――怒られてやると、確かにあの時は思った。
説教にげんこつに、いくらでも受けてやるだなんてほげーっと思ってしまった。
でも、結局それは事の重大性を認識しなかったがゆえの過ちだったのだ!
罪状1、終業式での校長先生のおはなし。
居眠りした挙句に校長先生の話を妨害するだなんてどう考えても説教モノである。まずこれを親に伝えようと考える担任の先生は何も間違っていない。
罪状2、反省文途中の逃亡。
反省文を書いている途中に、あまつさえ4階のバルコニーから跳び降りる形での逃走だ。逃げるのも悪いが、跳び降りなんて危険行為をしたという点でも心配と戒めで二重に怒られる。
罪状3、ガラスを割って土足でリビングに入り込んだこと。
まずガラスを修理しないといけなかった上、思いっきり家の中を踏み荒らしてしまっている。
そもそもドロップキックでガラスを割る行為そのものだって思いっきり怪我しそうな危険行為だ。心配する親心のある人間なら怒ってしかるべきだろう。
「そんなわけで、一日中物置に押し込められてたんだよね」
「死ぬほど自業自得ね。私も4階から飛び降りられたときは寿命が縮むかと思ったわよ」
マミの部屋にいくつか雑誌を持ち込んで、ごーろごーろと読みながらぼやいた。
マミ自身もありかの持ち込んだ雑誌の漫画を片手でぺらりとめくりながら、クッションをぶん投げた。
ぽふりとありかの頭の側面にぶつかって絨毯の上に落ちる。落ちたクッションの上に転がって乗りながら、ありかはまたページをめくった。
「でもさでもさ、携帯すらなしに素っ裸で入れられたから寒いし暗いしすることないしで、暇で暇で……」
何もすることもなく、暗い物置の中で独りでいろというのは一種の拷問だと思う。
退屈は人を殺すと言うが、長い間そんな場所にいたら本気で発狂するんじゃなかろうか。あたしの場合はもう一人が身体の中に住んでるので一人で会話して時間潰せたからいいけどさ。
「いくら携帯に電話しても繋がらなかったから、大丈夫かと心配したのよ……ちょっとだけ」
マミが片手で雑誌を押さえながら指で1センチちょっとの隙間を作っていた。ひまわりの種が入るくらいの隙間しか心配しないとは薄情な女である。
「いやいや、バカにできないって。いくら風は防げるし中に毛布がしまってあったとはいえ、あんだけ寒いと風邪も引いちゃうだろうし、ホント辛いよ?」
「大丈夫よ。バカは風邪を引かないんだから、あなただったら平気に決まってるわ」
マミも入ってみればわかるのに、なんて恨み言を連ねてみるもそもそもマンションに物置が設置されてないらしい。
それはそれで不便な気がしたが、この手のものは慣れだと相場が決まってる、じきに気にならなくなるものなんだろう。
「シモの処理するのに中に入ってたじょうろまで使ったあたしを無事だと?」
「なにそれ汚いわね」
「胸揉みしだくぞこのドグサレアマが」
「ごめんなさいとてもかわいそうな春見サン」
寒い中長い間閉じ込められたらトイレ行けないし、中で漏らしたら自分の座る地面が汚いし、そりゃそうなる。と言うかマジで漏らすかと思ったあの時。
割と小学生女児の尊厳ギリギリのセンだったと思うのだが、誰にも見られてない個室なのでセーフということにしといた。後始末の関係上ニオう毛布で暖まるのは流石に心が折れそうだったがどうにか乗り切ったのだ。
……こんな事態、ループしてきた『私』にも流石に初めての経験だったらしい。一緒にダメージを受けてくれる仲間がいるというのは心強いものだ。
そもそもループ内で初体験とかどれだけ今回やらかしたことが大問題だったのかよくわかるというもの。
ごめんなさい、父さん。もうありかは四階のベランダから飛び降りません。
ごめんなさい、母さん。もうありかは隣の家の屋根からダイブして居間のガラスをドロップキックでパリーンしません。
くるんと身体を回転させて座り、はぁ……とため息をついた。ずいぶんと頭の悪いことで悩めるものだ。
死ぬだとか見殺しにするだとか、そんなのを乗り越えてここまで来れたからこそのこの態度である。
「お疲れさま……ありか」
ふと、身体に熱が触れたことに気づいた。背後から手が回されて、あたしの身体の前の方でふんわりと組み合わさっている。
ずいぶんと久しぶりに感じるやわらかなマミの身体の感触に、ねぎらってもらったみたいでちょっとくすぐったい気分になった。
もちろん、マミがそんな戦いのことを知っているわけもない。
だからきっとこれは、お仕置きに凹んでいるおバカさんへの慰めなんだろう。
――それでも。
「うん、ありがとう……」
――それだけでぜんぶ、報われたような気持ちになったんだ。
心地良い温もりに、だんだんまぶたが重くなっていく。この優しいまどろみのためにバケモノと戦っていたのだろう。――悪くない。
ずっとどこか張り詰めていた何かを解きほぐす安堵感に、やっぱりマミはすごいと再認識しながら意識の落ちるに任せていった。
「あらあら、寝ちゃったわこの娘」
体温低めの身体を抱えて髪をなでつけてやると、ころりと転がるように寝入ってしまった。
どうにも終業式辺りからかなりお疲れだったみたいだからまあ仕方のないことだろう。なんとなく今まで以上ににいきいきして見えたから特に何も聞かなかったものの、きっと何か打ち込めるものでも見つけたに違いない。
マミは自分のベッドに寝かしつけながらそう思った。ただの友だちとしてのカンなのだが、今は休ませてやるのが一番いいと誰かがささやいた気がしたのだ。
「それにしても、本当に溶けきった寝顔ね……」
ふにふに付いてみるも、幸せそうなスライム顔のまんま変化する気配がない。
ぐにーんとほっぺをいじる。よく伸びるし吸いつくようで気持ちいい肌触りだ。
ぐにんぐにんとこねていると、なんだか思わずあくびが出てしまう。
「それにしても、こう気持よさそうに寝られると私まで眠くなってしまうわ……」
マンションの部屋は広く、ベッドの大きさには余裕がある。ありかが一人寝転がったくらいではまだまだ寝返りを打っても落ちないくらいにはスペースが空いている。
じゃあ、ちょっとくらい寝てもいいんじゃないかしら。お泊りだなんて最近は全然していなかったし、たまには一緒に寝るのも悪くない。
「おやすみなさい……」
ありかに被せたばかりのかけ布団をめくりあげ、マミもまた夢の世界へ旅立っていった。
部屋の主も客も寝入ったまんまで時間が過ぎ、結局6時になっても帰る気配がなかったので、微笑ましいものを見てニコニコ顔のマミの母が起こすことでようやくその穏やかすぎる時間を終えたのだった。
****************
「今度の日曜日に家族でドライブに行くのよ」
「ほー」
それは冬休みも終わり、学校で隣同士になって給食を食べているときに放たれた言葉だ。
鯨肉風味ステーキをむしゃむしゃと口にくわえながら相槌を打ち、そのまま飲み込んだ。魚肉硬い。噛みづらい。
少々口の中がこってりしたので白米を掻きこみ、またむしゃむしゃと口を動かす。ごはん特有の甘味と魚肉の脂が混ざりハーモニーが心を震わせる。
だがそれが喉元を去ってしまうと、なんとも言えない息苦しさが残る。固形物の通過に食道が悲鳴を上げたのだ。
――だが春見ありかは慌てない。左手を伸ばしてわかめとタマネギの味噌汁が入った茶碗を持つと、ずずずと音を立ててすする。芳醇な味噌の香りが鼻孔を包み、わかめとタマネギの甘みと旨みが凝縮されて舌を潤してくる。
うむ、うまい。
「それでどこまで? お泊り?」
「いいえ、日帰りでいつものところまでハイキングかしら」
ほら、小さな頃によく行ったでしょう? とマミが補足した。
近くにショッピングモールもある大きなグラウンドで、草花も豊富で気持ちいいし、一通り遊んだ後に店を巡って楽しめたりもする大型施設だ。
「へー、あそこかぁ。いいなー……」
小さい頃は家族合同でたまに出かけていたものだ。ありかとマミが二人で花を摘んで遊び、父親同士が面倒をみている間に両方の母親がショッピングしていたりした。
アグレッシヴなありかの母さんがみんなを引き回したり、大人で話しながら遊ぶ子供ふたりを見ていたりしていた。
確かにあれは楽しかった。しょっちゅうマミと一緒に見滝原のモールに繰り出していたりしてそれも楽しいのだが、家族全員揃っていたときはそのときの楽しさがある。
うんうんとうなずきながらほうれん草の胡麻和えを口にした。香ばしい煎りゴマの香りにしっかりと肉厚なほうれん草の歯ごたえ。口に広がる汁気はどっしりと控えめに甘く、正直なところあまり得意ではないほうれん草の嫌いな部分を打ち消している。
給食にするにあたり子どもが食べやすいようにレシピを考えたのだろう。おいしい。
『そんなこと言ってる場合じゃない、止めないといけないんじゃないの?』
心のなかで自分ならぬ自分が騒ぎ立てた。
でもなあ、だってただドライブ行くってだけでしょ? それで騒ぎ立てるのもおかしいんじゃないかなあ。
『そのドライブが『私』の絶望そのものだって言ってんでしょうが』
――フラッシュバック。
記憶が一気に流れこんでくる。
必死にそれを止めようと言い寄るありか。拒絶され、車を動かなくするありか。そしてそこから必ず破綻する友情。
止めようとも聞かず、実力行使すればそれは察せられる。
助ければ自己の幸福な時間は崩れ去ってしまう。でも仕方ない――本来あるべき時の流れをねじ曲げているのだ、その程度の代償は覚悟せねばなるまい。
そう信じて、幾万回も同じ時を過ごしてきた記憶。
膨大に流れる映像と感覚の奔流の中、ありかはそれを掻き分けて踏み止まる。
――まあ、それはそうかも知れないけどさ。
でもマミのお父さんだって忙しい。久々に車でおでかけなんだから絶望扱いもどうかと思う。
『その途中に事故が起こって一家全員死ぬんだよ? 魔法少女にならなければマミだって死ぬ」
――フラッシュバックは終わらない。
幾度も幾度もループし、その度に絆を実感し刹那の温もりに心を癒し、そして裏切られて消えていく。
そして消えたあとには元通りの――何一つ変わらずなかったことにされた絆の姿。そこでまた暖かなひだまりみたいな日常を過ごし、崩壊させ、心に痛みを刻み、身体が麻痺していく感覚の中で恐怖しながら消えてゆく。
だが、そんな痛みの連鎖を打ち破る契機がやってきた。
偶然からマミの家族を見捨ててしまったことでマミが魔法少女になり、共に過ごすことに成功したのだ。崩壊する絆は、皮肉なことに家族を失った悲しみより依存する対象を探したマミの心により繋ぎ止められる。
共に戦場を駆けることにより共有する時間を増やし親密になり、頼りになるところを見せることによりマミ自身がありかから離れることを望まなくなる。
――痛みが怒涛となり、侵蝕を始める。
一瞬でも気を抜けば、『あたし』は『あたし』でいられなくなるだろう。
――でもそれは、今を生きる『あたし』たちにはまだ関係無いッ!
闇を、切り裂く。
意思という名の刃を以て、痛みの記憶を退ける。
だって、おかしいじゃないか。マミは滅多にできないドライブを楽しみにしていたのだ。
外側は取り繕っているが甘えんぼで遊びたい盛りなマミのことだ、お母さんと一緒にお店を冷やかしたいだろう。お父さんの運転する車の後ろに乗って景色を眺めながら喋りたいだろう。
――それをいきなり台無しにするのは、いくら危なくたって間違ってる!
『だけど、危険だよ。特に私にはそれが分かりきっていることなのに』
けどそれは大人の理屈だ。
危なかろうが何だろうが、そこに楽しそうなことがあったら飛びつくに決まってる。
危険性? そんなものはスリルの足しに過ぎない。実際に眼の前に危ないことがやってきて痛い目見ないと納得できない、そんなものは楽しいことを我慢するだけの理由にならない。
だってそれが――小学生って生き物なのだから。
『だったらどうする? またマミたちを見殺しにする?』
拒絶されて終わるか――見殺しにして楽を得るか。
未来を知る彼女が喉元目がけて選択肢を突き付ける。けれど――
そんなこと、誰がするもんか。
旅をより楽しく、安全に。危険でも生き残れるように。
楽しんだままで、その楽しさまであたしたちが一緒に守ればいいんだ。
だから――っ
「ねえマミ、せっかくだし久しぶりに一緒に行こうよ!」
『――なッ!』
――いつもなら開く間合いを一歩踏み込む!
より楽しく、どうにかできて、しかも自分も楽しい。
そんな選択肢を掴み取ればいい!
人と一定以上に近づかないようにするのは合理的だ。傷つく痛みを和らげ、次に次にと繋ぐことができる。
けど――けれど! それだけじゃ得られないモノだってあるんだ、きっと。
「ええ、いいわね! 今週の日曜日なんだけど、ありかの方はのお父さんとお母さんは大丈夫なの?」
マミの笑顔が華やいだ。懐かしい家族ぐるみの遠出が実行できればきっと楽しいことになる。
そんな内容に否やはない。
「うん、大丈夫なはずだから、今からちょっとメールする!」
ループした記憶を引き出せばわかる。日曜日は車も点検とかに出してないし、父さんも母さんも家でのんべんだらりだったはず。
案の定、CCで二人にメールを送ると承諾のメールが帰ってくる。
マミの方でも許可が貰えたようだ。
――そう、これでめでたく、春見家・巴家合同ドライブが成立したのであった。
****************
「じゃあそろそろ高速に乗るからシートベルトをしっかり締めるように」
あまり遠くはないとはいえ、高速道路に乗らないと若干時間がかかりすぎるきらいがある。
事故に備えて万が一にでも放り出されないように、ありかたちじはしっかりとシートベルトを腰にかけた。
加速路で80キロ近くに速度を上げてから本線に合流する。
「いやあ、それにしても久しぶりですな巴の旦那」
「まったくです。いやはや、同じ車に運転を交代してくれる人間が乗るなんて何年ぶりやら……」
窓の外を流れていく景色に父親同士の会話。ありかはマミの隣で舌の上で飴を転がしていた。
ワンボックスカーの一列目に父親組が、二列目に母親組が、トランクにもなる若干狭い三列目にシートを出して子ども組が座っている。
「ウチのは免許がありませんからねぇ……。春見さんの奥さんは、確か免許をお持ちでしたよね」
「いやいや、持ってはいるのですが、どうにもペーパードライバーで性格もぶっそうですから、任せると寿命が縮みそうでどうにも……。春見さんの奥さんくらい物静かな女性ならば話は違ったのですが」
いやいやはははと笑いあう二人の後ろからありかの母が左手の親指を下に立てているのが後ろからよく見えた。たぶんにっこり笑っているだろう。
マミのお母さんがジェスチャーでまあまあと抑えながら、今度は自分の夫の愚痴を言い合っている。
「ねえマミ、よくあれで雰囲気悪くならないなーとか思わない?」
「あら、奇遇ね。私もちょうどそう思っていたところなのよ……」
明らかにお互いの話の聞こえる車の前後の席で、おおっぴらに前後の人物の欠点を挙げては笑っている。
でも本格的に仲が悪いという雰囲気にはならず、妙な結束感を感じることになっていた。
「昔は気づかなかったんだけど、こんなに変な空間になってたんだねココ」
「私は薄々感じてたけれどね。久しぶりよねこの感覚」
はぁ……と頭を抱えた。しかもだんだん話がシフトして、今度は自分たちの娘についての愚痴やのろけに変わってきていた。
けなされたり褒められたり、むっとする間もなく自慢されて照れくさくなったと思えばまた片付けがなってないやら落とされる。でも不思議と憎めない。
「せっかくだし、しりとりでもしてる?」
「いいわよ。お題は食べ物で」
「じゃあしりとりの「り」から。りんご」「ごま」「マック」「春見さん、それはどちらかと言えば店名よ」
後ろでは頭の悪いミニゲーム。中段では娘たちのことについて。先頭では会社勤めの愚痴やら飲む約束。
まったくバラバラのようでいて同じ土台に立脚した、なんとも不思議な空気が完成していた。
だから、それが起こるなんてとてもじゃないが予想がつかなかったのだ。
急激な死の本能にありかの思考が加速を始める。
何事かと目線を動かせば、死神の影がそこにはあった。
――前の車が急激にフロントガラス目がけて吹っ飛んできたのだ。
正確に言えば違う。前の前の車が、そのさらに前の車に突っ込んで停止し、前の車が前の前の車に突っ込んで停止し、その車めがけてありかたちが突っ込んでいっただけだ。
だがその相対速度は実際に時速100キロで吹っ飛んできたも同じだ。外に脱出するだけの時間はない。
咄嗟にできたことといえば――マミの頭を抱え込むように動くことだけだった。
加速する主観の中でまずバンパーが軋む音が、次にボンネットがひしゃげる音が、そしてガラスが割れる音が響き――あとは一瞬だ。
前後からサンドイッチされるようにしてひしゃげる車内で背骨が折れる感覚がして、ぐにゃぐにゃのタコのようになった体ごとぐるぐると天地を回転し……。
…………。
……。
――ねえ。
――起きてよ。
――起きてって。
―― ……起きろっていってんだよこのアホンダラ!
目が覚めると、まず暗闇が目に入った。万力にでも挟まれたように動かない下半身と巨大な顎に挟まれたかのようにじくじくと痛む右半身に少し考えてから、そこがあの楽しかったワンボックスカーの内側だと気づいた。
僅かな光が射し込む車内を見渡せば、エアバッグなど意味がなく左右の扉から潰され、一様に鉄臭い紅をまき散らしている二人の成人男性に、何の勢いか頭部をひしゃげた鉄のパーツに突っ込ませ、だくだくと流血する二人の成人女性。
そして、自分の隣にいたはずの少女は唖然とした表情のまま後続車両のボンネットやそのなかの機械部品に全身を貫かれ、絶命していた。
思わずわき上がった吐き気を振り払い、そんなことをしている暇があればと観察を続ける。
自分も見れば、体の下半分はめちゃくちゃになった座席に飲まれて動くことすらできず、上半身も右側は後部から飛び出てきた別の車のバンパーによって噛み砕かれるように固定されている。
そう認識した瞬間に、激痛が脳髄を駆け巡った。
「か、はっ――!」
骨がすり潰される痛みに神経が赤熱する。痛覚が上限まで破損を訴え、主張を止めることなくフルスロットルで雷光を散らす。
いっそ麻痺してしまえば楽なものを、ありかの身体は勤勉に神経の信号を伝達し続けていた。
――でも
ぎしりと歯の奥を鳴らす。あの夢のなかであたしは、もっともっと何度も何度も、ありとあらゆる痛みを受け続けていた。瞳を涙に濡らそうが歯が砕けるほどに悶絶しようが、ずっとそれに耐え続けた。
だから出来る。出来るはずだ――自由な左手に指輪状態だったソウルジェムを召喚し、全身の熱を抑えてそれに願いを込めた。
光の帯がほどけてありかにまとわりつき、その姿をモノクロの装束へと変えた。
「だあああああああああああああああ!」
骨を、筋肉を再構築しながら満身の力でパーツを押し出す。ぎしり、と軋みを上げて物言わぬ鉄塊どもが動き出し、ありかに脱出するだけの道を与えた。
……魔法少女の身体強化バンザイだ。重機でもなければ不可能なほどの力技をありかに与え、外に抜け出す道を作ってくれるのだから。
頬を汚すオイルと粉塵も拭わずに車外に転がり出ることにより、ようやく現場の全体像を把握することができる。――もっとも、それが把握したかったものかと問われると否定せざるをえないが。
そこに広がっていたのは地獄だった。
べつにそれがさりとて超常的な光景であるというわけではない。
バケモノが跳梁跋扈しているわけでもなければ、光とも粒子ともつかない破壊の渦が吹き荒れるわけでもない。
いつもいつだって、世界の何処かで発生している当然のような人の営みのひとつに過ぎない。
――玉突き事故だ。
先頭の車両が事故を起こし、それに追突するように後ろの車が突っ込む。そしてその車に対して新しい車が追突を起こし、この恐怖が連鎖を起こして悲劇を生む。たったそれだけの物理法則に則った理路整然としたシステムだ。
魔法も何もなく、スピンと衝突、追突だけでできた一際鉄臭い大量事故死というそれだけの光景だ。
『――残念だけど、これは道が塞がってるね』
ぽつりと、頭の中の『私』が呟いた。
『私には思いもよらなかったアプローチだったからこれはもしや――と思ったんだけど、むしろ悪化しかしてないよ』
本来なら3列目のシートは引きずり出されず、マミは後部座席に座るのみだった。だがありかたちがお邪魔したことによってもろに後の車の衝撃を受け、魔法少女として契約を迫る間もなく死亡。
起きたことも双方の両親とも死亡し、マミの死が新たに増えてしまっただけで、リターンのひとつもありはしない。
『この方法は駄目だ』
繰り返し続けた春見ありかが事実を見た。
『――けど、お前はまだまだ私には新しい道があることを教えてくれた』
けれど、彼女のそれは諦めを宿した声ではない。
執念とも希望ともつかない決意が、その声に孕まれていた。
『次は必ず上手くやって見せる。それが駄目なら次の次こそ、それでも駄目ならさらに次に――最良の世界を選択して見せる』
そう、それは決意表明だ。
どれだけ繰り返そうとも必ず全てを助けるという、今一度の再出発の声だ。
過去の、まだ事実を知らずに闇雲にループしていた頃の彼女に戻ると今、此処で誓い直したのだ。
――嗚呼、だけれど……!
「そんなの、駄目……」
それは今、この場所を見捨てる死の宣告にすぎない。
まさに目の前で、こんなにも苦しんでいる人たちがいるのだ。
この死の荒野で呻く、無数の死者たちが死にたくないと叫んでいるのだ。
――それを見ないふりをして、もう一度繰り返せばいいだなんて――
この世界のこの時間軸、この場所から、"諦めて逃げること"に他ならない!
「アルテマ・ヒール……!」
ありかの右腕が輝き、周囲一帯を覆い尽くす。
無色透明の蛍光灯のような輝きが、総てを――この事故に関わるすべての犠牲者を救い出すために放射された。
『無理だよ、『私』の身勝手な願いじゃ』
春見ありかの魔法の本質は"過去にしがみつく"こと。
一応魔力さえあれば強化や回復、魔法少女衣装の装備なんてものは一通りできるものだ。だが、それぞれ適正というものがある。
癒しや回復なんて、おおよそ彼女の魔法の本質とかけ離れたものは十分な威力を発揮し得ないのだ。
『せめて、助ける相手を一人に絞りなよ。それならひょっとしたら助かるかも……』
「嫌だ」
そんなことは関係ない。選ばないしみんな助ける。
助けられなくても助ける。駄目ならそんな道理ぶち壊す。――それが魔法ってものじゃないの?
『そもそも『私』たちの魔力は多いけど、それだって『私』と『あたし』、二人分の魔力があるからギリギリ多くなってるだけだ』
「うるさい」
魔力を黙って込め続ける。
『……限界だよ。そろそろ『私』の魂は離れるし、そうしたら魔法だって使えなくなる』
「知らない」
――本当に、どうにもならないのだろうか。
"鎖鎌"が象徴する春見ありかの魔法の本質、"しがみつくモノ"では届かないのだろうか……。
――否、断じて否!
それでもありかは喰い下がる。
己の身に宿った魂の、すべての本質を知るために――そして魔法を保つため、必死に総てを経験した"春見ありか"の魂に手を伸ばす。
虚ろに己の中で輝くソレに触れた途端に、膨大な記憶の奔流がありかに襲いかかった。
わけもわからず"アレ"に襲われて死んだ一回目。間違いだと思い込もうとして殺された二回目。
「まだだよ……」
魔力を振り絞り、治療と同時に『私』の魂そのものにしがみつく。
戦いから逃げ出した三回目、戦いを模索し始めた四回目。
「まだまだ……」
ちかちか瞼の裏でスパークする、希望と闘争と敗北の味。
魂に伸ばした架空の腕が焼き付き、分解されようとするのを駄々と意地とで捩じ伏せる。
「違う、よこせ……」
がりがり――『春見ありかの蓄積経験』によって魂が削り取られる音すら聞こえてくる。『あたし』が『私』に浸蝕される。
すべてを諦め、もう一度やり直せばいいじゃないかという諦念がぞわぞわと心を這い上がる……。
「違う、違う! あたしは……」
――やらせない。助ければ脱出できると信じて、間違いを付きつけられて、絶望したどっかの誰かなんて知ったことじゃない!
ありとあらゆる本質を、ループの経験の結晶を、浴びるようにして総て飲み込んでゆく。
知らない自分の記憶を取り込みながらも、それでも今の『あたし』は忘れない。
ぼろぼろと自我が傷つき、切り刻まれていく感覚ももうどうでもいい。
記憶も魂もまとめて握り締め、がんじがらめにしがみつく。
――いや、しがみつくだけじゃ駄目だ。齧りついて、強引にでも自分の方へ手繰り寄せる。
――――そう、春見ありかの魂を春見ありかに引き寄せる。
……瞬間、眼の前に光が灯った。
『――なに!?』
――今まで端末でしか無かったこの世界の器に、"春見ありか"の魂すべてを引き摺り出して、宿してゆく。
時間軸上に固定されていたありかのソウルジェムの全てが、端末でしか無かったこの世界のソウルジェムへと吸収され、統合されていく。
希望の宝石が輝きを発して、身体のすべての構造が塗り替えられてゆく快感が身体を覆った。
その輝きの色は――黄金。今まで無色透明に輝いていたそのソウルジェムが"春見ありか"の全てを得て鮮やかに色づき、巡り始める。
そのモノクロだった魔法少女衣装は菜の花色をした鮮やかな色使いに息づき、活動的な生命の息吹を放ち出した。
――そしてありかは、回復魔法の発動を止めた。
今から使う魔法は正真正銘、春見ありかの本質の魔法。
"鎖鎌"の象徴する、春見ありかの願いを体現した正真正銘の原初魔法。
だが、それはもはやしがみつくだけの魔法ではない!
「――幸福の在処は、今此処に――――ッッ!」
重症を負い動けなくなった人間も、死して骸となった人間も皆、平等に輝きを発す。
マミも、両親も、隣の車も――この事故現場に存在する、ありとあらゆる怪我人はその身を光の粒子に包まれた。
――過去にしがみつくだけではない。
それは回復魔法ですらない、ありかとありかの願いの結晶。
過去にしがみつき、あの頃に帰りたいと願う後ろ向きな生活はもう終わりだ。
故に、"過去を引き寄せる"力の発露。
マミの肉体が四肢の形を整え、再生してゆく。――過去を引き寄せることによって発生した、時間の逆行だ。
両親たちの顔が生気を取り戻し、色づいてゆく。――時を遡り、負傷と死亡という事象そのものをキャンセルしてゆく。
その本質は、一人の少女の過去への執着から生まれたものなのかも知れない。
ただの駄々っ子の、我が儘から生まれた理不尽な暴力だったのかも知れない。
しかし、世界へ振るわれた力の槌はありとあらゆる悲劇を打ち倒し――
――嗚呼、結局のところそれは。
黄金の輝きが事故の、最初から最後までを覆い尽くす。
先頭車両の重傷者から最後尾の軽傷者まで、無差別に時を巻き戻す。
――救済の方舟であったのかも知れない。
悲劇そのものを破壊した光景を、しかし興味なさ気に睥睨する影が一つあった。
『それにしても、こんな事態は流石に想定外だ』
黄金の輝きを見つめるのは、一対の紅玉の瞳。
雪のように白い豊かな尾を掲げ、大きく溜息をついてみせた。
『魂を二つ同時に持つ魔法少女の力は凄まじいね、もう。僕の仕事がなくなっちゃうじゃないか』
死に瀕した少女の魂は強い願い――生命の個体を保存しようとする、理解出来ない感情の働きを生む。その本能は優秀な魔法少女を生み出しやすく重宝するのだが、今回ばかりは完全にふいにされてしまったようだ。
もうこの場で契約は望めないだろう……そう結論づければ、彼にとって既に興味の対象ではない。
新たなエネルギーを得るため、強い願いを求める契約の獣は価値を失った現場を立ち去る。悲劇が拭われた舞台に意味はないとでも言わんばかりに……。
――――こうして近年稀に見る死者重傷者を多数出したはずの玉突き事故は、一人の犠牲者も発生しない史上初の超大規模高速事故としてその幕を閉じたのであった。
********Epilogue*********
美樹さやかは一心不乱に走っていた。
制服のスカートが翻るのも構わず、全力で傍らの彼女の手を引く。
「くそ、なんなのよもう……!」
「駄目だよ……っ、美樹さん……、どんどん道が変わってる……っ!」
髪を二つに分けて三つ編みにした華奢な手を引かれる少女は、既にもつれそうになっている足を必死に回転させながら追随する。
ついさっきまで、転校してきたばかりの内気な少女とCDショップに寄り道していた。その筈だ。
腐れ縁の恭介を励ますためのCDを試聴して選びながら、早く慣れられるようにとかいぐりかいぐりしていたはずが、声ならぬ声を聞いたと思えば既にそこは店内ではなかった。
太陽もないのに斜陽の光が雲間より降り注ぐ、悪夢のような世界にいつの間にやら変質する。どう考えてもおかしな状況の中で、しかし狂うことを考えられないという矛盾した空間に周囲から二人だけ、ぽつんと取り残されてしまった。
その歪んだ色をしたタイルの大地の上で、ねとりとねばつくように、視界の端から数匹の影が立ち上がる。
世界を呪うような悪意を込めながら、顔がモザイクのように変質し続ける異形の姿が無言で湧いて出たのだ。
――アレはよくないものだ。
二人の意見は本能の領域で一致した。捕まれば喰われる……そう感じ取るや否や、揃って逃げ出す。
「■■■■■ッ――!」
時折、耳に入っても意識が理解を拒むような声と共に、触るものすべてを切り裂くような細い熱線が大地を焼く。
駄目だ、やっぱり足を止めれば殺される……! そんな強迫観念の中、転校生の腕を握り締めながらさやかは必死に足を動かした。
「きゃ……!」
「ほむらっ!?」
だが悲しいかな、暁美ほむらは既に限界を超えていた。
足を派手にもつれさせながら大地に転がった彼女は、もうとてもではないが立ち上がれるような状態ではない。
「美樹さ……っ! はや……く、逃げ……っ!」
――ほむらは心臓病で直前まで入院していた。
先生の言葉を、さやかはどうにもならない絶望の中で思い出す。汗を噴出し今にも壊れそうなほどに息を荒げる彼女では、これ以上走れないし、逃げ切れない。
しかもこの、か弱い転校生はさやかに逃げろとまで言ってくる。
身体が至って健康なさやかでさえ絶望を感じて走っていたのだ。その中で体が弱く、とてもじゃないが長く走れたものじゃない彼女はいったいどんな気持ちで逃げていたことか……!
そう思ったときには既に、腹が括れていた。
「嫌よ」
きっぱりと断り、彼女と呪いの塊との間をさやかはその身で隔てた。足は萎え、息は浅く、肩は縮まる。
「そん……な……、美樹さん……っ、私が……食べられてる内になら……逃げられ……っ」
「やなこった、ほむら」
――役立たずの私が死んで、美樹さんが助かるのなら、いいんじゃないか?
ほむらの諦めなんかに耳を貸してたまるもんか――必死に歯を食いしばって恐怖から踏みとどまる。
勇敢に立ふさがりながら、それでもさやかは抗うことをやめるつもりはさらさらなかった。
喰われるくらいなら、一撃でも悪あがきしてやる……!
逃げる間も何だかんだと持ってきてしまった通学カバンを、振り回せるように体の脇に構えた。いざとなれば遠心力を乗せて、非力な少女の力でもきっと痴漢くらいなら張り倒せる構え。
どう考えてもあの怪物どもが世間一般の痴漢よりやわだとは思えないが、それでもないよりはマシだ。手汗でぬめる合成皮革を固く握り締めながら、その時を待ち続ける……!
――よく頑張ったね
その時、風が舞った。
黄金色の閃光が奔ったかと思うと、すべての怪物は首と胴体の間で切り裂かれて、そのまま世界を認めないままに塵のように掻き消えた。
黄金色の旋風の根本には、年上と思しき一人の少女がいた。見滝原中学校の制服に不似合いな大型の、菜の花色に透き通った鎖鎌を持っている。
栗色の髪は肩にかからない程度まで伸ばしてあり、ピンで脇にまとめていた。
その日常的に見る服装と非日常な武器の取り合わせを見ると、まるで……
「妖怪ハンター……?」
「まあ、似たようなもんかな」
思わず安堵でへなへなと座り込むさやかに向けて、それだけ言う元気があるなら大丈夫でしょ、なんて彼女は肩をすくめてそんな風に答えた。
「えっと、あの……、いったい何が……っ」
未だ息が整わず、萎えた身体を動かせないままにほむらはなんとか声を搾り出した。
「あたしは春見ありか、見滝原中学校の三年生にして、世界にはびこる魔獣を討つ魔法少女だよ」
そうやって鎖鎌を光の粒にして虚空に返した彼女は、どこか神秘的な空気を纏っていて……。
「春見さーん、お手洗いって言ってたけれどまだなのー?」
「わわっ、ちょっと待ってマミ! 今行くー!」
友達と思われる声がかかった瞬間にそんな雰囲気も一気に霧散し、親しみやすそうなおどけた先輩のそれに変わる。
「君たち見滝原の学生だよね、何か気になることがあったら明日でも明後日でも三年生の教室であたしを呼んでくれていいから、それじゃ友だちを待たせてるからコレでっ!」
ぴゅーと走り去ってゆく背中を見送りながら、さやかはぽつりと呟いた。
「なんていうか……魔法少女って言ってたけど……」
「意外と親しみやすそうな先輩、だったよね……」
なんとなく意見が一致したことにお互いに顔を見合わせ、なんとなくクスリと笑ってしまった。
怖い経験はしたけれど、なんとなくあの自称魔法少女の先輩ならばどこにいても守ってくれそうな気がして、安堵も合わせて二人、笑い声を上げる。
おかしくもないのに二人で笑えてるこの状況を考えて、さらに笑いがこみ上げる。
ほむらもどうやら同じようで、やってきてから崩さなかった一歩引いたようなこもり気味の表情を崩して、ひたすら朗らかに笑っていた。
そんな彼女の顔を見ながら、さやかは想う。
――ほむらと、あたしと、春見先輩……あと春見先輩を呼びつけたあの声の女の人……。
――これから4人で、楽しくやっていけそうな気がするなって……
根拠もないけれど、楽しそうに笑いながら窓の外を歩いている金と栗色の二人の頭を見ていると、そんな風に思ってしまったのだった。
~魔法少女ありか★マギカ Fin, ~