<このWebサイトはアフィリエイト広告を使用しています。> SS投稿掲示板

チラシの裏SS投稿掲示板


[広告]


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

[24054] 【完結】Sweet songs and Desperate fights《史上最強の弟子ケンイチ×とらハ3》
Name: やみなべ◆d3754cce ID:1963cf14
Date: 2011/01/23 00:20
はじめまして、あるいはこんにちは、それともこんばんわでしょうか?
とらハ掲示板で「魔法少女リリカルなのはReds」をやっている、やみなべです。

この小説は「史上最強の弟子ケンイチ」と「とらいあんぐるハート3」のクロスオーバー小説になります。
Redsの方が少々(?)煮詰まって来たので、気分転換も兼ねて少し趣向の違う作品に手をつけてみようと考えた次第です。
また、この組み合わせは設定の擦り合わせがそう難しくなさそうで、結構ありだと思うのにどなたもやっていないので、試してやってみる事にしました。
すみません、なんというか浮気性なもので……。

ネギまとFateのクロスで「逆月の魔術師」というのもやっていたのですが、最近のネギま展開から「ちょっと一度考え直した方がいいかもしないなぁ」という結論に至り、新たに別の作品を書いてみる事にしました。
しかし、Redsにもまして行き当たりばったりで書いているので、直ぐに更新が止まったりするでしょう。
ですが、一応中編くらいの長さを考えていますので、簡潔はできると思います…………たぶん。
まあ、それもそれなりにニーズがあればですけど。あんまり評判が良くないようなら打ち切るかもしれません。

独自設定や独自解釈、ご都合主義が多いに入っておりますので、それらも含めて駄目な方はご注意ください。
それと、たぶん恋愛要素とかはほとんどないでしょうね。単に絡ませてみたかっただけですから。

時間軸的には、兼一が大学一年生でとらハ側は本編が始まった頃です。つまり、兼一と恭也は学年は違えども(一応)同い年という事になりますね。
兼一は連載と同じ時間軸でもよかったのでしょうが、それだとちょっと絡ませにくいと思いこうなりました。
何しろ、ラグナレクとやりあってる頃の武術を始めたばかりの時だと恭也達との間に実力差があり過ぎます。また、闇とかYOMIとのゴタゴタの真っ最中だととらハの方に首を突っ込む余裕はないだろう、と思うのですよ。
いや、裏社会科見学を通してなら絡ませやすいんですが、それだと逆に短編みたいになりそうなんですよね。もうちょっと長くしたいので、裏社会科見学は使わない方向になりました。
そんな諸々の迷走の結果、実力的にもつり合っていそうで、ある程度余裕の出てきていそうなYOMIとのゴタゴタにある程度区切りがついた(と仮定した)大学入学した頃がちょうどいいと考えました。

あと、念のために申し上げますが、「リリなの」とは一切絡まないのであしからず。
一応「リリなの」とのクロスも考えた事がないわけじゃないんですが、それはまた別の機会という事で。
もしもその機会があったらの話ですけどね。

というわけで、色々ブレにブレていますが、それでも付き合って下さる寛容な方は、ぜひとも感想やご意見をお願いします。

初投稿:2010/11/07
とらハ板移行:2010/12/06



[24054] BATTLE 1「合縁奇縁」
Name: やみなべ◆d3754cce ID:1963cf14
Date: 2012/01/02 01:38

首都圏某所。季節は春。まだ朝靄も残る早朝。
本日は平日。故に、そろそろ早めに出勤する各家庭のお父さん方が目を覚ます頃だろう。
そんな気持ちの良い目覚めの朝に、今日も今日とて――――――――――――断末魔の叫び声が轟き渡る。

「じぇろにもぉ~~~~~~~~~~~~!!!!!」

意味不明の絶叫の発生源は、閑静な住宅街の一角。
明らかに周囲との調和を無視した古めかしい日本家屋からだ。

いや、浮いているのは何も古さや建築様式だけではない。
その広さもまた異常だ。昨今の住宅事情を考えれば、あまりにも広過ぎるその土地。
裏庭に関しては、もはや「森」の域に達しているほどに広い。

では、古いが勇壮かつ豪壮な日本家屋なのかと問われれば………………否である。
百人が見れば百人がこう答えるだろう「これは古いんじゃなくて、単に“ボロイ”だけだろう」と。
いや、確かに門扉などはかなり立派だし、敷地内の家屋にしたところでそれは同じ。
だが、そんな印象の全てを押し流してしまうほどに「ボロイ」のだ。

普通なら、そんな敷地から断末魔の絶叫など響けば如何に早朝といえど騒然となるだろう。
しかし、この住宅街でそれはない。むしろ、耳を澄ませば各家庭からはこんな声が聞こえてくる。

「……ん、もう朝か?」
「いやぁ、毎朝これを聞かないと起きた気がしませんな」
「ハハハハ、今日も天気だ! 笑顔がこぼれる!」

うむ、どうやら彼らにとってこれは毎朝恒例の事らしい。
今更断末魔の叫び程度では、彼らの心にさざ波一つ立たないのだった。
一部、色々とこんなところにいては不味そうなお人がいる気もするが……。

だが、それも当然だ。何しろここは『梁山泊』。
スポーツ化した現代武術に馴染めない豪傑や、武術を極めてしまった達人が共同生活を送る場所。
一般人達はそんな事情を知る由もないが、それでもそんな場所の近くに住んでいれば自然と神経は図太くなる。
実際、この地区の郵便配達員は刀を背負った女や、2mを超す褐色の巨人を目の当たりにしても微動だにしない。
特に、ここ数年はその傾向が顕著だ。なぜなら……

「叫んでる暇があれば走りたまえ!! 投げられ地蔵を五体追加と三十分延長だ!!」
「死ね――――!! 起きねぇならいっそ死ねぇ―――――!!!」
「遅い!! 千回死んだね!!」
「あ”あ”あ”あ”あ”あ”!! いっそ殺せ―――――――――!!??」
「ホッホッホ、安心せい兼ちゃん。人間……………そう簡単には死なん!!」
「なんのフォローにもなってませんわ、おじい様!!」

と、こんな具合で梁山泊の豪傑達が総出で弟子を育成しているためだ。
しかし、なにぶんこの弟子『白浜兼一』には才能がない。全く、微塵も、欠片もないのだ。
それこそ「常人の数倍の努力をし、命懸けという諸刃の剣を使わねば一定の水準を越えられない」とまで言われるほどに才能に乏しい。何しろ「才能がまるでない事、それが君の弱点だ」とまで言われる始末。

そのため、必然的にその修業内容は殺人的な物になる。
それは梁山泊に入門して数年を経た今でも変わらない。
それ故に、地域住民の方々にとって白浜青年の断末魔の叫びは、最早目覚まし時計と同列となっていた。
とはいえ、それでもやはり殺人的な修行であるからには、時にはこんなこともある。

「いやばだば…どぅ―――!! アパ? どしたよ兼一。何で避けないよ? 避けないととても痛いよ」
「アパチャイ、兼一の口から何かでて…る」
「キャ――――――――!! 兼一さ――――――――――ん!?」
「アパ――――――――――!! 兼一、死んじゃダメよ――――――――!!」
「ったく、またかよ。今週に入って五度目だぞ。
おい、アパチャイ! やり過ぎて壊すんじゃねぇぞ!」
「アパチャイ、いっぱいいっぱいテッカメンしたよ! 海よりも高く、山よりも深くよ!
 でもつい『死んじゃえパンチ』がでちゃうんだよ!」

伊達に『裏ムエタイ界の死神』とは呼ばれていないと言う事か。
このアパチャイ・ホパチャイという巨人、彼は基本的にテッカメン…もとい「手加減」が大の苦手なのだ。
昔と違い多少は手加減できるようになったとは言え、気を抜くとつい致死性のパンチが出てしまうのはご愛敬(?)だろう。たぶん、きっと……………おそらく。
だが性質の悪い事に、道場の縁側では何やら不穏な気配を惜しげもなくまき散らした相談がなされている。

「ふむ。剣星、今回はこんな治療法を試してみようと思うのだが?」
「そうねぇ~…でも、とりあえずはこの『死人も走りだす秘伝の漢方』で兼ちゃんを起こしてからね」
【連れてって! 僕をどこかに連れてって――――――――!!】
「良かったのう兼ちゃん、これでまだまだ修業できるぞい」
「ん。じゃ、次は僕の…番。兼一、ちゃんとやらないと、真っ二つになるから気をつけ…ろ」
【いやぁ――――――――――――!!】

哀れである。梁山泊に入門して早三年。
今年晴れて大学一年生になったにもかかわらず、兼一は相変わらず死と隣り合わせの修業の日々を送っていた。



とりあえず今日も無事(?)に朝の修業を生き延びた兼一は、片思いの相手である風林寺美羽の料理に舌鼓をうちつつ、普段は呪ってばかりいる神に生きていることの素晴らしさを感謝していた。
だが、そこで兼一は唐突に己が師の一人、『哲学する柔術家』岬越寺秋雨に問いかける。

「あの、岬越寺師匠。僕、ほんっと~~~~に、いつかは達人になれるんですよね」
「ああ、なるよ、いつかはね。あるいは死ぬか」
「ぐ……未だにそのオマケの一言は消えないんですね」

入門してからずっと言われ続けているその一言に、兼一は改めて顔をひきつらせた。
梁山泊において「武とは上り詰めるものではなく落ちるもの」とされる。兼一は「勇気を持って梁山泊という崖に一歩を踏み出した。後はただひたすら、達人の世界に落ちて行くのみ」であり、「例え途中で死ぬ事はあっても習得しない事はない」のだ。
そんな事は百も承知でも、さすがに「達人になるか、あるいは死か」という究極の選択はたまったものではない。
どっぷり頭まで武の世界に浸った兼一だが、その辺の一般的な感性は相変わらずだった。

「確かに君は強くなった。YOMIとの戦いを生き抜き、今や妙手クラスの中でも大分達人寄りだろう」
「で、ですよね!? 初めて会った頃の田中さんほどではないにしても、そこそこ行ってますよね!」
「だが! それでもやはり達人でないのもまた事実!」

喜ぶ兼一を、秋雨は眼から何やら怪光線を放ちつつ諌める。
『武術とは身に着いてきた頃が最も危険』とは、彼ら梁山泊師匠連が口を酸っぱくして言い聞かせている事だ。
とりわけ、兼一は『最も長く不安定で危険』とされる妙手の階層にいる武術家。
万が一の事にならないよう、師匠達としても可愛い弟子が心配で仕方がないのだろう。
無論、滅多なことで口に出しはしないが。

「まあ、まだまだ何かと危ない時期だ、十分用心して生き延びてくれたまえ」
「ま、そういうこった。闇やYOMIとのゴタゴタは片付いたが、まだ何にも終わっちゃいねぇって事よ」
「そうね。そもそも、相変わらず兼ちゃんのは命を狙われてるわけだし、気を抜いちゃいかんね」
「アパパパ! 兼一、昔の人はこう言ったよ。『ダンゴ、ガマ口を出れば全人類皆殺し』よ」
「だぁ―――――――――!! イマイチ意味がわかりませんが、何の救いもないじゃないですか、それ!?」
「アパチャイや、それを言うなら『男子、門口を出れば千人の敵あり』じゃぞ」
「おじい様、千人ではなく七人ですわ」
「そうじゃったかのう?」
「まあ、兼一君なら千人くらいはいるでしょうし、別にかまわんでしょう」
「どういう意味ですか!?」
「ハァ……結局、敵だらけであることには変わりませんのね……」
「人生、そんなも…の」

『人生なんて所詮戦いじゃん』を地でいく梁山泊の豪傑達にとって、兼一のおかれた状況は笑い話にすらならない。実際、長老こと『無敵超人』風林寺隼人など『昔、若気の至りから500人の達人を半殺しにし、戦って戦って戦いぬいたら気付けばジジイになっていた』などと豪語するとんでもないご老人なのだ。
これでは、兼一の状況が軽んじられてしまうのも無理はない。

とはいえ、当の本人はそれで納得できる筈もなし。
結局はそんな自分の環境に、隅っこでメソメソと悲嘆にくれる兼一だった。

まあ、それも無理からぬこと。
何しろ、やっとYOMIから命を狙われる日々から解放されたかと思えば、その頃には兼一はその筋では有名人。
当然、彼を討ち取って名を挙げんとする者は後を絶たない。
故に、結局彼の戦いの日々は一向に終わる気配がないのだった。

「……もう、いいでせう」
「と、とりあえずそろそろ大学に行きましょうか、兼一さん。時間もアレですし」
「確か、二人とも文学部の人文学科だったかね?」
「あ、はい」

修業や決闘と並行しつつの受験勉強は至難を極めたが、兼一は辛うじて、美羽は余裕で大学に合格していた。
彼女ならもっと上のランクも狙えたのだが、なんだかんだで兼一と一緒に行くことにしたらしい。
兼一がヘタレなせいでいまだに交際しているとは言い難い状態だが、徐々に距離は縮まっているのだ。
とはいえ、この先への進展となると、はてさていつになるやらというのが、周囲の者たちの感想なのだが。
特に、結婚とかの話になると巨大な壁があるわけで……。

「アパ? そういえば、ほのかの入学式はいつだったかよ?」
「今日ですよ」
「? そうだった…け?」
「そういえばそうでしたわね。っというか、どうなさったんですの? しぐれさんもアパチャイさんも」
「アパ~、急ぐよしぐれ! 早くしないと始まっちゃうよ!!」
「う…ん」
「え! しぐれさん! アパチャイさん!」
「ちょ、二人とも家を壊さないでくださいまし!! って、行ってしまいましたわ……」

兼一と美羽の二人が止める間もなく、『剣と兵器の申し子』香坂しぐれとアパチャイの二人は風のような速度で彼方へと消えていく。ついでに、障子やら襖やらを突き破りながら。
それを二人は茫然と、他の面々は呆れ気味に見送った。

「あいつら、場所知ってんのか?」
「いや、多分知らないんじゃないかね?」
「ま、腹が減れば戻ってくるじゃろ」
「ですな。一応聞くが兼一君、ほのかちゃんはどこの高校へ?
 万が一にもたどり着くと、あの二人の場合騒ぎになりかねんし、我々でなんとかしたほうがいいかも知れんが」
「ああ、それは大丈夫じゃないでしょうか。
ちょっと離れたところですし、アパチャイさん達が走って行った方とは真逆ですから」
「ですわね。いくらアパチャイさん達でも、さすがに……」

達人の、とりわけ犬並みかそれ以上の嗅覚を誇るアパチャイであれば、もしかするとほのかの匂いを追ってたどり着くかもしれないと懸念する秋雨に、兼一と美羽はそれはないと首を振る。
とはいえ、外見に反して面倒見の良い兄貴気質である『ケンカ100段』の異名を持つ空手家、逆鬼至緒の心配を消し去るには至らなかった。

「けどよ……相手はあの、アパチャイだぞ」
「でも、逆鬼師匠。いくらアパチャイさんとしぐれさんでも、長時間音速は超えられないでしょ?」
「まあ、そりゃあな。俺でも突きとか蹴りで一瞬超えるのがせいぜいだしよ」
「ええ。で、もうはじまってるんですよ、入学式」
「……なるほど、確かにそれならさすがに心配いらんね。
 ん? どうしたね、逆鬼どん」
「なんでもねぇよ! 暇だから、パチンコ屋にでも行ってくらぁ!」
「こんな早い時間にかね?」
「うっせぇよ! たまには店の前で待とうと思っただけだ!
 別に、アパチャイ達を探しに行くんじゃねぇからな!!」
(((((相変わらず、驚くほど嘘が下手だなぁ【じゃのう・ですわ・ね】)))))
「あんだよ、その眼は!?」

何やら微笑ましいものでも見る目で自分を見つめる複数の視線に、逆鬼は耳を真っ赤にして怒鳴った。
泣く子はさらに泣きそうなほどに厳つい逆鬼だが、こういう時はいっそ可愛らしくすらある。

その視線の意味を逆鬼も理解しているのだろう。
『ちっ』と軽く舌打ちしつつ、そのまま梁山泊を離れる。
そうして大方の予想通り、その体躯からは想像できないとてつもないスピードでアパチャイ達が進んで行った方向へ猛スピードで駆けて行く。

「やれやれ、逆鬼どんもあれで結構苦労性ね。
 で、兼ちゃん。ほのかちゃんはどこの高校に行ったね? 住所とか、女の子の数とか詳しく教えるね。
 これは師父としての命令ね!」

かなりヤバい目で「ハァハァ」と吐息を吐きながら兼一に詰め寄る、『あらゆる中国拳法の達人』こと『エロ師匠』馬剣星。その姿は、はっきり言ってどう見ても危ない人である。
当然、詰め寄られている兼一はドン引きし、傍で見ている美羽もまた視線が急速に冷たくなっていく。
とはいえ、二人に剣星を追い払う事などできる筈もなし(物理的な意味で)。
結局は、いつものように長老が目にも映らぬ早業で剣星の襟首を掴んで兼一から引き剥がした。

「やめんか剣星」
「馬師父……」
「馬さん、最低ですわ……」
「ぢゅ~」

剣星が何を考えていたのか、それはもう手に取るように分かる兼一と美羽は、あからさまな軽蔑の眼を向ける。
それどころか、いつの間にか兼一の肩にいたネズミの闘忠丸にまで首を振って呆れられる始末。
それに対し、剣星は心の底から猛抗議した。

「あ!? なんね、その眼は! さてはおいちゃんがふしだらな事を考えていたと思ってるね!!」
「さてはも何も、あからさまに考えてたんでしょ、師父」
「馬さんがああいう目をしている時は、必ず碌でもない事を考えている時ですわ」
「やれやれ、君も進歩せんな剣星」
「ガ―――――――――――ン!! しょ、ショックね。美羽も秋雨どんも、それどころか兼ちゃんまでおいちゃんの事をそんな目で見てたのかね……!!」
「そんな目も何も、普段の行動の正当な評価じゃろうが」
「いや、全くですな。剣星、君は少し自分自身について思索を巡らせるべきではないかね?」
「何を言うね! おいちゃんはいたってまじめに! いついかなる時も年中無休で! 心から真剣に自分と向き合い、先の事を考えてるね!!」

もうこれでもかと、後ろ暗いことなんて全くありませんて胸を張る剣星。
だが、ここは梁山泊。剣星の理解者には事欠かない。
つまり何が言いたいかというと、誰ひとりとしてその言葉を信じちゃいないのである。

「エロい事を、ですよね、師父」
「ぎくぅ!?」
「そういえば、昔言ってましたわね。『カメラのシャッターを切る時は死ぬほど真剣だ』って」
「うぐ!?」
「師父。僕、性犯罪者の師父は持ちたくないです」
「はぅ!?」
「馬さん、ほどほどにしてくださいまし。どこまで梁山泊と中国拳法の品位を下げるおつもりですの?
 いい加減にしてくださらないと、蓮華ちゃんと大陸の奥様に言いつけますわよ」
「あ! ず、ずるいね美羽! 蓮華とママに言いつけるなんて卑怯ね!!」

などと抗議しつつも、電話を構える美羽を見て一目散に逃げ出す剣星。
この数年で、すっかり美羽も剣星のあしらい方を心得たようだ。
その後、変質者(剣星)が退散した事を入念に確認した上で、再度長老は二人にほのかについて尋ねる。
ちなみに、ほのかとは兼一の妹「白浜ほのか」の事であり、彼女も今年晴れて高校生となったのだ。実に今更だが、注釈を入れるタイミングがなかったのだ!!
まあ、それはともかく……

「で、結局どこの高校に行ったのかの?」
「はい、三つ隣の海鳴市の……」
「私立風芽丘学園ですわ」



BATTLE 1「合縁奇縁」



梁山泊で先の様なやり取りが行われる少々前。
件の『海鳴市』藤見町の住宅街に居を構える『高町家』。
梁山泊と違って「ボロイ」といった印象のない綺麗な白壁の向こうから、鈴を鳴らすような年若い少女が誰かを呼ぶ声が響いていた。

「もう、恭ちゃーん! 早くしないと遅刻しちゃうよ~!!」
「そうだよ、恭也。もう車も出してあるんだから、急いで急いで!」
「む。いや、俺の事は良いから先に行け」

二人の少女に急かされるのは高町家長男の「高町恭也」だ。
もう時間もないと言うのに、その声には不必要なまでの落ち着きと余裕が満ちている。
なんだってまた、彼はこんな切迫した時にこうもゆったりのんびりしているのか。
そう疑問に思ったのは、何もさっきから恭也を急かしている二人だけでなく、恭也の母親も同じだった。

「時間、もうそんなにないんでしょ。何か探し物? よっぽど重要な物じゃないなら、今日は諦めたら?」
「いや、どうせ今日は始業式だけだし…………俺はサボろうかと」
「新学期早々のサボりなんて許さないわよ!!」

同時に、『スパーン!!』と恭也の後頭部を何かがはたく。
振り返った恭也の眼に移ったのは、仁王立ちする母「高町桃子」とその手に握られたスリッパ。
どうやら、関西人の血に素直に従い華麗なツッコミを入れたらしい。

本来、達人…というほどではないにしろ、一般的に見ればとてつもなく高度なレベルの剣術を身につけている恭也に、そんな不意打ちは当たらない。そもそも、背後に立たれる前にその存在に気付くだろう。
もし万が一にも後頭部にツッコミを入れられたりすれば、如何に恭也と言えで驚愕する筈だ。
だが、今の恭也にそんな様子はなく、いたって平然としている。
恐らく、桃子が後ろに立っている事も、スリッパでツッコミを入れようとしている事も、全てわかった上であえて受けたのだろう。
桃子自身、恭也があまりにも簡単に後頭部をはたかせたことから、そのことは承知しているらしく、特に驚いた様子は見せない。

「ほら! くつろいでないで、さっさと荷物を持って車に向かう、良いわね!」
「む…………了解」

有無を言わせぬ迫力を醸し出す母に、恭也も大人しく従う。
本人としては別に始業式くらいサボってもいいと思っているのだが、さすがに「一家の要」には逆らえない。

「あ、やっと出てきた。もう、遅いよ恭ちゃん! 今日は私入学式なんだから、遅刻なんてできないんだよ!」
「だから、俺の事は気にするなと……」
「恭也。折角の美由希の晴れ舞台なんだから、恭也もいなくちゃダメだよ」

玄関から出てきた恭也に向かって、二人の少女が詰め寄る。
『む~っ』と頬を膨らませているのは、眼鏡をかけ三つ編みをした恭也の妹「高町美由希」。
やんわりと恭也をたしなめるのは、二人の幼馴染である英国人「フィアッセ・クリステラ」だ。
そんな二人に対して、恭也はいたってぶっきらぼうに答える。

「いや、そんな大仰なものでもないだろ。たかが入学式で……」
「あ~~!! ちょっとかーさん、恭ちゃんこんなこと言ってるよ!」
「もう! さっきも美由希の制服姿を見て『馬子にも衣装』何て言うし、本当に意地悪なお兄ちゃんね」
「ホントだよ! 恭ちゃんには可愛い妹への愛が足りないよ、愛が!!」
「自画自賛か? 恥じかしげもなく、よくそんな事が言えるな、お前は。
 そもそも、母親に言いつけるなんて、お前は小学生か? なのはでもそんな事はしないぞ」
「だって、恭ちゃんにはフィアッセとかかーさんとか、後なのはとかの言葉の方が効くんだもん」
「余計な御世話だ」

恭也の冷静なツッコミに、美由希はあからさまに不貞腐れる。
どうも、自分が一家の中でぞんざいに扱われている気がしているようだ。
ちなみに「なのは」というのは、高町家の末っ子で小学生の「高町なのは」の事である。
現在はすでに私立小学校に登校済みなので、この場にはいない。

「恭也、美由希。もうホントに時間がないよ。早くしないと」
「あ、うん!」
「やれやれ、慌ただしいな」
「恭也が言う事じゃないでしょうが」

他人事のようにふるまう恭也にツッコミを入れつつ、一同は大急ぎでフィアッセ所有の車に乗り込んでいく。
そうして、模範的な安全運転でありながら、可能な限り大急ぎかつ裏道を利用したショートカットを多用してフィアッセは車を走らせる。
その間、桃子はなのはから教わったビデオの使い方をおさらいし、恭也は居眠り、美由希は落ち着かなそうに身体をユラユラさせながら窓の風景を心配そうに見つめていた。



そうして始業のチャイムが鳴る直前、私立風芽丘学園の校門の前に一台の車が停車した。
降りてきた乗員は開口一番……

「あ~、ギリギリセーフね!」
「あ、危なかった……」
「……………なんとかなるもんだな。てっきり遅刻は確定だと思ったんだが」
「「誰のせいだと思ってるの!!」」
「む…………」

嬉しさを露わにする母と妹に、両サイドから突っ込みを入れられる恭也。
まあ、不謹慎な事を言った当然の報いというべきだろう。

「ダメだよ、恭也。こういう時くらい素直に『よかったね』とか『おめでとう』って言ってあげないと」
「いや、フィアッセ。それだと俺がひねくれ者のように聞こえるんだが」
「ひねくれてるって言うよりは、照れ屋なんだよね、恭也は」
「ふ~んだ、妹の晴れ姿に『馬子にも衣装』何て言う恭ちゃんなんて、ひねくれ者で十分ですよ~だ」
「ホント、一体誰に似たのかしらね?」
「あとで、ちゃんとレンと一緒に褒めてあげなきゃダメだよ。
 恭也の優しさってちょっと分かりにくいし、美由希に愛想尽かされちゃうよ?」

フィアッセなどは呆れ含んだ笑顔で優しく穏やかにたしなめ、美由希や桃子はもう少しばかり険がある。
だが形は違えど、美人三人に寄ってたかって注意されてもなお、どうやら恭也には一向に反省の色はないらしい。
何しろ、ここまで言われて出てくる言葉がこれである。

「わかった、前言は撤回する」
「へぇ……うんうん、恭ちゃんもたまには素直に私をほめるべきなんだよ」
「ああ、すまなかったな。『馬子にも衣装』ではなく、『鬼瓦にも化粧』だ」
「うんうん……って、どっちも意味合い的には同じだからね!!??
 むしろ、響き的にはより一層酷くなってるよ!?」
「はぁ…………本当に素直にじゃないわよねぇ……どこかで教育を間違ったかしら?」
「恭也…………………照れ屋にもほどがあるよ」

怒り心頭の美由希、溜息をついて自分の教育方針に悩む桃子、呆れてものも言えないフィアッセ。
まだ登校してくる生徒もいる中でする様な事ではなくなりつつあるが、誰もそれを気にはしない。
良くも悪くも、この家の住人及び関係者は神経が図太いのだ。
そして恭也は、頬を膨らませて猛抗議する美由希をさらっと無視して、残る二人にコメントする。

「ほっといてくれ。教育とか環境じゃなく、純粋に持って生まれた性格だ」

それがより一層美由希を怒らせる事になるのだが、どこかその仕草は子どもっぽく、どうにも迫力に欠ける。
とそこへ、遠方より何か音が聞こえてくる。

「                  」

距離があり、常人の耳にはその音は届かない。
当然、桃子やフィアッセはその音には気付かず、怒り心頭の美由希も気づかなかった。
だが、恭也だけは当然のようにそれに気付き、半歩身を横にずらす。
そうしているうちに、その音……いや、人の声はだんだんと明瞭になっていく。

「じょ~~~~~、ち~~~こ~~~く~~~~~す~~~る~~~~!!!」

なんとも、「愉快」としか表現のしようのない叫び声だ。
声の主は、坂の上にある風芽丘の校門に向かって、あらんかぎりの力を振り絞って全力疾走してくる。
しかしまだ若干距離があるせいか、それとも特に敵意や殺気の類もない為か、美由希は一向に気付く様子もなく一方的にまくしたてていた。

「大体、恭ちゃんはもっと私の事を大切扱わなきゃいけないんだよ! 
私は見ての通り、か弱い女の子なんだから!」
「お前がか弱いかどうかはともかくとして、独り言はそろそろにした方がいいぞ。
それだと、色々危ない人に見えん事もない」
「ん? まだ私の話は終わってないよ! 謝ったって許さないんだから!」
「別に許してもらわなくてもいいんだが……というか、お前も人の話を聞いちゃいないな」
「恭也が言えるの?」
「さっきから美由希の話、全然聞いてなかったわよね」

傍で二人のやり取りを見ていたフィアッセと桃子は、小声でツッコミを入れる。
だが、そんな年長者二人の諫言に恭也は丁重に聞こえない振りを通す。
しかしそうしているうちに、愉快な声はさらに近づいてきていた。

「諦めたらそこでデッドエンド! 最後まであきらめないのが肝心だって、髭の人も言ってたじょ!」
「こんな事を言わなきゃならないのは、実に情けないんだが……」
「うぅぅぅう~、昨日ドキドキして眠れなかったのが響いたかなぁ?
でも、入学初日から遅刻なんてお兄ちゃんでもやらなかったし、それはいくらなんでも恥ずかし過ぎるじょ!」
「だから、恭ちゃんは何が言いたいの? 今は私が話してるんだよ!」
「いい加減、避けるなり何なりの準備をした方がいいと思うぞ。
どうやら、あちらはブレーキの壊れた暴走列車みたいだしな」

そう。よく見れば、声の主はそれこそ脇目も振らず………どころか、ろくに前だって見ちゃいない。
当然、そんな風に前方不注意の理想的な見本のように走っていれば……

「へ?」
「じょ?」
「きゃああああああぁぁぁああぁぁぁあぁぁぁぁぁあぁぁぁぁっぁぁぁっぁぁぁぁあぁぁぁぁ!!!!!」
「じょおおおおおおおおおぉぉぉぉおぉぉぉぉぉぉぉおっぉおぉぉぉおぉおぉぉおぉぉぉぉぉ!!!!!」

遅かれ早かれ、誰か、ないし何かにぶつかるのは必然だった。
今回人にぶつかったのは、はて不幸だったのか、それとも不幸中の幸いだったのか。
どちらかといえば、まだ不幸中の幸いと言えるだろう。

「ちょ、美由希、大丈夫なの!?」
「美由希、怪我はない?」
「心配するなフィアッセ、この程度で怪我をする様なやわな鍛え方はしちゃいない」
「でも……」
「そもそも、ここまで全く気付かなかったなんて、御神の剣士として落第だ」
「恭也は厳し過ぎだよぁ」
「他の何かだったらそうかもしれないが、これに関しては足りないくらいだ」

とは言いつつも、横目では美由希が怪我をしていないか手早くチェックしていく恭也。
この程度で怪我はしないと分かっていても、万が一を考える事は忘れない。
言葉にこそしないが、恭也は極力美由希が無用な怪我や疲労をしないように細心の注意を払っているのだ。

だが、そんな一抹の心配も杞憂だったようで、美由希は突撃してきた人物を寸での所で抱きとめ、一緒に転びながら上手く受け身を取っていた。
そのおかげもあり、美由希だけでなく突撃してきた人物にも外傷は見られない。

(ま、双方ともに怪我がないなら何よりか。美由希に関しては、後で説教が必要だが)
「あいたたた……び、びっくりしたぁ~……」
「じょ~……ほのか、一生の不覚。こんなことなら、なっつんかアパチャイに送ってもらえば良かったじょ」
「えっと、大丈夫ですか?」
「あ!? ご、ごめんなさい! 怪我してませんか!」
「あ、はい。怪我は…………特に」

腕の中にいる人物の問いに対し、一瞬のうちに全身をチェックして答える美由希。
その言葉に安心したのか、その人物の体から緊張の強張りが消えるのを美由希は感じ取っていた。
本当に、心の底から「ホッ」としたのだろう。

「えっと……………本当にごめんなさい! 急いでて……って言い訳してどうなるじょ、私!」
「あ、いえ。本当に大丈夫ですから、お気になさらず」
「まあ、どっちも怪我はない様だし、フィアッセはもう行った方がいいんじゃないか?」
「そうね。ごめんね、フィアッセ。悪いんだけど店長代理、お願い」
「……………Yes。がんばります」

少し心配そうな様子で迷ったフィアッセだったが、そのまま車に乗り込む。
そうして、開けた窓から顔を出して美由希に声をかける。

「美由希」
「ん? どうしたの、フィアッセ」
「友達、沢山出来るといいね」
「え? あ………うん。そう、だね。もし、本当に、もしも出来たら……その時は、紹介するよ」
「楽しみにしてる。美由希はいい子だから、きっと素敵な友達が、沢山できるよ」
「だと、良いかな……」

フィアッセの言葉に、美由希はどこかさびしげに笑って答える。
過去に色々あった事もあり、どうも美由希は友人関係に臆病なところがあった。
幼馴染であるそんな少女の事を、ずっとフィアッセは心配しているのだ。
無論、それは何も美由希の事だけではない。

「恭也も、たまには勇吾以外の友達も連れてきてよね」
「…………善処する」
「それと、居眠りはほどほどに」
「前向きに…検討してみることもやぶさかではない」
「ホントにもう……じゃ、またね。恭也、美由希」
「あ、うん、ありがとー」
「助かった」

フィアッセは二人の礼に満面の笑顔で応じ、軽いエンジン音と共にその場を後にする。
残ったのは、地べたに座り込む美由希とそれに抱えられた人物、そしてその近くに立つ恭也と桃子だけとなった。
気付けば、いつの間にか登校して来る生徒はいなくなっている。

「で、いつまでそうしているつもりだ、美由希」
「むぅ、手を差し出すくらいしてくれても罰は当たらないのに」
「罰は当たらないが、何かが減る」
「うわぁ、ホントに愛が足りないよ、恭ちゃん」

などと文句を言いつつ、のそのそと美由希は立ち上がる。
必然的に、美由希に抱えられた人物も立ち上がる事となった。
そこでようやく、美由希は自分が抱えている人物の正確な風貌を知る事となる。

(うわ、ちっちゃい……さすがに、レンほどじゃないけど。それでも……)

そう、美由希が抱えていたのは、彼女に比べればだいぶ小さい少女。
下手をすれば、まだ小学生でも通じてしまうかもしれないほどに小柄なのだ。
その顔だちも幼さが残る……というよりも、実際問題としてだいぶ幼い印象を受ける。
当然、抱きかかえている間に分かった事だが、身体の凹凸もあまりない。

しかし、別にそんなことに驚いたわけではない。
いや、確かにそれらの事も含めて驚いてはいたのだが……。
正確には、それらの外見的情報と彼女の来てい服装のチグハグさに驚いたのだ。

「えっと、そのリボンの色、もしかして……」
「じょ? そういえば、あなたも同じ色だじょ」

そう、風芽丘は学年ごとにリボンやネクタイの色が決まっている。
故にそれが意味する事は、二人は同じ風芽丘の新入生という事だ。

(うわぁ、こんなにちっちゃいのに私と同い年なんだぁ……飛び級とかじゃないよね?)
(む、あの眼は『こんなにちっちゃいのに』とか思ってる眼だじょ。ほのかにはわかるじょ)

密かに自分のルックスや身長、あるいはプロポーションやら童顔やらがコンプレックスのほのかは敏感に美由希の思考を察知する。兄に似て、眼から相手の心でも読めるのだろうか?
とそこで、ちょうどちょうどいい(?)タイミングで予鈴が鳴り響いた。

「って、もうこんな時間!?」
「ヤバいじょ! 早くしないと……」
「「遅刻だぁ~~~~~!!!」

二人揃って、ムンクの叫びの様に頬に手を当てて絶叫する。
だが、そんな事をしている暇があればまず動く事が先決だ。

「いいから、さっさと行け。もしかしたら、まだ間に合うかもしれん。君もな」
「あ、うん! ごめんかーさん、先に行ってるね」
「いいから、早く行きなさいって! あなたも、今度はぶつからないようにね」
「は、はい!」
「えっと…………」
「自己紹介は後にするじょ!」
「そ、そうだね、急ごう!」
「合点だ!」

そんなやり取りをしつつ、二人は大急ぎで校舎へと駆けて行く。
校門に残ったのは、やや取り残された感のある桃子と恭也だけとなった。
そこで、あまりにも慌ただしい妹に対し、思わず恭也の口からため息が漏れる。

「やれやれ、もう少し落ち着いていられないのか、アイツは?」
「そうねぇ…………って、恭也も急ぐ! アンタも遅刻でしょうが!」
「もう手遅れだよ、急いでも変わらない」
「四の五の言ってないで急ぎなさい! 手遅れだとしても、一分と五分じゃ大違いなんだから!」

尻を蹴飛ばされるようにしながら、恭也は校舎へと向けてそれなりに急いで走りだす。
その途中、「落ち着きがないのは俺も同じか」などと自嘲しながら。

後に考えれば、この出会いこそが「御神の剣士」と「史上最強の弟子」、ひいては「梁山泊」や「新白連合」との間に、奇妙な縁が結ばれた瞬間だったのだろう。



あとがき

というわけで、ちっとばかし成長したほのか嬢に美由希と同じ学校の学年として在籍してもらう事にしました。
出会い方は……まあ、一応お約束、なのかな?
ぶつかる相手を間違ってる気もしますが、ほのかにはなっつんがいますしね(笑)。

一応双方がかかわりを持つ部分にはいくつか案があり、裏社会科見学関係だったり、今は亡き高町士郎が梁山泊の面々と知り合いだったり、ほのかは中学生のまま海中に入学した事にして、そこでレンや晶と出会うと言うのも考えなかったわけじゃないんですよ。
ただ、裏社会科見学だとどうにも話が短くなりそうですし、日常パートがあんまり、ね?
士郎が梁山泊と知り合いというのはあまり無理がない方だったのですが、こっちの方がやりやすいし、おもしろそうだったんですよ。
海中に入学というのも、一般中流家庭っぽい白浜家が中学の段階で私立校に入れると言うのも若干違和感があり、入れるにしてもあまり遠くには通わせないでしょう。となるとかなりの近場になるのですが、それだと恭也達が兼一やラグナレクの事を全く知らないと言うわけにもいきませんし、後々の展開が苦しそうなので却下しました。
やはり、一番融通がききそうなのが、少し離れた高校に通う事になったというパターンなんですよね。
ある程度離れていればラグナレクの事は知らないでしょうし、高町家は士郎が死んでからは武術界とのつながりが薄くなってもおかしくありませんから、兼一の存在を知らなくても不思議はありせん、たぶん。
私的には、この設定が一番書きやすそうだったわけですね。



[24054] BATTLE 2「剣士の葛藤」
Name: やみなべ◆d3754cce ID:1963cf14
Date: 2010/11/15 00:10

朝から衝突事故を起こしながらも、なんとかギリギリで入学式が始まる前に教室に駆け込むことに成功したほのかと美由希の二人。
どうやら、奇しくも二人は同じ1年A組らしい。
だが、互いに自己紹介はおろか、挨拶する間もなく二人は深く深く頭を垂れて平謝りしている

無理もない。何しろ、すでに教師は教室に入っていたのだ。
担任が新入生たちに祝いの言葉やらなんやらをかけている教室に、駆け込み乗車よろしく乱入してきたりすれば、それは怒られて当然というものだろう。
せめて、静かに粛々と反省の色を露わに入っていればまた違ったかもしれないが、全ては後の祭りである。

(はぅ……入学早々赤っ恥を晒しちゃったよぉ~……)
(じょ~、わざわざお兄ちゃんの部屋からガメた「大学館シリーズ 高校でモテモテになる方法」が見事なまでに無駄になったじょ。ゴメン、お兄ちゃん。あの本と一緒に見つけた一万円は、ほのかが有り難く頂戴しました)

二人は入学早々に犯した大失態に内心、穴を掘ってそこに埋まりたい気分だった。
とりあえず、ほのかはその怪しげなハウツー本を即座に捨て、一万円を兄に返すべきだろう。

まあ、それはともかく。
実際、クラスのそこかしこから、二人に対する密やかな笑いの声が聞こえてくる。
これをきっかけに、いつの間にか「風芽丘の凸凹コンビ」なる有り難い呼称を二人は賜り、大抵二人でセット扱いされるようになるのだった。

別段、ほのかはともかく美由希は特別背が高いわけではない。
だが、如何せんほのかの背が低すぎる為、二人並ぶとその凸凹ぶりが目立ってしまう。
まあ、どこかで波長というか反りというか、そういうのが逢ったからこそ、しょっちゅう二人一緒にいるようになったのが最たる理由なのだが。
無論、この時の二人はそんな事を知る由もない。

(うぬぬ…せめてお父さんに車を出してもらうべきだったかもしれないじょ…)

後悔先に立たずとはよく言った物で、ほのかは今朝家を出る前の事を思い出して嘆息する。
こんなことならば、母に無理を言ってでも父を解き放つべきだったと心底思うほのかだった。


それは、白浜家では割とよくある日常風景。
朝からゴルゴ眉が特徴的なダンディな中年男性である父と、その娘くらいに見える外見年齢の女性である母が、何やら口論していると言う極々見慣れた風景。

それだけなら大したことはないのだが、そこには一つ大問題があった。
いや、この家では対して珍しくもないのだが、それでもだ。
そう、本来なら出張して家を空けていた筈の父が、なぜか家に帰ってきていたのだから。

「あ、あなた!? 出張はどうしたの! 一週間はアフリカから帰れなかった筈じゃ!
 確かに、薬を盛って何某さんに預けた筈なのに……」
「ハハハ、何を言っているのかね、母さん。そんな物、当の昔に終わらせてきたともさ」
「もしもし、何某さんですか?」
「あ、母さん、何をするつもりだ!」

突如国際電話をかける母と、それをなんとか止めようとする父。
ほのかや兼一などからすれば、「またやってるぅ」「今日も仲いいなぁ」位にしか思わないくらいいつもの光景だ。
ただし、もし会話の内容を一般人が聞けば決してそんな二人に共感する事はないだろうが。

「商談の方は…いえ、白浜は…………ああ、やっぱり。あ~な~た~!」
「ちっ! 何某の奴、一度ならず二度までも……こうなれば、平壌に左遷してくれる!」
「あなた、また大事な商談をすっぽかしてきたそうね……」

ゴゴゴというような擬音が聞こえてきそうなほどの怒りのオーラを放ちつつ、白浜家の母「さおり」が詰問する。
しかし、そんなものどこ吹く風といった様子で父「元次」は一向に気にした素振りを見せない

「全く何を言っているんだ、母さん。会社など、所詮家族のためにやむなく忠誠を誓っているにすぎんよ。
 入学式といえば、家族の一大事。これより優先される事など、この世には存在せん!!」
「いいから、今すぐにアフリカに戻ってください! ここはあなたのいる所じゃありません!
 ほのかの入学式は、私がちゃんと使い捨てカメラから一眼レフ、八ミリビデオからデジタルまで、あらゆる機材を使って記録しますから、それでいいでしょう!?」
「ええい、止めるな母さん! 所詮記録は記録、ライブには到底及ばんとなぜわからん!
 折角のほのかの晴れ舞台、父として、一家の大黒柱として、私は何としても列席しなければならんのだぁ!!」

家族愛の権化のような、というかまさしく権化であるが故に暴走する父。それを何とか取り押さえようとする母。
だがそこへ、黒服の男たちが乱暴に玄関を開けはなって現れた。

「む! な、何だお前達は!? 我が家に土足で踏み行って、ただで済むと思うなよ!
 いでよ、マクシミリア――――――ン!! ア―――――ンド、ル――――――――ドビッヒィ!!」

と、懐から二丁の猟銃を取りだし構える父。
かつて「剣と兵器の申し子」香坂しぐれをして「できる」と言わしめるほどの腕を元次は持っているのである。
ちなみに、土足などと言っているが、入ってきた黒服達はちゃんと靴を脱いでいるのであしからず。

「いい加減にしなさい!!!」
「ごぶっ!?」

どこからか取り出した重厚な土鍋で以て、夫の頭を殴る妻。
結果、土鍋は粉砕し、元次もまた地に沈んだ。念のために言うが、人間の頭蓋は土鍋より薄い事を明記する。

まあ、それはともかく。
意識を失い後頭部に巨大なたんこぶを作った夫を、さおりは二人羽織の要領で操る。
そうして、押し入ってきた黒服達に力を失った夫の体を引き渡す。

「夫がご迷惑をおかけしました」
「いえ、ご協力に感謝します。総員に通達、部長を確保した。
 これより、チャーターした超音速機を以て、アフリカに移送する。各自持ち場につけ!」
『了解!』
「本当に、重ね重ね申し訳ありません」
「いえ、此度の商談は社運をかけた一大プロジェクト。部長の力なしには成り立ちません。
 その部長を確保していただいたのです、心から感謝しておりますとも。
ですが、残念ながら時間がありませんので、改めてお礼に伺います。それでは!!」

妙にキビキビした動きで元次を連行する黒服達。
さおりやほのかは知らないが、この中には国家認定を受けた忍者が数名いたとかいないとか。
この会社は、どれだけ元次の事を買っているのやら。


などといった朝の慌ただしい風景を思い出しつつ、入学式の会場に移動するまでの間、ほのかと美由希はこれから一年を共にする級友たちの前で、こってりと絞られることになるのだった。



BATTLE 2「剣士の葛藤」



とりあえずは入学式もつつがなく終わり、クラスごとのホームルームも終わった頃。
ようやくほのかと美由希は、互いに自己紹介をする事が出来た。

「えっと……ホームルームで一応自己紹介はしたから今さらかもしれないけど、高町美由希です。よろしく」
「うぅ、朝は大変失礼しました。白浜ほのかです」
「あ、あはは…き、気にしないで、お互い怪我がなかったんだし……」

明らかに意気消沈しているほのかを、なんとか元気づけようと美由希は笑いかける。
互いに兄を、それも武に生きる兄を持つ者同士のシンパシーなのか、二人の間には早々に和やかな雰囲気が醸し出されていた。

そうして二・三言葉を交わすうちに、段々と他人行儀さもなくなっていく。
何しろ、元々馴れ馴れしさには定評のある白浜家の娘である。
人間不信だった谷本夏と無理矢理親しくなったほのかが、いつまでも大人しくしている方がおかしい。
当然、やがてほのかの方も口調にそれまであった遠慮がなくなっていった。

「ほおほお、みゆきちは本が好きなんだぁ。どんな本読むの?」
「う~ん、特にこれっていう縛りはないかな。でも強いて言うなら、歴史小説とかが多いけど。ほのかは?」
「あはは、私はもっぱら漫画だじょ」
「いいねぇ、私も漫画はよく読むよ。草薙まゆこ先生なんて好きかなぁ」
「お、ほのかもあの人のは全部持ってるじょ」

いつの間にやらほのかは美由希を愛称で、美由希もほのかを呼び捨てで呼ぶようになっている。
それだけ、馬があったのだろう。

ほのかにしても、兄である兼一が子どもの頃はひたすら本を読んでいた事もあり、本が身近にあるのが当たり前になっている。ほのか自身は割とアウトドア派ではあるが、たまには兼一から本を借りたりもしていた。
おかげで、美由希の趣味にもそれなりに話があわせられている。

「あとは、そうだなぁ……園芸とかも好きだよ。家に花壇があってね、よく世話してるんだ」
(ますますお兄ちゃんと話が合いそうだじょ)

美由希と話をしつつ、ほのかはそんな事を思う。
読書と園芸が趣味、それはもろに彼女の兄である兼一と同じなのだ。
ついでに言えば、ほのかは知らない事だが二人とも武に生きる者同士。
兼一と美由希、この二人は意外と似たような部分が多いのだ。
それも、ほのかが美由希に対して通常以上に親しみを覚える理由かもしれない。
とそこで、美由希は廊下の先に見知った人影を発見する。

「あ、恭ちゃん」
「……ああ、美由希か」

美由希が声をかけると、人影は振り向き美由希の姿を見て頷く。
互いにゆっくりと歩み寄りながら、ほのかはこっそりと美由希に問いかける。

「? みゆきち、この人は誰だじょ?」
「ああ、えっと……私の兄の」
「美由希の兄の恭也だ。そういう君は、確か今朝の」
「ぁっ……」

自己紹介を続けるうちに、ようやくほのかも恭也の事を思い出す。
朝の事はあわてていて実は細部は憶えていなかったのだが、少しくらいは印象に残っていたらしい。
とはいえ、さすがにそれを表に出すのはバツが悪いのか、ほのかは曖昧に笑ってごまかしている。

「あ、あははは、今朝はどうも……」
「「?」」

しかし、ほのかがなんで笑っているのかよくわからない二人は、互いに内心で首をかしげる。
そこで、ふっと思いついたように美由希は恭也に問う。

「あ、でも学校で『恭ちゃん』は不味いかな?」
「まあ、やや恥ずかしい気もするな」
「う~…じゃあ、やめよっか? 何て呼ぼう、お兄ちゃん? それとも、高町先輩?」
「……どうもしっくりこないな。美由希がお兄ちゃんなんて呼んでいたのは、小学校低学年までだし」
「うん、私もちょっと恥ずかしいかな? 名字で呼ぶのも、ねぇ?」

同じ姓の兄を名字で呼ぶのも、確かにおかしな気分なのだろう。
では、どう呼ぶのがいいのかと二人は考える。
と、ちょっと二人のやり取りに思うところがあったほのかが口を挟む。

「あ~…もしかして、この年で『お兄ちゃん』とかって呼ぶのって、割と恥ずかしい?」
「え? どうだろう。私はもう何年も呼んでないからちょっと気恥ずかしいけど……」
「俺に話を振るな。世間一般がどうかは知らないが、別に好きに呼べばいいんじゃないか?」

恭也の意見をうかがう様に、その顔を覗き込む美由希。
それに対し恭也は、いたって無愛想かつ朴訥に答えた。
それを美由希は、「まあ、それもそうか」と納得して恭也への問いかけを切り上げる。
そうしてそのまま、新たに降って湧いた疑問をほのかに投げかけた。

「でも、なんでそんなこと聞くの?」
「え? ああ、実はほのかにもお兄ちゃんがいるんだじょ。それでその呼び方が」
「お兄ちゃん、なわけか。でも、実際どうなんだろう?」
「みゆきちはなんで呼び方を変えたんだじょ?」
「え、私? 私は……」

美由希が恭也の呼び方を変えたのは、彼女が家伝の剣術を学び始めた頃だ。
正直、それはあまり一般的なきっかけとは言い難い、と美由希などは思う。
自分とその『剣』が普通ではない、という事を強く意識しているからこそ、強くそう思うのだ。

同時に、美由希にはまだ新しく得たこの小さな友人に全てを打ち明ける事は出来なかった。
身長や幼さを除けば、どこからどう見ても普通人のほのかに、御神流について話す事はためらわれる。
昔、幼い時に状況などは違えどもそれで深く傷ついた経験のある美由希にとっては尚更だ。
故に美由希は、その点をごまかすために珍しく嘘をつく。

「えっと、何だったかな? もう昔の事で、忘れちゃった」
「……………………そう」

正直、あまりうまい嘘とはいえない。
ほのかもそんな美由希の様子には気付いているのだろうが、あえて深くは追求しなかった。
親しき仲にも礼儀あり、というよりは、さすがにいくらなんでもこれを問いただすのは不躾過ぎると思ったのだろう。
図々しさには定評のあるほのかでも、さすがに時と場合、そして相手を選ぶくらいの事はするようになっていた。
そうして二人は、話題を変えつつ再度話に花を咲かせる。

「そういえば、ほのかのお兄さんってどんな人なの?」
「ん~、みゆきちと同じで読書と園芸が趣味だじょ」
「へぇ、そうなんだ。男の人でそれって、結構珍しい……のかな?」
「だから、なんでそこで俺を見る」
「いや、恭ちゃんも一応盆栽いじりが趣味なわけだし、その人とも話が合うかなって……」
「盆栽と園芸は似ていないでもないが、違うだろ。こっちはそっちほど華やかじゃない」
「植物を育てる、っていう意味では同じだけどね。まあ、恭ちゃんを『一般』の括りで考えちゃダメか」
「ノーコメントだ」

そのほのかの兄にしたところで、あまり『一般』という括りには入らなくなっているのだが、そんな事を美由希と恭也が知る筈もない。
とりあえず、美由希はぶっきらぼうな兄を放っておいてほのかとのおしゃべりを楽しもうと口を開きかける。
だがその直前、階段から降りてきた刀袋を担いだ青年から声がかかった。

「お、美由希ちゃん。久しぶり」
「あ、こんにちは!」
「?」
「あ、こちら恭ちゃんの友達の赤星勇吾さん」

再度疑問の表情を浮かべたほのかに、それを察した美由希が勇吾を紹介する。
そうして、その流れのまま勇吾にほのかの事を紹介するべく、美由希は半歩身を引きほのかを前に出す。

「で、こっちが私の同級生の」
「白浜ほのかです。はじめまして」

ぺこり、とほのかは普段の口癖や馴れ馴れしい態度を隠してお辞儀した。
それに対し、勇吾も朗らかに挨拶と祝いの言葉を口にする。
好青年、という言葉が額縁付きで擬人化したなら、ちょうどこんな感じだろうという笑顔と共に。

「ああ、よろしく。それと、入学おめでとう。二人とも、制服かわいいね」
「「あ、ありがとうございます」」
(……何を社交辞令に頬を染めているんだか……)

知り合って間もないほのかの手前、あえて口には出さないが呆れてため息を突く恭也。
勇吾は恭也とベクトルこそ違うが、やはり長身の男前だ。
それなりに美男子に耐性のある二人でも、ここまでどストレートに褒められれば赤くなるのも無理はない。
とそこで、恭也は再度勇吾の手の中にある物を見て確認するように問う。

「……今年も、演武するんだな?」
「ああ、うちの伝統だからな」

風芽丘剣道部は、毎年新入生勧誘で(刃が付いていない模造刀とはいえ)実剣を用いた演武を行うのが伝統だ。
割と珍しい伝統ではあるが、同時に実剣を振り回せるだけの腕の部員がいることも示している。
実際、県内でも有数の強豪である部員達の演武は、なかなかに華麗で見応えがあると評判なのだ。
無論、それはあくまでも表の、それも一般的な範囲の中での話だが。

だが、剣士のはしくれである美由希などからすれば、やはり興味はあるらしい。
そう、近くに武とは無縁そう(だと思っている)なほのかがいる事もつい忘れてしまうくらいには。

「わ、見たいです」
「ああ、是非見て行って。高町や美由希ちゃん、それにほのかちゃんにはちと退屈かもしれないが」
「退屈なんて、そんな……あ、でも……」

『さすがに、ほのかは面白くないよね』と内心で呟く美由希。
勇吾も高町家との付き合いはそれなりであり、美由希が友人作りに臆病な事、彼らの学ぶ剣が一般的なそれとは別種のものである事は承知している。
だからこそ、少し気を使ってこういった言い方をしたのだ。
これなら、美由希が武門の娘である事をごまかしやすくなるだろう。
まあ、それらの配慮や心配も、結局は徒労でしかないのだが……。
その事を彼らが知るのは、もうしばらく後の事。

「あー! 美由希ちゃーん!」
「おーかーえーり―――――――♪」
「あー! レン、晶―――――――!」

そこで、勇吾のさらに背後から二人の少女の声が届く。
声の主に心当たりのある美由希は喜色満面で、心当たりのないほのかはまたも不思議そうな顔で勇吾の後ろを覗き込む。
そこには、二人とはまた別種の制服、さらに色違いのそれをまとった二人の少女が駆けてきていた。

青いスカートと上着に青いラインの入った制服を着るボーイッシュ、というよりも男の子のような風貌の少女が高町家の次女的立場にいる『城島晶』。
同様の制服でありながら、緑のスカートと上着に緑のラインの入った制服を着る小柄さではほのかといい勝負な少女が高町家初代居候の『鳳蓮飛(フォウ・レンフェイ)』こと、愛称『レン』である。
両者ともに、日頃から一つ屋根の下、美由希と義姉妹のように暮らしている少女たちだ。
ただし、美由希との仲はともかく、レンと晶の仲は『犬猿の仲』ならぬ『サルとカメの仲』なのだが。

とりあえず、あまりほのかを放ったらかしにしてもおけないので、美由希は手早く二人の事を紹介する。
同時に、恭也はほのかからは見えないよう二人にサインを送る。

(レン、晶。悪いんだが……)
(わかってます。とりあえず、ほのかさんの前ではそっち関係の話はなしっちゅうことで)
(大丈夫ですって、ポロっと口走ったりなんてしませんから安心してくださいよ、師匠)
(アホか、そうやって『お師匠』とか呼ぶのもあかんちゅうとんねん。所詮おサルはおサルやな)
「あんだと、このカメ!」
「やるか、おサル!」
「あー、入学早々ケンカしないのー」

小声でやり取りをしていた筈が、いつの間にか怒鳴り合いに発展する二人。
まあ、いたっていつもの事なので、美由希も呆れ半分で仲裁に入る。
こういう時、末っ子である意味二人の天敵である『高町なのは』がいると、簡単に場を収められるのだが……。
まあ、いない者はいないのだから仕方がない。

「仲いいじょ~」
「「どこが!?」」
「そういうところがだじょ」
「あ、あははは……ほのか、結構肝が据わってるね」

いがみ合う二人を、ほのかはそれはもう微笑ましい物を見るような眼で見ている。
美由希は肝が据わっていると言うが、ほのかはもっと修羅場な状況に身を置いた事があったりするのだ。
具体的には、梁山泊の豪傑達相手に「誰が一番強いの?」と聞いた時など。
実際問題として、無知とはいえあの面々にそんな事が聞けるだけでもある意味豪傑と言えよう。

「あ、そうそう。恭ちゃん」
「? どうかしたか?」
「あのね、かーさんが今日のお昼は良かったらお店に食べにおいでって」
「ああ、そうなのか?」
「うん! みんなに伝えてって」
「みゆきちのお家はお店をやってるの?」
「あ、うん。商店街で『喫茶翠屋』っていうのをやってるんだけど……」
「じょ!? ほのか、受験の帰りにちょっと寄ったじょ! シュークリームが最高だったじょ!」
「あ、来てくれてたんだ。そうなんだよ、シュークリームはかーさん自慢の一品なんだ♪」

新たに得た友人が家業の事を知ってくれているという事実に、思わず美由希のテンションも上がる。
美由希にとっても、母「桃子」とその店である「翠屋」は自慢のひとつなのだ。
こうして友人からも好評だと、美由希としても我がことのようにうれしくなる。

「そうだな…………良ければ、君も来るか?」
「じょ? いいんですか?」
「構わない。かーさんも美由希の友達って聞けば大喜びだろう」
「むぅ~、とっても残念なのですが、今日は先約がありまして……」
「そっか………それじゃ、仕方ないよね」
「ごめんね。また機会があったら誘ってくれると嬉しいじょ」
「うん、じゃあかーさん達に紹介するのは、その時って事で」

そうして、今日の所は高町家一同とほのかはわかれる事となった。
数日後、翠屋にて盛大な入学祝を兼ねたほのかの歓迎パーティが開かれるのだが、それはまた別のお話。



  *  *  *  *  *



その夜の高町家。
日付はすでに変わり、キッチンには恭也と美由希の二人の姿しかない。
他の家人達は、すでに布団の中で夢の世界の住人となっている。

ただしこの二人だけは、ついさっき爆睡から目覚めてきたところ。
昼夜問わず行われた鍛錬と、11日間の山籠りにより疲れ切った身体は休息と睡眠を求め、夕食もとらずにこの時間まで眠り続けていたのだ。

「恭ちゃんも、爆睡してた?」
「気が付いたら寝てた」
「えへへ、私も気が付いたらベッドの中だった」

それだけ、この11日間に二人が積みあげた鍛錬は濃厚かつ過酷だったのだろう。
常人とは比べ物にならない体力を誇るこの二人が、それだけの疲れ切っていた事実が如実に物語っている。
何しろ食料は持参して行ったので、日々の糧を確保する分の時間を鍛錬にあてたのだ。
それは鍛錬の密度も高くなると言う物。

ましてや、二人が学び研ぎ澄ますのは通常の剣道とは異なる「剣術」。
それも、かなり血生臭い歴史を持つ「御神流」だ。
正式名称は「永全不動八門一派・御神真刀流、小太刀二刀術」という古流武術である。

おおよそ、武術において『古流』とか『古式』などと付く物は、その多くが殺人術としての面を持つ。
古流柔術然り、古式ムエタイ然り、だ。
何しろそれらは、戦乱の時代に開発された戦場での戦闘術なのだから。
太平の時代には滅多に人を殺すわけにもいかない以上、多くの流派が殺人術としての角を削られていく。
敵を殺すことを恥とした柔術や、殺人拳から一国の国技にまで昇華したムエタイがそうであるように。

しかし、御神流はその角を残したまま現代まで連綿と伝承されてきた流派だ。
必然、その技術も在り方も、鍛錬の質までも含んで一般的な武道とは毛色が違いすぎる。

まあ、もし梁山泊の長老がこの場にいれば「食糧を確保する事も含めての山籠りじゃ。自分の食い扶持くらいは自分でなんとかせんとの、武人以前に動物として」などと言われてしまいかねないが。
また、秋雨辺りが彼らの鍛錬メニューを作っていたら、この状態でさらに修業させていた可能性も無きにしも非ずといったところだろう。
なにぶん、無茶をするのが大好きな御仁が梁山泊にはそろい踏みなだけに。

だが、そんな無謀な事をさせたがる達人たちに寄ってたかって鍛えられている凡人がいるなどとは、二人は知る由もないわけで。
とりあえず、何気なく発見した冷蔵庫に貼られているメモに目を通す。

「『今日の晩御飯は鴨麺と、筍ご飯でした。とっといてあるので、食べてくださいね……蓮飛……』か。
 さて、レンに感謝しつつ、有り難く頂戴するとしよう」
「あー、久しぶりのレンの晩ご飯だ……。あっためて食べよっか」
「ああ」

そうして、二人はそれぞれご飯と麺を温め、久しぶりのちゃんとした夕食に舌鼓を打つ。
よほど空腹だったのか、それだけ山籠りの間に食べてたものがつたなかったのか。
いつにもまして凄い勢いで平らげる二人だった。
それこそ、四人前の食事をものの二十分で完食してしまうほどに。

そうして食事を終えた後、美由希は縁側に腰を下ろし恭也は庭に出て空を見上げる。
そのままお互いに、この11日間の事を振り返っていた。
山籠りの余韻からか、どうにも眠気がやってこないらしい。

「血が騒いでるのかな? 11日間、ほとんどずっと打ち合ってたもんね」
「かもしれないな」

美由希の問いに、恭也は素っ気なく返す。
だがその内心では、この山籠りの間の美由希の成長などについて色々と思考を巡らしている。
しかしそこでふっと、恭也は美由希に別の話を振った。

「美由希」
「ん、なに恭ちゃん?」
「どうするつもりなんだ?」
「ん…………どうしたら、いいと思う?」
「それは、俺が答えを出すべき事じゃない」
「それは、そうなんだけど……」

主語を抜いた会話は、余人には何の話かわからないだろう。
だが、二人にはそれで充分だった。

「でも、まだどうしたらいいかなんて決められないよ。だって、今日知り合ったばかりだもん」
「確かにな。だが……」
「うん。いつかは答えを出さなきゃいけない、っていうのはわかってる。
 信じたいとは思うけど、怖いっていうのもあるよ。昔みたいな事になるんじゃないか……って」

それは、今日出会った小さな友人へのスタンスの事。
自分が学び、自分達が進む生き方の事を話すのか否か。
正直、あまり一般的に理解を示されるような生き方ではない事を、美由希も承知している。
無理に話す必要もなく、別段隠していても不都合のある様な類のものでもない事も。
だがそれでも……

「できれば……知ってもらって、理解してもらうとまではいかなくても、受け止めてもらえたらなって思う。
 誰かに理解を求める類の物じゃないってことは、もうずっと前に分かってるし、覚悟もできてる。
 誰にもわかってもらえなくても、自分に誇り高くあればそれでいい。
 でもね、やっぱり『共有できたらな』って思っちゃうんだ。気持ちとか、そういうのを」
「別に、それを否定するつもりはない。
確かに御神の剣は人に見せるものじゃない。『見せるな』とも教えてきた。
だがそれは、『何があろうと見せてはいけない』って事を意味しているわけでもない」
「うん。実際、フィアッセとかレンとか晶とか、家族以外では勇吾さんにも見せてるしね」

もうずいぶん昔の話だが、美由希は一度友人の前で御神の技を見せた事がある。
子どもの頃の話、子どもであるが故に残酷であった頃の話。
きっかけは、本当に極有り触れた小さな子どものちょっとした自慢話とか見栄とかが発端だったのだろう。
当時の美由希の友人で、子どもとしてはそれなりに剣道の強かった子どもが、美由希も剣を握っていると知って勝負してみた、ただそれだけの事。だが、普通の子どもが扱う剣道で、並みの子どものそれを遥かに凌駕する鍛錬をしている美由希の扱う剣術が負ける筈もなく。それどころか、触れることさえできなかったのだろう。

子どもは自分のプライドに正直で、残酷な生き物だ。
自分の敗北と未熟を認めるより、異端の剣をなじる方が簡単だから、そうしただけの話。

別に、その子どもが特別悪いと言う事ではない。
それは子どもとしては当たり前で、叱られはしても責められる類の事ではない。
年を取れば、自然と無くなっていく幼い間だけの短慮だ。

しかしそれでも、同じく幼い子どもの心につける傷の大きさは計り知れない。
その短慮に耐えるには幼く、割り切るには純粋すぎた頃に負った傷は、今も美由希に影を落とす。
その一件以来、恭也は美由希の友達を見かける事がなくなった。
中学に入ってからもそれは後を引き、美由希は進んで友達を作ろうとはしなかったらしい。

(その意味で言えば、今日の事は驚いたし………少しばかり、嬉しくもあったか)

あの、友人関係に臆病だった美由希が、出会い方が少々特殊だった事も手伝ったのかもしれないが、出会ってすぐの人物と友人関係を築けた事を、恭也は表に出しこそしないが喜んでいる。
それは他の家族も同様で、桃子やフィアッセなど何かの祝い事のように喜んでいた。
それこそ『早く会わせろ』『どんな子なのか』と、美由希がタジタジになるくらい詰め寄るほどに。

「あの子は、少ししか話していなくても、いい子だと思う。
 お前と違って、だいぶ押しの強そうな子だが……」
「そうだね、確かに押しは強かったかな。話し始めた時も、戸惑うくらいにごり押しだったし」

その時の事を思い出したのか、美由希の顔には困ったような笑みがある。
しかしそれは声音通り嬉しそうで、負の感情の欠片もない純粋な好意で満ちていた。

「昔の事は、やっぱり昔の事だしね。
あの頃は年、というか時期が悪かったと思う。もっと後、五・六年後とかだったら違ったかもしれない」
「だな。それに向こうも、そういった事を理解できない年じゃない。そもそも、彼女は武とは無縁だろう?」
「うん。見る限り、そういう『匂い』はしなかったかな」

美由希の不運は、年齢もそうだったし、相手がまがりなりにも剣道をしていた事だ。
もし、もっと成長してからだったら。もし、相手が全くの武の素人だったら。
きっと、あんな事にはならなかっただろう。

そして、この年としては優れた剣士であり、才気に恵まれた二人にはそういった匂いがなんとなくわかる。
百発百中とは言い難いが、相手の才や錬度を見抜く力は未熟ながらに備わっているのだ。
それこそ、よほどそういった物を隠すことに長けた武術家や、そういった物を纏わない特異な武術家でもない限り、ある程度の範囲で相手の事を把握できる。実際、レンや晶にはそういった匂いがしているのだから。
その感覚から、ほのかが武の素人である事を二人は確信している。

「活人剣と殺人刀の話は昔したな」
「うん。人を生かし守る『活人剣』と、敵を殺す事を追及する『殺人刀』…だよね」
「ああ。御神の、特に不破の本質は殺人刀だ。剣道とは違う、俺達の技は単に……殺人のための技術だ」

そう、二本の小太刀をメインの武器とし、さらに飛針、鋼糸などの暗器を駆使するその技術は、まさしく殺人の為に研ぎ澄まされた物。
同時に御神や不破の歴史もまた、墨やインクの代わりに血で書き記されていると言ってもいい。
何しろ、不破は政治家や重要人物の暗殺、不穏組織の末端構成員に至るまでの殲滅といった裏の仕事を受け持ってきたし、御神はそれに比べれば幾分穏やかだが、やはり殺しは良くある仕事の一つだった。
しかし、それでもなお……

「だが、その精神は完全な殺人刀とも違う。
例えこの手を血に染めても、それでもなお大切な人を守るための『情』の剣。
殺人刀の『非情』とも相容れない。それが、血塗られた歴史を持つ御神の剣士の…………誇りだ」
「矛盾………してるよね」
「かもしれない。殺人の為の技術で人を殺し、それで人を守る。詭弁と言われても仕方がない」
「でも、『それで守れるなら構わない。その誹り、甘んじて受け入れよう』っていうのが、御神の剣士の気概……だよね」
「…………」

美由希の問いに、恭也は無言で頷く。
殺人の為の技術を学び、いつかは人を殺す覚悟を持って技を磨く二人だが、それでも日本という国で育ってきた。
そこで培われ、養われた倫理観や道徳観念から、やはり殺人への忌避感や嫌悪感は根深い。

できるなら「一生を誰も殺さずに終えたい」とも思う。
しかし同時に、いざとなればそれをするのだろうと言う、達観した視点と殺人の覚悟も持っている。

故に、決して「活人剣に近い面もある」とは言わない。
それは、本当に心から命を「人を守り生かす」事に賭けている人たちへの侮辱であり、その人たちを汚すと言う潔癖な考えがあるからだ。
だが、それでも……

「大切な人を守りたい、その為の剣。それを理解してもらう事は、決して不可能じゃない。
 それを、俺達はよく知っている。違うか?」
「うん。とーさんと結婚したかーさん。フィアッセやレン、晶に勇吾さん。皆が、証明してくれてるもんね」

だから、ほのかもまた理解してくれるかもしれない。
それが淡い希望に縋っているだけなのか、それとも……。
美由希には判断できなかったが、できればそうであってほしいと切に願っていた。

「無理に急ぐ必要はない。順当にいけば、お前と彼女の付き合いは最低でも三年はある。
 その間に、見極めてお前自身が決めればいい。理解してくれるのかどうか、話せるのかどうかを。
 別に、話さなかったからと言って騙した事にもならん」
「うん、わかってる。最後は結局、私がそれを納得できるかどうか、なんだしね」

この少し後、恭也やなのはを経由して自身と同じように、少しばかり裏に繋がりのある出自を持つ別の友人を美由希は得ることになるのだが、それはまた別の話だ。
その友人にほのかより先にこの事を打ち明けるのか、それとも先にほのかに打ち明けるのか。
それは、今の美由希にはわかる筈もない未来のことだった。



  *  *  *  *  *



時間は遡り、場所も変わって梁山泊。
入学式を終えたほのかは、一度自宅で荷物を置いて着替えてから梁山泊を訪れていた。
まあ、つまり先約というのは梁山泊への報告の事である。

「でね、高町美由希ちゃんって子と友達になったんだじょ」
「そ、そうか、それはよかったな……って、逆鬼師匠!
 早い、早すぎますって! もちょっとゆっくり!?」
「オラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラ!!
 どうしたどうした! 守ってるばっかりじゃどうにもなんねぇぞ! 反撃してみろ、兼一!!」
「む、無理っすよ逆鬼師匠!!」

次々と逆鬼の剛腕から繰り出される突きに、兼一の口からは最早悲鳴と泣き言しか出てこない。
一応全撃手加減されているとはいえ、兼一には辛うじて捌くのが精いっぱいの猛攻なのだ。
しかし、受けに集中するあまり、徐々に下半身への注意がおろそかになるのを、逆鬼が見逃す筈もない。

「そら、足元がお留守だぜ!」
「たぁっ!?」

唐突に仕掛けられた足払いを、なんとか寸で飛び上がって回避する兼一。
だが、結果的に苦し紛れの回避となったそれが、致命的な隙を晒す事となる。

「んな雑な動きしてんじゃねぇ! ちぇりゃあ!!」
「げぼふ!?」

叱責と共に放たれる、逆鬼の強烈を通り越して激烈な蹴りが兼一に炸裂する。
その直撃を受けた兼一は壁に叩きつけられ、さらにその壁を粉砕して庭にまで転がっていく。
常人なら一撃で即死、どんなに当たり所が良くても受けた個所の骨が粉砕していなければおかしい一撃だ。
しかしそれも、梁山泊の地獄の修業で培った兼一の化け物染みた打たれ強さの前では、その限りではない。

ゴロゴロと地面の上を転がっていく兼一。
だが、そのまま失神する事は許されず、発達した兼一の「恐怖センサー」が何かを察知する。

「はっ! これは…………死の予感!?」
「おいおい、人聞きの悪い事を言わないでくれたまえ、兼一君。
 単に、君の新しい修行器具がちょうど出来たから、その試運転をしようとしているだけだよ。
 じゃ、さっそく試してみてくれたまえ」
「全力全開でお断りします!!」

通常なら立ち上がる事など不可能なダメージを受けた筈の兼一は、いたってピンシャンした様子で立ち上がり、脱兎のごとく逃げ出す。それも、その速度自体がすでに尋常なものではない。
足腰の力と耐久力の二点を、兼一は妙手クラスでもかなり高いレベルで身につけている。
それこそこの二点、特に耐久力に関しては恭也をも上回っていても不思議はない。

まあ、秋雨の後ろにある怪しげな器具を見れば、それは誰でも火事場の馬鹿力くらいが出るだろう。
しかし、所詮はそれも妙手クラス、真の達人たちの前では児戯に等しい。

「やれやれ……………逃がすかぁ!!」
「逃げ切って見せます!」
「甘い!! アパチャイ!」
「おおおおおおおおお!! アパチャイ、準備オッケーよ~!!!」

眼から怪光線を放つ秋雨とアパチャイ。
兼一は全速力で逃げるが、瞬く間のうちにアパチャイに追い詰められる。

「ギャ――――――――――!! よりにもよってこの人かぁ!?
 師匠ーズ、あなた方僕を殺す気ですかぁ!?」
「大丈夫よ兼一! アパチャイ、敵をキッチリ半分地獄に叩き込む手加減を覚えたよ!!
 これで『万事休す』で『絶体絶命』よ!」
「ある意味非常に的を射ていますが………だからこそ嫌なんですよ!?
 しぐれさん、カムバ―――――ック!!」

まあ、兼一の希求も無理はない。
アパチャイに捕まえられるより、しぐれに鎖で拘束された方がまだ安心というものだ。
ま、彼は今それどころではないのだが。

「あ、兼一よそ見しちゃダメよ!」
「へ? ぐぼあ!?」

追いついたアパチャイは、勢いをそのままに兼一に「テッ(回し蹴り)」を放つ。
当然、よそ見していた兼一がよけられる筈もなく、首がかなりヤバい感じに曲がったまま、人手裏剣の要領で「ああああああ~~~~」という叫びと共に転がっていく。

まあ、死んではいまい。
骨の髄どころか、魂の髄にまで叩き込まれたムエタイの構えである『タン・ガード・ムエイ』を取り、即座に肩を竦めて首をガードしたのだから。出なければ、頸椎損傷で死んでいたかもしれないが……。
竦めた肩で首をガードする、徹底的に叩き込まれたこの型が、今日もまた兼一の命を救ったのだ。

ちなみにしぐれは、美羽と一緒に今は買い物に出かけて不在で、普段はしぐれの役目である兼一の捕縛は他の師匠達にまかされている。
そんな外部から見れば通報されそうな、だが内部にとっては日常の一部である光景を、梁山泊の年長者二人は微笑ましく眺めていた。

「ホッホッホ、ほのかちゃんも順風満帆なようでなによりじゃて。
 兼ちゃんも、ここの所は集中して修行に打ち込んでおるし、言う事なしかのう」
「そうね。でも、おいちゃんはちょっと気がかりがあるね、長老」
「ほっ? して、その心は何じゃ、剣星」
「うん、確かにここ最近は平穏そのものね。それはいいことなんだがね、穏やかな時間は時に人を腐らせる事もあるね。おいちゃんはそれがちょこっと心配ね」
「なるほどのう。闇の者どもではないが、人間適度に刺激があった方が良いのも事実じゃな。
 この休みには久しぶりに闇ヶ谷に山籠りしたが、アレだけではちと刺激としてはぬるいかのう?」
「そうね、兼ちゃんもだいぶ山籠りに慣れてきてるしね。
その意味では最近の兼ちゃんは……ちょっと刺激が足りなさすぎると思うね」
「確かに、闇やYOMIと戦っておった頃の方が、死にもの狂いではあったのう」

実際、人間逆境に立たされた位の方が成長するものだ。
兼一のそれはかなり行き過ぎていたが、そういう面があったのは事実。
普通に修業に取り組むより、ああして命懸けの戦いの日々に身を置いていた方が成長もはやい。
そのことを裏付けるように、今の兼一にはあのころほど逼迫した雰囲気はないし、成長速度も若干落ち気味だ。

それを二人は憂慮しているのだろう。
慣れは惰性を呼ぶし、危機感の欠如は少々問題だ。
そして、ここで安全策が出て来ないのが、梁山泊の梁山泊たる所以である。

「…………………………………では、いよいよあの計画を発動する時じゃな」
「うん、おいちゃんもそう思うね。秋雨どんたちはどうね?」
「同感ですな。元より、兼一君の人生は武に捧げられております。
そろそろ、さらに一歩踏み込んでもよい頃合いかと」
「へ! あの計画かよ。あんま無茶すんじゃねぇぞ、秋雨。
元々兼一には才能の欠片もねぇんだ、あんま急ぎ過ぎると……………死ぬぜ!」

何やらシリアスな事を話してはいるが、実のところ逆鬼は金槌と釘を持って壊した壁の修理中だったりする。
美羽が帰った時に壁が壊れていると、後でどやされるのだ。
しかし、その格好はガラの悪い大工に見えない事もないくらいに似合っている。
釘を口にくわえたりねじり鉢巻きに挟んでいたりすると、特に。

「ふっ、君も過保護だな」
「ち、ちげぇーよ! こ、これはアレだ、ええっと…………そう! 三年もかけて育てた弟子がこんなところで壊れちまったら、大損害だって言ってんだよ!!」
「ふっ……」
「てめぇ、秋雨……何が言いてぇ」
「いや、別に」
「けっ!!」
「アパチャイ、兼一ならきっと生き残ると思うよ。
 いつも兼一が死にそうなのは、皆が無茶するからよ」
「自分の事を棚にあげやがって。おめぇが言うか……」
「あぱ?」

逆鬼のツッコミに、アパチャイは頭頂部とあごに人差し指をつけて首をかしげる。
普通なら珍奇な光景に見えそうな仕草なのだが、アパチャイがやるとどうにも愛嬌があるから不思議だ。

まあ、実際問題としてたった今兼一を瀕死に追い込んだのも事実なのだが。
そう、アパチャイの足元にはボロ雑巾と化した兼一がピクピクと痙攣していたりするのだ。
これでは、説得力の欠片もありはしない。

「あの、師匠方。弟子をそっちのけで何やら怖い相談をするのはやめてもらえませんか?」
「いや、皆兼ちゃんを思って相談してるね。そんな怖がる事はないね」
「僕のいじめられっ子の勘が、全力で逃げろと警鐘を鳴らしているんですが」
「気のせいね」
「ですが……」
「気のせいじゃよ、兼ちゃん。気のせい」
「そう、気のせいだとも」
「アパチャイは……」
(ばか、おめぇは口を出すな。余計な事口走ったらまた兼一が逃げるだろうが)

全員そろって兼一の疑念をごまかす師匠達。
アパチャイだけは、何かをしゃべろうとするところを逆鬼に口を押さえられて強制的に黙らされていた。
それを見て…………いや、見なくても兼一は確信していただろう。
近い将来、きっと自分はYOMIと戦っていた頃に匹敵する、あるいはそれ以上の地獄に叩き落とされるのだと。

(未だかつて、師匠達が僕に関して何か相談した時に、地獄に落とされなかった事があるか?
イヤ、ない【反語】!!)

それは、経験と勘から導き出された兼一にとって未来の決定事項だ。
だからこそまだ死にたくない兼一は、少し久しぶり(闇ヶ谷への山籠り以来)に『梁山泊脱走計画』を練りはじめる。『壊れる前に自主的に休む、これもまた師匠孝行』とは、かつて兼一が口にした大義名分だ。

「みなさん、ただ今戻りましたですわ」
「いま、もどった…ぞ。兼一はまだ生きて…る?」
「しぐれさん! そこで疑問形を入れるのをやめてください!
 ただでさえ長老たちが何やら不穏な事を考えていて、不吉な予感が大きくなってきているのに!!」
「? ああ、ついにあの計画が動き出すの…か。じゃあ、兼一死んじゃうのか? いよいよなのか?」
「あ、こらしぐれ……」

なにやら不吉な事を口走るしぐれを、大急ぎで秋雨は止めようとする。
だが、すでにその言葉のいくつかは兼一の耳に届いていた。

「いよいよってどういう意味ですか!? あなた方は一体何を企んでいるんです!!」
「企むなどと人聞きの悪い」
「そうね、弟子の事を思う師匠心ね」
「へへへ。まあ、せいぜい気をつけるこった。いつ刺客に襲われてもいい様にな」
「アパパパ、人が近づいてきたら敵だと思うよ。そして、とりあえずぶっ殺しておくといいよ。
 脳みそは敵を殴る為にあるし、ムエタイは人をぶっ殺すのがとってもうまいんだからよ!」
「う…ん。ただ、刺客の数がこれまでの十倍になるだ…け」
「あ、なんだそれだけなんですね…………って、なぁんですって―――――――――――――!!」

師匠達があまりにも平然と言うものだから、思わずうなずきかける兼一。
だが、その内容はシャレにならない。
いまでも、週に数回は命を狙われているのに、それが十倍になると言うのだ。
そんな事になれば、命がいくつあっても足りやしない。

「どういうことですの、おじい様! 刺客の数が突然増えるなんて不自然すぎますわ!?」
「ホッホッホ、今朝も言うたじゃろ? 『男子、門口を出れば千人の敵あり』じゃ。
 最近、どうも兼ちゃんに以前ほどの危機感がないようでの、これはいかん。
武は湯と同じ、熱し続けねばすぐに水に返る」
「ええ、ですからその熱が修業なのでしょう。ですが、兼一さんはほぼ年中無休で修業していますわ。
 それも、命懸けの地獄の修業を休む間もなく。これで水になる事などありえませんわ」
「うむ、しかしそれだけでは足りん。熱は何も修業だけではない、それはライバルであり、死闘じゃ!」
「即ち、本気で命を狙うライバルもまた、武術家にとって欠かせぬ『熱』の一つという事だよ」
「そうね、実戦に勝る修業はないとも言うしね」
「う…ん。死が近ければ近いほど、良い修行にな…る」
「アパパパ、アパチャイも昔は毎日裏ムエタイのリングで戦ってたから、間違いないよ」
「へっ。ま、要は実戦経験を積ませてやろうってこった。
 武と同じで、勝負勘や度胸の類も熱し続けねぇとすぐに水に返っちまうからよ」

早い話が、勝負勘や度胸が鈍らないように、以前の様な修羅場をくぐらせようと言う魂胆なのだ。
具体的には、ちょこっと裏社会に性質の悪いうわさを流し、兼一を襲わせようと言う、それだけの物。
やる事自体はそれだけだが、その結果引き起こされる事態は兼一にとってはたまったものではない。

まあ、確かに言わんとする事は正しいのかもしれないが、やり方があんまりにもあんまり過ぎる。
梁山泊の師匠連の無茶は大概だが、これは近年稀に見る……………いや、割とよくあるかもしれないが、やはりとんでもなく無茶であり、無謀な修業だ。
そのことに、思わず兼一と美羽は硬直し悲鳴を上げる事も出来ず真っ白になっていた。
しかし、そんな兼一達を無視して長老が宣言する。

「名付けて『襲われて襲われて、そして誰もいなくなった』計画じゃ!!!」
「不毛過ぎる―――――――――――――!!!」
「アパパパ!」
「ぷっ!」
「がはは!」
「くすっ!」
「フン!」

ややうけである。
兼一の魂の叫びは、師匠達にとっては娯楽と化しているのではないだろうか。
そう思わずにはいられないほど、彼らの反応は軽い。
ついでに、何やら草を持ったウサギが庭の隅で眼から怪光線を放つ長老におびえているが、恐らくは幻覚だろう。

まあ、それはともかく。
そんな兼一を不憫に思いつつ、梁山泊二番目の良識人である美羽は兼一の為に泣いていた。
ちなみに、一番の良識人はもちろん兼一だ。

(兼一さん、頑張ってくださいまし……)

まあ、所詮泣いてやったところで何がどうなるわけでもないのだが……。
とりあえず、白浜青年の受難の日々はこれからもまだまだ続く(笑)。

「笑い事じゃな―――――――――――い!!」

ま、そんないつもの事はどうでもいいとして。
割とこの空気と流れにも慣れたものであるほのかは、特に気にした様子も見せずに兼一に問いかける。

「あ、お兄ちゃん」
「なんだ、ほのか。兄は見ての通り、世界の不条理さを嘆いている真っ最中なんだが」
「それはいつもだじょ」
「………………!!」
「兼一さん、しっかりしてくださいまし! そんなところに穴を掘って何をするつもりですの!?」
「兼一君は穴を掘っていたら地下世界を発見し、そこで静かに友である草花を育てて暮らしましたとさ!
 めでたし、めでたし!!」
「兼一さんが錯乱しましたわぁ~~~!!」

事実であるだけに、兼一に与えたダメージは計り知れない様だ。
血涙でも流しそうな勢いで号泣する兼一は、無我夢中で地面を掘り返す。
無論、師匠達にとっては兼一のそのリアクションすら「ややうけ」でしかない。不憫である。
それから十分後、なんとか美羽は錯乱していた兼一を正気に戻すことに成功した。

「はぁはぁはぁ、はぁ……落ち着きましたかですわ、兼一さん」
「え、ええ。すみません、美羽さん。どうやら気が動転していたようです」
「まあ、無理もありませんけれど……」

『でも、今に始まった事ではないでしょう』とは、思っていても言わない美羽であった。
そんな事を言ったが最後、もう兼一は止まらなくなるだろう事は目に見えている。

「で、そろそろいいかじょ、お兄ちゃん」
「く…………わかった。で、用件は?」
「うん。折角だし、美由希ちゃん達を呼ぼうかと思うんだじょ。お兄ちゃんの事も紹介したいし」
「別にいいんじゃないか? 家に呼ぶくらい」

この時、兼一は気付いていなかった。
自分が言った「家」という言葉が、兼一とほのかでは食い違っている事に。
だが、それもすぐに気付く事となる。

「ああ、よかった。じゃ、今度みんなを連れてくるじょ。
――――――――――――――――――ここ(梁山泊)に」
「そうか、それじゃその時は僕も帰った方が……………………って、なぁ~ん~だぁ~とぉ~~~~!?」
「わひゃ!? どうしたんですの、兼一さん!」
「どうしたんだじょ?」

ほのかの言っている意味にようやく気付き、兼一は思わずいじける事をやめて立ち上がる。
だが、それも無理はない。
家は家でも、実家ではなく『いま兼一が住んでいる家』に連れてくると言う意味だったのだ。
それはさすがに、放置しておくわけにはいかない。

「正気かほのか! お前、普通の人たちをこんな『人外魔境』で『伏魔殿』な『有料地獄巡り』をさせる『イカレタオンボロ道場』に呼ぶなんて、その人たちに永遠に消えないトラウマを植え付けるつもりか!?」
「ハハハ、失敬な」
「伏魔殿とは随分な言い草ね」
「ああん? 有料地獄巡りだぁ」
「イカレてる…の?」
「オンボロ道場じゃと?」
「アパ?」
(あながち間違ってもいない……というよりも、実に的を射ていますわね)

美羽などは納得しているが、どうやら他の面々は納得していないらしい。
この後、兼一の修業内容が当社比五割増しになった事を追記する。

「むぅ、やっぱりだめ?」
「やめておけ。友達が大事なら尚更だ」
「しょうがないじょ~」
「まあ、紹介すると言うのなら、そのうち折を見て僕も一緒に行くから、その時にしよう」
「らじゃ! じゃ、そういう事でよろしくだじょ、お兄ちゃん!」

首を傾げて問うほのかの肩に、兼一は力強く手を置いて説得する。
ほのかの方も、どうやらそれで諦めてくれたようだ。
とりあえず、これで一応ほのかの相談には一区切りついた。
まあ、後日この日の出来事が遠因となりちょっとした騒動があるのだが、今は関係ない。
だが、兼一にはまだまだ乗り越えねばならない地獄が待っていた。

「さて、どうやらほのか君との話も終わったようだし、そろそろいいかね、兼一君」
「へ? 岬越寺師匠?」
「僕は、別にイカレテなんていな…い」
「あの…しぐれさん。なんでそんな、そこはかとなくもの悲しそうな顔をしてるんでしょうか?」
「ふぅ、言いたい放題言ってくれるね、この弟子は」
「全くだぜ、何が『有料地獄巡り』だぁ、ああ?」
「って、ええ! 馬師父と逆鬼師匠!! なんで僕の両脇を抱えてるんですか!?」
「オンボロとは、言ってはならん事を言ってしもうたのう、兼ちゃんや!!」
「アパパパパパ、『雉も鳴かずば撃たれまいに』よ」
「こ、こんな時だけ流暢に正しい日本語を使わないでくださいよ、アパチャイさん!!
 あ、ああ、やめて…お助け―――――――――――!!」
「兼一さん、生きてまたお会いする日が来る事を祈っておりますわ」
「そんな死亡確定みたいな事を言わないでくださいよ――――――――!!」

そうして、兼一は六人の豪傑に囲まれて粛々と連行されていく。
そう、梁山泊の裏庭の森の奥へと。

「ハンカチをヒラヒラさせてないで、助けて闘忠丸―――!」
「ぢゅ~」
「じぇ~~ろ~~に~~も~~~~~~~~~~~!!!!!」

そこで何が行われたかは、各人の想像にお任せしよう。
とりあえず、白浜青年には冥福を祈る。南無。






あとがき

というわけで、高町家の面々が梁山泊に来るのは当分先になります。
つまり、兼一の方から向こうに行くことになりますね。とりあえず、ちょっと性急かもしれませんが次あたりで。
ひっぱりたくても、正直ほのかだけでは間が持たないのです。
ま、その前に彼は自分に襲いかかる刺客の数々を撃退しなければならないわけですが(笑)。

さて、とりあえず兼一とほのかはとらハ勢と絡む事確定しているとはいえ、後は誰を絡ませましょう。
師匠連では恭也の膝の関係で秋雨や剣星が有力ですし、晶やレンの武術的には逆鬼ややっぱり剣星が出ると面白そうなんですよね。もちろん、しぐれが絡むとすれば恭也や美由希と無縁ではいられないでしょう。
アパチャイだったら…………………………………久遠?
長老なら『ざから』の相手もできそうですけどね。あの人、剣とか使わないけど。

まあ、この辺は追々として、問題は新白とかから絡む人なんですよ。
美羽とかなっつんを絡ませるのかも結構問題ですしね。とりあえず、新島は絡ませるつもりですけど。
後は、個人的には結構お気に入りのジークフリートとか? もう一度決死のダイブをしてほしいかも……。
他にどなたか出してみて欲しい人っていますか? とりあえず、参考にしたいんですけど。
あ、なんでしたら歴代とらハのキャラでも一向にかまいませんので。

最後に、更新速度はそう早くないと思いますので、気長にお待ちくだされば幸いです。



[24054] BATTLE 3「剣士と拳士」
Name: やみなべ◆d3754cce ID:1963cf14
Date: 2010/11/21 00:21

とある洋館風の豪邸。
豪壮でありながらあまり人気のない建物の中に、一組の男女がいた。
とはいえ、別段何やら甘い雰囲気があるわけでもなく、女の方が一方的にしゃべっているだけだが。

「でね~、今度お兄ちゃんも一緒にみゆきち達とお花見をすることになったんだじょ~」
「俺はそんな事は一切聞いてねぇ」

能天気そうにしゃべっている女、ほのかの言葉に、金髪蒼眼の美男子「谷本夏」は実に素っ気なく返す。
背後でしゃべり続けるほのかの話をどこまでちゃんと聞いているかは定かではないが、その手は休むことなく動き続けている。具体的には、泡だて器でボールの中の生クリームをホイップしている真っ最中だ。
また、ほのかの手元にはかなり趣向の凝らされた洋菓子が数多ある。
早い話、谷本夏は現在進行形でほのかのおやつ作りをしているのだ。

高校時代、あるいは大学の女子達が知れば全てを差し出し、どんな事をしてでも食べたいと思うであろうそれを、ほのかは有りがたみの欠片も感じていない様子で咀嚼し、嚥下していく。
それどころか「うんま~、なっち~もだいぶ料理が上手になったじょ~。これもほのかの指導のおかげだねぇ~」などとのたまう始末。

実に図々しい性格をしている。当の本人の料理の腕は、壊滅的を通り越して殺人的でさえあると言うのに。
まあ、だからこそそれを食べたくない一心で、夏の料理の腕は上がり続けているのだが。
いや、確かにある意味ではほのかのおかげとも言えるか……。
実際、彼の料理の腕はすでにシェフ並み、家事全般はすでに日課を通り越して趣味と化しつつあるのだから。

「ちっ、にしてもなんで俺がこんな事を……」
「それはオセロで負けたなっちーの自己責任だじょ?
 いやぁ、なっちーはオセロで負けると何でも言う事を聞いてくれて実に便利だじょ」
「てめーは悪魔か何かか?」

言っている内容は実に忌々しいが、それに反して夏にはあまりほのかを邪険にするような雰囲気はない。
口では何と言いつつも、夏は昔亡くした妹にほのかを重ねている部分がある。
また、ほのか自身の図々しいながら憎めない性格もあってか、すでに三年近くに渡って彼女は谷本邸に通い詰めているのだ。
夏自身、それを拒絶するようなことは何度も言っているが、結局のところ一度も実現していない時点で本気ではないのだろう。
事実、ほのかが通うようになってから、生活感が乏しかったこの家には暖かな空気が流れるようになっている。
おそらく、夏にとってほのかの存在は最早生活の一部となっているのだろう。

これで付き合っているわけでもないと言うのもどうかと思うのだが、実際のところは全く進展などしていない。
こちらも、兼一達に匹敵する鈍足である。

「なっつんはホントに負けず嫌いだじょ~。でも、何でもかんでも勝つまで続けるのってきつくない?」
「うるせぇ。人の主義にケチつけんじゃねぇ」
「声が震えてるじょ~」

ほのかの揶揄に、思わず夏の額から汗が流れる。
自分でも、少しくらい妥協してもいいんじゃないかなぁ、なんて思ったりしているのかもしれない。
実際問題として、別にオセロに負けるからと言って、彼にとってそれはどうという事でもないのだから。
とそこで、思い出したように…いや実際にたったいま思い出したのかもしれないが、ほのかが兄の言葉を伝える。

「あ、そういえばお兄ちゃんがまた匿ってほしいって言ってたじょ」
「きやがったらその時がてめぇの命日だと、白浜の馬鹿に言っておけ」
「なっつんしょっちゅう行方不明になるし、せめて鍵だけでも貸してって伝言を頼まれてたんだじょ」
「なにが『せめて』だ! 善良そうなツラしやがって、結構悪じゃねぇかあの野郎!!」
「ダメな時は宇宙人に頼むって言ってたじょ。
なんでも『俺様の大事な駒を壊されちゃ堪らん』って」
「あんの地球外野郎!! 人の家をなんだと思ってやがる!」
「なぁんか最近、また修業がきつくなって『敵に殺されるのが先か、修業で殺しちゃうのが先か。勝負だ~!!』ってノリみたいだし、一つ頼むじょ、なっちー」
「聞けよ! 人の話!!」

良い笑顔でサムずアップするほのか。その人の話を全く聞かずに言いたい事だけ言うほのかと、勝手に人の家を使う気満々でいる兼一とその悪友『宇宙人の皮を被った悪魔』新島春男に頭を抱える夏。
何しろ新島は、気付けばいくつもの合鍵を複製し、勝手に家に侵入してくるような男だ。
それも、何度鍵を交換しても。
それは夏でなくても、頭がおかしくなりそうな気もするというもの。

とはいえ、内心では「つくづくおっかねぇ師弟関係だな。すこ~しだけ匿ってやってもいいかな、と思っちまったぜ」と数少ない友人を気遣っていたりするのだから、実にツンデレである。
なんのかんの言いつつ、どれだけ鬱陶しそうにしても、白浜兄妹は夏にとってそれだけ重要な存在なのだろう。
絶対に、何があろうと、素直にそれを認めることなどないのだろうが。

「まあ、それはともかく……」
「……本当に親の顔が見てぇよ」

さらりと夏の抗議を華麗にスルーするほのかに、夏は頭に手をやりながらため息を突く。
その時、白浜家で母さおりが可愛らしくくしゃみをしたそうだが、その因果関係は定かではない。

「じょ? それは結婚の申し込み?」
「んなわけあるか! 耳が腐ってんのかお前らは!!」

実に自分にとって都合のいい脳内変換に、思わず拳を振り上げる夏。
だが、相手がいくら殴ってもピンピンしている異常に頑丈な兼一ならいざ知らず、か弱い女の子でしかない上に妹と重ねているほのかを殴れる筈もなく、その拳は虚しく元の位置に戻される。

「まあ、この美少女のほのかちゃんと結婚したくば、お兄ちゃんとお父さんを倒してからにするじょ」
「安心しろ、白浜の馬鹿だけはいつか必ず殺す」
「お父さんはほのかたちの事になると鉄砲出したりするから、気をつけるじょ」
「どういう家だ……」

ある意味、白浜家では兼一より父元次の方が恐ろしいかもしれない。
あの家族愛の権化の事だ、ほのかが男など紹介しようものなら、何をしでかすかわかったものではない。
それこそゴルゴ13よろしく、遠距離狙撃くらい慣行しても不思議はないだろう。

「ところでなっちー」
「あん?」
「今度の土曜のお花見、なっちーも来る?」
「行くわけねぇだろ、くだらねぇ」
「そう? なら、当日はほのかを送迎する栄誉を与えるじょ。なっちーの車って高級車で乗り心地良いし」
「てめぇ、ホントに何様のつもりだ……」
「ふふふふふふふ、ならそこは……………オセロで決めるじょ!」
「おもしれぇ。俺が勝ったらそのうぜぇ面、しばらく出すんじゃねぇぞ」
「やれるものならやってみるじょ~」

『二度と』ではなく『しばらく』と言うあたりに、夏の本心が垣間見える会話だ。
当然、ほのかにはその内心も見破られている。
ちなみに、ほのかは「年頃の女が男の家に通い詰めるなんて体裁が悪いから、少しは大人しくしておけ」と夏の本心を推理しているようだ。
そして、それが多いにあたっているのだから、ほのかの夏への読心能力は神懸かっている。

「ん~、でもちょっと残念だじょ。どうせなら、お花見に一緒に行くかも賭ける?」
「どういうつもりだ。てめぇの我儘は今更だが、いつになく食い下がるじゃねぇか」
「……なんとなくなんだけど、みゆきちと高町先輩って、なっつんとかと似た感じがするんだじょ。
 きっと、お兄ちゃんと一緒に仲良くなれると思うんだけどなぁ……」
「誰と誰の仲がいい!! 送るくらいはしてやるからさっさと帰れ!」
「あはははは、照れなくてもいいじょ~」

兼一との友情を頑なに否定する夏と、それを全く疑っていないほのか。
そうして、最後に花見当日の送迎を賭けてのオセロ勝負と相成った。

その結果は、珍しく夏の勝ち。ちなみに、勝率は調子の良い時で3%ほどである。
相変わらず、ほのかのオセロの腕は達人級だった。
まあ、それを相手にたまにでも勝てる夏の腕前も、すでに相当なものなのだが。



その後、帰宅するほのかを家まで送ってから戻った夏は、早々にある番号に電話をかける。
同時に、電話のボタンをプッシュしながら夏は考えた。

(確かにあいつは武術のど素人だが、妙なところで無駄に眼は肥えてやがる。だとすると……)
「よぉ、珍しいじゃねぇか。俺様になんか用か?」
「てめぇと無駄話する気はねぇ。用件だけ言う」

そうして夏は電話越しの相手に恫喝まがいの口調で、ある一つの頼みをする。
まあ、この程度の事で縮みあがるような、やわな神経の持ち主では到底ないのだが。
まあ、それはともかく。

実に彼には珍しい事だが、この手の分野に関してはこの相手の方が遥かに優れているのは、『心底』遺憾ながらも夏もまた認める所だ。
実際、彼の手際にかかれば、夏の頼みは僅か数日のうちに結果が出たのだから。



BATTLE 3「剣士と拳士」



4月15日、早朝。
梁山泊の門前に、一組の兄妹とその見送りの人々が立っていた。

「じゃあ、美羽さん。行ってきます」
「はい、久しぶりのおやすみなんですし、思いきり羽を伸ばしてくださいまし。
 ………………………………………明日以降も生き残れるように」
「ここ数日の地獄を思い出させないでください!」

美羽の不吉極まりない言葉に、兼一は耳を押さえてうずくまる。
無理もない。何しろここ数日、梁山泊の師匠達の言った通り、兼一を狙う刺客の数が急激に上昇したのだ。

そして、数の上昇は、時に質にも変化を与える。
質の悪い刺客も多くいたが、同時にチラホラと質の高い実力者も現れた。
基本、刺客などをする様な連中は、功名心が先だったりしていて、あまり質が高くない事が多い。
強い連中、あるいは強くなる連中というのは、そうやって名を挙げる事よりも自己の練磨に力を注ぐ傾向にあるからだろう。早い話、小物は「実より名」を取り、大器は「名より実」を取ると言う事だ。
本当に自己を高める為に強者との戦いを求める者もいるにはいるが、そういった連中はあまり奇襲や不意打ちを手段とする刺客よりも、場所と日取りを整えた上での決闘を好む。

しかし、師匠達はどんな手品を使ったのか、兼一と同等あるいはそれ以上の使い手がここ数日の間に数人現れた。
しかも実に珍しい事に、そう言った連中が積極的に不意打ちに奇襲まで仕掛けてくる始末。
自分に近いかそれ以上の使い手からそんな事をされては、さすがに命がいくつあっても足りない。
実際、もし美羽や他の友人たちの協力がなければ、本当に命が危ない場面も多々あったのだ。

「ま、まあ、今日くらいは殺伐とした日常を忘れても罰は当たりませんわ」
「だといいんですけどね。もし花見の最中に襲われたらと思うと、正直ゾッとしますよ」
「そのあたりは我々を信頼したまえ」
「そうね、兼ちゃん一人ならいざ知らず、堅気の皆さんに迷惑はかけられんね」
「僕にはいくら迷惑をかけてもいいと言うんですか!!」
「? 何を言うとるんじゃ兼ちゃんや。だって内弟子は………人間じゃないからのう!!!」
「うわぁ――――――――――――ん! またそれかぁ!?」

『内弟子は人間に非ず。故に人権もなし』とは、もう何度も、常々言われている理不尽な現実だった。
まあ、それくらいでないと、梁山泊の殺人的修業を『当たり前』の事と認識はできないだろう。
アレはつまり、兼一の人権をないものとして考えているからこそできる、荒行なのだ。

「け! どいつもこいつも甘ぇ奴ばっかりだぜ。俺が兼一くらいの頃なら、全身に鉄砲玉をくらったまま駅前で誰にも気づかれずに百人の刺客を叩きつぶしてたぞ!!」
(人外の者だぁ……!!)
「あ、こら……!」

とんでもない事をのたまう逆鬼に、思わず内心でうめく兼一。
だが、逆鬼の言葉を制するようにかけられた秋雨の声に、兼一は僅かな違和感を覚える。
なぜ、秋雨は逆鬼の話を止めようとしたのだろうか。
そもそも、どんな根拠があって師達は『堅気に迷惑をかけない』と断言しているのか。
そこで気付く、逆鬼の最初の一言に。

「……………あれ? 『甘い』ってどういう意味ですか、逆鬼師匠」
「あ、やべ……」
「やれやれ、実は今日だけは特別に護衛でもつけてあげることになったのだよ」
「アパパパパ、そういう事よ。でも、最初に兼一を護衛するように言ったのは逆鬼よ」
「げ、待てアパチャイ! ち、ちげぇぞ、兼一。お、俺はそんな事一言も言ってねぇ!
 別に俺はだなぁ、お前の事なんてこれっぽっちも心配なんてしちゃいねぇからな!!」
「はいはい、ツンデレツンデレ」
「かほご…だぁ――――――――――!」
「うるせぇぞ馬、しぐれ!!」

からかわれて耳まで真っ赤にして否定する逆鬼。
その反応こそが、何よりもその事が事実である事を証明していると言うのに。
まあ、実のところ師匠達が護衛に付くのはそう珍しい事ではない。
YOMIとの戦いの日々でも、割と師匠達は見えないところで兼一を見守っていたのだから。

「そ、そうだったんですか。
ありがとうございます逆鬼師匠、岬越寺師匠、馬師父、アパチャイさん、しぐれさん!!」
「ホッホッホッ。おお、兼ちゃんが途端に元気になったぞい」
「へぇ~、ところで、誰が護衛してくれるんだじょ?」
「アパチャイだよ! 今日はアパチャイが兼一を守るよ!」
「きょえええええええええええええ!!!」

そのあまりの人選に、珍奇な叫びをあげる兼一。
一度は師達の心遣いに感動した兼一だが、その感動もその人選を聞いて跡形もなく消えてなくなっていた。

過去、アパチャイに護衛された事は幾度もある。
だがその度に、なかなかにひどい目にあっているのだ。
できるなら、比較的に安全な秋雨か剣星が良いと言うのが、兼一の本音である。

「おお、アパチャイが一緒なら安心だじょ」
「アパ、そうよ。アパチャイが一緒だから、もう絶体絶命……じゃなかった、絶対安全よ。
 兼一達は、アパチャイが全力で殴る……じゃなかった、守るよ!」
「何がどうなってアパチャイさんになったんですか!?」
「壮絶な、『あっち向いてほい』の果て…だ」
(無駄に高度そうな『あっち向いてほい』だったのでしょうね)
「まあ、あきらめ…ろ」

そう言って、兼一の肩を優しく叩くしぐれ。
しかし、兼一には到底諦められるものではない。

「そんな簡単に人生諦められません!
なんであなた方はそういう決め方をするんですか! 弟子の命をなんだと思ってるんです!
大切な一番弟子が死んだらどうするつもりですか!?」
「「「「「「埋める(ね・よ)」」」」」」
「埋めるなぁ――――――――――――――!!!!」

まあ、それでなくても花見に行く事を考えれば、人選としては最悪だろう。
アパチャイは目立つ、とんでもなく目立つ。また、彼を目にして悲鳴をあげる人も少なくない。
確かに彼が本気で隠れれば、おそらく見つけられるものはほとんどいないだろう。

だが、今回は旨そうな食べ物がたくさん並べられる花見の席、そんなところで彼が食欲を抑えられるだろうか。
間違いなく、アパチャイは我慢しきれずに姿を現し、そして場を混乱させるのは必至。

その後、兼一と美羽の必死の説得の甲斐あり、なんとか秋雨と護衛役を交代する事となった。
まあ、それでもしばらくの間アパチャイは「自信失くしたよ、生まれてきてごめんよ」といじけていたのだが、ハンバーグ二週間で手を打ってくれたようだ。

「ところでほのか」
「ん? どうしたんだじょ?」
「本当に僕も行っていいのか? 家族や友人同士のお花見なんだろ、邪魔にならないかな」
「大丈夫だじょ。みゆきち達も『是非ご家族に挨拶したい』って言ってくれたんだじょ」
「まあ、そう言ってもらえるのはうれしいんだが……」
「お父さんもお母さんも忙しいから、後はお兄ちゃんだけなんだじょ」
「……わかったよ、折角誘っていただいたのに行かないとなると、それこそ礼を失することになるな」
「そうだじょ。お兄ちゃんは大人しくついてくればいいんだじょ」

実際には、父は母によって無理矢理仕事に行かされ、母はそんな父が仕事を放りださない様に警戒している為に行けないのだが、そんな事は知る由もない二人である。
そうしていくらかの手土産を持ちつつ、二人は梁山泊を後にした。
電車で向かう二人の場合、直接花見会場に行った方が手っ取り早いので、二人に関しては現地集合となっている。
夏と違って、兼一に車の免許を取りに行く余裕はないのだ。



そうして、二人が会場に付いた頃には、中心となる高町家を始め皆が勢ぞろいしていた。
そこは九台桜隅、満開の桜と風情のある池に彩られた、まさに絶好の花見場所。
とはいえ、準備を始めた段階だったので、ちょうどいいタイミングだったのだろう。

「ヤッホ―――――!! みゆきち、おっはよ!」
「ほのか! おはよ! あ、じゃあそちらが……」
「はじめまして、ほのかの兄の白浜兼一です。妹がいつもお世話になって……」
「あ! いえいえ、こちらこそほのかにはいつもお世話になってます。私、どうも鈍くさいところがあって……」
「あははは…私も人の事は言えないんですけどねぇ……」
「あ、那美さん、それにキツネもおはよ」
「はい、ほのかさんもおはようございます」

一応一学年下になるほのかを相手に、馬鹿丁寧に応対しているのは風芽丘二年生にして巫女もやっている栗毛の少女『神咲那美』である。
その懐には、愛らしい顔立ちをした子狐『久遠』の姿があった。
ほのか自身はまだあまり面識もないが、恭也経由で自己紹介くらいはした間柄。
まあ、人見知りというか臆病というか、そういうところのある久遠は、当然まだほのかには慣れていない。
その為、慣れない場所、慣れない人間に囲まれて、どこかおびえたようにプルプル震えている。

「どうもどうも、ほのかちゃんのお兄さんですか?」
「あ、はい、本日はお招きありがとうございます。白浜兼一と言います。
 こちら、つまらないものですが」

ほのかがやってきた事に気付き、一端準備の手を止めた桃子がやってきて兼一とあいさつする。
兼一は途中で買ってきた飲み物や菓子類、それに美羽と一緒に作った重箱を渡す。

「あらあら、これはご丁寧に。そんなお気になさらなくてもよかったのに」
「あ、いえ。いつも“これ”がご迷惑をおかけしていますし」
「ぬぁあぁぁぁぁぁ!! 扱いがぞんざいだじょ!!」
「どこの家も、妹の扱いってああいうものなのかなぁ?」
「ど、どうなんでしょうね?」

ほのかの頭を掴みわしわしとかき回す兼一を見て、美由希はそんな事を呟く。
一応は自身も姉や兄を持つ立場にいる那美は、その呟きにどう反応していいのかわからない。
どちらかといえば彼女の家はそういった傾向はなく、高町家や白浜家とは違ったベクトルで家族仲は良好なのだ。

とはいえ、いつまでもそうして立ったまま挨拶をしていても埒が明かない。
兼一も手伝いを申し出、とりあえずはさっさと花見の準備を進める事となる。

一通りの準備が済み、飲み物が全員に配られた頃。
年長者であり引率者、そして監督者である桃子が立ち上がる。

「はい、では……高町家関係者一同の健康と平和と……。
 それと、素敵な友人との出会いと温情に感謝して、僭越ながら私…高町桃子が、乾杯の音頭など取らせていただきます。それでは、かんぱーい!!」
『かんぱーい!』

皆はグラスをぶつけ、それぞれに飲み物でのどを潤す。
天気は快晴、気温もちょうどよい中、ちょうど少しばかり喉が渇いてきたところだっただけに、皆おいしそうにグラスを傾ける。
そこで年長者その二、フィアッセが口を開く。

「あ……そういえば、初対面の人もいるんだよね。とりあえず、自己紹介しとこっか」
「そうだね。特に白浜さんは、皆初対面でよくわかんないだろうし」
「あ、すみません。気を使っていただいて」
「いえいえ、私もほのかからお兄さんの事は聞いてて、会いたいなぁって思ってたんですよ。
 ね、フィアッセ」
「うん。優しいお兄さんだって、ほのか自慢してたよ」
「あ、あはははは……」

フィアッセと美由希の言葉に、思わず照れて頭をかく兼一。
外人、美人の知り合いは多くおれども、こう言った普通の雰囲気を纏った人たちとの交流は兼一にはあまりない。
だからこそ、そういう人達からお世辞を言われるのには、どうにも免疫がなかった。

「はい。んじゃ、そっちから時計回りで、最後にほのかちゃんのお兄さんね」
「え!? 僕が最後ですか!」
「もっちろん♪ だって、ある意味一番の主賓だし」

朗らかにそういう桃子の笑顔に、兼一は何も言えない。
仕方ないので、『そういうのは苦手なんだけどなぁ』などと呟きつつ、静かにグラスを傾ける。

「それじゃ、私からだね。えーと、高町家長女の、高町美由希って言います。
 風芽丘の1年A組で、ほのかとは同じクラスになりますね。よろしくお願いします」

そういって、美由希は兼一に手を差し出す。
このメンツの中で、美由希と全く面識がないのは兼一くらいだ。
他の面々は、程度の差はあるが少しくらいは面識がある物同士。
必然、自己紹介をする相手も兼一がメインとなってくる。
故に、兼一もまたその手を握り返す。

「話はほのかから何度も聞いてるよ。読書と園芸が趣味なんだっけ」
「あ、はい。白浜さんもですよね」
「ああ、兼一で良いよ。白浜だと、ほのかとごっちゃになっちゃうしね」
「じゃあ、兼一さん。最近のお勧めとかってありますか?」
「そうだなぁ…………『怒りの武道』シリーズとか」
「あ、良いですよねぇ」

そうして、しばしの間愛読書談議に花を咲かせる本好き二人。
同時に、美由希はほのかから聞いた兼一のイメージが正しかった事を理解する。

(…………うん、ほのかの言う通り、優しそうな人。ちょっと、頼りない感じはするけど……まあ、恭ちゃんや勇吾さんと比べる方が…ね。
でも、手が結構ごつごつしてるなぁ。恭ちゃんとか勇吾さんの手くらいしか知らないけど、男の人の手ってこんなものなのかな。あ、園芸で土をいじったりするせいかな。細いけど、しっかりした身体してる)
(………この子、かなり強い。肩の筋肉とか、手のひらの感触からして武器使い…それも剣士っぽい。
 でも、袖とか懐とか不自然に重そうだし、暗器も使うのかな?)

相手の第一印象を自分なりに分析する二人。
ただし、美由希は兼一の事を誤解し、兼一はかなりの正確さで美由希の事を分析しているが。
この辺りは、互いのこれまでの経験と元々の才気の差だろう。
厳密には、兼一からあまりにも才気が感じられないせいというべきだが。

「えーと、海鳴中央2年5組、城島晶です。趣味はサッカーと料理、武道は明心館で空手をやってます」
「へぇ、晶ちゃんは空手やってるんだ」
「あ、はい。まぁ、一応…………って、『ちゃん』?」
「あれ? 女の子だよね」
「あ、はい。それはそうなんですけど」
「ほぉ、碌に説明もせんと晶を女と見破るやなんて、かなりの眼力の持ち主や」
「うっせぇ! …………まぁ、事実だけどよ」

『女性は殴らない』を信念とする兼一からすれば、相手の性別は非常に重要だ。
その意味で、彼がそのあたりに目端が効くのはある意味当然だろう。

晶は晶で、別に性同一性障害というわけでもない。
故に、初見で女の子と言ってもらえるのは、実は密かにうれしかったりするのだった。

「私立海中、1年3組、鳳蓮飛ゆいます」
「中国語で発音すると、『ふぇんりぁんふぇい』……かな?」
「ああ、そうです。でも、めんどっちぃんで『レン』って呼んでください」
「兼一さん、中国語できるんですか?」
「あ…うん、少しね。一応、英語とタイ語も初歩くらいなら」

なにぶん、やっている武術が武術である。中国語とタイ語は、最早必須といってもいいだろう。
また、英語はほぼ万国共通語と言っていい。
梁山泊の師匠達の事、突然海外に放りだす位はしても不思議はない以上、最低限のコミュニケーション手段は必要だったのだ。言わば、勉強の成果ではなく、必要に迫られて身に付けた技能である。
まあ、美由希達はそんなこと知る由もないわけで……。

「うわぁ、すごぉい。勉強が全然な恭ちゃんとは大違いだぁ」
「余計な御世話だ」
「必要な御世話だよ。いっつも赤点ギリギリで、今年だって進級危なかったでしょ」
「上がれたんだから問題はない」

剣一筋で勉強を疎かにしている恭也からすれば、少々耳が痛い話だ。
恭也も父士郎が生きていたら、必要に迫られてそれくらいできるようになっていたかもしれないが。
まあ、実現しなかった可能性を論じても意味はあるまい。

「趣味は、料理と漫画読書。あと……ごろ寝です」
「もしかしてこの料理って……」
「はい、分かりますか?」
「いや、だって思いっきり中華だし」
「あ、そういえばそうでしたね。
見ておわかりの通り、こっちがウチので……そっちのギトッとしたのが晶のおサルが作ったやつです」
「ケンカ売ってんのか、てめぇ!」
「買ってもええで、そんかわし5m先にぶっ飛んでもらうけど」
「もう、ケンカしちゃダメェ―――――!!」

一瞬一触即発の空気が立ち込めるも、最年少のなのはの言葉に動きが止まる二人。
はっきり言って、二人の天敵はこのなのはである。
母桃子に似たのか、どうにも逆らい難い雰囲気を持つお子様だ。
おかげで、二人はどうやらなのはには頭が上がらないらしい。

(レンちゃん、足運びとかからすると中国拳法かな。
晶ちゃんもそうだけど、かなり才能豊かな感じがするし……はぁ、いいなぁ。みんな才能があって)
「まあ、晶はどうでもええとして」
「あんだと!」
「この重箱って、兼一さんが?」
「……え? あ、うん。半分くらい、だけどね。家事とかは結構好きだよ」
「おお、ええですねぇ。家事の出来る男の人っちゅうんも」
「そ、そうかな?」

さすがに美羽の事を口にするのは気恥ずかしかったらしく、少しだけはぐらかす兼一。
正式に付き合っているわけでもない女性の事を口に出すのは、このヘタレにはちょっと無理があった。

「あれ? じゃあ、こっちのお菓子は?」
「ああ、それはほのかが……」
「え!? ほのか、料理できるの!!」

ほのかのあまりの爆弾発言に、美由希は思わずうなだれる。
一家で唯一まともに料理ができない美由希。同類の匂いを感じていたのか、ほのかもそうだと確信していたらしい。だが、それを裏切られて絶望の底に沈みそうだ。

「嘘をつけ。これ、全部谷本君が作ってくれたものだろ」
「うぐ、お兄ちゃん余計な事を……」
「お前、他の成績はともかく家庭科はいつも落第点だったじゃないか。下らない見栄をはるなよな」
「ふふふ、女の子には見栄を張らなきゃいけない時があるんだじょ。
 折角ほのかが作った分は、皆なっつんが食べちゃったんだじょ。それで代わりになっつんが作ったんだじょ」
(谷本君…………僕は今、猛烈に感動している!)

ほのかの殺人料理を他の人間に食べさせない為、というよりもほのかの株を下手に下げない為の配慮なのだろう。
あの殺人料理を死にもの狂いで食べた親友の雄姿を思い浮かべ、兼一は心の中で漢泣きする。
きっと今頃、彼は重度の腹痛に苦しんでいる事だろう。
あとで、馬剣星印の漢方を差し入れようと兼一は誓った。
まあ、内功とほのかの手料理で鍛えられた夏の胃腸は、この程度ではへこたれないのだが。

「えと、谷本君とか、なっつんって誰ですか?」
「ああ、僕の親友でね。前々から、ほのかの面倒をよく見てくれてるんだよ」
「へぇ……」

もしかしたら恋人なのかなぁ、と思わなくもない美由希。
だが、先ほどのダメージがまだ残っているのか、それ以上深くは追求しなかった。
そうして、話は再び自己紹介へと戻っていく。

「あ、高町なのはです。私立聖祥所属の、2年生…です。
 で、こっちが友達のくーちゃんです」
「くぅん?」

いつの間にか、那美のところからなのはのところに移っていた久遠が、可愛らしく首をかしげる。
とはいえ、これでは兼一達に久遠の事を「くーちゃん」で認識されてしまう。
そこで那美が、おずおずと軽く注釈を入れる。

「えっと、くーちゃんは愛称で『久遠』が名前です。で、一応私が保護者という事で」
「あ、そうなんですか。なのはちゃん、それに久遠ちゃん、よろしくね」
「はい、よろしくお願いします。ほら、くーちゃん」

兼一と握手をしたなのはは、次にくーの手(前足)を握って兼一の方に軽く引っ張る。
だが、当の久遠はというと……

「っ! くぅぅぅぅぅうううぅぅん!!!」
「わわ! ど、どうしたのくーちゃん!」

それまではなのはの腕の中で大人しくしていた久遠が、兼一が近付くと突然身をよじって逃げ出そうとしだした。
幼いなのはにそれを抑える事は出来ず、久遠はなのはの腕から逃れ、脱兎のごとく那美の背に隠れる。

「ちょ、久遠! すみません、この子、ちょっと人見知りで……」
「ああ、お気になさらず。初めての人は、それは怖いですよね」
(でも、ここまで久遠が嫌がるなんて……いったい、どうしたんだろう?)

兼一の言葉に少しばかり心が軽くなるのを感じながら、那美は首をかしげた。
確かに久遠は人見知りだし、初対面の相手からは逃げる。
しかし、ここまで激しく逃げようとするのも珍しい。
いや、それどころか、背に隠れる久遠はどこかおびえてさえいる。

別段、兼一は風貌から雰囲気に至るまで久遠がおびえる要素はなく、むしろ穏やかで優しげだ。
正直、ここまで久遠がおびえる理由が、長い付き合いである那美にも理解できなかった。

だが、兼一の素性を知る者がいれば無理もないと思うかもしれない。
兼一は、特A級の達人複数に寄ってたかって鍛えられた武術家だ。
未だ達人ではないとはいえ、その内に秘めた気迫は計り知れない。
事実、かつて殺人サバットの達人『クリストファー・エクレール』は兼一から感じたオーラを、逆鬼のそれと誤認した事さえある。
久遠の野生の勘、そして化生の勘が、兼一の奥底に秘められたその気迫を感じ取ったのだろう。
あるいは、久遠には兼一の背後に梁山泊の達人達のイメージが見えたのかも知れない。
後者の場合…………………それはまあ、逃げたくもなるだろう。

そうして、少しばかり気まずい雰囲気が流れ出す。
しかし、それでは折角の花見が台無しだ。
そこで空気を切り替えるべく、恭也が自己紹介の続きに入る。

「高町家の長男で、風芽丘3年G組の高町恭也です。
 趣味は寝る事……特技は、どこでも寝られる事」
「寝てばっかりだよ、恭也」
「ホント、この子は若さがないわ」
「恭ちゃん、兼一さんを見習ってもう少し若者らしくしようよ」
「お兄ちゃん、なのははどこか悲しいです」

とはいえ、結局は家族総出でダメ出しを喰らってしまうのだが。
だが、それを見た兼一とほのかは、思わず噴き出す。
まあ結果として、場の雰囲気が良くなったんだからよしとしよう、そう恭也は思う事にした。

そうして、ついに自己紹介は高町家以外へと移っていく。
その筆頭は、黒髪ロングの美少女『月村忍』からだった。

「月村忍です、高町君のクラスメイトで…隣の席です。
 …趣味、読書とゲーム、あとは映画かな? みんなはゲームや映画は?」
「俺や美由希はやらないが、他は結構やるらしい」
「うちではゲームはなのはが一番だね。映画は、もっぱらレンタルで借りて家族で見る感じかな。ほのかは?」
「私もゲームも映画も好きだじょ」
「あはは、僕はあんまり……暇があれば本を読んでる事の方が多いかな。暇があれば」

あえて「暇」を二度繰り返す兼一。
基本、彼に暇な時間など存在しないのだから、繰り返したくなるというものだ。

「赤星勇吾です、二人と同じクラスで、剣道部をやっています」
「勇兄は、県一位、全国十六位の選手です」
「「「「おぉぉ!」」」」

赤星の経歴に、思わず兼一やほのか、それに忍や那美が驚きの声を洩らす。
兼一からすればたいした事もないように思えるが、なにぶん根が小市民。
そういった大会で好成績を収めていると聞けば、やはり「凄いなぁ」と思ってしまうのだ。
本人はDofDで優勝した事もあると言うのに……。

「あ、いや、それほどでも。同世代でも、勝てる気がしない相手は結構いるし……身近にも、な」
「やっぱり、全国優勝とかする人は強いってこと?」
「ああ、いやまあ、確かに強いんだが……」

忍の質問に、勇吾は切れの悪い返答をする。
そっち方面に多少理解がある那美は、なんとなく勇吾の言わんとする事を理解した。
つまり、『大会に出て来ない』あるいは『大会に出られない』タイプの強者を指しているのだろうと。

そして、それに気付いたのは那美だけではない。
当然と言えば当然なのだろうが、兼一もまたそれが高町兄妹を指している事に気付く。

(恭也君、たぶん妙手クラスの実力はあるだろうし、確かに彼じゃちょっと敵わないよね。
 美由希ちゃんにしても、かなりいい線いってる気がするし)

命懸けの戦いをいくつも乗り越えてきた兼一にとって、敵の力量を把握する能力は必須だった。
故に、兼一の他者の戦力を見切る能力は、経験不足の恭也や美由希を遥かに凌駕する。
まあ、元から彼のいじめられっ子の勘はかなり鋭敏なので、そのせいもあるし、逆に彼自身がいくら強くなってもイマイチそれが外見に反映されなかったりするのも、原因の一つなのだが。
何しろ、いつまでたっても根が小市民な兼一は、一向にそう言った凄味や匂いを纏わない。
これは、最早一種の才能の領域だろう。

だが、もう一人余計な奴がそれに気付いてしまった。
それも、美由希達にとっては一番気付いてほしくない人間が。

「それってもしかして、みゆきちとか高町先輩の事?」
「え!? ああ…いや、それは……」

突然の事に思わず慌てふためく美由希。
それは何よりも雄弁に、ほのかの言葉が事実である事を物語っていた。

「もしかして、なのはちゃんも?」
「ふえ!? ち、ちがいますよ、わたしはぜんぜん!」

しかし、ほのかが的外れにもなのはもそうなのかと勘違いしたことから、少し美由希の緊張も緩む。
どうやら、何か明確な心当たりがあっての発言ではないと思ったらしい。
まあ、それ自体は全く持ってその通りなのだが。

同時に恭也は、「まあ頃合いか」とどこか達観した心境で諦める。
別に、要はそこまで詳しく話さなければいいだけなのだから。

「じゃあ、美由希ちゃんと高町君が『剣道家』で、赤星君よりも強いって事?」
「…………………わたし、勇吾さんにはまだまだかないませんよ」
「うちは兄妹そろって『剣術家』。古流を少々かじってる」

少々かじっているなどというのは謙遜どころか最早嘘の領域なのだが、一応美由希の心情を慮ってそう語る恭也。
美由希は美由希で、そんな恭也の言葉に軽く安堵のため息を突く。

「あの、うちも剣道道場なんです。神咲一刀流って言う、マイナーな流派ですけど」
「へぇ、俺は草間一刀流」
「あ、凄いメジャーですね」
「高町君は?」
「永全不動八門一派・御神真刀流、小太刀二刀術。略して御神流」

あまり情報を渡したくない恭也は、可能な限り簡素な情報だけを渡す。
もとより剣の流派になど詳しくないほのかにはそれがどういうものなのかわかる筈もなく、兼一もまたもう何年も目立った風聞の流れないその流派に聞き覚えはなかった。
そうして、恭也は余計な事を詮索される前にこの話題を断ち切る。

「失礼、自己紹介の途中だったよな」
「あ、えーと、神咲那美です。風芽丘の2年E組で、西町の八束神社で管理代行と巫女をやっています」
「おお、巫女さんだじょ……」
「こら、物珍しそうに見るな、失礼だぞ」
「あ、あははは、お気になさらず。実際、巫女なんて珍しいですから」

まだそこまでは知らなかったのか、珍しそうに那美を見つめるほのか。
それを兼一は軽く諌めるが、那美にこう言われてはあまり強くも言えない。

「フィアッセ・クリステラです。
職業は海鳴商店街『喫茶翠屋』のチーフウエイトレスと、ちょっとだけ歌手の卵もやっています」
「クリステラ?」

その名にどこか聞き覚えがあったのか、兼一は軽くつぶやいて首をかしげる。
もしかすると、ジークフリート辺りから名前くらいは聞いた事があるのかもしれない。
まあそれでなくても、彼女の母は世紀の歌姫とまで称された歌い手だ。
別に、そんな面倒な経由がなくても、普通に知っていてもおかしくない。
だが、まさかそんな有名人の関係者がこんなところにいるとは、露とも思わない兼一だった。

「高町桃子です。ここら辺の子ども達の保護者と、喫茶翠屋の店長もやっています」
「ほら、この前持って行ったシュークリーム、アレを作った人だじょ」
「ああ、なるほど。大変おいしく頂きました」
「いえいえ、喜んでいただけたなら何より!」

こうして、とりあえず一通りの自己紹介は終わった。
残すは、白浜兄妹だけである。

「じゃ、先にほのかから。みゆきちと同じ風芽丘1年A組の白浜ほのかで~す。
 趣味と特技はオセロ! これに関しては、ちょっとうるさいじょ」
「そんなに強いの?」
「あ、フィアッセは見た事なかったっけ。正直…………すごいよ」
「俺、一度も勝った事ありません」
「ウチもや」
「恭也は?」
「聞くな」

どうやら、この場のほとんどの者が為す術もなく惨敗しているらしい。
まあ、おそらくはあの岬越寺秋雨よりもほのかはオセロが強い。
その彼女に勝てる者など、早々いる筈もない。

「えっと、ほのかの兄で大学1年の白浜兼一です。
 趣味は読書と園芸、あとは家事全般…かな?」
「ああ、このお料理とか美味しいですね」
「そうね、何かが際立ってるってわけでもないんだけど、素朴な感じで私は結構好きかな」

那美や忍は、兼一の料理をそう評した。
特別際立った何かがあるわけではない兼一の料理だが、武術同様基礎をしっかり押さえたその腕前はそこそこのもの。無論、プロである桃子や、そのプロに食事を提供する晶やレンには及ばないが。

「でも、この和菓子なんて素敵よねぇ。私は洋菓子専門だけど、こう言う日本の心は好きよ」
「ああ、それは僕の友人が作ってくれた創作なんですよ」
「ねえ、もしよければレシピとかその人に教えてもらえないかしら?」
「あ、多分大丈夫だと思いますから、聞いてみて、今度ほのかに持たせましょうか?」
「お願い!」

兼一の提案に、桃子は即座にその手を握り返す。
彼女とて和菓子に全く縁がないわけではないが、美羽の和菓子の腕はかなりのもの。
独自の創意工夫もされているそれに、一人の甘味好きとして心をくすぐられない筈もなかったのだろう。

「それと、特技…………というほどの物ではありませんけれど、僕も格闘技を少々」
「あ、そうなんですか」
「へぇ、どんなのをやってはるんですか?」
「もちろん、空手ですよね」
「アホぬかせ、おサル。当然、中国拳法ですよね?」
「あんだとカメ!」
「やるかおサル!」
「だぁかぁらぁ! ケンカはダメ――――――――――!!」
「あいたたたた! なのちゃん耳、耳!!」
「うちらが悪かったから、耳離してぇ!」

懲りない二人に、ついに軽い実力行使に移るなのは。
そんな様子を苦笑いしながら見つめる一同。
どこからどう見ても、双方の力関係は明白だ。
そこで、那美がもう一度先ほどの話題に話を戻す。

「それで、どんな格闘技を?」
「ああ、実は……………………………………空手」
「おお、やっぱそうですよね!」
「うぬぬ、なんやその勝ち誇った顔は!」
「べっつにぃ~」

なのはに耳を引っ張られながらも、薄い胸を張る晶。
それを見て、忌々しそうに臍をかむレン。
だが、話はそこで終わりではなかった。

「と、中国拳法とムエタイと柔術を」
『ブ―――――――――――――――!!??』

兼一の口にした、突拍子もないその言葉に、思わず飲んでいた物を吹く一同。
如何せん、それなり以上に武術に通じた者が多い場だ。
兼一の学ぶそれのあまりの幅広さに、そういうリアクションを返してしまうのも無理はない。
そして、晶とレンが爆発する。

「片手間で空手を」
「片手間で中国拳法を」
「「やるなぁ――――――――――――!!」」
「わ!? そ、その……ごめんなさい!」

実は片手間でも何でもないのだが、晶達がそう思ったのも無理はない。
かつて兼一も言った事だが、一つの武術を修めるだけでも大変なのだ。
それを、こんな多種多様な武術をまとめて学ぶなど、まじめにやってる人たちから怒られても無理はない。
まあ実際には、彼は死にもの狂いで武に打ち込んでいるのだが……それこそ、魂がすり減るほどに。

とりあえず、晶達が殴り掛からなかっただけよしとしよう。
もし殴り掛かられていたら、今頃二人は無傷のまま制圧されていただろうし。
そうなっていたら、一途に打ち込んでいる自信を木っ端微塵にされていたかもしれない。

「そんなに色々やって、大丈夫なの?」
「え、ええまあ、なんとか」

苦笑いしながら、誤魔化す様にフィアッセ達に手を振る兼一。
やはり、普通の人たちから見ると、自分のおかれた状況は異常なのだと再確認するのだった。
しかしそこで、恭也と美由希の二人はこっそりと密談する。

(御神の事は、言わない方が良かったか?)
(ううん、そんなことないよ。別にあれくらいなら、ね。
まあ、兼一さんが武術をやってるのはちょっと驚いたけど……)
(それにしたところで、一般的な運動の範囲だろ。身体は鍛えているようだが、悪いが才能がない)
(ああ、やっぱり)
(それが全てとまでは言わないが、あそこまでまるでないとな。だが……)
(どうかしたの?)
(……………………………………………いや、何でもない)
(そう……まあ、恭ちゃんがそう言うなら、別に良いけど)

この時、二人は僅かなヒントを見逃した。
兼一が使った「柔術」という単語。
普通に考えればそこは「柔道」という筈の部分である。
この点から、兼一が普通の武術家ではない事に気付けたかもしれない。

あるいはもう少し注意深く観察していれば、兼一の妙に安定した重心や些細な足運びなどから、只者でない事に気付けただろう。
だが二人は、兼一のあまりの才能の無さ…その第一印象からそれらを見落としてしまった。

恭也は一瞬、その違和感に気付きかけたのだが……結局はそれを勘違いと思ってしまったのだ。
これがこの先、どう影響するのやら……。

その後、とりあえず自己紹介を終えた面々は、予定通りに本格的に宴会に移行した。
具体的には、年長者二人や忍や赤星などは酒を楽しみ、他のお子様と子ども舌は甘酒をという具合だ。

「お、兼一君もいける口ねぇ」
「兼一はお酒、好きなの?」
「どうでしょう?
 特別好きってわけでもなかったんですけど、少しずつ飲んでいたら最近少しおいしさがわかってきた感じです」
「ふ~ん、うちの恭也はどうにもお酒のおいしさが分からなくてねぇ」
「桃子も士郎もお酒好きの甘味好きなのに、恭也は全然だもんね」
「ホントよ。あ~あ、息子とお酒を酌み交わす夢は、美由希やなのはに託すしかないかぁ」
「悪いと思わなくもないが、こればかりは体質と味覚の問題だ」

別段、恭也は酒が飲めないわけではないし、甘味も嫌いなわけではない。
しかし、どうにも酒のうまさが分からず、甘いものへのトラウマがある。
おかげで、桃子としては少しばかり息子の嗜好に不満があるわけで。

兼一も、まあ恭也の気持ちがわからないわけではない。
彼もはじめのうちは、酒のうまさなどよくわからなかった。
だが、かつて逆鬼は漏らした「いつか達人の世界まで辿り着いた時、その時は一杯酌みかわしてみたい」と。
その時の言葉は今も兼一の胸に残り、彼自身もそう思った。
だからこそ、兼一はその時に「飲めません」などと言いたくないが為に、少しずつ飲んでみるようになったわけである。その結果として、最近少しは酒の味というものがわかるようになってきた。

「ま、母の仕事に理解のない息子の事は置いとくとして…………だれか、歌わない?」
「兼一さん、歌ってみませんか?」
「え!? ぼ、僕!?」

突然美由希から振られたその提案に、兼一は動揺を露わにした。
そして、当然他の面々もそれを推し進めようとする。

「お、いいねぇいいねぇ、行ってみよう!!」
「折角だから、恭也と勇吾も一緒に歌ったら?」
「って、俺もですか!? 俺は、歌はちょっと……」
「良いでしょ♪ ほら、赤信号みんなで渡れば怖くないっていうし」
「微妙に何かが間違っている気も」
「ひゅーひゅー♪」
「お師匠、お願いします!」
「勇兄もたまには歌いなって!」

そうして多勢に無勢には敵わず、男三人で歌う事となる。
まあ、三人そろってそこまでその方面に明るいわけでもないので、歌そのものは可もなく不可もなくだったが。

「ったく、こう言うのは本職とか好きな人がやればいいだろうに」
「いや、全国でもここまで緊張はしなかった」
「すまなかった、うちの母親が無茶を言って」
「あはは、僕はそれほど」

恭也の謝罪にそう答えつつ、密かに「長老だったら一人デュエットを披露してるところなんだろうなぁ」などと考える兼一。
まあ、実際普通に健全な高校生活も送っていた彼は新白の面々とカラオケに行く事もあったし、二人ほど歌う事への抵抗は少ない。いや、二人の場合フィアッセという歌い手がいるせいというのが、主な理由かもしれないが。

「う~ん、今度は私が歌おうかな。ほら、美由希も一緒に歌おう!」
「え、私も一緒に!?」
「兄に歌わせておいて、お前が逃げる気か? 文句は言わさん」
「あぅ、酷いよ恭ちゃん」
「じゃ、男の子三人に対して、こっちは女の子三人って言うのはどう?」

そう言って、フィアッセと美由希に続き、忍も参加する。
では、さあ何を歌おうとなった時。

「忍は、何かある?」
「それじゃあ、SEENAでETERNAL GREEN何てあります?」
「あ、あるよ。そっか、忍はSEENAが好きなんだ」
「えへへ」

フィアッセとSEENAの関係を知る面々は、はにかむ忍に優しげな視線を送る。
この付き合いが今後も続けば、いずれそのSEENAと会う事もあるかもしれないから。

そうして、メロディが流れ始め、三人は歌い始める。
プロであるフィアッセは「プロだから当たり前」と思えるレベルをはるかに上回るそれを披露し、そんなフィアッセを見て、その歌を聴いて歌を覚えた美由希もその美声を披露した。
忍もまた、フィアッセの歌を聞きなれた恭也をして「上手い」と率直に思わせる歌を紡ぐ。
やがて歌い終わる三人、そこで拍手喝采が浴びせられた。

「忍ちゃん、やっるー!」
「ホントだじょ~」
「綺麗だったねぇ、くーちゃん!」
「くぅん♪」
「フィアッセさんと一緒に歌っても違和感ないって……」
「すんごいレベルやなぁ」

女性陣は口々に三人を称賛し、晶とレンなど、まがりなりにもフィアッセについていった忍に驚きを隠せない。
同時に男性陣の側も、想像以上のそれに驚きを通り越して感慨深いため息を突く。

「いやはや、大したもんだ」
「三人とも、凄いですねぇ」
「確かに、美由希はともかく…月村は本当に驚いた」
「あ、恭ちゃん、なんか言った?」
「いや、別に」
「ふ~ん、聞こえてるんだから」

耳ざとく恭也の言を聞いていた美由希は、機嫌を損ねたのか不貞腐れる。
それなりに、今の歌に手応えの様なものを感じていたのだろう。
まあ、素直に妹をほめない恭也もどうかと思うのだが。

「でも、忍はホントにすごいねぇ。ちゃんとレッスンを受ければ、プロになれるよ。
 良い先生、紹介しようか?」
「あはは、ありがとうございます」

あまり人前で歌を披露した事がないのだろう。忍はフィアッセの手放しの賛辞に思い切り照れている。
そうしているうちに、時は刻々と過ぎて行く。
気付けば、いつの間にか空は夕焼けに染まり、もう良い時間となっていた。

「はー……お弁当もほとんど空だし、桜もいっぱい見たし…そろそろお開きにしよっか」
「じゃ、燃えるごみはこっち、燃えないごみはあっちの袋ね」

年長者達のその言葉と共に、皆は頷き、それぞれ帰りの支度を始める。
兼一やほのかもまた、辺りに散らばった細かいごみを集めそれぞれ分別して袋に入れていく。
とそこで、恭也が兼一に声をかけた。

「わるい、片付けまでやってもらって……」
「あはは、折角楽しませてもらったんだから、これくらいは、ね」
「別に、それは気にしなくていい。うちの女衆が強引に進めた事だしな」
「そっか。高町君としては……」
「ああ、多分同い年だから、呼び捨てでも構わないぞ。俺は、一年留年したようなものだしな」
「あ、そうなんだ」
「ああ、そうなんだ」

そう、兼一は一応このメンツの未成年の中では最年長だが、それは恭也も同じ事。
高校と大学の違いはあれど、一応二人は同い年だ。

「う~ん、ごめん。やっぱり、しばらくは君付けになりそうかな」
「…………そうか。まあ、無理強いするような事でもないか」
「ごめんね。だけど、僕の事も兼一で良いよ、高町君」
「ああ、そうさせてもらう、兼一」

そう言って、二人はどちらからともなくその顔に微笑を浮かべる。
それを傍で見ていた美由希やフィアッセなどは……。

「わ、珍しい。恭ちゃんが笑ってる。
なにか波長でもあったのかな? そういう要素、兼一さんはあんまりなさそうだけど」
「そうだよね。どちらかというと、美由希と波長が合いそうな感じなんだけど……」

それは、互いに手のかかる妹を持つ事へのシンパシーなのか。
それとも、道は違えど武人として生きる者同士の無意識の連帯感なのか。
あるいは、あまりにも普通人すぎる兼一に、毒気を抜かれたのかも知れない。
まあ、それはともかくとして……

「はー……いいきもち」
「………くぅ~ん」
「じょ~……世界がま~わ~る~」

調子に乗って甘酒を飲み過ぎて二人と一匹は、見事なまでに酔っぱらっていた。
たかが甘酒で、よくもここまでよ得るものだと周りの物を呆れさせはしたが、同時に微笑ましくも思われている。

「ちょ、二人とも大丈夫?」
「はぁ、美由希さん………ええと…おろろ?」
「うぅ、みゆきちぃ~……ゴメン。むぎゅ」
「へ? あわわ、わ!?」

二人に同時に倒れこまれ、それを支えきれずに一緒に転ぶ美由希。
二人は、美由希の胸に顔をうずめる形だ。
兼一と恭也はそれを見て、そろって「やれやれ」と肩をすくめていた。

その後、無事片付けを終えた面々は、それぞれ帰宅の途に就く。
白浜兄妹は途中まで、高町家は家まで忍が手配した車で送ってもらった。
そうして、流れ解散で忍や那美などがその場を離れたところで、唐突にほのかが美由希にある提案をする。

「ねぇみゆきち」
「ん? どうしたの?」
「いやぁ、良ければなんだけど、今度お兄ちゃんの道場に来てみない?
 ほのかは武術とかそういうのはよくわかんないけど、すっごい人が結構いるじょ」
「あ、その……」

ほのかの提案に、美由希は一瞬体をビクリと震わせ、その後口ごもる。
彼女が学び磨く剣は、普通の道場で学ぶそれとは違う。
てっきり兼一の道場を普通のそれと思いこんでいる美由希には、どうしても気おくれがあった。
そんな様子を、高町家とその関係者一同、及び兼一は思いは違えど静かに見守る。

「えっと、ありがとう。でも…………ごめんね」

理由もなく、ただ謝罪。
それでは到底納得などできないと承知しているが、それでも美由希にはそうとしか言えなかった。
ただその顔には、どこか今にも泣き出しそうな弱々しい表情だけがある。

「無理にとは言わないけど、ほのかもちょっとみゆきちのやってる事がどんな事なのか見てみたいんだけど……」
「ごめんね、本当に…………ごめんね」
「むぅ……」
「ほのか」
「…………………………………わかったじょ」

兼一の制止の声で、ほのかはそれ以上に言い募ろうとはしなかった。
兼一が武人であると知っているからこそ、自分では分からない何かを共有できたのかもしれないと、そう思ったのだろう。
実際には、兼一も美由希や恭也が武の道を行くのであれば、一度梁山泊に来てもいいかもしれないと思う。
確かにあそこの修業は常軌を逸しているが、それでも高みの存在を知る事は武術家として有意義だ。
その高みの最果てにいるであろう師達と会い、同じ武器使いであり、その極みにいるしぐれと話すことで、二人が得るものはきっと少なくない。

そう思っていても、美由希や恭也の目の奥にある何かが、兼一にそれを躊躇わせた。
いずれはそうした方がいいのかもしれない。だが、今はまだなのではないか。
あるいは、何か手順が違っているのかもしれないと。兼一は、直感的にそう思った。
だからこそ、ほのかがそれ以上言い募ろうとしたのを止めたのだ。

「まあ、その内に機会があれば来てください。師匠達も、きっと歓迎してくれると思いますから」
「ああ。それなら、いつか顔を出させてもらう」

美由希に代わりに、恭也が兼一にそう答えた。
それは、本心からというものではない。ただの社交辞令、少なくとも彼はそのつもりだった。

「それじゃあ、僕たちはこれで。今日は、ありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ。ほのかちゃんだけじゃなく、あなたも遊びに来てくれると、桃子さんうれしいな」
「そうだね、恭也もきっと喜んでくれると思うんだ。ね、恭也」
「まあ、その時は歓迎する。美由希の花壇でも、見てやってくれ」
「うん、その時はそうさせてもらおうかな」
「また、来てください。そうだ、今度軽く組み手でもしませんか?」
「アカンアカン、こんなおサルと組み手なんてしたら、それこそ怪我してまいます」
「んだと!」
「ほんまやろが!」
「もう、一日に何回ケンカすれば気が済むの、二人とも―――――――!!」
「「こいつの息の根を止めるまで(だ・や)!!」」

疲れている筈なのに、そんな事まるで感じさせずにヒートアップする二人。
そんな二人を、兼一は「アハハ」と苦笑しながら見つめ、特に止めようとはしなかった。

「じゃ、みゆきち。また今度学校でね」
「あ…………うん」

どこか、まだ何かを引きずっているような様子の美由希。
そんな美由希にほのかはどこかさびしさを覚えつつ、追及はしない。
先ほど兄に言われたばかりだし、彼女でも空気を読むくらいはするのだ。

そうして、二人は高町家の門前を後にする。
残されたのは、少々心配そうに美由希を見つめる高町家の面々と、相変わらず沈んだ表情の美由希。
そこで恭也は少し強めに美由希の背を叩き、声をかける。

「いつまでそうしている。そうやって沈みこんでいるほうが、彼女に対してよっぽど悪いぞ」
「うん、分かってる、分かってるんだ。でも、やっぱり…なんだか、寂しいよ」
「寂しい思いをさせているのはお前だ」
「そう、なんだよね。我ながら、意気地がなさ過ぎて情けないよ」

優しい言葉をかけてくれない兄に、別に美由希は不満など持っていない。
これが恭也なりの思いやりだと、長い付き合いの彼女は理解している。
だからこそ、思うようにならない自分の心が情けなくて仕方なかった。

兼一がまがりなりにも武術をしている。たったそれだけのことで、彼女は揺らいだ。
別に見せるだけなら剣技、それも基本的な剣技だけを見せればいいと、自分なりに考えて割り切った筈なのに。
普通の武道家からすれば、それだけで御神の剣の本質を見抜く事などできないと分かっている。
にもかかわらず、美由希は迷う。
万が一にも、御神の剣の本質を知られ、それとそれを学ぶ自分を否定される事が怖かった。
ほのかを、大切な友人だと思うからこそ。

そうして数分後、美由希が門の方に足を向けるのに合わせて、他の面々も高町家の中に入っていこうとする。
だがそこで、弾かれた様に恭也が反応した。

「誰だ!?」
『え?』

突然振り向き、大声を上げて臨戦態勢を取る恭也。
その意味が分からず、疑問の声と表情を浮かべる他の面々。
しかし、美由希だけはその意味をやや遅れて理解する。

「恭ちゃん!」
「何者…………………いや、どう言うつもりだ。
 こんな住宅街のど真ん中でその敵意、その殺気、穏やかじゃないぞ」

美由希の呼びかけには応えず、恭也は少し先の曲がり角から目を逸らさない。
まるでそこに、親の仇でもいるかのように厳しくも鋭い眼光。
普段の恭也ではなく、美由希と稽古している時の…いや、それ以上に鋭い戦闘者としての高町恭也の眼だった。

そして、ゆっくりと角から誰かが姿を現す。
夕暮れ時を過ぎ、すでに周囲は半ば夜の帳に包まれかかっている。
そんなやや暗い住宅街に姿を現したのは、頭からすっぽりとフードを被った…いや、フード付きのコートをまとった黒尽くめの男だった。

上も下も、手袋をはめた手も漆黒。
ところどころに意匠を凝らした装飾はあるが、それ以外ではほぼ全てが黒一色。
もし完全に夜の闇に紛れてしまえば、並みの者ではちょっとやそっとのことでは気付かないだろう。

そしてその男は、一見すると無造作に腕を組んで立っているだけだ。
だが、実際には違う。
むしろ、その姿勢と放たれる威圧感から、即座に恭也と美由希は相手の力量が尋常なものではないと察知する。

(本当に何者だ。この気当たり、並みじゃない……)
(スゴイ、全然隙がない。この人…………………………………強い)
(迂闊だった。あるのは飛針と鋼糸だけ。小太刀は中か……)
「不破、恭也だな」
『っ!』

その名前の意味を知る者たちは、全員が息をのむ。
久しく使われなくなったその名前。その名を口にしたこの男に、恭也達は最大級の警戒心を抱く。
もしかすると、かつて御神と不破を壊滅させた者の関係者かもしれない、そう思ったのだ。
そこで、恭也は絞り出すように言葉を紡ぐ。

「人違いだ。俺は『不破』ではなく『高町恭也』。不破とやらを探しているなら、余所を当たれ」
「永全不動八門一派・御神真刀流、小太刀二刀術師範にしてイギリスの上院議員を守って殉職した達人、『不破士郎』の実子。そして、自身もまた御神流の師範代、訂正はあるか」

それは確認作業というよりも、その事実を突き付けているかのように鋭く重い言葉。
そして、自身の素性をそこまで調べた上で対峙した相手に対し、最早言葉で追い返そうと言う気は恭也にはない。
相手は明らかに敵意を抱き、戦う腹積もりでいる。
この期に及んで話し合いで解決するなど、恭也には到底思えなかった。
故に、恭也は尋ねる。自身の前に立つ、この敵の名を。

「貴様……………何者だ」
「……………………………………………ハーミット(隠者)」






あとがき

正直、最後の台詞はいるかどうか迷ったんですが、どうせ隠す意味もないでしょうし、出すことにしました。
とりあえず、兼一は一般人として高町家とお近づきに。
そして、あのシスコンにしてロリコンのツンデレなイケメンは、なぜか恭也にケンカを吹っ掛けることに。
なんでそんな事をしているのかは…………まあ、次には明らかになります。

そして、次は(たぶん)皆さんお待ちかねのバトルパート。
いや、Redsと違って純粋に武術だけの戦いなだけに、上手くやれるか結構心配です。
下手すると、酷く戦闘シーンがつまらなくなりそうな気がチラホラ。上手くやれるよう祈っていてください。



[24054] BATTLE 4「月下の拳士」
Name: やみなべ◆d3754cce ID:1963cf14
Date: 2010/11/23 13:11

時間は少々遡り、兼一達が花見に参加するその前日。
その時谷本邸の主である夏は、自宅の玄関先で奇怪な生物が向かい合っていた。

「おいおい、折角来た客にこんなところで話をさせる気か?
 居間に通して、丁重に迎えるのが道理ってもんだろ」
「黙れ。それは相手が人間の時の話だ。
敷居を跨がせてもらえただけでもありがたく思えよ、宇宙人」

肩を竦めて呆れる新島に、夏はブリザードの様な冷たい視線と口調で応じる。
それも土間にいる相手を、自分は廊下から見下ろしている形だ。
これ程までに明確な拒絶の意思表示もまたない。
にもかかわらず、新島はどこ吹く風といった様子でそれを流す。

「ヒャヒャヒャヒャ! 合鍵を預けてる親しい友人を迎える態度じゃねぇな」
「誰と誰が親しいんだよ!? 合鍵だっててめぇが勝手に作ったんだろうが!!」
「ま、それは横に置いておくとして」
「勝手に横に置くな!!」

いちいち癇に障る事を口にする新島と、それに尽く激昂する夏。
どう見ても、新島の方が一枚も二枚も上手である。
如何に腕っ節で勝るとはいえ、この悪魔が相手では分が悪かろう。

「と言いつつ、こうして茶も出してるじゃねぇか。
 律義なんだか、嫌味なんだか………それとも、お前の家ではこれは茶漬けの代わりなのか?」

そうして、玄関で茶をすする新島。はっきり言って、その光景は「異様」だ、そして同時に「矛盾」している。
何しろ、玄関から先に通す気がないのは明白なのにもかかわらず、茶だけはしっかり出しているのだ。
これでは確かに、京都のお茶づけに相当する意味でもあるのではないかと勘繰りたくなるだろう。
だが実際には……

(ちぃ! あのバカ妹のせいで、すっかり茶を淹れるのが癖になっちまった!)

ひとえにほのかの薫陶の賜物である。
まあ、玄関先で押しとどめている相手にも茶を出してしまう辺りが「らしい」と言えば「らしく」もあるが……。

「ま、今は別にいいか。
 ほれ、頼まれてた情報だ。大勢調査員を雇ってるくせに、相変わらず使い方が下手だよな。
 昔も言ったがな、調査員なんてのはこき使ってなんぼだぞ」
「けっ、他人の調査員をいつの間にか私物化してる野郎が言うんじゃねぇよ!」

そう憎まれ口を叩きながらも、夏は投げ渡された報告書に目を通す。
その内容は夏の期待通り……いや、それ以上だ。
改めて夏は、この地球外生命体の人を操る能力と情報収集能力に驚嘆する。
まあそんな事は、「闇」の拠点の情報を自力で入手した時から分かり切っていた事だが……。

(調査員だけでこれだけの情報を集められる筈がねぇ。
 って事はこいつ、またどっかやべぇ所に忍び込みやがったな)

別段、夏は新島の身の安全を心配しているわけではない。
というよりも、そんなものは杞憂だと知りつくしている。
こと身を守る術において、この男は特A級の達人級といっても過言ではないと、彼を知る者たちは確信しているのだ。
実際、逃げ足の速さと生存能力の高さはゴキブリも裸足で逃げ出すだろう。

「にしても、なかなかおもしれぇ連中じゃねぇか」
「ふん。また新白にでも引き込むつもりか?」
「ウヒャヒャヒャ、それも良いな! うちは無手の連中ばっかしで、武器使いはフレイヤくらいしか戦力にならねぇ。ここは、兼一とほのか使って引きずりこむか……」
(マジだな、この野郎)

あごに指を当て、何やらコンピューターのような音を頭部から出しながら思案する新島を見て、夏は脂汗を流す。
彼には分ったのだ。冗談のつもりで言った今の一言を、新島が実に大真面目に考慮している事が。

そして、この男が本気で動きだせばそれは十分実現しうる。
これまであらゆる手練手管、口八丁手八丁で駒を増やしてきたのだ。
どんな手段を講じているのかは分からないが、こいつは狙った獲物を逃がす男ではない。

(この宇宙人に目を付けられたのが運のつきか…………同情するぜ)

ある意味原因は自分だと言うのに、そんな事は遥か彼方に捨て去り、勝手な事を考える夏。
この男も、これでなかなかに図太い神経と図々しい性格をしている。

「で」
「あん?」
「俺様に借りまで作ってそいつらを調べさせたわけだが、どうするつもりだ?」
「てめぇには関係ねぇだろうが」
「…………そうかよ」

夏の態度は実に失礼だし、本来なら礼の一つもあってしかるべきであろう。
だが、自身の質問に取りつく島もない夏に対し、新島もそれ以上追及しようとはしなかった。
長い付き合いだ、こういう時の彼に何を聞いても答えが得られない事を知っているのだ。
優れた観察眼と洞察力、即ち「新島アイ」を持つこの男でも、心を隠すことに長けた夏の本心を見抜く事は難しい。

まあそれ以上に、彼が動く分にはそう悪い事にはならないだろうと言う確信があるのだ。
好戦的で傲慢で高飛車な男だが、それ以前に一本筋の通った武人である。
そしてもっと根本的な問題として、この男がほのかの不利益になる様な事をする筈がないのだから。

そんな前日の出来事を思い返しながら、新島は高町家から少々離れた高台から指で作った輪を覗き込む。
そう、「新島アイ」の探索モードである。

「さぁて、高町恭也。おめぇが俺様の役に立つ男かどうか、しっかり見極めさせて貰おうじゃねぇか」



BATTLE 4 「月下の拳士」



「……ハーミット、だと?」
「……………」

恭也の問いに対し、ハーミットと名乗った男はそれ以上何も語らない。
相変わらず腕は組まれ、脚は無造作に肩幅に開かれたままだ。
にもかかわらず、恭也の額からは一滴の汗が流れる。

(御神と不破を全滅させた連中…………とは無関係だろう。
 連中とでは手口が違いすぎるし、いまさらになって俺達の前に現れる理由もない。
 だが、だからこそわからない。こいつ、何が……)
「あなた、こんな時間にうちの子に何かご用でしょうか? 良ければ、中で話でも……」
「下らん」

状況が良くわからないなりに相手の目的を知ろうとかけられた桃子の言葉は、酷く冷たい声音で拒絶された。
彼女とて、相手が普通の用件で現れたわけでないことくらいはわかっている。
仮にも高町士郎の妻であった桃子だ、相手がある意味で、通常の暴漢などよりももっと性質の悪い人種であると直感的に感じ取っていた。
しかしそれでも、ここまで取りつく島がないとは思っていなかったようで、気圧されたように半歩下がる。

「武人同士が対峙したのなら、する事は一つ。死合うだけだ、違うか不破恭也」
「ま、待ってください! こんな街中で……!?」

暴論としか思えないハーミットの言葉に、即座に美由希が反論しようとする。
だがそれは、彼女にとってあまりにも意外な人物によって制された。

「やめろ、美由希」
「……恭ちゃん!?」
「着衣は動きやすい道着や練習着とは限らない。板張りの道場で実戦が行われる事などない。
 だからこそ俺達は、それに備える為に毎日森の中で打ち合っていたんだぞ」
「そ、それは、そうだけど……こんな辻斬りみたいなの……」
「それも含めて武の世界だ。下手な事を口にすれば、自分の格を下げるぞ」
「フン! 武器などというオモチャを使う割には、少しは戦いの機微をわきまえているようだな」
「なに?」

それまで警戒こそしているが冷静さを保っていた恭也の表情に、鋭い険が生じた。
眉根は寄せられ、全身からは怒りの気配が滲みでる。
当然だ、自身が長い時間を賭けて研鑽してきた術を、たった今侮辱されたのだから。

恭也は別段、無手の武術を軽んじているわけではない。
だが同時に、武器を持つ者の方が有利であると言う事も疑ってはいない。

しかしそんな事とは無関係に、自身の技に誇りを持っていた。
一武術家として、先人たちから伝えられ、父から教わり、妹と共に今日まで練磨し続けた小太刀の技に。
その誇りを軽んじられて、どうして平然としていられよう。

「さっき、訂正はあるかと言ったな」
「フッ。なんだ、何か気に障る事でもあったか?
 俺は厳然たる事実しか口にしてはいないぞ」

恭也が何に怒っているのか、ハーミットは理解していた。
にもかかわらず、尚も彼は恭也の誇りを軽んじ続ける。

「武器など所詮はオモチャだ。己が肉体に自信がないからこそ、薄汚い鉄屑に頼らなきゃならねぇ。
 真の武術、覇者の業にそんな惰弱な物は不要!」
「…………言ったな。ならばその傲慢の代償、その身を以って払ってもらうぞ」

美由希を始めとした、恭也をよく知る家族達は恭也からわずかに距離を取り、息をのむ。
彼の怒りの気配を感じ取り、それに気圧されたからだ。
レンや晶などは、いっそハーミットに同情の念さえ覚えたかもしれない。
しかし、当の恭也は怒る自分とは別のところで、冷静に敵を分析していた。

(確かに傲慢だ。だが、それを言うだけの実力がこいつにはある。なんとかして小太刀を……)

武器を持たない武器使いなど、その戦力を半減させていると言っても過言ではない。
確かに恭也は徒手空拳での戦闘にも自信はあるが、本職のそれに及ぶ筈もなし。
どれだけ多く見積もっても、恭也は10の鍛錬の内3程度しか徒手には費やしていないのだ。
だが、相手が10の鍛錬の全てをそれに費やしているのなら、当然相手の方が徒手では有利。
弘法筆を選ばずとは言うが、そもそも筆がないのであれば腕の振るいようがない。

自身の手に最も馴染んだ武器がない事、宴会後の気の緩んだタイミング、背後にいる守らなければならない人達。
その他諸々の要素を加味して、恭也は自身の不利を正確に把握している。
傷つけられた誇りの報いを受けさせたい欲求はあるが、それで大切な事を見失うほど恭也は愚かではない。
故に、恭也は後ろ手で美由希に簡単なサインを送る。

(俺がこいつをひきつける。その間に、皆を家の中へ)
(その上で、恭ちゃんに小太刀を渡す……これしかないよね)

美由希もまた、恭也の意図をしっかりと把握している。
一度は突然の事態に僅かに動転したが、一度恭也に注意されたことでいつもの調子が戻ってきた。
普段はどこか鈍くさい美由希だが、一度腹を決めてしまえばその度胸と決断力、周囲の状況を把握する能力は並みではない。
突発的な事態であっても、冷静に対処するための訓練は師でもある兄によって徹底されているのだから。

とはいえ、これだけの使い手が相手。そう簡単に思うようにさせてはくれまい。
故に美由希は、細心の注意を払ってハーミットの動向を探り、皆を家に退避させる隙を探り続ける。

「フン、やれるものならやってみろ。
武とは力のみが支配する、結果が全てのシンプルな世界。
気にいらねぇんだろ、俺の事が。なら、力づくで否定してみやがれ!!」
「気にいらないわけじゃない。ただ、その傲慢が度し難いだけだ!」

その瞬間、二人は互いに構えを取る。
互いに半身、だが手の形が違う。
恭也は軽く握りこんでいるのに対し、ハーミットは貫手に近い形だ。

それは、恭也にとっては見慣れない型である。
元から今の段階で無理に倒しに行かなければならない状況も相まって、恭也はあえて見に回った。

睨みあうこと十数秒。
一瞬、フードの陰から僅かに見えるハーミットの口元に笑みが浮かぶ。
そしてその瞬間、ハーミットが動いた。

「烏龍盤打!!」

一足にもかかわらず、数メートルはあった両者の距離は一気に詰められた。
そのまま、身体ごと回転させて放たれた強烈な掌打が、鞭の如き腕のしなりと共に恭也の頭上より振り下ろされる。
それを恭也は半歩下がってかわし、掌打はアスファルトの地面に『ゴンッ』という重い音と共に叩きつけられた。
しかし、そのあまりの威力に第三者達は驚愕の声を上げる。

「って!」
「アスファルトを!」
「「陥没させた!?」」

そう、ハーミットの一撃は、アスファルトで舗装された道路をクレーター状に小さくへこませていた。
晶とレンの高町家無手コンビは、そのあまりの出鱈目さに瞠目する。
フィアッセや桃子、なのはにしたところで、その常軌を逸した威力に声を失い思考が停止していた。

無理もない。常識的に考えて、人間の腕でそんな芸当ができるとはだれも思わないだろう。
如何に高町兄妹の事を知っているとはいえ、素手でここまでできる人間を彼女らは知らないのだから。
晶は館長である「巻島重蔵」を知っているが、彼の本気をまだ目にした事がない以上比較対象を持っていない。

そんな中でただ一人、美由希だけは冷静にこの一撃を分析すべく思考をフル回転させていた。
いや、正確には、なんとか冷静さを保とうと努力した結果として、この敵の技を分析していると言うべきか。
まあどちらにせよ、彼女に目にもそれは信じがたい現実だっただろう。

(ど、どういう腕の構造をしてるの? あんな事したら、普通は先に腕の骨が砕けちゃうよ……)

美由希とて、武を極めた先の世界の一端くらいは知っている。
だが、早くに師範である養父を亡くし、未熟な兄に指導されてきたことで彼女の知る範囲は決して広くない。
剣の真髄はおぼろげながらわかるかもしれないが、拳の真髄について彼女は門外漢に近かった。
故に知らない、中国拳法の「硬功夫」を練りに練った者の肉体的強度を。

レンも中国拳法を使うが、彼女の場合ある身体的事情からそう言った負担の大きい鍛錬はできない。
そもそも、凰家の拳は「風」とも称される柔の拳。剛の拳である「劈掛拳」とは対極だ。
その中でもこの「烏龍盤打」は、遠心力で気血を腕に送り硬質化して手刀や掌打で叩き潰す荒技。
ある意味、レンにとっては最も縁遠い技の一つだろう。

そのため、ハーミットの掌打の秘密を正確に看破できる者はこの場にはいない。
しかし恭也は、わからないものはわからないと割り切る能力に長けていた。

(確かに、まともに食らえばただでは済まない。
だが、大振りな分回避自体はそう難しくない。理屈はともかく、当たらなければ同じだ。
むしろ、厄介なのは……)
「むん!!」

その掛け声とともに、更なる掌打が連続して恭也を襲う。
掌打が通り過ぎるたびに、並々ならぬ風圧が恭也の顔を撫でて行く。
いや、それだけなら多少怯みはしても厄介とまでは思わないだろう。

問題なのは、一撃目を回避しても、即座にもう一方の手から放たれる二撃目がより長く伸びてくる事。
そして、さながらでんでん太鼓の様に、振り抜いた腕は体に巻きつき、タメの姿勢がそのまま防御を兼ねている。
その結果、恭也に紙一重の回避を許さず、回避しても迂闊には踏み込ませない。
それだけの技を軽々とやってのける相手の練度に、恭也は内心舌を巻いていた。

(素手の武術を侮っていたつもりはなかった…………だが、まさかこれほどとは……)

恭也とて、巻島重蔵という怪物じみた空手家を知っている。
目の前の敵が強い事も重々承知していた筈だった。
しかしそれでもなお、生身の体でこれほどの破壊力を出せる事に驚きを隠せない。
とはいえ、彼とてこのままいい様に攻められているつもりなかった。

「ハッ! まさかこの程度の事で怖気づいたか!!」
「なめるな!」

そう叫び、恭也はハーミットが放つ掌打の中にあえて踏み込む。
まともに受ければ、決定打とまではいかなくても、かなりのダメージを覚悟しなければならない一撃。
その中に踏み込むなど、一見すれば自殺行為だ。

「恭也!」
「お兄ちゃん!」
「大丈夫だよフィアッセ、なのは。アレは……」
「ちっ、考えやがったな!」
「ここまで踏み込んでしまえば、その掌打の威力も半減する!」

そう、敵陣深く踏み込んだ事で、恭也はハーミットの肘を肩で受ける形となった。
この技は、本来掌底部分にこそ最大の威力がある。
逆に言えば、腕の根元に近ければ近いほどに威力は減衰するのだ。
それを看破した恭也は、あえて踏み込むことで死中に活を見出した。

「だが、これだけ近づいた今、碌に攻撃できないのはお前も同じだろ!」
「それは…どうかな?」
「何! ……がっ!?」

鳳家拳法の一手、『寸掌』。
他の門派では『寸剄』とも称される、密着状態の時に使う技だ。
強いて違いを挙げるなら、通常の寸剄が拳打なのに対しこちらは掌打であると言う事だろう。
ハーミットの一撃を肩で防いだ恭也は、そのまま全身運動からの掌打を放ち、ハーミットに痛烈な一撃を加えていたのだ。その結果、ハーミットは後方に大きく弾き飛ばされる。
だが、それも……

『やった!』
「いや、外された……」

皆は歓喜に湧きかけるが、恭也は口惜しそうに歯噛みしてそれを否定する。
恭也が掌打を放つ寸前、ハーミットは自ら後方に飛ぶことでその一撃を殺していたのだ。
事実、弾き飛ばされた筈のハーミットは、宙返りをすると軽やかに着地を決めた。

「くっ……まさか、中国拳法の一手も知ってやがるとは……」
「何事も手を出しておくものだと、今改めて思っているところだ。
 昔、レンに型を実演して見せたのが、こんな形で役に立つとは思わなかったぞ!」
「そうかよ。なら、ついでにこいつも覚えていけ! その身体でな!!」

懲りずにさらに烏龍盤打を放つハーミット。
しかしその技は、すでに恭也には見切られている。

「バカの一つ覚えか! ここで馬脚を現したな!!」
「ああ、お前がな!!」

再度ハーミットの懐へと踏み込む恭也。
思っていた通り、肩で受け止めた敵の腕の威力は耐えられないものではない。
だがその瞬間、彼の首筋に重い衝撃が走った。

「ぐあ!? こ、これは……」

そこで恭也は自分に何が起こったのかを理解する。
ハーミットの一撃は確かに防いだ。しかし防いだはずの一撃はさらにしなり、彼の手刀が恭也の首を叩いていた。

「反射を逆手に取ることで、見えていても食らってしまう攻撃ってものがある。
 真の武術家とは、そう言った技を長年蓄積した者を言うんだよ!!」

思いもかけぬダメージにより一瞬生じた隙を、ハーミットは逃さない。
そのまま一気にたたみかけるように、反射を逆手にとった技で恭也を攻め立てる。
肘を防いだと思えばそこから伸びて裏拳が、頭上からの掌打を防ごうとしたら途中で切り替わって肘が襲う。
並々ならぬ反射神経を持つ恭也をしても、いや、そんな恭也だからこそその攻撃のことごとくにかかってしまう。
やはり、純粋な無手の戦いではハーミットに一日の長があった。
技の種類、その錬度、そして深さ。その全てにおいて、ハーミットは恭也を上回る。

だが、恭也とて御神流の師範代。
そもそもこれは試合ではなく、限りなくケンカに近い戦い。
故に、定められたルールなど元よりないのだ。

「がはっ! なるほど、さすがに徒手空拳では分が悪いか……」
「わかったのなら、大人しく死ね!!」
「そう簡単にやれるほど、安くはない!!」

そう叫ぶと、恭也の手が何かを投じるようにハーミット目がけて振るわれた。
ハーミットは即座にその場から真横に跳ねる。
すると、先ほどまでハーミットがいた個所を何かが通り過ぎた。

「ち、そう言えば暗器も使う流派だったな。しかも、ご丁寧に黒塗りか……」

そう、今恭也が投じたのは五本の飛針。
それも闇夜に紛れるように、漆黒に塗られた性質の悪い一品。
その鋭利な切っ先は、軽くハーミットの頬とフードを切り裂き、背後の電柱に突き刺さっている。
もし直撃していたら、間違いなくその肉体を深々と抉っていただろう。
だが、恭也が衣服の下に忍ばせている暗器は、何も飛針だけではない。

「っ!!」
「目ざとい!」

次に放たれたのは鋼糸。
ハーミットは外聞もなく地に身を投げ出し、恭也の放ったそれを回避した。
もし、後一瞬反応するのが遅ければ、今頃ハーミットの腕は鋼糸に絡め取られていただろう。
己が身一つで戦うべく鍛え抜かれたハーミットのパワーは並みではないが、武器という重量物を扱う恭也のパワーも同様に侮れない。
もし絡めとられれば、場合によっては主導権を恭也が握っていた可能性もある。
何しろ鋼糸が深く食い込めば、服と共に皮や肉を裂いていたかもしれないのだから。
まあ、恭也は知らない事だが、ハーミットの服は特殊繊維を使われているので、そう簡単にどうこうなるものでもないのだが。

そのまま、二人は再度激戦へと突入していく。
だが、先ほどまでとは立ち位置が異なる。
距離を取って飛針や鋼糸を振るう恭也と、それらを掻い潜って距離を詰めんとするハーミット。
投擲系の武器に戦い方を切り替えたことで、間合いの利は恭也へと傾いた。

「なめるな!」

気合とともに外套で飛針と鋼糸を払うハーミット。
飛針はその性質上携帯できる数に限りがあるせいか、放たれる数は決して多くない。
故に、ハーミットの警戒対象は主に鋼糸となり、四肢や胴体を絡め取られないように注意している。
もし絡め取られれば、体を崩すことくらい恭也なら容易くやってのけるだろう。
そんな事になれば、如何にハーミットといえども致命的な隙を晒すことになる。
それを承知しているからこそ、ハーミットは極力鋼糸に触れない様に紙一重の所で回避していた。

(急いだ方がいいか。騒ぎを聞きつけて人が集まるまで、もう時間もねぇ。
 早めにケリをつけねぇと面倒だな)

二人の戦いが始まって、まだ五分と経っていない。
だが、地域住民たちが異変を察し、警察に連絡するには十分だ。
ハーミットなら警察から逃げる事は容易いが、それはそれで面倒。
やはり、警察が来る前にこの場を離れるのが望ましい。

だが同時に、それはそろそろ恭也の手に小太刀が握られてもおかしくない時間がたった事を意味する。
にもかかわらず、一向にその様子もない。
当然だ。美由希達も隙を見て家の中に入ろうとはしているが、動こうとする度にハーミットに牽制されて動けずにいたのだから。

「美由希ちゃん、こうなったらもう俺達も一緒に戦った方が」
「せや、おサルの言う通りやで。確かにあのフードはお師匠と戦えるくらい強いけど、ウチら三人も一緒なら」
「ダメ!」
「「え?」」
「美由希?」
「お姉ちゃん?」
「ダメだよ。良くわかんないけど、手を出しちゃ…ダメ」
「どうしたの美由希! 顔、真っ青だよ!?」
「分かんない、分かんないんだけど…………手を出したら、ただじゃ済まない。そんな気がするんだ」

美由希は肩を震わせながら、そうつぶやく。
その直感は正しい。迂闊に打って出れば、確かにただでは済まないだろう。
美由希達が、というよりも、恭也がだ。

この状況下にあって、美由希達ははっきり言って足手まとい。
自分と拮抗した力を持つハーミットを相手にしている最中に、予定にない動きを美由希達がすれば、如何に恭也といえでも動きに一瞬の迷いが生じるだろう。何しろ彼は、今まさにハーミットの実力を肌で感じ、三人では束になっても勝てないと分かっているのだから。
そしてその一瞬の迷いを見逃すハーミットでもない。
その事を、美由希は上手く言葉にこそできないながらも、本能的に察していた。

「悔しいし、情けないけど、今は見てるしかないよ」

口惜しそうに、今にも泣き出しそうな顔で、美由希はそうつぶやく。
それが最善だとしても、何もできない自分が歯がゆくて。

そして、そうしている間にもハーミットはある決断をくだす。
それは、実に彼らしいと言える発想だった。

(時間がねぇなら、ここは一つ………………捨て身でいくか!!!)

意を決し、ハーミットは多少のダメージを覚悟で飛針と鋼糸を掻き分けて行く。
捨て身になった事が返って功を奏したのか、容易とは言えないまでも、目立ったダメージを追うことなくハーミットは恭也の下にたどり着く。
そこで、彼は渾身の力を込めた右掌打を脇腹の急所へと放つ。

「しっ!」
「せや!」

当然、そんな物を喰らっては堪らぬとばかりに恭也はその一撃を払う。
だが、それは囮。
掌打を払った瞬間にできたわずかな隙、そこへ目掛けて強烈な横薙ぎの左の手刀が恭也に伸びる。

回避は間に合わず、手刀は恭也の体を打ち抜く。
しかし、辛うじて間に合った逆の腕を盾とし、恭也はその一撃に耐える。

「ぐはっ…!?」
「てめぇ、この一撃を堪えやがったな!」
「当たり前だ。はじめから…………そのつもりだったんだからな!!」
「何?」

恭也の言に、ハーミットのフードに隠れた眉がしかめられる。
それではまるで、この一撃を受ける事を想定していたかのようではないか。
そして、その予想は正解だった。

「終わりだ!!」

その言葉と共に放たれたのは、飛針を指の間に挟み込んだ上での拳打。
同時に、先ほど放った手刀を恭也が盾にした腕に抱え込まれ、身動きも封じられている。
元より、恭也は敵を懐へと誘い込み、この一撃を加えるつもりだったのだ。
鋼糸と飛針による遠距離戦闘も、全てはそのための布石。

「野郎!!」
(急所は外す。さすがに、飛針が刺されば勝負は決する筈だ)

恭也の狙いは右の太股。もしここに刺されば、どれほどの使い手でも機動力の低下は避けられない。
そして、武術において足腰の重要性は論ずるまでもない。
その点から見ても、これで恭也の勝利は手堅いだろう。

そう、相手が普通の武術家であれば。
彼は修羅の道を歩んできた武術家。手堅さを望んでいては、彼を打倒しきる事は出来ない。
それを裏付けるかのように、手詰まりにも近い状況でありながらハーミットは敢えて一歩踏み込む。

「お前!?」
「言ったろうが! そんなオモチャじゃ俺は殺れねぇ!!」

目測がズレた事で恭也の拳打はハーミットの腹部へと突き刺さる。
同時に、ハーミットは掴まれていた腕を振り払って自由を取り戻し、一瞬のうちに恭也の背後に回る。

「甘めぇぜ! 接近戦に持ち込みたかったのは、こっちも同じだ!」
(なんだ、この歩法は!? 岩に挟まれた様に、身動きが取れない!!)
「死ね…………貼山靠!!!」

八極の一手『貼山靠(てんざんこう)』。
別名「鉄山靠」とも呼ばれる、肩で体当たりし内部の勁と外部の打撃を同時に与える大技。
それを「梱歩(こんぽ)」と呼ばれる歩法で外への足さばきを封じて叩き込んだのだ。

恭也の体は、強烈な発剄により弾き飛ばされる。
それを見て、ついに美由希達が悲鳴を上げた。

「「恭也!?」」
「「(お)師匠!!」」
「恭ちゃん!?」
「お兄ちゃん!?」

地面をもんどりうって転がる恭也。
それは最早、交通事故にでもあったかのような飛ばされっぷりだ。
しかし、ここで残心を怠るハーミットではない。
彼はさらに追い打ちをかけるように、そのまま烏龍盤打や震脚による踏みつけを放つ。
次々とアスファルトはへこんで行き、道路は見るも無残な様相を呈していく。

だが、辛うじてそれらの猛攻を避け切った恭也は、なんとか立ち上がり体勢を立て直す。
しかし、彼の体も相当に鍛えられているが、身体を突きぬけた衝撃は並みではない。
故に、先の一撃によって被ったダメージは甚大だ。
ハーミットも腹を刺されたが、分厚く強靭な筋肉の壁が重大なダメージを防いでくれた。
恭也が致命傷や深手を避けようとして加減した事が、ここにきて裏目に出た形だろう。

「はっ……がはっ!?」
「NO――――――! もうやめて! これ以上やったら恭也が……恭也は膝が悪いんだよ!?」
「あなたもよ! お腹から血が出てるじゃない! こんな事をして、一体何になるっていうの!!」

フィアッセと桃子の言は正論だ。
だが、彼女達は知らない。修羅の道を歩む者の存在を。

「膝が悪い? 血が出てる? そんな物がいい訳になるか!!
 俺は師父に敗北は死を意味すると叩き込まれてきた!
 トドメを刺すまで油断なんざしねぇ!」

一般人達にはわからない、武の世界に生きる者の理屈。
しかし、その非日常の理屈がこの場を支配しているのだ。
それを知らしめるかの様に、ハーミットは恭也達に宣言する。

「分かるか? ヌルいんだよ、お前達の武術への姿勢は!
 勝利か、死か!! それが武術の世界だろうが!!」
『…………………………………』

その修羅の如き咆哮に、フィアッセや桃子どころか、美由希達も息をのむ。
確かにそうなのかもしれない。しかし、それをここまで明確な形で実践する者がいようとは……。
それが、美由希達には信じられなかった。

どれだけ卓越した才を持ち、並々ならぬ努力をしてきたとしても、彼女らには決定的に足らないものがある。
それは「実戦」と「敵」の存在だ。
彼女達は本当の意味で命を賭けて戦った事がない。
命を奪いに来る敵も、命を捨てて挑んでくる敵も知らないのだ。
現代においてはそれが普通とはいえ、知る者と知らない者との差がここにあった。

「俺達が………ヌルいだと?」
「ああ、ヌルいな。お前は剣士だ。にもかかわらず、剣を持たない。
 これが怠慢でなくていったいなんだ! その怠慢が今、お前を殺そうとしているんだぜ!!」
「くっ…………」

その言葉には、さしもの恭也も反論できない。
武器は確かに優れた力を持っている。だがそれに対し、いくつかの弱点が存在するのだ。
その最たるものの一つが、携帯の不便性。
武器はどうしてもかさばる。かさばらない武器もあるが、そう言ったものは他の武器に比べて威力に乏しい。

小太刀はまだ比較的に携帯しやすい武器だが、日常生活の中で持ち歩くのは困難だろう。
ましてや、恭也達は学生。私服の中に忍ばせるのならともかく、制服の中に忍ばせるのは無理があった。
何しろ、学校では体育があり、当然着替えをする機会もある。
場合によっては、服装チェックや持ち物検査をされる事もあるだろう。
そんな時に小太刀などを持っていては、即座に大問題になる。

その意味では普段から持ち歩かない恭也達はちゃんと良識があるだろう。
だがその代わりに、剣士としての気構えに綻びがある。
そしてその綻びが今、恭也を窮地に立たせていた。
もし、小太刀が一振りでも彼の手元にあれば、結果は逆になっていたかもしれないと言うのに。

「そして覚えておけ、俺とお前らの最大の差。
不破恭也が地に伏した最大の理由、それは『戦ってきた敵の多様性』だ!!」

ハーミットは、これまで数多の敵と戦い、様々な武術家と出会ってきた。
同じ技を操る、自分より全てにおいてやや上の力を持つ敵。
圧倒的に優れた戦力を持つ敵。武器を持った敵。
そして、いつも自分より強い者とばかり戦い続け、その悉くを打ち負かした男とも。
その経験が、ここ一番でのハーミットの業に力を与えていた。

「お前らのヌルい覚悟じゃ、千年かけても武を極めることなどできない。
 それを、この場で思い知らせてやるよ! 本物の中国拳法、覇者の拳でな!!」
「そう…簡単にやらせるか!!」

痛む体に鞭を打ち、恭也は再度構えを取る。
その構えは先のダメージが抜けきっていないのか、先ほどまでよりどこか迫力に欠けていた。
恭也はようやく理解する。先ほどから感じていたやりにくさを。
敵が今まで戦った事のないタイプだからだと、恭也は思っていた。
だがそれは、正しくもあり間違いでもあったのだ。

(確かに戦った事のないタイプだ。こいつは………死を覚悟してこの戦いに臨んでいる!
 そして、俺を殺すつもりで戦っているんだ。致命傷を避ける、何て言うのは、確かにヌルかったか……)

殺す事と殺される事。双方の意味で覚悟した者特有の技の切れ、ギリギリの場面での半歩深い踏み込み。
それが恭也の感じていたやりにくさの正体であり、武器の有無を含めて彼にここまでの苦戦をさせた理由の一端。
これがすべてではないが、突然の襲撃にそう言った覚悟が不十分だったことがこの現状を生んでいた。

しかしそれは、決して恭也が責められるべき事ではない。
如何に殺す為の技を研鑽し、その覚悟を持って鍛錬していたとはいえ、これまでその経験がなかったのだ。
そんな中でこの突発事態に対処し、僅かなきっかけでその覚悟を持つ事が出来るとすれば、それこそ尋常ではない。そして、高町恭也と言う男は尋常な剣士ではなかった。

(なら、俺がする事も一つしかない)
「フン、良い眼だ。ようやくその気になったか。あのバカほどじゃねぇが、火付きの悪い野郎だ!」

ハーミットは恭也の眼の奥に覚悟の光を見て、笑みを浮かべて踊り掛かる。
先ほどまで同様の、反射を逆手に取った変幻自在の攻撃。時に捨て身にも近い防御。
これらを駆使し、徐々に恭也にダメージを蓄積していく。

その最中、恭也の突きを避けた瞬間に放った手刀を目くらましに、身をひるがえす。
また背後を取られると警戒した恭也は、それを阻むべくハーミットに合わせて身体を反転させる。
だが、それは巧妙に仕組まれたフェイントだった。

強靭な体を頼みに、一度反転しようとしたのとは逆方向に無理矢理再度反転するハーミット。
その結果、膝に不安を抱える恭也はわずかに出遅れ、背を取られた。そして……

「倒発鳥雷撃後脳!!!」

『倒発鳥雷撃後脳』、本来なら敵の攻撃を裁きながら特殊な歩法で背後に回り、後頭部に手刀を放った直後、同じ箇所に二撃目の突きを放つ非常に危険な技だ。
それが今まさに、無防備となった恭也の首を襲う。

本来なら、この連撃が決まれば終わりだったろう。
しかし、恭也はここでハーミットの予想を覆す。

「がっ…おおぉぉ!!」
(なんつぅ野郎だ……二撃目を避けやがった!?)

そう。恭也は、そのとどめの一撃を見事避けて見せた。
耐えきった者はいる、全てかわした者もいる。
しかし、一撃目を受けながらも二撃目をかわした男を、ハーミットは知らない。

「驚いたぞ。この技の二撃目を避けたのは、お前が初めてだ!」
「それはお互い様だ。あんな無茶な動きが出来るとは、相当に鍛えこんでいるようだな」

そう、正直あんな無茶な動きをすれば、膝を壊さないまでも、靭帯にかなりのダメージを与える。
それを無視してあんな真似をしたと言う事は、それを可能にできるだけの強靭な肉体を作っていることの証左だ。
その事を、ほんのわずかだが恭也はうらやましく思った。

「ならばここから先は、俺も加減はしない。死んでも恨むなよ!」
「ハン! そうこなくっちゃな。あのバカみたいに甘い奴は、一人で十分だ!!」

対する恭也も、ついに精神的な枷を外してハーミットに応じる。
覚悟を決めた為か、甚大なダメージを受けたにもかかわらずその動きの切れはドンドン増していく。

やがて、二人は申し合わせたかのようにクロスレンジで戦い始める。
恭也は劈掛拳を封じる為に、ハーミットは鋼糸と飛針を封じる為だ。

そして、恭也の放ったアッパーとフックの中間の拳をハーミットが防いだところで異変が生じる。
確かに防いだ筈のそれは、そこからさらに伸びハーミットのあごに伸びていく。
それを、辛うじてハーミットは肩で受けて防いだ。
その後も、時折何度か恭也の放つ攻撃はハーミットの予想を上回る動きを見せていた。

(なんだ、こりゃあ! 防いだはずの拳が、蹴りが、妙なところから伸びてきやがる!?)
(これに反応するか。それどころか反撃まで入れてくるとは……やはりこの男、只者じゃない!?)

恭也が先ほどから織り交ぜているのは、御神流にあって『貫』と呼ばれる技法だ。
相手の防御や見切りをこちらが見切り、そして攻撃を通すこの技をかけられた側は、まるで防御をすり抜けられたような錯覚に陥るという。
まさに、ハーミットがまさにその錯覚に陥っているのだが、それを寸での所で捌き反撃に転じるのだから、この男も並みではない。

そうして、二人の激しい攻防は続いていく。
だがそこは、無手専門の者と無手は補助に過ぎない者の差。
御神流独自の技巧を駆使して追いすがる恭也だが、徐々に差が出てくる。
数々の死闘を経た経験から来る勝負強さで、ハーミットが勝りだしたのだ。

(不味いな、これ以上はジリ貧だ。なんとかして、形勢を覆さないと……)
(ち、そろそろ時間がヤバいか。
警察から逃げるのは何てことねぇが、面倒なことになる前に終わらせるしかねぇ!)

理由は違えど、お互いに戦闘思考が最終段階に入りつつある。
自然、ピリピリとした空気もさらに高まっていく。
そして、先に動いたのは恭也の方だった。

「おおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!」

恭也が前傾姿勢になった瞬間、彼の視界は色を失いモノクロに変化する。
同時に、恭也の眼にはハーミットを始め周囲の全ての動きがスローに移っていた。
それどころか、恭也の主観では自身の動きさえもひどく遅く感じ、空気の粘度を感じてさえいる。

御神流、奥義の歩法「神速」。
瞬間的に自らの知覚力を爆発的に高めることにより、あたかも周囲が止まっているかのように振る舞うことを可能とし、肉体の限界ラインに限りなく迫った身体能力を発揮する驚異の荒技だ。
プロの野球選手などが、ボールが止まって見える事があると語るが、乱暴に言ってしまえばそれと同じ括りだ。
ただ、驚くべきことに御神の剣士は、意図的にこれを引き起こす。

それまでとは比較にならない速度で、恭也は敵に向かってモノクロの世界を疾走する。
本来なら、小太刀を手に薙ぎや抜刀系の技につなげる所だが、今回はその小太刀がない。
故に、渾身の力を注いでの必殺の蹴りを放つ。
恭也の人生でも父や御神の関係者を除けば、空手家であり明心館の館長を務める「巻島重蔵」くらいしかこれに対応できた人間はいない。

そしてこの日、新たな一人が恭也の脳髄にその名を刻む。
ハーミットまで後三歩と迫った瞬間、恭也とハーミットの眼が合った。

(バカな!?)

一瞬偶然かと思った恭也。だが、それを即座に否定する。
これまでの敵の力を見れば、その力が自分と同等である事は明白。
なら、自身にできる動きに反応できないとは限らない。

しかし、すでに後三歩のところまで来てしまっている。
今更止まる事も、方向転換も間に合わない。
神速の最中にそんな無理な動きをすれば、今度こそ膝を壊してしまいかねないからだ。
故に、恭也は意を決して最後の一撃を放つ。

「はぁっ!!」
「おおっ!!」

これだけの速度から放たれる蹴りは、直撃すれば如何にハーミットといえどもただでは済まない。
元より脚の力は腕の三倍と言われ、武術家は総じて足腰が強靭だ。
その力をダイレクトに叩きこめる技こそが、蹴り。
神速の速度から放たれるそれの威力は、人体にとって致命的なレベルを軽く超えるだろう。
そう、直撃していたのなら。

「っあ、が……!!」
「恭ちゃん!」
「「恭也!」」
「お兄ちゃん!」
「「(お)師匠!」」

苦悶の声は、ハーミットではなく恭也のもの。
ギリギリのところで辛うじてハーミットは恭也の一撃をかわし、もんどりうって地を転がったのだ。
それは、確かに彼が神速に反応して見せた事の証左。
そして、ゆっくりと立ち上がったハーミットは服の汚れを払いながら、ゆっくりと語る。

「おしかったな。だが、場所が悪かった。こうも狭い場所では、その技を十分に活かしきれなかったか」

そう、神速が回避されたのは、確かにハーミットがその動きに反応できたからだ。
だが、それだけではない。住宅街の一角という、決して広いとは言えない場所。
そこで取れる動きの幅は、どうしても制限される。
故に、ハーミットはその制限された動きから推測し、恭也の一撃を避ける事が出来たのだ。

もし、もっと広い場所で戦っていたのなら。
もし、恭也がもう少しでも神速を扱い切れていたら。
『もし』を挙げだせばきりがないが、それは同時に無意味でもある。

恭也の膝は神速の連続使用には耐えられない。つかえて数回。
しかも、使用後にはかなりの反動が生じ、膝に激痛が走る。
今はなんとか立つ事が出来ているが、機動力の低下は否めない。

「そして、これで終わりだ」

ハーミットの拳が固く握られる。
それまでは固まっていた美由希や晶、レンが大急ぎで動きだすが既に遅い。
ハーミットの掌打が恭也を叩き潰すと思われたが、その拳は空を切った。
だがそれは、恭也の足掻きの結果でもなければ、ハーミットのミスや慈悲でもない。
その原因は……

「フィアッセさん?」
「恭…也、逃げて……」

なのはの声など聞こえない様に、フィアッセはそこまで言って地に倒れ伏す。
しかし、なのはは一瞬だけだが見た。フィアッセの背に広がった漆黒の翼を。
それこそが、恭也に今の一撃が届かなかった原因。

HGS、別名『高機能性遺伝子障害』
元は、先天性の遺伝子病である「変異性遺伝子障害」と呼ばれるものであり、死病ではないが根元的な治療は現代の医学では不可能な難病というだけのもの。
しかし、その中でも特殊な患者にこの名称が付き、その患者達にはある共通した特徴がある。
第一に、患者の意思で実体化を操作できる『フィン』と呼ばれる『翼』を持つ事。
第二に、この患者達は能力の種類や大きさに差はあれどもみな「超能力者」であると言う事だ。

フィアッセもまたこの患者であり、「AS-30 ルシファー」という名称の漆黒の翼をもつ。
だが、彼女の力は実のところそう強くない。正直、実用的とは到底言えまい。
しかし、いまフィアッセはそのなけなしの力を使って、僅かに恭也の体を引き寄せたのだ。

とはいえ、これでは所詮一時しのぎにしかならない。
ハーミットはいまだ健在で、唯一対抗できる恭也も万全からは程遠い。
しかし、何を思ったのかハーミットは突然恭也達に背を向けた。

「………………フン、興が削がれた。
 今日のところは見逃してやる、次会う時まで腕を磨いておけ!
 刀がないから負けた、なんて下らん言い訳をしない様にな」

それだけ言い残し、ハーミットはその場から姿を消した。
突然始まり、突然終わった戦いに一同はしばらく茫然としていたが、やがて事態を再認識した桃子が動き出す。

「な、なんだかよくわからないけど…とにかく恭也とフィアッセを病院に連れてくわよ!!
 美由希と晶ちゃんは恭也とフィアッセを中に! レンちゃんは救急箱、なのはは救急車呼んで!」
「「「「は、はい!!」」」」
「俺は、大丈夫だ。それより、フィアッセを……」
「良いから、恭ちゃんも大人しくしてて!」
「そうよ、怪我人は大人しくしてなさい!!」

美由希だけならともかく、桃子にまで詰め寄られては恭也としても強くは出られない。
仕方なく、美由希に肩を貸してもらいながら家に入っていく。
晶は晶で、恭也への説教を終えた桃子と一緒にフィアッセを中に連れて行った。

その後、二人は海鳴大学病院に運び込まれ、フィアッセの主治医である銀髪のHGS患者「フィリス・矢沢」の治療を受ける。
幸運なことに恭也とフィアッセ、双方ともに症状は軽くその日は病院で厄介になったが、翌日には退院する事が出来た。

同時に、先に知らされていた桃子を除く高町家の面々は、フィアッセの秘密を知る事となる。
また、これが縁となりフィリスは高町家全体の主治医の座に納まり、恭也の膝の治療に当たるのだった。
ついでに言うと、退院後警察からの事情聴取を受けることになったのは、全くの余談である。



  *  *  *  *  *



恭也とフィアッセが病院の厄介になっている頃。
高町家からだいぶ距離の離れた路地裏で、一人の男が壁に体を預けていた。

「………………フッフッフッ…フゥ~。ま、これだけやっておけば十分か」

フードを取り払い、先の戦いの熱を吐き出すように深く息を突くハーミットこと谷本夏。
フードで隠されていたその表情には先ほどまでの険しさはなく、代わりに疲労が色濃く滲んでいた。
そこへ、どこからともなく現れた人影から声がかけられる。

「ケケケケケ! なぁにが十分なんだ、ハーミット?」
「ちっ、どこから湧きやがった宇宙人!?」

それまでの僅かに緩んでいた表情はすぐさま険しさを取り戻し、人影に対し敵意をむき出しにする夏。
その先にいたのは、人間離れして長い耳とオカッパ頭、そして邪悪なオーラをまき散らす悪魔の姿があった。

「いやぁ、俺様としても情報を集めた手前、おめぇが何をするのか気になってな。
 大事な友人と余所様にもしもの事があったら、寝覚めが悪ぃだろ?」
「心にもねぇこと言ってんじゃねぇよ。てめぇの事だ、俺がこうする事も読んでたんだろ。
 その上で俺を利用して奴の力を測った、違うか?」

殊勝な事を口にする新島だが、夏はそんな事一切信用していない。
この男の性格上、天地がひっくりかえっても本気でそんな事を言うなど、『物理的』にあり得ないのだ。
ならば、考えられる可能性は一つ。
体良く夏を利用し、恭也の実力を見る事がその目的だったと考えるのは必然だろう。

「さぁて、どうだろうな?」
「けっ、つくづく煮ても焼いても食えねェ野郎だ!!」
「ヒャハハハハ、そんな褒めるなって!!」

夏の嫌味もどこ吹く風、『宇宙人の皮を被った悪魔』と称されるこの男にとって、この程度は賛辞でしかない。
新島相手に舌戦を繰り広げる不毛さを理解しているのか、夏は忌々しそうにはしていてもそれ以上は口を噤む。
代わりに、上機嫌の新島が会話を進めて行く。

「にしても、思っていた以上にやるみたいだな、高町恭也は。
お前ほどの男が、武器を持たない武器使いにこれほど手古摺るなんてよ」
「てめぇの眼は節穴か? あのままやってれば野郎は死んでた。
 奴が生きているのは、俺の気紛れに他ならねぇんだぞ」

そう語りながら、新島は手持ちの情報端末に何かを入力していく。
先ほどの戦闘から得られた情報を、これまでに収集した情報に上書きしているのだろう。
とはいえ夏は、自身を比較対象にし、その上で恭也を高く評価する新島に侮蔑するような言葉を吐く。
だがそこで新島は、滑り込むように夏の懐に踏み込んだ。

「ほぉ~…………じゃ、これは何なんだ?」

宇宙人パワーで一切の気配を感じさせずに夏の懐に入った新島は、その脇腹を軽く小突く。
すると、夏の顔色が一変した。

「っつ!? て、てめぇ!!!」
「おっと! あぶねぇ、あぶねぇ、いきなり何すんだよ、ハーミット」

新島を振り払うように放たれる手刀を、新島は奇怪な動き『新島式無影八艘飛び』で回避する。
しかし、夏の動きには先ほどまでの切れがない。
そしてその口からは、苦悶を宿した声が漏れる。

「この…地球外生命体がぁ!」
「……ヒャハハハ、やっぱりやせ我慢してやがったな!!」
「つくづくうぜぇ野郎だ、あまり調子に乗ってるとここでぶっ殺すぞ!!」

路地裏に充満していく、恭也と戦っていた時とは比較にならない殺気。
だが、それをそよ風のように受け流す新島。
それどころか、その懐から包帯などの応急処置の道具一式を引っ張り出して夏に投げ渡す。
つまり、これでその痛みの原因を治療しろと言っているのだ。

「相当危なかったみてぇだな。もしまともに食らってれば、アバラの二・三本折れてたんじゃねぇか?」
(フン、その程度で済めばまだマシだ。半端な奴なら、下手すりゃ一撃で死ぬぞ、アレは。
 あの速度もそうだが、野郎の最期の一撃は恐らく「浸透剄」かそれに類する技の筈……)
「だんまりかよ。おめぇがそうやって黙りこむって事は、本当にヤバかったって事か。
 膝を壊し、師を持たない古流剣術家って話だからどれほどのもんかと思ったんだが………眠れる獅子の類だったみてぇだな」

厳密には、恭也が使ったのは「徹」と呼ばれる技法だ。
御神流の打・斬撃の打ち方であるこれは、素手・木刀・真剣を問わずに衝撃を徹す。
確かに夏が推察したように、その性質は中国拳法の「浸透剄」に類するものだろう。
また優れた「徹」の使い手は、時に蹴撃からでもこれを放つ。

夏は服をたくし上げ、赤く腫れ上がった脇腹を露出させる。
折れてはいないが、アバラにヒビくらいは入っているかもしれない。
だが、問題なのはその奥深く。内臓に深く重いダメージが刻みつけられた事を、夏は理解していた。
もし直撃を受けていれば、凄まじい速度と渾身の力を込めた蹴りによってアバラを折られ、浸透剄に似た技で内臓に甚大なダメージを与えられていただろう。
夏はその身を以て、恭也の放った技がどんなものであるかを理解していたのだ。

(負けたとまでは思わねぇ、それぐらいならまだ動ける。
…………が、もし武器が奴の手にあったとしたら、どうなっていたか……)

例え直撃を受けたとして、最後に立っていたのは自分であろうという自負はある。
だが、その後に控える美由希達の相手をできたかは疑問だ。
なにより、もし恭也の手に武器があったのなら、はたして勝つ事が出来たかどうか……。

「ムカつくが、確かにてめぇの言う通り腕は悪くねぇ。
 だが、脳みそが緩過ぎんだよ、あいつらは」
「ああ、武器使いのくせに武器を携帯してないなんて、正気を疑うっつうのは同感だぜ。
 フレイヤの奴だって、携帯性を考慮してあの長さの杖にしたわけだしな。
 ま、師もなく荒事とも無縁だったんだ、危機感が薄かったんだろうよ」
「けっ、そんな事情を敵が考慮してくれるのか? んなわけねぇだろ!」

人間、平穏の中で危機感や警戒心を維持するのは非常に難しい。
穏やかな生活が続けば、必然気は緩み、隙も多くなる。これはどうしようもない、人間の性だ。
しかし、その性に抗ってこその武術家でもある。
夏の言は恐ろしく厳しいが、武術家としては当然のものだ。
だが、だからこそ新島は、侮蔑するように吐き捨てた夏の言葉から、彼の真意を拾い上げる事が出来た。

「ケケー! 優しいねー、アイツらにその事を気付かせてやるために一芝居打つなんて…っぐっ!」
「黙ってろ、宇宙人!!」

真意を気付かれた事を察した夏は、新島がそれを言う前に彼のあごを殴ってやめさせた。
その顔は僅かに紅潮し、彼が照れている事は明らか。

「ふざけんじゃねぇぞ! なんでこの俺があんな奴らの為にそんな事をしなきゃならねぇ!!」
「そりゃおめぇ、ほのかの為だろ?」
「ぐ………」
「昔のロキみてぇなこともあるだろうし、アイツを人質に取る可能性は高ぇ。
 が、お前や兼一もいつでもどこでもアイツを守れるわけじゃねぇ」

そう、現実問題としてほのかが危険にさらされる可能性は皆無ではない。
まっとうな武人の誇りを持つ者ならそんな事はしないだろうが、全員が全員そうとは限らないのだ。
達人の中にも性格のねじ曲がった者はいるし、武人の誇りを蔑ろにする者もいる。
ならば、そういった者たちにも対処できるよう、何らかの策が必要だ。
そして、夏が案じた策がこれ。

「なら話は簡単だ、アイツの近くにいる奴らに勝手に守らせりゃいい。
 幸い、ほのかの近くにはなかなかに腕の立つ剣術家がいる。
 だが、そいつらには一つ問題があった。高町の連中は腕はいいのに危機感が薄い。
 これじゃあおめぇの狙いが外されちまう。となれば、する事は一つ。
 連中の腕を試すついでに、危機感をあおって武器を携帯するように仕向ければいいって寸法だ」
「……………………」

新島の推理に、夏は沈黙を以て応えた。
それは何よりも如実に、その推理が正解であることを物語っている。
実際、この日を境に恭也や美由希はなんとかして小太刀を携帯できないか、真剣に検討し出した。
つまり夏の今回の行動は、完全に彼の思惑通りの結果を生んだことになる。

「ヒャッヒャッヒャッ! にしても、おめぇもなかなかに悪じゃねぇか!」
「フン、この世の摂理は『嘘』と『力』。世の中にいるのは、いつだって利用する奴と利用される奴だ。
 騙されて利用される奴が悪いんだよ!」
「ま、そういう事にしといてやるか」
「けっ……!」

軽い応急処置を終えたのか、夏は新島に道具を投げ返し、身をひるがえしてその場を後にする。
その後ろ姿をしばらく見送った新島は、ぽつりと誰もいない路地裏で洩らす。

「ケケ、ホントに素直じゃねぇなぁ。
 その結果、大事なモンを傷つけられなくなるんなら、アイツらにとっても悪い話じゃねぇだろうに」

そう、単なる結果論かもしれないが、その結果として彼らの大事な友人を守る事が出来る可能性は上がる。
また、本人達も武人としての気構えを思い出す事が出来るのだから、悪いことなど何もない。
夏のもう一つの本心がどこにあるかは分からないが、彼が言うほど冷酷な策ではないのだ。
そうして、新島もまた路地裏を離れ帰路に付く。

「ま、ここで引き上げちまう時点で、俺も丸くなったとしか言えねぇな」

新島なら、もっと冷酷かつ冷徹な策で恭也達を利用できるだろう。
あるいは、この機に乗じて何らかの方法で恭也達を手駒に布石を打つこともできた筈だ。
だが、あえて新島はそれをせず、今は静観を決め込んでいる。
確かに彼の言う通り、それは『丸くなった』と言えるだろう。
まあ、もちろん今後も静観し続ける筈もないのだが……。

(しかし、まさかアレほどまでに腕が立つっつーのは、嬉しい誤算だったな。
 人材としては申し分なし。性格的にも、一本筋が通ってるあの性格なら操る手はある。
 問題は膝の故障と師匠が不在なことだが…………ま、何とでもしてやるさ。
 踊って貰うぜ、俺様の掌の上でなぁ! ウヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャ!!!!)

新島の灰色の脳細胞は、すでにこの先の予定を立て始めている。
どうやって彼らと接触を持つのか、どう言いくるめて新白連合に引き込むのか。
新島の中で、邪悪な計画が着々と立案されていくのだった。

そしてこの時、美由希と病院で治療を受けていた恭也がただならぬ悪寒を感じたとか。
その悪寒と新島の瘴気の因果関係は、誰にもわからない。






あとがき

さて、純武術のみの戦闘パートが終わりました。
できの方は……………皆さんに評価していただくしかありませんね。
とりあえずなっつんの出番はこれで一区切りで、次からはまた兼一の出番になります。
そして、いよいよ本格的に武術家としての兼一との接触になるのですよ!!
関わるきっかけとしては、やっぱり無難(?)にアレかなぁ……。



[24054] BATTLE 5「裏社会科見学~HGS編~」
Name: やみなべ◆d3754cce ID:1963cf14
Date: 2010/11/28 02:49

高校から大学へと変化した学び場の環境や新しい生活にも慣れだした今日この頃。
大学の講義を終え、梁山泊への帰路にある兼一と美羽。

仲良く連れ立って歩き談笑するその様は、外から見れば睦まじい恋人のようにも映るだろう。
まあ、若干容姿の点で不釣り合いと言う印象がなくもないが……それは無粋と言うものか。
実際にはまだ交際すらしていないとはいえ、兼一にとっては貴重な安らぎの時間である。
美羽にしたところで、満更でもない様子だ。
有名無実と言う言葉があるが、ちょうどその逆の様なものだろう。

ただ、並んで歩く二人の事情が事情だ。
会話の内容は、ちょっと一般的なものではない。

「まぁ、ほのかちゃんのお友達が怪我を?」
「ええ、正確には友達のお兄さんなんですけどね」
「確か、高町……」
「はい、高町恭也君です。
ちょっとぶっきらぼうと言うか、近づき難い雰囲気はありますけど、話してみると気の良い人でしたよ」
「ああ、兼一さんはお花見の時にお会いしていたのでしたわね」

美羽は顎に指を当てて、つい先日の事を思い出す。
兼一もまた、少し心配そうな様子で恭也の事を語る。

「なんでも、あのすぐ後に暴漢に襲われたとかで……怪我そのものは軽いみたいですけど」
「それは、不幸中の幸いですけど……災難でしたわね」
「…ええ、本当に」

心底、本当に嘘偽りなく美羽は悲しそうに瞑目する。
その点に関しては兼一も同感なのか、彼の顔にも同じ色がうかがえた。
普通、会った事もない他人の事でこれだけ心を砕けるものではない。
しかし、美羽も兼一に勝るとも劣らない筋金入りのお人好しだ。
自分達の状況は一時棚の上に置いておいて、恭也達の身に降りかかった災厄に心を痛めている。

「でも、ちょっと気がかりもあるんですよ」
「気がかり、ですか?」
「はい、この前も話したと思うんですけど、高町君は多分かなりの腕をもった武術家です。
 そんな彼が、いくらお花見帰りの気の緩んだタイミングとは言え、そう簡単に不覚を取るとも……」
「まあ、何十年と技を磨いた達人が、ほんの一瞬の油断で弱者に敗れる。それが武術の世界ですから」
「それは、分かってるんですけど……」
「………………………兼一さんは、その方に匹敵するか、凌駕する使い手に襲われたとお考えですの?」
「一つの可能性だとは…思います」

兼一の表情は硬く、何か不吉な予感の様なものを感じているようだった。
美羽もまた、そんな兼一の顔を見て神妙そうに考え込む。
しかし、実際には思いっきり二人の関係者の仕業だったりするのだが……。

「でしたらここは……」
「何か考えがあるんですか!?」
「ええ、一つ」

唐突に顔を挙げた美羽は、真剣な眼差しで兼一を見つめる。
普段ならば照れてしまうところだが、兼一もまた緊張感に満ちた視線で美羽に応じた。
そうして、美羽の口から語られたのは……

「いっそ、新島さんに調査をお願いしてはいかがでしょう?」
「げっ! アイツにですか!?」
「ええ。新島さんの情報収集能力は本物ですわ。実際、私達も沢山お世話になっていますし」
「まあ、確かにアイツの邪悪な頭脳に助けられた事が皆無、とは言いませんがね。
 しかし、あの宇宙人を頼るのはなんだか人として……」
「背に腹は代えられませんわ」

酷い言われようである。
仮にも数年来の友人、それも死地を共に切り抜けてきた戦友でもあると言うのに、この扱いはどうか。
まあ、そういう扱いを受ける様な事をし続けてきた本人の自己責任と言ってしまえば、それまでなのだが。

そして、この世界には『噂をすれば影』と言う言葉がある。
要は、噂をしていると不思議と当人が現れる、と言う事だ。

「け~んい~ちく~ん!」
「うぎゃ――――――!! で、出たな宇宙人!」
「いて! てめぇ、折角会いに来た親友に何しやがる!!」
「黙れ悪友!!」

電柱の陰から突如姿を現す未確認生命体。
反射的にアッパーカットを決めてしまう兼一だが、その事には全く後悔も反省もしていない。
そうして、そのまま子どもの様な取っ組み合いが始まった。
いったいこれを見て、誰が兼一を梁山泊が育てる「史上最強の弟子」だと思うだろう。
数分後、ようやく不毛な取っ組み合いを終えた二人は、息を整えて向かい合う。

「で、今日は何の用だ。まさか、また僕をお前の邪悪な計画に利用するつもりじゃないだろうな」
「ケケケ、すぐに相手を疑うとは、お前も俺様に学んでいるようだな」
「そうそう何度も同じ手が通用すると思うなよ。こんな事を言うのはお前だけだ」

兼一にしては珍しく、吐き出される言葉はとげとげしく不審に満ちている。
まあ、今日まで新島にさんざん利用されてきた兼一だ。この程度の警戒心は当然だろう。

「で、用件は何だ。長い付き合いだ、聞くだけ聞こう」
「ああ、実はな……」
「なんだよ、もったいぶってないで教えろよ」
「いや、もう遅かったみてぇだな」
「は?」
「兼一さん、上!!」

いぶかしむ兼一に、美羽の鋭い声が叩きつけられる。
反射的に兼一はその場から飛びのくと、先ほどまで兼一のいたところに黒い影が落下してきた。
即座に空手では鉄壁と称される「前羽の構え」を兼一は取り、黒い影に警戒する。
そして、砂煙が晴れたところで黒い影が口を開く。

「我は鹿山祐樹。故あって『史上最強の弟子』白浜兼一殿のお命、頂戴仕る」

姿を現したのは、袴姿の厳つい大男。それも、その手には長大な槍が握られている。
どうやら、例によって例の如く、兼一の命を狙った刺客だったらしい。

「まあ、こういうこった」
「って、またか――――――――――――――――――――!!」
「なんだ、いつもの刺客でしたか」

それを見て新島は「この展開にも飽きた」とばかりに肩を竦め、兼一は絶叫し、美羽は慣れた様子で構えを解く。
とりあえず今回は一人だし、見たところ達人と言うわけでもない。
ならば、無理に手を出すのも無粋と言うものだろう

「なんでもっと早く知らせなかった!!」
「おいおい、おめぇが俺様をいきなり殴ったのがそもそもの原因だろうが。責任転嫁は男らしくねぇぞ」
「ムキ―――――――――――!!」

敵から目を離さず、新島に対し不満を爆発させる兼一と、それをさらっと流す新島。
だが、敵はそんな事を考慮してくれない。
当然、これを隙と見て踊り掛かってくる。

「敵を前におしゃべりとは……命がいらぬと見える!!」
「ほれほれ、早く応戦しねぇと死んじゃうぞぉ~」
「ぐわ――――――っ! 他人事だと思いやがって――――――――!!」

そんな事を叫んでいる間にも、怒涛の刺突が兼一を襲う。
新島はもちろん、美羽も助け船を出してはくれない。
ここからは、もう自分一人の力で何とかするしかないのだ。

そして、槍の穂先が兼一の制空圏に入った。
すると、先ほどまで絶叫して隙だらけだったはずの兼一の体は勝手に反応し、その刺突を紙一重で回避する。

「ぬ!」
(あ、危なかった。『恐怖センサー』の反応がもう少し遅れていたら、腹に風穴が空いてたかもしれない)
「なるほど、史上最強の弟子の名は伊達ではないか。ならば、我が渾身の槍技を受けるがよい!!」
「ええい、それは御免被る!!」

次々と繰り出される刺突を、薙ぎを、兼一は薄皮一枚で回避する。
服は次々と放たれる攻撃により切り裂かれて行き、兼一の肌もまたところどころに赤い線が刻まれていく。
同時に、怒涛の猛攻になかなか攻め込む隙を見出せない。
槍や刀などの長物の無手に対する利点、その一つが広い間合いだ。
敵を近づけさせず、距離を取ったまま叩きつぶすのが無手との戦い方。
この敵はその基本に実に忠実で、それ故に兼一を以てしても敵の制空圏の中に踏み込めない。

「せぇりゃあぁぁぁぁあぁぁあぁぁあぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
「く、なんて槍捌きだ、隙がない……! っていうか刃物怖ぇ!!」
「大陸では、槍は兵器の王とも称される。王者の力に平伏すが良い!!!」
(落ち着け、慌てるな。間合いに入れないなら、やり方を変えるんだ)

相変わらず刃物が苦手な兼一だが、すぐさまどう対応するかに思考が及ぶあたりに慣れを感じさせた。
そうして兼一は考える。真っ向から間合いに入っていくのは難しい。
ならば、別の方向から間合いに入る方法はないだろうか、と。

「ふっ!」
「なに!?」

敵の刺突が放たれるタイミングに合わせて一端後方に飛び、敵から距離を離す。
さらに着地の反動を利用し、大きく横に飛ぶ。
だがそれだけでは終わらず、兼一は跳躍したその先にある壁をさらに蹴る。
そうして辿り着いたのは、敵の側面。
正面にいた兼一に対しての攻撃ばかりだった為に、身体が突然の横への変化に対応しきれていないのだ。

「ちぇすとぉ!!」

その隙を逃さず、兼一は敵の頭部にひじを叩きこむ。
『三角飛び猿臂打(さんかくとびえんぴうち)』。柱や壁を利用して飛び上がり、敵の頭上をひじ打ちする技だ。
だが、それだけではまだ倒すには至らない。
頭を撃たれた敵は体勢を崩しながらも、兼一を槍の柄で殴り飛ばそうと力技で薙ぐ。

「甘いわぁ!!」
「ぐぅ!?」
「まさか我が懐に入るとは思わなんだ。だが…これで終わりだ!!」

兼一は辛うじて脇を殴りつけてきた柄を掴み、弾き飛ばされる事だけは阻止する。
しかし、一度は掴んだ柄も即座に引き抜かれ、自由になってしまう。
そして敵は槍を短く持ち、そのまま目の前にいる兼一を貫くべく刺突を放つ。
だがそこで兼一は、思ってもみない行動に出た。

「フン!!」

渾身の力でアスファルトの地面を踏んだのだ。
数年前でさえ、兼一はコンクリートを震脚で陥没させることができた。
それからずいぶん時間もたった今、兼一の脚力はあの時のそれを遥かに上回る。
不十分な体勢ではあったが、その凄まじい震脚はアスファルトの地面にただならぬ揺れをもたらした。
結果、敵の姿勢が僅かにブレ、刺突からもそれまであった切れが鈍る。

「な、なんという脚力だ!?」
(いまだ!!)

兼一は目前に迫る穂先の横っ面を殴り、その軌道を横に逸らす。
さらに、鍛え抜かれた膝で槍を握る手を蹴りあげる。

「くっ、きさまぁ!」
(何て人だ。この膝を喰らって尚、槍から手を離さないなんて……)

何があろうと武器から手を離さない敵に素直に敬意を抱く兼一。
しかし、やはり兼一の膝は強力だったのか、蹴られた手は槍を握ったまま天高く掲げられる形となった。
そして、無防備になった懐に兼一は入りこむ。

「はっ!!」
「ぬぉぉっ!」
(山突きをかわされた。でも、まだまだこれからだ!!)

初撃は上段と中段に同時攻撃を行う『山突き』。中段は膝を盾に防がれ、上段の突きは首を傾けて避けられる。
だが、兼一の攻撃はこれで終わりではない。
空振りした右拳を引きながら左手と共に相手の首を取り、首相撲の形を取る。
そのまま、地を蹴ってその顔面に膝蹴りを放つ。

「カウ・ロイ!!」

ムエタイ技であるカウ・ロイが決まり、敵の顔の潰れる嫌な音が漏れた。
着地するが早いか、さらに心意六合拳の技『烏牛擺頭(うぎゅうはいとう)』に繋げ、胸部に頭突きを入れる。

「こりゃ決まったな」
「どうでしょう? 耐えきった方もいましたし、油断はできませんわ」

外野からは、見慣れた兼一の連撃から勝負ありと見る新島と、それは早計と判断する美羽の声がする。
兼一も美羽の意見には賛成だ。故に、ここで攻撃の手を緩めるつもりもない。
相手の反撃に備える心構え『残心』。倒したと思った敵が再び立ち上がる事など珍しくもない。
兼一自身がそうだったし、そう言った敵と幾度となく戦ってきたからこそ、彼に油断はなかった。

「おおおおおおおおおおおおおお!!!」

胸部への頭突きの為に低くした体勢を利用し、相手の足を取る兼一。
そうして一気に身体と共に取った足を持ち上げる。
すると、敵は身体を掬われる形となり頭からアスファルトの地面に落下してく。

『最強コンボ』。空手、ムエタイ、中国拳法、柔術と四種の武術を学ぶ兼一らしいコンビネーション技だ。
いくつかのパターンが存在するその中でも、これは兼一が最初に使用した『一号』。
それはつまり、彼にとって最も使いなれた連撃と言う事であり、相応に自信のある技だ。
まあ、少々ネーミングセンスがアレだが、それは兼一の責任ではないので仕方がない。

とはいえ、それではさすがに死んでしまいかねないので、途中で背中から落ちるように加減する。
その分敵に反撃の余力を残させる形になる事を熟知しているのか、兼一は倒れた敵の鼻の先に拳を突きつけた。

「これで終わりです。まだやるのでしたら……」
「くっ……………………いや、負けを認めよう。頭から落ちぬよう加減され、あまつさえトドメの一撃まで……これでもなお続けようと思えるほど、我は無謀でも恥知らずでもない」
「そうですか…………ありがとうございます」
「おかしな男だ。襲ってきた敵に礼を言うなど……」
「かもしれません。でも、これ以上戦わなくて済んだと言う意味でなら、やっぱり『ありがとう』だと思います」

そこまで言って、ようやく拳を引き構えも解く兼一。
敵の言葉を全く疑っていないその様子は、危なっかしくさえある。
そうして、兼一は背後で待つ友人達の下へと戻っていく。

(無防備な背中だ。今なら突き殺す事も容易かろう。それがわからん男でもあるまいに……)

その様子に返って毒気を抜かれたのか、男は力なく槍から手を離す。
元よりそんな卑怯な不意打ちなどする気はなかったが、邪念が生じなかったと言えば嘘になる。
しかしその邪念も、こうまで無防備に晒された背中を見ては雲散霧消してしまった。
それに……

(奴が振り向く寸前の、あの女の眼。あんな眼で睨まれては、恐ろしくてそんな気にもならん)

兼一の戻る先にいる美羽の先ほどの眼を思い出し、男は軽く身震いする。
あの時、美羽は口こそ動かしはしなかったが無言で語っていた。
『もし彼の優しさを踏みにじるのであれば、自分が許さない』と。
それは結果的に取り越し苦労だったのだが、男の肝っ玉を凍えさせるには十分だった。

男の視線の先では、新島と兼一が何やらギャアギャア騒いでおり、それを美羽は微笑ましそうに見ている。
その手にはいつの間にか医療キットがあり、兼一が負った怪我を治療するつもりなのだろう。
その光景は先ほどまでの殺伐としたものと比べると、あまりにも平凡だった。
男は久方ぶりに、そんな平凡な空気を懐かしいと思う。

こうして、今日もまた兼一は生き残った。
今日だけでも、実に五人目の刺客だったが……。



BATTLE 5「裏社会科見学~HGS編~」



「ふぅ…………なんとか今回も生き残れた……」
「今回の方はかなりできましたわね。実際、初撃はかなり危なかったでしょう?」
「だな。火付きと突発的事態への対応の悪さは相変わらずだぜ」
「うぅ……」
「そんなことだと、そのうち一撃必殺されちまうぜぇ~」
「一体いつになったら勇気をコントロールする術を身につけてくださるのでしょう。
私、毎回寿命が縮む思いですわ」

実に楽しそうに語る新島と、溜め息交じりに首を振る美羽。
折角生き残れた事を喜んでいると言うのにこれでは、兼一としても肩身が狭いこと甚だしい。
まあ、美羽に関して言えば、要は兼一が彼女に心配をかけさせないようになればいいだけなのだが……。
思うようにそれが出来ない事こそが、兼一の兼一たる所以だろう。

「……と、ところで、お前はどこまで付いてくる気だ、新島」
「あ? そりゃ用件が終わるまでに決まってんだろうが。
どうした? 鍛え過ぎてついに脳みそまで筋肉になったのか?」
「失礼なことを言うな! 用件と言うなら、刺客は撃退したんだから終わっただろ!!」
「は? おいおい、俺様がそんな事でいちいち動くほど暇だと思ってんのか?
 こちとら『武術団体 新白連合』立ち上げの為に奔走してるんだぞ、そんな暇あるわけねぇじゃねぇか」
「そんな事だと―――――――――――!! 僕の命がかかってるってわかってるのか!!」
「ま、死なねぇ程度に頑張ってくれ。駒として役立ってさえくれるなら文句ねぇからよ」
「わぁ、とっても悪い顔してますわぁ」
「ウヒャヒャヒャ! そんな褒めるなって美羽ちゃん!!」
(こいつだけは! こいつだけは―――――――――――――!!!)

活人拳の道を行く兼一だが、今日と言う今日こそは心の底からこの悪友に殺意が芽生える。
いっそ亡き者にしてしまった方が平和になるんじゃないか、割と本気で思案する兼一。
とはいえ、そう簡単に死ぬ男でもないし、やるだけ無駄と分かっているので実行はしないのだった。

「? ですが、刺客の件でないとすると、いったいどんな御用向きですの?」
「美羽さん、そんな華麗にこいつの問題発言をスルーしないでください」
「気にしたら負けですわ」
「全くだぜ、細かい事に拘ってると小さい男だと思われるぞ。ま、実際おめぇは小市民なわけだが……」
「余計な御世話だ!?」

美羽もすっかり新島との付き合い方を心得ているようで、いちいち彼の発言に反応したりはしない。
要は、ベクトルこそ違うが梁山泊の面々のように一般常識からかけ離れた思考回路をもった人物、と思っておくのが無難なのだ。

「それでだな、兼一。お前に折り入って頼みがある」
「悪事に加担する気はないぞ」
「いやなに、高町恭也を新白に引き込んでほしいのよ」
「待て! なんでお前が高町君の事を知っている…………って、ほのかか」
「ケケケ、分かってんじゃねぇか」

実際には夏を経由しているのだが、そこまで懇切丁寧に教えてやる気など毛頭ない新島。
まあ、下手にソースを明らかにすると、先日の夏と恭也との事がバレてしまうと言うのもあるのだが。
とりあえず、今の段階で兼一に知られるのは旨くないと言う考えなのだろう。

「アレだけの人材だ、是非とも新白に欲しい。ついでに、その妹とか居候とか纏めて面倒見る用意があるぞ」
「断る! 折角健全に生きてるあの人たちを、お前みたいな悪魔に引き渡すつもりはない。
 不幸になるのは僕達だけで十分だ!!」
「おいおい、人を疫病神みたいに言うなよ」
「そんな事は言っていない。骨の髄まで腐ってるお前と同列に扱われたんじゃ、疫病神に失礼だ。
というか、人だったのか、お前。確かに宇宙人には『人』という字が入るけど……」

どこまでも失礼千万な事をスラスラと言ってのける兼一。
相手が新島でなければここまで言う事など、穏やで超の付くお人好しである彼ならあり得ないだろう。
いや、これだけ好き放題言える相手がいると言うのも、ある意味では貴重なのかもしれないが……。
まさしく、親友でもなければ戦友でもなく『悪友』と呼ぶにふさわしい間柄だろう。

「待て待て、相棒。よく考えても見ろ、連中にとっても俺達と関わる事は悪い事じゃねぇ。
 うちには腕の立つ奴が多い、おめぇ然り、美羽ちゃん然り、谷本然り、武田然りだ」
「おい、ちゃっかり美羽さんをカウントするな!」
「良いじゃねぇか、本人は喜んでるし」
「わーい、私も皆さんの一員ですわ~♪」
「美羽さん……」

あまりに能天気な美羽に、兼一はその場で崩れ落ちそうになる自分を必死に立て直す。
だが、そんな兼一の事など気にした素振りも見せず、新島はさらに言い募る。

「連中だって武術家だ、競い練磨し合える相手が欲しくない筈がねぇ。
 それだけなら別にうちじゃなくてもいいだろうが、下手に殺人刀なんかに手を出されても嫌だろ?
 なら話は簡単だ。うちに引き込んで、共に活人の道を歩けばいいんだよ!!」
「相変わらず口のうまい奴め……」

などと忌々しそうに言いつつも、内心では兼一も割と揺さぶられている。
何しろ、「これは新島の罠だ」と分かっているにもかかわらず、その提案には抗いがたい魅力があるのだ。
兼一としても、最後の最期は本人達が決める事とは言え、できるなら殺人刀になど手を染めて欲しくない。

しかし、それとこれはやはり別問題。
この悪魔にかかわる事は、散々利用され迷惑を被ってきた兼一には容認できなかった。
それこそ、殺人刀に進んでしまう事と同じくらい。

「……………い、いいや、やっぱりダメだ! お前の様な悪魔に、あの人たちを巻き込むわけにはいかない。
 僕はあの人たちを信じる、きっと殺人刀になんて手を染めない!
 仮にそうなったとしても、修羅道には落ちないと!!」
「おお! 兼一さんが悪魔の誘惑に打ち勝ちましたわ!!」
「ちっ、あとちょっとだったのに……まあいい、今回の本題はこっちじゃねぇ。
そっちは追々話をつけようじゃねぇか」

不屈の精神力で、見事悪魔(新島)の囁き(ブレイン・ウォッシュ)を撥ね退けた兼一。
まあ、新島は新島でこの程度で諦めるような性格でもないので、これで解決と言うわけでもないのだが。
だが、新島の発言に兼一は眉をひそめる。

「まだ何かあるのか?」
「ああ、むしろこっちが今日の本命だな。なぁ、HGSって知ってるか?」
「っ!!」

新島の発言に、美羽の目が一瞬鋭く細められる。
新島もそれに気付いた様だが、そちらにあえて言及しない。
そうして、ひとしきりその単語の意味を考えた兼一は、再度新島の方を向き直った。

「……………………なんだそれ?」
「ヒッヒッヒッ、やっぱり武術と本、それと植物以外の事には疎い野郎だ……ま、俺様もこれを知ったのは最近なんだがな。HGSっつーのはだな、噛み砕いて言っちまえば『超能力者』の事だ」
「ちょ~の~りょく~?」
「あ! なんだその眼は!? てめぇ、俺様の情報を信用してねぇな!!」
「当たり前だろうが! 確かにお前の情報収集能力は認めるが、お前の都合のいい様に歪めるんだから信用なんてできるか!!」
「くっ…………兼一のくせにもっともらしい事を……」

如何に図太過ぎる神経と剛毛の生えた心臓を持つ新島とは言え、さすがにこれに反論する事は出来ないらしい。
しかし、当然と言えば当然だろう。何しろ、一点たりとも嘘偽りのない事実なのだから。

「いえ、確かにHGS…『高機能変異性遺伝子障害』の方は一般的に言うところの『超能力者』ですわ」
「へ? ま、マジなんですか!?」
「はい。昔、おじい様と世直しの度をしている時に何度かお会いした事がありますわ」
「そら見た事か! そら見た事か!! さあ、俺様への非礼を詫び、靴の裏でもなめやがれ!!!」
「調子に乗るな!!」

さすがに美羽の言葉となれば無条件に信用する兼一。
そもそも、幼少期より本物の戦いに身を投じ、諸国を放浪していた美羽の言葉だ。
頭ごなしに否定できるようなものではないし、妙に説得力があって当然。
ついでに、それに乗じてわめき散らす新島だったが、即座に兼一のツッコミが入って沈黙した。
そうして、美羽は古い記憶を辿るべくあごに指を当てて思案する。

「確か、比較的新しい遺伝子病の一種だったかと思うのですが、私もあまり詳しい事は……」
「ああ。ま、細かい事は置いておくとして、要はその普通と違う遺伝子の結果超能力が使えると思っとけ。厳密には、変異性遺伝子障害のすべてじゃなく、その中でも極めて稀な症例の『高機能性』だけに見られる特質だけどな。
 その外見的特徴として、『リアーフィン』と呼ばれる所有者の能力をイメージ化した形状の『翼』を持っているんだが、こいつは出し入れが自由にできるみてぇでな、普段は隠してるから外見からじゃまずわからんらしい。
 能力そのものは、『念力』だの『転移』だの『精神感応』だの、ファンタジーみてぇな力をマジで使うようだぞ。中には『変身』なんて真似ができる奴もいるとか……」
「美羽さんが言うなら本当なんだろうけど……ちょっと信じがたいな」
「おめぇが言うか? 世間一般から言って、超能力者も達人も非常識って意味でなら大差ねぇと思うぞ」
「……………………………………ひ、否定できない……」

よくよく思い返してみれば、確かに兼一のいる世界も大概なのだ。
戦車をひっくり返したり、海を走ったりと、非常識さならいい勝負だろう。
むしろ、特A級の達人の拳を防げる能力の持ち主がどの程度いる事やら。
何しろ、HGSの中でもとりわけ強い力を持ち、バリアの硬さに定評のある仁村知佳で『トラックの直撃』を受け止められるくらいと言うのだから……。

「ん? だが新島、その人たちと僕達の間に何の関係があるんだ?
 こう言っては何だけど、超能力と武術じゃ何の接点もないだろ」
「ああ、確かに直接的なつながりはねぇな。共通点としちゃ、どっちも世間から隠されてるってことくらいか」
「隠す? そう言えば、テレビとかでも全然取り上げられてないけど……」
「考えてもみろ。本当に超能力者なんていたら、世間から爪弾きに合うのは当然だ。
 人間ってのは、程度の差はあれ異物を排除するもんだからな。
差別や迫害をされないように、世間を混乱させないように隠してるのよ」

秘匿されている理由を聞き、兼一の顔に暗い影がよぎった。
人間にそういう一面がある事は、兼一も知っている。
彼や美羽もまた、理由は違えど他者から迫害された経験のある身だ。
イジメと差別では大違いかもしれないが、その辛さ、悲しさ、恐怖、絶望、痛みはよく知っている。

「話を戻すぞ。中には武術の優位性を示したくて、あるいはその逆に自分達の能力の優位性を示したくて戦いを挑む連中もいるかも知れんが、今のところはそう言った事はほとんど起きていない。
 毛色が違いすぎるのかねぇ」
「? それですと、ますます武術との接点がなくなりますわよ。
『秘匿』以外ですと『強力な力』と言う点くらいしか、両者に繋がりなんてありませんわ」
「ああ。だが、別に接点なんて必要ねぇのよ」
「どういう事だ?」
「いいか? 超能力なんざ、言っちまえば一つの道具にすぎねぇ。普通の人間は持ってなくて、かなり特殊な部類ではあるが文明の利器や武術と同じで、それ自体は単に『力』という名の道具だ。
 なら、それを利用しようと考える連中がいるのは当然だ……………………どんな形でもな」

そこまで聞いたところで、新島の言わんとする事がある程度二人にもわかった。
利用するだけならさして問題ではない。
HGSの力がどんなものか感覚的に理解していない兼一でも、超能力なんてものが実際にあるのなら色々な事が出来ることくらいは想像がつく。念力が使えれば重い物を楽に運べるかもしれないし、転移ができれば物の輸送が便利になるだろう。精神感応ができれば、プライバシーの類に目をつぶれば犯罪捜査での貢献度は計り知れない。貧困な想像力の持ち主でも、これくらいの事は思いつく。

だが、便利なものはただ『便利』なだけでは済まされないのが人の世の常。
たとえばニトログリセリンがそうだ。ある種の心臓病などには薬になるそれも、爆薬としての面を持つ。
その爆薬としての利用法にしても、建物の発破解体などに使えるのに対し、人を殺す道具とする事もできる。
なら、HGSは必ずしも世の為人の為にしかならない『力』なのか。

そんな都合のいい話がある筈がない。
ならば当然、それを『兵器』や『武器』として利用しようと考える者が出てくるだろう。

「実際、俺様の忠実な調査員共の報告によれば、そういう研究をしていた組織は結構あったらしい。
 で、それが今もいないと思うか?」
「だいたいわかってきましたわ。研究には研究の材料が必要ですし、その手の組織がまっとうな方法で研究するとも考えられません。当然、研究材料の入手方法の一つは……」
「ま、まさか!?」
「そのまさかだ。優秀な能力者の拉致…ま、定番中の定番だな」

新島のその言葉に、兼一の顔に明らかな嫌悪と義憤が灯り、拳が固く握りしめられる。
普通に生きたいだけの人たちから、勝手な都合で『普通の生活』を奪う外道と悪党。
それは、兼一が最も嫌悪する類の人種だ。なにしろ兼一が武術を始めた理由、それは『誰もが見て見ぬふりをする悪をやっつける』事であり『自分の信じた正しさを貫く』為なのだから。

「まあ、落ち着けって、大抵の場合この手の事は未然に防ぐなり何なりの対策がされてる。
マジで拉致られる事なんてほとんどねぇよ」
「そ、そうか……」

ほとんど、と言う事は全くないと言うわけではないのだろう。
しかしそれでも、やはりそう言った事態を防ぐ体制作りはされている。
その一環がHGS患者の情報の秘匿なのだから。
だが、何事にも例外と言うのは存在する。

「ところが、だ。どうも最近、不穏な動きを見せてる組織があるらしい。
 いいか? HGSの事は表沙汰にできねぇ。それに、裏の事は裏の人間に任すに限る。
さてこういう場合、日本でその手の事を任されるのは、さ~てど~こだ!」
「……………………………うち(梁山泊)か」
「ウヒャヒャヒャヒャ! そういうこった、多分近々動きがあるから精々気をつけろよ」
「相変わらず計りしれん奴め………どこからその情報を抜き取った」
「企業秘密、とだけ答えておこう」

キラン、と歯を輝かせる新島。実に似合わない。
しかしそれはそれとしても、これは最早調査員レベルで入手できる情報ではあるまい。
となれば、考えられる可能性は一つ。以前にもあった事だが、おそらく件の自作ウイルスなどを駆使して各国の諜報機関などから拝借した情報なのだろう。
かつては闇の情報すら入手して見せた男である、今更この程度では驚く気にもなれない兼一達だった。

「でも、どうしてそんな情報を手に入れたんですの? いえ、そもそもどうしてHGSの事を?
 あまり、新島さんの利益になりそうにないんですけど。
新島さんに限って兼一さんの事を心配して、なんて事もないでしょうし」
「ですね。おい、いったい何を企んでいる」
「本日の営業は終了しました、またのご利用をお待ちしています」
「ええい、訳のわからんはぐらかし方をするな!!」
「ヒャハハハハハハハハハハハハハ!!!」
「くっ!? 相変わらず逃げ足だけは速い奴め!!」
「わぁ~……もう見えなくなってしまいましたわ」

『逃亡最速の男』の名は伊達ではない。
逃げに徹した新島の脚力は、兼一と美羽をも置き去りにする。
どうも、年を経るごとに新島の危機感知と危険回避、そして逃走能力は向上しているようだ。
このまま上がっていく、はたしてあの男はどんな領域に突入するのやら。

「まあ、新島さんにどんなお考えがあるのかまではわかりませんが……」
「元からあいつが何を考えて生きているのかなんて、さっぱりわかりませんけどね」
「そ、それは確かに…………とりあえず、覚悟だけはしておきましょう」
「はぁ……………僕が平穏な生活を満喫できる日はいつ来るんだろう?」
「死んだらいくらでも満喫できますわ」
「それって死ぬまで無理って事ですよね!? そんなのイヤ――――――――――――――――――――!!」

最近、どうにも美羽の発言に遠慮の類がなくなって気がする兼一。
それが良い事なのか、それとも良くない事なのか、判断の難しいところである。
そして、二人から見事逃亡を果たした新島はと言うと……

「やれやれ、どうやら追ってきてはいねぇみてぇだな。
 捕まる気なんざさらさらねぇが、アイツらに追われるとまくのが面倒だ」

なにぶん、兼一は新島の行動パターンを最も熟知している男である。
さすがに頭脳戦になって新島に勝てる筈もないし、多少パターンを読んだところで追いつめられる筈もない。
だが、やはりあの二人の運動能力は侮れないのも事実。
これでも、一応細心の注意を払って逃亡してきたらしい。

「しかし、HGSの事を知ったのは完全に偶然だったが、良い拾い物だったぜ。
 おかげで、今回の情報を仕入れるきっかけになった。これで、とりあえず一つの策が立てられたしな」

新島がHGSの存在を知ったきっかけは、極単純に先日の一件を見ていたからだ。
あの時、恭也を助けた現象と、フィアッセの背に一瞬広がった漆黒の翼。
新島はそれに興味を持ち念の為に調べ、情報を収集してみたところ面白い情報を得る事が出来た。

「クックックックッ。とりあえず仕込みは上々……今回は、兼一には特に頑張ってもらわなきゃならねぇからな。
 何しろ、上手くいきゃ高町に貸しを作る好機! あの手の奴は受けた恩は忘れねぇからなぁ。
そいつを足がかりに…………ウヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャ!!!」

正確に新島が何を知り、何を狙っているかはまだ分からないが、どうも今回の件を利用して恭也達を引きずりこむ腹積もりであるらしい。
美羽や兼一が思った通り、親切心で今回の情報を流したわけではないようだ。
むしろ、兼一のやる気と勇気を奮起させる為に、事前に情報を与えたと見るべきだろう。

さあ、この新島の策がいったい後にどんな影響を与えるのやら……。



  *  *  *  *  *



同時刻、海鳴市の海鳴大学附属病院。
その一室で、恭也は妙齢の銀髪の女医「フィリス・矢沢」から診察と整体を受けていた。

「ふぅ、これで終わり。どうです? もうずいぶん楽になったと思うんですけど」
「ええ、ありがとうございます。むしろ、あの日以前よりも調子はいいくらいです」
「そう、それは良かった」

恭也の言うあの日とは、すなわち夏と戦った夜の事だ。
あの夜、恭也は神速を使った。彼にとっては諸刃の剣にも等しい奥の手を。
一度使えば膝に激痛が走り、数日は軽い違和感が残る。

だが、フィリスの治療を受けてからと言うもの、そんな様子はない。
それどころか、普段以上に膝にかかる負担は減り、動きの切れも増している位だ。

「でも、あの……『神速』でしたか? あれ、できる限り使わないでくださいね。
 そりゃあ、一回や二回使ってすぐになにがどうこうなるわけじゃないですけど、負担は蓄積していって、いつか爆発するかもしれないんですから」
「……………………………………すみません」
「…………謝るんじゃなくて、約束してくれると、嬉しいんですけどね」
「…………すみません」
「ほんと、フィアッセに聞いてた通り。できない約束はしない、良い事だとは思うんですけどね……」

恭也の謝罪は、過去へのものではなく未来への物。
きっと自分は、いざとなれば限界など無視して神速を使う。
その自覚があるからこそ、恭也はその場しのぎの嘘や約束をせずにいる。
それは非常に誠実な事ではあるが、フィリスからしてみれば頭の痛い限りだろう。

「医者は万能じゃありません。本当に壊れ切ってしまったら、私達にできることなんてないんですよ。
 本末転倒かもしれませんけど、治すのも治るのも、私達じゃなくて患者さん。
 私達は、ただそのお手伝いをして、少しでもスムーズに治る様にしてるだけなんですから」
「わかっている、つもりです」
「それでも、聞いてもらえませんか?」
「武道家なら、それで良いんだと思います。競技者なら、そうすべきなんでしょう。
でも俺達の技と力は、そういうものとは別種のものですから」

恭也は武道家でもなければ、競技者でもない。
先を見据えていないわけではない、未来を蔑ろにしているわけでもない。
しかし、『明日よりも今が大事』と言うのが根底にある。
今をなんとかできずして、明日を語る意味はない。
『明日の為』ではなく『今の為』に、彼の力は存在するのだから。

「そうですか……不甲斐ないですね、そんな心配をしなくて済むくらい治せてしまえば、万事解決なんですけど」
「それは、先生の責任じゃありません」
「だとしても、ですよ。
医者の本分は治す事ですから、治せないっていうのはそれだけで責任を感じちゃうんです」

若くともフィリスは医者だ。
きっと、その『治せなかった』はこれまでにもあって、これからもやっぱりある。
そして、その何かをずっと抱えて行くのだろう。

「って、ごめんなさい。変な話をしちゃいましたね」
「あ、いえ。元はと言えば、俺から振ったようなものですし」
「とにかく、訓練をするなとは言いませんが、ほどほどに節度をもってやってください。
 あんまり無茶が過ぎると、ここぞと言う時に戦えませんよ。
それって、剣術家の方にとっては大問題じゃありませんか?」

話題を変えたフィリスは、実に痛いところを突いてくる。
確かにフィリスの言う通り、強くなる為の鍛錬で身体を壊し、戦えなくなってはそれこそ本末転倒だ。
大問題どころか、大恥、あるいは御神の剣士として失格と言ってもいいだろう。
ただ、その言葉にどこか確信の響きがあった事が、僅かに恭也は気になった。

「先生は、何か武術を?」
「私はやってませんけど、古い知り合いに。というか、那美とは知り合いなんでしょう?」
「あ、はい。先生も神咲さんの事を?」
「ええ、ずいぶん前からの知り合い、と言うか友人ですね。
那美のお姉さん、薫っていうんですけど、あの人にもとてもお世話になりましたから」
「ああ、神咲一刀流…でしたっけ?」
「はい、那美はあまり腕前は良くないみたいですけど、薫は相当なものだったみたいですね。
 って、やっぱり門外漢なんで良くはわからないんですけど」

それはよほど懐かしくも幸せな思い出なのか、二人の話をするフィリスの表情はとても優しい。
今ここにはいない薫と言う人物の事を思っているのか、その眼はどこか遠くを見つめていた。

「薫は生真面目な人で、リスティが悪戯するといつもこっぴどく叱っていましたね。
 まあ、そこで私達を巻き込むあたり、本当にリスティは姉の自覚に欠けると言うかなんというか……」
「お姉さんが、いらっしゃるんですか?」
「ええ、三人姉妹です。リスティが一番上で私が二番目、私達は今も海鳴住まいなんですけど、妹のシェリーは今アメリカですね。
リスティは世渡り上手ですから心配いらないんですけど、シェリーも私よりしっかりしてるのにちょっと無茶するところがあるから心配です。まあ、時々知佳が見てくれてるみたいですし……って、すみません! なんだか私の話ばっかりになってしまって」
「あ、いえ、お気になさらず……」

恭也からすればさっぱりわからない話題だが、とりあえず家族が離れて暮らしているのだろうと言う事だけはわかった。そして、いつか美由希達が独り立ちしていくこともあるだろうし、恭也が海鳴を離れる可能性もある。
その時、自分もこういう顔で皆の事を振り返るのかと、なんとなく恭也は思っていた。

「でも、また襲われたりすると怖いですし、気を付けてくださいね。
 それと、そういう事態になっても極力無茶はしないでください。
無理を言ってるとは思いますけど、医者としてはこう言わざるを得ませんし」
「そう立て続けに襲われるとも思えませんけど、注意はしています。俺も、美由希も。
 それに、この前の事で学んだことも多かったですから。俺たちなりに、対策は考えています」

そう、あの一件以来、恭也達は少しばかりそれまでの姿勢を変えた。
さすがにまだ小太刀を常時携帯するなどと言う真似はしていないが、どんなに小ぶりでもいいので必ず刃物は常備している。それがたとえ、学校などのこれまで刃物を持ち歩かなかった場所でも。
そして、それ自体は通常の小刀程度の大きさだが、飛針と鋼糸だけよりかは幾分ましだ。
いずれは、楽器ケースを改造して小太刀を持ち歩くことも検討している。普通に銃刀法違反だが……。

「そういう意味では、あの時の男には感謝しても良いくらいかもしれませんね」
「襲ってきた相手に感謝するって、ちょっと矛盾してません?」
「でも、あの時に気付けて良かったと思います。
もし、もっと取り返しのつかない時だったらと思うと、ぞっとしますよ」

そう言って恭也は苦笑する。
フィリスの言う事もわかるし、ハーミットと名乗った男への敵愾心は変わらない。
しかし、それでも学んだことがあった。気付けた事があった。思い出した事があった。
なら、相手の思惑はどうあれ、謙虚に受け止めるべきところは受け止めるべきだろう。
最近は物騒なニュースも多いし、あの時に武器を持ち歩いていれば、などと言う後悔をしないで済むに越したことはない。もちろん、次に会った時には先の借りをしっかり返すつもりでいるが。

「でも恭也さん」
「はい?」
「なんていうか、失礼かもしれませんけど…悩みとか相談できる相手って、います?」
「と言うと?」
「ほら、美由希さんは妹さんでお弟子さんでしょう。悩みとか相談しにくいでしょうし、かと言ってフィアッセは剣術とかはさっぱりだからやっぱり、ね。晶ちゃんやレンちゃんも、相談相手にするにはちょっと抵抗があるんじゃないですか? 普通の悩みならともかく、剣術関係だと」
「む……」

それは、完全に図星を突かれた指摘だった。
確かにフィリスの言う通り、武術関係の悩みを打ち明けられる相手となると、正直困るのが恭也の現状だ。
強いてあげるなら赤星だが、彼も本質は剣道家。剣術家である恭也と完全に共有できるわけではない。
武道と武術は違う。特に、表に出ない武術を磨く恭也とそう言ったものを共有できる相手は希少だろう。
そういう意味で言うと、恭也にとってその手の悩みを打ち明けられる相手はいないと言っていい。
一応は父に時折、近況報告のついでに打ち明ける事もあるが、答えが返ってくる筈もなく……。

「できるならそういうお友達、いるといいと思いますよ」
「そういうものでしょうか?」
「本分はカウンセラーですから、私が聞くと言う手もありますけど、やっぱり共感はきっとできません。
内側にため込んでしまってばかりでも、あまりよくありませんからね。そういう話を気兼ねなく話せる相手がいると、気持ちもだいぶ変わってくると思いますよ。
それこそ、ライバルっていう形でもいいと思いますし」

言わんとする事はわかる。剣術家、という区切りでなくても、似た様な生き方をする友人がいた方がいいと言うのは間違ってはいまい。だが残念なことに、今の恭也にその当てはない。
父が健在であったのなら、そのコネから同世代のその方面の友人も得られたかもしれないが、意味のない仮定だ。
とはいえ、勤務中の相手と長々と話しているわけにもいかないので、もう少し話をして恭也は病室を後にした。

そして帰路の途中、恭也は思う。
ライバルとはいったいどういうものなのか。
もしそう言った存在がいたら、自分も何かが変わるのだろうか、と。
それは、恭也自身にも答えのわからない疑問だった。



*  *  *  *  *



場所は変わって梁山泊。
無事に帰宅した二人は、修業に入る間もなく師匠達に呼び出されていた。

「どうやら、さっそくのようですわね」
「なんだか、アイツの邪悪な計画に加担しているようで、気が引けるんですけどね」
「あら? 引けているのは気だけなんですの? 
 いつもだったら……『いや――――!! 怖いのはいや――――!!』って、叫びながら逃げてますのに」
「はははは、視線をちょっと下げてもらえば分かりますよ。単に取り繕ってるだけです」

兼一の言う通り、彼の足は現在進行形でガタガタと震えている。
もういい加減慣れても良い展開だろうに、一向にその気配がない。
これを進歩がないと蔑むべきか、それとも初心と恐れを忘れないと褒めるべきか。

「まぁ、本音を言うと逃げたいのは山々なんですけどね……」
「?」
「でも、今回は逃げられませんよ。僕の信念の為にも。なにより、平穏に生きる人たちの為に」

兼一の表情はいつになく引きしめられ、身体からは充実した気迫が感じられる。
そんな彼に、先ほどまでの頼りなさはない。兼一にとって、武人として、男として、退けない時が今なのだ。
未だ勇気のコントロールはできないが、すでに彼の精神はある一線を越えている。
こうなった兼一の勇気は並みの武術家の比ではなく、その心は不屈の体現だ。

そんな兼一を、美羽は優しくも頼もしそうに見つめる。
優しいまま、甘いままにドンドン強くなっていく兼一。
一時は自分の庇護下から離れて行く事を寂しくも思った美羽だったが、今となってはその寂しさはより強い信頼へと転じている。美羽にとって、最も安心して背中を預けられる相手こそが、今や兼一なのだから。

そうして二人は師達の待つ部屋へと入る。
予想通り、そこには梁山泊の豪傑達が集結していた。ただし、今回は何名か席をはずしているが。
そこで、長老不在時の梁山泊の取りまとめ役である秋雨が切りだす。

「ふむ、裏社会科見学と聞いて腰が引けているかと思えば、何やら兼一君の気がいつになく充実しているねぇ。
これは、いったいどんな風の吹きまわしだい?」
「ちょっと悪友から、発破をかけられまして」

一目で兼一の気力の充実を見てとった秋雨は、実に面白そうに兼一を見る。
それに対し兼一も、視線を逸らさず確固たる意志と覚悟を以って応じていた。
そして兼一の口から出た単語から、その理由を知り秋雨の表情がさらに楽しげなものになる。

「ほぉ、彼か。ならば、あまり説明は必要ないかな?」
「いえ、詳しい事まではわからないので、お願いします」

そうして語られた内容は、概ね新島の話した通り。
HGSの事、それを兵器や武器として利用しようと考える者たちの存在、その一部が不穏な動きを見せている事。
そして、そのターゲットとなるであろう人たちの護衛を、本巻警部から依頼された事。
しかし、一つ予想外だった事があるとすれば……

「今回は、兼一君と美羽の二人で警護に当たってもらおうと思う」
「「え? 僕(私)達にですか?」」
「へへ…ま、今回はちょいとわけありでな」
「そうね、おいちゃん達総出で出陣することになるんだけど、それでも手が足りないね」
「アパチャイはタイに里帰り…中。じじいもふらっと北に旅に出て、二人とも連絡がつか…ない」
「ああ、そう言えばそうでしたわね」

そう、つい先日兼一が高町家との花見に出かけて間もなく、アパチャイと長老の二人が梁山泊を離れたのだ。
アパチャイは古巣のロムタイフンジムと飼い虎の「メーオ」の様子を見に。
長老は例の如く、強者探しの放浪の旅に出てしまっている。

「そんなに今回は護衛対象が多いんですか?」
「ふむ、どちらかと言うと数よりも問題なのはその範囲だ」
「へっ、護衛対象は四人だけどよ、そのうち二人は海の向こうだからな」
「え? でもそれなら岬越寺師匠、逆鬼師匠、馬師父、しぐれさんで四人満たせるんじゃないですか?」

確かに、梁山泊の受け持ちが四人だと言うのなら、それは今いるメンツだけで事足りる。
わざわざ美羽と兼一のコンビで警護に当たらなければならない理由にはならない。

「それがね、おいちゃんは大陸に戻って組織を潰す方に手を貸す事になってるね」
「つまり、今回の相手は大陸系の組織と言う事でよろしいのですわね?」
「う…ん。大陸の事なら、馬に任せるのが…一番」
「ああ、そう言えば馬師父って一見どうしようもない“変態エロ親父”ですけど、中国本土に十万人の門下生を擁する鳳凰武侠連盟の最高責任者なんですよね」
「兼ちゃん、最近言う事がきつくなってきたね……」

弟子の発言に傷ついたのか、部屋の隅っこで畳に「の」の字を書いていじける剣星。
ただし、誰一人として慰めもしなければ励ましもしない。
当然だ、何しろ兼一の発言は嘘偽りのない、掛け値なしの真実なのだから。

「まあ、安心したまえ。皆の配置は襲撃の確率と危険度を私が計算して決めてある。
 油断は禁物だが、君達二人がかりでならなんとかなるだろう」
「そういうこった。それに、近くにはしぐれもいるしな。
やばくなったらしぐれがなんとかするから安心していいぜ」
「ぶ…い」

逆鬼の言葉に、しぐれは親しい者でない限りわからない程度に誇らしげな表情を浮かべてVサイン。
確かに、兼一と美羽の二人だけではやや不安はある。
だが、それが怖いくらいによく当たる秋雨のカオス統計学によって導き出された解であり、保険としてしぐれまでいるのなら問題はないのだろう。
しかし、あまりしぐれに頼りっきりでもそれはそれでよろしくないわけで……。

「とはいえ、あまりしぐれをあてにし過ぎても困りものだ」
「うん、それじゃ兼ちゃんや美羽の成長にならないね」
「だから、よほどのことがない限りしぐれは手を出さない。そのつもりでいたまえ」
「「はい!」」

秋雨と剣星の言葉は一見厳しくもあるが、兼一や美羽にとって別に改めて言われるまでもないことだ。
YOMIとの死闘……いや、それ以前からそうだったが、基本的に師匠達は兼一達のゴタゴタに手を出さない。
敵の師匠が出てきたとか、兼一達との間に隔絶した力の差あるとかでもない限り、自分達の危機は自分たちで乗り越えるのが基本方針。
故に、兼一も美羽もはじめからあまりしぐれの事は計算に入れていない。
自分達の計算の遥か外の事態が起こらない限り加勢してくれないのだから、これは当然だ。
とそこで、兼一はある基本的な疑問に思い当たる。

「あれ? そういえば、しぐれさんは僕達の近くなんですか?」
「うむ。幸い、君達の担当する二人は親しくしているようでね、家も近所だ」
「秋雨さんと逆鬼さんはどちらに?」
「逆鬼はアメリカ、私はカナダだ」
「アメリカと言う事は……もしかしてジェニファーさんを頼るんですの?」
「そうね。あの子、逆鬼どんにべた惚れだし、二つ返事で協力を了承してくれたね」
「実際、FBIの情報網と組織力は有用だからね。折角だ、利用させてもらう」
(FBIを利用するとか……普通に考えれば与太話なんだけど、事実だからなぁ)

なんというか、自分の師達の妙な顔の広さを再認識する兼一。
そこでふっと疑問に思う。本巻警部からの依頼であるのなら、なぜ海外にまで出向く事になるのかと。

「あの、これって警察からの依頼なんですよね?」
「表向きは…そう」
「「え?」」
「香港警防の事は、二人とも知っているね」
「香港警防と言うと、あの『非合法ギリギリの法の守護者』でしたわね」
「うむ、今回の依頼はそちらの構成員からの個人的な依頼でね。
 あちらも色々立てこんでいて今は手が離せない状況らしく、組織を潰す人員にすら難儀しているようだ」
「でも、それならなんでわざわざうち(梁山泊)に?」
「その構成員って人が、どうも日本人らしくてね。
それに、護衛対象の半分は日本住まい。残りの二人も日本人か日本暮らしが長い人らしいから、おいちゃん達にお鉢が回ってきたね」

確かに、日本での護衛及び日本人の護衛となればその方がいいのだろう。
ただでさえ香港警防は今手が足りないと言う話だし、護衛に人では避けない。
とはいえ、あまり信用のおけない相手に頼むわけにもいかない。
そこで仲介役となった本巻警部が梁山泊を斡旋したのは、ある意味で自然な流れだろう。

「で、おいちゃんは鳳凰武侠連盟の代表として、人員の貸し出しとかの折衝もしに行かなきゃならないと言うわけね。香港警防とは縁もあるし、さすがに知らんぷりして代理で済ませるわけにはいかんね」
「はぁ…………そういうものですか」

武術以外の事はどうしようもなくいい加減で、厳格さとは無縁の剣星だが、それでも一門の長。
中国を離れてだいぶ経つとは言え、時にはこういう「らしい仕事」もしなければならないのだろう。
兼一としては、最高責任者としての剣星にイマイチ実感がわかないのだが。

「それと、先方から一つ警護に関して条件が付けられている」
「「条件ですか?」」
「まあ、そうむずかしく考えるほどのことじゃねぇ。
 単に、極力護衛対象の生活を乱さないように、陰ながら護衛しろってだけだからよ」
「それはまた、どうしてそんな条件を付けたのでしょう?」
「どう…も。依頼人は、護衛対象と個人的に関係がある…らしい」
「それに、襲撃自体あるとは限らんね。先方としては、動く前に潰してしまいたいと言うのが本音だろうしね」
「そういうわけで、君達には二人で交代に護衛にあたってもらう。構わんね?」
「「はい!!」」

相手の生活を乱したくない、と言うのであれば兼一の重いとも合致する。
護衛が付くと言う事は、それだけで日常から離れてしまう。
普段通りの生活を送ってほしいと思うなら、確かに護衛の存在を知られない方がいいのかもしれない。
それに、あるかどうかも分からない脅威でストレスを与えるのもよろしくないだろう。

「それで、期間と護衛する方々のプロフィールは? それくらいは知りたいのですけれども」
「とりあえず、期間は一週間。その間にあちらは蹴りをつけるつもりのようだ。
それと詳しいプロフィール……と言っても、先方もあまり詳しいデータは寄越してくれなかったのだがね、まあそちらは後で資料を渡そう。とりあえず、今は名前と現在の所在地だ。
 私はカナダで在住の国際救助隊特殊分室所属の『仁村知佳』を、逆鬼はアメリカでジェニファー・グレー女史のサポートの下、ニューヨーク市消防局で災害救助に従事している『セルフィ・アルバレット』を護衛する」

それは数年前、ある事件にかかわった人物達。
そして、香港国際警防の樺一号こと「陣内啓吾」と同じく香港国際警防所属「菟弓華」の関係者達。
この二人こそが今回の依頼人であり、チャイニーズマフィア「劉機関」の残党から彼女らの情報を得た組織を掃討する作戦の一環であった。まあ、そこまで詳しい事情は、さすがに兼一達の知るところではないが。

「そして、しぐれは日本の警察協力者『リスティ・槙原』を、兼一君と美羽は海鳴大学附属病院勤務の医師『フィリス・矢沢』の護衛。二人の現住所は海鳴市、リスティ・槙原は女子寮に住んでいるとの事だから、万が一の為にもしぐれが無難だ。それに兼一君は一度行った事もあるから、少しは動きやすいだろう」

こうして、それぞれの配置が決定された。
だが兼一は知らない。自身の護衛対象が、恭也やフィアッセの主治医である事を。
そして、この奇妙な縁がこの先に及ぼす影響を……。






あとがき

すいません、前回一つ嘘をつきました。
今回から武術家としての兼一と恭也達が関わるみたいな事を言いましたが、次回以降になります。

とりあえず今回はほとんどケンイチサイド。
で、こんな感じで裏社会科見学の名の下に、兼一と美羽でフィリスの護衛をやることに相成りました。
当然、恭也達にとってはそれなりに身近な人物ですし、色々面倒なことになるわけですね。
その辺は次回から描いていくことになると思います。
そして、陰で色々画策する新島。まあ、貸し云々と言うのは、こういう事ですね。
恭也達は、新白に参加することになるのかな?




それでは最後に、唐突に思いついた嘘予告でもどうぞ。

あるところに二人の少年がいた。
何の接点もない二人。
片や「当たり前のことを当たり前の様にできる少年」。
片や「優しさだけが取り柄の臆病で気弱な少年」。

どちらの少年も、特に何か秀でた才能が合ったわけではない。
ただ、前者の少年はひたすらに我慢強く、人の悲しみに敏感で、人並み以上に自己犠牲してしまう性質だった。
ただ、後者の少年はその心の奥底に誰にも負けない勇気を持ちながら、自覚することなく弱虫として生きていた。

しかし、両者は数奇な運命に愛されていた。
前者の少年は両親と幼馴染の母を亡くした時、優しい嘘で幼馴染に生きる目的を与える事を選んだ。そして、必死に嘘をつき続ける毎日の中で、二人の異種族の少女と出会った。やがて、少年と少女達は成長し幼馴染は嘘の存在を知って少年に尽くす事を望み、少女達は少年を慕って彼のいる街に再度訪れた。
後者の少年は、長い時間をいじめられてすごし、心身ともに負け犬となっていた。だが、一人の少女と出会いそれまでとは全く別の自分になる事を決意する。「正しいと思った事を貫く」為に、「大切な人を守る」為に、地獄に飛び込み努力で才能を覆す戦いの日々に明け暮れた。

時は、二人が17歳の秋。
前者の少年を取り巻く状況が一応の落ち着きを取り戻した頃。
後者の少年が相変わらず死にもの狂いの日々を過ごしていた頃。

片や「神にも魔王にも凡人にもなれる男」。
片や「梁山泊 史上最強の弟子」。

全く縁も所縁もない筈の二人だが、たった一つの依頼が二人を結びつける。
それは政治的に非常に厄介な立場にいる前者の少年を護衛する依頼だった。


「唐突だが兼一君、美羽。君達には国立バーベナ学園に編入して、ある人物を狙う刺客を撃退してもらう。
 ああ、今の学校の事は心配しなくていい。
超法規的処置により留学扱いになるからね、ちゃんと進級できるし、今回の件が終われば復学できる」

ある日突然師より言い渡された、無茶振りも良いところの指示。

「またあの親バカどもは……!」

毎度のことに頭を抱える、バーベナの女傑。

「原生生物の頃から愛していました!!!」

初対面でいきなり告白と抱擁をかましてくる、万年発情男。

「はいはーい、セクハラは犯罪ですので、さっそくエビフライの刑に処するのですよ~♪」

実に楽しそうに幼馴染を緊縛する、虹彩異色のまな板混血少女。

「やっと…やっとまともな友人を……」

ついに念願だった普通の友人を得た事に感涙する、非常識な常識人。

「稟君。な、何も泣かなくても……」

それを見てどう返していいか困惑する、奉仕精神の権化の少女。

「お兄ちゃん、それだと周りのみんながまともじゃないって言ってるのと同じだよ」

兄の不遇に同情しつつも、自分もその括りにされている気がして不満なホムンクルスのロリっ子。

「ついに来た体育祭! 今日のこの日を一日千秋の思いで待ち望んでたっす!!」

秋の大イベントを前に天井知らずにテンションが上がる神界のお姫様。

「勉強はからっきしだもんねぇ……中間から目を逸らしたいのはわかるけど、ほどほどにしてよ」

実に辛口なコメントを吐く、いない事にされた双子の妹。

「え? 一度に二つの声を出す? それは、人体の構造的に無理があるのではないでしょうか?」

超人秘技の常識外れさに顔をひきつらせる、天使の鐘とも称される魔界の姫君。

「まぁ、稟さんと兼一さんがくっついて、くんずほぐれつ…………まままあ♪」
「きゃきゃきゃあ♪ それでそれで、最後には刃傷沙汰に! 逃げて、お兄さん!?」

暴走機関車の如く果てしなく妄想を走らせる、神界の仲良し姉妹。

「うむ、つまりだな、このデイジーはお前がそのプロポーションをどう作ったのか気になるのだ」
「はうわぁ! い、いきなり何を言いだすんですか、エリカ様ぁ!!」

謎のウサギ型珍生物と、それに遊ばれるゲーマー少女。

「わぁ、珍しい。稟君の樹君以外の男友達なんて何年振りだろう。もしかして稟君、そっちにも目覚めちゃった?」

実に失礼な事を言い放つ、幼馴染達とは別の学校へ進学したぬいぐるみ好きの少女。

(あの二人…特に女性の方、いったい何者なのでしょう? あの立ち振る舞い、只者ではありませんね)

何かに気付く、生徒会長にして護衛役の神界剣士。

「わぁ~、兼ちゃんだぁ~、ひさしぶりぃ~♪ おっきくなったねぇ~」

とても一児の母には見えない、異様な若さを保つ幼馴染の母親。

「十年かぁ、長い筈なのに、兼ちゃんは昔とあんまり変わらないね。僕としては、ちょっと安心したけど」

十年の歳月を噛みしめ、自身の変化と変わらない幼馴染に安堵する売るほど元気な少女。

「そうですわね、兼一さんは変わりませんわ。優しいまま強くなって、沢山の人を変えてきたんですもの」

誰よりも近くで兼一の成長を見てきた、兼一が変わるきっかけとなった少女。

「ウヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャ!! さあ、始めるぜ、三界を席巻する俺様の野望をな!!!」

何やら陰で悪だくみをする、宇宙人の皮を被った悪魔。

「この人たちを傷つけると言うのなら、僕が相手だ!!」

大切な人たちを守るために何度でも立ち上がる、凡庸な、だけど非凡な信念と勇気をもった少年。


二人の凡庸な少年が出会う事で何本もの糸が複雑に絡み合い、新たな物語を紡いでいく。


もしかしたらいつかやるかもしれません。
それと、読んでもらったらわかるかとは思いますがケンイチとSHUFFLE!のクロスですね。正確には「SHUFFLE!Essence+」ですけど。
でも、今のところはRedsとこっちで手一杯なので、とりあえずこっちが一段落したらになります。
まあ、それでもやるとは限らないんですけど……。



[24054] BATTLE 6「幕間劇 祟り狐と達人鼠」
Name: やみなべ◆d3754cce ID:1963cf14
Date: 2010/12/04 10:36

時刻は正午過ぎ。
海鳴大学附属病院からやや離れた場所にある雑居ビルの屋上に、一つの影があった。

「…………………」

影の主の恰好はどこにも奇をてらったものがなく、あまりにも平々凡々としている。
ジーンズに黒のジャケット、靴は動きやすさを優先した運動靴、髪を染めているわけでもなければ、気の利いたアクセサリーの類を身につけているわけでもない。強いてあげるのなら、襟元に付けられた太陰大極図のバッヂと右耳につけられた鳥籠の形をしたピアスが、僅かに個性を主張している。

とはいえ、本人の顔立ちや容姿に際立ったものがあるわけではない。
表情は引きしめられているが、元の柔和な顔立ちの印象は残っている。
また、特別体躯に恵まれているわけではなく、背はどちらかと言えば低い部類に入るかもしれない。
そう、中肉中背と言うのがしっくりくる。
これでは、市街にでも出ればものの数秒で人ごみにまぎれて見失ってしまうだろう。

しかし、だからこそビルの屋上と言うロケーションからは浮いていた。
その人物は屋上のフェンスを越えた縁に危なげなく立ち、強風に煽られても微動だにしない。
僅かでもバランスを崩せば数十m下の地面まで真っ逆さま、転落死は免れないだろう。
にもかかわらずそんなところに立っているのは、まるで「何かあればすぐに降りられる」様にしているようにもとれる。

同時に、その視線は病院の一室に固定されているように見えながら、同時に病院全体を見ているようにも見えた。
あるいは、その両方なのかもしれない。
一つ確かなのは、その視線は真剣そのもので、そこには欠片ほどの油断も緩みもないと言う事。

そして驚くべきことに、彼がここに立ちつくして既に数時間が経とうとしている、全く姿勢を変えることなく。
驚異的だ。数時間に渡って直立不動を維持し続けることも、ビルの屋上という風の強い場でバランスを保ち続けることも。常識的に考えて、そのどちらも常人ではありえない。
そうして、そんな人物の背に数時間ぶりに人の声がかけられた。

「兼一さん、交代のお時間ですわ」
「あ、美羽さん。もうそんな時間ですか?」
「交代して6時間ですもの、だいぶ経っていますわよ」

声の主に驚いた様子も見せず、兼一は振り向いてその姿を確認すると、フェンスを飛び越えて声の主……瀟洒な格好の美羽の前に立つ。
美羽の言う通り、兼一が一人で護衛をするようになってもう6時間が経っていた。
その間に食事を取ったりはしていたが、それもあらかじめ用意しておいたものをつまんだに過ぎない。
つまりその間の6時間、兼一はずっとこうしていたわけだ。

「もう少し休んでいても大丈夫ですよ。僕は全然……」
「ありがとうございますわ。でも、もう十分休ませていただきましたから」

兼一としては美羽には十分に休んでほしいと思っているようだが、美羽はそれをやんわりと謝辞した。
その上で美羽は、それまでのおっとりとした雰囲気から鋭い抜き身の刃の様な眼差しを病院に向ける。

「それで、変化は?」
「……特にありません。今のところは不審な人物も見かけませんね」

美羽の問いに兼一はそう答えるが、当の本人達が不審である事はこの際置いておこう。
なにしろ二人はいたってまじめに、何一つ後ろ暗いことなどなく、ある人物を護衛しているのだから。

「まあ、平和なようでなによりですわ。初日は色々あれでしたから……」
「……まさか、はじめからあんなに周囲をうろついてるとは思いませんでしたよね」

そう、兼一と美羽の二人が陰ながらの護衛を始めた当初、目当ての人物の周りには不審者だらけだった。
それはその人物に好意を持つちょっとしたおっかけから、兼一達がここにいる理由である者達までと多岐に渡る。
とりあえず、その中でも危険そうな人物達は早々に撃退し、危険はないが怪しい面々は権力の力を借りた。

しかし、この手の事は根本を解決しない限りはイタチごっこだ。
如何に兼一達が不審者を撃退しようとも、撃退した分だけ補充されてしまう。
護衛初日の内にそのほとんどを一掃しながら、その後も散発的に不審者が現れているのがその証左だ。
故に、二人としてもなかなか気が抜けないわけで。

「中に入ってより近くから守れるといいのですけれども……」
「ええ。とはいえ、さすがにあまり長く潜り込むと怪しまれますから」
「ですわね、どんな言い訳をしても限度がありますわ」

普通に考えて、護衛の際にこんなにも離れたところに待機するなどあり得ない。
だが今回の護衛には一つ条件があり、「極力人目を避け、本人にも気付かれない」様にしなければならないのだ。
そうなってくると、受診者でもなければ入院患者でもなく、ましてや病院職員でもない二人が入り浸るのは不審過ぎる。生憎、その場に居ながら存在していると気付かれない、などという離れ業は二人にはできないのだから。
必然、こうして病院の近くで出入りする人物を監視するしかなくなってくる。

しかし、それだとやはり護衛に不安が生じるだろう。
故に、二人には別の方法でその隙を埋めている。

「まあ、何か異変があれば闘忠丸から通信が入りますし、私達は外の監視を続けましょう」
「ですね…………でも、病院にネズミを潜ませるのってどうなんでしょう?」
「ま、まあ、闘忠丸はしゃもじより清潔ですから……」
「そういう問題なんでしょうか?」
「そういう事にしておきましょう。とりあえず、闘忠丸には後でご褒美を用意してあげなければなりませんわね」

兼一の指摘に、美羽は苦笑いと汗を浮かべながらもそうコメントする。
今回の件に際し、兼一達はしぐれの友人であるネズミの「闘忠丸」に協力してもらっていた。
闘忠丸は実に頭が良く、猫をも倒せる文武両道に秀でた達人的なネズミだ。
彼にはそのサイズに合わせた発信器を持たせてあり、有事にはそれを使って知らせてもらう手筈になっている。
なにより、その身の小柄さは今回の件にはうってつけ。
少なくとも、病院にいる間は闘忠丸に付いてもらうのが無難だろう。

「さて、後の事は私に任せて兼一さんは休んでくださいな。
 あ、あとこれは買い出しのリストですわ」
「はい。ついでに、部屋の掃除も済ませておきますよ」
「お願いしますわ♪ 一週間とは言え、やはり綺麗に使いたいですものね。では、また6時間後に」

今回の護衛は兼一と美羽の二人での交代制だ。
二人で四六時中護衛すると言う手もあるが、期間は一週間と少々長い。
さすがにそれだけの時間、常に張り付け続けるのは現実的ではない。
もし何かあったその時、寝不足や疲労から思うように動けなかったのでは目も当てられない。

故にアパートを手配し、そこで交代しながら睡眠と休憩をとっているのだ。
無論、手薄な時間が生じる為危険はある。だが、少なくとも日中は人目もある以上襲撃の可能性は高くない。
ならばと言う事で、夜間は二人で護衛し、危険性の低い日中は二人で交代しながら護衛する事となったのだ。

まあ、そんな貴重な時間を掃除や買出しに当てるのもどうかと思うのだが……。
しかし、兼一たちならこの程度の疲労、3時間も寝れば取れてしまう。
その為、実はそれほど無理のあるスケジュールと言うわけでもない。

美羽に促され、兼一は会談に向けて歩き出す。
だが、兼一は何を思ったのか唐突に足を止めて振り向いた。

「どうしたんですの、兼一さん?」
「あ、いや、ここ何日か護衛して思ったんですけど……」
「?」
「守りたいですね…………いえ、絶対に守りましょうね、矢沢先生を」
「兼一さん?」
「だってあの人、あんなに患者さんたちから信頼されて、あんなに患者さん思いなんですよ。
 そんな人を、こんな卑劣な連中の手にかけさせるわけには、いかないじゃないですか」

そう語る兼一の瞳には、今回の件を知らされた時以上の強い意志が宿っている。
あの時はあくまでも自身の信念と、敵組織への義憤による物だった。
しかし、今は違う。

いや、もちろんそれらもある。
だが、それ以上にフィリス・矢沢と言う人物を、あらゆるしがらみを抜きにして兼一は守りたいと思っている。
そう思わせるだけの性別を越えた人間的魅力を、フィリスは有しているのだ。
あんなにも素晴らしい医師を、あんなにも穏やかで優しい女性を、絶対に傷つけさせはしない。
その覚悟と決意が、兼一の瞳にさらなる力を宿していた。

「……………そうですわね。私達はあくまで武術家、身を守り、敵を倒す事しかできませんわ。
 でも、そんな私達にしかできない事もあります。きっと、それが今なんですわ。
 あの素晴らしい方を、理不尽な脅威から守り、その脅威を打ち砕く。その為の力なんですもの」
「ええ。必ず、やり遂げましょう、美羽さん。
矢沢先生と、あの人がこの先救っていくであろう人たちを守る為に」

そうして兼一は決意を新たに、フィリス・矢沢の護衛を引き継いで去っていく。
これからの大雑把な予定を立てつつ、数日前の出来事を思い出しながら。



BATTLE 6「幕間劇 祟り狐と達人鼠」



兼一と美羽の間で先ほどの様なやり取りがあった二日前に話は遡る。
護衛初日の内にフィリスの周りの不審者を粗方処理した二人は、実はこの時が一番暇だった。
何しろ、フィリスの周りからは不審者は一掃され、ただ彼女の周りでウロチョロしているしかない。
言わば、一種の空白地帯と言うか期間と言うか、そんな状態になっているのだ。
これが翌日にでもなると、新たな不審者やフィリスを狙う組織の先兵と思しき者達がまたわらわらと寄ってきて、二人はその処理に追われることになるのだが……。

とりあえずその日、午前中の護衛を美羽が担当していた関係から、兼一は街に買い出しに出ていた。
そこで、考えてみれば当然あり得るであろう可能性に遭遇する事となる。

「あれ? もしかして…兼一さん?」
「へ? み、美由希ちゃん?」

突然かけられた声に振り向くと、そこには兼一も見知った少女…美由希の姿があった。
いや、それだけでなく、美由希の周りにはタイプこそ違えど、容姿に優れた女性が集合している。
それも、みんな兼一と面識のある人たちばかり。
彼女達も美由希にやや遅れて兼一の存在に気付いた。

「あ、ほんまや、兼一さんや」
「お、ホントだ。どーもです」
「……くーん」
「はぁ、どうしてこんなに兼一さんを避けるのかしら、この子は。
 久遠、ちゃんと挨拶しないとダメよ」
「ふふふ、無理強いしちゃダメだよ那美。でも、こんなとこで出会うなんて奇遇だね、兼一」

レンに晶、久遠・那美・フィアッセ。
みんな兼一の妹ほのかの関係者であり、先のお花見で紹介された人たちだ。
兼一はその思ってもみない再会に、思わずしどろもどろになる。

「そ、そうだね。で、でも、どうしてここに……!」
「いや、どうしても何も……」
「海鳴はウチらの地元やから、ここにいて当たり前とちゃいますか?」
「あ…そ、そう言えば……」

晶とレンの指摘により、ようやくその事を思い出した兼一。
そう、海鳴で動いていれば、当然その街の住人である高町家やその関係者達と遭遇する可能性は高い。
むしろ、今の今まですっかりそのことを失念していた兼一がどうかしているだろう。
とそこで、兼一はふっとある事に気付く。

「あれ? でも、今日はほのかは一緒じゃないんだ」
「え、ご存じないんですか? 今日は平日ですけど、合併記念日で学校はお休みなんですよ」
「ああ、そうなんだ。そういえば、風芽丘と海鳴中央は合併してたんだっけ……」

那美のコメントに、兼一は納得がいったとばかりに頷く。
何しろフィアッセはともかくとして、他の面々はまだ制服着用をし、この時間は学校に通っている筈の学生達。
しかしそれも、今日がほのかから聞いた両校の記念日となれば話は別。
休日にまで制服を着る奇特な人間はまずいないし、この時間帯に街に出ているのも当然だ。
おそらく、5人でショッピングでもして来たか、あるいはこれから行くところなのだろう。

「だけど、今日はどうしたの? ほのかも一緒じゃないみたいだし、こっちに用事?」
「ああ、いえ、そのぉ……」

フィアッセの何気ない質問に、返答に窮する兼一。
さすがに「ある人物の護衛です」などと言える筈もなし。
また、ほのかもいないのに兼一がこちらに来る動機は皆無と言っていい。
いつぞやのお誘いに預かって、と言う嘘も付けなくはないが、なんの連絡もなしと言うのは問題がある。
何より嘘が本当の事になり、それであまり時間を使っては美羽への負担が増してしまうので本意ではない。
故に兼一は、咄嗟にある意味で最も彼らしい言い訳を口にしていた。

「あ、あはははははは……! じ、実は、うちの道場から逃げてきたんですよ!!」
『逃げる?』

空々しい笑い声を上げる兼一に、一同揃っていぶかしそうに首をかしげる。
それはそうだろう。普通に考えて、どうしたって印象の良い内容ではない。
特に、梁山泊の修業の内容を知らない彼女らからすれば、兼一の言葉は『情けない』ものとしか思えなくて当然。
とはいえ、一度言ってしまった以上もう引っ込みは付かない。
兼一は若干罪の意識を感じながら、それでもこの嘘を突っ走るしかなくなっていた。

「え、ええ、そうなんですよ!」
「それって、いじめられてるとかそういう話? それならちゃんとどこかに相談した方がいいよ」

フィアッセの心配は、ある意味で当然のものだろう。
兼一が格闘技をやっているのは一応知っているが、あまり強そうではないと言うのが全員の見解だ。
なら当然、その道場で兼一が下っ端扱いされ、いじめられたりする可能性を考えてしまう。
実際問題として、兼一は高校時代の一時期空手部に所属していたが、思い切りいじめられていたのだから、あながちあり得ないと否定することもできない。
だが、兼一の道場、梁山泊に限ってそんなことはあり得ないのだ。

「あ、いえ……イジメとかそういうのじゃなくて、ちょっと、その………きつくて……」
「それは、練習がって事ですか?」
「う、うん。まぁ、ね」

美由希の問いに「すっごく情けないこと言ってるなぁ僕」と思わないでもない兼一だった。
そんな兼一に対し、美由希をはじめみななんとも言えない表情をしている。

「実家や友人の家は張られているだろうし、行ける範囲も限られてるから。
 で、でも、そっかぁ。ほのかがいないのは学校だからと思ってたけど、どこかに遊びに行ってたんだな!!
 アハハハハハ、しかたないなぁもう!!」

内心、あまりの苦しさに頭を抱え込みたい兼一だが、もはや後戻りはできない。
いくらツッコミどころ満載で、自分の恥部としか言えない様な話だとしても、これくらいしか上手い言い訳がなかったのだ。
まあ、実際兼一が梁山泊を脱走するのは割とある事なので、もしこれが事情を知る者達相手なら結構通ったかもしれないが……。
しかし、兼一の事情など知る由もない美由希達としては、色々思うところがあるわけで……。

(いや、努力とか根性とかとは無縁そうな人だとは思ってたけどよぉ)
(なんちゅうか……悪いとは思うんやけど、情けないなぁ……)
(二人とも、ちょっと酷いよ。
それにほら、私も練習がきつくて泣きそうになったり逃げたくなったりした事がないわけじゃないし……)
((いや、美由希ちゃん達の練習と比べるのがそもそも間違ってるって!!))
(薫ちゃんの練習とか、本当に大変そうですし……必死にやってる人の中でやっていくのは、違った意味で大変なんでしょうね)
(でも、兼一もその事に何も感じてないわけじゃないみたいだし、きっかけがあれば変わるかもしれないよ)

仕方がないとはいえ、兼一の修業の実態を知らないが故に彼女達の兼一への評価は下がり気味だ。
まあ、事実として兼一はヘタレだし、割と情けない部分も多い。
それこそ、恭也や赤星と比較したら色々な意味でかわいそうになってくるくらいに。
だが、それらの欠点を補って余りあるほどに素晴らしいものを持っている事を、彼の友人達は知っている。
単に美由希達は、まだ兼一のそう言った一面を知らないだけなのだ。

「あれ? でもそれだと、兼一って実家に住んでるんじゃないの?」
「あ、はい。一応、住み込みでみっちりと……」
「あ、内弟子なんですね」

内弟子とは師と寝食を共にし、あらゆる武術の秘伝とノウハウを伝える制度だ。
もちろん、一緒に住む以上は一日二十四時間、年三百六十五日、徹底管理で鍛えることを意味する。
文字通り、魂の髄にまで武をしみこませる為の制度と言えよう。
しかし、その制度を適用されていると言う事は……

(もしかして兼一さんって、結構期待されてるのかな……)

美由希の考える通り、資質・素養・才能の無い者にそこまで手間をかけるとは考えにくい。
逆説的ではあるが、内弟子になれるほどその道場で兼一は期待された人材と考える事が出来る。
そう、できるのだが……

(でも……………………………………………………………やっぱり、全然そうは見えないんだよねぇ。
 恭ちゃんみたいに強い人って、結構そういう雰囲気とかオーラみたいなのがあるんだけど、兼一さんからは全然感じられないし…………何て言うか、チワワとかの子犬っぽい)

それは、ある一面においては厳然たる事実。
何しろ、かの「殲滅の拳士 アレクサンドル・ガイダル」の愛弟子「ボリス・イワノフ」もまた、兼一の事を「牙も爪も持たない小動物」と評したことがある。
こと日常において、白浜兼一にそう言った意味での凄味の類は欠片もないのだ。
平穏の中にいる兼一しか知らない美由希が、兼一を見誤ったのも無理からぬことだろう。

そうして美由希が武術家としての兼一をどう評価していいか判断に迷っている中、彼らの前に数名の男が立った。
別段、それだけならどうという事もないのだが、その男達が一様に美由希達、特にフィアッセに下卑た視線を向けているとなると話が変わってくる。
で、世の中は往々にして捻りの無い進み方をしていくものなわけで……

「アンタら、暇なら俺らと一緒にこねぇ? いや、別に暇じゃなくても来てもらうんだけどよ」
「そうそう、そんな冴えない奴より俺らと遊ぼうぜ。良い所に連れてくからさぁ」
「特に、そっちのお姉さんには是非とも来て欲しいね。
俺らも張り切って精一杯のもてなしをするぜ、もちろん朝までさ」

その言葉に、男達は一斉に品の無い笑い声を上げる。
男達としては気の利いた冗談だったのかもしれないが、他者からすれば著しく気分を害する内容だ。
当然、美由希達はあからさまではないにしろ不快そうに眉をひそめている。
また、こう言った展開はさして珍しくもないのだろう。
慣れた様子で男達を観察する晶とレンは、鬱陶しそうに男達に向けてハエでも払うように手を振る。

「間に合ってますんで、結構です」
「一度鏡を見てくる事をお勧めしますわ」
「んだと、ガキに用はねぇんだよ! 特にその坊主、あんま舐めたこと言いやがると痛い目見るぜ」
「あ~ん、晶君うち怖い。
早くそのゴリラみたいな拳で蹴散らしてぇ~…ついでに、相討ちになってくれるとなお良しや」
「殺すぞ、てめぇ。そりゃな、あたしだって女らしくねぇって自覚はあるし、いっそのこと男に生まれた方が良かったかなぁと思わなくもねぇよ。でもな……」

さすがに、こんな扱いをされて黙っていられるほど晶も女を捨ててはいない。
俯き気味の為表情は読み取れないが、その拳は固く握り過ぎて振るえ、声音からも怒りの色が滲んでいる。
しかし晶が行動に移すよりも早く、一人のお人好しが晶の扱いに対して物申した。

「君達、女の子に向かってそれは失礼だよ、ちゃんと晶ちゃんに謝るんだ!」
「って、兼一さん!」
「ちょ、ここはうちらに任せて下がっといてくださいて。足震えてるし……」
「そう言ってもらえるのはすごく嬉しいんですけど、この手の連中にそんな事言っても無駄ですって!」

まさか兼一が口をはさんでくるとは思ってもいなかった晶とレンは、焦った様子で兼一を抑えようとする。
だが、良くも悪くもバカ正直なこの男に、そう言った意味での空気読み機能は付いていない。
それが男達の神経を逆撫でし、低い沸点を軽く超えるきっかけになると分かっていないのだ。
そうして兼一は、そのままズバズバと馬の耳に念仏と気付くことなく正論を吐いていく。

「良いですか? そもそもこんな往来であなた方は何を考えているんです。
 そんな横に広がってぐずぐず歩いて、後ろの人たちが困っていると分からないんですか!
 服装に関してはとやかく言いませんが、歩きたばこも周りの人に迷惑しかかけません!
 いえ、第一、美由希ちゃん達に芽がないことくらいもう分かるでしょう。声をかけるなとまでは言いませんし、みんな綺麗なんですから仕方がありません。ですが、礼儀もわきまえずにしつこく迫っても、印象を悪くするだけだとなぜわからないんですか!!」

別に「ナンパをするな」とは言わないが、確かに最低限守るべきモラルと言うものがある。
それが男達には著しくかけているのも事実だし、兼一の言っている内容は何も間違っていない。
しかし、世の中は正しい事が正しいまま受け入れられるとは限らない。
嘆かわしい話だが、主義主張を通すには押し通す為の力が必要なのだ。
その力のあり方は千差万別だが、男達の在り方は非常に短絡的だった。
つまりは――――――――――――暴力である。

「あんだとこのチビ!!」
「てめぇに用はねぇんだよ、さっさと失せろや!!」
「折角穏便に済ませてやろうと思ったのによ、ヒーロー気取りか、ああ!?」

男のうちの一人は兼一の胸倉を掴み上げ、残りの二人も兼一にガンを飛ばす
どうやら、いきなり拳を振り回すほど短絡的かつ粗暴ではなかったようだ。
それは男達にとって幸運だ、もし拳を振り上げていれば晶やレン、そして美由希が動いていただろう。

いや、それ以前に、兼一は穏やかで争いを好まない性格だが、決して無抵抗主義の聖人ではない。
故に、もし男達が実力行使に出ていれば、兼一もまた反撃せざるをえなかっただろう。
だが、男達が実行したのが威嚇だけだったことで、事態は少々屈折する。

しばしの間睨みあう兼一と男達。
この場合、眼を逸らした方が精神的に下の位置に置かれる。
そして、先に目を逸らしたのは当然―――――――――――――――兼一だった。

「あ、兼一が先に目を逸らした!?」
「まあ、あんま気の強そうな人やないし、しゃあないですって。おサルみたいな野生動物とちゃうんやし」
「そうだよな、頑張ったと思う……って、あんだとカメ、もっぺん言ってみろ!!」
「ま、まあ晶とレンを守ろうとして前に出たのは凄いと思うよ」
「で、ですよね……………他の人たちなんて、遠巻きに見てるだけですし」

アレだけ言っておいて目を逸らしたことに驚くフィアッセ、それに一応フォローを入れるレンと晶。
美由希と那美も、周囲の状況などを鑑みてそれなりに兼一の勇気をたたえている。
まあ、それでもどうしても内心ではちょっとだけ「ヘタレ」と思わなくもないわけで……。
こればっかりは、さすがに仕方がないだろう。

とはいえ、こうなってくるとやはり晶やレンで撃退するしかなくなってくる。
実際には、本当に男達が実力行使に出れば兼一が黙ってはいないのだが、そんな事を皆が知る筈もない。
誰もが、兼一の勇気はこれで打ち止めと思って疑っていなかったのだから。
そうして男達が兼一を強引に押しのけて美由希達に迫ろうとした時、その後ろから固い声がかけられた。

「すまないが、うちの妹と友人達が何か迷惑でも? それなら、兄として謝罪するが……」
「まったく、お前らもほどほどにしとけよ。こいつ、怒らせると俺よりヤバいんだからさ」
「みんな大丈夫? 白浜君も結構男らしいところあるんだねぇ、見直したよぉ」

美由希達が振り向くと、そこには恭也と赤星の姿。そのさらに後ろには、忍までいる。
恭也は赤星と出かけると言っていたから当然なのだが、忍がいることに少しばかり驚く美由希達。
正直、恭也が休日に異性と遊びに出掛けるなど、高町家関係者一同としては青天の霹靂に近い珍事なのだ。
それこそ、今の状況などすっぱり忘却してしまうほどに。

そして、三人の登場が男達に与えた衝撃も並みではない。
正確には、恭也と忍の事を男達は全く知らない。
だが、全国レベルの高校生剣道家である赤星の事はこの界隈では割と有名なのだ。
特に不良やチンピラなどの素行の悪い連中の間では、ケンカを売ってはいけない相手のリストに載るくらいに。

「げ! おい、アレ赤星じゃねぇか……」
「慌てんじゃねぇ! いくら野郎が強いからって、お綺麗な剣道の試合とケンカはちげぇだろうが!!」
「そ、そうだよな。それに、こんなところでやったら、アイツこそ問題になって出場停止とかになる筈だぜ!」
「まあ、確かにそれはそうなんだよな。実際あまり気は乗らないし、やるとなると後々面倒だ。
 でもな、身内に手を出されて黙っていられるほど、俺は優しい人間じゃねぇぞ!」
「俺も素人をいたぶる趣味はないが、やると言うなら相手になる。
 幸い、こいつと違って気にかけなきゃいけないものも少ないしな」

それだけ言って、二人は軽い臨戦態勢に入る。
恭也と赤星の手に武器はなく、軽い徒手用の構えだ。
しかし、それは単に武器を持っていないからではなく、この程度の相手には必要ないと言うだけの話。

そして、それだけでも彼我の戦力差は一目瞭然。
この二人を相手に、男達では触れる事も出来ずに叩き伏せられるだろう。
そこで、ふっと思い出したように忍が口を挟む。

「まあ、高町君は赤星君と違って、悪くても1・2週間の停学くらいで済むと思うよ」
「なら、気兼ねなくやれるな。というわけだ、お前は下がってろ。部に迷惑はかけられないだろ」
「確かにそれはそうなんだけど、やり過ぎるなよ。お前、基本的に容赦ってものがないし……。
 ああ、お前達も気をつけろよ。こいつ、一応言っておくと俺よりずっと強いからな」

一部の人間の間では、風芽丘の実質的トップと目されている赤星の発言に、男たちは瞠目する。
ハッタリかもしれないが、赤星はそういうキャラではない。
少なくとも、そう言わせるだけの実力があると思わせる説得力が彼にはあった。
実際には、彼の言葉は嘘偽りのない真実なのだが……。

僅かな間逡巡する男達、やがて答えが出たのだろう。
口惜しそうに地面につばを吐き、男達は踵を返す。
恭也の実力はわからないが、赤星までいる以上は分が悪いと判断したらしい。
ただし、去り際に置き土産を忘れない辺りが、なんともらしいやり口だ。
それも、その置き土産を赤星や恭也ではなく、弱者と思い込んでいる兼一に向ける辺りが……。

「いくぞ!!」
「ちっ、おぼえてろよ! このおとしまえはいつかキッチリつけてやるからな!!」
「良かったな、フヌケ野郎。アイツらのおかげで命拾いしたじゃねぇ…か!!」
『あ!?』

最後の一言の瞬間、男の拳が兼一の頬に向けて振るわれる。
誰もが、その拳が深々と兼一の頬に突き刺さる姿を幻視した。
しかし実際にはそれが実現することはなく、男の拳は虚しく空を切った。
そして男は気付いていない、自分が言ってはいけない一言を言ってしまったことに。

「野郎、いっちょまえに避けやがって!! 一発で勘弁してやろうと思ったけどよ、てめぇだけはぶちのめす!」
「おまえ!」

不意打ちを仕掛けるだけでなくさらに兼一に危害を加えようとする男に、さしもの恭也も一歩を踏み出す。
しかし、恭也は男に接敵する前に、兼一の口から小さく声が漏れていることに気付いた。
それは小さいながらも、断固とした強い意志を秘めた言葉だ。

「…………てください」
「あん? はっきり言ってみろよ、それとも怖くてできねぇのか? なあ、フヌケ野郎!!」
「僕をフヌケと言ったでしょう! その言葉、即刻取り消してください!」
「はっ! フヌケにフヌケって言って何がわりぃんだよ!!」

いまさっき自分の拳を避けられたのは何かの偶然だと判断したのか、男は再度兼一に殴りかかる。
だがその拳を兼一はまたも避け、引き戻すまでの僅かな時間にその腕を握りしめた。

「もう一度言います。さっきの言葉、取り消してください」
「てめぇ、腕を取ったくらいで調子に乗ってんじゃ……」
「おい、やめろって、さっさと行くぞ」
「ああ、赤星の野郎がでてきたらやべぇ……あんな奴ほっとけって」

小生意気にも自分の腕を掴んだ兼一に激昂しかける男だが、それを仲間達が抑える。
別に兼一を殴るのは良いが、それで赤星が出てきてはシャレにならないと考えたのだ。

「ちぃ、命拾いしやがったな!」
「あ、待て! だから取り消せって……行っちゃった」

今度こそ捨て台詞を残し、男達は去っていく。本当に命拾いしたのが自分だとは気付かずに。
それどころか、兼一の握っていた個所が内出血を起こしている事さえ、この時点では気付いていないのだが……。

兼一は兼一で、結局先の言葉を訂正させることができず、少しの間虚しく空に手を突き出している。
それだけ、先ほど男が口にした言葉を訂正させたかったのだろう。

「まあ、一応は穏便に片付いてよかったな」
「ああ。那美さん、怪我はありませんか? フィアッセ達も」
「あ、はい。私も久遠も全然」
「うん、大丈夫だよ恭也。Thanks、また助けてもらっちゃったね」
「別に気にしなくていい、何かしたわけでもないしな」

兼一の後ろでは、恭也達はとりあえず皆の無事を確認しほっと一息ついている。
美由希や晶などは別に心配することもないのだが、フィアッセや那美はさすがに心配だったのだろう。
何しろ他の面々と違って、この二人にはまともな武力がないのだから。
如何に美由希達が守っていただろうとは言え、それとこれとは話が別なのだ。

「それと兼一、うちの家族や友人が世話になったみたいだな」
「あ、いや、僕にとっても友人だからね……まあ、結局何もできなかったけど。高町君こそありがとう」
「気にするな。むしろ、怖がっていながらああやって前に立てたのは大したものだと思う」
「そうですよ、普通何もできない人の方が多いですもん。
それに恭ちゃんの口癖なんです、『恐れない事が勇気じゃない。怖いと思ってなおも前に進める事こそが、本物の勇気なんだ』って。だから、やっぱり兼一さんは勇気がありますよ」
「で、ですよね! 私もどうもああいう人は苦手で……兼一さんもああいう人って苦手なんですか?」
「あ、あははは……どうもね。格闘技をするようになってずいぶん経つけど、僕の『不良っぽい奴アレルギー』は全然治らないんだ!」

それは最早、刷り込みに近い領域だろう。
実際問題として、最早兼一に勝てる不良・チンピラなど存在しないと言ってもいい。
つまり、兼一が彼らを恐れる理由など全くないのだ。

にも関わらず、兼一は相変わらず不良やチンピラが大の苦手。
軍人や殺し屋が相手ならばいくらでも勇敢になれるのだが、中途半端に雰囲気が悪いせいで一線を越えられない。
なんともまあ、難儀な性格である。

「ところで、高町君はどうして月村さんと一緒なの?
 もしかして、お花見の時はあんなこと言っておいて、実はデートとか?」
「あ、それ私も気になる。今日は勇吾と出かける筈だったよね」
「いるだろ、ここに」
「でも、一緒におるっちゅうのはやっぱり、なんかあやしいと思います」
「そうそう、実際どうなんだよ勇兄ぃ」

話題を変える為に恭也達の事に触れる兼一。ただ、その表情はどこか楽しげ。
そして、それに物の見事に食いつくフィアッセと晶にレン。
口にこそ出さないが、美由希と那美も興味津々の様子だ。
恭也はそんな野次馬根性丸出しの面々に溜息を一つ突き、呆れたように説明する。

「生憎だが、お前達が考えているような事は一切ない。
 赤星に買い物に付き合ってもらって、本屋で偶然月村と会っただけだ」
「ごめんねぇ、実はそうなんだ。みんなが期待していた様な事はなかったんだよ。
 この先はどうかわからないけど」
『おぉ!!』
「月村……」
「で、なんとなくそのまま高町の家で茶でも飲もうと言う事になったんだよな」
「……ああ、我ながら色気も何もあったもんじゃないが、なぜかそうなった」

その言葉通り、割と不思議そうにする恭也と赤星。それに明らかに落胆した様子の面々。
忍は忍で、悪戯が成功したかのようにほくそ笑んでいる。
おそらく、皆がそういう誤解をすると予想していたのだろう。

「とりあえず、立ち話もなんだ。暇な様なら、一緒に家でくつろぐか? 良ければ神咲さんも」
「えっと……お邪魔じゃないでしょうか?」
「気にしなくていいですよ。お客さんが来るのなら大歓迎ですから。兼一さんもどうです?」
「え? 僕も?」

美羽との交代時間まであるし、買出しをするにもやはりまだまだ余裕がある。
少しくらい同席する程度なら、さして問題はない。
僅かに断るか悩んだ兼一だったが、折角の申し出を断っても礼を失すると思ったらしい。
結局はその誘いを受け、少しだけ同席させてもらう事にした。



*  *  *  *  *




そうして場所は高町家の居間に移った。
フィアッセは特製のミルクティーを全員に振舞うべく、キッチンで準備している。
そこで、那美が唐突に兼一に尋ねた。

「そう言えば兼一さんは、いつから格闘技をやるようになったんですか?」
「高校に入ってからだよ。情けない話なんだけど…僕、子どもの頃からずっといじめられててね。
小さい頃は人並み以上に体が弱くて震えていたから『震動』と呼ばれ、中学時代には『フヌケのケンイチ』、略して『フヌケン』何て呼ばれてたんだ」
「うわぁ、そらまた…ずいぶんときっついなぁ……」

兼一の過去に、思わずそんな言葉が漏れるレン。
それだけの情報でもある程度想像できたのだろう、兼一のイジメに次ぐイジメの日々を。
とそこで、先ほど兼一が起こった時の事を思い出す晶。

「あ、だからさっき……」
「……うん。フヌケって言葉は、弱虫で意気地無しだった頃の僕の象徴なんだよ。
だから、どうしてもそれだけは認められないんだ」

それは格闘技を始める理由としてはありきたりなものだったろう。
だが、皆はそれが実に兼一らしい理由のように思えた。

「でもさ、高校の部活とかじゃダメだったのか?」
「そうなんだけどね、実は最初は空手部に入ってたんだ。でも、そこでもまたいじめられて……」

赤星の問いに、兼一はどこか遠い目をして答える。
兼一の通っていた荒涼高校は、不良の巣窟などと呼ばれていた高校だ。
各部活にも大なり小なりその影響が及んでいた。たとえば、兼一の所属していた空手部の副将は、街最大の不良グループの構成員だったのだから。
ならば必然、その部活内にも不良の世界のルールが浸透していく。
故に、兼一は空手部の中でもさらにいじめられる事となった。

その現実に、善良な皆は不快そうに眉をひそめる。
仮にも武を学ぶものが弱い者いじめをするなど、それは彼らにとって嫌悪の対象でしかない。

「ある時、その場の勢いで同じ一年生で先輩たちから目をかけられていた人と退部を賭けて勝負することになってね。あの頃の僕は正拳の打ち方すら知らなくて、でも相手は筋骨隆々。正直、逃げなきゃ死ぬと思ったよ」
「と言う事は、兼一は逃げなかったのか?」
「うん。その少し前に知り合った友達にね、『戦う前から心が負けてる。そのままじゃ負けるだろう』って言われたんだ」
「うわ、厳しい……」

その言葉は事実。心が負けていては、何をどれだけやっても勝つ事は出来ない
しかし、いじめられ続けてきた兼一に対する言葉としてはかなり厳しいそれに、思わず美由希は漏らす。
美由希達の様に戦う事を前提に心と体、そして技を磨いてきた者なら当然だろうそれも、いじめられっ子に言う言葉としては少々ハードルが高すぎるのだ。
なにしろ、それが出来なかったからこそ彼はいじめられて来たのだから。
そう指摘されたところで、そう簡単になんとかなるものではない。

「でもね、だからこそかえって『一度くらいは逃げずに戦ってみるか』って気持ちになれたんだ」
「だけどさ、実際問題として体格の差は歴然で、空手部で教えてくれる人もいなかったんでしょ?」
「うん、長くやっていればそれを覆すこともできるけど、一朝一夕じゃ難しいね。ましてや、教えてくれる人がいないとなれば尚更。実際、はじめのうちは何をどうしていいかさえ分からなかったから」

一念発起した事は立派だと思いつつ、忍は現実的な視点で尋ねてくる。
兼一はそれに当時の事を思い出しながら答えて行く。
今思えば、「よくもまぁあんな付け焼刃で、アレだけうまくいったものだ」と感心しながら。

「じゃあ、そこで住み込んでるって言う道場に通い出したんですか?」
「ううん、それはその件が終わった後。その時はさっき言った友達に即席で教わったんだ」
「それで、なんとかなったんですか?」
「うん。ただ、教わった技が空手の技じゃなくてね、それで反則負けで結局退部しちゃったんだけど」

空手家のはしくれとして、晶はその結果が色々気になるようだ。
実はかなり細かく聞きたいようなのだが、兼一の過去を懐かしむ様子に詮索し辛いらしい。
しかし、兼一の話す内容にも少々誤りがある。彼の中ではそういう事になっているかもしれないが、アレは試合ではなくケンカ。どんな技を使ったとしても、アレは兼一の勝ちに違いない。

「まあ、そんなところはやめちゃって正解だと思いますけど……」
「あはは、だけど問題はその後でね。
その時のことが原因で、裏で不良グループと繋がってる空手部の副将に目をつけられて、その後も……」

そこまで話したところで兼一がプルプルと震えだす。
そう、これこそが兼一の戦いの日々の始まりだった。
別に逃げる事をやめた事を後悔しているわけではない。苦難に見合った、あるいはそれ以上の物を手に入れられたし、今日までの日々はそれまでと比較にならないほど輝いている。
だがそれでも、やはりこの地獄の日々に入るきっかけとなった出来事を思い出すと、「どこで人生間違えたのかなぁ」と思ってしまうのだ。
そこで兼一は話題の矛先を変えるべく、恭也達に話を振る。

「高町君達は古流剣術をやってるんだよね」
「ん? ああ」
「あはは、私も恭ちゃんもまだまだ未熟なんですけどね」
「お前に言われるのは癪だが、事実だ。師範だった父が亡くなってからは、半ば独学だな」

そこで兼一は、やっとある事が腑に落ちた。
二人はその腕前に反し、どこか無防備とでも言えばいいのか、夏や美羽が纏っている緊張感の様なものがないと思っていたのだ。
だがそれも、師匠が不在で、長く教えを受けられなかったとすれば得心がいく。

兼一の師匠達、特に表でも高名な剣星などは兼一以上に頻繁に命を狙われている。
だからこそ、彼は自身の弟子である兼一にもその可能性を常に言い含めてきた。
兼一自身それを目にし、自らもその渦中に身を置いた事がある。
しかしきっと、恭也達の身の周りではそう言った事がなかったのだろう。

「だが、それがどうかしたのか?」
「あ、うん。何がきっかけだったのかなって思って」
「きっかけ、か。たぶん、兼一のように立派な理由はないし、赤星や晶達の様な高尚な理由もないんだろうな。
 俺達にとってはそれが身の回りにあって、それをするのが当たり前だっただけだ」
「だね。私も物心ついた頃には恭ちゃんととーさんが剣の練習をしてて、それを見て育ったから」
「なんていうか、ホントに剣術一家って感じよねぇ」
「でも、なんかその感じ分かります。私の家も、そういうところがありますから」

恭也と美由希の告白に忍は感心し、那美は自身の家族達と重ね合わせる。
そして兼一もまた、自らの良く知る人と重ねていた。

(そういうところは結構美羽さんっぽい感じだよね。
 美羽さんが純粋培養の拳法家なら、二人は純粋培養の剣術家なんだろうな)

もし、何かが違っていれば、二人は美羽同様兼一のずっと先を行く武術家になっていたかもしれない。
しかし皮肉なことに、二人は最上級の資質を持ちながらも、優れた師の教えを受ける事が出来なかった。
その弊害を兼一は、危機意識の低さや練度があまり高くない事だけと考える。
だが実際には、それ以上の弊害がすでに生まれていたのだ。たとえば、恭也の膝がそうであるように。

「そう言えばお花見の後、怪我をしたってほのかから聞いたけど、大丈夫?」
「ああ、心配いらない。確かに怪我はしたが、それ自体は軽かったからな。もう問題ない」
「でも、フィリス先生も心配してたんだから、ほどほどにしようね。
 この前の事が悔しいのはわかるけど、ちょっと根を詰め過ぎじゃない?」
「バカにするな。お前と違って自分の限界くらいわかってる。
それに、お前がそれを言うか。まさか、俺に隠れて訓練しているのを気付かないとでも?」
「う! き、気付いてたんだ……」

実際問題として、恭也は美由希の修業メニューを組んでいく中でそれなりに節度というものを学んでいる。
一般的なそれより遥かに基準は高く過酷だが、それでも限界以上の鍛錬はしていない。
同時に、兼一は二人の会話からある単語を拾い上げていた。

(あ、二人も矢沢先生と知り合いなんだ……)
「しかし、小太刀なしとは言えお前に手傷を負わせられる奴がいるってのは、ちょっと信じがたいな」
「世界は広いってことだ。俺達の知る世界が全てじゃない、そういう意味ではいい経験になった」
「で、そのリベンジの為に相手の研究か? 今日買った本、全部武術関係じゃないか、それも無手」

そう、恭也が今日の外出の目的はそれに尽きる。
赤星が一緒だったのは、単に暇だったから付き合っていたにすぎない。
恭也は決して無手の武術に疎いわけではないが、それでもやはり知らないものは多い。
先日戦ったハーミットの技も、恭也からすれば見知らぬものだ。

知っているのと知らないのとでは大きく差が出る。
故に恭也は、再戦の日に備えて少しでも知識をため込もうとしていた。

「本で勉強したくらいでそう効果があるとは思わないが、ないよりはましだ。
 奴の武術はある程度あたりは付いてるが、だからと言って他の武術を無視する理由にはならない。
いつ、これらの武術の使い手に襲われるとも限らないからな」
(そうか、二人の雰囲気が変わったのは、この前の事があったからなんだ)

兼一はここにきて、ようやく二人の変化に付いて得心がいった。
つい先日会った時に感じた無防備さ、それが今はほとんどない。行き過ぎない程度の緊張感を纏い、周囲に対してさりげない警戒網を構築している。
美由希のそれはまだ拙いが、兼一の見る限り恭也のそれは見事なものだ。
おそらく、下地はとうの昔にできていたのだろう。それが、先日の実戦が起爆剤となったに違いない。

(今はもう迂闊に切り込めないや。前なら、不意を打って一撃くらいは入れられそうだったのに……)
「それにしても、また節操無く色々買ったよねぇ。テコンドーにブラジリアン柔術は割とメジャーだけど、この『プンチャック・シラット』とか『サバット』って何?」
「昔、父さんに聞いたことがある。
プンチャック・シラットは欧米ではかなりメジャーな、ジャングルファイトから発展したインドネシアの武術だな。で、サバットは蹴り主体のフランスの格闘技だった筈だ」

恭也はよく調べているようで、忍の問いに対し簡潔に答えていく。
その熱心さは大したもので、実際にそれらを目撃し戦った事もある兼一をして思わず傾聴してしまうほどだ。
同時に、「もし機会があれば、本物の使い手を紹介してみるのもいいかもしれない」と、『カラリ・パヤット』と書かれた本に視線を送りながら考える。
まあ、さすがに恭也が購入したのは実戦的な武術の本ばかりで、ルチャ・リブレの様な物は見当たらないが……。
はてさて、彼がその本物の使い手を知った時、いったいどんな表情を見せるのやら。

「それで、師匠。この間の奴が使ってた武術は見つかったんですか?」
「ああ、接近戦で使ってたのは結構楽に見つかった」
「というと、やっぱりお師匠の睨んだ通り、中国拳法やったんですね」
「まあ、本人が自分で言ってたもんね。嘘って言う可能性もあったけど……」

美由希のそう言うが、恭也は元からその可能性は高くないと見ていた。
それもその筈、あの手の人間がそういう事で嘘をつくとは考えにくい。
自分の技に誇りを持つのなら、黙秘はしても嘘はつくまいと考えたのだ。
そして、それは実際に大当たりだった。

「おそらく、アレは八極拳だ」
「へぇ、結構有名なやつだよな。かなりの剛拳だって聞くぞ」
「噂にたがわぬ、と言ったところだった。確かにあれは、まともに食らうときつい」
(ま、まさかね……偶然だよ、偶然!)

恭也と赤星の会話を聞き、思わず兼一の額に脂汗が浮かぶ。
凄腕の八極拳の使い手、兼一には思い切り心当たりがあった。
だが、彼が恭也にケンカを吹っ掛ける理由はないと、その可能性を振り払おうと努力する。
しかし、兼一の嫌な予感はどんどん助長されていくのだった。

「離れていた時に使っていたのは劈掛拳だろう。八極拳と合わせて学ぶことも多いらしいし、ざっと調べて見た限りは、奴が使っていたものと共通点が多かった」
(ま、まあ、実際よくある組み合わせだしね)

そう、組合せとしては何も珍しい事はない。
実に王道の、正統派の使い手というだけでしかないのだ。
ならば、彼と結び付けるのは短絡的というもの、と思おうとする兼一。

「この前は遅れを取ったが、次はそうはいかない。
 今度会った時は奴に、“ハーミット”に小太刀使いの力を思い知らせてやる」
「わぁ、高町君、静かに燃えてるねぇ」
「それだけ、この前の事が悔しかったんでしょうねぇ」

心のうちで静かに闘志を燃やす恭也に、忍も那美もすこし目を見張る。
それに引き換え、兼一は現在進行形で動揺しまくっていた。

「あの…兼一さん、どうかしたんですか? なんか、汗びっしょりですけど……」
「な、何でもないよ、気にしないで!?」

これでもかと言わんばかりに怪しい挙動のケンイチ。
それをいぶかしむ美由希だが、今は恭也の話が気になるようで、あまり深くは気にしなかった。
はてさて、それはどちらにとって幸運なことだったのやら……。

と、それはそれとして、兼一は心中穏やかではない。だがそれも無理はなかろう。
何しろここまでは偶然の一致で済ませられたが、恭也の口からでた固有名詞はそうはいかない。

(な、何やってんのさ、谷本君!!!)

表情と声に出そうになる動揺を、必死になって抑える兼一。
それは成功しているとは言い難く、眼は落ち着かずゆらゆらと揺れ、身体は僅かに震えている。
それどころか指は忙しなく開閉を繰り返し、口からは僅かに「どうしよう」と言う言葉がリフレインしていた。

もし、周りの面々が恭也の話に集中していなければ、即座に兼一が何か知っている事がバレていただろう。
逆鬼ほどではないが、彼もまたあまり嘘や隠しごとが得意ではないらしい。

(事情は一切分からないけど、今はまだ知られるわけにいかないよ!)

妹の友情の為、兼一は慣れない事ではあるが必死になって外っ面を整えようとする。
しかし幸いなことに、そこへ兼一にとっての救世主が訪れた。
そう、ミルクティーの準備を終えたフィアッセが戻ってきたのだ。

「お待たせ~、特製ミルクティーとクッキーだよ」
(ありがとうございます、フィアッセさん!!!!)

声にこそ出さないが、万感の思いを込めて感謝の念を送る兼一。
恭也もちょうどいいと思ったようで、一端買ってきた本を閉じる。
すると美由希達もその意味を悟り、恭也からフィアッセの方へと視線を移す。

「あ、ありがとフィアッセ」
「わぁ、おいしそう!」
「ホントですねぇ!!」

さすがに女性陣はその手のものに目がないのか、先ほどの緊張感を忘れ、目をキラキラさせて喜んでいる。
と同時に、その香りを嗅ぎつけたのか、兼一の胸ポケットで何かが蠢く。
そして、そんな目立つところで何かが動けば、当然誰かしら気付くだろう。
今回の場合、それは兼一の正面に座る那美だった。

「あ、あの…兼一さん」
「え? どうかしたの、神咲さん」
「その、ポケットがさっきからモゾモゾと動いてるんですけど……」
「ああ、これですか? 少し待ってください。
ほら、ちょっと出てきてくれないか? おいしい紅茶とクッキーもあるからさ」

そう言って、兼一は自分の胸ポケットを軽く指で小突く。
するとそこからニュッと、灰色で毛むくじゃらの物体が顔を出す。

「……………………………………ネズミ?」
「ええ、師匠の……相棒? それとも、親友? とりあえずそんな感じの闘忠丸です。ほら、ごあいさつ」
「ぢゅ!」

兼一に促され、テーブルの上に移動したところで闘忠丸が「オッス」とばかりに手を挙げる。
本来なら美羽と一緒にフィリスの護衛を手伝っている筈の闘忠丸だが、それはあくまで病院内の話。
今日はたまたまフィリスが非番だった為、彼女は病院にいっていない。
となれば、無理に闘忠丸を駆り出す理由もなく、今日の彼は兼一と一緒に休んでいるのだった。

「へぇ、お利口さんなんだね、よろしく闘忠丸」
「ぢゅ~」

超VIPであるにもかかわらずフランクなフィアッセは、珍しそうにしつつも闘忠丸に手を差し出した。
闘忠丸もそれに応じ、その小さな手でフィアッセの指を握り返す。

『か、かわいい~!!』

女性陣はそんな愛らしい仕草をする闘忠丸にすっかり魅せられたようで、次々に握手を求めて行く。
恭也と赤星にしたところで、ネズミとは思えないその仕草に呆気にとられている。

そうしてひとしきり握手を終えたところで、闘忠丸は背中の毛をごそごそとまさぐり何かを取りだす。
そこから出てきたのは、おもちゃにしてはやけにディティールの凝った闘忠丸サイズのティーカップ。
彼はそれを持って兼一に配られたカップをよじ登り、その中身をすくいとる。
そして、ナプキンで作った自分の席で、フィアッセ特製のミルクティーとクッキーに舌鼓を打った。

「これでかなりのグルメでして、フィアッセさんのミルクティーとクッキー、だいぶ気に入ったみたいですね」
「ふふふ、どう? おいしい、闘忠丸」
「ぢゅぢゅ~」
「何ちゅうか、贅沢なネズミやなぁ」
「だな。フィアッセさんって、実はとんでもねぇVIPだってのに……ま、俺らが言う事じゃねぇけど」
「せやなぁ……うちらもなんだかんだですっかりお世話になっとるし」
「別に気にしなくていいよ、二人とも。私が好きでやってるんだし。
 それに、ママやパパはVIPかもしれないけど、私は全然大したことないんだから」
「「いやいや、それは謙遜しすぎ(ですって・やて)」」

フィアッセのとぼけた発言に、珍しく実に気の合ったツッコミを入れる二人。
まあ、なんだかんだでケンカをして険悪な仲のように見えるが、実は割と仲の良い二人である。
ただそれが、普段は全然そうは見えないと言うだけの話に過ぎないのだろう。

「はぁ、久遠もそうだけど、闘忠丸も可愛いねぇ。
 なのはが見たら喜ぶだろうなぁ……うぅ、うちでも飼いたいよ」
「まあ、気持ちはわからんでもないが……高町家では動物は飼えない」
「なんだよねぇ。仕方がないと言えば仕方ないんだけど……」

なにしろ高町家の大黒柱、高町桃子が営むのは飲食店だ。
毛が散らばったり、雑菌を職場の厨房に持ち込んだりすると困るから、どうしても高町家ではペットは飼えない。
というか、その意味で考えるとここまで入れてしまっている時点で問題なのだが……

「えっと、久遠は毎日シャンプーしてますし、予防接種もちゃんとしてますから、まず大丈夫だとは思いますよ」
「ああ、そう言えばさざなみ寮の大家さんて、獣医さんなんですよね」
「はい♪」
「…………くぅぅん」

美由希の確認に那美は嬉しそうに答えるが、当の久遠は予防接種と言う単語に腰が引けている。
まあ無理もない。誰だって、できる事なら針など刺されたくはなかろう。

「闘忠丸も大丈夫だと思うよ。お風呂好きで毎日入ってるし、一説ではしゃもじより清潔とか……」
「どこの説だ?」
「まあまあ、かわいいんだから気にしないの、恭也。要は私と桃子が気をつければいいだけなんだから」
「はぁ、当人がそう言うなら別にかまわないが……実際、久遠は事実上の黙認状態だしな」
「すみません」
「くぅん」
「ごめんね、僕ももっと早く気付けばよかったんだけど」
「気にしなくていい。別に神咲さんや久遠、それに兼一が謝る事じゃない」
「ぢゅ~」
「すまん、何を言ってるかわからんのだが……」

何かを伝えようとしているとは思うのだが、いまいち闘忠丸が何を言おうとしているのかわからない恭也。
兼一が見るに、恐らくは「苦労かけるな、兄ちゃん」とでも言っているのかもしれない。
なにぶん、遺伝子上はともかく、実際の能力的にネズミかどうかさえ疑わしい個体だ。
闘忠丸が人間以上の知性を有していたとしても、兼一はきっと驚かない。

そうしてささやかなお茶会が始まったのだが、早々に問題が発生した。
闘忠丸はネズミで、久遠はキツネ。
特に闘忠丸のしっぽにはリボンが結われており、尻尾がユラユラ揺れる度にそのリボンもまた悩ましく揺れる。
キツネは肉食の狩猟本能を有する動物であり、その捕食対象にネズミが含まれるのは言うまでもない。
要は何が言いたいかと言うと、久遠が本能に負けてしまうのも無理からぬことだった。

「く、くぅぅぅん!!」
「え? あ、久遠!」
「闘忠丸、危ない!!」

最初に那美が久遠の異変に気付き、続いて美由希も気付いた。
久遠がまるで、猫じゃらしを鼻先で揺らされている猫のように猛っているのだ。
普段の臆病で気弱な久遠からは想像できないが、それでもやはり肉食動物のはしくれ。
如何に子狐の姿をしていると言っても、そこにはちゃんと野生の本能があるのだ。
そして当然、被捕食者のネズミである闘忠丸としては、久遠から逃げるしかない。

「あ、こら!? やめろキツネ!」
「だぁー! こんなせせこましい場所やと、捕まえるのも一苦労や!」

必死になって久遠を捕まえようとする晶とレンだが、それもうまくいかない。
元々の身体能力が違いすぎる。人間では動物を罠もなしに捕まえるのは至難の業なのだ。
子狐とはいえ、こんなソファやらテーブルやらがある場所では、小柄な久遠を捕まえるのは不可能に近い。

「えっと、どうしよっか高町君」
「とりあえず、久遠を捕まえるのは難しそうだ。かと言って、闘忠丸もすばしっこい」
「となると、なんとか誘導して闘忠丸か久遠を隔離するしかないか」
「三人とも! そんな冷静になってないで、早く手伝って!!
 このままだと、闘忠丸が久遠に食べられちゃうよ!?」

冷静に状況を分析する忍と恭也、それに赤星。
そんな三人に、思い切り慌てた様子でフィアッセが叫ぶ。
三人とて、別にそれでいいとは思っていないが、無闇に追いかけても徒労に終わると分かっているのだ。
とはいえ、それでも三人とも、早くなんとかしないと久遠に闘忠丸が食べられてしまう未来を疑っていない。
そう、この場でただ一人の例外を除いて、誰もがそれを確信していた。

「そうですね、確かに急がないと!」
「ごめんなさい兼一さん、うちの久遠が!」
「…………そう、たいへん危険です。――――――――――――――――――久遠ちゃんが」
『へ?』

兼一の一言に、その場にいた全員の思考と肉体が停止する。
それはそうだ。どこの世界に被捕食者より捕食者が危ないと危惧する者がいよう。
それはもう、本末転倒としか言いようがないではないか。
しかし、それが現実なのだから仕方がない。

「……………みなさん、無理もないかもしれませんけど、勘違いしてますよ。
 この場合、危ないのは闘忠丸じゃなくて久遠ちゃんです」
「で、でも、久遠は子狐と言っても闘忠丸よりずっと大きいですし………「あそこや、美由希ちゃん!!」え!?」

兼一の言葉に反論しようとする美由希だったが、その最中にレンの声がかぶさる。
そしてレンの指差す先には、部屋の隅に追い詰められた闘忠丸と、追い詰めた久遠の姿。
久遠は尻を持ち上げ、尻尾と体をユラユラさせながら飛びかかるタイミングをはかっていた。
それに対し、闘忠丸は壁を背に為す術もなく固まっている―――――――――――ように見える。
いまにも飛びかからんとする久遠を止めようと、一番近くにいた忍が久遠に手を伸ばし、那美が叫ぶ。

「久遠、ダメ―――――――!!」

だが、それがかえってきっかけになってしまったのだろう。
久遠は忍の指が触れる寸前に闘忠丸に飛びかかった。
それを見て、一人を除いた全員の口から絶望の声が漏れる。

『ああ――――――――!?』
「やめろ、闘忠丸!!」

ただ一人、兼一だけは闘忠丸を制止したが、それも意味を為さない。
それらの声も虚しく、久遠の小さな前足…しかし闘忠丸を容易く踏み潰せる大きさのそれが、彼の頭上から振り下ろされる。
それを目前にしたところで、闘忠丸の小さくつぶらな瞳が輝きを放った。

「チュオオオオオ!!!!」
「く、くううううううん!?」

闘忠丸はどこかから取り出したトンファーを振り回し、一瞬のうちに久遠を打ちのめしていく。
その早業は恭也と美由希をして目で追えず、気付いた時には大方の予想を裏切りボロボロの久遠が転がっていた。

「きゅ~~……」
『な、何だってぇ――――――――――!!』
「ああ、だからやめろって言ったのに……」
「ぢゅぉ~~」

タコ殴りにされて気絶し、目を回す久遠。思いもしなかった結末に、一斉に驚きの声を上げる面々。
ただ一人兼一だけは、想像通りの結末となってしまった事を心底悔やんでいた。
自分だけは知っていたにもかかわらず、この事態を防げなかった事に罪悪感を覚えているのだろう。
当の闘忠丸はと言うと、何かをやり切った様子で深く息を吐き、身体の熱を追いだしている。

その後、あまりの事態に混乱する面々をなだめるのは一苦労だったが、なんとか場は落ち着きを取り戻した。
とはいえ、当然みなの視線の向かう先にいるのは、那美の膝の上で気絶している久遠。
そして、優雅に紅茶をすすっている無傷の闘忠丸だ。

自然界のルール、弱肉強食を真っ向から否定した先の光景に、まだ誰もが理解が追い付いていないのは明らか。
だが、ここまでやって何の説明もしないわけにはいかない。
仕方なく、兼一は大雑把に闘忠丸について説明する。

「まあ、納得できない事態だと言う事は重々承知しています。
でもこの闘忠丸は、複数の成描が同時に襲いかかっても撃退してしまえる戦力を持っているんです」
「ぢゅ!」
「だけど、そんな事ホントにあるんですか!?」
「やめろ、美由希。確かに信じ難くはあるが……信じるしかないだろ、アレを見せられては」

実のところ、恭也の額にも冷や汗が浮かんでいる。
それだけ、先ほど見た光景は衝撃的だったのだ。
まがりなりにも武器を使う二人にはわかった、闘忠丸の腕前が自分達を越えている事に。
何しろこの闘忠丸、達人をして「見事」と評させるほどの腕があるのだ。
純粋に技量だけを比べるのなら、この場で最も優れた生命体が闘忠丸である。

「なあカメ」
「なんやおサル」
「俺、夢でも見てるのかな? 白昼夢ならぬ、白獣夢」
「珍しく気が合うやないか、うちもそう思ってたところや。
 ちゅうか、あり得へんやろ、アレはさすがに」
「だよなぁ、早く覚めて欲しいぜ。で、一緒にお前も消えてたら最高だな」
「同感や。前々から、このおサルは存在自体が冗談やとおもっとったんや。ほら、さっさと消え」
「んだとこのカメ、ケンカ売ってんのか!!」
「先に売ったのはおサルの方やろが!!」
「もう、やめなよ二人とも。今はそれどころじゃないんだから」

二人のケンカを諌めるフィアッセの声にも、どこか力がない。
無理もない。彼女も大概非常識な力を持っているが、それでもこれほどではないのだから。
どこの世界に、自分よりはるかに大型の生き物を瞬殺できるネズミがいると思うだろう。
そして、当のネズミとしてはそうして悪夢扱いされるのは、甚だ心外なわけで……。

「ヂュ――――――――!!」
「ぐわ――――、来んといてぇ!!」
「す、すまん。嘘、冗談だから勘弁してくれってぇ!!」

レンと晶の双方にトンファーを手に襲いかからんとする涙目の闘忠丸。
さすがに命の危険でも感じたのか、二人はケンカの事など即座に忘れ、大急ぎで闘忠丸に謝罪している。
その横では、兼一が深々と那美に頭を下げていた。

「すみません、神咲さん。これは全て、僕の責任です」
「あ、いえ。先に襲いかかったのは久遠ですし、思えば闘忠丸は穏便に済ませようとしてくれたんだと思います。
 ずっと逃げていたのもそうですが、久遠も気絶こそしているけど怪我はしてないみたいですから」
「それにしても、見事なまでに完璧な制圧だな。しかも、それをしたのがネズミって……」
「世の中不思議な事があるものよねぇ……」
「忍、それって不思議って言葉で済ませていいの? まあ、勇吾みたいに頭を抱えるほど悩むのも良くないけど」

ある意味理解不能に等しい事態に、赤星は頭を抱え、忍は思考を放棄した。
どちらが賢いのかは、最早論ずるまでもないだろう。

「くぅ?」
「あ! 久遠、眼が覚めたのね。もう、もうこんなことしちゃダメよ」

『メッ』と久遠を叱る那美。
久遠もそれを分かっているのか、神妙そうな面持ちでちょこんと座り俯いている。
だがそれも、あまり長くは続かなかった。そう、久遠の目の前に闘忠丸が現れたのだ。

「っ!!」

あからさまに身体を『ビクリ』と震わせ警戒する久遠。
闘忠丸は泰然とした態度を崩さず、いっそふんぞり返っているかのような姿勢で久遠を見据える。
そうして数秒、先に動いたのは久遠だった。
しかしそれは、先の復讐戦などの類を仕掛けるのではなく……

「きゅぅん……」
「あ、服従のポーズ」

困ったような、あるいは呆れた様な美由希の呟きの通り、久遠は目の前の闘忠丸に対して降参の意を表す。
どうやら、先ほどの事で彼我の戦力差を悟ったらしく、もう闘忠丸に逆らう気力はない様だ。
もし久遠が今持てる力の全てを振るえば話は別の筈なのだが、どうやらそれ以前の問題として心が負けてしまったらしい。これでは最早どうしようもない。
ここに、両者の力関係は明確な形で証明されたのだ。

「ぢゅ~!」
「おお! こっちはこっちで鷹揚にうなずいとる」
「かんっぜんに力関係が確立されちまったな、キツネとしてどうなんだ?」

腕組をして、非常に偉そうな態度を取る闘忠丸だが、なぜかそれが様になっている。
レンも晶も、それに疑問を覚えないではないが、「相手がこれじゃ仕方ない」と無理やり納得していた。

「まあ、動物はその辺シビアだからなぁ……」
「というか、今まさに手を差し伸べてるよ、闘忠丸」

どうやら、これで闘忠丸も先ほどの事は水に流すつもりらしい。
奮戦を湛えるスポーツマンの様にさわやかな態度で、闘忠丸は久遠に手を差し伸べていた。
とはいえ、さすがにそれには驚きを隠せない赤星と忍だったが……。

「凄いねぇ、ネズミなのに人が出来てるよ」
「そもそも人じゃないんだが……むしろ、そうやって納得できるフィアッセに俺は少し呆れている」

ついでに、フィアッセはそんな闘忠丸に尊敬の眼差しを送り、そんなフィアッセに恭也は脱力した視線を向けていた。
順応性が高いと言うべきか、心が広いと言うべきか………大物である事はたぶん間違いないが、評価に困る。

久遠も恐る恐るその手を取り、どうやら二匹の間では何かしらの合意が得られたらしい。
とりあえず、一通り紅茶とクッキーを楽しんだ闘忠丸は久遠に跨り、そのまま居間の中で久遠を走らせる。
おそらくだが、完全に舎弟と言うか手下にしてしまったらしい。

なんとも言えない微妙な空気が場を支配するが、最早後の祭り。
起こってしまった事は戻せないのだ。
そうして兼一は、なんとも言葉に表しにくい気持ちで高町家を後にした。



  *  *  *  *  *



そのまま美羽と合流しようと歩く中、兼一はおもむろに携帯を引っ張り出す。
そして、電話帳からある番号を呼び出し、そこにかける。
すると、しばらくしてその番号の主が出た。

「何の用だ」
「何の用だ、じゃないよ! 何考えてるのさ、谷本君!!」
「いきなり何言ってやがる。殴られ過ぎてついに壊れたか?」

しょっぱなからテンションが天井付近の兼一の叫びに、電話口の夏は実に鬱陶しそうだ。
しかし、兼一としてもすんなりここで引くわけにはいかない。
とはいえ、どっ直球に攻めても流される。
それを知っている兼一は、一つ一つ確認しながら追いこんで行く方法を選択した。

「谷本君。実はね、何日か前に高町恭也って人が暴漢に襲われて怪我をしたんだ」
「ほぉ、どこのどいつか知らないが不運な奴もいたもんだ」
「ちなみに言うと、その高町君は僕やほのかの友人で、その人の話だと高町君を襲ったのは『劈掛拳』と『八極拳』を使って、『ハーミット』って名乗ったらしいよ」
「……………………………」

さすがにそれだけの証言があってははぐらかす事も出来ない。
まあ、元より夏としてもそれほど必死になって隠す気もなかったようだ。

「谷本君、高町君を襲ったでしょ」
「だとしたら?」

兼一が改めて確認すると、不敵な笑みが見えそうな声音でそれにこたえる。
その夏の様子に兼一は溜息を一つ突き、どこか疲れた様な調子で話す。

「あんまり無茶なことしないでよ。どっちに怪我をされても、僕は嫌な思いしかしないんだから」
「つくづく甘い野郎だな、脳みそが砂糖でできてるのか?」
「自覚してるよ。でもね、いい加減長い付き合いだし、死合ったりもした仲だからね。
 なんとなく、君が何を考えてそんな事をしたのかは分かっているつもりだよ」
「……………………………………………」

そう、冷静になって考えてみればすぐにわかる事だ。
あの夏が一度狙った敵をそう簡単に見逃すとも思えない。
ならば、まがりなりにも恭也が無事だった事にはそれなりに理由がある筈なのだ。

また、あまりにも話が出来過ぎている。兼一と恭也…いや、ほのかと美由希が知り合ってそう日も経っていない。
にもかかわらず夏は恭也を襲い、新島は高町兄妹を新白に入れようと画策している。
これでは、いくら兼一といえども裏があると勘繰りたくなるというもの。

そして、今日あって感じた恭也達の変化。
これだけそろえば、ある程度夏の考えは想像できる。

「何て言うか、一応お礼を言うべきなのかな。ほのかの事を気遣ってくれてありがとう」
「けっ! あんなガキの事なんぞ知った事か!!」
「そう言うならそれでもいいけど……あんまりそういう素直じゃない事ばっかりやらない方がいいよ。
 まあ、何があろうと僕達は君を信じる事をやめるつもりはないけどね」
「甘い上に、救いがたいバカだな」
「いいよ、それで。友達を信じられないくらいなら、僕はバカのままでいい」

それは嘘偽りない兼一の本心。
幾度となく兼一の夏への信頼は揺らいだが、その分だけ兼一の夏に寄せる信頼は強い。
恐らくはこの先も揺れるのだろうが、きっとこの信頼と友情が消える事はない。
消えさせなどしない、それを兼一は固く誓っている。

それを夏もわかっているのだろう。
電話の向こうからは、何かをあきらめたかのような雰囲気が僅かに伝わってきている。

「それと、いつかで良いからちゃんと高町君達に謝っておいてね」
「ざけんな! 武人がどうして戦った敵に謝る、ボケるのもほどほどにしろよ!」
「そう? 思惑はどうあれ、迷惑をかけたことには変わりないんだから謝るのは当然でしょ。常識として」
「断る!」

兼一の言葉に夏は断固とした態度を崩さない。
しかし、そこは夏との付き合いの長い兼一。
この堅牢な城のように頑固な夏を説き伏せる切り札を、彼はちゃんと持っている。

「そっか、それじゃあ仕方ないね……」
(珍しいな。このバカがこんな簡単に引き下がるとは……)
「仕方ないから、今回の件をほのかにちくろう」
「なっ!?」

唐突に切られたその札のあまりの威力に、思わず夏の口から驚愕の声が漏れる。
無理もない。ある意味これは、対夏戦において最高にして最強の無敵の切り札なのだから。

「そうそう、ちゃんと夏君の本心も伝えるから安心していいよ。
 可愛い可愛いほのかが心配で、高町君達を利用して守らせようとしたんだって。
 僕は新島と違って情報を歪めたりはしないからね」
「て、てめぇ―――――――!!!」

情報を歪めるも何も、その情報自体が兼一の想像の域を出ないのだが……。
むしろこの場合、そういった憶測の情報を渡す方が悪質だろう。例えそれが真実だとしても。

一つ確かなのは、そんな事をされては夏としては堪ったものではない。
まず間違いなくその事で散々説教され、その罰とばかりにほのかにいじり倒されるに違いない。
あるいは、今度こそ本当に泣かれるかもしれない。
結果はどうあれ、夏としては絶対に回避したい事態だ。

「ふふふ、この事を知ったらほのかはどんな顔をするのかなぁ?」
(この野郎……最近ますます悪になってきてやがるなぁ、おい!!)
「さあ、どうするの?」
「知ったことか!!」

最終的に夏はそう怒鳴って電話を切った。
だが、兼一はわかっている。なんのかんの言いつつも、ほのかが望まない展開にはならないだろうと。
そもそも、別に兼一は本気でほのかに密告する気などないのだ。
今回のはただ単に、ちょっとしたお茶目から来る悪戯に過ぎない。
まあ、高町家の人々に迷惑をかけた事への、色々なあれこれがなかったわけではないが……。

「でも、ちょっとからかいすぎたかな?
 次会う時は、少し気をつけた方がいいかも……」

何しろ、相手はあの谷本夏だ。
下手をすると、かなりご立腹で出会い頭に必殺技を放たれかねない。
とりあえず、しばらくは用心して過ごすことを決める兼一だった。



そうして、この日よりさらに数日後。
護衛最終日になってついに事態が動き出す。

その時、兼一と美羽は何とどう戦うのか。
その時、恭也達高町家の面々にはいかような役割が与えられるのか。
それは、その時になってみなければわからない。
だがこの時、すでに事態は動きだしていた。

「なるほど、厄介な奴らがいるな。これでは任務の達成に支障がでかねん。
 ならばここは…………策を弄するか。おい、その筋に情報を流せ。内容は……」

さあ、この者の弄した策は、この事件に言ったどんな影響を与えるのだろうか。






あとがき

あははは、またもや武術家としての兼一と恭也達の遭遇はなりませんでした。
というか、そもそも今回は割と余談的なお話ですけど。
アレですね、両作品のマスコット同士をぶつけてみたかっただけとも言えます。

とりあえず、それぞれの一般人としての兼一との交流をさらに深めるお話でした。
これが後々どう影響するのかは、その場でのノリ次第なので私にもよくわかりません。
全く影響しない可能性も無きにしも非ず、ですからね。

それと、ここからは予告になります。
まあそう大したものではなく、次回BATTLE 7からは「チラ裏」から「とらハ版」に移動するだけですけどね。
正直、移動のタイミングを計りかねていたんですよ。
それこそ、いっそ一度区切りがついてからにしても良いかな、とも思っていたのです。
しかし、折角「もうチラ裏から出てもいいのではないか」との感想をいただいたので、これも何かの思し召しと考え、事態が動き出すと言う「切の良さ」がある次回からあちらに移ろうと思います。



[24054] BATTLE 7「露見する拳」
Name: やみなべ◆d3754cce ID:1963cf14
Date: 2010/12/11 01:00

ある日の夕暮。
恭也はレンと共に病院へと足を運んでいた。
ただそれは、レンにとっては甚だ不本意なことだったが……。

「うぅ………まさか、お師匠に見つかるとは……」
「いや、単に行き掛けにバッタリ出くわしただけだろ」
「それはそうなんですが、絶対に会わへんように道を選んでいた身としては、こう……」

連れ立って歩きながらも、レンはどこか消沈した様子。
それをいぶかしむ恭也だったが、どうやら邪険にされているわけでもないと知ってより首をひねる。
今朝も…と言うより、レンが通院している事自体、恭也は今日偶然出くわすまで知らなかった。
なぜ、レンはこうも病院に行こうとしていた事を頑なに隠したがっていたのか、それがわからない。
ただ、数年前までレンが長く入退院を繰り返し、幼い頃は病弱であった事を知っているだけに、ある不安が胸中で芽生えていた。

「あぅぅ……晶やなかっただけマシとはいえ、なぜにお師匠に見つかってもうたんや、ウチのあほぉ」
「レン」
「はい? あの、できればこの事はみんなには秘密にしてほしいんですけど」
「別にそれは構わない。だがもしや……まだ、身体は良くなっていないのか?」

昔、レンが入院していた頃の詳しい病状などを恭也は知らない。
入退院を繰り返し、触れれば壊れそうなほどに儚く、満足に外で遊ぶこともできない身体だった。
恭也が知っている情報などその程度。

しかし、少々のんびりゴロゴロしている事が多いとはいえ、今やその頃の面影はほとんどない。
だから恭也も、レンの体はほぼ健康体になったのだと思い込んでいた。

「あ、あははは、そんなことないですって。
 確かに、ちっこい頃はちょう病弱でしたけど、今はこれこの通りいたって健康です。
 ただまあ、偶には検査とかしとかんと……ウチの周りには心配性な人が多いんで」

そう言って、レンは困ったような表情で頭をかきながら苦笑する。
そして、彼女の言う「心配性な人」とは、おそらく彼女の両親の事だろう。
もしかすると、恭也よりも詳しくレンの体の事を知っているであろう、桃子も含まれるかもしれない。
恭也を始めとしたあまり詳しい事情を知らない面々などはすっかり安心しきっているが、知っている者達にとってはまだまだ心配の種は尽きないのだろう。

「そうか、心配をかけないのは……大切だ」
「お師匠も、あまり桃子ちゃんやフィアッセさんを心配させへん方がいいですよ」
「……………」

にやにやとした笑みと共に返されたレンの言葉に、つい「藪蛇だったかな」と思う恭也。
心配をかけているのは自覚しているし、心配をかけてしまう前科もあるだけに強く言い返せないのだ。

「せやけど、珍しい事もあるもんですね」
「なにがだ?」
「いやぁ、あの病院嫌いのお師匠が、自分から病院に行くっちゅうのが、ちょう珍しくて」
「別に病院が嫌いなわけじゃない。ただ、面倒なだけだ」

それではまるで注射や薬を嫌がる子どものようだ、と感じた恭也は少しムッとなる。
まあ、周りの者たちから言わせれば大差ないのかもしれない。
理由はどうあれ、周りの心配をよそになかなか病院に行こうとしない恭也は、ある意味駄々をこねる子どもと同列だ。少なくとも、周りの人間からしてみれば。

「まあ、それはそれで別にええです。で、なんで今日は病院に?」
「朝、フィアッセにせっつかれてな」
「ははぁ……さすがのお師匠も、フィアッセさんにはかないませんか」
「逃げても良いんだが、後がな」

大方、フィアッセもフィリスから「恭也がちゃんと通院してくれない」と愚痴られたのだろう。
医者泣かせの恭也だけに、大いにあり得る。

「そういえば、フィアッセさんも今日は病院でしたっけ?
 せやったら、確かにいかへんとフィリス先生からばれてまいますね」
「………………そういう事だ」

フィアッセ自身、今日はいつもより少し精密な検査があるとかで朝から夕方まで病院だ。
故に、恭也が通院していない事はすぐにフィリスを通してばれてしまう。
フィアッセは桃子同様あまり声を大にして起るタイプではないが、長年培った上下関係の為、フィアッセに叱られると恭也も頭が上がらない。

「でも、それなら帰りはフィアッセさんの車で帰れるやろし、ちょう楽が出来ますね」
「ああ、そうだな」

レンの言葉に適当に相槌を返しつつ、恭也は右手に持つ楽器ケースの重さを確かめる。
つい先日試作品が出来上がり、試しに学校まで持ってきていたのだが、あまり怪しまれる様子もなかった品だ。
当然その中には御神の剣士の装備一式が収まっている為、それなりに重い。
今はその重さが、ささくれ立ちそうな恭也の心を落ち着けてくれている。

(嫌な空気だ。何もなければいいんだが……)

良くわからない、言葉にしにくい予感。
先日の事が有って以来、恭也と美由希の日常での警戒のレベルは上がっていた。
その警戒網に、なにかが引っ掛かる。

具体的に何がどうこうと説明できるものではないのだが、この試作品を持ってきた事を幸運だと恭也は思う。
何も起こらないに越した事はないが、きっと何かが起こる。
それは、酷く曖昧であやふやな直感ながらも、恭也自身はそれを『確信』していた。

そしてその予感は、現実のものとなる。
それも、およそ最悪と言っていい形で。



BATTLE 7「露見する拳」



そうして、恭也の嫌な予感は薄れる様子もなく時間は過ぎて行く。
だが、だからと言って一向に何の変化もない。
病院の内外の人の流れにおかしなところはなく、事故や急病人が出る事もない。

そんな極々普通の、あまりにも当たり前すぎる穏やかな時間だ。
だからだろう、段々と恭也も自分の思いすごしではないかと思うようになっていた。
先日の件があって以来、少し過敏になっているのではないかと本人も思っているのだ。
あるいは、件の試作品を持ち歩いているせいで不必要なまでに神経が尖っているのかもしれない。

(武器を持って昂ぶっているのか? だとしたら、あまりにも未熟過ぎる)

病院のエントランスで人を待ちながら、恭也は自分自身を戒める。
慣れない事をすると人間だれしも調子が変わるものだ。
今まで武装して日常生活を送っていた事はないし、そのせいだと思ったのだ。
続けて行けばいずれは慣れて本来のペースを取り戻すだろうが、それまでこの調子かと考えると思わず嘆息する。
とそこへ、恭也より幾分遅れて目当ての人たちがやってきた。

「お待たせしてすんまへん、お師匠」
「ごめんね、恭也。思ったより長引いちゃった」
「いや、気にしなくていい。俺もついさっき終わったところだ」

手を振って歩いてくる二人の同居人に、恭也は目をつむって答える。
実際には少々待たされたのだが、色々思索に耽っている間に時間は過ぎていた。
おかげで、当人の感覚としてはあまり時間がたったという感覚はない。

「でも、恭也もちゃんと病院に来てて良かった。
もし来てなかったら、明日桃子と二人で連行するつもりだったんだから」
「良かったですね、お師匠。危うく、どこぞの宇宙人みたいに両脇を抱えられて通院するところでしたよ」
「ああ、そんな羞恥プレイはごめんだ」
「そう? 私は大歓迎なんだけど……」
「「……………………………」」

心底不思議そうに、同時に僅かに残念そうにつぶやくフィアッセに溜息をつく二人。
どこまで本気なのか定かではないが、恭也的には堪ったものではないだろう。
桃子はどう見ても恭也の母親には見えない外見だし、フィアッセも含めて『絶世』という前置詞が付いてもいいほどの美女だ。
そんな美女二人と一緒の通院など、羞恥プレイ以外の何物でもない。少なくとも、恭也にとっては。

「じゃ、帰ろっか」
「そですね………あ、途中でスーパーに寄ってもらってもええですか?
 今日、特売でお肉と卵がごっつ安いんです」
「もしかして人数は多い方がいい?」
「はい♪ 卵は御一人様2パックまでなんです!」
「OK、恭也もいいよね?」
「ああ、構わない」

割としっかりした経済観念、と言うよりも主婦根性の持ち主であるレンの提案を二人も快く引き受ける。
桃子が仕事であまり家事ができない事を考えると、高町家の家計を支出の面で支えているのはある意味レンだ。
そして、レンが十円の違いに一喜一憂するタイプである事を知る身としては、そういうところは実に頼もしい。
まあ、将来はいいお嫁さんになるんだろうなぁ、などとありきたりな事を思ってしまったりするが……。
そのあたりはご愛敬だろう。
しかしそこで、恭也は視界の隅で何かを捉えた。

「ん?」
「お師匠?」
「どうしたの恭也?」
「いや、あそこにいるのは……」

恭也は視界の端で捉えた人物を確かめるべく、そちらに首を回す。
それに気付いたレンとフィアッセも、恭也に問いかけながらその視線の先を追う。
その先にいたのは、三人にとってとてもよく見知った知人の姿。
銀髪の長髪の女医、フィリス・矢沢だ。

「フィリス?」
「あ、フィアッセ! それに恭也君とレンちゃんも!」

フィアッセの声に反応し、フィリスも恭也達に気付き顔をほころばせる。
すでにレンとも見知った仲であり、徐々に打ち解けてきたことで呼び方も親しみのこもったものだ。
レンと恭也もそれに応じ、レンは挨拶を返し、先ほどまで診察を受けていた恭也は会釈を返す。

「あ、どもです」
「もう仕事は終わりなんですか?」
「ええ、今日は早朝出勤で早く上がれたの。まあ、本当はもう少し残ってやりたかったのだけど……」

恭也の問いにフィリスはどこか残念そうに、どこか困ったように応じる。
それはまるで、おもちゃを取り上げられた子どものようであり、突如宿題を課された学生のようでもあった。

「だけど?」
「看護師さん達に『少しはちゃんと休め』って医局から追い出されちゃって……」

首を傾げるフィアッセに、フィリスは不貞腐れたように答える。
あまりフィリスの勤務状況を知らない恭也やレンにはよくわからないが、それなりに長い付き合いのフィアッセは得心が言ったようで「あはは」と笑っていた。
その意味が分からず、恭也とレンはフィアッセに目でその意味を問いかける。

「実はね、フィリスったらしょっちゅう夜遅くまで居残って仕事してるんだ。
 仕事熱心なのはいいし、患者さん思いなのはわかるんだけど、ね。周りの人たちからしたら心配だよ」
「もう! 週の半分くらい日付が変わるまでいるだけなのに……」
「「いえ、それは十分働き過ぎです」」
「そ、そんなぁ……」

フィアッセの言葉に抗議しようとしたフィリスだったが、二人のツッコミにショックを受ける。
フィリス自身あまり体が丈夫そうには見えないし、周りからは過労を心配されるのも当然だ。
特に古株の人たちとなると、幼い頃のフィリスを知っている人も多いだけになおさらだろう。
また、当の本人がこの年で夜や暗い所が怖い事を知っている人もいる為、『無理をするな』と思う人も多い。
フィリスとしてはそんな心配は少し嬉しくもあるが、同時に子どものように見られていて不本意だったりする。
まあ、実際古株たちからすれば本当に娘のような感覚なのかもしれないが。

「ところで、フィリスはこれから帰るんでしょ? 途中まで送ろうか?」
「え? でも……」
「私達は車だし、三人なら席にも空きがあるから」
「それが良いですね。もう夕暮れも近い、女性の一人歩きは少し危ないかと……」

恭也の言葉ももっともだ。
比較的に治安の良い海鳴だが、不審者やちょっとしたチンピラやヤクザの類がいないわけではない。
フィリスは見た目もよく、線も細い。その手の輩からすれば、格好の餌に見えるだろう。
フィリスも少しは自覚があるようで、少しばかり不安そうな表情を見せる。
おそらく、夜中に帰宅する時には少なからず不安があるのかもしれない。
だが、恭也がいれば素人に毛が生えた程度の連中など物の数ではない。それに……

「良ければ、ウチで夕食でもご一緒にいかがです? 目一杯腕を振るわせてもらいますよ?」
「そんな! それはさすがに悪いですよ!」
「気にしなくてもいいと思うよ、桃子はむしろそういうの喜ぶタイプだし。ねぇ、恭也?」
「ああ、基本『来るもの拒まず、門戸は全開放』がうちの母ですから」

少し呆れ気味に溜息をつきつつ、フィアッセの問いに同意する恭也。
実のところ、あまりにもおおらかすぎる桃子の姿勢に思うところがないわけではないが、言って治る様な性分でもない。また、危なっかしいところは確かにあるが、人を見る目は恭也の及ぶところではないと自覚もしている。
伊達に高町家の大黒柱ではないし、本当に危ない時は自分が守ると言う自負があるのだろう。
とりあえず、フィリスが来る分には異を唱える者は高町家にはいない。

「まあ、すぐに決める必要もないでしょう。
 一度車に乗って、それから決めてください」
「なし崩しにそういう流れにのせちゃおうとか考えてません?」
「いえ、全く」

フィリスの問いを一応否定するが、実は内心できっとそうなるだろうなぁと思う恭也。
フィリスも大概人が良いのはわかっているし、この手の申し出はその場で断れなければ確かにそうなるだろう。

しばしの間いぶかしむフィリスだったが、やがて諦めがついたのだろう。
一つため息をつくと、ひとまず途中まで送ってもらうべくフィアッセ達と駐車場に向かう。

まあ当然、この後は恭也の予想した通りフィリスは先のレンの申し出を受ける。
だが、この提案が実現する事はなかった。
その前に、それまでの日常を打ち消してしまう事態が起こるからだ。



  *  *  *  *  *



フィアッセの車が走り出してしばしたった頃、恭也は助手席に座ってその風景を眺めていた。
残りの女性陣三人はかしましくおしゃべりを楽しんでいるが、さすがにその中に入っていく勇気はないらしい。
同時に、ふっと見上げた空を何かが昇って行くのを視認する。

(アレは………打ち上げ花火か? こんな時期に珍しいな、それも単発とは……)

若干の違和感を覚えはするが、それほど気にする事でもないと自己完結する恭也。
そんな彼の膝の上には、先ほどの買い物で買った荷物の一部がある。
ついでに、フィリスも高町家の夕食に招かられる事はなし崩しで決定されていた。
恭也の予想した通り、雰囲気的にもう断れるような状況ではなかったのだ。
今はちょっとした近道として小道を走っており、周囲はビルの陰に囲まれている。
この先に少し開けた場所があり、そこを抜けると住宅街まで僅か。
地元住民くらいしか知らない抜け道なのだが、すっかりフィアッセはそういうものに精通してしまったらしい。

そうして、普段なら精々野良猫が闊歩する程度で、楽に抜けられる道を車は進んで行く。
だがこの時は、いつものようにはいかなかった。
なぜならば、建物の陰から車の前に突然――――――――――――――――人が吹っ飛んできたのだから。

「フィアッセ、ブレーキ!!」

恭也が叫ぶのとほぼ同時に、フィアッセは全力でブレーキペダルを踏む。
タイヤが急な制動で甲高い音を立て、車内の人物達は慣性の法則で前につんのめる。
そうしている間にも、飛ばされてきた人影は壁に叩きつけられ、そのまま車の進路上に倒れ伏す。
しかし、車は辛うじて転がり出てきた人物を轢くことなくその手前で止まる事が出来た。

「な、なにが……」
「みんなは中に残れ! 外の様子は俺が見る!」

何が起こったのかまだ理解が及ばず、目を白黒させる女性陣。
だが恭也はいち早く思考を復旧させ、そう指示して車外に出るべくドアに手をかける。
当然、武器を納めた件の楽器ケースは持ったままだ。
人が真横にふっ飛ばされるなど、尋常な事態ではないのだから。

そして、恭也の考えは正しかった。
恭也が車外に一歩出た瞬間、彼はそれまで以上の異変に気付いたのだ。
彼の視線は車の前で倒れる人物ではなく、その人物が吹っ飛んできた方向、建物と建物の間となる影の部分に向けられる。

(誰かが、戦っているのか?)

そう、影となっている空間の先から、何者かが戦っているであろう物音と気配が伝わってくる。
おそらく、先ほどの人物を吹き飛ばした張本人もそこにいるに違いない。
横目で見る限り、ふっ飛ばされた人物の恰好は極々普通の、なんの変哲もないジーンズとポロシャツ姿。
強いて言うなら外国人であることが目を轢かないでもないが、外人の多い海鳴ではさして珍しくもない。

しかし、武術に関しては素人のフィアッセやフィリスにはそれがわからない。
彼女らにとって、今の最重要項目は車の前に倒れている人物だ。
その点から言って、その人物を無視している恭也の行動は理解不能としか言いようがない。

「フィアッセは救急車を呼んで! 私がその人を診る!」
「う、うん!」

事情は分からないが、あんな速度で壁に叩きつけられるなどただ事ではない。
それこそ、車にはねられた可能性すらある。
突然の事態にやや遅れて思い至ったフィリスは、ようやく身体の自由を取り戻しフィアッセに指示して車の外に出ようとする。

「出るな! 中にいろ!!」

だがそれも、恭也の怒声によって封殺される。
初めて聞いた恭也の怒鳴り声に反射的に扉から手を離すフィリス。
しかし、その間も恭也はずっと建物の陰を睨んだままだ。
いつの間にかその手にはケースから取り出された小太刀が握られ、構えをとって臨戦態勢に入っている。

良く耳を澄ませ、気配を探れば徐々に戦闘の気配がなくなっていくことに気付く。
恐らく、もうじき決着がつこうとしているのだろう。
だが、その前に恭也の視界の端でなにかが動いた。
それはおそらく、先ほど壁に叩きつけられた人物のもの。
それと同時に、影の向こうから誰かが地面を蹴る力強い足音が響いてくる

(…………どうする? 狙いとして真っ先に考えられるのは、ふっ飛ばされてきた奴だが……)

恭也は迷った。影の向こうから来る人物の狙いが分からないからだ。
もしその狙いが自分や車中の友人たちなら、迷わず応戦するだろう。
あるいは、先ほどまで倒れていた人物をいたぶるのが目的でも同様だ。
しかし、そもそも影の向こうで行われている戦闘がどんなものかわからない為に、判断が付けられない。
故に……

(後手に回る事になるが、向こうの出方に合わせるしかないか……)

そうせざるを得ない。
迂闊に切り込めばいらぬ誤解を招き、不要な戦闘をすることになりかねない。
なら、どうしても恭也から動くわけにはいかないのだ。
もし、とりあえず叩き伏せてそれから考えよう、などと言う思考を恭也ができれば話は違うのだが……。
しかし、良くも悪くも恭也の予想は裏切られた。

「へあっ!!」
「なに!?」

その掛け声とともに、何かが凄まじい速度で恭也に向かってきた。
恭也は反射的にその物体を回避するが、その間に彼の横を何かが猛スピードで駆け抜けて行く。
そして、先ほど飛んできた物体と、地面に転がる人物に攻撃を加えようとする。
まあ、実際には適当にふんじばっておこうとしただけなのだが、恭也にそんな細かいことが分かる筈もなく。
それに対し恭也は、事情が分からないなりにそれを止めるべくその背に飛針を投じていた。

「やめろ!」
「はっ!」

それを寸でのところで跳躍して回避する、影から現れた男。
未だ恭也には背を向けたままだが、その立ち振る舞いには隙がない。
恭也をして、迂闊に切り込めないものがその男にはあった。

(どうも、このところこの手の事に縁があるな。ハーミットに続き、これほどの手練に出くわすか……)
「邪魔を、しないでください」
「何者か知らないが、倒れている者に攻撃するのはいただけない。
 顔を見せろ、何者だ!!」

その声に聴き覚えがある気がした恭也だが、ややくもぐもっていて判然としない。
聞き覚えはあるのだが、それと自分の中の人物録が結び付かないのだ。
あるいは、その人物のイメージとあまりに解離したこの状況が、それを困難にしているのか……。
だが、男の方も実のところ心中穏やかではなかった。

(ど、どどどどどどどうしよう~!?
 いる事がばれちゃいけないのに、物の見事にばれちゃったよ!?
 どうする、どうするのよ僕!!)

正面を向いていないおかげで顔色などは恭也にはわからないが、その心中は混乱の極みだ。
師よりきつ~く厳命されていたのにこの結果、下手をすると地獄の修業がさらにきつくなる。
そんな事になれば命が危うい。せめて、せめて正体だけでも隠さなければ……男は混乱しながらもそう結論した。

(で、でもどうやって? この状況じゃ、変装もへったくれも……そうだ!
 こんな時こそ、長老からもらったアレの出番!!)

何かいい案が浮かんだのか、それとも苦し紛れのその場しのぎなのか、とりあえず懐に手を突っ込む男。
しかし、恭也に大人しく男が動き出すのを待つ義理はない。

「どうした! いつまでそうしている!!」
「ぼ、僕は……」

恭也に急かされ、ゆっくりと男は恭也と車の方を振り向いていく。
暗い小道の途中、それも夕暮れ時だけあってなかなかその顔は判然としない。
だが、ついにその男の顔が恭也達の前に晒された。

「が…」
「が?」
「我流ホワイトだぁ―――――――――――――――!!!」

振り向いた男の顔にくっついていたのは、眼と鼻と口ではなく―――――――――――――――――お面。
それも、どこかの縁日で売っていそうなヒーロー物の。
その上、服装は街中に即座に溶け込めそうなだけに、尚の事違和感が際立つ。
予想外にもほどがある滑稽なそれに、思わずずっこける恭也とフィアッセ達。
実際、車の中からは「だぁ~~!?」というコントの様な声っぽいものが響いた。

とはいえ、そんな一瞬のリアクションが長くは続く筈もない。
当然、その後に待つのは……

『……………………………………………………』

そう、あまりにも、あまりにも長く痛い沈黙。
恭也自身、どうリアクションを取っていいか困り果てている。
そこで真っ先に動いたのは、関西人の血が騒いだレンだった。

「アホかぁ―――――――――――――!!」
「はぅ!? (や、やっぱりダメだった!? 『困った時はこれを使うのじゃ』って昔渡されたけど、やっぱりこんなのじゃダメなのかぁ!?)」

車中と言う密室から聞こえてくるとは思えないレンの盛大なツッコミに、思わずたじろぐ我流ホワイト。
ちなみに、ホワイトなのは彼の名前に「白」が入っているからに他ならない。

「あ、アホじゃないもん! 僕は世界の平和を守る我流Xの仲間の一人、我流ホワ……」
「そんなん聞いてんとちゃうわ!! 戦隊物のヒーローが一人で戦っとるなんてルール違反や!! 戦隊物のヒーローはな、五人で一人の敵を袋にするヒーローなんや!!」
「そ、そうだったのかぁ――――――――――――!!」

いや、この突っ込みもおおいに間違っているのだが……。
まあ、我流ホワイト自身、この場のノリと雰囲気で乗っかっているだけだろう。
と言うよりも、レンは一体何に突っ込んでいるのやら。
だが、そんなコントをしている間に恭也が動く。

「悪いが、ギャグは苦手なんだ。事情はさっぱりわからんが、とりあえず…………斬っていいか?」
「そう言いつつもう斬ってるし! なんで、僕何かした!?」

そう、我流ホワイトの言葉の通り、恭也は既に彼に向って斬り掛かっていた。
それを我流ホワイトは腕に仕込んだ手甲で受け、流し、時にいなして、あるいは軽やかな体捌きで回避していく。
対して、恭也の表情は一見無表情だが、どこか不機嫌なオーラが滲んでいる。
どうも、「さっきまでの緊張感が台無しだ」的な感じに苛立っているらしい。
まあ、全く以って無理もない話だが。

「いや、芸風についていけないのと…………………ちょっとした八つ当たりだ」
「八つ当たりで殺される!? 君、そんな危険人物だったっけ!?
 っていうか、刃物はホントに危ないから勘弁してぇ―――――――――――!!」
「く、ちょこまかとよく避ける……!」

恭也は割と本気で斬り掛かっているのだが、我流ホワイトはそれを器用に回避していく。
それだけでなく、その並み外れが柔軟性をいかんなく発揮し、無茶な体勢からさらに攻撃を回避する。
恰好と態度こそふざけているが、その体捌きと体の柔軟性には恭也も舌を巻いていた。

(何という柔軟性だ、どうしてあの体勢からああも動ける。いや、それよりもこいつ、こんなに……)

そうやって、幾度恭也の剣が回避されただろう。
はじめのうちは思考が停止していたフィアッセやフィリスも、段々と正常な思考が戻ってくる。

「すごい………恭也の剣を、あんなに……」
「え、ええ。それに、なんて柔軟でよくしなる体……きっと、先天的にそう言う身体なんだわ」
「お師匠……」

窓越しに繰り広げられる二人の舞にも似た戦いに、三人は目を奪われる。
戦いという尋常ならざる状況でありながら、二人のそれからは殺伐とした印象が薄い。
まるで、互いに相手の力量を測ろうと試し合っているかのようですらあった。
だが一瞬の隙をついたのか、恭也の腕が我流ホワイトの腕に絡みつく。

「……しまった!?」
「左腕…もらった!!」

恭也は小太刀を持ったまま器用に我流ホワイトの腕を極め、その肘にはいつの間にか小太刀が差し込まれていた。
そして、その状態のまま刀を引きつつ…………投げる。
御神流の組み技の一つ、『枝葉落とし』。
極めからの投げにより関節を破壊し、同時に地面に叩きつけることでダメージと共に体勢を崩す技。
その上、並行して挟みこんだ小太刀を引く事で腕を斬り落とすという恐ろしい技だ。

さすがに恭也も腕を落とそうとまではしていない様だが、この技にかかった時点で片腕は使えなくなるだろう。
しかしそれも、相手がこの我流ホワイトでなければの話だ。

「なんの!!」
「ば、バカな!?」

恭也のそんな声と共に、投げられ宙に浮いていた筈の我流ホワイトの身体が制止する。
すぐさまその理由を探る恭也だったが、原因はすぐに見つかった。
だがその原因こそが、何よりも恭也を愕然とさせる。

(無茶苦茶だ! 腕一本で、自分の体重と回転のエネルギーを受け止めたのか!?)

恭也が目にしたのは、あまりにも信じがたい光景。
何しろ、極められていた左腕とは反対側の右腕が、アスファルトを鷲掴みにしているではないか。
たった、たったそれだけのことで、我流ホワイトはこの技を止めたのだ。

しかも、恭也の小太刀を肘で挟み込むようにし、筋肉の締め付けでその動きを封じている。
生半可な腕力では、こんな芸当は不可能だ。
だが、恭也の驚愕はまだ終わらない。

「つあ!!」
「くぉっ!?」

気合と共に、腕一本で我流ホワイトは恭也を投げ返した。
虚を突かれた形になった恭也だが、彼は即座に体勢を立て直してさらに投げ返すべく我流ホワイトの襟を取る。
しかしそれも、我流ホワイトが襟を取った腕を利用した投げに持っていく。

「はぁあぁああぁぁああぁぁぁ!!!」
「おおおおおおおおおおおおお!!!」

互いに相手の袖や襟を狙い、相手がとったその腕を利用して投げようと熾烈な攻防を繰り広げる。
結果は、互いにとり切る事が出来ず、一端距離を取ると言う形で決着した。

「くっ、その細腕でこれほどのパワー……いったいどういう身体の構造をしてるんだ」
「無駄な筋肉は一切付けない秘密の鍛え方だよ。僕の体は、瞬発力と持久力を兼ね備えた筋肉で構成されている。
 もちろん、それのみってわけじゃないけどね、まだ」
(もしそれが本当なら、まさしく戦うために生まれてきたような身体だ。
 未熟という自覚はあったつもりだが、自分の眼力を過信していたか……)

先ほど、フィリスは我流ホワイトの身体を「先天的なもの」と考えた。
常識的に考えればその通りだが、それは間違いだ。
彼の体は、元々それほど質的に恵まれたものではない。
その柔軟性も、瞬発力と持久力を兼ね備えた良質な筋肉も、その全てが後天的な鍛錬で培ったもの。
とはいえ、そんな非常識な事を実行する師匠がいるなど、彼らの想像の外だったと言うだけの話。

そうして、二人は互いに睨み合う。
技撃軌道戦にこそ入ってはいないが、相手の隙を探り、自身の隙を潰す様に構えを変えて行く。
やがて、ゆっくりと間合いを詰め互いの制空圏が触れ合いそうなほどに近づく。
そして、二人の制空圏が触れようとした瞬間、我流ホワイトが突如恭也に背を向けた。

「っ! させるか!?」

その目的を即座に見抜いた恭也は、我流ホワイトの後を追って疾走する。
その先にあるのは、先ほどまで彼が乗り、今も尚大切な人たちが乗る車。
速度では恭也が勝っているのか、我流ホワイトが車にたどり着くより前に恭也の剣が我流ホワイトを捉えた。

「はぁっ!!」
「そんな!? ………かはっ!」

恭也に追いつかれた事に気付いた我流ホワイトは、即座に振り向き自慢の手甲で恭也の斬撃を防ごうとした。
だが間に合わなかったのか、それとも間に合って尚受けたダメージが甚大だったのか。
いずれにしろ、我流ホワイトの体は真横に弾き飛ばされ地に転がった。
そうして、恭也は我流ホワイトが動かないことを確認すると、急いで車に向かい皆の安否を問う。

「無事かフィアッセ、レン、フィリス先生!!」
「う、うん。私達は、大丈夫」
「お、お師匠、もしかして殺ってもうたんですか?」
「大丈夫だ、急所は外してある」

その一言に、二人は安堵の息をつく。
相手を気遣っていると言うのもあるのだろうが、恭也にはできれば人殺しなどしてほしくないと言うのが家族一同の思いだ。そういう技を磨いているとはいえ、必ず人を殺さねばらないわけではない。
人殺しなど、しないに越した事はないのだから。
とりあえずみなに怪我がない事を確認した恭也は、そのままフィリスに問いかける。

「ところで、フィリス先生」
「え? は、はい」
「この手の輩に、何か心当たりはありますか? 見る限り、フィリス先生を狙っていたように思えたので」
「い、いえ。その、全然……」

まだ動揺が抜けきっていない様で、フィリスの言葉はどこかしどろもどろだ。
しかし、彼女としても狙われる理由などに心当たりはない。
まあ、それは単に過去の事はすでに決着が付いていると確信しているからなのだが。

「そうですか……」

有力な情報を得られなかったことに落胆はない様だが、一応一段落ついたからか恭也は肩から力を抜く。
だがそこで、レンが突然大声を上げる。

「お師匠、後ろ!!」
「「恭也(くん)!!」

レンが気付いた時、すでに何者かが恭也のすぐ背後にまで迫り、軍用ナイフを振りかぶっていた。
今から反応したのでは明らかに襲い。如何に恭也でも間に合うまい。
そう、この場で戦えるのが恭也だけだったのなら……。

「大丈夫だ、レン。そうだろ…………………………………………兼一」
「靠撃!!」

恭也が振り向くことなくその名を呟くと、その瞬間何かが猛スピードで恭也の背後を駆け抜ける。
同時に、恭也の背後に迫っていた何者かを勢いをそのままに壁に叩きつけた。
中国拳法の一手『靠撃(こうげき)』。肩や背面部で突進する技だ。
それを、ついさっきまで恭也の一撃を受け、地面で気を失っていた筈の我流ホワイトが放った。

「え? え、ええ!? ど、どないなっとんのや!?」
「な、なんで!? だってあの人、今恭也にやられて……」
「気絶、していた筈じゃ………じゃなくて、どうして恭也くんを助けて……」
「まあ、知らない仲じゃありませんから。ただ、お前がこんなに腕が立つとは思わなかったけどな」
「あはは、ごめんね高町君、協力してもらっちゃって」

そう言いながら我流ホワイトが恭也に歩み寄る。
そこには先ほどまで戦っていたとは思えない和やかな雰囲気があり、先ほどまでの事がまるで嘘のようだ。

「やはり、お前だったか」
「あ、やっぱりばれてたんだ。でも、ありがとう、信じてくれて」
「これでも、それなりに人を見る目はあるつもりだ。お前の実力を見抜けなかった未熟な眼力だが、な」

そう、恭也はもうずっと前に気付いていた、と言うかアレだけ近くでやりあって気付かない方がどうかしている。
そして、我流ホワイトの正体が兼一なら、なぜ彼はこんなところであんな事をしていたのか。
よくよく見れば、兼一の動きがフィアッセ達の乗る車を何かから守ろうとしている事に気付けた。
なら後は簡単だ。理由こそ定かではないが、何かしらの目的があって兼一はフィアッセ達を守ろうとしている。
それだけ分かれば、恭也にとっては充分だった。

「しかし、正直驚いたぞ。武術をしているとは聞いていたが、お前、こんなに強かったのか」
「あ、あはは、はぁ………ごめんね、見た目弱そーで……」
「いや、別に責めているわけじゃないんだが……(しかし、本当にどういう事だ? 初めて会った時、兼一からは強者特有の気配は感じなかった。なのに今は、あの時感じなかったオーラが確かにある)」
「ところで、さっき八つ当たりって言ってたけど、どういう事?」
「それなりに見る目には自信があったんだぞ」

兼一の問いに、恭也はムッとなって返す。その意味を悟り、さらに兼一の顔はひきつる。
つまり、兼一の実力を見抜けなかったことに対する悔しさをぶつけてきたという事だ。
まあ、確かにそれは八つ当たりだろう。兼一としては堪ったものではないが。

「で、でもその割にはあんまり驚いてないように見えたんだけど……」
「ここ最近では最大級の驚きだった。ただ、思考が戦闘状態に入っていたからそう見えなかっただけだ」
(ああ、そう言えば僕の事を弱いと思ってた人も、割と強いってわかってもあんまり驚いたりしないよね。
 少なくとも、驚いて隙を見せてくれた人の方が少ないし……)

確かに兼一の実力に恭也は驚いた。柔軟性も、筋力も、その技の冴えも。
しかし、結局はそれだけだ。弱いと思っていた相手が強かった、本当にそれだけの話。

弱いと「認識」することと「侮る」ことは、似ているようで…違う。
恭也は兼一を弱いと認識した、だが侮ってはいなかった。

それは、彼が格下の相手との戦いに良い意味で慣れているからこそ。
毎日稽古する美由希、忘れた頃になれない不意打ちを仕掛けてくる晶。
どちらも恭也からすれば容易く一蹴できる相手だが、油断し侮っていい相手ではない。
二人とも、もし万が一にでも最高の一撃を恭也に入れる事ができれば、十分ダメージや打倒を狙える。

強者が勝者とは限らない、それを識る武術家は格下が相手でも侮りはしないものだ。
それこそ、ナイフ一本腹部に刺す事が出来れば幼児でも達人を殺せるのだから。
故に恭也は、兼一の実力を知った時も驚き以上の感情に心を揺さぶられる事がなかった。
これもまた、武術家として大切な資質である「心の強さ」の一端なのだ。

「で、こいつらは何だ? お前がそんなけったいなお面をつけてるのと関係があるのか?」

その言葉と同時に、暗がりから数人の男が姿を現す。
その手にはそれぞれ刀や剣、あるいはナイフや警棒など、多種多様な武器が握られている。
どう見ても堅気ではなく、身体から滲み出る悪意と害意は明らかに自分達の敵であると主張していた。

我流ホワイトの正体が兼一と気付き、その目的の一端を知っても尚恭也が兼一と戦った理由は簡単。
兼一がフィアッセ達を守ろうとするからには、その原因がこの場にいる筈なのだ。
そして、『心』と呼ばれる、目に頼らず音と気配によって相手の居場所を知るこの技術を、恭也も会得している。
だからこそ、恭也は自分達を取り巻く複数の気配に気付き、僅かな時間の間に策を立てた。

自分達が健在なうちに敵が出てくる可能性は低い。
仮にこの場で二人が戦いをやめても、何かしら面倒な手段に出るかもしれない。
なら、最も確実なのは、敵の油断を誘っておびき出す事。その為に二人は一芝居打ったと言うわけだ。
とはいえ、一応兼一としてもなぜ自分がこうしているのか、迂闊に話すわけにはいかないわけで……。

「えっと………秘密、ってことじゃダメかな? ホントは、こうして姿を見られるのもアウトなんだけど……」
「まあ、そんな事だろうと思ってはいた。無理には聞かないが、倒して問題ないのか?」
「うん、僕の役目はこの人たちの撃退だから。まあ、今回はちょっと数が多くて見つかっちゃったんだけど」

誰に、とは問うまでもない。恭也達の事だ。
フィリスを襲撃しようとしていた輩を見つけたまでは良かったのだが、思いの外数が多く乱戦になってしまった。
その結果、秘密裏にこっそり撃退するつもりがこんな事態になってしまったのだろう。
しかし、恭也と違ってフィアッセやレンにはまだ何も納得できてはいない。

「その声、まさか兼一!?」
「ウソ!? こんなところ何しはってるんですか!?」
「ごめん、今は事情を説明してる時間がないんだ、今はそこで待ってて。すぐに、終わらせる!!」
「そういう事なら、俺も遠慮はしない。一気にやるぞ、むこうは任せた」
「うん!」

そうして、二人は同時に敵中に突っ込んで行く。
相手もプロの様だが、所詮はそれだけ。訓練は積んでいても、その密度が、量が違う。
真に技を極めんとする二人と比較すれば、並みのプロでは相手にならない。
当然、二人が通り過ぎて行く度に男達はなぎ倒されていく。
その光景を、レン達は信じられない様な面持ちで見つめていた。

「ウチ、夢でも見てるんやろか……? だって、あの兼一さんやで。街の不良におびえてたあの人が……」
「…………う、うん。それに、相手は武器を持ってるんだよ。それを……」

極々一般的な感覚として、武器を持った人間と持たない人間、どちらが有利かと問われれば前者と答えるだろう。
それは当然だし、実際武器の有無は大きな要素だ。
フィアッセ達にしたところで、先日恭也がハーミットと戦った時に恭也の手に小太刀があれば、恭也が勝っていたと信じて疑っていない。
恭也自身はそう簡単な話ではないと考えているが、それが二人をはじめとした高町家全体の考えだ。
故に、兼一が多少強くても武器を持った相手を恭也と同じように薙ぎ払っていく様は信じがたい。
それが弱いと思い込んでいた相手となれば尚更だ。

とはいえ、目の前で繰り広げられている光景を信じられないのは二人だけではない。
むしろ、彼女は兼一だけでなく恭也の実力にも驚きを隠せずにいた。

「あの、私からすれば恭也君も十分すぎる位びっくりするほど強いんだけど、二人は驚かないのね……」
「「まあ、お師匠(恭也)ならあれくらいは……」」

恭也が強い事は知っていても、それを肌の感覚で知らないフィリスからすれば恭也の実力も十分驚愕に値する。
一度ならず彼の無茶な鍛錬に苦言を呈したりもしたが、その訓練の成果を目の当たりにすると声も出ない。
無茶をしなければ、常識を破らなければ、その先には到達できないと今まさに証明されているのだ。
同時に、フィアッセは恭也の雰囲気がいつもと違う事に気付く。

「それに、なんだか恭也…嬉しそう」
「え? 言われてみれば、お師匠、なんだか笑ってるようにも……」

フィアッセの言葉を聞き、レンは目を凝らしてなんとか恭也の表情を見ようとする。
暗くなってきて分かりにくいが、僅かに垣間見えた恭也の表情は、確かに彼女の言う通りの物。
それは、それなりに長い付き合いのレンでも初めて知る種類の笑みだった。

「なんとなく…わかります。
たぶん、嬉しいんですよ。恭也君にとって周りの人たちはみんな守る相手だけど、あの人、恭也君と肩を並べて戦えているんでしょう? きっと、それが嬉しいんだと思います」
「ウチも、なんとなくわかります。ものごっっっっっつう不本意やけど、晶のおサルが近くにおるのとおらんのとでは、なんちゅうか…………張り合いが違うんです」
「そう、だよね。恭也は、ずっと長い間、一人で頑張ってきたんだもん」

恭也には美由希がいたが、それはあくまで自分の後を追う存在だ。
先を行き導いてくれる存在を失って久しく、共に前へと進む相手もいない恭也。
彼はずっと、手さぐりに近い状態で一人体を鍛え、技を磨いてきたのだ。

しかし今、進む道は違えども自分と肩を並べて戦える相手がいる。
上から目線で心配などする必要はなく、ただ信じて背を預ければいい相手が。
その何と頼もしく、なんと張り合いのある事か。
それを今、恭也もまた噛みしめていた。

(事情はよくわからんが、狙われているのは俺の身内。
なら、兼一に頼りっきりになっていたら、御神の剣士の名が廃る!!)

うかうかしていれば、兼一が自分より先に敵を倒してしまう。
それでは「守る為の剣」を自負する御神の剣士として、立つ瀬がなさすぎるのだろう。
下らない意地かもしれないが、それでも恭也は「兼一に負けたくない」とごく自然に考えていた。
それは、彼が久しく忘れていた渇望にも似た欲求。
その欲求を自覚すると、数年来感じた事のない心地よい熱が身体を満たしていく。

(そうだ、これだ。まだ膝を壊す前、ただひたすらに上を見ていた時の感覚。
 とっくにそんな物はなくしたと思っていたが……)

そう思うと、自然恭也の顔に笑みが浮かぶ。
美由希の成長を感じた時に覚える充足感とは別種のそれに恭也は酔いしれる。
今日は特別膝の調子が良かったわけでもないのに、今なら容易く自分の限界を、殻を破れる気がした。

(ああ、もう終わってしまうのか……)

だからこそ、敵が目に見えて減っていくことを惜しむ。
もっと、もっと戦っていたかった。今なら、今ならば膝の故障の事など無視して、さらに上に行ける気がした。
故に惜しむ。いつしか諦めていた自身のこれ以上の飛躍の可能性に、胸が躍っていたからこそ。
錯覚かもしれないが、それでももう少しこの感覚に酔っていたかったのだ。



そうして、当然と言えば当然ながら敵はそう時間をかける事なく制圧された。
恭也が倒した敵は当然ながらいくらか刀傷が刻まれているが、命や身体機能的に問題はない。

兼一は手早く敵の服をはぎ、それで以てあっという間に彼らを拘束していく。
どうも、本来は戦闘中に行うものらしいが、今の兼一にはできない高度な技の様だ。
ちなみに、フィアッセ達は兼一が服をはぎ出した段階で顔を真っ赤にしてそっぽを向いている。

「さて、これでよしっと」
「警察には連絡しなくていいのか?」
「あ、大丈夫。知り合いの刑事さんに連絡が行ってるから」
「そんなコネがあるのか?」
「ああ、まあ、色々込み入った事情があって……」

この手の事件に普通の警察が絡んでくるとかえって面倒だ。
実際、梁山泊が絡んだ事件は警察内部において『Rファイル』として処理される。
今回もその例にもれないし、それを担当する人物に任せてしまったほうが都合は良いのだ。

「で、いつまでそんなお面をつけているんだ、兼一?」
「え? だれですか、兼一って。僕は正義の使徒、我流ホワイトだよ?」
「それはもういい!」

この期に及んでとぼけようとする兼一に、恭也の鋭いツッコミが入る。
本当はレンも突っ込むつもりだったようだが、機先を制されて振り上げた手は行き場をなくす。
仕方なく罰が悪そうに手を下げたレンは、とりあえず第一の疑問を口にした。

「せやけど、兼一さんってあんなに強かったんですね」
「うぅ、やっぱり驚く?」
「け、兼一、なんでそんないじけてるの!? す、すごかったよ、さっきの!
 兼一って全然そんな風に見えないのに、ホントにびっくりしちゃった!!」
「フィアッセ、そこまでにしてやれ。どう見ても逆効果だし、なんだか不憫になってくる」

恭也の言葉通り、フィアッセがフォローを入れようとすればするほど兼一の陰鬱な雰囲気が強くなる。
フィアッセとしてはほめているつもりなのだが、転じて「見た目は弱そう」ととることができるのだ。
そのあたりは見事なまでに兼一のコンプレックスの一つなので、フォローにはなりえない。

(まあ、鷹城先生のように『戦う気にさせない』と言うわけでもないからな、兼一の場合。
 あの人なら街の不良が相手でも迂闊に手だしできないだろうが、兼一はそういうタイプじゃない。
 むしろ、格好の獲物に見えるだろうな)

最早「擬態」と言ってもいいほどに、強さを表に出さないところは純粋に感嘆する恭也。
だが、それは決して戦いに巻き込まれないと言う事と直結しないのだから悲しい話だ。

「でも、この人たちは本当に何なんでしょう。
 どうして、私達を……狙われたと考えると、やっぱり目的はフィアッセかしら?」
「そですね、フィアッセさんはなんだかんだで超VIPやし……」
(確かにそれが一番有力だが、それだと兼一が隠そうとする理由が説明できない。
 言えないと言う事は、俺達が考えている事とは違うと言う事だ。だとすると、一体……)

恭也達の想像の範疇であれば、あまり隠す意味はない。
何しろ、それはすでに当事者たちも想定し覚悟している範囲だからだ。
それならいっそ話してしまって、なんらかの対策を講じさせた方がいい。

しかし、もしその想像の範囲を越えたものなら話が変わってくる。
知らない方がいい事、気付かないままの方がいい事は多くあるのだ。
何か言えばそれがとっかかりになってそれを知られ、気付かれてしまうかもしれない。
それを防ぐための黙秘、兼一の沈黙を恭也はそう解釈していた。

だが、あまり長く思索にふける事は許されない。
なぜなら、突如頭上から降ってきた何かが恭也達の目の前に落下してきた。

(ここまで近づかれるまで気付かなかった、何者だ!?)

恭也は即座に思考を再度戦闘状態にシフトするが、それでも後手だ。
落下してきた何かは、恭也が動くよりも早く兼一を壁に殴り飛ばしていた。

「「「「兼一(さん)!!」」」」
「ふん、所詮はこの程度か。やはり俺こそがふさわしいと言うのに、なぜ俺ではなくこいつなのだ!」

突如として現れたのは身長2mにもとどかんばかりの巨漢。
それは恭也達を無視し、兼一の方を睨み続ける。
どうやら先ほどまでの者達とは別の様だが、だからこそ恭也達には状況が理解できなかった。

「あなた、いきなりなにを!?」
「貴様らになど用はない。用があるのは、あの男だけだ」

抗議の声を上げるフィアッセに一瞥もくれない巨漢。
まるで路上の小石のように、彼らの存在を無視している。

そうしている間にも兼一が立ちあがった。
しかし、その身に受けたダメージはかなりのものの様で、息は荒く、脚は僅かにふらついている。

「あ、あなたはいったい何者だ! 僕に何の用がある!?」
「ほぉ、今の一撃を受けてまだ壊れないか。やるな、梁山泊の弟子よ」

それは言葉通り感嘆しているようであり、同時に弱者に対する憐れみが多分に込められていた。
まるで「弱いくせに良く頑張るな」と嘲るかのように。
だが恭也は、その会話の中に出てきたある単語に引っかかりを覚える。

(りょうざんぱく? 確か、いつかどこかで……)

そう、遠い昔にどこかでその名を聞いた事がある気がした。
どこかは思い出せない、いつだったかも思い出せない。当然、誰から聞いたかも思い出せない。
一つ言えるのは、その単語を言った人物の事を思い出そうとすると、ひどく懐かしい気持ちになる事だけ。
しかし、そんな感傷に耽っている時間はなかった。

「なに、簡単な話だ。梁山泊の豪傑達に、俺こそがその後を継ぐに相応しいと示す為だ」
「なん、だって?」
「今や、梁山泊こそ『最強』の代名詞。武術家として、最強を目指すのは自然なこと。
 俺もそうだ。俺は誰よりも強くなりたい、絶対的な力をこの手に納める事こそが我が悲願」

困惑する恭也達をよそに、二人の会話は続く。
巨漢はどこか陶酔するように、兼一は痛みを抑えながらもいぶかしむように。
恭也には二人の会話の内容は理解できないが、兼一には多少身に覚えがあった。

「俺は強くなりたかった。ただ強くなりたかった、力が欲しかった。
 その為にどんな事でもした。この身体を虐め抜き、数多の道場で様々な武を学び、時には道場破りもした。
 だが…………満たされない。俺が求めているのはこんなものではない、俺はこの程度で終わる男ではない!!」
『………………………………』

男の言葉に、恭也と兼一を始め、皆は黙って聞き入っていた。
あまりのその熱の入りように、口が挟めなかったというのもある。
だが、それとこれとの論理の比較の仕方が理解できなかったと言うのが一番の理由だ。

言わんとする事はわかるし、似た様な事は恭也もやったことがある。
しかし、それと兼一を突然攻撃することに何の関係があると言うのか。

「そんな時、『梁山泊』の噂を聞き………………………これだと思った。
 そここそが俺の求めていた物を手に入れられる場所だと!」

そこまで聞けば、事情も『梁山泊』の意味もわからない恭也にもある程度事情が分かった。
同時に、それを裏付けるようにその男の顔には憤怒の色が浮かぶ。
そこで、先ほどまで恭也と同じように黙って聞いていた兼一から、深い悲しみを宿した声がかかった。

「ダメ、だったんですね」
「そうだ! 幸運にも梁山泊の一人にめぐり合い、弟子入りを申し出た!
 だと言うのに、奴は俺に、誰よりも武を、力を求めるこの俺に『ふさわしくない』などとほざきおったのだ!!」

叫んだ瞬間、男の気当たりがさらに増した。
それは、男がどれだけその事に対し深く強い怒りを抱いているか如実に物語っている。

「俺は、奴の曇った目を晴らさねばならない!! 俺こそが、誰よりも『最強』の名にふさわしいのだと!
 その技を、力を、伝統を継ぐに相応しいのはこの俺なのだとな!!」
「『闇』では、ダメだったんですか?」
(闇だと!? たしか、それは……)

その名は知っていたのか、恭也の心がざわめく。
かつて父から聞いたその名、決してかかわってはならないと堅く戒められた存在だ。
かつて士郎は言った「その思想は理解できないでもない。だが、その為に何を犠牲にしても良いという考えには到底賛同できない」と。
どうやら男も闇には興味がないようで、兼一の言葉を一蹴する。
ただそれは、父士郎の考えとは似ても似つかないものだったが。

「フン! 敗者になど用はない。聞けば、闇の幹部どもはその大半が梁山泊に敗れたらしいではないか。
 何より、殺人拳を旨とする闇が、梁山泊を殺し尽くせていない時点で優劣は明らか。
 俺が求めるのは絶対的強者の技、ただそれだけなのだから!!」
(ある意味では………酷く純粋なんだな、この男は)

恭也は男の言葉を聞き、そう素直に思った。
男に善悪はない、殺人に対する忌避感や嫌悪感も、活人に対する誇りも。
あるのはただ、強さへの、力への絶対的渇望のみ。
それは武術家として、ある意味とても純粋な在り方と言えるだろう。

「その為に貴様を倒す! 貴様の様な虫けらなどではなく、この俺こそが『史上最強の弟子』にふさわしいと奴らに知らしめるためにな!!」
「……………………………………………分かりました。きっとあなたは、僕が逃げたとしてもどこまでも追ってくるのでしょう。なら受けて立ちます、梁山泊の名に賭けて!!」
「それでいい。逃げる貴様を倒しても意味がない」

ここにきて、男の気当たりがさらに増す。
それは最早、妙手の領域を逸脱したかのようですらある。
あるいは、本当にこの男は達人の域に届いているのかもしれない。
それだけの、凄まじい気当たりを男は放っていた。
そして、兼一は唐突に恭也に声をかけた。

「高町君」
「なんだ?」
「矢沢先生達を連れてここを離れて。これはうちの問題、君達には関係ない」

そう語る兼一の声は緊張で固く、同時に強く揺るがない意思を湛えていた。
予想だにしない事態に、さしもの恭也も上手く状況を飲み込めない。
兼一が武術をしているのは知っていた。その実力が自分と比較しても遜色ない事も今知った。
だが、こんな風に襲われるほど深く武の世界に浸っているとは思っていなかっただけに、その驚愕は計り知れないだろう。しかし、ここで恭也はその非凡さを示し、即座に冷静な思考を復帰させる。

「バカな。お前、アレに勝つ気でいるのか?」
「君なら知ってるでしょ? 強者が勝者とは限らないのが武の世界だよ」
「だが……」
「確かに、君がいてくれれば勝てるかもしれない。だけど、それじゃダメなんだ」
「……………………………武術家の誇りか?」

必死に平常心を取り戻し、冷静に状況を分析する恭也。
兼一の目的はこの場にいる誰かしらの守護、そして敵はそれとは無関係。
なら、兼一が戦う理由などそれくらいしか思いつかない。

「違う……とは言わない。でも、この人と戦えばきっと隙ができる。
 その間に、矢沢先生達が危険にさらされる事だけは防がなきゃいけない。
 この人は確かに僕の敵だけど、『僕たちの敵』じゃないんだ」

言わんとする事は恭也にもわかった。
この敵は、本来今兼一が戦うべき敵ではないが、避けられる敵でもない。
下手に恭也達が近くにいれば彼らも巻き込み、先ほどの連中の増援なり残党なりに隙を突かれるかもしれない。兼一が恐れているのはそれであり、それを防ぐために恭也の加勢を拒んでいるのだ。
僅かな逡巡を経て、やがて恭也は決断を下した。

「レン、フィリス先生を車に! フィアッセは車を出してくれ!!」
「「恭也(くん)!!」」
「お師匠!!」
「早く! 兼一の思いを無駄にしたくなければ、急げ!!」

三人とてバカではない。恭也の言葉の意味は分かっているし、兼一の思いも理解できている。
しかしそれでも、一人彼を残すことにためらいがあった。
それを感じ取ったのか、兼一は敵から目を逸らさないままに笑う。

「大丈夫ですよ、僕は打たれ強さとしぶとさには自信があるんですから」
「兼一さん、それ死亡フラグっぽいで……」
「う”…か、勘弁してよレンちゃん。僕、そう何度も死ぬ気なんてないんだからさ……」
(それだとまるで、何度か死んだ事があるように聞こえるんだけど……)

兼一の言葉に、思わず内心でそう思ってしまうフィリス。
まさか、それがそのものずばりだった事など彼女は知る由もない。

「兼一…………死ぬなよ」
「もちろんだよ。さあ、早く! ここは僕が引き受けた!!」

そのやり取りと共に、フィアッセの車が再度走りだす。
最後まで三人は心配そうに兼一を見ていたが、恭也とのやり取りで決意が固まったらしい。
その間、巨漢は兼一を睨みながらも動こうとはしなかった。
車がここを抜けるまで待つつもりなのか、それとももっと別の何かなのか。
それは兼一にはわからないが、そうしている間に兼一の背を何かが登っていく。

「闘忠丸、周りの様子は?」
「ぢゅ~」

兼一の小声の問いに、耳元までやってきた闘忠丸は首を振る。
気配だけではなく、闘忠丸にも周囲を確認してもらったが、とりあえず追っ手は今のところいないらしい。
それにはひとまず安堵するが、それがこの先の安全とは直結しない。

本来なら、さきほど闘忠丸が上げた狼煙代わりの花火に気付き、美羽が駆けつけていていい頃である。
にもかかわらず、一向に美羽が現れる様子はない。それが意味するところは、一つしかなかった。

(最悪のタイミングで現れた襲撃者、一向に現れない美羽さん。
 正直、あまりにもタイミングが良すぎる。これは………………はめられたかもしれない)

幾度となく裏社会に首を突っ込み、いくつもの修羅場をくぐってきた兼一の経験がそれを告げる。
そう、先ほどから違和感がぬぐえない。まるで、釈迦の掌の上の孫悟空の様な気分だ。
兼一の直感だが、何者かの手でこの状況は演出されている気がした。

秋雨の計算では、兼一達の手に負えない敵はまず現れないと言うが、それもやはり絶対ではない。
いくら秋雨の計算が怖いほどよく当たるとはいえ、過去に計算外の事態がなかったわけでもないのだ。
何より、この男自身は今回の件とは無縁。誰かに利用されている可能性はあるが、彼の存在自体は秋雨にとってもイレギュラーに違いない。

「闘忠丸、あの人たちを頼める?」
「ぢゅ!!」
「ありがとう。ちょっと危なっかしいけど……………いくよ!」

すでに恭也達の乗った車は曲がり角に差し掛かろうとしている。
ここを逃せば、闘忠丸を護衛に付けることは不可能。
如何にネズミ離れした能力を持つ闘忠丸とはいえ、サイズの問題でどれだけ早く動いても車には追い付けない。
故に、残されたチャンスは今しかないのだ。

とはいえ、下手に隙を見せれば目の前の男に殺されかねない。
そう兼一に覚悟させるだけの、気当たりと殺気を巨漢は放っている。
だからこそ、兼一は初手から捨て身の賭けに出た。

「梁山泊一番弟子、白浜兼一参る!!」
「潔し、と言いたいところだが………死に急ぐか、小僧!!」

兼一が間合いに入るより早く、巨漢の丸太の様な剛腕が兼一をアッパー気味に突きあげる。
まともに食らえばただでは済まないそれを、兼一は……………あえて受けた。

「むっ、貴様!」
「いまだ、行くぞ闘忠丸!!」
「ぢゅぢゅ!!」

見た目よりはだいぶ重いとはいえ、小柄であるが故に兼一のウェイトはたかが知れている。
男の剛腕から繰り出された突きは、兼一自身がそれに逆らわなかった事でその身を容易く天高く舞上げた。
しかし、それこそが兼一の狙い。
兼一の声を聞いた闘忠丸は、即座に彼の足の甲に飛び乗る。

「劣化! チャ――――――――――――――――――イ…シュ――――ト!!!」

兼一は渾身の力で闘忠丸の乗った足を振り抜く。
兼一の強靭な足腰よって放たれたその蹴りは、脚先に乗っていた闘忠丸を凄まじい速度で蹴り飛ばす。
裏ムエタイ界の死神と謳われたアパチャイの必殺技「チャイキック」。それを応用し、絶妙な力加減で対象を破壊するのではなく蹴り飛ばしたのだ。
結果、今まさに右折しようとしていたフィアッセの車のバンパーに闘忠丸がとりつく事に成功した。

(良し、これで後は闘忠丸がなんとかしてくれる。
 僕はただ、この相手に集中すればいい)

できれば振り切り、恭也達を追いたい。
だが、それを簡単に許してくれる相手ではない事は百も承知している。
とはいえ、別に無理に勝つ必要はない。
チャンスを待ち、その瞬間にこの場を離脱すればいい。
容易なことではないが、不可能な事でもないのだから。
そうして兼一が着地した時、巨漢はたった今兼一が何をしたのかを分析していた。

「なるほど、今のは『流水』か。俺の一撃にあえて逆らわず、その力に身を任せたな」
「いちち、気付いていましたか」
「評価を改めよう、まさかあそこまで己の身を捨てられるとは思いもしなかった。
だが、同時に愚かでもある。アレならば、俺の隙も突く事が出来ただろう。
にも関わらず、どうでもいい他人の為に俺に手のうちの一端を見せた事、後悔するがいい!!」
「どうでもいい他人なんて言うのはとんだ勘違いですよ。
あの人たちは、僕が守らなきゃいけない大切な人で、掛け替えのない友人。
彼らとの約束、必ず守って見せる!!」
「口では何とでもいえるわ!!」

その言葉と同時に、巨漢の豪風のごとき突きが兼一を襲う。
ギリギリまで引きつけて回避し、そのまま腕をとって「背負い投げ」に持っていこうとする。

「はぁ!!」
「甘いわ!」

しかし、相手は遥か格上。思うようにはさせてくれない。
兼一が腕をとってから投げに入るまでの僅かな隙。
その隙を逃さず、兼一の襟を取られて腕から引き剥がされてしまった。

「しまった!?」
「無敵超人め、なぜ俺ではなくこんな凡人を……まあいい、こいつを潰し、俺こそが資格を持つ者だと証明すればすむ事だ!!」
「う、うわぁっ!!」

引き剥がした勢いをそのままに、兼一はアスファルトの地面に向けて、頭から叩きつけられる。
通常ならば受け身などできず、戦闘不能になるほどに痛烈な一撃。
だがそれに、兼一は見事受け身をとって見せる。

「む、あの体勢から受け身がとれるのか……」
「確かに僕には才能がない。だが、やられる才能だけは誰にも負けない自負がある!!」
「なにぃ……?」
「やられ続けたと言う事は、身を守る術、防御にも長けると言う事!!
 どんな体勢からだろうと、必ず受け身をとって見せる!!」
「確かに、受け身のみなら俺を凌駕するやもしれん。だが、守ってばかりでは勝てんわ!!」

受け身からはね起きた兼一に追い打ちをかけるように、巨漢はさらに踏み込んでくる。
再び突きや蹴りなどの打撃が来ると踏んだ兼一だったが、その予想は裏切られた。
巨漢が繰り出した掌打は途中で指が開き、その小指が兼一の服に引っかかる。
そのまま凄まじい膂力で引っ張られ、兼一の体は再度宙を舞った。

「打撃は受け流され、投げは受け身を取られる。
 確かに大したものだ。だが、それならば受けられない攻撃をするまでの事!!」

空中では人間は身動きが取れない。できて僅かに身をよじる程度。
そして、これより繰り出される攻撃はその程度では回避できるような代物ではない。
男は再びその剛腕から突きを放ち、兼一は背から放たれるそれに防御が間に合わないと判断し、流れに逆らわぬよう身体から余計な力を抜く。
しかし、今回ばかりはそれは上手く行かなかった。

「むん!!」
「がはぁ!? か、壁を利用したのか……」

そう、巨漢が出した解は単純明快。
打撃が受け流され、投げは受け身を取られると言うのであれば、その両方を兼ねた攻撃をする。
打撃のように直接敵を攻撃し、投げのように固い地面や壁を利用する攻撃法。
それは、突きや蹴りを放つとともに、敵を壁や地面で押し潰すと言うものだった。

「これならば、如何なる受け身も意味がなく、挟み込まれてしまえば受け流し様がなかろう。
 このまま押しつぶしてくれる!!」
「さ、させるかぁ!!!」

幸い、正面から壁に叩きつけられたことで、兼一は壁に四肢を突く事が出来る。
秋雨秘伝の鍛え方で全身を瞬発力と持久力を兼ね備えた筋肉に改造されてきた兼一は、その膂力の全てを丁寧に練り上げ、一気に解放した。

「おおおおおおおおおおおお!!」
「なるほど、内功もよく練っていると見える。並みの者なら、今ので内臓が潰れていたろうに……。
 まさか凡人にここまでの仕込みを施すとは……師に恵まれたな小僧!!」
「ええ、確かにあの人たちは最高の師匠達だ。僕が今生きているのも、あの人たちが魂の髄まで武を叩きこんでくれたおかげ…………だからこそ、僕は負けるわけにはいかない!!
 弟子として、もう二度と、あの人たちの顔に泥を塗るわけにはいかないんだ!!!」

かつて、一度兼一は敵の手にかかって死んだ事がある。
その時に深く後悔した。敗れた事ではない、死んだ事にでもない。
無論それらを後悔しなかったわけではないが、何よりも後悔したのは別の事。

自身の敗北により、師達の名誉と各門派に泥を塗ってしまった。
その日まで丹念に、全身全霊をかけて自分を育てて来てくれた師達に、申し訳がなかったのだ。
敗北は、死は、今日まで鍛えてくれた師達への何よりの不義であるが故に。

そうして、兼一は渾身の力で巨漢の致死性の圧迫から逃れる。
だが、如何に徹底的に練り上げた外巧と内功を持つ兼一とは言え、やはり限度と言うものはあるのだ。
耐久力以上の攻撃を受ければ当然ダメージを受けるし、ダメージが蓄積すればいずれは限界を迎える。
巨漢の一撃一撃はとてつもなく重く、並みはずれた打たれ強さと防御の技術を持つ兼一ですら、並々ならぬダメージが蓄積していく。
如何に衝撃を受け流し、受け身を取ったところで、ダメージをゼロにはできていなかった。

「ま、まだまだぁ!!」

しかしそれでも、兼一は尚も前に出る。
速い相手には距離を詰めるのが定石であるように、格上を相手に待ちの姿勢でいてはジリ貧だ。
師の教えを忠実に守り、兼一は敢えて前に出る。
最も恐ろしい敵の懐こそが、唯一の安全地帯だから。

「これだけ痛めつけられてもなお前に出るか……だが!!」
(落ち着け。パワー、スピード、技術、その他もろもろ。
 ほぼ全てにおいてこの人は僕より上だ。だけど、そんな時こそ焦ってはいけない。
 心を落ち着け、前から来る濁流の如き攻撃を、なめらかな岩のように受け流すんだ)

直接的なダメージよりも、壁や地面に叩きつけることでのダメージを優先した猛攻。
それを兼一は、薄皮一枚まで絞り込んだ制空圏で回避していく。
百八つあると言われる無敵超人の秘技の一つ、静の極みの技『流水制空圏』。
しかし、この超人秘技を以てしても完全な回避は難しい。事実、完全に回避できた攻撃などほぼ皆無。
程度の差はあれ、巨漢の攻撃は兼一の体に小さな傷とダメージを刻みこんで行く。
だが、それでも……

(これでいい。一撃だけ回避する事は出来るけど、それじゃ後に続かない。
 クリーンヒットのみを回避し、ダメージを最低限にとどめる事に専念するんだ)

流水制空圏を会得して早数年。
幾度となくこの技に命をすくわれてきた兼一だが、同時にこの技の限界も知っている。
如何に優れた技とは言え、使う者が未熟ではどうにもならない。
彼我の力量に差があればある程、その効果が薄まってしまうのはいかんともしがたい事実なのだ。
実際、流水制空圏をまがりなりにも破った敵は少なくない。
ならせめて、一瞬だけ完全に技を成功させるより、ダメージを最小限にする方法を選択する。
幾度となく死線を越えてきたからこそ、兼一は生き残る為に優先すべき事を身体で知っていた。

「なるほど、これがうわさに聞く『流水制空圏』か。
 確かに、無敵超人の秘技にふさわしい技だ。だからこそ、俺はその技が欲しい。
 その技を得る為に、我が礎となれぃ小僧!!」

ついに巨漢の拳が兼一の身体を捉えた。
兼一の体はくの字に折れ曲がり、背後のコンクリートに強烈に叩きつけられる。
しかし、同時に巨漢の身体が僅かに揺らいだ。

「き、貴様……いま、何をした!!」
「へ、変形型『流水頭撃』。さしずめ、『流水爪撃』とでも呼びましょうか?」

『流水頭撃』とは本来、太極拳極意の一つ『捨己従人』を利用した兼一独自の技である。同時にこの技の真髄は、敵の力に逆らわず完全に身を任せた結果、体がくの字に折れ曲がり敵の脳天に頭突きを入れると言う点だ。
しかし、相手の攻撃の種類やリーチの差などによっては頭突きが入らないことがままある。
今回がまさにそうだ。兼一の頭は男の体には届かず、頭突きは空振りしてしまった。

だが、欠点が分かっているのなら改良すればいい。
頭部は確かに人体最重量の個所であり、非常に硬い有用な武器といえよう。

しかし、人間の武器はそれだけではないのだ。
身体がくの字に折れ曲がると言う事は、何も上にあるものが降りてくる事だけを意味するものではない。
当然、下にあるものも上へと振り子運動に近い動きをするだろう。
即ち、身体がくの字に折れ曲がった結果、敵の脇腹に爪先がめり込んだのである。

如何な達人でも、攻撃と防御を全く同時に行える者はいない。
攻撃している最中こそが、最大の隙なのだ。
攻撃した瞬間に無防備な腹に爪先蹴りを打ち込む、それがこの技。
兼一は巨漢の突きが届いた瞬間にこれを行い、吹き飛ばされる前に一矢報いたのだ。

「し、しかしこの技、まだ完全ではないな。完全に脱力していたが故に、蹴りに威力が乗っておらん!
 不意の一撃としては上々だが、決定打には到底及ばんわ!!」
(そうなんだよなぁ……頭と違って重力の力は借りられないし、技の性質上ほとんど足腰の力も練りこめない。
 どうやっても威力に乏しいから、牽制位にしか使えないんだよねぇ……)

折角の新技だったが、まだまだ改良の余地ありの様だ。
だが、それでも一矢報いた事は大きい。
相手の心にも、格下が確かに一撃入れた事で動揺を生んだだろう。
元より、兼一は格上とばかり戦ってきた武術家。
そう言った上位者との戦い方のコツを、誰よりも熟知している。

(とりあえず一撃入れたからよしとして、次はクリーンヒットだ。
 どうせ僕には才能なんてないんだから、コツコツ一つずつ積み上げて行くくらいがちょうどいい!)
「来ぬのか? 徹底してカウンターに絞るのもいいが、そううまくいくと思うな!!」
(ん? 待てよ、流水頭撃で思い出したけど、アレならいけるんじゃないか?
 あ、でも、長老じゃないんだからどうやったって数が足りないし……そこは別のやり方で代用して……)

先ほどの一撃などあまり意に介した様子も見せず、巨漢がさらに兼一に襲いかかる。
しかし、当の兼一はそんな事とは別の事に思考を裂いていた。
とはいえ、早々に思考がまとまったのか、兼一の顔に不敵な笑みが浮かぶ。
そして……

「ちぇりゃあ!!!
「ぐぅ! こ、これは!?」

兼一が放った貫手に、思わず巨漢は半歩身を退いた。
それだけにとどまらず、兼一はさらに怒涛の攻めに打って出る。

「ちぇちぇちぇちぇすと!!」
(どういうことだ、これは!? まるで、先ほどまでとは別人ではないか!!)

それは何も、突如攻めに転じた事だけを指しているわけではない。
真実、巨漢は目の前にいる兼一が別人に変わったような錯覚に陥っていた。
突きの威力も、蹴りの速度も変わらない。だが、何かが違う。
そう、例えるなら突然別のだれかが兼一の体に乗り移ったように。

しかし、格下相手にやられっぱなしになっているような相手でもない。
違和感はいまだぬぐえないが、徐々に今の兼一にも巨漢は慣れて来ていた。
そして、ついに巨漢が反撃に打って出ようとしたその時……兼一の膝が巨漢の機先を制する。

「アパァ!!!」
「ぬおっ!!」

機先を制されたたらを踏んだ巨漢。
それに対し、兼一は一気に懐に飛び込んで多彩なひじ打ちを放っていく。

「物理的に地獄に落ちるよ―――――!! あくまでも活人拳的に!!」
(まただ、また動きが読めん。技を変えただけではない……これは、まさか!!)

ここにきて、巨漢は兼一のやっている事を看破し驚愕する。
理屈はわかったが、本当にそんな事が出来るのか信じられなかったのだ。
だが、目の前で起き、自ら体験した事を否定などできる筈もない。

「貴様、まさか他人の動きのリズムを再現できるのか」
「アパ? ばれちゃったよ、結構いいアイディアだと思ったのによ」

そう、巨漢が考えた通り、兼一は単に技を変えただけではない。
兼一が変えたのは、動きのリズムそのもの。それも、相手がちょうど今の動きに慣れてきたタイミングで。
かつて、兼一はこれと似た様な技を使う敵と戦った事がある。
その技の名を『三頭竜六合陣』。三種の中国拳法の特徴的な動きを自在に組み替え、変幻自在の攻撃を繰り出す三位一体の技だ。ある程度優れた武術家なら、その動きをみるだけで身体が勝手にそれに対応する。
それを利用し、敵が対応した動きと全く別の動きで攻撃することで反射的防御を逆手に取るのだ。

兼一がやったのはその応用。
兼一は日頃の地獄の修業で師達のリズムの完全なトレースができる。口調や性格まで似てしまうのはご愛敬だが。
とにかく、それ単体であれば、兼一レベルにまで実力を落とした師達の劣化コピーに過ぎない。
しかし、一人で複数のリズムを再現できると言うその特技を活かし、疑似的に三頭竜六合陣に近い錯覚をさせる。
この先方の有用性は、かつて朝宮龍斗と戦った時に実証済み。
それを、三頭竜六合陣の理論を参考にし、より完成度を引き上げたのだ。

「面白い事をする。だが種がわかってしまえばどうという事はない」
「でしょうね、本来は三人で連携して相手を撹乱してこそ意味がある技が元ですから、一人じゃ限界があります。
(まあ、長老なら二重身法を使ってなんとかできちゃいそうだけど……)」

所詮はその場しのぎと諦めたのか、兼一はリズムのシフトをやめた。
元より自分のリズムではない為に、どうしてもぎこちなさがある。
種がバレてしまった以上、下手に続けてもぎこちなさの隙を突かれて逆効果なのだ。

「珍しい物を見せてもらった礼だ、最早手は抜かん!!」
(げっ、もしかして藪蛇だった? こっちはもう結構ギリギリなのにぃ!?)
「行くぞ!!」
「ああもう、なる様になれ!!」

小細工抜き、巨漢は受け流せるものならやってみろとばかりに一気呵成に兼一を攻め立てる。
ここまで来ると、最早兼一にも反撃の糸口がつかめない。
守りに徹さねば今にも押しつぶされそうなほどの猛攻だ。
守って守って、カメの様に閉じこもらねばろくに身を守る事すらままならないのだから。

持てる限りの全ての技術を費やすが、それですら気休めにしかならない。
回し受けはあまりの攻撃力にはじかれ、タンガードムエイも僅かに受けるダメージを軽減してくれるだけ。
化剄を以って受け流そうにも、逆にコロの原理で回転させた腕を持って行かれそうな錯覚を覚える。
柔術特有の膝さばきで動きを読まれないように工夫しているが、そんなことはお構いなしだ。

多少のミスには目をつぶり、とにかく攻めて攻めて攻め立てていく。
兼一にはその猛攻の全てを捌きず、いくつか捌いてもダメージを受ける。
それを理解し、兼一が潰れるまで責め続けるつもりなのだ。

(不味い、反撃に転ずるとまでは行かなくても、せめて一度この猛攻から逃れないと話にならない。
 でも、どうすれば……)

それができれば苦労はないのだが、生憎妙案が思い付かない。
そんな時、兼一の耳に火薬が破裂する音がわずかに届いた。
方角は高町家の方、その意味するところは……

(やっぱり、敵の策のうちだったのか。花火を飛ばしたって事は、状況はかなり悪い)

アレは、闘忠丸が救援を呼ぶべく打ち上げた花火。
つまり、それだけ状況は切羽詰まっているのだ。
故に、兼一は仕方なく物は試しと説得を試みる。

「待ってください、あなたは利用……」
「利用されていると言うのだろう? そんな事は先刻承知している」
「え?」
「だが、だからどうした? 利用されているか否かなど俺には関係ない。
 俺はただ、梁山泊の豪傑達に俺の力を認めさせるだけよ!!」
(しまった、見誤った。利用されていると知れば退くかと思ったけど、考えが甘すぎたか……)

兼一が思索を巡らすうちも、巨漢の猛攻は止まらない。
兼一自身、最早考えを巡らす余裕自体がなくなりつつあるのだ。

「そ、それなら、師匠達がいる前でやればよかったんじゃないですか!?」
「いざとなれば、お前の師達が邪魔立てするやもしれん。そうなれば、俺には抗いようもない。
 それだけの力の差があり、だからこそ俺はその力と技を学びたいのだ!」
「…………」
「何より、それでは意味がないのだ! 貴様に対し、絶対にして完全なる勝利を納めてこそ資格の証明となる!
その為にはお前が弱過ぎても意味がないが、今ならちょうどいい頃合いだ。
この一戦を以って、俺は俺の価値を世に知らしめる!!」

兼一は理解した。どんな言葉を、百万言費やしたところで男は止まらないと。
今日まで巨漢は待ち続け、もうこれ以上は待てないのだ。
しかし、かえってそれが彼に覚悟を決めさせた。

(もう時間がない。機を測っていたんじゃ、それこそ機を逸してしまう。
 なら、多少無茶でもやるしかない!!)

それは、いっそ無謀といえたかもしれない。
だがそれでも、兼一にはそうするしか選択肢がなかった。
兼一は両腕で最低限の急所を守り、できる限り体を小さくまとめて敵の制空圏深くに突っ込んで行く。
懐に入っての渾身の一撃、それしかないと判断したのだ。

「良い覚悟だ、ならば俺もそれに応じよう!!」
(ぐぅぅ……もってくれよ、僕の体!!)

兼一の意気に巨漢の士気がさらに上昇する。
まるで鉄砲水の様に叩きつける拳打を必死に耐え、兼一は敵の懐ににじり寄っていく。
巨漢の拳はだんだんと兼一の守りを抜いて彼を襲う。
額を、脇腹を、太ももを、肩を、様々な個所に痛みが走るが兼一はそれらを無視してなお進む。

そうして、彼はついに辿り着いた。
ほぼゼロ距離に近いそこ。さしもの巨漢も、ここまで踏み込まれては有効な攻撃の種類は多くない。
一度距離を開こう巨漢が飛ぶより早く、兼一は腕を小さく前ならえの形にし、渾身の力を振り絞った。

「む………………無拍子!!!!」
「ぬおお!?」

空手、中国拳法、ムエタイ、それぞれの突きの要訣を混ぜ、柔術の体捌きで放つ兼一の必殺技『無拍子』。
幾多の敵を打ち砕いてきた必勝の突きが、ついに男に突き刺さった。
いかに格上の巨漢とはいえ、この突きをまともに食らえばただでは済むまい。

しかし、今回はあまりにも間が悪かった。
そう、巨漢は今まさに『後方に飛ぼう』としていたのだ。
その結果、巨漢の進路と無拍子の衝撃の方向は重なり、彼の身体を大きく後方に飛ばす。
だが見た目に反し、思っていたほどの手応えがない事に兼一は気付いていた。
結果論だが、巨漢は飛び退く準備をしていたことで無拍子を受け流すことに成功したのだ。

「あ、危ないところだった。今の突き、まともに食らえば俺でも深手を負っただろう。
 しかし、天運もまた実力の内だ」
「ハァハァ……く、う、腕が……」

最後の力を振り絞った一撃で、兼一の右腕は死んだ。
しばらくは持ち上げることすらできまい。

「しかし、驚異的な打たれ強さだな。俺の攻撃をアレだけ受けてなお動けるか、貴様の体は何でできているんだ?
 まあいい、これで貴様はもう手詰まりだろう。安心しろ、『最強』の称号は俺がもらってやる」

兼一は別に『最強』の称号になど興味はない。
確かに彼の望む強さは『史上最強クラス』にでもならねば届かないだろう。
しかし、実際問題として『最強』の称号など惜しくもなければ、くれてやって一向に構わなかった。

ただ、悔しかった。師達は信頼して自分に今回の役目を任せてくれた。
なのに、それを果たす事が出来ず、それどころかそれとは到底関係ないところで倒れようとする現実が悔しくてたまらない。せめて、せめてこの障害だけでも打ち破りたいのだが、彼にはその力すら残っていない。

「く、くくく、良い顔だ。そうだ、その顔が見たかったのだ。
 これだから戦いは、強くなる事はやめられん。敗北した者達のその表情こそが、何よりの勲章なのだからな」
「あ、あなたは……!!」

確かに、この男の武術への姿勢は純粋なのかもしれない。
これほどの技量があれば、後は独自の道を進むこともできよう。
それでもより強く、より優れた使い手に学ぼうとするその姿勢は、人によっては他力本願ともとれるだろうし、見方によっては真摯的と言えるかもしれない。

だが、決定的にその向かう先が歪んでいる。
この時、兼一はなぜこの男が梁山泊の弟子となれなかったかを理解した。
同時に、男に対する反感が、痛めつけられた身体に力がよみがえらせる。

「……………………………だから、ですよ」
「なに?」
「あなたの武術への姿勢は誰よりも純粋かもしれない。
でも、あなたの拳の向かう先は絶対に間違っている。武とは、理不尽な暴力にあらがう為の物。
その原点を忘れたあなただから、長老は弟子にしなかったんだ!!」
「ふん! それがなんだ? 武とは力だ、それをどう使おうと俺の自由。
なにより、武の行きつく先は如何に敵を効率よく破壊するかだ!」

兼一と巨漢の男、どちらの主張も間違ってはいない。
武の原点は自衛にあり、武の最果ては効率的な破壊にある。
重要なのは、どちらに重きを置くか。
そして、どちらに重きを置いたかによって活人拳と殺人拳のどちらになるか決まる。

「そう、武とは勝者が全ての世界、弱者の戯言になど聞く耳持たんわ!!」

そうして、巨漢は兼一にとどめを刺すべく拳を放った。
だが兼一は、座ったままの姿勢で左腕を使ってそれをいなす。

「ぬかったわ! 貴様、まだこれだけの力を!!」
「いっっっっっっけぇ!!!」

兼一はいなした腕の勢いを利用し、相手の力の流れを誘導する。
足は地を離れ、男の視界では天と地が入れ替わった。
このままいけば、敵をアスファルトの地面に叩きつける事が出来ただろう。
しかし、肉体に蓄積したダメージが兼一の動きを僅かに鈍らせる。

(くっ…か、身体が……!!)
「詰めを誤ったな、終わりだ!!」

巨漢は辛うじて体勢を立て直し、兼一に向けて痛烈な突きをはなとうとする。
だが、その拳が放たれる事はなかった。
なぜなら、突如横合いから飛んできた物体の迎撃に使われたからだ。

「かぁっ! これは………自転車? 俺の邪魔をするとは、何者だ!!」
「ふん、ずいぶんと悪趣味な野郎と戦ってやがるじゃねぇか。
 しかしてめぇ、まさか忘れたんじゃねぇだろうな。
お前を殺すのは俺なんだ、勝手に負けかかってんじゃねぇよ!!」

巨漢を無視し、暗がりから姿を現した男は兼一を怒鳴りつける。
それは、兼一にとってとてもよく知る友の声。
その不器用な優しさに、兼一の顔には思わず笑みが浮かんでいた。

「はは、どうしたのさ、こんなところで?」
「けっ、てめぇには関係ねぇよ」

こんな絶妙なタイミングで現れておいて、関係ない筈がある物か。
理由はわからない、どうしてここにいるのかもわからない、なぜ兼一の状況彼が知っているのわかる筈もない。
だが、一つだけ確かな事がある。
今まさに、何よりも心強い援軍が来てくれたのだ。

「何者だと問うている! 名乗らんか!!」
「てめぇごときに名乗るほど安い名じゃねぇが、良いだろう。
 ハーミット、拳豪鬼神『馬槍月』の……一番弟子だ!!」






あとがき

はい、とらハ版移行後最初の更新ですね。
今回は、前半ギャグの後半シリアスでやってみました。
そして、いつもいいところで現れるシスコンイケメンさん登場です。
ちょっとだけ、あんまりこの人を多用し過ぎるのもどうかなぁと思わないでもないんですけど……。

とりあえずですね、今回兼一が戦っている巨漢はほぼマスタークラスと言っていい実力者です。
ただ、兼一が梁山泊に入るより少し前に長老に弟子入り志願したのですが、物の見事に拒絶されてしまった御仁でもあります。
ほぼ独力でも達人になれる逸材なのですが、性格的には割と歪んでるので、それが原因ですね。
以来、梁山泊を恨んでいて兼一を倒して自分の優位性を示したがっていたと言うわけです。
ただ、梁山泊師匠連との力の差くらいは理解しているので、時と場合くらいは選びます。
あと、あんまり早いうちに倒してしまうとそれはそれで意味がないので、この時期まで待っていました。
それが今回、黒幕(?)的な人が流した情報に誘われて姿を現したとでも思っておいてください。

さて、なんで美羽が一向に出て来ないのか、恭也達の方で何があったのか、なんでなっつんが都合よくいるのかは、次回以降ですね。多分なっつんがいる理由くらいはやれると思いますけど……他はどうだろう?
目算ですが、多分これからのバトルパートで最低でも二話くらい使う予定なので、その間に。

P.S

いただいた感想を読み、少々思うところがあり加筆修正しました。
別に大筋が変わったわけでもないですけどね。



[24054] BATTLE 8「二人の絶招」
Name: やみなべ◆d3754cce ID:1963cf14
Date: 2011/01/14 00:11

夕方の海鳴駅。
仕事帰りの会社員や下校途中の学生たちで込み合う時間帯だ。
地方都市ではあるが海鳴駅もその例にもれず、夕焼けを背に様々年代の男女でごった返している。

そのロータリーに、一台の漆黒のイタリア製スポーツカー(車種は敢えて表記しない)が停車した。
通りがかる人々は物珍しそうにそれを眺めている。
無理もあるまい。スポーツカー自体はそう珍しくもないが、素人目に見てもかなりの高級品であることが伺える。
そんな物が地方都市の駅のロータリーの路肩に止まっていれば、思わず一瞥くれてしまうと言うものだ。

そして、その運転席から一人の青年が降りてきた。
長身と金髪のその青年は、サングラス越しでもその端正な顔立ちが見て取れる。
美青年、と言って差し支えないだろう。
道行く人々も、即座に車から青年に視線を向けた。それだけ、その青年は目立つのである。

だが、比較的年配の人達や子どもは単に驚きや好奇の視線を向けているだけだが、若者たちは若干異なっていた。
男性であれば嫉妬……とまではいかないにしろ、「気障ったらしい」などの反感を持つ者も少なくない。まあ、所詮は単なるひがみでしかない。
女性の場合になると、当然と言えば当然なのだろうが、「アイドルかモデルかな?」や「声かけてみようよ」などとこそこそと話し合っている。ただ、それがより一層男性の視線に険が増す原因でもあったりするのだが……。

そこで青年、谷本夏は車に背を預けサングラスを取った。
サングラスを取ったことでその整った顔立ちは白日の下にさらされ、女性陣からは小さな歓声が上がり、男性陣からは妬みと怨嗟の呟きが漏れている。
しかし、夏本人は一向に気にした素振りも見せない。
彼からすると、周囲からのこう言った反応は慣れたものなのだろう。
実際、高校時代から「王子」などという小っ恥ずかしい呼び名を賜り、ファンクラブの様なものまで作られていた彼だ。周囲からそうして持て囃されるのは最早日常と化している。

いや、嫌味抜きでそうなのだ。
なにしろ、大学に入ってもそれは変わらず、彼はいつでも注目の的なのだから。

ただし、それはあくまで彼の本性を知らないからこそ。
一見すると優しげな好青年なのだが、その本質は大きく異なるのだ。
だが、彼は自身の本性をまず他人に見せる事はなく、常に優等生の仮面をかぶって生活している。

そのため、彼の本来の性格を知る者は非常に少ない。
特に、彼を持て囃し憧れる者の中で彼の本質を知る者は“一人”もいないと言っても過言ではなかろう。

そこで彼は夕日に目を細めながら一つため息をつく。
憂いを含んだ表情とその情景は実に絵になり、周囲からの好悪両面の反応が大きくなる。
とはいえ、彼が小さく洩らした忌々しそうな声は誰にも聞こえてはいないが。

「あのクソガキ、オセロに勝ったからって体よく使いやがって……人をいったいなんだと思ってやがる!
 俺はパシリでもなければアイツの足でもねぇんだぞ!!」

外見は憂いの表情を浮かべる好青年のままなのに、口からこぼれる内容は少々口汚い。
もしこの内容を憧憬の眼差しを向ける女性たちが聞けば、一瞬にして彼女達の幻想が木っ端微塵に崩壊するだろう事は請け合いだ。
別段夏は他人からの評価の類を気にする性格でもないので、聞かれても改めようとはすまい。
ただ、同時に人前では徹底的に仮面を被る性分なので、絶対に今の呟きを聞かれはしないだろうが。

そこで夏は思い返す。
ほんの一時間少々前にかかってきた一本の電話を。

「あ、なっちー? あなたの一日ご主人様、超絶美少女ほのかちゃんだじょ♪」
「一度…………いや、いっそミラーハウスに住んで出てくるな、ちんちくりん」
「はぅ!? だ、第一声から言ってはいけない事を言ってしまうとは、このジャニーズ系はホントにデリカシーがないじょ……。
 ほのかの薄氷のように儚く脆い乙女心は、今まさに木っ端微塵に粉砕されたもん! 責任をとって、傷心のほのかを慰める…具体的には週七日の奉仕活動をする義務がなっちーに発生したじょ!!」
「薄氷? 永久氷壁か原子炉の壁の間違いだろ?
 てめぇら兄妹の図太さと厚顔さは常軌を逸してるからな、デリカシーの無さは敵わねぇよ」

まあ、実際問題として兼一もほのかも微妙にデリカシーに欠ける部分はある。
外見に反して非常に図々しいところがあるし、空気を読めないことも多い。
何より、兼一は天性の『他人の逆鱗に触れる』達人だ。
過去、不用意な発言で相手の心の中心を直接攻撃して激昂させたこと数知れず。
これでは、あまり反論はできない。

「で、なんの用だ。賭けは賭け、負けは負けだ。一つだけ言う事を聞いてやってもいいぞ」
「相変わらずの超上から目線だじょ、ほのかはあなたの友達関係が心配になります。大学の友達とかいるの?」
「余計な御世話だ、てめぇには欠片も関係ねぇよ」
「やっぱり友達はいないみたいだじょ~、予想通りだけど。
その上、なっちーはしょっちゅう行方不明になるからねぇ~、もしかして師匠に似た?」

夏の声音は割とどころかかなり刺々しいのだが、ほのかは気にした素振りを欠片も見せない。
どうも、この程度の不機嫌オーラは日常茶飯事の様だ。

「なわけあるか。あの不良師匠がどっかほっつき歩いてるから仕方なく探してるだけだ」
「そうやって技だけじゃなくて放浪癖や性格も受け継がれてくんだねぇ~」
「……………………………」

割とありそうな未来予想図なのか、夏は思わず閉口してだんまりを決め込む。
あるいは、最近師匠を探して全国どころか世界中を探し回るのも楽しくなってきているのかもしれない。
これでは、確かに危機感を覚えるのも無理はなかろう。

「……しかし、馬家の連中は変人しかいねぇのか?」
「おっちゃんはスケベだもんねぇ……」
「その娘はネコだしな。弟子も師匠に似て………………………やめるぞ、考えると鬱になる」

どうやら、『弟子が師匠に似る』実例に心当たりがあるようで、思考を遮断する夏。
また、思い返せば彼の師の親類縁者には変人が多い。
彼の友人にも割と多いのだが、その辺は丁重に無視しているようだ。

「あ、それでね、今日はみゆきちのお家で御夕飯を御馳走になることになったんだけど……」
「有り難いな、おかげで料理にかける手間が省ける」

最近は、ほのかも無駄に舌が肥えてきているので注文もうるさい。
具体的には、下手に調理の手を抜くと感づかれるし、食材をけちると文句を言われるのだ。
おかげで谷本家の食費は男の一人暮らしとは思えないほどにかさみ、夏のかける手間も並みではなくなっている。
夏一人であれば、それこそ必要最低限の支出と手間で済ませてしまうところなのだが……。

故に、ほのかの話を聞いて夏は少し機嫌良さそうにしている。
そこで何かに感づいたのか、ほのかは声を大にして問い質す。

「ああ! もしや、適当に済ませようとしてるな!? ダメだじょ、ちゃんと栄養のある物食べないと!」
「アホか、武術家が食生活を蔑ろにするわけねぇだろうが」
「ならいいけど、なっちー昔はコンビニ弁当で済ませてたし……」
(心底心配そうな声しやがって……だからこいつらはやりづれぇんだよな)

ちょっとしょんぼりした様子のほのかの声に、小さくため息をつき後頭部をかく夏。
幼少期、彼の周りには妹以外にはいなかったタイプの人間だ。
養父も僅かな時間を除けば冷徹・冷血な人間だったし、その死後彼の周りに寄って来たのはクズばかり。

だからこそ、一切の打算や下心なしで向けられる好意に夏は今でも困惑する。
いったい、それをどう受け止めればいいのか、それに何をどう返せばいいのか、そもそもそれを受け止めてもいいのか分からないが故に。
いや、分からないという表現は正しくないのかもしれない。正確には、『怖い』と表現すべきか。
かつてと同じ喪失を恐れるからこそ……。

とはいえ、そんな事お構いなしに好意を向けてくるのが、この兄妹やその周辺人物の特徴でもある。
そのため、何を言っても彼らが態度を変える事もない。
そんなわけで、その辺はもうあきらめの境地に達してしまった感が夏にはある。
だからだろうか? 電話越しに伝わってくる心配そうな雰囲気に、仕方なさそうに夏はこう告げた。

「…………………俺も人間だ、不味いもんを好き好んで食う趣味はねぇ。どうせ食うならうまい方がいいからな」
「♪」

その言葉を聞いた瞬間、見えない筈のほのかの顔がパッと綻んだ瞬間を夏は幻視した。
それほどまでに、電話越しに伝わる雰囲気が明るくなったのだ。
良くも悪くも、一切の裏表なく感情を表現できるのがほのかの特徴である。

「それで、用件はなんだ。無駄話なら切るぞ」
「た、短気は損気だじょ、おでぇーかんさま~。
 いや、ほら、御夕飯を御馳走になって帰ると遅くなるじょ? だから、お迎えに来てほしいなぁ~って」
「つまり足か…………仕方がねぇ、負けたのは事実だ。で、いつ行けばいい」

武人としての矜持なのか、それとも単に義理堅いだけなのか。
勝負事には基本真摯な夏なので、文句はぐっと飲み込んで言う事を聞く事にしたらしい。
まあ、飲み込んだと言っても本人に言わないだけで、愚痴るぐらいは後でするわけだが……。

「ん~、いつって言うより………………………今」
「今だぁ!?」
「いや、みゆきちの家には和と中華の鉄人がいるらしいんだけどさぁ、折角だから洋の鉄人…そう! なっちーもいた方が面白いかなぁって。だから、今からこっちに来て料理対決をするじょ!!」
「命令かよ……」

あまりにも唐突、かつ理不尽極まりない要求に頭を抱える夏。
ほのかの要求が割と理不尽なのは今にはじまった事ではないが、年々エスカレートしている気がする。

「ちなみに、なっちーの話したら『是非紹介して』みたいなノリになったじょ」
「……………………………どういう説明をした?」
「ん? お兄ちゃんの親友で、ほのかの…………………………」
(確実に、碌でもない紹介の仕方をしやがったな……)

いい加減それなりに長いの付き合いなので、夏はそう判断を下した。
ほのか自身に自覚はないかもしれないが、他人からすればそう判断されるような内容を口走ったに違いない。
実際問題として、夏はほのかに家に入れて手料理をふるまい、一緒に植物園や買い物に出かけたこと数知れず。
ほとんどがオセロの結果としての要求だったが、単純に事実だけを並べるとそうと取られても不思議はない。

「……だめ?」
(くっ、つくづく性質が悪ぃ……基本、このバカに狙って演技するなんて高度な真似ができる筈もねぇが、だからこそ始末が悪いんだよ……)

そう、基本的にほのかには邪気や悪意がない。
良くも悪くも子どもで、遠慮がなくとてつもなく図々しい性格をしているが、同時に純真無垢で天真爛漫なのが彼女だ。

だからこそ、こうして僅かに不安そうで悲しそうな声を出されると夏は弱い。
そこに裏がないからこそ、最終的に折れるのはいつでも夏なのだ。

「……………俺も武人だ、敗者は大人しく勝者に従う」
「武人全然関係ないじょ~…でも、いいや。じゃ、また後でね!」

渋々夏がそう答えると、ほのかは一転して喜色満面の声音で電話を切る。
これだけの変わり身で裏がないのだから、ある意味稀有な精神的資質の持ち主だ。

そうして夏は回想を終え、現実に引き戻される。
要求通り即座に準備を始め、大急ぎで車に飛び乗ってここまで来た。
助手席には必要な道具と調味料が放りこまれている。
あとは、道の分からない(事になっている)夏を、ほのかが友人たちと共に駅まで迎えに来る手筈に成っていた。

「しかし、高町の連中と会うとなると少し気を使うべきか……。ま、そう簡単にばれねぇ自信はあるがな」

そう、先日夏は恭也にケンカを売っている。
下手にばれると色々面倒だし、本来ならできる限り接触は避けるべきだろう。

ただ、夏の仮面の完成度は並みではない。
それこそ、“あの”新島さえもだまくらかし、美羽にも武術家である事を気付かせなかったほどである。
仮に恭也達と正面から顔を突き合わせても、よほどのことがない限りばれない自信があった。
だからこそ、危険があると知りつつここまで足を運んだのである。

しかし、ここで夏の研ぎ澄まされた五感が異変を察知した。
それに気付いたのは音か? それとも、幾度も死線を越えた者が持つ特有の勘か?
とにかく、夏は弾かれたように空のある一点に視線を送る。

「っ! あれは、確か……」
「ん? ありゃあ梁山泊のネズミが良く使う狼煙じゃねぇか」
「ああ……………………………………………って、なんでてめぇがここにいる!?」

思わず、自分が今どこにいるかも忘れて夏は怒鳴る。
無理もない。この男が気配を感じさせずに接近するのは今にはじまった事ではないが、それでも唐突に現れれば驚く。
ましてやそれが、こんな彼らの活動範囲から明らかに逸脱したところともなれば尚更だ。

「なんでって、そりゃあおめぇ…………トランクの中に潜んでたから?」
「どこのビックリ人間だ…って人間じゃなかったな、てめぇは」

この男、新島に常識が通用しないのは嫌というほど知っている夏だったが、この時ほどそれを実感した事はそうない。
トランクにも荷物が詰まっているし、その一体どこにこの男は潜んでいたのやら。
いや、そもそもどうしてこの男はそんなところに入っていたのだろう。

「俺がこっち来ると決まったのは車を出す数分前だ。一体いつ……」
「え? 盗聴」
「あ、頭が………頭がおかしくなる」

悪びれもせず言ってのける新島に、ついに夏は頭を抱えて悶え出した。
盗聴対策などはかなり念入りになされている筈なのに、それでもなおそれを成し遂げて見せる新島。
最早、この男は夏の理解の範疇を超えた生物になろうとしている。
まあ、元から色々と理解の範疇を超えていた気もするが……。

「実はよ、兼一の奴がこっちで裏社会科見学中でな。様子を見に行こうとしてたら都合よくおめぇの車がよ」
「……………色々突っ込みたいところはあるが、今はいい。で、それが何だってんだ、いつものことだろ」
「まあな、それはそうなんだが…………ちょいと問題があってよ。どうも、厄介な奴が関わってるらしい」

それまでのふざけた態度はなりを潜め、新島は神妙な顔つきで告げる、その人物の名を。
それを聞き、夏の顔にも緊張の色が滲む。
その名は、彼をしてそれだけの警戒心を抱かせるに足る。

「……………………奴か。そういや、しばらく前に噂になってやがったな」
「ああ」
「だが、 ナガラジャの時じゃねぇんだ、それこそ俺らが出る幕じゃねぇ。
白浜の野郎も、奴からの挑戦を拒みはしねぇ筈だ…いや、できないと言うべきか」
「確かにな。だが、考えても見ろ。こういう時、奴は無理に兼一と戦うと思うか?」

そう言われ、夏はその人物の事を思い返す。
間もなく結論は出たのか、夏は大きくため息をついた。

「そういう事か、奴なら…………私情より任務の達成を優先するな」
「だろ? で、今打ち上げられた狼煙、状況はまずそうだぜ」

何が起こっているかは分からない。
しかし、その人物なら確実に任務を達成できるであろう策を講じている筈だ。
夏も新島も、その一点に関しては疑っていない。
それはつまり、兼一か美羽のどちらか、あるいは双方の身に危険が迫っている事を意味する。

夏はそのまま狼煙の上がった方向の空を睨む。
余人には何を考えているのかわからないが、新島はそれを正確に看破していた。
故に、詳しく彼の意見を求めようともしない。

「で、自転車とバイク、どっちにする?」
「は? てめぇ何を言って…………どうした、その二台」
「ケケケ! 違法駐輪してんだ、盗られても文句はねぇよな?」

如何なる早業か、新島はいつの間にか自転車とバイクのカギを一台ずつ外していたのだ。
さすがにそれにあいた口のふさがらない夏。
悪びれもせずそんな事をするのもそうだが、その早業は圧巻の一言だ。

とはいえ、今更追及しても仕方ないし、夏としても有り難い。正直、車は彼にとって不便ですらある。
今回は単に、後でほのかを送る為に乗ってきただけなのだから。

「フン! まあ、ちょうどよくはある。
 これなら、あのバカが殺されるところを拝めそうだ」
(本当は兼一達の事が心配でいてもたってもいられなくなったって言えばいいのによぉ……)
「何か思ったか?」
「いんやぁ、べ~つにぃ……」

何かに感づいた夏だったが、新島は空々しく口笛など吹いている。
どうせ追及しても照れて否定するだけなのを知っているだけに、新島も下手に刺激しようとはしない。
いや、ホントはからかいたくてたまらないのだが、今はそれどころではないので後回しにしたらしい。
つまり、後でちゃんとからかう気満々だったりする。

「居場所はわかるのか?」
「発信器を付けといたんだが、生意気に外してやがる」

その言葉を聞き、大急ぎで自分の服をチェックする夏。
少しすると、襟の裏やボタンに偽装した発信器をいくつか発見した。
『いつの間に』と改めてこの宇宙人の底知れなさに戦慄する。
ちなみに、兼一達の分を外したのは闘忠丸だ。

「つーわけで、手掛かりは今の狼煙だけだ」
「よこせ、ついてくるなら勝手について来い」
「っと、待てって……行っちまった。自転車で法定速度破るなよな……」

そう言いつつ新島はガメたバイクに跨り、走り去ろうとする夏の後を追う。
夏の脚力を以ってすれば、自転車で法定速度を超える事くらいわけはない。
小回りの良さなどを考えると、車やバイクなどよりこちらの方が都合がいいくらいなのだ。

そうして、あっという間に置いてきぼりにされつつも狼煙の上がった方向へ向かう新島。
だが、夏に追いつくわけでもなく、ましてや兼一や美羽を見つけたわけでもないにもかかわらず、彼は唐突にバイクを止めた。
それは、ある一台の車と擦れ違ったからだ。

「今のに乗ってたのは………………………追うか」

そう結論し、新島は進路を変更してすれ違った車の後を追う。
それはひとえに、その車に乗っていたメンツが原因だった。

(兼一達の方も気になるが…………あっちは谷本に任せていいだろ。
 むしろ、今はこっちの方が気がかりだな……将来の手駒に何かあったら困るしよ)



BATTLE 8「二人の絶招」



「拳豪鬼神? ふん、知っているぞ、『あらゆる中国拳法の達人』馬剣星に敗れたあの男の弟子か。
 敗者…即ち弱者の弟子に用はない、早々に失せろ。俺が求めるのは最強の技を伝えられる師だけだ」
「なんだと?」

巨漢の言に、夏の眉が角度をあげた。
事実、馬槍月は弟の馬剣星に一度敗れている。
しかし、それで己が師を「弱者」呼ばわりされて黙っているような性格ではない。

「聞こえなかったのか? 弱い師になど興味はないと言ったのだ」
「言いやがったな……おもしれぇ、名乗れよ、ぶち殺すまでの間その名を覚えておいてやる」
「名乗る名などない」
「「?」」

巨漢の言葉に兼一と夏の顔に疑問符が浮かぶ。
本来、武術家というのは己の流派と名に誇りを持ち、必ずと言っていいほど名乗りを上げる。
しかし思い返してみると、兼一も先ほどからこの男の名を一度も聞いていないことに気付いた。
それは、武術家としての誇りを持っていないことを意味するのではなかろうか。

「俺には未だ流派はない。そもそも、これは流派を得る為の戦いなのだからな」
「で、ですが、あなたは『数多の道場で武を学んだ』と言いませんでしたか!」
「然り。しかし、俺に武を教えられる者はいなかった。教えられずとも盗めたからな、教わる必要はなかった。
分かるか? 俺は教わったのではない、常に学び続けてきたのだ!」
「天才……………いや、神童か」

神童とは、幸か不幸か教わらずして光を得た者の事を指す。
誰にも教わることなく技を盗めるのだとしたら、それは確かに“神童”と呼べる才の持ち主だろう。
だが、巨漢は興味なさそうにため息をつく。

「呼び方など何でもよい。神童だろうが天才だろうが、俺が俺であることに変わりはないのだからな」
「でも、だとしたら余計に分からない。
 それだけの才を持つあなたなら、今更師につく必要もないのではないですか!」
「フン、人生がそう上手くいくわけがなかろう。所詮は独学、限界が来るのは必然だった。
 ある時、俺は壁にぶつかった。厄介だったのは、俺にはその壁を壊せなかったという事だ、いくらやってもな。
ならばその壁は、今までの俺のやり方では壊せないものと言う事。しかし、俺はこのやり方しか知らん!」

そう言って、巨漢は壁を力任せに殴り粉砕する。
それは苛立ちであり、悔しさであり、焦燥だった。
兼一と夏はそこでようやく理解した。
この男が、なぜより優れた師を求めるのかを。

「並みの師では今までと何ら変化はしない、それでは意味がないのだ!
 今までの俺を打ち壊すことができる、それだけの師でなければこの壁は破れない!!」

その叫びに、兼一は思う。
壁と言う者はそう簡単に破れないからこそ壁なのであり、時に一人の力では壊せない事がままある。
兼一の友人、実戦相撲の千秋佑馬にしたところで、一度は実戦相撲に限界を感じある人物に教えを請うた事があった。この男がしようとしている事も、本質的にはそれと大差ない。
ただ、この男の場合は壁を破るだけではなく、己をさらに昇華できる師を求めているだけ。
それ自体は、兼一もまた共感できる考えだった。
しかし、そこで夏はもう一つの疑問を口にする。

「だが、それと名を名乗らないのと何の関係がある」
「気付いたのだ、俺はまだ武術家ですらない。単に、猿真似が得意な力自慢でしかないとな。
 武術家としての俺は、まだ始まってすらいない! ならば、武術家として名乗る名など持つ筈がなかろう!」

それが、越えられない壁にぶつかったことで追いつめられた男が出したもう一つの結論だった。
兼一達には理解できない思考展開だったが、その矜持だけはなんとなくわかる。
かつて兼一も、自らを「武術家」ではなく「武術家の弟子」と呼んだことがあった。
感覚としては、恐らくそれに近いものなのだろう。

だからこそ、兼一は僅かに巨漢に同情した。
彼は、道に迷い抜け出せなくなってしまったのだ。もしかすると、武術への考え方もそこで屈折してしまった可能性がある。これだけ真摯に武に臨む心がありながら、敗者を嘲笑うと言う昏い喜びを見出してしまったのは、そこから抜け出せなくなり、力だけを求めた反動なのではないかと。
無論、それは確信も証拠もない想像に過ぎない。
お人好しの兼一だからこそ、そういった想像をしてしまう。
しかし、それを確かめる段階はすでに過ぎている。

「だから俺は求める、俺を武術家へと昇華できる優れた…最強の師を!!」
「そうかよ。なら、どこの誰とも知られないまま………………ここで死にやがれ!!」
「た、谷本君!?」

聞きたい事は聞いたとばかりに、夏が巨漢に向かって踊りかかった。
相手の実力を知る兼一は夏をいったん引き留めようとするがそれは敵わない。
一瞬、夏と眼があったからだ。その眼を見た時、兼一は夏の意思を感じた。
『戦いてぇならさっさと動けるようになりやがれ』という意思を。

(谷本君のあの眼…………確かに今の僕じゃ足手まといになる。
 …………………………………呼吸を整えろ、その場しのぎでいいから疲労とダメージを追いだすんだ。
ほんの数分でいい、数分間だけ全力を出せれば!!)

どのみち、この巨漢を相手に長期戦となってはジリ貧だ。
その上、先ほど上がった狼煙も気になる。
絶対的に兼一に残された時間は少ないのだから。

「来るか…………弱者の弟子に興味はないが、降りかかる火の粉は払うまで」
「言ってろ、木偶の坊!!」

剛腕から繰り出される強烈な左の突きを、夏は身を低くし地面の上を滑る様にして回避する。
直立している敵と、低空の敵に対して攻撃するのとでは勝手が違う。
大きな相手であればあるほど、その身長差、小回りを利用するのが定石と言える。

そのまま夏は一気に懐に入り込もうとするが、それを続く巨漢の左前蹴りが阻む。
夏は身をよじってこれを回避し、その足を右の手刀ではね上げ体勢を崩しにかかった。
蹴りの弱点は、放った瞬間自身の体を支える柱が一本になること。
これをうまく利用すれば、敵の体勢を崩し投げる事も可能となる。

しかし、夏はさらに徹底して相手の足を刈りとる事を選択した。
はね上げた左足に続き、身を屈めた夏の地を這うような蹴りが右のふくらはぎを襲う。
もし当たれば、両足が地面から離れ頭からアスファルトに落下しただろう。
だがそれも、あえて力の流れに逆らわず、巨漢が自ら残った右足で地面を蹴ったことで不発に終わる。

(ち、この図体でこの敏捷性かよ………やりづれぇ。
 あの頑丈さだけが取り柄のバカを叩きのめしたのは伊達じゃねぇって事か)

自分の真上を跳ぶ巨漢をみて、夏は心中でそう毒づく。
兼一の状態をみて、夏はかなり正確に敵との戦力差を理解していた。
だからこそ、夏は初めから劈掛拳と言う選択肢を放棄し、徹底した懐に潜り込んでの近接戦を選択したのだ。

しかし、その読みすらも敵は上回ってくる。
とはいえ、だからと言って攻撃の手を休める夏ではない。

「らぁ!!」

夏は即座に体勢を立て直し、渾身の力を注ぎ右足で地面を踏み、右掌を突きあげる。
『天王托塔(てんのうたくとう)』、突き出した手と同じ方の足を踏み込むことによって、より強く体重を掛けて放つことのできる上方への掌打だ。

「させんわ!!」

だが、巨漢も上を取ったと言うアドバンテージを放棄はしない。
空中で器用に身体を反転させ、夏を踏みつけるようにして蹴りを放つ。

両者の攻撃は正面から衝突し、夏の全身にかなりの負荷がかかる。
同時に、夏はある事を確信した。

(動きが鈍い! 力も乗りきってねぇ!
あのバカとの戦いで、何らかのダメージを負ってやがるのか……これなら!!)

そう、本来なら夏を踏み潰していたとしても不思議はないほどの一撃だった筈だ。
にもかかわらず、夏の掌打と男の蹴りは拮抗した。
先の兼一の無拍子を男は受け流したが、アレほどの一撃を完全に無効化できる筈がない。
決定打には程遠いにしても、その身の奥深くに重いダメージを刻んでいたのだ。

巨漢は夏の掌打の反動を利用して僅かに距離を離す。
夏もいったん攻撃の手を休め、仕切り直しとばかりに再度構えを取った。
如何にダメージを負っているとはいえ、一対一で勝てる相手とは思っていない。
業腹ではあるが、兼一の回復を待つ事こそが最善と判断したのだ。

「てめぇはさっき、『敗者の顔こそが勲章』と抜かしたな」
「それがなんだ? 勝利に形はない、ならば敗者こそが我らの勝利の証拠そのものではないか」
「否定はしねぇよ、俺も似たようなもんだ。俺の武は気にいらねぇ奴をぶち殺す為にある。
 師からも怒りこそが力、敵は徹底的に憎めと教えられた」
「そうだ、武とは己の道を貫き、邪魔者を排除するためのもの。その道がどんなものであろうとな
 そして、邪魔をする存在を怒り、憎むのは当然のこと。その激しい感情が力となる」

それは、確かに一面の事実である。
怒りが引き金となり普段以上の力が引き出される事は珍しくもない。
特に動のタイプの武術家の場合、その時のテンション次第で実力以上の力を発揮できる場合もあるため、そういった感情は重要な要素となる。

かつての夏であればそれがすべてだったろう。
しかし、今の夏は違う。
なぜなら今の彼はあの頃と違って…………………一人ではないのだから。

「同感だ。そして俺はてめぇが気にいらねぇ、だから……ぶっ殺す!」
「それは、史上最強の弟子の為か? だとしたら軟弱だ、力とは己自身の為のもの。
 他人の為などと言うのは弱者の戯言にすぎん!!」
「人の話を聞いてんのか? 俺はてめぇが気にくわねぇからぶっ殺すんだよ!」

そう宣言し、夏は再度巨漢へと間合いを詰めて行く。
リーチの差がある以上距離が開いたままでは話にならない。
なんとかして懐に潜り込むべく、敵の猛攻の間隙を縫ってじりじりと踏み込んで行く。

突きが、蹴りが、肘が、膝が、頭突きが、多様な攻撃が夏の全身を襲う。
それに対し、夏はほとんど防御することなく僅かに身体を動かして打点をずらすだけだ。
確かに絶妙に芯を外しているが、それでも蓄積するダメージは加速度的に増えて行く。

しかし、元よりダメージ覚悟で『肉を切らせて骨を断つ』のが夏のスタイル。
安全策よりもリスクを選択し、捨て身を以って無理矢理その成果を捥ぎ取る。
それは格上が相手でも同じ……否、格上が相手の時にこそその本領を発揮するだろう。

「命を惜しまぬか……良かろう、ならば望み通り轢き潰してくれん!!」
「やれるもんならやってみやがれ!!」

突きを貰いながらも、夏は怯むことなく掌打を放つ。
それは容易く止められるが、それでも止まらずに夏は力強く右足を踏みこみ、全身の捻転を利用した手刀で脇腹の急所を薙いでくる。
だが、それは寸でのところで腕を盾に防御された。

「見た事か! 情に負けて決して勝てぬと分かっている敵に挑む、その何と愚かなことよ!」
「はっ! なら、勝てば問題ねぇだろうが! 軽く防げると思ってるから隙ができるんだよ!!」

そこで、夏はそれまでの流れを突然変える。
ここまでは徹底して手技主体で戦っていたところで、その両腕を敵の腕に絡ませ一時的に動きを封じる。
そのまま夏はがら空きになった脛に蹴りを放った。八極拳の一手、『斧刃脚(ふじんきゃく)』だ。

脛は人体の中で最も筋肉の守りの薄い個所でもある。
如何に格下の攻撃とは言え、骨に直接的なダメージを与えられるこの蹴りは無視できない。
苦痛に巨漢の顔は歪み、僅かにバランスが崩れた。
その隙を見逃さず、夏は更なる攻勢に打って出る。

「喰らえ!!!」

僅かによろめいたところへ、肘打ちの二連打が叩きこまれる。
しかしそれだけでは終わらず、腹部への連撃で落ちてきた顎に天王托塔が決まった。
夏が得意とする連続技、『頂肘鬼哭烏龍盤打(ちょうちゅうきこくうりゅうばんだ)』である。

本来なら、ここでさらに烏龍盤打へとつなぐのだが、敵もさるもの。
顎を跳ね上げられながらもその視線は夏を捉えて離さない。
渾身の力で放たれた上方からの掌打は、敵の強靭な手に掴まれてしまう。

「頭にのりおって……ただでは済まさん!!」
(野郎、動のタイプか!?)

突然男の身体が大きくなる錯覚を夏は覚えた。数発の打撃が、男の何かに火をつけたのだ。
夏は本能的な危険を感じ距離を離そうとする。
だが、掴まれた腕がそれを許さず、引き剥がそうにも微動だにしない。
そのまま、夏がもがく間も与えず男の岩の様な拳が下から突き上げてくる。

「がっ!?」

辛うじて掴まれていない左腕で防いだものの、圧倒的なパワーで夏の両脚は浮き上がり空中に放りだされる。
しかも、腕はまだつかまれたままだ。
このままでは嬲り殺しにされるのは確実。
夏は決死の思いで敵の追撃を無視してその顔面に左掌打を放つ。

「守りを捨てて攻めるか……良い執念だ。しかし、執念で勝てれば苦労はないわ!!」

夏の掌打は首を傾げる事で回避された。
そのまま捕まえた右腕を引き、夏の胴体を僅かにのけぞらせながら引き寄せる。
そうして掌打を外し無防備となった胴に、巨漢の貫手が迫る。
引き寄せられる勢いと貫手の威力、この二つが合わされば夏とてひとたまりもない。
肋骨の骨折と内臓への致命的なダメージを受けていただろう。
しかしそれは実現しなかった。

「野郎、放しやがれっ!!」
「貴様、俺の腕を!?」

夏は体勢を崩しながらも敵の肘に膝蹴りを放った。
威力は十分と言えなかったが、曲がらない筈の方向に関節に衝撃を加えられたことで、男の拘束が僅かに緩む。
その隙をついて拘束された右腕を振り払い、辛うじて脱出する夏。

結果、巨漢の手刀は夏の額からこめかみにかけてをかすめるようにして虚空を貫いた。
右の眉の上から出血こそしているが、それでも最悪の結果は回避できたと言えよう。

だが、これで終わったわけではない。
事実上の空振りに終わった貫手だが、巨漢は膝を深く折ることでさらに踏み込んでくる。
そのまま貫手を放った腕を曲げ、強烈な肘を夏の左肩に真横から叩きこむ。

「ぐぁ……!?」
「ちっ、やはり急場では力が乗り切らんか」

咄嗟に攻撃の手を変えたことで満足のいく威力は出なかったらしく、巨漢は軽く舌打ちをする。
しかし、それでも夏にとっては充分な威力があった。
元より体勢が不十分だった彼の体は横に弾き飛ばされる。
だが、その進行方向上に一つの人影が現れた。

「っと、大丈夫? 谷本君」
「チンタラしやがって、遅ぇんだよ!」
「ご、ごめん……」

弾き飛ばされる夏は人影によって受け止められ、そのままゆるやかに大地におろされる。
受け止めた人影…兼一は夏に怒鳴られ「しゅん」となるも、その顔は少し笑っていた。

「で、何分動ける」
「五分…ってところかな、その間なら色々無視できる。右腕も少しくらいなら……」
「……………………充分だ。なら、五分でケリをつける!!」
「ああ!」

二人はそれぞれ半身になり、巨漢と向き合う。
互いにすでにボロボロだが、そこに開き直りの様な印象はない。
むしろ、勝利への絶対的な確信があった。

「二人がかりなら俺に勝てるとでも思っているのか? だとすればその儚い希望、尽く踏み砕いてくれん!」
「弾除けは任せて、君はとにかく懐へ」
「盾が貧弱じゃ心許ないんだがな」
「忘れたの? 僕の取り柄はしぶとさと打たれ強さだよ」
「………………良いだろう。トドメまで右腕は残しておけよ、行くぞ!」

巨漢の言葉を無視し、二人は戦闘方針を決定してく。
如何にダメージを負っていようと、兼一の打たれ強さは並みではない。
それを身を以って知る夏は提案を受け入れ、兼一が僅かに先行する形で二人は動きだした。

「まずは貴様からか……ならば、喰らえぃ!!」
「なんの!!」
「貴様、俺の腕を!?」

豪風の如き左拳に兼一は四肢を絡め、両腕で手首を極め、両足で首を絞めにかかる。
それまでの兼一とは違う行動パターンに面食らったのか、男の顔は一瞬驚愕に歪む。
兼一はそのまま腕を捻じり上げて動きを封じようとする。

無論、それを唯々諾々として受け入れる義務など敵にはない。
残った右拳で左腕に絡みつく兼一を引き剥がそうとするが、それを夏が阻んだ。
夏は巨漢の右側から迫り、息をつかせぬ怒涛の攻めを見舞う。

「させるかよ!」
「虫けらがワラワラと……鬱陶しいわ!!」
「あっ!?」

ギリギリと極められる手首の痛みに顔を歪めながらも、右半身に夏の猛攻にさらされる巨漢。
しかし、痺れを切らしたのかカウンター気味の一撃で夏を突き放し、その隙に兼一を引き剥がすことに成功した。
そのまま空中に放りだされた兼一にトドメを指そうとするも、夏が蹴り飛ばしたコンクリートブロックの破片にそれも阻まれる。
その間に着地した兼一は、立ち止まることなく飛び上がり巨漢の首を抱え込み首相撲の体勢に入ろうとした。

「甘いわ!!」
「ぶはっ!?」

だが、巨漢は兼一の機先を制し、彼の手が自分の首にかかる直前、顔面への頭突きを以って彼を撃ち落とす。
しかし、それが結果的に兼一の身体を死角となり、夏の姿を一瞬見失う事となった。
気付けば、夏はいつの間にか男の側面に入り込み、痛烈な肘を打ち込もうとしている。

「撃統頂肘!!」
「おのれ、ちょこまかと!!」

脇腹に潜り込んでの強力な廻し肘打ちだったが、それも不発に終わる。
咄嗟に半歩下がったことで、肘の射程圏から外れたのだ。
巨漢は下がった反動を利用して大地を蹴り、強烈な跳び膝蹴りが夏を襲う。
だがその瞬間、夏の前に兼一が躍り出た。

「さぁせぇるかぁあぁあぁぁあぁぁぁぁぁ!!」

近づく事で蹴りの打点を殺したとはいえ、それでも強力な膝だ。
普通なら一瞬躊躇し間に合わないそれを、兼一は躊躇うことなく実行してのける。
その事実に、思わず巨漢の口から驚愕の声が漏れた。

「お、俺の膝に正面から向かってきただと!?」
「た、弾除けが僕の仕事ですから……今だ、谷本君!!」
「言われるまでもねぇ!!」

兼一が壁となって夏を守り、その隙をついて夏が再度巨漢を攻める。
爪先からの力を一切無駄にすることなく全身の筋力で増幅した手刀が、男の首に突き刺さる。
ミシミシという嫌な音を洩らしながらも、巨漢は尚も踏みとどまった。
夏は追撃をかけようとするが、その前に上段蹴りが放たれ夏に襲いかかる。

「まだまだぁ!!」
「貴様、まだやるのか!?」

一度ならず二度までも友を身を呈して守る兼一。
左腕でガードしながらも側頭部を貫いた衝撃は並みではなく、一瞬兼一の視界が歪む。
そのまま兼一は背後にいた夏をも巻き込んで蹴り飛ばされた。

二人揃って地面に叩きつけられそうになるが、寸でのところで身体に沁みついた動作が生きてくる。
兼一は辛うじて横受け身を取り、夏は華麗に着地を決めた。

「他人の為にここまで己を捨てるなど……貴様正気か!?」
「あ、当たり前だ! この拳は守る為のある、友を守るのにためらう理由こそ…ない!!」
「だが、これだけのダメージを受けてなぜ動ける! 貴様はとっくに限界の筈だ!」
「確かに、僕ももう限界です。ですが、梁山泊の修業をなめないでください!
 この程度のダメージ………………………日常茶飯事だぁ!!!」
(威張っていうようなことか?)

兼一の血涙を流しそうな魂の絶叫に、思わず呆れてしまう夏。
しかし、こうなった兼一の驚異のやせ我慢を彼は知っているし、今の言葉が虚言でない事も知っている。
なにより、兼一と戦った者のほぼすべてが感じるであろう脅威を、今まさに感じている巨漢の心情も理解できた。
なぜならそれは、彼自身幾度となく彼と立ち合い感じてきた事でもある。

そう、彼の厄介なところは様々な武術を会得しているところでもなければ、その打たれ強さでもない。
真に厄介なのは、何度倒れても立ち上がってくるその精神的タフさにあるのだから。

「ハーミットと言ったな、貴様もだ! なぜ、そうまで恐れず踏み込むことができる!」
「あん? こいつが弾除けになるって言ったんだ、なら踏みとどまる理由がねぇだろ。
 どんなに踏み込んでもこいつが勝手に受けてくれるんだ、俺はやりたい放題じゃねぇか」
「ば、バカな……」

男には信じられなかった。今日までずっと一人で戦ってきた男には到底信じられる筈がない。
彼にとって他人とは倒すものであり、自身の踏み台でしかなかった。
だからこそ、なぜこうまで無条件に兼一を信じられるのかが理解できない。
ましてや、兼一はすでに限界を迎えているのはだれの目にも明らか。
にもかかわらず、それでもなお彼を信じ続ける事が出来る事が……。

「…………それが、あなたが梁山泊に迎えられなかった理由です」
「なんだと?」
「梁山泊が目指すのは人を活かす武。
ですが、あなたには何もない。力の向かう先も、人を信じる心も。孤独で孤高の拳には、梁山泊で必要なものは宿りません。自分だけですべてが完結してしまうあなたに、梁山泊から伝える事は何もないんですよ。
だから長老は、あなたを入門させなかったんだ。
どれだけ力と武を求めても、あなたの心にはそれを向ける相手がいないから」

ひたすらに自分のために力を求める男に、活人拳たる梁山泊に教えられることなどない。
兼一の様に誰かを守るでもなく、あるいは自身の信じる正義もない。
あるのはただ、力への渇望だけ。それは必要だが、それだけしかなかったから拒まれた。

手段こそが目的であり、目的こそが手段。それが間違っているとは言わない。
ただ、自分の外に力の向かう先がなかったからこそ、彼に梁山泊は不要なのだ。

「あなたの快楽は、正直歪んでいると思います。
でも、あなたの悲願が間違っていると言ってるんじゃありません。
 だけど、あなたが武を学ぶべきは梁山泊ではない、本当に、ただそれだけのことなんです」
「だ、黙れぇ!! 最強を目指す為に最強に学ぶ、その何がおかしい!!」
「おかしくはありません、それは当然のことでしょう。
 でも、梁山泊とは同時に思想でもあります。きっと今のあなたでは、その思想を理解できないまま、遠くないうちに梁山泊と決別する。それを、長老は見抜いたんでしょう」

活人拳と言うその思想を、男はきっと理解できない。
少なくとも、自分の外に向かって力を使う事が出来ないうちは。
それでは、本当の意味で梁山泊の奥義・秘伝……そして伝統を得る事は出来ない事を、兼一は理解していた。
そう、相手を思う心こそが極意と言える、流水制空圏がそうであるように。

「………………………良いだろう、ならばその思想とやらの力を、俺に示してみろ!!」
「俺は別に、そういう考え方じゃねぇんだがな」
「ちょ、ちょっと谷本君、こういう時は話を合わせておこうよ」

一人クールなままの夏に、兼一は慌てた様子で声をかけるが取り合ってもらえない。
そうこうしているうちにも、男は兼一達に向かって襲いかかる。
最早、議論は不要。ただ勝敗を以って兼一の言葉の価値を問おうとしているのだ。

同時に、開き直ったことで男に先ほどまでの怒気はない。
あるのはただ、眼前の敵を打ち倒すと言う意思のみだ。

「かぁっ!!」
(今まで以上に鋭い一撃か……だが!!)
(勝負は一瞬、その一瞬を何としてでも作り上げる!!)

夏と兼一もそれぞれ意を決して一歩を踏み出す。
迷いのない鋭い一撃に対し、二人は散開することで回避する。
過去、幾度となく敵として、時に味方として戦ってきた二人だ。
今更言葉は必要なく、相手の動きの流れに合わせることくらいは訳はない。

「おお!!」
「いまだ!」

敵の突きに対し、兼一はその腕を軸に身体を反転させ背後を取る。
勢いをそのままにその後頭部に回転ひじ打ち(ソーク・クラブ)を放たれた。
しかし、それはいつの間にか滑り込んでいた男の左掌で受け止められる。

だがその隙に反対側から踏み込んできた夏が、巨漢を射程内に収めた。
とはいえ、それは同時に男の間合いに踏み込んだことも意味するのだ。
夏よりも早く男の左の後ろ回し蹴りが彼を襲う。
だが、夏は『化剄』を使い、拳を回して相手の攻撃を受け流した。

(ち、あの体勢からなんつう蹴りを!? 腕を持っていかれると思ったぜ! だがなぁ!!)
「ぬお!!」

夏は相手の懐に飛び込み、お返しとばかりに『双纒手』を放つ。
敵の守りを開門させ、足から送り出された力を背中の筋肉で増幅させて放たれた双打掌は、確実に男を捉えた。
しかしそれも、片手を地に付いて放つ右の蹴りが夏の頭を捉えその脳を揺さぶる。
結果は相討ち。巨漢は双纒手で後方に弾かれ、夏はゆがむ視界に足をふらつかせていた。

「良い一撃だった……しかし、これでトドメだ!!」
「谷本君!!」

凄まじい速度で兼一は夏にとどめを刺そうとする巨漢を追う。
廻りこむのは間に合わないと判断したのか、勢いをそのままに兼一は左の肘を振り上げる。
そして、渾身の力でその肘を振り落とした。

「バー・クワン・サバッド・ナー!!」

相手に突撃する様に振りかぶって肘落としをする、『バー・クワン・サバッド・ナー(狂気の牙を打ち振る舞い)』。
数年前であれば「今の兼一には不要」として教えられてこなかった古式ムエタイの技だが、最近になってやっと習得の許可が下りた技の一つである。
元は殺人技としての色の濃い古式ムエタイだが、それも使い手次第である事はアパチャイ自身が証明してきた。
つまり、今の兼一であれば使い方を誤らずに上手く加減できるだろうと判断されたのだ。
無論、その全ての技を会得する許可が得られたわけではないが……。

とはいえ、むしろこの場合、問題なのは教える側だ。
何しろ、教えるのは手加減の苦手なアパチャイである。
それも必殺技の宝庫の様な古式ムエタイこと『ムエボーラン』だ。
技を一つ身につけるまでに、幾度となく死線を超える羽目になった事は想像に難くない。

しかし、それは決して無駄ではなかった。
その成果が、今ここに結実したのだから。

兼一が放った渾身の一撃は巨漢の右肩に突き刺さり、鎖骨の折れる音を響かせた。
さしもの巨漢もその一撃を受けては動きを止めざるを得ず、振り返ると同時に放った左の裏拳で兼一の頬を打つ。

「ま、まさか、これほどの技を持っていようとは……しかし解せぬ、なぜ今まで使わなかった!!」
「しょ、正直今でもまだ迷いはあります。この技は強力すぎて、一歩間違えば相手を死なせてしまう。
 何しろ、教わっても怖くて今まで実戦ではつかってきませんでしたからね。
 でも戦って分かりました、あなたなら……加減をせずとも死にはしないと!!」

それは、ある意味相手への信頼ともとれる発言だ。
だが、力の差があるからこそ使える技があることも事実。
少なくとも、未熟な兼一にアパチャイの様な神業は望むべくもない。

しかしそれは、活人拳の志す者には避けて通れない道でもある。
なぜなら活人拳の者は、常に「相手を殺してしまうかもしれない」という恐怖と闘わねばならないのだから。

(右腕を殺されたか……だが、俺は負けるわけにはいかん! 勝ち続ける事にこそ、俺の価値があるのだ!!)
「よそ見とは余裕じゃねぇか。なら、遠慮はしねぇぜ!!」
「頭に乗るな、小僧ども!!」

左拳が兼一を捉えその顔を潰し、右足で踏みこんできた夏の胸に足刀が入る。
それだけでは終わらず、身体を反転させ大地を蹴った巨漢の肘が夏の脳天に振り下ろされた。
そのすぐ後、今度は兼一の脇腹を右足が蹴りあげる。

(何だ…この手ごたえは!?)

脳天を打ち抜いた筈の肘に残るのは、頭蓋骨を潰した感触ではなくより固く尖った別の手応え。
右足にしても、異様に硬い、それこそ鉛でも蹴ったような感触が残っていた。
それもその筈、二撃目を放った時、夏は男の肘を自分の肘で迎撃し、兼一は全身の筋肉を締め上げて防御していたのだ。
つまり、まだ二人は沈んではいない。

「合わせて、谷本君!!」
「誰に指図してやがる、遅れんじゃねぇぞ!!」

両脇から迫る人影に、男は一瞬どちらを迎撃するか迷う。
しかし迷っている時間はない。巨漢は即座に決断し、当初の目標である兼一に襲いかかった。
夏に背を向ける事になるが、それでも兼一を倒す事を優先したのだ。

「これで、終わりだ!!」
「いえ、終わらせるのは僕たちだ!!」

男が放った渾身の蹴りを両腕を交差させてあえて受けた。
兼一は全身の力を脚に込めて踏みとどまり、その足を払いのけて前に出る。

そのまま左腕を引き、貫手の構えを取る。
だが、兼一が攻撃を放つより早く、男の左腕が兼一が狙っているであろう腹部を守った。
しかし、あえて兼一はその剛腕に向かって突きを放つ。

「長老直伝、新技!!」
「なんだと!?」
「四!」

初撃は通常の貫手、それは容易く男の前腕で防がれる。
しかし、兼一の攻勢はまだ終わらない。
続いて右手が“三本”指の貫手を放った。

「三!! 二!!!」
「お、おおおおおおおおおお!!!」

そのままさらに“二本”指の貫手を左で放つ。
そして、最後に右手が一本指貫手の型を取る。

「一!!!!」

響き渡る声と共に放たれたその一撃は、堅固な守りを敷いていた筈の腕を弾き、男の腹に突き刺さった。
超人秘技が一つ、『数え貫手』。通常の抜き手を“四”と見立て、そこから指の数を“三”“二”“一”と減らしていく技だが、それだけではない。一度一度の抜き手に特殊な力の練りが加えられており、いかなる防御さえも最後の“一”では必ず突き抜くという荒技だ。

しかしこれほどの技だ、男の守りを破った時点で兼一の右腕は限界を迎えている。
確かに貫手は突き刺さったが、男に与えたダメージは微々たるもの。
如何な超人秘技も、使い手がその力を発揮できなければ意味がない。

だが、今に限ればそれで十分だった。
この一撃で、男に決定的な隙を生む事が出来たのだから。

「これで終わりか? ならば、勝つのは俺だ!!」
「いえ、本命は…………これからです!!」
「なに!?」
「「おおおおおおおおおおおおおお!!」」

男が宣言した瞬間、そのすぐ真後ろから夏の気配がし、兼一と夏の声が重なった。
巨漢は至近距離にいる二人に向けそれぞれ膝と拳槌を放つも、咄嗟の攻撃を二人は紙一重で回避する。
そして、夏は左右からの浸透剄の挟撃に続き正面からの渾身の一撃を、兼一は残った左腕で最後の一撃を放つ。

「―――――――――――浸透水鏡掌!!!」
「―――――――――――兇叉!!!」

二人の師直伝の奥義が、巨漢の身体を挟みこんだ。
『兇叉』は馬槍月の絶招であり、その極意は貫通力の高い勁三発を両脇と腹部に打ち込むことにある。ガンマナイフの原理により、一撃一撃では効かない浸透勁のラインを体内の一点に重ねることで、集中点の破壊力を飛躍的に増大するのだ。
また、『浸透水鏡掌』はその弟馬剣星の絶招。内面と外部を同時に破壊するこの掌打を受ければ、如何なる外功と内功をも突き破るだろう。

その二つを同時に受ければどうなるか。
本来は三つの勁を一点に重ねる技に、さらにもう一つ重ねたのだ。
それも、内部破壊だけでなく外部破壊のおまけつきで。
元来、最底辺とはいえ達人をも打倒できる技をさらに強力にしたのだ、当然耐えられるものではない。

「う、うぅ……ぐぼあぁあぁあぁぁあぁ!?」

そうして名も知れぬ、自らはいまだ武術家ではないと語った男は轟沈した。
結局、最後までなぜ自分が梁山泊に迎えられなかったのか理解できぬまま。



とはいえ、兼一と夏も疲労困憊の様子で肩で息をし、特に兼一は酷い有様だ。
実際、今立っていられる事自体が不思議でならない。
そして当然、緊張の糸が切れたことで兼一もまた……。

「た、谷本君、」
「あ?」
「あり、がとう」

そこまで言って、ついに力尽きたのか兼一はアスファルトの地面に前から倒れ伏した。
夏もそれ自体は予想できていたようで、驚いた素振りは見せない。

「……………ふん、ようやくか、つくづくタフな野郎だ。おい、まだ意識はあるか?」
「か、辛うじてね。正直、今すぐ寝たい気分だよ」

うつぶせで倒れた兼一は、全身に走る痛みに顔をゆがめながらもかすかに笑って答える。
それは困難を乗り切った達成感か、それとも窮地に駆けつけてくれた友への感謝からか。

「それで、あの人は?」
「アレだけタフなんだ、死んじゃいねぇだろ。
にしても、ギリギリで加減しやがって、甘ちゃんが……」
「ははは…でも、そっか…………良かった」

悪態をつく夏に、兼一は今度こそ安堵の笑みを浮かべた。
勝ったは良いが殺しました、では梁山泊の弟子とは言えないのだから。
だが、事態はまだ終結したわけではない。

「あのさ……」
「加勢しに行けっつうんなら、行く気はねぇぞ」
「あ、やっぱり?」

思考を先回りされた兼一は、苦笑いを浮かべる。
最早兼一は満身創痍で動けない。夏も似た様なものだが、それでも兼一よりはましだ。
だから、夏を頼るしか兼一には選択肢がないのだが、それも望めないらしい。
まあ、元から素直に彼が頼みを聞いてくれるとは思っていないわけだが。

「「…………………………………」」

しばし続く沈黙。
先に我慢できずに口を開いたのは夏の方だった。

「そういや、てめぇの妹に呼びつけられてたんだった。
 どこにいるか知ってるか? 遅れると後がうるせぇ」
「いや、知らないけど……でも、いそうな所に心当たりはあるよ」

夏はわざとらしく兼一にそう問いかける。
兼一は笑い出したい衝動に駆られるが、それを我慢して一応は事実のみを口にした。
しかし、どうやらその程度は夏にもあるらしく、彼は軽く舌打ちすると踵を返す。

「それくらいなら俺にもある。しゃあねぇ、ならそこに行くしかねぇか」

夏が向かおうとしている方角は、明らかに高町家のある方向だ。
夏は一度自分が乗ってきた自転車をみるが、激戦の内に壊れてしまい使い物にならない。
その理由は不明だが、彼は溜息を一つ突くと諦めたように一歩を踏み出した。

「てめぇはそうしてろ。手負いのてめぇをブチのめしても意味がねぇ。
 俺は俺で勝手にやる、精々死なねぇ様に気をつけるんだな」
「うん、ほのか“達”によろしく言っておいて」
「知るか、てめぇでいうんだな」

兼一の頼みを無碍に拒絶し、夏は曲がり角を曲がって姿を消す。
だが、音はせず姿は見えずとも兼一にはわかった。
きっと、今頃彼は全速力で高町家の方へ向かっている事が。

そこにほのかがいるかもしれない、確かにそうだ。
高町家の人々やその関係者が傷つけばほのかが悲しむ、それもある。
しかし、本質的に冷酷に徹しきれない彼の事だ。
アレこれ心中で言い訳をしつつ、きっと首を突っ込んでしまった手前引っ込みがつかなくなっているのだろう。
結果はどうあれ、最後まで見届けねばいられない性分なのを兼一は知っていた。

「ホント、素直じゃないなぁ……」

だから兼一は安心している。
彼が向かっているし、恭也もいるのだ。
それに、きっと美羽も向かっているに違いない。これだけそろえば大丈夫という確信がある。

とはいえ、彼もまた根っからの苦労人。
動かぬ身体をなんとか動かそうと、余人にはあまり意味がないと思えるような努力を続ける。

とそこへ、空から突然何かが降ってきた。
それは人影、その人影は着地の音すらさせずに兼一の横に降り立つと、身をかがめてその顔を覗き込む。
夕暮れからだいぶ時間もたち、すでにほとんど夜と言っていい空だ。
おかげで、兼一にもその顔が良く見えない。
だが、兼一にはそれが誰かわかった。

「しぐれさん?」
「ん、良く頑張った…な、兼一」

兼一と同じようにこの近くで護衛に付いていたしぐれだ。
しぐれは兼一をねぎらうと、優しくその前髪をすく。
二人の関係を知らず、遠目からこの光景を見た者は二人を親子の様に思ったかもしれない。
あるいは、出来の悪い弟の成長と頑張りを喜ぶ姉だろうか。
どちらにせよ、しぐれから洩れる雰囲気はとても優しく慈愛に満ちていた。

「いつから……?」
「兼一が闘忠丸を蹴ったあたり…から。
眠っていい…ぞ。後はアイツらがなんとかしてくれ…る」
「で、ですが、やっぱり僕も……!」
「そんなに心配なら後で僕が連れてって…やる。良いから寝て…ろ」

少し強めの語調で兼一にそう指示し、彼の頭を正座した自分の太股に乗せる。
その感触に兼一の顔が赤くなるが、しぐれは気にした素振りも見せない。
そのまま、まるで幼子をあやすかのように兼一の頭をなでるしぐれ。
兼一としては恥ずかしいやら照れるやらで大変なのだが、しぐれはどこかご満悦そうだ。

「あの、しぐれさんの方は……」
「ああ、そっちならもう終わっ…た。マスタークラスが数人来たけど、大したことはなかった…し」
「そ、そうですか……増援とかは?」
「ない。ざっと街中を見て回ったが、他にはもういなさそう…だ」

兼一がマスタークラスかどうかという相手に追い詰められている間に、これらの全てをやってのけたと言うのだから兼一としては言葉もない。
この数年で以前よりさらに強くなったつもりだが、未だに師達のいる場所の影も形も見えないのだ。
道のりの遠さに、兼一は思わずため息をついた。

「うぅ、僕いつか追いつけるんでしょうか?」
「美羽に…か?」
「師匠達に…です。やっぱり、一番の師匠孝行はいつか追いつく事だと思うんで」

以前であれば、美羽に追いつこうとするので手いっぱいだった。
なのに、いつの間にかそんな生意気な事を言う様になった兼一。
しぐれは、そんな彼には見えない角度に顔を向け、密かに微笑む。

「一億年早…い」
「で、ですよねぇ~。岬越寺師匠が言うにはいつかは追いつくそうですけど、いつになるのかなぁ…っていうか、それまで僕は生きてるんだろうか? ああ…考えるほどに不安になってきたぁ!!」
「ま、頑張…れ」
「……特にアドバイスとかはないんですね」

一見無責任にも思えるしぐれの励ましに、陰鬱な雰囲気を纏う兼一。
しかし、別にしぐれは無責任にそんな事を言ったのではない。

「期待してる…ぞ」
「え? しぐれさん、今何て言いました?」
「べ…つに~」

小さくつぶやかれたその言葉を兼一は聞き逃してしまった。
しぐれもちょっと照れているのか、そっぽを向いて繰り返そうとはしない。

「ほ…ら、良いから寝…ろ」
「いえ、でもですね、いくら師弟の間柄とはいえ、この体勢はちょっと恥ずかしいと言うか……」
「とにかく目を閉じ…ろ。師匠命令…だ」

そう言われては兼一としても反論はできないので、仕方なく言われるがままに目を閉じる兼一。
相当疲れが溜まり、全身に受けたダメージが大きかったのだろう。
そのまま兼一は落ちるようにして眠りに付いた。

しばし兼一の寝顔を堪能したしぐれだったが、ゆっくり兼一の頭を再度アスファルトに下ろす。
ただし、どこからか取り出した手拭いを枕代わりにして。
そして、立ち上がった彼女は背負った刀に手をかける。

「僕は今機嫌が…いい。もしこの場で退くなら見逃してやる…ぞ」

その言葉と共に、影から新たな人影が現れる。
先ほどは兼一の手前ああ言ったが、不穏な人影は少なからず存在した。
で、ここにいるのが最後のそれ。
本当はこのまま無視してしまいたかったのだが、兼一に向けられる敵意に気付きしぐれは動いたのだ。

「退く気はなし…と。今僕の弟子が寝たところなん…だ。
 静かに、さっさと終わらせるから、かかって…来い」

しぐれが言い終わるのが早いか、人影達は武器を手にしぐれに襲いかかる。
それが、限りなく無謀なことであると知ってか知らずか。



十秒後。兼一を肩に担いだ無傷のしぐれの周りには、二十数人の男たちが無傷のまま倒れ伏していた。
誰一人傷を負わせることなく、またほとんど音らしい音を出すこともなく終わらせたのだ。
彼我の力にいったいどれだけの差があれば、これほどの神業が可能なのだろう。

そうしてしぐれは跳躍しようとするが、視界の端で蠢くものに気付く。
それは、先ほど兼一と夏が二人掛かりで倒したあの巨漢だった。

「なんだ、まだ動けたの…か?」
「貴様が『剣と兵器の申し子』香坂しぐれか」
「ん。で、なんの用…だ?」

男のダメージはすでに限界に達しており、さすがに立ちあがる事は出来ない。
仰向けに倒れ伏したまま、なんとかしぐれ達の方に顔を向けている状態だ。

「俺は、なぜ敗れた」
「自分の負けが信じられない…のか?」
「二対一ではあったが、実力は俺の方が上だった。奴らは二人とも、とうに限界に達していた筈だ。
 なのになぜ、奴らはアレほどまでに動けた!」
「それがわからないから、お前は僕の弟子とその友に…負けたんだ」
「どういう事だ?」
「二人が本当に戦っていたのはお前じゃなくて、自分と…お互いだった。それだけの…事だ」

そう、二人が本当に戦っていたのは自分自身。
追い詰められ、負けそうになり、今にも倒れそうな弱い自分。
そして、今まさに目の前で自分が負けそうになっている敵と戦う好敵手。
ライバルが倒れる前に自分が倒れてなるものか、友の足手まといになるわけにはいかない。
そんな、ある意味では幼稚な意地が二人を最後まで立ちあがらせていたのだ。

「人間は一人じゃ生きられ…ない。それは、武術家も同じ…だ。
 背を預けられる友がいるから戦…える。負けられないライバルがいるから…立つ。
 そして、守らなければならない何かがあるから…挑む。
 ただ、それだけのこと…だ。お前にはわからないかもしれないが…な」

ずっと一人で戦い、本当の意味でのライバルを持たなかった男には理解できないことだった。
敵とは倒すものであり、競うとか切磋琢磨するという発想が彼にはない。
だからこそ、彼には兼一達が立ち上がれた理由が理解できないのだ。

「自分なりに答えが出たら…来い。その時は結果はどうあれ……今とは違った気持ちになれると思う…ぞ」
「今度こそ、貴様の弟子を壊すかも知れんぞ」
「なら、そうならない様に鍛えるだけ…だ。才能の差なんて、良き友と良きライバルがいれば覆せ…る。
 兼一は才能がないけど、その辺は恵まれてるから…な」

上機嫌にそれだけ言うと、しぐれは兼一を担いで今度こそ跳躍し夜に消える。
男には、その影を追うことすらできない。
ただ、少しだけ他人と交わってみるか、そんな風に考えて、男は再度意識を失った。
その顔からは、それまであった険しさがほんの僅かに消えていたかもしれない。






あとがき

というわけで、これで兼一のバトルパートは一応終わりで。
まあ、彼の本当の見せ場はここじゃないんですけどね。
それと、なぜ夏がここにいたのかはあんな感じの理由です。なぜか新島もいましたけどね。
割と次では彼が重要な位置にいたり、いなかったり……。まあ、そろそろ新白とのつながりを持たせるために彼も恭也達と面識を持ってもらいたかったところなんですよね。多少のご都合は目をつむってくださると幸いです。

あと、夏を出したかった理由の一つが今回の二人の共闘です。
なんだかんだでこの二人って一緒に戦ったことってないんですよね。
それに師匠が兄弟という間柄でもありますし、その必殺技を一緒に使うと言うのもなかなか面白いかと……。

とりあえず、次は恭也のバトルパートですね。
夏達の言う「奴」もそこで判明します。美羽の出番も……………多分あります。
まあ、彼女は強いのにあまり目立った戦いをしないヒロインなんですけど。
余談ですが、私は美羽じゃなくてしぐれとくっついてもいいんじゃね? と思ってたりする人間です。
でも、やっぱり兼一のヒロインは美羽なんですよねぇ……。

最後に、もしかすると今年の更新はこれで最後になるかもしれません。
現在仕事が立て込んでおりまして、こちらに割ける時間があまりないのです。
なので、場合によっては年明けまで更新できない可能性がありますので、ご容赦ください。



[24054] BATTLE 9「忍び寄る拳」
Name: やみなべ◆d3754cce ID:1963cf14
Date: 2011/01/14 00:12

とある路地裏。
恭也達が武術家としての兼一と遭遇したのと時を同じくして、美羽もまた武人としてその技をふるっていた。

「風林寺、霞隼」

小さく呟きながら、美羽は正面の敵に向かって連続飛び蹴りを放つ。
高速の連撃により防御は突き破られ、男の体勢が崩れた。
当然美羽がその隙を見逃す筈もなく、のけぞった男の頭を両足で挟み込む。

本来であれば後方宙返りをしながら天井に叩きつける技だが、ここに天井はない。
後方宙返りの勢いを利用して地面に落とすこともできるが、それだと死んでしまう。
そこで、身体を捻り近く壁に脳天を叩きつけて代用する。

細身でありながら鍛え抜かれた肢体を存分に活用したその一撃は、容易く男の意識を刈りとった。
残心の意味も込めて周囲を警戒しつつ意識の有無を確認し、ようやく安全と判断した美羽は顔にかかった金糸の様な髪をかき上げる。

「やれやれですわ。数ばかり多くてうんざりしますわね」

呆れたように呟きながら、美羽は周囲を睥睨した。
彼女の周りには、刃物や銃器を持った二十数人の男たちが転がっている。
よく見れば、周囲の壁には斬撃の痕や弾痕が多々刻まれているではないか。

その意味するところは一つ、今地に伏している男たちは美羽の足止めに使われた捨て駒。
兼一と美羽が陰ながら護衛している事に気付いた者が、二人が離れている時を利用して分断を試みたのだ。

とはいえ、襲撃者の質は決して高くなかったらしい。
同年代の中では最上位と言ってもいい実力を持つ美羽の手に掛かっては、傷一つつけられずに男達は沈黙するのも必然だっただろう。
何しろ彼女は才能のみならず、生い立ち、育ってきた環境、師、全てを含めて『武の申し子』と呼ぶべき神童なのだから。

「……さっきの花火は、間違いなく闘忠丸のもの。ということは、兼一さんの方も動き出したみたいですわね。
 なら、この方達の目的は疑うべくもなく……私の足止め!」

美羽もまたそう判断を下し、その場から大急ぎで跳躍した。
ビルの壁を蹴っては反対側の壁に着地し、再度その壁を蹴る。
それを幾度か繰り返し、数秒後にはビルの屋上まで到達していた。恐るべき跳躍力である。

「破裂音からして、狼煙の上がった方角は西南西。
音の大きさを考えると、距離は少々離れていますわね。……だいたいあの辺りでしょうか?」

四方をビル壁に囲まれた空間にいた為、実を言うと美羽は狼煙を目視してはいない。
だが、彼女の鋭敏な聴覚は、正確に狼煙の上がった方角と音の大きさを捉えていた。
そこから逆算し、兼一が戦っているであろうおおよその地点を美羽は導き出す。

常識にケンカを売っているとしか思えない事だが、それが出来てしまうのが彼女達のレベルだ。
弟子クラスの上位ですら、スポーツ界にデビューすればスポーツ史をひっくり返すとまで言われている。
妙手の上位ともなれば、その身体能力と五感は容易く常識そのものを覆す。
しかし、それだけの能力を持つ美羽は、言い知れない不安に駆られていた。

(あのレベルが相手でしたら、万が一もないでしょうけど……嫌な予感がしますわね)

如何に数をそろえたところで、一度に掛かってこれる人数はたかが知れている。
その事を考えれば、兼一があの程度の者達に不覚を取るとは考えにくい。
ある意味誰よりも兼一の実力を識る美羽はそれを確信していたが、胸の奥にくすぶる不安の影は消えなかった。
そしてこういう時、彼女は自分の勘を疎かにしたりはしない。

(これは……急いだ方がいいかもしれませんわ)

そうして美羽は乱立する家屋の屋根やビルの外壁を蹴って移動する。
その姿はさながら、コンクリートジャングルを掻き分けて飛ぶ燕の様だ。
常人には目にもとまらぬ速さであろうそれで、彼女は地に足をつけることなく突き進む。



BATTLE 9「忍び寄る拳」



しばし進んだところで、急ぎ兼一の下へ向かう美羽の脚が突如とまった。
美羽はとあるアパートの屋根に着地すると、目を閉じて周囲の気配を探る。

(また足止め……ですわね。あまり時間をかけたくありませんし、ここは無視して突き進んだ方が……)

気配は複数、位置は地上。
おそらく、美羽がここを通る事をあらかじめ予想していたのだろう。
そうでなければ、スピードに長ける美羽に追いついてきた事になる。
あり得ないとまでは言わないが、先ほどの敵のレベルを考えるにその可能性は低い。
美羽もそう考えたからこそ、このまま振り切る事を考えたのだ。

しかし、不思議なことに戦いの気配がある。
美羽が来る前にすでに誰かが戦っていたのかも知れない。では誰が?
その事を僅かに疑問に思っているうちに、彼女はこの場を離脱する機を逸した。

「「きゃあ!?」」
「くぅ~ん……!」
「な、なにもんだてめぇら!!」
「晶下がって!」
「美由希ちゃん!?」
「私が相手をするから、晶は那美さんとほのかを!!」
「…………………………分かったよ。でも、やばくなったら俺も手伝うからな!」
「うん、ありがと」

眼下から響くのは年頃の少女たちの声。
しかも、その中には美羽にとって聞き覚えのある声と名前が含まれていた。

(まさか!?)

さすがの美羽とは言え、その名前と声に驚きを隠せない。
この街にいる事は知っていても、まさかこんなタイミングで遭遇するとは思わなかったのだ。

美羽は思わず地上に目をやる。
そこにいたのは、自身より幾分年下の見慣れぬ少女達とそれを取り囲む黒服の男達。
先ほどの敵とはどこか雰囲気は違うが、明らかに堅気ではない。
そしてその中に、一つよく知る人影があった。

「ほのかちゃん!」
「じょ? 声はすれども姿は見えず……心霊現象?」
「そ、そんなことありえませんよ! ここに“残念”してた人は一昨日成仏した筈なんですから!」
「那美さん、残念ってなに?」
「え? あ………わ、忘れてください! ちょっとした言葉の綾と言うか電波と言うか、そんな感じですから!」

その言い訳もどうかと思うのだが、破滅的にドジな那美がこんな時に冷静な対応などできる筈もなし。
本来は秘密である筈の事を、思いっきり漏らしているのだった。
だが、そんな半ばコントみたいなやり取りに対応してやるほど、残りの二人には余裕はない。

「違う、上!」
「誰! そこにいるのは!」

晶と美由希はほのかと那美のやり取りを無視し、アパートの屋上に立つ美羽に向けて鋭い声を飛ばす。
一瞬応じるか悩んだ美羽だったが、入らぬ誤解を避ける為に姿を晒した。

「って、あ! ムチプリ!」
「ほのかちゃん……その呼び方はやめてくださいましと何度も言ってますですわ」

何年経っても変わらないほのかのあんまりな呼び方に、美羽は思わず肩を落としてうなだれる。
正直、知らない人が美羽を見た後で聞けばかなりいかがわしい呼称に聞こえるだろう。
実際問題として、彼女のスタイルはフィアッセと比べても遜色がないのだから。

「ほのか、知り合い?」
「うん。お兄ちゃんの道場の一人娘だじょ」
「あ、そうなんだ。その、すみません! ちょっと状況が状況なもので……」

ほのかの紹介を聞き、敵意を解く美由希。
だが、彼女の眼は変わらず自分達を取り囲む黒服達に向けられていた。
その手には二本の小太刀、その足元には鞘と一緒に小太刀が収められていたであろう楽器ケースが落ちている。
疑うべくもなく、明らかな戦闘態勢だ。
そして、対峙する男達は美羽の姿を見てとると、口の端を釣り上げた。

「来たな、無敵超人の孫娘」
「は? 無敵…超人?」

男が発したその言葉に、首を傾げる晶。
無理もあるまい。はっきり言って、そのネーミングセンスはイタイ。
晶がいぶかしむのも当然だ。

「その名を知り、私の事も知っている、つまりあなた方は……」
「無論、貴様の敵だ。その様子では、あの連中は排除されたらしいな。所詮はチンピラにすぎんと言う事か。
元より期待していなかったが、あの方のプロファイリング以下とは……」
(この口ぶりですと、味方ではあっても仲間と言うわけではなさそうですわね)

男の声音には、明らかな嘲弄と侮蔑が含まれている。
仕事を同じくする者同士の様だが、同じ組織の者ではないのか、あるいは個人的に反目しているのかもしれない。

「だが、好都合でもある。思いの外その女の勘が良く予定が狂いかけたが、結果的には予定通りだ」
「いったいどんな予定だったのか、是非ともお聞かせ願いたいものですわね」
「すでに理解している筈だ。貴様はここを離れられん、俺達がこいつらを狙っている以上はな」
(なるほど、振り切るだけなら何とでもなりますが……周到ですわね)

男の言う通り、美羽はもうこの場を離れられない。少なくとも、男達を排除するまでは。
なぜなら、美羽がここを離れればほのかが危険にさらされる。
戦闘要員は二人、二人ともそこそこの腕前の様だがこの数が相手ではほのかを守りきれるかどうか……。
瞬時にそこまで把握できてしまうからこそ、美羽はこの場を離れる事が出来ないのだ。

出来るなら役目を優先したいはずだが、美羽に彼女達を見捨てる事は出来ない。
一個人としても、活人拳の拳士としても、そして兼一の友として。

(ならば、選択肢は一つ。最速でこの方達を沈黙させるしかありませんわ)

そう結論を下し、美羽はアパートの屋上から飛び降りた。
一瞬那美や晶の表情が驚愕に歪むが、美羽は何事もなく美由希の真横に降り立つ。

「どうやら巻き込んでしまったようですわね。申し訳ございませんわ」
「えっと…何が何やらよくわかりませんけど、お手伝いします。
 私も、大切な友達を守りたいですから」
「……ふふ、ほのかちゃんはいいお友達に出会いましたわね。では、お願いいたしますわ。
 あなた方も、申し訳ありませんが容赦は致しません。普段であれば加減もできますが、今回はかなり痛い思いをしていただく事になりますわよ」

そう言って美羽が一睨みすると、彼女から並々ならぬ気当たりが放たれる。
しかし、男達は一瞬たじろいだだけですぐに自身を立て直す。
そこからも、男達の腕前が並みではない事は明らかだ。
先ほど倒した男たちに対する態度も、これならば納得がいくと言うものだろう。

そうして、男達も美羽や美由希同様構えを取った。
しかし、その手には武器はなく、代わりに手にはバンテージが巻かれている。
なにより、構えが美羽に相手の技を知らしめていた。

「気を付けてくださいまし。あの方たち、恐らくはムエタイ使いですわ」
「ムエタイって、たしか立ち技最強なんて呼ばれてる……」
「ええ……肘と膝に気を付けてくださいまし。ムエタイは、元は戦場で対武装兵用に編みだされた徒手術、対武器戦は得意分野ですの。そして、その肘と膝は強力ですわ」

美羽からすれば、その構えは飽きるほどに見続けてきたもの。
故に、彼女には一目でわかった。男たちがタイの国技、ムエタイの使い手である事が。

「散って! 無理に攻めず、後ろの皆さんを守る事を最優先に!」
「はい! 近づいた人から確実に仕留めます!!」
「行くぞ! エィ!!」

美羽と美由希が散開するのに合わせて、男達は各々膝や膝、突きや蹴りを以って襲いかかった。
美羽と美由希もまた、双方動き回りながらもほのかたちから一定以上離れず応戦する。

美羽は得意の跳躍からの蹴りを主体に、宙を軽やかに舞って一度に複数の男達をなぎ倒す。
美由希は初めての実戦と言う事もあり、僅かに固さはあるが、日々の鍛錬の賜物だろう。必要以上に気負うことなく、一人ひとり確実に沈黙させていく。

「はぁ!」
「おぶっ!?」

右の小太刀の峰が男の喉を打ち、その意識を刈りとる。
同時に、左の小太刀が背後からカウ・ロイを放とうとする男の右足に突き刺さり動きを止めた。
そのまま身体を反転させ、逆袈裟に放った右の小太刀が男の身体を抉る。

しかし致命傷と言えるほど深くはない。
一瞬ためらったのか、それとも男が済んでのところで半歩下がったのか。
とにかくまだ男は動ける。それを感じ取った美由希は、男の肘を回避しながら追撃をかけた。
ギリギリのところで回避した肘は頬を擦っていくが、そのまま美由希の左のひざが肋骨を砕く。

(躊躇っちゃダメ! 一歩深く踏み込んで、確実に戦闘不能にしていかなきゃ!!)

そう内心で自身を叱咤しつつ、まだ美由希は止まらない。
小太刀を握ったまま、指の間で器用に飛針を挟み投擲する。
放たれた四本の飛針のうち二本は空を切り、残る二本が3m離れた敵の足元に突き刺さった。
たたらを踏む男に対し、美由希は即座に間合いを詰め水月に強烈なひじ打ちを放つ。
そして、下がった顎を柄尻で一気に跳ね上げた。

男達の攻撃は鋭い。並みの競技者であれば、一対一でも勝ち目は薄い。
しかし、美由希であればその限りではない。
複数で同時に襲いかかられれば危ういかもしれないが、同時に二人までなら美由希でも危なげなく対処できた。

しかし、本来ならそう都合よくはいかない。
敵が一度に二人までしか襲いかからないとは限らないのだ。
しかし、現実に美由希は一度に二人以上を相手にしていない。

それと言うのも、美羽が上手く立ち回っているからだろう。
彼女は動きまわりながらも常に全体を俯瞰し、美由希に過度の敵が向かわないように飛び跳ねる。
敵の動きの機先を制し、行く手を阻み、自身に惹きつける。
そうすることで、美由希に向かう敵の数をコントロールしているのだ。
同時に、彼女は敵だけでなく美由希自身の事も見ている。

(あの方、かなりできますわね。2・3人までなら安心して任せられますわ。
 それに基本に忠実な体捌き、よい師に学んでいる証拠ですわね。何より筋がよろしいですわ。
 些細なきっかけ一つで、化けるかもしれませんわね……)

数多の武術家を見てきた美羽をして、それだけの評価を抱かせるほど美由希は筋がいい。
今はまだ美羽の方が数段上のレベルにいるが、充分脅威と映るほどの輝きがある。

「戦場で考え事か? 余裕ではないか!」
「おっと、ですわ。あなたも鋭い攻撃をなさいますわね。ですが、少々振りが大きすぎますわ!」

背後から迫った男の肘を、美羽は後方宙返りで回避し後ろを取る。
そのまま背中に向け、強烈な回し蹴りを放ち再度跳躍。
上空から無数の蹴りを放ち、アスファルトの地面に叩き伏せた。

「あまり時間をかけてはいられませんの。大急ぎでいかせてもらいますわ!!」

着地した自身の四方から敵が襲いかかる中、美羽は両脇で拳を握り込み、小さく強く息を吐く。
すると、美羽から放たれる気当たりが質を変えた。

「カッ!!!」
「ぐぼぁ!?」

四方から迫る敵に対し、美羽の手刀が正面の敵の喉を突く。
さらに、背後から迫る突きを最小限の動きで回避し、首の真横にある腕を左手で絡め取った。
背を向けたまま半歩踏み込み距離を詰め。後ろに向けて振り上げた踵で金的。同時に肘を極め一息で外す。
そうしている間にすでに両脇から敵の蹴りが美羽の首を刈りとらんと迫る。

しかしそれも、金的を受けて体勢を崩した敵を投げる事で回避した。
いや、それどころか両脇からの蹴りは投げられた男が代わりに受ける。
そうして投げ飛ばされた男は正面の男と衝突し、地面を転がっていく。

その間に両脇の敵に対し、美羽は投げの体勢から身体を跳ね上げ、顎に向けて掌打を放つ。
それはギリギリのところでかわされるも、美羽は右側の男に対し身体を預ける。
男は好機とばかりに肘を打ちおろすが、それが美羽を捉える前に柔軟性を活かして顔面に無数の蹴りを放った。

最後に残った男を仕留めようとするが、すでに人員は補充されている。
だが、美羽もそこで仕切り直しにする気はない。
後方に跳んだかと思うと、壁に着地し再度跳躍。
そのまま飛び蹴りが一人の顔を潰し、怒涛の蹴りの嵐が男達を飲み込んで行く。

美羽が通った後には、死屍累々とばかりに倒れ伏す男達。
動の気を解放し、リミッターを外したことで瞬く間のうちに薙ぎ払われていく。

「すっげぇ……」
「うおぅ、ムチプリってば容赦ないじょ~……加減はしてるんだろうけど」
「あ、アレで加減してるんですか!?」
「ムチプリが加減しなかったらみんな死んでるじょ」

あまりの光景に感嘆する晶と、美羽の実力を少しは知っているが故に冷静なほのか。
那美はほのかのコメントが信じられない様で、驚愕を露わにしている。
だが、内心で先ほどの男の言葉を思い返していた。

(でも、無敵超人って…まさか“あの”無敵超人? だとしたら、あの人の強さも納得がいく)

いる場所は違うが、彼女もまた裏の世界に少なからずかかわっている人間だ。
その異名には聞き覚えがあったし、もしあの言葉が真実なら目の前の光景にも納得がいく。

しかし、彼女に冷静に思案している時間は与えられなかった。
元々血の気が多く、腕っ節に自信のある晶がこの光景に触発されない筈がない。
元より、良くも悪くもドがつくほど真っ直ぐな少女である。
なにより一武道家として、友人達を守るために戦いたいと思うのは自然なことだった。
美羽と美由希によって築かれた見えない境界線、たまたまそこに近づいた敵に対し晶が踏み込んだ。

「どりゃあ!」
「ぐっ! 小娘が、調子に乗るな!!」

晶が放った正拳突きは容易く防がれ、男の顔に獰猛な意思が浮かぶ。
同時に顎を打ちあげる肘「ティー・ソーク・ラーン」が放たれる。
だが、男に油断があったのか。あるいは、子どもと見て侮ったのか。
とにかく晶はそれを、首を引いて回避し、そのまま男の顔を潰す形で頭突きを入れる。

「ぶはぁっ!? き、貴様!」
「まだまだ!! 師匠たちなら、ここで油断なんかしねぇ!!」

不意を突かれ隙を晒す敵に対し、晶はさらに裏拳を放って顎を打つ。
手応えはあった筈だが、日頃恭也や美由希を見てきたからか、そこで終わらずに足払いを放ち倒れた敵の鳩尾を突く。そこでやっと敵は沈黙したと判断し、手刀受けの構えを取って次の敵に備える。
そんな晶に対し、美由希は咎めるように声を張り上げた。

「晶!」
「大丈夫、俺もやれる! だから、こっちは任せて!」
「でも!」

美由希とて晶の実力は知っている。
そう簡単にやられはしないだろうが、このレベルが相手となると危険だ。
相手の実力を測ることができるからこそ、美由希は晶の身を案じる。
また、自身と違い競技者である晶に彼らを仕留められるのか、その不安もあった。

何より、晶とて気付いている筈なのだ。
この状況では、一歩間違えれば大けがどころか命にかかわる事を。
相手の実力が、本来であれば晶より勝っている事を。
それを知り、晶の体を気遣うからこそ美由希は彼女に戦わせたくなかったのだ。
しかし、それでも晶は頑として引かない。

(実力で劣っている事なんてわかってる。もしかしたら空手が出来なくなるかもしれないし、下手したらもっとヤバい事になるかもしれない。でも、見てるだけなんてイヤだ!
 俺の空手“選手”だけど、ここで何もしなきゃ城島晶じゃねぇ! 何より、守るために拳を振るうのは“空手家”の、“武道家”の本懐。それを館長が、勇兄が、師匠や美由希ちゃんが教えてくれたんだ!!)

空手選手は試合で拳をふるい、技を競うもの。だが、だからと言って守るために拳を握れない道理はない。
晶とて武道家のはしくれ。危険だから、実力が上だからと、拳を退く事は出来ない。
そして、そんな晶を美羽は擁護し、支持した。

「あの方の思うようにさせてあげるべきですわ。晶さんでしたわね!」
「え? は、はい! ムチプリさん!!」
「む、ムチプリと呼ばないでくださいまし!」
「す、すみません!」
「と、とにかく、そちらはお任せしますわ。ただし、無理はなさらぬようにしてください。よろしいですわね?」
「了解です!」

自身の意気をくみ取ってもらえた事が嬉しいのか、晶の眼はさらに強い光を宿す。
だが、美由希としては家族に危ない真似はしてほしくない。
故に戦う手を休めることなく、美由希は美羽に食ってかかる。

「待ってください!! この人たち、ホントに強いんですよ! 怪我じゃ済まない可能性だって……!!」
「武の道において怪我をはじめとした危険はつきもの、そんな事を言っていては試合も稽古もできませんわ。
 あの方の眼はすでに一人前の武術家の眼。ここで拳を引かせる事こそ、あの方の誇りを汚すことになります。
 あなたは、それをよしとするんですの?」
「そ、それは……」
「大切に思う事は間違っていません。ですが、ただ守ればいいと言うものでもありませんわ。
 あの方は覚悟を以って一歩を踏み出しました、なら私達はそれを尊重して差し上げるべきではありませんか?」

武術家としてなら、美羽の言葉の方が正しい。それを、美由希もまた理解していた。
もし自分が同じ立場だったなら、きっと言ってほしい言葉は美羽の言葉の方。
一抹の寂しさを覚えつつも、美由希は晶の意思を尊重する事を選んだ。

「晶! 怪我だけは、しちゃダメだよ。晶は空手選手なんだから。晶が本当に戦う場所はここじゃない、こんなところで晶のこれまでを台無しにしちゃダメなんだから!!」
「美由希ちゃん……………もちろんだって、信用してくれよ! っと、おわ!?」
「晶!? もう、油断しないでよ……」

そうして、三人は次々と敵を打ち倒していく。
美羽は一度に数人をまとめて、美由希は2・3人ずつ危なげなく、晶は一人ひとり丁寧に。

実戦の空気が晶の中で上手くかみ合ったのだろう。
その後、晶に限れば危ない場面も多々あったが、決定的な一撃を受けることはなかった。
その陰で、美羽や美由希がサポートしていたのは言うまでもないが。
それでも、晶は確かに自身よりやや実力が上の者たちを相手に無事生き残ったのだ。

そして、最後に残った一人。
男達のリーダー格と思しき男と、美羽が対峙する。

「ふん、やはり長くはもたなかったか。だが、目的は達した。これだけ時間を稼げば、あの方には十分だろう」
「捨て石となる事は覚悟の上、と言う事ですわね。潔い、見上げた忠誠心ですわ。
 それで、まだ抵抗なさりますの? あなたの敗北は明らかですわよ」
「無論だ。俺の役目は貴様の足止め。一秒でも長くこの場にとどめる事こそが我が使命。
 貴様とあの男の動きさえ封じれば、ミッションは確実に達成されるだろう。故に、俺は貴様に挑む!!」

決死の覚悟を以って、男は美羽に挑みかかる。
初撃は飛び膝、だがその鋭さ、力強さは先ほどまでの男達の比ではない。
確かに、リーダー格を務めるだけの実力が男にはあった。

だが、それだけなら美羽の敵ではない。
そう時間をかけることなく、男も仲間達の後を負っただろう。
しかし、実際にはそうはならなかった。

「キェエエェエエェェェェェイ!!!」
「ふっ!」

初撃を回避し、続く突きの連打を薄皮一枚でかわしていく美羽。
その最中、美羽は違和感に気付き一時見に回ったことで男の攻めは続く。
突きの合間に首相撲に持ち込み、「ティー・カウ・コーン(回し膝蹴り)」が美羽を襲う。
首を抑えられて放たれた膝に逃げ場はなく、為す術もないままに側頭部を打ち抜かれるだろう。

だが、美羽は迫りくる膝を無視し、身体を支える逆の足を払い体勢を崩す。
僅かに相手の技が鈍った瞬間を見逃さず、美羽は男の技から逃れ距離を取る。

感じたのは一抹の違和感。
ムエタイには違いない。使う技もムエタイのものだ。
にもかかわらず、僅かにどこか違う匂いを美羽は感じ取っていた。
そしてそれを、外で見ている者達もまた鋭敏に感じ取る。

「美由希ちゃん。アレ、さっきまでの奴らが使ってたのとなんか…違わねぇか?」
「晶も気付いた? 技そのものは変わらない筈なんだけど……何か印象が違うんだよね」

武の心得のある二人から見ても、男の技はどこか異質に感じさせられる。
ムエタイには詳しくないが、今まで戦っていた者たちとはどこか違うのだ。

(この方、もしや……試してみましょうか)

そう決断を下し、美羽は一端開いた距離を自ら詰める。
それは、なんのひねりも工夫もない単純な前進。
まるで、「好きなように打ってきてください」と言わんばかりだ。
男もその怪しさには気付いたが、あえてそこに渾身の一撃をあわせてきた。

美羽が放つのはなんの変哲もない右の中段蹴り。
それに対し、男は飛び上がって片手でその蹴りを止める。
いや、それどころか止めた蹴りを支えに逆の手で突きを放つ。

「セヤァ!!」
(……やはり!!)

美羽はそれをバク転の要領で回避し、男の拳は美羽の顔の上を通り過ぎる。
抑えていた脚も、逆脚から放たれた蹴りを防御するために離さざるを得なかった。

結果、両者一撃も入れる事かなわず再度距離を取る。
しかし、美羽には先の違和感の正体がつかめていた。

「今の技、古式ムエタイの『ルーシー・ハーン(仙者飛撃)』ですわね」
「さすがに知っていたか。それに、やはり先のアレは俺にこれを出させるための誘いだった様だな」
「ええ。使っていたのはムエタイ技のみでしたが、あなたの技の奥には通常のムエタイとは異質な匂いが見え隠れしていましたわ。ですが、ムエタイではないかと言うとそうとも言えない。そんな酷く微妙な匂い。
ですが、これで合点が行きましたわ。そして、考えましたわね。ムエタイ中心で戦っておきながら、必殺の一撃のみ古式ムエタイ。異質でありながら元は同じ技であるが故に、反応が難しい」
「所詮は小細工だ。まあ、こうも早く見抜かれるとは思っていなかったがな」

そう、それこそが美羽達が抱いた違和感の正体。
男の本来のスタイルは古式ムエタイだ。それをあえて隠し、ムエタイ技の身を用いたことで違和感を感じていた。
だが、違和感と言うにはそれは微妙であり弱かった。当然だろう、ムエタイは元々古式ムエタイだったのだから。
ムエタイ技ばかりと思わせたところで、一撃必殺の古式ムエタイ。
同種にして異質なその技をムエタイ技の中に織り込まれれば、よほどのものでない限り意表を突かれる。
それこそが男の狙いだったのだ。
そして、男は今度こそ本来のスタイルである古式ムエタイへとシフトする。

「あら? もうムエタイは終わりですの?」
「今のは所詮奇襲に使ってこそ意味がある戦法だ。気付かれてしまえば意味はない。
 ここから先は、古式ムエタイの一武芸者として貴様に挑む」
「その前に一つ聞かせてくださいまし」
「…………よかろう。時間稼ぎが俺の目的である以上、拒む理由はない」
「どうも。では単刀直入に聞きます、もしやあなたのバックにいるのは……」
「ああ、貴様の考えている通りだろうよ」
(これは、ホントに不味いかもしれませんわね……)

古式ムエタイと知って抱いた嫌な予感。それは肯定され、予感は確信に変わった。
あの男がこの状況を仕組んだと言うのなら、状況は最悪に近い。

「時間がありませんわ。申し訳ありませんが、すぐさま沈んでいただきます!」
「出来るのならな。俺は、あの方の親衛隊を率いる者。そう簡単にやられはせんぞ!!」

そうして、美羽は完全にリミッターを解除して男に踊りかかる。
こうして足止めされている時間が長ければ長いほど、状況は悪くなっていくのだから。



  *  *  *  *  *



場所は変わって高町家門前。
そこに一台の常用車が猛スピードで走ってきた。

その車は門の真ん前に停車し、中から制服姿の青年が姿を現す。
青年は周囲を見渡し、危険がない事を確認して残りの乗員に合図を送る。
乗員たちはその合図を受け、ゆっくりと緊張と恐怖に顔を強張らせながら車から降りてきた。

「急いで中へ、鍵を閉めて念の為に警察に通報しましょう」

恭也はそう口にするが、正直警察が当てになるとはあまり思っていない。
こんな事をしてくる連中だ、何らかの圧力をかけて警察を黙らせるくらいはできるかもしれないのだから。

「でも恭也、兼一の事は?」
「………………」

フィアッセの問いに、恭也は口を噤む。どうすべきか、彼にも判断がつかないのだ。
あの男の実力は自分と兼一の二人がかりでなんとかなるかどうか。
加勢したとしても勝てるかは分の悪い賭けだろう。

しかし、恭也が悩んでいるのはそれが理由ではない。
彼が悩んでいるのは、この場を自分が離れてもいいかどうか。

(俺が離れれば、ここは限りなく無防備になる。フィアッセやフィリス先生に戦闘能力はない。
 レンの腕なら自分を守るくらいはできると思う。だが、それだけでは不安があると言わざるを得ない。
少なくとも、二人を守りながらとなると……正直、もしここを攻められればひとたまりもないだろう)

兼一を助けに行きたいのは山々だが、その為にはいくつかクリアせねばならない条件がある。
その一つが、高町家とその周辺の安全確保だ。
だが、今のところここの安全を確保するには恭也自身がここで睨みをきかすより他はない。

(せめて、美由希が戻ってくれば話は変わるんだが……)

いないものはどうしようもないと分かっていても、つい詮無い事を考えてしまう。
美由希が戻ってくるまでに、後どれくらいかかるかわからない。
そうである以上、恭也としてもここを離れるわけにはいかないのだ。
それに、仮に向かったとしても……

(俺がたどり着くまで、アイツが立っている保証は……………ない)

兼一の無事を祈りながらも、彼の中の冷徹な部分がその事実を告げる。
それどころか、立っていられる可能性の方が低いだろう。
詳しい事情を知らずあの状況では仕方なかったとはいえ、結果的に兼一を犠牲にした様なものと言えなくはない。

その事実が、恭也を責め苛む。
そして、この場にいる面々は皆決して頭が悪いわけではない。
恭也が考えている事も、おおよそ彼女達は理解していた。
だからこそ、精一杯の覚悟と意思を込めてレンは口を開く。

「…………………………………お師匠。ここは、うちに任せてください。
 絶対、命に代えてもフィアッセさんとフィリス先生を守ります」
「「レン(ちゃん)!!」」
「バカを言うな! お前は確かに強いが、それもその年としてはだ。お前より強い奴なんていくらでもいる。
 美由希にも劣り、俺に一撃入れることすらできないお前が命を賭けた程度でどうにもならん!!」

厳しい言葉だ。だが事実でもある。
雑魚が相手ならまだいい。しかし、もし強者が来ればレンではもたないだろう。
何より、家族だからこそ「命をかける」などと口にしてほしくない。
それは何も、恭也に限った事ではない。
咎めるように叫んだフィアッセやフィリスもまた、気持ちは同じだった。
特に、レンの身体の事を知るフィリスはひときわ強くそう思う。

(なんてバカな事を……あなたの心臓じゃ、本当に死んでしまうかもしれないのに……)

近々カウンセラーとして、レンはフィリスの受け持ちになる予定だ。
故にフィリスは知っている。レンの心臓は幼いころに比べればマシになったとはいえ、それでも完治したわけではない事を。そして、手術以外に根治はあり得ず、長時間の運動は危険を伴う事も。
だが同時に、レンが周囲の人、特に家族に自身の身体の事を知ってほしくないと思っている事も、フィリスは重々承知していた。本当はその事を口にして止めたいが、医師としての義務感からか、あるいは信頼関係にヒビを入れたくないのか、レンの意向を無視してそれを口にする事が出来ない。
もしくは、それを口にせずとも恭也達が止めると無意識のうちに判断していたのかもしれないが。

「せやけど、兼一さんを見捨てるなんてできへんじゃないですか!
 お師匠かて、ホントは今すぐ助けに行きたいんでしょ!!」
「当たり前だ! だが、ここで引き返せばアイツの覚悟を無駄にすることになる。
 せめて、この場の安全確認ができるまで俺はここを動くわけにはいかない」

どんな事情があるかは知らないが、兼一は身を呈してフィリスを守ろうとしていた。
その思いを無駄にはできないし、なにより自分はこちらを任されたのだ。
まだお互いの事などほとんど知らない自分に、守るべき相手を託した兼一。
その信頼を裏切るような事を、恭也にできる筈がなかった。

しかし、それでも口惜しい事に変わりはない。
助けに行けない事に、この場でただ状況が変わる事を待つしかない自分に、恭也は苛立ちを禁じえなかった。
その拳は固く握りしめられ、噛みしめた歯は今にも砕けてしまいそう。

本当は今すぐにでも駆けだしてしまいたい衝動に駆られながら、恭也は皆を家の中に非難させようとする。
この場でこうしていても、一向に状況は良くならないのだから。

だが、それは僅かに遅かった。
恭也は懐から飛針を取り出し、それを暗がりに向かって投擲する。
それは闇に吸いこまれるが、落下音や衝突音は響かない。
その意味するところは、何者かが飛来した飛針を掴みとったと言う事。

「っ! 貴様!!」
「気付いたか、やはり索敵領域が広いな。念の為に距離を取っておいて正解だった。
 もし近くではっていれば、気付かれ逃亡されていただろうな」

暗がりから姿を現したのは、スーツ姿に褐色の肌の美男子。
夜闇の中にあっても栄える金髪、煌々と光を放つ鋭い眼光。
その手には、ボクシングのものとは違うロープ上のバンテージが巻かれている。
そして街灯と月明かり、そして家々の明かり以外に光源の無い住宅街の片隅から、その男は姿を現した。
その男は鷹揚な仕草と口調で恭也に礼を言う。

「まずは協力に感謝しよう。おかげで、厄介な男から引き離す事が出来た。
奴がいては俺としても迂闊に手が出せなかったが、これでその心配もなくなったのでな。
 まあ、本心を言えばお前も奴と一緒に足止め出来れば最良だったのだが……こればかりは仕方がない。
奴を引き離せただけでも満足するとしよう。それにしても、相変わらず奴は思い通りに動いてくれんな」
「兼一の事を、知っているのか?」
「少なくとも、お前よりはな。だが、今はミッションが優先だ」
「そう言う割には、残念そうな顔だな」
「残念?」

男は恭也の指摘に自らの頬を撫でる。
結論はすぐに出たらしく、男は小さく笑い声を洩らしながらその言葉を肯定した。

「…………そうだな、お前の言う通り俺は奴と戦えない事を残念に思っているらしい。
策を弄し引き離したが、それが俺の本心と言う事か」

実に楽しそうに、まるで懐かしい友と再会した喜びを抑えきれないと言わんばかりの笑み。
少なくとも、恭也達からはその男の笑みはそう見えた。
そこで恭也は、ある一つの疑問を口にする。

「貴様、いったいどこから現れた。この辺りに、お前の気配はなかった筈なのに」
「簡単な話だ。単純に、お前の索敵範囲の外から監視していただけに過ぎない。
 そして、お前が索敵をやめた段階でここまで走ってきた。疑問は解決されたか?」
「ああ、ご丁寧にどうもありがとうな」

そのあまりに簡潔にして単純な対策に、忌々しそうに吐き捨てる恭也。
だが、考えてみれば当然の話で、恭也の索敵範囲は決して広くない。
常人とは比較にならないとはいえ、その範囲などたかが知れている。
達人でもない恭也のたいして広くない索敵範囲、その外から監視し、望ましい状況になってから接近する。
それこそが、ある意味最も確実で効率の良いやり方なのだ。

「貴様の目的はなんだ」
「…………LC-23の回収、及びその障害となる者の強制的排除、と言ったところか」
「エルシー……トゥエンティスリー?」

聞き慣れないその名称に、思わず恭也はその言葉を口にする。
だが、すぐに思い出す。確かにそれは、フィリスのリアーフィンに付けられたコードではなかったか。
フィアッセの漆黒の翼、「ルシファー」に「AS-30」というコードがある様に、リアーフィンにはそう言った名称が与えられる。そして、フィリスの昆虫の様な金色の三対の翼「トライウィングスr」も同じだ。

同時に、その名称を聞いた瞬間フィリスの方が強張る。
それはまるで、遥か過去に置き去りにして来た筈の悪夢が時を超えて襲いかかって来たかのよう。
いや、彼女にとってはまさしくだろう。
『子ども時代』の最悪の過去、それが時を超えて忍び寄ってきていたのだから。

「ああ、お前達にはフィリス・矢沢と言った方が良かったか?
 所詮は記号にすぎんが…まあ、どうでもいい事だな」
「お前は、いったい何を……」
「おしゃべりは終わりだ。折角奴らがいないのだ、今のうちに迅速に事を済ませるとしよう」

そう言うや否や男は拳を握り構える。
恭也もまた、これ以上は情報は聞き出せないと踏み小太刀を構えた。
とそこで、男の背後から4・5人の人影が現れる。

「俺がこの男とやる。その間に、お前達はターゲットを確保しろ」
『はっ!』
「抵抗がある場合には実力を以って排除、ターゲット以外の生死は問わん。
ただし……遊ぶなよ。確実かつ速やかに処理しろ」

必要最低限の指示を下すと、男達も褐色の男同様に構えを取る。
ただし、彼らの視線は恭也を向いていない。
恭也を完全に無視し、その奥。フィアッセやレン、そしてフィリスに向けられている。

恭也は三人を守ろうと男達と三人の間に立とうとするも、それはかなわない。
褐色の男から放たれる気当たりに寄る牽制と威嚇により、恭也の動きは封じられた。
迂闊に隙を見せれば、その瞬間に自身の命が危ない事を悟ったのだ。

(こいつ………強い。ハーミットと同格か、あるいはそれ以上。
 先の巨漢ほどじゃないが、それでも戦うとなれば俺も余所に気を裂く余裕はないか……)

それは、兼一の危惧が正しかった事を意味し、もし恭也がいなければ一巻の終わりだった事を意味する。
しかし、今この時はその判断と采配の妙を讃えている場合ではない。

この状況に置かれては、恭也は已む無くある選択を下すしかなかった。
自身の全力を注がねばならない敵を前に、恭也には三人を守る余力がないのだから。

「レン………すまない。二人を頼む」
「お師匠………………………………任しといてください。絶対守りきって見せます。
 お師匠は後ろを気にせず、そのいけすかへんすかした奴をコテンパンに叩きのめしたってください」
「だめ、レンちゃん!!」
「レン!!」

状況は、最早レンの手を借りない事を許さない。
それはフィリスとて理解しているだろうが、それでも一医師としてフィリスはレンにそんな真似はさせられないのだ。
彼女が心臓に抱えた爆弾は、こんな危険な状況での戦闘に向かうにはあまりに危険すぎる。
しかしなんとか止めようとするフィリスも、レンと目が合うと口を閉ざすしかなかった。

「すんません、フィアッセさん、フィリス先生。
せやけど、戦わなあかん時っちゅうんが……うちらにはあるんです。
 ほらきぃや! 高町家料理番、中華担当の鳳蓮飛が相手になったる!!
 鳳の拳は風の拳、骨の髄まで叩き込んだるわ!!」

レンは手近にあった材木を手に取り、中腰になって構える。
自身の身体が長時間の運動に向かない事は先刻承知の上。
故に戦術は専守防衛。自らは攻めず、敵に攻めさせその隙を突く。
得意の棍を以って間合いを制し、仮に踏み込めても柔の拳を以っていなし、密着距離では間接を取る。
それがレンの最も得意とするスタイル。

男達もレンの力量を悟ったのだろう。
無闇に踏み込むことはせず、ジリジリと間合いを詰めて行く。
事は迅速に済ませねばならないが、だからと言って焦る事はない。
男達はそれを熟知したプロだった。

「威勢の良い女だ。だが、そう言えばまだ名乗っていなかったな。
俺の事は獅子王神、ナラシンハと呼べ」

それは、かつて兼一がとある米軍基地で死闘を演じた古式ムエタイ使いのコードネーム。
闇の一影九拳が一人、『拳帝肘皇』『裏ムエタイ界の魔帝』アーガード・ジャム・サイの一番弟子。
鉄面皮とも言えるポーカーフェイスと冷徹な思考力、そして強靭な心を持つ武芸者、闇の弟子集団YOMIの幹部の一人「ティーラウィット・コーキン」である。
そんな彼に対し、恭也もまたゆっくりと名乗りを上げる。

「永全不動八門一派・御神真刀流小太刀二刀術師範代、高町恭也だ」
「では、こちらも始めるとしよう」

恭也とコーキン、レンとコーキンの部下5人。
こうして二つの戦いの火蓋は切って落とされた。






あとがき

少し遅くなりましたが、新年明けましておめでとうございます。
本年最初の投稿は、こちらと相成りました。
まあ、ちょっと短めですけど…………私としては本当は毎回これくらいに収めたいんですよね。
ほとんど上手く言ってませんけど。

前回、とりあえずこの九話で恭也のバトルパートをやるつもりだったんですが、すいません嘘つきました。
冒頭の美羽の当たりを書いているうちに、思いのほか長くなってしまったのです。
なので、已む無くもう一話追加することになりました。
結果的にそうなっただけとはいえ、誤報を流し申し訳ございません。

それと、黒幕(?)さんはコーキンが参戦。
正直、ボリスと悩んだんですが、どちらかと言う策を弄するのは彼の方かなと思っての結果です。
彼、新島に言わせると彼とは当然ベクトルは違うでしょうが「策士」らしいですからね。

ちなみに、美羽が相手にしていた敵ですが、前半がフィリス達を狙う組織の構成員、後半が雇われたコーキンの部下になります。兼一が最初に相手にしてた有象無象も前者ですね。
何と言うか、構成員たちの方は雇われのコーキンの言うことなんて聞く気がないので、適当に泳がせて体よく利用しようと言うのがコーキンの考えだったわけですよ。
で、件の巨漢や部下達を使って二人を足止め、あわよくば他の面倒そうなメンツも足止めしようとしたのです。
つまり、兼一も美羽も、それこそ恭也や巨漢に至るまでコーキンの掌の上だったわけですね。

さあ、次こそ恭也の本当の死闘です(ついでにレンも)。
なっつんや美羽は間に合うのか。
今回全く出番のない兼一はどうなるのか。
そして、きっとどこかに潜んでいるだろう宇宙人はどう絡むのか。
その辺も含めて、今度こそ色々決着をつけられるようにするつもりです。



[24054] BATTLE 10「決着」
Name: やみなべ◆d3754cce ID:1963cf14
Date: 2011/01/22 01:57

高町家の門前でコーキンが恭也達の前に姿を現してから、少々時間が経った。
場所は美羽や美由希達が共闘するアパート前の道路。
そこで今、美羽は正面で立ち敵に問う。

「…………まだ、戦うおつもりですの?」
「ハァハァ、ハァ…む、無論だ! 俺を倒したければ、殺すつもりで来い!!」

脚はふらつき、息は絶え絶え、構えを取るもその身に先ほどまでの力強さはない。
その姿は、素人目に見ても明らかに限界。
指先で軽く押すだけでも倒れてしまいそうなほど、今の男に蓄積されたダメージは甚大なのだ。
だが、そうであるにもかかわらず、男は未だに美羽の前に立ち続ける。
勝ち目がない事はハナから承知の上。男にとって、これは『如何に長く立ち続けるか』なのだから。
しかし、最早この光景を見ていられなくなった那美や晶は、男を説得しようと動き出す。

「もうやめてください! これ以上は戦えないって、あなただってもう分かってるんでしょ!」
「そうだ! アンタにどんな理由があるのかしらねぇけど、そこまでする様な事なのかよ!!」
「フン……所詮はぬるま湯につかっているガキか、戯言ばかり抜かす。
憶えておけ、元より勝てぬからと引いて良い戦いなどない!
 戦っている以上、俺達は絶対に引けぬ場所に立っているのだ!!」
「でも、もう怪我じゃ済まないかもしれないんですよ……いえ、もしかしたら、最悪の事故が起こっても……」

最悪の事故、それが意味するものは一つ。
怪我であれば治すこともできる。完治するとは限らない怪我もあるが、命あっての物種だ。
命があれば、また挑むこともできる。
その那美の考えは正しい。だが、それはあくまでも一般的な視点からの話。
それを知る美由希は、尚も言い募ろうとする二人を制した。

「……………やめましょう、那美さん、晶」
「「え? 美由希(さん・ちゃん)?」」
「この人は、何を言ってもひきません。私も武術家のはしくれですから、分かるんです。
 一度戦いの場に立ったら、私達はもう戦う理由を成し遂げるまで下がれない。そういう、生き物なんです」
「ほのか、あんまり武術とかの事は良くわかんないけど、あの人の眼、ピンチの時のお兄ちゃんの眼にそっくりなんだじょ。ああなったら、もう何を言っても聞いてくれないと思う」

武術家の誇りとか、意地とかだけではなく、個人として何かしら心に決めたものがあるのだろう。
それが何かは二人にもわからない。
しかし、美由希は同じ武術家として、ほのかは兄の眼を知るからこそ、男が決して自ら引かない事はわかった。
この男は、立ちあがる事が出来なくなるその瞬間まで、何度でも立ち上がるだろう。
そして、自身の役目に忠実な男で、真の覚悟を持って挑んでくる敵に、美羽は惜しみない称賛の念を覚える。

(たいしたものですわね。ここまでボロボロになり、何度倒れても立ち上がる。
 本当なら無視して先を急いでもよろしいのでしょが……私にそれを躊躇わせるほどの気迫をなお保つなんて。
……………………いえ、むしろ倒される度にこの方の気迫は強く重くなっていく。
死に体とは言え、油断すれば危ないかもしれませんわ)

美羽をしてそう警戒させるほどの気迫を、ボロボロの身体で放ち続ける男。
美羽はその姿に、一瞬だが兼一を重ね合わせていた。

何度倒れても、どれだけ痛めつけられてもなお立つその姿。
圧倒的実力差があっても揺るがない意思と衰えぬ気迫。
それらが兼一を支え、今日まで生き残らせてきた強さの秘密。
それを知る美羽だからこそ、眼前の敵に対して一切の油断を抱かない。

この敵は、死に体となった今でも油断してはならないのだ。
一級の警戒を持って向かい合わねばならない敵と、彼女の武術家としての勘が告げている。

「退け、と言うのはあなたに対する侮辱ですわね。
 ならば武術家として、あなたの覚悟に報いさせていただきますわ」
(窮鼠猫を噛もうにも、その隙すらないか。なるほど、コーキン様が一目置き警戒するのも道理だ。
 ………………………だが、ならばこそ挑まねばなるまい! あの方の背を追うのであれば!!)

受けに回ればただ押されるのみ。
故に、男は死に体ながらも自ら前に出る。

「喰らえい!!」

放たれるは突きの猛打。残された力の最期の一滴まで絞り尽くすような、息もつかせぬ攻め。
だがその決死の攻撃も、美羽は危なげなく僅かな隙間に身体を滑り込ませて回避する。

無論、男とてこれで終わらせるつもりはない。
突きの猛打はあくまでも囮。美羽がそちらに対応している隙に、男は巧みに間合いを詰める。
美羽が回避の為に僅かに身体を傾けたその瞬間、男は美羽が体勢を立て直すより早く深く踏み込む。
そして、回避困難な密着距離から多彩なヒジ打ちを放つ。

「おおおおおおおおおおお!!」

肝臓を抉る様な体勢を低くしての水平方向へのヒジ打ちから、立ち上がる勢いを利用しての顎への一撃、さらに身体を反転させる逆の肘へと繋げ首をへし折りにかかる。
だが、その悉くを美羽は軽やかに回避していく。
肝臓への一撃は膝を盾にして防ぎ、顎を引きのけぞるようにして回避、首への追撃は跳躍して空振りに終わる。

しかし、男と手回避される事は予想の範疇。
跳躍した以上人間は着地せねばらない。
その隙をつくべく、男もまた跳躍し美羽の脳天目掛けて肘を振り下ろすと同時に膝が顎を襲う。
上手くいけば、美羽の頭を肘と膝でかち割る事が出来ただろう。そう、上手くいけば……

「やぁあぁぁあぁぁぁぁ!!!」
「が、はぁ!?」

大技にはその分隙がある。美羽は空中でバランスに欠くその隙をついた。
男の肘が脳天を捉えるより早く捕まえ、顎に膝が来る前に反転。
全身のバネを使って投げに転じ、空中でなす術もない男を地面に引きずり落とした。

だが男も、辛うじて受け身を取りダメージを分散することに成功する。
とはいえ、美羽と手ここで手を休める筈もない。
気付けば、美羽の太股が受け身を取り地面に背を預けた男の首に絡みついていた。

「不覚! き、貴様……さては、はじめからこれが、目…的……」
「ええ、あなたの様な方を打撃で沈めるのは一苦労。
あなたは腕も立ちますし、手加減し損ねる可能性もありますからなおさらですわ。
ですので、こうして締め落とさせていただきます。多少時間がかかりますが、これが一番確実ですもの」
「……お、おの……れ…………」

美羽は三角締めの要領でその強靭な大腿部を使い男の頸動脈を圧迫していく。
なんとか逃れようと抵抗するも、美羽がそれを許す筈もなし。
太ももを引き離そうと回される手は同じく美羽の手によって払われ、蹴りもまた同様だ。

そうしている間にも男の意識は薄れて行く。
間もなく、男の意識は闇にのまれた。

美羽は男の意識が完全に断たれたことを確認してから拘束を解き、ようやく一息つく。
思いのほか手強い……と言うよりも、実にやりにくい相手だった。
死を恐れず、決死の覚悟で挑んでくる敵とは総じてやりにくい物だが、今回はなおさらだろう。

実力差は明白だったが、相手は時間稼ぎに重きを置いていたのだ。
それはつまり、意識を残すことに全身全霊を費やしていたと言う事。
そして、意識が残っている限り立ち上がってくるのだから。
簡単には意識を刈りとらせてもらえないと判断し、締め技を行使した美羽の判断は正しい。
だが、時間を取られ過ぎたのも厳然たる事実だった。

(かなり時間がかかってしまいましたわね。その意味でいえば、これはあの方の勝利と言えるかもしれませんわ。
 何より、時間稼ぎが目的と分かっていたにもかかわらずこれほどまで粘られるなんて……。
 二度目の狼煙から数分、状況は一体どうなっていますの?)

敵の執念を称賛すると同時に、美羽は自らの未熟を恥じる。
何しろ、男と戦い始めて間もなく二度目の狼煙が上げられたのだから。
アレから少々時間もたった。敵の狙い通り状況から取り残されている美羽に、事態がどう推移しているかは分からない。それでも、事態が良くなっている事はあり得ないだろう。
とそこへ、未だ何が起こっているのかよくわかっていない美由希が美羽に問いかける。

「あの、そろそろ説明してもらってもいいですか? 正直、何がどうなっているのか……」
「……………先ほどの花火には気付いていらっしゃいますわね?」
「あ、はい。あっちは確か、うちの方向だったと思うんですけど……」
「ええ、音の大きさから考えてもまず間違いありませんわ」
「はいぃ!?」

既にこの辺りのおおよその地図は頭の中に叩きこまれている。
故に、美羽には二発目の花火がどのあたりから打ち上げられたかはすでに分かっていた。
無論、事態を理解していない美由希は混乱するばかりだが。

「私が先行しますので、後から来てくださいまし。事が済み次第、お話いたしますわ」
「え? それって、うちで何か起こってるってことなんですか!?」
「申し訳ありませんが、先を急ぎますの!!」
「じょ~……ムチプリめ、何を鉄砲玉みたいに急いでるんだじょ?」

言うや否や、美羽は再度屋根に跳び上がって猛スピードで走りだす。
その様はほのかの言う通り、放たれた弾丸の様だ。
美由希達は相変わらず状況が良くわからないままだが、言われた通りその後を追う。

そして、再度駆けだした美羽はと言うと、高町家を目指す途中である人物と遭遇していた。
その人物とは……

「あやや、谷本さん?」
「アンタか。つーことは、こっちで間違いなさそうだな」
「えっと、なんで谷本さんが?」
「あのバカ妹に呼びつけられたんだよ! それも、途中であのバカに巻き込まれるし、迷惑な話だぜ」
「兼一さんに会ったんですの!?」
「あん? あのバカなら向こうで伸びてるぜ」

そう言って、夏は親指でぞんざいに自身が来た方向を指す。
たったそれだけのやり取りだが、聡明な美羽はそのおおよその経緯を理解した。
ほのかに呼びつけられ闘忠丸の狼煙を発見し、兼一に加勢したのだろうと。

「そ、そうですか……ご迷惑をおかけしますわ」
「……あのバカのことは心配じゃねぇのか?」
「伸びているだけなのでしょう?」
「ちっ!」

夏の口ぶりから、すでに兼一の無事は確認できている。
何より、素直ではないが意外と仲間思いなこの男の事だ、見捨てて来た筈もなし。
その意味で、美羽はすでに兼一の事は心配していなかった。

「ほのかちゃんなら、あちらにいましたけど?」
「そうかよ……」

ほのかの居所を知っても、夏が方向転換する様子はない。
まあ、美羽からすれば元より予想通りの反応なわけだが。

「よろしいんですの? ほのかちゃんのところに行かなくて」
「遅かれ早かれこっちに来るんだろ。
大体、ここまで来て手を引くと、後で何を言われるかわかったもんじゃねぇ」

忌々しそうに語る夏に対し、美羽は笑いをこらえるのに苦労する。
実際、ここで手を引けば小言の嵐だろうが、そんな物は建前に過ぎない。
ほのかの事がなくても、すでに夏が手を引く気がない事は、それなりの付き合いの美羽にも分かっていた。
そうして、美羽と夏は二人とも無言のうちに速度を上げる。

(そういや、新島の野郎の姿が見えねぇが……あの宇宙人、やばくなって逃げたか?)

美羽と並走しつつ、夏は内心でそんな事を思う。
『身を守る術に関しては達人級』を自称するあの男の事だ、それもありえなくはないだろう。
実際、必要とあれば気絶した仲間を盾にする様な男だ。何をしても夏は驚かない。

無論、それだけの卑劣な男でないことも承知している。
しているが、素直に認めるような性格ではないだけだ。



BATTLE 10「決着」



夏がそんなやや失礼なことを考えながら走っていた時より、少々時間は遡る。
恭也達の前にコーキンが姿を現すのと時を同じくして、高町家の塀の陰に怪しい影があった。

月の光を浴びて浮かび上がるのは尖った耳にオカッパと言う怪しげなシルエット。
その主は、周囲の草花に悪影響を与えそうな禍々しいオーラを纏う地球外生命体、新島春男。
彼は恭也達に気付かれることなく、いつの間にか高町家の敷地内に侵入し塀の上から門扉の事態を覗き込む。

(やべぇな、状況はかなり不味い。コーキンは高町がなんとかするとして、問題はその手下どもだ。
 あのチビの腕次第だが…………ここは…『新島ア―――――――――――イ』!!」)

人差し指と親指で輪を作り、そこからレンの方を覗きこむ。
敵を知り己を知れば百戦危うからず。策を練るためにも、駒の能力を把握せねばならない。
ちゃっかりレンも駒として扱っている辺りがこの男らしい。

(どんな情報でもいい、拾い上げて戦略を練れ。舌先三寸で言い包めろ!
 コーキンは無理にしても、その手下どもならなんとかなる筈だ。だませ、だしぬけ、混乱させろ!!
 状況を掌握し、この場を、空間を、世界をコントロールするのだぁ!!!)

そして間もなく、謎の宇宙人パワーによる解析は終了した。
新島はゆっくりと手を下ろし、冷静な判断を下す。

(…………………………………………………どーしよぉ~~~~!! 八方塞りじゃねぇかぁ~~~~!!!)

冷…静? この男にしては珍しく、ムンクの叫びの如く声にならない悲鳴を上げている。
新島アイは相手の強さや状態、オーラまでも読み取りさらには探索モードとして遠くのものも確認できる非常に優れた能力だ。その新島アイと彼の汚れた灰色の頭脳を以ってしてもこの有様。
それはつまり、この場の状況の悪さと活路の乏しさを表していた。

(あのガキ、あんな体でなにいきがってんだよ! マジで死ぬぞ!?
 ええい、俺様は知力はあっても戦力はない。俺様一人で、アイツらをどこまでひきつけられる!!)

新島アイは、確実にレンの状態を見抜いていたのだ。
だからこそ、新島は状況の悪さをその場にいる誰よりも把握していた。
レン一人では、この場にいるコーキンの部下全員を相手取るなど手に余る。

だが、新島では彼らとは戦えないし、出来てひきつけておくくらい。それも、全員をひきつけるのは難しい。
入念に罠を準備することができれば、あるいは嵌める事も出来ただろう。
しかし、今はそんな物はない。

(もう少し駒があれば話は別だが……………………………………………………逃げるか?)

割と、というか大真面目にそう思案する新島。
彼は勝てない勝負はしない主義。負け、得る物がないと分かった時点で撤退するのが真の将。
その意味で彼の判断は正しいし、恭也達にそこまで肩入れする理由もない。
とそこで、何かが彼の肩をたたいた。

「ん? てめぇは!?」
「ぢゅ!」

そこにいたのは、兼一に頼まれて恭也達にくっついてきた闘忠丸。
宇宙人パウァーで気配を消し周囲に同化していた新島を発見し、いつの間にかその肩に移動していたのだ。
普通なら鼠一匹いたところで状況は変わらない。
しかし、それが闘忠丸となれば話は別なのだ。

(クキャ――――――キャキャキャ!!! 閃いたぁ!?
 妖怪道場のネズミがいるならあるいは……!!)

眼をクワッと見開き、ヤバい感じでテンションをあげる新島。
達人をして「戦の才がある」と称される彼の頭脳の中に、かすかだが一条の光が差し込んだのだ。

「おいネズミ、一つ俺様の策にのってみねぇか?」
「ぢゅぢゅ~」

新島の提案に、闘忠丸は「面白そうだ、聞かせてもらおう」とばかりに丸い耳を寄せる。
そうしてゴニョゴニョと密談する事しばし、闘忠丸は背中から一発のロケット花火を取りだす。

「よし、後は手筈通りにな。上手くいったら(高町たちからの)礼ははずむぜ、兄弟」
「ぢゅ~ぢゅ~」

『まあ、任せておけ相棒』とばかりに鷹揚に頷く闘忠丸。
そして彼は、超小型のライターでロケット花火を点火した。

同時に、その音の発生源である塀の上に全員の視線が集中する。
新島は即座に塀の上に立ち、尊大な態度で周囲を睥睨し口を開く。

「よぉ、久しぶりじゃねぇか、コーキン。俺様を憶えてるか?」
((((…………だれ?))))
「貴様…………新島春男か」
「そうさ! 新白連合総督、新島春男大明神様だ!!」

新島の事など知る筈もない高町家及びフィリスは首をひねった。
だが、コーキンは特に驚いた様子もなく彼の名を口にする。
これにより、コーキンと新島の間に何らかの関係がある事は誰の目にも明らか。
当然、恭也としては新たな闖入者に警戒心を抱くと言うものだ。

「貴様、こいつらの仲間か!?」
「いんやぁ~違うなぁ~、ところでいいのか? 折角門が開いたのに中にはいらなくてよぉ」
「なに!?」

警戒する恭也に対し、新島は余裕の態度を崩さない。
兼一の名を出せば信用してもらえたかもしれないが、その可能性は薄い。
コーキンも兼一の事は知っているし、味方と判断される材料にはなりえない。

しかし、それなら別の方法で味方であることを証明すればいい。
新島は軽く扉の方を顎でしゃくる、恭也は警戒しながらもその先に視線を向けた。
そこで恭也は気付く、開いた扉の真ん前に見覚えのある影がある事に。

「あれは……闘忠丸!?」
「とうちゅう……まる? あの、なんですか、それ?」
「え? ど、どこに闘忠丸がいるの恭也!?」
「あ、ホンマや! あれ、兼一さんとこの闘忠丸やん!」
「闘忠丸がいると言う事は、お前…まさか兼一の仲間か?」
「ちっちっち、惜しいが違う。俺様と兼一は……………悪友さ!!」
「よくわからんが…………レン! フィアッセとフィリス先生を連れて中へ!!」
「は、はい!」

恭也の指示に従い、二人の手を引っ張って敷地内に避難するレン。
その背中をコーキンの部下たちが追いかけるが、その行く手を闘忠丸が阻む。
とはいえ、ネズミでしかない彼が正面に立ったところで誰も相手にはしない。
闘忠丸を無視して…と言うよりも、その存在に気付くことなく跨いで通ろうとするコーキンに部下達。
しかし、その認識の甘さをすぐに思い知ることになる。

「追うぞ! 敷地の中に入ってしまえば袋の鼠だ……って、ぐぉ!?」

率先して門の内側に入ろうとする男が、突如苦悶の声を上げる。
その肩にはいつの間にか闘忠丸が飛び乗り、針の様な刀でその首をついていた。
男は闘忠丸を振り払おうとするが、闘忠丸は即座に離脱し次の男を攻撃する。
突然の事態に混乱するコーキンの部下達。
同時に、彼らの頭上に無数の瓦や材木、ゴミが降ってくる。

「ヒャハハハハハハ、俺様特製の即席トラップ『ゴミの雨』を存分に食らいやがれぇ!!」
「や、野郎!!」
「あのとんがり耳を殺せぇ!!」

不可解な事態とゴミの波状攻撃により、すっかり頭に血が上った男達。
相手が逃亡最速の男と知らずに、新島を追いたてる。
その間にレン達の避難は完了し、闘忠丸は即座にその門を閉め新島の加勢に回った。

(なるほど、この状況そのものが奴の策か。
 だが、ありがたい。これで、後ろを気にせず…………戦える!!)

新島の意図を悟った恭也は彼に感謝し、コーキン一人に集中する。
もし、彼女らが後ろにいれば、恭也としてもコーキン一人に集中する事は出来なかっただろう。
そうなれば、実力が伯仲しているからこそ敗色は濃厚だった。
それを、新島の策が見事に状況を一変させたのだ。

「シッ!!」

恭也は飛針を投じ、続いてその軌跡を追う様にコーキンに向かって駆けだす。
飛針は隙を作るための布石、そんな事は無論コーキンも承知している。
故にコーキンは、飛来する飛針を僅かに身をかがめる事でやり過ごした。
そして、屈伸させた膝の反動を利用し、恭也に向かって一気に跳ぶ。

武器を持った敵を相手に距離を取っても意味はない。
間合いを詰め、懐に潜り込んでこそ活路があるのだから。

(飛び膝蹴りか…鋭い!)

コーキンが放ったのはムエタイではティー・カオと呼ばれる飛び膝蹴り。
目前に迫るその右膝を、恭也は冷静に観察する。
この一撃一つとっても、この敵がどれほど真摯に武と向き合ってきたかわかると言うものだ。
これほどの鋭い一撃、一朝一夕の鍛錬や単なる才能だけで身につける事など不可能であるが故に。

とはいえ、技を仕掛けるのが早すぎた。
動き出しが早ければ、その分当たるまでに時間が生じる。
それは、恭也の驚異的な反射神経を以ってすれば充分に迎撃可能な時間。

(状況が変わって焦ったか? いや、なんにしても好都合。その膝、もらった!)

右の小太刀を自身とコーキンの膝の間に置く。
このままいけば、コーキンは自身の一撃で己の膝を破壊することになるだろう。

しかし、この男に限ってそんな浅薄な事をするだろうか?
限界ギリギリまで追いつめられても揺るがない鉄面皮を持ち、新島も認める策士。
即ち、一見不用意にも映るその攻撃事態が、コーキンの策のうちだとしたら。
自身の膝に対する恭也の対応を見て、コーキンは小さく呟く。

「プロファイル通りだな。技に深みはあれども、経験が浅い」

コーキンの膝と恭也の小太刀が接触するその直前、その膝が突如恭也の視界から消えた。
直後、生半可ではない衝撃が右手を襲う。

「……ぐぁっ!?」

衝撃の正体はコーキンの膝、ただし右ではなく左の。
右膝が小太刀と接触するその瞬間、コーキンはその攻撃を中断して大地を蹴り。
その反動を利用して左の膝で小太刀の横っ面を蹴りあげたのだ。

思いもしなかった方向からの衝撃に、思わず小太刀を手放す恭也。
手を離れた小太刀は放物線を描いてあらぬ方向へ飛んでいく。
同時に、蹴りの衝撃により恭也の体も横に流され、コーキンに無防備な背を向けてしまう。

その隙を逃すことなく、コーキンは更なる追撃に出る。
背面は、どんな人間であっても死角だ。
背面への攻撃や防御の手法がないわけではないが、前面や側面とは比較にならない。

そして、コーキンは恭也の延髄に向けて渾身の肘を振り落とす。
それは誰に目にも明らかな、必殺の一撃だった。

(……呆気ない幕切れだが、これも武芸者の運命。
武の真髄は必殺にある、初手からそれを狙わなかったのが奴の敗因、それだけの話だ)

本来なら、これほどあっさりとケリがつく筈はない。それだけ二人の実力は伯仲しているのだ。
しかし、だからこその早期決着。実力が拮抗しているからこそ、悪手一つで結果が決まる。
ただそれも、恭也が本当に悪手を打っていればの話だが。

「舐めるな! かかったのはお前の方だ!!」
「っ!?」

恭也が一喝するのと同時に、その左脇の間から刀の切っ先が伸びてくる。
コーキンに背を向けたその瞬間小太刀を逆手に持ちかえ、後ろに向かって突いたのだ。

それはまっすぐコーキンの喉元へと向かっていく。
並みの者であれば喉を抉られるか、あるいは回避の為に体勢を大きく崩すところだろう。
だが、コーキンは並みの武芸者ではない。
彼は今まさに自身の喉を貫こうと迫る切っ先を、どこまでも冷え切った目で見据える。
そして、恭也の放った致命の一刺がコーキンの喉を………………貫く事はなかった。

「ぬあっ!」

命知らずにもギリギリまでひきつけたその切っ先を、コーキンは防御も回避もしない。
その代わり肘をやめ、強烈な蹴撃を以って恭也の背に蹴った。

元より無理のある体勢からの攻撃、それも通常の刀より短い小太刀を脇の下から突きだしたのだ。
脚を伸ばして間合いを稼げば、充分小太刀の射程距離の外から狙う事が出来る。
そう判断したからこそ、あえてコーキンは防御も回避もしなかった。

とはいえ、その分貫通力も一撃の威力も落ちてしまったのはやむを得ない。
何より、当初の狙いである人体の急所を外してしまった。当然、まだ恭也の意識も命も刈りとれてはいない。

強烈な蹴りにより前のめりにつんのめる恭也。しかし、ダメージはさほどではなかった。
急所ならいざ知らず、背面は前面の数倍のタフネスを誇る。
渾身の一撃なら話は別だろうが、急遽変更し体勢の悪い蹴りではこの程度。

恭也は即座に体勢を立て直し、逆手に持った小太刀を右手に持ち替えた。
そして、振り向きざまにコーキンに向かって斜め下から斬りあげる。

その一撃をコーキンは僅かにバックステップを踏むことで回避した。
続いて、斬り上げたことで生じた右わき腹の隙に強烈な膝と横殴りの肘を首筋に放とうとする。
しかしその瞬間、コーキンの視界の端で何かが光った。
同時に彼の首筋に悪寒が走り、コーキンは即座に攻撃をやめて距離を取る。

「………っはぁ!!」

先ほどまでコーキンの身体のあった場所を、白銀の閃光が横一文字に通過する。
通過したのは恭也の左手、その手にはある筈のない小太刀が握られていた。

「…………その刀は、確かに弾き飛ばした筈……」
「生憎だが、手品の種をバラす気はない!!」

コーキンの表情は相変わらずの無表情だが、その声には僅かな困惑が滲んでいる。
さしものコーキンでも、その不可解な事態に心のうちの疑念が漏れ出したのだ。

とはいえ、それは恭也にとっての好機。相手の心に生じたわずかなさざ波。それを逃す手はない。
そのまま恭也は体勢を低くし、最高速度で疾駆する。

放つのは捻転を最大限利用しての三連撃。
元より恭也は刺突より抜刀などの横からの斬撃の方が得意なのだ。
その鋭さの前では、素手での防御など意味を為さない。

しかし、それならそれで防御しなければいいだけの話。
コーキンはタン・ガード・ムエイの姿勢でできる限り身体を小さくまとめ、身体を前後左右、あるいは上下に振って回避する。
同時に、隙あらば攻撃する意思と体勢を敢えて恭也に示すことで、彼を深く踏み込ませない。

(こいつ…武器との戦いに慣れている。こちらが踏み込もうとする瞬間を見抜いて牽制してくるとは……)
(やはり、間合いの差と言うのは厄介だな。奴と俺とでは制空圏の大きさが違う。
 さて、どうやって奴の懐深くに踏み込むか……)

しかし、攻めあぐねているのは互いに同じ。
恭也は経験値で上回るコーキンの巧みな牽制に機を外され、コーキンは間合いの差に苦しむ。

下手に大振りすれば、コーキンに踏み込む隙を晒すようなもの。
無手の専門家を相手に超近距離で戦う隙を晒すほど、恭也は無謀ではない。
故に恭也としては、間合いを制しながら手数と回転を重視した戦いに終始する。

コーキンはコーキンで、ムエタイが得意とする肘と膝もこのリーチの差の前では思うように使えない。
結果、斬撃の間隙を縫うように、散発的に突きや蹴りを放つしかないのが現状だ。
互いに決定打を出せないこの状況は、ある種の膠着状態と言っても良いだろう。

拳同士の戦いならば、多少の被弾を覚悟で踏み込むこともコーキンにはできる。
だが、刃が相手となれば話は別。たった一撃でも、それが致命傷になるのが武器の恐ろしさ。
殺傷性と言う点において、どうしても素手は武器に一歩劣らざるを得ない。
とそこで、コーキンの左腕が見えない何かに引かれ、決定的な隙を晒す。

(……まさか!?)
「っせぇ!!」

その隙目掛けて、恭也の小太刀二刀が幾筋もの流麗な弧を描いて迫る。
技の名は「虎乱」。奥義でこそないが、恭也も得意とする二刀で放つ連続技だ。

それまでの斬撃と比較して、一際鋭いその連撃をコーキンは飛び上がる事で辛うじて回避する。
だがそこで、コーキンの首に何かが絡みつく。同時に、恭也の腕が何かを振りかぶる動作を取った。
コーキンは恭也がそれを振り抜く前に、自身の首に絡みついたそれを掴み、恭也と引き合う形になる。

「これは…………糸か。そう言えば、報告書にもあったな。お前の流派には、そう言うものもあると」

暗がりの中にあって、極細の鋼糸を見抜く事は至難の技。
コーキンですら、その身に絡みつくまでその存在には気付けなかったほどだ。
同時に、これは3番と呼ばれる高摩擦の鋼糸。もし掴むのが遅れれば、首が落ちるとまではいかなくても首に相応のダメージを追うなり、締め上げられるなりしていただろう。

しかし、なんとか引かれる前に掴んだことでそれは防げた。
ただ、その代わりにコーキンのバンテージからは焦げくさい匂いが昇っている。
恐らく、鋼糸との摩擦で焼け焦げるなりなんなりしたのだろう。

「ならば、これがはじいた筈の小太刀がお前の手元にある理由か」
「御名答。御神流では、両手に刀を持った状態でこいつを自在に操るのは必須科目だ。
 戦いながら離れた対象に絡め、引き寄せるなど造作もない」

そう、これが恭也の手にいつの間にか小太刀が戻っていた手品の種。
彼は戦いながらコーキンの眼を盗んで小太刀に鋼糸を絡め、チャンスを待って引き寄せたのだ。

そうしている間に、コーキンは手刀の要領で首と腕の鋼糸を断ち切った。
鋼糸は優れた強度を持った武器だが、やはり如何せん細すぎる。
太さと強度はおおむね正比例すると言っていい以上、どれだけ優れた材質でも細ければ強度は落ちるのだ。
コーキンの四肢は最早凶器の域、彼の手にかかれば鋼糸を断ち切るくらいは造作もない。

とはいえ、これで二人の戦いは一端ふり出しに戻ったことになる。
恭也の制空圏からも外れ、互いに斬り込む隙を探り合う。

素人目には、互いに動かず睨み合っているだけだが、そうではない。
恭也が動こうとすればコーキンはそれを牽制し、コーキンが攻めようとすると恭也はそれを封じるべく動く。
それは視線や四肢の僅かな動きからの先読み。技撃軌道戦と呼ばれる、静かながら激しい攻防だ。
互いに互いの次の手を読み合い、それらを一つ一つ潰していく。
二人の脳裏には、攻撃の軌道が何もない空間に無数の曲線を描いている。

しかし、実力が伯仲しているからこそ攻める隙を見出せないのも事実。
だがそこで、コーキンが声を張り上げた。

「お前達! いつまで遊んでいる!」

その声の向けられた先は、今もなお『逃亡最速の男』を追いまわす彼の部下達。
今現在、彼の部下たちはまんまと新島の話術と即席トラップ、そして逃げ足と闘忠丸に翻弄されているのだ。
気付けば頭には血が昇り、当初の目的も失念して新島を追いまわしていた。
とはいえ、畏れ敬うコーキンからの一喝とはいえ、そう簡単には頭に上った血は降りて来ない。

「も、申し訳ござません! すぐにこのゴキブリを始末いたします!」
「……」

そんな部下の反応に僅かに溜息をつくコーキン。
当然だ、彼は別にそんな事を言っているのではないのだから。

「無視しろ」
「は? な、何を……」
「その男を無視して、今すぐターゲットを確保しろ」
「それは承知しております! ですが……」
「指示に従え……………死にたいのか」

それは静かでありながら、決定的な恐怖を植え付けるには十分な一言。
部下たちは知っている。コーキンはやると言ったからには必ずやる男だ。
もしここで指示に従わなければ、彼らは全員コーキン自らの手で殺されるだろう。

故に、新島を追う足を一端止め、その身を恐怖に震わせる。
新島にさんざんコケにされて頭に上った血も、コーキンの一言で冷え切った。
そして、すぐさまその指示を実行すべく新島を無視して高町家の塀を登り始める。

(しまった……!?)
「あ、あれ!? おい、腰ぬけども! 俺様に恐れをなしやがったか!!
 悔しかったら俺様に指一本でも触れてみやがれ、ノロマ~~!
 男の服をはぎ取る事しか能の無い変態ちゃ~~ん!?」

新島はなんとか彼らの意識を自身に向けようと、しょうもない悪口から口汚いスラングまで。
ありとあらゆる挑発を口にするも、その全てに彼らは無視をきめ込む。
当然だ、誰しも命を捨ててまでそんな物にのる筈がない。

闘忠丸がなんとか塀の上に手をかける男たちの手を攻撃して落とそうとするも、手が足りない。
彼だけでは、一度に払い落せる手に限りがあるのだ。
やがて、闘忠丸の奮戦も空しく男達は高町家への侵入に成功する。

(まじぃぞ、こいつらにはもう俺様の話術がきかねぇ!?)

やむなく新島は彼らの後を追い、塀を伝って高町家の庭に移動する。
その後ろ姿を、恭也はただコーキンと対峙しながら見送るしかなかった。

ここで背を向ければ、致命的な隙を晒すことになる。そうなれば、今度こそ完全に敗北が決定してしまう。
コーキンを足止め出来るのは現状では恭也だけ、そしてコーキンならレンを瞬殺する事など容易い。
なら、彼は絶対にコーキンをいかせるわけにはいかないのだ。

(だが、レンとあの男と闘忠丸。これだけで、奴らを防ぎきれるのか……?)

はっきり言ってしまえば、それは望み薄と言わざるを得ない。
恭也もおおよそそれは理解していた。
新島の戦力が低いのはこれまでの逃亡劇を見ていても明らか。闘忠丸は強いが、それでも人間という圧倒的にサイズの違う生物を打倒できるとは思えない。レンではあの男達を抑え切れないだろう。

その事実が、恭也の心に焦りを生む。
こうなれば、コーキンを倒して向かうより他はないから。
そして、コーキンは正確に恭也の焦りを看破していた。

「…………焦っているな。技撃軌道が乱れて来ているぞ!!」
「な、ぐ…………!?」

その瞬間、コーキンの怒涛の突きが恭也を襲う。
恭也はそれらを捌ききれず、数発の拳が彼の右肩を、頬を、肋骨を強打した。
焦りが隙を生み、動きの初動を見落としたが故の反応の遅れ。
辛うじて決定打こそ防いだものの、ここにきて初めて確かなダメージが彼の身体に打ち込まれた。

口内に充満する血の味の不快感と身体に残る鈍痛。
それら感じながら、恭也は自身の不甲斐なさに歯噛みする。



  *  *  *  *  *



その頃の高町家敷地内。
レンとフィアッセ、そしてフィリスは庭の片隅にある道場の中で身を寄せ合っていた。

家の中では広さ的に戦いにくいし、侵入可能な経路が多すぎる。
いざ攻められた時、敵のくる方向が多すぎれば対処しきれないのだ。故に、出入り口が一ヶ所しかないこの道場は、一人で守ることができる唯一の場所と言ってもいい。
また、恭也と新島とで足止めしているにしても、それは絶対ではない。
故に、もしもの事態に備えてここに籠城し、最悪の場合は戦う様に新島のメモを闘忠丸が渡していたのだ。

「外は、どうなってるのかな?」

不安げな声はフィアッセのもの。恭也の事は彼女とて無論信じている。
しかし、それが不安や心配と言った感情を完全に払拭できるわけではない。

そして、その質問に答えられる者はこの場にはいなかった。
HGSでもないレンに見えないところの状況など分かる筈もなく、フィリスやフィアッセにしたところでそう言った能力はない。二人とも、HGSとしてはそこまで際立って優れた能力を持っているわけではないのだ。
とそこへ、ついに最悪の未来が荒々しい音を立てて道場の中に侵入してきた。

「見つけたぞ、ここだ!」
「小娘、大人しくLC-23を渡せ。そうすれば痛い思いをしないで済む」
「生憎やけどな、この鳳蓮飛はそんな腰抜けやあらへん! 痛い思いをするのはアンタらや!!」

男の要求をレンは威勢よく拒絶し、手に持った愛用の棍を構える。
だが、男達にそれを恐れる様子はない。
当然だ、コーキンのあの言葉があっては、レンの気迫など取るに足らないのだから。

同時に男達の背後、道場の扉の影から新島は中の様子をうかがう。
とはいえ、彼としてももはや打つ手はない。
新島の手には特殊警棒と催涙スプレーがあるが、その程度で男達を倒せる筈もなし。
彼単独で倒せる人間のレベルなど、それこそレンよりもはるかに下なのだ。

(しかし、どうすっかな、ホント。逃がそうにも、アイツらの足じゃすぐに捕まっちまうし、倒すなんて論外。
 時間稼ぎをしようにも、コーキンの野郎のせいで俺様の話術もきかんだろうしなぁ……ぶっちゃけ手詰まりじゃね? いや、マジで)

彼は利の無い事には指一本動かさない主義だ。そして、この状況下で加勢したところで結末は見えている。
むしろ、自分自身に飛び火する可能性を考慮するなら、ここは見捨てて逃げるべきだろう
新島の心に罪悪感はない、共倒れになってしまっては元も子もないのだから。

(まあ、あの女を差し出して取引すればなんとかならんでもないだろうが……)

たしかに、コーキン達の目的はフィリスの確保、それだけだ。
言ってしまえば、それ以外の全ては余分と言える。
ならば、フィリスの身柄を引き渡して、代わりに他全員の助命を乞うこともできるだろう。
しかし、新島は即座にそれを否定した。別に良心の呵責があったわけではなく……

(そんなことした場合、あの小娘とかが黙ってねぇだろうし、仲間割れしてもなぁ……)

そう、そんな事をすればレンやフィアッセが黙ってはいない。
フィリスを巡って二人と争っても意味はないし、何より本末転倒だ。

「しゃーねぇか。成仏しろよ、ガキ」

故に、彼がこの判断を下したのは必然だった。冷酷かもしれないが、こうなってはこれ以外にない。
新島の力の及ぶ範囲で出来る事など、一緒に心中してやることくらい。そんな物は自殺と大差ない。

そうしている間にも、男達はレン達を半包囲する形で広がり、少しずつその距離を詰めて行く。
とそこで、それまでフィアッセと手を握り励まし合っていたフィリスが意を決して声を上げた。

「待って! あなた達の目的は私でしょう?
 大人しくついていきます。だから、二人と恭也君には手を出さないで」
「「フィリス(さん)!?」」
「ごめんね、二人とも。でも、私は医者よ。患者さんを盾にするなんて…………出来ない」

それは、人の命を預かり、傷や病を癒す仕事を誇りとする医者としての矜持か。
フィリスは震える手足を押さえつけ、毅然とした態度で立ち上がる。
その眼には確かな恐怖が宿りながら、頑として譲らない意思の強さがあった。
この要求を聞き入れないのなら、この場で命を絶つ、そんな覚悟が見え隠れする眼。

彼女は理解していたのだ。自身の身柄こそが、唯一この場で取引材料になる物だと。
そして、その身と引き換えにすることで高町家の者達を助ける事が出来る事に。

「やめてフィリス! そんなことしなくても、きっと恭也が!」
「そです! お師匠ならあんな気障ったらしい奴なんて必ず!!」

二人はなんとかフィリスを止めようと声を張るが、フィリスは悲しそうに瞑目して首を振る。
二人の言葉は優しく魅力的だが、同時に単なる希望的観測に過ぎないことも承知していた。
確かに恭也ならなんとかできるかもしれない。しかし、恭也以上に彼の膝の悪さを理解している彼女に言わせれば、そんなものは儚い幻想に過ぎなかった。

今なお恭也が駆けつけて来ない現状を考えれば、相手の実力は恭也に匹敵する。
そして、同等の実力を持つ者であるからこそ、膝に抱えた爆弾が勝敗を分けるのだ。
同等の敵と対峙した時、彼には残酷なまでに時間と切れる手札に制限が掛かるが故に。
長引けば長引くほど、恭也の勝ち目は薄れて行く。

その程度の事、武の心得のない彼女でもわかった。
いや、むしろ彼女にはイヤと言うほど分かるのだ。
何しろ彼女は、戦闘を目的に生みだされたHGSであり、その指揮官となるべく調整されていたのだから。

「ありがとう、二人とも。でも………………ごめんね」

そう言って、フィリスはフィアッセをやんわりと押し退けて一歩前に出る。
レンは敵と対峙しているが故に、フィリスの行く手を阻む事は出来ない。
だが、フィアッセにそんな事が納得できる筈もなかった。
彼女はフィリスを引きとめようと、背中から抱きつきそれ以上進ませない。

体格的にはフィアッセの方が優れているが故に、フィリスでは彼女を振りほどけないのだ。
いや、仮に振りほどけるだけの力があっても、恐らくは心理的に振り払う事は出来なかっただろう。
ましてや、こんな事を言われてしまっては尚更。

「行かせない、行かせないよフィリス! あなたを犠牲にしたって、私達は全然嬉しくない!
 恭也はフィリスを守るために戦ってるんだよ、なのにあなたが行っちゃったら……!!」

フィアッセの必死の言葉に、フィリスの顔が歪む。
もし傍で見ているものがまっとうな感性を持つ者なら、そのやり取りに心を震わせたかもしれない。
しかし残念ながら、コーキンの部下たちは任務にそんな私情を差し挟みはしなかった。

「もめているのなら手伝ってやろう。やれ!」
「させるかいな! しぇあ!!」

埒が明かないとばかりに迫って来る男達。
そんな彼らに対し、レンは変幻自在の棍さばきでその行く手を阻む。

薙ぎ、払い、突く。時に右手に持った棍に左手を添えてデコピンの如く、タメの要領で威力を増す。
あるいは、持ち手を入れ替える事で軌道を変え、予想外の角度から打つ。
そして次の攻撃の為に棍を引こうとした瞬間、レンは驚きの声を上げる。

「……なんやて!?」

無理もない。まさか、打たれる事をいとわずにごり押しするなど誰が予想しよう。
とはいえ、武器と言っても棍は打撃用の武器だ。
恭也の使う小太刀と違って、一撃受けたからと言って致命傷になる類のものではない。
当たり所によっては危険だが、逆にいえばあたる場所にさえ気を使えば多少の無茶はできる。

だからこそ、男達は多少打たれても気にせず前に進む。
急所への攻撃だけずらし、あるいは防御し、そのまま一歩ずつ深く深く踏み込んでいく。

レンはウエイトが軽く、筋力的にも晶に数段劣る。
筋力の差は技と戦い方の上手さでカバーしているが、ハードの性能ではレンは晶に遠く及ばないのだ。
晶を数メートル先まで吹っ飛ばせるのも、上手く戦いを運び、決定的な所で渾身の一撃を入れる事ができるから。
勝負を決める一撃を出すタイミングと出し方が絶妙に上手いが、基本的な攻撃力と言う意味でいえばレンのそれは決して高くない。

だからこそ可能なごり押し。男達のタフネスなら、レンの手数や急所を狙っての猛打に耐えられる。
敵の数が多い中で、威力の高い技を放つ隙は皆無に等しいのだから。
あとは危険な攻撃だけを見極めて防ぐことができれば、レンの棍とて恐れることはない。

「子どもかと思ったが、いい棍捌きをする」
「全くだ、出来るなら正々堂々死合ってみたかったが……残念だ」

男達はレンの棍に打たれながらも、口々にそう言って彼女を称賛し、こんな戦い方をせねばならない事を惜しむ。
こんな状況でさえなければ、面白い戦いができたかもしれないと。

しかし、今は互いに武の腕を競う決闘の場ではない。
男のうちの一人を殴り、一瞬棍の動きが止まった。
その瞬間を見逃さず、男の一人が棍を肘と膝で挟み打ちへし折ることに成功する。
そして、棍を折られたことで一瞬生じた隙を、男達は見逃さない。

レンを射程距離に捉えた男の一人が、彼女の脚目掛けてテッ・ラーン(ローキック)を放つ。
レンはそれを半歩下がって回避するも、続く横合いからのティー・カオ(飛び膝蹴り)がレンの側頭部を襲う。

「奮戦したが、ここまでだ…………死ねぇい!!」

直撃すれば、確実にレンを昏倒させるであろう強烈な膝。
不十分な大勢では回避は間に合わず、レンの細腕では防御もどこまで意味があるか。
だがそこへ、思いもよらぬ影がレンの上に覆いかぶさった。

「新島式、ジャンピング土下座!!!」
「ふぎゃ!?」

レンの上に覆いかぶさった人影により、レンはそのまま道場の床に押しつぶされ妙な声が漏れる。
しかしそのおかげで、ギリギリのところでティー・カオは空を切った。

「あ、あっぶねぇ~……! 後ろ髪が焦げちまった!?」
「あたたた、アンタいきなり何すんねん……って、大変…やなくて変態!?」
「やかましい小娘!! 俺様も焼きが回ったなぁと思ってんだよ!」

抗議の声を上げようとし、その人物…新島のあまりの恰好に戦くレン。
いや、それは正しくない。フィアッセにしてもフィリスにしても、その格好に唖然としている。
無理もない。なにしろその人物は……………パンツ一丁なのだから。
どうやら、逃げている間に得意の新島式脱皮術で時間を稼いでいたらしい。

しかし、レンに覆いかぶさった新島は有無を言わせぬ剣幕で怒鳴る。
らしくない、全く以って自分らしくないと思いつつ、彼はレンを助けた。
DofDの時もそうだったが、最近とみに人間臭さが増してきていると思われる。

「さっさと引くぞ! やれ、ネズミ!!」
「ぢゅっぢゅぢゅう!!」

新島の懐から現れた闘忠丸は、彼のパンツの下に仕込まれた物品の一つ引っ張り出した。
そこにあったのは発煙筒、それも彼が独自に手を加えた代物。
こんなものと持ち歩くなど普通は考えられないが、彼に言わせれば「総督の身だしなみ」である。

発煙筒からは尋常ではない量の煙が生じ、一気に道場の中を煙で埋め尽くす。
そうして男たちが視界を奪われている隙に、レン達の手を引いて新島は道場から離脱した。

「ええい、こんなことならマグネシウム発光弾でも持ってくるんだったぜ!!」
「ゲホ…ゲホ! そ、それでこの後どないするつもりや? 正直、うちじゃアイツらの足止めなんてできんで」
「んなこたぁわぁっとる! せめてジークがいればなぁ…アイツは今チベットだし、他の連中に連絡を取っても意味ねぇし。谷本ぉ、風林寺ぃ、そして兼一ぃ、さっさと助けにきやがれぇ!?」

何か策があるかと思いきや、完全な他力本願である。
まあ、良くも悪くも自分の力量を知っているのがこの男の長所なのだが……。

しかし、今はそんな悠長なことを言っている状況ではない。
新島に手を引かれ、同時にフィリスの手を引くフィアッセが背後の異変に気付く。

「っ!? 後ろ、追ってきてるよ!!」
「逃げろ! 全力で逃げろ!!」
「って、それしかないんかい!!」

新島の言葉に、思わず突っ込んでしまうレン。
新島一人なら逃げる事は容易いが、連れがいてはどうにもならない。
最早、誰かしらの救援を待つまで逃げるより、新島に策はないのだ。

「しょうがねぇだろ、服の下に仕込んだブツは全部使っちまったし、後はこのパンツを囮に逃げるしか……」

その言葉を聞き、思わず赤面する女性陣三名。
さすがに、その下にある物を拝みたくはない様だ。

だが、そうしている間にも追っては迫っている。
とそこで、重い緊張と度重なる激しい運動に、ついにレンの心臓が悲鳴を上げた。

「っ、ぁ……!?」
「レン!? どうしたの、レン!?」
「レンちゃん…まさか!?」

普段であれば、この程度の運動で音を上げるほど彼女の体も弱くはない。
しかし状況が状況だ。普段の運動や、晶との小競り合いとはわけが違う。
実戦の緊張感、守るべき者を背に置いての戦い、ギリギリまで追いつめられた事実。
それらが作用し、レンの心臓に多大な負担を賭けていたのだ。

心臓が跳ね、続いてその拍動が弱くなるのをレンは自覚する。無論、動悸などという生易しいものではない。
リズムが乱れ、その都度刻まれる形容しがたい痛みに脂汗が浮かぶ。
喉に詰め物をされたように呼吸ができなくなり、全身が鉛の様に重くなっていく。
視界はぼやけ、耳に入ってくる音はフィルター越しの様。
自分が立っているのか、それとも倒れているのかさえ判断できない。

必然、新島の手を握ることすらできなくなり、その手は呆気なく離れてしまう。
それに驚き振り返る新島だが、すでに遅い。
倒れそうな身体をなんとか支えようと三人は手を伸ばす。
だが、それより早く………男の一人が放った肘が背中からレンの心臓を打ちぬいた。

「邪魔だ、どけい!!」
「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っ!!!」

それが決定打となった。
声にならぬ、音にすらならない悲鳴。それがレンの口から洩れ、彼女は糸の切れた操り人形の様に地に伏す。
顔面は蒼白を通り越し、まるで死人の様に生気がない。
普通の人間なら遺体や骨折程度で済むそれも、レンにとっては致命の一撃だった。
よりにもよって、心臓に抱えた爆弾が起動したその時にこれでは。

フィアッセとフィリスはレンに駆け寄ろうとするも、レンとの間に男が仁王立ちしてそれもできない。
そして、新島もまた追い詰められていた。

(えーい、どうする、どうすればいい! 完全に追いつかれちまったし、数少ない戦力はあの有様。
 つーかあの倒れ方、顔色、どれをとってもヤベェ!)

武の心得はなくとも、様々な武術家の戦いを間近で見てきた彼には分った。
レンの命が風前の灯であること、今すぐ救命措置をしなければ本当に命が危ないことに。

だが、それをしようにも男たちが壁となって立ちはだかる。
戦力に乏しい今となっては、その壁を打ち破ることすらできない。
そう新島が判断したその瞬間、フィアッセが弱々しくレンに向かって手を伸ばす。

「レン? ねぇ、返事をしてよレン……なんで、どうして……」
「フィアッセ、落ち着いて!」

動揺の色を隠せず、明らかに混乱しているフィアッセをなんとかなだめようとするフィリス。
しかし、フィアッセの耳には届かない。彼女は目に涙を浮かべ、おぼつかない足取りでレンの下に歩み寄ろうとする。しかし、そこで男達の壁がそれを阻む。
その瞬間、フィアッセの背に漆黒の翼が広がった。そして……不可視の何かが男達を殴りつける。

「どいて…………どいてぇ――――――――!!!」
『ぐぉっ!?』

予想だにしなかった衝撃が胸を打ち、男達を弾き飛ばす。それも庭の端、塀にぶつかるまで。
放ったのはフィアッセ。彼女のHGSとしての力は弱いが、それでも総身の力を動員すれば人を弾き飛ばすくらいはできる。それも反動を無視すればの話だが、今がまさにそうだった。
身内が倒れたことで混乱し、暴走した力。その結果、瞬間的に男達を弾き飛ばせるだけの出力が出たのだ。

とはいえ、そんな事をすればフィアッセの体にかかる負担は想像を絶する。
何しろ、彼女の力は行使すると自身の体熱を急激に奪う。それは生命力と言い換えても良い。
熱量が足りなくなった個所の機能は停止し、それが長ければ機能になんらかの影響を与える。
最悪の場合、死ぬこともあるだろう。

今回の場合、人間数人を弾き飛ばすほどのエネルギーを使ったのだ。
一瞬のうちに総身の熱を奪われ、意識を失い倒れるのは必然と言えるだろう。

「フィアッセ、しっかりしてフィアッセ!?」

フィリスはフィアッセを抱きとめ、必死に声をかける反応がない。
それどころか、生きているとは思えないほど冷たい体温に戦慄する。
このままではレンだけでなく、フィアッセの命も危ない。医師として、彼女はそれを直感していた。
同時に新島もレンに駆けより、その状態を確認する。

「……おい、こっちもヤベェぞ! 心臓は止まってやがるし、息もしてねぇ! どうするよ!?」
「………………………………………あなた、救命処置は出来ますか?」

新島の報告に唖然とし、言葉を失ったフィリスだが僅かな沈黙の後にそう言葉を発した。
その意味を、新島は過不足なく理解する。

「出来ねぇこともないが、俺様にやれってのか?」
「ええ。フィアッセの症状は特殊過ぎて、専門の知識がなければどうにもなりません。
でも、レンちゃんの方なら、まだ……」
「まあ、HGSのことなんてさっぱりだからいいけどよ、なんとかなるのか?」
「…………………たぶん。こうして抱きかかえて力として発する前のエネルギーを送り込むことができれば……」

口ぶりから察するに、恐らくは理論的にはそれで何とかなる、と言うレベルの話なのだろう。
そもそも「力として発する前のエネルギーを送り込む」と言う事自体ができるかどうか……。
それは那美や神咲家の霊剣「十六夜」の得意とする癒しに近い事だ。
フィリス自身その存在は知っているが、自身にできるかは分からない。
だがそれでも、今はそれをするより他はないのだ。そして、それをできるのはこの場ではフィリスしかいない。

「一つ聞かせろ、アンタの力でAEDみたいにショックを与えることはできるか?」
「…………………出来ます。必ず、成功させてみせます」

新島の問いの意味を理解し僅かに逡巡した後、フィリスは意を決して頷いた。
本来、彼女の能力にそこまでの汎用性も威力もない。
しかし、出来ると言ったのには相応の訳がある。

(リスティは電撃系が得意だった。なら、同じ遺伝子を持つ私にだって……!)

それは、ある意味願望にも近い思いだろう。
そんなことはフィリスも承知していたが、それでも彼女はその可能性に賭けた。

新島はフィリスの言葉を信じ、レンをフィリスの傍にまで移動させる。
フィリスは眼をつぶり、意識を集中させて力の方向性をイメージさせることに全てを費やす。
そして……

「……………………………………………はっ!!」

微弱な力の全てを動員させ、彼女はレンの心臓目掛けてその力を叩きこむ。
力が弱い事が幸いしたのだろう。力が打ちこまれたその瞬間、確かにレンの心臓が大きく跳ねた。
それ自体は一瞬のこと、そのままであればただ一回跳ねてそれで終わり。
だが新島は、その瞬間を確かに見極めて心臓マッサージに入る。

「フン! フン! フン!」

一定のリズムでレンの心臓に衝撃を与える新島。それは実に基本に忠実で、教科書通りの心臓マッサージ。
しかし、続いて行われる人工呼吸は教科書のどこにも載っていない何かだった。

「受けるがよい! ミイラも息を吹き返す驚異の新島式人工呼吸法『デビルズキッス』! 黄泉帰れ!!!」
(な、何て無茶苦茶な事を……)

放送コードに引っかかりそうな出鱈目な何かが、いたいけな少女の唇に押し付けられる。
その様は、まるで魂を抜きとろうと接吻する悪魔の様。

だがその実、生みだされた結果はそれとは真逆のものだった。
新島のデビルズキッスが炸裂した瞬間、レンの体内に息吹以外にも得体のしれない何かが吹き込まれる。
それは瞬く間にレンの体の隅々まで行きわたり……

「…………カフッ!」

レンは危ういところで息を吹き返した。
弱々しくも確かに心臓が規則的な鼓動を刻み、呼吸によって上下する胸を見て安堵するフィリス。
新島もまた、何かをやり遂げたように満足げだ。
その間にもフィリスからのエネルギーの供給が功を奏したのか、フィアッセの顔色も徐々に良くなってきている。

これで終われば万々歳なのだが、そうは問屋がおろしてくれない。
庭の隅では、先ほどフィアッセの力で弾き飛ばされた男たちがよろよろと立ちあがってきている。
それを見てとり、新島の顔にも焦りの色が浮かんでいた。

(ちぃ、折角息を吹き返したってのに、このままじゃ元の木阿弥じゃねぇか……)

二人の状態が良くなってきている事は喜ばしい。
しかし、男たちがいる限りはどうにもならない。
新島の逃げ足があっても、人を一人担いで逃げる事は不可能だ。
まして意識不明の者は二人、それこそ話にならない。
だが突如、闇夜を切り裂く何かが飛来し男達を襲った。

「ぐおっ!?」
「な、なんだこれは!?」

響いたのは重い激突音と甲高い破砕音。
その音の正体は四角い形をした黒い物体……瓦である。
続いて新島の尖った耳に、待ちわびた二つの声が滑り込んできた。

「おい、生きてるか宇宙人」
「遅くなって申し訳ございません、お待たせいたしましたわ!」
「おお、来たかハーミット、それに風林寺!!」

高町家の屋根の上にいたのは、彼の高校時代の同級生達。
いくつかの足止めを薙ぎ払い、ようやく二人が救援に駆け付けたのだった。

これで高町家内部での闘争は決着したも同然。
所詮はコーキンの部下に過ぎない男達では、コーキンと同等かそれ以上の使い手に敵う筈もなし。
瞬く間のうちに叩きつぶされ、ようやく危機は去ったのだった。



  *  *  *  *  *



時は新島が高町家の敷地内に侵入して間もなくまで遡り、場面は再び高町家の門前に移る。
敷地内の事が気にかかり、目の前の敵…コーキンに集中しきれない恭也。

このままではいけない事は百も承知しているが、人の心とはままならないもの。
どれだけ自分自身に言い聞かせたところで、焦燥が消える事はない。
その結果、剣と拳が斬り結ぶ中に綻びが生じ、その隙をコーキンは容赦なく突く。

とはいえ、コーキンは決して無理に攻めようとはしない。
コーキンにとって、恭也は絶対に倒さねばならない敵ではないのだから。
しかし、だからと言って手を抜いて戦うようなコーキンでもない。

「ヒラン・ムアン・パンディン!!」
「ぐ、がぁ……!」

古式ムエタイの技の一つ『ヒラン・ムアン・パンディン(地を転がる金塊)』だ。
恭也が放った蹴り足を取った後、そのまま側面に回り込みながら首を狙って肘打ちするコーキン。
並みの者なら首の骨がへし折れるほどに強烈な一撃に、恭也の顔にも苦悶の表情が浮かぶ。
生来のしなやかな筋肉と日々の鍛錬による強靭な首が、その衝撃を受け止めなんとか骨折は免れた。

「こ、の…程度で!!」
「ふっ……」

肘が届くほどに接近したコーキンに対し、恭也はお返しとばかりに小太刀を斬り払う。
だがそれも、届く直前にコーキンが射程外に離脱したことで空を切る。

先ほどからと何ら変わらない繰り返し。
心の乱れにより恭也に生じたわずかな隙をコーキンがつき、反撃しようとすると離脱される。
いったい何度繰り返したかわからないが、恭也の身体はすでにボロボロだった。

それでも立っていられるのは、隙を突かれながらも辛うじて芯をずらしているから。
そうでなければ、今頃何回殺されていたか知れない。

「はぁはぁはぁ…はぁ……」
「しぶといな。だが、俺の部下たちが侵入してずいぶん時間も経つ、もうじきか」
(乗せられるな、焦った奴から死んでいくと昔さんざん教えられただろう!)

かつて父士郎が存命中だった頃、口を酸っぱくして言われた言葉。
それを反芻し、恭也は心を落ち着けようと努める。
しかし、続いて彼の耳に届いた声が静まりかけた心を乱す。

「レン!? どうしたの、レン!?」
「レンちゃん…まさか!?」

届いたのは、耳に馴染んだ幼馴染の声と最近出会った若い女医の悲鳴。
その声は恭也に、不吉な予想以外を許さない。
コーキンの言った言葉が、今まさに現実になろうとしている事を認めざるを得なかった。

「そうら!!」
「く、しまった……!!」

声に気を取られ、またも接近を許してしまう。
こめかみを掠めながらも、危ういところでコーキンの蹴りを回避する。

だが、コーキンの攻勢はまだ終わらない。
蹴りの勢いに逆らわず身体を反転させ背を向け、その状態から回転し下方から肘打ちする。

恭也はそれを半歩下がって回避しようとするも、肘は伸ばされた右拳が彼を襲う。
回避は間に合わず、なんとか左腕を盾にそれを防いだ。

自由な右手の小太刀で反撃しようとするも、やはり攻撃は精彩を欠いている。
小太刀を握る腕の軌道上に左腕を滑り込ませ小太刀を防ぎ、ティー・カウ・トロンが恭也の腹を穿つ。

「か、はぁ……」
「…………」

一端距離を置き無表情に恭也を見るコーキンの眼には、恭也の剣に宿る迷いが見えていた。
同時に、その迷いが大きくなっていることにも気付く。

守るための戦いをする者にとって、守る対象が見えないところで危険にさらされる事ほど厄介な事はない。
現に恭也は、とてもではないが実力を発揮しきれているとは言い難い。
そして、さらに追い打ちをかけるように……

「フィアッセ、しっかりしてフィアッセ!?」

という、フィリスの切迫した声が恭也の鋭敏な聴覚に届く。
コーキンはさらに恭也の心が乱れると考え、5mはあるであろう距離を一息に詰める。
しかし、フィリスの声を聞いた瞬間、恭也は自身の中で何かが壊れる音を聞いた気がした。

(俺は、こんなところで何をしている? この剣は、今まで磨いてきた技術は、いったい何のためのものだ?
 誰かを守るため、悲しみや痛みから守る、その為の力じゃなかったのか!? それなのに、自分の家族すら守りきれなくて、何が『守る剣』だ!?)

怒りが急速に恭也の中で大きくなっていく。敵に対するものではなく、自分自身に対するもの。
不甲斐なくも家族を危険にさらし、その家族を助けに行くこともできない自分。
怒りは沸点を超え、さらにどこまでも高まって行く。
やがて、上がるだけ上がった脳髄の熱は……………刹那のうちに絶対零度へと変じた。

その瞬間、怒りに曇った筈の恭也の視界がクリアになる。
雑念は消え、先ほどまで気になっていた外界のあらゆる情報が気にならない。
意識はただ、飛び上がり強烈な肘を打ちおろそうとする敵だけを捉えていた。

「…………………っはぁ!!」

右足を軸に身体を反転させ、恭也はコーキンの肘を回避する。
勢いをそのままに、コーキンの背後に回って一閃。
コーキンはギリギリで前方に身体を投げ出すことで回避しようとするが、その切っ先は彼の身体を確かに抉った。

それだけでは終わらず、まだ体勢を立て直して切れていないコーキンに恭也は追撃をかける。
尋常ならざる速度で距離を詰め、そのまま胴体に向けて飛針を放つ。
コーキンは座った姿勢のまま腕で飛針を払い落すも、その間に恭也の接近を許す。

「おおおお!!」

横薙ぎに振り抜かれる剣に、先ほどまでの迷いはない。
あるのはただ、敵を斬り伏せ打ち倒そうと言う研ぎ澄まされた意思のみ。

飛び上がることで横薙ぎの一撃をやり過ごし、そのままコーキンはその腕を取る。
それを支えに逆の拳を握り、「ルーシー・ハーン(仙者飛撃)」で恭也の顔面を殴った。

しかし、恭也はそれを回避しようとせず、敢えて頭突きの要領でそれを受け止める。
予想外の衝撃で痺れた拳に、コーキンの鉄面皮が僅かに崩れた。
その間に、恭也は逆手に持ちかえた小太刀でコーキンの右の大腿を斬り裂こうとする。

「そう簡単に脚はやらんぞ!!」
「ぐ、おっ!?」

狙われたのとは逆の足で恭也の脇腹を蹴り上げ、寸でのところで小太刀の軌道がぶれた。
おかげで、小太刀はコーキンの大腿を少々深めに切りつけるだけに終わる。

とはいえ、この僅かな攻防の間にコーキンの体には幾筋もの斬線が刻まれていた。
必然、彼の身体からはかなりの血が流れ、高価そうなスーツを血に染める。
無論、恭也とて無傷ではない。特に最後のコーキンの膝は、彼の肋骨にヒビを入れ呼吸するだけでも痛みが走る。
ダメージの上では恭也の方が大きいが、流れは恭也に傾いてきていた。

このままいけば、どう転ぶか誰にも分からない。
それこそ、塀の上で戦いを見守っている者たちにも。

「あの方、静のタイプの様ですわね。見事に静の気を練っていますわ」
「みてぇだな。怒りが沸点を超えて、かえって心を静められたか」
「まあ、身内が危険にさらされて心穏やかでいるのは難しいですから、無理もありませんわね。
 むしろ、ここにきて怒りを飲み込んでしまえる方が凄まじいですけど」

塀の上に立って観戦しているのは美羽と夏だ。
二人は到着して早々にコーキンの部下を昏倒させ、レンとフィアッセをベッドに移した。
今はフィリスが容体を見つつ、万が一にもあるかもしれない急変に備えている。
とそこで、塀の下から声が掛かった。

「ところでよぉ、おめぇら手を貸す気はねぇのか?」
「そう言われましても、ここで手を出すのも無粋ですし……」
「あの野郎が殺されようが知った事か」
「そうかい。ま、別にいいけどよ」

二人の返答に、塀の下からよじ登った新島は呆れた様に溜息をつく。
彼的には「袋にしちまえ」とか思わないでもないのだが、二人にその気はないらしい。
こうなったら何を言っても危機はしない事は承知しているので、彼も何も言わないのだ。

そうしている間にも、三人の眼下では壮絶な戦いが繰り広げられている。
小太刀と無手の応酬。互いに一所にとどまることなく、動きまわって隙を探り合う。
かと思えば唐突に彼我の距離は詰められ、二人の影が交錯する。

その度にコーキンの身体からは僅かな血飛沫が舞い、恭也の身体が横にずれる。
交錯するその瞬間に、恭也の小太刀がコーキンの身体を浅く裂き、コーキンの肘や膝が恭也の身体を打つのだ。
その攻防は、明るい昼間であっても常人に視認できる速度ではない。
美羽や夏でもなければ、二つの影が近づいたり離れたりする残影しか見えないだろう。

とはいえ、互いに決定打は入れさせない。
恭也は捨て身に近い踏み込みで打点を殺し、あるいは着実に打撃の芯を外してくる。
コーキンもまた小太刀の軌道を読み、体をずらして刃筋を立てさせない。
接近され打点を殺されれば打撃の威力は半減し、芯を外されば威力は拡散し狙ったダメージは通らないからだ。
同様に、単純な腕力だけで人は斬れない。体重を乗せ、刃筋を通さねばならないが故に。

互いにそれを熟知しているのだろう、巧みに相手の必殺の一撃を無力化していく。
しかしそれは、一瞬でも致命的な隙を晒し反応が遅れれば、それが命取りになる事を意味する。
互いの読みが、動きが拮抗しているからこそ、死と紙一重の演舞は続いて行く。

とそこで、コーキンは唐竹に振り下ろしてくる恭也の腕を取り、さらに動を薙いでくる腕を抑える。
そしてさらに一歩踏み込むことで恭也の重心を浮かせ、投げる。
これまで使って来なかった投げ技。それ故に恭也の反応が遅れた。

恭也は投げられながらもその手を弾き、地面に叩きつけられることなく宙に放り出される。
軽業師の様に軽い身のこなしで体勢を立て直す恭也。だがそこへ、コーキンの飛び膝蹴りが恭也を襲う。

恭也は腕を十字に交差し受け止める。
覚悟していても痛烈なその衝撃に、思わず苦悶の声が漏れた。

「ぐっ!?」
「かぁっ!!」

続いて脳天に振り下ろされる二つの肘。直撃すれば、頭をかち割られどころでは済まない。
『ハック・コー・エラワン(魔象の首折り)』と呼ばれる、本来は相手の脚を踏み台にして放つ技。
この肘と膝に挟みこめば、頭部を潰すことさえ可能とするだろう。

だが、恭也とてそのままでいる気はない。
膝の衝撃を逆に利用し、体をのけぞらせそのままバク転に移行する。
結果、コーキンの肘は空振りに終わった。

そして、コーキンが着地するより早く道路を蹴る。
いつの間にか小太刀は納刀されており、それは抜刀の構え。
制空圏内にコーキンを納めると同時に、恭也は骨の髄までしみこませた動作で抜刀した。

「はぁぁあぁああぁぁ!!」

二本の小太刀が僅かに時間差をつけながらコーキンに迫る。
コーキンは片足立ちになって体を大きく横に倒し二刀を回避した。
しかしコーキンもそれで終わらず、身体を横に倒すことで生じた強烈な回転を利用し、渾身の膝を恭也の胸目掛けて放つ。

「ヤン・エラワン(白神象の領域)!!」

かつて、一度は兼一の息の根を止めた必殺の膝「ヤン・エラワン(白神象の領域)」。
まともに食らえば、恭也とてただでは済まないその一撃が迫る。

恭也の身体能力を以ってしても、回避不能の体勢。
この一撃が決まる事をコーキンも、塀の上で観戦する者達も確信した。
これで勝負が決まるとは限らないが、それでも多大なダメージは覚悟せねばならないと。
そう、夏と恭也の二人をのぞいて。

コーキンの膝が胸に突き刺さるまで刹那もないその時、恭也の視界が色を失った。
ただでさえ暗い夜の住宅街は、モノクロの世界へと変じる。
その瞬間あらゆる音が消え、恭也の視界にある全ての存在の動きがスローモーションの様に遅くなった。
全ての動きが緩慢なその世界を恭也は駆ける。

コーキンの膝を射程外まで下がってかわし、即座に大地を蹴った。
それは、とても妙手のレベルとは思えない速さ。

御神流奥義の歩法「神速」。
達人ならいざ知らず、同じレベルにいる者同士ならこの技が発動した瞬間に、絶対的な速度の差が生じる。
元の速度が同等であるが故に、限界以上の速度で動けば彼我の速力に差が出るのは必然だった。

最早コーキンと恭也は同じ時間の中にはいない。
故に、恭也が背後にまわって斬りつけようとしても、コーキンに反応できる筈がなかった。
………………にもかかわらず、背後から迫る恭也の斬撃にコーキンは振り向きざまの肘を合わせてくる。

結果、恭也の一太刀は確かにコーキンを捉えながらも決定打には至らない。
カウンターの肘が入ったことで、恭也の斬撃も振り抜く事が出来なかったためだ。
しかし、恭也はコーキンが神速に反応して見せたことにあまり動揺はしていない。

(………やはり、反応してきたか)

以前戦った夏もまた、神速に反応してきた。
故に、それ自体は驚くに値しない。十分予想してしかるべきこと。
予想外な事があったとすれば、先の人たちをかわすことなくカウンターを合わせてきたことか。

そうして再度距離を開ける二人。
互いに表情は硬いままだが、恭也の膝は限界が近づいていた。

(……あ、ぐっ……。たった一回でこれか…だが、ここで止まるわけにはいかない!!)

コーキンに悟られないよう、無表情を装って膝から発する激痛に耐える恭也。
神速を一度使った以上、もう先ほどまでの様に動き回る事は出来ない。
神速が体にかける負担は尋常なものではなく、膝に爆弾を抱える恭也なら尚更だ。
気を失いそうな痛みを無視して戦うには、痛覚その物を遮断してしまう神速で挑むより他はない。

故に、恭也は再度神速の領域に踏み込む。
だがそれでも、コーキンは紙一重のところで回避し、あるいはカウンターを合わせて立ち続ける。
通常であれば反応すること事態至難な速度に対応できるのは、ひとえに彼の経験のなせる技だった。

(眼で追うことすら困難とは………日頃からクルー・アーガードの動きを見ていなければ、対応できたかどうか……)

達人、それも一影九拳という最高レベルの達人を師に持つからこそ、彼は恭也の動きに対応できていた。
それは夏にも言えたこと。要は、彼らは恭也の神速と同等かそれ以上の速度で動ける生き物を知っており、毎日の様にその突きや蹴りに晒されてきたからこそ、恭也の動きに対応できたのだ。

とはいえ、やはり速度差は歴然。
後出しで対応する事は出来ても、先手を取る事は出来ない。
先手を取ろうにも、恭也の速度がそれを容易く追いぬいてしまう。

そうして、一見すれば一方的な恭也の攻勢が続いて行く。
しかし、対応できるが故にコーキンはその悉くを防ぎきる。
その現実に、恭也の心のうちに焦りが生じ始めていた。

(神速を維持できる時間が、徐々に短くなっている。このままだと、いつ打ち止めになるか……)

神速に入り、抜けては即座に入り直す事を繰り返して十回。
すでに限界は超えている。それでも続けていられるのは、彼の意思の強さの賜物だった。
打が限界を超えた代償は確かにある、神速の意地時間が確実に短くなっているのだ。
いずれは心ではなく体が音を上げる。物理的に、構造的に身体がもたなくなるのだ。

(恐らく、奴もそれに気付いている。こんな技、多用できる筈がないのは自明。
 なら、奴は俺が止まる瞬間を待っている……)

故に、恭也にできる事は止まる前に勝負をつけること。
止まってしまえば、これまで蓄積した負担と疲労が一気に爆発する。
そうなれば、最早恭也は立って戦うことすらできなくなるだろう。
その前に目前の敵を倒す以外、恭也に勝機は残されていない。
そう…思っていた。

神速の維持時間が限界に達し、恭也の意思に関わらず神速が一端解除される。
その瞬間、専守防衛を続けていたコーキンが動いた。

「…………っせぇ!!」

恭也が神速に入り直すまでの一瞬の間、その間にコーキンの蹴りが恭也の二の腕を打つ。
まるで狙い澄ましたかのようなタイミングで放たれたそれに、恭也のリズムが崩れる。
神速に入るタイミングを外され、強烈な蹴りで恭也の体が横に弾かれた。

(バカな……まさか、神速を抜ける瞬間を狙ったのか!?)

恭也の驚愕の度合いは計り知れない。
神速の速度を追うだけならいざ知らず、そこから抜ける瞬間を見極めて攻撃してくるなど、誰が予想しよう。

しかし、それは同時に最も理にかなった攻撃でもある。
神速を相手に速度で及ばない以上、神速の最中に攻めても徒労でしかない。
だが、動きだしたからにはどこかで止まらなければならないのも物の道理。
その止まり再度動き出すまでの間こそが、最も無防備な瞬間なのだ。

「その技の分析はすでに終わっている。
持続時間、再度技に入るまでのインターバル、使用に伴う負荷及び持続時間の減少幅、全て把握した」
(舐めるな……と言いたいところだが、ハッタリではない事は既に証明されている)

コーキンの怜悧な頭脳は、その言葉通り恭也の神速を完全につかみとっていた。
そうでなければ先ほどの攻撃が説明できない。偶然で済ませるには、あまりにも絶妙すぎた。
コーキンは守りに徹しながらも、冷静に神速と恭也の状態を分析し続けていたのだ。

「使いたければ使うがいい。技が途切れるその度、お前を打つだけの事だ」
「やれるものなら……やってみろ!!」

スタンスを大きくとり、恭也はまたも神速に突入していく。
抜けるタイミングを掴まれ狙われているとしても、彼には最早これ以外に選択肢がない。
彼の膝は、すでに通常戦闘が出来るような状態ではなくなってきているのだ。
神速を使う事をやめれば確実な敗北が待っている以上、動かなくなるまで神速を使い続けるしかない。
痛みを無視し、限界を無視し、断崖絶壁に向かっていくようなものだとしても。
崖を落ちる前に敵を倒すより他に、彼に許された道はないのだから。

そんな恭也に対し、コーキンは神速が途切れるまでじっと耐え忍ぶ。
コーキンは「機を待つ」事の出来る男だ。焦らず、慌てず、好機を待つ。
その好機が遠くないうちに来ると分かっていれば尚更だ。
後はひたすら、好機が来るまで自分自身を守り抜けばいい。

「ぜああああぁあああああああぁぁあ!!!」
「………………」

圧倒的な速度から繰り出される恭也の猛攻に対し、コーキンは身体をできるだけ小さくまとめて刃に対する面積を減らす。武器を相手に戦う際のセオリー、彼はそれを忠実に実行する。
辛うじて眼で追えるか否かと言う速度から繰り出される斬撃。

その斬撃を“流れ”で捉え、最小限の動きでかわす。
速度で勝る相手に無駄な動きをすれば、その隙を突かれる。
故に、徹底的に無駄を削ぎ、多少刃が身を削る事をいとわない。
重要なのは、神速が解けるまで自分自身を守り抜く事にあるのだから。

守りに徹し、時にカウンターを合わせ威嚇するコーキンを、恭也も攻めきれない。
神速の速度を完全には御しきれていないのだ。

限界を超えると言う事は、必然的に動きに粗さが生じる。
神速を極めれば話は別だが、未だ恭也はその段階に至っていない。
あるいは、この膝がある限り至れないかもしれない。
その粗さをコーキンは掻い潜り、やがて恭也の神速が解けた。

その瞬間、恭也の眼前を蹴りが通り過ぎる。
神速が解けた瞬間を狙うと分かっているなら、その準備をしておくだけ。
あらかじめ攻撃される事を予想し、回避可能な体勢で神速から抜けたのだ。

恭也はコーキンの足を抱え際に刃を 立て、垂直に切り裂こうと小太刀を振り下ろす。
御神流の基本技の一つ「掛弾き」。本来なら、斬り裂きつつ相手を転ばせとどめをさす技だ。

「らぁっ!!」

しかし、コーキンはひるむことなく恭也の小太刀を殴りつけ軌道を外す。
辛うじて小太刀を取り零す事は防ぎ、恭也はさらに追撃をかける。

放つのは柄尻を用いての鳩尾への打撃。
距離が近く蹴りは放てず、刃を向けている時間も惜しんでの選択。
飛び上がるかのように大地を蹴り、全体重を乗せて振り抜く。
そしてその瞬間、恭也の小太刀の柄尻とコーキンの肘が擦れ違った。

「「………………かはぁっ!?」」

漏れた声は二人同時。それぞれの攻撃は見事にお互いの鳩尾に突き刺さり、胃液が逆流するのを堪える。
強靭な腹筋を貫き、二人の攻撃は互いの内臓に充分な痛手を与えていた。

だが二人は、震える膝を叱咤し立ち上がる。
ここで膝を屈するわけにはいかないが故に。
そうして、先に動き出したのは………………………………………恭也だった。

(今が好機、このチャンスを逃せば次はない!)

がくがくと震え、限界を訴える膝から最後の力を振り絞るべく神速に入る。
立ち上がる事さえつらい状態で戦うべく、本当の意味で限界以上の力を振り絞った。
おそらく、この神速が最後。これが決まっても決まらなくても、もう神速は使えない事を恭也は悟っていた。

「はぁあぁぁぁあぁ!!!」

放つのは刺突。最早刀を薙ぐ余力すらないが故の、単純な突進からの刺突だった。
小太刀はまるで吸い込まれるようにコーキンの体に迫り、その身を貫いた。

ただし………………………………彼の左の二の腕を。
二の腕を盾に、恭也の刺突を回避したのだ。

引き抜こうにも筋肉の締め付けに寄り抜く事が出来ない。
やむなく、恭也は即座に残った一刀でコーキンの身体を斬り上げる。
既に、自身が神速の領域にいるかどうかすら判然としない中での斬撃。

その一撃を、コーキンは跳躍して回避する。腕に突き刺さった小太刀は、未だ刺さったままだ。
だがコーキンはそんな事を気にするそぶりも見せず、高く飛び上がり空中に浮いた状態で肘を振り下ろす。

「ガーンラバー・ラームマスーン・クワン・カン!!!」

全体重を乗せ、重力と落下の速度、さらには全身の筋力を動員しての『ガーンラバー・ラームマスーン・クワン・カン(爆ぜる斧を撃ち振る雷神)』。
恭也は斬り上げた左の小太刀を戻し、その一撃を受ける盾とする。
しかし、元より日本刀は斬れ味にこそ優れていても強度はそれほどではない。
この一撃を受け止め……………半ばからへし折れた。

だが、それでも確かにコーキンの必殺の一撃は回避できた。
恭也は折れたままの小太刀を手に、限界以上の力を振り絞ってコーキンの真横に一歩踏み出す。

そこで、ついに恭也の体は力尽きた。
コーキンの横を通り抜け、そのまま倒れ込むようにしてアスファルトの道路に身を横たえる。
しかしその瞬間、コーキンを中心に真紅の花弁が舞った。

「…………………がはぁ!?」

左の脇腹から右の肩にかけて描かれる赤い線。
それは擦れ違いざまに恭也が一閃した斬線。
大技の後の僅かな隙を突き、恭也が放った起死回生の一撃だった。

「……………く、はぁはぁはぁ……」

コーキンはまだ辛うじて立っているが、すでに満身創痍なのは誰の目にも明らか。
おびただしい出血をこのまま放置すれば、失血死するのも遠くない。
だがそれでも、コーキンは倒れた恭也にゆっくりと歩を進めていく。

傷口を左腕で押さえながらも、右手は拳を握っていた。
応急処置よりも、恭也にトドメを指す事を選んだのだろう。

しかし、その拳が振り下ろされる事はなかった。
なぜなら、恭也にトドメを指すよりも前に……コーキンもまた倒れたのだから。

(全身の精査完了。戦闘の続行は不可能と判断。
それにこの出血、放置すれば……死ぬな)

自身の体を鑑みて、コーキンは尚も冷静に分析を続ける。
自身の死が近い事を、彼はどこまでも冷徹に受け止めていた。

「高町恭也…………この勝負、貴様の勝ちだ」
「な、に?」
「最後まで立っていた者、生き残った者こそが勝者。ならば、このままいけば生き残るのは貴様だろう」

疑問符を浮かべる恭也に対し、コーキンはそう告げる。
それは数多の死線を越えてきた彼ららしい結論だっただろう。
尚も何か言おうと恭也が口を開きかけるが、それより早く張りのある力強い声が頭上から響いた。

「その通りだ!」

落下してくるのは褐色の巨体。
その主はコーキンの真横に降り立ち、ゆっくりと立ち上がる。

「申し訳ありません、クルー・アーガード」
「気に病む事はない。いい勝負だったぞ、コーキン。
 命を賭け、最後まで勇敢に戦った勇者を誰が責める。私はお前を誇りに思う」
「それでも俺は敗れ、あなたの顔と門派に泥を……」
「ならば、この敗北をバネにさらに精進しろ!
 生きていれば、再戦の機会もあろう。泥など、その時にすすげばいい!」

聞く者を魅了するような貫禄に満ちた声で、アーガードはコーキンを讃え励ます。
コーキンは彼の弟子として恥じぬ戦いをし、その上で敗れた。
手塩にかけて育てた弟子の敗北は確かに口惜しくはあるが、それでもコーキンに対する失望はない。
あるのは、『次こそは勝つ』様にこの弟子を鍛え直そうと言う意思であり、良き弟子を持ったと言う誇らしさだけだった。同時に、恭也への称賛の念も惜しまない。

「そして、見事だった小太刀使い。お前の雄姿、確かに見届けさせてもらったぞ」
「それで、アンタはどうするつもりなんだ? まだフィアッセ達を狙うと言うのなら……」
「あまり安く見てくれるな。武人として、師として、弟子の誇りを汚すことなど俺にはできんよ」

恭也の言葉にそう答え、アーガードはコーキンに応急処置を施していく。
どうやらその言葉通り、弟子の戦いに介入する意思はない様だ。
今はただ、死にかけている弟子を助ける為に出てきたのだろう。
そうして一通りの処置を終えたところで、唐突に視線を横に向ける。

「ところで、久しいな『無敵超人』の孫娘、『拳豪鬼神』の弟子、それにアパチャイの弟子の友」
「………………そうか、一向に部下たちが戻ってこないと思えば、お前達の仕業だったのか」
「……………お前達は?」

アーガードの視線を追い、コーキンと恭也も塀の上を見上げる。
そこには恭也としては初見になる顔が二つ。
恭也はその横に立つ新島の存在から、恐らくは兼一の関係者だろうとあたりをつける。

「しかし……………久しいな、ハーミット」
「なんだと!?」
「ああ、そう言えば素顔を見せるのは初めてか。久しぶりじゃねぇか、高町」
「お前、何をしに……!」

否定しない夏に対し、恭也は両腕を突いて身体を起き上がらせようとする。
しかし、身体は言う事を聞かず起き上がろうとしても力尽きて再び地に伏してしまう。

「そこのくたばりぞこないはどうでもいいとして、一つ聞かせろコーキン。
 てめぇ、白浜の野郎にアイツを殺させるつもりだったのか?
 しばらく見ねぇ内にずいぶんとせこくなったじゃねぇかよ、ええ?」
「下らん事を………奴が、白浜兼一がそう簡単に死ぬような男なら、当の昔に俺か、お前か、あるいは他のYOMIが殺している。違うか?」
「…………………確かに、あのバカのしぶとさはゴキブリ並みだからな」

そう確認し合い、二人はくもぐもった笑い声を洩らす。
過去の思い出、決闘の記憶を反芻しているのだろう。
とそこで、新たな影が空から降ってくる。

「あら、しぐれさん?」
「来たか、アパチャイの弟子!」
「ん? お前はたしか、裏ムエタイ…の?」
「あ、アーガードさん!? それにコーキン!? まさか、今回の事はあなた達の仕業だったんですか!?」

ようやく追いついてきたしぐれと兼一は、それぞれに違った反応を示す。
とはいえ、その間にあまり険悪な雰囲気はない。

コーキンは憮然としている…と言うよりも、ライバルに敗れた姿を見られて不機嫌なだけだろう。
アーガードは二人に対し人懐っこい笑みを浮かべ、特に兼一には好意的な雰囲気が満々だ。
しぐれの方は良くわからないが、兼一としても驚いているだけで敵意の類はない。
むしろ、アーガードの名を呼ぶ声には、どこか敬意の様なものが宿っている。

「はははは、壮健なようで何よりだ、アパチャイの弟子! 相変わらずボロボロなようだな!」
「え、えっと、おかげさまで……」

妙にテンションの上がっているアーガードにおされぎみの兼一。
と言うよりも、一体どうリアクションを返していいかわからない感じだろうか。

「さて、旧交を温めたいところだが、そうもいくまい。何より、今回は別件でな」
「それは、どういうことですか?」
「なに、お前達にとっては悪い話ではない。今回の依頼人が、先ほど香港警防に捕まった。
 これで今回の依頼は白紙、私はそれを知らせにきたにすぎん」

それはつまり、中国にいる剣星や今言った香港警防が上手くやったのだろう。
同時に、これでコーキン達と戦う理由が消滅した事を意味する。

「っていうか、それならさっさと止めてくださってもよろしかったんじゃありませんの?」
「はははははははははは! そう言ってくれるな! これほどの名勝負に、水を差せるわけがなかろう!」

悪びれた風もなく、いたって陽気に美羽のジトッとした目に答えるアーガード。
武芸者の性なのかもしれないが、恭也としては堪ったものではなかっただろう。
何しろ、もう戦う必要などとっくの昔になくなっていたのだから。
そんな恭也の事は加齢にスルーし、アーガードはコーキンを抱えて全員に一礼する。

「では、我等はこれで失礼する。諸君、また会う時まで壮健でいてくれたまえ。さらば!」

そう言ってアーガードは天高く跳躍する。
見上げれば、遥か上空にはホバリングするヘリの姿。
その扉は開け放たれ、一本のロープが垂れ下がっている。
飛び上がったアーガードはそれを掴み、瞬く間のうちにヘリの中へと入って行った。

おそらく、美羽達に倒されたコーキンの部下たちはすでに回収済みなのだろう。
闇の一影九拳の一人とは言え、彼は基本面倒見の良い好漢だ。見捨てることなど到底考えられない。

嵐の様な勢いでやってきては去って行ったアーガードに呆然とする一同。
とりあえず、高町家の中に移って治療及び事情説明することを提案する美羽。
美由希達が合流するのは、これよりさらに十数分後の話だった。






あとがき

さぁて、とりあえずこれでバトルパートは終了です。
…………………正直、無手と武器の戦いってやりづらいことこの上ないことを痛感しました。
だって、刃物相手に防御って防具なしだと危なっかしくて仕方ないんですよね。
コーキン防具とか付けない派の人っぽいですし、そうなると対処手段が減るんですよ。
おかげで戦いの運び方に未だかつてないくらい苦労しました。
はっきり言って、上手くやれているのか自信がありません。

まあ、それはともかく。
一応、次で恭也達は梁山泊に向かうことになるんじゃないですかね?
事情説明はおおむね省くつもりですし、そうなると後はそれくらいですから。
さらに言うと、たぶん次でこのSSは一応の締めとなると思います。
早い話が、次がエピローグみたいなものです。
兼一と恭也のバトルは……………あるかな? まだちょっと未定ですので、書いてみて考えようと思います。

続きは書こうと思えば書けるでしょうが、その場合は新章とかそういう扱いですね。
やるとしたら、美沙斗と戦うチャリティコンサートのアレとか、イレインとかが出てくる月村家編とかになると思います。

いつかはやるかもしれませんけど、とりあえず先に最近妄想が止まらないリリなのとケンイチのクロスでもやりたいと思います。ちょっと色々ハードルと言うか課題の多い組み合わせだと思いますけどね。
その場合はそこそこ長くなると思いますので、ヒロインとかも設定することになると思います。
有力候補は、シャマルとかギンガかなぁ…………個人的に好きなんで。後はフェイトも。



[24054] BATTLE FINAL「その名は梁山泊」
Name: やみなべ◆d3754cce ID:1963cf14
Date: 2011/01/31 12:36

辛うじてコーキンを退けたその後。
とりあえずは美羽の提案通り、一端は高町家の居間で各々傷の治療にあたった。

しかし、レンは一度死にかけ、フィアッセはかなりの無理をしている。
いつ容体が急変しないとも限らないと判断したフィリスは、即救急車を手配。
皆はそれに同伴する形で、今は海鳴大学附属病院の一室に詰めている。
とそこへ、電話で大雑把な事情を知らされた高町家の大黒柱、桃子が到着した。

「フィアッセ、レン!! 恭也、二人は大丈夫なの!? どうなの!? がくがく首を振ってないではっきりしなさい!!! ああ、もしも二人に何かあったらティオレさんと小梅になんて……!!」

どうやら、実にいい具合に混乱しているらしい。
病室にかけ込むや否や、恭也の襟首を掴んで前後に激しく揺さぶっているのだから。

まあ、無理もあるまい。電話越しでは詳しい事は聞かされなかったが、それでも二人が病院に搬送された事は知らされている。そして、保護者役として二人の身体の事情を桃子は承知していた。
だからこそ、この二人の場合「万が一」が起こりうることも知っている。

二人の家族は桃子を信頼して預けてくれているというのに、もしものことがあっては顔向けできない。
なにより、二人は桃子にとっても我が子同然。我が子の命の危機に、どうして親が平静でいられよう。
その意味で高町桃子は実に良い、理想的な母親だった。
とはいえ、今まさに息子の命が風前の灯だったりするのだが……。

「か、かーさん…落ち着いて! お願いだから落ち着いて!!」
「お母さん! お兄ちゃんの顔がドンドン青白くなってるよぉ!?」
「お~、ありゃあ完全に締まってるな」

暴走する母をなんとかなだめようとする娘二人。
しかし、それでも桃子の暴走は止まらない。頸動脈どころか気道その物を締められている恭也の顔色からは、刻一刻と生気が失せて行く。折角コーキンとの死闘に生き残ったというのに、まさかこの場面で最大の命の危機が待っていようとは、さしもの恭也にも予想できなかった。
傍で見ている新島も、その見事な締めっぷりに感嘆の声を漏らしているほどだ。

その後、晶と那美、あとほのかも協力して恭也の首から桃子の手を引き剥がす。
おかげで、なんとか桃子が誤って息子を殺す事だけは防がれた。
ただし……

「と、父さん。え? 何を言ってるんだ? 今川を渡るから、もうちょっとはっきり……」
「わぁ~~~~~~~!? 恭ちゃん、逝っちゃダメェ!!!」
「師匠、カムバ―――――――ック!!!」
「お兄ちゃ―――――――――――――――――――――――ん!?」
「まったく、騒がしい連中だぜ。夜の病院で何を騒いでやがる。つーか、いっそ死ね」
「なん…だ。結構元気じゃない…か」

騒ぎわめきたてる高町家に対し、少し離れたところで見守る夏としぐれ。
この二人からすれば、この程度騒ぐに値しない。何しろ臨死体験など、梁山泊では日常茶飯事なのだ!?
この程度で一喜一憂しているようでは、心臓がいくつあっても足りないのだから。

そうして通りがかった看護師の女性に怒られるまでしばし。
なんとか落ち着きを取り戻した桃子に、恭也と美由希が分かる範囲で事情を説明した。

そこで桃子はようやく状況を理解する。
フィアッセとレンはとりあえずもう命の別状はない事。
いまは、別室で経過を見ながらフィリス他の医師達が診ている事。
ほのかの兄である兼一とその友人達が今回の件に関わっている事。
兼一と美羽の二人は携帯電話を使うために病室を離れている事を。

そして、桃子が病室に到着して数分後。
兼一と美羽が病室に戻ってきたところでフィリスも合流し、今回の背景について説明がなされたのだった。



BATTLE FINAL「その名は梁山泊」



掻い摘んだ事情説明。もちろん、隠すべきことは隠してある。
とはいえ、兼一達も知らない事は多いので、そう多くを語れるわけでもなかった。
何しろ、兼一達もなぜ「フィリスが狙われなければならなかったのか」を知らないのだから。
フィリスの出自、その過去、どれも非常に重い話であると同時に、個人のプライバシーだ。
それを侵害するような情報を、依頼主は敢えて出そうとはしなかったのだ。

しかし、表面的に過ぎないその内容でも、高町家の面々は驚きを隠せない。
多少裏の世界に関わりがあるとはいえ、父士郎亡き今となってはその繋がりは希薄だ。
聞かされた事情は、充分に彼らの日常と常識を打ち壊すに足る。

だが、当事者であるフィリスにはそれほど驚きはなかった。
LC-23と言う名称を出された段階で、ある程度予想していたのだろう。
実際、依頼主の中に彼女にとっても旧知の間柄である『菟弓華』と『陣内啓吾』の名があったことも、彼女に冷静な思考を呼び戻す一因だった。
しかしそれは、決して心が穏やかである事とイコールではない。

「…………………………………ごめんなさい、みなさん。私の事情に巻き込んでしまって。
 医者が患者さんを巻き込んで危険にさらすなんて、笑い話にもなりませんね。……ホント、笑えないですよ」
「フィリス先生……」

なんとか気丈に振舞いながら頭を下げるフィリスに対し、高町家の面々は沈痛そうな面持ちだ。
これはフィリスの責任などではないし、誰も彼女に悪感情を抱いてなどいない。
あるのは、身勝手な理由で彼女の平穏を乱した者たちへの義憤と、下らない欲望で家族を傷つけられた怒りだけだった。
フィリスとて彼らが自分を責める気などない事は承知してるが、それで巻き込んでしまった者の心が軽くなるとは限らないのだから。

とはいえ、いつまでも自責に駆られていても仕方がないのも事実。
フィリスとしては、一つ確認しておかなければならないことがある。

「………私が狙われたという事は、きっとリスティやシェリーもなんでしょう?
 それに、もしかしたら知佳も。三人は…大丈夫なんですか?」
「安心してください。仁村知佳さんとセルフィ・アルバレットさんには僕の師匠達がついています。
 今確認しましたけど、二人とも何が起こったか気付いてもいません」
「敵組織の方も、香港警防と鳳凰武侠連盟の共同作戦で壊滅したことを確認しましたわ。
 しぐれさんの方も問題なかったのですわよね?」
「ん」

美羽の問いに、しぐれは小さく首を縦に振って応える。
彼女は扉近くの壁に背を預け、愛刀を抱くようにして油断なく周囲を警戒していた。
その警戒対象には、高町家とその関係者一同も含まれる。
彼女からすれば、梁山泊の家族たちや兼一の友人たち以外はすべて警戒対象なのだろう。
兼一が梁山泊に来る前など、梁山泊の面々にすら心を開かなかったほどだ。
その頃に比べれば、単に「警戒している」だけにとどめているだけ大幅な進歩だった。

まあ、そんな事は彼女を知らぬ面々には関係ない事だし、そもそも警戒されていることすら気付いていない。
それほどまでに、彼女の警戒はさりげなく自然体で行われているのだ。

そうして、とりあえずは関係者一同の安否を確認して緊張が解けたのだろう。
フィリスはその場に力なく座り込み、ほっと一息つく。
フィアッセやレンの事を診ている間も、恐らくはずっと心配していたのだろう。
その肩はつい先ほどまでの恐怖と緊張を思い出してか、あるいは安堵の為か、小刻みに震えている。
とそこで、ようやく周りの事に目をやる余裕が出てきた美由希が問う。

「あの…それで、さっきから気になってたんですけど…………そちらの方は誰ですか?」

そう言って美由希が視線を向けたのは、彼女からすれば全く見覚えのない人物。
しぐれよりもさらに皆から離れたところに陣取り、不機嫌そうに眉間にしわを寄せた男、谷本夏だった。
そのすぐ横にはほのかがたたずんでいることから、彼女の関係者なことは分かっているのだろう。

しかし、美羽と違ってどういう間柄なのかまだ聞いていない。
美由希が疑問に思うのももっともだろう。だが、そこでその疑問に答えたのはほのかでもなければ兼一でもなく、ましてや夏自身でもない。それは、彼女の兄恭也だった。

「そいつは……………ハーミットだ」
『ええ!?』

恭也の言葉を聞き、高町家の皆は一様に驚きを露わにする。
それも当然だろう。先日自分達の前に現れ、一方的に恭也にケンカを売った張本人。
あの時は夜の暗さとフードで顔は確認できなかったが、恭也が言うのだから皆疑う気はない。

だが、なぜあのハーミットがこの場にいて、恭也に手を貸し、ほのかが親しそうにしているのか。
一から十まで分からないことだらけだった。そして、それはもちろん恭也も同じである。
故に、恭也はかなりの威圧感を込めた視線で夏を射抜く。

「どういうことか、説明してくれるんだろうな?」
「なっちー、いったいみゆきち達に何したんだじょ?」
「別に……少し前に軽く手合わせしただけだ」
(絶対に軽くないじょ~、これは。なっちーが間を開ける時って、絶対何かをはぐらかす時だし)

いい加減長い付き合いであり、夏観察にかけては第一人者のほのかには夏が「真実」を話していないことは容易に察しがついた。
そのため、夏に続いてその言葉が正しくない事を声高に主張する晶や美由希の反応を聞いても、彼女はそれほど驚かない。

「何言ってんだ!! いきなり師匠にケンカ売って、好き放題言ってやがったくせに、どの面下げて……!!」
「そうだよ! 大怪我こそしなかったけど、そんなのただの偶然だもん!!」
「なっちー、まぁたそういうことやってんの? お兄ちゃんの時もバスの上でケンカしたって聞いてるじょ」
『バスゥ!?』

ほのかの口から洩れた言葉は、さすがにほぼ全員の度肝を抜いた。
恭也は叫びこそしなかったが、「何やってんだこいつら」といった面持ちでいる。
そして、そんな皆の反応に苦笑しながら兼一はその当時の事を述懐した。

「懐かしいなぁ。僕がまだ高1の時にね、歩道橋の上で襲われて、そのままバスの上に落ちて戦ったんだよ」
「兼一さんがうちに来て、まだ半年もたってない頃でしたわね、確か」
「ん。まあ…それも青春…だ」
「ど、どんな青春ですか……それ」

しぐれのコメントに、思わず頭を抱えてよろける那美。
映画じゃあるまいに、バスの上でケンカをするなど漫画か小説の読み過ぎとしか思えない。
だが、それが事実なのだからなおのこと性質が悪い。
オカルトと言う裏世界の人間である那美だが、それでもそれはどうかと思うのだった。

しかし、ここで「天性のドジっ娘」である那美は本領を発揮する。
具体的には、何もない床で足を滑らせそのまま顔から床に激突。
その拍子に飛んだ靴が、新島の顔のすぐ横を飛んで行ったのだった。

「わっ!? 那美さん、大丈夫ですか?」
「ぁいたたた、だ、大丈夫ですぅ。い、いつものことですから……」
「ず、ずいぶんとゆったりした方なんですのね」
「おい、ありゃ単に鈍くさいだけだろ」

慌てて那美を助け起こす美由希を見ながら、美羽と夏はそんなやり取りをする。
その二人のやり取りを聞き、那美のドジにもいい加減慣れてきた面々は苦笑を浮かべた。

赤く腫れた顔をさすりながら那美は立ち上がるが、そこで自分の靴が脱げている事に気付く。
僅かにその行方を捜し、それが新島の後ろにあったことでおおよその事態を理解した。
当然、彼女としては当たっていよう当たっていまいが関係なく、しどろもどろになって謝罪する。

「す、すみません! ああもう、私っていつもこうで、御怪我はありませんか!」

そう言いながら新島に近づく那美。
だがその瞬間、新島は雷に打たれたように跳ね、那美から凄まじい速度で距離を取る。

「え? あの…どうかなさいましたか?」
「お、俺様に近づくんじゃねぇ小娘!」

シッシッと、まるで犬猫でも追い払う様に手を振る新島。
誰がどう見ても、非常に失礼極まりない言動である。
確かに靴が飛んで行った事は問題かもしれないが、それでもこの反応はない。
少しはレンたちを助ける為に尽力してくれたことを感謝していた面々も、途端に彼への印象を悪くする。
まあ、レンの精神衛生と乙女心の為に、フィリスは人工呼吸の件は全面的に情報を遮断するつもりなのだが、それはそれこれはこれと言うものだ。
しかし、当然兼一がそんな悪友の失礼千万な態度を許す筈もなし。

「新島! お前な、なに失礼なことを…すいません神咲さん、今すぐ謝らせますから!!」
「うっせー、兼一! てめぇごときに捕まる俺様だと思うなよ!!」
「あ、兼一さん!?」
「うわ、速!?」

そうして、突如狭い病室内で兼一と新島の追いかけっこが始まった。
狭い空間ないにもかかわらず、両者ともに尋常ならざる速度と動きで駆けまわる。
普通ならベッドやイスにぶつかりそうだが、二人ともまるでそんな物は存在しないかのようにかすりもしない。
新島の逃げ足に驚く面々だが、先ほどまでボロ雑巾だった筈の兼一の回復力にも驚く。

まあ、フィリスに関してはその限りではない。
何しろ彼女の場合、ここに来る前の段階で兼一の怪我の治療もしている。
その際に散々兼一の肉体の非常識さに驚いているのだから……。

とはいえ、いつまでもそうしていては話が進まない。
しぐれは軽くため息をつくと、懐から鎖鎌を取り出す。

「く、相変わらず何て逃げ足だ!?」
「ウキャキャキャキャ、逃げ足地上最速の男をなめんじゃねぇ!!」
「ほら、いい加減にし…ろ」
「「って、ギャアアアアアアアアアアアアア!!」」

二人の動きを先読みしたしぐれは、無造作に手に持った鎖鎌を投じる。
それはまるで吸い込まれるように二人に迫り、絡みつくようにして二人を拘束した。
ただし、そのまま分銅が新島の顎を打って昏倒、兼一には鎌が迫り危うく顔に風穴があくところだったが。

「しぐれさん!!」
「しぐれ、お兄ちゃんを殺す気か!?」
「ちゃんと外した…ろ?」
「そういう問題じゃありませんわ!」
「ち…ぇ」

美羽とほのかの抗議に、ちょっと口をとがらせて不満そうにするしぐれ。
確かに彼女の腕なら間違っても殺しはしないだろうが、危ないものは危ないのである。
兼一にしたところで、薄皮一枚挟んで顔のすぐ横を通り壁に突き刺さった鎖鎌に腰を抜かしているのだから。
と言うよりも、口から魂の様なエクトプラズマが出ているように見えるのは気のせいか?

「あ、あの、二人とも大丈夫ですか?」

そんな二人に対し、那美は顔をひきつらせて恐る恐る近づく。
だがそこで、再び新島が暴れ出す。

「だから、俺様に近づくんじゃねぇ!!」
「新島、お前まだ……!」

そんな新島に即座に復活した兼一が、もう逃がさんとばかりに組みつく。
新島はなんとか鎖もろとも振りほどこうとするが、さすがに膂力の差と技術の有無は大きい。
特に新島の動きを知りつくした兼一が相手では分が悪かったようだ。
得意の脱皮術は未然に防がれ、なかなか抜け出すことができない。
そうしている間にも那美との距離は縮まり、後1mとなったところで新島は奇声を挙げる。

「ムキャ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――!! ……ガクッ」
「ったく、いきなりなに大声を……って、新島? おい、どうした新島!」

突如糸が切れた操り人形の様に力なく床に座り込む新島。
長い付き合いの兼一ですら、こんな彼は見たことがない。
悪友の突然の異変に、兼一も動揺を隠せずにいた。
しかしそこで兼一は、新島が虚ろな目で何事か呟いていることに気付く。

「け、兼一……」
「ど、どうした新島! まさか、さっきコーキンの部下に襲われてるとき何かあったんじゃ!?」
「いや、おめぇは知ってる筈だろ。俺様…昔から神社とか教会に入ると具合が悪くなる体質で……」
「ああ、そう言えばそんな体質だったよな、お前」
((((((…………………………………魔物?))))))

二人の会話を聞き、思わずそんな事を心中で思ってしまう一同。
と言うか、見た目といい体質といい性格といい、ありとあらゆる面で魔物だ、この男。
だが、兼一もその事を思い出したことで新島の異変に気付いた。

「あの、神咲さん」
「は、はい!?」
「ちょっと、新島の肩に触れてもらっていいですか?」
「へ? は、はぁ……」

訳も分からないまま兼一の頼みに従い新島の肩に手をやる那美。
ついでに、そのまま彼の体にどこか悪いところがあるのなら治療しようと、得意の癒しの霊力を送り込む。
まさか、それが完全な逆効果とは思いもせずに。いや、普通そんな事誰も予想しないだろうが。

「ぐぉおおぉおぉぉぉぉぉぉぉぉぉおおおおぉぉぉぉぉぉぉおぉぉぉ!!!???
 と、融ける~~~~~~~~!! 俺様の中の何かが浄化されるぅ―――――――――!!」
「う、うわ! どうしたんだよ、いきなり!?」
「那美さん、何かしたんですか!?」
「な、何もしてませんよぉ!?」
「だが、明らかにさっき以上に苦しんでいるんですが…」

晶と美由希はさらに苦しみ出す新島に戦き那美を見やる。
何もしていないわけではないのだが、体に害のある事をした覚えのない那美も混乱の極みだ。
恭也の言う通り、触っている時間が長くなるほどに新島の苦しみの度合いは大きくなる。
というか、身体から白い煙の様なものが上がっているように見えるのは気のせいか?
しかし、兼一だけはその理由を理解した。

「あ、やっぱり」
「兼一さん、これはどういう事ですの?」
「えっと、神咲さんは巫女さんをしてまして……」
「あん? それと何の関係が…………ああ、そういや巫女は神道だったな」
「うん。たぶん、新島の邪悪な気を神咲さんが浄化してるんだと思う」
『どれだけ邪悪なんですか、この人!!??』
『見た目だけじゃなくて、中身まで悪魔か、こいつ……』

予想だにしなかったその理由に、一同信じられない面持ちで叫ぶ。さすがの恭也も、まさか巫女さんに浄化される人間がいるとは思っていなかっただけに、同様に驚きを露わにしている。
退魔もこなす本職の巫女さんである那美と、真正の悪魔で地球外生命体である新島。
この二人の相性はまさに最悪。新島にとってまさに天敵と言える、調伏されてしまう存在なのだ。

とはいえ、神咲家四百年の歴史の中でもこんな人間はいなかった。
まさか、“残念”した魂でもなく、久遠の様な妖怪でもないにもかかわらず、人の身のまま退魔の力が作用する人間がいようとは……。そんな事、かつて誰一人として想像もしなかったのだ。
故に、那美が思わず彼の邪悪を祓わなければと、使命感に駆られたのも無理はないだろう。

「あの、新島さん。大丈夫ですよ、私が必ずあなたに憑いた邪悪を祓って差し上げますから」

純粋に心の底から彼を救おうと笑顔を浮かべる那美の背に、自然と後光が差した。
それは普通に考えればとても神聖な光景。これぞ正に神職にして聖職に携わる者の鏡。
だがしかし、新島にとってその光は猛毒以外の何物でもない。
さながら吸血鬼にとっての日光、悪魔にとっての聖水、自縛霊にとっての御札の様に。

「ご、後光で刺すのをやめんか! 灰になるわ!!」
「え、えええええええ!?」

新島は死にもの狂いで鎖と兼一から脱出し、即座に病室から逃げだしながらそう言い捨てる。
まさかそこまでとは思っていなかったのだろう。那美は空いた口がふさがらなかった。

そう、邪悪の権化である新島を浄化すれば何も残らない。
残るとしたらそれは、かつて新島春男だったという残骸だけだろう。
故に、病室から逃げた新島がそのまま「二度と俺様の前に現れるんじゃねぇ」と捨て台詞を吐いて病院を後にしたのも、当然のことだったのかもしれない。
いつの時代も、魔は僧侶や巫女によって祓われるものなのだから。
その意味でいえば、現代の巫女神咲那美は見事のその役目を果たしたと言える。

「なんだったんだ、アイツは……」

呟きは恭也の物。彼からすれば、結局新島がなんの為に海鳴にやってきて手を貸してくれたのかさっぱりだった。
まさか、自分を手駒にしようと考えていたなどと思いもしない。

そうして新島(邪悪)が去った後、ようやく話は元の筋道に戻った。
とはいえ、夏の事に話を戻そうにもどこかタイミングを逸してしまった印象がある。
新島の騒動があった後では、深く尋ねるのもどこか間が抜けているだろう。

(まあ、それに奴は兼一の危地に駆けつけたらしいし、それほど危険視することもないか。
 敵ではないとまでは思わんが、昨日の敵が明日もそうとは限らない、なんて父さんに散々言われた事だしな)

そんな考えもあり、恭也は夏の事はまた別の機会に尋ねることにしたらしい。
さしあたって彼に自分達を襲う意思はない。それだけ分かれば、今のところは充分だった。
ただしそんな判断も、続く話題の中で大きく揺らぐことになるのだが。

「ところで、あのナラシンハとか名乗った男。お前達はコーキンとか呼んでいたが、何者だ?
 それに奴を連れていったあの巨漢、アレは……」

恭也の声音には、隠しきれない戦慄がこもっている。
彼には分ったのだ。アーガードの秘める、桁外れの戦力が。
それこそ今の自分クラスの実力者が百人束になってかかっても、あの男には傷一つ付けられないと。

「恭ちゃん、そんなに……すごかったの、その人」
「俺には到底測りきれない実力の持ち主だ。奴一人いれば、俺達はフィリス先生を守る事はおろか……」
「全滅してただろうな、確実によ」

言い淀む恭也の言葉を、夏が代わって断言した。
それを聞き、高町家とその関係者一同は顔を青ざめる。
恭也が夏の言葉を否定しないところから、それが真実であることは明白。
下手をすれば、こうして生きて再会することすらできなかったと聞かされれば、誰だって顔色をなくす。
そこで恭也は、自分に代わって言い切った夏に険のある視線を向ける。

「ずいぶんと詳しい様だな。なら聞く、彼は一体何者だ」
「闇は知っているか?」

恭也の質問に対し、夏はさらに質問を返す。
そのことに眉に皺を作る恭也だが、律義な性格の彼はしっかりとそれに答える。

「…………………………父さんから、触り程度は」
「恭ちゃん、闇って?」
「詳しい事は知らない。だが、殺法の保存と伝承を目的とする裏の武術組織と聞いている」
「ええ、概ねそれであっていますわ。闇は大きく分けて無手組と武器組に分かれていますの。
 その理由は、話すまでもありませんわね?」

美羽の問いに、一同は頷く。聞くまでもないだろう、それは武器を使うか否かの違い。
武器を使う者は武器組、使わない者は無手組。実に単純な住みわけだ。
そして、今回襲ってきた者たちの武術はムエタイ。なら、導き出せる答えは一つだろう。

「奴らは、その無手組の人間ということか?」
「そういう事だ。正確にはコーキンはYOMIの所属だけどな」
「あの、YOMIってなんですか?」

連続する聞き慣れない単語に、美由希は首を傾げながら尋ねる。
彼女とて武術家のはしくれ。武の世界の中でも特に奥深い場所に存在するそれらの名称に興味がないと言えば嘘になる。まあ、それは恭也や晶も同様なのだが。

「闇の下部組織で、同時に無手組の弟子育成機関でもあるんです。
コーキンは一応そこの幹部、と言う扱いですね」
「そして、アーガード・ジャム・サイは『裏ムエタイ界の魔帝』『拳帝肘皇』と謳われた一影九拳の一人でもある。はっ、良く生き残れたもんだ」

兼一の言葉を継ぐ形で、夏は恭也達を嘲笑するようにその名称を口にする。
迂闊に口にすれば命がないとまで言われる「一影」。
その存在を知り、こうも軽々しく口にできる者など早々いるものではない。

そして、恭也達は当然一影九拳の事など知らない。
知らないが、予想することはできる。わざわざそんな名称で括るような存在がいるとすれば、それは……。

「無手組の幹部、と言ったところか?」
「最高幹部、と言うべきだな。光栄に思ってもいいんじゃねぇか?
 お前らじゃ、一生かかってもお目にかかれない大物だぞ」
「お前は違うと言いたげだな」
「ああ、俺をお前らみたいな半端者と一緒にするなよ。今日初めて死闘をしたヒヨッコが」
「……なに?」

言葉を交わせば交わすほどに険悪になって行く恭也と夏。
夏の言葉が無闇に挑発的なのが原因だが、恭也とて先日の戦いを忘れたわけではないのだ。
この場ではあえて気にしないようにしていたが、こうも挑発されてはいい気分はしない。
とそこで、さすがに黙っていられなくなった晶が食ってかかる。

「なんだんだよ、アンタ! さっきから黙って聞いてれば言いたい放題言いやがって! 師匠はその最高幹部って奴の弟子に勝ったんだぞ、アンタにとやかく言われる筋合いなんてねぇ! 何様だよ、アンタ!!」
「コーキンと同じ一影九拳の一番弟子だが、それがどうした?」
『え?』
「谷本君……」

夏が放り込んだ爆弾に、晶も美由希も言葉を失う。
自分達の家族を助けてくれた男が、まさか家族を襲った男の仲間だったと聞かされれば無理もない。

「一影…九拳の弟子だと?」
「ああ、俺の師父は一影九拳が一人『拳豪鬼神』馬槍月。
いずれは、『月』のエンブレムを継いで九拳の一人になるんだろうな。ま、お前らには関係ない事だが」

その言葉を聞き、美由希と晶は臨戦態勢に入る。
恭也以外に彼と対抗できる者などいないが、それでも彼が家族に危害を加えるなら黙っていない。
そう言わんばかりだった。そんな彼らを、兼一が慌てた様子で制する。

「ちょ、ちょっとみんな待って!」
「兼一さん、だってこの人は……!」
「そうだ、お師匠にこんな怪我を負わせた奴の仲間なんだぞ!」
「いや、ほら、それ言ったら僕も彼とは友人だし……そもそも、僕の師父のお兄さんなんだよ、槍月さん」
「誰が友人だ、誰が!」
「ここでまぜっかえすのはやめてよ、谷本君」
「まあまあ、とりあえず私達の話を聞いてくださいまし」
「そうだな、話くらいは聞こう。美由希、晶、武器と拳を退け」
「「うん(はい)……」」

恭也の言葉とあっては、二人も逆らう事は出来ない。
実際、夏が本当に敵だとすれば色々辻褄が合わないし、何より命懸けでみんなを守ろうとした兼一の友人と言う言葉と矛盾することになる。
恭也とて少なくない不信感を夏だけでなく兼一に抱いているが、同時に事実として兼一の働きを知っているし、コーキンの言葉も彼は聞いていた。故に、話を聞くまで判断がつかない。

「まずですね、一影九拳は仲間でもなければ同志でもありません。個人的に交友のある人もいますが、全体として見れば結束なんてないんですよ。彼らの間にあるのは、単なる不可侵協定ですから」
「つまり、同じ組織の人間ではあるが、仲間意識はないと?」
「ええ。そういうことになりますね」
「………………」

兼一の言葉を疑うわけではないが、恭也としてもなかなか判断がつかない。
確かにコーキンの仲間ではないのかもしれないが、それでも同じ組織の人間。
そう簡単に割り切って信用できるような対象ではない。
兼一はもう頓着していないが、彼もかつてはその事で悩んだこともあるのでその気持ちは理解できた。

場の空気が重くなりかける。
だが幸いにも、その空気を壊す声が外からかけられた。

「フィリス先生、蓮飛さんが眼をさましました!」
「あ、はい!! えっと、どうしますか? 皆さんも……」
「……………ええ、ご一緒させてください」

フィリスの問いに、一瞬周囲の様子をうかがった桃子だが、意を決して答えた。
皆もレンのことが心配なのは明らかだし、夏との事を一端仕切り直すいい機会になるとも考えたのだ。

そうして、一同は揃ってレンのいる病室に向かす。
扉を開けて皆の眼に飛び込んできたのは、つい先ほど死にかけたとは思えないくらいには元気なレンの姿だった。
そして、その師にかけた張本人はと言うと……

「あ、お師匠」
「お師匠、じゃない! ………大丈夫なのか?」
「あはは、心配し過ぎですて。ちょういいのを貰って気絶しただけやないですか」
「レンちゃん……」

フィリスは、レンのそんな強がりに悲しそうな表情を浮かべる。それは、真実を知るから個の悲しみだった。
実際にレンが死にかけた場面を知っているのはフィリスとフィアッセだけ。
フィアッセはまだ眠っているし、あの状況ではどこまで状態を把握していたかはあやしい、
また、レンの予てからの希望もあって今はまだフィリスはレンの容体について話していない。
しかし、病院に運び込まれるまでのレンの顔色を見ていれば、彼女の言葉が真実ではないことに誰でも気付く。

そして、恭也や美由希、桃子は入院時代のレンを知っている。
だから容易に想像がついた、彼女の身に起こったことがそんな軽いものではないことに。
故に、そこで美由希がうっかり昔の事を漏らしてしまったのも、それは無理からぬことだろう。

「レン、こっちに来てからは全然そんな様子がなかったから私も聞かなかったけど……もしかして、まだ心臓…良くないんじゃないの?」
「美由希ちゃん!?」
「え? しんぞうって……」

美由希の言葉を聞き、晶の顔色が明らかに変わる。
聞き間違いであってほしかった。あるいは、最悪の想像とは別物であってほしかった。
だが、レンの美由希を止めようとするような、非難する様な声が最悪の想像を補強する。

「お前、まさか………………………………………っ、なんで黙ってやがったんだ! んな大事な事!!
 死んだら、死んだらどうするつもりなんだよ!! それも、死にかけたくせに、まだ嘘つく気なのか!!!」
「何を言うとんのか、うちにはわからへんな。アンタの勝手な妄想とちゃうか?」
「だったら! なんで桃子ちゃんはこんなに悲しそうな顔してんだよ! なんでフィリス先生はこんなに心配そうにしてんだよ! なんで、師匠と美由希ちゃんが……!! なんで、いいのをもらっただけで、あんな顔色になんだよ………つくなら、もう少しましな嘘をつけよ、クソバカ野郎!!!」

晶は確かに値がまっすぐ過ぎる位にまっすぐな猪突猛進人間だ。
しかし、だからと言って蒙昧な少女ではない。周りの雰囲気が明らかにいつもと違う事、ケンカ相手の尋常ならざる様子、そして新たに知った真実。これらを組み合わせて、その先にある物を導き出すことくらいはわけない。
レンとて口では何と言っていようと、晶の事は評価している。
おそらく、この世界のだれよりも正当な評価を。だから、晶が正しい答えに行きついていることもわかった。
分かってしまったから、彼女は口に出してこう言った。

「アンタには関係ない。これはうちの問題や。今日明日に死ぬようなもんでも……」
「今日、実際に死にかけてたんじゃねぇのかよ!! ふざけんな!!」
「こんなことがそう何度もあるかいな」

確かにレンの言う通りかもしれない。普通に生きていれば、今日の様な事態こそ一生に一度あるかないか。
それなら、レンの言っていることもわからないではなかった。
だが、そのあるかないかが今日起こってしまった。そして、その影響は確かにレンの体をむしばんでいる。

「レンちゃん…ちょっと、いいかしら? 晶ちゃんも」
「フィリス、先生?」
「いややなぁ、どないしはったんですか? そんな神妙そうな顔して」
「お願い、まじめに聞いて」

はぐらかそうとするレンに対し、フィリスはその眼を覗き込んで真剣な面持ちで語りかける。
その様子から、ただ事ではない事を察するのは難しくない。
高町家の面々はもちろん、部外者でしかない筈の兼一達ですらその雰囲気に息をのむ。
そうして、ゆっくりとフィリスは語りだす。もう、時間がない事を。

「今までは、ある程度体力で何とか出来てた。でもね、検査して分かったの、あなたにはもう……時間がない」
「…………………………………え?」
「たぶん、今日のことが原因なんだと思う。本来、あなたの心臓はあんな極度のストレスと緊張、そして負荷に耐えられない。なのにあんなに無茶をして、戦って……………………あなたの心臓は一度止まってしまった。
 今回はなんとか戻ってこれた。でも、“次”はないかもしれない。そして、その“次”も多分遠くないわ。今回のことで、あなたの心臓はそれだけ弱っているの。あなたも気付いてるんでしょ? そうして座って話すだけでも、本当はすごくつらいんじゃない?」
「そ、そんなこと……」
「体力が回復すれば少しはましになると思うけど、それも気休めでしかないわ」

他ならぬ、医師からの宣告。反論しようとするレンだが、その声は弱々しい。
彼女も自覚しているのだ。心臓を締めつける圧力が、その不穏な気配が、ついさっきまでとはまるで違う事に。
今まではまだ遠かった死の足音が、すぐそばまで迫っている。
ある意味、高町家の誰よりも死の近くにいた彼女だからこそ、それがわかった。
フィリスの言葉が、ハッタリなどではなく真実であることに。

「それでも、今すぐっちゅう訳やないんですよね。まだ、もう少し位時間は……」
「何言ってるの、レン! フィリス先生の話を聞いてなかったの!!」
「そうだ。時間がない、フィリス先生がそう言ったからには、それは事実なんだろう。
いったい、何をそんなに……!」

レンの言葉に、美由希と恭也は声を荒げる。
美由希は命を蔑ろにしようとするかのようなレンへの怒りにまかせて、恭也は家族に何もしてやれない自分への口惜しさで。
そんな二人に、レンは静かに胸の内を吐露する。

「うちは、なくしとうない。今を、うちをうちのまま受け入れてくれる全てを、なくしとうないんや」
「レン……」

レンのその言葉の意味、それを知る桃子はどうしようもないほどの悲しみを宿した声で彼女の名を呼ぶ。
彼女は知っているのだ。レンが一体、何をなくしたくないのかを。
死の恐怖に怯えても、なおなくしたくないもの。それが、レンの視線の先にある。

視線の先には、晶がいた。
そう、レンにとっては他の何よりも晶の存在こそが救いなのだ。
世界でただ一人だけ、なんの手加減も遠慮呵責もなしに自分へ向かって来てくれる晶。
彼女こそが、レンにとって両親や高町家にも勝る肯定者だったから。
そんな彼女にだけは、自分の心臓の事を知られたくなかった。失いたくなかった。
掛け値なしの全力でぶつかりあえる相手を。

桃子はそれを理解している。
自分達では晶の代わりにはなれないことも、レンがどれだけ晶の存在に救われているかも。
だから、それを失わない為に死のリスクを負おうとする事も、分からないではなかった。
だが、やはり彼女には生きていてほしい。娘も同然に愛情を注ぐ、この少女に。
そう思ってなんとか説得しようとした矢先、鋭くも甲高い音が病室に木霊する。

「負け犬が、グダグダ喚いてんじゃねぇ!!」
「ハーミット!」
「谷本君!」
「なっちー、何するじょ!?」

皆の虚を突いた張り手はレンの頬を打ち、その白い頬を赤く染める。
恭也や兼一、ほのかはそんな夏を咎めるように声を駆けるが、彼は一向に気にしない。
それどころか、ゆっくりとその手を伸ばしレンの首を軽く掴む。

「そんなに死にたいなら、俺が殺してやるよ」
「な、アンタ…自分が何言うとんのかわかっとるんか?」
「殺せないとでも思っているのか? …………ああ、そういやお前は俺がどういう人間か知らなかったな。
 いい事を教えてやろう、闇人には政府黙認の殺人許可証が与えられている。俺も闇の関係者だからな、それを……持っていないとでも思っているのか?」
「貴様、まさか……!?」
「やめなさい、日本は法治国家なのよ! そんな事をすれば、あっという間に指名手配されるわ!!」

惜しみなく発せられる夏の殺気に、恭也とフィリスが声を上げる。
だが、そんな二人を彼は嘲笑う。

「警察を黙らせるくらい、闇なら造作もない。警察には闇の信奉者も多いからな。
 そいつらに聞いてみな、お前らよりよほどその辺を知っているぞ」

顎で兼一達の方を示す夏。一同は兼一達に視線を向け、彼らはそれに対し首を縦に振った。
兼一達のその反応に絶句する恭也達。
そうしている間にも、夏はレンの首にかける手に力を込める。
彼なら、このままレンの首をへし折ることもできるだろう。

しかし、兼一達は動かない。
彼らは、夏が無抵抗な人間を殺すような男ではない事を知っているのだ。
故に、そこに何かしらの意図か何かがあると判断し、あえて手も口も出さない。
そうしているうちにも、レンの首を掴む手に力がこもっていく。

「どうせいらねぇ命だろ? なら、苦しむ前に殺してやるよ」
「……貴様!」

そこで、レンを守るべく恭也が動いた。
その拳はまっすぐ夏の頬へと伸び、なんの抵抗もなく突き刺さる。
その事一番驚いたのは、他ならぬ恭也自身だった。
回避されるにしろ、反撃されるにしろ、何かしらの反応があると思っていたのだ。
にもかかわらず、ふたを開けてみれば夏は一切の抵抗をすることなく殴られた。
彼の実力を知る恭也からすれば、ありえないと断言できる異常事態。

今の一撃で口内を切ったのだろう。
夏の唇の端からは一滴の血が垂れ、彼はそれをぬぐうとレンの首を離して背を向けた。

「よくよく考えれば、こんなゴミを殺しても俺の名が汚れるだけだな。
 死にたいなら勝手に死ね。生きることやめたクズは、クズらしくのたれ死ぬのがお似合いだ」
「あ、なっちー待つじょ!」

みなの間を抜けて病室を出て行く夏。その後を追ってほのかも病室を離れた。
状況のめまぐるしい変化に、ほとんどの者が茫然としている。
そんな中で、フィリスはゆっくりとレンを諭す。

「レンちゃん、よく聞いて。あなたの心臓は、今はまだ手術をすれば治るの。
 でも、遅くなればなるほど成功の確率は下がって行く。だからやっぱり、あなたには時間がない」
「………………………」
「なんでだよ………手術しなきゃ死ぬんだぞ!? なら、迷うことなんてねぇだろ!!」
「あんたに、何がわかる。失敗したら、もっと悪くなるかもしれへん。下手したら、その場で死ぬ。
 心臓手術っちゅうんはそういうもんなんや。元気だけが取り柄のおサルには、一生分からへんやろうけどな」
「おまえ……」
「これはうちの身体、うちの人生や。どう使うかは、どう使いつぶすかは、うちが決める」
「この……「まって、晶ちゃん」」

怒りにまかせてレンを殴ろうとした晶を、兼一が止める。
優しく止められた筈にもかかわらず、全く動かない自分の拳。
今まで兼一がさして強くもないと思い、話に聞いただけでは実感のなかった晶だったが、この時理解した。
自分の腕を握ったこの男が、自分の遥か先を行く武人なのだという事を。

「ねぇ、レンちゃん。少し、昔の話をしようか?」
「……………」
「昔ね、ある所に一組の孤児の兄妹がいたんだ」
「ちょ、兼一さん!? それは、さすがに……」
「うん。言っちゃまずいなぁとは思うんですけど…彼、あの通りの口下手ですからね。
 怒られるのが僕一人で済むのなら、別にいいかなって」

昔語りを止めようとした美羽に、兼一は苦笑を浮かべながら肩を竦める。
他人の過去を勝手に話す。それも、特に繊細な過去を。
それは到底ほめられたことではないし、あとで怒られる程度の話ではあるまい。
だがそれでも、今のレンには聞いておいてほしいことだった。
彼がなぜ、他人でしかないレンにあんなことを言ったのか。友として、その理由を誤解してほしくないから。

「妹さんはね、とても病弱だったそうだよ。
でも、幸いある巡り合わせで妹さんの治療費を工面する当てが出来たんだ」

それは、ある男のかなしい過去。
ひたすらに孤高の道を歩もうとしたきっかけの出来事。
兼一としてもその詳細を離すのは憚られたのか、本当に要点だけをかいつまんで話す。

「だけど、手厚い治療を受けていた筈の妹さんは、実は全く治療されていなかった。
結果は………言わなくてもわかるよね?」
「……………」

当然だ。この場この状況で話す内容で、ハッピーエンドなどあり得ない。
疑うべくもなく、その妹は助からなかっただろうことを、全員が確信していた。

「その女の子は、運命と立ち向かうことすらできなかった。その機会すら奪われてしまった。
 でも、君にはまだそれがある。もう一度、頭を冷やして良く考えた方がいい……ね?」

そこまで話したところで、兼一はそれまで掴んでいた晶の腕を離す。
彼女としても、もうレンを殴ろうとするほど熱くはなっていなかった。
しかし、その事がかえって彼女の心を苛む。
勢いに任せてしまえば楽だったろうに、冷静になってしまったが故にどうしていいかわからない。
思考の袋小路に迷い込んでしまい、晶にはどうしていいかわからなかった。
そんな晶に対し、今度は兼一が手招きする。

「晶ちゃん、ちょっと」
「あ、はい」

兼一の手招きに従い、晶は兼一について病室を後にする。
中庭まで移動した二人。そこで兼一は晶と向き合い、問いかける。

「晶ちゃんは、レンちゃんはどうしたらいいと思うのかな?」
「手術を受ける以外、ないじゃないですか」
「そうだね、僕もそう思う。でもそれは、やっぱり健康な人間の視点でもあるんだよね。
 レンちゃんには、多分僕たちと違うものが見えてるんじゃないかな」
「でも! それじゃみすみす死ぬのを待つことしかできないじゃないですか!!」
「うん、そうだね。じゃあ、晶ちゃんはどうしたいのかな?」
「え? 俺、ですか?」

突然の話題の変化に、晶は頭がついていかない。
しかし、兼一の顔はどこまでも真剣で、それが単なる話題の変化とは思えなかった。
きっと、これにはなにか考えがある、そう本能的な部分で晶は直感する。

「そう、晶ちゃん。高町君達は……ね。レンちゃんとの付き合いも長いみたいだから、あんまり強く出れないみたいだし。実際、君だけだったでしょ? あそこで、思いっきり怒れたのって」
「それは、まあ……でもそれは、師匠や美由希ちゃん達はレンの気持ちを考えてるから……」
「だね。だから、強く言えない。レンちゃんの気持ちを大切にしたいから。
 前に言ったよね、僕は昔いじめられてたって。だからかな、僕はどうにも不用意に人の心の奥に入っていっちゃう性質なんだ。そのせいで、結構沢山の人を怒らせたりしたものだよ」

昔の事を思い返し、兼一は自分のそういうところに呆れてしまう。
もう少し、オブラートに包むなり角度を変えるなりできなかったのだろうかと。
だが、そんな自分の性質が、今の彼の交友関係を築いたのも事実だった。

「よく、『友達に嫌われるぞ』って言われたものさ」
「ああ、まあ………でしょうね」
「でもね、今振り返るとそう言うのも一つのコミュニケーションの手段だったんだなって思うんだ」
「え?」
「かなり強引で荒っぽい方法だけど、相手の心の奥を引っ張り出して、自分の心をさらけ出す。あまり利口なやり方じゃないけど、それはそれで有効な相手って言うのがいるみたいだね」

そこまで言って、兼一は晶に優しい視線を向ける。
それが何を意味するのか、それがわからない晶ではない。

「それって、俺にもそうしろって…ことですか?」
「というか、君も割とそういうタイプかなって?」
「あの、結構心外なんですけど……」
「あははは! でも、レンちゃんを殴って言う事を利かせる技を教える、って言ったらどうする?」
「っ!? ……………………できるん、ですか?」

それは、恐らく晶にしかできない役割だ。
他の高町家の面々は、精神的に大人過ぎてそんな幼稚で子どもじみた真似は出来ない。
だが、晶は違う。彼女だけは、そんな強引で幼稚で短絡的な方法が取れる。
世の中には、むしろそういうやり方の方が効果的な相手と言うのが、確かに存在するのだ。
流水制空圏の会得を経て研ぎ澄まされ磨きあげられた兼一の洞察力は、レンにそんなやり方こそが有効であると知らせてくれた。

何より、二人の間にある言葉にされない繋がりを、兼一は感じ取っていたのかもしれない。
だからこそ、晶にお節介を焼く事にしたのだ。『武術を求める者の前には必ず師が現れる』とは、無敵超人の言葉。兼一は師と言うほどのものではないが、彼は空手も嗜む。
故に、今の晶が求めるものを提供できると考えたのだ。

兼一はゆっくりと晶に歩み寄り、軽く許可をとってからその肩や腕、腹や背中、首や太ももに手を触れる。
そして、何かを確信したかのように笑みを深めた。

「やっぱり、良く鍛えられたしなやかな筋肉だ。日々の修業や君自身の資質もそうだけど、なにより師匠が良かったんだね。基礎が良く出来てる」
「あの……」
「本当は、君の師匠が教えるべきなのかなって思うんだけど、お節介と余計なことに首を突っ込むのは僕の習性だからね。大丈夫、そんなに仕組みが難しい技じゃない。練習をさぼってた僕だって出来たんだ、君が本気でやればすぐにでもできるようになるよ」
「でも俺、空手以外は……その、ちょっと」
「ああ、問題ないよ。これから教えるのはれっきとした空手の技だからね」
「え? それって……」
「もう失伝してしまった口伝でね。技の名前は……………『メオトーデ』、だよ」



この数日後、明心館でこの技の練習をしていた晶を見て、館長の巻島重蔵はぼやいた。

「ったく、どこのどいつの入れ知恵かしらねぇが、余計なことしやがって。
 半端なモンを教えたんなら半殺しにしてもあきたらねぇが、これじゃあ文句も言えやしねぇ。晶の奴もいいツラしてやがるし、文句を言うのも筋違いか。つーか、下手なこと言うと負け惜しみだしなぁ……」



  *  *  *  *  *



その後、とりあえずはフィアッセと恭也の治療を終えて高町家関係者一同は帰路に就いた。
まあ、さすがにレンとフィアッセ、それに恭也は入院。
フィアッセと恭也は幸い大事には至らなかったが、それでも念の為との事だった。
恭也は翌日には退院できたが、一週間の安静を言い渡されたりもしたのは余談である。

また、一応はその場で兼一や美羽、それにしぐれにお礼を言って別れたが、お人好しの高町家の面々がそれで良しとする筈もなし。
だいぶ周囲の状況も落ち着いてきた一週間後、改めてあいさつに訪れたのだった。
そう、ほのかに場所を聞き――――――――――――――――――――――梁山泊へ。

「でかいな」
「うわぁ、おっきいねぇくーちゃん」
「くぅ~ん」

梁山泊の門扉の前に性質、その威容に溜息をつく恭也となのは。
他の面々も感想はさして変わらず、住宅街のど真ん中にあるには不釣り合いなそれに少々気圧されていた。

「恭ちゃん、ホントにここであってるの?」
「住所を聞いたのはお前だろ?」
「いや、そうなんだけどさ……………なんか、いくらなんでも想像以上で(ボロさが)」
「でも、間違ってない筈ですよ。ほら、あの看板」

そう言って美由希に古めかしい看板を指差すのは、なぜか同行している那美。
そんな彼女の指先を追って、晶はそこに書かれている文字を読む。

「泊山…梁?」
「アホ! アレは梁山泊って読むんや」

そんなやり取りをかわすのは、双方ともにどこかボロボロになっている晶とレン。
晶の拳には痛々しく包帯が巻かれ、その全身にはいたるところにシップやら包帯やらがくっついている。
まあ、それはレンも似たようなもの。幼いながら秀麗な顔には、痛々しい痣や赤く腫れた個所がいくつか。
両者とも、服の下はもっとひどい有様だろう。
だが、その表情はどこか晴れやかだ。この一週間の間に、色々ふっきれたのだろう。
そんな二人を見ながら、フィアッセはやわらかく笑いながら恭也と話す。

「兼一が二人の事見たら驚くよね、やっぱり」
「どうだかな。聞いた限り、晶を焚きつけたのは兼一らしいぞ。
 だがまぁ、おかげでいい方向に好転したのも事実か。その件でも礼を言わないとな」
「ですね。でもま、それもこれも俺のこれまでの努力の成果ってなもんですよ」
「お山のおサルがゴリラにでもクラスチェンジする気かいな? たった一回の勝ちで調子になる辺りが、やっぱりおサルやな。調子にのっとると痛い目見るで」
「んだと、なんならもっぺん新技『夫婦手』でぶちのめしてやろうか?」
「折角の勝ちをもう返上する気か? 中々殊勝やないか」
「言ってろカメ! あの後開発した夫婦手と吼破の合わせ技、喰らってみるか!!」
「おう、やれるもんならやってみぃや!!」

既に元の調子を取り戻した二人は、早速いつもどおりケンカを始めようとする。
しかし、それもまたいつものパターンに過ぎない。こうなれば、高町家無敵の調停者なのはの出番である。
当然、その鶴の一声を以って場を治めることなど造作もない。

「二人ともやめなさ――――――――――い!!!
 今日は兼一さん達にお礼に来たんでしょ! ケンカするなら帰ってください!!」
「くぅ~ん!!」
「「……………はい」」

童女一人と子狐一匹に叱りつけられてシュンとなる二人。
新技を覚えようが、明日への希望を見出そうが、このヒエラルキーはそう簡単には覆らないのだった。

とはいえ、高町家にとってこれはまさに日常。
恭也をはじめ、なのは以外の面々は今更いちいち反応は示さない。
ただ、こんな日常が戻ってきたことに安堵し、レンが明日へと進む意思を持った事を喜び、それを引き出した晶を讃えるのみだ。

そうして、後ろでやいのやいのやっている年少組を無視し、恭也はそのやたらと重い門を開ける。
そこで、ほんの僅かに開いた門の内側が恭也の眼に、思いもよらない光景が飛び込んだ。

「ガル?」
「…………………………………………………………………………」

ゆっくりと、無言で門を閉め直す恭也。
続いて眉間に指をやり、目を閉じて軽くもみほぐす。
それはさながら、事務仕事に疲れたサラリーマンの如し。
そんなだいぶ恭也のイメージから外れた彼の所作に、一同揃って首を傾げる。

「どしたの、恭ちゃん?」
「そうだよ恭也、いきなり門を閉めて。開けなきゃ入れないよ」
「まったく、何やってるのよ。ほら、早くしないとお昼になっちゃうでしょ」

年長組は口々にそう言って、桃子が先陣を切って門を開けようとする。
だが、優れた武術家の多く住む高町家の中でも、彼女は完全無欠の一般人。
当然、その細腕に梁山泊のやたらと重い門が開けられる筈もなし。

「あ、母さんやめた方が……」
「うぬぬぬ、って何で開かないの!? もしかして、恭也が失礼なことするから閂でもかけられたかしら?」
「いや、多分それは単に……」
「ああ、その門は少々重いんじゃよ」
「そう、重い………………って!?」

声の主は恭也の真後ろ。気配を感じさせることなく背後に立った巨大な人影に、恭也は思わず飛びのく。
しかし、即座に正面に捉えた筈の相手は、すでに再度彼の背後をとっていた。

「ほっほっほ、若いのになかなかいい動きをしちょる。
 お若いの、道場破りと言う様子でもないが、そんな大勢で我らが梁山泊になに用かのう?」
(この人、何者だ!? 俺もそれなりに腕に覚えがあるつもりだが、こうも簡単に背後を取られるなんて……)

恭也の驚きも無理はないが、さすがに相手が悪い。
なにせ、彼こそはここ梁山泊の長老「無敵超人」風林寺隼人なのだから。
未だ達人にさえなれていない彼に、この男の動きを捉える事は不可能だった。
恭也もそれをすぐに理解したのだろう。戦う意思を引っ込め、礼を以って彼に頭を下げて事情を話す。

「実は、先日こちらの白浜兼一と風林寺美羽さんに御世話になりまして、そのお礼に伺いました」
「ほっ? ということは、もしやお主が美羽達が話しておった……高町君かの?」
「はい、高町恭也と申します。こっちは俺の家族と友人で」
「母の高町桃子です。この度は息子たちがお世話になりまして……」
「妹の美由希です」
「城島晶です!」
「鳳蓮飛です」
「あの、神咲那美と言います」
「フィアッセ・クリステラです」
「えっと、高町なのはです! この子は友達のくーちゃんです」
「きゅ~ん……」

恭也以下、それぞれ長老に挨拶していく。
そんな彼らを、長老は好意的な視線で受け止める。

「ほぉほぉ、若いのによい挨拶じゃの。ご家族がしっかりしておるのじゃろうて。
 わしはここの長老を務める、風林寺隼人じゃ」
「あ、もしかして美羽さんの……?」
「うむ、美羽はわしの孫娘じゃ。さて、兼ちゃんと美羽を訪ねてきたのじゃったな。
 さあ、中へ入りなされ。歓迎するぞい」

美由希の質問に答えつつ、長老は指一本で重い梁山泊の扉を跳ね開ける。
そのあまりに軽々しい動きに、桃子をはじめ誰もが信じられない面持ちだ。
いったいこの老人、どれほどの膂力があるのか想像もできない。
如何に桃子が一般人とはいえ、一応は成人女性である彼女がいくらやってもびくともしなかった扉をこうも簡単に開けるのだ。生半可が力の持ち主ではない。

そうして、高町家一同は梁山泊に一歩を踏み入れる。
その瞬間、恭也は軽く周囲を見渡し、内心で安堵していた。

(…………………さっきのは、単なる見間違いか。
それもそうか、いくらなんでも日本にあんなのがいるわけがない)

そのまま恭也達が長老の後について母屋に入ろうとした瞬間、天から褐色の何かが降ってきた。
それは、体躯に見合った重厚な落下音を響かせながら、恭也達のすぐ横に着地する。
そして、立ち上がって片手を挙げ、にこやかに一言。

「やぁ、アパチャイだよ!!」
『ビクッ!?』

突然の脈絡のない挨拶に、思わず身体をびくつかせる一同。
さすがの恭也ですら、事態が呑み込めずに身体を僅かに強張らせている。

まあ、無理もない。
いきなり目の前に褐色の肌の大男が降りたってフレンドリーに挨拶されれば、誰でも混乱する。

「ああ、彼はタイ人のアパチャイ・ホパチャイ君。兼ちゃんの事は知っておるのじゃろ?
 彼が兼ちゃんのムエタイの師匠じゃ」
「あぱ? 兼一の友達かよ、よろしくよ!」
『は、はぁ……どうも』

さわやかな笑顔を浮かべるアパチャイに対し、誰もが歯切れの悪い挨拶を返すことしかできない。
高町家も大概非常識だが、非常識のレベルでは梁山泊の足元にも及ばないのは明らか。
だがそこで、普段なら真っ先にアパチャイの異様に怯えそうな彼女が動いた。

「きゅ~んきゅ~ん♪」
「く、くーちゃん!?」

久遠は恐れることなくアパチャイの近寄り、その丸太の様な脚に顔や体をこすりつける。
それはだれの目にも明らかなほどに、警戒心の欠片もない自然体な所作。
そんな彼女の仕草が、高町家の面々の緊張をほぐす。

「わぁ、珍しい。フィアッセくらいだよね、久遠がこんなにすんなり懐いたのなんて」
「あぱ、可愛い子だよ。アパチャイはアパチャイって言うよ。お名前は何よ?」
「く~ん」
「えっと、その子はですね……」
「ああ、久遠って言うのかよ。可愛い名前だよ、よろしくよ」
『え?』

アパチャイの問いに那美が応えようとしたところで、それに先んじてアパチャイが久遠の名を呼ぶ。
さすがにそれは予想していなかったのだろう。誰もが目を丸く見開いて驚く。

「えっと、この人は……?」
「ああ、アパチャイくんの特技じゃよ。
 彼は子どもの様に純真でのう、動物と心を通わせ意思疎通するなど朝飯前じゃて」
「は、はぁ……」

本当にそんな事が出来るのかははなはだ疑問だ。
だが、現実として誰にも名を聞かずに久遠の名を当てた以上、信じるしかない。
よく見れば彼の体の周りには小鳥が集い、まるでじゃれるように周囲を周回している。
これでは、ますます長老の言葉に真実味が出るばかりだ。

「ところでアパチャイ、兼ちゃん達は今どこじゃ?」
「兼一と美羽なら今は道場よ!」
「ふむ、すまんが兼ちゃん達を呼んで来てくれんかのう」
「了解よ!!」

そう答えると、アパチャイは跳躍して屋根の上に消える。
そのあまりに非常識な跳躍力に、もう数えるのも馬鹿らしくなった気分で絶句する面々。

一同は長老に促されるまま、母屋の居間へと通される。
しかし、その途中の廊下で……

「はぁはぁ、女の子がいっぱいねぇ~」
「き、きゃあぁぁぁあぁあぁあぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
「これ、剣星! お主に何をやっとるか!!!」

突如床の下から現れた帽子を被った髭の中年男。
彼の手にはカメラがあり、鼻息を荒くしてフィアッセ達をシャッターに納める。
写真を撮るくらいではさすがにフィアッセも悲鳴など上げないのだろうが、そのあまりに怪しい風体に本能が危機を知らせたのだろう。気付いた時には、思わず叫んでいたのだった。

「むぅ、みんな可愛いのに露出が足りないね。ここはおいちゃんの秘技で!!」
「やめぬか、剣星!!」

そのままスカートめくったり服を脱がそうと動き出す剣星。
さすがに客人にそれは不味いと、長老自ら剣星を追いまわす。
とはいえ、追う方が達人なら追われる方も達人。二人の距離はなかなか縮まらず、どこまでも駆けて行く。
結局、高町家一同は廊下に取り残される形となり途方に暮れる。

「なんだったんだ、今の?」
「なんやったんやろな、今の?」

晶とレンが、誰にともなくそんな疑問を呟いたのも無理はない話。
皆を置き去りに、勝手にやってきて勝手に去ってしまったのだからどうにもならない。
むしろ、こんなところで放置されてどうすればいいのかという話だ。
とそこで、遠方より妙に切羽詰まった断末魔の叫びが木霊する。

「も、もうダメだぁ―――――――――――!!!」
「恭ちゃん、今の!?」
「ああ、間違いなく兼一の声だ。行くぞ!」
「うん!」

その明らかに危険な空気満載の叫び声を聞きつけ、恭也と美由希は庭に下りる。
そのまま兼一の声のした方向に身体を向けると、そこには信じがたい光景が広がっていた。

見える影は二つ。一つは二人もよく見知った兼一のもの。
だが、問題なのはもう一つの方。
それは、明らかに人間とは違うシルエットを描く、妙に巨大な縞模様の生物。

「ガルルルル! グオォォォオオォォォォォォォオォォォ!!!」
「や、やめて! ホントやめて!! 誰か助けて―――!!」
「「……………………………………………………………………虎だぁ―――――――――――――!?」」

そう、やたらと広い庭の中央で、兼一に虎が襲いかかっているのである。
さしもの恭也と美由希でも、まさか住宅街のど真ん中にある屋敷の庭で人が虎に襲われているのは予想外。
というよりも、そんな物を予想できた人は一度病院に行くべきだろう。

しかし、現実問題として現在進行形で兼一は虎に襲われている真っ最中。
しかもかなりの巨体だ。兼一は芝生に組み伏せられ、その巨大な口が彼の顔に近づいていく。
それは誰に目にも明らかな、今まさに人間が捕食されようとしている瞬間だった。

「いくぞ、美由希!」
「で、でも相手は虎だよ! 私、虎と戦ったことなんてないのに!?」
「俺だってない! だが見捨てるわけにもいかない以上、逝くしかないだろ!」
「なんか、若干ニュアンスが違う気もするけど……しょうがない!!」

といった感じで、半ば以上やけになって兼一の為に虎に挑もうとする二人。
だが、二人が動き出すより前に二人の襟を巨大な褐色の手が掴んで持ち上げる。

「虎じゃないよ、ちょっと大きい虎縞の猫の『メーオ』よ。みんななんで虎と間違うのかよ?」
「あ、あなたは……」
「たしか、アパチャイさん…でしたっけ?」

二人の襟を掴んで引きとめたのは、先ほど兼一達を呼びに言った筈のアパチャイ。
彼は危機感の欠片もない朗らかな笑顔を浮かべたまま、兼一と虎の取っ組み合いを見守っている。
とはいえ、そうしている間にも兼一の命は風前の灯……と、二人の眼には映っていた。

「やあ、また会ったよ」
「あ、はい…………じゃなくてですね、兼一さんが大変なんですよ!!」
「早くしないと兼一が食われる! あなたもアイツの師匠なら手伝ってください!!」
「? 一体どうしたのよ? メーオが兼一にじゃれてるだけよ」
「「じゃ、じゃれて…る?」」

アパチャイのコメントを聞き、再度兼一の方を見る二人。
しかし、やはりどこをどう見ても兼一が食われそうになっているようにしか見えない。
兼一は必死に、本当に死にもの狂いでメーオの顔を押し返そうとしている。
その表情には、掛け値なしの本能的恐怖がありありと浮かんでいるではないか。
だが、やはりアパチャイの表情にこの事態に対する危機感や、弟子の命を心配する様子はない。
その様子から、恭也がこんな事を思ったのも無理もない話だろう。

(もしや、ここではこんなことは日常茶飯事なのか?)

御神流の修業も大概厳しく壮絶だ。夜間、足場の悪い場所で真剣を向けあっての稽古。
下手をすれば大けがは免れないし、最悪死ぬ可能性だって低くはない。
しかし、そんな事を日常的に行っている恭也ですら、この想像には戦慄を禁じ得ない。
虎に襲われることが当たり前の日常だとしたら、ここはどんな危険地帯なのか。

しかも、その想像があながち間違っていないのだから始末が悪い。
なにしろ、ここは梁山泊。ある意味、日本で一番危険な場所なのだから。
そうして、恭也と美由希があまりにも壮絶過ぎる修業環境に慄いているうちに、新たな影が兼一に歩み寄る。

「ハハハ、どうしたのかね兼一くん。修行から逃げ出したかと思えば、こんなところでメーオと遊んで」
「アレは戦略的撤退だ!! そもそも、どこをどう見たら遊んでいるように見えるんですか!?」
「だって、ゴロゴロとのどを鳴らしているじゃないか、メーオ」
「ゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロ…くぉ~ん」
「ほらね?」
「ほらね、じゃないですよ!? この巨体でじゃれつかれたら、それだけで命が危ないじゃないですか!?」

どうやら、秋雨の修行から逃げてきたところをメーオに捕まり、そのまま命懸けのじゃれあいに発展したらしい。
兼一としては、心底「冗談じゃない」と叫びたいところだろう。

「このままじゃ可愛い一番弟子がおいしく食べられちゃいますよ! 助けてください!!」
「ふむ、それはこの対武器戦用修業マシーン『ドキドキ黒髪危機一髪 ですとろいや~』に挑む覚悟を決めたという事かな?」

そう言いながら秋雨が指し示すのは、中心に樽を据え、刃物を構えた鉄製地蔵がその周囲をぐるぐる回る怪しさ満点の機械。より分かりやすくイメージするなら、『●髭危機一髪』を大きくしたようなものだ。
その言葉を聞いた瞬間、兼一の動きが止まり、同時に体中から脂汗が噴き出す。

思い出すのはつい数分前の地獄。
四肢を出す形で樽に拘束され、四方八方から刃物が襲いかかる。
それらをその場から動かずに四肢のみを使って捌く、まさに拷問そのものの修業。
当たりに刺さったら「ポーン」と宙に投げ出されるなどまだ序の口。
ハズレは一つもなく、刺されば即死。製作者の正気を疑う仕様である。

助けてほしくば修業を受けねばならず、助けを拒めばこのままメーオのおもちゃ。
まさに前門の虎(メーオ)、後門の狼(秋雨)である。
どちらかを選ばねばならないとしたら、兼一の答えは決まっていた。

「あなたには頼みません!」
「ちぇ、自信作なのに……だが、それではそのままメーオと遊ぶのかね?」
「いえ、他の人に頼みます!! 逆鬼師匠! 馬師父! しぐれさん! 美羽さん! 闘忠丸!
 誰でもいいから、誰か助けてください!!」

とりあえず手当たり次第に梁山泊の面々に助けを求める兼一。
どうやら、命の危機を前に恭也達の存在に気付いていないらしい。
また、ここに長老が入っていないのは、彼が梁山泊で一番無茶で強引だからだ。
彼をこの場に呼んでも、そんなのは自殺行為以外の何物でもない。
アパチャイの場合は…………単純に、この件で話が通じないからだろう。

「どうし…た、兼一? メーオと遊んでるなら、僕と修業し…よ」
「ちゅっちゅっちゅっ!」
「別に遊んでません!? ていうか、笑うな闘忠丸!!」

庭の奥からやってきたのは、しぐれとその肩に乗っかっている闘忠丸。
闘忠丸は兼一の様子がツボにはまったらしく、腹を抱えて笑っているではないか。
どうも、笑い事ではないのは兼一と外部から来た高町家の面々くらいらしい。
とそこで、廊下に置き去りにされていた面々のすぐ横の襖が乱暴に開け放たれる。

「うっせぇな!! 酒くらい静かに飲ませるや!!!」
『鬼ィ―――――――――!?』

襖の奥から出てきたのは、ビールをラッパ飲みするどこかご機嫌斜めな逆鬼。
そのあまりに厳つい凶悪極まりない顔に、晶と桃子をのぞいた面々は腰を抜かし、レンは心臓を抑えて蹲る。
まさか、怒鳴ると同時に気当たりを飛ばした筈もないが、それでも彼女らには相当ショッキングだったのだろう。
辛うじて耐えた晶も膝が笑って顔が引きつっている。なんとか平静を保っているのは、桃子くらいだった。
そして、背後から放たれた巨大な気配に美由希と恭也は思わず振り向く。

「えぇ! 虎の次は鬼!?」
「ここは妖怪屋敷かなんかなのか?」
「違うよ、顔は鬼みたいだけど鬼じゃないよ!
 あれはジャンケンに負けて、兼一の修行から外された事を拗ねてお酒飲んでた逆鬼よ♪」
「余計なこと言うんじゃねぇアパチャイ!! べ、別に俺は拗ねてなんかねぇぞ!
 時間が出来たから朝から酒のん出るだけなんだからな!!」
「そう言いつつ、目尻に涙が残ってるね逆鬼どん。さては、さみしくて泣いてたね?」
「余計なこと言うんじゃねぇっつってんだろうが馬ぁ!!」
「ホッホッホ、逆鬼君は本当に兼ちゃんに修業をつけるのを楽しみにしておったんじゃなぁ」

アパチャイに続き、いつの間にか戻ってきた剣星と長老にからかわれ、顔を真っ赤にして怒鳴る逆鬼。
とはいえ、これでは迫力も半減。実際、高町家の面々はだれもが内心でこう思っていた。

(どうやら、見た目ほど怖い人じゃないみたい……)

とりあえず逆鬼への誤解が少しは解けたのはいいことだろう。
だが、そうしている間にもメーオの鋭い牙が兼一に迫っている。

「談笑してないで助けてくださいよ! あなた達に弟子を助ける気はないのか、師匠ども!!」
「ハハハ、獅子は我が子を千尋の谷に突き落とすものだよ、兼一君。
 つまりは…………がんばりたまえ」
「なんじゃそりゃ―――――――――――――!!!」

結局、揃いもそろって誰一人として助けようとしてくれない師匠達。
恭也と美由希ももう何が何だかといった様子で、すっかり助けに入るタイミングを逸していた。
そして、縁側から美羽が皆に呼び掛ける。

「みなさーん、お茶がはいりましたわよぉ!」
「おーう、今いくぜぇ」
「あぱ、お茶受けは何よ?」
「おいちゃんの中国土産のお茶とお菓子ね、きっと」
「ん、たのし…み」
「ではお客人、こちらで茶でも飲むとしましょうかの」
『は、はぁ……(いいのかな、兼一【さん・くん】はあのままで)』
「そういうわけで、我等は先に行ってるからひとしきり遊んだら君も来るように」
「ああ、置いていかないでぇ――――――――――――!!!」

どうやら、自信作を嫌がられて秋雨も拗ねているらしい。
兼一を放置し、彼らは一足先に母屋へと向かっていくのだった。



   *  *  *  *  *



そうして、ひとしきり御礼やら互いの身辺の話を高町家と梁山泊との間で済ませた頃。
ようやくメーオから解放された兼一が合流した。

「し、死ぬかと思った……」
「お前のところでは、いつもこんな調子なのか」
「まあ、大体こんな感じ……」
(これだけの達人によってたかって鍛えられ、あまつさえ日々命懸けの修業……強い筈だ)

恭也の質問に、茶を飲みながら遠い目をしながら答える兼一。
それは、どこか悟りを開いた僧侶の様ですらある。
まあ、毎日毎日走馬灯を見ていれば、悟りの一つや二つ開けるかもしれない。

「にしてもや、美由希ちゃん。内弟子って…人間やないの?」
「敵に殺されるのが先か、修業で殺しちゃのが先か…って冗談だよね?」
(……そう思いたいけど、さっきのあの人たちの目、シャレにならないよ……)

先ほど聞いた梁山泊の基本方針を思い返し、レンと晶は怖れ慄く。
美由希にしたところで、妙に輝いた瞳で語る師匠連の様子を思い返すと、兼一に同情したくなった。

「武術の世界って、壮絶なんだねぇ……」
「いえ、フィアッセさん…さすがにここまで壮絶なのはまずないと思うんですけど……」

その一方で、フィアッセが何やら変な方向に勘違いしようとしているのを、那美が控えめに訂正しようとする。
ここのあり方が武術家の基本姿勢などと思われては、仮にも神咲一刀流を学んだ彼女としても困るのだ。
『修得か死か』というのは、さすがにあまりにも極端すぎる。
そんな事を真顔で言うのは、武術の世界でも確実に少数派なのだから。

「ところで、高町恭也君だったね?」
「は、はい岬越寺先生」
「膝の方はどうかね? 先日の件で、かなり酷使したと聞いているが?」
「な、なぜそれを!?」
「ふ、私はここの裏で接骨院もやっている。即ち、プロだからね。この程度の診断でもできない様ではヤブだよ」

さらっと自身が負った爆弾を見抜かれ、動揺する恭也。
そんな彼に対し、秋雨はどこまでも穏やかにさも当然とばかりに言ってのける。
しかし、今回はいつもと調子が違った。

「と、言いたいところだが、実はある人物から君の膝の事を聞いていたのだよ」
「それは………兼一ですか?」
「いや、谷本君……ハーミットと言った方が君にはわかりやすいかな?」
「奴から、ですか?」

無論、秋雨ならば初見の段階で僅かに膝を庇うように歩く違和感に気付く事が出来ただろう。
だが、今回はそれに気付くより以前に彼は恭也の足の事を知っていた。
それ自体は別に驚く事ではないだろうが、その教えた人物に恭也は驚く。
なぜ、一度は自身を襲ったあの男がそんな事を彼に話したのかを。

「膝に古傷を抱えているそうだね。
海鳴大学附属病院からカルテも見せてもらったが、良ければ診せてもらえないかい?」
「ど、どうやってカルテまで……」
「矢沢医師……ああ、フィリス・矢沢女史の義父とは古い知り合いでね。そのツテさ」
(岬越寺師匠、相変わらず底のしれない人だ……)

計り知れない師の顔の広さに、兼一は呆れを通り越して感心してしまう。
この男、いったいどこまで顔が聞くのだろうか?
そうして、一通り恭也の膝を確認し終えた秋雨は口を開く。

「なるほど、だいぶ派手に壊したようだね。よくもまぁ、ここまで元に戻したものだ」
「…………」
「だが、確かにこれでは完治は難しい。治すには、手術で抜本的に“直す”しかあるまい」
「………………………………はい?」

思いもしなかった秋雨の言に、しばらく何を言われたのか恭也は理解できなかった。
そして、理解したからこそ耳を疑う。それではまるで、完治する見込みがないと思いあきらめていたこの膝を治せるような口ぶりではないか。

「な、治るん、ですか?」
「別に膝から先がなくなったわけじゃあるまいに、治らんなどという事はあり得んよ」
(でた、この人的常識……)

自慢の口髭をいじりながら、さも当然の様に断言する秋雨。
しかしこの男、碌に医療道具もない状態で腹部を貫通した傷を治療してのけた驚異の腕の持ち主。
彼を知る者たちからすれば、この程度は今更驚くに値しなかったりする。

「ですが、接骨医なんですよね?」
「ああ、“接骨医でもある”よ。まあ、結局は同じ医療、やろうと思えばできないことなどないさ」
「ほ、本当なんですか兼一さん!?」
「むしろ、この人にできないことがあるなら教えてほしいよ、僕は」

美由希に尋ねられた兼一は、心の底からそう答える。武術と医療だけではなく、芸術さえも極めた男である。
それどころか通じた言語は数知れず、発明まで達人級の万能超人。
兼一曰く、「梁山泊のドラえもん」とは彼の事だ。ついでに言うなら、兼一がのび太君だろう。

だが、恭也としてはそれを手放しで喜ぶことはできずにいた。
無理もない。普通の武道なら問題はないかもしれないが、彼が使うのは御神の剣。
その技、特に神速などの高位の技は身体にかける負担が大きい。
さすがに、いくら治ったとしてもそれを極める事が出来るとは思えなかった。

(それは剣を、御神流を極めることもできるという事なのだろうか?
 いや、さすがにそんな都合の良い話が……)
「あるよ、当然の様に。そもそも、そうでなければ完治とは言えんだろう?
 御神の剣だろうが、北斗神拳だろうが極められるさ」
(心を読まれた!?)
「ハハハハハハハハハハ」

まんまと自分の心中を言い当てられ、そのうえその不安さえ一蹴されて硬直する恭也。
まあ、兼一などは今更心を読むくらいでは驚きもしないが、彼にとっては新鮮な体験どころの話ではない。
とはいえ、そうと聞いては周りが黙っていられる筈もなかった。

「本当なんですか、先生!」
「ハハハハ、こんなことで冗談を言うほど趣味は悪くないですよ、奥さん」
「きょ、恭ちゃん!」
「「(お)師匠!」」
「やったね、お兄ちゃん!!」
「おめでとうございます、恭也さん!」
「恭也………よかったね。ほんとに、よかった……」
「あ、ああ……」

未だに恭也は信じられない気持ちだが、他の面々は我がことのように喜んでいる。
自分のことよりも、そうやって自分の為に喜んでくれる家族や友人に、恭也は深い感謝を覚えた。

「今から手術することもできるが、それだと君の主治医の顔を潰すことになるな。
 それはさすがに悪いだろう。すまないが、手術はまた日を改めてという事でいいかな?」
「はい、俺としてもフィリス先生を無碍にはしたくないので」
「ふむ、ならちょうどいいし、彼女の治療も日を改めた方がいいかな」
「へ? うち?」

そう言って秋雨が視線を送ったのは、ただただ恭也のことを喜んでいたレン。
なぜそこで自分の話になるのか、一瞬理解が追い付かなかった。

「彼から一緒に聞いていたのだよ、君の心臓の事もね。
 もし、君に手術を受ける意思があるのなら、私も微力ながら手を貸そう」
「え? そ、それって……」
「心臓外科も得意分野さ」

キラリと目の端を光らせる秋雨。
しかし、これで終わりではない。
梁山泊にはもう一人、東洋の医術に長けた男がいる。
この二人が手を組めばまさに鬼に金棒、死人でさえも生き返るであろうという男が。

「体力の方はおいちゃんにお任せね。秘伝の漢方でちゃ~んと底上げしてあげるからね」
「ひ、秘伝ですか?」
「秘伝ね、中身は聞かない方がいいね」
(いったい何で出来ているのやら……やめよう、考えるだけで恐ろしい)

主にその秘伝の漢方のお世話になっている兼一だが、彼もその原材料は知らない。
ただなんとなく、知らない方がいい事に分類されるものが多分に入っているに違いないと確信しているが。

「ふふふ、しかし心臓手術か。腕が鳴る」
「そうね、折角だから金輪際病気になんてならないように造り替えちゃおうかね」
(でたな、ショッ○ー!?)

こうして、本人達を余所に恭也とレンの治療(改造)計画が着々と進行していくのだった。
無論、その結果がどんなものになるかは、語るまでもないだろう。






おまけ

秋雨と剣星が怪しげな計画を練り始め、すっかり周りの事を無視して初めた頃。
それまで暇を持て余していたしぐれが、恭也に話しかけてきた。

「おい、高町…の」
「……なんでしょうか? 香坂先生」
「しぐれちゃんと…よべ」
「あ、いえ、それはさすがに……」
「な~んちゃっ…た」
「(『て』、ではなく『た』…なのか?)は、はぁ……」

正直、あまり積極的に話しかけてくるタイプとは思っていない相手だっただけに、恭也としても戸惑い気味だ。
もちろん、一剣士として「剣と兵器の申し子」「東洋最強の武器使い」と謳われるしぐれに対し、恭也も関心はある。流派こそ違うが、同じ剣を扱うものとして教えを請いたいという思いもあった。
ただ、タイミングを掴みづらく、いったい何と言って話しかけていいか判断できなかったのだが……。
その意味で言えば、こうしてしぐれから話しかけて来てくれたのは、恭也にとって僥倖だっただろう。

「お前、この前のことで刀を一振りなくしたそうだ…な。代わりの刀にあてはあるの…か?」
「……………………いえ。アレは亡くなった父が見繕ってくれた無銘の業物でして、正直アレに代わるものというのは……」
「そう…か。闘忠丸、例の物…を」
「ちゅう!」

しぐれが頭の上の闘忠丸にそう指示すると、敬礼した闘忠丸がいずこかへと駆けて行く。
待つこと数分。何かを引きずる様な音と共に、襖が開かれた。
そこで姿を現したのは、細長い包みを引っ張ってきた闘忠丸の姿。

「ん、御苦…労」
「香坂先生、これは?」
「抜いてみ…ろ」

しぐれは恭也の問いに答えず、ただ一方的に要求を口にしていくのみ。
そのことに疑問を持たないわけではないが、とりあえずは指示に従って包みを受け取る恭也。
そのまま包みから白木造りの僅かに曲線を描く棒を取り出す。

(刀…か。それも小太刀)

重量感と形状、そして手にした瞬間の感触から、恭也は即座にその事を看破した。
幼い頃からひたすら剣を握り続けてきた彼にとって、それは非常に慣れ親しんだ感触だったのだ。
そうして、恭也は促されるままに和紙をくわえ、ゆっくりとそれを抜く。

「………………………………これは、まさか!?」
「恭ちゃん、これって!!」
「ど、どうしたんですかお師匠!」
「美由希ちゃんも、何をそんな驚いてるんや? 見たまんま、予想通りの小太刀やと思うんやけど」
「もしかして、凄い業物とか? 那美、分かる?」

驚きに目を見張り、言葉を失う恭也と美由希。
しかし、他の面々にはその理由が理解できない。
白く冷たく、濡れた様なしっとりとした輝きを放つ刀身は僅かに曲線を描いている。
素人目には詳しい事はわからないが、ただならぬ品である事を皆に予感させた。
だが、その真価を理解している物はそう多くない。
事実、恭也と美由希をのぞけば、那美だけがそれを理解していたのだから。

「それは多分……………………………………………人斬り包丁です」
『人斬り…包丁?』
「はい。いわゆる日本刀ではなく、武器に徹して一切の飾りを排除した刀。
 見てください、刀身は直刃で波紋がありませんし、造形にも遊びがないんです」

『造形に遊びがない』と言われても、刀に関しては素人な彼女らにはよくわからない。
しかし、波紋がないという事は一目でわかる。
故に、これが那美の言う「人斬り包丁」とやらである事を、なんとか理解することができた。

だが、恭也には一つ理解できないことがある。
この小太刀が生半可な業物ではない事は一目で理解できた。
しぐれが自分にこれを見せた意図も、ある程度絞ることができる。
理解できないのは……

「梁山泊は活人拳と活人剣を目指すと、あなた方は仰いました」
「う…む」
「なのになぜ、あなたの様な方がこんな人斬り包丁を。
これは、むしろ殺人刀の者が持つべき物ではありませんか」

恭也が抱いた疑問も当然だろう。
普通に考えて、活人剣の者が人斬り包丁を持つ理由などない。
単なるコレクションか、あるいは人を斬るためではなく、優れた武器を欲して入手したのかもしれない。
しかし、それだけではない何かを、恭也は感じ取っていた。

「この刀は、僕の父が鍛えたもの…だ」
「え?」
「父は生前、人殺しの道具を作った自分が良い父親に慣れる筈がないと考えて…いた。
 だから、こいつらが人殺しの道具として使われるのは…イヤだ」
「………………」
「もしお前が人を斬らぬと誓うのなら、この小太刀を…譲ろう」

道具は使ってこそ。その意味で言えば、このまま死蔵していては父の遺品たちが不憫と思ったのかもしれない。
だが、だからといって殺人に使われるのは彼女の本意ではなかった。
そこで出した結論がこれ、自身と同じ優れた活人の剣士に譲ること。
それこそが彼女の願いに反せず、作品達に本懐を遂げさせる方法と考えたから。
しかし、それに対する恭也の答えは、あまり芳しいものではなかった。

「……………申し訳ありません。それは、お約束できません。
 俺も美由希も、無闇矢鱈と人を斬る気はありません。ですが、必要とあらば人を斬ります。
 あなた方の様に、『死んでも殺さない』などと言えないのです」
「嘘をつこうとは、思わなかったの…か?」
「俺程度がつく嘘など、あなた方なら容易く見破るでしょう。
 なにより、ここまで買っていただいたのにそんな不義は俺にはできません」

そうして、恭也は受け取った小太刀を鞘におさめ、しぐれに返してから深々と頭を下げる。
一剣士として、あの小太刀を振いたいという欲求は強くあった。
それでも、目の前の人物を裏切りたくはなかったのだ。実力で劣るとか、嘘がばれたらどうなるかとか、そんな打算的な話ではなく、心から彼女の信頼を裏切りたくないと思う。
故に、包み隠さず本心を打ち明け、その上で小太刀を返却した。

「…………………………なら、膝が治ったら僕の弟子と戦…え。
 その結果如何によっては、譲ってやっても…いい」
「……………………………って、なんで僕なんですか――――――――――――!?」
「別にいいだ…ろ?」
「よくないですよ! なんでぼくが恭也君と戦わなくちゃいけないんですか!?」
「…………………………これも、修業…だ。実力的にも釣り合いそうだし…な」
「おお、それはおもしろそうね。噂に聞く御神の剣士とおいちゃん達の一番弟子、どちらが上か……」
「へへへ…兼一、もし負けてみやがれ、その時はどうなるかわかってんだろうな?」
「アパパパ、修業よ! 地獄の修業で鍛え直しよ!」
「そうと決まれば、『ドキドキ黒髪危機一髪 ですとろいや~』で修業だ、兼一君!!」
「ほっほっほ、わしゃぁ久しぶりにワクワクしてきたぞい」
「あ”~~~~~!! あ”~~~~~~!! なんでいつも僕ばっかりぃ!?」

頭を抱えて叫ぶ兼一だが、そんな物は軽く無視して師匠達に連行されていく。
そんな彼を呆然と見送る恭也達だが、美羽は彼らに軽くコメントして兼一の跡を追う。

「兼一さんも恭也さんも、頑張ってくださいましね」

その後ろ姿をしばし見送った後、恭也は小さく呟く。
それは、彼なりの遠くないうちに控えているであろう戦いへの意気込みであった。

「…………………まあ、俺も勝つために精進するか」

何しろ、勝てばあの小太刀を譲ってもらえるのだから、やる気も出るというもの。
ただし、しぐれは一度として「勝てば」とは言っていなかったのだが、「結果如何」という当たりでそう誤解した恭也なのだった。






あとがき

はい、とりあえずはこれで一応の完結といたします。
兼一と恭也の勝負については、その内外伝か番外編として書きたいなぁと思います。
いつになるか定かではありませんけどね。
とりあえずは、以前予告した通りリリなのとケンイチのクロスを書き始めて、同時進行でRedsもやりながらアイディアを練って行こうと思います。
また、こちらの続きとなるかもしれない新章ですが、そちらもアイディア(妄想)が溜まってまとまったら書くかもしれません。
「かも」ばかりで申し訳ありませんが、そういう事なのであまり期待しないでおいてください。

ちなみに、なんでメーオがいたのかといえば、単に里帰りしたアパチャイにくっついてきただけです。
きっと、港とかで大騒ぎになったのを、ごり押しで何とかしたのでしょう。
それでは、そのうちまた書くかもしれない「外伝」か「番外編」か「新章」でまたお会いできたらいいですね。


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

SS-BBS SCRIPT for CONTRIBUTION --- Scratched by MAI
0.074095964431763