったんですよ。向こうの夕呼先生も、よくゲームとかやってましたしね。たまに、ゲームから新しい理論を思い付いたりもしてたみたいですよ」
 授業中にその新理論を披露しては、何故か武が千鶴から怒られていたのだった。
 もう十年以上も前のことなのに、まるで昨日のことのようにそれが思い出されて、武は苦笑した。
「へえ――あたしがね……いいわ。白銀、後で持って来なさい」
 夕呼の瞳には、興味の光が強く宿っていた。



[2785] Muv-Luv ALTERNATIVE -Second World Was Failed- 第12話
Name: Vollmond◆d2a8c8a6 ID:4bd72f47
Date: 2011/02/06 12:25
 2001年11月19日(月)


『タケルちゃん』
『タケルちゃん!』
『タケルちゃん?』
『タケルちゃーんっ!』
『タ~ケ~ル~ちゃ~ん……!!』

 ――夢を見た。
 誰かに名前を呼ばれている。もう、二度と耳にすることはないと思っていた呼び名で――。


「――――夢……」
 目覚めは早かった。時計を見れば、起床ラッパよりもずっと早い。どうやら、霞もまだ来ていないらしかった。
「……また、か――」
 頬を指先でなぞって、武はぼんやりと、どこか他人事のように呟いた。
 その言葉には、二つの意味が込められていた。一つは、先日と同じく、夢を見て涙しているという意味。もう一つは、たった今思いだした……『これまでの世界』でも『元の世界』の夢を見ていたという意味。どちらの意味がより強かったのかは、武には判別出来なかった。
 ベッドの上で、武はそのまましばらく天井を見上げていた。
 心地良い微睡みという泥の中に、ゆっくりと意識が沈んでいく。しかし意識は覚醒を保ったまま、水面にたゆたうような心地に、武は身を任せていた。
 やがて、こんこん、という控えめなノックを耳にして、武は目蓋を下ろした。
 自分が起こすよりも先に武が目を覚ましていると、あの少女は目に見えて――普段は感情を露わにすることも少ないというのに――不機嫌になるのだ。その辺り、幼なじみとよく似ていると、武は思う。彼女を真似ているのだから当然かもしれなかった。尤も、幼なじみ――純夏の場合、普段から百面相と言っていいくらい、表情がころころと変わっていたのだったが。
 あんな夢を見た所為だろうか、無性に懐かしくなって、武は努めて無表情な寝顔を装ったまま、内心で笑みを零すのだった。
 ノックからややあって、静かにドアが開いた。
 とことこと近付いてくる気配。密やかな息遣いさえはっきりと聞き取れるほどの距離。
 ゆさゆさ……と体を揺すられると同時、武はゆっくりと目を開いた。
「おはよう、霞」
 にこやかに微笑みかける武――が、霞は不機嫌そうに武を睨み付けている。その仕草は小さな子供が拗ねているみたいで、どこか微笑ましい。
 微笑ましいのだが。こうもお怒りを露わにされては、口許が緩むどころか引きつるというものだ。
「あー……霞? えっと……おはよう?」
 武はもう一度朝の挨拶を試みてみるのだが、
「…………起きてました」
 返事の代わりに、口を尖らせて霞はそう言った。
「う……」
 幼女のように――外見は実際に幼女そのものなのだが――ふて腐れる仕草は非常に可愛らしいのだが、それに比例して募る罪悪感。
 どうやら、武が起きていることはすっかりお見通しだったらしい。
「ごめんな。ちゃんと明日は霞が来るまで寝てるからさ」
「……絶対ですか?」
 当然ながら、確約など出来はしない。朝、何時に目を覚ますかなど、武にもわからないからだ。だが、ここで首を横に振るなどという選択肢が、武に存在しようはずもなかった。
「……ああ。約束する」
 ようやく、霞は表情をほんの僅か、綻ばせてくれたのだった。


 そのままなし崩し的に霞と朝食を摂った後、武はやはり霞と共に横浜基地内のとある一室へとやって来ていた。
 薄暗い部屋を照らし出すのは、大小様々なモニタの光。青白い光は、どこか“脳みそ部屋”を彷彿とさせる。技術士達が集うコンピュータールームには、所狭しと端末の筐体がひしめいていた。
 だが、機械の数に比して、この場にいる人間の数はあまりにも少ない。
 それもそのはず、ここはオルタネイティヴ4専用の一室だ。夕呼が信用する人間だけが立ち入ることを許される特別室。XM3の開発やA-01に関する情報の管理、そして00ユニットの研究に関しても、ここで行われているのだ、余人が立ち入ることは許されない。
 今やオルタネイティヴ4の中核を担う武でさえ、ここへとやって来るのは初めてのことだった。尤も、武の場合、ここを訪れる要件がなかったということもあるのだが。
「それじゃ霞、よろしくな」
「……はい」
 二人は隣り合って端末に向かった。
 武は間違っても技術士官などではないが、ある程度はコンピューターの扱いも心得ている。前の世界で夕呼が横浜基地を去って後、オルタネイティヴ4に関わっていた多くの技術士達も引き抜かれ、散り散りになってしまった。
 オルタネイティヴ4に関わっていた技術士がいないということは、XM3についてよく知る者達もいないということだ。
 武自身が衛士として戦っていく内に、XM3は数度改良を迫られる機会があった。しかし、その時には既に、XM3を開発した技術士達はいなかったのだ。よって、改良を施すためには、武自身がある程度プログラミングに精通している必要があった。
 そこで武は霞に教えを請い、僅かに残った夕呼の元腹心達に師事し、コンピューターの扱いを覚えていくこととなったのだった。
 ただし、それでもやはり本職の技術士達には遠く及ばないのだが。
 結局、武に出来たのは、ごくごく僅かなマイナーチェンジ程度。OSをさらに進化させるためには、より詳細な知識と、より優れた技術が必要だった。
 幸いにして、ここには社霞という優れた技術者がいる。そのお陰で、既にXM3は今の武が望むレベルにまで達していたのだった。
 だから、二人がここにまでやって来たのは、XM3の改良が目的ではなかった。それならば、わざわざ武がこんなところにまで出向く必要はない。
 二人が身に着けている網膜投影装置が表示しているのは、息を呑むような、幻想的な――しかし同時に、この世界が直面している、どうしようもないほどに現実の光景だった。淡く発光する緑色の構造材によって構成されたその様は魔窟と呼ぶに相応しい。それは、地球を文字通りに蝕む、ハイヴという名の異星よりの侵略者が築いた地底城。
 かつてパレオロゴス作戦にてヴォールク連隊が持ち帰ったデータを元に構成されたハイヴ攻略シミュレーション――ヴォールク・データ。武が霞と共にこのコンピュータールームへとやって来たのは、その改良が目的だった。

『ヴォールク・データを改良しましょう』
 武がそう言ったとき、夕呼がひどく怪訝そうな表情を浮かべたのを、武ははっきりと覚えている。
 夕呼にしてみれば、今更ヴォールク・データを改良する意味など見出せなかったのだろう。そんなことをする暇はないとでも思っているに違いなかった。
 だが、武にとっては、それはとんでもないことである。
『先生。オレが単機でヴォールク・データの最下層まで行ったこと、覚えてますか?』
『ああ……あれね』当然、とばかりのつまらなさそうな顔で夕呼は頷きもせずに肯定した。『それがどうかしたの?』
『――同じ条件だったとして、現実のハイヴなら、単機じゃ精々中階層止まりです』
 旧OS搭載の不知火による単機ハイヴ侵攻。ヴォールク・データ上では容易く中階層を突破した武でも、そんなことは夢物語でしかない。そのことは、過去四度のハイヴ侵攻によって、骨身に染みていた。
『XM3搭載の弐型を使っても、下層に届けばいいくらいですね』あっけらかんと、武は言った。『……いえ、もしかしたら、弐型でも中階層止まりかもしれません。今のヴォールク・データで何度反応炉を破壊したって、実際のハイヴ侵攻じゃ何の役にも立ちません』
 精々ハイヴって物を理解出来る程度ですね、と武は締め括った。
 流石にこの発言には衝撃を受けたのか、夕呼は一瞬だけ目を瞑って、意識を切り替えていた。
 初対面の相手が途轍もない大業を成し遂げた瞬間を目の前で見ていたのだ、武が言い放った台詞に対するの驚きは並大抵ではなかっただろう。
 しかし、その驚きが驚きのまま終わるような頭脳の持ち主ではなかった。
『……改良案はあるのね?』
 勿論です、と武は頷いた。
『忘れましたか? 実際にハイヴに四度潜った人間がいるってこと』
 武の言葉に、夕呼はにやりと唇の端を歪めたのだった。

 この部屋に二人がやって来てから、およそ三時間が過ぎた。
 武が今やっているのは、ハイヴ内におけるBETAの配置の再調整だ。従来のヴォールク・データに比べて、BETAの個体数はおよそ三倍ほどにまで膨れ上がっている。
 無論、闇雲に数を増やしているだけではない。
 武の経験に基づいての――前の世界におけるハイヴ攻略シミュレーションを忠実に再現した物である。
 BETAの配置だけではない。ハイヴの造りもまた、武の記憶の中のそれを模した物に造り替えられていた。
 2004年4月8日の甲21号作戦で反応炉の破壊を成し遂げた伊隅戦乙女隊(ヴァルキリーズ)の内、生還したのは九機。ハイヴ陥落を成功させて尚その生還率は、奇蹟という言葉でも到底足りない。
 その九機のログ、そして帝国軍佐渡島基地建設の際の測量によって、従来のハイヴ攻略シミュレーションであったヴォールク・データは驚異的な進化を遂げた。何しろ、実際に反応炉に到達するまでの経過に基づいたデータによって再構成されたのだ。その精度は、ヴォールク・データとは比較にならない。
 人類史上初の、G弾によらないハイヴ攻略。そして得られたハイヴ内のデータ。
 その偉業を讃えて、以後のハイヴ攻略シミュレーションはヴァルキリー・データと呼ばれるようになった。
 二人がやっているのは、正にヴォールク・データをヴァルキリー・データに置き換える作業なのである。
 ここで活躍するのが、霞のリーディングである。武がイメージするハイヴの構造を読み取り、それをデータに置き換えていく。口頭で伝えればそこに誤解が生じるが、イメージをそのまま読み取るのであれば、余計な齟齬
が生じる余地はない。
 霞のデータ入力の速度を加味すれば、武が単独で行う倍以上の速度で作業は進められていった。
 ――しかし、本来であれば、イメージとは曖昧な物だ。記憶など、あやふやな物の象徴とも言える。
 だがそれでも、武の記憶は鮮明だった。間違うはずなどなかった。
 記憶とは、確かに曖昧な物である。僅かな時間を経ただけで劣化し、他の記憶と混同されることで、ありもしない記憶という名の幻影が捏造されることもしばしばだ。
 ならば、確たる記憶を維持するためにはどうすればよいのか。
 答えは簡単、何度も何度も、反復してその記憶を脳に刻み込めばいい。ニューロンを発火させ、シナプスを幾重にも増強し、記憶を固定すればいい。
 ――何回ヴァルキリー・データをクリアしたと思ってる……!
 百や二百ではない。数千回もの挑戦。甲21号目標の構造、BETAの位置、BETAの数、その尽くを脳に叩き込んだ。甲20号目標――鉄源ハイヴを攻略すれば、新たなデータを何百何千と繰り返した。甲26号目標――エヴェンスクハイヴも同様だ。
 取り憑かれたように――否、正しく武は取り憑かれていた。
 強さへの渇望に。BETAへの復讐心に。そのための、修行だった。
 ひたすらに繰り返した。空いた時間の全てを修行とヴァルキリー・データに注ぎ込んだ。多くの部下や仲間達が、それに触発されるようにのめり込んでいた。
 最初は中隊で。続いて小隊。さらには二機連携――果てには単機での突入。単機での突入では中階層への到達がやっとであったが、信頼出来るパートナーとの二機連携であれば最下層到達は難しくなかった。
 最終的な小隊での反応炉到達率は、驚くべきことに六割を超えていた。中隊に至っては九割だ。
 それだけ武がヴァルキリー・データを繰り返し行ったということであり、武と彼の属する部隊の練度が高かったということでもある。
 とはいえ、反応炉到達と反応炉の破壊とはイコールの関係にあるわけではない。
 反応炉に到達したところで、十分な数のS-11がなければ反応炉を破壊することは不可能だし、大広間の圧倒的な数のBETAに呑み込まれることだってある。大広間に辿り着いた途端、気の弛みから部下を失ったことは一度や二度ではなかった。その度に演習だからといって気を抜くなと部下を叱咤したものだ。
 その部下も、今はまだ民間人であったり訓練兵であったりということを考えると、前の世界での時間の経過を感じずにはいられない。

「ふぅ……」
 キーボードを打っていた手を止め、武は一つ吐息した。椅子の上で軽く伸びをすると、背骨が音を立てた。気付けば、作業を始めて既に四時間が経過している。肩から先だけを動かしていた体は、すっかり凝り固まっていた。
 ――やっぱり、オレに技術職は無理だな……。
 座ったままという点では戦術機も同様だが、やはり頭脳労働だけというのは性に合わないらしい。思えば、元の世界にいた頃から、じっとしているのは苦手だったように思う。
 ガキの頃から変わってないってことか――武は口許に微かな笑みを散らした。
 ともあれ、これで作業は一段落。マップデータの書き換えはほぼ完了し、BETAの配置もまたほぼ同様。ただし、そこには“既存の”という形容が付く。
 がり、と奥歯を噛み鳴らした武の表情は、いつしか険しいものとなっていた。
 脳裏に浮かぶのは、この世界で知られるどのBETAよりも遥かに巨大な、芋虫にも似た体躯を有するBETA最大の脅威――母艦級。
 前の世界では、数多の衛士が、その化け物によって恐怖と混乱のどん底へと突き落とされていた。何しろ、たった一体母艦級が現れただけで、戦線が瓦解するのだ。重光線級を片付けたと思った矢先に大深度地下から戦線の中央に現れ、要塞級や重光線級を大量に吐き出していく……以前夕呼にも言ったことであるが、それこそ突如としてハイヴの門が出来るような物なのだ。
 不幸中の幸いと言うべきか、母艦級が現れる際には、その巨体と移動方法故に独特の地鳴りが発生する。そのため、音紋のデータを照合することで、事前にその出現を察知することが可能であった。
 しかし、支援砲撃の轟音と震動に紛れて現れることもあるなど、BETAにも戦術があるのではないかという仮説が立てられることもあり、決して油断の出来る相手ではない。
 そして何より、対処法を知らねば、混乱に陥っている内に津波のように押し寄せるBETAの餌食になるであろうことは想像に難くなかった。――そう、たとえヴァルキリーズであっても。
 否、事実として、武にとっての過去、ヴァルキリーズは母艦級によって辛酸苦汁を舐めさせられている。そのことを忘れられることが、武に出来ようはずがなかった。
「――霞」
 だから、武は霞に呼び掛ける。
 これまでの全てはおまけのようなものだ。ヴォールク・データのいじり方さえわかっていれば、わざわざ霞の手を借りる必要はない。霞の手を借りたことで作業効率は大幅に向上したが、事は急を要するわけではないのだ。
 そも、ハイヴ攻略シミュレーションとはその名の通り、ハイヴを攻略することを想定して行われる物だ。常日頃からそれを行うことは決して間違ってはいないが、武達が現在改良しているのは、甲21号目標攻略のためのシミュレーションである。つまり、甲21号目標作戦が発令間近という状況でもない今、何も慌てて完成させる必要はなかった。現段階でα版がおおよそ形になったのは嬉しい誤算であったが、結局のところそれはただの誤算でしかなかった。
 本当に霞の力が必要となるのはここから。彼女にしか出来ないことが、ある。
「これからオレが思い浮かべるイメージをリーディングして、データにして欲しいんだ。……頼めるか?」
 霞は無言で頷いた。
 武に出来るのは、既存のデータを組み替えることくらいだ。全く新しいBETAのデータを作成するような、専門的な技術はない。
 そこで、霞の出番というわけだ。専門技術があり、かつ武から母艦級のイメージを正確に読み取ることが出来る。
 新たなハイヴ攻略シミュレーションを完成させるには、彼女の協力が不可欠だった。
 母艦級という化け物のイメージが霞の大きな負担になることはわかっている。それでも、やってもらうしかなかった。
 ――ごめん、霞。頼む……。
 そんな武の想いを読み取ってか、霞は淡く微笑んだ。


 午前中いっぱいを費やしてエインヘリヤル・データα版――ヴァルキリー・データという名称を対外的に使うわけにはいかないので、仮にそう呼称することとした――を霞と共に一応の形にして、武がPXへとやってくると、PXの一角では五人の少女達が額を集めて唸り声をあげていた。
 いずれも頭に美という接頭辞を付けるに相応しい少女達が、揃いも揃って小難しい顔をしているというのは、一種異様な光景だ。それが顔見知りともなれば尚更である。
「……何やってんだ、あいつら」
 合成鯖の味噌煮定食を京塚曹長から受け取って、彼女達――207B分隊の下へと向かう。
「何やってんだ、みんな」
「タケルか。丁度良かった、そなたも知恵を貸してくれ」
 腕を組んで眉間に皺を寄せていた冥夜が言う。
「何のだ? ……というか、話が読めないんだが」
「ああ……そうであったな」
「実は明日、国連事務次官が横浜基地を視察することになったのよ」
「――は?」
 千鶴の言葉に、危うく、武は手に持ったトレイを取り落としそうになった。と言うより、実際に取り落とすこととなった。
 幸い、椅子に座ろうとしていたところだったため、被害はトレイの上に零れた味噌汁だけで済んだが。
「事務次官って……たまのオヤジさん?」
「流石タケル、よく知ってるねー」
「明日……珠瀬事務次官…………?」
「そうだと言っているであろう?」
 呆れたように言う冥夜。武はあんぐりと口を開け、
「マジで!?」
「まじで……何語?」
「さあ? 白銀語じゃない?」
 懐かしい単語が聞こえたような気がするがどうでもいい。兎にも角にも、とうに脳の片隅に追いやられていた『元の世界』の言葉が口を突いて出て来るくらいには、武は混乱していた。
 嘘だろ、と口に出したい思いを必死に抑え付ける。
『二度目の世界』よりもさらに一週間も早い。総戦技演習を始め、戦術機教習の日程を大幅に繰り上げたからか。
 珠瀬事務次官の来訪とは即ち、HSST――再突入型駆逐艦の落下だ。
 一刻も早く夕呼に連絡を取り、対処法を練らなくてはならないのだが、
「それで、困ったことに……」
「あうあうあうあうあ~~」
 ああそうだった、と武はもう一つのことに思い至った。
「……たま、嘘を吐くのは良くないぞ」
「はうあうあ~」
 顔を真っ赤にして、今にも泣き出しそうな壬姫。
 千鶴が意外そうに目を丸くし、
「知ってたの?」
「まあな……」
 頭痛がして、武はこめかみを押さえた。
 壬姫は、自分の父親である珠瀬事務次官に出した手紙の中で、自分のことを分隊長と書いてしまったのだ。武の知る限り、もっと色々と恐ろしいことが書かれているのだが、今ここで言うわけにはいくまい。被害を受けるのは武だ。尤も、いずれにせよ酷い目に遭うことに変わりはないのだが。
 いずれにせよ、今は一秒でも早くこの話題を切り上げ、夕呼の所に向かうのが先決だ。
「そういうことならオレに良いアイデアがある」
「ほほう?」
「何となく予想がつくけど……不安だわ」
 それに対して武はにやりと笑い、
「安心しろ、委員長。たまを一日だけ分隊長にするだけだ」
 やっぱり、と千鶴は溜息を吐いた。
「珠瀬を一日だけ分隊長にするのか?」
「そういうこと。ま、これでも一応教官だからな。分隊長の任命権くらいある」
 訓練分隊の分隊長を決めるのは教官の仕事だ。千鶴はその高い指揮官特性を買われて、まりもによって任命された。
 恒久的な変更は現実的でないが、明日一日くらいなら問題ない。上官命令によるものなら、階級詐称には当たらないだろう。
 それに、まりもはあれでなかなか甘い。事情を話せば協力してくれるはずだし、事実『前の世界』では見逃してくれた。最悪、上官命令ということで納得させてしまえばいい。そう言った権力の使い方は、武の好むところではないけれど。
「白銀……あなた、それ本気で言ってるの?」
「当然だろ。明日一日誤魔化せればいいんだし、次に事務次官が来るとして、それまでにお前らが任官しちまえばいいだけの話だ。それとも、委員長は仲間の危機を見捨てるのか?」
「私が悪者みたいなノリはやめてくれる?」
 呆れたように言う千鶴。そんな千鶴を、じっと見つめる一対の瞳があった……慧だ。
「何よ? 言いたいことがあるなら言いなさいよ」
 千鶴は苛立ちを隠さずに言うが、慧は何も言わず、その目を武に向けた。
 ぞくり、という悪寒が武の背中を這う。嫌な予感がした。致命的に嫌な予感がした。そしてさらに最悪なことに、半ば忘れかけていた未来の映像が脳裏に蘇り、
「――くそがぁぁぁッ!!」
 武が回避行動を取ろうとした瞬間には、慧は武を盾に取っていた。そのままぼそりと、
「……悪者」
「あなたねえぇぇッ!」
 激昂する千鶴と、無感情に見えて楽しんでいることは明らかな慧との板挟みに、武は生きた心地がしなかった。もう抵抗の意思さえなくしてしまっている。どれだけ鍛えても、この力には抗えないようになっているのだ。それがこの世の理、諦めるしかない。決して背中に当たる柔らかな感触を堪能しているということはない。
「よせ、三人とも。今は珠瀬の話であろう」
「……オレもなのか?」
 当然であろう、と冥夜は不機嫌そうに腕組みをして言った。
 武は溜息を零す。それから背筋を伸ばし、上官としての白銀武少佐の顔で壬姫を見据えた。
「まあいい――珠瀬訓練兵!」
「は、はい!」
「榊千鶴に代わり、明日一日、207B訓練分隊の分隊長を命じる!!」
「了解しました!」
 敬礼する壬姫。それから武は冥夜に向き直り、
「それから、御剣は今日の訓練の後、オレの部屋に来い。必要な道具を作るのを手伝ってもらう」
「はっ、了解しました!」
 話が一段落したところで、武はすっかり冷めてしまった鯖味噌定食に取り掛かることにした。味わうこともせず、とにかく胃袋の中に詰め込んでいく。
 そういえば事務次官には全部バレてるんだよな、と思い出しながら。


「失礼しますッ!」
 昼食を胃袋に流し込んだ後、武は全速力で夕呼の執務室にやって来ていた。
「何よ、そんなに慌てて」
 椅子に座ったまま呆れたように言う夕呼。
「明日の珠瀬事務次官の視察が終わる頃、HSSTが落ちてきます。この横浜基地目掛けて」
 だんっ、と机に手を突いて、武は言った。夕呼の雰囲気が硬質化する。ぴりりと張り詰める空気。
「……いいわ。詳しく話しなさい」
「はい。といっても、細かくは憶えてないんですけど」
 エドワーズ発の再突入型駆逐艦――HSSTが通信途絶し、横浜基地へと落ちてくること。遠隔操作は受け付けず、クラッキング対策が裏目に出て、突入角の変更も自爆も不可能。再突入語、加速するようにプログラムされており、カーゴには海上運輸が原則の爆薬が満載。
 事故などではなく、誰か――恐らくはオルタネイティヴ5推進派か、反オルタネイティヴ4勢力――によって仕組まれたものであることは疑うべくもない。『一度目の世界』『二度目の世界』共に発生したこともそれを裏付けている。
 予測被害は、突入の衝撃と積載していた爆発部の威力で、地上の基地施設は壊滅。地下施設もB4フロアまで確実に吹き飛ばされるというもの。
 一度目の世界では防衛基準体勢2が発令、非戦闘員は全員退避。
 207B分隊がブリーフィングルームに呼び出され、1200mmOTHキャノンを第一滑走路のリニアカタパルトの先端部に固定、間接照準による極超長距離精密射撃を珠瀬壬姫が成功させ、危機は去った。
 二度目の世界では予め夕呼が国連宇宙総軍北米司令部にHSSTの監視命令を発令し、難を逃れた。
「メリットとデメリット両方を考えても、前の世界と同じようにするのがいいと思います」
 どうすべきだと思うか、という夕呼の問いに、武はそう答えた。
「具体的には?」
「一度目の世界だと、メリットはたまが上がり性を克服するってことぐらいですね。その時点で、たぶんたま以上の狙撃手はいなくなると思います。あんな真似、この世界の誰にも出来ません。デメリットは失敗したときのリスク。このフロアなら安全でしょうけど、全員ここに集めるわけにもいかないでしょ?
 二度目の世界でのメリットは、リスクをほぼ完全に回避出来ることと、ある程度は反対勢力への牽制になること。デメリットは少しばかり米国との関係が悪化するってことと、たまの上がり性克服に時間が掛かるってことですかね。後者については、前の世界でも克服してくれたんで、大丈夫だと思いますけど」
「まあ、当然ね……メンツを気にしてこその米国だものね。その程度なら構わないわ。今回もそうしましょう。HSSTの監視命令を明日付でエドワーズに出しておくわ。HSST落下……必ず阻止するわよ? いいわね?」
「……はい」
 こんな陰謀ごときに邪魔はさせない。
 オルタネイティヴ4を絶対に成功させなくてはならない今、そんな些事で躓くわけにはいかないのだから。


 2001年11月20日(火)


 第一滑走路に着陸した再突入型駆逐艦から、珠瀬玄丞斎国連事務次官を始めとする視察団の一行がタラップを踏んで降りてくる。
 一度目の世界と二度目の世界では、どちらも待機しているだけの武だったが、今回は違っていた。
 少佐という階級を与えられてしまったために、出迎えという面倒極まりない任務を仰せ付かってしまったのだ。
 まりもを始め、彼らに基地内を案内することになる千鶴らは皆一様に引き締まった顔付きをしていたが、武と夕呼だけが、いかにも面倒臭そうに欠伸を堪えていた。それをまりもやピアティフに見つかり、視線でやんわりと窘められたりもしたのだが。
 これからどうしようか、と武は思案する。
 前回までのように207B分隊に合流するか、それともA-01に合流するなどして、視察が終わるまで時間を潰すか。適当な機密フロア――今の武のIDならば基地内で入れない場所はないと言っていい――にでも引きこもるか。
 実の父がやってきて壬姫が緊張しないかは心配だが、前の世界を鑑みるに、壬姫が手紙にとんでもないことを書いているのはほぼ間違いない。またしても簀巻きにされてトイレの床に転がされるのは御免被りたいところだ。
 滑走路では、士官達が作った花道で、横浜基地司令であるパウル・ラダビノット准将と珠瀬事務次官が笑顔で握手を交わしている。
 白々しいわね、という夕呼の呟きが聞こえた。それには武も同意だ。
 珠瀬事務次官は米国寄りの人物であることは周知の事実だ。勿論、それには彼なりに日本を護ろうという意思あってのことだが、帝国国民にとっては、米国に魂を売った――大抵の人間にとっては国連も米国も似たようなものなのだ――売国奴であり、米国の反オルタネイティヴ4派にしてみれば、オルタネイティヴ4を潰す恰好の駒だった。
 そんな人物を、諸手をあげて歓迎することなど出来ようはずもない。
 外面と内面を乖離させて振る舞うことは、政治の場では必須技能だし、ある程度は武も身に着けているものの、ここまで来ると少しばかり嫌気が差す。
 壬姫には悪いが、珠瀬事務次官来訪は、武にとっては全く歓迎出来る事態ではなかった。
 千鶴とまりもが連れ立って歩いて行く。視察団に基地内を案内するためだ。榊是親首相の娘という肩書きは、国連事務次官を相手にするには持ってこいだろう。
「白銀、あんたこれからどうするの?」
 千鶴達を見送りながら夕呼が言った。
「どうしましょうか。余計な興味を惹くのはまずいんですよね?」
「よくわかってるじゃない。ワケありの訓練兵ばかりの分隊、その特務教官はまだ二十歳にもならない謎の少佐……これで興味を惹かないはずがないわ」
「……ってことは、やっぱりオレ隠れてた方がいいですかね?」
 国連事務次官の興味を惹くことになれば、それはそのまま各国の興味を惹くこととなる。
 本来ならば訓練兵でもおかしくない年齢である武が、少佐という地位に就いているという事実は、それだけで多くの人間の興味を惹く。邪推する者も少なからず出て来るだろうし、実力を見せてやれば簡単に黙らせることは出来るが、それはまた新たな興味を惹く結果にしかならないだろう。
 しかし夕呼は、
「……いいえ、あんたには207B分隊と一緒に行動してもらうわ」
「夕呼先生?」
 武は怪訝そうに目を細めた。
「珠瀬を分隊長代理に指名したからには、あんたも知ってるでしょう。あの子、事務次官に手紙書いてたのよ……当然、あんたのこともね」
「オレがいないと逆に怪しまれる……ってことですか」
「そうなるわね」
 それは道理だ……が、頷く夕呼の口許に笑みが浮かんでいるのを、武は見逃さなかった。
「……先生、まさかオレがどうなるのか楽しみだとか思ってませんよね?」
「…………まさか。そんなことあるワケないじゃない」
 今の間は何なのか、問い詰めたい衝動に駆られるが、舌戦に関しては夕呼の方が一枚も二枚も上手だ。そもそも、舌の枚数からして違うのだ、分が悪くなるだけだろう。
 はあ、と溜息を吐いて、武は踵を回した。
「HSST落下の件については心配しなくていいわ。根回しは済んでるから」
「じゃあ、オレは先生のご希望通り、207Bに合流しますよ……その後の展開まで先生の思い通りになるかはわかりませんけどね」
「期待しないでおくわ」
 苦笑する武と、にやりと笑う夕呼は、最後にもう一度だけ視線を交わして、そして別れた。


「さて、珠瀬訓練兵。検閲という物を知っているか?」
「はうあうあ~……」
 207B分隊に合流した武は、事務次官が来る前にと、分隊長の腕章を着けた壬姫と向かい合っていた。場所はPX。勿論、千鶴を除く冥夜ら三人もいる。
「先に言っておいた方が、後が楽だと思うぞ」
「は、はい~……」
 よし、と頷いて、武は壬姫の頭の上に手を置いた。身長差もあって、壬姫の頭は手を置くのに丁度いい位置にあるのだ。
 そのまま、二人は冥夜達に向き直る。
 ふと武は、三人の視線が自分達――壬姫の頭に向けられていることに気が付いた。どこか険を含んでいる気がする。試しに手を持ち上げてみると、視線は幾分か和らぎながらその手を追い、もう一度乗せてみると、再び強い険を含んで壬姫の頭に向けられる。
「撫でて欲しけりゃ撫でてやるぞ?」
 冥夜達は顔を真っ赤にして首をぶんぶんと横に振った。「それは残念」と武はさして残念そうにもなく呟く。一度目の世界の記憶を朧気ながら取り戻しつつある今、そんな彼女達の仕草の一つ一つ、表情の一つ一つが、無性に愛おしかった。尤も、武がそれを顔に出すことはなかったが。
「さて、みんなも知っての通り、珠瀬は珠瀬事務次官への手紙に、あること無いこと無いこと無いことを書き散らしているワケだが」四人の顔を順繰りに見回して武は言う。「どんなことが書かれていて、事務次官がお前らをどう思っていたとしても、寛大な心で受け止めて許してやるように」
「少佐は何が書いてあるかご存知なのですか?」
「立場柄、色々と耳に入ってくるからな、大雑把には知っている」千鶴の問いに頷き、「たとえば鎧衣、お前は――」
「た、たたたたけるさーん!?」
 今にも泣き出しそうな顔で、壬姫は武の言葉を遮った。
「とまあ、珠瀬がこれくらい必死になって口止めしようとするようなことだ。――それから珠瀬、公私の別は付けろと、言っておいたはずだが?」
 美琴の場合、壬姫よりもさらに平坦、だったか。
 父親に心配を掛けたくない、と自分はうまくやっていることをアピールするつもりだったのだろうが、あまりに事務次官が喜んでくれるために調子に乗ってしまい、引くに引けなくなってしまったのだろう。
 尤も、彼女が分隊長であるという嘘は最初から見抜かれているのだが。
「まあ、珠瀬にも悪気はないはずだから、親を喜ばせようという子供の見栄だと思って、温かく見守ってやれ」
「少佐の仰りたいことはわかりました。事務次官の手前、珠瀬の張ってしまった見栄に付き合え、ということですね?」
 武は無言で頷く。冥夜は腕組みをして、難しそうな顔で続けた。
「個人的に言わせてもらうのであれば、珠瀬が私のことを何と書いたか、是非とも知りたいのですが」
「それについては、視察が終わった後なら、存分に珠瀬から聞き出してくれていいぞ」
「では、そうさせてもらうとしよう」
「……そうだね」
「うんうん」
 唇を斜めにして壬姫を見据える冥夜、慧、美琴の三人。それとは対照的に、壬姫は恐怖によってか、全身を震わせていた。
 この予防線で、少しは今後の風当たりが和らいでくれればいいんだけど――武がそう思ったときだった。
「――敬礼!」
 この場にいない千鶴に代わり、冥夜が強い語調で言った。
 振り向けばそこには、「ここが横浜基地衛士訓練学校の食堂になります」と説明するまりもと、珠瀬玄丞斎事務次官が立っている。
 その姿を認めるなり、武もまた敬礼の姿勢を取った。


「こ、こちらが兵舎です!」
 案内役のバトンはまりもから壬姫へと手渡され、事務次官は壬姫の案内で兵舎へとやって来ていた。その顔はだらしなく緩みきっている。
 武とまりもは事務次官の後ろに並んで立っている。案内役は壬姫に任せたものの、『あの娘達の面倒を少佐に見ろっていうのは無理そうなんだもの』ということで付いてきたのだ。
 悔しいが、その言葉には武も、よくわかっていると思うしかなかった。
 この後に待ち受ける展開を考えると、まりもというブレーキ役は欠かせないのだ。彼女はそこにいるだけで207B分隊に圧力を掛けてくれる。
 事務次官は満面の笑顔で、敬礼を解いた千鶴と慧の二人を眺めている。
 大した役者だ、と武は思った。嘘を吐いた娘にお灸を据えようという心算なのかもしれない。
「うんうん、君達もたまの部下かね?」

 ――その瞬間、記憶が蘇る。

 つぅ、と武の背筋を冷たい汗が滑り落ちた。前の世界での慧の発言を思い出したのだ。
「彩峰あんまり余計なことは口に出すんじゃ……」
「……あんたもたま……」
 言いやがった――武は内心で呟き、盛大に溜息を零した。隣では、まりもが頭痛でも堪えるように固く目を瞑り、指でこめかみを押さえている。
 耐えるんだ、と武が耳打ちすると、「はい……」と疲れた声が返ってきた。
 しかし慧の暴言は尚も止まらない。
「……たまパパ……ひげ」
 どうやら、これは変えることの出来ない運命らしい。先日思い出したばかりの、強い意志があれば運命だって変えられる……変えてみせる――という誓いを、早くも反故にするときが来たようだ。
 オレが悪いんだろうか、と思わずにはいられない。
 歴史に全く干渉しなかった一度目の世界では、ここまで酷くはなかったはずなのだが。
「私語を慎め~~~っ!! ぼけっとしてないで、場所をあけないかっ!」
「…………」
 武は手で顔を覆って天を仰ぎたい衝動に駆られた。
「…………申し訳ありません。分隊長」
 謝る慧は相変わらずの無表情。しかし、前の世界で長年の付き合いがあった武にはわかる。
 彼女は、怒っている。この上なく怒っている。目を凝らせば、ほら、その背後には怒りの炎が――。
「その凛とした姿。いいじゃないか、たま~~~」
 すっかり頬の筋肉を弛緩させて言う事務次官に、ちっとも良くねえよ、と武は内心で毒突く。
 後で慧のフォローをするのは、他でもない武なのだ。この様子だと、ちょっとやそっとのことでは機嫌を直してくれそうにない。最終兵器ヤキソバパンの出番だろうか。
 それにしても、国連事務次官といえば、かなりの重要なポストではないのか。彼の有能さは前の世界でたっぷりと知る機会があったが、こんな人物がそんな地位にいることに、武は改めて疑問を抱かずにはいられなかった。
「ん? 君はさっきまで一緒にいた……」
「は、榊千鶴訓練兵です!」
 やがて事務次官の興味は壬姫から他の訓練兵達へと移り……最初に、千鶴に目を留めた。
「連中の相手は疲れたろう? 官僚体質の無能ばっかりだからねぇ……。ご苦労だったね」
 内心ではどう思っていようと、視察団の長たる事務次官にそれを言うわけにもいくまい。事務次官が何を思ってそのようなことを言ったのかはわからないが、「とんでもありません」と千鶴は首を振った。
「榊君もたまの部下だったんだね」
「はい! 分隊長には毎日、ご迷惑をおかけしております」
 その先は言わないでくれ――武は祈るが、無論それは通じず、
「うんうん、知っているよ。父上に似て、物分かりが悪くて頑固で融通が利かないらしいねぇ」
「…………」
 千鶴の呼吸が一瞬止まった。
 どうやら、壬姫は千鶴をとにかく堅物であると表現したかったらしい。同じ意味の言葉を二つも三つも重ねている辺り、徹底している。
「たまに迷惑ばかりかけないでくれたまえ」
「……は、はい」
 二人目。千鶴は先程、あの場にいなかっただけに、さらに致命的だ。
 しかし、それでも尚しっかりと怒りを堪えている辺り、流石と言わざるを得ない。握り締めた拳がわなわなと震えて、唇の端がひくひくしているのはご愛敬だろう。
 壬姫の震えは激しくなるばかりだが、自業自得だ。たっぷりと反省してもらわなくてはなるまい。むしろ、この程度では足りないくらいだ。
「ん? 君は」
「はい、鎧衣美琴訓練兵です!」
「ほほぉ……君か、たまより平坦な鎧衣君とは」
 雷が落ちた……ような気がした。
 壬姫の震えがさらに激しくなる。
 美琴は滝のように涙を流し、
「…………ボクは……ボクは………ひどいよ、気にしてるのに~~~~っ!」
「待て、鎧衣ッ!」
 武の制止もなんのその、叫びながらいずこかへと走り去っていく。
 大抵の悪口は聞いていないで済ませられる美琴ではあるが、今回ばかりはそうはいかなかったと見える。この大ダッシュも致し方あるまい。
 尤も、壬姫よりも平坦と言っても、どちらも平坦なのだから五十歩百歩だろう。しかし、その僅かの差に一喜一憂するのが女子というものなのである。
 PXで言わなくて良かった、と武は溜息を零した。もし言っていれば、今頃非難されていたのは武だったろう。
「し、白銀少佐……へるぷみ~~」
「無理だ」
 助けを求める壬姫に、にべもなく断る武。
 この場での下手なフォローは二次遭難の恐れがある。この後に待ち構える受難を考えれば、余計な力は使いたくない。
「ん? 君は……」
 僅かに、事務次官の声音が変わった。まりもも気付いたらしく、ぴくりと眉を動かす。
「御剣冥夜訓練兵です!」
「そうですか、あなたが……」
 一目見て冥夜の正体に気が付いたのだろう、事務次官からは、数秒前までのふざけた空気がすっかり抜けていた。国連事務次官ともなれば、冥夜の出自を知っていてもおかしくはない。
 先程まで激しくなる一方だった壬姫の震えも、収まりつつある。
 ――だが。安心するにはまだ早い。
「……? 私には何もないのですか?」
 冥夜が自分から地雷原へと飛び込んでしまうが故に。
「……死活問題ですので」
「……そうですか」
 何しろ相手は将軍家縁者どころか、将軍の双子の妹。分家に養子に出されているとはいえ、紫の武御雷を贈られ、斯衛軍の護衛が四人付けられるほどの重要人物であることに変わりはない。
「珠瀬、安心するな……すごい内容だったという事は御剣にもしっかりと伝わったぞ」
 国連事務次官をして死活問題と言わしめるような内容である。その内容の凄まじさは、千鶴や美琴の比ではなかろう。
 一端は収まったはずの壬姫の震えが、ここに来て最高潮に達していた。
「はうあう~~、少佐は見捨てないでください~」
「……秘書が前向きに検討するかもしれん」
 要するに、却下という意味なのだが。
 207小隊の残りの四人全員を敵に回すほど、武は愚かではない。BETAと戦ってならともかく、仲間に討たれては死んでも死にきれない。
 ――安心しろ、たま。
 共感にも似た諦念が、武の胸の奥で渦巻いていた。
「……白銀武少佐だね」
 ――来た……強い諦観が全身へと広がっていく。
 ここで全員の怒りは武に向くのだから。
「先ほどから見ていたが、うむ、なかなかの好青年だ」
「は……ありがとうございます」
「顔も悪くない。性格もいいと聞いている。そして何より、その若さで少佐の地位に就くほどの戦術機操縦の技術。先のBETA上陸戦でも活躍したという。今の時世で、君ほどの男はそうそういまい」
「いえ、私などまだまだ若輩の身です」
 褒められすぎだと武が思ったのは、決して間違いではないだろう。二度目の世界でも褒めちぎられた記憶があるが、今回はそれに輪を掛けている。
 少佐という肩書きの持つ力は、武が思っている以上に大きかったらしい。
「君ならば……うむ、よかろう。たまをよろしく頼むよ。傍で支えてやって欲しい。今までも、そしてこれからもね」
 周囲の気温が、一気に下がったような気がする。
 しかし、人間とは学習する生き物である。前の世界での教訓を生かすために、武は氷のような視線に素知らぬふりをして、先程から用意していた回答を口にする。
「お任せ下さい。私と神宮司軍曹の名に懸けて、必ずや世界に誇れる衛士に鍛え上げてみせます」
 教官としての模範解答でお茶を濁す。
 武が鈍感なのは周知の事実だ。武自身それについては自覚しているが、今回はその数段上を装う。
 その策が功を奏したか、張り詰めた空気が弛緩していく。
 うまくいったか、と武が安堵した――その瞬間だった。
「公私ともに頼んだぞ、白銀少佐。いや、そろそろわしも、孫の顔が見たいかな、ま、ご、の、か、お、が、な! わははははは……」
 ――絶対零度が場を支配する。
 一度は緩んだはずの空気が、再び凍結したのだ。反動がある分、前の世界以上に身の危険を感じた。
 この先の展開は思い出すまでもなかった。
 ――だから、先手を打つ。

「お言葉ですが、珠瀬事務次官」
 静かに発せられた言葉はしかし、その場にいる全ての者の動きを止めるような、不思議な言霊に満ちていた。今にも武の肩を掴もうと伸ばされていたはずの千鶴と冥夜、二人の腕があてどなく中空を彷徨っている。
 そんなことはつゆ知らず、武は自らの作り出した静寂を破って続ける。
「ご期待に答えられず申し訳ありませんが、私と珠瀬訓練兵の間にそのような関係はありません。事務次官に喜んでいただきたかったのか安心していただきたかったのかはわかりませんが、恐らく、見栄を張ってしまったのでしょう」
「ほう。それは本当かな?」
 そう言う事務次官の表情は、先程までの親馬鹿のそれではなく、正しく事務次官としてあるべき――武のよく知る優れた政治家特有のそれへと変貌していた。
 ええ、と武が頷くと、事務次官はじろりと壬姫に視線をスライドさせた。それでようやく、これまで硬直していた壬姫が僅かに身動ぎする。
 そんな光景に武は思わず笑みを零した。
「事務次官、意地悪はそれくらいにしてはいかがですか? 珠瀬訓練兵も反省しているようですし」
「――え?」
 幾つもの疑問符がユニゾンする。207B分隊にまりもを加えた六人は、武の言葉の意味するところが理解出来ていないのか、目を丸くしている。
「……気付いていたのかね?」
 落ち着いた声音で事務次官が問うた。
「ええ、まあ……そもそも、視察に来る時点で、案内役を務めそうな人間の目星くらい付けて、ある程度素性は洗うものだと思いますし」
 珠瀬事務次官は、その立場上敵が多い。前の世界では、過激派のテロによって命を落としていた。日本人でありながら国連軍に属し、恭順の姿勢を取りながらも米国を牽制しているのだから、それも当然だろう。
 武と夕呼が防いだHSSTの落下がいい例だ。尤も、この件は横浜基地を潰すという目的もあっただろうが。
 珠瀬事務次官はそういった要素を自覚し、適当な対策を練ることの出来る人物だ。最低限の対策を怠るような人間では決してない。
「横浜基地の特殊性を考えれば、案内役に最適なのは榊訓練兵以外にいません。少し調べれば、207B分隊の分隊長が誰かなんて、すぐにわかることですから」そこで言葉を切ると、夕呼譲りの意地の悪い笑みを浮かべ、「――それに、事務次官の性格を考えれば、自分の娘が所属する部隊のことを調べないはずがないでしょう?」
「成る程……頭も良く回るようだ。全く以て、素晴らしい逸材だ」
「光栄です」
 差し出された事務次官の手を握って、武は微笑した。内心では失敗したと思いながら。必要以上の興味を惹かないよう気を配るはずが、かえって大々的に興味を惹くことになってしまったためだ。
 こうなってしまえば、無闇に隠し立てする必要もない。開き直って、武は言った。
「これでも香月副司令直属の特務兵ですから」
「香月博士の秘蔵っ子というわけかな?」
「そんな大それたものじゃないですよ。今のところはただの駒の一つです」
 それでも、一応の予防線を張っておくことは忘れない。
 珠瀬事務次官は、日本を護るためには米国の力が必要だと考えてはいるものの、決して反オルタネイティヴ4思想の持ち主ではない。むしろ、オルタネイティヴ4が日本を護る力となるのであれば、積極的に力になってくれるはずの存在だ。
 武が夕呼の特務兵であるからには、その存在を無闇に公言したりはしないだろう。
 何故なら、武の身動きが取れなくなれば夕呼の研究にも支障を来し、オルタネイティヴ4の失敗を招きかねないためだ。日本主導であるオルタネイティヴ4の成功は日本からBETAを一掃することのみならず、日本が戦後の主導権を握ることに繋がる。事務次官がそれを妨害する理由はない。

「ますます君を息子に迎えたくなったよ、白銀君。ウチのたまはどうかな? たま程の娘はそうそういないと思うがね?」
「はうあうあ~」
 再び事務次官の親馬鹿モードが発動。武の雰囲気という呪縛から解き放たれた壬姫は、顔を真っ赤にして奇妙な声で呻いていた。
 武は、胸に優しい熱が広がっていくのを感じていた。その想いの赴くまま、表情が和らぐ。
「事務次官の仰る通り、珠瀬訓練兵は魅力的な女性だと思います」
 ――びきり、という擬音を錯覚するくらい、空間の温度が下がった。場が凍り付いた、とは正にこのことだろう。
「ほう……」
 そんな空気も何のその、事務次官は嬉しそうに顔を綻ばせる。が、
「――ですが、私にそのつもりはありません」
 静かに紡がれた言葉は、やはりと言うべきか、場の空気を作り替える言霊に満ちていた。
 先程と違うのは、その声が場を萎縮させるものではなく、どこか弛緩させる物であったということか。
「何故か……と訊いてもよいかね?」
 武は頷き、
「私には個人としての幸福――愛する女性と添い遂げるなどという幸福は許されていないでしょう」
 水を打ったように、静寂が奔った。
 武の言葉を耳にした者全ての思考が止まった、とでも言うべきだろうか。それ程までに武の言葉は突拍子もない物だった――否、ある意味で軍人としてはどこまでも正しく……人間としては致命的なまでに壊れた台詞だった。
「私にそれが許されるのは、この星からBETAを駆逐した時だけです」
 それは、紛れもない武の本心だった。
 この『三度目の世界』……もう失敗することは許されない。世界の終わりに直面することなど、もう二度と耐えられない。
 この世界は、これまでの世界とは違う。武には権力があり、知識があり――そして何より、力がある。今でも己の無力を痛感することは多々あるが、それでも、何も出来ないガキであった時間は、もう遠くに過ぎ去ったのだ。
 だから、この世界を救う。白銀武個人の幸せを差し出す程度でそれが成せるのであれば、それはどんなに安いことだろう。
 かつての世界では、そんな幸せを手にしていた。幸福を蹂躙され、手放しもした。
 そんな幸せは、もう十分過ぎるほど享受した。これ以上を求められるほど武は強欲ではなかった。
 ――けれど、一音ごとに胸を斬り刻まれるような鋭い痛みに見舞われるのは何故なのだろう。
 胸の疼きを抑え付けながら、武は続ける。
「勿論、私がそうであるからといって、他の者達にもそれを強制するつもりはありません」事務次官から視線を外すと、武は六人の女性達へと視線をスライドさせ、「――オレは、彼女達に幸せになって欲しい……そう、思いますから」
 十万人が生き延びるだけでは駄目なのだ。一人でも多くの人々が生き残り、この地球という名の故郷で今一度の繁栄を手にする……そのために、武は戦うのだ。
 そして、他の誰でもない彼女達には、より幸せを手にして欲しいと思う。
 朧気な記憶の中でとはいえ、一度は結ばれた人達だから。白銀武にとって、命を懸けても護りたいと願う、大切な人達だから。
 この世界の自分には彼女達を幸せにすることが出来ないかもしれないけれど。それでも、幸せになって欲しいと、願わずにはいられなかった。
「何故そう思うのだね? 白銀少佐、君は前途ある若者だ」熱っぽい口調で事務次官は言う。「その若さにして少佐という地位、それに見合う素質もある……にもかかわらず、何故君は自ら幸せになる権利を放棄しているのか……聞かせてはもらえないかね?」
 事務次官の顔に、先程までのどこかふざけた雰囲気はない。どこまでも真剣な、けれど国連事務次官としての物ではなく、一人の若者の行く先を憂う珠瀬玄丞斎という一人の人間としてのそれだった。
 事務次官ほどの人物にそのような気遣いをされてしまったことに頬を微かに緩めながらも、武は答えた。
「――私は、魔女と契約し、人生の全てをこの戦いに捧げると誓ってしまいましたから」
 戯けたような口調とは裏腹に、武の目は笑ってはいない。
 極東の魔女。武は、その呼称を好ましくは思ってはいなかった。むしろ、他の誰よりそれを疎んでいる――憎んでいるとさえ言っていい。白銀武にとって、香月夕呼という人物は、神宮司まりもと並ぶ最良の恩師であり、伊隅みちるらと並んで最も尊敬する人物であるからだ。
 それでも武がそう口にしたのは、武と夕呼の間にあるのが、信頼という絆で結ばれた契約関係であるが故。魔女と貶められながらも聖母にならんとする女性への敬意に他ならない。
 そして同時に、この世界に、武の存在を確実にしてくれる後ろ盾は、夕呼をおいて他にはいない。だからこその契約。
 魔女との契約とは、須く魂を売り払う代償として利を得る物であるべきなのだから――。
「ッ……」珠瀬事務次官は大きく息を呑み、「それは君の意思かね、白銀少佐?」
「当然です」武は間髪入れずに頷いた。「オレはオレの意思で夕呼先生――香月博士に従っています」一度言葉を句切ると共に唇の端を自信に満ちた笑みの形に吊り上げる「オレは、香月博士ならばこの世界を救ってくれると信じていますから。オレはその手助けをするだけです」
 未来を見てきた武は知っている。この世界を救える可能性は、夕呼のオルタネイティヴ4にしかない。オルタネイティヴ5は、G元素のハイヴ構造への転用によって無力化され、その先――オルタネイティヴ6などという計画は存在しない。
 だからといって、オルタネイティヴ4に、世界を救えるという確証があるわけではない。
 だが、武に残された道は、オルタネイティヴ4に縋るか何もしないかの二者択一オルタネイティヴ。たとえそれが藁のような儚い希望でしかなかろうとも、それに賭けるしかなかった。
 それでも、武に絶望はなかった。信じているから。夕呼ならば可能だと。香月夕呼は、比肩する者なき天才なのだから。
 武の眼差しに何かを感じたのか、事務次官はふっと表情を緩めた。
「成る程……香月博士は良い部下を持ったようだ」
 彼も夕呼をよく知る人間の一人として、敵の多い夕呼を心配してくれていたのだろう。髭の下で緩い孤を描く唇は、年長者独特の慈愛を感じさせた。
 それを見て、武は嬉しく思わずにはいられなかった。
 ――夕呼先生……オレ達の周りの人達は、敵ばかりじゃなさそうですよ。
 少なくともここに一人、夕呼の研究が結実してくれることを願う人がいたのだから。


 基地内を一通り一周し終え、武と珠瀬事務次官、207B分隊の面々はPXへとやって来ていた。
 一度休憩を取った後、事務次官は武へと視線を向けると、
「お陰で非常に有意義な視察となったよ、白銀少佐」それから、207B分隊の全員を見渡して、「たまはいい仲間と――そして教官に恵まれたようだ……親として嬉しく思う。なあ、たま?」
 事務次官の顔に浮かんでいるのは、柔らかで、温かい微笑みだった。それはまりもが教え子達に向ける笑顔にも似た、親から子への愛情に満ちた笑顔だ。
 国連事務次官という立場にあっても、彼は壬姫の親なのだ。たとえ職務のために私情を押し殺すことはあっても、その事実は決して変わりはしない。
「これからもよろしく頼むぞ」
「了解でありますッ!」
 だから、武ははっきりと頷いた。
 上官として、仲間として――一度目の世界での恋人として。壬姫を任せてください、と。
 ――そして、人類を護ってみせます、と。

 ――この後、武は女性陣からの謂われ無き殺気を全身で受け止めることになるのだが、それはまた別の話。



[2785] Muv-Luv ALTERNATIVE -Second World Was Failed- 第13話
Name: Vollmond◆d2a8c8a6 ID:49f1dd4a
Date: 2011/11/15 03:07
 2001年11月21日(水)


 珠瀬事務次官の来訪から一夜明けたこの日、武は207B分隊の訓練をまりもに一任し、A-01との訓練に一日を割り当てていた。
 午前の終わり、ブリーフィングルームに集まった総勢十四人の視線は、その内の一人に収斂していた。室内を包む空気は、ぴんと張り詰めた糸のようだった。その原因は、今日これまでの訓練。
 デブリーフィングとして講評を行うことになっていたが、武は自分に重い空気がのし掛かってきているのを感じていた。
「さて……」無言の圧力を振り払うように武は呟き、「午前中の訓練についてだが――まあ、上々の出来だったな」
 そう言った途端、空気の緊張が一層増した。今にも弾けそうなほどだ。水月に至っては、射抜くような眼差しで武を睨み付けている。そこには、憎悪の類は一切無く、ただただ悔恨だけがあった。
 それに苦笑し、
「そう睨まないでくれ、速瀬中尉。オレがそんな嫌味を言う人間じゃないことぐらい、わかっているだろう?」
「それはわかってますけど……」
 水月が口を尖らせる。
 ――そういえば、昔はこんな中佐見られなかったよなぁ……っと、今は中尉だったっけ。
 みちる亡き後、水月はヴァルキリーズの隊長として振る舞うために、心に纏った鎧をより堅固にしていた。かつては気付けなかったことだが、今ならばわかる。彼女は誰より責任感が強く、それ故に自分の弱さを隠そうと必死だった。突撃前衛長から隊長に格上げされたことで、よりそのきらいは強まっていたのだった。
 そして、そんな水月が、今では無防備にこんな表情を見せてくれることが、武には嬉しかった。これで少しでも、かつての先任達への恩返しが出来たらと、武は自然と思っていた。
「あれは元々連隊用のプログラムだからな。いくらヴァルキリーズでも、あれを成功させるなんてのは無理に決まってる」
 武がそう表した今日の訓練で用いたプログラムとは、基地防衛戦――それも、大規模侵攻を想定した物である。勿論、武が手を加え、難易度を大幅に引き上げたものだ。
 これまで、ヴォールク・データや対戦術機戦である『CASE:47』を何度も繰り返し行ってきたが、実際のBETAとの戦闘は、間引き作戦ないしは防衛戦――たとえば先日の捕獲作戦――が殆どとなる。そこで、いつか起こるであろう――あるいは武らの行動の結果起こされるであろう――総力的大規模防衛戦のための訓練を、早い内に積んでおきたいと考えたのだ。
 近い内にそういった防衛戦が勃発する可能性がないことは明らかだが、残り半年程度でそれが起こる可能性はほぼ百パーセントだと言っていい。
 何故なら、米国を始めとする反オルタネイティヴ4陣営を牽制するためにも、日本帝国の憂いを取り除くためにも、近々甲21号作戦を計画する必要があるためだ。
 では、佐渡島を取り戻したとして、そこにいたBETAはどうなるのか。
 ――奴らは、ここを攻めに来るはずだ。
 生きた反応炉。BETAにとって、ここを目指す理由はそれで十分だ。『前の世界』での経験がそれを裏付けている。距離的にも、奴らには手頃なところだろう。大深度地下には、佐渡島から本州にまで地下茎構造が伸びているのだから、尚更だ。
 佐渡島を陥としてから防衛戦の訓練を始めるのでは遅い。今の内に、そのための訓練を積んでおく必要があった。
 まずは地上戦を徹底的に叩き込み――そしてその後、エインヘリヤル・データを頭と体に刻み付ける。それが、武の当面のプラン。佐渡島奪還のためにA-01を最大限運用する、その下準備だった。
「この基地は帝国内でも後方だからな。みんなも大規模な防衛戦を経験したことはないと思う」
「しかし白銀少佐」と美冴が挙手をして言った。「それでは、この基地にいる限り、先程のシミュレーションような防衛戦は起こらないということでしょうか?」
「あたしも同意見です」神崎月乃が同意を示す。「実際、殆どの場合は北関東絶対防衛線で食い止められてるわけですし」
 二人の言う通り、確かにBETAの侵攻は、ここ数年、防衛線を越えたことはない。
 だが、それは奇蹟とも言うべき幸運が重なった結果に過ぎない。ほんの少し偶然が欠ければ、あるいは偶然が加われば、それだけで防衛線は容易く瓦解するのだ。事実、『一度目の世界』では、先日の迎撃戦も北関東絶対防衛線が突破される寸前だった。
 夕呼の直属部隊たるA-01でさえこのような認識が蔓延っているのだ、今のこの基地の空気では、そのような事態に陥った場合、呆気なくBETAに蹂躙され、横浜を再び地獄へと突き落とすだろう。
「では、貴様らは佐渡島から軍団規模のBETA群が南下したとしても、同じことが言えるのか?」
 浴びせかけられる冷ややかな声。
 それに驚いたのは美冴や月乃を始めとしたヴァルキリーズだけでなく、武もまたその一人であった。
「先日の迎撃戦に成功したからといって気を抜くな!」一転、熱を孕んだ声音でみちるは叱咤する。「白銀少佐は確かに我々に大規模防衛戦の経験はないだろうと仰った。だがそれは、今後もその可能性がないということにはならないんだ!」
 しん――とブリーフィングルームが静まり返る。
 そういえば大尉は本土侵攻の経験者だったな――と武はぼんやりと考えていた。みちるは武の五つ前の先任に当たる。本土侵攻の際には既に任官していたはずだから、帝国史上最大規模の防衛戦に参加したこともあるのだろう。
 ――そして彼女は、敗れたのだ。
 BETAはこの横浜の地にハイヴという名の地獄の釜を植え付けた。みちるは、多くの仲間達の命と引き替えに生き延びたのだった。
 この場の誰よりも防衛戦の過酷さを理解しているが故に、みちるは部下の腑抜けた発言が許せなかったのだろう。
 滅亡と紙一重の防衛戦は、幾度となく武も経験していた。
『前の世界』では、武や多くの帝国軍人の尽力と挺身によって、帝国は辛うじて滅亡を免れていた。佐渡島という最大の憂いを取り除き、一度は鉄源ハイヴさえも陥としたのだ。それでも、度重なる鉄源ハイヴへの再侵攻を防ぎきることは叶わず、再びの陥落を迎えることとなった。
 その後、九州戦線では再侵攻を目論むBETAとの苛烈な戦闘が続き、帝国は次第に、人的・資源的に疲弊していった。帝国軍に身を移した武もまた、連日の防衛戦に体力と精神力を削られていったのだった。
 とうとう帝国は大東亜連合軍や国連軍と共に第二次甲20号作戦を発令――その後の経過は武もわからない。
 あの作戦は、帝国が明日を生き延びるための大博打だった。成功したと願うこと以外、前の世界に対して武が出来ることは、もうない。
 もし武亡き後、帝国が滅びれば、その時こそ人類の終焉の時だ。米国でさえ、その国力を半分以下に減じられていたのだ、武がいた頃から始まっていたカウントダウンは、既に残り三つの数字程度しか残っていなかっただろうから。
 ……結局のところ、武に出来たのは、数字と数字の間隔を少しでも引き延ばすことだけだった。
 ――申し訳ありません、殿下……。
 今更になって、彼女への後ろめたさが鎌首をもたげてくる。必ず生きて帰り、帝国を護り続けると約束したはずなのに――。

 その瞬間、ずきり、という鈍い痛みが、武の頭蓋を突き刺した。

 ――ま、ず……。
 直感した。これは予兆だと。流出した――忘れていた記憶が流れ込み、その他の記憶と関連付けられていく一瞬前の兆候。
 キン、と甲高い耳鳴り。直後、激痛と共に抗いようのない暴力的な奔流が思考の悉くを呑み込んで――
「……少佐?」
 ――いくことはなかった。
 怪訝そうに投げ掛けられた声で、武ははっとした。意識が思考に埋没してしまっていたらしい。衛士にあるまじきミスだった。
 気付けば、体中を苛もうとしていた苦痛は、夏の陽炎みたいに消えている。それと同時に、掴みかけていた何かが指の隙間からするりと逃げていってしまったみたいな、奇妙な喪失感が手の平に残っていた。
 ちりちりと脳髄を焦がす残像。それは、今この時の彼女よりもやや成熟し、この国を統べるに相応しい女性となった煌武院悠陽の、悲しげな微笑だった。何故だか、そのビジョンだけが、どうしても消えてくれなかった。
「……すまない、何でもない」
 そう答えて、武はかぶりを振った。余計な思考を追い出し、目の前のことに集中する。それから、何事もなかったかのように話を戻した。
「伊隅大尉も言った通り、BETAによる侵攻の予測が不可能であり、物量が奴らの最大の強さであるからには、防衛線が突破されるということは十分に考えられる。何しろ、大規模な防衛戦では、万単位のBETAが一斉に一箇所へと押し寄せてくることになるわけだからな」武は意地悪そうに唇の端を吊り上げ、「その圧力の恐ろしさは、既にシミュレーターで十分味わってもらったと思う」
 うげ、とでも言いたげに水月が顔を歪めた。突撃前衛長として部隊の最前列に立った彼女は、怒濤の如く押し寄せるBETAの攻勢の矢面に立たされることとなったのだから無理もない。見れば、B小隊であった神崎月乃、築地多恵、高原小雪の三人も同様の表情を浮かべていた。
「まあ、今回は本来想定されるべき他部隊がいなかったからな。支援砲撃を抜けてきたBETAは全部ヴァルキリーズで受け持つことになったわけだし、実際の防衛戦であれだけの数を一個中隊で相手にするなんてことは殆どないから安心しろ」
 武がそう言ってやると、一転、突撃前衛陣は――いやヴァルキリーズ全員が揃って安堵したように溜息を吐いた。みちるまで一緒になって吐息していたので、軽く視線で釘を刺してやると、みちるは慌てて取り繕っていた。そんなみちるのちょっとした弱さや気の抜けた仕草に気付けるようになったのも、この世界にやって来てからだった。あるいは、みちるのそんな姿を引き出せるくらいには頼り甲斐が身に付いたということだろうか。
「……白銀少佐、一つよろしいでしょうか」
 挙手をして言ったのは、秋山楓中尉。
 武は首肯で先を促す。
「殆どない――ということは、逆に言えば、稀にそういったことも起こり得る……そう取ってもよろしいのでしょうか」
 へえ……と武は内心で驚嘆の声をあげた。
 流石はヴァルキリーズの副隊長と言うべきか。こうも容易く武の言葉の裏の意味に気付くとは。しかし、一同を見渡して見れば、みちるは当然としても、水月、遙、美冴の三人の中尉もまた楓の言葉に頷いていた。
 逆に、残る八人は、驚いている者、理解出来ていない者、遅れて納得する者と様々だ。
「秋山中尉の言う通り、一個中隊で一万以上のBETAを相手にしなくてはならないという状況もあり得るし、絶対防衛線を万単位のBETAが超えてくるってこともあり得る。――実際、オレにもその経験があるからな」
 武の言葉に触発され、ヴァルキリーズがざわつき始める。
 一万以上のBETAといえば、絶望に絶望を塗り込めたような、想像を絶する事態だ。一度でも実戦を経験した衛士であれば、誰もがその脅威をたちどころに理解することだろう。
 そういう意味では、この部隊は、全員が――CP将校である遙さえもが――武の言葉の重みを実感を伴って受け止めていた。
「その時、少佐達はどうしたんですか?」
 興味津々、といった様子で問うてくる晴子。武がここにいるからには、どうにか乗り越えたのだと考えたのだろう。これまで武が彼女達に見せてきた力が、そう思わせるに足る物であったということもある。
「有りっ丈の装備を注ぎ込んで徹底的に戦ったよ」
 補給コンテナを設置出来るだけ設置して、撃てるだけ撃ち斬れるだけ斬り、時にはコンテナごと巻き込んで自爆をした者もいた。
 タイマーをセットしたS-11を積んだ無人の戦術機――人間の数に比して余っていた物――を自律制御でBETAのただ中に飛び込ませ、爆破したりもした。
 自律誘導弾の弾頭を小型のS-11に変更した物を装備し、BETAの群に撃ち込んだり、自爆を敢行する者もいた。
 持てる全ての弾薬を撃ち尽くし、近接武器は砕け、まともに稼動する戦術機は殆どない……そんな状態に陥るまで、がむしゃらにひたすらに戦い続けた。
 そんな状態に陥って――それでも尚、BETAを食い止めることは出来なかった。
「……結局、基地は放棄したよ。それだけやっても、BETAは止まらなかった。何千って衛士を犠牲にして、基地一つ守ることが出来なかったんだ。オレの上官や仲間……部下も、大勢死んだ」
 終わってみれば、あまりにも呆気ない幕切れだった。数時間にも及ぶ基地防衛戦は、人類側の大敗。僅か軍艦一隻に百名余りが乗り込んで脱出するのが限界だった。
 それは、それまで戦時下にありながらも二つのハイヴを陥としたことで活気づいていた、帝国の戦勝ムードを一夜にして絶望の淵に叩き込むには十分すぎた。
 ――それが、鉄源基地防衛戦。かつて武が過ごした世界に、甲20号目標が再び建造された日の出来事だった。
 武が話を終えると、しん……とブリーフィングルームは静まり返っていた。
 この場の誰もが、武の力を知っている。先日の迎撃戦での撃墜スコアや、誰よりも卓越した対BETA戦における種々の技術。そんな彼を擁する部隊でさえ、BETAの雪崩には為す術なく押し潰されたのだ。
 それは言い換えれば、佐渡島から本格的な大規模侵攻がこの横浜の地に向かって行われれば、帝国は抗うことさえ出来ずに、再びその中枢部に地獄へと続く奈落を穿たれるということでもある。
 先日のBETA侵攻の目的地は、ここ横浜だった。
 武の語った話は、決して昔話や思い出話などではなく、明日にも起こり得る現実なのだ。
 先のみちるの言が、より一層の確たる形を持って、ヴァルキリーズの肩にのし掛かる。精神的な重圧は、物理的な質量の錯覚さえ伴って、この空間を押し潰していた。
「そう悲観するな。そういった場合に備えてオレ達は訓練をしているんだからな」武は努めて明るく言った。「それに、帝国でなら、そんなことがあっても、各地からすぐに援軍が来る。オレが言ったみたいなことにはそうそうならないよ」
 もし横浜への大規模侵攻が発生すれば、その時は帝都もただでは済まない。侵攻の観測と同時に、帝国最大最強の戦術機甲部隊である斯衛軍もまた動くことになる。オルタネイティヴ4の枢要たる横浜基地を守り抜くために、各種弾薬も惜しげなく注ぎ込まれることだろう。何より、この世界は前の世界ほど疲弊しきってはいない。
 前の世界とは、事情が違うのだ。人類にはまだ余裕がある。それこそ、表立ってではないにしろ、国と国とが戦争紛いの対立を維持出来る程度には。
 とはいえ、武がかつての世界で経験した規模の侵攻があれば、帝国の援助があったところで、この基地は壊滅的な打撃を受けるだろう。特に、今後予想される大規模侵攻は、佐渡島を陥とした直後……BETAは、帝国が最も力を失った一瞬を突いて、剥き出しになった柔らかい腹に牙を突き立てようとするだろう。
 この世界では知られていないことではあるが、BETAにも戦術という物は存在する。あるいは、戦略さえあるかもしれない。これまで幼稚な突撃戦術しか使用してこなかったのも、自分達に戦術があるということを隠す擬態だったのだから。
 BETAに戦術を使われれば、この基地と言えど一溜まりもないだろう。特に、後方ということで間延びしきっている今の状況を考えれば。
 ――やっぱり、アレをやるしかないのか……。
 以前捕獲したBETA群をXM3トライアルに際して解放し、横浜基地を襲撃させる――この基地の空気を引き締めるためのカンフル剤。
 だがそれは、多くの犠牲を支払うことになる諸刃の剣だ。事実、前の世界ではA-01からも一人が死亡、一人が重傷という結果になった。
 この世界では早期のXM3配備や武による教導もあり、A-01の能力は飛躍的に向上しているが、この世に絶対はない。武のよく知る人物達の中から戦死者が出るということもあり得るのだ。いや、武に面識のない人間であっても、多くの戦死者が出ることは免れない。演習用装備でBETAの相手をするなど、機動制御に特化した武でもなければ不可能なのである。
 クーデターについても同様だ。『一度目の世界』で起こらなかったことを考えると、天元山不法帰還住民の強制退去が分岐となることはほぼ間違いない。そしてその引金を引けるのは、武を置いて他にいない。
 自分が何万人もの命を握っていると言っても過言ではないのだと気付き、武は背筋に薄ら寒い物が漂うのを感じた。
 ――そういえば……今日はあの人が来るのか。
 珠瀬事務次官来訪の翌日――その条件があれば、ある男がこの横浜基地に現れるはずだ。今回の世界でもHSSTの落下を事前に回避したわけだから、その確信に揺らぎはない。
 あれこれと考えるのは、その後でもいいだろう。今はこのデブリーフィングに集中すべきだ。
「さて、BETAが防衛線を越えてくるには、いくつかのパターンがある。一つ目は言うまでもないが――朝倉、答えてみろ」
「は、はいっ! 物量で突破されるパターンです!」
 突然の指名に驚いたのか、千景は、やや大きな発声で答えた。
 その通りだ、と武は頷き、
「これが典型的なパターンだな。奴らのいつものやり方でもある。さっきみんなにやってもらったのも、オレが話したのもこれだ。防衛線で食い止められるBETAの数には限度がある。そのキャパシティを超えられると、突破されるわけだ。支援砲撃も間に合わないしな」
 電磁投射砲でもあれば別だが、戦車部隊と戦術機部隊とだけで食い止められる数ではない。弾薬には限りがあるのだから。
 それに加え、光線属種が支援砲撃を撃ち落としてしまう。時には要塞級の護衛が付くことさえあるのだ。それが大規模防衛戦を難しくしている要因の一つでもあった。
「基本的に、防衛線が突破されるのは、今言ったように物量による突破が殆どだ……が、ごく稀にそれ以外のパターンがある。……そして、それがオレが一番恐れているパターンでもあるんだ」
「少佐が――」
「一番恐れているパターン……」
 誰かが、息を呑んで囁くように言った。
 先の防衛戦で八面六臂の活躍をした武をして、最も恐ろしいと言わしめるパターンだ、彼女達の緊張は否応にも高まっていた。
 今か今かと、続く武の言葉を待つヴァルキリーズの期待と不安によって張り詰めた空気が、武を急かす。
 しかし、
「……それについては、また今度詳しく話そう」
 武のその言葉に、水月が盛大につんのめった。
「ちょ、ちょっと少佐ぁ、それはないんじゃないですかぁ!?」
 うんうん、と頷くヴァルキリーズ一同。武はそれに苦笑しながら言う。
「まだ新しいシミュレータープログラムが完成してないんだ。漠然と話だけ聞くより、実際に味わってみた方がわかりやすいだろう?」
 しばらくはお預けだ、と言うと、水月は不満げに眉をひそめた。その隣では茜が唇を尖らせ、それを見て晴子が笑みを浮かべている。
 武は表情を引き締め、言った。
「もう一つ――と言っても今言ったプログラムと無関係というわけではないんだが――シミュレーター用のプログラムを開発中だ。あと二、三日で完成予定だが……この二つに関しても、XM3と同じようにみんなにテストをしてもらう予定だ」
「楽しみにしてもいいんですか?」
 すっかり立ち直って問うてくる水月に、武はにやりと唇の端を吊り上げ、
「生半可なレベルを予想してると、痛い目に遭うぞ?」
 冗談めかしながら、はっきりと真実を告げた。
 今の彼女達では、中隊でヴォールク・データをクリアするのがやっと。エインヘリヤル・データをクリアするには、ヴォールク・データを脱落者なしでクリア出来るくらいにはなってもらわねばならない。
 そして、もしかすると、防衛戦プログラムはそれ以上に難しいかもしれないのだ。
 ハイヴでは、機動制御技術を磨き、道を塞ぐ最低限のBETAだけを殺傷しながら、推進剤を効率的に使って前進するだけでいい。無論、実際には様々な技術が要求されるのだが、ハイヴ突入の至上命題が反応炉の破壊にある以上、それを主眼に置くことは間違いではない。
 しかし、防衛戦では、自分が生き延びながら、より多くのBETAを屠ることが求められる。大規模侵攻に際しては、一人当たり五百以上のBETAを斃さなくてはならないこともあるのだ。
 ヴァルキリーズを侮るわけではないが、今の彼女達にそこまでの力はないだろう。
 この無謀とも思える防衛戦プログラムは、それだけの実力を、擬似的な実戦を通して、徹底的に叩き込むための物なのだ。
「まずは防衛戦プログラムでBETAとの戦い方を完全に物にしろ! それ以上のプログラムは、この訓練をクリアしてからだ、いいな!」
「はっ!!」


 A-01との午後の訓練を終えた武は、シャワーを浴びて汗を流した後、夕呼の執務室へと向かっていた。
 ただし、直接夕呼に用があったわけではない。
 昼のデブリーフィングの際に思い出したことを確かめにやって来たのだ。ここには、ある男が来るはず。用があるのは、その男に対してだ。
 B19フロアへとやって来ると、丁度霞が奥の扉――所謂脳みそ部屋――から出て来たところだった。ぴょこりとウサギの耳のような髪飾りが立ち上がる。
 霞には武の意図は伝わっているだろう。一つ頷いて、武は霞と並んで執務室の扉を開けた。
 やはりと言うべきか、中は無人。電灯の点いていない室内は真っ暗だ。
「香月博士はいないみたいだな……」
 武はわかりきったことを呟いた。
 これで『前の世界』と同じお膳立ては整った。さあ、食い付いてこい――。
「博士なら、司令所へ行きましたよ」
 ――来た……!
 突然背後から投げられた声に、武は内心で喜びの声をあげた。
 振り返ると、そこには帽子を被ったコート姿の男が立っていた。
 驚きはない。これは全くの予定調和。この男なら、横浜基地有数のセキュリティを誇るこの副司令室にさえ、散歩のついでに立ち寄るくらいのことはしてのけるだろう。
「はじめまして」
 害意のないことを表現しようとしているのか、男は口許に笑みを散らした。が、どう見ても怪しさ満載の笑顔である。
 武は霞の体を引き寄せ、自分の後ろに隠した。
「警戒しなくても大丈夫だよ、社霞……ちゃん?」
 男の言葉に、霞は武にしがみつく腕に力を込めた。
「……はじめまして」
 霞の肩を抱き寄せながら、武は先の男の言葉に応える。しかし、男の口許に浮かんでいるような笑みはない。
「驚かせてしまったかな? いやはやしかし……まさか……本当に君がいるとはなぁ」
 すぅ――と、まるでそよ風のような何気ない動きで、男は武へと近付いてくる。古武術にも通ずる、一分の隙もない完璧な歩法。前の世界の武では、全く反応出来なかったそれを、武はこともなげに足を後ろに滑らせて間合いを保った。
 意外そうな、驚きの表情が男の顔に広がった。対照的に、武の顔には微笑。つられるようにして、男も笑みを――能面のように無表情で、感情や思考の読めない笑みを――浮かべてみせる。
「作り物にしては精巧だな……」男はわざとらしい感嘆の響きを乗せて言った。「いやはや、こうも間近で見てもわからないとは。う~ん、良くできている」
「なんなら触ってみます? 作り物じゃないってわかってもらえると思いますけど。
「あいででででで!!」
「わははは……面白い男だ」
「面白い男なのはお互い様でしょう、鎧衣課長?」
 ぴたり、と男――鎧衣左近の動きが止まった。武の頬に向けて中空に伸ばされていた手が、中途で下ろされる。
「ほう……私の名を知っているのか、シロガネタケル」
 声には、どこか固いものが混じっていた。
「帝国情報省外務二課課長鎧衣左近……207B訓練分隊の鎧衣美琴の父親……ですよね?」
「驚いたな。私の素性を知る者は、ここでは少ないと思っていたのだが」
「まあ、そんなにいないでしょうね」
 基地司令部の数名を除けば、武くらいのものだろう。何しろ、実の娘である美琴でさえ、父の本当の職業を知らないのだから。
「シロガネタケル……本物かね……?」
「……本物ですよ、一応ね。――それとも、死人がいたら、帝国としては都合が悪いですか?」
 武がそう言うと、課長はくつくつと喉を鳴らした。
 よくよく考えれば、これは『この世界』の白銀武のことを知るまたとないチャンスだ。帝国情報省の名は伊達ではない。国内外の情勢に表裏を問わず精通し、煌武院悠陽殿下の信頼も厚い。加えて、こちらに必要な情報はぺらぺらと口にしてくれる。それに、真那とは違い、初対面のときから武に敵対的ではなかった……はずだ。
『白銀武』について聞き出すのに、これ以上の相手はいまい。
 今ならば夕呼もいない。聞くならば今を置いて他にない。
「あの――」
「――騒がしいわよ。人の部屋で何やってるわけ?」
 だが、無情にもタイムリミットは唐突に訪れたのだった。

 武が口を開いたのと、この部屋の主たる香月夕呼が戻ってきたのとは、殆ど同時だった。ぱちん、と音を立てて部屋の明かりが灯る。
「こんばんは、香月博士」
 まるで仲のいい友人にでも呼び掛けるような気安さで、課長は夕呼に呼び掛ける。
 だが、夕呼はいかにも不機嫌そうに言い放った。
「……帝国情報省ってのは礼儀がなってないわね。入室の許可……どころか、面会の予約をもらった覚えもないけど?」
「いやぁ、部屋の前に立ったら扉が開いてしまったんですよ」
 悪びれた風もなく答える課長に、「口の減らない男ね」と夕呼は苦々しげに吐き捨てた。それに対し課長も、「ひとつしかない口が減ったら大変ですな」とこちらは軽口で応える。
「世間話をしにきたわけじゃないんでしょ?」
 課長の目に鋭い光が宿った。そのまま、武を一瞥する。これから話す内容を、一介の衛士に聞かせてよいものかどうか思案しているのだろう。
 やがて、ここにいる時点で問題ないと判断してか、課長は口を開いた。
「XG-70の件ですよ。……ご興味ない?」
 XG-70――その名には覚えがあった。前の世界で行われたミョルニール作戦――H03ウラリスクハイヴを根刮ぎ消滅させる大規模作戦――のために投入された戦略航空機動要塞の名だ。
 グレイ・イレブン――アサバスカに落とされたユニットの調査で、ウィリアム・グレイ博士によって発見されたBETA由来の人類未発見元素、通称G元素の十一番目の元素――を動力源とするムアコック・レヒテ機関を搭載し、機体周辺にはラザフォード場と呼ばれる強力な重力場を発生させることが出来る。
 悪名高い人類の最強兵器G弾も、元はといえばML機関のスピンオフ技術によって生まれたものだ。
 暴走したML機関は、数十発分の巨大G弾にも等しい。
 その巨大G弾によるH03破壊作戦こそ、ミョルニール作戦と呼ばれる一大反攻作戦だった。
 米国や国連は、それによってG弾の優位性を証明すると共に、H01――オリジナルハイヴ攻略の足がかりにしようと考えていたらしい。
 らしいというのは、その結果を知る前に、武が死んでしまったためだ。
 尤も、たとえその続きを見ることが出来たとしても、それが成功したかどうかは疑わしいところだが。2007年に入った頃には、G弾は切り札として機能しなくなっていたのだから。
「国連軍の名が泣くわね。加盟国軍部との取引を第三者に仲介してもらわないといけないなんて」
 無能な上層部を嘲るように、夕呼は言った。
「米国は国連を煩わしく思っていますからねえ。顔を立ててやっている程度にしか思っていないんでしょう」
 日本の国民感情では、国連は米軍の手先と言われているが、実際はそうではない。米国にしてみれば、G弾によるBETAの駆逐という自分達の作戦を阻止しようとする邪魔な機関でしかない。国連は日本などの前線諸国と米国という大国の板挟みに遭っているのだった。
 話の流れは前の世界と同じだ。XG-70を生み出すこととなったHI-MEARF計画は既に頓挫しているが、だからといって、ただでそんな兵器を譲ってくれるはずがない。自分達には不要でも、オルタネイティヴ4には必要となれば、こちらの足元を見て引き出せるだけの代価を引き出そうとするだろう。
 ただし、それもオルタネイティヴ4が順調であれば、の話だ。
 計画が進んでもいないのに譲渡しては、恩を売ったところで一銭の価値もない。
 つまりそれは、未だにオルタネイティヴ4が何の成果もあげられていないことを意味していた。
 これじゃ、また繰り返しだ――武は唇を噛み、手の平に爪が食い込むほど強く拳を握った。
「……んで、そろそろ本題に入ったらどう? つまらない話はもうウンザリ」
「ならば、ドードー鳥の生態について少し……」
「却下よ」
 即答だった。
 刹那さえ待たずのにべもない夕呼の答えに、武も少々課長が気の毒になるが、どうせ気にしてなどいまい。鎧衣の血筋とはそういうものだ。
「帝国軍の一部に不穏な動きがあるようでして……」夕呼に睨まれ、課長はようやく次の話題を口にする。「実は最近、戦略研究会なる勉強会が結成されましてね……」
「――興味ないわね」
 だが、夕呼はそれさえも切って捨てる。
 それを気にも留めず、課長はにやりと唇の端を吊り上げ、言葉を続けた。
「……それで済まないことはわかってらっしゃるでしょ? 香月博士。もし彼らが事を起こせば、日本に政治的・軍事的空白が発生してしまうのですよ? 当然、横浜基地もその影響を免れることは出来ない」
 横浜基地は国連軍の統治下にあり、一種の治外法権地域ではあるが、日本国内、それも帝都のすぐ近くにあるという事実は変わらない。日本国内で大きな変動があれば、横浜基地がそれに巻き込まれないはずがなかった。
 政治的・軍事的空白――即ち、大規模なクーデターが起き得ることを課長は示唆している。そして、実際にそれは起きるのだ。
 そうなれば、横浜基地にも派兵が要求されることとなる。オルタネイティヴ4の研究の遅延は免れない。
「そうなれば国益に聡い彼の国がどう動くか……反オルタネイティヴ勢力や国連内部の別勢力も黙っちゃいないでしょうなあ。ましてオルタネイティヴ計画を秘密裏に誘致した現政権が倒れてご覧なさい……ああ、恐ろしい」
 別勢力というのは、言うまでもなくオルタネイティヴ5推進派のことだ。
 日本主導でオルタネイティヴ計画を進行することが出来ているのは、因果律量子論を提唱する香月夕呼の存在と、米国や国連に対し面従腹背の姿勢を取る榊政権があってこそだ。
 その一方でも失われれば、よほどうまく事を運ばない限り、オルタネイティヴ4は瞬く間に中止されるだろう。
 無論、武はその可能性に対し悲観的になることなどなかった。
 前の世界では実際にうまく事は運び、考え得る限り最良の未来を手にすることとなったのだから。
「そこまで掴んでいるのに何も出来ないなんて……帝国情報省は張子のトラってワケね」
 ふん、と鼻を鳴らして夕呼は言った。
「いや、お恥ずかしい限りです」顔色一つ変えずに課長は答える。「裏は取れていませんが……帝国国防省と内務省の一部それに……」
「……それに?」
「国益を最優先する国家の諜報機関の影がチラホラと……」
「ふふん、なるほど……そこに繋がるワケ」
 課長の回りくどい話に、ようやく得心がいった、と夕呼は笑みを浮かべた。
「さすがは香月博士……XG-70の件、無関係ではありませんよ?」
 国益を最優先する国家、即ち米国がクーデターに深く関わっている。それを利用すれば、米国もXG-70を出し渋るわけにはいかなくなるというわけだ。
「どうですか、今の話は、なかなか面白かったでしょう?」
「まあまあね。けど、そんなこと興味ないわ。あたしの邪魔にならないんだったら、何だっていいのよ」
 夕呼のそれは紛れもない本心だった。
 彼女の関心はオルタネイティヴ4を完遂することのみ。それ以外は全て些末事だ。
 しかしそれでも尚、夕呼の頭の中では、脳がフル回転して、それらの情報をどう利用すべきかを考えている。意識と思考の乖離。同時に複数の物事を常人以上の能力で並列して処理することなど、夕呼にとっては難しいことではなかった。
「……で、本当は何しに来たわけ? どれも、わざわざ足を運んで知らせる問題じゃないでしょ」
 夕呼は微かな苛立ちを言霊に乗せた。
 ――そう、ここまでは全てが些末事。
 わざわざここまで来て夕呼の耳に入れるまでもない――そんなことをせずとも、自然と耳に入る情報ばかり。あるいは、ピアティフ辺りが雑事として止めているかもしれない程度の情報。必要とあらば、武が未来の情報として伝えることも出来る。
 どうしても耳に入れたいと考えていたとしても、秘匿回線でも使えば、それだけで事足りる。夕呼と課長の間に、そういったラインが繋がっているのを、武は知っていた。
 ここまで足を運んだということは即ち、夕呼との会話が必要だということ。
 そして――白銀武の存在を確かめるということも、決して無関係ではなかっただろう。
「そこまで期待されては仕方がない。本題に入りましょうか? 実はここ最近、奇妙な命令が何度か発令されてましてね。正規のルートからではない最優先命令が、帝国軍内と国連軍に二度ほど発令されたんです」
 一度目は11月8日。11月11日早朝からの、新潟帝国軍と厚木国連軍による越中・下越での合同実弾演習。
 二度目は11月19日、即ち昨日の朝。国連宇宙総軍北米司令部宛の、HSST監視命令。
 武と夕呼に、心当たりがないはずがなかった。しかし、二人は内心を完全に覆い隠すことに成功していた。これは、完全に予期していたことだから。
「帝国軍内部のキナ臭い動きの件もありますし……皆、ピリピリしているんですよ」
「へえ……それで関係ない外務二課が刑事のまねごと?」
 嘲笑するように唇を歪める夕呼。
「まあ、しがない飼い犬ですから……はっはっはっ。――で、香月博士なら何かご存知かと思いましてね。報告ついでに伺った次第です。穏やかじゃないですな……自軍のHSSTを見張れとは。しかも、座標まで的確に指示が出されていた。そのポイントで国連軍のHSSTを監視しろと。万が一、不穏な動きを察知した場合は、撃墜も厭わず……とも。ああ、恐ろしい」
「ずいぶん物騒な命令を出したヤツがいたものね」
 夕呼は表情一つ変えずに白を切る。
 それらの命令を夕呼が下したという証拠はどこにもない。弱気になる理由など皆無だった。
「おかげでエドワーズは一時、大混乱に陥ったらしいですなぁ……面子が大事なお国柄……そりゃあ、ガラクタでも出し渋りたくなるでしょうよ」
 ここで再び、XG-70へと戻るわけだ。
 前の世界では武の与り知らぬことばかりだったが、全てを知った今、改めて聞いてみると、鎧衣課長は突飛な話の運び方をしているように見えてその実、きちんと筋道立てて話を進めていることがわかる。
 マイペースでどこかふざけたような飄々とした態度に油断すれば、丸裸にされるということだ。
 成る程、流石は帝国情報省外務二課課長。殿下の信頼も厚く、一対一で夕呼を不機嫌にさせられるだけのことはある。
「昨日の件、何かの予防措置のような気がするんですがねぇ……いったい何が起ころうとしていたんです?」
「……まるで、あたしが関係しているみたいな言い方ね?」
「香月博士の他に、そんな真似が出来るものは……そうはいないでしょう?」
「よしてちょうだい。いくらあたしでも、何もかも予測できるワケじゃないわ」
「ほう……では先日のBETA上陸の際……まるでそれを待ち構えていたかのように、新兵器まで持ち込んでの大規模合同実弾演習を指示出来たのはなぜです? まるで彼らの動きを正確に予想していたかのようですが?」
「……さあ? 指示した人に聞いてよ」
 課長が夕呼の仕業だと確信しているとわかっているにもかかわらず、夕呼はやはり惚けてみせる。
「…………神の御業か悪魔の力か……そのどちらかでも、手にされたのですかな? 初めは社霞かと疑ったが……死んだはずの男がここにいる」
 課長の視線が、ついとスライドし、武に向けられる。その視線には、明らかな疑義と怪訝の色が宿っていた。
「オレですか?」
 突然話を向けられるとは思っていなかった風を装う武。
 無論、前の世界の経験から、ここで自分に話が向けられることは知っていた。
「是非ともご説明いただきたいものですな」
「仕事熱心なのは結構だけど……少し脇道に逸れすぎじゃない? あなたにお願いしたのは、仲介と調停だったはずだけど?」
「おっと、これは失礼……なにぶん飼い主想いなもので」
 その飼い主とは、今この場にいる夕呼ではなく、帝国情報省だろうか。武にとってはどちらでもよかった。
「何なら説明してあげましょうか、鎧衣課長」
「白銀!?」
 初めて夕呼が明らかな動揺の色を見せた。しかし、武はそれを意に介さず続ける。
「いいじゃないですか、先生。鎧衣課長だってオレ達の敵になろうとは思っていないんでしょ?」
「当然だ。私は飼い犬想いなのでね」
 課長は武が何を言い出すか楽しみだとでも言うかのように目を細めた。
「白銀――!」
「――夕呼先生」
 声を荒げる寸前の夕呼を、武は低い声で押し止めた。
「オレ達は利害が一致してるから協力するって言ったのは夕呼先生ですよ? 夕呼先生がそうしているように、オレにだって自分の利害のために他者を利用する権利がある」
「これはこれは。なかなか面白いことになってきたようですな」
「っ……」
 夕呼は苛立たしげに武を睨み付けたが、それ以上は何も言わなかった。
 彼女にとって、これは予期せぬ事態だろう。白銀武は未来の情報を持っている。平行世界の証明そのものである以外に、その情報と優れた衛士としての能力こそ、彼女が武を手元に置いた理由だ。
 同時に、武にとっても、夕呼の下以外に身を置く場所などない。ない、はずだった。
 武の持つ情報は、因果律量子論を提唱する夕呼以外には、与太話あるいは狂人の世迷い言に過ぎないのだから。
「お察しの通り、BETAの侵攻もHSSTの監視も、オレが香月博士に進言しました」
「ほう。どうやってそれらの情報を?」
「さあ、どうやってでしょう。ただで教えるわけにはいきませんよ」
 にやりと武は笑みを浮かべた。
「先程の話では代価にならないと?」
「それは香月博士と鎧衣課長の話でしょ? オレは偶然そこに居合わせて立ち聞きしただけです。――それに、今更真新しい情報でもありませんでしたしね」
 どれも前の世界で既に知っていたことばかりだ。武にとっては、朧気な記憶を補完するといった程度の意味しかない。
「……では、何を求める?」
「さあ? 今は特に欲しい情報とかはありませんから」
 戯けたように武は答えた。
 嘘だ。
 実際には、喉から手が出るほどに欲しい情報がある。だがそれは、今この場で知るべき情報ではない。白銀武の過去は、武だけが知っていてこそ意味があるのだから。
「今度、必要なときに必要な代価をもらえれば、そのときに教えてあげます。――どうしても今知りたいんなら、自分で調べてください。それが仕事でしょう?」
「これは耳が痛い」
 知りたければ調べる、ただそれだけの、当然の摂理。そして調べものは情報省の専売特許だ。尤も、どれだけ調べようとも、答えが出て来るはずがないのだが。
「では香月博士、私はこの辺で失礼するとしましょう」
「美琴には会わないんですか?」
「……そうだ。忘れていた。かの娘の動向を探る名目でやってきたのでした」
「……どっちの?」
 自らの娘と、煌武院悠陽の双子の妹。どちらにせよ
「この場合、どちらが面白いと思いますか?」
「さあ? ご自由にどうぞ」
 武が答えた。課長は一瞬目を見張るが、すぐに高笑いを響かせる。
「成る程、面白い男だ。では、さらばだ。またの機会に会おう、シロガネタケルくん」
 そう言い残して、さも愉快げに課長は去っていった。
 その後ろ姿を見送って、「ふう……」と武は息を吐いた。
「すみません、勝手な真似をして」
 勝手な真似とは、勿論自分の仕業だと認めたことだ。
「……別に構わないわ。鎧衣課長も確信してたみたいだしね。追い返せたんだから、結果的には成功よ」
 疲れた様子で夕呼。
 武は苦笑して、
「安心してください。今はまだオレのことバラす予定はありませんから」
「まだ、ね……」
「バラすときはちゃんと夕呼先生に相談しますよ。その所為でオルタネイティヴ4が失敗した、なんてことになったら目も当てられませんし」
「そうしてちょうだい」
 そう言って夕呼は、半ば倒れ込むように椅子に腰掛けた。
 よくよく見ると、目の下には隈が出来ている。化粧で隠してはあるが、近くで見ると、うっすらとくすんだ色が見て取れた。
 やはり、研究がうまくいっていないのだろうか。
 特に昨日などは珠瀬事務次官の来訪やHSSTの監視命令など、気が休まることはなかっただろう。今日もその事後処理に追われていたのかもしれない。
 結局の所、武はピアティフのように、直接夕呼を補佐することなど出来ないのだ。
 出来ることといえば、未来の情報を夕呼に教えることと、優れた衛士であろうとすることだけ。後者はともかく、前者については、徒に夕呼を焦らせるだけの結果に終わってもおかしくはない。
 それでも、武は自分のなすべきことについては迷わなかった。
「さっきの鎧衣課長の話ですけど」
「何の話?」
「戦略研究会がクーデターを起こすっていうのです」
「ああ……そう言えば、あんたも前に言ってたっけね……けど、どうでもいいわよ、そんなの」
 ひらひらと手を振る夕呼。だが、武は引き下がらなかった。
「よくないですよ! 12・5事件――あのクーデターは、オレ達にとって、米軍を出し抜くまたとないチャンスなんです!」
 武は机の上に手を突いて、身を乗り出して言った。武の剣幕に圧されてか、夕呼の顔付きが変わる。
「……言ってみなさい」
 頷いて、武は前の世界で起こった12・5事件について説明を始めた。

 引金となったのは、12月3日から4日の未明に掛けて、救出作戦という名目で行われた、天元山周辺地域の不法帰還者の強制退去。
 それを受けて、12月5日未明、沙霧尚哉大尉を中心とする戦略研究会がクーデターを決行、榊是親首相らを国賊として殺害。反乱軍は、これは将軍を蔑ろにする奸臣を排除し、国政を煌武院悠陽殿下の手に取り戻すための戦いであるという旨の声明を発表する。
 しかし悠陽は侍女長と鎧衣課長だけを伴って、帝都城地下の秘密通路から、箱根搭ヶ島離城へと脱出。
 それとほぼ時を同じくして、帝都城周辺で戦闘開始。その原因となった銃弾を放ったのは、言うまでもなく米国諜報員。
 その後、夕呼の指示で出撃していた207B分隊及び帝国斯衛軍第19独立警護小隊が搭ヶ島離城で悠陽を無事保護、武の吹雪に搭乗させて、横浜基地第11艦隊の待つ白浜海岸を目指すことになる。途中で米国陸軍第66戦術機甲大隊と合流するも、悠陽が重度の加速度病により失神、応急処置のために一時進軍を中止。反乱軍が空挺作戦という暴挙に出、包囲を許してしまう。
 その後、冥夜を悠陽の替え玉として武の吹雪に搭乗させ、反乱軍の説得を試みる。説得は成功したかと思われたが、米国陸軍第66戦術機甲大隊所属のイルマ・テスレフ少尉が謁見中の沙霧大尉に向け発砲、戦闘が再開される。
 戦闘は乱戦の体を表したが、真那らの活躍もあり、どうにか無事に悠陽を横浜基地に送り届けることに成功した。
 その後は将軍を中心とした政権が確立され、また米国の影響力も弱まるなど、結果だけを見るなら、反乱軍の願いは多大な犠牲と共に成就することとなったのだった。

「つまり、クーデターによって、国内の不穏分子の一掃、対国連国民感情の軟化、米国の影響の排除、207小隊の任官が同時に達成出来るってわけです」
「さらに、殿下はあたし達に恩があるから、これまで以上に帝国政府は協力的になる……か」
「勿論、全部が全部この通りになるとは思ってません」武は頷いて言った。「でも、オレは前の世界以上には帝国軍に干渉していない。このままいけば、ほぼこの通りになるはずです」
 武が干渉していない部分については、未来は変化しない――これまでに得た教訓だ。同じだけ干渉すれば、同じだけ変化する。珠瀬事務次官来訪や鎧衣課長の出没などでそのことも証明された。
「……あたし達の取り得る選択肢は二つ」頬杖を突いて、指を二本立てて夕呼。「一つはあんたの言う前の世界と同じようにクーデターを起こす。余計なことさえしなければ、あんたが言った結果が、ほぼ確実に得られる。――二つ目は、クーデター自体を未然に防いでしまうこと」
「クーデターを防げば、余計な犠牲が出ることもない……」
「私達としても、帝国の国力が殺がれるのは望むところじゃないしね。……まあ、同じだけの成果を求めるなら、その上で米軍を追い出したり、殿下とのコネを作る方法を考えなきゃいけないけど」
 余計な血を流さなくて済むのであれば、それに越したことはない。だが、こちらは不確定要素が大きすぎる。一度クーデターを未然に防いだからといって、帝国軍内には依然火種が燻り続けるのだ。
 米軍を追い出すのは、反乱を企てている連中の中に米国の諜報員が入り込んでいることを考えれば、そう難しいことではない。多少は時間が掛かるだろうが、情報省などと連携して摘発すればいいだろう。最悪、自白剤漬けにすることも考える必要があるだろうが。
 また、XM3を利用して他国を味方に付ければ、米軍に対する牽制にもなるだろう。ハイヴの驚異に直面しているソ連や欧州各国、アジア各国にとって、XM3は喉から手が出るほどの価値がある。当然、XM3その物についても、米国も無視出来ないはずだ。
 ――全く、面倒な立場だよな。
 武は嘆息するように、微かに鼻を鳴らした。
 国連は今や、米国の傀儡組織と成り下がっている。現在最も国力を有している国が米国なのだから、それは仕方がない。
 しかし、横浜基地は、国連の一基地でありながら、米国――反オルタネイティヴ4勢力――とは相反する組織である。国連軍全体の思惑はさておくとして、武としては、横浜基地として――オルタネイティヴ4勢力として、米国を牽制しておきたかった。
 ――そこで問題となるのは、悠陽とのコネクション。
 前の世界での12・5事件の成果として、決して見落とすことが出来ないのが、これだ。
 彼女が横浜基地に対し、表立って協力的な姿勢を取ってくれれば、それだけで国民感情は親国連へと傾いてくれる。煌武院悠陽とは、それほどの存在なのだ。
 そして何より、横浜国連軍としての発言力を大幅に高めることが出来る。背後に一国の元首――正確には異なるが、皇帝から政務と軍の指揮権を委譲されているのだから、実質的には元首と呼んでいいだろう――が付くというだけで、米国と対等とはまではいかずとも渡り合えるようになる。
「その辺はXM3のトライアルの後、あんたに教導に出向いてもらって、殿下や斯衛軍相手にじきじきにXM3の使い方を――何て顔してんのよ、白銀」
「え?」
「社が怖がってるじゃない。何そんな辛そうな顔してるのかって聞いてるのよ」
 言われて武が自分の頬に触れてみると、いやに筋肉が強張っていた。口の中に、鉄臭い塩味が広がっていることに気付く。
 なんでこんな顔をしてるんだろう――武は、一瞬、自分自身がわからなくなった。
 だが、答えは夕呼の言葉の中にあった。

 ――辛い……?

 胸中で呟く。そうだ、辛いのだ。煌武院悠陽という、自分と一日さえ年の変わらない――主観時間で言えば十歳も年下――そして白銀武にとって、最も大切な人の一人である御剣冥夜の双子の姉である少女を、自分の目的のために利用するということが。
『人として、冥夜様のお気持ちを裏切ることだけは……してくれるな』
 以前、真那に言われた言葉だ。
『言ったはずです。オレは絶対に冥夜を裏切らない。オレを信用出来ないのは構いません。けど、その言葉だけは、命を懸けたっていい――オレの誓いです』
 それに対して武はこう答えた。その思いだけは、今も変わっていない。変わるはずがない。
 だが、武がしようとしていることは、彼女への裏切りではないのか。彼女が本当に大切に思っている唯一無二の姉を利用し、彼女が案ずるこの国さえ利用することは、何より冥夜に対する裏切りであり、冒涜ではないのか。
 そして同時に、この世界を護りたいという己が願いのためだけに――たとえそれが正しい願いであったとしても――多くの命を散らすのだという事実が、鋭利なナイフのように武の喉元に突き付けられている。
 ぎり、と奥歯を鳴らし、武は夕呼を見つめる。
「……大丈夫、です。自分の甘さを再確認してただけですから」
 あ、そ――夕呼はつまらなさそうに頷いた。
 お見通しってワケか、と武は奥歯を噛み締めた。生きている時間こそ夕呼より長いが、夕呼に言わせれば、武はまだまだケツの青いガキでしかないのだろう。甘さが捨てきれない。仲間という存在にしがみつかなければ、立ち上がることさえ出来ない。
 ――ああ、わかってる。反吐が出るほどに甘いってことくらい、嫌ってほどわかってる。
 それでも、捨てきれない。
 彼女達を大切に思う心を、コントロールすることが出来ない。BETAへの憎しみは簡単に抑え付け、必要なときにだけ爆発させられるのに。
 ――ざり……ざ、ざ……
 思考にノイズが走る。ここ数日は収まっていた感覚。それが再び、武に牙を剥いていた。
 記憶と感情と理性の齟齬。白銀武という一人の人間の中で、矛盾が溢れ出し、脳が悲鳴をあげていた。
「……無理しないでいいわ」静かな声音で、夕呼は言った。「あんたは衛士。戦うのがあんたの役目。こういう政治までやらせようとは思ってないから」
 まるで武を気遣うような優しげな声。
 その声に微かな安らぎを覚えてしまう自分がいることに、武は余計に苛立ちを覚えずにはいられなかった。
「クーデターを防ぐなら、トライアルで帝国軍を呼び出して、そこで動くのが一番よ。沙霧って奴を直接説得するとかね。後は、さっきも言ったように、あんたに帝都城まで出向いてもらって、殿下にXM3の指導をすると同時に、政府全権を取り戻すよう取り計らう。これには勿論、あたしが協力するから問題ないわ」
 夕呼の言葉に、武は沈黙で答えた。思考にノイズが掛かって、言葉を紡ぐことが出来なかった。
「トライアルの準備を考えれば、最低でも三日は欲しいわ。そうね……25日までに結論を出しなさい。それまでにあんたからの結論がない場合、あたしが決めさせてもらうわ」
 今日が20日だから、残り五日。五日間の猶予は、長いようで短い。だが、それでも夕呼にしてみれば最大限の譲歩だろう。
 くそ、という悪態を、武は舌の上で転がした。
「……今日はもう帰りなさい」
 夕呼の言葉に、武は頷くことしか出来なかった。


 ――オレは、甘すぎるのか……。
 誰かの犠牲の上に成り立つ、確実な成果か。それとも、誰の犠牲もない、不確定な成果か。理性は前者を、感情は後者を、それぞれ選んでいる。
 あと五日。あと、たったの五日の内に、結論を出さなくてはならない。武の胸の内に焦りが募るのは、自然なことだった。
 焦りは苛立ちを生み、苛立ちは暴力的な衝動をかき立てる。自分でもガキっぽいとは思いながらも、武は強化装備に着替えてシミュレータールームへと向かっていた。
 戦術機に乗っている間は、余計なことは何も考えないでいられる。
 本来ならば、それは余計なことではないのだろうが、今のままあれこれ考えたところで何にもなりはしない。そのための気分転換として選んだのが、シミュレーター訓練だった。
 ランニングというのも考えはしたが、今頃、グラウンドでは冥夜が走っていることだろう。
 彼女に会えば、クーデターのことを思い出さずにはいられない。今だけは、そのことを忘れてしまいたかった。
「……あれ?」
 いざシミュレータールームにやって来てみると、そこには明かりが点いていた。どうやら、先客がいたらしい。そこで武は、一度管制室に足を向けることにした。稼働状況を見てみると、起動しているのは一号機。搭乗者は、
「凛か……」
 七瀬凛。武より年齢は一つ下であるにもかかわらず、本来ならば武の一年先任として衛士になっていた、小柄な少女。
 元の世界でも、所謂問題児であった武と、風紀委員である彼女との間に接点がないわけではなかった。武も遅刻寸前の時など、何度もお世話になった覚えがある。
 眼鏡のないミニチュア版委員長、という認識はすぐに間違いであることに気付かされたが、こちら側では、その認識は決して間違いではなかったらしい。
 腕はいいのだが、真面目すぎるのが玉に瑕と言うべきだろうか。一つ目標を定めると、そこに向かって盲目的に突き進んでしまうきらいがある。
 今もまた、その目標を達成しようと励んでいるのだろう、ディスプレイには、三次元機動から砲撃、接近されれば短刀を振るって一撃離脱、再び砲撃の雨を降らせる……というコンボを繰り返し試みる不知火の機影が映っていた。納得がいかないのか、微妙にタイミングをずらしながら、一心不乱に仮想のBETAを物言わぬ肉塊へと還していく。
「――危ない、な……」
 ぽつりと、武は誰もいない管制室で呟いた。
 危うい。七瀬凛の戦い方は、どこか危ういのだ。
 視野が狭い。制圧支援というポジションに就いているだけあって、戦術的な視野は決して狭くはないのだが、人間として、あまりに視野狭窄と言わざるを得ないのだ。
 強くなろうという姿勢はわかる。わかりすぎるくらいに明らかに。だが、自分の命を勘定に入れず、ただただBETAを斃すことだけを目指し邁進するその姿。その姿に、武は見覚えがあった。
 ――否。見覚えがあるどころではない。
 今の七瀬凛の姿は、かつての白銀武の姿その物だ。もしかすると、今の武自身の姿でもあるかもしれない。
 凛は、BETAへの憎しみだけで戦っている。この世界からBETAを駆逐する……ただそれだけしか頭にない。
 まりもが食われてしばらく、武もまたそうだった。仲間達が殺されたときにも、何度か陥ったことがある。
 何故、と問う必要はない。肉親を殺された、恋人を殺された、仲間を殺された、上官を殺された、部下を殺された、故郷を奪われた、故国を奪われた……BETAに憎しみを抱く理由など、路傍の石ころのように溢れかえっている。
 だからといって、その憎悪を肯定するわけにはいかなかった。
 ――憎悪に溺れた戦い方は、危険だ。
 感情に身を任せれば、自分のみならず仲間の命までも危険に晒すことになる。
 武のように、十年近くも衛士生活を続けていれば、憎悪さえも自分の糧とする精神のコントロール方法も身に付くだろうが、凛はまだまだ若い。言ってしまえば、子供なのだ。
 ……かつての先任や仲間達から見た武も、きっとこんなだったのだろう。そう思うと、何だかおかしかった。
 勿論、このままにしておいていいはずがない。
 今は高い技能や周囲の力もあって、どうにか無事で済んでいるが、これからもそうだという保証はない。
 ゆくゆくは、A-01はBETAの巣たるハイヴへの突入作戦に投入されることにもなるだろうし、近い未来、場合によっては、クーデターという形で帝国軍と戦うことになる。
 そのとき、凛は生き残れるのか……半々だろう、と武は判断せざるを得なかった。
 ふう、と溜息を吐いて頭を掻く武。
 こういうのも教導官の仕事だろう。
 道に迷った若人を導くのは、先達の役目だ。かつて、BETAとの遭遇で錯乱し自信を喪失した武を、まりもが立ち直らせようとしてくれたように――肉体は二十歳前だというのに、思い浮かんだ思考に、武は苦笑した。
 そも、先達という言葉を使う必要はない。仲間だから……それだけで十分だろう。

「七瀬、聞こえるか?」
『……白銀少佐?』
 通信をオンにして呼び掛けると、すぐに返事があった。
「おう。調子はどうだ? ……って、お前、もう二時間ぶっ続けじゃねえか。少しは休憩入れろ」
 モニターに視線を落として、武は愕然とした。延々BETAを相手にし続けるという制圧戦シミュレーションを、凛は二時間も休憩を入れずに行っていたのだ。
 コンピュータ操作による仮想味方機は三機、凛を入れて小隊編制。しかし、味方三機は既に撃墜されており、凛はたった一人でBETAの群と戦っていた。AIではXM3搭載機の機動に付いていけるはずがないから、当然だろう。
 撃墜された回数は一度や二度ではないが、その度に休憩も挟まずにシミュレーションを再開し、味方機と共に撃墜され……というのを繰り返しているようだった。
 それを、二時間。
 ただでさえ正規の訓練の後、夕食を摂り、すぐにまた訓練を始めているのだ、蓄積された疲労は、集中力を限界まで殺いでいるに違いない。
 そんな状態で、XM3によって簡略化されているとはいえ連続入力の特訓を繰り返したところで、訓練になるはずがなかった。
 ――まるで、昔のオレだな……。
 こんなところまで一緒じゃなくてもいいのに、と内心で苦笑しながらも、武は毅然とした態度を崩さない。
「しかし……」
「しかしじゃない。上官命令だ」
「…………わかりました」
 渋々といった様子で凛は頷く。
 ややあって、シミュレーター一号機のハッチが開き、強化装備姿の凛が現れた。長い髪は流した汗で濡れ、艶を湛えていた。頬は上気し、明らかな疲労の色が見て取れる。
 まさか、毎日こうして訓練を続けていたのだろうか。
 凛の実力を考えれば、あながち間違った推測でもないかもしれない。
 はっきり言って、凛は特別才能があるわけではない。茜や冥夜らは、皆才能に恵まれている。
「いつもこんなことやってんのか?」
 シミュレーターデッキに降りて、武は問うた。凛は僅かに視線を逸らして答える。
「いつもじゃありません。週に二度くらいです」
「週二って、かなりの頻度じゃねえか……」
 訓練は毎日ある。翌日に疲れを見せないのは大したものだが、その訓練が実になってないのであれば、何の意味もない。
 それに、週二というのも、本当かどうかはわからない。
「なあ……七瀬は何でそんな頑張ってんだ?」
 思わず、武は訊ねていた。
 これほどの尋常ならざる努力を重ねるくらいだ、その理由も相当なものに違いない。が、
「BETAをこの世界から消し去るためです」
 凛の答えは、武の期待したものではなかった。同時に、予期した通りの物だった。
 この世界でBETAを駆逐したいと考えていない人間はいないだろう。本来ならばこの世界の人間ではないはずの武も――尤も、今ではすっかりこの世界への帰属意識が芽生えているが――そう思っているくらいなのだから、元々この世界に住んでいる人間であれば言うまでもない。
「そんなのはわかってる。オレが聞きたいのは、お前がそう思った理由だよ。……あ、それが人類の悲願だからとか、そういうのはなしだぞ。七瀬個人の理由を聞かせてくれ」
 即ち、七瀬凛の戦う理由。この少女の全身から発せられる、BETAに対する強い――強すぎる憎悪、その源。
 しかし凛は、武の質問に答えることはせず、逆に武に向かって問うた。
「……それは白銀少佐の個人的な興味ですか?」
 これには流石に武も面食らった。凛が答えなかったからではない。先日、武が、武御雷のことで冥夜に因縁をつけてきた国連軍衛士に向かって言った台詞だったからだ。ただの偶然だろうが、痛烈な皮肉を言われているような気がした。
「正直に言うと、それも少しはある……けど、それ以上にこれは、伊隅戦乙女隊(ヴァルキリーズ)の教導官としての質問だ。オレには部隊全体を監督して、任務に支障を来す可能性を排除する義務がある」
「少佐は、私がその可能性だと?」
「ああ、そうだ」武は頷いた。「お前の実力が高いのは認める。その歳でそれだけの腕なら大したもんだ」
「少佐にそれを言われても、あまり嬉しくありませんよ」
 その歳で、という武の言葉を皮肉るように凛は言う。
「いいんだよ、オレは。ちょっとしたインチキしてるからな」
「インチキ?」
「これ以上は軍機に抵触するから言えないな」
 今はまだ、A-01の面々に武の事情を説明するつもりはない。そのときが来れば教えることもあるかもしれないが、そのときが来るかどうかはわからなかった。
「とにかく、お前の力はオレも認めてる。今のヴァルキリーズには欠かせない存在だって事も。でも、だからってお前に何の不安もないわけじゃない……お前は、見てて危なっかしいんだよ」
「危なっかしい?」
「ああ。お前、戦ってるとき、自分が生きて帰ること、ちゃんと考えてるか? 仲間のことは? ――BETAを倒すことで頭がいっぱいだったりしないか?」
「っ……」
 凛は息を呑み、唇を噛んだ。
「長く衛士やってると、そういうの、見てりゃわかるんだよ。伊隅大尉辺りも気付いてるんじゃねえかな。お前がBETAを普通じゃなく憎んでるってこと」
 あの人はその辺敏感だから、と武は締め括った。
 かつて、まりもを殺された恨みから、BETAへの復讐を誓っていた武を救ってくれたのも、みちるだった。
「……なあ。話してみてくれねえかな、お前がBETAを憎む、個人的な理由」
 武は、凛の抱えている事情を知らない。前の世界の武のように、原因が明らかなわけではないからだ。だからみちるも、敢えて触れようとはしなかったのだろう。今、A-01はうまく機能している。先日のBETA捕獲でも損耗率は零パーセントという数字を叩き出した。わざわざ藪をつついて蛇を出す必要はない、ということだ。
 だが、それは未来を知らない者の論理。未来を知っている武は、藪をつついて蛇でも鬼でも出さなくてはならないのだ。

 やがて、凛はぽつりと、一言口にした。
「私には……私には、兄がいたんです」
 その一言で、武には全てが理解出来た。
 いた、という過去形。即ちそれは、既にいないという意味。
 BETAに兄を殺された――言葉にすればたったそれだけの、この世界にはあまりにもありふれた、けれどあまりにも残酷で無慈悲な現実。
 ありふれているからなんだというのか。どんなにありふれていようと、どんなに珍しくないことだろうと、人の死というのは、悲しく、辛く、苦しく……そして、痛いものだ。身近な人間の死であれば尚更だろう。
「両親は私が生まれてすぐ、事故で死んでしまって……だから、年の離れた兄は、私にとって、親でもあったんです。けれど、半年前の間引き作戦で――」
 そこで凛は言葉に詰まった。それ以上を口にすることが出来なかったのかもしれない。改めて口にすれば、兄がもう二度と戻ってこないことを認めてしまうことになるから。
 BETAは、ハイヴ内の個体数が飽和状態になると、新たなハイヴ建設地を求めて移動を開始するという性質がある。この性質が大規模侵攻に繋がるわけだが、それを防ぐために、定期的に間引き作戦――人類による小規模な反攻作戦――が行われる。
 この際、ただ地表に展開したBETAの個体数を減らすだけではなく、ハイヴ内への侵攻も行われる。小規模とはいえ、それは過去の反攻作戦と比較しての物であり、最悪、数千もの死者が出ることもある。凛の兄も、その内の一人だったのだろう。
「七瀬のお兄さんはどんな人だったんだ?」
 凛が話しやすいよう、少しだけ、武は話の矛先を変えた。
「兄は帝国軍の衛士でした」
 そう言う凛の眼差しは、遠いところを見つめていた。その瞳が武の顔で焦点を結ぶと、どこか誇らしげにはにかんだ。
「私なんかとは比べものにならないくらいに腕の持ち主で、鋼の槍(スティルランス)連隊では大隊長を務めるほどだったんです。ご存知かもしれませんが、鋼の槍連隊と言えば、帝国軍では知らぬ者のいない、精鋭部隊だったそうです」
 凛の口調だけで、彼女がどれだけ兄を誇りに思い、尊敬しているかが伝わってくる。
「ああ。オレも知ってるよ。連隊全体の士気が高くて、七瀬の言う通り、精鋭揃いの部隊だった」
 前の世界では、何度か共闘したこともある。
 全員が高い志を持ち、帝国を護るという使命を胸に燃やしていた。部隊全体の練度も高く、中にはヴァルキリーズ並の、エース級揃いの中隊さえあったくらいだ。武がこれまでに戦線を共にした中でも、彼ら以上に信頼出来る部隊はなかったように思う。
 彼らの存在なくして、甲21号作戦の成功はあり得なかっただろう。甲21号目標に突入したヴァルキリーズの直援部隊が、他ならぬ帝国軍鋼の槍連隊に所属する一個大隊であったのだから。
 ――それにしても、鋼の槍連隊の七瀬大尉……いや、七瀬少佐か……?
 大隊長ということから察するに、大尉あるいは少佐というのが妥当なところだろう。そう考えながら、武は頭の片隅に引っ掛かる物を感じていた。
 凛の言う通り、七瀬大尉は相当腕の立つ衛士だったのだろう。大隊長という肩書きがそれを保障している。いかに大好きな兄のこととはいえ、彼女が嘘を吐くとも思えない。
 気になったのは、鋼の槍連隊の七瀬大尉という名前。武の記憶が正しければ彼は――。
「私が衛士を目指したのも、そんな兄の影響だったんです。衛士になることで、ほんの少しでも兄に近付ければと思って……結局、私は兄とは違う、国連軍に所属することになってしまいましたが」
 武の疑問をよそに、尚も凛は兄について語り続けていた。
 死した衛士を誇らしく語り聞かせる……その姿勢は、衛士として正しいが、凛のそれはどこか行きすぎているようにも思えた。
 彼女が話せば話すほど、はっきりとそれが感ぜられてしまう。
 ――兄を殺したBETAという種への復讐。
 それこそが、凛の原動力。
 どうしたもんか、と武は頭を掻いて髪を掻き混ぜた。凛の気持ちの一部は武にも理解出来るし、残る部分も推測することは出来る。
 だからこそ、凛をこのままにしておくわけにはいかない。
 上官としてではなく――仲間として。かつての自分のようなことをさせることは、出来なかった。
 ……だからこれは、自分自身への戒めでもある。七瀬凛を通じて、武は、白銀武自身を叱咤する。
「凛。お前のお兄さんは、お前がBETAに復讐して、それで喜ぶのか?」
「――喜ぶに決まってますッ!」
 間髪入れず、凛は答えた。武が驚くくらいに、強い語調で。
「BETAを倒すために戦っていたお兄様のために、私はBETAを倒すんです! お兄様が喜ばないなんてあり得ないッ! 絶対に喜ぶに決まってるわッ!!」
 捲し立てるように凛は言う。
 重症だな――武は一つ溜息を吐いた。昔の自分を見ているようで、反吐が出る。かつての自分は、こんなにも無様だったということか。――いや、無様なのは今も変わらない。むしろ、今の方が――ざらり。
 一瞬のノイズ。
 しかし、武の口は、思考の乱れとは無関係に、言葉を紡いでいた。
「それでお前が死んでもか?」
「え……?」
 きょとん、と凛が目を丸くする。武は眼光鋭く凛を睨み付けながら続けた。
「経験談から言わせてもらうと、死んだ人間のためだけに戦ってる奴は早死にするぜ。長生きしたとしても、仲間を早死にさせる」
 武は後者だった。武は生き続けた。次々に倒れていく仲間達とは対照的に。
 過去に囚われている人間は、未来へ進むことが出来ない。大袈裟な表現かもしれないが、過去に執着している限り、生きようという積極的な意志は生じ得ないのだ。
 生きようという意志のない人間を生かしてくれるほど、戦場は優しくない。
 死にたくないのではなく、生きたい。明暗を分ける偶然が微笑むのは、後者に対してだけだ。
 ――ならば、今ここでのうのうと生きているオレは何なんだろうな……。
 武は内心で自嘲の笑みを浮かべながら続ける。
「それでお前が死んだとして、お前のお兄さんはあの世でお前を迎えてくれるのか? よく頑張ったって笑って褒めてくれるのか? ――お前は、そんな自分を誇れるのか?」
「そ、それは……」
「……復讐心をなくせとかBETAを憎むなとか、そんな綺麗事は言わない」自嘲するように溜息を吐いて、「んなこと言ったら、オレ自身否定することになるからな」
「え……?」
 涙を溜めた目を、凛はさらに大きく見開いた。その拍子に、雫が一つ零れる。
「オレだって、BETAは憎い。出来るなら、地球上のBETA全部をぶっ殺してやりてえよ。戦術機に乗って戦ってると、いつだってアイツらを皆殺しにしてやりたくなる」
 操縦桿を握り締めるたびに、胸の内にどす黒い衝動が奔流となって押し寄せてくる。渦巻く負の感情に、思わず身を任せてしまいたくなる。
 長刀で切り刻み、短刀を突き立て、突撃砲で穴を空け、滑空砲で吹き飛ばす――自分がいる戦場だけではなく、この世界全てのBETAを殺して殺して殺して殺して殺して殺し尽くしてやりたくなる。地球上全てのBETAを惨殺し虐殺し抹殺し暴殺し残殺し鏖殺し撃殺し斬殺する――それは、合成ではない、本物の砂糖菓子以上に甘美な誘惑だった。
「白銀少佐、それって一体……」
「大切な人をBETAに殺されたのはお前だけじゃないってことさ。オレだって、教官を、上官を、仲間を、部下を……そして……恋人を、殺された」
「っ……」
 恋人、という言葉は、武にとってはどこか薄皮一枚隔てたところにあった。
 朧気な記憶はある。けれど、実感がない。一定の間隔を置いてシャッターの切られた連続写真みたいに、間の過程がすっぽり抜け落ちているのだ。
 だが、だからといって、恋人を殺されたということが、大切な人を奪われたという哀しみがなくなるわけではない。
 どの世界であっても、彼女達は武にとって、大切な存在なのだから。
「ヴァルキリーズにだって似たような境遇のヤツがいないワケじゃない」
 武の脳裏に浮かぶのは、遙と水月の顔だった。
 彼女達は今も前を向いて戦っている。けれど、彼女達が愛するのは、きっとこの先も、明星作戦で命を落とした一人の衛士だけなのだろう。
「けど、お前みたいに復讐心だけで戦ってるわけじゃない。――なあ。最前線の衛士の戦う一番多い理由……わかるか?」
 少しだけ、武は質問を変えた。
 みちるから聞かされているのだろう、凛はすぐに答える。
「仲間の……ためです」
 そうだ、と武は頷いた。
 やはり凛は、頭ではわかっているのだ。けれど、感情がそれに追い付かない。先日の一件で、凛が衛士の弔いというものについてもきちんと理解していることはわかっている。今もそれは実戦出来ていた。――だが……いや、だからこそ、尚更厄介であると言えた。
 かといって、感情に訴えたところで、盲目的な感情には届かない。慣れない理詰めで解すしかないのだ。
 それが余計に厄介だった。
「じゃあ、お前が今やってることはなんだ? それが仲間のためだって言うのか?」
「それ、は……」
「違うよな。むしろ逆だ。お前が感情に任せて戦って死ぬのは、お前一人じゃない。お前を仲間だと思ってる相棒(エレメント)が死に、半分になった小隊が死に、バランスの崩れた中隊が死ぬんだ」
 実際は、そこまで総崩れになるということは少ない。だが、それは少ないというだけで、ないとは言い切れないのだ。
 事実、前の世界で武は、そうして壊滅した友軍を何度も見てきた。
「……オレは七瀬のお兄さんのことは何も知らない。けど、これだけは断言出来る。もしそんなことになったら、絶対に喜んでなんかくれない」
 静かに、武はそう言った。
 彼なら、きっと哀しむだろう。涙を流してくれるだろう。七瀬凛の兄は、きっとそういう人だから。
 ぽたり……凛の双眸から落ちた雫が、床で弾けた。一つ二つと頬を伝い、やがて数え切れないほどの涙の粒が、床を塗らしていった。
「じゃあ……じゃあ、どうすればいいんですか……。お兄様はもういない……ッ! そんな世界には何の意味もないのに……復讐するなだなんて、どうすればいいって言うんですかッ!?」
 長い髪を振り乱して、凛が叫ぶ。
 真っ赤に充血した二つの目が、縋り付くように、武を睨んでいた。
「復讐するななんて言ってない。ただ、それをコントロールしろって言ってるだけだ」
 尤も、それが一番難しいことなのだが。まだあどけなさの残る少女には酷な要求だろう。それでも、武は続ける。
「生きて、生きて、生き延びて。お前の大好きなお兄さんのことを、一秒でも長くこの世界の記憶に留めておくためにも、復讐のためだけじゃなくて、生きるために戦えるようになれ。過去のためじゃなくて、未来のために戦うんだ……きっと、お前のお兄さんだってそう願ってる。――お前のお兄さんは、お前に生きて欲しいって願ってたはずだから」
 そう言って、武は凛の頭に手を乗せた。艶のある髪を優しく撫でながら、抱き寄せる。自分の胸板に凛の顔を埋めさせると、微かな嗚咽が鼓膜を震わせ――やがて、慟哭のような泣き声が、シミュレーターデッキに響き渡る。
 凛の兄の代わりにはなれないけれど、彼女を立ち直らせる支えになれたら、と武は思う。
「お兄さんのためにも、生きろ、凛……お前の新しい戦う理由が見つかるまで、オレがお前を助けてやるから」
 凛の兄がそうするであろうように、武は彼女の名を呼んだ。
「う、ぁ……は、ぁ……ぃ……ぇっく……」
 泣き声の中に、確かに肯んずる言葉があった。それに安心して、武は優しく凛の肩を抱き締める。
「――年取ると説教臭くなって良くねえなぁ……」
 小さく呟いて、武は鈍色の天井を見上げるのだった。



[2785] Muv-Luv ALTERNATIVE -Second World Was Failed- 第14話
Name: Vollmond◆d2a8c8a6 ID:49f1dd4a
Date: 2011/11/15 03:07
 2001年11月22日(木)


「あ。悪いんだけど、凛、ちょっと残ってもらえるか?」
 午前中のA-01の訓練が終わると同時、武は言った。夕べの一件以来、凛に頼まれ、武は彼女を名前で呼ぶようになっていた。
 今日の訓練は、昨日とは打って変わって実機での戦術機戦。防衛戦プログラムを行いたいところではあったのだが、二日連続であのプログラムは、まだまだ精神的な負担が大きすぎる。多少のガス抜きも必要だろうということで、そのようになった。
「私ですか?」
「ああ。そんなに時間は取らせないから安心しろ」
 午前の訓練直後のデブリーフィングは、大抵、小隊長を集めて行われる。昨日のように全員を集めて行われることもあるが、最近は、模擬戦の後にわざわざ武が口を出す必要も少なくなっていた。
 今日の訓練について言うべきことはごく僅かだし、それも既にみちるに伝えてある。
 凛の表情は僅かに曇っている。夕べのことがあるからだろう、また何か言われると思っているのかもしれない。
 安心しろ、という意思を込めて、武は凛を一瞥し、それから隊全体を見渡した。
「あ、あと出来れば神崎少尉と秋山中尉……それから柏木と涼宮も」
 名前を呼ばれた四人と凛は、顔を見合わせて首を傾げた。
「ちょっと付いてきて欲しいんだ」
 そう言って、武はハンガーを後にした。
 六人が向かった先は、シミュレータールーム。ここに来たからには、やることは一つだった。
 武は一度管制室へと向かい、コンソールを操作する。武に促されて、五人はシミュレーターの筐体の中に座った。
 皆一様に言葉はない。
 どうしてこんなに黙り込んでいるのか、武は首を傾げた。
『少佐……あたし、今日何かまずいトコありました?』
 沈黙を破ってそう訊ねてきたのは月乃。
「え? 何を藪から棒に……ああ、そういうことか」
 ようやく武は、少女達の沈黙の理由に思い当たった。
 訓練の直後だというのに、また訓練――この状況が意味するのは、居残り訓練か……そう考えたのだろう。今頃、今日の訓練の中で自分達の悪かった部分でも思い出しているのかもしれない。
「もしかして、凛達も居残り訓練だって思ってたのか?」
『ええ』
『はい』
『まあ』
『違うんですか?』
 四者四様の肯定。網膜ティスプレイに投影された五人の表情は、皆一様に硬い。
 自分達の出来が悪かったと言われるのだと思い込んでいるのだから、当然か。晴子まで緊張しているように見えたのは、武には少しだけ意外だった。
「訓練で問題があるんだったら、午後の訓練で修正するもんだろ。何のために昼のデブリーフィングがあると思ってるんだ? 必要なら、オレだってデブリーフィングには顔出して伝えるし、その場で伝えるよ」
『じゃあ、どうしてあたし達呼ばれたのさ?』
 改めて月乃は首を傾げた。
 居残り訓練ではないとわかった途端、砕けた口調になる。それに楓が眉をひそめたが、武は僅かに唇を曲げただけで、特に気にした風もなく答えた。
「それは、今後のA-01のためだ」
『どういうことです? 白銀少佐、わかるように説明していただきたい』
 月乃に対する武の返答に、楓がさらに訊ねた。月乃とは対照的に、こちらは未だ訓練途中だと考えているらしい。
「オレが乗ってるのが、普通の不知火じゃなくて、改修型の不知火・弐型だってことは知っているな?」
『ええ。主機出力を向上させたりして、機動力を大きく高めてあるんでしょう?』
「大雑把に言ってしまえば、その通りだな」
 日本の戦術機運用思想に、米国の技術力を組み合わせることで、革命的な進化を遂げた第三世代戦術機……それが不知火・弐型だ。
「さて、それじゃ説明を始めるぞ。今みんなに入ってもらっているシミュレーターは、機体データを全て不知火・弐型に設定してある。兵装のデータは、それぞれのポジションに合わせてあるはずだ」
『お、ほんとだ……うわ、何これ、スラスターが倍以上あるんだけど!』
 試しに少し動かしてみてくれ、と武が言うより先に、月乃は早速シミュレーターを稼働させていた。きゃいきゃいと子供のようにはしゃいでいる。
 普段彼女達が乗っている不知火には、跳躍ユニットが二基のみ。対して弐型は、両肩部と腰部に追加されたスラスターにより、計五基のスラスターモジュールが装備されている。
「普通の不知火とは色々と操作感が違うからな。乗りこなせるようになるまでは少し時間が掛かると思う。まあ、少しの間、神崎少尉みたいに遊んでてくれ」
 苦笑しながら言って、武もまたシミュレーターデッキへと降りてきた。それから、シミュレーター六号機に乗り込む。
『凄いな……不知火よりもずっと機動がピーキーだ』
『制御するのは大変ですけど……いい機体ですね』
『白銀ってば、ずっとこんなの乗ってたんだね』
『こんないい機体独り占めするなんて、ちょっとずるいかも』
 四者四様の感想を口にしながら、楓らの四人もまた操縦桿を握り、フットペダルを踏み込んでいた。

 十分ほど経った頃には、五人共がすっかり弐型を操れるようになっていた。流石に腕がいいだけあって、呑み込みも早い。尤も、武のように完全に弐型を乗りこなせているとは言い難いが。やはり、追加スラスターの活用には多少難がある。
 それでも、簡単な評価試験をする分には十分だろう。この分だと感想を聞くまでもなさそうではあるが、好き勝手に動かすのと実戦を想定して動かすのとでは、大きな違いがある。
 頃合いを見計らって、武は言った。
「内容は四対二の模擬戦。チーム編制はオレと秋山中尉にそれ以外でやろうと思う」
『相変わらず、白銀はすごい自信だねえ』
 笑いながら晴子が言った。四対二という編制のことを言っているのだろうか。
「まあ、オレの方が弐型には慣れてるからな。バックアップも秋山中尉だし。まだ弐型に不慣れな少尉四人を相手にするには丁度いいハンデだろ」
 武は自信ありげに、にやりと唇を吊り上げた。
『言ったわね、白銀。後悔させてあげるんだから』
 茜の物言いは、まるで水月だ。『前の世界』では、茜をさしおいて突撃前衛に抜擢された武を妙にライバル視していたんだったか。
 水月に憧れる分には構わないが、こんなところまで似なくてもいいのに、と思う。
『負けませんから……白銀少佐』
「――ああ……」
 凛はもう心配いらないようだ。今日の午前中の訓練でも、昨日までのようなBETAに対する強い憎悪は見られなかった。それを見てみちるは、訳知り顔で武に微笑みかけてきていたが。
 やはりあの人には敵わない。
『へえ……』
「……柏木、その意味深な呟きは何だ?」
 武と凛の遣り取りを、晴子は何やらにやつきながら眺めていた。
『いえいえ、単に白銀少佐と七瀬少尉の仲が随分親密になったなー、と思っただけですよ』
「そうか?」
 戯けたような晴子の物言いに武は首を傾げるが、それと同時に、
『そ、そんなことないです、柏木さん!』
 凛が大声量で否定した。
 彼女を除く全員が思わず沈黙し、その視線が網膜投影を通して凛へと注がれる。それを感じてか、凛は顔を赤くして俯いた。が、そんなことで筐体内のカメラから逃れられるはずもなく。
『…………た、ただ、白銀少佐が兄と似ているというだけで、その……』
 耳まで紅潮させて、囁くような小声で言い訳する凛。
 ――あー……なんか、昔にも同じこと言われた気がするぞ。
『元の世界』でのことだ。『白銀先輩は、何だかお兄様に似ています』と言われたことがあった。武としては、何かを研究しているような人間と自分が似ているとは到底思えなかったのだが、凛が言いたかったのはそういうことではないそうで、優しげな雰囲気がどことなく似ているのだという。
『へー……七瀬のお兄さんと白銀が、ねぇ』
『あたし、白銀みたいなお兄ちゃんだったらヤだけど』
『そうですか? 私はけっこういいと思いますけど』
『白銀少佐が兄か……成る程、悪くはなさそうだ』
「お前ら、話が思いっ切りずれてるからな」
 はあ……と溜息を零す武。
 お前の所為だぞ、と網膜に映った凛を睨み付けてやるが、凛ははにかむように微笑むのみ。その笑顔がまた可愛いものだから、武は何も言えなくなってしまう。
 兄が死んだことであれだけ精神が不安定になっていた凛だ、それくらいは許してやっても仕方のないかもしれない。
 ――けど、早めに伝えておかないと。
 昨日告げた言葉もある手前、それを伝えることは少々申し訳なくもあるのだが、凛には一つ伝えておかねばならないことがある。きっとそれは、彼女を心からの笑顔にさせてくれるはずだ。
「そんなことより」あ逃げた、という月乃の呟きを無視して武は続ける。「まだ決定したわけじゃないが……弐型を何機か都合してもらえるように、香月博士に頼もうと思ってる。それについて、シミュレーターで実際に動かしてみて、みんなの意見を聞きたいんだ」
『白銀少佐。つまり、私達も不知火・弐型の実機に乗れるということでしょうか?』
「うまくいけば、だがな」
 彼女達は知らないだろうが、弐型は日本と米国が共同で開発中の試作機だ。国内だけならばまだしも、米国まで絡んでいるのだから、そう簡単に手に入るとも思えない。
 夕呼が武のために一機を入手してくれたというだけでも、驚くべきことなのだ。
 だが、武としては、一日も早い弐型の実戦配備を実現したい。これほどの高性能機なのだ、広く配備されれば、横浜基地は勿論、帝国の戦力を大幅に向上させてくれるのは間違いない。
 今現在、日本国内で弐型への搭乗経験があるのは武一人。そして、弐型の存在を知っているのは、この横浜基地の数名と帝国上層部、弐型の開発に関わった僅か一握りの人間達だけ。
 現場の衛士から弐型の配備を求める声が上がれば、帝国上層部も米国との交渉に一層の力を入れてくれるはず。そのための広告塔としては、武一人では未だ不十分。出来るならば、ヴァルキリーズと、そして今後任官する207B分隊とまりもの分も合わせて、弐型を揃えておきたいところだった。勿論、量産体制すら整っていない機体であるから、そうすぐに手に入るとは思っていない。しかし、それを理由に何もしなければ、いつまで経っても手に入りはしないのだ。
 そのためにはやはり、クーデターを利用して米軍の弱みを握ってしまうのが手っ取り早いだろうか。
 米国による日本への内政干渉、それも政権転覆を試みたとなれば、当分の間は米軍を抑え込めるはずだ。加えてトライアルを行い、XM3をちらつかせてやれば、不知火・弐型や、あるいはF-22Aを数機手に入れることも不可能ではないはずだ。
 だが、それは冥夜を裏切ることに――

 ――ざ……ざり、じ、じじ……

 意識に、ノイズが混じる。
『……白銀少佐?』
 凛が不思議そうに訊ねてくる。「なんでもない」と答えてから、先日の新潟での一件の際も、こうして凛に声を掛けられたことを、武は思い出していた。
「――よし。それじゃあ、始めよう」
 気持ちを切り替えて、武は操縦桿を握り締めた。


 その日の夕方。
 207B分隊との訓練を終えた武は、強化装備のままハンガーに留まっていた。
「それにしても……派手にやられましたねぇ……」
 オレンジ色に染まった武の撃震を見上げ、まりもが苦笑しながら言った。
「……そうですね」
 まりもの声に答える武の手にはバケツとモップ。整備班長に押し付けられたものだ。自分が汚されたのだから、自分の手で綺麗にしろ、ということらしい。階級は武の方が圧倒的に上ではあるが、どうも頭が上がらない相手なのである。
 ちなみに、まりもの撃震も同じようにペイント弾をしこたま食らっていたのだが、女性にそんなことはさせられない、とそちらは整備班総出で磨き上げている。
 それを男女差別だ、と言うつもりは武にはなかった。
「まあ、自業自得だからな」
「少佐……何か悩みでもおありでしょうか? 途中から突然動きが悪くなっていましたが」
「オレも年頃の男の子ですから」
 白銀少佐ではなく、白銀武としての言葉で答える。
「あら、恋の悩みですか? 私で良ければ聞きますけど?」
「……遠慮しときます」
 それは残念です、とまりもは微笑した。
 まりもはそれ以上追及してくることはなかったが、武は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
 いつも通りの、五対二の模擬戦。207B分隊の吹雪に対し、武とまりもは撃震での戦闘だったが、本来ならば、負けるはずがなかった。武達と207B分隊とでは、それだけの実力差があるはずなのだ。
 にもかかわらず、今日の模擬戦は惨敗だった。たったの一機さえ撃墜することが出来ずに、武達は破れたのだ。
 その原因の全ては武にある。仕留められるはずのときに仕留めることが出来ず、避けられるはずの攻撃を避けることが出来なかった。全ての判断が一瞬遅れ、全ての動作がさらに一瞬遅れていた。僅か二瞬だが、積もり積もれば、致命的な差になる。
 何故そんな二瞬の遅れを繰り返したのか――原因はわかっていた。問うまでもなかった。
 クーデターを起こすべきか否か――彼女達を見ていると、どうしてもそれが頭をちらついてしまうのだ。
 榊是親首相の娘。沙霧尚哉の旧知。煌武院悠陽の妹。珠瀬事務次官の娘。鎧衣左近課長の娘。
 その誰もが、12・5事件と無関係であるとは言い難い。直接的に関わってはいなくとも、誰もが何らかの形でクーデターと関わりのある人間の関係者なのだ。
 彼女達にも益があるからといって、苦悩を背負わせていいのか。他の方法はないのか。
 いつの間にか、武の手は止まっていた。
「白銀少佐ー! 手ェ止まってますぜーッ!」
 遠くから投げ掛けられた整備班長の声で、はっと我に返り、武は再び忙しなくモップを動かすことに没頭し始めた。橙色の下から、国連軍の象徴たる青色が現れてくる。

 一心不乱にモップを動かし続けて、ようやく全体が蒼穹色を取り戻し始めた頃だった。
「――神宮司軍曹」
 まりもに背を向けたまま、ぽつりと、武は呼び掛けていた。
 背後で空気がほんの僅か引き締まるのを、武は感じた。
「何でしょうか、白銀少佐?」
「神宮司軍曹なら、理性と感情、どちらを優先する?」
「……どういうことですか?」
 抽象的過ぎる武の問いに、まりもは怪訝そうに眉をひそめた。そちらを見ずとも、武にはそれがわかった。
「ある問題に対し、二つの解決策があるとする。一つは確実に十の成果を得られる解決策。だが、その十の成果を得るには、誰かが必ず犠牲になる。自分の大切な誰かが、辛い思いをしなくてはならないんだ。もう一つは、誰も犠牲にならない解決策。だが、どれだけの成果が得られるかはわからないし、どんなに頑張っても十の成果を得ることは出来ない。……とはいえ、どちらも、完全に問題を解決出来るってわけではないんだが」
「……理性はより大きな成果を得られる策を取ろうとするけれど、感情では誰にも犠牲になって欲しくない……ということでしょうか?」
「甘いってことは、自分でもわかっているんだがな」
 そう言って武は頷いた。
 軍人として――否、オルタネイティヴ計画に荷担する人間として、理性と感情とを天秤に掛けるなど、愚の骨頂だ。香月夕呼を見るがいい、彼女はオルタネイティヴ4を成功させるために自らの全てを擲って修羅の道を歩んでいるではないか。感情という余計な物を切り捨て、自らの良心の呵責を踏み潰し、外道非道と蔑まれようとも、目指すべき目標、果たすべき役割のために血を撒き散らしながらも進んでいるではないか。その片腕たらんとする白銀武が畜生道に落ちることを拒んで思い悩むなど、無様にも程がある。臆病甚だしい――。
 ――ああ、わかってる。わかってるさ、そんなこと……!
 モップを動かしながら、武は奥歯を鳴らした。柄を握る手には自然力がこもり、手の平には爪が食い込んでいる。半ば八つ当たりのように、汚れにモップを押し付ける。
「……少佐の仰る、その大切な誰かは、そのことを知っているのですか?」
「知るわけないさ。オレは香月夕呼直属の特務兵だからな」
 自嘲するように武は言った。武が裏で何をしているかを知っている者など、夕呼一人しかいない。
 彼女達は知らない。日本で今、クーデターが起ころうとしていることを。
 彼女達は知らない。白銀武が、そのクーデターを起こそうとしていることを。
 彼女達は知らない。白銀武が、彼女達に犠牲を強いろうとしていることを。
「『道を指し示そうとする者は、背負うべき責務の重さから目を背けてはならないのです』」
「……え?」
 武の呟きに、まりもは呆けたような声を返した。
「昔、ある方が言ってくれた言葉だ。たとえ自分の手を汚してでも、なすべきことをしなくてはならない。それが、望むと望まざるとにかかわらず、人の上に立つ者の義務だ――その方は、そう教えてくれたんだ」
 今でも、その言葉は武の胸の中にある。片時として忘れたことはない。
 ……今まで、こんなにもこの言葉を重く感じたことはなかった。
 自分の果たすべき責務のために――未来を知る者として、最悪の未来を回避するために――大切な誰かを犠牲にしなくてはならないことなど、今までなかったから。
 差し迫られてではなく、自発的に誰かに犠牲を強いることなど、初めてだったから。
「頭ではわかっているんだ。オレのなすべきことをするためには、アイツらに犠牲を強いなきゃならないってことぐらい。けど……けど、オレは……!」

 ――今度こそアイツらを護り抜こうって誓ったのに――。
 ざりざりと思考に混じるノイズは、悔恨故だろうか。
 護り抜きたかった。
 一度目の世界で星の彼方へと送り出した彼女達を。で愛し合いながら護れなかった彼女達を。
 二度目の世界で共に戦いながら、先に散っていってしまった彼女達を。
 今度こそ。今度こそ、護り抜きたいと誓ったのに――。

「――少佐は優しすぎるんですね、きっと」
 包み込むような声で、まりもは言った。
「そんなんじゃないさ。甘っちょろいだけだ」
 優しくなんてない。感情が邪魔して理性的な決断が下せない、ただのガキなだけだ。
 しかしまりもは首を横に振った。
「では、もし仮に……仮にですが、その犠牲が他の誰かではなく、少佐自身だったら、少佐はどうなさるのですか?」
「迷うまでもない。オレを犠牲にするだけでいいなら、喜んで犠牲になるよ」
 それでオルタネイティヴ計画が成功し、誰も犠牲にならないで済むのなら、天秤に掛けるまでもない。失う物など何一つないのだから。
 やっぱり、とまりもは微笑する。
「少佐は他の誰かを犠牲にするのが許せないんでしょう? 特に、自分の大切な人達のことは。少佐は誰よりも優しい人ですから」
 まるで、全て見透かされているみたいだった。
 ……いや、これまでの会話を考えれば、余程の鈍感でもない限り、武が犠牲にしようとしているのが誰のことなのか、おおよその見当ぐらいは付くものだろうか。
 あるいは、武がそれだけ悩む存在というだけで、わかってしまうのかもしれない。
「ねえ、“白銀”」
“白銀”と彼女に呼ばれるのは、この世界では初めてのことだった。あまりに突然過ぎて、武は面食らってしまう。自然、弾かれて振り返った口を突いて出た言葉は、白銀武自身のそれ。
「……何ですか?」
「あなたの言う誰かが、実際に誰のことを指しているのか、私にはわからない。けど、私はこう思うの。――あなたなら、その誰かのことを護ってあげられるんじゃないか……って」
「え……?」
「犠牲が出るのは仕方ないかもしれない」呆けた声をあげる武を正面から見つめて、まりもは続けた。「けど、あなたならその犠牲を切り捨てるだけじゃなくて、もう一度拾い上げて……そして、護ってあげられるんじゃないか……って。少なくとも私はそう信じている……」まりもは柔らかい聖母のような微笑を湛えていた。「――白銀少佐、今まであなたが見せてくれたものは、私にそう信じさせてくれるのです」
「ぁ…………」
 そのとき、武の脳裏にフラッシュバックする記憶があった。

 夕暮れの演習場。ボロボロの吹雪。BETAの死骸。地面に座り込む武。立ち直らせてくれたまりも。そして――

「――っ……!!」
 込み上げてきた嘔吐感に、慌てて武は口を押さえた。手にしていたモップが音を立てて転がり、バケツが倒れて、中の溶剤がぶちまけられる。
 ぐにゃりと視界が歪む。足場が崩れたと錯覚するほど、急激に平衡感覚が失われ、武は溶剤で濡れた床に膝を突いた。真下から立ち上る溶剤の匂いが、ツンと鼻を突く。だが、武の嗅覚を刺激しているのは、その匂いではなく、記憶の中の鉄錆の匂い。
 微かに白く濁っただけの溶剤が朱色に染まっていく光景を幻視する。
 込み上げてくる嘔吐感を堪えることに、全身の力を総動員する。
 ぐらぐらと視界が揺れる。方を揺さぶられているのだと気付いたのは、叫ぶような声が耳に届いてからのことだった。
「――さ! し……さ! 白銀……!!」

 声。聞き慣れた声。聞こえるはずのない声。聞こえるはずの声。
 肩を並べての二機連携、遠く離れ、戦場で再会し、愛し合った、先生であり教官であり上官であり戦友であり恋人だった人、勝利の喜びを分かち合った、共にハイヴへ侵攻し、無数の敵を屠り辿り着いた最深部、S-11を託しBETAの群の中へと吶喊する不知火――。
 ざらざらという砂嵐の音。脳味噌を削るような、思考のノイズ。
 鈍い頭痛を堪えながら、武は顔を上げる。血の気が失せた、土気色の顔を。
 そこには、長い髪を振り乱しながら、武の肩を掴み、抱き起こすまりもの顔があった。

 ――ああ……そうだ。この世界のまりもちゃんは、死んでなんかない。生きてるんだ……。

 無意識の内に武はまりもへと腕を伸ばし――そして、抱き寄せていた。
「し、しししょしょ少佐!?」
 まりもは、武とは対照的に、顔を真っ赤に染めて抗議の声を口にする。言葉とは裏腹に、嫌がる素振りは何故かなかったが。
 しかし、武はそんなことは知らぬとばかりに、まりもを抱き締める腕に力を込める。
 ざりざりとノイズが意識を削り取っていく。
 込み上げてくる愛おしさ。大切で大切で仕方のない、掛け替えのない恩人――。
「――護るから……今度こそ、オレがまりもちゃんを護るから……みんなを、護ってみせるから……! 絶対に護り抜くから……!!」
 武はうわ言のように「護る」と繰り返し。
 突然、糸の切れた人形のように、溶剤の水溜まりの中に倒れ込んだ。


 次に武が目を開けたとき、そこに飛び込んできたのは、無機質な白い天井だった。数日前に見た天井……救護室。
 前回のように体に力が入らないということはなかった。気怠さは覚えるものの、日常生活の範疇での行動に支障を来すほどではない。
 武は、自室のそれよりもずっと柔らかなベッドの上で体を起こした。くらり、と一瞬の眩暈。
 意識を失う直前の記憶は、曖昧な部分もあるが、おおよそははっきりと覚えている。
 塗料塗れになった撃震を磨きながら、自分の抱える迷いについてまりもに相談し、そして、まりもにとっては何気ないであろう言葉で前の世界のまりもの最期を思い出し……前回同様、度重なるフラッシュバックと記憶の奔流に耐えられずに倒れたというわけだ。
 ――情けねえ。
 自嘲し、かぶりを振ってふと自分の体を見下ろすと、先程までの強化装備姿ではなく、簡素な入院着に着替えさせられていた。強化装備は溶剤塗れだったはずだから、それも仕方のないことだろう。
 とはいえ、救護スタッフには女性も多く、女性に全裸を見られたかもしれないというのには、些か気恥ずかしさを覚えずにはいられない。尤も、彼女達からすれば、職務の中で見慣れているものなのだろうが。
 衛士にとっての強化装備姿と同じようなものなのかもしれない。
 武のベッドは、カーテンによって仕切られ、簡単な個室状になっている。ベッドの脇には、武の軍靴が丁寧に揃えて置かれていた。枕元には軍服。多分、誰かが更衣室から持ってきてくれたのだろう。
 ありがたく武はそれに着替えると、ベッドから降りてカーテンを開け――
「――白銀少佐?」
 丁度救護室に入ってきたまりもと目が合った。
「あ、神宮司ぐ――ッ!?」
 軍曹、と続くはずの武の声が最後まで発せられることはなかった。
 まりもは一瞬目を大きく見開くと、すぐに不機嫌そうに眉根を寄せ、武の肩を掴んで、そのままベッドに押し倒したのだ。
「ま、まままま、まりもちゃん!?」
 咄嗟に出て来た呼称は、部下に対するものでも尊敬する教官でもなく、担任教師に対するもので。
 武の脳裏に、嫌な光景が過ぎる。元の世界であったかもしれない、酒に酔ったまりもに押し倒され、うやむやの内に関係を持ってしまったという可能性の記憶。あの後どうなったのか、武にはわからない。わからないのだが……喜ばしい結果が待っているとはとても思えなかった。
 ざぁ、と武の耳には血の気が引いていく音が聞こえた気がした。
 この後おいしくいただかれてしまうのだという予感が、馬鹿げた妄想ではなく確信めいて脳味噌の中で渦巻いている。
 まるで死刑宣告を待つ囚人のような心境で武はまりもの言葉を待ち、
「――白銀」
「は……はい」
 上擦った声で返事をして――武は気付いた。まりもの表情は、記憶の中のそれとは似ても似付かない、真剣極まりないものであることに。
「あなた倒れたのよ!? 無理しちゃ駄目じゃない!」
 救護スタッフの存在を忘れたかのような大声でまりもは叫んだ。
 武は一瞬だけ目を丸くして、やがて苦笑した。今、自分の目の前にいるのが、どうしようもなく“まりもちゃん”だと感じられて、笑みが込み上げてきたのだ。
「……少佐。私、怒っているのですが?」
「すみません。つい」
「まったく……」
 そう言うまりもの口許も緩んでいる。「すみません」と武はもう一度謝った。
 やはり、どの世界でもまりもはまりもであり、武にとっては、一生頭の上がることのない恩師であり上官であるらしい。そして、それらを抜きにしても、掛け替えのない大切な人であった。
 いつの間にか自分を呼び捨てにし、素の態度で接してくるまりもを見ていると、本当に昔に戻ったような気がしてくる。
 武がベッドに体を横たえ直すと、まりもがシーツを掛けてくれた。
 深く息を吸い込むと、薬品の匂いが鼻を突いた。
 武は何も言わず、まりもも何も言わない。かちこちという秒針の音と、どこかから聞こえてくるペンを紙に走らせる音だけが、二人の間に横たわっていた。
 やがて、こほん、と一つわざとらしい咳払いの後、「一つだけ聞いてもよろしいでしょうか?」という前置きをして、顔を赤くしたまりもが口を開いた。
「……えっと……先程の『今度こそ、オレがまりもちゃんを護るから』とは……その……どういう意味でしょう……?」
「――ッ……!」
 呼吸が止まった。
 瞬時にして武の記憶に掛かっていた霞が取り払われる。
 なんという無様、なんという醜態か。失態の極みだ。まさかフラッシュバックする記憶に任せて、そんなことを口走ってしまうとは。二度と泣かぬと誓ったというのに、まだガキのように泣き喚いているのか――。
 まりもは、表情こそ武を心配しているだけのように見えるが、その向こう側には、明らかな怪訝の色が見え隠れしている。
 出会ってまで一月しか経っていない相手に、今度こそ護るなどと言われて、懐疑の念を抱かないはずがない。ましてや、武のような、あり得ない年齢で少佐の地位に就いているような相手であれば尚更だ。
 少佐と大尉とでは、階級はたった一つしか変わらないが、そこには超えられない壁がある。
 A-01は中隊のみで構成されているため、大尉であるみちるが作戦指揮を執っているが、本来、独立して作戦を遂行出来る部隊の最小単位は大隊であり、その作戦指揮には少佐あるいは中佐が当たることになっている。
 少佐には作戦単位での指揮能力が求められるため、指揮官としての専門教育を受けなくてはならないのだ。
 即ち、武は、この年齢でその専門教育を受けたことになる。勿論、衛士であるからには、少佐という地位に見合うだけの戦果を積み上げてきたということでもある。
 無論それは前の世界での成果なのだが、事情を知らない人間にしてみれば、二十歳にも満たぬ少佐という存在は、驚愕という言葉では到底足りないだろう。
 これらの懐疑が、即武に対する警戒や敵意に繋がるわけではないだろうが、まりもに余計な嫌疑を抱かれているというのは、望ましいことではなかった。
 これまでは夕呼直属の特務兵ということで抑え付けることの出来ていた様々な疑念が噴出しかねない。
 どうすればいい――武の脳が高速で回転する。
 どうにかして誤魔化すか……あるいは、ここが潮時だと全てを打ち明けるか。
 まりもが信用に足る人物であることは、他でもない武が、誰より知っている。夕呼からの信頼も厚い。だからといって、ここで全てを打ち明けてもいいものだろうか。縦しんば信じてくれたとして、それが今後の支障になりはしないだろうか。
 ――そも、ここで打ち明けるのは、まりもに寄り掛かるという甘えに他ならないのではないのか。
「……護れなかった人がいた……それだけのことだ」
 奥歯を噛み締め、押し殺したような声音で、武は答えた。
 今は、まだ。まだ、甘えていいときではない――否、もう、誰かに甘えていい時間は終わったのだ。数時間前、ハンガーでまりもに理性と感情の優先順位について問うた瞬間に。
 答えは出た。
 ――もう、甘えは許されない。
 忘れるな。自分のなすべきことを。すべきは、全てを護ること。オルタネイティヴ4を成功させて、大切なもの全てを護り抜く――ただ、それだけだ。この心にどれだけの楔を打ち込もうとも、その決意だけは揺るがない。打ち込んだ楔の数だけ、その意思は強くなる。
 ならば、こんなところで蹲っている暇はない。一分一秒、刹那の時さえ無駄には出来ない。
『道を指し示そうとする者は、背負うべき責務の重さから……目を背けてはならないのです。そして……自らの手を汚すことを、厭うてはならないのです』
 かつて賜った言葉。その言葉を胸に。

 ――手を汚そう。

 この世界でただ一人、未来を知る者としての責務を全うしてみせる。香月夕呼の片腕として、必ずやオルタネイティヴ4を成功させてみせる。
 犠牲を、無駄にはしない。
 否、この手が血に塗れようと、自らの手で生み出した犠牲を――生贄の祭壇に捧げた大切な人達を全て、この手で取り戻してみせる。
 ――イメージは杯。毒の満たされた杯を、大きく呷る。
 体を起こし、軍靴を履き直す。
「少佐!?」
 声をあげるまりもに向かって、武は言った。
「そこをどけ、神宮司軍曹」
「どきなさいって……少佐、どこに行かれるおつもりですか!?」武の口調に引きずられるように、まりももまた軍曹としての言葉で問うてくる。「突然倒れられて、目が覚めたばかりなんですよ!?」
「体なら大丈夫だ。大したことじゃない。――オレは、香月博士のところに行かなくちゃいけないんだ」
 そう大したことじゃない。自らの過去への執着と甘さ、そして弱さを再認識して、無意識が失神という手段に逃げただけのこと。
「だから、そこをどいてくれ」
「……どけません」しかし、まりもは頑として退かなかった。「大したことないはず……ないでしょう? 白銀少佐、ご自分がどのような顔をしているかご存知ですか? ……そんな死人みたいな顔の病人、行かせられるはずがありません」
 鏡がないから武にはわからないが、まりもの言う通り、武の顔は、未だに青ざめているを通り越して土気色だ。前回ほどではないにしろ、体調が悪いことに変わりはないのだ。
 それでも、武もまた退くわけにはいかなかった。
 今行かなければ、決心が鈍る。飲み干した毒の杯が中和されてしまわない内に、夕呼に自分の意思を伝えなくてはならない。
 だから武は、自分が最も忌み嫌うはずのことを、自らの意思で、自らの意思のために、決断した。
「――そこをどけ、神宮司軍曹。これは命令だ」
「……ッ!!」
 まりもの呼吸が、一瞬、完全に止まった。刹那、心臓さえ停止したかもしれない。
 階級の差は気にするなと言ったはずの武が、自らの目的のためだけに、少佐という地位を利用したという事実が、雷のような衝撃となって、まりもを打ちのめしていた。
 目を見開き、唇を震わせて硬直するまりもの脇を、武は無言で擦り抜ける。
 そしてそのまま、何も言わずに救護室を出て、後ろ手に扉を閉めた。
 顔を手の平で覆い、扉の横の壁にもたれ掛かる。蝋細工じみて冷たい肌に爪を立て、汗で濡れた前髪を掻き上げ、
「――糞ッ垂れ……!」
 悪態を吐きながら、壁を拳で殴り付けた。
 長く、細い吐息。
 これが最後だ。白銀武という個人としての情に甘んじて立ち止まるのは、これで最後だ。
 顔を上げる。背筋を伸ばし、廊下の奥を見据えた。
「ありがとうございます……神宮司教官――」
 ぽつり――武は、恩師へと向けて呟いた。
 ごめんなさいとは言わない。そんな甘えはもう許されない。
 道を示す者が背負うべき重責を真っ向から受け止め……自らの手を汚すことから、逃げないと決めたのだから。
 武は歩き出す。
 歩いた道に、朱の斑点を散らしながら。


「――随分酷い顔色ね」武が執務室に入るなり、夕呼は言った。「また倒れたんですって? 気を付けなさい。今あんたが使いものにならなくなると、あたしも困るんだから」
「大丈夫です――もう、あんな無様な真似はしません。それより香月博士こそ、体には気を付けてくださいよ?」
 化粧で隠してはいるものの、今日もやはり目の下に隈ができているのが、うっすらと見て取れる。そういったことに意識を向けられるほどには、武は回復していた。
「言われるまでもないわ。――ふぅん……何だかよくわからないけど、何やら吹っ切れたみたいね」
「一遍甘えて、自分の情けなさを再確認出来たお陰ですよ」
 そう言って、武は不敵に笑んでみせた。
 心強いことだわ、と夕呼もまた笑う。彼女には既に、武がここへ来た目的がわかっているようだった。
 武は書類が堆く積み上げられたデスクの前まで歩いて行くと、椅子に座る夕呼を見下ろして言った。
「前の世界と同じように、12月4日の未明に天元山周辺地域の住民を強制退避させてください。――クーデターを、起こします」
 沙霧大尉達に起こさせるのではない。
 ――この手で、起こすのだ。自分達の目的のために12・5事件を利用する。
 たとえそれで大勢の人間が死ぬことになろうとも、たとえそれで自分の大切な人達が辛い目に遭おうとも。世界を救うために――オルタネイティヴ4を成功させるために、その犠牲を受け入れる。
 そして、一度自らの意思で手の平から落とした犠牲を、可能な限り掬い上げ――護り抜く。
 大切な人達を護りたいと思っているのに、自らの意思で彼女達を犠牲にするという矛盾。その矛盾に、気付かないふりをする。
 まだまだ甘っちょろいことはわかっている。それでもこれは、白銀武にとって、大きな一歩だった。
「……あんたは、それでいいの?」
 瞳に一抹の哀しみ――いや、憐憫の情さえ湛えて、夕呼は問う。
「いいも何もありません……もう、決めたことですから」
 はっきりと、武は答えた。問答の間に意思が揺らぐことはなかった。
「これが、オレの第一歩です。自分の信じる正しさのために、多くの人間が死ぬ原因を作る――多くの人間を殺すという咎を……十字架を、背負ってみせます」
 丁度、目の前にいる香月夕呼のように。
 背後に積み上げた数多の屍に、世界を救うことで報いてみせると。
「……思えば、この決断だって遅すぎたくらいなんです」武は自嘲げに目を細めた。「オレの手はとっくに汚れきってるんですから。前の世界じゃ、世界一F-22Aを撃墜した衛士だとかって言われてたくらいですから」
 バビロン作戦の後も、米国は決して世界を掌握することを諦めてはいなかったのだ。米国本土にハイヴはない。故に、他国の領土をG弾で焦土に変えようとも、自国は無傷のまま。それに、米軍上層部は自国の利益のためには他国を犠牲にすることを厭わない連中ばかりだ。
 G弾という物を忌避する帝国に属していた武は、米軍と矛を交えることも少なくなかった。 
「確かに、どんなに人を殺すのは嫌でも、殺さなきゃいけない状況はある……けど、今回は違うわよ?」
 クーデターの可能性を事前に察知している以上、回避する方法はある。
「わかってます……それでも、これが今のオレ達に取れる最良の手段のはずです。先生がオルタネイティヴ4を成功させるために自分の手を汚してきたみたいに、オレはオレの意思で自分の手を汚します。先生の片棒を担ぐからには、自分が争乱を起こすことも、人間相手に引金を引くことも、厭いはしません」
 目の前の女性は、これまでに一体どれほどの血で手を汚してきたのだろう。極東国連軍横浜基地副司令、オルタネイティヴ4最高責任者という彼女にとって、血で血を洗う日々というのは、決して大袈裟ではないはずだ。
 その咎を彼女一人に背負わせるつもりなど、武には毛頭ない。
 ――二人は、共犯なのだから。
「……そう。頼りにしてるわ」
 任せてください、と武は頷いた。
 まるで真っ赤に焼けた鉄の塊を飲み込んだみたいに、胃の腑に燃え上がるような痛みを覚える。この苦い痛みにも慣れていかなくてはならない。だが、決して慣れきってはいけないのだろう。

「用はそれだけ?」
「いえ、もう一つ」
 用が終わったなら帰れ、ということなのだろうが、武には忘れてはならない用がもう一つだけあった。
 何? と夕呼は不機嫌そうな視線を向けてくる。
「不知火・弐型をもう何機か……最低でも六機――出来れば十八機手に入れて欲しいんです」
「……あんた、それ本気で言ってるワケ?」
 夕呼は不機嫌の度合いを一層高めて、眉間に皺を寄せた。
 当然だ。不知火・弐型はXFJ計画により生み出された新造試作機、そもそも絶対数が非常に少ないのだ。その上、このXFJ計画は日米両軍による開発計画。不知火・弐型を引っ張ってくるには、日米両国との交渉が必要になってくる。
 そればかりか、そもそも、未だ生産ラインが出来上がっていないどころか、トライアル自体完了していない、未完成の機体だ。そんな物を手に入れるなど、不可能に近い。夕呼が武のために一機を融通しただけでも、驚嘆すべきことなのである。
 それがわかっていて尚、武は頷いた。
「勿論です。冗談でこんなこと言いません。……確か日本側の代表は、斯衛軍の篁唯依中尉でしたよね?」
 以前、夕呼にXFJ計画について説明してもらった際に聞いた名前だ。前の世界では、互いを知らない間柄ではなかった。今は国連軍に出向ということになっているが、山吹の斯衛で、武にとってはそちらの方が馴染み深い。
「それがどうしたの?」
「XM3を帝国軍や斯衛軍に譲渡する……っていうのはどうでしょう?」
「――あんた、自分が何言ってるかわかってるの?」
 夕呼は、声を荒げることはしないものの、明らかに強い苛立ちを含んだ、低い声で言う。しかし、武はそれを無視して続けた。
「11日のBETAとの戦いだけで、ある程度XM3の優位性は理解してもらえているはずです。噂くらいにはなっているでしょう。何なら、オレが第19独立小隊と模擬戦をやってみせても構いません。その上でXM3を渡してやれば、帝国に多大な恩を売ることが出来る。12・5事件を利用してやれば、尚更です。後は米軍ですけど……こっちもクーデターで弱みを握った上で、XM3のトライアルで釣ってやればいい。博士の交渉術なら、もう何機か弐型を手に入れるくらい、なんとかなると思いますけど」
 何しろ、オルタネイティヴ4権限だけで不知火・弐型と試製99型電磁投射砲のデータを接収するくらいだ。元々電磁投射砲のコアユニットは横浜基地発祥であるが、試作兵器のデータを入手するのは、並大抵の困難ではない。
 クーデターは米軍の弱みを握るだけでなく、帝国に対しても多大な恩を売ることが出来る。加えてXM3という材料さえあれば、難しいことではないはずだ。
 ――利用出来るものは、何であろうと利用する。得られる利益は、何であろうと得る。
 たとえそれが夕呼の意に添わなかろうと関係ない。武にとっては、オルタネイティヴ4だけが全てではないのだ。悪鬼や修羅、畜生と呼ばれようとも、護りたい者達を護り抜く――それが、今の武の全て。
 12・5事件やXM3は、武にとっては理想的な道具だった。
「今すぐじゃなくても構いません。01型小型電磁投射砲と合わせて年内にある程度の数を揃えられれば、それで十分です」
 207B分隊が任官し、A-01が二十機弱の戦術機からなる一個中隊あるいは変則二個中隊として機能し始めるまでに揃えばいい。せめてあと一機、武ではないもう一人の指揮官――恐らくはまりもかみちるになるだろう――の分だけでもいい。
 技術部では、今も小型電磁投射砲の問題点を改善しようと昼夜を問わずに研究が行われているはずだ。それに成功すれば、前衛でも電磁投射砲を使用出来るようになる。G元素がBETAを惹き付けてしまう性質に関しては、最悪、戦場で投棄した上で爆破してしまうという手もある。
「……わかったわ。材料が揃ったらすぐ交渉に移れるように、準備だけしておいてあげる。――ただし」夕呼はそこで一度言葉を切った。「わかってるでしょうけど、あんたが言っているのは、非現実的な交渉よ。先行試作機を何機も寄越せなんて、どんな材料をちらつかせたって、普通は受け入れてはもらえないわ」
「はい。それはわかっているつもりです」
 武は神妙に頷いた。
 夕呼が難しいと言うのだ、それが相当な困難を極めるであろうことは、政治には疎い武にもわかった。伊達に何年も衛士をやっているわけではない。が、弐型を手に入れて欲しいと言ったその時から、既にそれは覚悟の上だった。
「……そ。ならいいわ。あたしとしても、自分の手元に強力な機体が集まるのは悪いことじゃないしね。やってあげるわ」
「ありがとうござ――」
 ございます、と頭を下げようとした武の視界に入ったのは、ゲームガイ。先日、夕呼の気分転換用にと持ってきたものだ。
 不意に思い出したのは、一度目の世界での出来事だった。
 おはじきやお手玉、剣玉といった娯楽をうまくこなすことの出来なかった武は、自室でゲームガイでもやって気を紛らわそうと考えたのだが、それを207B分隊の仲間達に見つかってしまい、あれこれと誤魔化している内に、貸し与えてしまったことがあった。
 貸し与えた相手が一人でないように思えるのは、複数の記憶が混ざり合っているためだろう。

 ――ゲームガイは、この世界には存在し得ない娯楽だ。
 高性能な液晶ディスプレイを娯楽技術に回すような余裕などないし、そもそも、電子機器を娯楽に利用しようという発想自体がない。武達衛士にとっては、シミュレーターによる自主訓練が一種の娯楽であるとも言えなくもないが、純粋な悦楽や息抜きといった目的のためではないことを考えると、娯楽とは言い難い。
 言ってしまえば、この世界は、娯楽に乏しいのだ。
 娯楽の種類その物が絶対的に少ない。それは戦時下であれば当然のことだ。
 そんな環境で生きてきた人間の目の前に、突然ゲームガイのような、純然たる娯楽用品――それも、未知の技術により生み出された機械――が現れれば、どうなるのか。
 簡単だ、のめり込んでしまうに決まっている。
 実際、207B分隊の面々も、寝る間も惜しんでプレイしていたはずだ。あの真面目な千鶴でさえ、訓練に支障を来すほどに。
 今更ながら、武は後悔していた。
 オルタネイティヴ4の最高責任者として、横浜基地差副司令として、夕呼に課せられた職務はあまりにも多く、その双肩に懸かる責務はあまりにも重い。
 故に、この横浜基地において、誰より娯楽に飢えているのは、他ならぬ夕呼なのかもしれないのだ。
 戦術機の新品の管制ユニットのビニールを破るなどというくだらない行為でさえ、夕呼にとっては最上のストレス解消方法となってしまうほどに。
「……香月博士」
「何よ。突然恐い顔しちゃって」
 夕呼は眉をひそめる。
 元々の肌が透けるように白いために、ファウンデーションで覆い隠された目の下の隈が、はっきりと窺えてしまう。
「まさかとは思いますけど、ゲームガイをやるために睡眠時間削ったりなんてしてませんよね?」
 武が問うと、夕呼は呆れたように吐息し、小馬鹿にするような口調で答えた。
「あのね。あたしはそもそも、あんたのいた世界のあたしと違って、暇じゃないのよ。ゲームごときにくれてやる睡眠時間なんて、元からないのよ。そんな時間があれば、研究に費やしてるわ」
「そうですか……」
 どうやら、思い過ごしだったようだ。武はほっと溜息を吐いた。
 ただ――と。夕呼が静かな声色で口にすると、武は弾かれたように顔を上げた。夕呼の瞳には、物憂げな色。
「少しだけ、羨ましいかもしれないとは思ったけれどね」
「羨ましい……?」
 夕呼らしくない物言いに、武はオウム返しに呟く。
 彼女が他者を羨むようなことがあるなんて、武は思ってもみなかった。鋼鉄の意志を以て、己の決めた道を、たとえそれが茨の道であろうとも躊躇せずに突き進む――それが、香月夕呼の生き方だと思っていたから。
「これだけの技術を、惜しげもなく娯楽に注ぎ込める……そんな平和な世界があるなんて、あんたがいなければ信じられなかったわ」因果律量子論なんて唱えておいてなんだけどね、と寂しげに微笑し、「そんな世界で好き勝手に遊んで、研究に打ち込めるあたしが、ほんの少しだけ羨ましい……」
 武は、何も言うことが出来なかった。夕呼の気持ちが、痛いほどに理解出来てしまったから。
 この世界に来て、元の世界の尊さを、平和という言葉の本当の意味を、何でもない日常がどれほど大切であったのかを知ったからこそ、夕呼の言葉は武の心に突き刺さる。
「――聞かせてちょうだい」
「え?」
「あんたのいた世界のあたしのこと。仲良かったんでしょう?」
 言われるままに、武は元の世界での夕呼のことを語って聞かせた。傍若無人が服を着て歩いているような、夕呼の所行の数々。その度に被害者となるまりもと、振り回される武達。けれどそれは決して不快ではない、お祭り騒ぎの日々。想い出は、抱えきれないほどにある。話の種が尽きることはなかった。
 夕呼は、まるでお伽噺に胸をときめかせる子供のように、静かに、けれど興味津々といった様子で耳を傾けていた。

 話が長くなるにつれ、二人はテーブルを挟んでソファに座り、コーヒーモドキのカップを傾けるようになっていた。
「そういうことはよくあったのかしら?」
 そういうこと、というのは、元の世界の夕呼が、突如新理論を思い付き、授業そっちのけでその解説をし始めることだ。
「二、三ヶ月に一回くらいはありましたね。ノーベル賞レベルの理論だから、誰も理解なんか出来やしないんですけど。聞いてなかったら、それをテストに出す、とか言い出すんですよ」
「あたしらしいわね」
 夕呼は、彼女には似つかわしくない柔らかな微笑を口許に散らした。
 その矛先が向くのは、決まって武だった。
 ――オレって随分気に入られてたんだなあ……。
 それがいいことか悪いことかはさておき。
「そうそう、最近……って言っても、主観じゃ十年以上も前のことですけど、オレがこの世界に来る少し前にも、プレスタ2のクソつまらないRPGやってる最中に理論思い付いたとかって言ってましたよ」
「プレスタ2?」
「そういうゲーム機があるんですよ。テレビに繋ぐタイプで、データディスクに入ったゲームを読み込んでプレイするタイプのが。ゲームガイよりもずっと性能は上ですよ」
「へえ……それで、どんな理論だったの? あたしがそう言うくらいなんだから、面白い理論なんでしょう?」
「うろ覚えですけど……人間の動きをキャプチャー出来るなら、思考そのものもやっちゃえばいいとかなんとか――」
 その瞬間、夕呼の顔色が変わった。
「――白銀!!」
「……!? は、はい?」
 突然身を乗り出した夕呼に、武は思わずカップを取り落とした。テーブルの上で一度、白い陶器がバウンドし、中に入っていた焦げ茶色の液体が零れる。広がっていく水溜まりが白衣の裾を染めていくが、夕呼はそれにも気付かず、武の胸座を掴んでいた。
 夕呼のあまりに突然な変貌ぶりに、武は目を白黒させるばかりだ。
「その後、あたしは何て言ってた? 人間と同様の思考を持つ並列コンピューター……そう言わなかったッ!?」
「そういえば、そんなこと言ってたような気も……あ――……!」
 夕呼に胸座を掴まれた格好のまま、武はぽかん、と口を開けた。
 そうだ、夕呼は確かに言っていた。『これを完成させれば、人間と同様の思考を持つ、究極の並列コンピューターが完成するわ』と。

 ――それは即ち、00ユニットに他ならない。

「白銀! あたしは確かにそう言ったのね!? 00ユニットを造れる……そう言ったのね!?」
「えっと、確か……」
「――ッ!」
 夕呼は突然武の胸座から手を離すと、弾かれたように立ち上がった。そのまま疲労など全く感じさせない足取りでデスクへと向かうと、乱雑に積み上げられた書類の山をひっくり返し、やがて一枚の紙を手にとって戻ってくる。
 武は唖然として、ソファに腰を深く沈めたまま、夕呼の動きを見つめていた。
 コーヒーモドキの水溜まりの上から、夕呼はテーブルを叩き、再び武に向かって身を乗り出した。
 武の眼前に突き付けられているのは、一枚の書類。
「白銀。この図に……この式に見覚えはない? ほんの少しでもいいわ、見覚えがあるかどうか、イエスかノーか、さっさと答えなさい……!」
 詰問するような夕呼の声はしかし、武の耳には届かない。届くはずがない。
 武の意識は、目の前の紙切れにのみ注がれていた。

 ――中断された物理の授業。黒板に書かれた図形。教室を後にする夕呼。投げ返された靴。『変なタケルちゃん』。五万枚のコピー。手に書かれたしろがねたけるの文字――。

 時間にして僅か一瞬のことだった。だが、その一瞬の間に、武の脳裏には数多の記憶が、稲妻のような凄烈さを伴って蘇っていた。
「ある……見たことありますよ、先生! そうだ、確かに見た! これ、夕呼先生が黒板に書いてた絵だ!!」
「……ッ!」武の言葉に一度息を呑み、「……ふ、ふふ……あははは……!!」
 夕呼の喉から哄笑が零れた。見る者によっては気が振れたとでも思うかもしれない、大きな声が、執務室に木霊する。
 しかし武は、耳障りなはずの笑声をまるで気にも留めない。
 鮮やかに蘇っていく記憶。まるで録画していたビデオを再生しているかのような感覚。
 主観時間ではもう十年以上も前のことだが、はっきりと覚えている――思い出している。
 球技大会の一週間ほど前、11月に入ってすぐのことだ。物理の授業中、お喋りに興じていた武と尊人を注意したかと思えば、突然話が脱線したのだった。
 その前日の夜、プレスタ2のクソつまらないRPGをやっていたら思い付いたというのだ、人間と同様の思考を持つ、究極の並列コンピューターを完成させるという理論を。
 今武の目の前にあるのは、複数の半導体による、従来のコンピューターの発展型である並列処理回路の図だ。
 しかし夕呼は、『これはボツよ!! こんな考え方は既に古いわ!!』とその図にバッテンを書いて、その隣に新しい図と式を書き始めたかと思うと、論文にまとめるべきだと言って教室を出て行ってしまったのだ。
 それを話すと、
「たどり着いたんだわ…………」歓喜に打ち震える声で、夕呼は呟いた。「あたしがそんなこと言うってことは……もう理論は完成したってことじゃないの!! その理論、あたしは完成させてるんだわ! 少なくとも、今より現実的な理論が……実験の一歩手前まで完成している……」
 そうだ。武の知る香月夕呼という女性は、理論が中途半端な状態で論文を書き始めたりはしない。あの天才は、間違いなくブレインキャプチャーを可能とする理論にたどり着いたのだ。
「……何とかしなさい!」
「え?」
「何とかして思い出しなさい!! 一部でもいいわっ! 何とかしなさいよ!!」
 夕呼は声を荒げながら、再度武の胸座を掴んでくる。軍服の襟で首を絞められそうになった。
 夕呼のような美人の顔が目の前にあるというのは、武にとっても嬉しくなくもないシチュエーションではあるのだが、これではまるで浮気がバレて詰め寄られる男の図だ。一度目の世界の記憶の一つが脳裏を過ぎるだけに、武としてはかなり困る状況だった。この場に霞がいなくて良かったかもしれない。
 が、状況はそんな悠長な思考を許してはくれず、武は悲鳴をあげるみたいに叫んだ。
「無理ですって! オレにとっちゃもう十年以上前の話ですよ!?」
「それでも思い出すのよ!!」
 負けじと夕呼が声を張り上げる。
「無理言わないでください!」
 武は、決して記憶力のいい方ではない。
 他の誰よりも脳の中に記憶が詰め込まれているとはいえ、それはこの世界にやって来てからのことだ。元の世界での出来事に関しては、それは当てはまらない。
 ――だが、蘇った記憶の中に、その問題を解決する鍵があった。
 今でもはっきりと覚えている――思い出している、一連の奇妙な出来事。
 もし……もしその一連の出来事が、武や純夏の勘違いが重なったのではなく、現実に不可思議な出来事が起こったのだとすれば。
 そこに、『白銀武』の介入があったとすれば――。
「そうだ……オレが思い出すんじゃない――元の世界の夕呼先生に聞けばいいんですよ!!」
「――え……?」
 夕呼の動きが止まり、襟を掴んでいた手の力が緩む。
 慌ててその手を解き、武は夕呼の肩に手を置いて距離を取る。
「あの図を見て思いだしたんですけど……オレ、元の世界でその論文のコピーを取らされたことがあるんです。私用に付き合わせないでくれって文句言ったら、それはこっちの台詞だ、って言われちゃいまして。しかも、手にマジックで『しろがねたける』なんて書かれた上、洗ったらテスト欠席、なんて脅されたんです」
 自分の持ち物に名前を書くのは、他者の持ち物と区別を付けるためだ。
 ならば、体の一部に名前を書くのは何のためか。
「……元の世界の白銀武と区別をしなきゃならない誰かがいた……」
 武は頷いた。
「もしかしたら、それが論文を取りに来た、今のオレだったのかもしれません」
 そう考えると、色々と辻褄が合う。
 武の私用に付き合わされて、自分の論文をコピーさせられた――といっても、実際にその作業を行ったのは武なのだが――のだから、夕呼が武と同じように考えても不思議ではない。
 夕呼曰く、進歩ではなく革命を起こすような理論だ。何しろ世界を救う可能性を持つくらいなのだから、かなりの枚数を要してもおかしくはない。それで五万枚には届かないだろうから、ついでに私用を押し付けたというところだろう。
 問題があるとすれば、
「……オレを一時的に元の世界に戻すことって……出来ますか?」
 それが可能か不可か。
 前の世界で、元の世界の夢を見ると武が言ったとき、眠っている際には武の意識が元の世界にシフトしている……と夕呼は答えた。睡眠中ということで、武自身のこの世界に留まるという意思と、他者による武への観測が稀薄になり、この世界と武の繋がりが弱まるためだ。
 そして、夕呼は答えた。
「――不可能じゃないわ」
「本当ですか!?」
「理論上はね。後は装置を造って実験をするだけ――そうね、二、三日もあれば完成させられるかしら」
 夕呼の声は、心なしか弾んでいた。武の勘違いかもしれないが、もう少しで完成された理論に手が届くところまで来ているのだから、やむを得ないことかもしれない。
「そのときは呼んで下さい……あ。あと、ちゃんと寝てくださいよ? 過労で倒れられたりしたら、余計に時間掛かっちゃいますから」
「ついさっきまで倒れてた人間に言われたくないわね」
 にやりと唇を吊り上げて、夕呼は笑った。
 見慣れた香月夕呼の笑顔に、武はほっとする。数分前までの余裕のない姿は、そこにはない。
 それに武は安堵の息を零し、
「――ああ、そうそう……今夜からあんたと社は、同じ部屋で暮らしてもらうから」
 夕呼の言葉で吐いた息を丸ごと吸い直すこととなった。
「げほっ、こほっ……い、いきなり何言い出すんですか、先生!?」
 夕呼の思考が読めないのはいつものことだが、今回はいつにも増して酷い。何の脈絡もない上に、当人二人の意思などそっちのけで勝手に決定してしまうとは。この傍若無人ぶりは今に始まったことではないとはいえ、少しは自重してもらいたい。
 しかし、夕呼の表情は真剣その物で、とてもふざけているようには見えない。自然と武も背筋を伸ばしていた。
「今この世界にいる――それも、この世界にい続けることを強く望んでいるあんたを元の世界に戻すには、二つの世界の時空間を一時的に繋げた上で、あんたを確率の状態……つまり、白銀武としての存在が確定する以前の、霧のような状態にまで戻す必要があるわ」
「オレが、オレになる以前……?」
 またも前後の脈絡がない話であったが、ここにきて夕呼が無関係な話をするはずがない。彼女の中では、しっかりと繋がりのある話なのだろう。
「量子論的には、観測されることで存在が確定するのよ……そうね、わかりやすく言えば、中に何が入っているかわからない箱のようなものかしら。蓋を開けてみるまで、中に入っているのがリンゴかミカンか、はたまた猫かは、全て確率上平等な存在ってワケ」
 ふと武は、夕呼の実験によって猫へと変化した元の世界の多恵のことを思い出していた。
 つまり彼女には、築地多恵という少女として存在する可能性と、猫として存在する可能性とがあったわけだ。観測されたことで築地多恵という少女、あるいは一匹の猫となったのである。
「つまり、オレを観測されていない状態に出来れば、オレは元の世界に行ける……そういうことですか?」
「その通りよ」
 夕呼は満足げに頷いた。
 だが同時に、一抹の不安と疑問が武の胸中に湧き上がった。自然、声にも焦燥が現れる。
「……確率の霧になるってことは、オレはその時、みんなに忘れられるんですよね?」
「観測される以前の状態に戻るんだから、そういうことになるわね」
 その言葉で、一層不安は強くなっていた。縋り付くような口調で、武はさらに問い掛ける。
「オレ、戻ってこられないなんてこと、ありませんよね? ちゃんと元に戻れますよね?」
 ああ――と夕呼は小さく零した。それから「心配しなくてもいいわよ」と微笑し、
「そのために社がいるのよ」
「霞が?」
「そ。社のリーディングでなら、確率の霧に戻ったあんたをそのまま観測出来るからね。あんたをこの世界に留めておくための楔が社ってワケ。――ここで、話が元に戻るわ」
「話……?」
「……呆れた。あんた、自分で言ったこと、もう忘れたの? どうしてあんたと社が同じ部屋で暮らすか、って話でしょうが」
「あ――」
 すっかり忘れていた。元はといえば、夕呼が何の前触れもなくその話を持ち出したことに端を発しているのだ、この会話は。
 照れ隠しに武が頬を掻くと、呆れたという言葉通りに盛大な溜息を吐いて、夕呼は言う。
「まあいいわ。今言った通り、社にはあんたを観測してもらうわけだけど、確率の霧を観測するのは、あの娘にとってもかなりの負担になるわ。そこで、その負担を軽減するためにも、あんたと社の精神的な距離を近付けておく必要があるのよ」
「……それだと、オレと霞が一緒に生活する理由がよくわからないんですけど」
 要は、霞と積極的にコミュニケーションを取ればいいということだろう。そこまでする必然性が武には考えられなかったのだが、
「お互いの距離を縮めるには物理的な距離を縮めるのが一番効果的なのよ」
 悪戯っぽく放たれた夕呼の台詞で、そこに必然性があったのだと思い知らされた。つまるところ、四六時中武と霞を一緒にいさせるのは、夕呼にとっての娯楽でもあるのだ、と。
 なんだか一気に体が重くなったような気がして、武は大きく吐息した。
「わかりましたよ……けど、霞はいいって言ってるんですか?」
 抵抗は無駄であるとわかってはいるものの、足掻くだけ足掻くのが衛士の務めだろう。
 夕呼は、目を丸くした。それにつられて、武もまた目を見開く。意外なところに反撃の芽があるものだ。けれど、夕呼が驚いたポイントは武の想像とは違っていたらしい。
「馬鹿ねえ。あの娘が嫌がるはずないじゃない」これまでで一番呆れた様子で言う。「第一、あんた達が一緒に暮らすっていうのは、今決めたのよ? 訊いてるはずないじゃない」
「……左様ですか」
 結局、抵抗は無意味ということか。
 仕方がない、大人しく引き下がるのが賢明というものだろう。霞と一緒に暮らしたからといって、何か間違いが起こるわけでもない。お互い、起こすつもりがないのだから。
「社にはあたしから連絡しとくわ。今日はひとまず一緒に寝なさい」
「わかりましたよ」
 もう一度だけ溜息を吐くと、「失礼します」とだけ言い残して、武は夕呼の執務室を後にした。

 武は、言い知れない昂揚を覚えていた。
 ――これで、世界は救われる。
 00ユニットが完成すれば、BETAとの戦いに勝つことも不可能ではない。人類の劣勢を覆す鍵は、今、ここに揃いつつある。
 00ユニット完成の目処が立っているのだから、XG-70を手に入れることも難しいことではないだろう。まさか米国もことそこに至って出し渋りはしまい。
 万事が順調に進みつつある。
 ――覚悟も決めた。
 全てを背負う覚悟を。クーデターを起こし、帝国を味方に付け、米国の弱みを握り、戦力を補強すると同時に、計画の支障となり得る存在を排除する。
 全ては、00ユニットを完成させ、BETAに勝利するために。
 執務室のすぐ横の壁に埋め込まれた扉を見つめ、武は呟いた。
「――純夏。オレが……お前を、護る」
 それは、固い決意に満ちた、けれどどうしようもないほどに矛盾した言葉だった。



[2785] Muv-Luv ALTERNATIVE -Second World Was Failed- 第15話
Name: Vollmond◆d2a8c8a6 ID:49f1dd4a
Date: 2009/12/02 01:56
 2001年11月24日(土)/2001年11月26日(月)


 ――心が、震えた。
 眼下に広がるのは、柊町の街並み――そう、街並みだ。
 大小様々な建物が建ち並び、ひしめき合っているようにも見える。ある一画だけが真っ新なアスファルトの地面に覆われていて、その中央には武の家と純夏の家、そして冥夜の別宅という名の大御殿が建っていた。遠くには、ゆっくりと回転する橘町の観覧車が見える。
 そんな、当たり前であるはずの光景に、涙が出る。視界がぼやけ、斜陽の光が網膜に突き刺さった。
 夢にまで見た、平和な世界。当たり前の日常を当たり前に享受し、明日という一日が当たり前に訪れる、夢幻にも似た幸福すぎる世界。
 ――だが、泣くわけにはいかない。涙が零れるよりも早く、武は目許を拭った。
「戻って来られたのか……」
 自分の呟きに、武はどこか白々しい響きを感じた。
 声に出した言葉とは裏腹に、戻ってきたという実感はなかった。まるで、かつて訪れたことのある旅行先に、久し振りにやって来たかのような感覚。『前の世界』で搭ヶ島離城――箱根へと向かったときの感覚に似ている。

 ――ここは、『オレの世界』じゃない。

 実感せずにはいられない。
 かつてはあんなに戻りたくて戻りたくて仕方がなかったというのに、今となってはもう、この世界に戻りたいという意思はないのだと。『あちらの世界』こそが、白銀武の生きる世界なのだと。
『この世界』に戻ってこられたことが嬉しくないはずはない。けれど武は、この世界を自分の世界として認識出来ないでいる。全身に感じる空気にも、風の匂いにも、違和感を覚えずにはいられない。この世界の何もかもが、白銀武は異界から来た客人である、とはっきり告げていた。
 それだけ、あちらの世界に染まりきってしまったということか。
 それもいいだろう。今の武の頭の中にあるのは、オルタネイティヴ4を成功させ、人類を……自分の大切な者達を護るということだけなのだから。
 これからすべきことを、武は頭の中で整理した。
 夕呼の理論に基づく元の世界への帰還は、何度かの実験とアクシデントの末、見事成功した。制限時間はおよそ三時間。その間に、この世界の夕呼に向こうの世界の夕呼から預かった包みを渡して事情を説明し、次に来るときのために理論を用意してもらわなくてはならない。
 不意にチャイムの音が響いてきた。
 思わず武は太陽を見る。目算した高度と方位から割り出した時刻は、16時前後。
 午後4時ではなく16時と自然に考えてしまう辺り、すっかり軍人が身に染み付いていることを改めて実感する。
 16時ということは、即ち放課後。この時間ならまだ夕呼は物理準備室にいると見ていいだろうが、楽観視は出来ない。ふとした気紛れで帰ってしまうということも、彼女には珍しくないはずだ。これで理論が回収出来なかったとなれば、あちらの世界の夕呼に殺されかねない。
『覚悟? そんな甘えは許さないわよ。今日失敗したら、装置を破壊するわ』
 夕呼はそこまで言っていた。やるといったらやる人間だ。武の気を奮い立たせるためではなく、事実を告げただけに過ぎない。
 ――そうだ、失敗は許されない。
 こんなところで無駄にしていい時間は、一分一秒たりとて存在しない。武は足に力を込め、丘を駆け下りた。
 校門の前に到着したところで、武は足を止めた。
 懐古の念を抱かずにはいられない、遠い日の風景。レーダーのアンテナのない校舎。
 皆が思い思いのペースで、帰宅していく。朝家を出て、学校で勉強し、日が暮れたら帰るというルーチンワーク。十数年前では当たり前だったはずの光景が、ひどく懐かしい……しかし、今はそんな感傷に浸っている場合ではない――が、ここに来て武は、己の浅はかさを呪った。
「目立つよな、これは……」
 武が今身に着けているのは、国連軍の制服。あちらの世界では至極一般的な服装だが、こちらの世界ではそうはいかない。
『それと……無闇に向こうの世界に干渉してはダメよ』
 夕呼はこう言っていたが、こんな服で白陵柊の中を歩いていれば、嫌でも干渉することになる。
 時間は惜しいが、出来るだけ目立たないよう、気を配らなくてはならない……というわけで、武は今、茂みの陰に隠れることを余儀なくされていた。
 ――そのときだった。
「まてー!!!」
 その、懐かしい声が聞こえたのは。
「止まれー! 待てー! ていうかまってよ~~!! んもー! クツ投げるぞ~~~!!」
「ぁ――」
 どくん、と心臓が跳ねる。
「待ってったら待ってったら待てーーーー!!」
 ――瞬間、圧倒的なまでの膨大な情報が、どこかから武の脳髄へと押し寄せてきた。

 窓を挟んでのお喋り。温泉で背中を流して貰う。客船でのディナー。共に見た映画。究極の選択。雪の舞うクリスマス。校舎裏の丘でのキス。触れ合う肌。重ねた唇。愛おしくて愛おしくて愛おしくて愛おしくて愛おしくてたまらない――!!

「ぁ、あ……」
 喉から、嗚咽にも似た声が漏れる。
 驚きはなかった。理解していた。元の世界において、白銀武が愛する可能性が最も高い相手は、鑑純夏を置いて他にいない。だから、純夏の姿を見れば、自ずと彼女を愛した記憶を取り戻すことになるだろう――と。
 だが、これはそんな生易しいものではない。
 愛情が体の奥底から溢れ出し、全身を業火に焼かれるような錯覚。体が、心が、ずたずたに引き裂かれる。まるで白銀武という水風船の中に記憶という、愛情という水を限界を超えて流し込まれているかのよう。けれどその水風船は限界を超えても破裂することはない。灼熱の奔流を全身全霊で受け止めることしか、武には許されていなかった。
 ――好きだ。好きだ。好きだ。純夏が好きだ。愛している。掛け替えのない存在。大切な、ひと――――。
 会えなかった十数年間、脳髄だけになった彼女と過ごした十一年間……その間に積もりに積もった想いが――それ以前の数年間、彼女に気付くことさえ出来なかったという事実が、武を責め立てる。
 十数年間。言葉にすれば、僅かそれだけ……だが、その長い、あまりにも長すぎる時間は、確実に白銀武を変えていた――壊していた。
 今ここにいる白銀武は、かつての白銀武の延長線上にありながら、決してかつての白銀武ではない。
 半身を奪い去られた、もぎ取られた白銀武が、白銀武たり得るだろうか。鑑純夏と共に過ごした武たり得るだろうか。――否。
 引き裂かれた二人。これまでの十数年間、のうのうと過ごしていたわけではない。けれど、そこに白銀武を白銀武たらしめる彼女はいなかった。
 そして、夕呼に全てを打ち明けられるまで、すぐ傍にいたことにすら気付けなかった。
「ごめ――っ……!」
 思わず零れそうになった謝罪の言葉――弱音を、武は噛み砕き、有りっ丈の理性を総動員して飲み込んだ。
 謝って何になる。謝ることが許されるとでも思っているのか。そんな自己満足の免罪符、ゴミクズほどの価値もない。そんな身勝手な感傷、犬畜生にも劣る。そも、こんな感傷、誰かを犠牲にすると誓った時から、抱くことすら赦されない。

 ――そうだ。これは白銀武の咎。夕呼の言葉を盲信して、純夏の存在を忘れていた武に科せられた十字架だ。
 後悔を積み重ねて何になる。謝罪の言葉で免罪符を請うくらいなら、貴様の全てを賭けて贖ってみせろ――。

 自らを叱咤する言葉と共に、武は奥歯を噛み締め、
「うりゃああっ!!」
 耳朶に叩き付けられた気合の声に、体は反射的に反応していた。
 咄嗟に眼前に出した手に、硬い何かがぶつかる感触があった。痺れにも似た痛みに、武は思わず眉をひそめる。そこへ、
「ありゃ……失敗……えへへ」
 十数年分の想いを一瞬で吹き飛ばす脳天気な声。
 えへへじゃねえよ、と武は内心で悪態を吐くが、同時に口許が緩むのを止められずにいた。
 武の足許には、目標を大きく逸れて投擲された革靴が片方、無造作に転がっている。
「そうそう。あのバカ、自分で投げといて、オレに取って来させようとしたんだよな。そしたら靴が転がってきて……」
 一つのことを思い出すと、そこから芋づる式に色々な記憶が蘇ってくる。
 成る程、あのとき不思議に思ったのは、ここにいる武が靴を投げ返してきたからだったのだ。
 こんな、何でもなかったはずの出来事が、思わず頬を緩めてしまうほどに眩しい。
「――マジで投げるバカがいるかよ……ったく」
 聞き覚えのある声がした。まるで録音した自分の声のように聞こえるそれは、紛れもなく白銀武の声だ。
 そちらを見やると、案の定、そこにはこの世界の武が立っていた。
「はあ……はあ……はあ……ひとりで行っちゃうからだよ……置いてかないでよ~~」
 情けない声を出す純夏に、「ったくぅ……」と『白銀武』は呆れたように言った。
「タケルちゃん、クツ持ってきて」
「なにおう!?」
「持ってきてったら持ってきて!」
「……ったくぅ」
 あまりに懐かしい二人の遣り取りに、武は苦笑する。
「えーっと……クツはどこまで飛んでった?」
『白銀武』がこちらへやって来たのを見計らって、武は手に持っていた革靴を放り投げた。
「……ん?」
 独りでに転がり出て来た靴を見て、『白銀武』は怪訝そうに眉間に皺を寄せた。
 普通なら奇妙に思って茂みの陰を覗き込むものなのかもしれないが、そこは自分自身、昔の自分はそんなことを一々気にする人間ではなかったはずだ、と思い出す。少なくとも、武はこのとき、何もしなかったはずだ。
「どうしたの?」
 立ち止まった武を見て、純夏が不思議そうに訊ねてくる。
「…………いや……おまえのクツ、犬の糞まみれだと思って……」
「え――!?」
「ほ~れ!」
「うわっわっわっ!!」
「わははは……ばーか! 嘘に決まってんだろ~~」
『白銀武』は、今の武からは考えられないくらいのバカをやって、純夏をからかっている。
 やがて、後からやって来た冥夜と合流すると、三人は連れ立って家路に就くのだった。
 その後ろ姿がすっかり視界から消えたところで、ようやく武は立ち上がった。
「…………なんか複雑だな」
 いくら平和な――少なくとも『白銀武』の周囲は平和な――世界だとはいえ、かつての自分はあそこまで緩みきっていたのか。
 まるで――実際似たようなものなのだが――幼い頃のビデオを見ていたかのようだ。
 我が事ながら、あれに物を教えるのは大変だろうと、武は二人のまりもに同情するのだった。
「それより……」
 今ので随分と時間を食ってしまった。元の世界でコピーを取らされたからといって、今回もその通りにいく保証はない。ほんの些細なことで、小さな範囲での歴史は変わってしまうのだから。
 人目に付かないように気を配りつつ、自らの使命を果たすために、武は校舎の中へと入っていった。
 校舎の構造は横浜基地の訓練校と全く同じだが、どこに何があるかはうろ覚えだった。
 向こうの世界でも見慣れた光景ではあっても、そこにいる人間や、漂う空気が違うと、初めての場所のように思える。十数年前はここに通っていたのだと思うと、なんだかおかしかった。
 人影は疎らだったが、時折擦れ違う生徒達は、皆一様に変な物を見るような目で武を見ている。針のむしろに座っている気分だ。
 曖昧な記憶を頼りに、物理準備室に向かって歩いていると、突然後ろから声を掛けられた。
「――あら? 珍しいのが残ってるわね、ひとり?」
「…………え? あ……夕呼先生ッ!」
 振り向けば、そこにいたのは香月夕呼、武が探していた正にその人だった。
 ホルターネックの上着にローライズのパンツ。白衣だけが辛うじて教師らしい。
 これぞ天の配剤、「丁度良かった」と武が口を開こうとすると、夕呼は怪訝そうに眉根を寄せた。
「何よ、その気味の悪い反応は? ……ていうか何その服。何かの罰ゲーム? それとも、あんたもコスプレに目覚めたワケ?」
 だとしたらまりもが喜ぶかもね、という夕呼の言葉に、武は苦笑した。
 紛れもなく香月夕呼だ。こちらの世界の夕呼も向こうの世界の夕呼も、根本的な部分では同じなのだが、全く変わっていないこの世界の夕呼の姿に、懐かしさが込み上げる。
「この服には色々と深い理由がありまして……」
「あ、そ。それじゃ、早く帰って暖かくして寝なさい。お大事にね」
 表情一つ変えずに夕呼は言うが、関わり合いになりたくない、といったオーラが全身から滲み出ている。
 まりもに散々コスプレをさせて楽しんでいる彼女だけは、こんな反応をしてはいけないと思う。
「ちょっと待って下さい! 話したいことがあるんです!」
 踵を返そうとする夕呼を引き留めるべく、武は慌てて白衣に包まれた腕を掴んだ。その力に抗えるはずもなく、夕呼は立ち止まり、眉をひそめるが、武は真剣な眼差しで続けた。
「真面目な話なんです。時間が……時間がないんです!」
 武の言葉に、夕呼は眉をひそめたまま――けれど、その意味するところを変化させて、夕呼は険しい表情で武を見つめてくる。
 そして、言った。
「……あんた……誰?」
「……白銀武です。あなたの知っている白銀武とは、少しばかり違うかもしれませんが」
 一瞬の間を置いて、武は答えた。
「…………準備室、行きましょうか」
 はい、と頷き、武は夕呼の後について、十数年ぶりとなる物理準備室へと足を踏み入れた。
 乱雑に散らかった部屋。物理準備室の名には相応しくないビーカーや、ぽこぽこと泡を立てているフラスコなど、全てが記憶のままだった。
「で? もう一度聞くけど……あんた、誰?」
「白銀武ですってば。――詳しいことは、これを見てもらってからです」
 武は、向こうの世界の夕呼から預かった封筒を差し出した。
 訝しみながらも、夕呼は封を開け――そして、中の書類を見ると同時、その表情を一層厳しい物へと変えた。
「…………何よこれ。からかってるの?」
 表紙に印刷されているのは、「因果律量子論に基づく多元宇宙の実証考察」の文字。成る程、夕呼が取り乱すのも無理はない。『白銀武』は因果律量子論がどういったものか知らないはずなのだから。
 ぱらぱらと書類の束が捲られていく。
 表情の険しさは増すばかりだ。
 これが向こうの世界なら、10月22日のように、間違いなく拳銃を突き付けられているところだ。
 一通り書類に目を通すと、夕呼は鋭い視線を武に向けてくる。
「――白銀! ……なのよね?」
「はい」
「これ、どこで手に入れたの? あんたがまとめたなんて言ったら、速攻車で跳ね飛ばすわよ?」
 ――こっちはこっちでそういう手があったか。
 銃と違い、車なら夕呼でも確実に武に当てることが出来るだろう。ろくな訓練なしに人を殺せる分、こちらの方がタチが悪い。
「わかりました。話すと長くなるんですけど……どんなに馬鹿みたいなことだと思っても、最後まで聞いて下さい」
 始まりは、目を覚ますと、そこは見知らぬ世界であったことから。その世界ではBETAという宇宙生物と戦っているということ。白陵柊の代わりに国連軍の基地があり、向こうの世界の夕呼の便宜によって訓練兵となったこと。冥夜達クラスメイトと再会したこと。オルタネイティヴ4が失敗、オルタネイティヴ5へと移行したこと。
 そして再び10月22日に舞い戻っていたこと。前の世界の記憶を頼りに未来を変えようとしたこと。しかし未来は変わらず、再びオルタネイティヴ4は頓挫したこと。そして夕呼にオルタネイティヴ計画に関わるほぼ全ての情報を託されたこと。放棄された地球で、仲間を失いながらも、戦って戦って戦って――戦いの日々に明け暮れたこと。
 しかし最終的に死亡し――三度目の世界で目覚めたこと。今度こそオルタネイティヴ4を成功させるために再び未来を変え、とうとうその鍵――夕呼の新理論の数式へと辿り着いたこと。
 ともすれば感情的になってしまいそうな自分を抑え付け、極力客観的に、武はこれまでのいきさつを語った。
「…………」
 やはり、あまりに突拍子がなさ過ぎただろうか。
 向こうの世界では機密情報や衛士としての技能、そして霞のリーディングという裏付けがあったが、こちらではそれがない。
 信じてもらえなくても仕方がないか――と武が思ったその矢先、
「…………あたしの因果律量子論に間違いはなかったのね」深く、静かに、けれどはっきりと、夕呼は呟いた。「ふふっ……あ~~はははっ!!」
「せ、先生!?」
 突然の哄笑に、武は目を白黒させる。しかし夕呼はそれだけでは止まらなかった。
「――最高よ、白銀! ご褒美にキスもしてあげるっ! ん~~~~~!」
 あろうことか、武に抱き付き、キスの雨を降らせ始めたのだ。
 武の意思などお構いなしに唇を重ねてくる夕呼。一度目の世界の苦い記憶が蘇り、それを懐かしい感触だと思ってしまう自分を嫌悪しながらも、夕呼をぞんざいに扱うわけにもいかず、武は形ばかりの抵抗をするばかりで、されるがままになっていた。
 この世界の夕呼の性格をすっかり忘れていた。向こうの世界の夕呼も傍若無人極まりないと思っていたが、使命という抑止力がないためか、こちらはそのさらに上をいっている。
 一頻り感情の赴くままに行動して気が済んだのか、夕呼はようやく冷静さを取り戻してくれたらしく、武を解放してくれた。
 とりあえず、軍服のポケットに入れておいたハンカチで顔を拭っておく。
「はぁ、そうだったのね。うん、そうよ、これよ、これ! いやー! さすがあたしねっ! 素晴らしいわ! やっぱり天才だわっ! ん~~~最っ高の気分だわぁっ!」
 ――前言撤回。まだまだ冷静にはほど遠いらしい。
 はぁ、と相槌とも取れない曖昧な溜息を零す武。
「新理論の数式なら、すぐ用意してあげるから安心しなさいっ! そんなの幾らでもやってあげる!」
「五万枚分もいらないですからね?」
 夕呼には聞こえないように、武はぼそっと呟いた。尤も、普通に言ったとして、今の夕呼に聞こえるかは怪しいところだが。

 しばらくして、今度こそ落ち着いた様子で、夕呼は椅子に腰掛けた。
「……久しぶり……そう言えばいいのかしら?」
「そう……なりますかね」
 向こうの世界の夕呼とは毎日のように顔を合わせているが、この世界の夕呼と会うのは、本当に久し振りだった。
「……ふふ……何よ、アンタもちゃんと立派になれるんじゃないの……顔つき、全然違うわよ。どのぐらいぶりなわけ?」
「主観時間だと十三年……いや、もっとですかね」
「…………マジ?」
 夕呼の口から零れた言葉に、武は一瞬きょとんとして、すぐに破顔した。マジなどという言葉は、向こうの世界へ行って以来、絶えて聞くことのなかった言葉だった。そんなところにまで、懐かしさを覚えてしまう。
 過去の流行語を耳にしたようなときと同じ心境だ。
「一度目の記憶が曖昧だから、正確な年数はわかりませんけど。多少のばらつきはあるでしょうから、実際は二十年弱ってところだと思います」
「――あたしより年上じゃない……成る程……なんだか妙に男らしいと思ったら……」
 年下は性別認識圏外だという夕呼の言を思い出す。ということは、性別が認識される程度には成長出来ているということだろうか。
「まだまだ青臭いガキですよ」
「本当のガキはそんなこと言わないわよ」
 それもそうかと思いながらも、武は自分がガキだという認識を変えはしなかった。常に香月夕呼の傍にいるからこそ、自分の未熟を思い知らされるのだ。今もそうだ。過ごしてきた年月こそ夕呼より長いが、目の前の女性と比べれば、武などガキ以外の何物でもない。
「ま、人が変わるには……十分すぎる……わね」
「世界が世界ですから。変わるしかありませんでしたよ」
 平和の意味も知らないまま、無邪気に暮らしていけるような世界では、決してなかった。明日をも知れぬ毎日を過ごしていたのだから。
「あたしも一応教師やってるから、今まで何人も教え子持ったし、色んな子を送り出してきたけど……でも、あんたみたいなケースは初めて……違う世界に行って帰ってきたねぇ……」
「まあ、普通は違う世界になんて行けませんからね……」
 別の世界に行ったことがある人間は、武の知る限り、多恵くらいのものだ。尤も、彼女の場合は、猫と化していたようだが。
「で、いつ戻るの? この世界に長くはいられないはずよ」
「はい。あと……」窓の外に目をやり、「一時間もないです」
「そう、仕方ないわ。複数の世界に同時に干渉したら、何が起こるかわからないものね……」
「はい……そう言われてます」
 夕呼から厳命されている。彼女がそこまで言うからには、理論や仮説の上では、相当なことが起こると予測されているに違いなかった。
「せめて……そうね、同情はしてあげる。あんたの本当の居場所はこっち。でも今じゃ――」
「先生」
 武は、夕呼の言葉を途中で遮った。夕呼が怪訝そうに表情を歪める。
「同情なんてよしてください。そんなのいりませんよ」
「…………」
「最初はともかく、今のオレは、オレの意思でBETAと戦ってるんです。向こうの世界は辛いことばかりじゃありません。そりゃ、辛いことは沢山ありましたけど……それでも、オレはもう、向こうの世界に行ってしまったことを悔やんでも恨んでもいないんです。それに……正直なこと言うと、こっちの世界に、もうあまり執着がなかったりしますしね」
 一度目の世界でのクリスマスに、向こうの世界に骨を埋める決意をした。そうだ、あの瞬間から、白銀武は、本当の意味で向こうの世界の住人となれたのだろう。
 ああ……だからだ。だからこそ武は、この世界に戻ってきても、帰ってきたという実感が湧かなかったのだ。
 この世界は武の住むべき世界ではない。今の武が住むべき世界は、向こうの世界なのだ。
「同情なんていらないんです。オレは……オレは、あの世界の仲間達と共に戦えることを、誇りに思ってるんですから――」
 夕呼にだけは同情されたくないという気持ちもある。
 武は、向こうの世界の夕呼が、どれだけの重責の中、どれだけ自分の気持ちを押し殺して、世界を救うために粉骨砕身しているのかを知っている。常人ならば発狂してしまうかもしれない。正常を保ちながら狂っているとも言うべき毎日を、夕呼は生きているのだ。
 たとえ住む世界は異なっていようと、夕呼にだけは、武程度の境遇に同情して欲しくなかった。
「――そうね……今のはあたしが悪かったわ。同情っていうのは、あんたの覚悟を踏み躙るだけだった。ふふ……一端の男の顔しちゃって」
 夕呼はどこか艶っぽい笑みを浮かべてみせる。
 ようやく、この女性に一人前だと認められた気がした。
「さて、とりあえず頼まれたものは……そうね、三日後には何とかしておくわ」
「じゃあまたその頃に…………ところで、今日って何日ですか?」
 二つの世界では時間の流れが異なる可能性がある、と向こうの世界の夕呼は言っていた。
「11月26日よ」
「じゃあ、三日くらい経ったら、また来ます」
「わかったわ。……この後、何か予定は?」
「特には。後は向こうに戻るのを待つだけです」
「そう……なら、久し振りに街でも眺めていけば? 人に会うことさえ避ければ、それくらい問題ないわよ」
 夕呼の提案を拒む理由もなく、武は頷いた。
 次に理論を取りに来る時以外、もうこの世界の――人の生活の匂いがする柊町の街並みを見ることは出来ないのだ。この世界に帰ってきたいという思いはなくても、最後にこの世界の風景を記憶に留めておきたかった。
 失礼します、と言って物理準備室を後にしようとする武。しかし、夕呼がそれを呼び止めた。そして悪戯っぽい笑みを浮かべ、
「ちょっと敬礼してみせてよ。イヤ?」
「はは、まさか」
 軍とは無関係のこの世界でそんなことをするのに、多少の気恥ずかしさがないといえば嘘になる。しかし、向こうでの経験を、成長した自分の一端を、夕呼に見てもらいたいという気持ちもあった。
「――失礼しますッ!」
 踵を揃え、背筋をピンと伸ばし、真っ直ぐに伸ばした手を額に添える。
「……ふふ……サマになってるじゃない……またね」
 はい、と返事をして、武は今度こそ物理準備室を後にした。


 日常とは懸け離れた日常の風景の中を、武は歩いていた。
 グラウンドに人影は殆どない。テスト前ということで、部活は軒並み休止中のようだった。これ以上白陵柊に止まっても仕方がないと思い、武は校門をくぐって、桜並木の坂道を下っていった。
 柊町の街並みは、武の記憶の中のそれと、全く変わっていない。
 戦争などという言葉とは無縁の、平和な世界。少なくとも、この世界で暮らしていた頃、白銀武にとって、世界は平和に満ちていた。それが、どれだけ幸福なことなのかも知らないで。
 武だけではない。誰も気付いていない。
 けれど、それでいいと思う。この平和な日常を当たり前のこととして、意識しないでいられる……それこそが、何よりの幸福なのだから。
「……やっぱ、オレのいていい世界じゃないよな……」
 そんな幸福の中に、白銀武が浸っていていいはずがない。血と硝煙の匂いに塗れ、血で血を洗う程に手を汚した――これからも汚し続ける男が、この日常を謳歌していいはずがない。
「ま……今更か」
 そんなことは、とうの昔に覚悟出来ていたはずだ。
 だから、この世界の白銀武には、純夏とでも冥夜とでも、他の誰かとでもいいから、この平和の中で幸せになって欲しかった。
 そんなことを考えてしまう辺り、歳を取ったということなのかもしれない。
 過ごした年月に、内面の成長が見合っていればいいのだけれど。
「タケルちゃん?」
 この世界で過ごせる時間は、あと三十分もない。そう思うと、不思議と名残惜しかった。
 多分それは、BETAなどという存在とは無縁だからこその、空気の柔らかさの所為だろう。
 日本の外に目を向ければ、戦争はいくらでも行われている。戦場に赴けば、向こうの世界のそれと同じ、帯電したような張り詰めた緊迫感に包まれるだろう。しかしそれも、あくまで人間同士の殺し合いでしかない。BETAという絶望に抗うあちらの世界に比べれば、ぬるま湯に浸かっているようなものだろう。
 人間同士の戦争は、決して終末まで行き着くことはない。だが、奴らは違う。奴らとの戦争の結末にあるのは、終末以外にはあり得なかった。
「……タケルちゃん?」
「何かお土産でも――って、金ないんだっけ」
 向こうの世界では財布を持ち歩く習慣がないので、今来ている国連軍衛士の制服には、財布が入っていない。
 そもそも、こちらの世界の物品を向こうに持ち込んでもいいものだろうか。
 論文を持ち込めるということは、ある程度は問題ないのだろうが、大々的に持ち込むのは、武の立場を危うくしかねない。
 霞か夕呼辺りなら問題はないだろう。論文を取りに来たときにでも――
「タケルちゃ~ん! わたしの話を聞~い~て~~~っ!」
「うわあああっっ!」
 耳許で発せられた大音響が、武の思考を断ち切った。
「へへへっ! 何度も呼んでるのに、無視するタケルちゃんが悪いんだよ~?」
 振り向けばそこには。微妙に意地の悪そうな、けれど得意気な笑みを浮かべる幼馴染みの姿があって。
「ぁ…………」
 息が、詰まる。
 青白い光に照らし出された、シリンダーの中の脳髄が脳裏を過ぎり――武は、よろよろと手近な塀にもたれ掛かった。
「タケルちゃん? どうしたの……顔色悪いよ?」
「……何でも、ない……」
 ――ああ……純夏が……純夏が、オレの目の前にいる……。
 そんな、何でもないはずのことがひどく嬉しくて。ひどく――ひどく、責め立てられているような気持ちになる。
 何年間も、武は向こうの世界の純夏に気付いてやれなかった。主観時間で三年、実際は数え切れないほどの時間。
 それほどの間、幼馴染みに気付けなかった自分を、目の前にいる純夏の存在が責め立てる――。
 それは幻覚であり幻想であり空想だ。くだらない、自分勝手な被害妄想。そんなことはわかっている。
 だが、それでも心は折れて、今すぐにでもここから逃げ出したくなってしまう。
 夕呼に、この世界の人間に深く干渉するなと言われたからではない。ただ、鑑純夏という少女と向き合うのが、恐かった。
 ――ふざけるな……!
 ぎり、と奥歯を噛み締めて、武は自らを叱咤する。
 逃げる? 何を考えている。そんなことが許されるとでも思っているのか。あの日、純夏の脳髄の浮かぶシリンダーに告げた誓いは嘘だったのか。この程度のことで揺らぐ覚悟なのか。自分の身をどれだけ引き裂かれようとも、大切な者達を護るという誓いは、こんなことで折れるちっぽけなものだったのか――違う。
 生傷の残った手の平にさらに新しい傷痕を刻んで、武は正面から純夏の顔を見つめた。
 純夏は、突然押し黙り、表情を強張らせた武の顔を、心配そうに覗き込んでいる。
「タケルちゃん……?」
「……悪い、考え事してた」
「んもー! 失礼だよ!」
 悪い悪い、と謝る武。余計な感情は、全て蓋をして心の奥底に沈めてあった。
 しょうがないんだから……と嘆息すると、純夏は怪訝そうな表情を浮かべ、じろじろと武の全身をじろじろと見てくる。
「それより、その格好どうしたの? コスプレ?」
「あ……っと……ちょっと夕呼先生に捕まっちまってさ……」
「香月先生に? もう、香月先生ってば……」
 向こうの世界での癖で、咄嗟に夕呼の名前を使ってみたが、こちらの世界でもそれで何とかなってしまうらしい。改めて香月夕呼の偉大さを思い知らされる。
 それなりに会話が出来るようになると、今度は夕呼の言葉が脳裏を過ぎる。
『それと……無闇に向こうの世界に干渉してはダメよ』
 こうして純夏と会話をしているのは、明らかな干渉だ。武は、別の世界からやって来た白銀武と純夏が会話しているのを目撃した覚えはないが、その通りに行くとは限らない。出来るだけ早く純夏から離れるべきなのだろうが、ここで距離を取れば、純夏が食い付いてくるかもしれない。
 結局、武はこのまま純夏との会話を続けることにした。会話を続けたいという欲求に、逆らうことが出来なかった。
「買い物行ってたのか。持ってやるよ」
 純夏が両手にぶら下げていた重たそうなスーパーのビニール袋を認めて、武は手を差し出した。夕飯の買い物だろうか。
 こちらの世界では、当たり前のように天然の素材を使った料理を口にすることが出来る。次に来たときはお土産として何か買って帰ろうか――と思案する。
 純夏は、まるで幽霊でも見たような顔で、武の顔を凝視している。
「何ぼーっとしてんだよ、純夏。そんなんじゃ人のこと言えないぞ。ほら、貸してみろって」
 半ば無理矢理に、武は純夏の手からビニール袋を奪い取った。
「あ、ありがと……」
 純夏は頬を紅潮させる。
 メニューは何だろう、と思いながら、武はビニール袋の中を覗き込んだ。
「どれどれ……キャベツに挽肉……」
 鮮やかに蘇る記憶があった。
 覚えている。キャベツと肉そぼろのコンソメスープ・イタリアン。ロールキャベツを作ろうとして、楊枝を使わない方が料理が出来るっぽいから、というなんともしょうもない理由で、楊枝を使わず、結局失敗してしまったのだった。
 そんなしょうもないことをよく覚えてるもんだ、と武はくつくつと喉を震わせた。
 そういえばあのとき、変なタケルちゃんと会った、とか言っていた気がする。つまりはこれも必然か。
「それじゃ、行くか」
 二人は並んで歩き出す。
 純夏と二人、家路――という実感はないが――を歩きながら、武は懐かしい街並みを眺めていた。
 どこを見ても何を見ても、純夏との想い出が蘇ってくる。それは閃光のように、稲妻のように、武の記憶を光が打つ。
 この街には、純夏が溢れていた。いつだって一緒だった。いつまでも一緒だと思っていた。武の半身は純夏で、純夏の半身は武だった。
 この世界は武が住むべき世界ではないと、わかっているのに。純夏との想い出があるだけで、この世界に留まりたいと、そんな甘えが、一瞬であるけれど脳裏を掠めていく。
 十三年――十三年だ。主観だけでもそんなにも長い間、武は純夏と離れ離れだった。
 生まれてこの方、純夏とそんなに長く離れていたことは、勿論、一度としてなかった。出会ってからの十年以上、ずっと一緒だった。喧嘩もしたし、隣にいないこともあったけれど……それでも、三日として会わないことはなかった。
 ――今更ながらに実感する。鑑純夏という少女が、自分にとってどれほど大切な存在であったのかを。
 衛士の戦う理由の最たる物は、隣で戦う友のためだ。だが、きっと誰よりそれを肌身で感じている武であっても、きっと、もう一度純夏と会いたい……その想いが、戦う理由となりつつあるのだと、思わずにはいられなかった。
「タケルちゃん?」
 気付くと、純夏が武の前に回り込んで、下から顔を覗き込んでいた。
「……泣いてるの?」
「いや……そうじゃない。ただ……」
「ただ?」
「……ずっと純夏と一緒にいたんだな――って」
 え? と言って、純夏は目を大きく見開いた。昔と一緒だ、と武は内心で笑みを零す。
「今までもずっと一緒にいて……多分これからもずっと一緒にいるんだろうな、オレ達」
 それは叶わない願いかもしれないけれど。理不尽に引き裂かれてしまうことがあるかもしれないけれど。それでも……そうあって欲しいと、武は願った。この世界の白銀武と鑑純夏が幸せになれますように――と。
「あ……う、うん。そうだよ、私とタケルちゃんは、ずっと、ずーっと、ずーーーっっと一緒なんだから!」
 純夏の顔に浮かぶのは、向日葵のような満面の笑顔。
 その笑顔を忘れたことは、一度もなかった。純夏と会えなかった十数年間を挟んでも尚、武の記憶にはその笑顔が深く刻み付けられていた。
 やがて、懐かしい我が家が見えてくる。逢瀬にも似た優しい時間はここまでだ。
 武は立ち止まり、純夏に買い物袋を渡した。
「――悪い。オレ、用事思い出した。先帰っててくれ」
「またゲームセンター行くんでしょ」
 違うよ、と答えて、武は純夏の頭に手を乗せた。「あ……」という呟きが純夏の口から漏れる。
「じゃあな、純夏……夕飯、楽しみにしてる」
 髪を梳くように優しく頭を撫でてから、武は踵を返し、駆け出した。
 向かう先は公園。遊具の中にでも隠れて、向こうに戻る瞬間を待つことにする。
 辺りは夕闇に包まれ始めている。この世界にいられるのは、残り数分もないだろう。
「元気で……ずっと、笑っていてくれ。それだけで、オレは幸せだから……だから、さようなら――純夏」
 呟いて、虚空に向けて手を伸ばした。
 ――オレは、必ず未来を勝ち取ってみせる。向こうの世界の純夏と、笑って過ごせるような未来を、きっと――――。
 強く拳を握り締める。
 武の体を、眩い白光が包み込んでいった。


 気付くと、そこは様々な機器が並んだ薄暗い部屋――横浜基地の地下にある機密エリアだった。
 帰ってきたのだという実感があった。この世界こそが自分の住むべき世界だと、全身が感じ取っていた。
「お疲れさま……久し振りに帰省出来たみたいね」
 戻ってきた武の姿を認めるなり、夕呼が言った。
「帰省っていうのとはまた違いますけどね。懐かしいことには変わりありませんでしたけど……今のオレには、もう自分の世界じゃありませんから」
 あちら側に長くいればいるほど、自分が場違いだということを痛感するだけだろう。
 だからこそ、もう手に入らない、失ってしまった日常というものが、平和の意味を知らずに生きていられることが、どれほど尊く貴重なものであったかを痛感する。
 ――その尊い日々を、この世界でも手に入れてやる。
 決意を新たに。
 元の世界の空気に当てられて腑抜けている暇など、刹那さえない。
「で、どうだった?」
「物は確かに渡してきました。三日後には出来るそうです」
「向こうの日付、ちゃんと聞いてきたんでしょうね?」
「11月26日……こっちより少しだけ進んでますね」
 二つの平行世界を繋ぐとはいっても、二つの世界が文字通り平行に、綺麗に整列しているわけではない。二つの世界の間で時間が異なるかもしれないというのは、最初から予見されていた。
 とはいっても、時間の流れ自体は同じであると考えられるので、こちらの世界の三日後が、あちらの世界の三日後になるはずだ。
「……っと!」
 夕呼と話していると、突然、霞がふらつき……そして倒れ込む。慌てて武はそれを抱き留めた。華奢な体は、驚くほどに軽い。白い肌はさらに白く、か細い呼吸を繰り返している。注意して見なければ、一見死んでいるように見えなくもない。
 これまでの実験でも倒れることはあったが、これまで以上に顔色が悪く、明らかに疲弊しきっていた。
「霞……」
 この実験が霞に無理をさせているということは、武にもわかっていた。何しろ、異なる世界に転移し、この世界では存在の霧と化した武を、常に観測し続けなくてはならないのだから。
 リーディングは、決して楽な行為ではない。ましてや、それが本来観測出来ない存在に対するものならば尚更だ。
「先生……絶対に次で決めましょう。これ以上、霞に無理をさせたくはないですから」
「……同感ね」
 夕呼の表情からは、彼女が本心から霞を案じていることが見て取れる。
 かつて霞のことを夕呼の娘だと冗談で紹介されたことがあったが、もしかすると、二人の関係は本当の親子のようなものなのかもしれなかった。
「今日はもう休んでいいわ。社を部屋まで運んであげてちょうだい」
「わかりました。それじゃ、失礼します」
 霞の体を抱きかかえると、武は実験室を後にした。


 霞を自室のベッドに寝かせて、武はそっと部屋を出た。
 訓練日を丸一日元の世界との往復に費やしてしまったためか、体力が有り余っており、寝付けそうになかったのだ。あるいは、十数年ぶりに懐かしい世界へと戻った所為で、気が昂ぶっているのかもしれない。あんな穏やかな世界に行って興奮するなんて、と強化装備に着替えながら、武は笑みを零した。
 こういったとき、自然と足が向かうのはシミュレータールームだ。グラウンドでランニングというのも悪くないが、やはり戦術機を動かすのが武には性に合っている。
 衛士強化装備の武がシミュレータールームにやって来てみれば、いつかのように作動中の筐体がある。もしかしたらと思い管制室で確かめてみると、やはりと言うべきか、訓練に励んでいるのは、七瀬凛だった。
 前にここで会ったのが三日前。週に二度という彼女の言は、もしかすると嘘ではないのかもしれない。
「丁度良かったかもな」
 武はそう独り言ちる。
 適当なタイミングで話してやろうと考えていたのだが、そのタイミングがこうも早くやって来るとは思っていなかった。
 善は急げ。シミュレーターの稼働時間を見ると、ちょうど一時間を過ぎたところ。そろそろ一度休憩を入れるべきだろう。
 ――次に撃墜された時にでも声を掛けるか。
 いつも遙が座っている椅子に腰を下ろし、両肘を突いて絡めた指の上に顎を載せる。
 僅か数日で劇的にレベルが上がるというようなことはあり得ないだろうが、先日のアドバイス――と呼べる程の物でもないのだが――がどのように生きているかを、こっそりと確かめたくなったのだ。
 勿論、日頃の訓練である程度は見て取れるが、こうして一人になったときこそ、それがはっきりとわかるというもの。先日、彼女の危うさに気付いたのも、こうして一人で訓練に励んでいる時のことだった。
 やがて武は、「へぇ……」と唸った。
 ほんの数日の間に、よくここまで化けたものだと思う。
 三次元機動から砲撃、接近されれば短刀を振るって一撃離脱、再び砲撃の雨を降らせる……とやっていることこそ同じではあるが、以前のそれよりもずっと安定している。
 生き急いでいない……とでも言うのだろうか。自身の生存を第一に考え、そのためにはどの敵をどのように斃すのが最も効率的かを瞬時に判断、実行に移している。言葉にすれば簡単だが、それをあの若さで為せるのは凛くらいのものだろう。ヴァルキリーズの制圧支援を任されているのは、戦術的な視野の広さがあってこそだ。尤も、先日までは視野狭窄に陥っていたようであるが。
 キルスコアはおよそ三百。自動操縦の不知火三機との合計で言えば、千近い。
 前回とは違い、凛が無理に突っ込むような真似をしないためか、随伴機の内一機は未だ健在だった。
「……けど、時間の問題か」
 制圧支援の最大の特徴は、何と言ってもその双肩に装備された92式多目的自律誘導弾システムにある。全ポジション中最大の制圧能力を誇り、AL弾を搭載すれば、重金属雲という、光線属種から部隊を護る盾を展開することも出来る。
 だがその半面、携行出来る装備が限られているという弱点もある。
 92式多目的自律誘導弾システム以外には、87式突撃砲が一門と92式多目的追加装甲が一つ、あとは標準装備の65式近接戦闘短刀が二振りのみ。突撃砲の予備弾倉も36ミリ・120ミリ共に二つと、非常に少ない。
 凛が今行っているのは、防衛戦プログラム。既に自律誘導弾は発射済みなので、残る装備は突撃砲と短刀のみ。BETAという極大の質量兵器の前には、92式多目的追加装甲は紙屑も同然。早々に破棄してしまう衛士も少なくない。
 戦場には、ぽつんと、紺色のスーパーカーボンの塊が一つ打ち捨ててあった。
 それだけではない。十数門もの突撃砲や砕けた短刀、さらにはへし折れた長刀なども散乱している。
 こまめに補給しているようではあるが、補給コンテナの中身にも限りがある。元々の携行兵器が少ない静圧支援だから、最初の補給が必要になる時も早いし、次に補給出来るタイミングがいつになるかわからないので、補給せねばならない装備も多い。
 補給が必要なのは七瀬機だけではないので、補給コンテナが空になるのも仕方のないことであり、武の言ったように、遅かれ早かれその時はやってくる。
 ――そして、今が正にその時だった。
 カチ、という音が七瀬機の突撃砲から発せられる――弾切れだ。すぐに凛は装備していた三門の突撃砲をまとめてパージする。そんな状況にありながら、凛は補給コンテナには見向きもしない。
 即ち、補給コンテナにはもう装備が残っていないということだ。
 地面の長刀を拾い上げる七瀬機。リーチの分だけ、BETAの反撃を受ける可能性が低いと踏んだのだろうが、制圧支援の彼女にとって、長刀は扱い慣れていない装備だ。当然、一通りの装備の使用経験はあるだろうが、戦場では蓄積された経験こそが物を言う。
 長刀の重みに振り回され、ほんの僅かに蒼穹色の不知火が傾ぐ。スーパーカーボンと要撃級の前腕とが激突し、刹那、甲高い刃鳴りを響かせるが、次の瞬間には、要撃級の腕は宙を舞っていた。
 同時に、長刀の刃もまた。
 長刀を振り抜いた勢いそのままに、ぐらりと回転力を失った駒のように、大きく機体が揺らぎ。――そこに、もう一方の前腕が容赦なく叩き付けられたのだった。
「状況終了。七瀬少尉は速やかにシミュレーターから出るように」
『し、白銀少佐!? いつからそこに!?』
「ちょっと前からだよ。ちょっと待ってろ、今そっち行くから」
 凛がシミュレーターの筐体から降りるのを見て、武もまた管制室を後にした。

 手にドリンクのボトル――みちるご推奨のゲロマズドリンクではない――を持って、武は凛の下へと歩いて行った。ボトルを手渡してやると、「ありがとうございます」と言って凛はそれを受け取り、おいしそうに飲み始めた。
 こういう仕草を見ていると、武よりも一つ年下の――主観時間で言えばもう十何歳も年下の――普通の女の子にしか見えない。こういうところはやっぱり向こうの七瀬と同じなんだな、と思う。
「随分生存時間延びたみたいだな。――ま、凛の実力を考えればこれくらいは当たり前か」
「白銀少佐のお陰です。少佐があの時声を掛けてくださらなかったら……」
「何言ってんだ、凛の力だよ。オレはちょっと口出ししただけだ」
 凛が自分の生存、ひいては仲間の生存を第一に考えられるようになったのは、確かに武の言による物が大きいだろうが、それを実現しているのは、他ならぬ凛自身の力量によるものだ。どのようなアドバイスをしようとも、それに見合った技量がなければ、ただの心構えでしかないのだから。
「それでも……お兄様の死に後ろ向きになって、BETAを殺すためだけに戦うのでは駄目だと教えてくださったのは白銀少佐です。少佐がいらっしゃらなかったら、きっと私はいつか後悔して、死んだお兄様にも怒られていたはずです。――だから、本当にありがとうございました」
 深く頭を下げる凛。淡く茶色がかった長い髪が、一瞬遅れてなびいた。
 立場上礼は言われ慣れているが、こうも真っ直ぐに感謝の意を表されては流石に気恥ずかしくなってしまい、武は視線を逸らした。これから口にする内容が、ほんの少しだけ気まずかったというのもある。
「えーと……だな。その、お兄様についてなんだけど、な」
「……? 兄がどうかしましたか?」
 顔を上げた凛が、不思議そうに首を傾げる。先程までのシミュレーター訓練で紅潮した頬と、微かに滲んだ汗が、妙に色っぽい。衛士強化装備の凛など見慣れた姿であるはずなのに、こんな風に思ってしまうのは、元の世界の七瀬凛を思い出してしまったからだろうか。
 ――何やってんだか、オレは……。
 自分自身に呆れ返ってしまう。しかしそのお陰か、頭の中は整理され、冷静さを取り戻すことが出来た。
 息を吐いて、一度大きく吸う。そして、意を決して、凛の瞳を見つめながら言った。
「凛のお兄さん……七瀬(ゆう)大尉のことなんだけどな」
「……はい」
 武の様子から真剣な物を感じ取ったのだろう、凛は背筋をピンと伸ばして応える。その表情は真剣その物で、続く武の言葉をじっと待っている。
 それを見て、武の頬は自然と緩んでいた。
 ――七瀬大尉、いい妹を持ちましたね。
 歴史に名を刻まれることはなかった、けれど歴史的偉業にはなくてはならなかった、かつて戦場を共にした衛士に想いを馳せる。
 甲21号作戦において、A-01の直援を務めた、帝国軍鋼の槍連隊――七瀬大隊長七瀬勇大尉に。

「七瀬大尉は、死んでない。今だって、ちゃんと生きてる」

「――――え?」
 目を大きく見開いたまま、凛の表情が凍り付く。
「七瀬大尉にはちょっと世話になったことがあってな――といっても、向こうはオレのことなんか覚えてないだろうけど――あれから気になって、香月博士に訊いてみたんだ。そしたら言ってたよ。七瀬勇大尉は、死んでないってさ」
「本当……です、か……?」
 凛の目が俄に潤み始める。だから武は、やさしく微笑んで答えた。
「ああ、本当だ。間違いない」
「っ――!!」
 そこから先は、声にならなかった。
 両の目から透明な雫が零れ、頬を伝う。喉の置くから漏れた嗚咽は、跡切れることがない。涙と鼻水で顔をくしゃくしゃにして、目蓋を真っ赤にして、凛は泣き続けた。
 そんな凛を、武はそっと胸に抱き寄せる。
 ――この前もこんなことやったな……。
 凛の兄の代わりは、必要ない。帝国軍と国連軍――それもA-01――という立場の壁が二人を隔てることになろうとも、生きている限り、きっとまた会えるのだから。
 だから、これが、凛の兄に似ているという白銀武が彼女にしてやれる、最後の兄代わりだ。
「半年前の間引き作戦で大怪我して、一時は危なかったのは確かみたいだけど、無事だったらしい。もう少しで退院出来るらしいし、後遺症もなくて、衛士として前線に復帰出来るって話だ」
 最後のくだりで、凛は肩を震わせた。
 一度死に瀕するほどの重傷を負ったというのに、また前線に立って欲しくない……そう思うのは、妹として当然だ。
 衛士としてこの国を守る兄のようになりたいがために自身も衛士を目指した。己が目標である衛士であり続けて欲しいという衛士としての願いと、二度と命を危険に晒して欲しくないという妹としての願い。二つの相反する願いが、きっと凛の中では渦巻いているのだろう。
 同時に、彼女は理解してしまっている。七瀬凛個人としての願いは、決して叶うことはないだろう――と。
 それは、凛自身が衛士であるが故に。誰よりも兄――七瀬勇という人間を知っているが故に。
 わかってしまうのだ、兄は必ずもう一度戦場に立つ、と。日本帝国を守るために……そして何より、最愛の妹を護るために。
 そして、それはどこまでも正しかった。
 ――七瀬勇という男は、遠くない未来、再び戦場に立つ。それは、武の記憶によって裏打ちされた、既に確定した未来であった。
 それを知っているから武には、気休めの言葉を掛けてやることなど出来なかった。
 それでも、たった一つだけ言えることがあるとするならば。
「――良かったな、凛」
「は、ぃ……」
 七瀬勇大尉の無事を喜ぶ言葉だけ。
 生きているなら、次がある。凛が強くなって兄を護ってあげることだって出来る。凛一人では無理でも、皆の力を合わせれば、きっと不可能ではない。
 ――凛。お前は、オレが強くしてやる。
 護りたい大切な誰かのために、衛士は戦うのだから。



[2785] Muv-Luv ALTERNATIVE -Second World Was Failed- 第16話
Name: Vollmond◆d2a8c8a6 ID:49f1dd4a
Date: 2009/12/02 01:56
 2001年11月25日(日)


 武は、今日も今日とて夕呼の執務室に呼び出されていた。
 本来ならば、今日は休日に当たる。部隊としての訓練はなく、皆が思い思いに過ごす一日だ。尤も、そんな日であっても、多くの人間は自主訓練に励むのが、横浜基地の常なのだが。後方ということでか間延びした空気は漂っているものの、兵としての責務を忘れている者は一人たりとていはしない。
 武もそうしようと考えていた矢先の、夕呼からの呼び出しだった。
 しかし、突然呼び出される理由がわからない。元の世界に論文を取りに行くのは、明日以降のはずだ。今日あちらの世界に行ったところで、論文が手に入らない可能性は高い。そんなことをして無駄足でも踏めば、霞に余計な無理を課すことになってしまうし、膨大な電力を浪費することになる。それだけは避けたかった。
 失礼します、と言って武は夕呼の執務室の扉を開けた。
 来たわね、と夕呼は目を細める。
「早速だけど……この間言ってた、斯衛軍とのトライアル……セッティングしてあげたわよ」
「え?」
 トライアルとは、XM3のトライアルのことだろう。不知火・弐型をもう何機か都合出来ないか、と夕呼に頼んだとき、武が解決案の一つとして提示したものだ。即ち、帝国にXM3を売り込み、それを取引材料とするというもの。そのためにはまず、XM3の性能を誇示する必要があった。
 また、帝国に恩を売る以外にも、クーデターの前に、せめて第19独立警護小隊の機体にだけでもXM3を搭載しておきたいという思惑もあった。この世界では、冥夜と沙霧大尉の謁見後の戦闘は避けたいと考えているものの、もしもということがある。そのための対策だ。
「トライアルと言っても、国連軍のごく一部と斯衛軍にしか見せない、内輪での演習だけどね」
 クーデターを控えている今、敵となるであろう帝国軍にXM3のことを教えてやる必要はない。その存在を教えてやるのはいいとして、その内容までも教えてやるつもりはなかった。
「それにしても、いきなりというか……また随分手が早いですね……」
「まあ、ある程度慣熟してもらう必要もあるしね。いきなり換装して、本番で使えなかったりしたら困るもの。あんただって、教えるのに最低一日は欲しいでしょ?」
「え? オレが教えるんですか?」
「当ったり前じゃない。他に誰がいんのよ」
 呆れた、とでも言わんばかりに、これ見よがしに溜息を吐く夕呼。
「まあ……別に構いませんけど。月詠中尉が嫌がりそうですね、それ」
「それは仕方ないわよ。『白銀武』は、この世界じゃ死人なんだから……それにしても、城内省とはね。迂闊だったわ。――あんたは、当然知ってたわけよね?」
 夕呼は鋭い視線を向けてくる。
 その眼差しに怯むことなく、武は頷いた。
「月詠中尉や鎧衣課長の興味を惹いておきたかったんですよ」
 鎧衣課長は、クーデターへの対応などに欠かせない存在だ。彼を味方に付けられるか否かは、12・5事件を利用出来るかどうかの、大きな分かれ道だと言っていい。死んでいるはずの白銀武がいることに興味を持たせ、この場に呼び込む――その狙いは成功だった。
「ちゃんと鎧衣課長は食い付いてきたでしょ?」
「それはそうだけど……」まあいいわ、と夕呼はかぶりを振る。「日時は11月28日午後2時……あんた達はヒトヨンマルマルって言うんだっけ? 場所は第二演習場。相手は――」
「第19独立警護小隊――月詠中尉達……ですよね?」
 夕呼は頷いて、
「あんたの不知火・弐型に不知火相手じゃ、機体の性能差って言われるかもしれないし、一対一じゃ、練度の差って逃げられるかもしれない。武御雷四機、それも内一機は赤色のハイチューンとくれば、誰にも文句は言わせないわ。――尤も、あんたが勝つって前提での話だけどね」
 暗に、負けるなんて許さないわよ、と言っているのだ。
 言われるまでもない。このトライアルは、オルタネイティヴ4が掲げる成果の第一歩だ。ごく内輪の演習であろうと、その成功は国連軍全体に、密やかにながら報じられることだろう。逆に、もし失敗すれば、オルタネイティヴ4の権威は完全に失墜することとなる。そうなれば、『一度目の世界』同様、クリスマスでのオルタネイティヴ4終了もあり得るのだ。
 決して負けるわけにはいかない戦いであった。
 それに、たとえ相手が真那達であろうと、負けるつもりなど毛頭なかった。この程度の相手乗り越えられずして、世界を救うだの大切な人を護るだのと謳う権利はない。
 三日後、その演習に勝利して、未来を変える二歩目としてみせる――武は決意を固め、言った。
「……勝ちますよ。絶対にね」
 頼もしい限りだわ、と夕呼は微笑した。


 武は、一人グラウンドへと向かっていた。
 三日後のトライアル、何としてでも負けるわけにはいかない。
 夕呼の話によれば、明後日は丸一日元の世界へと向かうことになるだろうとのことなので、訓練に当てられる時間は、今日と明日しかない。明日は207B分隊やA-01と訓練することになるから、自由に訓練出来るのは今日だけだ。
 しかし、日曜日が何故休日に当てられているのかと言えば、戦術機の整備が行われるからに他ならない。勿論、実機訓練の後には必ず簡単な整備はされるのだが、割合大掛かりな整備は、毎日出来るわけではない。それに日曜日が当てられているというわけだ。
 どんなに気を配っていても、XM3の特性を引き出しての機動は、機体に大きな負荷を掛ける。それを軽減するのも衛士の腕の見せ所であるが、当然ながらそれを零にすることは出来ない。武の弐型も例外ではなく、連日のA-01との訓練で、随分と消耗しているようだった。
 実機が使えないとなれば、向かう先は当然シミュレータールーム。しかし、考えることは皆同じということなのか、何とも折り悪く、シミュレーターの定期検査と重なった上、稼動しているものは全機使用中。
 他の衛士を押し退けて利用するわけにもいかず、仕方なく強化装備から戦闘服に着替え直し、グラウンドでトレーニングをしようと考えたのだった。
 武は、戦術機は乗り物であると認識しているが、自分の体を思い通りに動かせない者が戦術機を思い通りに動かせるはずもない。機動に伴うGに耐えるのは鍛えた肉体だし、戦術機の挙動は得てしてそれを扱う衛士に似るものだ。
 そして何より、戦術機を己が手足として扱うためにも自身の肉体を研ぎ澄ませ……それが、真那の教えだった。
 だから、前の世界からこちら、鍛錬を欠かしたことはなかった。
「とりあえずランニングかな……」
 その後、シャドーボクシングの要領で体術の訓練でもしよう……そう武が考えたとき、
「――タケルッ!」
「……冥夜か」
 投げ掛けられた声に振り向くと、冥夜がこちらへと駆け寄ってくるところだった。立ち止まった手には模造刀。
「剣術の鍛錬か?」
「うん。戦術機を思い通りに動かすには、まずイメージが重要だとそなたも申していたからな。タケル、そなたは?」
「オレも自主訓練だよ。本当はシミュレーター使いたかったんだけど、先越されてた」
「それは災難であったな」
 冥夜は朗らかに笑い、「まったくだ」と武は頷いた。
 そうだ、と言って冥夜は問うてくる。
「タケル、そなた剣術の心得は?」
「剣術? そうだな……訓練校の頃にやったのと――――仲間に教わったのくらい……かな。基本は自己流だよ」
 武は、遠く過ぎ去った日々に想いを馳せた。
 今となっては懐かしい想い出だ。冥夜に剣術を、慧に体術を、壬姫に射撃を、千鶴に指揮を、美琴に判断能力と精密作業を、それぞれ教わってきた。今の武が持つ技能の大半は、彼女達から――そして、まりもやみちる……多くの先達から授けられたものだ。
 その全てが武の血肉となり、今も息づいている。
「タケルが良ければだが……手合わせしてはもらえぬか?」
 冥夜の提案は、武にとっても渡りに船だ。一人でやるよりも二人でやった方が効率はいい。相手が冥夜というのは、望むところだった。断る理由などない。
 勿論だ、と武が快諾すると、冥夜は嬉しそうな笑顔を浮かべて、もう一振りの模造刀を持ってきた。
 武に刀を手渡すと、冥夜はすぐに自分のそれを構えた。
 ――ああ……昔のままだ。
 当然だ、歳を取ったのは自分だけ。ここは武にとっての過去であり、全ての者にとっての現在である。
 それをわかっていても、凛々しい冥夜の立ち姿に、武が懐かしさを覚えてしまうのは仕方のないことだった。
「どうしたのだ、タケル? 早く構えるがよい」
「ああ……悪い、こうやって刀握るのは久し振りだったからな」
 言い訳になるかわからない言い訳をして、武は冥夜に倣うように模造刀を正眼に構える。それを見て、冥夜は怪訝そうに眉をひそめた。それも無理のないことだろう。武の構えは、冥夜のそれと瓜二つだったのだから。
 普通ならそれを偶然と思うかもしれない。あるいは、同じ軍隊仕込みの剣術だから当然だと思うかもしれない。
 ――だが。だがである。御剣冥夜が振るうのは、ただの剣術ではなく、一子相伝の剣。その剣を教える軍隊などあるはずがなかった。
 無現鬼道流――鬼の道を現す無かれという名を冠し、『其は己が為の刃に非ず。ただ牙無き者の為たれ』を理とする剣術。それは冥夜が師より教わった、唯一無二の流派である。彼女と同年代の継承者がいるはずもない。それを自分以外の、それも国連軍の衛士が振るうとなれば、驚きも尤もだ。
「タケル……その構えは……?」
 問い掛ける声には戸惑いの響きがあった。
「仲間から教わったんだよ」
 そっけなく答える武。
 冥夜は尚も納得していないようだったが、「そうか」と呟くと、外からはそうと窺えない程度に重心を落とした。それに合わせて、武も僅かに膝を曲げる。
 来い――視線で武が告げた瞬間、冥夜の体が弾けた。
 ――疾い……!
 一瞬にして武の懐へと潜り込み、冥夜は袈裟懸けに模造刀を振るう。
 孤を描く銀光を、武は手にした模造刀で受け流し、返す刀、胴目掛けて横に一閃した。
 しかし、それは冥夜には届かない。僅か一歩のステップで、冥夜は間合いの数センチ外へと脱していた。武の間合いを完全に見切っているからこその芸当であった。
 そこから放たれる刺突。切っ先を弾き、軌道をずらす。踏み込み逆袈裟、受け流され振るわれる横薙ぎ、受け止め後退、続く斬り上げを躱し、回避の勢いのまま斬撃を繰り出す……が、それは空振りに終わり、次の瞬間には首筋目掛け斬撃が迫り――武は、剣戟の速度を利用して体を仰け反らせた。
 耳許を鋭い風音が通り抜けていく。
 内心で冷や汗をかきながら、武はたたらを踏みながらも地面を蹴って、バックステップで冥夜から距離を取った。追撃はない。
 流石は冥夜だ……と思いながらも、武の思考の一部分は、これが当然の予定調和であったと受け入れていた。
 武の剣術は、冥夜の足許にも及ばない。当然、武の攻撃が届くはずもない。しかし、今の冥夜の動きもまた、武の知るそれには遠く及ばないのだ。武の記憶には、一度目の世界と二度目の世界、双方の冥夜の動きが焼き付いている。それに比べれば、今の冥夜の動きは緩慢と言ってよかった。
 尤も、それでも武よりは遥かに上なのだが。
 だから、これは予定調和でありながら、同時に絹糸を渡るような作業にも似ていた。
 長い息を吐いた武との距離を詰めるでもなく、冥夜は怪訝そうに眉をひそめ、武を見据え――否、睨め付けていた。
「タケル……そなたに訊ねたいことがある。そなた、その剣術をどこで修めた?」
 一分にも満たない攻防だったが、それだけあれば、武の剣が無現鬼道流のそれだと冥夜が気付くのは当然だった。たとえ剣を執らずとも、体重の移動や歩法などにその特徴は現れる。剣を執れば、同じ流派の剣を振るう者として気付かないはずがない。
「言ったろ? 仲間から教わったんだよ」
「そんなはずがなかろう! 無現鬼道流は、私が師・紅蓮醍三郎殿より授けられた剣、私以外の弟子がいたなどという話は聞いたことがない!」
「そりゃそうさ」声を荒げる冥夜に対し、どこか戯けたように返す。「オレが教わったのは、紅蓮大将じゃないからな」
「何……?」
 不可解だ、と言わんばかりに冥夜はさらに眉間に皺を寄せた。先程から、すっかりこの表情だ。武の言っていることの意味を理解出来るだけに、この現実が理解出来ないのだろう。稚拙極まりないとはいえ、自分以外に無現鬼道流の使い手がいるという現実が。
「だから、さっきも言ったけど、オレが教わったのは紅蓮大将じゃなくて仲間からだって。大体、オレみたいなのが斯衛軍の大将から剣術を教われるわけないだろ? オレはただの国連軍衛士だからな」
 紅蓮醍三郎。帝国斯衛軍の大将にして、赤色の武御雷を駆る最強の男。歴戦の勇士と名高く、前の世界で何度か共闘したことがあるが、そのとき目にした強さは、武をして驚愕せしめるほどのものだった。武の強さがその機動によるある種変則的なものならば、紅蓮のそれは純粋な強さだ。戦場を駆ける赤い暴風――とでも表するべきだろうか。
 斯衛軍の大将の地位に就くほどだから、その実力は武以上でもおかしくはない。
 一度目の世界での冥夜の戦い方が完成されれば、あのようになるのだろう。
 ……同時に、武の記憶には、あの男のエキセントリック極まりない髪型が刻み込まれていたりするのだが、それはまた別の話であろう。
「しかし、それならば何故そなたが……」
「そうだな……オレから一本取ったら教えてやる。制限時間は……十分ってところでどうだ?」
 武の言葉に、冥夜の唇が吊り上がった。
「ほう――大した自信だな」
「これでも衛士だからな。訓練兵相手に、そう簡単に負けてたまるかよ……ま、剣術は冥夜の方がずっと上だろうけどな」
 それは揺るぎようのない事実だ。こと剣術の腕に限れば、武は冥夜に遠く及ばない。その事実は認めねばなるまい。しかし、武には経験がある。幼少の頃から鍛練を積んできた冥夜さえも凌駕する、数多の実戦経験が。戦術機に乗ってのものであろうと、その経験は、武の第六感を研ぎ澄ませてくれる。
 冥夜は緩めた口を引き締め、刀を正眼に構えて目を瞑った。
 ――心眼……。
 武は内心で舌打ちする。
 五感の内、最大の情報量を誇る視覚を閉ざすことで、他の感覚を鋭敏にし、文字通り心の目で相手の動きを捉える技能。戦術機での戦闘で役立つことはないが、一対一の対人戦において、これほど効果的な技もそうない。
 実際、武がこの技に煮え湯を飲まされたことは、一度や二度ではなかった。
 ちりちりと首筋の産毛が焦げるような感覚。
 懐かしいな……と思う。この研ぎ澄まされた刀のように鋭い雰囲気。これこそが、武が尊い存在と認めた御剣冥夜だ。
 だが、こうなってしまうと分が悪い。
 ――実のところ、武が振るうのは、間違っても無現鬼道流などではない。
 武が扱えるのは、全ての基本となる体捌き程度のもの。体捌きこそ冥夜の見様見真似で、ある程度の形になってはいるが、逆に言えばそれだけだ。数々の技法は、何一つとして習得出来ていない。
 生身の肉体で行う剣術は、戦術機の操縦とは異なり、あるコマンドを入力すれば必ず決まった動作が出来るようにはなっていない。故に、習得にまでは至らなかったのだ。
 だから、正直なところ、先程提示した十分という数字は、武が冥夜の攻撃を捌ききることの出来る限界だった。
「ゆくぞ、タケル――!」
 目を瞑ったまま、冥夜は先程以上の速度で肉薄してくる。
「ッ……!」
 剣戟を受け止めながら、思わず武は喉を引きつらせ、息を呑んだ。苛烈を極めた、神速とも言うべき三連撃。その一太刀一太刀が、尽く必殺の威力。
 どうにか全てを受けきった武は、たたらを踏むように後退する。そこへと追いすがる新たなる一刀。それを辛うじていなせば、すぐに次が放たれる。攻勢に転ずることなど叶わない。
 開始からじき六分が経とうとしている。その間、武は守勢に徹することしか出来ず、けれど冥夜の剣を確かに凌いでいた。

 ――ざ、ざざ……。

 突如として思考を横切るノイズ。頭蓋を割り砕かれているかのような激しい頭痛に武は顔をしかめるが、猛烈な勢いで武を攻め立てる冥夜の剣戟が、武に呻くことさえ許さない。
 二つの映像が重なり合っている。未来と現在と過去、全ての時間が武の中で交錯する。
 耐えがたい苦痛は、しかし苦痛ではなく。苦しくて痛くて悲しくて辛くて――幸福な過去を幻視する。BETAとの戦いという絶望的な日々の中、けれど幸せで溢れていた、懐かしき日々を。

 孤を描いて銀光が迫る。その速さ、ここにきて最速。
 武の意識は、それに追い付かない。一瞬の懐古。されどその一瞬こそ、致命的な隙だった。
 ――にもかかわらず。
 武の体は、その一撃を受け止め、いなしていた。
「っ……!?」
 冥夜の顔に、驚駭が満ちる。
 今の武は完全に隙だらけだったというのに、仕留められなかったのだ。冥夜がその隙を見て慢心したわけでも、勝てば誰に教わったかを答えるという約束に勝負を焦ったわけでもない。
 元より、無現鬼道流免許皆伝たる冥夜に、そのような浮ついた境地は最早無縁である。少なくとも、剣を執った瞬間、剣士としての冥夜は、自らにそのような心境を許さない。
 故に、これは武の技能によるものだ。
 冥夜に遠く及ばないはずの武はしかし、自らの剣の腕で、冥夜の一撃を防いでみせたのだった。
 だが、この結果に誰より驚愕しているのは、他ならぬ武自身だ。
 今の一撃は完璧だった。隙を突いていながら、些かの油断も慢心もない、見事な剣。それを防げるほど、自分の剣の腕が高くないことを、武は知っていた。
 ――本当に?
 ざらつくノイズと共に、武の内側に疑問が湧き上がる。
 ――本当に、オレはこんなものなのか?
 砂嵐に侵された思考が、記憶を辿っていく。白銀武が持つはずのない、過去の記憶を。激しくなっていく頭痛。まるで、オーバーロードしているハードディスクだ。どこからともなく書き込まれていく情報は、がりがりと音を立てて武の脳髄を削っていく。
 ――アイツがオレに教えてくれたのは……アイツからもらった力は、こんなもんじゃないだろう……!?
 武の口角には、泡立った唾液の塊があった。
 目の焦点が合っていない。
 呼吸は荒く、不規則な鼓動が内側から鼓膜を震わせる。
 ――そんな状態でありながら、武の体は、意識の制御を離れ、怒濤のように襲い来る剣戟全てをいなしている。
 苦痛のその先。昏く閉ざされた遠いそこに、掛け替えのない記憶がある――そんな確信があった。
「――はぁぁぁぁッ!」
 裂帛の声と共に、冥夜が渾身の一撃を放ってくる。
 それを受け止めた瞬間。

 武の中で何かが弾け、思考が白濁し、暗闇に落ちた世界が白光に包まれ――何かが、奔流となって流れ込んできた。

 ――それは刹那にも満たぬ一瞬の出来事。しかし、武にとっては百年の時よりも重い一瞬だった。
 体重を乗せて振るわれた一撃に、武の体が大きく傾ぐ。姿勢を崩し、あとはこのまま後ろへと倒れ込むだけ。
 これこそ王手の好機と睨んで、模造刀を振り上げた冥夜が、さらに一歩肉薄してくる。
 狙いは袈裟。一刀両断の言葉の通り、武の体を斬り裂かんと、銀光が奔る。
「はぁぁぁあッ――!!」
 喉から迸る咆哮。力強さに溢れた一閃。
 ――しかし、それは。
 甲高い風鳴りの音と共に、空を切っただけだった。
「……ッ!?」
 息を呑んだ冥夜は、眼前に刀を振りかぶる影を見た。
 体勢を崩していたはずの武は、冥夜の踏み込みよりも疾く、刀を振るった反動を利用して、その体を大きく傾がせていた。そのまま、体重の偏重に逆らうことなく、冥夜の剣を紙一重で躱したのである。
 鍛え抜かれた平衡感覚と動体視力、そして命懸けの戦いに身を起き続けていたことによる胆力の為せる業であった。だが、それを可能とした最大の要因は――。
 渾身の一撃を空振りに終わらされた冥夜の体は、自然、斬撃の勢いに引きずられて、ほんの僅か泳ぐ。その一瞬の内に、武の模造刀が、冥夜の脇腹へと触れていた。
 衝突の瞬間に止めたため、それほどの痛みはないはずだが、冥夜は崩れ落ちるようにその場に膝を突いた。
 つぅ――と。冥夜を見下ろしていた武の頬を一筋、涙が伝った。
 泣くのは最後だという誓いを何度反故にすれば気が済むんだ、と自分自身を叱咤するものの、武はそれを拭うことはしなかった。
 ――ああ……何で忘れてたんだろうな……。
 かつて彼女達に教わったことを、何故忘れていたのか。無現鬼道流で修めたのは体捌きの基礎だけ? 何を馬鹿な。何年も共にあり、何年も教えを請うておきながら、それだけしか習得出来ていなかったなど、御剣冥夜の名を汚す醜態であると知れ。
 彼女の想いを受け取った武が、今の彼女に負けていいはずがないのだから。
「タケル……そなた、途中まで手を抜いていたな?」
 脇腹を押さえながら、冥夜は言った。
 慌てて涙を拭い、武は答える。頭蓋を金鎚で殴られるような鈍痛は、今もまだ治まる気配はなかった。
「本気だったよ、ずっと」
「嘘を言うでない。最後のそなたの動きは私以上だった。それ以前の動きとは、まるで別人かと思うほどにな」
 それも無理のないことだろう。武自身、記憶が蘇る前と後とでは、生まれ変わったような感慨さえ覚えているくらいなのだから。
 嘘じゃない、と武は首を横に振る。
「強いて言うなら……そうだな……思い出したんだ」
「思い出した?」
「ああ。アイツが教えてくれたこと、アイツにもらったもの――アイツと一緒にいた頃のことを、さ」
 蒼穹を見上げて、武は言う。
 御剣冥夜という女を愛し、宇宙へと送り出し、あるいは共に戦場を駆け抜け、最期を看取ったことを。彼女から受け取った、沢山の掛け替えのない物を。
 悲しい別れもあったけれど、彼女と共に過ごした日々は、楽しみと喜びに溢れていた。今まで殆ど忘れていた癖に、とは自分でも思うが、それこそ涙が出る程の価値ある時間だった。
「――そなたは意地が悪いな」
 その声に武が視線を下ろすと、冥夜は拗ねたように唇を尖らせていた。
「何がだよ?」
「そなたの言うアイツというのは、そなたが剣を習った御仁のことであろう? 私が負けてから、これ見よがしにその御仁のことを語るからだ」
 そういうことか、と納得しながら、武は苦笑した。そういう意図はなかったが、言われてみれば、成る程、確かに意地が悪い。
 興味を惹くだけ惹いておいて、肝心なことを話さないなど、意地悪でなくて何だと言うのだろう。
「それなら、特別にちょっとだけ教えてやる」
 鈍い頭痛を堪えながら、武は口許に笑みを散らして言った。
「本当か!? ……いや、やめておこう」
 冥夜は一瞬顔に喜びを湛えたが、すぐにその表情は険しいものとなった。恐らく、負けたのに聞くわけにはいかない、とでも思っているのだろう。
 それでも視線をちらちらとさまよわせている辺り、本当は聞きたがっていることがありありと窺えた。
「いいんだよ。オレが話したいんだ。アイツと一緒にいた頃を思い出させてくれたお礼だとでも思ってくれ」
 本来なら、前の世界でのことを誰かに話すつもりなど、武にはなかった。それは弱音であり、目の前の現実から目を背け、過去の日々に逃げ出す行為だからだ。
 だが、今から口にしようとしていることは、決して弱音などではない。以前A-01に対してまりものことを語ったときと同じように、過去の仲間を誇るのだ。かつて、武に全てを託してくれた、御剣冥夜という少女を。
「ふむ……それならば、是非聞かせてもらおう。そなたがあのような顔をするくらいだ、さぞや素晴らしい御仁なのであろうな」
 まさか自分のことだとは思っていないのだろう、冥夜はそう言った。
「ああ――自慢の仲間だった」
 強く、気高く、美しく。戦場においてさえ、その姿は輝いて見えた。冥夜だけではない、かつての仲間達――伊隅戦乙女隊は、正しく神話に謳われる戦乙女そのものだった。
「アイツはオレと違って、けっこう頭固いところあったから、意見が合わなくて衝突したこともあった。一緒になって無茶苦茶な命令違反をしたことだってあった。……尊敬してた人が死んで、オレが自棄になったとき、自分のことをどうしても構わないから立ち直ってくれ――って言われたりもしてさ。……正直、アイツの存在に救われてた」
 それからも、頭痛に浮かされるように、自分でも驚くくらいに、武は熱っぽく語った。
 207B分隊の一員であったことを、武は誇りに思っている。この世界の冥夜に、これまでの世界の冥夜のことを語りながら、武はそのことを改めて確認していた。
 冥夜も、そんな武の話を、穏やかな笑顔で聞いていた。
「……ま、アイツのことで教えられるのはこんなところだな」
 散っていった仲間のことを誇らしく語る――それが、衛士の流儀だ。今、ようやくそれが果たせたような気がして、武はどこか晴れやかな表情でそう締め括った。
 地面に座ったままだった冥夜の手を引いて起こしてやる。
「タケル……その御仁の名前を聞いてもよいか?」
 ああ――と答え、武は悪戯っぽく笑い、
「――御剣冥夜って言うんだ」
 武の答えに、冥夜はぽかんと口を開いた。
 滅多に見られない冥夜の間抜けな顔に、武はついつい笑ってしまう。からかわれているのだと判断したのだろう、冥夜は顔を真っ赤に染めた。
「タケル! そなた、意地が悪すぎだ!」
 冥夜に怒鳴られながらも、武は笑っていた。
 ――冥夜。オレ、頑張るから……。
 言葉には出さず、誓う――。


 2001年11月27日(火)/2001年11月29日(木)


 武は、再び『元の世界』へとやって来ていた。目的はただ一つ、00ユニットの根幹となる新理論の論文を受け取るためだ。
 場所は前回と同じく、学校裏の丘の上。違うのは、今が朝八時頃であることと、武が白陵柊――いや、国連衛士訓練校の制服を身に着けていることだった。
「授業が始まった頃にでも行けばいいかな……」
 今すぐに行くと、校門前で登校中の生徒の集団と鉢合わせすることになる。最悪、『白銀武』とご対面、なんてことにもなりかねない。過去の自分――あるいは異次元の自分と出会う、というお決まりのタイムパラドックスに興味がないわけではないが、それを自分自身で実験するのは御免被りたいところだ。
『向こうの世界』にはない草の香りを堪能していると、遠くから懐かしいチャイムの音が聞こえてくる。
 あと五分程もすれば、遅刻の生徒や取り締まりの風紀委員もいなくなるだろう。
 前回と違い、今回はたっぷりと時間がある。こちらにいられる時間はおよそ十五時間から十八時間。タイムリミットは日付が変わる頃ということになる。焦る必要はなかった。
 しばらくして、もう一度チャイムの音が聞こえてくると、武は丘を駆け下り始めた。
 誰にも見つかることなく、校舎への潜入に成功する。一限目の授業が始まっている所為か、校舎の中は静まり返っていた。
 授業中の校舎というのは、教室から見えないように気を付けてさえいれば、歩き回っていてもそうそうバレないものだということを、武は過去の経験から知っていた。そんな経験が役立つ日が来るのだから、人生わからないものである。
 武は、人目に留まることなく、夕呼がいるであろう物理準備室へと、無事辿り着いた。
 ドアを三回ノックすると、ややあって、「はぁい?」と気怠げな声が返ってくる。不機嫌を隠そうともしない夕呼に苦笑して、武はドアを開けた。
「失礼します」
 武の姿を認めて、夕呼は微かに驚きを表したが、すぐに不敵な笑みを浮かべて見せた。
「来たわね」
「はい。わかってると思いますけど、『向こうの世界』の白銀です。頼んでた論文を受け取りに来ました」
「ちゃんと出来てるわよ。はい、これ」
 そう言って渡されたのは、封筒に入った紙の束。厚みから見積もると、大体百枚くらいだろうか。
「……先生。参考までに聞きますけど、『オレ』に刷らせた残り四万九千九百枚は……?」
「ああ、それは別件」
 しれっと答える夕呼。
 やはり私用がメインだったらしい。ふと視線を準備室の隅に投げ掛ければ、これでもかというほどに堆く積み上げられた紙の山。『白銀武』の血と汗と涙の結晶は、その大半が、別世界の白銀武をダシに、夕呼の私用に費やされたらしかった。
 尤も、武も経験したことなのだから、お互い様だろう。次の『白銀武』がいるかはわからないが、そいつに頑張ってもらうことにする。
「ところで、今度はどれくらいこっちにいられるワケ? タイムリミットは?」
「大体日付が変わるくらいまで……ですかね」
「へえ……たったの三日で、随分延びたわね。丁度いいわ、今日は授業なくて暇なのよ。ちょっと付き合いなさい。どうせあんただって、こっちでウロつくわけにもいかないんでしょ?」
「そうですね……じゃあ、御相手させてもらいます」
 一瞬の逡巡を経て、武は頷いた。どうせ何もすることがないのだ、夕呼の申し出はむしろありがたかった。
 必要以上の干渉は避けるべきだが、向こうの世界の夕呼からも『あたし以外』と言われているし、こちらの世界の夕呼がこう言ってくれているのだから、おそらく問題はないだろう。
「……この前から気になってたんだけどさあ、その話し方なんとかなんないワケ? 白銀の癖に、何畏まってんのよ」
「無茶言わないでくださいよ。これでも、向こうじゃ馴れ馴れしいって言われるくらいなんですから」
「マジ?」
「マジです……って、なんか懐かしいですね、この言葉」
 向こうの世界ではとんと聞くことのない単語だった。
 きっと、今こちらの世界での雑談に混じったところで、理解出来ない単語が頻出するに違いなかった。
「軍隊ってのは、規律に厳しいですからね。それが染み付いちゃってるんだと思います。上官に口答えしただけで営倉入り、なんてこともありますから」
「アンタ、入ったことあったりするの?」
「……二回ほど」
 武がそう答えると、夕呼はけたけたと笑った。何となくばつが悪くなって、武は頭を掻く。
「ね、何で入れられたワケ? あんた、あっちでもやっぱり問題児だったりするワケ?」
 やっぱり、と武は嘆息した。
 この人のことだから、当然聞いてくるだろうとは思ったが。
「一回目は、初めて基地に行ったときです。白陵柊の制服と訓練校の制服ってそっくりなんですよ。それが原因で工作員だと疑われちゃいまして。結局、後から向こうの夕呼先生が出してくれたんですけどね……ほら、そっくりでしょ? 先生、これが白陵柊の制服じゃないって気付いてました?」
「……あら、ほんとだわ。材質が違うし、腕章とかも違うのね」
 制服の袖を摘んで、夕呼は言った。やはり、意識しなければ気付けないものらしい。
「二回目は……訓練兵だった頃、国連軍の衛士が絡んできまして。冥夜の双子の姉が、日本の将軍なんですよ」
「……将軍?」
「言ってませんでしたっけ? 向こうの日本は、皇帝に任命された政威大将軍が政務と軍の指揮権を委譲されて統治してるんです。政府はその将軍の補佐役なんですよ」
「へえ……BETAとかいう宇宙人の有無だけじゃなくって、そんなところまで違うのね」
 心底感心したように、興味深げに夕呼はこくこくと頷く。
「それで、煌武院悠陽殿下は冥夜の双子の姉なんですけど……公式には、殿下に姉妹はいないってことになってまして。武御雷っていう戦術機が、冥夜に贈られてくるんです。武御雷は帝国の中でも斯衛軍にしか配備されてない機体で、しかも冥夜に贈られてきたのは紫……簡単に言うと、日本製の機体じゃ最強のワンオフ機だったんです」
「あんたがいるのは国連だっけ? 国連軍の基地にそんなものが置いてあったら、邪推する馬鹿がいてもおかしくないわね」
 流石は夕呼、話が早い。
「それで、冥夜を庇ってる内に熱くなっちゃいまして……」
「ちょっとは成長したかと思ったら、相変わらず馬鹿やってんのねぇ、アンタ」
 夕呼は呆れたように溜息を吐いた。
「一度目の世界のことですからね。向こうの世界のことをよくわかってなかったんですよ。今はそんなことないから大丈夫です。直接関わりのある上官って言ったら、基地司令と夕呼先生くらいですから。他にもいるでしょうけど、見たことありませんから」
「……ちょっと待って。アンタ、階級は?」
「少佐です」
「…………アンタ、もしかしてかなり偉い人間だったりするワケ?」
「一応佐官ですからね。――ちなみに、夕呼先生は大佐相当官ってことになってます。だから、夕呼先生ほどじゃないにしろ、向こうじゃそれなりに権限強いですよ。軍隊っていうのは、階級がなきゃ、ただの盤上の駒でしかないんです。……まあ、基本的にオレには任務中以外、敬語も敬称も敬礼もなし、って方針でやってますけど。そんなの使われるほど上等な人間じゃないですからね、オレは」
「アンタらしいわね。ま、御剣達に敬語なんて使われたくないでしょうし」
「伊隅大尉とかにもですよ。……そういえば、こっちの卒業生だったりしませんか? 伊隅みちるさんっていうんですけど」
 武の口から出た言葉に、夕呼は目を見開いた。予想もしていない名前だったのだろう。その反応だけで、武は自分の推測が正解であったことを確信した。
 みちるだけではなく、A-01の他の先任達も同様だった。在校生である茜や凛達については言うまでもない。
 むしろ、水月らが卒業生であることを知らなかったことの方が問題であるらしかった。聞けば、速瀬水月はオリンピックの強化選手に選ばれるほどの水泳選手で、白陵柊自慢のプールがあるのも、彼女のお陰だという。確かに、知らなくてはおかしいほどの有名人だ。

 その後も、二人は談笑を続けた。主に、夕呼が向こうの世界について訊ね、武がそれに答えるという形。時折、思い出話として、武にとっては十数年前の、夕呼にとってはごく最近のことについて、花を咲かせる。
 やがて、昼休みの訪れを告げるチャイムが鳴り響いた。夕呼が出してくれたインスタントコーヒーで、武は乾いた唇を濡らす。安物のインスタントであっても、向こうの世界に慣れた武にしてみれば、高級品の類だ。コーヒーモドキなど、そもそもコーヒーでさえない。豆が原料として使われているだけでも、今の武にとっては、とても手の届かない代物に思えた。
 それを夕呼に言ったら、散々馬鹿にされたが。
「白銀。アンタ、食事はどうするの?」
「えっと……悪いんですけど、適当に出前お願い出来ませんか? この格好でファミレス行くわけにもいきませんし……あまり金に余裕ないんです。霞……あっちで知り合った子にお土産買って帰るって約束しちゃったもので」
「流石は恋愛原子核ってとこかしら。モテる男は辛いわねぇ~」
「そんなんじゃないですってば」
 そういうことにしといてあげるわ、と笑って、夕呼は電話を掛けるために席を立った。
 その後ろ姿を見つめながら、武はいつの間にか微笑していた。楽しく、穏やかな時間。夢のような――否、これは今この時限りの、泡沫の夢だろう。
 ――だから、錯覚してしまう。
 自分はまだ、汚れきってはいないのだと。こうして、少しの間だけでも夢に浸っていられるのだと。
 笑わせる、と武は自嘲した。
 この世界に住むべき『白銀武』は他にいる。今ここにいる白銀武は、とうの昔にこの世界から放逐された存在だ。
 夢は届かぬからこその夢。決して触れることの許されない幻だ。
 この手は血に塗れている。殺してきた人間の血と、屠ってきたBETAの血と……そして、自分自身の血に。
 その、血塗れの手を握り締める。
 ――誓ったんだろう? BETAに蹂躙されたあの世界に、この世界と同じ、当たり前の日々を取り戻すのだと。馬鹿馬鹿しくてくだらなくてありふれた――涙が出るほどに尊い、日常という宝物を手に入れるのだと。たとえ大切な人達の心を踏み躙ってでも、あの世界を救うのだと。

 ――思い出せ。あの地獄を。
 思い出せ。あの後悔を。
 思い出せ。あの絶望を。
 思い出せ。あの悲哀を。
 思い出せ。あの別離を――――。

 これまでに辿ってきた幾つもの過去、その全てを血肉と変えろ。この穏やかな日々に還るために。仲間達と、幸福を掴み取るために。
 もう甘えることなど許されない。強く在らなくてはならない。これが、正真正銘の最後だ。かつての日常に再び浸るのは、これで終わり。
 明日からは……明日からは、全てを護るために、全てを捨てることさえ厭わない――。

 ――ざ……ざり、ざ……じ、じ……

 思考にノイズが走る。まるでこめかみから錆びついたドリルをねじ込まれているかのよう。鋭くも鈍い、重い痛みに、武は顔をしかめた。
「――白銀……!?」
 電話をかけ終えて戻ってきたのだろう夕呼が、悲鳴じみた声で武の名を呼んだ。
 頭蓋の奥の方で燻る熱を吐き出しながら、大丈夫です、と言う代わりに、武は夕呼に向かって手の平を突き出した。深呼吸を繰り返し、痛みを落ち着けてやる。
「大丈、夫……です……」
「……とてもそうは見えないわよ……アンタ、本当に大丈夫なの?」
 心配そうに目を細める夕呼に武は、らしくないなあ、と失礼極まりない感想を抱かずにはいられなかった。その程度の思考が出来る程度には、頭痛は治まってきていた。
「最近多いんですよね……一度目の世界や二度目の世界の、忘れてる記憶を思い出そうとすると、頭痛くなったりするんです」
「――白銀。そのこと、向こうのあたしには?」
 夕呼は、向こうの世界の夕呼を思わせる鋭い視線で武を見つめてくる。この世界の『白銀武』ならば間違いなく気圧されているに違いなかった。それも、武は慣れたものだ。
「言ってませんよ。まあ、倒れたりもしたんで、知ってはいるかもしれませんですけど」
 これまでの倒れた二回、記憶を取り戻す負担に耐えられなかったことが原因であることは、夕呼には言っていない。一度目の後の会話から察しているかもしれないが、武が頻繁に頭痛に堪え、記憶を取り戻していることまでは知らないはずである。
「出来るだけ余計な負担は掛けたくないんですよ。明日は新OSのトライアルもありますし、12月に入ればクーデターが起こったり、それ以外にも色々無茶させちゃってますからね……ただでさえ忙しいっていうのに、オレがちょっと体調悪いってだけで、夕呼先生の手を患わせたくありません」
 別に、時折頭が痛くなるというだけで、特に不都合はないのだ。むしろ、頭痛の後には、忘れていた出来事や技能、経験を取り戻すことが出来る分、ある意味では喜ばしいことだとも言える。
 言ってしまえば、頭痛は記憶を取り戻す上での通過儀礼のようなものだ。前の世界の記憶を取り戻すのだから、その程度の代価は必要経費だろう。
 最初こそ、記憶のフラッシュバックで意識を失ったりしたものの、それほどショッキングな記憶はもうないはずだ。
 今となっては、ある程度慣れてきた分、痛みにも耐えられないほどではなくなっていた。
「……ちょっと待ってなさい」
 そう言って、夕呼はデスクに向かうと、コピー用紙の切れ端に何やら書き込み始めた。それを折り畳んで茶封筒に入れると、今朝武に手渡した論文の封筒の中に押し込む。
 何を書いたのか武が訊ねると、「ちょっと気付いたことをね」という答えが返ってきた。
 夕呼が言葉を濁したからには、武は今は知るべきではないということだ。Need to know――それ以上追及することはしなかった。
 丁度そのとき、ドアがノックされる。
 慌てて武は、乱雑に放置された、用途のよくわからない器具の陰に隠れる。仮に教師であった場合、『白銀武』の立場が悪くなりかねないからだ。『白銀武』であった場合、さらに面倒なことになる。
 ……と、武が思考を回らせていると、ふわりと漂ってきた良い香りが、武の鼻腔をくすぐった。
 頼んでいた出前が届いたのだ。ほう、と武は安堵の息を吐いた。


 それから数時間後。
 放課後になるまで、夕呼の授業やホームルームの時間を除いてずっと、二人は物理準備室で話をして過ごした。平行世界に対する夕呼の興味は尽きず、武も話題が底を突くということはなかったので、数時間もの間、二人の会話は跡切れることを知らなかった。
 その後、夕食は外で摂ることとなり、二人は夜の橘町へと出向いた。
 教師と学生が夜の繁華街を揃って出歩いているのが目撃されたとなれば問題になるかもしれないが、白陵柊において、教師生徒を問わず、夕呼に逆らえる人物などいようはずもない。それに、夕呼が『白銀武』を気に入っているというのは周知の事実だ。気紛れに付き合わされただけだろう、と結論付けられるに違いなかった。
 夕呼の行き付けだという、いかにも高級そうな店で食事を摂った後、TQアームズで霞へのお土産を買った。
 さらに、閉店間際のスーパーや百貨店で大量の食材や飲料などを買い込むと、二人は再び物理準備室へと戻って来ていた。酒は向こうの世界の夕呼へのお土産と、この世界の夕呼と最後の時間を過ごすための物。食材は、色々な伝手で仕入れてきた、とでも言って京塚曹長にでも渡そうかと考えていた。いずれも、夕呼の好意による物だった。
「すみません、色々お金出してもらっちゃって……」
 夕呼はカードで支払っていたが、現金で支払えば、福沢諭吉が十人単位で飛んで行っているに違いない。彼女の実家がかなり裕福であることは武も知っているが、自分のためにここまで使ってもらうというのは、申し訳ない。
「別に構わないわよ、これくらい。お金ってのは、使うべきときにパーッと使ためにあるのよ。そうしなきゃ、人生貧相になるわ」それに、と言葉を句切って、「あんたはあたしの理論を証明してくれた存在だからね。これはそのお礼だとでも思ってちょうだい」
「……はい……」
 きっと、この人なりの気遣いなのだろう。世界は違ってもやはり、自分がこの女性の教え子なのだと実感する。
 ――唐突に、武の視界が曖昧にぼやけ始め、その周囲に、淡い白光が立ち上り始めた。
 日付が変わってすぐのことだった。
「……そろそろ時間みたいですね」
「みたいね。論文は?」
「大丈夫です。他のは忘れても、論文は絶対手放しませんから」
 論文の封筒は、霞へのお土産と一緒に、制服の腹の部分に入れてある。段ボール箱と幾つかのビニール袋を抱え込んで、武は頷いた。
「……こんなこと、今更あんたに言うようなことでもないでしょうけど……多分、これがあんたとは最後になるでしょうから……一つだけ助言をしてあげましょう」
 そう言って、夕呼は正面から武の顔を見つめた。
 真剣な眼差しで武の瞳を射抜き――そして、強い語調で、言った。
「強い意思を持って事に当たりなさい。望むものを勝ち取るために、全力を尽くしなさい」
 言葉の意味を噛み締める。
 ――強い意思を持て。
 護るべき者を、本当に護りたいという強い意思を。未来を、運命を変えるという強い意思を。
 ――望む物を勝ち取れ。
 穏やかな日々を、夢のような日常を。生きて、生き続けて……命を懸けて、全てを護り抜け。
 今の言葉を、武は生涯忘れることはないだろう。その為に、生ある限り最善を、死力を尽くそう。
 香月夕呼という、白銀武が尊敬する恩師から贈られた、最後の言葉を。これから生きる上での道標となるであろう、優しい言葉を。
「――――はい……」
 万感の思いを込めて頷き……武は、そのまま、深く、深く頭を下げた。
 ――ありがとうございます、夕呼先生……オレは……オレは、絶対に世界を救ってみせます……。
「しっかり頑張んなさい」
「はい……夕呼先生もお元気で――さようなら」
 その言葉を最後に。
 白銀武は、この世界から消失した。


 気付けば、武は転移装置のある部屋に立っていた。
「お帰り――って、どうしたのよ、これ?」
 武が抱えている段ボールとビニール袋を見て、夕呼は怪訝そうに眉をひそめた。当然だ、どこからどう見ても、それらは論文などではない。
「ちょっとしたお土産です。向こうの夕呼先生が、理論を証明してくれたお礼だって言って買ってくれました」
「あたしの癖に、随分と甘いのね……それより、論文は?」
「あ、ちょっと待って下さい。
 武は床に荷物を下ろすと、訓練兵の制服の前を開いて、分厚い封筒を取り出した。「どうぞ」と言ってそれを手渡す。
「ご苦労様。さっそく確認させてもらうわよ?」
「はい、どうぞ」
 夕呼は封を解くと、紙の束をめくり始めた。
 完全に書類を読む作業に没頭してしまっている。こうなっては、武が声を掛けたところで、まるで聞こえやしないだろう。
 ふと、武の視界の端に、ふらふらと体を揺らしている霞の姿が映った。慌てて駆け寄り、体を支えてやる。
「大丈夫か、霞?」
「……はい。大丈夫です」
 言葉とは裏腹に、全く大丈夫そうには見えない。
 三日前は三時間の転送で倒れたのだ、それが今度は、五倍以上の時間、武を向こうの世界に留めていたのだ。この三日間、寝食を共にしたことで前回よりも武を観測しやすくなったとはいえ、そんなのは気休めでしかない。霞の疲労は前回の比ではないだろう。
 霞が大丈夫だと言い張っても、部屋に戻って休ませた方がいい。
 武はそう判断し、無駄だとは知りつつも夕呼に向かって呼び掛ける。
「先せ――」
「そうよ、そう! これが言いたかったのよ!!」
 武の声など全く聞こえていないかのように、タックルをかまさんばかりの勢いで、夕呼は武へと抱き付き――もとい飛び付いてきた。
 倒れ込まないように、どうにか両脚で踏ん張る武。
「あたしの求めている物をちゃんと出してくれるなんて、さすが向こうのあたしね! 凡人にはこれがわからないのよねぇ。もう最高よ! ンー――」
「!? ちょ、ちょっと……!?」
 そのまま、夕呼は武にキスの嵐をお見舞いしてくる。
 これでは、最初に戻ったときの向こうの夕呼だ。結局、こういった部分も含めて夕呼は夕呼、どこの世界でも同じだということか。
 年下は性別認識圏外なんじゃないのかと突っ込みたい気もしたが、向こうの世界で、妙に男らしいと評されたのを思い出し、同時に、やはり夕呼を力尽くで引き剥がすことなど武には出来るはずもなく、ただただ夕呼にされるがままになっていた。
 そういえば、一度目の世界でもこんなことになったっけな――と、胡乱な思考で武は苦い過去を思い出していた。

「…………落ち着きました?」
 一向に落ち着く気配のない夕呼をよそに、霞を一足早く部屋に帰らせ、それからさらにしばらく経った頃、ようやく落ち着きを取り戻したように見える夕呼に向かって、武はげっそりと疲れた様子で問い掛けた。
「大丈夫、ちゃんと落ち着いてるわよ。ごめんなさいね。あんまりうれしいんで年下なんかに手を出しちゃったわ」
「……年下なんかで悪かったですね」
「あたしって年下に本気になれない性格だから。欲情しないでね」
「知ってますよ。年下は性別認識圏外なんでしょ? ……向こうの先生は、一応オレのこと男って認識してるみたいでしたけど」
 武がそう言うと、夕呼は顔を背け、
「…………ごめんなさい、もうちょっとだけ落ち着く時間をちょうだい」
「……冗談ですよね?」
 脳裏に何だか嫌な予感が広がって、武は思わず問うた。武としては、ちょっとした悪ふざけで言ってみただけなのだ。
 なので、顔を手で覆って、長く吐息するような真似はやめていただきたい。白魚のような指の隙間から覗く頬が微かに赤いように思えるのは、是非とも気の所為であって欲しいところだった。
 少しして、夕呼は顔を上げた。仄かに耳朶に朱が差している。
 散々あんな真似をしておいて、今更純情そうな素振りを見せるのはやめて欲しい。こちらまで意識してしまうではないか。
「――とにかく。これで00ユニットが完成する……」
 夕呼は、どこか無理をした様子で、静かに言った。
 00ユニット。オルタネイティヴ4の中核をなす、生体反応ゼロ、生物的根拠ゼロの、人工擬似生命体。
 そして……白銀武の、唯一無二の幼馴染みである、鑑純夏という名の少女――。
 ぎり、と武は奥歯を鳴らした。手の平に爪が食い込む。
「どうしたのよ、そんな顔しちゃって……幼馴染みが犠牲になるのが、そんなに嫌?」
 夕呼は嘲るように言う。
 そんなんじゃありませんよ、と武は首を横に振った。
「仮初めとはいえ、肉体が手に入るんです。脳髄のままで何も出来ずにいるより、ずっとマシでしょう。今のは、純夏をあんな目に遭わせたBETAどもをぶち殺したくてたまらなかっただけです」
 半分が本当で、半分が嘘だった。
 純夏を00ユニットにするということは、純夏を生贄として祭壇に捧げるようなものだ。それが必要なことだとわかっていて、そのために今まで動いてきたというのに、いざその段になった途端、感情がそれを拒絶している。
 大切な幼馴染みを犠牲にして、平気でいられるはずがない――感情は、そう自己を弁護する。
 ――甘えるな。
 ともすれば弱音を吐き出してしまいそうになる自分を、武はそう一喝した。
 覚悟は決めたはずだ。目的のためであれば全てを犠牲にし、その犠牲を最低限に抑え、犠牲の中から掬えるもの全てを掬うと決意したのではなかったか。
 御剣冥夜と煌武院悠陽を最初の犠牲とし、鑑純夏の犠牲を第二の十字架とするならば、甘んじてそれを受け入れろ。背負え。未来永劫続く地獄の業火に身を焼かれて尚立ち上がる気概を持て。
 ――オレなら、出来る。本当の地獄を見てきた、オレになら……。
 BETAに根刮ぎ蹂躙された大地を、徹底的に殺された大切な人達を思い出せ。
 ほんの一時間前、夕呼に言われた言葉を忘れたのか。
『強い意思を持って事に当たりなさい。望むものを勝ち取るために、全力を尽くしなさい』
 胸に刻んだその言葉と共に。自らの、なすべきことをなせ――。
「……大丈夫です。BETAとの戦いに勝って、向こうの世界のような平和な日々を手に入れる――その願いは、少しも揺らいではいませんから」
「そう……安心したわ。一日あっちにいて腑抜けて帰ってくると思ったら――前以上にいい表情するようになったじゃない」
 ふっと夕呼の表情が和らいだ。
 だが、それは武の言葉に頼もしさを覚えているといったものではなく、まるで、教え子を見守るような――そう、丁度向こうの世界の夕呼が、武を見ていたときのような表情で。
 それも一瞬、夕呼は普段通りの表情を取り戻す。
「胸を張りなさい、白銀。これでこの世界は救われる。あんたは『この世界』の英雄よ」
「……よしてください。そんな称号オレには似合いません。それは、本当にこの世界を救えたそのときにまで取っておきます」
 ――オレは英雄なんかじゃない。
 もしそうなら、前の世界もその前の世界も、きっと救うことは出来たはずなのだ。敗北の未来なんて、いらなかった。白銀武という存在が世界を救う鍵であるなら、たった一枚の紙切れという鍵穴は、最初から用意されていたのだ。
 その存在に、気付くことが出来たはずなのだから――。
 ――そんな仮定に意味はない。
 過去のためではなく未来のために戦えなどと、凛に偉そうに語ったのはどこの誰だ。
 前の世界の失敗を、敗北の未来を引きずることに、何の価値がある。今目を向けるべきは、滅びの可能性の一つを回避した、この世界の未来だ。
 武はかぶりを振って、
「それに、英雄っていうんなら、それは香月博士の方でしょ? 香月博士の理論がなかったら、00ユニットは存在しないし、オレがここにいることだって出来ないんですから」
「あんたがいなかったら、00ユニットは完成しないわ。素直に受け取っておきなさい。あんたはそれだけのことをしたんだから」それより、と夕呼は話題を転じた。「その“香月博士”って呼び方……一体どういう風の吹き回し? 今までは“夕呼先生”って呼んでたじゃない」
「あれ、駄目ですか?」
 そんなわけないでしょ、と夕呼は一笑に付した。彼女にとって、呼び名など些細な問題だ。適当な理由さえあれば、そのような些事になど目を瞑る。しかし、これまでの呼び名が突然変われば、彼女とて疑問に思うのは自然なことだった。
「まあ、一種のけじめ……ですかね。“まりもちゃん”も“夕呼先生”も向こうの世界の人達ですから。神宮司軍曹の呼び方と同じで、そろそろこの辺りも直しておかないと、後々困ることになりそうですから」
 今後は、夕呼の駒として、公の場で動くことも増えるだろう。明日のトライアルなどはその一つだ。そこで夕呼先生などと呼んでしまおうものなら、白い目で見られるのは想像に難くない。
 そこで、意識的に矯正しておこうと考えたのだった。
「あ、そ」
 夕呼はそれきりこの話題には興味を失ったようだった。
 すぅ――とその目が細められる。射抜くような、文字通り真剣の如き鋭さを感じさせる眼差しで武を見つめ、
「明日はトライアルよ。部屋のベッドでゆっくり眠りなさい」
 ――まずは、明日。
 斯衛軍第19独立警護小隊との、一対四での、決して負けられない戦いから。
「はい。博士も、無理はしないで下さいね」
 わかってるわよ、と頷く夕呼に一礼して、武は執務室を後にした。


 武を見送って、夕呼は長く吐息すると、椅子に深く体を預けた。
 彼が持ち帰った論文に書かれていた内容は、夕呼にとっては盲点だったと言っていい。脳細胞一つ一つに半導体を対応させるのではなく、脳全体の機能を一つとして捉える――自分にはなかった発想だ。
 文化の違いっていうのもあながち馬鹿には出来ないわね、と夕呼は苦笑するように溜息を吐いた。
 ふと、武が論文の他に持ち帰った、大量の飲食料に目が留まった。
 どれも、この世界では目にすること自体が稀な天然の食材と、その加工品ばかり。ビニール袋越しにワインのラベルが見えたのを思い出して、夕呼は立ち上がった。
 その拍子に、デスクの上に無造作に投げ出していた封筒の端が白衣に引っ掛かり、はらりと床に舞った。
 重要なのは論文だけであり、その入れ物については無視しても良かったのだが、これで00ユニットが完成すると思うと、普段は面倒な些事だと切り捨てていることであっても、気を配ってもいいように思えて、夕呼はその場に屈み込んだ。
 封筒の端を摘んで持ち上げる。
「……あら……?」
 そのとき、小さな茶封筒が、封筒の中から落ちたのだ。どうやら、中に残っていたものらしい。
 夕呼は怪訝そうに眉をひそめながら、そちらも拾い上げる。理論は、先程の書類の束で全て揃っていた。それに、わざわざこんな封筒に入れて別々にしておく理由もわからない。
 間違っても武の目に触れさせないためだろうか。
 一瞬の内に夕呼の脳内に構築された仮説は、それなりの説得力を持っているように思えた。
 茶封筒をひっくり返して中身を取り出す。出て来たのは、二つ折りにされて手の平大になった、一枚のコピー用紙だった。
 それを開き、書かれている内容に視線を走らせ、
「――!! ……何よ、これ……!?」
 その内容に絶句した。
 夕呼をして、一瞬ではあるものの、思考を停止せずにはいられないほどの内容が、そこには記述されていたのだ。間違えようもない、夕呼自身の文字で。
 記憶を辿る。兆候はあった。だが、まさかそれ程までに?
 そんなはずがない、と思う。そんなはずがあって欲しくない、と願ってしまう。
 このこと自体は、オルタネイティヴ計画そのものには何ら支障はない。しかし、これが事実だとすれば、夕呼のプランには大きな支障を来すこととなる。
 香月夕呼の冷徹な部分が、即座に計画を修正し始める。
 しかし、どうしてかその修正がスムーズにいかない。予想だにしなかった可能性に狼狽えているのか。それとも、とうに捨て去ったはずの人間味が、無様にも自分自身の足を引っ張っているのか――。
 これじゃ白銀のことを言えないわね、と夕呼は不機嫌そうに唇を噛んで、デスクの中からオイルライターと金属製の灰皿を取りだした。
 コピー用紙の端にライターで火を点け、無造作に灰皿の上に投げ捨てる。
 赤い炎に炙られて紙が黒く焦げ、段々と縮んでいくていく。
 燃えゆく紙から読み取れるのは、今や僅か一文にまでなっていた。

 最悪、白銀武は近い内に死ぬ――と。



[2785] Muv-Luv ALTERNATIVE -Second World Was Failed- 第17話
Name: Vollmond◆d2a8c8a6 ID:49f1dd4a
Date: 2011/11/15 03:08
 2001年11月28日(水)


 現在時刻、13時55分。武は不知火・弐型に乗り込み、最後の確認をしていた。
 今日の午前中は、トライアルがあるということで無理を言って、A-01を相手に一対六でのシミュレーターでの模擬戦を繰り返させてもらった。実機は、万全な状態を保ちたいということで、先程まで温存しておいたのだ。
 それでも、実機とシミュレーターとでは、僅かながら勝手が違う。その確認を終えたのが、つい数分前だった。
 機体コンディションは万全。これなら、弐型の性能を余すことなく引き出すことが出来る。整備班に感謝しなくては。
『――久しいですね、白銀少佐』
 不意に、網膜に一つ顔が映し出される。
 翡翠色の髪と双眸の、赤い零式衛士強化装備を纏った女性。
「月詠中尉……」
 武は無意識の内に名を呼んでいた。
 そういえば、随分と長い間彼女とは会っていなかったような気がする。武御雷の一件以来だから、およそ十日ぶりか。
『……名前を呼ぶことを許した憶えはありませんが……よいでしょう』
 一瞬、口許に柔らかな笑みが散る。しかしそれが幻であったかのように、刹那の後には再び厳しい表情を浮かべると、
『いかなる条件であろうと、手心を加えるつもりはありませぬ。白銀少佐、貴殿もゆめゆめ手加減などしてくれませぬよう』
「わかってるさ。手加減して勝てる相手じゃないからな」
『左様ですか。――では、白銀少佐。尋常に勝負いたしましょう』
「ああ」
 通信が切れ、網膜から真那の顔が消える。
 一対四の時点で尋常とは言えないのかもしれないが、それを言うのであれば、不知火・弐型と武御雷、XM3と旧OSと、そもそも対等な条件など何一つ見当たらない。XM3以外には、全て武に不利な条件ばかり。
 だが、それくらいで丁度いい。それでこそ、XM3の優位性を証明することが出来るというものだ。
 現在時刻、11時58分――もう間もなく、開戦だ。


 ――それから、七分……模擬戦が開始されて五分ほどが経った頃。
 弐型のレーダーには、三つの光点が表示されていた。敵機の数よりも少ないとはいえ、これら全てが武御雷の位置を示してくれていると断ずることは出来ない。
 いかに弐型がレーダーを強化されているとはいえ、弐型一機のレーダー精度では、遮蔽物の向こうにある敵機の位置を正確に割り出すことなど不可能である。データリンクの発達は、複数の戦術機が得た情報を統合することで、よりレーダーの精度を高めることを可能とした。戦術機が通常、二機連携をベースとして戦闘を行うのは、互いのカバーをすることに加え、このためでもある。
 それでも、少なくとも一機は当たりだろう、というのが、武の判断だった。中でも最近距離の物が最も可能性が高い。
 演習場のおおよその地形から、敵小隊の初期位置にはいくつかの目星を付けてある。隊形は恐らく、小隊長である真那を後方に配置した楔形ないしは傘型。それらの推測を統合した結果、少なくとも一つが神代巽、巴雪乃、戎美凪のいずれかのものであることはほぼ間違いない。
 倒壊したビルの陰から陰へと渡りながら、少しずつ光点との距離を詰めていく。
 現在距離、およそ750。仕掛けるならそろそろか――そう判断した武は、ビルの上へと機体を躍らせた。
 主機を起動させているからには、こちらの居場所は相手には筒抜けだろう。加えて、こうして姿を晒したのだ、完全に居場所を把握されたに違いない。
 だが、それでいい。こちらのレーダーが大雑把な目安程度にしか役に立たない以上、向こうに出て来てもらうしかないのだ。
 狙撃しようとするなら、相手は武を目視する必要がある。それならば、余程の長距離でもない限り、弐型のレーダーに必ず引っ掛かる。弐型の索敵能力は武御雷のそれを大きく上回るのだ、互いに目視出来る距離であれば、弐型に見付けられないはずがない。
 ――その一瞬を見極めて回避する。
 武は、レーダーを注視した。
 忙しなく機体頭部を動かし、周囲を探る。
 どくん――心臓が高鳴る。耳の後ろの血流が、やけに強く鼓膜を震わせていた。操縦桿を握る手に力がこもっているのに気付く。手の平は、じっとりと汗ばんでいた。強張っている全身を解すために深呼吸を一つ……吐き出しきった瞬間、自然と小さく息を吸っていた。
 時間にして、僅か数秒。されどその数秒間が、何倍にも長く感じられる極度の重圧。
 これが斯衛軍――白銀武にとって、超えるべき壁であり続けた者達。
 ――その時、レーダーに、赤く光る点が、メインカメラに白い機影が浮かび上がった。
「ッ!」
 瞬間、武は、反射に近い速度でスロットルペダルを強く踏み込んでいた。
 ジネラルエレクトロニクス製大出力エンジンが火を噴き、不知火・弐型が蒼穹へと舞い上がる。同時に、サブカメラがもう一機の白い武御雷の姿を捉えた。
 それら二機の位置から、残るもう一機の白き雷神のおおよその位置を割り出す。
 が、その後ろに真那の駆る赤い雷神が大人しく控えているとは、武には思えなかった。
 巽ら三人は、二機連携ならぬ三機連携を主軸とする、非常に珍しいチームだ。しかしその三機連携は、平均的な二個小隊をも上回る戦力を発揮するのだ。
 ならば、真那がセオリー通りにその後ろに自身を配置した小隊の形を保つだろうか。武の経験は、それに対し否と答えていた。
 ――じゃあ、どこにいる……?
 コンピューターじみた速度で戦況を把握・解析しながらも、武の操縦する弐型の動きは淀みない。
 肩部スラスターを利用して大きく旋回したかと思えば、反転噴射で降下、また次の瞬間にはビルの残骸を飛び越える。縦横天地を無尽に動き回る弐型に追いすがるように、無数の弾丸が雨霰と放たれるが、ただの一発さえ弐型を捉えることは出来なかった。
 その間にも、少しずつ、しかし確実に、弐型は武御雷へと接近していく。
 距離に反比例して回避は困難を極めていくにもかかわらず、被弾する気配は依然として皆無。
 カメラで捉えてしまえば、あとは砲口の向きや機体の姿勢などから、おおよその射線を予測することは難しくない。相手は武御雷を乗りこなす程の使い手、照準のブレも最小限に抑えてくれる。その技能がなければ、『前の世界』で複数のF-22Aを相手取ることなど不可能であった。
 予測不可能な三次元機動によって、そもそもが武に照準を合わせることは難しいのだ、射線を読み取っての回避も組み合わせれば、一対一、あるいは一対二での弾幕を躱すことなど、武にとっては造作もない。
 大通りに着地、慣性に機体を横滑りさせながら、武は突撃砲を撃ち放った。低い砲声が大気を震わせる。
 狙われた武御雷が、噴射跳躍で大きく横へと飛び退く。そしてすぐさま弐型へと狙いを定めようとして――その瞬間には、短刀を抜いた弐型が、手を伸ばせば届く距離にまで肉薄していた。
 炸裂するエンジン音。彗星の如く、青白い光の軌跡が虚空に焼き付けられていた。
 武御雷が突撃砲を構えるが、もう遅い。動力部に短刀での一撃を受け、武御雷が沈黙する。
「あと三機……!」
 噴射跳躍による急上昇と反転噴射での急降下で弾丸を躱し、内臓を押し潰すような強烈なGに耐えながら、武は呻くように言った。
 この一機を片付けた間に、残る二機の位置はほぼ完全に把握した。
 未だに姿の見えない真那の存在が不気味ではあるが、まずは最低限、もう一機を片付けることが先だ。
 二対一の状況であれば、勝機は大きい。
 地面へと激突する寸前で武は機体をさらに反転させ、噴射跳躍ユニットを全力で噴かした。
 天地が逆さまになり、肉体に掛かるGの方向も一瞬で逆になる。強化装備を身に着けているにもかかわらず、武の関節がぎしぎしと軋んだ。筋肉が断裂していくような感覚。
 苦痛に耐えつつ着地すると、砂埃が盛大に巻き上がった。白煙が弐型の機体を覆い隠す。
 レーダーに一瞬のノイズ。しかしそれは敵方も同じこと。地面を蹴り、ビルの陰に滑り込むように弐型は移動する。
 レーダーは敵機の位置を捉えている。
 静音性を無視した、極低高度での水平噴射で、光点の位置目掛けて跳躍――メインカメラが、再度武御雷の姿を映し出す。
 武御雷は、しっかりと移動を先読みした上で武の機体に照準を定めていた。
 ――だが、移動を先読みしていることこそが、致命的な失敗であることを、彼女は知らない。
 機体を反転させ、前方に向けて跳躍ユニットと腰部スラスターが一斉に火を噴く。最高速からの急制動に、弐型の前方の地面をペイント弾が褐色に彩っていく。
 そのまま腰部スラスターの向きを操作、機体は再度舞い上がった。
 しかし流石は斯衛軍と言うべきか、予想だにしなかったであろう武の機動にもすぐさま反応し、砲口を上に向け、トリガーを引いた。
 それを武は、空中でさらに跳躍ユニットを稼動させる二段跳躍によって飛び越え、武御雷の裏を取る。
 ――取った……!
 確信と共に武は突撃砲のトリガーを引いた。響き渡る砲声――しかし、それが武御雷をオレンジ色に染め上げることはなかった。
 ――乱数回避。突如として鳴り響いたロックオン警報の電子音と共に、機体が大きく揺さぶられたのだ。放った砲弾はあらぬ方向へ飛んでいく。武は歯を食いしばりながら、即マニュアル操作に切り替え、挙動を制御した。
 サブカメラに一瞬、赤い影が映る。
「――月詠中尉……!」
 滑空砲を放って来たのは、真那の駆るハイチューン機。二機目を片付けようとしたその瞬間を狙われた。恐らく、最初から狙っていたに違いない。攻撃――敵機を撃墜せんとする瞬間こそ、衛士の気が最も緩む一瞬であるが故に。
 やってくれるぜ、と武は微かに笑みを滲ませた声で呟いた。こうでなくては面白くない。あの程度で二機が片付くようなら、最初からトライアルになどなりはしないし――何より、冥夜の警護などとても任せられようはずもない。
 着地すると同時に、武は最近距離にいる一機に向かって接近する。
 レーダーに表示されている光点は五。内、最低二つはセンサーが挙げた、可能性という名の幻影だ。一機の位置は不明となってしまったが、少なくとも一機だけは、場所が判明していた。
 残る四つの光点は、いつの間にか三つに減少し、高速で接近してきている。
 響き渡る砲声。武の位置は、三機の武御雷による複合センサーにより筒抜けだ。弾幕が張られている所為で、思うように近付けない。こちらが近付けば近付いた分、後退されてしまい、距離が縮まらなかった。
 内心で舌打ちしつつ、走行しながら、突撃砲のマガジンを換装する。
 電磁投射砲なら、瓦礫ごと長距離射撃で撃ち抜けるのだが、これは模擬戦。そんな真似は出来ない。JIVESを使っているなら別だが、今更そんなことに文句を言っても始まらない。
 さて、どうしたものか――思案する武は、自分の唇の端が吊り上がっていることに気付いていない。
 楽しかった。嬉しかった。心地良かった。
 かつて目指した背中。まざまざと、本物の衛士の強さを示してくれた赤い背中。
 背中を追うことしか出来なかった相手と、今こうして戦っている。対等な関係に立ち、剣を交えることが出来る――その事実に、武は打ち震えていた。
 ――だから、超える。
 戦術機を駆る技能だけでなく。衛士として。月詠真那を、超えてみせる――。
 一機の武御雷が弾倉を再装填している隙に跳躍、廃屋の上へと飛び移る。一機分の弾幕など、恐るるに足らない。弾丸を回避しつつ、メインカメラとサブカメラで、二つの機影を捕捉。一機は見えないが、複合センサーが捉えた光点が、二つの候補を表示してくれている。
 射線を見極め、足場を蹴り、長短強弱を織り交ぜた噴射跳躍によって、必要最低限の動きで弾幕をやり過ごしながら、弐型はにじり寄るように接近する。
 奥の武御雷との距離はおよそ四百。最近距離の一機は百――仕掛けられない距離ではない。
 武はトリガーを引き、36mm弾をばらまいた。左右と上方に弾幕を集中させ、機動力を封じているのだ。
 そして大通りに着地――不知火・弐型と武御雷が、一本の道の上で向かい合う。
 武御雷が弐型へ向けて突撃砲を構える。だが、それより一瞬早く、先の意趣返しとばかりに弐型の滑空砲弾が放たれ、刹那、武御雷の照準がずれる。
 ――その一瞬を、武が逃すはずがなかった。


 武御雷と不知火・弐型の間合いは、水平噴射であれば一息で詰められる距離。
 誰よりも跳躍ユニットを使いこなす白銀武であれば、まず間違いなくそうしてくるはず――月詠真那は、そう確信していた。斯衛軍の衛士として、また一日本人として認めたくはないが、こと噴射跳躍の能力に限れば、不知火・弐型は武御雷をも凌駕するのだから。
 だが。
 ――だが、これほどまでだというのか……!?
 戦慄は、先の一瞬で見せた弐型の機動に対してだった。

 前傾姿勢になることで重心を移動させ、滑走するかのように――まるで古武術の歩法のようにも真那には見えた――初速を得たその直後、刹那にして最高速。二基の跳躍ユニットに加え、腰部スラスターを同時に最大推力で稼動させることで、爆発的な加速力を得たのだ。
 まるで弾丸。鋼の巨人が、巨大な砲弾と化して武御雷へと肉薄する。
 しかし、いかに高速であろうと、そのような直線的な動きで仕留められるほど、彼女の部下は甘くはない。
 白い武御雷の衛士――神代巽は、弐型の速度に驚きながらも、冷静に二門の突撃砲を構えていた。彼女は決して武の機動力を侮ってはいない。二門では足りないとさえ考えていたほどだ。
 故に、戎美凪がそのカバーに入る。ビルの陰から、都合四門の突撃砲を構えた強襲掃討使用の戎機が、虎視眈々と白銀機を狙っていた。
 さらにその反対側では、跳び上がった弐型を撃墜するために、月詠機が滑空砲を放つ態勢を完全に整えている。
 このような安全な位置からの長距離狙撃は彼女の好むところではないが、これも武の腕を認めているが故。
 いかに相手が少佐でありXM3の考案者であるとはいえ、斯衛軍として、一個小隊がたった一機に敗れるわけにはいかないのだ。
「巽――!」
『了解ッ!!』
 巽が照準を定めてからトリガーを引くまで、僅か一秒と必要ない。ロックオン――そして巽の指が引金を引こうとした瞬間だった。
 ――弐型の機影が、突如として消失したのだ。
『ッ!?』
 真那の鼓膜を、巽の息を呑む音が震わせた。
 レーダー上には、変わらず白銀機を示す光点が浮かんでいる。だが、神代機のメインカメラの映像にその姿はない。
 巽が弐型を見失ったとしても、それも無理からぬことだろう。遠距離からその姿を睨んでいた真那でさえ、危うく見失いかけたのだから。
 ――彼女達が搭乗した経験のある機体といえば、武御雷以外には吹雪や瑞鶴しかない。それらの機体と弐型との間には、決定的な構造上の違いがあった。故に、経験としてそれを知らない彼女達には、弐型の機動を読むことが出来なかったのだ。
 そう――肩部スラスターという弐型の武器を。
 敵機の左肩部ブロックで青白い光が炸裂したのを、真那は驚駭と共に確かに見た。
 横方向のベクトルが加えられたことで、弐型はまるで見えないチューブの中を滑るように、空中に巨大な螺旋を描く。
「巽! 上だ!!」
 ともすればその優美な機動に見惚れそうな己を律しながら、真那は指示を飛ばした。
 慌てて神代機がカメラセンサーを動かし、弐型の姿を捉える。同時に砲口が上を向き、次の瞬間には三機の武御雷による砲撃の雨が白銀機目掛けて降り注いだ。
 ――しかし、それよりも武の入力の方が早かった。
 螺旋の最高高度まで達した瞬間、左肩部スラスターを停止、右肩部スラスターに切り替えたのだ。
 それによって横方向へのベクトルに急制動を掛けると共に、急降下を図ったのである。
 ビル壁が遮蔽物となり、真那は弐型を目視することが叶わない――だが、すぐにその結果を知ることとなった。味方機を示す緑色の光点が消えたことで。
「白銀武……大したものだ」
 敵ながらあっぱれ、とは正しくこのことだろう。
 機動力に特化した不知火・弐型の特性を十全以上に引き出している。近距離では、先程の巽のように消失したと錯覚してもおかしくはなかった。
 一体どこでこれほどの技術を身に着けたのだろう。
 白銀武という衛士の実力の程については耳にしている。曰く、開発中の新兵器を運用し、先日のBETA侵攻を退けるのに一役買った。曰く、単機で数百のBETAを駆逐した、曰く、十二機の不知火を相手に単機で勝利した。曰く、既存の機動概念を覆す新OSを考案した――と。
 その内のいくつか――取り分け十二機の不知火に勝利したという行は眉唾物であったが、これほどの実力を見せつけられてしまっては、認めざるを得まい。
 故にこそ、武が一体誰から教導を受け、どこで研鑽したのかという疑問が過ぎる。
 あの男の経歴に――あの男が本物の白銀武であると仮定してのことであるが――そのような期間は存在していない。いかに天才といえど、僅か二、三年でこの域に達することは不可能であろう。真那達とて、幼少の砌より受け続けた斯衛としての厳しい教育と斯衛軍という環境があって初めて、今の強さを手に入れたのだ。
 これまでにも抱き続けていた不信感と猜疑心が、一層強く鎌首をもたげてくる。
 齢二十にも達していないにもかかわらず少佐という地位に就き、将軍の実妹の警護を任される程の第19独立警護小隊を一人で相手取り、極秘計画の中枢を担う程の重要な役割を与えられ、そして同時に死人であり――
『真那様!!』
 美凪の声により、真那の思考は遮られる。同時に、真那は自分がそんな醜態を晒したことに歯噛みせずにはいられなかった。
 戦闘中に思索に耽るなど、衛士――否、武人として失格だ。
 忸怩たる思いで、操縦桿を握り直す。そしてレーダーに目を向けた途端、
「――ッ!?」真那は息を呑んだ。「戎! 貴様、何をしている!?」
 レーダー上では、緑の光点が凄まじい速度で赤い光点に追いすがっていた。二機は付かず離れずの距離を保ったまま、月詠機のレーダー上を横切っていく。
『このまま追撃しますわ! ……っ、悔しいですが正面からでは勝てません!』
 美凪の言うことも尤もだ。真正面から向き合っていては、先の巽のように弐型の変則的な機動に振り回され、撃墜されてしまう。
 しかし、近接格闘戦は武御雷の最も得意とするところである。ましてや、今の戎機は白銀機の背後を取っている。この有利な状況を逃がす手はない。
 思考の片隅にどこか引っ掛かる物を感じながらも、真那は美凪の案に賛同し、その援護に向かうために跳躍したのだった。


 二機目の武御雷を撃墜した武は、すぐさま残る二機に意識を向けた。向けざるを得なかった。何しろ、神代機の撃墜に息吐く暇なく、戎機が後方から襲ってきたのだから。
 今は肩部・腰部両スラスターを活用することで砲弾を回避しているが、それもいつまで保つか。
 ――仕掛けてみるか。
 大出力の跳躍ユニットが咆哮し、機体が超高速で噴射降下する。
「ッ……!」
 シートに釘付けにされるようなGに武は呻くが、敵機は尚も背後に張り付いている。流石は斯衛軍と言うべきかはわからないが――仕掛けるなら、ここしかない。
 突如として跳躍ユニットを全力逆噴射する。それに気付いた瞬間、激突を避けるために戎機もまた逆噴射によって減速――その瞬間、武は成功を確信した。
 逆噴射を続けたまま右肩スラスターを起動、機体を左に滑らせると共に、左肩を前に起こしながら制動噴射――急激な失速域起動の中機体は縦軸反転、さらには木の葉が舞うように円軌道を描き、先までの不知火・弐型と武御雷の位置関係はそっくりそのまま入れ替わっていた。
 ――ククルナイフ。
 かつての戦友が見せてくれた、四発の大推力エンジンと肩部スラスターを有するF-15・ACTVであるからこその変則機動。
 F-15・ACTVと同等以上の機動力を誇る不知火・弐型であれば可能であろうと踏んでの模倣であったが、果たしてそれは見事成功し、武の網膜には無防備な武御雷の後ろ姿が投影されていた。
 これまでとは真逆に、弐型から武御雷へと降り注ぐ弾丸の雨。純白の機体が褐色に塗り潰されていく。
 撃墜した武御雷を飛び越え、大通り跡に着地しながら、武は残弾を撃ち尽くして無用となった突撃砲を投げ捨て、パイロンから長刀を引き抜いた。ロッキングボルトが火薬式ノッカーによって弾け飛び、長刀が跳ね上げられる。
 ――後は月詠中尉だけだ……!
 口許に笑みを散らしながら、武は内心で歓喜の声をあげる。しかし胸中に僅かな恐怖もまた存在していることに武は気付いていた。
 相手は、かつて師と仰いだ、あの月詠真那なのである。
 自分が強くなったとはいえ、彼女に勝てるイメージが湧いてこない。それほどまでに、伊隅みちるや速瀬水月とは異なった意味で、彼女は武にとっては険しく高い壁であった。
 ――落ち着け……勝てるかどうかじゃない、勝たなくちゃいけないんだ……そうだろ……!?
 瞑目し、深呼吸を繰り返す。
 じとりと汗の滲んだ手の平で、額に張り付いた前髪を掻き上げた。

 目蓋を持ち上げ、レーダーが赤い光点を指し示す方向へと向かって、武は弐型のメインカメラを向けた。そこには、悠然と聳える紅き雷神の姿。
 刹那、武は己が目を疑った。月詠機が、突撃砲と長刀、さらにはナイフシース内の短刀をもパージしたのだ。がしゃん、という音が耳朶を打ったような錯覚。
 残ったのは、たった一振りの長刀。
「最後は剣でってことですか、師匠――」
 近接戦闘能力において、武御雷は不知火・弐型を大きく上回る。こと近接戦闘能力に限れば、武御雷は世界最強の部類に入るだろう。
 それに加えて、何より、剣に関する衛士としての技能が、武と真那とでは比較になりはしない。真っ向から剣術で勝負を挑んだところで、武の勝ち目は薄い。
 だが。
 ――面白え……!
 武は、自分の唇が凶暴に三日月を描くのがわかった。
 月詠真那は、武の知る限り、最も優れた衛士の一人だ。単純な操縦技能だけでなく、斯衛軍としての誇りを持ち、部下は勿論上官からの信頼も厚い。そんな真那を、武は尊敬している。
 それを超えると、武は誓ったのだ。
 ならば、これは武にとって望むべくもない絶好の機会だ。この、絶対に負けられない状況で彼女に勝ってこそ、白銀武は月詠真那を超えたと、胸を張って言えるのだ。
 ――勝て。勝ってみせろ。
 武は目を瞑り、自分に言い聞かせる。
 戦術機に乗っている時間も、踏んできた場数も、くぐり抜けてきた死線も、今の武の方が圧倒的に多いのだ。ならば、たとえ真那の本分である剣術での一対一であろうと、白銀武が負けていいはずがない。ここで負けるのであれば、仲間を護るなど、口が裂けても言うことは許されない。
 真那に倣うように、武もまたデッドウェイトと成り下がった武装をパージ。瓦礫の山が兵器の重みで砕けた。
 武御雷が、武がいるのと同じ大通りの跡へと降り立つ。
 剣を振るう障害となる物は何もない。ここで競うのは、機体やOSも含めた、純粋な衛士としての強さのみ。
 不知火・弐型と赤い武御雷とが、無言で睨み合う。
 それはさながら、12・5事件における真那と沙霧尚哉大尉の対峙の構図にも似ていた。

 ――ざ、ざざ……

 唐突に、武の思考に砂嵐のような雑音が混じった。
 網膜に投影されている映像と、記憶の中の風景が重なっていく。
 ここではないどこか。機体は弐型ではなく通常の――しかし帝国軍仕様の不知火。敵機はやはり赤い武御雷で。模擬戦でありながらさながら真剣勝負。一度も勝てず。
 涙を浮かべた真那の姿が、脳裏を過ぎる。
 護るべき人を護れず、遠く手の届かぬ場所で奪われた女性。誰よりも強いと思っていた人が見せた、一瞬の弱さ。
 ――ああ……。
 どうして忘れていたんだろう。
 彼女に託された想いを。彼女と共に戦場を駆けた日々を。
 愛情ではなかった。友情でもなかった。けれど、想いは一つだった。自分達を生かすために散っていった多くの命のために、護ることの出来なかったたった一つの命のために。
 一体でも多くのBETAを屠り、一体でも多くの衛士を救おうと。
 彼女から手解きを受けた日々を――。
 脳裏に過ぎった一瞬のビジョン。鈍い頭痛が衝動となって、急かすように武を突き動かす――。

 ――先に仕掛けたのは弐型だった。
 古武術の歩法にも通ずる、倒れる寸前の前傾姿勢から一歩を踏み出し、滑走するように初速を得る。そこから水平噴射による突進。
 対する武御雷もまた、小細工など要らぬと告げるかのように水平噴射。
 振り上げられ、振り下ろされた長刀が激突しようという瞬間、弐型が軽やかに宙を舞った。
 武御雷を飛び越え、裏を取った弐型は空中で上下を反転、噴射で急制動を掛けると、そのまま宙返りをするかのように、長刀を振るった。
 だが、それは予測の範疇だとでも言わんばかりに、真那は独楽のように機体を回転させ、長刀を合わせてくる。
 ――疾い……!
 衝撃で、悲鳴じみた甲高い音色が響き、火花が散った。
「ぎっ……」
 高速移動から急制動、さらに回転という連続した不規則なGに、さらに新たな力が加えられ、武は奥歯が砕けんばかりに歯を食いしばる。堪えきれない苦痛が、呻きとなって武の口から漏れた。
 勢いはそのままに、弐型が地面を滑って後退する。そこへ追撃を掛けてくる武御雷。
 極低空を滑空し、武御雷は長刀を振りかぶる。
 しかし、袈裟懸けの一撃が弐型を捉えることはなかった。
 それを受け流し、弐型は赤い機体の脇を滑るように擦り抜ける。
 同時に二機が反転、機体を傾がせ、跳躍ユニットをも利用した超高速での旋回運動から、両者が同時に回転斬りを放つ。
 激突――衝撃が機体を大きく揺さぶり、たたらを踏むかの如く弐型のバランスが崩れる。駆動系の出力ではやはり武御雷が上。機体全体が軋み音という悲鳴をあげていた。
 足裏がアスファルトの上を滑ると共に、がりがりと表面を削り取った。
 そのまま鍔迫り合いの態勢にもつれ込む二機。やがて出力の差が現れ始め、徐々に弐型が圧されていく。
「くそッ!」
 毒突きながら腰部スラスターに点火、その推力を利用して長刀を跳ね上げるが、真那はそれを読んでいたとでも言うのか、弐型の長刀を受け流し、無防備な左脇腹目掛け振り下ろされる斬撃。それよりも一瞬早く、左肩スラスターが火を噴き、武御雷の周囲で孤を描くように弐型はステップを踏んだ。
 再び距離を取り向かい合う二機。
 武は攻防の間、無意識に止めていた呼吸を再開した。新鮮な酸素で肺を満たしながら、その顔には苦々しげな色を浮かべていた
 ――旧OSでこれかよ……相変わらず化け物みたいな強さだな……。
 XM3搭載の不知火・弐型に全く引けを取らないその速度。いかに武御雷がハイスペック機であるとはいえ、真那の腕なくしてはこうはいかないだろう。
 ――尤も。武は気付いていないが、それであるとしてもあまりにも武御雷の反応が速すぎるのだが。
 言い換えれば、それにも気付けぬほど、武は追い詰められていた。
 真那は、武がこれまで相手取ってきたどの衛士よりも、強い。単なる技術だけではない。その胆力、威圧感、存在感……全てにおいて、月詠真那は強かった。
 ――オレは……オレは、勝てるのか……?
 敵のあまりの強大さに、思わず弱音が零れそうになる。
 超えると誓ったばかりなのに。不安が胸の奥から湧き上がる。
 くそ――悪態を吐きかけたその時、不意に蘇る声があった。
『やめておけ、白銀。貴様の意地とやらには感服するが、これ以上は無駄だ。それは貴様が最も良くわかっているはずであろう』
 何故、今になって突然その言葉が思い出されたのか、武にもわからない。
 しかし、ただ一つ言えることがあった。
 ――オレは、まだ意地を見せてない。
 かつて、敵わぬとわかっていても挑み続けた意地を。大切な人達を護りたい一心で、無謀な勝負に身を投じた意地を。矜持など全て捨て去り、力を求めてあらゆる苦痛を受け入れた意地を。
 何より、あの月詠真那をして感服したと言わしめた意地を。
 ぎり――奥歯が軋んだ。それと共に口の中でわだかまっていた弱音の尽くを、噛み砕き。
「――意地があんだよ、男の子にはなぁあっ!!」
 咆哮が喉から迸る。
 武御雷が長刀を振りかぶる。その軌道を、武は全視神経を動員して見つめていた。
 ――この一瞬に、全てを、込める……!
 烈火の如く燃え盛る覇気。けれど武の心は、不思議と澄み渡っていた。明鏡止水の境地――否、光風霽月と言うべきか。
 今ならば、何だって出来る気がした。
 振り下ろされた切っ先に切っ先を合わせる。僅かに付けられた角度が、真那の渾身の一撃を受け流す。
 流水を思わせる踏み込み。踏み込みが流水ならば、そこから放たれた剣戟は清風であった。
 流麗を究めた長刀の剣閃が、吸い込まれるように武御雷の胴へと突き刺さる――。

 しん――と耳に痛いほどの静寂がコクピットの中を埋め尽くしていた。操縦桿を握り締めた手は、完全に硬直しきっていた。
『状況終了――エインヘリヤル1及びブラッズ各機は速やかに帰投せよ』
 その静寂を破るピアティフの声でようやく、武は己が勝利を認識した。
 操縦桿を握っていた手を開いて、武は大きく息を吐き、座席にもたれ掛かった。僅か数秒の攻防であったが、極限まで集中力を研ぎ澄ませていた所為か、その数秒で全精力を使い果たしてしまったかのようだった。指一本を動かすのでさえ億劫なくらいだ。
 鈍痛が、頭の中で鳴り響いていた。


「よくやったわ、流石は白銀少佐!」
 ハンガーで弐型から降りた武を迎えたのは、A-01の面々だった。真っ先に声をあげた水月は、妙に嬉しそうだ。呼び名も少佐から白銀に戻っている。
「随分とご機嫌のようですね、速瀬中尉」
 相変わらずの考えが読めない微笑で美冴。それに対し、水月は頬を上気させて答える。
「私達の上官が斯衛を倒しちゃったのよ!? あんな戦い見せられて燃えない方がおかしいってもんでしょ!」
「成る程……自分が戦わずとも、見ているだけで性的興奮を得られる程の変態になったということですか」
「む~な~か~た~!?」
 逃げる美冴、追い掛ける水月。いつも通りの光景が猛スピードで遠ざかっていく様に、武は苦笑するしかなかった。
 頬を緩めたまま、キャットウォークに降り立つ。途端、視界がぐにゃりと歪むような眩暈を覚え、武は大きくよろめいた。
「白銀さん!?」
 一番近くにいた千景が、慌てて武の体を支えてくれる。手摺りがあるとはいえ、あわやキャットウォークから落下の大惨事だった。
「悪、い。麻倉……」
 熱病に冒されたように弱々しい声で武は言う。ぼたぼたと、夥しい量の脂汗が床に落ちた。
 歯を食いしばり、どうにか自力で立とうとは思うのだが、体にうまく力が入らない。まるで、初めて記憶のフラッシュバックで倒れたときのようだ。
「大丈夫ですか、白銀少佐」
 祷子が、心配げな面持ちで訊ねてくる。
「一応は。ちょっと無理な機動しすぎたみたいですね」
 何とか笑みを形作ることには成功したのか、祷子はほっとしたように息を吐いた。
「麻倉……悪いんだけど、このまま救護室か更衣室まで頼めるか?」
「あ、は、はいっ! 喜んで!」
 何が喜んでなのかはわからないが、折角なので、甘えさせてもらうことにしよう。心なしか顔が赤いように思えるが、気の所為だろう。
「あ、私も行くよ」
 晴子が名乗りを上げ、武の右腕を取った。「悪い」と武が礼を言うと、「なんのなんの」と楽しげな笑みが返ってくる。
 二人の少女の肩に担がれるような格好で、武は覚束ない足取りでキャットウォークを歩いて行く。
「あの二人だけに任せておいては心配だ。私も行こう」
 柔らかく微笑してみちる。
「あ、私も行きまーす」
「じゃあ、私も」
 水月と遙がそれに続き、その後も私も私もと声が連なって、結局、A-01と武、総勢十四名が一丸となって歩き出す。
 武と真那の戦いの興奮冷めやらぬ者、純粋に武を心配している者、それを面白がっている者、そんな彼女らを放っておけない者。内心は様々であろうが、皆一様に武を気遣ってくれているのだろう。
 ずきずきと頭が疼く今、少女達の甲高い声は煩わしくもあったが、それ以上に、彼女達が傍にいてくれるという事実は、武を強く安堵させてくれた。

「それにしても、最後の近接戦闘は凄まじかったな……」
 ハンガーを出て救護室に向かっている途中、みちるがぽつりと呟いた。武の着替えを取りに、千景が更衣室に向かったすぐ後のことだった。
「あたしなんか鳥肌立っちゃいましたよー」
 目を輝かせて月乃が同意する。
「その前の三次元機動もかなりのものだったと思うが」
「あの追ってきた武御雷を逆に裏取っちゃったやつですか?」
 問い掛ける茜の言葉に楓が頷き、
「私ってばもうたまげちゃっただよー」
 築地がそれに賛同する。
 他の面々も、言葉にこそしないものの、無言で、あるいは首肯で同意を示している。そこでにやりと笑ったのが水月だった。
「ね、白銀。あれ、どうやったの? 教えなさいよ」
 一行の先頭を行く水月が振り返りながら訊ねる。今は軍務中ではないということで、砕けた口調だった。
 先程から頭痛の治まる気配がない武としては、出来れば質問は後にしてもらいたいところであったが、彼女達の様子を見る限り、そう簡単には引き下がってくれそうもない。衛士としての飽くなき向上心、一体でも多くのBETAを屠り一人でも多くの衛士を生かすのだという使命感、そして仲間と共に生き抜くのだという強い意思。
 それら全てを兼ね備えた彼女達の想いに水を差すのは、野暮というものだろう。
 頭痛を堪えながら、武は答えた。
「あれは、反転噴射で急制動を掛けながら、肩のスラスターを噴かして、横方向への動きを加えてやったわけです。肩部スラスターを装備した弐型ならではですね」
「なんだ、けっこう単純なのね」
 拍子抜けしたように水月は呟くが、
「入力のタイミングはかなりシビアですけどね。コマンドも複雑ですし」
 尤も、あれを武に教えてくれたかつての仲間は、軽々と、それもXM3なしでやっていたというのだから驚きだ。そこは流石勇猛で知られるグルカの民、といったところか。
 尤も、あれほどの高等技術であっても、役に立つのは対人戦のみ。裏を返せば、そういった技術が必要でもあったということでもあり、武の胸中は複雑だった。
 ――オレ達の敵は自分自身とBETAだってのにな……。
 そういえば、これもアイツが言ってたんだったか――と武は思い出していた。
「しかし、伊隅大尉も仰ったが、最後の近接戦闘は圧巻だったな」
「美冴さんの仰る通りですわ」美冴の言葉に祷子が同調する。「まさか剣術で斯衛に勝ってしまわれるなんて……」
「あはは……なんていうか、機動だけでもデタラメだったのに、これで白銀の変態度がまた一気に上がったって感じですよねー」
「柏木……相変わらず辛辣だな、お前……」
「そう?」
 本人に自覚がない辺りが、一番恐ろしい。あるいは、美冴と同様、自覚がある上で惚けているのかもしれないが。
 晴子の考えは、美冴のそれ以上に、表情からは読み取りづらいのだ。
 この辺の力関係はいつまで経っても変わりそうにないな、と武は溜息を零した。
「表現の是非はともかくとして、少佐は剣術までもが突出しているということに異論はない。問題は、あれほどの剣術をどこで身に着けたのかということだ」
「確かに、白銀少佐の技術は、一朝一夕で身に付くものではありませんよね……」
 凛が呟いたその時だった。

「――その話、私も興味があるな」

 赤い零式衛士強化装備を纏った女性が、そこに立っていた。その後ろには、白の零式衛士強化装備を身に着けた三人組。言うまでもなく、月詠真那率いる斯衛軍第19独立警護小隊である。
「月詠中尉……さっきはどうも」
「流石です、白銀少佐。素直に認めましょう……我々の完敗でした」
 どこか清々しい笑みを口許に浮かべて、真那は言った。
 XM3という高い下駄を履いていたとはいえ、目標としていた彼女にこう言われて、武にとって嬉しくないはずがなかった。
「――が」
 そこで一度言葉を句切った真那の眼差しが、一気に鋭くなる。それはまるで研ぎ澄まされた刃のように、武を貫いていた。
「一つ聞かせていただきたい。――あの剣術、誰より教わったのです?」
 A-01のそれとは違う意味の込められた真那の言葉に、武は、苦痛以外の理由で表情を歪めた。
 ――やっぱりわかるか……。
 他の人間相手ならばともかく、真那に対して近接戦闘を行えば、その正体を見抜かれてしまうであろうことは、最初からわかっていたことだ。
 実際、冥夜との模擬戦でも見抜かれていた。
 それでも使わざるを得なかったのは、偏に真那達の練度の高さのためだった。
 冥夜とは違い、真那の声音には言い逃れは決して許さないという威圧がはっきりと現れており、簡単には引き下がってくれそうにない。どうやってこの場を切り抜けたものか、思案する武。
「お言葉ですが――国連軍と帝国斯衛軍という所属の違いこそあれ、自分よりも階級の高い相手に対してそのような態度はいかがと思いますが」
「これは失礼致しました、白銀少佐。――だが宗像中尉、我らもこればかりは引き下がれぬことをご理解いただきたい」
「しかし――」
「構わないさ、宗像中尉」尚も食い下がる美冴を制し、「訊かれて困るような質問でもなし、これくらいなら幾らでも答えてやるさ」武は少佐としての口調で言った。「ここで答えておいた方が、後々役に立ちそうだ」
 答えずに逃げ出せば、折角得始めていた真那達の心証が台無しになってしまう。今後に向けた武のプランのためには、はぐらかすなり何なりしてでも一応の回答を与えておいた方が、余計な軋轢や遅滞を生まずに済む。
 また、信頼を勝ち取ったとはいえ、武は依然として突如死者に成り代わり、将軍の双子の妹の傍に現れた不審人物である。ここで答えなければ、いずれは斯衛軍、ひいては城内省や帝国その物を敵に回すことになりかねない。
 斯衛軍の協力は、今後の甲21号作戦に向けて、是が非にでも取り付けたい。自分からその妨げを生じさせるような愚劣の極みを犯すわけにはいかなかった。
 それに、たとえあちらがどう思っていようと、武にとって月詠真那は戦友であり、師匠であり、護るべき人であり、家族だ。それは彼女の後ろの巽、雪乃、美凪の三人組――三バカについても同じこと。
 この程度の問いであれば、喜んで答えよう。
 勿論、越権行為と見なせる範囲にまで質問が及べば、その時点で話を切るつもりであったが。
「あの剣術なら、仲間に教わったものだ。同じ隊の仲間と、かつての仲間――オレの師匠に当たる人から、な」
「ほう――それは興味深い。その仲間の名は何と言うのです?」
 真那は執拗とも言えるほどに追及してくる。ヴァルキリーズはそんな月詠の態度を奇妙に思ったようだが、真那にそれを気に留めた様子もない。
 武は苦虫を噛み潰したような気分だった。真那は、武の剣が無現鬼道流を自己流にアレンジしたものであると確信している。
「……どうしてそんなことを訊く必要がある? ああ――中尉も教わりたいと思っているなら、それは無理な相談だ。その二人は、もう死んでいるからな」
 無駄だと知りつつも、武は惚けてみせる。
 真那が確信している以上、誤魔化すことは出来そうもない――が、真っ正直に答えるわけにはいかなかった。
 最悪、強引に話を打ち切ることも視野に入れる必要がある。
 真那一人にならばともかく、A-01のメンバーがいるこの状況で武の事情を口にするわけにはいかなかった。
 頭蓋の奥の方に、疼くような痛みがある。
 武が白を切っていることくらいお見通しなのだろう、真那は鼻を鳴らす。
「私のよく知る動きに瓜二つだったので。貴殿の仰る仲間が、私の知り合いではないかと思いお訊ね申しただけのことです」
「そういうことなら、別人だろう。オレがあの動きを教わった仲間と中尉に、面識なんてないはずだからな」
 嘘は吐いていない。
 これまでの世界の冥夜や真那と、今目の前にいる真那とは、会ったことがあるはずがないのだから。
「……ならば質問を変えましょう」
 低い声音で真那は言った。声のトーンと共に、周囲の気温まで下がってしまったみたいだった。
「――何故国連軍人であるはずの貴殿が無現鬼道流の技を使われる? あの歩法も、剣も。全てが無現鬼道流のそれであったことについて、どう思われる」
「気の所為だ」強い語調で断言する武。「古武術の歩法なんて、どれも大差ないだろう? 剣術だって、ある程度似通ってくるものだ」
「思ってもいないことを言うのはよしていただきたい。戦術機であれほどの動きを出来る人間がそのようなことを言うはずがないでしょう」
「そんなに買ってくれているのは嬉しいが、生憎古武術には詳しくないんだ。仲間に教わった以外の流派なんて、見たことも聞いたこともないし、興味もない」
 そもそも、無現鬼道流の手解きを冥夜や真那から受けようと思ったのは、単にその二人が武の知る中で最も長刀の扱いに長けていたからだ。それが無現鬼道流である必要はなかった。
「オレが剣術を習ったのは、単にBETAをより効率的に殺せる手段を求めただけだからな」
 長刀をより効率的に――より速く、より鋭く、より負荷を小さく――運用するということに関しては勿論、少しでも速く動き、少しでも長く戦い続けるためにも、高い重心を利用して位置エネルギーを運動エネルギーに転換する武術の歩法は、非常に有効だった。跳躍ユニットに頼りがちな武にとって、接地機動の幅が広がったというのは、大きな利となったのだ。
 お陰で、武の戦闘能力は大きく跳ね上がった。それまでの突撃砲をメインとするスタイルから、近接戦闘についても幅が広がり、より多くのBETAを討つことが出来るようになった。
 そんな武を見たら、一度目の世界の彼女達はどう思うだろうか。鬼の道を現す無かれという名の剣術を用いて、鬼のようにただただBETAを殺し続けた武を――。
 ちくり、という痛みが、胸の奥に走った。
 その、ありもしない痛みに、武は内心で苦笑する外なかった。問うまでもないことがわかっているのだと、その罪悪感が何よりはっきりと証明してくれていた。
 ――其は己が為の刃に非ず。ただ牙無き者の為たれ。
 それこそが無現鬼道流における絶対の理。その理を忘れて剣を執っている武を、許してくれるはずがなかった。
 今だって、大切な人達を護り抜きたいという想いは変わっていない。たとえ犠牲を出したとしても、それ以上に多くの命を救いたいと願っている。
 ――けれど、武は自分の中のBETAに対する憎悪をはっきりと自覚していた。
 自覚しているからこそ、それを抑え付けることが出来るのだ。
 BETAという種に対する憎悪。あの遥か星の彼方よりのおぞましき侵略者を滅ぼすという強い意思。それらが自分の中で黒々とした渦を巻いているのがわかる。

 ――脳裏を過ぎるのは、原色の絨毯で埋め尽くされた戦場の光景。
 折り重なって横たわるBETAの死骸と戦術機の残骸。地獄としか言い様のない世界の中、鬼のように刀を振り回す一機の不知火。
 ――覚えている。散っていった仲間達の死に様を。
 兵士級に食われ闘士級に首をもがれ戦車級にかじられ突撃級に踏み潰され要撃級に叩き潰され光線級に焼かれ重光線級に蒸発させられ要塞級に溶かされ母艦級に押し潰され死んでいった仲間達。

 ざらついたノイズが脳味噌を削り取っていく。
 ずたずたに引き裂かれていく思考は、けれどフル回転で過去へと遡る。
 忘れるはずがなかった。忘れられるはずがなかった。
 むしろ、一度目の世界の記憶を取り戻すにつれて、その光景は深くはっきりと脳に刻まれていく。
「は、ぁ……っぐ……!?」
 小雪と晴子にもたれかかったまま、武は呻き声をあげた。
 その場の誰もが、突如として苦しみ始めた武に奇異の視線を向ける。
「白銀!?」
「白銀さん!?」
 最も武の傍にいた晴子と小雪が、悲鳴じみた声で武の名を呼んだ。普段ならば部隊外の人間の前だということを意識しろ、と言うところであったがしかし、二人の声は武の耳には届いていなかった。
 激痛に意識が侵される。
 記憶に現実が侵される。
 過去に現在が侵される。
 ――耐えろ……!
 言い聞かせるように武は叫ぶが、それは声になってはくれなかった。
 以前気を失った二回と同じか、あるいはそれ以上の大規模なフラッシュバック。
 脳味噌が記憶の奔流に刮ぎ取られていく。まるで、脳の周りの軟膜が、目の粗いサンドペーパーに変わってしまったかのようだった。
 がちゃがちゃと、肚の奥で音がする。鎖が軋む悲鳴が聞こえる。
 筺に押し込み、蓋を閉じて、鎖で雁字搦めにして、心の奥底に沈めたはずの、どす黒い負の感情が、束縛を振り解いて浮上しようとする。
 全身を満たしていく、凶暴で破壊的な衝動。今すぐBETAをこの手で殺してやらなくては気が済まない。いや、そんなものでは足りやしない。奴らを殺して殺して殺――

 ――その瞬間、突然、武の脳にあり得ざるイメージが湧き上がった。

 笑顔だった。
 誰よりも大切な相手の一人である、たった一人、唯一無二の幼馴染みの笑顔。かつて、もう二度と見ることは叶わないのだと、諦めていた、赤毛の少女の笑顔。
「す、み。か……」
 鑑純夏という少女の笑顔のイメージが、突然、武の脳裏に浮かび上がったのだった。
 全身を支配していた熱が、急速に冷めていく。防寒性能の高い強化装備を身に着けているにもかかわらず、ひどく寒い。見れば、指先は小刻みに震えている。鏡があれば、武は自分の顔が色を失って蒼白になっているのを見ることが出来ただろう。
 そしてようやく、武は自分が床に蹲っていることに気付いた。
 どうにか体を起こすと、怪訝と心配の入り混じった幾つもの視線が、武をじっと見つめていた。
「白銀……大丈夫?」
 おずおずと訊ねてきたのは茜。
 一体どんな醜態を晒してしまったのか、その表情には怯えの色がある。
「ああ、悪い……もう大丈夫……」
 先程よりは、体に活力が戻ってきている。よろめきながら立ち上がり、武は打ちっ放しのコンクリートの壁にもたれ掛かった。
 汗で額に貼り付いた前髪が不快で、無造作に掻き上げる。
 同時に武は、先程脳裏を過ぎった純夏のイメージの正体について考え始める。
 果たして、答えはすぐに出た。こちらの世界で会うことの許されない純夏が、フラッシュバックの中に現れるとは考えにくい。ならば、あのイメージの正体はただ一つ。
 武は、斯衛の四人の背後へと視線を投げた。そこには、二つの人影がある。無意識の内に、武はその名前を呟いていた。
「霞……」
 それで、その場にいた全員が、一斉にそちらを見やった。
 霞は悲しそうに眉を寄せ、俯いている。その隣には、夕呼の秘書であるイリーナ・ピアティフ中尉の姿があった。
 ――ありがとう、霞……。
 武は、声には出さずに礼を言った。霞にはこれで伝わるはずだ。霞はふるふると首を横に振り、ほんの僅か、表情を和らげた。
 プロジェクション。
 きっと、これまでに武から読み取った純夏のイメージを、武の思考に投影してくれたのだ。外からの情報が無意識の内に遮断されていても、脳に直接イメージを叩き付けられれば、無視することは出来ない。
 結果、フラッシュバックからは最も遠い位置にある純夏の笑顔というイメージによって、武は平静を取り戻すことが出来たのだった。
「……白銀少佐。香月副司令がお呼びです」
 今の武の様子を見ていたのだろう、ピアティフは気遣わしげな声音で言った。普段はあまり変化のない表情も、心持ち硬い。
「……了解」
 武は、そっと壁から体を離して応えた。
 特に呼ばれる理由は思い付かないが、そもそも特に理由がなくても武を呼び出すのが香月夕呼だ。
「軍服に着替えた方が?」
「いえ。強化装備のままで結構とのことです」
 了解、ともう一度言って、武は歩き出した。
 一度真那の前で立ち止まり、敬礼をする。まるで力の入っていない不格好な敬礼に対し、真那は訝しむような視線とお手本のような返礼で応えてくれた。
「白銀さん、大丈夫ですか?」
「ああ……」
「……無理はしないでください」
「わかってるよ、霞。それじゃ、行くか」
「……はい」
 連れ立って歩いて行く二人の後ろ姿を、十数人の視線が見送っていた。


「……ピアティフ中尉」
「何でしょう、伊隅大尉」
 武と霞の姿が見えなくなってすぐ、みちるはピアティフに呼び掛けた。
「先程の白銀少佐の様子は尋常ではなかった……あれは一体どうなっている? 副司令から何か窺っていないか?」
 すると、ピアティフは困ったように眉を寄せた。
「私も、今のところは心配はいらない、としか聞かされていないのです」
「心配いらないって……さっきの少佐の様子、どう考えても相当危なかったわよ?」
「水月の言う通りです、ピアティフ中尉。もしかして白銀少佐――」
「いいえ」遙の言葉を先回りして、「白銀少佐が薬物を使用しているということはありません。以前、後催眠暗示と興奮剤の併用によるバッドトリップを経験して以来、薬物に頼ったことはないと仰っていました。バイタルデータにもそれらの兆候は認められません」
 その話については、みちる達も聞いたことがあった。
 佐渡島ハイヴからのBETA上陸戦の翌々日のブリーフィングで武が語って聞かせてくれた、自身の初陣。もしかすると、そのときのことは、武にとって一種のPTSDになっているのかもしれない。
「では、どうして白銀少佐は突然取り乱されたのでしょう」
 不思議そうに祷子。
「香月博士が仰るには、白銀少佐には何らかのPTSDがあり、突発的にフラッシュバックを起こすことがあるとのことですが……」
「……成る程」
 みちるは頷いた。半ば予想通りの答えだった。
 初陣の話もそうであったが、新任衛士と同い年でありながら少佐に就く程なのだ、それ以外にも、みちるにさえ想像も付かない苦境を乗り越えてきたに違いなかった。
 感嘆すべきは、あのようなショックを起こす程のPTSDを乗り越え、それでも戦場に立ち続け誰よりも勇敢に戦い続ける精神力だろう。その拠り所となっているという武の恩師は、一体いかほどの傑物であるか、みちるには想像も付かなかった。
 白銀少佐の強さの理由はそこにあるのかもしれない――とみちるは結論付けた。そして同時に、あの憎悪の源も――。
「先程も言ったように、今のところ心配はいらない、というのが香月博士の見立てです。どうかご安心を」
 ピアティフはそう言うものの、みちるは、胸の奥にざわめきを覚えずにはいられなかった。
 香月夕呼が、わざわざ心配ないと言い含める……それは必ずしも言葉通りの意味を持たないことを、彼女は知っていた。



[2785] Muv-Luv ALTERNATIVE -Second World Was Failed- 第18話
Name: Vollmond◆d2a8c8a6 ID:49f1dd4a
Date: 2011/11/15 03:08
「さっきはありがとな、霞。助かったよ」
 機密フロアへの直通エレベーターに乗ってすぐ、武は言った。
 霞のリーディングに期待して先程礼を念じはしたものの、やはりこういうことは直接言わなくては据わりが悪い。フラッシュバックから回復し、ある程度の活力を取り戻すことが出来たのは、全て霞のお陰だ。
「……いえ、気にしてません」
 そうか、と武は霞に微笑みかける。霞の頬が、微かに紅潮していた。
「あ、そうだ」
 突然声をあげた武に、霞は不思議そうに目をしばたたかせる。
「向こうでお土産買ってきたんだ。後で部屋に持ってくから、楽しみにしといてくれ」
「……はい」
 霞が口許をほころばせる。お土産という概念自体、彼女にはなかったのだろう。ちっぽけなものかもしれないが、少しでも霞を喜ばせてやれるのであれば、それに勝るものはない。
 今の霞を見ていると、まるでプレゼントを心待ちにする、年相応の子供のようだ。
 たとえば――そう……クリスマス、白陵柊の裏山でサンタクロースを待っていた純夏のように。うしろのトロロの大きなぬいぐるみが欲しかったが両親扮するサンタクロースからはもらえず、幼い武がシールを贈ることでなんとか解決したのだ。
 今思えば、純夏がいつも鞄に付けていた、薄汚れたマスコット――サンタウサギは、あのときにプレゼントしたものだったか。
 いつも持ち歩いていたくらいだから、気に入ってくれていたのだろう。
 元の世界にいたときは気付かなかったのに、十何年も経って、しかも遠く隔たった別の世界に来てから思い出すとは。
 ――ウサギといえば。
 武は、数日前まで部屋に鎮座ましましていた、不気味極まりない、死んだ魚のような目を持つウサギのぬいぐるみを思い出す。
「なあ、霞。もしかして、うささんって――」
「はい……私が純夏さんのために作りました……でも……何度やっても元のイメージには似なくて……」
 元の世界に転移する実験の際、霞が描いていた武の絵を見たが、御世辞にもうまいとは言えなかった。最初は、何を描いているのかさえわからなかったくらいだ。
 前の世界であやとりを教えたときもなかなかうまく出来なかったし、もしかしたら根本的に不器用なのかもしれない。
「その元のイメージっていうのは、オレの記憶か?」
 首を横に振る霞。
「……ってことは、純夏の記憶か……」
 この世界の『白銀武』も、幼い頃、純夏にサンタウサギをあげたのかもしれない。
 だが、霞はまたしても首を横に振る。
「あなたの中に見える別の私は……うささんを持っていない。考え過ぎなんだと思います……だけど……私は……本当にそれが純夏さんの思い出なのかは……わかりません」
 言われてみれば、一度目の世界と二度目の世界、どちらの世界でも霞はうささんを持ち歩いてはいなかった。
 霞の言う通り考えすぎなのかもしれないが、その違いは無視出来ない。武が介入したからこそ、霞はうささんを大切に持っていたのかもしれないからだ。
 だが、霞がウサギのイメージを読み取ったのが武の記憶からでない以上、純夏のものだと考えるのが自然だろう。
 丁度エレベーターがB19フロアで停止したので、うささんに関しての考察は自然と打ち切られることとなった。
 夕呼の執務室のドアを開けると、「遅いっ!」と夕呼の一喝が飛んでくる……なんてことはなく、
「ご苦労様。社、そこのソファにタオル敷いて。白銀、そこに座りなさい」
「はあ……」
 予想外に穏やかな出迎えに、武は困惑してしまう。
 言われたまま、武は霞がタオルを敷いてくれたソファの上に腰を下ろした。白いタオルに汗が染み込んでいく。思っていた以上に大量の汗をかいていたらしかった。
 夕呼は、武と向かい合うようにソファに腰掛ける。霞は部屋を出て行った。
「トライアルの直後で疲れてるでしょうけど、もう少しだけ我慢してちょうだい」
「別に構いませんよ。オレにとって、香月博士の呼び出しは最優先事項ですから」
 BETAとの戦闘中や、仲間の危機でもない限り、全速力で駆けつけるのは当然だ。緊急時というわけではないのだから、この呼び出しに文句を付けるつもりは全くなかった。
 そもそも、これまでだって、好き勝手に呼びだしてきただろうに。
 そう考えて夕呼の表情を窺ってみると、どこかいつもとは様子が違っていた。
「……何かあったんですか?」
 武の声音に、鋭いものが混じった。
 夕呼がこの状況で武を呼び出すということ、それ自体がある種異常なのだ。確かに、夕呼は武を好き勝手に呼び出しはするものの、こういった大規模な演習や任務の直後に呼び出すということは、これまでになかった。大抵、武が自分から出向いていたからだ。
 つまり、今はそんな悠長なことをしていられないということでもある。が、
「安心しなさい、白銀。オルタネイティヴ4の存続に関わるような事態は何も起こってないわ」
「そうですか……」
 武は安堵の息を吐いた。
 しかし、そうだとすると、余計に呼び出された意味がわからなくなってくる。
「いい報せと悪い報せ……両方あるけど、どっちから聞きたい?」
 武の混乱を読み取ってか、夕呼が訊ねてきた。
 ――何か、とてつもなく嫌な予感がした。まるで、一度目の世界の2001年12月24日が再び訪れたかのような、嫌な予感が。
 それでも、向かい合わないわけにはいかない。
「――どちらからでも、かまいません」
 どうせ、どちらも聞かなくてはならないのだ、どちらが先であろうと、大差はない。
 そう、と頷いて、夕呼は口を開いた。
「今日、あんたとのトライアルで斯衛が乗ってた武御雷だけどね。――全機、XM3を搭載していたわ」
「――そんな!?」
 そんな馬鹿な話があるのか。
 ……しかし、その馬鹿な話によって、先程の模擬戦で覚えた違和感に説明が付いてしまう。
「おかしいと思わなかった? いくら月詠中尉が乗ってるからって、武御雷の反応が早すぎたでしょう。キャンセルや先行入力については教えてないから、即応性の恩恵しか受けてないんだけど」
 確かに、旧OS搭載にしては、武御雷の機動が異常に速いと思うことはあった。
 だが、それも前の世界の真那達よりは遅いし、旧OS搭載機でもジャンプキャンセル程度は可能であったため、武に負けまいとの訓練の賜物だろうと思っていたのだが。
 夕呼は即応性の恩恵しか受けていないというが、三十%という即応性の向上は、それだけで大幅に戦力を引き上げてくれる。何の説明も受けずに先行版XM3搭載機に乗った、前の世界の千鶴と慧が、それを証明していた。そのことは、夕呼とて百も承知のはず。彼女の組み上げたOSなのだ、その有用性は武と同等に理解しているだろう。
「……博士、何考えてるんですか?」
「…………何が?」
「惚けないで下さい!」武は両の手の平をテーブルに叩き付けた。「あのトライアルでオレが持ってるアドバンテージは、XM3と経験しかなかったんですよ!? そのアドバンテージを一つ潰すような真似をして、もしオレが負けてたらどうするつもりだったんですか! XM3も全部パァ、それどころか、反オルタネイティヴ4派に余計な勢いを与えるだけでしょう!!」
 国連軍のごく一部と斯衛軍という内輪での演習であるとはいえ、その中に反オルタネイティヴ4派が潜り込んでいないとも限らない。いや、どこからか耳敏く話を聞きつけた連中に送り込まれた密偵は、オルタネイティヴ4の綻びを見付けてやろうと、意気揚々として今回のトライアルを見ていたに違いなかった。
 もし今回のトライアルが失敗に終わっていたなら、夕呼の立場は今以上に厳しい物となっていたであろうことは確実であった。
 00ユニットが完成間近であることを知っているのは、オルタネイティヴ4に関わっている極々少数のみ。それ以外の人間にとっては、オルタネイティヴ4は莫大な資金を注ぎ込んでいるにもかかわらず、ろくな成果も上げられていない、いわば机上の空論をこねくり回しているだけに過ぎないのだ。
 その初の具体的な成果となるXM3のトライアルの失敗は、結局オルタネイティヴ4に期待出来るものは何もない、ということになってしまう。反オルタネイティヴ4派がその綻びを見逃してくれるはずがない。
 武の勝利に終わったからいいものの、一歩間違えば、完全に人類の未来は閉ざされることとなっていたのだ。
「あたしは、あんたが勝つと思っていた。だからこの無謀とも言える賭に出た――それだけよ」
「っ……」
 ――それだけ、だって……?
 それだけなどという言葉で済ませていいのだろうか。
 そもそも、その勝算はどこから弾き出したというのだろう。武の言葉は根拠にならない。絶対に勝つというのは、相手が旧OS搭載機であるという前提の下にあったのだから。
 ならば、その勝算の根拠は一体――いや、と武はその疑問を押し止めた。そう簡単に教えてくれるとは思えない。夕呼には夕呼なりの根拠があって、今の武にそれを教えるつもりはないということなのだろう。Need to know――その理がこんなところにまで顔を出すとは思わなかった。
「……わかりました。それが悪い報せですか。じゃあ、いい報せっていうのは?」
「勘違いしないでくれる? ――今のが、いい報せよ」
「なっ……」
 武は息を呑んだ。今の、剃刀の刃の上での平行棒じみた綱渡りが、いい報せだとでもいうのか。
「特性を引き出せていないとはいえ、あなたはXM3搭載の武御雷一個小隊に、性能で劣る不知火・弐型単機で勝利してみせた……これがいい報せでなくて何なのかしら?」
 武は奥歯を噛み締めた。
 結果だけを見れば、その通りだ。夕呼には武が負けないという確信があったのだろうから、夕呼の思惑通りに事が運んだということだろう。
「じゃあ……じゃあ、悪い報せっていうのは、一体何なんですか?」
 既にいい報せの時点で、武にとっては悪い報せでしかない。それよりもさらに最悪な報せ。聞きたくなくても、聞かないことには前に進むことは出来ない。
 そして、数秒の間を置いて、夕呼は言った。

「――あんたには、207小隊とA-01の教導官を、今日限りでやめてもらうわ」

 武には、夕呼が何を言っているのか、一瞬、理解出来なかった。
 頭をハンマーで殴られたような衝撃に、思考が真白く染まる。視界が白濁し、つられるように意識がブラックアウトしかけた。
 それでも、僅かに残った意識だけで、夕呼の言葉を繰り返す。
 ――教官を、今日限りでやめてもらう……?
 二度、三度とその言葉を反芻して、ようやくその意味を消化し……さらに何度か反芻して、ようやくその言葉を理解する。
 喉がカラカラに干上がって、呼吸がうまく出来なかった。ごくりと喉を鳴らすと、ようやく呼吸の自由が戻ってくる。
「……どういう、意味……ですか?」
 震える声音を押し殺して、武は問うた。
「そのままの意味よ」
「A-01に正式に配属される……そういう意味……でいいんですよね?」
 縋り付くように、武は問うた。
 実際、これ以上彼女達に教えることはもう殆どない。ならば、教導官としての立場ではなく、仲間として共に戦った方が、彼女達が得られるものは大きいはずだ。
 そう考えれば、夕呼の言葉にも納得出来るのだが、武はその可能性がないであろうことを知っていた。
「いいえ? あんたには、これまで通り、A-01とは別の、あたし直属の特務官として働いてもらうわ」
「それなら、教官をやめる必要はないはずです。オレにしか出来ない特殊任務があるとしても、それが教官をやめる理由になるとは思いません」
 現に、これまでだって、夕呼の特殊任務に就きながら、教官としての役割は何の問題もなくこなしてきた。それどころか、オルタネイティヴ4の成功を決定的付けたのは、他ならぬ武なのだ。
 ああ、認めよう。この報せは悪いどころではない。最悪も最悪の報せだ。
 クーデターを目前に控えたこの大切な時期に、仲間達と離れることになるのだから。
「納得の行く理由を説明してください」
 いくら夕呼だからといって、こんな命令にはいそうですかと従えるはずがなかった。
「理由を知る必要はないわ。それが命令というものよ」
 ここに来て再びNeed to knowを持ち出すか。
 確かに、軍において、上官命令とはそういうものだ。理由などいらない。上官の命令には、その裏にどんな思惑があろうと、従う以外の道は許されていない。
 つまり、夕呼は、決して武にその理由を明かすつもりはないということになる。
 ぎり、と武は奥歯を鳴らす。
 所詮、香月夕呼にとって白銀武とは、その程度でしかないのか――と。
 俯けていた顔を上げる武。その表情は、研ぎ澄まされた刀を思わせる剣幕に満ちていた。そして、腰を持ち上げて、夕呼を見下ろして言った。
「――なら、これ以上オレと“香月博士”が手を組む理由もなくなったってことですね」
「なんですって……?」
 今度は夕呼が表情を一変させる番だった。しかし、武はそれを意に介した様子もなく続ける。
「忘れたんですか? オレはあなたの部下ではありますけど、博士の意のままに動く駒じゃない。オレ達は利害が一致していたから協力していただけです。利害が一致しなくなった今、オレ達が協力する理由はもうありません」
「っ……!」
 夕呼の顔に衝撃が走ったのを、武は見逃さない。だが、夕呼はすぐに表情を繕った。流石、権謀術数については、武の数倍長けているだけのことはある。ポーカーフェイスは全ての基本だ。
 しかし、今この場を支配しているのは夕呼ではない。夕呼が仮面に亀裂を走らせた時点で、武が全てを握っている。
「……ここを出てどうするつもり?」
「どこかの軍に入るでしょうね。00ユニットの理論を回収した時点で、もうオレの知っている未来からは大きくずれているんです。未来の情報なんて、殆ど何の役にも立ちやしません。それに、後は放っておいたって、香月博士がどうにかしてくれるでしょう? オルタネイティヴ4は、成功したも同然なんですから。――なら、後はどこの軍に入ったって同じですよ。いい機体を回してくれれば、それだけで十分ですから。自惚れを承知で言うなら、幸い、衛士としての技能では誰にも負けるつもりはありませんからね。引く手数多でしょう」
 手近なところで言うなら、帝国軍か斯衛軍か。死人として斯衛軍にマークされているとはいえ、武の操縦技能はどこの軍も手が出るほど欲しいはずだ。XM3の理論を手土産にしてやれば、受け入れてくれるに違いない。
「死人を受け入れてくれる軍があるとでも思ってる?」
「米軍なら受け入れてくれますよ。連中にとっては、死人扱いになっていようと、難民だってことに変わりはありませんから。国連軍や帝国軍ならまだしも、米軍までは、いくら香月博士だって自由には出来ないでしょ?」
 元々各国の難民で軍の半数以上を構成している国だから、公式には死亡になっているはずの武も受け入れてくれるはず。それに、設計思想も違い接近戦に適していないとはいえ、F-22Aという最強の戦術機は魅力的だ。XM3に対応する処理能力を持つCPUやOSを組める技官もいるだろう。
 エドワーズに放置されていたという世界一高価な鉄屑に乗せてもらえるよう頼むのもいいかもしれない。
「わからないわよ? HSSTの監視命令……忘れたのかしら?」
 不敵に夕呼は唇を吊り上げる。忘れたわけではない。だが、夕呼のその台詞が虚勢であることは、武にはお見通しだった。
 前の世界の12・5事件、米軍が太平洋上に展開していたのは、夕呼の予定外だったはずだ。そのことが、オルタネイティヴ4最高責任者としての権限を以てしても、思い通りに米軍を動かせるわけではないと証明している。
 仮にもう一度や二度、最優先命令を出せたとしても、白銀武という衛士を迎え入れるな、などといった馬鹿げた命令まで受理されるはずがない。たとえ受理されるとしても、そのような下らないことに自らの権力を振るいはしまい。
 ……だが、相手は香月夕呼。それくらいは平然とやってのけるかもしれない。
 武は、決して香月夕呼という人間を見くびってはいない。世界を救う聖母にならんとする程の女性だ、他の者には不可能であろうと、彼女ならばポーカーフェイスのままに実現してみせるだろう。目的のためならば手段を選ばず、あらゆる手札を駆使してブラックジャックさえもねじ伏せるに違いない。それが出来るからこその、香月夕呼である。
「最悪、今回は諦めますよ」
「――どういう意味?」
 夕呼の目つきが鋭くなる。
「そのままの意味です。今回の世界は諦めて、次の世界に賭けます。結局のところ、博士の協力がなければ、オレには何も出来ませんから。今回の記憶を全部持ち越せるかはわかりませんけど、オルタネイティヴ4を成功させるための鍵は手に入れましたからね。今回よりもうまくいくはずですよ。――勿論、この世界でだって最後まで足掻かせてもらいますけどね」
 白銀武は死ねない。たとえ死んだところで、また10月22日に飛ばされてやり直すだけだ。
 平然と言い放つ武に対し、いつしか夕呼の唇が小刻みに震えていた。
「あなた……死ぬのが怖くないの……?」
「怖いに決まってますよ」口許に微かな笑みを散らしながら、間髪入れずに武は答えた。「でも、何もしないで死ぬ方が、ずっと怖いんです、オレにとっては」
 何度も死を経験するのは御免だし、今の仲間達を護り抜きたい、この世界でBETAを倒し、全てを終わりにしたいと願っているのも本心だ。だが、指をくわえてその成り行きを見ているだけというのは、仲間が死ぬかもしれないのに素知らぬふりをし続けるというのは、死ぬよりも御免だった。
 無論、この世界を見捨てるつもりはない。どんな手段を使ってでも戦場に向かい、命ある限り戦い続けてみせるつもりだった。
 ――結局のところ、諦めることなど出来るはずがないのだ。
 戦って戦って戦い続けて……これまでの世界、ただの一度とて諦められなかったからこそ、武は今ここにいる。
 もう、誰かが死ぬところなど見たくない。二度と大切な人を失いたくない。
 この世界を、今の仲間達を救うことを、諦めたくない――。
「――“夕呼先生”。もう一度言います。納得の行く理由を説明して下さい」
 武と夕呼、二人の視線が交錯する。お互いがお互いを睨み付けている。
 やがて、先に根負けして息を吐き出したのは、夕呼だった。
「…………わかったわよ、もう。あたしとしても、もうしばらくあんたを失うわけにはいかないしね……。――それにしてもあんた、意外に頑固だったのね」
「事と場合によりますよ」ソファに座り直して、武は答える。「納得出来る内容や納得せざるを得ない内容なら何も文句は言いません……ていうか、博士だって、オレの追及を予想してなかったわけじゃないでしょ? オレがおとなしく引き下がるなんて思ってなかったはずです」
「まあね。白銀にとって納得行くはずのないこと言ってるって自覚はあったわよ」自嘲するように、夕呼は口の端に笑みを浮かべた。「――ただし、知って後悔しないでちょうだい」
「わかってますよ。仮にそれで知らなきゃ良かったと思ったとしても、知らないよりはずっといいです。何も知らないままじゃ、前には進めませんから」
 立ち止まるよりは、後悔を繰り返してでも前に進むべきだということを、武は経験から知っていた。人間とは、後悔を糧に変えることの出来る生き物だ。
 これまで、何度も後悔を重ねてきた。立ち止まることもあった。それでも進むことが出来たのは、仲間達のお陰だ。その仲間達を護るためにも、こんなところで立ち止まってなんていられない。
 全てを知る覚悟は、残酷な現実を知る覚悟は、いつだって出来ている。
 十一年前、一つの真実を知ったその瞬間から、いつだって――。
「……まずはこれを見なさい」
 夕呼が差し出したのは、一通の封筒。武は無言でそれを受け取った。
 中を開けて出て来たのは、衛士強化装備から得られるバイタルデータを書面に起こしたものだった。
 そこに視線を走らせる。
 ――なんだ、これ……。
 医学の知識など一般衛士程度しかない武が見ても、このバイタルデータが尋常でないことは明らかだった。
 そこには、ずらりと異常な数値が並んでいる。心拍数、脈拍、脳波、血圧、体温、発汗量に呼吸数。その他諸々、どれも異常に高いか、あるいは低いかのどちらかばかり。平常値のものは、全体の三割もない。特に、脳の稼働率については異常という言葉では足りないくらいだ。
 たとえるなら、オーバーヒート状態のエンジンを無理矢理に回転させているような――。
「博士……これ……一体誰のデータですか……?」
 震える声で、武は問うた。
 脳裏を過ぎる一つの可能性を、認めたくない。認められるはずがない。その可能性を、無意識の内に思考から排除する。
 こんな数値、重度の薬物中毒者でさえ出せやしない。
 全身をメスで切り刻み、血管に直接薬物を流し込み、脳味噌に電極を繋ぎ、人工生体でツギハギを繰り返した――そうとしか思えないような数値。
 人間として、致命的に壊れている――。
 しかし、夕呼は武の縋り付こうとする希望を砕くかのように、冷ややかな声で言い放つ。
「……本当はもうわかっているんでしょう? ――白銀、あなたのよ」
「っ……!」
 わかっていた。あんな話の後に、わざわざ後悔するなという前置きまでして見せたデータが、武のものでないはずがない。
 だが、この数値はなんだ。どうして自分のバイタルデータがこんな異常な数値を示している? 武にはわからなかった。
「……先生。原因、わかりますか……」
 武の声音は、明らかに沈んでいた。夕呼を先生と呼んでしまったのは、無意識でのことだった。
 対して夕呼は――それが装っているかどうかは別として――平静な声で言う。
「一応はね……答える前に、一つだけ聞かせてちょうだい。あんた……最近、酷い頭痛を患ってたりしない?」
「っ……知ってたんですか」
「まあね。突然倒れたのだって、そんなに前のことじゃないでしょ。――それで、頭痛の頻度は? それと、あれ以来、倒れたことは?」
「頭痛は大小合わせて十回くらい……倒れたのは三回……ですね」
 これまで無表情に徹していた夕呼の顔が、目に見えて歪んだ。
「……思った以上に進行が速いわね……」
 苦々しげに呟く夕呼。
「どういう意味ですか?」
「もう一つ質問」武の問いに答えることはせずに夕呼は次の問いに移る。「その頭痛の後、何か思い出したりはした?」
「はい……っていうより、これまでの世界のことを思い出すと頭が痛くなるって感じですね。月詠中尉と戦ってる時にも、前の世界で月詠少佐や冥夜に稽古つけてもらってた時のこと思い出して……さっきまでは頭痛かったんですけど、今は随分楽になってます」
 霞がプロジェクションで純夏のイメージを投影してくれたお陰です、と武は付け足した。
 ふう、と夕呼は溜息を吐いて立ち上がった。
 戻ってきた夕呼の手には、深い紫色の液体で満たされた暗緑色の瓶と水差し、それに二つのグラスが握られている。武が元の世界から持ち帰った、お土産のワインだ。
 夕呼は慣れた手付きでコルクを抜くと、二つのグラスになみなみとワインを注いだ。無造作に夕呼は口を付け、小さく喉を上下させる。口を離すと、グラスの縁には赤い口紅の跡が残っていた。
「あんたも飲みなさい」
「はあ……」
 何故突然酒を持ってきたりするのだろうか。
 天才の思考は凡才には理解出来ないものだ。いや、たとえ仮に同じ天才であったとしても、夕呼の思考など武には一生理解出来ないに違いない。
 折角なので、武も出された酒に口を付ける。酒に強いわけではないが、全く飲めないというわけではなかった。元の世界では隠れて飲んだこともあったし、前の世界でも、ハイヴの制圧に成功したときに、祝杯を上げた記憶がある。
「……うまいですね、これ」
「この世界じゃ、普通は一生に一度だって飲めやしない代物でしょうね」
 酒に詳しくはない武でも、このワインがどれほど上等なものかはわかった。甘味と渋みと酸味の調和が取れていて、芳醇な香りが口の中に広がり鼻に抜けていく。
 試しにラベルを見てみると、武でも知っているくらいに元の世界では有名な、高級ワインだった。
 夕呼の言う通り、一生に一度だって飲めやしない代物だ。それどころか、向こうの世界でだって、冥夜にでも頼まない限り、武には飲めやしなかっただろう。頼んだことはないし、頼むつもりもなかった……そもそも、もう頼みようがないのだが。
「――人間の脳には、およそ百四十年分の記憶が入るようになっているわ」
 武がちびちびとグラスに口を付けていると、夕呼は突然言った。
 気付けば、いつの間にか、夕呼のグラスは空になっていた。頬を酒精で赤く染めている。
「普通の人間が一生の間に記憶に使う脳の容量は……そうね、これくらいかしら」
 そう言って夕呼は、水差しに入っていた水をグラスの三分の一程まで注いだ。
 グラスが脳、水が記憶か。
「中には完全記憶能力者っていって、どんなゴミみたいな記憶でも忘れられない人間がいるけど……それでも、精々このぐらい」
 グラスに水が注ぎ足され、三分の二ほどで水面が揺れた。
 武はアルコールに微かな酩酊感を覚えながら、しかし自分でも驚くほど明確な意識で、夕呼の話に耳を傾けていた。
「だから、普通の人間は、どう逆立ちしたって、記憶の容量が足りなくなるなんてことはないのよ。――けど白銀、あなたは違う」
「何度も時間をループしているから――」
「その通りよ……今まではそれでも良かった。ループの際に、因果情報として放出出来ていたから。――でも、今のあなたは、忘れていたはずの、複数の世界の記憶を取り戻しつつある。それも、自分自身の経験として」
 さらにグラスに水が注がれていく。四分の三を過ぎ、五分の四を過ぎ――やがて、グラスは水でいっぱいに満たされた。
 表面張力で盛り上がった水面が、緩やかな孤を描いている。
「……これが今のあんたの状態。実際はまだもう少し余裕があるのかもしれないし、もう手遅れなのかもしれない」
 満杯のグラスにさらに水が注ぎ足され――溢れた水が、テーブルを濡らした。
 つまり、この水が溢れた状態が、手遅れということなのだろう。
「……その限界を迎えたら、オレはどうなりますか?」
「風船を思い浮かべてくれればわかりやすいんじゃない?」
 限界を超えて空気を注入された風船はどうなるか。
 ――考えるまでもない、破裂するに決まっていた。
 人体に置き換えるならば、脳機能が破壊され、廃人に陥るということになる。
 つまり、この頭痛は、比喩でも何でもなく、脳がオーバーロードであげている悲鳴だったというわけだ。容量の限界を迎えているハードディスクに強引に情報を詰め込んでいるようなものだ。それが過負荷でないはずがない。
「勿論、因果情報として受け取った記憶を通常の記憶と同列に扱っていいわけではないから、必ずしもそうなるとは限らないけど……」
 夕呼の言葉をぼんやりと聞きながら、武はソファにもたれかかり、グラスに残っていたワインを一気に呷った。アルコールが喉を焼いて、脳神経を鈍らせていく。
 グラスを置くと、夕呼がすぐにお代わりを注いでくれた。
 先程の夕呼の台詞から推察するに、武がいつ限界を迎えるかはわからないということだ。もう限界を迎えている可能性だってある。
「……聞かなければ良かったって思ってる?」
 グラスの中の水をワインクーラーに捨て、自身も二杯目のワインをグラスに注いで、夕呼が訊ねてくる。
 聞いたことを後悔していないと言えば嘘になる。知らなければ良かった、という思いもある。だが、
「逆ですよ。むしろ、知って良かったって思ってます」
「……どうして?」
「お陰で、死んで次に賭けるなんて馬鹿な真似しようって考え、綺麗さっぱり吹き飛びましたから」
 もし次の世界にも記憶を持ち越したとしたら、目覚めた途端に廃人となって10月22日に永久に留まり続けることになりかねない。
 そんなことになれば、この世界は永久に救われないままだ。
 オルタネイティヴ4を成功させる鍵となれるのは、白銀武を除いて他にいないのだから。
「何が何でも、今回でBETAに勝たなきゃならなくなりましたね」
「あたしは最初からそのつもりよ。次なんてない――絶対に、BETAに勝ってみせる」
 夕呼の言葉は尤もだ。次の世界があるのは武だけであり、武以外の全ての人間は皆、今回しかないのだから。
 どうやら、アルコールの所為で、少々思考が緩んでいるようだった。


「……さっきの話、納得してもらえたかしら?」
 しばらく経って、お互い三杯目に突入したところで、夕呼が言った。
 さっきの話――武は少しだけ何のことかと思案して、教導官をやめてもらう、という悪い報せのことだと思い至った。
 武の脳は、記憶出来る容量の限界を迎えようとしている。もし次に大規模なフラッシュバックが起これば、白銀武という人格を保つことの出来る保証はない――。
 これまでの会話から、それがどれほど危険なことかはわかっている。
 だから、武ははっきりと答えた。
「――お断りします」
 と。
「何ですって……!?」
 夕呼が驚呼する。予想――いや、確信を完全に裏切られ、どうしてそんな馬鹿なことを言うの、とでも言いたげな表情で。
「博士のことだから、出撃したり訓練をしてる最中にフラッシュバック起こして死んだりしないかとかって心配してるんでしょうけど、そんなの、基地にいたって同じことです。何の拍子で思い出すか、わからないんですから」
 訓練の最中に記憶を取り戻したことは確かにあるが、それは精々耐えられる頭痛程度のもので、大規模なフラッシュバックは、今のところ、いずれも訓練や実戦とは直接関係のないタイミングで起こっている。むしろ、基地内で待機していた時の方が、次のフラッシュバックが起こる確率は高い。
「それに、オレが廃人になるのを怖がってみんなを危険に晒したりなんてしたら、本末転倒でしょ?」
 タイムリミットが来るまでの訓練で、少しでも彼女達を強くしてやれるかもしれない。
 たとえ実戦の最中にタイムリミットが訪れたとしても、武一人の犠牲で、みんなが助かるかもしれない。そのタイムリミットまでに武が倒せるBETAによって、誰かが死なずに済むかもしれない。
 全てはあくまでも可能性だ。だが、もう未来が殆ど予測出来ない以上、その可能性以外に縋れるものは何もない。
「……あんたは、それでいいの?」
「当然です……香月博士こそ、どうしたんですか? 一人の犠牲で、何人も生き延びることが出来るかもしれないんですよ? そんなの、天秤に掛けるまでもないじゃないですか。――まさかとは思いますけど、長く接していて情が移った、とか言わないでくださいよ? そんな理由で他の誰かを危険に晒したりなんかしたら、いくら博士だからって、オレ、許しませんからね」
 夕呼は武の言葉に答えることなく、グラスになみなみと満たされたワインを半分ほど、一息に飲み下した。
 まさか香月博士に限って――とも思うが、武は、この誰よりも冷酷な女性が、その実、情に厚い性格であるということを知っていた。オルタネイティヴ5が失敗した未来、誰よりもそのことを悔やみ、哀しんでいたのは、他ならぬ夕呼だったのだから。
「……あたしも、随分甘くなったものね。あんたの影響かしら?」
「そうだとしたら、申し訳ないですね」
 武が答えると、夕呼は自嘲するような笑みを浮かべて、グラスに残ったワインを飲み干した。
「大丈夫ですよ。オレはそう簡単には死にませんから。記憶にあるどの世界でだって、オレは最後まで生き残ってたんです。悪運の強さとしぶとさに関しては自信があるんですよ。何てったって、00ユニット素体適性ナンバー2ですから。脳味噌がパンクしたって、そう簡単には死んでやりませんよ」
 この世界からBETAを駆逐し、あの遙か遠く、尊い日常を手に入れるまでは、決して死ぬわけにはいかない。
 誓いを果たすまでは、絶対に――。


 2001年11月29日(木)


「う゛~~~……」
 武は、ベッドの上で唸っていた。
 頭がガンガンする。いつも通り起床ラッパ五分前に起こしに来てくれた霞も、心配そうにおろおろするばかり。
 昨日は、調子に乗って、結局夕呼とワインに日本酒、さらにはウイスキーやらスコッチやら、武があちらの世界から持ってきた酒を半分ほど飲み尽くしてしまった。夕飯を届けに来てくれたピアティフも巻き込んで、この世界では考えられないような贅沢極まりない酒宴となってしまったのだ。
 結果、武は酔い潰れ、許容量を遥かにオーバーしたアルコールによって、見事二日酔いに陥っていた。割れんばかりの頭痛と胃袋をひっくり返したような吐き気が、ひっきりなしに襲ってくる。
 武がこんな状態だというのに、一緒に飲んでいた夕呼は割と平然とグラスを呷っていたような気がするし、ピアティフはピアティフで流石はポーランド人、夕呼以上に酒は強かった。
 ――まりもちゃんがいなくて良かったな……。
 胡乱な頭で、武はぼんやりとそんなことを思う。
 一度目の世界の記憶を取り戻してきたことで頭痛には慣れたと思っていたが、二日酔いの頭痛には、とんと耐性がないらしかった。
 これでも、昨夜は途中で撤退したのだが。
「どうぞ……」
「ごめんな、霞……」
 心配げに霞が差し出してくれたコップを受け取り、中の水を一息で飲み干す。
 今日の訓練はやめておいた方が良さそうだ。昨日夕呼に大口を叩いたばかりだというのに、情けない。まあ、特殊任務で休日が潰れることが多かったから、その振り替えだとでも思えばいいだろう。
「霞、食事はどうする?」
「……純夏さんと食べます」
 純夏と食べる……ということは、B19フロアの、いわゆる脳味噌部屋で食事を摂るということか。あの脳が純夏のものだとわかって以来、あの部屋に対する嫌悪感は一切が吹き飛んだが、あの部屋で、ことに今の状態で食事を摂るというのは、精神衛生上非常によろしくない。
「じゃあ、オレはPXで食うから……また後でな」
 結局、昨日は酒盛りになってしまったので、霞にお土産を渡すという約束を果たせていない。お土産は夕呼の部屋に置いたままだった。
「……ばいばい」
「ああ、ばいばい」
 いつも通り手を振って霞と別れると、武はシャワールームへと向かった。二日酔いには熱いシャワーがいいと聞いていたからだ。昨日は、酒宴の前に軽く汗を流すことしか出来なかったので丁度いい。
 熱いシャワーを浴びると、全身の血の巡りが良くなり、頭がすっきりと目覚めていくような気がした。気がしただけで、相変わらず、重低音が響くような頭痛が止む気配はないのだが。
 重い足取りで部屋を出て、PXに向かう。その途中、
「白銀少佐、おはようございます」
「ああ……ピアティフ中尉……」
 廊下で出会ったのは、昨日の酒宴の参加者の一人である、イリーナ・ピアティフ中尉だった。
「ピアティフ中尉もPXに?」
「はい。ところで、お顔の色が優れないようですが……」
「安心してください、ただの二日酔いです……っていうか、オレ、未成年なんですけどね、一応」
 精神年齢はとうに二十歳を超えてはいるものの、肉体年齢は未成年だ。その所為か、前の世界に比べて、酒への耐性が弱くなっているように思える。
「副司令に掛かっては、軍規もあってないようなものですからね」
 そう言って、ピアティフは苦笑した。
 その笑顔に武は、一瞬どきりとさせられてしまう。
 彼女は夕呼の秘書官という立場上、意識的にポーカーフェイスを常としている向きがある。そんな彼女が、こんな無防備な表情を浮かべているというのは、武にとっては衝撃的な出来事であり、ある種凶悪な破壊力を有していた。
「……白銀少佐? どうなさいましたか?」
 思わず見蕩れていた武の顔を、身長差もあって、上目遣いに覗き込んでくるピアティフ。
 慌てて弁解する武。
「い、いやっ……! な、何でもない。何でもっ」
「そう……ですか?」
「は、はい。だから気にしないでください……」
 そう言って武は酒臭い溜息を吐いた。
 これまでの世界でも夕呼の特務兵として動くことは多かったとはいえ、彼女とはそう親しい間柄ではなかった。この世界では、夕呼との距離がこれまでのそれよりも近しいため、ピアティフとの交流も必然的に増えている。
 今まで特に意識していなかった――あるいは意識しないようにしていた――が、ピアティフは美人である。北欧系特有の白い肌と彫りの深い顔立ち、蒼い瞳。武の傍には、他にいないタイプの美女であった。
 一度それを意識させられてしまうと、どうも照れくさいのだ。夕べは泥酔姿という弱みを見せてしまった分、余計に。
 かといって、ここで黙り込むのも、それはそれで変な気もする。
 当たり障りのない話題を選んで、彼女の顔を見ないようにしながら、武は言った。
「それにしても、ピアティフ中尉は全然平気そうですね。オレなんてこの通りなのに」
 彼女は武よりもずっと大量の酒を飲んでいたはずなのだが。そういえば、飲んでいる最中も殆ど顔色が変わらなかったような気がする。
「流石はポーランド人……ってとこですか?」
 武がそう言うと、ピアティフは頬をほんの僅か紅潮させた。
「私の国では、飲酒に年齢制限はなかったんです。特に、私が住んでいた山岳地帯は冬の冷え込みが厳しかったので、子供の頃からお酒には慣れているんですよ」
「成る程……」
 年季が違うというわけだ。
 少しずつ照れも抜け、やがて元通り顔を合わせて話を続けることが出来た。尤も、気恥ずかしさと反比例するように、宿酔から来る頭痛が武を苛んでいたのだが。
 そしてPXに着くと、
「タケル!」
「たけるさん!」
 207B分隊ちびっ子コンビが、武の姿を認めるなり、声をあげて駆け寄ってくる。それに続いて、残る三人も一斉にPXの入り口へとやって来た。
「タケル、昨日は見事であったな」
「たけるさん、流石ですー」
「ボク、びっくりしちゃったよ!」
「格の違いを見せつけられちゃったわね」
「……とてもすごい」
 五人は口々に武を褒め讃えてくれるが、武は思わず頭を抱え込んだ。隣ではピアティフが苦笑している。
「白銀?」
 心配そうに千鶴が訊ねてくる。
「……大きな声出さないでくれ。頭に響くから……」
「頭痛ですかー?」
「昨日の疲れで風邪でも引いたのかな?」
 壬姫と美琴が首を捻る……が、
「…………いや、ただの二日酔い」
 その瞬間、武を見つめる五対の視線が、一気に冷たくなった。
「タケル、そなたは我々に何の報告もしないまま、酒盛りに興じていたというのか」
「誰と?」
「……こ、香月博士……」
 つぅ、と武の背筋に冷たい汗が伝った。
 幾度ものBETAとの戦いをくぐり抜けてきた武をして戦慄を禁じ得ない、強烈なプレッシャーが怒濤のように押し寄せてくる。まるで、珠瀬事務次官がやって来た日のようだ。
「ふ、二人っきりってわけじゃないぞ!? ね、ピアティフ中尉!?」
「少佐!?」
 まさか自分に話を振られるとは思わなかったのだろう、ピアティフは目に見えて狼狽する。
 武を睨んでいた視線が、そのままピアティフへと滑る。武以外の上官相手ということで、多少なり険は緩和されているはずなのだが、その強烈な威圧感に、ピアティフは喉から引きつった声を漏らした。
「タケル……そなたは随分と年上が好きと見えるな」
「いやいや、なんでそんな話になるんだよ!?」
 武は頭痛が酷くなるのもお構いなしに声を荒げて抗議をするが、
「毎日副司令の部屋に通ってるし」
「……神宮司教官とも仲がいい」
「ピアティフ中尉とも仲良しみたいですしー」
「これで年上好きじゃないって言われてもねえ……」
 う……と武は呻いた。
 記憶だけで言うなら、年上年下同い年を問わずに手を出していたりするので、否定のしようがない。年上が好きなんじゃない、年上も好きなんだ――なんて口走ろうものなら、墓穴を掘ることになるであろうことは間違いない。
「とにかく、昨日のは不純な動機は一切無し! 報告しに行ったらいい酒手に入ったから付き合えって言われただけ! 以上!! ――っつぅ……」
 頭を掴んで揺さぶられているような激しい頭痛に、武は苦悶の声を漏らした。
 武を心配するピアティフと、自業自得だとでも言いたげな207B分隊の差が、いやに印象的だった。
 がっくりと肩を落としたまま、武はカウンターに向かった。
「おや、武じゃないかい。昨日はお疲れさん、良くやったねえ――って、なんだいその顔は。顔色悪いじゃないか」
「実は二日酔いで……」
「大の男が二日酔いなんかでそんな顔しちゃって、情けないねえ。ほら、いつも通り鯖味噌でいいんだろ? 持っておいき」
「ありがと、おばちゃん」
 鯖味噌を食べようと思っていたわけではないのだが、確かに武が合成鯖味噌定食を頼む頻度は高い。メニューを考えるのも億劫だったので、ありがたかった。
 受け取ったトレイに視線を落とす。武がそれに気付くのと、隣にいたピアティフが「おや?」と声をあげたのとは、殆ど同時だった。
「おばちゃん、この味噌汁……」
「お、早速気付いたのかい? それがさ、聞いておくれよ。夕呼ちゃんが、コネで大量にもらったとかって回してくれたんだよ」
 味噌汁の香りが、明らかに違う。そして、使われている浅蜊も、見慣れた合成食材ではなく、天然の浅蜊だった。
 武がかつて住んでいた世界では当たり前に手に入る食材も、この世界ではごく一部の裕福な人間にしか味わうことの出来ない、高級食材なのだ。味噌一掬いでさえ贅沢極まりない嗜好品だと言っていい。
 ――無論、武が元の世界から持ち帰ったものなのだが。
「じゃあ、いつも以上に味わって食べないと」
「そうしてくれると、あたしもありがたいねえ」
 ピアティフがトレイを受け取ると、二人はPXの一番端にあるテーブルへと向かった。この辺りが、ピアティフや夕呼の定位置だった。彼女達が他の誰かと食事を摂るということは珍しいので、ここにはいつも四、五人分の空きが確保されている。
「そういえば、こうやってピアティフ中尉と一緒に飯食うっていうの、初めてかもしれませんね」
 味噌汁の椀を持ち上げて武は言った。
 食事よりも酒盛りの方が先だったという辺り、この世界での関係は何とも色気がない。
「白銀少佐は普段、教え子の皆さんと食べていらっしゃいますからね」
「訓練とかでタイムスケジュールが重なってますしね。一緒にいる時間も長いですし、自然とそうなっちゃいます」
 当初のような、打ち解けるためという目的はもうない。彼女達と食事を摂るのは、今ではもう、それが当たり前になっていた。
 だからこそ余計に、武がこうしてピアティフのような相手と食事を摂るというのは珍しいことだった。
 背中に突き刺さるような視線を感じるが、幻覚だということにしておく。
 しばらく、武にしては珍しくゆっくりと食事を摂っていると、
「あら? 珍しい組み合わせじゃない」
「あ、香月博士。おはようございます」
「おはようございます、副司令」
 相手は横浜基地のナンバー2だというのに、二人は慣れたもの、敬礼はせずに、顔だけを上げて言う。部外者が見たら驚くに違いない光景だ。
 尤も、武と207B分隊の関係の方が、ずっと卒倒ものなのだが。
 夕呼は無造作に武の隣の席へと腰を下ろした。武の背に突き刺さる視線が、一気に密度を増す。
「それにしても、207小隊やA-01だけじゃ飽きたらず、ピアティフにまで手を出すなんてね。流石は恋愛原子核、ってところかしら」
 いやらしく笑いながら夕呼は言う。
「恋愛……?」
「気にしないでくださいっ!」
 ピアティフの声を遮って武は言った。半ば叫ぶような大声で。反動で頭に電流めいた痛みが走る。
「香月博士と違ってピアティフ中尉は真人間なんですから、ないことないこと吹き込むのやめてくださいよ」
「失礼ね。それじゃあ、まるで私が真人間じゃないみたいじゃない」
「違うんですか?」
「…………」
 多少なり自覚があるのか、夕呼は不機嫌そうに黙り込んでしまった。
 ピアティフが苦笑している。
「……それより、ピアティフ中尉はともかく、どうして香月博士までそんな元気なんですか」
 同じ日本人なのに、どうしてこんなに違うのか。武は恨みがましげな視線を夕呼に向けた。
「いい酒飲んで悪酔いなんてするわけないでしょう?」
「…………」
 武は思わず溜息を吐いた。
 特級酒を飲んで悪酔いしていたのはどこの誰だっただろう。それはこの夕呼ではないし、ピアティフの目もあるから、口にはしなかったが。
 ……それに、あのときのことは、武もあまり思い出したくない。
 あんなに打ち拉がれていた夕呼を見たことはそれ以外になかったし、オルタネイティヴ4の終了と5への移行は、武にとっても苦い想い出でしかないから。
 00ユニットの完成にも一定の目処が立った今、その心配は殆どないが、皆無ではない。
 そのもしもの可能性を潰すためにしなくてはならないことは、山ほどある。
 ――11月28日。クーデターまで、あと一週間。
 特殊任務の振り替え休日? 馬鹿を言うな、そんなものがあるはずがない。
 二日酔い程度で音を上げてはいられない。たとえ体調が悪かろうと、今出来ることをしよう。
 浅蜊の味噌汁を啜りながら、武は今日の予定を組み立てるのだった。


 その日の昼休み、武は霞の待つ、純夏の脳髄が置かれた部屋へとやって来ていた。
 武の手には白いビニール袋。TQアームズという文字とロゴが印刷されている。約束していたお土産だ。
「本……ですか?」
 ビニール袋の中から取りだした本を手渡すと、霞はちょこんと首を傾げた。
「本っていうか、写真集だな。文字を読むんじゃなくて、中の写真を見て楽しむもんなんだ」
 武がそう言うと、霞はゆっくりと表紙を開いた。
「ぁ…………」
 霞は小さく声を漏らして、大きく息を呑んだ。
 そこにあったのは、様々な青と緑が混ざり合った――海。驚くほどに多種多様な青色が絶妙のバランスで解け合い、海底の珊瑚礁や魚群の影、太陽の光によって演出された海は、いかなる画家であっても、表現することは叶うまい。
 人間の手では決して生み出すことの出来ない、自然その物の持つ美しさ、その一瞬を切り取った写真は、霞を魅了するには十分すぎる力を持っていた。
 霞は、一つページを捲るたびに感嘆の溜息を漏らし、目を輝かせる。武の存在を忘れてしまったみたいに、写真集に魅入っている。
「気に入ってくれたみたいだな」
 嬉しそうに言って、武はビニール袋の中へと手を伸ばした。
 取り出したのは、手の平より少し大きい、円盤状の機械――携帯CDプレイヤーだ。ただし、これは夕呼が購入してくれたものではなく、武自身が元の世界で以前購入し、自分が違う世界から来たことを説明するために、横浜基地に来る際に持ってきた私物の一つである。この世界に来てから一度も使っていないから、電池残量は十分ある。
 CDプレイヤーをこの部屋に持ってきた理由はただ一つ。元より、機能はそれだけしかない。
「霞、ちょっとごめんな」
 一応断ってから、武はイヤフォンを霞の耳に押し込んだ。
 が、武の声が聞こえていなかったのか、それともこんなことをされるとは思っていなかったのか、霞はびくん、と体を跳ねさせ、武から距離を取るように後退ってしまう。
 そして、拗ねたように武を睨み付けてきた。
「悪い悪い」苦笑しながら武は言う。「ちょっとこれ耳に入れてもらえるか?」
 やはり無理矢理やるのはよくなかったかと反省し、武はイヤフォンを差し出した。霞は怪訝そうな眼差しを武に向けたままそれを受け取ると、言われた通りに耳に押し入れる。
 ウサ耳を模した髪飾りに当てるということはなかった。
 それをちょっとだけ残念に思いながら、武はCDプレイヤーの再生ボタンを押した。
 イヤフォンから突然流れ出した音に、霞は目を丸くした。
 しかしそれも一瞬、心地良さそうに目を細め、イヤフォンから聞こえてくる音に意識を傾けている。霞は気に入ってくれているのだろうか。きっと聞いたことのないであろう、波の音を。
 一トラック目が終わったところで、武は一時停止ボタンを押した。
 音が跡切れたことで、霞はイヤフォンを外し、武を見る。瞳には興奮の色がありありと窺えた。
「気に入ってくれたか?」
「……はい。とても嬉しいです……」
 微笑しながら、霞は頷いた。
「もうわかってるだろうけど、そっちの写真集は海の写真集で、今のは波の音。本物の海に連れて行ってやりたいところだけど、ここから歩いていける海はあんまり綺麗じゃないからな。今はこれで我慢してくれ」
 どうせ見せてやるなら、綺麗な海がいいし、それにこの時期では水が冷たすぎて波打ち際を歩くくらいしか出来そうにもない。そもそも、重金属で汚染された海で遊ぶなど、自殺行為だ。
 もっとずっと綺麗で暖かな海――たとえば、総戦技演習で行った南の島のようなところに、連れて行ったやりたい。
「私……いつか、海に行ってみたいです」
 目を輝かせて、決意したように霞は言った。
 彼女がこのように自己主張するのは、珍しいことと言える。だからそれが嬉しくて、武は最初から言おうと決めていた言葉に、より確かな想いを込めて応えた。
「ああ。オレが連れて行ってやる」
「本当ですか?」
 霞は隠しきれない期待を視線に乗せた。
「ああ、本当だ。いつか、BETAを倒して世界が平和になったら、一緒に行こう。――そのときは、オレと霞……それに純夏の、三人で」
 武は知っている。霞が、武の記憶の中の自分と純夏に、自分自身を重ねていることを。霞が、純夏の持つこの世界の『白銀武』と過ごした記憶に、想い出を見出していることを。
 だが、それでは駄目なのだ。それは武と前の世界の霞の想い出であり、純夏とこの世界の『白銀武』の想い出でしかない。決して、今武の目の前にいる社霞という少女のものではないのだ。
 ――だから、作るのだ。想い出を。武と霞と純夏、三人での想い出を。
 白銀武の半身は鑑純夏であり、社霞にとって、鑑純夏はもう一人の自分である。
 本当に楽しい想い出は、きっと誰か一人が欠けてしまっては、本当の意味では得られないものだろうから。
「――約束する」
 そう言って。武は、霞の白く細い小指に、自分の小指を絡ませた。



[2785] Muv-Luv ALTERNATIVE -Second World Was Failed- Intermission 03
Name: Vollmond◆d2a8c8a6 ID:49f1dd4a
Date: 2011/11/15 03:09
 2005年12月9日(土)


 この日、朝鮮半島は、未曾有の大混乱に陥っていた。無数の砲弾が飛び交い、幾度となく刃が振るわれ、数多の光芒が空を貫き、何千という戦術機が奮戦し、数えきれぬ人命が散った。
 史上最大規模のBETAの来襲である。その数――十万を上回る。その様は、地獄絵図と表する外ない。
 十万ものBETAが目指すは一点。かつての甲20号目標――鉄源ハイヴ跡地に建設された、ここ国連軍鉄源基地である。
 極東の最前線基地の名を横浜基地から引き継いだ鉄源基地といえど、五万ものBETAに対処出来るほどの兵力は常備していない。かといって、手をこまねいてBETAの進攻をそのまま許すわけにはいかなかった。一つ減ったはずのハイヴが、もう一度増える……それは、これまで虎の子のG弾が無力化されても尚続けられてきた人類の大反攻作戦の終了を告げる鐘の音となることが、誰の目にも明らかであったためだ。
 この鉄源基地は、人類反撃の象徴の一つ。ここをBETAにくれてやるわけにはいかない。
 故に、極東各地から、この基地へと向けて多数の増援が送られていた。幸い、朝鮮半島は三方を海に囲まれている。海路での輸送によって戦術機甲部隊を始めとする陸上部隊の増援は勿論、艦砲射撃もまた充実している。
 史上最大規模のBETA侵攻は、極東各国及び国連で構成される連合軍による史上最大規模の防衛戦の様相を呈し始めていた。

 その戦場に、蒼穹色の不知火の一団があった。その数、七機。蒼穹色の不知火を有する部隊は、この世広しといえども、たった一つしかない。
 国連軍横浜基地所属旧A-01――伊隅戦乙女隊(ヴァルキリーズ)。既に部隊名にその名を冠する英傑は散って久しいが、その魂を受け継いだ八人の衛士と一人のCP将校が、彼女の名を部隊名に戴いている。
 残念ながら、この部隊の部隊長を務める速瀬水月少佐は、この場にはいない。一ヶ月程前の防衛戦で負傷し、入院中であるためだ。衛士としての復帰が絶望しされるほどの重傷であったが、擬似生体の移植を経て、彼女は見事に復帰を果たそうとしていた。
 そこで臨時中隊長を務めるのは、白銀武大尉。
 2005年2月24日の甲20号作戦――後にこの作戦名には第一次という接頭辞が付くことになる――において当時副隊長であった宗像美冴が逝ったとはいえ、ヴァルキリーズには単純な指揮能力という意味では彼より優れた者もいた。その中で武が臨時隊長の任に就いているのは、他ならぬ水月直々の指名によってだ。彼女は、武に強い期待、あるいは信頼を寄せているようであった。
 それは、武の指揮能力を見込んでのことではない。
 武の持つ人間的な魅力……時に甘さとも言うべき独特の優しさ。水月は知る由もないが、武と伊隅みちるの間で最後に交わされた会話において、みちるが何よりも評価していた、武の強さであった。
 そのためか、水月はこれまでも頻りに、武に指揮官教育を受けるよう勧めてきていた。
 部隊長に必要なのは、指揮官能力は当然として、部下を纏め上げるカリスマ性である。それがあるからこそ、部下は信頼して隊長に命を預け、その命令に頷けるのだから。
 そういった意味では、武には高い指揮官適性があると言える。彼のカリスマ性は、ヴァルキリーズであれば誰もが知っていることだった。
 そしてもう一つ、部隊長に必要な能力がある。――それは、最後まで生き残る力。誰よりも生存能力に優れる者こそが、部隊長には相応しい。武の卓越した機動能力と悪運の強さから来る生存能力を疑う者はいなかった。
『ヴァルキリーマムよりヴァルキリー2! 十時方向に旅団規模のBETA群を確認、距離一万二千!』
「ヴァルキリー2了解! くそっ……まだ増えるってのかよ……ッ!」
 CP将校である涼宮遙からの通信に、武は苛立たしげに応えた。
 それもそのはず、戦闘が始まって二時間足らずであるというのに、ヴァルキリーズは既に三度の補給を行っている。それ程のペースで補給をせねば、襲い来るBETAの数には追い付かないということでもあった。
『ぼやいていても始まらぬぞ……!』
『……数は増えても、やることは同じ……ッ』
 武と同じく突撃前衛の二人、冥夜と慧が言う。
 水月がいない今、ヴァルキリーズの前衛は三人。フォーメーションは、冥夜と慧をトップスに、武をバックに置いた逆三角形。武の近接戦闘能力が二人に劣るということはないが、突撃砲の扱いにおいて二人より僅かに優れ、また指揮官ということで前方に突出させるわけにはいかないということで採用されたフォーメーションだ。
『そうそう、私達はBETAを倒すだけだよ!』
『ここを陥とされるわけにはいかないものね……!』
『頑張りましょう、たけるさん!』
『いくらBETAだって無限じゃないはずだもん、ねッ』
 茜、千鶴、壬姫、美琴……中後衛の四人もまた、武のぼやきに言葉を返す。
 強襲掃討である茜と千鶴を前方に、砲撃支援である壬姫、制圧支援である美琴が順に並ぶ。本来ならば小隊長のポジションである迎撃後衛も置きたいところではあるが、バランスを考慮して強襲掃討を左右に置き、壬姫と美琴は中央の縦のラインとなっている。
 二個小隊で部隊を運用しなくてはならないため、右翼と左翼で部隊を二分するよりは、中央で左右両方向に対処した方が効率的だろう、という考えによるものであった。
 その目論見は、今のところ成功していると言える。三人の犠牲者を出した甲21号作戦からおよそ一年半。その間に多数の戦闘を経ていながらも、死傷者は水月と美冴の二人のみ。美冴が散ったのも、今年初めに行われた甲20号作戦でのことだ。それは奇蹟的な数字であった。
 死者が出ないに越したことはないが、それは夢物語でしかない。これは戦争、それも異星起源種との果ての見えぬ、人類の存亡を懸けた全面戦争だ。僅か一週間で日本の人口の三割が死亡し、この大戦が始まって以来、世界人口は四割にまで減じた。そのような明日も見えぬ過酷な現実の中、武の周りでだけ誰も死なないなどということはない。
 今日この戦いの中で、どれだけの命が喪われていったのだろう。喪われていくのだろう。
 ――それでも。武は、生きていたかった。仲間達に生きていて欲しかった。
 その想いは、仲間達も同じだったのだろう。その結果が、この奇蹟とも言うべき損耗率であり、生存率であった。

 日本海及び黄海に浮かべられた艦隊から放たれる砲弾が、重金属の雲を貫いて降り注ぐ。炸裂する轟音と地鳴りは、スウェイキャンセラーを介してさえ、武に強烈な振動を伝えていた。
 これまでにも多数の防衛戦を経験してきた武であったが、今回は取り分け規模が大きい。
 太平洋国連軍の全力を費やしているといっても過言ではない。何しろ、ここ鉄源を勢力圏内に収めた統一中華戦線は勿論のこと、支援を申し出た日本帝国もまた、備蓄砲弾の八割以上を注ぎ込んでいるというのだから。
『九時方向距離二千、要撃級四十二体……来るわよっ!』
「たま、頼む!」
『了解!』
 面制圧をくぐり抜けてきた要撃級目掛け、珠瀬機の87式支援突撃砲が立て続けに火が噴いた。数秒の後、しわくちゃ顔にも似た尾節が超音速の36mm弾を受けて弾け飛んだ。
 この距離でこうも的確に、無駄弾なしで敵を射抜けるのは、世界広しといえど片手で数えられる程度だろう。
 極東一のスナイパーの呼び声は伊達ではない。距離が千五百を切ったところで武も加わり、壬姫仕込みの狙撃で迎撃する。
 瞬く間にその数を半減させていく要撃級の集団。
 最後には冥夜と慧も加えての砲撃により、要撃級は武達へと到達することなく全滅した。
『タケル、突撃級が来るぞ!』
『十二時方向距離千五百、十四体……』
「了解……冥夜、彩峰、一体も抜かせるな!」
 了解、の二重唱が応え、遠くから段々と大きくなる影目掛けて三機の不知火が吶喊する。
 敵を基地に近付けるわけにいかない防衛戦では、突撃級の脅威度は大きく跳ね上がる。進攻の際には飛び越えるだけでよかったところが、防衛戦では確実に仕留めねばならないのである。
 熟達した衛士にとって、突撃級の突進を躱し、柔らかな臀部にたらふく弾丸を食らわせてやるのは、さほど難しいことではない。しかし、数が増えれば当然対処は難しくなるし、確実に迎え撃たねばならないという状況は、体力を疲弊させ精神力を摩耗させる。
 それならば、壬姫の遠距離砲撃で仕留められる要撃級の方が、ずっと気が楽だった。
 迫り来る突撃級を左右のステップでいなし、突撃前衛の三人が次々に屠っていくが、その向こうから、何千という大群が押し寄せてくるのが、サブカメラ越しに武の目に映った。先程遙が告げた旅団規模のBETA群だろう。
「団体さんのお出ましってわけか」
 呟く武の声音には、苛立ちの色が濃い。
 軍勢の中には、混戦ともなればその恐ろしさがさらに跳ね上がる要塞級の威容もある。それが意味するところは、
『……完全に一次防衛線は抜かれちゃったみたいだね……』
 美琴が囁くように言った。独り言なのか部隊全体に向けた物なのかはわからない。前者と判断したわけではないが、言葉を返す者はいなかった。
 そもそも、第一次防衛線は、とうに使いものにならなくなっていた。
 ヴァルキリーズの位置する第二防衛線左舷から二次方向およそ三キロ地点、十時方向二キロ地点……そこには、直径百八十メートル弱、全長千八百メートルの――その大半は地中に埋まっており全容は見て取れないが――巨体がそれぞれ横たわっている。母艦級だ。
 第一陣を一次防衛戦が食い止めている間に、二体の母艦級は第二次防衛線まで進攻してきたのである。武達は事前に察知していたために大事には至らなかったが、第二次防衛線は、第一次防衛線よりも早く、決壊の危機に瀕していた。
 これが、武らが三度の補給を余儀なくされた理由でもあった。
 それからも散発的な襲撃を凌いできたが、ここに来て再び大規模な攻撃……それも、第一次防衛線を完全に抜いて。
 BETAの群との距離はもうおよそ二千。エンゲージまで、時間はもうなかった。
「ヴァルキリー2よりヴァルキリーズ各機――全機兵装使用自由! 奴らを血祭りに上げろ!!」
『了解!』
 言うが早いか、不知火の一団が一斉に前方へと疾駆する。
 戦闘の突撃級に接触するその直前、中へと躍る不知火。それを見た他の部隊から一斉に驚嘆と非難の声が飛ぶが、ヴァルキリーズにその声は届かない。誰もが思っただろう、光線級の餌食になりたいのか、と。
 だが、それを嘲笑うかのように、不知火の一団は一糸乱れぬ操縦で反転噴射――白い光条はただ空を焼いていくのみ。
「ヴァルキリー2、エンゲージ・オフェンシブ! ――フォックス3ッ!!」
 武に続くように、ヴァルキリー3から8というコールサインと、『エンゲージ・オフェンシブ――!』という声が一斉に続いた。
 どこかで驚呼と歓声が沸き上がる。
 それよりも早く、砲声とマズルフラッシュ、硝煙の嵐が巻き起こった。
 赤と青に黒が混じったような、奇妙な色の血を噴き出して次々と沈黙する突撃級。武達はすぐさま前方に向き直ると、近付いてきた要撃級目掛けて36mm弾を見舞った。咲き誇る血と臓物の花。
「冥夜、彩峰! 戦車級に気を付けろッ!」
『案ずるな!』
『大丈夫……!』
 最前衛の二機連携は流れるようにトップ&バックへとシフト――前方の戦車級を御剣機の長刀が薙ぎ払えば、彩峰機の突撃砲が長刀の届かぬ敵を撃殺、
「委員長、涼宮!」
『了解――!』
 千鶴と茜が都合八門の突撃砲で残る戦車級・要撃級を一掃する。
 掃射の性質上、照準はやや大味。それをくぐり抜ける戦車級は少ないながらも確かに存在する。だが、それら化生の生存を戦乙女達は許さない。
『壬姫さん!』
『鎧衣さん!』
 壬姫と美琴が確かめ合うように互いの名を呼び、それぞれの支援突撃砲と突撃砲が咆哮する。36mm劣化ウラン弾はさながら鉄鎚の如く、弾幕の穴を埋め、悉くを撃滅していった。
 未だ小型種を除いても百体以上が残っているが、それは討ち漏らしではなく、狙ってのことである。
 武が指示を出した瞬間には、既に部下は動き出している……それが、伊隅戦乙女隊であった。
 彼の判断が遅いわけではない。水月の采配を身近で見て、千鶴から指揮のいろはを叩き込まれた武は、経験の不足さえ除けば、未熟であることは否めないが、概ね優秀な指揮官であると言えた。
 だから、武が悪いのではない。
 むしろそれは、欠点などではなく、この部隊が長年の戦いを経て手に入れた最大の強みであった。
 以心伝心――まるで互いの思考を読んだように、ヴァルキリーズは互いの穴を埋め合い、言葉よりも早く指示を伝え合う。
 それは、互いに寄せ合う全幅の信頼があってこその芸当である。
 五年間、たった四人のメンバーを欠いただけで戦い続け、互いの長所も短所も知り尽くした上で築かれた絶対の信頼関係――伊隅みちるの名の下に戦い続けたヴァルキリーズの、掛け替えのない宝物だ。
 瞬く間にヴァルキリーズの周囲には骸の山が出来上がっていく。北欧の戦乙女が死神という側面を宿しているのであれば、彼女達は正しくBETAという人類の敵の命を狩り取る死神であった。

 ――だが、そんな彼女達の快進撃も、BETAの誇る破壊の光によって中断させられてしまう。
『くっ……!』
 冥夜が忌々しげに呻いた。レーザー照射に先んじての自律回避によって、機体が大きく揺さぶられたためだ。
『ヴァルキリーマムよりヴァルキリーズ! 光線級十二体を確認! 十一時方向距離千五百!!』
 光線級のレーザーは、人類の航空戦力を無効化した、BETA最大の飛び道具である。今までどれだけの衛士がこの光線によって焼き尽くされ、蒸発させられてきたことか。奴らのレーザー照射を受ければ、対レーザー蒸散塗膜加工を施されている不知火といえど、一溜まりもない。
 ヴァルキリーズは、この光線級がいるが故に、BETAの群を全滅させることが出来ずにいた。
 光線級は、決して味方誤射をすることはない。その習性を利用して、要撃級や突撃級を壁とするのである。壁が神話の海の如く割れればそこを破壊の光が貫くことから、事前に光線を察知することも出来る。
 光線級と自機との間にBETAを挟むことは、衛士にとって、生きるために必要な技術であるともいえた。
 しかし、それが要塞級となれば話は別だ。要塞級は数こそ少ないが、光線級に次いで厄介な存在であるからだ。
 その要塞級が三体、光線級を守護するかのように並んでいる。
 BETAには戦術という物が存在しないと長らく信じられてきたが、これは誰がどう見ても戦術以外の何物でもない。光線属種という砲台を守るという原始的な、けれどこの上なく効果的な戦術。
「――美琴ッ!!」
『任せて!』
 鎧衣機の両肩部に設けられたミサイルポッドから、尾を引いて放たれる都合三十六発の自律誘導弾。着弾することなく撃墜されるものの、それこそが彼女の狙い。AL弾頭が光線の超高熱によって蒸発、大気に冷却され黒々とした重金属の雲を作り出す。
 それを確認するより早く、
「ヴァルキリー2よりA小隊各機! 光線級を仕留めるぞ!!」
『了解――!』
 重金属雲の中に、突撃前衛の三人はが飛び込んでいく。そのフォローをするためにB小隊も続いた。
 迎撃せんと光条が放たれるが、その数は少ない。レーザー照射の間の十二秒間のインターバル。二度光線が放たれた今、武らに向けて放たれるそれはごく僅か。そしてそれも、重金属の盾に阻まれ、不知火の装甲を貫くことは能わない。
 ジャンプキャンセルから反転降下、一糸乱れぬ編隊が要撃級の群を飛び越える。待ち受ける戦車級の赤絨毯を強襲掃討二人の突撃砲が血で染め上げた。
 噴射跳躍――白銀機の跳躍ユニットが一際甲高い咆哮をあげ、冥夜らに並ぶ。
 放たれる突撃砲弾、しかし要塞級の脚に体に阻まれ、光線級までは届かない。
 故に、ヴァルキリーズは駆け、翔けるのである。時速七百キロをも超える不知火の航行性能を以てすれば、その距離を縮めることは難しくない。
 困難があるとすれば、それは光線級を守護する要塞級らの存在。
 ――ならば、それを排除してしまえばいい。
 次のレーザー照射が可能となるまで、残り数秒。僅か一秒でも遅れれば、誰かが犠牲になるのは間違いない。
 しかし、その心配をする者は誰もいなかった。
 さらに高く響く六発の跳躍ユニット。主腕に87式突撃砲と74式近接戦闘長刀を構え、蒼穹色の弾丸と化して要塞級・光線級へと突っ込む三機、それを援護する四機。
 マズルフラッシュが爆ぜ、次々とミンチと化していくBETAの群。

 ――そして、とうとう要塞級を間合いに収める。

 振り下ろされる三本の触手。それを危なげなく躱し、武達は要塞級の懐へと飛び込んだ。岩盤に衝角が突き刺さり、じゅぅ、と地面が焼ける音と白煙を立ち上らせた。
 それと同時、三機は示し合わせたように長刀を振るい、要塞級の触手を半ばから斬り落とす。
 身を捩るように要塞級が巨大な槍めいた脚をばたつかせる。それを避けつつ、三機は()()()突撃砲の砲口を光線級へと向けた。
 武ら三人は、要塞級の巨体を上方に背負っている。味方誤射を決してしない光線級は、その要塞級を撃たぬために、三機を撃つことも出来ない。
 触手を斬り落とされた要塞級にとって直下は完全なる死角。
 今、武達を阻む者は何人たりとも存在しない。
 故に、悠々と――けれどその実半秒たりと要さず。突撃砲は緑色の忌まわしき怪物へとその顎門めいた砲口を向け、劣化ウラン弾という牙が、その矮躯を噛み砕いた。
 瞬間、不知火がその機体を翻す。衝角を失おうとも、要塞級の威容は人類にとって脅威以外の何物でもない。その脚に串刺しにされて命を落とした衛士はごまんといる。みすみす見逃す手はない。
 そのための長刀である。
 跳躍――そして一閃、二閃……三振りの長刀は、要塞級の弱点たる三節構造の結合部を過たず斬り裂いていた。
 そのまま空中で体勢を整えると、一瞬だけ跳躍ユニットを噴かして推力を得て滑空、崩れ落ちる要塞級の下敷きにならぬよう脱出する。
 武、冥夜、慧の三人は網膜投影越しに視線を交わし、不敵な笑みを浮かべ合う。並の衛士にとっては最大級の脅威として位置付けされる要塞級狩りも慣れたもの。三枚に下ろした巨大な甲虫には最早見向きもせず、三機はすぐ次の獲物に取り掛かる。
 尤も、既に大半は中後衛陣によって屠られた後であったが。

「ヴァルキリー2よりヴァルキリーマム。周囲に敵影なし。確認を頼む」
『ヴァルキリーマム了解。――周囲三キロ圏内に敵影なし』
「ヴァルキリー2了解――」通信を切り替え、「――ヴァルキリー2よりクロム1へ。第9独立中隊はこれより補給に入る。我々の守備範囲を任せても構わないか?」
『クロム1了解……ヴァルキリーズは安心して補給してくれ。あれだけ獲物を独り占めしてくれたんだ、しばらくはアタシ達に任せて、あんたらはゆっくりしてな』
 クロム中隊隊長である小柄な女性衛士は、日に焼けた褐色の顔にどこか悪戯好きな子供を思わせる笑みを浮かべて言った。つられるように武も微笑する。
「こっちもこれまで働き詰めだったからな。しばらく休憩させてもらうさ。――ま、獲物は譲らないけどな。オレ達の中には、人に任せて指くわえたまま高みの見物出来るような大人しい奴は一人もいないんだ」
『ははっ、頼もしい限りだね。流石は横浜のエース集団だ』
「……よしてくれ、オレはそんな大層なもんじゃない」
『謙遜はいらねーよ。そっちじゃそれが美徳なのかもしれないけどさ。あんたらがどう思ってようが、あんたらはここを陥とした英雄部隊なんだ。夢くらい見させてくれたっていいだろ?』
 かつてハイヴであった甲20号目標を陥とし、鉄源の地を、朝鮮半島を解放したのが横浜基地の特殊独立部隊A-01第9中隊であることは、全世界――特にハイヴを領内に有する国々――において、今や周知の事実である。
 戦術機部隊がハイヴを陥とした……その事実は、今以て――否、今だからこそ、全世界の希望なのだ。

 ――何故ならば、G弾は最早通用しない。G弾を用いてハイヴを陥とすことは、不可能となっていた。

 G弾という神話は、多くの神話がそうであるように、非情かつ理不尽な現実の前にその神性を失い、夢物語、あるいは妄言の類へと堕していた。
 どれだけ強力なG弾を用いようとも、ハイヴ内部にまでその破壊が及ぶことはない。
 G弾の原料であるG元素グレイ・イレブンがBETA由来の元素である以上、それがいつBETAの手で兵器転用されるかわからない……それは、長らく続いた恐怖の予感であった。
 とうとうそれが現実となったのである。
 いや、実際には兵器転用と呼べるほど高度な物ではないかもしれない。ハイヴの内壁にG元素が利用され、それがG弾――五次元効果爆弾――のもたらす局地的な重力場を中和・無効化してしまっているのではないか……それが、一部の学者の立てた仮説だった。
 2005年7月4日、頑なにG弾神話の崩壊を信じなかった米国の一部は、かつて横浜に落とされたそれの五倍以上の破壊力を有する巨大なG弾を甲17号目標――インドシナ半島に位置するマンダレーハイヴ――に投下した。
 だが、結果は完全な失敗。
 巨大G弾はマンダレーハイヴに爪先ほどの傷も付けることが出来ず、それどころかインドシナ半島からマレー半島に掛けて大地を深々と抉り、その衝撃によって生じた大津波によって、アンダマン・ニコバル諸島は文字通り壊滅的な打撃を受け、いくつかの国連基地と万単位の人々がその命を落とすこととなった。
“マンダレーの悲劇”と名付けられたこの事件は、米国の権威を失墜させると共に、G弾神話の完全なる終焉を告げ、そして人々の心にG弾に対する嫌悪と憎悪を植え付けることとなったのだった。
 だからといって、これでG弾が完全に使われなくなったというわけではない。後に反応炉破壊を目的とするハイヴ内専用自決兵器としてG-11が考案・実用化された他、今後も地上掃討用として小型のG弾は使われていくことだろう。
 これまで絶対の力を誇ってきたG弾が無効化されたことで、戦術機による反応炉破壊が再びハイヴ制圧の唯一の方法となり、それを成し遂げた唯一の部隊である伊隅戦乙女隊は、今や人類の反撃の象徴となっていた。
 武とて、それはわかっている。
『心は自由であってもよいと思う……だが、その立ち振る舞いや発言は、常に周囲への影響を考慮すべきであろう』
 かつて、恩師である神宮司まりもの死の直後、自暴自棄になっていた武に冥夜が投げ掛けた言葉だ。力ある者――期待と羨望を背負うことを義務づけられた者に宿命付けられた、重い、重い言葉。
 ヴァルキリーズは英雄なのだ。――ならば、英雄として振る舞うこと、それが武の義務だ。ましてや、今の武は代理とはいえ、部隊長という立場にあるのだから。
「……そうだな。そっちの期待以上の働きはしてみせるさ」
『言うじゃんか。――そういうの、嫌いじゃないぜ』
 クロム1は獰猛な肉食獣を思わせる笑みを口許に散らした。だが、不思議と人懐こい感じのする笑顔だ。こういうタイプは信用も信頼も出来る……それが、経験から割り出した武の答えだった。
 武は通信回線を部隊内に切り替え、
「ヴァルキリー2よりヴァルキリーズ。これより一度後退し補給に入る。カバーにはクロム中隊が入ってくれるが、あまりのんびりするな。獲物を全部掻っ攫われるぞ」
『了解』
 応答を確認すると、武はもう一度チャンネルを切り替えた。
「それじゃあ、後は頼んだ、クロム1……えっと、名前は?」
『ん、アタシか? タリサ・マナンダル、階級は大尉。国連軍ウタパオ基地所属。あんたは?』
「白銀武大尉。国連横浜基地所属だ」答え、武の眼差しの色が深くなる。「――すぐ戻ってくる。マナンダル大尉、それまで持ち堪えてくれ」
『誰に言ってんだっての。アタシの部隊を無礼んじゃないよっ!』
 自信に満ちた表情。
 ――心強いぜ、マナンダル大尉。あんたらなら心配いらなさそうだ。
 武は思わず微笑し、それから機体を反転させた。それを見てタリサは一瞬きょとんとして、
『ったく……ほんと、日本人ってのは変な連中ばっかだ』
 呆れたようにがしがしと赤茶色の髪を掻き混ぜる。その口許に浮かぶ笑みは、どこか嬉しげでもあった。


 それからさらに一時間あまりが経過した現在、戦況は一層混迷の度を深めていた。
『タケル、二時方向の砲弾が薄い……このままではあそこから抜かれてしまうぞ! 支援砲撃の要請を!!』
「わかってる……! ヴァルキリー2よりHQ――支援砲撃要請! ポイントNW-20-17!!」
『HQ了解。砲弾が確保出来次第支援砲撃を開始する』
 それは要するにいつ始まるかわからないということだ。「くそっ……」と武は悪態を吐いた。
 地表を伝播してくる振動は、今もどこかで支援砲撃が行われていることを物語っている。そちらへの砲撃を継続するために、こちらに回す砲弾がないのか。
『ぼやいてたって始まらない……』
『そうだよ、白銀! ここは私達でどうにかしなくちゃ……何としてでも食い止めるよ!』
『茜の言う通りね。支援砲撃が薄手なのは痛手だけど、やることは同じよ』
『辛いのは他の部隊も一緒です。なら、私達が頑張らなくっちゃ』
『ボク達なら出来るよ。だって、今までだってそうやってきたじゃない』
『皆の言う通りだ。そなたが弱気になってどうするのだ、タケル。そなたは我らの部隊長であろう?』
 六人の戦乙女は、敵を滅するその手を一時も休めずに言う。
 まったく、頼もしい限りだ。仮にとはいえ、こんな部隊の隊長を務められることを、武は誇りに思わずにはいられなかった。
「誰が弱気になってるって?」不敵に笑う。「オレ達には支援砲撃がないくらいで丁度いい――そうだろ?」
 たとえ砲撃が不足しようが、千鶴の言う通り、やることは同じだ。迫り来る全ての敵をただ迎え撃つのみ。
「ヴァルキリー2よりクロム1。支援砲撃が薄いのはわかってるな?」
『何当たり前のこと訊いてんのさ? ……ま、早くもタマが尽きてきたってことだろーな』
 タリサはそう言うが、『早くも』というのは言葉通りの意味ではないだろう。
 これまでに全体で撃破したBETA総数は既に七万を上回る。通常の防衛戦であれば、とうに事態は収束していてもおかしくはない数だ。にもかかわらず、BETAの勢いは未だ衰える兆しさえ見せてはいなかった。
「二時方向辺りにでかいのが来てる」
 遙からの通信によれば、事ここに至って約一万の師団規模だという。しかも、支援砲撃は殆ど期待出来ない。つまり、一万体ものBETA全てを戦術機甲部隊で相手取らねばならないということになる。
 とてもではないが、一個中隊――それも二個小隊――で相手に出来る数ではない。
「そこで、だ。ここは手を組むのが得策だと思うんだが、どうだ?」
『そりゃいい考えだ。遠慮する理由がないね』
「交渉成立だな」
 ここまでの戦いで、互いの力量の高さはわかっている。双方、心強い援軍に違いなかった。
「ヴァルキリー2よりヴァルキリーズ各機! これよりヴァルキリーズはクロム中隊と合流し、二時方向の師団規模BETA群を迎撃する――ッ!!」
『――了解ッ!!』
 そして都合十三機の戦術機が、ひしめき蠢く大群をその目に映す。
 轟、と響き渡る噴射音が重金属の雲を散らし、蒼穹色が一斉に翔け抜ける。不知火とF-15Eの編隊は、自然、不知火を先頭にBETAの群へと吶喊していた。
「たま! 突撃級の足を狙え!」
『――了解! まかせてください!』
 クロム中隊の衛士達がぎょっとした表情を浮かべる。やがて訪れるであろうさらなる驚駭を想像して、武は唇の端を歪めた。
 珠瀬機の構えた支援突撃砲が、炸薬の爆ぜる轟音を立て続けに炸裂させる。マズルフラッシュの閃光が弾けたその直後、遙かな距離の先にいる突撃級の動きが止まった。
 否、ただ止まったのではない。薄橙色の足が突如として破裂したかと思うと、前のめりに倒れ込み、さらにはひっくり返って甲殻で地面を滑り、そして静止したのだった。
『すっげぇ……』
 タリサが驚嘆の声をあげた。その部下達も皆一様に息を呑んでいる。
 突撃級に前方からの砲撃は通用しない……その常識を覆す、神業だった。このような離れ業をやってのけるのは、壬姫くらいなものだろう。そも、これは武という、彼女の能力に全幅の信頼を置く者がいて初めて為された物であった。
 この方法の利点は、突撃級の背後を取る、即ち群の中に飛び込むという危険を冒すことなく突撃級を排除出来るというだけではない。
 突然足の止まった最前衛に蹴躓き、もんどり打って倒れるBETAもいれば、速度を落として迂回する物もいた。
 BETAは、生きたBETAを攻撃することはない。不可避な状況であったり特別な理由がない限り、奴らは仲間を踏み越えて進んでくることはないのだ。その代わり、骸を踏み越えることには、微塵も躊躇しないのだが。
 その習性を利用することで、突撃級を巨大な壁とするのである。
「ヴァルキリー2よりヴァルキリーズ、クロムズ各機! 殲滅しろ――一匹残らず食い尽くせぇえッ!!」
『了解――ッ!!』
 驚愕に忘我するクロム中隊を脇目に、武が声を張り上げる。それにヴァルキリーズが応え、
『りょ、了解……!』
 一拍遅れてクロム中隊が続く。
 武の告げた殲滅という言葉への歓喜を示すかのように、砲声が曇天の空へと高らかに鳴り響く。まるで鬨の声の如く。ほぼ一個中隊程度の戦力で師団規模のBETA群に立ち向かうという絶望的な状況の中、太陽の如き希望の炎を燃やす。
『月並みな言い方だけど、戦術機の替えは利いても、白銀の替えは利かない』
 かつて、彼の恩師が、失意の底にある彼に告げた言葉。今も胸の中で行き続ける、大切な言葉。
『あなたと、あなたの才能が生み出すものは、これから何万人という衛士の命を救うわ……。少なくとも私はそう信じている……今まであなたが見せてくれたものは、そう信じさせてくれるのよ』
 彼女だけではない。武の仲間達は、誰もがそう信じている。
 いかなる絶望の中でも、彼は再び立ち上がり、そして闇を晴らしてくれると。
 誰もが諦めたこの星を。彼と共にならば護り抜けると。
 人類は負けない。絶対に負けないと――そう、信じている。
「――やらせねえぞッ! やらせねえぞォッ!!」
 咆哮は力強く、雄々しく、猛々しく。
 想いを込めた弾丸は魔弾と化して、忌まわしき怨敵を次々と葬り去る。突撃級の壁から顔を覗かせたBETAは、片端から動かぬ骸へと還っていった。
 見る見るうちに、BETAであった物が土塁のように山積していく。
「冥夜、彩峰! 行くぞ!!」長刀と突撃砲をその手に携え二人に呼び掛け、「クロム中隊はフォローを!!」
 ひっくり返った突撃砲を飛び越える。
 瞬間、真っ赤に染まる網膜、レーザー照射警報の文字。強制的に自律モードへの移行をキャンセル、反転噴射で着地する。
 その瞬間、ぴたりと止まる悪魔の光芒。不知火の背後の突撃級のためだ。
 白銀機の兵装選択は120mm滑空砲弾。炸裂音と共に閃光が瞬き、その直後には多数の光線級が血と臓物の飛沫を撒き散らして絶命していた。
 通常用いられるAPCBCHE弾やAPFSDS弾といった対大型種用の弾丸ではなく、小型種掃討を目的としたキャニスター弾が、無数の小型弾丸をばらまいたのだ。
 同様にキャニスター弾を装填していた冥夜と慧が、多数の光線級を血祭りに上げていた。
 二発目のキャニスター弾で可視範囲内の光線級をまとめて駆逐し、後方に砲声を背負いながらその機体を躍らせる。
「光線級は粗方片付けた! 続け!!」
『了解!』
 武の指示に千鶴、茜、壬姫、美琴の四人が跳躍、それに後続する形で、クロム中隊の面々も跳躍ユニットを噴かした。レーザー照射はない。
 それぞれが手にした突撃砲やAMWS-21戦闘システムから放たれる36mm弾で要撃級や戦車級を排除、作り出した空白のスペースに着地、横に薙ぐように砲口をスライドさせる。
 無数の砲創を穿たれ、白や赤の醜穢な化け物が血と臓物と肉片を撒き散らした。
 ヴァルキリーズA小隊は長刀や短刀を携え、敵集団へと突っ込んでいく。
 要撃級を両断し、あるいは戦車級を薙ぎ払い、無数の穢れた血の花を咲かせ、壊れたスプリンクラーを幾つも作り出す。流麗な演舞を彷彿とさせる淀みない動きで三機の不知火は戦場を縦横無尽に駆け、あるいは翔け、次々と敵を屠っていく。


『にしても、何度見ても信じられねえな……』
 BETAの姿も疎らになった頃、クロム中隊の衛士の一人が言った。師団規模BETA群――その括りの中ではやや小規模であったが――の一時間足らずという短期殲滅、それも十三機中損耗はクロム中隊の前衛僅か二機というのだから、驚異的な戦果であった。
 他の衛士が賛同を示す。
『まったくよね。サムライだかニンジャだか知らないけど、BETAと近接戦闘やろうなんて』
『それが有効だってわかってても、普通は尻込みするよなぁ』
 自国にハイヴを抱える国々の開発した戦術機は、遍く近接戦闘を重視しているものである。
 たとえば日本帝国であれば不知火や武御雷にそれが顕著に現れているし、74式近接戦闘長刀という主要兵装にも反映されている。ソ連製のSu-37チェルミナートルやSu-47ヴィエールクトは、小回りの利く高機動性能に加え、モーターブレードやスーパーカーボン製ブレードベーンを設けられている。EUのEF-2000タイフーンはといえば、全身凶器の塊とは正しくこのことかという程、多数のスーパーカーボン製ブレードを固定兵装として全身に装備している上に、ハルバードや両刃長刀、戦突型多目的増加装甲スパイクシールドといった具合に、各国に合わせた武装が多数用意されている。中国の殲撃10型も、F-16の改修機の中ではトップクラスの格闘能力を保有している。
 むしろ、米国のF-22Aのように、格闘能力に重きを置かない――F-22Aの場合、重視していないというだけで、十二分な性能は有しているのだが――機体の方が今は珍しいくらいだ。
 とはいえ、未だ多くの衛士が近接戦闘に抵抗を覚えるのもまた事実。クロム中隊の面々も、ご多分に洩れないようだ。
 古来より、戦場は飛び道具によって支配されてきた。初期は弓矢に始まり、火縄銃、拳銃、ライフル、大砲、ひいてはミサイルまで。それは、戦う相手が人類からBETAに変わっても同じことだ。
 光線級以外のBETAは、飛び道具を持たない。要塞級の触手も射程は長いが、それでも砲弾に比べれば、あってないようなものだ。ならば、安全な遠距離から砲撃を繰り返すのが最も賢いことくらい、誰にでもわかるだろう。
 ましてや、近接戦闘は必然的にBETAに囲まれることとなる。死の危険は格段に跳ね上がるのだ、抵抗を覚えるのは当然であった。
 だが、彼らの隊長は違った。部下の会話を聞いて、何やらおかしそうに声をあげたのだ。『隊長?』と訊ねられると、
『昔、アタシの知り合いが同じこと言ってたよ』
 タリサは猫のようなアーモンド型の目を細めて答えた。その目が開かれると共に、口許が肉食獣めいた凶暴な笑みを浮かべる。
『ま、安心しときな。不知火タイプ94の格闘能力はアタシもよく知ってる。乗ってるのがあの連中なら、心配はいらない、さ……ッ! と』近付いてきていた要撃級を短刀での一撃で沈黙させ、『勿論、フォローはしなきゃならねーけどな。クロム7、準備はしときな』
『わかってますよ、隊長!』
 AMWS-21戦闘システムの36mmチェーンガンで戦車級をミンチにしながら答える。
 この地区のBETAは、元が師団規模であったにもかかわらず、粗方片付いている。それでも油断はするな、という部隊長からのありがたいお達しだ。
 クロム中隊の砲撃支援である彼女は、壬姫ほどの狙撃精度は持っていないものの、視野の広さに秀でている。武達にとっては、今は亡き戦友を思わせるタイプであった。
 ――だから、だろうか。それに真っ先に気付いたのが、彼女であったのは。

『振動センサーに異常あり……まさか――!』

 彼女がそう言った直後には、誰もがその異変に気付いていた。
 振動計が、これまでとは明らかに違う波形を示し、地鳴りの訪れを告げている。いや、そんな物に頼らずとも、スウェイキャンセラーを介してさえ突き上げられるような大地からの衝撃が、直接それを伝えていた。
「散れぇぇええ――ッ!!」
 武の叫びは、最早悲鳴であった。喉を引き裂くような裏返った声が、鼓膜を破ろうかという大声量で迸る。
 ――しかし、現実はあまりにも無情だった。
 巨大な地雷が炸裂した……そう思った者もいたかもしれない。それほどの衝撃が突如として襲い掛かり、強烈な破壊を巻き起こしたのだ。
 直径五メートルはあろうかという岩飛礫が、十メートル以上の高さまで宙を舞った。大地が炸裂し、まるで火山の噴火のように大小無数の土砂の柱が天を貫く。陽光が漆黒に切り抜かれ、世界を数秒の闇に沈めていた。
 濛々と立ち込める砂煙でカメラは無用と化し、大地震めいた地鳴りで振り切った振動計は最早役に立たない。音響センサーも同様。周囲を窺う術は最早ない。
 それでも、誰もが理解していた。今この場所は、数えきれぬ程の敵に包囲されているのだと。
 先の叫びと同時に、武はスロットルペダルを全力で踏み込んでいた。礫が噴き上がった地点を避けながら、土砂の破片に装甲が削り取られるが、それにも構わず武は砂煙の包囲を抜け――それを、見た。
 
 ――そこに聳え立つ、百メートル以上の小山を、三つ。

 数秒前までは影も形もなかったはずの大地は無数のBETAに埋め尽くされ、そこに君臨するかのように、一際巨大な異形が蹲る。
 見間違えようはずもない、BETAの最大種――母艦級。この上なく恐ろしい存在であり、かつては未確認大型種と呼ぶべき希少種であったはずのそれも、今では一戦に一度は目撃されるようになっていた。
 ――だが、それが三体も一箇所に、それも同時に現れるなど、前代未聞である。
「ヴァルキリー2よりヴァルキリーズ! 応答しろ! 応答しろ、ヴァルキリーズ!!」
 声を荒げる武。立て続けに出した大声の所為で喉を鋭い痛みが襲った。
 応答を待つ僅かな時間が、まるで永遠のように感じられる。その長い長い数瞬の後、
『ヴァルキリー3、無事だよ!』
『ヴァルキリー4、問題ないわ』
『ヴァルキリー5、切り抜けたよ』
『ヴァルキリー6、大丈夫です!』
『ヴァルキリー7、案ずる必要はない』
『ヴァルキリー8、平気』
 一斉に返ってきた応答に、武の表情が綻ぶ。
 ――良かった……みんな無事だ……!
 彼女達は、世界中のどの部隊よりも、母艦級対策を徹底している。それは、初めて出会した母艦級に、大切な物を次々と奪われたから。その恐ろしさを肌で知っているが故に、対策を怠ることはなかった。
 それに加えて、XM3を完璧に使いこなしている。武ほどではないが、曲芸じみた機動もお手の物だ。
 彼女らが一人として欠けることなく、四体という母艦級の出現に対処出来たのは、それらのお陰だった。
『ヴァルキリー4よりヴァルキリー2――一度散開した方がいいわ。このままだと、BETAの大群に囲まれる』
『千鶴の言う通りだと思う。白銀、どうする?』
「ああ――各自NOEで全速離脱! 一度散開した後、後退して合流、体勢を立て直す!」
『了解!』
 ほっと一息吐いて、
「ヴァルキリー2よりクロム1、そっちの状態は――」
 どうだ、という言葉は続かなかった。

 白茶けた煙を無数の光が貫き、焼いていった。

 ヘッドセットの音声に刹那混じったノイズが悲鳴のように聞こえたのは、武の気の所為ではないだろう。
 砂煙の中――母艦級の口があるであろう位置から空へと延びる、破壊の光。まるで、地より天へと落ちる雷のように。軌道上にある全てを全てを焼き尽くし蒸発せしめていく。
 ――嫌な予感がした。
 ごろごろとした石が胃の腑にひしめいているみたいに、体の奥が重い。武には、どくどくとうるさい心音が、何かのカウントダウンのように思えた。
「……ヴァルキリー2よりヴァルキリーズ……応答しろ――」
 押し殺した声で、武は言う。

 しん――と。

 返ってきたのは、静寂だけだった。
「応答しろ……誰でもいいから応答してくれ……ッ!!」悲鳴をあげる子供のように、武は叫んだ。「委員長! 冥夜! 彩峰! 美琴! たま! 涼宮! 誰か……誰か無事な奴はいないのか!?」
 それは、痛切な祈りだった。
 神がいるなら、願いを聞き届けて欲しかった。悪魔がいるなら、魂を売り渡してもいいと思った。何でもするから、みんなを助けてくれ……そう、真摯に願っていた。
 ――果たして。
『そなたが取り乱してどうするのだ、タケル――」
 願いは、届いた。
 いや、そうではないだろう。武の願いが届いたのではなく、彼女の――冥夜の生き延びるための最善を掴む力が、レーザー照射の雨を上回ったというだけのこと。そして、他に一切の応答がないのは、他の五人の最善を掴む力が、レーザー照射の雨に負けたというだけ。たったそれだけが、現実だった。
 武が彼女の無事に安堵の表情を浮かべると、冥夜は、そなたは仕方がないな、とでも言うかのように、くしゃりと――今にも泣き出しそうな笑顔を湛えた。
 ずきり、と胸が痛んだ。その痛みを抑え付け、武は衛士として――ヴァルキリーズの臨時中隊長として問うた。
「……何があったのか、冥夜はわかったか?」
『うむ』冥夜は頷き、『母艦級の一番手前に、光線級が並んでいたらしいのだ』
「光線級が……?」
『それも、三体全てに、ずらりとだ』
 その光景を思い浮かべ、武はぞっとした。百体もの光線級がひしめき合い、白い光芒が放たれる――。
 それが正に、今目にした光景だということだ。
 地面から現れる母艦級を回避しようと思えば、必然的に跳躍することとなる。それを光線級が狙い撃ちにしたのである。
 味方誤射は決してしないというBETAの性質上、他の母艦級に直撃する軌道であればレーザー照射はなされない。そのため、たとえ母艦級の口に光線級が群れをなしていたとしても、死角というものは存在するはずだった。
 だが、その集団が三つあるのだ。都合三百もの光線級がその隙間を埋め合う。武のようにレーザー照射より早く退避したのでもない限り、無事ではいられまい。
 そこまで思考が及んだ途端、ちり――と、武の背筋を冷たい電流が這った。
 彼女の技術を知らない武ではない。だが、彼女の離脱は武よりコンマ数秒送れてはいなかったか。
「おい、冥夜……」
 震える声で、武は彼女の名前を呼んでいた。
 半ば無意識の内に、衛士として過ごした年月で染み付いた技術と習慣が、御剣機の機体状況を呼び出し、武の網膜に投影させる。
「っ……」
 そして、息を呑んだ。
 両噴射ユニットは大破。右主脚は全壊し、左主脚もまた半ばからレッドアラート。主腕も同様……レッドアラート以外の箇所もまた、全て黄色に塗り潰されている。
 戦闘の続行は勿論、これでは最早、巨大な棺桶と何ら変わりはない。むしろ、冥夜の意識があることが不思議なくらいだ。コクピットや動力部への直撃がなかったのは不幸中の幸いだった。
 ぎり、と奥歯を鳴らした武を見て、冥夜は武が御剣機の状態を把握したのだと悟ったようだった。
 しかし、冥夜はそれを悔やむでも哀しむでもなく、ただ美しく笑んだ。
『……タケル、そなただけでも無事で良かった』
 心底安堵した、という穏やかな微笑。その言葉で、冥夜が助かる可能性が最早万に一つもないのだと、理解させられてしまう。
 ともすれば溢れ出しそうになる涙を堪えるために、武は歯を食いしばる。涙を流すことは決して赦されない。それが指揮官としての、死に行く仲間へのせめてもの義務だろう。
 固く目を瞑って、涙を押さえ込む武。
 そんな武を見て、冥夜は殊更穏やかな声音で告げる。
『急いでここを離れるのだ、タケル』
「え……?」
 それと時を同じくして、武のヘッドセットにアラートが響いた。――自決装置作動中、と。
「冥夜……!」
『もう私の機体は動かぬ。ならばせめて、一体でも多くのBETAを道連れにしてやらねば、伊隅大尉に合わせる顔がない』
 決して犬死にするな――ヴァルキリーズがその名を戴くかつての部隊長、伊隅みちるの教え。冥夜はそれを遵守しようとしているのだ。
 彼女の名を出されては、武は引き下がるしかなかった。
 ここで武が駄々をこねれば、冥夜の死は犬死に貶めされ、武は伊隅みちるという衛士の教えを踏み躙ることになる。彼女を尊敬する武に、それが出来ようはずがなかった。
 無論、それを知らぬ冥夜ではなかった。
「……不出来な隊長代行で悪かったな」
『そのような謙遜はよせ。そなたが隊長であったこと、誰一人として異議などない。――そなたは、我らの誇りであった』
「ありがとう、冥夜。お前は……お前達は、オレの誇りだ」
『うん』
 儚げに微笑する冥夜。
 一度瞑目し、再び目を開けた冥夜は、彼女らしい、力強く凛とした眼差しで告げた。
『さらばだ、タケル。――達者でな』
「ああ。みんなによろしく言っておいてくれ。――横浜の桜並木で、待っててくれ」
『……う、ん……ッ』
 それが、最後の会話だった。
 彼女の声の響きに微かな滲みがあったように思えたのは、武の気の所為ではなかっただろう。
 もう時間がない。S-11の爆発までも、そして冥夜が押し寄せるBETAの餌食となるまでも。武がいつまでもここに留まって、彼女の邪魔をするわけにはいかなかった。
 生ある限り最善を尽くせ――彼女の尽くそうとした最善を、武が汚すことなど、許されはしない。
 それでも、溢れる悔しさを堰き止めることは出来ず、頬に一筋の涙を伝わせながら、武はスロットルペダルとレバーを操作――時速五百キロ以上の速度のNOEで低空を翔けた。
 強烈なGに呻く。けれど慣性は、哀しみを置き去りにするということは決してなかった。
 サブカメラに、武同様跳躍ユニットを噴かしている機影が一つ映った。余程悪運が強いのか、武同様生き延びたらしかった。そのことが、純粋に嬉しかった。彼女達の犠牲で救われた命が、自分一人の物だけではないのだとわかったから。
 約二キロ後退したところで、武は機体を振り向かせた。冥夜の命を糧として生き延びるなら、せめてその最期だけは見届けよう……そう思って。
 その、瞬間だった。
『皆の者、準備はよいな?』
 冥夜が、そんな事を言ったのは。
 ――みん、な……?
 まさか、と。疑問が過ぎると、同時。
『勿論――』
 聞こえるはずのない声が、五つ。聞き間違えようのない声が、五つ。聞き慣れた声が、五つ。それに、応えて。

『ばいばい、白銀』
『白銀、さようなら』
『じゃあね、タケル』
『さよなら、たけるさん』
『じゃ、ね』
『さらばだ、タケル――』

 網膜に浮かび上がる、六つの小さなウインドウ。
 六人の女性は皆、見惚れるくらいに綺麗な笑顔を浮かべ、口々に別れの言葉を告げて。
 世界全てをモノクロームに染め上げるかのような閃光が立て続けに六つ迸った。


 武は、戦術機母艦日向の甲板に、一人佇んでいた。
「あぁ――」
 と息が零れた。
 遠く、つい数時間前までは国連軍鉄源基地と呼ばれていた建造物の影が見える。だが、今ではそれは、甲20号目標の忌まわしい名で再び呼ばれることになっていた。
 ――守れなかった。
 彼女達が命を捧げたというのに、基地を守りきることは出来なかったのだ。
 ヴァルキリーズとクロム中隊が三体の母艦級に襲われたのと時を同じくして、さらに八体……都合十一体もの母艦級が、戦線の各地に現れたのだ。
 しかも、基地の敷地内には五体。いかに極東最大級の基地とはいえ、それに対処出来るはずがなかった。
 瞬く間に戦線は瓦解、基地も壊滅。HQから海上の戦術機母艦への退避命令が下されたのは、その直後だった。
 感情は、その命令に従うことを是とはしなかった。
 大切な仲間達を奪ったBETAを、残らず殺し尽くしてやりたかった。一分一秒でも長く戦場に留まり、一体でも多くのBETAを屠ってやりたかった。
 だが、理性が――そして、感情の一部が、それに歯止めを掛けた。
 あそこに留まって何になるというのか。どんなにBETAを斃したところで、武一人に敵を鏖殺することなど出来はしない。たとえ他の部隊が残っていたとしても、巨象の群に蟻の大群で挑むようなものだ。結果は見えているし、自分一人の我が侭で多くの戦友の命を危険に晒すような真似は出来なかった。
 それに……その行き着く先は、死だ。
 それだけは、出来ない。彼女達がくれた時間をむざむざ捨てるようなこと、どうして出来ようか。そんな真似――それこそ、犬死だ。
 最期に向けられた彼女達の儚い笑顔。それに報いる方法はたった一つ……生きて生きて生き延びること、それだけだ。
 ――だが、悔恨は、募る。
 強化装備を身に着けていてさえ、握り締めた両の手の平には鈍い痛みがわだかまっていた。
 せめてもの抵抗ということなのか、敗戦が決定付けられた今でも、艦砲射撃は続いている。上空には黒々と重金属の雲が立ち込め、幾条もの光がそれを貫いて天まで延びる。この一戦に投じられた備蓄全てを使い切るまで、砲弾の雨は終わりを告げそうになかった。この光景は、あと一時間は続くだろう。
「――人類は、負けない……」
 ぽつりと囁くような呟きは、頬を嬲る風に掻き消されて消えていった。空々しい響きだ。
 最大の切り札であったG弾は破られ、以前多大な犠牲を払って陥とした鉄源ハイヴも取り戻された。間引き作戦の繰り返しによって、どうにか新たなハイヴの増加こそ防いでいるものの、既存のハイヴは着々とその規模を増していっている。今でとなっては、最も新しいハイヴである甲26号目標エヴェンスクハイヴでさえ、フェイズ4にまで達した。近頃は英国や米国もそれぞれ甲12号目標リヨンハイヴ及び甲26号目標からのBETA侵攻の危機に晒されており、人類の滅亡も最早時間の問題だ、と声高に叫ぶ者もいる。
 事実、その通りなのだろう。
『前の世界』で直面した世界の終わりの朧気な記憶が、苦味と共に武の脳裏に蘇ってくる。確たる記憶はないが、世界がBETAによって滅ぼされたという事実だけははっきりと刻まれていた。
 オルタネイティヴ5に希望はない……そのことは、最初からわかっていたはずだ。それでも、戦い続けるしかなかった。
 それは、これから先も変わらない。
 戦い続けるだけだ。仲間達の想いを背負い、恩師の無念を背負い、全てを賭して戦い続ける……武には、それしかない。衛士として戦うこと以外に、武にこの世界での生き方はないのだから。
「――人類は、負けない」
 先程よりも強く、繰り返す。今度ははっきりと耳に届くように――自分自身に言い聞かせるように。
 たとえどんな窮地に陥ろうとも、戦い続けてみせようという、決意を込めて。
 ――その、瞬間だった。

 天へと放たれていたはずの重光線級の一撃が、一隻の戦艦を貫いたのは。

 燃料に引火したのか、真っ二つに折れた戦艦は、真っ赤な炎と黒煙をあげて沈んでいく。
「――え?」
 武には、呆けた声を漏らすことしか出来なかった。
 朝鮮半島沿岸に展開した光線属種の集団が、海へと向けてレーザーを照射している。
 夜の帳が広がり始め、薄暗くなりかけていた世界が、煌々と照らしあげられる。その中心に位置する軍艦――その名を最上。此度の防衛戦において、日本帝国及び在日国連軍の旗艦とされる一隻であった。
 それはつまり。ヴァルキリーズのCP将校である涼宮遙もまた、その艦に搭乗していたということに他ならない。
 頭が真っ白になる。
 着艦したばかりの戦術機が救助に向かおうと飛び立つが、敢えなく撃墜される。
 さらに最上へと追い討ちを掛けるように、光線属種の放つレーザーが二条三条と放たれ、爆炎を炸裂させる。最上だけではない。
 光線の射程圏内に存在する戦艦全てに、破滅の光芒が嵐と化して襲い掛かる。
 瞬く間に一隻、二隻と沈没していく戦艦。
 本来ならば、光線が戦艦にまで到達することはあり得ない。重光線級からでさえ、水平線は僅か十数キロ先なのだ。
 だが、奴らはあろう事か、朝鮮半島東部を南北に横切るかつての太白山脈や半島南部の小白山脈に陣取っていた。かつて鉄源の地がハイヴと呼ばれていた頃に均され、その標高は大きく低下したとはいえ、未だ七百メートルは下らない。
 結果。その射程は、百キロにも達し。ほぼ全ての戦艦をその暴威の圏内に収めたのである。日向は、辛うじてそれを免れた、唯一の軍艦であった。
 いつか、とある科学者は言った。
『あなたには、この世界の誰よりも00ユニットとしての素質が――最良の未来を掴む素質がある。あたしは信じてるわ。白銀、あなたがいつか最良の未来を勝ち取ってくれると』
 その結果が、これだろうか。
 こんなものが、白銀武の掴んだ最良の未来だというのか。
 数多の仲間達の命と引き替えに自分だけが生き残る……たった百人ぽっちの敗走者が、今の武に掴めた最良の未来だったのか。
 そんなにも、人類は無力だったのか。
 夜が赤く染まる。煌々と燃え盛る炎は、煉獄の炎か、あるいは地獄の業火か――現世の送り火か。
 鳴り響くアラート。武はそれを、どこか茫洋とした、現実感から乖離した心持ちで聞いていた。
 人類は負けない――三度目を呟くことは、武には出来なかった。


 2005年12月10日(日)


 武が横浜基地に帰投したのは、この日の早朝だった。
 日向で過ごすこと一晩、横浜港に停泊した日向から、夜が明けるのも待たず、武は基地へと向かったのだった。
 鉄源基地陥落の報せは、瞬く間に世界中を駆け巡った。それは、絶望の訃音だった。人類敗北の可能性を、何より如実に物語る出来事であった。
 日向の艦内で生き延びた百名余りは、ただの一言も発することはなかった。誰もが沈鬱な空気を纏い、俯くばかりだった。
 これまで、BETAとの一戦に敗れたことなど数知れない。それでも、ここ数年は戦勝ムードが高まりつつあったのだ。G弾が無効化されようとも、もう人類が負けることはないのだと、いつ終わるとも知れない戦いを続けていけば、いつかは勝利が掴めるのだと、人々は無邪気に信じていたのだ。時折暗い影を落とされることはあっても、分厚い闇色の帳を取り払うことが出来るのだという、希望があった。
 それが、一日で完全に叩き潰された。一欠片の希望を抱くことすら許されぬほど、完膚無きまでに
「ちく、しょう……」
 怨嗟を絞り出すように、腹の底からたった一言を吐き出す。
 桜並木の内の一本。鉄材が立て掛けられた簡素な墓標……ヴァルキリーズと神宮司軍曹、そして数多の英霊達の眠る場所。そこに立って、武はひび割れたアスファルトを見つめていた。
 だが、それも数秒。武は、毅然と顔を上げる。そして、丸裸の桜を見つめて、言った。
「――オレは、負けない」
 たった一言だけ言って、武は踵を回した。
 押し潰されそうな絶望。
 それでも、白銀武に未来を託した者がいた。絶望の淵の底で、未来に光を見出す権利さえ奪われながら、彼の掴む最良の未来を信じた者が。
 ――ならば戦い続けよう。
 この滅び行く世界で、最期の瞬間まで、命を賭して。未来を掴むために。
 たとえ人類の敗北が決定しようとも、最後の一瞬まで足掻いてみせる。それが、ヴァルキリーズとしての矜持だ。
「――人類は、負けない」
 静かに、けれど力強く。武は鋼の意志と共にその言葉を紡いだ。

 門番の兵に認識票を提示し、開かれた門から基地の敷地内へと足を踏み入れる。
 見慣れたはずの建物を見上げた武の口から、長い長い吐息が零れた。まるで、何年もここから遠ざかっていたかのような感慨を覚える。この場所を離れていたのは、ほんの三日ほどであったというのに。
 兵舎の中に足を踏み入れ――その直前で、武の足が止まった。
 武からおよそ十メートル程の距離。そこに、いつもはポニーテールにまとめた髪を無造作に下ろした、速瀬水月が立っていた。黒い国連軍C型軍装。右腕と左脚に巻かれた包帯だけが白い。松葉杖を突きながらも水月は直立し、じっと武を見つめていた。
「――白銀武大尉、ただいま帰還しましたッ!!」
 大声を張り上げて敬礼する。
 その姿に、水月は涙を一粒零して、
「おかえり……よく生き残った、白銀」
 その怪我を感じさせぬ答礼を返してくれた。



[2785] Muv-Luv ALTERNATIVE -Second World Was Failed- 第19話
Name: Vollmond◆d2a8c8a6 ID:49f1dd4a
Date: 2011/11/15 03:08
 2001年11月30日(金)


「今日は、以前言ったシミュレータープログラムが完成したから、みんなにそれを体験してもらおうと思う」訓練前のブリーフィングで、強化装備姿のヴァルキリーズに向かって武は言った。「プログラム名は……エインヘリヤル・データとでも言っておくか」
「エインヘリヤル・データ?」
 幾つもの声が、その名詞を復唱する。顔を見合わせる女性達。この伊隅戦乙女隊(ヴァルキリーズ)という部隊において、その名が何を示すか知らぬ者はいなかった。
「……僭越ですが白銀少佐、それはやはりご自身を?」
 こういった場面では珍しく、楓が問うてくる。
 武は照れたようにがしがしと頭を掻いた。
「秋山中尉の言う通り、由来はオレのコールサインだ」
「ご自分のコールサインをプログラムに命名するとは……流石は白銀少佐ですね」
「……何が言いたい、宗像中尉」
 美冴は意地悪く口角を持ち上げる。その笑みに、武の背筋を冷たい物が這った。
「言ってもよろしいのですか?」
「……遠慮しておこう」
「流石は白銀少佐、ご自分の名と力を誇示することに関しては右に出る者はいませんね」
「遠慮しておくって言いましたよね!?」
 思わず素を出して武が叫ぶ。それににやりと美冴が笑い、
「――って神崎が言ってました」
「あ、あたしっ!?」
 例の如く上官侮辱罪の濡れ衣を着せられた月乃が、悲鳴をあげた。既にお決まりの遣り取りだが、未だに月乃は慣れていないらしい。
「ほう……いい度胸だな、宗像中尉」
「え、えぇ!? 何かよくわからないけどとりあえずごめんなさい白銀少佐――って、え?」
 目をぱちくりする月乃。この場の十四人の中で、状況を把握出来ていないのは彼女一人だった。目を白黒させたまま、きょろきょろと周囲を見回している。
「あの……白銀少佐?」
 苦虫を噛み潰したような顔で美冴。
「自分の発言には責任を持たないとな。オレを敵に回すとどうなるか、前に思い知ったと思っていたんだが」
「……やはり、速瀬中尉のようにはいきませんか」
 はあ、と吐息して、さして悪びれた様子もなく美冴は言う。
「当たり前だ。オレも単純だとは思うが、速瀬中尉ほどじゃないからな」
『前の世界』でさんざんいじられ続けたのだ、耐性というものが出来ているし、『この世界』では階級差という絶対の楯がある。
「さっきから聞いてると、私、馬鹿にされてるような気がするんだけど」
「気の所為だと思うよ、水月」
 にこにこと笑いながら遙。彼女の言う通り、水月を馬鹿にしているわけではない。少なくとも、武はそうだった。美冴はどうだか知らないが。
 まったく……と武は苦々しげに呟いて、話を元に軌道修正する。
「エインヘリヤル・データっていうのは、あくまでも仮の名前だよ。本当はヴァルキリー・データとでもしたかったんだが、発案者がオレってことで、ヴォールク・データに肖ってそう名付けたんだ」
「ヴォールク・データに? ……ということは――」
「ああ」みちるに頷く武。「エインヘリヤル・データはハイヴ攻略シミュレーションだ。みんな防衛戦にも慣れてきたし、そろそろ次のステップに進もうと思ってな。守備の次は攻撃ってわけだ」
 エインヘリヤル・データの作成に着手して十日。この間、ヴァルキリーズでは、JIVESを利用した大規模防衛戦プログラム演習が繰り返し行われていた。本来ならば連隊規模で行われるべきプログラムであったが、ヴァルキリーズは中隊でありながら、損耗率を五十パーセントに抑えた上でBETAの攻勢を凌ぎきるなど、局所防衛という点においてのみではあるものの、着実に成功確率を高めていった。
 最終的な理想は損耗率を二割以下――本音を言えば零パーセント――に抑えることではあるが、まずは防衛戦を成功させられるようになったことを評価すべきだろう。
 成功を確実にすれば、自ずと損耗率も低下していくものだ。
 そこで、防衛戦についてはひとまず及第点ということで、本命のハイヴ攻略戦に移ろうという次第である。
 プログラム自体は三日ほど前に完成していたのだが、武と斯衛軍第19独立警備小隊とのXM3トライアルなどもあって、延期されていたのだった。
「基本的にはヴォールク・データと同じと思ってくれていい。門から入って反応炉を目指す。作戦目標は反応炉の破壊」
「じゃあ、どこが変わってるんです?」
 水月が訊ねた。
「大雑把に言えば難易度だな。オレの経験や色々なデータを踏まえて、従来のヴォールク・データよりも大幅に難度を引き上げてある」
 最大の相違点は――武の記憶の限り、甲21号目標を忠実に模して作成したという点については伏せておく。彼女達に今余計な嫌疑を持たせる必要もあるまい。
 俄にざわつき始めるヴァルキリーズ。
 そも、ハイヴとは文字通り難攻不落の要塞である。故に、ヴォールク・データといえば、既存の演習プログラムの中でも最高難度を誇るプログラムであり、世界中屈指の精鋭部隊たるヴァルキリーズでさえ、どうにか反応炉到達を果たせるといったレベルなのだ。それも、隊員の半数以上の犠牲を払って、という注釈付きで。
 それをさらに難しくしたというのだから、彼女達の反応も無理からぬことだろう。
 無論それは承知の上で、武は続ける。
「これまでも言ってきたが、ハイヴ攻略戦はスピードが命だ。BETAを倒すのは最小限でいい。それさえ完全に身に着ければ、ヴォールク・データのクリアくらいすぐ出来るようになるさ」
 武一人でも、XM3搭載の不知火・弐型であれば反応炉到達は不可能ではない。
 尤もそれは、単機という身軽さ故の侵攻速度があってこそだし、たとえ到達したところでS-11一発では反応炉の破壊は不可能である。少なくとも四発……いや、五発は欲しい。前の世界で思い知らされた反応炉の強度が、武には苦い経験として刻み付けられていた。
 ――こっちでもG-11があれば楽なんだろうけど……。
 ごく小型のG弾であるG-11であれば、一発でも容易く反応炉を破壊出来る。
 しかし、G弾の運用はオルタネイティヴ5派に無用な勢いを与えてしまうことになりかねないし、夕呼もG弾には否定的だ。結局は無いものねだりでしかない。
 S-11で反応炉を破壊する以外に方法はないのである。
「だが、実際のハイヴを攻略するのは、ヴォールク・データよりも遥かに難しいと考えた方がいい。表階層のデータと下階層とじゃ、全く違うからな。――そこで、このエインヘリヤル・データの出番ってわけだ」
「現実のハイヴと同等の難度……というわけですか。しかし、それでは――」
 そこでみちるは言葉を切った。だが、武はその目から彼女の言わんとしたことの続きを読み取っていた。即ち、それではまるでハイヴに攻め込むかのようでは――と。
 無論、“まるで”ではない。正しくその通り、武はこの部隊で甲21号目標を落とすつもりなのだから。
「いいじゃないですか、大尉。やってみればわかることですよ」
 好戦的な笑みを浮かべて水月。
「速瀬中尉の言う通りだ。口で言うより、体験してもらった方がずっとわかりやすいだろう」
 そう言って、武は遙に目配せした。すぐにその意図を察して、遙が頷きを返してくる。ただ一人通常の軍服を纏っていた彼女は敬礼をすると、ブリーフィングルームを後にした。それを見届け、
「今回は初回ということで、涼宮中尉の管制を付けた上で、伊隅大尉に代わってオレが部隊の指揮を執る。オレはB小隊に編入……オレ、神崎少尉、築地の変則三機連携とする」
 元の二機連携――水月と小雪、月乃と多恵――を崩さないための編制である。その上で、水月と同じ分隊よりは月乃らと同じ分隊の方がバランスが取れるだろう、と考えてのことだった。
 突撃前衛が部隊指揮を執るのは異例のことであるが、武にとっては慣れたものだ。
 何か質問は? と訊ね、誰の発言もないことを確認し、
「五分後にシミュレータールームに集合!」
「了解!」
 

 ――何なんだこれは……!?
 エインヘリヤル・データを開始して僅か五分。伊隅みちるの思考は一瞬、驚殺に真白く塗り潰されていた。
『前方距離八百に師団規模のBETA群を確認!』
 管制を務める涼宮遙からの通信。それが予兆。たった一つの予兆であり、悪夢の始まりだった。
「師団、規模……?」
 誰かが反芻するように呟いた。あるいは、それはみちる自身の声であったかもしれないし、そうでなかったかもしれない。その呟きを耳にしたとき、彼女は茫然自失に陥っていたのだから。
 師団規模。それは即ち、一万ものBETAが一斉にこちら目掛け押し寄せているということに他ならない。
『早速か……! エインヘリヤル1了解――B小隊全機着剣、風穴を空けるぞ! 噴射跳躍で先頭の突撃級を飛び越えた後、突撃砲で着地地点を確保、近付いてきた要撃級と戦車級は長刀も使って各自対処しろ!!』
 舌打ち混じりに、けれどこの中でただ一人冷静に、白銀武から指示が飛ぶ。
 しかし、それに応える声はなかった。誰もが凍り付いていた。武の指示など聞こえていない。たとえ鼓膜を震わせようとも、脳がそれを認識出来ていない。フリーズ、とは正にこのことだろう。無意識が目の前の光景に全ての情報を拒否している。それほどに衝撃的な光景であり、それほどに絶望的な光景であった。

 網膜を埋め尽くすBETABETABETABETABETABETABETABETABETABETABETABETABETABETABETABETABETABETA――!!

 みちるとて師団規模のBETAと戦ったことがないわけではない。かつての本土侵攻の際に、あのおぞましい津波に飲まれかけたこともある。先日から始めた大規模防衛戦プログラムでは、プログラムによる連隊でとはいえ、軍団規模を相手取ったこともある。
 ――だが、これは何だ? この直径百メートルの洞穴を埋め尽くす化け物の群は――異形の雪崩は何なんだ……!?
 ひっ……と喉が細く鳴った。
 このようなこと、死の八分を乗り越えてからは初めてだった。あれ以来、どれほど多くのBETAを見ても、恐怖で脳が漂白されるようなことはなかったというのに。
 操縦桿を握る手に力が入らない。がくがくと脚が震える。シミュレーション――これはただのデータ上の存在でしかないとわかっていても、その威容に体は動いてくれない。
 その時だった。
『――しっかりしろッ! こんなことでハイヴが陥とせると思ってるのか!?』咆哮とも言うべき武の声が、みちるらの耳朶を強かに打ったのは。『お前達は佐渡島を取り戻したくはないのか!?』
 ――佐渡島を取り戻す……?
 帝国の横腹に突き立てられた牙。この国を蝕む魔の病床――甲21号目標、通称佐渡島ハイヴ。それを取り戻すことは、帝国軍の――否、日本帝国国民全ての悲願である。それは、国連軍に身を置いていようとも同じこと。
 そして同時に、ハイヴを陥とすという偉業は、全世界全人類の切望でもある。
 それを自分達の手で成し遂げる――武は、そう言っているのだ。
『忘れるな! お前達はヴァルキリーズ――伊隅戦乙女隊なんだッ! 死力を尽くせ! 最善を尽くせ! お前達はこんなところで犬死にするつもりか!?』
 ――死力を尽くして任務にあたれ。
 ――生ある限り最善を尽くせ。
 ――決して犬死にするな。
 それが、この伊隅戦乙女隊絶対の隊規三条。誓いと言ってもいい。衛士としてあるべき姿を表した、伊隅みちるが誰より尊敬する衛士から授かった教えである。
 たとえシミュレーションであろうとも、失敗は死だ。このエインヘリヤル・データという仮想空間上では、紛れもなく命を落とすことになる。実戦を想定しない訓練に意味はない。
 ――少佐の言う通りだ……!
 ぎり、と奥歯を鳴らす。
 そうだ、彼は言っていたではないか。律儀に全ての敵を相手取る必要はない、と。必要最小限の敵だけを撃破し、反応炉を目指して突き進む――それだけだ、と。
 だが、この視界を埋め尽くす大群を前に、それが可能だろうか。そう疑問に思ったその時、恐怖で震えるみちるの唇は、緩い孤を描いていた。
『お前達にヴァルキリーズとしての誇りがあるなら――その誇りをオレに見せてみろッ!!』
 ――その一喝で、心の炉に火が入った。
「聞いたな!? ここまで言われて黙って引き下がるのか!?」
 もう、体の震えは止まっていた。
 自分のすべきこと、目指すべきことがはっきりしたからか、思考はむしろ最初よりも冴え渡っているほどだ。
 冷静になって見てみれば、びっしりと内壁を埋め尽くしていたと思われたBETAの雪崩の中にも、密度の小さな箇所が数カ所見受けられる。そしてそれは、正しく武の正面――中央にあった。
 ――ああも冷静にこれを見抜いていたというのか……。
 自分と武との間にある力量の差を痛感する。だが、それを恥じるのも悔いるのも、後にすればいい。今は、武の言ったヴァルキリーズの誇りを彼に見せつけてやるだけ。
『上等じゃない……! 聞いたなB小隊! 白銀少佐に私達の誇りを見せるぞ!!』
『C小隊! お前達は伊隅戦乙女隊だ! 副司令直属の名は伊達ではないことを示せ!!』
 水月が吼え、楓が猛る。その部下達もまた、既に恐怖を乗り越え、意を決したのか、毅然として前を見据えていた。
 頼もしい部下達の姿に、胸が熱くなる。
 皆が伊隅戦乙女隊というこの部隊を心から誇り、その誇りに恥じぬ力を持っている……部隊長として、こんなにも嬉しいことはない。
『いい返事だ』武は無邪気な子供のような――けれど凶暴な肉食獣を思わせる笑みで応えた。『B小隊全機着剣、風穴を空けるぞ! 噴射跳躍で先頭の突撃級を飛び越えた後、突撃砲で着地地点を確保、近付いてきた要撃級は長刀も使って各自対処しろ!!』
『了解――ッ!!』


『ヴァルキリー5、7! 遅れてるぞッ! 雑魚に構うな!』
『りょ、了解!』
『前方六百に旅団規模のBETA群を確認!』
『旅団規模!? まだそんな数が……ッ!』
『エインヘリヤル1了解――左翼が薄い! B小隊、左翼から道を切り開くぞ!!』
『了解! 少佐に負けてられないわよッ!?』
『AC両小隊はB小隊の二秒後に続け! 突撃砲で内壁上部の戦車級と要撃級を駆除してくれ!』
「了解! 二……一……A小隊、行くぞ!」
『C小隊、敵を近付けさせるな!』
 ――凄まじい進軍……否、侵攻だった。
 幾万ものBETAを後方へと置き去りにし、幾千ものBETAを殺害し、ハイヴの中枢へと向かって十三の戦術機が駆け、翔けていく。
 エインヘリヤル・データを開始しておよそ四十分。当初の恐慌が嘘のように、ヴァルキリーズは順調に進んでいた。
 その中でも、やはり白銀武は突出していた。
 B小隊の中でも先頭――即ち部隊の尖兵となって、敵を駆逐する。だがそれにも増して圧巻なのは、誰よりも高いキルスコアを誇りながらも、正確に部隊全体へと指示を飛ばしていることだ。
 経過時間と深度計を見てみれば、これまでやってきたヴォールク・データのそれよりも、侵攻速度は上。
 だが、ブリーフィングでの武の言にもあった通り、このエインヘリヤル・データがヴォールク・データよりも易しいなどということは、間違ってもない。
 ――敵の数が多すぎる……!
 突撃砲のトリガーを引きながら、みちるは舌打ちの音をシミュレーター内に反響させる。
 従来のヴォールク・データは、パレオロゴス作戦でヴォールク連隊が考5号目標ミンスクハイヴから持ち帰ったデータと、数回の小規模な反攻作戦で得られたデータ、そしてこれまでの観測によって得られた統計データを元に構築されている。
 だが、このエインヘリヤル・データタイプSIは、それらのデータなど何の役にも立たないとでも言うかのように、無数のBETAで溢れかえっていた。
 未だに中階層に差し掛かるかどうかというところであるにもかかわらず、これまでにエンゲージしたBETAの数は、ヴォールク・データで下階層に至るまでのそれの倍以上。
 成る程、ヴォールク・データよりも遥かに難しいというのも頷ける。
 それをこれまで損耗率零パーセントに抑えてこられたのは、間違いなく武の存在あってこそだった。
 自身で何百という敵を屠りながらも的確な指示を飛ばし、最適化されたとしか言い様のない機動で部隊全体を牽引していく。
 私ではここまで来ることも困難だっただろうな――とみちるは冷静に戦況を見つめていた。その事実を受け入れてしまう自分自身に腹立たしさと悔しさを覚えながらも、ならば、と武の指示を一言一句聞き漏らさずに胸に深く刻み付ける。
 この伊隅戦乙女隊と名付けられた中隊の指揮官は伊隅みちる以外にはあり得ない。なれば、今武が行っている部隊指揮を、みちるもまた出来なくてはならないのだ。
 白銀武の力量を高く評価し、上官として尊敬しているみちるではあるが、自分よりも年下の人間にこうも差を付けられて黙っていられるほど、大人しい性格はしていない。
 故に、学習する。白銀武という最良の手本を元に、自分の力量を引き上げる――。
 みちるだけではない。一時的にしろ突撃前衛長という己が地位を武に明け渡した水月も、C小隊長を務める楓も、白銀機の挙動を、その指示を脳に焼き付けていた。
 ――疾風迅雷。
 疾風の如きはやさでBETAを擦り抜け、迅雷の如きはげしさで立ちはだかる壁を撃滅する。
 蒼穹色の疾風が、迅雷を撒き散らしながら侵攻していく。武の機動は、正しくハイヴ攻略の理想型だろう。
 ――これが、エインヘリヤルというわけか。
 戦乙女の尖兵――その名の通りだ。
 そこに、以前記録映像で見た危うさは見られない。あるのは、ハイヴ攻略という至上命題のために邁進しつつも、部下を死なせまいと最善を尽くす一人の指揮官の姿。
 あの記録の中の機動は、何か悪い夢であったのかと思えてくる。
 ……だが、あれは夢などでは断じてなかった。BETA程ではないにしろ悪夢の類に属するであろうが、あれは歴とした現実だった。BETAに対し暴虐の限りを尽くす、人類の成れの果て。
 今のところそれは発揮されていないようではあるが、それは言い換えれば、武がまだ本気ではないということでは――
『何をしてる、ヴァルキリー1! 隊形を崩すなッ!!」
 武の一喝が思考を中断させ、みちるの意識は再び表層へと浮かび上がってくる。
「りょ、了解! 申し訳ありません!」
 訓練の賜物か、体に染み付いた衛士としての技術は無意識の内に迫り来るBETAを斃していたようだが、余計な方向に思考が逸れていたためか、隊形を崩してしまっていたらしい。隊長にあるまじきミスだ。
 奥歯を鳴らし、みちるは前方を見据えた。
 あの邪悪とも言うべき先日の武のことは、今は忘れるべきだ。今やるべきことはたった一つ――目の前のこの訓練に集中すること。そして、反応炉の破壊を達成することだけ。
 それに、あの虐殺の主が白銀武であろうとも、何を悩むことがあろう。
 白銀武は、伊隅みちるにとって、尊敬すべき上官であるのだから。


 ――それから、一時間。六機の不知火と一機の不知火・弐型は、多大な犠牲を払いながらも、どうにか下階層へと辿り着いていた。
 生存しているのは、武を筆頭として、みちる、水月、美冴、月乃、凛、茜。中隊全体ではおよそ半数の戦力を失った計算となり、美冴一人となったC小隊には、彼女と二機連携を組むために凛が編入されていた。
 普段のヴォールク・データであれば、この時点で残っているのは精々小隊長と美冴を加えた四機程度。それを大幅に上回る難度のエインヘリヤル・データでこれだけの数が戦闘続行を可能としているのは、やはり武あってこそだろう。
 武の実力は当然のこととして、何よりも物を言っているのは経験だ。
 迷宮としか表しようのない複雑なハイヴ構造の中でも確実に最短の経路を、どのように敵を回避あるいは撃破するのが最も効率的であるかを、武は誰よりも知っているのである。
 このエインヘリヤル・データが武の手による物であることは、あまり関係ない。霞の協力によりハイヴの構造やBETAの行動には、膨大な乱数が組み込まれている。
 それでも最短経路を選ぶことが出来るのは、数千回ものヴァルキリー・データへの挑戦と四度のハイヴ侵攻によって身に着けた、一種の勘――経験則の賜物だった。
「あと少しだ――頑張れ、みんな」
『了解……!』
 返ってくる声には、はっきりと疲れが表れていた。
 シミュレーターとはいえ、筐体の揺れと強化装備によるフィードバックにより、擬似的にGが再現されている。それに加えて、エインヘリヤル・データによってもたらされる実戦さながらの緊張感。
 常以上に精神力が削られ、続いて体力が奪われるのは、必然であった。ここまで脱落せずにいられた七人ではあるが、武以外は皆紙一重、誰が撃墜されていてもおかしくはなかったのだ。
 これまでに使用したS-11は四発。祷子と小雪の自爆が計二発、後続を断つために武の指示で茜と千景が――千景はその後脱落してしまったが――それぞれ一発を使用していた。
 ――この状態で“アレ”に対処出来るか? ……いや――。
 武は、知らず口中の唾を飲み込んでいた。それに気付き、自分が緊張しているのだと自覚する。その理由はわかっていた。
 もうじき最下層に差し掛かる。即ち――奴が現れるということだ。兵士級と並んで、武にとって最も忌むべきBETAが。
『前方千から師団規模、後方七百から連隊規模のBETA群の接近を確認――』
 遙の管制に「エインヘリヤル1了解」と応え、武は前方の暗闇で蠢く醜穢な異形の群を見据えた。青白い燐光に浮かび上がる突撃級の甲殻。その向こうには要撃級の尾節や要塞級の巨体も見える。
『師団規模……ということは、やり過ごすことは難しそうだな……』
 ぽつりとみちるが呟いた。
『その通りですね、大尉』楓が同意を示す。『しかも後方には連隊規模のBETA群……どうするのですか、白銀少佐?』
「基本はこれまでと同じだ。噴射跳躍で第一陣を飛び越えて、着地地点を確保した上で着地……その後はまた噴射跳躍で離脱する。違うのは――七瀬」
『はっ。何でしょうか、白銀少佐』
「いつでもS-11を爆破出来る準備をしておいてくれ。奴らのど真ん中で爆発させられれば、後続もしばらくは断ち切れるはずだ」
 出来ることならば二発あるいは三発ほど使って内壁を崩落させてしまいたいところではあったが、それでは反応炉を破壊することが難しくなってしまう。反応炉の破壊には、四発のS-11を以てしても失敗する可能性があるのだ。このプログラムの最終目的が反応炉の破壊にある以上、消耗は必要最小限に抑えたい。
 S-11の設置場所次第では三発程度で反応炉を破壊することも可能かもしれないが、それは希望的観測に過ぎない。希望的観測の恐ろしさを誰よりも知っているのもまた武だった。
 それに、この後には奴が控えている。通常兵器では毛筋程の損傷も与えられない、最悪の悪魔が。
 奴に一発、ここで一発……反応炉には四発は使いたいことを考えれば、それ以上のS-11を使用することは出来なかった。


『B小隊続け! 突撃前衛の名に懸けて中隊分の足場を確保しろッ!!』
『了解――!』
 武を先頭に、速瀬機、神崎機の三機が宙に躍った。砲声が幾重にも鳴り轟き、眼下のBETA群を瞬く間にミンチへと変えていく。
『AC両小隊も続け!』
 武の指示と同時、四機の不知火の跳躍ユニットが一斉に火を噴いた。続く命令が飛ぶよりも早く突撃砲が続けざまに咆哮し、天井とB小隊が片付け切れなかったBETAを骸へと還す。
 同様の進軍を続けること三度、前方の敵影が減ってきたところで、武の指示が変わった。
『よし――ヴァルキリー7を除くヴァルキリーズ各機、円壱型陣形で周囲のBETAを迎え撃つぞ! ヴァルキリー4、8は上の警戒も忘れるな! ――ヴァルキリー7、タイマーを30でS-11を設置しろ!』
 了解、と応え、七瀬機は予め主腕に保持していたS-11をハイヴの内壁に固定し始める。
 その間もBETA達は容赦なくヴァルキリーズ目掛け襲い掛かってきていた。当然だ、今部隊がいるのは、敵地の、それも旅団規模の群のただ中と言ってもいい。大部分は置き去りにしたとはいえ、全てを無事やり過ごしたわけではないのだから。
 迎え撃つ六機には、想像を絶する圧力が押し寄せていた。
 マズルフラッシュの閃光が瞬きの間ハイヴ内を照らしたかと思えば、その瞬きが終わる時には血の花が咲く。
「こ、のぉ……っ!」
 涼宮茜は、呻くような声を喉の奥から絞り出しながら、トリガーを引く指に力を込めた。陣を組んで後、四門の突撃砲が滅ぼした敵はとうに三桁、部隊トップ。強襲掃討の面目躍如である。しかし、BETAの群は一向に減る気配さえ見せなかった。
 ――まだなの……七瀬少尉……!?
 思わず込み上げてくる弱音を必死に飲み下し、上方と前方二方向のBETAへと砲撃を加えていく。
 一呼吸ごとに重圧で心臓が押し潰されそうになる極度の緊張状態。過ぎていく時間がやけに遅い。耳朶を打つはずの砲声が聞こえない。一秒がなんと長いのだろう。円陣の内側だけ、時間の流れが歪んでしまっているかのよう。それが証拠に、津波の如く押し寄せる醜穢な雪崩はむしろその速度を増して――。
『――ヴァルキリー7、S-11設置完了しました……ッ!!』
 瞬間、歪んだ時間の流れが正常に回帰した。
 遠ざかっていた砲声が鼓膜を振るわせる。安堵が込み上げてくる。しかし同時に、緊張の糸を切らさぬ精神力を、茜達は任官してからの数ヶ月で身に着けていた。
『全機、全力噴射跳躍! 爆発に巻き込まれるな!!』
 了解の声と共に、七機十四発の跳躍ユニットが轟音を重ねた。蒼白い尾を引いて空を翔る蒼穹の戦術機達。その後方で高性能爆弾が炸裂、ハイヴが大きく鳴動し、大気を揺るがす
 もう反応炉は目前。このS-11の爆発で、後続のBETAはその大部分が死滅するだろう。あとは反応炉を破壊して終わり――このエインヘリヤル・データという超高難度プログラムを、自分達は成功させるのだ……。
 昂揚。気を抜いたわけでは決してない。ただ、ほんの僅か、注意力が足りなかっただけ。
 いや、たとえ十全に注意を払っていたとしても、対処は難しかっただろう。
 ――S-11による震動、それに紛れた微かな歪みに気付けたのは、ただ一人だった。


「――来る」
 半ば無意識の内に、武はそう口にしていた。
 ヴァルキリーズの面々が、一斉に怪訝そうな表情を浮かべる。が、次の刹那には、彼女達にはその疑問を抱き続ける余裕など許されていなかった。
 予兆はあった。それは、振動計が拾ったごく僅かな波形の乱れ。ハイヴ内では常に――殊に最下層では一層細心の――注意を払っている、そしてその意味するところを知っている武だからこそ、それに気付くことが出来た。
 しかし、武はその予兆の存在をヴァルキリーズに呼び掛けはしなかった。そんなことには、何の意味もないと知っていたから。
 ――そして、絶望の化身が固い岩盤を破って、その姿を現した。
 濛々と立ち込める土煙越しに覗く円筒形――芋虫を彷彿とさせる巨体、その直径は優に百五十メートルを易々と上回る。一端の中心には円環を形作る嘴が埋め込まれており、そこから放射状に牙状の鱗のようなものが削岩機めいてずらりと並んでいた。
『な……ッ!?』
 辛うじて誰かが、短い驚呼だけを漏らした。あるいはそれは、引きつった喉の産物であったのかもしれない。
 言葉を失っていた。呼吸が止まっていた。
 網膜に投影された仮想現実は、物理的な衝撃さえ伴って、彼女達を打ちのめしていた。驚殺、とはこのことを言うのだろう。現実に、驚愕だけで心臓が止まりかけた者さえいたのだから。
 ――母艦級BETAメガワーム。
 人類の常識を嘲笑うかのようなBETAという異星起源生命体の群の中において尚、超越していると言わざるを得ない異形の化け物。
 誰も見たこともない。聞いたこともない。想像を絶する事態に、思考が凍り付く。
 ――だから、彼女達は、致命的に反応が遅れてしまった。
 忘我の刹那。
 我を取り戻したその時には、無数の岩石片と土煙を撒き散らしながら部隊の横合いから飛び出したソレが数百トンという凶悪無比な質量兵器と化して部隊全てを呑み込んだ後であった。その破壊力たるや、突撃級のそれとは比較にもなるまい。
 ぎり、という歯噛みの耳障りな音が武の唇から零れる。
 たった一人、事前に母艦級の出現を察知していた武は、不知火・弐型の機動力の恩恵もあって、無傷で母艦級の突進を回避することに成功していたのだった。
「――エインヘリヤル1よりヴァルキリーズ各機! 戦闘続行が可能な者は即時損傷状態を報告しろッ!!」
 怒号のような声で呼び掛けるものの、応答はない。それが意味するところは、ただ一つだった。
「……涼宮中尉。部隊の損耗率の報告を」
『ヴァルキリーマムよりエインヘリヤル1……ヴァルキリーズ損耗率百パーセント……部隊は壊滅、戦闘の続行は不可能と判断します……』
 沈鬱な遙の声に「そうか」とだけ応えて、武は依然として網膜に投影されたままの敵影を見つめていた。
 ハイヴの最下層に単機。しかも前方には母艦級、後方からはS-11で吹き飛ばしたとはいえBETA群が追ってきている。絶望的としか言い様がない――が、その時、現状に拍車を掛ける最悪の事態が発生した。
 ずるり――母艦級の口がせり出してくる。嘴が醜悪な花のように開く。母艦級の体内に伸びる横坑のような空洞……そこから――母艦級と比べれば遥かに小さいとはいえ――巨躯を誇るように、一体の化け物が現れる。
 要塞級、既知のBETAの中では最大を誇る悪魔だ。それが二体……その下から、突撃級が現れ、引き続いて要撃級や戦車級も続々と湧き出てくる。
『し、新種のBETA内部からBETA群の出現を確認……!』上擦り掠れた遙からの通信が入る。『れ、連隊規模!?』
 ――まるであの時と同じだな……。
 苦い感情を噛み締めながら、武は思った。
 その時、つきり、という鈍い頭痛と共に、かつての光景が脳裏に鮮やかに――鮮やかすぎるほどに蘇ってくる。まずい、と思った瞬間には、もう遅かった。
 突然現れた母艦級、押し潰された仲間、現れる連隊規模のBETA群。まるであの日の焼き直しを思わせる事態。さらに脳を過ぎるは三体の母艦級。空を貫く無数の光線。大地を埋め尽くす化け物の群。一方的に別れを告げて命を捧げた朋友達。無力を思い知らされる。今回もまた護れなかった。護りきれなかった。護知っていたのに。気付いていたのに。抗えたはずなのに。護りたかったのに。死んでいく。みんな。一人残らず。武一人を残して死んでいく。護れない。自分には。誰一人として護ることが――。

 ――ざらざらと。思考にノイズが走る。
 脳髄が削り取られていく錯覚。否、本当に削れているのかもしれない。新皮質――ヒトという生き物がヒトたり得る所以……ヒトの知性を司る箇所。
 それが削り取られ――本能が剥き出しになる。
 あるいは。そこにいたのは、既に本能すらなくし、ひたすらに敵を撃滅する殺戮機械であった。
 否、しかしそれは、機械ではあり得ない。
 武の胸の内を、全身を焦がすのは、どこまでも暴力的な衝動だった。奈落よりも尚深い淵から込み上げる、どす黒いどろどろとした感情に突き動かされる。それは、炎よりも熱く氷よりも冷たかった。
 抗いがたい甘美な誘惑。この並に薙がされてしまったなら、どんなにか快いことだろう。
 普段の武であれば、これらの感情に蓋をして、精神の奥底へと閉じ込めていたかもしれない。
 しかし、仮想現実下とはいえ、仲間が立て続けに散っていった今、武の中に決壊を防ぐ箍は存在していなかった。
 破滅的な衝動が武を呑み込んでいく――。

 ――次の瞬間には、白銀機は既に駆け出していた。
 先程弾き飛ばされた際の衝撃で転がったのであろう長刀と突撃砲を拾い上げ、立ちはだかるBETAの群へと吶喊する。
「おぉぉぉぉおぉぉぉおおおお――ッ!!」
 獣のそれ以上に獰猛さを剥き出しにした咆哮が、喉を引き裂いて迸った。
 真っ先に餌食となったのは、至近の要撃級であった。長刀が翻ること二度、不知火・弐型の限界に肉薄する速度で振るわれた剣戟に、白い穢躯が瞬く間に四散する。
 続け様、マズルフラッシュの閃光が炸裂したかと思えば、要撃級と戦車級、都合七体が赤とも紫とも緑ともつかぬ体液を大輪の華の如く撒き散らしていた。
 振り下ろされる要塞級の触手を、たった一歩のステップで躱しながら旋回、振り回された長刀がにじり寄ってきていたBETAの群を薙ぎ払い、同時に要塞級の触手を断ち切った。
 悲鳴をあげるかのように、要塞級が大きく身を捩る。その隙を逃すことなく弐型は跳躍、眼窩にも似た頭部の孔目掛け、120mm弾が吸い込まれていく。
 頽れる巨体の上に飛び乗る――それが虐殺の始まりだった。
 突撃砲が弾丸の雨を降らす。乱射されているように見えて、36mm弾は的確にBETAの息の根を止めていく。要塞級の体を上ってきたBETAは、弐型に近付くことも叶わず長刀の前に真っ二つに斬り裂かれる。
 それでも尚白銀機への包囲は狭まっていく。
 しかし、それを待っていたとばかりに、蒼穹色を原色で塗り潰された機体が宙を舞い、突撃砲弾の掃射で鏖殺する。まるでそれは、巨大な蟻地獄か食虫植物のように、まんまとおびき寄せられた哀れな獲物を容赦なく殺害していった。
 BETAが要塞級の死骸へと引き寄せられたことで生まれた空白の空間に、弐型は悠々と降り立つ。そのまま残弾の少なくなっていた突撃砲を投げ捨て、足許に落ちていた誰かの突撃砲を拾い上げトリガーを引く。
 数多のBETA達が次々とミンチと化した。そして出来上がる血と臓物と肉片の花道。およそ考えられる限り最も醜悪な赤絨毯の上を、蹂躙するように踏破する。立ちはだかる全てを撃殺し、斬殺し、その死骸を踏み固めて道となす。
 冷徹に冷酷に残酷に残虐に暴虐に暴疾に迅疾に迅速に突き進む。
 ――それは、見る者全てを戦慄の奈落に突き落とさずにはいられぬ光景であった。
 シミュレーターの作り出す仮想現実でしかないのに、その衝撃たるや、現実のそれさえも上回っていたかもしれない。それ程までに、それは凄惨な光景であったのだ。
 これまで幾重にも塗り固められた返り血と肉片の皮膜が、一層厚みを増していた。
 もしこれを整備班の人間が見ていたら、シミュレーターで良かったと心から思ったことだろう。こんな機体を整備しようものなら、気が違ってしまう。
 当然、そんな些事に配慮する武ではないし、そもそもそんな余分は今の武には存在しなかった。シミュレーターであろうが実機であろうが、ハイヴ内でなすことなど、たった一つ。それ以外は全て無用な些末事でしかない。
 やがて、無限にも思えたBETAの壁を越えた時、唐突に視界が開けた。
 大広間――ハイヴの中枢にして最深部。半径にしておよそ三百メートルほどのドーム状の区画。その中央部には青白い光を放つ巨大な黒い球体――反応炉が蹲るように鎮座していた。一定の間隔で明滅を繰り返すそれは、さながら異星起源種の巨大な心臓のようでもあった。
 初めてこの光景を目の当たりにした者であれば、いずれもが息を呑み、その荘厳かつも醜穢な姿に身を硬直させたことだろう。
 だが、そのような時間は、武には刹那すらも存在しなかった。
 爆発――そう紛うばかりの出力で、弐型の跳躍ユニット及び腰部スラスターが一斉に咆哮する。ぐんぐんと加速する弐型は、反応炉に群がる無数のBETAをまとめて飛び越え、数秒の間に目標へと取り付いていた。
 砂糖に群がる蟻のように、エネルギー補給に夢中になっているBETA達。それを劣化ウラン弾のデザートが次々と屠っていく。
 それによって生まれた半径十メートルほどの空間目掛けて降り立つ弐型。逃げ遅れた小型種が巻き込まれて押し潰される。
 そして、再び砲声が轟いた――BETAではなく、反応炉に向けて。
 立て続けに放たれる36mm弾が、誤差僅か数センチという精度で一点目掛けて反応炉を穿つ。反応炉の強度の前に尽く弾かれる砲弾……しかし、百を数える連続砲撃は、確かに反応炉を削り始めていた。
 無論、それを黙って眺めているBETAではない。奴らの思考を――そう呼べる物があるかどうかは別として――シミュレータープログラムでトレースすることは不可能であるが、飛び込んできた獲物に牙を剥く習性は、これでもかと言うほどに反映されている。
 一斉に群がってくる異形の群、それを長刀の一閃が一纏めに斬り裂いた。辛うじてそれを頭上にやり過ごした戦車級はしかし、残弾が撃ち尽くされた突撃砲を投げ付けられ、沈黙した。
 勢いそのままに――否、肩部スラスターによる加速を得て、今度は長刀を、先の弾痕へと叩き付ける。突撃級の甲殻すら斬り裂くスーパーカーボンの刃は、深く反応炉に爪痕を刻んだ。尤もそれは、巨象の皮膚に引っ掻き傷を残した程度でしかないのだが。
 だが、雨垂れ石をも穿つという言葉があるように、繰り返される斬撃は確実に反応炉を削り取っていく。
 長刀が根元から折れると、間髪入れずにパージ、新たな兵装を手にする。そして、一体の突撃級を肩部スラスターを利用した旋回で躱すと同時、砲撃と剣戟を再開するのだった。

 近付くBETAを迎撃し、時に噴射跳躍やスラスターで回避しながらも、同じ箇所に攻撃を加え続けていた白銀機であったが、やがて終わりがやってきた。
 兵装が尽きたのだ。
 いかに武が卓越した衛士であろうと、武器がなくては戦えない。たとえ戦術機を駆っていたところで、兵装のない戦術機は、ただの人型をした巨大な乗り物でしかない――人類の牙たる兵器たり得ないのだ。出来ることと言えば囮くらい。そうなってしまえば、武は一介の――それこそ任官したてのヒヨッコにすら劣る。
 あるいは、武はこう考えたかもしれない。それこそ、任官したてのヒヨッコだったオレのことだな、と。
 されど、そのような思考が介在する余地など、最初から存在するはずがなかった。
 柄だけになった長刀を投げ捨てる。その右手でS-11を保持。突撃砲を振り回し、左主腕を犠牲に、近付いてきた要撃級を薙ぎ払う。噴射跳躍で突撃級をやり過ごし、反転噴射で着地。右腕を反応炉に穿たれた穴にねじ込む。衝撃で使いものにならなくなった右腕をパージ――噴射ユニットが火を噴き、巨体が高く舞い上がる。
 既にタイマーは作動し、カウントダウンは残り十秒程度。元来た横坑は母艦級で塞がっているので、それとは別の、最も手近な横坑目掛けて、白銀機は飛び込んだ。
 しかし、そこに待ち構えていたのは、二体の要塞級と旅団規模のBETA群。兵装の尽きた今、機動だけでやり過ごさねばならない。
 武本来の機動制御技術を以てすればそれは決して難しいことではないが、今は状況が違った。
 推進剤残量の不足を告げるアラート。出来る限り推進剤を節約していた武であったが、今までの大広間での戦闘で噴射跳躍やスラスターを多用しすぎたためだ。
 最早、前方に差し迫る大群をやり過ごせぬことは火を見るよりも明らかであった。
 そして後方でS-11が爆発――爆風の余波に巻き込まれた弐型は為す術もなくハイヴの内壁に叩き付けられ、
『状況終了――ヴァルキリーズ及びエインヘリヤル1は速やかにシミュレーターから退出せよ』
 遙の声が鼓膜を震わせた。


『状況終了――ヴァルキリーズ及びエインヘリヤル1は速やかにシミュレーターから退出せよ』
 その声で、武はようやくエインヘリヤル・データの最初の試行が失敗に終わったことを知った。
 途端、全身が鉛と化したと錯覚する程の疲れがどっとやってくると共に、こめかみを突き刺すような頭痛が襲い掛かってくる。
 体の奥に渦巻いていた熱が急速に冷めていく。一つゆっくりと息を吐き出すと、肺の中に凝っていた昏い激情の残滓がまとめて体外に押し出されていくようだった。
 ――何が、あった……?
 呆然と、武は強化装備に包まれた自分の両手を見下ろした。
 記憶は曖昧だ。母艦級の出現によって部隊が壊滅した瞬間までは覚えている。そこから先は、よく覚えていない――いや、全く覚えていない。
 ただ一つだけ覚えているのは、あの時武は、敵を殺すために殺していた……それだけだ。
 仲間がやられたからといって、感情を剥き出しにして暴走するなど、愚の骨頂だ。体に染み付いた衛士の本能とでも言うべき部分のお陰で、どうにかエインヘリヤル・データを進めることは出来ていたが、自分の醜悪な部分を晒してしまったという拭えぬ事実が、武の心に暗い影を落としていた。
 あんな自分を、大切な仲間達にだけは見られたくなかったというのに。
 彼女達はどう思うだろう。恐れるのか、怯えるのか、哀れむのか、悲しむのか、はたまた怒るのか。全部だろうな――と、武は不思議とそう確信していた。
 覚悟はしていたはずだ。出現を事前に察知出来なければ、母艦級によって部隊が壊滅することくらい。わかっていたはずなのに。
「くそ……ッ」
 苛立たしげな悪態が、虚しく響く。
 今朝、あんな夢を見たからだろうか。
 嫌にリアルな過去の泡沫。訓練兵時代を共に過ごした者も含む、最高の仲間達の死。そして、白銀武にとって、特別な意味を持つ初めての完膚無き敗戦。
 思い出すだけで、脳にざらつくノイズと頭蓋を削り取られるような頭痛が走る。込み上げる嘔吐感。胃の腑が小刻みに蠕動し中身をぶちまけようとするのを、喉を押さえて堪えた。
『白銀少佐……? どうかなさいましたか?』
 遙の声に「何でもない、大丈夫だ」とかぶりを振って答える。いつまでも筐体の中で自己嫌悪の沼に沈んでいるわけにもいかず、武は鉛のように重い身を起こした。
 シミュレーターの筐体が開くと、薄暗いながらもぽつぽつと宿る電灯の光が目を突き刺した。
 強烈な脱力感に包まれながらも、武は覚束ない足取りでヴァルキリーズの待つ方へと向かっていく。
 十三人の戦乙女は、一様に意気消沈していた。武に気付くと、ちらりと武を一瞥して、気まずそうに目を逸らす。
 苦い笑みを口許に貼り付け、「全員ブリーフィングルームに集合しろ」と武は言った。

 ――だが、この日、デブリーフィングが行われることはなかった。

 ヴァルキリーズを先に行かせた武は、シミュレータールームの扉へと自分の物ではないかのような体を引きずっていく。
 シミュレーターで汗をかいたからだろうか、耐寒装備でもあるはずの強化装備を着ているにもかかわらず、ひどく寒い。かと思えば、全身が燃え上がりそうなほどの熱が体の奥底から湧き上がってくる。
 頭がくらくらする。先日の酒宴の酩酊にも似た感覚。体が重いのにふわふわする。
 扉を開ける。
 廊下に足を踏み出す。
 途端、蛍光灯の光が網膜を白く焼いて。
 武は、視界が斜めにずれたと知覚する間もなく、意識を黒く染めた。


 最初にそれを発見したのは、香月夕呼の腹心であるイリーナ・ピアティフだった。
 夕呼の指示で武のバイタルデータのログを回収するためにシミュレータールームへ向かう途中、一向にデブリーフィングに現れない武を探す遙と出会した。そしていざシミュレータールームへとやって来てみれば、入り口で武が床に倒れ臥していたというわけである。
 その様は、異様と言う外なかった。
 吐瀉物の水溜まりに突っ伏し、丸めた体を何度も痙攣させながら、己が身を掻き抱く腕で自傷するように体を掻き毟り、血色を失った肌を土気色に染め、血走った両眼からは止めどなく涙を流し、呪詛めいた呻きを延々と零し続ける――。
 声を失うとは、正しくあのことだろう。文官出身とはいえ、ピアティフも軍属だ。ましてや香月夕呼の片腕であるからには、あれよりももっと陰惨な光景は何度も見てきた。
 だが、武の姿はそれらとはまた異なるベクトルで目を覆いたくなる物であったのである。
 ――壊れていた、と表するのが、きっと最も端的なのだろう。
 薬物の中毒でも慢性的なストレスでも心因性のショックでも何でもいい、度を超しすぎたいずれかの要因によって、人間として致命的に壊れてしまった……そんな姿だった。
 当然、そんな姿を誰かに見せるわけにもいかず、一度武をシミュレータールームに押し込んだピアティフは、慌ててとって返し、遙には『白銀少佐は急な特殊任務が入ったため、デブリーフィングには出られないそうです』と伝えた。
 こういう時、時に鉄面皮と揶揄されることもあるポーカーフェイスに感謝する。
 その後、信用出来る医療スタッフに連絡を取り、武を救護室に運ばせたのだった。
 ピアティフから一連の報告を受けた夕呼が、僅か一瞬ではあるが表情を強ばらせ、明らかな狼狽を見せたのが、強く印象に残っていた。
 不機嫌も露わな夕呼に退出を命じられたピアティフの手元には、武のバイタルデータを記録したデータディスクが残ったままだった。


 その夜、武は底無し沼の泥めいた眠りの中から、ゆっくりと意識を浮上させた。
 しかし、その浮上は表層にまでは届かない。水面の僅か下にたゆたうように、武は茫洋とした思考で暗い感覚の中を彷徨っていた。
 まるでクラゲにでもなったみたいだ。体のどこにも力が入らない。しかし、それを不快に思う感覚さえ、今の武にはなかった。ただ事実として自身の現状を認識することしか出来ずにいた。
 今が一体いつなのかも、そもそも自分がどこにいるかすら武にはわからない。
 視界が暗いから、きっと夜なのだろうと結論付ける。尤も、目蓋を持ち上げているかさえ定かではないのだが。
 浮上しかけていた意識が、黒い触手に絡め取られるように再び闇の中に沈もうとする。
 しかし、その触手を、冷たい感触が断ち切った。
 朦朧としていた意識が焦点を結ぶ。再度浮かび上がった胡乱な思考が次第に鮮明になっていく。全身には再び血が通い、武はゆっくりと感覚を取り戻していった。
 目を開く。その作業で武は、ようやく自分が今まで目蓋を閉じたままであったことを知った。
 意識にも思考にも視界にも、未だ霞が掛かっているかのようだ。まるでテレビの砂嵐のように、乱雑に取り留めもない思考の欠片が頭の中を飛び交っている。渦巻く記憶は時系列があまりにもデタラメで、それどころか今が今なのか過去が過去なのか、あるいは未来という名の過去なのかさえわからなくなってしまう。
 重症だな、と胡乱な脳で考える。
 今までにも倒れたことは何度かあったが、体が言うことを聞かないことはあっても、頭の中までがこうも乱れているというのは、初めての経験だった。
 何しろ、目の前に人の顔があるというのに、それに今の今まで気付けなかった程なのだから。
「……あたしのことを無視し続けるなんて、いい度胸してるじゃない、白銀ぇ?」
 唐突に降り掛かった声で、武はそこに人の存在を感じ取った。武の耳には、声は狭い部屋の中を反響しているようにも聞こえたが、それが誰の声であるかははっきりとわかった。ついでに、『白銀ぇ』という呼び方に込められた感情の意味も。
 尤も、今の彼にそれを正しく分析して正しく受け入れるだけの思考力はなかったが。そうでなければ、柳眉をひそめた香月夕呼を前にだらしなく頬を緩めるような真似、出来ようはずもない。
「はは……夕呼先生の手、冷たくて気持ちいいや」
 声を出すと共に、意識の焦点が収束していく。彼女に対する呼称が以前の物に戻っていることには気付かなかった。
 ゆっくりと吐き出された溜息には、安堵の感情が乗せられていた。
 ばらばらになったジグソーパズルのピースが合わさっていくように、意識が、思考が、形を帯びていく。それでも、どこか熱病に浮かされたみたいな感覚は抜けてくれない。
 ただ、意識が跡切れる直前のことだけは思い出していた。
「オレ……また倒れたんですね」
 呂律も頭もうまく回ってはくれなかった。それでも、口にしたかった言葉を無事に口にすることが出来て安心する。
 朧めいて揺らぐ視界の中で、夕呼が不快そうに眉根を寄せた。これでなかなか人の心の機微にも敏い彼女のことだ、武の言葉に込められた自嘲も感じ取ったに違いなかった。「そうよ」と言って鼻を鳴らす。
「……調子はどう? ――ま、いいはずがないでしょうけど」
 問い掛ける夕呼に、武は目を丸くする。驚きのあまり、視界に掛かっていた靄が吹き飛んでしまった程だ。そのくらい意外だったのだ、あの香月夕呼がこうもあからさまに優しげな声音を出すなんて。
 無論、香月夕呼はただ冷徹なだけの人間ではないことを、武は知っている。この基地で自分以上に本当の彼女を知っているのは、精々一人か二人くらいだろうという自負があるが、それは自惚れではないだろう。
「何よ」
 三白眼で睨め付けてくる夕呼。
「夕呼先生にここまで心配掛けるなんて、って思って」武は頬を引きつらせたような苦笑で答えた。「すみません……この忙しい時に」
 今日はもう十一月の末。あるいは既に十二月に入ってしまっているかもしれない。
 クーデターまで、もう時間がないのである。
 この世界では既に00ユニット完成の目処が立っている。夕呼がそれを未だ実行に移さないのは彼女なりの考えがあってのことであろうが、12・5事件さえ無事に終われば、オルタネイティヴ4はほぼ成功が約束されたような物であると言える。
 裏を返せば、12・5事件は今や、オルタネイティヴ4の成否に関わる重大な事件なのだ。
 勿論、夕呼のことだ、その程度でオルタネイティヴ計画その物に支障を来すことのないよう、何らかの策は講じてあるはず。しかし、その策は少なからず反オルタネイティヴ4陣営を増長させてしまう要素を孕んでいる。
 オルタネイティヴ4こそが世界を救う唯一の方策であると知っている武がすべきは、彼女への負担を少しでも減らし、より確実かつ安全にオルタネイティヴ4が完遂されるよう、衛士としての立場から彼女をサポートすることであったはず。
 ――なのに、足を引っ張ってばっかだな、オレ……。
 改めて自らの無力を痛感する。これでは、香月夕呼の片腕失格だ、と。
 だが、実際は武が思っている以上に、夕呼は武を頼もしく思い、感謝もしている。無論、それをわざわざ口に出す彼女ではないが。
 くそ、と武は内心で悪態を吐き、顔を歪めた。
 それを見て取り、夕呼も同様に表情を歪める。
「……また何か思い出したわけ?」
 しかし、彼女が考えたのは、正解とはまた異なる理由だったようだ。
 尤も、武がこうして倒れるのは、決まって因果情報の流入――ループの際に失われた『一度目』あるいは『二度目』の世界での記憶を取り戻す――による物だったのだから、彼女がそう考えたのも仕方がない。
 今回は違った。
 因果情報の急激な流入が原因であったのではない。
 そも、仲間達を失った記憶が失われようはずもない。武がそれらを失うことなどあり得ない。
 言ってみれば、今回武が気を失ったのは、急激な心因性ストレスによる物である。夕呼が以前ピアティフに伝えた嘘である――とも一概に言い切れないが――PTSDという表現が最も的を射ているのは皮肉かもしれない。
 いいえ、と武は首を横に振った。
 常に武の中にあった記憶が、膨れ上がったというだけ。まるで、深海から立ち上った泡が、水面に近付くに連れて急激に膨張していくように。抑え付けていた感情は容易く意識という箍さえも砕き、白銀武という人格は暗闇に呑み込まれたのだった。
 朧気に覚えている、衝動に身を任せることの甘美さを。
 身に染み込んだ衛士としての能力を心の赴くままに揮い、破壊と暴虐と蹂躙の限りを尽くし、斬るために斬り撃つために撃ち刺すために刺し壊すために壊し殺すために殺す――。
 衛士として自分を律し、世界を救うために心の奥底に閉じ込めていたはずのどす黒い感情。
 幾重にも決意という名の鎖を巻き付けて深い深い水底に沈めたはずのパンドラの匣。神話のそれが絶望と厄災を封じ込めた匣ならば、白銀武の中のそれは後悔と憤怒と悵恨と憎悪と怨嗟を封じ込めた匣であった。
 地獄の業火、と呼ぶに相応しい、闇色の炎。それは消えることのない、武の中の激情。
 それらを解き放つ快感は、最早愉悦や悦楽などという陳腐な言葉では言い表せない程の、圧倒的な恍惚を伴っていた。
 それこそ、あれ以上の快感は存在し得まいと思ってしまう程だった。
 思い出すだけで、背筋に冷たい電流が走り、全身を粟肌が覆う。
 それは恐怖だ。白銀武という人間その物を根底から木っ端微塵に砕きかねない、凶暴な誘惑に対する、本能的な――否、本能よりもさらに根源的な、存在その物に関わる恐怖。
 さっと武の顔から色が失せる。噛み合わぬ歯の根ががちがちと不協の音を鳴らす。
 武の突然の異変に、夕呼の顔色が変わった。
「白銀!? ちょっと、しっかりしなさい白銀!!」
 現在がとうに消灯時間の過ぎた深夜であり、ここは個室であるとはいえ隣室には治療中の兵が多数眠っているということも忘れて、夕呼は武の肩を掴んだ。
 小刻みな震えが伝わり、夕呼は体を硬直させる。
「白銀……? あなた、やっぱり何かあったのね――」
 そう語りかける夕呼の声は、あまりにも常の彼女からは懸け離れていて。
 さながら、いつか聞いたオルタネイティヴ4における夕呼の役割――聖母のようですらあった。
 いつしか、武の震えは止まっていた。
 その代わりに、つぅ――と涙が一筋、目から零れ落ちた。
 夕呼は何も言わず、武の言葉を待っていた。
 しん……と病室は静まり返っている。耳に痛いほどの無音が空間を支配していた。それに耐えられなくなったわけではないが、夕呼が小さく吐息したのと、同時だった。
「――頭が真っ白になったんです」
 天上を見上げて、静かに、けれどはっきりと、武はそう口にした。
 夕呼に無言で先を促され、武は続けた。
「エインヘリヤル・データに初めて挑戦すれば――母艦級が出て来れば、ほぼ確実に全滅することくらいわかってたのに……みんなが母艦級に潰された瞬間……何も考えられなくなって――気付いた時には涼宮中尉が状況終了を告げていました……」
 オレはそれまで、我を忘れて暴れだんです――と。低く、自嘲と後悔を織り交ぜた声で、武は言った。
 夕呼が何も言わないでいてくれたのが、武にはありがたかった。
 労るような言葉を掛けられたり、反対に攻撃的な言葉を投げられれば、それに甘えてしまいそうだったから。ただでさえ甘えてしまっているのに、これ以上彼女の優しさに甘えることは出来なかった。
 ――白銀武は弱い。
 戦術機の操縦技術だけならば、並ぶ者は世界中を探しても五指にも満たないだろう。バルジャーノンに基づく機動発想や多くの仲間から得た技能を加味すれば、単純な戦闘能力であれば、世界最強の一角と評してもいい。
 だが、白銀武は弱い。
 精神面において、あまりにも脆い。衛士としての殻を纏うことで心の中に巣くう凶悪な獣のような自分を押さえ込んではいるが、一度その殻が破れればどうなるか……その結果が、数時間前のエインヘリヤル・データだ。
 武が速瀬水月を尊敬するのは、かつての上官であるからでも、前の世界における最後の戦乙女であるからでもない。勿論それらも理由として挙げることは出来るが、最大の理由は、彼女の己を律する精神力にある。誰よりも繊細な心を持ちながら、それを強い意志で鎧い戦い続ける、衛士としての強さ。それこそ、武が彼女を心から尊敬する最大の理由である。
 その強さに憧れた。その強さに追い付きたいと思った。
 だが、技術は追い越しても、心はまだ遠い背中を見つめているだけ。
 畜生、と武は力が入らぬまま奥歯を噛み締めた。ぎり、と小さく嫌な音がした。
「――今日はもう寝なさい」
 それだけを言って、夕呼が武の額に手を置いた。その冷たさが、灼けた鉄のようであった頭を冷ましていってくれる。
「明日から、また色々と動いてもらうわ。悪いけど、あんたを遊ばせておくわけにはいかないのよ。時間がないからね」
 陶磁器のように固く無機質な声音。しかし、そこにこそ武は彼女の優しさを感じずにはいられなかった。
 はい――と答えて、武は目を瞑った。
 眠りに落ちる寸前、せめて感謝の気持ちだけでも表したいと思った武は、
「先生、知ってますか? 手が冷たい人って、心が温かいらしいですよ」
「……馬鹿なこと言ってないで、さっさと寝なさい」
 今夜は、穏やかな夢を見られそうな気がした。



[2785] Muv-Luv ALTERNATIVE -Second World Was Failed- 第20話
Name: Vollmond◆d2a8c8a6 ID:f56ee90e
Date: 2011/11/15 03:08
 2001年12月1日(土)


 エインヘリヤル・データ初挑戦の翌朝、ブリーフィングルームに着くと、武は部屋の前方、黒板の前に立ってヴァルキリーズの顔を見渡した。
「まずは……そうだな、よくやったと言っておく。初めてのエインヘリヤル・データでこれだけの記録を叩き出したんだからな。正直、最初であそこまで行けるとは思っていなかった」
 ヴァルキリーズの力を過小評価していたわけではないが、初めてのエインヘリヤル・データで最下層到達という記録を打ち立てられるというほど過大評価していたわけではない。
 表層付近での師団規模BETA群との接敵を乗り越えて以降のヴァルキリーズの動きは、目を見張る物があった。
 武の指示にも淀みなく応え、それまでの武の行動から自分達の判断だけで最善を導き出す……武の評価を遥かに上回る順応力を彼女達は示してくれた。
「ただ、全体的に弾薬を使いすぎなのと、まだまだ動きに無駄が多い。キャンセルの有効活用をもっと徹底しろ。ハイヴ内じゃ補給は出来ないから雑魚に構う余裕はないし、一瞬の判断の遅れでBETAに囲まれかねないからな。倒すのは必要最低限の敵だけでいい」
 キャンセルが物を言うのは、何と言っても機動においてだ。キャンセルを活用することで従来では不可能な機動を行うことが可能になり、また無用な戦闘を避けることで兵装や推進剤の節約をすることも出来る。
 とはいえ、勿論、キャンセルの使い方次第では――たとえば武が後先を考えなかった場合のような――推進剤が幾らあっても足りなくなるのだが。
 その辺りの匙加減は、経験によるところが大きい。機動には各々の個性が現れるので、普遍的なベターはあっても、普遍的なベストというものは存在しないのだ。経験を積み重ねることで最適化していくしかない。
 後は特にヴァルキリーズに言うべきことはなかった。初めてのエインヘリヤル・データだ、いきなりそれ以上を求めるのは酷というものだろう。
 それに――と武は目線だけで全員の顔を一瞥する。
 皆武の評価に真剣に聞き入ってはいるものの、最大の関心がどこか別のところにあるのは明らかだ。
 特に水月などは今すぐにでも飛び掛かってきそうな程である。ただし、水月が特別というわけではなく、十三の戦乙女は全て似たようなものだ。
 仕方ないな、と武は内心で嘆息し、
「――それより、みんなオレに訊きたいことがありそうだな」一度言葉を句切って顔を見回すと、真っ先にみちると目が合った。「どうだ、伊隅大尉?」
「…………は」みちるはしばし躊躇した後に言った。「……最後に現れたあの巨大なBETA……母艦級とは一体何物なのでしょうか。あのようなBETA、データにはなかったはずです」
 武の特殊任務によりデブリーフィングが急遽中止になったとは聞かされたヴァルキリーズであったが、それで全てに納得出来るはずがない。
 エインヘリヤル・データは、従来のハイヴ攻略シミュレーターの常識を覆すどころか打ち砕く代物だ。
 その最たる物が、今みちるも挙げた母艦級だろう。
 昨日、デブリーフィングの中止を伝えたピアティフに詰め寄り、せめてあの巨大なBETAについてだけでも、とどうにか彼女達はその名称だけを聞き出したのだった。
 当然ながら、それだけの情報で満足する彼女達ではない。この一日遅れのデブリーフィングを、一日千秋の思いで待っていたことだろう。
 実際、落ち着いた口調のみちるではあるが、どこかそわそわしているのが見て取れた。
「ああ、そうだな。国連のデータベースに――いや、どこのデータベースを探ったって、あんなBETAは存在しないだろう」
「では……!」
「――だが、あれは確かに実在するBETAだ」気色ばんだみちるを一蹴するように武は言う。「データにないイコール存在しないってことにはならない。BETAについては、わかっていることの方が少ないくらいなんだからな」
 武が慣れた手付きでコンソールを操作すると、スクリーンに巨大な芋虫のような異形が映し出される。既存のBETAのいずれとも異なるその巨大な体躯に昨日を思い出したか、息を呑む声が武の耳朶を打った。
「未確認大型種……今伊隅大尉も呼んだ通り、オレは母艦級と呼んでいる」
「母艦級……」
「直径は約百七十五メートル、全長は約千八百メートル」
「せ、千八百!?」
 現在確認されている最大種である要塞級でさえ全高六十六メートル、全長五十二メートルなのだ、文字通りに桁が違いすぎる。
「俗称はメガワーム……まあ、見ての通りだな」誰かの驚呼にちらりと一瞥して武は頷きながら言う。「もうみんなわかっているとは思うが、こいつは地中を進攻し、突然体当たりを仕掛けてくる――それも、何千っていうBETAを腹に抱え込んで」
「連隊規模のBETAを……ッ!?」
「そんなの、偽装横坑みたいなものじゃない!」
「それも、それ自体が攻撃能力を持った、な……」
 楓と水月が声を荒げ、みちるが苦々しげな表情で付け加える。その他は、皆武の言に圧倒されているようだった。
 母艦級というたった一体のBETAは、しかしその実連隊規模のBETAを解き放つのである。ただでさえ突然の出現で部隊が壊滅させられたというのに、その上大量のBETAが現れるとあっては、最早絶望する外ない。
「母艦級が現れるのは、ハイヴ内だけじゃない。大深度地下を進攻してくることもあるし――防衛線のど真ん中に突然飛び出してくることだってある。そうなったらどうなるか……わかるな?」
「戦線が、崩壊する――」
 苦虫を噛み潰したような表情で、楓が呟いた。
 ハイヴ内であったとはいえ、突如現れただけで部隊が壊滅したのだ、千以上のBETAが突如として戦線の中心から現れなどすれば、その結果は想像に難くない。
 そして、楓が口にした通りの現実が、武の過去には幾度となく横たわっていた。
「そんな化け物……どうやって対処すればいいんですか……?」
 千景が弱々しい声で呟く。それには、他の者達も同感だったようで、怯えを滲ませた瞳を武に向けている。
 しかしその中、数名は高速で頭脳を回転させていた。
「白銀少佐」その中の一人、美冴が言った。「一つだけ確認させていただきたいのですが、当然ながら少佐は、昨日のシミュレーション中に例の母艦級が現れることはご存知だったのですよね?」
「ああ」
「なら、対処法は確実にあるはずね」水月が引き継ぐように言った。「どうしようもない相手だったら、少佐が抜き打ちでプログラムに組み込むはずがないわ」
「速瀬の言う通りだ。付け込むとすれば、一度現れた後の動きが遅いことと、最初の突進以外の攻撃能力を持たないところか……伊隅大尉はどう思いますか?」
「そうだな……秋山の挙げた点を考慮するなら、先程の白銀少佐のように無視して進んでしまうか……あるいは――」
「あるいは?」
 先を促すように口にしたのは武だった。それに驚いたようにみちるは一瞬表情を固めるが、武の表情を見て自信に満ちた笑みを浮かべた。
「――あるいは、奴の口中にS-11を放り込んでやるか、でしょう」
 それを聞いて、武は喜ばしげに口許を歪めた。
「その通り。母艦級は、名前の通り大量のBETAを運ぶ母艦なんだ。中身を吐き出している間は、一切動かない。その隙に腹の中に時限式のS-11を放り込んでやれば、中に詰まっている大量のBETAごと吹っ飛ばせるって寸法だ」
 言いながら、流石だな、と武は、驚嘆と共に内心で讃辞を送っていた。
 初見の母艦級に撃破された直後に、よくもここまで冷静に分析出来たものだ。一晩の冷却期間があったとはいえ、夕べは混乱の極みにあったであろうに。その胆力には恐れ入る外ない。かつての武にはとても出来なかったことだろう。
「けど……」月乃が囁くように言った。「それも、最初の突進をどうにか出来なきゃ意味がないんじゃ……」
 その言葉で、しん――と静まり返るブリーフィングルーム。
 月乃の言う通りだ。
 彼女達が為す術なくやられたのは、現れた大量のBETAによってではない。突如として死角から現れたその巨大な顎門――その呼称に相応しい形状をしてはいなかったが――によって、叩き潰されたのだ。
 現れた後のことを話し合うには、まず出現その物を解決せねばならない。
 母艦級が現れるたびに部隊が壊滅していたのでは、置き去りにする以外の対処法などありはしないからだ。否、そもそもそれは対処と言える物ではない。
「誰か、何か考えはあるか?」
 十三名を見渡しながら武が問うと、静まり返る戦乙女達の中から一本の手が挙がった。
 武の視線につられるように、残る十二人の視線もまたそちらにスライドする。その隣に立っていた茜が、驚いたように目を丸くした。
「柏木、言ってみろ」
「はい。多分ですけど……振動計や音感センサーで見分けられるんじゃないですか?」
「どうしてそう思うんだ?」
「だって、あれだけの巨体ですから。少佐の話じゃ、地中を進攻してくるって話ですし、音もなく静かに、ってわけにはいきませんよね? そんなことしてたら、いくらBETAだって突進出来るような速さじゃ近付いて来られないはずです」
「正解だ」唇の端を吊り上げる。「母艦級が現れる時は、必ず振動センサーや音感センサーに反応がある。落ち着いてそれを見極めれば、事前にどの辺りに出て来るか察知出来る」
 直接母艦級の餌食になったわけではない晴子は、最後まで残っていた武以外の六人よりも落ち着いて状況を見ることが出来たのだろう。勿論、彼女の最大の武器でもある広い視野や、一種ドライとも思える冷徹さも一役買っている。
「現に昨日も――涼宮中尉、母艦級が出て来る直前のオレの機体の振動計と音感センサーのログを呼び出すことは出来るか? そうだな……三十秒前から頼む」
「あ、はい」
 武の指示を受け、遙が手元のコンソールを操作すると、母艦級の映像に代わって、グラフがスクリーンに投影される。それは、凛の設置したS-11の爆発によって、殆ど振り切る寸前だった。
 その可視化された振動が、ゆっくりと変遷していく。
 刻一刻と変化していくグラフ……その、ある一瞬で、
「ストップ」
 武が言い、画像が静止する。
「涼宮中尉、この前後三秒間のグラフを一秒刻みで並べてくれ」
「了解」
 かたかたと遙の指がキーボードを叩く。映し出されていたグラフが縮小し、同サイズのグラフが七枚、ずらりと並んだ。
 あ……と誰かが声をあげる。
「わかりにくいかもしれないが、ここだ」
 とん、と武は軽くスクリーンを拳の背で叩いた。衝撃で画像が僅かにぶれる。
 武が示したのは、先程彼が遙に映像の停止を命じた瞬間の画像。その画像と一秒前の画像とでは、波形の要素に微かな違いがあった。それまでは存在しなかった波形が、振動グラフに加わっているのだ。そしてそれは、その後の三秒間のグラフにも依然として残っていた。
「ここから、振動計に変化が出ているのがわかると思う。――こいつが、母艦級出現の前兆だ」
 注意していなければ見逃してしまいかねない、微細な変化。だが、それは同時に、一度気付いてしまえばもう見逃すことの出来ない決定的な差違であった。
 その差違は、四秒目と七秒目とを見比べると、七秒目のそれの方が幾分かはっきりとしている。母艦級が近付いてきている証左であった。
「S-11の影響で余計にわかりづらいが……いや、関係ないな。みんなにはこの状態で確実に母艦級の接近を察知出来るようになってもらう必要があるんだからな」
 平時に母艦級の接近を察知出来たところで、意味はない。そんなことは出来て当たり前だからだ。
 しかし彼女達は、武の言を違う意味に取ったようだった。
「白銀少佐、あのような状況は頻繁に起こりうる……そういうことでしょうか?」
 祷子が問うてくる。
 そして、それは正しかった。
「オレの経験上だが……母艦級が現れる可能性が一番高いのは、S-11が爆発した直後や、支援砲撃の最中――つまり、奴らの出現の前兆を誤魔化しやすい時だ」
 武の言葉がヴァルキリーズに与えた衝撃は、計り知れないものだった。
 母艦級の出現を察知するのが困難であるから、ではない。
 奴らが、爆発に紛れて進攻・出現するという事実そのもの――ひいては、それが意味するところに。
「それじゃあまるで……」

「――ああ。立派な戦術だよ」

 ざわめきが津波のように伝播する。
 BETAが戦術を利用するというその事実こそが、彼女達を打ちのめしていた。
 これまで、BETAは戦術を持たないと頑なに信じられてきた。精々、その物量に物を言わせた突撃戦術が関の山だろう、と。
 ――だが、事実は違う。BETAには、確かに戦術が存在するのだ。それも、飛びきり凶悪かつ効果的な戦術動が。
 しかし、驚愕はそれに留まらない。
「何も母艦級だけじゃない」そう前置きして、武はさらなる事実を告げたのだった。「気付かなかったか? この間から始めた防衛戦プログラム……あれでも、BETAは戦術を使ってるんだ」
「そんな……!?」
 幾重にも重なる驚駭の声を耳にしながら、武は続けた。
「突撃級を先頭に第一陣……ここで続けて光線属も登場させることで、AL弾を始めとした支援砲撃を引き出す。当然、何千ってBETAが相手だから重金属雲が展開し次第面制圧に移る……が、奴らは面制圧で振動センサーが役に立たなくなっている間に地中を進攻、一気に二次防衛線にまで浸透してくる。地表付近と、そして大深度地下両方からな」
 そこまで言った瞬間、水月がその意味するところに気付いたようだった。
「――まさか母艦級……!?」
 武は首肯し、
「あのプログラムにも、ちゃんと母艦級は登場してたってわけだ。データが遅れてた都合で、母艦級その物は地表にまでは出て来なかったんだがな。勿論、こちらでも振動計をチェックしていれば、出現を事前に察知出来るようにしてある。――だが、これまでの話で、それ以上に重要なことがあるだろう?」
「え?」
「第一陣を犠牲に第二陣を敵陣深くまで進攻させる――典型的な陽動、というわけですか」
 わからなかったらしい水月に代わって、美冴が言った。
 いつもは涼やかな微笑を湛えている口許が、今は忌々しい、とでも言いたげにきゅっと引き結ばれている。
 ようやく水月も気付いたようで、それに気付かなかった数名同様、一瞬刮目した後、美冴と同じような顔付きになった。
「それも、敵の最大の飛び道具を利用する……まるでAL弾みたいなやり方で、な」
 つまらなさげに――感情を押し殺した様子で――言う武に、一層ヴァルキリーズの表情が曇った。
 奴らは、人類から戦術を学んでいるのだ。そうでなければ、こんな皮肉めいたやり口は使ってこないだろう。
「しかも奇妙なことに、第一陣第二陣の突破はやけに遅いんだ。まるで、こちらの面制圧を待っているみたいに、な」
 支援砲撃を突破してしまえば、待ち受けているのは戦術機甲部隊。効果的に面制圧を引き出すために、必要以上にこちらの防衛線を抜いてくることはないのである。
 犠牲をまるで厭わないBETAだからこそ可能な、文字通り捨て身の戦法だ。
「その後、先行部隊に追い付く形で第三陣第四陣を送り込み、こちらの注意が一箇所に集中したところで、とどめとばかりに師団規模軍団規模の第五陣以降が地中から一気に押し寄せてくるってわけだ。これが、突然損耗率が急激に跳ね上がる絡繰りさ」
 最初こそ他部隊が配置されていなかった防衛戦プログラムであったが、今ではAIによる七個大隊規模の戦術機甲部隊と、同じく二個連隊の自走砲部隊と戦車部隊、航空支援五個大隊、さらには十六隻からなる帝国軍の一個艦隊という、正しく横浜基地の総力を挙げた布陣で挑んでいる。
 それでも、防衛戦の成功率は未だ一割にも届かない。武の言った通り、一時間余りを過ぎたところで、突如として軍全体の損耗率が急上昇し、戦線が瓦解するのである。万以上のBETAの津波に抵抗する術は、人類にはないと言ってよかった。
 実際にはAIプログラムではなく人間による指揮の下行われるとはいえ、それだけで成功率が大きく変化することはないだろう。
 現状、一割弱の成功さえ、生存者は最大で三名……一個小隊にも満たない。
 それも無理からぬことだである。
 ――件の防衛戦プログラムもまた、武の経験に基づくものなのだから。
 敢えて名付けるとするならば、防衛戦プログラムH20といったところか。
 その名の通り、武にとって、最悪の一戦であった、旧甲20号目標――国連軍鉄源基地防衛戦を徹底的に解析・再構築した物である。
 あの戦いを忘れることは、武には決して出来なかった。あれほど多くの戦友を――ヴァルキリーズの仲間達を喪った戦いは、ない。
 そして同時に、真那や仲間達の指導で強くなったと思っていた武の鼻っ柱を、根元からへし折り、木っ端微塵に打ち砕いた一戦でもあった。水月が負傷により戦線を離脱していたことで――既にその時には美冴も戦死していた――ヴァルキリーズの中隊長を務めていた時のことだから、多少の増長があったことは否めない。しかし、その増長が己への不信へと転ずる程に、あの防衛線は武を打ちのめしたのだった。
 何しろ、あの一戦でヴァルキリーズは壊滅したのだ。生き残ったのは武と、負傷により横浜基地で待機していた水月の二人のみ。他の戦乙女達は皆、武を生かすために散っていた。武に未来を託して逝ったのだ。
 それ以来、武は再び血反吐を吐く思いで――否、幾度となく血反吐を吐いて、己を徹底的に鍛え直したのだった。その結果、衛士の最高峰とまで呼ばれるようになったのであるが。
 それ程の苛烈極まるプログラムで、一割に満たないとはいえ、成功という結果をもぎ取ったことは、十分に胸を張っていいだろう。
 最終的には、横浜基地全体でこのプログラムを繰り返し行い、成功率をほぼ十割にまで引き上げることが目標であるが、その大規模防衛戦の前に、佐渡島を陥とせるだけの戦力を身に着けることからだ。
「まずは徹底的に母艦級を察知する訓練を積んでもらう。いいな!?」
「了解ッ!!」
 武の声に、ヴァルキリーズは敬礼で応えたのだった。

「一つだけ、お訊きしてもよろしいでしょうか」一通りの説明を終えたところで、みちるが言った。「母艦級やBETAの戦術についての情報……これらは、一体どこから?」
 母艦級は未発見の種である。A-01でさえ、今日このエインヘリヤル・データを行って初めてその存在を知ったのだ。しかも、昨日ピアティフを問い詰めた際にも、軍機としてその名称以上のことは教えてはもらえなかった。
 にもかかわらず、これほどまでに詳細な情報を武が所有しているという事実。いかに香月夕呼の片腕であるとはいえ、一衛士が得られる情報ではないはずだ。
 これを疑問に思わぬわけがなかった。
 問いを発したみちる以外の全員も、そのみちるの懐疑に賛同を示していた。
 だがしかし。
「Need to know――貴様らが今知っていい情報ではない」
 武の答えは、簡潔極まりない拒絶だった。


 デブリーフィングを終え、武がブリーフィングルームを後にすると、ブリーフィングルームには、重い沈黙が漂っていた。
 その主立った理由は二つ。
 一つは、昨日のエインヘリヤル・データ。母艦級の脅威を、改めて目の当たりにしたためだ。
 その恐ろしさを身を以て味わったのはつい昨日のこと。それを攻略するという難題に頭を痛めるのは必然といえた。
 ――そして、もう一つは。
「白銀少佐、いつも通りで良かっただぁ……」
 ぽつりと多恵が零す。賛同の声はすぐには続かなかったが、この場の誰もが同じ感想を抱いていることは、火を見るより明らかであった。
 彼女達の脳裏に、一つの映像が過ぎる。
 襲い来るBETAを瞬く間に虐殺の渦に巻き込んでいくたった一機の不知火・弐型――疾風迅雷を体現せし嵐纏いし尖兵ストーム・バンガード。闘争心に満ちた戦神の具現とも言うべき、三面六臂を体現するその様は、正しく阿修羅と呼ぶに相応しい。
 ――その燃え盛るような凶暴性、狂乱性も含めて。

 誰もが昨日の母艦級出現後……即ち部隊壊滅後の武の豹変――暴走と言い換えてもいい――に想いを馳せる中、伊隅みちるの思考はそれよりも以前へと遡っていた。
 忘れもしない、11日の記録映像。
 あの、見る者の胸を締め付けるほどに苛烈な、おぞましいほどの暴虐の嵐。
 理解出来ない機動概念と理解せずにはいられない根幹思想。人間として致命的なまでに壊れた、“至ってしまった者”だけが達することの出来る極致。
 殺すために殺し、討つために討ち、斃すために斃し、滅ぼすために滅ぼす……鏖殺のための鏖殺を突き詰め、全ての技術と精神を磨き上げ研ぎ澄ませた、ある種における衛士の究極。
 それが、白銀武だ。
 まるでパンドラの匣。絶望と災厄を世界にぶちまけた、神話の匣である。その底に残った希望とは、彼の技量や発想のことなのであろうか。
 ……一説によれば、匣の底に残った希望こそが最悪の絶望なのだともいう。それは間違いではないだろう。彼の抑え付けられていた側面こそが今、彼女達に耐えがたい恐怖をもたらしているのだから。
 一体どれほどの艱難辛苦を身に刻めば、あれほどの深い暗闇を心に抱えられるのだろう。
 一体何があれば、ああも人間として壊れることが出来るのだろう。
 先程のデブリーフィングで武が母艦級出現後のことに――彼が一人で立ち回った大広間での戦闘に一度も言及しなかったのは、きっとヴァルキリーズが全滅していたからだけではないだろう。
 平時の白銀武には、何らおかしなところはない。狂人の素振りなど、一寸たりとも見せはしない。むしろ、尊敬すべき衛士の鑑と言うべきだろう。実力は勿論、XM3を生み出す柔軟な発想力、さらには副司令ら基地上層部の覚えもいい。
 聞けば、あの神宮司軍曹と共に訓練小隊の教官の任に就いてもいるのだという。その訓練部隊の者達は皆、武を目標にしているのであろうことは想像に難くない。
 その少女達は、神宮司軍曹は、武のこんな一面を知っているのだろうか。
 いや、知らないだろう。彼がこんな姿をむざむざ見せるとは思えない。それ程までに、彼の自制力は強力であり、今回のような不測の事態でもない限り、綻びることはないであろうからだ。
 ――だが、一つだけわかったことがある。
 抑え付けられていた彼の凶暴性が発露し、暴虐の限りを尽くすのは、BETAと戦っている時であり。そのスイッチは、立て続けの仲間の死であるということ。
 仲間の死を受けて、感情のままに暴走するということはままある。
 だが、これまでに多数の仲間を喪ってきたみちるでさえ、あそこまで強烈な憎悪をBETAに抱いたことはない。無論、みちるとて人間だ、怒りに我を忘れることはある。それでもそれは一時的なものであり……その憤懣を、憎悪を、こうも持続させることは、並大抵のことではない。
 人間には、残酷なようであるが、忘れるという機能がある。辛い記憶や強烈な感情を、表層に上ってくることのないよう、記憶の奥底に沈めるという機能が。
 しかし、武にはそれがないように思えるのだ。それらの記憶を忘れることなく、脳髄に、心臓に、深く刻み込んでいるのだろう。だから、負の感情はいつまで経っても消えることがない。
 ――その辺りの精神的な未熟さは、やはりまだ十代ということか。
 時に忘れがちなその事実を思い起こし、みちるは吐息した。
 どんなに逞しく、卓越した衛士であろうとも、彼の年齢を考えれば、未だ新任兵であってもおかしくはないのだ。
 ――私達が支えてやらなくてはな……。
 それが、この伊隅戦乙女隊(ヴァルキリーズ)の隊長たる自分の役目だろう。
 部下をまとめ、その上上官を支える……その労苦は、想像するだけでもみちるの肩に重くのし掛かってくる。だが、それは不快な事実ではなかった。
 むしろ、誰にともなく自分に課せられたその任を、誇らしく思ってさえいた。そうすることで、思い人に恥じる事なき衛士として胸を張れると思えたから。

 速瀬水月は、他の者達同様、先の武の機動に思考を及ばせながら、一人唇を噛んでいた。その表情には、問うまでもなく苛立ちと悔しさが表れている。
 みちるが思い悩んでいるであろう武の二面性――常日頃の完璧に近い衛士の姿と、先程見せた脆く弱い虐殺の化身としての姿――にではない。そういった面があるのは、人間として当然のことだし、武は普段、それらを完全に押し隠している。
 水月とて、自分に、滅多に見せぬもう一つの顔があることは自覚的である。美冴曰く、臆病で繊細、であるという。何を宗像がわかった風なことを、とも思うのだが、自分でもそういった精神面の弱さがあることはわかっているし、美冴の言うことも強ち外れてはいないのだから仕方がない。
 そういった弱さを、心の強さで鎧うことが出来るかどうか、それが大事なのだ。そういう意味では、武に関して心配は殆どしていなかった。むしろ、年相応の弱さを見せてくれて、ほっとしている部分もある。
 年長者として、そして部下として、自分達が彼を支えてやればいいのだし、今後何か問題が出て来れば、殴ってでも――プライベートであれば問題にはならないことは、武のスタンスから明らかだ――前を向かせ、立ち直らせるだけだ。
 武のスイッチが仲間達の相次ぐ死にあるというのであれば、自分達が強くなればいい。
 自分達が死ななければ、彼のPTSDに触れるような出来事さえなければ、彼は尊敬すべき上官で居続けてくれるだろうから。
 ――だから、水月が腹を立てているのは、そのことに対してではなかった。
 武は、ヴァルキリーズの教導官という立場にあるが、その教え方は机上で論を弄するのではなく、徹底的に実戦の中で技術や心構えを叩き込むというものだ。
 だから、共にヴォールク・データや武の作った防衛線プログラムにトライしたことも一度や二度ではないし、敵対しての模擬戦だって何度も行っている。
 ――だが、先程の大広間前後で彼が見せた程の機動を見せたことは、ただの一度たりとてなかった。
 つまり。今まで自分達は、彼の本当の実戦機動を目の当たりにしたことさえなかったのだ。
 それが、苛立たしい。まるで、お前達ではオレの本気には付いて来られない、とでも言われているようで。
 勿論、武はそのようなことを言う人間ではない。何故だか彼は、自分の技量について絶対の自信を持っている癖に、自分を過小評価し、水月らを過大評価する癖がある。自分より優れた人間に尊敬の視線を向けられるという経験は、初め妙にくすぐったかったものだ。
 しかし、事実がそれをはっきりと語っていた。
 自分達では、彼の隣に並び立つことを許されてはいないのだと。
 それが証拠に、月乃と多恵の二機連携に編入したはずの武は、一人遊撃の位置に立つことが幾度とあった。しかも、ハイヴという地獄の戦場の中、フォローの要請を一切せずに。
 彼は、戦場で孤立することを恐れていない。孤立が即、死に繋がると理解していて尚、たった一人の戦場を拒むことはない。
 何故なら、それが彼にとっての常であったからだ。
 水月は知る由もないことであるが、前の世界における武は、部隊長という立場でありながら、その卓越した機動を武器に、陽動を引き受けることが多々あった。彼の派手な動きはBETAを惹き付けるのに効果的であったし、最も撃墜される可能性が低いのは間違いなかったから。
 勿論、要所要所で部下や戦友のフォローはあった。先のエインヘリヤル・データでも月乃や多恵、あるいは中衛・後衛陣の砲弾が武を救ったのは一度や二度ではなかった。
 しかし、先程のそれが彼の本気であるのだとすれば、何人たりとも彼にとっては足手纏いに過ぎない。当然だ、彼の機動を真に理解し、彼の機動に付いていける者など、存在しないのだから。
 だから、忌々しい。
 伊隅戦乙女隊――横浜基地の誇るA-01の突撃前衛長を務めているにもかかわらず、武の後塵を拝するしか出来ない自分が。
 自分には力があると思っていた。
 愛する人が死んだことを知り、嘆き続けていた日々。けれど思い人を共にしていたライバルは自分よりも強くて。泣いているだけじゃ始まらないと気付いていて。
 だから、水月は誓ったのだ。二人の分も強くなろう、と。二人の分も戦い続けよう、と。二人の分も大切な人を護ろう、と。――そう思って。そう願って。そう誓って強くなったつもりだったのに。
 ――遠い。果てしなく。
 水月にはまだ、あの背中を見つめることしか出来ない。追い掛けることしか出来ない。
 いつかは、並べるだろうか。本当の意味で肩を並べて、戦うことが出来るのだろうか。彼に恥じぬように。彼女に恥じぬように。自分は、強くなれるのだろうか。
 ――なれるか、じゃないわね。
 強く、なるのだ。そう誓ったではないか。
 速瀬水月は、伊隅戦乙女隊の突撃前衛長だ。近接戦闘最強の称号を授かる、部隊の槍なのだ。
 だから、いつまでも戦乙女の尖兵に遅れを取っているわけにはいかない。
 ――天才だか何だか知らないけど、絶対に超えてやるわよ、白銀少佐……!
 噛み締められていたはずの口許は、いつしか彼女らしい勝ち気な笑みを浮かべていた。

 七瀬凛は、いつか交わした言葉を思い出していた。
『オレだって、BETAは憎い。出来るなら、地球上のBETA全部をぶっ殺してやりてえよ。戦術機に乗って戦ってると、いつだってアイツらを皆殺しにしてやりたくなる』
 兄を想う余り昏い誘惑に心を囚われかけていた凛に向けられた武の言葉。
 あれは、こういうことだったのだろうか。
 あの時の武は、最愛の兄をBETAに殺された――と思い込んでいた――かつての凛以上だった。
『復讐するななんて言ってない。ただ、それをコントロールしろって言ってるだけだ』
『お前、戦ってるとき、自分が生きて帰ること、ちゃんと考えてるか? 仲間のことは? ――BETAを倒すことで頭がいっぱいだったりしないか?』
 そう言った彼と同一人物であるとはとても思えない、激情に身を任せた進攻。仲間を殺された事による復讐心から、ただBETAを倒すためだけに弾丸を放ち、刀を振るっていた。自分が生き残ることなど、微塵も考えていないのは明らか。そうでなくては、数多のBETAひしめく大広間に単機で吶喊、BETAを迎撃しながら反応炉を通常兵装で攻撃するなどという無謀極まる、常軌を逸した発想が得られようはずもない。
 最終的にS-11の爆発に巻き込まれたのも、自分の生還を第一に考えていなかったが故だろう、と凛の目には映った。
 大広間から脱出こそしたものの、そんなことは一応の行動でしかない。何故ならば、S-11は仲間を巻き込まぬよう、また効果的に反応炉を破壊出来るよう、指向性を持たせてあるからである。爆発から逃れられる横坑に逃げ込むことは、武の技術を以てすれば、決して不可能ではなかったし、困難な事でもなかったはずだ。
 にもかかわらず、そうはしなかった。あの時の武が自身の生還を度外視していた、何よりの証左である。
 ――それが、哀しかった。
 凛にとって武は、尊敬すべき上官であると同時に、昏い闇に囚われていた凛に道を指し示してくれた恩人であり、七瀬勇とは違うもう一人の兄でもある。
 彼の言葉があったからこそ、彼女は今前を向いて、仲間達を護るために、そして自分が生きて、未来へと進むために戦うことが出来るのだ。彼がいなければ、凛はいつか、大切な仲間達を危機に晒し、取り返しの付かない事態を引き起こしていたかもしれない。武には感謝してもしきれなかった。
 その武が、かつて凛に教えてくれた大切な事を忘却してしまう程に激昂していた……その事実に、胸を締め付けられる。
 彼にとって、それ程までに仲間とは大切な存在なのだ。一瞬で仲間達が散っていった様に、忘我してしまう程に。
 ――白銀少佐のために、私には何が出来るんだろう……。
 凛は自問する。
 答えは、すぐに出た。
 簡単だ、強くなればいい。死なないように。自分の死で、武が傷付かなくていいように。身も心も、技術も。全てにおいて、強くなればいい。
 そうでなくては、いつか兄と再会した時に胸を張ることが出来ない。
 自分が白銀武という誰よりも優秀な衛士の下で彼と共に戦ったのだと、高らかに報告することが出来ない。そんなのは、嫌だった。
 二人の兄に恥じるような真似だけは、したくない。この伊隅戦乙女隊の名を汚すようなことだけは、したくない。
 それが、凛の偽らざる本心。
 白銀少佐を支えてあげたい……凛は、心からそう願っていた。


「あ、タケルだ」
 ヴァルキリーズとのデブリーフィングを終え、昨日のエインヘリヤル・データに関する種々のデータ処理を終えた武が昼食を摂りにPXへとやってくると、その姿を認めた美琴が声をあげた。武は合成鯨の竜田揚げ定食のトレイを手に、207B分隊の待つ卓へと向かう。
 挨拶もそこそこに、武は半ば定位置と化したかつての定位置に収まると、鯨の竜田揚げにかぶりつく。思えば、『元の世界』では鯨の竜田揚げなどお目に掛かったこともなかった。合成食品とはいえ、こうして頻繁にそれを口にするようになっているのだから、先日も思ったことであるが、やはり武はすっかり『この世界』の住人らしい。
「今日の午後は白銀も参加してくれるのかしら?」
 傾けていた合成宇治茶の湯呑みをテーブルに置いて、千鶴が問うた。
「そうだな……」一度言葉を切って思案し、「最近はお前らの訓練見れてないし、そうさせてもらうか。神宮司軍曹にはオレから言っておくよ」
 ここ数日は防衛戦シミュレーション、エインヘリヤル・データの作成、トライアル用の特訓と、A-01に付きっきりだった。A-01の訓練を見ていない日も論文を取りに元の世界へ出掛けるなど、特殊任務に忙殺されていたため、207B分隊の教官として動くのは、先日倒れて以来、実に約一週間ぶりのこととなる。
「久しぶりのタケルの教導とあっては、腕が鳴るな」
「ええ、そうね。それに、この間は勝ったような気がしなかったもの」
 千鶴が言っているのは、八日前の最後の訓練のことだろう。12・5事件の引金を引くべきか否かという懊悩が武の思考能力も判断能力も奪い、その所為でたったの一機も撃墜出来ぬまま無様に機体をペイント弾で染め上げられたのだった。
 思い出すだけで申し訳なさが込み上げてきて、恥じ入らずにはいられない。
「あの時は悪かったな。教官失格だ」
「そ、そんなことないですよー。たけるさんが教官で良かったです」
「壬姫さんの言う通りだよ。誰にだって調子が悪い時はあるだろうし……ねえ、慧さん?」
「無理は禁物」慧は頷き、「倒れたって神宮司教官が言ってた。体調管理も大事な仕事……でしょ?」
「わかってる。今度から気を付けるよ」
 武は苦笑した。まさか訓練兵にそんな当たり前のことを言われるとは。
 彼女らとの訓練中には体調不良ということはなかったが、その直後に倒れているのだから、健康であったと言ったところで説得力はない。それならばいっそ、体調が悪かったということにしてしまった方が都合がいい。
 武の命がもう長くないかもしれないなどということは、誰にも知られぬ方がいいのだから。


「足を止めるなと何度言えばわかるんだ!!」珠瀬機を褐色に塗り潰しながら、武はオープンチャンネルで叫んだ。「戦場で悠長に狙撃体勢を整えられると思うな! 動き回りながら敵を撃ち抜くんだ!!」
『は、はい!』
 今の言葉は、壬姫だけに向けた物ではない。他の207B分隊は勿論のこと、まりもに向けた物でもあった。
 XM3の最大の武器は、その運動性能。キャンセルや先行入力を駆使して動作と動作の間の隙を埋めることで得られる、柔軟かつ流動的な機動制御こそがその本領である。即ち、常に動き回れること……そこに、XM3が革新的なOSである所以はある。
 つまり、狙撃制度を高めようと足を止めることは、XM3の利点を殺ぐことにしかならないのだ。
 また、戦術機は、その照準補正の大部分をコンピューター制御によって行っているが、XM3用の高性能CPUの演算能力は従来のそれを遥かに上回る。そのため、照準補正の精度も大幅に向上しているのである。
 言い換えれば、高速機動の最中であっても、狙撃精度のロスを最小限に抑えられるということだ。衛士の腕前次第では、正確を期することも出来る。
 そもそも、たとえ多少精度が低下しようとも、関係はない。対人戦で重要なのは、一撃で仕留めることではなく、当てることだ。重要なのは当たるかどうか。当たれば少なくとも相手の能力を殺ぐことは出来る。一撃必殺など求められてはいない。ある程度の弾数を費やせば、着弾する可能性も致命的損傷を与える可能性も高めることが出来る。
 そういう意味でも、動き回りながらの砲撃というのは、アンブッシュをするのでもない限り、非常に有効なのである。
 だから、ある意味では壬姫が一箇所に留まっていたのは、一概に間違いとは言い切れない。アンブッシュして武を狙撃する――それが彼女の役割であったのだから。
 しかし、武が言っているのはその後だ。狙撃が白銀機を撃墜出来なかったならば、反撃の砲火に貫かれぬよう、壬姫はすぐに回避行動に移るべきだった。
 だからこそ、武は口酸っぱく言い続けているのだ。決して足を止めるな――それは、武がこれまでの経験から得た、XM3搭載機を駆る上での極意とも呼ぶべき教訓であった。
 武が搭乗するのが、機動力に重きを置かれぬ撃震であろうともそれは変わらない。今この演習場内で最も動き回っているのは、他ならぬ白銀機。
 言葉で伝えるのではなく、実践を以て伝える……それが、武の教育方針だった。
 キャンセルからの反転噴射や二段ジャンプを活用した三次元機動によって、白銀機は縦横無尽に演習場を駆け回る。言い換えれば、頻繁に機影を敵に晒している格好になる。
 それでも致命的な被弾がないのは、偏に悪運の強さと、ロックオン警報と同時に全ての入力をキャンセルして反射的に回避行動を取る――身に染み付いた衛士としての本能の為せる業だ。そして何より――
「……ッ!」肩部装甲をペイント弾が掠め、武は咄嗟にスロットルペダルとレバーを操作し、「神宮司軍曹――ッ!!」
『了解!』
 ――後方から、時にアンブッシュをしながら武を援護する彼女がいるからこそ、武は無傷を保っていられるのである。
 白銀機を狙撃するということは即ち、自機の位置をまりもに教えてしまうということでもある。そこをすかさずまりもが狙撃、あるいは武と共に追撃する……それが、今日の二人の攻撃のパターンだ。
 模擬戦は三戦目に入っているが、これまでの二戦はどちらも武達の勝利に終わっていた。
 そしてこの三戦目、武達はここに至っても同様の戦法を用いていた。数でも機体性能でも劣る二人には、陽動からの各個撃破が最も理に適っているためだ。
 勿論、207B分隊の五人とて指をくわえて狩られるばかりではなかった。各個撃破を避けるためには、常に数的有利な状況を作り出せばいい。基本となる最小単位である二機連携を徹底し、さらには小隊全体を連携の基本単位とする――それが、三戦目の207B分隊の作戦だ。
 壬姫が真っ先に撃破されたのは、遠距離から狙撃するために彼女だけが小隊からやや距離を取っていたことが原因だった。作戦が裏目に出たのだ。
 しかし、それで呆ける207B分隊ではない。一人がやられたならばその犠牲を無駄にしないよう、次の一手を打つ。その現れが数秒前の射撃であり、武は勿論のこと、居場所を明らかにしたまりもに対しても放たれる砲撃の雨であった。
 一機だけではない。三機が一斉に弾雨を降り注がせている。
 その猛攻に武は、反撃に移る糸口を一向に掴めずにいた。

「くそっ……!」
 知らず、悪態が口を突いて出た。
 何も彼女らの作戦が想像を上回ったわけではない。各個撃破されれば二機連携の徹底、それでも駄目ならば小隊運用の徹底……そう対策を練ってくるであろうことは予想通りだ。
 だから、想像を上回ったのは、彼女達の練度だった。
 残る一機、御剣機が長刀を手に迫る。その一撃を受け流しながら後退するものの、砲弾が機体を掠めた。小刻みにレバーを操作して跳躍ユニットを動かし、急制動と急加速を繰り返すことで、どうにかペイント弾の嵐をやり過ごす――が、全てを捌ききることは叶わず、コクピットに微かな震動が伝わってきた。
『白銀機、左肩部装甲に被弾。装甲損耗率四十五パーセント。戦闘続行には支障なし』
 武と共に演習に参加しているまりもに代わって、戦域管制を務めているCP将校の声が鼓膜を震わせた。
 武は思わず舌を打つ。しかし、その口許には確かな笑みが散っていた。
 彼女達との訓練から遠ざかっていた一週間。僅か一週間で、ここまで練度を上げているとは思いもしなかったのだ。それを嬉しく思わずにいられようか。
 まるでスポンジが水を吸うように、彼女達は驚く速度で成長していく。センスもあるだろう。武やまりもという教官の力もあるだろう。XM3の助けもあるだろう。訓練兵という最も力の伸びる時期であるということもあるだろう。――だが、最大の要因は何といっても、強くなりたいという彼女達の意思故だろう。
『強い意思を持って事に当たりなさい。望むものを勝ち取るために、全力を尽くしなさい』
 恩師の一人から、武が授けられた言葉。
 彼女達はこの言葉を知る由もないが、それを体現している。
 強くなりたいと、大切な何かを護りたいと、平和な未来を勝ち取りたいと強く願い、全力を尽くしているから。だからこそ、彼女達は訓練兵でありながらここまでの実力を手に入れたのだろう。
 ――ほんと頼もしいよ、お前ら……! ――けどな。
 歓喜の笑みが、肉食獣めいたそれへと変貌していく。
 ――負けてやるつもりはねえ……ッ!
 右主腕と背部パイロン、二門の突撃砲で弾幕を張りながら、全力の噴射跳躍で後退する。
「神宮司軍曹! フォローを!」
 言うが早いか、武は倒壊したビルに着地、レーダーに映る四機の内、前衛を務める二機へ向かって駆け出した。
 着剣――左に長刀を、右に突撃砲といういつものスタイル。
 遮蔽物を利用しつつ、着実に距離を詰めていく。
 ビルの陰から飛び出せば、その瞬間、無数の砲弾が武を襲うだろう。
 大きく深呼吸。深く深く体に酸素を満たし、意識を集中させ研ぎ澄ませていく。網膜投影越しにまりもと視線を交わす。見れば、まりもも武と同じように深い呼吸を繰り返していた。
 自然と呼吸が合わさっていく。
「軍曹――」
『――了解』
 それ以上の言葉はいらなかった。
 神宮司機の構えた突撃砲前上部、120mm滑空砲から、巨大な砲声が迸る。放たれるはキャニスター弾。武が背負うビルを僅かに掠めて、散弾が空を貫き、207B分隊が待ち受けているであろう空間へと着弾する。
 直後、白銀機が躍り出た。右主腕に保持した突撃砲が、前方に弾丸を撒き散らす。跳躍ユニットが高く嘶き、青白い炎を噴き出して、撃震が低空を滑る。
 その足許を、ペイント弾が塗り潰した。それを知覚した瞬間、武は跳躍ユニットを操作、コンクリート目掛け噴射炎を叩き付け、機体を舞い上がらせる。と、ビルの上で突撃砲を構える機体が目に留まった。
 すぐさま眼下目掛けペイント弾の雨を降らせる――が、それが敵機を捉えることはない。そこに、既に吹雪はなかった。先の武の言をもう実行しているのだ。
 舌打ちしつつキャンセル、反転噴射……着地して滑走。
 そこへ、二振りの短刀を構えた彩峰機が突っ込んできた。背部パイロンに格納したままの突撃砲での牽制も忘れていない。
 上半身の体重移動を用いたスウェーに主脚移動、さらには瞬間的な跳躍ユニットの作動を組み合わせることでそれを回避、白銀機は手にした長刀で彩峰機を迎え撃つ。
 甲高い鋼音が大気を引き裂き、火花が散った。
 くるくると孤を描いて宙を舞う小さな塊――彩峰機の保持していた短刀の内の一振りだ。
 駆動系の出力に関して言えば、主機出力で上回る撃震に分がある。加えて、長刀と短刀の質量差、孤を描いて振るわれる長刀と直線的に振るわれる短刀、二つの剣戟の破壊力の差は瞭然であった。
 長刀を振り抜く勢いそのままに、白銀機が独楽のように回転――剣戟の音が、響き渡った。
 背後から冥夜が迫っていたのだ、慧との近接戦闘で足の止まった武を狙って。
「御剣……ッ!」
 武は苦々しげにその名を呼んだ。教官としての呼び名を保てたのは、張り詰めた空気のお陰だろう。
 慧と冥夜、両者に半身の姿勢を保ったまま、武は突撃砲のトリガーを引いた。だが、相手は207B分隊で最も格闘に秀でる――言い換えれば、最も機動制御に優れる慧。たった一歩のステップが、全ての弾丸を無効化してしまう。
『少佐! 今行きます!』
 まりもからの通信。
 武の脳裏に、演習場のマップが描かれ――そして、気付いた。
 ――やられた……!
 冥夜は、まりもに対してビルが遮蔽物となるように陣取っていた。何のために? ――決まっている、彼女を燻り出すためにだ。
「駄目だ軍曹! それは――」
 罠だ、と言うよりも早く、武の頭上を高速でフライパスしていく蒼穹色の吹雪。四門の突撃砲が一斉に火を噴き、榊機は猛然と神宮司機を迎え撃つ。しかしながら、その程度で撃墜されるまりもではない。跳躍ユニットを僅かに動かすだけで、驟雨の如き弾丸を全て躱してしまう。
 当然ながら、そちらへと追いすがるように砲口を操作する千鶴。そんなことはお見通しだとばかりに、まりもは跳躍ユニットの操作をキャンセル、反転噴射で降下、着地。ペイント弾がその頭上を擦り抜けてアスファルトを塗り潰した。
 ――その、瞬間だった。

『神宮司機、動力部に被弾。致命的損傷――大破』

 抑揚を抑えた事務的な音声が武の鼓膜を震わせた。同時に一つ、レーダーに浮かび上がる光点。
 ――やっぱり、美琴か……!
 慧と冥夜の二人掛かりで武の機動力を封じ、そのサポートに現れたまりもを千鶴が誘導した上で、アンブッシュしていた美琴が狙撃する……そこに、偶然の要素は一つもなかった。
 本来は壬姫が狙撃の任を帯びていたのだろうが、美琴が目立って狙撃の技術で劣るというわけではない。むしろ、アンブッシュからの狙撃という条件であれば、美琴に軍配が上がる可能性さえある。
 先日の武の失態を除けば、207B分隊がまりもを自分達の実力で撃墜したのは、これが初めてのことだった。
 その成長ぶりを嬉しく思う反面、自分までここで負けるわけにはいかない、と武はさらに集中力を高めていく。
 どうにか現状を打破しようと試みるが、相手は近接戦を得意とする冥夜と慧。戦術機操縦の技術では武の方が圧倒的に上であるとはいえ、流石に分が悪い。今のように鍔迫り合いに持ち込まれた状況では、武の武器である機動力など生かしようもない。
『これまでの世界』で冥夜や真那に叩き込まれた剣術を発揮しようにも、今度は機体性能が足を引っ張る。撃震は出力こそ吹雪より上であるが、挙動の精度や伝達系の速度で大きく劣る。そのため、武の収めた剣術を十全に振るうことが出来ないのである。相手が凡百の衛士であればまだしも、無現鬼道流を収めた、武の剣の師でもある冥夜が相手では、それは致命的だった。
 く――と喉を引きつらせるように鳴らしながら、武は右腕をアンダースロー気味に振りかぶった。
 短刀を手に再度接近してくる慧。そこを目掛け、武は手にした突撃砲を投げ付けた。
 まさか突撃砲が飛んでくるとは思っていなかったのだろう、彩峰機の突進速度が低下し、手にしていた短刀が、それを防ぐために翻る。
 そうして生まれた僅か一瞬の猶予。その間に、投擲の振りのまま、武は背中へと手を伸ばした。ロッキングボルトが炸裂し、火薬式ノッカーが長刀を跳ね上げる。吸い込まれるように手の中に収まる長刀の柄。
 それを振り下ろすと同時、武は機体を傾がせた。
 二つの硬質な物質が激突する音と擦れ合う音、二つの音が響き渡る。振り下ろした長刀が彩峰機の短刀を叩き落とすと共に、もう一方の長刀は御剣機の長刀を受け流していた。
 倒れ込む寸前、機体を旋回させるように踏み出される足。結果、白銀機は二人の間合いから離脱――ビルを背に、二振りの長刀を手に突撃前衛二機と向かい合う。
 ――流石にきついな……。
 A-01との訓練で使用している武本来の機体である不知火・弐型と撃震とでは、運動性能が違いすぎる。弐型であればこの状況を切り抜けることも可能だろうが、撃震では流石に難しいと言わざるを得ない。ブロック215の撃震の性能は第二世代機水準まで高められているとはいえ、第三世代機との差はあまりにも大きい。
 先日までであれば、それでもどうにかなったかもしれない。だが、一週間前とは、皆見違える程上達している。
 実戦経験という決定的な隔たりこそあるものの、正規兵と比べても遜色ないどころか、平均的なそれを上回っていると言ってもいい。それほどの実力者一個小隊を相手に、性能で劣る機体一機で勝てると思うほど、武は自惚れてはいなかった。
 せめてまりもがいればとも思うが、彼女達の作戦勝ちだ。無いものねだりをしても始まらない。
 突撃砲の残弾も少ない。残る兵装は長刀のみ。今や武は、完全に追い詰められていた。
 ――それが、どうした。
「生ある限り最善を尽くせ――」
 自身に言い聞かせた言葉が、コクピットの中で反響する。
 絶望的な状況など、幾つも乗り越えてきた。撃震で数百のBETAを相手取ったことだって、一度や二度ではない。たとえ模擬戦であろうと、中途で諦めていいはずがなかった。それが訓練兵相手――いや、かつての仲間達の過去が相手では尚更だ。
 武にも意地がある。教官としての、先任衛士としての――そして、仲間の遺志を背負った、男としての意地が。
 ならば、やることは決まっている。
「おぉぉぉおおお――ッ!!」
 迸る咆哮。そして武は、眼前の敵へと襲い掛かった。


「あいつら、強くなったよなぁ……」
 合成宇治茶を一口すすって、武は呟いた。武はPXの椅子に深く腰掛け、まりもと向き合っていた。丁度夕食を摂り終えたところだ。
 まりもが微笑を浮かべて答える。
「いつかは少佐を超えてやると息巻いていましたよ」
「そりゃ、オレも気合い入れなくちゃな」
 冗談で言っているのではなかった。――ハンデがあったとはいえ、武達は今日、とうとう負けたのだから。
 冥夜に斬り掛かりながら、背後から迫ってきた彩峰機を兵装担架に格納したままの突撃砲で撃墜したまではよかった。が、千鶴と美琴の援護により行動範囲を著しく制限され、そこを冥夜に突撃砲で仕留められてしまったのだった。こちらが長刀で挑めば冥夜も長刀を選択するだろうと踏んだのだが、以前の武のアドバイス通り、長刀に固執するのではなく、突撃砲も柔軟に使いこなせるようになっていたようだった。思えば、ビルを背負い、後方への退路を断たれた時点で、武の敗北は決定付けられていたのだろう。あるいはそれさえも、彼女らの思惑通りなのかもしれなかった。
「……やっぱり、この間みたいな勝ち方じゃ納得出来なかった――いや、逆にプライドを傷付けられたってわけか」
 武が零すと、まりもは目に見えて眉をひそめた。
 二人が、無意識の内に避けていた話題だった。
 およそ一週間前、武達は207B分隊に負けた。それも、たったの一機も撃墜出来ぬままに。原因は、武が心ここにあらずという状態であったため。クーデターの引金を引くか否かという問題に気を取られ、目の前の訓練に集中出来ていなかったのだ。
 武が訓練兵であったら、まりもの鉄拳制裁が待ち受けていたことだろう。
 千鶴が『勝った気がしなかったもの』と言っていたのも、当然のことだった。
「――ごめんなさい」
「え……?」
 突然、額が手を突いたテーブルに触れ合うのではないかというほどに深く頭を下げた武を見て、まりもが呆けた声をあげた。
 言葉といい態度といい、間違っても少佐が軍曹に向ける物ではなかった。
「心配を掛けて、すみませんでした。心配してくれたのに、すみませんでした」
「お、おやめください少佐っ……!」
 慌てて立ち上がったまりもが、武の肩を起こす。すると武は、微笑して言った。
「……ありがとう。心配してくれて、嬉しかった」
「……上官を労るのも、部下の義務でしょう?」
 たおやかに笑って、まりもも応える。そんなまりもに武は、もう一度「ありがとう」と呟いた。
「お体はもう大丈夫なのですか?」
「ああ。この間のトライアルは見ただろう? 心配はいらないさ。体調も勘もちゃんと取り戻してる]
「よかった……」
 ほう、と安堵の溜息を吐くまりも。
「――まあ、一昨日は二日酔いで大変だったけどな」
「あの娘達、臍を曲げてしまって大変だったんですから」
「文句は香月博士に言ってくれ。オレもピアティフ中尉も、殆どあの人に巻き込まれたみたいなものなんだから」
「もう、夕呼ったら……」
 尤も、その酒を持ち込んだのは武だし、宴会の切っ掛けも武なのだから、全ての原因はむしろ武にあると言うべきなのかもしれないが。あるいは、酒の出所をさらに辿れば『香月夕呼』に行き着くわけだし、やはり元凶は夕呼であると言うべきなのだろうか。
 いずれにせよ、飲み過ぎたのは武自身の責任なので、やはり悪いのは武である。
「――それはともかく、だ」武は話題を転じた。「そろそろ二対五じゃ難しくなってきたな。オレがいない間はどうやってたんだ?」
「はい。基本は二対二または三対二の模擬戦を。私が参加して三対三を行うこともありましたが……」
「軍曹が入った方の勝ちだろうな、それじゃ」
「ええ」
 まりもは苦笑する。
 207B分隊に力が付いてきたとはいえ、まだ武やまりもとは差がある。特にまりもは、XM3に触れたことで壁を越えたか、この一ヶ月あまりで、さらにその実力を伸ばしている。成長度では207B分隊の方が上であろうが、経験や技術などといった総合的要素を鑑みれば、まりもはヴァルキリーズ以上と言ってもいい。実戦からは長らく遠ざかっているが、彼女ならばすぐに勘を取り戻すことだろう。
「……だが、そうなるとオレが入って三対四っていうのも現実的じゃ――いや、そうでもないか」
「少佐?」
「軍曹。明日の訓練なんだが、オレと御剣、彩峰の前衛組と榊、珠瀬、鎧衣、軍曹の後衛組の模擬戦にしてみないか?」
『前の世界』でヴァルキリーズに配属されてすぐに行われた模擬戦を思い出したのだ。
 水月、武、美冴、冥夜、慧、美琴というA隊と、みちる、祷子、茜、晴子、千鶴、壬姫というB隊。A隊にとってはハイヴ突撃前の光線級の存在が想定される状況を、B隊にとっては同じくハイヴ突撃前の、こちらは突撃級や要撃級が存在する戦況を想定したものだった。
 それを今の207B分隊にそっくり当て嵌めたというわけだ。
 こうすれば、人数も綺麗に三対四に分かれるし、武とまりもが別隊になることで戦力の偏りも防げる。前衛隊には武が入る分、人数差は丁度いいだろう。尤も、撃震と吹雪の機動力差を鑑みるに、実際にはやや後衛組の方が戦力は上だろう、というのが武とまりも、二人の共通した見解であったが。前衛の方が機動を求められる分、運動能力の影響を受けやすいためだ。
「光線級と突撃級を想定した模擬戦、ですか……しかし少佐、それは訓練兵には荷が重すぎるのでは?」
 任官前の207B分隊にはBETAの子細な情報は与えられない。つまり、武らの意図を理解することが出来ず、模擬戦はただの前衛対後衛の対決になってしまうのではないか、ということをまりもは危惧しているのだ。
「そのためにオレと軍曹をそれぞれの隊に入れたんだ」
「成る程……私達が誘導してやればいい、ということですか」
「ああ」
 そのために、明日は模擬戦前に小隊ごとに簡単なブリーフィングの時間を設けるつもりだ。
 すっかり微温くなった合成宇治茶を飲み干して、武は壁に掛けられた時計に視線を投げた。針はもうじき、七時半を指そうとしている。
「それじゃあ軍曹、オレはそろそろ行くよ」
 そう言って、武は立ち上がった。それを見てまりもは、首を傾げる。まだ急いで席を立つような時間でもなかった。
「この後何かご予定でも?」
「この間の模擬戦の後処理――ってところだ」
 まりもは再び首を傾げていた。


 まりもと別れた後、武は衛士教科装備に着替え、シミュレータールームにやって来ていた。
 といっても、そこはA-01が使っている特務部隊用のシミュレータールームでも、207B分隊が使っているシミュレータールームでもない。
 そこには、武以外にも四つの人影がある。武と同じく衛士強化装備を身に着けてはいるが、それは国連軍制式の99式強化装備ではなく、帝国斯衛軍で採用されている零式強化装備だ。赤が一人、白が三人――月詠真那中尉を隊長とする斯衛軍第19独立警護小隊である。
 このシミュレータールームには、国連軍横浜基地において唯一、武御雷の機動を再現出来るシミュレーターが設置されていた。要するに、彼女達第19独立警備小隊に貸し出されている一室である。
 ここ横浜基地に、シミュレータールームを丸々一つ貸し出すほどの余裕は、本来であればない。しかし、彼女達は帝国城内省から派遣された斯衛軍という最恵待遇の客人であり、また武御雷という日本帝国の機密に多分に抵触する機体のデータを収めているのだから、当然の措置であると言えた。
 現在時刻20時。夕食を摂って一息吐いたところだ。
 トライアルの前に夕呼が取り付けた約束通り、これから武は、彼女達にXM3の教習を行う手筈になっていた。
「我々のために貴重な時間を割いていただき、感謝いたします」
 真那達は深く頭を下げた。
「そんな堅苦しくならなくてもいいさ」武は思わず目を細めた。「月詠中尉達はもうXM3は使った事があるんだったな?」
 真那は無言で頷いた。
 トライアルの際、彼女達がXM3搭載の武御雷に搭乗していたことは、夕呼から聞かされて知っている。
 XM3の特性を理解していないとはいえ、それ程の相手に勝利出来る程に実力を付けたのだという喜びと、夕呼に突き付けられたタイムリミットが刻一刻と近付いているという恐怖、相反する二つの感情が武の中で鬩ぎ合っていた。
 それでも、今は喜びの方が勝っていた。今よりももっと強くなれば、かつては護れなかった人達も護れるかもしれない。
「じゃあ、実際に動かしながら、XM3の特性について説明していこうか」
 そう言って武は筐体の中へと乗り込んだ。午後は殆ど戦術機漬けということになるが、その疲労を抑え付ける。
 不知火・弐型のデータを呼び出し、武はキャンセルや先行入力、コンボの概要を、実演を交えて説明していく。
 これら、旧OSには搭載されていなかった概念は、ただ見聞きしただけでは、本当の意味で理解することは出来ないと言っていい。武にとっては当たり前のそれも、この世界では異端の発想なのだ。
 武のような生きた見本なくして、XM3を活用することが出来る者は殆どいないだろう。
 現に、A-01の精鋭達でさえ大幅に向上した即応性だけで満足してしまっていたくらいだ。キャンセルや先行入力の有用性になど、気付いてさえいなかったに違いない。
「……とまあ、こんな感じだ。難しい事は考えないで、まずはキャンセルと先行入力の使い方を覚えてくれ」
『了解』


 武によるXM3の教習は、正規の訓練からは外れた自主訓練のようなものだが――いや、だからこそ、武の指導を受ける四人の眼差しは真剣その物だ。
 先日のトライアル、武に完敗したことを認めはしたが、それで終わることなど、彼女達の矜持が許さない。
 敗北を喫したのならば、その壁を超えずして、どうして将軍を護るなどと言えよう。
 武人として、先を行く強き者の背中に追い付き、肩を並べ、追い越したいと願うのは必定。
 辿り着くべき境地、目指すべき目標が身近にいてくれるというのは、非常にありがたいことだった。白銀武という男、素性は依然として知れず、不審人物であることに変わりはないが、衛士としての腕は紛れもなく超一流。また、素性を抜きにすれば、少なくとも信頼は出来る。
 こうして教えを受けることに対する屈辱も、全くと言っていいほどなかったし、これほどの衛士が冥夜の傍におり、教えを授けてくれているということは、武の素性を考慮しても、真那にとっては歓迎すべき事だった。
 ――そして、このXM3という新OS。
 以前、国連軍横浜基地副司令である香月夕呼に呼び出され、初めてこのOSに触れた時には、興奮が抑えられなかった事を覚えている。もしも三年前にこれがあれば……と思わずにはいられない。
 言うなれば、これは戦術機の歴史における革命だ。
 少なくとも、戦術的レベルでは、人類の劣勢を覆す大きな鍵となる。これまで人類が抱くことの許されなかった、希望の一端が見えたようにさえ、真那には思えたのだ。
 これを生み出したのが、たった一人の――世間一般には――無名の衛士であり、そして現状、真那達にとっての最重要危険人物であると教えられた時、真那は驚愕で打ちのめされることとなった。
 だが、それこそがあの男があの若さにして少佐としての地位にまで上り詰めた理由なのだろう……と、改めて気付かされる事にもなった。
 素性の知れぬ人間を少佐ほどの地位で登用するならば、それに見合うだけの何かがなくてはならない。
「しかし……まさかこれほどとは……」
 真那はシミュレーターの筐体の中で思わず唸った。
 XM3が革命的なOSであるということは、初めて触れた瞬間から理解していた。だが、あの驚きでさえ、そのポテンシャルの一端、それもおまけでしかなかったというのだ。
 当初こそその有用性を疑問視していた真那であったが、数日前にその驚くべき即応性に触れ、そして今、武に言われた通りに操作した瞬間、自身の戦術機機動の、新たな世界が開けたのがわかった。
 このOSが実戦配備されれば、戦場で命を落とす衛士は激減するに違いない。
 同時に、理解する。
 ――たとい四対一といえど、これでは我々があの男に勝てぬのも道理か……。
 自嘲とも諦観とも取れぬ笑みが、真那の口許に散った。
 XM3の発案者であるあの男は、これまでの衛士の常識を覆す柔軟な思考の持ち主であり、このOSの特性を余すところなく理解し、その性能を最大限に引き出す術を知っている。機体性能で勝っていようとも、その能力を引き出すことが出来なければ、宝の持ち腐れでしかない。
 不知火・弐型という特殊な機体を、ああも完璧に使いこなせる人間は、そうはいないだろう。
 それに、白銀武の操縦技術も卓越していた。
 BETAの最大の脅威は、その物量にある。故に、経験を積んだ衛士ほど、多対一の状況を切り抜ける術を自然と身に着けているものだ。それは、真那は勿論、武も例外ではない。
 しかし、どれほどの訓練を重ねれば、どれほどの死線をくぐり抜ければ、どれほどの地獄を踏み越えれば、あの年齢であの境地に辿り着けるというのだろう。
 どうやって、この男はこれほどの強さを手に――。
 それは、純粋な興味だった。
 ……真那には、気になっていたことがあった。
 四六時中というわけではないが、武が冥夜と共に過ごしている様子を、真那達は監視している。そのとき、ふと武の横顔に、冥夜達207B分隊の面々を慈しむような表情が浮かぶのだ。まるで、遠い昔失ってしまった、子供の頃の宝物へと想いを馳せるかのような。
 今はもういない仲間を思い出しているのかとも思った。
 だが、そうではないのだ。武は、彼女達を通してここにはいない誰かを見ているのではなく、確かに彼女達を見ている。
 だからこそ、不思議でならなかった。
 時折、その優しい微笑の中に深い闇が差し、その瞳が奈落のような翳りに覆われるのが。
 武のそういった表情を見るたび、真那は思うのだ。あの男は、まるで硝子細工のようだ――と。
 硬く、美しくもあるが、ふとした拍子で呆気なく砕け散ってしまいそうなほどに、脆く、儚い。
 歴戦の勇士の内面とは、明らかに異なる――むしろ、真逆。
 何故この男はこうも強く、弱いのか――一度こびり付いたその疑問は、真那の脳裏から離れてはくれなかった。


 2001年12月3日(月)


『少佐……これ……冗談ですよね?』
 弱々しい声で茜が言った。
「そんなわけがないだろう。オレは至って本気だ」
 武はにべもなく答える。ざあ、と音を立てそうな勢いで、武の網膜に映った茜の顔から、色が抜けていく。
 血の気が引いているのは、茜だけではない。月乃と美冴もまた、刑の執行を待つ死刑囚のような面持ちで、武の言葉に打ちのめされていた。残る面々は、皆一様に同情的な視線を向けている。
 今日の訓練内容は、エインヘリヤル・データでも大規模防衛戦でもなく、『CASE:47』……つまり、対戦術機戦闘。
 その部隊編制は、A隊が武、みちる、水月、多恵、小雪、祷子、凛、楓、晴子、千景。対するB隊は――美冴、茜、月乃の三人のみ。
 十対三、それもA隊に武、みちる、楓、水月の四人が固まっているのだ。
 最早私刑と変わらない。
『少佐……私は何か、少佐に恨まれるような真似をしたでしょうか?』
「したかしなかったかと言われれば、したとしか言えないな」
 う、と美冴は呻いた。心当たりはありすぎるに違いない。
「個人的な憂さ晴らしの類じゃないから安心しろ。これは単純に、個々の能力を引き上げようと思ってやっているだけだ」
 BETAの最大の武器は物量だ。XM3をフル活用することで、光線級の脅威を多少なり減少させる事は出来るだろうが、依然として物量という脅威はついてまわる。その物量に対処出来ない限り、実戦を生き延びることは出来ない。
 先月の佐渡島からのBETA上陸戦では、武らが多くのBETAを撃破していたため、A-01が相手取るBETAはかなり少なかった。つまり、元207A分隊の五人は、BETAの物量に直面した事がないということになる。
 そこで、多数を同時に相手にするという感覚を身につけるために、この人数比の明らかに偏った模擬戦を行うことにしたというわけだ。
 この状況では、各自の判断の質・速度を共に向上させねばならず、同時に繊細な戦術機操縦の技術が求められることになる。
 些か荒療治ではあるが、手っ取り早く多数の敵と戦う術を身に着けるには、これが最適だと武は判断したのだった。
 武がそう説明すると、美冴達は納得してくれたらしい。ただし、みちると水月、楓、美冴の四人だけは、それで納得してはいないようだったが。
 ――みちるらが睨んだ通り、武にはもう一つ、彼女達には伏せている思惑があった。
 それは、四日後のクーデターに際して、彼女達の生還率を高めるというもの。敵は帝国軍の中でも精鋭達ばかりだ。生半可な腕では、何も出来ずにやられることとなる。
 元々がこちらも精鋭揃いのA-01、不利な状況での戦闘に慣れておけば、たとえ相手が帝国軍の精鋭だとしても、後れを取るはずがない。
 何しろ、こちらにはXM3という大きなアドバンテージがあるのだから。
 それでも、敵戦術機に囲まれても切り抜けられるよう、その状況に彼女達を慣れさせておく必要があった。
「わかっているるとは思うが、他のみんなにも同じように三機で十機を相手にしてもらう。三機でやられた仕返しは、その時に存分にやれ」
『…………了解』
 答える十二人の顔は――みちるまでも――青ざめていた。
 尤も、最初の生贄に決定していた美冴ら三人は、引きつった笑みを浮かべていたが。


 その日の夜、武はいつものように、斯衛軍第19独立警護小隊の待つシミュレータールームへとやって来ていた。
 初日こそ基本的なXM3の運用方法を説明したが、それ以降はずっと、二対三や二対二での模擬戦を繰り返している。
 ただ反復して特訓しただけの技術など、実戦ではなんの役にも立たない――という考えがあってのことだ。勿論、基礎的な技術であればそれも有効だろうが、咄嗟の判断、咄嗟の動きに生きてこないのだ。
 殊に機動は、実戦を想定した訓練の中でこそ培われるものだ。
 実戦を廃した訓練など、実戦になれば容易く鍍金が剥がれ落ちる。それが、機動制御という生死を分ける要素であれば尚更だ。
 元々真那達の操縦技術は卓越している。それは言い換えれば、既に完成されているということでもある。そこに全く新しい概念を、根幹の部分に加えようというのだから、反射的にそれを扱えるようになるまで、実戦で覚え込ませるしかない。
 今日でこの訓練も三日目。
 そろそろ、真那達四人もXM3の特性を完全に把握し、CPUではなくOSそのものが生きてくる頃だろう――と武は思っていたのだが、
「く――ッ!」
 思わず武は苦悶の声をあげた。
『逃げるだけですか!?』
『まだまだ行きますわよ~っ!』
 神代巽と戎美凪の両少尉が、突撃砲弾を撒き散らしながら接近してくる。
 それらを三次元機動で躱しながら、武は電磁投射砲で応戦するが、互いに目まぐるしく動き回っているため、弾丸は一発として当たらない。
 試製01型小型電磁投射砲は、先月のBETA上陸戦での武の意見を受け、改良を重ねていた。砲身の大幅な小型化は叶わなかったが、G元素を利用した補強構造材を冷却系に重点的に用い、砲身長を縮めるなどして、おおよそのサイズを保ったまま防御力を向上させてある。
 予備の突撃砲が装備出来ないという弱点は、コンテナにウェポンラックとしての機能を持たせることで、一応の解決を見ている。勿論、コンテナ内部には予備砲身も格納してあった。重量が増してしまうという欠点はあるが、革命的な技術的ブレイクスルーに成功しない限り、兵器の破壊力と重量との比例定数は大きいままである。
 とはいえ、これでようやく、電磁投射砲を前衛用装備として実用化する目処が立ったというわけだ。
 電磁投射砲の弾丸初速は、通常の突撃砲弾の数倍ほどもあり、連射性能も総弾数も格段に上だ。にもかかわらず、一向に武御雷を捉える事が出来ない……それどころか、こうして追い詰められてさえいるという事実。
 彼女達の上達速度に、武は舌を巻くしかない。
『白銀少佐、真那様が!』
「わかってる! 神代と戎を牽制してくれ!!」
『了解!』
 雪乃との短い通信を交わしながら、武は背部マウントから長刀を引き抜いた。
 次の瞬間、スーパーカーボン製の刃同士が擦れ合う、耳障りな音が、ヘッドセットを通じて武の鼓膜を貫いた。
「月詠、中尉……!」
『どうなさった白銀少佐、貴殿の力はこの程度か!!」
 ――無茶言うな……!
 歯を食いしばりながら、武は胸中で毒突く。
 真那に加え、巽と美凪。彼女らの呼吸は、一部のずれもなく噛み合っている。それに対し、武と雪乃はこの夜間訓練でしか組んだ事のない急造コンビ、加えて異なる機体、根本的に異なる機動概念を有する二人だ、真那達三人ほどの連携は望むべくもない。
 旧OSで培われた機動概念にXM3の概念を加えた雪乃――第19独立警護小隊のそれに対し、武のそれは、そもそもがXM3の上に成り立つものであるといえる。
 そこに、二人の齟齬があった。
 その齟齬、ほんの僅かな隙を、真那達三人は容赦なく攻め立てる。
 ――しかし、武にとって最大の問題は、そこではなかった。
 孤を描いて振るわれる長刀を躱したと思えば、次の瞬間には、武御雷はその真紅の機体を躍らせ、不知火・弐型の死角へと潜り込んできている。
 噴射跳躍から倒立反転、刃の一閃をやり過ごしながら、トリガーを引く。
 しかし、それさえも武御雷は容易く躱し、お返しとばかりに突撃砲弾を見舞ってくるのだ。
 ――なんて速さだよ……!
 あまりにも速い、その成長速度。まるで乾いたスポンジが水を吸うように、大樹が地面から水を吸い上げるかの如く、真那は一日一日、爆発的な速度で、その実力に磨きを掛けている。
 XM3の特性を理解して、僅か三日。その三日間で、真那は、A-01の十二人や207B分隊の五人にも比肩するほどに、XM3を使いこなそうとしている。元々が熟達の衛士だ、ヴァルキリーズらと同じレベルでXM3を使いこなせば、その強さは比較にならない。
 それこそ、今の武でさえ一対一で後れを取りかねないほどに。
 具体的な年数はわからないが、少なくとも、今の武には十数年分の、それも最前線での衛士としての経験がある。経験が即強さに直結するわけではないが、蓄積された経験が、判断能力や種々の技術を向上させてくれていることは間違いない。
 武ほどの経験を積んだ衛士は、世界中を探してもそうそうはいまい。
 にもかかわらず、武御雷という弐型よりも一段優れた機体を駆っているとはいえ、真那はそれに肉薄している。
 これが斯衛軍。将軍家縁者を守護する、精鋭中の精鋭部隊の実力。
 彼女達の実力はこれまでの世界で知ったつもりでいたが、とんでもない。自分が強くなったからこそ、余計に彼女達の強さを思い知らされる。
 しかし、その脅威を骨身に知らされながらも、武はにやりと唇を歪めた。
 ――上等……!
 ならば、自分はその上をいくのみ。
 背負った想いを、歩んできた年月を、そう易々とひっくり返されてやるわけにはいかない。今ここで、強くなった彼女達を退けること……それが、武を強くしてくれた、これまでの世界の彼女達に報いることになるのだから。
 電磁投射砲を背部パイロンに固定し、ナイフシースから短刀を抜く。
 肩部スラスターでブレーキを掛けて急制動。戦術機が停止した瞬間、機体を旋回させるように倒れ込ませることで初速を得、跳躍ユニットを噴かせて急加速し、滑走して赤い武御雷へと肉薄する。
 並大抵の衛士では反応することさえ出来ぬであろう、特殊機動。
 しかし、月詠真那は並大抵の衛士などではなかったし――何より、種の割れた手品に驚くような、生半可な衛士などでは断じてなかった。
 弐型の突進を迎え撃たんと振り上げられる長刀。
 両者の距離が瞬く間に狭まっていく。刹那の後には、激突という名の交錯が待っている――その、正に刹那の直前。

 弐型が、独楽のように回転したのだ。

 否、正しくはそれは回転ではない。激突よりも一瞬早く、弐型は横方向へと倒れ込み、先の滑走の要領で横方向への加速を得たのだ。
 さらに肩部スラスターが噴炎――二つのベクトルが合成され、転倒の際に残された後ろ脚を軸に、ぐるり、と弐型はナイフを振りかぶった状態のまま、青色の旋風と化す。
『っ……!!』
 真那が息を呑む音が、はっきりと聞こえた。
 位置エネルギーと運動エネルギーは等価である。なれば、既に存在する位置エネルギーを利用して新たなベクトルを生み出すことぐらい、わけはない。
 振り下ろされる長刀を躱すだけであれば、ほんの少し横にずれてやるだけでいい。
 ――ただし、接近戦においてのほぼ最高速度から、長刀を紙一重で躱せるだけの技術があれば、の話だが。
 いや、そもそも、シミュレーターとはいえ、長刀に自ら突っ込むような真似をする命知らず自体がいまい。映像とはいえ、失敗すれば、管制ユニットごと両断されることになるのだから。
 常識外れ極まりない、自棄とも取れる武の蛮行はしかし、見事真那の不意を突くことに成功していた。
 月詠真那は優れた衛士であるがために、衛士としての常識に囚われずにはいられない。
 対して、白銀武は、優れた衛士でありながら、衛士としての常識から逸脱した存在であった。
 これは、それだけの差。二人の操縦技術に、最早優劣など殆どない。技術ではなく、思考。凡百の――否、単なる一流の衛士と白銀武を隔てる、操縦概念こそが、二人の差であった。
 武の駆る不知火・弐型は、左膝を斬り落とされながらも、その短刀を赤い武御雷の管制ユニットへと、容赦なく突き立てる。
 致命的損傷、大破……武御雷が沈黙する。
 ――だが、弐型とて無傷というわけにはいかなかった。
 切断された左脚は元より、無理な旋回運動により、腰部関節ユニットが、イエローシグナルを発している。その勢いのまま短刀を振るったために、右腕にも強い負荷が掛かっていた。これでは、長刀は勿論のこと、最早短刀さえ振るえまい。電磁投射砲の反動に耐えられるかどうかさえ怪しい。
 機体に必要以上の負荷を掛けない操縦技術を、前の世界での数年で身に着けていたはずの武にとって、強引な操縦によって機体が悲鳴をあげるというのは、久し振りの経験だった。
 尤も、大破と右主腕及び左脚損傷とであれば、比ぶべくもない。
 ――さあ、残るは二機……!
『少佐! 早く援護を!!』
 上擦った声で、雪乃から通信が入る。
 了解、と答えると、武は左主腕で長刀を引き抜き、地面に突き刺した。それを杖代わりに、右脚だけで大地を蹴り、噴射跳躍で大空高く舞い上がる。
 片足が使えない今、接地機動は封じられたも同然。故に、後は噴射ユニットを用いた空中機動だけに頼ることとなる。跳躍ユニットの燃料は、もう半分もなかった。
「巴、こっちは左脚がやられた! 燃料も残り少ない――短期決戦で仕留めるぞ!」
 巽、雪乃、美凪の三人の実力はほぼ横一線――いや、実質的なリーダー格である巽が、残る二人よりもほんの僅か抜きん出ている程度。
 それを考えれば、武が墜とされた時点で、勝敗は決まってしまう。
 それについて彼女を責めることは出来ない。むしろ、これまで雪乃一人でよく持ち堪えたと言うべきだろう。彼女が二人を足止めしていてくれたからこそ、武は真那を撃破することが出来たのだから。
 既に拮抗は崩れた。
 数の上では二対二。だが、片足を失ったとはいえ、武は、まだまだ彼女達三人に後れを取るつもりはなかった。
 空中をも自在に翔る三次元機動こそが、白銀武の最大武器である。まだ、翼がもがれたわけではない――。


 シミュレーターの筐体から降り立った武は、眉間に皺を寄せ、ひどく顔をしかめていた。
 見る者によっては、不機嫌そうな表情とも取れるだろう。だが、決して彼は不機嫌なわけではなかったし、何かに不満があるというわけでもなかった。シミュレーションの結果は武と雪乃の勝利であり、真那に左脚を切断されたことと、彼女を墜とす際に右主腕及び腰部関節が過負荷を受けたことを除けば、主立った損傷もない。
 二対三という状況で、それも斯衛軍第19独立警護小隊との訓練でその結果であれば、文句などあろうはずがなかった。
 故に、彼が顔をしかめているのは、不満に対してではなく――純然たる痛みに対してだった。
 鈍い頭痛。
 どんなに繰り返しても決して慣れることのない、脳の内側から生じる苦痛だった。
 まるでこめかみから巨大な螺子を押し込まれているような感覚。元の世界の漫画で見たフランケンシュタインの化け物を思い浮かべて、武は苦笑した。そんなものを思い浮かべられる程度には、まだ余裕があるらしい。
 記憶が蘇る兆候はない。あるいは、意識に上らない程度の、些細な記憶なのか。いずれにせよ、耐えられるレベルだ。ならば問題はない。
 シミュレータールームの壁にもたれかかり、手で顔を覆って、武は大きく息を吐いた。
 そこへ、
「――お見事でした、白銀少佐」涼やかな笑みを浮かべてそう言ったのは、真那だった。「まさかあのタイミングで横に躱されるとは思いもしませんでした」
「あのときのオレは恰好の標的だったからな。月詠中尉があの隙を逃すはずがない……そうわかっていれば、どうとでもなるさ」
 武はそう言って微笑するが、無論、真那だからこそ、突進する武を恰好の標的として迎え撃つことが出来たのだ。並大抵の衛士であれば、武の突進に反応することさえ出来ずに、コクピットへ短刀を突き立てられていたことだろう。
 真那が長刀を使いこなし、同時に武の突進に対応出来るほどの実力を持っていることが逆に仇となったのだとも言えた。
「成る程――私に迎え撃たれることまで計算ずくでしたか」
 ついでに言えば、それで片脚を失うこともまた計算の内だった。
 脚の一本がもげたくらいでは、戦術機は機能を停止したりはしない。その程度の損傷であれば、武は笑って受け入れる。戦場では、戦闘不能にさえ追い込まれなければ、なんら問題はない。
 それが、一人で二人を相手に粘り続けた雪乃と一秒でも早く合流し、彼女を撃墜させないために武が選んだ、最善だった。
 ――やっぱ、まだ慣れねえよなぁ……。
 真那達の態度のことである。
 こうしてシミュレーター訓練を始めた頃から、真那の武に対する態度は軟化していた。どうやら、直接接する時間が増えたことで、ある程度の信用は勝ち取れたらしい。
 あるいは、武が未だに冥夜を利用しようという素振りを見せていないからか。
 ――しかし事態は、彼女の知らないところで進行している。
 確かに武は冥夜を利用してはいないが、彼女を深く傷付けかねない道を、既に選択しているのだから。
「それにしても、流石斯衛軍だな。旧OSにあれだけ慣熟してたのに、こんな短期間でもうXM3をものにしてるなんて……A-01でさえ、こうはいかなかったぞ?」
「力を得るために研鑽を積むのは、斯衛として当然の努め。XM3という新たな可能性を得、白銀少佐という良き師に恵まれたのですから、上達せねば将軍殿下のご尊名に泥を塗ることになりましょう」
「オレはそんな上等なもんじゃない。中尉達の力さ」
 苦笑しながら、武は照れたように頬を掻いた。
 武がやったことといえば、初日にXM3の使い方を教えたことと、こうして毎夜彼女達の模擬戦の相手となっていることぐらいだ。彼女達の上達は、あくまで彼女達の力によるものである。
 ――けど、これだけ強くなってくれれば、もしもの時も少しは安心出来るな……。
 もしもクーデターの最終局面、悠陽による沙霧大尉への説得が失敗した場合、停戦状態は一転、乱戦の様を呈することとなる。その時、味方に心から信頼出来る者が一人多くいるだけでも、戦局は大きく変わる。
 無用な犠牲者を、一人でも減らすことが出来るかもしれないのだ。

 ――12・5事件まで、あと二日。
 明日の未明には天元山不法帰還民の強制退去が行われ、クーデターの引金は引かれることとなる。実質的な幕開けまでは、もうあと数時間しかなかった。
 それまでに、自分に出来ることは何があるだろう――武は考える。
 いや、そればかりに目を向けてもいられない。本当の戦いは、12・5事件を乗り越えたその先にこそあるのだから。
 そのために打てる布石は、全て打ったつもりだ。
 A-01では、今日から12・5事件を想定した訓練を開始した。僅か二日間の訓練ではあるが、多数を相手にすることに、多少は耐性が付くだろう。
 真那の信用、鎧衣課長とのパイプ、部下の実力……今出来ることは、全てやった。後は、築いたばかりのパイプを活用するだけだ。
 それでも、今後の展望の上に山積している問題の数々を考えると、武は頭が痛くなる思いだった。
 母艦級への対処法、エインヘリヤル・データの攻略、防衛戦シミュレーターの徹底……12・5事件を越えた後には、現207B分隊は勿論、横浜基地全体、ひいては日本帝国全体を通じて、これらの対BETA訓練を徹底する必要がある。
 BETAだけに目標を絞ることが出来れば一番であろうが、人間という種は、そううまくいくようには出来ていない。BETAと戦う前に人間同士のいざこざをどうにかする必要がある。
 燃料に火種を投げ込んだのが自分であることを思えば、文句は言っていられない。この難局を乗り越えて初めて、オルタネイティヴ4は敵対勢力を抑え付けて目的に邁進することが出来るのだから。
 それでも、武は内心に苛立ちが湧き上がってくるのを止めることは出来なかった。
 誰が悪いというわけでもない。単に、自分の手際や要領の悪さに嫌気が差したというだけだ。もう少しうまくやれなかったのか……12・5事件を起こさずに済む道はなかったのかと、今でも思わずにはいられない。
 だが、既に賽は投げられた。後悔は、もう出来ない。
 ――香月博士はずっとこんなことやってるんだもんなぁ……ほんと、敵わねえよ。
 尊敬する恩師の一人には、ただただ頭が下がる思いだった。



[2785] Muv-Luv ALTERNATIVE -Second World Was Failed- 第21話
Name: Vollmond◆d2a8c8a6 ID:f56ee90e
Date: 2009/05/17 20:05
 2001年12月4日(火)


 この日の朝、武が朝食のトレイを持って207B分隊の定位置へとやって来てみれば、そこにいたのは冥夜と壬姫、美琴の三人だけしかいない。
「あれ? 委員長と彩峰は?」
 朝は全員が揃って朝食を摂るのが彼女達の常だ。それに武が加わることもあれば加わらないこともあるが、この時間帯に全員が揃っていないということは珍しい。慧ならともかく、公私ともに時間厳守を心掛ける千鶴がいないのは、かなり稀なことだ。
 すると、壬姫が答えた。
「彩峰さんはもうすぐ来ると思うよ。榊さんは、もう行っちゃったけど」
「昨日の模擬戦で負けたのが悔しかったみたいだよ」
 美琴が付け足す。
「ふぅん……なるほどな。委員長らしい」
 昨日は、武とまりもを交えた三対四の模擬戦だけでなく、二対二の模擬戦を何度か繰り返してもらった。207B分隊は五人なので、余った一人には武やまりもが直接指導し、問題のある箇所を修正していき、様々な組み合わせでの二機連携を試してみたのだ。
 その結果、千鶴は慧に一勝三敗という戦績を残すこととなったのだった。
 二人が組んだ際には、何だかんだと言いつつ、冥夜・壬姫のコンビに勝利を収めたのだが。
 今頃、シミュレータールームで猛特訓していることだろう。
 一人シミュレーションを繰り返しているであろう千鶴を思って、武が笑みを零したときだった。
『――火山活動の活発化に伴い、昨夜未明、帝国陸軍災害派遣部隊による不法帰還者の救出作戦が行われました。現場では大きな混乱もなく、十四名全員が無事に保護されたと……』
 PX備え付けのテレビから流れてきたニュースに、武は硬直した。
 ――来たか……。
 縫い針の背で心臓を突かれているような、居心地の悪い痛みが胸に広がっていく。
 二週間前に飲んだ毒――クーデターを起こさせるために天元山不法帰還者を強制退去させる――が、今頃になって激痛を運んできたようだった。
『――を含む中部地方は、第一種危険地域に指定されており、民間人の居住は許可されていません。しかし、確認されているだけでも、帰還を強行した元住民が……』
 動きを止めているのは武だけではなかった。冥夜、壬姫、美琴の三人も同様に、じっとニュースに見入っている。
『……再三の避難勧告にも応じない不法帰還者の扱いに関し、内務省の一部からは、放置やむなしとする意見も上がりましたが、帝国議会は国民の生命財産の保護を第一とする立場を、あくまで貫くべしと、これに応じず……』
 武は、痛みを堪えながら、黙ってニュース速報に耳を傾けていた。
 ――痛みの正体は罪悪感か。
 だが、それでいい。この痛みは、決して忘れてはならないものだ。白銀武が、自らの目的のために、自らの意思で、敵ではない誰かを犠牲にしたという咎の重みを、体に焼き付けるためには。
 この重みを背負って、武は生きていく――。
「……そなたも、この速報には思うところがあるのか?」
 難しい顔をしていた所為だろう、冥夜が訊ねてきた。そなたも、と言うからには、そこには冥夜自身も含まれているということを、武は知っている。
 彼女の想いを、願いを知っている。
『――私が護りたいのは人々だ。人々の心を、日本人のその魂を、志を護りたいのだ』
 その、気高く尊い意思を。将軍である姉の心を想い、心からこの国を大切に想っている彼女の心を。
 それを、武は自らの意思で踏み躙ったのだ。
 どぐん、と心臓が不規則に拍動する。その痛みを呑み込んで、武は首を横に振った。
「――いや、そうじゃない。オレは帝国の判断は間違ってないと思ってるよ」
 見る間に冥夜の表情が一変した。まるで、信じていた者に裏切られたかのように。
「そなたは本気であのような報道を信じているのか? 今の日本政府が、ありのままを発表すると思うのか? 今の帝国軍に人道的な救助活動をする余裕などあるわけがなかろう」
 苛立たしげに冥夜は言う。テレビではなく、目の前の武にその苛立ちを向けて。ある意味では、それは非常にありがたかった。
 許しを請おうとも、謝ろうとも思わない。けれど、その代価――負の感情は、正面から受け止めねばならない。
 それが、自らの意思で誰かに犠牲を強いた者の責務だ。その判断を、選択を間違っていないと、それこそが最善であると信じるのであれば、そこに発生するあらゆる負債を背負わなくてはならない。全ての犠牲を一身に背負い、その上でその犠牲を生かす最大限の努力をする――それが、今の武に課せられた、道を示す者としての義務なのだ。
 だから、武は平静を装って答える。
「ああ、そうだな。寝しなを麻酔銃で襲撃、拉致紛いの強制退去……ってのが本当のところだろうな」
「なっ……! それをわかっていながら、何故そなたはそれが間違っていないと言うのだ!?」
 冥夜は烈火の如く怒りを露わにし、声を荒げた。
 それに対し、武は至極冷静を保ったまま答えてみせる。
「それが一番合理的な判断だからだ」
「合理的……!?」
「不必要なリスクを負わなくて済んだからな。感情抜きに結果だけを見れば、必要最低限の労力と費用、時間で最大限の成果を得られてる」
「最大限の成果だと……? 危険を覚悟して故郷に戻った帰還者達の心情に考慮せず、政府や軍の都合を優先しただけであろう!」
 冥夜の声には、さらに熱が籠もっていく。
 壬姫と美琴は、二人の遣り取りにおろおろするばかりだ。
「不法帰還民の都合を優先しろってのか? その都合を優先して悠長に救助活動をして、火山が噴火したらどうするんだ? ここ数日、あの一帯には火山性地震が頻発してるんだ。もしかしたら、明日には噴火していたかもしれない。そんなことになったら、不要な犠牲が出るだけだ。政府も軍も、そんなリスクを負ってる余裕はない」
「帝国軍人は国民の生命財産を守るために在るのだ。そのために危険を冒すのは当然だ」
「今が平和な世の中ならそれでいいだろう。――けど、そうじゃない。この国は、今だってBETAの危険に晒されてるんだ。今は、個人の意思を優先すべき時じゃない」
「そうやって誰もが国のためと言い、力なき者に負担を強いてきたのだ。力ある者が力の使いどころを弁えておらん!」
 怒声を発すると共に、冥夜は硬く握った拳をテーブルに叩き付けた。トレイの上で食器が跳ね、波打った味噌汁が零れる。
 冥夜とは対照的に、武はあくまでも冷徹だった。
 かつての武であれば、冥夜の言葉に同調していただろう。心を揺さぶられたかもしれない。
 だが、今の武にそんなことが出来ようはずもなかった。ここで冥夜に同調することは、武が切り捨てた者達への冒涜であり、その決断を下した過去の自分自身を否定することにもなる。
 そして武は、白銀武という個人であると同時に、コスト意識の徹底された――盤上の数字によって物事を計ることの出来る軍人でもあった。最終的に得られる数字こそを最も重視する、冷徹な、オルタネイティヴ4の執行者でもあるが故に。
「国民に負担を強いるのは当然だ。力の有無なんて関係ない。――それとも、お前は今まで、力なき者に負担を強いていなかったとでも言うのか?」
「……どういう、意味だ」
 冥夜の声が一気にトーンダウンする。彼女とてわかってはいるのだろう。今の自分の境遇が、他者の犠牲の上に成り立っているのだということを。
 だが、その事実から目を背けている。その事実を注視する事が出来ていない。事実を事実と知ってはいても、それを受け止められていない。
 ――だから、突き付けるのだ。
 現実を。
 理想論だけでは戦えない、理想論だけでは生きていけない、この過酷な世界の摂理を。
「オレ達衛士には、たとえお前達みたいな訓練兵であったとしても、衣食住が保証される。汚れたボロ布一枚で過ごす人間もいれば、常に清潔な衣服を着ることの出来る人間もいる。毎日雨ざらしの中で暮らす人間もいれば、暖かな個室で暮らしている人間もいる。泥水を啜って生きる人間もいれば、三食の十分な食事を摂れる人間もいる。――お前達の恵まれた待遇は、お前の言う力なき者に負担を、犠牲を強いて初めて成り立ってるんだ」
「っ……」
 冥夜だけではない。壬姫も、美琴も息を呑み、一様に沈鬱な表情を浮かべていた。
 彼女達もまた、初めは分不相応だと思っていた今の待遇に、いつしか慣れ、それを当然として受け止めてしまうようになっていたのだろう。
 だが、それらの待遇が分相応なものであるということも、彼女達は知らないままなのだ。
 まだ戦争の本質というものを知らないから。悲惨という言葉も過酷という言葉も凄烈という言葉も、ただの誤魔化しにしかならない、戦場における無慈悲な現実を知らないから。
「じゃあ、どうしてそんなことが許されるのか。――決まってる、BETAと戦うためだ。だから常に万全の状態を保ち、戦闘が始まれば戦術機に乗って命懸けでBETAと戦い、一人でも多くの命を救う――それがオレ達衛士に課せられた負担だ。力ある人間が背負うべき使命だ」
 最も死に近い場所で戦うからこそ、他者に負担を強いることが許されるのだ。
 その負担が、回り回って力なき者を護るための牙を生み出すのだ。
「座学で教わったよな、コスト意識。これがその現実だ。それに、救助活動だって、軍を動かすからには当然金がかかる。その金はどこから出て来る? 考えるまでもないよな――別の力なき者に強いた負担からだ。そうやって堂々回りを繰り返すのか? 力なき者なら、他の力なき者に犠牲を強いてもいいってのか?」
 そんな我が侭に振り回されるわけにはいかない。それが、この世界の現実だ。
 だが同時に、武は、自分が詭弁を弄しているだけに過ぎないこともまた理解していた。
 不法帰還民に強制退去という負担を強い、そして明日発生するであろうクーデターで多くの血を流させ、この国に、そして目の前にいる少女とその姉にも犠牲を強いる。
 白銀武というイレギュラーが介入しなければ、生じずに済んだはずの犠牲だった。
 それでも武は、自らの信ずる正しさのために手を汚す。全ては、オルタネイティヴ4を成功させるために。
 その信念を正当化してくれる、論理武装という名の免罪符を、武は欲していたのかもしれなかった。
「オレ達が軍人として何かをすれば、必ずどこかに犠牲を強いることになる。その犠牲をなくしたいと思うなら、一日も早くBETAを片付けるしかない。オレ達が犠牲に報いる方法は、それ以外にはないんだ」
『前の世界』で、鎧衣課長が言っていた言葉を思い出す。
『たとえそれが、将軍家縁の者だろうが、首相の娘であろうが……実の娘であったとしても……犠牲は厭いませんよ』
『安心したまえ……その犠牲を無駄にするような事はしないさ……その犠牲を最大限に活かす方法とタイミングは、十分心得ているつもりだよ……私も、香月博士も』
 あのときの課長とは状況が違う。だが、根底にあるものは同じだ。犠牲を最大限に活かす。それこそが、犠牲に報いる方法なのだ。
 それが課長の場合、米国の影響を排除し、日本という国の基底を堅固なものとし、オルタネイティヴ4という人類が勝利出来る可能性の最も高い可能性を結実させるということであり。武の場合、オルタネイティヴ4を成功させると共に、一体でも多くのBETAを屠り、一人でも多くの命を――一人でも多くの朋友を救うということであるというだけ。
 衛士に出来るのは、BETAと戦うことだけなのだから。
「民間人の言い分を優先した結果、作戦が失敗しようが人類が滅亡しようがかまわない……そんな態度で戦っていれば、いつか必ず自分や仲間の命を危険に晒すことになる。そうやってオレ達衛士が死ぬようなことになれば……その民間人がどうなるかなんて、考えるまでもないよな。それでも民間人の言い分を優先しようと思うなら――」
 そのためには、全てを背負う覚悟を持たなくてはならない。あらゆる罪を、咎を、責を背負い、遍く罰を受け入れる覚悟を。
 そう、それはたとえば――
 ――がしゃん、と。
 武の背後で、食器の割れる音がした。
 しまった、と武が思って振り返った時には、もう遅い。そこには、朝食のトレイを床に落とし、呆然としている慧の姿があった。
 これでは、冥夜との問答も含めて、前の世界の焼き直しだ。
「――慧さん大丈夫!?」
「彩峰……っ」
 武は立ち上がろうとするが、それよりも一瞬早く、落としたトレイもそのままに、慧は武達に背を向けた。
「……ッ!」
「あっ、彩峰さんッ!」
 突然走り去ってしまった慧の背中に、壬姫が慌てて声を投げ掛けるが、それは届かなかったのか、慧は立ち止まることも振り返ることもしなかった。
 ――何やってんだ、オレは……ッ。
 自分自身の不甲斐なさに腹が立つ。
 今の話を聞けば、慧がどんな反応をするかなど、経験から嫌というほど思い知らされている。
 慧があと少しで来るという壬姫の言葉を聞いていたのだから、慧がいつ来るか、常に気を配っておかねばならなかったはずなのに。
 ち、と舌を鳴らして、
「悪い、これ片付けといてくれ。オレは彩峰を追い掛ける」
「うん、わかった」
 武の言葉に、美琴が頷く。
 床にぶちまけられたスープを避けるように一歩を踏み出し――そこで、武は振り返った。
「冥夜」
「……なんだ?」
 冥夜は、沈んだトーンで応えた。先の武の言が相当堪えているようだった。
「最後に一つだけ言っておく。――もし……もしもお前が、それでも民間人の言い分を優先しようと思うんなら、そこに発生する全てを背負う覚悟を持て」
「タケル……?」
 冥夜の顔に浮かぶのは戸惑いの色。
「罪を、咎を、責を、全部まとめて背負う覚悟の上での決断なら、オレは何も言わない……でも、忘れるな。お前が感情に任せて一つの命を救うために、多くの仲間達が犠牲になるかもしれないってことを。そしてその結果、お前の護るべき、牙無き者達も危険に晒されることになるんだってな」
 そう言い終えると、武はPXを後にした。
 背中に聞こえてくる声は、意図的に無視して。


 前の世界の記憶を辿りながら、武は兵舎の廊下を歩いていた。
 思い出すのは、先程の冥夜との遣り取り。
 まったく、甘いと言うべきか、情けないと言うべきか。覚悟を決めたと思えば、まだまだ足りないと思い知らされ、また覚悟して……の繰り返しだ。
 だが、もう覚悟を決めざるを得ないだろう。
 賽は投げられた。事態は既に引き返すことの出来ないところまで来てしまっている。
 全てを背負う準備は出来ている。後は、そのときが来るのを待つばかり――
「きゃっ!」
 記憶を頼りに廊下の角を曲がった武は記憶通りの場所で、腹に軽い衝撃を、耳に可愛らしい悲鳴を受けた。
「すみませ……ん」
 謝ろうとした相手の言葉は、尻つぼみに消えていく。
「よう」
 武は、軽く片手を挙げて言った。が、
「……ッ!」
「あ、おい! 待てって、彩峰!」
 ぶつかった相手――慧は、武の姿を認めた途端、慌てて踵を返すと、驚くべき速さで走り去ってしまう。
 あーあ、と武は短く呟いた。
 食堂での一件を謝るのは今すぐである必要はないが、出来るだけ早い方がいい。それに、明日のクーデターでの慧のフォローのために、手に入れておきたいものがあった。しかし、それも唯一のチャンスである今を逃したとあっては、難しいだろう。
 小さく溜息を吐いて、床に視線を落とす。そこで、武は床に一通の封筒が落ちているのを目に留めた。
 ほんの僅か、武は唇の端を吊り上げる。これこそ、求めていた物である。
 拾い上げてみれば、裏面には津島萩治とある。ひっくり返して表――宛名を見れば、そこには彩峰慧様の文字。切手がないにもかかわらず、検閲済みの押印。さらにちぐはぐなことに、封筒は手で破られている。
 検閲する際、手で封を破るはずがない。わざわざそんなことをせず、機械を用いるのが普通だ。
 つまり、これは普通の手紙ではなく。
 ――そも、この差出人の名を、武が忘れるはずもなかった。
 津島萩治――慧の父である彩峰萩閣のかつての部下であり、同時に彼女の許嫁でもあった、沙霧尚哉の偽名。
 萩の字を取ったその名は、彼らの関係を知っている者にとっては、何の捻りもない、わかりやすすぎるものだろう。
 念のため、記憶と照合するという意味合いも込めて、武は中の便箋を取り出して開いた。

『日に増し寒さがつのる時節、極月ともなれば雪催いの日々。
 庭に目を向けるたび、寒松千丈の念深まるばかり。
 綴るにつけ語るにつけ、まこと言葉というものは無力。
 いかな彩りも見ずば気づかず、櫛とて峰で髪は梳けぬ。
 されど慧心に優れた君なれば、それもまた故ありと思う。

 氏曰く、歳寒くして、然る後に松柏の彫むに後るるを知るなり。
 萩の季節に後れながらも閣の如くあらんと、志持てここに集う。
 国を憂い、民を憂いし彼の御方の無念晴らさんと、
 義憤に燃ゆる魂を見守り給え。

 これが最後の手紙となろう。
 君よ、願わくば、幸多き未来を歩まん事を。
                         津島萩治』

 静電気が弾けたときの衝撃にも似た、一瞬の閃きが武の脳内を駆け巡る。
 つきり――と微かな頭痛。しかし、これまでに何度も経験したフラッシュバックに比べれば、なんということはない。
 男性にしては流麗な文字で書かれた手紙の内容は、記憶の中のそれと寸分違わない。
 前半、意味は読み取れないが、文章の中に散りばめられた彩峰慧の名前。後半、閣の如くという特徴的な当て字に見られる萩閣の名前。『志持てここに集う』『無念晴らさん』『義憤に燃ゆる魂』――反乱を示唆する言葉と、『最後の手紙』の文字。
 古文表現の意味を理解することは出来ずとも、大雑把に読んだだけで、津島萩治という男が中心となって近い内に反乱を起こす――といった意味を読み取ることが出来る。
 ――間違いない。明日だ。明日、クーデターが起こる。
 昏い喜悦と胸の疼痛を覚えながら、武は慧を捜して廊下を歩き出した。
 果たして、しばらく歩いたところで、慧の姿は見付かった。徘徊するように廊下を行ったり来たりしながら、きょろきょろと床を見回している。探し物は、武の持っている手紙だろう。
「……彩峰」
「………!?」
 足音も耳に入っていなかったのか、慧は武の姿を認めるなり驚駭を露わにして、すぐさま逃げ出すように踵を返してしまう。が、
「ちょっと待った」
 武は慧の腕を掴んで引き留める。一瞬、そのまま引っ張られてたたらを踏みそうになった。
「手紙捜してるんだろ? ほら、これ……」
「…………」
 武が手紙を手渡してやると、慧は黙ってそれを受け取るものの、その目には武に対する強い警戒と、訝しむような色があった。
「……見たの?」
 簡潔な問い。前の世界では見ていないと嘘を吐いた。ならば、今回は――
「――ああ、見たよ」正直に、はっきりと武は答えた。「悪いとは思ったけどな。切手がないくせに検印は押してある、しかも手で封を切ってある……とくれば、怪しく思うのは当然だろ?」
 そんないかにも危険な手紙を見過ごせるはずがない。
 武の答えに、ますます慧は警戒を強め、睨め付けるような視線で武を見つめてくる。やがて、ぽつりと言った。
「……知ってた?」
 目的語の存在しない問い。目的語となり得る対象は少なくない。慧と津島萩治の関係か。津島萩治の正体か。津島萩治と彩峰萩閣の関係か。彩峰萩閣が過去犯した罪か。あるいは、その全てか。
「お前の親父さんのことなら知ってるよ……だから、その手紙の意味も何となくわかる」
「……!」
 慧が息を呑んだ。表情には、これまではなかった怯えの色さえ窺える。武はそれを和らげるように、微笑を浮かべて続ける。
「まあ、だからってお前をどうこうしようとは思わないけどな」
「え……?」
 ぽかん、と目を丸くした慧に、
「オレはお前を信じてるからな。心配はしてないよ」
 敢えて上官としてではなく、白銀武として彼女と向き合う。
 慧には何も問題はない。
 問題があるとすれば、それは沙霧尚哉大尉や、他でもない武自身。誰一人として、彼女を責めることの出来る人間はいないはずだ。
「207小隊のみんなだってそうだ。冥夜も委員長もたまも美琴も、彩峰のことを信じてるはずだ」
 同じ207小隊の仲間として。彼女達は、彩峰慧を信頼し、信用している。
 普段反発しあっている千鶴も、慧のことは認めているはずだ。同様に、慧も千鶴を認めているに違いない。
「だから、仲間の気持ちを裏切るような真似だけはするなよ? ……ま、心配はいらないだろうけどな。今のお前らは、もう立派なチームなんだからな」
 そう言うと、武は、ぽん、と慧の頭の上に手を載せた。くしゃくしゃと髪を掻き混ぜるように頭を撫でる。慧は最初迷惑そうにしていたが、不快ではないのか、むしろ心地良さそうに目を細める。
「――ああ、そうそう」
 話も一段落したということで立ち去ろうとしていた武は、そう言って立ち止まった。振り向けば、慧は乱れた髪を手櫛で梳かしている。
 慧はきょとんとした顔で武の顔を見た。
「PXでのこと、悪かったな。イヤな気分にさせた」
「……別に」
 ぶっきらぼうに応える慧に苦笑する武。
「あと、ぶちまけたメシぐらい片付けて行けよ。美琴がやってくれたんだぞ」
「……後で謝る」
「ああ、そうしとけ。それと、冥夜にも謝られるかもしれないけど、ちゃんとそれを受け入れてやること。……あ、アイツには怒るなよ? 悪いのは全面的にオレだから」
「わかった」
 こんなときだけ素直に頷かなくてもいいのに――そうは思いながらも、これでこそ彩峰だ、と武は頬を緩めずにはいられなかった。
 今度こそ言うべきこともなくなって、武は再度踵を返す。
「じゃあな。訓練、遅れるなよ……そうそう、オレは用事があって少し遅くなるって神宮司軍曹に伝えといてくれ」
 了解、という声を背中に受けると、武はB19フロアを目指した。


 執務室に入ると、夕呼はいつものように椅子に座り、何やら書類と睨めっこしていた。気怠げな表情を見る限り、さほど重要な案件ではなさそうだ。
「何しに来たのよ。訓練は?」
「神宮司軍曹には遅れるって伝えてあるから大丈夫です。それより、鎧衣課長と連絡取りたいんですけど……香月博士なら、あの人のこと捕まえられます?」
 何しろ課長は神出鬼没なのだ。武の知る限り、あちらからコンタクトを取ってきたことはあっても、こちらからそれに成功したことは一度としてない。
 しかし、それは武の権限が及ぶ範囲での話。一介の少佐ならばともかく、夕呼にならば可能かもしれないと考えたわけだ。
「出来ないこともないけど……どうして?」
 夕呼が課長を個人的には好ましく思っていない――それどころか疎ましく思っている節さえある――ことは武も承知だ。
 案の定難色を示した夕呼は、不快と怪訝の入り混じったような表情で武を見やる。
「何言ってるんですか、香月博士。クーデターが起こるの、明日ですよ?」
「――そうだったわね」
 途端、夕呼の表情からこれまでの気怠さが霧散する。この切り替えの速さは流石と言う外ない。
「それで、目的は?」
「第一に殿下の強化装備のフィードバックデータ。後は……」そこで武は一度言葉を切り、「……榊是親首相の脱出、ですかね」
 武がそう言うと、夕呼はほんの少し目を見開き、やがて呆れたように嘆息した。
「……あんた、自分のことは無頓着な癖に、人のこととなると、ホント甘くなるのね」
「そうですか? 自分ではそんなつもりないんですけど」
「自覚ない辺り、重症かもね。榊首相の脱出っていうのは、要するに榊を哀しませたくないってことでしょう? 仲間が傷付くくらいなら自分が死んだ方がマシ――っていうの、あんたの場合、本気で言ってそうね」
「……少なくとも、嘘や強がりで言ったつもりはありませんよ。我が身可愛さに大切な人を死なせるのは、もう十分ですから」
 あの日、目の前で神宮司軍曹を失った、あの一回だけで――。
 だから、武は誓ったのだ。一人でも多くの衛士の命を、一秒でも長らえさせることで、彼女の教えに応えようと。それこそが、彼女に応える事の出来る、たった一つの方法なのだから。
「榊首相の脱出の最大の目的は、政治能力の確保です。今の帝国で米国と対等に渡り合えるのは、榊首相しかいません。それに、榊首相が死ねば、殿下がお飾りの現状、帝国には政治的空白が生まれてしまう……クーデター部隊に榊首相を殺させるわけにはいかないんです」
 前の世界では、仙台臨時政府の対応はあまりにも後手に回っていた。榊首相がいれば、より迅速な対応も可能だろう。
 また、今後、沙霧の言に同調した世論によって、政治的実権は煌武院悠陽殿下に奉還されるだろう。そうなった時、彼の存在は殿下にとって大きなプラスとなるであろうことは想像に難くない。
 ふう、と夕呼は吐息した。
「いいわ、やってあげる。それで、代価として何を差し出すの?」
「オレの素性……ですかね、やっぱり」
「――本気?」
 鋭く目を細めて言い放たれた夕呼の言葉に、武は頷いて、
「前に約束しちゃいましたから。それに、鎧衣課長はオレ達寄りの人間です。信用出来るかどうかは別として、完全にこっちに引き入れておいて損はありません」
 武がこんなことを言うまでもなく、とっくに夕呼にとって課長は駒の一つとして数えられているのだろうが。
 鎧衣左近は、確かに武達寄りの人間だ。だが、寄りではあっても、側ではない。彼は結局のところ、帝国側であり、根本的な部分で、国連軍である夕呼や武とは相容れる存在ではない。今は利害が一致しているから協力――利用し合っているというだけ。
 ならば、課長をこちら側に引き入れるにはどうすればいいか。
 簡単だ、こちら側に付くに足る交渉材料を提示してやればいい。――たとえば、白銀武というイレギュラーを。
 実際はそこまで単純でもないが、夕呼にそれだけの交渉力があることを、武は知っていた。
「カードは切れる時に切っちゃった方がいいんです。切れなくなった切り札に意味なんてありません」
「その上で奥の手を隠し持っておく――でしょ?」
「オレの場合、“先生”の受け売りですけどね」
 夕呼は不敵に笑い、武は微かに笑う。
 奥の手はある。それは、完成間近の00ユニット。オルタネイティヴ4の成功を半ば以上決定付ける、人類最後の希望。
「鎧衣課長があんたの素性に興味を示さなかったとしても、そのときはXM3があるものね。発案者である白銀が直々に教導を買って出る、とでも言えば、あの男もおとなしく引き下がるはずよ」
「どっちにしろ、交渉の主導権はこっちが握れるってワケですね」
 その通りよ、と夕呼は頷くものの、
「……まあ、あの男がそう易々と思い通りになってくれるとは思えないけどね」
 苦々しげにそう付け足した。
 それには武も同意だ。今回はうまく動いてくれたとしても、あちらにもあちらの思惑がある以上、都合のいい駒で終わってくれるはずがない。それはたとえば、武が夕呼の駒で終わるつもりがないように。
 ましてや相手はあの帝国情報省外務二課課長鎧衣左近。一筋縄ではいかない。
「今回限りうまく動いてくれれば、ひとまずは問題ありません。何としてでも殿下の強化装備のデータを手に入れて下さい。クーデターが近いことは、鎧衣課長もわかってるはずですから。データさえ手に入れば、それで十分です」
「榊首相はいいの?」
「そっちは、出来れば、っていう条件付きですね。今後のことを考えれば榊首相には生きていてもらいたいんですけど、前の世界では殿下を中心に日本は問題なく回ってましたから……委員長――榊だって、最後には立ち直ってくれるはずですから」
 クーデターで父親を失った直後に任官出来たというのが大きかったのだろう。
 哀しみは大きくとも、それと同等の大きさの喜びをぶつけてやれば、ある程度は相殺出来る。それに、哀しみを抱えているのが自分一人ではないとわからない彼女ではない。仲間達に囲まれ、その哀しみは癒えていった……はずだ。武には、自分が彼女が立ち直るのに貢献出来たという自信はなかった。
 家族を殺されたという経験はなかったし、今のように大切な人を理不尽に奪われたという記憶もなかったから。
 今ならば、その哀しみも理解出来る。――理解出来るが、共感して優先順位を間違えるようなことはしない。
 メリットとデメリット、プラスとマイナス。それら全てを天秤に掛けて、正しい選択をする――今の武は、それが求められる場所に立っているのだから。
「あんたって、甘いんだか冷たいんだか、よくわからないわね」夕呼は小さく吐息して、にぃ、と唇の端を吊り上げた。「あんた、やっぱり指揮官向きの性格してるわ」
「褒め言葉として受け取っておきますよ」
 武は微笑して答えた。
 夕呼の言う指揮官とは、部隊ではなく作戦全体の指揮官だろう。作戦遂行だけを目標に、あらゆる犠牲と成果を紙の上の数字として計算する――冷酷とさえ言える冷徹さを求められる人間。
 成る程、それは白銀武にぴったりだ。
 心が軋み、ひび割れ、悲鳴をあげようと、白銀武は決して立ち止まることはない。紙面の数字以下の犠牲で紙面の数字以上の成果を得るために邁進する――それが自分に課せられた使命であり義務であり責任なのだと、武は理解していた。
 だから、大丈夫。泣き出しそうなほどに胸が痛もうと、嗚咽一つ漏らさずに戦える。
 白銀武個人の感情を使命という言葉で塗り潰し。一人の軍人として、オルタネイティヴ4の駒の一つとして、目標を達成する……ただそれだけのために全てを擲つ覚悟がある。
 ――この手は血にまみれている。
 それがどうした。ならば、今こそこの全身を血に沈めよう。夥しい血と無数の死屍で作り上げられた底のない沼を、この身一つで越えてみせよう。
 使命というのは、便利な言葉だ。
 その言葉一つで、どんな痛みだって堪えられる。どんな哀しみだって乗り越えられる。どんな外道もどんな非道も、進んでいける。
 目的があるからこそ人は努力出来る、と誰かが言った。まったくその通りだ。目的があるからこそ、どんな苦痛も苦悩も抑え込める。
 罪の意識にも咎の重みにも、やがて来る罰への恐怖にも押し潰されることはない。
 明日を越えれば、オルタネイティヴ4は達成されたも同然。00ユニットの完成にどれほどの時間が掛かるかはわからないが、半年もかかるということはないだろう。
 全ては、BETAに勝利するため。そのための犠牲は、甘んじて受け入れよう――。
「――こんなところで壊れたりしないでよね」
 武の意識が思考から現実に回帰した直後、夕呼は冷たく硬質な声で言った。
「大丈夫ですよ。壊れてる暇なんてありません」
 武は答えた。
 既に決断の時は過ぎ去ったのだ。この世界を救ってみせる――その強い意志があるから。
 もうとうに壊れているのだとしても、継ぎ接ぎだらけのままで戦い続けよう。
「――あの最悪の未来を回避するためなら、どんな犠牲だって重責だって厭いません。何を犠牲にしてでも、明日のクーデターは利用しきってみせますよ」
 たとえそれがかつて愛した女性であっても。その心を犠牲にすることを厭わない。
 白銀武の意志が揺らぐことは、もうない。


 2001年12月5日(水)


 ゆさゆさと体を揺さぶられて、武の意識はゆっくりと浮上する。
 時計を見れば、『前の世界』と同じく4時。
「ふぁ……おはよう、霞」
「おはようございます」
 欠伸を噛み殺しながら言う武に、霞は気付かないほどの微笑を口の端に浮かべて応えた。
「香月博士にオレを起こせって言われたのか?」
「……はい」
 ぴょこん、とウサ耳を動かしながら頷く霞。
 夕呼が武をわざわざこの時間に起こしたということは、予想通り――あるいは予定通り――クーデターが起こったと見ていい。
 昏い喜悦と重い憂鬱が、同時に武の胸の内に湧き上がる。しかし、後悔はなかった。
 誰かに犠牲を強いるのであれば、後悔だけはしてはいけない。それは犠牲になった者に対する冒涜であり、最も忌むべき卑小かつ醜悪な感情だ。
 がちり、と頭の中で音がした気がした。撃鉄が落ちるが如く、思考のスイッチが切り替わる。
 ――ここから先は、衛士としての白銀武の領分。
 ベッドから跳ね起き、武は霞の頭に手を置いた。
「警報鳴るだろうけど、心配すんな。ここは大丈夫だから」
「……はい」
「起こしてくれてありがとうな」
「……ばいばい」
「おう。ばいばい」
 いつもの通り、手を振って別れる。手を振る武を見て、何故だか霞が、くすりと笑みを零した。
 霞のそんな行動を不思議に思いながらも、武は手早く着替え、スチールのドアを開けた――と、そこには、今正に武の部屋をノックしようと手を持ち上げていた冥夜の姿があった。
「冥夜?」
「た、タケル……!」
 あからさまに狼狽した、上擦った声。
 二人の間に気まずい沈黙が流れる。昨日のPXでの一件が尾を引いているのは明らかだった。
 武としては一応最後の一言でフォローはしたつもりなのだが、途中で話を切り上げてしまった形なので、少々後味が悪い。
 が、それは冥夜も同じこと。むしろ、ああいったことには人一倍懊悩する冥夜のことだ、武よりもずっと昨日のことを気にしているに違いない。実際、前の世界でも武は、起こしに来てくれた冥夜に謝られてしまった記憶がある。
 そんな精神状態で彼女をクーデターに出撃させるわけにはいかない。
 冥夜には気取られない程度に小さく吐息して、武は口を開いた。
「昨日は悪かったな」
「ぁ……」
 冥夜の口から、驚呼とも安堵とも取れる声が漏れた。
「お前の気持ちも考えずに、強く言い過ぎた」
「わ、私の方こそ済まなかった。そなたほどの者が何の考えもなしにあのようなことを言うはずがないのに……許して欲しい」
 そう言って頭を下げる冥夜。
「よせって。許すも何も、オレは怒ってなんかないよ」
「そうか……」ほう、と溜息を零して、「それより、総員起こしが掛かったのだが……そなたは何か知っているのか?」
 問うてくる冥夜の声は、どこか不安げだ。先程までの、武の心情を窺うのともまた違う、この状況に対する漠然とした不安が、声には含まれていた。
 この日この状況での総員起こし。そこから導かれる答えは一つしかない。
 尤も、既にわかりきっていた正解を、さらに答え合わせしているだけに過ぎないのだが。
「……オレは中央司令室に行く。おま――」
『防衛基準体勢2発令。全戦闘部隊は完全武装にて待機せよ。繰り返す……』
 武の言葉を遮るように、天井のレッドランプが灯り、けたたましい警報音と共にアナウンスが基地内に木霊した。
 冥夜は突然の事態に顔を驚愕に歪め、対照的に武は凍り付いたような無表情。
 しかし、流石と言うべきか、すぐに冥夜は表面上は落ち着きを取り戻す。
「――話は後だ。お前は他の奴らと一緒にブリーフィングルームに向かえ。オレは司令室に行く」
「了解……!」
 一度の頷きと敬礼で確認を取ると同時、二人は同時に駆け出した。


 武は、機密フロアへの直通エレベーターで中央作戦司令室へと向かった。
 そこでは、記憶と全く同じ光景――夕呼とパウル・ラダビノッド司令、そして珠瀬事務次官による、熱くも静かな舌戦が繰り広げられていた。
 一見すれば、三人は冷静その物。しかし、夕呼とラダビノッド司令の顔には苛立ちが、事務次官の顔には焦燥が見て取れる。
 不用意に三人の輪の中に飛び込むつもりは、武にはない。武は黙って会話に耳を傾けた。
 話の内容は、前の世界でのそれと大差ないものだ。
 帝都でクーデターが発生。その鎮圧のためにと米国の受け入れを要請する珠瀬事務次官に対し、帝国政府からの要請が無しに干渉は出来ないとそれを拒む夕呼と司令。どうしても介入したければ正式な手続きを踏め、ということだ。
 今すぐに無条件で米軍を受け入れれば、横浜基地は奴らの思うままになってしまう。それを防ぐための時間を稼ぐ必要があった。
「国連はそんなにアジア圏での米国の発言力を回復させたいのかしら?」
 夕呼はそう鼻で笑った。
 しかし事務次官はそんな夕呼の態度に気を悪くした素振りも見せず、猶予はない、今すぐにでも米軍の協力を得て反乱を鎮圧すべきだという姿勢を崩さない。そうしなければ、日本という極東防衛の要が不安定になり、オルタネイティヴ計画にも支障を来しかねない、と。
 それを予防するために、既に五日前に帝国軍内部で不穏な動きがあることは米国諜報機関から基地司令部に勧告されており、今も相模湾沖には緊急演習という名目で米国太平洋艦隊がずらりと展開しているそうだ。
 その後も、日本の世論感情、オルタネイティヴ4の進捗、オルタネイティヴ5の準備を推し進める米国の思惑――様々な牽制を交えながら、三人の舌戦は続いていく。
 そして夕呼は言った。
 米国は日本という防波堤が決壊し、米国本土が直接BETAの脅威にさらされることを避けたいだけなのだろう、と。事務次官の言う戦略の転換というのも、結局はG弾を大量運用することでBETAを滅ぼし、自国は無傷のまま戦後地球に君臨したいだけなのだろう、と。
 そして米国は、国連が自分達の意のままに動かなくなれば、単独でもそれをやるに違いない。
「オルタネイティヴ5の発動も、米国の独断専行も許ませんから」
 夕呼のその台詞によって、話し合いとさえ言えない話し合いは終わりを告げた。
 珠瀬事務次官は、武に気付くことなく去っていく。安全保障理事会の正式な決定を手に入れてくるつもりなのだろう。安保理は米国の傀儡のようなものだ、すぐにそれを認めるに違いない。
 帝国政府の意向と全人類の未来とを天秤に掛けるなどあり得ない。たとえそれが特定の集団の利益につながるとしても。
 それについて文句を唱えるつもりはない。一国の意思を尊重して世界を滅ぼすなど、愚劣の極みだ。
 ――どこまでも足を引っ張りやがって……。
 武は胸中で毒突いた。
 そもそも、このクーデター自体、視野狭窄な一部の帝国軍人を米国の反オルタネイティヴ4派がうまい具合に焚き付けたことに端を発しているのだ。そうでなくては、昨日の不法帰還者救出作戦ごときで――勿論、それまでにも色々と不満の種が積み上げられてはいたのだろうが――これほどの大規模な反乱が起こるはずがない。武の思惑通りに反乱を起こせるはずが、ない。
 相模湾に展開している米国第7艦隊も、間違いなくそれらの勢力の息が掛かっている。
 そんな連中を受け入れれば最後、なし崩しに横浜基地を占領され、オルタネイティヴ計画そのものを接収されかねない。いや、米国の狙いはそもそもそこにあるのだろう。
 オルタネイティヴ5――いや、G弾による大反攻。その根底にあるのは、少しでも人類を生き延びさせたいというだけではない。自国の利益……BETAを駆逐したあとの世界に君臨したいという考えが横たわっている。世界はそんな利益を考えられるような状況にはないというのに。
 どこまでもくだらない。
 未来そのものがないかもしれないというのに、未来の展望を持つなど、子供の夢想と変わらない。大の大人が雁首揃えて、大まじめにそんなことをやっているのだから、尚更タチが悪い。取らぬ狸の皮算用という諺があるが、そもそも取る狸自体いないのだから、笑い話にさえなるはずがない。
 最終的な引金を引いたのは自分だとわかっていても尚、その怒りは抑えられなかった。
 今となっては責任転嫁でしかないが、裏でクーデターを画策している反オルタネイティヴ4勢力さえいなければ、こんな無駄な事件を起こさせる必要はなかったのだから。
 ラダビノッド司令は、夕呼に後を任せると、自身は発令所へと向かった。
 その後ろ姿を見送ると、武は脳の中で燃え上がる熱を放出するように、長く細い息を吐き、
「――それで? 首尾はどうです、鎧衣課長?」
「ほう……気付いていたのかね、白銀武」
「気配はありませんでしたけどね。課長に限って、こんな場面を逃すはずがありませんから。――それに、オレに用もあるでしょ?」
 振り向けば、そこにいるのは、帝国情報省外務二課課長鎧衣左近。いつぞやと同じ、スーツにコートと帽子という、没個性的でありながら、一度気配を認めてしまえば、無視できない異様な存在感を放つ出で立ちだった。
 愉快げに唇の端を吊り上げる課長。
 そのどうということのない表情一つとっても、武にはない、政治の世界で生きてきた人間特有の凄味がある。
 武とて多少なり政治上の駆け引きを経験してきた自負があったが、課長には遠く及びそうにもなかった。
「あんたたち……こんなところで何やってるの?」
 向かい合う二人の姿を認めて、夕呼はどこか呆れを滲ませた声で、訝しむように言う。
「霞にオレを起こさせたのは香月博士でしょ? 呼び出しに応えて参上したわけです」
「……そうだったわね。それで? 鎧衣課長、あなたはどうして?」
 武に向いていた視線が、課長へとスライドする。途端、夕呼の纏う空気が一変した。細められた目。視線は刃のように鋭く。こちらもまた、武とは別種の凄味を全身から放っている。並の人間であれば震え上がっているに違いない。
 だが、夕呼が魑魅魍魎の跋扈する世界に生きる者ならば課長は正しく魑魅魍魎、いつも通りの飄々とした体を崩さない。
 しばらくの間無言の睨み合いが続いていたが、やがて夕呼が折れた。あるいは、それもポーズなのかもしれなかったが。
 既に話を聞かれている以上、ここで無駄な時間を過ごすことほど非生産的な行為はない。
「まあいいわ。で、どこから聞いていたのかしら?」
「それを言うわけにはいきませんね。まあ、あえて言うなら、全てかと」
 ――言ってるし……。
 武は内心で突っ込んだ。口に出したところで、理不尽な文句を垂れられるのは、前の世界の経験から知っている。
 気を取り直して、武は言った。
「それより、さっさと本題に入ってもらえます? お互い、司令部の話を立ち聞きしに来たわけじゃないでしょ?」
「やれやれ……若い内は仕方がないが、急いては事をし損じるという言葉を胸に留めておきたまえ」
 生憎だが、急かずに事を進められるほど、武に時間は残されてはいない。武の体は最早、いつその活動を停止することになるかわからない、ジャンク寸前のポンコツなのだから。
「決起の目的、決起した部隊と、その裏にいる人物……さて、どこまでご存知ですかな?」
「楽しそうね? 八方美人も度が過ぎれば……消されるわよ?」
 そう言って、夕呼は一瞬だけ武に視線を向けた。余計なこと言うんじゃないわよ、と言外に釘を刺される。元よりそのつもりだ。武は一秒足らずの瞑目だけで肯定を示す。
 そんな二人の遣り取りに気付いてか気付かずか、課長は大袈裟な身振りを交えて言う。
「切ないですな……私はこの星と、博士のような美しい女性を守りたいだけだというのに……」
「……それだけは信じてあげる。それ以外は、信用しないけど」
 夕呼の言葉に「そのお言葉だけで十分光栄です」と笑みを浮かべると、課長はまるで用意していた台本でも読み上げるかのように、クーデターについて微に入り細を穿って語り始めた。
 帝都守備隊――その名の通り帝都を守る精鋭部隊――を中核としたクーデター部隊は、首相官邸、帝国議事堂、各省庁等の政府主要機関を完全に制圧。さらに各政党本部と、主要な新聞社や放送局に加え、主要浄水施設や発電施設の一部も確保するなど、帝都機能の殆どを掌握している。
 その手際は、鎧衣課長をして大した手際と言わしめるほど。
 将軍――煌武院悠陽殿下は今のところ無事ではあるが、斯衛軍の精鋭が防備を固めているとはいえ、帝都守備隊全てを敵に回しては、時間の問題だということだ。
 武は、話の内容を自らの記憶と照らし合わせながらその話を聞いていたが、ここまでで目立った差違はない。
「まるで……思いどおりに事が進んで、はしゃいでいる子供みたい。本当に楽しそう」
 嘲笑と侮蔑の入り混じった冷ややかな声で、夕呼は言った。
「買いかぶりですよ」薄く笑う課長。「脚本を用意したのは恐らく、国連上層部のオルタネティヴ5推進派と米国諜報機関でしょう。私は精々、演出助手といった所でしょうか」
 それはつまり、この一件に自分が一枚噛んでいることを認めたということでもある。最終的に日本の国益を最大にするために、自分の都合を反映させたというわけだ。
 それを言うなら、夕呼や武も一枚も二枚も噛んでいるのだし、課長を責めることは出来ない。あるいは、課長もそれに気付いているのか。
 いずれにせよ、お互いそれを承知で利用し合っているのだから問題はない。利害が一致する限りにおいて、互いに利用し利用される協力関係にある。
 ただし、心情的な部分を抜きにすれば、の話ではあるが。
 今この場において一致している両名の目的は、大まかに言って、クーデターを鎮圧することと、そしてこのクーデターを利用して米国の発言力を一気に殺ぐことの二つ。
 国内外の邪魔な存在を、この一件だけで抑え付けることが出来るのだ。これを利用しない手はない。大なり小なり犠牲は出るだろうが、得られる利益と秤に掛けた場合、どちらに傾くかは言うまでもない。
 ならば、今後の動向は決まっていた。即ち、課長は帝国内部に留まらぬ情報を提供し、夕呼はクーデター鎮圧に必要な兵力を提供する。
 全ては共通の目的のために。
「で今度はこちらが質問する番です」
「あなたが勝手に話したんじゃない」
「先程、珠瀬事務次官に随分と勇ましい事を言っておられましたね……ここに来て順調、というわけですか? オルタネイティヴ計画は」
 言いながら、武へと視線を向ける。
 武を怪しむのは当然だろう。何しろ、今回のクーデターに対する下準備としての依頼、その代価が白銀武の素性というくらいなのだから。
 武としても、これは一種の賭だった。
「白銀武のおかげ……といったところですか?」
「程々にしなさいって、さっき忠告しなかったかしら?」
 冷ややかな声音で夕呼。
 視線には、氷めいて冷然とした、殺気にも似た感情さえ宿っている。
「便利な駒が他人の都合で無くなるのは困るけど、自分の都合で無くなるのは……割と納得できるモノよ?」
「おお怖い……つれないですなあ。私は博士のために粉骨砕身しているというのに」
「よく言うわ……自分の目的のためでしょう?」
「ええ、もちろん……商売柄、目的遂行のためには手段を選びません。それはあなたも同じでしょう……香月博士?」
 鎧衣課長の纏う空気が一変する。これまでの冷たさと暖かさのバランスが逆転したかのよう。
「例えそれが、将軍家所縁の者だろうが、首相の娘であろうが、実の娘であったとしても――犠牲は厭いませんよ。そして、都合の悪いものは……始末するだけです」
 冷酷かつ酷薄な雰囲気。まるで、戦場で操縦桿を握る武のそれのよう。
 それに当てられたかのように、武の体からも同種の空気が溢れ出す。前の世界でも聞いて、はっきりと覚えている台詞だというのに。その覚悟を自分も抱いているはずなのに。
 ――抑えられない。
 大切な仲間達を犠牲にしても構わないと言ってのけるこの男に対する憎悪が、憤慨が、怨嗟が、止めどなく湧き出してくる。
 ――矛盾している。自覚はあった。
 大切な仲間達に犠牲を強いているのは他ならぬ自分自身だというのに。その彼女達をこそ護りたいと願う――。
「安心したまえ……その犠牲を無駄にするような事はしないさ……」
 武の内側を見透かし、まるで子供を宥めるような、似つかわしくない穏やかな口調で課長は言った。
 武は内心で舌打ちする。どれだけの実戦をくぐり抜けようとも、自分は未だにガキのままだと実感した。
「その犠牲を最大限に活かす方法とタイミングは、十分心得ているつもりだよ……私も、香月博士も。そうですね? 博士」
 夕呼は何も答えない。だが、沈黙こそが、何より雄弁な肯定だった。
 そしてそれは、武についても当てはまる。誰かに犠牲を強いるならば、それを最大限に活かすことでしか報いる術はない。
 そして、自分達がその決断を迫られる場所に立っていることは、この場の誰もが自覚していた。
「将軍家の血縁者に、国連事務次官、珠瀬玄丞斎の娘。そして内閣総理大臣、榊是親の娘……さらには元陸軍中将、彩峰萩閣の娘……最後に私、情報省外務二課課長、鎧衣左近の娘。君はこれだけの豪華メンバーが、偶然ここに集まったとでも思っているのかい?」
「は、まさか。帝国の思惑も国連の思惑も承知してますよ」
 そのことは、前の世界でたっぷりと思い知らされた。
 帝国から国連に捧げられた、体のいい人質。そして同時に、誰もが00ユニットとなる素質を持つ――先天的により良い因果を掴み取る素質を持つ者達。
 どちらの思惑にも、これ以上一致した存在はいまい。
「――鎧衣課長、一つだけ言っておきます」
 低く押し殺した声で武は言った。
 何かね? と問うてくる課長の顔を正面から見据え、滲み出る殺気を隠すこともせずに、さらに言い放つ。
「たとえあなたにどんな信念があろうと、目的を達成するためにアイツらを犠牲にするつもりなら、そんなことはオレが許さない。そのときは、オレは全力であなたの思惑を阻止させてもらう。国連軍白銀武少佐ではなく――ただの白銀武として、オレはあんたの敵になる」
 ふ、と課長は笑みを零し、
「若いな、白銀武」
「自分の矛盾も、青臭さも承知の上ですよ。――それも全部引っくるめての覚悟です」
 武が自嘲の笑みを口許に散らすと、課長は愉快げに皮肉るように唇の端を吊り上げた。
「……さて、お喋りが過ぎたようだ。私はそろそろお暇するとしようか。――そうだ白銀武、これを渡しておこう」
 そう言って鎧衣課長が懐から取り出したのは、一枚のデータディスクだった。中身については、聞かずともわかる。先だって、夕呼を通じて武が依頼していた物だ。
「代価は折を見て頂くとしよう」
 即ち、白銀武の素性を知るための機会――何らかの会談の場を設けろ、ということか。早々にXM3のトライアルを行い、帝国軍にそれを導入しろ、ということかもしれない。あるいは、その両方。
 いずれにせよ、悪い取引ではない。
「それから、これをやろう」
 データディスクのケースの上に、奇妙な人形を置いた。上半身が鳥――半人半鳥の人形。
「ムー大陸のお土産だ。君を守ってくれる。持っているといい」
「はあ……」
 生返事を返す武。そういえば、前の世界でもこんなものをもらったことを思い出す。
 確か捨てると呪われるとか言われた覚えがあるが、どうしたのだったか。結局捨ててしまったように思うが。
「さらばだ」
 武が過去の記憶に想いを馳せていると、課長はコートの裾を翻し、中央作戦司令室を出て行った。これから帝都城に向かい、殿下を脱出させなくてはならないのだ、時間はあまりないのだろう。
「――さ、急ぐわよ」
 夕呼もまた白衣の裾を翻して歩き出す。武は無言で頷き、二人は警報の鳴り響く廊下へと出た。向かう先は207小隊のブリーフィングルームだ。
「わかってると思うけど、あんた達の役目は将軍の保護と護衛よ」
「塔ヶ島離城で殿下を保護、米軍と合流して南下、白浜海岸で艦隊と合流、横浜基地に帰還……って流れですよね」
「その通りよ。勿論、前の世界の記憶と状況の推移に合わせて、適時作戦を修正すること。いいわね?」
「了解」
 事務的に頷く武。それは、感情を押し殺しているが故だった。
 本音を言えば、207B分隊を出撃させたくはない。その気になれば、悠陽を乗せたままでもクーデター軍を蹴散らすことだって出来るだろう。今回は前回とは違い、悠陽の強化装備のデータだってあるのだ。スコポラミンさえ服用してもらえば、悠陽が重度の加速度病に陥るということはないはずだ。
 だが、それではこのクーデターによって達せられるはずの半分の成果しか得られない。
 御剣冥夜という少女の存在が明るみに出ることで初めて、207B分隊の人質としての価値が薄れ、彼女達は任官を果たせるのだから。
 たとえどれほど辛くても、耐えなくてはならない。
 誰かに犠牲を強いる者は、その犠牲全てを受け止めなくてはならないのだから。
「……壊れないでよね」
 静かに、夕呼は昨夜と同じ台詞を口にした。口調こそそっけないが、武を案じている声音だとわかった。
 武は思わず苦笑する。この冷血であると自覚し、そうであろうとしている香月夕呼が、こんなにも気遣わしげな態度を取るなど、最早悪夢に近い。そんな態度を取らせているのが自分だと思うと、余計におかしかった。
 この悪夢は、今まで抑え付けられていた夕呼の甘さの所為か。それとも、それを誘発するほどの武の弱さの所為か。
 思えば、以前から夕呼は、時折こんな甘さを露呈させる部分があった。冗談で霞を娘だと言っていたことがあったが、母親になった暁には、意外と子煩悩になるかもしれない。
 尤も、彼女が誰かと子を成すという事態が、武には想像も出来ないのだが。
「何よ?」
「いえ、何でもありません」武は微笑したまま、「大丈夫ですよ。何としてでも最良の未来ってやつを掴んでみせます」
 壊れない、とは敢えて言わなかった。
 つい今し方課長に言い放った台詞は、決してその場限りの言葉ではない。自分の矛盾も青臭さも承知の上で、切り捨てざるを得なかったものを再び掬い上げると覚悟を決めた。
 白銀武が完全に崩壊するその瞬間がたとえ明日訪れるのだとしても、その瞬間まで足掻いて足掻いて足掻き抜いて……そして、護り抜く。
 そう――無感情な声で夕呼が相槌を打つ。
 それきり、二人は不快ではない沈黙に包まれたまま、ブリーフィングルームへの道を歩いていった。


「みんなおはよう」
 二人がブリーフィングルームに到着してみると、そこにはまりもと207B分隊、それにピアティフが揃っていた。
「――敬礼」
「敬礼はやめてって言ってるでしょう……はいこれ。つかめている限りの現在の状況よ。白銀、あなたにも」
 そう言って夕呼は二人に書類の束を手渡した。
 簡単なブリーフィングは済んでいるとまりもは言ったが、今し方手渡された報告書に書かれている内容は、機密情報すれすれのものだ。まりもは表紙を捲った途端、顔色を変えていた。
 概要については武も覚えているが、細部については朧気な部分も多い。夕呼の気遣いはありがたかった。
「……博士、このような詳細なブリーフィング……訓練部隊に、なぜ」
「何よ。あんた達はもう、ただの訓練部隊じゃないのよ? 副司令であるあたしの直轄部隊なんだから、そのぐらい知っていてもらわなきゃねえ」
「……わかりました」
 即ち、扱いは既にA-01と対等ということである。A-01を知る数少ない人間であるまりもには、それ以上食い付くことが出来なかった。
「あ、そうそう。この騒ぎが終わるまで、207小隊は白銀の指揮下に入ってもらうから。宣しくね」
「はい」
 武とまりもが書類に目を通していると、ピアティフがインカムを手で押さえた。上からの連絡が入ったらしい。
「香月副司令、太平洋方面第11軍司令部からです」
「――なによ」不機嫌そうにインカムを受け取る夕呼。「……っ! 白銀、まりも、ちょっと」
 夕呼は顔色を変えて二人を呼んだ。話を聞けば、在日国連軍の対応が決定した、ということだ。
 国連軍安全保障理事会は、相模湾に展開中の米国第7艦隊を国連緊急展開部隊に編入することを決定。正式発表は二時間後の7時00分。
 それに伴い、横浜基地は米国軍の受け入れを開始する――とのこと。
「まさかこんなに早いとはね。まったく。ピアティフ中尉、ラダビノッド司令につないで」
「お待ちください」
 夕呼の言には、武も専ら同意する外なかった。音が漏れない程度に舌を鳴らす。
 珠瀬事務次官が、宣言通り安保理の承認を取り付けたわけだが、あれからまだ一時間と経っていない。要するに、全ては筋書き通り、安保理にもしっかり米国は根を張っていたというわけだ。
 夕呼はまりもに状況説明を続けるように指示して、自分は司令と米軍の受け入れ準備について話し合いを始めた。対策を取っておかなくては、危惧した最悪の想像――米軍による基地の占拠とオルタネイティヴ4の接収――が現実となりかねない。
 武が伝えた未来の情報があるとはいえ、それは羅針盤でしかない。それを活かすことが出来るのは、夕呼や武が目の前の事態に全力で取り組むという前提があってこそだ。
 夕呼には悪いが、政治の分野で武に出来ることは殆どない。
 自分は自分のなすべきこと――衛士として割り振られた役割をこなすだけだ。
 そのために、情報の整理は不可欠だ。現状の把握が出来ない衛士は早死にする。ましてや、それが指揮官ともなれば、部隊全体を壊滅に陥らせることにもなりかねない。
 まりもの話を意識の片隅で聞きながら、武は報告書を読み進めていく。
 最新の情報によると、最後まで抵抗を続けていた国防省が、先程陥落。これで、事実上完全に帝都――帝国機能は制圧されたことになる。未確認ではあるが、帝都城周辺で、斯衛軍とクーデター部隊との戦闘が始まったという情報もある。
 仙台臨時政府の発表によると、将軍と帝都奪回の為の討伐部隊を集結中とのこと。
 ――やっぱり第一次防衛線はがら空きになる、か……。
 帝国本土防衛軍の主力は、甲21号目標――佐渡島ハイヴからの侵攻に備えて、日本海沿岸に展開されている。そこから部隊をかき集め、討伐部隊に回すというわけだ。
 この国の連中にとっては、BETAの危険よりも国体の方が重要らしい。愚かしいことではあるかもしれないが、武にそれを馬鹿にすることは出来なかった。これこそが日本帝国の難点であると同時に、美点でもあるのだということは、これまでの世界で、嫌というほどに思い知らされていた。また、かつて帝国軍の一員として過ごした日々が、武に彼らの心情を理解させていた。尤も、理解はすれど、同意することは出来そうもないが。
 クーデター首謀者は、帝都防衛第1師団・第1戦術機甲連隊所属、沙霧尚哉大尉と判明。
 ――沙霧大尉……。
 武の脳裏に沸き立つのは、二つのイメージ。
 一つは、『元の世界』の欅総合病院で医師をしている姿。前の世界でも過ぎったイメージだったが、それをそれと認識すると、芋づる式に記憶が蘇ってくる。かつて慧の許嫁だった男。慧と結ばれた可能性の中で、最大の障害があの男だったはずだ。
 もう一つは、言うまでもなく、前の世界での12・5事件のときのもの。あの頃の自分は、彼の覚悟に異議を抱くことさえ出来なかった。当時の武には、自身の覚悟の立脚点となる信念がなかったから。
 ――だが、今は違う。今は、彼の言葉を聞いたとしても、覚悟は決して揺らがないだろう。
 沙霧にも信念はある。それは、武のそれとは相容れない物だ。
 彼が真にこの国を想ってこのような行いに出たことは間違いない。あまりに視野狭窄が過ぎたとはいえ、その想いを否定することは、誰にも出来まい。
 だが、彼の手段は悪と断じられて然るべきである。
 殿下のためと言いながらその臣下を斬り、国のためと言いながら国民に無用の負担を強い、米国の一部の思惑に踊らされてこの国を――それどころか世界を巻き込んだ。目的のために手段を選ばぬと言えば単なる愚直な頑固者であろうが、彼のそれは度が過ぎている。暴走、と言ってもいい。
 武もまた目的のためには手段を選ぶつもりはない……それが故の同族嫌悪にも似た奇妙な感情が、武の中で蠢いていた。
 最大の問題は、事実を知らなかったとはいえ、オルタネイティヴ4を誘致し、世界を、ひいては日本を救うために日夜粉骨砕身していたはずの内閣閣僚数名を、国賊とみなして殺害――
「……ん?」
 不意に、表記されている内容が、記憶と食い違っていることに武は気付いた。
 臨時政府は、クーデター部隊により、内務大臣を始めとする内閣閣僚数名が暗殺されたことを確認。沙霧大尉自ら、閣僚を国賊とみなし殺害したらしい――が、その内閣閣僚の中に、榊是親首相の名はなかった。
 思わず唇が微かに孤を描く。鎧衣課長のお陰だと、武にはすぐにわかった。
 武は先のデータディスクと共に、榊首相を総理官邸から遠ざけてもらえるよう、鎧衣課長に依頼をしておいたのだ。そしてあのつかみ所のない男は、武の要求を見事にこなしてくれたというわけだ。
 まりもが閣僚の暗殺について告げると、
「……っ!!」
「――!」
 慧と千鶴の二人が、同時に息を呑んだ。
 武を除く誰一人として慧の緊張に気付いた様子はなかったが、逆に千鶴の様子には誰もが気付いた。
 それに対し、まりもはふっと表情を和らげる。
「安心しろ、榊……お父上はご無事だ。丁度、昨夜から所用で帝都を離れていたらしい。今は臨時政府に合流するために仙台へ向かっているそうだ」
「そう、ですか……」
 千鶴は安堵に満ちた表情で、溜息を吐いた。慧もまた、ほっと胸を撫で下ろしているのが見て取れた。後者に気付いていたのは、やはりこの場では武一人。
 武は、鎧衣課長に拍手を送りたい気分だった。流石と言う外ない。つい昨日、夕呼伝手に依頼したばかりだというのに、この迅速さ。信用は出来ないが、その手腕は信頼に足る。
 やがて、「副司令、始まるようです」とピアティフ中尉が言った。それに合わせて、米軍受け入れについての打ち合わせをしていた夕呼が通信を切った。
「回線開いて。――白銀、まりもっ、始まるわよ?」
 夕呼の指示でピアティフがコンソールを操作すると、直後に放送が開始、画面には沙霧尚哉の姿が映し出される。

 ――ざ、じり、じ……じじ……

「っ……!?」
 突然思考に覆い被さったノイズに、武は表情を驚愕に染めた。
 その場の誰もがモニタを注視しているために気付かないが、武の顔は見る間に青ざめていく。冷たい汗が額に滲み、頬を伝っていた。
 ごりごりと頭蓋骨をすり潰されているかのような頭痛。
 そして次の瞬間、脳味噌が膨れ上がるかのごとく、記憶の奔流が押し寄せてきた。

 戦場。黒い不知火。肩を並べて戦い。『慧を頼む』と言われ。彼女の盾となって散っていった衛士。かつて尊敬し、憧憬し、追い掛けた背中。その背中が異形の津波の中へと――

 ぎり、と武は歯を鳴らした。噛み砕かんばかりに、歯を食いしばる。
 耐えろ――武は自分に言い聞かせる。耐えろ、耐え抜け、壊れるな――と。決意を新たにしたのは、つい先程のことだ。音を上げるにはまだまだ早い。
 この程度の頭痛、もう何度も味わってきただろう。
 ――乗り越える。乗り越えろ……。
 その先にある記憶へと辿り着くために。この身の血肉となり糧となるであろう、経験を手に入れるために。
『先日の天元山災害救助作戦を報じたニュースを……』
 遠ざかっていた音が戻ってくる。
 ゆっくりと、心臓の拍動を落ち着けるために武は深呼吸を一度して、貼り付いた前髪を掻き上げた。額は、脂汗でじっとりとぬめりを帯びていた。
 もう一度深く息を吸い込み、肺に新鮮な酸素を満たしてやる。
 頭痛は、もうない。
 これまでの経験で、頭痛やフラッシュバックの激しさは、記憶の重要度――どれだけ武の精神に直結しているかに依存しているということは朧気ながらわかっていた。沙霧の記憶は、一度目の世界の白銀武にとって、現在の仲間達のそれほど特別ではない記憶だったのだろう、フラッシュバックの反動も、いつもよりはずっと小さかった。
 ――それにしても……沙霧大尉と共闘してたなんてな……。
 考えてみれば自然なことであるのだが、今まで彼を敵としか見ていなかったがために、新鮮な驚きが武の胸中に広がっていく。
 一度目の世界、後方任務が解かれ実戦の中に身を置くようになってからは、自然、帝国軍と戦線を共にすることが多くなっていた。
 沙霧と出会ったのも、そんな時のことだ。横浜基地出身の衛士であると明かすと、『彩峰慧という名に心当たりがないだろうか』と問われたのを思い出していた。同じ部隊であることを教えると、彼はどこか哀しげに破顔したのだった。
 以来、共通の知人という繋がりだけでなく、互いに信頼の置ける仲間として、二人は幾たびも共闘するようになっていた。
 ――今じゃ完全に敵同士だけどな。
 細く息を吐き出して、武はモニタに視線をやった。そこでは、相変わらず沙霧が熱弁を振るっている。
 かつての朋友と敵対することに対する躊躇は、微塵もなかった。その権利など、武にはない。
 武はただどこか悲しげに目を細めるだけだった。
 聞き逃していたのは、どうやら政府や帝国軍の使命というお決まりの能書きだけだった。
 本題に入ると、話は昨日の天元山災害救助作戦に及んだ。沙霧は、帰還住民が不法滞在者であることには一言も触れず、帰還住民の意志や権利を考慮せずに強制排除を事務的・効率的に行ったに過ぎないと非難していた。そしてそれは、政府や軍の都合を優先し、国民を蔑ろにした事例の氷山の一角でしかなく、奸臣である為政者達はその事実を殿下に伝えていないのだという。
 彼の言葉は、ある意味で真実の一端を言い当てている。
 確かに、天元山災害救助作戦は、国民よりも軍――オルタネイティヴ4を優先した結果だ。
 だが、それくらい、武は承知の上。その程度の罪、とうに受け入れている。榊首相を始めとする内閣閣僚も同様だろう。清濁併せ呑む気概なくして、どうして人の上になど立てようか。
 また、武に言わせれば、そも、沙霧は自分の立場を忘れている。彼もまた軍人――多くの人々の生活を圧迫した上で生きる人間の一人――なのである。如何に大衆の支持を得ようとしたところで、彼もまた民衆を日々の糧として生きているという事実を忘れてはならないのだ。
 同時に、彼には、見るべき現実が見えていない。信じる物を盲信するあまり、視野狭窄に陥っている。
 真実は確かに隠されているかもしれない。だが、彼はそれを見ようとしていない。隠された真実にまで手を伸ばそうとしていないのである。
 何故榊首相が売国奴と罵られながらも、現在の方針を変えようとしないのか。その理由を深く探っていれば、あるいは彼がこのような暴挙に出ることもなかったかもしれない。
 それに、この男は本気で将軍が諸々の情報から遠ざけられているとでも思っているのだろうか。帝国の統治権を委譲されているくらいだ、軍部とは独立した情報網を持っているに決まっている。都合が悪いからそれを伏せているだけなのか、それとも本当にそう思っているのか。
 あるいは、だからこそ彼は、こうして立ち上がることが出来たのかもしれなかった。
 彼はただ一心に国を憂いている。ただこの日本帝国を護りたいという強い願いを、信念を抱き続けたまま成長した、無垢な子供のようなものだろう。――それが故にこそ、ある意味で始末が悪いとも言えるが。
『……このままでは、殿下の御心と国民は分断され、遠からず日本は滅びてしまうと断言せざるを得ない』
 そして自分達戦略研究会は、それを正すために立ち上がったのだという。
 それはつまり、今の帝国――オルタネイティヴ4に仇なすつもりであるということだ。彼はそれを意図してのことではないだろうが、ここに二人の対立は決定的となった。
 ――それが、あんたの正義か。
 武のそれとは、決定的に相容れることはない、沙霧の正義。
 沙霧尚哉は国――彼の理想像としての日本帝国――を第一に考え、白銀武は仲間――そして仲間の護りたかったこの世界――を第一に考える。
 ――どちらも、ひどく歪だ。
 沙霧尚哉は、知ってか知らずか、護るべき者達を危険に晒し、国民に余計な負担を背負わせている。自分達は殿下や国民に仇なす者ではない、討つべきは日本を蝕む国賊、亡国の徒を滅ぼすのみ――そう口にしながらも、日本という国を、世界を護ろうとした者達を手に掛け、下手をすれば日本が完全に米国に掌握されてしまう危険を生じさせている。
 白銀武は、全てを承知の上で、護るべき者達を危険に晒し、護るべきこの世界の住人を切り捨てた。オルタネイティヴ4というあまりにも儚い希望を掴むために、その障害となり得る不安要素や敵対勢力を排除しようと、敢えて彼らに計画を潰されかねない危険を冒した。それが、武の知る限り最良の可能性であるが故に。
 ――それでも、たった一つだけ、彼らと武との間に、決定的な違いがある。
 沙霧は、確かに心の底から日本を、民の心を案じている。それだけは確かだ。
 全人類への奉仕という大儀の中、潔癖や道徳を軽んじ、忘却していった日本の人々の心に、再びそれらを目覚めさせようとしている。
 外道に甘んじ、それでも尚、命を懸けて国を正そうとした――それは、間違いない。
 彼らほど日本という国を想っている衛士はいないかもしれない。日本という国に奉じ、日本という国のためだけに死んでいくことを良しとする、誠の烈士である。
 事実、前の世界において沙霧尚哉は、自分の理想の日本のために戦い、理想の日本に殉じて死んでいった。
 ――死をも覚悟していたといえば聞こえはいい。
 ……だが、武に言わせれば、それはただの甘えであり、逃避でしかない。多くの衛士を巻き込み、死なせたのだから、散っていった者達が護るはずだった者達全てを護り抜き、それから死ぬべきだったのだ。
 罪を、罰を甘んじて受け入れればいいというものではない。
 誰かを犠牲にしたならば、その犠牲全ての未来を背負う――それが、覚悟だ。
 武には、未来を護るために誰かに犠牲を強いた上で、その罪も咎も責も全てを背負い、この脳が因果情報に押し潰され焼き切れるその瞬間まで生き続け、戦い続ける覚悟があった。
『――諸外国政府、在日国連軍、及び米国第7艦隊に告ぐ』
 沙霧は、今度はその矛先を諸外国や国連軍、米軍に向けた。クーデター部隊は事態を完全に掌握し、混乱は収束に向かいつつある、これは帝国の内政問題だからお前達は手を出すな、と言うのだ。
 当然ながら、事はそう簡単には出来ていない。煌武院悠陽殿下が行方不明となっている現状、混乱は収束に向かうどころか、むしろその度を深めていると言うべきだろう。
 そもそもこの状況は、元を正せば極東での権勢を復活させるために米国が作り出した物である。言ってしまえば、戦略研究会は矢面に立たされた道化でしかない。当然、米国は自分達の利益を最大にするために、更なる工作を仕掛けてくるだろう。
 また、もしクーデターの最中に日本が滅びるようなことになれば、米国は太平洋を隔ててその横腹をBETAに晒すこととなる。彼らが躍起になるのも当然であると言えた。
「…………もういいわ、切ってちょうだい。どんなことを言うのかと思えば……がっかりね」
 夕呼は、心底呆れたような声で言った。
 どんなに美辞麗句を並べて自分達の正当性を主張したところで、事実は変わらない。たとえ国を憂う心があろうと、それで国を危険に晒すのでは本末転倒だ。
 佐渡島に、朝鮮半島にあるものがどれほど恐ろしいものなのか、それがどれだけ無慈悲で、無惨で、残酷な現実なのかを、大尉に就くほどの人間がわかっていないのだろうか。自分達が殺めようとした榊是親首相の存在が、どれほど今の日本にとって重要なのか、気付いていないのだろうか。
 尤も、それに気付いていないからこそ、米国や鎧衣課長、そして武や夕呼の思惑通りに踊る道化を演じているのかもしれないが。
 ――オレも人のことは言えないけどな……。
 武は、様々な感情が綯い交ぜになった溜息を吐いた。
 操り人形に悪事を為させるのは、いつだって人形師だ。ならば、本当の悪は一体誰なのか。
 ――そんなの、決まってる……。
 ぎり、と奥歯を鳴らして、武は顔を上げた。迷いを振り切り、未来へと視線を向ける。
 しかし、裏側を知らず、軍人としての経験も皆無に近い207B分隊の面々は、皆一様に意気消沈して俯いていた。
 まりもが声を掛けるが、彼女達には聞こえていない。
 この状態はまずい。初の実戦の直前だというのに、このような心持ちでは、死にたがっているようなものだ。最悪――武にとっては正に最悪の手段として――興奮剤や後催眠暗示といった処置も考慮に入れなくてはならなくなる。
 その必要をなくすためにも、何かしらの手を打つ必要がある。
 さてどうするか――武がそう考えている間に、
「全員入隊宣誓斉唱!」
 まりもがそう声を張り上げた。
 一瞬、207B分隊の五人は面食らっていたが、すぐにその指示に従い、高らかに入隊宣誓を謳いあげる。
 入隊宣誓は、ただの言葉ではない。彼女達が今ここにいる理由、軍人としての初心を取り戻させ、発破を掛けようという心算だろう。
 その甲斐あってか、いつも通りとは言わないまでも、一定の平常心を取り戻させることには成功したようだった。
 五人の表情を確認した後、まりもは今後の基地体勢について伝達を開始する。
 第1戦術機甲大隊、第5航空支援大隊を即応部隊として待機させ、残りは基地の防衛に当たる。それに加え、米軍の受け入れという状況を鑑みれば、訓練部隊の出る幕はないだろう……と。
 だが、そう言っているまりもも、それが希望的観測に過ぎないことはわかっているはずだ。
 基地待機の訓練部隊に、こんな詳細なブリーフィングは必要ない。ましてや、香月夕呼副司令直属であり、現在横浜基地最強と謳われる衛士の一人である白銀武の指揮下に入るのだ、基地待機で済むとは思えまい。
 ちらりとまりもは不安そうな視線を武に投げてくる。
 それが、自分を断罪しているように思えて、武は僅かに目を伏せた。その挙動こそが、何より雄弁な答えになると知っていながら。



[2785] Muv-Luv ALTERNATIVE -Second World Was Failed- 第22話
Name: Vollmond◆d2a8c8a6 ID:f56ee90e
Date: 2009/07/07 12:31
 207B分隊とのブリーフィングを終えた武は、今度はヴァルキリーズのブリーフィングルームへとやって来ていた。
 そこに集まった十三人の戦乙女の姿を目に映し、武は確認するように言った。
「全員揃っているな」
 このブリーフィングが意味するところを全員がほぼ理解していながら、その眼差しに迷いは感じられなかった。頼もしい限りだ。
「あまり時間がないから、早速本題に入らせてもらう。知っての通り、本日0500時に正式にクーデター軍――戦略研究会による声明が発表された。オレ達は在日国連軍として、仙台臨時政府の承認が下り次第、このクーデターを鎮圧することになる」
 国連軍は、あくまでも客分だ。現地国家の要請や承認なしには作戦行動を行うことが出来ないなど、現地軍である帝国軍に比べ、現状、国連軍の自由は著しく制限されている。
 しかし、国連安全保障理事会は、既に米国第7艦隊の国連緊急展開部隊に編入することを決定した。つまり、仙台臨時政府からの要請があり次第、米軍を含めた国連軍は作戦行動を開始出来るということであり、仙台臨時政府はその受け入れを容認したということでもある。
 煌武院悠陽殿下による即時戦闘中止の命があるとはいえ、将軍殿下の安全と保護を絶対条件として、遠からずその要請は発せられるだろう。
 仙台臨時政府の全権特使との会談に臨むのは珠瀬事務次官。彼のことだ、仮に『前の世界』の知識がなくとも、彼がその受け入れを引き出すことは確信出来た。
「そこで、だ――」武は唇の端を吊り上げ、悪戯を思い付いた子供のように――あるいは、香月夕呼のようににやりと笑ってみせた。「ヴァルキリーズには、オルタネイティヴ計画権限に基づいた超法規的措置により、他の国連軍に先んじて行動してもらう」
 武の発言に、皆が目を見張った。
 いや、みちるを始めとした小隊長格には驚いた様子は殆ど見られない。彼女達はA-01として過ごした時間が長い分、この部隊のそういった性格も正しく把握している。今回の出撃も、半ば予想通りという節があった。
「作戦内容は帝都臨海部の将軍家離城の警備。作戦区域は帝都湾北西岸一帯とする。尚、その後の行動については、状況が変わり次第追って連絡するものとする」
 状況が変わる……つまり、武と207B訓練分隊が将軍を保護し次第、箱根へと向かう敵後続の足止めがヴァルキリーズの新たな任務となる。
「少佐、一つ質問をさせていただいたい」
「何だ、秋山中尉」
「は。帝国軍・国連軍双方に戦闘行動が想定される状況で、何故“我々”が帝都城ではなく離城へと向かうのか、その作戦意図の説明を求めます」
 我々、という語を強調して楓は言った。
 これまでの任務内容を考えれば、離城の警備などという対岸の火事を眺めるような任務は腑に落ちないのだろう。香月夕呼の課す常の任務の過酷さを理解しているが故に、今回の任務の裏――真の任務を知ろうとしているのである。ましてやこの状況である、楓が身構えるのも当然であった。
 しかし、Need to knowという言葉がある。軍人が知ってよい情報は、伝えられた情報だけだ。それ以上は伝える必要がないから伝えないのであって、必要な情報は必要な時に必要なだけ与えられる。
 そのことを前置きしながら、「だが」と武は付け加えた。
「こんな話がある。BETAの本土侵攻の際、斯衛軍はいくつかの離城を孤立無援の状況で数ヶ月間守り抜いたそうだ」
 これだけでピンと来た者もいたようだった。
 城とは、そもそも防備のために築かれる物である。
 そのため、予め準備をしておけば、数ヶ月間の立て籠もることは不可能ではない。
 しかし、それはあくまで事前の十分な準備があればの話。BETA進攻時にそのような余裕があったはずもない。武器弾薬や食糧など、籠城には多量の物資が必要となるのである。
 ならば、何故そのような状況で離城の死守が可能であったのか。
 答えは簡単。孤立無援の状況という前提条件そのものがそもそも間違っていただけのこと。斯衛軍が数ヶ月の籠城を実現したという事実は動かないのだから、それ以外に答えはあり得ない。
 表向きには知られていない秘密の物資運搬ルートがあり、それを通じて斯衛軍は救援を受けていたのである。
 さらに深読みするならば、そのルートは物資だけでなく要人の移動にも用いることが可能だろう。――たとえば、政威大将軍のような。
「みんなに警備に当たってもらう離城は、重要な戦略拠点である可能性が高い。決して気を抜くな!」
「了解!」
 威勢のいい声を聞き届けて、武はもう一度視線を巡らせた。
「他に質問のある者はいるか?」
 武の問いに手を挙げたのは、祷子だった。
「先程からの仰りようですと、少佐は私達とは同行なさらないということでしょうか?」
「え!?」
 数名が一斉に驚呼した。視線が武と祷子の間を往復する。
 武は頷いて、
「帝都からは多少離れているが、同じように斯衛軍が死守した離城があるんだ。オレはそちらへ向かうことになっている」
 帝都湾北西の三つの離城同様、地下に物資運搬ルートがあり、かつ現実的にこの争乱下で利用可能な離城とは、言うまでもなく箱根の塔ヶ島城である。
 そこで前の世界の夕呼は、直属の部隊であるA-01と207訓練小隊をそれぞれに向かわせたのだ。
 訓練部隊を差し向けた塔ヶ島城に煌武院悠陽が現れたところまでが夕呼のプランの上であったかまでは、武にはわからないし、どうでもいい。
 武が現時点でクーデターに関与していない以上、今回も悠陽は箱根に現れる。その上で前の世界と同じ道を辿りながら、如何にして犠牲を減らすか。重要なのは今後だけだ。
「よって、指揮に関しては従来通り伊隅大尉に執ってもらう」
「了解」
 敬礼するみちるに寄せるのは、全幅の信頼だ。武の知る限り、最も優れた指揮官は彼女を置いて他にない。帝国軍時代の上官であった桂木葛葉もみちるに比肩し得るだろうが、やはりみちるには及ぶまい。
 彼女がいれば、ヴァルキリーズは安心して任せられる。
 前の世界では一名の戦死者を出した今回のクーデターだが、『この世界』においては完成したXM3と武の教導がある。自分を過信しない限り、最悪でも犠牲が増えることはないだろう。武としては、クーデター部隊に空挺作戦を引き出させることさえ出来れば、それ以上の足止めを望むつもりはなかった。
「移動経路についてだが、18時40分、87式自走整備支援担架にて国道1号跡を北上、川崎駅跡を補給中継拠点として全戦術機機動」武は淡々と書類を読み進めていくが、そこで言葉を切ると、強い眼差しでヴァルキリーズを見つめた。「その先は帝都だ。知っての通り、クーデター軍は勿論、その他の帝国軍及び一般民衆の国連軍に対する感情は芳しくない。間違っても帝都城に砲口を向けるな」
 ただでさえ帝都城周辺では反乱軍と斯衛軍が睨み合って空気が帯電している状態なのだ、そこに国連軍が砲口を差し向けようものなら、火花は瞬く間に戦火へと取って代わられるだろう。
 その火蓋を切って落としたのが国連軍となれば、政治家達も世論を抑えきれまい。
 現地住民による反基地デモで横浜基地が撤退、オルタネイティヴ4は全てまとめておじゃん、などとなってしまっては、失笑すら買うことは出来まい。尤も、米国からは盛大な嘲笑を買うことが出来るかもしれないが。
「クーデター軍と戦闘になった場合でも、必要以上の戦闘はしないこと。ヴァルキリーズの任務は敵軍の撃破じゃないからな。降り掛かる火の粉を払うくらいでちょうどいい」
 ここでわざわざ改めて作戦目標を問う者はいない。Need to know――離城へ向かう目的も伝えられなければ、離城でなすべき目標も伝えられることはない。
「状況が変わり次第、任務内容は逐次、追って連絡する」
 そう言って、武はブリーフィングを締め括った。
 このまま行けば、A-01は離城に到着し次第、煌武院悠陽殿下の保護という任務を与えられ、武らが悠陽を保護した後は後続部隊の足止めという次の任務を負うこととなるだろう。
 彼女達の実力は、前の世界の同時期よりも大幅に高まっている。必要以上に深追いするなとは命令するつもりであるが、クーデター軍が空挺作戦という暴挙に出るのは確実だろう。
 それでいい。武の知る未来通りに事が運んでくれればくれるほど、状況は今の武らに望める最良の未来を掴むのに有利に動いてくれる。
 信頼し、尊敬している相手であるが故に利用しやすいというのは、一種の皮肉だろうか。


「……うわっ、すごい匂い。こんなんで着座調整してたら、窒息しちゃうよ」
 臭気に当てられて、美琴が呻くように言った。
 同日8時23分、16番整備格納庫。ここにいるのは美琴だけではなく、他の四人もまた、衛士強化装備姿で集まっている。壬姫一人が、デッキから降りていた。
 ハンガーでは、対人戦を想定した実戦塗装が施されていた。機体番号を濃いグレーで書くなどして、目立たなくしているのだ。尤も、鮮やかな蒼穹色の国連軍カラーでは、その意味があるのか疑わしいが。
 出撃の可能性は十分にあるという事実に、その場の誰もが気付いていた。
 行われているのは、機体の再塗装だけではない。兵装も、模擬戦用のペイント弾や模造刀から、実戦仕様に換装されている。「兵装の指示は!?」「全機実弾装填だ! 兵装はC!」という怒号が飛び交っていた。
「……実弾……」
 ぼそりと慧が呟く。
 実弾を装填した状態で戦術機に乗るのは、五人にとっては初めての経験となる。無論、実戦もまた初めてのこと。
 BETAから人々を護るために研鑽してきたはずの彼女達に、初めての実戦で対人戦という、重荷を背負わせることに葛藤がないわけではないが、これが自分の選んだ道だ。受け入れるしかない。
 それに、彼女達に人間相手に引金を引かせたくないのであれば、自分一人が引けばいいだけのこと。既にこの手は血にまみれている。今更一人や二人、殺した相手が増えたところで、何も変わらない。
「たたたた大変です~! 外が大変なことになってます~!」
 突然、壬姫が大声をあげながら駆け寄ってきた。
「大変なこと?」
 千鶴が不思議そうに首を傾げ、
「基地のまわりに帝国軍が…………」
 ――やっぱり来たか……。
 半ば諦念にも似た気持ちが、武の胸中を支配していた。
 ただでさえ彼女達は初陣を前にして気持ちが張り詰めているというのに、帝国軍が基地の周りに展開していては、尚更落ち着くことなど出来ようはずもない。整備パレットの整備班も、あからさまに気が立っているのが見て取れた。
「落ち着け、珠瀬。連中だってオレ達に危害を加えるつもりはない。ただ、ここに進駐してる米軍におかしな動きがないか監視に来ただけだ」
 そう言って、武は壬姫の頭を擦れ違いざま撫でてやると、キャットウォークから降りていく。
「白銀、どこ行くの!?」
「安心しろ、ちょっと様子を見てくるだけだ。お前らは着座調整を続けてろ。――それから」低い声で付け足す武。「今は即応態勢で待機中だ。公私の別を付けろ。いいな、榊」
「は……はっ!」
 ハンガーから外に出てみると、記憶の通り、横浜基地を取り囲むように、帝国軍の戦術機甲部隊が展開していた。少なくとも、大隊規模以上の部隊が、わざわざここまで出張ってきたということになる。
「どいつもこいつも……」
 馬鹿ばっかりだな、と武は悪態を吐いた。当然、その中には武も含まれている。
 こうなることは全て承知の上だったとはいえ、いざ現実に事が起こってみると、湧き上がる怒りを抑えることは出来なかった。本来ならば、こんな足の引っ張り合いをしている場合ではないというのに。
「…………完全に包囲されているな」
 突然後ろから投げ掛けられた声に対する驚きはなかった。立場こそ違えど、前の世界でも同じようなことがあったからだ。
「御剣、お前も来たのか」
「その……わ、私も様子を見に来たのだ」
 冥夜は、気まずそうに訥々と言った。武の指示に背いている自覚があるからだろう。
 武は意地悪く唇を歪めた。
「オレは着座調整してろと言ったはずなんだがな。命令違反とは、偉くなったもんだな」
「う……」冥夜は唇を尖らせる。「しょ、少佐こそ、着座調整はまだなのでは? よいのですか、このようなところで油を売って」
 皮肉のつもりであったのかもしれないが、武には通用しない。
「いつからオレに意見出来るようになったんだ?」う、と呻く冥夜に「まあいい」と言って、「生憎、オレの着座調整はとっくに終わってるよ」
「……?」
 不思議そうに目を細める冥夜に、武は答える。
「撃震はお前らとの訓練用だ。実戦用の弐型は別のハンガーに置いてある。いつでも出撃出来るようにメンテも済ませた状態でな」
 不知火・弐型は、武御雷やF-22A、EF-2000に次ぐ性能を持っていると言っていい。そんな機体を使っては、冥夜達の訓練になどなりはしない。そのために、第一世代機の撃震をわざわざ取り寄せたのだ。当然、撃震も立派な戦術機である以上、弐型がメンテナンスなどで乗れない時の予備機という意味合いもある。
 そしてその弐型はといえば、A-01のハンガーに置かれている。
 XM3換装後の実戦兵装でのデータは既にあるので、武の着座調整は207B分隊のそれよりもずっと短く済む。既にA-01とのブリーフィング直後に着座調整は終えていた。
「もうちょっとしたら戻るよ。とりあえず状況を確認しとかないとな」
 とはいえ、実際のところ、今更確認するようなことは特にはない。記憶に朧気な部分はあるが、それも任務遂行に当たって問題になるような範囲ではなかった。
 この部隊がどこから派遣されているか、といったことを確認しておきたいだけだ。
 どこかの第一次防衛線から派遣されているのだろう、といった程度には当たりが付いている。
 絶対防衛線が虫食いになって、何が絶対だろう。その程度の戦力でBETAを食い止められるとでも思っているのだろうか。
 武自身が引金を引いた出来事であるとはいえ、これには些か苛立ちを隠せない。
「まったく……他国の軍が入ってきたからって、やりすぎだ」
「国連軍の基地内とは言え……他国の軍隊が上陸してきたのです。主権国家としては当然の措置ではないでしょうか」
「当然なもんか。連中はちゃんと国際法上の手続きに則って上陸してるんだ。ご丁寧に安保理決議っていう盾まで用意してみせてな」
 それは、かのギリシアの女神アテナの盾もかくやという、絶対の盾だ。日本帝国もまた国連加盟国であり、ここが国連軍の基地である以上、その盾を侵すことは決して許されない。
「これは国連安保理の決定だ、現地軍がとやかく口出ししていいことじゃない」
 たとえ日本政府の意向を無視しての決定であろうと、全人類の利益を鑑みれば、緊急時には国連安全保障理事会の決定が優先されるのは当然だ。――それが、米国の狙いでもあった。ほぼ合法的にこの横浜基地に進駐出来るのだ、そのお膳立てまでしておいてみすみすこの機を逃す真似はしまい。
 そして、この決議は今日中には正式に日本政府――仙台臨時政府によって受け入れられるだろう。榊首相は断腸の思いでこれを承認するはずだ。
 予め用意があったとはいえ、僅か一日足らずでここまで状況を整えてしまうとは、米国や国連上層部の手際には恐れ入る外ない。それも、夕呼やラダビノッド司令の抵抗があったにもかかわらず、だ。
「そもそも、そんなに連中の介入が嫌なら、介入される前に鎮圧すればいい。どうせ絶対防衛線を崩すなら、こんなところに無駄な戦力を割かずに、帝都に向かわせれば良かったんだ。その方が犠牲も消耗も減らせるからな。何より、余計な介入をされないで済む」
 武の目的は達せられないが、現実的に考えれば、それが最善だ。余計な消耗を大幅に減らすことが出来る。連中が蛇蝎の如く忌み嫌う米軍の介入も許さずに済んだかもしれないのだ。
 わざわざ介入してきた米軍も、何も出来なかったとあれば、面目丸潰れだろう。
 沸々と怒りが湧き上がってくる。こんな綱渡りを取り得る最善の手段とするしかない自分自身にも、ほいほいと踊らされる反乱軍にも、こんなところで油を売っている帝国軍にも。――そして、わざわざこんなことをせねば大人しくなりそうもない米国にも。
「だからBETAに負けるんだ。BETAってのはこんなことをやってて勝てる相手じゃない。どいつもこいつも、これだけ追い詰められて、まだそんなこともわからないのかよ……」
「目的が同じであっても……重んじる物が違えば、道を違えることもあるものです」
 前の総戦技演習のお前らみたいにか――そう言い掛けて、すんでの所で武はその言葉を呑み込んだ。それは過去の話だ。今言うのは、フェアではない。
「BETAを倒すより重要なことがあるって? BETAに負けたら、その大事な物だって守れないのにか?」
「……それは」
「そうだろ?」
 冥夜を見つめる武の眼差しは、刀の切っ先めいて鋭い。その奥に、青い炎のような灼熱の憤懣が宿っていた。
 BETAよりも優先する物があったとして、その所為でBETAに負けて、それら大事な物全てを失うようなことになれば、史上最大のブラックジョークだ。それが、BETAに勝利した未来を見据えての皮算用に由来するものであれば、尚更のこと。
 たとえ重んじる物が違おうとも、履き違えてはならない一線というものが存在するのである。

「貴殿の言う通りです……しかし、それだけでないのもまた事実」

 突然の声に振り向けば、そこには赤い零式衛士強化装備を身に纏った真那の姿。軍服姿では下ろしている髪を、邪魔にならないようにだろう、アップにまとめている。その後ろには当然、巽、雪乃、戎の三名が白い強化装備姿で控えていた。
「月詠……そなた何をしているッ!? 殿下の危機を知りながら何故ここにいるのだッ!?」
 真那の姿を認めるなり、憤怒に満ちた形相で冥夜は声を荒げた。声に悲痛な響きさえ宿して。
「は……お言葉ではございますが……冥夜様の警護こそ、私共が殿下より賜ったお役目でございます」
「ばかものッ――痴れ言を申すな! 今、帝都がどうなっておるか……知らぬわけではあるまいッ!」
「重々承知しております。そうであるが故に、冥夜様のお側を離れるわけにはゆかぬのです」
 二人は一歩も退かない。
 本来、斯衛軍とは将軍を護るために存在する。しかも、帝都城を取り囲んでいるのは、精鋭揃いの帝都守備隊。将軍を護るには、少しでも戦力が欲しいところだ。にもかかわらず、真那達はこの横浜基地に、それも冥夜を護るために留まっている。誰よりも姉を想う冥夜にとって、それは耐えがたいことだろう。
 その気持ちを、真那達が知らないはずがない。だからだろう、彼女の表情は、沈痛そうに歪められていた。
 しかしそれでも尚、真那は譲るわけにはいかなかった。万が一億が一の事態が現実となった場合、御剣冥夜――煌武院冥夜として生を受けた、存在しない少女――には必ず生きていてもらわねばならないのだから。
「そなた、己の申している事の意味がわかっておるのかッ!?」
「おい御剣、よせ!」
 流石にこれはまずい――そう判断して、武は冥夜を制止しようとするが、その声は冥夜の耳には届かず、
「私の事はよい――早く行けッ……行かぬかッ!!」
「なりません……」苦しげな声音で真那。「こればかりはいかに冥夜様のご命令といえど……なりません」
「……っ!! ……おのれぇ……」
 冥夜は口惜しそうに唇を噛み、まるで親の仇のように真那を睨め付ける。
 これ以上は我慢ならなかった。
「――いい加減にしろ御剣!!」
 武は叫ぶような声を喉から迸らせると、冥夜の腕を掴み、強引に自分の方へと振り向かせた。
 今正に冥夜に向かって言葉を発しようと進み出ていた巽達が、びくん、と身を竦ませて立ち止まった。
「タケ、ル……?」
 冥夜は瞳に怯えの色を滲ませて、無意識の内にか武の名を呼んだ。
「いいか? 月詠中尉達は、軍人としてここにいるんだ。軍人として、自分の任務に全力で当たってるんだ。お前は、その任務を放棄しろって言ってるんだぞ、わかってるのか?」
「っ……」
「それに、月詠中尉達に冥夜を護るよう命令したのは殿下だ。お前がここで中尉達を追い返すってことは、その命令を下した殿下の想いを切り捨てるってことだ。――それを忘れるな」
 そう言って、武は冥夜の腕から手を離した。
 かなり強く握ってしまったが、強化装備越しだから、痣になっていたりはしないだろう。斯衛の四人は武を睨んでいたが、武はそれを意に介さず、今度は冥夜の頭に手を置いて、子供をあやすように軽く撫でた。
 冥夜は目を丸くする。
「心配するなとは言わないけど、少しは落ち着け。周りが見えてないと、いざって時に何も出来なくて後悔することになるぞ」
「…………は。少佐の仰る通りです」
 普段の冥夜ならば、真那の想いや立場を慮ることだって出来ただろう。逆に言えば、それが出来ないほどに、今の冥夜は殿下を想い、冷静さを欠いているとも言える。
 それでも、軍人として武の言葉に応えたということは、若干は冷静さを取り戻せたということだろう。
 武は頭に乗せていた手をどかす。冥夜は、何故かじっと武の手を見つめていたが、やがて真那達に向き合った。
「……月詠、許すがよい。私がどうかしていた。そなた達が殿下の命に背くなど、決してあり得ぬ事……私も重々承知していたはずであったが……」
 そう言って、冥夜は口惜しそうに目を瞑った。
 自分自身の失態への後悔、そしてやはり、未だに悠陽のことが気懸かりなのだろう。真那の指示で巽達三人組がハンガーに下がってからも、眉をハの字に歪めている。
 そんな冥夜に、武は微笑みかけた。
「安心しろ、殿下は無事だ。――そうだな、月詠中尉?」
 真那は無言で頷くと、
「現在斯衛軍第2連隊と決起部隊が堀を挟んで睨み合っています。決起部隊は帝都城に背を向け、銃口こそ殿下に向けておりませんが、包囲部隊の数は徐々に増えている模様です」
 先の報告書の中にあった戦闘の開始は誤報だったようだ。
 だが、それも時間の問題だろう。やがては反乱軍に紛れ込んだ米国工作員が発砲、大規模な戦闘が開始されることとなる。
「警護を預かる第2連隊は精鋭中の精鋭です。ご安心下さい」
 そう言った一瞬、真那の口許が緩んだ。冥夜を安心させようと意図してのものか、無意識の内かははっきりしないが、いずれにせよ、冥夜はそれにつられるように安堵の息を吐いた。
「ところで月詠中尉、あの帝国軍部隊は?」
「恐らく甲信越絶対防衛線から派遣されている部隊でしょう。帝都奪還作戦の主力は、北関東絶対防衛線と第二次防衛線から抽出されたと聞いております」
 がつん、とハンマーで頭を殴られた気分だった。
 ――第二次防衛線まで手薄にしてやがるのか……!
 記憶からは抜け落ちていたが、まさかこんな馬鹿をやらかしているとは思わなかった。絶対防衛線は虫食い、第二次防衛線は穴だらけ。人間相手であれば、ご丁寧に赤絨毯を敷いて本丸を晒しているも同じ、どうぞ攻め込んで下さいと言っているようなものだ。
 BETAがこの隙を突いてこないことは、武の記憶からは明らかであるが、それを知っている人間は他には夕呼しかいない。
 つまり、防衛線に穴を空けた連中は、BETAが攻め込んでくるかこないかもわからないというのに、こんな真似をしたのだ。
 このクーデターが11月11日に起こっていたらと思うとぞっとする。
 もしも何らかの要因でBETAの行動が変化し、佐渡島からの南進があれば、この国はあっと言う間に滅ぶこととなるのだ。
 危険を冒しているのは承知の上のつもりだったが、それはあまりにも楽観が過ぎた。メリットとデメリットを天秤に掛けた結果の判断ではあったが、あるいはデメリットだけが大きく膨れ上がりかねない。
「国家の主権がどうこう言ってる場合かよ……下らねえ」
 噴き上がる怒りを押し込めた、低い声で武は吐き捨てるように言った。半ば無意識の吐露であった。
「国家の主権が下らぬとは……聞き捨てなりませぬな」
 真那は目を細めて言った。研ぎ澄まされた刀のような殺意が、武へと叩き付けられる。しかし、この程度の殺意、武は嫌と言うほど味わってきたものだ。前の世界と同じだな――とぼんやりと考えながら、武は顔色一つ変えずに答える。
「下らないだろう、国家の主権やら極東の覇権なんて。そんなもの、人類の未来あってこそだ。未来があるかどうかさえわからないのに、そんなもののために争う――しかも、そのために世界を滅亡の危機に晒すなんて、馬鹿のやることだ」ぎり、と武は奥歯を鳴らした。「今は国連の力でも何でも利用して、さっさと鎮圧するべきなんだよ。それがこの国と世界のためだ。この国を護るはずの帝国軍が国を危険に晒して、どういうつもりだ……!」
 沙霧は言った。『殿下と国民の皆様を、ひいては人類社会を守護すべく、前線にて我が輩は日夜生命を賭して戦っています。それが政府と我々軍人に課せられた崇高な責務であり、全うすべき唯一無二の使命であるとも言えましょう』と。
 だが、彼らのしていることは、果たしてその通りであろうか。守護するどころか、この世界を危険に晒してはいないか。
 滅びの未来を知っているからこそ、武の胸には怒りが募る。沙霧らに対して、自分自身に対して、帝国軍に対して。
「では貴殿に尋ねましょう。例えば国連の方針が、特定の国家の世界戦略を色濃く反映するものであったとします……」
 特定の国家とは、言うまでもなく米国のことだ。
 今回のクーデター、米国が暗躍していることには、真那も気付いているのだろう。
 米国にとって、今回のクーデターの持つ意味は非常に大きい。オルタネイティヴ4からオルタネイティヴ5への移行、極東圏での覇権……それらの利益を考えれば、メリットはリスクを大きく上回る。少しでも事情に通じていれば、十分に推察出来る。
「そして、その国家が、多様性を認めない自国中心主義であったとしても、貴殿の答えは同じなのですか?」
「勿論。人類の生存が最優先だ。――尤も、連中の好き勝手にさせてやるつもりもないがな」
 武にとっても、米国――反オルタネイティヴ4勢力は、排除すべき障害だ。クーデターの鎮圧に彼らの力を借りる――否、利用させてはもらうが、その後はその勢力を殺ぐつもりでいる。うまく事を運べば、このクーデターだけでそれも叶う。
「ほう……では、BETAとの意思疎通が可能になったとして、人類の生存が叶うなら、彼等の支配を受け入れられるというわけですか」
「まさか。連中の支配を受け入れたら、人類は滅びたも同然だろう。人類の勝利が大前提だ」
「では別のたとえをしましょう。貴殿の部隊が敵と交戦中に、部隊内部でトラブルが発生し、窮地に陥ったとしましょう。偶然その付近に展開していた私の部隊から、トラブルの解決に協力したいとの申し入れが来る。提案を受け入れなければ、貴殿の部隊は全滅……受け入れれば、トラブルは解決し勝利する可能性が高い。しかし、受け入れれば、貴殿の部隊は私の部隊に強制的に編入され……全ての精神的肉体的自由を奪われ、私に隷属することを強制されてしまうとしましょう」
 前の世界でも、同じ問答をした。
 最初のたとえ話を言い換えただけの、何の意味もない言葉遊び。しかし、身近な例となった途端、前の世界では答えることが出来なかった。論点が意図的にずらされていることにも気付かずに。
「それでも貴殿は私の提案を受け入れられますかな?」
 どこか勝ち誇ったような声色で、武を嘲弄するように言う真那。
 たとえ少佐であっても、彼女から見れば、武は戦術機操縦の技術が突出しているだけの、まだまだ齢二十にも満たない子供に過ぎないのだろう。
 答えられるはずがないと高を括っている。そして実際、前の世界では答えられなかった――が。
「勿論受け入れるさ」
「な――!?」
「それで任務は成功して、オレの部下も生き残れる……第一に求められるべき二点を完全に満たしているからな。なら、尻尾を振るポーズだけでも取って、任務を達成させてもらうよ。――尤も、任務を達成した後は、何をするかわからないがな。オレ一人が手を汚せば済むなら、安いもんさ」
 全ての精神的肉体自由を奪い隷属させようというのだ、反乱くらいは覚悟の上だろう。その覚悟がないようなら、他者を隷属させる権利などない。
「逆に聞かせてもらうが、オレと月詠中尉の立場を入れ替えたとしたら、中尉はどうする? 提案を拒んだ挙げ句、仲間を死なせ、作戦も失敗させるのか? 笑わせないでくれ。誇りなんてものに拘って仲間の命を危険に晒すなんて、馬鹿にもほどがある。そんな奴に、部下の命を背負う資格なんてない」
 たとえ悪と言われようが外道と蔑まれようが、それで大勢の命が救えるのであれば、大切な人達を護ることが出来るならば、喜んで奈落の底にも落ちよう。
 仲間達の命を背負う者には、その覚悟が必要なのだ。
「『この世界』の日本人は誇りやら尊厳やらを重んじてるようだが、オレに言わせれば、そんなもの糞食らえだ。誇りが何の役に立つ? 誇りでBETAを倒せるのか? 誇りを胸に抱いて潔く散る? ――笑わせるな」
「白銀少佐……」
「中尉達と違って、オレには縋るべき誇りなんてない。――そんな物、必要ない」
 誇りに殉ずるという生き方は、美しいかもしれない。けれど、それは、武にとって到底受け入れることの出来ぬ物であった。
『臆病でも構わない。勇敢だと言われなくてもいい。それでも何十年も生き残って、ひとりでも多くの人を守って欲しい……。そして、最後の最後に……白銀の……人としての強さを見せてくれればそれでいいのよ』
 武に誇る物、縋る物があるとすれば、それは神宮司軍曹の教え子であったことと、伊隅戦乙女隊の一員であったこと、その二つだろう。
 武がその誇りに殉ずるならば。それは、泥水を啜ってでも生き延び、戦い続ける……それだけだ。
「沙霧大尉達がその誇りのために、この国のかつての志のために立ち上がったのは理解出来る。その信念を否定することはオレには出来ない。今この時、日本という国をあるべき姿に正そうとする想いは、確かに尊いかもしれない」
 彼らは、間違いなくこの国を想って行動を起こした。そこに至るまでには、様々な葛藤もあっただろう。武には察することの出来ない苦悩もあったに違いない。
 それは紛れもない事実だ。
 彼らが自分達の起こした事の大きさは知らないわけがない。そこには、並々ならぬ決意があったはずだ。
「……そして、それに共感出来ないからといって、それを悪と断ずることはオレには出来ない」
 彼らには、彼らの正義がある。武のそれとは相容れなかったというだけのこと。
 けれど。武には、その正義を否定する以外の道はなかった。
「――だが、甘すぎるんだよ」
「……どういう意味でしょう」
 真那が声のトーンを一つ落とした。この世界の日本人として、前置きがあった上でも沙霧らの意志を切って捨てられたことが許せなかったのだろう。
 無論、その程度で臆する武ではない。
 沙霧らの正義は、あまりにも自己中心的だ。最初から世界のことなど勘定に入っていない。それは、間違いなく事実なのだから。
「このクーデターを起こしたのは――外からどんな干渉があったにせよ、付け入る隙を与えたのは――他でもない日本人なんだ。自分達で隙を作っておきながら、その隙を突かれたら文句を言う……これが甘えでなかったら何なんだ?」
 このご時世に極東の防衛線たる日本帝国内で政治的・軍事的空白を作れば、それは国内の問題に留まらない。
 内政問題、と沙霧は言う。
 だが、内閣官僚を何人も殺して日本の国家機能を停止させてしまっているのだ、内政問題で済むはずがない。極東の最前線である日本が麻痺することは、米国の、ひいては世界全体の危機に繋がる。米国にとっては介入の恰好の口実であり、国連にとっても米国の言い分を受け入れざるを得ない状況を、クーデター部隊は自ら作り出したのだ。
 それを避けるために、武は鎧衣課長を動かし、榊首相の身柄を確保したのである。少なからず空白は生まれてしまうが、彼さえいれば、少なくとも帝国の政治機構が完全に麻痺することはあるまい。国政上の被害は最小限に食い止められる。
 また、沙霧らは知らぬことであるが、このクーデターの背後には、帝国と米国――オルタネイティヴ4陣営とオルタネイティヴ5陣営、さらには反オルタネイティヴ計画陣営という国家の枠を越えた対立がある。
 いずれも、自分達の信じる、世界を救う最も優れた方法を実現しようとしている。――背負っているのは、単一の国家ではなく、世界その物。
 最初から、内政問題などであるはずがなかったのだ。
「それに、連中は今BETAが攻めてくる可能性を考えてない。防衛線も支援砲撃もない状況で奴らに攻めてこられたら、帝都もこの横浜基地も一巻の終わりだ。ここが陥ちれば、世界はあと何年もしない内に滅ぶことになる。――勿論、それよりもずっと早く、日本という国は滅ぶだろうな」
 帝都は、言うまでもなく日本の最重要都市だ。皇帝や将軍のおわす帝都城を始め、国家機能の大半が集約されている。帝都が滅びれば、今度こそ帝国は滅びることとなるだろう。
「日本をよその国から護ると言いながら、クーデター部隊はこの日本を滅亡の危機に晒してるんだ。しかも、連中の頭には、日本や世界が自分達の所為で危機に瀕しているっていう自覚がない。――付け込まれるのも当然だな」
 確かに、彼らにとって、将軍がお飾りの、政府の権威のための道具として使われている現状は許せないことだろう。それについては、一時的にとはいえ帝国軍に属していた武にも理解出来る。煌武院悠陽という女性を直接知っているのだから尚更だ。
 ――だが、今回のクーデターは、結局のところ、何一つとして煌武院悠陽の意を汲んでなどいないのである。
 彼らの意思は尊いかもしれない。だが、夕呼ならばこう表するだろう。勝手な思い込みから生じた、勝手な理想を掲げただけの、愚劣極まりない確信犯達によるくだらない紛争――と。
 勿論、今回の内紛の原因は、武らにもある。むしろ、武らがその大半を担っていると言ってもいい。
 しかし、たとえそうであっても、彼らの独りよがりな想いのために、この世界を滅ぼさせたりはしない。
 絶望した。何度も何度も何度も何度も何度も……! 朋友の死を、仲間の死を、恩師の死を、恋人の死を乗り越え、世界の終わりに直面し、血の涙を流し、空に慟哭し、自分の無力を嘆き、自国の利益や誇りなどというくだらないもののために世界を滅ぼした豚にも劣る屑共を憎悪した。
 ぢり、と脳髄の奥で青白い火花が散る。
「事を起こそうとするなら、そこに発生する全てを背負う覚悟が必要なんだ。仲間の命、部下の命、民間人の命、死者の無念――全てを。その覚悟を貫くためなら、オレはどんなことでもしてやるさ」
 白銀武はこのクーデターを利用する。自らの目的のために。オルタネイティヴ4を成功させ、人類を護るために。この手に、最良の未来を掴むために。
 悪と言うのなら、意図的にクーデターを起こさせた武こそが悪だ。
 だが、それでも構わない。その悪の一文字、喜んで未来永劫背負い続けよう。
「オレの考えを理解してもらおうとは思わない。理解してもらえるとも思っていない。けど……覚えておいて欲しい。オレは誰に何と言われようと、どう蔑まれようと、この世界を……大切な人達の生きているこの世界を護り抜いてみせる。誰であろうと、その邪魔はさせない」
 オレの進む道に立ちはだかるなら、たとえ月詠さんであろうと容赦はしません――武は、視線にその言葉を込めて、真那の顔を正面から見据えた。
 二人の間に、氷のように冷たく、張り詰めた空気が横たわる。
「――二人とも、もうよいでしょう」
 その空気に割って入ったのは冥夜だ。
 凛然とした彼女の声で、武と真那の間の空気が溶けていく。
 二人が内にこもった熱を排出するように細く吐息したのを見計らって、冥夜は真那に向き直った。
「そなた達はここにいるとして、斯衛軍はどう動くのだ?」
「それは……」
 冥夜の問いに、真那はちらりと武を見る。
「オレが情報を漏らすとでも言いたげだな」
「恐れながらその通りです。貴殿の言動は国連……ひいては米国寄り故」
「言わなかったか、連中の好き勝手にさせてやるつもりはない、と」鼻を鳴らし、武は唇を吊り上げる。「オレにとっては、クーデター部隊も米国も同じだ。オレの邪魔をするなら、どうにでもして排除するだけだ」
 そのために、このクーデターを起こさせたのだから。
 武の視線は、その邪魔をするのであれば、斯衛軍であろうと容赦しない――その決意を物語っていた。
 冷たい輝きを讃えた双眸に射抜かれ、たじろぐように真那は眉を震わせた。
「少佐、おやめください!」
 冥夜の言葉に、武は両手を挙げて同意の意思を示す。小さく吐息して、冥夜は真那に向き合った。
「そなたは帝国斯衛軍。私達は日本国民ではあるが、今は国連軍に属している……白銀少佐のお考えはその意味で間違ってはおるまい」
 帝国を第一に考えるか、世界を第一に考えるか――立場が異なれば重んじる物も違う。結局、この議論はどこまでいっても平行線でしかなかった。
「それでは差し障りのない程度に……」
「それでよい……少佐と同じく私も部外者だからな」
 冥夜に頷き、真那は現在の最新の情勢について説明を始めた。
 城内省は帝都城敷地内に在るので未だ健在、斯衛軍の統率は依然失われていない。
 首謀者――沙霧尚哉の声明にあった、殿下に仇なす所存無しという言葉は、今のところ反故にされてはおらず、帝都民にも被害はないとのこと。もしそのどちらか一方にでも手を出せば、決起部隊は大義名分を失う事になるのだから、当然だ。
 しかし、帝都城を包囲する部隊は増強されつつあり、状況は予断を許さない。
 決起部隊は、自身の正義を証明するために、将軍の直命を賜ろうとするはずだが、重臣を殺害したため、直ちに直命が発せられることはないだろう。
 しかし、時間の経過に従い帝国軍の態勢が整い、米軍が介入する危険性も高まる――即ち、帝都が戦場になる可能性も充分考えられる。
 それに備え、帝都圏に散在する斯衛軍駐屯地の各部隊は帝都城に集結中、今のところ目立った妨害はない。
 真那達独立警護部隊は、将軍家所縁の人間を警護する任務に就いているということだ。
「わかった。そなたに感謝を……下がってよいぞ」
「は……何かございましたらいつでもお呼び下さい」
 冥夜に深く一礼すると、真那は武に一瞬だけ鋭い視線を向け、去っていった。
 真那の姿が見えなくなると、冥夜は武に向かって頭を垂れた。
「少佐……お許しください。あの者は職務に忠実であろうとしているだけなのです」
「気にしてない。月詠中尉の立場じゃアレが当たり前だし……オレも言い過ぎた部分はあっただろうからな」
 クーデター部隊に対する苛立ちを真那にぶつけたところで、何の解決にもなりはしない。それくらい、わかっていたはずなのに。
「そう言っていただけると助かります……」
「そろそろハンガーへ戻ろう。着座調整、済まさねえとな」
「……は」
 二人は揃って踵を返し、連れ立ってハンガーの中へと戻っていった。


 やがて陽は沈み、刻一刻と出撃の瞬間は近付いてくる。
 17時44分。207B分隊の待機する一室に武がやって来ると、そこには沈鬱な空気が横たわっていた。ムードメイカーである美琴がまりもに呼び出されてこの場にいないというのも、それに拍車を掛けている。
 父が存命である千鶴は前の世界に比べれば随分と上向いていると言えるが、それでも初めての実戦、それも対人戦というプレッシャーの所為か、表情は硬い。
 壬姫も同様だ。彼女の場合、父が国連事務次官として今回の国連軍による軍事介入を取り付けたことに負い目を感じているのか、ずっと俯いたまま。
 逆に、冥夜と慧は、実戦を前にした緊張とは別の理由で、心ここにあらずといった様子である。
 武と真那から悠陽の無事を断言されたとはいえ、たった一人の肉親なのだ、たとえ今となってはそれがとはいえ、彼女が気に病まぬはずがない。むしろ、離れ離れになっているからこそ、その想いは強まっている。
 だが、彼女らについて、武はそう心配してはいなかった。
 冥夜は自分を律することに関しては長けている。先程は取り乱したが、一度冷静さを取り戻せばその心配もいるまい。
 千鶴と壬姫は、初陣を前にした衛士ならば誰もが直面する、一過性の精神状態でしかない。その重さは武もよく知っているが、だからこそ、武がその支えとなってやることで、憂いは取り除くことが出来る。
 ――問題は……。
 武は、窓の外に視線を投げた。強化装備姿で夜風に身を晒す慧の姿が、そこにはあった。
 ――重症だな。
 嘆息して、首を振る。それとほぼ同時、
「――みんな、ハンガーに集合よ」
 部屋に入ってきた美琴と並んだ千鶴が、険しい表情で言った。それを受け、冥夜と壬姫が身を強張らせる。
「――えっ? まさか……」
「出撃命令か!?」
「ちがうよ、火気管制装置の微調整だって」
 二人の疑問に、美琴が答える。
 本来ならばモードの切り替えで自動補正されるはずなのだが、XM3では個人データを参照する際の設定項目が細かすぎるため、自動補正ではどうしても誤差をなくせないのだ。OSを再調整すれば問題ないのだが、今はそんな時間はない。
 武の弐型やA-01の機体に関しては再調整が済んでいるのだが、訓練兵という彼女達の立場と出生の関係上、再調整が施されていなかったのだった。
 わかった、と冥夜が頷き、四人はハンガーへ向かう。途中、千鶴が部屋を出る時に振り返り、
「彩――」
「オレが言っておくから、お前は早く行け」
 慧の名を呼ぶ千鶴を遮って、武は言った。
 千鶴も慧の様子がおかしいことには気付いている。かといって、彼女は適任ではない。不仲は解消されつつあるが、相性というものは存在するのだ。
 了解、と敬礼した千鶴の口許が、よろしくお願いします、と動いていたのを認めて、武は口許を緩めた。
 ベランダに出ると、十二月の冷たい、けれど『元の世界』に比べればずっと穏やかな風が頬を撫でた。
「神宮寺軍曹が呼んでるぞ、彩峰」
「…………」
 慧は無言のまま。もしかすると、武にも気付いていないのかもしれない。「本当に重症だ」と独り言ちて、武は大きく息を吸い込んだ。
「彩峰訓練兵!!」
 腹の底からの大声に、慧がびく、と体を震わせた。
「し、白銀…………少佐……」
 思わず呼び捨てに仕掛けて、慌てて少佐と付け加えたことについては、特別に見逃してやることにする。
「待機中に呆けているなんてな。即応態勢を何だと思っている?」
「は、申し訳ありません!」
 軍人としての訓練の賜物だろう、慧は武に正対して直立、敬礼。殆ど反射の域で澱みなく一連の動作をやって見せる。武は唇は引き結んだまま、目尻だけを僅かに下げた。
「彩峰訓練兵、ハンガーで火気管制装置のマニュアル補正を行え! 復唱!!」
「はっ! ハンガーにて火気管制装置のマニュアル補正を行います!!」
 敬礼しながらの慧の復唱に武は返礼するが、慧が駆け出そうとするよりも早く、
「――その前に、だ」
 目を丸くする慧。その視線から外れるように、武はベランダの欄干に背中からもたれた。空を見上げると、微かな星明かり。西の空からは分厚い雲が迫ってきていた。
 その姿勢のまま、武は静かに、重く告げた。
「……お前、そんな顔のまま戦場に立ったらな――死ぬぞ」
 今の武に慧の表情は見えない。だが、その表情は手に取るようにわかった。
「お前だけじゃない。榊達207Bの連中に神宮寺軍曹……それに、オレも」
 一人の動きが悪ければ、それをカバーするために全員が負担を強いられる。一人が死ねば、その穴を埋めようとして全員が命を落とす。一瞬の余計な思考が、撰銭の瓦解をも引き起こすのだ。
「お前が仲間を死なせたくない、大切な誰かに死んで欲しくないって思ってるんなら、今の内になんとかしとけ」
「…………」
 慧は、何も言わない。何かを言おうとしてはいるのだが、言葉が出て来ないようだった。
 仕方ないか、と胸の内で呟いて、武は慧へと視線を向けた。俯いた慧の頭に、手を乗せる。
「津島萩治」
 びくん、と慧が体を震わせた。それを感じ取って、武はそっと慧の頭を撫でてやる。
「……いや、沙霧尚哉、か」
「知ってたの……!? ……です、か?」
 武の手を弾く勢いで顔を上げた慧に驚きながらも、慌てて付け足された語尾に、武は思わず笑ってしまう。
「知ってたっていうより、推測だな」
 勿論嘘だ。前の世界で聞いたあらましを覚えていただけのこと。
 ただ、武が持っていた――あるいは慧に持っていると思われていた――情報を統合すれば、導き出せない結論ではないのもまた事実だ。
「別に、沙霧大尉のことをお前が気に病む必要はない。仮にお前が何か言ったとしても、クーデターは起こってたと思う」
 たとえ慧が沙霧から送られてきた手紙について密告したとしても、武や夕呼の手で握り潰されていただろう。よしんばくぐり抜けたとしても、沙霧を帝都守備隊に配属した者達が見逃すはずがない。
 遡るなら、鎧衣課長が戦略研究会の存在に気付くよりもずっと前から、今回の騒擾は企てられていたのだ。彩峰萩閣の無念を背負った沙霧尚哉という一人の男が、帝都守備連隊に属したその瞬間から。
 萩閣と沙霧の関係は、調べればすぐにわかることだ。普通なら、そんな男を――民衆を優先したとはいえ敵前逃亡で友軍を見殺しにした将校の息子のような男を――帝都守備隊という重要な部隊に配属するはずがない。そこには、何某かの思惑があると見るのが自然だろう。
「……やっぱり、知り合いが敵の大将ってのはやりにくいか?」
 慧は少しの間考え込んでいたが、やがて、
「わかりません……」と首を横に振った。「けど、尚哉は……あの人は、父さんを尊敬していました……父さんもあの人を自分の子供のようにかわいがっていて……だから、罪に問われ投獄される父さんを、黙って見てるしかなかった自分を……今でも責めています……」
 慧は、父のしたこと――民間人のためとはいえ敵前逃亡という罪を犯したことを恥じている。今まで、千鶴に反発していたのもそれが原因だ。どこかで千鶴と萩閣を重ねていたのだろう。
 武は「そうか」と頷いて、
「じゃあ、お前は沙霧の行動がお前の親父さん――彩峰中将の教えを守ってると思うか?」
「え?」
「人は国のためにできることを成すべきである。そして国は人のためにできることを成すべきである……だっけか? いい言葉だよな」
 父には失望した慧であったが、その言葉には従えるとも言っていた。人のため、国のため……慧の心の芯にある、最も大切な言葉。
「――沙霧は、本当にその言葉を実践出来てるのか?」
「それ、は……」
 慧はまたしても俯いてしまった。
 これ以上は、慧が考えるべきことだろう。武が言ってやることも可能だが、それは武の答えであって、慧の答えではない。慧自身が答えを見付けない限り、迷いを完全に断ち切ることは出来ないのだから。
「どっちにしても、お前がちゃんとそれを伝えてやらなきゃな。それが、彩峰萩閣の一人娘として、お前が沙霧にしてやれることだ」
 ぽん、と軽く慧の頭を手の平で叩くと、武は慧から体を離した。
 硝子戸を開けて室内に入り、慧へと振り向き、
「ほら、お前の仲間達が待ってるぞ。神宮寺軍曹に怒られたくなけりゃ、急いでハンガーに行ってこい」
「……っ、了解……!」
 敬礼する慧。武が返礼すると、慧は廊下へと駆け出していった。

 遠ざかっていく足音がやがて耳に届かなくなった頃、武は硝子越しに夜空を見上げた。
「……悪いな、沙霧。オレ達は、負けられないんだ」
 反乱軍にも、米国にも、そして無論BETAにも。
 そのために利用出来るものは、たとえ他者の信念であろうとも利用してみせる。
 人は国のためにできることを成すべきである。そして国は人のためにできることを成すべきである――武にとっては、耳に痛い言葉であった。
 武に出来るのはたった一つ。人類の勝利のため、邁進し続けることだけ。
 そこへ、高い足音が近付いてくる。ピアティフ中尉だ。
「白銀少佐、ブリーフィングルームへお越し下さい」
 来たか――内心で呟き、「わかった」と応える。これで完全に207B分隊の出撃が決定した。また一つ、引き返すことの出来ない一線を越えたのだ。
「気張れよ、オレ――この戦いが、オレ達の分水嶺だ……!」
 窓に背を向ける。
 いつしか、月光は雲に遮られ、世界は帳のような闇に包まれていた。



[2785] Muv-Luv ALTERNATIVE -Second World Was Failed- 第23話
Name: Vollmond◆d2a8c8a6 ID:d7498c84
Date: 2011/11/15 03:18
 同日21時42分。吹雪が五機、不知火が一機、不知火・弐型が一機、そして武御雷が四機という目を疑うような戦術機甲部隊が、箱根新道跡を駆けていた。


 18時20分頃、国連軍の軍事的支援を、煌武院悠陽将軍殿下の安全と保護を絶対条件として、仙台臨時政府が正式に受け入れた。
 相模湾に展開していた米軍第7艦隊は既に東京湾に向けて航行しており、横浜基地に上陸した第132戦術機甲部隊は態勢が整い次第、帝都に向けて出撃する手筈が整っている。
 日本をあるべき姿に戻すという大義を掲げている反乱軍にすれば、到底受け入れられる決定ではない。殿下の御心を蔑ろにする逆賊と国連に加担する売国奴の共謀だと激しく非難していた。
 仙台臨時政府の決定は決して間違いではない。いや、それ以外に取れる手段がなかった、と言うべきか。さしもの榊首相といえど、一度レールの上を走り出した車を止めることは出来ないのである。
 横浜基地からも既に出撃している第1戦術機甲大隊、第5航空支援大隊に加え、第3、第4、第5戦術機甲大隊、第2航空支援大隊が出撃。
 千鶴ら207B分隊についても、帝国軍の抽出で手薄になった第二次防衛戦の支援部隊として出撃した第3戦術機甲大隊に合わせ出撃、後方警備任務にあたることとなった。帝国斯衛軍第19独立警備小隊もそれに随伴する。
 任務内容は塔ヶ島城の警備、作戦区域は芦ノ湖南東岸一帯――『前の世界』とそっくり同じ展開だ。
 それらの事実を、武は可能な限り私情を排除した声で伝達していく。
 現時点でこの作戦の本来の意味に気付いている者が、この場にどれほどいるだろうか。
「少佐、質問があります……」と千鶴。「実際に武力による挑発や攻撃があった場合、防衛行動は認められるのでしょうか?」
 武達は、米軍が進駐している国連軍横浜基地所属の日本人部隊だ。帝国軍からは快く思われていないだろう。それに加え、将軍の周囲の状況も不透明であり、帝国軍将兵の苛立ちは募るばかり。作戦区域周囲を固める厚木基地の帝国軍部隊による挑発は容易に予想された。
 それを踏まえての千鶴の質問は、この作戦は殿下の裁可によるものではなく、国連と臨時政府の決定によって行われるものであり、帝国軍が武らを“侵略者”と見なす危険性を考慮してのものだった。
「どんな背景があったにせよ、これは正式な手続きを踏んだ国連軍の作戦だ。それに手を出せばどうなるかわからないほど、連中だって馬鹿じゃない」
 国際社会における日本の立ち位置を必要以上に悪化させる結果は、彼らの望むところではないだろう。
 ただし、それはあくまで沙霧同様、この反乱に日本の覚醒という目標を見出している者達についての話だ。その裏にある思惑のために暗躍している者達はそうではない。むしろ、どうなるかをわかっているからこそ、行動を起こす可能性は否定出来なかった。
「――尚、もし実際に榊の言ったような行動があった場合は、あらゆる防衛行動を許可する」
 静かに、けれどはっきりと告げられた武の言葉に、一瞬、ブリーフィングルームを小波のようなざわめきが横切った。最も驚いた様子のまりもが、問い掛けるような視線を向けてくる。
「勿論、これは可能性の話だ。そうならないことを祈るよ」
 わざと戯けたような口調で武は締め括った。が、交戦の可能性を提示された少女達は、皆一様に位を強張らせていた。
 その後、移動経路についての説明を終え、
「部隊編制についてだが、先程香月副司令からも話があった通り、この反乱が鎮圧するまでの間、207小隊にはオレの指揮下に入ってもらう」廊下へと視線を投げ、「随伴する以上、斯衛軍第19独立小隊も同様だ。いいな、月詠中尉?」
「……は。心得ました」
 返答までの間は、武が自分達に気付いていたことへの驚きか、一時的とはいえ国連軍の指揮下に入ることへの逡巡か。あるいはその両方、さらにはそれ以外の理由もあったかもしれない。
「コールナンバーについては、オレがエインヘリヤル1、神宮寺軍曹を20700とし、207小隊の指揮を執ってもらう。斯衛軍については……ブラッド1からブラッド4でいいか、月詠中尉?」
「構いません」
 前の世界では武がいたことで二つの分隊に分けていた207訓練小隊であったが、今回は五人ということで、千鶴を小隊長とする一つの戦術機甲小隊として編制してあった。まりもを加えた六人を207小隊として二つの分隊に分けても良かったのだが、それでは二つの二つの分隊のバランスが著しく崩れてしまう。そこで207小隊の指揮をまりもが、さらに支援車輌や斯衛軍も含めた部隊全体の指揮を武が執るわけだ。
 部隊の運用としては変則的だが、やむを得まい。
「――最後に、初めての実戦に出撃するお前達に、オレの部下として、三つの隊規を覚えておいてもらいたい」
 かつて、尊敬する部隊長から授けられた三つの隊規。それらは、前の世界で武が中隊長として自分の部隊を編制した時にも定めた、決して曲がらぬ隊規だった。
「死力を尽くして任務にあたれ! 生ある限り最善を尽くせ! 決して犬死にするな!!」
 まりもが目を丸くする。当然だ、彼女が知らぬはずがない。それは、彼女の教え子達が最も大切にしている隊規なのだから。
「復唱!!」
 武の言葉でまりもははっとして、
「死力を尽くして任務にあたれ! 生ある限り最善を尽くせ! 決して犬死にするな!!」
 207小隊の少女達と共に三つの隊規を高らかに謳いあげる。その様が、ひどく武の胸を打った。鼻の奥がツンとして、目尻の端に涙が滲む。
 この言葉が胸にあれば、彼女達はどんな苦難も乗り越えられるに違いない。かつての武がそうであったように。
「各自30分以内に火気管制装置の調整を済ませ、ハンガー前集合。以上だ――解散!」


 そうして19時40分に横浜基地を出立、海老名パーキングエリア跡、小田原西インターチェンジ跡を経て、現在に至っている。
 先行した威力偵察部隊の報告によれば、作戦区域に敵影はない。当然だ、反乱軍もまさか将軍殿下が塔ヶ島離城に脱出しているなど、思いもしまいし、そこまでの戦力的な余裕もあるまい。
 エインヘリヤル1より20700及び01――と前置いてからその事実を伝え、
「予定通り屏風山を抜け旧関所まで前進。塔ヶ島半島を速やかに確保の後、207小隊は所定の位置につけ。20700は支援車輌と共に旧関所後にCPを設営しろ。偵察情報は更新毎に各自データリンクで確認せよ――以上」
 二つのコールナンバーと共に「了解」という声が返ってくる。
 それきり、全員が黙り込んでしまう。ここまでの路程でも、武やまりもからの伝達とそれへの応答を除けば、誰一人として言葉を発していなかった。初の実戦、しかもそれが人間相手であり、この国の今後の命運を分ける戦いともなれば、プレッシャーは相当なものだろう。死への意識だけではない。かつての武には理解出来なかった、『この世界』の日本人であるが故の重圧。――そして何より、この争乱に己が肉親が深く関わっているという事実。
 前の世界では緊張を解そうと下らない話を持ちかけた武であったが、今回はそうせずに、思考に耽ることにした。
 出撃前にピアティフから聞かされた、先日帝国軍厚木基地で行われた実戦演習について。
 たった一機の不知火が、撃震十二機からなる中隊を瞬く間に殲滅してみせたという。
 不知火の搭乗者の名は、沙霧尚哉。言うまでもなく、今回のクーデターの首謀者である。
 同じことをやれと言われれば、武にもやってのける自信はある。それくらい、第三世代機と第一世代機とでは性能差が開いているのだ。また、武はそれ以上に難易度が高いであろう不知火・弐型単機での不知火一個中隊撃破という離れ業をやってのけたこともある。
 ……だが、最も驚くべきは、その手際だろう。
 沙霧が一個中隊を殲滅するまでの所要時間。他の衛士の追随を許さぬ卓越した衛士である武をして尚、驚愕せずにはいられない、圧倒的な事実。
 しかも、彼はそれを、硬直時間の存在する旧OSで成し遂げたのである。多対一での戦闘において、動作の完了に伴う硬直時間は、致命的な隙となる。その隙を埋めて余りある、その技量。
「予想以上だな、沙霧大尉は……」
 もし戦闘になった場合、自分は彼に勝てるだろうか。そんな不安が脳裏を過ぎる。
 技量で負けているつもりはない。戦術機の性能も、ハード・ソフト共に上。――では、執念は?
 武の執念。必ずやオルタネイティヴ4を完遂するという意志。死ぬわけにはいかないという執着。
 沙霧の執念。必ずや日本帝国をあるべき姿に戻すという意志。――生への執着を捨てた、鬼神の如き男。
 生きようとする意志は強い。しかし、自己に執着しない者のみが有し得る力は、時にそれを凌駕する。死を覚悟した者が最後の瞬間に発する輝きは、尊く、強い。そのことを、武は嫌というほど知っていた。
 チ――と武は舌打ちしてかぶりを振った。
「何弱気になってる……!」
 意図的に声に出して自分に言い聞かせる。
 勝てるか、ではない。勝つしかないのだ。そもそも、今回の作戦に失敗は許されない。これは白銀武一人の問題ではなく、オルタネイティヴ4――ひいては、全人類の問題。
 弱気になる権利など、武には存在しない。
 国連軍の白銀武少佐として、彼は全ての部下と友軍が胸を張れるよう、絶対の信頼を寄せられるよう、常に自信を持っていなくてはならないのだ。
 部隊長はピンチの時ほど、不貞不貞しく笑うものだ――かつて師事した桂木葛葉少佐の言葉を思い出す。
 今武が自信を失えば、それは彼の部下達にも伝播するだろう。ましてや、207小隊は訓練兵の集まりであり、これが初の実戦なのだ、心の拠り所として武の果たす役割は大きい。
 そう考えるだけで、自然と心は落ち着いていった。軍人として、指揮官として過ごしてきた時間の賜物だった。
 直後、通信が入る。
 モニターをオンにすれば、とうとう帝都で戦端が開かれたという言葉が耳に入る。帝都城を包囲していた歩兵部隊の一部が、斯衛軍部隊に向け発砲したのだ。
 ――ほぼ間違いなく米軍の差し金だろうな……。
 将軍の直命が欲しい反乱軍としては、いかにプレッシャーに耐えがたかったとしても、ここで自ら発砲する理由はない。そんなことをしては、たとえ直命が得られたとしても、そこに大義はなく、彼らの真に目指す日本の覚醒は得られなくなってしまうからだ。
 逆に、米国としてはいつまでも睨み合いを続けられては困る。混乱の収束と将軍の保護という、最も日本から感謝されるであろう功績を挙げられなくなってしまうのだから。
 そこで、自分達で火種を蒔いてやったというわけだ。着々と戦闘態勢を整えていく帝国軍や国連軍、いつまで経っても下されない直命に痺れを切らしたとでも言えば、一応の言い訳は出来てしまう。
 これに斯衛軍第2連隊が応戦、沙霧の戦闘停止声明も届かない。さらには極東国連軍第1戦術機甲大隊と米国第117戦術機甲大隊が品川埠頭に強襲上陸し敵部隊と交戦を開始、帝国軍の討伐部隊も埼玉県境から帝都に侵攻を開始と、たった一発の銃弾から、戦闘は瞬く間に混迷の極みへと陥ってしまった。
 だが勿論、武らのすべきことに変わりはない。誰の焦燥を反映してか、行軍速度は僅かに早まり、部隊は一路塔ヶ島離城を目指していた。


 現在時刻22時25分。部隊が塔ヶ島離城に到着して数分が経った頃、空からはちらちらと白い物が舞い始めていた。
 この塔ヶ島離城――芦ノ湖に来た者は、誰もがその自然の豊かさに目を奪われ、感嘆の息を漏らす。かつて、自然を根刮ぎ壊滅させてしまうはずのBETAに占領されていた地域であるにもかかわらず、木々の生い茂る手付かずの自然やほぼ無傷の建物が綺麗に残されている。
 武にとっては二度目の光景であるが、凄惨な戦場や被占領地域ばかりを目にしてきたからこそ、この風景の美しさには胸を打たれた。
 尤も、衛士としての今の武には、無邪気に感動してもいられなかったのだが。
「……静かなもんだな」
 思わず武は独り言ちた。
 ここから直線距離にして百キロ足らずの帝都では、今も反乱軍と斯衛軍も含む帝国軍、さらには国連軍や米軍も交えた戦闘が行われている。にもかかわらず、芦ノ湖の周囲は、雪の降る音さえ聞き取れそうなほどの静寂に包まれている。
 しかしこれは仮初めの平穏だ。じきにここからも戦火へと続く道が伸びることになる。
 ……あるいは、白銀武のいる、そしてやがて煌武院悠陽が来るこの場所こそが、此度の戦場における真の中心と呼ぶべきかもしれなかった。
 別の意味でも、それは的を射ている。この場にいるのは、香月夕呼に00ユニットとしての資質を見込まれた者達ばかり。それどころか、政治的にこの争乱に大なり小なり関わっている者達の縁者がその大半を占めているのだから。
「……みんな、大丈夫かな……」
 網膜投影に、五人の訓練兵の顔を映し出す。
 千鶴と美琴に目立った問題は見られない。美琴は父の本当の仕事など知らないし、千鶴も父が無事であったことで、前の世界と比べれば、ずっと落ち着いている。それでも表情が強ばって見えるのは、初の実戦からくる緊張の所為だろう。
 対して、こちらもやはりと言うべきか、残る三人は明らかに塞ぎ込んでしまっている。
 虐げられている民、立ち上がった反乱軍、心労を募らせる姉……それらの狭間で葛藤を余儀なくされている冥夜。
 国連事務次官という父を持つが故に、日本人から国連へと向けられる悪感情に敏感に反応してしまっている壬姫。
 今回沙霧が立ち上がった遠因である彩峰萩閣を父に持ち、反乱軍の指揮官である沙霧尚哉と旧知の中である慧。
 慧については、今声を掛けたところで何の意味もない。既に交わすべき言葉は交わしたつもりだし、必要以上に彼女と会話をしたところで、逆効果になるだけだろう。
 故に。まず最初に声を掛けるべきは、
「――エインヘリヤル1より20702」
『こちら20702……どうかなさいましたか、白銀少佐』
 御剣冥夜。ある意味で、武以上にこの争乱の中心に組み込まれてしまっている少女だった。
「ちょっと話でもしようと思ってな」
 戯けたように武は言う。冥夜は訝しげに――あるいは不機嫌そうに――眉をひそめた。こうして表情に出してしまうようではまだまだだ。冥夜の立場や心情を考えれば、それも仕方のないことだろうが。
「まあ、そう硬くなるな。別に昨日の続きをしようってわけじゃない」
 その問答を繰り返すことは無意味だ。武にとっても冥夜にとっても。
 武の考えは変わらない――オルタネイティヴ4という唯一の希望を成就させこの世界を救う、それが彼の至上命題だ。対し、冥夜もまたこの国を何よりも強く想っている。その想いが揺らぐことはあり得ない。
 結局、二人の議論はどこまでも平行線を辿るしかないのだ。
「前に、オレが戦う理由を話したことあったよな」
 武がこの世界に来てしばらく経った頃のことだ。夜、日課のランニングをこなした冥夜とグラウンドで会い、数分ほど会話を交わした。そこで、武は彼女に言ったのだ。
『――オレは、この世界を護りたい』
 と。掛け替えのない仲間達が命を賭して護ろうとした、尊敬する恩師が全てをかなぐり捨てて護ろうとしたこの世界を護りたい、と。
「御剣、お前は何のために戦っている?」
『私は……』
 冥夜は僅かに顔を俯けて、唇を噛んだ。
 武に向けて宣言出来るほどの確たる理由は、まだ彼女にはなかった。日本という国のため、姉であった人のため、軍や政府の犠牲となって虐げられてきた人のため――漠然とした理由はいくつか彼女の中にあるのだろうが、実戦という現実を経験したことのない冥夜には、それを揺るぎなき理由へと昇華させるに足るだけの覚悟がなかったのである。
 それがわかって質問したのだから、オレも意地が悪いもんだ、と武は唇の端をつり上げた。
「今すぐにその答えを出す必要はない。オレだって、自分の戦う理由がわかったのなんて、つい最近なんだからな」
 きっと、何か切っ掛けが必要なのだ。大きな大きな衝撃が。武にとっては恩師の死がそうであり、まりもにとっては初の実戦がそうであったように。
「なに、答えが見つかるときは一瞬だ」
 その衝撃を受ければ、答えはまるで雷電のように体を駆けめぐり、唐突に悟るものだ。勿論、人によっては幾度もの切っ掛けを経て初めてたどり着く場合もあるだろうが、生憎とこの世界にそれほどの猶予はない。この世界の現実の前では、否が応にも悟らざるを得ない場面が、きっとやってくる。
「このクーデターでお前が答えを見つけられるように祈ってるよ。……多分、そうすれば、オレがどうして世界を救うことにこだわってるのかも、きっとわかってもらえると思う」
 冥夜は、武よりもずっと物事を正しく見通すことが出来る力を持っている。冥夜だけではない、武が前の世界での数年間を通じてようやく得たものを、207B分隊の少女たちは、いやこの世界の全ての衛士は、幼少の砌より当然のものとして学んでいるのだ。
 彼女の答えが見つかれば、武の答えの持つ意味もすぐに理解できることだろう。
 戦う理由は一つではない。そしてそのいずれもが正しく、いずれもが間違っている。武を悪と断ずる者もいるだろう。英雄と讃える者もいるだろう。しかし武の正義は、回避すべき結末を知っているという、本来あり得ぬ事象の上にのみよって立つことが出来るものなのである。
 結局のところ、理由などというものは相対的でしかなく、絶対に正しい理由などあり得ないのだ。
 そういう意味で、武は歪んでいた。香月夕呼もまた、どこまでも歪であった。
 二人は、己が手がどれほどの血にまみれているか、己が道程にどれほどの屍が積み重なっているかを知っている。それでも尚、自らの正しさを信じ続けていられるのだから。
 世界を救う――その一つの目的のために、修羅の道を行く……武の決意が揺らぐことは、ない。
「悪い、混乱させちまったかもな」
『いいえ……そのようなことは』
 しかし、冥夜が武の言葉を重く受け止め、表情を重く沈ませているのは歴とした事実だ。
「じゃあ、切るぞ。しばらく休んどけ」
『……は』
 通信を切る直前、
「――お前は、もっと胸を張ってもいいと思うけどな」
 彼女の戦う理由に。その尊い想いに、彼女は胸を張るべきだろう。
 何故なら。武はかつてのこの戦いの中で、自らの立脚点を正しく意識している彼女に、眩いほどの憧憬を覚えたのだから。
 冥夜は強い。塗り重ねたメッキではなく、本当の輝き。それが、少しだけ羨ましかった。
「……訓練兵相手に何嫉妬してんだか」
 肉体年齢こそ同じだが、精神年齢でいえば十歳以上も年下の相手だというのに。
 軽く頭を振って思考を切り替えると、武は通信を壬姫へと繋いだ。
「――よう、緊張してるみたいだな」
『ひゃぅっ!?』
 よほど緊張しているのだろう、壬姫は奇声を発しながら背筋を伸ばした。武は苦笑しながら、
「悪い、悪い」
『た、たけるさん……』
「今は白銀少佐、だ」
『申し訳ありません、白銀少佐!』
 よろしい、と武は微笑して頷いた。それにつられたように壬姫も口許を緩める。
 士官と訓練兵、ことに戦場にはあるまじきやりとりであるが、ただでさえ上がり性である彼女には、これくらいでちょうどいい。
「随分と緊張してるみたいだったからな。……少しは解れたか?」
『は、はいっ……』
 ぎこちないながらも、笑顔で答える壬姫。しかし、「ふぅ……」と彼女が溜息を吐くのを、武は見逃さなかった。表情も暗く沈んでいる。心配を掛けまいと気丈に振る舞おうとしているのが見て取れた。
「――珠瀬事務次官のこと、もっと誇っていいと思うぞ」
 だから武は、壬姫の心に影を落としている原因――彼女の父親のことを口にした。
『え?』
「少なくとも、お前の親父さんは、世界を救うために、国連事務次官として、自分の出来ることをしようとしたんだ」
『でも……』
 日本人として、父の行動を素直に受け入れることが出来ないのだろう。
 米国軍の受け入れを国連安保理で決議させ、日本に受け入れさせた……それは、日本人という立場から見れば、手ひどい裏切りに違いない。
 しかし、事務次官が口にしたように、もし国連が米国の思惑を悉くはね除けるような組織になれば、米国は単独でもG弾による大反攻作戦を決行するだろう。そうなれば、なし崩し的にBETAとの最終戦争へと雪崩れ込み、かつての世界の二の舞となりかねない。
 それを避けるために――オルタネイティヴ4の可能性を信じてくれているからこそ、彼は自分が汚名を被ることも厭わなかったのだと、武は信じている。
 長期的な視点で見た場合だけではない。
「今BETAに攻められたらどうなるか……お前にもわかるな?」
『……はい』
 防衛戦が穴だらけになってしまっている今、佐渡島あるいは鉄源ハイヴからのBETA侵攻があれば、帝都は陥落し、横浜基地も壊滅、日本帝国は滅亡の危機に瀕することとなろう。
「日本って国と、この地球を守るためにはどうすればいいかを考えて、自分が同じ日本人に恨まれたり責められたりするのも覚悟の上で、事務次官は自分から泥を被ってくれたんだ。……普通の覚悟じゃ出来ないことだと、オレは思う」
 日本国内の同胞からは米国に魂を売った売国奴と罵られ、国連の中では思い通りにいかぬ獅子身中の虫と煙たがられ、米国からは面従腹背の難敵と忌み嫌われる……並の精神力でこなせる役割ではない。
 彼の内心を慮れる立場にあるオルタネイティヴ4陣営でさえ、ラダビノッド長官のように、彼を好意的に思わぬ者もいる。
 榊首相といい珠瀬事務次官といい鎧衣課長といい、思わず尊敬せずにはいられない。尤も、鎧衣課長に関しては、趣味と実益を兼ねているのかもしれないが。
「そんな親父さんをお前が誇ってやらないで、一体誰が誇ってやれるんだ?」
『それは……』
 壬姫の表情が僅かに曇る。感情は理屈だけでどうこう出来るものではない。娘として、日本人として、国連軍として……彼女の中にも、いくつもの立場が混在しているのだ、尚更難しいに違いなかった。
「納得出来なくても仕方ないさ。――ただ、少なくとも、事務次官はお前がそんな顔してたら悲しむと思うぞ? 今すぐ切り替えろとは言わないけど、お前は笑ってる方がいい」
『そうですか?』
「ああ……それに、こういう緊張する時ほど衛士ってのは笑うもんだ」
 部隊長はピンチの時ほど、不貞不貞しく笑うものだ――何もそれは、部隊長に限ったことではない。不安というのは、伝播するものだ。
 一人が不安になれば、それは背中を預ける仲間達にも臆病風を吹かす。
 精神の平静は、作戦遂行能力に大きく影響する。
 僅かな指の震えがトリガーを引くタイミングをコンマ数秒前後させ、結果、生存率が数パーセント左右されることとなる。一人にとってはたったの数パーセントかもしれないが、それが積もり積もれば、部隊全体としての生還率は大きく異なってきてしまう。
 たった一人の死が、部隊全体の壊滅を呼ぶこともあるのだから。
「お前達には期待してるんだからな? 頼むぞ、珠瀬訓練兵」
『は、はいっ!』
 はにかむように、壬姫は笑った。「それでいい」と武は頷いて、
「何かあったらいつでも言ってくれ」
『はい』
 もう一度壬姫の笑顔を見て、武は通信を切った。


 2001年12月6日(木)


「……そろそろ、だな」
 時刻表示を見て、武は呟いた。
 現在時刻、1時49分。正確な時刻を覚えていたわけではないが、武の記憶が正しければ、もうじき侍従長と鎧衣課長を伴って煌武院悠陽殿下が現れるはずだ。
 前の世界のように眠気覚ましに外をぶらついてくる、と気楽に口に出来る立場でもない。せめて誰より早く発見して行動に移れるようにしようと、ディスプレイに暗視フィルタ処理を施し、温感センサーの感度を引き上げる。この寒さだ、服を着込んでいる人間がいれば、すぐにわかる。
 塔ヶ島離城に向けて目を凝らす。
 じりじりと時間が経過していく。無意味だとわかっていても呼吸を潜めてしまうのは、緊張の現れだろう。柄にもないな、と武は僅かに口許を緩め、
「――エインヘリヤル1より20700及びブラッド1」
 その瞬間、二つの人影を捉えた。
 急速に脳が冷静さを取り戻していく。
「サーモセンサーに感あり。人影が二つ、武装はしていない模様……恐らく不法帰還民と考えられる。これより、確認のために下に降りる。20702及び05はバックアップを。遠隔操作の二次制御は20700に設定する。――以上だ、質問はあるか」
 言いながら、武は不知火・弐型のハッチを開き、地面へと降り立つ準備を進めていく。
『し、白銀少佐!? 危険です、お戻りください!』
「大丈夫だ、神宮司軍曹。言っただろう、相手は恐らく不法帰還民あるいは民間人だ。帝国軍じゃない。それなら保護するのが俺達の役目だろう?」
『しかし……』
 上官をみすみす危険に晒すわけにはいかないと考えてか、尚も食い下がるまりも。そこへ、
『そこまでにしておけ、神宮司軍曹』真那が助け船を出してくれた。『白銀少佐が安全だと判断されたのだ。そもそも、貴様に異を唱える権限はなかろう』
 真那は当然、今後の展開もある程度予想がついているのだろう。悠陽を最初に発見する役目は、武であった方がお互いに都合がいい。
 本来であれば、国連軍内の問題であり真那に口出しする権利はないが、国連軍と斯衛軍という違いこそあれ、真那達が武の指揮下で共同して任務にあたる以上、上官としてまりもを諫める権限は当然与えられる。
「そう言うな、月詠中尉。軍曹もオレを心配してくれただけなんだからな。何もないとは思うが、何かあった時は頼んだぞ、軍曹」
『……は』
 根っこまで軍人としての性を叩き込まれているまりもだから、口答えすることはなかった。
 ごめん、と聞こえない程に小さく呟いて、武は地面へと降り立った。
 冷たい風が、剥き出しの頬を叩いていく。強化装備の温度設定を調節して、武は降り積もった雪の上を歩き出した。腰のホルスターには拳銃。もしもの場合は考えられないが、事情を知らないまりもらに不審に思われないよう、護身用として携行することにしたのだ。
 不知火・弐型の暗視モニターにリンクし、悠陽らの位置を把握、ゆっくりとそちらに近付いていく。雪に足を取られるようなヘマはしない。
 だから、パキ、という枝を踏み折る音は武が発したものではない。
「――そこで一度止まってください」
 手にした拳銃を構えることなく、武は枝を踏み折った人物に向けて言った。
「っ――! お下がりください!!」
 弾かれたように、初老の女性――侍従長――が悠陽をかばうように一歩前へと進み出る。そのまま、敵意を込めた視線で武を睨みながら言った。
「ひかえなさい無礼者!」
 辛辣な彼女の物言いが懐かしくなって、思わず緩みそうになる頬を武は引き締めねばならなかった。武が帝国軍に異動になってからも、彼女は健在で、悠陽に謁見するたびにきつい言葉をぶつけられたものだ。
 思えば、帝国軍へと異動になったあの日もそうだった。
 もしかすると、武が立ち直る切っ掛けを与えてくれたのは、他ならぬこの侍従長だったかもしれなかった。
 武は片膝を突き、頭を垂れた。
「どうか非礼はご容赦ください。私は国連軍太平洋方面第11軍横浜基地所属白銀武少佐と申します。――日本帝国国務全権代行政威大将軍煌武院悠陽殿下とお見受けします。お初にお目に掛かります、殿下」
 顔を上げる。
 そこには、戸惑いと敵意を綯い交ぜにした表情の侍従長と、そして驚きながらも冷静さを失わぬ煌武院悠陽の姿があった。
 どくん、と心臓が大きく脈打つ。忘れようはずもない、その姿。冥夜とよく似た、けれど少しだけ違う少女。気高く、尊く、いついかなる時も民のことを第一に考え自分を犠牲にし続けた、一人の為政者。
 かつて武が必ず護り抜くと誓った恩人。
 目を瞑れば、前の世界での出来事が脳裏に無数に湧き上がってくる。彼女と共に過ごした時間は、ごくごく短かったはずなのに。
 ――殿下……。
 万感の思いを込めて、武は胸中で呟く。
『ならばその力、私のために振るってはもらえませんか?』
 その一言に、どれ程救われたことだろう。感謝の念は尽きることがなかった。
「国連軍……」
 侍従長の呟く声で、武は我に返った。侍従長が舌打ちや苛立ちの言葉を思いとどまったのは、流石と言うべきか。
「ご安心を、侍従長。我々に敵対の意思はありません」
「米国の狗の言葉を鵜呑みにしろと申すのですか?」
「そういった発言は帝国の品位を貶めますよ」
 政威大将軍の侍従長という立場は、非常に重い。聞いているのが武だけとはいえ、不用意な発言は慎むべきである。
 裏を返せば、それ程までに疲弊しているということでもあった。
「オレが信用出来るかどうかは、鎧衣課長にでも訊いてみましょう……いるんでしょう?」
「――私に気付いていたか。この場所に君たちがいるとは……いやはや、さすがは香月博士だと言うべきか……それとも、さすがは白銀武だと言うべきか」
「香月博士で合ってますよ」
 背後からの声に驚くこともなく、武は答えた。前の世界での出来事を鑑みるに、武の助言がなかろうとも、夕呼は武をここに派遣していたに違いない。
「それではそういうことにしておこうか」課長は不敵に笑い、「さて、君がここにいるということは……」
「ええ」鎧衣課長に頷いた武は悠陽に向き直り、「香月博士の命令により参上致しました。恐れながら、殿下の身柄は横浜基地で保護させていただきます」
 横浜基地の名を出した途端、侍従長の表情が曇った。対して、悠陽の表情に変化はない。横浜基地の名の持つ意味を知らないはずがないであろうに、彼女の受けてきた教育の成果――将軍たらんとする彼女の強い意志が伺える。
「鎧衣……この者、そなたの知り合いですか?」
「はい。名乗った通り、この男が先程お話し申し上げた白銀武です。無礼な変わり者ですが、平にご容赦を」
「……課長だけには言われたくないですね、その台詞」
 鎧衣課長以上の変わり者を、武は知らない。経歴だけで言えば、武の方が変わり者なのかもしれないが。
 武と課長の遣り取りに、悠陽は目を丸くしていた。
「そなたが白銀武でしたか……」
 その発言に、今度は武が目を丸くする番だった。
「オ――私をご存じなのですか、殿下?」
「先日の斯衛軍との模擬戦の映像は、私も見せてもらいました。その若さながら卓抜した技術と不可思議な機動……斯衛軍にもそなたに比肩する者は殆どいないでしょう」
「そんな……光栄です、殿下」
 胸の奥に熱いものがこみ上げてくるのを感じて、武は気恥ずかしさもあって、顔を伏せた。
 前の世界の最後を帝国軍で過ごした武にとって、斯衛軍以上の実力を持つと、他ならぬ悠陽に言われることは、最上の名誉であった。他者からの評価のために腕を磨いてきた訳ではないが、嬉しくないはずがない。
「お話中失礼致します、殿下」そう割って入った課長はけれどその視線を武に向け、「白銀武、HQはどこだね?」
 すぐさま武も思考を切り替える。
「小田原西インター跡です。ちなみに、CPは旧関所跡に」
「…………ふうむ」課長は目を閉じ僅かに思案したかと思うと、「香月博士の――いや、君達の思い通り、というわけか」それから悠陽に向き直り、「畏れながら殿下、どうかこの者と御一緒下さい。多少窮屈ではございましょうが、緊急事態故ご容赦の程を……」
「わかりました……白銀、面倒をかけます」
「お任せ下さい」
 頷く武であったが、
「――鎧衣課長! 何をお考えです!?」
 侍従長が慌てて反発する。腕が立つとはいえ、国連軍相手に悠陽を託すなど、彼女にしてみれば以ての外だ。
 しかし、課長は侍従長に諭すように続けた。
「戦術機のコクピットなら、殿下をお乗せすることは可能だろう?」
「ええ、勿論。――この状況で、戦術機のコクピット以上に安全な場所はない……そういうことでしょう?」
 話が早い、とばかりに課長は唇の端を持ち上げた。
「ご安心を、侍従長。この者は信頼出来る男です。必ずや殿下を護り抜くことでしょう」
 過大評価だ、と武は内心で思ったが、侍従長の心証を悪くする必要もないので、口にはしなかった。それに、必ず悠陽を護り抜くという点においては、言われるまでもなかった。
「……致し方ありません」
 渋々、といった様子で頷く侍従長。だが、依然、その双眸は鋭く武を射貫いている。
 警戒を緩めないでいてくれるのは、武としては逆にありがたい。その方が、無事に悠陽を送り届けた際日本から得られる信頼は、反動もあって、より厚くなる。
 将軍争奪戦の様相を呈し始めた今回の争乱だが、武達オルタネイティヴ4陣営は、これで一歩抜きん出た形になる。
「では、オレは殿下を護送するとして、鎧衣課長と侍従長は?」
「侍従長、あなたは旧関所のCPへ行き指揮戦闘車に。私はまだやるべきことが残っているのでね。失礼して帝都に向かわせてもらおう」
 このまま悠陽を横浜基地に無事送り届けたとしても、そこには米軍がうじゃうじゃといる。それでは、全てが水泡に帰してしまう。その状態を打破するための工作が必要なのだ。
『CPよりエインヘリヤル1及び207各機。警戒態勢解除。これより準戦闘態勢に移行する』
 そのとき、ヘッドセットにまりもからの通信が入った。武は僅かに眉を強張らせただけであったが、それだけで課長は察したようだった。
 今から遡ることおよそ十分前、国連軍第11方面司令部に、帝都及び帝都城周辺での戦闘激化を受け、昨夜将軍殿下の帝都脱出を決定した、という旨の情報が、帝国城内省より直々に入ったのだという。
 殿下は帝都城地下に極秘裏に建造された地下鉄道を使い、今から九十分ほど前に帝都を脱出。目的地は関東圏の鎮守府及び城郭。攪乱のための囮も、同時に何組か脱出したらしい。
 しかし、大した護衛もつけずに将軍を帝都城から脱出させるなど、役人が許すはずがない。
 体面を重視する城内省上層部はそれを慌てて取り繕い、今になって城内省から国連軍へと直々に情報が伝えられたのだ。
 ――そして今から三十分前、何者かによってその情報がリーク。
 クーデター部隊は各地の城郭へと部隊を移動させつつあり、結果、帝都での戦闘はほぼ終息。帝都の民をこれ以上戦火に晒さぬように、という悠陽の願いは見事叶ったことになる。
 戦局は、帝国軍及び斯衛軍、国連軍による反乱軍の追撃へと転じており、無論、反乱軍はここ塔ヶ島離城へも向かっている。
『全機準戦闘態勢のまま待機、次の指示を待て――以上』
 武は、自分の肺の中の空気が、外気以上に冷たく張り詰めていくのを感じた。
「あなた方の情報がリークされたらしい……ここまでは鎧衣課長の計算通りですか?」
「お見通しか。決起部隊が帝都城で戦闘を始めなければ完璧だったんだがね」
「仕方ありませんよ。どうしても日本で内戦を起こしたい連中がいて、その意を汲む奴が、決起部隊の中に紛れ込んでたはずですから」
 ついでに言えば、それを好都合と思う勢力もある。
 たった一発の銃弾が大規模な戦闘へと発展した例は、史上いくらでも存在する。
 閣僚への襲撃直後から叛徒討伐の直命を求める声が各所から相次ぎ、戦闘は避けよという悠陽の下知にもかかわらず、臨時政府と軍は討伐部隊を組織、国連軍を呼び込んだ。
 今の将軍に実権はない。政府や軍上層部を動かすことは到底出来ず、ましてや軍の隅々にまでその意思を浸透させることなど不可能であった。
 尤も、たとえ悠陽が実権を握っていたとしても、戦闘の火蓋は切って落とされていただろうが。その場合、クーデター自体が起こっていなかった可能性もあるが、米国はいかようにでも工作し、ことを起こしていたに違いない。
「私と侍従長は旧関所後のCPへ行く……早く連絡を」
「わかりました。横浜のことは頼みましたよ……それと、オレの部下を悲しませるような真似したら、墓暴いてでもその顔ぶん殴るんで、そのつもりで」
「君に殴られるのは些か怖いな」
「じゃあ、そうならないように結果を出してください」
 この事態では、努力には何の意味もない。結果が全てだ。
 課長と頷き合い、武はヘッドセットを操作する。その脇で、
「それでは殿下……」
「どうかご無事で」
「そなた達も気をつけて……」
 悠陽に見送られ、鎧衣課長と侍従長は再び暗い森の奥へと消えていった。
「エインヘリヤル1よりCP――最優先処理の必要を認む」
『CPよりエインヘリヤル1――秘匿回線の使用を許可する。報告をお願いします』
 武の網膜に投影されたまりもの表情は、硬く強張っている。武から秘匿回線での通信が入った時点で、重大な事態が発生したのだと理解したようだ。
「煌武院悠陽殿下以下――帝国情報省の鎧衣課長と侍従の女性の身柄を確保」
『殿下が……たったそれだけの警護でですか!?』
 まりもの驚きも当然だ。政威大将軍という最重要人物が、たった二人の警護でこのような場所をうろつくはずがない。そ先入観こそが、最大のカモフラージュとなる。
「鎧衣課長と侍従の女性が今そちらに向かった。詳細はそこで確認せよ。尚、戦術機のコクピットが最も安全であるという鎧衣課長との協議に基づき、殿下にはオレの機体に同乗してもらうこととなった」
『了解……確かに、少佐の機体であれば安全ですね』
「以上――秘匿回線の使用を終わる」
 通信を終え、武は再び悠陽に向き直った。
 そして、最初に悠陽を迎えた時のように、武はもう一度片膝を突いた。
「国連軍太平洋方面第11軍横浜基地所属、白銀武――七生を以て御身御守護を勤めさせていただきます」
 それは誓いだ。
 かつて、戦う理由を再びくれた方への、偽らざる想いだ。
『ならばその力、私のために振るってはもらえませんか?』
 胸に刻み込まれたその言葉。
 ――今この時だけ……オレは、もう一度あなたのためにこの力を振るわせていただきます……。
「――はい……世話になります」
 応える悠陽の声は、どこか柔らかいような気がした。


「殿下、こちらを」
 悠陽を不知火・弐型のコクピットに案内した武は、悠陽に布のようなものを手渡した。
「これは?」
「強化装備です。国連軍仕様のものですが、サイズに関しては問題ないはずです。一応、鎧衣課長を通じてフィードバックデータも入力済みですので、かなり殿下の負担を軽減出来ると思います」
 それを聞いて、悠陽の表情が怪訝なものになった。
「私のフィードバックデータを……?」
 準備が良すぎる、と思ったのだろう。
 悠陽の脱出は極秘裏に行われた。そこに武らが居合わせたことも都合が良すぎれば、フィードバックデータ入りの強化装備まで用意してある。悠陽が疑惑を抱くのも自然なことだ。
「少し前に、帝国軍内部に不穏な動きがあるということは鎧衣課長から聞いていましたから。それに備えておいただけのことですよ。我々横浜としても、この内乱の裏で糸を引いている連中の好きにさせるわけにはいきませんから」
 この戦いは、紛れもなくオルタネイティヴ4の命運を分ける分水嶺なのだ。日本の国力を大きく削ってでも、米国の発言力、反オルタネイティヴ4陣営の勢力を抑え込んでおきたかった。
 世界を救うためとはいえ、あまりにもエゴイスティックな考え方だと、武も思う。
 しかし、それ以外に道はないと知っているが故に、この選択に後悔はなかった。
「では、私は外に出ていますので、着替え終わったら言ってください」
 そう言って、武は再びコクピットを出た。
 風雪の勢いは増すばかり。剥き出しの頬を、強烈な冷気を孕んだ風が叩いていく。
 武は目を瞑り、前の世界における今後の展開を脳内に思い描いた。
 熱海新道跡から伊豆スカイライン跡に入り南下。途中、山伏峠付近でクーデター軍の併走に遭うも、アルフレッド・ウォーケン少佐率いる米国陸軍第66戦術機甲大隊の援護により事なきを得、亀石峠で補給を受ける。補給後、再び伊豆スカイライン跡を南下、旧冷川料金所跡でクーデター軍に包囲されかけたが、紙一重とも言うべき僅かな差で包囲網を突破。
「……その後、殿下の容態が急変して、丸野山・岩山付近で休憩――トリアゾラムの投与で議論している間に、空挺作戦で包囲、だったっけ」
 夕呼の助言もあり、前の世界で作戦ログを何度も読み返しておいたので、おおよそは覚えている。
 包囲を受けた後、六十分間の停戦が反乱軍らより申し込まれ、連合軍はそれに応じ、その間にブリーフィングなどを実施。冥夜の進言により、冥夜を替え玉としての将軍と沙霧大尉の謁見が行われたが、イルマ・テスレフ少尉の介入により謁見は中止、両軍入り乱れての乱戦に戦局が転じる。
 最終的には、真那が沙霧を討ったことで、戦闘は終結――当初の予定通り、悠陽を横浜に護送することが出来た。
 閉じていた目を開く。
 作戦自体は、前の世界と同様に立案・実行される予定だ。それが最も現実的で、成功確率が高いためだ。
 懸案事項は三つ。
 一つ、悠陽の身を案じて強化装備を用意したことが、どの程度功を奏するか。
 二つ、冥夜の存在を外部に示すことによる207B分隊の任官は達成出来るか。
 三つ、帝国軍への被害をどの程度にとどめられるか。
 一つ目の懸案。これは同時に、大きな不安要素の一つでもある。ただし、本来とは逆の意味で、だが。
 悠陽の体調が崩れなければ、丸野山・岩山付近での休憩を取る必要がなくなる。その場合、反乱軍の空挺作戦を振り切ることにも成功するかもしれない。
 悠陽を無事に横浜に送り届けることを唯一無二の命題であるとするならば、そのことに何の問題もない。しかし、これでは、第二の懸案――207B分隊の任官をこのクーデターで達成することは難しいし、戦乱が長引き、第三の懸案にも関わってきてしまう。
 第二の懸案事項に関しては、XM3のトライアルをうまく利用することで、解決出来なくもない。トライアルは、帝国軍や諸外国との交渉材料として用いるために、完全にではないが公開で行われる。そこで冥夜の姿を知らしめてしまえば、帝国側も冥夜達の任官を認めざるを得まい。ましてや、それが香月夕呼直属の特殊部隊ともなれば、その損耗率の高さは折り紙付き。既に死んだはずの人間を再び葬るのには打って付けだろう。
 第三――今更ではあるが、やはり日本の国力の減退は最小限に収めておきたい。既に帝国軍には多大な被害が出てしまっているとはいえ、それが即ちどれ程の被害を出しても構わないということではない。帝国軍には今後甲21号作戦などでも戦力を提供してもらわねばならないのだ、被害を最小限に抑えることには、大きなメリットがある。
 いずれにせよ、第一の懸案事項――悠陽の体調について、強化装備がプラスに働けば、武の知る、前の世界での事態の推移はまるで当てにならなくなる。賽は投げられた、というわけだ。
 ――ここからが正念場だ……なんとしてもより良い未来を掴むんだ……!
 硬く拳を握りしめる。
 夜の闇は深く、どこまでも暗い空が広がっていた。ゆっくりと、戦火の響きが近付いてくる。
「――白銀。待たせました」
 背後から投げかけられた声に、はっとして武は振り向いた。先のことに向いていた意識が、現在へと収束していく。
 悠陽は、黒い99式衛士強化装備を身に纏って座席の端に腰掛けていた。膝の上には、先程まで来ていた衣服が、丁寧に折り畳んで置いてあった。
「ぁ……」
 呻くような声が武の喉から漏れた。
 黒い強化装備を着ている悠陽の姿と、前の世界で共に戦場を駆けた冥夜の姿が重なったのだ。
 それを見て、悠陽が不思議そうに問いかけてくる。
「どうしました、白銀?」
「いえ……」武は首を振り、「殿下が99式を着ているというのも、不思議な感じがしますね」
「そうでしょうか?」
「ええ。やはり殿下といえば零式のイメージが強いので」
 政威大将軍は、紫色の武御雷を駆り、斯衛軍の頂点に君臨する存在でもある。その姿を何度か見てきた武にとっては、悠陽の強化装備は紫色の零式というイメージがあった。
「では殿下、オ――私の膝の上に」
 コクピットに着座して武が言うと、悠陽は上品に口許を隠し、笑みを零した。僅かではあるが、不要な緊張が解れているのが見て取れる。
「白銀、そう無理をしなくても構いませんよ。そなたのありのままの口調でよい」
「う……」
 早くも見透かされてしまった。
 武は別に敬語を使えないというわけではないし、これまでの経験でそれなりには礼節もわきまえたつもりではあるのだが、前の世界で悠陽に『無理に言葉遣いを直す必要はありません。そなたの慣れた言葉の方が、そなたらしいでしょう』と言われてしまい、以来、悠陽との間では最低限の礼節しか払ってこなかったのである。
 前の世界の悠陽と今目の前にいる悠陽が別人であると頭では理解しているものの、どうしても前の世界の関係を少なからず引きずってしまう。
 が、これはこれで好都合と言えなくもない。長い道中、悠陽の確たる信頼を勝ち取る上で、自分を偽らなくて済むというのは、プラスに働くことだろう。
「それでは殿下、こちらへどうぞ」わざと恭しく手を差し出し、「上等な席とは言い難いですが、特等席が空いております」
 悠陽は目をぱちくりさせて、一瞬、ぽかんと口を半開きにした。恐らく、彼女のこれまでの人生の中で、物心ついてからは一度もしたことのないであろう、はしたない表情であった。が、悠陽はおかしそうに目尻を下げ、
「白銀、そなたは面白い人ですね」そっとその手を重ねた。「世話になります」
 ゆっくりと悠陽が武の膝の上に腰を下ろす。強化装備越しに臀部の感触が伝わり、

 ずきり、という頭痛を合図にして。膨大な感情の渦が、武を飲み込んだ。

 ノイズ。ごりごりと。頭蓋を削るように。押し入ってくる。浸食。犯される。記憶。
 護ると誓った。必ず生きて帰り、帝国の守護者であり続けようと。
『武、そなたの帰還を待っています――』
 柔らかな抱擁と優しい接吻。
 濃紫。帝国の象徴。希望。誰よりも傍にいたかった。愛していた。
『ならばその力、私のために振るってはもらえませんか?』
 生きる理由。戦う理由。生涯全てを捧げようとすら思えた。
 命を賭し、魂を燃やし、誇りを懸けて護り抜きたかった人。一人ではとうに朽ち果てていたであろう苦境を、共に乗り越えてくれた人。
 地獄の釜の底。今際の際まで共に在った。
 苦しいことがあった。悲しいことがあった。いつだって支えていてくれた。
 嬉しいことがあった。楽しいことがあった。いつだって分け合ってくれた。
 愛していた。愛してくれていた。
『……せめて……せめて最期は……愛する者の手で――そなたの手で、逝きたいのです……ッ』
 最期の我が儘。最初で最後、たった一つの、煌武院悠陽という一人の女としての願い。
『悠陽。お前を、愛してる――――』
 告げた別れの言葉。
『――私も。そなたを愛しています、武――――』
 応えてくれた。
 散った。二人で。共に。
 知らない記憶。知っている記憶。忘れない。忘れられない。後悔。悔恨。断罪。罪咎。悲哀。自責。感情の本流は、まるで業火のように――。

 一筋の涙と共に、それは武を焼き尽くした。
 こみ上げてくる想い。焦がされていく脳髄。削れていく意識。ぐにゃりと歪む平衡感覚。
 悲鳴と嗚咽を噛み殺す。ともすれば発狂しかねない程の激痛を、僅かな理性を総動員して抑え込む。
 けれど、その理性という概念さえ崩れていく。すぅ――と何かに融けていく。
 目の前が暗い。瞑目しているわけでもないのに、世界が暗転している。
 触れ合うほどに近くにいるはずの悠陽の香りさえ感ぜられない。
 入り交じった苦みと酸味を、舌の付け根に覚えた。
 鋭敏になりすぎた痛覚が、万力で締め付けられるような頭痛を跡切れることなく脳髄に送り込んでくる。
 ごりごりと頭蓋の磨り潰される音、ぶちぶちと神経の千切れる音。甲高い耳鳴りと共に響く幻聴。
 現実と過去が交錯し、今が夢か現かすらわからなくなっていく。五感が壊れていく。深い深い奈落の底へと落ちていくような感覚。
 指先から細胞の一つ一つが解れ、宙に舞っていくよう。
 白銀武という存在の輪郭さえあやふやな、闇。
 全ての感覚がぐちゃぐちゃに混じり合い、どろりと濁った黒い澱のような何かへと変じていく。
 壊れていく。消えていく。自分が何者かさえ。何をすべきかさえ。わからなくなっていく――。
 けれど。それでも、ただ一つはっきりしていることがあった。変わらぬ想いがあった。
 ――護る。
 決して違わぬ、その誓い
 闇の中に光が灯る。
 不確かな、灯火のように頼りない輝き。
 けれどその想いは、白銀武という存在の源であり、導であり、たった一つの信念であり、揺らぐことのない願いであった。
 そして。

「白銀――」

 唐突に、裡側ではなく外側からその声が投げかけられ。
 ――瞬間、世界に光が蘇り、悠陽の香りを感じ、舌を刺すような刺激は消え、脳がクリアになり、あらゆる雑音が消え去った。
 その世界の中心、膝の上。柔らかな重みと共に、煌武院悠陽が――かつていつかの世界の可能性、白銀武の愛した女性がそこにいた。
「……そなた、どこか体に障りでも?」
 ゆっくりと武は首を横に振り、一つ深呼吸して、
「ご安心を。殿下は、オレが必ず護ります」
 答える横顔からは、数瞬前の様子が夢幻の類であったかのように失せていた。
 七生を以て――その言葉に、嘘はない。
 先程口にした時は、命を懸けてでも必ず護り抜く、という程度の意味しか持っていなかった。
 だが、実際は文字通り――七度の人生とまではいかぬまでも、やり直した二度目の世界でも彼女を護りたいと、心から思えた。誰かに与えられた任務ではなく、白銀武自身の願いとして、煌武院悠陽を護りたい、と。
 何故自分が悠陽とあのような親密な関係になっていたのかはわからないし、わかる必要もない。
 武のすべきことに――目指すべき到達点に変わりはないのだから。
 ただ、直接の覚えがないとはいえ、他ならぬ将軍と恋仲になっていたらしい自分に、驚きと呆れがあっただけ。
 人間、驚きの絶対値がある程度に達すると、逆に冷静になるというが、本当らしかった。少なくとも、今の武は、任務に支障を来さぬ程度には冷静さを取り戻している。
「安全のために、簡易固定ジャケットを装着してください」
「この四点式ハーネスを使うのですね」
 武は頷いた。
「複座型が用意出来れば良かったんですけど、複座型の試験が済んでいないので……」
「試験が終わっていない……? これは不知火ではないのですか?」
「ええ」再度頷く武。「米国と共同で開発した、不知火の改修型――不知火・弐型です」
「そうですか、これが……」
 将軍という立場なだけあって、弐型のことも知っているようだった。先程は暗くてよく見えなかったのだろう。あるいは、そこまで心に余裕がなかったのかもしれない。
 単座型と複座型は、単に管制ブロックを換装すればいいというものではない。単座型と複座型では、そもそもの設計自体が異なってしまうのである。
 現在の戦術機は、操縦インターフェイスの改良もあって、特別な場合――たとえばオルタネイティヴ3や、フェニックスミサイルを運用するF-14系列機――を除けば、単座型での運用が主流となっている。
 ましてや、不知火・弐型は依然、試作機という位置付けを脱していないのだ、元々複座も視野に入れて開発されていたならばともかく、単座型での開発も完了していないのに、複座型の開発に着手することなど出来ない。
 そもそも帝国には複座型戦術機を開発・運用出来るほど人員に余裕はないし、急を要する計画であったXFJ計画に、通常の管制ブロックよりも大型で空力的特性の異なる複座型をわざわざ開発する利点もなかった。
 それに加えて、ただでさえ不知火・弐型は本来横浜にはない概念実証機であるが故に整備性が悪いのだ、もし可能であっても複座型に換装しろなどと言えば、整備兵達が倒れてしまう。不知火・弐型が運用可能なのは、不知火の改修型であること、そして偏に横浜基地の優秀なスタッフのお陰であった。
「補助コネクタを接続しますが、よろしいですか?」
 頷く悠陽に「失礼します」と声を掛けてから、武は悠陽の身に着けている強化装備に補助コネクタを接続する。
 一瞬くすぐったそうに身をよじった悠陽であったが、声を出すようなことはなかった。
 これで強化装備に電源が供給され、保護機能が有効になる。大抵の機動に対しては、これで十分だろう。
「それと、念のためにこちらを」
 固定ジャケットの装着を終えた悠陽に、武はファストエイドキットから取り出した三錠の錠剤を手のひらに乗せて差し出した。
「……これは?」
「スコポラミン……酔い止めです」
 本来は強化装備のフィードバックデータの蓄積が少ない時期に飲む補助薬だ。
 前の世界では実戦機動に対して、さほど大きな効果は得られなかったが、策を打っておくに越したことはない。飲めない状況になってから飲ませておけば良かった、では手遅れなのだ。
 207B分隊の面々も、戦術機に慣れるまでは服用していたし、前の世界で知る部下達も服用したことがあると言う者が多数だった。効果は折り紙付きだ。
 いくらフィードバックデータがあるとはいえ、簡易固定ジャケットの利用という普段とは異なる状況下、また悠陽の知る機動とは大きく異なる武の操縦する機体に乗っていては、絶対は保証出来ない。十全を期しておきたかった。
「加速度病対策ですね。揺れは覚悟します」
「出来るだけ負担を減らすようには心懸けますので、ご辛抱を」
 武は無意識の内に、機体への負担を減らすように操縦することが出来るようになっている。機体に負担を掛けない操縦というのはつまり、搭乗者にも負担を掛けないということだ。
 前の世界での12・5事件の時よりも格段に武の操縦技術は向上している。その点でも、悠陽への負担は小さくなるだろう。
 だが、今後考えられる悠陽への最大の負担は、単なる加速度病ではない。
 クーデターが起こってから、悠陽は一睡もしていない。そもそもの時点で、彼女の体調は最悪なのだ。加えて、帝国臣民同士が争い血を流しているというこの状況は、刻一刻と彼女の精神力を削っていくことだろう。
 この状況の引き金を引いたのは――悠陽をここまで追い詰めたのは、他ならぬ武自身だ。
 その責任はとらねばなるまい。
 両手を握っては開き、その感触を確かめる。雲のような何かを掴んでいるように、どこか現実とずれてしまっているような感覚があったが、すぐに回復してくれるはずだ。少なくとも、今までの発作ほど、苦痛は後を引いていない。
 よりよい未来のためならば、この手はどんな汚れにだって塗れることが出来る。血に浸すことだって厭わない。
 そんな手だけれど。
「――あなたは、オレが絶対に護り抜いてみせます」
 大切な人と未来、どちらも掴みたいと、そう願った。



[2785] Muv-Luv ALTERNATIVE -Second World Was Failed- 第24話
Name: Vollmond◆d2a8c8a6 ID:c152aeb4
Date: 2011/02/06 12:53
『帝国軍が突破されたよ!』
 悲痛な叫びにも似た美琴の声が、ヘッドセットを通じて聞こえてくる。
 02時55分、伊豆スカイライン跡山伏峠付近でのことだった。
 悠陽を乗せてのブリーフィングから、三十分が経過していた。
 レーダーを見れば、かなりの数がいたはずの、帝国軍からなる追撃阻止部隊のマーカーが全て消えていた。しかも、追撃部隊は沙霧らを始めとする主力ではないいうのに。
 ――くそ、相変わらずの精鋭揃いだ……!
『狼狽えるな! 後方は斯衛が固めている!』
 冥夜の檄が飛ぶ。
「エインヘリヤル1から207各機! 落ち着いて隊形を維持しろ――帝国軍が突破されたからって、奴らがすぐに追いついてくるわけじゃない。追撃に備える時間はまだある!!」
 やはりと言うべきか、207B分隊の操縦は、いつもに比べてやや硬い。先程、千鶴から壬姫に向けて遅れているという言葉が発せられたのも、それを裏付けていた。
 初の実戦、それも歴戦の勇士であり、何より同じ日本人からの追撃を受けているという事実が大きいのだろう。加えて、先程小田原のHQが沈黙したという事実、今し方美琴から伝えられた帝国軍が突破されたことが、彼女達にさらなる動揺を誘っていた。
 さらに、主脚走行では大したスピードを出すことが出来ない。対して、追撃軍は噴射跳躍も織り交ぜて追ってくるのだ、着実に距離が詰められていくのがレーダーから読み取れてしまうことも、彼女達から余計に平常心を奪っている。
 未だ訓練兵であるというのに、初の実戦、それも対人戦を迎えているのだ、不安を押さえ付けるための拠り所が持てずにいるのかもしれない。かつての武もそうだった。戦う理由こそなかったが、戦術機の操縦技術に関しては絶対とも言える自信の持ち主であった武でさえそうだったのだ、彼女達の不安はいかほどだろう。
 ならば、その不安を押さえ付ける拠り所を与えてやればいい。
「怯えるな!!」武の声に、207B分隊の少女達が一瞬肩を震わせた。「お前達にはオレがついてる! オレだけじゃない、神宮司軍曹や斯衛軍だっているんだ!!」
 初めての戦場において、先任達の存在がどれだけ新任衛士にとって大きいか、武はよく知っている。ましてやそれが、自分達が絶対の信頼を置く相手ならば尚更だ。
「オレ達を、そしてお前達が過ごしてきた時間を信じろ! オレが保証してやる、お前達なら大丈夫だ!!」
 訓練は嘘を吐かない。流した汗や涙、費やした時間、真剣に打ち込めば、それらは血肉として還ってくる。ましてや彼女達の熱意が、努力が、力にならぬはずがない。
 網膜に映し出される少女達の表情に、力が戻ってくる。
 迷いはあっても、弱気にはなっていない。自分達を、そして自分達を鍛えた武やまりもを信じているからこその表情。
 ――よし……!
 目論見が一つ成功すると、武は悠陽に視線を落とすことなく問うた。
「殿下、ご容態は」
「――構いません。白銀、速度をお上げなさい」
 たったこれだけの言葉でこちらの意図を察してくれたことに感謝しつつ、武はヘッドセットに向かって言った。
「エインヘリヤル1より各機、次の谷を噴射跳躍でショートカット!」
 武の言葉に呼応し、総勢十一機の戦術機が宙を翔けた。彗星の尾のように、夜空に青白い放物線が描かれる。それが着地する寸前、武の耳に警告を告げるアラートが響き、
『――四時方向より機影多数接近! 稜線の向こうからいきなり――!!』
 着地の直後、美琴が叫んだ。
 不知火・弐型の強化されたセンサーモジュールによって、武は僅かに早くその接近に気付くことが出来たのだった。
 しかし、それも噴射跳躍によって機体が空中にあったからであり、それまで同様、主脚走行を続けていたら、美琴と同じタイミングでしか気付けなかっただろう。
 山岳地帯では、地形そのものが電波や音波を吸収し、レーダーの機能を阻害してしまうためだ。
 ()()()()()ことであるとはいえ、武も反乱軍の手際の良さに驚きを隠せない。
「――全機兵器使用自由ッ、各個の判断で応戦! 殿下の――エインヘリヤル1の生存を最優先しろッ!! ――ただし、無闇にこちらから仕掛けるな! 向こうは迂闊に手を出せないはずだ!」
『――了解ッ!!』
 力強い声が返ってくる。もう心配はいらないだろう。
 突撃砲を使えば、その反動は少なからず機体に響く。衛士にとっては強化装備のフィードバックデータのためにないも同然であるが、同乗者にはそうはいかない。
 クーデター軍は悠陽の強化装備を武らが用意しているなどとは夢にも思わぬはずだから、こちらから攻撃を仕掛けるということは、その機体に将軍が乗っていないことを教えてやることになる。
 反乱軍が手出ししてこないのは、悠陽の存在があるからだ。
 悠陽が乗っていないとわかれば、遠慮も躊躇もなく攻撃を仕掛けてくるだろう。訓練兵相手だからといって容赦してくれる程、戦場は甘くはない。
 そして、こういった戦場で何より物を言うのは、経験……戦場の空気を知っているか否か。
 207B分隊の吹雪にはXM3が搭載されているとはいえ、これが初陣である以上、死の八分ではないが、撃墜される可能性は極めて高い。
 ――無事でいてくれよ、みんな……!
 その祈りは207B分隊に限ったことではなかった。
 脳裏を過ぎるのは、『前の世界』で伊隅戦乙女隊(ヴァルキリーズ)のメンバーが一名戦死したという事実。彼女達の力量を疑うわけではないが、何が起きるかわからないのが戦場だ。全員が無事に戻ってきてくれることを願う以外、遠く離れた地で戦う彼女達のために出来ることはない。
『――国連軍及び斯衛部隊の指揮官に告ぐ』併走している反乱軍が、オープンチャンネルで語りかけてくる。『――我に攻撃の意図非ず。繰り返す――攻撃の意図非ず。――直ちに停止されたし』
 レーダーに光点は表示されているものの、肝心の機影を確認することは出来ない。声はすれども姿は見えず……207B分隊の面々は精神をすり減らしているに違いなかった。
『――貴官らの行為は、我が日本国主権の重大なる侵害である』
 追撃軍の指揮官の言葉に、武は思わず唇の端を吊り上げた。
 主権の重大な侵害――それは確かにそうだろう。だが、武も反乱軍も、所詮は同じ穴の狢だ。今現在、この国を害しているという事実に違いはないのだから。
 第一、止まれと言われて止まるようなら、わざわざこんな逃走劇は演じていない。
 そのとき、突如としてレーダーに光点が浮かび上がった。識別信号はUNKNOWN――敵か味方かは不明。だが、武には確信があった。
 機体カメラが、その光点の主を捉える。それとほぼ同時、砲声が響き、36mm弾が武らを掠めて後方へと飛んでいく。
『――ッ!』
 誰かが息を呑んだ。避けられない戦闘の予感に少女達が身を強張らせるが、
「落ち着け! あれは友軍機だ!!」
 彼女達がロックオンを試みるよりも早く、武は叫んでいた。
 カメラに映るのは、米軍の最新鋭機であるF-22Aラプターと最強の第二世代機の呼び声高いF-15Eストライク・イーグルから成る混成部隊。
『こちらは米国陸軍第66戦術機甲大隊――』
 それは、先のブリーフィングでまりもの口から語られた援軍部隊だ。
『――速度を落とすんじゃない! 早く行け!』
『ここは任せろッ』
 擦れ違いざま、頼もしい言葉を投げかけて来てくれる。忌々しくもあるが、この上なく心強い援軍であった。
「――エインヘリヤル1了解! ここは任せるッ!」
『作戦に変更はない。安心して行け』
 その言葉は、武だけに向けられたものではないだろう。
 吹雪が高等練習機――訓練兵用の機体であることを知っているのかはともかく、米国陸軍第66大隊はエリート揃いの部隊であるという自負があるに違いなかった。
 F-22Aは、その高価な製造コストのために、配備数が非常に少ない。そもそも、初の制式配備自体が2001年3月――つまり、制式配備開始からまだ一年と経っていないのである。
 そんな機体が多数配備されており、かつ米国の利益に直結した重要な局面を任される――あるいは、故にこそF-22Aが配備されていると言うべきか――ほどの部隊なのだから、その力量の高さが窺い知れる。
 彼らによって足止めされている追撃軍は決して弱くはない。むしろ、先の美琴の通信にもあったように、帝国軍を短時間で壊滅させてしまったことが、練度の高さを示している。クーデターに備えて、対戦術機戦闘訓練も十全に行っていたに違いなかった。
 尤も、それさえも対戦術機戦を視野において開発されたF-22Aを駆る部隊には及ばなかったようであるが。
 その証左に、後方の敵機信号がぽつぽつと消えていく。
 だが、武の意識はレーダーのそれ以外の部分へと向いていた。
 ――くそ、流石に速い……!
 第66大隊が引き受けてくれたのは、戦術呼称E3とされる追撃軍の一部でしかない。
 現在の速度差を鑑みれば、冷川料金所跡に着く頃には、東名回りのE1――敵の本隊が待ち受けていてもおかしくない。
 決断は早かった。
「殿下。少し速度を上げます。よろしいですね?」
「ええ。私に構わず速度を上げるがよい」
 は、と短く頷き、
「エインヘリヤル1より各機。ここからは連続噴射跳躍で行く――五百刻みだ。タイミングはオレに同調……三、二、一――」
 カウントが零になった瞬間、不知火・弐型の大推力エンジンが火を噴いた。吹雪との出力差の関係上、かなり絞っているが、急激な加速度を得て機体が舞い上がる。
 吹雪は良い機体であるが、練習機ということで、出力が抑えられているのがネックだ。出力さえ改善すれば、十分に実戦機として活躍出来るだろう。武の記憶が正しければ、出力を向上させた吹雪が実戦投入されていた部隊もあったはずだ。
 不知火・弐型本来の速度を発揮出来ないのが、今はひどくもどかしかった。
『――エインヘリヤル1及び207戦術機甲小隊に告ぐ――私は米国陸軍第66戦術機甲大隊指揮官ウォーケン少佐だ』
 網膜に精悍な顔立ちの男の姿が投影される。
 かつて戦場を共にしたのは僅か数時間のことであったが、その顔は武の記憶にしっかりと刻まれていた。
『現在我がA中隊が時間を稼いでいるが、彼我の戦力差を考えれば楽観できる状況ではない。我々は亀石峠で諸君らの到着を待つ。到着次第、補給作業を開始する。可及的速やかに合流せよ――以上だ』
 ウォーケンに悠陽の体調を慮っている様子はない。前の世界のことを思い出して、武は僅かな苛立ちを募らせた。
 が、好印象な部分もないわけではない。
 最低限の情報伝達にのみ限ったのは、彼が実直かつ任務に忠実である証だし、何より、
 ――随分部下を信頼してるんだな。
 補給を申し出るということは、それだけの時間を稼げる確信があるということだ。部下の練度に余程の自信がなければ、こうはいくまい。
 武の部下――伊隅戦乙女隊であればどうかとも考えたが、彼女達なら笑ってやってのけてくれるはずだ、と絶対の信頼が告げていた。


 小田原西インターチェンジ跡。
 帝都の守備を預かるはずの帝都守備隊は、本来の任とは真逆に、帝都から遠ざかるように進軍していた。
 掲げる至上命題は煌武院悠陽将軍殿下の奉迎、帝国軍衛士としてはこの上なき誉れである。
 この日本という国に再び魂の炎を灯すため、汚泥に塗れることを選んだ誇り高き英傑達。
 国内有数の精鋭達により構成される一軍――しかしその進軍を阻止する一団が、そこにはあった。
「何なんだこいつらは!?」
 烈士の文字が刻まれた黒い不知火の中である衛士は悲鳴をあげた。そうせずにはいられなかった。
 糞ッ垂れ、と毒突きながら、36mm弾を敵機目掛けてばらまく。
 ――しかし、その瞬間には敵影は既に存在していなかった。
 カメラを上方へと向ける――いた。慌てて突撃砲の砲口を修正しようとするが、最早それは叶わなかった。
 主脚を撃ち抜かれ、機体が大きく揺らぐ。劣化ウラン弾が明後日の方向へ飛んでいくのを目にした時には、既に手遅れだった。
 掻き消え、上方に現れたはずの敵機は、一体いかなる手品か、再び彼の目の前へと現れ、長刀を振るっていた突撃砲を保持していた主腕が斬り落とされたと思えば、返す刀、両主脚がまとめて叩き斬られていた。
 一瞬の間の出来事だった。
 跳躍からの反転噴射、さらに着地とほぼ同時の剣戟――一切のラグが存在しない、戦術機にはあり得ぬはずの動きで、知覚の追い付かぬ機動で、容易く戦闘不能へと追い込まれた。
 彼は知らない。
 帝都守備隊において小隊長を務めるほどの衛士たる彼をいとも容易く打ち負かした相手が、任官して半年にも満たぬ、たった一度の実戦経験しか持たぬ新任少尉であるということを。

 累々と築かれていく黒い機体の山。
 華麗に宙を舞うように跳躍しては急降下し、絶えず動き回る蒼穹色の不知火。長刀と突撃砲を手に繰り広げられる舞踏に、クーデター軍の衛士達は、最早ただ見惚れる外なかった。そして見惚れている間にも彼らは撃墜されていく。
 この世界でたった一つ、蒼穹色の不知火のみで構成される一個中隊。
 その名を、伊隅戦乙女隊。オルタネイティヴ4における実戦攻撃部隊である。
『――上出来だ。新任ども、全員生きているな?』
 その名を部隊名に戴く部隊長、伊隅みちるが呼び掛ける。
『B小隊損耗率零パーセント。全員揃って無傷ですよ』
『C小隊も同じく無傷です。――白銀少佐に感謝しなくては』
 みちるの言葉に答える早瀬水月と秋山楓。二人の顔には、余裕の笑みさえ浮かんでいた。
 彼女達の小隊には、任官して未だ半年程度の新任衛士達もいる。いずれも、たった一度しか実戦を経験したことのない者達だ。にもかかわらず、クーデター軍の二個中隊を相手取りながら、誰一人として一切の損耗を負っていない。
 クーデター軍の中にも、帝都守備隊や富士教導隊のようなエリートから平均的な衛士まで、また不知火・壱型丙のようなハイエンドの戦術機から撃震のようなローエンド機までが混在しており、その戦力が一様に高いわけではない。
 しかしながら、数の力は圧倒的だということを、この世界の人間は誰もが知っている。BETAという最悪の侵略者によって、まざまざと思い知らされている。
 それを完全にひっくり返したという事実は、彼女達自身をして驚嘆に値する事実であった。
『少佐の教導とXM3がなかったら危なかったかも……』
 涼宮茜が呟いたように、それは彼女達の不知火に搭載された新OS・XM3とその開発者である白銀武による教導の賜であった。
 とはいえ、無論、武やまりもの錬成やXM3があったからといって、誰もがこのような戦果を挙げられるわけではない。A-01という部隊――最良の未来を掴む素質を持った彼女達であるからこそ可能な芸当だろう。
 弛まぬ努力と類い希な才能。どちらか一方でも欠けていれば、今倒れているのは彼女達であったかもしれない。
『けど、こんなのって……』
 戸惑いも顕わに呟いたのは、築地多恵。
 無理もない。彼女達にとっては、これが二度目の実戦。一度目はBETAであったが、二度目がまさか人間――それも、同じ日本帝国の衛士を相手に戦うことになろうなどとは、夢にも思わなかっただろう。
 自分が生き残るために、誰かを殺める……未だ少女と呼んで差し支えない年齢である彼女達にとっては、ひどく心を痛めずにはいられない状況であった。
『駄目よ少尉。今は任務に集中なさい。ここを突破できない限りクーデター部隊(かれら)は目的を達成できない……次は本腰を入れてくるはずよ』
『――ですが、せめて行動不能に』
『いい加減にしろッ!!』諫める風間祷子の言葉に対して呟かれた多恵の言葉を、厳しい語調で切ったのは水月だった。『どれだけXM3が優れていようと、そんなに甘い相手じゃないわよ! 圧倒的な差を見せつけることが犠牲を最小限にする唯一の方法なんだ!』
 水月の言葉は正しい。
 此度の反乱に荷担した者はいずれも、この日本という国に魂を取り戻すという至上命題を掲げており、その士気は頂点に達しており、進軍の勢いも極限まで高められていると言っていい。
 しかも、客観視した彼我の戦力差を鑑みれば、敵はヴァルキリーズと同等以上の部隊である。
 故にこそ、その士気を削ぐ必要があるのだ。
 XM3という全く新しい発想のOSに基づく機動を初見で見切れる者はごく僅かだ。
 それによって、圧倒的に見える力の差を見せつけることで敵の士気を下げ、進軍速度を鈍らせ、さらに次の部隊に対して力の差を見せつける。その螺旋のような積み重ねによって、彼女達は損耗率零パーセントという驚異的な数字を叩き出しているのであった。
 また、足止めの任に携わっているのはヴァルキリーズだけではない。クーデターに荷担しなかった帝国軍もまた、共に戦線を張っている。ヴァルキリーズの勝利は彼らの士気を高めるだろう。
 水月の言葉は、戦場における士気の重要性を熟知しているが故であった。
『――全員聞け』静かに、けれど力強く、みちるは言った。『ヴァルキリーズ(われら)は人類を守護する剣の切っ先……いかなる任務であれそれを完遂する』
 そこでみちるは一度言葉を切った。網膜に映る部下達の顔を確認するために。そこに躊躇の念はなかった。
『――その妨げとなるのならBETAであれ人であれ排除するのみだ』
 言い放たれた一言は、彼女の覚悟を、そしてヴァルキリーズの背負う重みを物語っていた。
 人類を救うため――オルタネイティヴ4を成功に導くために、いかなる犠牲を払おうともあらゆる任務をもこなす。
 それが伊隅戦乙女隊――オルタネイティヴ第4計画直属部隊の存在意義なのだから。


「クソッ……どうなっている! 国連軍は化け物揃いか……!!」
 CP将校が、握り締めた拳を机に叩き付けながら吐き捨てた。
 反乱軍のHQ。彼の耳に入ったのは、冷川における悠陽奉迎の失敗、さらには箱根方面へと送ったはずの増援が小田原西インターチェンジ跡で国連軍部隊により全滅に追い込まれたという報であった。
 国連軍による妨害は容易く予想できた。故に、箱根方面へと送り込んだ増援は、最精鋭とは言えぬまでも腕利きを揃えた――はずだった。にも関わらず、異常なまでの早さで第一陣は全滅させられてしまったのだ。彼が狼狽え、憤るのも仕方のないことであった。
 それを、冷静な瞳で見つめる女性がいた。駒木咲代子中尉……此度の反乱の首謀者である沙霧尚哉大尉の腹心である。
 一瞬だけ目を伏せる駒木。先に逝った同胞への追悼か、あるいは逡巡か。その横顔を見つめる沙霧にも、彼女の心情を正確に読み取ることは叶わなかった。
 やがて再び顔を上げた彼女の表情には、研ぎ澄まされた刃のような覚悟だけがあった。
 飾り気のない真白いリボンを取り出し、髪を結い上げる。
 そして、正面から沙霧を見つめて、彼女は言った。
「ここは私が出ます。大尉は厚木へお急ぎ下さい――殿下をよろしく頼みます」


 ――その数分後。鮮やかな剣閃が、一機の戦術機の首を刎ねた。
 地面を転がる黒い陽炎の頭部。一拍遅れて赤黒い爆炎が巻き起こり、機体を四散させる。
 だが、既にヴァルキリーズが見つめているのは、散った帝国軍機ではなかった。炎の渦の向こう、その名の通りに揺らめく漆黒の不知火。刻まれた烈士の文字だけが、オレンジ色の光を受けて鮮やかに浮かび上がっていた。
 緊張が走る。
 相手は帝都守備連隊が誇る最精鋭部隊――日本帝国軍が誇る最強の集団。これまでのようにはいかぬであろうことを、誰もが全身で感じ取っていた。
 しかし、十二人の戦乙女達には悲壮もなければ絶望もない。
 立ち塞がる敵が何者であろうとも、その任務を完遂するのみ。そしてそれだけの力が、彼女達にはある。
 ――死力を尽くして任務にあたれ。
 ――生ある限り最善を尽くせ。
 ――決して犬死にするな。
 誰からともなく呟かれる、たった三条の隊規。けれどそれは、彼女達を奮い立たせるには十分すぎる。
『ヴァルキリー1よりHQ――帝国軍を下がらせろ! ここで消耗する意味はない! ヤツらの相手は我々がするッ!!』
 彼我の戦力を瞬時に判断し、みちるが叫ぶ。
 不知火とXM3を擁するヴァルキリーズならばともかく、大半が撃震と陽炎の混成部隊であり機体性能でも練度でも劣る帝国軍に、帝都守備隊の精鋭達を相手取るだけの力はない。
『ここから先は行かせないよッ!!』
 水月が呼応するように声を上げた。

 陣形を敷いたヴァルキリーズへと突き進んでくる漆黒の不知火。国連軍と反乱軍、奇しくもその戦力は同じ不知火十二機。ならば、その結果を決定するのは個々の技量と部隊の戦術――即ち、部隊全体の力量。
 先制攻撃を放ったのは反乱軍だった。
 雨霰と打ち込まれる36mm砲弾の嵐。しかし、それらはいずれも空を切り、あるいは地面、木々に穴を穿つばかりだ。蒼穹色の不知火は、その機動力を活かして全ての砲撃を回避してみせる。
 ヴァルキリーズは尚も止まらない。
 急加速、急制動、急旋回――武によって叩き込まれた高速機動を最初から全開にして、反乱軍を翻弄する。
 ヴァルキリーズの陣形に風穴を開けるべく楔壱型で突き進む反乱軍であったが、気付けば、ヴァルキリーズの壁を突き崩すどころか、跳躍と着地を織り交ぜた三次元機動の前に、為す術なく青い不知火によって囲まれていた。
 包囲状態から、先程のお返しとばかりにヴァルキリーズが砲弾を撃ち込んでいく。しかし、黒い不知火を撃墜することは一機として叶わない。
 帝都守備隊――帝国軍の最精鋭部隊の誇りに懸けて、彼らと手そう容易く討ち取られるわけにはいかなかった。
『これなら――ッ!』
 放たれた砲弾を跳躍によって躱すと、七瀬凛はすかさず砲撃を放った。
 しかし凛によって狙われた反乱軍衛士――駒木は焦らない。機体に砲弾を掠めながら、着地後の一瞬の硬直を狙い、七瀬機へと反撃する。
 だが、その程度で討ち取られるような凛ではない。機体制御技術を買われた突撃前衛ではなかろうとも、彼女とて伊隅戦乙女隊の一員。そして何より、白銀武による直接の薫陶を受けたこともある。
 いかに相手が衛士としての経験であれば格上であろうとも、負けてやるつもりは毛頭ない。
 着地の硬直をキャンセル、即座に噴射跳躍により横っ飛びし、さらに都合二門の突撃砲で砲撃の雨を降らせる。
『速いッ……!』
 凛による砲撃を躱しながら、駒木が引きつった声をあげた。
 ヴァルキリーズは決して足を止めない。対して、事後硬直という枷をはめられた駒木ら反乱軍は、必然的にその瞬間に縛られることとなる。
 ――故に、そこを狙う。
 マズルフラッシュと共に放たれた36mm砲弾が、刹那とも言うべき瞬間を狙い済まして、漆黒の不知火を襲った。
 着弾――爆音。
『……やった?』
 もうもうと立ち上る黒煙と、オレンジ色の炎。狙い通りに動力炉を撃ち抜いたのか……柏木晴子は、半ば祈りにも似た気持ちで呟いた。
 だが、相手は晴子とは比ぶべくもなき経験を有する歴戦の勇士。
 晴子らにXM3という硬直をキャンセルするための機構が備わっているならば。駒木らには、その硬直をいかにして最小限に抑えるかという、経験から導き出された技術が備わっている。
『――!』
 息を呑む晴子。
 煙の中から、ぎろりと睨めるように、青いアイセンサーが覗いた。
 まるでその無機質なはずの視線に射貫かれたような感覚を受け、晴子は止めかけていた足を再び動かした。
 確実に仕留められるであろうタイミングで放ったはずの一撃はしかし、追加装甲によって防がれていた。あの爆炎は、追加装甲に設けられたリアクティヴアーマーが炸裂したものだったのだ。
 ――連携を読まれてる。
 流石は一流の衛士、そう簡単には崩れてくれそうもない。
 凛による砲撃の雨が、直接駒木を討ち取ろうとしたものではなく、晴子の砲撃のための足止めであったことを、駒木は見抜いていたのだ。でなければ、あのタイミングで防がれるはずがない。
 改めて、相手の技量の高さを思い知らされる。
 と、弱気になりかけたところで、
『そのまま陣形を維持! 機動性を活かして攪乱するんだ! 動き回って囲い込めッ!!』
 僅かな不安さえ吹き飛ばそうとするかのように、みちるが指揮を飛ばした。
 楔壱型の陣形を整え直し、右翼目掛けて反乱軍が突撃してくる。それに対応すべく、みちるの指示に従ってすぐさまヴァルキリーズもまた体勢を立て直す。
 さらに、
『B小隊! スコアレスは一日食事抜きよ! 伊隅ヴァルキリーズ突撃前衛の意地を見せろぉッ!!』
『了解!』
 水月の掛け声で、B小隊が敵部隊の横腹への食らいつく。
 その先鋒を切ったのは他ならぬ水月――ヴァルキリーズ近接戦闘最強の名の下に、その長刀を振りかぶる。
 当然、反乱軍もその行動は予想通り。一斉に砲門が水月らへと向けられ、立て続けに火を噴いた。
 その、嵐のような砲撃を前に。
 にやり、と。水月は唇の端を吊り上げた。さながら、凶暴な肉食獣のように。
 舞踏のようなステップで砲撃を回避、着地際への一撃を噴射跳躍で躱す。夜闇に鋭いアーチを描く蒼穹色。慌てて反乱軍衛士が砲口を上へと向ける――その瞬間には、既に水月は次の入力を終えていた。
 自動姿勢制御をキャンセル、跳躍ユニットの噴射口を上方へと向ける。
 ――刹那、青白い炎が迸り、速瀬機が前方宙返りの要領でローリングし、回転の勢いそのままに長刀が一閃された。
 機体が真っ二つに両断され、爆炎が巻き起こる。リアクティヴアーマーの炸裂とは明らかに異なる、戦術機が内側から弾けた炎。
 再び跳躍ユニットを操作し、噴射によって落下の勢いを相殺、着地する速瀬機。
『さぁ、これで私は一機落としたわよ!?』
 わかりやすい挑発で、水月は部下達を焚き付ける。
 小隊長自ら先陣を切って敵機を落としたのだ、それで燃えなければ伊隅戦乙女隊B小隊の一員とは言えない。
『私だって……!』
 水月に続いたのは、高原小雪少尉――元207A分隊の一員であり、その思い切りの良さを買われて突撃前衛へと抜擢された少女である。
 両主腕に突撃砲を装備するスタイル。砲弾をばらまきながら、敵機との距離を詰めていく。
『高原! あの馬鹿……ッ!』
 小雪と二機連携(エレメント)を組む神崎月乃少尉が、勇み足で飛び出した高原機を慌てて追い掛ける。突撃砲と追加装甲という、オーソドックスなスタイル。
 だが、敵もみすみす合流を許してくれはしない。足下を抉った砲弾に、月乃は舌打ちしながら突撃砲を構えた。
『邪魔しないでっていうのに……!』
 36mm弾で応戦しながら、月乃はレーダーへの注意も忘れない。小雪に万が一のことなど、決して起こさせはしない。
 その小雪はと言えば、月乃の心配など無用だとばかりに、軽快な動きで敵機を翻弄していた。
 旋回するように水平噴射跳躍で移動しつつ、時折上方への跳躍や急制動を織り交ぜ、狙いを定めさせない。
 小雪の操縦技術は、決して特別高いわけではない。勿論、ヴァルキリーズの突撃前衛に抜擢されるくらいだから、一定の水準以上には達している。が、それは彼女の機動制御が突撃前衛として飛び抜けているということを意味しない。
 冷静に分析するならば、今小雪が相対している反乱軍衛士の方が、純粋な技量であれば遥かに上だろう。方や帝都守備連隊の精鋭、方や任官して半年足らずのひよっこ衛士。比べものになろうはずがない。
 ――だが。今この時に限っては、その不等式は覆る。
『なんだあの機動は……!?』
『こんな動きが不知火に……いや、戦術機にできたのか!?』
 反乱軍衛士が口々に悲鳴じみた声をあげた。
 当然だ。
 同じ不知火に乗っているはずなのに――それも、自分達は不知火が配備されてすぐに搭乗し始めたはずなのに――相手は自分達には出来ない機動をやってのける。
 流れるような、連続した機動。
 驚愕は冷静さを奪い、焦りを生み、ますます彼我の見せかけの能力差に惑わされ、不安と焦りが募る――。
 小雪が付け入る隙は、いくらでもあった。
 敵機を弾幕によって地面に縫い付けながら、一定距離を保っていたはずの高原機が急旋回して敵機へと迫る。
 これまで翻弄された鬱憤もあったのだろう、それを好機と見て、漆黒の不知火もまた水平噴射跳躍で加速し、高原機へと突進してくる。
 砲口が三度、立て続けに火を噴いた。しかし、それが高原機を撃ち抜くことはない。
 急制動と共に地面を蹴り、砲撃の寸前で小雪は横へと飛び退いていた。着地の瞬間に再び地面を蹴り、さらに狙いを定められるように跳躍ユニットを噴かす――武直伝の二段ジャンプ。
『ちょこまかとッ……!』
 がりがりとけたたましい音を立てて、黒い不知火の主脚が地面を削る。機体を慌てて反転させようとするものの、バランサーが作動しているために入力を受け付けない。
 ――一瞬の空白。
 それは、反乱軍の不知火に搭載されているのが旧OSであるが故の必然。埋めようのない、けれどあまりにも致命的な一瞬。
 一拍遅れて反転し、突撃砲が天を突けとばかりに上方へと向けられ、咆哮する。
 しかし、上方に向けられたカメラに高原機が映ることはなく。ましてや、砲弾が捉えることはなかった。
 眩いマズルフラッシュの閃光だけが空しく輝く。
 それを掠めるように。夜の闇から、蒼穹が流星のように落ちてくる。
 反転噴射――跳躍からの急降下により着地、高原機は敵機の懐へと潜り込む……それは、小隊長である水月までもが幾度となく煮え湯を飲まされた、武の最も得意とする三次元機動の一つだった。
 相手がそれに気付いた時には既に手遅れ。
 小雪は無防備な土手っ腹目掛け、120mm滑空砲をぶち込んだ。強烈な轟音が炸裂し、一瞬遅れて、その数倍もの音と光が溢れた。
 その爆炎から逃れるように後方に跳躍、着地した小雪は、頬を紅潮させ、興奮も顕わに声をあげた。
『――いける……! このXM3があれば帝国の精鋭とも渡り合える……!』
 その、直後だった。
 孤立した蒼穹色の不知火を狙って、一機の漆黒の不知火がその背後から忍び寄る。烈士の白い文字だけが、不気味な程に闇の中に浮かび上がっていた。
 それに、小雪は気付かない。気付けるはずがない。帝都守備連帯の精鋭を一対一で墜としたという興奮で周りが見えていない彼女には。

『――高原! チェックシックス!!』

 鼓膜へ叩き付けるような月乃の声が、小雪を我に返らせた。
 リアカメラに映った不知火は長刀を振り上げ、今まさにそれを振り下ろさんとしている。
 ――避けられる……!?
 自問に対する答えはノー。たとえ今次の行動を入力しても、長刀を躱しきることは不可能。XM3によって即応性が向上していようとも、それは絶対に不可能だった。
 だが、このまま大人しく斬られてやるつもりなどない。
 ――死力を尽くして任務にあたれ。
 ――生ある限り最善を尽くせ。
 ――決して犬死にするな。
 ヴァルキリーズの隊規が小雪の頭の中に響く。
 まだ彼女は死力を尽くしきっていない。最善を尽くしてなどいない。ましてや、犬死などしてやるつもりはない。
 死ぬもんか、と。
 刹那にも満たない、思考とも呼べぬ思考の末。

 長刀が、高原機の背で跳ね上がった。
 
 それは体に染みついた衛士としての本能の為せる業であったかもしれないし、あるいは繰り返された訓練の賜、またあるいは彼女が見てきた先人達の教えによるものであったかもしれない。
 だが、それを実行に移せたのは、偏に彼女の最大の持ち味――思い切りの良さ故。その思い切りの良さこそが、より良い未来を掴むための、彼女の能力。
 ロッキングボルトが炸裂し、火薬式ノッカーが小爆発と共に長刀を一気に跳ね上げる。
 振り下ろされた長刀と、跳ね上げられた長刀。二つの長刀が激突し、耳障りな音を発した。諸手上段からの斬り下ろしとノッカーによって跳ね上げられただけの長刀とでは一瞬以上は均衡を保てず、高原機の兵装担架ごと長刀が叩き折られる。
 ――だが、その僅か一瞬によって、確かに小雪は一命を繋いだのだった。
『チィッ――!』
 その渾身の一撃を防がれた衛士――駒木は、鋭く舌を鳴らした。
 振り下ろした長刀の刃を返し、すぐさま斬り上げへと転ずる――が、
『させるかッ!!』
 五発の突撃砲弾が駒木機目掛け放たれ、二撃目を放つことは叶わぬまま、駒木は後退を余儀なくされた。
『あ、ありがとうございます、秋山中尉、神崎少尉……助かりました……』
 今度は冷静に周囲を警戒しつつ、小雪は言った。
 だが、それに返ってきたのは楓の怒号と、みちるの叱咤だった。
『油断するな馬鹿者!! いつから敵を見くびれる程貴様は強くなったんだ!?』
『そんなに死にたいならとっととヤツらに殺されてこいッ!! その方が部隊の負担が減るというものだ!』
 元207A分隊の面々が一斉に絶句する。同時に小雪は、自らの油断がどれ程愚かな行為であったかを思い知らされる。
『それが嫌なら動け! 死にたくなければ――隣にいる仲間を死なせたくなければ、貴様らが自分で守るんだッ!!』
『了解ッ!!』
 みちるのその言葉で、部隊内にどこかたゆたっていた弛緩した空気が一掃される。
 今まで、新任の五人は、戦場における死というものを知らなかった。死の八分を乗り越え、初の実戦で誰一人として脱落することなく、さらには帝国軍の精鋭達相手に互角以上に渡り合ってみせた。
 それらの事実が、知らぬ間に彼女達に死をどこか遠いものと思わせていたのだ。
 ――しかし、今、彼女達は思い知らされた。
 死は、常にすぐ傍にある。戦場の至る所に死は溢れ、いつだって背中に貼り付いているものなのだと。
『高原! 帰ったら罰として腕立て伏せ覚悟しときなさいよ!?』
 軽口を叩きながらも、水月の眼差しは真剣そのもの。彼女らのそれは過度の緊張を解すものであり、弛緩するためのものではない。それが証拠に、その眼球は網膜に投射された計器の表示に合わせて、めまぐるしく動いている。
『それは君もだぞ、速瀬中尉』
『ちょ、ちょっと何でですか秋山中尉!?』
『ひよっこの失態は小隊長の失態だろう?』唇の端を吊り上げながら楓が返す。『そもそも、君があんな挑発で焚き付けなければあんなことにはならなかったんだ』
『う……了解』
 小雪が勇み足になった原因の一端が水月の挑発にあったというのは、間違いではない。それを自覚してか、水月もそれ以上の反論はしなかった。
『そういうことだ。涼宮、柏木。部隊長の私に恥を掻かせるような真似をしてくれるなよ?』
 にやりと唇の端を吊り上げてみちる。それに楓が続く。
『まさか私に責任を負わせたりしないな、麻倉?』
『りょ、了解――ッ!』
 名指しされた三人が背筋を強張らせながら応えた。
 しかし、その緊張は心地よい緊張だ。弛緩しているのではなく、かといって体が硬直しているのでもない。戦場独特の高揚感の中に宿る冷静。
『XM3の優位に驕るな! 誰一人として死ぬことは許さん!! いいな!?』
『了解!!』
 みちるの言葉に、一斉に返る応の声。
 だが、それは反乱軍も同じだった。
『ヤツらの動きに惑わされるなッ!!』指揮官である駒木が一喝する。『敵の不知火は明らかに調整されている――演習は忘れろッ! 動きが予測できない敵との戦いこそ我々の本領のはずだ!』
 彼女の言葉は、正鵠を射ていた。
 本来、衛士の戦うべき敵は人間ではない。それはBETAという名の忌むべき侵略者であり、彼らはそのBETAと戦い続けてきた歴戦の勇士である。
 ――ならば、敵衛士の動きが読めぬとて、何を臆する必要があろうか。
『オォォォォオオ――ッ!!』
 ヴァルキリーズの耳に届くことのない鬨の声をあげながら、反乱軍がヴァルキリーズに襲いかかる。
『来るわよ――築地! 援護しなさい!』
『りょ、了解ッ!』
 先頭を切って迎え撃ったのは、突撃前衛長の水月だった。長刀と突撃砲の装備。
 それに築地多恵が続く。右主腕と兵装担架、二門の突撃砲で弾幕を張り巡らせながら、左主腕では逆手に短刀を構え、弾幕を抜けた敵に備える。
 黒い不知火が振り下ろした長刀に長刀を合わせる水月。直感的に、この衛士が要であると――突撃前衛長たる自分が討たねばならぬ敵であると――水月は理解していた。
 突撃砲を放棄し、長刀を諸手に持ち替える。
 相手の長刀を滑らせるように受け流し、胴部目掛けて長刀を振るう。しかし、流石は帝国軍衛士と言うべきか、敵はすぐさま長刀を返しそれを受け止める。
 さらに数合長刀を合わせるが、容易には突破口を見出すことが出来ない。今夜水月が相手取った衛士の中では、一つ分どころか二つ分は頭抜けていた。
『速瀬中尉――ッ!』
 耳に入る茜の声。水月は一瞬でレーダーに視線を巡らせる――右方に敵影あり。
 地面にスパイクを打ち込み機体を浮かせ、相手の斬撃を受け止める反動を利用して後退する。直後、機体の眼前を弾丸が通過した。
 その弾丸を放った敵機目掛け、涼宮機が都合四門の突撃砲で弾幕を叩き付ける。しかし、それらは全て空を切った。
 再び距離を詰められ鍔迫り合いの格好となった速瀬機の後方では、築地機が短刀で近接戦闘を演じていた。
『こいつら……急に動きが良くなった!?』
 斬り結んだ一機だけではない。敵部隊は、先程までの動きは何かの枷でもはめていたのではないかと思うほど、黒い不知火達は俊敏な動きを見せる。
 いつしか戦況は逆転し、戦場のあちらこちらでヴァルキリーズが押され始めていた。
『当たら、ない……ッ』
 呟く晴子。支援突撃砲から幾度となく砲弾を放つが、敵は先の水月のお株を奪うかの如く、軽やかに砲撃を躱してみせる。
 このままではまずい――そう判断した水月は機体出力を限界近くまで引き出し、瞬間的に電磁伸縮炭素帯(カーボニック・アクチュエータ)を伸縮させる。各部関節を軋ませながら、水月はどうにか長刀を押し返し、鍔迫り合いの状態を脱する。
 その一瞬前、多恵は噴射跳躍により空中へと躍っていた。
 空中から、後退により体勢を崩した敵機目掛けて、36mm弾の雨を降らす。訓練で培った連携――訓練では部隊の半数以上がこの連携で墜とされた経験があるはずだ。
 ――だが、今回の敵は経験が違った。
 駒木咲代子――今回のクーデターの首謀者沙霧尚哉の腹心。そして、()()()()()()()()()()()()
 頭上にかざされる追加装甲。リアクティヴアーマーの炸薬が爆裂し、赤黒い炎が広がった。
 しまった、と多恵が思った時には既に遅い。煙幕に乗じて、一機の不知火が青白い閃光の軌跡を引いて弾丸のように飛び出した。
 速瀬機を飛び越え、築地機を潜り抜け、一直線に一機の蒼穹を目指す。
『しまった――大尉ッ!!』
 水月が叫んだ。敵機の向かう先は部隊の指揮官、伊隅機だ。
 敵は気付いている。伊隅機こそが、ヴァルキリーズの指揮官機であると。水月が駒木を真っ先に潰さねばならぬと判断したのと同じように、駒木もまたみちるを潰さねば勝利はないと、そしてそれが出来るのは自分だけだと、衛士としての勘で正確に読み取っていた。
 慌てて水月は機体を反転させみちるの援護に向かおうとするが、
『バカ者ッ!』みちるの一喝がそれを押し止める。『余所見をするな! こちらは押さえる!』
 言われて、水月は自分の愚かさを笑った。誰よりも伊隅みちるの強さを知る者の一人であるというのに。彼女に比べれば、自分はまだまだひよっこだというのに。
 伊隅みちるに限って、心配など不要だろう。
『大尉、そっちは任せます――私はこいつらを食べさせてもらうとしますよ!』
 水月の口許に、肉食獣を思わせる獰猛な笑みが宿る。
 機体のメインカメラは、おあつらえ向きに速瀬機へと向かってくる敵機を捉えている。
 そこへ、美冴が涼やかな――けれどどこか意地の悪い――微笑を浮かべて、
『やっとお待ちかねのベッドインというわけですね、速瀬中尉?』
『む~な~か~た~?』
『って神崎が言ってました』
『あ、あたしですか!? 言ってませんよそんなの!』毎度のことながら突然水月の怒りの標的とされた月乃が狼狽える。『第一そんな場合じゃないじゃないですかッ……と!』
 軽口に付き合わされながらも、月乃は突進してくる敵機を躱し、擦れ違いざまに砲撃を叩き込む。
 月乃は無言で眉をひそめた。今の一撃で仕留めたかったが、運悪く――あるいは敵の技量によってか――肩部装甲に阻まれてしまった。敵機の肩部装甲には六つの風穴が穿たれていた。
『確かに神崎の言うとおり、いくら体が火照ったからといって、処理している場合ではありません、ね!』
 美冴は長刀で斬り結びながら、風間機へと迫る一機を突撃砲で足止めする。直後、その動力部を祷子の放った弾丸が撃ち抜いた。
『神崎! 後で覚えてなさいよ!!』
『えぇ!? あたしそんなこと――言ったかもしれませんけどそういう意味じゃないですってば!』
 笑声が混じるが、眼差しは真剣そのもの。一切の油断なく、相対した敵を見据えている。
 月乃と対峙した一機が、肩部装甲をパージする。装甲に穴が空いてしまえば、機体の重量バランスが崩れてしまう。それを嫌ったのだろう。
 肩部装甲がなくなれば、当然ながら防御力は低下する。同時に重量も大幅に減少するが、それがイコール機動性の向上に直結するわけではない。重量の減少が機動力を向上させることは間違いないが、戦術機は肩部装甲の重量によって意図的に重心バランスを崩すことで静安性を打ち消し、運動性を高めている。接地機動におけるスプリント力は、逆に低下してしまうのだ。
 神崎機は長刀を構えは、出力を最大限まで引き出し、主脚装甲による突進を仕掛けた。
 当然、それを迎え撃とうと、敵機は突撃砲を構え、長刀を振り上げる。
 月乃は大きく機体を傾がせ、その反動を利用して横滑りするように機体をターンさせる。
 機動性の低下した黒い不知火がその動きについて行けるはずがなく、神崎機の間合いへの侵入を呆気なく許してしまう。さらに月乃は、照準を定められるよりも早く、噴射跳躍――空中へと躍り出た。
 虚空を切って飛んでいく砲弾。
 さらに続けざま、反転噴射で着地、敵機の背後を取り、
『――七瀬!』
 呼び掛けながら、明後日の方向――否、支援突撃砲を構えていた後衛機目掛けて突撃砲のトリガーを引いた。
 神崎機から数十メートル離れた地点で蜂の巣にされた不知火が炎上し、
『――任せてください』
 神崎機の背後で、爆発が起こった。
 遠く離れることおよそ三百メートル――七瀬機の構えた突撃砲の砲口から、白い煙が細くたなびいていた。
『ナイス、七瀬!』
『神崎さんが注意を引き付けてくれたお陰です。神崎さんこそ、よく後衛を見ていましたね』
 微笑を浮かべながら、七瀬凛が応えた。
 特に打ち合わせをしたわけではない。互いの動きや思考を理解しているが故――訓練兵時代からの繋がりの為せる業であった。

 そうして、次々と黒い不知火が斃れていく。最早形勢は明らかであった。
『――投降しろッ!』オープンチャンネルでみちるは反乱軍へと呼び掛ける。『もはや追撃は間に合わん! これ以上無駄な血を流させるな!』
 それに驚いたのは、彼女と対峙する駒木だった。当然だろう、彼女の鼓膜を震わせたのは、翻訳された機械音声ではなく生の日本語だったのだから。不知火に乗っているだけの他国籍の衛士だと思っていた相手が、よもや同じ日本人だなどと、誰が思おうか。
『貴様……日本人か!? 現状を見てなお殿下を連れ去ろうとするのか……売国奴め!』
 売国奴――みちるにとっては、国連軍に入隊すると決めた時から、幾度となく浴びせられた言葉だった。何故帝国軍ではなく国連軍に――米国の狗になろうとするのか、と。帝国国民としての誇りはないのか、と。
 一時期はその言葉に苛まれたこともある。自分が正しい道を選んだと胸を張れなかった時もあった。
 だが、今は自分の選んだ道が間違いでなかったことを信じられる。
 香月夕呼という天才の下、この星を救うための、人類を守護する剣の切っ先としての自分を、誇りに思う。
『……我々は国連軍人としての責務を果たす。軍人(われわれ)に必要なのはそれだけだ』
 みちるは静かに答えた。売国奴と呼ばれたことに対する怒りはおろか、感情の揺れさえもなかった。
 そのことが、ますます駒木の神経を逆撫でする。
『……そういう言葉を言い訳にして皆が現実からそむけ続けた結果がこれだ! 己の利益や立場を守る事しか考えず――そのために他者を貶めるなら、BETAと何が違うというのだッ!!』
 胸の裡の激昂をそのまま叩き付けるような、悲痛な叫びであった。
 BETAは人の尊厳も、命も、文化も、全てを無慈悲に滅ぼしていく。残るのは平坦に均された一面の荒野だけ。全てを無に返す異形の侵略者
 だが、日本というこの国を貶め、踏み躙り、恣にしようとする者達は、BETAと何が違うのか。力なき者に負担を強い、その命を、尊厳を奪う者達は、日本という国を侵略せんとする者達は、BETAと何が違うのか。
 何も違わない――それが、駒木らの主張だった。
 護るべきは何か。何のために戦うのか。力ある者の責務とは何か。それを見失えば、その力は暴力でしかない。
 ――だが。
 BETAと何が違う、という駒木の言葉は、確かにみちるの心を動かした。
 それは、彼女が尊敬する者達に対する最大の侮辱だ。誰に疎まれようとも、嫌われようとも、恨まれようとも、憎まれようとも――全てを擲ってでも人類を救うために命を懸ける者達への侮辱だ。
 それが、赦せない。
 香月夕呼という研究者がいる。極東の魔女と蔑まれ、誰にも理解されず、けれどその天才と呼ぶべき頭脳の全てを世界を救うための研究に費やす女性。
 白銀武という衛士がいる。数多という仲間達の死を乗り越え、命を燃やしてBETAを討ち続け、十代という若さで少佐という地位に上り詰めた男性。
 誰に何と思われようと構わない、と二人は言う。
 みちる自身、自分が売国奴と貶められようが、米国の狗と蔑まれようが構いはしない。
 だが、彼らに対する侮辱は――その誰よりも純粋な人類を救いたいという願いを否定することは、絶対に赦さない。
『言いたいことはそれだけか……』
 静かに、けれど激情の炎を燃やしながら、みちるは呟いた。
『何……?』
 訝しげに駒木。続いてその耳に届いたのは、がり、という耳障りな歯軋りの音だった。
『――繰り返す……武装を解除して部下たちを投降させろ!』
 けれどみちるが駒木に向けて放った声からは、一瞬前の激情はなりを潜めていた。部隊長として、そして歴戦の衛士として、そのような感情を撒き散らすわけにはいかないことを、彼女は知っていた。
『貴様たちの計画はすでに破綻している……これ以上の問答は不毛だッ! 何かを語りたいなら降伏してからにしろ!!』
 みちると駒木が斬り結び、問答を続ける間にも、次々と反乱軍は撃破されていく。
『第3小隊壊滅ッ! 2小隊も押されていますッ! 最後にせめて一太刀――』
『我行動不能! 我行動不能!』
『ぐああッ――』
『……先にゆきます、駒木中尉!』
 断末魔の叫びが、立て続けに駒木の鼓膜を震わせる。みちるを仕留めるはずが逆に押さえ込まれた彼女には、ただ唇を噛みながらそれを聞き続けることしか出来ない。
 ――やがて、残る反乱軍機は駒木機ただ一機のみとなっていた。
 自分ではこの国連軍衛士に勝つことは叶わない――彼我の実力を思い知らされた駒木は、静かに、けれど悲壮な覚悟を込めて呟いた。
『――不毛……その通りだ。もはや我々が語るべき言葉など――ない』
 たとえ日本人であろうとも、国連軍衛士に、反乱軍の覚悟は理解出来ない、と。同じ日本人でありながら、帝国軍と国連軍とでは、その在り方が決定的に違うのだと、駒木は既に一種の諦念を抱いていた。
 だが、それでも。
『――破綻などはしていない』
 彼女は信じていた。自分の信じるものは……あの無垢な男の魂は、間違ってなどいないと。この日本という国に再び魂を取り戻す――その願いは正しいのだと。
 だから、迷いはなかった。
『――すでに雪は降り出した。地に積もった雪は陽に照らされ、冬の終わりを告げる雪解け水となる。夜明けは近い……我らは雪となりこの国の汚濁を洗い流す』
 夜が明ける時には、沙霧は必ずや悠陽を米国の魔の手から救い出し、そしてこの国をあるべき姿へと戻してくれるはずだ。
 悠陽が実権を握りさえすれば、もう心配はいらないだろう。
『――そして。陽の差すところに……雪が残ることはない――』
 わかっている。自分達が罪を犯していることくらい。
 それでも、誰かがやらねばならぬのだ。この国を護るために。日本に再び魂を取り戻すために。
 ならばその汚れ役、喜んで引き受けよう。たとえこの命がここで尽きようとも――。
 覚悟は、とうに決まっていた。彼について行くと決めたその時から。
 煌武院悠陽――陽の名を持つ将軍の治める世には、雪も汚濁も残ることはないのだから。
 ゆっくりと、駒木は長刀を諸手上段に構えた。それに応じるように、みちるもまた突撃砲を破棄し、同じように長刀を構える。
 無言のまま、みちるは部下達に手を出すなと圧力を掛け、敵と改めて相対する。
 そしてどちらともなく青と黒の不知火は地面を踏みしめ、
『……参る――!!』


 ようやく亀石峠に到着した武達は、米国陸軍からの補給を受けていた。
 こうしている間にも追撃軍は着々と距離を詰めてきているが、途中で推進剤切れ、ということになってはどうしようもない。追い付かれたとしても、冥夜による説得に持ち込むという手段があるが、推進剤や弾薬がなければ、その後待ち受けているかもしれない“もしも”に対処することが出来なくなってしまう。
 武はちらりと悠陽の様子を窺った。前の世界での悠陽の顔色をはっきりと覚えているわけではないが、確実にそれよりはずっと良い。
 悠陽の体に異変があれば、それは即、進軍速度に影響を及ぼす。スコポラミンの安全服用限度は一日三錠。これ以上の投与は命に関わる。
「殿下、正直に答えてください。体に障りはありませんか?」
「ええ。そなたの操縦はどこか変わっていますが、とても安定していますゆえ」
「わかりますか」
 ええ、と頷く悠陽。
 現在はお飾りとなってしまっているとはいえ、悠陽が将軍――軍の最高司令官――として、戦いにおける先陣を切る責務を負っていることに変わりはない。
 悠陽の実機搭乗時間は実に九十六時間――207B分隊のそれと同等か、それ以上である。
 いつかは将軍専用機である濃紫の武御雷を駆ることとなる彼女は、たとえ自ら戦場に赴くことはなくとも、日本帝国の象徴として、武御雷に見合うだけの技術を身に着けねばならないのである。
「じきに斯衛軍や帝国軍にも搭載されるでしょうが、オレの操縦は、横浜基地で開発した新概念のOSに基づいているんです」
「戦術機のOS……ですか?」
「はい」
 XM3に搭載された新概念であるキャンセル、先行入力、コンボについて悠陽に説明する武。それを聞く悠陽は、目を丸くしてあどけない表情を浮かべていた。
「オルタネイティヴ4の研究成果の一つである新型のCPUに換装してあるので、おまけとして即応性も三十%程向上しています」
 と武は締めくくった。
 悠陽は目を見開いた。XM3に搭載された新概念の有用性は理解出来ずとも、即応性の向上によって得られる恩恵は、感覚的に察しているはずだ。それさえも新概念を可能とするためのハードによるおまけだと言えば、XM3がどれ程優れているかは察せられるだろう。
「オレの操縦が変わっていると殿下が感じたのは、キャンセルや先行入力を常に行っているからでしょう。これでも、XM3の発案者ですから」
「そなたが……?」
「ええ」
 武は、半ば無意識の内に、頭部センサーマストやナイフシースを操作し、機体の姿勢制御を行っている。アクロバティックな機動を繰り返す武にとって、それは必要不可欠な技術であった。
 無論、通常の機動時であっても例外ではない。長く戦い続けるためには、より効率的に、より精密かつ機体への負荷が小さな軌道制御を求められる。同量の噴射剤を消費するならば、出来る限り長距離を跳びたいというのは、戦場に身を置き続けた衛士であれば当然の思考と言える。
 そしてそれには、XM3の存在が不可欠だった。刻一刻と変わる状況に応じて、絶えず姿勢制御を行う――最早、身に染み込んだ本能レベルでの操縦技能である。
「いつかこのXM3が全軍に配備されれば、戦場で命を落とす衛士は格段に減り、きっと人類にとっての希望になる……オレは、そう信じています」
 そのためにも、この戦いは一刻も早く終わらせなくてはならない。
 武のエゴで、これ以上の犠牲を出さないためにも。そして、自らの無力に唇を噛む一人の少女のためにも。
「成る程……その若さで少佐という地位に就いていることにも得心がいきました」
 悠陽は噛み締めるようにそう言った。
 血筋により生まれながらに将軍となることを義務付けられていた彼女にとって、純粋な実力だけで――実際にはそれだけではないが――高い地位に上り詰め、その地位に見合う働きをしている武は、ある種眩しく映ったのかもしれない。
 尤も、三十年分以上の経験を持つ武にしてみれば、悠陽こそこの若さでよくこれだけの重圧に耐えられるものだと感心する他ないのだが。
「白銀、そなたに感謝を。そなたのお陰で、障りは全くありません」
 改めて武の目を見据え、先の質問にそう答える悠陽の顔には、隠しきれない疲れの色が滲んでいたが、武はそれに言及することはしなかった。悠陽の性格を考えれば、指摘しても意固地になってしまうだけだろう。そこまで考えて武は、自然と苦笑を零していた。
「どうしたのです、白銀?」
 不思議そうに問いかけてくる悠陽に、
「いえ――やっぱりそっくりだと思いまして」
 瞬間、悠陽の顔に、喜びとも悲しみともとれぬ色が浮かび上がった。目尻には薄く涙も滲んでいる。
 それに気付かぬふりをしながら、武は続けた。
「外見だけではなくて、この国に対する想いや自分は後回しなところ、なかなか人に甘えないところ、芯の強さ……あとは、梃子でも動かない頑固なところとかも」
 二人が剛柔の違いこそあれ、よく似た姉妹であることは前の世界でよく知っていたはずであったが、二人を対比させる機会が久しくなかったため、改めて実感したのであった。
 この二人はよく似ている。何より、互いが互いを想っているところが。
「……やはり、そなたは知っているのですね」
「はい。全てとまでは言いませんが、殆ど知っているつもりです」
 目を伏せて言う悠陽に、武は頷かずに答えた。
 実際は全てを知っているようなものだ。前の世界での12・5事件の際に悠陽の口から聞かされた内容、その後の冥夜との交流で知ったこと、帝国軍に異動後改めて目の当たりにした事実――冥夜と悠陽、双方から話を聞く機会に恵まれていた武以上に、この姉妹について知っているのは、五摂家や当時から強い影響力を持っていた一部の武家くらいのものであろう。
 武はそこまでは語らなかったが、聡明な悠陽のことだ、それはお見通しのようだった。
「冥夜が……御剣冥夜がこの部隊にいるのですね」
 しみじみと、噛み締めるように悠陽は言った。武は無言で頷くだけだった。
 彼女にとっての最大の手掛かりは、月詠ら斯衛軍第19独立警備小隊の随伴だった。ブリーフィングで挙がった月詠真那の名を聞けば、聡明な悠陽がそこに思い当たらないはずがない。
「ではなぜ、武御雷が見あたらないのですか?」
 悠陽の言う武御雷が、随伴する紅白の武御雷を指しているのではないことは明らかだった。
 濃紫の武御雷――世界にたった一機しか存在しないフルカスタムチューンを施されたTYPE-00Rは、日本帝国政威大将軍の専用機であり、日本帝国の象徴たる機体である。
 しかし、日本国民にとってのそれ以上に、彼女にとっては、もう一つ大きな意味があった。即ち、煌武院悠陽から御剣冥夜――血の繋がったたった一人の妹への贈り物という意味が。
 そんな彼女の問いに対し、虚偽を以て答えることなど、武には出来なかった。
「御剣が――いえ、冥夜が特別扱いは無用だと言って、使っていません」
 あえて冥夜と呼ぶ武。それが、悠陽に対する礼儀であると思わずにはいられなかった。将軍ではなく、御剣冥夜のただ一人の姉に対する礼儀であると。
「……そうですか。ふふふ……あの者らしい……」
 寂しげに笑みを零す悠陽。彼女にしてみれば、今の彼女に出来る最大の厚意を拒まれたようなものだろう。
 ――そんな誤解を、武が許せるはずがなかった。
「ええ。自分の分は弁えている、一介の訓練兵には吹雪でも身に過ぎるというもの――と言っていましたから。尤も、今の冥夜の実力では、まだまだ武御雷に振り回されるだけですし、乗りたいって言っても乗せてやるつもりはありませんが」
 訓練中に武御雷を大破なんて冗談じゃありませんから、と武は冗談ぽく締めくくる。悠陽は一瞬目を丸くすると、くすくすと微笑した。
 しかし、決して単なる笑い話ではない。訓練中の事故によって機体を大破させたり、時には衛士自身が再起不能の大怪我を負うということは往々にして起こり得る。特に、設計思想の異なる機体に乗り換えた直後であったり――戦術機の操縦自体に不慣れな訓練兵の場合は。
 訓練兵に与えられるのが使い回された練習機であったり、廃棄間近の実戦機であったりするのは、単に訓練兵に実戦機を回す余裕がないというだけではなく、主機出力の小さな機体で戦術機の操縦に慣れさせることで、少しでもそういった事故のリスクを抑えるといった側面もある。
 戦術機や衛士にかかるコストを考えれば、訓練兵に高性能な機体を与えてやるメリットはあまりにも小さい。
 冥夜に限ってそのような失態はないであろうが、いずれにせよ、訓練兵にフルカスタムの武御雷は過ぎた代物だ。最高の性能を持つ機体に乗る衛士には、その性能を最大限に引き出してやる義務がある。訓練兵では、武御雷の性能の半分と引き出すことは出来ないだろう。
「――冥夜はこうも言っていました。私はこの機体に恥じない衛士になれるだろうか、と」
 悠陽が息を呑んだのが、武にははっきりとわかった。彼女の表情を見ることはしないまま、武は続ける。
「あいつにとって……御剣冥夜にとって、あの武御雷はただの戦術機じゃないんです。将軍専用機というだけじゃない、殿下の想いが込められた、何よりも重い意味を持った機体なんです」
 だから、中途半端な気持ちでは、中途半端な技量のままでは、武御雷に乗り込むことなど出来ない。そんなことをしてしまえば、それは煌武院悠陽を貶めることになってしまう。
 自分が武御雷に相応しいとそう思えたとき、冥夜は初めて自分が武御雷を駆ることを許せるのだろう。
「そう、だったのですね……」
 ゆっくりと呟いた悠陽の声には、注意しなくては聞き逃してしまう程度の震えしかなかった。将軍としての立場が、彼女に煌武院悠陽としての感情を抑えさせていた。
 ――こういうところはそっくりだ。
 胸の奥に暖かいものを感じながら、武は言う。
「冥夜は……殿下のことをいつも考えていますよ。冥夜はこう言っていました。決起軍の志と、日本のためを想って動いてきた政治家の志……どちらも理解出来てしまう――その苦しみを一人に抱えさせているのが辛いって」
 悠陽は無言で武の言葉を聞いている。それは、先を促しているかのようでもあった。
「だからせめて心は共にありたいって……言ってました」
 一度も会ったことのない、双子の姉。国連に人質として、政の道具として差し出された原因である彼女を恨んでも仕方がないと考える者もいるかもしれない。
 けれど、実際はそうではない。
 冥夜にとって、悠陽との繋がりは、誇りだ。会ったことも話したこともない姉との絆、それこそが御剣冥夜を御剣冥夜たらしめている、唯一の拠り所なのだ。
 確かに冥夜は人質として差し出されたかもしれない。だが、夜の(やみ)という名を与えられようと、その生き方を選んだのは冥夜自身の意思。
 将軍の影ではなく、煌武院悠陽の影としての生を、誇りと矜持を持って生き抜こうとしている。
 ――その生き方を、尊いと思った。
 夜の(やみ)としての生を義務付けられようとも、その在り方を、眩しいと思った。
 白銀武が、御剣冥夜を尊い存在であると初めて思ったのは、正しく前の世界のこの瞬間のことであった。
「……白銀」長い長い沈黙の後、悠陽はゆっくりと武の名を呼んだ。「……そなたに頼み事があります」
「なんですか?」
「これを……これをあの者に渡してください」
 そう言って手渡されたのは、小さな人形だった。白い頭と青い胴体、そこから伸びる手足だけで作られた簡素な人形。手作りの温かみが感じられた。
「これが……あの者と共に過ごした証なのです……たとえほんの数日でも……」
 武には、確かにその人形に見覚えがあった。
 肌身離さず持っていたのか、あるいはいつでも持ち出せるようにしてあったのかはわからないが、これが悠陽と冥夜、二人を繋ぐ絆の証であることは明らかだった。
「此度、身の回りの品で持ち出せた唯一のものです……」
 武は、無意識の内に手を差し出していた。
 ほんの百グラムとないであろう人形はけれど、武の手のひらに重く横たわる。
 御剣冥夜に、双子の姉はいない。そして、将軍にも双子の妹などいはしない。だからこそ、今、この人形は武に託された。
 これが二度目。だが、人形の重さは、以前とは比較にならなかった。
 ――それは、御剣冥夜の生き様を。そして死に様を知っていたから、だろうか。
 ずくり、と頭が痛む。じくり、と胸が軋む。ざくり、と何かが抉るように切れ込んできて。

 ――いつか見た、地獄の光景が蘇る。

 覚えているのは、天地万物を塗り潰す閃光と爆炎。幾千のBETAを道連れに消し飛んだ蒼穹色。
 刹那。
 瞬き。
 破滅。
 絶望――。

「は、ぁ……っ、く――ぅ……」
 胸郭を突き破りそうなほどに心臓が暴れ狂う。
 血液が沸騰しているような錯覚。
 呼吸が出来ない。
 網膜に映る像がぶれる。あの日見た景色と重なり合う。
 無数の残骸。死骸。小山のような巨体。
 悪夢。光。滅びの槍。
 六つの笑顔。大切だった人達。大切な人達。
『ばいばい、白銀』
『白銀、さようなら』
『じゃあね、タケル』
『さよなら、たけるさん』
『じゃ、ね』
『さらばだ、タケル――』
 聞こえるはずのない声が頭蓋に響く。
 護れなかった仲間達。散っていった。みんな。みんな。
 忘れない。
 忘れられるはずがない。
 その生き様を。
 その想いを。
 その笑顔を。
 ――忘れない。
 忘れたくないと、深く心に刻みつけた。
 願った。何一つ忘れるものかと。全てを刻みつけたいと。
 強く願いながら地獄の果てで黒い閃光に呑まれて――

『――エインヘリヤル1及び207戦術機甲小隊に告ぐ」
 鼓膜を震わせたその声が、突然、武を現実に引き戻した。
「……白銀? そなた、やはり体に障りが……?」
「……何でも、ありま、せん。――ご心配は無用です」
 これじゃ何かあったって言ってるようなもんか、と奥歯を鳴らしながら、武はヘッドセットからの通信に意識を向けた。
 現在、敵軍は山伏峠に到達、足止めをしていた米軍部隊は包囲殲滅を回避するために後退を開始。圧されているようにも見えるが、撃墜比は依然七対一の優勢を保っている。
 戦況は予想の範囲内であり、作戦及びルートに変更はなし。
 武らは補給が完了し次第、隊形を維持して移動を再開、両翼と後部は第66戦術機甲大隊が固めてくれるとのことだ。
『尚、これ以降、エインヘリヤル1及び207戦術機甲小隊は我が第66戦術機甲大隊の指揮下に入るものと――』
「悪いが、それは出来ない」ウォーケンの言葉を遮って武は言った。「207小隊は国連軍横浜基地香月夕呼副司令直属の部隊であり、今回の任務も副司令の命令によって遂行している。よって、他部隊の指揮下に入ることは出来ない。そこで、第66戦術機甲大隊には、斯衛軍同様随伴してもらうか、我々の指揮下に入ってもらいたい」
 悠陽の身柄を米軍に預けるわけにはいかない。ウォーケンを信用しないわけではないが、前の世界でのイルマ・テスレフ少尉の例もある。また、指揮下ということは、いざという場合、体のいい捨て駒にされることも十分に考え得る。
 それに、武が他軍の――それも米軍の――指揮下に入ることを、夕呼は良しとはしないだろう。今や武は、名実共に夕呼の片腕となっているのだから。
 また、前の世界では207小隊の最高位はまりもの軍曹であったが、今回は武もまたウォーケンと同じ少佐の位に就いているため、必ずしも第66大隊の指揮官に入る必要はない。実際はウォーケンの方が先任ということになるのだが、そこまで考慮する必要はないだろう。それに、単純な少佐としての経験であれば、武の方が長いということもあり得るのだ。
『……では、我々はこれまで通り随伴部隊として同行させてもらう――以上だ』
 それを最後に通信が切れる。
 あちらとしても、武に将軍を護るための捨て駒として使われるのは真っ平ということだろう。
「行きます。準備はいいですね?」
 悠陽が無言で頷き、
「エインヘリヤル1より207各機。行くぞ――」
『――了解!!』
 声が返ってくる。
 武の目尻には涙が滲んでいた。



[2785] Muv-Luv ALTERNATIVE -Second World Was Failed- 第25話
Name: Vollmond◆d2a8c8a6 ID:c152aeb4
Date: 2011/02/06 12:23
 現在時刻は4時ちょうど。武率いる207小隊及び斯衛軍第19独立警備小隊は、伊豆スカイライン跡沢口付近へとやってきていた。
 これまで通り、噴射跳躍を交えながら、武達は軽快に進んでいく。207B分隊の面々も、最新鋭の米軍機の援護があるということで安心しているのだろう、表情は幾分和らいでいる。しかし、それでも尚強ばりが抜けないのは、任務からくる緊張感と、確実に反乱軍が距離を詰めてきているという事実からか。
 武にはよくわかる。追撃戦において、追われる側の精神には、尋常でない負担がかかるのだ。それも、相手が格上であるとわかっている場合においては。
 武は、自分の技量が反乱軍に遅れを取るものではないとわかっている。それでも尚、彼らからは尋常ならざるプレッシャーを感じずにはいられない。
 その重圧をもたらすもの、それは偏に――
「――これが連中の覚悟ってことか……」
 独りごちる。覚悟――時に絶望的な差を覆す何か。「白銀?」と不思議そうに問いかけてくる悠陽にゆっくりと首を振り、
 ――上等だ、オレだって負けるわけにはいかねえんだよ……!
 唇の端を吊り上げた。
 網膜に映し出された戦域マップによれば、既に決起軍は亀石峠まで辿り着いている。皆の目にも、それは映っていることだろう。
 足止めとして残っている米軍部隊は、十分な補給もない状態で追撃部隊を迎え撃たねばならない。如何に彼我撃墜比七対一という驚異的な数字を誇ろうとも、撃墜比が勝敗を決するわけではない。
 物量の恐ろしさは、衛士ならば誰もが知るところだ。事実、BETA相手ならば、人間は数十倍、あるいはそれ以上の撃墜比を誇っているのだから。
 ぎり、と武は奥歯を鳴らした。
 この戦いを起こしたのは、武のエゴだ。武の意思のみがこの反乱を引き起こしたわけではないが、この歴史の最後の引き金を引いたのは、紛れもなく武であった。
 武は、自分の意思で、もしかしたら不要であったはずの多くの犠牲を呼び起こした。武の信ずる最良の未来を掴むために、未来を知っているなどという理由で、多くの命を贄としたのだ。
 その事実に後悔はない。後悔など、あってはならない。毒杯はとうに呷った後だ。
 だが、今この瞬間、一人、また一人と人間が人間を殺めているという事実は、武の胸に楔となって突き刺さるのだった。
 だから、その歯ぎしりは悲鳴だった。悲痛をこらえるが故の弱音であった。
「白銀――」ふと、悠陽が声を掛けてくる。「私に気を遣う必要はありません。速度を上げるがよい」
 歯噛みする武を見て合点した悠陽が、武の背中を押す。
 悠陽の顔色に、苦痛は見られない。
 衛士強化装備は耐Gスーツと生命維持装置としての役割を果たしてくれる。蓄積されたデータと武の機動データが大きく異なるため、加速度病に陥ることも十分に考えられるが、幸い、今の速度であればその心配は殆どなさそうだ。
 かといって現在の速度を維持し続けていては、無用な犠牲が増え続けてしまう。
 犠牲は最小限に抑えなくてはならない。
 この戦いは、終わりではない。オルタネイティヴ4が戦いの狼煙をあげる、始まりでしかないのだから。
「エインヘリヤル1より207各機。速度を上げるぞ。隊形、コースを維持――行くぞ、最大戦速!!」
 了解、と幾つもの声が応え、都合十四発の跳躍ユニットが火を噴いた。それに一瞬遅れ、第19独立警備小隊、第66大隊の戦術機が同様に速度を上げる。
 シートに体を押し付けられる感覚。思わず悠陽を見るが、悠陽はじっとGに耐えていた。

 じきに決起軍は冷川の料金所跡にとりつくだろう。だが、『前の世界』よりも確実に、遥かに早いペースでここまで進んでいる。前回は辛うじてすり抜けた格好であったが、今回は危なげなく――無論、比較的でしかないが――突破出来そうだ。
 だが、油断は出来ない。考えたくはないことだが、反乱軍が形振り構わず襲いかかってくる可能性もあるし、何よりハンター2――イルマ・テスレフ少尉が何か妨害してくるということは十分考えられる。
 イルマの話を夕呼にしたところ、夕呼は米軍による洗脳――何かしらの後催眠暗示の可能性を指摘した。どのような条件付けがされているのかは不明だが、今この時でさえ、イルマが何者かの思惑によって襲いかかってこないとも限らない。
 まさか悠陽を載せている状態で米国がそのような暴挙に出るとは思えないが、前の世界よりも速いペースで進軍出来ているということは、米国にとっては極東地域での復権の機会が減っているということでもある。警戒しておくに越したことはないだろう。
 武は視線を僅かにずらすことで、戦域マップを拡大して網膜に表示する。冷川まではもう間もなくだ。
 冷川料金所跡――本来の意味で見るならば、この逃走劇における分水嶺はそこにある。
 反乱軍に頭を押さえられずに突破できるか、突破できたとして悠陽の体調に支障はないか――この二点さえクリア出来れば、悠陽を横浜まで届けることはさほど難しくない。
 後者について言えば、悠陽の顔色から鑑みるに、特に問題はないだろう。前の世界のように冷川を突破したところで部隊を停止させる必要はなさそうだ。
「殿下、お体は?」
「障りありません。もっと速度を上げてもよいのですよ?」
 念のため訊ねてみるが、悠陽は表情を変えることなく答えた。声にも顔色にも、無理をしているようには見られない。
「恐らく、追撃部隊は冷川料金所跡で勝負を仕掛けてくるはずです」
「冷川……」
「ええ」武は頷き、「そこを突破する時、かなり速度を上げることになります。今の内に心の準備をお願いします」
 武がそう言うと、悠陽はおかしそうにくすくすと笑みを零した。
「そなたは心配性ですね。先にも言ったでしょう、そなたの操縦はとても安定していると」そう言って悠陽は目を細めた。「――白銀。私はそなたを信じます」
 僅かに――ほんの僅かにではあるが、武の胸に掛けられる悠陽の重みが増したような気がした。
 将軍としてこれまで気を張り詰め続けてきた悠陽が気を緩め、自分に身を預けている……その事実は武を大いに驚愕させると共に、一層彼の決意を固いものとさせた。
「――その信頼、必ず応えてみせます」
 思わず操縦桿を握る手に力がこもるが、ゆっくりと息を吐き出して必要以上の緊張を解す武。

 悠陽の体調は問題ない。残るは冷川で反乱軍に頭を押さえられずに突破出来るかであるが、前の世界と比べれば、途中で速度を落とさなかった分、僅かにではあるが進軍速度は上回っている。ほんの数分の差ではあるが、戦況を左右するには十分すぎる時間だ。
 ――冷川は問題なく突破出来る。とすると……
 噴射跳躍によるGに耐えながら、武は算段を巡らせる。
 今回のクーデターを利用する上で、武らの目的は主に三つ。
 一つ。日本帝国と横浜基地の関係改善。
 一つ。207B分隊の任官。
 一つ。米国の極東方面影響力の減衰。
 第一の目的については、将軍を無事横浜に送り届けることで達せられるから問題はない。
 第二の目的――即ち冥夜を表舞台に立たせることで、将軍の影としての価値を奪うこと。そのためにわざわざ207B分隊をこのような危険な任務に参加させたわけだが、これについてはいくつかの代案がある。
 わざわざ悠陽――実際には悠陽に扮した冥夜――と沙霧の謁見を行わずとも、横浜に着いた際に悠陽と冥夜を対面させれば、冥夜の存在はある程度明るみに出ることとなる。
 縦しんばそれが失敗に終わったとしても、XM3のトライアルの際に取り上げでもすれば、目的を果たすことが出来るだろう。
 冥夜と悠陽に僅かでも心を通わせる機会を与えたい武としては、このクーデターの中での第二の目的の達成が理想ではあるが、残念ながら二人の対面は最優先事項ではない。
 第三の目的は、このまま無事にクーデターを鎮圧出来た場合、達せられないどころか、米国の影響力を増大させてしまう恐れがある。それが米国の目論見なのだから、当然だろう。
 もし佐渡島の甲21号目標を日本と横浜基地の力だけで陥とすことが出来れば、極東方面では日本の発言力は米国を大きく凌駕することになるだろうが、反オルタネイティヴ4勢力の牽制という意味では、それを待つのは得策ではない。
 既にオルタネイティヴ4の核心たる00ユニットの完成は間近ではあるが、何らかの原因によりそれが失敗に終わらないとも限らない。
 夕呼のことだから、予めわかっていたクーデターに際して米国介入の証拠を得ている可能性も考えられるが、それに期待するのは下策だろう。
 ――オレはオレなりにここで出来ることをしなくちゃいけない。
 どうすれば米国を出し抜くことが出来るだろうか。
 鍵はやはりイルマ・テスレフ少尉か。彼女に後催眠暗示が施されていた以上、米国としてもこのクーデターを横浜まで悠陽を護送するだけで済ませるつもりはないはずだ。
 どこかに綻びは必ずある。
 たとえば、前の世界における謁見中の沙霧への砲撃。仮にあの砲撃の後、乱戦状態に発展する以前に武らがイルマを制圧することが出来たら。そうすれば、国連と米国には繋がりがないことがわかり、改めて謁見をすることも可能だろう。
 あのイルマの行動が後催眠暗示によるものであるとするならば、そのときどのような命令が下されたのか。米国があの謁見をはっきりと予見していたとは考えにくい。あそこまで具体的な命令の刷り込みは難しいはずだ。
 ――テスレフ少尉はその場で誰かに命令された……?
 その可能性は十分に考えられる。ならば、それを逆手に取ることさえ出来れば――
『――ハンター1より各機』
 そんなことを考えていると、タイミング良くと言うべきか、イルマの上官であるウォーケンから通信が入った。
『旧三島市街、136号線跡を進軍してきたと見られる敵部隊と第174戦術機甲大隊が交戦を開始したとの情報が入った。目的地は恐らく冷川料金所跡――我々の頭を押さえるつもりだ』
 来たか、と武は呟いた。
 冷川が包囲突破の重要ポイントであることは、ウォーケンも見抜いている。
 反乱軍は虎の子である富士教導隊を予め136号線跡を進軍させ、転身を防ぐためにE1部隊――見掛け上の本隊――がその後ろをカバーしてきている。
 ここまで戦力を偏重させる思い切った作戦をとれたのは、武らの脱出ルートを鎧衣課長がリークしていたためだろう。彼の計算上、武らはそれでも冷川を突破出来ると踏んだわけだ。
 ――前の世界じゃ彩峰を疑ったりもしたっけな。
 今思えば、彼女がそんなことをするはずがない。武はかつての自分の浅はかさを内心で苦笑するのだった。

「エインヘリヤル1よりハンター1。174大隊の戦況はどうなっている?」
『芳しいとは言えない。相手をしているのは恐らく、富士駐屯地の部隊だ』
『――まさか! 富士教導団まで決起部隊に呼応して……!?』
 まりもが息を呑んだ。
 かつて帝国軍に属していたまりもは、富士教導隊の恐ろしさをよく知っているはずだ。そしてその在り方も。だからこそ、彼女には富士教導隊までもが反乱軍に手を貸したことが信じられないのかもしれない。
『――実験開発部隊を要する帝国軍の最精鋭部隊だ。174大隊が長時間持ちこたえられる保証はない』
「この状況から考えて、富士教導隊は決起軍の切り札ってとこか」
 武の言葉にウォーケンが頷く。
『だが逆に、我々が冷川を突破してしまえばヤツらに打つ手はない、ということだ』
 常識的に考えればそうだろう。
 冷川を突破すれば追撃は不可能、となれば決起部隊には後退命令が出る……ウォーケンは勿論、恐らくはまりもや真那もそう考えているだろう。
 だが、反乱軍はその切り札を上回る奥の手を残している。
 今この場においてただ一人、武だけが冷川の突破ではなく、その後の展開に思考の焦点を当てていた。
「エインヘリヤル1より207各機。聞いていたな? ここからは時間との戦いだ――隊形、コースを維持。最大戦速のまま、噴射跳躍のタイミングはオレに同期!」
『――了解!』
 六つの声が同時に返ってくる。時間との戦い――その事実によって、訓練兵である五人の声からは隠しきれない重圧と不安が滲み出ている。
 ウォーケンがヒート1――174大隊指揮官――にコース変更なしという通信を送る。
 早めに頼む(Be quick)というヒート1の言葉には、もう長くは持たないということを示していた。
 正しく時間との戦いというわけだ。
「エインヘリヤル1より20700、ブラッド1。隊形をオレを中心に縦壱型隊形――第207小隊は左側面、第19小隊は右側面で敵の突出に備えろ」
 了解、まりもと真那が応える。
 斯衛軍を右側面、即ち旧三島市街側に配置することで、反乱軍は迂闊に手出しが出来なくなる。国連軍が相手であれば“米国の手先”として言い訳出来ても、斯衛軍は帝国の象徴の一つだ。武御雷に発砲出来る者は反乱軍にはいまい。
 また、普通に考えれば、将軍を搭乗させている可能性が最も高いのは武御雷。隊形上、マークされるのは武の不知火・弐型だが、それだけで武御雷に将軍が乗っていないと判断することは出来ない。
 反乱軍が将軍に危害を加えることはあり得ない。冷川料金所跡にとりつかれてしまわない限り、悠陽の安全はほぼ確保された形になる。
 ほぼ確実に突破出来る状況ではあるが、マーカーを見る限り、このままでは反乱軍が料金所跡にとりつくのと武らが料金所跡に到着するのはほぼ同時。それは危険だ。
「エインヘリヤル1よりハンター1。このままだと料金所にとりつかれる。貴軍に突破口を開いてもらいたい――頼めるか?」
 友軍機を捨て駒にすることに、後ろめたい気持ちがないわけではない。
 だが、料金所跡まで先行して反乱軍を足止め出来るのは、圧倒的な巡航速度を誇るF-22Aしかないのだ。
『ハンター1了解。ハンター9及びハンター13――諸君の中隊は先行し、敵部隊の料金所跡到着を阻止せよ』
『――ハンター9了解』
『――ハンター13了解』
 ウォーケンの指示に従い、二個中隊が跳躍ユニットを一斉に噴かした。爆発的な加速力を得て、瞬く間に機影が遠ざかっていく。
「――すまない。感謝する」
 冷川までは既に残り一キロを切った。しかし、敵部隊は冷川まで到達してはいない。F-22Aの二個中隊の増援により、富士教導隊の足も鈍る。これで冷川を突破するための時間は十分に稼げたはずだ。
 だが、そこで敵の接近を告げるアラートが鳴り響いた。
 レーダーマップを見れば、5時方向から多数の敵機が追撃してきている。表示されているマーカーの数だけでも最低でも一個中隊以上。速度から察するに、陽炎または不知火による部隊か。
『――ハンター1よりハンター5。君は二小隊を率いてここに止まり、追尾してくる敵部隊を叩け』
『――ハンター5了解』
 一個中隊分のF-22Aが制動を掛け反転する。ここで防衛線を再構築するつもりだ。
 これにより米軍の直援部隊はウォーケンら一個小隊のみになってしまうが、突破を最優先に考えるならば、それも仕方がない。また、単純な進軍速度だけを考えるならば、機体数が肥大化しない方が好都合と言えた。
 戦場の音が近付いてくる。砲撃の合奏。幾重にも重なった轟音が、僅かに機体を震わせている。
 心臓が高鳴っているのがわかる。
 冷川料金所跡――逃走劇の分水嶺は目前だ。
『二時方向より敵機接近――ッ!』
 右側面を固めている神代巽少尉が叫んだ。
 F-22Aによる防衛線の僅かな隙を突き、露軍迷彩を施した不知火――富士教導隊専用機――が一機、一直線に武らを目指して突き進んでくる。
「――全機兵装使用自由! 各機の判断で応戦しろッ!!」
 武が指示を放ち、それとほぼ同時、白い武御雷三機が長刀と突撃砲を装備する。
 だがそれより僅かに早く、闇の中で橙色の光が瞬き、都合六発の突撃砲弾が不知火を貫いた。僅かに遅れて、その機体が爆散する。
 爆風に煽られ、機体が僅かに傾いだ。
「ッ……!」
 武の膝の上で、悠陽が肩を震わせた。伏せられた表情は読み取れなかったが、見れば、唇が白くなる程に歯を立てている。
 ――くそッ……!
 ここに来て初めて、武は悠陽に強化装備を着させたことを後悔した。確かに強化装備は耐Gスーツとしても、生命維持装置としても大きな効果を持っているが、網膜投影により外部の様子がわかってしまう。
 カメラとの接続を切ればよかっただけのことではあるが、着させた時点ではそこまで頭が回っていなかったのだ。
 ただでさえ悠陽は体力的・精神的に弱っているというのに、さらなる負担を掛けてしまった――その事実に武は、ぎり、と奥歯を噛み鳴らし、
「エインヘリヤル1より各リーダー! このままのコースを維持! 一気に突破するッ!!」
『――了解』
 どくん、と心臓が跳ねる。
 視界の端でオレンジの光が爆ぜた。悠陽が小さく声を漏らした。
 轟音。振動。
 心音。
 部下達の顔は硬い。その表情の中に、どこか祈りにも似た感情を武は読み取っていた。
 マップ上の冷川料金所跡の表示とマーカーが重なる。
 スロットルペダルを踏み込む。
 噴射跳躍。長い一瞬。
 そしてそのまま、それ以上の妨害もなく、拍子抜けする程あっさりと、武達は料金所跡を突破したのだった。


『……参る――!!』
 蒼穹と漆黒、二機の不知火は構えた長刀を振りかぶり、同時に地面を蹴った。
 両者の距離は瞬く間に縮まり、振り下ろした長刀をぶつけ合う。甲高い音が夜闇に響き渡る。
 伊隅みちると駒木咲代子……既にこの二人の一騎打ちには、戦略上何の意味もない。
 たとえここで駒木がみちるを降したとしても、彼女一人が増援に向かったところで、戦局は何ら変化しまい。また、みちるにとっても、本来ならば部隊全員で畳み掛ければ勝利は容易い相手だ。
 そもそも、これまでの戦闘で、みちるは大した損耗を負っていないのに対し、駒木の不知火はあちこちに小さな損傷が刻まれている。
 勝負は既に決していると言っていい。
 にもかかわらず、二人は一騎打ちを選んだのだった。それは軍人としてはおおよそあるまじき、あまりにも無駄な一戦だった。
 駒木機が長刀を揺らし、鍔迫り合いの状態から伊隅機の長刀を滑らせ、いなす。そこから流れるように放たれる斬撃。だが、武や水月らと幾度も手合わせをしてきたみちるにとって、見切ることは造作もなかった。
 機体をスウェーすることで回避、重心移動により生じた遠心力そのままに、みちるは胴目掛けての横薙ぎを放つ。
 しかし駒木とて長刀の扱いにこそ己が本領を見出す帝国軍人。みちるの一撃を受け止めると、そのまま鍔迫り合いに持ち込む。
 彼女は、先の水月との打ち合いの際に、ヴァルキリーズの不知火と自分達の不知火との間に出力の差はないということを見抜いていた。
 ならば、彼我の最大の差たる機動力を潰すのが第一――そこで彼女が選んだのが、鍔迫り合いという力比べだった。
 だが、それは自滅への道だ。
 今夜、伊隅機は駒木機よりも長く戦闘を行っているのは事実だ。だが、みちるは長年の経験から機体に負荷を掛けない操縦方法を身に着けているし、大した損耗を負っていない。機体に蓄積されたダメージで言えば、駒木機の方が遥かに大きいのだ。
 このまま力比べを続ければ、先に限界を迎えるのは駒木機の方だろう。
 ――そう、本来ならば。
『ッ――!?』
 突如鼓膜を震わせたけたたましいアラートに、みちるは目を見開いた。
 目線を動かし、機体情報を呼び出す。左膝関節に、イエローシグナルが灯っていた。
 何故だ、とみちるは自問する。何故普段通りの機動をしていたはずなのに、ここまで機体に負荷が掛かっているんだ、と。
 みちるはいつも通り、機体に掛かる負荷を最小限に抑えていた。
 ――だが。そのいつも通りにこそ落とし穴があったとすれば。
 みちるの思考の中に矢のように閃く驚愕と疑問。ほんの一瞬――けれどあまりに致命的なノイズ。
 それを好機と見て、駒木は出力を限界まで上げせめぎ合いの拮抗を崩した。これまでにない力で押され、伊隅機がたたらを踏むように後退する。そればかりか、そのまま尻餅を突くように倒れ込んでいく。
 ――それは、ほんの僅かな差だった。旧OSとXM3という新OS――その違いが、命運を分けた。
 倒れゆく伊隅機目掛け、駒木機が長刀を振り下ろす。
 最早回避する術はない。戦術機は機体が大きくバランスを崩した時、機体へのダメージを最小限に抑えるためにオートバランサーによって姿勢を制御する。そしてその間、動作入力は受け付けない。
 ――それが、ほんの僅かな差。
 旧OSにはめられた致命的な足枷。
 故に、その足枷から解き放たれた伊隅機は。跳躍ユニットを作動させることで、その絶体絶命の危機から脱したのだった。
 センサーマストやナイフシースを操作して姿勢を制御し、跳躍ユニットの出力を調節して、伊隅機は右足からゆっくりと着地する。
 一度距離が離れ、駒木も仕切り直すつもりらしく、追撃を仕掛けてこようとはしなかった。
『っ、ふぅ……』
 みちるの額に滲んだ汗が珠となって頬を伝う。数瞬前の絶望的な状況は、みちるをして死を覚悟せずにはいられなかった。
 それを切り抜けることが出来たのは、00ユニットとしての素質――最適な未来を掴む才能故か。それとも、
 ――XM3がなかったら危なかったかもしれないな……
 旧OSでは回避不可能な未来を回避せしめた、XM3の即応性とキャンセル機能故か。
 だがそこで、みちるははたと気付いた。
 ――XM3……まさか……!
 みちるはすかさず速瀬機の機体コンディションのデータを呼び出し、網膜に投影した。アラートは出ていないが、耐久値が著しく低下している箇所ばかりだ。それ以外の機体も、機体各所――とりわけ主脚の膝関節と足部関節の劣化が激しいのが見て取れる。
 それは、今までヴァルキリーズが直面することのなかった、XM3の唯一とも言える欠点が露呈した瞬間だった。
 みちるは今まで通り、機体の負荷を最小限に抑える機動制御を行ってきた――はずだった。しかし、XM3の性能によって、以前よりも俊敏かつ激しい機動を無意識の内に繰り返していたのだ。結果、気付かぬ内に膝関節に多大な負荷を掛けてしまった。
 みちるは視界の中心に駒木機を据えた。
 それ程の機動をみちるに強いたのは、間違いなく今相対している衛士――駒木咲代子であった。駒木だけではない。高い練度で鍛え上げられた反乱軍衛士一人一人が、みちるらに機体の耐久力を超える程の負荷を強いたのだ。
 幸い、外面上の変化はない。駒木にも気付かれていないはずだ。
 だが、これ以上の長期化はみちるに不利だ。
 ――次の一撃で、決める。
 伊隅機がゆっくりと長刀を上段に振りかぶる。
 それを見て取り、応えるように駒木は中段に長刀を構えた。
 そして、どちらともなく――否、二機の不知火は再び同時に距離を詰めていく。
 駒木機が切っ先を跳ね上げる。
 上段対上段。奇しくも先の焼き直しのように。
 見る間に縮まる両者の距離。
 長刀は同時に振り上げられ、

 その、激突の直前。
 蒼穹色が、沈んだ。

 見る者は、それを致命的な操縦ミスと思ったかもしれない。
 ヴァルキリーズでさえ、ある者は息を呑み、みちるの死を脳裏に思い描いた。
 だが、しかし。
 たとえ機体バランスが崩れようとも、その動きが止まることはなかった。

 甲高い金属音が夜闇を斬り裂き響き渡る。
 そして、鈍く重い音を立てて漆黒は地に墜ちたのだった。
 僅か、一瞬の差。だが、その決定的な差によって駒木機は左主脚を断ち斬られ、夜天を仰ぐように倒れ、戦闘不能へと追い込まれた。
『っ、ふぅ……』
 みちるがゆっくりと息を吐き出した。
 青い不知火が、倒れ込む直前まで前傾しながら長刀を振り抜いた姿勢からゆっくりと起き上がり、切っ先を黒い不知火へと突きつける。
 主機出力は同じ。ならば、放たれる斬撃の速度もまた等しいはずだった。
 だが、それは戦術機単体での話。上段からの斬り下ろし――ならば、駆動出力のみならず、その破壊力には重力も作用し加速が加わっている。
 故にみちるは、機体を倒れ込ませることによって、位置エネルギーを運動エネルギーに変換――即ち、戦術機全体を使って、巨大な重力加速度を斬撃に上乗せしたのだった。
『今の……』
 水月は気付いた。重心の落下を利用した剣閃の加速――それが、白銀武の得意とする剣術であると。
 その事実に、驚きと共にみちるへの賞賛が湧き上がる。
 模擬戦やエインヘリヤルデータでの訓練を通じて、武の機動や技術は幾度となく見てきたが、今みちるがやってのけた剣戟は、そう容易く模倣出来るものではない。ほんの僅かでも制御のタイミングがずれれば、それだけでバランスを崩し、そのまま転倒してしまう。豪快ですらある見た目とは裏腹に、繊細な操縦を要求する技法なのだ。
 ヴァルキリーズ近接戦闘最強の地位たる突撃前衛長に就いている水月でさえ、百パーセント再現出来るかと言われれば、首を横に振らざるを得ない。
 それを、みちるはやってのけたのだ。
 流石は大尉、と思う気持ちもあるが同時に、負けていられない、とも思う。確かにみちるはヴァルキリーズの最古参であり、部隊長だ。だが、水月はその部隊の突撃前衛長。ならば、たとえ相手がみちるといえど、近接戦で引けを取るわけにはいかないだろう。
 速瀬水月は、飛びきりの負けず嫌いなのだから。
 横浜に帰ったら、訓練のやり直しだ。今よりもさらに繊細な操縦技術を身に着けねばならない。みちるが見せた機動を確実に物にするためだけではない。XM3によって大幅に広がった機動――それによって倍増した機体への負担を最小限に抑えるためにも。
 速瀬機もまた、伊隅機程ではないにしろ、機体各所にかなりの負担が掛かり、フレームや関節に目に見えない損傷を抱えてしまっている。
 11月11日のBETA侵攻の際は武が電磁投射砲で大半のBETAを屠ってしまい、またXM3の完熟の度合いのために今回程激しい機動をしなかったので気付かなかったが、このままの機動を続ければ、いつか機体が限界を迎え、命を落とすことになりかねない。
 そんな轍を踏むつもりはないし、部下達にもそんな轍を踏ませるつもりはなかった。
『……ここまでだ』みちるが駒木に向かって呼び掛ける。『……殿下は間もなく国連軍の保護のもと戦域を離脱される。既に追撃は不可能だ……貴様の目的は潰えた』
 冷川を超えた今、反乱軍に悠陽を確保する機会はない。ましてや、追撃するための部隊が揃えられないのであれば尚更だ。
 駒木機の胸部が開き、管制ユニットが現れ、駒木の姿が伊隅機のカメラに映し出される。
 駒木は何も言わず、斬撃の衝撃で痛めた腕を押さえ、苦しげに呼吸を繰り返す。
『……この戦乱もここで終わりだ……』
 そう言うみちるの声には、微かな安堵の響きがあった。僅かに――みちるをよく知る者以外には気付けぬ程度にだが――顔も緩んでいる。

 ――遠雷のように、高くも不吉な音が響いてくる、その瞬間までは。

 みちるの顔が強張る。
 対照的に、駒木の顔はほころんでいた。端から血を流していた唇が、三日月を形作る。それは、勝利を確信した笑みだった。
 近付いてくる音は、どんどんと大きくなっていく。
『こ……この音は……!?』真っ先にその異変に気付いたのは、風間祷子だった。『上空から何かが接近しています……これは……まさか――!』
 祷子の言葉に、その場にいた全員が天を仰いだ。十二機の不知火が一斉にメインカメラを上空へと向けている。
 駒木の頬を、透明な雫が伝う。やがて血を含んで赤く染まった雫がシートに小さな染みを作り、同時に駒木は小さく息を吐いた。
 ――ああ……これで……ようやくあのひとは――……
 これで、報われる。彼の願いは、ようやく叶うのだと。
 そう確信して、駒木は意識を手放した。口許に、穏やかな笑みを湛えたまま。


「っ、ふぅ……」
 武は大きく息を吐いて、シートに体をもたれかけさせた。
 冷川は分水嶺だった。突破はほぼ確実に問題なく出来ると踏んでいたが、それでも無事に成功したことで、安堵してしまうのは仕方がないだろう。
「――エインヘリヤル1より各機。全機隊形維持のまま最大戦速。このまま、追跡部隊を引き離す。富士見台跡を通過後、NOEに移行。谷川に機体を寄せる」
『了解』
 返ってくる声にも、穏やかな安堵が宿っている。
 匍匐飛行であれば、噴射跳躍とは異なり上下の運動がない分、悠陽への負担も格段に小さくなる。
「殿下、このまま戦域を離脱します。体調はいかがです?」
「ええ、障りありません。白銀……そなたに感謝を」
 目を瞑って悠陽は言った。彼女の言葉は強がりではなく、実際に体調を大きくは崩していないことが顔色やバイタルデータから伺えた。隠しきれない疲労や心労も見て取れるが、彼女の立場や一睡もしていないことを考えれば、それは仕方がないことだろう。
 悠陽に気付かれない程度に目を細め、武は思索しながら溜息を零した。
 拍子抜けする程にあっさりと、悠陽の戦域脱出は叶ってしまった。沙霧らが輸送機で追ってきているとはいえ、武達がNOEで逃げ続ければ追い付けはしないであろうし、手出しも出来まい。
 当初の目的を全て達成することは出来なかったが、これ以上無駄な犠牲を出すよりはいいだろう。
 現時点での収穫は帝国とのパイプが得られたことと、207B分隊に実戦の空気を吸わせることが出来たということくらいか。帝国が今後悠陽主導に変わっていけば、米国も余計な手出しは出来なくなるはずだし、207B分隊の任官もトライアルを利用すれば可能だろう。
 これ以上を求める必要はない。
「エインヘリヤル1より20700。神宮司軍曹、207小隊の様子はどうだ?」
『今は大分安定しています』まりもは微笑を湛えて答える。『冷川の包囲網を突破したことで緊張も解けてきたようです』
「まだ気を抜くなと言いたいところだが……」武は悪戯っぽく片目を瞑り、「今だけは大目に見てやるか」
 任官さえしていないヒヨッコにそこまでを求めるのは酷というものだろう。
『ええ、そうしましょう。勿論、目に余るようであれば一喝してや――』言いかけて、まりもが息を呑んで目を見開いた。『これは……! 白銀少佐! 後方より何かが接近してきます!!』
「――ああ、わかってる……!」
 来たか、と武は内心で独りごちた。
 遠くから微かに響く高い音。機体を震わす音を感じ取ることは出来ないが、それが高速で近付いてきているのは嫌でもわかった。
「エインヘリヤル1より各機! 後方より所属不明の航空機が接近中! 各自警戒を怠るな!!」
 207B分隊に渇を入れる目的も込めて、武は叫んだ。
 既に複数の航空機――An-225が後方カメラに映っているが、ここまで接近を許すまで気付けなかったのは、両側の山がレーダーの死角を作っていたためだろう。
 前の世界よりも武らの進軍速度は速いにも関わらず、空挺部隊が追い付いてきたのは、それ以上に早い。本来であれば、逃げ切れる計算だったはずであるにもかかわらず、だ。
 前の世界でみちるはヴァルキリーズの足止めが効果的すぎたことが空挺作戦を招いたと悔やんでいたが、練度が上がり、欠員もいないために、さらに効果的に足止めに成功してしまったということだろうか。
 武はすぐさま戦域マップを呼び出し、航空部隊の所属を照合するが、それよりも早く、
『帝国軍671輸送隊? 作戦参加は聞いていないが……』
『帝国軍……671……ッ!?』
 怪訝そうにウォーケンが呟いた部隊名に、まりもが表情を凍てつかせた。ますますウォーケンは不可思議そうに眉根を寄せ、
『――? 軍曹どうした、報告せよ』
『少佐……』まりもに代わって答えたのは真那だった。『671輸送隊は厚木基地所属の部隊です』
「厚木基地はとっくに陥落している……つまり……!」
 言うが早いか、ムーリヤは武らの上空を飛び越え、

 漆黒の不知火が、前方へと降り立った。 

『――空挺作戦だと!? ばかな……あり得んッ!』
 次々と着地する不知火の群れに、ウォーケンが叫ぶ。
 当然の反応だ。安全な太平洋側の航路を国連軍と米軍が押さえている今、戦術機の空挺など誰が予測出来よう。ましてや、BETAに撃墜される危険性の高い危険空域での航空機使用ともなれば、最早正気の沙汰ではない。
 ムリーヤは戦術機の再突入殻を両翼に積載出来る程の大型機だ。匍匐飛行は不可能であり、全滅する危険性もある。
 そんな馬鹿げた真似をしてのけることが出来るのは、光線属種の恐ろしさを知らぬ愚か者……あるいは、死をも畏れぬ狂信者のみであろう。
 果たして、彼らはそのどちらか。
「チ――」武は舌打ちし、「すっかり囲まれたか」
 レーダーに映った光点は都合三十六機――三個中隊分の不知火が円を描いている。
 どうするか、と武は思考を巡らせるが、それに対し先手を打つかのようにオープンチャンネルでの通信が耳に飛び込んできた。
『――国連軍指揮官に告ぐ。私は、本土防衛軍、帝都守備第1機甲連隊所属の、沙霧尚哉である』
 突然のその声に、多くの者が息を呑んだ。
 当然だ、まさか首謀者自らが自ら最前線に現れようなどとは、誰が思おう。
『直ちに戦闘行動を中止せよ。我々の目的は戦闘ではない。繰り返す、直ちに戦闘行動を中止せよ……繰り返す、直ちに戦闘行動を中止せよ……』
 武の目に、前方に仁王立ちするようにたたずむ一機の不知火が映った。確信する。あれが沙霧機だと。
 幾度もの戦場を潜り抜けてきた武だからこそわかる。アレは別格だ、と。目には見えない強烈な威圧感を、けれど確かに感じずにはいられない。
『故あって決起し、立場を異にする諸君らと対峙しているが……我等の目的は戦闘ではない。諸君等が無法にも連れ去ろうとしている我らが殿下を、お迎えにあがったのだ』
 その証拠と言うべきか、沙霧機は一切の武装を装備していない。
 ――どうする……ッ!?
 このまま強引に包囲網を突破するか。しかし、目の前の沙霧がそうやすやすと許してくれるとは思えない。
 包囲網が完成してしまった今、このまま突破することは難しい。
 F-22Aに勝るとも劣らぬ機動力を有する弐型であれば、その気になれば包囲網の突破は難しくはないだろう。これまで最大戦速とは言ってきたものの、それはあくまで練習機である吹雪の速度に合わせての話だ。弐型本来の速度には遠く及ばない。
 推進剤にも余裕があるし、改修機である弐型が、速度を競う上で通常の不知火に劣る道理はないのだ。
 問題は、包囲網を突破したところで、悠陽を横浜行きの軍艦に運び込むことは困難であるということだ。軍艦の待つ白浜海岸に到着してから悠陽を軍艦に乗せるまでに追い付かれないという保証はない。
 武だけが先行して脱出したとしても、当然反乱軍はそれを追い掛け、207小隊らはその足止めをすることになる。
 ここまでの戦いでの米軍と反乱軍のキルレシオが七対一とはいえ、この状況ではその数字は当てにならない。相手は反乱軍の中でも殊に精鋭の部隊であり、こちらは未だ任官すらしていない訓練兵という重すぎる足枷をはめている。
 しかも、数の上では反乱軍の方が上。数の暴力とは、対BETA戦での最も大きな教訓だろう。
 足止めしきれない敵機は必ず生じてくる。そして高い確率で207B分隊の面々は命を落とすことになるに違いない。
 反乱軍は、その気になれば軍艦を沈めるくらいのことはやってのけるだろう。
 強引に突破するメリットはあまりにも小さい。
『既に我らは諸君らを包囲している。これより先へ進むことは罷り成らぬ』
 武の耳の奥に、警報音が鳴り響いた。包囲網が狭まってきているのがわかる。
 やはり、ここは強引に突破すべきではない――武はそう判断し、口を開いた。
『エ――』

 しかし、

『ハンター3、ハンター4! 先行して前方の敵機を排除し、進路を作れ!』
『了解!』
「――なっ!?」
 それよりも僅かに早く、ウォーケンの指示が飛んだ。
 声に応え、二機のF-22Aが跳躍ユニットを爆発的に燃焼させ、彗星のように前方へと飛び立っていく。
 AMWS-21が火を噴き、沙霧機目掛け砲弾の雨を降らせる。
「やめさせろウォーケン少佐ッ!」
『何を言っている、エインヘリヤル1。ヤツを排除せねば、包囲網を抜けることは――』
 ウォーケンのその言葉が最後まで紡がれることはなかった。
『――米軍め……あくまでも我らの(たましい)を穢そうというつもりか』
 その、氷のように冷酷で、炎のように激烈な憤怒の声が、ウォーケンにそれ以上を口にさせることを許さなかった。
 漆黒の不知火の背で、小さな火花が散った。長刀が跳ね上げられ、肩越しに伸ばされた手の中に収まる。
 主脚走行と跳躍ユニットを利用した低高度滑空を併用し、沙霧機は流れるように降り注ぐ砲撃を容易く回避してしまう。
 F-22Aは確かに現時点における世界最強の戦術機かもしれない。だが、その強大な性能も引き出すのは衛士の腕だ。
 逆に言えば。それを引き出しきることが出来なければ、性能差はないようなものだ。
 二機のF-22Aは同士討ちの危険を避けるため二方向に散開しながら着地、地面を滑りながら、左右から沙霧機へと弾幕を叩き付ける。
 だが、それよりも僅かに早く、沙霧機が跳躍する。跳躍ユニットが火を噴いた。
 オートバランサーに頼らず、頭部センサーやナイフシースの操作によって姿勢を制御すると、跳躍の勢いそのままに、沙霧機は長刀を振り下ろした。
『馬鹿なッ!?』
 ウォーケンが悲鳴をあげた。
 それは、F-22Aが手も足も出ずに撃墜されたことにか。それとも、それを可能とした沙霧の技量に対してか。
 沙霧の噴射跳躍は完璧だった。弾幕を飛び越える高度を保ちながら着地点を敵機ぎりぎりに定め、かつ滞空時間を最小限に抑える絶妙な角度。しかも、F-22Aが着地の勢いを殺しきれず滑走していたのを逆手に取り、姿勢を十分に制御させないままに一連の行動を行ったのだ。
 もしF-22Aが無理矢理に砲口を上方へと向けていれば、滑走によりバランスを崩して仰け反るのを防ぐために、オートバランサーが作動していたはずだ。
 勿論、言葉で表す程簡単なことではない。角度が僅かにでも小さければ撃墜されるし、角度が大きすぎれば姿勢を制御する時間を与え、やはり撃墜されてしまう。
 命綱のない綱渡りのようなものだ。それをやってのける精神力は尋常ではない。
 ――完全に覚悟を決めていやがる……!
 ぞくり、と武の背筋を冷たいものが伝った。
 対照的に、仲間の死に対してハンター3は激昂するが、
『クソ――てめぇ、よくもハンター4を――ぐぁあッ!?』
 それが、ハンター3の最後の言葉だった。
 武の視界の端で微かに橙色の光が灯ったかと思うと、次の瞬間にはハンター3の機体が炎に包まれていた。
 ――超長距離狙撃。
 沙霧機と二機連携を組んでいた一機が、ハンター3を狙撃したのである。
 優に五千メートル以上の距離があったはずだ。突撃砲の有効射程の限界と言っていい。その距離で命中させ、かつ一撃で仕留めるとなれば、武でさえ困難だ。壬姫ならば可能かもしれないが、ここまで冷静に砲撃出来るかどうか。
『これより先への進軍は罷り成らぬと言ったはずだ』沙霧は元の平静を取り戻して言った。『繰り返すが、我らの目的は殿下のご奉迎にあり、諸君らとの戦闘ではない。諸君らには即時の停止を求めたい』
 目の前で二機のF-22Aを瞬く間に撃墜してみせたことにより、沙霧機の放つプレッシャーはいよいよ目に見えるものとなっていた。
「……殿下――私は沙霧の求めに応じるべきだと考えています。……よろしいでしょうか」
「――はい」僅かな逡巡さえなく、悠陽は頷いた。「包囲された今、強引な突破を試みれば先の二の舞になりましょう。そなたがそう判断するのであれば、私に異論はありません」
「は――ありがとうございます」
 武は悠陽に向けて目を閉じ、頭を下げた。
 ここでの強引な突破は、徒に命を落とす結果にしかならない。自分の脱出が不可能になろうとも、命を無駄にしてはならない……悠陽のその考えに、武は感謝した。
「エインヘリヤル1より各機。即時減速、隊形を維持したまま進軍を停止せよ」
『――り、了解!』
 207小隊が武の指示に従い、跳躍ユニットの出力を絞っていく。第19独立警備小隊もそれに倣い、ゆっくりと減速を開始した。
 だが、
『エインヘリヤル1、何を考えている!』ウォーケンだけが武に噛み付いた。『ここで求めに応じればどうなるかわかっていないのか!?』
「それはこちらの台詞だ。既に貴官の部下二人がこの包囲網の中で撃墜されている。ここは無理な突破をするべきじゃない。それに、殿下の身柄がこちらにある以上、奴らは強引な手出しは出来ないはずだ」
 そんなことをすれば逆賊の汚名は免れない。それは彼らの望むところではないだろう。
「奴らは殿下の直命を必要としている。直命を賜るための場をここで作ろうとするはずだ。――そこに、突破のチャンスがあるはずだ」
 そこに付け入る隙がきっとある。あるいは、それでうまくやりこめれば、無理に戦わずとも、この争乱を終結に導くこともきっと出来るに違いない。
『……わかった。貴官の言葉を信じよう』
 ウォーケンは理性もあり、思慮もある人物だ。説明すれば理解してくれるだろうという武の考えは正しかった。
 沙霧機と五千メートル程の距離を保って、武らは停止する。
『諸君らの英断に感謝する』沙霧は言った。『――いささか一方的ではあるが……諸君らに、只今から六十分間の休戦を申し入れる。なおこの休戦は、煌武院悠陽殿下のご尊名に懸けて履行されるものである。我々からそれを破ることはあり得ない』
 207B分隊やウォーケンらの間に、動揺が広がった。
 突然休戦を申し入れる意図とは何か。ウォーケンは悠陽を歩兵が奪取しに来るとでも考えているのだろうが、沙霧が悠陽の名に懸けての履行を宣言した以上、それはあり得ないだろう。
『その間、現在置かれている状況、諸君らが我が国に対し行っている行為の当否を冷静に熟慮し、現実的で誠実な対応を取られんことを切に願う』
 やはり沙霧にとっては、国連軍も米国軍も、日本帝国を侵略し蹂躙する者――BETAと変わらないということか。彼にとって、日本の在り方を歪めようとする存在は全てが悪なのだから。
『六十分後、再び全回線にて呼びかける。返答無き場合、我等は必要と思われる全ての手段を以て事態の収束を図る。そう心得られよ――以上』
 沙霧からの通信が途切れる。
 必要な全ての手段――即ち武力行使。先の二機のF-22Aとの戦闘だけで、彼らの戦闘能力の高さははっきりと証明されている。
 それに加えて、二機を失ったことで、武らはちょうど一個中隊分。それに対し、反乱軍は三個中隊。戦力差は圧倒的だ。武や斯衛軍がいたところで、容易にひっくり返せる差ではない。
 それがわかっているからこそ、沙霧もそのように言ったのだろう。これで武達は沙霧の次の呼び掛けに対応せざるを得ない。そして彼らは直命を手に入れる――。
 ――そう思い通りにいくと思うなよ。
 僅かに口角を持ち上げる武。
「――私は国連太平洋方面第11基地横浜基地所属、白銀武少佐である」
 そして武は、オープンチャンネルで名乗りをあげた。
『し、白銀少佐!?』
「沙霧尚哉大尉、貴官の要求を聞き入れよう」まりもの驚呼を無視して武は続ける。「六十分間の休戦――我々もまた煌武院悠陽殿下のご尊名に懸けて厳粛に履行させてもらう。以上だ」
 そう言って、武は通信を切った。


「白銀武、だと……?」
 沙霧は一人、管制ユニットの中でその名を呟いた。
 第一の驚きは、煌武院悠陽殿下を浅ましくも連れ去らんとする米国の狗が、よりによって日本人であったこと。確かに、カメラをズームしてみれば、そこには不知火らしき戦術機が映っている。他にも吹雪や武御雷――成る程国連軍も殿下の奉迎には日本人を遣わす程度の礼節は持ち合わせているか、と沙霧は納得する。
 第二の驚きは、その男の名に聞き覚えがあったことだ。先日の佐渡島からのBETA襲撃……その迎撃において、多大な功績を残したという一人の国連軍衛士。その男の名が、白銀武だった。
 沙霧は帝都防衛隊の所属であるため現地にまで赴くことはなかったため直接目にしたことはなかったが、旧知の仲であった桂木葛葉と会った折、彼女が絶賛していたのを覚えている。彼女がここまで一人の人間を賞賛するということは珍しかったから、沙霧もよく覚えていたのだった。
 ――まさか、その稀代の天才衛士と見えるのが、このような形になろうとはな……。
 わからないものだ、と沙霧は溜息を吐いた。
 だが、あの葛葉が賞賛していた人間だから、思想が沙霧のそれと合致しないことは十分に考えられることだ。
 以前、今回の決起に葛葉も加わってもらえないか、打診したことがある。しかし、彼女には素気なく断られてしまった。
 曰く、
『それは私達衛士の本分じゃないわ。確かにこの国の現状は目に余るものがある……けれど、私達が戦うべき相手はBETAよ。私達がBETA以外にその刃を向ければ、誰が力を持たない人々をBETAから護るというの? ――私は、BETAを討つための剣でありたい』
 それを聞いた沙霧は思わず激昂したものだ。
『ならば弱き人々を虐げ、己の利益や立場だけを守ろうとする者達とBETAの何が違う! 今我等が立ち上がらねば、永遠にこの国の魂は失われたままになるのだッ!!』
『沙霧君……あなたは純粋だから、それがどうしても赦せないのでしょうね』どこか切なげに目を細めて、静かに、まるで駄々をこねる子どもをあやす母親のように、葛葉は答えた。『あなたのその怒りは、きっと正しい――でも、私の考える国とあなたの考える国は違うのよ』
 彼女の言葉の意味は、今以て沙霧にはわからない。
 国が違うとはどういうことだ。日本帝国は二つとない。ならば、今の日本に失われた魂を取り戻す――それがこの国を守るということではないのか。
『あなたのしようとしていることが間違っているとは言わないわ。だから、私はあなた達を否定することはしないし、敵対しようとも思わない。けれど、あなた達に加わろうとも思わない。――悪いわね』
 その日はそれで別れ……結局その後、今に至るまで、葛葉と話す機会は得られなかった。
 もし彼女が今回の決起に加わっていてくれれば、こうして空挺作戦という危険を冒す必要もなかっただろう。より確実に成功を得られたはずだ。
 ――私は間違っているのか……?
 否、と沙霧は否定する。
 間違っていようはずがない。この国を守りたいという思いが、この純粋な願いが、間違いであるはずがない。
 しかし、葛葉は言っていた。
『たとえ国連軍にいようとも、この国を守ろうとしている人もいるわ。彼らは、この国の魂を失ってしまっているのかしらね――』
 その言葉の真意は掴めない。だが、その言葉は今も沙霧の胸の奥に引っかかっているのだった。
 約束の刻限まで、残り五十六分。
 長い長い六十分間はまだ始まったばかりだった。



[2785] Muv-Luv ALTERNATIVE -Second World Was Failed- 第26話
Name: Vollmond◆d2a8c8a6 ID:c152aeb4
Date: 2011/11/15 03:19
「さて、と……どうするかな……」
 薄暗い森の中で武は独りごちた。
 戦術機から降りて、武、ウォーケン、まりも、真那によるこれからの六十分間についてのブリーフィングを終えたところだった。
 六十分間の休戦の申し入れは将軍奪取のためであると推測するウォーケンに対し、まりもと真那は、帝国軍人が悠陽の名に於いて発した言葉を翻すことはあり得ないと主張する。武もそれに同意した。
 続けてウォーケンは武が独断で休戦の申し入れを受諾したことを非難したが、時間が稼げるのはこちらにとっても好都合であること、先にも言った通り休戦が反故にされることはないだろうという二点から、武の判断は間違っていないとして、ウォーケンもそれ以上追求しようとはしなかった。
 その後は武とウォーケンの判断により、207B分隊には歩兵として悠陽の警護を担当させ、斯衛軍も本来の任務である将軍の警護を開始した。ウォーケン及びイルマの二名も同様に周囲の警戒にあたっている。
 名目上は念のための周囲警戒ではあるが、実際には長時間戦術機に乗っていたことによる肉体的・精神的緊張を解すための休息の時間であった。
 とはいえ、207B分隊の面々にとっては、これが初めての実戦。休息時間を設けても、十分な効果が望めるとは考えにくい。多少はフォローしてやる必要があるだろう。
「……あとはテスレフ少尉か」
 この一時間の間に、最低でも一度はイルマ・テスレフ少尉と話をしておきたい。彼女の思惑や背景を把握しないことには、『前の世界』での悲劇が繰り返されるだけだろう。
 彼女が何某かの命令を受けていることは明らかであるし、それが今回のクーデターを泥沼化させる類のものであることは明らかだ。
 夕呼曰く後催眠暗示の可能性が高いということなので、もし身柄を押さえることが可能であれば、米国による不当な介入の証拠を掴むことにもなる。米国は白を切り続けるだろうが、機体のレコーダーの調査や薬物検査を行えば、少なくとも米国以外の各国は反米感情――ひいては反オルタネイティヴ4陣営への不信感を募らせるであろうことは間違いない。
 そうなれば、今後オルタネイティヴ4が失敗に向かう可能性は限りなく低くなる。
 既に00ユニット完成のための論文は手に入っている。夕呼のことだ、必要な物資の手配はとうに済ませているだろう。もう手元に揃えているかもしれない。
 オルタネイティヴ4の成功における唯一の懸念は米国の介入だけ。イルマへの対処さえうまくやれば、もう心配は殆どいらなくなる。
 ――逆に言えば。その対処を間違えれば、武や夕呼らオルタネイティヴ4陣営は一気に不利な立場に追い込まれるというわけだ。
 そこを踏み違えるわけにはいかない。人類の未来を切り開くために、ここで武が間違えるわけにはいかないのだ。
 しかし、まずは207B分隊の面々のフォローからだ。イルマを後回しにするというわけではないが、彼女達をそのままにしておけば、もし乱戦になった時、命を落とす可能性は跳ね上がってしまう。
 この世界も彼女達も護ると誓った武にとって、そんなことは到底看過出来なかった。
 優先順位としては、慧、壬姫、冥夜、千鶴、美琴の順だろうか。
 沙霧と直接の面識がある慧。日本に米軍を招き入れた事務次官を父に持つ壬姫。そして、悠陽と血を分けた妹である冥夜。この三人の心労は、残る二人に比べれば、ずっと重いに違いない。
 千鶴と美琴は今心に負うものがないとはいえ、初の実戦で緊張しているはずだ。
「まずは彩峰かな……」
 呟き、武は慧を配置したポイントを目指して歩き出した。


「彩峰」
「――!?」
 弾かれたように慧が振り向き、肩にストラップで提げた突撃銃を構える。それを受けて慌てるのは武の方だった。
「白銀だ――撃つなよ彩峰!? 撃つなよ」
「……白銀、少佐……」
 安堵したように慧が小さく息を吐き、目尻を下げるのを武は見逃さなかった。案の定、実戦から来る緊張は彼女の肩にも重くのしかかっていたようだ。武だとわかった途端、肩の力を抜いたのが見て取れた。
 慧の隣に並び、木の幹に背を預ける武。
「流石の彩峰もこの状況じゃ緊張するみたいだな。ま、初めての実戦だし仕方ないか」
「……そう言う少佐は緊張してなさそうですね」
 慧は僅かに目を伏せて言った。
「そう見えるか?」
 無言で頷く慧。武は思わず苦笑して、
「オレだって緊張くらいするさ。実戦じゃいつだって緊張しっぱなしだ」
 今回は特にな、と言いかけて、武はその言葉を飲み込んだ。
 慧には武が余裕を持っているように見えるのだろう。実際、慧に比べれば遥かに余裕がある。かといって、それが緊張がないこととイコールであるというわけではない。
 武に余裕があるのは、これまでに数多の実戦を経験してきたことと、部隊長はピンチの時ほど不貞不貞しく笑うものだという、指揮官としての師である桂木(かつらぎ)葛葉(くずは)の教えがあるからだ。
 無理にでも笑えば、それは心に余裕を生み、いつしか本当の笑みに変わる。
 武が不貞不貞しく笑えば、少なくとも部下達は安心するだろう。
 逆に、実戦の重みを知っているからこそ、そしてこの戦いの重みを知っているからこそ、少なからず緊張せずにはいられないのだ。尤も、その緊張は慧のそれとは性質が異なるのだが。
「その緊張をコントロール出来るようになれば、お前も一人前だよ」
「……まだ半人前……」
「そりゃ訓練兵だからな。半人前のそのまた半人前ってとこだな」
 慧のむっとした表情を武は見逃さない。事実を言っただけなのだが、負けず嫌いの彼女の琴線を強く刺激したらしい。
「訓練兵にそこまで望みやしないさ。初陣を生き延びることが出来れば、お前達ならすぐにそれくらい出来るようになるだろうしな」
 うつむく慧の頭に手を置いて、武は言った。
 それがまだいつになるかはわからないけれど。武の記憶の中の『彼女達』は武以上にそれが出来ていたはずだから、心配はいらないだろう。
「それより、身体は大丈夫か? 逃げ回ってただけとはいえ、初めての実戦だし疲れたろ」
 訓練ではここまで長時間機体に乗り続けるということは稀だ。精神的な疲労もあり、肉体的な疲労も相当なものになっているだろう。
 頷く慧。
 武自身、前の世界での12・5事件――初めての実戦では、肉体的にも精神的にも余裕がなかった記憶がある。それで余計なことを口走って慧をさらに追い詰めたのを思い出して、武は苦笑した。
 それを自分が笑われたと勘違いしたのか、慧は不満げに眉根を寄せた。
「ああ、違う違う。オレの初陣を思い出したんだ。今のお前みたいに疲れてて……その所為で仲間に余計なこと言っちまったりしてな」
 尤も、慧はその仲間が自分のことだとは夢にも思わないだろうが。
 今の武ならば、あのときのような無様な醜態をさらけ出すようなことはない。実戦に対する慣れもあるし、何より数多の戦いの中で、仲間達との絆を通じて、白銀武が戦う意味――揺らぐことのない立脚点が確立されている。
 その立脚点こそが、実戦における緊張のコントロールを可能とする要素の一つなのだと気付いたのは、大分先のことだった。
「どんなこと?」
 意外とと言うべきか、慧が興味を示した。
 あまり話したい内容ではないが、元々慧のメンタル面のフォローが目的であったわけだし、多少ぼかして話せば慧の緊張を解くのには丁度いいだろう。
「その時もこんな感じで一度休憩になって、オレは話し相手が欲しくて仲間を捜してたんだ。一人じゃ落ち着かなくて……頭を冷やすのに付き合ってもらいたくてな」
 余裕あるねって非難されたけどな、と武は苦笑した。
 勿論余裕なんてなかった。確かに武には、彼女達のように背負っているものがなかった――何もなかったからこそ、その浮遊感に苛まれ、身動きが取れなくなったのだった。
「追い返されたとき、オレは謝ったんだ。そいつの行動を一瞬だけ疑っちまった、ってな」
「……少佐は無神経」
 ぐさり、と慧の言葉が突き刺さる。
「確かに、相手の都合も考えずに自分だけ謝ってすっきりしたかった、ってのと結果的には同じだったからな。ただでさえコンディションは最悪だったってのに、余計な負担まで掛けちまった」
 当時の自分の浅薄さに呆れずにはいられない。沙霧のことを一人胸に秘め、誰にも頼れず懊悩し続けていた少女。武とて同じ初めての実戦であったとはいえ、彼女の苦悩を知っていたのは武だけなのだから――手紙を見たという事情はあったにせよ武を信じて打ち明けてくれたのだから、余計な負担を掛けるべきではなかったのだ。
 そういう意味では、ここまでの慧へのフォローは武にしては上出来と言うべきだろうか。
「そんなオレが今じゃこうして佐官なんてやってるくらいだからな。その点、お前は上出来だと思うぞ」
「え?」
 突然水を向けられ、慧は目をぱちくりさせた。
「オレや神宮司軍曹に甘えず、ちゃんとやせ我慢してたじゃないか。オレだったら自分の担当区域抜け出して仲間のとこ言ってたと思うぞ」
 思う、ではなくて実際に仲間の区域を順繰りに回っていったのだが、それは言わないでおく。
 慧の口許が僅かに緩められたのがわかった。霞ほどではないが、感情の起伏のわかりづらい慧が、このように自然に感情を表に出すのは珍しいことだった。
「この分なら心配いらなさそうだな」
「あ……」
 武が顔を出した意図をはっきりと理解したようだった。
「ま、無理をする必要はないさ。この後どう転ぶかはまだわからないが、オレも軍曹も、月詠中尉達斯衛軍だっている。これ以上お前達に負担を掛けることにはならないと思う……よく頑張ったな、彩峰」
 慧の頭に手を載せ、武はくしゃくしゃと髪を掻き混ぜる。慧はくすぐったそうに目を細め、上目遣いに武を見つめてくる。頬がほんの少し紅潮していた。
「ありがとう……ございます」
「お? なんだ、珍しく素直じゃないか」
 調子に乗って、さらに手を動かす武。慧はしばらくなされるがままになっていたが、
「私は大丈夫……彼が来ても、ちゃんと、やれます」
 ぽつりと、そう呟いた。
 沙霧の話題を意図的に避けていたというわけではなかったが、慧の口からそう言われたのだから、触れないわけにはいかないだろう。
「ああ、わかってる。お前を……お前達を信じてるからな」武は慧の頭に手を載せたまま、「今回の件が終わったら、一発くらいひっぱたいてやれ。それくらいなら許されるだろうからな」
「……はい」
 こくりと慧が頷いた拍子に手が頭離れたから、武はそのまま手を引っ込めた。それに気付いてか慧はその手を追うように視線を動かしたが、武の微笑を見てその動きを止めた。
 目と目が合う。
「あと少し……頑張れるな?」
 無言で頷く慧。瞳には僅かな迷いや不安が宿っていたが、それ以上に強い輝きが灯っていた。


 優先順位からすれば次は壬姫の番であったが、207B分隊の配置上、隣接したエリアを担当していた千鶴へと向かうことにした。
「……榊、そっち行くから撃つな」
 先程慧に銃を向けられた反省から、武は先に声を掛けてから千鶴の方へと近付いていった。
「白銀少佐!?」
 慌てて敬礼する千鶴。それに答礼して、
「異常はないか?」
「は、異常ありません……白銀少佐、どうかなさったのですか?」
 この辺りの任務への忠実さは慧とは違うところだ。
「お前達にとっては初めての実戦だろ? 今の内にお前達の様子を見ておきたいと思ってな」
 初陣という特殊な緊張下において、先任衛士によるフォローは、任務の成功率や存命率を左右することもある。上官として、また武個人としても、彼女達のフォローは重要な任務だった。
 とはいえ、
「榊についてはあまり心配してないってのが正直なところなんだけどな」
「え?」
「お前の操縦が一番いつも通りだったからな」
 初の実戦、それもベテラン衛士に追われての撤退戦で普段通りの操縦技術を発揮出来たという点は、感嘆すべきだろう。ある意味ではBETAとの初陣以上に精神的な負荷が掛かる状況だ。BETAとの戦いであれば、死の八分さえ乗り越えてしまえば、脳内物質や興奮剤、後催眠暗示で感覚を麻痺させてしまえるが、逃走であればそういうわけにはいかない。BETAとの戦いとはまた異なる緊張を強いられることになるのだ。
「あ、ありがとうございます」
 頬を染めて喜ぶ千鶴であったが、
「――ま、流石に他人に指示出来る程余裕はなかったみたいだけどな」
「う……」
 俯く千鶴。
 普段の千鶴ならば、207小隊内に対して積極的に指示を飛ばしていたことだろう。尤も、今回は武やまりもがいたし、力が入りすぎて間違った指揮を執られるよりはずっといい。
「流石に初陣の訓練兵にそこまでは期待してないさ」武は苦笑して、「それに、指揮はオレと軍曹の仕事だ」
 207小隊は六機という変則的な数での運用であるが、小隊長がまりもである以上、指揮権はまりもにある。その上に立つ中隊長が武であるから、部隊全体の指揮権は武に属するわけだ。
 となれば、千鶴が指揮を執る理由はないのだが、フォローという意味での指示は指揮官でなくてはならないということはない。千鶴がすべきはそれだったのだが、そこまでは流石に手が回らなかったようだ。武らが先んじて状況を判断し指揮していたというのもあったが。
「まずは自分に出来ることを最大限やればいい。そうやって仲間達とフォローし合っていけば、お前達ならこの戦いを乗り越えられるさ」
 それは、207B分隊が抱える問題を指摘した言葉でもあった。
 武が着任してからの一ヶ月半で大分改善されたとはいえ、まだまだ彼女達の関係は、“戦友”と呼べる程強く結びついてはいない。部隊としてのまとまりは出来ているものの、命を預け合うことの出来る程の信頼関係を築けているとは言えなかった。
 それには彼女達の生い立ちは勿論、実戦経験がないことも関係している。極限状態を共に経験することは、強固な信頼関係を結ぶのに大きな役割を持っているのだ。
 だから、これはある意味でチャンスであると言えた。
「その時、軸になってやるのは分隊長であるお前の役目だ、榊」
「私……ですか……?」
「ああ、そうだ」武は頷いて、「お前達の軸になれるのはオレでも神宮司軍曹でもない。お前達207B分隊の中心はお前なんだ。分隊長としてこれまで隊をまとめてきたお前だからこそ、隊の軸になれるんだ」
 武の言葉に俯く千鶴。やがて顔を上げた眼鏡越しの瞳には、迷いと不安の揺らぎが宿っていた。
「私に、出来るでしょうか」
 武笑みを浮かべて頷いた。
「出来るさ。お前は神宮司軍曹が選んだんだぜ? 軍曹が信頼の置けないようなヤツに、分隊長なんて任せるはずがない。もっとお前は自分と仲間を信じていい」
 千鶴は他の仲間達のように秀でた一芸を持ってはいない。彼女がそれをコンプレックスに思っていることを、武は知っている。だが、それは彼女が自他の能力を把握していることの裏返しであるとも言える。それは、指揮官には最も必要な資質の一つだ。そして千鶴には、仲間の能力を活かすだけの技量がある。
 また、千鶴のコンプレックスは、ある意味で的外れであるとも言える。彼女はスペシャリストではなくゼネラリストだ。そして、戦場で求められるのは特定の技能のみに秀でたスペシャリストではなく、全てをこなすことの出来るゼネラリストである。
 勿論、他のスペシャリストたる207B分隊のメンバーが標準的な衛士としての技能を身に着けていないわけではないが、千鶴は剣術・格闘・射撃・基礎体力の全てに置いて207B分隊の平均以上の能力を有しており、総合的な技量ではやはり分隊長に相応しいのは千鶴なのである。
 ゼネラリストこそが隊長には相応しいという事実は、今後千鶴らが任官した際に所属することとなるA-01部隊長である伊隅みちるが証明している。尤も、現時点でのみちると千鶴とでは、その技量にあまりにも大きな隔たりがあるのも事実であるが。
 武としても、これまでのループの記憶を鑑みるに、やはり分隊長であるべきは千鶴であると考えている。『一度目の世界』で任官した際、また前の世界で先任らが戦線を離脱した際、隊長を務めたのは武であったが、武は性格的にも技能的にも前衛向きだ。戦域を広く見渡し、的確な指示を飛ばすということが十全に出来たとは言えず、後衛から千鶴が指揮を執る場面も多かった。
 尤も、前の世界で桂木葛葉から指揮官としての薫陶を受けた今では、現時点での千鶴やみちるにも負けぬ指揮官としての能力があると自負しているが。それでも前衛気質であることに変わりはない。
 武が千鶴こそ指揮官向きであり、部隊をまとめるに適した人材であると考えているのは、そういった千鶴のサポートを受けてきた経験からだけではなかった。
 思い出した記憶の欠片――一度目の世界でのある夜の出来事が、武にそう思わせているのだった。

 ――ざ、ざざ。ざ……

 思考にまじる一瞬のノイズ。頭の奥に鈍い痛みを覚え、武は僅かに眉間に皺を寄せた。しかし、それに千鶴は気付かなかったようで、武は思わず力の入った頬を緩めた。
 それで気が抜けたのか、ぽろりと言葉が零れた。
「――なんせ、お前は榊是親首相の娘なんだからな」
 瞬間、千鶴が嫌悪と深いを露わに苦虫を噛み潰したように顔を歪めた。
 武は賞賛を込めたつもりで口にしたはずの言葉であったが、千鶴にとってはそれは最大の侮蔑――あるいは、当人が認めたくない、けれど認めざるを得ない事実を突きつけるだけの言葉であった。
「私は……ッ」
 言いかけて、千鶴が言葉に詰まる。相手が曲がりなりにも佐官であるという事実を思い出したのだろう。
 それでようやく、武は自分が地雷を踏んだことに思い当たり、どうしたものかと頭を掻いた。そのまま数秒考えた末、武は以前より思っていたことを口にすることにした。
「……お節介かもしれないけど、榊――委員長は一度親父さんと向かい合ってみるべきだと思う」
 委員長、と。上官ではなく、友として、武はその言葉を投げかける。
「榊首相が何を思っているのか、何を背負っているのか……それも知らないまま背中を向け続けて……それでいいのか?」
 千鶴は唇を噛んで俯いたまま、じっと武の言葉を聞いている。聞きたくないと耳を塞ぐことも出来たであろう。それでも、確かに耳を傾けていた。
「もしかしたら榊首相だって、沙霧大尉達に斬られていたかもしれないんだ。委員長だって、衛士である以上、いつ戦死することになるかわからない。もう会えなくなって、その時になってもいがみ合ったままなんて、それでいいのかよ!?」
 どんなに通じ合っていても、会うことも存在を口にすることすら叶わない姉妹がいる。
 知りたいと思っていても、もう二度と会って真実を伝えることの出来ない父娘(おやこ)がいる。
 ならば、会いたいと本当に願えばいつだって会うことが出来るはずなのに、何も知らないまま娘が親を嫌い続けるなんて、あまりにも哀しすぎる。
 人が死ぬのは一瞬だ。この世界では人の命はあまりにもたやすく散ってしまう。どんなに重く尊くとも、現実の前にはあまりにも軽く、まるで紙吹雪のように容易く吹き飛んでしまう。
 だからこそ、死のその瞬間にはせめて、誰かを憎まずにいられるように。大切な人として感謝出来るように。そうであるべきだと、武は思う。人の死を見すぎてきた彼だからこそ、千鶴を大切に思うからこそ、そう思わずにはいられない。
「少佐に……」それまで口を閉ざしていた千鶴が、震える声で言った。「――白銀に何がわかるのよ!?」
 武を睨む大きく見開かれた双眸には、大粒の涙が光っていた。お下げを振り乱しながら、千鶴は続ける。
「父さんは――あの人は私と母さんを捨てたのよ! 一度だって私達を顧みたことなんてない! そんな人の何を理解しろって言うのよ!? 勝手なこと言わないで!!」
 胸の裡を吐き出すような千鶴の叫びを、武は黙って聞くしかなかった。
 千鶴は、父を憎んですらいるかもしれない。けれどそれは、榊首相を――父という存在を心のどこかで求めているからだろう。そうでなくては、自分を顧みてくれない父親、衛士になるという自分の後押しをしてくれない父親に対して、ここまで強い感情を抱くことなど出来はしない。
 けれど、その親子の愛情のすれ違いに対する言葉を、武は持っていなかった。
 親子、という関係を。武はもうほとんど実感することが出来なくなっていたから。十年以上もの間、親子という関係から切り離されて、衛士以外の生き方を知らなかったから。
 ――だから。
 武には語るべき言葉などない。出来るのは、その背中を押してやることだけ。
「――じゃあ、思いっきりそれを親父さんにぶつけてやればいい」
「え?」
 まなじりに涙を浮かべたまま、目をぱちくりさせる千鶴。泣いた所為で鼻の頭に朱が差しているのも相まって、どこか間抜けな表情だった。
 武は表情を和らげ、
「言ってやればいい。私を見て、私の話を聞いて……ってな。衛士って道を選んだ委員長の覚悟を、委員長自身の言葉でぶつけてやれ。何なら、一発くらいひっぱたいたっていいと思うぞ。総理大臣をぶん殴れるなんて、家族の特権だろ?」
 そういう甘え方があってもいいはずだ。特に簡単には素直になれない千鶴ならば。
 委員長は堅物だからな、と武は内心で苦笑する。
 千鶴に榊首相の覚悟を理解して欲しいとも思う。
 けれどそれは、どこかに武自身の弱さを反映した願いではないか。彼と、彼の尊敬する香月夕呼を守りたいがための、身勝手な願い。
 武と榊首相は似ている。ぴったりと重なってはいないが、その覚悟には重なる部分が確かにある。
 かつての武であれば、榊是親という人間の選んだ道には反感を覚え、食って掛かったに違いない。何故家族という最も身近で大切にすべき人達を切り捨て、頑なに首相としての自分に固執するのか、と。
 けれど、今ならばわかる。
 私心を捨て鬼となり、国や世界といった、大きな物を背負う覚悟。
 具体的な対象こそ違えど、その一点において、武と榊首相は確かに同じであった。
 ――そしてきっと、沙霧尚哉もまた。
 かつての世界で沙霧と交流をしていたことを思い出す。

 つきり、と微かな痛みがこめかみを刺した。

 ――そして、唐突に記憶が過ぎる。
『榊是親首相――貴殿を斬ることにならなくて、本当に良かった……』
 その言葉は、一体いつ耳にした言葉であったか。
 刹那の間に、武は自己の中へと埋没していく。記憶を取り戻そうとするな、という夕呼の忠告が脳裏を掠めたが、これはきっと、思い出さなくてはならない大切な記憶だ。
 一度目の世界。
 帝都にある小さな居酒屋。
 卓には三人。武。沙霧。――そして、榊是親。
「ぁ……」
 声が漏れる。
 ずぐん、と脳髄と胸の奥に痛みが小さな奔流となって渦巻く。それに耐えるように硬く歯を食いしばる。
 ぎり、という音と同時に。
『誰かが鬼とならなくてはならない――榊首相、貴殿は自らを鬼へと堕してこの国を守り続けていた』
 そう言って深く頭を下げた沙霧の姿を、思い出す。
 千鶴や慧と同じ部隊に属していた武。幾度かの共闘を経て友情を育んだ武と沙霧。戦功を積み重ねた沙霧とそれに褒章を授与した榊首相。
 奇妙な三人の取り合わせ。けれど、複雑に絡み合った因果の糸を手繰れば、この三人が一堂に会するのは、必然であったかもしれない。
 この時、沙霧は言った。
 かつて、米国の手先が日本国内で反乱を起こそうとしている、とある男から聞かされたこと。そして、国を、民を護るために、沙霧こそが鬼となりそのクーデターの首謀者となるべきだと言われたこと。そして、鬼となり、国の膿となっている者達を断ずる覚悟を決めたこと。
 ――そう、彼の尊敬する彩峰萩閣中将のように。
『あの12月25日以来、貴殿は誰よりもこの国に貢献してきたと、私は信じています。その信念、忠誠――あなたを信じた彩峰中将は、やはり正しかった』

 その日、武は榊是親の覚悟を知り。沙霧尚哉の願いを知り。二人を結ぶ因果を知った。榊首相は沙霧のような若者が、自分を断じてくれることを待っていたのかもしれないということも。
 榊首相の決断により、首を差し出した彩峰萩閣中将のこと――光州作戦の悲劇の真実を。
 まだ若く、本当の決意や覚悟を知らない武には、二人の会話の底にたゆたうを酌み取ることは出来なかった。
 けれど、今ならばわかる。
 ――彼らという先達は。この国を守るために、文字通り滅私の精神で、全てを捧げる覚悟を持って鬼と修羅の道を歩む決意をしていたのだと。

 ――決起に至るまで、沙霧の中にはどれ程の苦悩があったのだろう。
 多くの日本人からは、外道に甘んじながらも人々の心に潔癖と徳義を目覚めさせた、憂国の士として讃えられるだろう。
 しかし、後世の歴史に残るのは、BETA大戦の最中に反乱を起こした愚かな男という汚名のみ。彼の志を理解出来ぬ多くの――たとえばかつての武のような――者達からの誹りは逃れられまい。
 それをも甘んじて受け入れ、自身が地獄に堕しようともこの国を目覚めさせたいという決意。
 ――彼の行為はあまりにも愚かだ。
 BETAに国土を蹂躙される危険を顧みず、極東の要所たるこの日本という国でクーデターを起こし、政治的・軍事的空白を発生させた。結局は米国や鎧衣課長に踊らされ、武や夕呼に利用された、哀れな道化師でしかない。
 されど、その願いを――あまりにも純粋なその祈りにも似た覚悟を踏み躙ることは、誰にも許されない。

 ――この戦いが終わったら、彩峰と沙霧にも話をさせてやらないとな……。
 武の権限でそれが許される可能性はあまりにも低い。けれど、二人の間のわだかまりは、どうにかして解いてやりたかった。
「……なあ、委員長」虚空へと向けていた眼差しを、再び千鶴へと向ける。「思いっきり自分の気持ちをぶつけて、それを榊首相が受け入れてくれたら――その時は、親父さんの話も聞いてやってくれないか。誰からも理解されなくてもいい、世界中から忌み嫌われてもいい、愛する家族にさえ憎まれてもいい……それでもこの国を、世界を守り抜こうととした――榊首相のその覚悟を、榊首相自身の言葉で、聞いてあげて欲しいんだ」
 この場で榊首相の覚悟を武が言って聞かせることは簡単だろう。しかし、それでは意味がない。
 千鶴自身が彼女の意思で父親と向き合い、その真実を知ること……それこそが、今後の彼女の成長に最も必要なものなのだから。
 千鶴は伏せた目を戸惑うように彷徨わせる。
 やがてゆっくりと顔を上げ、武の顔を見つめ――しっかりと頷いた。
「そうと決まれば、早くこの戦いを終わらせなきゃな」武は頷きを返し、「――頼んだぞ、榊。207の要はお前なんだからな」
「はっ!!」
 敬礼する千鶴に、もう迷いは見られない。
 頼もしいな、と武が思わず顔をほころばせると、
「――少佐」
 千鶴が静かに、けれどどこか力強さを感じさせる声で武を呼んだ。
「何だ?」
「いつか……いつか、聞かせてください。少佐の戦う理由――少佐の覚悟を。私が父に向き合うことが出来たら、きっと」
 予想外の頼みに面食らう。
 僅かな間、武はぽかん、と口を開いていたが、やがて唇の端を吊り上げ、
「ああ――いつか、きっとな」
 そう約束したのだった。


 木々の間を、武はゆっくりと歩いていく。
 ――確かたまはこの辺りに……っと。
 ようやく見つけた壬姫の隣に米軍衛士――イルマ・テスレフ少尉の姿を認め、武は思わず木の陰に身を隠した。
 武が現れれば、イルマは警戒して壬姫に対してしているような、無防備な話をしてくれなくなってしまうかもしれない。彼女がそう容易くボロを出してくれるとは思えないが、あの狙撃が彼女の意思であるならば、何かしらの素振りがあってもおかしくはない。
 そっと顔だけを木の陰から出して、二人の様子を窺う。耳を澄ませば、聞き覚えのある会話――前の世界と同じ、イルマの身の上話が微かに聞こえてきた。
 イルマはフィンランド人であるが、BETA侵攻によって祖国を失い、家族と共に戦災難民として米国に亡命……難民キャンプで暮らす家族を劣悪な環境から救い出すために市民権を得ようと、米軍に従軍しているということ。
 勿論、彼女が従軍している理由はそれだけではない。難民上がりの米軍衛士の多くは、市民権を得るためだけではなく、BETAと戦うために衛士となった者達だ。欧州から逃れた彼らにとって、祖国を取り戻すことは何よりの悲願なのだから。
 彼女もまたその一人であった。北カレリア戦線に散った父と同様、家族を護るためにBETAと戦い、いつの日か祖国の大地をBETA共の手から取り戻し――そして父の墓を建て、その側で家族と共に暮らしたい、と。どこか寂しげに、けれどどこか誇らしげに、悲願達成を確かに見つめながら、壬姫に向かって言ったのだった。
 いつか憎きBETAから欧州の地を取り戻した暁には、必ず壬姫をフィンランドに招待する、とイルマは約束し、二人は笑みを交わした。
 だからこそ、人間同士の戦いもBETAとの戦いも早く終わらせよう、と。
 そしてその日が来るまで、絶対に死なない、と。二人は固く誓い合う。
 僅かな時間であったが、二人の間には友情という固い絆が生まれていた。正規兵と訓練兵、米軍兵と国連軍兵、日本人とフィンランド人……二人の間には多くの違いがあったが、そんな差異は些細な障壁にすらなりはしない。
 同じ人間として。この地球をBETAの手から取り戻し、平和な日々を手に入れるという志を同じくする者として。
 二人は、確かな友情を確かめ合ったのだった。
 やがて、イルマは歩哨任務の交代の時間だからと、壬姫に小さく手を振って去っていった。
 それら一連の話に、僅かな罪悪感を抱きながらも耳を傾けていた武は、細く長い溜息を吐いた。
「……少なくとも、あそこで全てを台無しにして泥沼にしようって考えるようなヤツの台詞じゃないよな」
 ぽつり、小さく呟く。
 あそこ――前の世界での悠陽に扮した冥夜と沙霧の謁見において、沙霧が米国の関与を暴露しようとした瞬間、テスレフ機が発砲し、全てを台無しにしてしまった出来事。
 イルマの言葉に、嘘はなかった……ように思う。もしかすると、先程の彼女の振る舞いは全て虚飾であり、本当の彼女は壬姫の身を案じてなどいなかったのかもしれない。
 だが、そのような人物があのような優しさと思いやりを持った態度で壬姫に接することが出来るだろうか。
 ――否、だ。
 武は腹芸を得意とする者とはこれまでに数多く関わってきた。
 だから、何となくではあるが、腹に一物抱えた相手というのは、話し方や表情、些細な仕草などから感じ取ることが出来る。しかし、彼女にはそれらが一つもなかった。
 壬姫への思いやりも、約束も、誓いも、全て本物だった。あれらが偽りであったなど、武には信じられなかった。
 前の世界では、彼女の本心を窺い知ることは出来なかった。その前に彼女は逝ってしまったから。
 だが、ここに来て武は、一つの確信を抱くに至った。
 ――やっぱり、黒幕がいるってことだな。
『脚本を用意したのは恐らく、国連上層部のオルタネティヴ5推進派と米国諜報機関でしょう』
 鎧衣課長の言葉を思い出す。
 米国諜報機関――中央情報局(CIA)。武の『元の世界』の知識にもある、色々と黒い噂の絶えない機関である。徹底した秘密主義やその裏稼業から“見えない政府”とまで揶揄される程だ。
 もしもイルマが意思と違って――何者かの後催眠暗示によって――謁見の完遂を妨害したというのであれば、その後ろで糸を引いているのは、恐らくはCIAだろう。
 そもそも、たとえイルマがどんなに優秀な衛士であったとしても、難民上がりの衛士が今年実戦配備されたばかりの最新鋭機に搭乗出来るはずがないのだ。
 言ってみれば、F-22Aは日本帝国における武御雷のようなものなのだ。無論、武御雷程特別な機体ではないが、コストや配備数を鑑みれば、ごく一部の衛士のみに搭乗が許された、特殊な機体であることに変わりはない。
 それに彼女が乗っているのは、彼女にそれだけ特別な役割が宛てられているという証左に他ならない。
 また、F-22Aが初めて実戦配備されたのはバージニア州ラングレー陸軍基地。CIAの本拠地所在地はラングレーであるから、CIAが関わっているのであれば、イルマがF-22Aに搭乗しているのも頷けるというものだ。
 ――つまり。
 この戦争において、イルマ・テスレフという名の女性衛士は、最初から文字通りCIAの操り人形として配置された駒でしかなかったということだ。
 だが。
 ――なら、こっちはそれを利用させてもらうまでだ。
 米国と国連上層部のオルタネイティヴ5推進派に決定的なダメージを与えるための駒として。彼らがイルマを操り人形にしようと目論むのであれば、その糸を断ち切るまでのこと。
 問題は、どうやってそれを達成するかであるが、

「あれ……白銀少佐?」

 武の思考に割り込むように、壬姫の声が武の鼓膜を震わせた。
「――よう」何事もなかったかのように武は応える。「様子を見に来たんだが……会話に割り込むわけにもいかなかったからな。立ち聞きしてすまない」
「そ、そんな謝るようなことじゃないです……!」
 慌てた様子で壬姫は言った。
「テスレフ少尉……だったか。立派な衛士だったな」イルマの去った方に視線をやり、初めて彼女を見た風を装って武は言った。「軍人として上官としてじゃなく……一人の人間として接してくれてた。この状況でそれが出来るヤツなんて、そうそういないぞ」
 イルマ――米軍衛士にとってみれば、この戦争は、極東の要所たる日本が勝手に始めた内紛の尻ぬぐいをするために、戦禍のただ中に飛び込まされたようなものでしかない。本来ならば、壬姫が日本人であるとわかった途端にその不満を全てぶちまけられても仕方がなかった。
 にもかかわらず、彼女はそうしようとはせずに、あくまで一人の人間として壬姫との友情を育もうとしてくれた。
 少尉に収まる器ではないだろう。
 尤も、彼女は亡命軍人であるから階級が少尉なだけで、本来はもっと上の階級に就いているはずなのかもしれないが。CIAの暗躍があるにしろ、F-22Aに乗っている時点で彼女の技量の高さは疑いようもないのだから。
「良い戦友が出来たな、珠瀬」武は壬姫へと視線を戻して、「……珠瀬?」
 壬姫が目を伏せているのを認めた。今にも溢れそうな涙を、その両目に湛えているのを。
 彼女を落ち込ませるような会話をした覚えはなかった。が、すぐにその理由に思い至った。それは、たった一つしかなかったから。
「――また親父さんのことで落ち込んでるのか?」
 びくっ、と肩を震わせ、弾かれたように壬姫は顔を上げた。
 やっぱりか、と武は小さく吐息して目尻を下げた。
「まだ納得出来ないか?」
「……っ」
 壬姫は息を呑み、そのまま数秒硬直すると、ゆっくりと首を縦に振った。
「大方、珠瀬事務次官がテスレフ少尉達を巻き込んだのかもしれない、とでも考えてるんだろ」
「す、すごいです……どうしてわかっちゃうんですか?」
 目をぱちくりさせる壬姫。
 まさか前の世界で壬姫本人の口から聞いていたから、とは言えない。
「お前の性格と事情を知ってれば誰だってわかるさ」
 それは決してその場しのぎの誤魔化しではなかった。
 壬姫にはやや内罰的な傾向がある。彼女の上がり性も、元はと言えばそこから発しているのだろう。
 そして彼女の場合、その範囲を身内にまで広げてしまう。即ち、珠瀬事務次官の行為を、まるで自分が悪いことをしたかのように、自らを責めてしまっている。
 イルマの身の上話を聞いた壬姫が、祖国を取り戻すために戦っているはずのイルマを自分の父が日本国内の内戦に巻き込んでしまったと考えるであろうことは、彼女を良く知る者であれば容易く察せられるに違いなかった。
「さっきも言ったが、事務次官は何も間違ったことはしていない。事務次官は一秒でも早くこのクーデターを鎮圧して、BETAと戦える状態を取り戻すために、米国の介入を日本政府に呼び掛けたんだ」
「でも――」
「お前が自分を責める必要なんてどこにもない」武は壬姫の言葉を遮って続けた。「責められるべきは、この状況を作った――クーデターを引き起こした全ての人間だ。そして、そいつらはみんな、責められ罵られ蔑まれることは覚悟の上でやってるんだ」
 ――オレだってそうだ。
 その程度のことは、苦痛でも何でもなかった。
 いや、苦痛はある。だが、その程度の苦痛は容易く押し殺せるだけの覚悟と決意があった。
 武だけではない。珠瀬事務次官や鎧衣課長、榊首相は、掛け替えのない家族からどのように思われようとも自らの使命を完遂しようとしているのだ、その覚悟はあるいは武以上かもしれない。
「だから、お前が自分を責める必要はない。――いや、責めてはいけないんだ」
 その決意と覚悟に対して他者が責任を感じるなど、それは彼らに対する冒涜に他ならない。
 壬姫はしゅんと俯き、唇を噛んでいた。
 彼女の気持ち――不安がわからない武ではない。父親の役割とこの状況を結びつけるなという方が無理というものだ。
 武は小さく溜息を吐いて、
「――だから、責める相手なんて決まってるだろ?」
「え……?」
 涙を浮かべた壬姫の双眸が武を見上げる。武の言葉の意味を理解出来ていない様子だった。
 武は悪戯っぽく唇の端を吊り上げて、
「本人に訊いてみればいい。オレ達が基地に戻った後、少しくらいなら時間があるはずだ」
 とはいえ、壬姫は一介の訓練兵に過ぎない。いくら身内であるとはいえ、彼女では事務次官に会うことは難しいだろう。だが、武や夕呼の力添えがあれば話は別だ。横浜基地の副司令でありオルタネイティヴ4の最高責任者でもある夕呼、新OSの発案者であり香月夕呼の腹心でもある武――この二人を無視することは、珠瀬事務次官にも出来まい。
「たまには思いっきり思ってることをぶつけてみるのも悪くないと思うぞ? ――どうだ?」
 武のその問いに、壬姫は無言で――けれどはっきりと頷いた。その両の瞳に、強い輝きを宿して。
 よし、と武は頷きを返して、
「じゃあ、何としてもこの戦い、生き残らなきゃな。テスレフ少尉との約束を守るためにも、な」
「は、はい!」
 いい返事だ、と武が頭の上に手を置くと、壬姫はくすぐったそうに目を細めた。
「お前なら出来るよ、珠瀬」
 彼女にならば、きっと出来る。
 この戦いを生き抜くことだけではない。イルマの故郷であるフィンランドへ行くことだって、きっと――。


 結局、武が次に向かったのは、冥夜のところではなく、美琴のところであった。
 位置関係の問題もあったが、何となく冥夜に何を言ってやればいいかわからなかったのだ。それならば、美琴の方が気を掛けねばならないことも少ない分、先に済ませてしまおうと考えたのである。
「美琴に関しては他のみんな程心配してはいないけどな……」
 207B分隊は皆一様に特殊な身の上であるが、美琴に限っては父親である鎧衣課長がどのような立場にあるかを知ってはいない。勘の鋭い彼女のことだから、薄々勘付いている可能性はある。政治的意味合いの強い面々の中で、自分だけが例外であるとは、彼女も信じてはいないだろう。
 かといって、わざわざこの場面で真実を告げようとは武は思わない。遅かれ早かれ――夜明けには彼女の知るところになるとはいえ、今徒に動揺を誘う必要はないからだ。
 故に、武がこれから美琴に見せて良いのは、初めての実戦に疲弊した部下を労う、一人の上官としての姿だけ。彼女の事情を知ることなど、おくびにも出すことは許されない。
 この辺りだったはず――と武が木々の隙間から周囲を伺うと、
「あっ、白銀少佐ー」
 緊張感の欠片もないような美琴の声が、武を呼んだ。
 がくりと肩から力が抜けるのを感じながら――けれども軍人として培った本能が背筋は伸ばしたまま――武は笑顔の美琴へと近付いていく。
「お前は相変わらずだな、鎧衣。抗鬱剤の打ちすぎじゃないだろうな」
「そうですかー?」美琴は首を傾げ、「いつも通りだと思いますけど?」
「オレはそれを問題にしたつもりだったんだが……」
「少佐は元気ないですね? 疲れてます?」
 お前の所為でな、と武は盛大に吐息した。
 美琴としては、いつも通りの美琴の姿を見て『オレも元気付けられたよ』と言ってもらえることを期待していたのかもしれないが、それは気遣う相手が間違っている。
 むしろ、
「お前、無理してるだろ」
 そんなことをすれば、気を張っていることがありありと伝わってしまうものだ。
 案の定、美琴はぎくりとした様子で、武の台詞を否定しようとするが、
「明るく振る舞うことは悪いことじゃない。むしろ、部隊長はピンチの時ほど不貞不貞しく笑え、って言葉もあるくらいだから、逆に良いことだが、今は好きなだけ疲れた顔してろ。オレがいるからって、無理に明るくするな。それじゃ休憩の意味ないだろ」
「む、無理なんて……」
「してない、って言えるのか?」
 美琴は口をつぐみ、俯いてしまう。少し意地悪だったか、と武は頭を掻いた。
「仮にもオレは上官だぞ? 休憩時間なんだ、少しくらい甘えたって罰は当たらないさ」
 甘ったれが困るのは当たり前だが、実戦の間の僅かな時間を利用して息抜きも出来ないというのも困る。無理に明るく振る舞えば、その分心の中には澱が溜まって緊張の糸が張り詰めていく。最後に待っているのは、その糸が切れてしまうという当たり前の結果と、死という結末だけだ。
 勿論、美琴の明るさは部隊に必要なものだ。指揮官がふてぶてしく笑うように、部隊員の中に困難の中でも笑える者がいるというのは、それだけで部隊の空気を前向きにしてくれる。
 武の目には、美琴の表情が幾分か和らいだように見えた。小さく深呼吸して緊張を解し、美琴は言った。
「――少佐は凄いですね」
「え?」
 まさか突然そんなことを言われるとは思わず、武は思わず目を見開いた。鳩が豆鉄砲を食ったよう、という形容がそっくりそのまま当てはまるであろうその表情に、美琴が顔を綻ばせる。
「少佐は殿下を乗せていてボク達よりも責任が重いはずなのに、ボク達を気遣う余裕まであって……戦術機の操縦やXM3の発想だけじゃなくて、何て言うか……同い年のはずなのに、覚悟や考え方も大人って言うか……なんか、そこにいてくれるだけで安心出来るんです」
 ふと、前の世界でも同じようなことを美琴に言われたことを、武は思い出した。
 その時の武は、一度目の世界での経験があるだけの――しかもそのメッキも剥げて、覚悟も定まらず、気持ちがふらついているだけの、半端者でしかなかった。
 立脚点がなかったから。
 だから、自分が何を為すべきなのか、わからずにいた。
 かつて恩師であるまりもが目の前で兵士級に食われた時、全てを捨てて逃げ出したいとも思った。口ではどんなに世界を救うと嘯いても、その覚悟も強い意志も持っていなかったから。
 ――だが、今は違う。
 武は今でも自分を半人前の青二才だと思っている。事実、彼にはまだまだ軍人に徹しきれない甘っちょろい部分が残されている。
 けれど、美琴が尊敬する武の強さは、もうメッキなどではなかった。
 鍛えに鍛え抜かれた、鋼鉄の如き意志。
 この世界を救うというその想いは、決して揺らぐことはないのだから。
 だから、今度は美琴の言葉を素直に受け止めることが、武には出来た。
「……もしそうだとしたら、それはお前達のお陰だろうな」
「えっ?」
「前に言ったことあったよな。オレ達衛士が戦う理由は何か、って」
 こくり――美琴が頷く。
 衛士に限らず兵士の多くは、共に戦う――隣に立つ戦友のために戦う。苦楽を共にした仲間を護りたいから、共に生きたいからこそ、その命を燃やし、死の恐怖を超えて戦場に立つことが出来るのだ。
 きっと、美琴にはまだわからないだろう。仲間達を護りたいという気持ちは無論あるだろうが、それが戦う理由にまで大きくなるのは、幾多の戦場を越えてからのことだ。
 BETAとの戦いを生き抜いていく内にいつしか、仲間を護りたいという想いが膨れ上がっていることに気付く。その時になって初めて、自分の戦う理由とは何かに気付くのだ。
「今、オレが護りたい仲間達には、鎧衣、お前も入ってるんだ」
「え……?」
「おいおい、意外そうな顔するなよ」武は思わず苦笑いを浮かべ、「お前達だけじゃない。神宮司軍曹、月詠中尉達、京塚のおばちゃんやラダビノッド司令……みんなオレの大切な仲間なんだからな」
 それだけではない。戦場でかどうかを問わず、これまでの世界で共に過ごしてきた仲間達、その全てが武にとっては掛け替えのない戦友だ。
 時には誰かを愛したこともあった。愛されたこともあった。
 護れないこともあった。護れないことばかりだった。
 涙を流したこともあった。嗚咽を零し無力を呪う日々もあった。
 ――そして、未だに再び巡り会うことの出来ない人もいる。
 それら全ての仲間達のためにも、武は世界を救いたいのだ。かつての仲間達が願った、平和な世界を――この掛け替えのない地球(ふるさと)を守り抜きたいのだ。
 それが、もう二度と会うことの出来ない仲間達に対する、唯一の弔いだと思うから。
「理由があるから強くなれる。護りたい人達がいるから前を向き続けられる。鎧衣、お前達がオレに力をくれるんだ」
 そしてその姿がまた美琴達の力になる。
 仲間とはそういうものだ。
 背を合わせて直接力を合わせるだけではない。ただそこにいるだけで、共にあるというだけでお互いを助け合う事が出来る。
 それが、仲間というものなのだろう。
「ボク達が少佐の力に……」
 誰に向けてでもなく、美琴は言う。その表情は明るく、心から嬉しそうに。
「ああ。だから、こんなところで立ち止まってるわけにはいかないぞ。お前達が立つべき戦場はもっと他にあるんだからな」
 ――そして、その戦場でオレを支えてくれ。
 言葉にはせず、武は美琴に微笑みかける。
 はい、という美琴の声は、いつも通り底抜けに明るかった。


「――もうあまり時間はないか」
 休戦に入ってから、既に三十分近くが過ぎている。そろそろ、悠陽の命を受けて神代巽少尉が武のことを探し始める頃だろう。
 今後についてのブリーフィングもある。冥夜を捜す時間は殆ど残されていなかった。
 前の世界では、武は冥夜をみつけることが叶わなかった。ただ一人、彼女はまりもの命令を額面通りに実行していたためだ。
 今回も、彼女は休憩を取ることなく歩哨の任務を果たしていることだろう。
 となれば、武が冥夜を見付けることは難しいだろうが――
「め――御剣」
 その姿を認めた途端、武は思わず名前を呼んでいた。
 がさり、と落ち葉が音を立て、弾かれたように冥夜が振り向く。同時に、突撃銃の銃口を武――彼女にとっては不審者か――に向け、引き金に指をかけた。
 武は慌てて、
「待った! オレだ御剣! 白銀武だ!!」
「白銀少佐……?」
 冥夜は怪訝そうに武を見て、やがて突撃銃を下ろした。
 敬礼しようとする冥夜を制し、ようやく安堵の息を零す武。その中には、冥夜を見付けることが出来たことも含まれていた。今回はタイミングが良かったということだろう。あるいは、運――夕呼をして00ユニットの適正は最高に近いと言わしめるより良い未来を掴む力――の為せた業なのかもしれない。
「このようなところでどうかなさったのですか、少佐?」
「お前達にとっては初めての実戦だからな。少し様子を見て回ってたところだ」
「お心遣い、痛み入ります」
 一礼する冥夜。他の四人は比較的武に対して気を張っていないようであったが、冥夜だけは硬さが取れていない。彼女でも初めての実戦は緊張するということか――否、彼女の場合、心を硬くしているのは、それ以外の要因だろう。
 しかし、その不安を取り除くためとはいえ、悠陽の容態を口にすることは出来ない。前の世界では美琴に口を滑らせてしまったが、訓練兵相手に明かして良い事柄ではないのだ。
「それにしても、ちゃんと歩哨をしてるなんて、やっぱり御剣は真面目だな」
「いえ、そのようなことは……」
 照れたように小さな声で言う冥夜。
 武やまりもとしては、今の内に体を休めてもらいたかったのだが、たとえ建前であっても、姉であり政威大将軍でもある悠陽を護るための歩哨任務を疎かすること彼女には出来ないのだろう。
 それを咎めることは、武には出来なかった。
 彼女の生きている理由であり、けれどそれは誰かに押し付けられた役目ではなく、彼女自身が選んだ生き方だ。ならば、どうしてそれに口を挟めるだろう。
 武は冥夜の覚悟を知っている。彼女が負っている定めも、この後彼女が為すべきことも。
 だから、掛けるべき言葉はなかった――否、掛けられる言葉など武は持っていなかった。
 けれど、それでも。
 たった一言だけ、伝えたい言葉があった。
「――冥夜」
 御剣、ではなく冥夜、と。敢えて一人の人間として、白銀武少佐ではなくただの白銀武として、武は彼女の名を呼んだ。
 そして彼女の頭に手を置き、
「――お前は、オレが護るよ」それだけを口にして武は冥夜に背を向け、「だから、お前は自分が正しいと思ったことをやってこい――」
 冥夜に背を向けたまま、そっと呟いた。


 207B分隊の五名全員との会話を終えて武が元いた場所へと戻ると、きょろきょろと周囲を伺っている巽の姿が目に入った。
 休戦開始後は悠陽の看病に就いていたはずだが、巴雪乃少尉や戎美凪少尉と交代したのだろう。
「――神代少尉」
 その声に巽は振り返って、
「捜しましたよ、白銀少佐……休憩とはいえ、この状況で動き回るとは……」
 暗に国連軍の程度が知れるぞ、と皮肉を言っているようだった。それくらい言いたくなる気持ちもわからないでもない。この緊急時に指揮官の居場所が知れないとあっては、慌てもするだろう。
「悪い悪い。ウチのヒヨッコ達はこれが初陣だし、色々抱えてるからな。今の内にケアしておきたかったんだ」
「それは……」
 第19独立警備小隊の一員である彼女は、207B分隊の抱えている都合も知っている。そう言われてしまっては、巽も言い返すことが出来ないのだろう。
「まあいいです。こちらへ」
 来たか、と武は内心で呟くも、どういうことかと視線で問い掛ける。巽は武の目をしっかりと見つめ、
「――お急ぎを。殿下がお呼びです」


 ――ここで、一人の衛士の話をしよう。
 男の名は長谷川(はせがわ)大河(たいが)中尉。所属は日本帝国軍帝都防衛第1師団・第1戦術機甲連隊――即ち、この叛乱の首謀者である沙霧尚哉と同じ部隊に所属する、言わば駒木咲代子中尉に次ぐ、沙霧の腹心とも言うべき衛士である。
 帝都守備隊の所属といえば、富士教導隊と並ぶエリート集団である。彼にはそれに見合うだけの技量があり、人格も模範的であった。いずれは斯衛軍からお呼びが掛かるのでは、と言われることも少なくなかった。
 彼は、それ程の衛士であったのだ。
 そして、彼自身、いつか斯衛の一員となることを幼い頃から切望していた。それこそが己の役目であり、生きる目標なのだと。
 だが彼は今、斯衛と相対する立場にあった。戦略研究会――クーデター部隊の一員なのだから。
 戦術機のコクピットの中で背を丸めていた大河は、目に掛かった髪を掻き上げながら、シートにもたれかかる。
 今は視界にはないその頭髪は非常に明るい。黒髪からは程遠く、茶髪ですらない。くすんだ金髪、というのが最も的を射た表現であろう。
 それは同時に、彼が純血の日本人ではないということを意味していた。
 ――彼の母はアメリカ人である。
 顔立ちはさほど彫りが深いわけではなかったが、母譲りの金髪は否が応にも彼に欧米人の血が混ざっていることを知らしめてしまう。
 その所為で謂われなき中傷の的となることもあった。
 だが、彼は決して卑屈にはならなかった。勿論、一度や二度落ち込んだことはあったが、彼は周囲の声に押し潰されることはなかった。
 彼は、周囲を黙らせるたった一つの、単純な、けれどとても困難な方法を知っていたから。
 ――体に流れる血の半分の所為で日本人として認められないなら、日本人以上に日本を守ればいい。
 衛士適正は同期の誰よりも高く、その実力は頭一つどころか二つ分は飛び抜けていた。だからだろう、帝都守備連隊というエリート部隊に彼が配属されたのは。
 その時、彼は一人の男と出会った。
『そうか、君があの長谷川中佐の――』
 大河に向けてそう言ったのは、一人の、当時中尉であった男だった。短く刈り上げた髪と精悍な顔立ち。眼鏡の奥の理知的な瞳には、強靱な意思の光が宿っていた。
 男の名を、沙霧尚哉と言った――。


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