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[22783] 見習い従者とメイドくん 【近代ヴィクトリア朝×中世ファンタジー】
Name: arty◆ecc17069 ID:fd65897b
Date: 2013/07/29 00:43
 メイド達の世界(階下の世界)へようこそ!

 貴族の青年コリンは、とある事情から使用人としてカントリーハウスで働くことになってしまった。ルームメイトのペイジ(メイドくん)を始めとして、メイド長、ハウスメイド、スカラリーメイド、パーラーメイド、ランドリーメイド、キッチンメイドといったメイド達に囲まれながら、階下の世界に馴染んでいく。

 ヴィクトリア朝っぽいファンタジー世界を舞台に、ボクの好きな要素をごちゃまぜに盛り込みました。元は「メイドくん制作中」というFLASHノベルゲームで、Webサイトから遊べます。コミケや他投降サイトでも公開しています。今年の夏コミから推敲し直してみました。

 感想、ご指摘、心よりお待ちしています! どんなリアクションでも頂戴できれば、ボクは涙して喜びます。



[22783] ▼▼▼ 1-1. 回想(帝歴266年春)
Name: arty◆ecc17069 ID:fd65897b
Date: 2013/07/29 00:38
 港湾都市フローマスの中央通りを北上すると、市街地を抜けた辺りで右手に緑の敷地が見えてくる。
 そこがフローマス伯ヘイウッド家のカントリーハウスだ。

 あまりに広大すぎて、敷地外からは屋敷の姿を覗うことは出来ない。
 林に囲まれた敷地内は緩やかな草丘が連なり、その間を縫うようにして一本の馬車道が延びていた。
 その先に立つ青い屋根の屋敷が、メイド長の職場だった。

 すらりとした長身に、栗色のロングヘア。
 髪の一部をワンサイドアップに括っている。
 身につけているのは黒のワンピースに、白のエプロンとカチューシャだ。

「シェリーお嬢様、失礼致します」

 メイド長はお嬢様の寝室を訪れると、天蓋付きベッドに向けて軽く一礼した。
 寝起きの金髪少女が、アーリーモーニングティに口を付けたままメイド長を一瞥する。

 社交シーズ中は伯爵夫妻が帝都に出掛けてしまうため、末娘が当主代行の役目に就く。
 娘の名は、シェリー・ヘイウッド。
 十歳を過ぎたばかりの幼い彼女こそが、メイド達の仕えるご主人様だった。

 ストレートの金髪に、吊り目気味な碧瞳と整った顔立ち。
 身に付けているピンクのベビードールは、ほとんど下着姿と変わらない。
 絵本に出てくるお姫様そのままなビジュアルをしたシェリー嬢の美貌に、メイド長のクールな表情がだらしなく緩んだ。

「くふ、今朝もお嬢様の可愛さは格別です」

「気持ち悪いぞ。用事があるなら早くしてくれ」

 シェリー嬢の冷たい眼差しも、メイド長にとってはご褒美でしかない。
 貴族令嬢に求められるのは、威厳と品格。
 その点においてシェリー嬢は、幼いながらも模範的ですらあった。

「今朝は面白いニュースをお届けに来ました」

「む?」

「新しいメイドを雇い入れたのです。これは是非、お嬢様にもお目通りしておこうかと」

「そんなことを、わざわざ私に?」

 つれないシェリー嬢のリアクションは予想通り。
 貴族階級からすると、メイドなど掃除道具と同列の存在だ。
 シェリー嬢も例外ではなく、一部の親しい使用人を別として、屋敷全員のメイドの顔すら覚えていなかった。

 もちろんメイド長も、雇ったのがただの新人ハウスメイドなら、シェリー嬢に時間を取らせない。
 紹介するには、それなりの理由があった。

「雇ったのは、ジュニアスタッフです。お嬢様と歳もほぼ同じですよ」

「大して興味ないな」

 台詞とは裏腹に、シェリー嬢の眉が少し動いた。
 少しだけ興味を惹かれたようだ。

 何もかもが完璧に見えるシェリー嬢だが、メイド長には一つの懸念がある。
 それは、完璧すぎるということだ。
 理想の貴族令嬢像を演じきるシェリー嬢は、見ているとたまに不安になってしまう。
 周囲の期待に応えるため、彼女は自覚なしで無理を重ねているのではないかと。

 シェリー嬢に足りないのは、年相応の子供らしさだ。
 大人が相手では、シェリー嬢も心を開けないだろう。
 そのための秘策が、年齢の近いジュニアスタッフの採用だった。

「それでは紹介しましょう。ふふ、シェリーお嬢様も、びっくりしますよ。ほら、入ってきなさい」

 メイド長は、廊下に待たせていた新人メイドを招き入れる。
 おっかなびっくりといった様子で、小さな銀髪がひょっこりと頭を見せた。

「は、初めましてなのデスよ」

 ぶわっと部屋の雰囲気が、一気に華やいだ気がした。

 三つ編みにした銀髪に、大きく澄んだ蒼い瞳。
 ほんのり桜色に透けた白い肌は、陶磁器のように滑らかだ。
 メイド服が似合いすぎていて怖い。

「……ッ!」

 目を見開いたシェリー嬢が、無言で固まっている。
 自身も十分に美少女と称されるシェリー嬢にとってさえ、新人メイドの愛らしさは衝撃的だったのだろう。
 新人メイドの方も、さらさらの金髪を伸ばしたシェリー嬢の姿を目にすると、耳まで真っ赤になって廊下に引っ込んでしまった。

 呆然としていたシェリー嬢が正気を取り戻すまで、一拍の時を要した。

「何だ今のはっ? でたらめに可愛かったぞ! あれが妖精というやつなのかっ?」

 興奮したシェリー嬢が、廊下を指さしながら捲し立てる。
 思いの外に好評を得たようで、メイド長は満足そうに微笑んだ。

 正直なところ容姿の端麗さで言えば、シェリー嬢も負けてはいない。
 しかし、子供らしい初々しさが、新人メイドの魅力をかさ上げしていた。
 恥じらう仕草と表情が、見る者の庇護欲をかき立てるのだ。

 戻って来ない新人メイドに、メイド長が催促する。

「こら、いつまで引っ込んでるの? 早く入ってきなさい」

「いやいや! シェリー嬢様、ほとんど下着姿なのデスよっ?」

 確かに寝起きでベビードール姿のシェリー嬢は、ほとんど半裸だ。
 ただ、シェリー嬢にとって着替えや入浴をメイドに手伝わせることは、日常生活の一部でしかない。
 ペットや掃除道具に裸を見られたところで、恥ずかしくないのと同じ感覚だった。

 今の状況で、恥ずかしがっているのはシェリー嬢ではなく、新人メイドだ。
 このままでは埒が明かない。
 仕方なくメイド長は、魔法の言葉を呟いた。

「不法侵入罪」

「ひいっ!」

「不敬罪並びに、異端取締法違反」

「わ、分かったのデスよ!」

 青ざめたシャルロが、おずおずと部屋に戻ってくる。
 さながら怯えた小動物みたいだ。
 そんな様子もまた可愛い。
 シャルロの襟首を掴んで、ベッドにいるシェリー嬢の前に差し出した。

「はい、ご挨拶」

「シャルロと言うのデス。これからよろしくなのデスよ」

 シャルロと名乗った新人メイドが、ぺこりと会釈する。
 その頬をぺちぺちと、シェリー嬢が小さな手でなで回した。
 シャルロはもう、されるがままだ。

「すごいな。幻ではなく本当に実体があるのか。触り心地もすべすべだ」

 お嬢様はすっかり興味津々といったご様子だ。
 何事にも無関心で、世界を冷めた目で眺めていたシェリー嬢にしては、とても珍しいことだった。

「その言葉の訛り、帝国人ではないな?」

「はい、わたしは王国出身なのデスよ。
 それよりシェリー嬢様、顔を近付けすぎなのデス」

「ふむ、そうか」

 頬を赤らめるシャルロとは対照的に、シェリー嬢は平然としたものだ。
 唐突にシェリー嬢は、ぺろりとシャルロの鼻先を舐めた。

「はわわっ!」

「おや、すまない」

 目を白黒させて、腰を抜かすシャルロ。
 自分のしでかしてしまった行為が理解出来ず、シェリー嬢が小首を傾げた。
 何かの違和感を感じつつ、それが自分でも理解出来ていないのだろう。

 そろそろ種明かしをしておいた方が良さそうだ。
 メイド長がひとつ咳払いをする。

「ああ、そうそう。シャルロちゃんとじゃれ合う前に、ひとつだけ留意いただきたいことがあります」

「む?」

「実はシャルロちゃん、男の子らしいですよ?」

 にっこりと衝撃発言をするメイド長。
 もちろんシェリー嬢がすぐに信じるはずもなかった。

「何だと?」

 身を乗り出したシェリー嬢に、驚いたシャルロが後退る。
 そのままバランスを崩して、ベッドから転げ落ちる二人。
 結果として仰向けに倒れたシャルロに、シェリー嬢は馬乗りになっていた。

「いやいやいや、おかしいだろう! 私は騙されないぞ!」

 混乱したシェリー嬢が、一切の躊躇なくシャルロの胸を揉みしだく。
 そしてメイド長を見上げて真顔で告げた。

「柔らかい!」

「そんな訳がないのデスよーーーーっ」

 シェリー嬢に乗られたまま、シャルロが否定する。

 ちなみにどうしてシャルロがメイド姿なのかと言うと、別にメイド長の趣味という訳ではない。
 採用が急だったせいで、男の子向け制服の用意が間に合わなかったからだ。
 しかし、これほど似合っているのだから、最初からメイド服以外の選択肢などなかったようにも思う。

「ふふ。僅差ではあるが、胸の大きさは私の勝ちだな」

「そこで勝ち誇られても! そもそもわたしには、胸ないデスから!」

 じたばた暴れるシャルロだったが、シェリー嬢の下からは抜け出せない。
 両股でがっちりホールドされていた。

「あの、シェリー嬢様、そろそろ解放してほしいのデスよ?」

「レディに対して重いとは失礼だな」

「そうではなくて! 色々と密着して、大変なことになってるデスから!」

 シャルロのお腹に、シェリー嬢のショーツと太股がダイレクトに密着している。
 ところがシェリー嬢はまるで頓着しなかった。

「何だろう、征服感が心地良いな?」

「メイド長さん! メイド長さんも黙って見てないで、止めるべきなのデスよ!」

 止める訳がない。
 メイド長は幼い美少女が大好きだ。
 それが二人も揃って絡み合いをしている。
 まさにここは天国。
 すっかりメイド長の意識は、妄想の世界へと誘われていた。

「こうなったら力尽くなのデスよ!」

 シャルロがシェリー嬢の脇腹に手を伸ばす。
 くすぐり作戦だ。
 子供らしい発想と言える。
 その指先が触れた途端、シェリー嬢から小さな吐息が漏れた。

「ひゃんっ」

「へ、変な声を上げないで下さいなのデス!」

 慌てて手を引っ込めるシャルロ。
 もう耳まで真っ赤になって、大変なことになっている。
 作戦は失敗。
 むしろ反撃の口実を呼び込んだ意味では、完全に逆効果だった。

「むふふ、使用人の分際で良くもやってくれたな。この屋敷の主人が誰なのか、その身体に教え込んでやる」

「ぎゃーーーーっ! シェリー嬢様がご乱心なのデスよっ」

 仕返しとばかりに、シェリー嬢がシャルロの身体中を弄り始める。
 頬を上気させて鼻息を荒くするシェリー嬢の姿は、何かと残念だった。

「ちょっと待つのデス! 何でメイド服まで脱がそうとするデスか!」

「いや、本当に男の子なのか確認しておかないとな」

「それなら自分で脱ぐデスから! ひとまず離れて下さいなのデスよ!」

「まあ遠慮するな」

「脱ぐのは上だけデスからっ! 下はっ、下は絶対にダメーーっ!」

 必死にスカートを抑えるシャルロと、脱がせようとするシェリー嬢。
 瞳を輝かせるシェリー嬢は、今まで見せたことがないほど生き生きとしていた。

 やはりメイド長が見込んだ通りだ。
 クールに澄ましているよりも、年相応に無邪気な笑顔を見せてくれた方が、シェリーお嬢様は愛らしい。
 賭けでもあったシャルロの採用は、間違いではなかったようだ。

「どうやら気に入っていただけたようですね」

 じゃれ合う子供二人を、メイド長は慈しむような微笑で見守る。
 聖母のような眼差しだったが、鼻血を抑えている時点で何もかもが台無しだった。

「ひゃあ! そこは触っちゃいけないのデス!」

「ちょっとだけ! ちょっとだけだから!」

「目が真剣すぎて怖いのデスよっ? すっかり変態さんなのデス!」

 こうしてヘイウッド邸に、メイドくんは雇われることになった。
 シャルロ本人も、このような展開は予想していなかっただろう。
 メイド長の思い付きが、屋敷の運命を大きく変えることになっていく。



[22783] 1-2. カントリーハウス1
Name: arty◆ecc17069 ID:189cb68b
Date: 2013/07/29 00:43
 早朝の澄み切った青空の下、田園風景が地平の彼方まで続いている。
 計算され尽くされた景観は、自然に生まれたものではない。
 人が手間暇かけて、創り出した芸術作品だ。
 帝国人のガーデニング趣味は国民的なものだが、領主クラスになるとその規模も大きくなる。
 見渡す限り視界に入る全てが、フローマス伯爵の私有地だった。

 港湾都市として有名なフローマスだが、郊外に建てられた領主のカントリーハウスは市街部から隔離されている。
 潮風に代わりに、新緑の香を乗せたそよ風が肌をなでる。

「君達はさ、もう少し伝統に敬意を払うべきじゃないかな」

 頭から水を滴らせ、コリン青年は提言した。
 コーヒー色をしたセミロングの髪と、覇気のないエメラルドグリーンな瞳。
 二十代前半ながら、未だに学生と間違えられる。
 きっと頼りなさそうな雰囲気が原因だろう。

 身に着けているのは屋敷から支給されたテイルコート。
 濡れてしまったが、この程度ならすぐ乾く。
 現在のコリンは、ゲスト付のフットマンという立場だった。

「え? 何の話?」

 いきなりスケールの大きな話を始めたコリンに、水鉄砲を構えて距離を取っていたメイドの少女が首を傾げる。
 メイド長の実妹で、年は十歳前後。
 ツーサイドアップにまとめた髪型がトレードマークだ。
 ジュニアスタッフの採用は、帝国のカントリーハウスでは珍しくない。

「帝国には二つの国民がいる。そんな言葉を聞いたことない?」

「ないよ」

 妹メイドが即答する。
 それはそうだ。
 勉強嫌いな妹メイドが、元大蔵卿の著書を読んでいるはずがない。

「つまりは上流階級と労働者階級のことなんだけどさ」

 帝国は徹底した階級社会だ。
 貴族やジェントリの属する上流階級と、労働者階級には大きな隔たりがある。
 本来なら二つの階級では何の交流も共感もなく、互いの習慣や思想、感情を理解しない。

 今でこそフットマンとして使用人階級に身を落としているコリンだが、元々は貴族階級の出身だった。
 つまり、妹メイドとは生きている階級が違うのだ。
 コリンが思うにヘイウッド邸のメイド達は、どうも上流階級への意識が欠けている。

「誤解しないでほしいのは、決してご先祖様の七光りで偉ぶるつもりはないんだよ? でもね、貴族に対する敬意とか、少しはあってもいいんじゃないかな?」

「何で? 貴族ってだけなら、シェリーちゃんも同じじゃん」

「ああ、うん。誤解があるとは予想してたけどさ」

 シェリー嬢は、十歳にしてヘイウッド邸の当主代行である。
 しかしながら、シェリー嬢の遊び相手役を務める妹メイドにしてみると、普段から一緒にいる友達感覚なのだろう。
 貴族に近すぎる位置にいるメイドは、仕える相手に自分自身を同一視してしまいやすい。
 その危険性を理解するには、妹メイドは幼すぎた。

 さらにもう一つ誤解がある。
 コリンの実家とヘイウッド家は、両家とも確かに領主階級の貴族だった。
 しかし、決して同一の階級ではない。
 貴族の中にも歴然とした格付けはあるのだ。

 帝国民のおよそ95%は、労働者階級である。
 もちろんメイド自身はこの階級に含まれる。
 カントリーハウスでは、階下の人々と呼ばれていた。

 4%が中産階級。
 ここから先がメイドを雇う側の階級になる。
 残り1%が貴族階級となるが、貴族なら誰でも豪奢な生活を送っている訳ではない。

「もしかしてさ、貴族ならみんな一緒とか思ってない?」

「え? 何か違うの?」

「ほらね。そこが大きな誤解なんだよ」

 貴族のうち99%は、実は領主階級に仕えている騎士階級だ。
 準貴族とも呼ばれる彼らは、経済的には中産階級にさえ劣ることが珍しくない。

 本当の意味での、貴族の中の貴族。
 それこそが爵位持ちの上級貴族だった。
 つまりは女王陛下より所領の管理を任された、地方領主である。
 序列は下から順に、男爵、子爵、伯爵、侯爵、公爵。

 シェリー嬢の実父はフローマス伯爵だが、コリンの祖父はスリス公爵である。
 さらに嫡孫であるコリンは、スリス公爵一族の中でも潜在的な地位が高い。
 爵位を継ぐ可能性がほぼ有り得ないシェリー嬢に比べて、その差は大きいのだ。

「家柄なんて馬鹿馬鹿しいと思うかも知れないけど、そこにはやっぱり歴史的な重みがあるんだよ。俺もそれを背負ってる。つまり何が言いたいかと言うとね、公爵家出身である俺に、少しは手加減してくれてもいいんじゃないかな?」

「……えいっ」

「ひゃあっ」

 目の前の刃に対して、身分など無意味だ。
 紳士らしく理論整然と命乞いをしたコリンだったが、妹メイドの水鉄砲が情け容赦なく水を浴びせ掛ける。

「やったー! 三回先取制で良かったよね? これで今週のトイレ掃除はコリン兄ちゃんで決まりね!」

「待て! ちょっと待って! ようやく俺も慣れてきたところだから! 大体さ、そっちはこの水鉄砲に慣れてるんでしょ? 俺なんて今日、初めて触ったんだよ? 少しはハンデとかあっても良くない?」

 早朝からヘイウッド邸の庭園で、コリン達が何をしていたのかと言えば、トイレ掃除の当番を賭けた水鉄砲対戦だ。
 本来なら妹メイドの当番なので、コリンが賭けに応じる理由などなかったのだが、安い挑発に乗ったのが失敗だった。
 おかげでびしょ濡れだ。

 必死に抗弁するコリンを流石に哀れと思ったのだろう。
 やれやれといった感じで、妹メイドが譲歩する。

「コリン兄ちゃん見苦しいな~。でもそこまで言うなら、五回先取に延長してあげてもいいわよ」

「よっしゃ! 帝国軍人をなめるなよ!」

 既に水鉄砲の射程も把握済み。
 大人気ないと思って本気を出していなかったが、ここまで来たらそんな余裕も言っていられない。
 水を補給して、所定位置に付く。

「三、二、一でスタートね。三! 二!」

「コリンお兄ちゃん、何をしているデスか?」

「ふおおおおおッ、シャ、シャルロちゃんっ?」

 ヘイウッド邸の正面扉が開いて、冷めた目をしたシャルロ少年が顔を出した。

 三つ編みにまとめられた銀髪に、ほんのり桜色に透ける白い肌。
 澄み切った大きな蒼い瞳に、ちょこんと整った目鼻が可愛らしい身に付けているのは黒を基調にしたワンピースに、白のエプロン。
 美少女ばかりが集められたヘイウッド邸においてすら、シャルロの愛らしさは別格だ。
 これで男の子だと言うのだから、信じられない。

「えい!」

「わぷっ」

 妹メイドの水鉄砲が、的確にシャルロの顔面を捕える。

「な、何をするデスか!」

「うへへ。濡れ濡れになったシャルロちゃんもえろ可愛い」

「もう! 真面目に働いて下さいなのデス!」

「分かってるって。じゃあ、コリン兄ちゃん、時間切れってことで延長戦はなしね。トイレ当番よろしく~。後の玄関掃除は、あたしに任せて!」

 断言しよう。
 誰も見ていないのに、妹メイドが働くはずない。
 適当に水を振りまいて終わりにする気満々の妹メイドに見送られ、コリンはシャルロと連れ立って屋敷内に戻った。
 手早く運動着からテイルコートに着替えるコリン。
 そのまま早歩きで蒸留室へ向かう。

「遅い! 何やってたのよ!」

 アーリーモーニングティの用意をしてくれていたメイド長に叱られてしまった。
 すらりとした長身に、ロングにした栗色の髪が似合っている。
 美人で仕事も出来るのに、可愛い少年少女には目がないという残念なお姉さんだ。

「ん? 何で二人とも濡れてるの? 今日は晴れよね?」

「あは。さすがに完全には乾かなかったのデスよ」

「まーたあいつの仕業ね」

 シャルロの苦笑いに、メイド長が正確に犯人を推測する。
 ヘイウッド邸の起こる問題の大半は、妹メイドが犯人だ。
 とりあえず妹メイドを疑っておけば間違いない。

「はい。それじゃこれお願いね」

 渡される紅茶セット。
 朝の快適な目覚めをサポートするための、必須アイテムだ。
 朝食までの小腹を満たすため、軽いビスケットも添えられている。

 シャルロとコリンでは持っていく先が違う。
 相手の好みに合わせて紅茶のブレンドは調整されているので、取り違えないように注意が必要だ。
 シャルロはシェリー嬢の担当。
 コリンは客室の担当だった。

 ちなみにメイド長は、緊急事態でもない限り接客をしない。
 本人が言うには「あたし向いていないから」
 とのことだ。
 コリンも全面的に同意する。
 彼女に接客を任せたら、いつ流血沙汰になるのか知れたものではない。

 主人を起こしにいくのは毎朝のルーチンワークなのだが、今日のシャルロは様子が違った。
 遠慮がちにコリンの袖が軽く引かれる。

「あの、コリンお兄ちゃん、少しお願いがあるのデスよ」

「ん、なに?」

「たまにはわたしと、担当を交代しないデスか?」

「シャルロちゃんのお願いだし、俺は別にいいけどさ……」

 ちらりとメイド長の様子を伺う。
 予想通り、彼女の判断はノーだった。

「駄目よ、シャルロちゃん。シェリーお嬢様のお部屋にケダモノは入れられないわ。それにシャルロちゃん以外が起こしに行くと、シェリーお嬢様は一日ご機嫌斜めになっちゃうんだから」

「はい、分かったのデスよ」

 結局は素直に頷くシャルロ。
 しかし、気乗りしない様子がどうにも引っ掛かる。
 蒸留室を出たタイミングで声を掛けてみた。

「今朝はまたどうしたの?」

「いえ、昨夜のシェリー嬢様、妙にすんなりと自室に戻られたのデスよ。これは何か企んでいるパターンなのデス」

「あー、そういえばそうだねー」

 そうは言っても、仕事は仕事だ。
 後から様子を見に行くよと伝えて、ひとまずコリンはシャルロと別れて客室へと向かった。



[22783] 1-3. カントリーハウス2
Name: arty◆ecc17069 ID:189cb68b
Date: 2013/07/29 00:46
 ヘイウッド邸には現在、長期滞在のゲストは一人だけだ。
 これでも秋冬には、全ての客室が埋まることもあるらしい。
 しかし、社交シーズン真っ直中では、カントリーハウスに賓客が少ないのも当然だった。
 上流貴族達はこの季節、帝都の舞踏会で政争を繰り広げている。

「失礼します」

 コリンが客室のドアをノックした。
 生返事を確認してから、紅茶のセットを運び入れる。

 客室は、ひどい有様だった。

 元はそれなりに贅を凝らした造りなのに、今や見る影もない。
 テーブルだけでなく、カーペットの上にまで紙や物が溢れていた。

 特に目立つのは、得体の知れない実験器具の数々だ。
 大学の研究室か、ちょっとした町工場みたいになっている。
 よどんだ空気に顔をしかめ、コリンは窓を開いて朝の爽やかな空気を招き入れた。

「わわ! 止めたまえよ! 資料が風で飛ぶじゃないか!」

「少しは片付けたらどうですか、先輩」

「は! 君には分からないのかい? この完璧に計算されている備品の配置が! 散らかっているように見えて、必要なものはすぐ手に取れるのだよ」

 子供のように童顔の女性が、コリンを押し退けて窓を閉める。
 赤毛のショートヘアに、小柄な体躯。
 勝ち気な性格が、そのまま表情に出ていた。

 彼女こそがヘイウッド家のゲストにして、コリンの先輩であり上官でもあった。
 見た目こそ幼く見えるが、これでも上級二等官。
 階級と外見年齢のギャップが激しいが、その話題はタブーになっている。
 子供扱いすると怒るくせに、実年齢に触れても怒るのだ。

「でも先輩、この間も大切な資料がどこか行っちゃって、半泣きになってましたよね?」

「う、うるさいね! それよりさっさと紅茶を淹れたまえよ!」

 はいはいと返事をしながら、コリンが紅茶の準備をする。
 目覚めの紅茶と言いつつも、先輩はコリンより早く起きていることが多い。
 いつ寝ているのか、謎なお人だ。

「それで先輩、何か新しい手掛かりは見つかりそうですか?」

「お手上げだね。釣れるのは本命と関係のない、雑魚ばかりだよ。それにしてもこの都市は、異端が多すぎる。いくら特区でも、これは異常だね」

 お手上げのポーズをする先輩。
 それでも仕事熱心な先輩は、休むことを知らない。
 良く挫けないものだと感心してしまう。

 コリンの差し出したティーカップを、書類の束に目を通しながら先輩が受け取った。
 口を付けて、「む」
 と唸る。

「コリン、随分と紅茶を淹れるのが上手くなったね。どうだい? そろそろ階下の生活にも慣れたかい?」

「まぁ、最初の頃に比べれば」

「それは良かった。ただ、君は上流階級の人間だ。いつかはこちらの世界に帰ってくる。その事だけは、忘れないようにね」

「?」

 公爵家の御曹司であるコリンを、使用人の世界に放り込んだのがこの先輩だ。
 どんな風の吹き回しだろう。
 労働者階級に溶け込むことを指示しておきながら、今朝は真逆なことを言う。

「助言だよ。たまに居るんだ。演じているうちに、本来の自分を見失ってしまう輩がね」

 先輩の思い付きには、いつも振り回されてばかりだ。
 あまり真に受けないでおこうと、コリンは聞き流すことにした。

 客室を退出し、台車を片づけようとする。
 見計らったようなタイミングで、廊下にシャルロの声が響いてきた。

「ぎゃーーーーーーーーッ」

 驚きはない。
 やっぱりか、と思う。
 シェリー嬢が何か企んでいたことなど、昨夜の様子から見え見えだった。
 片付けは後回しにして、シェリー嬢の部屋に駆け付ける。

「シャルロちゃん、大丈夫っ?」

 寝室に飛び込むコリン。
 廊下ではドア前に屈んだメイド長が鼻息を荒くしていた。
 とりあえず見なかったことにしておく。

 シェリー嬢の寝室は、子供ひとりが寝るにはあまりに広い。
 部屋の中央には、大きな天蓋付きベッド。
 シャルロの姿は、探すまでもなかった。

「はうあーーーーっ! 嬢様っ、やめるのデスよ!」

 シーツから両足だけを突き出して、ばたばたさせているのがシャルロだろう。
 コリンほどのレベルになると、ハイソックスを一瞥しただけで女の子や男の娘を識別出来る。
 それはともかく、メイド服のスカートが大変なことになっていた。
 盛大に捲り上がって、ドロワーズが丸見えだ。
 まずはその光景を、しっかりと網膜に焼き付ける。

「よし! 今すぐ助けるからね!」

「コリンお兄ちゃんっ? お願いするのデス!」

 コリンは掴んだベットシーツを、一切の容赦なく思い切り剥ぎ取った。
 ベッドに広がる金髪の下に、ピンクの下着と肌色が見える。
 抑え込まれている格好のシャルロは、すっかり息も絶え絶えだった。

「……シェリー嬢、何してんの?」

 冷たく尋ねるコリン。
 腕挫脚固めみたいなポーズのまま、金髪少女がコリンを見上げてくる。

「何だ、コリン殿か。
 今は取り込み中だ。
 用事があるなら後にしてくれ」

 無言でコリンはシェリー嬢の両脇を抱えると、力尽くでシャルロから引き剥がした。
 今度はシェリー嬢が悲鳴を上げる。

「ぎゃーーーーッ! 放せ! 触るな! この変態!」

「どっちが変態だよ」

「あぅ、助かったのデスよ」

 涙目で着衣の乱れを直すシャルロ。
 両脇で掲げられたシェリー嬢が、素足でコリンの胸元を蹴ってくる。
 離してやると、素早くベッドシーツの中に逃げ込んでしまった。
 どうやらシャルロ以外には、一応の羞恥心もあるらしい。

「それでシェリー嬢、朝っぱらから随分と元気だね?」

 皮肉たっぷりにコリンは尋ねた。
 コリンの立ち位置はちょっと特殊だ。
 シャルロやメイド長と違って、ヘイウッド家に雇われている訳でもない。
 公爵家出身だから、身分的にも対等以上と言えるだろう。
 おかげでコリンは、シェリー嬢を真正面から叱ることの出来る数少ないポジションに立っていた。

「コリン殿こそ、レディの寝室にノックもなしで入るとはマナー違反だぞ」

「レディは、男の子を押し倒したりしないからね?」

 ふて腐れたように、シェリー嬢がそっぽを向く。
 この残念美少女、コリンに対してはとことん愛想がない。

 かつてのシェリー嬢は、模範的な貴族令嬢だったと聞く。
 現在の彼女からはとても信じられない。
 何がどうしてこうなってしまったのだろう。
 他人事ながら、ヘイウッド家の将来が心配だった。

「それだけ元気なら、もう目は覚めてるよね。シャルロちゃんは返してもらうよ」

「はう、腰が抜けて立てないのデスよ」

 ぺたんとカーペットにお尻を付けたまま、シャルロが情けない声を出す。
 白い肌がいつもより桜色に上気していた。
 ああ、もう本当に可愛い。
 この可憐さを、シェリー嬢にも見習ってほしかった。

「シャルロ、この部屋で休んでいけ。このベッドを使って良いぞ」

「そんなこと言って、またいたずらするデスよね?」

「しない! 添い寝するだけだ!」

 断言したシェリー嬢がもぞもぞ動いて、ベッドシーツに包まったまま何かの布きれを捨てる。

「何でパンツを脱いだデスかーーーーッ?」

「うむ。どうせなら全裸で待ち構えていれば良かったと、反省していたところだ」

「こら、いい加減にしなさい」

「はうっ」

 シーツから顔だけ出していたシェリー嬢の脳天を、ぺしっとコリンが叩いた。
 こんな調子では、本当にシャルロの身が保たない。
 早急に何らかの対策が必要そうだった。



[22783] 1-4. ガーデンパラソル1
Name: arty◆ecc17069 ID:189cb68b
Date: 2013/07/29 00:46
 半地下にある使用人ホール。
 いつでも薄暗いが、採光窓のおかげで日中なら本を読めるぐらいの明るさは確保されている。
 風通しも良くはないが、あまり贅沢は言えなかった。

 階上の朝食も済んで、メイド達もようやく一息付けている。
 広めのホールで、各自は好き好きに休んでいた。

「最近のシェリー嬢様は、えっちすぎるのデスよっ」

 訴えの声を上げているのは、セクハラ被害者のシャルロ少年だ。
 眉を吊り上げた顔もまた可愛い。
 もっといじりたくなってしまう。

「このところお嬢様も忙しかったから、欲求不満も溜まってたんでしょ。ストレス解消のため、シャルロちゃんには頑張ってもらわなくちゃ」

「公務のアポイントとか減らせないのデスか?」

「無理ね。むしろミスタとしては、もっと増やしたいぐらいじゃない? 領主代行に拝謁させるというカードは、お手軽な割には何かと有用なのよ」

 シャルロの相手をするメイド長が、のんびり紅茶に口を付ける。
 あれは駄目だ。
 見るからに、解決する気がゼロすぎる。
 むしろメイド長は、いつだってシェリー嬢の味方だった。

「ならせめて、もっと健全にストレス解消するのデスよ! 間違いが起こってからじゃ、遅いのデス」

「あらー? シャルロちゃんに問題なんて起こせるのかしら?」

「む、男の子はみんな狼なのデス。わたしだって例外ではないのデスよ」

「それは楽しみね! 願ってもない展開だわ、今夜あたり期待しちゃってもいい?」

「ま、真面目に聞いてくださいなのデス!」

 にやにやするメイド長は、明らかに楽しんでいる。
 メイド長がアテにならないと悟ったシャルロは、その矛先をコリンに振り向けた。

「コリンお兄ちゃんは、えっちなことはいけないと思うデスよね!」

「もちろんだとも! 俺はジェントルマンだよ? 不健全な行為には、断固反対するね!」

 シャルロの言うことなら、どんなことにも完全同意に決まっている。
 異論を挟むなど余地などあり得ない。
 爽やかに即答したコリンを、メイド長が鼻先で笑った。

「は! 嘘ね」

「紳士って、変態という意味だっけ?」

「それわたしも聞いたことある~」

「むっつり紳士だね!」

「いやらしいですわ」

「普段の自分を見返してみろよ」

 他のテーブルに着いているメイド達まで、口を揃えて否定してくる。
 普段は仲悪そうにしているくせに、こんな時だけ息ぴったりだ。
 コリンがひと睨みすると、彼女たちは素知らぬ顔で自分達の会話に戻っていった。
 それでも聞き耳を立てている様子が、雰囲気から分かる。

 シャルロは、ヘイウッド邸のアイドル的存在だ。
 メイド達も興味津々なのは仕方ない。
 同じ男性使用人でも、コリンの扱いとは雲泥の差だった。

「それはともかく、このままじゃシェリー嬢の将来が心配だ。社交界デビューする前に、もう少し落ち着いてもらわないと」

 今のところまだ、問題は表に出ていない。
 公式の場におけるシェリー嬢の猫被りっぷりは見事なものだ。
 本性を隠して貴族令嬢を演じる彼女は、別人すぎて二重人格かと疑いたくなる。

 それでもいつかは、ボロが出るものだ。
 末娘の破廉恥な行いが公になれば、フローマス伯爵家の家名にも傷が付くだろう。

「ストレス解消と言えば、やっぱりスポーツだよね。
 俺も寄宿学校時代には、色々とやらされたよ」

「それ採用なのデスよ! さすがコリンお兄ちゃんなのデス! さあ、一刻も早く用意するデスよ!」

 コリンの思い付きに、シャルロが全力で食い付いてきた。
 シャルロにとってシェリー嬢のセクハラは、猶予のない切実な問題らしい。
 ただし、メイド長は渋い顔だ。

「あたしもお嬢様に運動してもらうのは賛成よ? でも、本格的なスポーツは無理ね。外出許可を取るだけでも、それなりの手続きがあるし」

「事情は分かるよ」

 コリンだって一応は、上流貴族の御曹司だ。
 子供の頃はあまり屋敷の外に出してもらえなかった記憶がある。

 それでも男子であるコリンは、婚前の貴族令嬢よりはマシだったはずだ。
 自由の制限が多いシェリー嬢には同情する。

 折衷案を出したのは、メイド長の妹だった。

「結局のところは気晴らしが目的でしょ? だったら、敷地内のピクニックでいいじゃない。折角、無駄に広いんだからさ」

「無駄とか言わない。ガーデナーのお手伝いで、草むしりさせるわよ?」

 しかしまあ、妹メイドにしては悪くないプランだ。
 軽く身体を動かすには丁度良いだろう。

「ピクニック、いつ行こうかしら。
 今日ならお嬢様のスケジュールも、15時まで空いてるのよね」

「あたし、キュウリのサンドイッチが食べたい! あと鳩パイ!」

「ええ~。そんな急に言われても、ランチの仕込みは終わっちゃってるよ~?」

 ここぞとばかりに食い意地を発揮する妹メイド。
 困惑したのは、キッチン組であるスカラリーメイドの少女だ。
 ふわふわとした髪に、とろんとした雰囲気。
 元気いっぱいな妹メイドとは対照的に、大人しめな女の子だった。
 キッチンの裏口で、猫達にエサやりしている姿を見掛けることが多い。
 シャルロや妹メイドと同じ、ジュニアスタッフの一人でもあった。

 猫好きメイドの言うことが本当なら、計画は延期せざるを得ないだろう。
 美味しいランチを抜きに、ピクニックは成り立たない。
 メイド長が、三泊眼のファースト・キッチンメイドに尋ねた。

「実際のところ、どうなのよ? 急ぎって訳でもないし、無理に今日する必要はないんだけど」

 話の流れは聞いていたらしい。
 キッチンメイドは、ふん、と不機嫌そうに鼻を鳴らした。

「ふざけんなと言いたいところだが、ま、それぐらいのことは何とかするさ。有り合わせの材料でも、出して恥ずかしくない料理は用意してみせる」

 まだ休憩時間の途中にも関わらず、ファースト・キッチンメイドが席を立つ。
 当然のように、彼女の部下であるキッチン組のメイド達もぞろぞろとその後に続いた。

「あ~、もう~。余計な仕事が増えちゃったじゃない~」

 去り際に猫メイドが、提案者の妹メイドを睨んでいく。
 ランチ準備に取り掛かる親友を見送りながら、妹メイドは口元を緩めた。

「うへへ、お昼が楽しみ! サンドイッチなんて、すごい久しぶりだわー」

 上流階級向けメニューを、キッチンスタッフ以外の使用人が口にする機会は多くない。
 例外の一つが、シェリー嬢の遊び相手としてお相伴に与るケースだ。
 ジュニアスタッフならではの役得だろう。

 だらしなく涎を垂らす実の妹に、メイド長が冷たく告げる。

「別にあたし、あんたを連れてくなんて言ってないけど?」

「そんな! あたしの発案じゃん! あたし抜きとか、有り得なくないっ?」

 とにかく準備が必要なのは、キッチンメイド達だけではない。
 小道具の用意は、ハウスメイド達の仕事だ。

 午前中ならまだ来客も少ない。
 シェリー嬢も勉強部屋で個人授業を受けているため、手間いらずだ。
 ルーチンワークとしては、寝室のベッドメイクやカヴァネス相手にお茶を出すぐらい。
 突発的なイベントにも、人手を割くだけの余裕はあった。
 メイド長が割り振りを指示する。

「コリン、あなた本業の方は忙しいの? 手が空いてるなら、荷物持ちを頼むわ」

「あいよ」

 使用人の仕事と、作戦局の任務。
 一人二役を兼ねるコリンだが、今日のところは急ぎの任務を抱えていない。
 特に断る理由も見当たらなかった。

 小休憩を打ち切って、紅茶のカップを片付ける。
 キッチンスタッフ以外のメイド達も、各々の持ち場に戻っていく。

「あたしはお嬢様とミセスに説明してくるわね。シャルロちゃん、コリンをホール下の物置に案内してあげて。ピクニック用具一式がどこかに埋もれてると思うわ」

「分かったのデス。探してみるデスよ」

 見つけた後には、おそらく掃除も必要だろう。
 ランチまでは3時間近くあるが、それほど余裕のある訳でもなさそうだ。
 使用人ホールの片付けはランドリーメイドに任せて、物置へ急ぐことにする。

「いってらっしゃい~。みんな頑張ってね~」

 他人事のように、テーブルに突っ伏した姿勢で妹メイドが手を振った。
 テコでも動く様子がない。
 シャルロがにっこりと微笑んだ。

「働かないと、サンドイッチも食べられないのデスよ?」

「働きます! 働かせて下さい!」

 血相を変えて立ち上がる妹メイド。
 サボるためならどんな労力も厭わない妹メイドは、遊ぶためにも全力を尽くす。
 その生き方は正直、どうかと思う。
 最後にカップを集めたランドリーメイドが部屋を出ると、使用人ホールには誰も居なくなった。


◆◇◆

 東棟から西棟へ、半地下の通路を横断する。
 通路の左右には、メイド達の寝室が並んでいた。
 当たり前のように、自室にフェードアウトしようとする妹メイド。
 その首根っこをコリンが掴んで引き戻す。
 油断も隙もあったものではない。

 大ホールは、ヘイウッド邸で最も広いスペースだ。
 西棟のほとんどを占めている。
 ただ、広すぎるのも使い勝手が悪いらしく、年に数回の公式行事でしか利用されない。
 普段はメイド達が雨天に運動するための、体育館代わりになっていた。

 その地下部分は、物置のスペースになっている。
 メイド長から預かってきた鍵で、シャルロが一つの部屋のドアを開いた。

「多分、この部屋だと思うのデス」

 ヘイウッド邸まで大きな屋敷になると、物置スペースの数も半端ない。
 別の場所に移されていないことを、祈るばかりだ。

「奥の方にあるはずなのデスよ。とりあえず手前のものを退かすのデス」

「お、あの隙間に見えるのが、ガーデンパラソルじゃない?」

 幸運にも捜し物はすぐ見付かった。
 しかし、そこから先がひと苦労。
 作業スペースを確保するために退かされた品々で、廊下が埋まっていく。
 また後で戻すことを考えると気が滅入ってしまう。

「そういえばさ、ランチした後は何して遊ぶの?」

 仕事の途中で、妹メイドが素朴な疑問を口にした。
 コリンとシャルロは顔を見合わせる。
 ピクニックの目的は、シェリー嬢に外の空気でストレス解消してもらうことだ。
 軽く歩いてランチするだけでも運動にはなる。
 しかし、身体を動かす遊びも考えておけば、さらに効果は増すというものだ。

「うーん、鬼ごっことかデス?」

「あの広大な芝生でそんなことしたら、絶対に捕まらないじゃん!」

 隠れんぼという案も、隠れる場所がないということで却下。
 縄跳びやフラフープも良い運動にはなりそうだが、どうも決め手に欠ける。

「何で遊ぶかは、シェリー嬢に決めてもらうとか」

「主導権を渡しちゃ駄目なのデスよ。お医者さんごっことか言い出されかねないのデス」

 少人数でも楽しめてルールの簡単な遊びと言われても、すぐには思い付かない。
 考えあぐねているところで、妹メイドがその箱を発掘した。

「これってラケット?」

「羽根付きコルクもあるのデスよ。手作りっぽいのデス」

「ネットとポールも見つけた。これでコートを作れってことかな」

 決まりだ。
 かなり古そうで手入れもされていないが、子供の遊びには十分だろう。
 遅れて手伝いに来たメイド長が、「へえ」
 と呟いた。

「懐かしいわね、まだ残ってたんだ。昔はウィル様と良く遊んだものよ」

 ウィルというのは、シェリー嬢の実兄に当たる。
 メイド長が小さかった頃は、妹メイドのように遊び相手役を務めていたそうだ。
 コリンが尋ねる。

「ピクニックの許可は下りた?」

「もちろんよ。夕方に来客のアポイントあるから、それまでに戻れば問題ないわ」

 思い付きの企画にしては、準備は順調だ。
 たまにはこうした、行き当たりばったりというノリも楽しい。

「これでシェリー嬢様には、健全にストレス発散してもらうのデスよ。ひと汗かけば、わたしへのセクハラもなくなるのデス」

 ラケットを握ったシャルロが、嬉しそうな笑顔を見せた。
 きっとシェリー嬢にとって、良い気分転換になることは間違いない。
 身体を動かすことを勧めてみたのはコリンだ。
 発案者の一人としては、是非ともイベントを成功させたい。

「くふふ、そうは思い通りにいくかしらねー?」

 もう一人の発案者である妹メイドが、含み笑いを漏らす。
 やばい。
 あれは良からぬことを考え付いた顔だ。
 言いようのない不安に、コリンに寒気が走った。



[22783] 1-5. ガーデンパラソル2
Name: arty◆ecc17069 ID:189cb68b
Date: 2013/07/29 00:46
 空は高く青い。
 絶好のピクニック日和だった。
 なだらかな若草色の丘を、縫うようにして茶色い馬車道が続いている。
 その先には小さく、ヘイウッド邸の青い屋根が見えた。
 コリン達が居るのは道から少し外れた場所で、芝草も最近刈り込まれたばかりのようだ。

 ガーデンパラソルの下には小さなテーブルが置かれ、紅茶セットが用意されている。
 ランチバスケットは既に空っぽだ。
 キッチンメイド力作のランチメニューは、すっかりコリン達の胃袋に収まっていた。

 荷物運びのコリンは、撤収作業まで特に仕事もない。
 芝生に敷かれたシートに腰掛けて、ぼんやりヘイウッド家の広大な草地を眺めていた。
 美味しいランチで小腹も満たされ、まったりした時間の流れが眠気を誘う。

「平和だねえ。昼寝とかしたら気持ち良いだろうなあ」

「あは。設営お疲れ様だったのデス。膝枕ぐらいなら、するデスよ?」

 欠伸を噛み殺したコリンに、隣のシャルロがにっこり微笑む。
 天使のように柔らかな笑顔。
 ただ、その誘惑に乗るには勇気が必要だった。
 同じシートに座っているメイド長が、殺意の籠もった目で睨んでくる。

「シャルロちゃんに破廉恥なことしたら、あたしが許さないからね。昼寝どころか永眠させてあげるわ」

「ひいっ! まだ何もしてないじゃん!」

「ふん、どうかしらね。あたしが目を光らせていなかったら、危ないところだったわ」

 どうしてこのメイド長が、メイド職などという平和的な職業に就いているのか謎すぎる。
 フローマス騎士団は彼女をさっさとスカウトするべきだ。

「それより試合経過はどうかな」

 メイド長の意識を逸らすため、わざとらしくコリンは首を巡らせた。
 バトミントンの簡易コートは、即席にしては上手く作れたと思う。
 公式ルールは良く知らないのでサイズなどは適当だが、お遊びには十分だ。

 そのコートでは、シェリー嬢とジュニアスタッフ達によるトーナメント戦が開始していた。
 是非、健康的に身体を動かして、シェリー嬢には欲求不満を解消していただきたい。

 ドォンと、とんでもない音がコートから響いた。

「待った待った! 反則よ、それ!」

 バトミントンを構えた妹メイドが、大慌てで抗議する。
 その足下の至近距離では、芝生が抉れてぶすぶすと煙を上げていた。

「え~、何で~?」

「明らかに自然法則を無視してるじゃん! 軽い運動が目的なんだから、おかしな力を使うのは駄目!」

「そんなこと言われても~、体力勝負じゃ勝てないし~」

 クレームに不満そうな顔をする対戦相手は、おっとりとした雰囲気の猫好きメイドだ。
 餌付けされている猫達が、ギャラリーとしてコートの周りに集まっている。

「こんなサーブ打たれたら、返そうとしてもラケットに穴が開いちゃうって! 試合続行そのものが危ういよ!」

「ふむ、そうだな」

 審判役をしているシェリー嬢が思案した。
 厳密なルールは取り決めていなかったが、試合にならなくては意味がない。

「不思議な力は反則ということにしておくか。よし、サーブ権の交代だ」

「ええ~、納得いかない~」

 シェリー嬢の決定に、異議を唱える猫メイド。
 それはそうだろう。
 彼女にとって力の封印は、負けろと言われているようなものだ。
 妹メイドが裏取引を申し出た。

「そんなにヘソ曲げないで。後で、シャルロちゃんの靴下を一枚あげるから」

「本当? それなら分かった~。約束だよ~?」

「わたしの靴下を、勝手に取引材料にしないでほしいのデスよっ? というか、靴下なんて何に使うのデスかっ?」

 ギャラリー席からシャルロが抗議するが、女の子達には届かない。
 その後の試合展開は一方的だった。
 妹メイドも多少の手加減はしているようだが、運動音痴な猫メイドはそれでも付いていけない。
 あっさりと先制点を取られてしまう。

「うう~、だから体力勝負は嫌なのに~」

「ごめんねー。でもルールはルールだから。ほら脱いで脱いで」

 妹メイドに催促され、猫メイドが靴と靴下を脱ぎ捨てる。
 あまりにも自然な流れだったので、一瞬、何が起きているのか理解できない。

「何で脱いでるデスかーーーーッ?」

 驚いたのは、次試合から参加予定のシャルロだ。
 策略の気配を感じ取ったらしい。

「だってこれ、脱衣バトミントンでしょ~?」

「その通りだ。何か賭けないと盛り上がらないからな」

「わたしは聞いてないのデスよッ? そんなルール、断固反対なのデス!」

 トーナメント参加者は、シェリー嬢、シャルロ、妹メイド、猫メイドの四人。
 保護者役のメイド長とコリンは不参加だ。
 どうやらシャルロ以外の三人は、既に結託しているらしい。

「シャルロ、もう試合は始まってしまったのだ。今さら無粋なことを言うんじゃない。それに、シャルロが勝てば問題ないだろう?」

「うう、道理でシェリー嬢様達がノリノリだった訳なのデスよ」

 三対一では、これ以上ゴネても無駄だと判断したのだろう。
 開き直ったように、シャルロが宣戦布告する。

「分かったのデス! でもそうとなれば、わたしも本気なのデスよ! シェリー嬢様を、ぎゃふんと言わせてあげるのデス!」

「ふふ、そうこなくてはな!」

 第一試合が進行する。
 遊びなのだから、お互いが楽しめないと意味がない。
 妹メイドは少しでもラリーが続くように配慮しているようだ。
 それでも猫メイドは、とんでもない方向に打ち返して自滅する。

 メイドキャップとエプロンも外してしまった猫メイド。
 次のワンピースを脱いだら、いよいよ下着姿になってしまう。
 試合経過を固唾を飲んで見守るコリンに、メイド長が肩を叩いてきた。

「コリン、ちょっといい?」

「後にしてくれない? 今、すごく大事なところなんだよ」

「は? あたしに逆らうの?」

 ギリギリと肩を掴んでくる力が強くなり、肩の骨が砕かれるかと思った。
 仕方なく振り向いたコリンの両目に、メイド長のV字に構えた指先が迫る。

「うおおおおーーーーッ!」

 ぐりんと顔面を回転させて、間一髪で避けるコリン。
 数瞬でも反応が遅れていれば危なかった。
 メイド長が舌打ちする。

「ち! 意外と反応いいわね!」

「危ないな! 失明したらどうするんだ!」

 座ったままでは行動が制限されて、形勢不利だ。
 転がるように距離を取ると、その勢いのまま立ち上がる。
 帯剣していないのが心許ない。
 対峙するメイド長もゆらりと起き上がった。

「この屋敷の可愛いお子様達はね、あたしの所有物なの。許可なくいやらしい目で、見ないでくれる?」

「ひどい理屈だ!」

「ほら、動かないでよ。目ん玉がくり抜けないじゃない」

「怖い怖い怖い! どんだけ猟奇的なんだよ!」

 結局のところコリンは、リボンで目をぐるぐる巻きにされることになった。
 心だ、心の目で見るのだ。
 念じてみるが、もちろん目を閉じたまま光学情報を取得するような能力はない。
 生殺しだった。

 下着姿に剥かれて、猫メイドがギブアップする。
 柔らかそうな体つきは、子供達の中では最も発育が良い。
 青空の下、半裸の少女という非日常的なシチュエーションは刺激的だ。

 メイド長も大興奮。
 シャルロなどは顔を真っ赤にさせて、そっぽを向いたままになっている。

 第一試合の勝者は妹メイド。
 続いて第二試合。
 入れ替わるように、シェリー嬢とシャルロがコートに立つ。
 コイントスの結果、先攻はシャルロ。
 シェリー嬢がシャルロにラケットを突き付けた。

「さあ、来いシャルロ!」

「行くのデス! 手加減はしてあげないのデスよ!」

 シャルロの放ったサーブが、コートの端で跳ねる。
 全く反応の出来ないシェリー嬢。
 これでもシャルロは、かなり運動能力が高い。
 屋敷に引き籠もりがちなシェリー嬢では、万に一つも勝ち目はなかった。

「このまま一気に決めるのデスよ!」

 脱衣が賭かっているだけあって、シャルロの本気度は充分だ。
 シェリー嬢は羽根付きボールを拾い上げると、シャルロに投げ返した。
 先制されたというのに、シェリー嬢は勝ち誇ったような顔をしている。

「さて、どこから脱ぐ? シャルロが決めてくれ」

「え?」

「いやあ、負けてしまったからな! とっても恥ずかしいが、ルールだから仕方ない! ほら早く、私を脱がすといい!」

 生き生きとして、凄く嬉しそうだ。

「シャルロは、靴下は最後まで残しておくタイプか? ノーパンにしてチラリズムを楽しむか? さあ、何なりと申し付けるが良い! どんなリクエストにも応じよう!」

 これこそが、シェリー嬢達の仕組んだ秘策。
 試合に勝てばシャルロの半裸を堪能できるし、負けたところで羞恥プレイを楽しめる。
 どちらに転んだところで、実質的な勝ちはシェリー嬢のものだった。

「罠だったのデスよーーーーッ」

 シャルロが参戦したことを後悔するが、もう遅い。
 スポーツで負けるはずがないという慢心が、策に気付けなかった敗因だろう。
 最初からシェリー嬢は、試合の勝敗になど興味なかったのだ。

 打開策を見つけられないシャルロだったが、そのまま試合は進む。
 リボン、靴、ハイソックス、手袋。
 そしてついにはドレスまでも脱ぎ捨てて、シェリー嬢はキャミソール姿になってしまった。

「ふふ。どーした、シャルロ。顔が赤いぞ!」

「あ、あまり激しく動かないでほしいのデスよ!」

 シェリー嬢がラケットを素振りするだけで、胸元やパンティがちらりと覗きそうになる。

 シャルロはシェリー嬢の下着姿ぐらい、毎朝のように見慣れている。
 それでも屋外というシチュエーションが、気恥ずかしさを倍増させていた。

 目のやり場に困ったシャルロは、最早、シェリー嬢の姿を直視することも出来ない。
 試合の流れが大きく変わる。
 シャルロのサーブが、コートから大きく外れた。

「おお! 私が勝ったぞ!」

「不覚をとったのデスよ……ッ」

 相手の姿を見られないのでは、ハンデにしても大きすぎる。
 シャルロとしては、目隠しのまま試合しているのと変わらなかった。
 今度はシャルロ側の負けが重なり、一枚、また一枚と脱がされていく。

「うひょーーっ、シャルロちゃんの脱ぎたて靴下ー!」

「一枚は、わたしがもらう約束よ~」

「ギャラリーの二人! 後でちゃんと返して下さいなのデスよッ?」

 妹メイドと猫メイドが、シャルロの脱ぎたて靴下をくんかくんかと堪能する。
 そんな美少女達にシャルロは戦慄した。

「やばいわー! 乱れる金髪と銀髪! 躍動する幼い肢体! 幸せすぎて、あたし死んじゃいそう!」

 本来なら抑止する立場であるメイド長までも、完全にトリップしている。
 ヘイウッド邸のメイド達は、とんでもない変態ばかりだ。
 外面だけなら美少女揃いなだけに、本当に残念なことだった。



[22783] 1-6. ガーデンパラソル3
Name: arty◆ecc17069 ID:189cb68b
Date: 2013/07/29 00:48
「むふー、どうしたシャルロ! わたしをぎゃふんと言わせるのではなかったのか?」

 瞳を爛々と輝かせながら、頬を紅潮させるシェリー嬢。
 彼女のストレス発散という意味では、今回のピクニックは成功だろう。
 しかし、セクハラ抑止という当初の目的から見てみると大失敗だった。

 シャルロは既に、ドロワーズにシャツを羽織っているだけという格好だ。
 素足が眩しすぎる。
 その姿を見ることが出来ないコリンは、歯ぎしりして悔しがった。

「くふふ。そろそろシャツも脱がせて、おへそを見せてもらうとしようか!」

「んー、そろそろコツを掴めてきたのデスよ」

 あと少しでドロワーズ一枚。
 そこまで追い込まれたはずのシャルロから、動揺の色が消える。
 雰囲気の変わった対戦相手に気付くことなく、シェリー嬢はサーブを放った。
 ラケットを打ち下ろした瞬間に、キャミソールの裾がひらりと舞い上がる。

 対するシャルロは、シェリー嬢の足下だけに意識を集中させていた。
 ラケットが球を打つ音と、打った時の姿勢。
 人間離れした判断力で、シャルロがボールを打ち返す。
 キャミソール姿になられてから初めての反撃だった。
 油断していたシェリー嬢は、あっさりとサーブ権を奪い返される。

「くッ! さすがシャルロだな!」

 悔しそうにするシェリーお嬢様。
 しかしすぐに気を取り直すと、いたずらっぽい笑みを浮かべた。

「まあ、良い。そうでなくては楽しくない」

 シャルロの反応を楽しむように、ゆっくりとキャミソールをたくし上げる。
 太ももから、フリルのパンティ、おへそ、胸元までが露わになっていく。
 ブラジャーは元から着けていない。
 キャミソールを芝生に脱ぎ捨てて首を振ると、乱れた金髪がさらりと流れた。

「さあ! 試合を続けるぞ!」

 堂々と平らな胸を反らし、シェリー嬢がラケットを突き付ける。
 ちらりと見てしまったのだろうか。
 地面に視線を落とすシャルロは、茹でたロブスターみたいに耳まで真っ赤になっていた。

「くふふ、どうした! もっと見て良いのだぞ!」

「お嬢様の半裸きたーーーーッッ」

 コリンの隣で、メイド長がぶっ倒れた。
 顔面から突っ伏したシートに、鼻血がどくどくと広がっていく。
 メイド長を殺すのに刃物はいらない。
 幼女の裸を見せれば良い。

 次はシャルロの攻撃だ。
 サーブで決めてしまえば、目を閉じていても問題ない。
 今度は失敗することもなく、横跳びしたシェリー嬢のラケットが虚しく空を切る。

「はい! これでお遊びは終わりなのデスよ! シェリー嬢様はさっさと服を着るのデス!」

「ふふ、甘いな」

 芝生から起き上がり、不適に笑うシェリー嬢。

「下着姿で負けたら終わりと、誰が決めた? 私はまだ、一枚残している!」

 シェリー嬢がパンティに手を掛ける。
 さすがにヘイウッド家のご令嬢が、青空の下で真っ裸は不味いと思ったのだろう。
 慌ててメイド長が抑えに入った。

「止めるな! 私はまだ戦える!」

「まあまあ、お嬢様。もう十分に楽しめたでしょうから、ここらで満足しておきましょう」

 止めるのが遅いよ!とツッコミを入れたい気持ちを、ぐっと堪える。
 コリンも命は惜しかった。
 メイド長が懐中時計を取り出して、時刻を確認する。

「そろそろ片付けの時間ね。最後まで試合するなら急いでよ?」

「任せて、姉ちゃん」

 シェリー嬢に替わり、コートに立つのは一回戦の勝者である妹メイドだ。
 不敵な笑みを浮かべている。

「あたしはシェリーちゃんみたいに甘くないわよ?」

「これは強敵なのデスよッ」

 シェリー嬢や猫好きメイドと違って、妹メイドはかなり運動神経が良い。
 目を閉じたまま勝てる相手ではなかった。

「あ、シャルロちゃん。少し待ってね」

 妹メイドがタイムを掛ける。
 そして試合前にも関わらず、いきなりメイド服をたくし上げた。

「秘策! 背水の陣!」

 全裸だ。
 ドロワーズすら脱ぎ捨てた、一糸まとわぬ真っ裸だった。
 健康的な裸体が、お日様の下に輝いている。

 あまりの脱ぎっぷりに、シャルロが制止する間もなかった。
 メイド長も実妹の裸には興味がないらしく、スルーしている。

「どーよ! 最初から動揺を誘うこの作戦は! あたしの勝ちが見えたわね!」

「はあ、とにかく始めるデスよ?」

 先制のシャルロがボールを頭上に放る。
 強烈な打ち下ろし。
 流石の反射神経で妹メイドがラケットを当てる。
 しかし、ボールが浮いてしまった。
 冷静にシャルロがスマッシュを決めて、ゲームセットだ。

「はい、わたしの勝ちなのデス。もうそれ以上は脱げないから、試合終了デスよね?」

「ちょっと待ったーーーーッ!」

 背水の陣どころか、濁流に身を投げた格好の妹メイドが声を上げた。

「何であたしの時は、目を閉じてないのッ? 普通に試合してるじゃん!」

「んー? 元気だなあとは思うデスけど、気恥ずかしくはないのデスよ?」

「あたしの色気が全否定されたっ!」

 シャルロの眼差しは、やんちゃな孫を見つめる祖父母のそれだ。
 策に溺れた妹メイドが、がっくりと膝を付いた。

「さあ、片付けするのデスよ」

「まだよ! まだ終わらないわ! あと一試合ぐらいは出来るって!」

「え~、わたしの優勝でお終いなのデスよ?」

「これは予選なの! 本戦はまだ始まってすらいないの!」

 三回先取で勝負が付いた後に、五回先取制だと言い出すほどに往生際が悪い。
 妹メイドがシャルロの対戦相手として指名したのは、観戦していた大人組の二人だった。

「さあ、姉ちゃんの出番よ! 姉ちゃんならシャルロちゃんにも勝てる!」

「嫌よ。シャルロちゃんに嫌われたくないもの」

「裏切り者だーーーーッ」

 あっさりと断るメイド長。
 それはそうだろう。
 子供の遊びに大人が本気になるのは、どう考えてもみっともない。

「それならコリン兄ちゃん、お願い!」

「あは。コリンお兄ちゃんは、そんな大人げない真似しないのデスよ」

「よっしゃ、俺に任せろーーーーッ」

 コリンは立ち上がると、気合いを入れて準備運動を始めた。
 生殺し状況が続いたせいで、フラストレーションも溜まりまくりだ。
 こんな美味しいシチュエーションを、逃す手はなかった。

「何でそんなにやる気なのデスかっ?」

 驚愕するシャルロに、コリンは親指を立ててみせる。

「ふ。シャルロちゃんを脱がすためなら、俺はいつだって本気になれるのさ!」

「わたしの下着姿ぐらい、着替える時とかにいつも見ているデスよねっ?」

「分かってないなあ。
 青空の下という非日常的な状況が萌えるんじゃないか!」

 バトミントンなど随分と久しぶりだった。
 学生時代を思い出す。
 リボンの目隠しを外してもらい、颯爽とコートに入った。
 ラケットを素振りして感触を確かめる。

「さぁ行くぞ! シャルロちゃん、男同士の勝負だ!」


◆◇◆

 皆が片付けを進めている。
 ガーデンパラソルやテーブルは畳まれて、即席コートも撤収されていた。
 コートの跡地には、パンツ一枚で落ち込む青年の姿。
 シャルロに惨敗したコリンだった。

「ゴミくずのような男ね」

「コリン兄ちゃんには、がっかりだわー」

「すごく格好悪いかも~」

「見損なったぞ、コリン殿」

 頭上から浴びせられるのは、女性陣の辛辣な言葉。
 コリンのガラスのようなハートは、粉々になりそうだった。
 遊びに負けたぐらいで、これはひどい。

「コリンお兄ちゃんは、わざと負けてくれたのデスよね」

 慰めてくれるシャルロの言葉に止めを刺された。
 本気で挑んだだけに、しばらくは立ち直れそうにない。

「しかし、本当に楽しかったな。私は清々しい気分だぞ」

「あは、それは良かったのデスよ」

「外で裸になるのが、これほど爽快だとは思わなかった!」

「大変なのデス! シェリー嬢様が、変な趣味に目覚めちゃったのデスよ!」

 目を丸くするシャルロに、正面からシェリー嬢が抱きついた。
 シャルロの頭に鼻を近づけて香りを堪能する。

「汗をかいてしまったな。帰ったらシャルロ、私と一緒に風呂に入るか」

「入らないのデス! 離れるのデスよ!」

 シェリー嬢にくっつかれて、シャルロも片付け仕事をやりにくそうだ。
 じゃれ合う二人の様子を眺めて、しみじみとメイド長がこぼす。

「シャルロちゃんを雇って本当に良かったわー。お嬢様も生き生きとして楽しそう」

「それはいいんだけどさ。この企画の目的って、シェリー嬢のセクハラ抑止だったよね?」

「いいのよ、これで。それよりコリン、いつまでも凹んでいないで働きなさいよ。ほらほら、屋敷までダッシュ。お風呂の用意をするように伝えてきて」

「パンツ一枚のままでッ? せめて服ぐらいは着せてくれないかな!」

 テーブルと椅子、さらにポールとネットとガーデンパラソルまで一人で抱え込む。
 メイド長の足蹴で送り出され、屋敷までひとりで走らされるはめになった。
 シェリー嬢達は、後からゆっくり帰るそうだ。
 これでもコリンは公爵家の御曹司なのに、扱いがひどすぎる。

「あ、コリンお兄ちゃん! わたしも先に帰るのデスよ」

 空のランチバスケットを持ったシャルロが、慌てて追い掛けてくる。
 隣を併走しながら、コリンの大荷物を眺めた。

「どれか一つぐらい、持つデスよ?」

「いや、大丈夫! 帝国軍人の底力を見せてやる!」

 ふんぬと気合いを入れて、荷物を抱え直す。
 意地を張るコリンに、シャルロがくすりと笑みをこぼした。

 この笑みを守ってやりたい。
 シェリー嬢のセクハラを止めるためには、また別の策を練る必要がありそうだった。



[22783] 1-7. カントリーハウス3
Name: arty◆ecc17069 ID:189cb68b
Date: 2013/07/29 00:48
 帝国貴族の一般的なスケジュールでは、ランチからディナーまで間が空いている。
 そのため夕方に小腹を満たすため、アフタヌーンティという風習が生まれた。

「ふぅ、疲れたな」

 本当に疲れた様子で、シェリー嬢が朝食室に姿を現す。
 ランチの時にはあれほど輝いていたのに、今は精彩を欠いている。
 午後になってから、シェリー嬢は立て続けに三件のアポイントに対応していた。

「どうせ私など、建前だけの当主代行だ。こんな茶番、止めてしまえばいいのに」

 実際にはシェリー嬢が愚痴るほど、その役割は軽くない。
 領主代行に拝謁を賜ることは、フローマス経済界で地歩を固めるための第一歩だ。
 シェリー嬢との謁見可否によりビジネスパートナーを選別することで、フローマス伯爵は財界を牛耳ることが出来た。

 シェリー嬢がすっかり消耗しているのも無理はない。
 ランチピクニックから戻った後は、嵐のような慌ただしさだった。
 シェリー嬢をお風呂に入れ、着替えをして、身だしなみも整える。
 休む間など全くなかった。
 一件目の訪問客は、しっとりと湿ったシェリー嬢の金髪に首を捻ったに違いない。

「いやでも、見事な対応だったよ。相手も感銘を受けたんじゃないかな」

 接客係として立ち会っていたコリンが、労うように声を掛ける。
 公式な場でのシェリー嬢は、シャルロにセクハラしている時とは別人だ。

 完璧な礼儀作法と、冷ややかな眼差し。
 一片の失言も許されない立場は、この少女にどれだけの重荷になっているのだろうか。

 かつては使用人の前でも、決して気張った態度を崩さなかったそうだ。
 変わったのは、シャルロがヘイウッド邸に来てから。
 今では客人の目がないところでは、適度にリラックスするようになっていた。

 すっかり気疲れした様子で椅子に座ったシェリー嬢は、部屋を見渡して小首を傾げた。

「シャルロはどうした?」

「ああ、ミスタの言いつけでね。メッセージの配達で外出しちゃったよ。北街区だから、すぐに帰ってくるとは思うけど」

「ぬうう、シャルロといちゃいちゃして、癒されようと思ったのに~っ」

 唸りながら足をじたばたさせるシェリー嬢。
 客前でツンと澄ましている姿よりも、こちらの方が子供らしくて不自然さがない。
 コリンは苦笑して、シェリー嬢のために紅茶を注いでやった。

「そうだ、コリン殿。ひとつ相談がある」

「俺に?」

 スコーンにジャムを塗っていたシェリー嬢が、思い付いたように顔を上げる。
 コリンと二人きりの時に話し掛けてくるなど珍しい。

「シャルロのことなのだが」

「だよねー!」

 そんなことだろうと思った。
 シェリー嬢にとってコリンなど、シャルロのおまけ程度にしか認識していないはずだ。
 本当にシェリー嬢は、シャルロのことが好きなのだろう。

 後ろに立たれたままでは話しにくいということで、勧められるままコリンも席に着く。
 ついでに自分のカップも用意して紅茶を淹れる。
 この辺りコリンは、本職の使用人でないだけあって遠慮はしない。

 コリンが一口飲むのを待って、シェリー嬢は真剣な表情で話を持ち掛けてきた。

「ピクニックの時に思ったのだが、シャルロは本当に男の子なのか? 実は女の子だったりしないか?」

「今更ッ? シェリー嬢の方が俺より付き合い長いよね?」

「一緒にいる時間は、コリン殿の方が長いだろう。ルームメイトだからな」

 確かにシェリー嬢の立場では、四六時中シャルロにくっついていられない。
 使用人達の中でも、シャルロと一緒にいることが多いのはコリンだ。
 そのコリンですらシャルロが少年だという事実は、つい忘れそうになってしまう。

 それでも生物学的に区別するなら、シャルロは男の子だった。
 同じ風呂に入ったこともあるコリンが断言するのだから間違いない。

「シャルロちゃんが女の子でないことは、俺が保証するよ。でも急にどうして?」

「だっておかしいだろうっ? ここまで私がアプローチしているのに、全くなびく様子がない! いくら何でも淡泊すぎだ!」

「あー、それは確かにねー」

「シャルロは病気ではないのか? 健全な男子としてどうなのだ!」

 病気なのはシェリー嬢だよ。

 そんな答えが頭を過ぎったが、大人げないので飲み込んでおく。

「原因に何か心当たりはないか? 例えばほら、シャルロはポニーテイルにしか興味ないとか。巨乳好きだとか。私はシャルロのためなら毎日牛乳を飲むぞ!」

「うん。シェリー嬢の年齢なら、胸のサイズは気にしなくていいからね」

「ひいっ、そんな目で私の胸を見るな!」

 胸元を隠して、がたがたと震えるシェリー嬢。
 フォローしてあげたつもりなのに、この反応は納得いかない。
 コリンは嘆息すると、言い聞かせるようにゆっくりと話した。

「あのさ、シャルロちゃんってまだ十歳かそこらでしょ? まだ思春期には早いから。放っておいても時間が経てば、異性に興味持つようになるよ」

 見たところシャルロは、二次性徴を迎えていない。
 つまり女の子のことで頭がいっぱいになるのは、もう少し先ということだ。
 それまでは色仕掛けに動じるはずもない。

 しかし、時の流れが解決するという回答にシェリー嬢は納得しなかった。

「そんなに待てないぞ! 私には時間がないのだ! コリン殿も貴族の端くれなら、分かっているはずだろう!」

「ごめん、それはそうだったね」

 シェリー嬢が一般市民の少女だったなら、ゆっくり待てば良かっただろう。
 しかし、シェリー嬢は伯爵家の末娘だ。
 ほぼ間違いなく、好きな人との結婚は許されない。

 貴族の結婚は個人の恋愛感情ではなく、家同士の政略によって行われるものだ。
 社交界デビューする前に、縁談を組まれることだって珍しくない。
 シェリー嬢の焦る気持ちは分からなくもなかった。

「むう、どうしたらシャルロとえっちできるのだ」

「ごふっ」

 コリンが盛大に紅茶を吹き出した。
 後の掃除が大変なことになりそうだが、今はそんなことを気にしている余裕などない。

「なに言ってんの、この残念美少女ッ!」

 十歳そこらの少女から、こんな台詞を聞くとは思わなかった。
 衝撃的すぎて目眩がする。
 ところが当のシェリー嬢に真剣そのものだったらしく、コリンのリアクションを不思議そうに眺めてきた。

「だってそうだろう? シャルロの子を孕んでしまえば、父上も認めざるを得ないはずだ」

「計算高いな! もう少し子供らしく恋してよ!」

「うむ。打算抜きでも、シャルロとはえっちしたいぞ!」

「恋じゃねえええええ! 誰だよ、この子に余計な知識を与えたのは!」

 ちなみに男性貴族がメイドに手を出した場合では、妊娠したところで認知もされずに解雇される。
 逆に、婚前の令嬢が平民の子を宿した場合にはどうなるか。
 幸いにもシェリー嬢は末娘だ。
 それなら勘当されるだけで済む可能性にも希望が持てた。

 もちろん良識ある大人として、そんな危ない橋を渡ろうとする少女は見過ごせない。

「言っておくけどね、シェリー嬢は多分まだ子供を産めないよ?」

「そ、そうなのか?」

「だから思春期には早いって。あと三、四年は待つべきだね」

「でも、頑張れば何とかなるだろう?」

「ならない」

 コリンの説明に、シェリー嬢が青ざめた。
 耳年増なのか、純真なのか良く分からない。

 やはりここはコリンが、シェリー嬢を正しく導いてあげるべきだろう。
 立場からしてシャルロには無理だろうし、メイド長は大喜びで暴走を煽りかねない。
 ヘイウッド家の政略には口出し出来ないが、小さな恋の応援ぐらいならコリンにも出来そうだった。

「シェリー嬢の気持ちは良く分かったよ。仕方ない。ここは俺が、人生の先輩として恋愛の極意を教えてあげよう」

「む? モテそうにないコリン殿のアドバイスなど、全く期待していないぞ? まあ、言うだけ言ってみるといい」

 相談されているはずなのに、ひどい言い種だった。
 しかし、器の大きなコリンはそんなことで気を悪くしない。
 得意気な顔をして、取って置きの格言を教えてあげる。

「押してダメなら、引いてみな」

 コリンの実体験に基づいた、シェリー嬢にとっても的確なアドバイスのはずだ。

 士官学校時代、コリンも人並みに恋愛したことがある。
 相手は身分制度の垣根を乗り越えた、奨学生の才女だった。
 手紙を出した。
 告白もした。
 彼女と少しでも同じ時間を過ごそうと努力した。

「気持ち悪いんですけど。本気で止めてもらえません?」

 そう吐き捨てられ、コリンの繊細な心は粉々に砕け散った。
 ゴミを見るような目は一生忘れられそうにない。
 積極的なのは決して悪くなかったはずだが、一方的に押すだけでは相手に引かれてしまう。

「そうか、寂しい青春時代だったのだな。可哀想に」

「子供に同情されても嬉しくないよ! それより君は、自制を学ぶべきだ」

 とにかく実体験の重みが説得力として活きたようだ。
 シェリー嬢が思案顔になって唸る。

「コリン殿、一応は礼を行っておくぞ。試してみる価値はありそうだ。さて、それではそろそろ戻るとしよう。訪問客をあまり待たせても悪い」

 ティーカップを置いたシェリー嬢の顔が、貴族令嬢のそれになる。
 感情を封じ込め、礼儀作法で身を固める少女。
 何度見てもこの豹変ぶりには目を疑う。

「応援するよ。心からね」

 シェリー嬢の消えた扉を見つめながら、コリンは小さく声援を送った。
 寂しげな笑みが浮かんだのは、自分自身を振り返ってしまったせいだ。
 学生時代に、片想いの相手から言われたセリフを思い出す。

「それにどうせ、恋のために家を捨てる覚悟もないのでしょう? 恋愛ごっこをしたいなら余所でお願いします」

 図星すぎて痛かった。
 流されるままに生きてきたコリンには、シェリー嬢のような真っ直ぐさはない。
 正直、少しだけ羨ましかった。



[22783] 1-8. カントリーハウス4
Name: arty◆ecc17069 ID:189cb68b
Date: 2013/07/29 00:49
 使用人ホールのテーブルに、ささやかな夕食が並ぶ。
 今宵のメインディッシュはキャベツと豚バラのスープだ。
 帝国の伝統的なレシピではなく、王国料理がベースになっている。
 おかげで出汁の旨みが効いて、しっかり味付けされていた。

 階上でシェリー嬢に供されているコース料理に比べると、やはり見劣りはするだろう。
 それでも仲間と囲む食卓は温かで、これはこれで悪くない。
 他家のカントリーハウスでは、食事中は私語禁止というところもあるらしい。
 ヘイウッド邸は上下関係も緩やかで、皆が自由気ままに食事と会話を楽しんでいた。

「ピクニック効果は絶大なのデスよ! セクハラされないディナーなんて、久しぶりだったのデス!」

 大喜びで報告するシャルロだが、実際のところは少し違う。
 ピクニック効果ではなく、押してダメなら引いてみな作戦によるものだった。
 もちろんシャルロに作戦の存在は秘密だ。

「そんなこと有り得るの? あたしは給仕しないから、にわかには信じられないんだけど」

「いえ、シャルロちゃんの言う通りですわ」

 給仕を手伝っていたパーラーメイドが、シャルロの説明を裏付けする。
 ディナーはいつも通りの布陣だった。
 シェリー嬢の給仕はシャルロ。
 ゲストである先輩の給仕はコリンという担当割りだ。

 本来なら使用人は、空気のような存在であることを求められる。
 決してテーブルの会話には加わらない。
 ところがシェリー嬢は困ったことに、いつだってシャルロにちょっかいを出そうとする。
 それが今夜だけは様子が違った。
 マナーを守って大人しくしているシェリー嬢に、皆が驚いたのも無理はない。
 シェリー嬢の相手をしていた先輩が、心配になってコリンに耳打ちしてきたぐらいだ。

「今夜のシェリー殿はおかしいね。シャルロちゃんと喧嘩でもしてるのかい?」

 おかげでシャルロは、さっきからずっと上機嫌。
 ランチピクニックを定例行事にすべきだと熱く語っていた。
 シェリー嬢に距離を取られて、少しぐらいは思うところはないだろうか。
 コリンは冗談めかして尋ねてみた。

「でもさ、それはそれで寂しかったりしない? 肩すかし食らった気分というかさ」

「何でなのデス? たまにはこんな日があっても、良いのデスよ」

 事も無げに答えられてしまった。
 さすがに食事一回だけでは、作戦の効果も見られないようだ。
 もう少し腰を据えて、じっくり取り組む必要がある。

 逃げられると追いたくなるのが、人間心理というやつだ。
 やがて不安になったシャルロは、シェリー嬢が少し隙を見せるだけで歩み寄るに違いない。
 短期的にはシャルロへのセクハラを抑止、長期的にはシェリー嬢の想いも叶える。
 一石二鳥の良案に、コリンは成功を確信していた。

 しかし、使用人ホールに場違いな人物が飛び込んできたことで全てが破綻する。

「どうしてだぁああああッ」

 使用人ホールにやって来たシェリー嬢は、すっかり涙目になっていた。
 何事かとメイド達が食事の手を止める。
「何でシャルロは追ってこないのだ! ずっと全裸待機していたのだぞ! コリン殿、これでは話が違うのではないか!」

「気が短いな! そんなすぐ効果が出る訳ないじゃん! もうちょっとぐらい続けてみようよ!」

 シェリー嬢の盛大な自白で、コリンの共犯までバレてしまった。
 あんなに嬉しそうにしていたシャルロの視線が、危険温度まで冷え切っている。

「はあ、今度はコリンお兄ちゃんの仕込みなのデスか?」

「あれぇ? 何で俺が悪者なのっ?」

 ちなみにシャルロちゃんを怒らせると、本気で怖い。
 怖すぎて、ぞくぞくするほどだ。

「コリン殿、その席をどけ。私も食事に混ぜろ」

「シェリーお嬢様。つい先ほど、夕食を済まされたばかりでしょう?」

「良いではないか。一度、皆と同じ食卓を囲んでみたかったのだ。私の分も用意しろ」

 シェリー嬢に命じられたメイド長が困惑する。
 もちろんいつまでも、シェリー嬢を立たせておく訳にもいかない。
 同席しているハウスキーパーの表情を、メイド長がちらりと覗った。

「あらあら、仕方ないわね。今夜だけ特別ですわよ? それで良いわよね、ミスタ」

「私に賛同を求めないでいただきたい。ただ、反対も致しませんよ」

 ハウスキーパーに話を振られ、初老のバトラーが肩を竦める。
 上司の了解を得たメイド長の指示で、すぐにシェリー嬢のスープが用意された。

「何てこった。シェリーお嬢様が来るなら、もう少しマシな材料を奮発したのに」

「限られた予算で工夫するのも、キッチンメイドの腕の見せ所さ!」

 悔やむファースト・キッチンメイドを、ランドリーメイドが励ます。
 シャルロの隣に座っていたコリンが席を一つずらして、その間にシェリー嬢は小さなお尻を下ろした。

 無理矢理に割り込まれたせいでかなり狭い。
 肘と肘がくっつきそうだ。
 それでもシェリー嬢は嬉しそうだった。

「ランチとディナーの両方を、シャルロと一緒に食べるのは初めてだな!」

「あは。言われてみるとそうなのデスよ」

 いつもシェリー嬢は一人きりか、ゲストと食事を取る。
 シャルロ達は給仕には立ち会うが、同じテーブルに付くことはない。
 それでもシャルロやパーラーメイドは、お嬢様との接点が多い方だ。
 裏方を務める他のメイド達にとっては、シェリー嬢が食事する姿を見ることさえ初めてだった。

「あ、そのスープは自分で味付けした方が美味しくなるよ! あたしがやってあげる!」

「それ胡椒を掛けすぎだってば~。ちゃんと味を見ながら入れてよね~」

 妹メイドと猫好きメイドの二人も加わって、ますます賑やかになる。
 最初はシェリー嬢の登場に驚いていた他のメイド達も、すぐいつもの調子に戻っていく。
 賑やかな夕食の様子に、シェリー嬢は少しだけ面食らった様子だ。

「シャルロ達は、いつもこんな風に夕食を摂っていたのか」

「騒がしいだろう?」

「いや、楽しい。少しだけコリン殿が羨ましいぞ」

「確かに俺も、ここでの生活は悪くないと思い始めてるところだよ」

 自分の食事は終えて、ビールを手にしたコリンはにやりと笑う。
 最初の頃はコリンも、階下の生活にカルチャーショックを受けたものだ。
 洗練された上品さはないが、使用人ホールは活気に満ちてる。
 特に夕食後のアルコールが入ってきたせいで、ますます場の空気は盛り上がっていた。

 ワインが貴族の嗜みなら、ビールは労働者の糧だ。
 ヘイウッド邸でも使用人に対して、毎日一杯のビール代が支給されている。
 ビールは健康に良い強壮剤とされていた。

「あら、コリンが晩酌に付き合うなんて珍しいじゃない」

 先にビールを飲み始めていたメイド長が、コリンに絡んでくる。
 コリンがそれほどビールを好まないのは、彼女の指摘通りだ。
 それでも決して、アルコール嫌いではない。

「俺だってたまには飲みたい時もあるさ」

 コップを傾けて酔いに身を任せる。
 酔っ払ってしまえば、シェリー嬢への入れ知恵をシャルロに追求されることもないだろう。
 優しいシャルロは、潰れたコリンを責めるようなことはしない。

「あは。コリンお兄ちゃんとは、また明日以降にでもお話があるデスよ」

「思惑が読まれてた!」

 すっかり凹んでしまうコリン。
 大元の原因であるシェリー嬢は、コリンの飲むビールに興味を持ったようだ。

「そいつは美味しいのか?」

「最初の一杯は格別だね。俺の場合、そんなに飲める訳ではないけど」

 空かさず妹メイドも便乗してくる。

「姉ちゃん、あたしにもちょーだい!」

「子供はダメ。あんたはジンジャエールで我慢しときなさい」

「ケチ! だってあれ、変な味するんだもん」

「それなら、ビールの味だって分かりはしないわよ。大人になってから楽しむことね」

 美味しそうにビールを呷るメイド長を、妹メイドが悔しそうに睨む。
 見渡すと使用人ホールは、すっかり酒宴の雰囲気だ。
 シャルロが心配そうに、シェリー嬢に声を掛ける。

「シェリー嬢様、食べ過ぎじゃないデスか?」

「全然平気だ!と言いたいところだが、さすがにお腹は膨れたな。ほら、こんなにぱんぱんだ。触ってみるか?」

「あは。いつものシェリー嬢様に戻ったのデスよ」

「うむ、せっかくシャルロが隣りなのに、えっちないたずらするのを忘れていたな」

「それは忘れたままで良いデスよっ?」

 結局のところシェリー嬢のセクハラは、シャルロに構ってほしいだけなのだろう。
 不安と寂しさの裏返し。
 だからシャルロがずっと側に居てくれると安心できれば、自然と過剰な行動も消えていく。

 微笑ましい気持ちで二人を眺めていたら、背後から首に腕を回された。
 すっかり出来上がったメイド長だ。

「ほーら、コリン! しっかり飲んでるう?」

「この酒乱め! ペース早すぎだよ! 俺はもう、酔いが回って頭痛いんだけど!」

「コリンお兄ちゃん、お水飲むデスか?」

「私はシャルロの黄金水が飲みたいぞ」

「シェリー嬢様! 酔ってもいないのに凄いこと言わないでなのデス!」
 」

 宴は続き、ヘイウッド邸の夜は更けていく。
 使用人の朝は明日も早い。
 それでも今だけは、嫌なことは全部忘れて思い切り楽しむべきだろう。

「よし! 俺ももう一杯だけ!」

 地獄の二日酔いに向けてコリンは杯を重ねた。



[22783] 1-9. カントリーハウス5
Name: arty◆ecc17069 ID:189cb68b
Date: 2013/07/29 00:49
 ドアのノックが聞こえる。
 コリンの先輩でもあるヘイウッド邸の客人は、「どうぞ」
 と返事をした。

「失礼致します」

 姿を現したのは、初老の男性だった。
 背筋に定規が入っているのかと思えるほどに姿勢正しく、それでいて物腰柔らかな雰囲気がある。
 通称はミスタ。
 ヘイウッド家のバトラーであり、男性使用人の総責任者だ。

 領主であるフローマス伯爵の右腕と評されており、公私共に主人を支えている。
 伯爵不在の今、儀礼的な代役でしかないシェリー嬢に対して、ミスタこそが実務上の代理人だった。

「ミスタ殿、君が来るとは珍しいね。コリンに申し付けてくれたら良かったのに」

「ウィル様よりお手紙です。こればかりは、コリン様のお手を煩わせる訳には参りませんから」

 ウィリアム・ヘイウッド。
 フローマス伯爵の後継者であり、シェリー嬢の実兄でもある。
 帝国軍人の彼は、現在は大陸に出征中。
 客人とは既知の仲だ。

 恭しく差し出された銀の盆には、確かに手紙が乗っている。
 差出人を確認すると、見覚えのある筆跡でウィルの署名があった。
 ペーパーナイフで封印を解く。
 要件のみを簡潔に書かれた内容は、いかにも彼の文章らしかった。
 随分と久しぶりだというのに、愛想の欠片もない。

「ふん、相変わらず不器用な男だね。レディへの手紙には、もう少し色気を添えるものだよ」

 客人は手紙をテーブルに放ると、ソファに身を沈めて指を組んだ。
 そして傍らに立つ、ミスタを見上げた。

「ミスタ殿、忙しいところ悪いんだけどね、ひとつこのボクと雑談に付き合ってもらえないかな? まあ、そこに掛けたまえ」

 ソファを勧めたが、ミスタは固辞する。
 フローマス伯爵自身に比肩するほどの権力保持者。
 にも関わらず、あくまで使用人としての姿勢は崩さない。
 それが彼の信条なのだろう。

「ミスタ殿とこうして、差しで話す機会などなかったからね。一度、聞いておきたいことがあったんだ」

「私にお答え出来る範囲でしたら、何なりと」

 慇懃に一礼するミスタからは感情が読めない。
 食えない男だ。
 客人にとって無条件の味方ではない。
 ただ、今のところは敵でもなかった。

 客人に協力的なのは、ヘイウッド家の利益に叶うと見込まれているから。
 そこを見誤ると、手の平を返されてしまう危険性がある。
 まずは本題に入る前の地均しに、無難な世間話で様子を見ることにした。

「君には、コリンのことで世話になってるね。どうだい? そちらに迷惑は掛けていないかい? 無理に押し付けてしまったから、実は気になっていたんだ」

「迷惑など、とんでもございまん。コリン様の働きぶりには助けられております」

「ミスタ殿。ボクはね、率直な感想を聞きたいんだ」

 毒にも薬にもならない回答をするミスタに、客人は少しだけ目付きを細めてみた。
 ミスタがコリンの受け入れを快く思っていないことなど、百も承知。
 その上での質問だった。

 ところが客人の仕掛けたプレッシャーも、ミスタは頬をわずかに緩めることでやり過ごす。
 腹の探り合いなど不要ですと、その表情が物語っていた。

「コリン様の適応性の高さには、本当に感服しております。身分の卑しい使用人達とあれほど打ち解けるなど、なかなか出来ることではないでしょう」

 流れるように答えるミスタ。
 発音は明瞭で、とても聞き取りやすい。

「将来はきっと、庶民の気持ちが分かる心優しき領主になられるはずです。本屋敷における日々が、コリン様の糧となれば幸いでございます」

「はは、本当に? ミスタ殿にはあれが、理想の領主像にでも見えたのかい?」

 皮肉気に客人が笑う。
 ここでミスタは、緩やかに首を振った。
 否定のジェスチャーだ。

「優しいだけで領主は務まらないでしょう。時には愛すべき民を切り捨てる強さも必要です。違いますか?」

「ほう、興味深い見方だ。続けたまえ」

 客人が先を促す。
 ミスタは僭越ながらと前置きした上で、私見を披露した。

「身分には、身分に応じた役割があります。あまり労働者階級に感情移入しすぎては、コリン様の輝かしい未来に傷が付くでしょう。一線は引いておくべきかと、苦言を申し上げたく思います」

「それが君の本心かい? それとも帝国貴族の一般的な考え方に、迎合しているだけかな?」

「さて、どうでしょうか。私共に会話を求められる貴人の方々には、既にご自分で答えをお持ちの方も多くいらっしゃいますので」

 にやり、とミスタが口元に笑みを浮かべる。
 ほんの少しだけ、彼の本質を垣間見た気がした。
 客人が肩を竦めて応じる。

「君は誤解しているようだけどね、コリンに庶民感覚を学ばせようとした大義名分は、別に嘘でもないよ。もちろん目的は、それだけでもないけどね」

 ミスタは真摯な態度で客人の言い分に耳を傾ける。
 聞き上手であるということは、話し上手なこと以上に重要だ。
 どこまでも優秀な使用人だった。

「とにかく迷惑でないと聞いて、ボクはとても安心したよ。そう簡単に、コリンが階下の生活に馴染めるとは思っていなかったからね。でもそれは、コリン本人だけの資質だろうか?」

 本題に切り込む。
 ここから先が、ミスタを引き留めた本当の目的だ。

「違うね。シャルロちゃんがいたからこそ、コリンは他のメイド達とも仲良くなれた。ボクはそう思っている。この認識は見当違いかな?」

「それも一つの要素ではあるかと存じます」

「シャルロちゃんは、いいよねえ。すっごく可愛いし、でもそれだけじゃない。柔らかな仕草や表情が、するりと心の隙間に入り込んでくる。あの魅力は危険だよ」

 テーブルに放ったウィルからの手紙を取り、客人は改めて中身を吟味する。
 そしてにやにやと笑みを浮かべながら、ミスタを見上げた。

「シャルロちゃん、あのコは何者だい?」

 涼やかに澄ましたミスタの横顔。
 その表情の変化を、一片も見落とすまいと注視する。

 客人の階級は上級二等官。
 所属は帝国軍務省、作戦局の特務本部四課。
 堅苦しい正式名称よりも、世間的には俗称の方が通じやすいだろう。
 人は彼女達を、魔女狩り特務四課と呼ぶ。



[22783] ▼▼▼ 2-1. 回想(帝歴261年冬)
Name: arty◆ecc17069 ID:fbe1dfc1
Date: 2013/07/29 00:50
 帝国と王国連合の戦争が始まって、既に八十年近くが経過している。
 小休止を挟む度に、参戦国の顔触れや敵味方は目まぐるしく入れ替わり、開戦時の大義名分などはどこかへと消えてしまった。
 根底にあるのは、帝国に代表される海洋勢力と、それに抵抗する大陸勢力との経済戦争だ。

 一進一退の争いを続けてきた二者だったが、近年のパラーバランスは帝国優勢へと傾きつつある。
 勢いに乗る帝国は、数十年振りに王国連合の盟主国領内へと軍を侵攻させた。

 城塞都市ローアン。

 盟主国の王都目前まで迫った帝国軍ではあったが、一つの地方都市がその進撃を足止めした。
 当初三ヶ月で陥落すると見込まれた城塞都市は、予想に反して一年以上の強硬な抵抗を見せる。
 その間、帝国軍の司令官が交代すること三回。
 全て王国側の仕組んだ暗殺作戦が原因だった。

 現在の師団司令官代行は四人目となる。
 彼の名は、ウィリアム・ヘイウッド。
 フローマス伯ヘイウッド家の長子としてエリートコースを進んできた、折り紙付きの帝国軍人だ。
 階級は少佐。
 二十九歳。
 本来であれば少将級のポストである師団司令官としては、異例の若さだった。

「いい夜だ。そうは思わんか、軍曹」

「全くです、少佐。月明かりどころか、星ひとつ見えない。例え陽が出ていたとしても、この吹雪なら目先の灯りすら見えんでしょうな」

 近年稀に見る、記録的な猛吹雪。
 肌を刺す冷気と雪の飛礫が、若き司令官とその副官のフードを激しく叩く。
 騎馬がぶるると唸り声を上げ、白い息を荒々しく吐いた。
 兵士達が首を竦めて極寒に耐える中、馬上で堂々と背筋を伸ばしたウィルの表情はどこまでも晴れ晴れとしている。

 ウィルが直接率いるのは、実父であるフローマス伯爵から預かってきた歩兵連隊二千名。
 さらに他家が所有する二個歩兵連隊と法兵連隊及び竜騎兵連隊が、吹雪に晒されながらも所定位置で待機中。
 予備兵力を含めて合計一万名近い帝国軍一個師団が、今やウィルの指揮下にあった。

 対する城塞都市ローアンの守備兵力は僅か二千強。
 残りは素人同然の市民兵ばかり。
 しかも長期の包囲戦により、精神的にも肉体的にも彼らは極限まで追い込まれていた。
 兵力差は圧倒的。
 それでもなお、ウィルは非情なまでに一切の手心を加えない。

 伝令兵と何事か言葉を交わしていた軍曹が、ウィルへ報告する。

「少佐、内通者からの合図を確認。城門は予定通り、我らの手に落ちました」

「上出来だ、軍曹。当初のプランから変更はなし。この戦には随分と投資したからな。そろそろ回収させてもらうとしよう」

「了解です、少佐」

 オーケストラ指揮者のような優雅な仕種で、ウィルが腕を頭上へ掲げた。
 一瞬、吹雪が収まる。
 それはただの偶然。
 しかしその光景は、ウィルの手刀が雪雲を切り裂いたかのようだった。

「武運を祈る! 全ては、女王陛下のために!」

 ウィルの手を振り下ろされるのと同時に、信号方弾が放たれた。
 稜線に伏せていた兵士達が、迷彩用の白いフードを脱ぎ捨て一斉に立ち上がる。

「女王陛下万歳!」

「女王陛下万歳ッッ!」

 抜剣する刃滑りの音と鬨の声が、一万名の軍勢へ波紋のように広がっていく。
 城塞都市ローアン側からも照明法術が次々と打ち上げられ、強烈な青白い光が帝国軍の全容を照らし出した。
 警鐘が鳴り響き、慌てて反撃に転じるローアン守備軍。
 しかしその反応はあまりに鈍い。
 ローアン守備軍の組織的な斉射が始まる頃には、既に帝国軍の先鋒は城壁まで二百メートルという距離まで接近していた。

 帝国竜騎士の馬上槍から放たれた法撃や攻城級法術が、幾重にも張り巡らされた城塞都市ローアンの防壁法術に衝突。
 オーロラのような輝きを放ちながら、防壁法術が砕けていく。
 飛び交う弓矢と攻性法術。
 幾人かの帝国兵士が雪上に力尽きていくが、帝国軍は意に介さない。
 脱落者を踏みつけて進むような勢いで攻め続けた。

 そして、城門が内側から開かれる。

 後は文字通り圧倒的な展開だった。
 城塞都市に広がる戦火が、天を覆う雪雲を赤く染め上げる。
 交戦開始から、わずか十数分しか経過していなかった。



[22783] 2-2. メイド長1
Name: arty◆ecc17069 ID:aed3400c
Date: 2013/07/29 00:50
 カントリーハウスとは、地方領主が所領に有する屋敷のことを指す。
 ヘイウッド邸もその一つだ。

 旧家のカントリーハウスには、戦乱の時代に建てられた歴史が刻まれている。
 実際に城塞として機能するカントリーハウスも少なくない。

 一方でフローマス伯爵を当主とするヘイウッド家は、どちらかと言えば新興貴族に分類される。
 ヘイウッド家のカントリーハウスを見れば、ひと目で平和な時代に設計されたことが分かるだろう。
 防御力よりも、住み易さ優先。
 スージーは自らの職場でもあるこのカントリーハウスが好きだった。

 白塗りの壁に、青い屋根。
 張り出したバルコニーの下は、テラスになっている。
 古典的な装飾を廃した、シンプルな造りだ。
 屋根裏や半地下まで含めると、四階建てということになる。
 中央棟を挟んで、東と西に翼棟が並ぶ。

 新しい時代にふさわしい、立派なカントリーハウスだ。
 女王陛下をお泊めすることになっても、決して恥ずかしくはないだろう。

 そのヘイウッド邸では、来客の準備がいよいよ大詰めを迎えようとしていた。

「おい! スージー、どういうことだよ!」

 大声で名前を呼ばれて、やれやれとスージーは振り返った。
 一応はこれでも、この屋敷のメイド長ということになっている。
 すらりとした長身に、栗色の長い髪。
 髪型に強い拘りがある訳でもないが、一房だけはワンサイドアップにまとめていた。

「だから、リリに伝えさせたでしょう? あたしに怒ったところで、新しい情報は出てこないわよ?」

「人数も分からないのに、どうやって料理すりゃいいんだよ!」

「いや、まあ。そりゃそーなんだけどね」

 ファースト・キッチンメイドが怒り心頭なのも当たり前だ。
 その点はスージーだって理解している。

 今晩から長期滞在する予定の来賓は二名。
 しかし、彼女らが引き連れてくるはずの召使いの人数が分からない。
 ぎりぎりまで追加の連絡を待ってみたが、その期待は空振りに終わった。
 分からないことが分かったと、キッチンに遣いを走らせたのがつい先刻のこと。
 そうしたらキッチンの主であるファースト・キッチンメイド様が、自ら怒鳴り込んで来たという顛末だった。

「頭に血が上るのは分かるけどさ、包丁を持ったまま屋敷内を歩かないでくれる? お客様が見たら、何事かと思うわよ」

「うるせーな。あまりにびっくりな報告だったもんで、慌ててキッチンを飛び出て来ちまったんだ」

 指摘されてようやく包丁に気が付いたのか、三泊眼のキッチンメイドはバツが悪そうに鼻の頭を掻いた。
 今回の来客対応のため、昨夜から他のアポイントを全てお断りしていたのが功を奏した。
 そうでなければ、危うく不名誉な評判が立つところだった。

「常識的に考えて、お供の使用人はお客様と同じ人数か、多く見積もっても二倍ってところかしら。過去の最高記録は何人だっけ?」

「八人ぐらい連れてきた馬鹿がいた気がする」

「あー、いたわねー。そんなやつ。それじゃ最悪のケースに備えて、ゲスト付き使用人の料理は二十人分を用意しておいて」

「マジかよ!」

「マジよ、マジ。足りないよりは余らせた方がマシだって」

「あたいは料理を余らせるなんて許さないからな。お供の使用人が少なかったら、明日の朝食も昼食も、同じメニューが並ぶことを覚悟するんだな」

 捨て台詞を吐いたキッチンメイドは、肩を怒らせながら台所へ戻っていった。
 とんでもないゴロツキだ。
 あれで料理の腕が確かでなければ、クビにしているところだった。
 もっともメイド長の職権はキッチン部門に及ばないので、スージーに人事権はなかったりする。

「スージーくんっ。客室のシーツは新調してきたよっ。次は何を手伝ったらいいかな!」

 客室の用意をしていたメイド達が、新たな指示を仰ぐために大階段を降りてきた。
 ヘイウッド邸ではメイド服のデザインによって、何を担当するメイドなのか一目で分かる。
 いつもなら担当違いのメイド達も、今日は掃除や片付けに駆り出されていた。
 何しろ来客準備は総力戦だ。

「お疲れさん。じゃあ悪いんだけど、こっちの掃除を手伝ってくれる? もう一度、ホールを磨き上げたいのよ。何しろお客様が最初に目にするのは、この階段ホールだからね」

「ほいきた!」

 快諾するランドリーメイド。
 しかし、そうではないメイドも紛れ込んでいた。

「ええ~? もう十分に綺麗じゃん。これ以上磨いたところで、大して変わらないって」

 だらけた声を上げたのは、スージーの実妹であるリリだ。
 帝国において児童労働は珍しくない。
 ヘイウッド邸でもリリを含めて、三人のジュニアスタッフが採用されていた。

「あー、もう疲れたー。休憩したーい」

「へえー。あたしの指示に逆らうなんて、あんたも偉くなったもんね。こいつは再教育が必要かしら?」

 ゆらりと、スージーから殺気が立ち上る。
 怠け癖というものは伝染する。
 諸悪は根元から絶つべきだ。
 怒りのあまり、笑みがこみ上げてくるのを自覚した。

 姉の只ならぬ様子に気づいたリリが、恐怖のあまり「ひっ」
 と息を飲むがもう遅い。
 失言の報いは、その身体に刻んでやらなければならない。

「待って、姉ちゃん! 暴力反対!」

「あら、これは暴力じゃないわよ? 躾ってやつだから。誤解しないでね?」

 リリが腰を浮かすよりも、スージーの踏み込みは速かった。

「ひゃあうッ」

「ちィ!」

 槍みたいな構えで突かれた長箒の一撃を、紙一重で避けるリリ。
 舌打ちしたのはスージーだ。
 毎日のようにお仕置きを繰り返すうち、この妹は耐性を身に付けつつある。
 まるでゴキブリのようだ。
 早く根絶しないと。

「あんた、ちょこまかと避けるんじゃないわよ」

「直撃したら、骨折どころじゃ済みそうにないじゃん! せめて凶器は止めてよね!」

「はあ? なに言ってんの? 箒は凶器じゃなくて掃除道具でしょ?」

「正論だけど! でも、箒を振り回してる人に言われたくはなかった!」

 もちろんいつまでも長引かせるつもりはない。
 さっさと止めの一撃を送り込もうとしたところで、スージーはその動きを止めた。

 カーペットの上を走る足音と、ドアノブが回る音。
 スージーの予測した通り、大階段の先にある扉が内側から開け放たれた。

「シャルロはどこだーーーーっ」

 現れたのは、絵に描いたような金髪美少女だった。
 あまりの可愛さに、思わず感嘆の息が漏れる。

 少女の名はシェリー・ヘイウッド。

 フローマス伯爵の末娘であり、ヘイウッド家の幼き当主代行だった。
 つまりはスージー達にとって、ご主人様に相当する。

 ストレートの金髪と、少し吊り目な翠の瞳は、いかにも貴族のお嬢様といった顔立ち。
 シェリー嬢の美しさを見ているだけで、スージーは幸せな気持ちになってくる。
 リリごときを相手に荒んでいた心が、洗われていくようだ。

「はあ、あんたにもお嬢様の百分の一ぐらい可愛げがあったらねえ」

「そんな溜息付かれても! というか、あたしだって可愛い方だよねっ?」

「あんたの顔って、何となくあたしに似てるから萎えるのよね。パクりなの? 止めてくれない?」

「妹なんだから仕方ないじゃん!」

 そんな妹のことは放っておく。
 今はシェリー嬢の相手をする方が大切だ。
 ダブルスタンダード。
 それがスージーの基本方針だった。

「シャルロちゃんなら、メッセンジャーの仕事で外出しています。それよりお嬢様、お勉強の方は宜しいのですか?」

「うむ。ダンスのレッスンは中止だ。私は自由だぞ!」

 言われてみると、ダンスの講師が来ていない。
 実は街の方では騒ぎが発生しており、あちこちで騎士団が検問を実施。
 渋滞に巻き込まれた講師は立ち往生という事情があったのだが、その連絡はまだスージーに届いていなかった。

「それでシャルロを探していたのだが、外出しているのか。どうにかならないのか?」

 シャルロというのは、シェリー嬢がご執心のジュニアスタッフだ。
 美少女が揃うヘイウッド邸の使用人でも、別次元の愛らしさを誇っている。
 シェリー嬢が心奪われるのも当然だ。

 シェリー嬢の願いは何とかしてやりたい。
 スージーは優しく微笑んだ。

「分かりました。それでは至急、シャルロを呼んで来させましょう」

「本当かっ? そんなことが出来るのかっ?」

「もちろんです。リリ、あんたちょっと街まで行って、シャルロちゃん探してきなさいよ。辻馬車を使ってもいいから」

「無茶振り来たーーーーッ」

 驚愕のあまり、リリが青ざめる。

「無理に決まってんじゃん! この広い港湾都市のどこにいるのかも分からないのに!」

「そんなことないわよ。シャルロちゃんなら大抵は、移民街の青空市場に寄るじゃない? そこを待ち伏せすれば会えるって」

「あそこの市場も結構広いからね! あの人ごみから探し出すとか、不可能すぎる!」

「はー。使えないわね、あんた」

 頭を振ると、スージーはお嬢様に向き直った。
 苦渋の表情を浮かべて一礼する。

「申し訳ありません、お嬢様。どうやらリリには荷が重かったようです」

「あたしのせいッ?」

 一瞬でも期待してしまっただけに、シェリー嬢の落胆は大きかった。
 たちまち碧眼が潤んで、大粒の涙が溢れ出す。
 両手をぶんぶん振りながら、駄々をこね始めた。

「うあーーーーん! やだやだ! 私はシャルロと遊ぶのだ!」

「ぶふッ。幼児退行したお嬢様も超絶可愛いっ」

 思わず鼻血が溢れそうになる。
 そんな姉を、ドン引きした表情で妹のリリが見上げた。

 本来なら幼さを増したお嬢様をいつまでも愛でていたかったが、メイド長としての自覚が邪魔をする。
 気は進まないが仕方ない。
 子供のことは、子供に任せるのが一番だ。
 スージーは咳払いをひとつすると、妹のリリに命じた。

「リリ、お嬢様の遊び相手になってあげなさい。こっちの仕事はしなくていいから」

「いやっほーう! さすが姉ちゃん! 話が分かってるう!」

 ぱあっと表情を輝かせるリリ。
 憎たらしくて、殴りたくなる。
 しかし、リリのような脳天気な遊び相手こそ、落ち込んだシェリー嬢には必要だった。

「ほらほら、シェリーちゃん! 姉ちゃんの気が変わらないうちに遊びに行こう!」

「ぐす。でもシャルロがいないのだろう?」

「シャルロちゃんが居ないからこそ出来ることもあるわよ! シャルロちゃん攻略の作戦会議とかね!」

「作戦?」

「もうね、シャルロちゃんがシェリーちゃんにめろめろになっちゃうやつ!」

「本当かそれはっ! めろめろか!」

 泣いたカラスがもう笑った。
 リリに乗せられて、シェリー嬢がむふーーと鼻息荒く興奮する。
 ピンク色の妄想を膨らませているらしい。
 リリがシェリー嬢の手を引っ張って、キッチンへと向かっていく。
 おそらく同世代のジュニアスタッフであるメリッサも誘うつもりなのだろう。

 シェリー嬢を見送って、スージーはやれやれと肩を回した。
 お嬢様の相手も大事だが、来客準備も進めなければいけない。
 責任ある立場の辛いところだ。

「それじゃ、あたし達は仕事を続けましょうか」

「へーい」

 部下のメイド達が気の抜けた返事をする。
 そのうちの一人、パーラーメイドがつつつとスージーに寄り添ってきた。
 耳打ちするような近さで、そっと囁く。

「ところでお姉さま」

「何よ?」

 本来ならパーラーメイドは接客担当だ。
 実用一点張りのハウスメイドとは、制服のデザインからして全く違う。
 フリルやレースに彩られたメイド服は、完全に鑑賞用。
 大きく開いた胸元からは、おっぱいが溢れそうになっていた。
 ちなみにお姉さまなどと呼んではくるが、リリと違って血の繋がりはない。

「今晩から滞在される、お客様のことですわ。お姉さまなら、色々とご存じなのでしょう?」

 ヘイウッド家のメイドも、所詮は女の子だ。
 噂話には目がない。
 当然、彼女らを監督する立場にあるスージーにとっては、好ましい傾向ではなかった。
 だから自然と返事も素っ気なくなる。

「ちゃんと説明してあるでしょう? ルーンベリ公爵家のご令嬢と、スリス公爵家の御曹司だって。序列としてはフローマス伯爵家より格上なんだから、失礼のないようにね」

「聞きたいのはそんなことではありませんわ。どんな方なのか、お姉さまは調べていらっしゃるんでしょう?」

 それはそうだ。
 来賓として迎える以上、相手のことを知らなければ高品質なサービス提供は出来ない。
 貴族名鑑の最新版だけではなく、帝都の専門業者から情報は取り寄せていた。

「ご令嬢の方は、社交界でもかなりの変人として有名ね。公爵家に女子として生まれながら、軍務省に勤めてるぐらいだから。ウィル様とも同窓らしいわよ?」

「ご令嬢はどうでもいいですの! それより殿方ですわ! ハンサムですのっ? もちろん超お金持ちですわよね!」

 パーラーメイドが目を輝かせて、ずいずいと迫ってくる。
 暑苦しいことこの上ない。

「そっちはあまり分からないのよ。良くも悪くも普通なんじゃない? 士官学校を卒業してそんなに経ってないみたいだし、情報不足ね」

「でも若いんですわよねっ? 未婚ですの?」

 まあ、パーラーメイドの考えていることは手に取るように分かる。
 その手のロマンス小説は、実はスージーだって愛読していた。
 問題はそれを、フィクションだと割り切れるかどうかだ。

「あんた、また無謀なこと考えてるわね? 止めときなさい、傷付くだけよ?」

「止めませんわ! 玉の輿ですの! わたくし達が労働者階級から抜け出すには、これしかありませんわ!」

「トラブルだけは勘弁してよね」

 スージーは呆れたように嘆息する。
 正直なところスージーには、パーラーメイドほど熱意も興味もなかった。
 仕事だから持て成しもする。
 しかし、プライベートでまで貴族連中に関わりたいとは思えない。
 その手のトラブルは、もう懲り懲りだった。

「コリン・イングラム……か」

 公爵家の御曹司とかいう来賓の名を反芻する。
 何とも冴えない響きだった。
 それ以上の感想も思い浮かばず、スージーはいつも通りに最高のサービスを提供するだけだと再認識した。



[22783] 2-3. 魔女狩り1
Name: arty◆ecc17069 ID:e47471db
Date: 2013/07/29 00:51
 白い崖と碧い海。
 初夏の日差しが照りつける中、飛び交うカモメ達の鳴き声を掻き分けながら、大型の帆船がゆっくり港へ入ってくる。
 桟橋では日に焼けた荷役人夫達が、接岸準備で慌ただしく走り回っていた。
 大型商船のすぐ脇を出港していくのは、海軍の戦列艦だ。
 決して狭くない港湾は、大小多様な船舶で溢れ返っていた。
 擦れ合うようにして交差する大型艦の足下を、小さな漁船が巧みな操船ですり抜けていく。

 港湾都市フローマス。

 帝国経済圏でも五指に入るハブ港湾だ。
 世界中からかき集められた富のおよそ半分が、この港を中継して帝都をはじめとする各都市へと運ばれる。
 帝国島の南端に位置し、旧王国連合領とは海峡を挟んで向き合っていた。
 気象に恵まれていれば、王国側の港まで半日程度の航海で辿り着ける。

 フローマス湾には二つの河川が注ぎ込んでおり、丁度Y字を描くようにして水域が市街地を三つのブロックに区切っていた。
 そのうち東地区は、いわゆる貧民街と呼ばれるエリア。
 隣接する南街区から橋を一本渡っただけで、同じ都市とは思えないほど街の雰囲気がガラリと変わる。
 今にも崩れそうな木造平屋がぎっしりとひしめき合い、整備されていない道が複雑に入り組んでいた。
 治安レベルは最悪。
 東街区に迷い込んだ不慣れな旅人が、身ぐるみ剥がされたという逸話には事欠かない。

「見たまえ、コリン! この混沌ぶりを! 素晴らしいと思わないかい? まさにフローマスの魅力は、この街区にこそ濃縮されていると言えるね!」

「はあ、そうですか」

 コリンと呼ばれた青年が、騎乗したまま気のない相槌を打つ。
 コーヒー色をした髪の、二十代前半の中央事務官だ。
 身に付けている青いコートが、軍務省作戦局の所属であることを示している。
 いわゆるエリート貴族軍人なのだが、覇気がないのは生まれ付きだから仕方がない。

 一方でコリンと馬を並べる女性は、どこまでも上機嫌だった。
 名はフレデリカ。
 身体も小柄で童顔なせいで、子供にしか見えない。
 しかし、これでもコリンにとっては作戦局の先輩であり、上官でもあった。
 金の縁取りをした青いコートが、赤毛と勝ち気な表情にやたらと似合っている。

「さっき入手した手配書の参考人も、きっとこの辺りに潜伏しているはずだよ。地元騎士団を出し抜いて、あっと驚かせてやろう」

 フレデリカ先輩がどうしてそこまで自信に満ちあふれているのか、コリンとしては理解に苦しむ。
 明らかにコリン達は目立ちすぎていた。
 今はまだ地元住人達もこちらを警戒しているようだが、油断は出来ない。
 少しでも隙あれば、金目のものを狙ってくると思って良いだろう。

「……それで、先輩。この道は東街区のどの辺なんですか?」

「むぐっ」

 無秩序な街並みを見渡していたコリンの問いに、先輩が言葉を詰まらせた。

「コリン、君はこのボクが、まさか道に迷ったとでも疑っているのかい? 失敬だね! そんな初歩的なミスをするはずないだろう」

「で、迷ったんですよね?」

 問いを重ねるコリンに、先輩が目をそらす。
 そして懐から地図を取り出すと、ごにょごにょと小声で呟いた。

「どうやらこの辺りは、無計画な都市開発に地図の更新が追いついていないようだ。全く怪しからん話だよね。今度領主の息子に会ったら、文句を言ってやる」

 例え地図が不正確でも、最初から道筋を追っておけば大まかな現在位置ぐらい分かったはずだ。
 あまりの自信満々な様子に、先輩を信じて地図を預けたのが失敗だった。
 ただでさえ狭い街路は、不法露店やゴミ山などに占拠されており、場所によっては完全に道を塞いでいる。
 おかげで街区全体が迷路のようだった。

 こんなことなら、フローマス伯爵のカントリーハウスに寄るべきだったと後悔する。
 当主代行に頼めば、土地勘のある案内役ぐらい付けてくれただろう。
 もちろん悔やんだところで、現状が改善される訳ではない。

 とにかくこのまま進むのは危険すぎた。
 馬首を巡らせながら、どちらに行けば大通りに戻れるのか記憶をたぐる。

「何だい、その諦めきった顔は! 別に砂漠の真ん中で遭難した訳じゃない。道ならその辺りの住民に聞けば良いさ。いや、決して迷ってはいないけど、確認は必要だね」

「確かに普通ならそうするんですけど、でもこの辺りって移民街ですよね? 帝国語って通じるんですか?」

 さっきから帝国語の看板を見掛けていない。
 遠巻きにこちらを観察する住人達のヒソヒソ声も、王国語のように聞こえる。
 コリンの不安そうな表情に、先輩はきょとんとした顔をしてみせた。

「? 君はもしかして、王国語だと何か問題でもあるのかい?」

「すいませんね、どうせ俺は王国語そんなに得意じゃありませんよ」

 気まずそうに唇をとがらせたコリンに、先輩が勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
 道に迷った原因が誰にあるのか、この先輩は一瞬で忘れてくれたらしい。
 この上なく嬉しそうにコリンを責め立ててくる。

「呆れた! これは心底驚いた! パブリックスクールと士官学校で、王国語は必修科目だったはずだろう? 帝国の教育システムに問題があるのかい? それとも君だけが特殊なのかな? 仕方ない。ここはこのボクが、王国語コミュニケーションの手本を見せてあげるとしよう」

 コリンの王国語スキルは知っているはずなのに、ひどい言われようだ。
 颯爽とコートを翻した先輩が、周囲を見渡して声を掛けるターゲットに目星を付ける。
 先輩が選んだのは、住人達の中でもフードを目深く被り、こそこそと路地裏に消えようとしていたひとりの若者だった。

『おい、そこの君。止まりたまえ!』

 騎馬したままの上から目線。
 人にものを頼む態度ではない。
 ところがフレデリカ先輩の場合、それが様になるのだから困る。
 凛とした先輩の声に、フードの若者の動きがビクリと止まった。

『どうした? それでは顔も見えないだろう? こちらを向きたまえ』

 フードに表情を隠し、背を向けたままの若者を先輩が叱責する。
 いきなり上級貴族に声を掛けられて、緊張でもしているのだろうか。
 様子がおかしい。
 見兼ねたコリンが、下馬してフードの若者に近づこうとする。
 先輩に任せておくよりは、片言しか話せない自分の方がまだマシそうだという判断だった。
 剣の間合いに一歩足を踏み入れたその瞬間、若者の振り向き様に放った閃光が爆音と共に炸裂した。



[22783] 2-4. フローマス騎士団1
Name: arty◆ecc17069 ID:d12db9cc
Date: 2013/07/29 00:51
 シャルロの行きつけである青空市場は、東街区の一画にある。
 大通りから一本奥に入った裏通り。
 公共スペースであるはずの路上には、無認可の不法屋台が所狭しと建ち並んでいた。
 悪名高い東街区であっても、市場の全てがブラックマーケットだというのは偏見だ。
 大半の露店で扱っているのは、ごく普通の日用品や食料品の類だった。

『オレンジ一つで銅価一枚ですか。店主、それは適正価格と言えるのですか? ぶち殺しますよ?』

『勘弁してくださいよ、旦那。うちは産地直送の高品質が売りでして。ほら、香りからして違うでしょ? 一つ差し上げますから、試食どうです?』

『おや、催促したつもりはなかったのですが。ありがたくいただきます』

 果実店の軒先で店主とやりあっているのは、鎖帷子の上から濃緑の制服を着込んだ短髪の女性だった。
 生真面目そうな女性で、鋭い目付きに油断ならない光を宿す。
 この辺りは東街区でも特に、王国系の移民が多い区画。
 交わされる言語も王国語だ。
 オレンジを受け取った女性は、自分の服でごしごしと擦ると皮のまま齧り付いた。

『ん、確かに美味です。まあ、いいでしょう。今日は取り締まりに来た訳でもありませんし』

 女性が僅かに口元を緩める。
 店主も愛想笑いを返そうとして、顔が引きつってしまった。
 フローマス騎士団。
 それも正騎士が訪れるなど非常事態すぎる。

 騎士団は東街区にうるさく口出しをしない。
 代わりにその住民を保護もしない。
 それが不文律だったはずだ。
 慣習を破って土足で踏み込んでくるということは、それだけ今回の事件に力を入れていることの証。
 どんな理由にしても、店主にとっては迷惑な話だった。
 正騎士ともなれば、普段この辺りで見掛ける平民出身の徴集兵とは持っている権限が違う。
 うっかり対応を誤れば、店主の不法屋台など簡単に取り潰されてしまうだろう。

『本題に戻りましょう。良く見て下さい。その顔、本当に最近は見掛けていませんか?』

 オレンジの汁がついた指先を舐めながら、女騎士がチラシを指差しつつ回答を促す。
 騎士と言っても、所詮は地方領主に仕える下級貴族。
 宮廷で社交ダンスを踊るような優雅さとは無縁だ。
 どちらかと言えば、戦場で剣を振るっている方が似合っている。

 表情の下からチラリと覗く容赦のなさは、その辺のマフィア顔負けだった。
 いや、融通が利く分だけマフィアの方が百倍はマシだろう。
 国家権力とは、最強の暴力機関でもある。

 店主の手に握られているのは、重要参考人の手配書だ。
 そこには若い男の顔が、報奨金の金額と共に描かれている。
 見覚えはあった。
 以前このストリートに居着いて、似顔絵描きを生業としていた若者だ。
 絵描きは移民街でも天涯孤独な身で、店主も特に親しくはなかった。
 恨みもないが、助けてやる義理もない。
 その所在を知っていれば、店主は尻尾を振って情報提供しただろう。

 しかし、本当に知らないのだから提供出来る情報もない。
 緊張する店主の表情を、ねっとりと睨み付けるように観察する女騎士。
 やがてシロだと判断したのだろう。
 すっと身を引くと、嘆息混じりに肩をすくめてみせた。

『知らないのならそれで構いません。ただ、もし見掛けたらすぐに連絡を下さい。隠し立てなんてしたら、ぶち殺しますからね?』

 女騎士が銅貨を一枚放り投げた。
 そのまま果実店に背を見せると、隣りの露店へと足先を向けてくれる。
 はーーっと店主は安堵の息を吐いた。
 見渡すとストリートには、彼女の部下と思われる傭兵達の姿がちらほらと見える。
 かなり本腰を入れた捜査体制を敷いている様子だった。

『あは、店主さん災難だったですね』

 騎士達が居なくなった頃合いを見計らうようにして、果実店の軒先にひょっこりと可愛らしい顔が覗いた。
 東街区には珍しい、綺麗な身なりをした子供のメイドだ。
 まず目に付くのが、蒼い光を湛えた瞳。
 透けるような白い肌は、桃色にうっすらと色付いていた。
 日の光にきらきら輝く銀髪を三つ編みにまとめて、ちょこんとカチューシャを乗せている。

『おう、シャルロちゃんじゃねぇか!』

 先程までの緊張ぶりが嘘のように、果実店の店主が明るさを取り戻した。
 豪快に笑いながら小さな頭を乱暴に撫でつける。
 シャルロと呼ばれたメイドが、くすぐったそうに首を竦めた。
 シャルロの身につけたメイド服は見るからに高級品で、ボロ布を纏ったガキ共が多い東街区ではかなり浮いている。
 それもそのはず。
 シャルロはこれでも、領主の屋敷であるヘイウッド邸の正式な使用人だった。

『あの、それでですね、今日はオレンジを四つほしいのですよ』

『はっはっはっ! 四つなんてケチなこと言わねぇで、好きなだけ持っていきな!』

 あわわと瞳を白黒させるシャルロから手提げ袋を奪い取ると、店主がはち切れんばかりにオレンジを詰め込んでいく。
 そしてシャルロの薄い胸元へ、押しつけるように手渡した。

『おじちゃんの気持ちだからよ! 遠慮しないで受け取ってくれや!』

『こんなに持てないですよっ』

 シャルロが溢れそうなオレンジの山を抱え込み、落とさないよう必死にバランスを取る。
 あたふたする小さなメイドを温かな目で見守りながら、店主は満足そうに頷いた。
 そんな店主の耳を、ぬっと伸びてきた手が捻り上げる。

『痛ててててててて! 千切れる! 千切れるってば、おい!』

『あんた、また鼻の下伸ばして! なに店の商品、勝手にサービスしちまってるのさ!』

 店番を交代しに来た女将だった。
 尻に敷かれっぱなしの店主と比べて、どっちが店の主なのか分からないぐらいの貫禄っぷりだ。

『女将さん、こんにちはです。あの、これやっぱりお返しした方が良いですよね?』

『いいって、いいって。どうせこのバカが仕入れすぎたせいで、余るんだからさ。屋敷のみんなで食べてもらってよ』

 店主には厳しくても、シャルロには優しい女将だった。
 不公平すぎる。
 この露店市通りにおいて、シャルロは客でありながら看板娘的な扱いだった。
 店主連中からだけではなく、女将達からも好かれている。
 扱いの温度差に、店主は恨めしげな目を女将に向けた。

『そういえばあんた、さっきあの騎士様から何のチラシ受け取ってたんだい?』

『おう、これか』

 店主が懐からぐしゃぐしゃになった手配書を取り出した。
 シャルロと女将がその紙面を覗き込む。
 そこには印象の薄い顔をした、若い絵描きの姿が描かれていた。

『ふーん、確かにこの子、近頃は見掛けないね。一体、何をやらかしたのやら』

『目撃情報だけで金貨五枚ですか! すごいのですよ!』

 似顔絵の下に記載された金額に、シャルロの目が釘付けになる。
 ちなみに生け捕りなら金貨二十枚。
 貧民街の住人なら一年は軽く遊んで暮らせる金額だ。
 殺人事件の容疑者にだって、これだけの懸賞金は付かない。

『ほら、例の噂になってる騎士狩り事件の関連だよ。騎士団の面子が掛かっているからな。そりゃ連中も必死になる訳さ』

 声を潜めて店主が囁いた。
 フローマス騎士団の関係者ばかりを狙った襲撃事件。
 新聞を読めない店主のような下層階級でも、大まかな概要ぐらいは口伝えで耳にしていた。

『やだやだ、物騒なことで。あの絵描き、そんな大層なことするタイプには見えなかったけど。魔薬でもキメてたのかねえ』

『はー、それは恐ろしいお話なのですねー』

『シャルロちゃんも人ごとじゃないよ。あんた身なりもいいし、可愛い顔してるからさ。襲われないように気を付けな。この移民街でシャルロちゃんに手を出す輩は居ないけど、最近は余所者だって増えてるからね』

『おう、仮に襲われそうになったら、おじちゃん達を頼ってくれよ。ストリートの店主連合で、直ぐに駆け付けるからな』

『バカかい、あんた。襲われてからじゃ遅いよ』

『あは、お二人ともありがとなのですよ』

 本気で心配をする店主夫婦のやり取りを見て、シャルロがにっこりと微笑む。
 天使の笑みだ。
 思わず店主の頬もだらしなく緩む。
 そんな店主の足下を軽く蹴り上げながら、女将がシャルロを午後のお茶に誘った。
 しかし今日は屋敷に新しい客が来るということで、シャルロは早めに帰って準備に掛からないといけないらしい。
 女将は残念そうな顔をしたが、仕事は大切だ。
 無理に引き留めるようなこともしない。

『じゃあさ、今度来る時はゆっくりしていっておくれよ』

『はい! 必ずなのですよ!』

 ぺこりと頭を下げて、シャルロが果実店を後にする。
 オレンジを落とさないように、頼りない足取りでバランスを取る後ろ姿がまた愛らしい。
 そんな様子を見送りながら、女将がしみじみと呟いた。

『いやあ、それにしてもいい子だねえ』

『だろ? まじでシャルロちゃんは俺らのアイドルだぜ』

『だとしても、そのにやけた顔は気持ち悪いから止めな! このロリコン親父が!』

『痛ててててて! だから何度も耳を引っ張るなって! もげる! もげるぅうう!』

 シャルロの目がなくなった途端に、容赦のなくなる女将だった。
 その手が止まったのは、露店市通りの奥の方から悲鳴と罵声が聞こえてきたからだ。
 何事かと顔を見合わせる店主と女将。
 騎士団が揉め事を起こしたのかと思ったが、どうやら違うようだ。
 徐々に騒ぎが近づいてくる。

 それほど大きな市場でもない。
 騒ぎの元が果実店の前を通り過ぎたのは直後のことだった。
 通行人を次々と突き飛ばしながら、一人の若者が果実店の前を走り抜ける。
 通行人の一人が屋台へ倒れ込んできて、売りもののオレンジがばらばらと路上に転がった。

『馬鹿野郎! どこ見て走ってやがる!』

 倒れたままの通行人が、相手に怒声を投げつける。
 しかし若者の背中姿は、ストリートを端まで抜けて何処かの路地へと消えた後だった。

『速えー。なんつー脚力だ』

 店主が呆然と呟く。
 怒る気力が失せるほどの、見事な俊足だった。

『ねえ、あんた。今の走ってた子、もしかして……』

『ああ。目撃情報だけでも金貨五枚だっけか?』

 女将の声に、店主が頷く。
 若者が走り去った後を眺めながら、店主は手配書を握りしめた。
 騎士達はつい先程、露店市での聞き込みを終えて撤収したばかりだ。
 それほど遠くには行っていないはず。
 近くの大通りに馬を用意していないなら、走れば直ぐ追いつく距離に居るだろう。

『あんた! 早く騎士様を呼んできて! 金貨五枚だよ!』

『おう!』

 露店市に居る誰もが同じ事を考えたはずだ。
 皆が一斉に四方八方へと走り出す。
 移民街の露店市通りは一瞬で、蜂の巣を突いた様な騒ぎに巻き込まれた。



[22783] 2-5. 魔女狩り2
Name: arty◆ecc17069 ID:18fc72b2
Date: 2013/07/29 00:51
 港湾都市フローマスの東街区を上空から見下ろすと、無秩序に増殖してきた街並みが広がる。
 都市計画に沿って開発された北街区の整然とした景観とは対照的だ。
 火事の延焼を防ぐために大通りの幅だけは厳しく規制されているが、それ以外のブロックは小汚い家屋が密集するように犇めき合っていた。

 そんな今にも崩れそうなボロ屋の屋根上を、コリンはかなりの速度で駆け抜けていた。
 すぐに足場が途切れ、薄汚い通りが眼下に広がる。
 しかしコリンに躊躇はない。
 通りの幅は数メートル。
 屋根から屋根へと、一気に跳躍する。
 作戦局の制服である青いコートが大きく翻った。

<いいぞ! 距離およそ四百メートル! 目標はすぐそこだよ!>

「了解です!」

 脳裏に直接響くのは、後方からコリンを追い掛けているはずのフレデリカ先輩の声だ。
 聞こえるのは声だけで、姿は見えない。
 返事をしたコリンが、たんっと次の屋根に着地。
 勢いを活かしたまま、さらに前方へ跳ぶ。
 身体が軽い。
 周りの景色が、すっ飛ぶように後ろへ流れていく。
 この空を駆けるような爽快感は、コリンが竜騎士になって良かったと思うことの一つだ。

 法術。

 神が定めた自然法則に干渉する術の総称。
 かつて奇跡や魔法と呼ばれていた事象を、ヒトは体系化することに成功した。
 記録に残る最初期の研究は、二百年年前に著された一冊の禁書だ。
 教会が公に認めて実用化されたのは、さらに時代が下っておよそ百年前。
 急速に開発は進み、三十年前には法術という名の技術革命が、戦場の様相を一変させていた。

 各国で繰り広げられる、法術の開発競争。
 近年の流行は、竜騎兵と呼ばれる兵科での応用研究だ。
 コンセプトは騎兵の突破力強化。
 長槍の方陣に対して時代遅れとなりつつあった騎兵は、火器と法術の登場で、再び戦場の主役となった。

<法術の稼働状況、全て異常なし。もう少しだけ出力を上げてみようか?>

「はいっ、お願いします!」

 ぐんっと加速度がさらに増す。

 竜騎士法術には身体能力の強化法術を中心に、防壁法術、攻性法術、通信法術などがパッケージングされている。
 コリンの身体中にも、血管のような緻密さで法術回路が焼き込まれていた。
 士官学校の在学中に、法術職人でもあるフレデリカ先輩によって設計されたものだ。

 会戦での竜騎士法術は、特殊な軍馬や馬上槍とセットで運用される。
 しかし、コリン達の任務は帝国領内に限られており、前戦での正規戦も想定されていない。
 そのため過度な重武装は持ち合わせていなかった。
 それでもなお、コリンの単体戦力は常人のそれを大きく凌駕している。

<油断するんじゃないぞ。思わぬところで足下を掬われないように気を付けるんだ>

「もう学生じゃないんですから、分かってますよ!」

 開発国によって、同じ竜騎士法術でもそれぞれ癖がある。
 帝国式における最大の特徴は、騎士と術士とのツーマンセル運用だろう。
 二倍の人員が必要という欠点はある。
 しかし、それを補って余りある利点があった。

 他国の竜騎士法術では、騎士が戦いながら同時に法術制御を行うことが一般的だ。
 そのため目の前の戦闘に集中出来ず、仕様通りの性能を発揮出来ない。
 もちろん天才と呼ばれるエースは存在した。
 しかし、戦争は数の限られる天才だけに依存して行うものではない。

 帝国式であれば、騎士は目前の戦闘だけに専念すれば良かった。
 法術制御は、専属でサポートに当たる術士の仕事だ。
 だからコリン自身が、複雑な法術を操る必要はない。
 それらは全て、フレデリカ先輩がリモートで行っていた。

 コリンの視覚及び聴覚情報は、リアルタイムで先輩にも共有されている。
 個人のプライバシーなんてものは、一切考慮されていなかった。
 逆に先輩からコリンへの指示は、音声イメージ化された思念伝達のみとなる。
 本来ならコリンも、先輩の視覚情報を共有したいところだ。
 しかし残念ながら、二人分の入力情報を処理するには、コリンの技能は不足していた。

<どうだい、コリン。初日から手掛かりに接触できるなんて、東街区に寄って正解だっただろう? まさにボクの計画通りだよ!>

 声だけしか聞こえないのに、先輩の得意気な顔が目に浮かぶ。

「計画というか、どう見ても悪運が強かっただけでしたよ? 明らかに先輩、相手が手配書の人物だって分からないで声掛けてましたよね?」

<いきなりの攻撃には、さすがに驚いたけどね。ま、何れにしても逃がしはしないよ>

 コーン、コーンと響くように感知出来るのは、フレデリカ先輩が並列起動している測距法術の探査波だ。

 コリン達が追跡しているのは、かつて絵描きだった若者。
 騎士狩り事件の重要参考人として指名手配されている。
 フローマスに到着して早々に、絵描きと遭遇出来たのは幸運以外の何ものでもなかった。
 突然の不意討ちぐらいはご愛敬。
 あの状況から咄嗟に標識術式を打ち込めただけでも上出来だろう。

<しかし、生かしたまま捕縛とは面倒だね。標識術式の代わりに攻性法術でも撃ち込んでいれば、こんな手間は掛からなかったのに>

「それ大惨事ですから! 帝国領内の市街地で無茶しないで下さい! おまけに重要参考人を殺しちゃったら、本末転倒もいいところですよ」

<攻性法術にするべきかどうかは、本当に少し迷ったんだよ? ボクの見込みではあの絵描き、その程度で死ぬようなタマじゃないからね。あ、目標の進路が曲がった。三時の方向に調整したまえ>

「それにしてもこの法術、すごい便利ですね。俺も初めて見ましたけど、どうして今まで使わなかったんですか?」

<うーん、正直なところ使い勝手がいまいちだからね>

 先輩の説明によると、測距法術も万能ではないらしい。
 把握できるのは、標識術式を撃ち込んだ相手までの方角と距離だけ。
 そこに辿り着くための道順は、自分で選択する必要がある。
 道に迷うほど土地勘のないコリンとフレデリカ先輩にとって、それは致命的な問題だった。

 そこで先輩は、機動力に優るコリンを先行させた。
 竜騎士法術で建物や遮蔽物を跳び越えられるコリンなら、目標までの最短距離をショートカット出来る。

「ひとつ気になるのは相手の絵描き、相当に人間離れしていますね。走行速度が異常ですよ。単騎のようですし、どの国の竜騎士法術でしょうか?」

<いや、ボクの予測通りなら、どこの法術にも当てはまらないね。人為的に制御されている癖が見当たらない。会敵する時には十分に注意したまえ>

 いくら絵描きの足が速いと言っても、障害物の多い地上を走るのでは限界がある。
 中空を跳ぶコリンは、じりじりと絵描きまでの距離を縮めつつあった。

<距離およそ二百メートル! 方角、十時に調整!>

「こちらでも目標を捕捉しました!」

 コリンの研ぎ澄まされた聴覚が、市場から聞こえる騒ぎを捕らえた。
 目標は近い。
 懐から単発式の法札を取り出すと、法力をチャージする。

 ちなみに貧民街の建物には、木板を貼り合わせただけの粗末な造りが少なくない。
 それも新築から築数十年の腐りかけ物件まで、無秩序に混在している有様だ。
 中には当然、数メートルも跳躍してきた人体の衝撃に、耐えられない建物だって少なからず存在していた。
 むしろ、ここまでそうしたボロい構造物に当たらなかった事が、かなりの幸運だったと言えるだろう。

「は?」

 だからコリンの足下の屋根が、何の手応えもなく破壊されたのはむしろ必然だった。
 バキャッと木片が砕け散り、足場を失ったコリンがバランスを崩して宙へ放り出される。
 土地勘のある絵描きが、何故わざわざ地上を走って逃げていたのか。
 その理由にようやくコリンは思い至った。



[22783] 2-6. フローマス騎士団2
Name: arty◆ecc17069 ID:f7f93e55
Date: 2013/07/29 00:52
 屋根上を軽快に跳んでいたコリンの足下では、フローマス騎士団の兵士達が、錯綜する情報に翻弄されていた。
 懸賞金付き公開捜査に切り替えた弊害だろう。
 移民街の青空市場に駆け戻った女騎士の周りには、絵描きを目撃した住民達で人垣が出来ていた。

『間違いないのですね?』

『へへ、もちろんです。それで旦那、チラシの懸賞金はいただけるんですよね?』

 果物屋の店主が、代表して尋ねる。
 目撃情報だけで金貨五枚。
 臨時収入にしては美味しい額だ。
 自然と表情も緩んでしまう。
 女騎士は確かに頷いた。

『当然、支払います。これだけ証人が居れば、情報の確度も高いでしょう』

 そこで言葉を切ると、女騎士は周りの群衆を見渡す。
 絵描きは青空市場のストリートを、端から端まで駆け抜けていった。
 つまりはこの市場に居た全員が、目撃者だと言っても過言ではない。
 期待に表情を輝かす彼らに、女騎士は冷たく告げる。

『さて、これだけの人数で頭割りすると、一人当たり幾らでしょうね?』

『は?』

『代表者を決めて、北街区の騎士団本部まで取りに来るように。分配は皆さんに任せますよ』

 がっくりと店主が肩を落とす。
 そんな風に支払われても、地元の顔役であるマフィアに総取りされてお終いだろう。
 店主の懐には銅貨一枚だって入らない。
 すっかり気勢を削がれた住民達が、ぱらぱらと解散する。

 ようやく群衆から解放された女騎士は、法札を路面に放り捨てた。
 たちまち紫色の煙が噴き上がる。
 信号煙だ。
 街中に分散している指揮下の小隊を招集するのだろう。

 店主が浮かない顔をして屋台に戻ると、店番をしていた女将が迎えてくれた。

『あんた、おかえり。賞金はどうしたんだい?』

『貰えたように見えるか?』

『まあ、世の中そんな上手い話はないさ。気にするんじゃないよ』

『お前が騎士を呼んでこいって言ったんだろうが!』

 その時だ。
 何かが空から、もの凄い勢いで青空市場に突っ込んできた。
 正確には向かいの家屋の屋根を踏み抜いた何者かが、投石機から放たれた弾丸みたいな勢いで路上に激突した。
 土煙を巻き上げながら、その身体がバウンドする。

『何だあッ?』

 逃げる間もない。
 驚きのあまり身体を硬直させてしまった店主と女将の目前で、地面を跳ねた落下者が果物屋の屋台に突っ込んでくる。
 砕けた木片が盛大に飛び散り、落下した商品の果物が路上に転がった。
 幸い店主夫妻に怪我はなかったが、被害は甚大だ。

 何事かと騎士団も駆け寄ってくる。
 たちまち店主の屋台は、野次馬達で囲まれた。
 一部の糞ガキ共がこれ幸いとばかりに、転がる果物を拾い集めていく。

 こりゃ死んだな。

 誰もがそう思った。

『おい、どーすんだよこりゃ! 俺達の商売、もうおしまいじゃねえか!』

『慌てるんじゃないよ、あんた! 見ればこの人、随分と豪華な身なりをしてるじゃないか。売れば屋台を建て直してもお釣りが出るよ!』

『それはそうだけどよ。どう見たってこいつは貴族様だぜ? 俺らで身ぐるみ剥いじまって、後で縛り首はごめんだぜ?』

『屋台を潰されちまったんだ! 修理代の代わりだよ!』

 揉める店主夫妻の前で、ガラリと木材が動いた。
 立ち上がったのは、落下してきた貴族の青年だ。
 金の縁取りがされた青いコートに、腰から下げた長剣。
 あれだけの衝撃を身に受けたはずなのに、何事もなかったかのように服に付いた汚れを払っている。

『ひぃいいいいいいいッ、蘇ったッッ!』

『あんたが服を奪えなんて罰当たりなことを言うからだよ!』

『それはお前だ!』

 腰を抜かす店主と野次馬達。
 一方、女騎士は驚きつつも冷静さを保っていた。
 青年の制服を見て、眉をひそめる。

「軍務省作戦局の竜騎士か? どうしてこんな所に?」

 立ち上がった竜騎士の青年は、顔をしかめながら何事か独り言を呟いている。
 見えない相手と話しているみたいで気味が悪い。
 やがて周りの状況に気付いたのだろう。
 気まずそうな表情を見せると、頭を掻いた。

「や、どーも、お騒がせしてすいません」

 どうやら身分的には、フローマス騎士団より上位にあるようだ。
 女騎士が冴えない青年を相手に敬礼をする。

「私はフローマス騎士団所属のメイヴィス少尉です。貴官は中央作戦局の所属で間違いありませんね? 状況の共有を求めます」

「あ、急いでいるんで、ご挨拶はまた後ほど。踏み抜いちゃった屋根と屋台については、ヘイウッド邸のコリン・イングラム宛てに修理費を請求して下さい。しばらくそちらに滞在しますから」

 上級貴族にしては、やたらと腰の低い青年だった。
 言いたいことだけを一方的に伝えると、青年は身体の調子を確かめるようにその場で軽く跳ぶ。
 信じられないことに、完全に無傷のようだった。

「ちょっと道を空けて下さい」

 青年が手振りで野次馬達に退くように示す。
 得体の知れない青年の指示に、野次馬達が大人しく従った。
 青年は女騎士に軽く敬礼を返すと、どんっと地面を凄まじい勢いで蹴った。

『うおあッ』

 飛ぶような速さで、青年の姿がストリートの彼方に遠ざかってしまう。
 さっきの絵描きに匹敵する脚力だ。
 取り残された形の女騎士に、部下の兵士が指示を仰ぐ。

「少尉、どうします?」

「どうもしません。我々は我々の任務を続行するまでです。人員が揃い次第、次作戦を展開します」

「味方なんですか、あれ?」

「中央から派遣されてきた、軍務省の連中ですよ。今回の件で介入してくるとは聞いていましたが、事前連絡もなしで首を突っ込んでくるとは、ある意味で彼ららしいですね」

 苦々しく吐き捨てる女騎士。
 同じ帝国軍に所属はしていても、コートの青年と女騎士達とは組織が違うらしい。
 軍事関連では素人の店主から見ても、仲が良さそうには見えなかった。

『あの~、屋台の修理代はどうすれば?』

 緊迫した雰囲気の女騎士に、店主がおずおずと尋ねる。
 あの青年が何か言っていたことには気付いていたが、帝国語だったおかげで内容までは理解出来なかった。
 ぎろりと女騎士に睨まれて、店主が後退る。
 その背中を女将が後ろからぐいぐい押してきた。

『仕方ありません。騎士団で立て替えましょう。金貨六枚といったところですか?』

『それだと遺失利益が……』

『面倒ですね。それでは金貨八枚で。これ以上ゴネると、ぶち殺しますよ?』

『ひいッ、充分です!』

 懸賞金で金貨五枚もらえるはずが、屋台を潰されるとは思わなかった。
 金貨八枚はボロ屋台の補償としては妥当なところだが、儲け損なった感は拭えない。
 気落ちした店主に、女将が慰めの声を掛けた。

『まあ、良かったじゃないか。無料で屋台を新調出来ると思えばさ』

『そうだな。商品もあらかた盗まれちまったし、今日は店終いしかねえな。こんな日ぐらい、たまには夫婦一緒に飲みにでも行くか』

『その調子だよ。頑張るのは明日からでいいさ』

 カラカラと笑う女将に、店主は少し救われる。
 店主夫妻からすると、今回の事件はこうして幕を閉じた。
 しかし、竜騎士の青年や女騎士にとっては、まだ本編すら始まっていなかった。



[22783] 2-7. 魔女狩り3
Name: arty◆ecc17069 ID:0a3c5f25
Date: 2013/07/29 00:52
 絵描きを追ってきたコリンは、東街区の西の端、倉庫の並ぶ河岸区画に足を踏み入れていた。
 潮の香りが近い。
 南街区との境目となるレスフォード川は、内陸部とフローマス湾を結ぶ重要な水運経路だ。
 コリンが索敵しているのは、東側の荷揚げ区画。
 対岸に比べると、見るからにボロい倉庫が多い。
 人ひとりが隠れるにはぴったりの場所だった。

<驚いた! 本当に驚いたよボクは! 屋根から落ちる竜騎士なんて前代未聞だね! 君はコメディ俳優でも目指してるのかいっ? だとしたら自信を持っていい。何なら推薦状を書いてあげようか? 君はそっち方面の才能だけはありそうだからね!>

 さっきから脳裏には、フレデリカ先輩の罵声が響き続いていた。
 思わず顔をしかめるコリンだったが、通信法術をこちらから止める術はない。
 何という嫌がらせだ。

「いじめないで! 俺だってあれは格好悪かったと思ってますよ! 穴があったら入りたい!」

<そのまま埋まってしまえばいいよ!>

「ひどいっ?」

 思わず涙目になるコリン。
 しかしミスをしたという引け目があるので、あまり強くも言い返せない。
 目標である絵描きを見失ったのは、完全にコリンの責任だった。

 フレデリカ先輩からの探査波が空しく響くが、標識術式からの反応はない。
 コリンがこの場に到着する数十秒前に、絵描きは先輩の感知エリアから消えてしまっていた。

 測距法術の探査波から逃れる方法は二つ。
 一つは術士から遠く離れて、法術のカバーエリアから外れること。
 もう一つは探査波の届かない遮蔽物に身を隠して息を潜めること。
 どちらのパターンでも、一定時間が経過すると標識術式は効力を失う。
 そうなれば測距法術は意味を成さなくなる。

 エリア外に逃げられたとは考えられない。
 見失ったこの地点の近くにいるはずだ。
 コリンとしては時間切れ前に、絵描きを潜伏場所から引きずり出してやる必要があった。

「そういえばさっき、地元騎士団がいましたね。連携しなくて良かったんですか?」

<彼女達が絡むと、指揮権の問題が面倒だからね。後でボクが調整するから心配いらないよ。ふむ、やはりそこの倉庫が一番怪しそうだ>

 南街区へ渡る橋や東の街道は、既にフローマス騎士団が封鎖している。
 そうなると絵描きに残された選択肢は、レスフォード川から水上を逃走するか、ほとぼりが冷めるまで東街区内に隠れるかだ。
 何れにしても先方は、標識術式が無力化されるまでは身動きが取れない。

 測距法術に追跡されたままでは、運良く水上に脱出しても船ごと沈められてお終いだろ。
 実際、先輩ならそれぐらいはやりかねないから恐ろしい。

<コリン、ボクがそこに到着するより、標識術式の切れる方が早い。何としても遮蔽物から、感知エリアにあぶり出してくれ>

「了解しました」

 答えながらコリンは倉庫の分厚い木製扉に手を掛けるが、びくりともしない。
 ぐるりと倉庫を一周して確認したところ、出入り口は三つあった。
 川側と道路側に搬入出用の大きな開き戸が二つ。
 さらに人が出入りするための小さな扉が一つ。
 スタッフ用の扉は錠前が壊されていたが、裏側から何かで抑えられていた。

 コリンはハンカチのような四角い布を取り出すと、搬入口へと貼り付ける。
 緻密な法術回路の描かれた、指向性爆破法布だ。
 川側から追い込み、道路側に絵描きが逃げ出してくれると標識術式は再セットされる。
 それでとりあえず任務は終了、またしばらく時間を稼げるはずだった。
 後はフレデリカ先輩達の到着を待ってから、次の手を打てば良い。

「コリン・イングラム、突入します!」

 法布に法力を流し込んで起爆させると、ゴバァッと盛大な爆音を響かせて砕けた木片が飛び散った。

「抵抗するな! 帝国軍作戦局だ!」

 法札を構えて身を乗り出したコリンが、素早く倉庫の中に目を走らせる。
 いた。
 物棚に半身を隠れさせるようにしながら、絵描きがこちらを見ている。
 手にしているのは、携帯式の連発法棒。

「ッ?」

 パララララララララッと、秒間八発の法弾がコリンに襲いかかった。
 慌てて飛び退き、地面に転がるコリン。
 倉庫の外壁にへばり付くように背を預けると、左胸の辺りを鷲づかみにして必死に動機を抑えようとする。

<君の存在に気付かれていたか!>

「死ぬかと思った、死ぬかと思った、死ぬかと思ったーーーーッ」

<撃ち返せ! プレッシャーを与えて目標を倉庫から外に追い出すんだ! 標識術式の時間切れが近い!>

「ちくしょう!」

 突入口に顔だけを覗かせると、構えた法札を弾く。
 パパンッと軽い音がして方弾が放たれたが、ろくに狙いも付けられない状況では当たる訳もない。
 直ぐに倍以上の方弾で撃ち返され、慌てて首を引っ込めた。

「駄目です! 火力が違いすぎる! 押し切れません!」

 単発式法札に法力を込めながら、コリンが叫んだ。
 コリン達が普段携帯している兵装は、必要最低限のレベルに抑えられている。
 重武装の持ち出しは事前許可を要するが、今回は計画的な作戦行動ではないため申請を出していない。
 それが仇になった。

 手持ちの飛び道具は、使い捨ての単発式法札が二箱だけだ。
 法術回路の焼き切れた法札が足下に散らばり、たちまち一箱が空になる。
 残り枚数が心許ない。

 せめてもの救いは、相手の武装も携帯式だということ。
 弾数や連射速度はともかく、射程と威力は単発式法札と大差ない。
 軍用の制式法傘でも持ち出されていたら、シャレにならないところだった。
 相手に向けて何発か撃ち、すぐに次の手札に法力を注入するため身を引っ込める。

<コリン! 投擲法札だ!>

「え?」

 シャッと投げ込まれた法札が、起爆する。
 竜騎士法術によって強化された瞬発力を最大限まで引き出し、全力でコリンは跳躍した。
 その背中を爆風が叩き、コリンの身体が吹き飛ばされる。

<……リン! ……コリン、大丈夫か! 返事をしたまえよ!>

「え? ああ、はい。生きてます」

 頭を振ってコリンが起き上がる。
 自動起動した防壁法術のおかげで、制服はボロボロになったが身体的ダメージはそれほど深くない。
 軽傷ならそれほど時間を掛けずに自然治癒する。
 これも竜騎士を構成する法術パッケージの一機能だった。

<うん。君の身体をスキャンしたが、致命的な問題はなさそうだね。良かった。君に何かあれば、ボクは君のお父上に顔向け出来なくなるからね。だがしかし、悪いニュースもある>

「何です? 想像は付いてますけど、一応教えて下さい」

<ボクの標識術式が効力を失った。方針変更だよ。ボクらがその場に到着するまで、何としても絵描きをそこに足止めするんだ>

「あと何分ぐらい保たせれば良いですか? 正直、もう単発式法札の残札がありません」

「五分。いや、三分でいい」

「了解です。それぐらいなら何とか」

 そっと突入口から覗くと、まさに絵描きが道路側の扉から逃げるところだった。
 標識術式を無効化した以上、この倉庫に留まっている理由は何もない。
 コリンからの反撃がなくなった隙に、再び逃走を図るつもりだろう。
 そうはさせない。

 すらりと長剣を抜いたコリンは、絵描きの注意がこちらに向いていないことを確認して、お返しとばかりに投擲法札を投げつけた。

 爆音。

 物棚が崩れ、土煙が倉庫内を覆う。
 既にコリンのことは排除できたと思い込んでいたのだろうか。
 不意を突かれた絵描きが、連発法棒を見当違いの方向へ乱射する。
 巻き上がった粉塵にまぎれて一気に距離を詰めたコリンが、倉庫の壁を蹴って跳躍した。
 絵描きが驚愕した顔でコリンを見上げるが、遅すぎる。

 コリンは確信した。
 この絵描き、兵装はともかく戦闘経験は素人だ。
 殺してしまわないように気を付けながらも、腕の一本ぐらいはもらうつもりだった。
 コリンが一気に長剣を振り下ろす。

「なあッ?」

 竜騎士法術の斬撃は、板金鎧すら易々と切り裂く。
 その一撃を、絵描きは素手で受け止めていた。
 剣先を掴まれたコリンの身体が、一瞬だけ宙に止まる。
 時まで止まったように感じたのは、コリンの錯覚。
 絵描きが乱暴に腕を振り、凄まじい速度でコリンの身体が素っ飛んだ。
 倉庫の壁に叩き付けられたコリンが、がはっと血を吐いた。

 視界に亀裂が走り、赤く滲む。
 有り得なかった。
 理解が追い付かない。
 コリンの戦闘力は竜騎士法術で強化されているというのに、この差は一体何だ。
 防壁法術でダメージの大半を相殺したはずにも関わらず、コリンは身動き一つ取れなかった。
 竜騎士法術が自動的に生命維持モードへ移行。
 法力リソースの大半が、傷の修復に回される。
 状況は深刻だ。
 この様子では起き上がれるまで数十秒を要する。

 もちろん相手は、悠長に待ってはくれない。
 止めを刺すつもりだろう。
 絵描きが注意深くこちらの様子を伺った。
 やばい。
 死ぬ。
 コリンは直感でそう悟った。
 さっきまでとは、絵描きの雰囲気が全く違う。
 人間を超越した存在が、そこには居た。

<その通り。そいつこそが法術のコピー元にしてオリジナル。異端と呼ばれる存在だよ。コリン、よく耐えた。危ないから頭を下げているといい>

 フレデリカ先輩の声はそれだけを伝えると、それっきりぷつりと通信法術ごと切れた。
 ぞくぞくと悪寒が背中を駆け上がる。
 これは絵描きの威圧感ではない。
 もっと身近で慣れ親しんできた恐怖だ。

「うわぁああああああーーーーッ」

 ほとんど崩れるようにして、コリンは頭を抱えて床に這い蹲った。
 その直後。
 コリンの頭のすぐ上。
 倉庫の壁が豪快に吹き飛んだ。

 圧倒的な破壊力が、壁や物棚ごと何もかもを押し流す。
 熱量がコリンの髪の毛をチリチリと灼いた。
 本来は城門を破壊する用途で開発された、攻城級法術。
 こんなものを単身で扱える術士など、帝国広しと言っても数えるほどしか存在しない。
 全ての衝撃が去った後、倉庫の外壁は大きく崩れ、穴が二つ空いていた。
 中の様子は廃墟そのもの。
 倉庫主には気の毒なことだが、在庫の品は全滅だろう。

「殺す気ですかーーーーッ!」

 瓦礫に埋もれていたコリンが、起き上がりながら叫んだ。
 崩れた壁を挟んでコリンの真後ろ、倉庫の外に仁王立ちをしていたフレデリカが「ふむ」
 と頷いた。

「逃げられたか。この攻城級法術、起動時間に改善の余地があるな」

「本気で死ぬかと思いました! それも戦死じゃなくて、同士討ちで! 異端よりあんたの方がよっぽど危険だよ!」

「せっかく助けてあげたのに、失敬だね君は。そろそろ動けるだろ? さっさと立ちたまえ。やれやれ、また追跡劇の再開だよ」

「外傷は回復しましたが、法力の方が底尽きそうです」

「法力のスタミナだけが君の取り柄だろう? 並の人間ならとっくに枯れてる。何世代も計画的に濃縮されてきた、貴族の血ってやつだろうね。生まれながらの才能を、ご先祖様に感謝することだ」

 フレデリカが手を伸ばし、コリンの身体を瓦礫の中から引き摺り起こした。
 見渡すとフレデリカの周りには、フローマス騎士団の兵士達が慌ただしく動き回っている。

「目標の絵描きは、船の奪取は諦めてまた東街区に逃げ込んだようだね。ま、後は袋の鼠。掃討戦はボクらとフローマス騎士団の共同作戦と行こうか」

 苦々しい顔をしている地元騎士団の女騎士と目が合った。
 彼女が小隊指揮官だろう。
 休ませてくれる間は、まだ貰えそうになかった。



[22783] 2-8. 魔女狩り4
Name: arty◆ecc17069 ID:4a1f869f
Date: 2013/07/29 00:52
 絵描きが逃げ込んだのは、東街区でも建物が密集している区画だった。
 フローマス騎士団の二個分隊に、追跡の任務が与えられた。
 残りの分隊は、包囲網形成に回っている。
 コリンは追跡班への配置だ。
 異端相手に生身の兵士では犠牲が増えるばかり。
 竜騎士であるコリンと、術士のフレデリカはそれぞれ別分隊のサポートに付いた。
 つまりコリンの役目は、異端と会敵して第一撃を食らうための盾役ということになる。
 嫌すぎる。

 ちなみに測距法術はとっくに無効化していた。
 結局のところ人海戦術に頼るしかないという状況に逆戻りだった。

 裏路地は見通しが悪く、日が差し込まずに薄暗い。
 人間が二人擦れ違うぐらいがやっとという、細い道だ。
 隊列の先頭を行くコリンは、感覚を研ぎ澄ませながら慎重に足を進めた。
 角を曲がる度に、どっと緊張してしまう。
 正直なところ、もう二度とあの絵描きとは戦いたくなかった。
 あれに勝てる自分がイメージ出来ない。
 出来ることなら、自分以外の追跡班か、包囲班に当たってほしいところだった。

 幾つかの角を曲がったところで、ガタッと何かの倒れる音が路地に響いた。
 逃げる足音。
 地元の善良な住人か、野良犬辺りが立てた物音だと信じたい。
 信じたいが嫌な予感しかしなかった。
 分隊の兵士達と無言のまま頷き合う。
 バッと次の角へ身を乗り出すと、ちらりと絵描きの背中が見えた。

「ちくしょう! うちのチームが当たりかよ! そんな予感はしてたんだ!」

<どうやらボクらの方はハズレらしい。強運だね、コリン。こっちの隊もそちらに向かうよ。挟み撃ちにしよう>

 もはや脇道ごとに探索する必要もない。
 足音の方向へと、待ち伏せ攻撃に気を付けながら速度を上げた。
 こちらの物音に相手も気付いたらしい。
 絵描きの足音が急に駆け足になる。

「感づかれた!」

「目標に会敵! 友軍へ連絡しろ!」

 隣を走る兵士が笛を鳴らした。
 別の兵士が投げ捨てた法札からは、色付きの狼煙が勢いよく上空へ噴き上がる。
 この状況になった以上、遠慮はいらない。
 追うコリン達も全速力だ。

 そうは言っても道が狭い上に、ゴミなどが散らかっており足場は最悪。
 お互い大通りを全力疾走していた時みたいな速度は出ない。
 路地の真ん中に堂々と置かれた得体の知れない木箱を乗り越えた時、先の角からどちゃりと妙な音が響いた。
 ぴたりと足を止め、コリンが分隊の兵士達と目線を交わす。
 そして皆が何の音か判断つかないことを示すように、首を横に振った。

 迷っていても時間をロスするだけだ。
 罠だとしても飛び込むしかない。
 異端の攻撃を受けても、コリンなら一撃二撃は耐えられるだろう。

 コリンが長剣を構え直し、そのフォローをするように兵士達が軍用の連弾式法傘を構えた。
 分隊支援用に馬上法槍を持ち出している兵士もいる。
 絵描きの所有していた携帯式の連発法棒が、子供のおもちゃに思えるほどの重武装。
 さすが軍隊。
 心強い。
 前衛のコリンとしても安心してサポートを任せられる。

 完全な戦闘態勢で身構えたコリン達の目前に、先の角からオレンジが一つ、ころころと転がり込んできた。

「?」

 微かに漂う柑橘類と鉄の香り。
 角の向こうで何が起こっているのか想像が付かない。
 色めき立ったのは、コリンに同行する経験豊富な兵士達だった。

「事務官殿、こいつは血と臓物の匂いです」

「他班が先に会敵したか?」

「戦闘の気配はなかった。包囲班との合流ポイントもまだ先だ。民間人が巻き込まれたか?」

 コリンの視覚を共有しているフレデリカ先輩が、冷静な声を挟んでくる。

<もちろんボクらの班も会敵していない。そちらに到着するには、まだ少し時間が掛かりそうだ。慎重に行きたまえ>

 たまたま居合わせた地元住民が犠牲になったのだろうか。
 何れにしても、一刻の躊躇も許されない。
 フレデリカ先輩の到着を待つ余裕もなかった。
 意を決して角に飛び込む。

「動くな! こちらは帝国軍作戦局及び、フローマス騎士団だ!」

 むせ返るような死臭と、一面に広がる血の海の中。
 小柄なメイドがぽつりと立ち尽くしていた。

 歳は十歳前後だろうか。
 紅血に塗れた陶器のように白い肌。
 空虚に澄んだ蒼い瞳は、大きく見開かれたまま固まっている。
 メイドの立つ位置は路地裏でも開けた場所にあるらしく、演劇のスポットライトみたいに日の光が射し込んで、銀髪の三つ編みがきらきらと輝いていた。

「妖精……?」

 兵士の一人が、魂を抜かれたような表情で呟く。
 心奪われる光景に、コリンも思わず同意しかけてしまった。
 それほどメイドの美しさは圧倒的で、現実離れしていた。
 しかしそれは、触れれば消えてしまいそうに儚げな美しさでもあった。

 やがてこちらに気付いたのだろう。
 メイドが首を傾げ、小さな唇を僅かに開く。

「その制服はもしかして、コリン・イングラム様なのデスか? あは、わたしも歓迎の用意をしなくちゃなのデスよ」

 表情を失っていたメイドが、柔らかく微笑んだ。
 白い肌に生気が戻り、ほんのり桃色に色付く。
 はにかむような笑顔が、周りの光景とあまりにミスマッチだった。

 戦意が抜けて、コリンの剣先もゆっくりと下がる。

<コリン、ぼーっと突っ立てないで周囲を索敵! いや、今のは無しだ。撤回するよ。他所様の隊から、戦死者を出す訳にもいかないからね>

 フレデリカ先輩からの声が、すごく遠くに聞こえる。

 我に返った兵士の一人が、慌てて首元にぶら下げていた笛を吹いた。
 ピィ、ピィーーーーッという甲高い音が路地裏に響く。
 作戦終了の合図だ。
 同時に打ち上げられた照明方弾が、強烈な青白い光を放ちながら宙を漂った。
 止まっていた時が動き出したように、慌ただしく兵士達が各々の仕事に取り掛かる。

 飛び散る血とへしゃげた肉片。
 白く覗くのは砕けた骨。
 どれほどの力が作用したのか分からないが、壁にへばり付いていたのは、かつて絵描きだったモノの残骸。
 既に原型は留めていない。
 熟れた果実を思い切り壁に投げつければ、このような凄惨な姿にもなるのだろうか。

「君、気をしっかり持つんだ!」

 コリンは自分の派手なコートを外すと、棒立ちになったままのメイドの細い肩へ優しく掛けてやった。
 安心したように、ふっと力の抜けたメイドを慌てて抱きかかえる。

 こうしてコリンは、路地裏の戦場でシャルロと出会った。



[22783] 2-9. メイド長2
Name: arty◆ecc17069 ID:a52ffff6
Date: 2013/07/29 00:53
 東街区での騒動は、まだヘイウッド邸に伝わっていなかった。
 騎士団がコリン達の到着を伝えるべく早馬を走らせてはいたが、到着はもう少し先になる。

 だからメイド長のスージーは、コリン達が港湾都市フローマスに到着していることを現時点では知らない。
 コリンがシャルロに出会っていることなど、神ならざる身には想像すら出来なかった。

 当初の予定ではそろそろ、来賓が訪れてもおかしくない時間帯だ。
 男性使用人やパーラーメイドといった接客担当を例外として、他のメイド達は既に全員バックヤードへ引っ込ませている。

 メイドとは本来、裏方に徹するべきだ。
 華やかな上流階級の人々が行き交う表舞台には似つかわしくない。
 スージーは屋敷内をひと通り回って、抜かりはないか最終チェックをする。
 やがて満足そうに頷くと、シェリー嬢に声を掛けるため舞踏室へとやって来た。

「本当にこれで乗馬の練習になっているのか?」

「いーから、いーから。あたしに任せて」

 扉の隙間からそっと中の様子を伺うと、少女の背に跨ったシェリー嬢が上体をふらふらとさせていた。

「うう、何でわたしがこんな役なの~」

 シェリー嬢の下で泣きそうになっている大人しい雰囲気の少女は、スカラリーメイドのエリカだ。
 ジュニアスタッフの一人だが、どうやらリリ達に強制連行されて来たらしい。

 本来の仕事はキッチンの洗い場担当。
 しかし、ヘイウッド邸におけるジュニアスタッフは、シェリー嬢の遊び相手という役割も兼ねていた。
 当然のことながら、優先順位は後者が上だ。

「まあ、あれよ。練習になるのかどうかなんて、どうでもいいの。乗馬を教えてほしいっていうのは、シャルロちゃんに断られなくするための口実なんだから」

 どうやらまた、リリの奴が良からぬことを企んでいるらしい。
 仕事ではまるで役立たずのリリだが、遊びになると悪い意味で頭の回転が速くなる。
 あの妹は才能を活かす方向を、完全に間違えていた。

「それじゃ、エリカちゃん進んでみて」

「うう~、次のコイントスじゃ負けないんだから~」

「おおっと」

 四つん這いになったエリカが前進すると、その背に乗ったシェリー嬢がバランスを崩してよろめいた。
 危ない。
 あのバカ妹は何をしているんだと、スージーは飛び出しそうになった。
 シェリー嬢に怪我でもさせたら大事だ。

「エリカちゃんもっと早く!」

「これ結構、疲れるよ~」

 文句は言いつつも、一応はリリの指示に従うエリカ。
 たまらないのはシェリー嬢だ。
 慌ててエリカに抱きついて何を逃れる。

 舞踏室を一周したところで、エリカの馬役は終わり。
 あまり体力のない彼女は、カーペットに大の字になってぜーぜーと荒い息を整えていた。
 騎手役のシェリー嬢も、うっすら汗をかいている。

「どう? 分かった?」

 そんな二人の少女に、得意気な顔をしてリリが尋ねる。

「「何がッ?」
 」

 エリカとシェリー嬢のリアクションは息ぴったりだった。
 それはそうだろう。
 こっそり覗き見しているスージーにも、リリの狙いが理解できない。

「はー、二人とも想像力が貧弱ねー。いい? 舞踏室を一周した状況を思い返してみて?」

「うむ、思い返したぞ」

「そのまま、相手がシャルロちゃんだとイメージしてみて。ほら、あたしの企画の狙いが分かったでしょ?」

「おおッ」

 シェリー嬢が、目をくわっと見開いて感嘆の声を上げる。

「なるほど! 確かにこれなら、さりげなくシャルロに密着しまくりだな! 両足でがっつりホールドしつつ、全身くまなく揉みまくりだ!」

 想像したら興奮してきたのか、シェリー嬢の鼻息が荒くなってくる。
 水を差したのは、馬役をさせられたエリカだった。

「いやいや、全然さりげなくないよう。魂胆丸見えすぎ~。あたしなら断っちゃうな~」

「む、そうか? 確かに最近のシャルロはつれないからな。健全なお医者さんごっこだと説得しても、信じてくれない」

「ふふん、エリカちゃん甘いわね。それじゃあたしが手本見せてあげる。実証実験よ。エリカちゃん手伝って」

「だからもう、わたしは嫌だって~」

「コイントスなしで騎手役を譲ってあげるわよ?」

「本当~? それならやってみたいかも~」

「へい、かもん!」

 勢い良く四つん這いになったリリに、恐る恐るエリカが腰掛ける。
 最初はゆっくり進むリリに、エリカも上機嫌になってくる。

「あ、これはちょっと楽しいかも~」

「じゃあ、本気出すわよ」

「え?」

 途端に暴れ馬みたいな勢いで、激しくリリが動き出した。
 背中に乗るエリカは大混乱だ。
 リリに抱きついたものの、目をぐるぐる回している。

「ほら! 騎手なら鞭を打たないと!」

「え? ええ~?」

「遠慮なく! 力いっぱいね!」

「こ、こお」

 正常な判断力も失ったエリカが、リリのお尻を軽く撫でた。
 リリが、ガーーッと激高する。

「弱い! もっと強く!」

「え、えいっ」

「ひひーーーーんッ」

 舞踏室を一周した頃には、エリカは完全に力尽きていた。
 俯せでカーペットに倒れ伏せたまま、ぴくりとも動かなく。
 逆にリリは、生き生きと瞳を輝かせてる。

「どーよ! この作戦の肝が分かったかしらっ?」

「師匠と呼ばせてくれ! シャルロに選択を委ねたふりをして、その実はMプレイを強要させるとは! リリは策士だな!」

「ふふーん! もっと誉めてもいいのよ!」

 駄目だ、この変態少女達。
 早く止めてあげないと。
 そう思いはしたスージーだったが、幸せそうなシェリー嬢を見ていたら何もかもがどうでも良くなってきた。

「よし! シャルロが帰ってくるまで特訓するぞ! エリカ、いつまで寝ているのだ!」

「うえ、わたしもう限界~。は、吐きそう~」

「腰の回転と角度を極めることで、より高度な楽しみを得ることも出来るわよ!」

「すごい! リリは本当に天才だな!」

 はっ、とスージーが正気を取り戻した頃には、何もかもが手遅れになっていた。
 着衣も髪も乱れまくり。
 全身汗だくでカーペットに転がり、荒い息を付く少女が三体。
 ひどい惨状だった。

 これはこれでえろ可愛いシチュエーションだったが、今はそんな妄想を広げてる場合ではない。
 来賓を前にして、これはまずい。
 こんなシェリー嬢の姿をお客様に見られたら、ヘイウッド家の威信はおしまいだ。

 扉の影から姿を出すと、スージーはリリの枕元に仁王立ちをした。

「ねえ、リリ。あたしは今晩、大切なお客様がいらっしゃるって説明していたわよね? それがどうして、お嬢様がこんな状況になってるのかしら?」

「あー、姉ちゃん。ちょっと待ってて。流石のあたしも疲れちゃって、しばらく動けないから」

「これじゃお嬢様は、湯浴みでもしてもらわないと人前に出られないわ。リリ、あんたは余計な仕事を増やすことについては天才的よね」

「あれ? もしかして姉ちゃん、怒ってたりする?」

 ようやくスージーの怒りを察したのか、リリの顔が青ざめる。

「乗馬ごっこだっけ? とても楽しそうね。あたしも混ぜてもらえないかしら? ほら、さっさと四つん這いになってお尻を出しなさいよ」

「ひい! 姉ちゃん目が怖い! 目が!」

「うふふ、しばらくは椅子に座れなくしてあげる」

「ぎゃーーーーっ」

 ヘイウッド邸に、リリの悲鳴が響き渡った。
 お決まりのパターンでオチを付けたところで、やれやれとスージーは嘆息する。
 そんなメイド長に、シェリー嬢が首を傾げて尋ねた。

「なあ、まだシャルロは帰ってこないのか?」

「そういえば遅いですね」

 懐中時計を取り出して確認する。
 ただ、シャルロのことについては、そこまで心配はしていなかった。
 もしかしたら今日の配達量は多かったのかも知れないし、立ち寄った移民街でお茶でもしている可能性だってある。

 とりあえず今は、シェリー嬢の衣装直しが優先だ。
 シェリー嬢を連れ出そうとしたところで、舞踏室にパーラーメイドがやって来た。

「お姉さま、騎士団の早馬が届きましたわ」

「騎士団?」

「フレデリカ・シューター様とコリン・イングラム様は、既にフローマスに到着されているそうですの」

「何でその連絡が騎士団から?」

「さあ? 詳しいことは直接お聞きになって下さい」

 状況が分からない。
 来賓の二人は、軍務省所属と聞いている。
 領主のカントリーハウスへ訪れる前に、騎士団本部に寄ったということだろうか。

 とりあえず使用人ホールへ急ごうとしたスージーに、パーラーメイドが付け加える。

「そうそう。お客様には、シャルロちゃんも一緒らしいですわ」

「何でっ? どーいう状況でそうなるのよっ?」

 今度こそ意味が分からなかった。
 客人とシャルロに接点はない。
 とりあえずは悩むより、情報収集が先だろう。
 先を急ごうとするスージーのスカートを、シェリー嬢がぐいっと引っ張った。

「シャルロが見つかったのかっ? それではすぐ帰ってくるな?」

「ええ、恐らくこれから、迎えの馬車を出すことになるかと思います。一時間後ぐらいになるでしょうか」

「そうか! それは良かった!」

 どうやらシェリー嬢の頭の中はシャルロのことで一杯で、来賓のことなど欠片も覚えていないらしい。
 こんなことで大丈夫だろうかと、少し心配になる。
 今回の来客対応は、到着前から前途多難だった。



[22783] ▼▼▼ 3-1. 回想(帝歴261年冬)
Name: arty◆ecc17069 ID:64173ba7
Date: 2013/07/29 00:53
 火の回りが意外と早い。
 城館に火を放ったのは帝国軍ではない。
 守備側であるはずのローアン騎士団だ。
 むざむざ帝国軍の手に渡すぐらいなら、という事だろう。
 消火活動に法兵連隊の大部分を回す。
 この火災で一体どれだけの損失が出ることか。
 頭の中で試算したウィルは、うんざりして顔をしかめた。

 扉の前で、血煙を上げて敵兵が倒れる。
 それなりに優秀な騎士だったのだろうが、覚悟だけでは埋められない力量差というものがある。
 刃にこびりついた血を片腕で振り払った軍曹が、ウィルに道を空けた。
 敵兵の屍を跨ぎながら、ウィルは書斎へと足を踏み入れる。

『お久しぶりです。ローアン伯』

 奇跡的なことに、書斎までは火が回ってきていなかった。
 壁一面の蔵書と、部屋の正面に据え付けられた机。
 その椅子に座っているのが、城塞都市ローアンの領主だ。
 戦火の直中だというのに、日常そのままの雰囲気で書物を読んでいる。
 戦いの騒音が、やけに遠く聞こえた。

『やあ、ウィル殿か。あと数ページなんだ。すまないが、少しだけ待ってくれないか』

『ええ、構いませんよ。それぐらいの余裕はあります』

 領主のページをめくる音だけが、静かに響く。
 やがて読み終えたのだろう。
 本を閉じた領主が、ゆっくりと顔を上げた。

『どのような本をお読みになっていたのですか?』

『ああ、ただの娯楽小説だよ。意外かい? 私はこのシリーズのファンでね。完結まで見届けられないのが残念だ』

 聖本か何かだと思っていたウィルは、少し意表を突かれる。
 領主が見せてくれた背表紙に書かれたタイトルは、流行に疎いウィルにも聞き覚えがあった。
 帝国で人気の怪奇冒険ミステリーで、王国語版も出ていたとは驚きだ。

『さて、久しぶりだね。開城交渉以来になるのかな?』

『そうですね。本当はもっと早くこの日を迎えたかったのですが。ローアン伯のおかげで、下準備に随分と手間取りましたよ』

『まだ対話による交渉の余地はありそうかい?』

『残念ながらその申し出は遅すぎました。帝国の開城勧告に従わないとどうなるのか、他の諸侯達に見せつける必要があります』

『だろうね。まあ、当然の判断だ。それではせめて、最期ぐらいは格好付けさせてもらおうか』

 領主が立ち上がる。
 そして机に立て掛けてあった、抜き身の大剣を掴んだ。
 刃面に刻まれた法術回路に、領主の法力が注ぎ込まれる。
 攻撃力向上のみに機能を限定した、簡易的な竜騎士法術の一種だ。

「軍曹。お相手をして差し上げろ」

「は」

 ウィルの指示で、軍曹が一歩、足を進める。
 全身鎧の表面にはやはり、法術回路が刻まれていた。

 ウィルが手帳のようなものを開くと、制御支援用の法術インターフェイスが展開する。
 光の軌跡が宙に幾何学模様を描き出した。

 帝国式の竜騎士法術は、二人一組での運用が基本だ。
 天才と呼ばれる術士なら、コマンドをイメージするだけで法術制御する。
 しかし、ウィル自身は、法術のスペシャリストという訳ではない。
 本来のパフォーマンスを十全に発揮するには、制御支援法術によるグラフィカルインターフェイスの助けが必要だった。

 制御支援法術の展開は、それだけ本気で相手をすることの意思表示。
 ところが領主には、その辺りが微妙に伝わらなかったらしい。
 決闘相手を心配するような台詞を口にした。

『大丈夫かい? その竜騎士、かなりの重傷じゃないか』

『心配には及びません。確かに幻狼の魔女から受けた傷は深刻です。しかしそのダメージを差し引いても、私の手札では彼こそが未だ最強ですよ』

 軍曹の有様は、正に満身創痍という言葉がぴったりだった。
 鎧も傷だらけで、法術回路群の半分以上から応答がない。
 鎧の中身も、立っているのが不思議なほどの重傷だ。
 特に失われたばかりの左腕は、法術で強制的に止血しているだけの状態だった。

 それでもなお、ウィルの指揮下に、彼を超える単体戦力は存在しない。
 魔女殺し。
 それが軍曹の二つ名だった。

『いざ!』

 先に動いたのは領主。
 彼の全身全霊を掛けた踏み込みは、軍曹にとって哀しいほどに稚拙だった。

 領主の優秀さは政治力で評価されるべきであり、個人の武勇としては凡庸の域を出ていない。
 命のひとつやふたつを引き替えにしたところで、軍曹との絶対的な力量差は覆りようがなかった。
 そうでなければウィルも、領主との決闘を受け入れなかっただろう。

 剣を振るった軍曹は、一歩も足を動かしてはいなかった。
 鮮血をまき散らしながら、領主が床に沈む。
 致命傷だ。
 こぼれ落ちた領主の大剣を、軍曹が蹴飛ばして相手を無力化する。

『言い残すことは?』

 傍らに屈んだウィルが、領主の最期の言葉を引き取ろうとした。
 命の灯火が消えようとしている領主を、軍曹が油断なく見つめている。

『娘は、娘だけは、どうか見逃してやってはくれないか』

 息も絶え絶えな、最期の懇願。
 領主の延ばした手が、ウィルの胸ぐらを掴んだ。

『お願いだ。幼いあの娘には、何の責任もない。希望ある子供の将来を、大人だけの事情で閉ざさないでやってくれ』

 ウィルは微笑むと、領主の手に優しく自らの手を重ねた。

『分かりました。約束しましょう。貴方は、尊敬に値する強敵でした』

『ありがとう』

 ウィルが軍曹に目配せして身を引く。
 無言で頷いた軍曹の剣が領主の首を斬り飛ばし、彼を苦痛から永遠に救済した。

「少佐、本当に娘は見逃すのですか?」

 領主の首を丁寧に包みながら軍曹が尋ねる。
 ウィルは平然とした様子で答えてみせた。

「まさか。助命したところで感謝してくれるとでも? あり得ないな。帝国への復讐でも誓われて、抵抗勢力の旗印となれば新たな火種を生む。ならば私が指示すべきは、たった二つ。見つけろ。そして殺せ」

「は!」

 直立した軍曹が、ウィルの指示に敬礼して応える。

 領主に対して付いた嘘に、ウィルは全く心を痛めていなかった。
 約束や契約は必ず守るという信条も、死人相手ならいくら曲げても構わない。
 死にゆく相手に真実を伝えて苦しめたところで、ウィルにとってメリットはなかった。

「夜が、明けますな」

「吹雪も止んだか。これからが本番だ。軍曹、もう少しだけ付き合ってもらうぞ。限界はとっくに越えているだろうが、倒れるのはまだ待ってくれ」

「は。全ては少佐の意のままに」

 戦況は既に掃討戦へと移っている。
 組織的な抵抗は最早ない。
 今後は地下に潜った残存勢力との、長期的な非対称戦になるだろう。
 気の長い話だ。

 ゲリラ化した敵との戦いは、何年も掛けながら地道に行うしかない。
 民衆の人心さえ得てしまえば、そうした勢力も徐々に足場を失って雲散霧消するはずだ。

「さあ、儲けさせてもらおうか」

 まずは目先の消火活動が最優先だ。
 次に他家の連隊が、略奪行為をエスカレートさせないように牽制しておく必要がある。
 城西都市ローアンは既に女王陛下の都市であり、市民は女王陛下の民だった。
 無為な損失は避けなければならない。

 戦争という最大の投資フェーズは完了した。
 後には戦後処理という大仕事が待っている。
 投資に対する利益回収は、さらにその先の話だった。



[22783] 3-2. 魔女狩り5
Name: arty◆ecc17069 ID:a2f8b513
Date: 2013/07/29 00:54
 ローアン攻城戦から五年。
 旧王国連合領から海峡を挟んだ向かい側、帝国本土の南端に位置する港湾都市フローマスでは、騎士狩り事件で街中が騒然となっていた。

 交通規制を実施してまで強行された重要参考人の捕縛作戦は、完全に失敗。
 参考人である絵描き自身が殺害されるという、最悪に近い形で幕を閉じた。
 その舞台となった東街区の路地裏は、野次馬達が集まってちょっとしたお祭り騒ぎだ。
 現場検証中の騎士団が、押し寄せる市民達を懸命に追い払っている。

「はー、それではコリン様達も、騎士狩り事件を解決するためにフローマスまでいらっしゃったのデスね」

「あの事件は、ちょっと普通じゃ考えられないからね。地方騎士団の手には余ると判断されたらしい。そこで異端の専門家である俺達の出番という訳さ」

 絵描きの殺害現場からほど近いパブ『王国の夕暮れ亭』
 。
 湯を借りていた一人の幼いメイドが、タオルで頭を拭きながら事情聴取を受けていた。

 聞き取り役をしている青年の名はコリン。
 コーヒー色の髪をした、いかにも頼りなさそうな若者だ。
 これでもスリス公爵家の、次々期後継者と目されている。
 現在の軍務省所属という身分は、箔を付けるための腰掛けポストだ。

 一方、絵描きの殺害現場に居合わせたメイドは、自らをシャルロと名乗った。
 まだ十歳前後ぐらいに見える、幼さを残したジュニアスタッフだ。
 本来なら三つ編みにされているはずの銀髪を今は解いていた。

「はふー、ようやくひと息ついたのデスよー」

 タオルから顔を離すと、シャルロがのんびりした声を伸ばす。
 無防備すぎるその表情に、コリンは息を詰まらせた。
 この世のものとは思えない可愛らしさが、庇護欲を掻き立てる。
 湯上がりのせいだろうか。
 シャルロのほどけた銀髪からは、とてもいい匂いがした。
 思わず深呼吸をしてしまうコリン。
 シャルロが、きょとんとした無垢な表情を向ける。

「あの、コリン様? どうかされたデスか?」

「いやいやいや! 違う! 別に見惚れてたとか、そーいう訳じゃないから!」

 慌てて両手を振って誤魔化すコリン。
 いけない。
 初対面同然なのに、これでは危ないお兄さんだと思われてしまう。
 聴取相手であるシャルロに、無用な警戒心を持たれることは非常に宜しくない。

<ちょっと待ちたまえ、コリン。君は何か、決定的な間違いを犯していないかい?>

「は? 何ですか先輩。急に口を挟んでこないで下さい」

 脳裏に響くのは、少し離れた現場で実地検証をしているフレデリカ先輩の声だ。
 通信法術は、遠隔地からの意思疎通を可能にする。
 欠点は、コリン側から通話を切断することは出来ないということだ。
 通話権限は、一方的に先輩だけが有している。

<ボクも君の視覚を通して見ているけど、確かにそのシャルロちゃんは可愛いよ? なかなかお目に掛かれないレベルだね。だけど、彼、男の子だよ?>

「はっはっはっ。嫌だなあ、先輩。こんなに可愛い子が、男の子な訳ないじゃないですか」

「いえ、わたし男の子デスよ?」

「へ?」

 お風呂上がりの色気を醸すプラチナブロンド。
 透き通る蒼色の大きな瞳。
 小さく整った鼻と口。
 白い肌はうっすらピンクに色付いて、発育途上な身体は絶妙なラインを描いている。

 どこからどう見たって、美少女だ。
 これほどまでの美少女は、コリンの人生で今まで目にしたことがない。

「あは、初対面だと良く間違えられちゃうデスけどね。でも、本当に男の子デスから。ほら、触ってみるデス?」

 シャルロがコリンの手を取って、自分の胸元に当てる。
 ぺたんとした真っ平らな胸。
 しかしコリンぐらいのお年頃では、あまり証明になっていない気もする。

「ほら、お分かりになったデスよね」

「嘘だーーーーッ!」

 コリンの絶叫がパブに響いた。
 見るに見かねたウェイトレスが、コリン達のテーブルにやって来る。
 どうやらシャルロの顔見知りらしい。

「信じたくないのも分かるけどね。でも、シャルロちゃん正真正銘の男の子よ? それが逆に萌えるんだけど! やーん、お風呂上がりのシャルロちゃんも、かーわいいー!」

「ちょっとリュシーさん、止めて下さいなのデス! ほら、コリン様がびっくりして固まっているのデスよ!」

「騎士様が固まってるのは、あたしじゃなくてシャルロちゃんが原因でしょ? 事実を受け入れられない男って格好悪いわよねー」

<そのウェイトレスが言う通りだよ。ほら、いつまでもショックを受けていないで、さっさと仕事を続けたまえ>

 何ということだろうか。
 コリンの中で価値観がガラガラと音を立てて崩れていく。
 こんなに可愛いシャルロが男の子だなんて、世の中は間違っている。
 衝撃が強すぎて、何だかもう騎士狩り事件のことがどうでも良くなってきた。

「事務官殿、何なら事情聴取は私が行いましょうか?」

 同席するフローマス騎士団の兵士が、控えめに尋ねる。
 彼はシャルロの性別を知っていたらしく、それほど衝撃を受けていない。
 やばい。
 軽蔑の眼差しがコリンに集中する。
 若年ながらも階級が上の人間としては、毅然とした態度を見せる必要があった。

「いえ、取り乱しました。もう大丈夫です」

 過去形じゃないけどね! 絶賛、今も取り乱し中だけどね! 等という心の声は、微塵も表に出す訳にはいかない。
 平静さを取り繕って、ヒアリングを再開する。

 シャルロの職場がヘイウッド邸だということは、既に聞いた。
 雇用主はフローマス伯爵。
 伯爵は港湾都市フローマスの領主であり、身元の確かさは折り紙付きだ。

 メッセンジャーという職種にも不自然さはない。
 書簡配達に美少年を採用する例は、帝国貴族の屋敷ではありがちだったりする。
 使い走りの愛らしさは、一種のステータスシンボルとして機能するためだ。
 シャルロほど現実離れした容姿なら、どの屋敷からでも引っ張り蛸だろう。
 コリンの実家で雇ってほしいぐらいだった。

「えっと、どこまで聞いたかな」

「路地裏を歩いてたところまでデスよね」

 今日も午後からシャルロは、乗合馬車を乗り継いで配達先を回っていたという。
 そして最後に東街区の青空市場へ立ち寄った。
 果実店ではオレンジを購入。
 後は乗合馬車の停まる大通りに向かうため、近道である路地裏を歩いていた。
 事件にはそこで遭遇したらしい。

「絵描きの追跡で、かなり騒ぎになってたけど気が付かなかった?」

「んー、気にしていなかったのデスよ。ほら、この街では強盗や殺人なんて日常茶飯事デスから。自警団に追われる犯人さんも珍しくないのデス」

「平然としすぎだから! もうちょっと君は、自分の可愛さに自覚を持つべきだ! そんな物騒なところをひとりで歩いて、誘拐でもされたらどうするの!」

 改めて聞いてみると、とんでもない話だった。
 大人でさえ身の危険を感じる貧民街。
 首締め強盗や人攫いの多発地域だ。
 危機感がなさすぎると言わざるを得ない。
 ところがシャルロは、柔らかく笑うとコリンの注意をスルーしてみせた。

「あは。ご心配ありがとなのデス。でも、わたしにとっては第二の故郷みたいなものデスから。この移民街は、同胞には優しい街なのデスよ」

「それにしたって、無防備すぎるよ! 屋敷の人達は、何も言わないの?」

「あ、でも、帝国の方にはちょっぴり危険かもしれないデスね。コリン様がこの辺りを歩く時は、気を付けてほしいのデス。丸腰のまま、ひとり歩きしちゃ駄目デスよ?」

「逆に心配されたッ?」

 そこから先の話は、コリンの記憶とも一部が重複する。
 残念ながらシャルロも、犯人の顔は覚えていなかった。
 シャルロの歩いていた路地に逃げ込んだ絵描きは、そこで待ち構えていた何者かに出会い頭で殺害された。
 その瞬間を、シャルロは見逃したそうだ。

「ローブみたいのを被った人が、逃げていく背中は見たのデス。確信は持てないデスけど、女性のような肩幅だったデスよ」

 コリン達がやってきたのは、その直後だという。
 ちなみにコリンは、そのような人物を現場で見ていない。
 足跡も残っていなかった。
 ただ、相手は異端を一撃で葬るような化け物だ。
 常識で考えて意味があるとは思えなかった。

 直ぐに周辺を索敵しなかったのが悔やまれる。
 中断したのは確か、フレデリカ先輩の指示があったせいだ。
 残念ながらその判断は正しかったと思われる。
 深追いをしてコリン達が全滅していた可能性も捨てきれないからだ。

「そうそう、もう一つだけ覚えていることがあるのデス」

「うん、どんな些細なことでも助かるよ」

「『助けて』
 と」

「え? 聞き取れなかった。もう一回お願いできる?」

「帝国語に訳すと、助けてという意味デス。とっても切実な声色だったから、耳に残っているのデスよ」

「犯人は、絵描きの身内だったのか?」

 そう考えるのが自然だ。
 通りすがりの子供でしかないシャルロに助けを求めるとは思えない。
 異端の中には、通信法術と同系統の能力を使う者も存在すると聞く。
 絵描きは現場まで誘導されて、その上で犯人に口封じされた。
 筋は通っている。

<コリン、シャルロちゃんをこっちに回してもらうことは出来るかい? もちろん無理そうならまた後日でいいよ。君の判断に任せる>

 再びフレデリカ先輩からの通信法術。
 何しろシャルロは、人が死ぬところを目前で見たばかり。
 トラウマになっていてもおかしくない。
 しかし、今はすっかり立ち直っているようにも見える。
 王国出身のシャルロにとって、戦場は見慣れた光景なのだろうか。
 これだけ元気なら、シャルロを実地検証に立ち会わせても問題なさそうだった。

「あ、はい。一応は本人に聞いてみます」

「あは、わたしは全然へっちゃらなのデスよ。記憶が薄れないうちに、早く済ませちゃうのデス。ただ、あんまり帰りが遅くなると、屋敷のみんなを心配させちゃいそうデスけど」

「それなら俺達の馬車に相乗りしていけばいいよ。どうせ行き先はヘイウッド邸だろう? 乗合馬車よりは早いはずだ」

「わあ、それは大助かりなのデスよ! ありがとなのデス!」

 無邪気に喜ぶシャルロは、やはり底なしに可愛かった。
 これで男の子だなんて、やはり信じられない。

 労働者階級の中では、領主の屋敷に雇われているシャルロは勝ち組に属する。
 本来なら妬みの対象になっていても不思議ではない。
 しかし、『王国の夕暮れ亭』
 の他の席からは、好意的な視線ばかりが寄せられていた。
 何故だろう。
 そんな疑問は、シャルロの笑顔を前にすれば一発で氷解してしまう。

 移民街のアイドル的存在という立ち位置を、シャルロはしっかり確保していた。
 整った容姿だけでは、そのポジションは得られない。
 シャルロの立ち振る舞いがあってこそ、住人達にも好かれているのだろう。
 ファンクラブがあるのなら、コリンも是非入会したい。
 本当にそんなクラブが存在し、本当に入会してしまったのはもう少し後日の話だった。



[22783] 3-3. 魔女狩り6
Name: arty◆ecc17069 ID:414f18fa
Date: 2013/07/29 00:54
 絵描きの殺害された現場には、未だ生々しい痕跡が残されたままだった。
 血に塗れた壁の前。
 二人の女性が並び立っている。
 周りでは兵士達が、地面に這いつくばって遺留品を捜していた。

「最初の一人は、通常の殺人事件として処理されました。中央の軍務省にも、定型的な報告しか上げていません」

 騎士狩り事件の概要を説明しているのは、地元フローマス騎士団の女騎士。
 名はメイヴィスという。
 髪の毛を短く刈り上げ、褐色に灼けた肌を持つ女性だ。
 階級は少尉、二十代半ばにして一個小隊の隊長を務める。
 元は少女偵察飛行隊の出身だ。
 おかげで同世代でも軍歴は長く、昇進のスピードも頭ひとつ早い。

 隣りに立つ軍務省の女性事務官は、フレデリカ・ショーター。
 小柄な上に童顔のため、外見だけだと子供にしか見えない。
 階級は上級二等官で、武官なら中佐に相当する。
 尉官のメイヴィスからすると、実感が沸かないほどの階級差だった。
 こうして直に話す機会ですら、本来ならあり得ないだろう。

 これが上級貴族の特権か。
 若干の妬みを自覚しつつも、表面上は上官への礼儀を保ちながらも説明を続ける。
 本来なら軍務省の相手など、大尉辺りにお願いしたいところだった。
 しかしこの現場にいる士官は、メイヴィスだけなのだから逃れられない。

「私達が事態の深刻さを認識したのは、二人目の犠牲者が出た後です。初動の遅れについては、返す言葉もありません」

「勘違いしないでほしいんだけど、別にボクは君達を糾弾するために来た訳じゃない。そんなに緊張しないでくれたまえ。当時の対応としては、十分に適切だったと思うよ。帝国騎士が殺人事件に巻き込まれるケース自体は、珍しくもないからね」

 一件で終わっていれば、誰も注目しなかっただろう。
 問題は、間を空けることなく次の事件が発生したということだ。
 しかも二人目の犠牲者は、現場に正面から交戦したと思われる痕跡まで残していた。

「三人目と四人目が行方不明になってから先は、報告書の通りです。ご存知の通りフローマスは異端の保護特区になっています。常識に囚われない事件は少なくありません。それでも今回のように、正面から帝国自体をターゲットにしてきたケースは初めてですね」

 四人目の犠牲が出た時点で、フローマス騎士団長のウィリアム・ヘイウッドは事件の公表に踏み切った。
 プライドを重視する領主なら、自領の恥は隠し通そうとするだろう。
 彼の決断は評価の分かれるところだ。

 フローマス伯爵領からの報告に、帝国軍上層部は衝撃を受けた。
 三人目と四人目の犠牲者は、ツーマンセルで行動していた竜騎士ペア。
 つまりは帝国陸軍の主力である竜騎兵法術が、テロリストに屈したことを意味する。
 これは地方行政だけに留まる問題ではなかった。

 本件の扱いは直ちに、国家レベルへと格上げされる。
 軍務省作戦局の介入は、フローマス騎士団も予測していたことだ。

「ウィルは火消しに戻ってこないのかい? ボクが思うに、この件は彼の詰めの甘さが原因だよ」

 団長を愛称で呼び捨てにされ、メイヴィスは内心で舌打ちした。
 フレデリカとウィリアム騎士団長が旧知であることは知っていたが、彼女との身分差を改めて痛感させられる。

 ウィリアム本人は現在、ローアン政務官として海外に駐在していた。
 フローマス連隊の主力三個大隊も付き従っている。
 あちらは帝国本土と違って、いつ戦場になってもおかしくない場所だ。
 そう簡単には帰国してこない。

「本件については騎士団長より、我々フローマス駐屯大隊に一任されています。現在までに確認された犠牲者は八名。この絵描きを含めても九名でしょうか。ローアンで日々発生している死者数をご存じですか? 敵地に近いローアンではこの程度、日常風景の一部です。団長の帰還を待つまでもありません」

「ふん。確かに数字だけ見ると、その答えで正しいけどね。ま、彼らしい考え方だと言っておこうか」

 小馬鹿にした物言いに、メイヴィスのこめかみがピクリと反応する。
 ここで怒っては駄目だ。
 自制しろと心に刻む。
 軍組織において階級は絶対。
 小娘みたいな童顔をしているが、フレデリカの階級はウィリアム団長よりもさらに格上だ。

 唐突にフレデリカが、目前の壁へと手を伸ばした。
 既に絵描きの遺体そのものは回収されているが、それでも血や肉片はこびりついたまま洗い流されてはいない。
 半乾きに凝固した血液を指先で拭うと、それをフレデリカは自らの口で舐め取ってみせた。
 もごもご咀嚼して、そのまま路上に吐き捨てる。
 隣のメイヴィスは、驚きのあまり目を見開いて硬直していた。

 メイヴィスも帝国騎士の一員だ。
 実戦経験もあり、死体には慣れている。
 そのメイヴィスから見ても、フレデリカの行為は常軌を逸していた。
 ナプキンで口元をぬぐうフレデリカは、あくまで平然としたものだ。

「ふむ。彼は異端の力に目覚めてから、まだ日が浅いね。交戦時に手応えのなかった訳だよ」

 異端に対抗することを主目的として設立された特務四課は、異端級の化け物揃いだと聞いたことがある。
 思い返してみれば倉庫区画で放たれた攻城級法術も、本来なら単身で扱える法術ではない。
 フレデリカという事務官は、何もかもが規格外だった。

 メイヴィスは生唾を飲み込むと、質問を重ねる。
 声が震えていないか心配だった。

「覚醒のきっかけは分かりますか? 生まれつきの取替子? 魔薬のオーバードース? もしくは異端との接触でしょうか?」

「君達が期待する通りの答えだよ」

 見透かしたような目付きで、フレデリカがにやりと笑う。
 そして壁の血痕を親指で示しながら宣言した。

「間違いない。この絵描きを異端に導いたのは、幻狼の魔女だ」

「ッ!」

 図星だ。
 まさにそのキーワードこそが、フローマス騎士団が追い求めていた答えだった。

 幻狼の魔女。
 ローアン攻城戦において、立て続けに帝国側の司令官を暗殺した異端の通称だ。
 戦後に姿を消し、現在まで消息は掴めていない。

 幻狼の魔女なら、フローマス騎士団を恨むだけの正当な理由がある。
 故国を滅ぼされた復讐。
 大義としては申し分ない。
 上等だ、受けて立ってやる。
 フローマス騎士団にとっても、幻狼の魔女には多くの戦友が犠牲になっていた。

「やけに嬉しそうだね?」

「まさか。任務に私情は挟みません」

 こみ上げる歓喜を抑え込み、努めて平静な表情でメイヴィスは答えた。
 しかしそんなメイヴィスの内心も、フレデリカの顔を見た瞬間に凍り付く。

 彼女の童顔に浮かんでいたのは、戦慄を覚えるほどの狂喜。
 本能的な恐怖に、メイヴィスの背筋がぞくりと震える。
 メイヴィスは理解した。
 この事務官は、メイヴィス達と同類だ。
 魂が遠い戦場に縛られている。
 くく、とフレデリカが喉の奥を鳴らした。

「皮肉なものだ。表舞台から退場したはずのボクに、再びこんな機会が巡ってくるとはね。ずっとローアンの地で彼女を追い求めていたウィルは、これを知ったらどんな気分になるのかな?」

 息苦しいほどに重い空気を振り払ったのは、場違いに平和ボケした呼び声だった。

「あ、先輩~。シャルロちゃん連れてきましたよー」

 間の抜けた印象がする青年が、こちらに向けて手を振っている。
 事前通達の資料には確か、フレデリカ上級二等官の他に補佐員一名が付くと書かれていた。
 中央の軍務省所属なら、彼も何れかの上級貴族に連なっているのだろう。

「それでは私は、これで失礼します。何かあればお声掛け下さい」

 メイヴィスは敬礼をすると、やって来た竜騎士の青年と入れ違いに壁面を離れた。
 青年が伴っているのは、事件の目撃者であるヘイウッド邸のメイドだ。
 シャルロとは、メイヴィスも顔見知りだった。
 早速フレデリカが、シャルロに向かって何やら聞き込みを始めている。


◆◇◆

 現場から離れたメイヴィスに、並んで歩くように伍長が近付いてきた。
 押し殺したような小声で尋ねてくる。

「少尉、あいつら一体何者っすか?」

 フレデリカが上級貴族だということは、一目で分かったのだろう。
 そのためメイヴィスが、彼女から離れる頃合いを見計らっていたらしい。
 下級貴族出身のメイヴィスでさえ、物怖じしてしまう身分差だ。
 平民である下士官や兵士達が、フレデリカを避けるのは当然のことだった。

「彼女はフレデリカ・ショーター。名高きルーンベリー公ショーター家のご令嬢にして、中央軍務省から派遣されてきた特務四課の事務官です」

 歩きながらメイヴィスが応じる。
 帝国軍の内部には、大きく分けて二つの組織が存在する。
 まずはメイヴィス達も属している、作戦実行部隊。
 戦場に兵士を投入する際には、諸侯が所有する連隊の組み合わせにより師団や方面軍が構成される。
 戦地で泥を啜り血を流すのは、メイヴィス達のような前線の兵士だ。

 もう一つが軍務省。
 彼らの主戦場は、帝都の会議室にある。
 封臣会議の方針に基づき情報を収集し、作戦を立案するのがその役割だ。
 予算と人事権を握るため、作戦実行部隊の上位組織として振る舞う。
 シビリアン・コントロールというやつだ。

 もちろん頭脳には、手足も必要となる。
 フレデリカ達が所属する作戦局特務本部は、軍務省自らが有する唯一の実行部隊だった。
 正規軍では都合の悪い不正規戦を専門とする。

 メイヴィス達の雇い主はフローマス伯爵だが、軍務省は女王陛下と封臣会議に直接仕える。
 そのため軍務省に勤めるのは、エリート中のエリートに限られた。
 具体的には、爵位持ち上級貴族の縁故がなければ事務官にはなれない。

「お偉いさんって訳ですか。そいつは面白くない話っすね」

 伍長の率直すぎる発言を、メイヴィスは聞き流したふりをした。
 本来なら懲罰ものの失言だが、メイヴィスも本心では全くの同意なのだから達が悪い。
 しかし部下に同調しても、不満を増大させるばかりで益がない。
 少なくとも立場上は、軍上層部と上手く調整してみせる模範を示す必要があった。

 メイヴィスは足を止めると、わざとらしい仕種で肩を竦めてみせる。

「まあ、要は付き合い方ですよ。彼女らの通称を知っていますか? 魔女狩り特務四課。その実力は、神聖王国の異端審問官に匹敵すると言われています。異端専門家としての知識は、私達より上でしょうね」

 おまけに付いてきた竜騎士の青年はともかく、フレデリカの実力は本物だ。
 ただの貴族令嬢ではない。
 好き嫌いで相手の能力を見誤ることは、愚か者のすることだった。

 無闇に敵を増やすバカはいない。
 利害が一致するうちは、利用させてもらうべきだ。
 彼女から得るべきノウハウも多いだろう。
 ただし、とメイヴィスは付け加えた。

「これは我々の戦争です。他の誰にも譲りません。そのことを忘れたら、ぶち殺しますからね?」

「はッ。了解です!」

 敬礼する部下を、メイヴィスは満足そうに眺めた。
 軍務省がどれだけ現場に介入してきたところで、メイヴィス達の目的は微塵も揺るがない。
 幻狼の魔女の首を獲る。
 それだけだ。
 結果的に目的を達成できるのなら、手柄など軍務省にくれてやるつもりだった。



[22783] 3-4. 階下の世界1
Name: arty◆ecc17069 ID:d95da015
Date: 2013/07/29 00:54
「くはーっ、この愛くるしさは反則的だね! 男の子だというギャップ萌えがまた、ポイント高いよ! ヘイウッド邸の使用人なんて辞めて、是非、我がショーター家に来たまえ!」

「はわーっ、くすぐったいのデスよ!」

 フレデリカ先輩にすっかり気に入られたシャルロが、抱きつかれて全身もみくちゃにされる。
 シャルロが男の子という事実を鑑みると、これはもう立派な逆セクハラではないだろうか。
 羨ましい。

 先輩がシャルロをいつまで経っても離さないという小さなトラブルはあったが、現場検証そのものは滞りなく終わった。
 後の調査をメイヴィス達に任せると、コリン達は騎士団の手配してくれた馬車に乗り込んだ。
 コリン達の馬や荷物は、後から騎士団が回収して屋敷まで届けてくれるという。

 馬車で少し揺られて橋を渡っただけで、車窓の景色が一変した。
 混沌とした貧民街を抜け出て、閑静な高級住宅地の区域に入る。
 同じ都市とは思えないほどの別世界だ。
 やがて緑豊かな田園風景が広がってきて、蛇行する馬車道を進む。

 到着したのは、青い屋根をしたカントリーハウスの前だった。
 停まった馬車からまずはシャルロが飛び降りる。
 続いてシャルロにエスコートされながら、フレデリカとコリンも降り立った。

「ふむ。ボクも来たのは久しぶりだけど、相変わらず洗練されたデザインの館だね」

「住みやすそうなカントリーハウスですね。うちの実家なんて、城塞スタイルだから見た目だけで息苦しくなっちゃいますよ」

「君のところは、歴史的建造物だろう? 帝国本土にも戦乱の時代があったことを示す、貴重な資産だよ。誇っていい。好んで住みたいとは思わないけどね」

「先輩の実家だって、似たようなもんですよね?」

「だからボクは、実家を出たのさ」

 ヘイウッド邸は、帝国内のカントリーハウスでも比較的新しい部類に入る。
 住みやすさを最優先した造りは、平和な時代の設計であることを示す。

 白塗りの外壁に、青い屋根。
 シンプルで爽やかな印象を与える外見は、古い城館にありがちな威圧感が全くない。
 若草色に覆われた周りの景観にも良く調和していた。

「あれ? 出迎えがないなんておかしいデスね?」

 ドアノッカーを叩きながら、シャルロが小首を傾げた。
 重ねてノックを繰り返す。
 やがてドタバタと物音がして、ようやく扉が開かれた。
 中から姿を現したのは、女性にしては長身のメイドだった。
 栗色の長い髪をサイドアップにまとめている。
 肩で息をしながらも、彼女は営業スマイルを浮かべてお辞儀をしてみせた。

「い、いらっしゃいませ、フレデリカ・ショーター様。それにコリン・イングラム様も。お待ちしておりました、どうぞお入り下さい」

 メイドに招かれて、コリン達は玄関ホールへ足を踏み入れた。
 ホールは吹き抜けになっていて、開放感を演出している。
 正面には大階段が据えられていて、来客者を二階の客間へと誘っていた。
 コリンの背後で、メイドとシャルロがひそひそと言葉を交わす。

「ちょっとシャルロちゃん、到着するの早すぎない? ミスタが東街区まで迎えに行ったんだけど、一緒じゃないの?」

「騎士団の皆さんが、馬車を用意してくれたのデスよ」

「余計なことを!」

 どうやらメイド達にとって、コリン達の早すぎる到着は予想外だったらしい。
 接客の責任者であるバトラーとは、東街区で行き違いになってしまったようだ。

「シャルロ! ようやく帰ってきたか!」

 大階段の上から、金髪少女の声がホールに響きわたった。
 見上げると、フリルとレースに彩られたドレスで身を包んだ女の子が駆け下りてくる。
 流れるような金髪に、猫耳のようなリボン。
 助走を付けた勢いのままシャルロに抱きつこうとした少女だったが、ぎょっとしたシャルロがコリンの背中に慌てて隠れる。

「何故逃げる!」

「だってシェリー嬢様! その手に持っているものは何デスかっ?」

 コリンを盾にしたシャルロは、完全に怖じけ付いていた。
 シェリー嬢様と呼ばれたこの少女こそが、ヘイウッド家の当主代行となる。
 随分と可愛らしいご主人様だった。
 ストレートの金髪と、少し吊り目な翠の瞳は、いかにも貴族令嬢といった顔立ちだ。
 鋭い質問を受けたシェリー嬢は、手にした乗馬用の鞭をきょとんとした顔で見つめる。

「む? お馬さんごっこの小道具だが?」

「SMごっこの間違いじゃないのデスかッ? 痛いのとか嫌デスよ!」

「はー、シャルロはわがままだなー。しかしその程度のリアクション、私達は既にシミュレーション済みだぞ。仕方ない、馬役は私がやろう」

 シェリー嬢が鞭をシャルロに手渡した。
 何気なく受け取るシャルロ。
 そしてシェリー嬢はくるりと背を向けると、小さなお尻をシャルロに突き出す。

「さあ! 思いっきり叩くがいい! 遠慮は無用だ!」

「何でーーーーッ?」

 涙声で叫ぶシャルロ。
 しかしシェリー嬢は、むふーと期待に鼻息を荒くしながら、今か今かと一撃を待っている。
 シャルロが何か言いたそうに、コリンを見上げた。

「いや、そんな目で俺を見られてもね?」

 助けてあげたいのは山々だったが、状況がいまいち理解出来ない。
 やがて観念したように溜息をついたシャルロは、シェリー嬢のお尻を鞭で軽く撫でた。

「あひゃんっ」

「へ、変な反応しないでほしいのデスっ。何だかわたしがえっちなことしてるみたいデスよっ?」

 シェリー嬢の過敏な反応に、シャルロが耳まで真っ赤になる。
 そんなお子様二人のやり取りを眺めていたメイドが、頭痛に耐えるような顔をしながら口を挟んだ。

「シェリーお嬢様、お客様が目の前にいらっしゃいます。お喜びになるのは分かりますが、少しの間だけ自重して下さい。それにその鞭、一体どこで入手されたのですか?」

「うむ、リリから貸してもらったのだ。乗馬ごっこには必需品だと聞いてな。他にこんなのも借りたぞ!」

 嬉しそうにシェリー嬢が取り出したのは、猿ぐつわだった。
 メイドがこめかみに怒りマークを貼り付けたまま、凄味のある笑顔を浮かべる。

「シャルロちゃん、お客様の案内を任せていい? あたしは別の仕事ができちゃった」

 長身メイドから立ち上る殺気のオーラに、驚いたシャルロが目を丸くした。
 止めるのは無駄だと判断したのだろう。
 せめて死人が出るのだけは避けようと思ったのか、フロアの奥に向かって大声で叫んだ。

「リリちゃん逃げてーーーーっ! 全力でッ!」

 大階段の陰に隠れていた子供メイドがひょっこりと顔を出す。
 髪型をツーサイドアップにした、いかにも悪戯好きそうな少女だった。

「てへ。やりすぎちゃった?」

 そしてそのまま、ドタタタタと脇目も振らずに猛ダッシュで逃げていく。

「逃がすかーーッ」

 間髪入れずに雷光のような勢いで、長身メイドが少女の後を追った。
 すっかり取り残された格好のフレデリカ先輩が、しみじみと呟く。

「ふむ。ボクも随分と変わり者だと言われるけどね。そんなボクから見ても、この屋敷の住人はおもしろい人間が多そうだ」

「あ、先輩。変わり者の自覚はあったんですね」

 先輩が無言でコリンの臑を蹴り飛ばした。
 激痛に足を押さえながら、コリンが床を転がる。

「だ、だだだ、大丈夫デスかっ? 何だか凄い音がしたデスよ! 包帯とかいるデス? ミセスーーっ、誰かミセスを呼んでーーーーッ!」

「うわあっ、こいつ私のスカートを覗こうとしたぞ! 変態かっ?」

「シェリー嬢様! 足下へ転がってきたお客様の顔面を、そんな風に踏みつけちゃ駄目なのデスよっ! 死んじゃう! コリン様が、死んじゃうーーーーっ!」

 右往左往するシャルロ。
 シェリー嬢に頭を踏まれて、顔面をカーペットに埋めるコリン。
 そんなコリンを涼しい顔で見下すフレデリカ先輩。
 到着早々、何でこんな目に遭わないといけないのだろうか。
 コリンはあまりの理不尽さに、赤い絨毯を涙で濡らした。



[22783] 3-5. 階下の世界2
Name: arty◆ecc17069 ID:f60be743
Date: 2013/07/29 00:55
 ヘイウッド邸の朝食室。
 テラスからは星空の下に広がる夜の庭園を見渡せた。
 白と水色を基調とした涼やかな内装で、大食堂で食事をするより肩が凝らない。
 そのためヘイウッド邸では、身内だけの食事は専ら朝食室だけで済ませてしまうという。

 夕食の席に着いているのは、シェリー嬢、フレデリカ先輩、コリンの三名だけ確かにこの人数なら、食堂を使うには大袈裟すぎるだろう。
 本来は地元の有力者達を集めて夕食会を催す予定だったらしいが、先輩が事前に断っておいたらしい。
 今回はショーター家の令嬢としてではなく、あくまで軍務省事務官として訪れているというのが建前上の理由。
 本音のところは、社交界的な付き合いが面倒だったと見える。
 その点はコリンも全くの同意だった。

「堅苦しいのは苦手でね」

「そうか。それはこちらも楽で助かる」

 兎のテリーヌ。
 レタスのコンソメスープ。
 カレイのムニエル。
 仔羊のゆで脚、ケッパーソース添え。
 フレッシュサラダ。
 カシスのシャーベット。
 カスタードタルト。
 出されたコースメニューは、舌が肥えているはずのコリンでさえ感嘆する美味しさだった。
 さすがは貿易事業で有名なフローマス伯爵家。
 大味な帝国料理と違って、異国の技法を取り入れた料理はコリン達を楽しませてくれた。

 デザートの小皿も下げられて、食後の紅茶が淹れられる。
 コリンの給仕には、唯一メイド服を着ていない女性使用人が付いてくれた。
 メイド達の管理責任者であるハウスキーパーだ。
 一方、フレデリカ先輩の給仕には、背筋をピンと伸ばした初老の男性が付いている。
 彼が接客責任者のバトラー。
 そしてシェリー嬢の背後には、シャルロがくっついていた。

「シャルロちゃん、給仕もしているんだね?」

「あは。実はそうなのデスよ」

 見知った顔に声を掛けてみると、シャルロは照れたように笑みをこぼした。
 ホスト役を務めるシェリー嬢が、露骨にむすっとした表情を見せる。

 もちろん朝食室には、給仕役以外のメイド達も忙しなく出入りしていた。
 料理や食べ終えた食器を運ぶのは、彼女らの役割だ。

 容姿端麗な少女ばかりという使用人の構成に、フレデリカ先輩がふとした疑問を口にする。

「それにしてもこの屋敷のメイド達は、若い子ばかりだね。何か理由でもあるのかい?」

 良い質問だ。
 実はコリンもずっと気になっていた。
 ヘイウッド邸のメイドは、明らかに美少女だけしか雇われていない。
 普通はもう少し、年配のメイドも見掛けるものだ。
 ところがこの屋敷では、最年長のハウスキーパーでさえ二十代後半ぐらいに見える。

「理由というほどのことでもない。先代当主のお爺様が、早々に引退してしまったからな。昔から仕えていた者達は、お爺様のいる別邸へ移ってしまった」

 澄ました顔でシェリー嬢が答える。
 礼儀作法に身を固めた彼女は、玄関ホールで騒いでいた金髪少女とは別人のようだった。
 堂々とした立ち振る舞いからは、コリンよりも貴族らしいオーラが出ている。

 フレデリカ先輩が、にやりと笑みを浮かべながら話題を続けた。

「今は社交シーズンだし、男性使用人の大半はタウンハウスかな? これは男手が足りなくて大変だろうね?」

「む、当家のサービスに何か不足でも?」

「いやいや、とんでもない! サービスの品質には文句の付けようがないよ! ただね、今更ながらボクは、とんでもない失態を犯したことに気付いてしまったんだ。どうかシェリー殿には許してほしい」

 やけに演技掛かった先輩の台詞回しに、コリンは思わず身構えてしまう。
 これはやばい。
 明らかに何か企んでいる顔だ。
 警戒するなと言われる方が無理な話だった。

「失態? 私は何も気付かなかったぞ?」

「使用人だよ! 他家の屋敷に滞在するのなら、自分の身の回りの世話をさせる使用人ぐらい随伴させるのが常識! すっかり失念していたね! いやあ、何とお詫びすれば良いものか」

「何だそんなことか。問題ない、気にしないでほしい」

「あは。舞台裏では大問題だったデスけどね」

 鷹揚に頷いたシェリー嬢の背後で、シャルロがわずかに苦笑をこぼす。
 客人が自前の使用人を一人も連れてこないとは、全くの想定外。
 キッチンでは大量の賄い料理を余らせるという事件が発生していた。
 今もバックヤードでは、人数を多めに見積もってしまったメイド長が、キッチンメイドに責められて逆ギレしているところだ。

 もちろん上流社会の空間であるこの食卓には、そんな裏方の苦労は伝わってこない。
 事情を知っているバトラーやハウスキーパーも、涼しい顔をしたものだ。
 そしてようやく、フレデリカ先輩が本題を切り出した。

「そこでひとつ提案なんだけど、うちのコリンを使用人として引き取ってはもらえないかな?」

「何を言い出しちゃってるの、この人ーーーーッ?」

 驚いたのはコリンだ。
 フレデリカ先輩に振り回されるのはいつものことだが、今回もまた意表を突いてきた。

 だがしかし、と頭を冷やす。
 普通に考えればヘイウッド邸は、受け入れを拒否するはず。
 ここはシェリー嬢の常識に期待だった。

「心遣いはありがたいが、遠慮しておこう。正直、迷惑だ」

「期待通りの回答をありがとう! でも何故だろう、目前で断られると何だか切ない気持ちになるね!」

 ところがフレデリカ先輩は、素直に引かなかった。
 なおもしつこくシェリー嬢に食い下がる。

「もちろんコリンが屋敷の仕事で役に立つなんて思っていないよ? でもここは一つ、コリンに経験を積ませるために協力してもらえないだろうか。提案と言うよりは、これはボクからのお願いだ」

「む、そのような言い回しをされると断りづらいな」

 下手に出る作戦に切り替えた先輩に、シェリー嬢が顔をしかめる。
 これでもフレデリカ先輩やコリンは、公爵家の一員だ。
 客人を歓迎する立場のホスト役としては、無下に断れないのだろう。
 シェリー嬢の決意が、ぐらりと揺らいだ気がした。

「そこは悩まなくていいから! 俺は家事とかしたことないし、むしろ足手まといになっちゃうからね! ズバッと断っちゃって!」

 大慌てで軌道修正に掛かるコリン。
 使用人に格下げなど、とんでもない話だ。
 とてもやっていける自信がない。
 そんなコリンに、フレデリカ先輩が冷たい目線を送った。

「コリン、君は将来、公爵位を継いで人の上に立つ人間だ。庶民生活を知らずに、領民の気持ちを理解できるのかい? 使用人を経験しておくことは、きっと将来の糧になるよ。
 ここは進んでやらせて下さいと頼むところだろう?」

「うぐっ」

「それに作戦局の任務では、貴族身分が邪魔になることが少なくないからね。今の君では見識が狭すぎて、身分を隠そうとしてもすぐにボロが出る。少しは労働者階級に馴染んで、その空気を身に付けることだ」

「畜生! それっぽい理由を思い付きやがったな!」

 正直なところ、先輩の理屈に反論することが出来ない。
 箱庭育ちで庶民感覚が欠けている自覚もある。
 それにしても先輩の思い付きは唐突すぎた。
 せめて心の整理をする時間が欲しいところだ。

 コリンが内心で葛藤していると、後ろに控えるシャルロと目が合った。
 それが運命の分岐点だった。

「あは。使用人も意外と楽しいかも知れないのデスよ? わたしとしては、コリン様と一緒に働けるのは、ちょっと嬉しいかなって思ったりもしちゃうのデス」

 シャルロの天使のような笑顔に、コリンの心が大きく傾く。
 考えてみれば別に、本気で労働者階級に落とされる訳でもない。
 所詮は社会勉強。
 期間限定と思えば気負う必要もなさそうだった。

 どうせやらされるのなら、機会は前向きに捕らえるべきだろう。
 先輩の思い付きに乗せられるのは癪だが、それでもコリンは決意を固めた。

「分かりました。やります。使用人になってやりますよ」

「わ! 本当なのデスか! それならわたしは、コリン様の先輩になるデスね!」

 無邪気に喜ぶシャルロの姿を眺められただけでも、決断して良かったと思える。
 後はシェリー嬢の判断次第だ。
 シェリー嬢が意見を求めるように、バトラーとハウスキーパーを見やった。

「宜しいのではないでしょうか。かつては貴族の子弟が、他家で使用人職の経験を積むことは一般的でした。両家の友好関係にも悪くない話かと思います」

「そうですわね。ひとまず試用期間を設けましょうか。続けるかどうかは、またその後に考えてはいかがですか? 仕事の案内はメイド長に担当させますわ」

「ということだ。フレデリカ殿の好きにしたらいい」

 シェリー嬢が投げやりに了承の意を示す。
 いかにも渋々といった様子が滲み出ている。
 フレデリカ先輩の背後に控えるルーンベリー公爵家のことを考えれば、最初から選択肢などなかったのだろう。
 それにコリンのスリス公爵家の存在も、無視できなかったはずだ。

 普段のコリンは、自分の出自に無頓着だったりする。
 ただ、こうした交渉ごとの際には家柄の力を肌で感じた。

「ありがたい! シェリー殿、感謝するよ」

 破顔したフレデリカ先輩が握手を求める。
 渋面を作ったシェリー嬢がそれに応じた。

 帝国には二つの国民が居るという、有名な一節が頭に浮かぶ。
 階上の世界と、階下の世界。
 コリンは階級社会という階段を、ゆっくりと下り始めた。



[22783] 3-6. メイド長3
Name: arty◆ecc17069 ID:a91631db
Date: 2013/07/29 00:55
 夕食と入浴を済ませたコリンは、シャルロに屋敷内を案内してもらえることになった。

「やれやれ。上流階級の生活とは、これでしばらくお別れかな」

「あは。やっぱり不安だったりするデスか?」

「確かに美味しい食事と、ふかふかのベッドは名残惜しいな。だけど俺だって、慎ましい集団生活は寄宿学校で経験済みだからね。それに先輩との任務じゃ、安宿や野宿も珍しくなかったし」

「それは心強いのデスよ」

 貴族の住まうカントリーハウスには、二つのエリアが存在する。
 表舞台と舞台裏。
 使用人区画は物理的にも、明確に切り離されていることが普通だった。
 ヘイウッド邸の至る所にも、バックヤードへの入口が隠されている。
 シャルロに先導されて、そのうちの一つを潜り抜けた。

「おおっ、これはすごい! まるで秘密基地みたいだ!」

「あは。そんなに格好いいものではないデスよ?」

 はしゃぐコリンに、シャルロが苦笑する。
 扉一枚を隔てただけで、まるで別世界が広がっていた。
 バックヤード区画では、実用性のみが優先される。
 絨毯や壁紙は省略されて、板張りの床と漆喰の壁がそのまま見えていた。

「この薄暗さが雰囲気出てるね! でもこれ、仕事する時に支障ないの?」

「んー、わたし達には普通なんデスけどね」

 使用人区画の裏階段を降りていく。
 地下フロアは半地下構造になっていて、一応は天井近くに採光用の窓が付いていた。
 しかし日の沈んでしまった今の時間帯では、ランプの光だけが頼りになる。

「さて、ここが使用人ホールなのデスよ」

 階段を下りてすぐに位置する大部屋は、それなりの広さを有していた。
 使用人達の休憩室と食堂を兼ねているらしい。
 出迎えてくれたのは、屋敷に到着した時にも顔を合わせている長身のメイドだった。

「コリン・イングラム様。このようなところまで、ご足労ありがとうございます。あたしは当家でメイド長を務めさせていただいております、スージーと申します」

 すらりとしたスタイルで、ワンサイドアップにまとめた栗色の長い髪が似合っている。
 腰の位置がやたらと高い。
 身に付けているのは黒白のオーソドックなメイド服。
 かなりの美人さんだった。

「ミセスから話は聞いております。短い間でしょうけど、どうかよろしくお願い致します」

 序列的には、メイド長よりもハウスキーパーの方が上になる。
 ただし現場で実務を取り仕切っているのは、このスージーと名乗るメイド長だろう。
 コリンが階下の世界で上手くやっていくには、彼女の協力が不可欠という訳だ。
 第一印象を良くしておいて損はない。
 コリンは最上級の礼儀作法に則り、恭しくスージーの手を取った。

「スージー殿、こちらこそよろしく」

 彼女の手の甲に軽く口付けをする。
 そして顔を上げると、爽やかな笑みを浮かべて見せた。
 途端に、ぞわわっとスージーが身震いする。

「ひいっ、きもい!」

「へ?」

 乱暴に手を振り払われてしまったコリンが、呆気に取られる。
 スージーは手袋を脱ぐと、ぺしゃりとコリンの顔面に投げ付けてきた。

「有り得ないからッ! あーもう、最悪! まだ寒気が収まらないわ! 何なのこいつ、生理的に受け付けないんだけど!」

「お姉ちゃん、お姉ちゃん! 本音がただ漏れになってるデスよ! 深呼吸して落ち着くのデス!」

 慌ててフォローに入るシャルロ。
 何だろう、この反応は。
 コリンとしては展開が理解不能すぎた。
 シャルロに介抱されて、スージーがぜーぜーと息を整える。

「ありがとう、シャルロちゃん。大丈夫、あたしはできる女よ。これぐらいの試練、見事に乗り越えてみせるわ……!」

「その意気なのデス! ファイトなのデスよ!」

 やがて落ち着いたのだろう。
 スージーは姿勢を正すと、改めてコリンに挨拶を繰り返してきた。

「コリン・イングラム様。このようなところまで、ご足労ありがとうございます。あたしは当家でメイド長を務めさせていただいております、スージーと申します」

「何事もなかったことにされてるーーーーッ?」

「はい? どうかされましたか?」

 にっこりと微笑むスージー。
 しかしその笑みはどこか固く、無理していることが丸分かりだった。

「どーいうことなの? 何で俺、初っ端からこんなに嫌われてるの?」

「だ、大丈夫なのデスよ! スージーお姉ちゃんは、ちょっぴり緊張しているだけなのデス」

「本当に? シャルロちゃんを信じていい?」

 気まずそうな表情をしたシャルロが、ふっとコリンから視線を外す。
 そこは優しい嘘で励ましてほしかった。

 とりあえずこんな序盤から、心折れる訳にはいかない。
 失敗した時には、気持ちの切り替えが大切だ。
 メイド長から質問の許可を求められて、コリンは快く頷いた。

「えっと、コリン様は、使用人生活の体験をご希望ということですね? 料理や被服のご経験は?」

「もちろんないよ。サバイバルの訓練ぐらいなら受けたけど」

「はッ。使えないわね」

「え?」

「いえいえ、何でもありません。それでは、とりあえず体験してみたい仕事の希望などありますか?」

「んー、力仕事ぐらいは手伝えるかな。あとは掃除とか」

「あん? 使用人の仕事を舐めてんの?」

「へ?」

「いえいえ、こちらの独り言です。分かりました。それではここから、木製の手摺りを磨く道具を一式出してもらえませんか?」

 メイド長が取り出したのは、木製のボックスだった。
 取っ手が付いている。
 中には色々な種類のブラシや皮、黒鉛、金剛砂などが入っていた。

 もちろん分かるはずがない。
 とりあえず石灰石など明らかに木材を傷つけるものはアウトだろう。
 布やワックスに見当を付けたいところだが、種類が多すぎてどれがどれだか区別付かない。

「わ、分かりません」

「死ねばいいのに」

「おや?」

「うふ、気になさらないで下さい。最初は誰でも経験のないものですから。分からなくて当然です」

「怖い怖い怖い! さっきから目が笑っていないから!」

「うっさい、黙れ。営業スマイルを維持するのも大変なのよ。あたしは本来、接客担当じゃないんだから」

「ひいっ、ごめんなさい」

 思わず謝ってしまった。
 何かおかしい。
 温度差を感じる。
 ハウスキーパーからこのメイド長に、今回の企画意図は正確に伝わっているのだろうか。
 疑問を抱かざるを得なかった。

 そもそもコリンは、本気で使用人になる訳ではない。
 一時的な、ごっこ遊びと称される類の取り組みだ。
 掃除道具を並べて、そんな真剣に睨まれても困ってしまう。
 助け船を出してくれたのは、やはりシャルロだった。

「スージーお姉ちゃん、もう時間も遅いのデスよ。今日はこれぐらいにして、続きは明日でどうデスか?」

「あら、それもそうね。じゃあ、寝る前に制服だけでも受け取ってもらおうかしら。ベッキーに手配させといたから、案内はシャルロちゃんに頼んでいい?」

「お安いご用なのデスよ!」

「あたしはその間に、もう少し気持ちを落ち着けておくわ。あの脳天気な顔を見ていると、つい回し蹴りを見舞いたくなっちゃうのよ」

「ちょっと待って! メイド長さん、何でそんなに敵意むき出しなのッ?」

「誤解です、コリン様。ヘイウッド邸の使用人一同は、公式には貴方様を歓迎していますよ? 嫌っているのはあたしだけです」

「ついに本音を隠すことすら止めちゃったッ!」

 最初に出会ったシャルロが好意的だったおかげで、コリンはすっかり失念していた。
 貴族は庶民に嫌われるもの。
 帝国に限らず、それは世界共通の大原則だった。



[22783] 3-7. ランドリーメイド1
Name: arty◆ecc17069 ID:bc453eca
Date: 2013/07/29 00:55
 裏階段を上っていく。
 目指すのは一階にある洗濯室だ。
 シャルロの後ろを付いていきながら、コリンは涙目で尋ねた。

「スージーってさ、いわゆる貴族嫌いってやつなの?」

「それはないのデスよ。普段のお客様も、貴族階級の方は多いデスから。第一、シェリー嬢様も貴族なのデス」

「じゃあ、俺だけ?」

「んー、スージーお姉ちゃんは職に誇りを持ってるデスから。メイドの仕事を甘く見られたり、半端な気持ちで口出しされるのが大嫌いなのデスよ。前にもメイド職を馬鹿にした男爵様が、フルボッコにされたらしいのデス」

「どうしてクビにならなかった!」

「あは。大丈夫なのデスよ。勝手に階段から転げ落ちたと言うことで、円満に解決したと聞いているのデス」

「円満じゃない! それは絶対に円満解決じゃないよ!」

 コリンが使用人として放り込まれた場所は、どうやらとんでもない屋敷だったらしい。
 そしてスージーを怒らせた原因にも心当たりがあった。
 おそらくはコリンが、使用人の仕事を甘く考えていたことを見透かされていたのだろう。
 これは心を入れ替えて取り組まないと、上手く立ち回るのは難しそうだった。

 やがて洗濯室に到着した。
 かき混ぜ棒付きの洗濯槽に絞り器、アイロン台といった様々な用具がずらりと並ぶ。
 ただし、人の気配がない。
 部屋から回収されたと思われるシーツ類も、隅に畳まれたままだ。
 アイロン台にはシャツの代わりに新聞紙が置かれている。
 インクを乾かす目的で使われているのだろう。

「誰もいないね。時間帯のせいかな? 俺の実家だと、洗濯室ってすごく忙しいイメージだったんだけど」

「それはねっ、うちでは洗濯の大半は、外注のクリーニング屋さんにお願いしているからさっ」

 溌剌とした声に顔を向けると、大量のメイド服を山ほど抱えたランドリーメイドが、向かいの衣装室から出てくるところだった。
 ぼふっと中央の作業台にドレス類を放ると、メイドは片手を上げて自己紹介をする。

「や! おいらはベッキー。ヘイウッド邸のランドリーメイドさっ。ま、そんな肩書きは名目だけで、実際は洋服の仕立てをしている方が多いけどね!」

 ボーイッシュで溌剌とした女の子だった。
 耳にかかる程度の長さで短くカットした栗色の髪に、眼鏡を掛けている。
 刺繍や帽子作りに代表されるファッション関連の仕事は、普通ならレディーズメイドに任されることが多い。
 それがヘイウッド邸の場合は、ベッキーの管轄になっているらしい。

 ベッキーは手慣れた様子でメジャーを引き出すと、コリンに向けて、にかっと笑ってみせた。

「君がコリンくんだね? スージーくんから聞いてるよっ。軽く採寸するから、ちょっと脱いでくれるかなっ?」

「え? ここで?」

「恥ずかしがるような年でもないよねっ?」

 もちろん見られて恥ずかしいような鍛え方はしていない。
 コリンは颯爽と上着を脱ぎ去ると、続いてズボンに手を掛けた。
 逆に慌てたのはベッキーだ。

「いやいや! 全裸になってくれとは言ってないからね! シャツとズボンはそのままで結構だよ!」

「あれ? そうなの?」

「何でそんな残念そうな顔をするかな! 君は露出すると興奮するタイプかいっ? ほら、もういいから手を挙げて!」

 万歳のポーズを取ったコリンの胸板に、ベッキーがメジャーを回す。
 抱き付かれるような姿勢になって、少し恥ずかしい。

「シャルロくん、読み上げた寸法をメモしてくれるかな! 今日のところは既製服で我慢してもらうけど、近いうちにオーダーメイドで仕立てるからね!」

「オーダーメイド? この屋敷ではみんなそうなの?」

「そんな訳がないさ、コリンくんだけが特別だよ! スージーくんからは予算上限なしと聞いているからね! おいらとしては男物よりメイド服の方が、デザインするのは楽しいんだけどさ!」

 自分だけが特別扱いというのは、何となく気が引けてしまう。
 他のメイド達に申し訳ない。
 かと言って、折角の好意を断るのも失礼に思えた。

 庶民階級にとって、服というものは一財産だ。
 彼らには既製服でさえ、年収分以上の価値がある。
 だからシャルロが、オーダーメイドを羨ましがるのも当然だった。

「わたしなんてサイズの合う既製服がなくて、ずっとメイド服なのデスよ。早くお給料を貯めて、子供用のテールコートを仕立てたいのデス」

「いや、シャルロちゃんにはメイド服が似合っているよ。メイド服を止めちゃうなんてとんでもない」

「ふむ。コリン殿もなかなか分かっているな」

 会話に割り込んできた声に振り向くと、洗濯室の入り口に金髪少女が立っていた。
 フリルのドレスと猫耳っぽいリボン。
 ヘイウッド邸の当主代行であるシェリー嬢だった。

「シャルロにはメイド服が一番だ。しかし、男装をしてみたいという気持ちも分からなくはない。そこで私からのサプライズプレゼント! ベッキー、用意は出来ているな?」

「もちろんさ! これでもおいらはプロだからね、納期は守るよ!」

 シェリー嬢のテンションが高い。
 やはり朝食室では、公式な場ということで猫を被っていたのだろう。

「わあ! 男の子用の制服を仕立ててくれたのデスか! 嬉しいのデスよ!」

「馬鹿な! そんな余計なことをしたら、シャルロちゃんのメイド服姿が見られなくなっちゃうじゃないか! 使用人になった俺の、数少ない楽しみを奪うなんてひどい!」

「いや、そこを楽しみにされても困るのデスよ?」

 ベッキーに連れられて、シャルロが向かいの衣装室に消える。
 ところがベッキーだけが洗濯室に戻ってきた。

「おっと危うく忘れるところだったよ! はい、これがコリンくんの制服さ! とりあえずは仮だけどね! 適当にぱぱっと着替えておいておくれ!」

 そして再び衣装室に消えてしまった。
 もそもそと使用人服に着替えるコリン。
 シェリー嬢は隣でコリンが半裸になっても、まるで気にした様子がなかった。
 コリンの存在など、最初から眼中になし。
 衣装室からシャルロが出てくるのを、わくわくした眼差しで見守っている。

「さあっ、お待ちかね! シャルロくんの、新作制服のお披露目だよ!」

 ババーンっと効果音を口にしながら、ベッキーが洗濯室の入り口を開けた。
 一拍置いて、着替えたシャルロがもじもじ内股で恥ずかしそうに姿を表す。

「ふはーーーーーーーーッ!」

「こ、これは……っ」

 歓声を上げるシェリー嬢と、息を飲むコリン。
 制服をデザインしたベッキーは、得意気な顔をして胸を張った。

 シャルロの新しい制服は、確かにパンツスタイルではあった。
 ただし、ギリギリまで丈を短くした短パンに、ニーソックスという出で立ちだ。
 シャツは胸元を辛うじて隠すばかりで、おへそが覗く大胆なデザインになっている。
 頬を桜色に染めたシャルロが、涙目で抗議した。

「おかしいデスよねっ? これ、わたしが思ってたイメージと全然違うのデスよっ? スカートではなくなったデスけど、メイド服の時より露出が増えちゃってるデスから!」

「むふーっ、たまらんなこれは! ベッキー、ナイス仕事だ!」

「シャルロくんという最高の素材を活かせて、おいらも誇らしいよ! 服飾デザイナーとして冥利に尽きるね!」

「余計なアレンジは要らなかったのデスよ! 普通のテールコートで良かったのデス! コリン様からも何か言ってやってほしいのデス!」

「いや、これはこれでOKじゃないかな」

 弛んだ鼻の下を片手で隠しながら、コリンが答える。
 顔は背けながらも、目線はしっかりシャルロのおへそに固定されていた。

「何か嬉しそうデスーーーーッ! やっぱりわたし、着替えてくるデスよ!」

「どうしてーーーーっ?」

 恥ずかしさに耐えられなくなったシャルロが、衣装室に逃げ込んでしまう。
 再び姿を現した時には、すっかりいつものメイド服姿だった。
 疲れきった様子で、ぽつりと呟く。

「シェリー嬢様に期待するのは、やっぱり止めなのデス。地道にお給料を貯めて、自分で制服を買うのデスよ」

「何ということだ! ベッキー、どうやらまた失敗したようだぞ!」

「うーん。シャルロくんの要求はレベルが高いね! まあ、次があるさ!」

「特別な要求はしていないデスから! というかこれでわたしの服、何着目デス? いい加減、もったいないのデスよ?」

 男性向け制服は持っていないシャルロだが、少女趣味の衣装は何着も支給されているらしい。
 後で聞いたところによると、屋根裏にはシャルロ専用の衣装部屋まであるという。
 ほとんどが一度袖を通したきり、二度と出番はないらしい。

「もったいないから、シャルロくんはおいらの作品をもっと着るべきだよね! 贅沢ものめっ!」

「わたしだけじゃなくて、リリちゃんかエリカちゃんにも作ってあげるのはどうデスか? きっと喜んでくれるのデスよ?」

「そいつは無理な相談だね! リリくんはすぐ古着屋さんに売り払っちゃうし、エリカくんは恥ずかしがって着てくれないからね!」

「エリカちゃんでさえ恥ずかしがる服を、男のわたしが着るのはもっとおかしいデスよねっ?」

 結局のところ、シャルロが男性向け制服を手にするのはかなり先になるだろう。
 しばらくはシャルロのメイド服姿を愛でることが出来そうで安堵する。
 落ち着いたところで、コリンは気になっていたことを聞いてみた。

「ところでさ、俺も使用人服に着替えてみたんだけど、どうかな? 似合う?」

「黒いな」

「シャツは白いね!」

「それ、感想じゃないよねっ?」

 女性二人は、コリンに対して全く興味がないらしい。
 コリンとしてはかなり冒険したつもりだっただけに、淡泊すぎる感想に少し気落ちする。

「あは、わたしはとってもお似合いだと思うのデスよ?」

 慌ててフォローしてくれたシャルロの気遣いが心に染みた。
 ひとまずサイズ的に問題はなさそうだ。
 明日からはこの制服が、コリンの普段着になる。
 軽く身体を動かしていると、じゃらりと鍵束の音が洗濯室に響いた。
 シェリー嬢が、びくりと反応する。
 にっこり微笑を浮かべた、ハウスキーパーのミセスがそこには立っていた。

「あら、お嬢様。こちらにいらっしゃったのですね。もうお休みの時間ですわ」

「嫌だ、私はまだシャルロと遊ぶぞ」

「夜更かしはお体に障ります。さ、寝室に行きましょう」

 穏やかなのに威圧感が半端ない。
 口をぱくぱくとさせたシェリー嬢だったが、やがて力なく項垂れた。
 どうやら屋敷の主であるシェリー嬢も、ミセスには頭が上がらない様子だった。

「コリン様もお疲れ様です。困ったことなどはありませんか?」

「あ、えーっと」

 一瞬だけ、親しみの欠片もないメイド長のことを相談しようかと迷う。
 しかしすぐに思い直した。
 スージーとの関係は、まずは自分で何とかするべき問題だ。

「いえ、何もありません」

「相談事などあれば、いつでも私かミスタにお伝え下さいね。私共は決して、コリン様に使用人生活を強要しませんわ。止めたくなりましたら、いつでもどうぞ」

「ありがとう、ミセス。でも、やると決めたのは俺ですから。出来るところまでは頑張ってみますよ」

 始める前からギブアップするつもりはない。
 その決意を確認するように、ミセスがじっとコリンの瞳を見詰める。
 やがてミセスは一礼すると、シェリー嬢を連れて洗濯室を立ち去った。

「おいらも仕事に戻るとするよ! 制服をクリーニングに出す方法は、後でシャルロくんから聞いておいてね!」

 ベッキーが作業机に山と積まれたメイド服に向き合う。
 クリーニング自体は外注でも、仕分けや補修などはランドリーメイドが行っているらしい。
 派手そうに見えるベッキーの仕事も、大半は地味な作業の積み重ねなのだろう。

 ここに長居しても、ベッキーの邪魔になるだけだ。
 今のコリンに手伝えることはない。
  ハウスキーパーが去って気が緩んだのか、ふわぁとコリンが欠伸を噛み殺した。
 シャルロがコリンを見上げて柔らかく微笑む。

「さて、わたし達も早めに寝るとするデスよ」

「実は気になってたんだけど、俺ってどこで寝ればいいの?」

「ご心配はいらないのデスよ。コリン様の客室は用意してあるのデス」

「それって客人向けの部屋だよね?」

「もちろんなのデス。コリン様が使用人になってくれるなんて、誰も予想していなかったのデスよ」

 考えてみれば当たり前の流れだった。
 メイド達は今回の来客に備えて、ずっと前から準備を進めていた。
 例えば客室のベッドなどは害虫対策として、一度ばらばらに分解して磨き直した上で、組み立てているそうだ。

 彼女らの労力を無駄にしてしまうのは心が痛む。
 それでもコリンとしては、制服をオーダーメイドで仕立ててもらうことに引け目があった。
 せめて寝室ぐらいは、メイド達と同じ環境に身を置きたい。
 コリンが決意を伝えると、シャルロは目を丸くして驚いた。

「大丈夫なのデスか? あまり無理しない方が良いのデスよ?」

「これでも俺は、帝国軍に所属している身だよ? 屋根と壁があるだけ、野宿よりマシだって」

「あは。それは男らしくて素敵なのデスよ」

 本音では、ふかふかのベッドはやはり恋しい。
 しかし、シャルロだって使用人部屋で生活をしているはずだ。
 シャルロに出来ていることを、出来ないとは言いたくなかった。



[22783] 3-8. メイド長4
Name: arty◆ecc17069 ID:fdba9074
Date: 2013/07/29 00:56
 使用人ホールに戻ると、スージーからドアサインのプレートを渡された。
 見てみると、『ドント・ディスターブ』と書かれている。
 入室禁止という意味だ。

「コリン様のお部屋は、フレデリカ様のお部屋の隣に用意してあります。お休みになる際には、そちらのプレートをご利用下さい。あたし達は決してお二人の邪魔は致しませんからご心配なく。何かあればベルでお呼び下さい」

「え? 意味が分からないんだけど」

 スージーが目を逸らして、少し頬を赤くした。

「わざわざ言わせないでよ。これってセクハラよね?」

 本気でスージーは恥ずかしがっている。
 ようやくにして、コリンも隠された意図を察することが出来た。

「ものすっごい誤解されてるーーーーッ!」

「だってフレデリカ様とは恋仲なんでしょ? それぐらいの気遣いはするわよ」

「ねーーーーよッ! なにその発想、気持ち悪い!」

 焦りすぎて思わず叫んでしまった。
 ちらりと想像しただけでも寒気がする。

「本当に勘弁してくれないかなッ? 俺と先輩との間に、そーいうのは一切ないから! どっちかと言うと俺は、先輩の保護者とかそんな感じだよ!」

<人がいないと思って、好き勝手言うのは止めたまえ! 誰がボクの保護者だよ! 逆だよ、逆!>

 脳裏にフレデリカ先輩の声が割り込んできた。
 通信法術だ。
 どうやらコリンの聴覚は共有されたままだったらしい。

「先輩、無断で接続しないで下さいよ。俺にもプライベートの時間ってやつが欲しいんですけど」

<は! 君にそんな自由がある訳ないだろう! とにかく君の暴言については、深くボクの心に刻みつけておいたからね。この件は後できっちり教育しなおしてあげよう。覚悟しておくことだ>

 ぶつり、と通信法術が一方的に切断される。
 しかし監視されている気配は残ったままだ。
 恐ろしい。
 こんな規格外れの相手に、恋愛感情を抱くなど有り得なかった。

「せっかく立派な寝室を用意してくれたのに悪いんだけどさ。出来れば俺も、みんなと同じような部屋に泊めてもらえない? どうせなら徹底的に、使用人の生活に馴染んでみたいんだ」

「本気ですか? 後になってからクレームを付けて、あたしを陥れるつもりじゃないでしょうね?」

「そんなに俺の性格、悪くないからね! 自分の言葉には責任持つよ!」

「はあ、仕方ないわねー」

 嘆息するスージーは、明らかに気乗りしない様子だ。
 しかし、思ったより抵抗はされなかった。
 あらかじめ使用人向けの寝室も用意はしてあったのだろう。

「分かりました。それではコリン様の寝室は、シャルロちゃんと相部屋でお願いします」

「わあ! 本当なのデスか! わたしにもようやくルームメイトが出来るのデスよ!」

 無邪気に喜んだのはシャルロだ。
 本来なら下級使用人は二人部屋が基本となる。
 ところが今までは男性使用人に端数が出て、シャルロはずっと一人だったらしい。
 一方のコリンは、思いも寄らない展開に戸惑っていた。

「あれ? え? ちょっと待って、それってマズくね?」

「マズいわよ。あたしは大反対ね。でも、男性使用人の部屋割りはミスタの管轄だし。あたしも口出し出来ないのよ」

 憎々しげにスージーが説明する。
 中間管理職であるメイド長の職権は、コリンが思っていたより限定的なのだという。
 男性部門はバトラー、キッチン部門はコックと、同じ使用人でも責任区分は縦割りに分かれているそうだ。
 不満顔のスージーはコリンを睨み付けてきた。

「いい? シャルロちゃんに手を出したら、あたしが許さないからね? 変な気起こしたら、その股間を蹴り上げてやるわ」

「ひっ」

 スージーの脅しに、コリンが青ざめる。
 冗談を言っているようには見えなかった。
 フレデリカ先輩もそうだが、コリンの周りには凶暴な女性ばかりが集まってくる気がする。
 癒やし系のシャルロだけが、コリンの心の支えだった。

「早速、客室に届いている荷物を、屋根裏まで運ぶのデスよ。スージーお姉ちゃん、おやすみなさいなのデス」

「シャルロちゃん、気を付けるのよ? 身の危険を感じたら、相手が公爵家だからって遠慮しなくていいからね?」

「あは。そんな心配はいらないのデスよ。コリン様は紳士なのデス」

「甘い! 甘すぎるわ! 貴族の連中には、特殊な性癖を持ってる輩が多いのよ! 子供だからとか、男の子だからとか、そんなの襲われない理由にならないわ!」

「いやいやいや。それはゴシップ記事の読み過ぎだから。貴族にも色々だからね? 全員が変態ばかりじゃないからね?」

 スキャンダルで誌面を賑わす貴族には、変わり者が多い。
 貴族に偏見を持たれる一因だ。
 スージーもすっかりそうした偏見に毒されているらしい。
 もちろん貴族本人であるコリンの抗弁など、聞いてくれるはずもなかった。

「それではコリン様、お休みなさいませ。あー、明日になったら、あんたの存在が消えてないかしら」

「おやすみ、スージー。明日からもなるべく穏便に頼むよ」

 乾いた笑みを浮かべながら、コリンは返事を返した。
 洗濯室で彼女の上司であるハウスキーパーに相談しなかったことを、少しだけ後悔しそうになる。
 どうすれば凝り固まったスージーの心を溶かすことが出来るのか。
 解決策はすぐには思い浮かびそうになかった。



[22783] 3-9. 階下の世界3
Name: arty◆ecc17069 ID:bed63d4c
Date: 2013/08/05 01:16
 帝国社会ではメイド達のことを、階下の人々と呼ぶ。
 その名の通り、彼女らの寝室は半地下フロアに配置されることが多い。
 ヘイウッド邸も例外ではなく、スージーを初めとしたメイド達の寝室は地下に並んでいた。

 一方で、男子部屋は女子部屋から離すことが望ましいとされる。
 シャルロの寝室にも、屋根裏部屋が割り当てられていた。

 客室に運ばれていたコリンの荷物を持ち出して、裏階段から屋根裏フロアへ上がる。
 殺風景な廊下を進んだ先が、目当ての部屋だった。

「さ、どうぞ。遠慮なく入ってくださいデス!」

「失礼しまーす」

 屋根の真下だけあって、天井が大きく傾いていた。
 慣れるまでは圧迫感を覚えてしまいそうだ。
 申し訳程度に出窓が付いていて、月明かりが射し込んでいる。
 半地下フロアより風通しは良さそうだった。

 飾り気のない室内は、寝るためだけの場所という表現がぴったりくる。
 スペースの大部分を占めているのは、木製の二段ベッド。
 後は小さな机と洗面台があるぐらいだ。

 コリンは持ち込んだ荷物を、ベッド下の収納スペースに放り込んだ。
 テールコートを脱ぐと、どこに掛けようかと視線を彷徨わせる。
 そこで、ぎょっとしたコリンの動きが固まった。

「シャルロちゃんッ?」

 ふと見ると、シャルロもメイド服から寝間着に着替えている。
 今は丁度、スカートから足を引き抜いたところだ。
 シャツの下はパンツ一枚という姿で、スカートを持ったままのシャルロが微笑む。

「あは。
 ハンガーなら壁に余ってるのデスよ」

「ぶはッ」

 慌てて目を逸らしたコリンだったが、一瞬だけシャルロの生足が見えてしまった。
 早く何か着てくれないと、直視することが出来ない。

「それからコリン様、二段ベッドは上と下、どちらを使うデスか?」

「下を使わせてもらおうかな!」

 手早く自分の着替えを済ませると、コリンはベッドに潜り込んだ。
 やばい。
 シャルロちゃんが無防備すぎて、色々な意味で危険すぎる。

 覚悟はしていたが、ベッドの寝心地はやはり良くなかった。
 板張りに薄いマットを敷いただけの簡素な造りで、スプリングも仕込まれていない。
 ただ、シーツなどは清潔に保たれていた。

 とりあえずシャルロの方向を見ないようにして、精神を落ち着かせる。
 着替えを終えたシャルロが、小さな椅子に座って銀髪にブラッシングを始めた。
 それぐらいのタイミングで、勢い良く寝室の扉が開け放たれる。

「シャルロ! 一緒に寝よう!」

 やって来たのはシェリー嬢だった。
 ピンクのベビードールは、ほとんど下着姿と変わらない。
 ブラシの途中だったシャルロが、目を丸くする。

「シェリー嬢様、どうされたのデスか?」

「うむ! なかなか寝付けなくてな! ミセスの目を盗んで、シャルロと寝にきた!」

「女の子が無防備すぎなのデスよ! わたしだって男の子なのデスから。そこを意識してくれないと困るのデス」

「狼のように私を襲うのか! シャルロ相手ならいつでも大歓迎だぞ!」

「いえ、しないデスけどね」

「それは残念だ。まあ良い。下のベッドを借りるぞ。安心しろ、夜這いなどは企んでいないぞ?」

「あ、シェリー嬢様、そっちには」

 シャルロの忠告は間に合わない。
 ベッドに潜り込もうとしたシェリー嬢は、そこに居たコリンと目が合った。

「ぎゃーーーーーーーーッ」

「ぎゃーーーーーーーーッ」

 可愛い顔を真っ赤にさせたシェリー嬢が、シーツをはぎ取って自らのベビードール姿を隠す。
 シャルロ以外の男性には、人並みの羞恥心も持っているらしい。

「な、ななな、何でコリン殿がここにいるのだッ!」

「だって此所、俺の部屋だよ?」

「ありえーーーーんッ、ミスタは何を考えているのだ! そんなことが許されるなら、私だってシャルロと同じ部屋がいいぞ! コリン殿、私と代われ!」

 地団駄を踏みながら羨ましがるシェリー。
 残念ながらこれは、使用人身分に転落したコリンに天が与えてくれた役得だ。
 いくらシェリーが悔しがっても、代わってやる義理はない。

 そこでさらに扉が開かれ、二人組のパジャマ少女が現れた。

「やっほーー! シャルロちゃん遊びに来たよー!」

「ごめんね~。リリちゃんがどうしてもって言うから~」

 栗色の髪をサイドアップにまとめた元気な女の子はリリ。
 おっとりしたくせっ毛の少女がエリカというらしい。
 シャルロと同様に、ヘイウッド邸で働くジュニアスタッフということだ。
 上体を起こしたコリンは、軽く手を挙げて挨拶をする。

「やあ、はじめまして」

「ぎゃーーーーッ! 変な人が居るーーッ?」

 コリンの存在に、完全に意表を突かれたらしい。
 リリが悲鳴を上げた。
 エリカの方など、一目散に逃げ去ってしまった。

「エリカちゃん逃げるの速ッ。シャルロちゃんまたね! 今夜のところは撤収ーーーーッ」

「ちょ、待つのだ! 私を置いていくな!」

 エリカを追うようにして、リリとシェリー嬢も逃げていく。
 露骨すぎる避けられっぷりに、コリンはしょんぼり落ち込んでしまった。
 そんなコリンに、シャルロがきらきらと羨望の眼差しを向ける。

「コリン様、すごいのデスよ! リリちゃん達を、目を合わせただけで撃退しちゃったのデス! わたしには真似できないのデスよ!」

「俺ってさ、そんなに怖い人に見える?」

「とっても心強いのデスよ! コリン様がいれば、リリちゃん達のいたずらに悩まされることもないのデス」

 シャルロが無邪気に喜んでくれるのは嬉しいが、さすがにこれはキツい。
 子供に嫌われるのが、これほど心にくるとは思わなかった。
 思わず涙ぐんでしまう。

「あ、そうなのデス。ひとつ、言い忘れてたことがあったのデスよ」

「ん? 何?」

 すっかりブルーな気分になっていたコリンが、力なく顔を上げる。

「ようこそ、ヘイウッド邸へ! これからよろしくなのデスよ」

 重い気持ちを振り払うように、ふうーーーーっとコリンは息を吐いた。
 シャルロの笑顔には救われてばかりだ。
 不安ばかりが先行する使用人生活も、シャルロと一緒なら楽しくやっていけるだろう。
 立ち直ったコリンが、二段ベッドの下から手を差しのばした。

「ありがとう。こちらこそ、よろしく頼むよ」

「はい!」

 コリンの手を、シャルロの小さな手が握り返してくれた。
 芝居がかった流れがおかしかったのか、シャルロがくすくすと笑う。
 そのあまりの可愛さに、どきりとコリンの心臓が跳ねた。

「それではおやすみなさいなのデス、コリン様」

 シャルロがランプを吹き消し、月の淡い光だけが室内を支配する。
 使用人の朝は早い。
 二段ベッドの上に登ったシャルロは、早々に寝入ってしまった。
 すーすーという寝息と、衣擦れの音がする。

「ね、眠れるかーーーーっ」

 板一枚を隔てたすぐ上にシャルロがいると思うだけで、どうしても意識してしまう。
 身体は疲れ切っているのに、とても寝付けそうにない。
 使用人として迎える朝が、刻一刻と近付いていた。



[22783] ▼▼▼ 4-1. 回想(帝歴261年冬)
Name: arty◆ecc17069 ID:f3177869
Date: 2013/08/11 00:53
 これほどの猛吹雪は記録的にも珍しい。
 城塞都市ローアンの最奥部。
 城館の中に設けられた隠し部屋にも、外の寒気が浸み込んでくるようだった。

『寒い』

『こちらへお寄りください。二人なら少しはマシなのですよ』

 少女は少年と、寄り添うようにして一枚の毛布にくるまっていた。
 息が掛かるほど近くにいながら、お互いの顔を見ることも出来ない。
 窓一つない隠し部屋。
 暖炉の火は消されており、互いの体温だけが心の拠り所だ。

『もう少しで夜明けなのです。明るくなる頃にはきっと、帝国軍も撤退していくのですよ』

 少年の言葉が気休めに過ぎないことは、少女も察していた。
 外界と完全に遮蔽された隠し部屋であっても、攻勢法術の振動からは逃げられない。
 腹の底からずしんと突き上げるような衝撃と共に、天井から剥がれた漆喰がぱらぱらと落ちてくる。

 城館が直接法撃を受けているのだ。
 それは城塞都市の防壁法術が破られたことを意味していた。

 帝国軍が城塞都市ローアンの攻略を開始して、既に一年近くが経過している。
 圧倒的な戦力差で押し寄せてきた帝国軍に、城塞都市は予想外の抵抗を見せた。
 緒戦で壊滅的な損害を被った帝国軍は、当初の勢いを失うことになる。

 状況が一変したのは、半年ほど前のことだ。
 新たに帝国の師団司令官として大抜擢された青年は、帝国軍を一旦引かせて立て直しを図った。
 表向きはローアンとの開城交渉を続けながら、その裏では王国連合の勢力分断に力を注いだ。

 恐らく周辺諸侯からの援軍は来ない。
 それだけの下準備を、帝国司令官は着実に進めていた。
 勝利を確信したからこそ、帝国軍は再び攻勢を仕掛けてきたのだ。
 城塞都市ローアンは、孤立無援のまま陥落する。

 ごとり、と隠し扉の外される音がした。

 暗闇にオレンジ色の強烈な光が差し込み、思わず少女と少年が目を閉じる。
 明かりに目が慣れると、隠し扉の外が炎の海に包まれていることが理解できた。

『最早、これまででございます』

 隠し部屋に入ってきた大人達は、皆が傷ついていた。
 先頭に立つ初老の男性は、苦渋の表情を浮かべている。
 その後ろに立つのは、帝国から幻狼の魔女と恐れられている女性だ。
 全身を鮮血に濡らしたその姿は、ぞっとするほど美しかった。

『ギイ、こっちに来るんだ。お前にしか出来ないことがある』

 魔女が少年の名を呼ぶ。
 少年が腰を浮かせた。
 行かせてはいけない。
 根拠もなく直感で少女は悟った。
 ここで行かせてしまえば、もう二度と取り返しが付かなくなる。

『待て! わたしの側を離れるな! 約束しただろう、お願いだッ!』

 抵抗する少女に、少年は寂しげに微笑んだ。

『大丈夫です。大丈夫なのですよ』

 繋がれた手が、ゆっくり解かれていく。
 呆然とする少女の目前に初老の男性が跪き、少年は魔女と共に場を去った。

『お嬢様、ひとつお聞かせいただきたい』

『ギイを呼び戻せ! ギイがいなければ、わたしは駄目なのだ!』

『落ち着いて下さいませ、お嬢様。大切なことなのです』

 少女の両肩を強く掴み、初老の男性は噛みしめるようにして単語を紡ぐ。

『名誉ある死と、死よりも苦しい生。どちらをお望みになりますか。私共はお嬢様の意志に従いましょう』

 迫られる決断。
 少女と少年はひとつの選択をした。



[22783] 捕捉 キャラクター紹介
Name: arty◆ecc17069 ID:800903ca
Date: 2011/09/11 23:46
(キャラクター紹介)

◆ 帝国軍務省

・フレデリカ・ショーター
 客人(ゲスト)。ルーンベリー公ショーター家の令嬢。
 帝国軍務省>作戦局>特務四課の課長代理。上級二等官。

・コリン・イングラム
 客人付きの従者(フットマン)。スリス公イングラム家の嫡孫。
 特務四課の班員。三等官。


◆ ヘイウッド邸(階上の人々)

・フローマス伯爵
 御主人様(マイロード)。
 ヘイウッド家の当主。ウィルとシェリーの実父。帝都滞在中。

・シェリー・ヘイウッド
 お嬢様(レディ)。
 フローマス伯ヘイウッド家の末妹。当主代行。


◆ ヘイウッド邸(階下の人々)

・ミスタ
 ヘイウッド家の執事(バトラー)。男性使用人の責任者。

・シャルロ
 ヘイウッド家の小姓(ペイジ)。伝言役を担当。
 子供使用人の一人。

・ミセス
 ヘイウッド家の家政婦(ハウスキーパー)。女性使用人の責任者。

・スージー
 ヘイウッド家のメイド長(ヘッド・ハウスメイド)。家事全般を担当。

・リリ
 ヘイウッド家の家女中(ハウスメイド)。清掃を担当。
 子供使用人の一人。スージーの実妹。

・ローザ
 ヘイウッド家の客間女中(パーラーメイド)。接客を担当。

・ベッキー
 ヘイウッド家の洗濯女中(ランドリーメイド)。服飾を担当。

・メリッサ
 ヘイウッド家の台所女中(キッチンメイド)。調理を担当。

・エリカ
 ヘイウッド家の洗場女中(スカラリーメイド)。洗い物を担当。
 子供使用人の一人。


◆ フローマス騎士団

・ウィリアム・ヘイウッド
 フローマス伯ヘイウッド家の長兄。フローマス騎士団長。
 帝国軍>王都方面軍>フローマス連隊の連隊長。少佐。ローアン駐留中。

・バーナード
 フローマス騎士団の従士。
 ウィルの専属副官。連隊先任軍曹。ローアン駐留中。

・メイヴィス
 フローマス騎士団の正騎士。
 帝国軍>本土国防軍>フローマス駐屯大隊の小隊長。少尉。


◆ フローマス住民

・マルク
 東街区のパブ「王国の夕暮亭」のオーナー。ルノワールファミリー幹部。

・リュシー
 東街区のパブ「王国の夕暮亭」のウェイトレス。マルクの義妹。


◆ その他

・ローアン伯爵
 王国連合ローアン伯爵領の領主。故人。

・少女
 ローアン伯爵の一人娘。故人。

・少年
 少女の従者。生死不明。

・カルティエ
 ローアン伯爵家の守護聖人。
 帝国側からの通称は、ローアンの魔女。生死不明。


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