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[25343] 手には鈍ら-Namakura-(真剣で私に恋しなさい!)
Name: かぷりこん◆273cf015 ID:177153ba
Date: 2013/08/25 17:16
手には鈍ら-Namakura-(真剣で私に恋しなさい!)

2011年1月3日 22:58 執筆開始



はじめに以下をお読みください。


・この作品は、みなとそふとから発売された「真剣で私に恋しなさい!」の二次小説です。

・当該作品の略称は「てになま」とします。

・みなとそふとの作品群は世界観が共通なので「君が主で執事が俺で」のキャラクターも登場します。つよきすの方々はゲーム未プレイなので出ない予定。

・基本的に、「真剣で私に恋しなさい」をプレイすれば楽しめると思います。

・ネタバレが多数入ってます。ご注意を。

・作者は初めての執筆となります。

・ビシバシと、閲覧者の皆様、ご指導のほどよろしくお願いします。

・作中に、作者の思い込み、創作設定が入る可能性あり。

・この作品は、オリ主モノとなります。ちなみに憑依とか転生とかではありません。その手のはちょっと苦手なんで。

・できうる限り原作準拠なキャラの描写を目指そうと思いますが、性格は改悪になることうけあいです。 ご了承のほどを。 気分が悪くなったら即、読むのをやめてください。 読者様が不快になられることは作者の本意ではありません

・作者は直江大和が好きではありません。 よって大和好きな方には申し訳ありませんがこの作品はお勧めできません。

・ウチの百代は、原作より弱めです。

・でも瞬間回復、超人技はチョコチョコ出します。

・仙豆持った悟空が、仙豆持ったクリリンになったくらいの補正です。(ネタ的な強さを抑えたかったので)

・なので結局、地球人では最強です。

・武術の間違った知識が含まれているかもなので、これについては本気にしないでください。

・鬱描写がたまに入る、かも。

・なるたけ感想をいただけると、作者のモチベが上がります。

以上を踏まえ、お読み頂ければと思います。 楽しんでいただければ幸いです。




[25343]
Name: かぷりこん◆273cf015 ID:177153ba
Date: 2011/07/09 17:24
2009年8月31日(月)






今日で、決着をつける。

俺ではなく、あいつの全てに。

あいつが犠牲にした、あいつ自身の誇りにかけて。

何が、立ちふさがろうとも。







「敵」は、千二百。

「他」は、二百。

「俺」は、一。

一騎当千では勝てない。

一騎当万でやっと勝負になるくらいか。

だが、勝つ。

勝たねばならない。

「俺」が勝てば、誰もが、何かを得る。

だが、「俺」が負ければ、誰も、何も得ないのだから。













覇の字が似合う老人の、怒号が、合図だった。



「川神大戦! 開・戦ッ!!!」



鬨の声が、響く。

闘の気が、満つ。

体躯が、震える。

興奮、期待、歓喜、そして一抹の悲憎をもって。



「矢車 直斗、参るッ!!!」


その一歩を、確かに踏み出す。
















そして、仇の名を叫ぶ。



















「直江、大和ォオッ!!!!!」





[25343] 第一話:解放
Name: かぷりこん◆273cf015 ID:177153ba
Date: 2011/07/09 17:27

『戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。……自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人のごとくに自分もまた堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。』

―――「堕落論」 坂口安吾








<手には鈍ら-Namakura- 第一話:解放>







2008年5月7日(水)




薄暗い廊下を、連れられる。
最後に通ったのは、何時だったか。

思い出す間もなく目的地に着いた。




教官室、と書かれた札が掛けてあるドアが先導により開けられる。
瞬間、背筋が伸び上がる。
入所時にしごかれて、早六年と幾月か。これはもう、条件反射。
その歴史に終止符を打つため、まずは声を張り上げる。

「2075番、矢車直斗! 教官室に入らせていただきます!!」

ほぼ直角に腰を折る。

「入ってよし」

一拍おいて、数台あるデスクの一つから、声が掛かる。書類をめくる音が嫌に響いてきた。

「まだちょっとかかる。 そこの丸イスに座ってろ」

七三分けに無精髭を生やした、何ともいえない身嗜みの男性教官が、書類を睨みながら座っていた。



「はい! ありがとうございます!」

返答が、俺たちに課せられた最初の義務だった。
最初の頃は忘れるだの声が小さいと怒られるだの、散々だったが、今じゃその名残もない。
先導した教官は既に踵を返していた。最後だろうから、なにか言おうかとも思ったが、結局何も言えなかった。
大して話してもいないし、世話してもらったこともあまりなかったと思い直したからだった。


いかん。我ながら、意外にも舞い上がっている。まあ、七年ぶりの娑婆にもうすぐ帰れるのだから仕方ないといえばそうなのだが。




そんなことを思っているうちに、教官は書類に決着を着けたようだった。

いきなり立ち上がると、また不意に「コーヒーは」と声をかけてきた。

「よろしいのですか?」

「前祝いだ。 もらっとけ」



随分安い前祝い、だとは思わなかった。今日は誰の心遣いも三割増しで身に沁みる。

しばらくして黒いマグが手渡された。

「長かったろ」

「ええ、まあ。 でも辛くはなかったです」

嘘。

「いやいや、今日でお別れなんだから本音のひとつぐらい言え。 別に変なこと言ったって、出所は伸ばせないし」

ははは、と乾いた笑いを返す。油断はできない。この人にはだいぶしごかれたからな。

その後はこれからの人生の、毒にも薬にもならない思い出話に花を咲かせた。
 




十分ほどたった頃か、

「もう時間だな」と出し抜けに言われた。

「はい」

壁の時計を見た。
立ち上がった。
もうここには座らない。
次はたぶん、院長の所に行くことになるのだろう。



「実はな」

意識が逸れた瞬間、何気なく教官が言を紡ぐ。

「お前がここに来た理由、俺は、本当のことを知ってる」




心臓が、凍る。

「何を、」

言われるのですか、とは続けられなかった。

代わりに教官が言い募る。

「俺も昔は川神院にいてな。 その縁で今の総代、川神鉄心様からお前のことを頼まれた。 一応、お前の親、矢車夫妻とも少なからず面識はあったしな」

俺、総理とも友達なのよ、と自慢。




俺は、何も言えない。



更に教官は言う。

「お前のしたことは、犯した罪は、許されない。 世の中的にはな」

唇をかみ締める。
罪のレッテルは、一生貼りついてまわる。
納得は、一生できないと思う。
でも理屈はわかるから、黙っていた。

「この六年、俺はお前を見続けてきた。 川神の全面的な庇護下で暮らすより、ここに来る事を選んだ理由が、自分の罪を償うため、贖うため、後悔するためじゃない事を、知ってから」




「お前は、変わらなかったな」



見透かされていた、か。



「お前の芯は、心根は、ブレなかった」












「そう、ですね」

やっと声を絞り出す。

「でも俺は、変わっちゃいけないんですよ」

じゃなきゃ、ここに来た意味などない。

あとは、目で、語った。




「いや、責めてる訳じゃない。 ただな、」

残り少なくなったコーヒーを、教官は一気に仰ぐ。
一息ついて。


「中途半端に、終わるなよ?」

視線が俺を射抜く。







「そこは、大丈夫です」

俺は答える。
俺が、矢車の姓を名乗る誇りをもって。





「ウチの、家訓ですから」




















―――キィィィィィ


――――ガァァァッ



何かを閉じ込め、何かを締め出す音が鳴る。
大きく深呼吸。
こういうとき、娑婆の空気は美味い、などとのたまう奴もいるんだろうが。
同じ味。

目的が、達成されていない限り、俺は、この空気を吸い続けるのだろう。








さて。

「行こう」

変わってればいいな。あいつ。



矢車直斗はこの日、日本政府法務省直轄、特級矯正施設を出る。




[25343] 第二話:確認
Name: かぷりこん◆273cf015 ID:177153ba
Date: 2011/07/09 17:34
『人は望みを持つ。人は生きる。それは全然別のことだ。くよくよするもんじゃない。大事なことは、いいかね、望んだり生きたりすることに飽きないことだ。』

―――「ジャン・クリストフ」 ロマン=ロラン







川神駅を降り、ひた歩く。
変わったなあ、この町。などという感想は湧かなかった。
それほど長く生活していなかったし。

思い出も、作れなかったし。

「もうそろそろか」

巨大提燈が釣り下がる門が、見えた。







仲見世通りは、人のごった煮だった。
外人多い多い。
修学旅行の輩も、掃いて捨てちまいたいぐらい。
素通りするのもなんなので、店を覗く。
どれもこれも観光地値段なのは置いといて、みやげ物は本当に種類が多かった。
ネタみたいなブランドのパチモンが置いてあったり。KUMAとかkazidesuとか。
一時のテンションで買って後悔するのは目に見える。

食い物のほうがハズレは少ないだろうと物色。
小笠原屋とかいう駄菓子屋はいい感じだった。
飴甘い。店員さん美人だったし。また来よう。

かりんとうとドラムバッグを手に、奥へ奥へ。

かさばるので通行人には申し訳なかったが。





巨門をくぐる。

およそ七年ぶりに、川神院を訪れた。









<手には鈍ら-Namakura- 第二話:確認>









境内にも人は溢れていた。
どうやって取り次いでもらおうかと考えていると、後ろから声を掛けられた。

「こんにちハ」

中国訛りとでも言うのだろうか、うさんくさいイントネーションだった。

「もしかして君が、直斗君かイ」

振り返ると、ステレオタイプな中国風の衣服を纏った男性がいた。

七三分け。
二日前をデジャヴ。無精髭はないが。


「え、と」

昔見た顔だ、と記憶を探っていると。

「久しぶりだねぇ、といっても君は覚えていないと思うけド」

覚えている、名前が思い出せないだけだ。

「僕はルー・イー。 一応、川神院の師範代を務めていル」

爽やかな笑顔。

戦うときホァチァーとか言いそうだ。
ヌンチャクとか棒術とかやってそうだ。
黄色いタイツとか似合――


「矢車直斗君、でいいんだよネ?」

一向に話さない俺に疑問を持ったのだろう。若干怪訝そうだ。慌てて答える。

「はい。 これからお世話になります。 すいません、顔は覚えていたのですが、いきなりだったもので」

「そうかイ。 来るのをお楽しみにしていたヨ。 うん、やっぱり真一さんの面影があるネ」

褒められているわけではないだろうが、そう言われて誇らしかった。

「ありがとうございます。 ……父とは、面識が?」

「うム。私の兄弟子にあたるネ。 では早速で悪いけれど、総代に、君の保護観察を引き受ける川神鉄心さんにご挨拶に行こうカ。 本来ならこの時間はまだ学校で教務をしている頃なのだけれど、今日は君が来るから少し早めに切り上げて帰ってきていル。 お待たせしては申し訳なイ」

「あ、了解しました」

そう言って、肩のバッグを再度背負い直し、俺はルー師範に導かれて院内へ。


うん。 まさに燃えよドラゴン。













武の頂点と名高い川神院だけあって、やはり敷地も建物も半端なく広く、大きい。
玄関からして三メートルの弟子でもいるのかと問いたくなる。
ルー師範の背をひたすら追う。 並行して、ジロジロと屋敷内を見ていく。

これはご勘弁願おう。
道を覚えておかないと、迷惑をかけることにもなる。

それにしても、縁側、いいなあ。












しばらくして、ルー師範がある部屋の襖を前にする。

「学長、直斗君をお連れしましタ」

一拍、間が空いて。

「おお……そうか。 入れ」

襖が開く。



川神流本家総代、川神鉄心は人懐っこい笑みを浮かべていた。

「お元気そうで、何よりです」

その場に平伏。

「久しぶりの外は、どうじゃ」

穏やかな声が、返ってきた。対して、正直な想いを述べる。

「……悪くありません。 今まで退屈な場所に長く居ついていたせいか、これからの生活に飽きたり、嫌になる事も、当分は…」


遂げなければならない目的、確認しなければならない事項が、俺にはある。











一ヶ月ぶりの対面だった。

前までは強化ガラス越し。 今はそれもない。

「収監中の心配り、重ね重ね、御礼申し上げます」

また深く礼。

「いや、こちらもたいしたことをしたつもりはない。 面会もろくに出来ずじまいじゃったしの。 差し入れは、武術書ばかりでつまらなかったのではないかと心配しとった。 それと…お主、苦労したせいか白髪がまた増えたようじゃのう?」

「いえ、こちらが望んだことですので。 むしろ実践できなかったのがこたえました」

後者の話題はスルーする。染めてもすぐ白いのが伸びる。

白髪染め使う歳でもないんだがな。



「ま、これから嫌でも実践できるからの」

音をあげても知らんぞい、と好々爺は笑う。

「それとの」

「はい」

「学園への編入の件じゃが、本当に来年からでよいのか」

「……ええ、一応施設で最低限の教育は自分なりに修めたつもりですが、やはり高校教育相当の学習には不安が残りますし、川神院での生活と両立させるのは今は難しいかと。 余裕をもって学校生活を送りたいものですので、二年次の始業から、お願いできませんでしょうか。 こんな出自ですから、目立つのも避けたいですし」

最後のが一番本音だったりする。

「そこまで大変だとは思わんが、まあお主がそう言うならな。 取り計らっておく。 来年の第二学年に編入でよいな?」

でなければ行く意味がない。
そのことは重々承知しているはずだろうから、何も質問を挟まなかった。


「よろしく、お願い致します」






あとは。

「それにしても、本当によろしいので?」

最たる懸念を隠すつもりはなかった。

「何がじゃ?」

「……昔、武術の、剣術モドキの手ほどきを受けていたとはいえ、もう何年も体を満足に動かしていません。 自分で申し上げたくはありませんが、昔の才も枯れ果てたと思われます。 それでも、天下に名高い川神の門下生として、受け入れてくださる事に、些か、恐縮している次第で」



「…その為に、お主はここに戻ってきたのじゃろう」

何を今更、と総代は言う。

そう。
確かにそうなのだが。
川神の名に泥を塗るような真似はしたくないのも、事実。


「……案ずるな」

翁は続ける。

「ここではわしが右といえば左でも右になり、ブルマといえばスパッツでもブルマとなる」

後者は人間性を疑う発言だが。

「望むだけ、ここで精進せい」

断じた。


「……ありがとうございます」

俺は、この人に、借りを返しきれるのだろうか。




「ルーよ」

「は」

「こやつがこれから寝泊りする部屋に、案内を頼めるかの」

「かしこまりましタ。じゃ案内するかラ、行こうカ。直斗君」


立ち上がり、総代の私室を後にする。






否。

「それと、もうひとつだけ」

これは、確認しなければ。




「大和は、あいつは本当に、変わってるんですか」



総代の顔が、強張るのが見て取れた。

「すみません、少々、くどかったでしょうか?」

一ヶ月前も、同じことを問うた。
神妙に総代は答える。

「……前にも言ったと思うがの。 わしは、変わったと思っておる。 あれはあの後、いじめられていた者を仲間にいれ、友をたくさん作っておるし、進んでその輪を広げようと、日々、努力しておる」

まあ、まだ風間ファミリーとやらは続いておるようじゃが、と総代は結ぶ。


「そう、ですか。 ご無礼を」

すぐに頭を下げて、今度こそ部屋を出てルー師範に続く。


「私も、一応は教鞭をとっている身、その私から見ても、彼は頑張っていると思うヨ」

彼も事情を知っているのだろう。 静かな声色だった。

「……は」





結局、自分で確かめるしか、この疑念は払拭できないと自覚した。






[25343] 第三話:才覚
Name: かぷりこん◆273cf015 ID:177153ba
Date: 2011/07/09 17:52


『千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とす。』

―――宮本武蔵










川神院に住み込み始めて、一週間が過ぎた。


川神院の朝は早い。
門弟に連なる者は皆、午前五時前には起床する。 例外はいるがそれは後ほど。
冷水で身体を無理矢理起こし、道着に着替え、広間に座して整列。

一日の修練は、どの者も座禅から始まり座禅で終える。 他の寺院のように後ろで精神棒を持つ輩はいない。
その必要がない者が、此処川神院で研鑽を積む事を許されているのだから。

施設でも、座禅は日課として行っていた。 暇をつぶす手段でもあったのだが。

不動、流転、無明、無想、無我、色即是空空即是色。
川神院では何を思い、何を基盤として座禅を行うかは個々人に任せられる。
求められるは、自らの武へ還元されうる「型」

俺は自分の型を、一念、と名づけている。

無明の如く、心を、空にすることは俺にはできない。 本当の達人であればできるものらしいが。
だから心を何か一つのみで満たすことで雑念を払う。
旋風、土塊、林木、流水、火炎、鳥獣、拳撃、蹴撃、剣戟、etc...果てに昨日の晩のメニューまで。
日によって、満たすものは変え、あらゆる状況に応ずることの出来るよう備えるというもの。 どれほど武に還元できるかは、才次第、なのだろうが。








<手には鈍ら-Namakura- 第三話:才覚>







座禅が終われば朝食。

精進料理まがいかと思えば、そうではない。
一応、寺院なのだろうが、肉、魚ともにふんだんに使われている。
力=肉は不変であるらしい。 否定はしないが。 美味いし。
野菜もあることにはあるのだが、いかんせん門弟も調理人も何故か男ばかりで栄養に偏りが出る。
主に動物性タンパク質に。

一度それを口に出したら、「ならば」と隣に生姜焼きを二切れ取られることになった。

てめぇハゲ、デフォルト住職が。つかハゲ多すぎだろ川神院。

という悪態を、名残である肉汁にヒタヒタと漬けられたキャベツと共に、噛み込んで飲み込む。

だいたい半分以上の頭は剃り上がっている。 派閥が、あるようだった。

川神院に来てからの懸念ベスト3に入ってた「…頭は、丸めなきゃいけないのだろうか?」という疑問への答えは、強制ではないという事で落ち着いた。 甲子園とかでも思うのだが、頭丸めて、やたらめたらに球が速くなったり、打てるようになるなら別だけれど、規律という名目で皆五厘刈りとかどうよとか思うわけで。 つうか頭守るために毛はあるわけで。 防御力下げてどうすんのよみたいな。

………入所中は毎日思ってましたよ、ええ。

半年前は、俺も剃っていたもの。

生えるうちにお洒落したいやん、という心の声。


僧兵とか、カッコ悪いと思う年頃である。





閑話休題。


朝食を取り終わると、門弟はそれぞれ修練に励む。
師につく者、独りで努力する者、様々であるが基本は皆同じ川神流の技を学び、研鑽する。
川神流独特の「武の演舞」というものを最初に叩き込まれ、あとは勝手にせい、と総代は言い残し去った。
まあそのあとは結局ウザそう…もとい、世話好きそうな兄弟子にみっちり仕合でしごかれたのだが。

かなり個人の修練における自由度は高いのにもかかわらず、この流派が武の最高位に古来から位置していることで、いかに川神流がしなやかで、柔軟性のある武術流派であるかが垣間見える。 個人の才能も現れているのだろうが。

午前は基礎体力強化、午後は体術、夕に剣術と決め、基本は個人で鍛錬する事にした。
基礎体力、特に足腰を鍛えた後にどなたかに師事しようと思ったからである。 たまにルー師範をはじめとした兄弟子に指導を受け、同輩と組み手をかわすことはする。 というかこれは強制なのだが。

やはり、七年のブランクは大きい。 まずは体をどれほど速く、且つ無理なく動かせるか、限界を見極め、伸ばさなければ。

他人の動きを見切る才は、他の弟子よりあるみたいだった。

これは兄弟子同士の組み手を観戦して他の者と話し合えた時分に気づいた。

その唯一誇れる自分の才も、動きを見切れても、そこから攻め手を回避したり受け流したり出来るほどの、技術や瞬発力が圧倒的に足りない事実に霞む。

そのための基礎、足腰の強化である。







地道地道に努力する。
いつか、父母の強さと肩を並べられるように。

そして、彼らの志を継ぐ。
これが俺が川神院に戻った数ある理由の一つでもある。



無論、これだけではないが。







夕方、剣術の鍛錬に移る合間の休憩時、小笠原屋で飴を買う。 これはほぼ毎日。
 小笠原フリークに半ばなっているようだ。 甘し美味し。
今日はなんか時代錯誤なガングロが店員と話し込んでいた。 ちょっと、下ネタに引いた。

あまり、関わりたくはねぇ。

玄関にまで戻ると、長い橙髪の、瞳の大きな少女が学校から帰ってきたところだった。

「お帰りなさい。 一子さん」

「あ、直斗君、お疲れっ!」

今日も半袖ブルマという、眩しい格好。

「……ああ、先ほど買ったんですが、飴、要りますか?」

「あ、もらうもらう」


笑顔から元気が振り撒かれるようだった。
下校途中で鍛錬をしてきたのだろう。 半袖の胴の部分に真新しく横一本、茶色いラインが入っていた。

麻縄の跡だ。

タイヤ引きとか、スポ根の古典的王道だよな。

「そちらこそ、毎日学校行きながら鍛錬とは、恐れ入ります」

「あはは。 本当は学園で勉強するより道場とかで体動かしたいんだけど、友達と遊ぶの楽しいし、おねーさまも学校行きながら最強になってるしね」

アレは、なんかもう生物学的になんというか、種族が根本的に色々違う気がするが。

「私の目標は、おねーさまだから」

ズビシッと俺を指差して宣言。

眩しい、本当に。
天真爛漫ってこういう事なんだとほのぼのとする。

その純粋さ。もうねえよ俺には。

というか、仲見世通りをその格好で突っ切ってくるなんて、相当の勇気がいると思うのだが。


……話題を変えよう。

「今日は、いつもより、お早いお帰りですね」

ちらりと掛け時計を見る。普段なら後一、二時間ほど遅いのだが。

「……ぁぁ、いや、その、」

なんだか言いにくそうだ。

「何か、あったのですか?」

「うーん、なんかちょっと河原で鍛錬やりづらくなっちゃって」

多馬川の河川敷は様々な人が様々な目的で集まる。大方、草サッカーなんかが近くで始まったのだろう。

「そうですか」

―――悪い人じゃないのは、わかってるんだけどねー。

そんな言葉が聞こえた気がしたが。

「じゃ、私着替えて出かけるまで道場でもう二汗くらいかいてくるね!」

と、ハヤテのごとく廊下を走っていった。

落ち着かない子だ。





と思ったら、また戻ってくる。

慌しい。

「あ、後さ、今思ったんだけど別に敬語使わなくて良いよ。 私の方が年下なんだし。 おじいちゃんの孫娘だからっていうのも、アタシ的にピンとこないのよね?」

養子らしいことは知っていた。
しかし、それとは無関係に、自分の実力を将来認めて欲しい事の表れだろう。

「すみません、でもこれは俺の癖ですから。 ……努力は、しますが」

「うん、努力が一番だよね!!」

そんなやりとりをして、別れる。




直すつもりはさらさらなかった。

あいつらとの線引きは、必要だと思うから。













夜、食事を済ましてまた剣術の鍛錬のために、境内へ赴く。

まあ剣術といっても今は足腰の鍛錬しかやらないんだが。

玄関から外に向かおうとすると、ハスキーボイス。

「ただいまー」

武神と鉢合わせる。

「あ、お帰りなさい、百代さん。」

「おー、新入り、だったか?」

「おねーさま、直斗くん!!」

&その妹。

「お帰りなさい、一子さん。 今日は金曜集会とやらで?」

「ああ」

百代は答える。

「小学生の頃からの仲良し達と、愉快な会議だ」

……楽しいん、だろうな。

双眸が、それを語っている。

「それはなによりです。 食事まだでしたら夕飯、冷めると悪いのでお早く」

「そうだな。 お前も鍛錬、頑張れよ」

凛とした眼差しが俺を射抜く。




内心、どきり。

正直に言おう。
この瞳に、俺は惹かれたのだ。
飾らない、心の映し鏡のような瞳に、俺は昔、恋をした。




「はい」

顔を背け、返答して足早に玄関を出る。

今は、この感情は邪魔になるだけだと言い聞かせて。

実際そうなのだから。 

残念なことに。

本当に、残念なことに。





来年、俺は確かめる。

そしてその後の行動の選択肢を、「そのままにしておく」以外の選択肢を創るために、俺は小細工のない純粋な強さを得なければ。



彼女と、肩を並べるほどの。












境内の端に到着。

「うッしゃァ!!」

無意識に、気合の声が弾けた。








矢車直斗の、川神院の誰よりも、強い意志と鬼気を伴った修練は、こうして約一年間続いていくのだった…。


























数週後の夕方、川神院玄関にて。

白髭の老翁と、黒髪の孫娘の会話があった。




「行くのか」

「ああ。 例によって金曜集会だが、ワン子も私も夕飯は大和たちと食べるから」

「そうか。 ……あまり遅くなるなよ?」

「基地で食べるだけでお開きみたいだ。 風間が寿司もらってくるらしい」

トロは誰にも渡さんと孫の目が語る。

「……贅沢な高校生じゃのう」

やれやれ、仲が良いのは結構なんじゃが、と内心呟く。
このままでは不味いぞ、おぬし等。





唐突に。

「なあ、ジジイ」

少し、孫の声色が変わる。

「何じゃ?」

「…この前、うちに来た矢車って奴、なんで門下生に混じってるんだ?」


まさか、彼奴きゃつについて聞かれるとは思わなんだ。


「…む?」

「あいつ、世辞にも川神院入れるほど、才能あるってわけじゃないだろ。 体捌きが、お粗末に過ぎる」

「……まあの」

「ワン子みたいに、努力の才能認められたってとこなのか? あの意地の悪い試練で」

「……そうじゃなぁ」

「……ふぅん。 いや、なんとなく気に懸かっただけなんだが」

なんとなく、本当になんとなくなのだが、何処かで会ったような。
そして、何故か、五月に最初に会ったとき、血が滾った。 強敵だと、体躯が告げた気がした。
まあ、組み手したら呆気なく数秒でぶっ飛ばせたのだが。

ただ、眼、だけは自分の動きを見切っていた節があった。

それだけといえばそれだけなのだが。
ただ偶然視線が技の軸に重なっただけかもしれないのだし。

それから何度も組み手をしたが、もう一つ気になったのが、表情。
普通、院で組み手を始める時、またはその最中、相手には必ず怯えが見えるのだ。 顔もそうだが動きにも顕著に現れる。 特にこちらの攻め手が入る直前に。 これは門弟最下位でも師範代でも変わらない。 むしろ技が見切れる分、ルー師範代は、より怖れが顔に出る。

だが奴は、組み手の最中、まったく顔色を変えない。 技を見切れているのにもかかわらずだ。 こちらの拳を受けるとき(勿論クリーンヒットで)、「ああ、ここまでか」と冷静に分析し、観察しているような顔さえ見せる。

まあ、相変わらず私はおろかルー師範代にも全く勝てずにいるのだ。
何も考えていないと思うのが妥当かもしれない。

ワン子と、やっといい勝負なのだし。





祖父の表情、返答から、なんだか煮えきらないとも思ったが、いずれにせよ強くならなきゃ自分には関係ないなとも思い直し、百代は廃ビルへと足を向ける。

今日は舎弟を、どう弄ろうかと考えながら…。












孫娘が去った後。

翁はひとりごちる。

「何かしら、感ずるところがあったのかのう?」

いつか、九鬼揚羽以上に対等に、対峙するかもしれない者に。







[25343] 第四話:降雪
Name: かぷりこん◆273cf015 ID:075fab7a
Date: 2011/07/22 22:57
『孤独――訪ねるにはよい場所であるが、 滞在するのには寂しい場所である。』

―――ヘンリー=ショー













2008年12月中旬


猛吹雪の中。



「…っ寒い」


言葉にしても寒さが緩和されるわけでもないのだが、そう言わずにはいられない。

徒歩で川神から石川。見通しが甘すぎたか。北陸とか来たことなかったし。
よく考えれば雪の中を長く歩くのもだいぶ久しぶりだ。十年ぶりに近い。無理なく五日くらいでいけるかと思ったのだが、相当の無理をしている。脚が上がらない事はないが、重くなってきたのは確か。それでも立ち止まらずに朝から歩けているのは、日頃の鍛錬の賜物か。

「ま、これも修行修行」

また独り言。

川神一子な言葉。 ……影響受けてきたかな。

同じ努力派とも思っている。

携帯も気温の影響か、早々にバッテリー切れ。
買ったばかりなんだが、この根性なしめ。

その前に少し到着が遅れる事を、連絡できた事を幸運と思う事にした。







<手には鈍ら-Namakura- 第四話:降雪>







その数時間後、ついに目的地周辺に。

閑静な農村部とでも言うのだろうか。 田が所々にある。 家屋もぽつぽつとある程度。

そして、これが噂の合掌造りという奴か。
伝統建造を見るのも少し楽しみであった事は事実で。

その中を歩き続ける。

すると、川神院ほどではないが、しっかりとした和宅が見えてきた。 なかなかに高い、純和風の堅牢そうな塀が、ぐるりと邸宅を囲んでいるようだ。

こころなし足を速める。 早く着くに越したことはない。


あと数十歩程のところで、人影らしきものが雪の合間に見えた。

迎えの方だろうか?
相変わらずの吹雪で背格好までしか判断できないが。

――この吹雪の中、申し訳ない。

そう思い、更に速める。


こちらに気づいたのか、向こうの頭がこちらに向いた気がした。





瞬間、猛禽のような速さで、ソレは、こちらに突っ込んできた。




テンぱる。




えーっと。


脳内ライフカードをドロー!



鹿?猪?熊?狼?










―――全部モンスターカードじゃねーか!!!




この時、地面に妄想の産物たるカードを叩きつける一人狂言を行えるほどに、前後不覚に陥っていたのは確か。



たまらず立ち止まる。
向こうは止まる様子はない。寧ろ足元の雪が一層激しく舞っているのを見ると、速度を上げているようだった。
そして前傾姿勢。辛うじて一本、棒のような突起が見える。

角?

鹿か?



なんにしても獣か。
迎撃の姿勢をとっておくが最善と本能で感じ、肩の布袋から木刀を取り出す。

この頃、ようやく馴染んできた柄を掴み上げ、右上段に構える。





―――ちぃッ、降る雪で遠近感が掴めん。 出たとこ勝負か。


覚悟を決め、相手を迎える。
前方、三メートルの足元のみを視界に納める。

これで少なくとも、足止めの為の体勢は整った。




影が、白雪に映される。


来たッ!

「…っフッ」

袈裟懸けに振り下ろす。


マジックカード、発動!!


―――喰らえッ!光の護封剣!!!








その、刹那。



―――ッツカァァン!!!

軽快な音。



「あわわわわわわわっわ!!」




木刀が受け止められる音と同時に、なんかすごい、俺よりテンぱってる声が聞こえた。
地面を見れば、獣の脚ではなくコンバースのスニーカー。

顔を上げる。

眼をこれでもかと丸くして、それでも、しっかり自らの刀で木刀を防御している、頭に美がついてもよさそうな、少女の顔があった。



見つめ合う。

顔が、赤くなった。照れているのか。

かわいい。

そんなことを思っていると、彼女の顔が少し落ち着きを取り戻す。

そして見る見るうちに邪悪そうな笑顔に……。 いや、これ怒ってんのか?



「……えと、あの、どちらさまで?」

自ら口火を切った。 こういう時は先手を取るのが定石。



「わわわ私ッ、まッ、ま黛由紀江と申します」





「げッ」



懐古主義のロマン溢れるリアクションを、不覚にも取ってしまった。













「こ、これはとんだご無礼を」

その場に平伏。


ヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイ、マユズミユキエとか黛家のご令嬢とかうわうわうわマジ下手打ったなんという不覚もともと遅れている上にいきなり斬りかかるなんて何やってんの俺つかカタナ持ち出してきたって事はもともと俺斬るつもりだったとかそんな感じだよなというか何なのあの怖い笑顔そこまで遅れたつもりないけど殺気が迸りそうな感じだよ畜生ああとにかくあやまんないとあやまって許してくれるとは思えない顔だったけどだめもとでetc……



みたいな事が脳裏によぎりつつ、頭を下げる。

「あの、矢車直斗さんですか」

言葉を投げかけられた。

「はッ、おっしゃる通りです!! 遅れた上にこのような立ち振る舞い、申し訳ありません、本当に。 北陸は初めてで、来る途中に熊注意の看板も何度も見まして…」

頭を雪に擦りつける。そんぐらいしないとあの表情は消えない気がした。

もうアレだ。

笑いというより嗤い。
悪鬼の笑み。
善悪相殺的な。 村正的な。


ごめん、ネタわかんなかったらググってくれ。




「いえいえいえいえ、そんな頭上げてください。 私が急に飛び出したのが悪かったようですので! 私、恥ずかしながら、その、矢車さんがくることをとても楽しみにしていて。 出来れば、お、お友達になりたいと」




……その言葉を聞き、俺は一つ、白い息を吐く。
そうだったのか。 いや良かった。 さっきの顔は、恐らくは見間違いか。

「そ、そうですか……。 俺でよければ喜んで」

髪についた雪を払って、顔を上げる。







―――拝啓、鉄心様、

こちらでの修行、恥ずかしながら前途多難の様相と見受けました。
めっちゃ睨まれてます。
口元が、これでもか、と歪んでおいでです。






















由紀江side




北陸の猛吹雪の中、一人の少女が、豪邸といっても差し支えない家屋の門の前で、立ち尽くしていた。


「今年もよく降りますねぇ」

そう、少女は言葉を紡ぐ。その言を聞く者は、もとい聞く物は、一匹。

(…まあ、去年よかはマシじゃねまゆっち。 つっても関東から遥々、徒歩とかどんだけ物好きやねん!? 矢車ってのは)

少女は両手の平に乗せた、なんとも冴えない黒馬のストラップに話しかけているようだった。

「こらこら松風、そんなことを言っては失礼です。 ……というか何故関西弁なのですか?」

(言葉の松風あややちゃん~~)

「今日は朝からテンション高めですね」

(まゆっちもじゃね? オラ見てたけど昨日はなかなか寝付けなかったみてぇじゃん。 遠足前の小学生ぇ、みたいな)

「……不安と期待、七対三といったところです」

(おおッ、いつもなら不安九割のまゆっち、なっかなかのコンディション!)

「同年代で年上、さらに異性という、なかなかに高いハードルを飛び越え、その勢いと弾みで、来年は川神学園で友達百人薔薇色学園生活計画をスタートすると誓いました!!」

(ポジティブ~なまゆっち、かっくいー。 それだけ今日は気合が入ってるのかぁ。 アントニオもアニマルも修造も真っ青だぜ!?)


事情を知らない者が見れば、真っ先にその場から立ち去ろうとするだろう。 それほど、吹雪の中、独りの長身の女性がマスコットに話しかけ、腹話術でそれに答えるさまは異様であった。
由紀江本人の弁によれば、マスコットには九十九神(つくもがみ)が憑依しているらしいのだが。


(それに、家で親だけの淋しいクリスマスとお正月が回避できるしなー)

「あうあう、それは言わない約束です松風」

(不憫なまゆっち。 妹は友達と冬休み中、海外研修という名目のハッピーセットおもちゃ付き~な旅行なのに、かたや姉はおうちでお留守番~)

「……うぅ」

(ああ、ごめんまゆっち。 オラ言い過ぎちまった。)

「いいんですいいんです松風、事実ですから。 ………うぅ」

(でっ、でもさーまゆっち、ここでさー、もしもだぜー、ここで矢車って奴と友達以上になったら、妹より一歩リードの姉の威厳ができるぜ~?)

「姉の威厳…ですか。というかそれよりも、とっとと、友達以上とは……」

(みなまでオラに言わせんのかよー、まゆっちぃ?)

「そんな、私なんかが、そんな」

(そこがまゆっちの悪いクセだって。 もっと自信もてよー)

「自信、私にはなかなか縁のない言葉です。 今だって、刀を持ってないと落ち着きません」

(だいじょぶだって。 まゆっちー。 いざとなったら、そのセクスィーダイナマイッな肉体を使えば男なんてイチコロさ)

「はあ…」

(それに牡馬のオラが言うのもなんだけど、男前じゃね、矢車)

「それは。 はい。 凛々しい方です。 …………そうですね、欲を言えば」

(欲を言えばぁ~~~?)

「か、からかわないでください松風!!」



川神院からの武術研修者が来ると聞いて、どんな方かと父に尋ねると、写真つきでの資料を頂いた。

なかなか友といえる人が出来ない私のために、同年代の友達候補を見繕ってくれたようであった。 流石に武道四天王、次期川神流当主の川神百代さんに来てもらう事は叶わなかったみたいで、しかし、彼ならと、現当主、川神鉄心さんが太鼓判を押したそうだ。
写真をみれば、紺の道着に木刀を上段に構えている姿が収められていた。 若干白髪が目立つ頭髪が特徴的で、その眼光の鋭さといえば、同年代のものでは見たことがない。 武術に真摯に向き合っている姿勢に、とても好感をもった。



父の期待に応えるためにも、矢車さんとは仲良くならなくては。

同じ剣の道を行く者ですし、きっと会話の種も何とかなるはず。




(お、噂をすれば何とやらだぜまゆっちー!?)

「ッ!!」

顔を上げれば数十歩先に人影が。

(まゆっち、ダァッシュ!!)

「え?」

(ファーストコンタクト、ファーストインパクトが大事だぜまゆっち。 あなたのために外で待ってましたとか言えば好感度も鰻登り間違いなし!!)

「で、でも」

(自信だまゆっち、成せば成る。 押してダメならもっと押せ押せだって)

「じ、自信…」

今まで自分は、本当に一人だった。
このままなんて、もう嫌だ。そう誓ったのではなかったか。

おっかなびっくり人に話しかけるなんて、もう沢山。
学校で見る同級生みたいに、自然に人と触れ合いたい。 遊びたい。




松風を胸元にしまう。
このチャンスが最後かもしれない。 そんな焦りも背を押した。

前傾し、脚に力をこめる。足首の筋が強張るのが感じ取れた。

「黛、由紀江。 行きます!」

(其の意気だまゆっちぃ。 笑顔も忘れるなっ)

なかなか上達せぬ笑顔を張り付かせ、由紀江は今、突撃する。










[25343] 第五話:仕合
Name: かぷりこん◆273cf015 ID:177153ba
Date: 2012/01/30 14:33
『人間一度しか死ぬことはできない。』

―――ウィリアム=シェイクスピア




















川神院に身を寄せてから、半年ほど過ぎた頃、総代から声をかけられた。

他流派への武術研修に行かないか、というもの。

初めは、辞退しようと考えた。
川神院ほど武術の鍛錬に向いている場など、他にないと思っていたからである。

弱い武術流派との武術交流は大切ではあろう。あくまで「川神流」にとっては。
武の頂点と自負する処を他流派に見せつけ、彼らを焚きつけ、武術社会全体の更なる発展を鼓舞する目的で行うのだから。

だが「俺」にとって、それは益にはならない。
武を広めることは、俺が為すことではない。
自らのみ強くなることこそ、今の俺に課せられた使命なのだ。義務なのだ。

他人を強くして如何する。

他の門下生から、身勝手と思われるかもしれない。
川神に抱えてもらっている者として、相応しくない考えであると非難されるだろう。
だが、これは譲れない。俺の沽券、俺が武を学ぶ根本の目的に、関わるから。


だから、断ろうと考えた。

研修先の流派の銘を、聞くまでは。








「マユズミ、ですか?」

「そうじゃ」

自らの私室で、川神本家は応える。

「…マジで?」

「真剣で儂を信じなさい」

「……本当に?」

「くどいぞ」

「失礼」

平伏する。




……驚いた。

幻の黛十一段、黛大成といえば、剣道つまり道場剣術を嗜む者でも、実践剣術を齧る者でも、知らぬ者は居ない「剣客」である。

剣道の段数は本来十段まで。
だが、その卓越した技量から、人間国宝の称号と共に、十一段の銘を与えられた剣客。
「剣客」の文字通り、日常にて、刃引きされていない、本物の業物の帯刀を、政府から許可されているのである。 日本が誇る芸術の一つに、彼の剣技が数えられているのだ。 常に血生臭い刀剣界において、このような例は他にない。

だが反面、この流派が武術流派として圧倒的に栄えることはない。 なぜならば、黛流は血縁者以外に自らの剣を決して「語らない」剣術流派であるからだ。
一説によれば抜刀の感覚が、黛の血を持つものは常人とは異なるので「黛以外は黛を理解できない」から、らしいのだが、定かではない。

どちらにせよ、語れないという事らしい。

川神の血を持つ一部の者が、異様なほどに「氣」を操ることが出来るのと同じようなものなのかもしれない。

才悩(NO)人を自負する俺には、関係ないが。



話を戻そう。

以上の理由から、黛流が武術研修生を呼ぶ事は、ほぼ無いに等しいはずなのだ。









「何か、理由があるのですか?」

余程の理由だろう。

「うむ。 無論、訳アリの依頼という奴じゃ。 ……黛大成には娘が二人居ての」

「はあ」

「特に姉の方は才に溢れているという噂じゃ。 一子より一歳年下にして、父と同等、あるいはそれ以上の段階にいるらしい」

「それは」

化け物、だろ。

「つまり、百代さんと同じというわけで?」

あのレベルの戦闘狂をどうにかしろとでもいうのなら、自衛隊の一個小隊、中隊くらい引っ張ることを進言しよう。

「いや、まあ、あやつほど戦いに飢えている訳ではない。 ただ少し、こちらがより重症と言うべきか」

「は?」

「少しばかり、対人関係が不得意らしくての。 まあ黛の箱入り娘じゃからな、生来の気質となかなか一般人と話す機会も無いのが相俟って、ということらしい」

………ありうる話だ。
人間国宝の父がいて、相応の才覚も持っているということならば、周囲の人間が敬遠してしまうのも無理は無いだろう。

「その娘も来年、儂の学園に入学する予定での。 このままでは学園でうまくやっていけるか不安だと、親のほうから言ってきおった。 そこで、誰か歳が近い者を川神院から見繕って、引き合わせられないかということじゃ」

「なるほど、つまり彼女と友達になれと」

「ま、平たく言えばな」

しかし、俺でよいものか?

「ああ、それと、もうおぬしに決めたと言っておいた」




―――は?




「何故?」

「む? 不服か?」

「……いえ、むしろ適任なのは百代さんではないかなと」

強さ的に。 あと誠に失礼ながら、性癖的に。

「力量は既に四天王の域なのでしょう?」

「うむ……。 百代には二、三歩及ばぬが、この間、橘天衣が負けたと聞いた。  四天王レベルではなく、もはや名実共に武道四天王じゃ」

事も無げに言う鉄心である。

―――なんと、あの橘天衣を破ったのか。 血族に平蔵をもつ、現役自衛官。 音に聞く最速の四天王を!?

些か、驚愕する。

「ならば尚更、百代さんと、武術で切磋琢磨させて仲良く、というのが最善かと?」

百代にとっても、一番の方策なのではなかろうか?

「それも考えたんじゃがな……。 モモには、あと軽く二、三ヶ月は武芸者の相手の予約が入っていてな。 おいそれとキャンセルできんのじゃ。 それに、同じ剣術を習っている者のほうが、何かと会話が進みやすいと思っての」



なるほど。
悪くはない、いやむしろ身に余る光栄ではないか。 

それに、黛の剣、一度はお目にかかりたかった次第でもある。





「わかりました。 こも身に余るかもわかりませんが、その件、お引き受けいたします」

「そうか。 それはいいの。 ……しっかり、技を盗んで来い」

「ハッ」

条件反射で平伏して、細々とした指示を受けた後、彼の私室を辞した。











<手には鈍ら-Namakura- 第五話:仕合>











というわけで今に至る。

今、俺は加賀の豪邸の応接間にて、正座で黛家当主を待っている。 勿論、畳上である。

由紀江さんとの一悶着の後、なんやかんやで本邸にお邪魔できた。
正直、第一印象は最悪だったが、悪い子ではないのは、話してみれば、よく解った。


彼女は不器用なだけなのだ。
ほら、今だってお茶を俺に汲んでくれている。



(ヘーイ、そこのボーイ、早くもまゆっちの魅力にメロメロか~い? 視線がまゆっちに突き刺さりまくりだぜ)

「……失礼」

「あうあう~」

……少々、一人遊びが好きなようだが。





いっこく堂って、今は何をしているのだろう?












しばらくして、奥の襖が開いた。

「いや、すまない。 遅れてしまった。 少し遠くまで出張っていたもので」

中からは、体格のいい男性が現れた。
簡素な作法衣に身を包み、その左手に細長い布袋。中身を問うのは愚問だろう。


目が合う。

「おお、君が矢車君か」

素早く礼する。

「はっ、川神院より武術研修に参りました、矢車直斗と申します。 名高い黛十一段に御眼にかかれるとは、光栄の極み」

「いやいや、そんな硬くならんでくれ。 これから二週間弱、共に寝食するんだ。こっちまで肩が凝ってしまうよ。 ほら、顔を上げて」

明るく快活な声が返ってきた。

幾分、フランクな性格らしい。

「それより、ここまで歩いてくるとは。 なかなか根性がある」

「いえ、足腰の鍛錬にはもってこいということで、御本家の指示もありましたし。 雪の上なら尚更との話で」

「ふむ」

当主は座卓に着く。

次いで、淹れてあった茶をすする。






「…………」


「…………」


「…………」


(…………)








いきなり、この沈黙である。

誰か喋れ。 この際、馬でも可としよう。


秒数にして15.2秒、音の無い世界が続く。

その間、彼は俺をじっと、見つめていた。

俺も、それを両眼で受け止め続けた。




ふと何事か、思いついたように、彼は顎に手をあてる。

「……由紀江」

「は、はいッ」

突然、父に娘は話しかけられた。

「道場の掃除は?」

「つい先ほど、済ませました」

今度は澱みなく答える。



そして大成は、顔を俺に向けた。

「ついてきなさい」

「……はっ」

何事かは解らないが、当主にならって立ち上がる。

由紀江もそれに続いたが。


「ああ、由紀江、お前はそのままでいい。 ここで待っててくれ」

「え、あ、はい」

渋々、といった感じに彼女は座り直す。




え、何?

もしかしてこれからサシ?




部屋を去り際、黒馬の声が響く。

(Battleの予感、ビンビンビ~ン)




うぜ。











川神と幾分似た、素朴な道場。そこに俺は案内された。
何畳あるのだろうか、それなりに広い。 無論、川神よりは狭いが。

その丁度中央で、立ち止まる。

「少し待っていてくれるかい?」

「は」

そう言うと、奥の物置のような部屋に足早に行ってしまった。


状況からして、ここで仕合をすることは明白だった。
木刀でも取りに言ったのだろう。

高鳴る鼓動を、呼吸法で落ち着け、待つ。






「さて」

三分ほどで彼は戻ってきた。
予想通り、木刀を携えて。

「これから、まあ、君も想像ついてるだろうけど、打ち合いを行う」

俺は黙礼する。

「君はこっちだ」

手渡された。















彼の、左手に・・・あったものを。







誠に失礼ながら、断りもなく、俺は布袋の中身を改める。

「………」

モノホン。
その言葉のみが、心中に浮かんだ。




「……失礼ながら」

「うん?」

「真剣同士で立ち会うのですか?」

「いんや」

黛流当主は、見つめ返す。

「君が真剣で、僕が木刀だ。 それで君が僕から一本取れたら、君に「黛」を教えよう」



舐められている、とかそんな感慨は浮かんでこなかった。

ただ、どうしよう。という困惑の極みである。





そして、



     ―――――――――――立ちなさい



殺気が渦を巻き、剣気が宙に駆け巡る。





―――これが、剣客の眼力か。




無論、断れる筈がない。









容赦無き、剣閃、剣圧、剣舞。

俺は無様に、避け回っているのみである。 効率の良い足裁きなど、意識している間もない。





「どうした? 川神院では攻めの手を教えないのか?」

攻めの手を打たせない連戟を殺到させて言われる。

「ほら、次は左足、いくぞ!」

実際は右足を打たれる。

「いつまで、動く砂袋でいるつもりかい?」

……貴方が叩き疲れるまでだと本気で叫びたい心地だった。

「人生、避けてばかりじゃ、後々苦労ばかり。 だから若いのに、頭に白いのが多いのでは、ないのか、ねッ!?」

言葉でも蹂躙してくる。 本当に待ったなしである。

俺には喋る余裕はない。



「ほら、さっさと剣を抜けぃ!!」


そう、俺はまだ刀を抜いていないのだ。



俺には、無理だ。
木刀で武装しているとはいえ、それに真の凶器で立ち向かうなど。


無理だ。

無理だ。

無理だ。






次第にかわすのが難しくなる。

剣速が速まっているのか、こちらの動きが鈍くなっているのか。
おそらく前者だろう。

避ける事と、こんなしょうもない判断にしか自分の才を使えないとは。

なんて無力。 なんて脆弱。

腹立たしさのみが、心を占める。



仕方ない。

こんなこと、したくないが。




―――ガゥン!!!!

「ッツ!?」

わざと、横薙ぎをモロに喰らう。

骨が折れなかった事を天に感謝し、布袋を投げつけ目くらまし。

後方に、思いっ切り、跳ぶ。



……そして。












―――シュラァァァッ!!!!!!!



ついに、剣を抜いた。






















それを見た、当主。
一度、腰に木刀を納める。

手を止めたと判断するほど、俺は愚か者ではない。

納刀からの抜き打ち、即ち、居合斬り。



黛ノ極意ハ神速ノ斬撃ニアリ。



その言葉を聞き及んだのはいつだったか。
剣の速度によって、かの奥義の名は変わる。

数の位がその名になっていたはず。

此処に来る前に、川神の書庫にて調べていたし、元からそれを噛み砕いたおおよその概要も御本家から聞き及んでいた。

瞬速、弾指、刹那、六徳、虚空、清浄、阿頼耶、阿摩羅、涅槃寂静

この順に速くなるらしい。

正直、木刀で瞬速出されても、今の俺は再起不能になるだろう。

……なんでこんなことを今、説明しているのか。



気迫、怖すぎて興奮物質ダダ漏れで、テンパり100%だからである。



―――どこの飛天御剣流だ、どこの天翔龍閃だクソッタレ!!



こちらに跳んで放つつもりだろう。
天下一と名高い神速の剣が、俺に牙を剥く、








その寸前。




俺は、自らに与えれられた刃を、首筋に当てる。
そう、自らの首筋に。

こちらに向けられていた殺気が、微かに緩む。





ここぞとばかりに、俯いたまま、俺は声を張り上げる。

「申し訳ありませんッ!!俺には無理です!どうか、どうか平にご容赦をぉおッ!!」

最後は、歌舞伎みたいになってしまった。

だが、これが、今俺に打てる最善の一手、全力の一手だ。


……情けない事、この上無い。いや、この下無いが。



その場に座る。
へたり込む、といった表現が正しい。かもしれない運転。
ちょっぴり涙目。かもしれない運転。
根性なしが、と罵られ、外にほっぽりだされる。かもしれない運転。



流石に外にいきなり放られることはないだろうが、どちらにしても、修行は受けさせてもらえられないと思われる。




申し訳ない、由紀江さん。

来年まで、友達はお預けだ。



















―――ゴン

と、何かが床に突く音が聴こえた。
見れば、数歩先で木刀の先を床に置き、黛十一段が、立っていた。

先ほど会ったころの、優しげな眼差しをして。



「……合格」

確かに、そう聴こえた。

「な」

何故。

俺に、そう言う間も与えず、当主は続ける。

そして、その言葉は、俺を黙らせるのに十分な言葉。




















「君は、人を、殺した」





文節を、存分に区切り、彼は言った。

「眼を見て、わかった。 なんて言えたらカッコいいんだが」

彼はまだ、こちらを見続けている。



「君を、うちで預かることになってから、川神本家、鉄心様に君の事を聞いた。 君の半生、というべきか。……君は、どうしようもない状況で、自らの武を振るった」



「だが私は君に、同情も慰めもしない。 ……私も人を斬った事がある。 だから、その必要が無い事はわかっている。 私は、ただ君の行為を侮蔑する」




穏やかな目で、抜き身の倭刀のような冷徹な言葉。

「戦士でもない者を、死ぬ覚悟をしていない者を、君は幾人も手にかけた」

事実。

それは、紛れも無い、事実。

「その事について、悪事、と認識しているのか。 私は確かめたかった。 そして今、確かめた」






「たぶん君はその行為に、その選択に、後悔はしていないだろう。 でなければ君は、川神院にいない。 その身に道着を纏って、武の道を踏む事はできない筈だ」




だが、と続ける。




「自分のした行為は、悪であると。 二度と、絶対に繰り返してはならない事である、と思っているのは解った」

俺は、黙って俯いたまま。




「顔を、上げなさい」

深く息を吐いて、言う通りにする。



「君なら、由紀江の第一の友に、相応しいとみた」

二週間弱だが、よろしく頼む。
そう、頭を下げられた。












―――――ぅ、ありがとうっ、ございまッ!!






震える口に出たのは、自らの本質への理解に対する、感謝の言葉だった。






[25343] 第六話:稽古
Name: かぷりこん◆273cf015 ID:177153ba
Date: 2011/07/09 18:32


『一生の間に一人の人間でも幸福にすることが出来れば自分の幸福なのだ。』

―――川端康成





















黛家の朝も、早い。
五時前にはもう、家の者は皆、起床して何かしら家事をしている。
当主でさえも、縁側を雑巾掛け。襷付き。


当たり前ながら、ここは石川県南部。
北陸、加賀の地。
季節は冬。

いつまでも布団と湯たんぽと、添い寝したい気分になるのはしょうがないこと。





…いや、起きてるけどね?



客人の扱いを受けても、居候の身。
日課の座禅を少し早めに切り上げ、無理を言って俺も玄関外の雪掻きをする事に。

幸い、外の雪は止んでいた。
代わりに朝陽が燦々と降る。



黙々と雪を運ぶ。 運ぶ。 ヤコブ。

温水融雪機なんて、小粋な物はなさそうだった。

とりあえずは車道まで、道を開通させよう。











「や、矢車さんっ」

どれくらい経っただろうか。
完全に体が温まったところで、声をかけられる。

「あ、おはようございます。 由紀江さん」

彼女は俺が起きた時にはもう台所に篭っていたそうで。

可能な限り、優しく応える。
昨日は父親の酌の相手で碌に話も出来なかった。 今日は、上手く話せればいい。

「お、おはようございますっ、あ、あの」


―――大丈夫、焦んなくていいんだ。 一言一言で。


「朝餉の支度が整いました! よろしければ、すぐに」


他の家の朝ごはんって、興味出るよね。


「そうですか、ありがとうございます。 手料理、楽しみです」

withスマイル120%







まあ、また例の顔で、

「は、はい。精魂込めて作りました。あ、嫌いなものとかあったら遠慮なく言ってくださいそれと本日はお日柄もよくて何よりですね晴れの日は好きですか私は好きです特に今日みたいな雲の無い空は大好きです知っていますか雪が降った後は空気が綺麗になるんですよそれでは食堂で待っています」

―――と、棒読み早口マシンガンぶっ放して中に飛んでいった訳だが。




コレ代わりに馬に喋らしたほうが、コミュニケーションとれんじゃね?

















<手には鈍ら-Namakura- 第六話:稽古>















量、多ッ。かった。


残さず食べたけど。

うまうま。



「ご馳走さまでした」

手を合わせる。

「お粗末さまです」

「とてもおいしかったです。 特にお魚が」

生憎、食について満足な知識の無い俺には、魚の種類などホッケとアジぐらいしか見分けられないのだが。

「あ、あれは日本海産の一夜干しでして」

「あと、胡麻和えも絶品で」

川神より、とーっても、健康的。





「由紀江、矢車くんが来て張り切るのは解るが、毎日これだと後が辛いぞ」

腹を擦る当主。

「す、すみません、以後気をつけます」

シュン、なんて擬音が聴こえたり。

彼は一息つくと、俺に顔を向ける。

「じゃ、一時間後、道場で。 いきなり脇腹を痛めないよう、ちゃんと体を動かしておきなさい」

「は」

「由紀江も、今日は片付けはいいから。 ……母さん、悪いけど」

「はいはい」

奥方は、老舗旅館の名女将のような微笑を浮かべ、手際良く食器を取り下げていく。


田舎万歳。 家族万歳。








食堂を出て、一旦あてがわれた部屋に。

まずは道着に着替える。 心なし、丁寧に。

次に柔軟。 たっぷり十分強。

伸びーる、伸びーる、ストップ。
このフレーズで全身黄色タイツを思い浮かぶのは俺だけじゃないはず。

NHK、まだアイツ使ってんのかな。



一足早く、道場に。
流石に部屋で素振りする訳にもいかず。
昨日と同じ立位置にて。
基本に忠実に、上段から、振り下ろす。

だけど、ただ数を振ればいいってもんじゃない。
素振りの一太刀一太刀が、会心のものでなければ。

そうでなければ、どうして、実戦で会心の一撃が打てるだろうか。





―――ッヴォン



「ッしゃ!!」



本日の一太刀目は、まずまずである。















渾身の百五十二太刀目に、出入り口の襖が開く。


(テーレッテ~。 まゆっち、登、場! おうおうおう、まゆっちより先に来るとはいい度胸してんじゃん?)

「こら、松風。 無礼です」

一礼して、道場に入ってくる。

「隣、よろしいですか」

「……お構いなく」

ふむ、刀持てば普通に喋れるのか。




肩を見る。

さて、てめえも来たか、馬。

「松風さんも来られるとは」


……おかしいな? 一行上が、本音なのに。


もう、一個体として認識することにする。
馬にまで敬語を使う、優良剣士の俺。



(まー、オラレベルの馬にもなると、一流の剣捌きは見とかないと)



「……何の為に?」


聞かずにはいられなかった。



(ん? いや、そりゃー、騎馬として)




ほう。




「……さいですか」

その発想はなかった。

ま、ね。

その装飾は、だいぶ位の高い騎馬だもんね。

今、お前は逆に人に乗ってるけど。


(ほら、サボんな。まゆっちを見ろ、超集中中)

うん。
解るよ。

凄い気迫出して、すぐ隣で構えてることも。

その腹から、君の声が出ていることも。


「じゃ、最後に一つだけ」

(なんだい?)

「由紀江さんのご両親の前では、言を発さないので?」



少しの間が空いた。



(………オラ、空気も読める馬だから。 ダチ居なくて専らマスコットと喋る娘の姿なんて、見せらんないって)










むしろ、他人に見せないほうがいいと思うが。
















そして数分後、奥の間から当主が出てくる。

黛流鍛錬の、始まり。
流石に、ここで由紀江は松風を懐にしまう。


俺は目を細める。

一つでも多く、技を掠め取ってやれ。
そんな俺の気概を感じたのだろう。
当主の口角が、あがる。
上等、とでも言うように。
























さて、結論から言おう。




黛流、無理。


だって、ふつうの子だもん。



抜刀の理念からして、意味不明である。


曰く、「必要なのは、愛、信頼に似た何か。 我と彼の狭間に、無二の一点あり。刃が我、斬所が彼。 その我と彼の共同作業で斬撃を繰り出せ。 鞘から出て、斬り込むのは、君自体だ」


失礼ながら、常軌を逸した輩ってのは妙な事を言うものだが、神速の斬撃なんていう、常軌を逸した事を実現しようかと思ったら、どうなったってそうならざるをえないのかもしれない。



こんなに難しい事を考えて、この人達は剣を振るっているのだろうか。







「やっぱり、少し、難しいかな?」

いや、そんなもんでは済みませんよコレ?

「本当に、言葉で伝えるとするなら、今のが一番具体的なんだが」

そんな渋顔しないでください。 いたたまれないです。

「由紀江はこの説明で、瞬速とばして弾指の段階までいったんだが」

いや、だから天才と一緒にしないでくださいよ。



埒が明かねぇ。

「由紀江さん、」

「は、はい?」

可愛らしく、首を傾げて返答してくれた。

萌え。

……ではなくて。

「実際、どんな感じなんですか? 黛の抜刀って」

「そう、ですねぇ」

少し思案。

すると。
由紀江は俺から数歩下がって、構える。



「なんていいますか、」




息を吸い、吐く。



吸い、


吐く。


吸い、


吐く。


吸い、


吐く。


吸い


――――ブォァアンッ


横薙ぎ一閃。






「こう、です」





……いやいやいや。

















抜刀術は、諦める。俺には理解できそうにない。
もとより黛しか理解できないのだろうし。 黛十一段も、そんなことを言っていた。
それよか基礎鍛錬やっていた方が実になる気がする。

ま、抜刀術以外の、たとえば足捌きだとか連撃の繋ぎだとかは教えてくれるそうだ。 先日の仕合で見た限りでは、ものすごく機能的、実用的な感を受けた。 これはモノにすれば、川神の門下生として、胸を張れるようになるかもしれない。
こっちは、技量云々のレベルなので、何ともない。

相応の努力を、以ってすれば。









夕方まで、稽古は続く。 素振り、型、仕合の三つでその内容は占められる。
そして幾度となく、由紀江と太刀を合わせた。

やっぱりこの子、化け物だわ。
剣閃のキレが半端無い。 百代さんの方が、容赦の無い分、三歩ほどリードという感じだが。

ま、俺は相手にならなすぎて、とっても肩身が狭いですけれど。



ちなみに抜刀術についてだが、十一段が清浄、彼女は阿頼耶まで、奥義を修めているらしい。
一回きりとして、見せてもらった。

否、魅せてもらったと言い直そう。 まさしく芸術の域。

俺には、至ることの出来ない極致、であろう。
















稽古が終わり、部屋に戻る。

流石に、へとへと。
ぐだぐだと部屋着に着替えるわけだが、その最中、バッグを漁って思い出すことがあった。




「由紀江さん」

廊下に出ると、居間に居た彼女に声をかける。

「はっ、はい」






硬いな、やっぱり。
この調子じゃ来年は心配である。 純粋に、心から。
鉄心様や十一段の頼みとは関係無しに。

そしてその様子から、気持ちを新たにする。

なんとか、この子が友達を多く持てるように手伝うという気持ちを。







「ちょっと、部屋に来てもらえますか?」





(ヘイヘイ直斗、早っ速、まゆっちにナニするつもりかい? ああ、オラが邪魔になったら、廊下の外にだしていいぜ?)







聴こえなかった。ことにした。


清純派、だよね? 由紀江さん。








そう願うよ。





[25343] 第七話:切掛
Name: かぷりこん◆273cf015 ID:177153ba
Date: 2011/07/09 18:59

『友情は瞬間が咲かせる花であり、そして時間が実らせる果実である。』

―――コッツェブー














こっちに来る前に、色々と考えてみた。
彼女がどうやって友を得るきっかけを作るか。

俺は、無論、女ではない。
でも、と言うべきか、だからと言うべきか、女の子の友人関係って複雑だということは解る。
キャピキャピ言ってたって、チャムチャムじゃれてたって、心中は本人しか知らない。

男はまだ、顔に出るだろう?


それでもさ、男女で共通するのは、何かしらのきっかけから、他人の興味をかきたてる所から友情が始まるって事。




俺は鞄を、ゴソゴソと。

正面で、由紀江は俺の一挙手一投足を、ちらり、ちらりと見ていた。
視線の、床との往復運動が、非っ常に慌しい。


(ドキドキ、ワクワク、ゴロリくん)

従姉のゴロネちゃんも忘れんな。

ワクワクさんに作品造形の提案、しまくってるぜ。

毎週火曜日、午後10時半から、好評放送中。
歴史長いよねあれ。
ハッチポッチの次に好きだ。 こっちはもう、やってないみたいだが。



「そんな、ビックリするほど大したものではないんですが」

中から取り出した、白いプラボックスを彼女の前に。

「あの…」

「どうぞ」

恐る恐る、という感じでそれは開けられた。

「…これって、」

中には、色彩の粒が、敷き詰められている。

「俺の、趣味でして」

(マジでぇッ!?)



ビーズセット。
安心と信頼の、九鬼コンツェルン製。


つくって、わくわく!!










<手には鈍ら-Namakura- 第七話:切掛>











俺の指導の下、まずは簡単なリング作り。
もうすぐ正月ということで、白と紅色。
一個ずつ、作る。

「あの、」

「はい?」

その最中。

「こう言ってはなんですが、意外でした」

おお? 
貴重なあちら側からの話題提供。

「元々は妹の影響でして。女々しい趣味でしょう?」

自虐。

(ぶっちゃけね)

「いえ、そんなことは」

この場合、どちらの言葉を信用すべきか。

「川神院では、よく冷やかされます」

ま、邪険にするほどでもないが。 ……門下生の彼らも、そんなに暇ではない。

半分、彼女の方に気をやりつつ、手を動かし続けた。




「……これに集中してるとですね、」

うし、出来上がり。

由紀江さんもなかなか筋がいい。 目が良いと通しも速い。
完成まで、もうちょっとかかりそうだが。

「頭、空にできるんですよ」

全部忘れられる。

全部。



「松風さん、」

(どしたー?)

少し、ほっぽり気味だったマスコットに声を掛ける。
そして彼を裏返す。

仰向けの、体勢。


(う、うわ~~、ま、まゆっち、オラ貞操喪失の危機)


黙ってろ。


片方の前足に、完成品を通す。

座卓に置いてみる。

「どうです?」

なかなか、似合っていると思う。

黒毛に、白銀のライン。

「おお、なんかセレブ~」

気に入っていただけて、何より。




由紀江さんの方が出来上がると、もう夕食の時間。
今日はここでお開き。

「それ、差し上げます」

立ち上がり、小箱を指して言う。

「え、いえいえそんな」

ブンブンと音が聴こえそうな程、首を横に振られてしまった。

「あ、もしかしてお気に召しませんでしたか?」

もしそうなら謝らないと。 だいぶ時間を取らせてしまった。

「いえ、そうではなくて……、あ、あの、本当によろしいんですか?」

「ええ、もともとプレゼントするために持ってきたのを、先程まで忘れていたので」

ファーストインパクトで。

……セカンドじゃないよ?



「あ、ありがとうございます」

「慣れればこんなのも作れるようになりますよ?」

そう言って、俺は力作の数々を鞄から取り出す。
皆、動物の形。


(うわ、スッゲ)

「はい。 ……とっても可愛いです」

ちょっと得意げ。
感嘆の息を聴くのは、なかなかに心地よい。



そして、ここから本題。

「こういうのとか、大抵の女の子は好きだと思うんですよ。 だから何個か筆箱とか鞄とかに着けておくだけで、同性と話すきっかけになるんじゃないですか?」

彼女は、口下手であるということは、元々聞き及んでいた。正直ここまでとは思わなかったが。
でも、他人と触れ合う手段は別に対話だけではない。
無論、それも大事だけどね?

「あ、ああ、」

彼女は口元を押さえていた。

その双眸は、うるる。
揺らぐ黒髪は、さらら。

え、何、マジ泣き?

しゃがみこんでしまった。

言葉を発せない彼女の代わりに、馬はよく喋る。

(まゆっちぃ、オラは今、猛烈に感動しているぅ~!!)

彼女の手中の黒馬は、こちらを向く。

(直斗、お前マジいい奴じゃん、超感謝)

いや、そういうのは直接、由紀江さんから聞きたい言葉なのだが。


(でさ、物は相談なんだけどさ)

「はい?」

(……雌馬作れねぇ? 清純白馬とお近づきになるのがオラの夢ー)



モチ、却下。
自重しろ。

これ以上増えたら誰も寄り付かねぇぞ、由紀江に。










由紀江さんを何とか宥め、夕食。
その後に、当主に断ってから、また道場へ。
川神院での生活のスタンスを、崩すつもりはなかった。
蛍光灯の下、独り、黙々と袈裟斬りを繰り返す。


日本の刀剣術は古来より盛んだが、江戸時代に大きく発展した。
この頃は、大きな戦乱がなかったため、戦場で着用する甲冑は前提とされず、平時の服装での斬り合いが想定された。これは、現在でもそうだ。
だから、今日の実戦剣術においても、袈裟斬りは基本中の基本なのだ。
無防備な鎖骨、頚動脈を狙えるからである。

一撃必殺。
どの流派でも、これは極意であるらしい。


しばらくして、襖が開いた。

見れば、黛家当主。

「すみません、ご迷惑でしたか?」

そんなに、うるさくしていたつもりはなかったが。

黛流は、あまり夜の鍛錬を奨励していない。
寝る子は育つという教育方針を、徹底しているそうだ。

「いや、そうではないが、そろそろ終わりにしよう。 随分と、夜も更けた」

やんわりと、言われる。

「はい」

本音を言えば、もう少しやりたい所だが。

道場に一礼して、廊下に出る。
そして当主を先頭に、歩く。

「時に」

「は?」

「剣術は、閖前さんの影響かい?」

「……ええ」

特段、隠すことも無い。

ユリマエ…。久しく聞いていなかった言葉。

母の、旧姓だ。
俺の母、矢車六花(旧姓、閖前)も、川神で剣術を修めていた、らしい。
俺が母から剣を教えてもらった時には、もう川神を出て行った後だったそうで。
だからもう、何十年も昔の話。

閖前家は川神の分家に当たる。
なんでも昔は本家の独断専行、暴走を防ぐ役割を担っていたらしい。それも武力と政治の両面で。

閖って水門の意味だしな。読んで字のごとく。

だけど今はもう廃れている。
そこの一人娘を父が娶ったのも、原因の一つだろうが。

まあ、現代日本は中世のそれよりは平和である。
本家の暴走もありえないと判断され、ストッパーも必要なくなったのである。

一応、血筋と立場的に俺がその役を担わなければならないのかもしれないが、今は無理。

だって、相手が相手ですよ?

「いや、私も一度、彼女と立ち合った事があってね。 実に、見事な腕前だった」

「……御当主様ほどでは」

「そうとも言えないよ。 私の剣は斬る剣だが、川神流の中でも、彼女のは迎え撃つ剣、撃剣だった。 単純に強さを比較できない。 あの時も、勝ち負けはなかなか着かなかったからね」

ふむ。


前を行く当主が、不意に立ち止まる。

「ご両親の件は、残念だった」

玄関近くを通ったせいか、少し冷たい風が頬を撫でる。

「いえ、もうだいぶ前の話ですし」

そう。 もう過ぎてしまった話。
そして、アレはまさしく、来るべくして来た天災だった。

「すまない、嫌なことを思い出させてしまったね。 明日からも由紀江のことを、よろしく頼むよ」

そういって、彼は自室に入っていった。




俺も、寝るか。
























黛邸、玄関前。

日が経つのは早いもので。

もう、ここを発たなければならない。

いやあ、充実。
本当に久方ぶりに、正月というものを堪能した気がする。

七年ぶりの紅白歌合戦。
解るのがサブちゃんとか和田アキ子ぐらいしかいない自分に、少し笑えた。

何より嬉しいのは、由紀江さんがビーズに熱心に取り組んでくれた事。
色々、ネットからレシピ調べて夜な夜な作ってるそうで。
夜更かしを少し窘められていたけど。

あと、ちょっとだけど可愛い笑顔が見えた。俺にはそれで十分。



「直斗君」

「はッ」

黛十一段にも、いつかきっと、御恩を返さなくては。

「君は、きっと強くなれる」

「……ありがとうございます」

一礼する。

彼の言った言葉は、誰にでも言えることだろう。
でも、彼の言葉ほど、勇気をもらえるものは、世の中にはそこまで溢れてない。

ここに来て二週間、みっちり、技術を体に叩き込んだ。
足捌きとかは、様になったかもしれない。
でも、これで完成ではない。まだ、上がある。

スピードとセンスは、生まれついての限界がある。
体質だったり、才能だったり、限定要因が必ず、ある。
でも、テクニック、技術はなんとか磨ける。
どこまでも、時間をかければ。


「や、矢車さんっ」

慌て気味に、中から由紀江さんが出てきた。

「あの、色々とお世話になりまして…えと、その」

言うことがまとまらないようだった。

「いいえ、お世話になったのは、こちらの方です」

苦笑する。
この子は可愛いね。ホントに。

「また、お会いしましょう。 …川神で」

笑みを返す。

「は……、っはいぃ」

まだ、笑顔は難しいようだった。

「また、いつか来なさい。君ならもう一人の娘の方、沙也佳も、気に入りそうだ」

目を細め、当主はそう言ってくれた。

「ええ、いつか必ず」




さて、

「では」

一礼して、来た道を戻る。

訪れたときとは打って変わり、のどかな日差しが暖かに、白雪に降り注いでいた。







[25343] 第八話:登校
Name: かぷりこん◆273cf015 ID:177153ba
Date: 2011/07/10 00:05


『嫉妬は常に恋と共に生まれる。 しかし必ずしも恋と共には滅びない。』

―――ラ・ロシュフーコー





















2009年4月20日(月)



ついに、この日が来てしまった。
いつもより十分ほど、早く目覚める。

早々に溜め息を吐く。
少し、いや、だいぶ緊張。手にも汗。
それを振り切るように、布団を剥ぎ、道着を巻きつけるように着て、部屋を出る

やる事は、やらないと。










座禅。
ただ、ひたすらに。
今日のテーマは、対、剣士。
頭の中で、自由自在に、まるで意志を持っているかのように、剣は踊る。

黛の剣を見てから、自らの剣技に対するイメージが変わった。良い傾向ではあるのだろうが。

俺の戦いを、俺は横から眺めていた。
ただ、それを、見ていた。
最後に、己が断ち切られる様まで。




「直斗や」

朝食の最中、話しかけられる。横には、老翁が立っていた

噛んでいた嫌に歯ごたえのあるワカメを急いで飲み込む。
水戻しが、甘ぇよ。

「これは、おはようございます」

「うむ、おはよう」

穏やかに、総代は言葉を続ける。

「今日からじゃな」

「……ええ」

なんでもない風に、答える。

「学校で、待っておるぞ」

そう言うと、さっさと食堂から去っていった。
あれでも、一応理事長なのだ。初日は何かと忙しかろう。


味のしない朝食を食べ終える。
いや、味はあるが、感じ取れない。
なんだ、この胸にしこりがある感じ。

「さて」

気分を変えるためにも、着替えるか。 初めての学生服。
上着、基本色が白って、どうか思うが。

特攻服みたいだ。

部屋に戻る。
試着以来、着ていなかった。

少し、窮屈。 Yシャツとか久しぶりで。

馴染みの道着のほうが、当然ながら楽だ。
さりとて、一子のように体育着で登校する気も起きないが。


ここで、近況を報告する。
四月の下旬にさしかかり、俺はやっと川神学園に通う事に相成った。
本来ならば、三週間前から、通えるはずだったのだが、なにやらゴタゴタが直前になってあったらしい。
総代もルー師範代も、俺には何も言わなかったが、多分俺の出自が、入学前になってPTAのお偉方の癇に障ったのだろう。
よって、新学級のオリエンテーションへの参加は出来なかった。 残念。
結局、元の木阿弥で目立つことになったのだ。
それでも、編入を許可されたのは一重に彼らの尽力があってこそ。

ま、もう一人、何日かして転校生が来るって言う話もある。 さほど気にする事もないか。


門下生共用の洗面所で、身だしなみチェック。
他の門下生から、冷やかし半分、激励半分に声を掛けられた。
軽く、受け流す。というか無視。



「…真っ白だな」

聞き捨てならん言葉が、背後から聞こえたぞぉい?


出来る限り自然な感じで、振り返る。
歯を磨いていたため、脇を空けたまま回転。

極限まで遠心力を高め、


エルボッ!






音はアレだが地味に痛かったようで。
ま、そうなるようにしたんだが。

胸中央を押さえ、苦笑いする兄弟子の一人。

「すまんすまん、あの人から呼んでこいって」

あん?
顎でしゃくられた方向を見る。


……麗しの彼女が、ニヤニヤしていた。



















<手には鈍ら-Namakura- 第八話:登校>


















川神院を出る。

大まかな道筋は解っていた。
多馬川の河原まで歩き、川に沿って多馬大橋、通称、変態の橋なるものを渡る。
向こう側の岸辺に、川神学園は存在する。

さっさと行くつもりだった。
本当に目立ちたくなかったから。

…ここ、嫌いだし。

でも、予定は未定とはよく言ったもので。



「あぁ~ん、モモ先輩ぃぃ、おはようございますぅ」

あと、何回この台詞を聞けばよいのか。
もう、隣は十人単位の集団になっていた。

人の目が増えればその分注目が集まるわけで。
7,8人ほどの視線がこちらに集まる。

それに気づいたのか、取り巻きのうなじを触るのを止め、元凶はこちらに近づく。

うわ。 女の子の匂い。

「おー、そうそう。こいつ今日から二年に編入することになった、矢車。 仲良くしてやってくれ。」

そして、脈絡もなく髪をグシャっと掴まれる。
一応、俺の方が年上なのだが…。

俺は、ども。と愛想笑い。



いきなり転入する俺に、彼女なりに気を使ってくれたのだろう。
こうして、今日一緒に登校するのもその一環。

大きなお世話ではあるのだが、気持ちには感謝。



うん、だからそろそろ離して?

うなじ触られてた子、めっちゃ睨んでるから。









そんなこんなで河原まで歩いてきた。
青草の匂い。

ここからは、橋まで川に沿って歩く。




さて、問題だ。

あなたは花の、女子高生。

行く手に10人位くらいの男たちが、熱烈な視線をあなたにぶつけ、立ちふさがっている。
滅茶苦茶イケメンなら、これから花より男子以上のハーレムが待ち受けているかもしれないが、そんなことは無い。
どの顔も、イケメンってほどイケてなく、ブサメンってほど目も当てられない訳じゃない。
ただ、浮かべる表情は、一貫して同じよう。

ニタニタ、ヘラヘラ、グヘヘのへ。

そんな奴らが話しかけてくるのだ。
あなたは、真っ先に踵を返すはずだ。
手に、鉄パイプやら角材やら、先端に直径二センチの鉄球のついたラバーグリップの本格特殊警棒を持った輩なら尚更。


だけど、こんなものを意にも返さず、我が道を行くのが百代クオリティ。

う~ん、マンダム。

















あっという間に、ギャラリーが出来上がる。


ため息を一つ。

「また、ですか?」

次期川神当主に問う。

「いや~、あっちから毎回来るんだ。 無下にも出来ないだろう?」

だったらなんで、嬉しそうなんだ。

「勘弁してください。 後片付け、誰がやってると思ってるんですか?」

「感謝しているぞ~。 毎回、夢の中で切に」

悪びれもせず、答える。

「相手にしないって選択肢も、あるのでは?」

「ま、そうなんだが、たまに美少女を人質に取ったりするのもいてな」

なにより、朝のウォーミングアップに丁度いい。
そう、嘯きやがった。

ったく、門下生総出で介抱した時もあったんだぞ?

「だって、あいつら問答無用だぞ? 試してみればいい」

そうする事にする。

世の中、平和が一番。
人類皆兄弟じゃないか。

僕らは、解り合う事が出来る。
教えてあげよう。世界は、こんなにも、単純だって事を。

GN粒子最大散布。



「あの、少しよろしいですか?」

あくまで低姿勢で、話しかける。

「あん?」

リーダー格っぽい、大柄が答える。

「やめておいた方が、身のためかと」

「はああ?俺達に言ってんの?」

不必要なほど、大きな声。

「はい。というか彼女、ご存知で?」

「解ってんよ、川神百代だべ? 地元の千葉まで噂になってる」

「それは、他県から、しかも朝からご苦労様です」

これを皮切りに、ほかの不良少年たちはいっせいに喋りだす。

「クチャクチャ、だから挨拶に来たわけだ」

ほう。それは殊勝な。
挨拶って、アイサツ、なんだろうけど。

「う、噂ってのは大抵、尾ひれがついてっからさ」

事実は小説よりも奇なりって、知ってる?

「七浜のチーム、<九尾の犬>を一人で潰したとかさ~、生意気なガキの頭をスラムダンクしたとかさ~、いちいち嘘くさいんだよ!?」

ま、そう思うよね?

「クス…女だからって、手ぇ出さないと思うなよ?」

セクシーボイス。 ホストになれば稼げると思うぜ?

「俺たちは<原点回帰>の<本格派>だからよ。 誰だろうと速攻ブチのめす!!」

いや、だから平和にいこうよ。

「お前は通学路で多くの生徒が見ている中、は、敗北していくのだあ」


はあ……。






後ろの自称美少女の小声が耳に入る。

「……テトリス」


……ヤバイっす。 とてもヤバイっす。
そろそろスイッチ入るみたいだ。

端の不良のケータイストラップを見て言ったのだろう。


半年前の奴らは、ぷよぷよにされてたのを思い出す。
あれは、グロい。
骨戻すの、大変だった。




俺はライザーシステムを起動、トランザムバーストをかける。


「マジでやめといたほうがいい」


俺の真摯な視線に気づいたのだろう。
リーダー格の顔が、俺を向く。

そうさ、僕らは、解りあえる。




「黙れよシラガアタマ」

……ガキの言うことだ。 俺は自制。

また、言葉を重ねようとすると、後ろの不良が喚く。



「つーか、上半身真っ白とか、マジ受けるんですけど~」

「ギャハハ、頭のフケが、体中に付きまくってんじゃねえの?」

「うへ、きったねぇぇ」





俺は、振り返る。




「どした?二、三人回すか?」

彼女はコロコロと笑いながら言う。

「いえ、」

俺は、平和が好きなんだ。


















「五人、ください」

だけど、真のイノベイターにはなれそうにない。
















千葉南部をテリトリーに持つストリートギャング、レイヴンキングのリーダー、烏間は、業を煮やした。
なんだ、あの落ち着きようは?

ムカツク。ムカツク。ムカツク。
ギャラリーだって楽しげに喚いてやがる。

クソ。クソ。クソ。
どいつももこいつも馬鹿にしくさりやがって。

一旗、挙げてやる。


「てめぇら、何言ってやがる!? クソッ、全員でヤっちまえ!!!」


「「「「「「「「「っしゃああああ!!!!」」」」」」」」」

勝てる。
そう、思った

安くない金も払って、助っ人も呼んだ。
一人は狂い猫の木更津。 千葉の奴なら誰でも知ってる酷いヤツ。 巻いてるマフラーは昔の愛猫を殺して皮を剥いで作ったもんだ。 残虐性は、折り紙つき。
もう一人は鉄頭、津田沼。 チタンを埋め込んだその頭で、コンクリをも粉々にした逸話を持つ。

これで勝てなきゃおかしいだろ?

覚悟しろよ川神百代、後十分で血祭りにして引きずり回してその上でゆっくり楽しまs……



彼の思考は、そこで途切れた。
体も弛緩し、崩れ落ちる。

前にいた白髪の男に、こめかみを拳指で撃ち抜かれて。











対、複数人は初めて。
実際不利に見えるかもしれないが、ある程度武術を修めると、そうでもない。
相手を盾に、或いは目くらましにできるし。

「いねやぁッ!!」

よくわからない叫びとともに、五人目が角材を足元に繰り出してくる。
もう、他は地に伏した。

もともとの馬力も違う。 九割方コンビニ飯でできてる野郎共に、負ける道理は無い。

それでも当たれば痛いから、角材を回避するため上に跳ぶ。

といっても百代のように何メートルも飛べるはずもなく。

重力に従い、すぐ地面に着地。

と同時に地を蹴り、相手に肉薄。





人間の神経ってのは面白い。
こめかみをちょっと強く突くだけで、肉体に信号を送る回路が切れるのだから。

「これで、おしマイ、ケル」

そう囁き、五発目の右フックを撃ち抜き、俺は戦いを終える。

ノルマ、達成。

















「やるな、流石鍛錬マニア」

「量で言えば、一子さんにはかないませんよ」

少しかいた汗をぬぐい答える。
百代は俺が二人倒した頃には、もう例の取り巻きと観戦していた。
その足元には綺麗に折りたたまれた男共。

拍手が起こる。誰ともなく。歓声も聴けた。
先ほど聴いた百代さんへのソレとは、かなり聞き劣りするけど。

―――目立つつもり、なかったんだけどな。

肩を回す。各部、作動確認。
こんなんで怪我したら目も当てられない。

あと川神に連絡しないと。
百代さんは放っておけと言うだろうが。
女子一人を何人も動員して囲む外道とはいえ、相手が悪すぎる。良い薬にもなったろう。


兄弟子達には申し訳ないが、アフターケアに精を出してもらうか。

そう思い、携帯をポケットから取り出した、その時。













「ねえさんッ!!」










いつか聴いた、声がした。

忘れられる、はずもなく。




「おお、我が愛しの舎弟ぇぇ!!」

彼女はそう言って、優男の元へ。
抱きつく。 熱烈な、ハグ。

周りには、あの面子が、ちらほらと。



……さて、注目される前に行こう。 一応、手続きあるし。

それに、あんまり見てて気分がいいもんじゃない。
醜いねぇ、俺って。

そうさ、嫉妬だよ。



携帯をしまう。
俺は鞄を持ち、学園へ走り出した。

院には、学園に着いたら連絡しよう。













橋を渡る途中、俺と似たような髪の色を、見た気がした。






[25343] 第九話:寄合
Name: かぷりこん◆273cf015 ID:177153ba
Date: 2011/12/19 22:41
『誰の友にもなろうとする人間は、誰の友人でもない。』

―――ヴィルヘルム・ベッファー





















4月20日月曜日、朝のホームルーム前。
二年F組教室の、窓際の後ろから数えて二番目の、目立たず暖かな日差しの当たる絶好の席で、直江大和は顎に指をかけて思考していた。



「大和が朝から物思いに耽ってる。 そんなに私の勝負下着が気になる?」

隣席の蒼髪が話しかける。 手にはドエフスキー、罪と罰。

「いや」

即座に否定しないと。 手がスカートにかかっている。

「ククク、ワカル。 きっと想像の中で、私は既に一糸纏わぬ姿」

幼馴染は両頬に手を当てて赤面。

「ん、五万糸くらいでグルグル巻き」

その言葉にすら恍惚の表情で続ける。

「……まさかの縛縄プレイ? そんな、初めてはオーソドックスに正常ぃ」

「その、何処までも俺とのエロ絡みにもってこうとする姿に脱帽する」

「惚れた? じゃ付き合おう」

「末永く、お友達で」



変態はほっといて、振り返って机に突っ伏している健康的不良を見る。
昨日は、ストーカーの張り込み依頼だったらしい。 同年代として、養父の家業を手伝う彼には頭が下がる。

「ゲンさん」

「……あん? なんだよ、俺ぁ昨日徹夜で眠いんだ」

そんなことを言いつつ、顔を上げて速攻で答えてくれるあたり、かなりいい人である。

「いや、なんか今日ウチに転校生来るって話、聞いた?」

「……いや」

「やっぱゲンさんも聞いてなかったか」

「それ、朝、モモ先輩が言ってた?」

脳内トリップから戻ってきた京も会話に参加してきた。

「うん。川神院から来るって言う。 どんな奴かなーって」

「大和がその手の細かい情報を前日に掴まないなんて、珍しいね」

「姉さんもワン子も、今日まで何も言わなかったし。 なんかPTAの上のほうでその話し合いがあったらしいことは知ってたんだけど」

色々なコネで。 というか姉さんもワン子も、今朝までは知らなかったようなのだが。

「メンドクセぇ奴じゃなきゃ俺はいい」

それだけ言うと、また突っ伏す。
まあきっと、耳はこちらに向いているのだろうが。

「やっぱり姉さんとかワン子以外でも、川神院関係の交友持ちたいし」

人脈はいくらあっても十分ということは無い。

「今朝モモ先輩と一緒に河原で立会いしてた人だよね。 遠目で、私でもあんまり顔見えなかったし、いつの間にやら先に行っちゃったていう」

「それなんか姉さんも残念がってた。 俺たちに紹介したかったって」

姉曰く、成長加減が半端無いらしい。珍しく有望株とも。
姉さんがああ言うくらいだから、なかなかの武芸者なんだろう。

「ワン子に聞いてみれば?」

前で机に黙々と向かっている妹分をみる。

「宿題写す時間を奪うほど、厳しい父ではない」

「ねえあなた、私、今夜の枕はyesだから」

「もう、俺たち終わりにしよう」















<手には鈍ら-Namakura- 第九話:寄合>














コツコツと、ペタペタと、廊下に二人分の足音が響く。
先を行くのは二年F組担任、小島梅子。 続くは俺。 もう二、三十秒でホームルームが始まる。
話した感じ、厳しそうな先生ではあったが面倒見も良さそうで。
腰に、全長二メートルの鞭が無ければ、もっとマトモに彼女を見れるのだが。


職員室は、なんかもう、バラエティに富んでいて。
顔に白粉を塗りたくっていた、男性教師の姿が印象的で。 あと俺の前を行く人をしつこく口説く、ロン毛とか。
ほぼ皆、総代がスカウトしてきたそうだから、川神の教師陣は、なにかしら教育に必要な素質を人並み以上に持っている事に想像はつくのだが。

それにしても、なんかこう、変、じゃね?



「今日からここが、お前のクラスだ」

扉が閉ざされている教室の前に着く。

「は」

「少し、待っていてくれ。 出席を取ってから皆に紹介しよう。 先に騒がれると面倒だしな」

「……わかりました」

やはり緊張。 学校に通うのが七年ぶりって事もあるけど、風間ファミリーとやらと直接まみえるのは、恐らくこれが初めてで。

「そう、構えることもない。 住めば都というか、うちのクラスは他と比べ少々問題があったりするが、妙に器の大きいところもある。 心配するな」

俺の顔の強張りに気づいたのであろう。 小島先生の言が耳朶を打つ。
頷いてから一歩引いて、廊下で待つことにした。





小島女史が教室に入って約二分後。

「ぬぉおおおお!!!」

ーーーダダダダダダダダダダダダダダダッ

廊下の向こう側から、必死の形相で生徒が駆けてくる。 首のカメラが鯉幟のように揺れていた。
なかなか個性的な顔立ち。 まあ言ってみれば、サル。
恐らくF組だろう。 見るからに問題児。

彼は一瞬こちらに怪訝そうな表情を見せるが、それは本当に一瞬のことで。
すぐさま、教室に入っていった。


数秒の後に聴こえた、鞭の出す破裂音は無視。





そして。

「入って、いいぞ」

引き戸が開けられ、促される。
ようやく、教室に足を踏み入れる。何十もの視線が、俺に注がれるのがわかった。

「さて、突然だが今日からこの者がこのクラスに転入することになった。 紹介しよう」

ここでクラスは色めき立つ。 正式決定は昨日の晩だったみたいだから、驚くのも無理はない。

小島先生は黙ってチョークを手渡してきた。
意図を察し、久しく触れる機会の無かった黒板に名前を書く。

そして、第一声。

「初めまして。 本日付けでこのクラスの末席に加えさせて頂く事になりました、矢車直斗と申します。 もうご存知の方もいらっしゃるとは思いますが、現在は川神院に身を寄せさせて頂いています。 以後、良しなに」

ぴたり45度の礼から顔を上げる。



やはり、なんか濃いね。 このクラス。



「何か質問がある者は、順次、手を上げるように」



さてさて、設定に、矛盾の無いよう答えないとな。













小笠原千花は、少々、唖然としていた。
転校生が今日いきなり来るというのも驚きだが、その顔に見覚えがあったからである。

「あの人、」

「どったのチカリン、知り合い系?」

もともとの浅黒い肌を、更にサロンで焼いた隣席の羽黒黒子が話しかける。あだ名は山姥。

「ああ、多分ウチの常連さん。 毎日夕方くらいに飴とか色々買ってってくれる。 羽黒も何回か見たことあんじゃない?」

「あ、そういえばアタイも見覚えあるかも系~。 あの白い頭は確かに去年あたり見たかも系~」

「………へぇ、制服着たら結構、」

「え、マジ? 何々チカリン、もうメロメロ系? マジでイっちゃう系?」

「そんな、そこまで節操無しじゃないよ、アタシ。 顔がまあまあなのは認めるけど」

そう毎日顔を合わせている訳でもないし、客と店員の関係から、なかなかまじまじと拝む機会が無かった。
いつも帰り際のお礼が結構丁寧だから、少し余分にサービスをつけることもある。 真面目そうで、印象としては顔の良いルー先生と言ったところだろうか。


















俺が簡単な質問にいくつか答えた後、そのまま淡々と先生は連絡事項を伝える。

「では、これにてHRを終了する。 皆、仲良くするように。 それから、福本ッ!!」

ビクッとさっきのサル顔が身を竦ませる。
心なし、顔に蚯蚓腫れがある様子。 原因は言わずもがなである。

「は、はいぃ、何でしょうか」

「お前は遅刻した罰として、矢車の机を用務員室から持ってくるように。 ああ、それと源」

「はい」

後ろの隅に座っていた、目つきの悪いイケメンが、スクっと立ち上がる。

「お前の右隣が矢車の席になる。 世話をしてやってくれ」

「わかりました」

そう言って、彼女は出て行った。

福本という男はげんなりしつつ。

「勘弁しろよ、あそこ一階の奥だろぉ」

ちなみにここは三階に位置している。

「あの、」

「ん?」

「机は俺が運びますから、用務員室までの案内、お願いできますか?」

流石にこれから自分が世話になる席を、他人に運ばせるのには気が引ける。
それに、どんな事が軋轢になるかわからないし。

「お、マジで?」

「はい。 それと、できればお名前を教えて頂けると」

気を良くしたのか、彼は胸を張って答える。

「福本育郎。 みんなからはヨンパチって呼ばれてる、永遠の思春期に生きる男だ。 下半身関係で困ったら俺の所に来い」




……なるほど、汚えピーターパンか。















「これからよろしくお願いします、源さん」

一時限目の数Ⅱが終わり、改めて俺は言う。

「……ああ」

彼は俺に一瞬目を向けると、直ぐに頬杖をついて窓の外を眺め始めた。
無愛想だが、元からそういう気質なのだろう。
それでも、先ほど机を運び込むときは手伝ってくれたし、いい人なのかもしれない。

「直斗くんっ」

「これは、どうも。 一子さん」

「朝、走りに行く前に聞いて、ビックリしたわよ!? いきなり転入だもん」

ズビシっと指を指される。 それ怖いからやめてくれ。

「いや、まあ俺も学生生活に憧れてたりもしていたもので、鉄心様に無理を通していただきました」

この人の制服姿は、俺にとって珍しい。 登下校はいつも体育着だし。

「聞いた話じゃ今日は、お姉さまと一緒に登校してたんじゃなかったの? 私が合流したとき、いなかったみたいだったけど」

「いえ、途中まではそうでしたが、手続きがあったのを思い出したもので」

「そう…。 ま、いいけど。 ね、ね、友達、紹介するからさ」

と言って袖を引っ張ってくる。

「あ、タッちゃん、直斗くん借りていい?」

「……好きにしろ、別に大したこと話してねぇ」

照れ隠しか、頭を掻いている。

それにしても、タッちゃんか。付き合い長ぇのかな。









彼女に連れられて、俺は風間ファミリーと対面。

「俺様は島津岳人、このクラス一番のナイスガイだ」

何故かマッスルポージング。よほど自分の肉体美に自信があるのだろう。
立派であることに否定はしないが。ムサい。

「僕は師岡卓也、みんなからはモロって呼ばれてる」

こっちは前述の彼とは真逆の人物のようで。穏やかそうだが、失礼ながらひ弱な印象を受ける。
でも、こういう人間も友達に居てもいいのかもしれない。


「……椎名京。 大和の嫁」

本から目を離さず唐突に言を発してきた。
美少女の部類に楽々入るであろう外見とは裏腹に、あまり他人との接触を善しとしないようだった。


そして、

「直江大和、よろしく。 ちなみに彼女とはお友達」

苦笑し手を差し伸べてきた。


「……こちらこそ、よろしくお願いします」

その手をとり、握手。別に何も抵抗があるわけでも無い。

ただ、彼ほどに手を握り返すことは出来なかった。

それだけである。




「このメンバーに、お姉さまとキャップ入れて、いつも私たち遊んでるの」

「ええ、聞き及んでいます。 風間ファミリー、というらしいですね。 小さい頃から変わらずに集まって遊べるなんて、素敵だと思います」

「俺様のナイスガイな気配りのお陰だな」

「それ違うでしょ、ガクトは寧ろ気配りされるほうじゃん!? ていうかナイスガイな気配りって何だよ!?」

オーケイ、この二人の役割は解った気がする。

「えと、では風間さんは?」

朝から、風間の席と思われる場所は空いたままであった。
病欠か何かだろうか?

「ああ、キャップは自由人だから」

直江は答える。

「は?」

理解が、追いつかなかった。

「まあ要は旅好きって事」

「バイト先とかで興味持ったものとか、学校サボってよくチェックしにいくんだよ。 この前は静岡でお茶摘みに行ってたし」

師岡が補足。

「ああ、それは、フットワークが軽い方なんですね」

そういうのも、リーダーの資質の一つなのだろうか。

「俺様に言わせれば、地に足がついてないんだよ、キャップは」

フフン、と鼻先で筋肉男は笑う。

「ガクト、賢そうなこと言ったぜ俺様、とか思ってそうだけど全然そんな事無いから。 フツーのレベルだから」

なかなか鋭い言葉がショートカットヘアから飛ばされる。

「ハハ、俺様の知的な発言に対する嫉妬だな」

意に介した様子もなく。



うん。 そか、見た目通りなんだな





「ねぇ、そういえば思ったんだけど」

師岡が俺に話しかける。

「はい?」

「何で敬語なの? 別に年下ってわけじゃないだろうし、タメでいいよ」

「そうそう、それ俺様も言おうとした。 そんな硬くなんなくてもいいぜ?」

言われるとは思っていた。

「いや、なんていうか、これは俺のクセでしてなかなか治せないんですよ。 別に緊張とか遠慮しているわけではなく」

「去年からアタシもずーっと言ってるんだけどね。 絶対喋んないのよ、タメ語」

少し不満げに、ポニーテールは言う。

「へぇ、結構育ちが良かったり?」

何気なく大和は問うてきた。

「ええ、まあ」




本当に、御陰様でな。












こんな感じで俺の学園生活の初日は過ぎていったわけ。




彼らは自分たちが誰一人欠けずに同じクラスになった事を、幸運な偶然としか思っていないのだろう。

そしてクラスで俺だけが、その必然を知っていた。







[25343] 第十話:懲悪
Name: かぷりこん◆273cf015 ID:177153ba
Date: 2011/07/10 00:13

『青春の夢に忠実であれ。』

―――フリードリヒ・フォン・シラー




















4月24日、川神学園、校庭




なんで、こうなったのだろう?

目立つの本当に嫌だって言ってんだろ?
………いや、言ってはいないのか。



とりあえずそれは置いといて。


「では、よろしく、矢車直斗」

前には笑顔の金髪の美少女。 こんな状況じゃなかったらなかなかいい気分になったのだろうが。




「これより川神学園伝統、決闘の儀を執り行う!」

総代、もとい学園長の激に、ただでさえ騒がしいギャラリーが一気に加熱。

「二人とも、前へ出て名乗りを上げるが良い!」

……了解。


「今日より二年F組、クリスティアーネ・フリードリヒッ!!」


先に眼前の彼女が、凛々しく声を張り上げた。
現代日本を少し勘違いしている節がある彼女は、真っ直ぐに俺を見る。

ったく、こんなん、応えるしかないじゃないか。

覚悟を決める。



「同じく二年F組、矢車直斗!」


わああああああああ!!!


と、こんな歓声が。
うん。なんかホント高校生っぽいノリ。
嫌いじゃないけど。


「ワシが立会いのもと、決闘を許可する。 勝負がつくまでは、何があっても止めぬ。 が、勝負がついたにも拘らず攻撃を行おうとしたら、ワシが介入させてもらう。 良いな?」

「承った」

律儀に彼女は答える。

俺は、頷くのみ。


「ではいざ尋常に」




腰に挿した模擬刀を抜く。
一度、黛家で手にした真剣よりかは幾分軽いが、馴染みの木刀よりどっしりとした重量感。
得意の上段で、俺は合図を待つ。

相手も同じく腰の獲物を抜く。
刀より一層、細身のレイピア。その切先は俺の足元へ。
その立ち振る舞いは実に、流麗、その一語に尽きる。
幼少期より習っているようだが、嗜むというレベルでない事は一目瞭然。

女性だからと手加減は出来そうに無い。
というか、彼女の気質からして、それは冒涜に値するだろう。
先ほどの自己紹介から、何となくだが、彼女は誰に対しても対等でいようとする嫌いがある気がする。

つまり、シンプルに真っ向勝負。


自然に微笑が漏れる。
なんだかんだ言って、人と武を競うことに抵抗はない。寧ろ好きである。

彼女も幾ばくか好戦的な笑みを返してくれた。

根は、なかなか気持ちのいい好人物のようで。




「始めいぃッ!!!!!」


俺達は、青春の獣。










<手には鈍ら-Namakura- 第十話:懲悪>












俺が編入してから、幾日か過ぎた。
やはりこの学校、なかなかユニークな名の行事が沢山ある様子。

たとえば編入の翌々日に行われた人間力測定、まあ言うなれば身体測定とスポーツテストなのだが。
胸囲まで測るとか。何に使うんだろ?

あと、目立つのは決闘システム。
なかなか不穏な響きのする言葉だが、揉めた時に白黒ハッキリつけようぜっていうコンセプトで行われるらしい。
意思表示にワッペンを互いに放り投げるとか、漫画みたいなセンスがいい。さすが総代。
ま、仕合とかは職員会議に一度かけられてから行うようで、この辺は流石にしっかりしていた。

そういうのを「そ、そんなんじゃないんだから、勘違いしないでよねっ」的なニュアンスの言葉を末尾に常に含ませながら、源は俺に細かく説明してくれた。
ーーーもうツンデレタッちゃん自重だわ。マジウケる。
だってもう何かしら説明してやろうと十分ごとにチラ見してくるんだもの。
ありがたく聞かせて頂いてますけど。



ああ、あとキャップこと風間翔一とも顔を合わせる事が出来た。
イケメン。
うん。羨ましいくらい。頭のバンダナも様になっている。
同じイケメンでもタッちゃんとはタイプが違って、性格はこう、一子をもっと純粋にしたような。
でも意外にギャンブルは好きなようで。
こういう手合いってのは、女の子はほっとかないのだろう。飴屋の小笠原さんとか、超狙ってるっぽい。
玉に瑕なのは、恋愛に疎いっていうか、興味が無い事なのだろうか。

知り合って日が浅い。
でも、一つだけ確信を持てたのは、彼がいなければ、ここまでファミリーは長続きしなかっただろうということ。
いわゆる、カリスマ性が、彼の中にはあった。

予想は、だいぶ前からしていたけれど。その通りで。









「クリスティアーネだ。 改めてよろしく」

二年F組に二人目の転入生が加わったのは、俺が編入してまだ一週間も経たない頃。
やはり凛とした佇まい。クラスの男子はこぞって見惚れている。
すごい。俺のときとは反応が雲泥以上の差で、筋肉とサルがフィーバーしていた。

ドイツ、リューベックから来た彼女は日本語も達者で、その辺のガングロよりよっぽど大和撫子。

彼氏はいない。という父親の弁。
いくら心配とはいえ、学校に押しかけるその姿に一歩引かざるを得ないのは俺だけではないはず。

ちなみに彼とは昔、会った事があるのだが、覚えてなさそうだった。
こっちとしては、あの濃い顔と眼光は、なかなか忘れられないものなのだが。
あの時はまだ髪黒かったし、サシで話した訳でもない。
少し、焦ったが一安心。

だが問題は、彼が帰った後のこと。



「はーい質問ー! 何か武道をやっているのかしら?」

いつもより少しトーンの高い、一子の声。

「フェンシングを小さい頃よりずっと」

クリスティアーネ、もといクリスは澱みなく答える。

「YES! 梅先生、提案!」

む?

「転入生を、歓迎、したいと思います!!」

ニヤニヤしていた。何処の剛田だお前は。
大方、決闘システムで遊びたいのだろう。

騒然としたクラスからは感嘆の声、それと「またか」という声が上がる。
源から聞いた話では、一子はよくこうやって決闘を吹っかけるらしい。学年問わず。勝率は控えめで、五割程。

「ふふっ、相変わらず血気盛んだな川神。だがそれは面白い」

お、小島女史も結構乗り気だ。
まあ、歓迎のレクリエーションとして、うってつけでもあるし。

「クリス、そこのポニーテールがお前の腕前を見たいそうだ」

不思議そうな顔で、クリスは一子に顔を向けるが、すぐに得心がいったという顔で。

「―――なるほど、新入りの歓迎、か」



かくして、一子の提案で、彼女らは互いの校章を重ねることになった。
どちらもノリノリである。

ふむ、体格差から言って、若干不利なのは一子だろうが、獲物は逆にクリスの方がリーチは短い。
両者とも実力が拮抗しているなら、面白い勝負が見られそうだった。
同門の縁で、一子を応援する事に変わりはないが。

そんなことをぼけー、っと考えていると。



「……むう。 一子や、ちょっと待て」

突然、教室の扉が開いて、川神鉄心がHRに割り込んでくる。

「が、学長!?」

「すまんな、少し様子を見に来ただけだったんじゃが」

小島先生にそう断ってから、総代は一子に向かって言う。

「一子。 お主、入学してからどれくらい決闘を職員室に申請したか、覚えておるかの?」

いきなり、入ってきた祖父に幾ばくか驚いた様子だったが、

「え、うーん。 そんないちいち数えてないわ、おじいちゃん?」

少し考えた後、あっけらかんと一子は答える。

「……今回はお主、自重せい」

「ええー? なんでよぉ」

「決闘システムはお主の為だけに在る訳ではないのじゃ。 毎回決まった者ではなく、もっと多くの者にも経験させたいとワシは思うとる。 わかるかの? 一子や」

「……ぅうう」

なにやら不服そうだが、総代の言葉に理があることは感じたのだろう。文句を言うことはなかった。

「じゃが、これで何も無しじゃとクリスも、クラスの者もつまらんじゃろうからなぁ?」

総代はこちらに顔を向ける。

「学長特権&総代命令じゃ」

後者で、代替案に想像がついた。回避には遅すぎたが。

「直斗、お主が相手せい」

おお? っとクラスが少し沸く。

「ふむ、なかなかいい案ですね。転校生対転校生、私も興味が沸きます。 学園全体も盛り上がるのでは?」

と、小島女史。

「うむ、我ながらベター且つベストじゃと思うが、如何かの、直斗?」

おそらく、百代さんと同じく俺がクラスに馴染めるよう配慮しているのだろう。 俺の目的を知っていて、尚。

元より俺が逆らわないことを見越しているくせに、疑問符浮かべるとか。

お人が悪い。



「……わかりました。」

―――しゃあねぇわな。

立ち上がってクリスに向かい合う。

「謹んで、お相手、仕りましょう」

展開の速さに、戸惑っていたが、

「こちらこそ、よろしく」と、受け入れてくれた。

ここで、教室が一気に騒がしくなる。風間なんかは賭けの胴元をし始めやがった。

「武具はこの教室にあるレプリカを使え」

担任はさらりと言う。

ほんと、おっかない学校だよねここ。






日本刀を使う事に決めてはいたが、結構長さに違いがある。野太刀から脇差まで。
持ち替えつつ吟味していると、

「ほう、もしかして、あなたはSAMURAIなのか?」

多少の感嘆の息とともに、彼女は問うてきた。

いいね、そのサァムルァイって響き。

「はは、髷はありませんがね」

軽くいなす。

「つまりは浪人か?」

ん、うーん。まあこのクラスの奴らより歳は二つ三つほど上だからな。あいあむ高校浪人。

「ええ、ま、似たようなもんです」

「おお、それは素晴らしい!! まさか日本に来て早々、大和丸のように悪漢浪人を相手に出来るとは」

おい、二文字ほど、なんか余計なのついてね?

「………俺そんな、悪そうに見えますか?」

「ああいや、すまない、つい興奮してしまって」

すぐに謝ってくれたが、目を爛々と輝かせていた。


これが終わって機会があれば、正しい日本文化をレクチャーし直してあげよ。
色々面倒だが。

「いえ、お手柔らかに、お願いします」

「うむ、見事に成敗、してやるぞ」

グッとレイピアを向けてきた。







……少し、やる気でてきたかも。







[25343] 第十一話:決闘
Name: かぷりこん◆273cf015 ID:177153ba
Date: 2011/07/18 02:13
『戦いは最後の五分間にある。』

―――ナポレオン










学長が、号をかける。
刹那、両者は駆け、交差し、互いの獲物を互いの獲物で受け流す。
俺はまあ当然として、レイピアで太刀を受け流すとか。やはり尋常で無い技量。
器用さ、センスは一子より上と見た。


急ぎ反転し、一呼吸で距離を詰め、クリスより一瞬速く攻めの手に転じる。
後の先、これはどの武術でも基本であり、極意。

問題は、何処からを後、とするかである。

言葉を発する余裕は無い。

そんな余力は全て、振るう刀に乗せる。

袈裟懸け、からの連撃。

……どう、避ける?


















川神院の者と聞いて、並みの武芸者ではないと思ったが、やはりその予測に塵ほどの間違いは無く。
初手の刺突が、牽制の意味も成さない。

振り返れば、すぐに次の斬撃が向かってきた。
相手の男は、女性だから手加減する、等という甘い根性は持ち合わせていないようだ。

感謝する。
これで自分も、全力を出し切れるというものだ。

袈裟斬りを、左半身を逸らす事で回避。
そのままカウンターを喰らわせたかったところだが、その衝動を理性で押さえつける。
それに、相手はまだ、その隙を見せない。

続けて足元への横薙ぎ。

バックステップで距離をとる。

かぶりを振って、時代劇の殺陣のイメージを払拭する。

慎重に、彼を見極める必要があった。













<手には鈍ら-Namakura- 第十一話:決闘>















仕合開始から二分。

彼らから十メートルは離れた場所で、風間ファミリーは賭けの胴元を兼任しつつ、観戦していた。

「おー、はじまったな弟ぉ」

後ろから姉さんが、俺の肩に手を回す。
先ほどは、*:.。..。.:*・゜(n‘∀‘)n゜・*:.。..。.:*、などとシャウト。
訳:上、玉、キター

人を、舶来物扱いは無いと思った。

「ッ!? ……解説、願います」

間近に来た端正な顔と、鼻腔をくすぐる香りが少々、胸の鼓動を慌てさせる。
べたべた触れ合うのは日常茶飯事だとはいえ、中学の頃からは、なかなかに気恥ずかしい気持ちが湧き上がり始めた訳で。

「そうだなー」

少し唸ってから、姉さんは語り始める。

「とりあえず、どっちも様子見。 ……カウンター狙いに徹してる、かな~?」

「え、そうなの?」

ワン子も聞き耳を立てていたのだろう。

こちらを意外そうな顔で振り返る。

俺も、そうは見えなかった。 というのは直斗が積極的に攻め続けているよう思えるから。

ワン子、お前なら多分、見極められるだろうが、と姉さんは前置きする。

「直斗は三つの連撃のみを、組み合わせている。 だから連撃の継ぎ目に補いきれない死角、隙がある」

たるそうな顔に似つかわしくない鋭利な眼は、彼らを捉えて離さない。

「剣術は、無手と違って攻撃後の隙が多い。 ……手数が半分になるからな。 それを無くそうとするのが連撃や眼力、足捌き。 だがこれにもクセがある程度は出る。 多分、金髪の方は、これを探って今は凌いでいる。 次手を予測して、その隙を突こうという魂胆だろう」

「……軍人の娘ともなれば、その傾向はあるかもね」

相槌を打つ。戦術も戦略も、実は似たり寄ったりなのかもしれない。

「直斗は、更にこれを予想しているな。 カウンターにカウンターで返すつもりだろ。 だから無理に隙を作って誘っている。 まあ無論、自分に隙がある事は判っているから本当の意味での隙ではないが……。 あいつは性格からか、本来なら、もう少し丁寧に切り結ぼうとする」

「……ねぇ、お姉様?」

「なんだ、ワン子?」

「そんなまどろっこしいことしないでも、勝てると思うんだけど」

怪訝そうに、妹は姉に問う。

「……そうだな。 もう、お前には八割方勝てるし…」

「あうぅ、言わないでよそれ」

「力押しでも何とかなると思うんだが、なーんかあいつ、難しく考えすぎなんだよな。 力に自信がないっていうか。 ……この勝負は当然、勝てるとして」

溜息をついて、ガシガシと頭を掻く。
大きく期待しているからこそ、表情は明るくないのだろう。









先ほどの足薙ぎへの回避反応で、どうやらフェンシングのなかでも「伝統派」のほうを習っていることに当たりをつけられた。
だからといって、有利になるわけでもないが、「スポーツ」のフェンシングの有効打突部位以外を狙っても、反応速度は同じ。という事を理解するに及ぶ。


―――安易に仕掛けたら、即、やられるってわけだ。


「伝統派」は字の如く、古来からある、護身あるいは公式の決闘の手段としてのフェンシングを探求するもの。勿論、スポーツでの有効部位などは関係ない。

FIEっていう連盟が作られて、これとスポーツとしてのフェンシングが分断されたって話だ。

豆知識はともかくとして、さてさて、どうしたものか。
攻め続けて、もう三分は過ぎただろう。
なかなか隙を突いてこないとこをみると、勇ましい性格とはいえ、戦闘に関してはかなりの慎重派と見受けられる。

戦士、兵士向きの女性だ。 やはり、フランクさんの娘。



ま、こちらはこのまま待つのみなのだが。





















大体の太刀筋は読めてきた。後は見切った隙に的確な攻め手を入れるだけ。

初手と同じ袈裟懸けが、来た。

ここで必ず決めてみせる。 騎士として。
避ければ次には足薙ぎが来る。 それを避けて突きを繰り出せば終わりだ。

こころなし、間合いを詰めつつ袈裟懸けを避ける。
やはり、次手は足薙ぎ。

今度は先ほどと違い、前に踏み込み、かつ跳んで回避。

地面に向かって顔は俯いており、前傾姿勢かつ両手で刀を振りぬいた体勢は、無防備。

慣性に従い、急速に体は相手に近づく。 狙うは、頭部。



―――そのまま、上から刺し穿つッ!!




「ハァッ!!」























このとき、クリスが足薙ぎを避け切った時点で、その眼を太刀から離していなければ、勝負はまだ、わからなかった。

確かに足薙ぎを、直斗は繰り出した。

だが、それは先ほどとは異なる点が一つ。



―――振りぬいた剣を握っているのは、右腕のみ。











袈裟懸けを前に向かって彼女が避けたところで、何かしら、これまでと異なるリアクションが来るとは思っていた。

前傾姿勢のまま、顔を上げる。

俺は、宙に浮く白点を、真正面からレイピアの切先を、見た。

だんだん、だんだん、それは大きくなる。

迫り来る剣尖が、米粒大から小指大の大きさになった刹那、胸の下に隠していた左手を眼前に伸ばす。

何処から、そして何処に、突きを繰り出すのかが判れば、後はタイミングの問題。

迫り来る迅雷の刺突、正面から受け止めるは愚の骨頂。

瞬時に左手でレイピアの腹を右上方へ押し、左に首をウェービング。

若干たわんだレイピアの切先は、恨めしげに唸りをあげ、俺の右耳数センチ横を通り抜ける。

レイピアとの摩擦で手は火傷しそうだが、構ってはいられなかった。

この機は、逃さない。


―――チャキィッ!!


すかさず刃を返し、右腕の全神経、全筋肉を総動員し、切り上げる。

「しャぁあッ!!」

彼女の首元へ。


















「勝負、有りじゃの」

学長が、そう言うのが聴こえた。

「勝者、矢車直斗!!」

幾らかのどよめきの後に、歓声が響く。

クリスティアーネ・フリードリヒは、思わず閉じていた両目を開いた。
冷や汗で首筋が嫌に冷たいと思っていたが、それは首の左に当てられた刀が纏う冷気も影響しているのだろう。

「……完敗だ」

本当に悔しいが、渾身の一撃を、あのように捌かれては。
言い訳も無い。ハンデもなにもない勝負だった。

「いえ惜敗、或いは遊びでなければ、あなたの勝ちです」

刀を腰元に納めつつ、向かい合う彼からはそんな返答が返ってきた。

情けは無用と、言おうとすると。

「レイピアは基本的に突きしか攻撃手段がありません。 ですから、ああいう芸当を試そうとも思ったんです。 しかし模擬剣でなく本物であれば大抵のレイピアの側面も良く切れる。 死合であれば実力からいって、こちらが負けていました」

「……いや…しかし、肉を斬らせて骨を断つ覚悟なら、結局同じことなのでは?」

その返答に、彼は苦笑して眉を寄せた。

「そう言いたい所なんですが……、残念ながら、俺は真剣を相手にした事が無いので、恐らくは、焦りと痛みで捌き切れずに終わるかと」

未だ修行中の身、未熟であります、と結んだ。
仏門に入っているような物言い。だが不快ではない。

負けはしたが、気持ちの良い立ち合いだった。

「……相手をしてくれて感謝する。 これからよろしく頼む、矢車殿」

「はい。 ――新入りの俺がいうのも変ですが、歓迎いたします。 クリスさん」





―――父様、自分は早速、真の侍に会うことが出来ました。











互いの剣を互いの首と交差させた姿は圧巻の一言。
キャップは横で、スゲースゲーとはしゃいでいる。ガクトはその隣でパンチラパンモロと叫んでいる。

「姉さん、予想通り?」

顔だけ動かして姉に問う。

「ん、まあな」

あれくらいやってくれんと、とでも言うような顔で返してきた。

「やっぱり、川神院は伊達じゃないってことよ!」

無い胸を張って、ワン子が自分の手柄のように言う。 やはり、闘えなかったとはいえ、同門が勝ったのは素直に嬉しいみたいだ。

「……ワン子、お前は少しは焦った方がいい。 直斗もそうだが、あのカワユイ金髪もお前より一、二段上だ。 師範代を目指すなら、あれらには当たり前に勝たないとマズいぞ? ……ま、より一層鍛錬を頑張る事だ」

少し影の入った顔でそう言って、姉さんはさっさと校舎の中に戻ってしまった。

「う、も、勿論よ。 お姉様っ」

姉の背に向かって、どもりながら、妹は答える。

「ワン子……」

話しかけた。 少し姉さんの言い方がキツイ気がしたからだ。

「あはは、へーきへーき。 それに、この頃のお姉様、ちょっと調子悪いってわかってるし」

少し、困った顔。

「……やっぱり、ストレス溜まってるのか」

好敵手だった九鬼揚羽さんが、武道の第一線から退いた時から、姉さんは満足のいく戦い、仕合に恵まれていないらしい。
戦いがサガ、バトルマニアの姉さんがそれに我慢し続けられるのも時間の問題みたいだった。

「うん、なんか不完全燃焼気味な戦いが続いてる感じ。 そのぶん直斗くんに結構期待してるみたいだけど、今のレベルの仕合を見ても、あの反応じゃ、多分満足してないのかも……」

「……ルー先生とか学長が相手することはないの?」

「ルー先生、一応ここの教師だから忙しいみたい。 アタシの特訓にも付き合ってもらうことも多くて」

「じゃ学長は?」

「うーん。 おじいちゃん、この頃あんまり戦おうとしないのよね? お姉様相手に限らず」

「昔は結構、姉さんの相手してたけど」

ヤンチャをしたら半殺しだと語っていた、幼い日の姉さんが、フラッシュバック。

「そうよ? 中学入るか入らないかくらいまでは、かなりしごいてたけど、段々目をかける事も少なくなって、最近は全然。 もう最後の仕合から何年ー、ってくらいになるかも。 昔教えを乞いてた人、釈迦堂さんっていうんだけど、その人も破門にされちゃって行方知らずだし、挑みに来る他流派の人達も相手にならないし、そろそろ自分から世界を回ろうかなんて、たまに言ってるわ」

それは何回か聞いたことはあった。 ……その度に熱烈なスキンシップを迫られ、されるがままに受け入れているが。

「この頃、甘え方が尋常じゃないしなぁ」

スキンシップが激しいものになればなるほど、欲求不満度が高いことは今までの経験上、理解していた。

少し考えなければならないのかもしれない。仲間として。舎弟として。












風間ファミリーから真逆の位置で、学園内女子人気No1の男とその取り巻き二人が観戦していた。

「ひゃー、朝からなかなか激しいモンだったなぁ、若?」

その取り巻きの一人で、数十メートル先からでもその輝きは衰えないだろうスキンヘッドの男、井上準は傍らに話しかける。

「そうですね、準。 二人とも転校生ということで、とりあえず見に来ましたが、あれほどの決闘を見られるとは思いもしませんでした。 …英雄も誘えばよかった」

色黒の肌に、女受けする中性的な顔立ちの主、葵冬馬は答えた。

「しょーがねぇよ。やっこさん、川神の決闘じゃないと来ないだろ? つか、今日も遅刻だろうに……。 ま、それにしても金髪の子、あと七、八年前に会ってたらどんなに良かったか。 まったく、神も仏もねーぜ」

「相変わらずですね、準は。 というか、その髪型でその台詞はなかなか皮肉が利いてますよ」

「若だって、あの矢車っていう奴、ガン見してたじゃん」

「ええ、あれくらい鍛え上げられた体が好みですしね。 顔のルックスもなかなか」

今にも舌なめずりしそうな表情であった。

「一応、そっちの趣味は学園じゃ自重しとけよ」

「……ええ、努力します」

目を瞑りながら、尚も怪しげな微笑。

しょうがないねこの主人は。と苦笑いし、もう一人の従者に井上は顔を向ける。

「ってかユキ、お前さっきから黙ったままじゃん。 どうかしたか?」

「うーん、あの白い人さー」

その名の通り、雪のような白さの長髪を持つ彼女、榊原小雪は指を差して続ける。

「僕の生き別れの兄だったりして♪」

そしてウェイウェイと踊る。

「……おいおい。 ま、確かに髪の色は似てっけどよ」

「ユキ、彼に興味が?」

「うん!」

内心、葵は驚いた。
彼女が、自分から他人に興味を持つ事は、これまでに無かった事だったからだ。
普段なら、べっつにーなどと答える所である。

ただ、彼女の生い立ちから、兄弟姉妹がいないことは判っていた。

「ふむ」

「若?」

「いえ、楽しい新学期になりそうだと思っただけです。 戻りましょうか?」

「…あいよ」

校舎へと彼らは並んで足を運んだ。






今日も今日とて仲良し三人組は、共に同じ道を歩む。

それが、どんな道であろうとも。





件の彼との出会いが、自分たちの未来をまるっきり変えてしまう事など、露ほども知らずに。






[25343] 第十二話:勧誘
Name: かぷりこん◆273cf015 ID:177153ba
Date: 2011/07/10 00:22

『人間関係で悩んでいる人は、他人との折り合いの悪さで悩んでいるのではありません。 自分との折り合いの悪さで悩んでいるのです。』

―――ジョセフ・マーフィー




















4月24日、金曜日の夕方。
いつものように、俺たち風間ファミリーは廃ビルの秘密基地に集合する。

「金曜集会」

何時からか、そう呼ばれ、最初は京を励まそうと集まる会だった。

家のいざこざで、京が川神から離れていた時期、彼女は毎週金曜日に遥々静岡から、遊びに来ていた。

母親の男癖が災いし、両親が離婚。 父が元妻の記憶を消し去りたいと、弓の椎名家先祖代々住んできた川神を去ろうとしたのは無理からぬ事で。

しかし父のほうは、良識のある大人であったことが幸いし、調停で忙殺され、薄々感づいていた娘の虐めを蔑ろにしていた償いか、彼女は毎週末、泊りがけで、川神の友達と遊ぶ事を許されたのだった。
泊まる場所が、あの川神院だったことも、後押ししたのだろう。

そういう背景から、この金曜集会は始まった。
現在はもっぱら、次の日の休みに何をして遊ぶかを考え、学校で受けた依頼を吟味する場となっている。
まあ、あとはリーダーがバイト先から仕入れてくる食べ物を晩御飯代わりに頂くとか。 ワン子はこれが最大の目的であったりする。
良くも悪くも学生らしくコンビニ飯かと思いきや、寿司やピザだったりするから侮れない。 キャップの面目躍如といったところ。






「さーて、今日の議題だ」

いつも通り、俺たちのリーダー、キャップこと風間翔一が口火を切る。

「明日、どこで遊ぶか?」

イの一番に、京は発言する。 やはり彼女の拠り所はこの場所なのだと、痛感させられる場面。

「それも重要だが……。 転入生のクリスの事だ」

おっと。

「んー? クリがどうかしたの?」

鉄火巻きを茶で流し込みつつ、ワン子は訊く。 今日の晩御飯は寿司とざるそば。

ちなみにあの決闘の後、やっぱり気が収まらなかったワン子は再度クリスに突っ掛かり、なんやかんやで始まった腕相撲対決で負けた。
まあ、そこから歓迎ムードがクラスに広がったので叱りはしなかったが。

そのときに、あだ名をクリとしてしまったせいで、姉さんも影響を受ける始末。

「俺たちのグループに入れようかって議題でてたろ?」

「今聞いたよっ!?」

お家芸であるツッコミを、寸分の狂いも無く、モロは入れる。

「で、俺はイイと思うんだけど?」

我が道を行くキャップは、それを一向に気にせずに皆の意見を訊こうとする。

「というか何故その考えに到達するわけさ?」

たまらず俺も発言。 それほど、これは大きな問題だ。

「だって梅先生にも頼まれたじゃん、我らが軍師」

「……面倒を見ろとは言われたな。確かに」

自分の中で考えをまとめるため、俺はいったん口を噤む。

「クラスメートとして仲良くするのは当然だけど、それと金曜集会にまで案内するって事は、レベルが違うよ」

モロは言う。 保守的な彼なら、当然の言い分だろう。

「そんな事はわかってるさ、でもクリスは逸材だぜ? ここの女子連中に負けず気が強いし面白いし、俺気に入ったもん。 一緒に遊びてぇって思った」

キャップはなかなか退かない。 まあ、目的を前に退くことなど彼は絶対しないことはわかっているが。

「ねぇ…。 もしかして、それって恋? ラヴなんだ?」

―――モロ、その理由は一般男子で一番ありえそうで、キャップで一番ありえなさそうな理由だ。

「いや、それとは全然違うな」

案の定、澄ました顔でキャップは答える。
どんな風に違うのか、恋愛感情に疎い彼にわかるのかと疑問に思うが。

まあ純粋な好奇心、次いで親切心からクリスをグループに入れたいというのは本当だろう。

「で、久しぶりの新メンバー加入。 どう思うよ?」

俺の提案で、一人ずつ意見を訊いていったところ。

「賛成3反対2、んで様子見2か」

「なかなかにバラけたねぇ」

モロは苦笑。

ちなみに俺は様子見派。 いくら日本好きとはいえ、外国で一人は寂しいだろう。 つい先ほど、キャップ胴元の賭けの件で口論になったが、悪い奴ではない事は確かだし。
それでも、だからといって諸手を挙げて大賛成とまでは言えない。 あの、融通の利かなさそうな彼女が、このグループに馴染むか否かには、疑問符がダース単位で付く。
京なんかは、もはや「異物」扱いだし。



その後も議論は続き、ついに結論。

「じゃ、まとめると。 みんな、声を掛ける事には問題はないみたいだから、声は掛ける。 んで、ここの居心地が悪くなったら、クリスは遠慮なく切るって事で、いいか?」

話し合った後なので、異議を挟む者は皆無。

「……ちょっと待て」

かに思われたのだが。

「姉さん?」

「かわゆいクリを誘う事に、異議は無いんだがな~」

そう前置きして、続ける。

「キャップ、もう一人くらい、どうだ?」

「へ?」

「私からも推薦したいのがいるんだが。 勿論、お前たちも知っている奴で」

この言葉から、俺は感づく。

「あー、もしかして直斗?」

そう言って、キャップも察したようだった。











<手には鈍ら-Namakura- 第十二話:勧誘>












「ああ、あいつ、悪くないと思うぞ?」

姉さんがファミリー以外の男にこういう賛辞を送るのは珍しい。

「モモ先輩、この俺様で風間ファミリーのイケメン男子要員は満員だぜ?」

冗談交じりにガクトは言う。それでも本人は本気で言っているから面白い。

「じゃ、お前下車しろ。 イケメンなガクトはいらん」

即座に切り捨てる。 心なし、斬音が聴こえた。

「お前たちも、人当たりのいいアイツなら仲良くやっていけそうだし」

「モモ先輩、キャップと同じ質問するけど、それってラヴ?」

モロが問うた。

「んー、どうかなー。 まあキャップと同じく男として認めてはいるがな。 ……自分ではわからん」

なんとも、煮え切らない答え。

「……ちょっと、モモ先輩自重」

「京」

「キャップもそうだけど、そんな興味心レベルで他人をファミリーに誘うとか、正直ありえない。 そんなに軽い場所じゃないよ、ここは」

つまらなさそうに視線を斜め下に向けながら、彼女は言う。 ジメジメ。

「ま、まあまあ京、落ち着いてよ」

ワン子が慌ててなだめる。

「ワン子だって、今何も言わなかったって事は、少なくとも反対ではないって事でしょ?」

「い、いや、それはほら、アレよ、アレ」

「アレって何?」

軽く眼を剥いて威圧。
口調からも、大分ムッとしているようだ。

「あわわ、大和ぉ、京怒ってるよぉ」

いつもの如く涙目で訴えてくる。

少なくともワン子が、付き合いの長さもあるだろうが、クリスより直斗のほうを好ましく思っているのは事実のようだ。

そんなことを思っている時。




「悪いが、モモ先輩、俺は反対だ」

我らがリーダーが静かに宣言。

「キャップ?」

姉さんが聞き返す。

「俺あんま、それには乗り気になれない」

「へえ、キャップがそんなこと言うの、珍しいな」

いつの間に回復していたガクトが、手を頭の後ろで組み、ソファにもたれながら言う。
それに応えて、キャップは理由を語る。

「いつも敬語だから、ってこともあるが、入ったらクリスよか気ぃ使っちゃいそうだし」

「まあ、それは癖だって言うんだから、ある程度は許容できなくない?」

俺は言う。 ぶっちゃけ、クリスを入れるよりも…。と言う気持ちが内心、あったりはする。

「いや、後は俺の勘がこう、なんていうか、アレだよ、アレ。 なんて言やいいかな~」


二、三秒、間をおいて。


「んー、気持ち的に。 九鬼と相容れられないようなそういう感じの」

目を細めて彼は言った。

「何だそれ?」

姉さんが肩透かしをくらったような顔で返す。

「なんとなくダメって事?」

ほんと、キャップにしては珍しい。

「全然タイプ違うじゃん。 あの究極の俺様キャラと直斗じゃ」

とガクト。

「そ、そうよ。 いい人だよ直斗くんは。 ……まあ九鬼くんも悪い人じゃないけど」

毎週、彼の熱烈なアタックをかわし続ける彼女も言う。

「ああ、だから言ったろ? 勘だって」

それでも、ここ一番での彼の勘がなかなか冴える事は周知の事実だから、結構な説得力はある

「…リーダーがそう言うんじゃしょうがないよ。 いいんじゃない? 無理に誘わなくたって」

真実、これ以上ファミリーに他人を混ぜたくない京は、早く話題を打ち切りたいようだった。



「キャップがそう言うなら、まあ、いいか」

少し不満げに姉さんは顔を窓に向ける。

まあ、

「この燻った気持ちは弟弄りに向けようっ!!」

などと幾秒か後にそう言って、俺に跨ってきたのだが。

「まあ、川神院でいつでも会えるしね。 アタシも一向に構わないわ」

最後の卵にパクついて、ワン子は言った。

かくして俺達風間ファミリーは、転校生、クリスティアーネ・フリードリヒを受け入れる事になったのである。




















4月26日(日)

川神院。 関東三山が一山、武術の総本山にして厄除けの寺院としても名高いこの場所で、矢車直斗はいつも通り朝の鍛錬を終える。
今は朝食の時間。

「はい、これ。直斗くんの分」

運動部のマネージャーにもってこいの笑顔を振りまきながら、一子は俺に朝食を持ってくる。
今日の配膳は彼女の仕事だった。

「アタシは作ってないけど頑張って運んだわ!」

と、俺の隣のルー師範代にも配る。

それにしてもテンションが高い。 この娘もこの男も。

黙々と俺は食う。
夕方は七浜へ出かける。 修練の時間を無駄にはしたくなかった。





食堂を兼ねた広間から、少し離れた縁側で、川神家二大巨頭は相対していた。

「うむ。 一子は感心感心。 ……それに比べお前は何じゃ、モモ。 朝から自堕落に漫画なんぞ読みおって」

縁側で片方の足を立てつつ、座り込んでつまらなさそうな視線で漫画を眺めている孫に声をかけた。

「うるせーぞ、ジジイ。 朝の鍛錬はこなした」

けだるそうに孫は答える。

「そんなもん当たり前じゃ。 まったく、風呂壊すだけじゃなく台所から肉盗んでったじゃろ?」

昨日、島津寮で焼肉をした挙句に、温泉を吹っ飛ばした事は、寮母から聞き及んでいた。

「友に振舞ったんだ。 いいだろ? それくらい」

「……まあの。 にしてもお主、本当に退屈そうじゃのぉ」

「ん、大和達と遊ぶのはいいが、それ以外の時は何しても気が晴れん。 ああ、まあ女の子弄くるのは楽しいがな」

「我が孫ながら、しょーもないの」

「戦いに飢えてるんだ、しょーがない」

臆面もなくそう言う孫に、どうしたものかと石庭を見つつ思案する。 今日も春爛漫であった。

「私に挑戦者はいないのか? 仕合がしたくてたまらん」

「……今はおらんのぉ」

「この際、ジジイでもいい」

殺気を軽く放つ。
到底、祖父に向ける眼差しではなく。

「この老いぼれにお前と戦えと言うか?」

「何言ってるんだ、ここ三十年以上老いぼれやってて、尚且つ川神院総代だろ?」

「ほっほ、もうお主には敵わんかものう」

「どうだか」

柳に風、であった。
百代は諦めたように闘気を収める。

「四天王の橘天衣を破った奴は、まだ見つからないのか?」

「北にいる何者か、しか分かっておらん」

―――孫に嘘をつくのはやはり辛い。 戦い漬けの日々を続けてほしくはない祖父心があるとはいえ。

そんな葛藤を、おくびにも出さず、孫の相手をする川神鉄心だった。

「天衣が負けたって事は、あいつ、四天王剥奪だろ?」

「じゃの。 今ワシ達が探しておる者こそ、その後継じゃ」

「あー、楽しめるといいなあ、そいつとは」

「……戦い、か」

「川神院跡取りとして、当然の姿勢だろ?」

そう言って、孫は勢いよく立ち上がると、妹と外へ走りに行ってしまった。





「……漫画くらい、片付けてから行け。 まったく」

床に放られた本を拾い上げてから、弟子から声を掛けられる。

「よくない兆候ですネ」

「ルーか」

話を聞いていたようだ。

「武に対して、妹や友を思う気持ちと同様のものを、持てればいいのですガ」

師範代を任せている者の表情は暗い。

「ワシの責任でもあるかの?」

こちらも負けず劣らず暗い声で返す。

「まさか。 アレは個人でしかどうにもならない類の問題かト」

慌ててルーは答える。

「……色々と、考えなければな」

「はイ」

「弟子達の指導を頼む」

そう言って、川神本家は私室に篭ってしまった。



「……私は、私に出来ることを精一杯やろウ」

ひとりごつ。

今までも、そうだったのだから、と。




















夜、十時。

用事を終え、徒歩にて家路を急ぐ。 夕飯をご馳走になったのが決め手。
大分遅くなってしまった。 門限は特に決められてないが、明日から学校だし早めに寝たいところ。


―――ピリリリリ、ピリリリリ、ピリリリリ、


仲見世通りに入ったところで、携帯の着信音がなる。
画面を見れば、黛由紀江。

ほう。珍しい。


彼女がこちらに来てから、何回か連絡は取った。が、この頃はそれも少なくなり。
会話も、調子はどうかとか、いいお日柄ですねとか、まあ他愛もない話。
友達作りの協力は、固辞された。 出来るだけ自分の力で頑張りたいらしい。 その意気や良し。

通話ボタンを押す。

「……もしもし」

瞬間、言葉の羅列が携帯から溢れてくる。

(あ、あああ、お、お、お久しぶりです矢車さんあのお知らせしたいことが、ああでもこんな時間にすみませんまた掛け直した方がいいですか!?ああでもでもこれは私にとっては大ニュースでありまして)
(お、落ち着けまゆっち、深呼吸だー。 クールにいこうぜ)

俺からリードせんとな。

「お久しぶりです、由紀江さん。 今は暇していますので大丈夫ですが、何かあったので?」

(おうおう、訊いてくれよ直斗~、まゆっちさ、ついに俺ら以外のダチができたんだぜ)

お前は黙れ。

「本当ですか? 由紀江さん?」

(は、はいッ! 奇跡です!! ドーハの奇跡です!!!)

テンション高ぇ。 しかも若干涙声なのね。

(しかも一気に八人も!)

「ああ、それは」

よかった。 心配、結構してたから。




(同じ寮の方々で、皆さん年上なんですが仲間に入れてもらいました!)






………。





「……由紀江さん、寮の名前って確か」

(…え、あ、はい。 島津、寮ですけど)



まさか。



でも。



―――そうか。



「なるほど、風間ファミリーの方々ですね?」

動揺は、声には出さない。

少し、手は汗ばむ。

(え、えぇ。 そうですが、よくご存知で?)

「一応、俺も川神院に住んでいますし」

メンバー二人とは、毎朝、顔を合わせている。

(あ、そういえばそうでしたね。 すみません舞い上がってしまって考えが至らず…)

「ちなみに他の方々とも、クラスは同じなので」

(そうなんですか?)

そうなんです。 そうしたんです。

「……でも、本当に何よりです。 友達が出来たのは」

(はい、次は、ついに同学年に食指を伸ばそうかと!!)

普通、最初がそこだと思うのだが。

「……すみません、急いでいるのでこれにて失礼します」

(こ、こんな時間ッ!? すみません明日は学校なのに)

先の言葉と矛盾するが、どうやら違和感は感じなかったようだ。

高校生にとって、この時間帯は普通に起きている時間なのだろうが、黛家での早寝早起は継続中らしい。

「いえ、本当におめでとうございます。 それでは、おやすみなさい」

(は、はいっ、おやすm)



―――ブッ、




通話を切り、ケータイをパタリと折りたたむ。

そうか、風間グループに入れたのか。




巨門へと走り出す。

あいつらの評価を、いい加減、改めてもいいかもしれない。

少し、ほんの少しだけ、体が軽くなった気がした。






でも、まだ、俺は完全には、信じられない。

あいつが、変わった事を。

だから、もう少しだけ、様子を見よう。






もう、少しだけ。






[25343] 第十三話:箱根
Name: かぷりこん◆273cf015 ID:177153ba
Date: 2011/07/10 00:26

『人間には、それぞれの運命があるにしても、人間を超越した運命というものはない。』

―――カミユ






















父上、一筆啓上、申し上げます。

若葉が薫る頃となりました。

返事が遅れて申し訳ありません。 ご心配をおかけしたと思います。 このところの環境の変化に戸惑い、筆を執る暇がなかなか出来ずにおりました。

由紀江が私立川神学園に入学し、数週間が経過いたしました。 そちらはお変わりございませんか?

実は今回、一つ大きな報告をしたいと思い、筆を執った次第です。

矢車さんと初めてお会いしてから早五ヶ月、由紀江はつい先日まで、長らく矢車さん以外に友達と呼べる方がなかなか出来ませんでした。

川神院から島津寮はそれなりの距離があり、学年が違うことも相俟って、あの方とも電話以外で話す機会もなかなか無く、一人部屋で膝を抱えて座る日々でした。

最初はそんな環境下でも、矢車さんは私を気にかけ頻繁に連絡を取り続けてくださったのですが、やはり矢車さんにおんぶに抱っこで、これ以上世話をおかけするのは心苦しい事もあり、しばらくはあの方との連絡を、こちらからはしないように努力してきました。

父上、母上、沙也佳とも離れ、こちらで本当の意味で孤独となっておりました。 幾度か枕を濡らした事もありました。

しかし、ご安心ください。 幸いな事に、その生活もついに終わりを迎えつつあります。

同学年ではありませんが、紆余曲折あれど、同じ寮の方々と、そのお友達の方々、合わせてなんと九人と友達、いえ、「仲間」になることが出来ました。 一人は良く出来たカラクリですが。

この方々は一人、ドイツから転入してきた方を除いて、皆さん地元川神のご出身で、自分たちの事を風間ファミリーと名乗っているそうです。

親しみを込めて、私を「まゆっち」というあだ名で呼んでくださいます。

父上にお願いしてまで出てきたこの土地。 由紀江はここで、楽しく学校生活を送れそうです。

時間がありませんので、この方々の紹介はまた次回にさせていただきます。 実は明日、皆で箱根に二泊三日で旅行する予定になっていまして。

由紀江は今、とても充実しています。 春が来た、とでも言えましょうか。

あと、欲を言えば同学年の友達が作れたらと考えていますが、まずは焦らずに今現在の幸せを噛み締めたいと思います。

暑くなるのが早いのでご自愛下さい。

あなかしこ









この手紙が届いた日、黛家の夕食が赤飯であったことは言うまでも無い。

当主自ら炊いたそうな。













<手には鈍ら-Namakura- 第十三話:箱根>













5月5日

箱根旅行三日目、昼食前。

軍人が来たり、覗きに失敗したり、風邪引いたり、散々大変なイベントがありつつも、当初の目的通り、なんとかクリスに俺を認めさせる事ができた。

今は旅館で新入りの携帯赤外線祭り。 まだ料理が出てこないのだ。

「ほら、クリ。 さっさとケー番、皆に教えろ」

「ああ、ちょっと待ってくれ…。 よし、送るぞ」

携帯持ち始めて日が浅いと言うクリスは、四苦八苦しつつ操作していた。

「お、来た来た」と俺。

「ん、私も」と姉さん。

「オッケオッケー」とワン子。

「うん、来たよ」とモロ。

「こっちも問題なし」と京。

「きき、来ました私にもッ!」とまゆっち。

「おー。 俺も来たぜ」とキャップ。

「来ねぇぇぇぇぇ!!!」とガクト。

その後、二回試してやっと全員にクリスのアドレスが行き渡った。
EDO-TOKUGAWA-YMATOMARU…って、女の子のアドとしてどうかと思う。


「次はまゆまゆだな」

姉さんが言う。

「は、はい。 どうか皆様お手柔らかに」

深々と礼。

「ケータイにお辞儀してどうすんだよ!?」

と、ガクト始め皆大爆笑。

「うん、やっぱ磨けば光るぜこの後輩」

満足げにキャップは言う。

(ちょっ、よかったなまゆっち。 今のM-1決勝レベルだぜ。 もう紳介が唸るレベル)

「あわわわ」



そんなこんなで彼女のアドレスも行き渡り。

「うぅ~、幸せです~。 一気にアドレスが二桁になりましたよ松風」

涙目で言う。 よっぽど嬉しい様で。

(おう、百人までの道は遠いが、オラ達の挑戦は始まったばかりだぜ!!)

「お約束で、もう終わりそうだね、それ」

俺は苦笑する。

「ていうか、二桁って事は他にも登録した奴いんのか?」

ガクトがまゆっちに顔を向ける。

「ガクト。ガクトにしては頭使ったなって褒めたいところだけど普通に考えて家族だと思うし。今まで一人だったまゆっちにそれ聞くのはアウトだと思われ、結果、松風のガクトへの評価はダダ下がり」

(ナイス分析だぜ京の姉御)

「あ、やっぱりそうなんだ」

モロも加わる。

(あ、でも舐めんなよモロ)

なんかいきなり調子乗り始めた。

「へ?」

(まゆっちの初めては家族以外に捧げたんだぜ~。 しかも結構、イ・イ・オ・ト・コ。 ウホッ)




一同、半秒ほど沈黙。。




「おい、今の聞き捨てならんぞ」

姉さんが一番に声を上げる。

「松風、少し、自重しようか」

そう言って京は木彫りストラップを引ったくり、手近な鞄の中にしまってしまった。

(ぬお、く、くく臭ぇ臭ぇえ、た、助けて、いい息がぁあ)

「ガクトバックでございます」

しれっと、京。

「で? で? 誰なんだまゆっち」

クリスの食いつきがなかなかよかった。
松風の冗談だろうに。

「え、あ、ああ、み、皆さん知ってる方ですけど」

姉さんとクリスに詰め寄られて、だいぶ狼狽気味のまゆっち。

「え、まじで? 誰々?」

ガクトまでも。

「え? い? あ、矢車さん、です」

上目遣いで彼女は答えた。






………。






「何ィィーーー!?」

これは姉さん。 俺も予想外。
てっきり世話好きそうなゲンさん辺りかと思ったから。

「アタシ、タッちゃんかと思った」

ワン子も同じだったようだ。

「聞いてない、聞いてないぞ私は! 何時! 何処で! どうねっちりと尻、知り合いになったんだ、まゆまゆ!?」

後輩の肩と尻を掴んで武神は問いただす。

「ああああう!?」

赤面して、更に狼狽。

「姉さんも自重」

平手で頭をはたく。


「あの、お硬そうな白いのも、やるもんだね」

京はそう言って本を読み始めた。







「あ、えと、昨年末から今年のお正月にかけて、川神院から私の実家に研修されていた時にですね、その、いろいろと友達づくりのアドバイスを受けまして、そそそれで、携帯を持てる様に父に言ってくれたのもあの方でして、それで…」

姉さんの性的な尋問を出来る限りかわしながら、彼女は赤裸々に告白していく。

「メ、メールとか、してたのか? どのくらいの頻度で?」

鼻息荒く、さながらしつこい彼氏のように姉さんは問う。ボディタッチ自重。疑問符一個につき、尻に手がいってる。
なんと羨まsゲフン。

「さ、最初は一日三十件とか送ってたんですけど、」

遠慮がちに答える。
不器用さがよく分かるところ。

「それかなりヒかれるレベルだよね」

お前もな。と、一日十件変態メール送ってくる幼馴染にチョップしておく。

「まあでも彼、律儀だからきっと一通ごとに返したんだろうね」

とモロ。

(そうそう。 流石のまゆっちも空気読んで控えめになったけど)

ガクトにより解放された松風も答える。

「道理で、クリスより携帯使い慣れていると思った」

俺が言うと

「べ、別に騎士に携帯電話は必要ないからな」

「女の子には必要じゃない?」

「うるさいな」

俺を一瞥すると、再度まゆっちに姉さんと共に質問し始めた。

こうしてみると、普通の女の子なんだよな。クリスって。




「むー、というかジジイ。 私にまゆまゆのこと隠してやがったな」

一通り後輩弄りを終えて言う、とても不服そうな我が姉貴分。

「でもしょうがないんじゃないお姉様? 年末年始はウチ忙しいし。 それにお姉様は百人組手とか他流仕合とか入ってたし」

「あれ全然楽しめなかったぞ、みーんなバツバツだ」

姉さんは尚も不満げだった。


「はいはい、じゃ雑談はそこまで! これから新人二人に川神魂を授けるから」

一度、手を叩いてキャップがとりまとめる。

「…かわかみ、だましい?」

クリスが訝しげに発音する。

「こういううたがある」

姉さんは続ける。



―――光灯る街に背を向け、我が歩むは果て無き荒野

―――奇跡も無く標も無く、ただ夜が広がるのみ

―――揺るぎない意志を糧として、闇の旅を進んでいく



「これが、昔から私たちの街で伝えられている、川神魂だ」

そう、締めくくった。

「あえて荒野を行かんとするオトコうただぜ」

とガクト。

「アタシ、長くてなかなか覚えられないけど、言わんとすることは分かってるわ」

ワン子は胸を張る。

「ワン子、えばるとこじゃなくて恥じるとこだからね」

とツッコミ要員。

「平たく言えば、ワン子の好きな言葉。 勇往邁進ってこった」

困難をものともせず、突き進むこと。

ワン子と同じく、俺もこの言葉が好きだ。

「いい言葉だな。 前に進む意志が溢れている」

クリスも気に入ったようだ。

「辛い時は、実際に口に出してみればいい。 同じ旅をゆく仲間がいる。 それがわかるだけで、力も出るし何より落ち着ける」

強者ゆえの孤独。
それを慰めるために、何度も姉さんはそうしたのだろう。

穏やかな顔だった。

「それさえ心に刻んでれば、他には何も言うことはねぇ」

「キャップ、そろそろ乾杯しない? ご飯、まだ出てこないけどさ」

「おう、そだな。 グラスあるし」

「ウーロンでだけどな」

ガクトが茶々を入れる。

「……川神水、持ってくりゃ良かったな~」

「だめだめ、健全にいかないと、姉さん」

「乱れに乱れた、おんにゃのこの姿、見てみたくないかガクト?」

ガクトに水を向ける。

「はい、もう是非ッ!!!」

零コンマ何秒かでの反応。 眼を剥き諸手を挙げている。

「今度、そうだな、多分夏には皆で遠出するだろうから。 そんとき持ってくる」

また川神院からくすねてくるつもりなのだろう。



「はいよー!! 皆、グラス行き渡ったな?」

キャップはファミリーを見回して言う。

一つ、咳払いをして。

「あんま変なこと言うつもりはねぇ。 ただ、これからずっと楽しくやっていけりゃ俺は万々歳だ。 じゃ、リーダーとして音頭とるぜ?」

高らかに、キャップは叫ぶ。

「皆、楽しくやっていこう! カンパーイ!!」

「「「「「「「「カンパーイ!!!!」」」」」」」」

各々グラスをとり、何度も重ねあう。

誰もが笑顔で。

誰もが今の幸福を疑わなかった。




最後に九つのグラスが同時にぶつかり合った時、ここに、新生風間ファミリーが誕生した。
















同時刻。 島津家玄関前。


「ごめんくださーい」

紙袋を片手に、俺は島津寮の寮母、島津麗子さんを訪ねていた。

「……はいはい、どなたかしら、新聞とかセールスはお断りだよ」

ガラガラと引き戸が開けられ、和服の厳ついオバサマがぬっと出てきた

うん、親子だねやっぱり。

「ご飯時にすみません。島津麗子さん、ですか?」

「いかにもそうだけど、アンタは?」

胡散臭げに俺を見る。

なるほど、昼食の最中だったか?

「すいません申し遅れました。川神院からの使いで来ました、矢車直斗と言います」

途端に顔が明るくなった。

「あら、鉄心さんとこのお弟子さんかい? どうかしたの?」

「先日、うちの百代さんが風呂を壊してしまった件で」

「ああ、いいのよ。 鉄心さんにも言ったけど、かえってリフォームする踏ん切りがついたから。 修理代もこっちで持つし」

アッハッハ、と高笑い。

豪気なもんだ。 ここは息子にも遺伝している節がある。

「ええ、それは総代も言っておりましたが、お詫びの品としてこの菓子折りを」

紙袋を前に。

「あらまあ、そんなのいいのに」

と言いつつ、ガッチリ、手が菓子折りにいっていた。

「この度は、本当に申し訳なく……」

頭を下げる。

「いいのよいいのよ、まったくもう。 アンタが壊したわけじゃなし」

豪快にまた笑う。
学校で散々悪口を島津は言ってるが、気さくで良い母親じゃないか。

すると何か思いついたように彼女は目を見開く。

「そうだ。 アンタ腹減ってない?」

濃い、顔が近づく。

「……えと」

「まだ、お昼食べてないわよね?」

食べてても食べてないと言わざるをえない空気だった。

まあ、まだ、食べてないけど。

「は、はい」

「いや実はね? 息子いないってのに昼作りすぎちゃってさ~。 寮に残ってる一人にでも御裾分けしようかと思ってたところなのよ。 でもそれでも多いくらいだからさ、ウチで食べてかないかい?」

確かに腹は減っているのだが。

「お気持ちは嬉しいのですが、流石に院に戻らないと怒られますので」

「そんなもん、アタシが一本電話すれば済むことよ。 ほら、ね? 食べてって。 ウチのレバニラには結構自信あるのよ」

腕を掴まれた。 断るのはどうやら無粋な行為のようで。

「わ、分かりました」

「うん、素直な子は、アタシ好きよ?」

俺の返答に満足したようで、満面の笑みを返してきた。



ホント、親がいるって幸福なことだと思う。

















午後4時。


芦ノ湖観光も終わり、俺達はバス停で帰りのバスを待つことに。

「はぁ……ったく、大和が川にダイブかと思えば、俺が湖に吹っ飛ばされるなんてな」

キャップは濡れた髪とお気に入りのバンダナを乾かしていた。

「事故だったとはいえ、ちょっと怒られるだけで済んで良かったよ」

どこにいても、トラブルを起こすのは風間ファミリーのお家芸だった。
軍師として、参謀として、たまに胃が痛くなるが。

「クリス手加減覚えろよなー」

恨めしげにキャップは言う。

「すまない。 空中に浮いていると癖で追撃してしまう」

どこのチュンリーだお前は。

「いきなり飛びかかったキャップもキャップじゃない?」

アハハハ、とワン子は笑いながら言った。


そんな、取り留めのないことを話していると。





「…もし……そこの貴方…一際大きな輝きを放つそこの方」

いつの間に近くにいたのか、老人がキャップに話しかけてきた。
つい先ほど道中で見た、占い師のようだった。

「あん? 俺のことか?」

「おぉ……素晴らしい人相をしていなさる。 魅力もある。 男として、人として。 そして何より、絶対的な強運、才気にも恵まれている」

キャップの前に来るとそう言って、首を伸ばしてしげしげと彼を見つめていた。

なかなか、不気味である。 小汚いマントを着て、浮浪者にでも間違えられそうな風体。

「へッ、上手いこと言って金取ってやろうって魂胆か?」

我らがリーダーは臆することなく言う。

すぐに、老人はそれを認める。

「はい、それで食いつないでおりますので」

「いかがですかな? 私めに皆様の運命を占わせては頂けませんでしょうか?」

「わり、爺さん。 金払う気は更々ないなー」

こういう手合いは相手にしないに限る。

「もうすぐバスが来ますから。 すみません」

と、俺も援護射撃。 どっかいっちまえ。

「ではタダでも構いません。 それほどまでに気になる相が、あなた方から迸っております」

うん?

「お!? だったらやるよ爺さん、でも今の格好見て、水難の相がある、なんて当たり前なこと言うなよな?」

……タダとわかるとこれだよ。





タロットカードを使った占いのようで。
俺達はそれぞれの名前や誕生月を教えつつ、爺さんのカード捌きを見ていた。
しかし、いよいよ結果がというところで、幸か不幸か、モロがバスが来たことを知らせる。

「ふむ、これは残念、ですがあなた方一人一人の未来には、しばらくは悲観的な要素はございませんな。 それだけは確かのご様子」

カードから目を離さず、と言うよりかは、むしろ俺たちと目を合わせないように、老人は静かに語る。

「そいつはよかった。 中途半端で悪いが、続きはまた次回みたいだ。 じゃあな、爺さん」

あまり未練もなさそうにキャップは答えた。
実際、コイツは運命だの予言だの、本気で信じないタチだし。

大柄のガクトを先頭に、風間ファミリーは次々とバスの中へ。
最後に、俺も乗り込もうとする。










「貴方、」

唐突に、言を投げかけられる。 タラップに足をかけたまま、俺は振り返る。

「はい?」

老人は、さながら悟りを開いた禅僧の顔で。

「貴方には、近いうちかは分かりませんが、大いなる戦が、待ち受けています」

何度も頷き、彼は言う。

「?」

きょとん。
今の俺の顔は、正にそれだろう。

「私が言えるのは、その戦いに、あなたは自らの心技体の全てを賭して―――」
「コラァ大和、早く乗れっつーの。 みんな迷惑してんだろうが!!」

ガクトの叫びが、老人の声を打ち消す。

「すみません、急ぎますので」

軽く会釈して、ついに俺はバスに乗り込む。




ガクトに小突かれながら、席に座った。

所詮、占いは占い。当たるも八卦当たらぬも八卦。
少なくとも俺は、実力で、築き上げ続けた人脈で、この世を生きていくさ。

そう、ひとりごちた。

しばらくして、俺はまどろみに沈む。
薬が、効いてきたようだった。













夕日が、嫌に眩しかった。

誰もいなくなった停留所で、占い師は独り、取り残される。

「行ってしまわれたか」

あの青年。

「戦車、死神、そして運命の輪」

老人は、低く、低く、呟く。

「塔が出なかったのは、不幸中の幸いなのだろうか」

不意に空を見上げれば、飛行機が、一本の矢の如き雲をたなびかせ、高く、高く、飛んでいた。





[25343] 第十四話:富豪
Name: かぷりこん◆273cf015 ID:177153ba
Date: 2012/02/05 02:31
『経営者は、常に死を覚悟して、しかも常に方向転換する離れ業を心に描ける人でなければならない。』

―――松下幸之助


















5月15日、朝のホームルーム前。

S組ではいつもの如く、一人の男の高笑いが響く。


「フハハハハハ!! 我、降・臨!!!」


ギンギラギンにさりげなくない、貴族のような衣服を身に纏う男が、まさに着席しようとしていた。

傍らにはいつものように、かのメイドが控えている。

「おや英雄、おはようございます」

小学校以来の友である冬馬は彼に微笑む。

「うむ、今日も元気そうで何よりだトーマよ!」

「珍しいですね、ホームルーム前に来れるとは」

「いやなに、かねてより言っていた大口の商談が予想より早くまとまってな。姉上と共同で進めていたことが幸いしたようだ」

九鬼家において一際商才に抜きん出たものを持つ九鬼家長男、九鬼英雄は満足そうに胸を張って答える。

大口の取引とは、先月言っていた、九鬼製ロボットの開発及び輸出関連だろうと冬馬は想像した。
軍事、警備用に転用できる物であれば、彼の姉であり、九鬼財閥軍需鉄鋼部門統括者たる九鬼揚羽が一枚噛むのも想像に難くない。


元々プロトタイプを一子殿に作って進呈したことも上手く働いたようでな、と独り言を言い、英雄はハッとする。

「いかんいかん、ここはもう神聖なる学び舎。いかに世界に冠たる九鬼家に名を連ねる我が多忙であろうとも、ここで仕事の話は些か無粋であったな。許せ我が友」

と大仰に言う。

「いえいえ構いませんよ」

その反応を見た英雄は、後ろに控える従者を呼ぶ。

「ふむ、では、あずみよ!」

「はい☆なんなりと申し付けくださいませ!!」

混じり気のない笑顔で、忍足あずみは即座に答える。

「我は今からF組へ、一子殿に逢いにゆく。供はいい。貴様も激務で疲れているだろう。その間、休め」

それだけ言うと、英雄は教室の出入り口へと向かってしまった。

…了解いたしました!…ケッ、やってらんねー 英雄様ぁ☆」

あずみは甲高い声を張り上げる。

ルビを読めたのは井上準だけであった。

そして、主が教室を出た途端、態度が横柄になるのは毎度のことで。
幾秒かかけて、大儀そうに自席に座ると、顎をしゃくって言う。

「おいハゲ、ちょっくらなんか腹に入れるもん買ってこいや」

今更ながらメイド服のスケ番って斬新だと、内心苦笑いでハゲこと井上は答える。

「……あのー、なんかって何すか?」

「なんかはなんかだよ、このクソ坊主、耳腐ってんのかコラ!? あ、でも気に入らん奴だったらテメェ半殺しだからな」

「ウーッス!!」

ちょっとしたキッカケで刃物が首に当てられることを熟知しているので、売店開いてっかなー、と考えつつ、急ぎ教室を出ようとする。

すると、先ほど出て行った、かの主が戻ってくるところに鉢合わせ。

「あれ、英雄、随分早いお帰りだな」

「ん、ハゲか? 貴様こそ、もうすぐホームルームだというのに廊下に出るとは何事か」

「ん、い、いや何でも」

てめえんとこのメイドのせいだよとは口が裂けても喉が裂けても言えず。

「おやおや、その様子だと愛しの彼女とは逢えなかったご様子で」

助け舟も兼ねて、冬馬も会話に加わる。

「うむ、一子殿はトレーニング中であったのでな。邪魔は出来まい。見ているだけでも我は癒されるのだが、なかなかに邪魔な庶民共が多くてな」

「殲滅いたしましょうか☆」

主が返ってきた途端、これである。
井上としては、使いが無くなって一安心なのだが。

「たわけが! 愛すべき庶民に対しそのような真似、王道を行く者として為すべき事ではまったくないわ!!」

「申し訳ありません英雄様、かくなる上はこの腕一本で、お許しを!!」

あずみは左腕の関節を外そうとする。

「いや構わん、少しとはいえ、一子殿の姿を見た我は多分に機嫌が良い。不問に致そう」

「いえ、それでは私の気が治まりません!!」

そう言って、ボキンッッ!!という音と共に、だらりと彼女の腕は床に向かってぶら下がる。

その姿を見て、主人は焦るどころか褒め称える。

「ふむ、その姿、正しく我がメイドとして相応しい。褒めてつかわす」

「身に余るお言葉でございますぅう☆」






朝から、濃い。胸焼けしそうだ。

机に黙って向かう者達、競争原理の体現とも言えるS組の大部分の心は、こういうしょうもない場面で一致するのであった。











<手には鈍ら-Namakura- 第十四話:富豪>












昼休み。

俺は教室で、慎ましく弁当を食べている。
made in KAWAKAMI。味付けが濃いのはしょうがないとしても、なにぶんタンパク質に偏った弁当なので、売店でサラダを買って加える。食育、食育。

ゴールデンウィークもとうの昔に過ぎ去り、俺は学校生活を、それなりに満喫している。
クラス全員と言葉を交し合うくらいには、溶け込んでいるつもりだ。

本来の目的を疎かにはしていないが。






なにやら隣の女子連中は、好きな異性のタイプについて話しているようで。

「クリスの好みってさ、どんな男なの?」

色恋沙汰には目も耳も無い、小笠原さんが訊いていた。彼女の親友であるF組学級委員長、甘粕真与さんもそれには興味がある様子。

「うん、自分は信念を持っている男だな。例えば、大和丸夢日記の大和丸のような」

クリスこと、クリスティアーネ・フリードリヒは、綺麗な日本語で澱みなく答える。彼女もまた、クラスには俺に以上に溶け込めていて、なんと由紀江と同じく風間グループの仲間となったらしい。
勿論、あのメンバー以外ともよく話し、小笠原さんのことはチカリンと呼びかけるほど。
学校で見る限り、美少女で、努力家で、強くて、誠実で、人当たりがよくて、社交性があって、と世の女性達の大半が羨ましがるほどの高スペックを持ちつつも、自分に驕る所がない姿勢に、あの決闘以来、俺は並以上の好感を持つようになった。

これが恋か、と言われれば、それはまた別の問題であるのだが。

そんな彼女にも欠点があるようで、その融通の利かなさを大和を始め複数にからかわれていたりもする。それに怒ったり恥ずかしがったりするところが、これまた可愛いので始末に終えない。
父親が怖くて大っぴらになってはいないが、ファンクラブなるものも作られている様子。

「その大和丸夢日記がわかんねぇよ」

とクラスの、なんというか、黒一点である羽黒黒子。
悪役プロレスラーの娘である彼女は、その外見に違わず中身も…。という感じで。
毒を周囲に撒き散らす。

「あら、大和丸は面白いわよ。羽黒も見てみたら?」

「おお、知っているのかチカリン!」

などと花の女子学生は話す話題に事欠かぬご様子。

学校の休み時間でもイメージトレーニングに精を出す一子も、それを終えて仲間に入り、更に華やかに。





そして、もっと華やかな奴がやってくる。





「フハハハハハ!! 我、降・臨!!!」

九鬼財閥の御曹司にして、その商業部門を束ねる大富豪、九鬼英雄その人である。

「おお、一子殿。名も無き、か弱き平民の中にあっても、貴女は相変わらず、なんという輝きを放っているのだ!」

多分の例に漏れず、彼もまたこの学園で濃いキャラの一人。俺が、F組以外の連中で一番早く名前を覚えた輩でもある。



「ア、アハハ……」

一子は愛想笑い。
週に最低一回は、愛の告白を受けている彼女は彼がとても苦手らしい。

まあ、得意な奴など見たことが無いが。

「放課後、我も一子殿のトレーニングに付き合おうと思うのだが、どうか?」

彼は、そんな彼女の心情など露知らず、話しかけ続ける。

「あ、う、気持ちは嬉しいんだけど。その。別にそれ、いいよ。独りでできるし……」

「ふむ? 時々そこの庶民達が手伝っているではないですか?」

毎度毎度、断られてんだから、少しは察しろよお前。頭も良いんだから。

「なんでしたら、九鬼が世界に誇る、最高最強豪華絢爛なトレーニング施設へご案内しましょうか?」

いやいや待遇の面じゃなくてだな。

「いやそんな。トレーニング施設だなんて。アタシは山1つあればその中で十分学べるし」

どこの宮本武蔵だよ。と心の中でツッコんでみる。

まあ否定はしないけど。


「なんと、自然が師……。素敵だ! 貴女の視線を独占したい!!」

うわぁ。

これホンモノだよ。

「おーい、ワン子。用事あんだろ? さっさといってこい」

たまらず直江大和が、一子に言う。
この場合、用事というのは嘘であろうが、こういうときの気配りは流石。




「え、ないよ?」

惜しむらくは、彼の意図に気づけない、彼女の天真爛漫さか。
こういう正直なところ、誠実なところは、武術を習うにおいてとても大事だと思うから、俺は責められない。






「おい、九鬼ィ、人のクラスでギャーギャーうるせぇ」

やり取りを見てられなくなったか、一子との付き合いが最も長い、源忠勝が発言する。

彼を口火に、その他男子からも声が上がる。
一子の、今述べた純真さが、クラスの男子に深く受け入れられている証拠でもあった。

彼女を好いているのは、英雄だけではない。ということだ。


まあこんなことで、めげるような男でもなく。

「黙れ平民共。 我がいつ、発言する権利を与えた?」

間髪を入れず、彼は吐き捨てる。

こういう挑発にのせられる馬鹿が、この馬鹿クラスに沢山いるのは自明であり、その代表格が立ち上がる。

英雄にとって、挑発している意識はないのであろうが。

「なんだ喧嘩売ってんのか? 俺様が買ってやろう」

相変わらず、親子そろって血の気が多そうである。

両腕を頭の高さまで上げ、ボキリボキリと指を鳴らす。

……それ、あんまり関節によくないんだよと、川神の内弟子としては教えたくなるが、そんな空気ではなく。

「フハハハハ。 その無謀さは逆に愛しいな、庶民!」

だが対する彼は、このように暴力をチラつかされても、一切、自分の権力で相手を威圧しようとはしないのである。
それが、誰も彼を心底憎もうとしない理由の一つなのであろう。
民を統べる王である、王であり続ける姿勢には、俺も素直に感心できる。


「九鬼クンさあ、ワン子困ってるじゃん」

一番効果がありそうな台詞を、小笠原さんが言った。

「何! それは我も困る。 なれば一子殿、愛らしいお顔を見れて、我は十分、今日の激務をのり切る活力を頂きました。 そして我は、貴女の夢をいつでも、いつまでも、応援しています。 何かあれば是非、是非に、我を頼ってもらいたい!!」

「あ、う、うん。 そのときはよろしくね」

一生来ねぇよ。

そう、クラスの総意がまとまった瞬間だった。

「なれば、庶民共、さらば」

風間が疾風なら、彼は台風であった。








―――ピンポンパンポン~♪

九鬼英雄の、恋のから騒ぎから数分後。

教室に備え付けのスピーカーから、放送が入る。
今日、校内ラジオは機材調整で休みのはずだが。

(二年F組、二年F組、矢車直斗)

……何この衆知プレイ。もとい羞恥プレイ。

勘弁です、小島女史。

まあ、音声はこの教室からしか流れていないから、大したことではないのだが。

(例の用件で、相談がある。至急、職員室に来るように)



好色二人組が湧き上がる。

「おいおい、なんだなんだ例の用件って」

ニヤニヤと筋肉。

「エロスの匂いがするぞ~!!」

ムラムラとサル。




「……たぶん、進路関係のことかと」

俺は努めて冷ややかに返す。

「へ、黛流当主とでも書いたんじゃねぇの?」

まだ茶々を入れるかこの筋肉。
黄金週間から、風間ファミリーからそのネタを言われ続ける毎日。

……ほんとに、何もねぇですよ?



「……俺は普通に就職です」

その言葉に、それなりに反応する人は多くいて。

「え? 直斗くん、卒業したら、川神院出ちゃうの?」

その筆頭が、川神院師範代を目指すと、真っ先に進路を決めた彼女。

「ええ。 いつまでも居候同然の生活は流石に」

さらりとかわす。

「じゃ急ぎますので」

逃げるように、駆ける。










九鬼英雄はF組へと再度、踵を返していた。


ぬう。 しまった、我としたことが。
一子殿の愛らしさで、前後不覚に陥っていたようだ。
いや、彼女に非は、一ミクロンほどもないのだが。
彼女を訪ねた本題は別にあったというのに、すっかり呆けていたわ。

愛しき一子殿に贈った、クッキーについてである。

このたび、かの大国との取引が相成って、クッキーに用いられている、九鬼が誇る最先端技術の提供協定が結ばれた。
プロトタイプとはいえ、戦闘能力は計り知れないものがあるあのロボットが、万が一にも他国、他企業の産業スパイに盗まれでもしたら、商談はご破算。我は姉上に大目玉を食らってしまう。

我が目玉を喰らうくらいで済むのならまだ良いが、この商談の失敗は、他国で九鬼の技術が流用され、戦場で多くの兵士が、より多くの鉛玉を喰らう可能性にも直結するのである。

王として、そのような事態など全くもって容認できるはずもなく。
商談が正式に成立するまでの一ヶ月の間、あのロボットをメンテナンスも兼ねて預かろうと、その許しを得るために我は来た道を戻る。

むう。 なんという時間の無駄であろうか。 我とあろうものが、情けない。
しかし、この件は代わりの者に任せるわけにもゆくまい。


そしてF組の門戸を開こうとした、その時。






勢いよく出てきた、白髪の輩と接触。

「ッツツ!」

激務の中でも続けている体幹トレーニングのおかげで、無様に転げることはなかったが、それでも尻餅をつくという、ここ五年の中で最大級の失態を公然の場でみせてしまう。

不覚。 その一語に尽きる。

そう思い、更に、我に膝を折らせるとはどんな輩だと、向かい合う者を見る。

「も、申し訳ありません! お怪我は!?」

思いのほか滑らかな丁寧語と、すぐに自らも足を折り、我と同じかそれより幾分低い目線で、しかと我の両眼を直視して言葉を紡ぐ姿勢。

こやつ、落ちこぼれのF組であろうに。

「……いや、どうということはない」

悪態の一つでもついてやろうと考えた自分が愚かしくなるほどだった。

立ち上がり、幾分埃がついたベルボトムを払う。

「次は、ないぞ」

「……本当に、申し訳ありませんでした。全面的にこちらの非です。何かあれば、すぐにおっしゃってください」

「どうということはないといったであろう」

「そう、でしたね、すみません。 あ、では急ぎますので、これにて」

御免。

時代錯誤の武士のようにそう言うと、その者は駆けていった。

気を取り直して、教室に入る。

周囲の雑音がなかなかに多いが、庶民共にも苦労することはあるのだろう。
その不満の受け皿になることも我が務めとわかっているが、今は他にやるべきことがある。

「たびたび訪ねて申し訳ない一子殿!! 先ほど貴女を訪ねたのには訳があってだな」

うむ、やはり彼女は、有象無象の中で、一際輝いておるわ。









「ああ、そういうことなら」

また来たのか。と脱力するのもつかの間。
今回は、それなりに真面目な話で。

「できれば今日のうちにでも引き取りたいのだ。 無論、メンテナンスも完璧にしてお返しいたす。 なんなら新しい装備もお付けして…」

「そんな、いいよ。 今のままでもとっても役に立ってもらってるから」

風間ファミリー(特にキャップ)のな。

「そう言って頂けると、プレゼントした我も天にも昇る心地です。 では夕方、いつも貴女が鍛錬している河原で待ち合わせということで、よろしいでしょうか?」

「ええ、クッキーをよろしくね?」

笑顔をワン子は振りまく。

「はい! 全身全霊をもって、九鬼のスタッフが磨き上げておきます!!」

はいはい。

じゃ、お気をつけてお帰り。

彼は大仰に別れの挨拶を愛する彼女に済ますと、踵を返そうとするが。



「……そうだ、直江大和、」

いきなり話しかけられた。

「何か?」

「そこの空いている席の主は、白髪の者か?」

俺の、斜め後ろ、ゲンさんの隣の席を、奴は指差す。

直斗のことか?

「ああ、そうだけど」

「いやなに、先ほどそやつに会ったのだが、あまり見かけぬ顔だったのでな」

「ああ、矢車クンは転校生だから」

小笠原さんが、何気なく言う。



奴の目が、心なしか細まる。

「……今、なんと言った?」

「え?」

「ヤグルマと、そう聞こえたのだが」

「う、うん。矢車直斗クン、だけど……、知り合い?」

王に威圧され、少し彼女は戸惑いつつ話す。

俺も、話しかけようとすると。





王は教室から、忽然と消えた。


その知覚から遅れて、荒々しく閉められたドアの音を聴いた。













玄関へと急ぐ。

申し訳ないティーチャー宇佐美。
民への示しとならぬが、一身上の都合により、我は早退する。

「あずみぃぃい!!!!」

最も忠実たる従者を呼ぶ。

「ハッ!! お呼びでしょうか、英雄様!」

即座に真横に現れた。

「学校は早退するッ! 我は今日の予定を五時までに全て終わらせる」

「はい! ではそのようにスケジュールを組み直しますが、いかがなされたので?」

「本題だ」

人力車の元へ急ぐ。

「ヤグルマ・ナオトなる者が、二年F組にいた」

「……ッ、そ、それは!?」

そう、一大事だ。

「灯台下暗しとはよく言ったものよ。 まさか一子殿のクラスにいたとは。 しかし、同性同名ということも考えられる」

むしろ、そうであってほしいとの心が、少なからず我が胸にある。

「……わかりました。 では早急に、五時までに報告を」

良い従者を持ったものだ。

「話が早くて助かる」

「いえ、では、いつもより速度を上げさせていただきます!!」

「うむ!!!」




人工島、大扇島の九鬼財閥極東本部へ向かい、人力車は文字通り、爆走する。















五時までに、我も覚悟を決めねばな。


主のそんな呟きが、従者の耳を撫でる。



[25343] 第十五話:天災
Name: かぷりこん◆273cf015 ID:177153ba
Date: 2011/07/10 00:29

『一つの命を救える人は、世界も救える。』

―――映画「シンドラーのリスト」より

















人の奔流の中。
誰もが、揉みくちゃにされながら。

つい先ほどまで、あそこにいたのが信じられないくらいの変貌ぶりで。
遠目に見た目的地は、さながら火山の噴火であった。

だが、決定的にそれとは違う点が、一つ。


山から逃げる人以上に、山へ向かう人がいる点である。







駆ける。


――ッハァ ッツ、ッハへ、ッハぁ、ッハ


駆ける。駆ける。


――ッカハッ、ゥオェ、ゥェ、ンッ、ぅグッ




迫る嘔吐感、断絶的な立ち眩みと耳鳴り、止まらない四肢の震え。
巻き上がる土煙の為だけではない。
この命よりも大事な物が、今にも今にも消えてしまうのではないかという、極限の焦燥から。

摩天楼の谷間は、悲鳴と怒号で満ち、道端には、無数の瓦礫と、血に塗れ叫びを上げる人々と、灰塗れの星条旗。

両頬を、何度も何度も平手で叩き、狂気と正気を行ったり来たり。

しかし、絶対に足を止めてはならない。

それだけは、はっきりしていて。

止めたら最後、二度と先に進めなくなる。

絶望と共に、俺は崩れ落ちるだろう。

あの、ビルのように。




「ァァアアア!! くそったれがぁぁぁあああ!!!」




誰かの叫びを聴くごとに、視界が、にじむ。

なんだってこんな、

こんな理不尽が、不条理が、この世にあってたまるか!!




頼む。

後生だ。

頼む。頼む。頼む。




どうか、生きててくれ。







「六花ァッ!!」




矢車真一は、咆哮する。




2001年9月11日、現地時間午前8時46分をもって、マンハッタン島は地獄絵図を体現した。










<手には鈍ら-Namakura- 第十五話:天災>











午前8時58分


やっと、ビルを見上げるところまで来た。

外へ、もう逃げたとは考えられない。
待合の場は九十四階、とてもじゃないが瞬時に地上へ降りられる高さじゃない。


まだ、ビル全体は崩れていない。
今から、死ぬ気で登れば、助け出せるかもしれない。

まずは、突入路を探さなければ。



「Hey,Asian!? leave here!! Now!!!」

呼びかけ、というより絶叫だった。

「(何やってんだ!? さっさと逃げろ!!!)」

幾人かの消防隊員Fire Fighterが、俺を押さえつける。

「ッツ!?、放せ!! まだ、ぜってぇ生きてんだよお!!」

言語なんざ、関係なかった。

力任せに振り払い、俺は見つけた進入路へ向かう。


ーー川神で鍛えた、心、技、体。ここで魅せずに何時魅せる!?


自分でも訳のわからない気合の咆哮。

何でも良かった。

絶望の塔に登る、勇気を奮い立たせるものならば。













午前8時37分

乗っているエレベーターは日本のそれとは比較にならないくらいの勢いで、ぐんぐんと上昇。

軽く、耳鳴り。
気圧が関係してることは明白だった。

唾を飲み込み、目的の階に着いた途端。

「はぁ」

溜息をつく。

まったく、あの人にも困ったものだわ、と彼女、矢車六花は心中で述懐する。

ここにきて、ホテルに忘れ物とか、ありえなすぎ。
この交渉は絶対に壊せないって事、わかってるんでしょうね? まったく。

ケータイなんか、後で新しいの買えばいいじゃない。


まあ彼の目的は携帯ではなく、それに付属したビーズストラップ(愛娘作)であることは、彼女は重々承知しているのだが。


エレベーターホールを抜け、少し開けたガラス張りの待合室へ向かう。

備え付けてある丸テーブルにハンドバックを置き、件の資料を出す。

今日、無事にこの交渉を終えれば、優に一万人の貧困、略奪、誘拐で喘ぐアフリカの小国、サンガラの孤児達に、人間らしい生活を送るための物資が届けられる。
そう、「サンガラという国へ」ではなく、「サンガラの孤児たちへ」である。
せっかくサンガラに物資を送っても、横流しする輩が政府内にいるのは確実で。軍閥政治が横行する国とあらば尚更。
だから、こちらで新しい物流ルートを開拓しなければならないのだ。

近いうちにユネスコと協力して、教育問題にも着手できる。

そして、この前例を足がかりに、より多くの子の、親の、命が救われるのは、決して希望的観測ではない
私たちのほかにも、動いている人たち、動こうとしている人たちがいる。
その人たちの希望となれば、どんなに良いことか。


最初はあばら家で、孤児を囲うNGOとして働き、功績を認められ国連入りし、各国の要人と粘り強く舌戦を繰り広げた成果の一つが、今ここに決するのだ。


そんなときに、まったくあの人は。

と、彼女はまた、胸のうちで何度ついたかわからない悪態をつきながら、朝から喧騒の激しいオフィスを、ガラス越しに眺めた。








午前8時41分


欠伸は伝染するというが、溜息もそうなのかもしれない。
九十六階で、三人の屈強なSPに囲まれた九鬼英雄もまた、軽く溜息をつく。

何故、我が、この場にいなければならないのか。

ああ、承知している。その理由は。

いくらスポーツで身を立てていくことを許可したとはいえ、父は保険をかける意味で、ここに我を使わしたのだ。
名目上は、見聞を広げるためとして、ここに足を運ばされたが、野球で大成しなければこの分野で名を残せとのメッセージであろう。
まあ確かに、軍事や政治よりも商業のほうに興味があると申し上げたが。


「ふん」


気にいらん。
何処も彼処も文字と数字の羅列。
おまけに案内の男はこちらに媚を売るばかり。


やはり、我には野球だな。

自らの人生と言い換えてもいい、右肩を、撫でた。










午前8時45分


「なにしてんだろうなぁ…。アタイは」

ビルの傍のホットドックカーゴの中で、頬杖をつきつき、母国語で忍足あずみは呟く。

戦場を駆け抜け早ウン何年。
その間に覚えたのは、ベレッタの扱いであったり、軍用CQBであったり、おおよそ軍事関係以外の就職に役立つものではない。

十は下の助けたガキから悪魔と罵られ、血に濡れて笑う部下をいつまでも眺めていれば、戦地から逃げ出す動機には困らなかった。
さりとて、武力より財力が物を言う社会に舞い戻っても、生きている心地がしない。

戦地でのほうが、よっぽど自分は生き生きしていたなと考えるたびに、やってられなくなる。
今が、正にそんな心境。

「(……おい、バイトッ! 客来てんじゃねぇか、応対応対)」

「(…すみません)」

奥で、勝手に売り物のブラックコーヒーを啜る、シケたオッサンが営むシケたホットドック屋で日銭稼ぐのが今のアタイ。
やろうと思えば、忍術使った大道芸で楽に稼げるとは思うが、風魔の秘伝を茶の間のつまみにするのは、未練たらしく無駄に残った矜持が許さない。


やっぱ、田尻の叔父貴の言ってた通り、娑婆のほうが、キツイな。兵士って奴はよ。

そう思いつつも、鬱屈した心情をおくびにも出さず、アタイは客に笑顔を振りまいてサラダドッグを手渡す。






瞬間、爆音。















午前8時50分


ーーー何が、起こったの?

二分前に体が投げ出されていた六花は、仰向けのまま意識を取り戻した。

ただひたすらに暑い。

とりあえず、五体満足であることに安堵。次いで自問する。

こういうところに備えつけてあるボンベのガス爆発にしては、規模が大きすぎる。
というより、こんな高層階に、爆発するような可燃物が置いてあるとは思えない。


周りを見渡して、すぐさま後悔。

死屍累々。

言葉に表せば、四文字に収まってしまう。

だがこの惨状を、寸分の狂いもなく伝えるためには、人間の言語では限界がある。


「…酷いわね」

意識が戻って初めて口にした言葉は、自分でも意外なほどに冷静さを帯びていた。
まだ状況がよく分かっていないからかもしれない。

だが、自分を客観視できる余裕が、まだあった。

――伊達に、修羅場は潜り抜けてないってことか。

そう呟いて、また状況把握に努める。

東の窓辺は、全壊。

そして、見上げれば、天井の半分は、優に五、六階はぶち抜きの吹き抜けになっていた。
無論、元々こうだったわけではない。

と、なると…。

「あれって、飛行機の…?」

円筒の中にスクリューの羽。
ジェットエンジンに違いないものが、奥の方に転がっていた。

「ッ!? さ、最悪、」

航空機が突っ込んできたのか。
恐らく、乗客もろとも。




「(誰か、誰か、生きてるぅ!?)」

靴のヒールを叩き折って、火焔の中を叫び、歩き回る。

私が生き残り、尚且つ五体満足なのは奇跡的だということが、一歩ごとに良く分かった。

誰もが声を上げない。
誰もが動かない。
誰もが、潰れ、焼け焦げている。

私の場合、待合室のガラスが炎の盾になったのだろう。

段々、息が荒くなる。
パニックに陥らないよう、自分に言い聞かせるが、こうも焦げた死臭があからさまだと…。

「キツい」

視界が潤む。

なんなのよ、もう。

そんな時。



「……何…故ぇ」



日本語が、聞こえた。

そちらへ眼を向けると。


「子供?」


日系人らしき肌の色をした少年が、肩を押さえて、うずくまっていた。












午前8時57分


何故、

何故こんな。


気がつけば、共の者は、我が盾となり火炎と共に消し飛び。

気がつけば、足元が崩れ、浮遊。

気がつけば、地に叩きつけられ。

気がつけば、我の存在証明たる豪腕が、ピクリとも動かなくなっていた。


なんだ、これは。


何故、王たる我が、このような地にへばりついた格好をしておる?
何故、王たる我が、このような幾多の死屍と共にある?
何故、王たる我が、このような激痛に襲われなければならぬ?

何故、

何故、

何故、


理由が知りたかった。

我の人生を断ち切るに値する、理由を。


「……何…故ぇ」











午前9時22分


倒れていた彼を抱えあげ、非常階段へと急ぐ。
他に生存者は、いなかった。

「……何てこと…」

進めた計画の全てが、おじゃん。

だが構ってはいられない。
今は一刻も早く、ここから脱出しなくては。
チロチロとそこかしこで燃える炎と、ビル全体に響く軋音が、首筋に汗を沸々と浮き上がらせる。

ここはアメリカ。
こういう高層ビルは、航空機が衝突してもある程度の強度を保って、崩壊をとどめられる設計がなされているはず。
世の交易を統べるところであるなら、尚更。

そう信じて、地上350メートル以上の高さを駆け下りるしかない。


茫然自失。
腕の中の彼は、そんな表情。
幸い、怪我の程度は命に別状のあるものではなさそう。


非常階段は、まだ無事だった。
大きく、深呼吸。

―――私達は、まだ生きている。

そう呟いて、一歩下れば。





「そうかいそうかい。流石は俺の嫁」





………まったく、この人は、本当に、どうしようもない。


手すりの陰から、言葉とは裏腹に余裕のない息づかいをしつつ、夫が姿を現す。


「…ッ涙目じゃ、格好つかないわよ」

「お前もな」

抱き合った。













午前9時29分




―――痛ッてえ。

忍足あずみは、ここでようやく意識を取り戻す。
乗っているカーゴの天井は不自然に大きくへこみ、着ているエプロンには鮮血のようなケチャップが一面に。

訳がわからない。

車内に上司の姿は無かった。
したたかに後頭部を床に打ったようで、眩暈と鈍痛はなかなか消えてくれそうもなかったが、まずは車から出るのが先決。

あの雷のような音は何だったのだろうか。
そしてこの、カーゴに断続的に響く、小石がトタンに撃ちつけられているような音の正体は。

ついぞ気に入ることのなかった、カチューシャ付きの制帽を叩きつけるように脱ぎ捨て、なんとか車外へと這い出る。

爆音のした方向を見上げる。
どうやら、お高くとまってた隣のビルの高層階で、火事か爆発らしきものがあったらしい。
もうもうと、未だに煙を吐き続けている。


舞い落ちてくる砂や灰が目に入り、目元を拭って、ふと、横に目を滑らせれば。



「……あぁ」

アタイは、こういう世界から、逃げられねぇのか。


辺り一面、灰と瓦礫が雹のように降り続けていて。

カーゴの上で、明らかな墜死体が、ボンネットをたわませていた。












午前9時34分


惨めだった。ただただ、惨めだった。
時折交代して二人の人間に背負われている英雄は、心底、自分に嫌気が差していた。

王たる我が何故、このような醜態を晒さねばならんのだ。

我を救ったこの夫婦に、感謝はしている。
こと、こういう惨劇の後、自らの危険も厭わず足手纏いの荷物以外の何者でもない我を、懸命に励まし続け、地上へと歩を進め続ける彼女らの横顔は、眩しくて仕方がなかった。

だが比べて、我は何なのであろうか。
与えられた救いの手を、ただ亡者の如く享受するのみ。
手傷を負い、まだ幼いのだからと、世の者どもは言うかもしれない。
だが、この九鬼の名を持つ我は、そんな言に救われることなど許されないのだ。
民を、世を統べる事を運命づけられし九鬼は、常に、人々の導き手でなければならないのだ。
このような体たらく、断じて父、九鬼帝は許さぬであろう。

否、誰が許そうとも、我自身が許せぬ。


そして、たとえ、この場を運よく切り抜けられたとしよう。

我に、何が残っている?

野球など、論外だ。
もう、右腕の感覚は、もう無い。
いかに九鬼の医療スタッフが優秀とはいえ、これを完全に治癒することはできんだろう。それは、この激痛から明らか。

「……フフ」

笑うしかなかった。
嗤うしかなかった。
哂うしかなかった。

「フハハハハ……」



後には、もう何も無いことに気づいてしまったから。









「オイ、どうした、ガキ。しっかりしろや」

首を後ろにひねり、我を背負いながら階下へと足を運ぶ彼の者は問うてきた。
粗忽な物言いとはアンバランスな、真実、心配そうな表情だった。

一番、見たくない表情だった。

「降ろせ」

こんな醜態、誰にも見せたくなどなかった。
せめて、最期くらいは、王らしくありたかった。

「何? てめえ満足に走れもしねえだろうが。黙って大人に頼っとけ」

「そうよ、この人、体力は馬鹿みたいにあるから。馬鹿みたいに」

大事なことだから二回言ったわ、と彼の妻は微笑む。
我を、不安にさせないようにするための軽口であるのは明白であった。


その、心遣いさえ、今は肩の傷に障る。


「ッ降ろせぇえ!!!」

「痛ッツ!?」

足蹴りをくらわせて、我は力任せに彼から飛び降り、重力に逆らいもせず、ごろごろと階段上を転がり落ちる。

「ちょ、ちょっと!!」

夫人の声を聴きながら、我の体躯は踊り場へとたどり着く。


「もう、我のことは…。捨て置いてくれ」

紛れもない本心を、呟いた。

言葉にした途端、どうしようもない激情の濁流が、胸から押し寄せてくるのを感じた。








午前9時39分



「もう、我のことは…。捨て置いてくれ」

仰向けになったガキは言う。

そして、堰を切ったように。

「こ、こからぁ! 生き残ったとしてぇえ! わ、れには、もう、生きるための、甲斐が、な、無いぃ!!」

しゃくりあげながらの、絶叫。
魂から伝った涙が、グシャグシャに顔を濡らしていた。

「腕も、もう上がらぬ! 野球もできぬ!! 野球の王となる、夢が、今、断たれたのだ!!! わかるか!?」

こいつ。

「もう、我には、何も残っていないのだぞ!? 誰が、今の我に、王への眼差しを一片たりともくれようか!?」

髪の色と、額の十字傷から何となく感づいてはいたが、九鬼の…。

「その上、足手まといとして、民の命を犠牲にするなど、言語道断も甚だしい!! 九鬼家、末代までの恥となる!!」

やはり、そうか。




そして、気が済んだのか、また急に、静かな声色で。

「我は、もういい。 ここで雄雄しく死を選んだと、九鬼家に伝えてくれ。 我を看取ったといえば、それなりの恩賞もあるだろう」






踊り場へと、俺達も降りる。

無論、素通りできるはずもなく。


「はい、じゃ、また背負うから」

いつものように、ハンカチ片手に愛妻は話しかける。

「肩、結構痛んでるようだから、とりあえずはこれ噛んで我慢してね?」

「ああ、舌噛んだら滅茶苦茶イテェぞ」

「あと、そうそう貴方、次からは私がビルを出るまで背負うから」

「何、言ってんだ。俺が背負う」

「うるさいわね、さっきみたいに取り落とすかもしれないから私が背負います。相変わらず不器用な人」

「おかげさまで体力は馬鹿みたいにあるので、心配無用だ。いくぞ、ガキ」

そういって手を、無事な方の肩へとやる。



「…話を聞いてなかったのか」

払いのけながら、ガキは言う。

「ああ、そういうの、聞き飽きてっから。もう聞き流すことにしてんのよ。俺達は」

腕を掴んで、強引に背負う。

「俺達の仕事は、お前みたいのを助ける仕事だからな」

「そうよ。あなたがどんなに死にたがったとしても、私達はあなたを助けます。英雄くん」

あ?

「てめぇ、名前知ってた、つーか気づいてたのかよ?」

「寄付金そこまでもらってないとはいえ、九鬼財閥はスポンサーの一つよ。 そこの長男の名前を覚えてなくてどうすんのよ?」

「教えてくれたっていいだろうに」

性格悪。
略して性悪。

「迂闊に名前をだせるもんですか。 彼に金目当てで助けてるんだとでも思わせたいの?」

「いや、そりゃ~」

正論っちゃ正論だった。

「相変わらず思慮が足りないわね。 だから馬鹿なのよ」

「……うるさい」







「ああ、でも九鬼くん? ここから出たら、出来れば、も~少し、心遣いをくれないかお父様に頼んでくれないかしら?」

「おい」

なんだこの理夫人、もとい理不尽は。






「わ、我は!」

「俺から言わせれば」

これだけは、伝えておこう。

「お前は贅沢者だ」

「……貴方、九鬼家だから当たりま」


リバウンド奥義、目で殺す。


「俺達はな、アフリカでたーくさん修羅場を見てきた。生きたくても生きらんない奴らがこの足元の裏側にはたーくさんいるんだ」

本当に、数え切れないほどに。

「そいつらの代わりに生きろなんて言わん。そいつらを見殺しにさせないのが俺達の使命だからだ」

だけど。

「いまだけ、それを心に留めておけ」







微かに、背後で頷く気配がした。

それだけで、満足だった。





[25343] 第十六話:死力
Name: かぷりこん◆273cf015 ID:177153ba
Date: 2012/08/29 16:05
『会って、知って、愛して、 そして別れていくのが幾多の人間の悲しい物語である。』

―――コールリッジ







午前10時00分




「行ったか?」

灰色の虚空に、言葉を投げつけるように放った。

「みたいね」

もう気配もしないわと、対する妻の声がこだまする。
先ほどまで、これに加えてガキの声がワンワン反響していた。

「いやぁ、しかし。こんな映画みたいな別れってのも、あるもんなんだなあ」

薄暗い周囲とは対照的に、努めて明るく切り出す。

やっと地上階に降りられたと思えば、上から凄まじい量の飛礫の大瀑布。
なんとか出口側にガキのほうは放り投げられたけど。

ま、アレだ。勇者様御一行は綺麗に分断されたわけだ。

いや、もう死ぬかと思いましたよ。



もうすぐ、死ぬんだけどさ。



「まったくね。 まあ、それはともかくとして、英雄くん、うまく抜け出せればいいのだけれど」

彼女の声色は変わらなかった。
やはり彼女の心根は、どこまでも優しいのだ。
腹に鋼材が刺さっても、それは変わらない様子で。

「んーと……。先のアトリウムを抜ければ、俺が入ってきた穴が開いてる。ここからはほぼ一本道、ってかそれ以外はみんな潰れてるんだが、まあ何とかなんだろ。あいつ賢そうだから崩れてないとこ辿ってくと思うし」

目を閉じ、瓦礫の向こう側の記憶を浮かべつつ呟く。

うん。まあ後はあいつの運次第だが、勇者ってのは普通、強運の持ち主だろう?

「何言ってんの? 体の問題よ。あの子、両足は無事だとはいえ、そんなに速くは動けないでしょ?」

咳き込みながら彼女は言い募る。

「あ? 平気だろ。拳法か護身術かなんかやってんのかなぁ。あの蹴りはなかなかのもんだったぞ? まだ腿の裏が痛むんだが……」

これは案外、真実である。

「あら? 馬鹿みたいに丈夫じゃなかったの?」

「うっせ。下半身じゃ一番感覚あるんだよ、今んとこ。にしても畜生。俺ももうタマ無しか……」

もう少し先まで使いたかったんだが。もう一人くらい欲しかったし。
妻と共に這いつくばって、そんなことをのたまう今日この頃。

「やだ、何言ってんの。こんな時に下品なこと言わないでよ」

言いつつ、声色は幾分やわらかくなり、クスクスと。

中年のイヤらしさ全開ですな。

そう思いつつ、俺は会話を続ける。

「こんな時だから言うんだろ? 死ぬ前に言葉にできなかった事、言ってみたいじゃん」

「で、今際の際に、言い残すことがソレなわけ?」

「いやいやまさか。 さっき思いついたが、言ったときの羞恥心はこんなもんじゃないぞ?」

ほんと、こんなもんじゃない。

「……聞きたくないわ。 というか聞かされるこっちの身にもなってくれない?」

「じゃ、お前も考えればいい。とびっきりの下ネタを聴かせてくれ」

「あのね」

「今なら何でも言い放題だ。得意の英語でも、いい……んッグぇ」




ああ畜生。



くっらくらする。



世界が回る回る。










十二でサイッテーな家、飛び出して。
その日の晩からスリ、かっぱらい、オヤジ狩りのオンパレード。
ゴーカンと殺し以外は一通り悪い事やって糊口を凌いだ。

十五で十九だっつって、堀之外のヤクザ屋さんに入って。
クスリ売ったり売られたり、賭けボクシングでぶちのめしたり、たまにわざとぶちのめされたり。
よくもまあ、その日暮らしで生きてたもんだ。

それでも、居心地はそれ以前に比べて格段に良かった。
特に、好きなだけ人と喧嘩できんのが、楽しくて仕方なかった。
それに相手も、感じ悪い奴も勿論いるが、気が合う奴もそれなりにいて。喧嘩した後、即一緒に飲みにいくのが楽しみだった奴もいた。モチ、勝ったほうが奢りだった。
フホウニューコクしてる奴らが、大半だった。日本人もいたことにはいたが。


ちょうど二十歳になった時だった。
地下闘技場へ、ガサがあった。ちょうど八百長の打ち合わせでリングに上がっていた俺は、何も聞かされていなかった。
飛ぶ鳥を落とす勢いだった組の若頭と、酒の席でちょっとイザコザがあったからな…。その仕返しだと直感したが。
客のいない真昼間に踏み込んできたのが良い証拠で、大方、貢いでる刑事にでもチクッたんだろう。

重そうなヘルメット着けて、盾と警棒を持ったおまわりが、続々とファイト・ステージに上がりこんできた。

俺は別に組のほうに未練はなかったし、棄てられようが別に構いはしなかった。
だけど、土足で「住処」に押し入ってきた奴らのいいようにされてたまるか。

俺だけが抵抗したわけではなかった。同胞の皆が皆、拳を固めていた。
それはそうだ。俺は別に捕まったって何も死ぬわけでもなく、ただ檻に入れられるだけだろう。
だが、あいつらは違う。檻に入れられて何日かすれば、逃げ出してきた母国へ送り還されるのだ。生きることすら儘ならない、形ばかりの故郷へ、戻らされるのだ。
文字通り、生死を賭けた戦いだったのである。



―――俺たちの故郷は、此処だぁッ!!!



誰かの訛った日本語の叫びが響き渡り、それが俺たちの十二ラウンド目、ラストファイトのゴングだった。








この出来事の前後の記憶は曖昧で。
それくらい必死で、俺たちは戦い続けたんだと思う。軽く三日は過ぎたはずだった。

終止符を打ったのは、警察に請われて参戦した、川神鉄心だった。らしい。

というのも、俺は覚えていないからである。

気づいたら戦いは終わっていて、川神院の床に寝転がされていた。
その後、才能があるだの力の正しい使い方を教えてやるだの、クドクドクッドクド言われ、なし崩し的に川神流に弟子入りさせられたのだ。
それから、なし崩し的に何年か修行し、なし崩し的に六花と一緒になり、なし崩し的に子が生まれ、なし崩し的に世界を股にかけ、ヒーロー紛いの仕事をするようになったのだから、人生わからないもので。


これが、六花の夫であり、直斗と真守の父である俺、矢車真一の生涯の軌跡である。









ああ、やばい。 これ……、走馬灯か。









思い残すことは山ほどあるけど、まあ、俺にしては、上等の人生だったんじゃねぇかな。
今の職に就いたときに遺書は書いたし、うまい具合に直斗も真守も川神にいるから、後のことは総代が何とかしてくれんだろ。

真守が結婚するまで生きて、願わくば、寿命で死にたかったが、それは贅沢ってもんだ。



さて。









「俺のネタを聴けぇえい!!!」

「ちょ、ちょっと……」


大事な大事な彼女へ、最期の破顔一笑。
















―――愛してるぜッ、ベイビィイイ!!!
















あばよ、みんな。
















<手には鈍ら-Namakura- 第十六話:死力>















午前9時57分




生きる。

ただ、その一念をもって、九鬼英雄は歩を進めていた。
死と崩壊の気配が、頭上から後ろから着実に迫ってくる。

だが、決して振り向かなかった。
振り向けば、どうなるか知れたものではなかった。
ただ、此処から抜け出るのに一片の助けにもならないことは明白。

だから、振り向くことは許されない。




―――生きる事から、逃げるなァッ!!!




別離のきわに、そう、言われたのだから。

両肩を両手で押さえ、自らを掻き抱くような姿勢のまま我は進む。


「ッゥウ、ッぁ、ッ済まぬッ…ぅ!」

潤んだ視界のまま、いつ止まるのかもわからぬ嗚咽とともに、今日で一生分は唱えるであろう謝罪の言葉を、再度、口にする。

我があのようなくだらぬ駄々をこね、時間を空費したばかりに。

あと数十秒早ければ、この修羅場から共に脱出できたはずなのだ…。



「……ぅぁあッ!!」



呻かずには、いられなかった。




そもそも、こんなところに来なければ。

我に出会わなければ、矢車夫妻は、生き延びられたのではないか?

我も、野球を続けられたのではなかったか?

何年も前から、野球に我は、我の全てを賭けると決めていたはずなのだ。

なのに父の意向に逆らえず、のこのこと、この場に来てしまった。

あの時、父へ言うべきではなかったのか?

我の王道は、野球道にのみ、あるのだと。

二束の草鞋など、もってのほかであると。

そういう断固たる決意を、伝えるべきだったのではないか!?

むしろ父は、それを期待していたのではなかったか!?





「……ッつぅ!!」

激痛に、思わず膝を折り、蹲る。

肩に、焼印を押されているようだった。




今となっては、もう野球の道はない。

我はただの半端者に成り下がってしまった。

これは、報いか?

王として相応しい意志を、貫けられなかった我への。




「……っぅ…ッ…」

まさしくそうなのだ、とでも言うように、内から抉られるような痛みがまた、呼応する。





「され、ど、も……」


軋む足首に活を入れ、再び二本の足で、立ち上がる。






我はまだ、生きている。

死する身であった我を助け、もう一度、世に憚る機会を、王道を貫く日々を、あの夫妻は正しく、身をなげうって恵んでくれたのだ。

ここで死ねば、黄泉の国での申し訳もたたぬではないか!?

真実、我は今、二人の人間の下に、立っておるのだぞ!?






「ぬぅぅぁぁぁああああああッ!!」






叫ばずには、いられなかった。


胸をこれでもかと張り、魂に、誓う。




―――必ず……、必ずッ、我はァァアッ!!!









彼の者の行く手には、光があった。















午前10時04分





降り注ぐ灰とともに響く、轟音の中、矢車六花は泰然としていた。

貫かれた腹から滴る血は、とめどなく流れてゆく。

もはや痛覚も麻痺しているのだろうが、まるで、丹田から魂が抜き取られていくような感覚が彼女を襲う。



―――まあ、魂は、川神に預けているのだけれど。


か細く、呟く。


子供たちを救うと、そう決意したときの心は、魂は、そのままにしておきたかった。汚れさせたくなかった。

だから、川神に置いてきたのだ。 自らの分身たる相棒を。

あの時の想いを、後から沸くかも知れぬ我欲に汚されないよう。

そして左腰に眼をやるたびに、日本に戻るたびに、自らの使命をまた深く心に刻み込むために。





「本当に、最後までカッコつかなかったわね……?」

文字通り死力を尽くし、右手で触れた彼の頬は、まだ温かで。

生きる事から逃げるなと、どの口が言えたのかしら。

「まあ、こんな状況で、笑って死ねるなんて幸せよね?」

大口を開けて仰臥する、物言わぬ夫に語り続ける。

馬鹿は死ぬまで、治らなかったらしい。

「私は、多分無理……」

そして一旦、彼から目を離し、ほとんど感覚の無い左腕を引きずりあげた。


心残りがありすぎる。
仕事もそうだし、閖前の家のこともあるし。
なにより、直斗がどうなるか……。もちろん、真守のことも。


ひび割れた腕時計の文字盤を、やっとのことで読み取る。

こんなにボロボロになっても、変わらずに時を刻んでいるのが憎らしく、そして羨ましかった。

ニューヨークと日本の時差は、約十三時間。 今頃は、夕飯食べ終わってお風呂でも入ってるかな。

一度、日本の自宅に戻って良かった。本当にそう思う。
海外に残していたらと思うと、死んでも死に切れない。

きっと、御本家がなんとかしてくれる。これだけは、唯一の救いだった。


「ごめんね………ッお母さんね、強行軍で、すぐ、帰るつもりだったけど、そうはいかなくなっ、ちゃったみたい」


息も切れ切れに、胸の内を吐露する。

普通の親より、絶対に、息子に娘に、関れなかった。
世界のためだとか、恵まれない人たちのためだとか、そんなこと、あんたたちに関係なかったわよね。

もっと、一緒にいれた筈だった。
もっと、話せた筈だった。
もっと、抱き締められた筈だった。

もっと、もっと、もっと。


「ああもう、きりがないわね」

つつっと、鼻を啜り、目を拭う。

「本当に…、ごめんなさい」




三途の渡し舟、シージャックして、あの人が待ってるみたいだから。







最後に差し出された夫の手を、掴もうと腕を伸ばしかけた途端、天井が崩れ、巨大なコンクリートの塊が妻の頭を粉砕した。


爆発の炎と黒煙が、束の間形成されていた穴倉を満たし、そこにあったもの全てをれきの中に埋めていった。






午前10時11分






忍足あずみは悄然として、顎を幾分逸らしたまま空を見上げていた。

時折、崩壊するビルからの、人の飛び降りが視界を掠める。


「……人生、あきらめも肝心ってか?」


どこかに傷を負っているわけではないが、もう、立ち上がって逃げる気力もなかった。

カーゴのタイヤを背もたれに、足を投げ出し、座り続けて数十分。
車の陰にいるせいか、はたまたもう逃げ出してしまったのか、消防も警察も近くに来る気配がない。

理由はおそらく後者が有力のようだ。
今にもこのビルは崩れる様子だった。 出入り口から見えるエントランス内部は、天井から墜ちたと思われる鉄骨でひしめき合っていた。

まあ、救助が来たとしても、世話になるつもりは毛頭ない。
だから、少し安堵する。

死にたくはないと、思わないわけじゃない。
ただ、死にたくないと思う以上に、生きたいと思えないのだ。

そんな輩を助けなければならないほど、迷惑な話はないだろ?




見上げるのに疲れ、俯き、瞼を閉じ、今度は感傷に浸る。


本当に、月並みな言い方だが、もう疲れた。


この場を切り抜けられたとして、そこからアタイは何をする?


唯一、風魔の御業を、後世に伝えなければならないという使命は確かにある。

確かにあるが、今のご時世、伝えて何になる?
普通に、せっせと勉強して上等な学校、上等な職に入った方がよっぽど生産的じゃないか。

伝えなくったって怒られるわけでもない。 風魔の血族はアタイ以外にも大勢いるのだ。
むしろ伝えられる弟子は、たまったもんじゃない。
忍びの末路がどうなるか、師のアタイがいい例だ。


それに……



―――ッハハ




笑える。




風魔流は、一子相伝とまではいかないが、血統を何よりも重んじる。
木の股から弟子が出てくるでもなし、先にガキを作んなきゃならず、さらに先に男も作んなきゃならない。



「そんな甲斐性、アタイにあるわきゃねぇ」



色恋沙汰なんて、もう何年もご無沙汰。

傭兵業の中で、育まれる愛なんてタカが知れてる。
軍隊生活じゃ男女の同衾なんてザラだし、そういう関係になっちまうことはあることにはある(アタイは無い)が、大抵はその場の勢いだの血迷いだのが多くを占める。

別に乙女を気取るつもりはなかったが、そんなので傷の舐め合いなんて真っ平だった。

もとより上司が軍人としちゃ珍しく清廉な人柄だったために、最後にいた部隊ではそれに頓着する事もなかった。

……そういう心情が腹の底でぐつぐつとあるものだから、恋だとか愛だとかくだらなくて仕方ない。

胸部にまつわる腹立たしい理由で女の武器よりかは体術や忍具扱いに特化した修練をつけられてはいたが、それでも風魔で房中術の小手先をいくらか齧った身なら、尚更だ。

未だ処女とはいえ、限りなく真っ黒な体である。

こんな女、大抵の男共も願い下げだろう。



こんなでかいビルが墓標になるんだ。 上等すぎてお釣りがくんだろうがよ。



視界が潤み、白く霞む。




「……、く、くそっ、たれ」


悪態の声は、自分でも驚くほどに、震えていた。



グダグダと忍術修めて、そのうちに師が死んで、師の後継として生きることを風魔本家から命ぜられ、食い扶持求めて斡旋先のPMCで人殺しの腕を鳴らし、そのまま畜生道に堕ちてりゃ良いものを、中途半端に嫌気が差して娑婆に逃げればこのザマ。






―――どうやって、生きろっつうんだよぉ?






枯れたと信じた涙と共に、そう、紡いだとき。






「きさま、ここで何をしておる……」


隣を見れば、その、死を拒絶した眼光が、アタイを射抜く。







一生涯、忠誠を誓う事となる主君に、出会った瞬間であった。










[25343] 第十七話:秘愛
Name: かぷりこん◆273cf015 ID:177153ba
Date: 2011/08/20 09:00
『自ら進んで求めた孤独や他者からの分離は、 人間関係から生ずる苦悩に対してもっとも手近な防衛となるものである。』

―――フロイト




















5月18日、月曜日の放課後。




風が、強く吹いている。


別に駅伝に出るわけではないのだが。








「まことに、申し訳も、たたぬ……」








川神学園、屋上にて。
俺は、九鬼英雄と対峙していた。

教室から院へ戻ろうとする所を、今は屋上の入り口で人払いをかけているメイドに、半ば拉致の形で王の御前に連れて来られた次第で。


まあ、それで。

結構、重い話をされたわけで。

何を言って、よいのやら。



「……」



眼下には、ひれ伏した、唯我独尊の男。
夕日に照る頭髪が嫌に眩く、目を細める。
地に向いている彼の表情を、俺は伺うことが出来ずにいる。


いやまさか、ここで親の事が出てくるとは思いもせず。
そして、あの九鬼英雄が頭を下げるとも思いもせず。

そういう理由で若干、テンパっている。

彼の話に嘘偽りは無いだろう。
これだけは、彼の常日頃を見ていれば容易に想像がつく。


だからこそ脳裏にて、驚嘆の想いと打算的思考が錯綜していた。



どうした、ものか。


まず、俺のことをどこまで知っているのか。
全てを知ってしまっているのならば、どうにか口を噤んでもらう他無い。
無論、殺すとかそういう意味ではなく、頼みこむ形で。

今、風間ファミリーに、直江大和に、過去を知られるわけにはいかない。

それだけは、避けねば。





「……頭を、上げてください」

自分でも信じられないくらい、囁くような掠れる声。


「……」


彼は、微動だにしない。


「俺には、貴方に頭を下げられるいわれがありません」


これは、本当のことだ。


「どうか」


それでも、額の十文字を見ることは叶わない。

助けを請うように、俺は離れたところで控える従者へと顔を向ける。

一瞬、視線が交わるが、すぐさま目を伏せられた。
主が他人に頭を垂れる様など、我慢できるはずなかろうに。


これほど、痛い沈黙は無い。

こうなれば、俺が口火を切り続ける他あるまい。

「あのテロは事実、人災ですが、貴方が起こしたことでも無く、むしろ貴方は被害者の筈」

責任感が強い気質を、突いて反応を待つ。

「父と母が貴方を助けたそうですが、そのことで命を落としたとして、その場にいなかった俺が恨める筈も無いでしょう?」

無責任に感情に任せて責められるほど、糾弾できるほど、幼くは無いつもりだ。
そして、それができる身分から転げ落ちて、幾星霜経つ。
それに当時なら話は違ったかもしれないが、今の俺は生憎にして達観した人生観を持っている。
今更、何かが変わるものでもない。



「……許して、欲しいのだ」


やっと、王は反応。


「……許すも何も、貴方は何も悪く」





言い終わらぬうちに。


―――生きることを、許して欲しいのだッ!!

















この者は言う。

恨んでいないと。 我に非は無いと。


否、非は間違いなくあるのだ。
王の生き方を貫けなかった我に、狂いもなく非はあるのだ。

人の命は、民の命は、戻らない。
幾度も、幾度も、あの惨劇から思い続けてきた。

九鬼家従者部隊、三傑が一人、マーブルが発案した、BUSHIDO計画―――クローニングによる古代武士の再現に強く違和感を持っていることは、これの影響が少なからずあるのだろう。

我は、奪い、失くしたのだ。
あの夫妻を。この男の両親を。
そして、あの夫妻に救われるはずだった、一万のアフリカの民をも。

あのテロは、我ら富裕層を狙ったものであったことを知ってから、この罪悪の想いはますます募る。

告白しよう。
我は、この苦しみから解放されたいのだ。

腹を切れば、この懊悩から抜け出せるかもしれぬと、夢見が悪い時分に幾度考えたことか。

だが、それは許されない。
あの時の言葉を、たがえる事となるからだ
我は王なのだ。英雄ヒーローであるのだ。


―――生きることから、逃げるなァッ!!


……たがえる訳には、ゆくまい。

そう、あの時誓ったのだ。




なれば、せめて、せめて、この命。
永らえる事の、全うする事の、許しを得たかった。
蔑みの眼と、恨みの刃を振るわれるとしても、生きる許諾を得たかったのだ。
だから、この八年近く、遺児である矢車直斗と矢車真守を、求めた。

不可思議があったのは、この間である。
娘の方、矢車真守の消息は、既に故人であれ、確認はできた。
しかし、九鬼家長男相応の情報網を用いても、あのテロ以降の、兄、直斗の所在を含む一切の情報を掴めなかったのである。

縁があったとされる川神院を訪ねても、暖簾に腕押しも甚だしく。




……まあよい。

ここに、居るのだから。
ここに、現れたのだから。

些事は捨て置く。


為すべきは、一つ。



―――生きることを、許して欲しいのだッ!!





真実、心から、初めて頭を垂れた数拍後。

視界が、急展開。


「英雄様ッ!?」


あずみが叫ぶ。





そして目の前に、修羅の眼が。



















気づけば、右腕が彼の胸倉を掴みあげていた。

胸元に留めてあった装飾が、地に音を立てて転がる。

「ッッー…ーー…ー」

声が、出ない。




何やってんだ? 俺は。




チクリと、手元に痛み。

「ッ!? 悪いッ」

我に返り、手を離す。
王は重力に逆らわず、そのまま崩れ落ち、瞬時に移動した従者の胸の中。

彼女の手には、小太刀。

見れば、右手の袖口に一文字の裂傷。
薄皮一枚、というところ。


くっそ。


心中で、舌打ち。
武を振るうつもりはなかったのだが。

苛立ったことは事実。




右腕を押さえつつ、主従を見る。

メイドは、主に気を配りつつ、こちらへの視線を外さないでいる。

すると当の主は、彼女を振り払う。


「あずみッ!! 貴様、手を出すなと再三言い含んだ筈だ!!!」

「し、しかし、あれは」

正しく殺気だった。
そう、言うつもりだったのだろうが、阻まれる。

「我の命を、聞けぬと言うか!?」

大音声だいおんじょうの、恫喝。

「いえ、そのようなことは、決して…」

「我は、どのような扱いをも受ける覚悟はできていると、言った筈だ!!」

そう言い聞かせ、彼は俺に振り返る。



「どうか、お許しを」



手をつき、また頭を垂れる。
さながら、見えざる断頭台に頸を乗せるが如く。






違う。



違うんだ。



俺が今、許せなかったのは。






吹き荒ぶ風に、乗せるように。

「……生きる、ことに」

俯きながら、俺自身、噛み締めるように言う。

英雄の顔が上がった。

「許可なんか、いらないでしょう?」




「……な…」

俺はどんな顔をしているのだろうか。
いい具合に腕の痛みが、敬語で本心を話せるくらいの器用さを、理性に持たせてくれたようだった。
涙腺が、多少緩んでしまうのは、ご愛嬌だろう。

「許しを与える人間は、傲慢に過ぎる」

論理的に言えば、殺人者と同じだ。

それに、俺なんかに、許可を求めるなど。

「だから、父と母の死に目に立ち会った貴方から、そんな言葉を聞きたくなかったんです」

そういう「許可」を無くすために、父さんと母さんは、戦ったのだから。

「無礼な振る舞い、誠に申し訳ありません。最初に、これを言うべきでした」

真っ直ぐに、彼の双眸を見つめる。



―――生きていてくださって、本当に、ありがとう。



この人は、どれほど悩もうと、父の、生きろという希望を叶え、王道を進んできたのだから。













<手には鈍ら-Namakura- 第十七話:秘愛>














過去をどれほど彼が知ったのか。

気になる所ではあったが、あんな台詞を吐いた以上、気恥ずかしく、とてもではないが留まり続けられず。
非礼の詫びと別れの挨拶もそこそこに、俺は学園からの帰路についた。

まあ、九鬼家の嫡男だ。分別も並以上にあるだろうし、勝手気ままに吹聴することもあるまい。

それに、今日は、総代から仕事を頂いていた事もある。










院内の控え室から、縁側を横切り、そのまま庭園へと導く。

「(それにしても、内弟子が通訳とは、流石は世界一と名高いKAWAKAMIだな?)」

身振り手振りを交え、大仰に右隣の大男が話す。

「(そうだね。ゲイル兄さん。まあ、いなくとも、ワタシの開発したゲイツ式言語翻訳ソフトと言語発声ソフトを使えば、どうという事もないが?)」

その大男のそばに控える小男が相槌を打つ。

「(仰せつかった仕事ですので、どうか不便でも私を使っていただけますか?)」

いつもより更に腰を低く、応対する。
彼らは志願して百代と戦う為、道場破りには違いないが、川神院は常にこのような輩にも客としてもてなす。

礼を重んじること。
数年前にもう一人の師範代が、ルー師範代と雌雄を決した後から、一層、院内にはこの空気が横たわっていると耳にした。

「(いやいや、気を悪くしたなら謝ろう。なかなかに君、英語が堪能じゃないか? 節々に、英国訛りがするが)」

弟の最後の言葉に合わせた兄の苦笑いの表情を見て、喋りすぎは悪手かと俺は思い当たった、と同時に、彼らは生粋の米国人アメリカンーーー祖国に誇りを持っているのだ、という認識を新たにした。

不思議な事に歴史の古い英国よりも、古風な言い回しや発音が多く残るアメリカ英語を習熟し、鼻高々としていても、軽蔑されることはあっても尊敬はされない。
イギリス英語については、この正反対である。
それでも世界の広範囲で普遍的に前者は使われているし、どちらが劣り、どちらが優れて、上品か、上質かとは全く思わないが、国際会議を始めとする公式的な場では、英国式が好まれる。
両親の仕事柄、国際交流の場に家族ぐるみで赴くことも多かった為、イングランド人さながらにロンドンの最も流麗とされる英語を、俺は母から学ばされた。

が、今回に限っては、大国のプライドを少々、害したかもしれず。

「(ご賢察、恐れ入ります。両親が国連関係の仕事を持っていましたので、幾年か支部のあるフランスジュネーヴを中心に、欧州の方を幼少より転々としておりました)」

「(ほう、そして今は川神院預かりの身かい? 面白い経歴だね。)」

「(ええ、総代とは遠縁にあたりまして、それを頼りにここで居候を。 しかし、もう何年もこの国から出ていませんから、僅かばかり退屈を、噛み殺しています。 やはり一生に一度は、世界の大国にお邪魔したいとも思いますし)」

少々護摩を、すりすりと。

「(おお、いい心掛けじゃないか。 ナオト、と言ったか? 暇が出来たらぜひとも来たまえ。 KAWAKAMIの武芸者であれば、こちらでも大歓迎さ)」

と文字通り、諸手をあげてゲイルは言う。

「(そうだね。 それに兄さん、ここでモモヨを倒せば、彼もKAWAKAMIに見切りを着けられるんじゃあないかな?)」

「(ハハハ、まさにそうなるな。 不幸なことに、いや、幸運かな?)」


今、冗談を言えるほどの自信が、彼らにはあるのだろう。
それに見合う実力が、あるかどうかは別として。

曖昧に頷きつつ、境内前に案内を終える。



「……Good luck.」


世界に、御名を轟かせる彼女の元へ、ジキル博士とハイド氏を、俺は手向けた。
















「は、速すぎて、どこを殴ったのか見えなかったぞ…。 攻撃手段は多分、右ストレートだとは思うが」

一瞬で終わった、観戦していた風間ファミリーの新入りの一人、クリスは驚きの声と共に、そう分析していた。

「ええ、右の拳ですね。打ち抜く感じで」

相槌を、隣の由紀江が打つ。
彼女の方が、より動作を見切れていたようだが。

「皆さん、御揃いで」

「ああ、矢車殿!」

ゲイルの介抱を兄弟子に任せた後、俺も同輩の輪に加わる。
ちなみに弟のゲイツはいそいそと新型のPCエンジンの開発やらなにやらで、境内の隅にてキーボードに指を叩きつけていた。

放っておいても、問題は無いだろう。
というより、下手に話をしたら、邪魔になりそうだった。

「ご見学にいらしたので?」

風間ファミリーに問う。
果たして、見応えがあったかどうか……。

「はい。 立会い、ご苦労様です。 それにしても、通訳ですか? ご立派ですね」
(オラも英語は、ちょっとばかし覚えがあるんだぜー)

由紀江は、そう言って俺を労う。副音声は、相変わらず。

「いえ、大したことでは。 昔とったキネヅカ、と言った所でしょうか」

唯一、人に誇れる技能ではあるので、謙遜しつつも内心悪くない心地。

「それで、どうでしたか? 決闘の方は?」

「いつも通り、圧勝だったね。 姉さんは。 少し、不機嫌だけど」

遠くで総代に窘められている姉貴分を見つつ、幾分心配そうに大和は言う。
流石に、長年彼女に寄り添っているだけのことはある。

「いや、なかなか、満足いく戦いが出来なくて、ご不満が多々ありそうでして」

俺は苦笑い。

「そういう鬱憤の対処は、頼れるファミリーの軍師様に、お願いすることになりそうです」

「ははは、胃が痛むよ」

茶化した俺に、頭を撫でながら彼は返答する。




そんなやりとりを終えると、件の彼女がこちらを見た。
真っ先に、妹分の賞賛の声が聞こえ、他の面子も同様に褒め称え、彼女の元へと駆け出していく。

影があるが、それでも笑顔には違いない表情で、百代は応えていた。




そう、武で彼女を満たすことは、もう不可能なのかも知れない。
ならば、彼らに賭けてみるしかあるまい。
今現在、彼女の安らぎは、あそこにしかないのだから。

そして、そこに俺が入る余地は、ない。
否、万が一、頼まれたとしても、入れないだろう。

どうしようもない抵抗が、嫌悪が、この心中に澱んでいる限り。




憤懣がない、と言えば嘘になる。

俺が、俺がどうにかしたい、という想いは、きっと消えない。

だけど現実、それは無理だ。

心底気に入らなくても、あいつらに、大和に、狂気に似たおぞましい何かから、彼女を護ってもらうしかないのだ。




ただ傍観することが、俺なりの、精一杯かつ至上の愛し方なのだと、信じて。




不意に、遠くの彼女らを映す、視界が滲んだ。

世の中、ままならないな。




だけど、きっと。




「……大和あいつ、変われたみたいだぜ?」


―――真守。


呟き結ぶ。





親指の付け根で眼を拭い、俺は、あいつらから背を向けるように西陽を見た。
大和然り、九鬼然り、家族の犠牲は、無駄ではなかったのだ。


そう思うと、言い知れない寂寥と、安堵が俺を抱いた。



そして。

「……潮時、だよな」



この地を去る事を、考えなければならないようだった。








[25343] 第十八話:忠臣
Name: かぷりこん◆273cf015 ID:177153ba
Date: 2011/07/10 00:48
『もしあなたが約束の時間より早く着いたら、あなたは心配性である。 もし遅れてきたら挑発家、 時間どうりに来れば強迫観念の持ち主。 もし来なかったら、知恵遅れという事になる。』

―――アンリ・ジャンソン




















6月3日(水)








「まーしゅまーろ」

「はい」

ヒョイ

はふ。

「まーしゅまーろ」

「…はい」

ヒョイ

はふ。

「まーしゅまーろ」

「……ん、はい」

ヒョイ

んぐ。は、はふ。

「まーしゅまーろ」

「……ふ、…ふぁい、」

ヒョイ

ん、んんぐ、ははふ。






「おいおい、そんな本気で付き合わなくったっていいんだぞ?」

隣で見ていた井上準が、生暖かい視線を送りながら言う。

「を、おあいりょうふえだいじょうぶです

「その意気その意気ー♪」

片手には、弾力菓子の凶器。

「ユキ、苦しいのわかっているなら止めなさい」

右掌を菩薩のように構えながら、坊主頭は彼女を嗜めた。

「え~」

口を尖らせ、八の字眉。

それでも尚、かわいらしいと思えるのは、並以上に整った彼女の容貌のせいだろう。

「そうですね、ユキ。 彼はなかなか他人の厚意を断れない人柄のようですから」

そして、俺のすぐ横に居座る葵冬馬も、援護射撃。

おかげでやっと、頬が、げっ歯類のように膨らむのを止めることができた。


にしても、近いです。 息がかかりますよ葵さん。


「フハハハ、仲良くなって何よりであるな!!」

従者を控えた、俺をここ、二年S組に引っ張り込んだ張本人である九鬼英雄は、仁王立ちで腕を組みながら、一人、うんうんと頷いていた。








あの屋上の件から、早、幾日。

九鬼が、行く先々で、ひっついてくるようになった。
強引に昼をご馳走になることが多くなり、今では、こうして昼休みはS組で過ごす事がほとんどで。

贖罪である気配が、ないようでもなかった。
正直、複雑な心中ではあったが、これで彼の気が済むのであればと、惰性で付き合っている。

それに実際、F組の輩より、彼のほうが、なんというか、話しやすいというか。

精神年齢の差、なのだろうか。
幼稚とは決して言わずとも、よく言えば、歳相応の言動が目立つF組は、居心地は決して悪くは無いが、それでも良いとは言い切れず。

一応、歳はこの学年より二つ上に当たるから、この差は結構大きく感じたりするのだ。

比較して、九鬼。

学年次席の秀才にして、九鬼財閥商業部門を率いることはあり、頭の回転が違う。

こちらの伝えたい意図、意志を的確に読んでくれ、それに次ぐ素早いレスポンスが、何とも気持ちが良かった。

流石に「殿」づけは、頼んで止めてもらったが。

俺は、そんな上等な人間じゃない。





まあ、唯一気になるのは、やはりS組の他の面子。
才能の上に努力し、勉学のみならず運動にも、実績を残し続け、それを自負してやまない彼ら(特に着物娘)のあけすけな蔑視線が、どうにも気になることぐらいか。
どうもF組と言うだけで、彼らの敵意の半分を掻き立ててしまうようで。

同じことは、S組と言うだけで罵詈雑言が飛び交う、うちのクラスにも言えるのだが。


でもそれを、機敏に察知して、話しやすそうな友をあてがってくれる所が、優秀な経営者の証なのだろう。
彼としても、自身の親友を紹介したかったのだろうし。



自身の唯一の支えであり、誇りでもあった野球の道をあの事件で失った九鬼は、それでも、湧き上がる絶望を抑え、自身の身代わりになった者の事を深く悔いながらも、懸命に王道をひた走ろうと、並々ならぬ努力を重ねてきたらしい。

だが、やっと十代になったばかりの彼に、人生を賭して、追い続けていた夢を捨てなければならないという事実は、やはり酷が過ぎるものであったのだ。
野球を通して周りにできた取り巻きは、同情の目を向けつつも、彼の元にはもう集まらず、当たり前のように、陽の下で白球を追いかけ続ける。

何をするにも億劫で、親にも捨て置かれたと、感じ始めたとき、同じ学校の葵冬馬だけは彼の元を離れなかったと言う。

トーマのおかげで今の我があるのだと、大声で宣言して憚らない所を見れば、相当に、元気づけられたのだろう。









「なるほど、一子さんを慕われているのも、そういう事情が?」

その話を初めて聞いたとき、咄嗟に声に出してしまった。
人の恋路に口を挟むのは迂闊だったかと、言ってから思ったが。

後ろに控えていた、従者から、負の気配が匂った気がした。

「おお、やはりそう思うか? まさにそれが理由でな」

だが、九鬼は良くぞ聞いてくれたと言わんばかりに、饒舌さを増した。

「あのひたむきな鍛錬の姿勢は、かつての我とかぶるのだ。 川神院の師範代を目指すと言えば、メジャーリーグで球を放ろうとするよりも、数段、難しいだろうに…」

目を閉じ、傍から見れば、まさにいい夢を見ているかの如き表情で、彼は続ける。

「我には夢を果たせなんだが、彼女には果たして欲しいのだ」



―――そうか。 真剣マジ、なんだな。


と、今まで彼へと抱いていた、ストーカーに向ける気持ちと大差ないソレは、その時、掻き消えたものだった。










「きょーだい、きょーだい」

痛たたた。

頭皮への痛撃で、物思いから現実へと戻る。

そんなに、同じ髪色なのが嬉しいのだろうか。

彼女も地毛らしい。
もっとも、俺と違って、生まれ持ってきたモノだと言うが。

「ユキ、人の髪の毛を引っ張っちゃいけません!」

井上この人は、どうやら、ユキこと榊原小雪の母親代わりのようだった。

「だって、もう、準の髪の毛ないんだもん♪」

「お前が剃ったんだろうが!!」

いいね、好きだなこういうノリ。





掛けられた時計を見る。

「では、そろそろお暇しませんと……」

やんわりと、彼女の手を払い、俺は立ち上がる。

「今日もおいしいお昼を、ご馳走になりました」

一礼する。

「なんのなんの。いつも通り、口にあって何より」

「ああ、もうこんな時間ですか? 楽しい時間は過ぎるのが速いですね……」

と、ごく至近距離で爽やかな笑顔を向け、俺の肩に手をやる学年首席。

そろそろ、首筋を侵されそうで怖い。

「もー、こっちに来ちゃえばいいのにさー」

ぶー、と、小雪は不満がる。
こっち、とはS組のことだろう。

美少女にこう言われて、悪い気はしないが。

「そう、ですね。 だいぶ英語が堪能の様子ですし。 こちらに来るにも、そこまで負担ではないでしょう?」

冬馬は、首を傾げつつ言う。

「いえいえ、川神院での生活もあるものですから、なかなか厳しいかなと」

F、にいなければ、学園にいる意味もないのだし。



「すみません、次は世界史の授業ですので」

担任の授業は、遅れられん。

「あ~、あの鬼小島か。 んじゃ早く戻ったほうがいいな。 もっとも、お前は滅多な事では、鞭で叩かれないだろうが」

井上準は、苦笑した。

コジーマ、イズ、ゴッド。


では、と、ぐずる彼女を尻目に、俺は教室を出る。



あわただしく各々のクラスに向かう者達と同じく、俺も自分の教室へと急ぐ。










―――――丑三つッ、川神院ッ。










「!?」


殺気を加えられた、ドスの聴いた声が、背後から耳朶を打った。


「……、ど、どうかしたのか?」


突然振り返った俺に、すれ違った生徒は、驚き問うた。


この声では、ない。


「い、いえ何でも。 すみません」

怪訝な表情を浮かべた同級生を背に、俺は足早に歩を進めた。




はて?














<手には鈍ら-Nmakura- 第十八話:忠臣>















1日を2時間ごとに区切り、干支(深夜12時から午前2時までが子の刻。以下、丑の刻、寅の刻…と続く)で表現する方法が始まったのは戦国時代である。
ただ、時間の最小単位が2時間では何かと不便なので(待ち合わせなどするにも大変不便)、1時間を指す時は上刻、下刻で表現していた。
このやり方だと、例えば「丑の上刻」であれば、午前2時から午前3時までの間になる。

江戸時代に入ると「数呼び」という新しい方法が出てくる。
これだと、深夜12時が九つとなり、2時間ごとに八つ、七つ、六つ、五つ、四つと一巡し、お昼の12時に再び九つとなる。
1時間を表現する場合は「半」という文字を付ける。つまり、12時が九つ、1時が九つ半、2時が八つ、といった具合である。

江戸時代にもっと細かい時間を言う場合は、干支を使った呼び方を用い、干支と干支の間の2時間をさらに3つに分けて(戦国時代は2つだった)、上刻(△時00分~40分)、中刻(△時40分~80分)、下刻(△時80分~□時00分)と呼んだ。
これだと、例えば、「丑の上刻」と言えば、午前2時から2時40分までの間になる。

「草木も眠る丑三つ時」などと言う時は、干支と干支の間の2時間をさらにさらに細かく4つに分け、丑一つ(2:00~2:30)、丑二つ(2:30~3:00)、丑三つ(3:00~3:30)、丑四つ(3:30~4:00)となり、丑三つ時は午前3時から3時半ということになる。
なお、子の刻を午後11時~午前1時とする説もある。広辞苑ではこちらを採用していた。
この場合は丑三つは午前2時~2時半の間ということになる。





6月4日(木)未明。





おわかりだろうか。

俺は、今、誰とも知れぬ者の為に(大体の見当は、ついているが)、午前2時から川神の巨門で待ちぼうけをくらっている次第である。
もう、待ち続けて四、五十分は軽く経過していることから、やはり三時からの丑三つだったかと、寝呆け眼を擦りつつ、思案していたところである。


総代には話を通しているので、翌朝に咎められる事は無いであろうが、それでも朝の鍛錬を休める筈は無く、気が重くてしょうがない。
きっと、鍛錬の時間には、寝不足から身体も重くなっているだろう。

三時間の仮眠をとって、それからはここで立ちんぼ。

道着に襷を巻きつけて、木刀片手に凝った肩を回す。

来ると予想される者に対して、決して敵意を持っているわけではないが、相手がどうだかはわからない。
なんにせよ、草木も眠る丑三つ時というが、こんな深夜に無手では心許なかった。

篝火も用意してみると、あら不思議、まるで時代劇のワンカット。
ねずみ小僧が、喜び勇んで忍び入ってきそうで。

クリス嬢が、目を輝かすのが容易に想像できた。




「さて」












―――来た。






気配は、背後からだった。


右手で弄びつつ、地に切先をつけていた木刀の柄を、瞬時に逆手に握り、そのまま後ろへと振り向きざまに斬り払いをかける。

だが、手ごたえは無く、視界には、ただ扉の木目が一面に広がるのみ。

そう、理解し、木刀を持った右手を腰元に下ろした瞬間。

下顎に、鋼鉄特有の冷たさを伴ったモノが、ピタリと押し当てられる。




目だけを、真下に動かせば、中腰のまま、俺の胴に触れるか触れないかの距離まで密着し、小太刀を握った片手を、まるでアッパーカットのように突き出したメイドの姿が、あった。

あれだ。
昔見た、国民的巨人が変身中に、拳をテレビ画面に向けつつ急接近してくる場面。

まさにそんな光景である。


ジュワッチ。




なるほど。

かがんで攻め手を避けつつ、視界から姿を消したわけか。




彼女の口元が、動く。
テラテラと、篝火に照る唇が、嫌に艶かしかった。

「……いきなり、物騒じゃねぇか? あん?」


間違いない、この声だった。


「殺気は、貴女からでした」

慎重に、口を極力、動かさないよう答える。
注意しないと、顎が切れる。

それにしても、この豹変振りは、なかなか。

こちらが、本性か。



「ハッ、ま、ちょっとした仕返しって奴だ」

悪びれもせず、獰猛に笑い、彼女は獲物を納める。

次いで、スッ、と彼女は離れて、扉に背を預ける。



「こんな夜更けに、何か御用で?」


本題を、早速、俺は問いただす。

九鬼からの使い、というわけではなさそうだった。


「……それ、やめろ」

不機嫌そうに、腕を組んだ彼女は答えた。

「は?」


「うざってぇ。その敬語」


「……」


「素じゃねぇだろ?」


「……」


「わかんだよ、アタイもこんなだし」



ふむ。


致し方、ないか。

このままでは話が進まないようだ。

ガンつけが、半端無い。


「……わかった。 ただし、今だけだ」



久方ぶりに、自分の本当の声を、聴いた気がした。











「それで、何の用だ?」

今一度、聞く。
抑揚はつけない。

対する彼女は、それでも無表情に、俺を見返す。




「……お前、今まで、何してた?」


能面のような顔から、紡ぎだされた問いは、些か抽象的で。


「今まで、とは?」

ゆったりと話しつつ、とりあえず、惚けてみる。

「この七年の間だ」

間髪入れず、彼女は言った。

「おかしいんだよ、色々と」

「……」

「何でかねぇ? 」 

大仰に、さながら欧米人のように首をかしげ、肩を竦める。

だが顔は、無表情。

「テメェの親は、英雄様の恩人だ。 そして、その英雄様に救われた、アタイの恩人でもある。 だから、その息子が脛にどんな傷持ってようが、それをほじくりたくはねぇ」

囁くように、言う。

「ただ、まあやっぱり気にはなるわけだ」



「……もう、調べたんだろ?」

調べない、筈がない。


「ああ、調べたさ。 だけど何でかねぇ? ここ七年の、あのテロからの足跡が、全然、納得いかねぇんだ」


「……」


「大体が、ありえねぇんだよ。 あのテロから、何年もかけて、英雄様はテメェをお探しになられてた。 正真正銘の日本国籍を持ってる、お前の行方を探す事は、普通、造作もない筈なんだ」

勢いこんで、彼女は続ける。

「海外の日本人学校を、インターナショナル・スクールを転々としてた、なんて、この前、都合よく出てきた資料を見たがな?」

「……じゃあ、それ、信じてくれよ? 見落としてた、そっちの落ち度じゃないの?」

極めて愛想よく、俺は答えた。

「あれ、偽造だろ?」

すぐさま、切り捨てられる。


「……根拠は?」

吐きかけた溜め息の代わりに、そう問う。

「二週間、十人単位の特派員、飛び回らせた。 結果、お前が居た、いや、居た事になっている何処の学校にも、お前を教えた覚えがある教師は誰一人いないらしい」


……金使いすぎだろ九鬼財閥。


「まあ、全くのデタラメじゃないだろうが。 あのテロ以前には居たっつー学校もあったし」

赤々と燃える薪の音が、嫌に響いた。



「英雄様は、この事実を捨て置けっておっしゃったがな」





不意に、今度は彼女の指が鳴った。

「……ッツ!?」




何処に潜んでいたのだろうか。

生垣、路地裏、商店の屋根から、音もなく滑りこんできた者達は、俺を中心にして、円を描くように、取り囲む。

言うまでもなく、皆、メイド服。

こんな状況でなければ、喜んで囲まれたのだが。





「アタイには、義務がある。 主を護る、義務が」

それらの首領たる彼女は、心なし高らかに宣言する。

絶対の誇りが、透けて見えた。

「九鬼家従者部隊、序列壱位のアタイには、主の敵を、未然に、する権限が与えられてる」


忍足あずみが、再び小太刀を構える。

瞬間、彼女を含めた十数人からの、先ほどとは比べ物にならない濃密な殺気が、へばりつき、各々の得物が音もなく、月明かりの下に晒された。

身構える余裕が奪われるほど、大気が重く、重く、のしかかる。

全員が全員、俺より同等かそれ以上の、手練てだれとみえた。




これは、不味い……ッ!!



そんな、俺の思考をよそに。

「かかれぇッ!!!」




白き影が、俺に殺到した。









































……なんてな。




酷薄な笑みが、俺の二、三メートル先で向いていた。

俺は、ペタリと、無様に尻餅をついていた。
少々油断すれば、失禁していたかもわからない。

カラカラと、重力に順じて倒れた、木刀が奏でる音は真実、間が抜けていて。




俺に殺到した影達は、上空にて、それぞれ駆け互い、丑三つの闇に飲まれていった。


「………おい」


立ち上がって、やっと声に出せたのは、そんな陳腐な抗議。
冷や汗で、道着が背にぴっちりと張り付いてる。

「ま、これもちょっとした仕返しだ」

飄々と言い募りやがる。

「ざけんな」

「ハッ、英雄様に殺気向けやがったんだ。 これでも軽い程度だっつーの。 大体、テメェ程度に、あんだけの人数かけるまでもねぇ事くらい、わかんだろうがよ」

グサリと、深々と、俺の真っ当な抗議は切り裂かれ、抉られる。


「それに会話の流れからして、テメェがヤられるのは理に適ってねぇだろうが」

殺気の流れからして、理に適ってたがな。

そんな心中を置いてけぼりに、腕組みする彼女は続ける。


「……ま、でも、なんでアタイが来たか、これで大体感づいたんじゃねぇの?」



まあ、ほぼな。



「……俺が、親の仇討ちの為に、これまで隠れてたって懸念が、疑念が、あったってとこか?」

そう思うのも、無理は無いだろうな。
従者なら。

そして、そうであった場合の為に、釘を刺しておくと。
ヤるなら、川神の御前では、やらん。

満足げな笑みから察するに、正解のようだった。

「あのテロがあってから姿が消えたんなら、それも、可能性の一つだと思ってよ。 どっかで親が命と引き換えに英雄様を助けた、なんて聞いてトチ狂ってても、不思議じゃねぇと思ったわけだ」

「そこまで、病んでねぇ」

「どーだか」

あの殺気はなかなか放てるもんじゃねぇぞ、と笑う。




一応、ホントの事は言っとくか。



「……偶然だよ」

「あ?」

「俺が、消えたっつー時期と、親父達が死んだ時期が重なってるのは」

「……つまり」

「俺が隠れてたのは、別に親とも英雄とも何の関係も無いって事。 それに、あいつが親と知り合ってたってのも、この前の屋上で初めて知った事だ」

真実そうなのだから、他に言いようが無い。

「隠れてた理由は言えんが、うちの総代が、仇討ちの為に人を匿うなんて事は無い。 それは、信じられるだろう?」

「……まあな」

顔からして、納得はできてないなと。

でもこれ以上、この件については何も言えないから、これで納得してもらう以外ない。


ふむ。
結局こいつら、俺の過去を知ることはなかったようだ。

まあ、当たり前っちゃ当たり前。

『施設』に関しては、余程世情に通じていて、政界に顔が利く奴らしか知らないだろうし、九鬼英雄も商業に携わっていても、所詮は未成年。
世の中の深い所は、未だ父親からも習っていないとみた。

そこに収監される者達についてなら、尚更。




……だが恐らく、あの綾小路とかいう教師は知ってるんだろう。

苗字から、恐らくあの大貴族の出と見える。

授業中、露骨に俺から視線をそらし続ける。
編入前に、PTAで騒ぎ立てたのも多分、ヤツだな。




「っつーか」

頭をガシガシと。
夜火に当てられた羽虫が、だいぶウザったい。


「俺、近いうちに消えるし」

そんなに心配せんでもさ。

「……は?」

予想外だったのだろう。
少し、声が裏返っていた。

「もう、目的は果たしたつーか、果たされたっつーか」

「……」

「総代からは、引き止められてるけど」

どちらかというと、俺も去りがたいんだけどね。






「……テメェを」

しばし黙考していた彼女が、口を開いた。

「テメェの事を、英雄様は、相当に気にかけている。 それにアタイも、今のでチビらなかった度胸を、それなりに気に入ったんだ」

ほう。

「光栄だな」

少々、ニヤけてしまったかもしれない。

「ふん」

彼女もまた、可笑しくも無い冗談を聞かせられたような笑みをたたえ、鼻を鳴らした




―――後ろから刺されるような真似だけは、すんなよ。



そう言うと、彼女もまた、瞬時に、深い闇へと駆けていった。








「……取り越し苦労だよ」

一人ごちて、俺も境内へと戻る。

さっさと寝たい。

夜更し特有のだるさが、どっと出てきたようだった。


あんな従者がついていれば、王も安心だ。

そんな安堵感も、混じった疲労なのかもしれなかった。











[25343] 第十九話:渇望
Name: かぷりこん◆273cf015 ID:177153ba
Date: 2011/07/10 00:51

『飢えた犬は肉しか信じない。』

―――チェーホフ

























ドイツ連邦共和国南西、バーデン・ヴュルテンベルク州、カルフ。


国内最大の内海であるボーデン湖、密集して生えるモミの木によって暗色で塗り潰された黒き森、そして温泉地バーデン-バーデンなどがあるほか、ホーエンツォレルン城などの古城や中世の古い街並みが多く残るこの地に、ドイツ陸軍所属コマンドー特殊部隊、通称、KSKの本部は存在する。

ドイツ連邦共和国には、もう一つ、同様の任務を行うGSG-9、第九国境警備隊なる特殊急襲部隊が存在するが、この隊は警察機関に分類され、基本的に国内での作戦に従事するのに対し、KSKの主戦場は海外であり、その任務内容は本分である邦人保護救出以外にも、潜入襲撃、戦略偵察、対テロ作戦、PKO、墜落機搭乗員の救出、軍事的危機の抑止作戦、領土防衛と多岐にわたる。

その任務の多様性の為に、主力中隊は、地上浸透、空中浸透、海上浸透、特地浸透、偵察狙撃の五つの専門小隊(フォーマンセル)を持ち、これに対応している。そして、この第一から第四主力中隊を核とし、支援中隊、情報中隊、補給中隊、衛生隊が周りに固められている。

世界に名だたる特務部隊、英国SAS、米国デルタフォースにも引けをとらないこの部隊を率いるのが、現陸軍中将、フランク・フリードリヒ、その人である。

そして彼はまた、KSKの司令官に任命された准将時代、各隊から更に選りすぐった兵士からなる司令直轄の部隊、通称、狩猟部隊を組織した。
当初、これは私兵ではなかろうかという軍内部の反発もあったが、現在は尋常ならざる戦果が、ソレを覆い隠している。
世界の特殊部隊の中でも最長の、三年にも及ぶ過酷中の過酷なる入隊審査と訓練。
フランク自身の戦場経験が反映されたそのカリキュラムによって、かの戦果が挙がるのは、ある種の必然でもあった。



そして、その訓練施設に併設された、本部内の司令執務室。
狙撃対策のため一切の窓が無い代わりに、海外支部に繋がる幾つものモニターが、壁面に設置されている。
それらの無骨な調度品の中に不似合いな、愛娘の写真が置かれたデスクが、現在のフランクの戦場である。




「入りたまえ」

先のノック音にそう答えた後、視線を机上の資料から、入室した最も信頼の置ける部下へと向けた。

「お呼びでありますか、中将閣下」

未だティーンエイジャーと言っても十分通用しそうな風貌の、赤髪隻眼の年若い女。

軍服を纏った彼女は脱帽敬礼後、直属の上官にそう言った。
狩猟部隊の指揮官たる彼女の眼は、獲物を狩るハウンドの如く鋭利で、気高さを帯びている。

「来たか…。 実はな、君にまた、日本国に飛んでもらいたい」

眼前で手を組みながら、彼はそう告げた。

「ハッ!!」

踵を合わせ、マルギッテ・エーベルバッハは裂帛の声を上げた。

「フ、相変わらずだな少尉。 任務内容も聞かずに、承諾とは」

「どのような任務でも、中将閣下のご期待に沿えると確信しておりますので」

ある種、傲岸ともいえる眼光を湛え、そう言い放つ。

「うむ。 その、自信に満ち溢れる姿、正しく私の理想の戦士像だ。 ……さて、そこでの任務なのだが、やはりクリスの件だ」

「……お嬢様の身に、何か?」

更に鋭くなった猟犬の双眸をいなすように、フランクは右掌を相手に向ける。

「いや、特にこれといったことは無いようだが、軍人たる者、まだ見ぬ脅威に備える事は決して、怠るべきではない」

「ハッ、仰る通りと存じます!」

「うむ。 して、この資料に目を通してもらおう」

そう言って机上にあった資料を彼女に手渡す。

「……これは」

マルギッテはその紙束に、ざっと目を通す。

それは数十名分の、本人が書く履歴書よりも、事細かな個人情報が記されたものだった。
氏名、住所、電話番号、家族構成は序の口、身体的特徴、生い立ちから嗜好まで網羅されている。


「クリスの学友についての報告書だ。 なに、私も諜報部を私物化するつもりはない。 せいぜい、男子のクラスメート、三十人にも満たない者達の素性を調べ、幾日か観察してもらったくらいだ」

事も無げに中将は言った。

「…では今回の任務は」

「毎回ながら理解が速くて助かる。 その者達の監視、という事もあるが、どちらかと言えばクリスの警護、と言った方が適切かな?」

「……ッ!? ……ハッ! 了解致しました!!」

ついにきたか。
お嬢様の護衛。
これほど名誉ある、甲斐ある任務が他にあろうか、という心情が、真面目くさった顔に、ありありと浮かんでいた。

「通常通り、クリスに対し、一点でも害を与えると君が看做した者は、即時無力化して構わん。 見せしめにもなる。 徹底してやってくれ。 始末と責任は、私がとろう」

それは亡国の危機を目前にした、軍司令官の様相だった。

「ご配慮、痛み入ります」

目を伏せて、マルギッテは上官に敬意を表す。

「いや、本当ならば私が直に現地にて指揮を執りたいのだが、立場がそれを許さんのだよ。 任務初日は私も同行するが、すぐこちらへ帰還する。 これぐらいはさせてくれ」

口調に憂いを潜ませながら、それに、と中将は続ける。

「あの国には少し失望しかけている部分もあってな。 下手に長く滞在するとなると、権力の亡者共が護摩を摺って私と近しくなろうとする。 ほとほと呆れたよ。 …クリスとの見合い話まで持ってきた輩がいる。 そういう事もあって、早めに向こうでの任務を切り上げたのだ」

「それは……、許せませんね。 その者、狩ったほうがよろしいのでは?」

部下の眼光が一層、鋭さを帯び、深紅の髪が多少、逆立つ。

「いや、銃を抜いて威圧したら、頭を下げて逃げ帰ってくれたよ。 もう、会うこともあるまい」

そう言って、心無し、フランクは疲れた表情を見せる。

「なんと、慈悲深い。 失礼ながら、中将閣下には似つかわしくないほどに」

「……まだ私も、信じていたいのだよ。 日本という国、日本人という人、誇り高きサムライの末裔をな。 ……君に手渡した資料を見て、先ほど、その思いを新たにしたところだ」

次いで、厳格な上官の顔に微かな笑みが作られたのを、マルギッテは見逃さなかった。

「何か…?」

疑問に思い、再び紙束に目を落とす。

「……42枚目を、見たまえ」

厳かな声に、従えば。





「……は…ぁ…」




惚けた声を上げたきり、口を開けたまま資料に食い入る部下の姿が、フランクの可笑しみを誘った。

「ハハハ、その顔は初めて見るな」

「ッ!? 御見苦しいところを…」

どんな顔をしていただろうか。

少なくとも、軍人にあるまじき無防備な容貌ではあったのだろうと、慌ててマルギッテは表情筋を引き締める。

「もう、八年にもなるかね? 最後に会ったのは…」

それにしても、と唸りながらフランクは続ける。

「私としたことが。 一度、教室で会っている筈なのだ。 髪の色といい、外見が少々変わったとはいえ、気づけなかったとは」

軽く顎を撫で、あの時見た娘の教室の風景を思い浮かべた。

「これは、間違いなく……?」

常に事実確認を怠らないのは良き軍人の美徳ではあるが、その声色には、何故か歳相応の女性的な響きが混じっていた。

「生憎と、川神の保護下にあるようでパーソナルデータは最低限しか集められなかったが、恐らく、確かだ。 ヤグルマという姓は、日本でもそうそう目にしないらしいし、何より、川神の庇護を受けているというだけでも、十分な証拠だろう?」

彼の親御が川神出身であることは、双方とも把握していた。

「……そう、ですか」


部下の瞳が、淡い感傷の色の後、鋭く尖ったのを知ってか知らずか、フランクは口角を上げ、言葉を紡ぐ。

「本当に、惜しい人物を亡くしたものだと、今までは思っていた。 クリスに、この夫妻こそ真のサムライだと、紹介しようと思った矢先に、あのテロだ」

「…心中、お察しいたします」

マルギッテも、全く面識が無いわけでもなかった。

「だが、まだその血脈は絶えていなかったのだなと思えて、嬉しかったのだよ」

珍しく向けられる穏やかな目に、少し逡巡しつつも、彼女は相槌をうった。














「では少尉。 任務の成功を、祈る」

「ハッ」

現地の部隊員やセーフハウスの情報を口頭で伝えられた後、敬礼し、対する答礼にも応えると、踵を返してマルギッテは司令執務室を出た。




扉を閉め、カツリコツリとブーツを鳴らしながら数歩進み、そして思い出したように彼女は立ち止まった。


「………ヤグルマ、ナオト」


久しく目にする事も耳にする事もなかった名を、人気の無い廊下にぽつりと漏らす。

片手にしていた文書を、また掲げて彼の者の欄へと視線を走らせる。
かさかさと紙の摺れる音か、嫌に反響した。

思いもよらず、四センチ四方の写真の枠内で再会することになった彼の面構えは、何故だろう、あの頃の彼とは別人のモノと思われるのだった。
頭髪が白く染まったことを差し引いても、良く言えば大人びて、悪く言えば「彼らしく」ない、というか。覇気が無い。

彼は、もっと、強き光をその眼に宿していた筈だった。

この私が、初めて打ち負けた者とは、到底、思えなかった。





かぶりを振って、コツリとリノリウムのタイルを鳴らしながら、また歩を進めた。


会えば、そう、会ってみれば、わかることだ。

脳裏に映し出すごとに、憧憬と嫉妬を抱いた、あの精強さが健在であれば、何も言うことは無い。




無意識に、腕部に潜めた旋棍を握っていた。

弄らずには、いられなかった。


















<手には鈍ら-Namakura- 第十九話:渇望>
















6月8日(月)

朝のHR前。



「いやぁ~。 良~いですな~」

所々の母音を伸ばしながら、島津岳人は春爛漫といった顔で鼻を伸ばしていた。

……俺の横で。

教室の最後列、窓際に位置する俺の席周辺は、絶好のビュー・ポイントのようだった。

「まぁ、いいよねー」

その横にいる師岡卓也も、満更でも無い様子である。

「おい、直斗。 どうよ? ウチの衣替えは?」

緩みきった顔に苦笑しつつ、俺は答える。

「……ええ。 やはり男子よりかは、華やかになりますね?」

白が基調なのは変わらないが、やはり露出がなかなかに…

制服というものに、あまり縁がなかったからか、俺には衣替えというイベントは新鮮に思えたのだった。

「あの、ナンマメカしいボディラインを魅せる事に成功した夏服職人を、俺様は尊敬するぜ!!」

小さく拳を振り上げ、ガクトはそう囁いた。

「ホンット、そうだよな~」

いつの間に、このクラスに入ってきたのだろうか?

二年S組の井上準が、会話に混じってきた。

「あん? なんでまた、2-Sのお前がここにいんだよ?」

早速、喧嘩腰のガクト。

「夏服の良さを語り合うのに、クラスの壁は関係ない。 そうだろう、直斗? いや、兄弟?」

アイデンティティーたる坊主頭を光らせ、肩を組んできた。

「…ホンット……、いいよな…ハァ、…ッハァ」

速攻で身を捩って、耳元にかかる息吹から退避。

彼の目線の先には、我らがF組委員長、甘粕真与の姿があった。

一部の偏愛主義の方に、なんと言うか、もんの凄く定評のある、小柄な体躯の露出具合に、彼は釘付けのようである。

「……そろそろ、御自重、なさった方が……」

控えめに俺は言う。
垂涎が、今にも床に落ちかかりそうであった。

「それには僕も激しく同意するよ。 完璧犯罪者だから」

と、師岡氏も。

「お二方ぁ~、何をおっしゃられる? 可愛いは俺の正義ジャスティス。 これはアレだ。 俺は自分の信じる正義を貫くRPG的な」

それ現実で貫いたら、主人公よろしく地下牢行きだからね、とモロのツッコミが入る。

俺も、そんなユーリ・ローウェルは願い下げだった。



そんな、折り。













本能と経験に裏打ちされた五感が、突然、警鐘を鳴らす。

「ん?」

ひとしきり興奮していたロリコンは、急に窓の方を向いた。 禿げ頭の反射具合が変わる。

ほう。

意外にも、井上の方も同じ気配を察知したようだった。


「……少し、出てきます」

俺は席を立つ。

纏わりつく感覚からして複数か。

似たような殺気を、数日前浴びせられたばかりだった。
しかし、あそこまで濃密な死の気配ではない。
例えるなら、獲物を待つ食虫花のような、ジメジメした、さりげない殺気。

見晴らしの良い場所が、とりあえずの目的地。

恐らくは、総代の入校許可が下りている者達ではあろうが、万が一には備えるのが、川神院門下生としてあるべき姿だろう。

途中ですれ違った、手洗いから教室へ戻る賢者然としたサルの顔は、見なかった。 事にした。









急ぎ、屋上へと上がれば。

「これは」

そうそうたる顔ぶれが揃っていた。
さほど、驚きはしなかったが。

「おお、お前も来たか」

「あ、矢車さん」

「……フン」

上から順に、百代、由紀江、そしてメイド。
彼女らもまた、この気配に呼応して来たのだろう。

「む、ワン子は、来なかったか」

少々、複雑そうな次期総代。

「……何か違和感は感じていたみたいですけど、これがどんな類の気配なのかは、なかなか気づきにくいと思いますよ?」

フォローは入れよう。
事実でもある。
この気配に瞬時に反応し、即座に最善手を打つには、相当な修練と才能、それに幾らかの修羅場をくぐる事が必要だろう。

動作の先読みに通じるため、武の基本といえば基本なのだが。

「ま、そうだろうが。 にしてもお前は、よく気づいたな」

つい最近、これより壮絶なモノを、当てられましたので。

ジロリと、横目でメイドを眺める。

あれから数日は、僅かな人の気配にも感覚が鋭敏になっていた。
過剰であると言っても良い。

それくらい、あのドッキリが効いているようで、良いんだか悪いんだか。

もう二、三日すれば、元通りになるとは思うが。

「日頃の鍛錬の、賜物です」

そう、当たり障りなく答えると。



「おお、流石、気づく人は気づくネ~」



ルー師範代だった。
俺の背後の階段から、屋上へと登ってきたところだった。

「川神学園が、何者かに囲まれています」

百代がルー師範代へ言葉を投げかける。

「うン。 私も詳しい事は、知らないが、恐らく2ーSへの転入生と関係があるんじゃないかナ?」

そう言って肩を竦める。

「学長が動かないところを見ると、さほど、心配することはないとは思うけれド」

「で、でも、この訓練された気配からして……」

どもりながら、遠慮がちに由紀江は発言する。

「軍隊、だな。 アタイにとっちゃ、懐かしい気配だ」

ぼそりと、あずみが補足する。
少々、眉間に皺が寄っていた。

王の守護者は、苦労が多そうであった。


「む…2-Sに、転校生…。 どっかで聞いた……、あ。」

思案していた武神は、一転して獰猛な空気を身に纏い始めた。

「ゴールデンウィークの…、あの軍人娘か!?」

そう言って、ひとっとびでフェンスから飛び降りようとする所を、慌てて師範代が留める。

「も、百代、落ち着きなさイ。 どっしり構えテ。 その後始末をするのは、直斗くん達だと言うことを忘れないで欲しいネ?」


「…ッ……わかりました」

不満そうな顔や悪態めいた舌打ちを隠そうともしなかったが、百代は引き下がった。



「……由紀江さん?」

どうも背景がわからないので、訳を聞くことにした。

「は、はいぃ?」

「いえ、その、例の箱根旅行で、何かあったのかなと」

詳しい話は、聞いていなかった。

「あ、ええと、クリスさんの御身内の方々とお会いしたりして…。 多分、編入してくる方はマルギッテさんという女性だと思いますが」

(ギラギラした姐さんだったぜぇ~?)

……理解。

なるほど。
つまり世界親馬鹿コンテスト、親馬鹿部門と馬鹿親部門の両部門で金賞受賞の方が、こちらにいらしている訳なのだ。

そして。


「(……マルギッテ、か)」

囁くように異国語で発音して、俺は、空を見上げた。

























「問うぞ、クリス。 お前は大丈夫か?」

また、突然出てきたクリスの父親に対し、驚き半分呆れ半分の雰囲気がクラスの隅々まで充満した頃、彼は愛娘に問うた。

「はい。 皆と仲良くやっています」

もし、これと全く趣きが異なるの返答があったなら、この学園が戦場になるという事など露ほども考えず、クリスは答えた。

娘に害なす者あれば、ドイツ連邦軍主力戦車、レオパルト2-A6を引きつれ、その長砲身55口径の120ミリ滑腔砲を直接その者にぶち込むと父が宣言しても、いわゆる冗句として、受けとめているのだろう。

しかし彼女に少なからず好意を抱いている者に対しては、実際、尋常無き抑止力になっている。

「―――ならば良かった」

娘を疑うわけではないが、と心中で呟きつつ、いつもと変わらない一点の曇りもない瞳がそこにあるのを確認し、フランクは続ける。

「前に言ったように、マルギッテをこの学校に目付役として、建前上は生徒として、派遣しておいた。 何かあれば、彼女に言うがいいぞ?」

「わかりました。 ……父様は?」

「すまないな、私はすぐにでも帰らなければならないんだ。 これからNATOとの合同演習が控えているからな。 まあ、暇が出来次第、食事でもゆっくりしたいものだ」

「はい」

娘からの極上の微笑を受け取る。
これが、彼の戦場へ向かう活力の、源であった。








……何か、忘れているような。

別れの挨拶を済まし、教室の扉に手をかけ、娘の事から少しばかり心を離すと、その疑問が沸き起こった。

そして、すぐにその答えが出る。


「……直斗くんは」

「はい?」

振り向き、そう呟いた父に、クリスは聞き返し、戸惑う。

クリスだけではなかった。

意外な名が、彼女の父の口から出たこともあり、クラスの聡い者達は、再び耳をフランク向けた。


「矢車直斗という生徒は」

フランクはそう口に出しつつ、クラスを見回す。


「……直斗なら、ついさっきまで此処にいたけど…。 まだ、戻んないみたいっスね?」

十分前まで話していたガクトが、代表して答える。

ついで、クリスが問う。

「父様? 矢車殿が、何か?」

「いや、何年も前になるが、会ったことがあってな。 …この前に来たときには、見逃してしまったようだ」

顎鬚を片手で撫でつけながら、フランクは答えた。

「そ、そうなんですか!? …なら」

呼んでこようかと、ワン子こと川神一子をはじめ、幾人かが立ち上がる。

ところが、それを多忙な中将は手で制する。

「いや、もう流石に出国しなければ。 ただ…最後に、もう一つだけ、質問をしよう。 クリス」

「…は、はい」

再び父の声が厳かな色を帯びるのを、ひしと、娘は感じた。

「彼は、どんな人物かね?」



何を問われるのかと思えば、とクリスは身構えていた体勢を崩す。
きわめて、答えるのは容易いものである。

「矢車殿は」

それでも、幾らか間を空けて、編入後の決闘から抱く彼への印象を、胸に呼び覚ます。

単に美辞麗句で飾った、おざなりの回答は許されないと直感したから。

だからこそ、騎士らしく、凛と一言で形容しよう。



「彼こそが、侍、という人物です」































「お、退いてったみたいだな。 ……ったくウゼェ。 娘一人心配だからっていちいち戦隊率いてくるなっての! 軍費どうなってんだっちゅー話よねぇ」

このメイドは、主の御前でないと、愚痴を撒き散らすのに遠慮がなくなるようである。

ただ、確かにその言葉に頷けるのも事実ではある。
明らかな職権濫用だろう、これは。

子を想う一心でここまで出来る事に、ある程度、尊敬はできるが。

「むー。 包囲を解かれるのは残念だな~」

メイドとは対照的に、何らかのアクションが起こる事を期待していた百代は、完全にふて腐れた顔だった。

「特殊部隊と戦えると思ったが。 つーまらんッ」

「自重なさってください。 学園で戦闘になったら、貴女は良くても、他の大多数の方々のご迷惑となります」

「本当だ。 護衛のアタイがどんだけメンドくさい目に遭うと思ってやがる? 十中八九、KSKだぞ? 超一流の兵士どもだ」

「…わかったわかった」

人二人に諭されたからか、或いはそれが鬱陶しかっただけか、黒髪を無造作に掻きながら、そう返事をした。



「はいはい、じゃみんな、教室に戻って戻っテ。 授業、始まるヨ」

師範代は全くもって教師らしい台詞を放ち、自分はグラウンドへと金網を飛び越え、危なげなく着地。

一時限目から、体育はあるようだった。

















「……死合、したいなぁ」



別れ際、ぽつりと漏らされた言葉が、彼女の闘争心が鎌首をもたげたままの証だったと俺が気づくのは、数時間後の事だった。










[25343] 第二十話:仲裁
Name: かぷりこん◆273cf015 ID:177153ba
Date: 2011/07/10 00:56
『二人の子供のけんかを止めようとして、彼らより大きな声で「お黙り!」と叫ぶのは、テレビの中でしかうまくいかない。二人はもっと大きな声で言い合い、あなたはただ、余計うるさい三人の口論を引き起こすに過ぎない。』

―――ジョエル・スポルスキー




















6月8日(月)

夕食後、しばらくして。








「……ッハハ。 京の言うとおりだ。 いたいた」




新しく同じ学年に加わった、マルさんことマルギッテ・エーベルバッハを島津寮に迎え、まゆっちの実家から送られてきた北陸の幸をふんだんに使った鍋パーティーが一段落つき、中庭で、新しい人脈を広げられるきっかけとも成りうる彼女と少々話し込んでいると、不敵な響きを伴う言葉と共に、姉さんが夜の暗がりの中から、突然現れた。




「……姉さんッ!?」

「お前は…」

マルギッテの目が細まり、一気に殺伐とした空気が、外気に広がる。

「マルギッテ、とかいったな? 川神学園へ、ようこそ」

幾分、粘つくような声色で、姉さんは話しかける。

「…こちらこそ、よろしくお願いします、……先輩」

マルギッテもまた、少々の皮肉めいた冗談を語尾に含め、応答する。

「ふふ。 見るからに年上にそう言われるのも、面白いな」

獰猛に、さながら獲物を見定め終えた獅子の顔で、姉さんは笑った。

「……朝、学園を囲ってた奴らは、今ここには居ないみたいだな?」

周囲の「氣」を、探った後のようだった。

「私の適切な判断で、全員所定の場で休ませています。 クリスお嬢様のご様子を見るのは、私一人で十分でしたから」

事務的な表情で、双眸は前方の危険分子に釘付けのまま、マルギッテは言う。

そんな彼女の返答に満足したのか、更に笑みを深め、姉さんは次の言葉を紡いだ。



「なら、丁度いい。 ―――ここで私と勝負しろ、マルギッテ」



いきなりの、宣戦布告である。


「ッね、姉さん……。 そんないきなり」

そこはかとなく、マルギッテと友好関係を結べそうだった所に、これである。

夜も更けている。
今、荒事は、ご遠慮願いたかった。


「コイツはワン子達をいきなり襲ったんだぞ? ……お互い様だろう? なあ?」

闘いへの期待に、目が爛々と輝いていた。

こうなると、止めるのは不可能である。

長年の付き合いから、それは自明で。




「……マルさん、どうかしたのか?」

「あれ? モモ先輩じゃん?」

「…ん? 穏やかな状況じゃ、なさそうだなオイ」

「わわわ、殺気が凄いですッ!?」



そうこうしているうちに、縁側に、寮生が揃い集う。


「お前は、何となく、私と同じ匂いを感じる。 ……戦えば、楽しくなるかもしれないぞ?」

トリップ気味の姉さんは構わず、マルギッテに言い募る。

「…フフ。 その言葉、そっくり返してあげます、百代。 ーーー聴きなさい。 私も、貴女と戦ってみたい」

言われた彼女も、満更ではなさそうであった。


「ならば、問題あるまい。 時は今、場所はこk」







「だが、断る」


しかし、大方の予想を裏切る、返答であった。









「……何だと?」


冷気が、誰の胸にも吹きつけられた。

しかしこの反応を予想していたのか、マルギッテは臆することなく、返す。


「理由は、二つ、ある」

幼子に言い聞かせるように、ゆっくりとした口調で、彼女は言う。

「川神百代とは交戦するな、危険が過ぎる、と軍から命令を受けている事が一つ。 まあ、これが最たる理由です。 だから戦うわけにはいかないと思いなさい」

「……軍、か」

嘲るような、姉さんの発音。
更なる挑発であろう言の葉を重ねようと、口を動かしかけたが、次いだマルギッテの発言の方が、僅かに、速かった。

「それと、もう一つ。 これは、ごく、私的な理由です」

「なんだ?」

ふと、軍人の視線が自分から夜空に逸らされた事も、姉さんの興味を引くのに一役買ったようで、幾らかは、不穏な空気が、弱まった。



「私には、貴女よりも・・・・・戦いたい人間がいる。 彼と万全の状態で立ち合う為に、無駄に体力を消耗する戦いは極力控えたい。 そう理解しなさい」



ほう。




……あ、ちょっと。

………それは、マズい。








「………お前」



姉さんの目が、鈍く光ったのが、わかった。
弱まっていた筈の殺気が瞬く間に、元のソレよりも幾分禍々しさを伴って、密度を増した。


「随分な言い草だなあ…。 マルギッテ?」

不気味なほどに、雰囲気とは不釣合いの明るい声。

「……」

「聞き違いか? 闘争において、私よりも優越する者がいる。 というように聞こえたのだが?」

「…この任務中に実力を行使するにしても、私にとって、第一の標的は必ずしも貴女ではない、ということです」

あくまで、淡白な口調を崩さないマルギッテ。

「面白くない冗談だ」

「冗談ではありません。 ご理解ください。 ーーー先輩」

微笑。

では、これで、とマルギッテは姉さんに背を向ける。


―――もう夜も更けました。日付が変わらないうちにお嬢様、一緒にお風呂でも入りましょう。


全員が、彼女一人に取り残されたように感じた。







だが。
このまま、姉さんが引き下がるはずもなく。

「……怖気づいたか」

誰の耳にも明らかな挑発。

もちろん、マルギッテはそれに反応した。

ぴたりと、アーミーブーツを脱ぐ所作が止まる。



第三者の目から、このやりとりを眺めていれば、姉さんの怒りが圧倒的に理不尽なモノだとは、理解できる。

そも、こんな夜更けに喧嘩しようぜと吹っかける方がおかしいのだ。
だが、頑張れば地軸をも自身の下に移せるだろうと日頃豪語し、本当に欲しいモノは「物」でも「者」でも容赦なく奪う、生粋のジャイアニストに、今、その理屈は通じない。

話せばわかってくれると、マルギッテは想像し、理由を正直に答えたのだろう。

言い方に、少々問題があったのは事実だが。





「所詮は首輪をつけられ、飼い慣らされた犬、ということか?」

更に姉さんは、聞いている俺達の神経をも逆撫でするような、高いトーンで話す。

「姉さん、ちょっと」

言い過ぎだと、諌めようとする。

「モモ先輩、マルさんはッ――」

クリスも、何事かマルギッテを擁護するような台詞を言いかけるが、それは、重ねられた言葉にかき消される。




「……私は、一つ、サガを持っている。 驚いた方がいい」




今度は、灼熱の大気が流れるのを、確かに感受する。

クリスから目を戻せば、また、マルギッテは姉さんと相対していた。

瞳には、ぎらりと光るものがあった。


「力あるものと、手合わせを求める、この心!」

ギチリ、と。
何処からともなく取り出したトンファーを深く握りこんだ音が、その存在を証明していた。

両腕をクロスさせ、構える。

「……クリスお嬢様が近くにいるともなれば、危険分子の排除の名目もたつ。 そう、理解しなさい」

「マルさんッ!?」

制止の声が響く

「申し訳ありませんが、性分ですので諦めなさい」

護衛対象への敬語が無くなった所から、彼女の激情が透けて見えた。

「ッハハ。 そう、そうこなくてはなッ?」

―――パキリ、

姉さんも、掲げた右手の指を鳴らし、臨戦態勢に入る。




「お前もまた、戦士だった! 嬉しく思うぞ!!」

両者の闘気が、冷たい夜気を切り裂いて交わろうとしていた。









「ピリピリ来るな。 両方とも、凄ぇ気合だ…」

顔に皺を寄せ、呟くゲンさんに頷くと、俺は横を向く。

「クリス、コレ戦い、始まっちまうぞ?」

止めて欲しい、というニュアンスで伝えたつもりだ。

無論、マルギッテを。
正直、姉が負ける姿は想像できない。

「一騎打ち、ともなれば、止められる筈もない」

騎士娘は、表情を険しくし、厳かに言った。

完全に、戦いの行く末を見守る眼になっていた。

















<手には鈍ら-Namakura- 第二十話:仲裁>

















「凄い、マルギッテさん、食い下がってます…」

(諦めてないね。 根性あるぜぇ)



戦い始めてから、十数分。
やはり、と言うべきか、大勢は姉さんの方に傾きつつあった。

しかし、マルギッテはマルギッテで粘る粘る。
手痛い一撃を喰らった後は、近頃コマ割りの荒さが目立つ漫画の某死神のように、眼帯を外して戦闘効率を上げるという秘術じみた荒業をやってのけ、一時は姉さんを守勢に回したのだ。それには賞賛の言葉を並べざるを得ない。まともに姉さんが相手の攻め手をガードするのを見るのは、いつぶりだったろうか。

それでも、まゆっちの言う、「食い下がっている」の言葉通り、決して姉さんが押されているわけではなかった。

今は、膠着状態。
武神と軍人は、いつでも動けるよう構えをしたまま、対峙し続けている。
北陸娘曰く、「氣」のぶつかり合いが行われているようだが、素人目に二人の表情を見ても、その優劣は明らかだった。



「……転入生の方、もう限界だろ?」

堪らず、ゲンさんも口を出した。

彼もまた、姉さんの恐ろしさ、強さを存分に知っている。
ワン子の鍛錬によく付き合っている彼は、ワン子が目標とする姉がどんな人物なのか、ファミリー並みには身に沁みてわかっているのだろう。

このままでは、怪我人が出る、すなわち、マルギッテが危ない。


「ああ……。 だが、まだ戦っている。 止められない」

正義の騎士は、それでも勝負を見守るだけであった。

「勝負に、割り込めないという事か?」

確かに、彼女らの間に挟まれようとするのには、その前に生命保険に加入しているかどうか確かめねばなるまい、と思わずにはいられないほどに、覚悟のいる行為ではあるのだろうが。

「違うぞ、直江大和」

こちらには顔を向けず、しかし真剣味を帯びた声が俺の耳朶を打った。
俺の遠慮の無い発言を、非難するような否定の言葉とフルネーム呼び。

確かに、この修羅場の中で、同い年の女子を頼りにする物言いが続いたかもしれない。
それを責めているようにも思えた。
面目ないが、だが、そこは理解してほしい。

基本、俺は草食系なのだ。
ヤドカリとイソギンチャクのような相利共生の関係を、理想としてもいるが。

「…全力で、戦っているからこそ、止められないのだ」

その眼に悲壮な色をたたえて、彼女は言った。

「止めることは、それは、マルさんの誇りを汚すことになる」

日本で言う、武士の一分、というものらしい。
武道漬けの日々を送る者には、共通する意識のようだ。
事実、まゆっちも、心配そうな顔をしつつも、縁側から外に出ようとはしない。

外戸の敷居が、彼女のソードラインのようだった。

「でも、このままだとやばいぜ? 素人の俺にも分かッ―――」






「ハァァァァァッラッ!!」







俺の声を掻き消す、裂帛の声。

マルギッテのものだった。

何かを拒絶するような、振り払うような絶叫だった。

どうやら戦いは、最終局面を迎えたようである。

まゆっちから視線を中庭に移せば、丁度、姉さん達は同時に互いに向かって走り寄っていったところ。

双方の間は距離にして二十メートル近かっただろう。

その距離は、みるみる縮まってゆく。

残り七、八メートルのところで、彼女達は同時に跳躍した。





服のはためく音が一層、大きくなった、その時。















月明かりに煌めく、白銀の彗星が、空から墜ちかかってきた。


















三者・・の軌跡が、交錯。




―――ミシリッッッ!!




圧壊の音がした。

三者とも、密着して一所に着地。

風が一陣。

次いで、紛れた猛気が、周りを炙る。

大きくたわんだ白刃の腹が、姉さんの拳を捉えていた。



マルギッテは、振り下ろし所の無くなったトンファーを掲げながらも、やはり突然の闖入者に驚きの表情を浮かべて。

姉さんは、心底面倒くさそうな溜息をついた。




そして、作法衣姿の彼は、姉さんに烈火の瞳を向けていた。


























案の定である。
寸分の狂いもなく案の定である。

鍛錬を終え、院の食堂へと入れば、一子がいた。

百代が、何処にもいないのだと言う。

戦闘時以外は気だるさを隠しもせず、鍛錬後の夜は漫画やゲームで暇をつぶす彼女である。こんな夜更けに出歩くという事は、それなりの理由があるという事。

彼女が何をしに、何処に行ったかは、朝の一件から、すぐに見当はついた。

急ぎ、立てかけてあった模造刀を引っつかみ、お巡りさんの職務質問を無視して、島津寮に疾駆して来た次第である。

この間に入り込むのに恐怖はあったが、そんな事は言っていられない。

百代は寮入口の門を、マルギッテは反対側の生垣を、それぞれ背にしていた。

仲裁するにしても、どちらかの攻め手は確実にもらう事になると計算した俺は、迷わずマルギッテ側に背を向けることに決める。

門戸を踏み台に、百代の迎撃の為に体を捻りつつ、彼々の中点に飛び込んだ。

視界に俺をマルギッテよりも遅く捉える事になる百代が、攻撃を途中で止められる保障はあまりないと踏んだ為でもあり、マルギッテが攻め手を止めてくれる事を期待した為でもあった。

そして、なにより、その破壊力の差。たわんだ鉄刃が、実感を持たせる。

まともに喰らって全治何ヶ月か、考えたくもない。




まあ、そんな事はどうでもいい。

本当に、どうでもいい。



















「な、直斗ッ……!?」

驚きの声を俺達は上げる。
器用に、鞘中から半分ほど本身を晒した刃の側面で、彼は姉さんの一撃を受けていた。

「……やはり、こちらでしたか」

息を整えた後、ひん曲がった刀を下ろし、彼は姉さんに話しかける。

「ああ……」

ふて腐れた表情で、姉さんは応答。

「……由紀江さん」

次いで直斗は、まゆっちに声を掛けた。
しかし、目は姉さんを捉えたまま。

「は、はいッ」

「事情を、説明して頂けないでしょうか?」

有無を言わさぬ、口調だった。


まゆっちがどもりながら、松風が茶々を入れながら、事の成り行きを話す。
最初からやりとりを見ていた俺も、時折補足した。






「…なるほど」

身動きせず、佇立したまま聞き終えた彼は、そう漏らす。

「全面的に、こちらに非があると、そういう事ですか?」

殺気ではない。

これは、怒気だ。

「……」

姉さんは、憮然とした表情を隠しもせず、黙ったまま。

その姿に呆れたのか諦めたのか、鼻から溜息をもらすと、初めて、彼はマルギッテとこちらの方を向いた。

「お騒がせ致しました。 本当に、申し訳ありません」

頭を、下げる。

「いや、姉さんの事はよく分かってるから…」

マルギッテは、呆けたまま。

俺は苦笑いで彼の謝罪に応じた。
彼が謝る必要は無いと思うのだが、やはりそこは、同門のケジメというものなのだろう。

「もっとも、勝負をふっかけるのを見たのは久しぶりだけど」

「…ええ、それが問題でして」

言ってから、彼は再度、姉さんを向く。

「対外試合は、固く、禁じられている筈ですが?」

正当防衛以外では、と付け加える。

「…仕掛けてきたのは、あっちからだぞ?」

口を尖らせる俺の姉。
小学生さながらの態度で反論する彼女は愛らしくもあり、だが弟としては情けない限りであった。

「挑発したのは貴女でしょう、というより、そうするよう仕向けたのでは?」

好対照に、直斗は姉さんの落ち度を的確に言い当てていた。

「……ジジイにチクる気か?」

日頃、祖父の小言に文句を垂らす姉にとって、それが一番の懸案事項のようである。
何か粗相をするたびに、山篭りを提案されるのだという。

この件が、クーラーの無い夏休み生活の引き金になる可能性が、無いことも無いのである。


「それは今、問題では無いでしょう?」

ぴしゃりと、瞬時に斬って捨てる。
普段の理知的な物言いに、拍車がかかっている。
これが、彼なりの怒り方なのだろうか?

「説教臭い事を、申し上げたくはありません。 しかし、明らかに今の一撃は、人を殺めるに十分なものでした」

使い物にならなくなった得物を、再び掲げて彼は姉さんに詰め寄った。

「川神院、次期総代の自覚を、お持ちください。 正式な仕合であればこそ、治療班も万全な準備でお相手の治療もできうるのです。 くだらない野仕合の為に、それもこんな時間に、門下生に慌しい手間をかけさせる者が、果たして川神を統べる者に相応しいのか、判断がつかない貴女ではない筈です!」

「ん…」

完璧にふて腐れた表情である。
ま、姉さんもきっと、わかっているんだと思う。

わかっているんだろうけれど…



そんな姉さんの苦しみを流石にわかっているのか、それ以上は何も責めるような言葉は並べず、次いだ彼の声は大人しげになる。

「先ほど、麻王総理からのご連絡が入りました」

「…ん?」

脈絡をぶった切った、報告だった。

「貴女と闘わせたい、という方々がいるそうです」

「……」

だが、無反応。

期待が、持てないんだろう。

この前の、なんたら兄弟が尾を引いているみたいだった。

「さる大国の、さる特殊部隊に属すると、聞いています」

「……ほう?」

だが、現金なもので、すぐに話に食いついた。

素直に、うまいな、と思う。
やはり一年も姉さんに付き合っていれば、扱い方に慣れるのだろう。


「麻王様には、俺も御恩がありますので、出来る限り、この申し出を破綻させたくはありません。 ですが、今の件が御本家に知れればどうなるか、おわかりですね?」

こくこくと、素直に頷く姉さん。
爛々と、目が輝いている。

「幸い、双方共に目立った外傷も無いご様子。 いらぬ不審を煽らぬ為にも、帰った方が賢明かと」

よろしいですか?
という確認を言外に匂わせ、首を傾けて、彼は提案する。


平和的な解決が、今、為されようとしていた。












「ダメだッ!!」

ここで、KY騎士である。

空気が読めない騎士様である。

























―――そうだろうな。



心中で独白する。

一騎打ちだったのだ。
誇りを何よりも重んじる騎士娘が、このような中途半端な形で幕を下ろされる事など、腹に据えかねるだろう。


「これは、くだらない仕合などではない! 切っ掛けはどうあれ、これは互いの矜持を賭けた真剣勝負の筈だ! いくら矢車殿の言うことでも、自分は承服しかねる!!」


俺も、言い方に問題があった。
もとより、百代よりも先に、こちらと話をつけるべきだった。
礼儀としては、そうした方が良いとわかってはいたが、しかし、問答無用で百代が決着をつけに入るのも考えられたのだ。

否、正直に言おう。

あまりマルギッテとは関わりあいたくない、という気持ちが心底に澱んでいた事も、告白しよう。




「気分を害する物言いをした事、お詫びします。 ですが、これ以上続ければ、明らかに危険ですので」

毅然として言い張る彼女に、俺は誠意を込めて、話しかけた。

「決闘に危険も何も…」

当たり前だ。

「その、後の事です」

彼女の言を遮って、俺は言い募る。

「…え?」

「仮に、決着がついたとしましょう。 どのような結末になるにしろ、明らかに、敗者は甚大な怪我を負う事は確実。 …或いは勝者も」

かたや川神院次期総代、かたや現役の特戦部隊員なのだから。

もっとも、どちらが怪我をするかは、明白に思えるのだが…。

「以前行われた貴女と俺の決闘は、数少ない例外です。 決闘とは、本来、相手を打ち倒すまで行われるもの。 そうなると必然的に、その後の処置が問題となります」

生死を彷徨う怪我を負わないという保障はないのだ。

「ああ、そうか……」

大和は、俺の言いたい事を理解してくれたようだった。

まあ、百代に俺が言った事を考えれば、自明だろう。

「他の流派から、甘い、と思われるかもしれませんが、川神院は礼を重んじています。 相対する者への限りない誠意、敬意、感謝、或いは愛。 この気構えから、同門他門拘りなく、闘いによって負傷した全ての武芸者に対して、最速最善の治療を施す事を、院が祀る本尊に誓っているのです。 だからこそ、再度競おうとする敗者の発奮を促せる。 そして、そこからの練磨相克によって、武が更なる進化を遂げる。 そのような意図もあると、俺自身、総代に伺いました」

ちらと百代に目をやる。
武魔の顕現たる彼女は、これを無視する傾向が強い。
これが取り返しのつかない事態に陥っていたら、如何するつもりだったのか。
見守ってやってくれとも、先日、総代からそれとなく言われたばかりなので、こうして駆けつけられたのだが、まさか四六時中動向を見張るわけにもゆくまい。

「今、此処で決着をつける事は、満足を得るという益よりも大きな害、将来の好敵手を喪うかもしれぬという害を孕んでいる事を、自覚していただきたく」

この人は、その気になれば正拳ひとつで、確実に死を呼び込めるのだから。

「決闘を行うな、とは言いません。 やるなら、万全な状態でと。 そういう事です」

川神院で執り行えば、良いだけなのだ。

「俺からも、総代に、院にて正式に決闘が出来るよう、頼みます。 元はといえば、川神の手落ち、こちらの不手際。 ですからどうか、ここは矛を納めていただきたい」

両掌を合わせ、一礼する。

百代の為の連帯責任、というわけではない。
満足に百代の相手を出来ない、俺達の未熟も、この事態を引き起こした一因なのだから。

むしろ、この責は、俺たちが多くを占めるのかもしれなかった。


だが、未だクリスは納得できないようである。

「……真剣勝負にやり直しは無いと、こちらでは言わないのか?」

……ふむ。

彼女は口を尖らせ、尚も食い下がる。理は、あちらにも相応にある。

意地が悪いと、そんな事を彼女に言ってはならない。

一騎打ちとは、本来、不可侵が原則であり、それが最たる美徳であるからだ。


「…まあ、確かに、そうだよなあ」


百代が、そう言い放った。

薄ら笑いを浮かべながら。




……ダメだ。

これでは、また、元の木阿弥。


こんな深夜に迷惑千万ではあるが、治療班に来てもらうか。

そう、説得を諦めかけた時。


「あ、あの、クリスさん」

由紀江だった。

「ん? なんだまゆっち?」

「わ、私が、思うにですね、その…、この決闘はクリスさんが戦うわけでないなら、そそその」

「む?」

更にクリスは怪訝な表情を深めた。

歯に衣を着せる言い方に慣れてもいなく、またそれを全面的に善しとしないだろう彼女は、少々苛立ったようだった。

(へーい、クリ吉ぃ~。 まゆっちはな、ヤるヤらないはオメーが決めることじゃねぇよ、おととい来やがれ、って言ってんのさ~)

「な…」

騎士の頬に、この暗い中でもはっきりとわかるくらいに、赤味が差すのが見てとれた。



…へぇ。 あの引っ込み思案が、言うようになったものだ…。

これも、「風間ファミリー」のお陰なのだろうか。



未だ腹話術を通しているのは、この際、無視するとして。

今、松風を諌めている芝居も、この際、無視するとして。




「…ま、正論ではあるな」

待ち構えていたかのように、大和は同意する。
同じ事を、彼も思っていたのだろう。

「これがクリスの決闘だったら、しょうがないが、この決闘はマルギッテの問題だろ。 マルギッテに訊くべきじゃね? ゲンさん、どう思う?」

騎士から返される刺すような視線から逃れるように、顔を源へと大和は向けた。

「あ? 俺に矛先を向けんなメンドくせぇ。………俺の意見も、そう違わねぇが」

邪険な、しかし律儀な応答に満足したのか、大和はまとめに入った。

「ってことなんだけど、どう? マルさん?」

「……」


「…どう?」


「………ぇ?」


ようやく、反応が返ってきた。
しかし、様子はといえば、挙動不審の一語にすぎる。

「ッ!?」

すぐに、額を地に向ける。






ここまで、呆然自失、唖然の態を崩さなかった彼女。

そして、その瞳が俺の顔が映した直後に伏せられた事に俺は気づく。




それでも、俺は、忘れていて欲しいと願う事を、止める事は出来なかった。























むぐぐぐ。



自分、クリスティアーネ・フリードリヒの内心は、この四字で形容されるに事足りた。



この決闘は姉貴分、マルギッテ・エーベルバッハのものだ

それは、そうだろう。

だが、それでも、決闘には違いない。中途で断たれてはいけないものだ。
加えて、あちらからのアプローチをこちらが受け入れた形で開戦したんだ。それなのに、向こうの勝手な理由で打ち切られるなど、不敬千万。

絶対にオカシイと思う。

オカシイ事は、正されなければ、とも思う。

騎士として、否、それ以前に人として。



故郷の友も、こちらで新しくできた友も、自分は堅すぎる、もっと楽に考えろと言う。
隣の大和は、特にそうだ。毎回毎回、からかわれるたびに、このニュアンスの入った言葉を浴びせかけられる。

でも、譲れないものは、誰にだってあるだろう?
自分は単に、その範囲が、他よりも少し広いだけだ。

譲れないものを護る事、この行為に何を恥ずべき事があろう?
とりわけ、これは戦士の誇り云々の話だ。これを護らずして、何を護れよう?


だから今も、ああやって口を出してしまった。
思った事を、人の心情も考えずに言ってしまうのは、自分の悪い癖だと自覚している。それは、あの秘密基地での一件以来、幾らか改めようと努力している。
だが、どうにも、これだけは承服しかねた。受け止めかねた。


しかし、松風、もといまゆっちの指摘を受けて、気づく。

姉も、マルさんも、同じ気持ちだったのではないか、と。

否、勝負を汚されたのだ、きっと自分以上に、憤懣やるせない感傷の溶岩が、胸にとめどなく渦巻き、うねっているに違いなく、それを懸命にとどめているのだ。

大和の言葉への狼狽は、これが理由だったのではなかろうか?


…なんと。

自分はまたも、当人の気も知らずに、独り、脇目も振らず先走る真似を犯していたのだ。

だから、この実感から来たる、自らを恥じ入る気持ちが、冒頭の四字の呻きに集約されるのだった。



それをこれでもかと噛み締めて、自分はマルさんの回答を待つ。



きっと姉は、勝負の続行を、臨むだろう。

それだけは、確実。




「…ッ…」




そう。

確実だと、思っていた。


だが、マルさんの顔は、俯いたまま。

唇をかみ締めた横顔から伺えたのは、緊迫の様相。






















「マルさん?」

お嬢様の困惑の声が聴こえる。


自分が信じられない。 
まさか、ここに来て、ここまで来て、闘う事への畏怖の感を拭えていない自分に。

あれと闘う事を、熱望して、渇望して、そして…自分を認めさせる為に、十年近くの月日の間、身を砕いていたのではなかったのか?

打ち克つ決意を秘めて、この極東の地に赴いたのではないのか?

なのに何故、ここで躊躇する?
何故、存在を認めたその時から、身動きがこうも鈍るのだ?




そして、思い通りにならない体とは裏腹に、思考は巡り、巡る。



トラウマ。

脳細胞の演算によって究明された原因は、実に陳腐にして軟弱な精神疾患。



あの時も、月の映える夜だった。
あの時も、程よい満腹感の中だった。
あの時も、荒々しい憤怒を向けられた。
あの時も、矜持を守るために闘った。


この状況に符合する記憶が、ニューロンを駆け巡る。



そして、あの時、私は――――




「マルさん!?」





不意に、回想が途切れ、我に返る。


視界が揺れていた。

お嬢様が、肩口から軽く私を揺すっていた。


「お嬢様……」



護るべき者の揺れる瞳を見る。




そうだ。

逃げられない。

逃げてはならない。

彼女の前で、敵に背を見せる姿を、見せてはならない。


それに。


「そうですね…。 私、らしくない。 恐れるなど、私らしくない」

そう、私は猟犬。

誇り高き、至高の獣。


「…私は、決着を望むッ!」




























両者とも、戦意高々の様子。
どうやら、怪我人が出るのは避けられそうもない。

わざわざ出張ってきた直斗には、とんだ徒労となるみたいだった


「……そうだそうだ、中途半端は悪いよな~♪」

姉さんは至極残念そうな顔で、至極喜悦が滲んだ口調だった



「…直斗、悪いけど、これ止めらんないみたいだわ」

心からの謝罪を行う。

「……治療班、呼びます」

庭の隅のほうに歩を進めながら、懐から携帯を億劫そうに出した彼に申し訳なさを感じつつ、俺は件の二人を注視しなおした。














だが、ここで、誰もが予想も出来なかった展開が待ち受けていた。
















「勘違いするな、川神百代」

「…何?」

「言った筈だ。 お前より、優先する者がいると」


何かの儀式じみた仕草で、カチカチと両腕に具された旋棍は撃ち合わされた。

マルギッテは息を大きく吸い込んだ。
まるで庭中の空気を、失くしてしまいそうな勢い。


そして、カッと目と口を開け拡げ――――、





「(立ち合えぇッ、矢車直斗ォッ!!!!)」





振り絞るような気合が、弾けた。















―――――――――――――――――――――――――

ここまで読んでくださり、感謝感激雨霰です。


そして、皆さんに質問と言うか…

現在、マジ恋ドラマCDの購入に迷ってます。

一応、マジ恋関連資料として、マジ恋(初版)と付属した小冊子、一迅社から出てるライトノベル全巻、あとマジキュー四コマの一巻を所持しています。

ドラマCD欲しいと言えば欲しいのですが、単価3500が五枚ってwww
楽々ほかのエロゲが二、三本買えるという…。
ちなみに中古は買う気しない。

…なんか風の噂でモロの髪の毛のヤツがキモイとか何とか。


購入された方、いらっしゃったらご意見、頂きたいかなと。

感想板に、ドシドシ、くださーい、お願いします!

いまひとつだったら、リニューアル版の鬼哭街が面白そうなんで、そっち買おうかな…






[25343] 第二十一話:失意
Name: かぷりこん◆273cf015 ID:177153ba
Date: 2011/07/06 23:45


『待たせたな。』

―――ソリッド・スネーク
















トンファーという武具について、解説しようと思う。


詳しくは存じていないが、何やらゲームの中で三国武将が使っているイメージが強いらしく、中国古来のものだという思い込みが根づいているようだが、元々は沖縄の古武道において使用されていた武器の一つである。

この得物の恐るべき点は、運用面での汎用性にある。

握りの部分を、オーソドックスに持った状態では、自明として、自分の腕から肘を覆うようにして構えられ、空手の要領で相手の攻撃を受けたり、そのままの突き出しによって、卓抜する破壊力を伴った、「点」の攻撃行使が可能である。

また、取っ手をそのままに、逆に長い部位を相手の方に向けて、棍棒のように扱い振るう事ができる。
言わずもがな、こちらは「線」の攻撃型。
破壊力こそ劣るものの、そのリーチの長さから、確実に相手を捕捉し、削る。

そして、これらは握力を加減し、手首を返す事で、いわゆるスナップを効かせる事で、半転させて瞬時に戦闘型を切り替える事ができ、或いは、数回転させて勢力を付与しつつ、相手を殴りつける事も、熟達した遣い手ならば容易い。
この辺りが、旋棍と名づけられた由縁だろう。

それだけでなく、長い棒の部分を持ち、握り部分を相手にむけて鎌術の要領で扱う事も、ブーメランのように射出して逃走する相手の足に絡ませ転倒させる事も、また可能。

暴徒の鎮圧や無力化に用いる攻守一体の装備として、トンファー・バトンは、「打つ」「突く」「払う」「絡める」などの様々な用法を習熟することにより、極めて合理的かつ有効な装備である。
確か、警棒として正式採用している警察も、あった筈だ。
俺自身、欧州で警察官がぶら下げているのを見かけた事がある







この全てに、トンファーという武器は応用できうるのだ。
刀を持つ敵と戦うために作られた、近接戦闘では敵無しの攻防一体の武器。


……言いたい事はだ。





今の俺にとって、天敵以外の何物でもない事である。
















6月9日(火)

昼休み、中央グラウンドにて。





ギャラリーが地べたに座り始めた事から、闘いが始まって、十数分は過ぎたと想像できた。


「ッつァ!」


抜き身の刃無き刃が、彼女の鎖骨を目掛けて、奔る奔る。

鈍銀の軌跡を残す程の迅さだ、常人では視認すらできない、そういう自負はある。

だが、その一刀を難なく、マルギッテは片腕で受け、流した。

続いて俺が自らの勢力を殺せずにつんのめったところを、もう片方の手に握られた彼女の得物は、容赦なく狙い撃つ。

重心移動によって足腰からの勢力をも乗せた、一点蒐約の穿ちが襲い掛かる。

突先が脇の肉を抉りこむ一歩手前、俺は慄きながらも無理矢理足を摺り、体を開いて、そのまま独楽のように体躯を回旋させて避け、一円を描いて再度、彼女の肩口へと斬り込む。

「…ハ…ッぬんッ!!」

毎回のように硬度抜群の相手の得物に阻まれ、衝突点から諸手に伝播する波動に顔を顰めながら、次々と繰り出される突貫殴打の嵐に負けじと、俺は鈍刀を振るい続ける。

「……ふ、ざ……ッけるなァッ!!」

「っく!?」

ついに肩で息をし始めた俺に向けて、容赦の欠片も見せずにマルギッテは棍を振るう。

その瞳を染めるは、烈火の色。

堪らず、後退。

















―――くっそぉッ!

俺にも意地がある。
俺は彼女に、勝った事があるのだ、否、勝った事しかないのだ。


この七年の間に、追いつかれたと云うのか!?



―――こんなにも、引き離されたと云うのか!?



「づぁ゛ァアッ!!」

一息で、かりそめの間合いを詰め、斬りかかる。


……なんにせよ、こんな無様を、この衆人環視の場で晒すなど、あってはならない。 

川神の門弟として、到底、受け容れられない!!


瞬時に受け止められた斬撃と、寸時の間もないカウンターに歯噛みしながらも、徐々に速度を上げていく双棍の殺到に必死に喰らいつく。

右上段へと剣が跳ね上げられた時、鋭い突きが、一直線に胸元に飛び込む。

それを半歩退いて避け、退いた分だけ踏み込みながら、横薙ぎに執念を乗せた一刀を振るう。

俺の斬撃を彼女が捌き、或いは受ける。 
彼女の打突を俺が避け、或いは払う。

まるで、竜巻から攻め立てられているようだった。

尚も拳足の嵐は加速する。
先程までは一息で二撃だった。 今は四。 いや、五。

鉄と黒檀がぶつかり合う。 その度に、俺の焦燥の顕現たる汗が飛び散る。

噴汗に呼応するように、嘔気が沸々と咽頭の奥で込み上がる。 
喉が、ぴりりと沁みる。 胃液が、すぐそこまで、せり上がってきている証拠だった。

これほどまでに長い仕合は、記憶にない。
無意識に押さえつけていた緊張が、ついに御し切れない所にきたようだ。


衝突のたび、両者の間で生み出される火花が、飛び散った汗を照らす。



その汗が、火花と交じり、蒸気となって、俺の眼に、飛び込んできた。




その間隙を逃すほど、彼女が慈悲深い事は無く。















「……ぅ…ッ゛オォ゛…」

まるで言葉にならない呻きを上げて、俺は地に伏す。 額に土つくこと構わずに。
のたうち回る事も、できない。 左胸に、灼熱が走り続ける。



諸君に問おう。

肋骨を、あばらを、折った事があるだろうか?

よく、ほら、漫画などであるだろう?
「ちぃッ、アバラ二、三本イっちまったか……」とか言いながら、それでも仇に向かっていく主人公とか。





……断言しよう、ありえないと。

真剣マジで、それは無い。

呼吸のたびに、胸の肉を、肺を抉りこまれる感覚を体感してみればいい。

この痛みに一分も耐えられたなら、余程の強者か、余程の変態だろう。






そうして、6月9日の俺の記憶は、ここで途切れるのである。



















<手には鈍ら-Namakura- 第二十一話:失意>

















「……ま、あんなものだろうな」

隣の姉さんは、酷く冷めた目で、繰り広げられる戦闘を眺めていた。
少々、直斗が劣勢といえる戦況から目を離し、俺は姉さんの様子を見る。

あの後。
マルギッテが直斗に宣戦布告した直後は、それまでよりも一層、めまぐるしく状況が悪い方へ悪い方へと悪転。
マルギッテは問答無用で直斗に飛び掛ろうとし、姉さんはといえば、それを止めようと、否、獲物を逃すまいと、直斗との狭間に立って決闘を続行せんと躍起になる。 幸運にも、彼の携帯電話越しに状況を聴き取ったルー先生が駆けつけなければ、島津寮周辺の宅地がどうなっていたか、わからない。 朝、現場を見直してみれば、寮自慢の庭が、見るも無残な様相を醸していた。

事態の収拾はというと、遅れてやってきた総代、川神鉄心の取り成しもあり、ひとまず昨晩は三者とも退いて、今日学園にて、直斗とマルギッテの正式な決闘が執り行われる事になったのだ。

……しかし、どのような因縁があったんだろう。

「姉さん」

「ん?」

「直斗から何か聞いてないの?」

「……何を?」

不機嫌そう。

それも当然か。 何しろ自分を押しのけて、止めに入った直斗に獲物を奪われた形になったのだから。

無視される事。 生きていれば、そんな状況に出くわす事など多々あるだろう。
だが、こと姉さんに限って言えば、そんな事は一切なかったに違いない。
常に体中から覇気を迸らせる彼女を、邪険にあしらう輩など、そうそういない。

「いや、ほら、マルギッテがあんなになってる理由とかさ」

「……昨日から、あいつと口利いてないからな。 詳しい事は知らんが」

おいおい。

彼が悪いわけではないだろうに。

「ジジイが言うには、昔のヤンチャが、祟ったってとこらしい」

「……直斗が、ヤンチャ、ねぇ」

想像し難い。

そんな感想を抱き、ちょうど闘いの方に再度、眼を向けたとき。


「……ぅ…ッ゛オォ゛…」


決着が、ついたようだった。



















―――ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな。




マルギッテは、憤怒の情に身を灼かれていた。

目標としていた者を、超えた。
「約束通り、」自分を、認めさせた。
そんな感慨など、微塵も浮かんでこなかった。

何なのだ? コレは?

十メートル先の標的、だった者を漠然と視界に映す。
川神の者と思しき数名に手当てを受け、未だ尚、その意識は漂流しているであろう彼奴。


こんな、こんなものでは、断じて、なかっただろう!?


「……ッ゛!」


思わず、大股に歩いて間合いを詰める。

まだだ。
まだ、終わっていない。

そうだろう?

半ば懇願するように、私は心中で問いかけながら、彼が立ち上がるのを期待しながら、歩を進める。

ここで終わりであるならば、今までの私は何だったのだ?

この八年の訓練につぐ訓練、任務につぐ任務。
その全てが全て、貴様に及ぶため、捧げた物だ。 供物だ。


トンファーを、地に落とす。

救護を押しのけ、奴を立ち上がらせようと伸ばしかけた手を、だがしかし、止めざるを得なかった。

凄まじい握力で、右手首を掴まれたからだ。

「……もう、勝負は着いただろう。 これ以上は無粋じゃないか?」

同門の者が破れたというのに、その表情に真実、喜悦を滲ませながら、川神百代は私の耳元で囁く。

「貴様に用は無いッ」

叫ぶ。

邪魔以外の、何物でもない。
そう言外に匂わせたのだが、それで引き下がる者でない事は明白。

手首を絞める力が、より一層、凶暴になったのがその証拠だった。

「お前にとってのナンバーワンは、既に倒れた――、なら、次はナンバーツーの出番だよな? ……私がツーとは、本当に、不服だが」

「……まだだ」

「よく見てみろ。 もうコイツ、グッロキーだろう?」

改めて、彼を見る。

そう、百代の形容する通りだった。

二本、胸骨を折った手応えも感じた。
戦場ならば、無力化に等しい打撃を与えてやった事は、自分が一番理解していた。

戦いの最中に見た彼の相貌は正しく、必死そのもので、それが全力を出し切っていた事の証明でもあった。






………でも、それでもッ…!!



「……ッ貴様はッ!」

「おいッ…!!」

それでも、手首の痛みはそのままに、私はまた一歩、彼に詰め寄る。

これが今の彼の全力であるのなら、私は、とんだ道化ではないか?

彼だけを見据えて、彼の剛さだけを思い描いて、ここまで修羅場を潜り抜けた私は、どうなるのだ!?

「本当にこの程度ならば、失望するッ、貴様を私は侮蔑する、矢車直斗ッ! わ、私は、私はッ!!」

この日のために、どれだけ時を費やし犠牲にしたか。

「マルさん!!」

クリスお嬢様の声もする。
左手にも枷がついたようだ。

だが、構わず叫び、また一歩詰め寄る。



本当に、本当にこの程度であるならば……





――――貴様は、今まで、何をしていたァッ!?




かたや武神、かたや最愛の妹の手による枷を、腕ごと引きちぎらんばかりに、私は吼え続けた。










視界が滲むのが、嫌で堪らなかった。






























約九年前。

恐怖の大魔王はついに世に姿を見せず仕舞いとなり、つつがなく西暦は二千を数えた頃のこと。


俺たちは、リューベックの、まさに白亜の宮殿の名が相応しい邸宅を訪れた。

フランクさんの住処である。

前にも言及したと思うが、両親の仕事柄、俺は家族ぐるみで国際交流の場、パーティのような集会に出ることが多かった。 ここで行われる軍部内の宴に、お呼ばれされた訳である。



この時、親父たちは密かにある計画を進めていた。
アフリカの小国への支援物資輸送、及び国内でのその流通である。

その国は、軍事政権が台頭していた。

軍閥政治が悪いとは言えない。 長きに渡る間、その政治体制で国民が守られてきたのなら、独裁制に近い政治形態も、民主主義と同等の価値を持つ筈だ。 必ずしも、悪ではない。 デモクラシーの恩恵を受ける先進国にて生活しているせいで、或いは、より具体的な非難材料となる事件が引き起こされたせいで、独裁=敵国家という認識が俺達の中には広まっている。

ただ、やはり権力の分散が為されないと、腐敗は圧倒的に生じやすい。
軍部の横流しが目に余る状況下で、親父たちは、ならばと、自分たちの手で物資を、必要としている者の所に直接手渡すと、平たく言えばそういう計画を打ち立てたのである。

しかし、その為には彼らもまた、軍事力を欲した。 いや軍事力というよりもマンパワーか。  国連の御名は、有名無実も甚だしく、敵国内での物資の搬送には、その手の荒っぽさと、隠密に事を運べるだけの技術と経験を持った「部隊」が必要だったのである。

Op.Carol
オペレーション,キャロル。
自らの所属を一切明らかにせず、ただ、必要とされる物を、さながらサンタの如く、軍の目を盗みながら村々に置き去る。 計画の全容はそういう、シンプルにして困難なものだったという。
そして、フランクさんの擁する「狩猟部隊」が、後に実行役の筆頭となっていたのだ。

しかし、この時点では未だ、フランクさんを含めた協力者を集める段階であったため、個人的なコネを、時間をかけて作り、温めねばならないとして、建前であった軍の戦地における難民対応のアドバイザーとしての職責も全うしつつも、機会を窺っては各国の要人と交渉を重ねていた。

しかし、もちろんタダで協力してくれるなどと虫のいい話はなかった。 だが、彼らが特定の中東圏やその周辺の軍事国家の中枢に「S」――間諜をいかにして配置するかに困窮していた事実もあった。 そんな中、過去に現地で、いわゆる真っ当な貧民保護活動を行い(それでも十分で無いからこの計画が提起されたのだ)、相応の信用を築き、ツテを少なからず持つ両親は、渡りに船に違いなかっただろう。 親父たちにとっても、苦渋の決断だったと思うが、やむをえまいと、断行したようだ。

そういう裏話があって、取引相手へ機嫌はとらなければならないわけで、毎週のようにローストビーフを俺たちは食べに行っていたのだ。






くだらない、と思っていた。

当然ながら、なんら事情を知らされないままであったので、髷カツラをかぶり、刀片手に演舞しつつ、添え物の果物を瞬時に切り刻む等という、大道芸以外の何物でもない出し物を平然と行い、続く拍手喝采に笑みさえ浮かべ、制服に勲章をやたらめたらにベタベタとつけた軍人の機嫌をとる両親の姿は、俺にとって唾棄すべきものに他ならなかった。

妹のほうは、無邪気に笑いながらソレを眺めていたために、余計に腹立たしく、しかし、何となしにではあったが、内容はともかく、父母の企み事の存在だけは感じていたので、俺も精一杯の笑みを張り付かせて、周りの人間に応対していた。


彼女に出会ったのは、そのような心境の時である。
着飾った他あまたの女性陣の中にあって、シャツに紺のベスト、パンツを合わせただけの格好。 だが逆にそれが、彼女に滲む気品と誇りを際立たせていた。 

恐らくは、士官学校の制服であったのだろう。 
今から思えば、あのような場くらい、女性らしく煌びやかなドレスを纏ってもよかったのではないかと、苦笑を禁じえないが。


最初に彼女と言葉を交わしたのは、真守。



歳相応の会話、では無かったと思う。

身に着けていたビーズアクセから始まったはずの会話が、いつの間にか戦争だの平和だの、そんな大それた論争になる様を、俺は物理的に少し距離をとって、心理的に多分にヒいて、眺めていた。

少し前にアンネフランクやシンドラーの映画を見たせいもあったのかもしれない。
ドイツに行く前にそんなものを鑑賞するのは少し、いや、物凄く無粋だろうに、それを止めようとしない親父の甘さよ……。

とにかく、平和主義に少々かぶれていた妹と、誇り高い士官候補生が衝突するのは自明であった。
だんだんと口喧嘩の様相を醸すソレが、周囲の注意を引き始めるのを察知した俺は、仕方なく妹へと近づく。

どちらの味方をするでもないが、ま、楽しく宴会しようぜと、そんな感じの微笑を形作り、割って入ろうとした時である。



向かうマルギッテの手が、刀形を模したのを、確かに見た。







今にして思えば、殺気はなかった。
寸止めで脅かすつもりだったのだと、そう思える。

あれだ、「問答無用で攻め立ててくる輩に、どう平和を説くのか」云々と言っていたから、その意趣返しだったのだろう。

それでも、家族に手を出される様を黙って見ていられるほど、この時の俺は忍耐強くなかったのは、確かであり。

妹へ真一文字に繰り出される手刀を、手首を掴んで防いだ。



その後の流れは

「外、出ろや」→拳蹴拳拳肘拳拳蹴→テテテーテーテー、テッテテ~♪

と、こんな感じだったか、いくらかクサい台詞を放った気も、無きにしもあらずだが、詳細は、ご勘弁願おう。









院の縁側にて、柱に背を預けて座り、紫陽花の鮮やかな淡紅を目に映しつつ、そんな事を思い出していた、決闘から二日後。

胸の痛みは嘘のように退いている。
骨は、あと幾日かで完全に元通りという話。
毎度ながら、ここの治療班の腕には驚かされるばかりだ。 気功、内功の応用らしいが、真似できそうもない。

これを突き詰めた結果が、百代の瞬間回復なるものなのだろう。

民間療法も甚だしいが、その実、現代医学を超越しているのは、間違いない。
もっとも、門外不出の奥義でもあるので、外に出回ることは無いのだという。 川神門下の役得というところ。


「……」

ため息は、つき飽きるほどついた。
だから、今はただ、黙って、治癒を待つ。



そうすべき、なのだろうが。

傍らの木刀を無性に振りたい、この衝動は、申し訳程度に心にへばりついた武闘家としての矜持か、はたまた、単なる見栄か。

十回だけ、上げ下げするだけ、と決めて座したまま掲げる。
こんな事でもしていないと、喪失の情に似た、ある種の無力感が胸にこみ上げてきそうでもあった。







俺には少なからず、否、多分に、過信があった。
口で何と謙遜しようとも、幾年ものブランクを跳ね返せるだけの才が、自らにはあると。

信じていた。

あの頃の俺は、「施設」に入る前の俺は、控えめに言っても、そこらの武術家など一蹴できるような実力があったのだ。
父も母もそう認めていたのだから、間違いはない。

そう、心の底で「俺は本当は強いんだ」と、それこそニートよろしく思い続けていた。
だから、すぐにとは思わなかったが、一年もあれば、川神百代以上とは流石に無理とはいえ、彼女と死合って、幾らか拮抗した闘いができるようになるまでは、強くなれると、信じていたのだ。


なのに、何だ? このザマは。


過去に、それなりの余力も残してあしらった、マルギッテを相手に、この有り様。

欧州最強のインファイターだとクリスは言っていた。
あれから、俺が矜持もろとも叩き潰したあの時から、どれほどの修練を積んだことやら。

まず、肩書きからして、異常。
あの若さで、ハタチそこそこで少尉――、尉官の地位にあるという事。

家系由来のコネが多少あったとしても、最下位とはいえ立派な将校たる地位に昇るには、多くの修羅場を潜り抜ける事となったろう。



……スゲェ。 本当にスゲェ。
「武力こそ平和へのツール」と、啖呵切っていたが、まさかここまでする覚悟と実力を秘めていたとは思わなかった。


だから、ある意味で、俺に勝って当然といえば当然なのだ。
何年も武から遠ざかり、一年くらいのにわか鍛錬で、俺が勝つ道理が罷り通っていい筈がない。






問題は、あの後。 俺の敗北の後にある。





ちらと、真横の座敷を盗み見る。
寝具に包まる、彼女。
そこに、俺を先日、叩きのめした人物が、叩きのめされた状態で眠っている。
頬半分を占拠する湿布が、痛々しく。




そう、問題はあの後。

猛り狂ったマルギッテを百代が、瞬時に、撃破したことにある。



何だというのだ?
理不尽だろう? 不条理も過ぎるだろう?

これまで幾度も仕合を俺は百代と交わしたが、手加減しているなとは思っていても、それでも、およそ七、八割方は本気を出しているのだろうと勝手に思い込んでいた。

そう、それにあの夜の決闘騒ぎも、俺が着く前に相当の時間が流れたと聞いた。
だから、マルギッテ相手に少なからず粘れれば、きっとそれは彼女に近づけたという証拠となりえたのだ。

そんなことを、昨日意識を取り戻した数分後に考えていた。

だが現実はどうだ?

俺がいくら足掻いたところで、膝を折らせる事すら叶わなかったマルギッテを昏倒させるまで、百代は、五秒もかからなかったという。

マルギッテに疲労はあっただろう。
だが、決して、疲労困憊、とまでの消耗ではなかった筈だ。

それを、こうもいとも容易く、一ヶ月は療養を余儀なくさせる状態に陥れるなんて、もはや笑うしかないとは、こういう状況だろう?

あの夜、彼女は実力の半分も出していなかったのだ。
マルギッテより、由紀江より数歩だけ先に行っているという俺の予測は、勘違いも甚だしかった。

目標とする彼女、いつか、全てを賭して闘う運命にあったかもしれぬ彼女との、絶望をも飛び越えて、呆れさえも感じさせる程の距離が、圧倒的力量の差分が、一挙に露わになった、そんな数日。



その強さは途方もなく、その才は底を知らず。





認めるしかなかった。
俺は、彼女からすれば、凡夫に他ならないのだと。

武の道から一度外れた時点で、俺の才と練は枯れ果て、零落したのだと。



やはり、剣を手放す。
ゴロリと、心なし不快な音が床に響く。







殺到する己への失望を、座り尽くしたまま、俺は受け止め続ける。










[25343] 第二十二話:決意
Name: かぷりこん◆273cf015 ID:177153ba
Date: 2011/07/09 23:33


『初めから妥協を考えるような決意というものは本物の決意ではないのです。 例えば戦争をしておっても、誰も妥協を考えてやるのではないのです。 勝つことが目的であって、最終目的に対して、十とれるところが八だとか、八とれるつもりがまあ五だろうというのが妥協であります。 初めから五を考えると、二しかとれません。 』

―――三島由紀夫















「………ん、ぅ?」

何かが倒れる、くぐもった音が発せられ、マルギッテは薄目を開ける。
重い眠りから引き上げられつつあった意識が、その音で一段と覚醒したようだった。

白濁に囲まれた視界には、幾つもの木目が連なる天井。
自分が見慣れたものではなかったために、寸時、何が自分にあったのか理解が及ばなかった。

ただ、軍人としてこの身に刷り込まれたサガからか、布団に横たえた体を起こす気力は無くとも、マルギッテは目だけを動かして自分が置かれている部屋の状況を分析し、完全なる把握に努め始める。

ぐるりと両の目玉が部屋を一周した後、欠落していた最後の記憶が頭に迸り、跳ね起きる。
しかし、こちらも思い出したかのように、さしこみのような痛みが全身を苛み始め、また床の上に寝転がる事を余儀なくされる。

「―――ッツ」

堪らず舌打ち。
恐らくは川神院内にいるのだろうが、あれからどれほどの時間が経ったのか。
そう考えようとした矢先、今度はこみ上げてくる吐き気に思考の中断を強制される。

最後にくらった脇腹への痛打に、肉体は未だ動く事を拒絶しようと、止め処ない痛みを発していた。
また、酩酊感のようなだるさと共に、二日酔いのような眩暈もある。

一体コレは本当に自分の身体なのだろうか。 
そんな感慨さえ抱くほど、鍛えぬいたと自負するこの体躯は、奇妙なほど弱りに弱りきっていた。


……溜息をつきながらも、結論を下さなければならなかった。

いま少し、ほんの少し、静養せねばと。


一切の物音を遮断し意識外に追いやろうと、寝返りを打ったとき。
障子を透き通って差し込む光の中に、黒き影があった。







誰だろうと、思うゆとりもなく直感した。






今度こそ完全に意識は覚醒し、迫る嘔吐感と激痛をねじ伏せて、半ば倒れこむように戸口へと体をむけて、引き戸を指先で勢いよく開け放つ。

瞬間、久方ぶりの陽光の直射に目が眩み、しかし、後光の中、確かに奴はこちらを振り向いた。

と思考したら、先の勢いを殺し損ね、額からしたたか、縁側に叩きつけられる。




「……」

「……」

そして、しばしの無言。




「……」

「……じゃ」

いや、待て。

スルスルと真横に逃げようとする奴の腕を、引っこ抜かんばかりに握る。

そのまま、床から顔を上げ、顔を向け合う。

否、私が顔を向けると、奴は一寸暇もなく顔を背けた。

「き」

貴様、、と痛む喉から発声しようとすると。



「……る」



「…え?」

かすかに奴の口が動く。



「零れてる」


こぼれ?



流し目の先を辿る。







胸元がはだけ、初夏の陽気にさらされていた。







羞恥に、頬から火を噴いた。



















<手には鈍ら-Namakura- 第二十二話:決意>
















重病人を、衣服をそのままに治療することは、まずありえないこと。
川神院にて療養に努める者は、簡素な甚平風の、作法衣を着用するしきたりである。

患部を圧迫させぬよう、付紐がある程度緩められ、前布がある程度だぶつくのは自明であり。



「(おい)」



瞬時に元の部屋に篭ってしまった彼女に、声をかける。
なんとなく、いつもの敬語口調は、彼女に対して失礼と思え、それでも荒い語調で話すのを他人に聞かれたくもないので、自然と彼女と初めて会ったときのように、英語を使った。

「(もう、行くからな。 ……お大事に)」

「(ち、ちょっと待て)」

「(待たん。 寝てろ)」

布擦れの音から、日本の伝統装束に悪戦苦闘している様が目に浮かぶ。
片方の紐が見つからんのだろうな、とそんな事をぼんやりと思った。

嘆息を一つ、俺は先ほど放った木剣を拾い上げ、自室へと踵を返す。 来週からは流石に学校に行かねばなるまい。
満足に稽古も出来ない身で、院にとどまり続けられるほど、面の皮は厚くないつもりだ。

あんな無様を晒した後、衆目に触れるのは些か忸怩たるものがあるが……。



「(待ちなさいッ)」



戸が再び開く音が聞こえた。

ひとり天照大神ごっこは、おしまいのようである。

振り返れば、結局両裾を手で押さえることにしたらしい彼女がいた。

胸部中央から腰元にかけて、肉感が滲み出るその姿は、どこぞのサルや筋肉男が見れば、垂涎卒倒モノだろう。


……俺か?

俺は紳士だから。 
気取られんよう、堪能しているさ。 

胸部中央に覇を唱える突起の、布越しの自己主張の甚だしさときたら……。

「(……割と元気なんだな。 安心した)」

「(軍人たるもの、こ、この程度……ッ)」

おっと。

言ってるそばから、マルギッテは前にかがみ、腹を押さえて膝をつく。

「(寝てろ。 俺と違って、お前は丹田やられてる。 今一時は動けても、後は反動で、だいぶ痛い思いするぞ?)」

気功が効かないのは、このせいである。
如何な癒氣を送ったとしても、ポンプが機能しなければ、存分な効果は期待できないのだ。

「(フランクさんには連絡がいってる。 ちょうど良いから、溜まった休暇を消費しろだとよ。 ……ほら、入った入った)」

半端に開かれた障子を、更に引き開き、促す。

こういう時、手を差し伸べたり、抱えあげたりするのが真のジェントルなのだろうが、出来かねた。
無様を晒す戦士に、これ以上の侮辱はあるまいとも思え、また彼女もソレを望むまい。 相手が相手だ。

痛みが小康となり、彼女が動くまで待つ。

彼女は床面に俯きながら、息を整えている。
そして一呼吸、二呼吸と徐々に落ち着きを取り戻すや、キッとこちらをめつけた。

上から視線の糸を垂らしている筈なのに、何故だかこちらが見下ろされているような、そんな気分になった。





「(……負けた言い訳をするつもりはない)」

だから、予防線を張る。
何故だか泣きそうになったから。

「(一昨日の俺が今の俺で、多分、これからの俺だ。 だから、否定はしないでく――)」





「(嘘だァッ!!)」

大きく被りを振られた後、彼女の瞳が俺を射抜く

「(あの時の言葉は忘れもしないッ。 この胸に、しかと刻んである!)」

……やっぱり、覚えてるよな。

彼女の慟哭に近い叫びを聴き、ぼんやりと彼女の激情を見る。

「(容赦なく襲い掛かる暴力に、如何に和を説くのか、そう彼女に問うた時、)」



―――俺が護る・・・・



「(低く、決意を秘めた声で、紛れもなく、そう言った筈!!)」

燃ゆる紅髪逆立たせ、矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。

「(どんな輩であっても自分が拳を受け止め、妹が言を捧げる。 そう言ってお前は、妹を否定するなら俺を討ち果たしてからにしろと、そう宣言した筈! 言葉でも、その拳でも、その蹴脚でも!!)」

厄介な事を、俺も口に出してしまったものだ。

その想いに、一点の嘘はなかった。 

だが、しかし今となっては……。

「(そして私は思った。 結局は貴様たちも武に頼っているじゃないかと。 拳を止めるために拳を使っているじゃないかと。 ならば、それは私の論理のほうが正しい事を意味するだろう? なのに、なのに貴様の妹は、武よりも言と、そう言い張って憚らなかった!)」

眼を閉じる。

ああ、そうだ。
言われなくとも、あいつと過ごした記憶は、どんな事でも、覚えているさッ……

だから、もう……。

「(だから私は誓った。 否定する事をッ。 私を認めさせる事をッ。 あの悪魔的な武の塊に、お前に、お前にいつか必ずッ―――)」



限界だった。

彼女が咳き込んだところを見計らって、片手を引き上げる。



振り下ろす。



手の延長だった俺の相棒は、寸分の狂いもなくピタリと、彼女の首筋を捉え、意識を、両断した。





















糸を切られたマリオネットよろしく、マルギッテは無造作に床に横たわった。 次いで、膨らみのある唇から、血が零れる。

「……言わんこっちゃない」

首を叩いたといっても、ほとんど撫でたようなものだ。
吐血は、絶叫で口腔か喉が傷ついたせい。

彼女の身体は脆くなっている。 無論、丹田の損傷で。

粘膜の形成すら危ういのだ。 全治一ヶ月以上の怪我は伊達じゃない。

あのまま喋れば、最悪、窒息もありえる。




……もう何も聞きたくなかったという本音も、確かにあった。

自嘲の笑みが張りつく。

所詮、俺はこの程度の器だよ。




彼女の元に屈み、体を支えながら、うつぶせの体勢に整えてやる。

溢れる血が気道に入らないよう、そのまま数分、血が止まるまでじっと待つ。


最後に作法衣の袖で口元を拭って、肩に手を回す。
引き上げつつ、開け放たれた障子戸をくぐり、布団の上に寝かせる。


掛け布団をかぶせようとしたところで、別口から様子を見にきた治療員と遭遇。
ものっそい怪訝な眼で俺を、寸時見つめてきたが、事情を話すと、後は請け負ってくれた。

最後に幾らかばかり、お叱りを受ける。

平に謝り、その場を後にした。


やはり、こっちに近づくのではなかったな、と戻る道すがら、考える。

だが、気づいたら、あの襖の前にいたのだ。
期待に似たものを裏切ったのだ。 言葉でどう取り繕っても、許してもらいたいと、訳を聞いてもらいたいと、そんな気持ちがあったのかもしれない。

本当に、どうしようもない。

自分に甘い自分に、腹が立つ。








「施設」に入所以来、もう会うことはないと、たかをくくっていた。

実際、会いたくはなかった。

だが、ここにきて再会。




俺は、俺は、護れなかったのだ。 

誇りを、喪ったのだ。

間違いなく助けられた筈の妹。
俺は、みすみす、その命運を逃したのだ。

どんな顔で、マルギッテと対面できるというのだ。

あの時、殺気騒ぎの屋上で、そればかり、そればかり思案していた。


























同日、直斗が治療棟を出る十数分前。

川神院、境内に来客があった。

今回は、極秘裏ではあったが、予定された訪問だった。



「おお、久しぶりじゃーねぇか? 百代ちゃん」

彫りの深い特徴的な顔に鷹揚な声。
時の与党総裁、内閣総理大臣、麻王太郎である

「はい、お元気そうで何より」

全く動じず臆せず応じるは、川神の武神、川神百代。

「で、話は聞いたと思うけどよ」

総理は背後を顎で指し示す。

「こいつらと手合わせしてほしいんだわ」

屈強な、という形容だけでは足りない猛気を纏う男が二人。

「―――はい、構いません。 むしろ望むところです、フフッ」

それを感受してなお、こともなげに百代は承諾。

「む?」

先にあったときと、少々反応の勝手が違う彼女に訝しがる総理だった。







「あわわ……、師範代、総理大臣来ちゃったよ……」

離れたところで、川神一子は恐縮しきっていた。

「これは極秘事項なので秘密だヨ?」

そんな愛弟子に、ルーは語りかける。

「それはわかってますが、緊張するなぁ」

「彼は時々来ていただろウ? 川神院ニ。 急がしくて、ここ一年ほどは足が遠のいていたみたいだけれド」

「その頃、まだ総理じゃなかったんですよ」

「あぁ、言われてみれば確かにそうだネ」

「……ったく、師範代といいお姉様といい、そーいう所に無頓着。 羨ましーわ。 本当に」

皮肉でなく、本心からの発言のようだ。
総理になったからって、どうこう変わるものじゃないと思える余裕は、この弟子にはないようだった



「おおーッ、オメェもめっきり色づいてきたな」

そんなやり取りの中、颯爽とやってくる総理。

「あっ! あ……の……そ、総理!!」

「アメやるよ」

一子の逡巡もお構いなし。

「わーい! ありがとうございます!」

当の一子は一転して喜色満面となるが、すぐに、自分にはアメ、姉には強敵が贈られるという差に、少々へこむ。

そんな年相応、感情豊かな一子の姿に眼を細めつつ、ルーは決闘の準備に入る。





「では、早速勝負にをはじめるとするかのう?」

いつの間に来ていたのだろう、川神鉄心が、音頭をとろうとしていた。

「一対二でいいじゃろう。 なあモモ?」

「ああ」

一も二もなく孫も同意。

「おいおい、それでいいのかよ?」

「構わんよ。 むしろ足りないと思えるくらいじゃ」

総理の狼狽に、落ち着き払った様子で返答。

これが川神院を統べる男である。

「……悪ぃな、相手先は、まあじーさんならわかってると思うが、口には出せなくてよ。 立場的に面倒に巻き込みたくないんだわ」

「なに、それも構わんよ」

その佇まい、柳の如し、であった。







「ははは、大国の技術を集めた戦士だそうだ」

決闘場、古来からの慣わしから、川神の者が陣とする西方にしかたにて、楽しげに百代は妹に言い募る。

「それ以外はよくわからんが、そっちの方がミステリアスでいいかもな。 ……燃えてきたぞ、ワン子!」

「頑張ってください、お姉様!!」



























「百代に本気を出させたのぅ。 見事見事。 ……十分、最強の部隊になりうると、そう報告するといいぞい?」

ひとり言を呟くように、決着がついた後、鉄心は言う。

「そうかい、 随分、あっという間だったじゃねぇか?」

苦笑を噛み殺せない総理がいた。
それもその筈、あれほどの強者を苦もなく屠る腕前を目の前で見れば、誰だって彼と同じ感想を抱くだろう。

「あれだけ粘れば、大したものじゃよ。 ……うちの弟子たちもあれくらいなら、どんなによいか」

嘆息。

その息吹の音を聴きながら、総理は決闘場に目を戻すと、丁度百代も、ため息一つ。 そしてあろう事か、礼もせずに、相手に背を向けて、外へ繰り出そうと巨門へ向かう始末であった。

ててて、と妹分がそれについていく。




「……おいおい、鉄心のじーさん」

「なんじゃい?」

わかっているだろうに。

「百代ちゃん、不味いだろうあれは。 危険すぎる」

鋭い眼光が、鉄心に向く。

「戦闘に魅入られてる。 ……人としてバランスが崩れかかってるぜ?」

「銭湯ならよかったんじゃがのぅ。 ……ああ、でもこの前、風呂を壊したか」

「つまんねー事言ってる場合じゃねぇよ」

鉄心の横に立つルーの表情を見ても、その深刻さがわかった。

「強ぇのはいいが、ただそれだけが、じーさんの理想じゃ……って、ハハッ、釈迦に説法だったな」

また苦笑する。

「いやいや、耳が痛い」

「……ま、いろいろと、ご老体にゃ堪えるだろうが、そっちはそっちで頑張ってくれや。 なーんかあったら力になるからよ?」

「総理の力か、心強いの」

かかか、と笑う。












「…………で、だ」

ルーが居なくなったところを見計らい、話しかける。

「本題かの?」

今度は逆に、猛禽の視線を送られる。

「かなわんな、じーさんには」

さりげなく、言おうとしたのだが。

「……真一の忘れ形見、元気にしてんのか?」

「二日前、あばらを折った」

「おいおい」

「ま、ほぼ完治しとる。 来週にはいつも通り学園に通えるじゃろ」

「そいつは何よりだ」

「……」

「……会っても、いいかい?」






「――――」





痛い、無音だった。
政治に揉まれたこの身でも、耐えきれないほどの。



「……なんてな、俺には、ここで会う資格はねぇわな」

最後に気分悪くしちまってすまん、そう言って、背を向けようとすると。


「……会わざるをえんじゃろ」

「うん?」

「もう、そこに居る」






玄関を見れば。


あいつらの、息子がいた。























忘れていた。

完璧に不覚である。

確かに非公式な訪問であるので、ある程度上の者にしか期日は教えられていなかったのだが、それでも今日、院内部に治療員が残っていなかった事から察する事が出来るものである。

幾分焦り、靴を履くのにまごつきながら、ようやく境内へと出る。


一年前と変わらぬ佇まいで、そこに麻王さんがいた。


「お久しぶりです、麻王さん」

土つくのも構わず、そこに平伏する。

「……おいおい、やめてくれ。 俺ァそんな上等な人間じゃねぇぜ?」

無理矢理、引っ張り上げられる。

公式身長175cm。
先日テレビで見たが、実際に会うと大きく感じられる。


「いや、しっかし、ここ二、三年で随分でかくなったな~」

そのまま、両肩をがっしりとつかまれる

「あ、いえ、」

恐縮である。

しかし何故だろう、少し影が見える。

「……元気でいりゃいいんだ。 おう。 じゃ、じーさん俺もう行くわ」

シュタッと片手を総代に向ける。

「あ、あの……」

小走りに、去っていってしまった。

会って三十秒もしていない。 忙しいのだろうか。
もう少し早く気づけばと後悔。

紛れもなく、彼は俺の人生の恩人である。

彼が居なければ、川神に戻れなかった。
もう二言三言、お礼の言葉を申し上げたいところだったのに。


「……怖く、なったんじゃろうな」

「は?」

傍らまで、総代が近寄りながら言いかけてきた。

「あれは、お主が恨んでるのではないかと今、お主が頭を下げたとき、思いあたったんじゃろ。 ……前のワシのようにな」




……何を言うかと思えば。




「最終的に、施設に行くことを決めたのは、選んだのは、他でもない俺です。 あの方が斡旋したといっても、どうにもならない必要に迫られての事。 たとえ俺の意向が一時の感傷からだったとしても、ここにとどまっていたよりは、よっぽどマ、シ……」

「……」

「…すいません。 少し言葉が、過ぎました」

「いや、お主がそう言うなら、な」

どこか寂しげに笑うと、総代は俺と入れ違いに玄関に入っていった。








「……どっちにも、恨みはありませんよ」

俺の呟きは、誰の胸にも届かぬまま、空に溶ける。





恨みもない。後悔もない。

そう、後悔もない。 だって、大和は変われていた。 
そして百代は、辛うじてだけれども、大和のおかげで正気に繋ぎ止められている。

これで良いじゃないか。

めでたしめでたしだろう?




他に、他に何を望もうか?

「クソッたれ……」

何で、何でここで視界がぼやけるんだ?






全部、俺の不始末なのに、何で、こんなに悩むことが多いのか?







両頬を叩く。

何かを振り払うように、俺はまた、武を、川神を、手放す決意を固める―――







[25343] 第二十三話;占星
Name: かぷりこん◆273cf015 ID:177153ba
Date: 2011/07/12 22:27

『占星術を解さない者は、医師ではなく、愚者である。』

―――ヒポクラテス














6月12日(金)

五時限目、ホームルーム。

本来ならば、この時間は自習に当てられているのだが、今回は珍しく、梅先生が教壇に立って、雑談に興じていた。





「それぞれの人間には、性格、人格に則して、大アルカナが設定されているという」

女性らしい、占いの話題である。

「大アルカナ……、タロットカードですね?」

即座にクリスが答える。
やはり騎士娘といっても、普通の女の子らしく、そういうものには並以上に興味があるようだった。

「うむ。 当てはめていくと面白いぞ?」

そう言って、梅先生は何時の間にか取り出していたカードを切って、一枚ずつ並べて手前に置く。

「こうやってランダムでとるカードがそれだ。 ……ふむ、やはり私は“女帝”のアルカナ。 何度やってもこれが出る。 島津、やってみろ」

手近なガクトに促す。

「オッス! ランダムっすね? ……ていッ! おお、“力”だ」

マッスルポーズは忘れない。 そのまんま過ぎると、先生も苦笑を禁じえないようだ。

「次、小笠原」

「はい。 アタシ、こういう占い大好きなんだ――よっと」

「……おおッ、チカリン、“恋愛”のカードだな!」

キャッキャッと手を合わせあう二人。




「………スイーツ臭いのが……本当に当たってるっぽいな」

三次元リアルの女を毛嫌いする、大串スグルの姿があった




「風間、お前もやってみろ」

「ういっす。 でやっ……ってなんだこれ、“愚者”ぁ!?」

「うはッ、キャップだっせ!」

嬉しそうなガクト。

まあ、イケメンの醜態ほど笑えるものはないか。

「“愚者”はいいカードだぞ? 冒険の始まり、精神の解放、そんな意味がある」

先生がフォローする。

「うっしゃあ! 燃えてきたぜ!!」と我らがリーダー。 単純である。




「はい、じゃあアタシ! 次アタシがやるわ!!」

さっきから引きたくてうずうずしていたワン子が手を上げる。
落ち着かないので後ろからポニーテールを握っていたが、離してやった。

「ふ、ふ、ふーんっと……。 あ、これ“太陽”? いい感じじゃない?」

「ほう、川神は戦車かと思ったが、太陽か。 太陽の暗示は進歩、活動的、命の源、幸福……」

「うわ~。 これは本当に当たってるっぽいですね、直江ちゃん?」

委員長が同意を求めてきた。
この矮躯から、ちゃん付けで呼ばれるのは、なかなか慣れない。

「ああ、そうみたいだね」

魔力でも、あのカードに練り込まれているのではなかろうか…。

「なんかいいカンジ♪ 京とクリも引きなさいよー」

そう言われて、二人も頷き引いてきた。

クリスは、まあ当たり前のように“正義”。


「京は何だったの?」

モロが聞く。

「……なんか吊るされてた」

「う、なんかあまりよくなさそうね」

ワン子は引き攣った笑い。

「“吊られた男”のアルカナか……」

腕を組んで梅先生が解説する。

「不滅の魂、変転の時、極限の選択を意味する」

へぇ。









「師岡、大串、福本。 お前たちも引いてみろ」




「……僕は“教皇”だって。 あ、なんか、勝ち組気分」

曰く、慈悲の心、正しい忠告、思いやり。

「俺は“隠者”だ。 ……フ、悪くない」

曰く、深い知識、深慮、忠告の受容、崩壊。

「俺は…ほし? “星”のアルカナだぜ?」

曰く、希望と明るい見通し、瞑想、霊感、放棄。







ちなみに委員長は聡明、正確な判断、清純を司る、“女教皇”だった。

……ホントに当たっているようだ。









「どうだ直江、引いてみるか?」



俺も黙って、教壇におもむく。
ゴールデンウィークの占いを、中途で切り上げてしまった経緯もある。

ま、遊び遊びっと。



真ん中から少し右にずらした箇所に裏返っているカードを、引く。


俺は――






「………つ、吊られた男って「結婚ッ!!!!」






















<手には鈍ら-Namakura- 第二十三話:占星>




















自重できない彼女の抱きつきを回避しつつ席に戻り、真後ろの様子を窺う。


「くだらねぇ真似してやがる……」

学園内ツンデレ筆頭の彼は、そう呟きながら頬杖をついていた。


「タッちゃんも引いてよー!」

無邪気にワン子は彼にせがむ。

「引いてよー、タッちゃーん」

キャップが悪乗りする。

「うっるせーなぁ」

そう毒づきながらも立ち上がり、梅先生の下で引く。


「……ふん。 俺は、“悪魔”だ」 

角の生えた髑髏があしらわれたカードを、ヒラヒラと振りながら、「これで十分だろ?」とでも言うように口角を吊り上げる。

「……なんだよ、普通なら爆笑もんだが、ゲンが引き当てると微妙に似合うから困るぜ」

ガクトは、こちらは口を尖らせながら、彼の肩をたたく。






「アタイはやめとくわー。 死神とか引いたら、シャレんなんねーし」

誰も聞いてないのに羽黒は言った。

「あ、ねぇ、クマちゃんも引いときなよ?」

最前列窓際に座る巨漢に、モロは提案。




しかし唸る彼は

「僕今、お腹空いてて……、カード食べちゃいそう」

「ワ、ワイルドだね」

若干、モロはヒいていた。

……俺も、正直怖ぇ。





「よし、もう引く者はいないか?」

窓側の最後列のゲンさんからカードを戻し終えると、梅先生は確認する。

自然と多くの目が、ゲンさんの隣の空きの席にいく。

来週の頭から、直斗は学校に来れるとの事。 彼がどんなカードを引くのか、とても楽しみではあったけど、居ないのでしょうがない。


「……ま、直斗なら、“節制”あたりじゃないかな」

無難な予測をモロは立てる。

「ああ、あとはマルさんと同じく“戦車”とか」

クリスも、続く。

そうそう、クリスが朝言っていた事だが、直斗と姉さんを相手に連戦をしたマルギッテは、昨日の晩、療養のため、母国に一時帰国したらしい。
なんでも、また院で直斗と一悶着あったようで、治療に差し障りありと、総代が判断したらしい。

どんな事情があるにせよ、この頃の直斗は、なかなか苦労しているようだった。

そんな事を思案していると。




「はいはーい! アタシ、直斗くんの代わりに引くー!!」



……言うと思った。

「川神、これは本人じゃないと意味がないと思うが?」

呆れ顔で、先生は渋る。

「梅先生お願い、一回だけ」

そう言って一度手を合わせると、返答を待たず、教師の手にあったカードの束から瞬時にある一枚を、ワン子は抜き取った。




「直斗くんのアルカナは、これよッ!!」

ドビシッ!と高々に、カードを掲げる。









……どやっ!







文章にすれば、そんな様子の笑いの渦が巻く。

なにせ、ここまで一枚も出なかったカード。 加えて、一番ありえない札柄だったからだ。


黒衣に、鎌。 ただそれだけが描かれているにしては、妙に禍々しさがこびりついていた。



「うぉーいワン子、こりゃ、まさかまさかの引きだぜ!?」

キャップが俄然、騒ぎ立てる。

「……まあ、外見的には、白い月牙天衝とか神殺槍かみしにのやりとか放ちそうだがな」

クイッと眼鏡を上げて、皮肉そうに口元を歪めつつ、スグルも言った。


「ハッハッハッ! いやいや、にしてもそれはねーよ。 ワン子、本人じゃねーから罰当たったんだろ」

いまだに腹筋を震わせているガクト。


「も、もう一回……うぎゃッ!?」

皆に散々に笑われ、涙目の忠犬は名誉挽回とばかりに、次のカードを抜きにかかったが、もう一度ポニーテールを握って自重させる。


「フフ、お後がよろしいようで、という所か。 ま、こういうのは一種の自己暗示のようなものだ。 あまり振り回されないようにな」



そう、梅先生がまとめに入ったところで、終業のチャイムが鳴った。






















―――同時刻、2年S組。


「いいか? お前たち、時代はタロット。 マジで!」

担任の宇佐美巨人が、力強く宣言していた。

「……人間学の教師が、そのような不確かなものに頼ってよいのか?」

怪訝な顔で、着物娘、不死川心が問う。

「おいおいおい、タロットなめんなよ? ……決して小島先生と話を合わせるために覚えたんじゃないからなッ!」

あまりにも不純過ぎるそのプロセスに「露骨過ぎじゃ!! どんだけなのじゃ!?」という生徒の喚きをさて置いて、マイペースに授業を進める巨人。

「せっかくだから、お前たちのアルカナを調べてやろう。 ……さぁ、この並べた札から、一枚カードをドローだ!」

何故だか微妙に強制力が働いている空気に、しょうがない、付き合ってやるかと秀才集団。





「フハハ! 我としては、これしかあるまい」


そう言って、S組委員長、九鬼英雄は教卓のど真ん中に置かれたカードを引く。

「燦然と輝く、“皇帝”のカード!」

裏面を見もせず、そう確信してクラス中に掲げ示す。
そしてそれは紛れもなく「アタリ」であり、王たる資質がまた一つ、ひけらかされる事となったのだった。

曰く、物質的な豊かさ、統率者、支配力強し。
彼以外に、これがふさわしい者がこの学園に居ようか?

「さすが英雄様ですー♪」

ここで、多くの者は、「また“皇帝”引いちまったら、ど、どうするか」と少々戦々恐々。
間違いなく、そばに控える従者からペナルティーが来ると確信があった。






そんなメイドのアルカナは―――

「私は…、“魔術師”ですね」

曰く、策略、商才、隠された真実の意。





合ってる……と、ささやく声は幾重にも。

ふむ、少しは面白そうだと思ったのか、次々と引いていくエリート達。

一喜一憂するF組よりかは盛り上がりに欠けるが、このレクリエーション、いつもの自習のHRと比べれば、幾分、年相応の学生らしさを彼らに一時、取り戻させたようだ。

しまりの無い顔をしていても、そういう手段を、時折は考えている宇佐美である。

きっかけが同僚教師の尻の追っかけからとは、情けない事この上ないが……。




「ほら、お前ら仲良し三人組も引いてみろ」

そう言って、最後に葵たちを促す。

「わーい!! トーマ僕引いていい??」

「はい。 どうぞどうぞ、レディファーストです」

柔らかい肯定の笑みを、葵は幼馴染に送った。

「うん、じゃあ……………これッ!!」

「……ほぉ、“運命”か」

と準の声。

「なんと哀れな……。 まさか、そこのヒゲとお揃いとはな?」

ここぞとばかりに、先ほど“月”を引いた心は嫌みったらしく、勝ち誇ったような笑いを上げる。
お前、俺を何だと……という教師の呟きは、誰の耳にも届かない。

「トーマ~、なんか欺瞞で不安定で迷妄で臆病な人がうるさいよ~♪」

「な、なんじゃと~!?」

「フフ。 だからこそ、魅力ある気品が出て、守ってあげたくなるのですよ?」

歯が浮くような台詞に、赤面する着物娘だった。

「おお、流石ー。 この女好き~」

「……さて、では準。 私達も引いてみましょうか?」

「お、そうだな。 じゃ、俺が露払いで、先行くぜ、若?」

そう言うと、宇佐美によってシャッフルされたカードに手を伸ばす。

「どれ、デッキから一枚ドローだ!!」

無駄にスナップを利かせて、準は引いた札の絵柄を見る。

「何ィッ!? 俺もデスティニー、だと? ………こ、これはまさか、俺と共に人生を歩んでくれる永遠の十歳との出会いを暗示しているのか!? そうなんだな!? うん、そうに違いない!! 南ー無」

「……き、気色悪いの~。 病院行け、病院にッ!!」

心が叫ぶ。
ちなみに井上準の父親は、葵冬馬の父親が経営する総合病院、葵紋病院の副院長を勤めている。

「フフ、では、私も……。 先生、シャッフルをお願いします」

あいよ、と担任が準備をする間、井上はぼやいた。

「うーん、若はやっぱり“恋愛”じゃあないか?」

「どうでしょう? 私の魅力は死神さえも惹きつけそう、ですからね?」

「地味にナルシストな発言ですね」

しれっと、あずみ。

そうして、葵の引く番となった。




「………おやおや」

「うん?」

準は心なし嬉しそうな顔の冬馬の手元を見る。


「私にも、“運命”の人が現れるようです」




















「フハハ、それは何よりであるな!」

カードを戻し、葵はそれとなく、親友たる“皇帝”に話しかける。

「……体調でも、悪いのですか?」

「うん? わが友よ、何を言うか? 我はいつもの通りであるぞ?」

「いえいえ、いつもならフハハは、フハハハ!! それに言葉の端々に少し「!」が足りないご様子」

この発言に井上も苦笑い。

「ハハ、どしたい? まさか川神についにフr「ギルティッ!!!!!」






「…トーマには、かなわんな……。 いやいや、一子殿は関係ないのだがな」

目の前に起こった惨劇を全く無視し、笑いを噛み殺したような表情をみせる英雄。

「……ああ、もしかして彼の?」

「察してくれるか? 来週から登校できるとの事らしいが、やはり心配でな。 九鬼家で治療をしようと言ったのだが、取り合ってくれなんだ」

「まあ、あそこの治療は、なかなか独特ですが、きっと大丈夫でしょう。 ああいう超自然的治療が出回ると、こちらとしては商売上がったりですが」

そう言って英雄と同じ表情を形作る冬馬だった。



「何じゃ? もう帰ってくるのかあの白髪頭は? あのような無様を晒して、よくノコノコと……」

「ココロはナオトが帰ってくると、この中で誰も相手してくれなくなるからね~♪ ねぇどんな気持ち? 一人になるのってどんな気持ち? ねぇねぇねぇ?」

「…う、う、う、うるさいわ!! この此方に限ってそのような事……。 さ、寂しくなどないわッ」

「誰も寂しいかなんて聞いてないよ~♪ あれー? なんで目赤いの?」

「う、うーッ!?」

「まあまあ、ユキ。 そのくらいにしてあげましょう。 ……不死川さんも、遠慮なく会話に混ざってください。 彼もきっと喜びます」


「それは結構だが……ふむ。 じきにマルギッテのほうも戻るだろうし、何かしら気まずくならないよう考えねばならんか」

英雄は、深い思索に戻っていた。










「……ま、まあ、あやつがどうしてもというのなら、高貴なる此方が相手をしてやっても、よいが、の……」




これがホントの初心ウブなココロ、というやつである。









[25343] 第二十四話:羨望
Name: かぷりこん◆273cf015 ID:177153ba
Date: 2011/07/22 01:13



『私は近づくおまえを恐れ、遠ざかるおまえを愛する。』

―――フリードリヒ・ニーチェ















6月15日(月)



一時限目終了のチャイムが鳴る。

マロの奴に向けて起立、礼の後、俺は通学用の鞄から所定のものを取り出した。



「あ、そうだ。 ……おーい、直斗」

極力、何気ない風を装い、首を捻って斜め後ろの、今朝から学園に復帰してきた川神の内弟子に声をかける。

片方の胸にくらった怪我の具合は、上々の様子。 ……まあ、そうでなければ戻ることはないのだろうが。

「……はい?」

俯いて、次の授業の準備と鞄の中を漁る彼は、目を上げた。

「はい、これ」

座ったまま、彼の目の前に、昨日、コピー機で印刷してきた紙束を向ける。

思わず、といった感じでそれを手にする直斗。

「………これは」

「休んでた分のノート。 ほら、期末まで一ヶ月切ってるし、院の方でも夏に向けて色々と忙しいのは聞いてたからさ」

「……ええっと、あ、あの、すいませんッ」

「ん?」

困ったような顔で、彼は謝ってくる。

「今、あんまり手持ちなくて……。 コピー代、結構かかったと思いますが」

苦笑する。

先に喜ぶ顔をするでなく、相手の心配をするというところが、いつもノートをとり忘れるワン子が、ファミリーに無心に来る様と、好対照だったからだ。

「いやいや、いいって。 っていうかこれ、ガクトの家でコピーしたから。 金もらったら怒られるよ」

軽く微笑む。

さて、次が本題だ。
彼がまた口を挟む前に、俺はさりげなく畳み掛ける。






「……ま、代わりと言っちゃ、何だけど、俺、まだ直斗にメルアド教えてなかったと思うから、赤外線、いいかな?」

















昨日、パソコンで「矢車」と検索してみた。





きっかけは先週末のこと。
例によって、姉さんの不完全燃焼な決闘が先週の木曜にあり、その話題が先日の金曜集会で出たのだった。

相手は、大国の特殊部隊のエリート。
マルギッテと姉さんが島津寮で暴れた時に聴いたフレーズだった。


ここで、あっ、と思い出した事があった。


そういえば、あの時、状況が状況だったために聞き流していたが、総理から闘いのオファーがあったと知らせた直斗は、「総理に恩がある」と言ってなかったか、と。



姉さんに聞いてみたら、ああ、それはな、と前置きして答えてくれた。

「実は、私とあいつは親戚なんだ」

「え?」

初耳だった。

「ジジィに聞いたが、あいつの母親は、一応、ウチの分家筋ってことらしいんだが……。 まあ、それで当たり前だが、ウチの門下でもあったらしくて」

「……ああ、なるほど」

察した。

麻王総理もまた、川神門下であった事は周知の事実である。
そこの繋がりから、何かしら交流があったらしいとの事だ。

確かに時期的には、符合するのかもしれない。


「一度、それを話す機会があったが、あれはもう尊敬ってレベルだな。 何があったかは聞いた事ないから知らんが」

「……お? お得意の人脈作りか? 相変わらず、そういう所、マメだなー」と、聞き耳を立てていたキャップ。 

対して、肩をすくめる。

「性分だからな、こればかりは」




……と、そんな会話があった。



そういう事で、総理と繋がりがある人間、並びに川神の門下という事で、直斗の家は何かしらの分野で活躍しているのではないか、と予想を立てたわけ。
もしかしたら、そんなことはなく、平々凡々な家庭なのかもしれない。 むしろそうである確率の方が高かった。



だが、検索結果を知り、良い意味で、その予想は裏切られた。






驚いた。 

国連、人道、救済、支援、平和etc…。
矢車の名が記されるサイトの殆どに、そういう語群が入っていたからだ。

姉さんから、その分家筋の母親のほうの名前、六花さんというらしいが、それを思い出してもらった事も助けになり、直斗のバックグラウンドをおおよそ掴む事に成功したのだった。

いくつかの記事には、ノーベル平和賞に最も近かった夫妻と書き立てられていたことからも、こんな言い方はなんだが、彼の両親は、およそ、彼の両親たるにふさわしい人間だったようだ。

そして、彼の両親が9.11の犠牲者であることも知った。
直斗は、下手をすれば、目頭が熱くなりそうな、そんな境遇だった。


流暢な英語を操る技能も、こういう家族が居たからこそなのだろう。

改めて、川神院に籍を置いている者達の、複雑な人生を垣間見た気持ちだった。





そして、それとは別に、親しくなったなら、これほど心強い知り合いは、ファミリー以外ではなかなか得がたいだろうという心情が、沸々と湧き上がった。

なにせ、総理とのパイプもさることながら、海外との、世界との繋がりを多数持っているに違いないのだ。
九鬼のヤツとも、何かしら関わりがありそうだ。 いつも昼にはS組に行く事は、把握していた。

これからの自分の将来を見据える上で、彼を自分のネットワークに取り込む事は、大きなプラスとなるだろう。

人柄も、とっつきやすい。 
ファミリーに混ぜるとはいかなくとも、ゲンさんくらいには仲良くしておいて、損はないだろう。

だから、今、彼が困っている時にこそ、恩を売るチャンスと見計らい、大急ぎでノートを取りまとめたのだった。







しかし、妙だった。
俺が、同じクラスの奴のメルアドを、これまで聞き忘れていた事だ。

いつも、絶妙なタイミングで話を切り上げさせられていたような感覚があったが……。


……まあいい。

一瞬の逡巡があったといえ、今、彼は快くケータイを差し出してくれたのだから。



やったね。 まずは一歩だ。

















<手には鈍ら-Namakura- 第二十四話:羨望>

















昼休み。

手洗いから戻った小笠原千花は、先ほど、おしゃべりの最中に聞いた話を親友に報告する。


「ねぇ、ニュースニュース。 C組の荒巻とD組の内藤が付き合うんだって」

「あ、それ聞きましたよー」

千花の色恋話に、いつものように邪気のない微笑みで返事をする親友、甘粕真与。

「あらら、既出か~」

「それよりも羽黒っちが誰かと付き合うらしいよ?」

話を聞いたワン子が参戦し、千花にとって驚愕の事実を口にした。

「え、嘘、マジでッ?」

一番ありえない、というランクづけを勝手ながらしていた千花は、自席でふんぞり返る羽黒黒子を見やる。
今も椅子に蟹股で座り、サロンで焼いた黒い肌が白基調の制服とも相まって際立つ彼女に、先を越された・・・・・・という事はとても容認できないものだった。

視線を投げかけられた羽黒は、待ってましたとばかりに決して衛生的とは言えない歯を突き出してニヤつきながら喋繰り出す。

「相手ぇ、年上の歯科医の卵系なんだけどー、ちょっと気が弱いトコあるけどイケメンでさ」

「ど、どうやってそんなのゲットしたのよ!?」

自分の外見に反比例して、理想の男性像は高いにも程がある羽黒がイケメンと言うくらいなのだ。
内心歯噛みしつつ、先を促す。

「まぁ、なんつーか、アタイのテク?みたいな。 一緒に飲んで、酔ってきたら畳み掛ける。 気がついたときには上のって、イケメンうめぇッ!」

「……な、なんというか、また随分過激ねぇ」

ロマンスもへったくれもない羽黒の暴露話に、千花は気後れする。
なし崩し的にとはいえ、こんなヤツの彼氏になった人物は、きっと後悔しているだろう。

「ごめんチカりん。 アタイなんつの? あれよあれ。 ………勝ち組になっちゃった、キャハ♪」

この一言がいいたかったのだろう。
十人いれば十人、百人いれば百人に、「ウッゼェッ!!」と言わしめるだろう気味の悪いドヤ顔を近づけてきた羽黒に軽く殺意を抱いたが、今現在、特定の相手がいない千花には、きっと近いうちに別れ話を切り出されるであろうとも、彼氏持ちとなった羽黒に何も言い返す事は出来なかった。 

何を言っても、何とかの遠吠えと思われるだけだろう。 特にコイツは。

ここは余裕を見せて、さっさと話題を切り替えた方がよさそうと、菩薩のように心揺らさず、あしらおうと決めた。

「そ、それはおめでと!!」

「まあ、なんつの? 恋のABCわからなかったらさ、アタイに聞けばイイっしょ?」

「あはは……」

てめぇはCしか知らねーだろがッ、と突っ込みたい所を懸命に我慢し、愛想笑いに精力を尽くしながら、目下、他の話題を脳内検索。

「あ、ね、ねぇ。 他にコイバナはないのかしら?」

そして口についたのは、またしても自分の傷口を広げようとするものだったが、後悔先に立たずである。

「他には聞きませんけど……気になるのは……、直江ちゃんと、モモ先輩ってどうなんですか?」

しかし、真与がいい感じのフォローを入れてくれた。







「あ、それ私も聞きたかった」

もはや別次元の麗人だと思っているので、この話題に抵抗はなく、むしろ純粋な好奇心が先の殺伐とした心を塗りつぶす。

「ナオっち。 どうなの、そのへん?」

男子は男子で夏休みの話題で盛り上がっていたようだ。
風間クンと源クンを擁する事で、どうにかムサくるしさを中和している集団に声をかける。

「………え、いや、どうって、そりゃお前……」

珍しくキョドる彼は、椎名っちをはじめとした親しい女友達を気にしてるのか周囲を確認し、少し思案顔になった後、まんざらでもない、と紅潮した顔をこちらに向けた。

「おおー」と歓声ともつかない声を上げるマヨ。

「冗談抜きにして、お似合いだと思うよ? アタシ」

「そ、そうか……」

いつもの滑らかな舌が一転して、そこに鉛を載せたようだ。

……これは、相当惚れてるとみた。



「まぁ、コイツとモモ先輩はな……。 俺様ちょっと悔しいが特別だろ?」

「ずっと姉弟関係だったから、ねぇ?」

「お、好きなのか? ならいいぜ、付き合って」

小学校から幼馴染だという彼らは、訳知り顔で既に得心がいっているようである。

そして、「いやいや、そう決まったわけじゃ」となんとか口にしたナオっちは、いつもの理知的な彼らしくない、ウブな反応。


「でも顔赤いですよ直江ちゃん?」

「ホントだー。 ナオっちのそういうところ珍しい!」

マヨに乗っかり、ここぞとばかりに私を含めたクラスの大多数が冷やかす冷やかす。


「……おいおい、そんな盛り上がる話題かコレ?」

狼狽した彼を見るのは、恋愛感情はないが、とても新鮮で可愛らしく、嗜虐心が掻きたてられた。

「なにいってんの? だって最近、放課後よく遊びに来てるし、いつにもまして仲良し小好しっぷりをみせつけてんじゃない?」

ここで、幾分大きな音で引き戸が開く。

見れば、今日から復帰した、甘党の侍。


「あ、ねぇ、矢車クンっ」

「……はい?」

「矢車クンから見てどう思う? モモ先輩とナオっち」


問いかけながら、そういえば、彼もまた「直」の字を持っていたな、と思い返す。

































―――矢車クンから見てどう思う?


いきなりだった。 
不意打ちだった。


久しぶりにS組に顔をだし、色々弄られて帰って来たわけで。

不死川さんがなんかつっかかってきたり、榊原が「元気~♪」と病み上がりの右胸に鋭いフックをかまそうとしてきたり、葵が「不可抗力です」と、そ知らぬ顔で臀部を撫でつけてきたり、英雄がさりげなく、しかし執拗にマルギッテとの関係について尋ねたり(クラス委員としたら当然なのだろうが)、そういう疲れるイベントてんこ盛りの昼食を終えて、そそくさと退避してきた所に、これである。



「……え、あ、あの」

「いや今さー、色んな人のコイバナの真っ最中だったんだけど、ナオっちとモモ先輩って、もう殆ど彼氏彼女のベタっぷりじゃん? そこんところ、モモ先輩の近くにいてどう思ってるかなーって」




何か言わなければ。

そう思っているのに、なかなか舌が動いてくれない。
吐き出す事も、飲み込む事も叶わないものが、喉の奥につっかえているようだった。




「………お、俺には、何とも」

一秒の逡巡の後、生唾を飲み込み、やっと声に出せたのは、そんな陳腐な返事。

「そういう事には疎いので、すみません……」

「……ふーん」

あまり、期待したような返答ではなかったようで、続いた彼女の言葉は少しトーンが落ちていた。
眉がひそめられるのを見た気がするが、気のせいとしよう。

「まぁ直斗はな~♪ 自分の事で精一杯だもんなっ」

訳知り顔で近づいてきた島津に肩を強く叩かれる。

「……何よ、島津?」

「ゴールデンウィークに発覚したんだが、コイツ、後輩と意外によろしくやってんだよ」

……んの野郎…まだ言うか…。

「え、何!? 彼女いるの矢車クン!? 誰だれ!?」

目の色を変えてきた小笠原さん。

微妙な間を何とか誤魔化せたと半分安堵するが、それをおくびにも出さず、笑みを張りつかせる。

「由紀江さんとは、そんな関係じゃあないですよ」

「またまた。 この前、俺様話したら、まゆっち、満更じゃあなさそうだったぜ?」

まさか。
内心、鼻で笑って首を振る。

「おいっ、由紀江って、一年C組の黛由紀江のことか? 
……なんだよ、魍魎の需要トップ5、もう唾ついてんのかよ。 ……ったく、直江といい矢車といい、羨ましすぎるぜ」

聞きつけてきたサルは、ぶつくさと随分な言いようである。

「けッ、さぞ有意義な夏になるんだろうな~、色々な意味で」

直江のほうに首を向け、福本育郎は嫉妬の台詞を吐く。



少し、羨ましかった。
心のおもむくまま言葉を扱える事に、逆に俺は、彼に嫉妬する。

「……ははは、そ、そうかな」

照れたように、いや、心底照れて大和は笑う。






夏、か。

そういや、こいつら沖縄行くって言ってたな……。






……ふむ。

去るとしたら、その時、か。






















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すみません…。
今回もあんま中身無いです……。

原作寄りなのにね…

夏に入ったので頑張ろう。


秋にはFF零式だ(何
PVに血だらけの釈迦堂さんが出てました。



[25343] 第二十五話:犬猿
Name: かぷりこん◆273cf015 ID:177153ba
Date: 2011/07/29 20:14

『賢くなろうとして本や黒板に教えを乞うてはならない。 天と地と林と木の葉とは、本当に子供らを賢くするであろう。』

―――ヤン・アモス・コメニウス
















6月25日(木)


多馬川、河川敷。





(………大和ちゃん大和ちゃん)

電話越しの彼、自他共に認める七浜のプレイボーイ、下北沢君は俺の相談事を聞くなり、溜息混じりに言葉を投げつけてきた。

「ん?」

(それね、もうノロケにしか聞こえねぇーから)

「……マジで?」

(そのオンナ、もうオチてっから)

「そ、そうか」

(まぁ、とりあえず告ってみ? まーず間違いなく成功すっから)

嫌に自信たっぷりに言ってくれる。
他人事だからか、自身の経験からか、理由として恐らくはその半々ってところかな。

「そうかなぁ。 ……そうなのか?」

だが人間、希望的観測には、ほとほと弱い生き物である。

(なんだよ、自信持ちなよ、大和ちゃんらしくない)

それは自覚している。
だからこうして話を聞いてもらっているわけで。

(つーか、大和ちゃんさ、話聞く限り、そのオンナにベタ惚れっしょ?)

「うん、まあ……ね」

恋心をほとんど余さず聞いてもらったのだ。
なかなかに気恥ずかしかったが、そんな俺の歯切れの悪い返答に頓着せず、下北沢君は決め台詞のように次の言葉を言い放つ。

(―――だったら、イかねぇと、さ?)

実際、その一押しをもらいたくて電話したのだった。
恋愛のプロの言質ほど、心強いものを俺は知らなかった。

(それだけ特上のオンナってことは、他のオス共もマジ狙ってるから。 ……うかうかしてらんねぇよ?)

その後は自分の失敗談とその十倍の成功談を熱く語って、電話を切った。

三番目のメス・・から、キャッチが入ったらしい。






「ふ……」


携帯を脇にしまい、短く嘆息。
だが、心中はそれほど暗くはない。

大きな期待と少しばかりの緊張が、ひしめいている。




俺の姉さん、川神百代。

最近は特に話すようになってきた。
はたから見れば、親分と子分以上だといわれる。 ……そう見られて悪い気はしなかった。 

むしろ、今一番、気になる異性だ。

ずっと小さい頃から一緒だった。
威張って、いい加減で、拳一つにものを言わせて、女の子が好きで、バトルも好き。

言ってしまえば享楽的な性質。
だが、こんなスラスラと挙げられる短所も、姉さんなら仕方ない、と許せてしまうあたり、好きなのか慣れなのか。

姉さんはずっと、そういう風に、気の向くまま、真っ直ぐ・・・・、生きてきた。
普段は鷹揚でも、闘いの時は気配が鋭く尖る。




そんな姉さんが、たまらなく好きだ。

そして、姉さんも、きっと俺を……。





付き合う……か。



胸が高鳴る。
確かにそれは、ヨンパチの言ったように有意義な夏の到来を象徴するものでもある。

周囲も色めきだって、カップルも増えた。

焦っている訳でもないけど………俺も、いっちゃうか!! と思わないでもない。

下北沢君含め、クラスの皆も太鼓判、先週に押してくれたしな。









「やーまとっ!!」

「おわッ!?」

前触れもなくいきなり背後から、のしかかるように抱きつかれる。
危うく川へと転がるところだ。

嗅ぎ慣れた芳香が、一層甘ったるく感じられる。

「……ね、姉さん」

「遊ぼう弟よ。 スカッとしたい年頃なんだ」

「あ…、ああ」

「……? どうかしたのか?」

ここで意識しても、変な印象を与えるだけだ。 自然体で行こう。

「いや、何でもないさ」

笑顔を振りまく。

「…ふむ。 にしても、明日は体育祭の準備で忙しそうだな~」

何とか取り繕えて安堵する。

そう、明後日はワン子が待ちに待った体育祭。 その準備の為に、明日は全校で準備がある。

まあ、大掛かりな出し物、流鏑馬とかの用意は川神院の人達が頑張ってくれるようで、それは次期川神院総代の彼女でも例外ではなく。

ちなみに直斗は、明日の早朝、馬を借りてくるらしい。
本当に、ご苦労様だ。

「同じ軍に慣れなくて残念だよ」

「ふふん、まあいいさ。 ……それより、今日は明日の分まで遊び貯め、しないとな?」

がっちりと肩を組まれる。

「はいはい」

いつもながらの、自分本位さに苦笑い。





だがそんな姉さんが、俺は、たまらなく愛おしいのだ。























<手には鈍ら-Nmakura- 第二十五話:犬猿>





















6月27日(土)


体育祭、当日。



川神学園体育祭は派手な出し物も多く、近隣の県からわざわざ見物に来る人がいたり、毎年地元のテレビ局が来るほど、学園の名物ではあるのだが……。




「盛り上がらん!!」

島津が、苦々しげに言い放つ。

青龍軍に組み込まれている二年F組は、グラウンド東方にて、椅子やテントの下に設けられたムシロに各々好き勝手に座りながら、今年の体育祭の、ほぼ愚痴に近い感想をならべていた。

当然、俺、矢車直斗もその輪にいる。

「今回の盛り上がりの無さは、ちょいと異常だな」

風間がファミリーメンバーの一人にそう返す。
大の祭好きが、この行事にあって口をすぼめている事からも、その程度がわかるというもの。

「自分はそこそこ楽しんでいるが………、大和、お前、気合が足りているか?」

「……んー、そこそこ」

「そこそこではいかんだろうが!」

「俺だけに言わないでくれ。 みんなそうなんだからさ」

腑抜けた感じのクラスの雰囲気を妙に思ったクリスが、軍師大和に発破をかけるが、たいした効果はないようだった。

「やっぱりモチベーションの低さの原因は2-S」

椎名がポツリと漏らすと、自然と皆の目が件のクラスに集中する。

同じ青龍軍に組する事になった二年S組の面々は、着物娘のお零れに預かるように、典雅な茶屋のような空間にて静かに茶を啜っていた。




「……おいおい、俺達のせいにするのは勘弁してくれ」

いち早く視線の束に気づいた井上が苦笑し、肩をすくめる。
普段はノリのいい彼だって、この状況は不本意だろう。

「そうじゃ。 名誉ある一族の此方が山猿と組むなど汚点もいいところ。 そこを曲げてやっておるのじゃ」

……こっちはもっと不本意そうだ。

「山猿まで言うのはかわいそうだよ、不死川さん。 ……せめて腐ったミカンにしてあげよう」

不死川さんの発言を皮切りに、2-Sの連中が笑う嗤う。



「なんだか俺様怒ったぜ。 こんな奴らと組めるかっ」

侮蔑が篭められた粘っこい視線に、早くも島津は短気を起こす。

「……被害者っぽい事を言ってますが、普段はロクデナシの貴方達のために、こちらが迷惑をこうむっている事を忘れずにお願いいたしますっ♪」

「その通りじゃ。 此方達とて、F組が相手でなければこうまで喧嘩腰にはならぬのじゃ!」

こちらも負けず劣らず意気軒昂。
それを競技に向けて欲しいものだ。

実際、F組よりもS組のほうが、この組み合わせに不満を持っているだろうと推測する。
実力に裏打ちされたプライドが、彼らにはある。


「騒いで静かな授業を妨害するわ、遅刻が多くて校則が引き締められるわ、赤点が多くて全国模試の平均が下がってしまうわ……。 他にもいっぱいあるのじゃ!!」

事実、こんな按配だ。
こちらを憎み敵視するのも無理からぬ事だろう。



「おい、結構な事をしているような気がするぞ?」

「そ、そうね、なかなかに痛いところを突いてくるわ」

一番の新入りであるクリスが問うと、目を伏せる輩もちらほらと。

……自覚、してんじゃん。



「ケッ、それでも俺達は人を腐ったミカン扱いしないぜ!?」

「そうよサル、いい事言うじゃない? たまには」

「うるせぇスイーツ! 横槍入れんな!!」

「何よ! 褒めてあげてるんですけど!?」




一層の騒がしさに小さく嘆息する。
もういい加減にして欲しい。


寝不足の頭によく響く。




川神と言う町は、それほど治安が良いというわけではない。
近隣には堀之外街と呼ばれるアウトローの巣窟があるし、何より多馬川を根城にするホームレスが通学路を徘徊している事も珍しくない。
それを背景に位置する川神学園も、総代の息吹がかかっているにしても、二、三ヶ月に一遍は不審者の侵入騒ぎがある。 もちろん昼日中の話ではなく、夜間に学校の備品を拝借もしくは損壊させる程度のものだが、無視するには少々目に余るものがある。

以上のような話もあり、この学校には「競り」なる、いわゆる荒事仕事を斡旋する制度が開設されている。 平たく言えば、そういう無法者を懲らしめるため、生徒に働いてもらう、ギルド制のようなものだ。

もちろん金銭では色々と支障をきたすため、報酬は学園専用の食券となっている。

また解決方法は各自に一任するが、必ず結果を出す事が求められる……と、概要はそんなところ。

そして今週その競りが行われたわけだが、なかなかどうして、仕事を引き受けてくれる生徒たちは一組も現れなかったのだ。

内容は体育祭の夜間警備。
せっかく準備したものを、一晩で台無しにしようとする輩が出ないとは限らず、むしろ出没する可能性は高いのだが、されど体育祭前、誰もこのような仕事を引き受ける奇特な奴らはいなかったのである。

そういう経緯で、競りの管理者である綾小路教諭から、川神院にお鉢が回ってきたのだ。

そして下っ端である俺が、当たり前に駆り出されるのは自明の事で。
まあ、それ以前に通っている学園の行事の為の奉仕であり、他の兄弟子に任せて寝に耽る事に気が咎めないでもなかったから、自発的にした事に変わりはないが、おそらくこの行事は俺が経験する最後の“運動会”なるものである。
一子と共にルー師範代の言葉に甘えても良かったかなとも、今日の午前三時ごろ漠然と思ったのだが、後の祭り。

そういう理由でひどく寝不足なのだ。
毎日規則正しく寝起きしている反動か、全くもって倦怠感が治まる気配がない。


結果、欠伸を噛み殺す作業を現在進行形で延々と続けているわけである。







「ふはははは! これがッ!! 我の戦闘服よ!!!」

目を瞑りながら状況を反芻し、もうひと波、気だるさが沸きあがったところで、重低音の法螺の音に我に返ると、一人の男の裸体が俺の視界に飛び込む。

「完璧な彫像、それは英雄様の事でございますっ!!」




……勘弁してくれ。





「な、何だアレはッ――!?」

九鬼だアレは。

俺の真横で顔に紅葉のような赤みを差させ、口元に手を当てながら叫んだクリス嬢に、内心で相槌をうつ。
「九鬼」とでかでかと刺繍された金ピカのフンドシに、さらしを巻いただけの、およそ防御力の欠片もない「戦闘服」に、彼女の目は釘付けのようである。

マルギッテがいなくて良かった、と少々安堵する。
彼女なら「お嬢様の目にあんなものを触れさせるとは!」等とのたまって、かの王の従者と果てしのない闘いを繰り広げたであろう。


「ああいう人なんだよ、九鬼というのは」

この一年で彼の破天荒振りには慣れていたのか、またはこれをも凌ぐ自分たちのリーダーの意外性に慣れているのか、師岡が特に驚きもせず、少し口元を歪めながら解説する。

いや、これだけで彼の人となりを判断されるのは俺としても心外ではあるが、どれほど言葉を並べ立てようにも、なかなかに失地回復は難しそうである。 むしろ、これを失地と思わず矜持に類するものと九鬼がしている時点で、アウトだろう。



「いくら修行中の人達の半裸見てるからって、あれは慣れないわホ…「一子殿、我の活躍、とくと見ていてください!!」

目を離した隙に、一子の隣に来ていた彼は、こんな時でも全力アタック。




まあ、常ながら報われる気配もなく、悲鳴を上げながら想い人には逃げられたのではあるが、それでもめげずに自信をアピールする姿に感銘を………。


いや、無理無理。





























「……これはいかんな。 連携力ゼロで、話にならん」

二年F組担任の小島梅子は、クラスの醜態に頭を抱えるばかりだった。
挑発に乗せられているとはいえ、実質的には自分のクラスの素行に問題があるのだ。
先ほどの、腐ったミカン云々は言われ過ぎだとしても、四月の最終週の全校集会にて学長が言ったような「何かを掴み取り、奪い取り、勝ち取ってやれ」という気配がF組にはまるでない。 何かを成し遂げよう、という野心の質が、異様に低い。

別にそれが悪いとは思っていない。 事実、学長も、そう仰っていた。 平凡で普通の人生を送ろうとする姿勢、堕落に近しくなろうとも、それもまた「誇り」であり「生き方」だと。

だが、甘んじて謗りは受けるべきと、個人的には思うのだ。
それが、好き勝手な日々の生活に対する、二年F組ひとりひとりの最低限の責任ではないのかと。

常に努力し続けている、野心の塊であるS組の輩からの非難なら、尚の事だ。

どうにか、その自覚を生めないものか……。



「そうですねぇ。 こりゃ一度、うちのクラスと小島先生のクラス、白黒つけさせた方がいいですなぁ」

「はい。 ……青竜軍に与する他のクラスに申し訳がない」

隣で様子を見ていたS組担任、宇佐美巨人も同じ事を思っていたようだ。
何時もくたびれた外見で、だらしなく見え、声をかければお茶だの飲みだのの誘いが話の途中に挟まれるのだが、不思議と彼は生徒の心の機微には随分と敏感なのだ。 それを買って学長が人間学という授業を開設し、代行屋といういかがわしい職業と兼業させてでも教師に招いたというのも、頷ける話だった。

彼としても、学業素行が優秀であっても、人間性に幼稚さが垣間見えるS組をどうにかしたい事と見受けられた。


「やはり、お二方も、同じ意見かの?」

「!?」

「……これはこれは、学長じきじきに」

背後から唐突に気配を現した学長、川神鉄心が好々爺の顔で、しかし鷹の目のような鋭い眼光を双眸に宿していた。

「いずれ、この二クラスは己の誇りを賭して、ぶつかるじゃろう」

青龍軍の騒乱を眺めつつ、独り言のように呟く。

「……最大級の闘宴、川神大戦。 あれを考えたほうがよいかな」

「か、川神大戦っ!? あの伝説の荒行事ですか!?」

「ははぁ。 あの川神学園の決闘の中でも、最大、最高規模という……」

梅子は些か狼狽し、隣の宇佐美といえば、興味深げに顎に手をやり相槌を打っている。

前回行われたのは、数十年も前と聞く。
その時の戦の様相は、教師の間でも語り草となっているほど、苛烈なものだったそうだ。

大自然に囲まれての大喧嘩、と言い換えても良いだろう。

「うむ。 この体育祭はもちろん、川神戦役をも遥かに凌ぐ、いべんと、というやつじゃ」

しかし一旦ここで言葉を切り、何事か思案する学長。
常ならず珍しい光景である、思い立ったが即断即実行が信条とも思われる御仁に、迷いの表情が現れているのだ。

「…………ふむ。 やはり、今年、それを開催しようか」

しかし、自らの言葉を撤回することなく、ついに宣言する。

「……し、しかし、場合によっては負傷者が何百人出るか」

心の成長を促すためとはいえ、体の成長を害してしまっては元も子もない。

生徒の指導のため、やむを得ず・・・・・、鞭に手が伸びる事はあるが、それは並以上に手加減手心を加える事が可能であるからこそ、事件沙汰、査問沙汰にならずに済んでいるのだ。

武芸の手習いのある生徒ならまだしも、全くの素人多数が武具を扱って戦争モドキをやらかすのは、危険が過ぎるのにも程がある。 PTAが糾弾してきても、何も文句は言えないだろう。

「小島先生の心配はもっともじゃが、戯れの一環、と言い張ればなんとでもなる……と、まあこれは半分冗句じゃが、実際のところ、それほどの心配は要らぬ。 川神本家、分家、門下総動員で負傷者の治療も含め、大戦の進行に当てるつもりじゃ」

「いや……しかし、今年度中という話ですが、準備は間に合うものでしょうか?」

「ああ、いや……、それは、な」

歯切れ悪く、口をモゴモゴと動かす学長。

やはり、何かおかしい。

「学長?」

「そのな……会場の指定含め、もう段取りは出来ておるんじゃ」

「……は?」

「いろいろと別口でな……、じゃがもう、そっちの方は必要なくなった。 ……うむ、大丈夫じゃ」

「はぁ」

幾ばくか自分自身を納得させるような学長の物言いに眉を顰めたが、突っ込んでも詮無き事だろうなとも思い返す。

「ただ、まだ細部は煮詰めなければならんのでな。 これが終わったら、小島先生、宇佐美先生が中心となって隙のないルール作りをお願いしたい」

「ッ、わかりました」

「……了解です」

うむ、と一つこちらに頷き返すと、学長は大会本部に踵を返す。

どうやら、この夏は随分と忙しくなりそうだ。

その方が実家に帰らなくてもよい口実が出来るのも確かであり、早く孫が見たいと親からせっつかれる事も無く、都合がいいといえば都合がいいのではあるが。


「男子軍別対抗リレー、一位は青龍軍ッ!!!」


ルー先生のアナウンスに、また視線をグラウンドの生徒たちに戻す。
どうやらアンカーの風間が奮迅して、四人抜きを披露したらしい。

校則を校則と思わず、むしろ自由の拘束だと捉える節のある彼だが、それでも彼はF組内では数少ない「筋」を通している男だ。 これまでの教師生活の中で、彼のようなタイプには少なからず出会ってきた。 その例の多分に漏れず、風間もまたクラスの人気と信頼を勝ち得ている。 高校生というのは、多かれ少なかれ、破天荒さに魅力を感じる年頃なのだ。

表彰台から帰ってきた彼に、皆が皆、拍手喝采を送っていた。

クリスも、それから矢車も、その和にもちろん混じっている。




………ウチにはウチの、いいところがあるのだがな。


幾らか、頬を緩ませる。











まさか、次週に巻き起こる波乱の様相など、予期できる筈がなかった。









[25343] 第二十六話:発端
Name: かぷりこん◆273cf015 ID:94f5cb7e
Date: 2011/08/11 00:36




『絶望は、人を過激にする。 とくに、生まじめで思いつめる性質の人ほど、容易に過激化しやすい。』

―――塩野七生
















6月28日(日)





体育祭翌日、午前。

縁側のサッシを開けて寝たのが悪かったのだろう。
纏わりつく湿気の不快感に起床し、洗面、朝食を他の皆と済ませ、一旦ゲンさんの部屋に頼み事をしにいってから、自室へと戻る。

おもいっきり体を動かすのは、箱根でのクリスとの勝負以来だったため、やはり腿の裏や肩の周りあたりに軽い筋肉痛が出ていた。

ただ、それほど深い感慨も沸かなかった。
昨日の帰り際、同じクラスの連中の顔を見ても、不完全燃焼というか、燃えてすらいないというか。

直斗も、明らかに準備に疲れただけだって顔だったしな。




「昨日の体育祭は盛り上がらなかったね、あんまり」

京がいつものように俺の部屋に鎮座しつつ、呟く。

「そう、だな……」

いかんせん、生返事となる。

今日は特に急ぐ用はなかった。
のんびりとそこそこに予習して遊んで寝て、という日にしたかったが、かぶりを振ってその思考を追い出した。


長く、本当に長く引き伸ばした彼女への返事。
それをいつかは行わなくてはならないという事に、はたと気づいたから。

もう、姉さんへの想いは固まったのだから。


部屋では、足を崩して黙々と本を読む京と二人きりだった。
都合よく、今、寮には俺たち以外に誰もいない。

ゲンさんは仕事。
キャップは漫遊。
クリスは買物。
まゆっちも買物。
麗子さんは実家。
クッキーは警邏。

時折、京と肩が触れあう。
はたから見れば、この状況に羨む男がいるとは思う。




……だけど。




「どうしたの大和? 何か、様子おかしいよ?」

やっぱり、けじめはつけないといけない。

「……京。 心を落ち着けて、聞いて欲しい」

「うん……」

嫌に早い返事と共に、神妙な顔で京は頷く。
俺の声色が、真摯さを帯びたのを聴き取ったのだろう。

または俺の部屋に来てから、こうなる事を予測していたのかもしれない。
主人の部屋にヤドカリがいない事を指摘してはこなかったが、それに気づかない彼女ではない。

それでも、何かしら大事な話が切り出されるのだなと、一応の覚悟をしていたが未だし切れていない、という心情が、心許ない目つきに顕れていた。



彼女が正座に座り直したのを見て、対して俺は、大きく深呼吸する。



そして――



「俺、姉さんと付き合ってみようと思う」




告白する。











「―ぅ―」

ピクリ、と身じろぎ。
僅かに眼が見開かれ、無表情が凍る。
膝の上に握られた拳が、ぎゅうっと握り直される。


内心、苦渋が満ちる。 
だけど、何倍も辛いのは京の方で。
それでも付き合う前に全て言っておかなければ、もっと彼女は傷つくから、俺は言葉を搾り出す。

「結構、さ……。 気になってたんだ。 ……その、もういっそ付き合ってしまおうかなと」

「――」

「だけど、告白する前に、お前にだけは言っておかないとって思って」

何年も前から、俺に並々ならぬ好意を示してきたのだ。
ある種、裏切りととられるかもしれないし、実際、俺の胸中に罪悪が全くないという事はなく、むしろ六割方、申し訳なさが占めている。

だが、それでも好きなものは好きなのだ、という開き直りが存在するのも確かで、そいつが今、俺に胸の内を語らせている。



それにしても告白前に、付き合うことが確定している、なんて、ちょっと妙な話だ。

だが自信はある。 

少なくとも俺は、誰よりも姉さんに近い男である筈だ。 そんな俺が、姉さんと付き合うのは自然だろう?



「……そう、なんだ…」

俺が前述の言い訳めいた思索に耽っていた十数秒の後、しばし無言を貫いていた京は訥々と語りだす。

「そんな気がしてたけど。 ……改めて聞くと、ショック」

向けられていた双眸が逸れる。
雫がそこに溜まっているのをちらと見、俺もまた、京から顔を背ける事となってしまった。

「京……。 その、わかって、くれるか?」

先ほどまでヤドカリのいた空間をぼんやりと見つめながら、確認を取る。
自分でも間抜けで、無遠慮な、節操の無い言葉だなと、言ってから自覚する。

ただ、何を言っても、どう取り繕っても、結局の所は言い訳に聞こえるだろうし、事実その通りなのだ。

だから、この場だけは、自分の心をそのまま口にする。 それが誠意だと、信じて。

「わかるも何も、大和の想いだもん」

だが、返されたのは思いのほか冷静なものだった。

「認めるしかないよ」

「……そ、そうか」

淡々と紡がれる言葉に、いささか拍子抜けといえばそうであり、京らしいといえばそうでもあった。

「それに、相手は大事な仲間のモモ先輩……。 認めざるをえない」

……予想より、全然話を聞いてくれている。

正直なところ、もっと暴れだすかと思っていた。
その為にヤドンとカリンだけはゲンさんの部屋に避難させて、後は気が済むまで叱責も狼藉も受けとめようと、心の準備だけはしていた。

「……でもね、大和。 私の想いは、変わらないの」

「うん?」

「大和が誰が好きでも、私が大和を好きなのは、永遠」



―――貴方を、想い続けます。







「……それは、それはお前が辛いだろ?」

やはり、そう簡単には諦めてくれないか……。

こういう事を言う事自体、京を更に傷つけるとわかっている。 

わかっているが、それでも……。

「私は大和の想いを止める事ができない。 妨害も、邪魔もしない。 ―――それと同じように」

京は淡々と、しかし語気を強めて続ける。

「大和も、私の想いを止める事ができない」

ついに断言される。

「……」

「私の想いは、これからの大和にとって、重石になるかもしれない。 でも、でも何かあった時、それを思い出してみて?」

言い終えるやいなや、彼女はすくっと立ち上がり、襖を開け広げたまま、部屋から出て行った。



すん、と鼻を鳴らす音が、嫌にこだました。








「……わかった」

そしてこの承諾が、今の俺に出来る最大の誠意だった。





もっと早く、言っておくべきだった。

最初に好意を醸された時に、はっきりと。

これまでの優柔不断さが、京を傷つけたに他ならなかったから。









だが、これで準備は整った。





後は―――

















<手には鈍ら-Namakura- 第二十六話:発端>
















6月29日(月)







朝のHR前。

気分が悪いと訴えるような、空の唸りが耳に入る。

体育祭まで持ちこたえていた天気が、一気に鬱憤を振りまく雨模様。
ただ、あのような体育祭であれば、雨天中止でも構わなかったなと、自分の席でぼんやり考え、雨が収まるまで姉さんへの告白はお預けだな、とも思い直す。

告白は、晴れの日の夕方、あの想い出の場所でと決めていた。



机に突っ伏したまま、記憶に浸る。







―――お前がすごく気に入ったぞ、大和?



今と、毛ほども変わらぬ好意の表情だった。



――――私に、どこまでもついてこい。




遠い遠い、いつかの夕方、いずこの河原。

夕焼けの陽だまりの中で、俺達は向かい合った

言われて、差し出された手を、それを、確かに握り返した筈だった。








……こんな過去もあるのだ。 勝利は、約束されたも同然だろう。

一人、机上に向かってほくそ笑み、慌てて朝からなんとだらしない顔をと思い返し、教室を見回して誰も目撃者がいない事を確認し、左に目をそらす。


窓から、未だ登校途中の生徒を顎を机に乗せながら、見下ろす。

グラウンドを背景に、いくつもの傘が水玉模様を作っていて、季節の趣が感じられた。
まともな写真部がいれば、いい感じにこの様相をフィルムに収めるのだろうが、あいにくと、ウチには女体専門カメラマン志望のヤツしかいない。

十分ほど前から、一段と激しい降雨となっていた。 薄霧の中、早足で行こうとリーダーに進言して正解だった。

少し、京と話しづらい雰囲気だったためもある。 
合流してきた姉さん達との挨拶もそこそこに、提案した俺を受けたキャップの「競走だッ」の掛け声とともに、変態の橋を疾駆して登校。

おかげで、モロと俺は随分と朝から息が上がったもので、そんな経緯もあって、机に突っ伏す男三匹。

もう一匹は、仕事場から直接こっちに来たという、ツンデレ労働者。










「うぃーっす……と、大和、少し時間いいか?」

ダルそうな声に顔を上げれば、高スペック残念男。

「これはこれは、井上じゃないか? どうしたSクラス」

ハゲと、体を起こして相対する。

S組とはクラス全体として確執があるが、コイツとは話が弾むのですぐに仲良くなった。

「ま、頼みっつーかよ。 ……モモ先輩に連絡して、次の休みは自分のクラスに戻るよう、メール打ってくんねぇか?」

こいつが手を合わせる様は、なかなか堂に入っている。

「ん? なんで?」

「いや、あの人、奔放すぎて決めた場所に現れたためしがねぇんだわ」

眉をへの字に曲げて、やれやれと言わんばかりに井上は頭を振る。

「……あ、もしかして、校内ラジオ関連?」

というより、コイツと姉さんの関わりといったら、それぐらいしかない。

「そうそう。 今日の放送分、軽く話しておかないとよ。 体育祭の話題とか結構今回キツキツで」

「……しっかし、ハゲとお姉様がパーソナリティってのもアンバランスよねぇ?」

隣で話を聞いていたらしいワン子が、今更実感したかのように呟いた。

京のノートは、無事写し終えたようだった。

「俺は放送委員だから、義務みたいなもんだけどよ。 モモ先輩は人気投票で選ばれてっから」

嫌な顔一つせず、気さくにワン子に返答する井上。
やはりS組といっても、こういう親しみやすいヤツがいる事は確かではある。

大多数は気に入らないが。

「おお、流石お姉様。 ブッチギリの一位だったってわけね?」

したり顔で頷くワン子に、井上は苦笑しつつ答える。

「いやいや、それが結構デッドヒートかましてたんだよ。 ……ウチの若とな?」

「あらら」

つられたようにワンコも眉を寄せて、はにかんだような笑み。

「まあ、ただ相方が俺っつーと、流石に女のモモ先輩じゃなきゃヤバイって話になって」

「アハハ、それは、まあ、なんとなくわかるわ」

姉さんじゃなければ、今よりだいぶリスナーは減っていた事だろう。

葵の女子からの人気は凄まじい。
姉さんの男子からの人気も、同じほどある。

だが、葵は姉さんほど、同性ウケはしないだろう。 
時折、俺にその片鱗を見せる、特殊な性癖を除けば、あいつが悪いわけではないだろうが、いつの時代も、モテる男が同性から好かれやすい事はない。

そんな考慮が働いたせいで、井上が随分と苦労しているのだろうが。


「メールよりかは電話の方が繋がりやすいから、今からかけるが、お前番号知らないのな?」

「モモ先輩、基本男には教えないみたいよ? ……美少女専用ダイヤル、だそうだ」

肩をすくめられた。

「お前か川神妹、あとは居候の直斗なら、知ってそうだと思って来た次第」

「……苦労してそうだな、井上?」

「だろう? ま、俺なんつーの? ジョーシキ人、だからよ」

そう言って歯を見せて笑ったが、直後、挨拶してきた委員長に過敏に反応する姿が、説得力を損なわせた。



「……あ、ホントだ。 2-Sのヤツがいるぜ?」
「ノコノコとよく顔を出せたもんだな」
「あ、超2-Sじゃん。 マジムカ、マジムカッ!!」


そしてそれが注目の発端となり、一斉に険を含んだ視線が井上に殺到する。


「……おいおい、周囲の目が超ー痛いな」

クラス中から注がれる敵意に、些か辟易として顔を顰める。

「そりゃそうだと思うけど? 自業自得でしょ」

冷淡に小笠原さんが言い放った。
少なからず思いを寄せる葵冬馬と近しい彼とはいえ、S組の一員に変わりはなく、敵として認識しているのだろう。

まさに四面八面楚歌。


俺はといえば、完全に見に徹し、中立を貫く。

下手にS組を擁護しても、あまりメリットはない。
これからS組を目指すというならまだしも、あと何ヶ月もこのクラスで生活していくのだ。
井上には悪いが、同じクラスの連中を敵に回そうという気は起きない。

まあ、柳に風、といったふうに罵詈雑言を受け流す彼に、気遣いは無用とも思えた。
 

F組で彼の味方といえば、直斗ぐらいだろうが、未だ自席に姿をみせていない。
ひと頃に比べ、学校に来るのが随分と遅くなった感がある。

そうそう、彼の事だが、このところ、鍛錬にもハリがないらしい。
いや、サボっているわけではなく、金曜集会でワン子が言っていた事には、一人で何かを考えている事が多いのだそうだ。 心ここにあらず、というところか。

朝の座禅も最後まで居残って、朝食を抜いてくる事もしばしば、しーばしーば。もう8は見ない。

顕著になったのは、マルギッテとの対戦のあたりのようで、「姉」弟子として心配なのだという。
マルに負けたっていったら、二人がかりでようやく本気を出させたアタシや京の立場はどうなるの、と、苦笑しつつ発破をかけたらしいが効果は知れない。 曖昧に相槌を打たれれば打たれたで、それ以上どうしようもないという事だった。





「仲良くしようぜ? お前たち?」




男前な声で我に返る。
異様にセクシーなのはさて置いて、聞きやすい声ではある。
放送委員会でも競争率が高いであろう姉さんの相方を任せられ続けているだけはあった。

「ざっけんなッ! お前のクラスの奴ら、ひたすら俺たち馬鹿にしてんだろうが!?」
「行き過ぎた誇りは傲慢でしかない。 うざいぞS組」
「なんかアンタらのクラスの女子、アタシとか見るとヒソヒソ話して失礼なんですけどー?」
「……それはまぁ、良いとしよう」
「良いわけないでしょ!? オタは黙ってゲームやってなさいよ!!」
「ハッ! 言ってくれるなスイーツ脳が! ただ人が死ぬだけの話に涙して金を搾取されて!!」
「ッ! アンタらのゲームだって同じようなもんじゃない!?」
「馬鹿がッ! 例えばこのPCゲーム、オータムッ! いわば俺の人生……、そんだけ高尚なもんなんだよ!!」



しかし井上の言葉に篭められた誠意は、全く受け付けられず、内輪もめをやる始末である。

朝型低血圧であったり、くだらない理由からの寝不足のせいで、即座にヒートアップする言い争い。

正直、聞くに堪えない。


「……井上、今のうち」

そう言って、廊下の方を顎でしゃくり、促す。

「そだな……。 俺達、ずいぶんと恨まれてんだなぁ……」

ギャアギャアと騒がしいBGMを背後に、引き戸を潜り抜けながら、井上はぼやく。
如何に温和な性格でも、悪意に対して気落ちするのは、誰でもそうだ。
それに彼にして思えば、身に覚えがない、まさに難癖だろう。 こいつや葵は、それほどF組に悪感情を持っていない事は知っていた。





「なんだか、すみません……」

「一ミリたりとも気にしていませんッ!! ご安心をッ!!!」

申し訳なさに目を伏せて、廊下まで謝りにきた委員長に、即座に平伏しそうな勢いの彼を見れば、さほどダメージは受けてないように思えるが。













「……じゃあ、まあ、姉さんには連絡しとくよ。 三年F組、姉さんのクラスに集合って言えばいいんだろ?」

「ああ、よろしく言っといてくれ」

頼む、というふうに肩を叩いた後、そのまま片手をスッと軽く上げて「んじゃな」と、小走りに自分のクラスに井上は帰っていった。






S組とF組、か……。

元々、仲は良くなかったが、最近は特に目に余るものがある。
険悪な雰囲気になったのは、三月の新学級オリエンテーションの時だったか。

「早速、連絡しますか」

一秒もかからず、尻ポケにあった情報端末の画面を開く。
バイブが鳴れば条件反射で、さながら銃士のクイックドローのように携帯を取り出せるようになって幾星霜。 情報はナマモノってね。

姉さんに電話できるという立場に、この頃、優越感を覚えるようになった。
好きな人に好きな時に連絡できるというのは幸福な事だと、月並みに感じる。

「……うわ、結構メール溜まってんな」

メールは四件ほど。
登校中は一度も携帯に触れる機会もなかったし、いつもなら起床した時に連絡が来るヤツも、雨だからか、だいぶ遅れていた。

先にこっちを片づけようと決める。 姉さんとは少しでも長く話したい。 別にメールに締め切りがあるわけでもないが、メールを送った側は返信が早ければ早いほど、気分は良いだろう。 
何度も携帯を確認する手間も省けるのだろうし。










二件目の返信を送ったところで、言葉をかけられる。

「大和、お前、しょっちゅう携帯を弄っているな?」

「……クリス」

「よくそんなにメールを出す相手がいるものだ」

皮肉を言っている口調ではなく、関心半分、不審半分といったところ。

俺の様子を見ていたのだろう。
彼女は自他共々へ率直過ぎる嫌いがあるが、あまり人の悪口を好む方ではない。
耐え切れず、廊下に出てきたクチか。

「ああ、まあね。 知り合いは多いほうだから」

「うん。 転校初日から感じていた事だ」

顎に手を当て、首をかしげる。
頭上に?マークが出てきそうな不思議顔。
俺には姉さんがいるが、大抵の男共ならコロリといってしまいそうな仕草だ。

これで空気読めれば、完璧なんだがな。

「見たところ、積極的に友達を作っているな?」

「そうだよー。 その方が悪巧みしやすいでしょう?」

……いかん。 どうしてだか、コイツには天邪鬼になってしまう。
ただ、姉さんに電話するイベントが待ち受けている俺としては、この会話に時間をとられたくなく、少々面倒臭さに苛立ちがあった事も付け加えておこう。

「……お前な……友達をそんなふうに…」

液晶画面を見ながら飄々と、悪びれるふうもなく語る俺に、彼女の正義感はむらと呼び起こされたようだった。

「じゃあな。 俺忙しいんで」

経験則から、こういう場合は流すに限る。 教室の方へ体を向けた。

「おいっ、ちょっと待て大和」


「あらら、ナオっち。 二股はよくないよ♪」

手首をぐいっと掴まれたところで、ガラリと開いた扉から小笠原さんが出てくる。
この人は本当に、こういう類の話題が好きなようだ。

だが、ここは乗らせてもらおう。

「いやいや、クリスが俺に気があるみたいで、やたらと絡んできて困ってんのよ」

「かっ、絡んでなどいない!!」

「あーはいはい、お熱い事で~」

そう言うと、小笠原さんは、さっさか手洗いに旅立っていった。

否定のために、クリスもそれに続こうとすると思ったのだが。

「おい……」

握力が、より強まった。
レイピアの突貫に接続される彼女の右手は、尋常でなく鍛え抜かれているのが、身に沁みる腕に沁みる。

最終的に火に油を注ぐ結果に相成ったようで、なかなか策略というものは、よく練らなければなと感じさせられる。


要約すると『ほんとにメンドいな、この女』


「はぁ…」


軽く気づかれない程度に嘆息をついた後、決心する。


「説明しろっ! さっきのはどういう…「俺にも、こだわりがあってさ」

彼女の非難に言葉をかぶせた。





……やっぱり説明しとかないと、ずっとつっこまれそうだ。

姉さんには、ホームルームが終わってからでも間に合うだろう。
いざとなればメールすれば良い。




























周囲を見回し、未だ俺の腕を放さずにいるクリスを引っ張りながら、比較的死角となっている屋上への登り階段付近、そこの窓辺へと身を滑らせる。 

外の雷雨が、良い音消しになってくれている。

これからの話は、あまり聞かれたくない。




「俺が知り合い・・・・を増やしているのは事実だけど」

緩んだ彼女の手をやんわりとどかし、俺は彼女と真正面から相対し、その眼を見つめる。

おふざけはない。

これは、俺の誇りと直結する話だ。


友達・・を増やしている自覚は、ない」

一段と、降りしきる雨の音が大きくなる。

「……どういう事だ?」

「俺が携帯とかでやり取りしている方々はね、一緒に遊んだりはするけど、あくまでギブアンドテイク・・・・・・・・の連中なの」



―――いいか、大和。 顔見知りを多く作りなさい。





「何か情報あげるから情報よこせ、アイツ紹介するからコイツ紹介しろ、とか、そんな感覚」




―――――持っている人脈は、いずれそのまま、力になる。




「だから、友達とは思っていないと?」

怪訝な目で問われる。
あまり、好意的なものでない事は確かだった。

「少なくとも、俺はね。 相手がそう思うかはそれぞれの勝手だし、構わない。 ……どこまでが友達で、どこまでがそうでないかなんて、それこそ人それぞれだろ?」

「まぁ……、それはそうだが」

ある種、開き直りに近い論理だが、これは真理だと思う。
だからこそ渋々ながら、お堅いクリスも頷いている。

「例えば、俺はそいつらが大ピンチになったら出来る範囲でしっかり力になるけど、我が身を犠牲にしてまで助けようとは思わない」




―――――その人たちは、お前が本当に困っても、助けてくれない。 当てにしちゃあダメだよ。




「その逆を言えば、俺がピンチの時、相手もそんな感じだろう。 身を削ってまでは助けてくれないさ。 ……だから、俺の定義では友達に入らない」




―――だから、その人たちが本当に困った時、助けなくていい。




「ふーむ」

「……俺にとっての友達は、風間ファミリーだけだ」

「例えば、モロやワン子の身に何かあったら、こういうクサいのは俺の趣味じゃあないが、最悪、我が身を犠牲にしてまで助けると思う。 また、あいつらも、そうしてくれる確信はある」

「……」

「と、まあこんな感じだ。 俺のポリシーってやつは」

「うーん。 確かに、確かにキャップ達への思いやりは感じたが……」

「何?」

「いや、困った時に他人が我が身を挺して助けに来ないと、決めつけるのも寂しくないか?」

……だが、世の中そういうもんだ。

だからこそ、父さんは海外に。

「熊飼殿や、それこそ矢車殿なんて、恐らくは……」

まあ、それに否定はしないが。

「頼らないようにしているだけさ。 ほら、何か起こっても俺にはこんなに大勢の仲間がいるから安心さ、とか油断しないように心がけてる」

薄く笑って、さらりと返答する。

「……なるほどな。 ……なら、無理に知り合いを広げず、ファミリーの友達と遊べば良いんじゃないか?」

真摯に考えてくれている事がクリスの、今の雨空のような曇った表情から理解できる。
間を空けて、十分に俺の言葉を咀嚼して考えを言ってくれるのは、実際嬉しい。 
それにまた、懇切丁寧に意見してこそ、俺の誇りは確固たるものになるからだ。

「はじめに言ったように、悪巧み云々はともかく、人脈広いと有利じゃん。 今の世の中」

そう。 全てはここに、集約される。



―――そうさ、大和。 損得勘定の付き合いさ。 ギブがなければ、テイクはこないよ。



「俺は今、結構いろんな人たちにギブしているほうなの。 だから、俺に何かあれば、そこそこのテイクはしてくれるさ」

「ううーん…。 いまいちよくわからないな。 そこが」

舌打ちを頬の内側に隠す。

「例えばさ、生徒会長に立候補すれば投票はしてくれそう。 俺の策通りに動いてくれそう。 ……そんな感じ」

「……否定はしないが、それはどうにもなー」

お嬢様は、腹に据えかねる様子だ。

「じゃあ、クリスの好みの行動基準は?」

「“率直で正直”ッ!!」

間髪をいれずに答えるさまに、軽く頬を緩めた。

「だろ? ま、納得しなくても否定しなけりゃ俺は満足さ」

「ああ……」

なにやら諦めたような目でこちらを見始めたので、少し、慰めよう。

「……それから、一つ言っておくが」

これだけは、伝えないとはいけない。

が、正視して言うには少々荷が勝ちすぎる。 窓の向こうの、川神の景色に目をそらす。

「うん?」

「……当然、お前も俺の友達の中に入ってるからな?」

「………へっ…? ……あっ、ああ?」

不意に自分に向けられた幾ばくかの好意に、明らかな狼狽をみせるクリス。

案外チョロいな、と思う一方で、悪くない、と微笑ましく感じられた。

「そ、そうか…、ふむ…」

自分を半分納得、半分落ち着かせようと、呼気を整えると、また凛とした声が俺の耳に入る。

「自分も、大和に何かあれば助ける!」

……そうかい。

「ただ、とはいえ自分の好きな言葉、“義”は人の道……」

少々、俺には眩しすぎる言葉だ。

「自分は、友達以外でも、困っていれば力になるがな!!」

「俺だって力にならんわけじゃねぇって」

「どうにも薄情に聞こえてしまうからなー」

「……いつになったら認めてくれるかね?」

「一生、ないかもしれんな……、さて、戻るか。 もうクラスも落ち着いた頃だろう」

少し歩み寄った気配があったが、結局は平行線か。
金髪をたなびかせ、教室へ戻っていくクリスの後姿を見ながら、俺は吐息を漏らす。

邪魔にならなきゃいいさ。



彼女を見ると、時折、自分は没義道を進んでいるのではないかと思う事がある。




―――不正が、不実がバレた事が罪。 隠し切れない能力を持つ者は、愚か者は、淘汰されていく。




そんな教えの種も、俺の中には芽吹いていて、それを自覚しつつも排そうとしないというのが、俺の精神。



だけど、心がまるでない鬼畜になりたいとは思わない。

だから、時折、彼女を振り返り、自分の立ち位置を確認できればいい。














































幾分、黒歴史むかしに戻ったような思索から、脱却し、開けっ放しだった携帯の画面を見る。

午前8時17分。



……うし。 






あと一件は返事出せ―――------


















「、ま…」





ゲ、と踏んづけられたかえるのような声が自分の口から飛び出し、咽頭が灼熱する。



一刹那の恍惚の後、携帯画面を映していた視界が瞬く間に暗転し、鈍い音が脳天を突き抜ける。




「やま、と…」





わけがわからない。



床に打ち据えられたろう後頭部の激痛の中、必死で喉部を掻き毟る。
早鐘を打つ鼓動を遠くに聴きながら、目を開けることすら忘れて、ただひたすら酸素を求め、首にかかる万力を、人の指に違いないソレを解き放とうともがきにもがく。

その努力も虚しく首の拘束は強まるばかりで、今度は上方へ引き上げられる感覚。

次いで前方にぐらりと、まるでタメをつけたよう引っ張られたのを知覚した俺は、これから我が身に起こる惨劇を直感し、声にならない絶叫をあげる。














硝子の甲高い破砕音と共に。








「あ゛ッあ゛あ゛あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!」





白夜叉の咆哮が、雷雨を切り裂いた。


















[25343] 第二十七話:哭剣
Name: かぷりこん◆273cf015 ID:94f5cb7e
Date: 2011/08/14 14:12
『四月の気層のひかりの底を、唾(つばき)し、はぎしりゆききする。 おれはひとりの修羅なのだ。』

―――宮沢賢治「春と修羅」






















蹴り・・、によってガラスが四散する。

雷光に輝き、雨滴を弾き、外界に零れ出る結晶片。 


だが、衝撃は内部からではなく、屋外からであった。





ブローバック、という現象をご存知だろうか。
物体の衝突によってガラスがたわむ、この瞬間、ガラス自体の持つ弾力によって元に戻ろうとする力が働き、そのせいでガラスの割破片が両方向、または衝突した物体の進行方向とは逆側にのみ、弾け飛ぶという物理現象である。

しかし、物体をガラスに撃ち込めば、力の掛かった進行方向にガラスが全部飛んで然りであり、普通、弾性によって生じた力より初期に放たれた第一次の力の方が大きいため、 ある程度限定された条件下でなければ、成り立たない事象である。


では、その限定された条件とは、なんだろうか?


それは、密室である。
衝突の影響で圧力がかかり、室内からガラスを押し戻す力が加わる。 これが弾性と合わさり、ガラス片が衝突方向と逆方向に飛び散るのである。

ブローバック、と聞けば、リボルバーと並び銃器を思い起こす人が大半であろうが、銃にも同じ現象が利用されており、密室由来の圧力を利用し、自動で薬莢を排出するという機構が、ブローバック式と呼称されているのである。 ちなみに、ブローニングと混同する人がいるが、ブローニングとは初めてブローバック機構の特許を獲得した銃器メーカーの事である。




さて、しかし状況をさらおう。

雨天により、校舎内は通常より閉め切られているとはいえ、完全に外界と遮断されているわけではない。 いまだ昇降口は開け放たれ、珍しい雷雨に、ここぞとばかりに窓を開け放つ、若さゆえの愚行を断行している輩も、少なからず居た。

廊下、加えて階段付近という密室が極端に発生し難い場所で、ブローバック現象が、起こる筈がない。


起こる、筈がない。

だが、起きた。





起きる筈がない現象が起きる。






論理的に考察しよう。

起こらない事象は、起こらない。

これは、大前提。 必定と言い換えてもいい。

しからば、何が起こっている?

携帯少年の首根を押さえ、それに接続された頭をガラスに叩きつけようとする白髪の青年と、外に存在する、地上十メートル超の上空に居る何者か・・・の間の、厚さ一センチにも満たない、一枚の透き通った板において、何が起こったのか?


しつこいようだが、ブローバックは起こらない。

ならば、これはブローバックに限りなく似た現象という事だ。

それ以上でも、それ以下でもない。






それでは、貴方は、貴女は、いったい何が起こったと想像する?














どう考えてもわからない方々に、ヒントを授けよう。















川神院は、理屈じゃない。










<手には鈍ら-Nmakura- 第二十七話:哭剣>




















周囲の慄きをものともせず、矢車直斗は、激情で総身を灼く。


――――大和。


ただ、その一念で。




五感から流れる情報が取捨され、思考が削耗される。

知性は逆走し、理性は迷走し、感性は奔走する。

血という血が爆ぜ、鬼面の相で絶叫を上げる。

憤怒怨念狂執悲嘆絶望哀訴。

その全てが綯い交ぜになり、唯一の「望み」の不成立に、激情の波濤が押し寄せる。





もはや聞くに堪えなかった。

これ以上語らせてはならない。

このよくよく回り続ける口を、一刻も早く噤ませねばならない。





「あ゛ッあ゛あ゛あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!」





それは拒絶の猛りだった。

もうそれ以上何も言わないでくれと。

もうそれ以上何も聞かせないでくれと。






例えば、俺はそいつらが大ピンチになったら出来る範囲でしっかり力になるけど、我が身を犠牲にしてまで助けようとは思わない―――





その逆を言えば、俺がピンチの時、相手もそんな感じだろう。 身を削ってまでは助けてくれないさ――― 




……だから、俺の定義では友達に入らない―――










お前が、お前が、お前がッ――、どうしてそんな事を言えるのかッ!!!



助けてくれないだと?

だから助けてやらないだと?

誰がそんな事を決めた!?



ギブがないからテイクがこない?

テイクがなければギブしない?

誰がそんな腐った教えを!?



お前みたいな奴がいるから、そんな考えが罷り通るから、親父たちの職は無くならないんだよッ



そして何よりも、真守はッ




真守はッ、真守はッ―――





碌に言葉も交わさず、邪険に扱われ、それでもと。

お前を一心に想い、一心に信じ、それでもと、あいつはッ―――




最後まで、最期まで。



助けを、真守はッ―――










その真守の死を、伝えられたお前が、なぜそんな畜生のような言葉を吐けるッ!?









目の前に広がる風景が砕け散った。


その直後。

暴雨の雫を顔に叩きつけられた直後。




鏡面世界から飛び出たかのような、武神の姿。






想念が更に揺らぐ。






こいつが。

こんな奴が……、百代の隣に、一番近くに、居座り続けるとッ―――――!?









仇を挟んで向かい合う、タイルに着地した彼女を見る頃には、中空に浮いていた。

右側面から肝臓に足拳が突き刺さり、凄まじい勢力に抵抗することなく、連立する廊下の衝立てを巻き込み、紙くずを撒き散らせながら、直斗の心身は弾け飛んだ。





浮遊感が終わり、鈍い音と衝撃が同時に走り、急激に横に流れた視野がすっと暗くなった。 

廊下の最奥に位置する音楽室の柔らかな防音扉にどうやら叩きつけられたらしいが、その感触はすぐに曖昧となり、矢車直斗は闇に墜ちていった。































二階の廊下から、窓のサッシを踏み台に、川神百代は跳び上がる。


――――大和ッ!?


ただ、その一念で。



危機が迫っている。
否、もはや危害に直面している。

直感、という直観。

髪を撫で付ける雨滴の数々をものともせず、上方へ身を躍らせる。

目的階、所定の窓枠を掴んだ百代は中の状況を確認し、今まさに窓を突き破らんとする撫でなれた頭を知覚した瞬間、理性を廃し、ただ感性のみで直江大和の救出と、害為す者・・・・の無力化を両立する。

両立しようとする、ではない。

両立する。 
彼女にとって、もはやこれは摂理にも似た決定事項だった。



窓を蹴破る。

ガラス片が内部に侵入する刹那、彼女はつま先に氣の螺旋を纏わせる。 吸引、導引。

直江大和の頭部に深い裂傷を刻もうとする三次元無規則網目構造をなす珪酸塩の塊を、その大小を問わず、自らの足尖に吸着させ、再度、戻す。

引き戻した足の勢力に、全てのガラス片は跡形もなく雨中へと消えたが、まだ危機が去ったわけではない。

サッシを引っつかむ手に更に力を加え、そこを支点として猫科動物のしなやかさで校舎内に進入、未だ押し出される勢力を失わずにいる大和の背後に回り、彼を受け止める。

この間、わずか一秒。

自明、壁との間挟みになるが、背に来るだろう衝撃に備えるよりも先に、弟の首に張りつく手が目に入るほうが早かった。

下腹部がかっと熱くなるのを自覚すると同時に、反射的に放った右中段廻し蹴り。

図らずも弟が盾となって繰り出されたそれを、認識できる者は皆無だろう。


内臓を蹴り飛ばした心地の悪い感触を確かめながら、ここで初めて対する者の正体を見て知り、愕然とするが、それは憤怒の炎に油を注ぐ事実でもあった。






一筋の白髪の残滓が、地に落ちる。






「……無事か、弟」

しかしまずは、愛する舎弟の無事を確認するのが先だろう。

その場に大和を寝かせ、自らもうずくまり、片膝に弟の頭を乗せる。

「ね、…ねえさ……――ッ」

喘ぐ弟分に「喋らなくていい」と、口元に指先を当てる。 母性の顕現たる慈愛の光がその瞳を満たしていた。
先ほど蹴り飛ばした者の気配に一割ほどの意識を当てつつ、残りの九割を体の検分に注ぐ。

喉元に痣の濃青が広がっているが喉自体が潰れているわけではなかった。 気道が塞がっていた時間はごく短かったのだろう。 意識はしっかりしている。 痙攣する咽喉からの咳も治まる気配があった。

体の何処にも出血はなく、唯一の心配はスカート越しの腿にも伝わる、後頭部の放つ熱だったが、瘤ができている事から頭蓋は護られたのだと推測。





「大和っ!!」

そうこうするうちにファミリーの面々が血相を変えて飛んできた。
疾風のごとく駆け抜けてくるリーダーを先頭に彼らは現場に到着し、百代の周りは些か喧騒に満ちる。

「みや…」

「ちょっ、大丈夫!?」
「大和っ、大和っ、やまとっ!!」 

ワン子と京は顔が擦り合わされる寸前のところまで来て、半狂乱に幼馴染の名を呼びつづけた。

「モモ先輩! どういう事だよ、これ!?」 
「ちょっと、何があったの!?」

モロとガクトが詰め寄る。 ぎょろりと、これでもかと目を剥いて。

クリはただ、軍師の首を覆う青痣を見て、瞳を潤ませ、口元を覆うばかり。



「……モモ先輩」

そしてキャップは、静かな怒りを湛えた口ぶりで、こちらを見据えるままだった。







覚醒の気配を、感受する。







「……見た目はアレだが、命に別状はない」

クリを安心させるよう、肩を手で摩った後、代わりに京に膝を大和に貸すよう促す。

「大和を頼む」

「お、おい、モモ先輩っ」

周囲の雑踏へと、一歩を踏み出す。








「……少々、仕置きをな」


かけがえのない仲間の声を背に、川神百代は羅刹となる。

































こういう時、花畑に佇む家族や想い人の姿を夢に見て、驚愕して起きるというのは小説の中だけだ。 

むしろ、そのような夢を見られるのなら、何回だってオとされよう。

現実の目覚めは、耐え難い猛烈な頭痛と嘔吐感、目を開けることすら億劫な意識の混濁を連れてやってくる。

「…ぇ…ぅ」

ひとしきり呻きをあげ、その間に自分の置かれた絶望的な状況を思い起こすと、開けようとした瞼にいれた力を抜くが、閉じたら閉じたで無知覚からくる恐怖が湧き上がる。

仕方なしに顔面の筋肉と相談し、薄目を開けることで精神と肉体は合意した。

冷えた床の感触が横っ面に心地よく、もう一方の頬もと、頭を回転させようと試みたが、鞭打ちのような痛みが首筋に走り、計画は頓挫する。

ならば体ごと寝返ろうかと、痛む内臓を庇いながら腹ばいになったところで、極狭の視界に三年用の、踵部分が赤い上靴が映り、その意味を吟味する前に、百代の蹴りが俺の顎を直撃した。

俊敏な爪先が下から掬い上げる形で飛んできたと思うと、下顎で爆発した衝撃が頭蓋を揺さぶり、衝き抜け、さながら糸に引っ張られたマリオネットのように俺は上方に引き上げられ、喉輪にがぶりと彼女の手が噛みついた。






乾いた笑いを内心響かせる。

先ほどの構図とそっくりだった。

一瞬、蝿を食べる蛙を食べる蛇の図が、頭に描かれた。







「おい」



暗く、昏い瞳だった。







逃避の思考をやめ、体が引きちぎれる激痛に耐え、眼を合わせて、己の想いを確認する。


この人は、およそ達観ということを知らない。
感情に波打つ闊達な精神。 多分、この世の中の大多数が、大人になるにつれ、どこかで割り切り、置き忘れてしまうもの。

だが、彼女の瞳に映る森羅万象は、決してモノクロではない。
享楽、悲嘆、そして今、俺が当てられている憤怒の情すら、この愛しい人の瞳は、その時々の心の彩を反映しているのだ。

世渡りが下手なタイプと、大和のような人間は笑うだろう嗤うだろう。


だが、だから俺はコレに、恋した。

偽りのない誠意が宿る、彼女の瞳の奥に。





「何があったかは知らんが、というか、知るつもりもないが」


じわじわと拷問のように気道を締めつけられていても、想いは変わらない。


「ダメだろ? ……なあ?」


だから、汚されたくない。


「トーシローに、武術家が殺しに入っちゃ」


あいつに、あんな奴に、くれてやれるかっ。


「しかも、私のかわいい、かわいい弟を……」


その瞳は、かつてないほど冷たい。

その瞳は、かつてないほど灼熱に滾る。

冷たく凍り、熱く渦巻く、負の感情。



「っグッぅ―げ―」





憎む。

この不条理やまとを、この理不尽やまとを、この不義理やまとの一切を。





俺は、俺は、どんな手を使ってでも、何に代えても、斬り祓わなければ―――








「モモ先輩ッ!!!」
(おいおいおいおい、こりゃ洒落になってねぇよ姐さん!?)




酸欠で再び薄れる意識を醒ましたのは、もう一人の四天王の声だった。





























「……まゆまゆ」

抜刀するところまではいかずとも、布袋から中身を晒し戦気をも醸す後輩に視線だけ動かして応じる。
両手で鞘を縦にして掴んでいるのが、まだ良心的といったところか。

「こ、これはどういう……?」

「粛清だ。 川神院式の」

大義名分としてはそうだ。
実際は、目には目を歯に歯を的復讐。

それにしても、なかなか師範代やジジィが来ないな。 生徒がこんな事をしているのに何をやっているのだろうか。

というか、他の教師の姿も見えない。

まあ、邪魔がいなくて都合がいい事に変わりはないのだが。

「そんな……、矢車さんが何を――」

言い終わる前に肩越しに顎をしゃくって、数十メートル後ろに意識を向けさせる。
私と同じく窓から上階に上がってきたのだろうが、事情が全く飲み込めていないのはファミリーと同じだろう。

そして、剣客、黛の眼力ならば、横たわる舎弟の頸の青疸を見間違いと断ずる事はないだろう。


「……あ、ありえませんそんな事」

振り向いたまゆまゆの顔の血の気と腹話術に気を裂く余裕は、失せていた。

「私の目の前でコイツは大和を窓に向かって、頭から、突き落とすところだった。 ……悪いがまゆまゆ。 これは川神のゴタゴタだ。 おとなしく退いてくれ」

「じ、事故じゃ」

「お前もコイツの殺気を嗅ぎつけてきたんだろうッ!?」

尚も尚もと食い下がるまゆまゆに、私は一喝し、目を直斗に戻す。

もはや意識も定かではないのか、手足はだらりと下げられたままであり、その薄く開かれた双眸を見つめる。

だが、そこに未だ爛々と閃き煌く何かを見出せば、更に拘束を強めるのになんら抵抗もない。

私の庇護があると知って尚も、大和に害為そうとするその度胸は認めるが、それと赦す事は別物だ。

「赦せんっ。 ……こいつはこの頃、腑抜けも甚だしかった。 それはいい。 誰しも敗北の後は放心するものだ。 だが」

「事情はお聞きになってないんでしょう!? 大和さんにも何か落ち度は」




―――武士が一般人パンピーに手を出していい理由が、あるか!?























「そ、それは」

モモ先輩が内に秘められた激高を吐き出すと、不覚に喉がつかえ、俯く。

嗚咽が漏れそうだった。

信じたくなかった。
胸を不規則に上下させて倒れている大和さんも、憎悪を混ぜた顔を晒す矢車さんも。


「で、でも…、でもっ」

なにが、でも、なのか。
そんな事は考えられず、ただこの状況への拒絶から無心に逆接の言の葉を紡ぐ。





「由、ぎ……ぇさ」





はっとして、搾り出された声の儚さに醒める。

手を、伸ばされていた。

乞うように、ただ乞うように。

もう片方の手はいつの間にかモモ先輩の手首に取りついていて、でも全く相手にならなくて、でもそれでも諦めずに、ぎりりと歯を鳴らす。






そのぐしゃぐしゃの必死の形相が、何故だろう、えもいえぬ共感を私にもたらした。







―――同じ。 一年前までの私と。 友が欲しいと嘆き苦しんだ私と。




仲間が欲しい。

繋りが欲しい

助けが、欲しい。


向かう彼の掌中に、その想いが集約され濃縮され、渦を巻いているように思えた。











「矢車さんッ!!」


弾かれたように想い人の下へ接近する。 

体裁きも、抜刀も、剣に柄を掛ける事も、何もなく。 

ただ、近くにいなければならないと。 

孤独にしてはならないと。



友達、だから。



「ッ!? まゆまゆ!!」







――ヒュンッ








「……え」


足が飛んできた。





モモ先輩の、ではない・・・・




直後、私は思い知ることになる。





彼が求めていたものを。





この時の彼にとって、私が何であったかを。





























勝機っ!!




ましらの機動で、貯めに貯めた筋肉の弛緩を収縮状態へと移行させ、俺は自らの右手を接続した百代の手首を支えに、下半身を跳ね上げる。


「まゆまゆ!!」


上に向かう蹴りの角度から何をするか察した百代が叫ぶが、もう遅い。
右手を俺の喉にとられているお前が、同じく右側から突進してくる「俺が求むるモノ」に応じる事は、この切迫した状況下では不可能だろう。 よって、自分以外にソレに応じようとする者の喉笛を圧壊させるという思考、反射に百代が辿り着く前に、俺は飛び出した足の指先に意識を集中させる。


彼女の、由紀江の癖なのだろう。
布袋に入れているときと同じく、柄頭を少々傾けつつ天井に向けて、両手でひしと鞘を掴んでいるのを確認して、俺は意識からそれらを抹消する。 ある一点の洞穴を残したまま、俺の視界は白い靄に覆われる。






狙うは……、鍔元・・






かちり、という音が奏でられた瞬間、剥き出しだった鍔に引っ掛けた右脚の尖を勢いそのままに、筋の痛みも振り切って引っ張り上げる。

つま先の合成樹脂部分が丁度滑り止めとなって、銀の刃が鞘から完全に解き放たれ、宙に舞った。

全てを斬れと、全てを裂けと、全てを断てと、そう言わんばかりの刃唸りが、剣の哭声が、俺の耳を撫でる。





「オオオオオッ!!!」


真実の怨念を篭めたいななき・・・・が漏れる。







唯一の味方の好意すら唾棄して踏みにじり、俺は撃ち上げられた真剣との合一を果たさんと、右腕を高く、高く伸ばした。













[25343] 第二十八話:幻影
Name: かぷりこん◆273cf015 ID:94f5cb7e
Date: 2011/08/26 22:12



『「いま」が唯一の現実であり、過去と未来は幻である。』

―――エックハルト・トール





















職員室からでも、多馬川の黒い流れを見ることは出来た。

土砂に濁った川は、河岸に溜まった様々なゴミや水草を一瞬だけ外界に晒して水中に引き込み押し流し、どうどうと力強く流れている。 次いで、水捌けが良いといっても、それでも限度というものはあると教える校庭の水溜りを目に入れながら、本日一杯目の玉露を啜る。

うまい。

これくらいの雨なら、他の私立なら間違いなく休校ですよとぼやく宇佐美巨人を無視して、同時にリモコンの右端を押し、不必要な多さで並ぶゴムの突起をもてあそんで、天井から釣り下がる液晶画面に雪宏 某 なにがしというテロップが映し出され、このチャンネルの朝の顔がその上にあるのに安堵すると、川神鉄心は茶をもう一啜りして革張りの背もたれに身を任せた。

幾分外見に「ふれっしゅ」さが薄れたと噂されて早十数年、彼女が朝7~8時台の天気予報コーナーに今も留まり続けているのは、彼女自身の人気のせいもあるが、彼女以外が起用されるたびに、毘沙門天の鬼面をかたどった雲海が向こう一ヶ月間、収録中の社屋上空に広がり続けたという十年前の摩訶不思議な出来事が尾をひいている証左でもあった。 が、それはまた別のお話である。

しかし、とにもかくにも受け持つクラスがない鉄心とて暇なわけではない。 これから教鞭をとる教師陣にも示しがつかないこともあり、終日川神市は豪雨、時折雷にも注意だと聞くと、名残惜しげに亡き妻の生き写しに別れを告げてテレビを消し、立ち上がってペタペタとスリッパを鳴らし第三学年の年間予定表が一面に広がる壁に近寄ったところで、




「むっ……んぐぅッ」




どくんっ、と唐突に大きな波が来て、次いで早鐘を打つ心の臓。 
その鼓動の速さを知覚する前に、鉄心は砂袋が落とされたような音を聞いた。

「……が、学長っ!?」

切羽詰まったルーの声が続く。
幾人かが席を立った音、椅子のキャスターが放つ回転音が鳴り終わる前に、鉄心の周囲の人口密度が高まる。

どうやら、床の上に転げたらしい。 
薄く開かれた視界からそう頭で理解し、立ち上がろうと手を床につけた刹那、全身が粟立ち、胸は沸騰する。

先ほど目にした濁流が、血管という血管に流れ込んできたかのようであった。



「げッ、は……――カぇぁっ!」



自分でも心底汚らしいと思うジジィの咳き込む音を他人事のように聴いた鉄心は、しかし、それをこらえる余裕もなく、肺が捻じ切れそうな胸部の痛みに苦悶の声を上げ続けるしかなかった。

原因を、痛いほど・・・・理解しながら。






「ここに至って」とか「思い違いじゃないのか」とか、そんな想いはなく。

ただ「そうか」と、「これがヌシの答えか」と。

驚きは、さほどない。

薄々感づいてはいたのだ。 直江大和の気質に底暗いものがある事を。

何処となく、閉じられた・・・・・風間ファミリー、それを象徴するような、あの廃ビルの秘密基地。



だが、だが、それでも尚、信じようとしたのは、誤りじゃったかのッ――








学長ォッ―――

き、救急車を呼ぶでおじゃる―――

それよりも川神院の方に連絡をしたほうがッ―――

私は校医の―――





だが、だんだんと遠くなる外界の様相を前に、鉄心はそれでも伝えなければ、と身を起こす。

「る、ぅ」

先ほどから声を掛けながら背を擦り、前後不覚に陥っていても癒功の手を止めようとしない愛弟子の襟を右手で掴み、彼の注意がこちらにそれると、左手で天井を指し示した。

もんどりうって倒れる最中、窓越しに、雷音と豪雨に混じって降り注ぐ輝晶を鉄心はしかと見ていた。

この痛みの原因と、全くの無関係とは思えなかった。


「…ッ!?」


一瞬の放心の後、こちらの意を汲み取ったルーは、驚愕と猜疑と焦燥が合わさった奇天烈な顔でこちらを見返したが、問いただす愚は起こさなかった。

即座に身を翻し、脱兎のごとく職員室の戸口を駆け抜けていく。

そうして「頼むぞ」と一声内心で呟いた鉄心は、再び剥きだしの痛撃の波浪に耐えねばならなくなった。



再び悶えて、地べたに倒れ伏す。



それでも、この痛みを和らげていた、ルーの掌を遠ざけて良かったと鉄心は思った。

これは甘んじて受けなければいけない代物なのだから。

この痛みの何倍もの辛苦が、激情が、今尚、あやつを蝕んでいるのだから。

どんな言い訳が立つにせよ、そう本人が望んだにせよ、孫可愛さに、わしはあやつの心を、魂を、救いのない所へ叩き落したのだから。




「す、ま……んッ――」










辰の字の封が、今、破られようとしていた。


















<手には鈍ら-Namakura- 第二十八話:幻影>

















百代が首にかけた手を緩め解いたのは、恐らくは拳士としての宿命というべき反応だった。

いかに指先で白刃取りが出来る凄まじい技量の持ち主であろうとも、突如として出現した刃圏という名の絶対加傷範囲、つまり目に視える予想外の反撃の発露・・から、瞬時に距離を置こうとする防禦体系―――「安全策」がその身に刷り込まれているからだ。 だが武神の名を戴く彼女の事、本来ならば剣を握る手首を掴み取って白刃取りならぬ無刀取りの実行、もしくは剣士にとって警戒が疎かになる足元への払い技を為したい所だったのだろうが、残念ながら首に接続する彼女の腕の長さの分も含め、狙撃箇所へはそれなりの間合いがあり、純粋な回避行動以外に確実に履行できるものがなかったのだろう。

ついぞ喉を握り潰す事がなかったのは、俺に対してまだ幾分か容赦があったか否か。


だが、俺にはどうでもいい事だった。


もはや、百代など眼中になかった。
由紀江が、どんな顔貌で俺を見ているのかも確かめなかった。
間もなく手にするであろう、空に踊る圧倒的殺傷能力に視線を送る事もしなかった。

いや、見えなかったと言ったほうが正しい。

百代の肩越しに見える標的以外に、どうして意識を向けられようか。

ようやく「これは尋常でない騒ぎらしい」という事に気づき始めたギャラリー達の奥、悲鳴と驚声が錯綜する狂騒の坩堝るつぼの最中で、幼馴染達に囲まれ庇われ、さぞ安堵している事だろう彼奴。





冗談じゃない

冗談じゃ、ない

庇われなければならなかったのは、断じてあいつではないッ

本当に庇われなければならなかったのは、断じてッ







あの時、呻き悶え、拒み絶望し、喉を震わせ胃液を吐き出し、視界が白濁で蔽われるまで血涙を流した末がッ


譲歩した末がッ、これなのかッ――――!!


そうなのかッ、川神鉄心!?






もしそうであるならば、あんたの目論見は失敗していたッ

あんたの言った教導は為されていなかったッ

この七年余りは、全くの無駄だったという事だッ!

むしろ、害でしかなかったッ!!

奴の胸に醸成された毒を、ただただ熟酵させる期間でしかなかったッ!!!







だが、そう感情を爆発させた刹那の間、仰向けに寝る直江大和の直上に位置する、一対の蒼き瞳と俺は視線を意図せずして交差させる事となった。

感情のうろたえが消え、明確な敵意がその蒼髪の奥に宿るのを見て、椎名京、と名が脳裏に浮かび上がった直後。






               はたと、気づく。






―――前にも言ったと思うがの。 わしは、変わったと思っておる。 あれはあの後、いじめられていた者・・・・・・・・・を仲間にいれ、友をたくさん作っておるし、進んでその輪を広げようと毎日努力しておる。 ………まあ、まだ風間ファミリーとやらは続いておるようじゃが。



     あっ、と自分の大口が開け広げられるのを他人事のように感受する。



―――ギブ、アンド、テイク



   まさか……、

        


               ―――まさかッ!?












この感傷がいけなかった。
この思考がいけなかった。
この思索がいけなかった。

もとより極限まで剣の軌道を見定め、最速最短最高効率で柄を掴みにゆくべきだった。

第三者ゆきえの介入があったのだ。

第四者・・・の介入もある、と考えてしかるべきだったのだ。










「コスモミラクルアタァック!!!」



銀河の如き渦を巻いた旋風脚が百代の頭上から振り降り、白刃を弾き飛ばして、俺のこめかみを狙い穿とうとしていた――――。























もはや躊躇は許されなかった。

川神院ただ一人の師範代、ルー・イーは差し迫った師の命と生徒達の危機に、全霊を篭めた脚技を放つ事を、階段を上り切って視界に次期川神院総代と、黛流剣術後継者を捉えたところで決意する。

直斗を失神すら許さず痛めつけている、加虐の猛り溢れるその背中を瞬時に見取ったルーは、思わずして心を昂ぶらせる。



―――祖父を殺す気カッ!?



そうなる事情、そうなる因果を百代は知らずとはいえ、その絶叫が漏れそうになった。



―――お前が傷つけるたび、彼の怨嗟が膨らむのがわからないのカ!?



今の直斗の意識が保つ事が、鉄心の寿命を削り取る事に他ならない事実を知悉しているルーは、しかし、そんな自身の恐怖と動揺を適度に抑え、戦闘時の平常心を維持した顔つきへと変貌し、地を蹴った。

四天王二人が揃い踏みする場までの十数間(一間:約二メートル)の間合いを詰める中で、ちらとこの原因となった「彼ら」が横目に映ったが、そんな事に頓着しなかった。



残り五間のところで、驚くべき事に剣が宙を舞った。



―――不味イッ!!!



だが、その過程に驚愕するよりも、恐ろしさがルーの心に先立った。
その下に位置する、天まで届けとばかりに伸ばされた腕が誰のものであるか、認識したからである。


あれを取らせてはならなイ

あれを取らせては、彼は真実の修羅となルッ――――



血という血、腱という腱、筋という筋を弾ませ収縮、血流に流れる氣脈を捻り、全てを解放。 

跳躍する。



「アチェァアアアアアアアアアッ!!!!」




つい先日会得し命名した、渾身の二連回旋足技を百代の頭越しに、剣と彼へと叩き込む。



――――コスモミラクルアタァック!!




悪いのは直斗ではないと、理解する頭は吹き飛ばせないままに。





すまなイ、耐えてくレッ!!


























刃が弾き飛ばされても、絶望したのは一瞬だった。

百代の拘束が外れたのを感知したからでもあったが、突撃してきたルーの眼光を受け止めた事が、その理由として最も大きい。

その瞳の奥に耐えろの三文字が浮かんでいるのを見て、先ほど扉の枠に叩きつけられた時に刻まれたのだろう額の裂傷から脈拍ごとに溢れ出る新たな血が、眉をぬらし睫毛に絡まるのを感じつつ、腹の底で熾火おきびのごとく燻り続ける熱い塊が、沸々と再燃するのを着地と共に確認する。



――――これ以上、何に耐えろというのか!!



本能的に顎を上げ、紙一重でこめかみへの一打を避ける。
身代わりになった鼻頭はひん曲がり、血がそこからも噴出したようだが、痛みは感じなかった。


「ッ!?」


見開かれたであろう瞳は、もう見ない。

深緑の中国服の裾が上空によぎるのを見て、剣に向かって伸ばしていた五指十四関節のそれぞれを鳴りに鳴らす。

感情のたがが外れた音。

憤怒に炙られた魂魄を血肉に繋ぎ止める楔が、微小な裂傷をその身に刻み始めたかのような、そんな乾いた音だった。


時の流れが緩慢になった刹那、先ほどの百代のように、肉食獣の顎を模した俺の右掌が師範代の脚に取りつく。




「オ゛ッぁぁあ゛あ゛あ゛あアアアアあ゛ああアアアアアアアッ!!!!!!!!」



およそ自分の声とは思えない、獣の絶叫が口腔で弾けた。



―――代わりに椎名京を救って、真守を忘れて、楽になったか!?

―――それとも忘れるために、椎名を救ったのか!?


この確信を、直感だ、当て推量でしかないと諌める事など出来る筈はなかった。




「投擲物」に働いていた慣性を捻じ伏せ、肩の軋みを振り切って、あらん限りの膂力で正面へと投げ飛ばす。

それは本能から来る狡知だった。


「なァッ!?」

「―――ッお前!?」


咄嗟に師を受け止めに入った百代に、横をすり抜ける俺を止める術はない。

かくして血路は開かれ、死地から脱出した俺は、有象無象の野次馬達の中に飛び込んだ。 

ひしゃげた鼻先で風を切るたび、人ひとりを掻き分けるたび、拳が硬く、重くなるのがわかる。









……そうさ。 

確かにお前と同じ考えを、教条とまではいかなくても、持っている奴らは他にもいるのかもしれない。 

認めるよ。 

その生き方だって、別に間違っちゃいないだろう。

どんな奴だって多少は無責任で、日和見で、利他より利己に走るもんだ。 

だから、開き直ってそいつを利用しようって考えは、出て当然なのかもしれない。 


「他人を救う奴は、他人を救う自分が好き」

こんな言葉が横行するのは、実際にそれが真実だからだ。










驚愕と好奇と恐怖の視線の錯綜の中を、ひた駆ける。
制止の手がそこかしこから伸びてくるのを払って、息を吸い込む。 
墨の香りが鼻腔に広がり、湿気を含んだ外気が肺に満ち、他の四臓六腑に行き渡る。

壁や衝立に貼り出されていた書初めが、和紙の大群が、前触れなく流れ込んだ強風に剥がれ落ち、廊下中に散り、舞い、降っていた。


墨字の乱舞のその先には、

         風間がいて、
               一子がいて、
     クリスがいて、
              師岡がいて、
        島津がいて、
                椎名がいて、

                        大和が、いる。










……けど、だけどっ、目の前に仰臥して助けを求める奴。 だれでもいい。 とにかく必死で自分を世界に繋ぎ止めようとする人間が、眼前の赤の他人のそいつらが救いを求めてたら、後先考えず咄嗟に全力で手を伸ばしちまうのが人情ってやつじゃないのか? そういう気持ちは、誰だって多かれ少なかれ……、お前だって持ってる筈だろ!?

対価だの等価だの打算だの合理だの効率だの立場だの、そんなもん吹っ飛ばしちまう矛盾だらけの「正しい感情」が、どんなやつにだってある。 俺が今、こうしてるのが、その証拠さッ。

それに忠を、それに“誠”を尽くしてこその、人っていう生き物じゃないのか?

一見賢しげに相利共生だの片利共生だのやってる動物と一線を画して、「共感」できるのが人の真髄だろ?

相手をおもんばかるのが面倒だから、真剣マジで向き合うのが面倒だからって片付けて、一度お前は、間違いを犯したんじゃないのか? 

その自覚も、もらっただろう!?

そういうお前が、どうしてそんな閉鎖的な考えが持てる!?

“誠”を否定するような生き方を、どうして選んだ!?







だったら真守は何だったんだよぉッ!?

だったら俺は何でここにいるんだよぉッ!?

何で百代に剣を振り上げなきゃならねぇんだよぉッ!?

何で、そこまで堕ちたか、って目を、あいつから向けられなきゃなんないんだよぉッ!?






雷光が閃く。


百代を突破した驚きに瞳を大きくしながらも、咄嗟に前に出て身構えた風間、次いで一子、島津が見えた。


右脚で踏んで跳んで飛んだ。 右拳を引いて留めて溜めた。




何で


               俺はッ、


     何で


          俺はッ、


        

           「何でッ―――――」





忘我の一拳が、放たれる。

































その寸前、脇腹にちくりとした一抹の痛みが走ったのが最後だった。



風が肌を撫でる感覚が、触覚が、ぷつりと途切れた。



――――後ろから刺されるような真似だけはすんなって、言ったろうがッ



振り絞るような声が背後から続く。

やけに、耳が遠い。

そんな事を思っているうちに、視界は下へ下へと降りて、床が近づいてきた。

自明、激突。

全体重が左肩にかかり、そこから受身も取れずに墜落した筈なのに、まるで夢の中にいるみたいに、伴う筈の痛みは生じなかった。 冷えた床の心地さえ、肌に伝わらない。 

先ほどからの気だるさが、全身に続くのみだった。





また視界が流れた。

だがそれは自分の意思で瞳を動かしたわけでなく、動かされた顔に付属した一対の水晶が、無機的に外の様相を映しとったに過ぎなかった。

視界一杯に、九鬼英雄の苦渋に満ちた顔面が広がり、端にクナイをもって立ち竦むメイドのしかめっ面が見えた。

瞳孔を散大せんばかりに瞼を瞬かせ、形のいい英雄の唇が絶え間なく動き始めたが、もう何も聴こえなかったし、実際聴きたくもなかった。





……やめろよ。


やめてくれよ。

なんでそんな目で見るんだよ。

そんなの、そんな顔、英雄の、ヒーローの顔じゃ、ないだろ?




感覚のない、棒切れになった両腕を精一杯に引き上げて、握りこぶしすら作れない両手を突き出して、抱き起こす英雄の胸を押し退ける。



そうして仰け反った英雄の顔の影から現れた赤いバンダナを見た時、何故だか一瞬、足元の感覚が戻ったのだった。

瞬間、遮二無二と両足をばたつかせるようにして、俺は床を転げながら、ひしと、ひしと風間の袖を掴んだ。 

うろたえた風間が振りほどこうとも、横に控える島津が引き離そうとも、俺は、俺は、俯きながらも決して手を離さなかった。



―――お前なら良かったんだ。



この一心で俺の体は、一時稼動するだけの熱量を得たのだった。




両目から吹き零れる雫の熱さは、まだ感じ取れた。

そうさ。 
野良猫一匹のために、何のけれん・・・もなく我が身を川に飛び込ませるお前なら、百代を託せたんだ。

いや、それ以前に、最初に・・・真守が話しかけたのがお前だったなら。


お前だったなら……か?

……いや、違う。

百代でもいい。 一子でもいい。 師岡でも、島津でもいい。 




大和でなければ・・・・・・・ッ――――




叫びたかったが、こみ上げてくる何かが邪魔をして、息苦しさが増すばかりだった。













そうして数秒もしないうちに、糸一筋ほどの活力も、俺の五体には送られなくなった。

ずるりと手が滑り、立て膝が即座に崩れ、うつ伏せに頭から倒れこんだ。

床と水平になった、赤に濡れる視界が、だんだんと狭まってゆく。

他人事のように、自分の感覚器官、運動器官の衰退を感受する。

世界が幻と消え、彼と我が断絶する。






……そう。 幻だったのかもしれない。



この一年、川神院で過ごした日々。

出会った人たちと触れ合い、確認しあった感情、優しさ、厳しさ。

七年前と、少しも変わらなかった百代の瞳の色彩。

雪原に囲まれた道場で見た神速の軌跡と、はにかむような笑顔。

王たらんとする男の、そのひたむきさが、一挙動にさえ立ち上るように感じられた礼遇。

いつかの決闘の後、鬼灯の野のような夕暮れの中に見た、大和の変化。

それを噛み締めて、過去を、未練を断ち切ろうとした自分。

二度と殺人刀せつにんとうを遣うまいと誓った自分。



すべては、俺の願望が見せた幻影だったのだろうか……。












一枚の和紙が、再び独りになった男の頭を掠めて、飛来した。

“言”が異様に大きく、書順すら定かじゃなかろう“成”の字。

それでも、二度書きなどという愚劣な誤魔化しなど、一切ない、その真っ直ぐな心魂が前面に押し出された、紛う事なき彼女の書。









最後まで視界に残る事になったそれが、ひどく滲んで見えるのが、悔しかった。















[25343] 第二十九話:決断
Name: かぷりこん◆273cf015 ID:94f5cb7e
Date: 2011/08/30 22:22




『自ら苦しむか、あるいは他人を苦しませるか、そのいずれかなしには恋というものは存在しない。』

―――アンリ・ド・レニエ

















――――内閣情報調査室非公開部署、“処理課”内事班管理下、文書:二〇二六号より以下抜粋。










9がつ5にち、すいようび


にほんの、かわかみし、についた。

みんな、わたしたちとおんなじかおのひとがたくさんいた。

これからはにほんごで、にっきをかくことをした。

いっしょうけしめぃ、がんばろ。

おとうさんたちは、またしごとみたい。

すごく、いそがしい。

でもあとすこしでしごとがおわろらしい。

おわったら、にほんにしばらくいるって。

とてもおとうさんはうれしそうに、ばいばいしていった。

おにいちゃんはそれはうそだって、どうせまたひこうきにのるっていってた。

ちがうよ、こんどはほんとうだっておかあさんいってたもん。

おとうさんはちがうけどおかあさんはうそつかないもん。

だからほんとう。

だからちゃんとおるすばん。

がっこうにいくのはおかあさんたちがかえってきたら。

それまで、にほんご、もっとじょうづになりたい。

そういえば、あたらしいいえはすごい。

せんようの、へやがある。

ひみつきちだ。

おとめの、ひみつきち。

さっき、びーずのくまさんをつくった。

てがいたくなったから、おわり。











9がつ6にち、もくようび


しんらおねえちゃんとゆめおねえちゃんと、みゅうに、あいにいった。

でんしゃにのった。

ちゃんと、いえのかぎは、しめたからだいじょうぶ。

おとめのひみつはまもられた。

そういったらおにいちゃんに、はたかれた。

つねって、しかいし。

ななはまえきについて、どあがあいたら、ばんしょーのおじちゃんと、たいさんがいた。

ふたりきりできて、えらいって、なでられた。

はじめてくおんじのいえにいったけど、いえじゃなかった。

おしろ。

ちょう、おしろ。

おにわでみんなとあそんだ。

くおんじふらっぐ、おもしろかった。

それから、しんらおねえちゃんはおにいちゃんがすき、だとおもう。

ずっと見てた。

ずっとずっと、おにいちゃんを見てた。

おにいちゃんは、みんなのことをおじょうさまってよんでた。

いつも、あれくらい、ぴしっとしてたらいいのに。

そういえば、なんでゆめおねえちゃんは、みゅうをみゅうおねえちゃんってよぶのかな。

なんでみゅうは、ゆめおねえちゃんをゆめっていうのかな。

みゅうがおねえちゃんっていうのは、うそだ。

だって、ゆめおねえちゃんのほうがどうみても、おねえちゃんだもん。

あそんであげてるのかな。

さすがゆめおねえちゃん、やさしいおねえちゃん。

よるになって、かえった。

ばんしょーおじちゃんは、とまっていきなさいっていった。

とまろうっておにいちゃんにいったけど、だめだって。

すぽんさあに、めいわくかけられないって。

あぶないから、くるまでおくってもらった、いえまで。

すぺしゃるなおとこ、それがたいさん。

おふろにはいって、もうきょうはおしまい。

おにいちゃんはでんわでおかあさんとはなしてた。

でたいけど、ねむいからねる。

きょうはなにもつくれなかった。

おわり。











9がつ7にち、きんようび


きょうはたんけん。

かわかみたんけんたい。

たいちょうはわたしで、おにいちゃんは、さんとうへい。

えきのほうはあぶないっておかあさんはいってたから、ぎゃくのたまがわのほうへしゅっぱつ。

ぎゃくたま。

また、はたかれた。

おとうさんがかえってきたら、ぜったいにいう。

はんぎゃくしゃは、ぐんぽうかいぎにかけるべし。

しばらくあるいて、あまいにおいのするほうにちかよる。

なかみせどうり、というところの、おがさらわ、やさん?

ようちぇっくやで、っておにいちゃん。

こんどは、おせんこうのにおい。

おっきい、じんじゃ、じゃなくて、おてらだっておにいちゃんがいった。

おぼうさんがいっぱいならんで、けったり、なぐったり。

よわそう。

さんとうへいのほうが、つよい。

さんとうへいは、おくのほうにいるおんなのこがきになったみたい。

まるぎってみたいな、きれいなひと。

おんなのこのほうも、おにいちゃんのほうをみてたけど、すぐにおにいちゃんはわたしのてをひっぱってそとにでた。

もてもてだ。

こういうの、えいごで「しゃい」っていう。

けっきょく、くらくなったから、たまがわにはいかなかった。

あしたは、いく。

きょうはびーずのぱんださんをつくった。

おわり。











9がつ8にち、どようび


あつかった。

ちょう、あつかった。

なつが、またきた。

にほんのなつは、こんなにもあついのか。

でも、たんけんはする。

きっと、かわはつめたい。

つけたばかりのくうらーをけす。

せんぷうきもけす。

てれびもけすと、おにいちゃんはすごくにらんできたけど、いっしょにたんけん。

てれびは、にほんごのべんきょうになるっていってきたけど、だんごたるいしで、みかえしてやった

しゅつぱつ。

さんとうへいのうごきはのろかった。

かわにちかづくと、まあまあげんきになった。

げんきんだった。

おおきなはしが、めのまえにでた。

おおきい、おおきいはし。

わたってみた。

すごく、ながめがいい、それにすずしかった。

すると、とうくのかわらで、なんにんかが、あそんでた。

あ、っておもった。

きのうのきれいなひとも、いっしょだった。

わたしのしりょくは、さんてんぜろ。

みまちがえは、ありえないのだ。

おとこのこがさんにん。

おんなのこがふたり。

いこうって、おにいちゃんにいったけど、なまへんじ。

ひっぱったけど、うごかなかった。

なんで、ってきいたら、どうせすぐ、ひこうきにのるからって。

どうせすぐ、わかれるからって。

わかれるとき、どっちもつらいって。

さんとうへいは、てきぜんとうぼうした。

そういうふうにあきらめるから、ともだちができないって、いおうとしたけど、わたしもともだちすくないから、なにもいえなかった。

そうしているうちに、あっちは、かいさんしたみたい。

のこったのは、ひとり。

おとこのこだった。

きっと、あしたもここであそぶんだろう。

だから、いれてもらう。

かわらにおりた。

いっしょにあそぼっていったら、だめだって。

てんいん、おーばー。

なんでかな。

かわらって、ろくにんであそぶと、くずれるのかな。

なんでってきいたら、はしってどっか、いっちゃった。

ききかたが、わるいのかな。

やっぱり、にほんごはむずかしい。

それとも、きつおん、が、いやなのかな。

おとうさんもおかあさんもおにいちゃんも、きにしなくていいっていってたけど。

しんらおねえちゃんもゆめおねえちゃんも、みゅうも、なにもいわなかったのに。

はしのうえでまってた、おにいちゃんがどうだったってきいた。

やっぱり、おにいちゃんも、ほんとはあそびたいんじゃないの。

いったら、またはたかれそうだから、いわなかった。

あした、またくるっていって、いっしょにかえった。

あきらめたら、だめだよね、おとうさん。

きょうは、がんばってどらごんをつくった。

しかもふたつ。

いっしょにあそべるようになったら、いっしょにつくれるかな。

おとうさんからでんわがきたみたい。

おにいちゃんがよんでるから、きょうはおしまい。

だんだん、にっきがながくなって、てがいたくなるけど、いたくなっただけ、にほんごがじょうずになったきがする。

でも、まだかんじはむずかしいだから、あとで。

おわり。











9がつ9にち、にちようび


きょうも、かわらにいった。

きのうとおなじじかんに、とおちゃく。

きのうとおなじところで、みんな、あそんでた。

あそびおわるまで、また、はしのうえでまった。

なんでだよ、っておにいちゃんがいったけど、ずっとみてた。

じゅっぷんぐらいで、みんなが、どてにあがった。

みんないえにかえるみたい。

すにいきんぐみっしょん、かいし。

じりじりとむこうをみながら、あとをつけた。

おにいちゃんも、ふしぎそうに、わたしのうしろにつづいた。

でもすぐに、あのきれいなひとはきずいたみたいで、にびょうくらいまえにいたところまで、はしってきたけど、そのまえにおにいちゃんにかかえられて、はしのしたにかくれた。

さすが。

おにいちゃんも、なんでかくれようとしたのか、じぶんでもわからないみたいだったけど、おやゆびをたてたら、わらって、またいっしょにあとをつけた。

とちゅうでみつけただんぼうるを、おにいちゃんはかぶりたそうだったけど、こんどはわたしがはたいて、やめさせた。

それでも、ほんとうにあのきれいなひとはすごい。

けはいにすごくびんかんで、このあとも、にかいくらいおなじことがあった。

おれより、たぶんつよいって、おにいちゃんはいってた。

ちょっと、うれしそうだった。

そうして、あとをつけて、まえにいるのはふたりだけになった。

もうひとりの、ちいさいおんなのこと、きのうのおとこのこ。

おんなのこは、じゃあね、やまと、っていって、いえにはいっていった。

すぐちかくの、むかいのいえに、おとこのこ、やまとくんは、むかっていった。

おにいちゃんに、ぜったいにうごかないでっていって、わたしは、かどからでて、やまとくんにむかった。

とつぜんでてきて、やまとくんはすごくびっくりした。

あやまって、そして、またなかまにいれてほしいって、あそびたいっていった。

おにいちゃんのことも、いってみた。

でも、そしたら、おまえみたいな、どんくさそうなやつ、きらいだって。

だから、やだって。

かぜがふいた。

ふりかえった。

さっきまでかくれてたかどから、こわいめがにらんでたけど、だめって、にらめかえした。

そうしてたうちに、ばたんって、げんかんがとじて、わたしはひとりになった。



かえりみち、なんでだ、って、おにいちゃんはいった。

なんで、あいつにこだわる、だって。

ほかのやつと、はなせばいいじゃないか、たのめばいいじゃないかって。

それか、こんどは、おれがかわりにあいてするよって。

だめ、ってわたしはまた、いった。

わたしは、まるぎってにいったこと、まもりたいから。

なぐるよりも、はなすほうが、ぜったいただしいから。

おかあさんが、おとうさんが、ただしいもん。

しぶしぶ、おにいちゃんは、わかったっていった。

でも、じゃあ、なんで、ほかのやつらに、はなしかけないんだ。

おにいちゃんはいった。

すこし、あるいたあとに、わたしはいった。

だって、それじゃあ、ともだちにならないもんって。

ほかのひとにたのんで、なかまにしてもらっても、やまとくんは、なかまにならないもん。

おにいちゃんは、たちどまった。

おまえ、あいつ、きらいじゃないのか。

うううん、って、くびをよこにふった。

やまとくんの、なかみは、まだわからないから。

なかみ? っておにいちゃんは、いった。

やまとくんだって、わたしのなかみを、よくしらないから、ああいうふうにいったんだとおもう。

わたし、いまは、あんまり、しゃべれなくて、どんくさくみえても、しかたないし。

きつおん、だし。

それでも。

それでも、がんばって、なかみを、しってもらう。

せいしん、せいい。

みんなが、みんなのなかみをしれば、へいわになるって、おかあさんいってたから。

そういったら、おにいちゃんは、しょうがないやつだなって、てをあげた。

はたかれるとおもったけど、なでられただけだった。

おわり。










9がつ10にち、げつようび


やった。

やったやったやった。

あしたは、あそべる。

みんなと、みんなと。

すごく、やまとくんはふきげんそうで、こんまけしたってかんじだけど。

でも、これから、なかみを、わかりあっていけばいい。

とびはねてると、はっぱたいみたいだって、おにいちゃんは、わらってた。

おにいちゃんも、あそぼって、いったら、まだいいって。

また、なぐりそうになったらかなわないから。

あしたは、みんなであそんでこい。

おなかがすくだろうから、めし、たくさんつくっててやるよって。

きょうは、はやくねる。

はやく、あしたがくるように。

おわり。



やまとくんが、わたしのなかみをわかったら、おにいちゃんも、ぜったい、ぜったい、いっしょにあそぼ。

































――――平成十三年九月十三日付、川神新聞朝刊、地域欄より以下抜粋。








十二日午前五時二十五分ごろ、川神市多馬川下流、三角州近くにて、身元不明の女児の遺体が川底(水深約1・3メートル)に沈んでいるのを付近にいた釣り人らが発見した。  川神署によると女児の年齢は小学校高学年程度で、目立った着衣の乱れも外傷もなく、死因は水死とみられる。 なお、県内に住む児童たちの中で、捜索願が出されている者はいないため、神奈川県警は情報提供を広く求めている。 現場の状況検分から当該女児は誤って河川に転落、上流から流されたものとみられ詳しく調べられており、また、現場は私立川神学園高等学校の西、約二百メートルの河川敷付近で、県警によると、県内で子どもが犠牲になった水難事故は今年初めて……

















<手には鈍ら-Namakura- 第二十九話:決断>

















これは、お前が三才の時に書いている。

寝ている息子の前で、遺書を書く、罪深い俺を、決して許さないでくれ。

俺も、許したくない。 そして絶対にお前に同じ事をして欲しくない。

娘に向けた遺書を書いてる六花も、同じだろう。

だが、書かなければならないんだ。

俺たちがこれから果たしていく使命は、これまでよりもずっと、命の危険が伴うものだから。



これがお前に届けられたということは、俺たちは死んだのだろう。

これを読んでいるお前が、少年か青年か、はたまた中年かはわからない。

字が読める歳であることを願うばかりだ。



これは俺と六花の遺書であると同時に、これからどう生きるかの決意表明でもある。

俺たちは、世界中のガキ共を救う。

「一人でも多く」ではなく「全員」を。

そしてそれに立ちはだかる障壁と、不条理と、強かに戦っていく。

この世には、不条理がある。

これまでに俺たちは幾度となく、その片鱗を見てきた。

これからも見ていくのだろう。そして、それと戦っていく。




お前たちは、不条理に会ったらどうする?

戦うのか、逃げるのか。

どちらも、選択として間違ってはいない。

俺たちは、進んで戦えとは言わない。

おそらく俺たちは、戦うために、たとえばお前たちの育児を少なからず犠牲にする。 ……俺たちの選択は、親としての責務を削り取るものだからだ。

人の命だったり将来だったり、大切なものの犠牲を孕む行為を、俺たちは勧めたくない。

逃げる、目をつぶる、という選択肢も、確かに、俺たちにはあった。

だが、選べなかった。

12歳で妊娠する奴。
10歳で銃弾の肉壁となって死ぬ奴。
8歳で両足を地雷で吹っとばされた奴。

ゴミ山でカラスに啄ばまれる赤ん坊。

そういう不条理を見て、俺たちは俺たち自身の本能から、それを滅したいと思った。

そして、お前達が生まれて、使命を全うする決心がついた。




……すまない。 お前たちへの言い訳になっている。 許せ。




俺が言いたいのは、中途半端に迷いをもったまま、選ぶな、ということだ。

心の奥底から、本能からの願い。

それから目を離すな。

何かに抗い戦うなら、徹底抗戦。

逃げるなら脇目も触れず、脱兎の如く。

シンプルで、一番ハード。

言うは易く、行うは難い。



決して、要領良く柔軟に対応、なんて考えるな。 ……俺の子なんだから、パンクするのが関の山。

半端モノにならないために、相手にする物事を人物を、より深く、掘り下げて考えろ。

選択する行動が、どんな結果を生むのか。 どんな意味を孕むのか。

誰が満足するのか。 何が変わるのか。 何の意味があるのか。

考えろ、考えろ。

そして、即時、実行。

全力で、相手に向き合え。

覚悟とともに、お前自身を、貫いてみせろ。




……書いてて恥ずかしいな、これ。




そうだな。 

あとは遺書らしいことを書こう。

川神の自宅を含め、財産は久遠寺の田尻さんに任せてある。

信用できる人だ。 今後はこの方を頼ってくれ。

こんな職業だから額は多くないが、いくらか保険金も下りる予定だ。 学費の足しくらいにはなるだろう。

それと、川神院の当主、川神鉄心さんにもし会うことがあれば、礼を尽くせ。

俺が真っ当に人としての生活を送れたのは、師と、六花の御陰だ。

総代からの借りは、悪いがお前が返してくれ。

俺からっつーのは、どうもな。




最後に、真守とお前が、幾多の困難があろうとも、幸せに、健やかに生きることを願っている。

お前たちの、唯一無二の父として、母と共に。























俺達は、いつまでも、家族だ。

本文に続く氏名の下に、そう走り書きされているのを見て、俺はテーブルに、何度読み返したかわからない紙束を滑らせた。

両肘を黄ばんだランチョンマットにつけ、祈るように組んだ指に額を押し付ける。

どれくらいこのリビングで時間を過ごしたのだろうか。 
今日も終日、外は雨模様。 カーテンも閉め切っているために日差しで時刻を知る術はないが、瞼が無意識に下りてくるくらいに日は暮れているのだろう。


―――中途半端に、終わるなよ?

―――大丈夫です。 ……ウチの家訓ですから。


ひとつ、嘆息する。 
出所前に教官と交わした言葉は、よくよく考えれば、この遺書を彼が読んだ上で成立するものだった。

まあ、今更自覚しても、何の意味もなさないか。





久方ぶりに帰った川神の自宅は、まだ、あのころの匂いを内包していた。

あのころ。 二人で、親父達を待っていたころ。

一ヶ月に二度はここに戻ってきているが、この匂いを消したくなくて、掃除も換気も殆ど出来ずにいる。 

さすがに、虫の死骸くらいは処理しているが。


……あれから、四日が過ぎた。

処分保留という名目で、俺は今、無期自宅謹慎、停学中の身の上。

即刻退学処分とならなかったのは、学長――、御本家の尽力があったのが一つ。

もうひとつとして、結局、凶器を握らなかった事が挙げられる。 事故で・・・、足に当たった剣が抜かれてしまったと、そういう事になったそうだ。

由紀江は、何も言わなかったという。

ちくりとした痛みが胸を刺したのはさておき、あの時の不覚がこんな形で役に立っているとは、皮肉なものだった。

首元と左肩に常時走り続ける鈍い痛みが、数日前の乱闘の記憶が現実であった事を、嫌でも思い起こさせる。 本当に、嫌でも。

衝動的に振舞いすぎたなと反省する反面、やはり、所詮これが俺の本質なのだという自嘲がこみ上がってくる。

……最後にあずみから喰らったのは、神経毒だったらしい。 非致死用に調合されたものだと総代から伝え聞いた。

おかげで一昨日まで肌の感覚がなかったが、もう麻痺の影は鳴りを潜め、その代わりにありがたいといえばありがたいが、できれば最後に回して欲しい痛点、痛覚が復活したのだった。

健常体に戻りつつあるな、と目を瞑りつつ体の状態を感受する一方で、しかして、今までは本当の意味で健常であったのか、という疑問が、片方の口端と共に吊り上がる。


「龍、封穴……」


目の焦点をしっかりと結ばないままに、厚い埃の被膜がかかる電灯に向かって独白する。

これも一昨日、初めて聞いた話だった。

この身に宿る才と氣を著しく制限し、一般に言う安定状態・・・・・・・・・へと導いている、川神流極技。 武の終着点と言って差し支えないだろう封印術。

もともとは、百代のために会得を目指していたが、完全にこの奥義を修める前に、御本家はこれを緊急避難的に俺に使ったのだという事だ。


封印は不完全だったらしく、白髪頭になったのもこれが遠因と考えられた。 御本家の氣が、遺伝子の配列すら組み替えてしまったのだろうか。 時期的に符合するのが、その証拠だった。

眼が良い、という川神に来てから自覚した才も、何の事はない、これの残滓だったわけだ。




真実を聞いた途端、一抹、ふざけるなよ、という苛立ちがむらと起き上がったのは確かだった。

緊急避難的? だったら何故、解こうとしなかったのか。 この一年が馬鹿らしく思え、言っても際限のない罵倒が喉まで出かかった。

あんた、俺がなんでここに来てるか知ってんだろうっ―――と、迷惑をかけ続けている意識も忘却して。

だが先日の、隣で俺と同じく横になって告白する総代の、心労に満ちた横顔を見れば、何を言うにも億劫になったのだ。

それに、つまるところ遣わざるをえなかった、遣い続けざるをえなかった理由は、俺自身にあるのだろうから。






俺も正直、一遍に様々な事が起こりすぎて、新しい事実が次々に掘り出されて、気後れも気疲れもしている。

もう、疲れた。 寝たい。 忘れたい。 泣きたい。 というのが本音であるが、そうも言っていられなかった。

今、こうして漫然と椅子に座って思考に沈溺している中でも、刻々と時間は過ぎていく。

選択の時限は、もう残り僅かなのだ。







事ここに至りては、予定通り戦うか、全てを話し糾弾するか、それとも今すぐ何もかも放り出して逃げるか。

この、三択。

そして九分九厘、戦うという選択に俺の心は傾きつつある。

そうでなければ、何のために川神に戻ったのか。 何のために川神流門下に入ったのか。

何のために武の頂ももよを目指したのか。

あってはならない、あってはならなかった・・・・・・・・・・、こういう時のためだろう?







だが、もう一歩を踏み出せずにいるのは、



―――なぐるよりも、はなすほうが、ぜったいただしいもん。



……俺だって、出来ることなら、そうしたい。



―――だが私は君に、同情も慰めもしない。 ……私も人を斬った事がある。 だから、その必要が無い事はわかっている。 私は、ただ君の行為を侮蔑する。 戦士でもない者を、死ぬ覚悟をしていない者を、君は幾人も手にかけた



また、同じことを、繰り返すところだったのだ。



―――君なら、由紀江の第一の友に、相応しいとみた。



あれほどの事をやらかしたのだ。 黙って消えるのもまた、考慮に値する。


















……だが、それでも・・・・、犠牲が俺の良心だけで、済むのなら――――


















[25343] 第三十話:宣戦
Name: かぷりこん◆273cf015 ID:94f5cb7e
Date: 2011/09/17 11:05




『もう、パーフェクトもハーモニーも無いんだよ。 …………どうせ俺なんか。』

―――矢車想 「仮面ライダーカブト」


















2001年、10月下旬



日に日に秋めき、冬に近づいていく乾いた空の下、川神院の境内では、まさにその季節の風物詩といえる行為が行われていた。

極彩色の紅葉がひとところに集められ集められ、その赤と黄のまだらに色づいた小山の周りには、固い絆で結ばれた子供達の姿。

パチパチと葉の中に混じる枯れ木の爆ぜる音が響き、燻された樹木の香が流れ、焚火の熱が少年少女達の身体を温める。


「……なあ、もう、そろそろだろ? 俺様限界近いぜ」


 つくつくと、落ち葉と落ち葉の隙間から顔を出したアルミホイルを棒で突っつきながら、彼らの中で頭一つ分大きな体躯を持つ腕白少年(もっとも肌は浅黒い)、島津岳人が辛抱たまらないといった風情で眉を寄せていた。

「まだまだだ。 ……生焼けが良いんだったら好きにすればいい」

にべもなく、もう一人の少年が言う。

厭世観にかぶれる直江大和は、自らが憧憬を抱く太宰の小説本を読みながら、ときおり空を見上げて、「フッ……」と溜息をつく作業に明け暮れていた。

ようするに暇を持て余しているのである。

「そうだぜ、ガクト。 まだ焼き始めたばっかじゃんか。 大人しく軍師の言う事聞いとこうぜ?」

発起人である、翔一も同意する。
だがそういう彼とて、先ほどから島津と同じく葉の大群を小枝でかきまわしているのだった。 

「でもよー」

「ジジイが言うには、一時間くらいは待てって話だ。 芋埋めてまだ十分も経ってないだろ、ガクト? ……こら、ワン子もだっ」

「う……」

そろりそろりと外縁へ芋を転がしていた岡本一子を、後に姉となる百代がたしなめる。

「ははっ……、それにしても、ホントに焼き芋できるとは思わなかったよ。 川神って、焚き火しちゃいけないって昔じいちゃん言ってたのに」

そう言ったとたん、煙にむせたのは師岡卓也だった。

「野焼きは大体のところで禁止だからな。 俺もキャップの思いつきがこんな簡単に実現するとは思わなかった」

「ふふん、私のおかげだな」

「川神院でやれるかもって言ったのは大和だろ? 別にモモ先輩のおかげじゃ」

「冷えてきたなー、さすがにもう晩秋だ。 ……どうだ、お前も芋と一緒に暖まってみるかガクト?」

「じょ、冗談だって。 い、いやー、もう神様仏様百代様って感じ!?」

「まあ姉さんの口利きはあったしね。 落ち葉も他から持ってこなくても良いくらいあるし、我ながら良い勘してたとは思うけど」

宗教上の野焼きなら、法律の規制は受けない。
東北のとある神社で行われる「どんと祭」なるものについて、学校の総合学習の一環で調べた事のある大和は、だめもとで百代の祖父、川神鉄心に頼んでみたのだった。

塀に囲まれ人目につかない事と、修行僧を始めとする大人が多くいるという、万が一への安全対策も考慮していた。

「さすがは死神大使。 見事な策略だ」

そう言って風間はびしっと指を軍師に向ける。

満更でもない顔で「よせよ」と片手を振り、大和がまた自分の世界に没頭しようとしたところで、この寺院の主が大門から境内に入ってくる。

「ほう、順調そうじゃな。 何より何より」

「あ、どうも、お邪魔に、あとお世話になってます」

代表して大和が礼を言う。

「……そりゃっ」

すると、ずいっと眼前に、後ろ手に隠されていた何かが広げられたかと思うと、たちどころにモノクロの色彩が大和の視界を覆う。

「うわっ」

「お、おいジジイ?」

突然呆けたように、一枚の新聞紙で鉄心が大和の頭を包むのを見て、一同は怪訝な表情を向けた。

「ん、いや、焼けた後は随分熱いじゃろうからの、これで芋をくるむがよかろう」

弁解するように大和から身を離すと、鉄心はほいほいと一人一人にそれぞれ新聞を配っていく。

「この調子なら、中の熾き火はそこまで燃え上がらんじゃろうが、まあ火の番はしておくに越した事はないからの……。 焼き上がるまでの暇潰しに読んでてもよかろう」

そう言って、からころと下駄を鳴らして本堂の方へと、現人神との呼び声も高い川神院総代は歩いていった。

「なんだあれ?」

大和はわさわさと張り付いた新聞をはがし、百代は先月から覇気の無い祖父の後姿を見ながら首を捻るが、それはともかくとして、他にする事はないファミリーは仕方なしに渡された新聞に目を通す――が、

「これ、一ヶ月も前の奴じゃねぇか」

ガクトが持つ第一面には一月と少し前の、何度もテレビで見た飛行機がビルに突っ込んでゆく、作り物のようなのっぺりした光景が写された写真があった。
世間の大人たちは、随分これを前に大騒ぎしていたし、事件が起こった翌日にはクラスもこの話で持ちきりだったが、まあ、それきりと言えばそれきりである。
目の前で飛行機が落ちてきたでもなし、現実感もなければ別段、一ヶ月後に同じ話をしようとも思えない。

一番に新聞から顔を上げて、またも溜まっていく唾液を飲み下しながらを芋を突く作業に岳人は戻っていったのだが、その動きは次の一言で停止するのだった。

「……モロロ? お前、何で顔赤いんだ?」

「…え……、い、いや別に」

唐突のファミリーの姉貴分からの指摘に慌てふためく師岡は、本人にとって迂闊にも、舐めるように目を見開いて読んでいた記事を素早く後ろ手に隠す。

表が競馬競艇の着予想なら、裏に何が書いてあるのか、それは中年の秘密というやつである。

「何よモロ、何か面白い事書いてあるの?」

「何だ何だっ、俺のなんかよくわからん政治面だったんだぞ。 見せろよー」

その不埒な記事内容とは真反対な爽やかな笑顔で、詰め寄る二人。

「う、い、いやだからたいしたものじゃ……」

「モロ、俺様のと交換だッ!」

幼稚園時代からの付き合いのガクトは幼馴染が何を見ていたのか直感。 
瞬間、手にした木枝を放り出し、生まれながらのジャイアニズムを沸きあがらせた。

言い終える前に握っていたはずの記事は奪取され、代わりにクシャクシャになったビル群が足元に転がる。

「あっ、ちょ、ちょっとッ」

「アタシにも見せなさいよ!」

「ここは先にリーダーだろ!?」

「いや年功序列という言葉を思い出すべきだろうッ」



少年達は、思い思いに駆け回った。











一人を残して。











こめかみから噴き出し、頬を流れ顎を伝った汗が滴る。

野火に当てられたからではない。

記事を掴む手がじっとりと濡れ、胸の脈動が不規則な乱打に変わり、喉の奥から何かがせり上がってくる。

突っ伏して吐きたい衝動を必死に押し留め、強張り震える足の指を、靴中で何度も何度も曲げ伸ばす。



―――十二日午前五時二十五分ごろ、川神市多馬川下流、三角州近くにて、身元不明の女児の遺体が川底(水深約1・3メートル)に沈んでいるのを付近にいた釣り人らが発見した。  川神署によると女児の年齢は小学校高学年程度で、目立った着衣の乱れも外傷もなく、死因は水死とみられる。 なお、県内に住む児童たちの中で、捜索願が出されている者はいないため、神奈川県警は情報提供を広く求めている。 現場の状況検分から当該女児は誤って河川に転落、上流から流されたものとみられ詳しく調べられており、また、現場は私立川神学園高等学校の西、約二百メートルの河川敷付近で、県警によると、県内で子どもが犠牲になった水難事故は今年初めて……―――










      ―――――――嘘だ、

                        冗談だろ、   死んだ?             まさか、

             こんな筈は、       そんな筈は、


   違う、
                            俺じゃない、    違うッ、

      あいつじゃない、

  俺に限って、             人違いだ、        そうだ、あいつだという証拠は、何処にもない、



          というか、俺は放っておいただけだ     

       だから、 本当に?

いや、         でも、  十二にち、 ひ、日にち、     

                     そう、放っておいた

                            ただそれだけ

      日にちは、   偶然、           偶然に決まってる、       そうでなきゃ、
 
         そうでなきゃ、 

                          そうでなきゃ

                 おれのせいだ、   うそ、  いや、       いやだ、










俺の、せい…………?
























直江に向かい、そして孫娘達に向かい、「ここからが、正念場じゃぞ」と心のうちに呟いたあの秋の日を、川神鉄心は思い返していた。

首をちょいと後ろに巡らした時、あの子は、直江はそのまなこを見開き、確かに震えていたのだ。



だから、信じた。

自らの過ちを悔いた事を。
それを糧として、これからを懸命に生きる事を。




そう。 直江大和のあれを罪と言うのなら、誰もが同じものを背負っているに違いない。

少年の時分は、誰も彼もが間違い、誰も彼もが罪を犯す。

子供に罪はないと、そういう言葉すらある。




……しかし、だからといって、許されるというものなのか。

誰もが、同じ罪を持っている。

だから償わなくていいと、背負い続けなくていい・・・・・・・・・・と、そのような理屈が通っていいものなのか。


断じて、否。

このような事を考える事こそ、罪悪だろう。

ばれていないから、皆同じだからと許される罪など、あっていい筈がない。

まして自覚しながら、死を独り善がりの等価交換で忘却するなど、言語道断も甚だしい。

罪を自覚し続けてこそ人は成長し、過ちから己を律し、同じ過ちを忌避するべく、本当の意味での賢しさを手に入れる。

歳若ければ、尚更これは当てはまる。

儂は、そうなると確信していたのじゃが、の……。


「椎名が加わったのは、そういう事じゃったか」


仮に、真実の過去が露わになった時、忘れていた過ちが解き放たれた時、あやつらは何を想う――――




「御本家」と、低く呼びかけられた声に、はっと我に帰る。


瞼を上げて視界が開かれたと思えば、引き戸の板一枚を挟んだ先に集まる若人達のざわめいた雑言も耳に入ってくる。 

だが、弛緩した空気に突き立つ刃の切っ先の声が、それを再び遠くに祓った。

「遅く、なりまして」

振り返った眼前に現れたるは、修羅となり果てし以来、刃金の白に憑かれ続ける弟子が佇立する姿だった。

彼我の過去も罪も、その一切合切を内奥に秘匿する道を選び、それを終生貫く覚悟・・・・・・・・・を据えた男の相貌が、周囲に猛気を漲らせる。




……そう。 もはや、封は解かれた。

今度は孫達ではなく、此奴を信じる番なのだ。

此奴を信じ切れなかったこれまでに、報いるためにも。




最初から、こうすれば良かったのやも知れぬという苦い悔悟が胸一杯に広がる前に、このところ父兄相手に板についてきた鉄面皮で、「うむ」とだけ直斗に返し、嫌に重たく感じる広間への扉を、鉄心は諸手で一気に開け広げた。














<手には鈍ら-Namakura- 第三十話:宣戦>














生徒全員が、講堂と兼用される体育館に集められていた。



「直江ちゃん、あ、あの……」

「大丈夫、委員長。 もともと俺の失言からだろうしさ……」

頭を掻き、苦笑の表情を形作って、さも困っているように見せて、俺は委員長に応えた。

「それならいいんですけど……、やっぱりお姉さんとして、ケンカの後はきっちりしてほしいですし。 よろしくお願いしますね?」

そのどうしようもない矮躯を懸命に大きく見せようと、片手を天井に向けて掲げながら、委員長も同じ表情で眉を寄せて頼んできた。

「皆さんも、矢車ちゃんがまたF組に馴染めるように……」と続いた言葉を聞き流して俺は思った。

体躯云々はともかく度量に関して、つまり人としての器では、この学園の生徒では誰一人彼女に及ばないだろうと。



「まあ、別に俺は直江がやられるとこ見てないから、さほど悪い印象は持ってないんだが。 ……そんなに酷いもんだったのか?」

ケータイのピンク色に染まった画面から目を離さず、幾分気だるそうにスグルが呟くと、ヨンパチがそれに答える。

「そうそう。 つーか、俺はむしろモモ先輩に首絞めくらってんのが凄ぇグロく見えた」

「……ちょっと、そんな言い方ないんじゃない? 大和の前で」

「いいさ、モロ。 今も言ったが俺が蒔いた種だって」




今日はあれから数えて、一週間以上になる。

もう俺の怪我も全快していた。

集会が午後一番にあると言ったきり、そのまま何やら納得のいかぬ表情で朝のHRを切り上げてしまった梅先生だが、何の集会かと聞く愚をF組の面子は起こさなかった。

今日、直斗の停学が解ける事はクラスの全員が了解していて、それについて何かしらの説明があるのだと容易に想像が出来たのである。

昨日の放課後に、梅先生が教室を出た後で委員長が「穏便に迎えよう」との旨を呼びかけていた事もあった。

無論、これに関して俺の了解は取り付けてあったのだが、実は逆に俺が委員長にそう言ってくれるように頼んでいた。







結論として、あれは俺が悪い。

学園内で本心を口にした。 それが迂闊だった事は否めない。

父さんが聞いたら、恐らくはそう言うだろう。 誤魔化せなかった、隠せなかった俺が悪いと。

いくらクリスの言葉が癇に障るものであったとしても、それは例えば基地や寮内や寮への帰り道の際に、諭すべきだった。

そして聞き様によっては、冷血漢と罵られても仕方のない言い方だったなと思わないでもない。

こうも神妙な気持ちになるのは、恐らくは直斗の生い立ちに多少なりとも触れてしまった事が影を落としているのかもしれなかった。

彼の立場に立ってみれば。
見返りを欲さずに慈愛を振り撒く親の教えを受けただろう彼の身になってみれば。

そう考えると、あの朧な視界で見た彼の激昂も、あながち過分なものではないとも思えた。

だからこそ、先週の金曜集会で京やモロを中心として吹き荒れた非難轟々の嵐を諌め、この件はもう無かった事にしたい、と俺はファミリーに頼んだのだった。

大和がそう言うなら、と京は意外にもあっさり引き下がったが、やはりというべきか、我が姉貴分はそれでも許せんと随分息巻いていた。


―――武士が一般人パンピーに手を出していい理由が、あるか!?


絶叫は今でも俺の耳にこびりついている。

ここで言う「一般人」とは、戦意無き者の事だ。
日頃チンピラの相手をしている姉さんだって、基本は専守防衛を貫いている。 
武士として、そして同じ門下に名を連ねる者として、彼の行動は我慢ならないものだったのだろう。


あそこまで怒ってくれるというのは、俺への好意の裏返しとも思えて嬉しいと、ここで思える神経は異常かな。



……それはさておき、直斗だって、「話せばわかる」人柄である。 少なくともクリスよりは俺のスタンスへの理解は得られるだろう。

姉さんからは「真剣抜きかかられて、よくそんな冷静でいられるな……」と心配半分皮肉半分の言葉を投げかけられたが、それは直斗にとっては自己防衛だったんじゃないかと思う。

姉さんは自分の殺意を否定しているが、傍目から見れば、直斗も姉さんも同じ穴の狢と見えてしまったのが悲しく辛いところ。

ただ真に気の毒なのは、剣にすら置いてけぼりを食らったまゆっちで、集会では身の置き場がなさそうにしょんぼりと肩を落とすのみだった。

こちらはこちらで何とか、しないといけない。

その為にも、彼との関係を修復し、これまで以上に仲良くしていかなければ。




――――そして何よりも、斬って捨てるには惜しすぎる人脈の宝庫だから。




その本心を覆い隠して、決着の時を待つ事にしたのだが。

「にしても、全校集める必要あるとは思えないんだけどなー」

「キャップ」

ついにその金曜集会で、一言も口を挟まず、議論の趨勢を見守っていたファミリーの筆頭が俺に問う。

ファミリーを守る。
このためだけに命も張れると豪語するキャップが、何故か、あの時だけは塞ぎこんでいた。

何かしら、思う所があったのだろうか。

今も、いくらか物憂げな表情だ。

「殴ってゴメンナサイってやつじゃねぇのか? 俺様、そういうケジメの集会だと思うんだが」

「うん、だと思うけど……」

頭の後ろで手を組んだガクトの声に俺も同意しながらも、一縷の懸念が口に出てしまった。

「大和?」

「いや、それにしちゃ随分雑然な感じだなって。 整列も何も無しってのはさ」

そうなのだ。
昼休み後の授業一コマがこの集会に当てられるという事で、全校集合の号が各々のクラスでかけられたのだが、とりあえず体育館に来てみれば、なかなかフリーダムな空間となっている。

全校が集められるという事に少し目を見張ったが、実際、父兄宛のプリントが事後に配られるくらいの騒ぎではあったため、学園生全員の前で詫びを入れるという、パフォーマンスと言ってしまえば語弊があるが、ガクトの言うようなケジメがつけられるのだろうとは予測できる。

だが、仮にもそのような場となるのに、この今のオチャラけた雰囲気は何なのだろうか。

四月の終わりの、新学期第一回目の朝会には全世界的「喝っ」の声が響いたものなのに、生徒会はおろか、厳格な梅先生をはじめとする学園の教師陣すら何も言わず、各々まばらに壁を背にして佇んでいるのみだった。

そのおかげで風間ファミリーは一人も欠けずに館内中央、バスケットコートのセンターサークル内に陣取れているのだが、




「……………」



いかんせん周囲の様相とは裏腹に、女性陣の活気がない。

特に姉さんは、眼を瞑ったまま身じろぎ一つせず腕組みして仁王立ち、の状態をここに来てから崩していない。

こういうふうに皆が集まった普段ならば、俺や京、まゆっちにちょっかいを出しているのが常なのに、寡黙な出で立ちを貫くその姿は、静かな、しかし確かな迫力を醸していた。

俺の至近で黙々と小説を読む京はいつも通りに見えるが、時折出入り口に視線を巡らす所に強い警戒感が滲み出ていて、いつもなら寄るだけで言い争いや挑発の応酬を互いに繰り広げるワン子とクリスは、双方肩が触れ合うほどの距離なのに押し黙ったままで、まゆっちに至っては、眼を伏せ俯き加減で人形のように立ち尽くしているばかりかと思えば、急にそわそわと体を揺らしてまた元に戻るという連環を回し続けている。 松風は何も喋らない。



緊張の現れ方は人それぞれだなと不謹慎ながら感想を抱くが、姉さんに限って言えば緊張とは違うか、とも思い直す。

姉さんのあの振る舞いは、未だ収まりをみせない苛立ちと不満の発露だろう。
長い付き合いでわかるという事もあるのだが、憤懣をひとしきり聞かされてきた身としては、よりくっきりと彼女の心情のカタチが透けて見える。


―――本当に耄碌したぞ。 あのジジイ。


そう吐き捨てた後の話によると、川神院でも随分と直斗の処遇で揉めたらしい。

ルー先生と対を成していた釈迦堂とかいう師範代が破門追放となって以来、院内は年を追うごとに規律が引き締まっているのだという。 それは「内なる天稟こそ絶対の価値、その力こそ全て。 それ以外は些事、律など不要。 捨て置くのみ」という釈迦堂さんの思想を締め出し、精神修行に重きを置くルー先生の教えがそれになり代わっている証拠であるのだが、そういう状況下で、言い逃れできようがないこのような不始末だ。

高弟を含めた詮議では、破門という言葉さえ飛び出し、吟味されたほどである。

だが、その詮議の場には総代は愚か、当事者の直斗すらついぞ姿を見せる事は無く、それどころかルー先生のとりなしでなあなあ・・・・で終わる気配さえあるのだという。


それが、姉さんには許せないらしい。

どうしても、なんにしても、許せないと。




ここからは何となくだが、これには被害者が俺だった事に加えて、また別の理由があると思う。

恐らくは、釈迦堂さんの沙汰の時の事を、これに重ねているのではないかと俺は想像する。

これがなあなあで終わるなら、どうしてあの時、釈迦堂さんは追い出されなければならなかったのか、そう憤っているのだと。

釈迦堂さんの追放は、門下の過半数が彼の教えに反発し、それを受けてルー先生が自分の籍を賭けて決闘を申し込み、結果が先生の勝利となったために決まった事だ。

これは川神の掟の通りに執り行われた為に、姉さんにはそれに関してどうこう言うつもりはなくて、「不満はあるが文句は言えん」という事らしい。 

姉さんにとっては勿論、直接の師匠である釈迦堂さんが勝って欲しいとの願望はあったこそすれ、それは最強が川神に残ればいいという思想に基づいたものだった。 

それは釈迦堂さん自らが豪語していた事で、ルー>釈迦堂の不等式がその時に成り立ってしまっても、唯々諾々とまで割り切れはしなくとも、少なくとも納得はしたのだ。


感謝の念。
心のバランス。

正直、自分は一生それに理解を示せないだろうと思っていても、ルー先生の教条をいまだ正面きって拒絶できないのは、「掟だからな」
とその一言で俺に説明した事がある。

だがその掟を、武人と素人の境界にある絶対遵守の川神の掟を直斗は破り、あまつさえそれを取り締まる掟さえ、祖父は蔑ろにしようとしている。

これに姉さんは少なくとも好感情は持ちえないだろう。 この前の直斗の説教の反動もあいまって。

だから、然るべき処分でなければ決して認めないという顔だな、これは。







暑さとは関係なく、手が汗でべとつくのがわかる

処分について俺は何も言えないけど、今のファミリーの状態が良くなる事と、直斗との関係回復とが直結している事は火を見るより明らかだ。

そして多分、これは謝罪の場。

そういう確信に近い推測が自分の中に構築されていても、やはり、緊張する。

なにぶん仲直りなんてものは、久しぶりだ。

仲直りの手前にある仲違いを極力回避する人生を送ってきたのだから、当たり前といえば当たり前の話。







……さっさか片付けて、姉さんに想いを伝えよう。



夏はもう、すぐそこだ。




















引き戸が滑り、止まる。

鹿おどしのそれに似た小気味良い音が響き、一瞬前のざわめきが嘘のように引き、辺り一面が静まり返り、体育館中の視線がこちらに殺到する。

御誂え向きと言って良いのか、館の中心にはあいつらが総出でいるのが氣配でわかる・・・・・・

「直斗、」

左前方から聞こえてきた九鬼英雄の搾り出すような呼びかけを無視し、俯き、仙風道骨の痩身に纏いつく黒袴を追うように、俺は中へと進入を果たす。

解呪以来、過敏になっている五感が飽和するのを抑えこみながら、前へ前へと。

油断すれば十メートル先の唾を飲み込む音ですら、明瞭に聴こえ、耳の中で反響するのだ。 それが気分を害さないという事はないのだった。

視界に入れた袴の黒が、不意に横にずれた。

それは鉛の如き心を引きずりながらの緩慢な歩みが、ようやく終わった事を意味していた。

だが、だからといって顔を起こす気にはならなかった。





「直斗……」


遠慮がちに、あいつが言う。

何故だろう。 

どうしても、それは涼やかな響きを幾分含んでいるように思えてならない。

「ごめん、俺が………悪かった」

布擦れの音が響き、あいつの腰が折られる。

何故だろう。 

どうしても、それは潔すぎ、やっつけ仕事で適当にあしらっているように感じられてならない。

片手間で為すロジックパズルのように、先に「自分の非と他人から見える部分」を、喋くり鉛筆でさらさらと大和は塗っていく。




これまで少なからず好感を持ってきたこいつの挙動が、今は無性に憎らしくて仕方が無いのだった。





「その……、俺もちょっとドライに言い過ぎた部分があったけど、誤解しないで欲しいのはさ――――で―――、」








聴覚を遮断する。

何故ならそれはもう、必要ないから。

今、俺が対峙し感受する氣の色は、とても純粋なものではなかったから。

まるで堀之外のネオンのような、極彩色の口八丁で本心を塗り潰す直江大和が、哀しかったから。



「…――…ッ…―」



自らの足元に、雫が垂れた。

これは何の涙なのか。

これは誰のための涙なのか。

少なくとも大和のためとは、認めたくなかった。

だが、同時に込み上げる吐き気は、嗚咽の前兆でない事は確信できる。



やるしかないのだ、という決心。
やるしかないのか、という諦め。



同じ信念から来る二つの感情、それらがせめぎ合い反発しながらも、臓腑の中で混ざり合おうとしているのだった。

だが体外へ逃れでようとする、その合一から弾かれた双情の残滓が、ついに喉を通過してしまう。






「……くっ、くひッ、くひひっひひひ」





思わず、といった風情の奇声が零れた。

それは笑いであった。

ドブ色の情動を抑えきれず、腹から喉へと込み上げ漏れる、負のざわめきだ。








震える顎の勢いを借り、ついに顔を上げた。




呆けた顔の大和の足元に、握っていた龍の紋章を放り投げる。

















狂いを繰る時間の、始まりである。












[25343] 第三十一話:誠意
Name: かぷりこん◆273cf015 ID:177153ba
Date: 2012/12/14 21:29

『もしも二人の者が同一のものを欲求し、それが同時に享受できないものであれば、彼らは敵となり、その目的に至る途上において、互いに相手を滅ぼすか、屈服させようと努める。 ………何よりも悪いことに、絶えざる恐怖と暴力による死の危険が、そこにはある。』

―――ホッブス



















ざわ、と総毛立つ感覚が俺を襲うやいなや、小刻みに肩を揺する直斗の微笑は、哄笑へと転じる。

禍々しき、呵呵大笑。 

その喚くような啼き声は体育館全体に波紋の如く広がり、壁や天井に跳ね返り何重にもなって、誰彼を選ぶことなく、その者の胸の奥底を圧迫し、震撼させた。

久方ぶりに見たその顔貌は筆舌に尽くしがたく、悪相、鬼面をも凌駕する凄惨な表情が、見る者の全身を不可視の糸で雁字搦めにする。

よくよく注視すれば、あの乱闘後クリーニングもしなかったのか、純白だったブレザーは所々灰に染まり、袖口も擦り切れている。

まるで心の内の澱が、外面に染み出てきたようであった。



「……直……と…?」



「ッ……くくく…ぅ…、何が、可笑しいってよ。  いや、いや いや いひひひっ ひぁ……よくもまあ、くくっ………、本心とは真逆の、行動が取れるなと思えてさ」


魂さえ吐き出されるような笑いに喉を潰したのか、低く濁の入った声音だった。

だがそれでも尚、咽頭の痙攣は収まりをみせない。



「器用なもんだなあ、大和、え? ……く、ひひっッ」



日頃の敬語も何もなく、また初めて姓ではなく名を呼ばれる。

本来なら親しみの証となる筈が、しかし、発声元たる口元には侮蔑の情が篭められている以外に何も無かった。

蟇蛙も舌を巻くほどの笑声がどこまでも続く。

目を見張る豹変振りに、思考が吹き飛び唖然となる。



本当に、こいつは、矢車直斗なのか?




数秒後、一向に収束の気配を見せずにいる下卑た笑いを無視するがごとく「学長特権じゃ」と、目を伏せながら学長が謳い始めると、耳目の逃げ場ができたと無意識に安堵した生徒達は、しかし、動き出した思考の再停止を余儀なくされた。




「川神大戦の開戦を、ここに宣言する」




















「……った武器は禁止。 武具は当然模造品で戦ってもらう。 銃器、爆弾も御法度、これも当然じゃな。 飛び道具は指定の処理を施した弓矢のみ可能。 弩(イシユミ)、ボウガンの類も禁止。 まあ基本、意識がなくなるか動けなくなるかまで戦ってもらうから、捕虜をとってもOKじゃが、尋問拷問はしてはならん、というかさせん。 それと助っ人は学園内の人間ならいくらでも、対して外部からは」

いつの間にか笑声は止んだが、三日月が張り付いたかのような口元を震わせながら、爛々とした眼を直斗は俺に向け続ける。

「おいジジイちょっと待てッ」

細々と訥々と、大戦とやらの説明を聴衆全てを置き去りにして行う鉄心に、いち早く我に帰った姉さんが叫する。


「どういう話だこれはっ!?」

「……どういうもこういうも、直斗と直江の決闘の話じゃが」

「茶化すな!! 何なんだこれはッ 詫びも何もなく決闘だと!? どうしてそうなるッ」

眼を剥いて飛びかからんばかりの糾弾に、しかし鉄心は合間に鼻息一つ入れて、鉄面皮を形成した顔を直斗の方へ向けるだけだった。



「俺は、詫びたくないから詫びない。 直江大和が気に入らないからブン殴りたい。 ただ、それだけの事だ」



師に促しに応え、その三日月から生じた底冷えする声が姉さんに回答したと同時に、直斗の瞳の底で炎が爆ぜ、ぎらりと凶暴な光が外界に放たれた。

発せられた一対の視線の光軸は烈しく、鋭く、そこを通過する空気の粒子すら忽ち両断してしまう想像すらさせる。

それに一刹那でも気圧された事を認めたくないからか、はたまた、ただの反感からか、「……お前、」と姉さんが自身の猛気で館内に広がった冷気を瞬く間に払い、本当に直斗に掴みかかろうとしたのが、呪縛の解ける合図だった。


「な、なんでですか矢車ちゃんっ!?」

些か間の抜けた、甲高い声が俺達と直斗の間を裂いた。

「直江ちゃんには、直江ちゃんは、きちんと謝っています! それに、みんなでもう一度仲良く出来るようにクラスで一番考えたのは、きっと直江ちゃんなんですよ!?」

懸命に、ただ懸命に、いくらか言葉足らずでも、その身振り手振りで必至に意志を伝えようとする委員長だった。

しかし気持ちを代弁してくれた事を感謝する余裕を、俺は持てずにいる。

しばし怜悧な目を、直斗は委員長に向けた。


「……そうだな。 まずは大前提か」


割って入った委員長のどこか湿り気のある悲鳴のような問いかけに、何かしら感じるところがあったのか、先とは打って変わって酷く淡々とした口調だった。

湾曲していた口元を真一文字に結ぶと、直斗は音もなく片足を前に踏み出した。

次いでキュ、と床板に塗られたワックスと上履きの裏面が擦れる独特の音が鳴った瞬間、彼と真正面に対峙していた俺の視界は黒く染まる。

黒髪流麗。

姉さんが俺の眼前に立ち塞がったのだ。

だが、その挙動こそ、直斗が求めるものだった。












                        「好きだ。 百代」











そして脳髄が灼熱する気分を、俺は味わった。

















<手には鈍ら-Namakura- 第三十一話:誠意>

















無味乾燥な前置きがあったからだろうか。
警戒したような事態に、その一歩が発展しなかったからだろうか。

長年抑えこんできた感情のうねりが、唐突に体当たりしてきた。 そんな感慨が川神百代の中に浮き上がった。

そして衆人環視の場で告白されたという衝撃以上に、尖りのある瞳に何故か内包された真摯さに、必要となれば拳を振るわんとする勢いを削がれたのだった



「俺は、お前が好きだ」



舌裏に溜まった唾を一飲みするだけで、百代は暫時、何も言えなかった。

こいつは………、





「愛している。 これは武術家としての尊敬じゃあない。 俺はお前の全てが、欲しい」と直斗は臆面もなくのたまう。






時折、感じていた事があった。

鍛錬後の夜闇の中で、誰も寄せつけようとしない頑なな背中。
武士ではなく歴戦の兵士のような、何がしかの掟、何がしかの使命によって支えられ、或いはそれ自体に耐え続け、そのために多くの苦労を背負い込んで、それをも忍んだ末に結実したかのような無表情。

矢車直斗は、確かに内奥に何かを隠し持っている。
持つ、という比喩よりは「飼っている」とした方がより的確かもしれない。

常人には窺い知れない、攻撃的な何かが、孤の鍛錬にて見せる能面の中に潜んでいる。



……だが、これだけがこいつの本質ではないようにも思えるのも、また確かだった。

躊躇なくマルギッテとの挟撃の合間に身を晒し、双方を押し留めようとした破滅的なまでの潔さ、或いは何かを守る事への執着、執念。

自他の責任の所在を問わずして、そこにある因果を一人きりで受け止め続ける、その堅固な心の奥に秘めた、ある種の「優しげな儚さ」がある事はそれが証明している。 そうでなければ、純も初心なまゆまゆがあそこまで懐く事はないだろう。






「だから、何だ?」






矢車直斗という男の片鱗をまざまざと見せつけられたような気になったが、しかし、思わず百代の口を衝いて出たのはそんな硬質な響きだった。

ほんの少し、水辺のあめんぼが成す細波のような揺らめきが、心の泉に生じた事は認めよう。

だが語るべき言葉は、実際、それ以外になかったのだ。
どんな過去があろうと、どんな素性であろうと、何を内に抱えていようと、川神院ではそれに必要以上に触れない事が不文律と化している。

それは内弟子同士の生活空間が近接し過ぎているがゆえに発達した、個々人の防波堤なのである。

実際、脛に傷を持つ弟子も居るのだろう。 ワン子にだって、一般のそれよりは生々しく辛い過去がある。

だからこそ、それには触れない。

あいつは、ああだから仕方ない。

そういう気風が、武の純度を落とす事は明白だからでもある。




だから、語るべき言葉は「だから、何だ?」




これでいい。

これで、正しい筈だ。




ファミリーの、大和の敵である事に、変わりはしない。



……私がこいつらを守る。 これが私の掟だ。





















「…………俺は、お前が欲しくて欲しくてたまらないのさ」



一瞬の動揺、逡巡。 
だが、それは気づかれてはいけない、秘匿せねばならない類のものだ。

ぐらつく視界を瞼を閉じてリセット。
俺は結んだ口唇を不意にダラけさせ、粘つくような眼を向けて、さながら好色漢を装って嗤い、笑う。

舌なめずりはやり過ぎだと自重し、静まりかえり、しかし耳を澄ませばヒソヒソと聞こゆる影口を無視して続ける。



「だから、許せない。 …………お前の隣につくねんと立ち続ける大和を、俺は心底憎んでいる」



風間ファミリーの面々は、俺が毒を吐くたびに表情を険しく固くしていった。

ああいや、一人を除こう。

由紀江は……。



―――キ、キッショッ、、

―――何かと思えば、ただの嫉妬かよ、

―――直江大和はどうでもいいけど、モモ先輩超カワイソー、



飛び交う細かな罵詈雑言。

気になるものか。
もとより、この学園で謗り罵りを被るに最も相応しい者など、俺以外に誰が居る?


気にする……、ものかよ。


「だから、直江の無様を公然で晒して、お前を奪わせてもらう。 ……まあ、もっとも?」




―――女に守られ守られのソイツに、応じる度胸があればの話だがな




射殺すような視線が百代の影から現れた。


パチンと、俺の放った校章に同じ意匠の龍紋が重ねられたのは、その直後だった。
























直斗の言葉を隅まで理解するのに、しばらくの間があった。

しかし、その後は急速に、姉さんに向かっていた言葉の大群は俺の腑にも落ちて、喉を通って頭蓋に込みあがって音を立てて弾けた。

再び後頭に熱が走り、目の前が一瞬真白に染まる。

胸には怒りと屈辱が混じり、その中には「先を越された」というほんの数厘の嫉妬があり、その嫉妬を認めたくない自負と見得が更に激情の塊を包んでいた。

久しく感じていなかった、堪忍袋の緒が切れる感覚だった。

姉さんを押しのけ、直斗の双眸を直視する。

胸元から校章を取り出し、足元の龍の顔に直斗の顔を意図的に重ねて幻視し、力いっぱい叩きつけた。


「ふざけんな」

悪くもない、下げたくもない頭を下げて、ここまでコケにされるとは思いもよらなかった。

「逆恨みも大概にしろよっ」

眉を顰めたあいつに、俺は更に言い募った。

「なんだそれ」

俺は、幾分口を感情に任せていた。

「しかも結局何? 聞いた限りじゃあれだろ?、姉さんに勝てないから、姉さんを賞品にして手を出させないようにしてって話―――」























――――馬鹿が



大和が言い切る前に、鼻で笑い飛ばす。

お前じゃあるまいし・・・・・・・・、そんな姑息でくだらねえ策使うかよ?」

軽蔑を括りつけた言葉を送り返す。

「いい加減、気づけ。 …………これは、お前の為の川神大戦なんだぜ?」

片方の口端をより引き上げた。

顎関節の疲労がわかったが、別に何のことはない。

「………何…」

「お前の持てる力を十二分に発揮できる決闘を、俺が用意してやってるんだ」


傲然と言い放った後、俺は眼で総代を促した。
いつからか床に眼を落としたままの川神鉄心は、しかしまるで額に眼が付いているかのごとく俺の意に応えてくれた。

「……学園内の助っ人に、制限はない。 従って、直江軍、矢車軍のどちらかの軍に百代が入っても……、というより入らざるをえんな。 結局のところ、学園の生徒全員が戦う事になるしの」

「加えて、策略謀略諜報謀反、何でもあり。 ……お前の、得意分野だろう?」



鳩が豆鉄砲を食らったかのごとく、大和はしばし呆然となった。

俺がいかに、俺が不利となるように振舞っているか、という事にようやく気づき始めているのだ。

「状況からして全校が自身の味方になるであろう」

その対偶である「全校を敵に回さんとする俺」の存在に、絶対優位の場に立たされた大和は心底、驚愕しているのだろう。




小さく、本当に微かに呼吸し、俺は外気を体に取り込んだ。

ここからが、本番なのだ。



「お前らは冗談じゃないと思うだろうが、俺はな、自分でも随分と紳士的なほうだと思うぜ?」

そう、ここからは少しだけ本性を曝け出す時間だ




「俺は、一度は諦めたんだ」

―――真

「……気に入らないけどな、一応、認めてたんだぜ? お前の事」

―――……ッ真

「策謀、人脈。 それ自体を小細工だのセコいだの、俺は言うつもりはない」

―――真

「それがお前の生きる術、お前の希求する最強の武器なんだろう? 文句はないよ。 それで百代を守れるのなら」

―――真

「俺が、俺が許せないのは、お前の中に他人に対する“誠”がない事」

―――真

「まあそれもな、本当なら別にいいんだよ、そうやって誰にも迷惑かけずに生きてくんだったらよ?」

―――偽

「俺が心底許容できないのは、そんなお前が、百代の隣で笑って立ってる事だ」

―――紛う事なき真

「……他人と全力で向き合わないお前に、万人に誠を尽くそうとしないお前に、百代の隣にいる資格はないッ!」

―――完膚なきまでに真







「だから俺は、お前から百代を救い出すんだよッ!!!」


―――――偽







この闘いは、誠の意義を問い、大和を変革させるものとしなければならないのだった。

























返す言葉は、なかった。

だが、返す敵意、憎悪は余るほどあり、それを視線に乗せる。

直斗が言わんとしている事が何となくわかり、わかったからといって今更どうにも出来ない問題だという事にも気づいたからだった。

つまりは俺の生き方、誇りを、直斗は全否定しているという事だ。




「証明してやるよ大和。 お前がコツコツコツコツ築いてきた中途半端な繋がり、利害のみが跋扈する人脈は、ただ一人の全誠力・・・にも及ばないもんだとなぁッ」





びちゃり






耳障りな音が、絶叫後の静寂の中で響きに響いた。


紋章プライドの上に粘性の飛沫が花を咲かせたのを理解したのは、



「テメェッ!!!!」



ガクトが瞬間的に飛び、直斗に襲いかかった後の事だった。






















本気にさせる必要があった。

一片の容赦もなく俺と対峙し打ち負かさん打ち殺さんとする気概を、ファミリーに植えつける必要があった。

何故ならば理由を作らせないために。

負けた時の“言い訳”を思案させないために。




迫り来るは軍団一の巨漢。

褐色の肌が張り付く顔は湯掻いたばかりのように朱に染まっていた。

怒り狂った上体が下半身に先んじ、前傾姿勢で島津は俺に真っ直ぐに向かってくる。

先行した左腕がこちらに伸びる。

開け広げられた左の掌で俺の襟首を掴み、最奥で溜められている右拳を顔面に穿つ勢いで叩きつけようとする腹だろう。

なるほど、一撃必殺を考えれば、まこと理に適っている。

狙いを定め、捕捉し、狂いなく渾身の一撃を当てる。

ガキ大将時代からの乱闘経験が形成したのだろう、島津岳人の単純にしてしかし、極めれば無類の強さを誇る事のできる戦闘技法。




……だが所詮、不良の素手喧嘩ステゴロの域に留まるのが彼の実力、現状である。




片手で力のベクトルをずらし、肉薄してきた拘束目的の豪腕に字義通り、胸先三寸のところで空を切らせる。

電撃的に動いたこちらの左腕に眼を疑う暇もなく、島津の体は空振りした手に引き摺られて一層、前のめりとなった。

左足を引き、左肩を退かせる。

左半身を右に隠したことで巨体との激突を回避し、同時に自分の右脚を跳ね上げ、島津の片方の足甲と足首をフック代わりにして、半ば掛け蹴りの要領で斜め上方へと押し上げた。

彼の額と床面の激突は、このおかげでほんの少し凄惨さを増す事となったのだが、ここで所作を終えては俺の身が危ない。




―――――動くなァッッ!!!!




爆発的な気合を迸らせる。

ちょうど足元に来るように調節した島津の首裏を、俺は引き戻した右足で踏みしめていた。

したたかに床板を打つという無様を晒した恥辱をも加えた怒りの湯気が、うつ伏せとなった全身から吹き出ており、今にも立ち上がらんとした島津の腕筋に強張りが生まれた瞬間の事だった。

首にかかる重力以外の圧力と怒声に島津の体は勢いをなくし、行き場をなくした体内の激情が五体の震えとなって外界へその存在を証明するのみとなったが、俺は別段島津に向けて叫びを上げたのではない●●



一刻も早く俺の足を刈らんと右側面から川神流下段足刀・蛇屠りの本動作を始めていた川神一子。

一刻も早く俺の下から島津を引き離さんと背後からのミドルキックを敢行する寸前だった風間翔一。

一刻も早く俺の愚行を止めんと当て身もしくは柔技の為に左袖を掴みかけたクリスティアーネ・フリードリヒ。

一刻も早く俺を無力化せんと・・・・・・真正面から喉下へ手槍―――、貫手を突きつける川神百代。



以上四名に放った制止であり、


「流石に手が早いな、椎名」


そうして顔面を防禦した右拳をゆっくりと開く。

石礫が、ゴトンと音を立てて床に転がる。

飛来物の気配を受けた瞬間、「施設」で読んだ連打暗器秘訣の記述を思い出し、すわ如意珠――――、指弾の類かと驚愕したが、大和の隣にて中腰で臨戦態勢を整える彼女の、その左手が背に隠されている不自然から察するに、そこに秘めたる何かしらの投擲器を扱ったのだろう。




うっかりすればこのまま延髄を踏み抜いてしまいかねない動揺と危機感が、全身に漲っていた。

人質をとる、人命を盾にするという最も外道に相応しい所業をついに為したのである。





だが、一種の爽快が五体を駆け巡っていることもまた確かだった。

これほどまでに操体できた事がこの一年であっただろうか。
これほどまでに動作と連動して周囲を取り巻く様相を事細かに分析できたろうか。

佇立したまま呆けている由紀江に意識を割き続ける余裕すらあった。

……これまでの修練は一体何だったのだろう。

つまるところ、用武は才能なのか、そう思えてくつくつと可笑しみがこみあげてきた。





「ここで、正当防衛。 なんて言うと、きっかけはお前だろ、って返ってきて、あの月夜の立場がそっくり逆になるわけだ。 ……少しは俺の気分が分かったか?」




洒落が効いた言葉が口を衝いて出たのは、許されざる高揚感の現れに他ならなかった。



「なあ。 百代?」



























―――――――――――――――




どうも、お久しぶりです。

長くなったので中途ですがここで切りました。

色々申し上げたい事はあるのですが、まず、断っておきますと直斗には大戦を開かなければならないとある事情があるのです。
その理由は次回、次々回で明らかになりますので(ていうかもう出てたり)、何卒今の時点でそれに言及するのはご容赦ください。

話し合いが、一番好ましいのは、彼は重々承知しております。

すみません、これ言わないと感想掲示板が荒れそうなんで……。




蛇足
この頃執筆ペースが遅いのはエクシリアのせいです。
井上準はこっちでもやはりロリコンです。断界殻を越えて来たロリコニア人です。
しかも裏切りまくる屑なのにカッコよくて、最終決戦の前に報われてしまうロリコンです。うらやま(ry




まじこいS体験版感想
与一ぃいいいい
がおおおお、みたいな可愛すぎぃいいい
そしてオイル、てめえは出てくんなぁあああ





[25343] 第三十二話:落涙
Name: かぷりこん◆273cf015 ID:94f5cb7e
Date: 2012/04/29 16:49


『涙を抱えて沈黙すべし。』

―――中岡慎太郎


















刹那の硬直。

いくらか俺の実力が明らかとなり、数週前からの変貌ぶりに少なからず彼女は愕然としたようだ。

記憶する院内二百余の弟子の中で、ようやく二桁台にいくかどうかの席番の者が、師範代相当の体術を見せつけたのだから。

しかし、そこから一挙に我を取り戻した百代の口から放たれる猛りでこの均衡が解かれる寸前、




―――――――――双方とも、よさんかッ!!!




裂帛の怒号が脇から爆発した。

置物のように立ち尽くしていた川神鉄心が発したものだった。

数年来の全力の氣の大放出に、「心得」の有る者は身構えざるをえず、その他多数の一般常人は一身に浴びた覇気に戦慄するのみ。

どういう展開となるか、ある程度知らされ予想していた御本家であったが、流石に生徒一人が命の危機にあるのだ。 この激昂は当然の反応だろう。

やりすぎじゃっ、と暗に視線で諌められ、応えてひそかに目礼を返す。


「……」

「ジジイ……?」

一時俺への敵意を胸に引っ込め、何年も感じることはなかった祖父の、川神院総代の闘気に思わずして驚愕の情を顔に浮かべる百代だった。

超至近距離で発せられた戦気に目を見張り、緊張と興奮に揺れているだろう彼女の引き攣った口端には、無意識ではあろうが、微かな喜悦が滲んでいるように思える。


やはりこれが彼女なのだ。

これが、川神百代という女の本質なのだ。






……ここまで、か。



にへら、と笑う。

「じゃ、八月三十一日に、また会おう」

いっぺんに収縮し、また急激に弛緩し始めた空気に、俺は離脱の機を見出したのだった。

片手を上げてヒラヒラとふり、大男の延髄に置いていた右足を引き上げ、踵を返す。

屈辱の窮みにいる島津が起き上がり、また飛び掛ってくるという心配は多少はあったのだが、彼はうつ伏せのまま、ふるふると拳を赤黒くなるまで握り締め続けるだけであった。

これ以上ない恥辱を受けたがゆえに、立ち上がる度胸すら無くなるほど、矜持を砕かれたのだろう。

……悪いな。

こちらからは窺えない顔面から滴って床に広がる透明の液に胸苦しさを覚えたが、歩調を緩める事はなかった。

進んできた道を辿り戻る。

誰の虚をも突いたつもりであり、実際、振り返った目と鼻の先にいた風間すら、やんわりと肩を退けてすれ違う俺に視線を向けられなかったほどだ。

ぐるりと囲む衆目の中、すたりすたりと足を交互に唯一の出口の方へ運ぶ。






そうである事が、これが自然であるとする「空気」

そういう、当然の「雰囲気」

この場に醸し出されたそれが、しかし何時までも俺の思い通りになる道理はなかった。

背後から猛然と駆けてくる人間の気配があった。 

もとより、取り巻く場の空気に頓着など一切しない者の足音だった。

やはり、もう一悶着は避けられないか。

すっかり諦めた境地で目端に捉えた小島梅子の反応と即応を目配せで殺し、これを境に俺は全身の力を抜いた。

柔く温く、しかし俺の片方の手首を包んだ彼女の力はまるで万力のそれだった。

突剣に接続される事を日常とする彼女の掌筋、その感触を地肌で感じながら後ろへと引っ張られた俺は強制された回旋運動に体軸を任せた。

振り向きざまに、前述した教師の一撃にもおさおさ劣らぬ、一閃の肉の鞭打が俺の左頬を爆発させた。

被打面たる顔の左回転と、平手が描く右に湾曲した軌道が絶妙に噛み合った末に成った痛烈なる一撃。

それは昔、宴会会場でマルギッテを叩きのめした後、母にくらったものと重なるものだった。

あの時こいつは何かのレッスン、手習いでいなかったとか何とかだったか……。




一瞬襲った既視感は、すぐに掻き消える。

数秒前に頭に描いた想像の通り、金の長髪が眼前で揺れていた。

唯一予測できなかったのは、その青き双眸に溜められた雫の存在だった。





「謝れ、今すぐにだッ!!」





涙の被膜の奥の、正義の騎士の底堅い瞳が、「悪」を写し取っていた。
















<手には鈍ら-Namaura- 第三十二話:落涙>
















内出血による急激な血流変化についていかない頬の皮膚が、びりびりと震えて膨らんでいく。

破裂音は天井いっぱいまで飛んで行き、木霊となって跳ね返ったが、それから耳に入る音はもう遠くなった。


――――ガクトに謝れッ  貴方なら何もあそこまでする必要はなかった筈だッ!


飛蚊の羽音のような耳鳴りの奥の、微かな声音の抑揚と、張られた方向から動かせずにいる視界の左上に映った形のいい唇を読む。

空気が凍っていた。
凄まじい剣幕に、誰もが身動きできないようだった。

なおも続く言葉の波濤に、俺はたゆたう。



――――自分だって、大和のああいう所は好かないっ 

――――しかし、それを否定するのにも、やり方というものがあるだろうっ!?

――――こんな、こんなやり方、絶対に正しいものではないっ!!



ああ、無邪気だなと、何よりもまずその感想が胸に走った。

クリスティアーネ・フリードリヒはどこまでも天真爛漫だ。
クリスが怒っても笑っても、それは何の計算もない素直な感情の発露なのだ。

多くの人から愛され、誰の事も等しく好きでいられる彼女。

目の前の下司の振る舞いに、涙を流せる彼女。

これを、守っているのか。
これを、ここまで守れているのか、マルギッテ。

……羨ましいな、本当に。



―――貴方の士道は何処に行ったのだ、矢車殿!?

―――それとも何か、これには何か他に訳が、理由があるのではないのかっ!?

―――なあ、そうだろう!?




半ば裏返った怒声と共に、手が伸びた。

肩を掴んで揺すり始めた手を、それでも俺は強引に引き剥がした。





















どんなに楽だろう?
今、この場で、何もかも打ち明けられればっ―――

どんなに解放されるだろう?
俺はこんなにも不幸なのだ、俺はこんなにも不遇なのだと、だからこの荒涼をどうか理解して欲しいと、ここで泣き喚けたらっ―――


ああ、どうか俺に情けをっ

ああ、どうか俺を慈悲哀切をっ

今すぐ叫びだしたい心地だった。

俺の中には、そんなどうしようもない腐った性根が根付きに根付いている。



ああっ、それが出来たならっ―――――――――――!!!








それでも、残された使命感を燃やし、奥歯を軋ませこの衝動を辛うじて押さえ込む。

後戻りは出来ないのだ。

そんな事などするものか。 ……父の教えはなんだった?

思えば、先日の決心よりも遥か以前。
全てを奪われたあの日―――世界への希望も信頼も跡形残さず握り潰され、己の生の一切を否定されたあの日から、俺はもとよりこの選択をしていた筈なのだから。

この先に更なる艱難辛苦が待ち受けていたとしても、やり通すしかない。

失われた命に報い、未だ恥知らずにも呼吸を続け、止められない自らに報いるために。

それが失われた事すら忘却した者、無自覚な者に報いるために。

そして、まさしく背徳の愛を、貫き通すためにッ――――――――








喉に薄く血の味がした。 
口内を切っていた事に、ここではじめて気づく。

ちんぴらのように、赤濁した唾を脇に吐き飛ばした。

胸を重くするこの閉塞感も少しは軽くなるかと期待したのだが、内から無限に湧き出るそれに解決など皆無だという事を、自覚するのに役立っただけだった。

まあいい。 好都合だ。

感傷を消し、その溜まりに溜まった鬱屈だけを外面に曝け出す。
何かを隠すには、その偽装の上に幾ばくかの真実をまぶすのが肝要だ。 それがリアルを演出する。

この荒涼こそ、真実以外の何物でもない。

目を合わせず、もう一度彼女に背を向け、歩き出す。

男は背中で語る生き物だ、という日本の格言をクリスが知悉していたかは定かではない。

だが、「おい、待てっ」の声と共に、彼女はまたも俺に追い縋る形で手を伸ばしてきた。 そういう気配があった。



「いい加減うぜぇよ、おまえッ」



決別の言葉を紡いだ瞬間、再度転じて、俺は逆手で彼女の生白い手首を掴みあげる。

正義を囀る金糸鳥に、荒んだ白頭鷲の鉤爪が牙を剥いたのだ。

一挙に顔面蒼白したクリスに構わず、手を俺の肩越し上方へと引き上げ、ゴツリと額を突きあわせた。

あわや接吻という距離に、有象無象の息を呑む音が重なり合った。

「正しいやり方と言ったなぁ、クリス?」

睫毛の合間で驚愕に揺れる水晶の色合いを確かめ、俺はそこに酷薄な笑いを映しこんだ。

「お前がそれを語るなよ? 正義大義の為に人を殺す、その報酬で人並み以上に養ってもらってるお前がッ!!」

「―――ッ!?」

愚劣な論旨のすり替えである。
その金髪から漂う甘い芳香を、感じ入るように嗅ぐ。

してやったり然の嘲笑を頬に浮かべ、なぶるように俺は続けた。

「大体どうでもいいんだよ。 何かが正しいとか正しくないとか、間違ってるとか間違ってないとか。 ……問題は、俺が許せるか許せないか、だからな」


――俺は今、結構いろんな人たちにギブしているほうなの。 だから、俺に何かあれば、そこそこのテイクはしてくれるさ。

―――ううーん…。 いまいちよくわからないな。 そこが。

――例えばさ、生徒会長に立候補すれば投票はしてくれそう。 俺の策通りに動いてくれそう。 ……そんな感じ。

―――……否定はしないが、それはどうにもなー

――じゃあ、クリスの好みの行動基準は?



――――率直で、正直ッ!!



「俺は自分に“率直で正直”でいるだけだ。 お前、それが好みなんじゃなかったっけ?」

そうやって歯を剥き出しに笑った時、心底、このまま舌を噛み切りたいと思った。

「それが出来ねぇ“士道”なんざ、そこらの犬猫にでもくれてやるよッ ……わかったか、お嬢様?」


























身を切るような嘘じゃな……。

川神鉄心は、内心に一人ごちた。

他人に“誠”を強いるくせに今のこの直斗はどうなのかと言われれば、立場も無いだろう。

だが、今、彼が全くの正直である必要はあるのか。

大和の為に、いま心を砕いている男が。

大和が誠実となるから、今、直斗も誠実でいなければならないのか。



わからぬ。

誰も、わからぬ。

わかるとすれば、神仏の類しかおらぬ。

ただ一つ、この老いぼれがわかっているのは、此奴は今、全てに噛み付いているように見せかけて、全てを守ろうとしている事だ。

己の全存在を賭けて、まさに二兎を追う道を、此奴は――――。

「そこまでじゃ」

モモの飛びかかろうとする気配を感知して、瞬間的に言を放った。

こうまで直斗が我が孫の前で傍若無人に振舞えるのは、ワシを信頼してくれているからに他ならない。

先ほど島津が打ち倒された時は本能的に声を荒げたが、理性的な光があの目礼には備わっていた。

「これより、直江大和、矢車直斗両名への、一切の過剰接触を禁ずる。 無論、闇討ちもな。 ……直斗、」

睦みあう男女の脇に一跳びし、弟子に促す。

モモから見ればクリスが人質のような構図だった為にすぐには手が出せなかったのじゃが、もう挑発は十分じゃろう。

ワシの視線に、直斗は芝居がかった恭しさで手首をほどいた。

茫然自失の態を醸すクリスは片手の拘束が離された後、立膝でその場にへたり込んでこむ。

しばらくの視線の交錯は、こうして終わりを告げた。

「八月三十一日に、思う存分、闘うがよい」

そこでこの場の憤懣をぶちまけと匂わせ、出口へと遠ざかる直斗を後背に、教師陣も含めた全校に対し牽制する。

「……ま、待ってくださいッ矢車ちゃん!! そんな、そんな大掛かりの喧嘩なんてっ」

「喧嘩にあらず、真剣勝負じゃ、甘粕真与。 ……先の事件のこともある。 この闘いに疑義を挟む者も大勢おるじゃろうから言っておくがの。 多少手荒となっても、これはわかりあう為に、ぶつかりあう。 その舞台が川神大戦である事を、各々の肝に銘じてほしい」

「わかり、あう……?」

「違いますよ、御本家」

半信半疑の甘粕が反芻し終える前に、刃物のような鋭さで言葉が切り込んできた。

その背中に四方八方幾多数多の憎悪侮蔑を引き受けた直斗は、すでに館内から一歩出た位置にいた。

「どんな理屈をつけたって、結局、戦争ってのは後にも先にも主義主張の押し付け合いに終始する。 これは、わからせる・・・・・為の闘いに他ならない」

……最後まで偽悪を貫くか、弟子よ。

「最後に言うけど、俺は、F組おまえらが死ぬほど嫌いだよ、委員長。 自分のした事、棚に上げて上げて上げまくっといて、馬鹿にされた腹いせに何の臆面も無く他人の批判ばかり喚くお前らが。 キーキー鳴き散らして……。 どこぞの着物娘が言う通り、本当に猿なんじゃないか?」

嘲りの残響のみが、吹き抜ける。



「それなら納得だな。 猿と、わかりあえる・・・・・・筈がない」



顔をちらとも向けず悠然と言い切って去りゆく男に向かって、尚も殺到する黒い奔流を、鉄心は見た気がした。










そしてただ一人、後生ぐそうの彼方、ニライカナイからの来訪者が薄く笑った気配を察したのは、傍らに控える二人の巫子のみ。
































ごみになった気分というのは、これだろう。

形成した鉄面皮は学園を抜け出た途端に溶け始め、多馬大橋を渡り切ったところでどろりと滴り落ちて、河川に流れた。

瞬間、地を蹴り飛ばす勢いで走った。
どんな表情を俺は顔に刻んでいるのか、そんな事は考えなかった。

ひとりになれる場所、誰の干渉も入らない場所を求めて駆けた。
今の状態がまさに本当の孤独であると、そんな感慨も置き捨てて駆けた。


川神駅、

駅前繁華・商店街、

親不孝通り、

ラ・チッタ・デッラ、


映画のフィルムのように滑らかに、川神の景色は後退していく。

速く、迅く、俊く。
そう念じて、ひたすら足を交互に出し続けた。

目端に桜木町駅まで幾数キロの標識を捉えた。

冷たいビル風に、髪が一房なびいた。

先刻まで針一本ほどにしか視認出来ていなかった七浜ランドマークに、ついにそれを見上げるまでに迫った。

超高層日本一を誇る世界建築は夕日を一身に浴びて、大樹のようにそこに佇む。

人もまばらな平日の日本大通り、それを突っ切っていった先に七浜霊園は在る。

やたらめたらに走り回った末に辿りついたのは、やはりここだった。






人の姿も殆ど見えない広大な墓地は、時間が止まったような静寂に満ち満ちていた。

荒い息を整え、休憩所の古びたベンチを横切って、林立する御影石の群れに紛れるように俺は歩き、妹と再会する。

矢車家之墓と墓石には彫ってあるが、その下に納めてある骨壷はただの一つきりの筈だった。

ついぞ、父母の骨も魂も、こちらに戻ってくる事はなかった。

崩落に巻き込まれ、血肉の極微をグラウンド・ゼロの何処とも知れぬ一角に散らせたとあっては、仕方のない話である。

せめて空の上では、一緒にいる事を信じたい。

品行方正な人生では決してなかったと思われる親父の方は怪しいが、まあ善悪相殺で、よろしく頼むよ閻魔さん――――




久遠寺のどなたかが、来てくれたのだろうか。

まだ飾られて間もないと思われる花が風に揺れていた。

そう思って、かちゃ、と足元の玉砂利を鳴らしたのが合図だった。























ずるりと一気に四肢の力が抜け、天地がぐらりと揺らいだ。

「が……ひッ、ぃ…ぇ゛…」

馬鹿が。

此処に来て、決意を新たにし、それをもって罪悪を埋めようと、薄めようとでもしたのか?

「…ぐ…ぇ……あ゛ッぅ…」

何を愚かな。

ただ二極の狭間で、呻くだけの結果にしかならないじゃないか。



「ぐそ、…った、れぇッ」








――――――――俺は、俺は何て事をッ








そうだ、クリス、お前は正しい。 

その感覚、その感情、全て、その全て、お前の脳髄を焦がすその全ては、正しいッ

島津も甘粕も、友のために全力で怒り、泣いたッ

まさにあの行動の中にこそ、誠があるのだッ

それを文字通り、足蹴にした俺は、何様だッ



「ああ、あ゛、っげ、ァッ、あ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ―――――――――――――――」



刹那、涙の栓が抜け、畜生の咆哮が響く。

四つん這いになって、何度も何度も物狂いのように両拳で墓前の石粒を打ち叩いた。

もはや感情の蓋すら音を立てて砕け散り、更なる嗚咽が体に襲いかかってくるのを感じた。

額を地べたに擦りつけ、何も言葉にできず、ひれ伏してただただ咽び泣く。

抑えこんできたものすべてを吐き出そうと、五臓を捻り六腑を捩り、ひたすらに五体を震わせ続けた。





このまま全部の体液を流し尽くして、この人でなしの骨肉を消滅させてしまいたいッ―――――








あれだけの事が出来る理由もある。
あれだけの事が出来る大義もある。
あれだけの事が出来る愛憎もある。

これから繰り広げなければならない闘いは、命を投げ出す価値のあるものだと固く信じてもいる。

妹の無残な最期を思い出せ。
お前の半身はあの時に死に絶えた筈ではなかったか。
その悲憤と、分け与えられたひとかけらの希望で残りの半身を生き長らえさせてきたのではなかったか。

そうして待ち続けた末に、死の意味が失くされた現在いまが横たわっていた。

それらの軌跡の象徴、集大成が、目前の墓碑だ。

だから、犠牲に見合う価値を、大和を・・・、俺は創り出さねばならないッ―――






……だが、そうして妹の墓を前にしても、てめぇひとりの感傷の為に涙を流せるのが俺だった。

今更、半身の半身が引き千切られる痛みに呻く事にどれほどの価値があるというのか、それを度外視できる図々しさを持つのが矢車直斗という男なのだ。







「お前に……お前に…、お前にだけはッ…、…お前にだけは……隠、さないからッ」





お前にだけは、俺の全てを曝け出すよ、真守。

お前だけは偽らないからっ、だから今だけ、今だけ許してくれと、そんな言い訳で自己を満足させて、俺は落涙に沈溺した。










約束の刻限までは、まだ幾らか時間があった。




拳を振り上げた責任は途方も無く重かった。















[25343] 第三十三話:証明
Name: かぷりこん◆273cf015 ID:94f5cb7e
Date: 2011/11/14 00:25


『死んだとなると、とたんに安心するのか。 罪滅ぼしか。 死人に対しては謙虚なポーズをとる。 だが生きている人間、悩み、戦い、逞しく生きつつある人間に対しては、奇妙に威たけ高に侮辱し、傷つけて自分の立場をたもとうとする。 生きている者にこそ、協力すべきだ。 そしてともどもに、みなぎらせるべきであったものを。』

―――岡本太郎 「母の業」





















聴き慣れた呼びかけが響いたのは、それからしばらく経って、全身を揺さぶる痙攣が治まり、口腔が乾き切った頃だった。



やはり、俺という人間はとことん図々しくできているようだ。

一時間ほど喚き散らせば後はもう充分だろうとでも言いたげに、この身は空腹まで訴え始めている。

己の肉体の節操のなさに、ほとほと呆れ返るばかりだ。

だが、これが人の心身というものなのかもしれない。

どんな苦痛も悔悟も吸収し、胸の内に納めて、しまいには忘却できる構造。

人生は経験に耐える事の連続だと何処かで聞いたが、それではあまりにも救いが無い。

忘れてはならないものもあるとこれ以上ないほど確信しながらも、俺とて大和の事を言えないなと、つくづくそう思った。





……無論、楽になったわけではない。 むしろ、ほどよく冷えた理性は警鐘を鳴らし続けている。

霞一筋ほどの勝算の粒を大和に撒いた事には撒いたのだが、それが芽吹くとは限らない。 

勝利への不審と敗北の現実味は、膨らみ続けるばかりだ。

ただ、やるしかない、という覚悟はとうに決まっている。

それを噛み締める中、先に通り過ぎた墓苑のベンチに腰かけているところに来たのが、ルー師範代だった。

片方の肩にかけられた見慣れた自分のドラムバッグは、まさかこれから院に戻れるはずもない俺への配慮だろう。 もう片方の手には、細長いものを掴んでいた。


「……ありがとうございます」


俺が受け取ったバッグを脇に追いやった後、掠れた俺の感謝の残響が消える前に、「これモ」と、言葉少なに曇った顔で師が差し出してきたのは、その長い桐の箱だった。

なにかしら期するものもあり、断らず受け取って、中身を改める。

国内でとれる木材としては最軽量である筈の木の筐は、しかし重かった。

そしてその内部、布地に包まれて納められていたのは、やはり一振りの刀である。
























「六花さんが、遣っていたものダ」

「……」

訂正する。 

正確には真っ当な刀ではない。 ―――鞘が、太すぎる・・・・

箱を脇によけ、失礼、と断ってから柄と鞘に手をかけて立ち上がり、親指を鍔にかけ鯉口を切って、抜剣する。

「しゅらり」と鳴らして抜き放った先にあるはずの、「ひゅう…」という空気を破断し続ける気流の音色は、無かった。




刃が、無い。 



刃引きされているのではなく、最初からこのように鍛造された事が、曇りの無いしのぎにえ、刃紋(と言って良いのかわからないが)に表れている。

鍔元から伸びる、反りが一切無い刀身の太さは柄と同じほどあり、鎬は異様に膨らんでいる。 

切っ先はなめらかな半楕円を描き、ちょうど木刀を銀メッキで覆って鍔を誂えたような、そんな造りだった。


―――――そうとも言えないよ。 私の剣は斬る剣だが、川神流の中でも、彼女のは迎え撃つ剣、撃剣だった。 単純に強さを比較できない。


脳裏に、由紀江の父親の声がよぎる。


……そうか。 これが、


「銘は?」


さっそく上段に振りかぶりながら重心の位置を確かめる。

なるほど、小太刀にしては長く、さりとて打刀としては短い部類に入る。 女性が扱うに適した長さだ。 

ただ、抜打ちには不向きだろう。
腰の捻りが要諦であり、自明、湾曲する刀の軌道が必須となる居合抜きは、まったくの直刀では行い難い。
刃が無い分、抜刀時の摩擦の増大により勢力が殺される事も、その因として大きいのだった。

要約すると、緋村剣心マジ凄ぇ。


「わからない。 それを工夫した六花さんなら或いは知っていたんだろうけれども、後で柄巻を締め直すときにわかると思うが、刀身自体に刻印の類は何処にもないんダ。 ただ、モモヨと対するのに不足はないだろうト……。 学長からの餞別だヨ」

重みは、先年加賀で握った白刃の倍はあるだろう。 たしかに頑健な趣きを醸していた。

スカッドミサイルの如き彼女の中段突きに耐えられるかと言われれば、「根性で、なんとか」と暗に言ってきそうなほどだ。


















陽光を吸って茜に染まった刃金を、また一太刀と振り下ろす。

もう二振り三振りと、手にその感触を馴染ませたところで俺は鈍らを鞘に納めた。

「……有難く、拝領させていただきます。 ご足労おかけしました」

腰を折り、次いで鞘から伸びる下げ緒を手に絡ませて、再び、苦しげに何かを含んだ瞳と相対する。

「他に仰りたい事があれば、何なりと」

表情から、単に荷物を渡しに来ただけではないだろう事は察していた。



「……ワタシは、どうにも、どうにも納得できないんダ」

駆け抜けた風に乗って、あえぐような声がした。

何に、とは言わずもがなだろう。

「君がこのようになった、大和があのようになった責任はワタシたちに……。 そういう立場にいるワタシが言うのは、許される事ではないのもわかっている、つもりだガ……」

歯切れも悪く重ねられた声が、つい伏せてしまった頭にのしかかった。


「他に、ほかに何かやりようがある―――」

「もう、始めてしまいましたから」

自分から聞いたくせに、振り払うように遮った。

だが、もう止めようがないのだ。 わかってないのか、ルー・イー?



「君は、全てを話す気は――」




瞬間的に立ち昇った怒気が晩梅の湿気を震わせる。
続く言葉を無理矢理飲み込ませて、俺は一歩ほど、師範代との距離を詰めた。





――――それで何が変わる?





反射的に出た言葉だった。















<手には鈍ら-Namakura- 第三十三話:証明>














顔を再び上げて、師の双眸を直視した。

「妹を、真守を返せッ、なんて三文芝居の台詞をあいつらの前で吐けば良いとでも言うんですかっ?」

「そ、そんな事は言っていない、ワタシはただ君ガっ」

そう、この人はきっと純粋に目の前の不出来な弟子を守りたい一心で言ってくれているのだろう。

おそらく、鉄心からは理由の一部しか聞いていないのだ。

当たり前だ。 この人は、顔に出る。

だが、わかっていても、先ほど吐き出した筈の感情の復活を防ぐ事は容易ではなかった。

「全てを話したとするっ ……そんじょそこらにゃ転がってない、俺達の惨いも酷い身の上を大和に聞かせたとするっ。 あいつは憎たらしいくらい常識人で、分別ある奴だ、きっと土下座でも何でもして、涙すら流して、俺に許しを請おうとするだろうよっ!」

悪い奴じゃないんだからな。

「……けどな、結局は、そこまで・・・・なんだよッ!!」

「それは―――」

懸命な顔で抗弁しようとする糸目顔に、更に詰め寄る。

「これからは心を入れ替えるだの何だの言って、それでしばらくはそういうアピールをする。 だが、一時だけの事だろう。 俺があいつの前から消えれば、どうせ今までと同じ事をやるに決まってるさッ バレなければ・・・・・・、それで良いんだからな、あいつはッ」

「そ、そんな事」

「罪の意識で何かが変わるっていうんなら、とっくに、七年前に変わってる筈だろうッ!? 結局、あんたが言うようにしたって、俺にとっても大和にとっても、欺瞞にしかならないんだよッ!!」


母の形見をひしと握りこんだまま、もう片方の手で師範に掴みかかった。


「真守はあの場所で待ってた、大和はあの場所に来なかった、そして真守はあの場所で、死んだッ 要点・・はもう、伝えたんだろうがッ!? それで今の大和だぞッ!?」


「ッ、、それでも、ワタシはッ」




――――キチガイ水で理性トバして釈迦堂さん追い出しておいて、「ココロが大事」なんて平気な顔で百代に教える欺瞞だらけのあんたにッ、何を言われる筋合いは無いッ!!!




――ッツ!?





































寸時の静寂の中の、自らの息切れの音が耳に痛かった。

「結局、何を伝えるにも、証明が必要だったんだよ……」

俯いた。

武に心を求める事。
俺自身の『否定的見解』はさて置いて、総代が、それを肯定しているのだから、実際正しいのだろう。

だが、その証左無くして、徳を説いても無意味なのだ。 ……まったくの無駄だったのだ。 

そう、この闘いだって同じ事。

見開かれた師範代の眼に膨れ上がった気勢は削がれ、彼を押し黙らせた居心地の悪さから肉薄していた全身を退いた。

「全身全霊の誠心誠意ってのが、どれほどの価値なのか。 全力で他人と向き合う姿勢が、脅迫と紙一重の損得勘定の繋がりより超越するか否か、はっきりしない限り、あいつは絶対に変わらないっ」


あいつの誇りが悪だとは言わない。 言える筈がない。

事実、世界を支配しているのはその摂理だ。 これで社会の均衡は成立している。 これが、「正義」なのだッ。

でも、それでも最初から相手の望むものを何も持っていない奴が、捧げる物がないから勝手に苦しむのは当然だなんて、俺は絶対に認めたくないし、親しくない奴からの、それでも笑顔が添えられた「友達だろ?」って呼びかけに、偽らなくとも、功利の計算を働かせるがゆえに即答できないなんて、悲しすぎるじゃないか。

たった今より俺の血魂骨肉の顕現となる無刃剣を鞘ごと、師へと突き出し、ここに宣誓する。


「奇跡の勝利を演出して、それを証明してみせる。 罪悪で変わらないなら、決定的な敗北の屈辱をもって大和に教え込む。 ……俺はやるよ、最後まで。 このナマクラに真守の魂を乗せて、迫り来る全てに勝利して、あいつを変える」

「……君は……、彼らを信じ―――」

「もうそれが無理だから、あいつに、いや、あいつの周囲、俺に対するものの全てに、俺が信頼するに足る傷を残す。 俺は、俺は打算で動くのはダメだとか、卑怯な真似はやめろとか、誰とでも仲良くしろとか、知り合った奴らはみんなダチにしろとか、そういう事を言いたいんじゃない。 そんな事は不可能だ。 俺だって、もう大和と心から笑いあって手ぇ繋ぐなんて、出来るなんて思っちゃいないさ。 考えただけでおぞましいっ。 だけど、けど、そういう気持ちであっても、正直にぶつけ合って、向き合い続けるべきだろう!? 自分の意思、相手の意思、それくらいはッ―――――」




――――それでも。

        ――――それでも、がんばって、なかみを、しってもらう。

   ――――せいしん、せいい。

      ――――みんなが、みんなのなかみをしれば、へいわになるって、おかあさんいってたから。



「少なくとも大和は、そうしなきゃ、割に合わねぇだ――」

「ワタシが言いたいのはッ、君の想いなかみはどうなるのかということダッ!」

「なら俺の過去なかみを知れば、風間ファミリー・・・・・・・はどうなるってんだッ!?」





















「なに……?」


「あんたはいつもそうだ。 少しは考えて物を言えっ、師範代ってのは何よりもまず、『川神の為に』在るんだろうが!! あいつを哀れむより前に、許容しようとしたか!? 褒め称えようとしたか!?」



―――半端モノにならないために、相手にする物事を人物を、より深く、掘り下げて考えろ。


         ―――選択する行動が、どんな結果を生むのか。 どんな意味を孕むのか。


                  ―――誰が満足するのか。 何が変わるのか。 何の意味があるのか。

    ―――考えろ、考えろ。

                          ―――そして、即時、実行。

                   ――――全力で、相手に向き合え。


                             ―――――――覚悟とともに、お前自身を、貫いてみせろ。





「クリスと由紀江が入って、あいつらの繋がりは脆くなってるッ 良い意味でも、悪い意味でもッ」

いつか、風間ファミリーは天下無敵と、かのリーダーは言っていた。

果たして、本当にそうなのか?

そう、たとえ俺との戦いに敗れ、打ちひしがれても、外傷は時が治すし、ファミリーの絆が揺らぐ事はないだろう。

だけど、直江大和の為した事、矢車真守に起きた事、矢車直斗が為した事。 その全てを白日の下に曝け出した時、あいつらが「今まで通りのあいつら」でいられる事は、ありえない。

大和独りに真実を話し、思い出させたとしても、他のメンバーがそれを嗅ぎつけるのは目に見える。

そして露見は、瓦解を意味するのだ。

変えるのはあくまで、直江大和のみであり、しかして風間ファミリーは存続させなければならない。 とすれば、やはり俺の過去は秘匿するしかない。

「……まさか、君ハ」

そうして、やっと察した師は、眉を曲げ、世にも情けない顔でこちらを見返した。

立ち竦む彼を、俺は滲んだ視界に捉えなおした。

そうだ。

この戦いは、大和への教導であると同時に、川神の分家たる閖前の生き残りとしての使命であり、何よりも、俺のエゴでもある。












「百代の平穏は、あの場所にしかないっ!!」



――――風間ファミリーが無くなれば、あいつは人として、間違いなく死ぬっ!!!








武に魅入られし彼女が、その良性を喰われ、黄昏の獣に陥る。

百代を、あんな、あんな目に遭わせられるか?

己が唯一、支えとした何か。
それが突如として奪われた後に、己が心に何が残るか。

俺は、それを知っている! それが自身に、世界に何を為すか、俺は経験しているっ!!













……自覚はある。 矛盾している事は承知している。

ただしく背徳だ。

相手と向き合えと他人に説く癖に、手前の誠を偽り、相手に真実の自身を晒さない事が戦いの前提であるのだ。

俺が大和に向けてぶち上げる理想に、ものの見事に反している。 たいした屑野郎だ。 たいしたペテン師だ。



「でも、俺はあいつが……、、」



言い終える前に食い縛った歯の間から、呼気を漏らす。

分家として本家を守る、これもある。 救い上げられたのだ。 借りは返さなければならない。

だが、その思考に至る遥か以前に己を衝き動かす何かが、胸の中で彼女へと向いているのだった。




咎は受ける。 

謗りも罵りも、すべて被る。

勝利した後に、川神に居座るつもりなど毛頭ないし、二度と百代の瞳に映るつもりもない。 

その資格は俺にはない、俺にあってはならない。



「それでも」



真守の矜持の伝授。
百代の安息の守護。


混じり合えば相反する運命のこの二つが、俺の目的であり、存在価値だった。

この七年の、想いの結晶だった。

どちらかを選び、どちらかを棄てるという択一ができたなら、楽なのかもしれない。 

だが、もはやそれらが渾然一体、不可分となったこの気持ちの前には、どだい不可能な話だった






  ―――俺が言いたいのは、中途半端に迷いをもったまま、選ぶな、ということだ。

                              ―――心の奥底から、本能からの願い。

                    ―――それから目を離すな。











「その為に取り戻したチカラだッ!!!」


衝動に任せて言い切った後、それまで着ていたもの全てを脱ぎ捨てたような心細さに襲われたが、もうその場に留まっているつもりはなかった。

これでもかと握り締めた震える段平を腰元に落とし、対面していた師範代の脇をすり抜けて、ベンチにぽつねんと放ってあったドラムバッグの下げ紐を、半ば乱暴に引っ張り上げた。

だが瞬間、かさりと開け広げられていた鞄の口から飛び出し、宙に浮いた物を見て、呼吸が乱れる。





「――――ッ」




小笠原屋の包装が、所狭しと中に詰められていた。





「……、……い、ぁで、世話に、ッ ご無礼を、い、いたしましっ――っ」




もはや振り返ることはできず、満足に文を成さない単語の羅列を荒ぶる気息とともに吐き出し、両の手に託されたものを抱えて早足で墓苑を出た。










気分悪いな、畜生。





























だれも居なくなった夕闇の中、取り残された男はひとり、立ち尽くしていた。


何故、気が付かなかった?


あの決別の儀。



――――好きだ。  百代。



「大前提」と彼は言っただろうに、どうしてあれを、虚言と断じたか。

横っ面をはたかれた気分だった。

赤の他人が殺された痛みより、懐の痛みの方が応えるという単純な論理のみから、この大戦は端を発しているのではないのだ。

ワタシは所詮、物事の表層しか見ようとしていなかったのだ

……彼の過去は唯一、ファミリーを破断する脅威を含む。

正直に言えば、ワタシは、ワタシはそれでいいと思った。 むしろそうすべきなのだと。 もうそれぞれがそれぞれに自立すべきで、依存すべきではないと。



――――だが、その唯一の破壊を行使しない限り、彼は唯一の守護者たりえるのだった。



その後の事を、先にある風間グループの有為変転を些事として曖昧にしか想像しなかった自分が、心中で手前勝手に彼に対して親の情に近いものを抱いていた自分が、ひどく矮小な人間に思え、先ほど憑かれたようにまくし立てた彼に、思わずして、ルーは院を出奔する前の矢車真一を幻視してしまった。

それは辛酸の果てにのみ辿り着く事のできる、本当の強さを宿し始めた男の姿だった。

どれほど傷つけられ、裏切られ、絶望させられたとしても、それを経験したからこそ、もっとも厳しい選択を取り、愛するものを生かすと同時に家族の理想に報いる、この行動を起こそうと彼は決めた。

誰もが容認しようとする摂理に、その正負の両面を白日の下に晒し、直江大和、いや、この戦いに関わる全ての人物に変化をもたらさんとした。

彼は苦痛に呻いていた。

だが、惑い迷いはない。 苦しむ事を覚悟したから、ああいう宣言ができたのだ。

誠意が何たるかを示さんとする過程で、他者を欺くという矛盾。

それを必死に飲み込んで吐き出すまいとして、焚いた理想の火を掲げ、向かい風の中を這うように、その果てを目指すだろう。

そういう彼の信念を目の当たりにして、独り善がりに不戦の徳を説こうとした自分が情けなく、教師として失格とも思えるのだった。




「あなた方なら、彼に何ト……」


空に顔を向ける。

きっと今、自分を見下ろしているだろう彼らを、自分と引き換えに召還したい想いに駆られたからだった。




























空母だよな、やっぱり。



国際旅客ターミナルとして、大型客船の受け入れ場になっている七浜大さん橋を目の前にして思った感想だった。

十五年ほど前に解体された旧大さん橋に代わり、俺が日本に戻ってきた直後の頃に完成したのだというイベントホール内包型の建造物は、さながら芝生をはやした洋上基地だ。

三層構造の最上層。 その屋上で、俺は憂さ晴らしに散策しながら潮の香を全身に浴びている。 時刻は午後八時半を回ったところ。

半地下構造のロビーとホールが波のうねりをイメージさせる緩やかな起伏を描き、通路の床となっている灰茶のウッドデッキが航空機の発着場のようなラインを天然芝の上に引いている。

幅百メートル、長さ四百メートルに渡って海上に突き出した人工丘陵の上にはビアガーデンなどの多くの露店も立ち並んでいて、海上公園としての機能も有していた。

現在、両側面に客船は止まっておらず、大さん橋からは七浜港の海を一望する事ができる。

正面には水平線に張り付く、鉄骨剥き身の鶴見工業地帯。

右手には久遠寺の次女が命名したという客船を前景にした、山下埠頭とベイブリッジ。

左手には新港町の埋立地があり、奥には大観覧車のイルミネーションが閃き瞬き、みなとみらいの高層ビル群が立ち並ぶ。










「こんなとこで油売ってて、ずいぶん余裕なこった」










心臓に直撃した殺気に、本能的に抜刀した。

「うおっと……、へへっ、懐かしいモンぶら下げてんじゃねぇか、え?」

ひらりと身を捩り、しまりのない笑みを浮かべた社会不適合者の姿がそこにはあった。

飄々とした口調に反し、纏う不穏な戦気は、真実悪魔のそれである。

「……いちいち殺気をぶつけないと人と話せないってか? とんだ対人障害だな」

「いやいやいや、『その為に取り戻したチカラだー』って、さむい場面から尾行ツケてたんだがな、なかなか気づかねぇんで、ちょっくら脅かしたまでだ。 今の反応にゃ及第点やるよ。 それにしても、ぐだぐだ悩むのは親譲りだな、お前」

喉元に向かって突きつけられた刃など眼中にない、傲岸な態度だった。

「よくもまあ破門者がのうのうと今の師範代に近づけるもんだ。 さすがの強心臓、恐れ入る」

「けっ、俺の隠行があのイイコちゃんに見破れるかよ? ……ま、こんな中年探すために、時の総理を顎で使いやがったガキの胆力にゃ負けるさ」

言葉のドッチボールが良い感じにヒートアップしたところで周りを見れば、少々、人目を引き寄せてしまったようだ。

一応、鈍らを引きよせて刀身を片手で撫でつつ、真剣でない事をアピール。

日本刀に限りなく類似したものを持った不審者である事に変わりはないわけだが、ここは空港と同種の出入国ロビーであり、幸い、抱える荷物も旅行客のそれで、土産物のレプリカを持つ海外の観光客とカモフラージュするわけだ。

サムライハラキリパラダイス、万歳日本。

「……こっちの準備はできてる。 それだけ言いに来たんだ。 後は、場所だけだ」

しまりのない口端ではあっても、出し抜けに真剣味を帯びた声で語ってきた元川神院師範代の双眼は、爛々と輝いていた。

誰よりも百代の本質を知悉する男は、当然ながら、誰よりも百代の本質に近い男なのである。

「……」

「むしろ、お前にとっては、場所が一番重要なん――」

「わかってる。 ツテはあるんだ。 近く連絡する」

言葉で言うより難度は高く気が重い第一関門なのだが、最低限の情報だけ呟いて、それ以上の口出しを封じた。

悪人寄りのこいつに、近づかせてはならない領域だった。

「ああそう?」と満足げに片頬を掻く姿が、いやに不気味である。

「その連絡は亜巳の奴に入れてくれ。 ケータイ解約して金浮いたから、俺ぁ腹ごしらえといくわ。 ……お前、メシは?」

「いい。 どうせ梅屋だろ?」

「どうせってなんだ、どうせって? きらい屋より旨く、麺田屋より安く、凶野屋よりレパートリー豊富な、皆さん御贔屓の梅屋だぞ?」

「……また今度だ。 これからよろしく頼むよ、師範・・?」

「せめて敬語使え」


嫌なこった。 大体にして、対等である事がこの人との契約条件でもある。 一応、これも誠意の形なんだがな。

百代でもですます付けるぞ、という舌打ち交じりの声に背を向け、後ろ手で応えて別れた。





岸のほうへと近づきながら、口直しならぬ目直しの心持ちで水上バスに視線のやり場を求める。

龍のオブジェが中華街へ向かって水面をゆるゆると滑るのを見送り、まったくの同色となった空と海の境界を見極めんとばかりに漆黒の水平線に目を細めた。

月の光を散りばめた海はどこまでも暗く、見ただけで風邪を引きそうな硬質な冷たさがそこにはあり、安寧とは程遠い虚無が己を誘っているように見えるのだが、清冽な星々の瞬きがそれらを包んでいる事も、また確かだった。




「やってやるさ」





これは、真っ直ぐにたたかえと、そう名づけられた青年の物語。

姓は矢車、名は直斗。

戦下布誠を果たさんが為、男は釈迦に教えを乞う。








武道人生、灼熱の時――――。










[25343] 第三十四話:森羅
Name: かぷりこん◆273cf015 ID:94f5cb7e
Date: 2012/01/03 18:01

『その健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、 悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、 これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、 真心を尽くすことを誓いますか。』

―――挙式内宣誓より

























「―――という事だ。 理解してくれたかね? 少尉」




先頃導入した有機ELの大画面から、一昨日のとある学園の監視映像が消えた直後だった。
KSK、コマンドー特殊部隊訓練施設地下最下層の執務室、唯一のデスクに座り、顔前に両掌で拳塊を作って、微動だに幽鬼の表情を崩さない上官の冷徹な声が、マルギッテの耳朶を打つ。

「……は、はっ」

頭蓋の中で幾つもの「何故」が錯綜する最中であっても、そう応える以外にすべき返答が思いつかなかった。

むしろここでは刷り込みというべきか。

マルギッテは無言でフランクの能面を真正面に捉え続ける。

先んじて机上で「件の騒ぎ」を見た際に、創られたのだろう。
執務用に備え付けられた小型端末の液晶を貫通し、床を抉り取っている無数の弾痕が、マルギッテが久方ぶりの司令室に入って最初に目にしたものだった。

机上に置かれたワルサーから香る硝煙の匂いが、アロマフラグレンス代わりかと思えるほど濃厚に、部屋に充満している。


「数週間前の君の報告には、彼に関して『脅威対象になりえず』という評価以外の記述が見られなかったのだが、どうやら違ったようだな」

「も、申し訳、ございません…」

「いや、責めているわけではない。 君と彼が演じた大立ち回りは、他の部隊員からも聞いている。 あからさまに手を抜く、か弱い演技をするなどという余地が入らないものだったと。 彼の人間性についても同様だ。 クリスの話を聞いた事もあるが、概ね、彼の両親の息子たるに相応しいものであると」

ここでしばらく言葉を切り、「それが何故、ああなったか……」とひとり独白するように、フランクは目線を心持ち上げて、虚空に言葉を飛ばした。

「ご命令があればっ、直ちに」

「フ……。 その気概は買うが、その必要があれば、こんなところに私も留まっていない。 今頃はタイフーンを飛ばして彼に対地ミサイルマーベリックをけしかけていただろう」

張り詰めていた糸が切れたかのように突如、力なく失笑して椅子から腰を上げ、フランクは零れていた薬莢を拾い始める。

「君も前後不覚の心持と見えるが、では今のところ、ディスプレイ越しに鉛玉を直撃させる程度で私の癇癪が収まっている理由を、推察できるかな?」

そうして上官の鷹の眼が大画面に流れるのを見て、先に脳裏によぎった疑問の一つがその答えである事を、マルギッテは閃くのであった。

「……わざと張られたと、中将はお考えですか?」

控えめに鼻を鳴らすのは、肯定の意を示す事をマルギッテは承知していた。

僅かに頭を傾け、故意にお嬢様の平手をその頬に受け止めたと思えたのは、やはり自分の気のせいではなかったようだ。

「前後の彼の並外れた動作を見る限り、彼にとってクリスの一打を見切る事は容易い事だったと思える……が、それをしなかったというのは」

自身でさえ理解不能の衝動を押さえ込めずに、「なにか、この挑発行動には裏があると?」と思わずマルギッテは先回りすると、未だ温い熱を放っているだろう銃弾の名残を片手で弄んでいた上官は、その語気に僅かに目を見開いて考察を続けた。

「無論、根拠はこれだけではない。 ……この戦いは詰まる所「川神百代を巡って」という争いから端を発しているようだが、彼の行為の数々は川神百代を得るには逆効果、それを難化させるものでしかない。 日頃、彼女が自らと対等である男なら是非もないと豪語しているとの報告を信じるなら、大和君を引き合いに出すまでもなく、直接、いわゆるサシで彼女を認めさせるのが最善手。 大和君が気に入らなければその後で、どうとでもすればいい話だ。 そのあたり、彼の中での優先順位が不可解でな。 まあ、恋敵というものは、えてして憎らしく見えるもので、こうなる事も理解はできるのだが、それでも大戦を開く理由、大和君以外の人間にここまで悪感情を沸き起こさせるよう振る舞う理由には窮する。 もしこの振る舞いが内に秘めていた本心からのものであれば、尚の事、クリスに平手を打たせた意味は何だ、という事にもなるのだし……」

マルギッテも、概ね同意見であった。
一歩引いた目線から傍観したせいもあるだろうが、どうも矢車直斗は川神百代よりも、直江大和に執着しているように感じられるのである。

「恋は人を盲目にすると言うが、どう成就させるか少なからず計算を働かせるのも常だ。 その点で言えば、この件の表面下には色恋以外の要素が絡んでいるのではないかとも、疑ってしまうのだよ」

「はい……」

裏を返せば、彼を信じたいというフランクの言葉だった。

彼が現在の役職に着く遥か以前に閨閥結婚によって悲恋を経験した事が、一時、部内で噂となった事がある。
上官の鋭い考察と怒りの自制は、このあたりの経験から来ているのかもしれない……と迂闊にも想像してしまったマルギッテは、下世話な妄想だと瞬時に断じて、自分を戒めるよう、後ろ手に握った掌に爪を食い込ませた。

「それに、彼自身に関しても気になる点が多々出ている。 パーソナルデータを含め、この七年の足跡がいやに不明瞭で、それについてあの九鬼グループも動いていたらしいとの事、それと両親を亡くした際に彼自身は日本にいたようなのだが、まったくの同時に妹も不幸な事故で亡くな―――」

「なッ――?」

その狼狽に「……初耳かね? 彼からてっきり聞いているものかと」と眼鏡を持ち上げ、意外そうにフランクは部下を見る。

「…は……、恥ずかしながら、三日であの国を後にする体たらくでしたので……」

「ふむ。 いや、こちらにも少々含むものがありそうでな。 追って連絡するが……、そうだな。 まずは少尉」

俯けていた佇まいを正して、フランクは部下に正対した。

「どんな事情があろうとも、娘にあのような真似をされて、このまま黙っていられるほど私は寛大な人間ではない。 そこで病み上がりに申し訳ないが、次の公式出動まで、君に特務を任じようと思う」

半ば条件反射でマルギッテが了承の意志を裂帛の声に乗せると、フランクはその内容を通告する。

「この大戦が開かれる理由の全てを詳らかに調査、報告して欲しい。 もしそれが先ほど見た映像通りの、とるにも足らないものだとすれば、それなり以上のペナルティを彼に与えようとは思うが、叶うならば、この任務が私に「武士道」を信じさせてくれる結果となるよう期待している。 ……それから」

そこで一旦言葉を切ると、年輪の刻まれた顔に、黒い真摯な瞳をフランクは光らせた。

「正義とは何なのか、と。 彼に打ちのめされている筈のクリスは考えているかもしれない。 私という父親を恥じている事も然りだ。 ……情けないことに、正直に言うと、これがあのような辛い目にあったクリスの顔を見に行く事ができない理由の大半だよ。 どのツラで、娘の目の前に立てるかという話だ」

表情筋を痙攣させ、お嬢様に限ってそんな事はないと即座に否定をしようとしたマルギッテの言を片手で遮って、ドイツ陸軍中将であり、ひとりの娘の父親でもある男は続けた。

「正義とは、各々の感情に従うものだというのが、私の持論だ。 戦場に正当性など求められない。 階級が上下しようとも軍人の圧倒的多数は自分だけは死にたくないと考えるものだし、人を殺す絶対の正当性というものが確立される事が不可能である時点で、我々が利己的な理由で戦っている事を否定できる筈もなく、むしろ積極的にそれを肯定すべきだ」

言葉を切って、目端を揉んで、それでもと言わんばかりにフランクは続ける。

「だが、だからこそ兵士は、自らが世界を破滅させないよう、その心が「他者に対して善く在り続ける」ように、人生の経験を積んでいかなければならないと、私は思う」

「利己の中に、より多くの利他を形成する精神を養う。 そしてそれを守るために闘う……、いや、これでは、おためごかしだな。  ……守るために、命を奪う覚悟を決めて行動し、そこで初めて正義が成るのだと思う」

汚濁の中に頭まで浸かり、過酷な現実と渡り合うために信条を切り売りしてきた者が、己の尊厳を守るために最後の一線で踏み止まろうとする姿だった。

「クリスを日本に滞在させているのは、異国の地で逞しく、先に言った精神を育てて欲しいという願いからだ。 最も求道的存在たる大和国の古の戦士の心を、理解して欲しいがためだ。 だから、武芸で名高い川神院ゆかりの、あの学園に編入させた」

熱を帯びた男の瞳孔は、自分の姿を捉えて離さない。

「少尉、頼む……。 クリスを支えてやってくれ」

腰を折る、日本式の懇願。

マルギッテは鈍りに鈍っていた自らの四肢に、血が注ぎ込まれ巡ってゆくのを感受した。

















<手には鈍ら-Namakura- 第三十四話:森羅>

















「お前、自分が何を言っているのか、わかっているのか?」

一口、ダージリンを啜り終えると、開口一番に険のある声が返ってきた。

七浜の奥まった高級住宅街、青々とした生垣が花々の色彩を引き立てる庭園に広々としたロータリーを備えたお屋敷。

その中の一室。

人払いが為された応接間にて、中央に位置する格調高い長テーブルの両端で向かい合い、俺はこの館の主、久遠寺森羅と対峙していた。

百代の美貌にクリスの気性を合わせたような彼女は、見るものに畏怖を感じさせる凛とした気品を漂わせ、厳しい目で俺を捉え続ける。

その視線から逃げず退かず、俺は「承知しています」と慇懃に回答を送る。

「……簡単に言ってくれるな」

不機嫌そのものの顔つきというほどではないにしろ、決して愉快そうではない表情で久遠寺の当主は続ける。

「久しぶりに来たと思えば、山を貸せとはな……」



川神学園が敵に回る。

そうなるよう仕向け、当たり前にわかっていた事だが、だからといって攻略の難易が変わる筈もない。

情報戦とやらは、もう始まっているのだろう。 

恐らくは今頃、せっせと学園の裏サイトなんぞに俺が援軍を頼んだだの何だの適当な事を書き込み、カチカチカチカチ携帯の上で親指を動かし、敵意悪意を束ね集わせ、着々と勝利への包囲網を構築している最中か。

想像すれば、ひどく滑稽な話だ。

そんなものに関わるつもりはない俺からすれば、大和側の勝手な一人相撲である。

はなから独力で全員の相手をする覚悟を為している俺にとって、必要なのは事前の対外折衝や兵站戦略ではなく、本当に水際の、対多一撃必殺的迎撃戦術であった。

自他共に戦闘力は蚊トンボ並みと認める敵大将はともかく、その周りを固めるは武道四天王二人組に天下五弓が一人、集団戦術に秀でるだろう軍門の騎士、次いで先述した面々と比べ地力は劣るが川神院内弟子には違いない薙刀使い、スピードスターにマッスルガイ、アウトローデビル等々、思いつく限りでもそうそうたる顔ぶれ千二百人。 そしてこれに外様の助っ人が数十加わる。

F組と不倶戴天の仲であるS組A組の連中は高みの見物を決め込むと思われるが、まあ、大和の手腕次第ではどうなる事かわかったものではない。

焦りはある。

現状の俺の実力は、百代はおろか由紀江にも及ばないだろう。 ルーや釈迦堂にも、恐らくは。

解呪によって身体感覚、操体能力が格段に向上したとはいえ、全ての天分を取り戻したわけではない。 これからの修練で幾らかは思い出していくのかもしれないが、感覚と記憶と照らし合わせ、自覚はできている。 もう復元できない才があるのだという事を。

もっとも全てを取り戻したところで、この七年の停滞がなかったものにはなるまいが。

……無いものねだりをしてもしょうがない、話を戻そう。

それらの事実を鑑みて尚、先に挙げた戦力を相手取り打倒するため、俺と釈迦堂が共通して得るべきとしたのは、地の利だった。 

この一ヶ月で自らの心身を川神大戦そのものに同期、最適化するのである。

丹沢限定環境利用闘法の会得、といえば大層なものに聞こえるが、言ってみれば、戦況を想定し慣れる事だ。

それに加え、世界最強に勝つのに世界最強になる必要はないという事。
ジョーカーにはスペードの3、というように「技法」は必ず存在する。 武術とは、そのための弱者の闘技に他ならない。

その戦闘術の下地となるべくの、地の利、なのだ。

そして川神大戦の舞台は、霊験あらたか、川神初代の聖地として院内では知られる丹沢の山間深部。

季節は残暑厳しい晩夏。 加えて地形は、東西の山を分かつよう南北に渡って中央河川が流れている。

無意識に涼を取ろうとする生き物の傾向から、主戦場は碁盤上における天元の位置、スペースもある中央河原となると予想され、とりあえずはその一帯における基本戦術を構築する必要がある。 

だが、公平公正な勝負とするために、当日までは実際の戦地への立ち入りが許されない事を知ったのが、つい先日のこと。



そして、よく似た地形を持つ北隣が久遠寺家の所有地である事を知ったのも、つい先日のこと。





「で、借りる理由も言えないと」

淡々とした口調で、またティーカップに一口。

「……一応、レンはともかく、ベニにも教えてない私の秘密だったわけだが、そのへんは大佐からか?」

その精悍な風貌から「大佐」と称される忠実な老執事の名を出すと、溜息混じりにやれやれといった風情で肩を竦められた。

「相談に乗っていただいたのは事実ですが、失礼ながら、俺がしつこく聞き質した結果です」

「では、私が何のために方々の山を買い取っているか、聞いていないわけはあるまい?」


七浜フィルハーモニー楽団専任指揮者、久遠寺森羅。

非業の死を遂げた天才音楽家、久遠寺万象の長女にして、ロシアの巨匠、ミハエル・プルシェンコに師事。
国内最年少で興行交響楽団の指揮を任された実力もさることながら、その美貌から、出版する写真集も軒並み増刷必至。
芸術の表現能力というものはある種の共通性を秘めているのだろうか、海外留学時のエッセイもついにはベストセラー入り。
最近ではアニメーションや劇場映画の主題歌、劇中曲の作曲にも力が入り、昨年度はレコ大作曲賞、審査員特別賞をダブル受賞。

そんな、芸能人高額納税者ランキングの十指には間違いなく入るだろう彼女が、島や山地などの不動産を購入する理由は、地価上昇予測による利潤獲得や税金対策などという卑しいものでは決してなかった。


「ただの自然保護……。 まあ自己満足といえばそれまでで、私ほどの力でも焼け石に水である事に変わりはない。 が、私は心から、ありのままの緑を守りたいと思っている」

この人は昔から、花鳥風月に対する感性が並外れていた。

外に出るたびに見られた、その時々の気候季節を愛でる視線と仕草が印象に残っている。

「夜が明ければ木々に朝露の玉が飾られ、真昼には野花と蝶の鮮やかな色彩が風とともに揺れ、夕暮れになれば一斉に鳥達が陽に向かって飛び立っていき、夜には月光が川面の魚飛沫に降りかかる」

夢見心地で語られる幻想の景色が、俺を包む。

「そういう光景はな、直斗、人間が生まれるずっと昔から繰り返されてきた原始からの営み、それこそ原風景なんだ。 だから、人間がおかしな事をしないように守ると、私はそれなりに気張っている。 ……まあ、その自然を柵で囲って、人間の開発がおかしな事かどうか、私という人間が判断しているという矛盾はある。 開発そのものが自然であるという話もある。 エゴなんだろうなぁ、これも」

前にあるのは自己の正しさを否定せず肯定もしない、真の賢さを持った大人の姿だった。

「だが、エゴだからこそ、自分の本心から来る望みだからこそ、この気持ちは強い。 ……約束できるか?」

足を組み直し、彼女は確かめるような目を、穏やかな微笑とともに俺に向けてきた。

「その場所の環境に、敬意を払い、決して汚さないと―――」






「できません」

そして不可の言葉で目前の表情を切り裂いた。





完璧な保全など出来る筈がない。

どんなに注意深くしても、人の手が入る限り、ヒエラルキーは脅かされる。

だいたいにして一ヶ月、あのアウトロー共と閉じ込められるのだ。 荒らされるは必定の事。

むろん、無用な損壊殺生は極力しないよう気をつけ、他の動向にも目を光らせるつもりではある。

が、結局それこそ焼け石に水。

それを踏まえて貸せと言うのだ。 迷惑千番な話だと思う。

だが、だとしても言葉を濁して誤魔化さない。 

事後報告なんて糞だ。

それは最も忌避すべき、不敬千番な行為だ。

「……そうか」

やはり、どことなくむつくれてそう言うと、すくっと立ち上がった。

当然の反応である。

人類最大、その称号を川神本家から譲渡された「現代最強」、橘平蔵氏
時の内閣総理大臣、名実ともに天下に名を轟かした狙撃の名手、麻王太郎氏
才能発掘人材育成の鬼才、西の名門学園「天神館」設立者にして学長、鍋島正氏

彼らと並ぶ川神の高弟であり、久遠寺では唯一事情を心得ている老執事、田尻耕氏とは幾らかは面会していたが、縁浅からぬとはいえ、彼女とは七年間の音信不通から数ヶ月前に再会したばかり。

これは縁故を頼った、図々しく厚かましい願いに他ならないのだった。 

電話で断られなかっただけ、御の字というところだ。

「……少し考る。 今晩は泊まって行け。 部屋は用意させておく。 明日には結論を出そう」

しょうがないなという溜息をついて、再び柔らかく笑い、しかしこちらの発言を封じるように言うと森羅は応接間を辞そうとする。

彼女の言葉に俺が慌てて反応し、そうやって丁度席を立った瞬間だった。








「うわわわわわッ」
「うおおおおおッ」






ミシリと軋んだ音と、バキンと折れた音はほぼ同時だった。

廊下と唯一繋がる締め切っていた観音開きの扉が、明らかに正しい使用方向ではないと思われる開き方をなす。

古今東西、向かって縦から倒れこんでくるタイプの戸は、無くは無いだろうが非常に珍しい部類だろう。

次いで真横のフローリングを揺るがした暴力的な打撃音に、目を閉じる。


「……お前達」


片手は腰に当て、もう片方は顰めた表情の皺をどうにか元に戻そうとするかのごとく眉間に当てて、森羅お嬢様は呆れたように呻いた。

蝶番が引き伸びて痛々しく引きちぎられ、接地したドアにへばりつくのは、「ア、アハハハ……」と、への字に形のいい眉を変形させた薄桃色の髪をたなびかす今をときめく女子大生に、「す、すみませっ……」と、蛇に睨まれる蛙の如く萎縮しつつも、瞬時に正座した当主専属の若執事のお二方である。

正直気配は察知していたが、それを黙していた理由は、俺としては特別秘匿するような会話会談でなかったというのが、ひとつ。

人払いという気を回した森羅の立場を尊重したかったというのが、もうひとつ。

「ごめん、その……、どうしても気になっちゃって」

個人的に、ここ七年で一番変化成長があったと感じられた久遠寺家の三女、久遠寺夢の弁である。
一方は音楽家、もう一方は実業家兼発明家として輝かしい人生を着実に歩んでいる二人の姉と自身をどうしても比べてしまい、自分の没個性を嘆いているらしい彼女だが、無理に自分を作らなくても十分な見目カタチである。

こういうドジを踏む素の部分が、彼女の誰にも真似できない可愛らしい所でもある。

「構いませんよ、夢お嬢様。 別段、隠すような事を話していたわけではありませ、…………あぁ、いや」

森羅の追及から避難させるために咄嗟に出た言葉ではあったが、山林所有の件は密事であったなと思い当たる。

気まずく森羅の顔を振り返った。

「ああもう、まったく……。 いいさ、直斗。 レンは知っているし、私としてもいずれは皆に話そうと思っていたものだ。 とんだフライングだがな」

仕方なしの森羅の溜息に、夢が慌てたようにフォローを入れる。

「で、でもシンお姉ちゃん凄いよ。 あんなに稼いでたら私なんか漫画とかゲームとかにつぎ込んじゃう自信アリアリだもん」

「……ふふ、お前にとっての娯楽がそうであるように、私にとっての娯楽が自然保護だったというだけの事だよ。 夢」

「あ、あぅ~。 なんかもう器が違いすぎてヘコむー」

「あーあー。 ま、そんな事よりだ、夢。 さっさとその膝の下に敷いているものを片付けてしまおうか」

「あっ! そ、そうだ、ごめんなさい」

「いいさ、悪気はなかっただろうし、だが……レン?」

「は、はいぃ」

「人払いで立ってたお前がどうして夢と一緒に盗み聞きしていたのか、ぜひともその海より深く山よりも高いだろう理由を知りたいところだな?」

「申し開きもございませんッ」

主曰く調教済みらしい、久遠寺森羅専属の世話役、上杉錬は活力溢れる声で頭を下げた。

ただ、彼に関しては仕方のない部分があると思う。 これからの、彼の立ち位置から考えれば。

「仕置きは後として、直斗の前でクオンジティータイムを発動させたくなければ、速やかに失点を取り戻せ。 いいな?」

それに応えて「はいッ!!」と弾かれたように立ち上がると、彼は脇によけ俺に一礼し、慎重に倒れた戸を夢お嬢様とともに引き上げ、廊下へとせかせかと出て行った。

説教の声を荒げないところから、俺が思っていた事は当然ながら森羅の方も理解しているようだ。 彼をフォローする必要はないだろう。

「すまんな、騒がしくて。 住人の元気と仲が良いのはウチの自慢ではあるんだが……、他に何かあれば、相談に乗るぞ?」

嘆息の後の苦笑、しかし破顔には違いない表情が、眩しかった。

「俺に気遣いは無用です。 っと、そうですね。 あと一言、申し上げなければならない事が、……森羅お嬢様」

「ふふ、どうした? また改まって。 ああ、それと、私もそろそろお嬢様と呼ばれるには恥ずかしい年頃だ。 一応、私は当主だぞ?」

困ったように、くすぐったそうに言って髪留めを揺らす彼女の挙措に何時かの懐かしみを覚えて癒され、しかし、別れるわけでもないのに切なさに似た感情が喚起される。

以前にはなかった温かく柔らかい……、大人びた心の余裕、とでも言うのだろうか。 

大佐――、田尻さん曰く、先の若執事によって成されたというそれを垣間見ているせいなのだろう。

親父達や久遠寺夫妻が健在だったあの頃、緑が青く茂る庭先で五人でじゃれ合ったあの頃は過去でしかなく、もう二度とやって来ないのだなと、実感させられているようだった。

今でも昨日のように思い出せる、全員が等しく無垢だった時代。

七年の停滞があったからこそ、そして、もはや取り返しがつかないからこそ、それは年を経るごとに鮮烈さを増していく。

……だが、彼ならばきっと、あの不器用ながらも実直な青年ならばきっと、久遠寺を護ってくれる――、という祈りというより確信に近い感傷が、今現在の俺の胸を満たしてもいた。






「御婚約、おめでとうございます」
























午前二時。



部屋の隅に備え付けられた浴室から響くシャワーの水音が、嫌に大きく木霊する。

一人で寝るには広すぎる寝台の上で、上杉錬は窓から天井へと入射する月光をぼんやりと眺めていた。

月光の筋が見えるのは空中に塵や埃がそれなりに浮いているという証左で、屋敷の雑事を司る執事としては喜べない話ではあるのだが、先ほどまでの行為を振り返れば仕方ないと、一笑できる神経からして、俺は執事としての一線を完全に越えてしまっているのだろうなと自覚する。

まあ、「森羅様の世話」というものの半分近くは一線を越えざるを得ないようなものだから、こうなるのは仕方ない。 

そうだとも。 

仕方ない。 ……異論は認めるが、爆発はしない。




家出同然の境遇から、愛する姉と共にこの屋敷に拾い上げられて、もう二年以上。

この間の自らの人生に起こった激動は、森羅が言うとおり「人生わからん」で形容されうるものだった。

父親の暴力からほうほうのていで逃げ出してきたと思えば、いまや自分は、日本の至宝とも名高い麗人の夜伽相手→恋人→夫(予定)と順調にランクアップし、コトが終わった気だるさをキングサイズのベッドに任せる身分である。

何の不満があろうかと、世の男の大半は俺を糾弾するだろう。

だが事実、俺の胸には小さなしこりができているのだった。


「やっぱり、なんか違ぇよ……」


たまらず、ひとりごちる。

言わずもがな、我が主のことである。

常と変わらないと、同じく森羅付のメイドたるベニ公は、従者会議にてさり気なく訊いた俺の言葉を一蹴したが、やはり俺にはそうは思えない。

塞ぎこんでいるというわけではないが、数時間前の晩酌の間にかけては、鬱と空元気がちぐはぐに合わさったような妙なテンションで、いつもより酒量も三割増し。

彼女にとっては一層力の入ることだろう、地元で行われるサマーチャリティーコンサートが目前に控えている事もあり、俺としても最低限の分別はある。

すぐ隣で寝るとしても、今夜はいわゆる「閨を共にする」つもりは欠片もなかったのだが、何かからせっつかれるように自身を求められれば、応えるしかないのが俺の立場で。

やりきれない想いのまま愛する人を抱くというのは、こんなにも空しいものなのだと初めて感じ入った。

冷水が歯に沁みる時のような、ヒリリとした痛みが心臓にある。 周囲をじんわりと腫れ上がらせ、熱を持っているような痛みが。

日常茶飯事である入浴時の世話を断られてから、今、はっきりと自覚するようになった。

……彼女がああなっている原因といえば、想像は容易いのだが、それを認めたら、なんだかこれまで積み上げてきた全てが崩れ落ちてしまいそうで、結局、当の森羅には何も声をかけられずにいるのだった。

だが、明らかに調子をおかしくしている彼女をこのまま放っておける筈もなく――

「……レン」

鬱屈とした堂々巡りの思索から我に帰り、天井から目を下ろすと、しとどと濡れた髪をそのままに、湯気がもうもうと沸く浴室の前で、タオルやバスローブを巻きつけもせず佇立する主の姿があった。

「お待ちを」

すぐに起き上がり、準備していた純白のローブと、洗濯時にほどよく柔軟剤に揉ませたタオルを手に、彼女の傍に寄る。 

タオルを受け渡し、十分に体を拭いてもらってローブを羽織らせてやる。

「ありがとう」

礼の言葉を呟かれたが、しかし、むしろここからが世話役の仕事の本分である。

楕円に縁取られた鏡台の前に、いつものように座ってもらう。

入浴後の髪の乾かし方次第で翌朝のスタイリングが決まる。 よって、乾かす時の第一段階となる拭き方はとても重要なポイントだ。

ハンドタオルを形の良い頭頂部にかぶせ、上から両手で頭をつかんで、優しく円を描きながらマッサージし、次いで髪を両側から挟むような形で水気を吸わせる。

動物を撫でるように柔らかく、水分をタオルに移すようなイメージがコツだ。

それが終わり、少量のトリートメントを手に取り薄く両手に延ばしたところで、しばらくの沈黙が破られ、「……なあ、レン」と呼びかけられた。

思わず髪に下ろそうとした手を止め、鏡面越しに聞き返そうとした時である。



「恋人の腕の中で他の男を想う女は、花嫁失格かな」



何気なしに放られた言葉に、思考が停止した。 

臍の奥が軋み締め付けられる感覚が俺を襲い、不意に胸に飛び込んだ衝撃が、それに追い討ちをかけた。

















ついほろりと内心を言葉にした直後、自分のした残酷な仕打ちに強烈な罪悪を覚えて、気づいた時には椅子を蹴飛ばし振り返って、レンに抱きついている自分がいた。

「……しん、ら?」

「すまん――」

「い、いえ……」

「まず、前提として宣言しておく。 私は、お前を愛している。 好きだ。 この世で一番、な?」

顔を相手の胸にうずめたまま、自分の気持ちを確かめるように言った。 くぐもった自分の声を他人のもののように聴いた。

頭は、とても上げられなかった。 

「一月前、お前からプロポーズされた時、本当に嬉しかった。 本当に。 あと半年近く先のことなのに、式が待ちきれない自分がいる」

これは紛れもない本心だ。

「私はな。 今、これ以上にないほど、幸せなんだと思う。 父母はもう亡いが、代わりに大佐がいる。 可愛い妹達がいて、賑やかな従者が付いている。 七フィルの楽団員も気の良い奴ばかりだ。 そして、きわめつけはお前だ、レン……」

「……はい」

底意を見せない、こちらを慮った穏やかな返答に胸が温まる。 

より一層、強くなった抱擁の気配が伝わる。

ああ、やはり私はこの男から愛され、この男を愛しているのだ。

だが、その幸福を自覚した分、背に重くのしかかってくる感情があって、続く言葉をどもらせた。

「だけど……そ、そう思うとな、 あいつは、どうなのかと、 直斗は、どんな気持ちで、今を生きてるんだろうって、幸せなのかって、私はッ――」

祝いの言葉を投げかけられた直後から、表面張力もぎりぎりで押し留めていたものが、喉から溢れ出してきた。








たぶん、初恋、だったのかもしれない。

幼少期は五線紙に没頭するばかりの毎日で、友達付き合いというものはあるにはあったが、あくまでも「それなり」のレベルで、同年代の異性と交流を持つ事は窮めて稀であり、そういう背景からか、親同士の付き合いで顔を合わせたときから、ずいぶんと彼の妹よりは意識していたと思う。

本格的な留学は親の死に目に立ち会ってからだが、その前にも両親に付き従い、観光半分勉強半分の要領で幾度も欧州に渡っていて、その際には欠かさず矢車家を訪れていた。

年下のあいつは、格好の玩具だった。 物凄く思い切り、いじめてやったと思う。

何かと理由をつけて蹴り倒したあいつの背に腰掛けて、抵抗しないのをいい事に、コロコロ笑い転げる妹を尻目に何度も茶をしばいた筈だった。  クオンジティータイムの起源はここからである。

あいつが日本にしばらく留まる事を聞いたときはもう、動悸が止まらなくなり、オタマジャクシの羅列になかなか手がつけられなくなったほどだ。

何を言うにも、何を願っても、彼はいつも断らず、期待に応えようとした。

私のほうが年上だったとか、親の立場的にそうし続けざるをえなかったとか、私がとても可愛らしい上に性格が良くて振り払うには相当の自制心が要される美少女だったとか。

たぶん、彼の振る舞いはそれらの事とは関係なく(後半はどうか知らないが)、彼自身の本性の表れだったのだと思う。

あれほどの我侭に彼が付き従っていた当時を思い出すと、自然とそう思えるほど、彼は純粋で親身だった。

武術の心得があるとのことだったが、私と接する時にはその片鱗すら見せず、まして私のいたずらへの制止に腕力を用いることなど全くなかった。

人を気遣い想うという一点において、彼ほど敏感な男に、以降、出会ったことはない。

全力で誰彼とも真摯に向き合うあの姿勢を、いつまでも「男があるべき姿」だと印象深く胸の奥に残していたから、私はレンに心を奪われたのかもしれない。

……無論、レンにはレンの、直斗が及ぶべくも無い良いところが沢山ある。 

隠したい過去に、親への恐怖という呪縛に、最後には真っ向から挑んで闘った数年前のレンは、それまで見た誰よりも凛々しく雄々しかった。

だから、私は一生のパートナーとして受け入れたのだ。 むしろ、そうあるようにこちらから願ってもいた。

思い出補正も、直斗のほうには多くかかっているだろう。 

過去を美化できる。 それが人間の悪しき特権だという事は理解しているつもりだ。



だが、それでも、消えない記憶というものはある。









唐突に、別れは訪れた。

というより、語弊があるかもしれない言い方をすると、別れというものはなかった。 

一度、この館に遊びに来て以来、彼は忽然と消えたのだ。

あの爆破テロ。

いつかの秋の早朝にその知らせを聞いて、嫌な予感がした。

背中で黒い液体が這い回っているような、そんな感覚が自らを襲い、テレビを呆然と眺める妹達を尻目に、一も二もなく父母に噛みつかんばかりの勢いで事態の説明を求めた。

彼の両親が件の国の、件の都市を訪れていた事を、彼から直接耳にしていたからだった。

大佐から巻き込まれた可能性が窮めて高いという絶望的な観測がもたらされると、いてもたってもいられず、それは蒼白した表情を隠せずにいた両親も同じだったようで、怒涛の勢いで流れ込んでくる情報の錯綜氾濫に追い立てられるように、私たちは川神へ飛んでいった。

まだ寝巻き姿の妹達もついてきたがったが、着替えを待つ時間を構えられるほど誰の心にも余裕はなく、彼女らと従者に留守を任せ、大佐と両親と私の四人で隣町へとロールスロイスを走らせた。

何もわからず、考えられず、ただあの兄妹を孤独にしてはいけないという想いが、道中、誰の胸にも滞留していた。

アスファルトを切りつけたタイヤの擦音を慌ただしく響かせ降り立った一軒家には、こちらから何度も電話して、いつまでたってもコール音が鳴り止まなかったから予想できた事だったが、出窓から覗くカーテンは締め切られ、人の気配はなかった。

それでも直斗くん真守ちゃんと父母が何度も呼びかけるのを聴きながら、押し潰されそうな胸を抱いて私も矢車邸の門をくぐった。

築十年前後と見えるその家は、中流の上あるいは上流の下といったクラスの家々が並ぶ一帯では、特に目立つところもない二階建ての家屋だった。

門扉と家屋の間にある前庭の潅木の茂みから、決して照明が必要なほど暗くはない午前七時半の朝露に、LED電球の目映い光が反射していた。

玄関の鍵はかかっておらず、庭の外灯のみならずリビングの明かりも灯されたままで、音量が絞られていたとはいえテレビも点けっぱなしのまま放置され、その空々しいぼそぼそとした音が、かえって不気味さを演出していた。

そういうものが積み重なって起こされた不規則な動悸に、息苦しさが募り続けた結果が、人生最大の不覚を生んだ。

これが彼との再会に七年もの月日を擁する事になった原因である。




最後に覚えているのは、瞬き震える画面の中の、鬼の形相で街路をひた駆ける灰塗れの男の姿。

会うたびにいつも妻の尻に敷かれている印象を受けた、コミカルで優しい、私にとっては親戚同然の人物。

今にも崩れる事がもはや定められてしまった塔に向かう、彼らの父親の後背を、私は見てしまった。

呼吸が凍った。

それは一瞬の事に過ぎなかったが、心中にて、さながら絶壁の淵に立たされていた私をその谷底へと落とすのに十分な衝撃であった。




だめだっ、と最後に叫んだと思う。

しかしそれは届くはずのない願いだった。

もうその映像は何時間も前のもので、ここから何千キロも離れた遥か海の向こうの岸辺を映したものだったのだから。




そうして床に体を投げ出し意識を手放し、後になって屋敷で再度それを取り戻したときには、全てが遅かった。


―――しばらく、会えなくなりましょう。

それが直斗の消息を掴んだ大佐の、第一声だった。 

それも、唐突も過ぎる矢車真守の訃報を携えての事だった。




















あの後、どこだかに保護された彼と大佐は面会したらしい。

わけがわからなかった。

わけがわからないなりに、わけを問えば、話せないと返された。

断片的に受け取ったひとうひとつの情報。
瞬間的に湧き起ったひとつひとつの感情。

そのどれもが大き過ぎ、失ったものがあまりに大切に過ぎ、それを認められないまま頭の中が飽和し続けた。

とりあえずの現実逃避に、私室にひきこもり、ひたすらに譜面を貪ったのをぼんやりと覚えてはいる。

ミューや夢が大声を上げて泣いている声が響いてきたが、それにつられることもなかったと思う。

……いや、もしかしたら、本当は泣いていたのかもしれない。 自分でもよくわからない。

酷い事故にあった人は、その前後の記憶を忘れる事があるのだという。

事故の瞬間はもちろん、そこに至る記憶もなくして気が付いたら病院にいるというあれだ。

人間の頭にリミッターのようなものがあって、耐え難い恐怖、衝撃、痛撃の記憶をオミットする機構が備わっているのなら、あの頃の私はまさにそれを作動させていたに違いない。

あの後の、直斗に会わせろという幾度もの懇願も、久遠寺で執り行ったはずの真守の通夜も、たしかに経験した筈なのに、どうしても思い出せないのだ。

―――あやつは今、闘っておるのです。

かろうじて思い出の空白の中に差し込まれているのは、大佐の血を吐くような肉声の響きだ。

―――何に、と聞かれれば返答に窮してしまうほどに唯一にして数多、矮小にして巨大な、確かに存在するのに掴みどころのない、それは恐ろしいものと対峙しておるのです。 ……私とて、許される事ならお嬢様と引きあわせたいっ 

自身、承服しかねるという憤怒に似た想いを滲ませながら、どこか悲しいと感じさせる声音だった。

―――貴女以外の一体誰に、あやつとまみえる権利がありましょうっ。 真実あやつは今、孤独なのです。 すべてを失くしたのです。 なにゆえ傍に居てはならないのでしょうっ。 なにゆえそこで支えてはいけないのでしょうっ。 たしかに、たしかにあやつは許されない事をしたかもしれないッ、しかしそれはッ……

感情を爆発寸前で押し殺そうとして、しかし全く殺し切れていない大佐の吠えが、歯切れ悪く止まった。

それを不思議に思ってそれまで俯けていた顔を上げて双方の潤んだ眼が合うと、決まりが悪そうに逸らされた。

窓の外に瞳を向け、小さく深呼吸すると、大佐は自分に言い聞かせるように、それでも、と震える言葉を継いだ。


―――それでも独りで乗り越えると、そう申しておりました。


実年齢よりもひとまわり老けこんでしまった風情を醸した大佐の、ふぅっと体中の空気が抜けてしまったような溜息がその会話の終止符となり、私の追及の意欲が急速に薄れた理由になった。























暫時腕に抱かれた後、互いの顔に向き合って会話できるほどに回復すると、共にベットに腰掛けて話を続ける。


「いつか、いつかお前に「鉄骨になりたい」云々とか、むず痒い世迷い言を話した事があったろう?」

「……あの時は、その、出過ぎた真似を」

「いいんだ。 お前の言ったことは事実だった。 あれはお前が正しい。 私が意地になっていただけさ」


その後、レンと出会うまで、張り詰めた弦のように厳しく、孤高に生きてきた。

直斗との別れがそうさせたのか、それとも自らの内に隠されていた性向か。 ……恐らくは両方だろう。

私も乗り越えてやろうと、強くあろうと決心したのはいつからだったか。

短すぎる人生の領収書のような、生者の名残が感じられないひどく小さな真守の骨壷を目の前に置かれた時だったか。 それとも、後に福知山で親がミューを庇って死んだ時だったか。

理屈ではなかった。

そうでも思って生きていかなければ、いつかまた彼と巡りあった時、目を合わせる事すらできなくなるだろうという強迫観念に駆られ、自分を磨きに磨いていった。

万事に耐え、決して折れぬ、一度として曲がらぬ、久遠寺家の柱になろうとしたのだ。

それをみなとみらいの海際から見える工業団地の鉄塔に例えて、まだ使用人として日の浅かったレンにツイート、その結果、互いに気持ちをぶつけ合ったのが今話題に上がった共通の経験である。

今から思えば業腹ものだが、当時のレンに抱いていた感情というのは愛玩動物に向けるそれであって、彼の私をおもんばかったための「否」の返答に、主の秘めた領域に土足で干渉してきたと、飼い犬如きに随分と自分を安く見られていたと見当違いも甚だしく逆上し、解雇一歩手前まで事が進んだというのがそのあらましだ。

「悲嘆や期待からくる重圧をヤスリに変えて、心身を研磨させるのは悪い手段じゃない。 そこには美しい刃を志向して薄く鋭く研ぎ澄ます、刀芸のような物的芸術にも通じるものがある。 だが、剣を人の心に置き換え、それを永久に行う事は、綱渡りが糸渡りになる事に等しい。 研ぎが鈍いと曇りの如き焦りが生まれ、反対に磨き過ぎれば呆気ないほどに折れてしまう。 常に中庸を意識せねばならないから安定はない。 ……人の心にやり直しは効かず、目に見えて客観視できない不確かなものをすり減らしていく事は危険に過ぎると、教えてくれたのはお前だった」

「……そう気づいたのは、森羅様ご自身ですよ」

「褒めてるんだ、そう謙遜するな。 傲慢だったんだ、私は。 ただ、ああして自分を追い詰めていた原因というのは、「直斗はもっと辛い」と、無意識に思い続けてからなんだと思う」


本当の意味で心身の力を抜く時間を取るようになったのは、レンの想いを受け止めてからだ。

呵責がなかったといえば嘘になる。 それまでの自分を否定したくはなかったし、楽になろうとする事は怠惰だという価値観がそうそう捨てきれるわけではない。

ただ、外圧に耐えるだけの無機的な金属柱ではなく、大事なものを包み慈しみ、また逆に慈しまれる大樹のような生き方のほうがよっぽど魅力的で、甲斐あるものだと思え、そう生きてゆく方が、記憶の彼方にあったあいつに再会したとき、より暖かく迎え入れられるような気がしたのだ。

改心して一年が経って、その判断が正しいと実証され、報われたのが数ヶ月前の事。


「雪のような真白に染まった頭には戸惑ったが、変な言い方になるが、やはり、あいつはあいつだった。  最初は随分、浮かれていたなぁ。 酒の席でも抱きついたりもしたか。 ……すまん。 あまり、お前は良い気持ちがしなかったろう?」

先ほどの失態にしたって、根はそこにあるのだろう。

婚約者が自分がよく知らない他の男と二人きりになっているのに平気でいられる筈がない。

「でもな、嬉しかったんだよ、レン。 少なくとも心から笑っている顔が見れたんだ。 真守の件に夢がドジって触れたときすら、陰のある匂いをさせなかった。 ああこいつ、乗り越え終わったのかって思えて……」

「ですが」

「……ああ。 どうやら、全く逆の趣きだったようだ」

さっきまで体にのしかかっていた虚脱感がぶり返してくるようだった。

四月の末に再会してから今日に至るまでになにがあったのか、訊くに訊けないまま、明くる日を迎えようとしている。

今日、否、正確には昨日、この屋敷を訪ねてきたあいつは、私には前と変わらぬように思えたのだが、彼を真っ先に迎えた夢付きのボディーガードの南斗星なとせは、「気配が違う」と番犬のようにしばらくグルグルと警戒し、それをなだめる大佐も彼に眉を顰めた顔を隠さなかった。

神妙な顔つきは電話で聞いた「頼みづらい頼み事」のせいだろうと、私はたかをくくっていたのだが、理由はそれだけではないのだとようやく理解したのが、最後の祝言と共に投げかけられた、切実な双眸を受け止めたときだった。

「苦しそうだった。 ……とても」

まだ、闘っていたのだ。 彼は。

頬を伝う気配を見せた瞳の水滴に気づかれないように、すぐに背を向けて「ありがとう」と照れ隠しのように応えた。

取材を多く受ける身分柄、内心を内面に抑えるのは得意な方だったが、この時ほどその能力を総動員させた事はない。


「なんで、なんで、ああいう奴が、あんな優しい奴が苦悶しなくちゃならないんだろう……」


いつか大佐が口を滑らしたように、七年前、きっと何かをやらかして・・・・・しまったのだろう。

そして、これからも何か辛い事を成し遂げようとするんだろう。 

彼の面前では白を切ったが、川神学園からとっくのとうに連絡は来ていた。 私有地近くで、大戦の名を冠す大喧嘩が花開くと(これの中心に関わっているとは思いもよらなかったが)。

けれど、きっと、それらは彼の責任ではない。

私は確信している。 

彼は、きっと運命にその何かを強いられただけなのだ。

もちろん私は、事情の詳細はおろか概要さえ把握してはいない。 だが、知ったところで何が変わろうか。 

私にとって矢車直斗という人物は、自分よりも他人に・・・・・・・・優しい、善人の典型のような男だった。 我欲を最後まで隠し通し、こちらがそれに気づいたら、それを無言で押し潰すような男だった。


――――絶対に、絶対に悪くないっ、 だから、だから苦しむなっ!


悔しくて、腹立たしくて、涙を零してそう思う。

誰よりも幸せであるべき男なのに。
それに見合うべき代償を、すでに支払い、またさらに捧げようとする意思すら持てるだろう男なのに。

半生の苦しみに見合うだけの喜びを、これでもかこれでもかと押し付けてしまえればいいのにっ―――。

……もとより、山の一つや二つ、島の三つや四つ、それであいつが幸せになるのなら、喜んで差し出してやれる。

景観保護など自己満足だ。 ただの私欲だ。 もっと大きな私欲に潰されるものだ。

「でもそうしたらっ、もっと辛い目にあいつは遭うんじゃないかって……」

あいつはいつも、自分が一番割を食う遣り方を選ぶのだから。

沸き上がった感情に、また歯を食い縛って、目を塞ぎ切って、恋人の、今度は肩に縋りついた。

だが、レンは受け止めるどころか、振り払った。





それに呆気にとられ、傷つく寸前の刹那、両肩をひしと掴まれる。

胴を捻った姿勢で、レンと私は目線を合わせて、正対した。

「今は、助けられるじゃないですか」

そのとき、心臓を射抜かれた心地を覚えた。

「昔とは違うんです。 今は、彼の傍に立つ事ができるし、支える事が出来る」

おまえ、と声を出した瞬間に抱きしめられた。

「勝たせましょうよ、直斗を。 他人の為に戦おうとするのなら、直斗の幸せは、そこにあるんだと思います。 ……俺もつまんない事に拘泥しないで、全力で手伝いますから」

力強い、どんな反論も跳ね返すような声が響いた。

後頭部を撫でつけられながら、そう囁かれて以降、それから言葉はなかった。 

心の通いあった者同士に、それはもう必要の無いものだった。






お前が私に持ってくれたその感情は、決してつまらないものじゃないと、愛する事の裏返しなんだと、肩に額をうずめて、すんと鼻を鳴らして応答し、やっと私はその日を終えた。






ああ、私は幸せ者だ。

いつかお前にも、わたしにとってのレンのような存在ができたなら、その時は―――。

























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明けまして、おめでとうございまじこい。


……ごめんなさい。切り時がなかなか決められなくて、だらだらになってしまいました。

いやあ、S発売まであともう少しなわけで、wktkしまくりです。

二週間前に仙台メロンの合同キャラバン行って来た際に、Sの予約と無印のビジュアルファンブックを購入してきました。
直前のムック本も三日前に買いました。 やべぇ、情報量多くて素直に嬉しいわこれ。特に無印、何故今まで買わなかった畜生……。

次回更新はいつになるか明言できませんが、頑張ります頑張ってます。



大戦までは結構遠い道のりだと地味に感じてきました。 なんとかあと三話くらいで大戦に移行したいなあ……






[25343] 第三十五話:対峙
Name: かぷりこん◆273cf015 ID:177153ba
Date: 2012/01/25 23:34

『最も賢い処世術は社会的因襲を軽蔑しながら、 しかも社会的因襲と矛盾せぬ生活をすることである。』

―――芥川龍之介


















―――なあ、目を、開けてくれないか。



そう祈った瞬間に、奇跡は起きたのだ。

生まれて初めて、神とやらを信じてもいいと思えた人生唯一の場面である。

緩慢な動きで睫毛が揺れ、焦点が定まっていない気配はあったが、それでも、一対の鳶色の宝石が俺に煌めき始める。

ゆっくりと表情が、かたどられていく。

笑顔だった。

無邪気な、見るだけで心が洗われる笑顔だった。

失くしていた大切な宝物をやっとみつけたかような、晴れ晴れとした笑顔だった。



そうして、口元が動いた。












―――――やまとくんっ・・・・・・












散大間際の瞳孔が潤み、一滴分の涙が目の端に留まると、妹の喉の奥から人の名前が紡ぎ出された。

いっそ爽やかなまでの、その歌うような呼びかけが、希望を全て吹き飛ばした。

それが最期に残された矢車真守の心の残滓であり、そこに俺は、いなかったのである。

胸を一度、小さく上下させたのを最後に、真守の体から命の力が消えた。

朗らかな表情のまま、口は窄められたままで、瞳は変わらず「俺以外の誰か」の人影を俺に重ね続けているようだったが、瞳孔が開ききったそれは、なんの光も見出せない闇の凝縮にも見えた。


瞼を、撫でるように閉じてやった。


このときの俺はどんな表情だったろうか。

やはり悲しさに口惜しさに泣いていたのだろうか、それともあまりの馬鹿馬鹿しさに笑っていただろうか。

……馬鹿馬鹿しい?

そうだ。 全く持ってそうだ。

こいつが何をした。 矢車真守が一体、何をしたと言うのだ?

人を信じ、人を愛し、世界に対してまこと真摯であり続けた妹が、どうして?

どう報われることもなく、何でこんな、こんなおぞましく取り返しのつかない事態に派生した? 


何もわからなかった。
真守も答えてくれなかった。


ただ一つ、確かなことは。


―――あいつは、来なかったのだな。


また体を川に浸して、妹だったものを清めていく。

生暖かい水に触覚が慣れ始めた頃、ぎゅうっと握り締められた拳を指一本ずつ解くと、中から色彩の粒が溢れ出してきた。

テグスが千切れるほどに握られていた手芸は、もはや原形を留めていなかった。

それほどまでに辛かったのか悔しかったのかと、水面に浮いては下流に流れていく、ミリ単位の浮き輪の数々をぼんやりと眺めた。

不意に背後で慌ただしく芝が踏まれる気配がした。

ゆっくり首だけで振り返ると、十間ほど離れたところから、和服姿の小柄な老爺が、こちらにぎょろりと目を剥いていた。

目を合わせた瞬間、状況の悲惨さへの混乱からか警戒からか、慄きの気配が薄く飛んできた。

思い出したように吹き始めた風が、耳障りなサイレンの音を運んできた。

突然襲った鳥肌に、全身の細胞という細胞が徐々に乖離するような感覚を覚えながら、陸に上げられた海草の如く、ごわごわに固まった髪の感触を右手に確かめて、妹の体を岸辺に寝かせた。

いまだ少しの温もりを残していた肌の感触が、急速に薄れていく。

それが、結果的に肉親との最後の触れ合いとなった。







ざばり、ざばり。

水飛沫の音を鳴らして水草を掻き分け、再び岸に上がって地を踏んだ。

周囲はどこを向いても闇だったが、何をしなければならないのかは、明らかだった。

妹から最後に吐かれた呟きは、しかし、俺にとって一種の救済でもあったのだ。

もはや果たすべきを果たし、為すべきを為した後の俺の虚無を埋める、確固たる目的意識を根づかせるものだったからである。



捧げねばなるまい、と。

妹の望んだ男を、送り届けねばなるまい、と。

そうして全部済んだら、今度は、俺の名を呼んでくれるだろうか、と。



―――――だが、その使命達成の途上において障害がある事は明らかであった。

立ちはだかる老爺は、俺を逃す事をよしとするような風情ではなかった。 老爺もまた戦士であった。




それから一刻に渡った対峙の中で、再び俺は鬼気を纏い、自身の血肉に備えられた全能総力を解き放つ事になる。

鋼の刃は物言わぬ。

しとどと赤く濡れそぼる枯原に、陽炎が揺らめく。

その立ち尽くす姿はまさしく、無明暗黒剣の体現であったと、老爺は後に語った。
















<手には鈍ら-Namakura- 第三十五話:対峙>


















久遠寺家を訪れてから三日後。

七浜みなとみらいホール前の正面ロータリーに臨むスペースで、俺は忍足あずみに先導されて、かの王と対面を果たした。

ステージが開演してもう三十分は経過したところであり、周囲にはモギリの係ぐらいしか見当たらない。

「……いいのか?」

久方ぶりに再会した硬い表情の九鬼英雄から、とりあえずといったように投げかけられた言葉がこれである。

呼び出したのはお前だろうと苦笑し、俺は初めて素で・・、彼に話しかける。

「森羅お嬢様には申し訳ないが、元々、クラシックやらオペラやらは苦手なんだ。 それよりは単純明快な浪花節の方が好みでさ」

あっけらかん然と言い放った本来の俺の姿に、英雄は何を見ただろうか。

渋みを増した顔からは、何をも察する事はできなかった。

早速感じ始めた居心地の悪さに「すこし、歩くぞ。 人力車は目立つからパスな」とだけ一方的に通告し、俺は向かって右手にある国際橋へと、応答を待たずに足を運び始めた。









修行場の一時借受については何とか寛大な処置を戴いたが、さすがに何の対価もなしというわけにはいかない。

直近の、さる演奏会における一日限りの護衛も、その中の一つであった。

チャリティーと銘打てば聞こえはいいのだが、チケットが格安となる見返りに普段の演奏会よりも来場する客層は広くなり、いわゆる良識が些か欠如した聴衆がくる事もままある事らしい。

――数ヶ月前には演奏中に武装した暴漢が出没してな。 その時は南斗星と、あと客席にいた赤いバンダナの青年が取り押さえてくれたが。

これは田尻氏の言である。

もっとも、そうした事態にも動じず、その立ち回りの最中にBGM代わりとそのまま指揮棒を振るい続けたという森羅の方に辟易としてしまう。 

……さて、そのような経緯から一応は川神院拳法家である俺もボディガード的な役割を担わされ借り出されるという運びになったわけだが、果たしてそれは態の良い建前だったのだろうと今は思わずにはいられない。

もとよりホール側からの警護自体が通常より強化されており、現役の使用人達のチームワークには隙がない。

車から降りて赤絨毯が敷かれたホール内までの道、数十メートルが俺が警護らしい警護をした唯一の場面であり、それは確かに濁流をさかのぼるが如き入場となった。 

黄色い声のみならず様々な、それこそ七色の声が空気を満たし、その中を何閃ものフラッシュが迸る。

ファンとの交流を大事にする森羅の意向で、一般と分かつ柵は両脇にある事にはあるのだが、道は並行する人三人がやっと通過できるほどの細さで、柵が本来の役割を果たす事はありえないのであった。

両側から伸びる手の重なりは、細長い触腕を揺らめかせる刺胞動物を想起させる。

その合間を堂々と歩く彼女の盾となるのが、田尻さんや上杉錬と共に俺に与えられた仕事だった。

ハイタッチくらいはご愛嬌とのことだが、流石に下から怪しからぬアングルで差し込まれる撮影機能付き携帯の類には容赦を挟まず、土竜叩きの要領で撃ち落としていった。

そのような趣きで確かに労働したが、それきりといえばそれきりである。

楽屋内に入ってしまえば、後は田尻さん一人で事足りるらしく、主の帰りの時間まで待機せよとのことで、拍子が抜けるとはこの事だった。

おそらくは俺に気を遣い、気分転換に「私の曲を聴けぇー!」といったところだったのかもしれないと、舞台裏への入場許可証の役割も兼ねる首にぶら下げたプラカードを改めて見て、思い至ったのがその数秒後である。

結局、その心遣いは何故か来ていた顔見知りのメイドとの遭遇、ひいてはその主によって水泡に帰してしまうわけであるのだが。











がらがらと喧しい音が頭上を行きすぎ、大蛇のうねりの如き高架をジェットコースターが正しく二次関数的猛加速で滑り落ちてくる。

プールへと真っ逆さまに着水すると思いきや、ぽかりと開いた穴倉からそのまま地下に潜り、また天高く上っていく。

その向こうにそびえる世界最大級の観覧車、コスモクロック21には、その名の通り、巨大な車輪構造の中央に電光の時計盤が掲げられ、煌びやかなネオンの針は六時半を示し、じわじわと回転している。

エントランスゲートに掲げられた「コスモワールド七浜」の文字を視界に入れた俺は、気後れするほど明るい園内に向かい、三人きりの大名行列の先導となって尚も歩く。

エスカレーターを上り、ワンダーアミューズゾーンへ。

お化け屋敷やら宝探しやらのアトラクションを横切り、親子連れ、カップル、近在の高校生でごった返すゲームフロアに達した。

クレーンゲームの前で母親にぐずる子供の声が響いたと思えば、




「ヒャッハー、またウチの勝ちだ!! ほら、さっさと賭金寄こせよっ、と……へへ、やっぱ遠出した甲斐があったぜ。 音ゲー関連は記録塗り替え放題だしなぁ~♪」




見知った、否、聞き知ったご機嫌な声が耳朶を打ったが、すぐにそれはけたたましいメダルゲームの電子音に掻き消える。

頭がチカチカするような周囲の喧騒に加え、これ以上にうるさい奴に構うのは状況が許さないと思い、気づかれないよう退散した。 もとより目的地はこの奥だ。

自動券売機で三人分の単発チケットを買うと、目で行く先を示す。 

「高いとこ、大丈夫かよ?」

相手が以前遭遇した、現在もトラウマとなっているであろう事件の現場を思い出して放った疑問だったが「あ、ああ……」と恐らくは肯定の意の生返事が返ってきた。

横を見れば、怪訝半分、我が主を見くびるなとの憤り半分の顔をした従者がいた。 彼女には気遣い無用だろう。

休日の筈だが想像よりも観覧車の行列は混みが緩かった。 夜景の映える、もう少し日が暮れてからが盛況する頃なのだろう。

鉄網の階段に足を掛け始めてすぐに、順番が回ってきた。

淡々とした流れ作業に徹する係員でも、さすがに一瞬は目を惹かれざるをえない客だったようだ。

金ぴかのフォーマルにメイド服、俺にしたって今日は久遠寺家使用人仕様の襟付きを着ている。

しかしその注目も一瞬の事で、「いってらっしゃいませ」との機械的な声に送り出され、俺達は十五分の空中遊覧の旅に出発したのだった。

鈴なりのゴンドラの中には二つ、全面ガラス張りという誰が喜ぶのか知れぬスリリングな揺り篭が存在したようだったが、幸運にもそれを引き当てる事はなく、乗ったのは夕焼け色のゴンドラだった。

羞恥プレイ仕様ほどではないにしろ、ガラス面が広く、空調も行き届いている。 向かい合って三人ずつ、合計六人が優に収容できる広さだ。

子供の頃、山を上り下りするロープウェイという似たようなものには乗った記憶がおぼろげにあるが、こんなものだったろうか?

ふと考えてから、引き連れた二人と向かい合うような形で腰を下ろした。

「悪ぃな、手間かけて。 あんまし他人に聴かれていい話、しにきたわけじゃねぇだろ?」

「……」

開口、出し抜けに謝った俺に、英雄はどうにかといった感じで頷いて応える。 瞬きが多い。

「何をそうびくついてんだか……って言いたいとこだが無理もない、よな?」と、静池に小石を投げ入れるようにまた続ける。

だが、臆しているように見えても、彼はあくまで迂遠な表現を弄す人となりではなかった。

「……何が、あった」

そう。 

その単刀直入の問いかけの答えが、全ての根幹を成しているのだろうと推理しているからこそ、彼は躊躇っている。 

そうして躊躇いながらも、訊かずにはいられなかったのだろう。

そこには、目の前の人間を真摯に理解しようとする意志が根底にあり、たとえ、それが到底受け止めきれないものであっても、それでもなお受け止めようとする、進んで辛苦を分かち合おうとする、他の何ものでもない人間だけが持ちうる尊さがある。

不意に顔を上げた英雄と目を合わせられたのは二秒にも満たない間だった。

覚悟を決めた、そう言わんばかりの瞳中の光に、親父達が残した偉大な何かが垣間見え、今の俺はなんなのだろうと、後ろめたくなったからだ。


――――お前のせいじゃないからな。


一つ嘆息を挟んで、親がどうの、という英雄が持ちうる懸案を真っ先に否定して。

俺は、あらましをとうとうと語った。


こいつには語らざるをえなくなると、もとよりわかってもいた。





















同時刻。

とある廃ビルの、屋上に繋がる階段に、直江大和は座り込んでいた。


「……で、どうだった、キャップ?」

打ち合わせた時間に着信が入ると、開口一番、大和は訊いた。

(おう、バッチリだッ。 クリス風に言えば『悪漢退治』の依頼。 上食券二百枚で落としてきた)

現場を聞けば、予想通りの場所である。

「一人あたま二十二枚か。 今回随分と高値でいけたな……。 競る相手、少なかったのか?」

(ああ。 骨法部のほうは部長が生徒会で忙しくて、あとハゲが一瞬来たんだが、なーんか仲良し組で七浜のコンサート聴いてくるっつってフケちまった。 ……あれだ、九鬼の慰めとか気晴らしに、らしいぞ?)

「……ふうん。 いや、それでも流石だキャップ。 河川敷の治安維持なんて、珍しいもんじゃねえのに」

(だろ? 期待には応えるぜ。 ま、もともとの条件が破格っちゃ破格だったんだが)

ガキの時分、件の場所は不審者変質者の出没がよく言われていたところだった。

高校入学前までは久しく訊いていなかったが、このところはまたぶり返して「住所不定無職狩り」やらが流行ってきたのだ。 

ヒゲの情報では、なんでも堀之外の輩が扇動してるらしい。

(でもいいのか大和。 本当に)

「ん?」

(いやほら、このところまゆっちとかクリスとか微妙っつーかよ……。 ワン子だって、ありゃ空元気だってくらい俺にもわかる。 大戦のことで忙しくもなるし、このタイミングで依頼遂行ってのは)

リーダーの懸念はもっともだったが、こちらにも相応の理由はある。

「だから、だよ。 ……同じ敵、同じ目標に向けて、一致団結しましょうってやつだ。 早いところ手ぇ打っとかないと、喧嘩の芽になりかねないしさ。 このところ、ほんと妙なことばっかだったし」

どうやら想像以上の好意を風間ファミリーの、比較的純真なメンツから直斗は勝ち得ていたようであり、その信頼の高さが、そのまま失意による心の落下高度に上乗せされたようである。

一応、直斗と徹底抗戦で対決するという自分の姿勢にファミリー全員の賛同を取り付けられたとはいえ、はいどうぞと割り切れないのは確かだった。

ワン子やまゆっちも結局はキャップの「友達が道を踏み外しそうになったら、止めてやるのが正しいだろうが」という実に熱い言葉で頷いてはくれたが、クリスの反応は本来の彼女らしくなく微妙に薄く。

それが尾を引いて、当日に思い通りの用兵ができなくなったりすることもあるだろう。

ここはやはり、ファミリーの心を何か他の事の為に、一度、結集すべきなのだ。

直斗とは違って名も知らぬ、しかし明らかな外道に対して危機感正義感を鼓舞し共有する事が一番効果的で、更なる結束への早道だと大和は計算していた。

そして、そのタイミングは今しかない。 

あと一週間もすれば大戦の準備は本格化するし、夏休みは夏休みで沖縄旅行を筆頭とするファミリーの行事や外様の助っ人の調整も入る。

ウチの女性陣は人を殴るのが一番のストレス解消だしな、と付け加えて笑うと、確かにおっかないよなぁと電話口の向こう側でも腹が揺すられたようだった。

(そっか、ちゃんとそこんとこは考えてんだな。 安心した)

「伊達に頭脳派、名乗ってないさ。 じゃ秘密基地に人集めとくから、詳しい話はそこで、な?」

(ああ、いや、あと一つ)とキャップが今思いついたように言ったのは、携帯から耳を離す寸前だった。

(本当に、このまんまでいいんだよな、お前。 俺としても、闘う事には異論は全く無いわけだが……もっかい、直斗と話合う気は)




「俺は、俺のままを貫く。 それは変わりない。 あと昨日、寮で男連中には話したけど、姉さんを譲る気も無い。 俺の生き方は、俺の誇りそのものだ」




怒んなよ、と半分慌てて半分苦笑いで返された回答に、別に怒ってないと答えると、「お前がムキになるかキレるかすると、昔のニヒルが顔出すからな」と言われ、閉口したのをまたからかわれるのは本意ではないので、大和は即座に携帯を折りたたんだ。

ひとつ、またひとつと深呼吸。

梅雨の湿気に、コンクリの煤の入った匂いが鼻腔を通る。

電気の通らないビルの中は、この季節は特に薄暗さが際立つ。 対象の判らない漠然とした不安をときたま感じさせる。 

だが、今、直江大和がいる場所は、ひとりで考え事をするのには落ち着ける唯一の場所でもあるのだ。



俺は、悪くない。

直斗に反発する理由の根底にあるのは、この想いだ。



人付き合いの秘訣は、付き合うそいつを信用しないことだと大和は本気で思っている。

例えば、人と話すときはその話が漏洩する事が大前提で、漏れる範囲とその範囲に対する相手の影響力を考慮反映して開示する情報を厳選する。

そして情報、秘密を漏らされた場合の対抗打の用意を怠らない。 大抵はそのカウンター材料が十分な効力を発揮して、結果、秘密は護られる。

これを脅迫と呼ぶ奴はどうかしていると思う。 密告への対抗手段としてやむをえない措置とは考えられないのだろうか。

必要悪という言葉を、勉強し直すべきだろう。 

だいたい、自分の知っていることを洗いざらい話して、心情も何もかも全部吐露して。

そんな事をしたら、自分も相手も不利益をこうむるに決まっているのだ。

―――ずっと自分が相手の腹の中で良くも悪くも計算されていたことがバレたら、そいつに好感情を持ちうる者などいない。

父さんの教えは、いつだって正しかったし、これだってそうだ。

そして、嫌悪を抱かれた者から張られたレッテルというものは、張られた当の本人が優秀であればあるほど、開けっ広げであるほど、こそげ落とすには相当の時間と手間がかかるのだという事も。

よく人を観察しなさいとの忠言に従い、大和は小学生の頃から周囲の様相を一歩引いた目線で傍観する事が多々あったが、そこで得る物のほとんどは父の意見を補強するものばかりだった。

良い方向で目立つということは、受け止める嫉妬というものが増えることを意味する。 恋愛なんかが絡めば、それは悪意のバロメーターの最大の増幅装置となる。

口が軽く、才弾けて見える人間ほど無残な末路を辿る事が多いといえば言いすぎだが、少なくとも敵を作りやすい。

そういう事を踏まえて、しかし自分という人間が必要以上に黙ってはいられない種類の人間であるという自己理解もあり、大和は自然に今の生き方を選択した。

中学入学からは地盤を固める事に専念し、ファミリー以外にも味方と呼べるだけの人脈を作り上げ始めた。

あえて言おう。  自分は道具として、人脈を広げてきた

人懐こく立ち回り、キャラとしてはたまにウィットをまぶしたタイムリーな忠言や毒舌でウケをとり、取り巻く人間関係には目敏く耳聡く。

ファミリーにも親しい女性陣がいる事もあり、男子は勿論のこと女子側にも安定したアンテナを立てられ、他人様の恋愛模様もお手の物、とまではいかないが同年代の平均よりは得意な方ではあったと思う。 ……あくまで他人様の恋愛については、だが。

そうやって「いろんなツテのある悪くない奴」として、着実に自分の付加価値を上げる日々を送ってきた。

その評判を聞いて、また人の輪も大きくなる。

情報屋として便利がられる属性は、クラスや学年は勿論、生徒と教職の垣根を越えても作用するのだった。

川神学園に入学してからの立ち回りのバランス感覚は、さながらベーゴマの猛回転からジャイロの永回転へ、という具合に更に磨きがかかったと思う。

中学の頃はそれなりに多かった敵も作らずに済んでいる。

それに加えてファミリー以外に心を許さない姿勢が、『友達』と『知り合い』の線引きを明確に刻んできた事が、今日の直江大和の、そこそこの成功を確立してきたのだ。



一体何が悪い。

使える奴を使って、使えない奴を弾いて、疑わしい奴を疑って、何が悪い。

他人に対する誠が無いだと? 

俺は姉さんが本当に好きだっ

誰に命じられたわけでもない。 ファミリーや京にさえ踏み込ませなかった心の奥底から、俺は川神百代を愛しているっ

姉さんに向けるこの気持ちが、誠意でなくて何なのだ!?

他人に向き合えだと!?

万人に誠を尽くせだと!?

お笑いだ。 なら逆に、お前にそれが出来るとでも? 

この数日で誰の信頼をも裏切り、傷つけたお前に出来るとでも!?




全員がそうやって生きていけるなら!

それが絶対の倫理として摂理として、社会全部が誠意で回っていたとしたら!

真っ当に好きなものを好きだと言えて、縁故も袖の下も無い、狡さも偽る事も必要無い、働いたら働いた分だけ幸せになれる世界だったなら!

「地球はとっくにパラダイスになってるッ」

それができないこの国に嫌気が差して、父さんは日本を捨てた。

「綺麗事だけ呟いて、それだけで生きていけるほど、上等な世の中じゃないだよッ」

止めてやるよ、矢車直斗。 

出血大サービスだ。

なんせ、間違ってたら止めてやるのが、『友達』なんだもんな。 キャップ。




階下から、ガクトの野太い声とモロの苦笑いがしたのを聴いて立ち上がり、腰元の埃を払う。


「絶対に負けねぇ……」


姉さんも、渡すもんか――――。


























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お久しぶりです。

いよいよ明後日ですね、S。

個人的には小雪のフォローがどう出るか非常に興味があるのですが……。
やっぱり過去改変が無難なのかな。 某掲示板では壊れたままでいて欲しいとの意見が多数でしたが。


さて、てになまについてですが。

すみません、大戦までだいぶかかりそうです。
やっぱりファミリーの心理掘り下げとか修行風景とか色々な方の暗躍とか入れたりもしたいので。

キャラ多くて大変ではあるのですががが……。

それと「君ある」既プレイの方は少ないようですので、これからは久遠寺の方々はほどほどの露出で行こうと思います。

……言い訳になりますが、森羅様からの修行場借受云々の話ですが、荒唐無稽ではないかなーと。

川神大戦の主戦場の背景って、「君ある」の森羅様の保養地の背景の使い回しだったりするんですよね。 両作品持ってる人は比べてみるといいかもです。




今年中にとりあえず大戦編完結できたらなと願いつつ、皆様の快適なまじこいSゲームプレイを祈っております。

では、また次回の更新で。






[25343] 第三十六話:打明
Name: かぷりこん◆5fb3210b ID:208cdd63
Date: 2013/11/02 15:34


『サムライたる者、名誉に重きを置き、それを持って己の価値とすべし。 自らが下した決断と、それらがいかに成し遂げられたかが、己の真の姿を映す。 己自身から決して逃げ隠れすることはできない。』 

―――「武士道」 新渡戸稲造

































九鬼英雄はしかし、事前にどれほどの覚悟を固めようとも、それが如何なる砦にもなり得ない事を知った。

語られたのは、そういう話であった。




―――だから、間違っても俺の味方になろうなんて考えるな。




「ふざけるなッ!」

乗車する揺り篭が頂点を過ぎ、五度ほどずれた地点で、英雄は沸き起こる激情のままに立ち上がった。

反動で密室全体が揺れに揺れるが、そんな事に頓着できるほどの冷静さは吹き飛んでいた。

「お前はっ、お前達はっ、どこまでっ!?」

果敢なのか。 律儀なのか。 愚直なのか。 

命の恩人の姿をも重ねて、怒鳴り散らす。

行き場を失くした熱が胸の底で膨れ上がり、はち切れそうな痛みが迫り来る。

「何故、お前が……、お前がそこまでせねばならん義務など、何処にもないだろうっ!?」

手を出すなと、散々言い含めておいた癖に手を出し始めた従者の制止も振り払って口角泡を飛ばし、猛りにがなる《・・・》自分の口元をそのままに、差し向かいの席に座す、諦めたように肩を落とした直斗の襟を掴み上げ引き上げ、無理矢理に視線を絡ませた。

これまで、英雄の前で幾度となく謎めいた態を醸してきた彼である。 

その不穏にして不透明の気配が、一挙にその醜悪な《・・・》正体を晒した瞬間が、このときであった。

しかし、いま、自らの言葉で語った直斗はなぜだか、意識してその謎を明かしたというふうではなく、むしろ無防備になりすぎていて、本人は意識しなくともその姿を覗き見ることができる、というような、一種おかしな雰囲気を英雄はその顔貌に見出してもいた。




「……大和が、真守を殺したわけじゃない」

刹那、密封されている筈の空間に風が吹いた気がして、英雄は、信じられないという恐怖の表情に似た顔を直斗に隠さずにみせる。

まるで胸に拳大の大きな穴がぽかりと空いて、そこを虚ろな音を上げながら冷たい気流が吹き抜けていく心地がして、続く言葉がごっそり抜け落ちた。

「大和が、真守を殺したわけじゃない」

経句のようにも呪句のようにも言い募ったその姿に、心胆寒から締められる。

胸倉を掴まれつつも、表情を殺し、こちらに向ける目一つ眉一つ輪郭一つすら動かさずになされる機械的な繰言が、その言霊と共に彼が過ごした時の重みを証明していた。

それは怨念を飼い殺し、しかして殺し切れずにいる自らを、内心の極限の極限にて、必死に繋ぎ止めてきた歴史そのもの。

生活という言葉を遠ざけ、息を止めるようにして生きてきたのであろう一年前までが、確かに存在した事を示していた。

「大和が、真守を殺したわけじゃない。 だから」

だから、 

だから、 

だから?

言ったきり、沈黙が永遠に続くように思えた。 胸元を吹き抜ける風も、そのままに。

収縮、硬直した肩の力が抜け、そこにある古傷がじんわりと熱を持ち始めたのを感受しつつ、英雄は半ば無意識に直斗の体を手放した。

重力に順じ再び座席に収まった直斗は、ほとんどひっくり返るようにそのまま背を持たれて、仰向けの顔を、背後の暮れなずむ陽に晒した。

「……俺さ。 嫉妬したんだよ。 実の妹にだぜ?」

暫時の静寂を破ったのは、顎が引かれて、ようやっとの事で形作られたという様子の、妙にさばさばした顔と口調だった。

直斗は自分の手の平を、まるでそこに過去の痛みが全て埋まっているかのように擦り、撫で合わせる。

そこに全ての因果が、凝縮され内包されているかのように。

「笑っちまうよな。 ただ、俺も混ぜろよって言えば済む話だったのにさ。 なんか腹立たしくて、気恥ずかしくて、それを気づかれるのが、もっと嫌で嫌で。 それでもっともらしく言い訳して逃げて……。 俺は、あいつについて行かなかった」

直斗の言う事をまとめれば、誰もが一度は持つ感情が、たまたまというには残酷すぎるタイミングで起こったに過ぎないのだ。

それのどこに責められる要素が秘められているというのだ。

「俺は、向き合わなかった」

英雄の眉をしかめた表情に、しかし、直斗は左右にかぶりをふった。

ゆっくりと、ゆっくりと、まるで子供に言い聞かせるように。

穏やかに耳朶をうちながらも、英雄にはそれが血を吐く言葉と聴こえた。

「あの瞬間だけ、俺は、兄として負うべき当然の責任を放棄した。 ……大和だって結局は所詮、他人だ。 その意味で言えば、責めがあるとしても、それが俺より大きいなんて事はないんだろう。 約束をすっぽかす事だって、予測できた筈だった。 俺は行くべきだったんだよ、英雄」

どんな虚勢を張ろうが、どんな平然とした態度をとろうが、それで心身に負った傷の深さが隠されるものではない。

淡々と自分を語る眼前の男は、血まみれになって床を這いつくばりながら、「俺は平気だ、無傷だ」と叫んでいるようなものであった。

「やめろ」

「俺が、最後まで見守らなきゃならなかったんだ」

「……やめろ」

「だから、俺が」

「今一度、言う。 ……ふざけるな、戯けがッ」

我を取り戻した英雄は、再び猛り、叫び、喚いた。

「自己犠牲が常に尊いと思うな! 救われた我が言える事ではないが、それでも死んだお前の、矢車真守だって貴様が自ら傷つこうなんて事を、望んでいると思うか!? それでもお前が戦うというのなら、我はお前の側に立つっ。 お前だけを苦しませてやるものかっ。 十分、お前は、これまでも独りきりで耐えて耐えて、自分と戦ってきたんだろうが!? 何故この話を我にした? 何故過去をここでひけらかした!? 本当はお前だって、助けが欲しかったのではないのか―――」

「黙って聴け、この分からず屋っ。 お前に話そうと思ったのは、これ以上、久遠寺に迷惑をかけたくなかったからだ!」

英雄が矢継ぎ早に言の葉を並べたてた途上で、ここで初めて直斗は声を荒げた。

「どうせ誤魔化しても、俺が今、久遠寺の世話になっている事は自明だろうから、早晩お前が押し掛けてくるのは想像するに容易かったっ! 森羅に負担をかけたくはない、ただそれだけの話だ!! 加えて、お前の家柄上、俺がいた『施設』についてはいずれ知ることになるだろう。 お前自身に、世間様に話して良い事と悪い事の分別くらいはあると踏んだからこそ、俺は此処にいるっ!」

「違うッ、さっきお前は言ったろうッ? 言い訳して逃げた事、それを清算するための川神大戦でもあるのだろうが! 今のお前はなんだ? また言い訳して助けを拒んでいるではないか! また同じ事を繰り返すつもりか!?」

「見損なうなァッ!!」

半ば声を裏返した途端、直斗は、今度は怒気と共に、弾かれたように自らの足で立ち上がった。

「俺は加害者だ! 良心を殺して俺が悪を為すのに、それを助けられていい道理はないッ!」

英雄の肩を強く掴みながら、直斗が強く、真正面から王を叱責した。 
 
「俺がこれまでどんな目にあってきたのかも、俺に悪気がほとんど無かったのも、他でもない『俺』は分かってる! だが、今の俺は被害者じゃない!」 

この世の穢れ全てを映し続け、その光景全てを吸い尽くした後のような朱黒く濁った双眸に射抜かれて、英雄は吐きかけた息を飲み込み、暫時呼吸を忘れた。

「俺は加害者だッ!! どんな理由があったにせよ、俺は数多の人間の信頼を傷つけ、矜持を奪い、失わせた! そしてこれからもそれを継続していく。 その事実から、俺は逃げられないッ!!」
 
激しい形相と言葉の厳しさとは裏腹に、この時、直斗が掌の力を微かに、しかし確かに緩めたのがわかった。

気持ちは嬉しかったと、そう言っているように英雄は感じた。

だがそれでもと、歯の間から搾り出すように、直斗は心のうちを曝け出す。

いいか、英雄、忘れるな、と。 

絶対に、忘れるな、と。




「たとえ、お前や俺がどんなに酷い目にあった事があったとしても、可哀想な人間だったとしても、奪われてきたとしても、虐げられてきたとしてもなッ―――」



この世の涯《はて》に立ち、過去、絶望に塗り込められていく自分のいる世界を目にした男が、万感の想いを燃やして叫びを放つ。 







 
         ――――それがっ、俺達が、何か悪い事をしてもいいっていう免罪符にはならないんだよッ!!
 

















<手には鈍ら-Namakura- 第三十六話:打明>

















それを、わかってて、と俺は続けた。

「それを理解しながら、それでも俺は背負う。 それだけの価値があると思うし、こうしなきゃ、……真守も」

妹の命が潰えても、未だ、彼女の為に守るものもあった。 

それは誇りであり、生を全うした意味であり、絶対不可侵とするべき名誉だ。

俺の振る舞いは、ある意味では、妹の外面を取り繕う行為だろう。

だが、最後に残った名誉くらい、尊厳くらい、俺は―――。

それに、これは矢車直斗に課せられた罰でもある。

立ちふさがる千の猛者を、独りそれらを前にして、俺の過ちが、贖う事が至難中の至難を窮めるほどの罪だという事を思い知り、その揺るがしようのない事実を再認し、しかして少しでも報いようと足掻くという、罰なのだ。





お前はどうなる、と自失した様子の英雄は呟いた。

「それでは、あまりにも、お前に救いがないだろうッ――」

放った言葉自体が、救いを求めるような声だった。

「……ああ、俺も救われたいし、報われたいとも思うさ」

だから、返した答えは、あくまでも誠実とした。

「けど、俺がそうなる番は最後でいい。 もう覚悟はしたんだよ、宣戦の前に。 忘れた事を思い出させたからって、妹が望んだ人間性ってもんを、大和に根付かせる事はできない。 むしろ難化させる方策でしかない。 過去を提示したところで、あいつは長いものには巻かれろとか、そういうくだらねぇ思考と同列の考えに任せて反省のポーズを作り、結局、自分は悪くないと内心で結論する。 仕方なかったんだ、とか何とか言ってな」

数ヶ月の観察の最後の結果、俺が大和に対して、最も信頼できる部分が、ここであった。

「あいつが、ああ生きるようになったのは、あいつ独りが悪いわけじゃないんだろう。 でも、どうやらそういうふうに育てられたらしい。 親か友かが、そういうふうに生きる事が一番だって、刷り込んじまったんだ」

「直斗っ……」

そして告げる。

絶句し、憔悴し始めた英雄に更に追い討ちをかける。

低く低く、腹の底から氷の塊を取り出して、ぶつけるように。


「この闘いは、毒をもって毒を制していい闘いじゃない」


正確に言えば、『本質が真逆のものであっても、毒に見えるもの』をもって毒を制してはならないということだ。

それでは、最後に印象に残るのもまた、同じ毒なのだ。 相殺など、ありえない。

そうやって勝ったとしても、その毒にまた大和が浸かる。 



……ああ、やはりだめだ。

毒という例えなど、何と自分本位な物言いか。

結局は俺の価値観を押しつける闘いなのだ。 だからこそ傲慢になるのは、大戦時だけに留めるべきなのだろう。

頭の隅でそんな事を考えながら、無表情を作り続ける。

「……大和は、どんな手を使ってでも勝ちにくる」

掴み続けていた英雄の双肩から手を離し、そう言って、俺は徐々に再び近づいてきた川神の町並みに目を移した。 

丁度、街灯が点灯する刻限だったのだろう。 ガラス越しに、無数の灯火が眼下で点き始める。

「俺は大和とは違う。 直江大和の在り方を、俺は否定するために、戦う」

ルールの間隙を縫いに縫い、臆面もなく、俺を潰す為に手段は選ばないだろう。

「卑怯? 狡い? 褒め言葉どうも」と、いつものあの表情で、今の俺のように高いところから見下ろして。




だからこそ俺は手段を、勝ち方を、選ぶ《・・》。 




いくらかは、戦術としての奇襲、騙し討ちの行使は、俺とてそれを辞さない覚悟だ。

だが、俺は味方を利用して切り捨てるような戦いだけはしない。

かりそめの毒――利用し利用されるだけの「知り合い」の仲間を、俺は認めない。 

本気で、英雄は心配してくれているんだろうとは思う。

目端にたまる水滴は、本当の感情の発露なのだとは思う。

俺を利用してやろうなんて、それこそ露ほども考えていないだろうさ。

……けれど、こいつが俺に組すれば、大和からしてみれば、それみたことかと、お前も俺と同じじゃないかと、そう思われる事が一片の可能性でもある限り、許容はできないのである。




―――だから、いかなる味方も作らない。 




「馬鹿なっ、無謀が、過ぎるだろうがッ……」

声を振り絞り、顔を俯けた英雄だった。

「いいんだよ、それで」

あやすように言ってやった。

謀りが無い。 そう書いて無謀と読むのだ。 

大和とは、正反対のやり方で、俺は戦わなければならないのだ。 大和が、最も非効率と思う戦い方で。

妹の望んだ、矢車一家が全世界に希求した誠を、ちっぽけな戦場で示すために。

全身全霊の全力で相対する、剥きだしの一つの命、一つの感情そのものに、俺はならなければならないのだ。




確かに、全員が、全員に誠実でいる事は不可能だろう。 

俺だって、そういう現実は知っている。 夢物語だってことぐらい、俺だって。



でも、たとえ不可能だとしても、そういう気構えを、「そう在ろう」とする意志を誰もが持てた時に、救いとか報われとかが芽吹くんじゃないかと、俺は思う。



俺はたとえば、嘘をつくなとか、そういうことを言いたいんじゃない。

ついたっていいさ。 つかなきゃいけない時だって、そりゃあるだろうさ。

でも、嘘をついた後に開き直って「しょうがない」と片付けて欲しくはないだけだ。

それを臆面もなく行使する事は許される事じゃない。 

本来なら決してやっちゃいけない事だと、そう自覚して、し続けて、苦しむべきなのだ。

いつかの七浜の墓前で、耐え続けるだけの人生など……、と独白したが、だからこそ、それを避けるために正直に殉じるべきなのだと俺は思う。


優しい嘘、人を守る嘘。 

どんなにその本質が清廉であっても、嘘は誤魔化しであり、ありのままの真相を遠ざけるものなのだ。

忘れてはいけないのだ。 正道はあくまで正道であり、邪道はあくまで邪道である事を。





どだい、相手が多かれ少なかれ裏切るだろうから自分もそういう気構えでいるとか、「なんか違う」とも思う。

……こう思える、こう思えないの境目が、そのままそっくり、俺と大和の立ち位置を分けているのだろうな。



俺の言ってる事は、綺麗事だ。 

けど、綺麗事だからこそ、胸を張って言える。

必要悪が先んじて横行し、綺麗事を声高に言えなくなったら、それこそ、世の中終わりだと俺は思う。

だから、

だから、

だから――――、



「チャンスだぜ、英雄。 一子に良いとこ、みせてみろって。 一発くらいなら、殴られてやるからよ?」



最後に相好を崩して、軽口一つ残して、俺はスライドして開き始めた戸に手をかけた。

風に乗ってきた潮の香が、つんと鼻腔を刺激した。




そのひとつひとつに人の生活があり、百万の喜怒哀楽を、生の感情を照らして揺れる街の灯火を瞼の裏に焼きつかせて、俺は九鬼の主従と別れた。
























コスモワールドから運河沿いの堤防を下り、国際橋をくぐって数分も歩けば、新港地区の一画、運河と海の両方に面した立地が特徴なだけの、緑地にベンチをいくつか並べた簡素な公園にたどり着く。 名前も、そのままの味気なさで新港パークとある。

観覧車を降りた後、英雄は足の赴《おもむ》くままにという風情で、ふらふらとそこに辿りついたのだった。

揺り篭から飛び降りるように出て、首に締めていたネクタイを解いて、それを無造作に回して片手に巻きつけながら悠然と去っていった直斗の背に声をかけ追う気力はもはや無かった。

あの後、結局もう一周、七浜の街を観覧することになった。

日が暮れて、極端に街灯の少ない薄闇の中、人力車を引いてくる従者の忍足あずみを、英雄は待っていた。

「ここに、いましたか」

街灯の明かりを反射して、青白く光るベンチに腰掛けて一分もしないうちに、若い男の声が響いた。

「トーマ、か」

芝に向けて俯けていた頭を上げ、ちらと見上げれば、自らの横に誰あろう親友たる葵冬馬が、うっすらと笑みを浮かべて立っていた。

「どうも。 偶然ですね、英雄」

時刻は七時過ぎ、しかも休日とあっては人の目は前方の水平線に浮かぶ眩い街の明かりにこそひきつけられ、特に見るべきものもない公園内に視線を向けるものは皆無だろう。

散策を楽しむには遅すぎ、人目を忍ぶ男女が出没するには早過ぎるこの時間、公園にいるのは夜釣りとしゃれ込んでいる老人くらいである。

未だ最終曲目にすら至ってはいないだろうコンサートを聴き終えての散歩の最中に遭遇、というには些か苦しいシチュエーションだ。

なるほど、恐らくはあずみが気を利かせたようである。

「すまんな。 我の慰安の為だったろうに、途中で抜け出るような形になって」

葵紋病院ゆかりの三人に誘われ伴われ、七浜フィルの管弦の音色にここ数日の心労を癒されようと赴いた次第であったものの、榊原小雪が偶然にも、まるで九鬼の使用人のような格好に扮した直斗を遠目に発見した事で、その予定は変更を余儀なくさせられた。

芸術に並々ならぬ感性を持つ小雪が演奏を楽しみにしている事は承知していたので、三人組を残し、自分とあずみだけがみなとみらいホールを後にしようと半ば強引に言い置いてきたが、こうなってみると彼らもそのまま途中退場したのかもしれない。

しかし、それを冬馬は特に気にした素振りも見せず、

「いえいえ。 ……ここで、どうでしたかと訊くのは、残酷ですか?」と少々の苦笑いを返してきた。

「フハハ…、もう問うているではないか?」

しかし忌憚の無い、そのあけすけさが、かえって心地よかった。 少しばかり、舌が滑らかとなる。

「あやつとの会話は、お前にも話せる内容ではない。 ……すまん。 これは、どうしてもだ。 ただ、な」

「ふむ?」

――誰からも憎まれ、疎まれ、後ろ指を差される。 そんな闘いが待っているかもしれない。 勝利の道は数少なく、果たして、何を持って本当の勝利と言えるかどうかすら、俺自身に確証はない。 そんな戦いをする俺について来いなんて、口が裂けても言えるわけもない。

先の対話の中、自分が感情を爆発させる端緒となった直斗の言葉を、そらんじて聞かせてやった。

「あやつが、そんな事を人に言える人となり《・・・・》だという事は、お前にも知っておいて欲しい」

そう言って、英雄は疲れきり重くなった自分の全身を叱咤して立ち上がらせた。

ややあって「……どう思いましたか?」と質問される。

それに被さって、ナイトクルーズ用の民間機だろうか。 ヘリの、空を叩きつけるような羽音が近づき、冷たい夜気を微震させた。

「む?」と、よく聞こえなかったニュアンス半分、問いの意味がわからないとのニュアンス半分で英雄は聞き返した。

「彼を、ありのままの彼を見て、聞いて、英雄はどう思いましたか?」

改めて顔を向けて見返せば、久方ぶりに見る親友の鉄面皮が宙に浮かんでいた。

だが、その仮面は完全ではなく、たとえば何かを溜め込んでいるような瞳がそこにはあり、口元にはそれとわからない程度に苦渋の色がみえた。

この数ヶ月の中で、冬馬にも特別な感慨が直斗に対して沸いていたのだろうか。 ……それにしては、あまりに声色が切実に過ぎてはいなかったか。

だが、夜空を見上げて冬馬への返答を考えるうちに、それを斟酌する余裕は薄れていった。

自分の苦渋を噛み締めるだけで、手一杯となったからだ。

「我は、奴の味方だ」

それだけは揺るぎようもなく、だが、何故だか吐き棄てるような物言いになったのは、それだけの理由があった。

「しかしな……あやつの、その、思想、というべきものか? ……我は、」

ぽつりぽつりと要領を得ずに語る英雄は、普段の英雄ではなかった。

「……我は、奴を恩人だと、借りをいつか返さなくてはならない相手だと、出会った頃は思っていた。 そして、今は、今は掛け値なしに我の心になくてはならぬ友だと思っている。 たとえ、あやつが我をどう思っていようがな。 ……むしろ、あやつから全てを聞いて、利用する利用しないの関係をどこまでも考え通す、あの姿勢をみると、」とまで口を動かし、しかし英雄は、ここではっとなって言葉を切った。

ぺらぺらと直斗の真意を吹聴する事は、拙いと思い出したからであった。

しかし二、三秒逡巡して、話している相手は他でもない親友なのだからと気を取り直して、また言葉を付け足した。

「いや、正直なところ、我は……、『理』は直江大和の方にあると、どうしても考えてしまう。 ……これは我が経営者だという事もある。 商売というものは常に疑いを持たないとならんからな。 それに、誠意で優しくとか、守るなどと直斗は言うが、人間はそれほどやわではない。 守られる事が必要ない人も物もある。 九鬼は人材の宝庫だからな、そういう強い人間を我は見慣れている。 そして、『必要がない』という事を、無駄だと我は思ってしまう」

そう考えた方が、直斗もきっと楽になれるのではないかとも、英雄は思えるのだった。

「人間というものは、いつも一貫して同じである必要はない。 その場に応じて、変色龍《カメレオン》のように外面を変えてゆく事も、生きていく中で大切な事だ。 ……心理学の用語で言えば、『ソーシャルスキル』というものだな。 自分をうまく演じ分けられるこの能力を持ち合わせていることで、周囲の評価が高まる場合は多い」

ゆっくりと、しかし舌がもつれず語る事ができているのは、心の底では日頃からそのように自分も思っていた証左であった。

「実際、皆が無意識に行っている事だろうよ。 それを直江大和は自覚的に操作しているだけとも言える」

しかし、されど……、

「我の考えも直江の考えも、ようはバランス感覚に重きを置いている。 善か悪か、損か得か、好きか嫌いか、モラルかインモラルか、それらの価値観を使いこなしてこそ、世で生き残れるというものだ。 だが、だがもし、何の他意のない、まこと親しい者が、その機構によって苛烈な犠牲となるのを、も、目前にして、それに耐え切れるかと訊かれればっ……」

一族の居住区をとてててと走り回る妹の、九鬼紋白のあどけない笑顔を脳裏に映して、思う。



――――無理だ、と。



結果、直斗が、どう《・・》なったか。

そして体験した悲劇を消し去るために、これ以上生み出さないために、万人に平等対等な誠を捧げようとする姿勢を、直斗は求めている。





「我は、」

もはや何を言いたいのか意味不明の、支離滅裂となった語りに疲れ、ぽたぽたと、汗も涙も頬を伝い落ちた。



経営者として、直江大和の、そのスタンスというものは、正しく見習うべきであるのだ。

しかし、そう考えていられる自分、素直に矢車直斗に共鳴して同じ信条を抱けない自分が、まこと悔しかった。




「我は、どうすれば良いものかなッ……」

ひどく散文的で、脈絡なく語り続ける英雄の内心は、つまるところ此処に集約するのであった。




すると、

「英雄。 私からも知っておいて欲しい事があります」

最後はかすれてしまった声を、あえて無造作に遮ったような冬馬の語りだった。

「私たちは、今、モラトリアムの最中なのですよ? ……英雄は、それは立場が特殊でしょうから、あまり実感しにくいかもしれませんが、それでも、あなたは、学生です」

涼やかな声色が続いて耳を撫でた。

「あまり、こういう風間君のような言い方は好みではないのですが」

そう言われてて片手で襟をつかまれ、「学生らしく、ここで、考えてはいかがですか?」ともう片方の手が拳を作り、それで心臓を押される。

その様に呆気にとられ、英雄は冬馬の顔をまじまじと見つめた。

だだだだ、と規則的なディーゼルの音を鳴らして、岸のすぐ先を屋形船が通り過ぎ、どこからか海の風が遠い警笛の音を運んできた。




些か間が抜けた対峙の直後、日頃の彼とのギャップからか、何故だか可笑しさがこみ上げてきて、つい吹き出してしまった。

涙腺の水分も同じくこみ上がってきていたようで、その雫も唾とともに霧となって冬馬に降りかかる。

ウッ、と猫の毛づくろいのようにそれを拭う姿も、いつものスマートな彼の立ち振る舞いとかけ離れていて、それがいっそう腹の笑い虫を掻きたてた。

「笑うところですか?」と冬馬も笑っていた。

それをよそに、英雄はしばらく声を殺して腹を揺すった。

ひどく久しぶりに動かした頬に血が通い、全身がほんのり温まるのを感じながら、そう言えばここ数日は一度も笑っていなかったと気づかされた。

「ふふ、ふは、フハハハ……」

ともすれば尻切れ蜻蛉になる笑声を、腹筋を無理矢理使って補強する。

「くフッ――、フ、ハハ、フハハハハハハハハ、、ハハハハハ、ハハハハハハハハハッ!!」

そうして今の今まで全身を押し包んでいた重苦しく、分厚い負の被膜を、底からの哄笑で乱暴に引き剥がして吹き散らす。


そうだ。

されども《・・・・》。

されども《・・・・》、最初から、どう行動するかなど、心中で決まりきっていた。

何を恐れる事がある。 何を躊躇う事がある。

我は直斗とは違う。 育ってきた環境そのものが違うし、志は全くといっていいほど異なるだろう。

だからこそ、違う物事の見方ができる。



―――『必ずしも直斗が望む事が、直斗の目的に直結しているわけではない』と。



そう、今の、冬馬と対する我のように、やはり、「持つべきものは友なのだ」と。

我は、王道を往くのみと。























「どうよ、若? 大将、随分と弱ってたみたいだが」

従者と再会した英雄が人力車で公園を出た後、植木垣の影に潜んでいた井上準は芝生を静かに踏みしめて冬馬のもとへ近づいた。

「自分ができないことを人に助言するのは、心が痛みます」

放った言葉とは裏腹に、あっさりした口調でそう言って、先ほど英雄の襟裏から回収した、大豆大の機器を眼前に摘み上げてみせた。

はじめて見た時は、呆れるほど小さなものだなと感想を抱いたものである。

大豆大というよりは、ほとんど豆そのものの見目カタチで、平らな円形状の本体から、芽のようなアンテナ線をちょろりと出している。

内蔵電池は一週間は持ち、集音有効範囲十五メートル、二百メートル先まで電波を飛ばす事が可能のBUG、正真正銘の盗聴器は先日、板垣姉妹の名義でネット通販から購入したものである。

使用するにあたっては、一見しても判らぬよう、英雄の衣服に馴染むよう金の塗料を吹きつける徹底ぶりであった。

「……俺は好かねぇなぁ」とポケットに手を突っ込んで、準は今更ながらぼやいてみた。

中に潜ませた受信用の携帯無線機が、いやに腿を圧迫していた。

「釈迦堂さんが、どうにも口を割ろうとしませんでしたからね。 やむをえない措置、ですよ?」

それでも、居場所を聞き出してこうして画策できるあたり、マロードの面目躍如というところか。

一方でそんな複雑な思いを抱きながらも、

「そう割り切ってはいたけどよ……、なんか、ああいうマジモンの話聴くとよ。 結構キくわ」と準は重ねた。

なんなのだろう、これは。 

腹の中で蛇を飼っているかのような、どろどろとうねる不快な感覚があった。

「それは、準の少女趣味もあいまっての事ですか?」

「んなの関係ねぇっ、人として、だよ。 ……そうだと信じられるさ、今はまだな」

「……そうですね。 今は、まだ」

まだ、決定的に取り返しのつかない外道を行ったわけではない。

策略には完璧主義を標榜するマロードである。

いまだ「決起」の下準備が完了していない事を理由に、思い切った行動を取っていないだけであり、水面下ではかなりの権謀術数を重ねているのではあったが、やはり決定的に極悪人になったわけではなかった。

「……彼と一席、設けてみたいですね」

「え?」

「ああ、勘違いしないでください。 別に彼の善性に当てられたとか当てられたいとか、そういう意味ではないですから。 ただ、潰したいな、と」

「若、」

「ええ、潰したい。 ……実際、川神大戦はカーニバルに支障をきたすでしょう。 八月三十一日までにカーニバルを起こすには現段階では無理がある。 そうなると当然九月以降に計画は持ち越しとなるのですが、大戦でより強固に培われるであろう大和君のネットワークは非常に厄介です。 育まれる前に切り取るべきでしょうね。 ……だいたい、矛盾だらけだ」

くつくつと喉を鳴らす低い音が、ほどなく笑い声に変わった。

初めて表情らしい表情が出て、顔に嘲りの色が浮かんだ。 だが、いつもは恐ろしいと思うその顔色が、この時は何故だか酷く薄っぺらいものに感じられた。

「人を無条件に信じろ正直にいろと言いながら、真実を明かした場合の直江大和の翻意を信じられないなんて、お笑いも良いところだ」

「……」

その饒舌な口ぶりは、言い訳を並べ立てているようにしか井上準には聴こえなかった。

それは冬馬の内心を逼迫する何かが、どのような理由をつけても未だ明確な悪行を為すのを躊躇わせ押し留めている何かが、未だ在るのだという事を証明していた。

「本当に邪魔だ。 ……本当に、邪魔だ」

唐突に笑みが消え、苦々しげに憎々しげに、マロードの歯が剥かれる。

それはマロードにとって邪魔なのか、葵冬馬にとって邪魔なのか。

内心、そうはっきり問えたならばと俯いた井上準は、しかし、ただ拳を握り締めるのみだった。














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皆様、ほんっとうにお久しぶりです。
スランプとアサシンクリードとまじこいSと今年新展開をみせるエウレカとギアスの復習のせいですごめんなさい。

Sプレイしましたが、G線の堀部がでるとは思わなかったぜぇ……
マルさんルートでは、えちシーンであれだけ爆笑できるとは。
あと攻略不可キャラがいちいち魅力的で……、プレミアムの枠を林沖にすりゃよかったのに。

人気投票では林沖2葉桜1の黄金比が俺のジャスティスでした。






さて今回のてになま解説です。

どなたかの感想でご指摘いただいたのですが、ええ、ルルーシュVSシャルルな感じです思想的には。

まあ直斗くんはやり過ぎない感じで纏めてますが、まあ、どっちも悪いところはあって、それをどれだけ考えられるかがこれからの命題ですね。



[25343] 第三十七話:畏友
Name: かぷりこん◆273cf015 ID:94f5cb7e
Date: 2012/03/07 15:33



『人わぁ、平等ではない。 生まれつき足が速い者ぉ、美しい者、親が貧しい者、病弱な体を持つ者、生まれも育ちも才能も、人間は皆ぁっ、違っておるのだぁ。 そう、人は、差別されるためにある。 だからこそ人は争い競い合い、そこに進っ歩が生まれる。 不平等わぁっ、悪ではない。 平等こそが悪っなのだ。 権利を平等にしたE~U~はどうだ? 人気取りの衆愚政治に達しておる。 富を平等にした中華連邦わぁ、怠け者ばかり。 だがぁ、我がブリタニアはそうではない。 争い競い、常に進っ化っを続けておる。 ブリタニアだけが前へぇっ、未来へと進んでおるのだぁ。 我が息子クロヴィスの死も、ブリタニアが進化を続けているという証。 ……戦うのだぁっ! 競い奪い獲得し支配しぃ、その果てに、 み゛ら゛い゛がぅあるッ!! オォゥル・ハァイル・ブルィタァァニャヤア!!!』

―――シャルル・ジ・ブリタニア




















BGM①:ラブ川神

井(ハーイ、エブリバディ? 昼休みを満喫中の生徒諸君、先日の七夕には何を願いましたか? 毎週水曜恒例の校内ラジオ、LOVE☆川神、はーじめーるよーっと! ……パーソナリティは、短冊に『どうしてもかなえたいひとは、このでんわばんごうにでんわして、やさしくおねがいをささやいてね(おんなのこだけ)』と書いて、川神院の笹の、幼子の背丈ぐらいの高さのところに、わりとガチで何枚も吊るしました井上準と)

百(『酒池女林』と書いて、これから照る照る坊主も兼ねた人間短冊を屋上から吊るす川神百代だ。 みんな喜べ、逆さまに吊るすから、明日は空から美少女が雨霰と降ってくるぞー、いえいっ!)

井(うぅ嘘嘘っ、じょじょ、冗談っすよ先輩、言ったじゃないっすか掴みの冗談って……。 話だいぶ盛ってます盛ってます。 俺は一枚しか吊るしてないんすから)

百(氏ねっ、というかほんと死ね)

井(うわ、安易な気持ちで死ねとか言うとかー、)

百(いや、安易な気持ちで死ねとか言うとかー、思うなよ?)

井(うぇぇぇぇぇぇえっ)

SE⑧:ドカッバキッ

井(……はいっ、リスナーの皆様お付き合いありがとうございました。 そんなやり取りが昨日の打ち合わせでありました。 後の顛末はご想像の通りです、はい)

百(いやぁー、なかなかおんにゃのこ降らなかったから、今日襲ってきた不良さん達にも橋の上から手伝ってもらったんだが、うん、効果、今のところないにゃ~)

井(はい、昨日も今日も我らが武神は平常運転とのことでした。 んじゃ尺もないんでサクっと行きまっしょい。 早速、お便りのコ~ナ~)

百(お~う)

SE③:ドンドンパフパフ

井(今回のお便りのコーナーは、先日たくさんのご応募により消化し切れなかった「百代姐さんに、どんとこいっ」の続きとなります。 まあまあ、このところはいろいろとありましたからねぇ。 ずいぶんとモモ先輩大丈夫?な内容が多くを占めていましたが、それについては先輩、なにかあります?)

百(うんうん、あの時は凄く落ち込んでな~、いやぁ私ほんと困っちゃって思い出しただけで泣きそうに……と、美少女的抱擁要員鹵獲作戦のダシにしようと思ったんだが、さすがにそれは人としてどうよってことで、自重~中~)

井(アンタ、人に散々心配されといて何考えてんですか)

百(ま、さっきこのハゲも言った通りだがな、私は至って絶賛平常運転中だ。 なによりほら、夏休み終了間際に例のイベントだろ? 思う存分戦えって、あの口煩いジジィから久しぶりに許しが出て。 まあ相手もそれなりに楽しめそうで、いやいやむしろ松風じゃなくてもオラワクワクスッゾ状態?)

井(いや~無駄にテンション高くて、今回ツッコミしにくいわ、この人。 んじゃあれ、別に平気なわけっすね?)

百(モーマンターイ。 なんて気取ってみたりして)

井(ほほう、中国広東語。 何か他に言葉知ってます?)

百(ああ、馬鹿にするなよSクラス。 知ってるさ他にも)

井(え、意外…)

百(ゴーハイニードー!! ネイカムサッ、チャウサッハラァアア!!!)

井(っつ―――痛てて……音割れてるっての。 俺、ヘッドホンで聴覚被害倍増です。 まぜっかえして悪うござんした、……ちなみに、意味は?)

百(私は此処だー、殺せるものなら殺してみろー)

井(ほんっと、平常運転っすねー)

百(ジジィの書いた本で読んだんだけど、中国でな、まだ襲名制で梁山泊って続いてるらしくてさ~。 卒業したら世界回るって前々からこのラジオで言ってたけど、手近な大陸から制覇してくとなると、一番に攻め込むのが、そこなんだよ)

井(どこの魔王だよっwwファーストコンタクトから敵意満々無礼千万じゃないっすかwww)

百(郷に入っては郷に従え、わざわざルー師範代に訳してもらったんだぞ。 無言で討ち入って殴りつけるより敬意払ってるだろ? なので今回の会話、地味に漢字熟語多め。 たゆまぬ努力をする美少女でーす)

井(ではもっとちなみに、もっと他の言葉、知ってます?)

百(ん~? 今ので中国は事足りるだろ? 次はインドだな。 ヒンディー語、誰か喋れる奴いる~?)

井(うわぁ本物だぁ…と……あーはいはい、すんません孤門先生、だいぶ脱線しましたね。 んじゃ気を取り直して最初のお便り~)

百(ほいほーい)

SE⑤:デデン♪

井(ペンネーム<戦乙女に恋する☆乙女>さんからです。 『モモ先輩は、気持ちを押し付ける恋愛ってどう思いますか。 私はマジでないと思います』)

百(おぉう。 なんかまた例の出来事が関係してそうな内容だな)

井(いや、こっちでもだいぶ絞ったんすよ?)

百(あ、リスナーのみんなー、別に迷惑がったわけじゃないからなー。 手紙は全部読んでる。 心配してくれるのはとてもありがたかったぞー)

井(これからも遠慮なくドシドシご応募ください。 まあ、あんまりおんなじ内容が続くとって話です。 さて先輩どうすか、これ?)

百(んーとなあ、まあ、私があまり言えることじゃない――)

井(そーですねっ)

百(うるさいな。 ……あれだ、相手とか周りとかに迷惑か迷惑じゃないかで線引きはすべきだろうなぁ、とは思う)

井(おお、無難なご意見)

百(無難っつーか、まあ当たり前の話? 気遣いとか遠慮とかとは別の次元で。 ちょっと本筋から外れるけど、この前キャップ……2‐Fの風間のことな。 そいつと喋ったんだけどさ、なんか同じクラスの女子にケーキバイキング誘われたんだって)

井(うわ、リア充ここで吊るし上げですね)

百(だいじょぶだいじょぶ。 くだんない外聞、気にするような奴じゃないから。 あれもそれなりの男だ……ってのは置いといて、んで、女子から奢るって言われて、そのまま奢られるってのはどうよ?)

井(ちょっと考えられないっすね。 たいていは男の沽券ってもんもあるし)

百(んで、ケーキ食ってハイさようなら)

井(あららー)

百(いやフォローしとくとだぞ? ほらキャップの性格で、まあ、そう、なることは予想できるだろ?)

井(ええ、ええ、世の中、いろんな人がいますしね。 ケーキ食うだけって言われたらほんとにそれだけって思う奴ですしね彼は。 多分、全校の方々わかってるんじゃないすかね?)

百(あいつはほら、笑えるくらい鈍感通り越して恋愛ってもんの本質を知らんから許されるけど、相手が自分に好意持ってること知ってて、こういうのやるのはダメダメ)

井(たまにモモ先輩、仲見世で餌付けされてるの見ますけど。 あれは)

百(失礼な事言うな。 たかってるって思われてもしょうがないが、私はきちんと、分け隔てなくカワユイ女の子みんな愛してる。 まずそれ前提。 それに加えて、ギブアンドテイクってわけじゃないけど、ま、誠意ってやつだな。 特別ギュッとしてやる)

井(すっげー詭弁に聞こえなくもないんですが、んーと、押しつける側にも、押しつけられる側にも、うまいよう考えられる対応はあるんじゃないかと、そういうことですか)

百(おお、そうそう、うまくまとめた。 ナイスハゲ。 キャップに置いてけくらった女の子もさ、そういう事、ある程度覚悟してたとは思うけどさー。 結論、男に絶望したら私の胸に飛び込んで来い。 以上)

井(という事です。 参考になったでしょうか? さて、ツッコめる回数にも限りがございますので、かつかつ行きましょう次のお手紙~)

百(よーし、どんとこーい)

SE⑤:デデン♪

井(……ペンネー…ん? なん――これ、ノイズ…先生これ、ひど―、ぉい―――)



             ピーーーー、ガガガッ、キィィイン



   ―――すぅ 



(きゃる~ん★ 昼食中の皆様ぁあ、ご清聴くださーい! これより、LOVE☆川神改め、記念すべき第一回、<LOYAL☆英雄様>の放送を始めまーす!!)
















<手には鈍ら -Namakura- 第三十七話:畏友>
















(フハハハッ、我、やはり華々しく降臨であるッ!!!)

とんとんと軽くマイクを叩き、正常に機器が作動しているか確かめてから、声を英雄は吹き込んだ。

校舎B棟、屋上に備えられた給水塔の上で仁王立ちのまま、周囲の景色全てを見下ろして、高らかに宣言を開始する。

さて本来、校内ラジオは校舎内、屋内のみに音声が発信されるという限定がかけられていたのであるが、程近い壁に外付けされた配電盤、キュービクルの配線を弄るあずみにより、図らずも屋外にも大々的に発信される事になったようだ。 

屋上のスピーカー近くで慎ましく、輪になって食事をしていた数人が、突然の大音声に驚き肩を跳ね上げたのに愉快な気持ちになる。

なかなかに悪くない、嬉しい誤算であった。 グラウンドの拡声器も作動しているようで、この分では学園全体に隈なく知らしめるという目的は間違いなく達成されるだろう。

グラウンドで走り回る運動部の面々も動きを止めて、耳を傾ける様子がわかった。 その幾人かは、高きに佇立するこちらにも気づいたようだ。

目を伏せて、申し訳ございませんと詫びる従者を片手で制して続ける。

(まずは、故意に放送を占拠した事を詫びよう。 すまぬなハゲよ。 ああ、それから川神百代へ、つい五分前に学長の許可は取った。 よって我のメイドと戦う端緒とはなりえぬので、そのつもりで。 このような暴挙に及んだのは、単に、このほうが目立つと踏んだからである。 フハハ、許せ、愛すべき庶民の者どもよ)

どう思われるかは、二の次にして、なるたけ『直江大和に利するように』喋り続ける。

極力そんな思惟を抱きながらも、最初に思いついたままに口から流れた言葉は、英雄の想いそのものになっていた。




(まずは単純明快に結論から、……来たる川神大戦にて、我は、二年F組、矢車直斗の側に付くッ!!!)




迷いは、ない。 

我の分は、もう直斗が、十分悩んでくれている。 

(これは誰から頼まれたわけでもない、ましてや、直斗から助けを請われたわけでもない。 むしろ先日会った時には、きっぱりと固辞された。 が、その固辞も跳ね除けて、我個人の意志で、我は決意した)

(我は、あやつの友だという事を、我は勝手ながらも自負している。 友の危機を救う。 それのどこに恥じるところがあろう? 我は王道を往くものぞ!)


突風が一陣。

それによる雑音が入ったのを幸いに、風が止むまでの間、握り締めたマイクを胸に押し当てた英雄は目を閉じて、マイクを持つ手とは反対の手の指先を、額の十字傷に乗せて、思い描いた台詞を反芻する。

次いで、企みを伝えた昨日より、いまだそれを承服しかねている意志をありありと示す複雑な表情のあずみに、そっと目配せする。

慌てて顔を引き締め、どこまでも、彼岸までも御供いたしますと、いささか大仰にかしずいた従者に、後々には労わなければなと内心苦笑して頬を緩め、その感傷をすぐに脇によけた。

数秒で風が凪いだ。

放送機器越しの向こう側に、ざわめいているだろう様々な感情の波が、完全に静まるのを待ってから再びマイクを口元に近づけた。

誰もが持ちうる、そして誰もが慮りによりその言及を避ける心の澱を、いまこそ剥き出しにせん。





今日の我は、庶民風に言えば、「ばいきんまん」とやらだと、ひとり英雄はほくそ笑む。





















BGM①:九鬼神楽

英(と、まあ我にとしては、先立つのはそんな心情なのだがな。 もうひとつ理由を挙げるとすれば……、聴こえておるか劣等生・・・ども?)

英(……いま反応した者は、少なくともその自覚はある輩であろうな、重畳重畳。 さて、我としても説教めいた事を学び舎で、優秀な教師陣を差し置いて、わざわざ言うには非常に億劫ではあるが、哀れな民を導くのも九鬼が宿命。 フハハ、甘んじてその役目、受け入れようではないか?)

忍(なんと御寛大なお言葉。 放っておけば堀之外の看板持ちにもなりかねない者どもを相手に、なんという御慈悲。 しかして、そのご心中、お察しいたします英雄様~)

英(いやいや待て、あずみ。 そのような職につく彼らとて、きちんと生計を立てておるのだ、そう馬鹿にするでない。 そう考えればむしろ、比べようもなかろう? ……うむ。 して本題だが、最近、我はな、どうしても納得できんところがあるのだ)

忍(英雄様をして理解が及ばぬ事があるとは、それはどのような?)

英(なあ、あずみよ。 あまりに馬鹿馬鹿しい質問なのだが、果たして、直斗は、何か悪い事をしたか?・・・・・・・・・

忍(は? ……ははぁ、そのような噂があるのですかぁ☆)

英(うむ。 まっこと、まっこと不思議な事に。 学園内であやつへの罵詈雑言が陰に陽に飛び交っているようでな。 我には、あやつが責められるような謂れが、どうやっても見つけられなんだが、お前はどうだ?)

忍(はぁ。 いえいえ、私にもまったく覚えがありません)

英(で、あろう? 皆目見当がつかぬ。 反対に褒められるような事なら、星の数ほどとはいかずとも両の手に余るくらいに列挙できるのだがなぁ)

忍(ええ、ええ、ごもっともです。 最近で言えば、全校集めての大立ち回りでしょうか。 随分と、胸のすく思いをしたものです)

英(まさしくまさしく。 殴る必要があったから殴り、きちんとその理由も話した。 悪い事だと思ってもいないと釈明した。 そうであれば、あやつとしては謝る必要もなかろうな。 うむ、筋道立っているであろう?)

忍(はいっ。 あっ、よろしいでしょうか? 僭越ながら私、また一つ思い出しました)

英(ほう、何だ? よかろう、言ってみるがよい)

忍(彼自身が所属する二年F組に関しても、なかなか皮肉な苦言を呈していたと記憶しております)

英(おおっ、そうであったそうであった。 自らの非を省みず、不満不平を喚くなど……だったか。 本当に賢い人間というものは、誰にでもわかる言葉で、誰にでもわかるように話すものだが、動物を使った良いたとえであったな、あれは。 言われても仕方なかろうよ)

忍(二年F組に関しては私の耳にも情報が入ってきた事があります。 あれでございます、教師に金銭を握らせて、テスト問題を直前に……)

英(な、なんと、そんなことまでっ…………………ふむ。 と、まあ茶番は、これまでとしておくか?)

忍(はい☆ 私もいくらかすっきりいたしました)

英(……さぁて。 まあ単刀直入に言って、2-Fが気に入らんのだ、我は。 まあ、今からの話は2‐Fに限らず他の落ちこぼれ達にも)

忍(ははっ、それは、いかような理由にてでございましょう?)

英(フハハハ、知れた事よ。 我らS組に対する態度が、なっていないからに決まっておろうが。 まったく、あやつらの礼儀のわきまえのなさ具合とくれば、逆に親の顔を見たくもなくなるわっ。 あのような輩と共闘など、もともとできるはずがなかろう? 先の体育大会が好い例だ、足を引っ張りおって)

忍(それについては不肖ながら忍足あずみ、全面的に同意させていただきます!)

英(傲慢だと? 偉ぶるなだと? フハハ、笑止っ。 我らは、偉いッ! 偉い人間が偉ぶって何が悪いのか、全く理解に苦しむわ。 あまりの愚かしさも可愛げかと割り切ってきたが、ここらで上下定分をはっきりさせようとも思ったのよ。 ……ああ、あずみ。 真実の不肖者というのは直斗を謗るような輩の事だ。 愚かしさを示す表現の語彙が足りなくなるので、使わんで……)





















いくら明るく振舞っていても、平気だ平気だと言っても、直斗の名前を一切出していないあたり、姉さんも無理してるっぽい。 それなりに思うところはまだあるんだろうな、とか。

このあいだ来た千里眼の人も瞬殺してしまい、鬱憤がたまっていることもあるんだろう。 七夕にプレゼントした金魚のタケルの効果もいまひとつかな、とか。

そんなことを思って校内放送を聞きながら、粛々と弁当をつつき始めようとした矢先の事であった。

スピーカーから太い声が発され、今までヘッドホンイヤホンで怏々の音楽に耽っていた面子すら音源を注視し始める。

(いま反応した者は、少なくともその自覚はある輩であろうな、重畳重じ…)

「んだと、ゴラァッ」と弁当から顔を上げた羽黒が飯粒を飛ばしながら叫び、それを皮切りに、やんややんやと反感の声があがる……。

   ・
   ・
   ・
   ・
   ・

だが、当の大和は突然の電波ジャックに浮き足立ったのも一瞬、

「ありがたい……」

助かった、と安堵の溜息をついた。

それが九鬼英雄の宣言が始まってからの、直江大和の第一声だった。

「え、ど、どうして?」

ワン子の疑問に「ん、いやこっちの話…」と煙に巻いて、ひそかに風間一家情報部門担当のモロと目配せし、続く「何よー、教えなさいよー」との抗議に苦笑する。

思いのほか、遅かったなというのが本音であった。

すると、「なあ、直江。 これメンドクセェ事になってんじゃねーのか?」と不機嫌そうに眉根を寄せた顔で、ゲンさんこと源忠勝が大和に水を向けた。

「……どうかな。 あ、ゲンさん心配してくれてるの?」とお約束の一言を付け加えてみる。

「ふざけんなボケ。 ……ただ、お前がどうしても俺に本隊の補佐やってほしいって言うもんだから、これ以上厄介事は御免だって話なだけだ」

そうすると、こちらもお約束で視線を外して口篭るのであった。

まあ三分の一はこの理由だろうが、あとの二つはワン子への助け舟と純粋な心配だろう。 

対して「うーん。 まあ、これでやっとお膳立て完了ってところかな」と、大和は口端を上げてみる。

「ほう。 やけに余裕じゃねぇか?」

「もともと直斗はS組、とくに九鬼英雄とは親しかったからね。 まあ織り込み済みだよ」

「いいのか? 若干名だろうが、九鬼のカリスマだ。 数十人単位は…、」

「実質の戦力集めじゃ、もう初動でこっちが勝ってるさ。 財布とか便宜関係で転がりそうなのには手打ってるし、むしろこの演説じゃ、プライド高いSぐらいしか集まらないでしょ。 というか、そうならざるをえない。 自覚か無自覚かは知らないが、予想外に英雄が悪役やってくれてるおかげで、雰囲気的に俺の軍にSの受け皿はなくなったわけだし」

「ああ、なるほど」と得心がいったゲンさんに、「Sの静観決め込むつもりだった奴らにはご愁傷様だろうなー。 当日仮病でも使わん限り、全員ボコボコにされちまうの確定だろ、これ」と、いつの間にか傍らに居たキャップこと風間翔一が、トライバルの映える真紅のバンダナを巻き直しながら、軽い調子で引き継いだ。

「それにぶっちゃけると、インパクト足りなかったんだよな。 姉さんにいいところ見せようって連中はともかくとしてさ。 バーサス直斗よりかはバーサスS組のほうが、みんなモチベーション上がるだろ? 裏掲示板にも、そうなる事もありえるよーってぼかして、モロに広めてもらったりしたけど」

次いだ「……嘘からでた、誠ってやつか? ちょっとエグイ気もするが」との呆れたような言葉には、肩をすくめた。

「限りなく確度は高かったさ。 九鬼英雄の性格を考えればな。 それに嘘じゃないよ。 ありえるよーってレベルで書き込んでるし」

まあ、後の可能性としてはワン子補正が働いて、頼まなくてもこちらの味方になる事ぐらいだったが、ここまで彼の意思表明が遅れたのは、案外それが原因だったのかもしれない。

さて、こと此処に至りては、彼我の戦力差が当日まで不透明なように偽装を施し、S組討つべし、というこの気風を保つ事が先決だろう。

一度は決起集会をとも考えたが、この分では自分のネットワークや学内の掲示板、それか校内放送を利用したほうがよさそうだ。 全軍揃ってえいえいおー、は、当日だな。

キャップ率いる黒の団にはもう男衆で腕利きのスカウトに入ってもらっているし、乗り気がいまひとつだったクリスも、食堂でこの放送を聴いたなら、白の団の練成に力を入れざるをえないだろう。

唯一の懸案は目立った動きを見せない葵冬馬だ。 この放送が葵の後押しによるものならどういう意図があってのことか。

ただの深読みかもしれない。 まったくノータッチである可能性もゼロではないのだ。

……なんにしても今の段階じゃ考えても詮無いか。 情報が少なすぎる。

「そういうところがエグイってんだよ……ったく、どこまでも親父が気に入りそうな性格してやがるな、お前は」というゲンさんのセリフを背に、折りたたんでいた携帯を広げる。

そんなふうに黒い会話が一区切りつくと、

「あ、……そ、そういうこと、ね」とワン子が申し訳なさそうな顔で少しうな垂れていた。

「ああ……いや、一子悪い。 気分、悪くしちまったか?」と、携帯の画面に気を取られていた俺がフォローするより先にゲンさんが気遣いの言葉をかける。

「ん、う、ううんっ。 そういうの、勝つために必要だっていうのは、私、わかるから」

ゲンさんに限らず、周囲の案じるような目の色を察して、ふるふると頭をふって、複雑そうに、はにかむように、それでもワン子は微笑んだ。





「それに、あのねタッちゃん。 今回はアタシ、お姉様の妹ってことじゃなくて、直斗くんの姉弟子って感じで、戦おうと思うのっ」






















(我は気に入らんのだ、この状況を。 何故だろうな。 苦境を打破するために必死で足掻き成功した者と、何も考えずただただ漫然と無為に時間を過ごす者が、平等に遇されねばならんというこの状況を……)




……これが裏目に出なけりゃいいがな。

ま、序盤の直斗が友達云々は別として、内容としては、ほぼ学年問わずS組の総意なんだろうが。



暴れないなら暴れないならでいっそう不気味な、豊満な胸の前で腕を組み依然憮然と沈黙を保ち続けている川神百代の隣という、ある意味一番の特等席にて皇帝の意思表明を拝聴しながら、井上準は内心でひとりごちた。

耳を澄ませば、S組が周囲に対してああも露骨に侮蔑的な態度を取るのも、周囲が侮蔑すべきもので溢れているからだ、という論理を随分な高姿勢で展開する英雄であった。 いつのまにやら、S組とその他周辺へと論点がずれているのであった。

一通りの事情を知り、かつS組に在籍しそれほど馬鹿でもないとも自負する男は、このように英雄が必要以上に挑発的かつ不遜な言葉を並べ立てる理由を既に思いついていた。



英雄は、戦う理由の補強をしているのだ。

矢車直斗ひとりきりであった矢車軍を、本質はどうあれS組の代理と仕立て上げる事で、大和がより戦力を整えやすいような大義名分を与えているのだった。

全ては、そう、やはり直斗の最終的な、完膚なきまでの勝利の為に。 彼の悲願の達成の為に。




……人には、相応の分、というものがある。 それが、井上準の持論である。 

若は院長の息子。 自分は院長の腹心たる副院長の息子。

だからこそ、自分はたとえ違和感を絶えず覚えていても、友である葵冬馬の凶行に従い続けている。

おそらく英雄が言いたいのはそういう事だろう。 各々の分をわきまえろ、と。

しかし言及は、それだけに留まってはいない。 

『S組の人間は、相応の努力をしたから相応の分や矜持があって当然だ。 どこに非難される理由があるのか』

これを言い換えれば、相応の分を得る為には努力すべきだと、そういうことである。

求めようとする結果には努力以外の要因。 運や才覚だって関係するだろう。 だが、S組入りなど、こと高校内容の勉学に限って言えば、努力値が結果に比例することは明らかだ。

馬鹿にされるのは理由があり、ならば馬鹿にされないような理由をつくれば良い。 そしてこれはS組の態度に対しても言える事だった。

単にその事を、極めて尊大に、横柄に、高飛車に、まさしく鼻持ちならない成金になりきって英雄は謳い上げているのだった。

いかにあの宣戦が衝撃的だったとはいえ、喉もと過ぎればなんとやらも相俟って、何の恨み辛みもない直斗相手に敵対しようする一般生徒の気炎は萎んでゆくばかりだ。 それを見越しての一手だろう。

そして、英雄自身が所属するS組も含めた周囲との関係を考えれば、大戦までの、否、もしかすると卒業までの茨の絨毯を引いたのだった。

先日の観覧車での一件もそうだが存外、いや、やはりというべきか、友情に篤い男だったことがこれで証明された事になる。 

そういう男を利用した俺達は……、いや、それよりも以前から立場を利用し続けてきた、いまだ後ろめたさが心に引っかかっているだろう若の心中は、いかばかりか。




「俺達は、どうするよ……?」




ブレザーのポケットに手を入れながら、ぽつりと、再び呟いた。

むつくれた百代がここで初めて視線を送ってきた気配があったが、知った事ではなかった。 構うものでもなかった。

曲げていた足を前方に投げ出した。

このところ独り言が多いなと、ぼんやりと思って、パイプ椅子いっぱいに準は背中を預けた。

もうひとつ、悩んでいたこともあった。



友達だから、制止すら振り切って、直斗のために行動する英雄。 だけど恐らく、心は晴れやかだろう。

友達だから、友の意に沿い続けて、冬馬のために行動する自分。 だけど毛程も、憂いから脱せずにいる。

考えまい考えまいとしつつも、それでも対比してしまうのは、自分の中の何かの風向きが変わったからかもしれなかった。



仰向けになった顔に、自明として正対した天井の蛍光照明の灯が当たる。


「友達の分って……、もっと、デカイもんなのか?」


その光が、眩しかった。



















英(……我は気に入らんのだ、この状況を。 何故だろうな。 苦境を打破するために必死で足掻き成功した者と、何も考えずただただ漫然と無為に時間を過ごす者が、平等に遇されねばならんというこの状況を。 税金やら何やら今の政治にも言える事だが……、まあそこはおいおい紋に任すとして。 ……おう……ふむ。 だいぶ寄り道してしまったような)

忍(いえいえ、英雄様の有難い御言葉の数々、皆感銘に打ち震えているに違いありませんっ)

英(おお、そうか。 フハハハ、お前が言うならそうに違いあるまい。 では、もう時間も時間なので、最後に一つ……)

英(これは善悪の問題ではない。 むしろ、それを決めるための川神大戦であって、今問題なのは、大戦に向かう姿勢だろう?)

忍(仰る通りかと存じます☆)

英(願わくば、流れに身を任せず、各人の意志でどう戦うかを決意してもらいたい。 ……口だけの輩と思われたくなければ、S組の精鋭達よ、十把一絡げと蔑んできた者ども相手なら造作もあるまい。 一騎当千の心持で、自らが誇る力を存分に振るうがよいッ!!)

忍(はいっ、ではこれにて。 皆様、次の時限まであと一分少々の間、ごゆるりとご昼食を堪能くださいませ☆)









これで、無気力だったS組も含め、全校が、直斗が望むように全力で、戦わざるをえなくなった。

英雄としては、今の演説……まあ、ほとんど挑発か、の中で、非難に非難で応じるなという事を暗に示したつもりだ。

どれほどの人間が気づくかは判らない。 むしろ非難に非難を返しているのは英雄自身だともわかりきっていた。

ほとんどは直江軍増大増長の為の刺激的なオブラートに気が入ってしまっていることだろう。 ……まあそれが主目的であるのだが。

冬馬あたりはわかってくれていると思うが、あと目ぼしいところで言えば三年の、名は何といったか、確か、京極…何某なにがしだったか。

一子殿には、多分、わかってはもらえんだろう。 それだけが少々、こころに影を落としていることは事実だった。



……されども、

「ヒーローたるもの、一度は甘んじてヒールに興じてみるのも悪くはない、か」

それに、恐らくはあやつは示す。 非難に対して非難という手段ではなく、あやつの信じる道を、あやつは、かの戦場で示すのだ。

人脈、策略、姦計、奇襲。

それらを振り切った先に、あやつが至った時。

その時、百聞は一見に如かずだろうと、そうやって触れ回り、あれが我が友なのだと胸を張ることができれば――。

「生き恥を晒した甲斐があったというもの」と英雄は獰猛に笑う。

さすれば、一子殿でも、あの天真爛漫な彼女でも、いや、そんな彼女であるからこそ、なにかを感じてくれるのではないか。

それに、友を思う想いを毒呼ばわりされたままでは、たまったものではないからな。

……さて、これからは従者でも付き合わせて、それとこの夏にはお忙しいだろうが、姉上に連絡でも入れて、今しばらく途切れていた護身や拳法の手解きでもしていただくとするか。 生半可ではない激務を縫っての話だが、まあクッキーの件も片付いたからな。 どうとでもなろう。

息いっぱいに空気を吸い込んで、右肩を回す。

不思議なもので、いつもなら痺れを伴う筈の古傷の存在感は、まるでなかった。


「英雄様、この後の予定ですが」

「おお、あずみ。 お前もご苦労だった。 ……はて、今日は確か最後の人間学まで受けられたはずだが」

拡声機器を受け渡しながら、手帳と万年筆とを器用に指に挟み込んだあずみに、英雄は疑問を呈する。

「……差し出がましいかと思いますが、その」

そして、口篭るメイドの姿に閃くものがあった。 

「職務を都合よく融通せんでもよい。 今日も予定通りだ。 ……あと一年半しかないモラトリアムの期間。 その中の平穏や愉快、まとめてパァッと使うのも九鬼流よ」と鼻で笑ってみせる。

直斗が見る景色に近づいた。

そうなっただけでも、悪くはない手管だったと英雄は思う。

出会った頃には、こうなる事など想像だにしていなかった。 

あの忌まわしき壊乱から始まった人の関係が、こんなにも情熱をわきだたせるものとなろうとは。

「で、ですが」

「くどいぞ、あずみ。 学園での立場がなくなったところで、我には愛すべき家族も親友もおる」

直斗と違ってなと、そんな自分に似合わぬしんみりした感傷を振り払うために、もう一言、英雄は加えてみた。

「まあ、例えばだ。 たとえそやつらが我から去っていってもだ」と従者へと視線を改めて向き合う。






「我にはどうやら、彼岸まで供にしてくれるという奴が、居るらしいからな」






初夏の陽に照らされし金色の衣は風にはためいて、そうして一段と男は、燦然と炯々と輝くのであった。


















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解説。

冒頭の皇帝陛下の言葉はあんまり深い意味ないです。 雰囲気合うかなあと。
ニコ動で一文ずつ繰り返し聞いて書き起こしたので、かぁぅなり忠実な若本節です。 ほとんどギャグ要員。
このごろ暗いんで、前半は苦手なコメディ入れてみました。

そして、おちゃらけ回かと思えば実はまたしても英雄無双ェ。 王道なやりとりをだいぶぶちこみました。
毎回書き終わりそうなところで気づく、どこぞのバルフレアっぷりです。 Mrブシドー出てきてたり…。

もう主人公でいいかw まあこれでしばらく彼は出てきません。 だから目立たせた感じっす。


ではまた、次回の更新で。






[25343] 第三十八話:燃滓
Name: かぷりこん◆273cf015 ID:94f5cb7e
Date: 2012/08/08 18:36
『や、つうかよ? 赤とか白とかそんなことにこだわってるから、何か色々面倒臭えことになるのかも知れねえな。 要するに、俺が勝ちゃいいんでよ。 とどのつまりは、俺個人の問題なんだ。 な? うん。 よし、解った―――、今日から俺のことは「ピンクさん」と呼べ』

―――平清盛 『スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ』

























お嬢様には絶対に近づかせてはならない領域だ、と。 

乱立する雑居ビルの一棟から放たれる淡紫のネオン光の下、マルギッテ・エーベルバッハは認識を深く深く改めた。

そのマルギッテの足元には、一人の男が時折ひきつけを起こしながら伸びている。

見るからに不衛生そうな茶髪を伸ばし、ピアスに代表される大量の貴金属を装った、いかにもこの土地の住人然とした風貌の男である。

体格は雑踏の中でも頭一つ飛び出るであろう相当な大柄で、つい先ほどまでは屈強な体躯が常人よりかは幾らか大きな威圧感を醸し出していた。

その風体に違わず顔相は強面そのもので、それを押してか数人の子分を囲っていたらしいのだが、今は影も形も見当たらない。

何もこちらから気を引いたわけではないのだが、どうもこの男と男の率いる集団は、初対面の外国人女性の肌に遠慮なく触れようするほどには酷く劣情を催していたようで、マルギッテは煩く付き纏われたあげく、恐らくは手下連中の仕業だったろうワンボックスカーに退路を塞がれ、スライドドアの滑擦音を背後にして、やむなく実力を行使したところであった。

大衆向けの男性用香水にアルコール臭が混交された濃い馨りが意識せずとも嗅ぎ取れる距離まで接近されたところで、触りたくもないといった表情を隠しもせずに、ぴんと関節を伸ばした人差し指と中指で茶髪の肩の付け根をマルギッテは小突いた。

押しどころを得た突きに、茶髪は粘っこい笑みを顔に張り付かせたまま簡単にバランスを崩して仰向けに転倒した。

なまじの護身術や格闘技とはレベルの違う、人の肉体の構造を知りぬいた者にのみ可能な急所への針の一突きによって開戦の狼煙が上げられたのだった。

初撃に生じた集団の隙を突いて、可及的速やかにこの場を離脱し追っ手を撒いて目的地を目指せばよかったものを、戦闘の長期続行をも意味する開戦という言葉がマルギッテの頭をいっぱいにしたのは、「最後の一兵となっても勝つことを諦めない」兵士育成の一環として教え込まれた無手格闘術が、危機に対処し終えるまで対象に背を向けることを許さないからだった。

戦略目的より戦術目的を優先してしまうマルギッテの気質、軍人としての課題が浮き彫りになった瞬間であった。

猟犬とは、もとより的確な指示を飛ばす狩人が傍で使役することで初めて真価を発揮する生き物なのだ。

……ともあれ、非公式な上司の頼みとはいえ、一応は隠密任務と内心で銘打って、服装も常の正装でも迷彩服でもなくダウンパーカーに中古のデニムのジーンズで身を固め、シァネル柄なのに何故かジッパーがYKKのハンドバックを肩から吊るし、適当に見繕ったハンチング帽で赤毛を隠して伊達眼鏡もかけて、つとめて一般人(仕送りの足りなさに住居を治安の悪さで有名な歓楽街近くの安アパートしか確保できず、日々の服装もフリーマーケットで買い集めざるを得なかったが、それでもめげずに深夜のレンタルビデオ屋でのアルバイトへ出かける、ドイツから家出同然で留学してきたちょっと陰ある苦学生二十一歳)を演じきろうとしたのだが、もはや後の祭りである。 普段通りの服装のほうがその威圧感から声をかけられることもなかったのでは、と脳裏によぎった閃きはこの際無視である。



Hasen jagd



倒れた茶髪の鳩尾に容赦なく爪先を打ち込んで追い討ちをかけ、条件反射で危険を察知するよう苛め抜いた五感が、直近の次なる相手の胸元に潜んでいた奇妙な膨らみをバタフライナイフのものと即座に認めて、習った通りに腕が動いて足が動いて、数瞬後にその対処を完了させる。

「うわ」とか「ひえ」とかそんな取り立てて特徴もない悲鳴を聞き流し、直上に回転しながら風唸りをあげて飛び上がった刃物を難なく指先で摘み取って、誰に投げかけようかと逡巡した瞬間、対峙していた誰の目も捕食者のそれから被食者のそれへと変貌し、我先にと子分どもは親分一人残して、それぞれ細かな路地へ三々五々と散って行った。

なんの昂揚もない勝利の心地であった。

むしろ無駄な時間を過ごしたという苛立ちしかなく、大きく舌打ちしたい衝動に駆られたが、この地帯ではそれはまたしてもいらぬ面倒に巻き込まれる原因にしかなりえないことを承知していたマルギッテは、代わりに鼻を小さく鳴らして、まばらに集まり始めていた野次馬の遠慮のない視線にうんざりしながら、帽子を目深に被り直して、通称を親不孝通りと呼ばれるその町のメインストリートを再び歩き始めた。

午後十時過ぎ。 淀んだ水溜りから発するような饐えた淫靡な空気を漂わせる堀之外町が、その個性を際立たせ始める時間帯だった。

川神という市がクリスの当面の生活環境となるにあたって、この地域を川神院とは別の意味で最重要警戒区域としてマルギッテは頭に刻んでいた。

調査というものは情報収集能力の問題ではなく、そこから昇華した認識力や想像力の問題であるとマルギッテは士官訓練中の座学で教わったものだったが、ことこの町についてに限っては、情報を整理したうえで言えば、認識も想像もしたくもなくなる、というのがマルギッテの偽らざる本心だった。

性風俗企業が何十何件だの、その規模は関東では吉原に次ぐものであるだの、最近の法改正から風俗店はソープからマットヘルスに形態が移行してきているだの、それらをより深く認識して何になるのか。

周辺を束ねる飲食組合に非加盟だった外人娼館もついこの間まで営業していたという情報から、ああ、もしかしたら自分はそこの従業員に間違えられたのかもしれない、などと考えてしまうあたり、日本に伝わる「知らぬが仏」という言葉はよくも言ってくれたものである。

そんな無益この上ない考察をしている間に、思考とかけ離されてほとんど自立的に動いていた足は、目的地周辺にマルギッテを運び終えていた。

競馬場へと向かう道と交差する十字路を曲がって、六つ目のビルの四階。

隣のビルの、今も営業しているのかは定かではなく甚だ如何わしそうな韓国エステの照明の切れた袖看板を一瞥して、梅雨明けの生暖かい外気を深く吸いつつ、これから利用しようと目を向けたエレベーターの扉に故障中の張り紙を見つけて、心底憂鬱に滲んだ息を吐き出すと同時に外付けの螺旋階段を上っていった。

すっかり出来あがった中年のサラリーマンが千鳥足で下ってくるのとすれ違い、こびりついた反吐の跡を跨いで、二階の雀荘、三階の居酒屋を目端に流して通り過ぎて、目的の階数に到達した。

宇佐美代行サービス㈲の文字が、入口扉の磨りガラスの中に浮かんでいる。

まるげって、と。 

本人としては洒落っぽく言っているつもりなのか、独特の発音で時折自分の名を呼ぶ、一応はマルギッテの担任教師である男がここに居る筈だった。












<手には鈍ら-Namakura- 第三十八話:燃滓>














「所長、えらい美人さんがご依頼に……」

そんな声に、私立川神学園特設学科「人間学」講師にして、有限会社宇佐美代行サービス代表取締役の彼が反応しない筈はなかった。

視線避けの為の衝立の向こう側で折り曲げたスポーツ紙を顔に被り、それをアイマスク代わりにソファの上で仮眠を取っていた宇佐美巨人は、新聞が床に落ちるのも構わず勢いよく上体を跳ね上げると、サイドテーブルの上に飲み残していた缶コーヒーを急ぎ呷り、「おう、ちょっと待たせてもらってくれ」と年季の入ってくたびれた安ジャケットの襟を正した。

もう一方の職場に一途に口説き落としたい対象がいるとはいえ、それが他の女性に色目を使うことへのフィルターになることは、この男に関してはありえないのである。

『代行屋』、実態は万事屋として、彼がこの社屋を構えてからもう十数年になる。
設立当初と比べ客に困ることはなくなったとはいえ、月々の帳簿を見れば赤字黒字を行ったり来たり、自転車操業一歩手前の現状維持が精一杯である。
ペットの捜索、ゴミ屋敷の処理、興信所ばりの浮気調査から近所の不良退治というような荒事まで、依頼される様々な仕事を代行し請け負うアウトローならではの職であるが、漫画のように格好をつけても所詮は小間使いの延長と言われればそれまでで、白黒入り混じったグレーゾーンの仕事には往々にしてある事だが、一つ一つの案件に対する成功報酬の格差は激しい。 相場と比べて比較的安い手数料で依頼人と契約することもあり、とても安定給を見込めるものではなかった。

人間誰しも大なり小なりワケアリの事情を抱えているもので、日々の仕事には困っていないというのが救いであり、従業員を絶えず入れ替えての24時間営業と、学園でエリート相手に教壇に立つ見返りに貰うそれなりの額の月給のおかげで、日に一箱の煙草を買えて月に二度は"厄落とし"と称して近隣の泡風呂へ通うことのできる生活を宇佐美は保ってきている。

まあそんな、世間様に辛うじて顔向けできる本当にギリギリの職業だが、たまに役得だ、と思える瞬間は確かにある。

それはロマンでありドラマだ、と言えば笑われるだろうか。

たとえば、何十年も前に埋められた行方知れずのタイムカプセルが何晩もの捜索の末に発見され、恥ずかしがりながらも互いに肩を叩いて笑いあう依頼人達の雑談に付き合った時。
たとえば、地下カジノでの代打ちで、相手のイカサマを密かに逆手にとって賭け分を総取って、左手の小指や薬指を詰めたお歴々御用達の、片言の日本語を繰り出す東南系の美女達に一斉に囲まれた時。

後にも先にも人生最大級の修羅場と間違いなく言えた博打のほうはもう二度と御免だが、二年三年に一度あるかどうかのそんなサプライズ……、これがあるから、腐れた孤児院育ちの元喧嘩屋でも人生を謳歌しようと思えるなにか、そう形容できる爽快感は、すっかり厭世的になったこの身でも何かしら感じ取れるものだった。

自分のように生きろと、代行業を継がせるつもりでいる忠勝に言うつもりはない。

ただ、侘しい灰色と毒々しい極彩色が入れ替わり、明滅し、混在し続けるこの街で生きていく中でも、真っ当な面白いもんには真っ当な笑いを表情に浮かべられるような、そんな男になって欲しいと宇佐美は思うのだった。




……さて、こんな夜更けに依頼とは、どのような案件だろう。 

先述したロマンというものは、たいていこういうシチュエーションから端を発するものだが、まずはどんな魔性の女だろうかと、十中八九、水商売系と当たりをつけて、衝立からひょいと宇佐美は営業用の顔を覗かせた。

そうして二秒後、声を寸時失くした宇佐美は寝起きの眼が未だ正常に稼動していないという錯覚に陥り、乾燥気味の指で目元を擦って目端を揉んだが、それで何かが変わるものでもなかった。

一点の染みのない白い肌、そこから滑らかに生じた目鼻、すっと結ばれた形のよい唇と、美人の平均というものがあれば明らかに上回ること請け合いの造作ぞうさくを見ているのだが、窓口で従業員と正対して立っている「えらい美人さん」は、世の男を惑わせかどわかす魔性というより、幾多の修羅場を掻い潜ってきた化生の女であることを宇佐美は了解していた。

「マ、マルギッテ? 怪我は……、ってよりなんだ、その格好は?」

常の濃紺の軍服姿とは打って変わって、これまた個性的な私服姿に狼狽する。

明らかに後から縫いつけられたとみえるデフォルメされたクマのパッチがパーカーの胸元に映えていて、ややちぐはぐな印象を受けるコーディネートに、唯一温かみを添えていた。

まるで現実感のない対面であるが「ここに来る事は、人には知られたくありませんでしたので」とすげなく応え、無造作にかけていた瓶底眼鏡を外したのは、やはり間違いなくマルギッテ・エーベルバッハその人であった。

「……なんです所長、お知り合いでしたか?」

ちろりと面白がっているような視線を向けてきた十年来の仕事仲間に「残念ながらただの教え子だ」と苦笑を送る。

「できれば外の、邪魔の入らないところで話したい」と言われて、改めてマルギッテに向き直る。

イエス・マムと。 そう言わざるを得ない底堅い瞳が、そこにはあった。















「夜回り先生の真似事やってくら」との社長の言葉に、従業員は「お医者さんごっこはナシっすよ?」と返す、そんな素敵な職場である。

苦言を呈そうとした瞬間、刃物ヤッパ――何処から入手したのか知れぬ悪趣味な髑髏を柄に誂えたバタフライナイフを仕事仲間の鼻先に突きつけ、猫の轢死体を見たような形相を浮かべたマルギッテを宥めすかして、外に出る。

学園ではなく、この事務所この時間帯にこの自分を訪ねてくるとなれば、よほどの人目を憚る事情があるのだろう。

「……オジサンの色気にやられて来ちゃいましたー、なんてのはないわな」などという冗談を言えばどんな返事が返ってくるのか知れたものではなかった。

そう賢明な判断を下した宇佐美は、とりあえず何件かある行きつけのスナックのうち、社から百メートルほど歩いたところにある一番寂れた店で用件を訊く事にした。

ほぼ一日中は開いているその飲み屋。 
アルコールがメニュー表の半分を占拠し、もう半分のページの冒頭には「あじの開き定食 450円」の文字が並んでいるにもかかわらず、頑なに『純喫茶』の看板を下ろそうとしないパンチパーマの無口な婆さんがそこの名物といえば名物であった。

ほぼ馴染みの客専門となっているのが逆に功を奏し、この時間帯なら誰も来店していないだろうという予測は外れていなかった。

こじんまりとした店舗の中、カウンターのほかには二つきりしかないテーブル席の片方に陣取りマルギッテも椅子につくと、いつ眠っているのか定かでない婆さんが常になく清潔に見えるお絞りを置いていった。

コーヒー二つと婆さんに注文した後、去り際に合わせた目に何故だか哀れみというか慈しみというか、「くじけるなよ」というメッセージのような、そんなものを汲み取った気になった宇佐美は、厨房に引っ込んでいくひん曲がった背中を一睨みし、心なし大きく咳払いして「復学のご挨拶ってわけじゃなさそうだが……」と会話の口火を切った。

「お久しぶりです宇佐美教諭、とまずは挨拶しておきましょう。 用件は他でもなく、一つ依頼をしたい。 ……その前に条件がいくつか」と尊大な口調で言ったきり膝元に視線を落としたマルギッテは、有名ブランドのパチモノと見えるハンドバックをまさぐり始めた。

一応という接頭語がつくとはいえ、担任教師相手に遠慮とか敬語とかいうものは、はなから存在しないようである。 

もともとエリート志向の強いS組連中に期待する方が間違っているといえばそれまでだ。 自分のような身分も定かじゃない枯れ始めのオッサンに敬意を払えと言われれば、昔の俺でも願い下げだろう。

テーブルの下で足を組み、流し目でマルギッテの挙動を見据えていると、湿気と油を数十年分たっぷり吸ってきたろう丸テーブルの上を茶色の紙袋が滑走してきて、ぽさりと宇佐美の膝元に落ちた。

「依頼を遂行する上での諸々の経費、手数料。 ちなみにこれはお前を指名する責任を負う私個人から。 最終的な報酬は結果を見て、中将のポケットマネーから応分の額を支払う」

迂遠な物言いなど一切なく、簡単明瞭な単語の羅列で話をどんどん進めていく教え子である。

「……依頼内容は学園関係?」

だが宇佐美も負けてはいない。

浮気の疑惑が確かとなった腹太の人妻の泣き言を聞いているより、こういう、常なら大和とやりあうような、立て板に水と形容される会話の方が遥かにいい。

耳にしたパトロンの名前と、手にしたユーロ袋の重さから漂うきな臭さ、そしてなにより―――この時期。

宇佐美の瞳は鈍い光を灯し始めていた。 ああ、これは、と。

ひとつ頷いたマルギッテは「もうひとつの条件は、それをお前ひとり、宇佐美巨人個人の独力で完遂して欲しいという事……」と続けた。 意味するところは一つである。

「誰にも、ウチの社員にも、カク秘で事を運べってことだな?」

「それ以外の意味はありません。 ……この二つの条件を飲んでくれさえすれば、内容を明かします」

それこそ内容による、と返答したいところだったが、封殺されれば一瞬黙考せざるをえなくなった。

これは飛んで火にいる……というやつ、なのか……。

代行業を営むうちに研ぎ澄まされた宇佐美の勘は、社屋でマルギッテの双眸に射抜かれたときから頭の中で関わるなと警鐘を鳴らし続けている。

加えて言わば、ゴールより先にニンジンをぶら下げて見せびらかす、というこのやり口である。 宇佐美が最も忌避する依頼者の態度の見本だった。 そういう輩に関わると大体にして仕事に“けち”がつくことが多いというのが、宇佐美の経験則だった。

だが一方で、ここ数ヶ月間、矢車直斗という男の前に教師として、F組の教壇に立った後に紫煙で燻すことで騙し騙し折り合いをつけてきた胸中の感情が鉛の重石になって、宇佐美が席を立つことに待ったをかけていた。

もしかしたらこの時、煙草を社に忘れてこなかったら、宇佐美はマルギッテを、または自分の感情を文字通り“煙に巻いて”、この話題、この依頼から早々に退散したかもしれない。 怠惰の言い訳に、それが一番利口な生き方だと、心中で繰り返し嘯いて。

だが、現実はそうならなかった。 

そうはならなかったのだ。 

「実力を行使する場合にのみ軍人は動く。 となりゃ、俺達……、おっと失礼……『俺』は、その前の斥候代わり。 言葉遊びじゃねぇが、斥候の斥候。 そういう役回りと仮定しよう。 自慢じゃないが、本職のアンタらより良い仕事が出来るとは到底思えないが?」

「お前が学園内部に食い込んでいるという事実。 それと、今のように多少は使える頭があれば十分務まると見ている。 他にも理由はあるが、出来れば『地下』の情報も欲しいと、そう思いなさい。 こちらに来て日が浅い私では、そのあたりは調べ切れないでしょう」

猟犬の鼻も、堀之外の腐臭の前には機能不全。 そういう事らしい。

「ちなみに断った場合……」

「おいおい、三流映画みたいな沙汰にはならんだろうな?」

「まさか。 断れば、その手数料が口止め料に化けるだけのこと」

こちらの大仰な身振り手振りを交えた呆れ顔に、にべもなく淡々と事実を通達して、後はお前次第だと言わんばかりにマルギッテは試すような目をこちらに向けてきた。



……覚悟の、決め時なのかもしれない。 

これは降って沸いてきた、もしかしたら自分が無意識に望んでいたかもしれぬ“きっかけ”だ。

しかしそうした内面の感情の行き来をおくびにも見せず、宇佐美は僅かに細めた目を唯一の反応にして、大儀そうに背を反らせて安椅子にもたれかかった。

「……ハッ、生徒の金をパクって逃げんのは流石にな。 俺にもそれくらいの了見はある。 考えさせてくれって台詞は短気なお前は嫌うだろ? いいさ、謹んで受けよう、その依頼。 大体の予想もついてる。 ……矢車さん家の直斗君。 ずいぶんと中将殿の娘っ子を苛めてたからな?」

凝った首を鳴らすと、宇佐美は温いお絞りで顔を拭いながら、ふざけ半分、何でもないように了承の意を表した。

すると「茶化すのはやめなさい」と本日二度目の据わった目が今度はこちらを向き、その絶妙なタイミングで厨房の暖簾が割れてコーヒーが運ばれてきた。

常よりもコクのあるエスプレッソを啜りつつ、ここ数年通って一度も聞いた事のなかった猫撫で声で応対し続ける婆さんが再びカウンターの向こうに消えるのを待って会話を再開する。

「察している通り、調査を頼みたいのは他でもない矢車直斗についてだが、お前には特に、奴と風間ファミリーとの関係を調べてもらいたい」

「……モモ先輩恋しさにトチ狂って、ってわけじゃないのか? 今回の大戦のきっかけってやつは」

「様々な可能性が考えられる。 それを調べるのがお前の仕事だ」

「ん~。 いやなぁ、あの即断即行が信条みたいな中将が、麗しの愛娘にひっついた虫をさっさと戦車で消しにかかんないってのは、かなり疑問なんだが、そのへん――」

「それはお前には関係ない。 さて、また後日詳細を連絡するが……ああ、そしてもうふたつほど耳に入れる事がある」

「……あのね、オジサンも探偵紛いの事をするからには、何かしら手掛かり的な情報が欲しいもんなのよ。 そんで、好き勝手に言うだけ言われて、ハイ了解お任せくださいって胸叩けるほど有能じゃないの。 少しはこっちの質問に答えてもらえんもんかね?」

困ったように自分の額を指でとんとんと叩いて、これより雇用主となる相手に宇佐美は愛想笑いを浮かべた。

「後日詳細を連絡すると言った。 ……心配するな、今から言うひとつ目はまさにそれだ。 2001年9月初旬、矢車直斗が日本を初めて訪れた時期」

「……ん」と眉をひそめて唸った宇佐美に、それにもとりつくしまのないマルギッテは、また鞄の中に手を入れた。

電子端末を取り出して語り始めた相手に応じて、こちらは昔ながらの人工皮革にあしらわれた黒手帳を胸内から取り出して、誕生日に息子から貰った万年筆を走らせる。

「お前の調査の中で、なかんずく我々が欲している情報というのは、その時期に矢車直斗に起こった、風間ファミリーとの間の出来事、それに尽きる。 この事案――川神大戦の端緒が額面通りのものでなかった場合、矢車直斗が川神に再来する以前に風間の一党、または直江大和との因縁が芽生えていたと考えるのが一番しっくりくる。 恐らくはそこに全ての根がある。 一家が離散した事も関係するやもしれない……」

「離散?」

「9.11で両親を、直後の水難で妹を、それぞれ亡くしている。 ……それから六年。 一年前に川神の庇護下に置かれるまで、奴の足取りは不明瞭」

「……なかなか際どい人生送ってんだな。 まあ、いい。 んでその、不明ではなく不明瞭ってのは?」

どうやら、この質問はそれほど的外れではなかったらしい。 些か見直したようなマルギッテの視線がこちらを向いた。

「……そうだ。 海外に渡航していただの、現地の日本人学校に転入しただのという記録自体は確かにある。 が、例えば学校の職員の証言に一部齟齬があったり、あるいはアメリカ・イギリス・フランスの三国に同時に存在していたり……」

「おいおい。 ちょっとしたホラーだろ、そりゃ……」

「別段珍しいことではない。 諜報の世界なら、と前置きがつくでしょうが」

「あんたらとは事情が違うでしょうが…………っと、いやいや、まて……、これは、そういう話●●●●●なのか?」

とても信じられないという声音を響かせた宇佐美に、マルギッテは失笑を返した。

「あれが、どこぞの間諜だったとか、そういうふうには私も考えないが、何かしら国が動いたのは確実だろうと中将はみている。 川神の庇護からして、状況証拠は十分だろう? 限りなく黒に近い白は、外からは白としか断じる事ができないというのは、こちらの世界では常識だ。 完璧な経歴で偽る事は、万一ボロが出た時には如何ともしがたくなる。 いくつか曖昧な“穴”を開けておいて、後から都合の良い過去を捻じ込めるようにしておくのがセオリーだ」

直斗と知己であるという現在の首相が川神院の高弟であり、過去に公的記録の改竄が出来る位置……防衛相、外務相を歴任しているという事実をも付け加えられると、

「……どうもきな臭いと、お前がウチを訪ねてきたときから思ってたが、凄まじく壮大かつ物騒な話になってきたなぁ、おい。 正直、俺の手に余るぞ?」と食傷を起こしたような顔を宇佐美はマルギッテに隠さなかった。 

「心配しなくてもいい。 そちらの足取りのほうは中将や私が攻める。 お前には矢車直斗が姿を消す前、どのようにして風間ファミリーと、直江大和と知り合ったのか。 それだけを調べてもらいたい。 ……お前が日頃、直江大和と茶道部の部室で将棋を打っている事は把握済みだ」

それが出来るのは、夏休みまでのあと二週間しかないという事も把握しているのだろうか。 

宇佐美はそう言い返そうとも思ったが、宇佐美には宇佐美の思惑と感傷があった。

「あとひとつのほうだが、言わずもがな、この調査を直江大和に気取られないことだ」

「だろうな。 ……あれに警戒されたりすると、こっちも色々やりにくくなるのは承知してる」

変装を施してまで、事務所に直々に出向いたのはそういう理由らしい。 恐らくは直前に会社を出発した忠勝の姿を見計らっての訪問だったろう。

忠勝には元々、川神妹と同じ養護施設で子供連中の纏め役だった過去がある。 本人は頑なに認めようとしないが、他人の為に働く事を好む性格だ。 それは真実代行業向きの素質で、それを買って養子として引き取ったのだが、しかしそれが甘さとなっている部分もある。 業務、依頼内容の秘匿に関しては昔から口を酸っぱくして宇佐美はそれを厳命してきたが、仲の良い直江に情報を売り込む可能性は、恐らく低くはないだろう。 万全を期したマルギッテの判断は正しい。

そういう調子でコーヒーを啜りながら二三、これからの接触、連絡方法について確認した後、

「いいだろう」

そう言って宇佐美は踏ん反り返っていた上体の体勢を正し、右手を前に突き出した。 

契約成立時の握手は、月並みだけれども、代行業の看板を掲げて以来変わっていない宇佐美が守るべきジンクスだった。

依頼人が俺には居る、その実感を思い出させてくれる生身の感触。

一刹那の接触でも、それは仕事を遂行する上の矜持となり、また教示にもなるのだった。

「……意外だな」

鍛えられた、女性にしては大きな手に自分の手が取られている間に、マルギッテは疑問を投げかけてきた。

「お前は、川神鉄心に雇われている」

そう。 明らかに真実を知っているであろう川神鉄心が、調査に当たっての目下の懸念である事は間違いなかった。

「言っとくがな、職を失うリスクまで負うつもりはねぇ。 だから、お前が期待するほどの成果は保障できない。 ほどほどに、学長の機嫌窺いながら、目の届かないところで分相応にコソコソやるつもりだ」

「断りはしないまでも、お前の事だ。 もう少し、ゴネる……。 フン、例えば、危険が迫った場合の身の安全の保障とか、最低報酬の指定ぐらいはしてくると踏んでいたのだが?」

S組が自分をどんな人間と思ってるか端的に示してる言葉だったが、それに目くじら立てて反駁の言葉を上げられるほど、宇佐美は若くなかった。

「俺はお前の担任だ。 受け持つ生徒相手にそんな駆け引きしねぇっての……と、こう言えりゃ俺も理想の教師なんだろうが、何年か前にはあった、長いもん相手でも、そいつに巻かれずに対等に張り合ってやろうじゃねぇかっていう気骨が、オジサンから抜けてきてんのが実情よ。 少尉殿●●●?」

昔は俺もこのあたりで鳴らしたクチなんだがねぇと、年寄りの愚痴めいた言葉を吐きながら、お茶を濁す。

横滑りの入り口の扉から顔見知りの客が婆さんを呼ぶ声がする。 そろそろ宇佐美も会社に戻らなければならない時間だった。 

「俺も一応、勤務中でな。 どうぞごゆっくり」

安コーヒー二杯分の注文が記された伝票を片手にとって立ち上がって、おばちゃん、お勘定と言い、一歩二歩とレジに足を進めて、





「矢車真一」

そしてこの、背後からの一突きである。

予想外の、自分にとってはとどめの打撃となる言葉を浴びた心臓がひと跳ねして、少々引き攣った顔を浮かべた宇佐美は立ち尽くしたまま、後ろのテーブル席で未だ椅子に腰掛けたまま確かめるような表情を向けているに違いないマルギッテの続く言葉を聞いた。

「あれの父親がこの区域の出身である事は調べた。 知り合いであればと思ってお前を雇ったという経緯もあるのだが」

「……さあな」

気を取り直した宇佐美のはぐらかしの言葉は、再び鳴った出入り口のドアが開く、錆びついた鈴の音に紛れて掻き消えた。 

「誰のことだか、さっぱりだ」

陳腐な台詞をぼそりと呟いて、どうやら今言及したあたりの事を本当に当てにしていたような様子のマルギッテのほうには、ついには振り返らず、レジで首を傾げ始めた婆さんへの挨拶もそこそこに、宇佐美は店を出た。

























初夏の夜空の下、纏わりつく湿った生温い風を肩で切りながら家路を辿るのは、一仕事を終えたばかりの源忠勝である。

彼は丁度、多馬大橋――通称“変態の橋”の、一つ目の橋梁の真上にさしかかったところだった。

この橋の下を流れる水流。 山梨、東京、神奈川の一都二県に渡る河川水系の本流たる一級河川、多馬川が、この川神という街の清濁を二分する境界なのではと、忠勝は勝手に思っている。 清きの象徴の川神院が鎮座する向こう側には安穏、対するこちら側は岸に寄って学園があるとはいえ、すぐ傍の駅を越えれば堀之外の混沌がひしめいている、と、そんな按配の彼の考察だった。

さて、今日も今日とて、その猥雑な堀之外の空気にどっぷり浸かってきたつもりの忠勝である。 

からかわれる事は火を見るより明らかなので直江や風間には絶対に言うつもりはないが、食器の触れ合う音やテレビの音が何処からともなく漂ってくる、そこに日常的に住む人しかいない、と決め込んでいるような島津寮周辺のゆったりとした空気が、仕事の終わり際には恋しくなるものだった。 

兄弟というのは、家という空間とはああいうものなのだと、忠勝は養護施設を離れた今も教えられ続けている。 むしろ、育てられた施設以上にそれを学んでいると思う。 

一度“本来居るべき家”から生まれて間もなく放逐されたらしい自分にとって、同じ境遇である一子たちと知り合った収容所はかけがえのない場所だとは思うけれども、遊び道具だけでなく愛情や友情をも奪い合う生存競争の場でもあって、本能に任せて喧嘩に参加するより指導員と共にそれを治める役に回ることの多かった自分が、正しく“我を通して”生活していると感じるようになったのは、島津寮に入ってから、風間や直江を筆頭とする風間ファミリーに関わってからだった。 このあたりの自覚が、先日起きた騒動の発端や詳細云々以前の話として、忠勝が風間や直江に肩入れする理由になっているのかもしれない。

高校に進学する前、つまり宇佐美巨人に引き取られた頃、入寮費などを気にして、宇佐美のように社宅というより会社の物置然とした空き部屋に住み込んで、そこから学園に通う旨を伝えたこともあったが、それを「お前に心配されるほど落ちぶれてない」と飄々とした口調で却下した養父は、島津寮が自分にとってどんな位置を占めることになるのか、それを見越していたのだろうか。

恋愛以外における洞察力は直江と同等とみえる男であり、彼自身も孤児院の出だ。 その答えもまた、火を見るより明らかだった。

家業の要領も覚え、日々の生活費くらいは自分で稼いで、ほとんど自立したつもりでいる忠勝にその心遣いは少し癪ではあったが、生きているうちに絶対にこの人にだけは受けた恩を倍付にして返してやるという覚悟、それを腹に据える根拠を、より強めるものとなるのだった。



「よぉ。 お疲れだなぁ、忠勝~」

……やはり、似合わない事を考えるものではなかったか。 噂をすればなんとやらで、当のご本人が登場である。

いつからそこにいたのか、橋の中間点で手すりにもたれかかりながら口端を上げて、ひらひらとこちらに手を振っている。

「親父、」と言いかけた忠勝は、欄干にひとつぽつんと置かれた缶ビールを見咎めて、やれやれと溜息をついた。

「一人で酒盛りって……。 なにやってんだ、こんなとこで。 最近、この辺この時間帯、中年狩りがぶり返してんの知ってんだろうが」

しかし、妙であった。

酒を呷る事にはザルを通り越してワクである養父だ。 飲んでも飲まれる事は滅多にない。

へべれけとは言わずとも、少々呂律の回りが怪しい感がある養父の様子は、忠勝にとって珍しいものだった。

「いや、久方ぶりの風呂の帰り………ああ、至って健全なサウナのほうだからな? 勘違いするなよ?」

「そこまで聞いてねーよ。 それに健全つっても、肌に紋々彫った連中御用達だろうが、あそこは。 だいたい、こっちは会社と逆方向だろ。 何しに――」

「オジサンにも、夜風に当たって黄昏たいときくらいあんの」

忠勝はその口調に、それ以上自分を立ち入れなくするような恣意を漠然と感じ取った。 

大人の顔色を見ることに関しては一家言あると言える少年時代を送ってきた忠勝だ。 そういうところも、直江と気が合う部分ではあるのだが、ひとまず置いておこう。

欄干の酒から改めて養父の方を向きなおした。

詰問を遮って、苦笑したその目の奥は笑っていないように見えた。

「……親父?」

「まあ、お前も、ほれ、ちょっと付き合えよ」

そう言いながら足元のコンビニのレジ袋から、少し前に大衆用に新発売された『カップ川神水』を差し出してきた。

反射的にそれを受け取ってしまった事で、親子二人水入らずの雰囲気ができる。 それを破れる忠勝ではなかった。

仕方なしに忠勝も宇佐美の隣の欄干にもたれた。

堀之外の濡れたコンクリやアスファルトから放たれる淀みのある湿気とは別の、河原の草花の瑞々しさを含んだ微風が肌に心地よかった。

いまだ世間的にも夏休みに入ったわけでなく、ちょうど日が変わる時刻にあって、橋を渡る車も今のところ皆無だ。 彼方から届く車の音を除けば、夜気を乱すものもない。 

堀之外の喧騒から帰還してきたばかりの忠勝にとって、夜というのはこんなにも静かなものだったか、と考えてしまうのも無理からぬ事だった。

橋に沿って点々と立つ水銀灯が頼りない明かりを黒い川面に落としこんでいると思えば、さすがに星の数まで違うという事はなかったが、夜空から降る欠けた月の光は、やはり堀之外で見上げるより明るく感じられる。

現在の養父との微妙な距離感も含めて、風流といえなくもないシチュエーションだ。

それでも真夏日――八月に入れば、ここにたむろするようになる碌でなし共に関わるような依頼も増えるんだろうなと、僅かに眠気とアルコールが回り始めた頭でぼんやり考えた後、下の水流へ俯いたまま全く喋らない養父の様子に忠勝は痺れを切らした。

「親父何か、」
「実はなぁ、」

そして見事に重なった口火の切り口である。

そのままこそばゆい感覚でモゴモゴと出しかけた言葉を口内にしまう忠勝と対照的に、愉快そうに更に口を歪めた宇佐美は続けた。

「面倒な仕事、引き受けちまってさ」

しみじみとした、さほど深刻そうでない口調事に少々の安堵を覚えた忠勝であったが、秘密を打ち明ける悪戯っ子のような、そんな年甲斐のない表情を浮かべる宇佐美をやはり怪訝な目で見つめた。

「それ、やばい話かよ?」

「いんや?」と、宇佐美はぐいと缶を呷り、残りの雫を舌に垂らして、すかさず空いているもう一方の手で袋の中を物色して同じ缶を欄干に置くと、器用に片手でプルトップを上げた。

「なんつーか、タイムリーでなぁ」

「あん?」

新鮮な空気を体内に導き入れる、溜息のような深呼吸が行われるさまを忠勝は見つめた。

「……お前の仕事、今日、青空闘技場のほうだったか?」

「……」

脈絡のない話題の選択である。 

しかしテキトーに見えて、実は適当。 
何事も論理的かつ合理的に、どこか悟ったように語る養父だ。 何かしらの意図があるのだろうと察した忠勝は曖昧に相槌を打った。

青空闘技場。 
地元民にはそう称されるが正式名称は堀之外町歩行者天国と言い、堀之外の中心部の十字路にどでんとボクシングのリングが横たわっている地帯である。

体力を持て余すばかりの、日がな毎日惰性で生きている連中の暇潰し場所。 それが忠勝が件の闘技場に持つ印象である。

川神院の者のように、己を練磨するべくあのリングに立つ者はごく少数と聞く。 

魑魅魍魎が跋扈する堀之外町内会からの委託で、忠勝は他従業員数名とともにそこの清掃業務に従事してきたところだった。

「もう二十年かそこら、あそこは現役で居続けてるんだがな。 その前はどんなだったと思う?」

「いや、どんなだったって……、みんな路上で馬鹿騒ぎやってたんじゃねぇのか? 警察が煩くなって、んで、妥協案として商店街のカンパで、あれが作られたって聞いてるけどよ」

周囲に広がる様々な店舗と同様あそこも、いわゆる“ガス抜き”の場である。

風俗業も商売だ。 たかだか一度ひとたび数万円の本能欲の発散で、商売道具を疵物にされることがあってはかなわないだろう。

性欲以外のものの発散の為に、風俗店に代替する施設を取り揃える必要があったというのが忠勝の洞察である。

「半分正解。 ……昔は、地下闘技場ってのがあって、それが法に触らんくらいマイルドになったのが今のアレ。 青空闘技場ってガキ臭ぇネーミングは名残っつうか、その皮肉だよ」

もっともこの町の古株連中にしか通じないがな、と付け加えて、

「お察しくださいってやつだが、今の“青空”と違って組の連中が元締め胴元で、賭場になってたんだな。 素寒貧で地元飛び出して、世の中の日陰って場所に馴染み始めて、喧嘩師ってのが板についてきて、二年くらい幹部の雇われ用心棒やってた俺も、飛び入りで金網ん中に何度か出された。 勝ったのが二、三度。 勝たされたのが一度」 

「親父が、昔はそれなりに強かったってのは聞いてる」

現在も代紋背負ってる連中をはじめ、様々なところに顔の効く宇佐美だ。 何か一芸に秀でていなければ可笑しな話であり、組の武闘派で鳴らしたとあれば納得である。

「それなりに必死だった。 オッズもカッチカチ。 ヤクザってのは面子が命の稼業だ。 直参の懐刀が鈍らじゃ、兄弟分にも子分にも示しがつかねぇだろ? ……まあ、そんな中でもな、楽しくやってたよ。 話せる奴も何人かいて居心地も悪くなくて、飯も三度三度食えたし。 ただ、信じられんかもしれんが、組の仕事がな、どうしても好きになれなかった。 今じゃ人生のもえかすみたいな俺にも、ウブな頃があったもんで。 特にクスリとか、女売り物にするシノギとかは、まるで動物園だ。 猿山の猿の方がよっぽど頭良いだろって思ってた。 だから先輩方にゃお前はもっと上いけるって、親子盃だ兄弟盃だ散々勧められてたが、ずっとお偉いの弾除け、猿山ピラミッドの一番下に陣取ってた。 悪党のてっぺんなんざ、たかが知れてるってな。 ……そう思ってたときに、出会った奴がいた」

そこでしばし言葉を切った宇佐美に先を促したい気持ちはあったが、それまでの養父の述懐の内容もまた忠勝の心に重くのしかかっていた。

自分や一子のように里親が見つからなければ、この国の養護施設は、だいたいが十八で収容する児童を独り立ちさせる。 放り出して、あとは野となれ山となれというのは流石にない。 入居時や大学入学時の保証人になってもくれる。 

だが、それでも二十歳になるまでの二年は法的制約が多く、就職は難航必至。 血反吐吐く思いして学費稼いで勉強する気のない奴は、タコ部屋、フリーターで食いつないで二十歳になったらまだ条件の良いハケンに切り替え。 そしてやっぱりそこから血反吐吐く思いして将来の元手を稼ぐ根性があるかないかで、他の業種に手を出せるか、極貧から抜け出せるかどうかが決まるのだ。 それが、俺達みたいな親のない奴らの大多数が送る人生だ。 だから、その中でも自分は特別恵まれているほうである。

しかし目前の養父の場合、生活していた施設が潰れ、引き取り先は肌が合わず、ひとり出奔して、そのまま裸一貫で川神に流れ着き、受け皿となったのが……、という救いのない話である。 その中でも人の道という一線を守り通してきた男の肩を横目にして、忠勝はそのまま耳を傾け続けた。

「さっき言った、勝たされたって試合の相手だ。 そいつの場合は家を飛び出してきた口らしくて、親の顔も知らねぇ俺としちゃ最初は気に食わなかったんだが、なんつーか、賑やかな奴だったよ。 話好きっていうのかね」

「その言いようだと、ダチになったって感じみてぇだが?」

「……ダチ作るって事が、その他大勢とそいつを引き離してテメーの都合の良いように区別するもんだったら、俺は、誰とも付き合わんよ」

「あん?」






「そう言われたの、俺ァ思い出したのよ。 あの時、直江に向かって、そいつの息子●●●●●●が、啖呵切った時にな」

















酔眼を開け広げて絶句するしかない忠勝に構わず、静かに、しかし何かに憑かれたように呟き続けて、宇佐美は三缶目を空けた。

「笑っちまうよ。 だったら何をもってダチって言えんのかって話だ馬鹿野郎が、」

「親父……」

「まあそんな事思い出したって、俺の何かが変わるわけでもない。 変わってたまるかよ。 俺だって日銭稼ぐのに必死で、そのために生きてて、生きるために働いてきた。 狂犬みてぇなゴロツキから、俺ぁ立派に生まれ変わったんだ。 せいぜい賽銭代わりに忠勝引き取って、たまにタイガーマスクの真似事やって……横から見た他人のロマンに手ぇ叩いて、酒の肴にして……」

息子に向けた語りが、いつしかだんだんと自分自身に言い聞かせるような口上になっていった宇佐美の手の中で、アルミが軋む音が鳴った。

「俺はもう大人なんだ。 愚連隊上がりの爺さん共も一声かけたらチビって腰抜かした、抜き身のギラついたナイフみたいな俺はもう居ない。 堀之外じゃそういう、肩いからせてカッコつけた生き方してた奴らは残らず消えてった。 どうにもならない世の中に慣れて、不自由に慣れて、我慢に慣れて、どんどんどんどん少なくなってく選択肢の中から一番楽で効率のいいもん小狡く選び取って、余った時間は女の尻追っかけて、それでも溜まってく鬱憤は場末の居酒屋で皺くちゃの婆さんに愚痴言いながら無理矢理飲み下して―――、それが大人の生活で、だれでもやってる『仕事』ってもんだって。 ……そう、そう思ってたときに、」

ぷは、と一気に麦酒を飲み切った宇佐美は口を手の甲で拭った後も、もう一口二口と呷る事をやめなかった。 

「その憎っくき仕事の野郎が、今の俺に当てつけてきやがったよっ。 楽して生きてく方法、学園で俺に教えさせたくせに、今度はその教えの結果を見ろってなぁっ!」

カンッ、と拍子木のような音を奏でて、欄干に並んだ空き缶は四つに増えた。

「面倒だよ本当に。 だけどな、ああ、そうさ、それでも断らなかったのがこの俺だ。 やってやろうじゃねぇか。 なんてったって仕事だからな。 生きてくための金が入るもんな。 それが、大人の義務ってもんだもんな。 だから大人舐めてんじゃねぇぞシャバ僧どもが」

「……飲みすぎだ。 さっさと会社戻って寝てろ。 明日も学校あんだろうが」

自分がどんな言葉を口にすればいいのかわからない時間が続いたが、ひとまず収拾がつかなくなりそうな養父にそう言って、ジャケットの袖を引っ張り、覚束なくよろめいた酔っ払いと肩を組んだ。

振り向いた赤く濁った目に、一発貰うくらいの抵抗をされるかと思えば、そんな事はなく、宇佐美の視線は弱弱しく下がっていった。

先ほどの気炎が嘘のように掻き消えて、しょぼついて充血しきった目が、ガムがへばりついた路面に向かっていった。

……この人はそうだ。 引き取られてからこっち、一度も手を上げられた事はないし、さりとて腫れ物に触るような歓待もなかった。

安易な同情だけではなく跡継ぎを育てるという打算があるということを、出会った初日に開けっ広げに語った宇佐美巨人という『大人』を、そういう大人だからこそ、なんだかんだで忠勝は尊敬していた。

「……そいつ、どんな奴だったんだよ。 親父」

それでも、道端で眠られた四十絡みのオッサンを背負いながら堀之外の大通りを歩く羽目になるのは願い下げだった忠勝は、相手の瞼を閉じさせないように会話を再開した。

加えて、知りたい、とも思っていた。

誰だって多かれ少なかれ、自分を殺して生きている。

あちらを立てればこちらが立たぬ、そんなもどかしさを淡々と受け流し、世相ってやつを受け止めている。

やはり養父と同じく、学生と会社員という二束の草鞋を履く日々の中で、そう理解し始めていても、そう悟り始めているからこそ、忠勝は興味があった。

自分を殺す事を止めたとみえる矢車直斗、その父親。 

宇佐美巨人が過去に出会った男。


「……」

「聞いた限りじゃ、風間みてぇな奴っぽいが」

うなだれたままの宇佐美に、忠勝はとりあえずわかりやすい例を挙げてみた。

「……そうだな、そうかも、……いや、やっぱ違う、か?」

「俺に訊くなよ……」

すっとぼけた声と相変わらずの適当さに脱力して、ほろ苦く笑った。 

「てめぇらの人間学を受け持つ講師らしく言えば……、そうさな、確かに風間とは似てるが、まあやっぱ違うんだよ」

「そりゃ、違うだろうけどよ。 雰囲気とかの話だって」

「なんてーか……、ほら、風間は、てめぇが気に入ったら、他の奴らの外聞も気にしないで生身のそいつと付き合える男だろう?」

「……ああ」

「多分、違うんだよ、それとは。 でかい図体武器にして世間を渡ってきてても、本当は気が弱くて、お人好しで、みんなが喜ぶとわかると貧乏籤でも進んで引いて馬鹿やって。 人間誰だって、敵味方って分けたがるけどよ。 あいつ、わかってたんだと思うんだ。 どっちもどっち。 人間誰も、大して変わりゃしねぇってこと。 そんな感じで、誰彼構わず仲良くなってって………、だから俺ぁ、わかる気がすんだよ。 あいつの息子が、なんであそこまでキレてんのか。 捻くれ具合じゃ、俺と直江は良い勝負だ」

「……直江は、」と反駁の声を上げかけた忠勝だったが、続く養父の声がそれを萎ませた。

「けどな、それでも、直江が悪いとか、誰かが悪いなんて事が、あってたまるかよ。 俺にだって意地はある。 多少卑怯で汚ねぇやり方でも、こうやって楽しく生きてる。 代行業にだって誇りをもってるさ。 清濁併せ呑んでの人生じゃねぇか。 固ぇこと言ってくれんなよ……」

「……」


そんな調子で堂々巡りとなった養父の論理がしばらく続いて、その会話が途切れてしまった後、忠勝は、残してきたポリ袋と無数の空き缶は帰りに拾えばいいと判断して、先ほど一人で来た道を、今度は二人で戻った。





契約書に念押しされているだろう、いやそれ以前に代行屋の看板を掲げる上での信念とすらしている守秘義務を、日頃は妥協の塊のような父がこれほど荒みながら、そこを曲げてまで自分に伝えたいものはなんなのか。

尋ねるようなことでもなかったし、訊くまでもないようなことのような気もした。

けれども、川神大戦までの間、その思索の中で何を思いついても、それを自分の胸に留めておく決心を忠勝は固めていた。 

親の最も隠したかろう恥を、痛恨を、ぺらぺらと喋るのは息子のやる事ではない。 そう思えるほどの成長を忠勝は遂げていた。

直江を、一子を、風間ファミリーを裏切ってS組につくなんて気も、また皆無だった。

どんな思惑や真実が明らかになっても、あの連中と築き上げてきた信頼や情熱が、いまさら消え去る事はない。 そう思えるほどの時間を忠勝は過ごしてきた。

その時間を与えてくれたのは、今横で低い声で唸っているグータラな親父だった。



「明日も、寝不足だな……」

源忠勝は漂う酒臭さに顔をしかめて、足を交互に動かしながらも器用に寝息を立て始めた父親の隣に寄り添い、仕方なく、昼と夜が逆転した街へと歩いていった。






























伊予ルートの分岐を見直したら、ジャイアンツって他球団ファンから本当に嫌われてんだなと改めて実感しました。
小学生の時の、マルティネスとか松井とか江藤とかの時代は好きだった。 今も悪感情ないけど。  

地元に犬鷲軍団ができたので、現在はもっぱらそっちのファンです。




さて、今作品での宇佐美の出番は恐らくこれで終わり。 
親父関係で主人公に話しかけようとしてたけど、なんか情けなくてめんどくさくてズルズルになっちゃったヒゲでした。

ヒゲの愚痴書いてたらいつの間にか文量がいつもの倍近くになっちまった……汗

展開が遅々としてて申し訳ないですが、今回はマルギッテさんとかちゃんと動いてますよ回、みたいな。

今回の更新にあたってゲンさんの内面に近づこうと孤児院やら養護施設やらの内情調べたけど、ほんと自分は恵まれてるな、と。

成立することも少ない養子縁組もいろいろあって、ワン子とかゲンさんとか、孤児としちゃ幸せな方なんだな……







[25343] 第三十九話:下拵
Name: かぷりこん◆273cf015 ID:94f5cb7e
Date: 2012/06/09 15:41



『陰口をきくのはたのしいものだ。 人の噂が出ると、話ははずむものである。 みんな知らず知らずに鬼になる。 よほど、批評はしたいものらしい。』

―――小林秀雄






















【速報】俺達の夏休みが早くもスタート!



―――夏休み突入したわけだがおまいら

―――甘いな、俺なんか生まれた時からsammar vacasionなのだ

―――お、おう…

―――>>2 ちょsammarとかw 早速今日の踏み絵ktkr

―――さすがに釣りと思われjk いい歳してつっかかんなよ

―――俺達の風間さんが夏は沖縄って騒いでたわ滅亡しろ 誰かあの腐的なチート主人公補正どうにかしてください

―――はたから見てても羨ましいよな むしろ清々しいよ、アレ含めたFの九人組

―――新加入の面子に栗とか尻とか、なんなんだよorz……

―――筋肉そこ俺と代われ、マジで

―――あれ九人? 八人でなくて?

―――>>10 裏板は初めてか? まずは風間ファミリー(笑)スレのテンプレ読んで来い なんか居たじゃん、チビじゃなかったらエロゲの主人公になりそうなのが

―――なるほど、ギャルゲエロゲその他ADV御用達の無個性プレイヤーキャラ的な奴がいるのか

―――つまりは俺たちの分身、ここに巣食う魑魅魍魎の妄想が結晶具現化し(ry

―――ナ、ナンダッテー!?

―――>>10 師岡な、俺普通に喋るけど一度聞いた感じだと幼馴染ェ……だが安心しろ、あれに女押し倒す度胸ねぇよ

―――むしろ押し倒されそう……








                   男に。

―――アッー

―――ウホッ

―――どっちかっつーと、エロゲはエロゲでもntrゲー主人公

―――なんだろう。 あるあ……ねーよ、とも言えないこの悲しさ……

―――メインヒロインは京タソとか名前を言ってはいけない例のあの人とかですねわかります

―――これ以上ないほど特定余裕ですた

―――ヴォルデモモーヨさんオッスオッス

―――おい、そっちに修行僧いったぞ

―――あの二人と直江の絡み間近で見て何とも思わないのかね>師岡含め他男性陣

―――とりあえず風間はテンツ疑った方がいい

―――そう思ったほうがこちらの精神衛生上よろしいなw

―――直江君のあの絶妙なポジショニングには脱帽です爆発しろ

―――憎めない憎い奴だけど、なんだかんだで旨い汁吸ってそう 

―――……し、汁、だと? はい先生それってどんな味ですかどこから出てr

―――嫉妬厨乙、ピンキー池馬鹿野郎ども 夏休みスレだっつーの 

…………もうやめてください、本当にもうやめて、お願いっ、なにも、もう何も聞きたくないんだっ

―――マジレスか……いやすまんかった

―――気持ちはわかる、涙拭けよ。 そのべったべたの鼻汁もな

―――あ~あ、リア充見てると胸が苦しくなるわ 俺の人生どこで狂ったんだろうな

―――いいじゃん、今年は。 なんか知らんが基地外が沸いて、おかげで毎朝スパッツ視姦しながら山登りできんだからよ

―――兎跳びは反則だおハァハァ

―――だな。 最初は拷問だったが、速く走れば走るぶんだけ、先頭で跳ねるリトルピーチがビッグになってく事に気づいた俺に死角はなかった

―――そこに気づくとはやはり天才かっ……。 というか、もしかしてお前、毎回俺とデッドヒート繰り広げてる?

―――>>29 晒さないで/// というかアンタも天才だったことを自白したわけで

―――>>30 おkおk把握 やれやれ、お互い大変だよな どう足掻いても、涼しい顔の下で必死こきまくってるっぽいタッちゃん副隊長の前には決して出れない訳で、ここにも幼馴染補正が(ry

―――まあなんだかんだで青春してる感はあるよな

―――実際午前中は大概暇だし、体起こすには良い感じだ。 直江の受け売りだけど

―――そして健康系微乳妹どストライクな俺は昼からメシウマだ ……あ、色々垂れ気味っぽいお姉様は結構d

―――そしてその後、>>31の行方を知る者は誰もいない

―――犠牲者は増える一方だな

―――皆さん訓練されてますなー

―――ワン子ちゃんペロペロ

―――クリ吉ペロペロ

―――S組ザマァww

―――>>26 基地外っつーか、うん。 真性DQNだよなあれ

―――マジレスすると、モモ先輩ファンとしても直江に味方するのも已む無しって思えるくらいひどい

―――モモ先輩は諦めろ 直江大和に先んじて先輩の舎弟になれなかったのが運の尽き 正直あのカップリングは公認みたいなもんじゃん 双方満更でもなさそうだし 付き合うつもりないのに耳たぶアマガミってどんなエロゲだっていう話だ氏ね

―――うるさいカプ厨失せろうるさい。 夢見たって、いいじゃねえかっー

―――じゃ京さんは僕がもらっていきますね

―――しかしあのシリアスな場面で島津がズッコケたのに一瞬笑っちまった

―――クリ吉の柔肌に手を触れた。 即ちあやつは万死に値する

―――っていうかお父様が戦車で乗り込んでこないのが不思議でたまらんのだが

―――キッスぎりぎり 番犬○さんが居なくなったのを見計らったような暴挙であった

―――学長が揉み消してんでね? 一応あれでも川神の弟子wらしいし

―――持つべきものはコネですかああそうですか

―――コネと言えば、結局S組参戦の件

―――予想されてたけど、冗談抜きにして燃える

―――戦力差も実際わかんないらしいし

―――矢車フルボッコタイムでないの? ソースどこ

―――ん、大和と今メールしてた。 長々言ってたけど要は外様の助っ人が不明ってことと、ルール鑑みて大戦中に大規模な裏切りもありえること。 今のところどちらの手の内も不確定だから戦況は五分五分と見るべきらしい。 先にネタ掴んだ方が勝つって張り切ってた。 親しく友達やってるつもりだからな、素直に応援しようと思った。

―――自分語り乙
 
―――Sといえば九鬼もそうだが葵もいるしなー。 こりゃわかんねぇぞ

―――直江軍に生徒ほとんどが参加してるように見えて、そん中のそれなりの人数はspyってこともありえるわけ

―――いやでもさー、こっちにはビーム撃てる先輩がいるわけで、結局は殲滅戦で終わりそう

―――そのへんは軍師さんがどーにかこーにかおもろくするんでね?

―――榊原さんに蹴られたい。 それが直江に与する俺のジャスティス

―――全誠力ニモオヨバナイモンダトナー

―――全精力だろ言わせんな恥ずかしい

―――もうそのへんのくだりは許してやれよ お前らだってあったろ、そんな時代が

―――いや絶許










―――にしてもあのDQN、ど~んな夏休み送るんだか

























無月の、夜だった。

辺りの森林と、大地を各々仲良くわかちあっているような、環境と見事な調和を醸すログハウスを発った板垣天使が沿って行く方の川岸は、傍らから立ち昇る水気を吸い鬱蒼と生い茂る緑を左手にして、ずっと上流のほうに灯りが燈っているだけで後は闇だった。

見慣れたコンビニエンスストアの冷え冷えとした電光も、古ぼけた自動販売機が投げかける白茶けた色彩もそこにはなく、少し赤みがかった、見るだけでこちらに暖を投げかけてくるような橙の光芒を向こう唯一の目印として、天使はLED電灯を片手に歩みを続ける。

夜気は生温く、足元の闇の底のほうに白いものが漂うように見えるのは、川霧が湧いて地上に這い出ているからだ。

その広範囲が同じような色の濃厚な化学スモッグに覆われる川神南部の重工業地帯の一角に板垣家は居を構えているが、それでも舗装された路上を行き来する生活を送ってきた身。 拳大の小石というより小岩が敷き詰められた河原には、日中でさえ足を取られやすいもので、今現在のコンディションではどうだと問われれば、返答するのも何を況やである。 

「ああ、うざってぇなっ」と頬の血を吸いに来た蚊の気配に平手を食らわせた。

一刻も早く中に戻りたい天使は、立ち止まって大声で呼びつけようとも考えたが、それが先日徒労に終わった事を思い出して、うがーと奇妙な唸り声を上げて砂利を蹴る。

周りの音も聞こえなくなるほどの集中は結構だが、いくらなんでも、こんな夜まで寝床から二百メートルはゆうに離れた水流に身を浸しながらの鍛錬など、馬鹿馬鹿しいにも程がある。 いちいち呼びに行く身にもなりやがれ。 師匠も師匠で、むしろ日中に、夜の孤練の余裕すら奪い去るくらい徹底的に痛めつければいいのだ。 

食器洗いに勤しむ使用人に呼びに行かせるのは忍びない、という遠慮はこれっぽっちも持ち合わせない天使であったが、これは釈迦堂の命である。 決して断じて全く以って、駄賃代わりの食後の甘味なるものに釣られた訳では、ない。

発光分の気体燃料を絶えず供給し続けるガスランプ特有の、蛇の啼き声のようにも聴こえるLPガスの注入音が耳に入る。

しな垂れかかるコメツガの枝を掻き分け、やっとのことで件の男の姿形が視認できるところまで至り、「おい、コラ」と皮肉文句の一つや二つ、言い聞かせてやってもよかろうと呼びかけた瞬間のことだった。




注視していた水面に浮かぶ人影の半身が、漆黒の中ぶるりと震え歪み、ずるりと、そのまま溶け落ちたように思えた。

在りえない、起こりえない怪異である。

脊髄に水雫一滴を直接垂らされたような感覚に鳥肌が立ち、

―――あ、こ、これってアレか、狐につままれるってやつ……あれ、つつまれるんだっけ? ていうかアイツどこ!? 

と脳が働きだして自分の眼を疑うやいなや、



「……ぬ、ぬぁあああっ!?」



瞬間、銀の飛沫が燦然と輝き、霧の瀑布が黒い水面からこちらに吹き抜けてくる――――――









これ何十インチ?な大画面の薄型テレビ、CMで見たうるるでさららなクーラー、でかくて柔らかいソファとベッド、旨くて美味い朝飯昼飯晩飯。 食器洗いどころか掃除の必要すらなく、脱ぎ散らかした衣服はいつの間にやら洗濯され、たっぷり糊が効いて就寝前の寝台の上にショップたたみで置かれている始末だ。

修行という名目でこの辺鄙な山奥に来ているとはいえ、実際に天使が外で体を動かすのは一日にせいぜい五~六時間といったところ。 釈迦堂が教義が一つ、「好きなもんを好きなだけ」は、間違いなく実践されていた。 

空いた時間は、ほんの少しだけ真面目っぽい師匠や、時折“起きた”状態の二番目の姉――板垣辰子相手に、逃げに徹すれば小一時間善戦できる程度の実力が発揮されるさまをバルコニーから眺めたり、たまに来る頭がお花畑っぽいピンク色のゲーマーと格ゲー三昧。 

板垣家に限らず人の欲が大きく曝け出される季節にあって、書き入れ時に職場を長く離れられない一番上の姉――板垣亜巳は、それでも三日に一度の頻度で様子を見に来ては、ちゃっかりその日の昼と夜の食卓に並んでいたりする。 交通費は馬鹿にならないが、それを差っ引いても余りあるもてなし●●●●だ。 稽古相手――曰く、其処此処においそれと転がっていない心身ともに頑丈そうな被虐者ひょうてきを、それなりに気に入ってもいるらしい。

どことなく、自分というか、板垣三姉妹全員に共通する性分のようなところで“しんぱしー”とかいうヤツを感じられずにはいられない釣り目のメイドが、野球中継の時分にやたら騒がしくなる事以外に不満らしい不満も無く、生涯で随一なくらいの居心地の良さに、逆にこれはどういう詐欺なのかと本気で件の男と師匠を問い詰める事さえした。

ボロアパートで荷造りに勤しむ三姉妹を前にして、暑苦しい山奥なんぞで更に修行と聞いては、小馬鹿にして誘いにも乗らなかった兄の竜兵はいい面の皮である。 此処に乗り込まれると恐らく色々と面倒になるのは解り切っているので、たまに来るメールにとりあえずは「暑い。足痛い。虫キモい。はよ帰りたい(泣」と適当に返信して、うっちゃっておく。




さて、朝から晩まで肉体を痛めつける目の前の真性のマゾヒストが現在天使が享受する奢侈を都合した事には、まあ感謝してやってもいい。

しかし、その度々の刹那的欲求を第一に考える天使の口を以って言わせれば、「“それ”と“これ”とは話が違う」のである。

そう。  ――――たとえば檜の香が薫る大浴場で気持ちよく汗を流し、世界が嫉妬するらしい髪になった後に、生臭い冷水を頭から爪先まで全身に余すところ無くぶち撒けられた日には、特に。





……必定、板垣家が三女――板垣天使はもはや、咳き込みながら沢蟹を岩場に戻す矢車直斗の顔面に狙いを定め、そこに足元でぴちぴちと痙攣し続ける鮎おぼしき物体を叩きつけるより他の処方など、何一つ思いつかなかった。






















冷たい淡水が全身を包む。

チリチリ……と鼓膜を圧迫する水圧の音が聞こえ、すぐに高血圧気味の頭が痛み始める。 つい連鎖的に肺の中の酸素を音にもならぬ呻きと共にほとんど吐き出してしまった。

直前に放った“奥の手”の一つのために、両耳の半規管、前庭が共に一時不調に陥っているようで、前後上下左右の感覚は消失し、とかく流動する水の中では、腰丈ほどの深度といえど、この体調では人が溺れる事もさもありなんというものだった。

加えてこの闇夜だった。 どうやら唯一の光源だったランタンの灯は今の拍子に転げるかして切れてしまったらしく、自明として視界は黒色で塗りたくられていた。

視覚が封じられ、平衡覚さらに回転覚をも狂わされ、酸素の供給も断たれた刹那の恐慌の中、無我夢中、出鱈目に振り回した両手足によって取っ掛かりを探り当てる。 それが何かを確かめる余裕は無かった。 とにかく本能的に、握ったまま離さずにいた鈍らを片手にもう一方の手で手がかりをつかみ、渾身の力で引き寄せる。 苔か藻が張り付いた岩に手を滑らせ足を滑らせ、なんとか水面から顔を出すことに成功する。

貪るように空気を吸い、五感が一挙に鮮明になった直後に盛大に咳き込んだ。 肺や胃の中まで達した水が涎や鼻水と一緒に吐き出され、ひとしきりむせ続ける。 ああ今のは本当に不味かった。 やはり夜の河川というものは、油断ならない。



……どういうわけか孤練をするなら、と釈迦堂は俺に川の内での鍛錬を断行させる。 この丹沢に来てから一日も欠かしたことは無い。 単純なフィジカル、体幹感覚の強化が主目的ではない、ような気がする。 果たして如何なるカラクリがあるものかと、不器用者なりに察する努力を惜しんではいないつもりだが、未だ報われていなかった。 それどころか気管に入った水に肺を灼熱させられて、理想を抱いて溺死するところだったのだ。

まあ、しかし今のは全面的に俺の過失であった。 今日一日の疲労が積み重なった極致にあって、真下の水面に向かってアレを振るう暴挙に出たのは、気まぐれとしか言いようがない。 

下半身が水に浸かりっぱなしでは低体温症になる危険があるので、時折岸へ上がって小休止を取ってきたが、そのような用心を働かせる冷静さも、この疲労の前には霞んでしまったようだった。 結果の予測を怠ることは、兵法に照らしても下の下だ。 反省しよう。

院を出奔時に有難く頂戴した小笠原印の和菓子で消費血糖を補填、いらぬ脂肪摂取を避けつつ血圧を上昇させる漬物蒲鉾を挟んだ食パン一斤分という最強コンボを岸辺に置きつつ臨んだ本日夜の個人修練は、ここで仕舞いと相成った。

今の転倒で柄部分に引っついた親指大の沢蟹を岩場に落としこむと、目端に過ぎった飛来物にシュタと手を掲げた。

キャッチ、アンド、リリース。

三拍子を踏まれた要領で、あらぬ方向から飛んできた稚魚は川に復す。

同じ按配で「テメー、このマゾマゾ野郎っ」と、同方向から飛んできた罵声は夜空に還る。




「……」




――居たのか。 




見れば、濡れ鼠の様相で両肩を抱いてぶるりと身震いしながら睨む天使だった。  

どうやら溺れかけた不覚は気取られなかったようだ。 気取られたからといってどうという事もないが、口さがない事この上ないこの年下に、間抜けなところはやはり見せたくはない。 

「何か用か?」

夕飯の分け前が減るような真似を彼女が進んでする筈がなく、もはや夕飯時という時刻でもない。 食卓へ俺を相伴させる為に来たわけではあるまい。

酒の酔いにほだされた釈迦堂曰く『ねだるな、勝ち取れ、さすれば与えられんっ』を地でいく彼女らの食事風景は記憶に新しい。 

高級カルビが、牛タンが、ハツが、モツが、ホットプレートの直上で竜巻のようなカットバックドロップターンを鋭く決めながら踊り狂い滞空し、それを巡って何対もの箸々が激突を繰り広げ、火花を散らす……。 

初日のこのバトルに、時間と労力の明らかな空費を感じ取った賢しい俺は、ベニさん(久遠寺のメイドの一人、朱子べにす)へ以降の俺の食事は別口にして貰いたい旨を即刻具申した次第だ。

衣食住の全てにおいて、もたらされる厚意の数々に、ますます久遠寺家には足を向けて寝られなくなってしまった。

「何か用か、じゃねーよっ、ウチのぷりちーな寝巻きが台無しだろうがこの野郎!」

「それはお前のじゃない。 未有お嬢様からお借りしているものだ。 ……ああ、そう考えれば本当に済まない事をしたな」

「てめぇ……それ、真剣マジで言ってんじゃねぇだろうな? あ?」

ああ、良かった。 ゴルフクラブの類は持ってきていない。 

あのチャーシューメンアタック、人体頭部への撃ち抜きフルスイング護身術(笑)は、今の鉛の体で避け切れるか微妙なところだ。

舌を出して苦笑いでやり過ごしながら岸辺に上がり、「悪かったな」とボストンバックにあった七浜ベイ背番号2のロゴが入ったタオルを投げ渡す。 あいにくフェイスタオルだが、無いよりマシだろう。

憎まれ口に天邪鬼で返したやりとりは、これで何度目だろうか。 

気兼ねのしない、こいつとの喧嘩にならん程度の“ジャブ”の撃ち合いは、ひどく懐かしいようで、それでいて新鮮で、その心地よさがこそばゆくて、そのこそばゆさが心地よくて。

「へへ、ありがと♪…よぉおおっとぁッ――!! ヒャッハーッ、ざまぁww!!!」






だから、まあ、その、なんだ? 



だから、彼女の溜飲を下げるために、一発くらいあの『天使のような悪魔の蹴り』を叩き込まれても構わないくらいの余裕はあった。

だから、その過剰な勢いから再度水流に身を投げ出された自分の無様にも、綽々と笑みを浮かべていられるくらいの度量を持ち合わせてもいた。





だから、この一年、風間ファミリー向けに造り慣れたその『天使のような悪魔の仮面』のまま油断を誘い、電光石火の早業で踝近くの裾を掴み、河童の如く彼女を水中に引きずりこめたわけである。




















岸に上がろうとする手や足や袖や裾の引っ張り合い。 その戯れが一段落して、帰りの途につく。

なるたけ絞ったとはいえ、やはりたっぷり水気を吸ってピタリと体に纏わりつくようになったスウェットをものともせず、絶えず数歩先を往く天使の背中を、俺は見つめていた。

両手を腰の後ろで組み、膝をほとんど曲げずに、すらりとした足を交互に投げ出すように、のんびりとハナ唄を吹かしながら砂利を踏みしめてゆく挙措は、歳相応の女子のそれで、先ほどののいがみ合いなど、もはや忘却の彼方。 無意識に頬が緩んだ。

度々の恨み辛みを、今のアトラクションのようなものであっさり代謝できる。 
いわば“心を洗濯する”という作業において、彼女の素質は群を抜いているだろう。 こういう才覚が百代にもう少しあればなと、切実に思う。 

大和への教導、証明と並列して、百代のそれを補うための川神大戦でもあるのだが、さて、どうなることやら。

規則的に揺れていた蜜柑色のツインテールが一際大きく弧を描き、透明の雫が振り撒かれた。

チロと剥かれた八重歯の白がきらめき、振り返られて、前触れなく合わされた屈託のない視線にどきりとさせられる。

「なんか、さっき変なメイドが来てよ?」

少し仰け反ってしまった体勢と気を取り直して、ほう、と内心で唸る。 

さて、メイドというからには男装バトラーの南斗星さんではなかろう。 加えて勿論、天使はベニさんとも既に顔合わせは済んでいる。

「もしかして上杉、……美鳩さんが?」

久遠寺森羅の婚約者、上杉錬の姉にして、久遠寺家の次女、久遠寺未有の世話役筆頭の彼女以外に、俺には心当たりはなかった。

「……あー、ネーミング的に多分それ。 なんか軽くガンつけたら、くるっぽくるっぽ言い始めた」

一瞬引き攣った口端を見て取って、「んで、鳩デコピンでも喰らってきたか?」と、そ知らぬ顔で呟いてみる。

「いっ、」と反射的に額を押さえ、眉をへの字に天使は固まった。

図星のようだ。 またもニヤつきが自重できなくなってくる。

「ふふん。 あの人の北都鳩拳は俺でも見切れん。 なに、気にすることはない」

「オ、オメーが偉ぶれることじゃねーよっ」

ロリコニア、ショタコニア、さらにシスコニアと同次元に在るといわれる国、ブラコニアの国技たる北都鳩拳の奥理は、ひとえに弟への慈愛である。 なるほど、愛ある拳に防ぐ術はなし。 相手は死ぬ。

どうやら天使は、手荒い挨拶に手痛い愛殺法を以って返されたらしい。 

一人っきりの弟がもうすぐ婿に行ってしまうという悲喜こもごもの感情のうねりも加わった指突の威は想像を絶する。 川神流・指弾弐式にも匹敵しうるのではなかろうか。

「な、なんかあいつ、師匠の声聞いたら急に不機嫌になって、そんで……ブツブツブツブツ」

「んで、結局なんなんだ?」

シュンと音が聴こえてきそうな、いじらしくアヒル口でうな垂れる姿に、先を促す言葉をかける。

「んあ……っと、そうそう。 んで、なんかそのメイドが、採寸がどうたらって……。 師匠に聞いたけど、お前、マトイ造んだろ? 夜露死苦とか愛羅武勇とか天下無双魔阿斗戦覇者とか震天裂空斬光旋風滅砕神罰割殺撃とか背負いながら暴れるってのは、昭和なロマンだな~、オイ?」

いつもの調子を取り戻した後半の冷やかしの口調に胸をくすぐられたが、マトイ――俗に言う特攻服のことで、まあ広義的に解釈すれば、俺が準備するのもそれで間違いはない。 ご指摘の通り、デコレーションも入るしな。

「呼び出しは、それか。 いや特攻服というか、実用的なコスプレ、みたいなもんだ」

「んだよそれ?」

「見てのお楽しみ。 一週間もすれば仕上がるらしいし、お披露目はそのうちな」

「はっ、メイドインメイド。 いいフレーズだぜぇ♪」

痛いところを衝かれて、思わず顔をしかめる。 だがこの負い目は、笑って誤魔化してはいけないものだ。

食費光熱費等々の金銭面の埋め合わせはした気ではいるが、使用人の派遣に関しては別である。

「都合良く世話をかけてるのは承知してる」

「言っとくけどウチらは遠慮なんかしねーからな。 セレブセブンティーン舐めんなよ……けけ」

「構わんよ、お前らが我儘言う分にはな。 久遠寺のほうも納得ずくだ。 むしろお前らには、申し訳ないと思ってる」

それを合図に、いつの間にか止めていた歩みを再開する。 

「申し訳ないって、何をだよ?」

「師匠取っちまって、あと、こんな山ん中まで引っ張ってきちまった、とかな?」

「なんだその疑問系。 つーかウチら、迷惑かけてもかけられてる覚えはねぇよ」

「それでも、俺の都合でお前らを振り回してる事は変わらない。 ……お前らが困らないからとか、得してるからとか、そういうのは別として、それでもスジってもんがある」

一昔前の任侠映画のようなセリフに、我が事ながら“痛い奴”だなと思う一方で、いま言った言葉を信じ続けているからこそ、それは待ち受ける闘争の原動力たりうる。

続く天使の返答には意識を向けず、待ちぼうけを食っているだろう美鳩の下に一路、足を速めた。








そうして装束を拵えた後には、戦うべき理由を、より深める事になるだろう邂逅が謀略が、間近に迫っている筈だった。
























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アニメ:ギルティクラウン、シュタインズゲート、Fate/Zero

ゲーム:シュタインズゲート、シュタインズゲート~比翼恋理のだーりん~、Fate/stay night -Realta nua-

小説:シュタインズゲート円環連鎖のウロボロス①②、Fate/Zero①②③④⑤⑥

その他:シュタインズゲートドラマCD α「哀心迷図のバベル」及び同名β「無限遠点のアークライト」


この二ヶ月で購入し、視聴及び読破した作品の名を以って、遅筆の理由とさせていただきます…
虚淵テキストのおかげで厨二描写に強くなった、気がする。

そしてエクシリア2発売確定!

ヒロインは八歳児♪ 
キャッチコピーは「少女のために、世界を滅ぼす覚悟は在るか?」

……どう考えてもテイルズオブロリコニアだよ爆発しろっ





[25343] 第四十話:銃爪
Name: かぷりこん◆273cf015 ID:94f5cb7e
Date: 2013/02/18 08:16
『戦うことが罪なら、俺が背負ってやるっ!!』

――乾巧 「仮面ライダー555」より





























風間ファミリーにとっての中枢拠点が、かの廃ビルの一室であるのならば、マロード一派にとってのそれが、この場所と言って差し支えないだろう。 

重工業地帯・川神新町の玄関口に位置する、建造中の多目的娯楽施設“チャイルドパレス”。 その最上階屋根裏の一角に存在し、オープン後の予定としてはネットカフェや警備用の電算室となる予定(あくまで名目上であるが)の大部屋には現在、住人が全て居揃っていた。

天井の高い小振りなプラネタリウム、という表現がこの部屋にはしっくりくる。

ほぼ円形に広がる部屋の直径は十五メートル。 窓のない壁は外側に向かって弧を描き、床面積より一回り小さい円形の天井を支えている。

照明は小型の常夜灯タイプが六つ、均等に天井の円周に沿って散りばめられているが、いずれも明度を抑えてあるらしい。 二階分の高度から照らすには十分な明るさとは言えず、琥珀色の薄明が部屋全体を淡く染めていた。

それでもさほど暗く感じないのは、壁面に埋められたモニター群から発される液晶の光が煌々と照っているせいだろう。 小雪は主にテレビ観賞やインターネットの閲覧用に使用しているが、それ以外の用途、――例えば、川神市の至るところに張り巡らされた監視機器からの受像、はたまた本人のそれとは別名義によって行うお遊び程度の株の売買などに用いられる三〇インチ大のモニターは十数台、壁の四半分を覆う形でびっしりと設置されており、ハニカム構造――蜂の巣に似た格子模様に、海岸でフジツボを見たときのような鳥肌が立つ思いを井上準は幾度か味わっている。

この部屋唯一の欠点といえる水周りの不便があるとはいえ、空調、冷蔵庫、電子レンジはもちろん、樫材のデスク、ガラス張りのリビングテーブル、本革のロングソファなどの高価な調度品も完備されていた。

だが、井上準は知っている。 

ここは稚気めいた仲間うちの“ひみつきち”でも、心身をリラックスさせるプライベート空間でもない。 



――ここは、玉座だ。 



川神周辺を飛び交う何千何万という声、感情、打算、欲望。 

ありとあらゆる個人、ありとあらゆる団体が発信する情報を任意に呼び出し、それらを並列し、俯瞰し、流れを見極め、次なる干渉の一手を思索するための、玉座。 その結果、堀之外を中心に据えたアンダーグラウンドに君臨する王のための、玉座。 

黄泉の国、グソウの門より出で、常世の迷えるマブイ――魂を抜き去る男衆。 

その名を以って、マロードと称する男は今、モニターからもたらされる情報の奔流に浸っている。

安楽椅子にもたれて、手元のコントロールパネルを指先で不規則に突きまわし、めまぐるしく入れ替わる何十種類もの映像のモザイク模様に冷めた目を向けている。 

偏った思想をさも公共の意見然と垂れ流すニュース、身勝手で無責任な感情論を声高に振りまくワイドショー、茶番に茶番を重ね続けているようにしか思えないクイズ番組、たかが歌い手との握手や投票の権利をより多く得んがために生じた欺瞞に満ちるオリコンチャートに順じてカウントダウン再生を行う音楽番組エトセトラエトセトラ――。

幾百もの声が四方のスピーカーホンから沸き続け、恣意に満ちた光と音の洪水が棒立ちの身に降りかかってくる。 

そして、

「そろそろですね」

抑揚を欠いた小さな呟きだったが、五感を押しひしげる音と映像の中でも、その肉声は明瞭に響いた。 

モニターの向こうで何人が同時に喋っていようと、生身が発する声の響きは判別がつく。 

かれこれ十年来の付き合いになる“友達”の声であれば、なおさらだった。

ユートピアの首魁の、微かに赤く濁り濡れる目を盗み見て、

「……川神駅にゃ、もう着いたってよ」

そう言ってから井上は脇のサイドテーブルに取り付き、引き出しからマイクを取り出し、交信のセッティングに入った。

ちり、と静電気が爆ぜる音が聴こえ、目をやると、小雪が薄く埃が積もった画面の一つを撫でていた。 

そして「久しぶりー♪」と、画面の中の矢車直斗のむつくれた頬に向けて、えいえいと指を突き回す。

無意識に強張った指先を、井上は、一度拳を握る事で誤魔化した。





施された目隠しの闇の中に、あいつは今、何を見ているのだろうか。


















久方ぶりの川神の空の下、しかしその景色を堪能できたのは僅か五分ほどだった。

引き連れてきた板垣姉妹に駅の地下駐車場まで案内されると、早速目隠しを施され、後部座席の窓が目張りされたいかにもな●●●●●黒いバンに押し込まれ、虜囚の身に甘んじることになった。 

当然、装ったナマクラも没収される。 

手錠こそ嵌められなかったが、強いていうならば、右隣でむにゃむにゃ寝言を紡ぐ同行者が何よりの拘束具である。 更に加えていうならば、左隣から首や臀部を嘗め回す視線を送っているだろう男は何よりの拷問具だった。

密閉され、熱を溜め込みやすい色の車中にあって、冷房がキンキンに効いていたのだけは救いだった。

暗闇は時間の感覚を狂わせる。

記憶しきれないほどの右折と左折を繰り返し、車が雑踏のざわめきから抜け出したのは三十分後か、一時間後か。

スロープに差しかかったのか、全身が下降の感覚に押し包まれ、突如段差に乗り上げた車体が上下し、傷んだアスファルトを踏むタイヤの音が聴こえてまもなく、バンは出し抜けに停車した。

スライディングドアが開き、目隠しをされたまま外に連れ出され、両脇を支える者たちの指示に従って段差を越え、階段を降り、そして登り……。

僅かに潮の香を含む、澱んだ水の匂いが鼻をつき、地面に転がる角材やら鉄パイプのようなものを蹴ったような気がしたが、廃れた倉庫にせよ工場にせよ、他に場所を特定できる物音は一切聞こえなかった。

錆びた金属が軋む音を立てて、すぐ前の扉が開く気配がして、しんと冷え切った空気が体を押し包んだ。

内部に入って初めて目隠しを外され、外界の様子を窺うことを許された。

真正面、二メートルほど先に置かれた机の上には、スタンバイ状態のノートパソコンやらアンテナやらマイクやらが駐機されている。 

板垣家の能天気な漫才めいた会話を聞き流しながら、さり気なくぐるりと周囲に視線をめぐらす。 全長三十メートルはあるだろうか、放棄されて久しいらしい廃倉庫に天板は無く、赤い鉄骨の梁が剥き出しになっており、一瞬、蛇かと見紛いかねない電線やパイプ類がその上を這っている。 床のガラクタに紛れてカップ麺の空容器やコンビニ飯の包装が点々と散らばっているのは、ここが日常的に粗野な人間達の溜まり場になっている事を示唆していた。 

隅の方に座布団やマットレスが雑多にまとめられている箇所を見つけ、そこで行われたろう乱痴気騒ぎを幻視して胸糞が悪くなり、しな●●を作って携帯を弄る亜巳に「待ち合わせの相手は、」と質しかけた直前。

ヴン、と低い振動が空気を震わせ、目の前のパソコンがカリカリと音を立てて起動し始めると、黒い背景はそのままに「マロード」の文字が赤く、おどろおどろしいフォントで画面内に浮かび上がる。






『やあやあ、長旅ごくろうさま。 はじめまして、矢車直斗くん。 ……ん~っと♪ 何から? アハハッ、ナニから話せばいいのかな?』






溜息一つ。

打ちっぱなしのコンクリの床に堆積した埃をサンダルで軽くにじり、黴臭い空気を軽く吸ってから、

「面と向かって、腹割って、襟開いて話し合う場。 そう聞いてきたんだがな」

ヴォイスチェンジャーに加工された、白々しさ満点の陽気な挨拶に、とりあえずそれだけ返答してみる。 同時に、画面上の一ツ眼カメラに冷ややかな視線を送る。

『あー、やっぱ感じ悪い? いやさ、俺もそっちで全裸土下座で待機してたかったのは山々なんだけど、一応、なんつーの? 悪の秘密結社のボスだから? ハハ、勘弁してよw』

「そもそも、こういう趣向だったら、目隠ししてこんなトコまでくる必要もなかった。 丹沢にも、例えば九鬼系列のホテルなら、間違いなくホットスポットくらい常備してある筈だ」

ホットスポット――その一帯に無線LANの赤外線が張り巡らされ、ワイヤレス通信に対応したパソコンを持ち込むと、携帯電話やケーブルを介さずともネットに接続できる設備は、気の利いた喫茶店や図書館、ビジネス客が多い大型ホテルでは今や必須のオプションだ。

『雰囲気は大事じゃん……っと、アハハ、そう睨まないでよ、マジゴメンゴメンって。 君が暇じゃないってのはわかるんだけどさー、将来のお尋ね者との会話って、人目につかせるモンじゃないでしょ? いずれ表舞台には出ざるをえなくなるだろうけど、今のところは正体不明ってことにしとかないと動きにくくて。 んで、こっちも色々身元隠すのに苦労しててさ。 つか、何? 例えば万一、君がお世話になってる人とかに気取られでもしたら、その人、記憶トぶまで竜兵たちと遊んでもらう事になるから。 俺はさほど困んないけど、それはキミの本意じゃないよね?』

「へへっ、そん時は喜んで任せられちまおう」と獰猛で嗜虐心溢れる笑みを浮かべた板垣竜兵の双眸は、爛々と輝く。

久遠寺には川神院師範代クラスの使用人が絶えず二人張り付いている。 そこらのゴロツキ程度なら一蹴できるだろうが、そういう現実的な想像はひとまず置いておこう。

それよりも、少なからず久遠寺に面倒をみられた他の三姉妹は、我関せずの態。 

手前の身は手前で守る信条は、他の奴にも適用されて然りと言わんばかり。

ああ、これだ。 こいつらと付き合ってると、時折、こうした澄まし顔を見る。 

たまらなく、嫌だった。

「悪党なりの仁義ってか?」

わざと吐き捨てるように言ってやったが、どこ吹く風といった相手の口調は崩れそうもない。

『そゆこと。 これでも“俺と話せる”ってこと事態、結構ウルトラスーパーシークレットレアなワケで? そこに免じて許してよ。 ……じゃ、改めまして、』





――――俺が、マロードだ。





『好きなものはキレイナもの、嫌いなものはキタナイもの』

『……そして、今、一番邪魔だと思ってんのは、』




黒ずんだ画面が明転し、パッとスクリーンに映し出されたのは、晴天の河原を背景に、多馬大橋の歩道を悠々と歩く男女九人組。

両手のダンベルを上下させながら先頭に立つ一子、賑やかすように諸手を挙げ大口を開け広げて笑う風間、後ろ向きで表情は見えないがその聞き役に徹しているだろう大和、傍らでその横顔を絶えず見つめる椎名、得意顔で自慢話か不貞な話題でも教授しているのだろう百代、それに食いつくクリスと由紀江、最後尾で鼻を伸ばして春画の類を見ている師岡と島津。

明らかに隠し撮りされたとわかる不安定な構図の中、それでも間違いなく、和気藹々の雰囲気を醸す彼らが“主役”とわかる。




『風間ファミリーと、キミだ』














<手には鈍ら-Namakura- 第四十話:銃爪>













ここから為された、マロードとの会話は、幾らか割愛しておく。 

ただ、あまり気持ちの良いものではなかったということは、聞いた誰もが思う筈だ。



『ボクと契約してこれ売ってよwって冗談はさて置き今見てもらってんのはユートピアっつー脱法ドラッグにハマっちまってる馬鹿共ね悲惨だろこれ泡とクソ吹き散らしながらイキ狂ってんだぜ爆笑爆笑あははははとか言ってもこの頃笑えないんだよね空しいんだよねつまんねーのよボアな毎日なのよこれがさ話が合う奴とつるむのはそこそこたのしーけどそいつらもおんなじ人間なわけで一皮剥けばこういうアヘアヘな本性晒しちゃうんだ怖いよねあー醜い醜い醜い醜い醜い醜い醜い醜い醜い醜いキモキモキモキモキモキモキモキモキモキモキモオエェエって感じまあ俺もここまで生きてきて達観しちゃったわけでとりま資金繰りはこの辺からいけいけどんどんでヒャッハーできそうでそれはそれでハッピーなんだけどほんと真面目に生きてくには世知辛すぎだよねその価値ゼロだよこの世界――――』



とりあえず、彼の主張の前半部分を要約すると、そう、なった。




『直斗くんキミさー、嘘、嫌いでしょ?』

沈黙を肯定の答えとして受け取ったらしいマロードは、『俺も嫌いなんだ』と重ねた。

『正直で純粋なモノが汚物に踏み躙られんのは、キッツイよねー。 キミも経験あるだろうけど』

さらりと暗部に踏み入ってきた無遠慮な声は、それまで紡がれた言葉よりいっそう際立って、だだっ広い密室に無限に反響するように思えた。

能面、鉄面皮の類を維持するのは慣れているが、迂遠な言い回しの針で急所を突かれ続けるのは御免だった。 

「話が見えないな。 要求があるから、ここに呼んだんだろう、マロードさん? まずそれを話してくれよ」

長く続いた独演会に終止符を打たせ、熱を持ち始めた額に掌を当て、ここ一ヶ月でだいぶ伸びた前髪を五指で掻き分け、画面越しの逡巡の気配を察する。 

その立ち振る舞いが気に入らなかったのか、「大物ぶりやがって」と毒づく竜兵の唾吐き。 

暇を持て余し、つい十分ほど前から携帯ゲーム機と睨めっこを始めた天使の指元のせわしなさ。 

胸筋を寄せ集めて掻き抱くように、腕を組み足を交差して薄笑いを浮かべる亜巳の肌のつや。 

トタンの壁に背を押し付けて、ふやけた顔で相も変わらず舟を漕ぎ続ける辰子の寝息。

順繰りに様子を見終わったところで、眼前のパソコンが再び口を利いた。

『俺の目的っていうか、これからの予定なんだけど。 九人揃えば無敵で、出来ないことなんて何も無いって決め付けてる奴らがいる。 まずはそのふざけた幻想をぶち殺すぅw!ってね、ハハッ♪ で、それと並行して、楽しい楽しい“カーニバル”を盛大にぶち上げる』

カーニバルの一単語に、胡乱に顔を顰めたのを見て取ったか、

『詳細は板垣家のみんなに訊いてよ。 ま、平たく言うと、一晩だけ、川神市全体のモラルが壊滅するよう仕向けるイベントさ。 当然、警察はもちろん、川神院やら、それこそ目立ちたがりの風間ファミリーは黙っちゃいないだろうけど、そこはコトの持っていき次第で展開はある程度コントロールできるだろうし。 いやー、腕が鳴る鳴る。 ゾクゾクするねぇ』

「はっ、今までコソコソやってきた分、俺ぁ、むしろせーせーするぜマロード。 サツなんぞに構うかよ? 壊し犯し奪う。 原始時代に戻るだけだ」

「つべこべ言う奴にゃ、片っ端からユートピアぶち込みゃいいだろ。 それでウチもみんなも最高にハイでオールハッピーだぜぇ♪」

「フフフ、まあ、痛めつける豚が一気に大量生産されんのは魅力的だしねぇ」

「――zzzzzz、」

『……んでそうそう、察してもらえたと思うけど、俺と風間達の間にも因縁があるんだ。 君と直江大和の間に“業の”が奔っているのと同じく、ね?』

君ほど関係が深いわけじゃないけどー、との補足を耳にしながら額に留めていた片手を下ろし、親指の爪先を前歯で軽く噛み挟む。

こいつらに共通する退廃的思想に、改めて辟易としただけではない。

板垣家の面々はともかく、マロードは全てを知っている。 

釈迦堂刑部を麾下に配するならば当然といえば当然なのだが、果たして……。 

その一念に思考の大半は尽きた。

そこからマロードという男の本質を見極めるために、俺は、この逢瀬に応じたのである。

『だから、初めはこう思ったんだ。 そのカーニバルの時に、俺の側にご協力願おうって』

潜められた過去形の語尾末節が、不吉を告げていた。

「俺に、どうして欲しかった●●●んだ?」

「こいつらみたいに仲間になれと?」

『いやいやいや、善人に悪人になれなんて、俺はそんな不毛な説教はしないよw ただ、タイミングを合わせられたらなぁーって、漠然と。 ……ギブアンドテイクで、俺の家族を取り返してみせろよっ! とか、漫画の熱血主人公ばりに君に直江大和を糾弾してもらうのに上手いこと被せて、あいつらの根城ぶっ壊したり何人か攫って手下にタノシンデもらったり、そんなタクティカルかつクリティカルなコンボを仕掛けられないかなーってね?」

「そりゃあ、お生憎だったな」

『ああ、非ッ常に残念だねー。 話を聞いてみれば、君は、妹の無念も、恨み辛みも、ある意味では晴らすんだろうけど、君の目的が達成されたところで、直江大和がそれを“晴らされた”ということを、ついぞ理解することはないワケで。 本当に、それでいいのかなぁ?』

「……そうでなきゃ意味がない●●●●●●●●●●●。 第一に、その他諸々の事情を無理繰りブッこんで、大和に誤魔化されたり潰れてもらったりされちゃ本末転倒だ。 あいつには、戦後“誠実に生きる”ことに全力投球させなきゃならん。 それが俺の川神大戦の正味で、本懐だ。 “矜持プライドがない事が矜持プライド”、実際のところは違うと思うさ。 あれは悪人でも人否人でもない。 だが、そう嘯いてる事実は確かで、俺が最後に相手をするのはそういう奴輩だ。 限りなくシンプルに叩かなきゃ、少なくとも、大和の限りない伸び●●●●●●はない。 ……ついでに言うと、全部ぶち撒けたら、惨い目に遭う奴が、大和以外にいる。 そいつは、たぶん俺と同じで、でも、俺と違って、まだ踏み止まれてる。 そいつの拠り所を奪いたくない事もある。 というか、今回の騒動で、ファミリーの澱みを綺麗に掃除して、少ーし居心地を良くしてやろうって、そういう話だ」

『はははっ、そこで思うんだけど、ちょっと薄情じゃない? 相手は妹の仇でしょ』

「お前に何を言われるまでもない。 どれだけ考え抜いてきたと思ってる?」

歯痒いさ。

口惜しいさ。

切歯扼腕の心地だよ。

全身が煮え繰り返りそうだ。

だけどな、

妹は●●もう死んだ●●●●●。 仇は●●もう取った●●●●●。 ――これ以上は言わせるなよ、マロード?」

『はいはい、目に角立てないでよ。 …………だいたいそう言うだろうって想像はついてたけど。 筋金入りってワケだ。 あー、となるとさ。 俺もここで考えないといけなくなるわけで』

「結論は?」

『うん。 とりま、消えてくれない?』

まるで、女御に酌をねだるような馴れ馴れしさで気安さで、マロードは排斥の命を下す。

ほとんど同時に真後ろから殺気が三つ、眠りからの覚醒の気配が一つ、立ち昇る。

『まず、なんで俺がカーニバルを起こすのかってことだけど。 さっきも言ったけど、俺は嘘が大、大、大、大大大大……だいっ嫌いでね。 だからそれを暴いて、みんな正直に生きてみようよって、そういう一つの提案なワケよ、カーニバルは』

「物は言いようだな」

『本音で生きろ、相手に正直でいろ。 これはキミの受け売りだと思ってるんだけどね。 不正直者はバイバイってワケ』

「ふざけろ。 俺が大人しく従うとでも?」

『じゃなきゃ、“全部”バラすよ。 ……従うしかないよね? 君の過去が明かされないことが、キミが川神に居られる大前提で、川神大戦の骨子のはずだ』

「……んっとに、小学生並みの脅迫だな。 俺が大嫌いな奴のやり口にそっくりだ」

『どんな脅迫もガキっぽいもんでしょ。 ピーターパンが俺の理想。 永遠の子供。 善悪考えない純粋さ、俺は好きだね♪ そして2は蛇足』

「最後だけは同意する。 大人ウェンディとの再会は、やって欲しくなかったよなッ!」

机の足を靴の裏側で押しやるように蹴り飛ばした。 

達磨落としよろしく机は奥に吹き飛び、乾いた音を立てて宙に浮かんだノートパソコンがコンクリに叩きつけられる。

ピクリと板垣の面々が反応したが、それまでだった。

満足した猫が喉を鳴らすような、陰惨な含み笑いが、隠されているのだろう其処彼処のスピーカーから這い出るように耳朶を犯す。

『さて、お返事は? 大人しく川神から出て行ってもらえれば、丁重に駅まで送り返すよ。 なに、キミが築き上げた川神学園における数々の黒歴史も、あと何年かすれば誰の口に上らなくなるよ』

本当に耳障りな、幼児に言い聞かせるような催促に、俺は、規定●●の問いを投げかける。

「そんなにこの世に救いはないかっ」

『ないね』

それは本当に冷ややかな。

間髪を入れない、にべもない返答だった。

直前の愉悦の気配はない、無情の応答だった。

『キタナイのは嫌いって言ったじゃん。 だから、キタナイものをキタナイと思えなくなるようにするしかない。 ――皆、キタナクなっちまえばいいんだよ』

「その中から綺麗なものを掬って救い上げてくのが、人生って奴だろうに」

『メンヘルな本からとか、そういう何処かで聞きかじったような説教はやめてくんない? というか、他でもないキミが、そんな達観を、そんな口触りのいい事を、本当に心の底から言えてるの? 世の中には、絶対に剥がれない穢れってものがあることくらい嫌でも自覚してるのに。 虚飾、痛恨、重圧、不和、打算、欲望、悲哀、孤独。 ……あとは、そうだね、“血統”とかかな。 決まりきった善に道徳にコクコク頷こうとするから、俺達はいつまでもそいつらに縛られてるんだよ。 だいたい――』






スピーカー越しの人物が、どんな道を歩いてきたのか。

今、俺を取り巻く板垣の兄弟姉妹が、どれだけの愛を知り、どれだけの艱難辛苦を味わってきたのか。

たとえその来歴が一日と余すところなく纏められた分厚い書類を丸暗記したとしても、果たしてどれだけ、“わかった気に”なれるのか。

いつだって経験は感情を伴うもので、他人のその瞬間の心の機微を即座に完全に理解するための利器などは存在しない。





だから、と思う。

だけど、とも思う。




やはり今、目の前にいる人間を理解したいとは思う。 

その理解の為に虚飾は打算は不純は取り払われるべきで、ならばやはり正直に殉じるべきなのでは、とも。

けれど、何があって、どんな過去があったとしても、その経験は●●●●●――。

それに憐憫を抱けても、同情を抱けても、それを必死に解そうと努力して、ついに共感を持つに至ったとしても、その経験だけは、当人限りのもの。

あの時、クリスの平手をくらった時も、多分、無意識ではそう思っていたからこそ、何もかも暴露したい衝動を堰き止められたのではなかったか。

誰だって辛い過去を通り抜け、厳しい現実に耐えながら、先の見えない未来を待たせている。

中には後悔なんて生易しいものじゃ決して済まない、一生苦しまなきゃいけない過去を、罪科を、失望を抱えている奴だっているだろう。

忘れてしまえばいいとか、時間がいつか代謝してくれるとか、そんなおためごかしが何の役に立つのだろうか。

救われようとする事自体が、もしかしたら土台から虫の良過ぎる話なのかもしれない。




だから、と思う。

だけど、とも思う。




背負って、進むしかない。

戻れないのなら、前を向くしかない。 

直面する自分の意を通すべき闘いからの逃避は、即ち堕落である。

その肩に、その背に担うものがどんなものでも、背負って生きるのが人間に許され、科せられた義務。

もし自分の人生に赦される時があるのだとしたら、それは潰されないで歩き切った時。

そうだ。 

重石おもしの中身がどうだこうだという話ではない。

ただ単に、そいつの足腰が強いか弱いか、いまこの瞬間、この一刹那の中の話なのだから。




「繰り返しご高説の所、本当に申し訳ないんだがな」



呟く。

ならばまた、もうひとつ背負ってみようと思うのは、俺のしょうもない自惚れなんだよ、真守。

……大丈夫だ。 

お前の事は必ず俺が。 後回しになんか、していないつもりだよ。 でも、そう思えたらごめんな。

俺はある意味、甚だしく浮気性なのかもしれない。

でも、 

「お前は、綺麗なものは全て穢されると言ったな?」

それでも俺は、こういうの●●●●●、黙ってみてられないんだよ。

「どんなに穢されようとも、綺麗なまま残るものがある。 また再び輝けるものがある。 俺が親から、川神院から教わったのはそういう事で、そう信じてる。 それを大戦で証明するんだ。 ……俺が想うことは、口に出すことは、いつだって借り物の理想だけど、でも、もう借りてから何年も経ってて、返す宛なんてない。 このまま借りパクしたって、文句は言われないだろう?」

滅茶無茶苦茶な論理を思うままに、自侭に振りかざして。







「ああそうだ。 だから今からだ。 何がどうあってもだ。 俺はお前をすくうんだよ。 ――葵冬馬●●●







もとより双方、互いの必滅を本懐とする銃口を向け合い、そのトリガーに指を掛け合っていたのである。 

そして、ほんの少し先に、銃爪を絞り切ったのは――。 

今回は、ただ、それだけの話である。

























若の名の開示が、通信を傍受していた者たちへ向けた、状況開始の符牒だったのだろう。

その突入はまさに電撃作戦という名に相応しく、見事で、もう二度と遭遇したくない手際だったと、後になって井上準は述懐する。

奴がマロードの正体を言い当てたという現実に、大なり小なり浮き足立ってしまったことは確かだった。

直後、階下から猛然と接近してくる異様な気配を察したのだろう、「トーマッ!!」と小雪の警醒の声が部屋いっぱいに響き渡った時には、壁のドアは勢いよく開かれていた。

挨拶代わりに投入されかけた音響閃光弾スタングレネードをノーモーションのインステップフロントキックで打ち返し、ドアの外に再び追いやった小雪の挙動は流石と言う他なかったが、しかしそのとき、幾重もの発報装置のセンサーを欺瞞あるいは無効化して掻い潜ってきた手練れ共に臆せず瞬時に動けたのは、やはり小雪ただ独りきりであって、

「おっと。 ……危ない、そしてなんとはしたない●●●●●。 スカートを装う女性が、おいそれと足を高く上げるものではありませんよ?」

続く、ふしゅっ、と短い気息と共に放たれた小雪渾身の頭部への上段廻し蹴りを、鏡写しのように寸分違わぬ足技で防禦せしめた優男が其処に居た。

「ふむ。 12、といった所ですか。 わずかながらも確かに“壁”は越えて――」

廊下の奥で先の手榴弾が炸裂した生理に反する大音響に、優男のセリフは途切れた。

刹那、ようやく頭の中で危険信号が一斉に灯り、準は周囲に振り向けていた意識を全て前方に集中させる。

それが間違いだった。

次いで、期せずして玄関口に作られた双脚のアーチを潜り抜け、闖入してきた眼光鋭い金髪の外人女を前に、準は反射的にボックス、拳という名の岩石を両腕の先にかたどった。

相手は二人。 部屋の外に後詰めの人間が居たとしても、はからずも今の爆発で数十秒は足止め出来ている筈。

そう祈って。

「若っ、逃――」

そう言いかけて。




金髪の手に握られていたグロック17自動拳銃の暴力的な轟音が、続く言葉をあらかた吹き飛ばした。





直後、遠くのほうで聴こえたような、くぐもった悲鳴と砂袋が落ちるような物音に体中の血の気がさっと引いて、消え。

思考は停止、構えは緩み、なかば棒立ちになった身のまま、熾烈なクロース・クォーターズ・バトルの幕が開く。

豊かな胸元に突き刺すように銃を仕舞った金髪が繰り出してきた腕に右手首を捕らえられ、そのまま床に引き倒されるところで我に帰った準は、そうはさせじと左手で傍らのサイドテーブルの縁を掴み、力を受け流して体の向きを変えた。 

同時に蹴りだした膝を脇腹に叩き込み、力が抜けた一瞬に手を振り払う。 

だが、井上準はあくまで拳闘士である。 人並み以上の膂力が下半身に秘められてはいるものの、蹴術に関しては門外漢であったためか、それは大した打撃にはならず、結局すぐさま体当たりで床に押し倒され、軟調と見えるがその実、肉の充ちた体躯に圧し掛かられる。 

骨身が軋み、内蔵がはみ出るような衝撃に晒されながらも、若っ、若っ、と呻くことは止められなかった。 

すると、左右にじたばたもがくうちに相手の重心がずれ、身を捩りに捩って相手を跳ね除けた拍子に、ごつりとした感触に行き当たり、それが何なのか確認する間もなく掴み抜くことになった。

わずかな汗に湿った強化プラスチックの銃把は、存外温い感触を準の掌に奔らせる。

これは双方にとって意外な展開であり、

「うぇっ!?」

たたらを踏んだ相手の狼狽の声に、しかしその相手以上に気が動転していた準は、直感的に“これを奪われたら最後”と、握った手を必要以上に強張らせた。

次の瞬間、手首ごと銃を封じ込めようとして迫る相手の手の平にまたも過剰に反応してしまい、ぐらぐら揺れる視界の中、銃口の照星と視線を一致させて、荒い息のまま、地に、伏し、伏したままピクリともピクリともしないピクリともしないピクリともしななななななななななななななななな冬馬の後頭部をここで初めて目に入れてしまった瞬間一片残った理性も吹き飛び――。







「――――ぁかァああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ―――――――――――ッ!!!」






なんだこれ。

なんだこれ、なんだこれ、なんだこれ。

一番大事なものが失われる、失われつつある、失われてしまったのかという桁外れの戦慄が絶望が悔恨が憤怒が。

出口なく滞留する感情の渦が、ひとつ瞬きする間に胸を過ぎっては逆流し過ぎっては逆流し――、その激情の奔流をヒトの身が許容できる筈はなく。

準は絶叫して、膝立ちのまま、何も考えずにトリガーを絞った。

常夜灯の薄明の中、眩い閃光が膨れ上がり、連続する銃声が耳鳴りを圧して鼓膜をつんざく。

いちにさんしごろくしちッ――――

次々に射出された9ミリ弾が倒れこみつつある金髪の胴体に、至近からとはいえ驚異の集弾率で直撃するさまをまざまざと網膜に焼き付ける。

十発まで数えたところで頭が真っ白になり、自分が何をしているのかわからなかったが、準はひたすらトリガーを引き続けた。

残弾全てを叩き込むサチュレーションアタック。

砕かれた射手の魂。 その断片を、これでもかこれでもかと吐き散らすような、苛烈も窮まる飽和攻撃だった。

グロックが十七発目の弾丸を吐き出し、カーペットに音もなく最後の薬莢が転がり、後退したスライドが動かなくなってからも、人差し指は痙攣したようにカチカチと空撃ち音を鳴らし続けた。

連射の反動で手首がじんじんと遅れて痛み始め、ようやく弾が尽きたことに気づく。 

痺れ切った手元はグリップを握ったきり動かない。

ぼんやりと銃から顔を上げて目の前の光景に焦点を合わせようしたが、これがまた難しかった。

霧のように辺り一面にかかった白い靄を通して見て推測するには、ドアの傍には、小雪を押し倒しながらも、まるで彼女を庇うようにこちらに背を向けている件の優男が居るようで。

いまだ銃口の先にうつ伏せで横たわる――を視界に入れて。



あれ、そういえば見たことあるエプロンだ。 と今更のように気づいて――。


































「超絶ファックに痛ってぇだろこのハゲッ!!」

死体が、跳ね起きた。 らしい。 辛うじて見える薄い影がそう教えている。

「ゴム弾頭、ついでに超弱装弾だよ、くっそ。 それでも痛ぇもんは痛ぇけど、そこの色黒は死んでねぇ。 つーか気絶とか、服厚そうなとこ狙ったのにどんなモヤシだファック!」

「――ぁ」

「お元気そうで何よりですが、それにしてもご自分の得物を奪われるとは。 肝が冷えましたよステイシーさん。 ……今の不手際、不始末はヒューム卿に報告させていただきます」

蛇が鳴くような空気が擦れる音がした後に、男の声が響いた。 

ユキがどうなったのかは、さっきから視界が脂に覆われてしまっているらしく、よく見えない。 



                    ――あれ、俺、いま、もしかして、ものすごく泣いてるのか? 



「あぁ!? ち、ちょ待て、ちょい待ち、な? そ、そこは、ほら、スタグレにビビんなかったところで帳消しイーブンにしようぜ? な? 今度バーガー奢るからよぉ」

「そのあたりも鑑みていますよ? 本来ならば次回の従者部隊特別会議のような場で、あの武田小十郎を差し置いて●●●●●●●●●●●●●、いの一番に言及されるべき大失態です。 ……が、伏せておきましょう。 今回の浄化作戦は内容が内容ゆえ、英雄様、ひいては忍足さんに対して固く秘しておくようにというのが我が上司マープルの意向でした。 査問もなく減給もなく序列が下位へ動く事もない。 それが温情だと思ってください。 躾役だったヒューム卿にお叱りを頂いたほうが、反省もより深く出来そうですし」

「こんの……。 アタシよりランク低いくせして、相変わらずずけずけ偉っそうに。 ああ、はいはいロックにわかったよ。 ったく、栄えある武士道プランの現場監督様は最高にファックにお優しいぜ……」

「さて、九鬼のトップシークレットに関する今の失言も聞かなかった事にします。 まずはそこでいい具合に固まっている少年をさっさと無力化するように」

まるでこれから断頭台へ上る死刑囚のように、一挙に目が死に始めた金髪女――ステイシーに、どこまでも容赦のなさそうな優男の、慇懃無礼が滲み出た声だった。

爽やか過ぎて逆に胡散臭さ全開の笑顔に向けて悪態をついて、体中の空気を抜き切るような長い溜息とともに、ステイシーはよろよろと立ち上がると、

「あいよぉ……っと。 さて、っつーわけでちょっとの間、眠ってもらうぜ? ……アタシは今、殺しはしねーまでもガキに向けて銃ブッ放して、あげくの果てにゃ、てめーの銃で撃たせて、てめーが撃たれちまって、このあとジェノサイドな説教が待ってるわけで、いやはや、最ッ高にファックでファックな気分だが。 まあ、お前はなかなかにダチ想いっぽくて、火遊びしてたガキにしちゃロックンロールでナイスファイトだった。 今度からはもうちょい、胸張って腰入れて戦うこった」

言いたい事だけ言いながら、こちらとの距離を詰めてくるステイシーに対して、準の反応は鈍いものだった。

理解の限度を超えた状況の変遷に、精神はいわゆる忘我の境地にあって、ふらつく膝からは完全に力が抜け、腰をも抜かして準はその場にへたり込んでいたものの、さすがにメイドの鼻先までの接近には反射で身を引きかけ、その瞬間、どこからともなく取り出されたスプレー缶が即座に眼前に突きつけられ、いかにもケミカルな液体の白色噴霧を顔いっぱいに浴びせかけられた。

こなれた手つき。 息を吸い込んだ一瞬を狙って吹きかける、絶妙なタイミングでの噴射だった。

どこか自分に身近な場所で嗅いだ覚えのある、甘ったるい果実の芳香に包まれる。







かくして両の瞼は、エーテルの薬効によって強制的に閉ろされ、握り締めた拳銃をもぎ取られる気配を察したのを最後に、準の意識はぷつんと切れた。


































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感想で連続投稿するとか調子こいててまだ次話できてないとか……

八月上旬中には仕上げられ、たら、いいなぁ(遠い目)

とりあえず今回は再びArcadia繋がったのを祝して、出来あがってた分だけ投稿。




そして全然関係ないけど、バルドスカイゼロってのが出るらしいですねひゃっほーい
レイン可愛いよレインprpr

でも原画キャラデザが綱島にチェンジって……レイープ展開強化以外の何物でもないというね



[25343] 第四十一話:価値
Name: かぷりこん◆273cf015 ID:94f5cb7e
Date: 2013/02/18 08:24
『おい! 犯罪者になっていくのが分からないのか? 犯罪者になったらあれだぞ、地獄だぞ?』

―――直江大和 (「真剣で私に恋しなさい!」 リュウゼツランルートより)




























襟元を掴まれたまま、左頬に一発を見舞われる。 

襟を離されてもう一発。

体が反転して、Tシャツの背側の弛みを取っ手代わりにされ、巨大なアイロンが使い持て余されるように、うつ伏せで床に叩きつけられる。

「テメェ、舐めた真似しやがってッ!!」

その背に跨ったドレッドロックスは、獲物に群がるハゲタカを連想させた。

左腕に彫り込まれた黒いトライバルタトゥーが、まるでその男の激情を表わすかのように蠢き、啄ばむようにその手を白髪に絡めて顔面を床から上げさせる。

上から覆いかぶさるように顔を突きあわせると、額を切らしながらも、逸らさないと決めた眼差しを向け続けた生意気な態度に、ついうっかり腕に力が入り、再度額を床に殴打させてしまったらしい。 ぐわんぐわんと頭の中身が攪拌され、危うく脱魂しかかる。

幾らかそれで竜兵は溜飲を下げたらしいが、板垣家の前後不覚の状況がなんら変わったわけではない。

「リュウ、ちょっとどきな」

そうして肉を打ち据える鈍い音だけが、湿った密室に響いた。

尖ったブーツの爪先が地に接した腹筋にめり込み、咳き込む間もなく五体は仰向けに転がされ。

「どういうことか、説明してくれんだろうねぇ?」

そう言いながらも瞬時に組み立てられた仕込み棒は、ほどよくしなって●●●●剥き出しの咽喉を打ち据える。

上げかけていた後頭部をしたたか床に打ちつけた後は、灼熱する喉を掻き毟り、目と口をいっぱいに開けてのたうちまわるしかなくなっていた。

情けない声を上げてもがくうちに、閉じた気管が少しずつ元に戻り始めて、肺に空気が送られるようになる。

体を折りたたんで寿司のような体勢で床にうずくまり、激しく咳き込んていると、「アミ姉、師匠にも連絡つかねー」と天使が剣呑に言うのを聞いた。

吹き出た脂汗と涎と涙を拭い、どうにか顔を上げる。 涙で歪んだ視界に、こちらを睥睨する亜巳の姿が見える。

「どうなんだい? 隠したら身のためにならな……、いや、隠れマゾなお前にとっちゃ褒美になるかもしれないか」

そんな冗談には甚だ不似合いな、物を見る目を注いでいる女は、今度は確実に喉首を潰すと言外に宣言していた。

当然といえば当然の反応であった。 

交信が途絶する直前に聴こえた絶叫、爆発。 

その他諸々の、それを聴く者までもを留まることを知らない暴力の渦に引き込むような、不快音の洪水。

ともすれば彼女らのコミュニティの瓦解を意味し得る狂騒の坩堝るつぼ

ブツンと回線が切れたデジタルノイズの無機的な味気なさも手伝って、それらはひどく明瞭に廃工場に響き渡ったものだ。

出来る限り穏便に事を運ぶという話だったが、果たしてその実、どうなったろうか。

“予定”は聞いていても、“結果”は未だ知り得ない局勢だった。

今は、あの人格性格に一癖どころか何癖あるか見当もつかないバトラーとメイド達を、信じるほかない。

「どうもこうもねーだろうよ。 さっさとマロード助けに行かなくてどうする? ここから車で五分もかからねぇだろうが?」

意外にも忠義に厚い言葉を吐いた竜兵に、「馬鹿を言いな。 ノコノコあのアジトに雁首並べに行けってのかい?」と亜巳は冷然と返す。

「そうならねぇための“人質”がここに居るんだろうが、あん?」

再びこちらに凄んだ竜兵はニタリと頬を歪ませ、

「つっても、五体満足のまま仲良くピクニックとは行かねーな。 ……とりま、鬱憤を晴らさせ――」





瞬間、突如として頭蓋に激震が奔り、三角、人中、顴髎けんりょうという顔面内の三つの急所が同時に爆発した。





「……嘗めてんのかテメェ」

「おいおい天、汚ぇ顔の奴とヤる趣味は俺には無ぇ――」

「黙ってろリュウ」



特徴的な流線形、卵型の影が目端を横切り、クラブヘッドが叩き込まれたのだとようやく理解する。























「ムカツクんだよっ、いい加減――」

限界だった。 

堪忍袋の緒が切れた。

マロードがメンドクセー事になったとか、自分たちのこれからの展望がどうこうとかいう問題は、今はこの際どうでもよかった。

全く集中できないゾンビシューティングの合間に耳に挟んだ、マロードとコイツの会話によって冷え切った腹の底が一転、唐突に熱い塊が爆発したようになり、気がつけばその一撃を撃ちこんでいた。

「何様だよ、お前」

「……やぐるまさま」とぼそりと呟かれた瞬間、その口元に床の油にまみれたブーツの先を食らわせる。




なんの抵抗もない●●●●●●●●

このこと以外のことは、本当にどうでも良かった。

テメーの命を見下しているような、こんなクソみたいな態度以外のことは。




今、まさにあらん限りの膂力を直斗に振るった身が言えたことではなかったが、そんなことに頓着する精神を持ち合わせない天使にとって、こちらを潤んだ瞳で睨み続けるシラガアタマに対する腹立ちは腹立ちで。 ここ数週間でうっすらと、ここ数分間でまざまざと感じ取った、自分たちとは決定的に違う“志向性”に対する隔絶感は隔絶感だった。

心底、キモチワルイ。

決してこちらから離そうとしない、なにかしら湿ったものを感じさせる視線。 

わけもない居心地の悪さが、更に天使の苛立ちに拍車をかける。




家族の仇を討つために、全てをなげうち、一千人を相手に戦争を仕掛けた男。

単純にそれだけの男なら、別段よかったのだ。 

マロードの言葉を借りれば、この世は所詮、ジャクニクキョーショク、シゼントータ、テキシャセーゾン。 

その御鉢が、たまたまソイツに回ってきただけだ。 

まあ、悪くねー夏休みになったし? それなりに可哀想だから、両手合わせで拝んどいてはやるよ。 骨は拾わねーけどな。

そんな風に思っていた。




だが聞けば、この男が睨む先にあるのは、それら摂理そのものだという。

この男は、落ちる林檎を飛ばす気だ●●●●●●●●●●●

仇討云々を超越したその心理は、理解の範疇を超えたものとしか言いようがなく、それが親から受け継いだものだと言われれば、自分にはますますわからない話だと天使は思う。

天使の知っている親は、自分が生きるのに精一杯で、テメーが生んだガキのことさえこれっぽっちも考えようとはしなかった。 

自堕落で、身勝手で、脆弱なイキモノでしかなかった。

人の徹底的なまでの無残を、親の生き方に見ていた天使は、その印象でしか彼らを知らないし、知る必要があるともまた思えない。

職業不詳、一日に訪れる短い正気の時間は馬券選びに費やすしか能のなかった男。 

昼夜逆転の生活を送る、アルコールと香水と湿布が混ざった匂いしか今では印象に残っていない女。

子供の面倒を蛇蝎の如く嫌い、それを互いに押し付けあうのが夫婦と言えるのなら話は別だろうが、天使が物心ついたとき、もはや彼らの結婚生活は破綻していたと言ってよかった。

別にそれだけなら。 彼らの間で彼らの憤懣が完結していたなら。 寝る時間ギリギリまで表をぶらぶらし、家に入ったら部屋の隅で頭から布団を被って、次の日までやり過ごすだけでよかった。

けれど、恵まれない境遇に人格を歪められ、その歪みを子に押しつけ、世の中全部がくだらないと断じて無気力を恥じなかったあいつらが、体のいい小間使いを放っておくはずもない。

事実、生まれてから兄姉たちと決起し家を棄てるまで、まるで奴隷か家畜のそれの扱いを受け続けた。

困難から逃げ、場当たりの快楽にたかる蝿に成り下がった人間たち。 そいつらの放埓の結果、生まれた自分たち。

そんな自分たちに、親から受け継かれているものがあるとしたら、“杓子定規な世間がくだらないから、自分もくだらないのだ”という割り切りぐらいなものだ――――。










そんな、今では益にもならない想いに囚われたあと、不思議と可笑しさがこみ上げてきて、空堰のような失笑が喉から出た。

もういいや。 

醒めた。 

飽きた。 

白けた。

あまりに“らしくない”今の自分に、期待していたナニカを諦めさせるように、向け合っていた目を外し、その顔を振り切った。

謝っているような、重苦しそうな情念を含んだ双眸が、この上なく鬱陶しかった。 

こいつは前々からそうだった。 わかったような口利きやがって。 

何もわかってない癖して、全部わかっているように振舞う図々しい態度が気に入らなかった。

「……つまんね」と言い残し、待ってましたと踊りかかる竜兵の、いやに長く感じられる滞空を流し見て、その奇妙さに一瞬目を見張り。



天使の意識はそこで途切れた。



首筋に奔った衝撃と、急激にせり上がってくる地面。

倒れこんだ時の感触はすでに靄がかかり、したたか床にぶつけた肩の痛みも、髪にかかる澱んだ水溜りの温みも、天使の中で急速に現実味を失っていった……。













<手には鈍ら-Namakura- 第四十一話:価値>















まず手始めに、進路上にいた天使の意識をひと撫で●●●●して沈めた後、嘲笑というには些か凄惨が過ぎる表情を乗せた“バケモノ”は、コンマ何秒かで迎撃体勢を整えた板垣辰子を、それでも瞬く間に刈り取った●●●●●

「スジは悪くないが、気を抜き過ぎだろうこれは? あの愚か者が師とあっては、致し方あるまいとはいえ。 ……そら、少々面倒な赤子の方は抑えたぞ?」

次いで、影から溶け出るように現れた複数の人影はいずれも給仕服の身なり。 

くすんだ裸電球の照り返しを浴び、整然と倉庫内に散っていった男女達の背中に、浮き足立った気配は微塵もなかった。

各々に振られた役割を心得、与えられた条件下、限られた時間内にそれを遂行する。 完璧に統制された、取りつく島のない硬さだけがあった。 それらの餌食になったのは亜巳。 反撃する間もなく昏倒させられたようだ。



そして、残る一人は。

「んだこりゃぁッ!?」と俺の直上で喚き声がする。 

こちらへ向けての蛙飛びの体勢のまま、宙に浮かび続ける竜兵の姿があった。

ふ~じこちゃ~ん的ルパンダイブのまま、空中で凍らされたかのように身動きの取れない様子に、愉快を禁じえなかったが、くつくつと喉を鳴らすだけで律儀に腹筋、咽頭、頬と、奇しくも先ほど痛打を受けた順番に痛みが蘇って、天罰覿面とばかりに噎せる結果となる。 

「ご無事ですかな?」

嗄れながらも朗らかな、空間一帯を穏やかに包む声がした方に頭だけ動かす。

「お初にお目にかかります。 私、九鬼家従者部隊序列三番、クラウディオ・ネエロと申します」

頭上に張り巡らされたのは、人喰い蜘蛛の巨巣。

――これは、鋼糸いとの類か?

洒脱ながらも和やかな雰囲気を醸す表情とは裏腹に、掲げられた十指から伸びる、それぞれ一条の光芒とも見紛いかねない極細のワイヤー達は、容赦なく竜兵の五体を更に絡め取り拘束し始めた。

幾重もの風切音とともに、幾本もの鋼糸が束になって集まり、数瞬後には銀白色の巨大な蓑虫が宙に浮いていた。

「ん――――ムぐッ!?」

ギチリギチリという音に、なんとか拘束を引き千切ろうとする竜兵の努力が生々しく伝わってきたが、彼自身の体重すら、十本ほどで難なく支えられる強度を持っていた鋼糸に対して、それは焼け石に水というものだろう。

「大口を開けて騒がれるのは避けたいので、猿轡代わりに口周りも緩く縛らせていただきました。 ご堪忍を」

「……ご面倒を、おかけします」

のろのろと立ち上がって、折れた片方の犬歯を舌の上から吐き飛ばして、やっとのことで礼の言を紡いだ。

「殊勝な言いようは結構だが、なに、こちらにはこちらの目的がある。 そうかしこまらんでもいい」

獅子が低く喉を鳴らすような、獰猛で尊大な唸り。

クラウディオの返答の前に割り込んだのは、先ほど辰子をいとも簡単に屠った巨躯。

近づいてきたおかげで、その風体をより仔細に見て取れるようになる。

厳つく彫りの深い面貌、ぎらつくほど底光りする黄金の瞳、同じく山吹色の針金細工のような頭髪と顎髭。

一言紡ぐごとに背後で稲妻が迸るかのような、百獣の王をそのまま人間にしたような男の覇気に、臆すことのない人間がこの世の何処に在ろうか。

「俺はヒューム。 ヒューム・ヘルシング。 鉄心から、或いは田尻という執事から聞き及んでいるかもしれんが。 よくもまあ、その取るに足らん貧相ななり●●で、川神百代を相手取らんとする不精者よ……」







                    ――――覚えておけ






ああ。 

俺はコイツに、絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に勝てない。 

大抵の対手は矛を交えるまでもなく、その姿とまみえるだけで恭順以外の選択肢を放棄しかねないほどの圧倒的存在感。

武道四天王が一角、九鬼揚羽の師にして、九鬼財閥の誇る最終兵器執事。 

護衛力を問えば、“東のクロガネ・西のヒューム”と世の暗殺者達に恐れられる双璧の片割れ。 

正直百代と比較しても、少なくとも貫禄だけは、こちらがまるきり上であるのは確かだった。 できることなら、如何にしてこれほどの規格外を御するに至ったか、是非とも今代の九鬼の総帥に問い質したいものだ。

同時に、こんな現人神あらびとがみ級の大物が出張ってくることに違和感を覚えずにはいられなかったが、

「なかなか気骨が入った若者に会って、はしゃぎたくなるのもわかりますが、あまり威圧せぬように」

軽く呆れたように諌めに入ったクラウディオの忠言に我に帰る。

「李」

「こちらに」

ツーカー、打てば響くように、とはこのことか。

老練のスパイダーマンの呼びかけに応じて、部屋の片隅にある物影から、まるで湧いて出たかのように色白の端正な美人が現れる。

常に訝しげにすがめているかのような切れ長の眼差しに冷淡な印象を受け、中国系特有の艶のある漆黒のショートヘアに暫時目を奪われたが、その後、笑みとは無縁の怜悧な刃物を思わせる顔貌に辟易する間に、恭しく一振りの直刀が掲げられる。

ぬらりと艶のある黒塗りの鞘に、なめした皮で編まれた白蛇のような下げ紐。 いわずもがな、自分の得物だった。 乗せられてきたバンに残っていたものを奪取してきてくれたのだろう。 会釈と共に拝領する。

改めて、倉庫内全体を見渡した。

ヒュームやクラウディオだけではない。 何十対もの双眼が、俺の全身につどっている。 

それらを正面に受け、意識のない板垣三姉妹にも向けて、一つ大きく腰を折る。 

まるで呼応したかのように、かちんと鍔音が手元で鳴った。




掌中のナマクラが、また一段と重くなった気がした。























くだんの部隊内での序列は十六位、元は中華の凶手だったというリー静初ジンチューの誘導に従って、チャイルドパレス内の多目的ホール“アルカディア”に進入を果たす。

四フロア分をぶち抜き、二階席まで備えたホールの収容人数は千人以上。 五十メートル四方は優にあろう空間に、ドリンクホルダー付きの座席がずらりと並び、大編成のオーケストラも収まる舞台が前方に広がる。 ホール外に李は残るらしく、開け放してあった最後列手前の扉から、ひとりきりの入場となった。

他の出入り口も九鬼のガードがあるとはいえ全て開放されており、廊下からの光がうっすら差し込んでいるためか、ホール内の全ての照明が落とされているにしては目が利いた。




――居る、な。 




遠くの最前列に、周囲の影より濃い影がある。

「……」

つい踏んづけ蹴飛ばしてしまい、床を転がった一本のネジ釘を拾い上げて、一瞥した後ポケットにしまう。 座席自体はきちんと整列、設置されてあるのだが、いまだ工事途中らしく、後列の方はクッションが取り付けられていなかった。 ネジ釘はその名残だろう。

舞台方向に通じるきわめて緩やかな通路の下り階段を、一歩一歩を踏みしめるように降りてゆく。

防音壁に囲まれた空間はしんと静まり返っていたが、進む道程を消化し終えたとき、その静寂は破られることになった。






  「英雄が聞いたら泣くぜ、おい?」       「……実際泣かせたあなたに、言われる筋合いはないですね」






静けさに慣れた鼓膜が、涼やかな肉声に震える。

距離を更に詰め、どんな表情をしているか、席に座りながら天井に仰向けた顔を覗き込んでやろうと思った矢先、

「さて、ようやく役者が揃いましたか。 ……それでは若輩者ながらこの場、従者部隊序列四十二位、わたくし、桐山鯉が預からせていただきます」

舞台壁に反響板を備えたホールの音響特性を利用し、四方に木霊させる術を心得た別の人物の声が響く。

空気が振動し、それが肌を賑わせた感覚から気配を察知特定して、向かって右の舞台袖に目を凝らした瞬間、いきなり灯った一対のスポットライトが俺と冬馬の網膜を焼いた。 薄闇に慣れた目には強烈過ぎる光だった。

……くそう。 相変わらず人を食ったような演出が好きな人だ。

「はじめに双方、たいしたお怪我もなく騒ぎの収拾がつけられたことに祝辞を述べさせていただきます。 また、一部こちらに不手際があったことには謝辞を」

三つ目の光の輪の中に姿を現した若手の執事の芝居がかった一礼に、ギクリと身を縮こまらせた気配が、いずこかの出入り口から感じられた。

明かりがついたところで、改めて冬馬と互いの様子を確認しあう。 苦虫を噛み潰したような表情の下、喪服然ときっちり黒で纏められた、それでも充分小洒落た私服姿と対比して、今の自分が着用するズタボロ海人うみんちゅTシャツと古い機械油が染みついた七分丈パンツ、所々に覗くガーゼの被覆に、口元を引き攣らせて苦笑する。

銃で撃たれたらしい奴より、如何してある程度展開を知っていた俺のほうが重症っぽいんだろうか? 

あいつらの鬱憤を晴らさせる人身御供となるには少々ばかり都合が悪い身の上で。 それでも何らかのけじめはつけなければならなくて。 ならばパレス側からの逆探知で事態を治めにくるだろう九鬼の関係者が来るまで、サンドバックに徹しようと決めたのは、俺のエゴで。

加えて勘のいい辰子の警戒を避けるため、駅からの尾行もさせず、あの第五十一倉庫とかいう場所に予め人員を配置させなかったのも正解だったと判じられるだろう。 


……善しとせねばなるまい。 戦闘の支点になる奥歯、各関節、両の腱は無事だ。

ダメージとしては、天使の一撃が割り合い一番大きかったのだが、幸運だったのは、天使の得物がアイアンではなくウッド、ドライバーの類だったことか。 

ドライバー。 そのクラブヘッドの材料として近年、柿の木パーシモンから取って代わったチタン合金は、鉄より硬いが、重みはまるで無く、それが顔面の陥没骨折を免れた要因といえた。

結果、包帯半巻分と絆創膏、湿布数枚で済んでいる怪我ではあるのだが、如何せん箇所が多く、自分でも大げさに見えてしまう。

「そして、葵冬馬様。 いやぁ、一介の学生にしてはなかなか周到にして壮大なご計画、私、正直に申し上げまして感服しております。 その善悪はさて置き、世を憂いるが故の、この度の<悪童教唆による一斉蜂起未遂>。 私や私の上司にしても、些か同情できる部分も無くはありませんので今はこまごました言及を避けさせていただきますが……まずは結果から――、“貴方を縛るものは、もう貴方しか在りません”」






「説明を、お願いできますか?」

憮然、そう言いつつ一向に正対しようとしない冬馬に気を悪くしたふうもなく、慇懃に桐山は言葉を重ねてゆく……。






















「……という次第で、流出する寸前で例の向精神薬トランキライザーはこちらで接収、一時的に預からせていただきました。 まあこれに関して冬馬様のなさったことは、“ちょろまかした”程度ですので。 ……ふむ、こうして全体像を見れば、出るところに出てもそれほど重い罪に問われなさそうですね。 犯罪教唆と言ってもカーニバルは不発で被害はほぼ皆無。 院長以下、葵紋病院上層部が執り行った数々の違法行為についても、大まかな証拠はこちらで粗方収拾済みですが、仮にその他の判明していない余罪について証言をなされるのでしたら、警察も検察も悪いようには扱わないでしょう」

「待ってください。 なら、俺が見せられたあの胸糞悪い映像は、どう説明がつくんです?」

「ええ。 矢車様のご指摘はもっともでして、先ほどこちらも事実関係を精査致しましたところ、どうやらあれは院長グループが“脅迫材料”として保管していたものを、冬馬様がデータだけコピー、抜き取ったもののようでした」

「……もともと俺に見せるためのものではなく?」

「はい。 ハニートラップ、といえばわかりやすいでしょうか。 内輪の宴会でいきなりシャンパンを撒き散らし、来賓達の服を洗濯するからといって脱がす。 その後、扇情的な御格好の女性が取りついて、まあ、あれです、だいぶ言葉を濁さなければならないようなことを集団で始めてしまう、と。 何が起きたかわからないままにターゲット達はすっかり気を緩めて快楽を貪り、その模様は全てビデオと写真に撮られ、近い将来の交渉カードに使われるわけです。 ……いえいえ矢車様、そんな馬鹿な罠に嵌るものかというお顔をされていますが、たとえば旅先だという気の緩み、更には同じ業界内の会という安心感、そんななか魅惑的なポージングで、一糸纏わぬ美女軍団が迫ってくる。 何もせず部屋を辞するには相当の自制心が必要でしょう。 発展途上、または政府の情報部が会社運営に介入してくる国々じゃ手垢のついた手段でしてね。 九鬼傘下の企業では、全社員に対処のマニュアルが配られているくらいです。 相手の女性が未成年だったり、飲食物にドラッグを混ぜて理性分別を無くさせているだけ、こちらのほうがより悪質ですが」

直斗の頭が微かに揺れ、そうなのか? と確かめる表情がこちらに向けられる。

眉をひそめ、無言を肯定と見て取ったらしい彼は、それでもこちらから顔を逸らさなかった。

そこには目があった。 あらゆる汚濁、あらゆる不条理を甘受し飲み込むのが自分の義務だとでも言いたげな目。 ただ互いに背負っているものがあると了解しあえるような、言葉はなくても通じ合えていると信じたくなるような目が。

そんな目ができるのに、何故、邪魔をする?

オマエだって、わかるだろう●●●●●●

「なんなんでしょうね、本当に」

スポットライトに反射して舞台に“小汚く”“小奇麗に”踊る埃を見下した目で追いながら、誰の顔も直視しないままに、ついぽろりと本心が冬馬の口をついて出る。

苛烈な現実と向き合い、十分以上に痛めつけられながら、なお絶望し切らない精神とはいったいなんなのか。

「あなたにだけは、絶対に止められたくなかった」

「……できることなら、俺もこんな真似したくはなかったよ。 お前のやろうとしたことを、否定し切れる立場にはいないからな。 こういうのは、それこそ英雄ヒーローの役割だ」

「本当に、いまさらどの口が言ってるんですか?」

「本心だよ。 不満はあっても、『とりあえず“此処”で生きていきましょう』って開き直れる、“此処”を持ってる奴らは、大抵はその縄張りから一歩も出ないで、馬鹿げたことを馬鹿げたこととしてしか見ないし言わない。 今回のことだって、葵冬馬のやったことは、ただただテメーの首を絞めただけだった。 ああ、あんな超絶エリートだったのにもったいねーなー、お先真っ暗じゃん、ってな具合に理屈をねて、考えるのは終了」

「でも、疎外されて、痛めつけられて、いまの世の中じゃ息もできないって連中、“居場所”を見つけられないって連中は、どんな馬鹿なことだってやる。 そうすることで大事な誰かを、自分の魂を救えるんだって信じたのなら」

「俺はそう思うけど、かといって、いま言った前者に誰かの妹が八つ裂かれて、いま言った後者に誰かの親が踏み潰されることだってある。 だから、どっちがどっちより良い、どっちがどっちより正しいなんて、そんなことはないと思ってる」

滔々と語られてゆく中の、世間知らずの教師風情や雲助根性を刷り込み続けた父親のそれとは異なった、経験に裏打ちされた言葉の強度に当てられて、冬馬は虚ろながらもゆっくりと首を上げてその顔を見返していった。

包帯と包帯の合間から垣間見える、微笑みというには切実さが過ぎた、皺だらけひびだらけの直斗の表情には、嗜虐と自虐の両方の色があった。

それを目にしながらも、「貴種流離譚の主人公気取りというわけですか」と皮肉を反射的に放ってしまう自分は、心底捻くれているんだろう。

「何とでも言え。 ……俺はもう丹沢に戻る。 これ以上は嫌味になるし、もとより後はお前の問題だ。 実際、お前がこんな大それたことを計画してたってのが、とてもじゃないが信じられなくて、確認のためにここに来たようなもんなんだ、俺は。 そこの桐山さんと相談して、今後の身の振り方を決めてくれ。 まだお前のことを英雄に話さないよう頼んでもある。 密告なんて真似で、友情に中途半端な傷を入れんのは野暮ってもんだ。 告白するとしても、お前からのほうが――――」

饒舌に語りながらスポットライトの光輪から抜けて、直斗は再び黒い影を纏った。

「……逃げないでくださいよ」

そのまま、本当に逃げるように白く光る出口へ歩き出した直斗の背に、ここぞとばかりに矢継ぎ早にまくし立てた。

カーニバルが頓挫しても、このまま、何もかもを否定されていいわけがなかった。 



――お前に何を言われるまでもない。 どれだけ考え抜いてきたと思ってる?



笑わせるな。

それはこちらとて同じなのだ。 

後光のように、開かれた出口から漏れ出る逆光が、振り返った男の表情を影で黒く塗りこめる。 

まるで天までが、直斗の欺瞞に、粉飾に、誤魔化しに手を貸しているようで、それがひどく癪に障った。

「答えてくださいよ。 いったい何が違うんですか? あなたの川神大戦と、マロードのカーニバル。 いったい何が違う●●●●ッ? いったい何の資格があって、なんで私を止めたッ!? ……ええ、何度だって言ってやる。 こんな世界にこのまま生き残り続けたって、苦しみが待っているだけだってッ!!」

前後の事情を脇に退けて、積み上げてきたものが呆気なく瓦解したのだという苦い実感が、ようやっと全身を支配すると、心の奥底で澱んでいた黒い泥のような感情が胸を押し上げて、夢中で冬馬に叫ばせた。

「嘘をつくな、騙すな、欺くな、誑かすな、いずれ虚飾は剥がれる、邪道は邪道に過ぎない。 どんな崇高なものであれ、目的のために汚い手段が正当化されるなんてことは言語道断だ。 最後に笑うのは正道を往く者、感情を思惑を正直に顕した者。 人を信じ切った先に、人から信じ切られる未来があるのだ。 それらの念を以って、それらの念を伝えるために、あなたは戦うと言う。 まるで日曜朝七時のヒーローの口上だ。 ――ふざけるなよ●●●●●●矢車直斗ッ。 冗談にも、人を虚仮にするにも程があるッ! 他ならぬあなたが、虚飾まみれの癖に!!」






















「口で何を言ってもな。 ウチの大将は、あれに止めてもらうのを待ってたんでさ」

「ふむ?」

「そうでなけりゃ、あんな当てこすりみたいな真似はしねぇだろ? つっても、そう気づいたのはつい最近。 最初のうちはマジでキレキレの悪党って印象で、俺もカーニバルっつー発想にゃワクワクドキドキ? 今風に言や、“わくてか”って奴か。 ……んーでも、何でカーニバル起こすんだって聞いたら“後戻りできなくするように”ってきた。 ヒヒ、あれで急に冷めちまってよ。 心の底じゃ嫌々悪事やってるって、そりゃお前、ただの“構ってちゃん”じゃねえか」

「あの白いの●●●を弟子に取ったのは、その赤子の尻を拭かせようと、そういう理由か?」

「ん? ……ああ、あれはあれで面白そうでよ。 平たく言やぁ、鉄心の爺様とルーの奴への意趣返し。 俺の教えを色濃~く受けた弟子二人が、地上最強決定戦――は、てめぇの前じゃ言い過ぎでも、川神院の中で流派最強を示す闘いをやらかす。 今のぬるま湯・川神流に取っちゃ、いい面の皮、最っ高の皮肉だ。 マロードの茶々が入ったら、カーニバルに乗り換えて、好きなだけ暴れられる。 俺個人はそれでオールハッピー。 どっちに転んでもイイとこ取り、って寸法よ」

「フフ、どうだかな。 この俺と会って開口一番、板垣とかいうあの姉妹の安否をそれとなく質すくらいには弟子想いの癖に。 こういうのをアレだろう、日本では“つんでれ”とか言うんだろう、釈迦堂?」

「……へっ、九鬼に仕えてるにしちゃ、下々の言葉にもお詳しいようで」

「当然だな。 俺に抜かりなどない」

「下々の言葉にも詳しいが、“お上”の事情にはもっと詳しそうだ。 ――てめぇら、何が狙いだ?」

「他人に問うには、些か抽象的過ぎる質問だな」

「知ってのとおり、川神を出てからは宮仕えで、俺ァずいぶん世の中を知ってったつもりでね。 そん時の名残で、たまーに妙な噂を耳に挟んだりする。 九鬼の極東本部に、異質な、まるで“城でも造るのか”ってくらいの莫大な量のリソースが密かに運び込まれた、とか?」

「ほう?」

「惚けなさんな。 日本に基盤作ったらすぐさま対中、対アフリカ戦略に精出して、脇目ふらずに次は宇宙だ。 政治的にも本国にゃほとんど見向きしなかった九鬼が、このところどうも動きが活発らしいじゃねえか。 何か起こすから、こうやって事前に不穏の芽を刈り取ってるんだろう? ったく、この街も悪党にゃ住みにくくなりそうだ」

「……観察眼までは腐ってはいない、か。 なによりだ」

「しかもそのための芝刈り機が、てめぇを含めた九鬼従者部隊の上位精鋭っつー、土中の蚯蚓みみずまで微塵に殺し尽くすオーバーキル確定の究極仕様ときた。 怪しむなってのが無理な話だわな。 更に更に妙なのが、わざわざあの白いの●●●●●に声をかけたってこと。 マロード潰しにゃ、あれは不要だ。 まるで、あいつに“恩を着せる”のが目的みたいな解決方法だったな? てめぇらがやらかすことに、あの白いのが少なからず関係しているんだろう?」

「両親は英雄様の命の恩人。 なにより英雄様ご自身が懇意にしている男だ。 たまさか今回潰した連中が、要らぬちょっかいを出そうとしていたから、直前にその動きを知らせたまで。 多少の気遣いは、こちらにもあるさ」

「そりゃ建前だな。 顔見りゃわかるぜヒュームさんよ? ……答えたくなければ、いいさ。 だがな、カーニバルが水泡に帰した今、俺の楽しみは、もっぱら川神大戦にしかねぇ。 さっき言った、破門された返報ってのもあるがな、なにもそんな恨み辛みだけじゃない。 武ってのは本来、人生の押し合いだ。 修羅場を潜ってきた人生が、一瞬一瞬の刹那に何度も交差し擦れ、掻き合い、潰し合う。 それも“同類”の喰い合いってのは、ひひっ♪ そりゃあ、そんじょそこらじゃ見難いもんだ。 ――邪魔はするなよ?」

「杞憂だな。 俺が命じられたのは、川神大戦をつつがなく開始、終了させること。 結末に手を加える指令も、別段、下されてはいない。 強いていうなら、あの白いのの“牙”がどんなものか、個人的に興味はある。 先ほど見たが、才能の腐らせ具合で言えば、貴様なんぞ可愛く思えるほどらしいじゃないか」

「なるほど。 ……事情は、知ってたか」

「多忙な職とはいえ、鉄心と茶飲み話するくらいの暇はある。 序列“零”の永久欠番を取ってからは尚のことな」

「……七年前、一度完成して“キレた”時は、あの爺様とタメを張れたらしい……が、今はそれが眉唾に思えるほど、鈍りに鈍りすぎてて困ってる。 余計な真似しやがって、あのジジイ」

「師匠の腕の見せ所、ということか」

「なるたけ研いではみるが、どっちにしろ、綺麗な●●●立合いにはならんだろうよ。 “外法”を使わない手は皆無だからな。 ……ところで、そろそろ退けよ爺さんよ。 確かに俺は熟女フェチだが、いくらパツキンでどストライクなシルバー世代っつったって、男にマウント取られて喜ぶ趣味はねぇんだ。 先に手ぇ出したのは謝るからよ」
























「お前は、覚悟をさせなかった。 傷つくかもしれないという自覚●●●●●●●●●●●●●●、お前はそれを、自分が傷つける奴らに、持たせようと予定しなかった」



無傷で終わる人生なんてない。

痛み傷つくかもしれない、多くの血を流すことになるかもしれない、心底震え上がって失禁した挙句、心が壊れちまうくらい恐ろしい目に遭うかもしれない。 では何故、そんな目に遭うことになるのか。 なにか原因があったんだろうかあるんだろうか、もしかしたら自分がそれを生み出したのではないか、生み出しているのではないか、生み出そうとしているのではないか……。 

そうやって、受けうる痛みに納得できるだけの理由を、それがたとえ的はずれで間違ったものでも、何処かで事前に考え抜かせなきゃならないと、俺は思う。 

そうじゃなかったら、誰も、傷つき傷つける事に耐え切れない。

これは俺が、“士道”を棄てても、護り護らせると決めた最後の一線だった。

その線を引いた、今こそ自覚する。

俺が川神の地を再び踏んでから、唯一絶対の間違いを犯したとすれば、それは直江大和の性根をついに理解した時、その時に、自分の衝動を抑えられなかったことだったと。

一度、直江大和を不意打ちした俺が、冬馬の不意打ちカーニバルに対して、なにを言えるのか?

虚言で過去や本心を煙に巻き、百代への好意のみを過剰に脚色し誇張しながら、「感情や打算すら正直に露わにして●●●●●向き合うという姿勢こそ至高なのだ」と、臆面もなくのたまって戦う俺が、いったいこれ以上なにを言えるのか?

その自問の末に、俺が冬馬にかけることのできる言葉は、残っている筈がなかった。





本当は、見ていて欲しい、と言いたかった。

俺がきっと、最後の嘘つきになると。 探してみる、見つけ出してみせる。 誰の目にも明らかな“誠”。 丹沢で、その尊さを示してみせる。 最後に残るのが俺の嘘になるように、頑張るから、誓うから。 

だから人を嫌いになるのは、俺で最後にしてくれと。 

そう言いたかった。



生硬い怒りの表情を露わにする冬馬に対して、そんな都合のいい、自分勝手な頼みを言えるわけがないと、わかってもいた。

だから、その決意を篭めた視線を送るだけで、しゃくり上げ始めた冬馬から再び身を引いて、離れ、別れた。









――ええ、何度だって言ってやる。 こんな世界にこのまま生き残り続けたって、苦しみが待っているだけだってッ!!




ああ、確かにそう思えるかもしれないさ。 

ああ、その通り、辛いことばっかりで、生きててもなんにもいいことなんてないかもしれないさ。



でも、俺は知っているぞ。

かたや今あるものの中からマシなものを拾い上げて、過ちも矛盾もあるがままに受け止めて、優しい繋がりのある未来を引き寄せようと、ただただ信じて、身をもって示そうとした奴を。 

俺は知っているぞ。

かたや夢を潰され、それでも立ち上がって、自分の往く道をしかと定め終えて、ずっとそれに邁進してきた人も。 

お前が、それを一番近くで見てきただろうことも。




百代は変わらず純粋なままだったし、由紀江は俺のことを庇い続けてるし、クリスはあれだけの涙を流してくれて、英雄は俺の意を拒んでなお俺に味方するらしくて、どんな目論見があれ九鬼の従者達はお前の救済を御膳立てしてくれて。





斜に構えて批判だけするなんざ、どんな馬鹿にだってできる。 ……なにがS組だ、なにが学年一の秀才だ馬鹿野郎ッ

ふざけるなよ●●●●●●葵冬馬。

それを無駄で虚しいなんて、言わせてたまるか。 

お前に寄り添う井上準と榊原小雪。 そいつらの前で、それを言わせ続けてたまるかよ? そいつらこそ、お前にとっての救いだろうッ?

まだ生きてるじゃないか、笑っていられてたじゃないか、そいつら。

八つ当たりなんかしてる暇があるのなら、もっと笑わせてやれよ。 幸せにしてやれよ。 

あいつらにとっても、お前が救いなんだ。 だからいつもそばにいるんだろうがッ?




それで●●●十分じゃないかッ! それ以上のなにが必要だっていうんだよ!?

最高にかっこいい人生じゃねぇかッ? 

世界中に自慢できるくらい立派な理由だろうッ?




かけがえのない、価値のある事なんだぞ?

どれだけ大金を積まれたって追いつかない、最高に大事な価値なんだぞッ!? 





       ――――みんながそうして生きてきて、これからも生きていくってことはッ
















[25343] 平成二十一年度『川神大戦』実施要項
Name: かぷりこん◆9b371a09 ID:97a7675a
Date: 2013/02/18 07:52
平成二十一年度『川神大戦』実施要項(最終決定版)


<大戦発起人>  
・南方朱雀軍“総大将”直江大和、並びに、北方玄武軍“総大将”矢車直斗

<立会人>
・私立川神学園高等学校学校長 川神鉄心

<期日>
・平成二十一年八月三十一日 (開戦時刻 午前九時三十分)

<制限時間>
・無制限

<合戦場>
・丹沢大山国定公園内指定区域(神奈川県相模原市緑区及び愛甲郡清川村及び足柄上郡山北町における隣接境界)

<勝利条件>
・①敵軍の大将に縄を打つこと。
・②敵軍の大将を気絶させること。(一分以上の昏倒を“気絶”扱いとする)
・③規定回数分の矢が敵軍の大将に命中すること。
・①及び②及び③のいずれかが満たされた状況のみ、合戦は終了する。

<敗戦条件>
・①自軍の大将が縄を打たれること。
・②自軍の大将が気絶させられること。(一分以上の昏倒を“気絶”扱いとする)
・③規定回数分の矢が自軍の大将に命中すること。
・①及び②及び③のいずれかが満たされた状況のみ、合戦は終了する。

<参戦者(両軍の大将を除く)失格条件>
・審判員に自ら棄権の申告をした場合。
・合戦場への到着が開戦時刻に間に合わず遅れた場合。
・規定回数分の矢が命中した場合。
・“武道脱落”(規則違反)を犯した場合。
・審判員が戦闘の続行困難と判断した場合。
・なお、以上のいずれの場合とも、失格者はそれを認めた審判員の手により合戦場場外へ速やかに送致される。

<使用可能武装>
・使用する武装は非致死性、非殺傷性のものであること。
・武器は各々用意してもよいが、学園側からの借用を推奨する。
・なお当日に教師陣による“具足改め”がある。 ここで認可された武装のみ使用を許可する。 事前に具足改めを希望する者は教職員にその旨を伝えること。
・飛び道具はヤジリに指定の処理を施した専用の矢箭のみ使用を認める。 なお協議の結果、射出器具は自由とするが、素手での矢の投擲、刺突については禁止する。
・矢に被弾した場合について、頭部へ一箇所命中すれば即失格、その他の部位においても累計五箇所に命中すれば失格となる。
・服装については、各人任意のものでよいが、学校指定の体育着を推奨する。

<助太刀枠>
・各軍五十人以内

<審判員>
・川神流門下生、千余名。 なお、助太刀枠からの川神流門下生の出場はこれを認めない。

<その他諸規則>
・大戦開始前の棄権はこれを認めない。 なお、大戦の出欠、手柄内容に対する評価点は生活態度や体育学科の内申点数に大きく加算される。
・大戦開始後の棄権はこれを認める。 その場合は速やかに合戦場外へ移動すること。
・生徒は一方の軍に必ず所属すること。 なお、大戦前の連携訓練は大いに推奨する。
・五十人以上の戦闘訓練は学園内で行い、その場合、大将は教員に届出を提出し許可を受けること。
・期日以前の合戦場への立ち入りは、公平性を保つため両軍ともに禁止する。
・寝返りはこれを認める。 また、この行為によって前述した評価点が引かれることはない。
・参戦者は必ず当日の開戦時刻までに自軍陣地にいること。
・以上よりほかの疑問点は教職員に指示を仰ぐこと。






[25343] 第四十二話:見参
Name: かぷりこん◆f1242fd1 ID:97a7675a
Date: 2013/07/17 08:39
『誰だって、これからこっぴどい目に遭う者には、優しいものだ』

―――ヒューム・ヘルシング(「真剣で私に恋しなさい!S」 小雪ルートより)


























「私のは天然モノだが、人工的にも大きく出来るぞー。 古典的だが王道。 揉んで大きくするというやつだ」

「それは……効くのだろうか?」

「私に任せておくといい」

「は? ひゃ……ちょっ、モモ先輩!? や、やめっ……んぅっ……」

「あった~ら・し・い・よ~るが来た♪ 希望を、捨て~るな♪ かいか~んに胸よじ~らせ♪ ほしぞ~ら、あ~お~げ~♪ わたし~の~声に~♪ 健や~かな、胸を~♪ この湯気~のなか~で開~けよ♪ そ~れ、一、二、三♪」





――おっぱい体操、第一ッ! まずは胸を思い切り掴んで、乳房の体操ぉ~!





……『揉めば大きくなる』という通説は、各血管幅の伸長によって血流が良くなり、一時的に全体が大きく見えるだけ、というのがその真相である。 ゆえに、将来的に言えばモモ先輩の施術は全くの逆効果であることに間違いはない。 

胸がゆさゆさと揺れる→胸の中の筋肉が細かく断裂→肌の張りがなくなり将来垂れる。 

この摂理とも言うべき絶対の三段論法が厳然と女性に作用し続ける中、歳を取っても張りのある胸を保つ秘訣は、ちゃんとサイズのあった下着を着用し、胸の震動を最小限に抑えることが最良の手段であるらしい。 胸を大きくするためには、ただひたすら胸筋を鍛えるべし。 自慢ではないが、弓術を嗜む自分の胸囲が、その好例と言える感じではなかろうか。

つらつらと、そういった考察を冷静にしながら、京は半身を湯に浸からせて、すぐ隣で繰り広げられる落花狼藉を垣間見た。

後輩の、首の下(腹部の上)の物体究極許せぬっ、というオーラが滲み出ていたクリスは、それを指摘されると途端にモモ先輩のセクハラの餌食になった。

……しょうもない。 真に鍛えるべきは尻なのに。 将来の伴侶(と固く信じている男)は、その嗜好が強いことを京は既に心得ていた。




少し、状況を解説しよう。

今、京は川神姉妹の提案のもと、ファミリー全員と沖縄旅行にきている。 

県内屈指の名勝地“はての浜”近くに川神院ゆかりの温泉宿があり、そこで数日厄介になりながら、海水浴、植物園、水族館と、一通りの観光を済ませ、明日にはもう帰宅という流れである。

旅行最後の夜とだけあって夕食後、男部屋に集合して川神水を解禁、呑めや歌えやの宴会を座敷で繰り広げて四、五時間。 頃合を見計らって、女性陣はまとまって湯船に浸かりに来たわけである。

旅館に到着当初、接近していた台風による悪天候に露天は閉鎖されていたが、上陸直前でユーラシア方面に逸れてくれたおかげで、今はこうして入浴できている。 

上空を見れば、朧月が浮かぶ。 風情を大事にするためか、外灯の光量を最小限まで落としているらしいのも相まって、ひと心地ついた気分になった。

両掌りょうてをそっと水面に差し入れ、湯を掬って顔近くまで上げてみる。

京の手のなかで、小さな月が、まるで齧りかけの白玉のように柔らかく滲んでいた。

明後日にはまた学園で……と、物思いに耽っていると、無意識に小さな溜息が出て、水面の月をわずかに揺らす。

外界の仄暗さに、わりかし水が重く感じられて、体を動かすたびに反響する水音も、心なしか大きく聞こえるような気がした――。






「――――――――――」





――あれ?


そうこうして感傷に浸っている間に、さっきまで響いていた嬌声がまったく聞こえなくなっていた。

「クリは、ワン子とまゆまゆが連れてってたぞ。 なんか湯当たりしそうだったから。 呑み過ぎもあったと思うがな」

「そう……」

我に帰った、という京の気配を察してか、モモ先輩が話しかけてきた。 どうやら、また随分長く自分の世界に閉じ篭っていたみたいだ。

――……嘘。

京にとって、こういうことはままあること●●●●●●。 日常茶飯事ではあるのだけれども、周りにファミリーしかいない時分に、こんな前後不覚に陥ることはほとんどない。 

大和への好意は一旦脇に置くとして、なによりもファミリー、身内の和気藹々の雰囲気を“自分の居場所”と京は位置づけてきた筈で、そこで小説本の類を読んでいたとしても、周囲に絶えず五感は開かれていて、皆が笑うときには同じ事に笑い、皆が考えるときには同じ事を考える。 

この沖縄旅行はまさにそういう、自分の幼かった頃を思えば夢のような、憧れの時間である筈なのに。 なぜこういう、“もったいない”事を。

そしてこのシチュエーション。

ふたりきり。 

大和へのアプローチを日々研鑽する中、唯一その趣味を同じくしていた百代に対し、今の京の、想い人の真意を知った後の心境は推して知るべしというものだった。

一方の百代は何のけれんもないように、その背を壁に預けて鼻歌を吹かしながら、顔を仰向けにして、両目をタオルで覆っている。

それを見て、なんとなく居心地の悪さを感じて、そう感じたことにも決まりが悪くなった京も、湯船の内部にある段差を一段降りて、手探りで腰を落ち着け、膝を抱え、いわゆる体育座りのまま目を瞑った。

もし。

もし、先に控える大戦が終着したとき、自分はどんな顔でいるだろうか。

きっと、大和があの男を征したとき、そのときこそ、学園内に己の沽券を示した大和は、百代に思いの丈をぶつけるに違いない。

その情景を脳裏に描いて、飲み下しがたいナニカを胸によぎらせて、京は鼻のうえまで湯に浸かり続けていた。

だんだん、息苦しくなってくる。 

それでも京は空気を求めず、自分の心音を数えた。 そのうち、位置がはっきりわかるほど心臓が激しく鼓動し始める。 

聴いている筈の他の雑音はまるで聴こえず、動悸はうるさいほど体中に響く。 

京はとうとう、湯から顔を出して空気を吸い込んだ。 同時に、瞑っていた目も開ける。

それでも、こんなふうに気を紛らわして抗ってみても、まるで肺が充血し切って、喉元まで血の味がこみあげてくるような苦しさ、……そんな悔しさが、京の中から消えることはなく。

そう、消える筈がない。

どうあったとしても“私”の中で“彼”が消えることはない。 

何をどうしようが、椎名京にとって直江大和は直江大和以外の何者でもないからだ。

好きになって、どんなに意地悪をされても、苦しめられても、そんなこととは無関係に好きでいられる、という京にとって唯一の人間。 それが彼だ。

一度魅惑されたら、どうしたって逃れることはできない。 

好悪も損得も超えて、ただ引き寄せられる。 行き先もわからぬまま、真っ黒な闇に呑まれてゆく、この湯気の向こうの、夜空に散りばめられた星々のように。

辛くても、苦しくても、何も得るものがなくても、慕い続けられる……。 








    
――ああ、よくよく考えれば“あの男”もそうなのかもしれない。



一瞬、そう思いかけた京だったが、慌ててぶんぶんとかぶりを振った。 

アレのせいで、大和はあんな非道い目にあって、ファミリーの和が乱されたのだ。 

自身のアイデンティティが集約する場を、一時でも不調和に陥れたアレに、どんなものであれ共感を抱こうとするなんて、と自己嫌悪さえ覚えるのだった。




私は、アレとは違う。 

たとえ自分の思い通りにならなくったって、私は黙して愛し続ける。

愛する手段に、立場に、固執などするものか。

そりゃあ大和が私だけを見てくれれば、これほど望むことはないけれど。

それでも、大和が、どんな“大和”になったって、私は絶対に、彼を愛しとおすと決めたからだ。

七年前、孤独のまま、味方の居ない世界に耐えていた京を、懸命に救い出してくれた、ナイト・オン・ア・ホワイトホース。

彼との出逢いが無ければ、なんて、想像もしたくない。 

風間ファミリーに加わる事も出来ず、執拗で陰湿なイジメから逃れられる事もなく、今となっては唯一の肉親である父との関係さえも破綻していたことだろう。 

彼の居ない道筋を辿っていたなら、自分は今頃、あらゆる意味で“死んで”いたかもしれない。




そうならなかったのは、京自身が助けを求めたからではなく、ひとえに、大和が“大和の好きに行動したから●●●●●●●●●●●●”だ。


「……ねえ、モモ先輩」





だから、私は、どんなかたちでも、彼に尽くすのだ。













 

<手には鈍ら-Namakura- 第四十二話:見参>



















川神駅から始発のアクティー熱海行に乗車し、七浜駅で一旦降車、相鉄本線急行に乗り込む。

海老名駅から更に小田急小笠原線急行に乗り継ぎ、計一時間半の移動時間で丹沢の玄関口たる新松田に到着、直行バスで目的地周辺へ。

今日に限っては部外の登山者が山に上がることはなく、全校の集合場所となる西丹沢自然教室ビジターセンター周辺は学園側で貸しきられ、朝から大勢の生徒達で溢れかえることになった。

出がけに携帯で確認した天気予報は、曇り、気温二十八度、湿度八十パーセント。 

少々蒸すだろうが、ジリジリと陽が照りつける中で戦うということは、開戦からしばらくは無さそうで安堵したものだ。

今の気候はそれくらいだが、山の空は変わりやすいというのは重々承知だ。 注意をまた一度喚起するべきだろう。

タイムテーブルからして、戦地に入ってから戦術や戦略の最終調整、確認をとる暇はない。 

広大なバトルフィールドに“雁行の陣”――雁の群れが列を成して飛ぶさまにたとえた散開型の斜方陣、それをムラなく敷くことに手一杯となる筈で、とてもじゃないが陣形以外の細かな指示に割く余裕はない。

ゆえに大将として檄を飛ばし、自らの気合を見せ伝える総員への式辞も兼ね、この集合場所で朱雀軍の打ち合わせは行われることになっている。

トレッキングマップが描かれた立て看板に背を預けて、各隊の長が集合するのを待つ間、大和は真後ろの様子に、なんとなしにと聞き耳を立てた。








――スタジオの皆さ~ん♪ おはようございます、川神支局の雪広です! 今日はここ、丹沢で、数百年前と全く同様の“合戦”が学生達によって再現されようとしています。 ご覧くださいっ、この見渡す限りの人、人、人。 都合、千五百人の生徒達の目は、心なしかギラギラと、やる気に満ち溢れております。 ……早速、川神学園高等学校学長、川神鉄心先生にお話を伺いたいと思います。

――ふぉふぉ、よろしくお願いするぞい?

――では早速遠慮なく、キワどいところから。 “闘争によって因縁の決着をつける”――この手段について、学園の内外から多くの抗議が寄せられたと聞き及んでおりますが?

――ふむ。 この大戦を組むにあたり、確かに多様な意見が出たが、なに、闘争ではなくスポーツだと思えばよろしい。 全国でこのような、大戦を模した歴史系の祭りは、年がら年中行われておる。 これは本当じゃぞ? なにも川神学園が初めではないんじゃよ?

――そうなのですか?

――うん。 北陸のほうの中学では、生徒会長同士を大将に担いで毎年合戦を繰り広げるところもある。 よりリアル志向で儂らはこの行事を企画したがの。 ……安全面を言えばな、今回使用する武器もほとんどが模造品。 使用される矢の類も、ほれ、こういう風に先端に吸盤がついておる。 これには結構苦労したところでの、人体にはまったく無害じゃが、特殊な薬液で濯がねば身から取れない粘土を細工しておるのじゃ。 これで誤魔化しようもなかろう? 

――しかし、怪我人は確実に出ると思われますが……。

――子供が外で遊べば擦り傷くらいはなんぼでも作るわい、と、これは儂の自論じゃが、ただ、そのへんはキッチリしとる。 我ら教師陣はもちろんのこと、儂が率いる川神流門下が責任を持って見張っておる。 行き過ぎた暴行やリンチは起こさせん。 だいたい生徒達にとっては成績も懸かっておるでな。 むしろ品行方正とはかけ離れた生徒ほど、規則は守りに守ろうとするじゃろ。 特にE~F組には、この大戦が進級に影響する者が大勢居る。

――微笑ましいことですが、それは必死にならざるをえませんねぇ♪ ……では続いて、内容について少々。 この合戦の勝利条件は?

――敵方の総大将が戦闘不能に陥れば、そこで終了。 それ以外に決着はない。 ああ、禁止武装は騎馬ぐらいじゃったかの。 生き物は流石に待ったをかけねば。 

――そして、飛び道具は矢箭に限定、と。 ははぁ、これは本格的ですね?

――美人にそう言っていただけると、準備に奔走した甲斐があるもんじゃ。 南方朱雀軍と北方玄武軍、どちらにつくかは個人の自由。 人材の奪い合いから、戦いは始まっておるのよ……。









夏休み終盤の日曜という事もあり、体操着の生徒達に紛れ、早くも行楽を兼ねて大戦を見に来た人々も集まり始めていた。 ピクニックシートを持った家族連れが目に眩しい。

戦場は起伏に富んでいて、参加者、関係者以外は立ち入り厳禁。 お世辞にも観戦に適している地形とはいえなかったが、そこはそれ、山地の各所に設置されたカメラから、何十畳はありそうな屋外用の大画面を通して、ここ、ビジターセンター前に中継することで、父兄の希望に応えている。 ローカル局であれ、テレビの取材が来ていることは、それと無関係ではなかろう。 なにかしらの助力を取り付けたに違いない。

また、今現在集合場所となっているこの場所は、そのまま救護院、つまり、リタイア組が収容される地帯も兼ねている。 否応にも全校の生徒達は、大戦の様相をリアルタイムで見聞きすると言うわけだ。

なるほど、自身の手腕を見せ付けるには絶好のシチュエーションだと、武者震いしながら大和は目を細めた。



「直江、最後の合議の前にすまんが、先に出席のほうを取りたいのだが」

「え? ……ああ、はい。 じゃあ取り敢えず、クラスごとに集まったほうがいいですよね?」

「うん、そうだな。 号をかけてくれるか?」

応じたジャージ姿の梅先生に慇懃に頷く。

この日のためにアドレスメモリを複製、整理、分割して、ノートパソコンにあらゆる連絡回線を束ね、それら全てに同時並行で指示を飛ばせるよう設定した、モロ特製の通信ネットワーク。 

それを駆使して、本日二度目の指示を送る、そんなときである――。








「二年F組、出席番号四十二番、矢車直斗。 只今参着」








……音もなく、風も揺らさず。

何時の間にやら、仇敵は忍び入ってきていたらしい。

唐突に過ぎて、半ば幻聴かと思いながらも、声のしたほうを振り向けば、――そこには“誠”の一文字いちもんじ

真っ青な浅葱色の中に、白抜きで縁取られた行書体。 

それを背負った後ろ姿に、大和は一瞬目を見張り、口をぽかんと開けたままの担任教師を尻目に振り向かれて、その全身の奇異な出で立ちと対することとなった。

山形の、いわゆるダンダラ模様を袖の縁に白く染め抜いた蒼の羽織。 それを無理矢理束ねた帯の上、はだけた胸元にはサラシが覗き、下半身は恐らく馬乗袴と呼ばれる二股の袴、足元には足袋に重ねて草鞋が巻きつき、真白の前髪がかかる額には鉢金が巻かれている。 防具の類は、それ以外に見受けられない。

腰の陰に何やらポーチらしき膨らみがちらと見えたが、武器らしいものと言えば黒塗りの日本刀のみが唯一そこに下げられ、まさに捨て身、攻め一辺倒の完全武装。

壬生浪みぶろと揶揄され、しかしそれ以上に恐れられた、幕末の狼。



――――俺が許せないのは、お前の中に他人に対する“誠”がない事。

――――他人と全力で向き合わないお前に、万人に誠を尽くそうとしないお前に、百代の隣にいる資格はないッ!



……なるほど、あくまでこちらの神経を逆撫でするつもりらしい。



「士道は、棄てたんじゃなかったのか?」


「それを見てくれで判断するなら、お前の取り巻きには、一人も武道家が居ないことになるな?」



売り言葉には買い言葉だった。

だが、その後は小憎たらしい口元から憫笑の吐息が吐き出されるのみで、梅先生に定めた視線は動かされず、腹立たしいことに、顔を合わそうともしてこない――。





















努めて冷笑的な態度を保っていれば、毅然超然とした風体を崩さないでいられる気がした。

其処彼処から漏れいでる驚きの気配、嘲りの囁き。 それらに鼓膜をなぶられながら、周囲を見渡す。

散っていた朱雀の主要メンバーが、ちょうど集まってくるところだったらしい。 なんとも好都合だった。

今更、何を言うものでもない。

その様子を語ろうと思えば、一子の俯き加減やクリスの瞠目、椎名のしかめ面など、追究できるところは多々あるが、あえて割愛させてもらおう。

何にしても、即座に朱雀軍大将の周りを固めた風間の一党は、数ヶ月前と変わらず、誰もが対立対決の意思を明確に放っていた。

強いて変化を挙げれば、すぐそばに源忠勝やマルギッテ・エーベルバッハが控えていることくらいか。

(こ、こいつぁカブいた格好だぁ。 なあ、師岡TAKUYA∞?)

「……そ、そうだね。 でもどさくさに紛れて後ろにヴィジュアルバンドのボーカルみたいな記号つけないでよね」

(こんな中でも手早いツッコミだ。 こいつぁ名前負け、ボクにはUVERだってかい?)

こんな中でも間の抜けた、脱力漫才を披露する姿は、随分と久しく感じられる。 

「調子が戻ったようで何よりだな」

「……矢車さん」

何かひどく痛ましいものでも見るような由紀江の視線をかわして、

「今日は、よろしくな?」

ナマクラの鯉口を切る。 それで威嚇は十分だったろうが、




                    ――――ふしゅッ




同時に、気息を巡らせて振り撒いた殺気にて、周囲の腰を退かせ、口を噤ませ、誰の耳目もこの身に誘導する。 

一拍置いて、長鞭の柄に手を掛けた担任教師に声をかける。



「武装を改めていただきたい。 即刻、この場で●●●●



凝固した空気が、またざわめき始める。

応答される前に鞘込めの鈍らを腰から引き抜く。

「別段、こいつらに隠すことで生じるメリットは無いので。 お早く」

具足改めは、規約にのっとるのであれば、北方と南方の両端から各員が自陣に入る直前で行われる手筈であった。 

開戦まで相手方に武装を知られないための措置ではあるが、それは、俺の目的を阻むデメリットを孕むものでしかない●●●●●

この戦いに勝つために、俺は、この一年“川神”という超一級の武道の薫陶を受けながら、戦法として幾分卑劣なものを取ることになる。 
つまり、俺がこの戦いで示すモノを鑑みれば、その卑劣の行使がどのようなものか、概要を事前に開示する必要があることは瞭然だった。



その卑劣を卑劣で無くすには●●●●●●●●●●●●●、ここでありのままを曝け出す以外に方策はない。 



恐らく了解の意を示すのだろう生返事が呻かれ、目をしばたかせながら近寄ってきた小島を顎で急かして、ナマクラを同様に後ろ腰に装着していた医療ポーチともども押し付ける。

「尖ったもの、いくつか入ってますけど、中のものは自分にしか使いませんから」

次いで軽く片方ずつ足を蹴りだして、具合を確かめてから裾をまくり、マジックテープのベルトを外して、両脚にマウントしていたアンクルホルスターを手に取った。

受け取ったナマクラのほうに気が行っている小島女史の様子を見、また憎々しげにこちらの一挙手一投足を睨みつけてくる視線に応じるように、

「通電量、最大電圧は規定内。 ――ほらよ」

無造作に、大和のほうへ、それを投げ渡す。






……電気を用いた実際的攻撃理論の発祥は、第二次世界大戦までに遡る。 

旧ドイツの電気的な拷問がそれとして記録されており、以来、その理論は大戦終結後に当時の同盟国を経由して世界的に拡散していった。

感電によって人が死ねば拷問は成功せず、感電によって人が死なねば処刑は完結しない。

電気による人体への影響について、その知識を蓄積する事は、ひとえに通電量と人体の生命維持能力の限界との境目を理解する事と同意である。

電気は人体に必要な必須元素であり、人は電気信号を使って体の各部をコントロールし、触感や痛みなど様々な情報を脳に伝達する。 その真偽はさて置き、古代エジプトでは電気ウナギを頭に巻いて頭痛の治療をしたという記録が存在する。 こういった少量の電気による人体への魅力的な適用は、古くから世の津々浦々で利用されてきた。

そしてこの電気を多量に適用する、いわゆる純粋な「攻撃」のための用途――人体への過度の電化としての多量電化実験は、1880年代にアメリカで始まった。 ゲシュタポの拷問録が、それを昇華させる形となり、人を殺さずにダメージを与えられる、最も効果的な電流の強さの限界点の見極めがそこで成されたのである。

さらに20世紀後半から21世紀にかけての数々の技術革新を経て、十分にコンパクトでパワフルな動力源(アルカリ乾電池)、柔軟な操作性(機構の簡易化)、安定した電圧と電流(変圧器のコンパクト化と高性能化)、発信回路(電気パルス発生のクロック)などのそれぞれの実用化が伴い、


そこで初めて、この“ハンディバトン型スタンガン”が登場する。


市販品を改造し、バッテリーを大容量のものに取替え、その他諸々の調整を施した未有お嬢様によれば、クマも一撃百万ボルト。 

それを聞いたサブカルチャー狂の夢お嬢様によれば、リアル結崎ひよ○モデルだー、とのことらしいが、はて、何のことやら。





「……ははッ、んーだよこりゃ? ご大層なこと言っときながら、お前も大和のこと言えたクチじゃねぇな、おい? なんだかんだでS組全員味方につけてるしよ」

口を開きかけた大和を押し退けるように一歩前に進み出て、拳を手の平に打ちつけながら、褐色の巨漢は小馬鹿にした表情を隠しもしなかった。 

その顔面には、侮蔑の色以外に幾らかの喜色も同居している。 

気分の昂揚が嫌でも伝わってきて、その単純一途な気性が甚だしく見て取れる。

さて、先日与えてしまった屈辱からか、大戦の戦端を開いたこちらの意図や言い分すら丸々忘れてしまったような彼ではあるが、言及されたところはこちらが最も頭を痛めているところ、その核心であることに変わりはなかった。

「援軍の件に関しちゃ、俺は拒否した筈なんだが。 ――人徳って奴らしい。 そういうことなら言い逃れもできねぇよ。 まぁ、安心しろ。 大和はもちろん、お前程度にその装備を使う予定もない。 この前みたいに勝手にこけて●●●、自滅しててくれて結構だ」

膝を強張らせ、固めた拳を一気に肩まで引き付けた島津の手首を、脇に居た源忠勝が無表情のまま捉えて制止する。

一触即発の状況下、なお嘯くだけの余裕を見せて、

「ただ何にしても、予想外にこっちの戦力が増えちまったからな。 ハンデ代わりに色々サービスしようとは思うさ。 とりあえず、ためになる情報をいくつか進呈しようか。 ――外様の助っ人は頼んでいない。 武道四天王級に対して弄しうる俺の奥の手は三つ。 そのうち、攻の手は全て剣技の騙し討ち。 そのスタンガンこざいくは川神百代にのみ使用する予定。 ……気をつけとけよ? 喰らったら三日は経絡系が御釈迦になるからな」



――“瞬間回復”と自称される細胞活性とて、その例外ではない。



それを、さも仕方ない風、遣るかたない風を装いながら、肩を竦ませ視線を下方に這わせ――、しかし、“はっきりと聴こえるように”、けろりと放言した。 

こうして、この対峙の主目的は達成される。

……余談になるが、この百代の細胞活性の弱点を提示した釈迦堂によれば、あのヒューム・ヘルシング卿の祖先は電磁発勁なる“功”を併用した蹴技によって、百代と類似した体質の“不死者”を滅したらしい。

むろん、当代のヘルシングも当然のように、その工夫を身に宿しているようだが、生憎と今の俺にはそのスキルを会得するための余裕マージン天稟ギフトもまるで足りないため、治癒封じとして、前述の手段を取る判断に至った。 

もっとも、これを遣うのは、“最後の最後”と決めてはいる。 一旦は、彼女の特質を含めた“全力”を打倒しなければ、意味が無い。


「流石にそちらの大将も、千五百対一が千二百対いくらになったくらいでガタガタ言うほど狭量じゃあないだろうが、他に質問があれば受け付けよう」

「……随分気前が良いもんだ。 えげつねぇ裏があるとしか思えないほど、胡散臭い話だが、一つだけ聞いておく。 ――――勝てると本気で思ってんのか?」

「そりゃ勝てるだろう? 当たり前だ。 いつか誰かが言ってたろ。 正義は必ず勝つ●●●●●●●ってな。 ……心配してくれてるのか? 源くんは本当に、誰彼構わずにお優しいな」

これで、もう少し社交的なら、テラ源君物語でじょーじウハウハ、イケイケドンドン、ドドンドドンドン忠勝キングダム建設も夢ではなかったろうに。 

……なんだこの人を喰ったようなテンション。 緊張でおかしくなっているのかもしれない。 Be Coolだ俺。 内心で深呼吸だスーハースーハー。 頭のネジをかギュ~っと巻き直せ。

「だんまり決め込んで、どうやって情報を引き出そうかって頭グルグルグルグル回転させてるだけの、そこな軍師様とは大違いだ」

「気持ち悪ぃキャラチェンしやがって。 喋るたんびに、いちいち他人をこき下ろすんじゃねぇよボケ。 いい加減にして質問に答えろ。 俺達朱雀軍はざっと千二百、お前ら玄武はどう見積もっても三百人ちょいだ。 この差をどう埋める?」

……はて。 

忌々しげに会話を続けながらも、いつもの気だるげな様子は微塵も感じられず、ただただ神妙に向けられた忠勝の精悍な顔つきに、少し胸を打たれる気分を味わったが、

「いや~、ゲンさん。 残念ながら、その計算は違うなぁ?」

獰猛な猫撫で声が、そんな感傷を彼方へとはらった。

「どうやら本来の実力を、この私相手に●●●●●●秘めていた、隠せていたらしいのは、まったくもって驚きだが、なぁ、直斗? なぁ、不肖の弟弟子よ、お前ならわかるだろう? これまで私に見せていた姿が伊達モノだったとしても、この一年、院に籍を置いてたお前なら。 ……そうさな、私一人で●●●●百万。 しめて百万とんで千二百ってところだろうよ」

自ら百万と号す其の女こそ、誰あろう川神百代である。

背後から覆い被さるように、目を伏したまま沈黙を決め込む妹分の体に抱きつき、その頭の上に片頬を乗せている。 

それはさながらプライドロックの頂きで寝そべる獅子王の如く。 ごろごろと喉を鳴らす音さえ聴こえてきそうだった。

「どうみても圧殺だろう?」

「……そうだな。 お前の言うとおりなら百万千二百対、三百」

双方の不遜、ここに窮まれり。

久方ぶりの彼女との会話は、愛を告白し告白された関係にしては、些かの遠慮もない調子で、ただただ殺伐としたものとなってゆく。

「とはいえスリーハンドレッドとは悪くない、縁起の良い数字だ。 どうだ? スパルタンな奇跡の一つでも、起こしてみるつもりか?」

「馬鹿言え。 結局、俺が負けるじゃねぇか」

にべもなく答えて思考する。

確かに百代に言わせれば、ちょうど、かの映画のシチュエーションそのままである。

ちなみに、伝承で言えば百万対三百とされるテルモピュライの戦いであるが、実際には六万対七千が妥当なところと推定されている。

それで数日持ち堪えたというのも凄まじいところではあるが、なんだかんだで全滅エンドは避けられなかった筈だ。

「あくまで、お前の言うとおりなら、だろ? その圧殺ってやつは」

「ほっほ~? 随分な勝算があるらしい。 こんなちゃちなオモチャで私がどうにかなるとは思えんが、是非とも愉しませてもらいたいものだ」

値踏みするような視線を真正面から受け止め、俺は、からからの喉から、とっておきの強がりを搾り出す。





「小難しいことじゃない。 今言った、単純な戦力差の話だよ。 “百万千二百”に対して“百万●●三百”。 十分に勝ちの目もあると思わないか?」





少なくとも、意地の張り合いだけは、誰にも負けるつもりはなかった。

そして、ついには大和に一瞥も送らず、宣戦布告の対峙を終える。 

貴様なんぞ歯牙にも掛けない。

そんな態度こそ、この徹底した無視こそが、大和に対して最も覿面であるからと、判っていたからだった。

























「ヒーローである我が問おう。 ……主、いずれか有道なる?」

明示された事情を鑑みれば●●●●●●●●●●●●、間違いなく朱雀軍でしょうね」

その問いに、葵冬馬は涼やかに答えながら、眼下に広がる敵の大群を漫然と見下ろしていた。 



「将、孰れか有能なる?」

「朱雀軍だよ~♪ こっちのは頭悪そうだしー」

その問いに、榊原小雪はそう唄いながら、指に止まらせた蜻蛉を眺め続ける。



「天地、孰れか得たる?」

「こっちが上、ってことはないだろうなぁ……」

その問いに、井上準はそうぼやきながら、両腕を交差し入念に関節と筋肉をほぐして柔軟運動に励む。



「法令、孰れか行わる?」

「朱雀軍だね。 私たちは訓練も何も、してきていないわけだから」

その問いに、京極彦一はそう断じると、備えられた茶席に静かに座して、再び霊峰の色彩を愛で始める。



「兵衆、孰れか強き?」

「朱雀軍じゃ! 見るまでもないし見たくもないわッ、数が違いすぎる。 ……雑魚共が群れおってぇ。 なんで此方がブツブツブツ」

その問いに、不死川心はそう吐き棄てて、膨れっつらのまま、朱に染まった巨大な番傘の下、その奥まった席でせかせかと手元の茶筅を掻き回す。




「士卒、孰れかならいたる?」

「HAHAHA、SPECテキニ、ソレダケハ、コッチガMORE THANナキガスルネー! カズノVIOLENCEニハ、カナワナイキモスルケドネー!」

その問いに、南條・M・虎子はそう忌憚無く受け答え、まるで動いていないと死んでしまう病でも患っているかのように、繰り返し何度も中空に飛び蹴りを繰り出している。




「賞罰、孰れか明らかなると?」

「こちらが圧倒、と申し上げたいところですが、大将を比べてしまいますと、むむぅ、という感じですねハイ☆」

その問いに、忍足あずみは無邪気を取り繕い、盆の茶菓子を取り分ける作業にまた取り掛かる。





「フハハハハッ、だがしかして、勝たんとするは――」











俺だ●●



温まった茶番へ、出し抜けに現実の冷気を吹き込むように、ただただ透徹に、峻厳に宣言する。 










「直斗」

英雄の肩越しに、未だ正体を隠す“マロード”を盗み見て、真横をすれ違いざま、そこで一旦足を止め、彼だけに聴こえるように声を潜めて、かく語る。

「今一度言うぞ、英雄。 ……つい今しがた、俺はまた喧嘩を売ってきた。 これから数時間も過ぎれば、無傷で立っていられる奴は、俺を含め、ここに一人もいないだろう。 戦力差、引いては予想される損害比キルレシオ。 他諸々を計算するのも馬鹿らしい。 そして、勝てるかどうか、それ以前に、この戦いに勝ち負けという概念があるかすら、疑わしいことこの上ない。 勝利の道は数少なく、果たして、何を以って勝利と呼べるのか。 情けないことに俺はいまだに答えを持ててないし、もしかしたら、このまま、ただひたすら状況を引っ掻き回しただけで、後のお前らへの恨み辛みを残すだけの暴挙になるだけかもしれない」

問う。

――――それでも、退く気は無いか?





「お前を取り巻く数多の問題と辛苦への的確な対処など、我は一切教えることは出来ん。 我はお前の不幸を知ってはいるが、我は幸福な家に生まれ、幾らかの波乱に揉まれはしたものの、おおむね幸福のうちに育ってきた人間だ。 だから何も言えん。 まして武術については甚だ門外漢であることに違いはない」 

返ってきたのは、そんな、言葉。

それは、決められた祝詞のりとを唱えあげるような。

予定調和だと言わんばかりに、さばさばした表情を乗せる横顔が、ひたすらに“前”を向いていた。

「……だがな、どんな魔物が行く手に立ち塞がろうとも、ただ共に、ただ共に逃げずに怯まずに誤魔化さずに、その道を愚直なまでに突き進み、一緒に悩み、一緒に迷い、一緒に涙する――、それだけで救われるものだって、あるだろう? そのときのパートナーが誰だとか、秘めたる目論見がどうだとか、そういうものは二の次の話として、だ。 お前が示したいのは、そういうことなのではないのか●●●●●●●●●●●●●●?」



……ああ、くそ、勝てない●●●●

やはり父母は偉大だ。 絶対的に敵いようがない。

“この男を世に遺した”という事実は、きっと一生涯、俺の為す事より価値は有る――。



「我が巻き込んだこの背に控えるS組と、その他三百人には、今更だが、辛い役回りを負わせてしまうな。 後々の慰労は惜しまないつもりだが、ただ、それだけ以上の価値が、この戦いにあると、我は確信している。 ゆえに、――――――――――ふむ、もう延々管を巻くのも面倒だ●●●





――――お前がどう思おうと、これは王たる我の決定だ。 すまんが、諦めろ?














笑うだけ、笑え。 嘲るだけ、俺を嘲ろ。

英雄の翻意は甚だ期待できないと、もとより高をくくってはいたが、このときだけは、そう開き直らざるをえなかった。



手を組むという方策は、大和の変革への阻害要因でしかない、という理屈は前提としてあった。

だが、“どちらかの責任で、どちらかが不幸になる”ことほど、寝覚めの悪いことはない。 そう思えたことも、また事実だった。

だから、お前は来るなと、そう伝えたはずだった。

巻き添えになる奴も、英雄が絡めばきっと多く出てくると。 

実際、今だって、この状況を恨めしく思っている人間が、この玄武軍にどれだけいることか。



……なのに、何故だ。

幸せな夢を見ている途中で、急に肩を掴まれて起こされたみたいに。

まだ夢のつづきにいるような浮遊感と、現実に還ってきたことを残念に思う気持ちと、一度は拒絶したその真摯な顔が開けた目に映っているのだという、安堵と。

おのれの身勝手で他人を振り回し、あまつさえ周囲から嫌悪を抱かせる罪悪とは別の、それぞれ趣きのまったく異なる様々な感情が湧き上がってきて、どう受け止めればいいのか、判らずにたじろいだ。










「さて、勝算はどれくらいあるのかな? それなりの工夫は、ついているんだろう?」

笑えばいいのか、泣けばいいのか、それとも止めてくれと怒り叫べばいいのか。

猛烈に襲ってきた、どうにもならない居心地の悪さ、むず痒さの中で、助け舟のように背後から響いてきたその澄まし声を、思考の逃げ道にして、

「……その場の機転が一、体力が四、残りの五は――、運とか、火事場の何とやら」

また不覚にも、先ほどの見栄っ張りとは好対照の、正直な本音を零してしまう。 

「フフ、大真面目に言い切るものだ。 面白い。 やはりこちらに身を置いたのは正解だったようだ」

一瞬惚けた後、流石に嘆息が漏れたらしいが、その言葉通り、振り返ったところにあった言霊部部長の苦笑に、失望の色は見受けられなかった。

「何度か顔を見かけたことはあるのだが、初対面、だね。 私は君とも、まして直江君とも縁こそ無いが、君と彼の縁には興味がある。 言ってしまえば、これは野次馬根性以外の何物でも無いんだが、見届けても構わないかな?」

「お好きなように。 別段、許可が要ることじゃない」

それを、全校に、否応にも見届けさせるための、川神大戦だった。 

迫力こそ無いものの、何かを探るというより何かを確認するような真っ直ぐな目に、気を取り直してその返答を送った。



「HAHAHA、アンガイ、ハナシ、ツウジルミタイデ、アンシンシタヨ。 TO BE FRIEND IS TO BE PEACE!!」



寸暇なく、続いて相まみえるは、骨法部主将にして生徒会長、南条・M・虎子その人だった。

学園に編入し、生徒総会で初めて姿を確認したときには、生徒会を率いる立場にして、その校則違反全開のウォーボネット――頭部の羽飾りは何なんだろうかと印象に残ったぐらい。 

確か風間翔一は、内申の大幅な減点と引き換えにして、トレードマークたる赤バンダナを学内で着用しているはずで、…………いや、完璧な風紀など、このカオティック窮まる学園には望むべくもないものなのだろうが。 きっと母なるグレートスピリッツの意思に従っている、宗教的なアレなのだろうと、無理矢理納得した覚えはある。

……とりあえず、彼女に関して矢車直斗が言える事は、それだけだ。 

名前は知っているし顔も判別できるが、学年も違えば言葉を交わしたこともない。 

だから、これまでの学園生活中、特に気にするでもなかった頭文字がMのミドルネームの詳細も皆目わからない。 

彼女とは、それぐらいの、非常に希薄な仲である筈だ。

いや、親しげな満面の笑みで、忙しなく両手をぶんぶんと振られれば、応えてあげるが世の情けというものだろうが、果たしてどう応対してよいものやら。

先ほどの英雄の言葉から、危うく陥落しかかった仏頂面を崩さぬよう苦心しながら、彼女の扱いに困っていたところ、

「……つーか、おい、いいのかよ、生徒会長? こっちはどんだけラブリーチャーミーだったとしても、敵役に違いはねぇ。 アンタはS組でもねぇし、部長のアンタ以外の骨法部だって、みんなあっち側だっつーのに」

前述の調子で井上が、俺の心中をそのまま代弁してくれた。 

あのとき●●●●には、直接顔を合わせてはいないが、やはり葵冬馬の往く所、陰に陽にという具合で付き従っていたらしく、メイド相手に痛い目に遭ったらしいが、そんな過去は微塵も感じさせない、いつも通りの、脱力的な呆れ声だった。

……こいつらの“答え”は、こいつらが出すしかない。 

そう思ってはいても、やはり他人に言わせればお節介というか、何か手掛かりになるようなものを落としこもうというのもまた、俺の為したいことだった。 

そのための御誂え向きの“処方”も、準備だけは出来ていた。

なし崩し的に、井上に虎子の相手を任せ、少し頭を冷やすために川のほうへと、俺は足を向ける。

「ワタシイガイノ、コッポウノオンナノコ、ミンナ、カザマファンダッタカラ、ショウガナイ♪ デモ、ソノミンナモビックリシテルカモ。 BY TODAY、コッチニクルノハ、ONLY MY SECRET!」

独特な言い回しというか、方言というか、彼女のカタコト訛りの日本語は未だ耳に馴染まないが、どうにも憎めないのは、滲み出る純粋な、生徒の大多数から支持されうるにたる“人柄”というやつなのだろう……。














「ふむ。 では虎子先輩には、こちらの玄武軍に気になるヒトがいるということでしょうか?」

「おお、流石。 こういう話題にはバリバリ食いついてくるな、若。 しかもいきなりさらっと名前呼び」

「ゲンブ、キニナルヒト……? AH、ソレハモチロン、アノSAMURAI BOYニ、キマッテルJAMAICA!」

「あらら、これはまたストレートっちゃストレートだ。 ……でも先輩、この大戦が始まったのって、ウチの大将の、実り難い片恋慕からだからな? 本当に言いにくいことなんだが、付け入る隙は、今のところミクロン単位で有るか無いかってところだなー。 残念ながら」

「OH? NONO、ベツニLOVEッテワケジャナイ。 イマSPEAKINGシタカンジ、NOT BADダッタケド」

「……ふむ。 では、何故こちらに?」

「ワタシ、ヨワイモノイジメ、キライ♪」

「はい?」

「フロンティア・スピリッツニ、KILL THEM ALLサレタ、ソセンノ“チ”ガ、ソウサセルノカモシレナイケド。 ワタシ、ヨワイモノイジメ、ダイキライ。 ダカラ、セイトカイチョーニモナッタシ、ダカラ、セイトカイチョートシテ、MORE、ヨワソーナホー、SAVEキメタ。 OUR STUDENT、ALL、MY FAMILY。 ソシテ、モモヨハ、STRONGEST WOMAN!」

「いやいや、会長、でもね? スジが通ってないのは、俺たち。 矢車直斗のほうに、違いはないんだぜ?」

「ダカラッテ、コテンパンニサレルホー、MOREコテンパンニスルノハ、ワタシカナシー。 ソレニ、REALLY BAD MANナラ、VSアンナオオゼイ、フツーニゲル。 ダケド、ニゲテナイ。 JUST FEELINGダケド、ミスターキョーゴクモ、オナジコト、ALSO FEELINGオモウ。 AND…………UMM、ココダケノハナシ、OK?」 

「……構いませんが?」

「俺も、別に?」

「……ONE WEEK AGO、ヤマト、トツゼン、ハナシシタ。 ヤマト、MY POST、メザスッテ●●●●●。 ドウスレバ、GOODナセンキョニナルノカ、MANYキイテキタ。 ヤルキモ、MANYアッタミタイダケド。 ……ワタシ、ヤマトヲ、ミタイ。 タダノ、ヨワイモノイジメスルノハ、NOTカイチョー」 

「…………」

「…………」

「ワタシ、ミタイ。 AFTER WAR、ヤマト、ナオトヲ、ドウスルノカ。 ジブント、チガウニンゲン、キライナニンゲン、Sクラス、FAMILYニデキルノカ。 NEXT、カイチョーCHOOSE、ワタシデキナイケド、ソレデモ、I WANT TO LOOK AT YAMATO CUP。 ……HAHAHA、ジツハ、カイチョー、VERY FUNダケド、VERY HARD♪」


























――……なんていうか、うん。 私が、異性として男を見るポイントは、自分の言った事には責任を持つってところにまずあるな。 たとえば、夢や志を語ったなら、それを叶えるために気合を入れてるのかどうか、とか。 結構、シビアな目で見てるぞ、私は。


――だからな、京。 ……いや、そう不機嫌になってくれるな。 あくまで“男として、どちらが上?”っていう観点から言えばだ。 

            


          ――私としては、軍配を直斗に上げざるをえん。
  



――もう一度、断っておくぞ?、それだけが私の好意を決めるわけじゃない。 あれがやらかした事は、私の許容を超えている。 京、お前の気持ちも、ファミリーみんなの総意も、よーくわかってる。 だから、そうだな。 終生、とまではいかないまでも、戦いが終われば、しばらく絶縁だろう。 その、なんだ、人間として純粋に好きだとか愛してるとか、もう、そういう感情は抱けないだろうよ。 マルギッテとの立合いにいきなり割り込んで、説教を垂れてきた癖に、お前は一体どういう了見なんだ、とか。 これでも結構、根に持ってるんだ。


――……ただ、なんというか、お前たちと違って、私とワン子は、一年ほど多く直斗と付き合いがあった。 武道の腕前はともかくとして、その間での印象を言えば、真面目も真面目。 やれと言われたことはやる。 やるなと言われたことはやらない。 そして、やると言ったことはやる。 やらないと言ったことはやらない。 一本気というやつだな。 そりゃ、我らこそ武林の頂点、と自負する天下の川神院だ。 今のところ堅物のルー師範代が全体の引き締め役で、そういう芯の通った奴らに集まってもらわなきゃ困るわけだが、逆を言えば、他の僧とも見劣りしない、直斗のそういう姿を、季節が一回りするくらいには見てきた。


――加えてだ。 こうして日を置いて、冷静に考えてみれば、私、プラス千人以上を相手取るわけだろ? 異様にして急激な成長を遂げたらしいというのはさて置いても、いや、その心意気ばかりは、褒めてやらんわけにもいくまいさ。 ただ、其処に至るまでの筋道やら道理やら動機やらが、私に、私たちに、到底許されないというだけだ。
 
――だから、男気があるかないかで、大和をあれと比べるのは、酷な話だ。 土俵が違う。 

――人間誰しも、大なり小なり、目的のためにプライドを切り売りするものだが、少なくとも、譲れない一線は直斗のほうが前にある●●●●

――でも、その分、大和は融通が利くし、何より一緒に居て、私はとても楽しい。




          ――そういうふうに見れば、全く良い“弟分”だよ。 あいつは。













「俺はね、姉さん。 川神百代に、この戦いから、男として認めてもらいたいんだ」



京から突然、その内容が書かれたメールを受信した直後は目を疑った。

どういう心算があって京が聞き出したのかは、推して知るべしというものだったが、なんにせよ、姉さんのそれは早急に拭われるべき俺への固定観念だった。

舎弟という立場に、胡坐をかいていた事実は否定しようもなく、また、俺の“やり方”に理解を示していても、“正攻法”が好ましく思えるのは当然のことである。

知ったもん勝ち、騙したもん勝ち――、それを善しとする俺と、正攻法で同じものを得ることのできる人物。

ああ、そうさ。 

確かに、それには勝てないだろうよ。





けれど、



「姉さんは、忘れたと思うけど。 思い出したことがあるんだ」








――舎弟というのは、いいものだな。 フフン、お前が凄く気に入ったぞ、大和。 私にどこまでもついてこい!

 ――やだね

――む?

 ――どこまでもついていくんだったら、ずっと姉さんの後ろにいるのはごめんだ。 並んで歩きたいんだ。 俺は。

――……並ぶ、とはな。 しかし、お前、武術で私に歯が立つわけでもないだろ?

 ――でも、頭には自信があるよ。 顔の広さも、人付き合いもね。 だから、チカラで姉さんに勝てないなら、アタマで姉さんと並ぶ男になってやるさ。

――ははっ、そうか、私に並ぶか? だが、生半可ではな。

 ――うん。 でも、それでもやるさ。 そうだね、まずは手堅く総理大臣とか?

――そーり? 何を言いたいだ?

 ――ああ、それは、例えとして。 うん。 どんな形でもいい。 この国を動かして、変える立場を目指すってこと。






――……なるほど。 それぐらい、おおきな、おおきな男になるってことだな? 





 
遥か昔、おぼろげな記憶のなか、確かに聴いた覚えの有る言葉があった。 

その掠れかけた約束、確かに結んだ誓いと、土壇場で俺は対面を果たしていた。



「直斗は俺が倒す。 だからね、姉さんには、あいつと拳を交えないで欲しい」



ただひとつ、自分の立ち位置が明確に示されたのは大きかった。

要するに、俺の策が人脈が、正攻法でくる奴よりも遥かに大きな冥利を獲得できればいいって話だ。 



「勘違いしないでよ、姉さん。 別に、戦うなって言ってるわけじゃない」



上空を仰ぎ見れば、百メートルほどの高度を維持して旋回するヘリコプター。 

腹に響くローター音。 陸上自衛隊仕様の大型輸送機、CH-47Jのシルエット。





大戦開始、そして、四天王揃い踏み●●●●●●●まで、残り十秒――。






                  ――――姉さんも、俺が倒す。





一息に言って、耳元に当てた携帯にゴーの合図を送り、姉さんの凝視をついに笑顔で受け止める。







悪いけどな、直斗。 

たったひとりのお前に、姉さんを満足させるなんて、できるわけないだろ。

言葉を交わす、その暇さえ与えてやるもんかよ。


 









[25343] 第四十三話:戦端
Name: かぷりこん◆f1242fd1 ID:0ac3c52d
Date: 2013/03/31 11:28


『友達が道を踏み外しそうになったら、止めてやるのが正しいだろうが』

―――風間翔一(真剣で私に恋しなさい! リュウゼツランルートより)





















丁度、身をかがめて鈍らの目釘を改め、柄巻きを締め直し終えた頃だった。



     「十ッ」



帯元に鞘を収め、左手首をその上に置く。



     「九ッ」



戦端が開かれるその直前、あくの強いオリーブカラー、いかにも軍用とおぼしきヘリが山間を抜け出たことを視認する。

朱雀の陣地にて、明らかにヘリボーン(ロープを伝っての懸垂下降)推奨の高度から、非常識にも宙にその体一つのみ投げ出し、ムササビの如き滑空で敵陣に降下した影は三つ。 

一人ひとり順々に降下するごとに、それぞれから独特のプレッシャーが発されてくる。 

不穏の予感は確信に変わる。 ……うち一つの“氣”には覚えがあった。

瞬間、脳裏に奔るは、鮮烈な既視感と、その苛烈な記憶をより深く呼び覚ます強烈に過ぎる悪寒。 



     「八ッ」



……自衛隊という組織について、俺が持ちうる知識で説明するならば、何より“受身”の一語が先立つ。

別段俺は、武術を嗜んでいても、祝日に黒塗りの街宣車を乗り回して国歌やら軍歌やらを垂れ流す危ない感じの人たちの側に大いに進んで味方する気はないし、さりとて、ヘルメットを被ってデモ行進を企画しながら“――粉砕!”なスローガンを大学の壁に貼ったりしている人間の側にも立っているつもりはないし、これから立つ気もない。

ただ、事実として、撃たれる前に撃つということが出来ない集団、それが自衛隊だという認識を俺は持っている。

たとえ相手が明確な敵意をもって攻撃してこない限り一切手を出してはならないという防衛行動の趣旨が、先制攻撃を受けた後も被害を被った側の戦力が生残するという極めて希望的な観測を前提に成り立っていることを知っていても、たとえ強大な破壊力を持つミサイルと絶対に的を外さない射撃システムによって、“その初撃が全てを決してしまう”近代戦の現実を知っていても、“撃たれるまで無抵抗”を貫くというのが、自衛隊の限界であり、至上の美徳であり誇りの筈だ。

ターゲットをロックして発射ボタンを押せば、放たれた攻性兵器は間違いなく目標を殲滅する。 

“容易に全面戦争の引き金を引いてしまうがゆえに、その使用には慎重を期さなければならない”

そういう論理の一方で、“最初に撃った側が勝つ”という揺ぎ無い論理も存在するという、至極当然な、闘争における先手必勝の有効性。 
それをあえて放棄した人間が、自衛官の筈なのだ。

『だからいいかげん専守防衛に徹しとけよ一佐殿●●●――――ッ』

『ほう、毒づく余裕があるか。 存外しぶとい。 ……聴こえるか。 サキ、お前も混ざれ』

(諒解しました。 では二十秒後に)

『ふざっ、っェッ――』

『フン、そうつれなくするな。 一歩間違えれば、私か、あの男の部下となっていたかもしれんのだろう?』

その一歩は間違わずに済んだんだよ●●●●●●●●●●●●●●●●いいから――(ポイントシグマに到着。 スリーカウントでそちらに斉射を開始します、一佐)だから反則っつってんだろ―――』

『やかましい、ただでさえ貴重な有給使って来てやってるんだ。 あいつのストレスの発散にも付き合え』



     「七ッ」



と、紐解かれたのは、セピアに色づくにはまだ早い、ほんの数週間前の“加害授業”である。

同じ宮仕えの時期があった、という縁からか、現役の自衛隊員、それもしばしば特殊作戦群にその身を置かせる彼女らを釈迦堂によって数日あてがわれたのだが――。



     「六ッ」


     
     「五ッ」



「姉上ェ……」

空気読めよ、と言外に大いに匂わす英雄の呻きは、俺が感知した気配と同種のものを敵陣から受け取った証左に他ならなかった。

さてにもお前、さっき俺にこの上ないほど男前なこと言っておいて、なんだ、その顔は。 

「他の二名も同等の遣い手かと」

努めて冷静を装いながらも、苦虫を噛み潰したような声音は隠し切れないメイドの声が、後に続いた。

そんな、刹那のデジャヴと小耳に挟んだ会話によって、現旧合わせ、武道四天王、計四名の戦地入りが確定する。 

また、最後に降下してきた身元不明の一人も、それに順ずる実力者と見受けられる。

川神百代、黛由紀江に加え、橘天衣-タチバナ タカエ-、九鬼揚羽-クキ アゲハ-、……もうひとりは、一瞬視界を過ぎった黒髪から天衣の部下、水守紗姫-ミズモリ サキ-かとも推測したが、判然としない。 

それなりの距離が開いているため、顔までは確認できなかった。

野戦服に身を包んでいたのは間違いなく天衣だろうが、ならば同じく水守もそれに倣うはずで、そこが引っ掛かる。



     「四ッ」



背が低いこともそうだが、最後の一人は、うちの学生服とみられたからだ。



     「三ッ」



……さて、しかし現時点で判断できるのは、それを考えても埒は明かないということだ。

そう内心で自戒して、ついに鈍らの鯉口を押し上げる。

当然と言えば当然だが、あちらの助っ人枠は上限いっぱいまで切られるだろう。 つまり大和の手勢は、ここまで俺が確認したものだけではあるまい。

そもそも、想定外を覆してこその川神大戦だ。 そのための切り札だ。 天衣にも、それらは一枚とて見せてはいなかった。 

山篭りの最中、彼女に遣っていれば、この時点で詰んでいたが、万が一の想定と用心が功を奏した形だ。



――相手が武士であるならば●●●●●●●●、確実に屠り切ってみせようともさ。



     「二ッ」



さあ、今こそと。

遥か前方に展開する朱雀軍から、ゆらと戦気が立ち昇る。

轟、と気合いが大地をどよもし、大気を圧して飛んでくる。

それに当てられた形で、ようやく玄武軍も臨戦態勢に入る。



「往くぞ、皆の者ォ―――――!!」



朱雀畏るべし。 後手の怖気の伝播を掃ったのは、二年S組委員長の怒号だった。 

切り替えの早さは流石、天下に名だたる九鬼家の快男児というべきか。 

葵冬馬の補佐を受け、即席即興で整えた陣形の真ん中で、いま限りなく高らかに、九鬼英雄は居並ぶ隊士の行く先を両腕で振り示す。

北方玄武軍・三百余名によって作り上げた“鋒矢-ホウシ-”の陣は、中央を突出し、それを補強するために後続を左右に展開する“魚鱗”の陣よりもなお、攻撃的な布陣である。

“鋒矢”は“魚鱗”に似た突破陣形だが、中央に縦隊で戦力を集中するため、左右により幅のない陣形である。

行軍隊形や既に展開した敵陣を突き破るのに用いられ、寡兵による奇襲にはうってつけのものであった。

先陣を切るは、刺又さすまた部隊。 

長柄の先のクワガタで次々に捕捉した敵を、速やかに後列の弓兵部隊が超至近距離から確実に撃ち抜き、その流れ作業を繰り返し、敵陣奥へと一気呵成に踏み入る構えであるらしい。

心得のある人間を別とすれば、一般人にとって、戦闘能力の剥奪の手段として、人を気絶させることは容易ではない。 

こと川神大戦に限れば、敵兵を排除する手段として、剣や槍を頼みに意識を刈り取るより、弓で射抜いて戦地から退場させるほうが、よほど容易で効率的であるのは言うまでもない。 弓の扱いは多少の慣れが必要とはいえ、固定した一、二メートル先の的を狙うくらいならば誰でも簡単に出来る。 少数ながらも連弩(クロスボウ)の類も貸与されていることだし、ここに提示された戦法は、戦術としては最善手であることに間違いはなかった。 

少なくとも一般生徒にとっては、殲滅戦ではなく大将首を獲ることが最終目的であるからして、突撃中、たとえ後方あるいは両側面から挟撃を受けるとしても、大将が控える最奥に突き進めば必ず勝機がある、と、開き直れる所でもある。

ちなみに発射手段として投擲が禁止されているのは、誰も彼もが吸盤付の矢を片手に標的を追い回すシュールな絵づらを回避するためであろう。 この縛りの意図からすればグレーゾーンすれすれの戦術ではあるのだが、脇に控える審判員諸氏の様子を見れば、どうやら許容範囲であるらしい。



     「一ッ」



真上の曇天に向けられた、刺又の切っ先が一斉に降りる。

槍衾やりぶすま、というのはこういう光景なのだろう。 

これだけの人数が揃って同じ得物を持つところは、院に在籍した中でも見たことはなかった。

最低限の安全策として刃先穂先が潰されようとも、その威容だけで、大抵の者は尻込みしてしまう筈だ。

劣勢に立たされながらも、九鬼英雄と葵冬馬が立案した作戦は、十全とはいかずとも、それなりに機能するものと思われたが。



「……そうは問屋が卸さないよな」



残念だが、英雄。 

こういうのを指を咥えて見ていられるほど、俺に対して甘くはないだろうさ。





     「川神大戦、開戦ッ」





我らは北方玄武軍。 当然、侵略方向は南である。



    ――玄武軍A組有志、B組有志に通達ッ



いつまでたっても刺又が、北を向いたままなのだ●●●●●●●●●●



    ――裏切りの時は、今ッ、繰り返す、裏切りの時は、今ッ!!













<手には鈍ら-Namakura- 第四十三話:戦端>













「期待を裏切ってはこないか」

特別驚きもしなければ、諦観も遠い。 

こうこなければ●●●●●●●、そもそも川神大戦こんな事態など起こりえないのだ、という現実。

依然として終生、自分は、風間ファミリーにとって、このような手管を弄するに値する“賊”である、という現実。

それらは、既に噛み締めた後だった。

開戦直後、浮き足立った瞬間を狙っての、最前列の寝返りである。 奇襲としては最も効果的なタイミングの一つだ。 

が、少なくとも葵冬馬には、こうなる予測も幾らかついていたのだろう。 

だからこそS組は陣の中心、中核を担う箇所に集められ、A組B組は外縁部に配置されたというわけで、だからこそ前列のみの裏切りで済んでいる。

内通者が其処此処に存在する事態だけは避けられたようだ。 

だが、それは周囲をほぼ包囲されるというデメリットと引き換えであるわけで、どちらにせよ玄武側の突撃の足は止まり、気勢は削がれに削がれた。

それだけでも、あちらの寝返りの策は大戦果を上げたと言ってもいいだろう。

他方、先に述べたこちらの策については、何をか言わんや、というもの。



「……どんなときでも、S組の誇りは手放すな。 いらっしゃいませ~♪」

「おいおい、のっけからクライシスなフラグを立てるもんじゃないぜ、ユキ。 こういう最初からクライマックスな場面こそ、燃える台詞をだな。 …………我ら、来たれり――」

「言っとる場合か!? それも最終的に全滅するじゃろっ!!」

「あ、でもこれよくよく考えたら朱雀じゃないとカッコつかないじゃん。 かといってなー、零式だと玄武は魅せ場ないしなぁ。 狂った大将だけ生き延びて…………、って、あれ、これフラグ?」

「……確かに玄武というのは四神のなかでも、なかなか不遇だね。 本来は五行思想において水を司る獣なのだが、日本の一般的な創作物の中だと、イメージに合わないだとかで青龍にお株を奪われがちだ。 武の神として祀られてもいるから、軍の名としてこれほど相応しいものはないのだが。 ビジュアル面はいかんともしがたい、といったところかな」

「ああ、わかりますわかります京極先輩。 竜、鳳凰、虎ないし麒麟ときて、なんで蛇と触手プレイ中の亀ェなんだよ、って話ですよね。 ベイブレードでも、そりゃあ酷い扱いだった。 アニメじゃ毎回、「GO、ドラシエルッ…………OH、ドラシエルゥ~」って、外人に言われ続けるお約束の噛ませ犬。 俺はあの六角八角の角ばったデザインは好きだけど」

「聞けぇーお前らーっ、いい加減にんにょわ矢ぁああッ!?」



時折、喧騒と土煙に紛れて散発的に矢群が振り撒かれる中、現実逃避の究極幻想に平安貴族の周章狼狽が応えるやりとりを耳に挟みながら、矢車直斗は用意していた“対マロード用の処方”に思考を巡らせていた。

……この状況、百代まで間に合わせるには、その前に四天王級一人以上は、素面で始末をつけねばなるまい。

では即断して即行だ。 ポーチからデジタル腕時計を取り出し、左手首に当てた。



    ――しッ、一番手柄、川神一子!

    ――いちば……ッく、次番手柄、クリスティアーネ!



なかなかにペースが早いものだ。 

前線の様子を見る限り、武装改めの件もあり、朱雀側が敵軍友軍をすぐさま見分けられるほどの指標を、“元玄武側”の人間は持ち合わせていない筈だが、このスピード。 

つまりは問答無用、寝返り要員諸共、見境なく片っ端から仕留めているのは明白だった。 

果たして、この事実を正義の騎士はどう受け止めているのやら。 まあ、おそらくは自軍の策の全貌を知らされていないのだろう。 

ああ、まったく巧いやり口だよ、本当に。 遺恨は確実に残るだろうが、それを向けられるのは、来年には故国に帰るクリス自身か彼女が率いる軍団だ。 

自分が撥ねた泥すら被らずにとは恐れ入る。 

一旦はS組に組したとはいえ、そんなに信用ならない奴らだったのだろうか。 

確かに友を売ったことに変わりないだろうが、それでも、この丹沢が戦場となった瞬間に、最も敵と近接することを善しとした彼らは。 

純粋にそう思ったが、俺がそれを口にできる権利はない。 

“裏切る”という点では、俺のほうがもっと酷いことを為したし、為しているし、為すだろうからだ。

……どうあれ、朱雀の正規の第一陣が此処、玄武の中枢まで進攻するのに、残り数分とかかるまい。 

吹き荒れる気合いと悲鳴に掻き消されぬよう、口元に手をやり、声を指向して呼びかける。



「英雄、情けなくも早速だが、最初で最後の頼みがある。 聞いてくれるか!?」

「ッ!? フハハハ、その意気や心地良しッ、嬉しい限りよ。 よい、遠慮なく申せ!」

「三十六計、逃げるに如かず。 さっき立てた策の逆をやれ。 包囲はされたが今なら後ろはまだ手薄だ。 一点突破で北へ全軍退却させろ」

「…………それで?」

「黛由紀江、橘天衣、それと、お前の九鬼揚羽あねき。 これから俺は三時間以内に、この面子の中から一人以上の首級を挙げ、なるたけ他の戦力も削ってくる。 それまで、この場にいる全員を率いて、北の山中を逃げ続けろ。 自陣からは一歩も出るな。 南にはどんな罠が張ってあるか、わかったものじゃないからな」

「フハハ、馬鹿を申せ。 我は普通に承服しかねるぞ? その先はもう言わんで良い。 ――いやいや待て、口を開くな、待て待て待て」

「待たん。 ここからが本題だからだ。 お前は、冬馬を護れ●●●●●。 三時間後、合流したところに葵冬馬がいなければ、この策は愚策以下に成り果てる」

「……なんだそれは? どういうことだッ!?」

「いずれ判る日が来る、……いや、この策の意味を解す日を迎えたければ、言うとおりにしてくれ。 都合のいい事に、お前の横には寡対過のスペシャリストもいる。 密林内での撹乱戦なら十八番の筈だよな? 田尻さんから武勇伝は聞いてる。 逃避行に一役買ってくれないか?」

流れ飛ぶ矢雨を油断なく払いながら、主の手前、言外に「何をやらかす?」と視線で問うてきた忍足あずみに、「冬馬を護る英雄を護れ」とだけ付け加える。

「これが首尾良く運ばれたその時こそ、秘密兵器の出番というわけだ」

腕に巻き終えた時計をちらつかせて、怪訝な表情はまるで抜けない主従に、

「ハッタリじゃない。 強がりでもない。 やりたくない事、出来ない事は言わない。 ……ちょうど良いタイミングだな。 もう話をする暇も無い。 選択の余地を与えるつもりもない。 ここは総大将特権を使わせてもらおう。 ――忘れるな、三時間後に、葵冬馬共々合流だ」



ひょうん、ひょうん、と。

抜き身の刃が風を撫で切る音が近づいていた。 

大陸から日本海を渡る寒波が空を裂く音に似て、それは激しく、寂しく、侘しい。 



「行け。 ……大丈夫だ。 こんな序盤で終わってたまるか。 もう一度しつこく念押しするが、三時間後だ。 また会おう」























「質問してもいいか?」

「どうぞ」

「さっきから南の方で、樹が折れる音やら土砂崩れの音やらが何の自重もなく響き渡ってきているのだが。 ……誰が俺の獲物に手を出している?」

「大和さんの指示で、九鬼揚羽さんと橘天衣さん、それと、来学期関西から転入してくるという松永燕さん。 この三人がモモ先輩を止めている筈です」

「…………なるほど、俺が倒れるまでの時間稼ぎか、はたまた俺と当たる前にあれを倒し切ろうって判断か。 ふん、失敗したかな。 変なところでプライドが高いことを、もう少し織り込んでおくべきだったか。 いや、お前の言い方じゃ、後者は無理なように聞こえるし、そうだろうな、俺もそれは身に沁みて理解している。 消耗はせずとも上手い具合にウォーミングアップにはなるだろうから、遊ばせておいてもいいか。 その意味じゃ、お前もいいところに来てくれたな?」

「私からも、ひとつ、いいですか?」

「うん?」

「私は、今でも友達ですか?」

「貞淑内気な裏日本女より、勝手自侭な核爆弾女のほうが好みだから、俺はこの場に立っている」

「…………」

「最後の忠告だ、由紀江。 松風の口を閉ざすくらいには警戒しているようだが、“武士である限り、お前は俺には勝てない”――その意味を、よく考えることだ」





















切り札をこうも手早く切ってくるとは、やはり妙だ。 確かに奇策というものは、更なる奇策を果断なく積み重ねることで効果が増すものであり、由紀江の出現も寝返りに追い討ちを掛けるようなタイミングではあるものの、“おいしいものは最後に残す”のが直江大和の気質だ。 もったいぶる、というか、一定の余裕を保ち、様子見を重ねて、じっくりコトコト煮込むように、粘着して事に当たるのが奴のスタンスだ。 

潔すぎる。 よって不可解。 

それが、由紀江の接近の気配を察し、真正面から対峙するまで抱いていた感想だったが、それも半径二十メートルをぐるりと、八百は下らない人数に包囲された際には露と消えた。 

――なるほど、黛由紀江は、試金石●●●である。

それが真実だと確信するに十分な状況証拠が、この状況だった。 

矢車直斗と黛由紀江の逢瀬を見守る彼らは、しかし手を出してくる様子は微塵もない。

そのまま単騎で押し潰せれば良し。 敵わなくとも、武道四天王の一角を落す敵大将の脅威を友軍に知らしめることで、大多数で少数を圧すことの罪悪を紛らわす事は出来る。 単純に、敵の消耗も狙える。 どちらに転んでも、朱雀にとってはデメリットは少なかろう。 

そう、あえて造語を作るならば、これは“宣撫戦”と呼ばれるだろう立合いだった。



――いざ尋常。



こちらは刀を右肩に担ぐ、武者上段の構え。

本来ならば鎧士の扱う、兜による防禦を前提とした構えであるため、これを頭部が露出したまま、素肌剣術で遣う者は、ごく少数だ。

しかし破壊力に関しては言うに及ばず。 刀の重心を利き腕に引きつけた分だけ、渾身の一打を容易に予感させる凄みを醸す。



対する由紀江は、やはり青眼の太刀取り。

実戦剣術、ならびに日本剣道においては基本中の基本。 その存在は、もはや技術の範疇さえも超えて、象徴の趣きさえある。

剣の道を志すならば、初めに習得すべきとされる典型中の典型、王道中の王道。 攻防避全ての“端”が集約された無謬の剣形である。




一合目。

ともすれば風に溶けゆくかとさえ思える自然の態に、先に猪突し打ち入れたのはこちらだった。

上段から肩を撃ち、一撃にして相手の得物を取り落とさせる意図を持った得意の剣だったが、由紀江は軽く退き、それを受け流す。

返す刃で接近を牽制し、柄を引き戻して二度、三度と前述の変化技を用いた太刀を繰り出すが、彼女は「もはや、」とでも言いたげに、二太刀目は先ほどよりも浅く退歩して避け、三度目は巻き技でいなす。

飾りなく軽妙にして精密。 四天の名は伊達ではない。 まったく、贅沢な物差しがあったものだ。 

抜け目なく小手を狙われるが、隅をかけて斜めに後退する事で彼女の刃圏から逃れ、双方、剣を構えたまま膠着に入る。

一呼吸、二呼吸、さんてんごッ――

拍子を外し、踏み込み、下段から斬り上げの二連。

それを左右に身を沈めながら回避する、彼女の呼吸は乱れない。

また後退。 

いまだに決定的な隙を両者とも見せず、また、見せた時が決着であろうと予期している為に、より慎重にならざるを得なくなる。 こちらの手中の鈍らも、彼女が今この戦いで扱う模擬刀も、刃先を潰されているとはいえ、本気で突かれれば皮膚は裂け、骨にさえ皹は入る。 それだけの力量を互いに持ち合わせていることは、このニ合で了解し合えた筈だった。

いま一度、必殺を期して構え、摺り足で間合いを詰めてゆく。

長期戦の様相が脳裏によぎるが、それは避けねばならない。

これは、俺一人の武士の一分さえ立てばよい、という闘いではない。

あの黛を相手に、ああ、あいつは頑張ったよ。 そんなことをただの一人にも思わせてはならない。

完全なる勝利に固執しなければならない。 この“合戦”に勝利しなければならない。

すべからく勝たなければ何も生まれないのだ、取り戻せないのだ、伝えられないのだ。

そう、決意を改めて固める。


―――ふしッ!!


しかし今のところ、合わせて●●●●、凌ぐほかない。 

近く、機は、必ず来る。

そう断じ、退くと見せかけて足を踏み換え、目晦ましの刺突を繰り出しながらの繋ぎで、蛙よろしく両足跳びで踊りかかる。

実を言えば、一対一の戦いに持ち込めている現在、目前の剣の申し子ソードマスターを下す段取りは、何を取り零すこともなく、着実に進行していた。

型通りの川神剣法の中に差し挟んで、ペテンの種を撒きながら、食虫花の如く陰湿に、必殺の時を待ち構える。 

その種の芽吹きは、この前哨戦の終わりを告げるものになる筈だ。

そのときまでの、この綱渡り。 せいぜい渡りきってみせるさ。




















心神の機微は、一先ず置いておこう。

五手までは見逃し、そこから一挙に攻勢に転じた由紀江は、それでも決定機を掴み切れずにいた。

苦戦しているわけではなかった。 むしろかなりの優勢にある。 

確かに矢車直斗の技量は、目を見張るものではあった。 昨年、実家に研修に来ていた頃、常に三手以内で彼を道場の床に沈めていた日々を思えばこそ、目下の彼の善戦はたちの悪い冗談としかこの瞳には映らない。 戦端が開かれる前の挑発的な物言いとは裏腹に、躱し、流し、撥ね返し、迫る白刃を受けに受け続けるその迎撃姿勢。 腰はよく粘り、背筋は甚だ強靭にして、一枚の柔軟な壁を相手にしている錯覚すら沸いてくる。 由紀江が得手とする剛剣を阻み続ける、その果てしのない防禦の剣は、まさに秀逸の一言だった。 

……が、一転して攻めるとなると、途端にその未熟が露呈する。 どうにも奇妙だった。 過剰な跳躍からの先ほどの大振り。 今も、鍔迫り合いから小手を狙わず、下段に剣を落すという非効率極まりない手落ち。 このように、攻防一体の連環套路という迎撃剣の極意に反するちぐはぐさが、幾度も垣間見えてしまうのだ。 無論、そこを攻めない道理はない。 しかし後一手、後一手が遠い。 ここぞ、という場面の尽くで、下段から掬い上げるように、左、右と二連の打ち上げがこちらの必殺剣を間一髪で妨げる。

この連撃こそ、あるいは直斗の必殺剣なのかもしれなかったが、これで五度目だ。 油断はならないが、軌道に見切りはつけた。 最も自信のある太刀だろうが、それでも当たらないものは当たらない。

名のある流派の奥義とされていても不思議はない鋭さがある。 油断のならない太刀筋である事に変わりはなく、事実、それが剣戟の名手たる由紀江をして最後の詰めをあやまたせ続けている。 しかしむしろ直斗にとって命綱同然のそれは、完成形の連携コンボに無理矢理組み込まれているようにも見受けられるのだ。 その結果、付け入る隙が生じているのであればお粗末この上ないが、これが恣意的なものかは判断がつきかねた。 まさか、この戦いのなかで試行錯誤、トライアンドエラーを繰り返しているわけではあるまいが。

どうあれ、攻めあぐねている由紀江とて、ただ手をこまねいたまま、漫然と打ち合いに付き合っているわけではなかった。


――武道四天王級に対して弄しうる俺の奥の手は三つ。 そのうち、攻の手は全て剣技の騙し討ち。


男が鈍らを引き抜き、構え終えた時には既に、少なくともその正体のひとつに、誰よりも早く当たりをつけていた。

自らの実力を卑下する傾向が過分にある由紀江であったが、彼女ほどの戦士にもなれば、それは自らの伸び白を自覚できているということで、つまりは主客問わずの正確無比な眼力が備わっていることを意味する。

……なるほど、確かに紙一重の騙し技である。



















由紀江が直斗のもとに参じたのは、やはり大和からの指示によるものではあったが、それは彼女自身の志願に端を発したものである。

直斗が巻尺代わりと判断した彼女の役割は確かに存在していたが、それはむしろ、一番使い勝手の良いカードを出し惜しむ周囲を納得させるための方便の意味合いが強く、大和が後付け的に補強した理由の一つに過ぎなかった。

大和が由紀江の意を飲む代わりとして彼女に与えた注文は、矢車直斗と玄武軍の分断だ。 

無論、大和には大和なりの打算があったのだろうが、彼との一騎打ちを望む由紀江にとってもそれは在って無いような条件だった。

一旦体勢を立て直すべく退却したのだろう敵軍の思惑も手伝ってか、由紀江自身が何ら骨を折ることもなく、いとも容易く都合よく状況が変遷した今となっては、それも思索の埒外だ。



――鏘ッ



打ち付けた太刀は、幾度となく同等の質量で阻まれる。

鋼と鋼が喰い合い、微量の鉄粉を空に撒く。 二振りの剣が交差した形で彼と我は凝固する。

太刀合わせの開始から、どれほどの時間が過ぎただろう。 この死合と遜色ない仕合は、時の流れを濃密に感じさせた。

一呼吸一呼吸が、五体を揺さぶり始め、ようやく温まってきた●●●●●●



ああ、何かを伝えなければならない、問わなければならない。

言葉は、そこに間違いなく確かに在る筈なのに、一向に喉から出てこない。 

打ち合いが始まってしまえば、剣士としての本能に身を委ねるだけ。 



大事なものを護る為。 

黛流はその為に在り続けると、父たる黛大成は述べる。

その為に受け継がれた天稟だった。 その為の修練だった。 その為の奥義だった。 その為の、その為だけの――――ツルギだった。

ならば、それは今、目の前にいる人を護る為に●●●●●●●●●●●●機能している筈だ。 ……機能していなければならない筈なのだ。

だって大事だから。

だってこの人、“友達”だから。



――友達が道を踏み外しそうになったら、止めてやるのが正しいだろうが。



キャップさんはそう言った。 

止める、すなわち叩きのめす。 それが、この人を護る術だと。 

それが正しい、かは判らない。 キャップさんの宣言が他人事のように聴こえたのも事実だ。 実際、そうなのだろう。



――まさしくまさしく。 殴る必要があったから殴り、きちんとその理由も話した。 悪い事だと思ってもいないと釈明した。 そうであれば、あやつとしては謝る必要もなかろうな。 うむ、筋道立っているであろう?



あの校内放送のときから、本当に道を踏み外しているというのはどういうことなのか、それすらも判らなくなってしまった。

でも、こうしてその人の近くに立っているだけで判ることもある。

サラシやファンデーションで、ここ数ヶ月で作られただろう大小さまざまな痣や疵が、なんでもないように覆い隠されていること。

ということは直斗さんはどうしようもない虚勢を張っていること。

ということは直斗さんは必死だということ。 ここでこの戦場から排さなければ、もっと必死になるということ。

そして、川神百代あのひとには現時点で誰も勝てないということ。

束になっても敵わない。 橘さんとの再会に決まりを悪くする暇もなかった。 あの人型の修羅を打倒しうる可能性を持つ者は、この戦場に存在しない。 それは現旧の四天王が一堂に会した瞬間、――それら極上の獲物を前にして、眠れる獅子が“起きた”瞬間に直感した、絶対の戦慄だった。 

なんという不屈。 なんという卓越。 なんという凌駕。 なんという傑出。 なんという隔絶。 なんという、川神百代。

あの闘気は、言うなれば蒼く燃え盛る太陽。 

小賢しい細工など接触前に焼き尽くされ、自滅の一途を保障するのみ。

日輪を斃す手段など、この地上に在りはしない。

なのに、あれを倒す? 何を馬鹿なことを。

もう一度言います、矢車さん。 何を馬鹿なことを。





……これ以上、無為な傷を負わせてはならない。 

矢車さんがモモ先輩をどうとか、モモ先輩が矢車さんをどうとか。 そんなの、そんなの知りません。

そう、私は彼女から彼を●●●●●●護る。

この意志こそ、この独善こそが、私、黛由紀江が朱雀軍に所属する理由であり、絆を重んずる風間ファミリーの一員である事の、何よりの証。





終わらせるために、鍔迫り合った由紀江は刀ごと直斗を弾き飛ばして、自らも後退した。

着地の勢いそのままに“納刀”する。 企図するものはたちどころに知れたことだろう。





あなたがこの戦いを開いた理由が、やはり額面通りもので、ただひたすら我欲を満たすためだったとしても。

もしかしたら、何を犠牲にしても果たしたい、崇高なナニカがこの戦いに潜んでいるのだとしても。

――ハンデ代わりに色々サービスしようとは思うさ。 とりあえず、ためになる情報をいくつか進呈しようか。

――最後の忠告だ、由紀江。

自分は卑怯な手を使う、騙すから騙されるなと、憎まれ口を叩きながらも何度も警告してくれたあなたは、私の知っている律儀な矢車直斗あなただった。

(本当は、止められたいんじゃね?)

あなたもそう思いますか、松風? 

(勝手な妄想でも何でもいいけど、まゆっちは止めたいんだろ? んじゃ、迷うまでもないじゃん)





       ――ですよね。




居合い。

一刀必殺の意志の具現。

乾坤一擲、振らんとするは、黛流“最奥之太刀”。

彼にとっては待ち侘びた瞬間だろう。

瞠目を隠さず、瞬きを忘れた凝視が由紀江の全身を貫く。 

何の脈絡もなく降って湧いたこの一幕に、直斗の警戒の気配が由紀江の脳髄を乱れ刺す。

彼我距離四間、八メートル弱。

双方とも、一瞬にして詰められる距離で、この戦いにおいて最も緊迫した時を迎える。

どちらが先に仕掛けるか、そんな駆け引きなど毛頭ありはしなかった。

こちらは待ちの一手、あちらは往きの一手。 

それは少なくとも、彼のなかでは決まっていたことだ。 






見立てが正しければ、ここで仕掛け――――――――――――――――――――――――――――――――――て来た。






薄皮一枚を針で穿つ、それだけの時刻だったか。 

雲海に遮られる東陽が東陽とは呼べなくなる、それほどの時刻だったか。 

待ちの合間は兎も角として。






唐突に肩が抜け、腕は下って、刃は落ちる。 

やはり、引き摺るような左下段。 “要の刃先”は、袴の陰に。

正体、見たり。 逸る胸を抑えこみ、落ち着け、と松風の声で口の中に呟いた瞬間だった。

直斗の足がすっと前に出て、蒼く染め抜かれた羽織が、極楽鳥の飛翔の如く翻る。

たなびかれて迫る刃。 真鍮の輝きが目に眩しい。 

再び抜刀態勢に移った由紀江は、右半身に殺到を吸収、待ち受けるのみ。

この、先祖伝来の秘剣を用いずとも、彼を切り伏せられる自信は十分にあった。 

たとえば、相手と同じ構えでこちらも前進し、下段の“合撃がっし”にて片を付ける手段も選択肢にはあった。

だが、それはしてはいけないことのような気がした。

――彼は、真剣マジだから。 

――ならば私も、真剣そうでなければ。

三百六十度ぐるりと何百対もの耳目に囲まれているこの状況下、天下に名立たる流派の秘蹟を惜しげもなく披瀝せんする程度には、由紀江の心神は発達途上であり、しかしそれゆえの図太い胆力を持ち合わせてもいた。 

そして年若い彼女の真価は、この内なる気性が現れる段になって初めて、しかと発揮されるものだった。





















これまでの堅牢な防禦は擬態で、この男の本領は突撃にあるのか。

そう思わせるほどの思い切りのいい疾駆ぶりで、倒れこむように前傾しながら直斗は間を詰めた。

そして、地を踏み割らんが如き震脚。

収縮した各部の筋肉が一挙に解放され、低姿勢から一転、吃驚箱に潜むバネ仕掛けの道化のように、全身が伸び上がり。







――ついに、その太刀が始動する。







簡潔に言えば、“直刀による斬速の幻惑”。

切り結ぶ中で盗み見た彼の刃の特徴は恐るべきものだ。 それが、由紀江の看破の内容だった。 

基本的に日本刀というものには“反り”がある。 ほとんど真っ直ぐな刃は珍しく、由紀江が鍛錬で慣れ親しむ木剣木刀の類でさえ、その特徴が見受けられる。 例外とされるだろう竹刀とて、その弾性から、打ち込む瞬間には“しなり”が現れる。 対象物をより少ないエネルギーで切断するために物理的に必要であるなど、反り形成の発端には様々な理由があるが、特に反りの強い太刀が主流だった時代には、この反りを有効に使う技が工夫されていた。 たとえば、相手と切り結び、刃と刃を打ち合わせた直後、鍔迫り合いの最中、すぐに反りを返して自らの太刀の峯側を敵の刃に合わせ、合わせたまま刃同士を滑らせる。 そのまま体を押し下げれば太刀の切っ先は相手の喉元へ食い込み、また自分の刃は内側に湾曲したレールとなって、敵の刃を脇に逸らす役割を果たす。 

太刀の時代はすなわち甲冑戦の時代である。 薄い鋼、または練革でつくられた甲冑を切断するのは容易ではない。 格闘になる前に槍で突き通すのが理想だが、斬り合いとなった場合には合理的に隙を狙わなければならない。 脇や喉、脛、足先といった限られた急所を潰す技術は、そうした背景の下で培われてゆき、利用価値が多分に含まれる“反り”の存在理由も強まっていった。

余談だが、江戸期に流行した刀からは些か反りが少なくなる。 大きな戦が起き難い世にあれば、甲冑を活用しない素肌剣術が主流となる。 防具に関しては丸裸も同然の素肌剣術では、剣が速く相手に達することが何よりの要点となったのだ。

とはいえ、伝統として日本刀には反りが残っている。 由紀江が扱う刀も然りだ。 “先端になるほど刃の到達は遅く”その感覚は相手の攻めを避ける際にも無意識のうちに用いられている。

それを逆手に取り、直刀を用いることで、相手の予測よりも一刹那速く打ち据える技法こそ、彼が用意した策である可能性が極めて高いと由紀江は推測した。

その最たる理由、つまり直斗側の落ち度と言えるのは、初め、直剣の特徴を隠匿しようとしたことだ。 武者上段は得物を肩に担ぐ構えであり、必然的に刃全体が背側へ傾き、体勢の取り方によっては頭の陰に隠され、真正面から見れば“反り”の有無を判断しにくい。

だが、それがかえって由紀江の注意を引いてしまう結果となった。 彼女とて、この対峙を数ヶ月間に渡り思い描く日々を送ってきたのである。

たしかに直斗は上段を好むが、一撃決殺と初手から相手の上体を狙うより、先んじた相手の攻め手を上方から撃ち落し、二の太刀で胴を薙ぐというのが“彼らしい”戦術だ。 どの方向からの斬突でも等しく対応できる、青眼から剣を真っ直ぐ引き上げたのみの正調の位であれば、何ら疑問を抱かなかっただろうが、利き肩に引きつけた、いかにもな攻勢には、違和を感じずにはいられなかったのである。

加えて、これまで繰り広げた近接戦闘において、この戦術の要である刃先は碌に用いられておらず、由紀江の五体を狙う刃は、物打かそれより下部の刃だった。 由紀江が現在対峙する鈍ら刀のような、中途半端に丈が短い、操作性の高い得物のみが為しえる“調節”である。 “通常の太刀と同じ按配の回避で構わぬ”――その意識を植え付けるため、直刀の優位性を頓悟させぬため、不調法の攻めを演出したと思われた。 

進展のない鬩ぎ合いに痺れを切らし、苛立った相手が一旦距離を取って態勢を立て直したときにこそ、助走の勢力も併せることで直刀の幻惑を用いる腹か。

閃く。

なればこそ、そのときには十中八九、あの斬り上げ、逆袈裟二斬が来る筈だ。 

要所要所で濫用され、阻みに阻み続けた、見極めのついた太刀筋だ。 ……というこちらの油断こそ、彼が持ち得る最も確度の高い●●●●●勝機である。 不完全な剣路にも得心がゆくというものだ。




さて、“種”は判明した。 残るは打ち破る算段だが、

直斗の術中に嵌っている。 と自覚した●●●●●時点で、もはやそれは破れている。

所詮は錯覚を利用した小手先の剣術だ。




対処は至極単純。 ――――ただ、真後ろに退くのみ。




脚の配り。 
手首の備え。 
ひたと留めた視線。 

気配全てが次瞬の居合い抜き、迎撃相殺の姿勢を強く訴えていた中で、虚を突いた、“道に背いた”動作だった。

嗚呼、悲しい哉。 溜めに溜めた勢力を結集し、それを摺り上がる剣尖に向かわすべくした直斗渾身の震脚は、意図せずのブレーキとなって追撃を害するのみ。




直斗はとどまる。

由紀江は退しりぞく。

一閃、空振り。 

男が息を呑む音を、確かに女は聴き届ける。 




“武士である限り、お前は俺には勝てない”――すなわち、勝つためにはセオリーを棄てろということ。

由紀江は、直斗の言葉をそう解釈した。

直斗の持つ鈍らのように比較的刃渡りの短い得物、小太刀や短剣類に対する至近格闘において、真後ろへ後退するというのは最も忌避すべき悪手である。 横への移動か斜め後傾姿勢(スウェーバック)、もしくは前に踏み込んで、敵の必殺の斬突を躱した後に反撃に転じるべきで、この一瞬が勝負の分かれ目であり、不用意に後退すれば相手に“挙動の自由”を与えてしまい、次の行動が予測できなくなる。 前進して敵に打ち込んでいく勢力を失うこともそうだ。 相手にしてみれば迎撃の恐れは無く、また体重が後ろに流れているとなれば防禦も踏ん張りが利かない。 圧し崩すに造作はない。

だがこのとき直斗の放った“二閃で一太刀”の大技は、震脚を踏み終えた後、咄嗟の判断で手早く前進に転じることはできない造りだ。 その時点で、前方への慣性は失われてしまっている。

そこに合わせて後退すれば、直刀の拍子云々の話ではなくなる。

左逆袈裟を打ち終え、二の太刀たる右逆袈裟を繰り出すため、一旦体を返して刃を廻して引き戻す。 遠心力の制御は難しい。 この間の無防備こそ、由紀江が擬する隙だった。 また、ここから次手の放出を待つのは愚策だ。 こちらの動きを察知した相手に、それは対応する余裕を与えるだけだ。 

おそらく、先の左逆袈裟は相手の武装を弾き飛ばす役割を担うもの。 すなわち、刃に受け止められてもいいが、どうあれ、少なくとも相手に当てなければならない●●●●●●●●●●。 でなければ、半秒の無防備の間に、容易く喰われてしまう。 

相手に打擲する、或いは阻まれるよう仕組んだ痛烈な初撃が避けられれば、途端に脆弱さを曝け出す。 この剣技の致命的な欠陥だ。 そしてそれを補うのが直剣による“かどわかし”だ。 回避されない工夫が施されて初めて必殺剣は完成を見る。 

しかし、不可避の幻術が破れた今、魔剣は単なる大味な素振りへと、堕落の目をみる。



刃円から逃れれば、後は由紀江の独壇場だった。

直斗の腕が上方に引き上げられたままであるのを目視にて確認。 絶好の鴨。

退歩の着地は、そのまま踏み込みの予備動作に。 丹田を均し、乱れた腰詰めを整え、抜き付けながらの飛躍に移る。

剣で斬るな腕で斬れ、腕で斬るな肩で斬れ、肩で斬るな胴で斬れ、胴で斬るな腰で斬れ、腰で斬るな脚で斬れ。 

この刀理を窮めたときにこそ、天下無双の剣刃は手中に落ちるのだった。

名門、黛一派の名に恥じぬ「気・体・剣」の緻密な一致が刹那、否、“阿頼耶”のうちに図られ、がら空きとなった直斗の懐に由紀江は突貫する。

猛気が薫る。 

御返しとばかりの、凄まじい速度。 空恐ろしい勢威。 





「キィぇぇぇぇッ!!!」





ヒット・アンド・アウェイならぬアウェイ・アンド・ヒット。

あえて攻撃を引き出し、相手を活かして斃す手妻。 まさしく鍛えに鍛えた活人剣の真骨頂である。

戦機を窮めに窮め、最速の剣、最短の太刀の馳走に臨む。 

そうして、技巧ならびに信義の限りを尽くした時。

つまりは、黛由紀江が武士としての本能に立ち戻ったこの瞬間。















極意剣“阿頼耶”は、ついには抜かれず、彼女の命運は此処で尽き果てた。



















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次回更新は……、FateEXTRAcccがどれだけボリュームあるかによります。

無印まじこいのロゴを見れば、反りの話はわかりやすいかもしれません。

戦闘場面ではお好みのBGMをおかけ下さいませ。




[25343] 第四十四話:剣理
Name: かぷりこん◆f1242fd1 ID:0ac3c52d
Date: 2013/05/11 07:23

<ご注意>
この章には、藤沢周平氏著作「隠し剣孤影抄」「隠し剣秋風抄」における一部の妙味を損なう恐れのある記述が存在しております。 故に、この二つの作品を未読の方々はもちろん、“海坂城下異聞”をこよなく愛する方々には、このことを十分ご承知の上、読むか読まざるかの判断をいただければ幸いです。 誠に勝手ながら、これに関わる読後の苦情については受け付けかねますのでご留意を。












『裏切りとは、同じ道を志しながら背中を討つ事を言う。 はじめから道が違うのなら、共食いは必然である。』
 
―――ギルガメッシュ(「Fate/EXTRA CCC」より)
 
























摩訶不思議な外氣功を発されたわけではない。 

そんな理不尽で、曖昧なものでは、断じてない。

いうなればそれは、矢車直斗が黛由紀江というさむらいに顕した、信頼と拒絶そのもの。

備えられた種仕掛けは凡人にも理解でき、やろうと思えば施行できる。 

“理”は、確かに其処に存在していた。 




腕が凍った。

足がしぼんだ。

思考こころが、途切れた。




“誠の一文字に直面する” 

後手の必勝を確信していた由紀江にとって、それは完全に、想定の範疇外の異常だった。

面前咫尺めんぜんしせきにある彼の挙動が光情報として網膜に映し出され、何が起こっているのか、生来ながらの観格を以って知るに至るや、何かが連続的に由紀江の脳を叩く。 

どくどくどく、という、太鼓のリズムにも似た、心臓の鼓動。 

それ以外のありとあらゆる感覚は、冷たい氷水に浸されたように麻痺を引き起こしていた。 

瞳を流れる風景だけはひどく克明にして緩慢で、それを見続けることが、彼女にとって何よりも耐え難いものだった。 

こうして鷹の目の如き分析力を備えた女武士は、彼が運用した“二つ目の奥の手”に関し、ごく自然な反応をみせ、敗着に限りなく肉迫する。

人を害すための金属の凶暴な質感が、空気を伝って背筋の体毛を舐めた直後。

前傾姿勢で剥き出しとなった右の肩甲骨に、まるで稲妻が落ちかかってきたかのような、大上段●●●の振り下ろしが炸裂する。

風が流れる。 

耳元を流れ落ちていく。

引き伸ばされた体感時間。 



    ――武士である限り、お前は俺には勝てない



徐々に足元に下がってゆく視界で揺れているのは、想像もつかない苦行で五体を練り上げ、宣言通りの●●●●●騙し討ちを成し遂げた、律儀な兵法者の孤影だった。









<手には鈍ら-Namakura- 第四十四話:剣理>









一殺多生の活人剣。 そんな言葉がある。

日本人は古来から平和を好む民族ではあるが、無道の輩に対しては、これを制圧する破邪顕正の剣を持っていた。 しかし、ここ半世紀、悪く言えば敗戦根性が抜け切らぬ社会の中で、活人剣の意は捻じ曲がって解釈されてきた。  人を殺し、傷つけることをなるたけ少なくするための剣の遣い方。 ……いたずらに平和主義を貶めるつもりはないが、それは極めて浅薄な考え方である。 本来の活人剣とは、斬り合いに際し、相手の技術を出せるだけ出させ、技の尽きたところを打つものである。 相手に技を吐かせず、動きを封じて無二無三と打ちつける殺人刀と比べ、それは些かならず難度が高い。 斬り合ううちに相手の好む技がわかってくる。 それを抑えず、相手の望むがままに打ち出させて勝つのである。 

敵の好むところに餌を撒くように隙を見せ、その陥穽に誘って勝つ。

ただ闇雲に目前の敵を討ち払って善しとするのではない、純粋な武の求道精神に根ざした、深遠精緻なる剣理だった。

敵が急に斬り掛け、自信を持って攻めてきたとき。 そんなときに、こちらからも進んで切り込み、敵の調子拍子に巻き込まれてしまっては駄目だ。 柳生の教えで言えば“近きに遠き”――敵の刃先が近づかないところまで隅をかけ(斜めに退き)、風車のように刀を振り回す直斗てきの勢いは永遠に継続するものではないから、自ずと浮き出る弱り目に、祟り目をみせんが如く近寄り、仕留めるのである。

隅をかけずに真後ろに後退する。 ……対短剣戦闘における禁忌タブーを犯す妙手とはいえ、由紀江の戦術はおおよそ、今述べた技法、つまりは武士道に回帰するものだった。

つまるところ、結局は、フルツハモノの大枠から抜け出せない彼女だった。 

それで良い。 それが良い。 

堕落した手段で、堕落した俺に勝ったとして、いったい何を得られるというのか。 むしろ、その枠に居ながらにして第一の奥の手を破り、二手目を打たせるまでに至った技量に驚嘆するばかりだ。 この女は、やはり格が違う。 おかげで、現在非常に不味い状況に陥っているのだが、それは後の話とする。





順を追って述べていこう。

こちらが用意した三枚の切り札のうち、一枚は、“下段からの左右逆袈裟二連、付随してプラス直刀による拍子外し”である。

逆袈裟二連という単体の奥義については、汚名剣“双燕”と言えば、剣豪小説に通じる者には馴染み深くなるかもしれない。 

相手の剣の間合いに駿足にて入る一瞬の間、左下段から刀を摺りあげ、更に剣を右下方に移しつつ上体を逆に捻って、もう一度、今度は右下段から摺りあげる剣技である。 

睦み合いながら空に翔け上がる燕のつがい。 その交叉の軌跡を模されたものだ。 

こちらが得物として用いるのはなにぶん即倒力の低い鈍らであるため、川神流の震脚による威力の底上げを狙うべく、足裁きについてアレンジを施したが、俺の描いた剣の套路は、本質的にはそれと大差ない。

文を一読すれば、すぐにも会得できそうな錯覚に陥るだろうが、半秒にも満たない合間に対象を無力化できるほどの二撃を与えるのは、至難中の至難を極める。 この技芸単体でも、直撃すれば、並みの武芸者ならば一溜りもない。 一撃目で相手の武具を撥ね飛ばし、二撃目が胴を撃つものである。

これを扱うにあたった経緯だが、もともと祖形は、直江大和に宣戦する遥か以前、学園に編入する頃には既に出来上がっていた。 川神院に入門を果たしてすぐ、力試しの仕合で川神一子に叩きのめされた直後、夜気を裂きながらの孤練にて密かに工夫を凝らし始め、このたび実戦に登用するまでの段階に達した次第だ。

ちなみに併せて用いた、直剣の特徴に由来する無拍子の太刀は、先ごろ鈍らを拝領した後に思い立った付け焼刃にすぎないのだが、こちらのほうが戦術的に実効性応用性ともに格段に上であった事に触れるのは、ご配慮願いたく、よしなに頼み入る。 ……一年越しの努力も、現実は非常である。 隣り山で一夏の間、受け太刀を務めた釈迦堂の指摘は、すこぶる心を穿ってくるものがあった。

しかし、なんにせよ、それなりに格好のついた太刀筋をひとつ遣ったとて、それだけで超越の権能者たる師の孫娘を打倒可能であると確信できるほど、お目出度い頭を持ち合わせてはいない。 百代と比して、現状やや技量は劣るとされる由紀江の一挙手一投足にすら、その度に恐れ猜疑し、その度に卑屈に安堵し続けるのが矢車直斗である。 “為さねばならぬ”と固く誓えど、“為せば成る”とは到底信じ切れぬ男が俺だった。

必勝の太刀が在り、不敗の剣が在る。 ――韓非子の「矛と盾」の故事を持ち出すまでもなく、これはどちらも存在しないと同じことだ。そう判断するだけの小心を俺は持ち合わせている。 弁えている。 理に即した術技は理に敗死する。 物理法則を捻じ曲げるほどの“勁”が無ければ、どれだけ勝算があろうとも、ミリの敗北の可能性は存在し続ける。 そして、その粍の勝機を易々と引き寄せ、モノにするのが、数多の若獅子の中、その四天に座する彼女らである。

また、俺に因果律を相手にできるだけの勁は無い、功は無い。 あるいは取り戻せない。 

その昔、師が龍封穴を、この体躯へ用いるに至った経緯を、俺はどうしても思い出せない。 

すなわち奇跡など求められない。 そんなものが俺の力となる筈がない。 

ならば如何する。

……決まっている。




“理に理を重ねる”――――これしかあるまい。

ミリの隙をマイクロに。 微の隙をナノ単位に希釈する。 

その一手しか持ち得ないのが常人だ。 

社会でも、学校でも、家庭でも、諸人誰もがそうして日々生き残っている。 愛し合っている。 憎しみ合っている。

少し、俺の戦歴を遡って欲しい。 例を挙げるならば、四月に取り計られて行われたクリスティアーネ=フリードリヒとの歓迎仕合が適当だ。 後手の逆襲カウンターにて決着をつけたものだ。 由紀江のそれと比べればお粗末極まりないが、捉えようによってはこれも活人剣の一種だった。 

あの時点でのクリスの実力は、院においておよそ中堅の位置を占める川神一子よりも明らかに上位であり、ひとつ不覚をとれば、俺が負けることは必至とは言わずとも、その公算は大きかった。 あそこで、衆人環視の場で、負ける事は許されない。 一子は気にも留めないだろうが、俺達は川神の道場看板を背負っているのだ。 加え、歓迎仕合とはいえ、総代からの命であった。 御覧仕合である。 川神の強さを知らしめる責任を、全うしなければならなかった。 

実戦を積むことは決して悪ではなく、むしろ至上の修行方法である。 だが、同時に俺達は内弟子として、平たく言えば、川神の面目を保たねばならない。

先に断っておくが、力を求める情熱、目標へとひた奔る不断の意志、ことそういう特質に関していうならば、川神一子が極めて優秀な戦士であることに、異論を差し挟む余地は無い。

だが、どれだけ敗北に対して師の寛容許容を得たとしても、川神の面子を損なわない事は、俺や一子のような道半ばの未熟者が、武林の頂たる場に籍を置き、あまつさえ数々の奥理の手ほどきを受ける、その返礼として当然備えてしかるべき最低限の分別の筈だ。 その良識を欠いて、且つ、負け仕合を公然の場で繰り返す一子が、院の渉外担当、顔役たる師範代を目指すことに少なからず違和感はあるし、露骨ではないにしろ、ルー師範代をはじめとする兄弟子達が全く懲りない彼女の肩を持つ姿に疑問符が浮かぶことも多々あったのだが、それは今、置いておこう。 特別扱いされぬよう、どれほどの手段が講じられたところで、血縁こそ無いとはいえ、彼女が百代と同じく師の孫娘として内外で意識されるのは仕方のないことだし、何より、曲がりなりにも“血”を持ちながら、学内で二度も無様を晒した俺が言えたものでもない。 

ともあれ、最初の一太刀二太刀を繰り出す間に、先述の想いに囚われた俺は、必勝の策として、ああいった戦法をとり、クリスに勝利した。

クリスに仕合後、言及したが、真剣死合であれば、負けただろう。 だが、あれは幸運にも模擬戦闘。 だからこそ、当時己にある総て、“見切り”の能を十二分に生かす戦術を仕掛けた。 加えて、雑技団紛いの曲芸技で、野次馬ギャラリーを喜ばす意図もあった。 百代は、この意図がわかったのか、立合いの後、不機嫌な顔でこちらを見ていたようだったが。 ……この戦法に味を占めて、というわけではないが、幾らかは参考戦術とした。

俺の剣を熟知した由紀江と百代への隠し玉、それこそ隠し剣として、一つでも多く何かしら仕込まなければならなかったのだ。 

書中の“邪剣”から、更なる着想を得たのは、そういう理由である。 欠けた絵に定められたピースのように、なかなかどうして、ぴたりと合うのだ。 

そう、相手が札を一枚破ってくるのなら、こちらは二枚張ればいい。 

第二の奥義は、闇に潜む魔物のように、第一を抜けた深部に配置した。



















世に渡る諸流諸技に例外なく言えることだが、術技の必殺性は、まず対手にとって未知である事に立脚する。 

どれほど高度な技であろうと、幾度もそれを見せていれば、いずれ内情を把握され対策法を講じられるのは必然だ。 

しかし、絵に描いた餅で腹は満たされぬことも事実。 それを期待していた。 驕りからではなく、二手目の悪辣を極力用いたくなかったからだった。

由紀江の待機を確認し、右足を蹴って首を落し、左足を踏んで背を屈む。 

地を這う蚯蚓のように砂を舐める心地で、己が頭を、由紀江の立ち位置、その二歩手前まで投げ入れる。 

正直に告白すれば、このときまでは燕を二匹、素直に送るつもりで居た。

体躯を跳ね起こすまで、彼女の挙動に不自然は無かった。 

いや、押し迫っているのはこちらの筈なのに、追い詰めているのはあちら、とする“戦気”は確かにあった。 あったからこそ震脚を踏んだ。 

そこからの、由紀江の、無拍子の回避である。 

剣聖の至芸と断ずるに些かの躊躇も無い。 居合いの型から停止して膝の肉を冷やすこと幾数分、その直後にして、この仕儀。 反応にせよ体術にせよ運剣にせよ、常軌を逸していた。 

瞬刹、読まれた●●●●ことを打ち上げた双腕の合間から視認する。

油断していたわけではないが、虚を衝かれた事に変わりはない。 

与えられた猶予はごく少なく、それこそ粍であり、微であり、塵であった。 何もない虚空を斬った後に出来ることは限られていた。

しかし逆を言えば、狭く、少なく、限られていながら、出来ることは確かに存在していた。 

“有り得ないことが有り得る程度は想定の内”――――短く吸気し、外道を行うべく、無我境に心を近似……は俺の技量では全く不可能だったが、ここからの一刀を以って沈める以外の方策はもとより皆無。

一太刀目を打ち上げ終えたこの局面は本来、刃勢を保ちながらその場で半回して太刀を引き下げ、二の太刀を逆から摺り上げるべき要所である。

俺はそれをしなかった。 

刃速の減殺を避けること。 それが双燕という夢想の剣を用いる上で俺が我流なりに見定めた要諦で、そのための遠心力の利用だ。 

珠玉の套路の完成形を、みすみす貶めたのには訳がある。

代わりに俺が行ったのは、半回ではなく一回転。

一閃を打って伸びきった腕はそのままに、その場で、捻り上段の太刀取りにて一回転。 

一回転。 

一回転。 

……一回転。

つまりは、






    ――敵騎に、背後を晒す。







邪剣“竜尾返し”という太刀がある。 

簡潔に術理を説明すれば、太刀を下段に配し、不意に背を向け、振り返りざまに一挙動で上体を撃つ太刀である。 意図的に後の先の勝機を作り出す剣術。 後の先の勝機を作り出す、つまり相手の攻めに虚を与え、その俊さを失わせ、ただの一刀で撃つものだった。

それを、上段に太刀を配したまま、俺はこの瞬間に誂えたのである。

世の物理ではなく、士の心理を征する。 

それが俺の、超越者たちへ捧ぐ対抗打の本質だ。

遣る事為す事、まったく理にそぐわない者たちへの反攻だ。

敵の背を斬る事に躊躇いのある日本武士に対して、この剣技の効果の程は言わずとも知れるだろう。

対手は、腕が上がって拓けた腹部の隙を逃さず獲ろうとするが、撃つ箇所が途端に背部に摩り替わり、ここで僅かに躊躇。 

この硬直を期待して、一刹那ひとせつな先の勝機を掴む。

新撰組の隊服を模した羽織の装飾も、駄目を押して兇悪だ。

由紀江の士道が、突如出現したこの背に張り付く“誠”を容易に斬り捨てられるほど、落魄おちぶれたものである筈がない。 士の美風に叛乱する真似が、彼女に出来る訳が無い。



――――彼女たちには不可能だ。 彼女たちの“武士道”が、この邪剣の不敗を約束する。



その後は、体全体をすぐさま回旋、崩れかける足元をぐっと堪え、左上段から、ギロチンの断撃たる打ち落としを仕掛けるのみ。

果てた夫の無念を晴らす、雌燕の如く。

真正面の牙にも劣らぬ、禍々しき辰の靭尾の如く。

つんのめるように、最後に自らの全体重をかけて、上体を叩き撃つのだ。

太刀の始動から溜め続けられた刃勢は、瞬転の遠心力、体重七十五キロ分の重力を更に加えられ、ここに前哨戦の終止符を打つ。 

その威は、川面に放てば垂直三メートルの水柱を立たす程度には強力だ。 これにて二撃決殺が罷り成る。




以上が、奥の手の二、“双燕並びに竜尾返しの併せ太刀”の概要である。

名を付けるとすれば、双燕に対して“邪燕”といったところか。 ……この戦いが終われば二度と遣う気も起きぬだろう、詐術だった。 






















最後の一撃と共に、俺もまた、五体を投地していた。 一度放てばこの格好になるのも難点だが、そこはご愛嬌だ。

アドレナリンが膝小僧の打撲の痛みを和らげるのを感じながら、そう感じるだけの冷静な自分を取り戻しながら、ゆっくりと身を起こす。

湿布が貼ってある背中が、灼けるように沁みている。 分泌された大量の汗に、湿布に含まれる酸が溶け、毛穴に浸透してゆく感覚だ。

実時間を確認する。 まだ、開戦から二時間もたっていない。 

額の鉢金のずれを直し、もそりと髪を掻き揚げて、付着した土を振り落とす。 

傍から見れば、相撃ちに見えたのだろう。 膝を立て、座り込んだまま上体だけ姿勢を正したころには、周囲のざわめきは最高潮に達していた。 



――うわ動いてるよ/嘘だろおい/お前見れた?/あれ?負けたの?/私わかんなーい♪/どう見えた?/とりあえずパンツは見えなかった/あんなのと戦うっつーのかよ…



最低でも優に十メートル以上の距離を置いて、どれだけの人間が俺の太刀筋を見取ったか、見咎めたか。 確認する術はない。 だが、何となく。 非常に何となく曖昧な勘だが、朱雀軍が陣を敷くには最適な位置であろう南東の山中から、刺し殺さんばかりの鋭利な視線が注がれている気がする。 同じものを一度、石礫の飛来と共に感じた憶えがある。 

天下五弓の眼は、“壁”を越える見込みがある。 

師の言質を鵜呑みにするなら、間違いなく一人には、この卑劣が見通されたと考えるのが妥当だろう。 わかったところで防ぐ術は能力限界と物理法則に縛られているのだが、油断は禁物だ。 以後、これを遣わずに済むという虫のいい話もない。 目前の人物の技量と器量、その見極めが一層肝要となる。 

視線といえば、今更ながら、意識するとなかなかに過大なストレスだ。 英雄達の追撃に割かれている人員も相当数だろうが、それでもこちらを取り巻く八百余名の学園生徒たち。 プライバシーの保たれぬ一方的な衆人環視は少なからず体を強張らせる。 随分昔、“スケルトン生活”などというテレビ番組の企画があったことを思い出す。 遊園地などのレジャー施設に特設された、生活の全てが丸見えになっているビニール張りの部屋に、一定期間の間暮らし続ける。 昼間はもちろんのこと、夜間も一般人に観察されるため、精神的に非常に過酷な企画で、観ている側も胃が痛くなるようなものだった。 懐かしい。 

あと同じ番組で、芸人コンビが自陣で産まれた鶏の卵だけで生活する奴とか、あったな。 「こっちで産めよぉぉぉっ」という相方の切実な叫びには腹を抱えたものだ。 それと海苔生活……。 

由紀江と対峙していたほんの数分前では抱きもしなかった、益体のない不真面目な思考の渦を巻いていると、小石が弾かれる気配を察して、前方に複数、人が立ち並ぶのを眺めた。 

敵ではない。 かといって味方でもない。 

我が同胞、審判員を務める川神院の僧兵どもだ。 しかるべき手順で、俺が下した彼女を回収に来たのだろう。 現在、四方八方から敵方の剣林弾雨が押し寄せないのは、このためだ。

小休止の趣きが束の間戦場に降りていた。

未だ昂ぶる神経を速やかに治めるべき時間であり、女の柔肉を撃ち据え、形の良い骨を砕き折った感触というものを存分に玩味すべき時間だった。




……想起。

“抜かれたら勝てない” ――だから、抜かせなかった。 

彼女の秘太刀は“理”に頓着しない。 

かの抜刀は断じて論理に非ず。 断じて道理に非ず。 

黛一派の興隆より、開祖から脈々と受け継がれ、粛々と磨き上げられ、人智を超えるという意味では同じ界隈に位置する発勁技すら、裂き殺す、という凄絶な霊気を孕む聖剣だ。 

鈍らによって迎撃して圧し勝つどころか、その一閃を阻める見込みは零も零。 干乾びた葦が刈られるように、こちらの得物は寸断されるに違いなかった。 

また、理論上は不敗を掲げていても、決着の一打とて薄氷を踏む思いだった。 

相手の士道に全幅の信頼を寄せなければならない、という前提。 

こちらの我流剣は本来、技量というよりは器量、つまり心技でいえば心に重きが置かれる一刀である。 

女の鍔より奔る雷火の煌き。 それへの恐懼に我を忘れて撃ち放つ、という真似が勝機を掴み得たというのは、未だに信じがたいものがあった。

うつ伏せに倒れたままの彼女の体躯は、しかし仰向けに返されることはなかった。 

患部は背中である。 

簡易担架に、倒れた体勢のまま乗せられたため、気絶した後輩の貌を、こちらは窺えずに済んだ。 その事にひどく救われた気がした。

だが、もうひとつのつらには出くわした。

松風だ。

転げた拍子に砂利の角に擦れたかして、由紀江の首に懸けられていたストラップは引きちぎれたらしく、ただぽつねんと、ちんまりと、気づけば俺の目の前に鎮座していた。 

当たり前だが、全く以って当たり前だが、話しかけてはこない。 業腹ながら、俺の扱った剣の套路と同じく“彼”にも腹話術という種仕掛けが存在する。 

しかし、その無機にして無垢な黒い瞳には、まるで責めるような色が浮かんでいるように見えた。

語る言葉も無し、そんなふうに真一文字に結ばれたフェルトの口も然りだ。 

このまま土埃に紛らせながら放置しておくのも忍びない。 立ち上がって、本部に退散しかけた兄弟子の一人に声をかける。 

彼は俺の事情を知らない。 そして知らないなりに察知している。 

川神院には駆け込み寺、更生施設としての側面がある。 無論、相応の実力が伴わなければ敷居を跨ぐ事は叶わないのだが、内弟子には脛に傷を持つ者も一定数含まれる。 最たる例が、離島の魔童として名を馳せ、院に収容後、瞬く間に師範代の位まで登り詰め、ついには百代の武芸指南役を射止めるに至った釈迦堂刑部だ。 

……なんというか、同類同士鼻が利き合う、といった数人を俺は知っているし、彼らも俺を解っていると思う。 話しかけた男もその一人で、ここ数ヶ月で流派の内規という内規を破りに破り続けた俺に対し、決して歓迎する風情ではなかったが、可愛いとも不細工とも言い切れぬマスコットを持っていくことを了承してくれた。

受け渡すその前に、馬の足に纏わりついた不細工な装飾を外すことを忘れはしなかった。

手の平の上、安っぽい色合いの指輪が二輪。 いつか、彼女の実家で作ったビーズのアクセサリ。 

もう何年も昔のことに思え、そこからずいぶん遠くまで来てしまった気がする。

今にして思えば、なんとも御節介で図々しくも恥ずかしい真似をしたものだ。 もう彼女に、これは必要ないだろう。 

風の便りで、同じクラスにも友人が出来つつあるらしい。 それが真実の友情である事を願うばかりだ。 

まだ十五歳。 

まだ高校一年生なのだ。 

求めるものは、なんだって作り出せる。 

俺のように臆病にならなければ、それを失くすこともないさ。




長時間の息苦しさから解放されながらも、未だ強張り震える手先を繰って、鈍らの刃先に指輪を通し、そのまま力任せに押し貫いた。 

すぐに張力の限界が来て、ぷつんとワイヤが切れて、鳳仙花の種の如く弾け飛んだ色彩の粒は、図ったように吹いた風に巻かれて散り消える。 




敵に背を向け、生まれた躊躇をいざと喰らう。 

由紀江と最後に織り成した剣跡は、小奇麗に言えば活人剣の応酬だったが、彼女の武士道を完膚なきまでに愚弄した事実は揺るがない。

……俺が初めての友に相応しいなんて、とんでもない見込み違いだ、黛大成。 

これで、彼女の厚意を土足で踏み砕いたのは二度目を数える。 星の巡りが悪かった、などという言い訳が許される筈もない。

全て、俺の意思で傷つけた。

少なからず、俺を友人として好ましく思ってくれていたのは光栄だったが、流石に今回の一件で、冷めてくれることを期待する。 

友情に飢えている彼女には、御人好しが過ぎるきらいがある。 

悪いことじゃない。 損得を超えて、世の中そういう人間だけになってくれれば、というのが俺の夢だ。

ただ、対等でいようとする気概は、箱入りだった彼女には、しばらくは必要なものだろう。 

それがあれば、ありのままを観ることができる眼があれば、どんな卑劣もどんな信頼もすぐに見通せる。

そして性根の腐った野郎に心を許せば、どんな仕打ちが返ってくるのか。 

吐き気がするほど身勝手極まりない言い分だが、これがいい薬になってくれれば、と思う。























由紀江の収容がなされる間、多少の慄きが広まり起きたとはいえ、無為に時間を過ごす朱雀軍ではなかった。

対象の脅威判定は更新されたことは明らかで、

――先も言及した通り、術技の必殺性というのは“未知”というアドバンテージがあって初めて確立されるもので、九百九十九の敗北と、ただ一つの勝利が内訳たる千本仕合にて、矢車直斗に対して全く無策であった由紀江との最初の一本目が勝利に終わっただけ、というのが直近で引き起きた戦いの本質だったわけだが、それを洞察できる者は限られている。 これは術の秘匿という観点からすれば、こちらに都合の良い事実ではあるが、あちらにとっては、油断なく万全を期して迎え討たんとする気炎を全軍に滾らせるものだ。

周囲の外観に変化の兆しが現れていた。 人垣が、壁に移ろうという風景。

もしかしなくとも、由紀江との戦闘中に土台くらいは造り始めていたかも知れない。 目測だが、優に三、四メートルはあるだろう巨大な垣根が三百六十度全域に出現していた。 馬防柵などという隙だらけのものであれば良かったのだが、いやはや、どこから調達したのか、実態としては鉄板に限りなく近い、目の細かい鉄網の間仕切りで内外が閉ざされつつあった。 とても飛び越えられる高さではなく、攀じ登ろうにも足を掛ける隙すら見当たらない。

即席人造の闘技場コロッセオ。 

数は力だ正義だと、大和のしたり顔が目に浮かぶ。

多人数を相手にして勝つのに必要なのは、迅速にして強力、正確な先制攻撃。 そして常に敵全員の動きを把握しながら戦い、出来る限り敵を自分の有利な位置へと誘導すること。 つまり、囲まれない事と言い換えて良い。 二人組、三人組、四人組と、圧倒的多数を相手にするときには、常に相手を視界に入れなければならない。 そして可能であれば、一対十ではなく、一対一が十連する状況を作り上げる事だ。 俺の視力は、決して並みの武人に劣るものではないと自負できるものではあるが、真後ろのものを見よというのは無理がある。

そして、それとは真逆も真逆。 圧倒的なまでの不利状況が目前で形成されつつあった。 

由紀江を回収し終えた審判員が脇から逃がれ、そこに最後の金網が張られると、どこからともなく小さな影が飛来し、ちょうど足元の砂利の上に投げかけられた。

折り畳み式やスライド式などという小洒落た変形機構は持たない、どこぞの電気街にて叩き売られているだろう何世代も前の型落ち。 画面は狭く、くすんでいて、最低限、通話機能だけは保障していると暗に語りかけてくる無骨な携帯を拾い上げた途端、全く耳にやさしくない、甲高い呼び出し音が喧しく鳴り、きっちり五コール後に通話ボタンを親指で押し込む。


(――――まだ、やるつもり?)

「……おいおい。 それは普通、今そっちの手札を叩き潰した俺が言える台詞だろう」

(今の間で、北に逃げた玄武軍、その半数以上は既に脱落した。 ……脱落というか。投降? もともと乗り気だったわけじゃないのが多いみたいだし。 エリート連中ってのはなんだかんだでそれなりに辛い立ち位置でもあるんだよね。 ちょこっと無様晒せば、手の平返す人が大半だったよ)

「あ?」

(麗しい格好の不死川さんのムービーメールを、ちょっろっとね)

「…………わかってないな。 そういうのは関係ないんだよ。 俺はお前のように、他人を貶めるために他人を利用したりはしない。 開けっ広げて、一人きり、素直のままに殴って蹴って打って撃って極めて倒す。 騙す奴には、先に騙される覚悟をくれてやる。 もとよりそのつもりだし、それがフェアってやつだろう」

(へぇ? 九鬼に葵を守れなんて言っておいて、それは聞き捨てならない話だ。 なにかしら仕込んでるものがあるんじゃないのか? あいつらを利用して●●●●

「流石に情報の回りが早いな。 ……その見立ては零点だが。 実際は全くの逆で、むしろ、あいつらが俺を利用するっていう話でな。 いずれにせよ、お前が考えても仕方がない問題だ。 四の五の言ってないで、皮肉混じりに鎌かけてる暇があったら、さっさと百代を呼んでこい。 せっせせっせと、姉貴分に活きの良い生け贄を貢ぐのが、お前の仕事だろう?」

(それ以前に、仲間に害のある連中を追っ払っとくのも軍師の役目さ。 そして、命乞いを聞き入れるのも同じく俺の役割。 どうする?)

「訊くまでもない事を訊いてくれるな。 勝つのは俺だって、何度も言ってるだろう」

大和の提案はその実、優位に驕り、嵩に懸かっての説教ではない。

今から本気出す、戦力から言えば由紀江など比べ物にならないほどの“数の暴力”を行使する、だからその前に選択の余地を与え、詰め将棋の如く自らの正当性を築き上げる。

そんな大義名分の念押しだった。 

事此処に至っては、風間ファミリーには由紀江の敵討ち、弔い合戦の意味合いが戦う理由に付され、俺に対する朱雀全軍の心象は確固たるものだ。

不必要とも思えるこの問答は、どれほどの石橋だろうと叩いて渡ることを忘れまいとするとする大和の気質の表れであり、過程はどうあれ、黛由紀江の撃破を目の当たりにして、その胸にいっそうの警戒が渦を巻いている証左だった。

第一に、この取り澄ました冷静を破らなければ、この戦いに終わりは永遠に来ない。 来てはならない。

どれだけ、大和の思慮を削ることができるか。 

心の装いを取り払った、その先の何かを見い出させるための戦いにおいて、これは避けては通れぬ命題だ。

対する上で、俺に利する事実を強いて挙げるとすれば、質が安かろうが高かろうが、相手の本心をくすぐり出す挑発だけは、無尽蔵に繰り出せるということ。

頼みの綱は、そんな、当たり前も過ぎる人の業だった。

「一応のご心配、どうも有難う。 まあ、俺も人間だ。 確かに先行きが不安になる事もある。 だから念には念をってことで、験を担ぐつもりで、昨日はヤドカリを食卓に並べたよ」

(――――――)

「調理人の腕がすこぶる良い事もあって、食えることには食えたが、砂も混じってて、値が張ったわりには喰える所も少ないし、何より味がな。 物凄く不味いとは言わないが、物凄く旨いという事もない。 強烈に磯臭い貝って言うか、大味そのものだったな」

(―――――――――――――)

「日がな一日、死骸から盗み取った殻に引き篭もってる生き物だ。 自分を鍛えることを知らない。 だから身も締まらないんだろうな? ……どこかの誰かみたいに」





言い捨てて、手にする端末を破棄、戦前の茶席の名残として遺されていた朱塗りの番傘のもとへ、ひとっ跳びに横っ跳び。

壁の向こう側の様子は朧気にしか感知できないが、先ほどから、篭手が擦れる音、ギチリギチリと紐が張り詰められる音が聴こえるところから察した、土壇場の対応である。

直感を裏付けるように、鳶の喚声が空を裂いた。

着地と共に息を吐いて、頭上を仰ぎ見れば、




















矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢矢。






下手な鉄砲なんとやら、というレベルではない。

先んじて射出された鏑矢。 その合図の直後。

とりあえず前方の上空に飛ばすように、という大雑把な指示で以って撒かれたのだろう幾重幾段もの曲射は、全方位より、矢車直斗の移動可能域を、一斉同時に薙ぎ払う。

弓術について、得手不得手以前の問題である生徒達。 狙った的を射抜くスキルを持たない殆どの者について考慮すれば、これは非常に効率的な策といえた。

また、大和は知ってか知らずのことか。

太刀による矢払いの術を、袋の鼠たるこの身は持ち合わせていない。

いつか見た、色彩豊かな中国映画のラストシーンが脳裏に過ぎる。

しかし生憎、俺はあの無名の英雄HEROのように、最期を悟って無防備のまま笑みを浮かべられるほど、殊勝な性格ではないし、この大戦、幕引きにはまだ早い。

抜き身のナマクラを脇に挟み、これ幸いと、鈍らの三倍の目方はある漆仕立ての大番傘を引っ張り上げ、石突を天へ刺し抜いて、留め金を弾いて、篭められたバネ仕掛けを解放する。

支柱が擦れ、親骨と受骨が滑り合い、そうして開かれた蛇の目を盾に、猛射を防ぐ。

那須野の原で果てたというかの狐精は、きっと同じ風景を見たに違いない。 妖狐伐倒を祈願された破魔矢の如き鋭さが無い分、こちらは方がまだマシというもの。

ベダベダダダベダベダダダベダベダ、と和紙に吸盤が断続的に引っ付く音。 

ギチメキキギチミキコキブスブスリ、と器物が軋み壊れてゆく音が、それに追従する。

なるたけ傘の損傷を抑えようと、柄を回しに回して着弾の衝撃を緩衝するが、それもいつまで有効か。 

如何に名門不死川家の由緒正しかろう什器とて、茶道具に戦場での耐久を期待するのは酷というもの。 所詮は厚紙。 急場凌ぎに過ぎない。 


「突っ込めッ!!!」


源忠勝の檄が飛ぶ。

円弧形の檻を形成する其処彼処の柵が一時的に解放され、前後左右から、隊伍を組んで疾駆してくる無数の人影。

唐突に矢雨が止めば、間断なく、ついに白兵戦が開始と相成った。 流石に弾が尽きたらしい。 




対して、こちらが構えるは、“渦潮”。

足元に番傘を置く。 

右腕に順手持ちで鈍らを。 刃筋が胸前で、銀白色の真一文字を描く。

左腕には逆手にて、下げ緒を解いた鞘を握り、腰だめに落としつつ後方を牽制。

板垣天使が釈迦堂刑部より賜り得意とする、本来ならば門外不出とされる、秘門の防禦技法――川神流“流水の構え”

その亜種、発展系と呼べるものが、この渦潮の構えである。

得物で攻めを受け流し、懐に入り込まんとする意図は共通するが、敵の動きと常に正対し続け、縦の動きが重要視される流水は、主に一対一の差し向かいで用いられ、対して、渦潮は仕手の回旋、円運動が肝であり、二刀によって複数方向からの攻め手を纏めて分散し、力のベクトルを操作し、互いに互いを相殺させることを念頭に置いた、対群の操刀だ。




思い思いの得物を振りかざし、与えられた下知通り、縦横無尽に殺到する朱雀兵。

次弾に備えてか、遠くに見える甘粕真与や小笠原千花が、ありったけの矢筒を持って、抜け目なく外れた矢の回収に勤しみ始めている。

柳眉を逆立てた敵大将の鬱憤が一気に放たれる、電撃作戦。

矢継ぎ早の戦術の繰り出し具合から、濃厚に香る激怒の気配。





……ああ、それでいい。 





そいつこそ、その激憤の発露こそ、誠実の端。 

お前が最初に、この戦場の中で摘み上げ、胸に埋めるべき愚直の種。

隠すな、除けるな、押し潰すな。 

心を剥き出しにせんとする、その“誠”こそ、百代が求めこいねがい、彼女に幸福をもたらす法だ。

矢車真守が、最後まで信じた正しさだ。

だから、なぁ、大和。 

お前のど真ん中の芯に、それが備わるまで。 

真摯さ、というものの強さに打ちのめされ。 果てに、それを掴み取るまで。

それまでの、受け太刀くらいは務めるさ。 

それが俺の。



              俺の、俺が為し得る唯一の――――。

















既に秘策たる三手のうち、二手は白日の下に曝され、残る一手はこの局面では、……最低限の発動条件は満たしたが、先日加えた発動目的を鑑み、使用不可●●●●と男は断定する。

それ以外で言えばスタンガンという小細工もあるが、それは彼女にしか使わないと誓っている。

奇策の暴露の上、黛由紀江との戦闘にて、奇跡的に五体の損傷は皆無に等しく終わったが、失った体力、費やした気力は、尋常なものではなかった。

人一倍の強がりを放つ傍で、既に確実に弱体化しているという現実が、其処に横たわっている。

そう。 開戦から一刻も経たずにして、五体の損傷こそないが、あとどのくらいで限界だ、というものを意識する段階にまで、疲労は達していて、それだけ彼の消耗は激しかった。

それでも状況は容赦なく、運と体力、そして少々の知恵をまぶした彼が臨む攻略戦は、この日一番、全面的に体力に依存する局面に突入する。







いつ止むとも知れぬ波状攻撃。

曇天の中、自らにのみ指向する剣林弾雨。 

それに秘められし策と、長年に渡って仕込まれ続けた人脈による有志の動員。

誰の助力もなく、ただの独りきり、それを迫撃する戦士の命運もまた、近く尽き果てるのも無理からぬことだった。


















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いかがでしたでしょうか。

お暇があれば、感想掲示板に寄ってもらえると幸いです。




封切り初日にシュタゲの映画行ってきました。 助手萌え第一な映画でした。 中盤からの展開は駆け足だったが、ラストカットは秀逸の一言。 シナリオの粗なんか吹っ飛んだ。 十分、羨ま死ねたぞ鳳凰院。 積んであるフェノグラムでまた会おう。




[25343] 第四十五話:手足
Name: かぷりこん◆f1242fd1 ID:208cdd63
Date: 2013/08/20 08:47





『ったくよー、自由の代償は高いぜ。 …………夢を、抱きしめろ。 そして、どんな時でも、ソルジャーの誇りは、手放すなッ―――』

―――ザックス・フェア






















「―――――ッ? ……ほうッ!? フフ……ッハハハハハハ、いや、まさかここまでとは。 ……まゆまゆが、やられたようだな?」







「…………うむ。 我もにわかには信じられん。 まぁ、しかし、奴は伸び盛りとはいえ最年少。 積み重ねた経験は我らには劣るであろうし、油断もしよう」

「クク、四天王の中でも最弱。 あの程度の輩に敗北するなど笑止。 四天王の面よご 「おい、それは私に当て付けて言っているのか松永?」 ……あはははは、嫌だなー、違いますよ橘さん。 なんていうか、ほら、様式美はきちんと守らないといけない気がして。 ……だからその、自衛官らしからぬ割りとガチな殺意の波動めいたモノを早いところ引っ込めてくださーい。 向けるなら、あっちにどうぞ?」

「相性というものもあるからな。 由紀江と天衣なら、ふむ、“剛剣”と“最速”――元々速攻を信条とする者同士、攻撃圏の広い由紀江がやや有利でもあるし、加えて、黛といえば、乾坤一擲の居合い抜きもある。 その返し技カウンターも、我はなかなかのものと聞いている。 一手違えれば、忽ち不覚も獲られよう。 …………とはいっても、天衣。 今、由紀江を下した男には、」

「無論、負けたこともないし、負ける予定もない。 あれに私の知らぬ、理を超える格別の牙が備わっていればまた別だろうが、それは断言する」

「……とまぁ、こんな按配だ、燕。 これが、闘いというものの醍醐味だな」

「そりゃ、重々承知してますよ、揚羽さん。 でも、んーと? 橘さんの言い方だと、話題の彼とは手合わせしたことがあるような雰囲気なんですが?」

「縁あって、この夏に少し揉んでやった。 ……一言で言えば、とんでもない馬鹿だな。 どうしようもない阿呆だよ。 加えて、よくもあんななりで、百代を打倒するとか言えたものだ。 黛が敗れた理由も、大方、予想はつくがな。 山篭りの中で少し底を見たが、どうやら私寄りの人間のようだ。 もともとそういう気質なのか、この数年でそうなった●●●●●のかは知らんが、相手の好む動き一つ一つに応じ手を各々用意して丁寧に封じようというのは、まさに軍人型の思考だ。 だから丁々発止、幾らか渡り合えはしても、本職わたし相手に勝ちは拾えまいということさ。 当人はそれでいて、“正々堂々こそ至高”云々とか言い続けるものだから、まったく始末に終えん」

「はあ。 ……ま、馬鹿って点で言えば大抵は、二人の孫の首より大事な茶釜に火薬仕込んで自爆したウチのご先祖よりマシですけどね」

「何かのために、その何か以上の多くのものを失う者。 これを愚かと呼ばずして何とする、という話だな」

「めでたしめでたし」

「……さて、揚羽?」

「応。 我もようやく、勘が戻り始めた頃よ」

「んじゃ、また、そろそろ頑張り始めますかネバギバッ、納ッ豆ォッ♪」



三人仲良く地に這い蹲る格好から、示し合わせたかのようにぴたりと同時に、各々の物腰により脱却する。 









反転して仰向けになると、秘めたる腹筋のみで、しかし必要以上の僅かな力みもなく跳ね起きたのは九鬼揚羽だった。

彼女の参戦理由は、少々調子に乗り始めたらしい後輩を諌め、また近頃、九鬼の男子として逞しくなりつつある弟の雄姿を見んがためである。 

「武人としてお前の相手ができるのは、最後だろう」――――そう宣言し、その通りの意気込みで最後の仕合に臨んだのが、昨年三月末のこと。 かのヒューム・ヘルシング卿に師事しながら、世界最高峰の修練場たる川神院境内にて、いずれは世界最強、人類最大となる目前の女を相手取り、武の修めとする。 何においても一流を以って善しとする九鬼家の例に漏れず、豪快にして豪胆なる人物。 それが彼女だった。 そして、未だ学生生活を謳歌する身分である英雄の比ではないほどの激務に、日々間断なく当たる揚羽である。 こんな所で油を売る暇があれば、たとえば火入れ間近の近場の高炉の様子を見に行くべき、責任ある立場、九鬼財団の軍需鉄鋼部門を一手に率いる立場に揚羽は居る。 こういう寄り道が、商売敵あるいは商売相手に嘗められ、足元を見られる端緒となり得ることも自覚している。 揚羽の胸の高さほどにも届かぬ矮躯で、禿頭も手足も枯れ木のように萎びていながら、それでいて窪みに窪んだ眼窩の奥に湛えた風狂な光だけは、炯々爛々と精気を湛える。 そのような容姿から風格から尋常ならざる怪人怪女の集まりが、彼女の同僚であり競合相手である。 先祖代々、時には狡猾に戦況を演出してまで、嬉々として人殺しの道具を売り飛ばしてきた人間たち。 気を抜けば忽ち裏をかかれることもしばしばだし、業界の古株は、それはもう最初の印象からして、揚羽への好感度は、余裕で零地点を突破している。 そも、九鬼家は経済界において重鎮として知られるが、一方では、主に、奇想天外が服を着て歩いているような今代当主の野心的すぎる性質から、世の道理を知らぬ、運ばかりが気味悪いほどに良い、小癪な成り上がりの一門だと、バッシングを受けることも多い。 安土桃山時代、織田や豊臣に長く重宝された九鬼水軍。 その将の末裔としての血を有す事実だけでは、どうにも説明がつかぬほど、家業だった海運業のみならず、様々な分野で、類稀なる才覚と剛運を発揮し続ける九鬼帝-クキ ミカド-。 一代にして世界の三分の一を牛耳るだけの財力、権力、そして名声を手にした益荒男の、娘である、……その娘でしかない、未だ何を成し遂げたわけでもない彼女は、十年二十年来と続く妬み、そねみ、ひがみの類を当てつけるには格好の鴨なのかもしれなかった。 明後日にはドバイショックでお買い得になっ…………苦しむ企業を併呑するための会合が京都で開かれる。 精神的にも身体的にも、恒常的に余裕は無い中で、それでもこの場に立っている理由は、狂気という一線を越えようとする可愛い後輩をとどめんとするため、という人情味極まるものだった。 ――――距離を隔てながら、時を同じくして、“核爆弾女”と直斗が百代を評したが、百代の現状を鑑みれば、それはまこと正しい形容である。 たとえば原発というものは、「大きければ大きいほど発電効率が良くなる」とされる施設の代表ではあるが、その分、一端停止した時の停電率は高くなり、内燃機関の調整が困難になる事故が起き易くなるのだという。 常時全力空転、アイドリング状態であれば、まだ救われた●●●●●●。 猛り狂う本能が静まるまで、遮二無二拳を振るい続ける。 ……だが、それは獣の行いである。 こと釈迦堂の教えを締め出した川神院内で、許されるものではなかった。 祖父や兄弟子に散々言い聞かされた通りに、信号毎にエンジンブレーキを掛ける都市バスのように、百代は日常生活を送る上で、不器用ながら彼女なりの抑制を効かせていたのである。 その不器用さ、その不調法さが彼女のあだとなっている。 人体における丹田を、暖炉のようなものと仮定しよう。 積み重なる百代の不満足という名のおりは、煙突に溜まるすすである。 限界に達すれば、煙道火災――煤に含まれるタールが引火し爆発が起きるように、体内を暴走する氣の濁流に経絡が焼かれ引き裂かれ、その破壊が脳に達し、連鎖的に発狂する可能性すらある。 ……煙道火災の予防策は、いくつかあるが、その中の一つに、“薪を常に高温度で燃やす”というものがある。 低温燃焼はタールを余分に出しやすい。 それは真剣味を出せない立合いばかり断続的に繰り返す百代の状態に、そのまま当て嵌める事ができる。 無理矢理の自我抑制、その拙劣さを補うべく、というのが、百代の現状を知る誰もが口を酸っぱくしてその必要性を説く“精神修行”の主目的であるわけだが、一向に百代は、その鍛錬に進んで価値を見出し、行おうと考えもしないらしい。 ……相応の心得を欠いたまま、自らの経絡を抑圧することは、常人が自ら不整脈を患わんとすることと同義の苦行の筈だった。 気分は荒涼する一方で、そのままで良いことなど一つもありはしない。 いずれ本能にり殺されるのは明らかだ。 何故、内面を鍛えることを厭うのか。 それは価値を見出せないから。 それは自らを越えうる強者からの助言ではなかったから。 他ならぬ川神百代わたしが、それをするだけの価値があると証明されていないから。 そんなところだろうと、揚羽は推察する。 ゆえに、格下あるいは同輩に足元を掬われる、という経験をしない限り、自分に足りないものを自覚する百代の端緒は解かれまい。 以上が結論であり、それが揚羽が戦地に立つ理由だった。 何を恥じることもない、真実の友情にのっとった、教育的指導である。 二月ほど前から、このために連れの小十郎を叱咤しスケジュールを切り詰め、週に一度は紋白からヒュームを借り受け手合わせを挑み、肉体の衰えを消し去るべく精進してきた。 奇妙だったのは、同輩同年代との切磋琢磨を常に推奨する師が、この件ばかりは嫌に消極的だった点だ。 表立って反対こそしないものの、幼少からの付き合いである。 話を持ち掛けた際の表情はまるで、それはお前の役割ではないと言わんばかりだった。 ――――百代が危険な状態にあるということはさて置いて、この川神大戦が、様々な思惑の下で開かれているのは、直江に参戦の旨を伝えた頃からわかっていたことだ。 十中八九、百代に片恋慕しているという英雄の友人、英雄の命の恩人の息子だという、九鬼家と縁浅からぬ者の事情が関わったりしているのだろうなと見当をつけながらも、あえてそのあたりをヒュームにも、ましてや実弟にも突っ込んで訊きはしなかった。 そういう時間的余裕が取れなかったこともあるが、なにより、たまに実家で擦れ違う英雄の顔貌が、このところ、より精悍なものに変わってきていて、尋ねるのも野暮なことなのだろうと、考えを改めたのである。 


――――だがいずれにせよ、師よ。 悪いが、この戦いに懸けて、我は誰に遅れを取るわけにもゆかぬ。 恐らく、先に百代の手綱を握っていたのは、我であるゆえ。









地に両掌を引っ付けると、折り曲げた肘をバネにして、最小限の勁力で手早く直立状態に戻ったのは橘天衣だった。

彼女の参戦理由は、過剰に取ってしまった有給休暇の消化を兼ねた暇潰しであり、つまりは物見遊山と言って差し支えないものだ。 

かの橘平蔵の血縁に当たり、最速のスピードクィーンとして、かつて武林でその名を馳せた彼女は、特に西においては最強の呼び声高く、四天の玉座を賜るにも誰もが頷くことができた、生粋のインファイターであった。 ……彼女にとって不幸だったのは、悲劇的なまでの“間の悪さ”、その一点に尽きると言える。 百年に一人と言われた才能も、同時代に千年に一人の逸材が現れれば、いずれ手合わせの機会が転がってくるのも当然であり、噂に違わないその九百年分の実力差が、白日の下に晒されることも、また順当と言えた。 彼女の勇名の凋落は、ここから始まる。 百代に敗北した事実が人口に膾炙され続ける状況を、天衣がいつまでも甘受できる筈はなかった。 天衣とて一角の武人、一角の境地に立つべくして生まれた闘士である。 相応の誇りがあり、沽券もあった。 敗北から一夜明けて、いつの日かの捲土重来を誓い、日本各地の霊峰を駆けずり回り、内気を高めに高める日々が幕を開けた。 肉体のスペックは、そうは変わらない。 気功派拳士としての技量の差が勝敗を分けた。 そう分析し内省した彼女は、兎にも角にも五体に巡る氣の充足を狙い、また、掌勢に練氣を孕ませる術を磨きに磨く。 考えてみれば、当然の理だった。 そも、人の筋骨は虎とも象とも違う。 いかに鍛錬を重ねても、肉体にはおのずと限界がある。 “壁”を越え、その中でも上澄みの者同士の戦闘においては、いっそう滑らかな吐氣吸氣にこそ活路があったのだ。 そんななか、武者修行の最中、何の因果か北陸の剣士に行き当たったのである。 自らの弱点を自覚し、補いながらにして……また、負ける。 二歳も年下に。 それはもう、完膚なきまでに。 ……余談になるが、“氣を裂く”ことは黛一派の専売特許である。 そのところ不得意な練氣に執心する日々を送り、由紀江との一騎撃ちの中でも、つい先日会得したばかりの、些か拙い内功による“遠当て”をよすがにした点は否めず、相手は、それを斬り伏せることにかけては一家言を持つ者だった。 先の会話で九鬼揚羽が言及した通り、相性という点もあるが、それも経験の差で埋まる程度のもので、皮肉なことに、“百代に当たる前の天衣”ならば、発勁の質の善し悪しよりも単純な速力に重きを置いていた時代の彼女ならば もしかしたら白星を掴み得たかもしれなかった。 あるいは、決闘が一年先、ある程度の鍛錬を修め終えた後であったならば、“迅”と“勁”の真の合一を果たした後であったならば、その結果は現実と違ったことだろう。 ただひたすらに、間が悪かったのである。 敗因は、またしてもそういう所だった。 ――――が、そういう冷静な分析も立ち行かなくなるほどに、橘天衣の心神は、この敗北でひどく傷ついた。 何がいけなかったのか、何が足りないのか、速さ即ちエネルギー、その信念を揺るがしてしまったからか、しかし、それでも勝てなかったから、なりふり構わずこうして。 でも。 何故。 でも。 なんで。 絶対勝てると思ったのに。 …………さてにも、立会人を務めた黛大成は、物言いは控えめながら、きっちりと愛娘の勝利を喧伝したようで、ほどなく川神院から四天王称号剥奪の触れが彼女の元に届く。 そうして、雨に濡れそぼる老いたロバのような心地で、それに似つかわしいみすぼらしい風体のまま、恐る恐ると地元に帰ってみれば、自分の無様など、哂われるどころかちまたの話題に昇る事すらなく、もっぱら市井を賑わせていたのは、松永燕という一人の娘だった。 何のことはない。 納豆小町などという、わけのわからぬ色物が、これまた新たな四天王として、ちゃっかり自分に取って代わって台頭していた始末だった。 ついに自分の朝餉にまで進出してきた松永納豆のパッケージを見るや否や、もはや耐え切れなくなった彼女は、現実から逃げるようにして、おかみの誘致を受け、国防の任に就くことを承諾した。 一も二もなく、半ば捨て鉢に選択した職場は、幸か不幸か、そんな彼女ひとりのコンプレックスに頓着することなどない、修羅場だった。 ……色々と辛いこともあるけれども、色々と“汚れる”こともあるけれども、階級相応に給料も良いし、面倒見の良い部下にも恵まれて、今の麻王政権もそれなりに心を配ってくれるし、以前よりは格段に充実した日々を送っている。 なにが武道だ、なにが気功波だ、そんなものは私とサキの銃剣術を破ってからほざけ、と喝破できるようになるくらいには内心を持ち直し、新たな矜持を見出した頃。 男が独り、訪ねて来た。 釈迦堂刑部、もとは川神流に籍を置き、百代の指南役に抜擢されながらも、育成方針の相違から、同じ位にいた者との決闘で敗れ、破門を申し付けられた男。 腐っても鯛、そのキャリアはキャリアである。 その後は内閣情報調査室に配属し、短期間、外事部の間諜として腕を鳴らしたらしい。 国家の暗部秘部を背後に回して見えざる外敵と戦う、同じ宮仕えの身だった。 その武勇伝紛いの噂は、天衣の耳にも入っていた。 類稀なる隠形術を駆使して、常時厳戒態勢にある隊内の食堂に潜り込み、何食わぬ顔で十勝豚焼肉丼大盛りに舌鼓を打っていた者を、異物として“初めて認識できた”天衣に、釈迦堂は酷薄に歪んだ笑みを張り付かせて、矢車直斗という男の存在、過去、目的を、爪楊枝を歯間に引っ掛けながら小一時間喋くり倒し、癪な話ではあるが、その口車にまんまと乗せられて、今に至る次第だった。 …………猿山の猿を見に行くような気分で会合を果たし、稽古をつけ終わった今も、矢車直斗に対する天衣の認識は変わらない。 目的のためならば、自分は進んで捻くれようとしながら、直情こそ至高と言って憚らず、その都度の矛盾と不整合に、その都度にうんうん唸って、牛の反芻のように繰り返し悩んで、自縄自縛に陥る。 どうにもこうにも開き直れぬ半端者。 常に両価感情アンビバレンスを抱えながら、独り善がりに苦しもうと被虐する、愚かな偽善者だ。 ――――だが、そういう者こそ、この時代に必要である事も、天衣は軍人として直感しているし、それだけの経験を彼女は積んできた。 たとえ、自身の行いに正義が無いと知っていても、たとえ自身の大切な人に恨まれようとも、あらゆる思想と感情を度外視し、冷徹に自らの役割を果たす事が出来ないならば、軍人を名乗る資格はない。 そういう職に就いているからこそ、世の中には、あの男のような馬鹿が必要なのだということを、天衣は知っていた。 ……そして、どんな馬鹿にも共通する恐ろしいところは、多くのものを失うくせに、その大事な一握りだけは、決して取り零さないことである。 その一握りのなかに、今、天衣たちが対峙している女が入っている。 この女の打倒をあの、未だ“壁”の内側にいる白髪頭は祈願している。 そんなことが起きれば、なんと痛快なことだろうか。 …………限りなく実現性の低い想像を苦笑いで頭の隅に追いやりながら、彼女は、武神の眼前に佇立する。 直江大和なるものに自分を売り込んだ理由は、今夏、手ずからしごき上げた男の集大成を、最後に間近で見物する目的もあったが、どんな過程であれ、初めて百代が地に伏す瞬間を見たいから、という内なる願望もあったからに他ならない。 四天王中唯一、朱雀軍の中でただ一人、矢車直斗の因縁を余すところなく全て了解している天衣は、それゆえに複雑な心境に在りながら、自らの闘争心を敢えて抑えはせず、昂ぶらせる一方だった。 こちらとて、負けは許されない。 三人懸かりである。 大将の命とはいえ、単純も過ぎる卑劣な戦法を仕掛けておいて、勝利以外の結果を迎えてなるものか。 

――――どうあれ。 自身が思い描いたそれ以外の結末が、どうしても許せないのなら。 さっさと雑魚を蹴散らし片付けて、死に物狂いで馳せて来い、馬鹿者なおと









両膝を懐に招き寄せると、すかさずの後方回転で距離を稼ぎながら、受け万全の姿勢を立て直したのは松永燕だった。

彼女の参戦理由は、川神百代という女の実力を見究みきわめることにあった。 

依頼主たる九鬼紋白の、“おねえちゃんのかたきうち”的な、年齢相応の稚気めく恣意も含まれこそすれ、その勝利によって名を挙げ、世に松永の家名を再び知らしめるために、いずれは然るべき時、然るべき所にて“依頼”を遂行しなければならない。 学園に転入し、首尾よく任務を遂行した後、一層重点的に継続して受けられるという九鬼のバックアップも勘案すれば、それは絶対に成し遂げねばならない悲願だった。 そんな状況にある彼女にとって、直江大和からの申し出は渡りに船。 松永燕は、京都以西では無敗を誇っている。 しかし、その事実には絶えず“公式には”という、なんともキナ臭い文言が付く。 彼女は“壁”の向こう側に居ながら、生粋のカウンター型である。 事前の情報収集を前提として、徹底的に“理”詰めで戦う、力技で理を捻じ曲げる超越者達の中にあっては異端とされるだろう闘士だった。 少し会話したくらいの直江大和とは、かなり気が合うのでは、と自認するくらいには狡猾であり、卑怯を用いながらそれを恥とするらしい矢車直斗は、きっと自分の物凄く苦手な、面倒くさいタイプの煮え切らない人物だ、と想像するくらいには、犯した卑怯を開き直る大らかさと図々しさも兼ね揃えている。 自前のブランドの納豆を売る傍ら、相手の竜の逆鱗、月桂樹の痣形の類を執拗に突き続けることで、戦国時代から連綿と続く松永家、その御家再興を、延いては速やかなる母親の帰還(=父親の面倒見からの解放)を目論む彼女にとって、倒すべき敵を“知る”ということは、何においても優先しなければならないことだ。 確実に勝てるまで戦わない、という信条が、百代の戦力を分析する機会を欲し、こうして大和との相利共闘が成ったのである。 秘中の秘たる“平蜘蛛”の使用を制限しながら、数ヵ月後の来たるべき百代との一騎撃ちのために、戦局の流れに身を任せる。 それが後にも先にも変わらぬ燕の現況であり、観客席で野球観戦よろしく発泡酒を呷りつつ、持ち込んだ機材によって武神のモニタリングを終始継続することが、彼女の父たる松永久信の役割だった。 別段、このタッグマッチで勝利を志向しているわけではない、ということが、肩を並べて拳を繰り出す二人の先達せんだつとの、最も大きな違いだった。 実際、ここで九鬼揚羽が百代を下し、自分の役目が御免になる可能性も無きにしも非ずだが、その時はその時で、九鬼のバックアップは継続されるよう約定に明記されている。 一方的な契約破棄は九鬼の面子も関わるらしく、アフターケアは万全。 抜かりなくクライアント側に念を押して確認もしてある。 とすればその場合、依頼の期限に拘ることなく、じっくりと勝算を積み、戦略を練ってから百代に挑めるわけである。 いや、別に百代に執着せずとも、その時々の世間が注目する“旬”の武道家を、九鬼の支援を受けながら“狩る”ことが可能となるのだ。 であればこの戦い、偵察目的を第一に、手を抜きこそすれ、九鬼揚羽と橘天衣の両名への援護を厭う理由は、全く無い。 打刀、太刀、小太刀、刺刀さすが、朴刀、柳葉刀、胡蝶刀、大薙刀、手裏剣、苦無、打根、突剣レイピア、短槍、長柄、管槍、大身槍、小弓、大弓、石弓、連弩、十手、六尺棒、旋棍トンファー、二節棍、三節棍、多節鞭、鎖分銅、戦鎚ウォーハンマー戦斧バトルアックス投斧フランキスカ戦棍メイス、鉄扇、方天戟、狼牙棒、鶏爪鉞けいそうえつ護手鉤ごしゅこうetc……無理を言って学園の生徒達に頼み、事前に戦地に散らせたこれら得物の数々を、ただのお飾りで終わらせるつもりは毛頭無いのである。 この国が未だ大和と号されていた、太古の時代より伝わる武芸十八般。 その格式に縛られず留まらず、和洋折衷プラス中華な換骨奪胎の奇襲戦法、多彩な武器で以って翻弄する立ち回りは、平蜘蛛の完成以前に最も得意としていたもので、つまり燕は今、全力ならずも真剣マジだった。

――――さてさて。 私としては、このままイイ感じに調子乗せといて、油断させときたいんだけど。 ……全く無策のガチンコで、どこまでやれるか、試してみるのも一興かな?









「……ふふ、そうか、そうか。 ……ハハハハハッ、笑いが止まらん♪」



束ねられた、沸き立つ荒海の如き覇気。

それに、たった一人で対峙する川神百代は、だが微塵も狼狽を見せることなく、ただ泰然と、ただ堂々と立ちはだかる。

人呼んで、武神。 齢、僅か二十にも満たずして、その破格の称号を賜るに何の疑念の余地すら残さぬ佇まいであった。

ただの一身にして、その屹立は、天険たる孤峰を連想させる圧倒的存在感を醸す。

一部の隙のない中で、しかし挙措はあくまでしなやかで緩い。

享楽の余韻を隠すこともなく、夢見心地で彷徨わせる視線は、獅子の舌舐め擦りや、とぐろを巻く蛇のような、油断ならないものを窺わす。

赤く濁り始めた鳶色の眼に映された風景は、既に人外魔境の色にあった。



「この、大和からのサプライズプレゼントも乙なものだが。 いやはや、ようやく、院の同輩から、喰うに値する者が現れたと、そういうことだな?」



…………たとえば、矢車直斗という男が存在しない時空がある。

其処に並列するのは、直江大和が、各々特定の女性と交わり結ばれる世界の数々。

全くの対等となった川神百代と、永久とわに並び立つ世界がある。 負の想念を晴らし終えた椎名京と、いっそう親密に睦言を交わし続ける世界がある。 夢破れた川神一子と、苦悩の末に新たに見出したしるべを、共に目指そうとする世界がある。 狭窄した視野を広げたクリスティアーネ=フリードリヒと、互いの欠点を互いで補い合ってゆく世界がある。 松風と別れを告げた黛由紀江と、大切な場所で大切な仲間と大切な時間を過ごしてゆく世界がある。 あるいは、松永燕と。 九鬼紋白と。 マルギッテ=エーベルバッハと。 板垣辰子と。 不死川心と。 はたまた――――――と。

それら結末の善し悪しを、此処で語るつもりはない。 

そのどれもが美しく、若さというものが存分に煌く物語だが、論点は其処ではない。

大和の選択した道程。 そのどの派生においてでも、大方共通していることは、大抵は同じ時期に、川神百代が何かしらの形で、抑えつけられていた全能総力を解放し、調整を施され、心神の成長というべきものが図られることにある。 

今このときと同じように、丹沢の山中での取っ組み合いで全力を出し切り、しかし夢中になる余り勝敗条件を履き違えて足を掬われ、舎弟に諌められたこともあれば、傷心から家を飛び出した妹を探すために日本中を奔走し、果てに自制と自省を学び知ったこともある。 軍の司令部に殴り込みを掛け、戦車の正面装甲に大穴を穿ったこともあれば、辛抱堪らず抑えかねた欲望のまま舎弟に襲い掛かり、因果応報とばかりにすんでの所で返り討ちにあったこともあり、秘境・崑崙の丘における修験で、理性と本能の均衡を取り戻したこともあり、橘天衣との死闘の末、国会議事堂の天辺から、渾身の飯綱落としを仕掛けたこともあり、……つまり彼女の人生のターニングポイントは、大和の選択如何に関わらず、2009年の中頃に、必ず起こるのである。 

この、直江大和が矢車直斗と戦う運命にある世界でもまた、その極点にさしかかろうとしていた。

……先に、なんとも破天荒な例を挙げたが。 言い換えれば、矢車直斗が存在しなかった場合、その程度で●●●●●、済んだわけである。

現川神院総代が過去、直斗に用いた“龍封穴”なる八卦の拘束術。

それに端を発する隠居同然の七年の間、川神鉄心は川神百代と武を競うことはなかった。

その不完全燃焼の分だけ、些かならず、この局面での彼女の危険度は、格段に跳ね上がっていた。

奇門遁甲、それも真伝の流れを汲むくだんの呪術は、流派随一の頑強さを保証するゆえに、術者自身にも深々とその爪痕を遺した。 無間地獄の如き狂奔の渦中から、矢車直斗を正気に引き上げ、雁字搦めに縛り上げるべくして誂えた“見えざる鎖”に対して、鉄心が支払った代価は、三陰三陽十二経、全身六百五十七箇所中、五百二十余もの経穴の麻痺。 術後、五体を巡る内勁は、以前の一割にも満たず届かず。 申し訳程度に残ったそんな体躯で、己が孫ながら才気煥発はなはだしい女の、更なる爛熟を導くことなど、どうしてできようものか。 

力及ばずとも、要領よく孫をあしらえる釈迦堂は、間もなくして出奔。 ルーでは、控えめに言っても力不足。 自然、百代の練磨は外部の道場破りの類に任せることになる。

コテンパンに伸されるという経験は積めずとも、井の中の蛙なんとやら、という意識がはぐくめるなら御の字であったが、

「この三人を相手にした後とあっては、少し薄味かもしれんが、そのほうが食後の甘味としては丁度いいか。 ……久しぶりの御馳走とみたッ!」

……そんな言葉が平然と吐かれる現在である。

対峙する三人の背負うべきリスクは、矢車直斗が始末をつける上で受け入れなければならないリスクは、あまりに荷が勝ちすぎていて。

故に、直斗の抱く希望は、あまりに儚かった。









「……――――京、そろそろ仕掛ける。 このまま持久戦も良いけど、やっぱり向こう側の“三時間”って奴が気になる。 疲れるだろうけど、ここで畳み掛けたい。 本当は初手の一斉射で少しでも楽にしたかったんだけど。 頼めるか?」

(承知。 気力は十分。 今まで休んでたから、頑張らないとね)

「――合図したら頼む。 モロ、隊長格にはメールしたけど、一応、伝令に壁の外を一周させて」

「オッケー。 ……クリスたちには、何か言わなくていいの?」

「あっちの戦況は?」

「変わらず。 過半数は脱落したみたいだけど、残りをなかなか捕捉できないみたい。 目算じゃ四十人くらい。 流石の白の隊も、アンブッシュを警戒して二の足踏んでるし」

「うん。 釣り野伏せができる人数も残ってないだろうから、そんなに慎重にいかなくてもいいとは思うけど。 九鬼のメイドの遣り口を心得てるらしいマルさんは、また違う判断なんだろうな。 ……キャップとガクト――黒の隊は?」

「審判側に、縄を打った人たちの引渡し中。 最後に連絡受けて十分は経ってるから、もう戦線に復帰できるんじゃないかな」

「そうか。 ……じゃあ、一旦敵陣中部に黒と白集めて、黒はその場で待機。 白はもう一度、隊形を組み直して、一列横隊で北方を徹底検索。 部隊損害とか、もう考えないで。 多少無茶してもらって構わないから、一気に残党を燻り出そう」

「こっちに戻さないの? そろそろ勝負決めるんでしょ?」

「確かに、後詰めの役はいくらあってもいい。 本当は欲しいし、そうしたいのは山々だけど。 ……こっちの現場見たら、クリスが色々とうるさく言いそうだ。 情にほだされて、面倒なことを口に出して、状況を掻き回しそうで。 あいつを九鬼陣営に回したのは、そういう理由もある」

「それは薄々は感じてたよ。 そっか……合流したら確かに、なにか嫌なイレギュラーが起きる展開にしちゃいそうだ」

「それに白のクリアリングだって、牽制役として必要不可欠だ。 敵に動きがなければ、それもそれで善しだが、まあ九鬼の性格から考えて、いつまでも雌伏の時を過ごせるほど、暢気でもないだろ。 ……白の隊列を突破されたら、休ませた黒で対応。 ゲリラがどこから沸いて出て来ても、中央に基点を置いてれば、黒の隊の機動力でカバーできる。 敵さんの“策”ってのは、あいつの言葉を鵜呑みにすれば、S組のメンツがいなきゃどうにもできないものらしいし。 こっちの構えはこれで十分だろう」

「向こうの四十人も、獲りにいくつもり?」

「当然。 初めから完勝狙いだよ、俺は」















<手には鈍ら-Nmakura- 第四十五話:手足>













まさしく一億一心、火の玉の如くだった。

用兵術においては、まず指示を確実に、一糸の乱れなく完全に履行できることが、その効果を上げるための最低条件である。

直江大和が考案した、この奇怪な組演舞のような戦術が、ぶっつけ本番で機能する筈がない。 数をかさに攻めかかるという戦法を一つ取ってみても、見た目は単純と思われて、その実、非常に難しいものだ。 一方向への突撃であれば、それほどの難は無いのだが、包み囲んだ後からの攻勢というものには、同士討ちの危険がある。 集団戦では、阿吽の呼吸というものを培わなくてはならない部分が、必ず出てくる。

そういうことを大和は理解していた。 対策を立てない訳が無かった。

つまり今、矢車直斗と得物を交わす者たちは、同じ状況下で、幾度も幾度も黛由紀江●●●●と対する、という経験を積んだ者たちであり、現局面の予行演習は既に済んでいた。

必定、由紀江の並外れた技量と、あえてひけらかさずにいた武道四天王の称号は、戦前に誰もが知るところとなり、特別プレミアムで在り続けることに矜持を抱き、それが驕慢に成りかけていた、とある一人の女子生徒が、それまでの身の程知らずな言動や態度を省みて、強烈な自己嫌悪の灸を据えられる事態となったわけだが……、ともかく。

総勢五百人に上る、主に多馬川近郊の武家の毛並みとして腕に覚えのある者たちが、その演習で由紀江を打倒できた試しは、ついぞ無かったのだが、一部の生徒達は確かに、ここで予感し始めたのである。

“今、この相手ならば――。”……と。




「―――――――――――――――――ッ!!!!」




荒波に翻弄される小舟の如く。

歯を食いしばったまま、音無き気合いの喚声を上げながら、曇天の粘つく大気の中をたった一人で藻掻き続ける男は、確かに尋常ならざる剣の遣い手ではあった。

脱落者によって包囲の輪の綻びが表れたのも、一度や二度では済まなかった。 しかし順次に、壁外から補充要員が際限なく投入され、間髪を入れずに彼らが落伍者に取って代わってゆく。 のみならず、自らの動きが精彩を欠き始めた自覚が沸いたなら、磨耗した機械の歯車が、独りでに交換されるように、おのずから楚々として輪から抜け出し、速やかに体力の回復を図る要領の良さが、朱雀兵の全員に備わっていた。

由紀江との一騎打ち以降、直斗が仕留めて退場せしめた人数はようやく、五十に乗るか乗るまいか、というところ。 そして、直斗の動きに慣れ始めたせいか、ここ十数分間の朱雀側の損害は皆無だった。

事実、竜巻の如くだった腿力と、振りかざされる刃速に、若干以上の衰えが見え始めていて、――――何より明らかに、体の捌き方は、由紀江より数段、劣っている。





「―――――かッ!?」





機は、唐突に訪れた。

後の展開を先回りして考えれば、矢車直斗個人の勝負の趨勢は、ここで定まったといってよい。

果たして、どの剣がどの槍が、ついに“渦潮”を穿ち抜き、確たる手応えを仕手に伝えただろうか。

十を超える追撃が先を争うように続き、ぐらつく足元の均衡を必死に保ちながら、それに応戦する構えを何とか間に合わせたところで、



――――――襲い来る、魔弾。



曇天の下、ただでさえ視野が暗く狭窄する包囲網の中では、何人であれ視認できなかったろう。 射手の自負にかけて、そう言えるだけ神速の、のみならず周到な連続狙撃である。

東の山中高部から滑空し、窮屈きわまる味方の合間を当たり前のように縫いに縫い、限りなく鋭角に来襲してきた八本の矢箭は、直斗の現在位置のみならず、予想しうる回避先の未来位置まで余さず標的に捉えていた。 

弓篭手の中に奔った、会心の一撃を放った際にのみ感じられる、右手甲の軽度の痺れに、仕損じることはまず無かろうと椎名京は確信し、事実それは正しかった。 

視認は不可能でも、直斗に察知は可能だった。 飛び道具を主武装とし、胸にダイヤのレンジャー徽章を輝かす二人の自衛隊員。 そのうちの片方は、かつて四天王の一角として名を馳せた猛者。 ……彼女らを相手に直近の一ヶ月を過ごし、そこで培われた無意無想の防禦本能は伊達ではない。 

しかし、山の獣並みのそれを総動員させても、対する反応はまるで間に合わなかった。 脇腹に通った迅疾なる刺突の痛みに耐えながら、生じた無防備を逃すまいと、むしゃぶりつくように次手三手が打ちかかってくる中では、即時の終戦を告げんと側頭部を狙った弾道のみを、鞘で遮るくらいしか、残された方策は無かった。



「ぐぁっ……!?」



奔る苦悶。

当然、鞘が本来受け、滑らせる筈だった四つの衝撃はそのまま背と左腕に直撃し、加え、両肩合わせて三箇所に合成樹脂の矢尻を受ける。 被弾の残機は、一気に二つに減った。

つんのめって地面に投げ出されかけ、すんでのところで持ち堪えた直斗を、更なる弾幕の応酬が待ち受ける。 全速力で壁の内縁部へと撤収し始めた朱雀軍の白兵要員たちは、椎名京という女の仮借なさを、元より心得ていたのだろう。

際限なく連鎖する暴力衝動の波濤を浴びて、戦場に昂ぶる人間の本能。 その動物的な熱気が渦巻く中で、安易な追い討ちを留まらせるほどの強力な主従関係の構築、“群体”としての優位を保ち続ける朱雀軍自体の精強さ、それを己の手足と同様に自在に指揮する軍師の手腕に対し、舌を打つ暇も巻く暇も、今の直斗には許されない。

弾道を阻む遮蔽物が粗方排除されつつあるこのとき、ただ一人、水田の案山子よろしく平原に棒立ちする直斗は、彼女にとって俎板まないたの鯉にも等しかった。 決して短くはない距離を隔てて、味方側の高地に陣取る彼女に、なにかしらの危機が及ぶべくも無い。 獲物は一匹。 下草も身を隠すには低すぎる。 そこへ、“弓の椎名”という流派の二つ名に違わぬ実力を発揮するに、些かの障害も無かった。

初速と射角をそれぞれ四段階に変えながら十六本、黒色カーボンの近的矢を瞬く間も無く射出し、その弾道の合間にアルミシャフトの遠的矢を一本差し挟む。

椎名流弓術が一芸、『迷い鳩』――――遠的矢が描く、稲妻形に屈曲し続ける軌道は、ひとえに矢羽に施した先祖伝来の切り細工の賜物だ。

互いを追い抜き、くねり交錯し、あるいは反発して跳弾を生みながら、全弾が揺れに揺れ、絡み合うようにして襲い掛かる矢の瀑布。

真贋虚実が入り乱れたその弾道は、見切ろうと注視すればするほどに、逆に幻惑されて対処を誤らす。

矢避けの盾代わりだった大番傘は、いくぶん前に用を為さなくなり、直斗はそれを破棄した後だった。

痺れが抜け切らない左上腕部。 この瞬間は使えない。 握られた黒鞘は矢の足に追いつかない。

既に直斗の動きはまつられていた。 

進退、ここに窮まれり、、、なれど――。

風を巻いて接近する殺気の礫、その照準点を瞬間で精査し、くたびれ始めた我が身を叱咤して、直斗は半身の態勢をとる。

もはや矢払いの心得の有無になど、頓着してはいられない。 今、出来ねば終わる、やらねば殺られる、ただそれだけだ。

恃みとするは片腕一本。 水面から若鮎が跳ね上がるように、右下段から振り上げた刃の白が、猛然と迫る矢先の吸盤を迎え撃つ。 

七度響いた剣戟音。 九度地を鳴らした着弾音。 そうして、またしても対処が追いつかなかった大本命の一矢が、男の脚部に直撃する。

鞭で撃たれるのと大差ない激痛が、背骨まで一気に這い上がる。

しかし、人並み外れた訓練を積んだ動体視力で軌道を見極めた時点で、それは予測できた結果だった。 一旦そうと決まれば、それ以上何の未練も残さず、直斗は予定調和とばかりに従容と膝を折り、被弾の勢いを上乗せして、真横に全身を転がし続ける。

これだけ精妙な射撃の後となれば、という仮定。 過大な集中力を要した反動で、直後の照準の意識は散漫に陥るだろう、という予測。

迎撃を開始する以前、弾道の見切りが完了したと同時に諸情報を統合し、反射的に適切な予断ができた精神が、直斗の首の皮一枚を繋いでいた。

同様の修羅場に慣れた者ならではの、思い切りの良さが功を奏した格好で、続く二の矢、三の矢から逃れ、ようやく天下五弓の執拗な捕捉から脱したかとみられたが。



「……ッぁ……!?」



その瞠目もむべなるかな。

予断も過ぎれば油断となる。

いいように追い立てられた先には、“十字火線クロスファイア”――――矢場弓子率いる弓道部の面々が待ち構えるキルゾーンが敷かれていた。

緩く孤を描いて、射手は予め組まれた足場に整列し、壁上からつがえられる矢の、圧倒的物量を誇示されて。

脳内麻薬が切れ始め、青黒く鬱血し始めた背中の負傷部位が、過呼吸寸前の息継ぎによって酷使を重ねられた横隔膜が、過去最高の痛みを訴えて。

悪い方へ悪い方へ、目まぐるしく変遷する苦境に、それでも狼狽はごく僅か。 直斗は迎撃の手に迷わず、立ち上がる挙動を遅めはしなかった。

背に腹は代えられない。 もはやそんな瀬戸際の言葉さえ胸中に吐き出しながら、右頬の内を噛み切って、更なるアドレナリンの噴出を促した。

あらゆる不測の事態が勝負の趨勢を乱しても、そこで惑わされれば即ち出遅れる。 

不動であれ。 不惑であれ。 

他ならぬ自分自身が見出した、戦いの鉄則の一つである。 それは皮肉にも、清く正しい武士道の、ごく一般的な在り方でもあった。

数こそ先ほどの生徒全員による一斉射に及ばないものの、仕手全員が国体選手並みの玄人である。 矢の威力はもちろん、追尾性も折り紙つきだ。

落雷直前の帯電のように辺りに張り詰めた猛気が、巧妙にも僅かな時間差をつけて放たれるのを前に、しかし直斗の奮迅はここで魔性の冴えを魅せた。

矢は五撃被れば即退場。 それがこの戦いの規約である。 急速に接近する牙無き鋒矢の群れ。 もう一発の被弾も許されない。 

左腕の痺れは、取れている。



――――凌ぎ切れッ



叱責半分懇願半分。 滲む不安の心地に歯噛みしながら、超高速の土竜叩きを開始する。

吸盤型の矢尻は大きく、見た目ほど迎撃に苦労は無いが、如何せん数が数。 

弾着によって二つの得物に伝播する、暴れ馬のように荒れ狂う反動。 その制御も、極限の集中力を直斗に課していた。

総勢二十六名の弓道部部員。 

前回の掃射後に回収された矢箭のうち、直斗の足踏みによる破壊を免れ、且つ再利用できたものは百五十本余り。

勿論、一人一射限りで終わる筈はない。

足踏み、胴作り、弓構え、打起こし、引分け、会、離れ、残心――――個々の裁量で次々と重ね掛けられる、鮮やかなる射法八節。

その制圧射撃を、



「――――しゃぁッ!!」



躱し、欺き、往なし、打ち落とし。 躱し、欺き、往なし、打ち落とし。

臆病剣松風もかくやの防ぎ様。 最後に仕込まれた怒涛の八連射を、乗り切って。 

利き方でないほうの握力は耐え切れず、黒鞘は掌から滑り落ちたが、どうにか最大の死地を脱して。














――――川神流・薙刀奥義 



アギトォオオオッ!!!!!」



仔虎の牙が、背後から、その不覚をがぶりと喰い千切る。

















「難しいことは知らねーが、こんな大勢の赤の他人を巻き込んだ戦争なんざ、絶対間違ってるに決まってんだろ!? 俺は大和を信じる! 考えるのは大和の仕事だし、ダチだからな。 だから俺は、迷わねえッ、諦めねえッ! 後悔もしねえッ!!」



風間翔一という男の本質は、まさしくこの啖呵の中に全て詰まっている。 自他共に、誰もがそう断言できるほど、真っ直ぐな、ただただ真っ直ぐな心根である。 純心、無垢、透明、無邪気。 それらが凝縮されて出来たような人間だった。

しかし、虚心や謙虚という言葉は似合わない。 目立ちたがり屋の性分は生来のものだし、だからこそ、恋愛に関する感性は別として、自己意識は常に高い。 一般から観た自分の特異性に酔う節があった。

そういう意味では、恐れ気も無く風間ファミリーに挑戦状を叩きつけてきた矢車直斗の大胆さを羨ましく思う部分が翔一にはあった。 

一を以って十を制す。 小勢で多勢に挑む浪漫。 最弱から最強に至る過程。 小さく弱き剣を抱き、大きく強き壁を破る。 ……誰もがそういう夢を見て、ほとんどが夢のままで終えてしまう、そういう迫力満点の冒険に魅力を感じるのは、彼が内面の一角に、誰もが何処かで失くしてしまう童心を保ち続けているからだ。

しかし、暢気に翔一がそう思えるのは、直斗によって大和が負わされた怪我が大したものでなかったせいもあった。 いくら気分屋であっても、ファミリーこそが彼の優先順位の至上に位置し、そのファミリーの危機には何を差し置いても動かずにはいられない。 なぜなら彼は“キャップ”だから。 其処にあるのは、彼の●●、風間ファミリーだから。 誰にも、百代に片腕を折られても、頑として決して明け渡すことを善しとしなかった、統べる者の座。 風間翔一の世界の中心。 

リーダーとしてのアイデンティティーが集約する場。 そこを脅かす者に、なにがどうあれ、容赦の二文字が翔一の頭を過ぎることはない。

加えて――、



「前々から、お前とは合わないと思ってたが、やっぱ俺の勘は外れねーなッ!」

「フハハハ、そうでもない。 ……“お前とは合わない”という部分だけは、我も意を同じくするからなッ!」



共通する不退転の決意。 

それを確認した後、なんのけれんもなく翔一は押し迫る敵正面に踊りかかった。



「サシで勝負だバッキャロー!!」



大和の予測通り、白の隊の包囲網を、一箇所への戦力集中で、厚紙の一点を錐で穿つようにして突破してきた玄武軍の残党である。 誰もが湿った腐葉土に塗れながら、薄暗い山中を駆け回り、疲労も困憊だろう彼らに、黒の隊は側面から最後の突撃を仕掛け始めたところだった。



「我から離れるなッ、冬馬! ハゲ、ユキ、周囲を警戒せよ! 援護は任せた! ――こやつは、我、手ずからッ」

「……言われずとも」

「アイアイサー♪」



他ならぬ親友を守り抜けと、玄武軍大将から拝された英雄である。

額に小皺を寄せながら、直斗の言う“秘密兵器”とやらに全く心当たりが無いとする冬馬が、だんまりを決め込んでいるのは、直斗の狙いが判ったからか、判らずにいて不安であるからか、それとも、この長い全力疾走に消耗していて、単に口を動かす余裕が無いだけか。

いずれにせよ英雄にとって、直斗の意図が判らずとも、指示に従わない道理は無かった。 玄武軍の活路はそこにしかなかった。

あらゆる方位から打ちかかってくる敵手も、朧げながらそれを理解しているのだろう。 純粋な戦力として際立っている骨法部・南条虎子、従者・忍足あずみらをまともに相手にする者は少なく、対照的に、九鬼英雄、葵冬馬両名へ放たれる刺客の数はその比でなかった。

常時の警戒態勢に挙動が束縛されるのも致し方なく、他ならぬ風間翔一達の速攻を前に、受け後手に回ることを余儀なくされる英雄だった。



「いけません、英雄様ッ、早くお逃げを…………さッ、せねーよッ!!」



鍔迫り合ったところで、こちらは何ら得るものは無い。 ここは何より逃げの一手に尽くすべき。 充溢する戦気に酔い、それに身を流すべき局面ではない。 進軍の目的は“大将との合流”以外に無い。 足止め役に頓着すべきではない。

肉薄する幾多の攻めを煙に巻き続け、残党の誰よりも働きながら、誰よりも努めて冷静怜悧な軍人的思考を保っていた忍足あずみは、殿しんがりを引き受けるべく、主の御前に退き戻る。



「目鼻をッ」

「――ッ、うむ!」



阿吽の呼吸で主従の意思疎通が図られると、油紙で包装された芍薬類が地に叩きつけられ、半径八メートルに渡って爆風と共に煙幕が張られる。

瞬刹、その煙霧に紛れ、あずみの脇から抜かれ袖から奔った輝線は幾筋か。 

目晦ましと同時に。 両手の指間に主武装たる小太刀を挟みながら。

それら器用な芸当が二つ、難なくこなされながら、累計八本の暗器投擲が、翔一の脱落と周囲への牽制を同時に期す。




「しッ! ――――――――ふんッ」




もとより、切り拓いた脱出のきざはしは、あずみのためのものではない。

悪態を孕ませて鼻を鳴らし、その場に留まるクノイチひとり。

翔一に向かった苦無クナイの繚乱は、だがしかし、鮮やかな旋棍の舞に阻まれていた。 

断じて言える。 あずみの投じた苦無の中に、ひとつとして尋常なものはなかった。 生半可な動体視力では見切ることも叶わない、風魔流の秘蹟である。 

それを“面”でなく“線”の防御で受け止めたとなれば、その力量も知れようというものだ。



「一騎打ちに、水を差すものではありません」

「ケッ。 そりゃ、軍人が言う台詞じゃねぇな。 ……フットワークの軽さも、猟犬の由縁だったか。 いい感じに邪魔だぜテメェ」



つい先ほどまでは、どう見積もっても五十メートルは背後に彼女は居た筈だ。 直斗の座標に最短距離ではなく最短時間で向かうべく、最難関の敵手であるマルギッテの索敵範囲を大きく迂回しての行軍だったが、やはり避けては通れない難敵であった。



「サンキュー、マルギッテ!!」

「任しとけってッ! 俺様がパワフルに、纏めて伸して仕留めてくるからよぉ!!」



両脇を擦り抜ける翔一とその腹心たる島津岳人を、あずみは妨害する素振りを見せなかった。 そんな見え見えの隙を、目の前の相手に晒すほど、あずみは愚かではなかった。 煙玉に紛らせ、一時的に風間隊の戦列を突破させたとはいえ、稼げたのはほんの僅か、数十歩分のアドバンテージにすぎない。 明らかな足手纏いにして勝機の鍵ともくされる葵冬馬を抱えたまま、何事も無く、英雄達が人海の檻に封じ込められた直斗のもとに辿りつけるなどという未来は無いだろう。 遠からず追いつかれ、目に見えて更なる窮地に陥る筈だ。 それを自分はどうすることもできないだろう。 猟犬に嗅ぎつけられた時点で、あずみの進退もまた窮まっていた。

幸運だったのは、白の隊なる集団の統率者たるクリスが、いまだに陽動、囮役となってくれた骨法部部長とその手勢に、かかずらってくれていることくらいか。

事此処に至っては、戦地を離れ、腕の切れが鈍りに鈍った女忍に現時点でできることは、瞬きの中で背後の主の武運長久を祈り、そうして瞼を開いた目の前にいる――野郎共をブチ――て盾にしながら、できるだけ多くを道連れにして、できるだけ長くマルギッテをこの場に釘付けにしておくこと、それに尽きていた。



「いいのか? お嬢様のおりをしなくてもよ?」

「……強がりは、そのあたりで止めた方がいい。 我々にとって、こんな戦いは無益だという事ぐらい、貴女なら考えられる筈だ、女王蜂。 私個人に敵意は無く、直江大和や風間ファミリーへの義憤で動いているわけでもない。 矢車直斗の、真意を、私は探りたいだけだ。 今、降伏すれば、……お前が口添えすれば、英雄の方も」

「なぁ。 好奇心は猫をも殺すってんなら、御犬様も少なからず痛い目を見そうだよな?」

「女王蜂、お前は」

「手遅れだ。 もう、その我々●●ってのに、英雄様は入ってない。 業腹ながら、アタイもだ。 ……ネタは挙がってたさ、テメェがコソコソ嗅ぎ回ってんのは。 んで、お前が知りたくて知らない事実を、アタイは知ってる。 任務なんだろ、命令なんだろ? なら、軍人らしく、実力でアタイの口を割らせてみろ。 できるもんならな。 それにな……オイ、嘗めんなよ。 テメェが毎日ケツを拭いてる、頭がスイーツ&スイーツな温室育ちとはな、英雄様は鍛え方が違えんだ、」

「貴様――」

「よぉッ!!」



ついに肩の凝る敬語を完全に放棄して、小太刀二刀を引っさげ、間合いの制圧に入る。

その傍若無人な物言いとは裏腹に、ずいぶん昔に、“女王蜂”は“女王蜂”であることをやめていた。

もう、誰かにかしずかれる必要は無い。 もう、何かの息の根を止めるために、何かを率いる必要は無い。 その責は自分には重すぎた。 生まれながらの適格を持つ者こそが、その者だけが、それを担う権利があるのだと、既にあずみは悟った後だった。

幸運ながら、彼女はその人物を見つけられた。 もとよりその者の手足となるべく生まれたのだと、天啓を受けた後だった。

ひどく迂遠で、掛け値なしに血生臭い半生ではあったが、その代償に見合う、尽くすべき男を、もう彼女は見つけていた。 



昔の自分はそれを“束縛”と呼んで蔑んだだろうが。 今はそれを、何よりの“自由”だと、叫びたい気持ちでいっぱいだった。



















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お待たせしました。 次話もあらかた出来てます。
本当は七月くらいに出来てたんですが、全然状況進んでなくて、次話と時間を空けずにお読みになっていただいたほうが面白いと思いましてこのような遅筆ぶりとなりました次第ですっ……
次話は文章寝かして、最後の見直し済ませて、三日後くらいに上げようと思います。

この間、次話をお読みになる前に、まじこい無印百代ルートの川神大戦とリュウゼツランルートを復習していただければ、よりお楽しみになれるかと申し上げます。

なお、これからは感想板でのレス返しは積極的に行おうと思います。
筆者のモチベアップも兼ねますが、広告の荒らしがヤバイのでさっさと流してしまいたい。 ご協力願います。

ご意見、ご感想、ご批評、ご指南、どれもお待ちしております。 では、次回の更新で。






[25343] 第四十六話:膳立
Name: かぷりこん◆f1242fd1 ID:208cdd63
Date: 2013/08/25 17:18

『エヴァ、ワック、エンリケ、サンドラ、フリッツ、アントニオ、レイシェル、ジョハン、ミラピクス。 ――――必ず……っ、必ず助ける……!!』

―――アドルフ・ラインハルト(漫画「テラフォーマーズ」第三十三話「THUNDER STORM 第五班の雷電」より)


























――難しいことは知らねーが、こんな赤の他人を大勢巻き込んだ戦争なんざ、絶対間違ってるに決まってんだろ!? 

――俺は大和を信じる!! 考えるのは大和の仕事だし、ダチだからな。 だから俺は、迷わねェッ!! 後悔もしねェッ!!





大事なものを一度も失ったこともないような輩が。 女を好くということの本質も意味も知らぬ輩が。 

どれだけ、直斗がこの戦いに心を砕いているか知らぬお前が。

どれだけ、直斗がお前たちを観察してきて、身を切るような痛みに耐えてきたのかを知らぬ、他でもないお前達が。

直斗に対して何をほざく? 何故、そうまで爽やかに、直斗の非のみを謳い上げられるのか?





……ああ、答えは判り切っている。

真実を知らないということは、ときに幸福であり、ときに罪悪でもあるのだと思い知る。

少し前までの自分も実際そうだったのだと、曇りなく爛々と光っていた風間翔一の瞳を眺めて、改めて気づかされた英雄だった。

あの鈍ら刀に篭められた重さも。 装束に縫い付けられた誠の一文字に潜む因縁も。 そのどちらも、この男は知らない。

そして英雄にとっては何より遣る瀬無いことに、直斗に言わせれば、知ってはならない立場にいる一人だった。



――期待を、裏切ってはこないか。



がらんどうのうろを吹き抜ける風のような声は、今も耳に残っていた。

開戦直後、寝返りの姦計を目前にして漏れた、あの虚ろな響きを聴かせてやりたかった。

あのときの、ドライアイスのように冷たく乾いた微笑みを、直視させてやりたかった。

そして、問い質したかった。

“こんな優しい戦争が何処に在るのか”と。

何処に殺意があるというのだ? 何処に心を引き裂くような痛みがあるというのだ? 

傷ついた者は総て、速やかに隔離され慰安され、そうしてただの傍観者となることを許される。

擦り傷ひとつ分の対価で、目の前のアトラクションを無責任に眺められる立場を与えられる。

“その優しさを膳立てしたのは誰か、わかっているのか”と。

そもそも、全存在を懸けて戦っているものは、孤独を気取った、ただ一人だけ●●●●●●だというのに。



本当の戦場を、英雄は知っていた。

爆風で手足をもぎ取られ、壊れたマネキンのように転がっていた彼らを、英雄は知っていた。 

最後まで主の盾として命を全うし、目の前で瞬く間に殉職した従者たちの姿を。 母性に抱かれて嗅いだ、あの焦げた髪の香を。 捨て鉢に命を放り投げかけた己を叱咤した、あの埃だらけの肩を。 一生忘れないと英雄は思う。

……息子は、いま、いつ果てるとも知れぬ闘争に身を置き続けたままだ。



――難しいことは知らねーが、こんな大勢の赤の他人を巻き込んだ戦争なんざ、絶対間違ってるに決まってんだろ!? 

――俺は大和を信じる!! 考えるのは大和の仕事だし、ダチだからな。 だから俺は迷わねェッ!! 後悔もしねェッ!!



それは自分も直斗に対して抱くものと同じと感じながらも、それと全く矛盾する別の感慨が湧き上がってくるのも事実だった。

風間翔一が言ったそういう“割り切り”が、この事態を引き起こしたのではないかと。

自分がやらなくてはならないことに、他人の適不適、自分の得手不得手を持ち込む、その姿勢こそが、この戦いの根源にあり、それを打破するために直斗は戦っているのだと。

苦悩が無いことを、人は苦悩すべきだ。

後悔が無いことを、人は後悔すべきだ。

間違っているという意識を、人は間違わずにいるべきだ。 

そんなふうにも、彼、九鬼英雄は考える。

もう、球児として、アメリカンドリームは掴めない。

“才”はあるのだからと、“覚悟”を二の次にした慢心から、利き肩を失った。 以来、やるかたなく商才を磨くこととなった。

挫折に一度膝を折ってしまえば、人間はどこまでも自分に甘くなることを知った。

矢車夫妻と別れ、直斗に許しを請うまでの自分も、今にして思えば、ただ逃げていただけとよくわかる。 

これだけ辛いのだから、これだけ頑張ってきたのだから、だから楽になってもいいだろう、と。

功と賞、罪と罰、理論と実践、過程と結果、努力と実力。 

それらは対になっていたとしても、関係が深かったとしても、一方の出来が他方の出来と、いつもそのまま比例の関係にあるわけではない。

最小の努力で最大の結果を得る輩もいて、その逆もある。 悲しくも、川神姉妹がその好例だ。 

これだけのことをしたのだから、これだけ自分が悪いと思って謝っているのだから許してください、などというのは、無論大事なことだが、勝手な自己満足である面もある。

……ただひとつ、万人に共通しているのは、それでも、“やってみるまでは判らない”ということだけ。

全力を出して、出来ないことがあるかもしれない。

何もせずに、今までどうしても不可能だったことを達成してしまうかもしれない。

それが人生や世の中というものの真実で、理不尽なところで、面白いところだ。





いま、九鬼英雄が考えていること。 

泣き尽くし、
悩み尽くし、
狂い尽くし、
苦しみ尽くし、
足掻き尽くし、
藻掻き尽くし、

そうしてなお、固く絞り上げた誓いを貫きたいとする友人が今、とてつもなく巨大で堅牢な壁に、捨て身の体当たりを仕掛け続けている。

それを助けたい。

これは真実で、曲げようがない。

助けられるか? 救い上げることが、果たしてできるのか? 

それは判らないが、大切なのは、助けようとする意思と意志、そして救うためにしている行動だ。

自分が一人足止めすれば、少なくともその一人分に割く体力と気力を、直斗は“最も向けなければならない者たち川神百代と直江大和”に費やすことが出来る。

自分が、冬馬を直斗のもとに送り届ければ。

自分が、あの、他人に頼ることを極力も極力に避けたい男が、ついに懸けてくれた期待に応えることができれば。

自分の行動で、僅かでも、直斗が支払う犠牲が回避されるのなら。 

それで十分という事は決して、誓って、金輪際、絶対に無いけれど。

だがしかし、彼に対し、それが自分にできる精一杯かつ唯一の行為ならば。



――――――最後まで、果たし抜かんわけにはいかんだろうッ?



そう。 もし後悔が無ければ、いま、この場面で、すっくと佇立し得ている筈がなかった。

風間との最後の拳の交錯の後、きっと自分は干からびた蛙のように、情けなく地べたに倒れ伏したままだった筈だ。 

気持ちよく暴れられた、そんな手前勝手な自己満足に浸って。



もし、あのとき、震える足腰を叱咤できていたら。

もし、あのとき、矢車夫妻の背も肩も借りずに、ビルの崩落から逃れられていたなら。

もし、あの事件のとき、自分の足で窮地を脱していたなら。 もし、自分が、脱出の足を引っ張っていなかったなら。

そうして彼の、どちらか片方の親でも健在だったなら。

直斗は、もっと違う、もっと今より報われ甲斐のある人生を、生きてこられたのではなかったか?



――――――そんな悔悟がなければ。



悩ましくて、悔しくて、悲しくて、自分という自分が憎らしくて。

それを原動力として、観覧車での一件以降、五体を鍛え抜くということもしなかっただろうし、



「これしきで、王たる我がッ、挫けるわけなかろうが戯けェッ!」



この啖呵を切ることもできなかった筈だ。

後悔を抱き続けることこそ、いつだって不透明な未来への、唯一無二の対処法だ。

自分の人生で最強の日がこれまでにあったのだとしたら、間違いなく今日、西暦二〇〇九年、八月三十一日がそうだろう。

過去、まだ強くなかった時代の自分より、今の方が多く悩んでいる。 迷っている。 分からずにいる。
 
だからこそ生きている意味があると、英雄は、苦しむことから逃げることをやめた。

……こんな独白を、いま、誰かが聞く必要はない。

いつか九鬼の次々代を担い、自分の全てを託そうと思える人物が現れたなら、そのときには話すやもしれん。

だがそのときは間違いなく、いま、ではない。 それは確かで。

直斗が、過去を開示することを決して許さないことも、また間違いのないことだ。

だから、言える事は、ただの一つきりの、歴然とした事実のみ。



「我とお前ではッ、九鬼英雄と風間翔一ではなッ」



――矢車直斗と直江大和では。

その句は胸中でのみ滾らせて、つい今しがた、己が自身の拳で下して昏倒せしめ、地面に身を投げ出した赤頭巾に叫びかけた。



「潜ってきた修羅場が違うのだぁああああああッ!!!」



その大喝は、どこまでも。

その両脚は、留まることを忘れたかのように、戦場を駆け渡る。

左右に首を廻し、冬馬の片腕を引っ掴み、半ば引き摺るように先導し、向かい来る次なる敵を見定める英雄の眼光は、猛り狂う獅子のそれだった。














<手には鈍ら-Namakura- 第四十六話:膳立>














少女いもうとは、姉を追うために生まれてきた。

きっと、名も顔も知らぬ母親の胎内にいたときから、少女は姉を夢に見ていた筈だ。 

こんなにも惹かれるのだから。 こんなにも焦がれるのだから。 

きっと、出会う前から、血縁すら超えうる何かしがの宿世すくせが、姉との間にあったに違いない。 だから、本当の家族にもなれたのだ。

姉は、尽きる事のない憧れだ。 

だから、やがて少女が、姉と同じものを求めるのは必然だ。 

それは、お揃いの髪型を目指して頭髪を伸ばそうと決め、怒られると半ば自覚しながら、赤毛のアンよろしく黒く毛を染め抜いたときのように。

行けるかもしれない、という想いこそが、少女を見果てぬ場所へと駆り立てる。 

同じ景色を見たい、その景色の中に自分も入りたい、という願いこそが、少女を姉の傍らへと追い立てる。




だから少女は、その武道みちに入る。

お小遣いを貯めて、内緒で仕立ててもらった道着を纏って、祖父に直談判。

健康教室に毛の生えた程度の修行など物足りず、戦士としての指導を請い願う。

渋々といった風情で行われた厳しい入門試験を、持ち前のド根性をいかんなく発揮して、ギリギリで突破する。

……あはは、実はアタシ、才能があるのかも。

筋肉痛が抜けた、その次の次の日。 夏休みの前日だったことでよく覚えている。

合格祝いに貰った、些か身の丈に合わない薙刀をなんとか両手で支えて、洗面台の前でいっちょ前のポーズを取る。

ゾウはおろか、シロナガスクジラが踏んでも壊れないほどの靭性を持つという得物は、自分が何倍も大きく、強くなったように見せてくれた。

明日からは学校も休みだ。

毎日、毎日、この相棒を振り回す日々だ。

やってやる。 やってやる。 やってやる。

休みが終わる頃には、自分より先に習い始めた門下生の誰よりも上手くなって強くなって、みんなの度肝を抜いてやるんだ。

次の日が待ちきれない。

その夜。 何度も何度もラジオの天気予報を確認する。

地図を広げ、頭の中で朝の走りこみのシュミレーション。

読みこまれてボロボロになったお古の教書を、もう一度だけと復習する。

脇にあるのは月刊死合マガジンのカラーグラビア。 そこに映る姉の険しい顔を眺めて、眠りについた布団のなかでも、夢は翌日の修練の風景。




……最初はもちろん、何事も上手くいかない。

前日に、まあ、流石にいきなり“オーギをキワめる”なんてのは無理かな、と。

ちょっと現実を見たつもりで、それでもこれくらいは出来るだろうと決めてかかっていたことの、十分の一も、出来ない。

そんな本当の現実の前に、膝を折る。

体のあちこちが痛む。 

下手をすれば、修行初日で救護院行き。 絶対安静何週間、なんていうケースもある。

のろのろと夕食を終え、とぼとぼと自室に戻る。

何も言うまいとする祖父や師範代、姉の心遣いが、小さな胸を締めつける。

なんて、不甲斐ないんだろう。

その日だけで相当に傷ついた薙刀に油を差し、壁に立てかける。 

そして頭から布団を被って眠る。 紛う事なき、不貞寝だった。

……さあ、翌朝こそが、少女と武道をわかつ最初の分岐であり、最大の関門だ。

起き抜け一番、嫌でも目に留まる傷だらけの薙刀、皺だらけの道着、よだれのかかった死合マガジンを頑固に無視して、友達付き合いに熱中するか。 

それとも、やはり相棒を脇に抱えて外の稽古場へ裸足で駆け下りてゆくか。




      ――少女は、兎跳びのまま、友と遊ぶ道を選んだ。




気が遠くなるほど繰り返される型の練習。

石畳の階段を駆け登り、指定された猶予より少しでも遅れたなら、薙刀を抱えて駆け戻り、また駆け登り。

切れ切れになる息、膝小僧の小さな怪我、そして時には大きな怪我。

「昨日よりも深く、高い速度の世界へ入ってゆくため、そのための新しい筋肉ができているっていう証明なんダ」

……師範代からそう刷り込まれながら耐えるしかない、夜ごと苛む筋肉痛、腕の攣り、足の攣り。

汗も涙も血も反吐も、体内から外へ流すものは全て、普通の三倍は流した。 そんな自負だけが募ってゆく。

先輩たちから与えられる助言の山は、才の未熟な少女にとっては、大抵矛盾し相反していると感じられるため、なかなか自分のものにはしにくい。 直属の師範代のものとて、その例外ではなかった。

素直にそのまま彼女の糧となるものは、姉の笑顔と、友の眼差しと、養護施設からの手紙の数々だ。

夕暮れ、走りこみ途中で仲良しグループに遭う。

曇り顔の兄貴分やまとのお小言。 

次のテストがヤバいと、次の次のテストがヤバくなくても中学なのに進級がヤバい。 イコール、みんなと同じ学校の受験もヤバい。 という危機。 

仕方なく畳に座り、机に向かう。 

問題集の一ページも終わらないうちに、睡魔が瞼を引っ張り下ろしにくる。

うつらうつらとしていくうちに、夢のなかでも夕日に向かって姉と走りこみ――。





『俺ァな、ワン子。 「報われなかったのは、頑張りが足りなかったから」っつー考え方に納得がいかねーんだよ。 才能や実力の底が見えてる人間に、到底たどりつけない目標をくれたまんま頑張らせるってのはな、そいつの人生を不幸にするもんだって、俺ァ思うのよ。 ルーの奴は、自分が運良くできたから、他の奴もできるだろうって変な勘違いしてるがよ。 ガリ勉の優等生気取ってたって、才能が飛び抜けてねーことも無かったってのは、爺様だって認めてんだよ。 ヒヒッ、まあ、もっと凄いのが俺なワケだが。 ……お前の修行が全くの無駄だって言いたいワケじゃねぇんだ。 ただよ、それよりもっと向いてるコトがあるかもしれなくて、見切りを着けるのは早いほうがよくて、報われなかったからって、絶望する必要はねーって話だ。 お前がマジで自分に向き合ってりゃわかってることだろうが、百代にとっちゃ武道は娯楽で、お前にとっちゃ武道は苦行だ。 そんでな、老い先が長かろうが短かろうが、人生ってのは結局、愉しんだもん勝ちなんだよ』

…………誰もが最初から、窮まっているわけではない。

その多くは、地上から固く絞り込まれて、濃縮され、遥か高みにまでようやく達する階梯に、日々に流す汗と、血の匂いと、涙が乾いた跡と、院のおみくじで何十回か連続で大吉を引けるくらいの幸運を、嫌になるほど染みつかせて、そして時には足元を崩され、また地面に叩き落とされながらも、一段、また一段、そしてもう一段と、昇っていかねばならないのだ。

少なくとも少女は、そういう泥臭いことを、だれよりも多くこなさなければならない類の人間だった。 

そう自覚せざるをえない日々を耐え抜いてきて、実際、まだその真っ只中に居る。

更に言えば、世に渡る武闘の諸流諸派の中で、こと川神流に至っては、努力神話はまさしく神話でしかない。

「天才は99%の努力の上に生まれる」という言葉の本当の意味は、「人間には努力ではどうにもならない1%がある」ということだ。

……だが、“それでも”と。

歩んだ分だけ露わになる自身の凡才ぶりと数々の艱難辛苦を前にし、“それでも”と呟き続けられる性質が、彼女を院内で中堅所と呼ばれる席次にまで押し上げていた。






やがて少女は、少女でいられる道を破棄しなければならない。

初心者だからと許されてきた幾つかのルール違反も、大目に見てもらえなくなる。 人々に指を差されるようになる。

実家に参詣し、稽古や演舞を見物に来る彼ら彼女らの顔はどれも、かつて少女が顔いっぱいに貼り付けていた憧憬だ。

そろそろだな、と大人たちが言う。 おまえなら早すぎることはない、うん、いってこい、と。

相手は、アフリカ育ち、“太陽の子”ニャニャ。 

サバンナで鍛えこまれた脚力が武器の、少女と何処となく特徴が似通った同世代のインファイター。 

近所で行う、ちゃちな喧嘩や野良試合じゃない。 

川神の名を公式に背負って立つ、正真正銘、正式な仕合を組んでくれるかもしれないのだという。

日取りはまだ調整中デ、場合によっては一年以上待たされるかもしれないガ、それまで精進しなさイ――。





“彼”が、久方ぶりの新弟子として川神院に入門してきたのは、そんな頃だ。

この頃は、前述した他流仕合が発表されたこともあって、多少、少女は気が大きくなっていた。

入門直後の彼との仕合に圧勝したことも相まって、姉の気分というのはこういうものなのか、などと得意げになり、慣れない先輩風を吹かせて彼に余計な世話を焼いたことも、最初の数ヶ月はしばしばだった。

というか、そういう真似が続けられるくらいに、彼、矢車直斗が、それだけの好漢ぶりを発揮していたこともあるだろう。 何者をも邪険にあしらわず、見せる笑顔はいつでも、秋空のように濁りなく涼しかった。

……初めて土をつけられたのは、正月の三箇日が過ぎた、年明けの稽古始めのとき。 

ルー師範代と姉が吉例の型を演じてみせ、一瞬の対応を誤れば骨を砕かれかねないほどの、川神拳士の誰もが息を呑む迫真の技の出し合いに、やおら興奮が冷めやまなかった少女は、お屠蘇代わりに一献した川神水の勢いもあって、境内の裏手にある修練場に彼を誘った。

北陸の方に一時研修に行って、しばらく手合わせを休んでいた彼の成果を確認したかったこともある。 ……正直に言えば、誰かより自分のほうが強い、ということを示して、正月気分をより気持ちよく味わいたかった部分もあった。

そうして、忘れもしない一本勝負。 木刀を撥ね飛ばし、武装を解除させたところで少女に生まれた余裕。 そこから見事に意表を突いた柔技やわらによる逆転劇。 最後は組み技で足を固められて、渋々ながら降参して終えた筈だ。

必殺と息巻きながらの“大車輪”を外した、あの時の気恥ずかしさったら、もうない。

寝技のような、男女の体力差を利用できる典型的な局面に持ち込まれれば、そのときの少女に為す術はなかった。

だが、それでも相手は入門して半年余りの新入りも新入りである。 加えて無論、筋力の量や質ではなく、内勁で関節に働くトルクを増大し、より滑らかに五体を駆動させることこそを武の真髄とする川神流においては、性別の違いが強者弱者を隔てるものではないとされる。 それを議論すること自体、馬鹿馬鹿しいとされる風潮であった。 特に、姉が生まれてからはそうなのだろう。

つまりは、己の身に積んだ“技量”は直斗より幾許いくばくか高いものと自負できるものの、もともとの“素養”というものを上乗せすれば、もはや必ずしも同じ結果に至るわけではないのだと、明確に示された一戦だった。

息も絶え絶え、拾い上げてすぐ、自分でもどうかと思うくらいの動揺から、再度ぽとりと愛用の薙刀を取り落としてしまった自分に、すみません、と追い討ちのように声がかけられる。

悪戯っ子が浮かべるような微笑を見て、武士の情けも無いものかと、このときばかりは彼の言葉に身勝手な苦々しさを感じたものだったが。



――俺も良い所、見せたかったですから。



そう言われて、少女の背後が暗に視線で示され振り返れば、いつからか、ほろ酔いの姉が、柱にもたれながら縁側の床に立っていたのだ。

長寿の象徴として尊ばれる白鶴に、百花の王と讃えられる花牡丹、幾多の試練を乗り越え雄々しく茂る松など。 四季を飾る麗しい花々を描き上げられた絢爛な和装を身に纏っていた。

おう、と手元の盃が掲げられ、慎ましげに呷られる川神水。

衣擦れの音、微かに紅潮する肌、ほどよく紅が差された唇、悩ましげに動く喉、陶酔の色を隠さない二つの瞳。

一服後の艶かしい吐息を吹かしながら上座に立ち続ける姉を、改めて下座たる庭の土から、ぼうっと眺める。 平均女性に比べればそれなりの高身長であることも相まって、どこかのファッションショーの一場面を切り取ってきたかのような、ため息がつかれるばかりの華やかさ。 同性としても、見惚れぬ者は皆無であると断言できる。

巫女として境内で働かなければならない特殊な家柄上、川神姉妹、ひいては風間ファミリーにとっては一月四日からが正月本番であった。

姉に比べれば馬子にも衣装レベルだろうとも、自分も早いところ同じく着替えて、院の正門で待つことだろうキャップ達のところに行かなければなと、我に帰ってもう一度、彼のほうに向き直る。 

俯くように姉と少女に礼を返し、背筋を立て直して、踵を返して去ってゆく後ろ姿。

垣間見えた穏やかな横顔には、僅かながらに朱が足され。 口元から漏れる白い吐息が、ことさらに映えていた――――。



















それが、今はどうしたことだろう。

目の前の男の全貌に、悲嘆とも同情とも悔悟とも言いがたい、恐らくはその全てが綯い交ぜになった感情が、川神一子の胸を満たしていた。

脱水で乾き切り、血の気が失せ始めた肌は白蝋の如く青褪め、膝は軋み、足は震え。

襤褸布となりつつある羽織の蒼穹は、砂塵にくすみ。 幾多もの斬突との肉薄に、腹部から覗くサラシは擦れにも擦れ。

空手のまま、だらりとぶら下げられた片方の腕は、もう肩より上には持ち上がらない筈だ。 

あれは自分が為した業だ。 自分が“顎”で負わせた傷だ。 あの左肩の脱臼は、矢車直斗の最も重篤な消耗として、他でもない自分が刻んだものだ。

同門同士の一騎打ちは、既に“仕合”ではなく、一子にとって甚だ遺憾なことに、“私刑”の様相を呈し始めていた。

万全の状態で、隙の無い一撃離脱戦法を散発して繰り返す一子に対して、同所に留まり、受けの一手で尚も凌ぎ続ける男の末路を見届けようと、二人を取り囲む誰も彼もが、注意をこちらに向けていた。

鼻息荒く上体を震わせ、受身に一歩退歩するだけでも足をもつれかける直斗には、もはや軽捷な剣の套路など見る影も無い。

だが、そぞろ哀れを催す風体なれど、酷使を重ねられた彼の右腕は、剣を青眼に置くことを止めようとはしなかった。

まるで自ら百舌鳥の早贄にあやかることを望むように、貝のようにぴったりと口を閉ざして、迫る全てを受け入れるように、その都度に剣訣を結び、姉弟子が繰り出す苛烈な攻めを耐え抜いていた。

驚くべきことに、この状況にあっても、彼の意識は、目の前にいる一子ひとりに絞られたわけでもない様子だった。

最も近い敵手に段平の切っ先を向けながらも、絶えず首を廻し、疲弊も露わな表情で索敵を怠らずにいる。 あらぬ所からの襲撃に備えている。

獲物を求めて彷徨う餓狼というより、天敵たる猛禽と牙獣の両方の気配に気づいた小動物のような、外界の全てを警戒し切る挙措だった。

自分がまともに相手にされていないようで、それが悔しくて、そう感じてしまう自分が、一子は堪らなく情けなくて、嫌だった。



「…………どうしてよ」



直斗と同じく、ロダンの彫像のように固く閉ざした筈の自分の口から漏れ出でた、震える声。

決着まで何も言うまいと、その心算で感情を留めていた内なるつつみは、ついに決壊の目をみる。

動くどころか立っていることさえ、何かの間違いとしか思えない。

そんな消耗し切った彼を、更に打ち据え倒すべく、歴戦を共にした薙刀を構える一子の顔は、一目に判るほど苦痛に歪んでいた。



「何とか言いなさいよッ……!」



ぴくりと相手の肩が震え、一組の目が揃ってすっと細まったような気がしたが、それきりだった。

なんの反撃を受けたわけでもなかった。 

なんの言葉を発されたわけでもなかった。

それでも、自分が一撃を打ち入れるたびに痛んでゆく、この胸の奥底にあるものは何なのか?

もう、終わりにしたい。 早く、早く倒れて欲しい。 

その一心で得物を振るいに振るい、こちらが紡ぎ出した武技の全ては余さず必殺を期している。

だがそれを阻む、無造作に振られるように見えてその実、絶妙な運剣で決着を拒み続ける鈍らが、憎らしくて憎らしくてしょうがなかった。



――――今回はアタシ、お姉様の妹ってことじゃなくて、直斗くんの姉弟子って感じで、戦おうと思うのっ。



英雄によるラジオジャックが行われた際に兄貴分達に伝えた、この決意は少しも揺らいではいない。

だからこそ、彼に援護が期待できないように、一子も自らの援護を断っていた。 大和にも京にも、ここからの手出しは無用ときつく言い含めておいたのは、誰あろう川神一子自身だった。

身内の不始末を片付ける。 誰にも言えない事だけれど、その事後処理を買って出たことに、ある種の誇らしさがあった。 

自分も、栄えある川神院の一員なのだと、そう示せる機会だったから。

それに、他のファミリーの面子と比べて、危機意識が希薄だったのかもしれない。

矢車直斗は、きっと、誰もが納得するような理由で対峙していて、誰もが最後には笑い合えるような素敵な顛末を用意しているものだと、心の底で決め付けていた節があった。 祖父や師範代が直斗の行動を半ば黙認していることもあったし、好みの女を奪うとか、そういう、ひどく我儘で即物的な目的は、そもそも彼にはそぐわない。 生活を共にした日々は決して長いものではないけれど、そう確信できるだけの無償の信頼が、自分と彼との間に生まれているものと感じていた。 過程は知るよしもないが、自分と同じく実の家族を失っていながら、それでも走り込みの最中、道端に止まる霊柩車を見れば、無意識に親指を隠すようなところを一子は知っている。 真の実力が隠されていたことも含め、どれだけその正体が不透明であっても、その良識や優しさが、形だけのものではないことを、彼の近くで共に鍛錬を積んできた一子は知っている。 ……由紀江と同じく、直斗に希望を持ち続けていたのである。

だから、ひとたび得物を合わせれば、たちどころに相手と自分の意志がつぶさに通じ合って分かり合う、そんな漫画みたいな奇跡を、夢に描いていたのかもしれない。

……しかし、心滴拳聴の域に達するほどの才と練を、両者とも持ち合わせていない。 今のところ、それがこの対決で判じられる全てだった。 

この場を御膳立てする交換条件として、大和から受けた作戦とはいえ、初手に背後からの騙し討ちを敢行した自分に、心を開く筈はない。

今更ながらにそのことを自覚した一子が、直斗のために、自身を苛み続けるもどかしさを解決するためにできることは、せめて自らの手で大戦の幕を速やかに下ろすこと。 それ以外に道は無い。

真実の追求であれ、和解の道の模索であれ、全てはそこから始めればいい。 それは、わかっている。



「何とか言いなさいよ!! ここまで来たんだから……こうなっちゃったんだからッ、もう恥ずかしく思えることなんか何も無いでしょッ!?」



だが、腹の内で打倒の決心を着けても、説得の言の葉を重ねてしまうのは、少女が少女であることの証だった。

変わらず、応答は無い。

結局、無責任に抱いた希望ほどかげりやすいものは無いということを、噛み締めるばかりだった。



「直斗くんの話なら、アタシ達、なんだって聞くわよッ!!!」



それがこのときの直斗を傷つけるに、最も効果が覿面な精神攻撃なのだと知らぬままに放った一喝は、吸血鬼に叩き込まれる銀の杭のように、あやまたず標的の心臓を穿ち抜いた。 ぐらりと男の体勢がかしいだのは、山間を奔る突風に煽られたせいではなかった。

一瞬頭の中が真っ白になった後、対処の術を即断したのは一子の意識ではなく、弛まぬ鍛錬によって武術に馴らされた手足だった。

我を忘れ、一挙に突貫して、兎にも角にも間合いを詰める。

使い物にならない左腕が重石となり、平衡感覚が僅かに狂っていたことも災いしたのだろう。 転倒を予防するために下に逸れた直斗の視線を避け、薙刀は上段に構えられ、死角から首元を狙い打つ。 

自然、それは再び“アギト”なる奥義が衆前で披露される形となった。

未完成ながら、今日この日のために研ぎに研いできた、“大車輪”を超える、一子が擁する最強の矛である。



「セァッ――――!!」

「い゛ッ――」



凝ィッと背筋を逆撫でる騒音を響かせて、薙刀と噛み合う鈍ら。

頭上への目視が間に合わない中、第六感の導きのみに頼った直斗の迎撃だった。 意地で防いだ、という表現が最も適切だろう。

だが、柄からの膂力を伝えやすい鍔元で受けられたとはいえ、片手持ち、無理な姿勢、なにより不測の事態への恐慌という三重苦が、鍔迫り合いの勘所を直斗に忘れさせていた。

あっけなく右手から打ち落とされ、振り払われる男の得物。

猛虎の下顎を模した、撥ね返しのニ撃目として、寸暇なく下段から掬い上げる薙刀の銀光。

右脇に直撃が決まり、直斗は目に見えて息を詰まらせ、尻餅をついて寝転がる無様を晒さないまでも、膝を衝いて蹲った。

取り囲む朱雀の隊員達が目にする場面は、皮肉にも、正月の決闘の再現となる。

前回は腰を崩され、引き倒されて膝関節を極められた一子である。 同じ轍を踏むまいとする用心深さは備わっていた。

近きに過ぎず、遠きに過ぎず。

相手の動きを見切るに最適な距離を保ち、足さえ払われなければ、と下半身に意識を集中させながら、依然顔を伏せたままの直斗に、一子は真っ直ぐな目を注いだ。



「直斗くんの話なら、アタシ達は、なんだってッ――」



些か遅きに失しながらも、ついに決着の刃を突きつけた一子は、もう一度、その言葉を言いかけて。









「――――――――――――ふくッ」

ぞっとするほど冷ややかに、耳に忍び込んできた、呼気の抑揚。 

一子だけに聴こえた、冷笑、失笑、苦笑、憫笑、それらに類するナニカにして、決定的に異質な嗤い。 

鉄面皮は崩れずとも、口元から発されたのは間違いなく直斗の情念に相違なかった。

その理解が及んだ途端、言いようのない悪寒が一子を貫いた。

一子の警戒の気配を一顧だにもしないように、突如として直斗の五体は、羽虫に一閃を浴びせる蝦蟇の舌の如く、真っ直ぐに一子の上体へと伸び上がってきた。

両腕をぶら下げながら地を蹴って、鋭さばかりを追求した浅慮も窮まる頭突きを、直斗は繰り出してきていた。

凝った技芸が含まれない分、制圧速度は増していた。 一子十八番おはこの対空技、“鳥落とし”は間に合わない。

咄嗟に真横へ体を捌き、背を反らせながら肘を折り、柄頭を引き寄せ、一子が突き放ったのは“蠍撃ち”。

直斗の左外に回り込んだのは、左腕の不能を見込んだ上で、右腕による追撃を封じるためだ。

だが、肝臓の真上を抉る一子の一撃は、跳びかかる直斗の勢力を減衰させたものの、もとより肉斬骨断の覚悟だったろうその意志を挫く事は叶わなかった。

被打面に接する筋繊維を限界まで捻くらせながら、再び直斗の両脚が地面を踏みしめた時、その右手には薙刀の柄の先端がしかと握られていた。

一髪千鈞を引く驚愕と逡巡の瞬間。 その隙こそ、直斗の求めるものだったらしい。

微振の伝播をもって、一子の両手の強張りが確認されると、すぐさまその得物を手掛かりに強引に転進され、無手の間合いに一気に踏み込まれる。

感情の表し方を忘れたような、引き攣った薄笑いが急速に迫って、すぐに消えた。

腕力の不足を補うべくの一回転。 遠心力で加速し、威力を底上げした直斗の裏拳は、しかし寸前で虚撃となった。

素早い判断で得物を手放し、顎先への一撃を避けるそぶりをまんまと見せた一子の気勢を削いだのは、そのフェイントからの顔面への掌打である。

「ン、ぐッ――!?」

顔の下半分を覆った手は、濡れた布のようにぴたりと張り付いたまま、離れない。 

合気に必要な最低限の呼吸もままならず、突然の過負荷に足は縺れ、巴に投げることも叶わなかった。

突進の勢いそのままに地面へ押し倒され、隆起を繰り返す胸の上に乱暴に跨がられ、両脚で両腕を組み固められ。

顎は直斗の右手に上方へ押し込められて、一子の見る天地が逆転した後も、その頬への緊縛の度合いは緩むことは無く、気道は塞がれたまま。














「どうして」と、顔面いっぱいに問い叫ぶ一子の表情が、とどめだった。

馬乗りになったまま組み敷いて、思わずその顔を見返した俺は、即答できない自分に絶望して視線を伏せ、林檎飴のような髪留めの装飾を目の逃げ場にした。

覚悟していても、し切れるものではなかった。

津波のように胸に押し寄せるだろう苦衷を想像しながらも、そうせずにはいられない衝動と感情に付き従った結果は、予測を遥かに超えて無残なものだった。

――――圧し掛かりによって相手の抵抗を封じ込み、体重を乗せた右の掌底にて敵手の顎ごと口を押さえ込み、人差し指と中指で鼻孔を塞ぐ。

窒息を狙う、明らかな禁じ手である。

いくつか自分の脳裏に浮かんだ選択肢のうち、頸部の圧迫に次ぐ残虐なものを俺は摘み取っていた。

……そうしなければ、



「貴様ァッ―――――――――!!!」

「がゲォッ!?」



そうしなければ、こういう輩がやって来ない。

そうしなければ、川神一子と俺の距離を躍起になって引き離そうとする人間を、誘き出せなかった。

来なかったら来なかったで、審判の介入という保険も掛かっているのだが、ただただ、自分に嫌気が差し、ただただ、この瞬間、自分を突き飛ばし、胸骨に皹を打ち入れた人間に感謝するばかり。

真に警戒するべき敵を履き違えていた俺にとって、激する情を包み隠さず、心のうちを吐露して挑みかかる一子は天敵中の天敵だった。

直斗くんの話なら●●

……他でもない風間一家の仇敵となった俺に対して、それでも信じようとしてくれた一子の絶叫に、俺が抱いたものは、少なくとも一つは下衆の勘繰りだったのだ。

聞き違ったわけでも、単なる言い間違いや言葉の綾ですらなく、追い詰められて自己本位の思考に侵された耳が、悪意を以ってその言葉尻を捉えたに過ぎない。 状況が状況だ。 彼女に、矢車直斗への心配以外の他意は無いことも判っていた。

そう自覚してはいても、堪らず、むらと沸き上がったものは、

――――俺なら、というのなら、他の誰かなら、どうしたというのだ。

という、怨讐の念と、

――――しかし、全ての人間を等しく尊ぶのならば、それは誰も愛さないことだ。

という、真逆の達観。

渾然一体となった二つが、我が身の均衡を崩し、痛撃を齎されるに至った。

……どこまでも中途半端な自分の在り様に呆れ、疲れ、嘲笑ったのは一瞬。

死線において動揺すれば、即ち活路を見失う。 心頭滅却、鏡水の如き心で気息を整えて、初めて武術は冴えを纏う。 己の精神、己の根幹を常に揺るがされながらの戦いに、徐々に活路は狭まるばかり。 しかし彼女を退かすに、由紀江を下した奥の手は使えない。 位置を外した左肩がそれを許さない。

以上を了解していた俺が、現状を打開すべくして思いついた方法は、酸素を求めて声も無く喘ぐ少女の顔を目前にしながら無視する、という外道中の外道であり、あえて水入りの直撃を受けんとする下策中の下策だった。

全身を駆け巡る痛みは、もう許容外の感覚だ。 あまりに痛すぎて目から火が出るどころではない。 触感は断裁され、痛覚だけで眼球が燃えている。

闖入者と十歩ほど離れた地点で仰臥しながら状況を整理し、顔を傾け、涙にぼやける目の焦点を、前方で蠢く影に合わせた。



「とくと味わったか“真空雪風巻” ――――無事かッ、川神の!?」



野太い声が分け入ってきたのは、一子の気道を塞いで十秒も経たないうちだった。 

てっきり源忠勝あたりが仲裁に入るものと思っていたが、同じく色黒とはいえ、いくら若く見積もっても三十台前半の男性が彼に代わっていた。

こちらの胸を穿った剛速の一撃は、その手に配された長槍からのものだった。

「それがし、助っ人として駆けつけた天神館、西方十勇士が一人、島右近と申す者。 同学年、それも同じ長物を振るう者として、これまでそちらの奮迅を拝し、胸を躍らせておりました。 ……誠に勝手ながら、今より助勢させて頂くッ」

外見は外見でしかないということらしい。 白髪と後姿だけを遠目で見られれば、自分も壮年の人物と捉えられても可笑しくない身の上であることを思い出す。

遅れて壁を擦り抜けてきた忠勝に一子の身柄が引き渡されると、親の仇とばかりの視線を投げかけられる。

「矢車と言ったな。 どれほどのわだかまりや戦力差があろうが、いたいけな女子おなご相手に、非道千万にも程があるッ。 どこまでも見下げ果てた奴よ。 剣を執れ、下郎ッ。 慈悲だ。 その性根、歪な剣ごと叩きのめしてくれるッ!」

その口上は、いつか聴いたクリスの糾弾を思い起こさせる。 見目にたがわない義侠心の篤さが気合いから滲み出ていた。

槍の猛威を受けた胸が、いっそう痛むのを感じながら、受身らしい受身もとれずに転げた体を緩慢に起こしてゆく。

弾き飛ばされた鈍らの所在には、まだ意識を割かなかった。

亜脱臼した肩も、相変わらずじくじくと違和を訴えかける中、動かせない左腕の手首を、首を廻して覗き込む。 



――今、何時だ?














「……東国武士は軟弱軟弱と、しつこいばかりに繰り返される大友の言葉も、このままでは正鵠を得ていると言わざるをえんな。 まさか、そこな手負いの男一匹に、これだけの人数を割いておいて、これほど手こずるとは。 個々人の技量の程度はどうあれ、総合力ではやはり、我が天神館に軍配が上がると見た。 ……それにしても島よ、お前にしては珍しい激高ぶりだ。 久方ぶりにお前の内なる所を垣間見た思いだが、まず落ち着け。 ふん、まったく、これではつねと役目がアベコベではないか?」

「申し開きもございませぬ、御大将。 恥ずかしくも忘我し、主君を差し置き先行したことは、それがし、後ほど如何様な処分も承りまするが。 ……この男だけは」

「どれほど強靭な堪忍袋の緒も、切れることはあるという事か。 よい、島。 俺はただ、慌てるなと言いたいだけだ。 もうそろそろ、機も熟すようだしな」

「む? 御大将、それはどういう……」

「ワタシの美技を披露する間も与えずに打ち倒そうとしたことについては、謝ってもらってもかまわんのだぞ?」

「アホッ、それやったらウチが先や、ナルシスト。 敵大将の首ィ獲ったら、報酬が倍付けになる約束、忘れてへんやろなぁ?」

「さっそく、すきをみはからっているところにわるいが、そういうことらしいから、はちや、いま、やみうちのたぐいは、みかたからのぶういんぐが、すごそうだぞ」

「…………まったく、気が削がれる。 それがしは最低限のリスクから勝利と生存を掠め取る暗殺者であって、うぬらのように五分の生死を懸けて真正面から競い合う矜持など、はなから持ち合わせてはいないのだがな。 ではせめて、後ろに控える尼子兵の一団に紛れるとしよう」

「それでも得意の火薬粘土の大方は使えるのであろう? 文句を垂れるでないわっ。 比べてこの大友は、手足をもがれておるのも同然なのだ。 炸薬の量を制限するとは、砲術も何もあったものではないわ、たわけ。 ……まあ、今回の所は特製ショットボウガンの二挺立て。 ほどほどの中火力で我慢しておいてやろう。 戦力不足は気骨で補うのが、西国武士の流儀ぞ!」

「ガッハッハッハ、その点で言えば、やはり鍛えぬいたこのボディこそが、如何なる局面にも対応しうる最高の武器よ。 オイルレスリング無双の到来だなッ!」

「……フッ。 山中の環境に配慮して手持ちの自家製の油は没収され、純度の高い植物油以外の使用許可が下りず、さきほど泣く泣くトゴで宇喜多に金を借りてまで、目当てのものを買いに一目散に山を下った男の台詞とは思えんな?」

「い、言ってくれるな島よ。 決して手元不如意であったわけではないのだが、サラダ油では粘度が足りず、唯一売れ残っていたこの市販のエクストラバージンオイルが、徳用と銘打たれていたとはいえ、あれほど高価だとは知らなかったのだ。 おかげでしばらくは、徳島の実家から送られるナルト三昧の食生活よ」



一子に肩を貸しながら後退した忠勝と入れ替わるように前へと踏み入って、戦闘態勢を整える、尋常ならざる遣い手たち。

気の抜けるような調子外れの会話を行いながらも、一分の隙も無い陣形が展開され、直斗を覆い始める。


一輝当千いっきとうせん”石田三郎。

豪槍馳走ごうそうちそう”島右近。

天下五弓てんかごきゅう”毛利元親。

大槌銭鬼おおづちせんき”宇喜多秀美。

鉤爪瞬刹こうそうしゅんせつ”尼子晴。

魔道乱破まどうらっぱ”鉢屋壱助。

華々大火力かかだいかりょく”大友焔。

油浴怪人ゆあみかいじん”長宗我部宗男。


胸に秘めたる京都以西の誇りゆえか、あえて東の武力の最右翼たる川神の本格的な薫陶こそ受けずにいるものの、元武道四天王にして存命する数少ない川神流の免許皆伝者たる鍋島正の子飼いであるところに違いは無い西方十勇士のうち、いずれも劣らぬ面々八人。

詳細なパーソナルこそ知る由しもない直斗だったが、その並外れた力量だけは、目前にして理解することができた。

これでよかった、こうするしか。 先の状況よりはマシの筈だ。 あのままでは心が折れていた。 ……ざわと騒いだ全身の神経を、自己暗示を重ねて必死に押し留めながら、ただでさえ満身創痍である男は独り、より注意深く敵の観察を続ける。

救わなければならない者たちが、この夏のうちに増えていた。 最後の一手はまだ弄せない。 彼らの目前でなければ意味が無い。 島なにがしの言動から推定するに、どうにか肩を入れ直したところで、“双燕”も“邪燕”も見切られるだろうことは想像に難くなかった。

何処かに抜け穴が無いか、何処かに活路を拓く端緒が結ばれていないか。 だが、見れば見るだけ、考えれば考えるだけ、目の前の難関がより堅固なものに思えてくる。

ここまで、その身に余る苦境という苦境を越えてきたさしもの直斗ですら、絶望せざるを得ない、それは荘々たる面子の揃い踏みであった。

「さて、矢車とやら。 あの川神百代を屠らんとする貴様の太刀。 業腹ではあるが、是非にも一つ、指南を賜ってやらんでもない。 とはいえ……」

勿体をつけた石田の口上に、居並ぶ戦士達の幾人かが失笑を漏らす。 これより始まる戦いが、一方的な誅戮ちゅうりくに終わるだろう事は、誰の目にも明らかだ。 “指南を賜る”など聞いて呆れる。 もとより石田は、その傲然とした口調を隠しもしていなかった。

「いかにこの俺が世故と保身に長け、より拓けた出世街道を好むと言えど、流石に八対一とは、こちらとしても、フッ、非常に心苦しいところ●●●●●●●●●●ではある。 もとより我ら十勇士が参戦したのは、殊勝な百代の舎弟に平に乞われたからでもあるが、貴様ら川神学園を筆頭とする、東のモノノフ共に、己が武勇を示すため。 我が天神館こそ、同じ御三家とされる川神と竜鳴館すら凌いで余りある、天下第一の学府であると世に号すため。 お誂え向けに、テレビも新聞屋も来ているとのことだしな。 抜かりなくこちらの広告塔も解説席に捻じ込んだわけよ。 まさに今、この場は西方十勇士の檜舞台に他ならんっ」

上空を飛行する川神TVのロゴが入ったヘリを一瞥をくれながら語る石田は、確かに現在、誰の耳目も集めた主役であった。

「話を戻すが、……まあ、これだけの人数を割いて攻めかかりながら貴様一人に勝負を決め切られずにいる雑兵共の無様を見れば、このまま刃を交えても、我が十勇士の精強さは十分に市井に魅せつけられるとは思うが、な。 こちらとしても、少しばかりは歯応えが欲しいものだ。 この舞台を用意してくれた返礼もせねばならんし、よってだ。 祭りの最後の華として、そちらのささやかな戦力の集中を許そうではないか」

ここまでの展開は、直斗にとって予想の埒外であることに変わりはなかったが、それは朱雀軍を束ねる大和にとっても同じことだった。 わざわざ遥か遠方の、それも川神学園に対し一方的な敵愾心とも言うべき対抗意識を抱く天神館高校の精鋭に大和が召集を掛けたのは、この戦いの“後”を見据えた上での行動であった。

南条・M・虎子を代表とする現生徒会の面々から話を引き出した所によると、この先、もう一度、早ければ来春あたりに、この川神大戦と同種の東西対抗戦が、天神館との間で共催されるかもしれないのだという。 今回の大戦でさえ、煩く口を出してきたPTAの癇症を直前までぶり返させぬよう、水面下で学長同士が交わした密約(渋る川神側に天神館側が強引に押し切ったと言う方が真相として正しいらしいが)の存在を知った大和は、既に自らが会長職に就いた後の催しの為の策を打ったのである。

待機中からこれまでの、いかにも知ったる顔にて東を小馬鹿にしくさった天神館の論評。 実態として明らかな虚勢であるところもしばしば察されたが、特に、S組にもおさおさ劣らぬ石田三郎の傲岸不遜さは、十分すぎるほどに川神学園の生徒全員の心に刻まれたことだろう。 ここで育まれた天神館に対する共通の意識は、次回の戦役にとってプラスに働くだろうことは間違いない。 期したところは大方達成できた、と確信する大和ではあったが、少なからず誤算も生じていた。

十勇士の気を良くし過ぎた。 それに尽きる。 初対面にて、参戦を促すために下手下手の態度に出たのが、全くの誤りとはゆかずとも、その匙加減が少々甘かったらしい。

「斥候の腕そのものは隠行を齧る鉢屋に譲るが、奥義の副産物として得た、デンキウナギのそれと原理が等しい並外れた“定位(ある事物の位置を一定にとること)”も、俺が十勇士の頭を張っている由縁でな。 そろそろ来るぞ? ……備えておけよ、壁役共。 どれほど無力であろうが、せいぜい無粋に道を塞ぎ、背に傷を受ける無様だけは晒さぬことだ」

戦力の分散と各個撃破の方針も、出撃のタイミングも伝え、あるいは申し合わせた筈だったが、彼らには彼らなりの目的があったことを大和は失念していた。 学校の所在からして田舎者と揶揄される日々を送っていたこと、その反動として持ち上げ●●●●に弱く、目立ちたがる習性を戦況を変えうるファクターとして重く見積もるべきであった。 いかに礼を尽くされても、あくまで予備戦力としてという待遇に、彼らが満足する筈は無かったのだ。 虎視眈々と漁夫の利を攫うに最適なタイミングを計っていたのだ

合図も何も無しに、勝手な判断で乱入した十勇士に顔を顰め、大和がそれを援護・対応する戦術を構築し直すその隙に、黒の団からの緊急連絡が入る。

気づいたところで、もはや後手に回らざるを得なかった。 直斗を包囲する誰もの意識は内に向いており、既に勝負は決着しかけているという油断から、外敵への警戒の目は格段に緩んでいた。

まさか、選抜された精鋭中の精鋭たる黒の団と白の団という、野に放たれたニ倍もの数の討ち手の執拗な追跡を振り切りながら、多くの犠牲を出したその決死行の直後に、更に数百人もの軍勢に両手で事足りる手勢で馬鹿正直に突撃を仕掛けてくる、そんなドンキホーテのようなかぶき者が居ようとは、誰も想像だにしていなかった。

金属を打ち付ける音、再び鳴り出した地鳴りのような大勢の足踏み、とある一角から徐々に近づいてくる喧騒の正体を察して、直斗の心は苦もなくその状況を迎え入れた。

さして驚くこともなく、しかし安堵も遠く離れていて、ただ“本領”を発揮するための条件がクリアされた事実だけが、明瞭に頭に浮かんでいた。



「わっほ~~いッ! 到着到着ゥ♪」



二重の意味で“壁”を超えうる技量の持ち主は、玄武軍の残党にも一人残っていた。

気楽な言動とは対照的に、その凄烈な腿力で、人という人を人とも思わぬ体式で捌きに捌き、肉の壁をじ開け、とどめに金網の一枚を蹴破った榊原小雪を先頭に、包囲網をただの力技で突破してきたのは、僅か十名足らずの小隊だった。

「骨折り大義である、ユキッ! 大戦が終われば、我が九鬼家の誇るレストハウスで存分にもてなされるが良い!」

「ははー、御意に御座いまするー」

忍足あずみに代わり見事に露払いを果たした小雪の働きを労い、下界を覆う曇天に見事な裸体を晒して立つ益荒男がそこに居た。

無事な右手を支えにして膝を折り、蹲踞そんきょを崩したような姿勢の直斗を、仁王立ちのまま真正面から覗き込んでいる。 

英雄の手がずいと突き出され、それに合わせるように流れてきた風が、澱んだ熱気を掻き混ぜ始めた。

「許せ。 約束より、随分遅くなった」

差し出された手の平の先に、こちらを見つめる視線があるのに直斗は気づいた。

声を荒げもせず、無理矢理引き起こそうともせず、ただ、そこで待っている瞳。

これ以上のことはできないし、するつもりもないと言っている眼光に、直斗は射抜かれていた。

あわや●●●、といった場面のようだが、頼みは果たした。 この後は任せろと、お前は言ったな?」

捨て鉢になりかけていた心身が、肌を炙る外気の炎熟とはまた違った、確かな温もりを持った手に引っ張られる。

天佑というものの存在をこのとき、これ以上に無く実感しながらも、その感慨だけでは到底上塗りできない自分の歩んだ道程と踏みしめた陰惨も思い出して。

沈黙を強いていた口を、おもむろに直斗は開いた。














正対する男の惨状を、まざまざと英雄は見せ付けられていた。

酷使に酷使を重ねた体は、腱や筋骨が断たれていないとはいえ、動作を奪うには十分なほど痛めつけられていた。

陸に打ち上げられた魚のように呼吸は荒く、固く噛み締めた口元からは血の泡が覗いていた。

「……俺は、」

ひどく掠れた声を英雄は聴いた。

一呼吸置いて再度、俺は、と直斗は呻いた。

「総じて、運が悪いんだ。 こういう、なにかの瀬戸際で、土壇場で、鉄火場で、腹切場で。 一か八かってときに、とびっきりの地雷を全力で踏み抜きまくって、……だから、此処に居る」

痛みからか疲労からか、その肩は上下することを止められずにいた。 切羽詰まった声で、尚も続くのは、

「今回もそうだ。 また、そういう場面が、今で。 ……でも、なんか知らねぇけど、いつも独りだったのに、隣りにはお前が居る」

それは、およそ考え得る限りにおいて、矢車直斗という男が絶対に口にする筈のない文言だった。 “頼る”ということを決して忌避はしないが、恥と等しく思う男が直斗である。 それは、おそらくは直江大和のスタンスへの嫌悪も影響しているのだろう。

決して自分にはもたらされぬと諦めた言葉だった。

……なのに、

「いつか聞いたが、風間翔一には“激運”と評されるものがあって、そしてお前には“天運”ってのが付いて回ってるんだろう、英雄? …………この俺に、懸けてくれるか●●●●●●●?」

それが、今日、冬馬の件を含めれば二度目である。

続いた問いかけに、つかの間言葉を失った英雄は、瞠目しながら、それでも、前方で忠勝の介助を受けながら何事か喘鳴する一子の悲壮な顔を見て、ようやく勘づいた。

ここまでの道程。 直斗にとってそれは、重い、ひどく重い前哨戦だったのだろう。

純粋な憎悪にあらずとも、質を問えば、その感情にほど近い、執念という剛力で回る直斗の中の歯車を、止めてしまいかねない重さ。

いまさら投げ出せる筈もない。 立ち止まったその瞬間から、追い求めたものは無になる。 支払った代価も、積み上げた犠牲も、全て無価値に崩れ去る。 何を躊躇う。 何を惜しむことがある。 清算のときは今この瞬間にも流れているのに。 ……その確信は胸を占めて余りあるだろう。 ……しかし、それでも、


――――間違ってしまったのかもしれない、と。 


正邪の観念を超えたところに身を置いたつもりでも、その想いは、確実に直斗を絡めとりつつあったのだろう。 

当然だ。

この男は今の今まで否定されてきたのだから。

いな”という名の白刃の海を、ただの独りきりで泳いできたのだから。

“自らの心に、目にする万人に、誠実であれ。” ……そう伝道するために、どれだけ自分本位な人間として祭り上げられ、そうなることをどれだけ本人が望もうが、際限のない罪悪を永遠に受け流せるほど、直斗は剽悍な男ではない。

秘めた過去と信念を覆い隠すため、この一年の間に被り続けた純朴と温和の仮面は、しかし間違いなく彼の本性であるのだから。



今ここで初めて英雄は理解した。

生涯最大の戦いを前にして、この男は掛け値なしの限界に晒されているのだと。 

心の底で待ち望み、この一年で生まれて初めて育むことができた家人以外の数多の信頼を踏み躙り、その苛烈にすぎる理想を遂げるに及んで、どうしようもない彼の脆弱が露呈し始めているのだと。

それは、一度この戦地に立った以上、許されるものでもない。 犠牲に対する痛痒は、決して表に出してはならない。 “百代が欲しいという心に殉じ、勝利する姿”――を演じる●●●と定めた以上、一挙手一投足は全てその為に仕組まれねばならない。 ……その、彼自身が取り決めた筈の誓いが、今まさに砕けようとしているところまで来ているのだと。

それに対して自分がしてやれることも、ただ一つきりなのだと。



「……ああ。 全額どころかこの全身全霊、余すところ無く懸けるともッ」



ただ、その背を前に押すこと以外に、何の処方も英雄は持たなかった。



余談だが、九鬼英雄は大戦後、この場面での自らの浅はかさを深く悔いることになる。 このとき、他の言葉を投げかけていれば、未来は変わったかもしれないと。

英雄は見誤っていた。 直斗がここで顕した恐躯は、後悔からだけではなかったのだ。 直斗の恐れは過去と同じく、ほんの少し先の未来にも向けられていたのだ。

合流できた、という安堵が、直斗に残された最後の一手に対する猜疑を上回っていた。 これで少しは直斗も楽になる、という思いが、根拠の無い自信を生んでいた。

まさか、本当の意味で、これ以上に身を擂り潰す真似ができようなどと。 到底、想像も出来なかった。



……だが、それはあくまで余談だ。 今、この瞬間に比べれば、何ら取るにも足らない後日談だ。

このとき、何よりも重要な事実を一つだけ挙げるとすれば。

それは、発するどんな言葉も嘘になりそうなほど、ただ自然に沸き上がる全幅の信頼が英雄の胸の内にはあったということ。

直斗にも、それがわかったのだろう。

そうか、と向けられた鉢金の下の瞳は、氷魚の眼のように、既に頑なな色を取り戻していた。



「どこかそのあたりに、俺の得物が転がってる。 親の形見なんだ。 ……少しの間、預かっててもらえるか?」















無手のまま、英雄の返事を待たずに一歩前進して、中腰になって十勇士と再び対峙する。

動かせない左腕は前方に投げ出すようにだらりとぶら下げ、右は後ろ手に構える。

朱雀軍本隊、ひいては直江大和のリアクションが皆無なのは、やはり由紀江のときと同じ理由によるものだろう。 高みの見物を決め込むようだ。 大和の気質を考えれば、さもありなんである。


「打ち合わせは済んだか? まだ、良いのだぞ? 存分に粘ってくれる策を練るがいい」


十勇士が律儀に此方の会話が終わるのを待っていてくれたのは、単なる侮りもその理由に含まれただろうが、置き捨てた武士の情けというものを、他でもない俺に味わわせる魂胆だったのかもしれない。

視線を英雄から十勇士達に移すと、待ちきれなかったように、流血の予感に昂ぶる言葉が石田から浴びせかけられた。 

九州からわざわざ関東くんだりまで招かれた挙句、待ち望んだ出番はついには与えられず、天幕は下ろされようとしていたのだ。 そこから一挙にこの局勢まで状況を転がし得たのだ。 悦に入るのも当然と言えた。

想像するに、俺が大和の手勢で敗北を喫した際には、百代に纏めて当てられる予定だったのだろう。 ……もしかしたら、彼らにはそのほうが幸福だったかもしれない。

そのほうが彼らの面子は保たれた。 武神を相手取っての敗北は、健闘を讃えられこそすれ、その無残を嗤われることはないのだから。



まさかここから、目の前の死に損ないの愚かしさ加減が上限いっぱいに達して、その真価が発揮されようとは夢にも思わなかっただろうし、“ソレを計る巻尺代わりとして”喧伝されてしまう不名誉を被ることを、彼らは決して望んでいなかった筈だ。



腰のポーチから慎重に、銀白色の細い筒を取り出す。

柄全体が金属で覆われた筆記具のようだ。

その小さな銀筒に容れられた液体が、もしかしたら起こり得た未来の中で、どれだけの人間を魅了し、不幸の底に貶めたことだろう。

益体の無い想像に頭を割きながら、腕時計の文字盤側面に指を添える。

アラームセット。 短く響く電子音。 

そして、








「…………見てるか●●●●ッ? マロードッ!!」








不意を突いて、からからの喉を震わせて、残存する最後の活力を搾り出し、場の空気を止める。

視線はただただ、真下の足袋に向けるばかり。

ぎょっとなった英雄は無視し、その後ろで息を呑む当人●●達にも頓着しないで、ただ、ありのままの想いを触れ散らす。



「俺は、お前に言った。 どんなに穢されようとも、綺麗なまま残るものがある。 また再び輝けるものがあると!」



意地という名のふいごが、消えかけた丹田の火に、更なる焼灼をけしかける。

手放しかけた魂の尻尾を巻き戻すように、ぐるぐるぐるぐると、動く方の右肩を廻しに廻す。



「数多くの試練が俺たちを待ち受けている。 今も昔も変わらない。 どんなところにだって、服従をい、魂を信念を絡めとろうとする者たちが見下ろしている。 どんな強者でも、寄ってくる年波には決して敵わないように、いつか、屈服の時が来るのかもしれない。 それでも、生れ落ちてから、たかだか十数年。 こんなところで早々と負けるわけにはいかない。 戦う自由を放棄して、見下ろしている者たちの言いなりになるわけにはいかないッ」



別に、ズルだって腹芸だって、たまには必要だろうさ。 だけど、それを開き直ってしまったら、だめだろうよ。 そんなに殺伐とした人生が、そんなに楽しいってのか? 

イカサマとゴマスリを誇りにしてる●●●●●●極楽蜻蛉野郎に、百代を託してたまるかッ。 

“手を汚すのに、そいつがやるのが一番都合が良いってことと、そいつがやらなければならない●●●●●●●●●●ってことは、全くの別物だ”――って判ってない奴が、どうして百代の望む“誠”を示せるって言える? 

そんな男を、他ならぬあいつが待ち続けていたなんて、そんな馬鹿な話があってたまるかッ。

――――俺の中の何を犠牲にしても、大和おまえは、変わらなければならない。

その一心で、俺もここまで来た。



「全力を出し切って、死中に活を見出す。 今は、そうすることがたったひとつの方法なんだ。 見切りをつけられない今の俺がッ、今の俺たちがッ、大切なものを失わずに済むためのッ……。 そうとも、マロードッ。 お前がやろうとしたことは、救われようとしたことは、全部が全部、間違いなんかじゃない。 一歩間違えれば、きっと俺もお前のようになっていたさ」



狂気こそが救いの揺り篭。 

獣であれば迷わない。 迷わなければ苦しまない。

苦しみが無ければ何も望まれず、何も託されない。 理性を無くせば、理性の痛みは後世に持ち越されない。

ああ、いっそ畜生に身をやつしたならば、あるいは、この無念を晴らせるのではと。

長きに渡る歳月に、もはや記憶には決して薄くはない忘却のヴェールが纏わりついているが、そう考えた時が、確かにマロードと同じく、俺にもあった筈なのだ。



顔を上げ、空を仰いだ。 冷たい液体が鼻頭を流れ落ちる。 ぽつりぽつりと降り注ぐ雫が頬を叩く。

ちっぽけなこの身を押し込めるように、四方から雨音が迫ってきていた。 水を吸って重くなる装束が湿布のように、首、肩、背と順々に、痛んだしむらを冷やし始める。



何をとち狂ったかと、周囲は唖然と見ることだろう。 

追い詰められた、頭が可哀想な、惨めな男の意味不明の世迷言と、いずれ誰も彼もがこの場面を片付けることだろう。

それで構わなかった。 たった一人、彼以外には、それでまったく構わなかった。

だから遠慮なく、総力を以って狂おしく、咽頭から奇叫を吐き散らす。



「それでもだ、マロード。 俺はお前を認めたうえで、証明してやる。 お前は俺に言った。 こんな汚い世界にこのまま生き残り続けたって、苦しみが待っているだけだと。 そして、俺はお前に言った。 どんなに穢されようとも、綺麗なまま残るものがある。 また再び輝けるものがあると。 ……本心だよ。 汚いものからだって、紛いの無い綺麗なものを創り出せるって。 俺は、本気で思ってる。 それを、“この場で証明する”と、俺はお前に言った。 ああッ、約束したともッ!」



遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ。

それは、策と言うには余りにおこがましく。 

無頼に堕ち切った身にこそ最も相応しいだろう、矢車直斗、正真正銘、最後の鬼札。

守るべきを守り、排すべきを排すための、他の誰でもない己自身の選択だった。

大和を変え、百代を下し、マロードを救う●●●●●●●、その全てを果たすために、俺は武道から永劫、脱落することを選んだ。

英雄に伝えた“秘密兵器”というものは確かに存在していたが、英雄に課した三時間という時限に、特段の意味は無いし、ましてや、葵冬馬の在不在は、朱雀と玄武の勝敗を分かつものでも何でもない。

英雄に頼んだのは、つまるところ、冬馬の真なる救済の機会だった。

そのために、より多くの刃傷を負うことになろうとも、それ以上の価値が、“この場にマロード一派が揃っていること”に含まれていると思ったからこそ、今この時機が来るまで、冬馬の守護を英雄に託していたに過ぎない。

久しく存在を忘れていた、スタンガンを納めるアンクルホルスターの感触に一瞬意識を移し、その出番が未だ果てしなく遠い事を再度確認して、



「今から見せるのがその証明だ。 汚泥を啜りながら前に進み続ける、本当の人間の力ってのを見せてやるッ。 そうして掴み取る綺麗なもんは、何物にも代え難いもんだって、嫌でも思わせてやるよッ。 …………俺はあの時も、今も、まるで諦めてない。 希望と呪いは紙一重ってことも身に積まされて知ってる。 これからほんの少し先の俺も、もしかしたら望みを棄てかけるかもしれない。 けど、少なくとも今の俺は、そんなこと、微塵も思っちゃいないッ」



何故なら戦端を開いたのは俺で、だから、いちばん傷つけなければならないのは俺で。

だから、いちばん傷つかなければならないのも俺で。

頭の高さまで銀筒を掲げ、辺りに示す。



「この手にあるのは、お前が溜め込んだ、ありったけの悪意だ。 この夏にお前が解き放ち損ねた、ありったけのキタナイものだッ!」



それは全部、飲み干してやる。

だから戦えなんて、俺は言えないし、言わない。 ギブアンドテイクの強制は、大和に対する俺の戦い方に相応しくない。

だけど、せめて。



「――――見ていてくれ。 そして、どうか見極めてくれ。 俺の言葉が病葉わくらばかどうかをッ! 本当のッ、最後までなッ!!」



あのコンサートホールで伝えられなかった懇願を、厚顔ながらにやっとのことで言い切れて、緊張に早鐘を打つ心臓は、少し和らいでくれた。

何をしでかすか悟ったのか、背後で狼狽する三人組の気配が真実、小気味良かった。

まさか、と口走ったのは冬馬か、井上か、はたまた小雪だったか。 精神は限界手前まで張り詰められていて、誰の声音か判ずる余裕も失われていた。

膳立ては整った。 とくと御覧じろ。 お立合いだ、この野郎。




「年越しをッ、流動食で祝いたい奴だけ懸かって来い――――ッ!!!」




握った銀筒を睨め据え、一挙動で逆手に持ち替え、所定の引き金を、強張る親指でまずは初段まで絞りこむ。

きしゃしゃん、と。 この上なく無機質で甲高い、金属同士が擦れ合う生理に反する鋭利な滑擦音が耳をつんざく。

肌が粟立ち、剥き出しにされた背骨を一気に舌で舐め上げられるような心地を覚えながら、しかと直斗は凝視した。

筒先から噴出した針の尖を。 気泡を押し出して先走る、乳白色の飛沫を。

信じるぞ、釈迦堂。 そう胸の内に言い添えて、注射筒を握る手に力を篭め、首筋の所定の位置に、素早く針を突き立てる。 


――――キチガイ水で理性トバして釈迦堂さん追い出しておいて、「心が大事」なんて平気な顔で百代に教える欺瞞だらけのあんたにッ


いつか、そんな暴言をまた別の師範代に吐いたことを、ここで思い出す。

何たる皮肉だろう。 まったく大したことに、結局俺も、ダブルスタンダードを使わずにはいられなかったらしい。

ようやっと、あの時のルー・イーの苦しみの一端に触れた気がしたが、だから何だということもなかった。 もう止められない。 もう諦められない。

妥協が服を着て歩いているような男を、払った犠牲に相応しく、今を生きる彼女に似つかわしい人間に変えるために。 決して断じて、諦める姿を認めさせてはならない。

そして、たとえ自滅に等しい愚挙を犯しても、それと引き換えに、彼女を僅かな間でも正気に繋ぎ止めるものが得られるのなら。



……ぎゅっと眼を瞑って、ブツリと皮膚が喰い破られる刹那の痛みを噛み殺し、これからしばらくお去らばとなる痛覚に別れを告げて、指にかけたトリガーを更に引き絞る。

ガス弁が外れ、封入されていた圧搾空気が瞬く間にピストンを押し出して、最後の切り札を血流に送り込む。






一本目シングル”――――予想薬効限界:90分。






自分がかつて持っていた適性は、果たして“武神”の名を冠す彼女の足元にさえ及ぶものだったろうか、それは判らない。

はっきりしていることは、与えられた天稟が同等だったとしても、かたや七年もその輝きが増すよう磨き続けた者と、かたや研鑽を怠け、ここ二月三月ばかりの突貫工事で削り上げた者とでは、明らかな優劣が生じることは当然であることだ。

ならば、幾年もの停滞の成れ果てたる俺は、どうすれば百代に勝てるのか。 如何にして、この差を埋めればよいのか。

その答えを、もう出した後だった。

――――“これまで”という過去の時間を捧げて精進してきた百代を打倒するために、“これから”という未来の己の可能性を代償にする。

その解答の採点を待つ身だった。

真の強さとは、真の至誠とは。 それらを顕す代償として、今日限りで、様々なものを永久に失うことを善しとした身だった。

……同じ釜の飯を食った女に、年端もゆかぬ無垢なる少女に、ついさっき禁じ手を極めかけた浅ましい身だった。 

今更、武道に、川神流に、自分の心身に、未練を残す資格すら許されない身だった。





懸けるは命、刻むは誠。 底無し沼に、また一歩。

今この瞬間に矢車直斗が造り出したのは、彼女が長きに渡り切に望んだ、戦士達の理想郷。

さあ、この身が朽ち果てる前に、早く来い、百代。







                  ――――――お前のユートピアは、ここにある。






















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いくら更新しても500InternalServerErrorが発動して今まで投稿できずにいました…。 舞氏の早期対応感謝です。

十勇士の異名を考えるの楽しかった
油浴怪人(ゆあみかいじん)が特にお気に入り
いつか2chでも書かれてたけど、ルー先生が精神論先行の熱血教師なら、釈迦堂さんは身の程に合った進学先を見繕うリアリストな塾講師っていうイメージ

多くのご感想ありがとうございました。全て拝見させていただきました。感想板にレス返しましたので、是非にもお立ち寄りください。

あと石田についてですが、奥義中の必殺技が電気技ぽかったんで、アドルフさんの特性も搭載させてます。テラフォはMJ連載時代から追っかけてて、単行本は全巻初版で集めてるくらいにはファンです。闇を裂く雷神と書いてデンキウナギと読ませる編集さんのセンスには脱帽。



[25343] 第四十七話:鞘鳴
Name: かぷりこん◆f1242fd1 ID:b0bf6d2e
Date: 2014/02/05 18:46



『“廻光反照”って言葉、知ってるか? 蝋燭ろうそくが消える直前、輝かしく燃えるのを指す言葉だ。 蝋燭ですら、こうしてすべてを燃やすことで自らの証とするんだ。 人間様があんな悪魔野郎一人にブルブル震えてちゃ、みっともないだろ? 勝てる可能性は、やはりゼロだ。 それでも、すべてを燃やしてやるんだ。』

―――文秀(漫画「新暗行御史」第六十八話「廻光反照 Part2」より)

























雨が、薄く細かく降り始めていた。

辺りにくゆり始めた水煙を裂いて、いの一番、決河の勢いで敵手に接近を試みたのは誰あろう、石田鉄鋼が御曹司、西方十勇士を統べる男、石田三郎その人だった。

ぞぶり、と相手が針によって頸部を自傷した瞬間、視覚が聴覚が嗅覚が“異常”を感知するやいなや、石田は前方へ駆け出していた。

知識の蓄積こそ、人間に許された最大の武器である。

経験という前提こそ、人間を育てる最良の師であり友である。

なかでも、身を以って味わった実体験こそ、いついかなる状況でも真に己を支える土台に他ならない。

彼は知っていた。

鍋島正の“本気”を、既に石田三郎は体感していた。

同じ気配を放つ者を、彼は本能に近いところで記憶していた。

彼らを前に、手をこまねくまま待機するのは、忌避すべき一番の悪手であることも身に沁みていた。

だからこそ、体に巻きつき静止を強いる怯みの糸をすぐさま断ち切ることができた。

常識の埒外の実力を、いつ如何なる時にも放つことができる者。 

古来、武に生きる者達は総じて彼らを、曰く“壁を越えし者”、“超越者”、“功夫”、“達人”、“ギフテッド”、“マスタークラス”……と言語翻訳の都合か、呼称は多岐に渡るが、ともかく同じニュアンスの語彙を以ってカテゴライズしてきた。

天下に勇名を轟かすに、これほど相応しい立場は無い。

いずれは件の者共と同じ階梯に上がるべく精進を続ける石田であり、ゆえに師と仰ぐ者も相応の者を見定めた結果、天神館高校に入学したのだった。

現在、十勇士を監督する立場にある鍋島正が、それに当たる“規格外”だ。

西日本で一齧りでも武の薫陶を受けた者に対して、その誰何すいかを問えば、一万円札に誰の肖像が記載されているかを答えるのと同じ要領で返答が為される――――それだけ高名な人物であり、噂に違わぬ異次元の力量を湛えた傑物である。

入学当初は、一太刀打ち入れる所か、触れることすら叶わず、ただその挙動に戦慄するばかりだった。

死を容認し、観念すること。 それが、入学時に執り行われた力試しの決闘後、石田が最初に訓じられた詞であった。

薩摩武士の刹那的な死生観。 一撃で殺せねば、潔く斬り捨てられるべし。

土地柄に影響を受けたか、示現流の教えも汲んだ鍋島の指導は、徹底してスパルタだ。

裏を返せば、鍋島につきっきりで教鞭を執らせるほど、極めつけに優秀な武術の資質を石田は保持していた。

無論、世界有数の鉄鋼企業である石田の実家の後押しを受けられることも、私塾の理事を一手に引き受けている者として魅力的なものであったが、それはあくまで状況に付随する事項でしかない。

婦女子が台頭し始めた日本の武林において、久方ぶりに四天の玉座に届くか否かという“男児”を、この手で育成することに、並々ならぬ気炎を鍋島は上げていた。

そしてその熱意に応えてきた石田は、やはり俗に言う“本物”だった。

九鬼揚羽の再来とも呼ばれる、財と才を兼ね揃えた、輝ける西方の至宝。

だからこその、



「光龍ゥッ覚醒ェエエエ――――――ッ!!」



人智と神秘の狭間で生きるのは、何も“壁”を越えた者のみにあらず。

致命的に変質した空気に気圧されながらも、そうほくそ笑むだけの余裕が石田には残っていた。

目前の男、矢車直斗は驚異的な脅威と成りつつ――――――今、成った。

……なるほど、確かに十勇士に助勢を頼ませるだけのことはある。

だが、常識を覆す秘策なら、石田三郎にもまた、ただ一枚の切り札があった。

師である鍋島をも圧倒してのけ、武神だろうと容易に破れぬだろうと自負できるほどの、とっておきの切り札が。

風を切って身を投げ出しながら丹田に活を入れ、ふところに潜めた超常の大権能を解き放つ、その用意を石田は整えた。



――――光が、つどう。 



沸々と滾らせた闘気が体外に滲み出て、竜巻のように渦を巻き、徐々にその速度を増してゆく。

戦闘機のアフターバーナーよろしく、ジェット噴流が後背に流れ出し、石田の疾駆もまた加速する。

それは、まさしく“変身”だった。 



「オォオオオオオオオオ――――――ッ!!!」



旋風の中心で弾ける雷光が全身を照らし、山吹色の具足と化して飾られてゆく。

一歩一歩、足を踏み出すごとに、輝きが輝きを呼び、周囲の大気は更に更にと束ね上げられる。

吹き上げる電磁氣が頭髪を逆立て、色素は抜かれて黄金に染まる。

常よりいっそう吼え猛る龍の因子が、更なるエネルギーを地形から吸い上げ、丹田にて濃縮してゆく。

もとよりこの御業は、川神流“生命入魂”なる象形奥義の雛形ひながただ。

この決戦場――――川神流開闢の祖たる川神初代と縁を結ぶ、霊験あらたかな丹沢聖山の中にあれば、地磁気の相性も抜群に良く、大地に流れる気脈の加護も絶大なものである。

川神学園全体に対する過剰に過ぎる石田の挑発の数々は、奥義の発動前から感じた、自らの常に無い絶好調のコンディションに増長したことも遠因だった。

金色の曙光を身に纏い、稲妻に具現を果たした彼の猛気はぜに爆ぜ、周囲の空間を蜘蛛の巣状に裂いてゆくばかり。

握られた一刀に篭められる紫電のみなぎりは、誰の目にも明らかだ。

有名有実。 決して、安易な親の七光りを以って、西で指折りの猛者共を率いているわけではなかった。

その眩く絢爛な威容こそ、危急の刻のみ顕れる“十勇士最強”も認める、石田三郎の類稀なる将器に他ならない。





……もとより石田とて馬鹿ではない。 

相手の全力を引き出すべく煽るような言動を弄したものの、だからと言ってこちらも全力を注ぐなど愚の骨頂と断じていた。

川神の妹が打ちのめされる頃合までに見立てたところ、矢車直斗は、“壁”を超えてはいない。 それが石田の結論だった。

実力的に言えば、石田と同等か一段下か、というところである。 その推測は間違っていなかった。

万全を期すためと臣下の忠言を受け入れたが、単純にこの八人懸かりで囲い込むというのでさえ、こちらの戦力過多と感じていた石田である。

四天の一角たる黛由紀江を落とした技量は見事の一言だが、もう一度同じ決闘が試行されたなら、まず間違いなく結果は真逆な筈だ。

所詮は奇襲で勝ちを拾ったようなものだ。 ……直斗が危惧していた通り、その事実を看破するだけの眼力を石田は備えていた。

大口を叩いた手前、目前の矢車直斗を先頭とする一団を殲滅することに変わりはないが、この川神大戦への参戦は、天神館にとって、あくまで過程の一つに過ぎない。

鍋島が実施に向けて奔走中である東西対抗戦こそ、十勇士にとっての本戦である。

もとより、今臨んでいるこの戦いの発端は、大将同士の恋の鞘当てから始まったものと聞き及んでいた。

そんな幼稚な事情に付き合って、こちらの手札を詳らかにひけらかすというのは馬鹿のやることだ。

能ある鷹は爪を隠すものであり、その上で川神側の戦力を偵察し、且つ、消耗しきった朱雀軍の最終目標を撃破することで、戦場の内外に“十勇士ここにあり”と認知を促す。

それが石田の狙いだった。 そうするだけのゆとりがあった。

後に控える東西対抗戦にも備え、秘中の秘たる“尼子の瞬間移動”、“十勇士最強の男”、そして何より“己の最終奥義”の正体を、この場で晒すつもりは毛頭無かった。

特に、ほんの僅かとはいえ寿命に関わる自身の特技に関しては、厳重な自制を強いていた。




……その自制を解かざるをえないほどの、桁違いに強烈な殺気プレッシャーが襲ってくるまでは。






さてにも、経験則に基づく第六感で感知した理解不能の恐怖に飲まれてなお、前後不覚の一歩手前で踏みとどまり、素早く冷静に状況を分析し、自らに課していた奥義の使用制限を破る英断を瞬時に下し、気配を豹変させた直斗の体勢が整う前に間合いを一挙に詰め終えた石田は、流石に武林で名を馳せるつわものなだけのことはあった。



――――光が、奔る。



袈裟懸けに振り下ろしたのは“稲妻刃イナズマブレイド”。

事実、稲妻の速さで放たれた一撃を、武装も解除され、片腕の自由も利かない直斗が、どうして阻めようものか。

繰る得物が本身の真剣であれば、兜割りすら難なくやってのけ、たとえ模造刀だろうと相手が無防備であれば、太刀風を浴びせただけでも脳震盪を引き起こす。

直斗の頭部を覆う鉢巻が衝撃を如何に分散しようと、まず失神は堅い。

先手の必勝を期し、狙い定めた極光の一刀は、果たして何にも阻まれることも無かった。

直斗の頭蓋へ、その光芒が一閃した後、



―――――――しかし、直斗の佇立の姿勢が崩れることも、また無かった。



打突の瞬間、心持ち首がかしげられ、生まれた傾斜が直斗の正中線を湾曲させて、石田の必殺の機を逃させていた。

剣は、相手の額の皮と鉢金の布を擦過するだけに留まった。

曲面で構成される人間の頭骨は、生命維持に不可欠な脳を守る為、衝撃の有効角度を狭めるべく球形に定向進化してきたという説がある。

防弾具がふところに巻かれている場合を除き、実戦射撃の原則として、ヘッドショットが忌避される所以ゆえんだ。

たとえば、観葉植物の葉が鉄の銃弾を弾く。

あるいは、劣勢に立つボクサーが苦し紛れに放ったひ弱なパリングが、渾身の拳を送った相手の肩を運良く脱臼せしめる。

直斗を救ったのは、そのような事例に代表される非常に稀有な“間の良さ”。

運命の女神の悪戯を疑うべき絶妙な“噛み合わせ”。



――――なれど偶然では断じてない●●●●●●●●●●●●ッ!?



この男は、意図的に、打撃の有効角度を最小限度の動作で逸らした。

その直感が確信に変わるまでに、石田は更に三つの打ち下ろしと二つの逆袈裟の剣路を要した。

猛然と大気を裂き鳴らし、踊り狂う雷刃の繚乱。

退かず進まず、満身創痍の五体をその渦中に飲み込ませながら、あくまで直斗の挙措は緩慢なままだった。

まるで百戦錬磨の千両役者が、万日の稽古を積み終えた演目を舞っているかのような、自信に満ち溢れた足の運びと手の配り。

動きの全体を喩えるならば、それは立ち昇る狼煙の一条だ。

飛び交う刃が吹かす風に、ただ煽られる煙のように悠揚と身を捻り、綽々と体を流す。



「――――――馬ッ、鹿なッ!?」



たったそれだけの僅かな体勢の変化によって、唸りを上げる太刀風の一陣も、刃上で爆ぜる稲光の一筋さえ、彼の身に触れることすら許されなかった。

一撃目を除けば、既に掠る事も叶わなくなっていた。

速さでは明らかに石田が勝っている。 にもかかわらず的を外す理由は、一つしか考えられない。

弛緩した全身の中で唯一強張っている箇所、鬼気迫る直斗の眼光をついに直視して、石田はようやく合点する。

遅きを以って速きを制す。 軽きを以って重きを制す。 

そんな真似が許される場合とは、つまり。

読まれている。 どうしようもなく読まれている。

全くの初見である筈の自らの動きが。

超常のまじないにより、倍速以上で繰られる四肢の動きが。 先の先まで。

絶句する中で、それでも石田は閃いた。



――――ならば、己以外の動きは? それとすり替えたなら●●●●●●●



片腕が封じられたまま大胆不敵にも、ついに無手の間合いに踏み込む気配を見せた直斗に先んじて、思考に先んじた脊髄反射が石田の謀略を既に実行へと移していた。

殺気の金縛りの直後、もしくはその最中である。

定めておいた手信号に反応できるか、それは個人の力量に懸かっていたが、石田は彼に全幅の信頼を置いていたし、その判断は正しかった。

間もなく、奥義の発動により常より気息が充溢した状態にある石田の知覚は、無二の相棒が声を上げる愚を犯さずに、沈黙を保ったまま、そっと砂利を踏み締めた靴底の音を聴き分けた。

主従の絆は、ここでようやく恐懼に打ち勝った。

次に石田がすべきは、直斗の注意を逸らし続けること、その一点。 

即ち、陽動である。



「――――呵ァッ!!!」



気合一閃。

一歩後退して直斗を惹きつけた次の瞬間、酷使される横隔膜の痛みを堪え、鋭い吐息とともに放つ“御雷纏ミカヅチコロナ”……自らの身に過剰な電光を更に一斉に集わせ、半秒の間だけその身を閃光弾と化す、目潰し・目晦ましの発勁である。

目に見えてそれと判る予備動作に、直斗が光源から顔を背けるのは想定の内。 

その隙に付け込んだ石田の袈裟懸けの一閃が、真後ろへのバックステップで避けられるのもまた想定の内。

前方へ飛び上がりざま、発勁を解いて直斗の目が己の身に戻ったことを確認した石田は、敵の背後にちらと視線を流した。

警戒対象を絶えず目まぐるしく切り替えさせ、混乱を狙う手である。

直斗は釣られて視線を動かすようなヘマを踏まなかったが、逆に釣られまいと身構え、上空の石田に意識を集中し過ぎるミスを犯してくれた。



――――かかったッ!



石田が稼いだ隙にあやかり、地面すれすれに身を屈め、全速力で戦場を迂回しながら潜行し、道程の三分の二を消化し終えた島右近もまた同じ想いだった。

槍使いにここまで接近を許せば、攻撃圏外への脱出はまず間に合わない。

十勇士でも三位の力自慢である島の剛槍は、片腕で捌けるほどヤワな代物でもない。

助走の勢いも付加された、高速で迫る横薙ぎの最大範囲攻撃を跳躍して避け得たとしても、“真空雪風巻”の後手は四通り。

仮にそこで討ち漏らしたとしても、真上で緩やかなホバリング下降を続ける石田が、すぐさま捕捉する。

身動きの取れない空中ならば、稲妻と旋風の加護を受ける石田の独壇場だった。

いまさら直斗がどう動こうと、回避は叶わぬ相談だ。 まさしく起死回生のコンビネーション殺法である。



「覚悟ッ!!」



……野太き叫びとともに真横から猛然と迫る島の槍柄に、だがこのとき、直斗が信じられない動きで応じる。

無防備な頭を上段に残したまま、観念したように首を竦め、地に膝をつけ、自分自身を掻き抱くように両腕を前で組んだのだ。

あれほどの生き汚さを晒した男が、である。

油断を誘う卑劣な一手か。 それとも単に伏せて避けるための拍子を取り違ったか。

いずれにせよ、島の全力を振り絞った打擲は、陸亀よろしく縮こまり、ちょうど撃ち頃の高さにあった直斗の片肘を、あやまたずに撃ち抜いた。

それが、誤りだった。



「――――はッ!?」

「ッ!? 下がれ島ァッ!!」



攻め手の二人が共通して、意識の内から締め出していた項がある。

位置を外した、直斗の左肩の存在である。

油断を捨て去るために、敢えて考慮に入れていなかった片手の不自由という直斗の不利が、今ここで彼らに直斗の狙いを明らかにする。

島がそれに思い当たったのは、悲しいかな、着撃の瞬間。 

直斗が右足の踵を滑り止めのアンカーとして地に突き立て、すべての衝撃のベクトルが左上腕骨頭と関節窩の接触部に集約されるよう期された末のことであった。

身の毛の弥立つ鈍い音を十数メートル先まで響かせ、まんまと他力で肩を嵌め直した●●●●●直斗をしかと見て取った石田の胸中には、何よりもまず怒りが先に立っていた。

小癪に立ち回る直斗への怒り。 手の平で踊らされた自らの不甲斐無さへの怒り。

姿勢を整えながらも、石田の降下から一向に身を翻す素振りを見せない直斗を、石田は殺気を孕んだ視線でねぶり上げた。


――――十勇士を、嘗めるな。


今しかない。

一瞬で沸騰した感情に押し流されながらも、眼下の状況を空中で余さず知覚できた石田は、頭の冷静な部分で悟っていた。

直斗の両腕が完全に繰られる前に、このまま上空から完膚なきまでに圧し潰す。

こちらの策は半ば破られたが、この瞬間の奴の状態も、万全なものとは言い難い。

関節が接着直後である今、最高潮に達している筈の直斗の左腕の痺れやら痛みやらが消える前に、なんとしても勝負を決してしまう必要を、石田は先読みしていた。

あれだけ強引な整体である。 神経が巻き込まれ、機能不全に陥っている可能性もゼロではない。

今が、唯一無二の勝機だ。

だからこそ直斗の意図を察した瞬間、石田は巻き添えを食わさぬよう島を下がらせ、乾坤一擲の一撃を放つにあたっての後顧の憂いを払ったのである。

大上段に太刀を構え、瞬時に地面への逆噴射を解いて背に気流を吹かし、ワイヤーアクションさながら、一瞬の無重力状態を利用して体を反転させ、落下の最中にもう一度体を反転させ、反転させ、反転させ、反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転させ反転――――――――――――。




「るうぅぁあああああああぁぅあぁぅあぁぅあぁぅあぅあぅあぅあぅあぅあぅあぅあぅあぅあぅあぅあぅあぅあぅ――――ッ!!!!」




ドップラー効果に浸かりゆく気合いが、山間に木霊する。

その断撃の全貌を形容するには、ギロチンという表現すら生ぬるい。

鼠花火のように火花を散らしながら全身を垂直回転させた石田は、あらゆる固体をバターのように切り裂く、巨大な電動カッターにその身を変えた。

丹田の螺旋を辿り、全身を巡りに巡る“氣”に蹂躙される彼の肉体は、今、人であるための機能を忘れ、断空する刃の駆動装置、その一部品一回路と成り果てる。



……この石田の処断は与えられた全ての情報を統合した上で下したものであり、やはり的確な処断だった。

しかし、ここにただひとつ、彼には知り得ず、知っていれば、少なくとも、彼らの生き残りを彼ら自身が左右できただろう事実があった。

それは麻酔代わりのベルセルク効果が、先の薬物投与によって直斗の体に作用していたことだ。

既に直斗は痛みに怯まないどころか、五体を十二分に駆使できる環境にあったことだ。



幾筋もの稲妻を刃に帯びながら、超速回転で肉薄する人間メタルハーベスター。

真っ向からそれを迎え撃つ直斗の体勢は既に、元川神流師範代・釈迦堂刑部が直伝、“夢幻の構え”に移っていた。

繰り出されたのは――――、



『オイコラ、薄目開けてんだろ?』

『だから、得物を見てんじゃねぇってんだよッ。 テメェ、それを千人相手にいちいちいちいちやってたら、ホントに目玉が皿になっちまうぞ?』

『動くのを認めてから獲りに行った所で、間に合わねぇに決まってんだろう? 見るな、感じろ、馬鹿が』

『百代はものの三分で仕上げたぞ、三分で。 しかも、八年も前のガキの頃だ』

『今回は、得物の種類も素材も質感も、あらかじめ解ってんだぞ? この程度の初歩に何時間かけるつもりだよ、ぇえ? さっさと片付けちまえ』

『チッ。 ……ったく、しゃあねぇなぁオイ。 どけ、もう一度見せてやる。 相手しろ、アミ』

『あ~あ~、やっぱテメェ向いてねぇわ。 使えねぇ』

『これ以上は徒労だな。 黛の娘っ子あたりにゃ良いカードになりそうだったんだが』

『はいはい、もうやめやめ。 つーことで、スパッと忘れろ。 一応、裏奥義扱いだからな、コレ』



追憶の走馬灯が流れる先で、繰り出されたのは――――、







                  川神流 “無明白刃取り”







―――――絶技、ここに開眼。

パン、というありがちな音さえ立てずに、直斗は閃いた白刃を両掌で挟み止めた。

その両手を基点として生じた風圧は、その光景から一拍遅れて、見守る者たちの下へやってきた。 

衝撃に微震する大地。

空中に舞い散らされる砂埃。

重力に反逆して弾け飛ぶ雨の粒。

包囲壁から漏れ出た疾風は、奥にあったコメツガ林を一斉に震撼させて余りあった。

緩い衝撃波に巻き上げられた粉塵が、濛々もうもうと戦場に立ちこめる。

挟まれた刃が脇に逸らされると、そこからは早かった。

体勢を低くして、腰丈の高さにたゆたう砂塵の煙幕に直斗が紛れた後の行動は、まさに電光石火の早業だ。

姿勢を崩した石田の脇に、渾身の内廻し蹴りが叩き込まれ、強引に上体が浮かされる。

輝ける龍の加護はこれを最後に仕手を見限り、光の鎧は露と消え失せ、石田虎の子の切り札は破られた。

戦いの趨勢に内心の唖然を隠せず、棒立ちしていた島の真横に位置を変え、石田と島の中間点にぬっと姿を現した直斗は、ダブルラリアットの要領で二人の首元へ両手首を滑り込ませる。

すべてが彼らの認識を超えていた。

いったい何処で手を誤ってしまったのか、それすらも解らない。

胸に抱き寄せられるようにして、瞬時に膨れ上がった直斗の上腕二頭筋が絡みつき、慄然と首を竦めた両者の頚動脈へと鮮やかに決まる。



ここで初めて石田三郎は理解する。

自分の知覚した何もかもは、全て囮だったのだと。 

最小限の労力で最大の結果を得るべく誘い込まれ、まんまと勢いづいた所を逆手に取られたのだと。



ここで初めて島右近は理解する。

今、自分たちは生ける肉の盾となっているのだと。

万が一に飛来してくる毛利と大友の飛び道具を封じるべく懐に取り込まれ、案山子同然の牽制役として、これ以上に無い無様を周囲に晒しているのだと。



最後の意地を見せるように揃って腕に手をかけた石田と島だったが、それぞれの首と直斗の両腕の間には、爪の先さえ入れる隙間も無かった。

ドーピングにより脳内のリミッターを外された筋骨は、どこまでも強靭で頑なだった。

彼ら二人に共通して幸せだったことは、この次の瞬間昏倒してゆく中で、苦しいと思う暇も無かったことだった。

意識を失うのは、とんでもない快感だ。

何も見えない暗がりのなかに堕ちてゆく。 心は安らぐばかりで、とても気持ちが良い。

もやいが解き放たれた精神は、忘却の海を漂流し、やがて溶けゆく運命だ。

何を思い煩うこともない。 

苦痛も不安も憤怒も心配もない。 

自身と母校の面目が一瞬で丸潰れした事実も、思索の埒外だ。

当然、川神大戦や東西対抗戦の行方も、後方に控える同志も、取り囲む川神の有象無象も、武道四天王も、直江大和も、川神百代も、すぐそばで夢枕に立ち会う矢車直斗さえ、関係が無くなる。

酸素を断たれて意識が途切れるその瞬間には、未来などゼロなのだ。 

くっきりと明るかった風景の色が、淡く薄れて消えゆくだけだ。

“死ぬのがこの調子なら、悪くない……”

最後に去来した感慨もまた同じくした石田三郎と島右近の両名は、こうして限りなく穏やかに、そして速やかに大戦から脱落した。

彼らが砂利の上に体を投げ出したのとちょうど時を同じくして、山間を奔る微風に土煙は吹き散らされ、僅かながら勢いを増しつつある小雨がそれを治めて、傍観者達の視界がほのかに晴れ渡る。



霊山を覆う雨雲の下に残っていたのは、今日というたった一日に、魂の全てを焼き付けゆく、一人の戦士の孤影だけだった。












<手には鈍ら-Namakura- 第四十七話:鞘鳴>












最高の覚醒感が続いていた。

一挙に大将と副将を失った天神館の残党が、ここでようやく動きをみせる。

半ば自棄に駆られて突貫する側、慄きながら一旦その場を退いて反撃の機会を窺う側。

そのどちらに別れようと、このときの俺には彼らの表情が明瞭に見えていた。

力みからか、茹で蛸のように全身を紅潮させた長宗我部宗男の、肘先に奔る油の一滴一滴も、全て鮮明に見えていた。

焦燥からか、梳いたばかりの紙のように顔を白くした毛利元親の、牽制の一矢を放つ瞬間のトリガーの動きも、嫌に緩慢に見えていた。

ミリも負ける気がしなかった。

今なら、たとえ世界中を敵に回したとしても勝てる自信があった。

虚飾、痛恨、重圧、不和、打算、欲望、憤怒、悲哀、楽観、孤独、そして血統。

世界を捻くらせる全ての要素を斬り裂き、穿ち抜き、抑圧から解放するだけの力が、今の自分には備わっている。

支配している、と思った。

自分を取り巻く世界も、自分の肉体が持ち得るポテンシャルも、その全てが自分の意志の支配下にあると。

こうして背中を向けていても、黒ずくめの乱破者が投じた暗器の接近を余さず捉えられていた。 

八時の方角。 右も左も敵だらけの状況で、何故その一人が最初に動くと予想できたのかは分からない。

ともかく、揺れた風の音が、踏まれた砂利の音が、最も強く『お前を殺す』と告げていた。

それに対する防禦が、次手として最善手であることも、併せて。











鉢屋壱助が覚えていることは少ない。

このとき、果たして直斗は動かなかった。

結果、延髄へとあやまたず迅速に奔らせた三本の苦無は、寸前の虚空で忽然と掻き消えた。

ただ一人、投じた当人たる鉢屋のみが、凶器の行方を見届けた。

もとより待ち受けていたかのように、首の裏に唐突に差し出された敵の右手、必殺必中の三本はその指間に、文字通り吸い込まれるようにして、収まってしまったのだ。

そう。 肩から先の動作を除けば、直斗は微塵も動かなかった。

次の瞬間、そっくりそのまま得物を投げ返され、迫る二条の凶器の軌跡を見切り、回避に体を捌いた鉢屋の眉間に、残る一本が冷酷に突き立つまでは。











また一つの“波”が、首筋から這い上がってきた。



「――――ぁ」



これは大きい。

思わず発した呻き声は、風に掠れて自分の耳にすら届かない。

体の底で、何かが鋭く破裂した。 一点で弾けた力が体中に、指の先まで。

これは拡散か、それとも集中か。

エネルギーの流れが余りに速すぎて、どちらなのか区別がつかない。 あるいは両方。 そうだ、循環だ。

全てを飲み込む竜巻のように、渦を巻いて身の内に充満し、夜空に瞬いては消える大輪の花火のように、体外へ発散してゆく。

その繰り返し。

音が更に一気に遠のき、脳髄が冴え渡った。

馳せる自分の姿を、もう一人の自分が俯瞰しているようだ。 

呼吸が急に楽になった。 

降り注ぐ水の粒子が、その一つ一つが、ひどく鮮明に視界を過ぎる。

この感覚はなんだ? 

頭の中が蜂蜜入りの炭酸水で充たされたよう。

熱狂と紙一重の静寂。 ひどく矛盾に満ちた体内感覚。

視覚と聴覚と嗅覚と味覚と触覚が、丸々ひとつに纏められて、大量の情報に脳が溺れかかっている。











こちらにつつり。 あちらにつつり。

千鳥足で間合いを幻惑しながら回避を続け、特製連弩の装填のタイミングを読んだのか、ついに敵は毛利元親の前へ一直線に突進してきた。

残弾はゼロ。 大友の援護は、彼女の武器の特性と現在の位置関係からして、望み薄。

傍目はために見れば、絶体絶命の窮地である。

しかし実際は正反対。 毛利にとっては、己の脆弱を敢えて曝け出して油断を誘えるこの瞬間こそ、絶好の勝機だった。

弾込めの美技とは即ち、極めて滑らかな装填。 そして滑らかさの秘訣は、驚異的な速度と直結する。

スプールを引いて、中折れ機構を露わに。
血振りするように銃身を落とした勢いそのまま、空弾倉を弾き出し。
それと同時に、もう片方の手に用意していた新弾倉をラックに滑り落とし。
再び銃身を撥ね起こして薬室を閉鎖し、ドローパウンド80ポンドの重弦を手早く張り終える。

所要時間タイムは、ジャスト0.50秒。

その道のプロ御用達の最高級ガンオイル、歴戦の汗を吸い取ってきた馴染みの胡桃材の銃把に、なにより毛利自身が積んできた技の“功”。

以上の三要素が合わさってのみ成せる、熟練の手捌きだった。

直斗は拳打にまだ三歩遠い。 直斗の回避は間に合わない。

その手には、もはや防ぐ術など皆無だ。


    ――勝った。


生死が定まる刹那の、なんと甘美なことよ。

慈悲だ。 その屈辱に塗れる胸に、瀟洒な勝者ワタシの名を刻むことを許そう……。

一発でも被弾すれば即退場。 その状態の直斗が銃口に目を見張る気配にほくそ笑みながら、毛利は三点バーストで確実に獲物を屠りにかかった。



……だが、彼が最後に見た景色は、失意にうずくまる敗者の背中などではなく、ただ一面のダークブラウン。

勝利への確信から転じた恍惚に、ついぽっかり口を開けたことが仇となり、毛利は生まれてこのかた初めて、土の味というものを大いに噛み締めることとなった。

毛利が思考した通り、直斗の手には、もはや防ぐ術など皆無だった。

椎名の遠的矢や、鉢屋の放った苦無などとは話が違う。

発射直後の、初速は銃弾と大差無いクロスボウから射出された鋒矢を、その手で余さず摘み取る芸当なども出来る筈が無かった。

確かに防禦の術は直斗の手には無かったが、…………しかし足には有った。

拳打の間合いニ歩手前、麗弾の射手がトリガーを引き絞る寸前の拍子を正確無比に見計らい、足元の土砂を直斗は蹴り上げていた。

湿った砂を盛大に被って怯んだ毛利の顔には目もくれず、瞬時に間合いを詰めて飛び道具のアドバンテージを潰すと、その手首ごとクロスボウを手刀で地面に払い落とし、鳩尾に拳を一発。

ゲッと体を折った毛利の足をすかさず払い、長髪に左の指を絡ませる。

右手は脚絆のベルトを掴んで固定し、気絶した彼を持ち抱えたまま肉壁とした直斗は、次なる敵のもとへと足を向ける。

中国の麒麟児、その流麗なる外見は既に、美と対極の位置に貶められていた。











視覚よりもなお明晰に。

聴覚よりも尚鋭く。

嗅覚よりも尚敏く。

味覚よりも尚著しく。

触覚よりも尚直感的な。

一切の死角の無いダウジングマシーンと化した精神は、全天球シアターのように周囲一帯の全景を映し出している。

自分の行くべき道は、ほんのりと赤く輝いている。

こちらに向かって躍り掛かってくる人々の未来位置と、彼らがそこに至るための経路は、残像まで余さず緑色に染め上げられている。

その二色にのみ色分けされた世界に、いつの間にやら没入していた。

まるで万象を予知するカーナビが頭に積まれたみたいだ。

目的地周辺です目的地周辺です目的地周辺です目的地周辺です目的地周辺です――――。



……ああ、これは。



このまま帰ってこられなくなりそうなほど、気持ちがいい。

なんという官能。 なんという愉悦。

恐いぐらいだ。 赤く輝く光のほうへ、たったひとりで押し流されてゆく。

誰も邪魔をしないでくれ。 このままでいいんだ。 このままがイイんだ。 

このままイけ。

もっともっと遠くに遠くに。

光に焼き尽くされても構わない。

ほら、もう少しで果てが見える。

あのあけの綺羅星まで、あと、もう少し――――。











「無鹿咆ッ――――」

哮ォッ、と叫び終えるのに先んじて砲声がどよもし、大友焔が抱える一門の大砲の筒先から霧吹状に射出された手矢ダーツの群は、必中射程にある万物尽くを針鼠にするべく猛然と裂空する。

撃ち終えたならもう一門。 撃ち終えたならもう一門。 景気の良い爆音の無限連鎖が、仕手と仲間の不安を纏めて吹き飛ばす。

恐るべきはその攻撃密度。

扇形に広がる散弾道に加え、壁際に後退し、尼子晴の手勢を借りて壁外からの弾薬の補給線を引く事により、機動を犠牲にしながら包囲網内の四半分を間断なく弾幕で覆い尽くす一手は、下手に動くより余程効果的な戦術であった。

絶えず山間を木霊こだまする砲撃の音色は、かつて無鹿の河口にて島津の大軍勢を脅かした頃と、些かも変わっていなかった。

―――直江、大和、か。

心の隅の、そのまた隅のあたりで燻る淡い憧れも糧にして、激烈な発射反動と放熱ジャケットの熱気に耐え、今一度とダーツの雨霰あめあられ

目視可能領域、その全圏を、トリガーを引き絞る数だけ蹂躙し続ける。

恋花火と言うには、余りに硝煙の香りが効き過ぎていた。



「うおおおおおおおおおおッ!!!!」

その弾雨の中で、際限なく自由自在に動けるのはただ一人。

全身にオイルを塗れさせ、やじりとの摩擦係数を限りなくゼロに等しくした、被弾知らずの長宗我部宗男のみ。

雲を衝く巨躯。 その皮膚に流れ張られる油膜は、さながら鰻や鯰の粘膜のように、接触した万物を逸らしに逸らす。

そうして生じる跳弾の行方を、ある程度指向することも、長年の鍛錬を積んだ彼には可能だった。

本場トルコの油相撲に揉まれ帰国して数年。 どれだけ色物武術とけなされ、どれだけうら若き婦女子に気味悪がられても、彼は自分の流派を誇り続けてきた。

“俺流”を標榜する鍋島学長の眼鏡に適い、西方十勇士に数えられるまでに自分の技術を磨き上げてきた。

―――オイルレスリングこそ至上にして最強。

いつの日か、そう世に知らしめることで、棟髪刈りモヒカンに加えて二時五十分丸出しの格好の自分を、敬遠の素振りすら見せず、温かく受け入れてくれる瀬戸内の故郷の人々に報いるために。



「そういんさんかいして、あいずにて、いっせいとつげきっ!」

武者震いを両腕の鉤爪を擦ることで誤魔化した尼子晴は、後方に控える自らの親衛隊たる尼子兵二十余名に檄を飛ばし、覆滅の円陣を組ませる合図を送った。

やんぬるかな、もはや特攻も已む無しだ。 大友と長宗我部の奮戦後、弱ったところを仕留める役どころとはいえ、半数以上の犠牲は免れないだろう。 それだけの剣の遣い手だ。

黒い碁石のような瞳を部下に向けて、そう黙したまま伝えれば、常と変わらぬ威勢の良い返答が、首肯と共に全員の口から飛び出した。

曰く、

――我ら尼子兵団ッ

――――恐れ多くも西方十勇士が御一人ッ

――――――尼子晴閣下の影を自任する者共ッ

――――影を踏まれて誰が痛みッ

――誰が悲しみましょうやッ

――――我ら総員揃って意気軒昂ッ

――――――諸共に報仇の決意に燃えッ

――――彼の奴輩に断固たる鉄槌を下す覚悟ゆえッ

――己が死番も厭わずッ

――――同胞の死に花に羨望を抱きッ

――――――敵地に屍を晒してこそ至上の勇気ッ

――――これぞ大いなる名誉と心得ッ

――尼子兵団の心意気と存じッ

――――死中に団の“活”ならずともッ

――――――我らが主の“勝”を見出しッ

――――御届け申し上げる所存ッ




「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「尼子閣下に光あれッ!!ロリショタ万歳ッ!!」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」



事前に示し合わせたわけではなく、ただこの瞬間、彼ら彼女らの胸中が渾然一体であったことで、一人一人が吐き出した一つ一つの文節が、更なる意味を織り成して連なった。

どこまでも真摯なる紳士淑女手遅れ共の集まりであった。

部下達の頑と揺るがぬ決意を素直に受け止め、純真な胸が高まると、思わず尼子は、その集団に混じる血を分けた妹に目を向けた。

自分と瓜二つの身元を黒頭巾ですっぽりと隠した双子の片割れは、微かに、そして確かに頷き返してきた。













立ち向かう彼ら彼女らにどれだけの想いがあり、どれだけの願いがあり、どれだけの誓いがあったとしても、この身を阻むには及ばない。

今回は、ただそれだけの話だ。

そうできるだけの代償を積み上げた末の結果を、迎えるばかりだ。

実に容易いことだった。



――毛利の五体を盾に、大友が降らせる矢雨の射程に入る。

一瞬の弾幕の切れ目を見て、針鼠あるいは生ける剣山と化していた毛利をすぐさま投棄。 



――真横に現れた長宗我部の腕を潜り抜け、その顔面を右袖で払拭。 

ただでさえ呼吸によって油が薄まり乾き気味だった、鼻の下の絶対急所を確認。

無防備同然となった大男の人中へ、すかさず左腕の裏拳を叩き込んで無力化。 



――ストライド走法で間合いを幻惑しつつ大友に再接近。 

向けられる筒先。 

砲塔を昇拳で撥ね上げ回避。

そのまま股下に踏み込んで、丹田への追い突きで制圧。 



――残心の最中、四方八方から圧し包むように飛び掛ってきた二十二名。

意よりも先に動いた背筋が、腹筋が、腰筋が、四肢の腱が、大友の大砲を奪いながら、地を這うヤモリの如く全身を沈み込ます。

仰向けの体勢になった瞬間に上空に向けて引き金を引いて即応即殺。 



――跳ね起きざまに待ち受けていた尼子と黒頭巾による鉤爪乱舞。 

左右で一対の双爪を備えた二人が前後から挟撃を仕掛けてくるところに、手持ちの空大砲を振り回して五秒の間だけ応戦。 

四つの凶器から繰り出される怒涛の連撃に耐えかね、生身を晒す寸前で武装を解除、ホールドアップ。 

二方向からとどめの双撃が放たれる間際、顎先を上げ、視線を空に向け、注意を喚起。 

まさしく急転直下。 尼子衆の迎撃に筒先から放たれたのち、的を逸して振り落ちてきた矢の存在に意識を割かせる。 

下肢の運びは間に合わず、そのまま構わず首級を獲るか迎撃するかの二択を迫られる二人の戦士達。

次手に詰まった尼子の不覚を見逃さず、手首を絡め取っての旧式一本背負い。 

上空に背負い上げた尼子の五体によって矢雨を払ってやり過ごし、用済みの獲物はそのまま打ち捨てる。



――残った鉤爪の頭巾が解かれる。

同じ顔――――――、その愕然の隙に喉元へ撃ち込まれる三本爪。

分身か、変わり身か、瞬間移動か。 仕留めた筈の尼子と瓜二つの顔だった。

事実ここで対処が遅れたが、“そういうこともあるのだろう”という達観が、己の驚愕のみならず、相手の得物の速さに打ち勝った。 

体勢が崩れるのも構わず限界まで反りかえって回避し、そのまま一転して膝立ちに起き上がる。 

仕切り直し、完全に間合いの外と見せかけ、腿力の伸びを利かせて一気に急所を突く。 

遠慮も呵責も無い。 

一切の遊びなく咽頭を掴み、圧迫し、昏倒させて、奇襲の意趣返しを完了。



……実に、容易いことだった。



――――――そうか。



ふと、思いついたことがあった。

もしかしたら、これは普段、川神百代が体感している世界なのだ、と。

ああ、なるほど。 

確かに此処は死ぬほど気持ちが良くて。 

確かに此処は死ぬほど侘しく淋しい場所だ。

風の音がうるさいほどに耳元で鳴り、あらゆる景色が一瞬で過ぎ去ってゆく。

この世の何を犠牲にしても絶対に手放したくない。

そう思ってしまうほど心地良いが、この随喜を分かち合えることは極めて稀で、その殆どはたったひとりで味わうしかない。

そんな彼女の世界が、これなのだ。

百代が、武道家としても、ときに行き過ぎと思えるほど“闘争”に固執し没頭する理由を、まざまざと思い知らされている気がした。

こんな速度で手足を繰ることを許されたなら、こんな精度で世界を観測することを許されたなら、確かに中毒のように耽溺してしまうだろう。

現に、今の自分がそうだ。

もっと速く、もっと美しい瞬間の世界を。

生と死が、勝と敗が、建と崩が、剛と脆が、無限に連なり交錯する世界を。

それらをもっと見て、観て、視て、診て、最期まで看て取りたいと、そんな欲求ばかりが高まってゆく。

…………だが、危うすぎる。 

生身の肉体で挑むには、余りにも苛酷な、華麗に過ぎる世界だ。

俺は今、禁忌の外法に手を染めることで、一時的に、その世界へ至る狭く小さな門を、目前の広大な壁の中に見つけたにすぎない。

もしかしたら、いつかの俺は、あの“向こう側”に行った事があるのかもしれない。

もしかしたら、今の俺は、“戻ってきた”というべき状態なのかもしれない。

だが、もはや俺は、二度と、あの奥の間に行く事は叶わないだろう。

きっと届かない。 この身は既に、理想郷を打ち建てる代償に蝕まれつつある。

どんな禊ぎも、どんな祓いも、この身の汚濁を完全に濯ぐことは不可能だろう。 それだけの過去も併せ持つ身だった。

極めて綺麗で健全な肉と、ただひたすらに貪欲で純粋で真っ直ぐな魂を併せ持つことこそが、あの扉を通るための唯一無二の資格なのだ。

俺は既にその資格を放棄した。

積み重ねてきたものは、今日で、全て終わりだ。

そうしようと決めたのだ。

瞬間の美と昂揚を目指し、心身を日々研ぎ澄ますのではなく、どんな汚辱に塗れても、人の中で筋道を通して生きる術を顕す。

彼の為に。 あるいは、彼女の為に。

“道標”となる道を、俺は既に選んでいた。

慙愧も、反省も、膨大にある。

だが、これが今は最善だ、ということだけは解っていた。



……しかしそれでも、ああ、なんという爽快な気分だろうか。

ときおり後頭部を襲う灼熱の津波が脳を蕩かし、心までもが何か他の生き物に変態してゆくような、そんな野性への不可逆的な堕落の最中に抱くのは、単純な嬉しさ。 雄としての憤激というべきか。

最後の最後に、この速さを、この美しさを味わえて良かった。

己の全てが闘争に特化されつつある今、余分な機能が全て削ぎ落とされつつある今、表情筋すら自由に操れない無様にあっても、確信できることがあった。

今この瞬間の自分は、きっと心の底から笑えている、と。



なあ、百代。

あまり遠すぎるところまで行ってやるなよ。

お前が目指す終点は、あの真紅の明星は、たしかに美しい場所だろうが、同時に、死ぬより辛い孤立が待っている不毛の凶星だ。

だから、たまには振り返ってやれ。

お前を地上に結びつけてくれるものを、どうか忘れてないでやってくれ。

人間としての生活、人間としての喜びと苦しみのなかに足をつけ続けてこそ、いつだってファミリーあいつらの傍へ。

いつだって、未来のあいつのもとへ。

“誠”を沁み付けた直江大和の隣りに、お前は戻ってこれる筈だから。













我に返れば、後の祭りだった。

打ちひしがれた川神一子の介助と戦場からの離脱を手伝うという名目で、一旦は現場から身を退き、身内に猟犬の役を任せ、藪に隠れて獲物の消耗を待つ狡猾なマタギよろしく、尼古兵の陰に潜みつつひっそりと漁夫の利を狙っていたのは宇喜多秀美である。

その彼女がふと周りを見回せば、既に味方の気配らしい気配は跡形も無くなっていた。

頭の中で無機質に鳴るバーコードリーダーの断続的な読み取り音と共に、現在の戦況を整理、分析すること約二秒。

直後、脳裏にレジ鈴を響き渡らせた宇喜多は、



「ほな、毎度おおきにッ! サイナラ~♪」



似非関西弁を吐き出しながら繰り出したのは、兵法三十六計すら凌ぐとの呼び声高い、珠玉の一手。

見た目を裏切る意外な敏捷性をここぞとばかりに発揮し、一目散に戦地に背を向けて退散しかけた宇喜多だったが、彼女もまた、豹変した矢車直斗の実力を見誤っていた。

見誤らずにいれば、無駄な全力疾走をせずに済んだし、手早く白旗を掲げておけば、十勇士内でも最大の負傷を負わずに済んだのだが、それは結果論というものだろう。

表面上は飄々とした態度を取り繕ってはいたものの、遁走に最も不必要だろう超重量の大槌を置き捨てる判断もままならなかった彼女に、冷静な状況判断を期待する方がそもそも間違いだ。

彼我の距離は十五歩以上。

まずは絶対の安全圏と、宇喜多がたかをくくっていたその間隙を、玄武軍の白い悪魔は僅か二息三歩の“活歩”の歩法で詰め寄った。

そして、もう一歩。 

何の足捌きも見せずに地面を滑走してのけた直斗は、ついに疾走する宇喜多秀美の幅の広い後背に追いついた。

忍び寄る殺気に、本能的に顔だけ背後に振り向けてしまった宇喜多が、意識を失うその直前。

秒針にして一目盛りにも満たず、宇喜多の脳内では無限に等しいその時間。



「……………………」



彼女の目を捉えて離さなかったのは、敵手の懐で礫岩のように握り固められた必殺の拳と、溢れ出た淤血おけつの雫を垂らす歪んだ口端と、暗く昏く燃え滾る双眸の光。

即ち、悪鬼の嘲笑だった。

防ぐことも避けることも叶わない永遠の一瞬、宇喜多は生まれて初めて、金銭では決して購う事の出来ない“時の流れ”の残酷さを思い知った。

直斗の右拳が宇喜多の肝臓の真後ろを捉える。

踏み込みと間合いも完璧。

大地から足腰、肩と腕の関節を経て、手首まで加速された極大の勁力。

それは宇喜多の内臓に浸透するのみならず、その丸々とした巨体の外観を歪に変形せしめ、まるでゴム毬のように撥ね飛ばした。











……PTSD――Post Traumatic Stress Disorder、心的外傷後ストレス障害の主要症状に、“過覚醒”というものがある。

絶えず危険を予知するための、極度の不安状態である。

別名を覚醒亢進こうしんとも言い、精神に強い圧迫を受けた場合に生体防御反応として起こる緊張が、ストレスが解除された後も持続し、皮膚に代表される感覚器、筋肉に代表される効果器の閾値が大幅に下がり、刺激に対して過剰なほど敏感になっている状態である。

不眠症、原因不明の苛立ち、極端な躁状態、過度の警戒心、些細な物音に飛び上がって驚愕する、などという症状が、一般的にそう呼ばれている。

直斗が現在陥っているものは、これと基本的に同じだったが、ひとつ異なる点を挙げるならば、並べて万象を余さず知覚しながら、彼の精神は凪いだままだった。

否、事象に対する種々の感想はある。 膨らむばかりの負の感情が“達観の膜”に覆われる上で、通常の一千倍の処理速度で思考が働いているというべきか。

とかく焦燥とは無縁であった。 むしろ安寧がどこまでも続いているように思えた。

覚醒を促進する薬効を並立させつつ、安楽を強制させる魔調製を施された妙薬は、その名の通り“極楽”へ被験者を旅立たせる。

今の直斗は、有り体に言えば、居眠り運転のまま、エンジンが焼き切れるまでアクセルをベタ踏みしている状態だった。

常人の精神を超人の境地に、悟りを開いた覚者の心地に置くべくして誂えられた麻薬は、人体の中枢神経を汚染して、感知した万象を快楽に変換する回路を構築する。

――――“達観の膜”が“絶望の棘”に刺し抜かれるまで。




「……んで、トドメにメペリジンとスコポラミンぶっこんだ。 まぁ、あれよ、天。 大別すりゃ、ダウン系に見せかけたアッパー系。 お前にやった興奮カンフル剤の超々上位互換と思えばいい。 アゲ過ぎて逆に自分を他人みてーに見ちまうところまで、頭ン中キメキメにさせたってワケよ」

「…………」



西丹沢自然教室ビジターセンターに設置された観客席から戦場を挟んだ、ちょうど反対側。

切り立つ崖の頂上に、人影が幾つかあった。



「今風に言うと、ゾーン、ってやつか? テレビやらで、たとえば滅茶苦茶なビハインドからの逆転劇場積み重ねて、一気に勢いに乗って甲子園制覇しちまうチームってのは“持ってる”だの、“そういう運命”だの、“ビッグになろう”だのうんたらかんたら理屈こねられるけどよ。 突発的に神懸かった状態に至るってのは、珍しいことじゃねぇんだよ。 カイエン買ったり青山で土地転がす人間ほどヤバイもんでもねぇ。 本場のシャーマンとかはテメーでトランスのオンオフができるしな。 要はタイミングだ。 一旦でも、周りの状況と“絶好調”を隙間なくハメちまえば、あとはフィーリングでなんとか間に合わせられる。 …………その程度の才能は奴にも残ってた」



無垢裸身の男女に与え給うた禁断の果実。 

その紛い物というべきモノについて、長々と講釈を垂れていたのは、確かに蛇のような油断ならない男だった。

顔貌に狂笑を張り付かせた様は、契約者の魂を取り立てに舞い降りたメフィストフェレスと形容したほうが適当か。



「リスクは超々々下位互換もいいとこだが。 最期には…………ヒヒッ、ヘビーローテンションって奴だな♪ ただ、そこがまた格別でよ? あいつにとっては、それが最強の突破口と成り得る●●●●●●●●●●●●●●っつーわけで。 いやー、これ思いついた瞬間、マジで俺って天才だと思ったわ。 ヤッベ、俺ヤッベェ、これッベェな、マジッベェな。 マジヤッベェ、俺マジッベェだわ。 ……でも心が痛すぎて見てらんないわー、だってあれ俺の弟子だもんよー、取り返しつかねー形になってるもんよー、手遅れだもんよー、マジ辛いわー、辛すぎて昨日八時間しか眠れなかったわー、いやー中途半端すぎてマジ辛いわー、レム睡眠の切れ目ズレちまってるからなー、マジ体重くてダルいわー、頭も上手く働かないわー、灰色の脳細胞がマゼンタブルーになってるわー、しょうがねぇよなー、八時間睡眠だもんなー、九時間睡眠取れないとかッベェな、冗談抜きで」

「ペチャクチャ、ペチャクチャ、ペチャクチャ、ペチャクチャ~。 カッコカワイイ釈迦堂さんマジリスペクトッス。 …………師匠さぁ、」

「あん?」

「案外、単純だよな」



奇妙に多弁になり、常より半オクターブほど声の音程が高まり、寒気がするばかりの軽口や冗談を過剰に強引に織り交ぜる。

表に出してはいけないと内心を縛り、感情を押し殺し、自分は平気だと偽ってみせる人間のごくごく典型的な姿だった。

そういう大人の姿は、嫌というほど見てきた板垣天使だった。

借金に首が回らなくなるばかりか、その埋め合わせに後ろに手が回りそうになる真似を繰り返す親を見て育った娘だった。

……そういう自分も今、ギャグ漫画をなぞるようにして冗談に付き合っていることには、触れないおく。



「師匠にはガッカリッス、ふぅ、あとこの前貸した豚丼代返してください。 …………いや、つーかマジで大盛480円+とろろ130円分返せ」

「俺が単純だと? まったく、馬鹿も休み休み言え。 今日び俺ほど屈折した乙女座のセンチメンタリズム溢れる奴ァいねーよ。 ここんところの山篭りでバイトも出来なくて、煙草の量も減っちまったからイライラ倍増で一ヶ月過ごして、逆に気分爽快だよ畜生」

「それただ健康になっただけじゃねーか! お勤めご苦労様でしたって言われる側の台詞としちゃ間違ってねーような気がするけど! …………あと510円!!」

「チッ、こいつ案外チョロくねーわ。 そんでもナチュラルに繰り上がりの足し算できてないところはやっぱりチョロいわ。 …………うえ~、挨拶するかしないか、微妙なラインの人が来たわ~。 いつも迷うわ~。 けどシカトかます覚悟はいつも一瞬で出来るんだなこれが」

「?」

「上から来るぞ、気をつけろっと」



天使が上空を仰ぎ見た瞬間に、叩きつけられる猛気怒気。

周りの山林の色に溶け込むような深緑の繭紬けんちゅう

その長拳服に、取り立てて特別なところは無い。

だがそれを纏う七三分けの圧力たるや、衣自体が皺という皺を伸ばさずにはいられないほどの苛烈さを醸していた。



「これはこれは、川神院きっての気功派拳士。 天下に名高いルー・イー師範代じゃねーか。 いつまで経っても“師範”になれる気配の無いズブ甘の、それはそれはお優しい大先生様が、こんな野良犬風情に何の御用で?」

「……そうやって卑屈に世を忍んでいれば、ワタシもお前の前に現れることもなかっただろウッ。 やはり仕込んだのはお前だったカッ!?」

「昔に叩きのめして流派から追い出した同輩に偶然ばったり出会っちまってキョドってテンションおかしくなってんのなら、無視の方向でいいぜ? ツキノワの親子にでも遭遇したと思いねぇ。 俺も正直、これ以上お前と喋るの面倒で敵わねーわ」

「よくモ、…………お前、よくモッ!」

「だから、そう猛るなよ、ルー。 今日ここで、熱くぶつかりあうのは弟子の役目だ。 四十絡みの俺たちはクールに行きたいところだァな」

「事と次第によってはワタシは」

「“百薬の長”を以って俺を下したのは何処のどいつだったか、忘れたとは言わせねーぜ? ……お前にだけは、何を言われる筋合いは無いんだよ」

「――ッ…………昔からお前はそうだったナ。 昔から、お前は“限度”というものを知らなかっタ!」

「たりめーよ。“限界”に縛られてる奴に負ける気はしねぇし、何を言っても無駄だからな。 そこに行くと、たとえばこのチンチクリンの貪欲さ加減と来たらどうだ? 欲望こそが限界を喰い破って人間を育てるんだよ。 結果は火を見るよりも明らかだが、試しにコイツとそっちのワン子あたりをぶつからせてみろ。 キャリアの積み重ねと正味の実力なんざ、大して関係はねぇのさ。 …………っつー話を昔どんだけしたことか。 天、肝に命じとけ。 俺と出会えてホンキで良かったってな。 でなけりゃ、目の前の杓子定規で世間知らずな素人童○みたいな野郎共に、お前は矯正させられるところだった。 自分のナカに“限度”を作らされちまうところだったってな。 にわか教師ってのは、これだからいけねぇ……」

「いいや、不幸な弟子だネ。 一度は薫陶を受けた川神流を、諦めるのならまだしも、その教えを捻じ曲げ、助けを乞うてきた弟弟子の五臓六腑を劇薬に漬けル。 おぞましさすら感じる豹変ぶりダ。 それだけの代償がある筈。 ――――ふざけるんじゃなイッ! 更なる暴力の為に、そうまでして同輩と流派を辱めるお前に、語らせるような川神流があるカッ!? ……直弟子を新たに取っていたとは知らなかったヨ、釈迦堂。 “師範”の免許取得が無ければ、院外に分派を創る事はできなイ。 何より、お前は破門の身。 この川神初代の眠る丹沢にも禁足令が出ていル。 これで粛清の大義が出来てしまっタ。 お前こそ“掟”を忘れたわけではあるまイ?」

「あーあー、お前って奴ァ、本当に、能書きばかりが達者だな? つくづく反吐が出る。 くだらねぇ。 掟だァ?内規だァ?師を敬えェ?心が乱れるゥ? そんな御題目に顕現があるっつーのなら、是非とも見せてもらおうじゃねーか? つーかそれなら尚更、この死合を最後まで黙って見届けろや。 あの馬鹿を止めにもいかず、俺にかまけてる暇があるってことは、ジジイに大戦中止の上申を断られたからだろ? いいねぇ、あの明治生まれもようやく現実が解ってきた頃合か。 強さこそ正義、力こそパワー。 命を懸けるってことは、どれだけ尊いかってことだ」

「……尊さだト? 尊さだトッ!? あそこまで追い込んだのは他ならぬお前だろウッ!!」

「確かに、最後の一押しは俺だ。 だが、俺に至るまでの道程を進ませたのはお前ら川神院で、俺はそれに応えただけだ」

「他のッ――――」

「じゃあ何故、先の先まで縛っといた●●●●●? あと三年早く、いや、一年でも良い。 川神に戻った頃合にでも、あれを解いとけば話は別だった。 ……俺のやったことなんざ可愛いもんさ。 奴の才能の伸び白をブッ潰したのは、お前らのほうだろうが。 お前らのやったことの方がよっぽど外道じゃねーか。 それがあいつにとっての平穏だの幸福だの、手前勝手に決めつけて言い聞かせて、奴に“限界を作った”結果、こんなことになっちまってんだろうが。 他にも理由はあっただろ? 百代可愛さに、…………いや違うな。 百代をお前らの理想に近づかせるために積ませる経験としちゃ、相応しくないから、お前らはあいつを隠してきた。 龍封穴なんていう、ご大層な名前の便所の水ん中に、七年も沈めたまま飼い殺しだ。 そりゃあ、文字通り抜き身のナイフみてぇだった才能も腐るわな」

「……その言い分には異論は山ほどあル。 だが、そのどれもが、今のお前に言っても無駄なものだナ。 それでも、一つだけ反論するとすれば、七年前、百代も直斗も、人間として未熟だっタ。 元服の歳にすら達していない子供だっタ。 誰かが導き、誰かが落とし所を見出さなければならなかっタ。 総代は、彼らの心を――」

「ほら見ろ、出やがった、ぬるま湯・川神院の使用推奨ワード筆頭。 “心を育てる”ねぇ? 俺も一つ訊くが、それなら、教え育てる側のお前らは、あいつらの“心”ってやつに向き合えてるのか? まあ、百代の方は爺様が共感できるとしてもだ。 お前に解るのか、直斗アレが? もし本当に“心”が解ってんなら、あいつを狂わせてやるべきだった筈だ。 …………ドブ川の水で妹の股座を掻き洗った兄貴の“心”なんざ、誰も想像したくも無かっただろうがな。 だからこそ、あのジジイも呪いを剥がさなかった。 とどのつまり、信用してなかったんだろ? あいつを」

「――――」

「俺の教えに限度が無いってんなら、お前の教えには説得力がまるで無い。 入門の審査でも、席次の選り分けでも、おんなじことを何遍も何遍も言ってきたよな。 …………才能の不足を努力で補うのは良いのなら、しなくてもいい努力を才能で補えてるところの何が悪い? 勤勉家が汗と涙と血便を垂れ流す前で、天才肌が惰眠に耽るのが何故いけない? いいじゃねーか。 ほっとけよンなもん。 テメェの鍛錬はテメェ自身の満足の為にやるもんで、他の人間には何ら関係のない行為の筈だ。 楽できてて羨ましいからか? 他の人間に示しが、規律がつかないからか? 俺に言わせりゃ“持ってねぇ奴”の嫉妬にしか聴こえねぇんだよ、お前の言い分は」

「ワタシはッ」

「違うんなら教えろ。 掛け替えの無い時間を犠牲にした努力が、生まれ持った天賦の才能に勝つのは良いんなら、どうしてその逆は駄目なんだ? そいつにとって命、存在証明とも呼べる“才能”。 努力の代わりに、掛け替えの無い“自分自身”を擂り潰して、真っ白い星を掴む。 そのシナリオのどこに問題がある?」

「それでは、究極的に、勝者も敗者も共倒れさせるだけダッ! ……釈迦堂、お前のやり方は勝者を生まなイ。 勝利とは、勝者が生き残ってこソ。 確かに、ワタシに対するお前の指摘は正鵠を得ていル。 それは認めよウ。 だが、矛盾しているのは、お前も同じだろウ? 勝利の為だと言いつつ、お前は、勝利から最も遠いところに弟子をひた走らせていル」

「……死に体になっても掴み得る“勝利”がどんなものか。 あいつは見せると言った。 お前の言う通りなら、あの馬鹿直斗は負け、しかしその上で、因縁の仲良しグループとはお手々繋いで万々歳なハッピーエンドが待ってる筈だ。 なら、それでいいんじゃねーか? 回り道こそ近道だ、頑張った奴は報われる、挫折だって無意味じゃない。 ……世の中、そういう風に都合がついてるんだろ? 大器晩成を信じ込んでるお前ら自称“努力家”連中の頭の中ではな。 そして、これまた信じられねぇ馬鹿具合だがな、奴も言い切りやがったよ。 理屈じゃないところで、正しいのはお前らで、間違ってるのは俺らなんだとよ。 つくづく可愛げがねぇ。 そんなに地獄が見たいんなら、勝手にしやがれってんだ。 ――――――――遠慮なく嗤ってやるよ、直斗。 最後に這い蹲る無様をな。 せいぜいそれまでも愉しませろや。 お前の真価はこんなもんじゃねーんだから●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●、な? だから、さっさと過去にひたっちまえ。 正気に勝機は万に一つも無ぇってな? ヒヒッ♪」

















宇喜多が空中での錐揉み回転を終え、壁に激突して墜落した頃合に直斗が拾い上げたのは、いずれも主人に取り残された二つの得物だった。

右手の島の長槍、左手の一子の薙刀に意識を移す。

本来、竿状の武器というのは一振りを両手で扱うのが常道。 その原則に例外はない。

片手で二本の長物が万全に繰られるのは、神話や創作物の中だけだ。 無論、この真似には作意があった。

翼竜がその両翼を広げて威嚇を試みているような、腕を掲げた大きな構えを取る。

そこへ、壁外から再度、猛然と全角全方位から撃ち放たれる土砂降りの矢の瀑布。

錯綜する吸盤型の赤い鏃の残像が、壮大なレース編みのように上空を彩り、包み込んだ。 

紅蓮の弓矢が、黄昏状態の身体に緋を穿たんと飛び込んでくる。 その瞬間、得物の一方を逆手に持ち替えると、足は勝手に動いてくれた。

前へ、前へと動いて、溜めをつけられた右肩の筋肉が躍動し、“投げる戦闘”に特化した人類の骨格が、いかんなくそのポテンシャルを発揮する。

一閃。

射出された長槍はしかし、迎撃目的ではない。 着弾地、そして着地位置への牽制目的である。

前へ進む足は止まらない。 もとより退路ではなく活路を切り拓くための進撃だ。

垂直高度五メートルもの囲いを越えるための助走である。 十勇士の相手をする中、じりじりと壁が内側に押し込まれたことで、英雄達が飛び込んできた進入路は既に封鎖されていた。

槍の投擲後、息つく間もなく吹き寄ってきた霧雨のような矢の大群。

提示されるのは、空間の弾幕密度と自分の移動速度、そして運気という乱数が加わった摩訶不思議な方程式。

半秒ごとに切り替わる最適解を、薬漬けの感性理性によって絶えず弾き出し続け、姿勢を変え、足を捌き、ついに踏み切りの時を迎える。

左手に残された薙刀。 疾走の中で握力を緩め、その刃の付け根に左掌を移す。 

物干し竿を水平に起こしたならば、右手を添えて更に角度の調整を図る。

上体はやや前傾させ、腰を高く。 膝を高く。 腿を高く。

地面を蹴り飛ばしながら、機関車の連結棒のように動く肩で拍子を計る。

見定めた地点に石突を突き刺したなら、取っ手を引き寄せ、柄を湾曲させ、反発力が最大に膨れ上がった一瞬を逃さずに足を踏み切って、空に昇る。

鯨が踏んでも折れることのないという柄の靭性を頼りに、慣性に身を任せ、たわんだ薙刀が元に戻った瞬間を見計らって両手を離す。

空中前転の最中に足を引き寄せて腕に抱く。 体の表面積を最小に整え、弾幕の狭間を一直線に飛び抜ける。

上昇。 刹那の無重力感覚が全身を包んだのち、滑空。 

すれすれに飛び違う矢の風切音が耳を嬲る。

まんま棒高跳びの要領で壁を乗り越え着地した先には、十点満点のプラカードの代わりに振り上げられる武器暗器の数々。

先立って投じられ、見事に大地に突き立っていた島の長槍。 それを取り巻くようにして立つ朱雀兵たち。

押し包まれて動きが束縛される前に、傍らの槍を引き抜いて周囲の敵手を蹴散らし、一定の間合いを確保、更に牽制しながら一挙に後退する。 

取り回しが利き難い長槍の使い心地から、馴染みの得物の再取得に自然と体が動く。 

頭に浮かぶは、金色の背広と額の十字傷。 次いで、褐色の素肌と物憂げな双眸。

手にする長槍を、今度は先ほどと真逆の方向へ投げ飛ばし、壁の内側に自分の現在位置を知らせる合図とすると、鉄パイプで骨組みされた包囲壁へと自分も逆走する。

地面はぬかるみ●●●●始めて滑りやすかったが、転倒に対する恐れは、スピードの快感の前に、少しも頭をよぎらなかった。

榊原小雪に呆気なく蹴破られたことを鑑み、壁の横の結合はそれほど頑強ではなく、またキャンパス台のように支えが外部の柱に依存する構造のためか、外側からの破壊工作には滅法脆弱であるという数秒前の推測を、現物を目測し、確信まで昇華する。

壁の支柱と衝突する直前、渾身の震脚を踏んで上半身を捩り上げる。

見様見真似の川神流“鉄山靠”――――幾度となくこの身に受け止めた板垣辰子の動きを、今ここで記憶野が許す限り緻密に転写する。

原理は、宇喜多秀美を下した拳の一撃と大して変わりはない。

大地を踏み締める両脚の腿力に、腰の回転、肩の捻りをも相乗し、全身の瞬発力を総動員、左背面へと収斂せしめる。

擬音で表すのも困難な、鋭すぎる破裂音が、金属柱の真芯で弾け鳴る。

耳を聾さんばかりの轟音に怯まなかったのは、地を這う意識なき脱落者と、その一芸を扱った仕手だけだ。

正式名称は“くろがね式貼山靠”――――八極の奥義を昇華させ、川神本家こと川神鉄心が編み出した、近接戦闘ショートレンジにおける体当たりの究極型。

窮めれば一撃で生木を砕き割るという貼山靠。 その発展秘技の威力は、“鉄”の一文字から推して知るべしであった。

支柱が折れ、連結部の蝶番が螺子ごと弾け、包囲網を形成する壁の一枚がやおら傾き始め、同志達の脱出口がついに拓かれるのと時を同じくして、――――――狙撃手に六時を取られる。

それは、極めて致命的な位置取りだった。

放った勁力の大反動に痺れた体を傾け、倒れこんでくる鉄骨や金網に巻き込まれぬようスウェーバックして距離を置き、無防備に背中を晒したその一瞬を突いて、椎名京の殺気が飛んできたのだった。

顔を振り向ける暇も無かった。

暇があったとしても、考えるより先に万物の判断を下す今の精神状態が、無駄な抵抗を手足に許したかどうか。



「…………」



このときばかりは動けなかった。

この無防備を強いるだけの術技の放出だった。

乳酸が溜まり切り、解糖は不能に陥っていて、筋肉が言う事を聞いてくれない時機だった。

声を上げる暇もなかった。 もとより上げられる筈もなかった。

言語野中枢まで侵すよう調製されたユートピアの薬効は、注入された瞬間から容赦なく矢車直斗の発語能を奪い去っていた。

もはや口に出せるのは、喃語めいた呻きだけ。

舌は縺れるどころか根元から動かず、味覚も麻痺したままだ。 血の味がしない。  

代わりに肌の触覚が異様なほど過敏になっている。 特に圧点と痛点がひどい。 発汗にすら痛みが伴う。

掘り出されたばかりの石油のような、どす黒く凝縮した血液が鼻孔から垂れる。 呼吸経路の一つは完全に遮断されていた。

唾液腺の働きもどこかおかしい。 赤く染まった粘液が大量に口端から垂れてゆく。

急発進と急停止を繰り返し、加重に苛まれた目の潤みが治まらない。 眼圧は上がるばかりで、あと少しで目玉が飛び抜けそうだ。 

……だが、その全ての副作用を合算しても、戦闘には全く支障が無かった。

むしろ、勘を途切れさせない程良い具合の負荷、とすら感じられていた。

圧倒的な薬理的優位性を獲得する傍らで、失われる体機能は、確かに“無駄なく”膨大だった。

投与後から数えて150秒足らず。 87分後に来る筈だった限界が、すぐ間近に迫っていた●●●●●●●●●●。 

神明の如き閃きが脳裏に奔っていた。

天啓を受けるような感覚で、鉄山靠を打って震えた身体がそれを確信していた。

薬効耐性が皆無のフラットな状態でも、“三分も保たない”。

それはつまり、第二射、第三射の効果時間も順繰りにそれを下回ることを意味する。 

下り幅がどの程度かも未知数。

釈迦堂に訊いた所では、連続投与は、おおよそ直前の制限時間の四分の三ほど延長させるとしていたが、その言をそのままたのみとするには、所定の三十分の一にも満たなかった限界時間の事実現実が重過ぎる。

果てしなく絶望的な要素が顔を覗かせた中でも、脳の活動は鈍らなかった。

対処はある。 

要は勝つまで打ち続ければ良いだけだ。 もとよりその戦法に変更は無い。 ただ少し、ほんの少し、投薬間隔が短くなっただけ。

百の銀筒で膨れる腰のポーチの重みを再確認していた、このとき。

このときばかりは動けなかった。 ……だが、動く必要もまた無かった。



「だ~から、マ~ジで、立、ち~向かえ、乙女っ♪」



必殺を期した椎名の矢に到達されるよりも、僅かにして確かに早く、真白の長髪を棚引く美少女と擦れ違う。

背後から、ぎゅっと、降り積もった雪が踏まれるような音がしたのは、その直後だった。

来る筈の衝撃が来なかった。 故に振り返らずとも、矢の柄と小雪の掌が擦れ合った音と知れた。

壁の倒壊が完全に収まるのも待ち切れず、傾斜によって壁と壁との間に生じた僅かな陥穽に体を滑り込ませ、隔離の状況から一抜けした榊原小雪は、それからいとも容易く俺を狙った飛矢を片手で掴み取ったのだった。

摩擦に焦げた手を吐息で冷ますと、射角から狙撃手の位置を割り出したらしい小雪は、脇目も触れずその場から走り去り、天下五弓の無力化に向かっていった。

駆け違った際に目を掠めた、常の白痴めいた表情とは違う、思えば初めて見る引き締まった横顔に、気を逸らしかけて、



「直斗ォッ!!」



絶叫が弾けて、後方にぼんやりと流れ始めていた意識が前へと引き戻される。

降って湧いた希望の声を正気を保つよすが●●●にすると、小刻みに震え始めていた右手首を叱咤して腰のポーチをまさぐり、手掛かりを掴むとすぐさまに。



――――二本目ダブル、予想薬効限界:“限界が来たとき”



湧き上がるエンドルフィンに陶然とする脳幹部。 

頭蓋の中身が倍に膨れ上がるような猛烈な多幸感。

俺は大丈夫だもっと行けるもっと走れる全身の細胞が熱い筋肉がはち切れそうに叫んでいる加速しろ限界を超えたその先へ――――。

自己暗示が半ば無意識の内に図られると、明度が低下していた視界が再び赤緑の二色に塗り分けられ、遠くに感じていた鮮やかな快楽の海が、自分の周りに戻ってきた。

――――行ける。

そう思ったときには既に、投げ渡された鞘込めの相棒は、再び手中に収まっていた。

星の巡りが良かったのか、それともそれを読んでいたのか、不思議とちゃっかり生き残り、俺との合流も果たしている言霊部部長、京極彦一と並走し、俺を挟み込む形で、英雄もまた隣りを過ぎ去ってゆく。

もはや、何を語らうべきも無し。

残る数人も続いていった。 今、視線をくれたのは確か、仲村、トオルとか、そんな名前だったか。

すぐに前方に目を戻す。

そう、この瞬間に限って言えば。

今、刻々と減じてゆく、貴重な薬効の持続時間をふいにしてでも、このまなこで射止める続けるべきは、他に居た。

あの鬱屈した優男がどんな思惑で俺に接触してきたかだとか、そういう前後の状況を抜きにしても、少しでも多くの“張り”が俺には必要だったこと。 それは事実だった。

自分の分の他にもう一つ、そしてまたもう一つ、誰かの人生を背負っている、そんな義務感ともいうべき“張り”。

それがなければ恐らくは、この選択はできなかっただろう。

たとえば、指定の戦場外に押し出せば、押し出された奴は武道脱落、失格となるのだから、上手く百代をそのあたりの措置に誘導して落とし込もうとか。

大真面目に、そんな卑怯を、現実を正視しない、何の解決にも繋がらない方法を吟味していたかもしれない。

逃げる道を、塞いでくれた男。 

救われようと藻掻き続け、果てに悪性の泥に呑まれかけつつある男。

それが、今の矢車直斗にとって、葵冬馬という人間の全てだった。

自分を救うのはいつだって自分だ。 それは解っている。 だから救うのではなく、掬うと誓った。

救済のスタート地点。 踏み出すべき一線の前までは、引っ張り上げてやると。

それぐらいの贔屓は、許されたっていいだろう?

桐山鯉に聞いた、この男の身の上話は、この男が耐えてきた過去は、それだけの地獄だったのだから。











冬馬はゆっくりと瞬きした。

何度瞬きしても、目に映る光景は変わらない。 

チャンネルが切り替わらない。 当たり前だった。 今、自分は丹沢の山中に居るのだった。

コントロールパネルを撫でて映像を切り替える。 いつもならそうだ。

チャイルドパレスの最上階。 革張りのソファーからモニターを眺め、人の営みというもの、たとえば風間ファミリーの奮闘の眩さに目を細め、所詮は幻想、所詮はおためごかしと冷笑して顔を背けて、視聴を打ち切る。

幾度繰り返したかわからないルーティン・ワークだった。

それが、今は許されない。 まざまざと見せ付けられていた。

これは幻想なんかじゃない。 これは間違いなんかじゃない。 現実だ。

それでも、頭のどこかで、こんなもの、本当であってたまるか、という声がする。 だって、ありえないじゃないか?

半身が引き千切られるような過去の痛みを身の内にとどめながら。

人間の醜さの権化、冬馬が街中に撒き散らそうとした“瘴気”を自ら首筋に打ち込み、快楽と苦痛の板挟みに心と体を乱しに乱しながら。

それでも、不完全であっても、人の善性は確かに、誰にでも在り、その誠実は尊く美しいのだと謳う。

今更、こんな阿呆が出てくるなんて。

取り返しのつかなくなるまで、自分を痛めつけることになっても、こちらに手を差し伸ばしてくるなんて。

こんな、真っ直ぐに自分と向き合ってくれる人間が目の前に現れるなんて、想像したこともなかったんだから。



「若。 俺、行くよ。 もう、俺は諦めたくないんだ。 ――――これ以上、背中を丸めて生きたくないんだよ」



隣りの幼馴染は、膝に固い拳を叩きつけ、開戦からの数時間の中で貯まり続けていたらしい鬱積をぶちまけていた。

あるいは冬馬と出会ってから、過去十数年分の鬱積が詰まっているかもしれないその拳は、鈍い音と共に両膝の萎えを叱り飛ばし、震えを止めさせた。



「もしかしたら、あいつに端から勝算なんて無いのかもしれない。 ……でもな、俺はずっと、しょうがないって言葉で自分を諦めさせてた。 何よりも許せないのは、若、俺は、アンタのことを諦めてたんだよ。 一番近くに居たのに、一番声を聞いていたのに、なのに、俺は、ただの腰巾着以上にもなれなかった。 悔しいんだよ。 アンタのことを一番理解してたつもりなのに、一番最初に見捨ててたのも俺だったんだよ。 今、やっと解った。 ――――本当に、腹が立つんだよなッ、ぽっと出の、あんな訳解んない奴にッ、訳知り顔で“先を越された”ってことがッ、“命を懸けられた”ってことがッ! どうしてもッ!!」



こちらに向いていた目を切って、俯いて、再び顔を上げた時、井上準は今まで冬馬が見たことのない表情を浮かべていて。

来るなら、来い。 今まで冬馬が聞いた事のない言葉を、その懸命な顔全体から立ち昇らせていて。

畜生、覚えてろよッ、と直斗に向かって吼えた途端、出口へと、突進していった。



それでも、冬馬はその場に突っ立っているままだった。

恥ずかしくて、情けなかった。

消えてなくなりたい気分だった。

上手く呼吸ができずに苦しかった。

排尿を我慢するときのように、下腹部がキリキリ痛んで仕方なかった。



本当は解っていた。 

学校で擦れ違う英雄やあずみ、直江大和、風間翔一とその一党、面識の無い他の生徒達の顔を見るときにすら、喩えようのない息苦しさを感じるのは何故なのか。

帰宅途中、駅前で、いかにもこれから塾に行きます、たくさん勉強して期待に応えてみせますと、バックパックを背負った子供たちが自分の行く手を通り過ぎてゆく。

直視できず、感じる必要のない筈の引け目を感じて、目を逸らしてみたり、開き直りの藪睨みをしてみたり。

まるでその中に昔の自分が居て、見咎められるのを恐れるように。

数日前、あの大ホールで直斗と対峙した時もそうだった。

彼の目を碌に見返すことが出来なかった。

こいつは生きているが、自分は死んでいると、理屈抜きにそう感じた。

だけど、今の自分は――――、






        ――――シャキンッ、と。






全てが解き放たれる音がした。

世界が生まれ変わり、己という基点から、あまねく全てが始まってゆくことを知らせる号砲だ。

その瞬間、無意識に、今までの躊躇いが嘘だったかのように、冬馬は地面を蹴っていた。

乾き切っていた筈の目から、涙が滂沱と溢れ出る。

気づけば口はぽっかり開いていて。 自分は何かを叫んでいるらしい。

まるで自分の周りだけ酸素が濃いんじゃないか、そんな想像すらさせるほど、瑞々しく清澄な空気が、つっかえ気味の呼吸がなされるたびに気管を通り過ぎていった。

前を見れば、既に直斗は背を向けていて。 

直前の視線をまともに受け止められなかった後悔と、ならば次の機会までに目の色を変えさせてやろうとする意地が、心の何処に隠れていたのか知れぬ生の感情が、次々と励起され。

直斗の手前には、女王蜂あずみを屠り終えたか取り逃がしたかしたらしい紅の狩人と、好敵手の無念を晴らすべくして奮い立つ金の騎士が、各々の得物を手に、走り寄ってきていて。

その両方を迎え撃つために、直斗はまた再び上段の構えに移っていった。

砂塵にくすんだ背中の“誠”に、抜き身の刃の銀光がゆるりと添えられ、今一度と渾身の太刀が繰り出されたその瞬間。





葵冬馬はようやく、檻の中から抜け出した。




















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毎度のようにお待たせして申し訳ありません。
思えば前回更新が東京五輪も決まっていない時期とか……。難産でした、ハイ。

ご意見ご感想、心よりお待ち申し上げております。
またこれまでご感想を頂いた方にはレスもお返ししているので、その方も是非感想板へお立ち寄りください。

鉄心さんを明治生まれに設定したのは、まじこいSで日清戦争のとき百代ぐらいの歳って言ってたからです。 
そんな記憶が、確か……。 間違ってたらごめんなさい。

この頃はヤングジャンプが毎週楽しみすぎて辛い。
東京喰種アニメ化オメ。深夜枠だろうけど公共の電波でカニバリズムにどれだけ肉薄できるか見物。
個人的にカグネのウネウネ感も気になる。
テラフォは武器見せ回が続いてますね。ジョセフはよ。

あとブレイドで連載されてた村正魔界編完結しましたね。 最終巻出たら纏めて全巻買うつもり。 
“続”ってなんやねん“続”って、と興奮した一ヶ月前であります。
……あの主人公の中の人が某恋愛SLGで「大将ッ」とか、言っちゃってる衝撃的事実を最近知った。

ぐだぐだ管巻いてすみません。 それではまた、次回の更新で。





[25343] 第四十八話:咆哮
Name: かぷりこん◆f1242fd1 ID:637c80b7
Date: 2015/01/11 10:57



『目と目が逢う瞬間、好きだと気付いた。 あなたは今、どんな気持ちでいるの? 戻れない二人だと、分かっているけど、少しだけこのまま、瞳そらさないで』

―――如月千早「目が逢う瞬間」より





























眠り、という行為が、心身の活動を休止させて無意識になることを指すのであれば、眠っているわけではなかった。

目を瞑り、横になった体を静止させていても、不死川心の五官は絶えず周囲に開かれていた。

絶頂期を過ぎたとはいえ未だ冷めやらぬ羞恥と激怒で揺れ動く思考を切り離し、周囲から漏れ聞こえる喧騒に耳をそばだて、戦況の把握に努めていた。

後ろ手に手首を縛っている拘束具は麻縄の類だろうと食い込む感触から想像ができたし、噛まされているプラスチックの猿轡は、舌触りからして、いかがわしいネット広告で流し見たギャグボールなる玩具であることも理解していた。

舌を噛まれて自傷されることを予防するため、というよりは、むしろ、被拘束者の恥辱をより煽るためのものであろうと確信する。

呼吸するたびに、怒涛の勢いで罵詈雑言のボギャブラリーを使い果たそうとするたびに、ぴゅうぴゅうと、ずぶの素人が篳篥ひちりきに息を吹き込んでいるような音が口元から鳴る細工に気づいた時には、すぐさま鼻呼吸に切り替えて、沈黙したまま握った掌に爪を食い込ませる以外に、烈火の如き腹立ちを抑え、屈辱に耐える方法が無くなっていた。

猿めが、猿めが、山猿めが。

南東の森丘に設置された朱雀軍司令部にて、虜囚の身に甘んじている彼女が思いつくのは悪態ばかり。

無礼かつ無作法かつ失敬かつ不行儀かつ尾篭かつ失礼かつ非礼かつ無遠慮かつ粗野かつ粗暴かつ伝法かつ不躾かつ慮外かつ聊爾かつ無骨かつ横風かつ驕傲かつ猪口才かつ不遜かつ僭越かつ生意気かつ嵩高かつ威丈高かつ驕慢かつ大柄かつ小癪かつ傲慢かつ破廉恥かつ下劣かつ靦然かつ僭上かつ野面皮かつ野風俗かつ厚顔かつ暴慢かつ増上漫かつ不埒かつ不届かつ専横かつ大風かつ無恥かつ無知かつ厚皮かつ浅短かつ浅墓かつ軽忽かつ軽率かつ遅鈍かつ愚癡かつ梼昧かつ愚陋かつ迂愚かつ愚蒙かつ愚劣かつ愚鈍かつ愚盲かつ愚昧かつ魯鈍かつ頓馬かつ滑稽かつ莫迦な、汚らわしい庶民の手が。

雅かつ風雅かつ高雅かつ優雅かつ閑雅かつ典雅かつ寛雅かつ都雅かつ文雅かつ雅馴かつ上品かつ風流かつ清淑かつ優婉かつ高潔かつ高邁かつ清高かつ優美かつ美妙かつ端整かつ華麗かつ佳麗かつ流麗かつ端麗かつ純麗かつ鮮麗かつ繊麗かつ婉麗かつ典麗かつ秀麗かつ壮麗かつ絶佳かつ瀟洒かつ鯔背かつ小粋かつ明媚かつ甘美かつ艶美かつ嬋媛かつ愛嬌かつ無垢かつ清浄かつ清純かつ無邪気かつ勝絶かつ秀逸かつ出色かつ絶妙かつ無双かつ最上かつ最優良かつ最優秀かつ真盛かつ極致かつ十全かつ大全かつ完全かつ至高かつ至極かつ崇高かつ神聖かつ繊細かつ華奢かつ初心かつ温柔な、それはもう究極的に麗しく奥床しげな此方の尻を。

実に六分二十七秒もの間、電波を介した不特定多数のピーピングを許しながら、情け容赦なく蹂躙し凌辱し尽した、という現実。

尻である。

臀部である。 

乙女の聖域である。 

もはや不死川心レベルにもなると女神の寝所、ある種の“神域”とも呼べる領域である。

その絶対禁猟区に何の臆面もなく手を伸ばし、淑やかな起伏を弄り撫でると、そこからは高橋名人も真っ青の連打攻撃である。 

アメリカで言うところのスパンキングであり、フランスで言うところのパンパンチュチュであり、つまりは日本で言うところのお尻ペンペンであり、ニコニコ的に言えばケツドラムである。

比較すればスカイツリーすら爪楊枝に見えてしまうほど高いプライドを持つ彼女の精神、高貴なる生娘の自我は、尻が一割増しほど肥大したところで臨界点を突破し、フロイトの言うところの精神の防衛機制が働く前に、不安発作とパニック発作を併発。

呼吸性アルカローシス――過換気によって血中の二酸化炭素が排出され、血液がアルカリ性に変質し、意識は混濁。

失禁しなかったのは奇跡と言って良い。

平たく言えば人事不省に陥り、流れるように気絶し、つい先ほど簀巻きにされて転がった状態で覚醒した次第だった。

ルール上、本来であれば既に審判員、川神院から派遣されてきた僧達に保護され、戦場外の傷病人スペースに収容されている筈の立場なのだが、一向に彼らがやって来ないところを見るに、心の事情よりも優先しなければならない、審判員を総動員しなければならない、つまり絶えず負傷者が溢れ出る、それだけの激戦が何処かで繰り広げられているということなのだろう。

矢車直斗が、そしておそらく九鬼英雄を中心にした二年S組の有志が、この小雨の中、泥だらけで奮戦している姿を想像した心は、それを鼻で嗤ってみせて、すぐに息苦しさを感じて、それから誰にも気づかれないように、ちょっと喉を鳴らすようなさりげない咳をした。

口腔にじわじわと、しょっぱさが広がっていった。

無駄な足掻きである。 自分はそれを嫌って、賢しく潔く敵方に降った口なのである。

……だが、果たして無駄であっても、真実、無様であるかどうか。

どういう扱いを受けるかも想像しないまま、安易に利口ぶった結果、この大戦で、もしかしなくても矢車直斗に次ぐ格好の晒し者となった身を横たえながら、心は考えた。

許容範囲を越えた負荷に晒され痙攣を起こし、ついには現実から乖離して、それでもまた性懲りも無く出戻ってきた情けない精神に、多少を問わず面識のある様々な人影が横一線、後ろ向きに並んで浮かび、一人また一人と知り合った順に消えていく。

当然、最後に居残った者は、蒼き羽織を身に纏い、背中に誠の一文字を刻んだ、およそ風雅とは最も懸け離れた出で立ちだった。

――――彼奴あやつのせいじゃ。 

彼奴のせいで、此方はこんな目にあっているのじゃ。 

源流を辿れば遥か飛鳥の時代に遡り、かの社会科教師と同列に語られるのは甚だ癪ではあるが、家格は綾小路家と同じくすめらぎの血も混じり、日本三大名家の一つとして数えられるほどの名門中の名門――――如何してその由緒正しき不死川家の当代息女が、十羽一絡げの蛮族どもの餌食となって辱められ、幾匹蚯蚓が這いずり回ったか知れぬ湿気た生臭い土壌に全身を擦り付けて、尺取虫同然の格好で決着を待たなければいけないのじゃ。

……そんな責任転嫁の思考が延々と頭で渦を巻く中で、しかしその薄い胸板を隔てた奥では、自分の醜態が、玄武軍の更なる離反を呼び込んだ事実も省みることができた。

その時間はたっぷりあった。 そうする余裕も生まれていた。

うつ伏せに転がされた状態では苔むした地面しかほとんど見えなかったし、すぐそばで簡易椅子に座りながらパソコンを操作する者の妙なプレッシャーさえ意識しなければ、好きなだけ思索に耽っていられた。

監視の目を注いでいる見慣れぬ人物は、心も高校の進学先として川神と秤にかけた事がある天神館からの助っ人で、名を、オオムラ・ヨシツグ、というらしい。

外見の印象としては、思い出すのも忌々しい二年F組の、確か、大串、とかいう常にアニメのプリントTシャツを愛用しているらしい陰気臭い長髪眼鏡と酷似している。

自らを“虚弱体質で喘息持ちから吸入薬と菱形マスクを手放せない西方十勇士の情報収集役であり策士”と称し、率先して後方支援、端末による情報伝達を手伝う姿もみせてはいるものの、感情を爆発させた後特有の賢者の如き冷静さと観察眼を獲得していた心は、“擬態”という言葉を頭から追い出せずにいた。

痩せぎすの外見にはどこか不釣合いな尖った気配、なにより、意識してそれとわかる動作を見せていないにもかかわらず、明らかに心の覚醒を感知している。

凡庸ということはありえまい。 少なくとも、この司令部の中では抜きん出て強いモノノフである。

……他の十勇士の面々が一分と保たず矢車に撃破されたとの一報がもたらされ、腰を浮かしかけた際の、下半身の強張り。

今にも飛び出していきそうな、相当の弾力を秘め隠す筋肉が一瞬隆起したところを目聡く確認した心は、自分の推測をまた一つ確信に変えてゆく。



――――俺は、お前に言った。 どんなに穢されようとも、綺麗なまま残るものがある。 また再び輝けるものがあると!

――――生れ落ちてから、たかだか十数年。 こんなところで早々と負けるわけにはいかないッ

――――戦う自由を放棄して、見下ろしている者たちの言いなりになるわけにはいかないッ



通信機器に繋がれたスピーカー越しに、音の割れた絶叫を聴いて、胸に奇妙な痛みが走るのを感じていた。

捕虜とされてから、ときおり感じていた痛みよりもっと鋭く、もっとはっきりとした痛みが全身に広がり、血の巡りを活発にしてゆく。

じわりと発した熱が、冷え切った胸を溶かすのを知覚した心は、後ろ手に縛られた拳をぎゅっと握り合わせるばかりだった。

一時間前の言葉が、しつこくしつこく耳奥で鳴り続ける幻聴が、心の心を揺さぶり続けていた。



――――全力を出し切って、死中に活を見出す。 

――――今は、そうすることがたったひとつの方法なんだ。 

――――見切りをつけられない今の俺がッ、今の俺たちがッ、大切なものを失わずに済むためのッ……。



もとより不死川心は、本心的に、どちらの味方でもない。 

そこに戦いがあるから――そんな理由で参戦を決めたわけでもない。 彼女は武家ではなく公家である。

高貴な血統は、せせこましい腰巾着なおえやまとも、泥臭い浪人者やぐるまなおとも、等しく気に食わない存在である。 どちらも碌でもない世間の場所塞ぎとしか思えない。

ただ、今、間違いなく言えるのは、取り戻さなければならないものが戦場にできてしまったということ。 

自分の高邁なる沽券。 自分の失態の払拭するだけの価値あるもの。

不死川心にしかできない不死川心なりの矜持の清算。

それが、今の心にとっての“大切なもの”……。



“ここから、出なければならない”



その意識が急速に膨れ上がり、心は伏せていた目を動かして、それとなく人の配置を再確認。

僅かな気配を敏感に察したのか、オオムラの体勢がこちらに向こうとした。

その瞬間だった。








「モモワープッ♪ からのッ、星留めッ!! からのッ、川神流ゥッ、無双正拳突き乱れ撃ちィ――“夏草の彩り、致死蛍を添えて”ェエエエエエエエエエエッ!!!」









ェエエエエエエエエエエッ!!!の部分で、朱雀軍司令部は壊滅状態に陥った。

ただただ破壊的なばかりの創作奥義が、空を裂いて、地を割って、周囲一帯を料理する。

発生源を辿れば、空間を真っ白に暴き立てるハレーションの如き輝きが、女の腕先に浮かんでいた。

今、ワープって言い切りやがったかこの女、とか。

乱れ撃っているのなら、もはやそれは正拳じゃないだろう、とか。

そもそもお前、朱雀軍ミカタの筈だろう、とか。

恐らくはそのような情調が錯綜して、三十余りの人間が瞬く間に飛び散り果てていった。

心が覚えたばかりの事物の配置は、すぐに意味を為さなくなった。

軍旗も矢盾も三脚も、地図と駒が載った文机も、その一切合財が、藤がはこびる藪の向こうへ消えていた。

拳圧か気功波か、ともかく正体不明の見えない力で、悲鳴を上げる間もなく、心の五体もまた陣幕の裏まで吹き飛ばされ……。













<手には鈍ら-Nmakura- 第四十八話:咆哮>














「……ねえさん」


「いいよな!? 答えは訊いてないけどッ、いいよな●●●●!?」


「…………揚羽さん達は」


「たおしたッ!!」



それはまるで。

苦手なピーマンもトマトもレタスもニンジンも、ぜーんぶ完食したから、だから、だからアイスクリーム食べて良いよねっ、と子供が親に強請ねだるような。



「ふふッ、こんなにも血が沸いて、体が疼いて疼いて仕方が無いのは何時振りだろうッ? ふふふッ、この気分を伝えるとすれば、そうだなッ。 高級フレンチのデザートがッ、ヤサイマシマシニンニクマシマシカラメアブラオオメだったような感じだッ。 ……ああッ、もちろん褒めているんだぞッ? この充溢する強烈な気配といったらどうだッ? 喰い応えがあり過ぎだろうッ!? そしてまさかアイツだとはなッ。 ふッ、ふッ、ふふふッ、ふははははッ、私は今ッ、最ッ高に愉快で愉快でしょうがないッ!! んふッ、ふふふふふふふふふふッ、ふはははははははははははッ♪」



“おかわりをくれ”と。

ニタリと歪んだ唇が、全身でくの字を表しながら腹を抱えている様が、川神百代が狂気の入り口に差しかかりつつある事を教えていた。



「……ねえさん」



が、それに対する直江大和の反応も異常といえば異常だった。

現段階において、朱雀軍の優位は確固として揺るがぬものの、なにかしらの不気味な力が玄武軍に作用し始めていることは明白であり、是が非でも可及的速やかにそれを打ち崩さなければならない局面が今だった。

そのための何重にも張り巡らせていただろう謀略のプランを台無しにされた直後にして、この落ち着きぶりだった。

敵味方の見境無く、ただただ自分の満足の為、猛者強者に襲いかかる姉貴分の変貌に対し、陰のある苦笑いを浮かべこそすれ、その表情に焦燥はみられなかった。

代わりに、なんというか、二日ほど貸し期限が過ぎたレンタルCDの存在をつい今さっき思い出したような、妙に希薄な悔悟の情が浮かんでいる。

確かに、百代の力を借りずに仇敵を打倒したい、という意地もあっただろう。

その上で、姉に自分の価値を今まで以上に認めてもらう、という目論みもあったことだろう。

なにより、『さっさと、百代を連れて来い』という矢車直斗の催促に、死んでも乗って堪るか、という傲慢も間違いなくあった筈だ。

僅かな間、寝そべりながら大和の言動に耳を傾けていただけの心にも察することが出来るほど、大和はひしひしとその念を熱く強く滾らせていた。



「…………ああ、」



しかし、それらの感情を覆い尽くしてしまうほどの、別次元のレベルで、この男は諦めてしまっているのだ、と心は直感した。



「半日もしないで、結局、これか。 ……こういう言い方は、協力してくれた人たちには申し訳ないことこの上ないんだけどさ。 ――――俺のサプライズは、つまらなくなかったかな?」


“そういう生き物”

“姉さんはそのままでいい”

そう言い聞かせて、第一の目的は矢車直斗の撃破、それ以外は二の次、と考えを改めさせるほどの、百代の精神に対する諦観が、大和の声色には潜んでいた。

この姿に魅入られる者は、この女の本質に惚れる者は、きっと皆こうなのだろう。

目前の女の化生性を認めることを前提として、直江も、矢車も、彼女を愛しているのだ。

……直江のように身を粉にして尽くして立ち振る舞うか、それとも、矢車のように善き好敵手足らんと抗い悶えるか。

アプローチが違うだけで、“川神百代が川神百代として在ることを死守とする”という点は共通している。

そう。 

矢車直斗もまた、諦めているのだ。  乾き切っているのだ。



誰も●●彼女の修羅を変えようとはしていない●●●●●●●●●●●●●●●●●



それが良いことか悪いことか、辛うじて意識を失わずに済み、寝転んだままその会話を出歯亀した格好となった不死川心には判断がつかなかったが、その認識がしこりとして、胸に残った。

そうして姉弟の幕内でのやり取りから目を離した心が、一も二も無く手近な岩に身を縛る麻縄を一心に擦りつけ引き千切ったところで、



「さて、状況が状況だが、逃がすわけにはいかんな」


「くッ!?」


「どれほどささやかな戦果であろうと、一つくらいは立てねば、十勇士の名が完全に折れ切ってしまう。 ちょうど人目も無くなったことだ。 今ならば、少々私がまともに●●●●立ち振る舞った所で、周囲の連中は武神の威容に目が眩んでいることだろうしな。 凍てつく氷河の中にいようと、身を焼く炎の中にあろうと、心に誓ったことを翻しはしない。 力の攻めに遭おうとも、守らなければならないもの。 ――――人、それを『尊厳』という!」



十メートル先の立木の傍で、ついに馬脚を現し、薄い殺気と共に囁いた大村ヨシツグが、口元を覆う菱形マスクを脱ぎ捨てながら心を睨み据えていた。

喘息持ち特有の掠れた咳も、痰の絡んだような声質も既に無く、目にはただただ冷然とした光がある。

心が立ち上がって態勢を整えるために足腰に力を入れた瞬間、その眼光が身震いするほど近くまで寄って来た。

先手の必勝を期し、一挙動で間合いを詰めた大村は、勢いそのまま右の掌を心の頸部に流し入れた。 尋常なる空手の立合いであれば、一本を示す赤旗が文句なく審判の頭上ではためいたことだろう。

手足が噛み合う、教本通りの完璧なナイフハンド・ストライク。

がくん、と正面に細い首を垂らした心の体を樹木に預け、新たな麻縄を手に取り強度を確認しながら、束の間脱力した大村は誰にともなく呟き始め、



「……まったく、敵も味方も余計な手間を掛けさせッ――――!?」



“華のある格闘技”と訊かれれば、心にとって甚だ口惜しいが世間一般では柔道ではなく、まず間違いなく最初に“プロレス”という名前が挙がることだろう。

なにぶん品の上下で言えば、それこそ言わぬが華であり、不倶戴天の2-Fにはその筋の関係者が在籍していることもあいまって、表立って言及することは無かったが、興業レスラーの研鑽された技術に関してのみ、柔を嗜む心もそれに一目置いていた

マッチメイカーが作成した台本ブックに従って進行される、予定調和のバトルショウ。

ただの演技と侮るなかれ。 試合展開、決着方法、そのすべてが計画通りにいかなければ、団員には上役の鉄拳制裁が控えている。

場外乱闘の移動ルート、パイプ椅子での殴打回数、ゴングからフィニッシュまでに至る時間。

それらすべては観客を魅了し続けるために厳密に設定される。 数々の努力の末に履行されるは魂のエンターテイメント。

……その中で、より長く、より華やかに、より魅せる格闘として成立させるために、自然と編み出された技術として“バンプ”と呼ばれる受け身がある。

どれだけ派手な技の使い手といえど、相手のバンプが拙くては、目の肥えたファンの観賞に耐え切れるレベルで技を繰り出すことなどできはしない。

バンプの効きが不足すると、技の迫力が伝わらない。 逆に過剰であると、かえって技が嘘くさく見えてしまう。 防いで終わり、というものではないのだ。

投げ技に対しては、投げられる者は相手の投げ上げの動作を補助し、技の威力をそれとなく底上げする。 リフトアップが必要な技では、観客に気づかれぬよう飛び上がる受け身を取る。

そして、この場面、大村が放ったような打撃技に対しては、打撃と同時に自らダウンする。 

打撃と同時に打撃された箇所を打撃方向に移動させ、衝撃を受け流すという受け身を取るのである。 ……あたかも、技が完璧に入ったかのように脚色して●●●●

身体的ダメージを軽減しつつ、それを諸に受けてしまったように見せかける。

技をかけた当人すら騙しおおせる、即興で誂えながら、その実見事に嵌った芸術的な“バンプ”によって、不死川心は相手の勝利を演出し、油断を捥ぎ取ったのであった。

一眼、二足、三胆そして四力となぞりながら、その場で膝立ちになった不死川心は、ついに無防備を晒した大村を抑えにかかった。

抜け目なく男の膝関節をかくりと折らせ、相手の態勢を崩した心の頭がぐっと前に出る。 腰のベルトを手掛かりに、襟を引き摺り下ろして引っ掴む。

着物の裾から露わになるニーブレス。

それを装備した膝小僧を軸にして繰り出される、



「絢爛なる竜巻背負いッ――――!!!」



団子頭を経由して、決意の横顔が大村の目の前に沸いて出た。

一瞬のチャンスを逃さずに襲い掛かり、まだ死んではいない誇り高き柔道家の力量を示した女の顔だった。

より冷静な側に有利が働く、という戦闘の鉄則に従うならば、この時の心は圧倒的に優勢だった。

理性の線は切れていたが、この上なく冷静であり、ここまでの敵の動きを正確に読み取ることができた。



「――――味な真似をッ!!!」



だが、それに対した大村もまた、不敵な色を宿した瞳をかげらせはしなかった。

鉄則などという縛りに囚われていては、“壁”を超えることなどできはしない。 いずれその境地に昇り詰めるべく、精進してきた者こそ心の相手だった。

ここからの大村に呼吸は無かった。

息を詰め、密林の虚空を流れる自らの全神経を集中し、相手の死角を突くことのみを念頭に、次の動きを模索していた。

そう、彼自身の呼吸は必要なかった。

視界の天地が完全に返されるその直前、背筋を収縮し、下半身を海老反りに、背中が叩きつけられるよりも早く、両の踵だけ先んじて着地する。

発勁に必要な呼吸は、そこから生み出される勁力は、既に十分すぎるほど不死川心自身が貯めてくれていた。

ただ、流せばよい。 逸らせばよい。 返せばよい。

天罰覿面因果応報、是れ我が流派の奥義也。 ――――人、それを『縁起』という!

小賢しい『演技』を打ち破るに、これほどの皮肉はあるまい。

投げによる脊髄への衝撃を躱し切ると同時に、両足で震脚を踏み、勁の行く末を再訂し、脚力の威を上乗せして、密着した心の薄い胸に頭頂部を飛び込ませんとした。



――――バーニングヘッドッ!!!



凝らした技巧の名を胸中で叫ぶ。



「にょァッ!?」



爆音のように土の地面が打ち鳴らされ、雅な悲鳴を掻き消した。

予想だにしない角度からの反撃に顔色を失った心の鎖骨に向けて、噴石の如き大村の頭突きが放たれ。






「――――富士砕き」






…………着撃するその間際、大村の胴体を流れていた勁力は、彼の腹筋ごと圧潰した。

二者の空間に捻じ込まれたいわおの如き右下段突きが、起死回生を果たした大村の命運を、羽虫をはたき落とすような気楽さで、跡形も残さず粉砕した。

左斜方の地べたに吹き飛ばされた大村の体は海豚のように跳ね、藁屑のように舞い、コメツガの一木に叩きつけられる。 受け身など望むべくもなかった。





















「常勝無敗完全無欠のディフェンディング・ヘタレクイーンと見せかけて、なかなかどうして根性があるようだな、不死川?」



やにわに足元へ転がってきた手榴弾が、いきなり爆発したようなものだ。

すぐ真横にいた人間の顔面が、対物ライフルの流れ弾で唐突に掻き消えたようなものだ。

不意の喪失感に遅れて、極寒の戦慄が心の総身を奔り抜く。 胃の腑が反り返りそうになる。

固めた拳の先で、味方であった筈の者を無力化した感触を確かめるように、武神――川神百代は緩慢に残心しながら、餓え猛る獣の眼をこちらに注いでいた。

中腰のまま、ただひとり、背負い技を半ばで途切れさせたその位置で、心は身じろぎ一つできずに体を凍りつかせていた。

動かなければならないと重々承知していながらも、一歩でも足を動かせば脱力して跪いてしまいそうだった。

戦士としての勘が告げていた。 今のこの女に、敵味方の区別など既に無いのだと。

一歩間違えれば、大村と自分の立場はそっくり入れ替わっていたのだと。

位置関係と気合の吐き具合――――“どちらがより猛者たりうるか”という基準で、大村が優先されただけ。

この女は、ただただ強者を相手に満たされたいだけなのだ。 暴れ回りたいだけなのだ。

その瞳に心を捕捉したまま、ゆっくりと、獲物を定めた獅子の如く百代は歩み寄ってきた。

残忍な鳶色の双眸は、乾いて間もない血痕を連想させる。

アレから、目を逸らすわけにはいかない。

いかに恐懼で脳漿が凍ろうと、膀胱が緩みかけようと、それだけは理解できた。

今、目を逸らせば、命は無い。

今、百代の不興を買えば、心の明日は無い。

そう思わせるだけの殺気が、呼吸も同然に、見上げる顔面から放たれていた。

新入りの亡者をどう持て成そうかと愉しげに思案する、地獄の鬼の貌だった。



「…………丁度いい。 お前、先触れになってくれるな? 今のが礼の先払いだ」


「さ、さきぶれ?」


「ああ、そうとも。 もう少ししたら、私はメインを獲りに往く。 邪魔が入らぬよう、ゆっくりとっくりオードブルを堪能してからな」


「た、たんのう?」




意味を斟酌するゆとりもなく、ただただ彼女の言葉を鸚鵡おうむ返す。 満足に頷くこともできない。

ひしひしと感じていた。 川神百代と不死川心の間に、談判はおろか、戦闘という交渉すら存在できない。

沿岸の村を襲う津波であり、山麓の村を襲う溶岩であるものに、どうして問答が通じるものか。 どうして拳を交え、その襟元を固め、組み合いを仕掛けることができようか。



「備えておけよ、と伝えるんだ。 迎える支度をしておけ、とな。 …………早く行け」



足元が割れた。

家鳴りのような乾いた衝撃音が遅れてやってきた。



「どうした? 早く、」



行け、という言葉が再び耳に入る前に、心は全力で真横に飛び退いていた。

一瞬前にいた所が、畑のうねのように掘り返されている。

その一角だけが、超小型の直下型大地震に見舞われたかのように、薄く円形に抉られていた。

ただの“気当たり”が、物理的に害を及ぼすその様を一目見て、不死川心は脱兎の如く踵を返して逃げ出した。



「ほらほら、急げ急げ。 ――――――ふふっ、ふふふふっ、んふふふふふふっ♪」



その姿は確かに、狩猟者に追い立てられる好餌こうじのそれに他ならなかった。

二つ、三つと、同様の炸裂音が背後から追いかけてくるのを聞きながら、森を抜けて崖際に辿り着く。

張り出した木の根に足を取られ、頭から倒れこむ。

振り返る。 

空気が爆ぜる。 

木の根が弾ける。 粉微塵に砕ける。 

飛び散った木片が顔に飛び、出来たての擦り傷に直撃する。

殺気の塊が頭のすぐそばを掠め飛んでゆく音を聞きながら、心は転がるように斜面を下って行った。

這い茂る蔓草や張り出した石礫、あるいは自分の裾を踏んでは何度も転び、滑りながら、迷彩色の斜面を駆け下りた。 もはや全身が打ち身の百貨店と化していた。

せめて、次第に緩んでゆく帯をきつく縛り直したかったが、少しでも立ち止まれば正確に足元の土を穿ってくる不可視の鬼道が、心にその間を与えてくれなかった。

それは、巣穴に逃げ帰る蟻を一匹ずつ潰していく類の遊戯だった。

百代が意図して的を外し続け、怯えて逃げ惑うばかりの自分に対して歪んだ愉悦に耽っているのは明白であったが、さりとて、それに期待して疾走を緩められるだけの精神的余裕など、心には既に無かった。

息せき切って、ひた駆ける。

川神百代は伝言を送る相手をついぞ教えはしなかったが、それは状況が状況だけに明白であった。

その目的意識だけが、恐慌状態にある心の心の、唯一の拠り所となっていた。





















「さてと。 まずは周りの大掃除からだな。 モロロの手当ての方は任せた。 後で謝っておかないとな。 ふふ、まったく今日は、どうにも拳のノリが良すぎて困る。 なかなかに………………ああ、それと大和。 さっきの問いの答えだが、言っただろう、高級フレンチと。 よくぞあれだけの面子を揃えてくれたものだ。 実は、お姉ちゃん、あれな、かなり見直したぞ? だからそんな、母性本能を程よくくすぐってくる顔をしないでいいんだ。 ……安心しろ。 忘れてはいないさ、これがお前の誇りを示す機会なのだということを。 おかげさまで今の私は良い加減に加減が効かん。 だがな、だからこそ、超時空要塞にでも乗ったつもりで待っていろ、“軍師”直江大和。 この私と直斗の相手を一手に引き受けたここまでの雄略、誠に天晴れだ。 今度は私が、この抑えようのない、胸を焦がして頭を煮え滾らせてやまない狂おしいリビドーを駆り尽くして、お前の勝利を念押ししてくるさッ! ふふふ、ふはははははははは!!!」





















――――アタシには、そんな悪い子には思えなかったけどねぇ。

――――よっぽどの理由ていうのがあるんじゃないのかねぇ?

――――ほら、大和君は昔っから、少し擦れた所があったじゃない? 今じゃ、あの小生意気さは見なくなって久しいもんだけどさ。

――――そうは言ってないだろ? 聞いた限りじゃ、一方的に因縁つけられたらしいし、あの子が悪いって事に異議は無いよ。 

――――首根っこ踏み抜かれるところだったって? ハァ…………アンタ、ほんとにアタシの子かい? それぐらいでギャーギャー喚くんじゃないよ、みっともない。 

――――何のためにジムに通ってんだい? そういうときのためだろ? 相変わらずの女漁りにうつつを抜かしてるからそうなるんじゃないのかい?

――――ま、アンタたちがカッカするのも仕方ないとも思ってるさ? アンタたちのケンカだ。 アンタたちで好きにやんな。 

――――けどね。 その無駄にデカい図体で殴りかかる前に、必ず目を見な。 思い知らせるんだよ。 相手にも、アンタ自身にもね?



「何を思い知らせろってんだよ、ったく……」



ひとりごちる。

川神を出発する前の晩、嫌に小五月蠅かった母親の節介焼きを、何故かこの場面で島津岳人は思い出していた。

寮監という立場から、学園の運営関係で川神院と意思の疎通を図ることが多い島津麗子は、息子の想像以上に院の内弟子たる直斗と親交があったようで、まんまと直斗の外面そとづらに騙されたままでいるらしい。



「があッ!」



……再度、なよなよ●●●●とした拳が胸元に肉薄したことで現実に引き戻される。

避けるまでもない、虫一匹も満足に殺せないような拳速である。

エキスパンダーで鍛え上げた広大な胸筋に受け止めさせると、そのまま細腕を掴み上げ、ハンマー投げの要領で五メートル先に打ち捨てる。

岳人の直近の十分間は、この作業の反復に割かれていた。



「だぁあッ!」


「ッ――――、しつけぇぞッ、いい加減ッ! 色の悪ぃ生長不良の豆モヤシみてぇなお前がッ、俺様に勝とうなんざッ、百万年早ぇんだよッ!!」


「ごッ!?」



何度打ち倒しても打ち倒しても追い縋ってくる男は、自分にとって、甚だ不足の相手だった。

彼奴きゃつこそ“魍魎”が怨敵、“エレガンテ・クアットロ”が一柱。

道を歩けば擦れ違った十人中十二人が振り返る、さしもの岳人も認めざるを得ない、魅惑の魔貌。

更に自らをバイセクシャルと公言し、もはや存在自体が男女兼用の投網のような褐色小悪魔系、眼鏡美男子。

人中の呂布ならぬ、貴公子中の葵冬馬と覇を競い合うというのは、学園の女性陣に島津岳人の男性的魅力を説くに相応しい、待ちに待った絶好の機会である筈なのだ。

……だが、拍子抜け。 その一言に尽きる。

あれだけ大和が“同類として”警戒していた男である。

学園一の頭脳を持つことは、岳人とて承知していた。 それは明々白々であった。 

“一位 葵冬馬 ○○○点”の文字を、学年掲示板で何度見たか分からない。 賭場で何度カモにされたか分からない。

あの涼しげな顔に、組対抗のイベントで何度F組が煮え湯を飲まされたことか。

そんな2-Sきっての参謀役が、岳人の前へ、単騎で特攻して来たのだ。

何らかの策が凝らされていると見るのが妥当だった。

たとえば、起伏の激しい戦場を鑑み、玄武軍のゲリラ的な攻勢を予測した大和は「恐らく“釣り野伏せ”が仕掛けられる可能性が高い」と風間と岳人が率いる黒の団に言い含めていた。

戦国史にさほど詳しいわけでもない岳人であったが、この古流戦術には馴染みがあった。 何を隠そう、九州の雄・島津義久が考案し実践した戦法である。

どこぞのフィギュアスケート選手同様、自分が大名の末裔であるらしいとの母の言は正直に言って眉唾物ではあるのだが、昔の時分、ピンポイントでローカルな学習漫画を読ませられたためにそれを知悉していた。

部隊を複数に割き、囮部隊である“釣り”と、伏兵である“野伏せ”に分ける。
敵軍中央に突撃して頃合を見計らって敗走を装いながら後退する“釣り”。
それを追撃した敵部隊を、あらかじめ左右に伏せておいた“野伏せ”の部隊を波状に繰り出し、包囲殲滅する。

――――それが、大軍を寡兵で破るべくして編み出された“釣り野伏せ”である。

こう説明すればただの伏兵戦術のようであるが、実際に行うには、第一に釣り部隊が敵が本気になるほど奮戦し、第二に完全に負けたと思わせる敗走をし、第三に追撃させるほど相手の判断力を落とす、という幾つもの段階を踏まなければならない非常に高度な戦術であり、指揮官の高いカリスマ性・采配が求められ、軍師の腕前が試される用兵術である。

なるほど、確かに「俺だったらそうする」と大和が言うだけのことはある。 いかにも大和好みのそれであり、葵冬馬にとっても同じだろう。

仮に釣り野伏が仕掛けられているとすれば、この場面、“釣り”は冬馬一人であるという計算だ。 なんという豪胆さか。

……だが、それは万に一つもあり得ないのだ。

なぜなら“野伏せ”はどこにも存在しない。 岳人を囲うは岳人の味方以外に無いのである。

七千対二十万で勝利を捥ぎ取れても、一対二十ではそもそも策自体が成り立たない。

一は、それ以上分けられない。



「ぐぅうううう!」


「…………らしくねぇぞ。 本当によぉ」



呻きながら藻掻きながら、肉が震え、骨の軋む音さえ聞こえてきそうなほど痛々しい様子で立ち上がるのは、これで二十三度を数える。

思えば、包囲を潜り抜けてきたところから様子が常とは違っていた。

ひびの入っていた、いかにも高級そうな眼鏡は既に戦場の土煙の中に消え、飄々として掴み所の無い甘いマスクすらかなぐり捨てて、長髪を振り乱し、我を忘れた面持ちで遮二無二突貫し続けるその姿は、普段の葵冬馬と余りに懸け離れていた。

それに全く怯まなかったといえば嘘になる。 だが、冬馬がいくら叫ぼうと、いくら拳を伸ばし蹴りを飛ばそうと、ひたむきに五体を鍛え上げた岳人との力量差は歴然であった。

もとより、闘犬に愛玩犬が喧嘩を売っているようなものだったのだ。 もはや勝負は着いている。

多対多の乱戦が当たり前の、味方集団から独りはぐれればたちまち敵集団の餌食になるこの戦場において、冬馬がリンチの憂き目に遭わず、岳人との一騎打ちの体裁が整え続けられているのは、ひとえに“それが十分にリンチである”という黒の団全員の認識の一致が理由にある。

これ以上痛めつけるところは無い。 その必要は無い。

もはやそのあたりの、運動部の補欠部員でも相手は十二分に務まるだろう。

岳人とて、雑魚にこれ以上かかづらっている余裕はないのだ。 そこそこのペースで走り続けたならば、今の状態の冬馬を撒くことなど容易いだろう。

水煙の帳の彼方に見た、矢車直斗の、どこか呪術的なものを感じさせる復活劇。 それを押し留めるに、白の団の手勢だけでは些か物足りないのは瞭然だった。

今はチャンスなのだ。 

たとえば、苦境に立っている筈の年上美人、マルギッテ=エーベルバッハの前に颯爽と現れ、彼女の心を射止める、千載一遇のチャンスなのだ。

…………だが、



「……――――逃、げ……ぅ、な」


「テメェ……?」



目の前の自分に向かって言っているのか、それとも冬馬自身に言い聞かせているのか、その判断は岳人には着かなかった。

その判断は着かなかったが、横溢する涙を拭い切ったその視線に射竦められた途端、白い霧が吹き寄せてきたかのように、唐突な既視感が岳人を襲う。




――――椎名は、守ってやりたいと思った。 そうするには簡単だ。 ファミリーで守ればいい。 椎名京を、仲間に入れてやりたい!

  ――――ばっ、……ざけんな! 入れる意味がねーよ! 椎名を入れたら、ワン子とかまで何を言われるか分からねーんだぞ!? モモ先輩は1つ上だからいいかもしんねーけど! 俺様と大和は同じクラスなんだっつの! 冗談じゃねぇや!

――――そんだけでかい図体して怖いのかよガクト。

  ――――ああ!? 何えらそーに言ってんだ! 大和がこんな火種持ち込んできたんだろうが!?

――――俺の話を聞いて怒りを覚えねーのか!

  ――――そ、そりゃあムカつくがよぉ。 ……女子どもに嫌われるのは勘弁なんだ。

――――椎名を入れるのに反対だってんだな?

  ――――ああ、だいたい大和、椎名の事をイジメられるヤツに責任あるとか言って見下してたろ!

――――その事については、考え方を改めたとしか言えん。 ……もう、ニヒルはやめだ。……何にも解決しねぇ。

  ――――おお?

――――だから、そのことは忘れて頼むって言ってんだ。 女子の事は別にいいだろ? イジメから守ったから嫌いなんて言うヤツはこっちから願い下げだろ?

  ――――違うぜ! 話す機会とかも少なくなる!

――――……なーんか小せえなーガクトぉ。

  ――――ああん? 俺様が小さければ、大和、お前は何だゴラ! つーかお前、この頃おかしいぞ? なに強がってんだよ。 なにをそんなに焦ってんだよ。 この前の焼き芋ん時、酸欠で倒れてからずっとだ。 ぜってー、ヘンだ!

――――ツ…………ッ、うるせーよ! それは今関係ないだろ! キャップが居て、最強の姉さんが居て、俺が軍師だ! なんだって上手くいくに決まってる! お前以外、みんな賛成したんだ! いい加減、お前が認めりゃ全部丸く済むのが分かんないのかよ!

  ――――人に物を頼むヤツがなに舌打ちして誤魔化してんだよテメェ! ふざけてっと軽くねじ伏せっぞ! 舐めてんじゃねえよこの野郎!! 

――――舐めてんのはどっちだよ。 ……今、軽くねじ伏せる、って言ったか? 俺をそうやって軽く見てたのか? 俺がおちゃらけて頼んでるように見えんのかよ!?

  ――――だから何だと?

――――ねじ伏せられねーよ! なめんじゃねーよ!!

  ――――上等じゃねえか! やるかコラァ!! ……ッ痛ッてェエエ!!

――――先手必勝だこの野郎!!!
 
  ――――ブッ倒れろや! オラァ!!

――――ぐはぁ!!

  ――――オラッ、俺様の勝、――――ッず、ぐ、がっ、噛みやがったな!?

――――なんでもありだろうがぁ!!



いつかの河原、いつかの草叢。

あの時の大和の目の色が、真正面にあった。

それは、椎名京を風間ファミリーに迎えた記憶を呼び起こす上で、避けては通れない、岳人個人の原風景。

あの決意の眼。

あの、何かを必死に埋め合わせようとする顔。



――――こいつも、変わろう●●●●ってのか……?



あの時の、大和のように。



「…………ああ、チクショウ。 あの女もこの女もどの女もピンチそうで選り取り見取りだってのに、選りにも選って、一番いけ好かねー男なんかに付き合おうなんてな、どうかしてるぜ俺様はよぉ。 ――――しゃあねえな、おい! 粉々にされても恨むなよッ!!」


「がああああッ!!」



無論、岳人とて、意地がある。

向かってくる相手に背中なんぞ二度と見せられない。

夏季休暇の直前、直斗に造作もなく床に転がされ、蛙が這いつくばる格好で恥辱に塗れた背中を全校に晒した者こそ自分だった。

その意趣を返し、一泡吹かせてやるダンコたる決意は、ここまで些か揺らぎもしていなかった。

いいだろう。 必ず目の前の相手を屈服させ、その次は、兎にも角にも直斗の番だ――。

“勝った方がハンサム”と、おちゃらけていた初期の空気は既に無い。

これから両者が臨む戦いは華々しいものでもない。

一般に言う無様であり、ちっぽけな、泥臭い素手喧嘩である。

しかし、だからこそ、そこには遠慮も呵責も程遠く、何一つ混じり気のない雄々しさのみが場を支配する、男と男の真剣勝負と言えた。

冬馬がか細くも精一杯の気を吐いて喉を震わせれば、岳人の大雑把な胴間声がそれに応えて叫びを重ねる。



それはどこまでも熱く、どこまでも清々しい、不撓不屈の訴え合いだった。





















一心不乱。

包囲壁を破った後も、彼は無言のまま動き続けていた。

雲霞の如き敵軍の中にあって、鮮烈な蒼の羽織のはためきは一向に休まる気配がなかった。

固化し、流転し、増幅し、減退し、湾曲し、連鎖し、交差するひたむきなチカラとチカラ。

その狭間を縫うように、口元の静寂を保ったまま、直斗は森林方向へと足を速めた。 逃走を開始する数人が視界の隅に奔ったからである。

景色を塗り分ける赤光と緑光が全てを導いてくれていた。

次にどこまで体を運び、何人を同時に相手取る羽目になるのか、どの方向から斬りかかり撃ちかかり突きかかってくるのか。 それがわかる。 

さながら予言者、或いはタイムリーパーの心地。

一度受けた学力試験をもう一度、解答冊子を真横に並べて受け直しているような気分。



「ぐがッァ!?」


「げへッゥ!?」


「くふッィ!?」



前方の赤色は消えた。 つかのま緑一色となった正面方向。

意識は後方へ。 逃げる者もいれば追う者もいる。

振り返る必要はない。



――――川神流体術が一芸 “三角龍” にて。



川神一子が躍動する姿を幻視し、その動きを早送りでなぞる●●●ようにして。

――――まずは地の一角。 一歩目の踏み切りは斜め前方。

体を後ろに傾けながら一気に林端の一木に向かって加速し飛び上がる。

――――続いて中の二角。 重力に準じる直前、そこから続いて幹を蹴り、跳躍、飛躍。

川神流を数年でも修めれば、重力の束縛からもある程度脱することができる。 垂直であれ逆さであれ、腿力を篭めて踏める足掛かりさえあれば、それだけで事足りる。

――――とどめの天の三角。 呆然と見上げるばかりの敵を眼下に見据えながら、今や姿勢の天地を逆転させた直斗は一気に枝を踏み込んだ。

樹海の中に逃走を許したかと思いきや、およそ同じ人とは思えぬその動きで逆に攻めかかられる事となった追っ手は、完全に虚を衝かれることとなる。

飛龍の如き影法師が音も無く地に踊った。

予想だにしない三次元的な挙動、真上からの奇襲に、振り仰いだ敵の視線が恐怖に凝る。



「んなァッ!?」


「ぎぃッ!?」


「はうぅッ!?」


「うごッ!?」



滑空中に一人の脳天をしたたかに打ち据え、二人目は着地後に胴を払い、勢いそのまま駆け抜けざまに三人四人。

外に外にと逃げながら、前触れをみせずに、内を内をと苛烈に攻め入る。

多人数を相手にする際の基本戦術が、無意識のうちに計られていた。



「マルさんッ!!」


「お嬢様ッ!!」



そしてそれが一切通用しない、半径百メートル以内で最も厄介な者たちが再び押し寄せる。

クリスティアーネ・フリードリヒと、マルギッテ・エーベルバッハ。

この二人の挟撃だけは何としても避けなければならなかった。

長年連れ添い合い、切磋琢磨を共にしてきた彼女らの超速連携は、今の己の状態を鑑みても脅威であることに変わりはない。

あの石田三郎と島右近、尼子兵らのチームワークなど比較にならないほどの難敵であった。 それはつい数分前の初顔合わせファーストストライクで骨身に染みていた。

先ほどと同じく間合いを稼ぐ。 活歩の脚捌きで迷わず後退に移る。

縦列のまま追い縋る二つの人影。 もろともに一方向へ馳せるばかりなら、挟撃に持ち込めない筈だった。

他の兵卒との乱戦に紛れながら、各個撃破こそ最善手。 脳が断じたその瞬間、目前の朱色の領域に翡翠が混じり、毒々しい濁りの渦が生まれた。

初めての事だった。 怪訝に思ったときには全てが遅かった。

もとより直斗の目論見を看破していたかのように、相手は直斗の最適戦術に即応してみせたのだ。

猟犬ポインターの上体が前傾すると同時に、金糸雀カナリヤの翼が空へと舞い上がる。

挟撃は何も、左右に回り込んで仕掛けるばかりではない。 

“お前も今しがた同じものを仕掛けただろうに……”――――閃いたマルギッテの犬歯がそう語っていた。

後続のクリスが大きく地を蹴って、先行して駆けるマルギッテの肩に飛び乗り、そこを足場に、更に高々と宙に身を躍らせたのである。 ――――下がる直斗の頭上を飛び越えて。

もとより直斗に飛び道具の用意は一切無く、鞘一つ剣一つをなげうったところで、上空の敵に動きを封じるまでの深手を負わすことは不可能だった。 

……もはや間に合わないと観念した直斗は、やがて訪れる破滅の連環を万全な状態で迎え撃つため、クリスが背後へ滑空する隙、マルギッテが直進して距離を詰める隙に、先読みの能を最大限に生かすべく、更なる注射筒を首筋に突き立てる他なかった。

進むもならぬ。 退がるもならぬ。



「どうだッ!」


「お嬢様が御訊きになっている。 ……感想ぐらい聞かせなさいッ!」



それは既に無理な相談だった。

舌唇の痙攣は更に更にと悪化の一途を辿っていた。

ことさら口を利こうとせずとも、口端を緩めるだけで狂声を発しそうな塩梅あんばいだった。

それだけではない。 薬が切れる合間に実感できる“本来自由の利かない筈の箇所”が次第に広がっているような気がしていた。 

腕と掌が動かなくなれば、薬効の切れた瞬間のインターバルに注射筒を打つことができなくなる。 

己の命運が窮まる時が来るならば、其処だろう。 限界の限界が、近づいていた。




――――だが、燃え尽きたその時こそ。 その時こそ、きっと、全てが報われている筈。




「せいやァッ――――!!!」


「Hasen Jagd――――!!!」



姉妹の叫びが重なる。 凛々しく獰猛な気合が前後から叩きつけられる。

容器内に針を収納し、中身の無くなった注射筒をクリスに投げつけて牽制し、左手で再び鞘を抜く猶予を作る。

もう何度かけただろう自己暗示をよすがに、依然沈黙を保ったまま、直斗は終わりの見えない死線を掻い潜り始めた。



伽伽伽伽伽伽伽伽伽伽伽伽伽伽伽伽伽伽伽伽伽伽伽伽ッ―――――。



颶風ぐふうの如き双棍の連打に蛸殴りにされるか、流星の如き突剣の連穿れんせんに膾に刻まれるか。

逃れようのない挟撃の結末。 それを堰き止め続ける右剣と左鞘。

彼女らほどの技量ともなると“渦潮”による同士討ちも見込めない。

三本の得物に二本の得物での対抗である。 もう一本腕が欲しいところだった。

必定、防戦に徹するしかない。



凝凝凝凝凝凝凝凝凝凝凝凝凝凝凝凝凝凝凝凝凝凝凝凝ッ―――――。



「……本当に、見事なものだッ」


「ええ、まったくもって、度し難いッ……」



切れ目ない剣戟音の向こうから、苦り切った感嘆と揶揄の声が届く。

右と左の半身を、それぞれ別個にくねらせ続けるにも限度があった。

事実、クリスと比して手数の多いマルギッテにはじわじわと肉薄されつつあった。

動きのレパートリーはそう多くなく、このままでは後手に慣れられ、先手を取られ、調伏させられるのも時間の問題であった。 であれば仕掛けるのは乾坤一擲の――――。



「矢車ァアッ―――――――――――!!」



第四者の金切り声が、このせめぎ合いに分け入ってきたのは、そのような時分だった。

最初に反応したのは、呼ばれた当人に他ならなかった。

極限の集中下、視覚聴覚共々をこちらに指向していたクリス達とは対照的に、直斗は色覚を除いて人体器官の知覚機能を全て拡張し、なべて万象を俯瞰していたが故に、不死川心の接近と頓呼に、いち早く気づくことができてしまった。

受け流す衝撃を直斗は殺し損ね、順手に構えられていた鞘が下胴に押し込まれる。 

応じて左腕が開いた。 間隙が直斗の左半身上部に降って湧く。

見逃すクリスではなかった。

レイピアの尖鋒が半円を描き、胸梁の向こうに剣柄が刹那に戻される。

瞬時に総身を弓弦と化し、矢を引き絞るように剣柄を引いた構えから、迅速の刺突が繰り出された。

刃引きされたフェンシングフォイルが箒星のように空間を貫き、一撃必倒の急所たる腋の下を抉り穿たんと迫り来る――――。





















ああ。



「お嬢様ッ!?」



拙速だった。

姉貴分の警醒の声に先んじて、クリスは自覚していた。

何故なら、この形である。 自分は一度、この手に敗れている。 それも、同じ人物に。



――――レイピアは基本的に突きしか攻撃手段がありません。 だからああいう芸当を試そうとも思ったんです。 でも模擬剣でなく本物であれば大抵のレイピアの側面も良く切れます。 死合であれば実力からいって、こちらが負けていました。

――――……しかし、肉を斬らせて骨を断つ覚悟なら、結局同じことなのでは?

――――そう言いたい所ですが、残念ながら俺は真剣を相手にしたことが無いので、多分焦りと痛みで捌き切れずに終わるかと。



川神学園に転入した初日の会話を思い出す。 彼と初めて剣を合わせたあの日の言葉。

一度敗北した相手と再戦するのであれば、当然、前回の敗因を吟味することになる。

同じ手は食わぬと固く誓って、時機を窮めに窮めて、結果がこれである。

大和によくからかわれるが、その指摘の通り、自分というのは本当に、猪武者の典型なのだなとつくづく実感する。

……しかし、いったい誰が想像できたというのだ。

突剣の勢いに呑まれた鞘が胴に落ち、そのまま取り落とされる。 そこまではいい。



――――そこから、左足によるリフティングで再び鞘を打ち上げ、

  ――――クリスが狙い定めていた左腋に嘲笑うように到達させ、

    ――――鯉口を、鞘の口をクリス側に向けたまま、根元を左腋に挟み、

      ――――クリスの放った白銀の閃光を、暗黒の墓穴に呑みこませる。



片手間にマルギッテの相手をしながら●●●●●●●●●●●●●●●●●、そんな所業を成しうる相手に、対処の術などあるものか。

直斗の鞘は寛容だった。 野太い直剣を包むべくして誂えられた鞘には、細身の突剣を収納するに些かの差し当たりも無かった。

基本的に“引いて突く”ことでしか、敵手に有効打を与えることのできない文字通り愚直な得物がクリスの武器だった。 そして、もはや剣を“引く”ゆとりはない。

レイピアの刃圏、その内側に接敵を許すことは、すなわちこちらの敗北を意味する。 突剣の遣い手は、なによりもまず、この事実を念頭に置いて戦闘術を行使しなければならない。

そして納剣が為されたということは、クリスの武装解除が完了したと同時に、その間合いが詰められたということ。 

……彼ではなく、彼女自身が、詰めてしまったということ。 彼女に働く慣性が、彼女自身が引き起こした地面の反作用が、その場から彼女を取り逃がしはしないということ。

直斗の腋が再び開かれ、もはや用済みになった鞘の僅かな重みが突剣を通じてクリスに伝わる。



「がはッ――――――――――――!!!」



直後、遠慮も容赦も呵責もない、物言わぬ地蔵の左拳がクリスの脇腹に突き立つ。

衝撃は体内に残留して内臓を七転八倒させる。

地獄の苦悶。

腹部打撃の特徴は、頭部打撃と違い意識を奪いにくいことにある。

感覚を飽和させるだけの威力に及ばぬ限り、意識はむしろ鮮明となり、苦痛をより強烈にする。

たまらず体をくの字に折り曲げた。 前屈みの体勢。

自然、最も上体から突き出ることになる部位、西洋人女性特有の細い顎が直斗の前に差し出される。

そこに見舞われた無骨な左手甲の正確無比な一撃が、クリスの頭蓋を揺らし、脳を震わせた。

かくん、と手足の関節が一斉に折れ、視点が落ちる。 泥細工のように世界が溶ける。

クリスティアーネ・フリードリヒ個人の戦いがここに終着する。




――――正しいやり方と言ったなぁ、クリス?

――――お前がそれを語るなよ? 正義大義の為に人を殺す、その報酬で人並み以上に養ってもらってるお前がッ!!

――――大体どうでもいいんだよ。 何かが正しいとか正しくないとか、間違ってるとか間違ってないとか。 ……問題は、俺が許せるか許せないか、だからな。

――――俺は自分に“率直で正直”でいるだけだ。 お前、それが好みなんじゃなかったっけ?

――――それが出来ねぇ“士道”なんざ、そこらの犬猫にでもくれてやるよッ。 ……わかったか、お嬢様?




意識が沈む間際、幻聴がまた耳朶を打つ。

宣戦の日、学園が二つに分かたれた日、他ならぬクリスに突きつけられた糾弾。

クリスは自分の正しさに絶対の自信を持っていた。 

それがあのとき、直斗の頬を張ってやるに十分な理由だとして少しも疑わなかった。

だが、直後の直斗の嘲弄に何も言い返してやれなかったのは、その嘲弄が一方で正鵠を得ていると察したからに他ならない。

……同じことだと悟ったのだ。 風間ファミリーにおける廃ビルと。



――――わからないだろお前にはッ!? この場所がッ! この空間がッ! どれだけッ、どれだけ大切なのかッ!!

――――だからこんな新参者を入れるの嫌だったんだッ!

――――壊すべきッ!? よくもそんな事この場所で言ってくれたなッ!? 何様だと思ってやがるッ!!



いつの日かの、京の激高を思い出す。

社会の善悪がそのまま自分の好悪と通じる人間など存在しないことを、クリスは学んでいた。

それはクリスにとって、ファミリーに入るうえで、ある種の通過儀礼の意味合いを持っていた。

意思を尊重すること。
善悪と好悪に折り合いをつけること。 
それぞれの人間にそれぞれの逆鱗があること。
是非も正邪も曲直も、どんな良不良も、結局は個人の尺度であること。

それを知ったばかりだったゆえに、クリスは思考を止めてしまったのだ。 自分が、果たして直斗を処断できる立場にいるのかと。

仮に、今の自分の立ち位置に間違いはないと、そう言い切れるかと問われれば、平然と頷いてみせるだろう。

だがまた仮に、その葛藤に終止符を打てていると、そう言い切れるかと問われれば、返答に窮するだろうというのが、彼女の偽りのない本心だった。



――――正義は、必ず勝つのだから。 



そうだ、だから、勝った方が正義なのだと、そう説き伏せて、大和はクリスをこの場まで導いた。

……直斗にやり込められた形になったクリスを、しかし予想に反して、大和はそれを出汁に嗜めようとはしなかった。

直斗の嘲弄に憂いていた所に、ただの論理のすり替えだと、慰めの言葉さえくれた。 青天の霹靂であった。

彼は優しかった。

いつものごとく何か企んでいるのかと邪推するのも億劫になるほどの、柔らかい態度。

もうファミリーなのだからと、その理由を京はクリスに耳打ちした。

クリスや由紀江が思う以上に、大事な“仲間”として認知されているからと、キャップは後を引き継いだ。

不足はねぇだろ、それでと、豪放にガクトが笑った。

戦力として期待しているからだと、直後に顔をそむけた大和に、愛いやつめとモモ先輩がヘッドロックをかけた。



――――そう、とどのつまりは、直斗の言った通り、正しいか正しくないかじゃなく、“許せるか許せないか”だったのだ。



それが正しいとか間違っているとか、その以前の事柄として、クリスはそんなファミリーを好いた。 好いている。

憧れてやまなかった、この日出づる国で、世間を知らない自分を面白おかしく導いてくれる彼ら彼女らが、クリスは愛おしくてたまらない。

だから、矢車直斗の、大和とファミリーに働いた暴挙は見過ごせないし、許せない。

だから、朱雀軍に与したクリスの決意に一点の曇りも無い。

ここまでの自分の選択は、他ならぬ自分を納得させるに足るものだった。

その納得とは別に、矢車直斗への疑念と当惑が、相変わらず胸の内にあるというだけ。

この戦場に赴くまでに、一子と違い、クリスは自分の感傷に粗方整理を着けられていた。



――――でも、それでも。



……悔しいと思うことに変わりはない。

あのとき、何か反論できれば。

何かひとつでも、彼に言葉で示すことができれば、こうは、ならなかったのではないか。

クリスは知っていた。

あの宣戦の場で頬を張り、顔を突き合わされ、結果的に最も彼に近づいたクリスは見ていた。

あのとき、彼以外のすべてが彼の味方でなくなったあのとき、極め付きに底意地の悪い笑みを浮かべながら、彼は泣いていた。

自分と同じく、彼もまた、目を濡らしていた。

そう思い出した。 あの宣戦布告に想いを馳せるごとに、情景の細部がクリスの脳裏に蘇ってやまなかった。

その段になって、自分の行いを恥じたからか。 自分の行いに酔い、腹が捩れることに我慢できないほど愉快だったからか。

判断はつかないが、…………どちらにせよ、彼は“クリスの返答が無かったから”泣いたのだ。



――――自分は未熟だ。 



努力しなければならない。 研ぎ澄まさなければならない。

いつか父の後を追い、軍に所属する願いを持つ以上、あの直斗の弾劾と同じものが、あれ以上に凄絶な問責が、何度も何度も自分に降りかかることだろう。

それに打ちのめされるばかりではいられない。 父に慰められ、姉貴分に守られるばかりでもいられない。 自分の跳ねた泥を被らずにもいられない。

抑止力という守り手に救われる人間は、救われない人間よりも圧倒的に多いのだと、大切なのだと、厚顔に破廉恥に宣言し、それでも自分なりの正義を貫いてゆく。

自分の選んだ道というのは、それなのだから。

どれだけ人に非難されようが、自分が正しいと思い、自分が好ましいと思った生き方なのだから。

――――《光灯る街に、背を向け》

――――《我が歩むは、果て無き荒野》

――――《奇跡も無く、標も無く》

――――《ただ、夜が広がるのみ》

――――《揺るぎない意志を糧として》

――――《闇の旅を進んで往く》

この地に伝わる、はるか太古からの口伝。

これが川神魂。 これが、風間ファミリーの在るべき姿なのだから。

ああ……、よくよく考えれば、まるで今の彼のようだな。 ――――という、その思惟が最後だった。

しな垂れかかる鮮黄の髪房が、頬をなぞる雫に煌めきを添えかけて、それを合図に、クリスの五体から一切の力が失われた。





















もはや手遅れながらも、不覚を取ったクリスに注意を促してしまった。 その隙を、そのまま衝かれる。

すぐさま組み打たれて、紅の狩人は呆気なく地球の引力に準じ、仰向けに沈まされた。

全身が痺れて思うように動かない。 全ての神経が丸ごと抜かれてしまったかのようだった。 頭部か脊髄か、どこにダメージを受けたのかも、すぐには判然としなかった。

マルギッテの視界に、矢車直斗の姿は既に無い。 変わらず在り続けるのは、無秩序な陰影を孕んだ曇天と、鬱陶しく頬を叩き続ける驟雨のみ。

悲鳴と、金属が打たれ合う音と、土嚢が地面に落ちるような音。

再びその三拍子が飽きもせず繰り返され始めたのを聴いて、それきり現状への興味を捨てた。

マルギッテ・エーベルバッハは軍人だ。

水入りの声すら味方につけて劣勢を覆す手腕に驚愕こそすれ、悔悟は皆無だった。 軍人とは常に、来たるべき未来の闘争に備えて思考を割くべき生き物である。

直斗の実力をマルギッテは知っていた。 おそらくこの戦場の誰よりも早期に、“本気の彼”と拳を交えている。

そしてこの戦いに、島津寮で再会した時以上の興奮は覚えなかった。

フリードリヒ中将の懇願は、彼女に何か特別な力を付加することはなかったが、彼女の精神状態を一段階上に引き上げ、大局を見据える眼を備えさせていた。

だから、この決着も想定の範囲内だった。 自分でも不思議なほどに落ち着いていた。 泰然自若こそ今の彼女の名前だった。

脳の震えが止まり、自らの敗北に見切りをつけた冷徹な武官の思索は速やかに、大戦が終わった後の行動の吟味に移っていた。

さしあたっての処置を決定して、



「……このツケは、高くつくぞ」



低く呟き、誓いをまた深める。

必ず突き止める。 お前の正体を。 お嬢様の苦悩の根源を。

……いずれ、お前は後悔する。

この闘争の後、どのような結果を迎えようが、お嬢様を傷つける以外の選択をしなかったお前は、最後に、どうしようもない泥濘に足を取られることだろう。

偽装が剥がれたその時こそ、膝を屈し、慙愧の涙を湛え、無様に総身を震わせて、お嬢様の慈悲に縋りつくがいい。



――――そうなれば我々も、お前を許さないでもないぞ、矢車直斗。



それはマルギッテ・エーベルバッハの絶対意志。

マルギッテとクリスを打倒したことでついに確定した、直斗の不可避的未来。

努めて無味乾燥に胸中で呟いた後、強打した後頭部の鈍痛の拡大に精神を解体される前に体を捩り、眠り姫のように隣で横たわるクリスの横顔を撫で、濡れた指先に温い吐息の感触を確かめながら、目を閉じた。





















突剣を抜き取り、鞘を腰に戻す。

およそ雅趣とは程遠い声色で呼びかけてきた不死川心の元に寄るまで、追撃を一通り鎮圧した直斗は、改めて目の前の少女の姿を視認した。

逃げる者を優先的に排除していったからか、いまだ数多く残る朱雀兵たちも無理に進撃せず、かといって野山に散ることもなく、一定の距離を保って中央戦場に待機したまま、こちらの一挙手一投足を窺っていた。

それにしても大和の指示はどうなっているのかと訝しんだ途端、薬効が切れ始め、二色の視界が再び元に戻りつつあった直斗の眼には、正面に揺れる桃色の和装がひどく優しいものに映った。

つい先ほどまで継続していた全知全能の感覚が、嘘のように消えていた。

転ぶようにその場にしゃがみこんで、本当に転びかけて、不躾にも愛剣を杖の代わりにして身を預ける。

丈の短いナマクラは、そうするのに非常に都合が良かった。

柄頭が、柄巻が、鍔下が、およそ柄という持ち手を構成する全てが、両手を固定するにちょうど良いところに存在していた。

疲労困憊の、満身創痍の、息も絶え絶えの、今の自分のような仕手を再び立ち上がるために、これは造られたのだと、そう確信する。



「――――ッ、百―――ゃッ、き――――か!? も――――!!」



やんごとなき身分と意思疎通を図るに相応しく、天を仰ぐように直前の少女を見上げる。

目の前の貴人も随分な修羅場を潜ったらしい。 面構えに余裕のよの字も垣間見られなかった。

先ほどから何かを訴えかけてくれているらしいのだが、申し訳ないことに全くその内容を捉えることができずにいる。

よく動く少女の口元に、音声が全く追いついていない。 その意味を考えようとする頭の働きも止まりかけようとしていた。

ただ、どうやら、“モ”という発声のための形に、頻繁に唇が変形しているらしいと、ぼんやり察することしかできなかった。



「しっ――――百――――ぃ、―か、――お――も―ょが――――じゃッ!!」



またしても続く“モ”のために口元が動いた刹那のうちに。

ソレは、来た。






「空から美少女、登ぅッ場ッ――――!!!」






どん、と鳴る筈の音は、すぐには聴こえなかった。 

音より早く到達した衝撃波が肌を粟立たせ、大地を波打たせた。

隕石や落雷ならば一応の納得はつく。 

だが、身長173センチ/バスト90・ウエスト58・ヒップ88/体重65キロの日本人女性が着地する際の一般的な様子、と言われれば、誰もが一笑に伏すことだろう。 この現実を見なければ。

……ああ、そうか、不死川心。 なるほど、これのことか。

ああ、うん。 これな、知ってる。

わざわざ姿を眼で確認するまでもなく、背後から伝わってくるのは総身に怖気を走らせる闘気。 茫然自失に耽る暇は許されないようだった。



「……………………………………ふふ♪」



川神百代は、これまで相対した中で間違いなく最高に最悪で危険な状態だった。

餓狼を思わせる双眸が爛々と貪欲に輝き、全身から禍々しくも不可視なナニカが沸々と噴出し、陽炎のように背景を揺らめかせている。 

人間として残る、彼女の中の精一杯の、武士娘としての“誠”が、彼女の欲望にブレーキを掛けてくれていなかったなら。

闇討ちを不義とするモノノフの作法を強制させていなかったなら。

光栄にも、その“礼”を尽くす相手として矢車直斗を個別に認識してくれていなかったなら。

言葉を交わす間もなく問答無用で襲い掛かられていたに違いない。



「ふふ、ふふふふふ、ふふふふふふふふふっ♪」



いつの間にか、この体はすっくと立ち上がっていた。

本能的な反射だった。 この女に弱みを見せてはいけない、という絶対の戒律が、それだけの活力を肉体に搾り出させていた。

首から上だけ振り返る。



「はははははははははははははははははははッ!!!」



目と目が逢う瞬間、殺気だと気づいた。 あなたは今、そんな気持ちでいるらしい。

三十メートル以上は離れる間合い。 しかし既に“彼女の距離”だった。

指を折り曲げた女の両掌が、鮫の顎を模して、前面に展開する。











「か・わ・か・み波ァ――――――――ッ!!!」












……爆圧に歪んだ空気が彼女の全身から発されて、激震する大地。 葉を振り落とす木々。

直前に薫った明らかな凶兆に、ナマクラから手を放すのも構わず、反射的に不死川心を抱き寄せ庇った直斗の真横を眩い光の束が通過した。

轟ッ、と押し寄せた猛気が肌を炙る。

彪ッ、と吹き荒んだ烈風が耳目を閉鎖する。

武神から放たれる極太の光条は、空を裂いて、地を割って、不死川心を抱えて立ち竦む直斗を十二時の方向に残したまま、一時から二時、二時から三時へと、ゆっくりと射角を変えていった。

百代の座標をその中心に据え、刻々と扇形から円形を目指して広がりつつある掃射の範囲。

その現場は阿鼻叫喚の渦そのものだ。



「は――?」

「ぐぉッ!?」

「ひぃィッ!?」

「なに、こォッ!?」

「キャアアアアッ!?」

「ああ、あああああ、ああああああ――!!」

「き、来てる、なんか来るっ、来るっ、なんか来る嫌よ嫌よ来ちゃうィヤアアアアア!!!」

「ううう嘘だろウソだろうそだろ、な、ななな、なんだよなんなんだよこここのグラビーm――――ッ!?」

「おい、おいおいおいおいおいおいッ、たたたた、頼むから助けッ、ギブミー回避距離ィ―――――ッ!!!」



狂乱が狂乱を呼ぶ。

極限の恐怖で鮮やかに脚色された悲鳴と喘鳴が、徐々にその音量を増してゆく。

それが臨界を迎えると、途端に声という声が戦場から消失した。

その代わりに、どじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃっ、と。

土石流の只中に巻き込まれたらもしかしたら聴こえるのかもしれないような、そんな音が続いた。

朱雀軍も玄武軍も見境なく、周りの人という人が泡を吹きだしながら次々と地面に倒れ伏してゆく。

悪夢としか考えられない死屍累々の地獄絵図が、ノストラダムスの大予言が、矢車直斗と不死川心の目の前で展開されていた。



「~~~~~~っ、あ~、スッキリした♪ ……お~い、ジジイ、あとルー先生、後始末お願いしまーす!」



……あれは斥力の河。 辰気の激流。 威圧の波動。 意識を刈り取る死の嵐。

呑まれれば最後、生きとし生けるものの気は絶し、どんなに強固な戦意も粉々になって、その粉も磨り潰されて、跡形も無くなる。

川神百代は自己を中心として、円形状の広範囲に脳活動へ影響を及ぼす特異な重力波を放散したのだった。

“波”を受けた人間は、直接肉体的に加害されるわけではなかった。

百代のこの技は、いわゆる催眠に近い。

脳に、“途轍もない殺傷力過剰な打撃を受けた”と錯覚させるだけのものである。

本来であれば気の発散による威圧、すなわち虚仮脅しとして用いられる小技である筈の“川神波”。

無用の争いを避けるために編み出された戦術的積極性の薄い奥義を、相手を気後れさせるどころか、全力で退歩転倒させ昏倒まで至らしめるまでに昇華させたものが、“かわかみ波”と呼ばれる技術の正体であった。 

……だから、何かが焦げ付く匂いがするのは、きっと気のせいだろう。 泡と共に煙を吐き出している生徒がいるのも見間違いだろう。

ともかく、この、相手の意思を丸ごと砕き割って屈伏を強要する絶対征服術によって、優に七百以上の命が、川神大戦における規則上の“死”を一斉に宣告された。

矢車直斗が戦場から除外せしめたおよそ三倍の人数が、この出鱈目な外気功の発散によって容易く手折られた計算になる。

戦場で錯綜する想いは、どれほど強固な目的意識であれ、ほんの一部の例外を除いて、すべてが一度、無に帰し、脱魂した生身の保護を審判員に委ねることになる。

ついに動作不良を起こし始めた右腕を庇いながら、尚も荒々しく進撃し続けていた九鬼英雄も。

あと幾許かで脱落するところで意識を取り戻し、逆襲を胸に志して快足を飛ばしていた風間翔一も。

矢の腹を足先で蹴飛ばし続けて狙撃を防ぎながら、相手との距離を詰め続けていた榊原小雪も。

毎秒二発ペースの射撃の手を緩めず、バックステップで間合いのアドバンテージを稼ぎ続けていた椎名京も。

無鉄砲に体を投げ出し、捨て身のクリンチでついに目の前の大男に組み付くことができた葵冬馬も。

歯で噛みつきかけてきた痩身の背後に回り、体格に物を言わせたフル・ネルソンを強引に仕掛けようとした島津岳人も。

一向にレバーブローの効果が表れない目前の大食漢の顔面に、渾身の右ストレートを撃ち込む態勢を整えた井上準も。

飢餓状況に自らを追い込んで育てた極限のストレスを、腹の肉をしつこく穿ち続ける禿頭に向けて全解放しかけた熊飼満も。

何事か文言を呟きながら扇子を上下左右に振り回し、鼻息荒く向かって来る敵を闘牛士のように幻惑し翻弄していた京極彦一も。

言霊部部長を引き倒して全身余さず堪能しようと動き回るも、巧みなトランス誘導によって逆に自分の体の自由を奪われつつあった羽黒黒子も。

商魂ならぬ精根逞しく、肉薄する槍も剣もなんのその、怪しからぬアングルから被写体を追い続けていた福本育郎も。

学校一の美男子が、粗暴で野人的な気性を露わに取っ組み合う姿に絶句する小笠原千花も。

北方での陽動作戦を切り上げ、見事中央戦場に雪崩れ込むことに成功した南条・M・虎子も。

散開した弓兵部隊の行方を探して、矢筒を山盛りに抱えて涙目で右往左往していた甘粕真与も。

有象無象に揉まれながらも、せめて一太刀と必死に抵抗していた仲村透も。

――――その光に呑まれた者は、誰一人として、帰ってこなかった。



「これで外野は粗方片付いたな? お望みどおり、今の私はお前に釘付けだ。 だから、言うまでも無いが、お前も愛しい私に全てを向けろ。 な?」



蜃気楼の向こうに、熱に浮かされた、闘争の自由に欣喜する顔が揺らめいていた。



「しかしお前も余裕なもんだ。 ド本命の女を差し置いて、他の女とまさかの薄櫻鬼プレイとは見せつけてくれるな? ……まあ、誰役であれ、うん、明らかにオチミズ飲んだ後の雰囲気っぽいから、そろそろラスボスタイムだよな?」



そう言われて、視界を覆い尽くした惨禍に未だ絶句したままの不死川心に目を向ける。 目が合う。

抱き締めたままの彼女からなにかしらお約束のリアクションをくらう前に、腕の拘束を解いて、両肩の付け根をとんと押す。

大和からの通告を思い返せば、色々と失墜しかかったらしい彼女の名誉のためにも、これ以上ここにいるのは得策ではないだろう。 

百代に弄ばれるのは目に見えている。

その役目は俺でいい。 その役目は譲らない。



「にょッ!?」


「すまんが、おぬしにも退場してもらうとしようかの」



有無を言わさぬ声色だった。

あわや仰向けに転倒するところの心を抱きとめたのは、川神流総本家、川神鉄心その人である。 

こちらに視線を投げかけた気配がしたが、応えず無視した。 

話すべきことは話したし、答えるべきことは答えた後だった。

彼女と立ち会うのに、だれにも介在されたくもなかった。 やっと、ここまで来れたのだ。

無数の担架が審判員によって運び込まれ、周囲に散らばる要救助者を乗せて場外に去ってゆく。

カチャカチャと、小石が踏まれて弾ける音だけがしばらく響いて、そして終わった。





















一面に広がる、主を失いし武器の原野を見渡す。

それからゆっくりと体を巡らせ、真正面から、立ち塞がる相手と正対する。

待ち受ける武神の威容をまざまざと感じ取る。 臍の奥が冷えた。

一語も交わさず、交わせず、避けられぬ死合の到来を感じ取り、この日もう何度目かもわからないが、いま再び自分の口が苦く歪んで、――――ふと、気づく。

俺は今から、俺自身が求めた闘争へ身を投じるのだ。

にがる理由がどこにあろうか。

しぶる感傷がどこにあろうか。

違う。 

これは決定的に違う。

こうではない。 こんなものではない。

戦い、戦い、そして戦い、ようやく彼女を迎えた戦いに臨むことができた俺がすべき顔とは。

直江大和から最愛の姉を簒奪せんと、数多の信頼を裏切り、数多の武士達を罠に嵌め続けてきた男がなすべき血相とは。

川神百代の全存在を咀嚼し、呑みこみ、味わい尽くさんと突き進んできた男が、そいつが浮かべるべき面持ちとは、もっと、より窮めて俗物的なものである筈だ。

これとこれとこれとこれとこれとこれとこれとこれと傲慢不遜驕快恍惚愉悦欲情凌辱好色姦淫被虐阿漕貪食これが、載っていなければならない。 正直欺瞞に殉じるというのならば。

だから。

顎を引き、
目を開き、
歯を剥き出し、
眉を跳ね上げ、
耳を律動させ、
口端から垂涎する。



「――くッ、ふふふふふ、イイかおだ。 己に誠実なのが一目でわかる。 悪くないぞ、直斗。 実に殴り甲斐のある貌だ」



どうやら、こちらの期待以上に気に入ってくれたらしい。

彼女が満悦するのが嬉しくて、きっと嬉しくて、思わず熱くて塩辛い飛沫しぶきが顔面から噴き出した。

……ああ、ここまで、本当に永かった。

地に突き立った鈍剣を引き抜きながら、今の景色を網膜に焼き付ける。

思えばどれほど願ったことだろう。

会いたくて遇いたくて逢いたかった。 

叶うものならもう一度。 焦がれていたものを、彼女のその在り方を、全身で浴びるように感じたかった。

そして今、意中の相手から嫣然とした微笑みが向けられて、夢の実現をまた深く思い知る。

やっと此処に来られた。

やっとお前と向き合うことができる。

烏滸がましいこと甚だしくも、今のお前を救おうと、心の底から思うことができる。



――――本当に、済まなかった。



彼女の狂貌を目の当たりにして、何よりも胸に先立つものは、恐怖でも哀感でもなく、深い罪の意識だった。

あれは、間違いなく俺のせいなのだ。 俺にあの時、龍封穴をかけなければ、川神鉄心は今日まで、百代の指導を手ずから十二分に務められた筈だった。

そうしていれば、少なくとも今のような状態に彼女は陥らなかっただろう。

本当に申し訳ないと思う。

俺は彼女から、彼女が最も欲するものの一つを、彼女より上位の存在を、憧れの祖父君を奪ってしまっていた。

全力を遠慮なくぶつけられる相手が、常に彼女の隣に居続けたならば。

俺が畜生道に堕ちなければ。 俺があの時、踏みとどまる事ができたならば。

他でもない俺が、俺の修羅が、彼女を苦しめたのだ。

あの風間ファミリーでさえ容易に癒せないほどの心の瑕疵を、俺が百代に負わせてしまったのだ。



――――だから、この戦いは当然だ。 全て自分で撒いた種なのだから。



そうとも。

通常では成し得ない救いを、自分の手に余る奇跡を成し得るのなら、相応の代価が必要になる。

このままでは、百代は近い将来、必ず、耐え切れなくなる時を迎えてしまう。

あれは、肉体的にどれほど優越していようと、現世の人間には等しく、決して堪忍できないもの。

“人としての生き甲斐を喪う”、という痛み。 あれは容易く百代の心を食い潰すことだろう。

かつての九鬼英雄、かつての葵冬馬、かつての矢車直斗と同様、彼女にもその危機が迫っている。

戦いたいという理想と、戦わせないという現実。 そのギャップが、百代の想いを、強大な自我を軋ませている。

膨れ上がる闘争心に適当な捌け口を見つけられず、日に日に理性を焼き焦がすばかりの彼女を見てきた。

理性より獣性に甘美を見出し、人としての均衡を失う日が、刻々と近づいていた。 川神に戻ってからの俺の一年は、その片鱗を察し続ける一年でもあった。

そんな彼女を救い上げるにしても、自分を守って、誰かを守る。 そんな贅沢なことが許されないとしたら。

いずれ来たる川神百代の破滅を阻止するために、誰かが、その席を代わらなくてはならないとしたら。



――――俺以外に、一体全体、誰が適任だというのだ。



腰元の巾着をまさぐり、次なる注射筒を、今度は片手で扱える分だけごっそりと抜き出す。

六本連続投与フルブースト

人体に作用する大抵の化学物質に対しては、肉体の負のフィードバック調節により、薬効耐性が形成され、結果、その都度の制限時間も絞られてくる。

薬効の制限時間をより長く保つには、時間一杯まで経過したその時々で、最低限度の用量でユートピアの補給を継続してゆくのが最も効率的ではあるが、それだけの隙があるかどうか。

出来る時に出来るだけの摂取。 その心掛けを置いた方が敗機は下がると思われた。



「――――ッぅが!?!?」



一息に刺す。

一息に圧す。

目玉が揺れる。

顔筋が痙攣する。

首筋の瘢痕が一気に六つ増え、圧搾空気が擦れる音とともに、全身の肉が隆起し、静脈が青黒く浮き上がる。



「――――っは、っは、っは、っは、っは、っは」



獣の吐息が漏れ出でて。



「――――じゅるじゅる、じゅるじゅる、じゅるじゅる」



気が付けば無我夢中で滴り落ちる涎を啜っていた。

かつて国を滅ぼした幻の美酒が、口内から際限なく湧き溢れてくるようだった。

嚥下に嚥下を重ねてそれを飲み込み続ける。

唾液はかつてないほど芳醇かつ爽快で、喉を潤す快楽は嗅覚、触覚、聴覚へと次々と伝播し、最後に赤緑のとばりが視界に落ちた。

……発作が一段落し、珠玉の酩酊感が全身に隈なく行き渡った後、口元を拭って思い出したようにナマクラを右下段に備え、無形の位に入る。



「――――ッハハハハ、お前も大概だなァ、直斗ッ♪」



喜ばしげな百代の茶々を聴きながら、最後の瞬きの中で、刹那の間、今日じゃない未来に祈る。 その福音をこいねがう。

この女の精神を、これから先、真の意味で癒してゆくのは矢車直斗ではない。

その役目は彼のものだ。

きっと変わってくれることだろう直江大和のものだ。

獲得した真なる誠実を以って、彼女と対等に立ち続ける男のものだ。

そして固い絆で結ばれたあのコミュニティこそ、彼女の安息を永劫守ってゆくのだ。

自分がそれらと同等の存在になることは不可能だ。 そんな役目を請け負えるだけの身体も性根も残りはしないだろう。

そればかりは、未来の展望が保証されている者たちに託すしかない。

だから、せめて。

せめて、“この瞬間はじまり”から、いつ来るかも知れぬ“その瞬間おわり”まで、川神百代を充たそう。

これから繰り広げる死闘の記憶は、いずれ忘却されるまで、彼女の不満足を幾許か解消する筈だ。

それが俺のできる、最大にして、最も劣った贖罪だ。

その場凌ぎの延命術。 間に合わせの対症療法。 根本的には何の解決にも至らない、姑息な救済。



――――だが、やらずにはいられようか。



ありのままの彼女が求める、幸福のカタチ。

この上なく幸いなことに、今の俺にはそれを与えるだけの力があり、それを行使しなければ大和の下には届かない。

そしてそのためには自分の全て、細胞一片に宿る力まで放出し切らねばならない。 薬物の添加だけでは、まるで足りないのだ。

よって、心理限界を取り払い、自らの血魂骨肉に至るまで破壊する力を放出するべく、俺はそのための原始的手段の一つを実行した。

喉を震わせ、吼えたのだ。

こちらの気配に呼応したのか。 百代も同時に戦吼を轟かす。

魂の底から搾り出された裂帛の気合が二叫、周囲の木々川面をざわめかせ波打たせ、数百間は離れたところで激戦の疲傷を癒しながらも、スクリーンに大きく引き伸ばされた映像に釘付けになる人々の全身を、直接、粟立たせた。



……この場においては余談であるが、或る意味では核心を衝く件がある。

それは前夜。 今、此処で対峙し合う両者は同じ、完全に互いと一致した精神状態にあったということ。

どちらも浅い眠りの中で、じっと身を横たえていた。

どちらも薄く、鋭く、張りつめた、この上なく透徹なる眠りだ。 

どちらも夢と覚醒の狭間で、それを感じ取る。



――――いいぞ、と。



最後まで残っていた無駄なものが削ぎ落とされ、一晩のうちに、タタカウための体と心に変身してゆく感覚。

彼女にとってそれは、やっと訪れてくれた、至福の予兆。

彼にとってそれは、ずっと忘れたふりをしていた、真成の闘志。







「覇ァ嗚呼阿阿阿阿阿阿阿阿――――――――ッ!!!」

女が燃やす、あくまで正道、武の気焔。



「祁ェ菟゛ぇ吽ンヴぇ゛吽云々――――――――ッ!!!」

男が散らす、あくまで邪道、大愚の喚。







……またしても余談であるが、この瞬間以降の、戦場各所に設置された百台余りの定点カメラによって撮影された記録映像は、末端価格251万円という破格の値が付いて、半年後の闇市場で売買が開始されることになる。

期せずして松永家の新たな収入源となる、川神流の真髄を余すところなく収めたその記録は、単独で武神と対峙するための最も著名な参考資料として、川神百代を打倒せんとする猛者達の手の中で、永きに渡り愛蔵されることになる。



川神百代と、矢車直斗。

理性を融かした姉は、弟の誇りを守り、己のれ自身を満たさんがために。

悟性を手にした兄は、妹の祈りを託し、対する彼者を飽かさんがために。



鏡合わせの二人は、やはり全くの同時に砂利を蹴り、相手の懐に飛び込んでいった。























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あけましておめでとうございます。

長期にわたる未更新状態、完全に私の不徳の致すところでございます。

本当に申し訳ありませんでした。

今回は、たびたび原作の過去回想シーンを挟んでおり、不自然に思える台詞の言い回しを改変しようか迷いましたが、ほぼオリジナルのまま挿入させていただきました。

何かございましたらお気軽に感想掲示板まで。



[25343] 第四十九話:決斗
Name: かぷりこん◆8488fd9b ID:637c80b7
Date: 2015/11/29 14:16


『くっ……くっくっく……ははははははっ! んー。 そりゃあ可笑しいさ。 だってお前。 私は世界のレベルの低さに絶望していたんだぞ。 そしたら同じ街にこんな化け物が住んでいたわけだ……。 これが、可笑しくなくて、なんだ……ははは!』

――川神百代(『真剣で私に恋しなさい』リュウゼツランルートより抜粋)

























「おにいちゃんのが、つよいよねー」



記憶の奥底を探ってみれば、そんな舌足らずな問いかけが、妹から発されていたかもしれない。

だが、このとき、二〇〇一年九月七日正午過ぎの矢車直斗の耳は、その言葉を意味ある音として認識できてはいなかった。

“彼女”に、すっかり目を奪われていたせいだ。

川神院の境内に林立する僧士たち。 有象無象の影に見え隠れする、彼女の痕跡を追う。



――――あいつだ。


――――俺がずっと探していたのは、あいつなんだ。



己が心に、闇夜の火口で蠢く溶岩のような確信の火が灯る。

見失うものか。 見失う筈がない。

何百もの人間がひしめく境内の地の上で、あの少女の軌跡だけが光っている。

虫を誘う花の香のように、夜空を過ぎる天の川のように、暗黒の海面を滑るマスト灯のように。

それは宙にたなびいて、少年の視線の往く道を照らし、示すのだった。

気合一閃。

共に弾き飛ばされた拳圧が、大気を押して、風を巻く。

その微風を受けて、道着の袖口が小さく膨らんだ。

バランスが、ひどく良い。

溜まった唾液を嚥下し、沸き立つ興奮を握りこぶしに収束させて、必死にそれを抑えこみながら、彼女の動きを観察した。

背筋に一本の、それはそれは真っ直ぐな芯が通っているようだ。 

膝から下が、肘から先が、よく伸びる。 

無駄な強張りのない肩と、着地の衝撃を受け止める柔軟な足首と。 

これ以上ないくらい軽く麗らかなのに、なんて力強い演舞なのだろう。

不意に、びくりと身が反らされる。

こちらの凝視の気配を感じたらしく、喧騒のなかで少女が僅かに振り向いた。

浮かび上がったその横顔を見て、ああ、と小さく声を漏らした。



――――ああ、そうか、お前か。 お前だったんだな。



喜びなのか恐れなのか、自分でもわからない感情が胸に渦を巻いた。 

そう。

その感情がどんなものかはわからなかったが、なにか●●●が始まろうとしていることだけは、はっきりと予感できた。



「おまえ、なんだな」



立ち竦んだまま彼女に問いかけた。 返答を期待したものではない。

雑踏の中、自分だけに言い聞かせるようなその呟きが、かなりの距離を隔てた彼女の耳に入る筈はなかった。 すぐ真横にいる妹さえ、何の反応も返さなかった。

だが、確かにお前は、俺を、そのとき初めて直視した。

困っているとも驚いているともつかぬ怪訝な表情が、こちらを向いたのを、覚えている。

その後、すぐに野次馬の群れに俺は埋もれてしまったから、それ以上のことはなかったけれど。

激しい情熱を秘めた、どこまでも黒い瞳が、純粋な光を宿して、それはそれは真っ直ぐに、それはそれは貪欲に問い返してきた。



――――おまえなのか。 わたしを、満たすのは。



同じ問いだった。

瞬間、雷に撃たれた俺は、独り善がりに思い込んだ。 都合よく悟った気になったのだ。 

放心したまま、後ろへ後ろへ、見物人の雪崩に押しやられながら、深々と思い知った。

もしもこの世に、幸福や、美や、善なるものがあるとしたら。

俺にとって、そのひとつは間違いなく、この女のカタチをしているのだ、と。

……直斗を射抜いた強烈な確信の光は、そのあともずっと、心の内を照らし続けた。

直後に襲った惨劇も喪失も、今日まで身を蝕み続ける悲憤も後悔も、どんな負の感情もそれを完全にかげらすことは無かった。

暗い嵐の海に投げかけられた灯台の明かり。 その一条の光は絶えず、絶えず矢車直斗の往く流転の道を示し続けた。



いつまでも、ずっと。

変わることなく、ずっと。















<手には鈍ら-Nmakura- 第四十九話:決斗>















「覇ァ嗚呼阿阿阿阿阿阿阿阿――――――――ッ!!!」


「祁ェ菟゛ぇ吽ンヴぇ゛吽云々――――――――ッ!!!」



気合いという名の獣唸を上げ続ける傍ら、その外見の苛烈さとはまるで反比例して、直斗の意識は一刷毛ひとはけの曇りも無く、不思議なほど冷々と冴え渡っていた。

それは勝利を志向する薬漬けの本能が、理性をただ喰い貪るのではなく、調伏した理性を完全に制御し●●●構築した、差し迫る規格外の脅威にのみ最適化した思考回路。

矢車直斗の内部を総加速させ、半秒を三秒に偽装するもの。

本来、彼女らの領域とは何処までも縁遠い筈の男は、左道きわまる劇薬の投与を経て、暫時この戦局面に限定して、“超越者”たるものにまがり成る。



矢車直斗による川神百代の戦力考究――。 

参考情報は院内にて彼女の決闘を逐次観察してきた自らの経験、及び、同じく近しい位置で共に研鑽を積んできた過去を持つ釈迦堂刑部の証言。

現在視認する限りにおいては、纏った学生服以外に何の武装も見受けられないが、その身に沁みるは世界最高峰の武術流派、川神流である。

先に確認した“かわかみ波”なる遠当てに代表される発勁、外気功の腕前は言うに及ばず、備えた無手格闘術も入神の域と言える。 極めて危険。

暴力衝動に呑まれ易い心根、その不安定な内面を危惧する川神鉄心の意向により、未だ免状の取得には至っていないものの、表裏を問わず“奥義”の粗方は伝授または看破され、その習熟度は、実戦で駆使できる段階を優に超えていると推察。

なかんずく、際立つものといえば、“瞬間回復”。 

内勁による細胞活性――自然治癒速度の加速なるもの。
 
深度Ⅲ度の熱傷を五体に受けても、ほぼノーリスクで、数十秒あれば元通りに機能するレベルまで修復可能という、人智を超越した御業である。

付け入る隙を強いて挙げるとすれば、治癒功を発揮する間は常時患部に意識を振り分け続けなければならないこと、無意識下での自律回復はありえないことだが、“回復の隙を与えない”という予防策を執ることが最善であることに変わりはない。

対抗打として、両脚に装備したスタンガンにより経絡系の一時不調は引き起こせられるが、この情報は既に相手へ口頭で伝達済みであることに留意すること。



続いて、矢車直斗による川神百代の戦略予測――。

橘天衣のものも含む、百代を取り囲んでいたらしい巨大な闘気の渦が減衰、消滅してから現在までの時間差を考慮すれば、こちらの太刀筋を完全に見切り洞察できるほどの四天王級の眼力を備え、尚且つ、こちらが奥の手を駆使した唯一の場面である黛由紀江戦を観察でき、尚且つ、先の“かわかみ波”の掃射まで生き残っていた可能性が高い、ただ一人の朱雀軍隊員……天下五弓の一角を担う椎名京。 その彼女との接触、情報交換は為されなかったと見るのが妥当だろう。

ゆえに百代には、今現在、こちらの虎の子である“邪燕”――“武士殺しの太刀”についての予備知識はなく、それに対処する“覚悟”の用意もないと判断して間違いない。

武神といえども、……否、武神だからこそ。

全くの初見で、一切の呵責を挟まず、我が背後の“誠”一文字を斬れるものではない。

そして当技を使用する際、打突箇所は延髄、頸部が最も効果的であると判断。 一撃で意識を奪う以外に決着は見込めない。 



……以上を勘案し導き出される結論は、後手必敗●●●●

ここでいう後手とは、先見性の欠如という意味合いである。 常に相手の二手三手先を予知し続けられなければ、すなわちこちらの命運は尽きる。

まず、中距離戦ミドルレンジ遠距離戦アウトレンジに勝機はない。

間合いを隔てて百代の“遠当て”に対する場合、同様の遠当てで相殺を狙うか、それを回避しつつ地面に転がる無数の飛び道具――弓、連弩クロスボウを以って応戦するほかない。

だが、こちらは遠当ての技術を持ち得ないどころか、超高速で迫る氣弾の見切りすら満足にこなせるかも危うい。

射撃については六年修めたが●●●●●●、ここ一年のブランクがある。 

加えて、身構えれば全身が硬直し、内息が滞って丹田の氣が乱れることが必至である飛び道具は、内家拳の流れを汲む川神流の体術とすこぶる相性が悪い。

手足の擦過による裂傷を抑えるべく、こちらも百代ほどではないにせよ肌に堅功を走らせている。 一瞬でも解くわけにはいかなかった。

銃より弾速が遅い連弩では、撃った後からでもあの韋駄天の機動には避けられてしまう公算も大きい。

また、即倒力こそ矢玉に劣るが、肉体がぶつかりあう至近距離において、この手に握る長物は何よりも恐ろしい武器になる。

極論して射線上に立たねば害のない銃器に対し、刀剣は直線と曲線を三次元的に自在に描き、あらゆる方向からの斬突のアプローチが可能になるからだ。

戦闘効率のみならず、百代の発勁を封じ、細胞加速を妨害する難度も鑑みれば、鈍らを伴い、刃圏も合わせて一息で詰められる間合い――直線距離にして約三間、半径5メートル以内での戦闘継続が望ましい。



「ハァッ!」


「牙ャッ!」



間合いへ侵入する前に遠当てが来なかったのは行幸だった。

最初の交錯。

命を懸ける上での絶対領域に滑り込み合う。

急所を抉る一撃を避けようと思うなら、迎え撃つしか他にない。 その必殺必死の境界を踏み越える。

剣と拳。 尋常の立合いであれば攻撃圏の広いこちらが圧倒的に有利であるが、そのアドバンテージが詰められてしまうだけの身体能力差が、彼我には依然、歴然としてあった。

予備動作すら窺わせないうちに渾身の“双燕”を打ち放つ。 

岩を叩くにも似る強硬な手応え。 直後、百代の輪郭が四つに割れて、霞のように溶け消えた。

間髪挟まず己の首が直角に折れ曲がる――――――緑色の幻覚に襲われる。 ざわと騒いだ直感に従って首を竦め、身を屈める。

およそ日常では味わうことのない真上から吹き付ける突風。 空振りに終わった背後からの右上段廻し蹴り。

大型軍用ヘリの回転翼と良い勝負だろう、その凄烈な余波に戦慄する間もなく、掌中のナマクラを次なる魔手鬼足の迎撃に当たらせる。

百代の姿がまた消える。 ほぼ同時に襲ってきた一拳を危うく打ち返す。

細かい金属粒が無数に散らばり、仄かに煌めいて虚空を彩る。

もはや夢界に立っている心地だった。 異常も異常、過剰も過剰、無道で法外な運動を敵手は実現していた。

三合目から移動距離を最小限に抑えることで一時上昇したこちらの最大迎撃速度に、百代は四方を飛び回りながら易々と並んでみせる。

極狭の空間で幾重にも織り成したこちらの小回りアジリティを、ただ一歩の神速の踏み込みブーストで容易く追い詰め相殺する。

そして堅功を這わせた百代の体表は甲冑鋼と同等、否、それすら凌駕する硬度である。

全く傷を負わせた感触がない。 やはり神経系の根元たる後頸のみが、敵手の泣き所となりうるか。



「セァッ!!」


「孜ィッ!!」



推奨戦術――――条件反射のレベルにまで“双燕”への警戒度を百代に引き上げさせながら、限界まで意外性を高めた“邪燕”をこちらが行使するまで凌ぎ切る。 首尾よく急所に一撃を叩き込めたなら、すぐさまスタンガンで完全に無力化する。 

……黛由紀江戦の焼き直しこそ、“武神”を相手に見据えられる唯一の勝機であった。

彼女の実力に最も詰め寄れているであろう今の状態テンションが、永遠に続く道理は無い。

どこまで凌げばよいのか。 どこまでで“善し”とし、決着の奥義を放つのか。

その一点を見誤った時点で、矢車直斗は終わる。

七年に及んだ苦節と忠節が、一片の成果も上げずに露と消える。

ゆめ忘れるな。

天上天下にただ一人で立ち、暴勇暴乱、ついには四天の同位すらまとめて打ち払った婆娑羅者を。

相手が川神百代であり、川神百代なのだという事実を。

現代において“戦い”とは“科学”と同義である。 むしろ“戦い”の為に“科学”が生まれ、発展したと言えるだろう。

研究され、進化を遂げ、走る・蹴る・殴る・投げる・打つといった各々の動作はそれぞれ急速にスポーツとして確立してゆく。

無敵などという安い表現は消え、より特化された新しい技術を開発し身に付けた選手が記録を次々と塗り替えていく、勝敗の流動が著しい時代が今である。 その筈である。

……それにも関わらず、決して負けない。

ラッキーパンチという言葉がある。 されど、そういう運気や星の巡りすら、味方にするどころか捻じ伏せて、一切負けずに引き分けずに、勝ち続けてきた者が存在する。



「くっ、はははははははははははっ! 滾る滾るッ、血がッ、肉がッ!! やはり――――」



それを、忘れてはならない。





















「やはり――――、武とは、こういうギリギリの、生き死にを、感じ合ってのものだよなぁッ!!!」


「啞゛オオオオオオッ――――!!!」



衝動に任せて目前の敵に間断なく拳の霰を降らせながら、彼女にとって極めて稀なことであったが、川神百代は、武闘家として認識を改める最中にあった。

現在の川神流の気風に漏れず、百代の、薬物の服用に対する考察は、総じて好意的なものではない。

人は、戦いたいから戦うべきなのだ。 麻薬によって無理に戦意の高揚を図ることは、兵士のやることであって、戦士の仕儀ではない。

何より、もったいない●●●●●●

投薬によって動きがマシになるということは、それだけのポテンシャルを秘めていて、ノーリスクでの実力の上書きがいずれ可能であることを意味する。

たかだか一時のパフォーマンスのために、その後の全てを台無しにする。

所詮は、才能と努力を安易に補填しようとする愚か者の苦肉の策に違いはない。

浅ましい。 嘆かわしい。 実に不届きだ。

……そう心から思っているというのに、なぜ自分は今、



「あっははッ――――♪♪」


「駕ァァアッ――――!!」



なぜこんなにも、愉しいのだろう。

宝くじで三億当てるために五億を注ぎ込んで蕩尽し、負債の支払いをサラ金ヤミ金の融資で先延ばしにし続ける。

それと同じ愚行の極みをしでかしている弟弟子に対して、どうしてこうも鷹揚に構えていられるのか。

……それは、強いから●●●●

頑張れば、二億くらいは掴み取れそうであるから。

今の自分に追随するだけの実力をこれ見よがしに見せつけてくるから。

自分にとって、ソレこそ至上の価値だから。



「あっはははははははははははははは―――――!!」


「呀゛ァ゛ア゛アアアアアアアアアアア―――――!!」



マリアナ海溝より深い自信のある己の“業”に辟易としながら、百代は、ついに露わになった端倪すべからざる直斗の力量に、間違いなく打ち震えていた。



川神百代による矢車直斗の戦力考究――。

一年前、よわい。

半年前、よわい。

二か月前、まだよわい

一か月前、つよくなりそう。

たった今、つよい。

やったな。 なしとげたな。 すごいな直斗、どうやったんだ?



「まったく、なんなんだその動きは!? いつの間にそんなことができるようになったんだっ!?」


「偈ッ――――砑ッ――――戯ッ――――虞ォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!」



凶暴な奇叫を噴きつける鬼面と相反して、軽やかにこちらの攻めを捌き続ける姿は、剛力の価値など寸毫に等しいと言わんばかり。

対面する暴力わたしを肌に感じ、音に尋ね、体で捉え、うつつを信じて適用する。

運動力学の法則に準じ、僅かな加力で本流を正す。

“人の極致にある”と崇められ、そう自負できるだけの圧倒的な武力じぶんの前ですら、弱力強伏を体現してみせる直斗の姿に、百代はかつてないほど悦に入った状態にあった



川神百代による矢車直斗の戦略予測――。

そんなものは一切不要。 一切無用。 種が明かされないからこそ、手品は奇跡と等しく在れるのだ。

より深く、より長く、より瑞々しくこの神業を感じようとするのなら、“Don't think, but feel”――そう努めるべきだった。



「よもや外法に手を出すとはな!?」


「ッ蛩ゥッ――――ッッ勢ェアア!!」


「なんだかんだで、お前も内心はジジイの説教に嫌気が差してたクチだったわけだ!? おっと、危ない……いいぞッ、いいぞッ、存分に競おうじゃないかッ!!!」



……分かっている。 

早く止めなければ、目の前の男が、取り返しのつかないことになることくらい、分かっている。

言わばあれは、有刺鉄線を伝ってグランドキャニオンを綱渡りしているようなものだ。

強力な麻酔で激痛を押し殺し、足裏に棘を突き刺して無理矢理姿勢を固定して谷底へ落下するのを防ぎながら、地獄の道程を進んでいるようなものだ。

血走った目が、狂声を発するだけの口唇が、肌色でなくなりつつある肌の色が、どれほどの瀬戸際に直斗が立たされているかを顕示し続けていた。



――――ああ、でも――――うん。



……でも、それでも。



「ふふっ」



もう少しだけ●●●●●●

ほんの、もう少しだけ。

もう少しだけ、楽しんでも、いいじゃないか?



「ふふふっ」



だって、久しぶりなんだ。 こんなにも満ち満ちた気分でいるのは。 本当に。

ちゃんと、止めるから。 きちんとコイツを命あるうちに、再起の目があるうちに、しっかり沈めてみせるから。

だから、なあ、いいだろう?

そうだよな? だって、そうだろう? 

だって今日は私の誕生日なんだ。 大戦をこの日に指定したっていうのは直斗なんだろう?

ジジイもルー師範代も、院の誰もが邪魔をしに来ないってことは、こうしていても●●●●●●●、別に構わないってことなんだろう?

保険というものが、ついて回っている筈だ。 そうに違いない。 そうでなければ、この暴挙を祖父が許す筈がないのだから。

……そうとも、コイツだってそれが本望の筈だ。

私と対等に並び立つためだけに、他ならぬ私を振り向かせるためだけに、こうして身を削る選択を果たしたのはコイツ自身の筈だ。

そのために大和に拳を向け、そのために千の猛者を相手に一歩も退かずに、自分の“誠”を貫き通したのがコイツだ。

それがありのままの自分で、その自分を見てほしくて、こうして健気に不屈を訴え続ける男。

そんな奴が相手であれば、こちらもありのままの自分を曝け出すのが、返礼としてしかるべきものだろう?



「ふふふふっ――――ァハハハハハハハハッ! 面白いッ、面白いぞ直斗ッ! よくぞッ、よくぞここまで鍛え上げたッ! もっと……、そう、もっとだッ!! その先を魅せてみろッ!!!!」


ェァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア――――ッ!!!!」


そうとも、ドントシンクバットフィール、ドントシンクバットフィール。



……ああ、本当に、楽しいなあ。





















ショウッ、鏘鏘ッ、鏘鏘鏘鏘鏘鏘鏘ッ――――――。

変幻自在、千変万化。

一息十二連攻にも及ぶ拳と鈍刀の応酬。 乱打剣戟の火花が咲き狂う。

彼我の領域を制圧し制圧されながら、互いの技を潰し合う中――――。



括目すべきは川神流、席次一位にして次代師家、姓は川神、名は百代。 

降り注ぐ鋼鉄の利器を、手で受け、肘で受け、足で受け。 奇妙奇天烈にも響き渡るは、限りなく硬質な金属音●●●

当代随一の“堅功”を駆使し、己が四肢を墨色の神鉄と化しながら、御返しとばかりに上下左右各斜方から振りかぶる拳速は、もはや人の動体視力の極限を超え、無数の残像を伴いながら一気呵成に男に襲い掛かる。



瞠目すべきは川神流、席次九十七位にして下足番、姓は矢車、名は直斗。 

剛性極まる魔拳の群を、軽妙に防ぎ、迅速に防ぎ、柔軟に防ぎ。 ただ一振りの鈍剣で、間に合わずを間に合わす●●●●●●●●●●●その手際。

繚乱と雨中に踊る鈍刀の軌跡は、人型の修羅たる女から放たれる豪速拳を捌き続け、幾重もの殺し技の錯綜の中に現れる、とても隙とは言い切れぬ僅かな“手の揺らぎ”に、抜け目なく反撃の連刺を差し挟む。



双方、かかる御業は遥か昔から先達が培ってきた千古の知恵。 

運動効率の機械的分析とは別体系の、いにしえより連綿と磨き上げられてきた神秘の結晶。

丹田にて氣を練成し全身に染み渡らせ、森羅万象の気運の流れに身を委ね、天地一体となる事で肉体の限界を超越する。

川神流の深淵を旅する今の二人には、もはや互いだけが世界のすべてだった。





















三か月前までの小笠原千花にとって、矢車直斗という人物はそこそこの好漢として認識されていた。

決して、特別親しいわけではなかった。 

一年ほど前から実家の和菓子屋の常連客だったために、千花は学園への転入前から直斗の姿を見知っていた数少ない生徒のうちの一人ではあったが、顔を合わせれば「いらっしゃいませ」「何をお探しでしょうか?」「いつもありがとうございます」の文句を機械的に言っていただけだし、彼も聞いていただけだと思う。

むしろ同級生と言えば、クマちゃん――熊飼満の方が頻繁に来店していた。

名前もクラスメートになるまでは知らなかった。

そのときまでで印象に残っていたことは、店内に陳列していた一通りの甘味を二週間ほどで制覇した後、金平糖の購入が丸一年継続したこと。 「何をお探しでしょうか」が言えなくなったこと。

頑なに金平糖だった。 こちらの勧めた新商品の羊羹、葛餅をごくたまに試食しても、曲がらずブレずに三日に一度、金平糖を手に取った。

そんな“川神さんのとこ”の“金平糖の人”が一度、「この味、変わらないんですよね」と感想を漏らしたのを聞いたことがある。

通い始めて数カ月、そんなにコロコロ味が変わるものかと訝しんだ記憶があるが、もしかしたら、より以前に来店したことがあったのかもしれない。



「凄ぇ……んだよな? これって」


「わっけわかんねぇ……。 何なんだよ、あいつ。 何者だよ?」


「おいおい。 先輩相手に、ここまでやれるって……」


「な、なな何バカ言ってんの!? モモ先輩が手加減なさってるに決まってるでしょ!? 先輩がマジになったらイチコロよ、あんなの!!」


「そ、そうそ……。 ア、アレよっ、ここまで意地汚く頑張ってきたご褒美に、華を持たせてやってるんでしょ、きっと」


「い、いや、にしてもよ……」



この四月になって、二年F組に彼は転入してきた。

差し向かいで話すこともあった。 良くも悪くも、千花のクラスは男女間の心理的な垣根が低い。

風間ファミリーと称される幼馴染グループがあり、潤滑剤代わりの彼ら彼女らが良い按配で仲立ちとなって、それぞれ互いに対する好悪の感情は多々あれど、意思の疎通、情報の共有は盛んにとられるクラスであった。

だから、接触する機会も多かった。 知らなかった彼の人となりを少なからず知るところとなった。

そしてその中で、この自分がクラスの誰よりも先んじて知ったと、自信をもって言える事柄がある。

矢車直斗の、川神百代への恋慕である。



――矢車クンから見てどう思う? モモ先輩とナオっち。

――――……え、あ、あの、

――いや今さー、色んな人のコイバナの真っ最中だったんだけど、ナオっちとモモ先輩って、もう殆ど彼氏彼女のベタっぷりじゃん? そこんところ、モモ先輩の近くにいてどう思ってるかなーって

――――………お、俺には、何とも。 そういう事には疎いので、すみません。



清くて初心な、なんともテンプレート通りの分かりやすい反応であった。

小笠原千花は恋に恋する女子高生である。 彼女の乙女レーダーは目敏く耳聡く、直斗の狼狽と、川神百代への親愛ならぬ信愛を察知していた。

その時は、どうにもならない息苦しさを感じていそうな顔に、むしろこちらが申し訳ないような気持ちになって、島津岳人の茶々に乗ってその話題を流した筈だった。

だが、それがわかったからといって別段、千花が何をするわけでもない。

人の恋路に興味はあるが、そこに土足で分け入られるほど、千花も暇ではないし愚かでもなかった。

大和ナオっちが首尾よくモモ先輩を口説けた時は、その時はさりげなくサービスとして傷心の彼に金平糖を押しつけてやろうと、それぐらいの気でいた。

どんな助力があろうと、矢車直斗に勝ち目があるとも思えなかった。

誰が見たってそうだろう。

かの姉弟には、もはや血の繋がり以上の気安さが互いにあると、姉弟を知る誰もが認めるところだろう。



――――好きだ、百代。 俺は、お前が欲しくて欲しくて仕方ないのさ。



そして、そのような過程を経ての急転直下、驚天動地の川神大戦の開幕である。

思い出すだけで風邪を引きそうな、ロマンスの欠片どころかその微塵すらない、動物的な求愛だった。

クラスメートを内心見下げに見下げて嫌悪し侮蔑し、小馬鹿にし続けてきたと吐露し暴露し、誰も彼もを敵に回して、直斗がその性根を明らかにした瞬間でもあった。

……恐らく、コイツだけは認めないと、誰も彼もが思った筈だ。

コイツだけには頭を下げたくない、膝を屈したくないと、そう断じた筈だ。

百代が在学したここ二年間で、川神百代という名は、川神学園の代名詞とも言うべきものになった。

心の奥底で、川神学園の生徒たちは学園の何よりの誇りとして川神百代を想っている。

だから多少の金銭の貸し借りも大目に見る生徒も多いのだろうし、良くも悪くも約束は守る、一切の嘘をつかない、というその真摯な姿勢が誰の視線も惹きつける。

時折、風間翔一の奔放さや川神一子の純真さを霞ませるほどの、圧倒的な真夏の太陽のような存在感を見て、ああ、いつもの川神だと、その破天荒さに慄きながらも何処かで安心するのが、私立川神学園高等学校の生徒たる証だった。

……だから、“少なくともコイツだけは、矢車直斗だけは認めない”と、誰も彼もが思った筈だ。 学園の日輪を翳らすような者に、共感を持てる者が居る筈もない。

そんな男が川神百代と並び立ってしまうことを、川神学園の生徒は、決して許しはしない

―――――――――――――――だが、



《ふ――――ァハハハハハハハハッ! 面白いッ、面白いぞ直斗ッ! よくぞッ、よくぞここまで鍛え上げたッ! もっと……、そう、もっとだ!! その先を魅せてみろッ!!!!》


《是ェァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア――――ッ!!!!》



この状況は、百聞は一見に如かず……と言って良いのだろうか。

並び立たせてみれば、それはそれで、何かが噛み合っているのだ。

映画館のスクリーンよりも二回りは大きい、繁華街の広告塔に吊るされていそうな巨大なモニターを通して、大戦のクライマックスをぼんやりと眺めながら、小笠原千花は思う。

どちらがヒーローでどちらがヴィランなのか、こうして観ればまるで判別がつかない。



―――だから、直江の無様を公然で晒して、お前を奪わせてもらう。



この言葉に、自分達は多分の憎悪を抱き軽蔑した。

半分はその感情に乗せられて、後の半分は降って湧いてきたレクリエーションを楽しむような心地で、自分達はこの戦いに参加する事になった。

あんな愛の告白見たことないと酷評し、あんな奴のあんな野郎の言い草を認めてたまるかと、そうして戦って、こうして退場して体を横たえている。

……だが、そもそも恋愛とは、そんなに小奇麗なものだったろうか。

恋の駆け引きというものは、その本質は、もっとどうしようもなくて、ある意味では、ひどく陰惨なものではなかったか。

誰だって想い焦がれる人間を振り向かせ、篭絡しようと手ぐすね、先を行っているかもしれない競争相手を追い落とすために策を練る。

自分を特別視させるために、多かれ少なかれ、誰かに恋した誰もがやってきたことだ。

フェアな恋愛なんてありえない。

そういう行為を平気で出来る衝動というものが、恋だった筈だ。

矢車直斗を、ただその好ましからぬ言動と態度で蔑視してきた自分達とて、同じ穴の狢ではないのか。



「というより、むしろ……、“アタシたちと同じ”ってことなのかな」


「チカちゃん……?」


「何でもないよ、マヨ……。 ただ、本当に、大好きなんだなって、さ。 アタシはああいうの、するのもされるのも、とてもじゃないけど耐えられないし、幸せな恋愛とは思えないけど」



今、自分は死力を尽くす男の姿を見ている。

百聞は一見に如かず。 ……そして、百見は一考に如かず。

古典の教科書をパラパラめくってにわかに覚えていた格言を、不思議と実践してみる気になった。

もしかしたら、いや、もしかしなくても、この闘いの理由には額面である「百代の奪い合い」以外の意味があるのかもしれない。

そう確信できるだけの光景が、目の前で繰り広げられてきている。 それだけの死闘だと、そう思う。

わからない。 なぜ彼がこうまでして、何かしらの薬物に頼ってまで闘い続けるのかが。

考えても考えても、一向にその答えは出そうになかったが。

呆気にとられた表情で、口をぽかんと開けたまま、同方向に目を釘付けにしている周りの大多数の人間が、今の自分と同様の気分であることは確信できた。




















「イイッ! スゴくイイぞッ、直斗ッ!!」



嬌声を抑えきれずに、ただただ目前の空間へ拳を突き込み続ける。

ほんの二メートルも離れていない筈なのに、その間合いが果てしなく遠い。

新月の夜の下、殺気という名の夜風に当たりながら、真上に見えるオリオン座を素手で必死に掴み取ろうとしているかのような、そんな真似をしている感覚だった。

この自分の拳がまともに当たらない、という不快感こそ、いまの百代の快感を昂ぶらせる原因に違いなかった。 下腹部が熱く滾って仕方がなかった。

我が拳を阻むものは何だ?

弾くものは何だ?

刹那に煌めく光は何だ?



――剣だ。 ただ一振りの打ち刀だ。



ならば受ける剣ごと粉砕せんと、左拳を囮に剣を釣り、右から繰り出す“紅色波紋撃”――最終拳速二百メートル毎秒、大型杭打ち重機と同格の破砕力を秘めた勁拳を解き放つ。

敵の得物は一般に言う太刀より短く、されど脇差小太刀の尺より半端に長い、刃が潰された野太い直剣。 不格好な忍者刀。

だが、どれだけ堅牢さを謳おうが、所詮は玉鋼。 それも無刃。

五月人形の添え物ごときが、一打で石英水晶を微塵に砕き割る我が拳に勝る筈もない。 木っ端も同然に叩き折ってくれる。

……そう意気込んだ奥義が、またもあらぬ方向に逸れて空を切る。 文目を編む剣光に触れた途端、手応えらしい手応えもなく。

今のは何だ?

標的を逸れて振り抜く羽目となった拳と、目の前で剣訣を結ぶ男の姿。

その両方を交互に目で認め、事象の因果を理解した途端、百代は口元をだらしなく緩ませた。

逸らした? 

往なした? 

……剣で、巻き上げただと?



――――まゆまゆの御株だろう、それはッ!!



「ふっ、ふふふふふ♪ ――――ッ、かあッ!!!」



ならば蹴りだ。 蹴りならどうだ。 

喝して奉じた“蛇屠り”――下段の廻し蹴りを敵が退歩した所に、ド本命を叩き込む。

ワン子が十八番おはこの“一瞬十七撃”――左右から間髪入れず、縦横無尽に軌道を変える連続蹴り。

言わずもがな、伴う速度と威力と射程距離は川神一子の比ではない。 殺傷力過剰の鋼鉄の踵は、ただの一撃で直斗の体組織に手毬大の風穴を穿つことだろう。

……なのに。



「護゛ォオオオッ!!!」



迎え撃つ直斗はその場から動かない。

ただ鈍刀の輝線のみが、水飛沫のように曇天の太虚を流れ散る。

銀の流星が煌めくその都度に、百代の攻撃は見当違いの方向へ導かれて不発に終わる。

そして、――――かつん、かつん、と。



「――っこの!?」



御負け追加の十八発目を打ち終えた隙に、割り込んできた下段の切り上げが二閃、鋼鉄の右腕に通算して七度目となる打撃を与える。

全くもって威力は薄い。 限りなく薄い。 損傷は全く皆無だ。 天下一品と自負できる己の化勁である。

しかし、だからといって、他ならぬこの自分が“最後の最後で後手に回り続けている”という屈辱を濯げるものではなかった。

驍勇、というものなのだろう。 これは。 

あろうことか、武神と比すれば控えめに評しても“格別に劣弱”と言わざるを得ない膂力差を、肉体の充実差を――――、己の剣腕のみで埋めている。

感覚の拡充や反射の速度を薬物に依存しているとしても、染みつかせた技術の卓抜がなければ、こうも食い下がるまい。 

魔術めいて鮮やかに、次々に決まる刹那の芸巧。 技という技の切れ。

全国五十万を号する日本の現役剣士達、その幾人がこの男にならえるか。

理性の枷が解かれ、血に飢える窮奇と化した百代は、いまや完全に直斗の虜だった。

血風吹き荒ぶ中でのみ得られる殺伐とした緊迫感に、陽気で残忍な眼は瞬きを忘れて、一瞬でもこの愉快な光景を見逃すまいと好敵手を捕捉し続ける。

好敵手――――そうとも、既に相手は自分の好敵手の域にある。

決定的打撃を受けず、されど与えられず。

形勢はほぼ互角。



「まさかこんな技、こんな速さを隠し持っていたとはなッ!? 出し惜しみとはお前も人が悪いッ!!」



惜しむらくは、九鬼揚羽や他の武道四天王と拳を交わす際には常である軽口の応酬を楽しめないことだが、それは食卓に洒落た箸置きがあるかないかの違いでしかない。

それと引き換えにあの敵は、可愛い可愛いあの敵は、正真の魔境に身を置き続けているのだ。

いやしかし、だがそれにしても。

打っては躱され、打たれては防ぐ……そればかりでは面白くない。

地味に、本当に地味だが、利き腕に虫に刺された程度の違和感が生じ始めているのも、ここ数年、常に全開で全快して目標を全壊せしめてきた百代の自尊心を刺激する。

瞬間回復の瞬間が、その暇が作れない。

治癒できない隙の無さに、むず痒さを感じ始めたのである。

まだ直斗の実力の底を測りかねてもいた百代は、ここでひとつ、盛大に舞ってもらうことにした。



「悪いなあ? お姉さん、ちょっと意地悪しちゃうぞ~♪」


「――――ッ!?」



煙幕。

当然、火薬類を利用したものではなく、先ごろ直斗が毛利元親に駆使したものと同様の、ただの砂掛け。

ただの砂掛け、である筈だが、砂粒の飛散量と範囲は一般に砂嵐と呼ばれる規模である。 

その砂瀑に紛れ、百代は地を蹴り呼吸を絶った。

釈迦堂刑部直伝の圏境を駆使し、完璧に石くれに気配を擬態した筈だったが、すぐさま再び二閃の切り上げが右腕に殺到してきて、



「憤々ッ!!!」


「――――っぐ!? 重いわァッ!!」



良い技だ。

恐らくは格上の相手への対策として、ずっと以前から密かに研いできた大牙の一つ。 健気な奴め。

流石に堅功を解いて受けるには荷が勝ちすぎたが、



「ッ!?」



焦燥の吐息を聴いて善しとする。

さあ、ここからどうする。

眼球への砂の侵入を目蓋で防ぎながら口端を吊り上げ、百代は直斗の動きを心眼に映して問いかける。

恐らくは今日この日のために研いできたのだろう渾身の二刀を打ち入らせてやった代償に、口の空いていた腰元の巾着を蹴飛ばしてやった男に問いかける。

巾着の中身、化生の力の源であろう注射筒をひとつ残らず真後ろの空に浮かせてやった男に問いかける。

ソレ無しの、残された時間でお前は勝てるのかと問いかける。

解いていた堅功を再び身に纏わせて、憎ったらしく顔を綻ばす。

このまま攻めたらどうなるか、その敗北への悪手をここで思い知らせる。 



「――――ッ?! 唖゛ゥア゛ァッ!!」


「っ!? ……あっははは! そうともそれが正解だッ!!」



叫んだ後、一も二もなく愛刀を口に挟んだ直斗は、動きを止めた百代の肩口へ駆け上がり、下半身に捻りを利かせて跳び上がり、腕と指間を大きく広げ、踊り狂って後退した。

跳馬に興じる一流体操選手顔負けのパフォーマンスを束の間魅せた直斗の両手には、計七十四本の注射筒が余さず収められていた。 

自分と同じく、目は瞑られたまま。



「……お見事♪」



再び堅功を解き、震え昂ぶり酔いしれて、掛け値なしの賞賛を凄惨な微笑みに乗せ、一つ大きく吸気する。

目を伏せ、内息を整え、乱れた気脈を一旦緩めて清澄に。 患部に巡る陰血に合わせて体表に陽氣を這わせしむ。

燐光が瞬くと潮が退くように痛みは鎮まり、右腕の負傷は跡形もなく消滅した。
















悪手だった。



「いやあ、極楽極楽~」


「ッ愚ア゛アアアアアアアアアアアア――――!!!」



まるで草津の湯に浸かった後に垢スリと按摩を受けて座敷で懐石料理を粗方食べ尽くした後のように、これ見よがしに大きく伸びて、豊かな胸を反らしかけた女に突撃する。

愚図が。 愚昧が。 蒙昧が。 

手段のために目的を忘れた己を叱責する。

注射筒三十四本分の成果を無様に手放した己の粗慢を、非難し侮蔑し憎悪する。

“双燕”の行使に心を奪われ、完全に化勁を脱いでいた敵の首に一撃を打ち入れなかった己の過誤に、予測を外した理性のエラーに、その支配者たる本能ココロ本能アタマを呪い尽くす。

だから己に罰を科す。

もはや数える事も忘れて邪悪な釘の束を静脈に打ち込む。 生の命をはりつけに、意識を修羅場に縫い付ける。

形勢はほぼ互角。

決定的な打撃を受けず、されど与えられず。

かつて遥か遠く及ばなかった姉弟子の絶技。 それを前に、今なお食い下がる己がこうして存在していた。

形勢はほぼ互角。 ……だが、それは双方に残された余力を度外視した場合の話である。

薬効に燃え上がる筋肉は軋みを立て、臨界を超えて駆使される心臓は倍速で拍動を繰り返す。

だが、そんなことはどうだっていい。 今は次の一瞬に間に合えばいい。 

この次の、次の、次の次の次の次の次あたりに来るかもしれない一瞬をついに征せられるのなら、何だって何時だって何処だって何故だって、どうだっていい。

その未来しかない。

その未来しか、認められない。



「羅゛ァ゛アアアアアアアアアアア゛ッ――――!!」



矛と盾の二役を孤剣に託しながら、一髪千鈞を引く集中力の競い合いに乗り続ける。

ともに秒間十数手に及ぶ攻め手のうち、どれか一手でも応じ損なえば、たちまちそれが必殺の極め技へと化ける。

舞い飛ぶ剣閃が、弾け飛ぶ剛拳が、空を掻き混ぜ風を生む。

いつ止むとも知れぬ颶風が木の枝を揺らし、岩を這う苔を剥ぎ飛ばす。



「ハハハハハッ♪ これじゃイタチごっこならぬ鎌鼬ごっこだな!? そうらッ、そらそらッ、そらそらそらそらッ――――!!」



黄泉路を匂わす波動に全身を舐め尽くされながら、玩弄の叫びを聴いた。

それが意味するところは、他ならぬ武神がもたらした掛け値無しの賛辞であり、この極限下の応酬において、尚も戯言を吐けるだけの余裕が相手にはあるという、絶望的な啓示でもあった。



「餓ァ゛アアアアアアアアアアアアアアアアアア゛ッ――――!!」



心胆寒からしむそれを怒号で掻き消し、更なる一刀の馳走に臨む。 

空振り。

瞬間、喝声を発して踏み込んでくる百代。

その挙措、構えは、川神流、無手組打術が一形。 随所に我流の崩れあり。

されど邪道が混入しているわけではない。 彼女こそが、川神流の最新モデル。

この状況に最適化したまでであろう。

未熟な、道半ばの武芸者ほど定型に執着するものである。 この女が戦にりている証左だった。

噴煙を裂いて、目前に迫る右の手刀。

返す刃で受け流す。

散った火花の灼熱を感じる前に、弾かれた手刀は蛇の如く手首を返し、こちらの武装を絡めに奔り来る。

すぐさま運剣。 回避。

同時に百代の左拳が下方から伸び上がってきて、こちらの退避が僅かに遅れて、冷やりとした空気が胸の辺りを通過する。

百代はそのまま踏み込んでくる愚は犯さず、いったん真横に移動しつつ再び両腕を引き戻し、こちらの剣腕の付け根に狙いを絞ってきた。

あと一センチで胸筋を抉り、肩の関節を内側から取り外しにかかっただろう鉄槍めいた貫手が眼前を掠め、左になびいた白髪を散らす。

次手が迫るのを待たずして柄頭に左手を添え、勢いそのまま百代の胸部めがけて突きかかる。

腸腰筋をたわめ、踵で地を蹴り、慣性を捻じ伏せ窮地を脱する百代。

皮一枚の差で一撃を躱した女の拳が再び相手の顎を砕き割りに来たのと、追撃する男の得物が下段から八十一羽目の“燕”を送ったのは、全くの同時だった。




御遠ッ―――――――――!!!




双方の矛が真っ向から激しく爆ぜ合い、雷鳴の如き大爆音が戦場を激震する。

武神の拳骨に、鈍刀の心金はついに耐え切った。 百代の瞠目はこのためだ。 その隙に二歩だけ後退、間合いを整える。



「ほう……? 私の目利きもまだまだという訳か。 イイモノを拾ったな、おい」


「訃――……ッ!」



再び仕合は振り出しに立ち戻った。

呼吸を読み、息を詰め、全神経を集中し、相手の死角を突くことだけを志向し思考し施行する。

攻撃の直後に生じる死角。 相手の皮を、肉を、骨を破壊しようとする拳と剣が、懐に入り込んだ直後に生じさせる宿命的な死角。 その攻落を求めて目前の空間を貪り合う。

そうしてここまで至るに交わされたのは、千手か万手かそれとも億か。

尋常の立合いであれば、とうの昔に決着がついている。

だが、この勝負は、共に同じ師に習い、同じ拳を伝授された者同士の戦い。 

互いの手の内をある程度以上に推察し合えてしまう、正真の同門対決だった。

彼我の彼我に対する理解度の伯仲。 それがここまでの、展開の膠着を招いていた。

……しかし、戦闘の帰趨だけで語るなら、既に勝敗は決しているも同然だった。

何故なら、理解度が伯仲しているだけであって、なにも地力が伯仲しているわけではない。 

それから何度目かの迫り合いを演じた後、示し合わせたように体内に貯蔵していた氣を切らし、束の間に動きを休め、次の一手を仕掛けるタイミングを見計って睨み合う二人の姿は、既に鏡合わせとは程遠かった。



「うん、驚いた。 久しぶりだぞ? 折ろうとして折れない得物という奴は」



かたや正道。 疲労を知らず。

生まれてこのかた十八年、連日連夜の練磨の果て、相次ぐ他流派との立合いによって純粋培養特有の“型の偏り”すら削ぎ落とし、まさに蠱毒と形容できる秘薬――“瞬間回復”なる天恵術すら己がものとした、人類最強力リミット・オブ・パワー。 底無しの戦闘続行力ゴーデス・オブ・イモータル



「訃――…ッ、訃――…ッ、訃――…ッ、訃――…ッ!!」



かたや邪道。 消耗の一途。

六年に及ぶ富士樹海での拘禁下、そしてその一年後まで継続した川神鉄心による出力限定下、丹田に満足に氣を廻すことすら許されず、鈍りに鈍った勘に三月ばかり鞭を入れ、“才能”という名の萎縮し切った虫食いだらけの風船に、間に合わせの毒瓦斯ガスを吹き込み続ける、今際の狂戦士アイドリング・ファイター。 極めつけの向こう見ずパーフェクト・ストレンジヂア



「訃――…ッ、訃――…ッ、訃――…ッ、訃――…ッ!!!」



間合いから更に一歩退き、詰めていた息を吐き出し、また吸い込み、そうしながら次の瞬間を待つ。

互いの挙動を目で牽制し合いながら、その場に身を留め置き続ける。

次に百代が大きく息を吸い込んだ時が、こちらが注射筒に手を伸ばした時が、再仕合の合図となるだろう。

しかし、そうしていては勝てない。

無限大に引き伸ばされた一瞬の中、直斗は一つの結論を下していた。

いまだ悠然と嫣然と微笑み続ける百代である。 やはり、ここまで講じてきた手立てでは埒が明かない。 埒が明く前に己が尽き果てるだろう。

そして無理にでも死角を作り出す以外に、短時間で決着をつける術はない。

送ることのできた“燕”は、四十つがい余り。



「訃――…ッ、訃――…ッ、訃――…ッ、訃――…ッ!!!!」



今こそ。

そう、今こそ。

積み上げてきたものに報い、最後の武器を使い、全ての余力を注ぎ込む時だった。



――――善し●●



息を吸って、目を閉じる。

初めて出会った日を思い出す。 何もかもが始まった日を。

瞼の裏にはいつかの境内が映り、いつかの少女がそこに居た。

その瞳は曇りを知らない。 翳りを知らない。

その不敵で勝気な輝きこそ、矢車直斗の燈火。

懐かしいような、待ち遠しいような、不思議な感覚が胸にきざして、ふっと、消えた。

いつかの幻聴が、麻痺に溶けゆきそうな意識を律したからだった。



――――おまえなのか。 わたしを、満たすのは。



再び現実に立ち戻る。

悲鳴を上げ続ける肉体。 刻一刻と擦り減ってゆく神経。

しかして、それらを繰る直斗の心は澄んでいた。

ただ一心に武の遂行を誓う。

ただひたすらに、ただひたむきに、己の戦意を煮詰めにかかる。



――――そうとも。 俺だ。 この俺だ。 

――――この先ずっとではないけれど。

――――この先いつか、忘れ去られてしまうだろうけれど。

――――お前を“今”満たすのは。 お前の目の前に“今”在るのは。 

――――この“俺”だ。



独白は感傷からではなかった。

薬害を受けた脳からの指令だった。

勝利するために最も必要な過程だった。

覚悟の錬成。 これから行使するのは、そうしなければ“成らぬ”我流の秘太刀だった。

仙穴で氣を練り上げ、臍下丹田から五臓六腑を馳せ巡り、脊柱脊髄を伝わせ落とす。

陽根へ達した所で、再び丹田まで掬い上げる。

根源の力を回し、轟々たる荒乱を呼ぶ。



――――ああ、時が来た。

――――ずっと以前、出会った時から到来が定められてきた、この、時が。



満を持して、剣を下方へ。 

型は無形。

刃先は右裾の陰に移す。



すなわち、士道討滅の構え。






















《羅゛ァ゛アアアアアアアアアアア゛ッ――――!!》


《ハハハハハッ♪ これじゃイタチごっこならぬ鎌鼬ごっこだな!? そうらッ、そらそらッ、そらそらそらそらッ――――!!》




「……綺麗」



その言葉にはっとなって、葵冬馬は痣だらけ擦り傷だらけの顔を脇に向けた。

ユキは笑ってはいなかった。 ただただ、その無表情をその光景に注いでいた。

細められた目は、内心で言祝ことほいでいるようにも、憐れんでいるようにも見えた。



「ここまでやられると、色んなことがど~~~~っでも良くなってくるな。 ホントによ」



戦いを映し出す大画面に目を釘付けにしたまま、準が頬を掻きながらユキに応える。



「どうよ、若。 これで野郎は、約束を守ったってことになるのかね」



――それでもだ、マロード。 

――俺はお前を認めたうえで、証明してやる。 

――お前は俺に言った。 こんな汚い世界にこのまま生き残り続けたって、苦しみが待っているだけだと。 

――そして、俺はお前に言った。 どんなに穢されようとも、綺麗なまま残るものがある。 また再び輝けるものがあると。 

――……本心だよ。 汚いものからだって、紛いの無い綺麗なものを創り出せるって。 俺は、本気で思ってる。 

――それを、“この場で証明する”と、俺はお前に言った。 

――ああッ、約束したともッ!




「……同情なんてしません。 あれは全て彼の意思。 彼が欲しいのは、そんなものじゃないんだ。 そんなものじゃなかったんだ。 私のように、我が身可愛さにに誰かに構ってほしいわけじゃなかった。 ……私のように」



考えて口にしたことではなかった。

武神の吹かせた死の風でさえ冷やすことは叶わなかった、胸の底で脈動する熱に任せて、冬馬は言葉を継いだ。



「彼は叶えなくてはいけなかった。 一番近かった人間として、兄として、大事な人間の想いを。 その通りだと心から同意できる願いを。 生きて、どんなに苦しくても生きて、一生一命を懸けてっ」



固く食い縛った筈の歯を、吐き出し切れないもどかしさが無理矢理こじ開ける。



「……だけど、彼個人にも、彼なりの願いがあった。 傷ついて欲しくない人がいた。 天秤に掛けたら釣り合ってしまった。 どちらも、どうしても、どうなってでも叶えたかった。 だから自分の正体を隠し続けた。 彼はそう生き続けた。 生き続けてしまった。 生きているから、また願いが湧いた。 今度は私と出会って、私の願いすらっ……。 っ、私の、私がっ、原因でっ、またっ」


「――――覚えているか。 トーマよ」


「……――ッ」


「我が、人生最大の死地を潜り抜けた先の話だ。 当時、白球を投げる事に関して、我には敵無しだった。 “奇跡の剛腕”、そう謳われていた我が腕が、ただの棒切れになって間もない頃の話だ。 ……とある夫妻に、今際の際に叱咤激励を受け、直後に出会ったあずみの介助を受け、どうにか恥ずかしくない生き筋を立てようと一時は気張っていたが、それでも変わっていく周囲の状況には嫌気を差さずにはいられなかった。 共に切磋琢磨したリトルリーグのチームメートは、そこそこに愁傷と慰めの言葉をくれたが、それ以上のことは無かった。 今だからわかる。 あの者らにしてみれば、それ以上何をすればよいのかわからなかったのだろう。 我はいつもあやつらに、有言実行を信条に接してきた。 庶民は大言壮語を最も嫌う。 金持ちだからと、ただの七光りでエースナンバーを背負っていると思われてはならないと、そうでなければ健全なチームプレーもベンチワークもスタンドチアリングも成り得ないと、家族から、特に姉上からはそう言われていたし、自分でもわかっていたからだ。 やれることをやれると言い、やれないことはやれないと、はっきり言い切ってきた。 それを金科玉条として守り続けていた。 そんな我の姿を見ていたチームメートだ。 きっとまた元通りになると、しっかりとした言葉で伝えてきた者はついには現れなかった。 少なくとも投手生命は完全に断たれた、我の怪我の具合は周知の事実だった。 沈黙することこそが、距離を置くことこそが、我に対して誠実でいられる手段なのだと、そんなふうに思ったのだろう」



だが、やはり我は寂しかったと、激闘を映す大画面を眺めながら、それとはどこか違う場所を瞳に映していた英雄は、ぽつりと呟いた。



「見捨てられたのだ、と思っていた。 どんな形でも関わりたかった。 無理を言えば、レギュラーは無理でも、ベンチに入ることくらいはできたかもしれない。 それだけの貢献はしたつもりだった。 だが、それはチームの戦力を下げるだけの行為だ。 三十回も肩を回せば腕も上がらんありさまだ。 球威のほども見るに堪えなかった。 試合には二度と出られないだろうという推測に痛くプライドが傷付けられた。 そんな理由で、我の意気は無残に消沈していた。 ……トーマ、お前が声をかけてくれるまではな」



――――お前はどこにもいかぬのか、冬馬。

  ――――どこにも、とは?

――――我は生き甲斐であった野球が満足にできぬ……。 一緒にいて何の意味もないぞ?

  ――――野球は出来なくても、英雄は英雄。 全く変わりませんよ。 私は、英雄が好きだから、傍にいるんです。

――――……!

  ――――英雄のしおらしいところも可愛いものです。

――――! ぐ、愚弄するな我を!

  ――――思った事を言ったまでです。

――――……腹立たしい奴! もう貴様にしおらしい所など見せてやらんわ!

――――野球で駄目なら……他の道よッ!! 頭脳とカリスマで父を継ぐとしよう!

  ――――あらら、元の自信家に戻ってしまいましたか

――――残念だったな、フハハハハハ!!

  ――――そんな英雄も素敵ですよ?

――――貴様、何でも良いのではないか!

  ――――ええ割と。 気持ち悪いですか?

――――うむ。 だから男友達が少ないのであろう

  ――――……まあ女の子にモテますから僕は。

――――仕方あるまい。 我がお前の友になってやろう。 感謝せよ! フハハハハハハ!!




「野球の出来ない我も我……。 面と向かって言ってくれたのは、冬馬、お前が最初だった。 おかしな話だ。 我はな、それまでそんな風に世の中を見たことがなかった。 本の中ではどうしようもなく陳腐に思える言葉を、人の口から、トーマ、お前の口から語られるとな、不思議と腑に落ちた。 認めてくれて、初めて我は、今の我となった。 ……どんな野心や目論見が隠れていようと、これは我の中では絶対に覆らん」



遠い過去をしばし見つめていた英雄の声が、こちらに近づいてきた。



「我が第一の友よ。 芝居でも良いのだ。 たとえあの時の一言が、芝居だったとしても、我は立ち直ることができて、こうして今日まで生きている。 我にとっては、その事実だけで充分ありがたい」

「我一人では“其処”には至れず、“此処”には来れなかった。 お前が手を差し伸べてくれたから、あずみが傍に控えているから、かの夫妻と出会ったから、その息子が川神に帰ってきたから、他にも大勢。 ……自分がそうだと決めつけている世界など、そうしたきっかけで変わってしまう。 自分の世界も、他人の世界も、よくも、悪くも。 だから誠実に徹するべきなのだと。 直斗は、ただそれを皆に思い返してほしいだけであろう」



それは、と遮りそうになった冬馬を手で制して、英雄は言葉を被せた。



「無論、贖罪の意識もあろう。 だが決して、直江大和一人だけに、川神百代一人だけに、九鬼英雄一人だけに、葵冬馬一人だけに、この大戦が捧げられたのではない。 今更直斗がどう言い訳しようが、それは覆せん。 あやつは多くの人間を巻き込み過ぎた。 ……あれもこれもと一人で背負おう背負おうとするくせに、本当にままならんな、あやつの人生は」



くしゃくしゃの苦笑いを宙に上げて、戦の景色を映写するモニターに再び目をやり、それから、父親が我が子に向けて家の決まりを言い聞かせるように、穏やかに語り続ける。



「自分のせいだ自分のせいだと、そればかり考えてきたから、万事が万事に気を回すようになってしまったのだ。 抱え込むようになってしまったのだ。 誰のせいでもあるものか。 誰のせいでも」



周りをあまり見くびってくれるな。 と一息入れて、英雄は己の後ろに意識を割いた。

あずみから、おそらくは何かしら大戦後の段取りでも耳打ちされたのだろう。 ひとつ頷いてから、今度は真正面からこちらを見据えた。



「我はな、余計なことばかり考えて、気を遣うなと言いたい。 気を遣うという事は、相手にも気を遣わせる、ということだ。 相手が嫌かもしれない、傷つくかもしれない。 もちろん、そのように考えることは至極真っ当なことだ。 だがな、どうしても何かを害さなければならぬ時が来たなら、覚悟を決めなければ。 心に、気持ちに、精神に関して言うならば尚更だ。 傷つけて結構であろう。 お前が付けた傷なら、他ならぬお前自身が癒せる筈だ。 ……が、これもギブアンドテイクというものか。 やはり本質的には、我も直江大和と大差ないらしい。 そうした“支配”は、我が非常に好みとするところでもある。 ――だから、大事なのは誠意なのだと、忘れないようにしたい」



直斗に向け、準に向け、ユキに向け、他ならぬ自分、葵冬馬に向けたその顔からは、目に寂しさの影を宿してはいたものの、どんな秘事もどんな難事も受け入れてやろうと努力する気概が滲み出ていた。



「トーマよ。 的外れな指摘だったら、詫びよう。 我もまだまだ、他人の機微には気づかぬことが多い。 どうやら今まで、親友の内心すら満足に察せなかったようだ。 こうした所も直さなければ、天下の九鬼の後継は務まらんな。 もしかしたら負担をかけていたのだろう。 ……すまなかった。 日を改めて、お前の告白とやらに耳を傾けよう。 糾すべきは糾し、正すべきは正そう。 だから――」


「英雄」


「だから、今は見届けようではないか。 目を開けて、歯を食い縛って、拳を震わせながら、信じて、待ってやろうではないか。 あやつが望んだ、この、綺麗な結末を」



きっと、また世界の景色は変わる筈だから。

最後に視線でそう訴えて、気合と火花が散乱する決闘に、英雄は目を戻した。




≪御遠ッ―――――――――!!!≫




轟音を立てて、拳と剣が、想いと想いが、真っ直ぐ凄惨にぶつかり合う。

美しかった。

眩しかった。

その中では、命が、輝いていた。
























「ッ賦!!」


「ぬッ!?」




距離を詰める、たった数歩のアドバンテージのため。

注射筒に手を伸ばす――そのルーティンを破棄して突撃する。

間を外し、意図をいぶからせ、糸一筋ほどの動揺を百代に与えた、その直後。



「炙り猫ッ!!!」



どうあろうと、こちらの射程外では百代の独壇場である。

虚を衝いたところで、やはり先攻は捥ぎ取れない。

取り敢えずは牽制と、灼熱の爆風が直斗を強襲する。

川神流、炙り肉――――腕に火焔を奔らせる化勁の奥秘。

川神流、猫騙し――――音速で鳴らした両掌による衝撃波の発散攻撃。

恐らくはその二つを同時に掛け合わせた、新たなる川神流武技。



「散ィェッ!」



氣功波が奔る壊滅領域を、寸での所で脱出する。

余裕の欠片の塵滓も無かったが、当たらないものは当たらない。 身構え心構えがあればこそ。

転身。

直進。

直進。

直進。

足先から伝わる衝撃を、全身の筋肉がしなやかに受け流す。

一面が紅色に塗られた世界に、翡翠のマダラが浮かんでは殺到する。

不可視、されど脳内でマーキングを施された氣弾の群が側頭を掠め過ぎる。

耳元で風が鳴った。 

熱の塊が腹の底で蠢いている。

体が際限なく軽くなってゆく。

雨粒が嫌に遅い。

一秒が無限に切り刻まれる、今の世界はひどく単純なようで複雑だ。

敵を倒す。 倒すために走る。

自分の目的と手段について言えばそれだけだったが、空気の唸りに混じって、小さな叫びや大きな呟きが聴こえてくるのだ。

自分だけではない、とわかる。 この戦いに意義を見出す者達が、この瞬間を近くで見つめていたり、遠くで思い描いていたりしているのだとわかる。



どうにかしてみせよっ、と言う英雄の叱咤がすぐ近くに聴こえ、やれるものならですが、と言う冬馬の茶々も聴こえた。

せめて生きて戻ってきなさイ、と必死に祈ってくれたのはルー師範代で、すまん、と胸中の様々な感情をその一語に押し詰め、重く呻いたのは御本家、川神鉄心。

カッコ良く決めてしまえっ、と凛々しく放言したのは森羅だ。 そのスペシャルな男ぶりを魅せつけてこいっ、と田尻さんは励ましてくれた。

ケッ、せいぜい根性見せろよマゾ野郎、と拗ねた口調を隠さない天使から引き継いで、まだまだそんなもんじゃねぇだろ、と釈迦堂が憎たらしく煽ってきた。

己の腕を信じなさい、と太鼓判を押してくれた黛大成の後で、油断するな、警戒しろと無駄のない声をかけてきたのは橘天衣だろう。



……もう少し、もう少しなんだ。

あと少しで手が届く。

百代も、冬馬も、次に続く命を手に入れ、永遠に近づくことができる。

大和の心根だって、きっと変わる。

矢車真守の理想の声価は、不朽と化して語り継がれる。

通すべき筋が残らず通され、縛り付けるものは何もなくなる。

何をしたっていい。 何処にだって行ける。

これさえ乗り越えれば、この状況に俺が打ち勝つ事さえできれ、ば――――。




――――やまとくんっ●●●●●●




唐突に、許容を超えた強烈な信号が脳神経を焼き始めた。

白熱する頭に、ちろちろと耳障りな音が聴こえる。

吹き込む気流の音か、逆流する血の音か。 

いや、違う。 

これは、せせらぎ●●●●

夜の多馬川。

忌むべき記憶の残滓だ。

絶望の気配がする。

錆びた鎖を掴んだ後の手の匂い。

ああ、これは、と直感する。

“揺り戻し”――――時間切れ。 悪夢が割り込んでくる予兆。

不正な手段で“壁”を越えた、その代償を支払わせに、死神の委託を受けた夢魔が追いかけてくる。

駄目だ。

帰れ。

止めろ。

消えろ。

今は邪魔をするな。

後でいくらでも相手をしてやる。

だから、せめて今は、この太刀を振り切らせろ。



「次はどう出る直斗ッ!?」 


「邪ァ亞ッ―――――!!」



ここで全てを決める。

後の先を極める。

武神の間合いに再侵入。 

女の顔が大きくなる。

敵はまだ動かない。

“寸前のスリル”を味わおうとする彼女の悪癖。

知っていたとも。 

最大限に利用してやるとも。



――――善しッ



釣れた、と叫んだ全身の細胞が体を動かす。

夢魔の手はまだ遠い。

これなら間に合う。 これなら辛うじて、決着の方が先立ってくれる。

一撃目に狙うは顎先だ。

躱されることは必至。

されど躱され具合は紙一重も紙一重。

そうだろう? ――なにせその方が、面白い●●●

武林の頂点たる彼女は、その技量において長く孤独だった。

幾千もの立合いの中、己を追い詰める輩に、片手の指で賄えるほどの数しか、出会う機会がなかったのだ。

こと、強さが円熟を迎えつつあるここ数年は全くといって良いほどに退屈であった。

ゆえに、自ら数歩、死域に踏み込み死線を彷徨うという愚挙を、日常の立合いで繰り返してきたのだった。

相手の攻め手に極限まで、必要以上に肉薄し回避するという、いささか遊戯めいた挙動。

そこには非現実的実力に裏打ちされた、紛う事の無い驕慢があった。

自分なら、紙一重で確実に回避できる。

万が一があっても瞬間回復があると、そういう自負が彼女の戦闘法に香っているのである。

確かにその通り、我が剣尖は空を切るだろう。 

――――だが。

その軌道上に残る前髪のたなびき。

髪房の交差部――――これは言わば彼女の照準器。 真に狙うはその攪乱!

知っていたとも!

これは釈迦堂刑部が矢車直斗にもたらした、最も有用な参考情報!

これを御す勘所を掴んでいたからこそ、師範代時代の彼は川神百代をあしらう術を得ていた!

そして半ば自発的に前後不覚となった百代が、まず警戒するは幾度も繰り出された“双燕”の二の太刀!

しかして、こちらが放つは“邪燕”の秘太刀!

黛流正統継承者さえ斬り伏せた悪辣なる複合剣技!

黛由紀江、今代随一の抜刀術――――その速すら制したのだ!

武神カミに通じぬわけがない!!



地を踏む。 

軸を立てる。

腰を捻る。

最速の昇刀を見舞え。

目にもの見せろ。

続くは信の“誠”一文字。

陰より出でよ、幻惑剣。



「―――――――――――――ッ!!!!!!」



いざ、翔け違え、燕共!
























































































世界に色が戻る。

変わらず、陽の色は其処に無く、雨は降り続けていた。







「くっ……くっくっく……ははははははっ! あっははははははははっ! なにが可笑しいって!? そりゃあ可笑しいさ。 だってお前。 私は世界のレベルの低さに絶望していたんだぞ。 そしたら同じ街に同じ屋根の下に、こんな化け物が住んでいたわけだ。 これが、可笑しくなくて、なんだ……ははは!!」

「昔にジジイが言っていたが、本当だな?」

「青い鳥はいつだって自宅にいる。 失くした財布は机の引き出しにある。 人生というのは大抵そういうものだとなあ!」

「本当にその通りだ! なあ、お前もそう思わないか、直斗!?」







――――川神流“無明白刃取り”








「懐かしいな。 コレ使ったのは何時以来だったか。 あの時は、まだ釈迦堂さんが院にいたな」



出来ない筈がなかったのだ。

この自分に出来て、彼女に出来ない事など何一つとしてないのだから。



「“武道四天王級に対して弄しうる俺の奥の手は三つ。 そのうち、攻の手は全て剣技の騙し討ち” ……律義だな、お前は本当に」


「―――――――」



つい数時間前、一字一句同じ言葉を言い放った身体が身震いする。

この女は、信じていた。

信じてくれていた。

戦前に宣言した忠告を。



「“士道なんざ、捨ててやる” ……まさにその通りの技だった」



だから、待っていたのだ。

待っていて、くれたのだ。



「新選組の隊服……その衣装までわたし用の武装とはな。 相手の弱点を自分の背中に貼り付けて“盾”にするなんて、普通考えつかんぞ? それを上手いことコスプレで紛らわしたもんだから、たまったもんじゃない。 一瞬動きが鈍ったの、わかったろ? それだけでも及第点だ♪」


「―――――――」



〼因を挙げるとすれば。

川神百代が、決して本質を見誤っていなかったということだ。

いかに軽蔑しようと、“彼”がどういう人間であるのか、その見抜きを汚すことなく保っていたことだ。

矢車直斗は川神百代を信頼していた。 

それと同様に、“川神百代は矢車直斗に信頼を置いていた” ……矢車直斗の〼因は、この事実をまったく考慮に入れていなかったことにあった。

他人事のように〼けた自分の〼因を分析していた、その自分に気づいた途端。



「――唖ッ――――唖唖唖、唖ッ――――」



崩壊が始まった。

彼女のためのユートピア、その代償は、彼のためのディストピア。

喉が干からびる。

眼球は痙攣し、空間が捻じれたように笑っていた。

そこに乱雑に差し挟まれる幻影たち。

七年前よりずっと、矢車直斗の奥底に蔓延はびこる荒涼の根源。

笑いが聴こえる嗤いが聴こえる哂いが聴こえるワライガトマラナイ。

場を支配するのは、雀躍欣喜する餓鬼共の喜悦だけ。

悲鳴は無い。

悲鳴は無い。

悲鳴は、もう無い。

最後に残るは碑銘だけ。



「唖、唖唖唖唖唖、唖唖唖ッ」

 

全身の細胞が警告を発し、必死に恐れで凍りついた体を解凍しようと努力する。



「まゆまゆを落としたのは今のヤツか? その場に居合わせたかったな~♪ この技が見事に決まるところを、是非とも見てみたかったぞ♪」



笑顔だった。

仁王像の口周りを恵比寿様と取り換えたような、素晴らしい笑顔だった。

旅先から家路につく車内で思い出話に花を咲かせるような体で、不発に終わった下種の太刀筋に想いを馳せていた。



「唖唖、唖唖、唖唖唖唖、唖唖―――――」



眼球がめり込む。

背中が内側にくびれ込む感覚があった。

指先さえ自由にならない。

どうやって立っているのかさえ分からない。

血液は逆流し、執念は漂白される。

ひとつ瞬きするごとに過去に押し戻される。

目蓋の裏に映る惨劇の光景だけが、鮮明に輪郭を深めてゆく。

嫌だ怖い恐い気持ち悪い吐きそうだ見るに堪えない。

だから必死に、窒息寸前の出目金のように眼球を露出し続けた。



「いや、実際悪くない手管だった。 ジジイに言って、後で川神流の奥伝に足してもらってもいいんじゃないか?」



溶ける。

溶ける。

溶け落ちる。

苦悶しか上げられない。 抗う術など何処にも無い。

心身共々無感動に崩れてゆく。



「にしても、こいつは難敵だったなあ」



摘まれたナマクラが、そのまま指の腹で愛でられる。

邪剣、ここに〼れたり。

蒐集家が苦労して競り落とした珍品を眺めるように、うっとりと蠱惑的な表情を浮かべながら、百代は目で語りかけてきた。

きゅう、と刀身が擦られる音は、まさに縊り殺される燕達の断末魔。

生理に反する音に背筋が震え、一層大きく視界がぶれ、目に留まった腰元の巾着に焦点が合った。

チュウシャ、ユートピア、イノチヅナ、ダカイサク、クモノイト。

頭の中がその類の言葉でいっぱいになり、



「……それはもう、やめとけ」



硝子が割れる音がした。 

ひどく軽い響きだった。

何が起こったのか分からなかった。

巾着の重心が移り、染み出した液体が太腿から足首へと伝った。



「……いいだろう、直斗。 お前の想いに応えてやろう●●●●●●●●●●●●。 お前がどれほどの人間で、お前がどれほど私に夢中であるのか。 十分に理解したよ。 とっくり愉しませてもらったよ。 だから褒美はくれてやる。 ……ただ、な。 私はお前のモノにはならんよ。 何故かって? それは、お前が私に〼けたからだ。 お前が、私より〼いからだ。 ……だから、お前は私のモノだ」



保たない。

どんなに力を籠めても動けない。

どんなに心を極めても残れない。

全存在を懸けて鈍らを引き戻そうと努力する。

……無駄だった。 もとより俺という存在自体にそれだけの値打ちは無い。



「嬉しいだろ? 夢のようだろ? 頭の先から爪の先まで、お前は、私のモノだ。 だから、私の許可なく壊れることは許さん。 さっさと養生して身体を元に戻せ。 そうしたらまた壊してやる。 ――――また飽きるまで、アイシテヤル」



爛々と光る双眸は、出会った頃の無垢な輝きを忘れているようだった。

血色に濁る瞳孔がこちらを向いている。

狂気の入り口に立つのは、自分だけではないらしい。

そんなことは先刻承知だったが、まざまざと凶暴な狂貌を見せつけられて、今更のように思う。

熱に浮かされた顔を見て、止めなければ、と思う。

勝たねばならない、と思う。

〼けてはならない、と思う。

「勝利する」と言った、その“誠”を示さなければ、と思う。

また同じだ、と思う。

いつか大和に襲いかかった、あの時と、そっくりそのままだと。

あまりにも、無力だと。



「さあ~て、そのためには兎にも角にも、まずはケジメをつけなければな。 今まで散々好き勝手して迷惑かけてきたんだ。 大和達には私から良いように言っておくが。 あとは梅先生とか、マロあたりの面倒そうな大人連中も含め、周りのギャラリーを黙らせる必要がある訳だ。 もちろんお前には、院にこれからもずっと、ず~~~っと居てもらわなきゃならんから、他の内弟子に示しをつけて、納得してもらわなきゃならん。 ……まあ、そういうわけで、最後に派手にトんでもらうぞ? お前も今のままじゃ苦しいだけだろ」



己の何もかもが停止し、己の何もかもが置き去りにされた中。

俺には分かった。

これから展開されるのは、矢車直斗の終末そのもの。

俺には分かった。

何もかもが無駄で、何もかもが裏目に出て、何一つ成し遂げられずに終わった世界が、この先に待ち受けているのだと。

俺には分かった。

先ほどまで見せていた憫笑の吐息とは違う、深く、静かな、百代の吸気。

その呼吸は、川神流、秘伝正調の練功術。

丹田を巡って練られた氣が腕の先から吹き乱れ、全身に叩きつけられるは殺気の暴圧。

踏みしめた震脚は、大地の氣脈と武神の内勁を照応せしめ、無為自然の天道は今、彼処かしこの骨肉と一体となる。






「残念無念、また来世、だ♪ ――――川神流、奥義」





星砕き、という呟きは、轟々と唸る気流に掻き消され、俺には聴くことさえ許されなかった。

疾風よりも尚迅く。

稲光よりも尚鋭く。

攻城鎚の如き拳が、真正面から、臍の奥を打ち抜いた。

臓腑を抉り、脳幹を揺すり、全てを零に還す魔の一撃。

耐えるものは皆無。

絶えぬものは皆無。









――――灼光、灼光、灼光。


数限りない閃耀が連続する。


現れては去り、現れては去り。


輝く雨を浴びている。


滞空には果てがない。


ひたすらに流されてゆくような方向感覚


ひたすらに削げ落とされてゆく自意識。


視界はおろか、持ち物も、記憶も、ぼろぼろと落としていって、いずれは骨すら残らない。




「唖…………ああ」




……また同じだ。


俺はまたヘマをして地雷を踏んだらしい。


ようはそれだけのことだと思い、今度はもう駄目だろうな……と他人事の感慨を抱いた直斗は、どこかほっとしている自分にも気づいて、刹那の中、口元に苦笑の皺を刻むことができた。


きっと、これで楽になれる。


もう誰とも戦わなくていい。


傷つけることも、傷つけて苦しむこともない。


ああ、これは幸いなことだ。


こうして独り消えるというのも、結構なことじゃないか。


手を開こう。


力など抜いてしまえ。


握り締めているものは、ここに置いていってしまおう。


やたら重いだけの武器だ。


もう必要ない。


持っているだけでも、感触を確かめるだけでも、辛くて辛くて堪らない。


今度、仲見世通りあたりで、もっと軽いものに買い替えてみようか。


白いプラスチックの、あの安っぽいやつ。


俺にはそれが相応だろう。


あれなら誰も傷つかない。


戦隊物の装飾がついているやつがいいな。


ああいうの、欲しかったんだ。 


ねだったことはあっても、買ってもらったことはなかったな。







……逃げている?


そうかもしれない。 


でも、やれることは、やれるだけはやったんだ。


もう、どうしていいかわからない。






――――そもそも、何のために。






…………ああ、そうだよ、何で俺はこんなことをしてたんだっけ。


よく思い出せないな。


でも思い出せないのなら、大したことでもないのかもしれないなあ。


でもなんとなく、思い出さなきゃいけないような気もするし。


なんで思い出せないんだろう。


たぶん疲れているせいだ。


なんだか上手く体が動かせないし。


すごく眠たいし、体じゅうが痛いし、疲れているんだ。


疲れているなあ。


本当に、本当に……疲れたなあ……。










遣い手に先んじて地に堕とされた鈍刀は、墓標のように河原に突き立った。

際限のない浮遊感に誘われて、直斗は苦痛しかない肉体から意識を遊離させた。

精神は果てしなく眩い世界を揺蕩たゆたい、五体は絶え間なく回旋する。

丹沢の上空三十メートルを滑空する砲弾となった直斗は、そのまま川を横切り、向こう岸の岸と呼べなくなるところまでも横切り、無数のこずえを道連れにして、霊山の奥深くへと消えていった。































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また性懲りもなく、大変な時間を空けての投稿と相成りました。

お待ちいただいていた方々には、大変申し訳なく思っております。

お手間でなければ、感想板でお声掛けいただければ幸いです。



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