彼此二年近く歩いてた気がする。
俺と綾乃ちゃんは早足にならないよう注意しつつ、執拗な追跡から逃げるようにしてここに飛び込んだ。
「メイドはメイドであって、決してメードなどではないか」
日本の治安レベルは下がったなんて言うけれど、それは確かにそうかもしれないけれど、まだまだ高くて捨てたもんじゃない。
いろんな問題を内包した国ではあるが、やはりその辺りは大したもんだった。
「それには俺も賛成」
公園のベンチに美少女と腰掛けながら、祖父が孫娘に語った持論に、うんうんと頷きつつ、後方にあるだろうその気配を窺ってみる。
が。
「…………」
そんな芸当が自薦他薦ともに自信ありありで、ニュータイプでも何でもない俺にできるわけもなく、その可能性のありそうな美少女に、
こっそりと小声で訊いてみた。
「いる?」
「はい。こっちをじーーっと見てますよ」
「……ホントご苦労だねぇ」
「頼もしいじゃないですか」
まあ、ね。
少なくとも少ないけど、税金を払ってる身としちゃ、職務に対して非常に勤勉な警官ってのは、そりゃ居てもらわなきゃ困るけれども。
「ふうん」
やはり正直言って鬱陶しい。
コンビニからの帰り際、偶然ばったりしっかりと、見回り中の警官と目が合ったのだが、俺はそこでの対応を完璧ミスってしまった。
もしかしたら、どこか後ろ暗いところが、あったのかもしれない。
なんにも悪いことは、少なくとも『まだ』してないのに、ささっと露骨にその視線から逃げてしまった。
挙句には容疑者確定の回れ右までも披露。
そこからは正義感かノルマ稼ぎか知らんけど、もうポリスマンから三十分以上、着かず離れずのポジションでマークされていまに至る。
「…………」
こんなんじゃアパートに、ストレートに帰るわけにもいかんしなぁ。
「どう思ってるんでしょうね?」
「あん?」
「お巡りさんはわたしたちのこと」
「おいおい」
がさごそとビニール袋からビールを取り出すと、綾乃ちゃんはプシュッと開けて、ゆっくりと優雅にその可憐な唇へと持っていった。
こくりこくりと二度ほど、美味そうに喉を鳴らすと、にっこりと微笑みながら口を離す。
「どう思ってるんでしょうね?」
そしてまた同じ質問。
いつもとそれは変わらない笑顔に見えるけど、気のせいだろうけどどこか、ぺろっと舌を出してるような悪戯っぽい感じがする。
ああ可愛い。
「ううん。恋人同士、……にはちょっと見えないよなぁ?」
綾乃ちゃんからはしっとビールを奪うと、俺はそのまま口につけて喉を潤す。
ちょっとだけ悔しい思いをした。
とっくのとうで関節キスごときに喜ぶような歳じゃない。それでも自然を装いつつなんか不自然な自分にムカついた。
「やっぱ兄妹あたりじゃない?」
若干の不自然は否めないものの妥当な線だろう。
だが後ろで張ってる警官は、もっと違う可能性を予想、否、期待をしているんだろうな。
変質者から美少女を救出。
そこそこにほどほどでそれはやっぱりお手柄だろうし。
「兄妹ですか?」
「うん。ああ、でも、恋人に見られないのは癪だけど、綾乃ちゃんみたいな娘だったら、兄妹ってのもなかなか悪くはないね」
欲しいと思って手に入るもんじゃないからな。
いまこの瞬間にちょっとどけ、可愛い可愛いシスターがいる高取の奴が、羨ましいなんて気持ちに初めてなっちゃったりしちゃったぜ。
しかもあそこの妹は《お兄様》なんて呼んでくれんだよなぁ。
お兄様。
嗚呼それはお兄様。
高嶺の花っぽい自分のキャラを良く知ってるというか、ツボを抑えまくりで、他人事なのに聴いたとき、オラぞくぞくしちゃったもん。
わたしの目にはお兄様しか映りませんみたいな、それを露骨に鬱陶しがる兄に憧憬が湧いたり湧かなかったり。
「…………」
洋子のキャラだったらば、ここはアニキかしら?
まどかちゃんならばやはり、お兄さんなのかね?
紅葉ちゃんは流行の、にーにーとかどうだろう?
「…………」
素早く想像してみたけど、う~~ん。みんな、どれもなかなか悪くはないね。
で、
やっぱり綾乃ちゃんならスタンダードに、
「お兄ちゃん」
「そうだよな。やっぱりそれになるよな」
深く重く、だけどかなり無意味に頷いた俺の肩に、少女が頭をこてんっと、身体全体をすり寄せるようにして乗せてきた。
不意に真近で鼻孔をくすぐった匂いは、くらくらとしそうなほど酔いそうに甘い。
ここでポリスにパクられても『我が生涯に一片の悔いなしっ!!』と、高らかに宣言出来そうなほど危険で魅力的な触感と香りだった。
一人っ子で良かったと思う。
両親の家族計画に思わぬところで感謝だ。
実際にリアルな妹のいる奴はほぼ全員が全員、妹萌えなんていうのは、いないから言える台詞だと、いないから見れる夢だと言う。
ビバ一人っ子。
少子家庭万歳。
来々義理の妹。
「お兄ちゃん」
「どう、した、妹よ?」
いや、本当にどうした、妹よ?
可愛い顔が熟れた林檎みたいにして、夜目にも鮮やかに真っ赤々ではないか。
まさか缶ビールひとつも満足に空けないのに酔ったのか?
ハトより弱い。
ちなみに可愛いおまえを映すお兄ちゃんの視界の端にはね、じりじりと距離を詰めてくる公僕まで映ってやがるんだよ。
職務熱心な彼に点数を稼がせてやるつもりは、悪いんだけどお兄ちゃん欠片もないんだ。
「ふふふっ 呼び方をちょっと変えただけなのに、思ってたよりも、結構どきどきするものですね」
「ああ、俺も色んな意味で、結構どきどきしてるよ」
距離はすでに10メートルを切っている。
酔っ払いの手を引いて逃げるには、もう完全に無理な距離になっていた。
まあ、
ここで逃げたりしたら事態は、面倒な方向に加速するだけなのは丸わかりだが、捕獲者から逃げたくなるのは動物の本能である。
人間だってアニマルだ。
自然という神様の作ったこのたわけた摂理には逆らえない。
いつ綾乃ちゃんの手を引いてダッシュをかけようかと、小動物ちっくな俺の本能はポリスの隙を窺っていた。
「知っていますか? 紅葉さんはアクション映画がお好きなんですけど、最近はラブロマンスに、些か以上にハマっているみたいですよ」
「へぇ~~、そうなんだ」
俺はいま確実にアクションを演じたい心境です。
ジャッキーチェン(52)香港スター、ハリウッドへの進出は成否微妙の、真の偉大さがいまならわかったりします。
「古典の映画にはこういうときの、お約束の誤魔化し方というのがあるんだそうです」
「時計塔から飛び降りたりするんだろ?」
「はあ?」
「いやいや、うん、気にしなくていいよ」
「はあ……」
テレビで酔拳を観っちゃった次の日の学校では友だちの顔の前で、両手をぶんぶん振ってる奴がどの教室にもいたっけなぁ。
ぼ~~っとしてたら危うく、木人拳の餌食になりかけたのも懐かしい思い出だぜ。
「こうするんです」
俺の首に“しゅるり”と細い両腕が廻る。
武道の成果かもしれない。
これこそ柔よく剛を制すというのかなんというのか、なんというべきなのか、――まあ、逆らうこともできず唇と唇が急接近していた。
…………
いや、そもそも逆らおうという気が、まずはなかったんだけどさ。
「おお?」
これも見切りというやつだろう。
初めて会ったときに道場で、見せてというより魅せてもらった、おっさんの蹴りをミリ単位でかわしていたあれだ。
今回はこの闇の中とあってミリ単位とまではいってない。
それでも、
見事である。
「お静かに」
「……はい」
唇と唇が急接近。
横から見ればくっついてないのが一目瞭然ではあるのだが、この暗さであればくっついてるようにも、まあ映るかもしれん。
縦なら尚更だ。
ポリスマンの前進がぴたりと止まっている。
どころか“チャラチャ~~”とばかりに、太陽にほえろのテーマソングでもかかってそうな眼を、すいっとベンチから闇夜へ逸らした。
イケるっ!!
思わずでビールの缶を握り潰した手を、さらに強く強く握り込みつつ、俺は心密かにそう思ったね。
なるほど。
これは確かに古典だ。
この手法で事なきを得たヒーローやヒロインは、それこそ洋の東西を問わずでいつの時代でも数知れない。
あいつこいつも、どいつもそいつも、これで結構助かってる。
気まずそうにしている巡査(仮)の迷いが、達人じゃない俺にもはっきり感じられた。
うむ。
「…………」
あともう一押しといったところだろ。
あともうワンプッシュあれば、綾瀬派出所交番勤務の公務員は、きっと回れ右をしてくれるはずだ。
コトンッと。
ビールの缶をわざと音を立ててベンチの片隅に置くと、俺の両手は妙な使命感に燃えまくって行動を開始する。
こういうときだけ毎度毎度のことだが迅速だ。
左手は美少女の背中に回し、右手はやらしくならないよう注意しつつ、ちょこんっと、ほんの少しだけ覗いてる膝頭に軽く乗せた。
と。
その瞬間にわかったね。
「あ……」
どうも俺は綾乃ちゃんを誤解していたらしい。
この娘なら大丈夫と勝手に思っていた。
年下でも人間としての完成度は、自分より上だと勝手に認識しちゃってた。
でも、
決してそんなんじゃない。
しっかりとしているようでも白鳳院綾乃は、山本洋子や御堂まどか、松明屋紅葉と同じテリトリーに属している存在だった。
少女。
自分一人でなにもかもこなしているような顔をしている、小憎らしくて生意気で無邪気に残酷な、未完成こそが魅力の存在なのである。
変わらないのだ。
達人の技と風格がすでにその身に備わっていようが、そんな大層なものより、まずはどこにでもいる一人の少女。
「…………」
圧倒的に経験が不足している。
世の中には三十路という、忌々しい言葉が見え始めた俺より、濃い経験を積んでいる女の子が、おそらくは盛り沢山で大勢いるはずだ。
しかしそうであっても、少女は少女であって、儚げな初々しさを失ったりはしない。
と。
「…………」
俺は断固としてそう信じてるっ!!
などという、
島田誠の深い部分に根付いてるらしい夢見る思想が、刹那で脳内を元気に駆け巡っていたが、七周り半したくらいで平静を取り戻した。
ええ。
勿論そうですとも。
俺も相当にパニっくっていたらしい。
「え?」
寄り添って抱き合う男女の唇は、夜目にもわかるほど、縦から見ても横から見てもはっきり離れていた。
これではポリスを誤魔化すことはできない。
少女の声は喩え微かでも、びっくりするくらい耳によく通る。
今度はジョーズのテーマソングに乗って、またポリスがジリジリとこっちに近づいてきた。
「え?」
俺の首から片方の腕を外すと、綾乃ちゃんは『え?』を連発しながら、目をぱちくりとさせつつ、指先で可憐な唇に何度も触れている。
少女のそこは末期の虫歯よりも遥かに知覚過敏だ。
異物が触れれば即座に反応を起こし、脳内の乙女回路とでもいう部位に、瞬時ではあるが非常に効率悪く衝撃を伝達する。
「あの、……はい?」
間違いない。
白鳳院綾乃も現在進行形で混乱していた。
物心ついてからはペットの犬や猫にしか許したことのないだろう、世界遺産登録をしてもおかしくない聖地を押さえながら俺を見てる。
「…………」
やわらかかった。
「あの」
「え?」
「いや」
「え?」
「なんつぅか、ね」
「……はい」
「うん」
「…………」
たどたどしいノーコンな言葉のキャッチボールを交わしながら、相手の目をちらちら追いつつ、相手と目が合えばささっと逃げる二人。
おい。
これはなんなの?
なに100%なんですか?
葡萄か?
林檎か?
それともバナナか?
くっそう。
一体いつの時代のラブコメやねん?
島田誠さん(27)未だに週間少年誌愛読者は、モロにきまぐれやBOY,S……の直撃世代なんですよ?
ああ、ちっくしょうめ、猛烈に恥ずかしいなぁ。こんなベタベタな展開なんて舐めんなよ? ――なんだかすんげぇ萌えてくるぜっ!!
と。
そうやって変なラブモードに入ったおかげでやっとわかった。
どうもこの娘、最初っから緊張していたらしい。
綾乃ちゃんクラスの達人の見切りが、喩え酔いのハンデがあったにしても、あんな中途半端な距離のはずがない。
また、
手を背中に回された&膝に手を置かれたくらいで、完全に俺の独断突発事項でも、身体を過剰反応させたのは思えば不自然だろう。
そうじゃなかったら、俺にあれだけの、ラブコメの主人公みたいな、ご都合主義満載のラッキーは絶対に起こらなかった。
唇と唇による人身事故。
接触はコンマ何秒の刹那ではあったがわかる。
「……はぁ」
メチャクチャに美味。
なんでだか、なんでなんだか、困ったようにしている綾乃ちゃんを見てると夢心地だ。
いま俺に現実感を与えてくれるのは、また一歩距離を詰めてきた、空気の読めない真面目なポリスマンだけである。
「ご、ごめんなさい」
「はい? なんで、綾乃ちゃんが、……謝ちゃってるのかな?」
むしろここは、
ご馳走様とこちらから礼を言いたい。
「あの、し、島田さんに、その、さ、触られると、声が、声が出てしまうので、そ、それは人に聴かせるのは、ちょ、ちょっと」
「はい?」
まだ俺も混乱状態から抜けきってないんだろうか?
綾乃ちゃんが一体なにを言っているのか、全体なにを伝えたいのかがいまいちわからない。
おそらく、
俺にどこぞのAV男優みたいな、怪しい黄金の指設定はなかったはずだ。
「よ、洋子さんの声が、あの、あんなに大きく、いえ、いえいえ、い、いいんですよ? わたしが勝手にびっくりしただけですから!!」
「はぁ……」
なるほどね。
いまよ~~くわかったよ。
「洋子の声、やっぱりでかかった?」
「す、すいません」
「……いや、べつに綾乃ちゃんが謝ることじゃないよ」
本当に。
謝るのはじゃ誰なのかといえば、この場合はどう考えても俺だろう。今更だがオナニーを親に目撃されるくらい恥ずかしくなってきた。
「でも洋子には、絶対に言わないでね?」
殺されちゃうから。
猫は七代まできっちりと祟るっていうしさ。
「い、言いませんよそんなことっ!! い、言うわけないじゃないですかっ!!」
うん。
そりゃまぁそうだよな。よく考えればよく考えなくとも、女の子同士どんな流れでそんな話をするんだよ。
「あとそれから、その、……ごめんなさい」
「まだ何か他にも綾乃ちゃんに、俺はやっちゃってますか?」
これかなぁ?
あれかなぁ?
心当たりがあまりにありすぎて、果たしてどれのことについて謝られているのか全然わからない。
なんだか典型的な自爆男のパターンだ。
浮気がバレた気分である。
「唇、……ですよ」
「くちび、ああ、いえ、こちらこそ、それはありが、じゃなくて、ごめんなさいだね。……ってかなんで綾乃ちゃんが謝ってるのさ?」
少女がこういう問題で謝罪する必要は徹頭徹尾でない。
喩え万が一どころか億が一であったとしてもだ、いっぱしの男がそんなことを、いたいけな少女にさせちゃいけない気がする。
少女というのは国の宝で世界文化遺産、おまけにその権利は治外法権で神聖不可侵な存在だ。
…………
ああ、わかってるぜ。
俺、もうなんだか確実に精神の深いところが病んじゃってるよね。
すでに病状がステージ4まで到達しちゃってそうでも、嫌な気が少しもしていないのはかなりの重症だった。
ってか悪くないとすら思ってる。
「……嫌じゃないですか? 好きでもない女の子と、そういうことを、したりするの? それとも男の人は、誰でもいいのでしょうか?」
「そんなことはない。女の子より間口が広いのは認めるけど、だからって誰でもいいってわけじゃない」
「なら、やっぱり、……ごめんなさいで、この場合の返答は、合ってるんじゃないですか?」
「いんにゃ、この場合間違ってるよ、やっぱり。だって綾乃ちゃんとだったら俺、嫌どころかむしろ、大歓迎で望むところだしさぁ」
「洋子さんとも、あんなこと、してるのにですか?」
「…………」
いまは唇と唇が離れているとはいえ、なくそうと思えば簡単になくせる距離だった。
それほどの真近から綾乃ちゃんの瞳はじ~~っと、俺の心底を覗こうとでもするように真摯に見つめてくる。
男27歳。
少女の綴った言葉に言外の含みがあるのに気づかないほど、鈍くもなければ経験不足でもなく、無視できる狡さもまだ持ってなかった。
だから決心する。
これまで漠然としていたものが、綾乃ちゃんの言葉で不意に固まった。
「洋子にも言ったことがあるんだけど――」
でも、
あのときは勢いがだいぶ先行してたかもしれない。
洋子に吐いた言葉は真実だけで、そこに欠片の嘘もなかったが、やはりそこには重みもなかっただろう。
開き直りに重さはない。
が。
「俺はね、みんなと、洋子とも、紅葉ちゃんとも、まどかちゃんとも、そして勿論綾乃ちゃんとも、キスだけじゃなく色々したいんだ」
これは真実だったら重いとは限らないという、そういった類のお話です。
まぁもっとも、重ければなんでもかんでも、それでいいのかというのも、まずはあったりなかったりするんだけれど。
とにかく
「嫌なら投げ飛ばしてくれても、警官に突き出してくれてもいい。綾乃ちゃんならどっちも簡単だろ。さっきのは事故だったけど――」
俺はスイッチを入れた。
受動的な『入った』ではなく能動的な『入れた』である。
「キス」
「……あ」
ゆっくりとだ。
武道の達人でなくとも避けようとすれば、誰にでも避けられるくらい、俺はゆっくりと綾乃ちゃんの顔に右手を伸ばす。
女性というよりはまだ子供みたいな、“ふにっ”と柔らかい熱を帯びた頬に触れる。
襲い掛かろうとしている征服欲を、保護欲が必死に羽交い絞めしている間に、なるだけ優しく見えるよう少女に微笑んで見せた。
満点で不細工だろうが気にしたら負けである。
「…………」
光の反射だろうか。
本当にそうかもしれないが、本当はそうじゃないのかもしれない。
こういうとき女の子の瞳が潤んでいるように見えるのは、男がどれだけその女の子にハマっているかの目安にもなる。
小刻みに睫毛を震わせている綾乃ちゃんの瞳は、堪らなく“うるうる”だったりした。
この娘に全裸で退職届を叩きつけて来いと言われたら、多分だが俺は喜び勇んで従ってしまうだろう。
「…………」
目蓋をそっと閉じられた。
性悪女にアイアンクローの十秒間行使おまけオプションまでが追加確定する。
「……いざ」
うっかり思ってたことを声に出しつつ、俺は頬に当てられていた手を離し、その熱が消えないうちに、そのまま腰に廻して引き寄せた。
やはりここでも綾乃ちゃんからの抵抗はない。
小さな身体に体重をかけないよう、しかし覆いかぶさるようにして、変に器用に顔を傾けて唇を重ねようとする。
「…………」
目が合った。
祈るように目蓋を閉じている綾乃ちゃんとじゃない。
ダルマさんが転んだ世界チャンピオンになれそうなポリスマンとだ。
「…………」
ああ、そうさ、この人の存在なんてさ、もうさらっときれいさっぱりで忘れてたさ。覆いかぶさる『よう』じゃ本当はなかったさっ!!
でもこれだけはさせてくれと目で訴えながら、俺は真一文字に結ばれている少女の唇を優しく奪った。
そこだけが雪のように冷たく、けれどしっとりとやわらかい。
身体はどうしても経験のない接触に強張るものの、それでも少女は守るように抱きすくめる、俺の腕の中から逃げようとはしない。
舌先を滑り込ませたい衝動を抑えながら、背中をあやすように撫でつつ、俺は綾乃ちゃんが落ち着くのを待った。
十秒、二十秒、三十秒、
「…………」
きっとこれこそがあれ、武士の情けというやつだろう。
鍛え方と年齢による肺活量の差で、綾乃ちゃんの身体から緊張がなくなるころには、俺はチアノーゼ気味だったが網膜に灼きついたね。
背中がカッコいい。
ぼくの街のみんなが頼りにするお巡りさんは、若い二人のために黙って後ろを向いてくれてた。