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[21803] みんなで、ゼーレを倒そう!
Name: ふたば草明◆c7ec2017 ID:79d97c37
Date: 2010/09/10 05:55
どことなく見覚えのある職員の先導で司令室へと続く廊下を歩く綾波レイは、自分の心が驚くほど穏やかに落ち着いているのを感じていた。

(何故…?)

そっと、自問してみる。
司令室で自分がどんな目にあうかなんて、分からない。
でも、そこで自分たちを待っている人たちの事は、本当によく知っているのだ。
にも関わらず、こんなに落ち着いていられる自分がとても不思議だった。

扉を開けた瞬間、葛城一尉に撃たれるかも知れない。私は使徒ではないから仇と見られる謂れはないのだけれど、彼女にとっては些細な事だろう。
あるいは、赤木博士に首を絞められるかも知れない。私は人ではなかったのだから妬まれるのは筋違いだけれど、理性で割り切れるものではないだろう。
そして…碇司令。私はあの人とは違うのだからそれを分かって欲しいのだけれど、彼の抱える妄執がそれを認めることをまだ許さないかも知れない。

(そこまで分かっていて、何故私は怖くないの…?)

自分には代わりがいるからだろうか、と少し自虐的な事を考えてみる。
いや、そんな事は関係がない。もし本当に殺されそうになったら、騒いで、抵抗して、逃げて、どんなにみっともなくても生き延びたいと思う。
それは即ち、今の感情に、今の記憶に執着があるという事の確かな証だ。次の綾波レイになって復活すればそれでいい、などとは到底思えない。

自分には感情の起伏が少ないからか、と寂しい考えも浮かんでくる。
だが、それもどうやら違うように思える。このやわらかな安堵感は、もっと生命としての根源的なところから来ている気がする。
例え恐怖感というものを自覚していなかったかつての自分であっても、この心持ちは変わらなかった事であろう。

では、あの終末で彼らの心を知ったからか?
それはある、と思う。
限りない弱さと果てしない悲しみを抱えた彼らに対して、怖れるのではなく優しさをもって接したいという思いを、レイは確かに感じていた。
それはもしかしたら自分の気持ちではなく、リリスの持つ母性の残滓なのかも知れないけれど。

(でも、本当にそれだけ…?)

「ここを曲がったら、すぐだよ」
職員の声に、レイの意識が現実に引き戻される。自然に、職員の後ろ、レイの前を歩いていた少年の背中に視線が注がれる形となった。
その視線を感じたのか、少年が振り向いた。

彼と…碇シンジと、目が合う。

(あ…!)

レイには、分かってしまった。
何故こんなにも心が穏やかなのか。
自分も彼も自我境界を保っているのに、まるで彼に包み込まれるような温かさを感じられるということ。
それは、碇シンジが自己を認め、他者を怖れず、生を厭わずに生きるという事を始められた証左なのだ。
姿勢が悪いわけではないのにどこか自信の無さそうな歩き方も、常に少し困ったような表情も、前と変わっていない。
けれども、レイにはその変化がはっきりと感じられた。

ほんの一瞬の視線の邂逅の後、シンジはやっぱりちょっと困ったような…それでいて優しい笑顔をレイに向け、すぐに前を向いて歩き始めた。
レイも、後を追って歩みを進める。

ここへ至るまで、まだレイはシンジと全く話をしていない。
司令室にて待機という命令を無視して、メインゲート前で彼の到着を二時間近くも待っていた。
葛城一尉がどこにも出かけていないのは人づてに聞いていたから、電車を乗り継ぎ、徒歩でやって来るだろうと当たりをつけていたのだ。
果たしてシンジが僅かな手荷物を持って現れたその時、レイは自分でも正体の分からない感情が体中を駆け巡るのを感じた。

走り寄って、彼に抱きつきたい。
今の私の最高の笑顔で、おかえりなさいって言いたい。

訝しがられるわけにはいかなかったから、もちろん人の目が有るところでそんな事はしなかったけれど。
恐らくは同じような考えだったのだろう、シンジも控えめにレイに手を振っただけだった。

だから、レイにはシンジがどんな気持ちでここへと帰ってきたのか分からず、それが最初とても不安だった。
自己を認められず、ただ流されるままに全てを繰り返そうとしている?
他者を怖れて、愛されることを拒んで全てを裁こうとしている?
それとも、生を厭うあまり、死と終末への衝動のみに突き動かされている?
自分に手を振ってくれた程度では何も分からない。どれも十分に有り得る思考なだけに、レイは本当に心配だったのだ。

だが。

シンジはほんの少しだけ心を開いて、帰ってきた。
後ろについて歩いていただけでいつの間にかレイの不安は霧散し、心は穏やかさのみで満たされていた。
別に特別な力ではない。シンジは心を開いて、群体の中の個という存在のまま進化を遂げたかも知れないけれど、それでもちっぽけなリリンに過ぎないのだ。
まだ会話もしていないけれど、レイにはそれがとても嬉しいことだと感じられた。
彼が心を開いたことが。そして何より、彼が人という殻を捨てなかったことが。

「さあ、ここだ」
職員の足が止まる。レイはもちろん、シンジにとっても初めてではない司令室の扉。
この奥には、葛城ミサトが、赤木リツコが、碇ゲンドウがいる。
でも、何も怖くは無かった。

(きっと、全ては変えられる)

自分とシンジだけではない。ネルフの皆が、第3新東京市の皆が、そして世界中の皆が心を開いてくれる日が来ると、レイには確かに信じられた。

「失礼します。ファーストチルドレンと例の少年をお連れしました」
真面目な性分なのだろう、職員が直立姿勢で告げる。
「うむ。通してくれ」

「…あ。」
思わず声が出た。
「どうしたの?」
レイの不思議な声を聞いたシンジが、その顔を覗き込む。レイはしばし逡巡したあと、どこかきまりが悪そうにぼそっと言った。

「…副司令の存在を、すっかり忘れていたわ」





綾波レイのそのあまりといえばあまりな発言を聞き、思わずシンジは頭を抱えたい思いにとらわれた。

(綾波、全く怖くないのかな)

今の言葉を聞く限り、恐らくはそうなのだろう。明らかに表情が豊かになっているとはいえ、レイが恐怖に怯える姿はあまり想像できなかったが。
自分はとてもそんな風にはなれない、とシンジは思う。
あの絶望のほとりで人々の心に触れ、シンジは本当に色々なことを考えた。
自分の知らなかったこと。知ろうとしなかったこと。どうすれば良かったのか。どうしたいのか。
知ることは、考えることは苦痛でもあった。果てしない思考のもたらす幻影の中で、何度アスカに当り散らしたことだろう。数えたくもなかった。
だが、自分がここに、この時に帰る選択をした時のことははっきりと覚えている。そしてそれは、相当な決意を伴うものだったはずなのだ。

(きっと僕は何も変わっていない。でも…)

目を閉じて、深呼吸を一つ。
目を開く。
いつの間にか開けられていた扉から、一歩を踏み出す。
レイが続き、そして扉が閉まる気配。

(でも、逃げちゃだめだ)

そして、会談が始まる。
それが未来のためのものか、空しい罪の糾弾か、それとも殺戮の場となるのか、シンジには全く分からなかった。





「意外と早かったな」
最初にシンジに声をかけたのは、哀れにもレイに忘れ去られていたことなど露ほども知らない冬月コウゾウだった。
「君も昨晩、こちらへ来たのだろう?」
こちら、というのは第3新東京市の事ではない。そんな事はもちろんここにいる皆が分かっていた。
はい、とシンジは簡潔に答えた。以前とあまり変わらないその口振りに安心したのだろう、次に口を開いたのは赤木リツコ。
…何故か、腕を包帯で吊っている。松代なんていう時期じゃないはずだけど、とシンジは僅かに首を傾げた。

「元気そうで安心したわ…もちろん、本心よ?」
隣に立つ葛城ミサトのきわめて微妙な視線に気づいて途中で言葉を付け足したその不器用さは、何故か好ましいものに思えた。
「戻ってきたのは、他には誰なのかしら?」
リツコのその質問に、シンジはゆっくりと、ここにはいない大切な人たちの名前を口にする。
「アスカと、加持さんと…カヲル君です」
ミサトの表情が変わったのが分かった。愛する人と『使徒』である彼の名と、どちらに反応したともとれるタイミング。
だが、シンジにもレイにも、それが前者であることが感覚として分かった気がした。

「何故その面子なのか、教えてもらえるかね」
再度の冬月の質問は、シンジが全く予想していないものだった。
補完後の状況を客観的に見るならば、それは確かにシンジの人選という事になるのだろう。
だが、シンジ自身に選んだという意識など無い。あれは何というか…そう、もっと魂の呼ぶ声というか…

「帰ってきたのは、罪のある人たちよ」
突如、響く声。綾波レイだった。
「でも、それだけじゃない。碇君が本当に愛していた人たちでもあるわ」

ミサトが、静かに泣き崩れた。リツコの表情も、万感の思いに歪んでいた。
「…なるほど。道理だが、光栄なことだ」
そう言った冬月の声も、ほんの少しだけいつもと違うように感じられた。
シンジはといえば、確かにそう言われればその通りかもしれないなどと考えながらも、唯一変化を見せない父を正面から見つめていた。
シンジとて、この再会に胸に迫る思いはある。だが、まだ感傷に呑まれるわけにはいかないのだ。
十秒、二十秒。ミサトの声が完全に聞こえなくなったその時、その男は…碇ゲンドウは、初めて口を開いた。

「お前の望みは、何だ」

互いの心の全てに触れてもなお、シンジには父の今の考えが分からない。それなら言葉を尽くすしかない。それがリリンである事を選んだ自分の責任なのだから。

「望みは、二つあるんだ。一つは、あの終末を回避すること」
ミサトが、他の三人を複雑な顔で見やる。無理もない事だが。
「そしてもう一つが、使徒と共存していく事だ」
今度は、冬月とリツコがミサトの方を見た。慌てて視線を逸らすミサトの様子が可笑しかったのか、レイが僅かに微笑を漏らす。空気が和らいだ気がした。

「それはアレ?『彼』だけじゃなくって全ての使徒と、ってコト?」
よく見ると、ミサトは額に絆創膏を貼っている。もしかして、リツコとの間に何かあったのだろうか。
「…はい。『彼』も他の使徒も、それに人間同士も本当の意味で共存していけたら、素敵だって思うんです」
「一つになるのではなく本当の意味で共存する、か。それが一番難しいのかもしれないわね。でも…」
リツコはそこで言葉を区切ると、晴れやかな表情で言った。

「確かに素敵なことね」
何も付け足さなくともその言葉に偽りはないと、シンジはそう思ったのだった。

「お前はどうするのだ、碇」
冬月が尋ね、自然と全員の眼がゲンドウに注がれる。それでもなお怯んだ様子など見せずに、ゲンドウは再びシンジに問うた。
「その為に力を尽くす覚悟は、あるのか?」
余計なことは考えず、真摯に答えを返す。
…父さんに、心を伝える。
「うん。あるよ」

またも沈黙。十秒、二十秒。そして三十秒、四十秒。
静寂に耐え切れなくなったミサトが何かを言おうとしたまさにその時、ゲンドウが手を伸ばし、机の上の内線電話を取った。

「…碇…?」
冬月の声を気に留める様子も無く、受話器に向かって言葉が紡がれる。
「私だ。回線をオープンにしろ。重要な通達がある」
どうやら、保安部員を呼んで今すぐ始末しようというわけではないようだ。それにしても、通達?それは今の話と関係があるのだろうか。
周りを見ると、皆が皆、ゲンドウの様子を見つめている。あの終末を見てこの男が何を考えたのか、それが次の言葉で明かされる。そんな予感が全員にあった。





そして。





「司令の碇だ。全職員、手を止めて聞け」

不器用に。

「…本日を以て私は司令の座を退く」

とっても不器用に。

「後任はサードチルドレン、碇シンジがパイロットと兼任する事となる」

我が子の願いを後押しする、父の心が。

「まだ子供だが、皆で支えてやって欲しい」

その愛が。

「…以上だ」

吐露されたのだった。





「冬月。弐号機とセカンドは最速でこちらへ回させろ。多少荒っぽい事になっても構わん」
受話器を置いてなお言葉を続けるゲンドウの心は、穏やかだった。別に不思議な事ではない。シンジの顔を見た瞬間から分かっていた事だ。
「赤木博士、ゼーレはすぐに動く。ハッキングに備えてMAGIの防壁を強化しておけ」
誰からも返事は無いが、辞意を表明した途端に反抗というわけでもなかろう。
自分以外の全員が唖然としている雰囲気が伝わってきて、いい気味だ、などと相も変わらずひねくれたことを考える。
「葛城一尉。使徒の殲滅ではなく、使徒との意思疎通を目的として、作戦の見直しを急げ」

言いたいことだけを言い終わると、ゲンドウは席を立った。
(俺がやるべき仕事は、もうここにはない)
セフィロトの樹を見上げつつ、出口へと足を向ける。
…この期に及んで、シンジの顔もまともにみられない自身に対する苛立ちを隠しながら。

「待ってよ、父さん」
声が、掛けられる。
「まだ、父さんの望みを聞いてないよ」
足を止め、振り向く。シンジの瞳は、ゲンドウを真っ直ぐ捉えていた。

「初号機は、ユイの…形見だ。壊すな」
あえて口に出した。形見、と。
悲しみはある。だがそれは濁ったものではなく、どこまでも澄み切ったものだった。
「それが、父さんの願いなんだね」
シンジが笑った。ユイによく似たその笑顔を見て、ゲンドウは自分があの妄執から脱したことをようやく実感したのだった。





「やれやれ、極端なところは全く昔と変わらんな」
司令の座を退くという衝撃の発言以降、完全に固まっていた冬月の一言。それをきっかけに、司令室の時間も再び動き出した。
「…え?シンちゃんが上司になるって事?…マジで?」
目を白黒させるミサト。そんな様子に少し苦笑した後、リツコはゲンドウに向かって問いかけた。
「司令…いえ、前司令。これからどうなさるおつもりですか?」
その質問に、ゲンドウはびくっと身体を震わせる。

…異様な間。
(あら?私、変なことをいったかしら?)
改めて問い直そうとしたリツコを片手で遮って、ゲンドウは口を開いた。

「…故人との繋がりと現世の絆は区別されるべきだ。
 私はこれから、ここを離れる。内閣の取り込み、ゼーレに代わる経済面での支援組織との交渉などは私にしかできんのでな。
 今でもまだ君の心が変わっておらず、私が全てを終えて戻ってくるまで待っていてくれるというのなら…」

ここまで早口でまくしたてるゲンドウをかつて見たことがあっただろうか。
ゲンドウが次に言おうとしている事を肌で理解しつつ、リツコはぼんやりとそんな事を考えていた。

「…その時は、私の妻になって欲しい」

「……」
「……」
「……」
「…なあ碇。私には、赤木博士が単にお前の今後の行動を聞いただけのように聞こえたんだが?」

「碇前司令、自爆したのね」

レイの一言で、司令室は笑いの渦に包まれた。打算も含みも無い、本当の笑顔で。
ああ、やはり帰ってこられて良かったと幸せを噛み締めつつ、リツコは後ろを向いて肩を震わせているゲンドウの元へそっと近づき囁いた。

「ええ、いつまでもお待ちしておりますわ」





逃げるようにしてゲンドウがこの部屋を立ち去った後、ミサトもリツコも冬月も、ほんの二言三言を交わすとすぐに出て行った。
もちろん、ゲンドウの司令としての最後の命令を遂行するためだ。
今回のことはすぐにゼーレにも伝わるだろう。独断での司令交代に、使徒に対する方針の大転換。ネルフの翻意はもはや隠せない。
かつての通りなら第三使徒の襲来が明日に迫っていることも含めて、全てが急ぐべき案件であると、シンジにも分かった。

「それにしても、司令なんて実感が湧かないや」
ぽつりと、そう漏らしてみる。
いきなり本部の全職員に告げてしまうゲンドウの強引さのせいもあろう。実感など湧くはずもない。
それでもシンジは、緊張に震えることも重荷に感じることも無かった。

「碇君なら、出来るわ。…月並みな言葉で申し訳ないけれど」
「ううん、嬉しいよ、綾波」
決して喋ることが得意ではないレイが、一生懸命励ましてくれている。それはシンジにとって、何よりも嬉しいことだった。
ふと、レイがまだ何か言いたげなのに気付く。

「…綾波?」





「碇君」
…本当に、今まで色々なことがあった。でも、やっぱり彼と出会えて良かったと思う。
だから言おう。今の私の、最高の笑顔で。

「おかえりなさい」





~つづく~





作者のふたば草明です。更新はゆったりかつ不規則になるかと思いますが、完結目指して頑張ります。よろしくお願い致します。

この作品のジャンルは「ライト・逆行・使徒擬人化・LRAS・アンチへイトなし」となります。
この作品はArcadiaエヴァ板での発表を前提としており、原作に登場する人物、用語、設定の説明は割愛してあります。御了承下さい。



[21803] 1.ネルフの人々
Name: ふたば草明◆c7ec2017 ID:79d97c37
Date: 2010/09/12 21:37
扉の開く気配を感じて、発令所の面々は話を止め入口の方を見た。
ファーストチルドレンの綾波レイともう一人、少し気の弱そうな少年がそこに立っていた。
顔を合わせるのは初めてだが、数日前に公開されたデータによってその素性は分かっている。

サードチルドレン、碇シンジ。碇ゲンドウの息子。そして…特務機関ネルフの新司令。
…第三新東京市への到着は明日になるだろう、と聞いていたのだが。

「作戦局第一課所属、日向二尉です」
「情報局第二課所属、青葉二尉です」
同僚の二人が立ち上がって自己紹介するのを見て、伊吹マヤも慌てて後に続く。
「ぎ、技術局第一課所属、伊吹二尉です。よろしくお願い致します」
自らの階級と名前を名乗りながら、マヤは当然と言えば当然な、しかしちょっとだけ失礼なことを考えていた。

(こんな子が司令なんて、本当に大丈夫なのかな?)
普通に考えれば大丈夫なわけがない。先ほど三人で話していたのも、まさにその事だった。

突然の司令交代がオープン回線での通達という乱暴な方法で伝えられた時、戦闘時オペレートのシミュレーション中だった発令所は一時パニックに陥った。
使徒出現が近いはずのこの時期に司令が辞任?
その上、僅か14歳の自分の息子を後任に指名?
親のコネによる就職などというレベルの話ではない。
司令は使徒への有効な対策が見出せない事で人類の未来に絶望し、せめて最後に息子の晴れ姿を見たかったのでは、などと言う者まで現れる始末。
そんな時、日向マコトがこんな事を言い出した。

「一種のカムフラージュなんじゃないか?」

碇ゲンドウ自身が影で暗躍する為に、自分の息子をスケープゴートとして司令職に置いたのではないか。
そして中学生に過ぎないシンジが選ばれたのは、周囲のネルフに対する警戒心を緩和する狙いがあるのではないか、と言うのだ。
「確かにネルフ、嫌われてるもんな」
青葉シゲルの呟きに、あれだけ騒いでいた周囲の者も口を閉ざしてしまった。

ネルフが嫌われるのは、その徹底した秘密主義と保有する戦力、即ち人造人間エヴァンゲリオンが原因だ。
例えそれが人類の未来の為であっても快く思わない者たちがたくさんいるという、それこそがまさに現実。
だからこそ、マコトの推測はかなり核心に近い所を突いているのではないか、とマヤは妙に納得してしまったのだった。

「えっと、碇シンジです。今日から父さんの後を継いで、ネルフの司令になりました。皆さん、仲良くしてくれると嬉しいです」
まるで転校初日の挨拶のような第一声。確かに、この少年に警戒心を強く抱く人間は少ないだろう。
「あの、一つお願いがあります」
シンジは続ける。
「司令といっても僕はまだ中学生で、皆さんよりもずっと子供ですから、名前で呼んで、普通に話して欲しいんです」
その言葉からは、シンジの控えめで繊細な性格が窺い知れた。少なくとも父親似ではない、と多くの職員が思ったに違いない。

「じゃあシンジ君、と呼ばせてもらっていいんだね」
マコトの言葉に、シンジは嬉しそうに頷く。だが、その表情はすぐに真剣なものに変わった。マコトの険しい視線に気付いたからだ。
「シンジ君、無礼を承知で一つ聞かせて欲しい。君はさっき仲良くしたいと、そう言ったね。ここがどんな所か知っていて、言ったのかい?」

…空気が、俄かに緊迫する。
そんな事を言われるとは思ってもいなかったのだろう。シンジは驚きの表情を浮かべている。
大きく見開いた眼がちょっと可愛いかも、などと場違いなことを考えかけて、マヤはかぶりを振った。
この華奢な戦いなどまるで似合わない少年は、一体何と答えるのだろう。

少しの間の後で、シンジが口を開いた。
「使徒が来たら、僕はエヴァンゲリオンっていうのに乗って、ここの皆さんから伝えられる作戦に従って戦うんですよね」
ゲンドウやリツコから聞いたのだろう。サードチルドレンとしてやるべき事はもう分かっているようだ。
「それは、僕の命を皆さんに預けて、皆さんの命を僕が預かるって事だと思うんです。
 だから皆さんと早く仲良くなって、命を預けてもいいと思えるような関係になりたい。そう思って、言いました」

(……!)
目の前にいるのは、戦いなどまるで似合わない少年のはずだ。
そんな彼が、どうしてそんな事を言えるのだろう。そして…そして、自分にはそれだけの覚悟が、果たしてあっただろうか。

「…ふぅ。マコト、お前の負けだよ。ほら、とっとと新司令に謝れ」
シゲルに促されて、マコトが慌てて頭を下げる。
「す、済まなかった。シンジ君を困らせるつもりはなかったんだが、どうにも意地の悪い言い方をしてしまって…」
気にしてませんよ、という風に軽く笑うとシンジはこう言った。

「ただの中学生だったのに突然パイロットをやれだなんて言われた僕が、現実逃避して明るく振舞っているんじゃないかって心配してくれたんですよね?」

今度は、あまりにも的確に心中を言い当てられたマコトが大きく眼を見開く番だった。
(こっちは可愛いっていうより、ちょっと滑稽かな)
今度は完全に失礼なことを考えつつ、マヤは頭の片隅にある一つの考えを浮かべていた。

もしかしたら碇シンジはただのゲンドウのスケープゴートなどではなく、真にネルフを統べるに足る器の持ち主なのではないか?





「はーいレイ、もう服着てもいいわよ。全くの健康体だって」
ミサトの声が聞こえ、レイは上体を起こした。
自らの裸体を見下ろしながら、仕切りの向こう側にいるはずのシンジを何故か意識してしまう。
その心理がどういったものなのか、レイにはまだよく分からなかった。

「にしても不思議ねぇ。零号機の起動実験での大怪我が、あの瞬間に完治してたなんてさ」
確かにその通りだと思う。第三使徒出現の前日といえば、まだ自力で歩くのがやっとだったはずだ。
「別に大したことじゃないわ。どうせ心機一転、元気百倍で頑張ろうっていうレイの心意気に対するささやかな贈り物でしょ」
誰からの贈り物だというのだろう。まるで科学的でないことを平気で口走る科学者の声に、軽く呆れてしまう。
時を遡ったという事自体が科学で解明できないのだから、それに付随するこの治癒現象も解明できないのは当たり前かも知れないけど。
それとも、あれが幸せボケというものなのだろうか?

発令所を後にしたシンジとレイは、すぐに赤木リツコに捕まった。
「レイの診断をしたいのだけれど」
リツコにそう言われ、レイはその時初めて起動実験での負傷のことに思い至った。
昨夜意識が覚醒した後は思考が纏まらず、部屋を抜け出してうろうろとしていたが、本来この時期の自分はまだ完治には程遠かった記憶がある。
「メディカルルームまでついて来て頂戴」
レイの根幹に関わる検査でなければ、地下へ降りる必要は無い。
メディカルルームはあいにく無人であったが、基本コンピュータ任せの検診ならリツコ一人で十分に事足りた。
そこへどこで聞きつけたのか、葛城ミサトがひょっこりと顔を出し今に至る、という次第である。

服を整えて仕切りを開け、顔を出すとそこではシンジとリツコが何やら話をしていた。
「じゃあ、MAGIの方はもう大丈夫なんですね?」
「ええ、支部のMAGIが束になって侵入を試みてもビクともしないはずよ。もっとも、定期的に防壁を組み直す必要はあるけどね」
レイが出てきた事に気付き、シンジがにっこりと笑い掛ける。
「綾波、よかったね」
「ええ。ありがとう」
短く答えながらふとリツコの方を見ると、包帯を巻いていない方の手でキーボードを弄っていた。

ふと疑問に思って訊いてみる。
「…博士、お怪我ですか?」
記憶を掘り返してみるが、この頃リツコが包帯を腕に巻いていたような印象はない。
「ああそれ、僕も気になっていたんです。それにミサトさんも…」
そこまで言ってシンジが言葉を止めた。ミサトもリツコも、何とも言い難いような表情を浮かべていたからだ。
ミサトはちらちらとリツコの様子を窺っていたが、自分からは何も話そうとしないその様子を見て、大きく一つ溜息をつき、語り始めた。

「あたし達も昨日こっちに戻ってきたんだけどね、それがよりによってリツコと飲んでる最中だったみたいでさぁ…」
飲んでる最中?言い方からすると酒の事だろう。レイは当然アルコールの類を飲んだことはなかったが、どういう物かは知っている。それはつまり…。
「程よく出来上がってた所に色んな人の感情やら記憶やらザーッて流れ込んできてさ、ひょいっと横見たらリツコがいるじゃない?
 もう頭ん中ぐちゃぐちゃで、気がついた時には手が出てたっていうか…」

「そ、それでリツコさんの腕折っちゃったんですか?」
その光景を想像したのだろう、シンジの顔が恐怖に歪む。
「ちょっと捻られただけよ、今朝マヤに処置を頼んだのが間違いだったんだわ。あの子ったらまったく大袈裟なんだから」
キーボードから手を離し、ふうっと大きく息をつくリツコ。
「全く、作戦部長とE計画責任者が揃って店からつまみ出されるなんて無様ったらないわ。あなたのせいでもうあそこには行けないじゃない」
「あたしだって血が出るまで顔引っ掻かれたでしょうが。あんたはネコかってーの」
それはちょっと想像が出来ない。隣を見るとシンジはぶるぶると震えていた。

「そう言えば、前に読んだ本の中にあった気がする…」
突然口を開いたレイの方に視線が集まる。
「…色々と対立していた二人の学生が、河原で延々と殴りあった末に何故か仲直りするという話だったわ。あれと同じことなのね」
一人納得するレイ。ミサトとリツコの表情は更に複雑になったが、仲直りという言葉を否定はしなかった。
その事に安堵したのか、シンジもようやく落ち着きを取り戻したようだった。

「ところで」
再びPCに向かいながら、リツコがやや強引とも思える口調で話題を変える。
「あなたはこんな所で遊んでいていいわけ?作戦の件はどうなったの」
ゲンドウが言っていた、使徒との意思疎通を目的とした作戦のことだろう。
シンジの願いを果たす為に避けては通れないこと。だが、それが容易ではないことはレイにも想像がついた。
「別に、遊んでるわけじゃないわよ。ただ、どうにも戦力がねぇ…」

「…その事ですが。赤木博士、明日の午前、零号機の起動実験をもう一度やらせて下さい」

レイの提案に一瞬驚いたリツコだったが、すぐに思案を巡らせ始める。
「そうね、確かに『今の』レイなら成功する可能性は高いでしょうね…今から指示を出しておけば、実験の準備も間に合うか…」
体調に問題が無いと分かった今、使徒戦をシンジだけに任せてじっとしている事などレイには出来なかった。
「スケジュール的には可能だわ。あとは司令の許可が降りれば…」
そう言ってリツコはシンジの方を見る。もし許可を出すのなら、それがシンジの司令としての初仕事となるのだ。

レイは、固唾を飲んでシンジの言葉を待っていた。
顔を上げたシンジと目が合う。
「零号機が動いたら、僕を手伝ってくれるの?」
「ええ、それは私の望みでもあるわ」
更に数秒二人は正面から見詰め合っていたが、やがてシンジは表情を緩めるとリツコの方へと向き直った。命令が、下される。
「リツコさん、起動実験の手配をお願いします」

戦力が増強されるかも知れないと聞くと、ミサトは上機嫌でメディカルルームを出て行った。
多分、零号機の起動に成功するという前提で作戦を立て直すのだろう。気が早いとは全く思わない。レイ自身、成功するという予感があったからだ。
「そうそう、鈴原君の妹さん、もうガードをつけてあるから。安心してねん♪」
去り際にミサトはウインクしながらそう口にした。シンジもそのことは気にしていたと見え、何度も何度も礼を告げていた。

「あなた達も明日に備えて休んだら?シンジ君の部屋もそろそろ誰かが用意しているはずよ」
明日の起動実験の準備を内線で部下に指示したリツコが、PCのディスプレイに目を向けたままそう切り出す。
「あ、もうこんな時間だったんですか。綾波は…あの家に帰るの?」
ええ、とレイが頷くとリツコはあの部屋の惨状を思い出したのだろう、悪いわね、と小さな声で呟いた。
「住居のことは、明日を乗り切ってから一緒に考えましょう。レイ、あなたの意見も聞かせてね」
ぽんっとエンターキーが押され、何かの結果が画面に表示された。『反対:3』の文字が見える。MAGIに接続していたという事か。

「………ああ、そう」

「リツコさん、どうしたんですか?」
急に疲れたような声を上げたリツコに対して、シンジが問い掛ける。
「母さんね、科学者としても母としても女としても、私と前司令のことに反対、ですって」

レイは赤木ナオコの事はあまり分からない。かつての記憶が統合された今でも、最初の死を経験する間際に見た嫉妬に狂った表情が印象の全てと言ってもいいだろう。
だが、ゲンドウに非があるとは言え、自分の不用意な一言であっけなく散ってしまった彼女にも様々な面があったはずなのだ。
そう考えると、あの部屋のことはもちろん、何一つとしてリツコを責めるような気にはなれなかった。

「でも、あの人が帰ってくるまでに、必ず賛成させてみせるわ」
そう言うとリツコはPCの電源を落とし、立ち上がった。この部屋を出るのだろう。レイとシンジも席を立つ。
「頑張ってくださいね、僕は祝福しますから。…でも」
でも?と振り向いたリツコに、シンジから笑顔で下される宣告。

「あんまりしょっちゅうMAGIを私用に使っていたら、減給ですよ」
呆然とする幸せボケ気味の科学者を尻目に、部屋を出て行くシンジ。やっぱり碇君は凄い、とレイは妙なところで感心してしまうのだった。





そして、ナオコの時とは違って口には出さなかったが、レイが心の中で考えていたとおり、リツコはやはり幸せ過ぎて注意力を欠いていたのだろう。
普段の彼女なら、綾波レイの診断結果の一番下に表示された一文を見逃す事は無かったはずだから。

『警告:前回診断時とは遺伝子情報に差異が見られます。本人であることを再度確認して下さい』





既に深夜と言ってもいいような時間に差し掛かってなお、エヴァのケイジでは多くの技術スタッフが走り回っていた。
急遽決まった零号機起動実験の準備に、今夜は多くの職員が不眠で従事する事となったようだ。
一人きりで感傷に浸るため初号機の元へ足を運んだ冬月コウゾウは、情緒を吹き飛ばすような喧騒を見て小さく落胆した。

(やはり愚かだな、俺は)
ゲンドウが新しい道を歩み始めたというのに、自分はまだこうして未練がましい事を考えていると気付かされる。

「あれ?冬月さん?」
声のした方を振り向くと、そこにはシンジが立っていた。差し当っての個室が用意されたはずだが、まだ起きていたということか。
冬月が何も言わないのを見てシンジにも思うところがあったのか、その横に並んで初号機を見上げる。
第2実験場は零号機の受け入れ用意が完了しました、と女性職員の声が響く。
何も話さずに並んで立っている新司令と副司令を、職員たちは時々不審そうな目で見ながら横を通り過ぎて行った。

「アスカ君と加持君だがね、夕方にはドイツを発ったそうだ」
あえて考えていたこととは全く話題を口に出す。シンジに会ったら真っ先に教えようと思っていたのは事実だが。
「超大型輸送機とは言え空路だからな。明日の夜遅くにはこちらに着くだろう」
明日の夜遅く。その頃には、使徒と人類の…リリンの在り方について、何らかの結論が出ているのだろうか。

「明日、来ると思うかね?」
顧みれば、全てがかつてと同じタイムテーブルで進むと思い込むのは危険だという事に思い至る。だが、
「はい。その次からはどうなるか分からないですけど」
シンジはあっさりと肯定した。
理由を問う必要はないだろう。どのみち、綾波レイとも渚カヲルとも親しいこの少年以上に使徒の事を分かる人間など、存在しないのだ。

「暴走は、させません」
初号機を見上げたままシンジが呟く。その声はとても小さかったが、決意に満ちたものだった。
「母さんには、ずっと天国にいて欲しいですから」

シンジが去った後、冬月は静かにその言葉を反芻していた。

…天国、か。もしかしたら一番早くユイ君に会えるのは俺かもな。碇、羨ましいだろう?
或いは、俺も若い嫁さんでも探してもう一花咲かせるのも悪くはないかも知れない。

とりとめも無い事を考えながらシンジとは逆の方に歩いていく冬月。
大勢の手によって零号機の搬送が始まろうとする中、初号機はただ静かに、佇んでいた。





ところで。
赤木リツコが見落としたその変化にレイが気付いたのは、帰宅してすぐの事だった。
女性の平均的なそれと比べてかなり不快感が軽かったのは、幸いと言えよう。

「…お赤飯を、買いに行かないといけないわ」
喜ぶよりも驚くよりもまず先に、レイは現実逃避をした。

常夏とは言えそれなりに冷える四月の夜の冷気の中、コンビニエンスストアを七軒もはしごしてようやく赤飯三人前を買った頃には、既に夜も明けかかって…。





明くる日、眠気と寒気と満腹感とその他色々な障害の中で、レイは何とか零号機の起動に成功したのだった。





~つづく~





読んで下さっている方、感想を下さった方、有り難うございます。
個別の返信は今の所しておりませんが、どんな御意見も真摯に受け止めるつもりですので、これからも宜しくお願い致します。



[21803] 2.スカイダイバー
Name: ふたば草明◆c7ec2017 ID:79d97c37
Date: 2010/09/15 23:27
「それで、いったん誘拐した後、すぐに副司令を解放したのね」
「ああ」
横から手を伸ばして、アスカの持っている袋からスナック菓子を一つ失敬する。軽く、睨まれた。
「もしかしたら誘拐自体にはあくまでもネルフに対する牽制の意味しか無くって、本当は加持さんの反応を見るのが目的だったんじゃないの?」
「ま、そうだろうな。そして俺はまんまとそれに嵌まった、と」
加持リョウジの答えにはぁ、と溜息をつくと、アスカは再びノートにペンを走らせていく。
独語で記されたそのノートは、既に残り頁が僅かとなっていた。

惣流・アスカ・ラングレーとエヴァンゲリオン弐号機を載せた超大型輸送機がネルフのドイツ支部を発ったのは、つい数時間前の事。
本部からの強権的な徴発命令に憤慨する上層部を、ある意味で欺くような形での出立。
その手助けをしたのは、輸送機のクルーも含めて全てゲンドウの息の掛かった親本部派のメンバーだった。
恐らく、ドイツ支部は本部と対立する事となる。だが、アスカも加持も袂を分かつ事を残念に思うような相手はいない。
かつてのアスカが自分のシンクロ率に固執し、あまり人付き合いもせずストイックに訓練に励んでいたのが良かったというのは、皮肉な事だ。
アスカの両親については、人質に取られる事を避ける為に、スイスへ逃がす手筈を整えた。
我ながら素早い良い仕事をしたな、と加持は思う。

発進後しばらくアスカは機内を物珍しげに見て回っていたが、やがて食堂に腰を落ち着けると、自分の知る情報をノートに整理し始めた。
使徒の事。ネルフの事。レイの事。シンジの事。そして、エヴァの事。
それらが一段落すると、今度は様子を見にふらりと立ち寄った加持を捕まえ、加持の視点で見た事を時系列順に質問攻めに。
考えてみれば、補完の中でアスカも多くの情報を感覚的にとは言え得ているはずであり、
加えてアスカ程の才女ならわざわざ書き出さなくとも良さそうなものだが、こういう努力を惜しまない事こそがアスカの長所だった。

ペンを置くと、大きく背伸びを一つ。
「だいたい分かったわ。ありがとね、加持さん」
最期の瞬間について聞かないのは彼女なりの配慮なのだろう。そこにアスカの成長を垣間見た気がして、少し嬉しかった。

「それにしても、あのシンジがネルフの司令とはねえ…」
空中を見上げながら、感慨深げな様子のアスカ。冬月副司令からの極秘通信の内容に驚いたのは加持とて同じだった。
ドイツからの出立準備に追われてその時はすぐに思考を切り換えたが、よくよく考えると本当にゲンドウも思い切った事をしたものである。
「シンジ君の下で戦うのはイヤかい?」
「そんな事は無いわ。アイツのことは信頼してるもの。まあ、あんまり上司風吹かせるようなら蹴っ飛ばしてやるけど」
そう言って座ったままキックの真似事をするアスカ。そんな様子を見ながら、いつもの軽口でからかいの言葉を投げかける。
「信頼、ね。ひょっとして、シンジ君のこと、好きなのか?」

「ええ。そうなんだと思うわ」

落ち着いた声で帰ってきたのは、至極真面目な返答。
諜報員としての習慣からか顔には出さなかったが、加持の味わった驚愕は、シンジの司令就任を聞いたときのそれを更に上回っていた。
「今日はまた、えらい素直じゃないか。一体どういう風の吹き回しだい?」
「もちろん、シンジにはこんな事言わないわよ。もし言ったら急に調子に乗るか、もの凄くうろたえるかのどっちかだろうし」
立ち上がり、スナック菓子の最後の一つを口に放り込む。くしゃくしゃっと丸められた袋は、綺麗な放物線を描いて屑籠に吸い込まれた。

「正直に言ったのは加持さんだからよ。加持さんは、特別」
食堂の出口へと歩いて行くアスカ。
「ほう、どう特別なんだい?」
純粋な興味からその背中に問い掛ける。前はだだ漏れに思えたアスカの思考回路が、全く読めない。
「加持さんを好きだったっていうのは、やっぱり本当の事だもの」

…遥か彼方の女、か。
「ミサトのこと、幸せにしてあげてね」
アスカは振り向かず、そう言って去っていった。
「ああ、分かってる」





…違う。加持さんはまだ分かってない。
心の奥の片隅に、まだ無謀な知的好奇心が残っているんだ。

アスカは、そっと唇を噛んだ。





大きな振動が輸送機を襲ったのは、次の日の早朝だった。
転がるようにしてブリッジに飛び込んで来た加持に、機長が早口で現状を告げる。
「近辺の地上基地からのミサイル攻撃ですな。恐らくはイラン国防軍でしょう。
 小型の対空ミサイルですが、まさかドイツの上層部がここまでするとは…」
ゼーレからの指示があったに違いない。そうでなければ、こんなにも早く他国との連繋が取れる事の説明がつかない。
「被害は?」
「片側のサブエンジンがやられました。航行に影響はありませんが、回避行動は難しいでしょう」
攻撃が一発で終わるとは思えない。敵基地の射程圏内を抜けるまで、機体が持つだろうか。
高度を上げてミサイルの命中精度を少しでも下げるか?それとも、被弾覚悟で全速で抜けるべきか?加持の頭脳が目まぐるしく回転する。

その時、通信士の一人が大きな声をあげた。
「!!格納庫の弐号機が起動しましたッ!」

「話は聞かせてもらったわよ。弐号機で出るわ!ハッチ開けて!」
モニターには、プラグ内で不敵な表情を浮かべたアスカが映っていた。ミサイル被弾からの僅かな時間で、一人で起動させたらしい。
「無茶だ!この高さから落ちたらいくらエヴァでもただじゃ済まないぞ!」
「平気よ。隣の格納庫に使ってないアンカーがあるから、それで後部甲板に機体を固定するの」
機内を見回っていたのは知っていたが、そんな物にまで目を留めていたのか。加持は密かに舌を巻いた。
「だが、ここにはパレットガンもバズーカも積んでない。ナイフ一本でどうやってミサイルを墜とすんだ?」
「それも大丈夫!アタシに考えがあるから!」

「どうします?」
一度戦闘配備が出されれば、全ての指揮権は機長に委ねられる。
だが、あえて機長は加持の意見を求めた。エヴァに関しては、判断の基準となるほどの情報を持っていないのだ。

加持は改めてモニターの中のアスカの顔を見た。自棄を起こしているようには見えない。
むしろ冷静な判断力と熱い闘志がよく調和している、と感じられる。
「よし、アスカに任せよう」
迷ったのは一瞬。加持は自分の観察眼を信じることにした。
「さっすが加持さん、そう来なくっちゃ!」

機長の指示のもと、後部ハッチが開放される。
間もなく姿を現した弐号機は、ロッククライミングのように慎重に這って行き、アンカーで機体を固定した。
ゆっくりと立ち上がる弐号機。激しい風圧に耐えつつ、赤い巨体が雲を割ってそびえ立つ。
非常に緩慢だが、なかなか細部まで神経の行き届いた動き。
(60から70ってとこか…)
ここにシンクロ率の計測器は無かったが、加持はそのあたりだろうと予想をつけた。

「ミサイル、来ます!接触は一分後から、数は3!」
「よぉし、見てなさいよ!」

(ん?あれは…?)
弐号機が何かを構える。長い、ロープのようなもの。

「予備のアンビリカルケーブルか?」
クルーたちが緊張して見守る中、弐号機はプログレッシブナイフを抜くと、ケーブルの先端にしっかりと結わえつけた。

「肉眼でミサイルを確認!」
通信士の上擦った声。だが、アスカは微塵も慌てはしない。
「さあ、行くわよっ!」
一声気合を入れ、頭上でケーブルを数回振り回して勢いをつけると迫り来るミサイルへ向かって勢いよく投げ放った。

大気を切り裂き、一直線に飛んでゆく。ケーブルに括り付けられたナイフが、狙い違わずミサイルの先端に突き刺さる!

「上手い!」
思わず機長が声を上げる。
プログレッシブナイフの高周波振動の前では、最新鋭のミサイルと言えどただのバナナのようなものだった。

──爆発。
即席の武器がそれに巻き込まれないよう、弐号機が素早くケーブルを手元に手繰り寄せる。
全てのミサイルを墜とすまでその武器を失うわけにはいかない事を、アスカはしっかりと理解しているのだ。

「次!2時の方角!」
「了解!」
間髪入れずに返事が返され、再び刃が放たれる。
今度は先端に命中こそしなかったものの、ミサイルの横っ腹を切り裂くような形で接触、そして爆発。

輸送機へ届く事無く散ってゆくミサイルの破片をモニターで確認しながら、加持はアスカの腕前に素直に感心していた。
(空気圧の抵抗を感覚的に察知し、微妙な力加減を調整してるな…)
言葉にすれば容易い事だが、必要とされるセンスと技量は想像を絶する。
瞬間的な爆発力に頼り気味なシンジには、恐らく真似のできない芸当だろう。

そして、最後の一発が近づく。
「4時の方角、近いぞ!」
「それなら!」

引き寄せて狙いを定めるだけの猶予がないと判断したアスカは、脚部を固定してあるアンカーを軸にケーブルを握ったまま弐号機をその場で回転させる。
緩みかけていたケーブルは再び張力を増して行き、それに伴って回転速度が次第に上昇。
「はぁぁぁぁっ!」
回り続ける弐号機を中心にナイフの刃が放つ青色の美しい輪が形成され……そして、その輪に触れた最後のミサイルはあっけなく爆散した。

「め、目が回った…」
ずしん、と甲板にへたり込む弐号機。
窮地を脱したことによる安堵感に、ブリッジのクルー達から喚声が上がった。
「やれやれ…」
加持もほっと胸を撫で下ろしつつ、頭の中に周辺の地図を描く。
加持の記憶が正しいとすると、この速度であと三分も進めば隣国アフガニスタンとの国境のはずだ。
近くネルフの進出が取り沙汰されていたイランはともかく、周辺の他国がゼーレの無茶な要請をこの短時間で受けるとも思えない。
それに、隣国との関係を悪化させてまでイラン政府が攻撃続行を指示するとも考え辛かった。

(安全圏まであと三分か)
もう大丈夫だろうと考えた加持が機長に弐号機回収を提言しようとしたその時、通信士の悲痛な声が響き渡った。
「こ、これは…!大型の高速弾道ミサイルです!接触は一分後!」

「何が何でも国境を出さないつもりかッ!」
イラン側にはネルフの支部建設にまつわる利権絡みの思惑があるのだろう。だが、そんな事は今の加持達には関係ない。
墜とされるか耐え切るか。即ち、ゼーレに勝つか負けるかの二つしかないのだ。
加持は索敵レーダーの旧式さを呪った。せめてもう二分早く気付いていれば、推進剤を使い切ってでも国境の先へ逃げ込んだものを!

「大丈夫よ、今度もアタシがやるわ…。飛行速度は維持で、お願い…」
外部モニターには手繰り寄せたケーブルからナイフをほどく弐号機の姿が。
そして、プラグ内を映したモニターには未だ焦点の定まらぬ目つきでぼそぼそと呟くアスカの様子が。

「アスカ…?」
その鬼気迫る表情に不安なものを感じて、数秒言葉を返せなくなる加持。
だが、その数秒が分かれ目だった。

脚部のアンカーを外す。
大きく三歩、後退。
プログレッシブナイフを持ったまま、クラウチングスタートの構え。

「おいッ!まさか…」

「さよなら、加持君…」

加持の言葉を遮るようにしてそれだけを言うと、アスカは格納庫から繋がるアンビリカルケーブルを外し、大きく助走をつけて空中に飛び上がった!

「アスカーーーーーっ!」
何故いきなり『加持君』なのか、そんな事を気にする余裕は無かった。
あれだけの勢いを付けたエヴァの腕力でナイフを突き刺せば、いかに大型ミサイルとは言えひとたまりもないだろう。
だが、アスカは?
弐号機の詳細なスペックまでは知らない加持にも、これだけの高度から地表に放り出されることがどれだけの事か想像できた。

アスカは、自分が犠牲になることを選んだのか?
好きだと言っていたシンジ君を一目見る事すらしないうちに?

そんな時。
絶望と混乱に覆い尽くされそうになっていた加持の視線が、ふとモニターの一つを捉えた。
今まさに大型ミサイルに刃を振り下ろさんとするアスカの表情が見える。
冷静な判断力と熱い闘志が調和した、その顔。

(アスカには、何か考えがあるのか…?)

そうだ。俺が諦めてどうする!そんな事で本部の皆に…葛城に顔向けできる訳がないだろう!
自分を奮い立たせると、加持は弐号機の動きを一瞬たりとも見逃すまいと、モニターを見つめた。





プログレッシブナイフの先端が、ミサイルに突き立てられた。
その部分から細く閃光が漏れ出す。それは爆発の予兆。
弐号機はナイフの柄から手を離し、ATフィールドを展開する。

そして、大爆発。

すぐにATフィールドを解くと、弐号機は四肢を大きく開き、空中で大の字の姿勢を取った。





「そうか!機長、取り舵だ!」
突然の加持の声に驚いた機長だったが、判断は素早かった。
「取り舵、全速!」

ATフィールドを解き、姿勢を制御したことで爆風の影響を大きく受けて舞い上がる弐号機。
加持の指示によって急旋回した輸送機は、弐号機の自然落下ぎりぎりの所で甲板に弐号機を受け止める事に成功したのだった。

「ふぅ~っ、まあざっとこんなもんかしらね」
額を拭いつつ、事も無げに言うアスカ。
その様子を見て、加持もようやく危地を脱した事を実感した。
「全く無茶な事を…。俺は本当に駄目かと思ったぞ」
「心配掛けてごめんなさい、でも…」
そこでアスカは言葉を切ると、モニター越しに加持の目を正面から見つめた。

「ミサトがもしこういう危険な事したら残された加持さんはどういう気持ちになるか、分かったでしょ?」





…年の離れた妹のような。
そう思っていたが。
どれだけ成長したか楽しみだ。
そう考えていたが。

何のことは無い、既にアスカには俺の心なんてお見通しだった、ってわけか。
これじゃどっちが子供だか分かりゃしない。
小さく苦笑すると、すぐに真剣な表情でアスカを見る。そして、誓いを立てる。
「俺は二度と葛城にこんな思いはさせない。約束するよ」

「…うん!」
本当に嬉しそうに、アスカが笑った。





…良かった。良かったね、ミサト。





「ああ、そうそう」
残り僅かの内部電力を使い、弐号機の体勢を整えて自力で格納庫へ戻ろうとするアスカに向かって、声を掛ける。
少しだけ悔しかったし、意地の悪い表情を作って。

「アスカにはものまねの才能は無いみたいだし、もうやめといた方がいいんじゃないか?」
「………なっ!」

顔を真っ赤にして何かを怒鳴るアスカを無視して通信を切ると、加持は時計を見た。
第3使徒出現の一報が入るまで、あと少し。
やはり、アスカに預けてある『アレ』のところではなく、第三新東京市に現れるのか。
どういうカラクリかは知らないが、そこにゼーレの意思が介在している事に疑う余地はないだろう。
各支部の反応も気掛かりだ。内閣にパイプのある加持が前司令と合流して国内を抑えるまで、待ってくれればいいのだが。

山積する難題などまるでそ知らぬとでも言うような一面の朝日の中、輸送機はアフガニスタンの領内をゆっくりと進んでいった。





~つづく~





[5]の感想を拝見し、物語上のリアリティや原案との整合性などを考慮した結果、
あえて「国連と対立する=人類諸国とネルフ(本部)が対立する構図」というアイディアを使わせていただこうかと考えているところです。
また、その他の御指摘につきましても、鋭意検討中です。



[21803] 3.エヴァンゲリオン発進
Name: ふたば草明◆c7ec2017 ID:79d97c37
Date: 2010/09/18 03:23
見る者全てを不安に陥れるかのような、その不気味な顔。
見る者全てを圧倒するかのような、その漆黒の巨躯。
そして、見る者全てに絶望感を与える、その強さ。

…にも関わらず、日向マコト、青葉シゲル、伊吹マヤの三人は誰一人としてモニターに映る第3使徒の雄姿を見てはいなかった。

もしも使徒と対話が出来たのなら、この状況を見て何と言うだろうか。
(15年の時を経て現われし我を愚弄するか…よかろう、皆、塵と消え去るがよい!)
何故かゲンドウの声で使徒の台詞が脳内再生され、慌てて葛城ミサトはその声を頭の中から追い出した。
いくら初めてでは無いとはいえ、気を抜きすぎだ。

オペレーター達がモニターに目を向けていないのは、国連軍から指揮権が譲渡されるまで自分たちにはさしたる役割が無いから、という理由だけではなかった。
ミサトがついさっき告げた、使徒に関する新たな事実とこれからの作戦の方針。
そのあまりの衝撃に脳が追いつかず、ミサトに向けた視線をモニターの方へ戻せずにいるのだ。まあ、当のミサトにとっては予想の範囲内ではあったが。
いざ作戦が開始されてからの命令伝達の遅れは致命的なものとなる。
だからこそ、作戦の中枢に関わるこの三人にだけは何としても理解してもらっておかなければならない。

「あ~、ちょっち良く分かってない感じみたいだから、もう一度言うわよ」
「くしゅん」

「まず最新で極秘の研究によると、使徒には知性はともかく心ってモンはあるらしいのね」
「くしゅん」

「だから、無理に戦ってボロ負けするよりは対話して説得しちゃえ!って言うのが、新しいネルフの方針よ」
「くしゅん」

「…あの~、レイ?」
「すみません…くしゅん」

零号機の起動実験前に聞いたところによると、深夜遅くに赤飯を探して歩き回り風邪を引いたとか言うレイ。
それを聞いたリツコは何やらはっとしていたが、ミサトにはこの少女が何を考えているのか相変わらずさっぱり分からない。
そしてだからこそ、今度は歩み寄ってみようと思う。レイだけではない。シンジにも、アスカにもだ。

司令塔の方を見上げ、そっとシンジの様子を窺う。
「出し惜しみは無しだ!何としても目標を潰せっ!」
大声を張り上げ、下の様子など目にも入らない様子の高官達の後ろの席で所在無げに座り、モニターを見つめていた。
確か前は、ちょうどこの頃使徒からさほど離れていない場所を車で移動していたはずだ。さらにその後、自ら対峙した時の記憶もある。
使徒の脅威を肌で知るシンジとしては、無謀な攻撃を仕掛ける戦闘機パイロットの安否を思うと気が気では無いのだろう。

「あのぉセンパイ、使徒に心があるって本当なんですか?」
聞こえてきた声にオペレーター達の方へ向き直ると、マヤが近くに立つリツコにそう尋ねていた。
「ええ、そうね」
短くそれだけを言うリツコ。細かい説明を拒否するニュアンスを言外に感じ取ったのか、マヤはそれ以上の質問を諦めたようだった。
リツコとしても説明のしようがないのだろう。
いくら理屈を並べ立てたとて、あの渚カヲルを見て、18番目の使徒の正体を知らなければ実感できるものではないのだ。

その事の真偽をこれ以上気にしても仕方が無いと思ったのだろう、マコトは実際の作戦に関して意見を述べた。
「しかし、心があったとしても対話の手段は確立されていないんでしょう?説得なんて無理ですよ」
「ま~ね…でも心はあるけどすぐに対話できないってのは、言ってみれば赤ん坊と同じなのよ。即殲滅ってワケにもいかないっしょ?」
絶句するマコト。いくら何でもあの巨大な使徒と赤子を同列に考えることなどできる筈も無い。

(自分でも無茶なコト言ってるって、分かってんだけどね…)
補完の中で感覚的に知った、共存の可能性。だがそれを知らぬ者に伝える事の何とままならぬ事か。
発令所の隅で身体を温めるための甘酒を飲んでいるレイなら、何と言うのだろうか。難しい顔をして立っているリツコなら…?
そう考えたちょうどその時、リツコが口を開いた。

「対話の手段が全く無いわけではないわ」
「ええっ、ホントですか!」
即座に反応したのはやはりマヤ。十分に優秀な娘ではあるのだが、どうにもリツコに追従し過ぎの感は否めない。
そのあたりの事を、リツコはどう思っているのだろうか。
マヤの期待に満ちた視線を知ってか知らずか、リツコがにべもなく言い放つ。
「結局最後はエヴァ任せ、って事よ」

リツコが言い終わるのとほぼ同時に、N2地雷の轟音が響き渡った。
衝撃波による電波障害で一時的に使い物にならなくなったモニターの前でガックリと肩を落とすマヤ。
「まあミもフタも無い話だけど、事実なのよね。そして、それは例え殲滅作戦であったとしても同じことだわ」
「あ…」
友人をフォローするかの様に告げたミサトの言葉に、シゲルが小さく声を漏らす。
データ上で知るATフィールドの事を鑑みれば使徒を倒し得るのはエヴァをおいて他に無い、という事は彼らも分かっている。
ならば、リツコ曰く最後はエヴァ任せと言う『対話』との間に、どれ程の違いが有ると言うのだろう。

司令塔が俄かに騒がしくなった。どうやら、指揮権の委譲が行われたようだ。
ある者は必要以上に尊大に、ある者は使徒への不安を隠し切れずに、国連軍の高官達が中央作戦室を後にする。

「ま、街への被害を抑えつつ使徒の戦闘能力を奪うってトコまでは変わんないワケだし」
甘酒を飲み終えたらしいレイに目で合図する。レイも強い意志の篭もった瞳で頷き返してきた。
「私達には私達の出来ることを、全力でするしかないってことよ」
シンジも冬月に一言告げて、司令塔を降りてきた。リツコにも目配せして、席を立つ。

…さて。新しい戦いの始まりね。過去の復讐なんかじゃない、未来を築く為の戦い。

「ど、どちらへ?」
ミサトの行動に驚いたマコトが問い掛けて来る。確かに、一言告げるべきだったかも知れない。
「初めての出撃だもの。大人として、仲間として、…家族として、見送ってあげたいのよ。すぐに戻るわ」

恐らくシンジの耳にも届いただろう。家族として、という部分を彼がどう聞いたかは分からない。
それでも。
私は私に出来ることを、全力でする。誰よりも自分に言い聞かせたかった言葉を、ミサトはもう一度だけ心の中で繰り返した。





ケイジへと続く通路を四人で歩いてゆく。途中に立ち寄った更衣室で、プラグスーツへの着替えは済ませた。
ミサトとリツコは、恐らくエヴァへの搭乗を見守る為に同行してくれているのだろう。シンジは心の中で二人に感謝した。

「それにしても、相変わらず私達は無力ね」
リツコが自嘲気味に言葉を吐き出した。
「いいえ、目標が明確に定まった以上、歯痒さがより一層増して感じられるわ」
目の前で喚き散らす高官のせいでよくは聞こえなかったが、さっきオペレーターたちと話していた事の続きなのだろう。
同じ思いだったのか、ミサトもいつになく暗い様子で黙り込んでしまう。
「そ、そんな事はありませんよ。リツコさん達がいなければエヴァは動かないし、ミサトさんの作戦も頼りにしてますから!」
思わず饒舌になってしまった様子が可笑しかったのか、リツコはふっと表情を緩めた。
「ふふ、もっと早くから部下のメンタルを気遣ってくれる上司の下で働きたかったわね」
「あ~、それホンっとに同感」
レイも微かに笑っている。どんな内容であれ父の話題で誰かと笑い合えるような日がくるとは、以前は想像もつかない事だった。

ひとしきりゲンドウをネタに笑った後で、ミサトがぼそっと呟いた。
「でも使徒と共存って、何ていうかイメージが湧かないのよねぇ」
もちろん反対とかそんなんじゃないわよ、と付け加えてから言葉が続けられる。
「渚カヲル君とか、まあ好みは置いといて粘菌のヤツとか、あのMAGIに侵入して来たのなんかは共存って出来そうな気がするけど…
 今来てるのみたいなバカでっかいタイプはどうなるワケ?元居た所に帰ってくれるってこと?」
…確かに、ミサトの部屋なら第13使徒が住んでても違和感が無いかも知れない。

「それは…まだ、分かりません。取りあえずは使徒の心と接触してみないと」
そうシンジが言うと、今度はリツコが問い掛けてきた。

「その使徒の心との接触だけど、どうするつもり?
 ATフィールドが心の壁である以上、まずは接近してこれを中和する必要があるのは分かるわ。その先は?」
実際に使徒と心を通わせる方法。それに関してはシンジ自身、昨日から何度も考えていた。
そして、その答えは既に出ている。

シンジは足を止め、はっきりとした口調で告げた。
「ATフィールドを中和したら、一瞬だけシンクロ率を400%まで上げます」
その数字に、レイの身体がビクッと揺れる。かつてと同じなら、永久の別離となる可能性を含む、その数字。
「僅かな間だけ自我境界の一部を開放して、僕の心を見せるんです。それできっと、何か反応が返ってきます」
エヴァを介して心を見せる──つまり、第15使徒がアスカに試みた事の反対だ。
あの時第15使徒はロンギヌスの槍に貫かれて消えたけれど、もしそうなっていなければ、人の心を知りたがった以上それに対する何らかのレスポンスはあった筈だ。
シンジのアイディアは、まさにそこに端を発していた。

「成る程、考えたわね。確かにそれなら可能性はあると思うわ」
「ちょっと、リツ…」
「赤木博士、400%は危険です。碇君にやめるように言って下さい」
リツコの言葉に反論しようとしたミサトを遮ってレイがそう言った。
少しだけ驚いたリツコだったが、目を僅かに細めるとレイの髪をそっと撫で、
「シンジ君の事が心配なのね?」
と、優しく尋ねた。
シンジは自分抜きで交わされる自分の話にどうしていいか分からない。

「…はい…」
レイはリツコに撫でられるまま、そっと答えた。
「…そう。でも大丈夫よ。今回は、あの時とは違うわ」
「違う?一体何が違うってのよ?」
言葉を遮られてどうしようもなくなっていたミサトが会話に復帰する。リツコも手を止め、ミサトの方へ向き直った。

「まず一つ、あれは初号機の暴走と過剰シンクロが同時に起こった事が原因。つまり、初号機を暴走させなければああはならないという事よ」
その説明にやっと当時の詳しい状況を思い出したのか、ミサトも納得した表情を見せた。
「な~る、暴走する程のピンチに陥らないようにすればいいってことね」
「ええ、それこそ作戦課の仕事よ。そしてもう一点…」
そこでリツコは一端言葉を区切り、今度はシンジの顔を見た。

「今のシンジ君には、この世界で皆と生きて行きたいという強い意思があるでしょう?それなら、どこからだってすぐに帰って来られるわ」

その通りだ、とシンジは思う。この先とても辛い事があったとして、きっと他者に頼って弱音を吐く事もあるだろう。
だが隔絶された個の世界に逃げ込むことは、もはやシンジの選択肢には無い。
レイの瞳を見て笑顔で頷く。それを見て、レイもようやく安心したようだった。





(今更、何だというのかしらね)
自分の右手を見つめる。レイの瞳を見た瞬間、レイのシンジを想う気持ちが痛いくらいに伝わってきて、気がついた時にはレイの髪を撫でていた。
本当に今更、何だというのだろう。彼女を道具として散々弄んできた自分が。

…いや、そうでは無い。リツコには分かっている。自分の本当の罪は、レイに対して醜い嫉妬の目を注ぎ続けてきた事なのだ。
レイを見るゲンドウの、自分には見せたことも無いようなその優しい目に気付くたび、リツコはそのフラストレーションをレイにぶつけてきた。
もちろん、実際に手を出したり暴言を吐いたわけでは無い。寧ろ普段以上に冷淡に、機械的に接していたと思う。
だが、自分が道具である事を半ば無意識に自覚していたレイにとってそれがどれ程辛い事だったかは分かる。
恐らくレイはそれが「辛い」という感情である事すら知らぬまま、癒されることの無い傷を心に負い続けていたのだろう。
定期的な検診や数々の実験を全て含めると、レイと二人で過ごした時間は多分ゲンドウよりもシンジよりも多い自分。
その自分がレイにしてきた事が、そういう仕打ちなのだ。リツコの脳裏に後悔の念がよぎる。

(……ッ!)
本当に、本当に自分はどうしようも無い人間だ。どうして今更後悔などするのか、それだって本当は分かっている。
昨日の、ゲンドウの言葉を聞いたから。ゲンドウがユイに…レイに縛られる道ではなく、新たな未来を見出してくれたから。
心に余裕が出来て嫉妬する必要が無くなったから今度は憐憫の情を抱くだなんて、そんな傲慢な話は無い。

ケイジへ近付く道を平静を装って歩きながら、リツコの心はさながら荒波の寄せる夜の海のようだった。だから、
「赤木博士、ありがとうございます」
レイに囁くようにそう言われた時、咄嗟には反応できなかった。
「何のお礼かしら?」
半ば上の空で答える。
冷たくするだなんて、酷い事はできない。優しくするなどという、勝手な事もできない。ヤマアラシとは違う、もっと身勝手なジレンマ。

…だが。

「さっき…お母さんってこんな感じかなと…思いました」

…今が出撃前で無ければ、リツコは人目を憚らず泣いていたであろう。
レイ自身が自覚していなくとも、リツコに対して下された赦しの言葉、それこそが無限の母性であると感じられた。
人に愛され、そして人を愛して生きていく。どんなに身勝手でも、それが人間なのだ。
「…ありがとう。嬉しいわ」
不意にミサトの言葉を思い出した。そうだ、私には私の出来ることを、全力でする。
まだきっと、遅くは無い。

「コンビニのパック入りお赤飯なんて、そう美味しいものではなかったでしょう?」
唐突に変えられた話題に、レイがきょとんとする。
「今度シンジ君にお赤飯を作ってもらって、みんなで食べましょう」
「…えっと…」
話の流れとリツコの意図が見えず、ますます困惑するレイ。前を歩くシンジに聞こえないよう、そっと耳元に口を寄せて言う。
「お祝いは一回しかしてはいけない、なんていう決まりはないのよ」

さっと、レイの頬に朱が差した。九割方確信してはいたが、その様子を見て自分の想像が間違いでなかった事に安堵する。
恥ずかしそうにしているレイを見て微笑ましく思いつつ、リツコはもう一つの大事なことを告げた。

「零号機の自爆装置は、撤去したわ」
「……!」
レイの表情が真剣なものへと戻る。
「昨日の今日だからまだそれだけだけど、いずれはその分脱出装置周りを強化するつもりよ」
零号機だけでは無い。全てのエヴァについての第一改造案が、既にリツコの頭の中には存在していた。

「恐らくもう、地下のアレはあなたの代わりにはならないわ」
検証しない事には断言は出来ない。だが、レイがヒトとなった事が全く影響を及ぼさないとは考えられなかった。
「今のあなたが命を粗末にするとは思ってないけれど。でも、やっぱり言っておくわ」
母と呼ばれる資格なんか無くても。それが心からの願いであれば。

「無事に、帰ってきて」
心に、届く筈だ。
「一緒にシンジ君のお赤飯、食べましょうね」

どこから聞こえていたのだろうか、何故自分が赤飯を炊く事になったのかさっぱり分からないシンジが、ケイジへの扉に手を掛けながら首を傾げていた。





エントリープラグがLCLで満たされてゆく。何度経験したとて慣れるものでは無いが、最早慌てる事は無い。
A10神経の接続を感知して、初号機とのシンクロを試みる。
「双方向回線開きます。…シンクロ率、52.5%!」
少し興奮したようなマヤの声が伝わってくる。初めてとすれば十分に高い数値だろう。

(自我境界が硬くなってる…。緊張してるんだな)
本来は、もう少し高いシンクロ率を出せてもいいと思う。
100%に近付けばユイを刺激するという事と感覚のフィードバックも計算に入れると、80%前後を保つのが最も戦闘には効率が良い筈だ。
更に今後のことを考えると、渚カヲルのようにとまではいかなくともある程度自在にシンクロ率を調整出来るようにするべきかも知れない。
例えば、ダメージを受ける瞬間だけシンクロ率を激減させるというような事が出来れば、戦いは飛躍的に楽になるだろう。

緊張していると感じたばかりなのに、もうこの戦いの次の事を考えている自分に気付き、苦笑する。
(やっぱり嬉しいんだ…僕は)
戦うことが嬉しいわけでは無い。だが、少し不謹慎と思いつつもシンジは自分のこの感情を否定したくは無かった。

初めて初号機に乗った時の印象は最悪だったと言っていい。
訳の分からないまま呼びつけられて、重傷のレイを目の当たりにして、半ば自棄になって乗り込んで、いつの間にか気を失った。
だが、今度は違う。自分が何をすべきか分かっているし、レイだって元気ですぐ隣の零号機にいる。…まあ、ちょっと風邪気味みたいだけど。

そして何よりも、皆の気持ちが一つになっている。

ミサトも、リツコも、冬月も、レイも、ここには居ない加持も、アスカも、そして多分ゲンドウも。

(それが…嬉しいんだ。嬉しいんだよ)

初号機の発進シークエンスがオペレーターによって読み上げられる。
自己再生を終えた第3使徒はすでにこちらへ近付いている。地上に出たら、すぐに戦闘になるだろう。
だが、それは滅ぼし合う為の戦いではなく、歩み寄る為のものだ。

「シンジ君、いいわね」
早くも発令所へ戻ったミサトの声。
「はい。お願いします」
そう答えると、意識を引き締める。

ミサトがすうっと息を吸った気配がした。





「発進!」





~つづく~



[21803] 4.サキエル(前編)
Name: ふたば草明◆c7ec2017 ID:79d97c37
Date: 2010/09/19 21:24
とても長い間眠っていたのか、それとも僅かな時間しか経っていないのかは分かりません。
ですが睡眠はもう十分に足りたようで、もう眠くはありませんでした。
目覚めてすぐに気付いたのは、私の本能に呼び掛ける声無き声。確信は持てませんでしたが、父なるアダムかも知れない、と思いました。
私は、その気配の漂ってくる方角へ向けてゆっくりと泳いで行きます。
水は少しぬるかったけれど、身体を動かすのはなかなか快適でした。
しばらく泳ぐと、岸辺が見えてきました。私はそうっと上半身を水面から出すと、辺りの様子を窺いました。

そして、その時に初めて見たのです。彼らを。

初めは、誰かの玩具なんだろうと思いました。だってそれはとっても小さくて、頼りなげに飛んでいたから。
しかし、よくよく観察するうちに気が付きました。
ふらふらと飛んでは何かを私にぶつけてくるそれの一つひとつに、生命を持つ何かが乗っているのです。
一つの進化の道筋にありながらも幾つもの意思を持つ、不可思議な存在が。

…確かに、生命の進化には様々な形があって良いと思います。それは、私達に与えられた権利ですし。
でも、『個』たる事を選ばない生命があるなど、まるで思い及びもしませんでした。
だってそうでしょう?
意思を分かつという事は、衝突や軋轢を生むという事。それでは進化とは言えません。
だとしたら、何故この生命はそんな道を選んだのでしょう。『群』となる事で何か得るものがあるというのでしょうか。

それが飛び回る機械音がすぐ耳元で聞こえ、その煩さに思わず右手から“レーザーパイル”を伸ばして振り払います。
はっと気付いて力を弱めたので爆発はしませんでしたが、それはもうもうと黒い煙を上げて地上へと墜ちて行きました。
私は彼らに興味を持ち始めていたので、悪いことをしたなと思い、しばらく地上の様子を見守っていました。
少しの後、煙の中から小さくて弱々しげな二人が現れ、一方がもう一方の肩を借りながらよろよろと遠ざかっていきます。

その様子を見て、私は妙な感覚にとらわれました。信じられないことですが、羨ましいと、そう思ったのです。
確かに、私は誰かと共に過ごした事はありません。
同じ父より生まれ私とは別の進化を遂げた生命もどこかに居るのでしょうが、未だ遭ったことすらありません。
…だから共に在るという事に興味を持った、という事なのでしょう。
でも、それはあくまで一時的なものの筈。そうでなければ、私は今までの自己の進化を否定しなければなりません。
そんな事は、とても耐えられそうにありませんでした。

私の周りを飛び回っていたものが一斉に私から離れ、その直後に大きな爆発。
どういう意図での事なのかは分かりませんが、周りが全く見えなくなってしまい、私は先へ進むのを諦めて休憩する事にしました。
もう少し彼らを見ていたいという思いもありましたが、それはただの感傷でしょう。
やはり私はアダムを目指さなければ。気合を入れる意味も込めて、顔を二つにしておめかししてみたりして。

私が休憩を終え、再び歩き出した頃には既に辺りは暗くなり始めていました。
街はひっそりと静まりかえっており、その静けさが私に一つの不安をもたらします。
それは───この先にあるのがアダムでは無いのではないか、という事。
その懸念は最初からありました。伝わってくる気配も呼んでいる声もアダムのようでもあり、違うようにも感じられます。
でも私はそれほど深刻には考えていませんでした。
もしアダムがそこに居なかったなら、元の所に戻ってまた眠りに就けばいい。
変わった進化を遂げた彼らを見られただけでも、起きた甲斐はあったと言えますし。

もう少し行った所の、下の方かな。地面を掘るのはちょっと骨が折れそう。





そんな事を暢気に考えた、その時。

地下から上がってきた紫色のナニカと、目が合って。

──喰われる。

何故か、そんな事を考えて。

喰われるなんて御免だから。

私は、

喰われる前にアレを潰す事にした。





大人から子供まで三百人近い人々がひしめき合うシェルターの中で、鈴原ナツミは兄のトウジと共にただじっと特別非常事態宣言が解除されるのを待っていた。
外からは、何か大きなものがズシン、ズシンと歩くような振動と音が時折伝わってくる。
トウジの友人のケンスケが先日鈴原家へと遊びに来て得意げに喋っていたのをナツミも聞いていたが、
その話が本当だとするならば、今外を歩いているのはネルフの巨大ロボットか、或いは正体も分からない人類の敵という事になる。
だが、ナツミの心を怯えさせているのはそのような漠然とした実感の湧かない脅威では無かった。

──誰かに、見張られている。

その事にナツミが気付いた最初のきっかけは、昨日の夜、切らしていた醤油を買いに家を出た時の事だった。
人通りの無くなった路地の向こうから、真っ赤な目をした怪しい女が「赤飯、赤飯…」と呟きながら歩いてくるのにぎょっとして、
距離を取って道の端ぎりぎりを通ったナツミは、不幸にも側溝の蓋が外れかかっている事に気付かなかった。
あわや転落と思われたその時、ナツミの体は黒服の男に支えられて、事無きを得たのだった。

だが、口では感謝を述べながらナツミはどうにも疑念を払拭出来ないでいた。
学校で怪しい人には気をつけなさいと言われているから、足元はともかく周囲にはしっかり気を配っていた。
あの一本道には、直前まで自分とあの変な女の人しかいなかった筈だ。
それなら、自分を助けてくれたこの男はどこから現れたのか?もしや、大分前から隠れてずっと見張っていたとか?
厚意で助けてくれた人をこんな風に疑うなんて、良くない事だと思う。
だからその時はもうそれ以上考えなかった。

しかし、その日の夜中の事は決定的だった。
手洗いへ行こうかと眠い目をこすりながら起き出したナツミが、何の気無しにカーテンの隙間から外を見ると…
…そこに、黒服の男が立っていたのだ。
先程の男と同じだったかは分からない。でも、最早自分が監視されている事に疑いの余地は無かった。

外の振動と音の間隔がだんだん小さくなり、ついにはひっきりなしに轟音が鳴り始めた。
恐らく、戦闘が始まったのだろう。本当に巨大ロボットと人類の敵が戦っているのかも知れない。
しかし、ナツミ個人の敵はもっと近いところにいる。
さっき、出来るだけ首を動かさないようにして周囲を確認した。
シェルター内の、それも目の届く範囲だけで二人、黒服の男が見張っているのだ!

どうして監視されるのが自分なのか?小学二年生のナツミには皆目見当が付かなかったが、それでも一つ、分かる事があった。
それは家族に話せば迷惑がかかる、ということだ。
昨日の状況を鑑みるに、恐らく見張られているのは自分一人だろう。
それなら、一人で警察に駆け込みさえすれば何とかなると思う。
今横でナツミの左手を握ってくれている兄は、とっても優しいが頭に血が上りやすい所があるし、
そんな事を言おうものなら、ただちに詰め寄って直接問い詰めかねない。相手が銃を持っているなどという可能性だってあるのに。
しばらく黒服の姿が見えなかった事に安心して、昼間のうちに警察へ行かなかったのは本当に失敗だった。

「大丈夫や。きっともうすぐ終わる」
トウジが、励ましの言葉を掛けてくれた。

終わり、か。きっと非常事態宣言が解除されたら、ここにいる大勢の人が一気に出口に殺到する。
もし黒服の男達がナツミの誘拐など考えているのなら、そのチャンスを逃すような事はしないだろう。
ならば、する事は一つだ。宣言解除と同時に、誰よりも早くここを出て、その足で警察に飛び込む。
トウジには後で説明すればいい。

もう一度、ナツミはさり気無く周りの様子を窺った。
黒服が、距離を詰めている気がした。

もう猶予は無いのだ。ナツミは息を殺しながら、運命を分かつであろう一瞬を待ち続けた。





使徒の放つ光の槍を初号機が素早いステップでかわし、低い体勢から足払いを掛ける。
バランスを崩した使徒に対して、横合いから零号機がパレットガンを連射。
その攻撃を物ともせず起き上がった使徒の様子から次の攻撃を察知し、二機が素早く接近。
両目から放たれた光線は二機がかりで展開されたATフィールドによって阻まれ、街への被害は最小限に抑えられた。

発令所は、殆ど祝勝ムードのような熱気に包まれていた。
浮かれたくなる気持ちは分かる。
実戦経験などまるで無い二人の子供が駆る、起動するかどうかも分からなかった初号機と実戦投入の予定すら無かった零号機が、
絶妙な連繋で使徒と互角の戦いを演じているのだ。
何から何まで、与えられていた前情報と違い過ぎる。
このまま使徒をじりじりと追い詰めて、圧勝。多くの職員の脳裏には、そんな光景が浮かんでいるに違いない。

だがそれは大きな誤りだと、冬月には分かっている。
思い返してみれば、第3使徒は全ての使徒の中でもかなり強い部類に入るだろう。
特殊な能力に頼らない白兵戦という事に限れば、第14使徒、第4使徒に次ぐ強敵とすら言ってもいいかも知れない。
それが証拠に、あれだけの戦いを経験してきたシンジとレイですら、既に幾つかの手傷を負っている。
にも関わらずそれを殆ど悟らせないのは、二人がシンクロによる痛みを全く訴えないからだ。
その事に気付けない多くのオペレーターこそ、実戦経験が不足している。
冬月は以前は気にも留めなかったその事を、痛感していた。

…シンクログラフの波形の乱れが、徐々にだが大きくなり始めている。
長期戦は、危険だ。
冬月がそう思ったその時、ポケットの携帯電話が鳴った。
下から、何かミサトの声が聞こえる。恐らくは自分と同じ判断を下したのだろう。その事に安心し、電話を取る。

「碇か」
ディスプレイを見ず、相手の声も聞かずにそう切り出す。こんな遅くにこんな年寄りに掛けてくるような無礼な物好きは、知り合いに一人しかいない。
「……」
「黙っていないで何とか言ったらどうだ。シンジ君が心配で、電話を寄越したのだろう?」
「む…」
どうにも口下手な男だ。電話越しだと、尚更その傾向が如実に現れる。

まるで埒があかない事を悟り、冬月は話題を変えてみる。
「今どこにいるんだ?」
ネルフ本部を離れたゲンドウがどこで何をしているのか、興味があった。
「…京都ですよ」
「京都…シャノンバイオか」
シャノンバイオ社はマルドゥック機関のダミー企業の一つに過ぎないが、ゲンドウや冬月ら委員会に関わるごく一部の者は、
その近辺にゼーレの秘密研究所が存在することを知っている。
加持の協力が無ければ内閣との交渉は難しいのだから、先に国内のゼーレ関連施設に探りを入れておこうというのだろう。
なかなかに動きが素早い、と冬月は感心した。薄暗い部屋で奸計を巡らすだけの男では無かったという事だ。

「シンジ君なら大丈夫だ。レイも出ているし、共存への具体的なプランも持っている」
ゲンドウの一番聞きたかったであろう事を告げてみる。
「…当然だ。シンジは今こそ頑張らなければならん」
ああ、成る程。それが言いたかったのか。冬月は話を続けながらも、司令塔の下へゆっくりと降りていく。
「碇、お前も無謀な真似はするなよ」
殺されても死ぬようなタマでは無いだろうが、それでも一応釘は刺しておく。
「シンジ君がレイの為に赤飯を炊くそうだからな…お前も食べたいだろう?」
電話の先で息を呑む気配。レイはレイの幸せに向かって歩み始めた。今のゲンドウなら、それを受け入れる事が出来るだろう。
…そして、自分も。

「先生…シンジとレイを頼みます」

それでもやっぱり無礼なこの男は、一方的に電話を切った。
やれやれ、と嘆息すると冬月はオペレーターたちの方へ向かい、突然副司令が降りてきた事に驚く彼らを尻目に通信機器に手を伸ばした。

「シンジ君、今お父さんから電話があったぞ。頑張れ、と言っていた」

疲労と共に強張り始めていたシンジの表情が柔らかくなる。それと同時にシンクログラフが安定を取り戻した。

「ありがとう、冬月さん」
それだけを言うと、シンジはしっかりと前を見据えた。
…碇、これでいいんだな?
司令塔へと戻る途中、ほんの少し拗ねたような顔をしているリツコが目に入り、それが少しだけ可笑しかった。





戦闘開始から10分が経過し、レイは次第に自身の意識が研ぎ澄まされてくるのを感じていた。
今さっき発令所から聞こえたレイのシンクロ率は、39.7%。
発進時は35%を割っていたはずだから、徐々に上がってきている。
いつの間にかくしゃみも止まっている。出撃前に飲んだ甘酒が効いたのかも知れない。

渚カヲルの事を思えば、以前のレイなら初号機はもちろん、弐号機も起動させる事が出来ただろう。
だが、レイにとって零号機は特別な存在だった。
零号機のコアは、初号機や弐号機のそれとは大きく成り立ちが違う。
その為、先程リツコに感じたような『母』を想起させるイメージは無かったが、それでも零号機が自分を守ってくれているのが分かるのだ。

(あなたは、何を思っているの…?)
目の前の使徒に無言で問う。心があるのは確かなのだから、考えている事というのもあるはずなのだ。
こちらが少し損害を被ったのと同様に、使徒にもダメージが蓄積している。
シンジがあの作戦を実行に移すのはそう遠くない、と思えた。
エヴァとのシンクロの要は心の在り様だが、遺伝子の構成が変わればそれは当然シンクロ率に影響を与える。
今のレイには400%はおろか、50%のシンクロ率も出せないだろう。
寧ろ、慣れない感覚でこれだけのシンクロ率を保てている事の方が奇跡といってもいいのだ。
つまり、レイがシンジに代わって作戦を担当する事は…出来ない。

(私に、出来る事は…)
リリスとして無意識下に眠らせていた力は全て捨てた。
だからATフィールドもエヴァが無ければ使えない。
…それは、裏を返せばエヴァを介する事でリリンとしては出来ない事も可能になる、という事。

(ならば…)

お願い、零号機。もう少ししたら赤木博士に頼んで、もっと綺麗な色に塗り直してもらうから。
だから、私の声を届けて。

初号機が兵装ビルから新たなパレットガンを手に取る。
使徒はその隙に、僅かでもと自己修復を試みる。

そしてレイは、使徒に語り掛け続ける。

───私達は敵じゃない。お願い。分かって。





~つづく~





トウジの妹の名前については、ゲーム「新世紀エヴァンゲリオン2」を参考にしました。
ただし口調など他の要素については、独自解釈・独自設定になると思います。



[21803] 5.サキエル(後編)
Name: ふたば草明◆c7ec2017 ID:79d97c37
Date: 2010/09/21 00:07
最初は、私と同じように戦って勝つ事を主目的として進化した生命かと思いました。
だから私も、全力で応戦したのです。

───私………じゃ……。お願…。………て。

でも、すぐにそうでは無い事に気が付きました。
先に現れた紫色のと後から出て来た山吹色のは、明らかに協力し合っています。
先程見た肩を貸し合って歩く二人が思い起こされて、ああ、あの中にも例の小さい生命が乗っているんだな、と理解したのでした。

───私達は…じゃ……。お願い。…かって。

私をアダムに遭わせたく無いのでしょうか?しかし、それにしては二機とも全力で戦ってはいないような印象を受けます。
私にも、一緒に戦ってくれる存在がいたら…などという考えが頭を掠めます。
全力で戦っていないのはこちらも同じ。二対一とは言え怖れは全くありません。
ならば、何故そんな事を考えるのでしょうか。私には、自分の思考がさっぱり理解できませんでした。

───私達は…じゃない。お願い。分かって。

あの山吹色の方は、何故あんなにもこちらを見ているのでしょうか。
異なる進化を選んだ私達に意思の疎通など出来る筈も無いのに、何かを伝えようとしている…?
ああ、煩い。あちらから潰してしまおうか。
そう思って“レーザービーム”の構えを取ったその時。

…遥か西の空から、ゆっくりとこちらに近付いてくる気配を察知して私は驚愕しました。
あれは──あれこそがアダム!?それじゃ、ここの地下にあるのは?
アダムの事も、目の前の二機の事も、その中に居るであろう小さな存在の事も、自分の心も私には分からなくて…

大きく、咆哮。





「今のは…?」
第2の顔の両目から光線を放とうとする例の予備動作を取ったにも拘らず、発射を中止して西の空を振り返った使徒の動きを見て、ミサトが声を漏らした。
リツコも一瞬怪訝に思ったが、その方角から一つの事に思い当たる。
「副司令、セカンドチルドレンの到着予定は?」
「ふむ。あと二時間強といったところだな」

「そうか!加持の持ってくるアレね…!」
その会話を聞いてミサトも気付いたのだろう。
「嬉しそうね?」
「アンタねぇ…自分には前司令からの激励が無かったからって、拗ねてんじゃないわよ」
ミサトに見透かされるようではどうしようもない。リツコは思考を切り替えると、目の前の戦いに再度集中した。

「それで、何か分かったの?」
出撃したシンジとレイに対してミサトが出した命令は、近・中・遠様々な距離から攻撃を仕掛け反応を見るという消極的なものだった。
「ええ。あの使徒の武器は光の槍と光線の他には無い、って事がね」
「そ、それだけですか?」
マコトが困惑した様子で問い直す。使徒の武器が二つしか無いというのは、比較的早い時点でオペレーターにも想像がついていた事だ。
「でも大事な事よ。初号機が零距離まで接近するチャンスは恐らく一度。その時になって私達の知らない武器がありました、じゃあ済まないのよ」
正面から、側面から、背後から。単発で、牽制で、連繋で。
ミサトはその為に、細かい指示を出しつつ逐一使徒の対応をチェックしていたのだった。

リツコやミサトが経験してきた戦いの中で、ミサトは作戦部長として幾つかの失態を犯している。
不確定要素が多くなり過ぎて誰もが不安定になっていた終盤はともかく、第3使徒戦や第5使徒初戦における無策振りは糾弾されてしかるべきかも知れない。
だが、『殆ど何も判っていない兵器』で『殆ど何も判っていない敵』と戦うという状況で、ミサト以上の戦果を一体誰が出せただろうか。
今展開されているのは、第5使徒第二戦や第10使徒戦のような奇想天外で派手なだけではない、繊細で緻密な作戦。
一流戦術家としてのミサトの真価が数々の情報を得てようやく発揮され始めた、とリツコは感じた。

「ま、他にも分かった事はあるわ。見た目からも想像がつくけど足元への攻撃に弱いってコトでしょ、
 光線発射中は体を固定してないとダメみたいだから発射後にスキがあるってコトでしょ、それから…」
言葉を区切り、チラッとリツコの方を見る。
「体内に蓄えておける熱量には限りがあるってコト」
少しだけ考えて、リツコはミサトの言わんとしたことを悟った。
体内にS2機関がある以上、使徒は無限にエネルギーを生み出す事が出来る。だがそれは無限にエネルギーを溜めておけるという事では無い。
乾電池がいくつあっても、一度にセット出来る数は決まっているのだ。

あの使徒の武器は光の槍と光線だけとミサトは言ったが、実はもう一つ切り札がある事をリツコもミサトも知っている。
…自爆、だ。
初号機が使徒に直接接触出来たとして、かつての経緯を思えば最後は自爆に持ち込まれる公算が高い。
シンジの為にも、そしてあの使徒自身の為にも、それだけはさせてはならないのだ。

改めてミサトを見る。目を閉じていた。
今彼女の頭の中では、それこそMAGI並のスピードで作戦案が取捨選択されているのであろう。
エヴァの挙動の一つひとつに声を荒げていた前回とは違う。
勝てる、とリツコは思った。

目を閉じていたのはほんの数秒。
思考の海から復帰したミサトは自信に満ちた表情を作ると、シンジとレイに向かって告げた。

「お待たせ、作戦が決まったわよ。今から説明するわ」





第一に、零号機が距離を保って光線を何発も撃たせ使徒のエネルギーを使いきらせること。その間に初号機は身を隠して接近しておく。
第二に、初号機が発射後のスキを狙って飛び掛かり、足元への攻撃を仕掛けて転倒させ、ATフィールドを中和。零号機も全速で駆けつける。
第三に、使徒が体勢を整える前に背後に回った零号機が両腕を拘束し、槍を封じる。初号機が直接接触して心の対話を試みる。

以上が、ミサトの伝えた作戦だった。
成る程とシンジは感心する。
槍の届かないギリギリの距離から射撃だの低い体勢で横合いからナイフで攻撃だのという細かい命令は、全て使徒の行動パターンを見極める為だったのだ。
レイを囮の様に使う事に若干の躊躇はあったが、第5使徒の加粒子砲に較べればこの使徒の光線は遥かに威力も低く照射時間も短い。
「ええ、それは私の望みでもあるわ」
昨日のレイの言葉を思い出し、シンジは心を決めた。

「使徒が気を散らしている今がチャンスね」
ミサトが言っているのは、加持が運び出したアダムの事だろう。事実、少し前から使徒の動きが散漫になっていた。
あとどれくらいでアスカ達がここへ着くのかシンジには分からない。
だが、あまり近付きすぎると、アダムに反応した使徒がこちらを無視して輸送機へ向かう事も予想された。
そうなった場合、大した武装も持たない大型輸送機では太刀打ちできないであろう。

「碇君、配置についたわ」
最初は調子の上がらなかったレイも、今では40%を越えるシンクロ率を出している。

…仕掛けるのは、今だ。

「ようし綾波、始めて!」
シンジの号令と共に、レイがパレットガンの斉射を掛ける。赤いフィールドに阻まれる弾。だが、ダメージを与える事が目的では無い。
使徒が零号機の方へと向き直る。
光の槍では届かない距離と判断したのだろう、仮面のような顔を向け、光線を放った。
何度も見てきた攻撃。レイは冷静にATフィールドで受け止める。フィールドの輝きが、先程よりも増していた。
光線の照射が終わると、間髪居れずに再び射撃を掛けていく。
使徒の注意が完全に零号機へ向いたのを見届け、シンジは初号機を兵装ビルの隙間に隠した。
エヴァが匍匐前進で通れるだけの道を開けてあり、なおかつ使徒の視界を上手く遮るようにビルを出してあるのはミサトの指示だろう。
手元のシェルターを避けつつ、シンジは音を立てないように慎重に初号機を進めていった。

(音を立てないように、か…。あの使徒には耳ってあるんだろうか?)
N2地雷の震源に居て、あれだけの轟音に耐えたのだ。もしかすると、聴覚そのものが無いのかも知れない。
(でも、目は増えてるんだよな)
これまでの動きから、使徒があの四つの目で物を見ている事は間違いない。ミサトの作戦も、それを大前提としてのものだ。
最初二つだった目が四つになったのは、戦況に応じた進化だと思う。
だがそれ以降のエヴァとの戦いの最中に、使徒が新たな進化を果たした様子は見受けられなかった。
進化するにはある程度の余裕が必要なのかも知れない、とシンジは仮説を立てた。
だからこそ実力の拮抗した二機のエヴァとの戦いでは、既に持てる武装と能力のみで戦っていたのではないか、と。
そう考えれば、過去の使徒戦でシンジが使徒の進化をあまり目の当たりにする機会が少なかったのも頷ける。
第7使徒の分裂などは進化ではなく、元々持っていた能力だったという事だろう。

零号機に向かって放たれた光線は、既に五発に達していた。
焦れて接近を試みる使徒だが、レイの射撃に押し込まれて結局六発目を放つ。
「使徒のエネルギー反応、最大時の15%まで低下!」
シゲルの声が聞こえた。
「あと一発よ!そしたら飛び出して攻撃、いいわね!」
「はいっ!」
既にシンジは使徒のすぐ近くまで来ている。念の為に持っていたパレットガンを地面に置く。

そして、七発目が撃たれた。持てる力を出し切ろうと言うのか、その威力は今までのものを大きく上回っていた。
光線が使徒のすぐ横の兵装ビルを大きく抉り、零号機を目指す。
六発もの光線を防いだことでレイは疲弊し、ATフィールドの強度は僅かに落ちていた。
「きゃあああっ!」
フィールドの展開が甘かった部分から、光線が右のアバラを直撃。
レイの悲鳴が。人間らしい悲鳴が、響いた。

(………ッ!)
無視することは出来ない。だが、初号機で使徒を抑えればレイはこれ以上危険な目には遭わない。
零号機は使徒の腕を抑えるのは無理かも知れないが、その時は一人で何とかしてみせる!

一瞬でそう判断したシンジは、次の瞬間には使徒に渾身のスライディングキックを繰り出していた。
不意を衝かれて倒れる使徒。
「うぉおおおおお!」
シンジはフィールドの中和に全力を傾ける。使徒が、その心を見せようとしている。

突如、腹部に鈍い衝撃が走った。使徒が蹴り上げたのだ。
初号機が一歩よろめいたその隙に使徒が立ち上がり、左腕を構える。
(槍か!)
やられる、と思ったその時、使徒の左腕が大きく捻り上げられ光の槍は空しく宙を貫いた。
「零号機…綾波!」
使徒の背後から、零号機が羽交い絞めにしていた。右半身が大きく損傷している。
その状態でここまで駆けて来てくれたんだ!シンジは胸が熱くなるのを感じていた。

零号機の右手を振り払い、使徒が今度は右腕を構える。左よりも右を拘束する力が弱いのを感じ取ったのであろう。
「碇君!」
かわそうと思えば紙一重でかわせるだろう。だが、
「ぐううっ!」
体を捻り、槍を左脚に受ける。槍は初号機の脚を貫通し、地面へと刺さった。

この瞬間、左手を掴まれ右手を地表に縫い付けられ、光線を撃つエネルギーも使い切った使徒は全ての攻撃手段を失った。

「今だ!行くぞっ!」
左脚の痛みに耐えて残る使徒のフィールドを中和し尽くす。
「僕の心を…」

「シンクロ率80、90、…ひゃ、100を突破!?
 まだ止まりません!150、200、300…センパイッ!」
殆ど半泣きのようなマヤの声。
「大丈夫よ…。これが終わったら、あなたも知らなくてはね…。エヴァの事も、他の事も」

「僕の心を、見ろぉおおっ!」
人のかたちを保ったまま、自我境界の一部を開放。

シンジは使徒の心に、確かに触れた。





最後の手段である筈の自爆のエネルギーすら残っていなかったのは、計算外でした。
こちらに攻撃している間も何かを語り掛け続けるような山吹色のに苛々として、“レーザービーム”を撃ち過ぎたのがいけなかったのです。
両腕の“レーザーパイル”も完全に封じられ、私は敗北を…種としての消滅を覚悟しました。

その時。
ぱあっと視界が白く染まり、黒髪の優しそうな少年が、目の前に現れたのです。
少年…?そう、彼は『人間』の『少年』で……『名前』は『碇シンジ』。
私の知らない情報が次々と奔流のように押し寄せて、私は多くの事を理解しました。

私は、知らなかったのです。私が父なるアダムと接触する事で何が起きるのかを。
私は、知らなかったのです。それが起きない事をどれだけの人が願っていたかを。
私は、知らなかった。碇シンジと綾波レイがどんな思いで私と戦っていたのかも。
私は、知らなかった。彼らがどれ程大きな宿命に立ち向かおうとしているのかも。

そして彼の伝えてくれた心の中に、私は最も大事な事を見つけました。
喜びも、怒りも、哀しみも、楽しみも知っていた私が、たった一つ知らなかった感情。
原初の刻には確かに持っていた筈なのに、個としての進化を続けた私が自分でも知らぬ間に捨ててしまった…

…寂しさ。

どこかで、ミシリと何かが音を立てた気がしました。





ミシリ。
それは、兵装ビルに亀裂が入っていく音だった。
次第にその亀裂は大きくなり、使徒が七発目に放った最大出力の光線によって大きく抉られていた兵装ビルの上半分は、遂に安定を失って崩れた。
使徒に対して初号機を視界から隠す目的の為だけに展開されていたこのビルが崩れたとて、大勢が決した今となっては既に何の影響も無い筈だった。

その、倒れた方向に避難用のシェルターが無ければ。

一際大きい振動と共に何か大きい物が落下してきて、シェルターの一角が崩壊した。
その付近に人が居なかったのは幸運だったと言っていいだろう。
外部から差し込んできた光が月明かりであると悟った瞬間、ナツミは外へ向かって一目散に駆け出した。

「なッ!お、おい、ナツミ!?」
トウジの声も最早耳に届かない。密室の中で、既にナツミの精神は限界に達していた。

あの外へ出れば警察に行ける!そしたら私は、助かるんだ!

非常事態宣言の最中に派出所に人が居る筈が無いという当たり前の事にナツミが気付いたのは、ずっと後になってからだった。
もっとも小学二年生のナツミにそこまでの判断を求めるのも酷というものだろう。





「え!まさか、あのコって…!」
突如聞こえてきたミサトの声に、シンジは我に返った。
身体が、ある。
どうやらあの時の様な事にはならなかったようだ。使徒にも、伝えられる事は全て伝えたと思う。
(あのコ…?)
ミサトの声に、まだぼうっとする頭を僅かに動かして外の様子を見る。
手を伸ばせば届きそうな位置にあるシェルターから、一人の女の子が飛び出して来るのが見えた。

…そして、その頭上には既に上半分が崩れ落ち、残りも今にも崩壊せんとする兵装ビル。
「そうそう、鈴原君の妹さん、もうガードをつけてあるから。安心してねん♪」
ミサトから聞いた筈の言葉。だから、あれがトウジの妹であるわけが無い。

なのに、トウジが号泣する姿が目に浮かんで。

(くっ!シンクロが…!)
400%まで上げた反動か、シンクロ率が極端に低下しているのが分かる。自分の、エヴァの四肢が動かない。
零号機は…活動を停止していた。
一瞬でも早く手負いの体で使徒の背後へ回るため、ケーブルを外していたのだ。

ミシリ、と。
女の子の頭上で嫌な音がした。
家一つ分はあろうかという巨大なコンクリートの塊が、重力に従って落ち始める。
初号機からも零号機からも手が届く場所なのに。

「うわぁああああっ!」

誰もがシンジの絶叫を聞いていた。
この場の、誰もが。





いきなり月明かりが遮られた気がして天を見上げたナツミの目に入ったのは、大きな塊だった。
それが何であるかは分からない。でも、あ、死ぬな、とそれだけは分かった。

幼くして母を亡くし、仕事で忙しい父を持つナツミは、誰に言われるまでも無く自分から家事を手伝うようになっていった。
トウジも家では多くの仕事をこなしていたが、男であるからか、或いはその性分ゆえか細かい所まではなかなか気が回らず、
結果的に小学校低学年にしてナツミの生活の主軸は早くも学校と家事の双方となっていた。
セカンドインパクト後においてこのような境遇は珍しくは無かったが、
それでもクラスメイトが放課後に遊ぶ相談をしているのを聞いた時など、羨望の念を覚える事もあった。
あまり付き合いの良くないナツミには、親友と呼べるほどの友がいなかったのである。

(親友ってどんなかな?お兄ちゃんは優しいけれどそれとはまた違って、何て言うか…あったかいんだろうな)
そう思いながら目を閉じる。最期の時に考える、これが未練というものなのだろうか。





衝撃は…来なかった。

恐る恐る目を開けたナツミが目にしたのは、天より降って来た塊を受け止めた、黒く細い腕。
ああ、それじゃあきっとあっちの仮面みたいなのが二つ付いた方がネルフのロボットで、それを二人がかりでいじめてるのが人類の敵なんだ。

そんな事を考え、仮面の奥の虚ろな目にニッコリと微笑み返して…

ナツミは気を失った。





~つづく~



[21803] 6.集う仲間たち
Name: ふたば草明◆c7ec2017 ID:79d97c37
Date: 2010/09/22 01:54
エヴァンゲリオン弐号機を載せた超大型輸送機が第3新東京空港に到着した、との報せがあったのは既に夜も更けてからだった。
ネルフの本部には、それ程の大型機を着陸させるだけの発着施設は無い。
本来ならば周辺の戦自基地の滑走路を借用するべきなのだが、ゼーレが既に国連を通じて日本政府に何らかの圧力を掛けている可能性もあった。
それなら特別非常事態宣言の発令中なのを良いことに空港を無断利用してしまおう、と提案したのはやはりというか、葛城ミサトであった。
セカンドインパクト以降空路の利用者が激減した事を受け、航空会社は次々と撤退し、現在では夜間に飛ぶような民間旅客機はまずいない。
にも関わらず利権絡みで建設された第3新東京空港には最新の無人誘導設備が備え付けられており、
これをMAGIの介入で起動させる事により、安全に輸送機を着陸させる事が出来る。
その話をリツコから聞き、最初は難色を示したシンジもようやく納得したのだった。

「それで、弐号機を降ろした後その輸送機はどーするワケ?」
車を走らせながらミサトが切り出した。いつもの愛車では無い。帰路には二人が加わることを計算した上での、ネルフマークの入ったワゴン車である。
秘密の多い特務機関であるネルフがこんなにも目立つ車を所有しているとは、シンジもレイも知らなかった。
宣言が解除されておらず市民がまだ避難中だからこその状況で、初めて日の目を見るような車。
ゼーレに代わる経済面での支援組織を探す、と確かゲンドウは言っていたが…
(もしかして、ネルフってまだまだ経費を削減できるんじゃないだろうか)

シンジがそんな事を考えていると、助手席に座っているリツコが先刻のミサトの疑問に答えた。
「敵対する事が避けられないドイツ支部に返すことは無い、というのが副司令の意見。これは私も同感よ。それと…」
慎重に言葉を選んでから、リツコはこう続けた。
「個人的には、あの輸送機を使ってゼーレが本格的に動く前にアメリカの3号機を受領したいのだけれど」

3号機。それはシンジにとって辛い記憶しか呼び起こさない言葉だ。
第13使徒に侵食されたあの機体は、エントリープラグに鈴原トウジを乗せたまま自分達の目の前に現れ、そして…。
だが、今のリツコがあの悪夢を再現する為にそのような事を言い出す筈も無い。シンジは心を落ち着かせ、話を聞く事にした。

「色々探りを入れてみた所、現時点で既にエヴァンゲリオン13号機までの設計図と生産プランは存在しているわ」
「そんな!第4使徒のサンプルが無ければS2機関の実験は出来ない筈でしょ?」
確かに第4使徒の体組織をサンプルとして入手したからこそ、あの実験の惨劇は起きた。
直接的では無いにせよ自らと使徒の戦いに端を発した事件であり、これもまたシンジが繰り返したくない悲劇の一つである。
「でも、あの実験は失敗して少なくとも機関の搭載に関するデータは失われたはずなのに…」
「そう、量産機にはS2機関が実装されていたわ」
シンジの言葉をリツコが引き継いだ。一方のミサトは二人の言いたいことが分からず、顔に疑問符を浮かべている。

「サンプルが無くてもあの人たちはS2機関を完成させられる、という事…?」

使徒との戦いでごく軽い傷を負い、後部シートに半ば横たわる様にしていたレイが口を挟んだ。
もっとも外傷は殆ど無く肋骨の辺りに違和感を覚えるという程度のもので、心配したシンジに言われた為に横になっていたに過ぎないのだが。

「…マジで?」
ミサトとS2機関、ひいてはS2理論の間には浅からぬ因縁がある。ショックを受けたとしても無理はないだろう。
「レイの言う通りよ。最も、データが殆ど無い今の時点で完成しているとまでは思わないけれど」
時間の問題、という事だろう。つまり、使徒との関わり方をどうした所で量産機との戦闘は避けられない。
直接サードインパクトの要因としてでなくとも、ゼーレの計画の妨げとなる者を消すのにあれ程都合の良い戦力は無いのだ。

「ネルフ本部がゼーレの意向に従わない以上、恐らく乗り手を用意出来ない3号機と4号機にもS2機関が組み込まれ、敵に回る事になるわ。
 4号機以降はまだ部品製作の段階だけれど、私としては敵対するエヴァは一機でも減らしておきたいの」
シンジにもリツコの考えが読めて来た。3号機を使うかどうかではなく、ゼーレの手が及ばない本部に確保しておく事こそが肝要なのだ。
「その3号機ってさ、どこまで完成してんの?だいたい、素直にこっちに渡してくれるかどーか分かんないでしょ?」
ミサトが疑問を次々と投げかける。
「外骨格の組み立てまでは済んでるわ。コアは未装着。引渡しの交渉は…あの人にお願いする事になるだろうけれど」
あの人とは、当然ゲンドウの事だろう。そちらの方は、シンジたちが心配しても仕方の無い事だ。
「成る程ね…」
ふと見ると、ミサトがミラー越しにこちらを見ていた。

「シンちゃん、どうすんの?私はリツコの案に賛成だけど」
データさえ出揃えば判断を迷わないのは、ミサトの長所だ。
司令として、自分も決断を求められている。シンジは一つだけ、気になっていた事を訊いた。

「ドイツ支部との敵対は避けられないって話ですけど、アメリカは大丈夫なんですか?もう敵に回ってるなんて事は?」
少し考えてから、リツコが答えた。
「ええ。ネルフの支部は各国にあるけれど、大きい支部に関して言えば最も委員会寄りなのがドイツ、自国の政府との繋がりを優先するのが中国。
 そして最も本部寄りなのがアメリカなの。国連から正式な決議が出されでもしない限り、アメリカの支部が表立って敵に回る事は無い筈よ。」
各支部ごとの思想にそれ程の隔たりがあるとは、シンジは初耳だった。まだまだ、知らなければならない事がある。

「分かりました。3号機の受領計画をお願いします。」
リツコは深く頷くと、早速携帯電話を取り出してどこかに連絡を取り始めた。

「ほ~ら、空港が見えてきたわよ!」
アスカも加持も、使徒と共存する道を往きたいというシンジの意見に賛同してくれた事は冬月から聞いた。
それでも、アスカに遭うのはどうしても躊躇せざるを得ない。
アスカが自分に対してある種の好意を持っていてくれた事は何となく理解できたけれど、今もそうだとは限らないのだ。
シンジは本当に久しぶりに、誰かに会うのを怖いと感じた。
そして、だからこそ逃げまいと、心に誓うのだった。





ところが、である。
そんなシンジの悩みは輸送機のタラップから降りてくるアスカを一目見た途端、吹き飛んだようだった。
アスカは前のような淡い黄色のワンピースではなく、マヤなどが着用しているのとほぼ同じデザインのネルフ女性局員用制服を身に着けている。
監視の目を盗むようにしてドイツ支部を発ったという話だから、恐らくは出発時に目立たないようにとの配慮だったのだろう。
荷物も僅かにバッグ一つ。リツコは、そのあたりにアスカなりの決意というものを見た気がした。

そして、シンジの視線はアスカの豊かな…豊か過ぎる胸元に注がれていた。
しばらく凝視してハッと気付き、不自然に目を逸らすものの目が哀れなまでに泳いでいる。
(若いわね…)
当のアスカはと言うと、そんなシンジの様子をにやにや笑いながら見ていた。

「そこに、何を入れているの」
びしっと無遠慮にアスカの胸を指差すレイ。あまり行儀の良い事ではない。
アスカはレイの方へ視線を向けてやや鼻白んだような表情を見せ、次にふうっと溜息をついて言った。
「全く、レイの驚いた顔も見れるかと思ったのにぃ…」
前のファスナーを降ろして手を突っ込み、何かを取り出す。そして、その何かをシンジの方にぽいっと投げて寄越した。

「うわっ!こ、これって…」
受け取ったシンジは思わず腰を抜かし、地面にへたり込んでしまった。
「既にここまで復元されています。硬化ベークライトで固めてありますが、生きてます。間違いなく。」
そう言って不気味な笑顔を作り、後ろに姿を現した加持を得意げに見遣るアスカ。
もちろん、リツコ達はアスカが加持にものまねの才能が無いと言われたことなどは知らない。
それどころか、加持以外には誰一人としてそれがものまねであるとさえ伝わらなかったわけだが。

やれやれ、と首を振る加持にミサトが心底疲れたような声を掛ける。
「あのねぇ…何てトコに隠してんのよ…」
「お、俺がどうこうしたわけじゃないぞ。アスカが絶対安全な運び方に心当たりがあるって言うから…」
それは事実だろう。余分なプライドやトラウマの多くを脱却した今のアスカには、加持さえ振り回す程のバイタリティが自然な形で溢れている。
「とにかく、それはもっと大事に扱うものよ。投げたりするものではないわ」
一応、釘は刺しておく。はぁい、とややふくれながらも素直な返事が返ってきた。

「無謀だわ。乳房に寄生したらどうするつもりだったの」
レイのその言葉に一同がぎょっとする。中でもアスカの顔は蒼白になっていた。
「そ、そんな事ってあるわけ?」

「…冗談よ」

つまらなさそうな顔で告げられたレイの返答に、今度はアスカが安心してへたり込む番だった。
(無意識にシンジ君を誘惑しようとしたアスカに、これまた無意識にレイが嫉妬したという事かしらね)
どうせロジックでは無いのだから考えても仕方が無いのだけれど。
自分も碇家の男に一喜一憂させられる身としては、双方に複雑な同情を抱かずにはいられないリツコであった。

ようやく起き上がったシンジが、加持の持つケースにアダムをしまう。アスカもすぐに立ち上がると、レイに向かって言った。
「それにしても、レイの冗談が聞ける日が来るとは思わなかったわ」
全くその通りだ。ただ、人間らしい成長は嬉しいが、使徒に関するレイのジョークは洒落にならないのでやめて欲しいとも思う。
「私も。…あなたに名前で呼んでもらえる日が来るとは、思わなかった」
レイの言葉にリツコもようやく気付いた。そうだ、以前は『ファースト』としか呼ばなかったレイの事を、今は名前で呼んでいる。
「ありがとう、嬉しいわ。…アスカ」
「全く、気付いてたんならもっと早く言うとか、それとも逆にそのまま流すとか…」
アスカが目を背けてぶつぶつと呟いている。照れているその様子は、なかなかに可愛いものだった。
「とにかく!これからまたよろしくね!」
腰に手を当てたその偉そうなポーズは相変わらず。だが、その瞳に高慢さはまるで無かった。
レイの背負った業も、レイ自身の想いも何もかも受け入れた上での言葉。それがレイにも分かったのだろう。レイは、

「ええ、よろしく」
ほんの少しだけど、柔らかい笑顔を浮かべた。





「それからシンジ、アンタも!」
キッとシンジの方を向き、あえて上からの目線で睨みつける。
慌ててびくっとするシンジ。…アタシが素直になれないだけだって、とっくに分かってるでしょうに。

…シンジの顔を見たら、最初に何て言おうか。
あのミサイル迎撃戦の後、日本が近付くにつれてアスカはそればかりを考えていた。
結局何も思いつかず、アダムを使った苦肉の策に出たわけだけど。
でも、レイとの会話で勢いのついた今なら言える、と思った。そのまま口を開く。

「アンタが相変わらず過剰に内罰的なヘタレか、それともちょーっとは成長したのか、
 これからの戦いでこのアタシが見極めてあげるわ!だからせいぜいしっかり頑張んなさい!いいわね!」

ああ、やっぱりこんな事しか言えない、と少し後悔。でも、励ましの意は伝わったと思いたい。
シンジはしばらく呆然としていたが、やがて言葉を全て理解すると、
「うん。また、よろしくね」
そう言って、手を差し出してきた。
ぎゅっと、その手を握る。

シンジの笑顔。シンジの体温。アスカは思わずくらぁっとして、

(子供、やっぱり欲しいかも…)

あまりにも飛躍したことを考えてしまうのだった。





それからすぐに、六人は車に乗り込んだ。空港の寒空でいつまでも話すことも無いので、ミサトはすぐに発進させる。
リツコが助手席、加持とシンジが二列目。レイとアスカは三列目。アダムの入ったケースはトランクに格納してあった。
「にしてもアスカ、ホント素直じゃないわね~。日本じゃそういうの、ツンデレって言うのよ。ね、リツコ」
「ええ、そうね。MAGIも全会一致でアスカをツンデレだと認めたわ」
「誰がツンデレよっ!っていうか、いつの間にMAGIなんか使ったのよ!」
本当に期待通りの反応を返してくれるアスカ。そういう所は良い意味で相変わらずだった。
「だから、そんな事にMAGIを使わないで下さいよ…電気代が…」
シンジのガックリとした声が聞こえてくる。

「アンタも情けない事言ってないで、第3使徒戦の事を教えてよ。二人ともほぼ無傷って事は、一応圧勝だったんでしょ?
 アタシはまたアンタがギタギタにやられて、知らない天丼がどーしたとかボヤいてるかと思ってたんだけど」
「それを言うなら天井よ」
レイが冷静に間違いを指摘する。加持が笑いを堪えている気配が伝わってきた。
(少し、雰囲気が変わったような…?)
はっきりとした事は分からないが、ミサトにとって加持の変化は何だか安心できるものに思えた。
まだ加持とはまともに話をしていない。だが、もう焦る必要は無いのだ。これから、時間はたっぷりある。
自分の間違いもレイの指摘も全て無かったかのようにして、今度はミサトに話が振られた。
「で、ミサト?実際どうだったの?」

───統合的に振り返ってみれば、悔しいという他無い。
もちろん、鈴原トウジの妹・ナツミの事である。
あの後シェルター内から駆けつけた保安部員によって保護されたナツミは、真っ青になって追って来たトウジと共に本部内の医療施設に運ばれた。
身体には全く異常は見られなかったが、目を覚ましたナツミの口から語られた話はミサトを驚かせるものだった。
曰く、ナツミはミサトが前日から護衛につけていた黒服の保安部員を見掛けており、
それで自分が怪しい組織に狙われていると思い込んだ挙句シェルターから飛び出したというのだ。

「はぁ!?特務機関の保安部が聞いて呆れるわよ。女の子一人守れないどころか、逆に危ない目に遭わせるなんて!」
アスカが激昂する。実はミサトもナツミの話を聞いた直後、担当の保安部員に同じような言葉を投げかけたものだった。
あわやその場でクビにされかかったその保安部員たちは、恐縮した当の鈴原兄妹の口添えで何とか処分を免れていたのだ。

「全く返す言葉も無いわ。あれだけ大見得を切っておいて…」
「ミサトさんの所為じゃないですよ。気を落さないで下さい」
シンジにそう言われても、護衛をつけただけで安心しきっていた自分に対してミサトは憤懣やるかたない思いを覚えざるを得なかった。

何となく沈んだ空気を振り払うかのようにして、アスカが再び疑問を口にした。
「それで、使徒の方はどうしたの?鈴原の妹を助けてくれたって事は、シンジの心がちゃんと伝わったって事よね。その後は?」
「それがね…消えたんだ」
シンジが説明する。結果のみだが、さりとてそれ以上に言うべき言葉が無いのも分かる。

消えた。そう形容する他は無いだろう。
ナツミの頭上に迫ったコンクリートの塊を受け止めた後、使徒はしばらくナツミの事を見ていたようだった。
保安部員とトウジが駆けつけナツミを抱えてその場を離れた次の瞬間、コアが赤い光を放ったかと思うと使徒の姿は消え失せていた。
停止した零号機に掴まれていた左腕も、槍を初号機の脚に刺したままだった右腕も、全てが消えていたのだ。
後には、支えを失ったビルの一部がゴロリと転がっているだけだった。
「ふぅん、取り敢えずはどっかに帰ってくれたって事なのかな…」
ミサトやリツコとしても、そのように推測する他無かった。何ともすっきりしない結果ではあったが。

「それにしてもさっきから話聞いてたら、零号機も初号機も結構やられたみたいじゃない。そっちは大丈夫なわけ?」
「零号機はしばらく出せないわ。初号機は殆ど左脚だけだけれど…もし一週間以内に次の使徒が来たら、弐号機だけが頼りね」
リツコの答えを聞き、アスカが自信満々に言った。
「その時は安心してアタシに任せなさい。400%くらい、明日のシンクロテストで出してみせるわ!」
シンクロ率の話となるとやっぱり眼の色が変わる。
だが、今のそれはシンジに勝ちたいからではなく、シンジの力になりたいからだろう。
ミサトには、本当にアスカが400%を出せるような気がしていた。





リツコの携帯電話が鳴った。番号を見るとマヤからだ。先程の使徒戦のデータから何か新しいことでも分かったのだろうか。
もしもし、と言う間もなくマヤの声が聞こえてくる。

「セ、センパイッ!使徒です!ほ、ほ、本部前に…こっちに来ます…あああッ!」

やはり何も言う間も無く、電話が切れた。

「ミサト、スピード上げて頂戴」
は?と間抜けな声を出すミサト。
「本部前に使徒が出たそうよ」

マヤの極度に動揺した声を聞いたせいで逆に落ち着けたのは好都合だった。
さっきアスカに言った通り、零号機と初号機は出せない。弐号機は今頃輸送機から降ろされて陸路を搬送中だろう。
正直、打つ手は無かった。

「えええええええええっ!?」

ミサトとアスカがほぼ同時に声を上げた。
その声を聞きながら、そう言えば本部はそう遠くないのに使徒の姿がまるで見えないわね、と不思議に思うリツコだった。





~つづく~





「ツンデレ」に代表される近代的な言葉についてですが、多少違和感があるのを承知の上で、
TV版放送当時に合わせるよりも今の時代に伝わりやすい方がいいかと思い、使用していく事にしました。
出来るだけ読みやすくなるよう心掛けていきますので、これからも宜しくお願い致します。



[21803] 7.大いなる一歩
Name: ふたば草明◆c7ec2017 ID:79d97c37
Date: 2010/09/23 06:43
話は、伊吹マヤが赤木リツコに一方的に電話を掛けて一方的に切った、その少し前に遡る。

使徒と零号機及び初号機の戦闘データを整理していたマヤは、一区切りの所まで仕事を終えて缶ドリンクの自動販売機に足を運んだ。
少しだけ考えてから、冷たいカフェオレを選んでボタンを押す。
本当はミルクティーの気分だったけれど今夜は多分徹夜になるだろうし、今後に備えて眠気を晴らしておく必要があるだろう。
冷たい缶を手に、腕時計で時間に少々の余裕がある事を確認し手近な第8ゲートから地上へ出る。少しだけ、外の空気を吸いたかった。

地上は、閑散としていた。
エヴァの回収も先程完了しているので、あと小一時間もすれば非常事態宣言は解除される筈だ。そうすれば、人々が姿を現す事になる。
だが今は、まだ街全体が神秘的な静けさを保っていた。
ふと、使徒が最後に姿を消した方角を見てみる。
(あれが、使徒…)
全ての通常戦力を寄せ付けず、エヴァ二機を相手に一歩も引かずに渡り合った、その威容がまざまざと思い出された。

マヤは元々、人類を守る仕事をする事を第一義的な目的としてネルフへ入ったわけではない。
学生時代に身に着けた情報技術を活かせる場を探す中でネルフの存在を知り、そして赤木リツコに出会って、
この人のもとで働く事が自らのスキルアップに繋がる、との確信を得たのがネルフに入る直接の動機となった。
その他に、リツコの人間的魅力に惹かれたというのも少なからずあっただろう。
だから先日シンジが『命』について語った時、自分の覚悟の半端さを指摘されたように感じ、少し後ろめたい思いを感じた。

当然マヤとて、自らの担う重責についてはしっかりと理解していた。
だが、理解する事とそれを実感する事はまるで別物である。
…もしモニターに次々と表示される情報の内自分がどれか一つでも見落としていれば、そこから形勢が悪化し人類の危機を迎えていたかもしれないのだ。
使徒と対峙する事の意味。それを今日、マヤは心底痛感した。
そして同時に。
「これが終わったら、あなたも知らなくてはね…。エヴァの事も、他の事も」
あの戦闘中のリツコの言葉を思い出し、それが何であれ目を背けまいとの思いを強く抱いていた。

第8ゲートから出てすぐの所に、小さな児童公園がある。
そこのベンチにでも腰掛けて缶を開けようかと考えていたマヤは、公園に一歩入っておや、と足を止めた。

公園の中央に、鈍いガス灯の光を浴びて一人の少女が立っていた。

年の頃は8~9歳といった所か。
背中側に大きく流しつつ左右の鎖骨辺りでも軽く結わえた黒髪と、肩だけが白く膨らんだ濃緑色のワンピースが印象的だった。
ほんの少しその幻想的な姿に見とれかけて、マヤはその少女の存在自体が不自然な事に気が付いた。

特別非常事態宣言は未だ解除されてはいない。
それに、今回まるで使徒の出現時間が分かっていたかのようなタイミングで宣言が出された為、諜報部の報告では避難し遅れた市民は推定0名だった筈。
よしんば逃げ遅れた者がいたとしても、使徒の市街地侵入直前まで保安部員が入念に見回りをしていたのだから、気付かないという事は有り得ない。
だが現実に目の前にいる以上、この少女は何らかの理由で外にに取り残されていたのだろう。
怪我をしているような様子は無いが、だからと言ってこのような場所に一人にしておくわけにはいかない。
マヤは少女に近寄り、驚かせないようにそっと声を掛けた。
「ねぇ、あなた、大丈夫?」

考え事をしていたらしい少女はマヤの接近に気付かなかったのか、少し驚いたような表情をこちらへ向けた。
「シェルターには行けなかったのかな?」
話を聞いているのかいないのか、分からない。それよりも、寧ろネルフの制服をじっと見ているようだった。
「それじゃ、お名前は?」

「…サキエル」

ようやく、少女が答えた。
顔立ちは日本人のようだが、ハーフなのだろうか。天使みたいで綺麗な名前だとマヤは思った。
「そっか、サキエルちゃんは…」
答えを得られた事で安心したマヤが次の質問をしようとした時、

「…ごめんなさい」
サキエルと名乗った少女は突然、謝罪の言葉を口にした。
「え?えっと…何がかな?」
謝られる覚えなど無いマヤは困惑してしまう。
少女はしばらく何かを躊躇っていたが、やがて顔を上げると何だか辛そうな目をしてこんな事を言った。

「私、さっき暴れた使徒…なんです」

「え?」

───沈黙。それが冗談なのだろうと分かるまでに数秒。

「ああ…ふふ、大人をからかうものじゃ…」

───再び沈黙。祈るように目を閉じる少女。使徒などという言葉を、このような少女が知る事の不自然さに気付くまでに今度は十数秒。

突如、マヤの携帯電話が鳴った。不思議な雰囲気を纏った少女から目が離せないまま、電話を耳に運ぶ。

「一体そこで何をしてるんだ!?マヤちゃんの目の前から、パターン青だぞ!」

青葉シゲルの怒鳴るような声が聞こえ…遂にマヤは電話を取り落として、その場に腰を抜かしてしまった。





「セ、センパイッ!使徒です!ほ、ほ、本部前に…こっちに来ます…あああッ!」
腰を抜かしたままやっとの思いで掛けたにも拘わらず、そこまで伝えたところでまたしてもマヤは電話を落とした。
一体自分は何度同じ失態を繰り返せば気が済むのだろう。慌てて拾い上げるも、通話は既に途切れてしまっていた。
目の前の少女───サキエルは、一歩踏み出しかけた足を戻し、悲しげにこちらを見ていた。
一体何故、こんな事になったのだろう。蓋を開けてすらいないカフェオレは地面に転がっているのに、マヤの眠気は完全に吹き飛んでいた。

使徒は姿を消したが、その最期を見た者はいない。
つまりあの後、巨大な使徒がこのような姿に変身したのか?それとも、この姿こそが本来の姿なのか?
どちらにしても、そんな事が有り得るのだろうか?

使徒は人を遥かに凌ぐ巨体を持つ可能性が極めて高い、と聞いていた。だからこそのエヴァンゲリオンである。
ただ使徒に関しては何もかもが推論に過ぎず、人間と同サイズやそれよりも小型、或いは不定形等の可能性もあると一度は聞いた。
だから、この人間にしか見えない少女が使徒であるという事は…有り得る事だ。
だが、それよりももっと重要な事がある。

先程、この少女は何を言った?

「…サキエル」
「私、さっき暴れた使徒…なんです」

確かにそう言ったと思う。
つまり、言葉を交わしたのだ。

私が。

使徒と。

マヤの脳裏に、閃くものがあった。それは作戦開始直前に聞いたミサトの言葉。
使徒には心があると、そう言っていた。対話して説得したいとも言っていた。
ネルフの一員として、使徒を目の前にして逃げる事など出来ない。
だが、説得!一介の技術部員に過ぎない自分が、未だ覚悟の足りない自分が、使徒を説得しなければならないと言うのだろうか!
…あの恐ろしい使徒を?

恐怖にギュッと目を瞑る。
だが、マヤの目蓋の裏に浮かんだのは…崩れ落ちるビルから少女を救った、あの時の姿だった。

大丈夫よ、とリツコの声が聞こえた気がした。
ゆっくりと目を開く。やっぱりサキエルは悲しそうに俯いていた。
心があるなら、マヤの反応を見て彼女がどう思ったか。そこに思い至る。

まだ早鐘のような動悸は治まりそうに無かったが、震えの止まらない膝だけでも叱咤してゆっくりと立ち上がると、

「お、驚いちゃって、ごめんね…」
何とかそれだけ、まず口にした。逃げ出したくなるのを堪えて、更に言葉を紡ぐ。
「さっきの使徒って事は、あの時あなたと同じくらい年の女の子を助けてくれたのも、あなたなんだよね?」
びっくりしたように顔を上げるサキエル。その話題が出されるとは思っていなかったのかも知れない。
「本当に、ありがとう」

ヒトと使徒が、初めて言葉で通じ合った。
客観的に見れば、感動すべき場面であろう。唯一、マヤの声が完全に裏返っていた事を除けば、だが。

がさがさっと物音が聞こえてそちらに目をやると、マコトとシゲルが茂みの中に頭を隠すのが見えた。
隠れたつもりなのだろう。だが、惜しくも長髪が夜風に揺れている。
随分と駆けつけるのが早いが、彼らが持ち場を離れても良かったのだろうか。
心配してくれたのは嬉しいにしても、少々軽率過ぎる気がしないでもない。

(て言うか、隠れて見てるって…)
奇しくもマヤの慌てた電話がリツコに落ち着きを与えたように、男たちの頼りなさがマヤの冷静さを呼び戻していた。

(落ち着いて…センパイならこんな時どうするか、考えるのよ)
話を続けるにしろそうでないにしろ、拘束できるのならそれに越したことは無い。可哀想だが、少女然とした外見に配慮する程の余裕は無いのだ。
マコトとシゲルが来ている以上、保安部もすぐ近くで待機している事だろう。
サキエルが見た目通り、つまり人間の少女程度の腕力しか持たないのであれば拘束する事は容易い。
しかし、元の巨大な姿にいつでも戻れると仮定すれば、簡単に手を出すわけにはいかない。
少なくとも現時点では、サキエルは敵意を見せていないのだ。
初号機を通して、碇シンジが意思の疎通を試みたという話はリツコから聞いた。
それが通じたからかどうかは分からないが、さっき彼女は暴れた事を謝っていたではないか。
敵意を持たせてはならない。つまり、刺激は出来ない。下手に刺激できないとすれば、次にするべき事は何か。

(データの、収集…)
これだけは、怠るわけにはいかない。

「あ、あのね、あなたの遺伝子情報とかそういうのをちょっとだけ調べたいんだけど…髪の毛一本だけ、くれないかな?」
逆上した巨人に串刺しにされる幻影と戦いながら、何とか声を絞り出す。
「はい、ええと…ンッ…!」
髪を抜く時の、少し痛そうな声。その様子は、まるで普通の少女と変わらない様に思える。
「どうぞ…」
差し出された毛髪を受け取る。本当に美しい黒髪だった。

「ちょっとだけ、待っててね」
そう告げると、大股でマコトたちの隠れている方へ歩いていく。慌てたような気配。
「はい!日向二尉、この髪の毛、大至急分析班に回して! 青葉二尉は購買で、女の子の好きそうなお菓子か何か、多めに買って来て下さい!」
二人は、弾かれたように飛び出していった。自分もこのまま走り去りたい思いに駆られるが、何とか踏み止まる。
公園の中へ取って返し、サキエルにベンチ座るよう促し、自分もその隣…ベンチから転げ落ちそうなくらい端の方に腰掛けた。

(もうすぐ、センパイが来てくれる…)

それからの約十五分は、マヤの人生でも五本の指に入るほどの長い十五分であったと言って良い。
シゲルが大急ぎで買って来たのは、ネルフマークが袋に描かれたシュークリームだった。
それも八個も。
いくら多めにと言ったってそんなに食べる筈は無いだろう。どうせなら好みに合わせて選べるよう、様々な種類を買ってくるべきだろうに。
マヤは全てのパッケージに書かれた「ネルフ本部限定イチジク味」の文字に目眩を覚えた。

「はい、どうぞ」
サキエルに一つを差し出す。首を傾げるようにしてそれを受け取るサキエル。
先程から会話は全て通じている。これが食べるものであると分からないわけでは無いだろう。
だとすれば遠慮しているのか甘いものが苦手なのか、若しくは…

(寧ろ私を食べたいと思ってるとか…)
その無言がとても怖いものに思える。
沈黙とその空気に耐えられなくなって、マヤもまたシュークリームに手を伸ばした。





そして約十五分が経過し、ミサトの運転するワゴンが公園の前で激しいブレーキ音を立てて停まったのは、
恐怖心を紛らわす為にいつの間にか一心不乱にシュークリームを食べ続けていたマヤが七個目に手を伸ばした、丁度その時であった。





食べ過ぎの苦しさに横腹を抑えるマヤとベンチ横の屑籠に溜まったシュークリームの空袋を見て、アスカが呆然とする。
「何があったのよ…」
レイはレイで再び戻って来て茂みから様子を窺っているマコトとシゲルの方を見ていた。
「…怖がり過ぎだと思うわ」
それでシンジも大体の事情が呑み込めた。

黒髪の少女に歩み寄る。そう言えば洋服の意匠に少し元の姿の名残があるかな、と思った。
「はじめまして。第3使徒の、サキエル…ちゃん、だよね?」
多分シンジよりもずっと長い時を掛けて進化してきたのだから、そのように呼んでいいものか自信は無かった。
「はい…。碇、シンジさんですよね」
うん、と頷く。
名前を知っている事は不思議ではない。一度心の全てを見せたのだ。シンジの持つ情報の多くを、この少女は既に知っているのだろう。
「僕達と戦おうとか、そういうつもりはないんでしょ?」
「はい…。もうあんな事は、したくありません」
サキエルは目を伏せてそう言った。それは、何よりもシンジが望む、共存への確かな第一歩。

「シンちゃん、こうなるかも知れないって予想してたの…?」
半ば唖然としながら尋ねるミサト。
そう言えばミサトは使徒との共存について、実感が湧かないと言っていた。
「まさか、思いもよりませんでしたよ」
渚カヲル以外の使徒が人間と同じ姿をとる事が出来るなど、本当に全く考えてはいなかった。ただただ、嬉しい誤算という他は無い。
「でも、良かったじゃないの。アンタが頑張った成果よ。もっと胸を張んなさい」
シンジにそう告げ、アスカもサキエルの方を見て少し笑った。

「くしゅん」

「レイちゃん、風邪かい?…シンジ君、いつまでもここにいるわけにもいかんぞ」
加持の言う通りだ。
だがシンジには一つだけ、確かめておかなければいけない事があった。

一つ深呼吸をする。…この一言で、今後の全てが決まる。
「ねぇサキエルちゃん、あの車の中に、アダムがあるんだけど」
そう言って、乗って来たワゴン車を指差す。
ミサトも、リツコも、加持も動きを止めた。皆、聞き耳を立てているのが分かった。

「…接触しようとしないって、お約束します。拘束してもらっても、構いません」

今まで以上にはっきりと、そう告げられた。それはサキエルの、本能を抑えて生きていく事への誓いの言葉だったのだろう。
その言葉が欺瞞であるとは、この場の誰も思わなかった。それは妄信でも油断でもない。信じたいものを信じられるという、強さなのだ。

「ミサトさん、彼女を本部の客室に泊めてあげましょう。話は、明日ゆっくり聞けばいいですよ」
「あ、なら私も一緒の部屋にするわ。その…一人で寝るのって寂しいと思うし」
一見アスカらしからぬ気遣い。だがユニゾン特訓の夜を知るシンジには、それがごく自然な言葉に聞こえた。
「レイ、アンタも来なさいよ。今から帰るってのも大変でしょ」
「…ええ」

多くを語ることは無いけれどいつも見守ってくれるレイと、素直では無いけれど元気を分けてくれるアスカ。
そんな二人と一緒なら、サキエルもヒトの中での初めての夜を、寂しい思いをせずに過ごせる事だろう。
また明日から大変かも知れないけれど、今日は皆が良い夢を見られればいい。
シンジはそう思うのだった。





「ちなみに、アタシたちの事ももう知ってるのよね?」
アスカの問いに、サキエルがまずレイの方を見て答える。
「はい、ファーストチルドレンの綾波レイさんと…」

「ツンデレチルドレンの惣流・アスカ・ラングレーさんですよね」

忍び足でその場を去ろうとするシンジの襟首がぐいっと掴まれた。

「アンタがアタシの事どんな風に思ってるのか、一度じっくり聞く必要がありそうね…?」





手探りだった未来に、一筋の光明が見えた夜。

マヤ以外の皆はきっと良い夢を見られるだろう。





~つづく~



[21803] 8.人類補完委員会
Name: ふたば草明◆c7ec2017 ID:79d97c37
Date: 2010/09/25 03:43
獣の如く、とまではいかないまでも。
一度は喪ったと思った男に全身で触れることがあれ程までに自分を昂ぶらせるとは、ミサトも思わなかった。
朝を告げる気配の中、気だるさの残る身体を起こしてふと見ると、既に隣に人影は見当たらない。
それでも、空虚感は無かった。

「君を一人にはしないさ…」

眠りに堕ちる寸前に耳元で聞こえた言葉。それは、ミサトの心を何よりも穏やかにしてくれるものだった。





「それで、加持さんはもうどっかに行っちゃったの?」
ネルフ本部内の食堂。ミサトはここでシンジ、アスカと共に遅めの朝食を取っていた。
「ん、そ~なのよね」
軽く答えてサラダを一口。朝のぼうっとした頭をドレッシングの程良い酸味が刺激する。
昨日は本当に、色々な事があった。零号機の起動実験に始まり、第3使徒戦、アスカの出迎え、そして日付が変わる頃にはサキエルとの対面。
アスカにしても、全く周囲のサポートが無い中ほぼ独力でミサイルの迎撃戦をこなしている。
本当は、ミサトとしては二人とも昼過ぎまででも寝かせておいてあげたいと思っていたのだが、
食堂の前まで来た所で、楽しそうにショーケース内のサンプルを見る二人に会ったのだ。
シンジは昨日もここで夕食を食べた筈だが、末期にはこのような施設すら利用する余裕の無かったアスカにとっては久し振りの場所。
こんな事にも何気ない楽しみがあったのだろう。
(それにしても…)
最前線で戦った彼らの方が元気という、この事実はどうだろう。
自分の疲労感は、昨夜遅くのはしゃぎっぷりだけが原因ではない。嫌でも年齢と言うものを実感してしまう。

「ほら、アイツって内閣に顔が利くからね、そっち方面でチョチョイって」
「なーるほどねぇ」
分かったような分からないような顔で、アスカもサラダを一口。口に合わなかったのか露骨に顔をしかめた。

実際にはチョチョイというような軽い話ではない。
既にゼーレとの対立の表面化が秒読みとなった今、政府をこちらに引き込めるかは極めて重要な問題だ。
ゼーレのネルフに対する攻撃手段の中で最も最初に行われるであろう内容が、MAGIの外部制御と戦自による直接攻撃だというのは分かっている。
MAGIのプロテクトをリツコが固めた以上、残る対応策は内閣との交渉をどうするか、という事なのだ。
だが、それだけではない。
ゼーレと敵対するという事は、即ち高い確率で国連軍をも敵に回すという事になる。
そうなった時、ネルフ本部の戦力では如何ともしがたい。
敵兵器との一対一であればエヴァに勝るものはそうそう無いであろうが、相手が物量戦を仕掛けてくるとなれば話は別だ。
戦自の協力が無ければ、到底太刀打ちできないであろう。
内閣をあちら側から中立に、そして中立からこちら側に付けなければならない。
加持の新たな仕事は、今後の方針の全てを左右する程重要なものだと言えた。

シンジも司令とは言え、その辺りの事は加持やミサトに任せておいた方が良いと分かっているようで、次にシンジが出した話題は、
「そう言えば学校ってどうなるんですか?」
という、全く違うものだった。
「あ~、学校ね。シンちゃんは明日から。アスカは国外からの手続きだから三日後くらいになるわよ」
そこまで言うと、ミサトは手を止めてシンジの目を見た。

「あんまり気分が良くないかも知れないけれど、2年A組は今のままがいいと思うわ」
チルドレン候補を密かに集めてある事について、である。
当然この事をクラスの当人たちは知らぬ訳で、そのやり方は権力を濫用した人権無視の誹りを免れない。
だがその事実をゼーレが知る以上、彼らには常に危険が付き纏っていると言えた。
シンジ、アスカ、レイとぎりぎりトウジを除いては適正がかなり低いとは言え、最悪拉致されて量産機のパイロットにされる恐れすらある。
司令職をゲンドウから引き継いだということは、実質形骸のマルドゥック機関に関する権限も引き継いだという事であり、
今のシンジの立場であれば時期に関わらずクラス替えを行うことなど容易かろうが、それは保安上得策で無いと思えた。

「分かってますよ。いつか、僕がみんなに話しますから」
「何もアンタが…」
そう言いかけてアスカは言葉を止めた。シンジの表情に気付いたからだ。
「そういうのも含めて、司令としての覚悟ですから」
何一つ、シンジの責任ではない。だが、この先そういった理不尽な事はいくらでもあるかも知れないのだ。
ミサトは改めて、ゲンドウが問うた『覚悟』の意味について思いを馳せるのだった。

「もう一つ聞きたいんだけど。アタシの住む所って、どうなるのよ?」

ミサトの手が、止まった。
───ああ、この話題は。せめて私から言うべきだったのに。もう遅い。

「またミサトんちに行ってもいいの?」
「やめなよ、アスカ」

アスカの言葉は意外だった。寧ろ、忌避するシンジの方が自然なのだ。一度心を通わせれば全てを赦せるという類の話では無い。

「シンジ君が司令なんだから、チルドレンの住居はどこでも好きに決めていいのよ…」
語尾が聞き取れないほど小さくなっているのが自分でも分かる。目を、上げられない。

「あ、えっとミサトさん、そういう事じゃなくって…」
シンジが何やら狼狽している様子が伝わってきて、恐る恐る顔を上げる。
何故か顔を赤くしたシンジが目を逸らしながら、言った。

「加持さん、すぐ帰ってくるでしょ?」

「あ、そっか…加持さんか…」

予想外な話の展開にミサトは付いていけなかった。糾弾されているわけでは、ない?
何とも反応できないミサトを見たアスカがはあっと溜息をつき、ゆっくりと口を開いた。

「あのねぇ…ミサトが何を気にしてるかは大体分かるわ。けどね」
ガブッと最後のトーストにかじり付く。さらに牛乳を飲み干してから続きを一気に語る。
「アタシを放っておいたのがミサトの罪なら、ミサトを放っておいたのはアタシの罪。家族ってそういうもんじゃないの?
 少なくともアタシは、年下だからって理由だけで一方的に甘ったれて、ミサトの気持ちを気にもしないような人間にはもうなりたくないわよ」
濁流のように、激しい言葉。
「それに、ゼーレのヤツらはアタシたちの事なんか本当に道具としか思ってないでしょうけど、ミサトは違うでしょう!
 アタシもシンジも一緒に暮らしててミサトから一回も温もりを感じられなかったなんて、本当にそう感じてるって思うの?」
それはただ赦すものでも、ただ責めるものでも無く。
「アタシだってたくさん失敗した。けど、謝ったりなんかしないわよ。まだ終わったわけじゃないんだから。アタシは、アタシは…!」

感極まったのか、言葉を詰まらせて天を仰ぐアスカ。痛いくらいに真っ直ぐな心が、伝わってくる。

「僕もアスカも、ミサトさんのこと大事な家族だって、変わらずそう思ってますよ」
「あーっ、何一番良い所取ってんのよ!」
アスカがシンジに掴みかかる。
「だってアスカ、多分照れて言えなかっただろ…」
「んな事ないわよっ!」

とっくに見慣れた筈の光景がとても眩しかった。だからミサトは。

「ありがとう…ありがとう、シンジ君、アスカ…」

涙も拭わずに、笑ってそう言った。シンジとシンジから手を離したアスカも、優しい瞳で笑っていた。





結局シンジの提案で、シンジはコンフォート17の一室に一人で住み、アスカもまた別の一室を住居とする事となった。
「レイにも声掛けてみるわ。良かったら一緒に住まないかって」
アスカの言葉に、ミサトもそれがいいと思った。
現在の部屋は論外だし、レイに掃除をはじめ家事の類を一人でやらせるのも不安だ。今の二人なら、きっと共に楽しく暮らせるだろう。
「みんなの時間が合う時は、一緒に食事しようよ。僕でよければ作るからさ」
「あー良いわねそれ。アンタの料理って結構、好きよ」
アスカのウインクに露骨にドギマギするシンジ。ふふっと笑うと、アスカは立ち上がろうとする。

「それに較べてここのサラダは酸っぱ過ぎるわね。他はまあ普通だったけど」
それを聞いてシンジはふと何かに思い当たったような表情を見せた。
「ミサトさんはどう思いました?このサラダ」
三人の注文したセットは全て異なるものだったが、付いているサラダは皆同じだったのだが。
「え?なかなかイケたわよ?」
「やめなさいって、味についてはミサトに聞くだけ無駄よ」
アスカがそう言いながら歩き出し、シンジも微妙な笑いを浮かべつつ席を立ってアスカの後を追う。
「何よ~、どういう意味よ!」
ミサトも最後の牛乳を飲み終え、すぐに席を立った。

ちょうどその時。食事前にミサトが渡したばかり真新しいシンジの携帯電話が、鳴った。
「冬月さん…?」
シンジが画面を見て、呟く。
今度こそ電話で友達とたくさん話して欲しいと考えていたミサトは、その初めての相手の名に少しだけ落胆してしまった。
冷静に考えるとシンジはまだトウジとも顔を合わせてすらいないのだから、誰からも掛かってこなくて当然だったのだが。





「委員会から、連絡があった」
その言葉に、シンジは思わず武者震いを禁じえなかった。
「新司令に、すぐに折り返すようにとの事だ」

(真の敵、か…)

厳密に言えば、人類補完委員会とゼーレは全く同一ではない。
委員会は国連の正式な諮問機関であり、ネルフの上部組織としてその存在が隠されていないのに対し、ゼーレは秘密結社である。
また、委員会の方はメンバーが利害の異なる各国の代表である以上、ゼーレに顕著な目的へ向かうある意味の純粋さはそこには無い。
だがその双方を統べるのはキール・ローレンツという一人の男であり、それ故に両者は限りなく近い存在と言ってよかった。

ゲンドウの残した資料には、ネルフ側には任意に委員会へ連絡を取る権限は無いと記されていた。
逆にネルフには、起こった事の全てを最速で報告する義務があるという。
自由なアプローチすら許されない、莫大な力を持つ組織にどう立ち向かうのか?それを未だシンジは決めかねていた。

…だが。自分は今は一人ではないのだ。
「お手数ですが、冬月さんも中央作戦室まで来て下さい。そこで、彼らと話します」
一瞬、電話の向こうで冬月が息を呑んだのが分かった。
資料には、委員会との連絡は全て司令室の専用回線で、とも書いてあった。機密性から言えば当然の事だろう。
(ならば、まずそこから崩そう)
志を共にする皆とともに最初の一戦を交えたい。そういう思いもシンジにはあった。
「…分かった。すぐ行こう」

電話を切ると、シンジは先を歩くアスカに声を掛ける。
「ねぇ、綾波って今どうしてるかな?」
少し考えてから、アスカは答えた。
「アタシが起きた時は、まだあの子と一緒に寝てたわよ。あの子、レイの腕に抱きついちゃってて…」
余程微笑ましい様子だったのだろう。アスカはふふっと柔らかい笑みを浮かべた。

「今の電話?何かあったわけ?」
追いついて来たミサトが口を挟む。アスカも立ち止まって振り返った。
「委員会から連絡がありました。今から話をするんです」
「………!」

それこそが真の敵。その認識はアスカもミサトも変わらなかった。
倒す事それ自体が目的では無くとも戦いは避けられぬ相手、それが人類補完委員会であり、その背後にいるゼーレなのだと。

「わかったわ、私はリツコを呼んで来る。アスカはレイをお願いね」
流石にミサトの思考の切り替えは素早かった。アスカも、一瞬の後にシンジの意図を理解する。
「ええ、まっかせて!シンジ、気持ちで負けるんじゃないわよっ!」
食堂を出るや否や左右に分かれるアスカとミサト。
その迅速さに感謝しながら、シンジはアスカの言葉の通りもう一度、自らに気合を入れなおすのだった。





双方向通信の巨大なモニターに映し出されたのは暗い部屋。そして、サイケデリックな色彩に彩られたライトの中に浮かび上がる五人の男の姿。
「ひっ…!」
マヤが小さく声を漏らす。その光景は、初見の者を怯ませるに十分なものだった。
ミサトとリツコに次ぐ発令所の重鎮であるマコトら三人には、リツコと相談の上で、同席するようシンジが命じた。
三人とも黙っているようにだけリツコに言われ何が始まるのか知らされていなかったが、ただならぬ雰囲気は察知した事だろう。

「一体これはどういう事だ」
初めに口を開いたのは、バイザーを着けた初老の男…キール・ローレンツその人であった。
どういう事とは、この場にシンジと冬月だけでなくミサトとリツコ、二人のチルドレンに加えオペレーター達までがいる事を指すのであろう。
事実、委員会側は発信が司令室では無いのを悟り、最初連絡に応じようとしなかった。
途中で冬月に連絡が入り───ただし冬月はこれを黙殺した───ネルフ側からの発信が十回を数えるに至り、ようやく痺れを切らして通信を受けたのである。
「逃げ出した臆病者の息子は、機密の重要性も分からんと見える」
黄色い光の元に座る背の低い丸眼鏡の男が、分かりやすい嘲りを込めてそう言った。資料通りならソビエトの代表だろう。

シンジも口を開く。安い挑発に乗る気はないが、だからと言って罵倒される為だけに連絡したわけでは無い。
「使徒との開戦にあたり、委員会の方々からネルフの中核メンバーに直接激励のお言葉を頂きたいと思って、このような形を取らせて頂きました」
決して器用な嘘がつけるタイプでは無いシンジ。だが、ここで即手の内を晒すわけにはいかない。
「機密に関しても、ここの皆ならば心配は不要です」
「君が勝手に判断する事かね…」
呆れたような髭の男。あれはアメリカ代表か。
「これは重大な背信行為だぞ!」
対して、フランスの代表と思われる男は拳を振り上げて怒りを顕わにした。

各人の間に僅かに温度差がある。シンジは全神経を集中し、それをより正確に把握しようと努める。

「まあいい。だが、二度目は無いと思え」
キールの一声でざわつき掛けたその場が静まる。やはり多くを握るのはこの男。
「それより昨日の使徒戦だ。報告は読んだが、色々と腑に落ちない事があるな?」
使徒の話題がキールから出た事。それは、この面子の前で会話を続ける事に実質的なゴーサインが出たという事だ。
「例えばキミの駆る初号機が起こした異常なシンクロだ。計測不能、と報告にはあったが…」
別の男のその台詞に、反射的にシゲルがシンジの方を見た。
実際にはあの瞬間、400%をしっかりと記録している。計測不能というのは報告の改竄だ。シゲルの言いたい事は分かる。
「あの時は戦うのに必死で…何が起こったのか分からないとしか、言えないです」
「では、意図的に起こした事ではないのだな?」

もしかしたら、彼らは400%という数字を既に知っているかもしれない。
冬月に頼んで、ゼーレの間諜と思しき人物は可能な限り戦闘の中枢から遠ざけてもらったが、まだ完璧にとは行っていない事も考えられる。
だが、今は化かし合いの時間だ。
「はい…」
シンジは神妙な顔で、それだけ答えた。

シンジを挟んで左にレイとリツコ、右にアスカとミサト。誰もが固唾を呑んで見守る中、次に口を開いたのは、目の細い面長の男。
「では、使徒はどうなったのだ。消滅などという言葉では分からんよ。倒したのか、そうでないのか?」
もちろん、正直に答えるわけにはいかない。使徒が姿を変えて生きているなどという彼らの予定に無い事が、許容される筈が無い。
「倒したと、思います。居なくなったのは確かですから」
「フン…」
一人がつまらなそうに鼻を鳴らす。それは、彼らもそれ以上追及する材料を持たない事を示していた。

「君が、我々の思っていたよりも胆力のある人間だという事は認めよう」
突然、キールがそんな事を言い出した。レイがうんうんと頷く。男達はぎょろっとそちらを睨んだようだが、当のレイは気にした様子も無い。
「だから、次の使徒戦まで猶予を与える事にする。次は確実な成果を出したまえ」
その言葉と同時に、男達の姿が一人、また一人と消えていく。
「次は使徒の死骸でも見せて欲しいものだ」
消える直前にそう言い残したのは、アメリカ代表の男。

(そうか、S2機関…)
アメリカ第2支部の消滅が彼らの予定に無いとしても、S2機関の入手は予定の範疇である可能性はある。
今の言葉はそれを示唆していると取れなくも無い。
次の戦いでチルドレンが400%を出し、今回と同じく使徒が『消滅』すれば、シンジとネルフ本部に向けられる疑惑の目は確定的なものになる。
(その時は、ゼーレそのものが姿を現すのか…?)
どちらにせよ、対決の時は近い。それをシンジは実感していた。

最後に残ったのは白く光る席のキール。彼はしばらくバイザー越しにシンジを見ていたが、やがて何も言わずに姿を消した。

父さんのサングラスよりも表情が読み辛い。シンジは何となく、そんな事を考えた。





リツコが勧めたクッキーをマヤが固辞し、こちらを少し睨む。
確かに同じものばっかり買っていったのは気が利かなかったけれど、食べたのは自分だし。そんな目で見ないで欲しいとシゲルは思った。
ただ昨日、マヤが一人で人類の存亡を背負うほどの事をやってのけたのに対し、自分が何も出来なかった事に関しては弁解の余地も無い。
今の場に自分達を同席させた新司令たちの真意は分からないが、もっとしっかりとしなければいけない、とは感じる。

「あれが委員会…」
マコトが半ば呆然としたまま、呟く。シンジ達がこの部屋を後にしてもう大分経つのにショックが抜けないのは自分も同じだ。
だって、あれはまるで…

「悪の組織みたいと思った?」

考えていた事をリツコに言い当てられ、驚く。マコトの考えも似たり寄ったりだったのだろう。同じような表情をしていた。
「でも、良い人たちなんですよね?」
人類のために戦うネルフの上部組織。マヤの言うような見解が一般的だ。だが、
「いいえ、可哀想な人たちよ」
リツコはそう言った。
誰も反応できない中、リツコが三枚のディスクを取り出してシゲルたちに一枚ずつ手渡した。
「センパイ、これは?」
表にも裏にも何も書いていないそのディスクを眺め、マヤが問う。
「昨日言った、あなた達が知っておくべき事よ。今日は早めに上がって、家でゆっくり見て頂戴。
 まあ、次の使徒戦が終わったら本部の全職員に知ってもらう事になると思うけど」

そう言いつつ、扉を開けて出て行こうとする。
「あ、休憩ですか?」
「いいえ、そろそろ身体検査が終わる頃だし、使徒のお話を聞きに行ってくるわ。…あなたも来る?」
リツコの誘いに、マヤはぶんぶんと大きく首を横に振って否定の意を示す。
いつもならリツコの提案を断るマヤではないが、昨日の恐怖がまだ尾を引いているのだろう。面目ない、とシゲルは思った。

リツコを送り出し、扉が閉まる。
誰も何も言わない。
それぞれの手には一枚のディスク。

委員会の下で、使徒と戦う事を考えていればそれで良いという時期を過ぎたという事。

それだけは、何故かはっきりと分かった。





~つづく~





読んで下さっている方、感想書いて下さった方、いつもありがとうございます。
[15]の感想に書いて頂いた内容が現在の構想にかなり近く、驚いてしまいました。



[21803] 9.使徒の心
Name: ふたば草明◆c7ec2017 ID:79d97c37
Date: 2010/09/26 11:17
レイ、アスカと共にミサトに連れられて応接室に入ると、一人座って所在無げにしていたサキエルが慌てて立ち上がった。
「あ~いいからいいから、そのまま楽にしてて♪」
気楽にそう告げると自らも座るミサトを見て、サキエルも遠慮がちに再度腰を下ろした。
革張りの立派なソファと、白い体操着に濃緑色のブルマが異様なまでにミスマッチだった。

(何だろう、あの服装…)
思わず凝視しかけて、慌てて目を逸らす。
そちら方面に関して自分が最低なのは認めるし、深く反省してもいるが、更に特殊性癖持ちの烙印まで押されるわけにはいかない。
横目で様子を窺うとアスカはリラックスさせる為か早々とサキエルに話し掛けており、シンジの反応を気にしている様子は無かった。
なのに。

「…碇君。ああいう服装に、興味はある?」
まさかレイから直球でその話を振られるとは思わなかった。途端に集中するミサトとアスカの視線。
「な、何でそんな事聞くのさ?」
「以前、鈴原君と相田君がそんな話をしていたわ」
レイが二人の名を呼んだ事に若干の新鮮さを覚えたが、そんな事を考えている場合じゃない。
「だって、ちょっと変だろ?これから話をするのにあの服ってさ」

「それは、ついさっきまで身体機能の測定をしていたからよ」
ちょうど部屋に入って来たリツコが、シンジの疑問に答えた。
「私達と何が同じで何が違うのか、まずはそれを知る必要があるの」
先に応接室で待たせておく位なら着替えさせてあげれば良いのに、と思いかけてシンジはリツコとの初対面を思い出した。
優秀な人間は大抵どこか偏っているものだが、それは水着に白衣だけで歩き回るリツコにも言えることだったという事か。
せめてレイに「ああいう小さな子に興味はある?」と聞かれなかった事を幸運と思うしかない。

全員が席に着いたのを確認し、上座に座ったリツコが場を仕切るように話を始めた。
「まずは、検査や測定の結果から話すわね」
リツコが手元の書類をめくる。皆も耳を済ませた。
「最初は遺伝子構造について。一般的なヒト遺伝子と比べて、99.89%までが一致したわ。
 つまり彼女はヒトそのものになったのでは無く、使徒という存在のまま今の姿を取っているという事ね」
その事は、昨晩サキエルとマヤの会話中にパターン青が検出されたと聞いた事からも予想がついていた。
「レントゲン検査をした所、心臓以外の器官は全て私達と同じ。心臓にあたる部分には変形したコアとS2機関が絡み合うような形で存在しているわ」
心臓を壊されれば人間は死ぬ。使徒としての機能を最も人間に近い形で再現したのがその状態という事か。
もしかしたら、カヲルの身体も同じように作られていたのかも知れない。
「ちょーっち待ってよ。S2機関があるって事は、食べたり飲んだりしなくても大丈夫ってコト?」
確かに、永久機関であるS2機関が体内にあるのなら生命活動には支障は無い筈だが。
「大丈夫は大丈夫でしょう。ただ、もしヒトと同じように成長していく事を望むのなら、その分の栄養は外部から採る必要があるわね」
「難しく考える事はないわ。美味しいものを食べれば、幸せになれるという事よ」
かつては自身も知らなかった、その小さな幸せ。レイの言葉にサキエルも、
「…はい…」
少しだけ嬉しそうに、頷いた。

(そう言えば、昨日のシュークリーム結局食べてなかったっけ。好みに合わなくて食べなかったのかと思ってたけど…)

「次は身体能力についてね。こちらについては、平均的な小学二~三年生に比べるとかなり優れているわ。
 ただしそれは人間離れした優秀さではなく、とてもよく鍛えた同学年の子供なら再現できるレベルというところかしら」
そう言って測定結果を机の上に置く。50m走、懸垂、反復横跳びといった項目がそこに並んでいる。
黒服に囲まれてそういった種目を黙々とこなす体操着のサキエルを想像する。どうにもシュールだ。

(やっぱりあの黒服が良くないよなあ)
ナツミの一件を最初に聞いたときにも思った事だ。
「へぇ、凄いじゃない。あ、でもこれとこれだけは昔のアタシの方が勝ってたわね」
自慢するアスカを尊敬の眼差しで見上げるサキエル。随分と素直な性分らしい。
記録や数値というものに対する執着が強いのはアスカらしいと思った。普通は幼少時のそんな記録を一つひとつ覚えているものでは無い。

「そして最も注目すべき点。それはヒトには無い三つの能力よ」
心なしかリツコの喋りが早口になって来た気がする。考えてみれば使徒の研究は即ち生命そのものの研究、科学者の血が騒いでも無理はない。
「一つ目は、使徒反応…我々が言う所の『パターン青』を自在に出したり消したり出来る力。これはもう昨日実証済みだわね」
データを確認した所、昨晩の児童公園でパターン青が確認されたのはシゲルがマヤに電話を掛ける前後の僅かに二分程度。
更にサキエル自身の、
「私が使徒だって信じてもらって、ネルフの人に謝りたくって、それで…」
と言う言葉からその能力が判明した。意識を集中させるだけで、簡単に使徒としての反応を発現できるらしい。

何やらノートを取り出してアスカがメモを取る。ちらっと中が見えたが、ドイツ語なのか全く読めなかった。
「ふむふむ…使徒としての性質は失われていないっと…。あ!他の能力っての、もしかして一つはATフィールドじゃない?」
「その通り。正解よ、アスカ」
よしっと小さく拳を握るアスカ。流石に大卒は伊達ではないと言う事か。

そもそも心の壁とも言われるATフィールドは、心を持つ全ての存在が保有するもの。
それが一定以上の強度を持てば可視化・具現化し、そして物理的な防御壁として働くのは、寧ろ心の在り方として自然な事だ。
だが、独特の進化を遂げたリリンはその進化の過程でATフィールドを可視化・具現化する力を失ってしまった。
エヴァがATフィールドを展開出来るのはチルドレンの特殊な力などでは無く、エヴァが使徒のコピーであるからに他ならない。

リツコに促され、サキエルが左手を前に構える。
微かに空間が震えるような音が聞こえ、手の先から大きな皿ほどの赤いフィールドが展開された。
「大きさは、このくらいまでです…」
フィールドがフッと消え、サキエルも静かに手を下ろした。
「そっかー、フィールドってよりシールドって感じ?」
まるで屈託が無い様子でミサトが言う。確かにシンジにも盾のように見えた。

「最後のも実演してもらった方がいいわね。出来る?」
小さくコクンと頷くと、サキエルが今度は右手を少し上向きに構える。
全員で、その様子を見守る。最後の能力とやらはアスカにも予想がつかないようだった。

───シュッ。

と鋭く、何かが手から伸びた。それに驚いたミサトが大きくのけ反る。
「…これが“レーザーパイル”です」
うっすらと輝く光の槍。長さは50センチ程だが、まさしく初号機の脚に打ち込まれたものと同じだ。
「ハ、ハハハ…。バーベキューとかに使えそうね…」
「でも肉は嫌い…」
よく分からない方向に話題がずれ始める二人を一瞥し、リツコがまとめに入る。
「以上が三つの能力。あの光線のような攻撃…本人曰く“レーザービーム”は、今の姿では撃てないそうよ。熱量の蓄積限界の問題ね」
資料を揃え、ファイルの中にしまう。だがこれで話が終わりでは無いと、シンジも分かっていた。

これから訊かれる内容。それがサキエルにも分かっていたのだろう。リツコが再度口を開くその前に、自ら切り出す。
「私が元の姿…あの巨大な形態にまた戻れるのかどうか、自分でもよく分かりません…。でも、戻りたいとは思わないです」
大事なのはまさにそこだ。この変身が可逆的なものなのか、不可逆的なものなのか。
しばし目を閉じていたリツコだったが、おもむろに立ち上がると、部屋をうろつき始める。
更に数秒はじっくりと考えた後、目は宙を見据えたままでゆっくりと語り始めた。

「あくまで私の推論だけど。過剰な興奮や防衛本能への刺激などの要因で元の姿に戻ることは、有り得ると思うわ」
誰も言葉を発しない。サキエルだけが小さく息を呑み込んだのが分かった。
「ただし」
そこでリツコはサキエルの方を見て、笑顔を浮かべた。
「原因が推測できる以上、それを抑制する為の装置を作る事も可能よ。だから、安心していいわ」
「!あ、ありがとうございます…!」
弾かれたように立ち上がり、サキエルが頭を下げる。黒髪がさあっと風に舞い、白い体操着とのコントラストに一瞬目を奪われ…

シンジはアスカにちょっと睨まれた。





マヤが持ってきたコーヒーを飲んで一息つく。本当はビールが良かったけれど、流石のミサトも口には出さなかった。
リツコが誘ってもマヤは同席するのを断ったそうだが、やはり様子が気になったのだろう。
コーヒーを卓上に並べながらもチラチラとサキエルの方を窺っていた。
考えてみれば、マヤこそが人類で初めて使徒と言葉を交わした人間という事になる。
心の交流という意味ではシンジこそがその発端であろうが、記録上に残るのは伊吹マヤの名だ。

(重荷、と思うかしらね?)
セカンドインパクト唯一の現地生存者であるミサトも、そう思った事はある。
図らずも人類史上の大きな転換点にその名を刻まれるというのは、栄誉などという単純な言葉で済まされるものではない。
だがマコトから聞いた話では、昨日のマヤは怯えながらもネルフの一員としての使命を忘れず、サキエルに対する気遣いも見せていたらしい。
マヤには芯の強さがある、と思う。そんな彼女なら、その重荷をも明日への力に変えていけるかもしれない。

ふと見ると、サキエルがマヤの持って来たトマトジュースを飲み終えた所だった。
必要ないとは言え、今日は朝も昼も食べていないという話だ。
流石に運動中水くらいは飲んだのだろうが、もしかすると味わうという事をしたのは今が初めてなのかもしれない。
レイの方を見て微笑んでいるその様子を見る限り、美味しいと感じたのだろう。ミサトも少し嬉しかった。

「じゃ、今度は私から質問いい?」
ミサトの言葉にリツコもコーヒーを置き、目で続きを促した。
「使徒には私達と同じような姿になる力がもともと備わってたの?
 シンちゃんがやったのは心を見せるって事だから、変身したのはサキエル自身の力、ってコトになると思うんだけど」
気になった事の一つはこれだ。使徒にそのような力があるのか、作戦部長として知らなければならない。

「簡単に言えば…そうね、言葉は良くないけれど、これは一種の『退化』よ」
リツコはそんな事を言った。
「ゼーレは、リリンがリリンとして群体の一つひとつから個になる事を『進化』と考えていたでしょう?
 それとは正反対に、サキエルがサキエルとして個から群の中の一つになったのだから、『退化』と言える、という事」
そういう事かと納得しかけて、もう一つ疑問が湧く。
「でもアイツらのいう『進化』にはサードインパクトが必要だったわけでしょ?でも、今回は何も起きなかったわよ」
「あのねぇ、進化するのより退化する方がずっとカンタンそうじゃない。きっとそういう事なのよ」
アスカが口を挟んだ。いい加減な理屈だとは思うが、リツコが何も言わない所を見ると当らずとも遠からず、といった所なのかも知れない。
「現象そのものはサキエル自身の意思。でも、そのトリガーとなったのはやはりシンジ君よ。
 そういう意味では、渚君以外の使徒がこちらからのアプローチ無しにヒトの姿を取る事は無い。これは断言できるわ」

ゆっくりと考えをまとめる。やはり、使徒に心を伝えるにはエヴァの400%シンクロによる自我境界の開放しか無い。
では、MAGIに侵入して来る第11使徒などにはどう対応すればいいのか?殲滅せずに済む道が、シンジには見えているのだろうか。

「あ、じゃあアタシからも質問。サキエル自身がアダムに接触するつもりが無いのは分かってるけど、
 それって理性だけでどーにかなるもんなの?使徒がアダムを求める本能って何ていうか、もっと逆らえないようなものじゃないの?」
学生のように手を挙げて尋ねるアスカ。リツコはその質問を、
「…人間の本能の最たるものは子孫を残す事よ。アスカはその本能に逆らえないのかしら?」
「なっ…!」
軽々と一蹴した。俯いて真っ赤になってしまうアスカ。あとシンジと…僅かにレイも。
下手に意図的なセクハラよりもストレートなだけに性質が悪い。
そう思いつつ、以前は子供なんていらないと言い張っていたアスカに微妙な変化の兆しを見たような気がした。

腕時計を確認する。コンフォート17へ帰って明日の学校の支度もしなければいけないシンジやアスカはそろそろ帰らせた方がいいだろう。
「それじゃ、最後にもう一つだけ。サキエルちゃん本人に聞きたい事があるわ」
使徒を仇と憎み続けていた自分。そんな自分にけじめをつける為に、これは私が。私が、訊こう。

「あなたがどうしてヒトの姿を取り、ヒトの姿でいたいと思ったのか。その理由をあなたの口から聞かせてくれるかしら」

シンジも、アスカも、レイもリツコも、それをまだサキエル自身が口に出していない事に気付いていなかったかも知れない。
共存ありきで話を進めるのはいいだろう。だが、それなら尚更、使徒の言葉で聞いておきたい。聞いておかねばならないと思う。

ミサトの真剣な眼差しを受け止めていたサキエルだったが、やがてぽつぽつと話し始めた。
「陸に上がって初めて人間を見たとき、不思議に思いました。どうして群体としての進化なんて大変な道を選んだのかなって。
 それは、不完全への道の筈だって。でも同時に何故か、羨ましいとも思ったんです」

そう言えば、あの時。乗機が撃墜され、歩いて逃げる二人の国連軍兵を使徒がじっと見下ろしている、そんな光景を見た気がする。

「その時は何でそんな事を思ったのか分かりませんでした。でも、その後で碇さんの心に触れてようやく分かったんです。
 私は、独りでいるのが寂しかったんだ…って」
「サキエル…」
シンジは昨日サキエルちゃん、と呼んでいた筈だ。だが、ミサトにもシンジの気持ちが何となく分かった。
ある意味喜劇的なその服装の事など忘れさせるかのような、その憂いを帯びた表情。
年齢とか、性別とか、種とか、そんなものを超越した生命そのものの訴えが、そこにはあった。

「ここに来るまでにいっぱい酷いことをしてしまって、私なんかに償えるかどうかは分からないけれど、もし出来るのなら人々の中で生きていきたい。
 分かり合えても分かり合えなくても、寂しい所に帰りたくは無いって。そう思ったんです」

それは。
あの絶望の中でシンジが選び取った生き方。
それと同じものだ。

「あなたが人々に受け入れられるのは簡単な事ではないわ。しばらくはネルフ本部内のみで生活してもらう事になるわ。それでもいい?」

受け入れられないのなら、彼女自身が努力しなければならない。でも、その手伝いならいくらでもしよう。
父ですら想像もしなかった、使徒がヒトと共にある世界。仇を探して討つのではなく、自分自身の理念で父を越えてみせよう。

「はいっ」

サキエルの返答は力強かった。だから、ミサトはにっこりと笑って言った。

「ようこそ、ネルフへ。そしてようこそ、私達の世界へ」





~つづく~





今回のリツコの台詞を考えるにあたり、[16]に書いて頂いた感想の一部を参考にさせて頂きました。ありがとうございます。



[21803] 10.帰宅
Name: ふたば草明◆c7ec2017 ID:79d97c37
Date: 2010/09/27 04:33
どうせどこかで夕食をとるのだから、サキエルも交えて本部の食堂で食べていこう、というシンジの提案はあっさり許可された。
サキエルには新しい個室が割り当てられ、女性職員に付き添われて着替えの為に一旦その部屋へと向かった。
新しい個室には、ミサトの配慮でジオフロント内の湖や森林が一望出来る部屋が選ばれたと聞く。
しばらくの間の仮住まいとは言え、独房のような場所では可哀想だ。

「…という訳でさ、アンタアタシと一緒に住む気無い?もちろん無理にってんじゃないけど」
数歩先を歩きながら朝決めた転居の話をレイに持ち掛けるアスカ。
空港に出迎えに行った時から以前とはうって変わって打ち解けた二人の様子から、レイも二つ返事で了承すると思っていたのだが。
「…でも」
そう言ったきり、黙ってしまった。
アスカも焦らずにレイの言葉を待つ。やがてレイは少し悲しそうにこんな事を言った。
「アスカは、碇君と一緒に暮らしたいのでしょう?その邪魔になるような事はしたくないわ…」
「あのねぇ…」

流石にいつもいつも真っ赤になって照れてばかりでは無かったようだ。やれやれといった風情でレイを諭す。
「アンタは気を使い過ぎよ。仮にアタシがシンジと同棲したいとしても、それでレイを邪魔者扱いするような女だと思ってるの?」
「…そんな事ないわ。けれど…」
同棲、という言葉に反応してしまう。後ろからミサトがニヤニヤ笑っているような気配を感じて、シンジはわざとらしく咳払いをした。
「それに、もう少しシンジに平常心とか忍耐力ってものが備わったら、三人で住むのも良いかもね?」

「ア、アスカ!?そりゃいくら何でも…」
思わず窘めかけてアスカの不敵な表情に気付き、嵌められたと悟って舌打ちするミサト。
「あ、あははは…」
アスカなりの冗談にせよ、それなりに耳が痛い。あの平常心タンクトップでも着てもっと自分を鍛えよう、と思うシンジだった。
「まあ決まりで良いんじゃないかしら。アスカ、私からもレイの事、お願いするわ」
「ええ、任せてリツコ。…ま、アタシもレイに頼る事あると思うし」

───これが弱さを認める強さ、という事なのだろうか。
かつてのアスカなら決して口にしないようなその言葉が、それでもアスカらしいと感じられた。
「アンタ殆ど荷物も無いでしょう。今日から早速来なさいよ。必要な物は後から送ってもらえばいいでしょ?」
人の温もりを知ったレイに今の部屋は辛いものがあるだろう。アスカの頭にもあの部屋の様子が浮かんでいるに違いない。

「…そうさせてもらうわ。アスカ、ありがとう」
レイもようやく、心を決めたようだった。

「あ、お疲れ様です。センパイ、皆さん」
廊下を曲がると、マヤと擦れ違った。
「…マヤ。あのサキエルの仮面の細長い口の部分は、別に人の血を吸ったりする為のものじゃなくってよ」
シンジ達にはよく分からないことを言い出すリツコ。マヤがあ…とばつの悪そうな声を漏らす。
「まあ、トマトジュースは気に入っていたみたいだけど」

…何と言うか、マヤは時々想像力が逞し過ぎる、とシンジは思った。

食堂まであと少し、と言う所でミサトが何かを思い出したようだ。ぽんっと手を打つとリツコに尋ねた。
「そう言えばリツコ、A計画って知ってる?」
「A計画?初めて聞くわね。それ何?」
エヴァンゲリオンの運用にまつわる一連のプロジェクトは、リツコが責任者を務めるE計画だ。それに関連する何かだろうか。
「いや、加持がドイツを発つ直前にね、ゼーレに近い諜報部員からそういう計画があるって聞いたらしいのよね。
 ま、慌しい時だったし結局その作戦コードしか分からなかったみたいだけど」
アダムを復元する計画の事をゲンドウらは確かアダム計画、と呼んでいた筈だが。その略称の一つなのかも知れない。
ちなみに現在、胎児のアダムはターミナルドグマ内のリリスとは離れた場所に厳重に保管してある。
「ま~ね、知らないなら別にいいのよ。アイツが慌ててE計画を聞き間違えただけかも知んないし」
その道のプロフェッショナルである加持に限ってそんな事は無いだろうが、名前しか分からないのではこれ以上考えようが無い。
「一応、覚えておくわ」
リツコもそう思ったのか、その時はそう簡潔に答えただけだった。

「お待たせしました」
振り向くと、そこには昨日の服に着替えたサキエルが立っていた。急いで追って来たのか、少しだけ息が上がっている。
「ありゃりゃ、あんまり急がなくても良かったのに。みんなで食事するのがそ~んなに楽しみだったの?」
恐らく図星だったのだろう。サキエルの顔はうっすらと赤くなっていた。
「でもねぇ、あんまりこんな事言いたくないんだけど、ここの味って正直イマイチなのよね」
アスカがぼそっと言う。シンジも今朝のサラダを思い出した。良い素材を使っているのに、作りが全体的に雑だ。発想も普遍的過ぎる。

「なら、厨房借りて僕が作ってみようか…」

シンジは学校の勉強もさほど苦手という訳では無い。
エヴァのパイロットとして特訓や実験に時間を取られていれば当然成績は振るわないが、それでも授業を理解できないような事は無かった。
だが、自分はどちらかと言うと料理やチェロの演奏をしている方が性に合っている、と思う。
食事を食べてくれる相手や演奏を聴いてくれる相手の事を考えながら地道な工夫を重ねていく、そういう時間の使い方は楽しい。
人との付き合いというものを表面的にはある程度こなしつつも、ある一歩より先に踏み出す事の出来なかったこれまでのシンジにとって、
それは逃げ場所の一つでもあったが、やはりそれだけでは無かったという事だろう。

事実、シンジの料理の腕前は惰性でルーティンワークをこなしている本部食堂のコックを軽く上回っていた。
「何だか味もちょっと前向きになった気がするわねっ」
シンジが作ったのは簡単なサンドウィッチとサラダだけであったが、それは概ね好評であった。
アスカなど面と向かって褒めはしなかったものの、誰よりもハイペースで食べ続けるその姿がシンジにとって何よりの賞賛でもあった。
レイに配慮して半分以上は肉類を使わずに仕上げたが、あえてレイは直火で炙って刻んだハム入りのポテトサラダに手を出していた。
「…美味しいわ」
レイの肉嫌いは単純な好き嫌いでは無くその特殊な生い立ちから来る、どちらかと言えばトラウマに近いものだ。
血を連想させるようなレアは論外にせよ、よく火を通して細かくすれば大丈夫なのでは、というシンジの目算が当たった事になる。
サプリメントの類に頼りがちだったレイは、あまり血色が良いとは言えない事もあり、
無理をさせるつもりも無いがいつかはレイの為にしっかりとした肉料理を作ってあげたい、とシンジは思った。

「そうだリツコさん、お赤飯が食べたいとか言ってませんでしたっけ」
急に、昨日の出撃直前にそんな会話をしていたのを思い出す。
「ああ、私がっていうよりレイがね」
「なになに、ひょっとしてアタシやこの子の歓迎会とか?」
幸せそうにサンドウィッチを味わうサキエルの方を見つつ、アスカが口を挟んでくる。
「レイに嬉しい事があったからなのだけれど、そういうのも良いわね。
 色々な事が少し落ち着いてからで構わないから、飛び切り美味しいのをお願いできるかしら」
「ええ、もちろん」
サキエルとレイは何やらミサトの他愛も無い話をどことなく楽しげに聞いている。
自分の腕前にそこまで自惚れはしないものの、皆の笑顔を見ていると張り切って作って良かった、と思えた。





ミサトの車から降りて、レイはマンションの前に立つ。
ユニゾン特訓の際に訪れた事もあったが、その時には特に何の感慨も抱かなかった。

レイの住んでいたアパートと較べると格段に大きく、立派な建物。
だが、百室以上はあろうかというその中で、明かりが付いているのは二十室にも満たなかった。
まだ誰もが寝静まるような時間ではない。ここ第3新東京市からの疎開が本格化するのはこれからとは言え、実際住人は少ないのだろう。
迎撃要塞都市というこの街の真の姿は伏せられてはいるものの、ネルフという超法規的組織への風当たりの強さを考えると、
この街自体、それ程人々が好んで住んでいる訳では無いという事にレイは気付かされる。
2年A組の家族については言わずもがな、それ以外も街の住民の多くがネルフ関係者とその家族で占められている可能性もある。

───明かりが無いと人が住んでいる感じがしない。
いつだったか、アスカがそう言っていたのを思い出す。
それは、シンジとは別の意味で人の温かさを渇望していたアスカの、無意識的な願望の発露だったのかも知れない。
人ごみは苦手なレイであっても、疎開が進んでこの街が廃れていくのは見たくない、と思った。

(私、この街が好きなのね…)
シンジと、アスカと、多くの人達と過ごしてきたこの街。
(この街を、守っていきたい)
また一つ、レイには大切なものが増えた。

「私もココに帰って来んの久し振りなのよねぇ~。一昨日と昨日は何だかんだで結局本部の仮眠室に泊まったし」
エレベーターの中で、ミサトがそんな事を言った。つまり時を遡ってから戻って来たのは初めて、という事になる。
「うぇぇ、ただでさえアレなミサトの部屋を、更に二日も放っとくなんて…」
「片付けは自分でやって下さいね、ミサトさん」
「あんまり加持さんにみっともないとこ見せるもんじゃないわ」
とほほ…と肩を落とすミサト。この件に関しては自分も人の事は言えないので、黙っておく。
これからは、身の回りを綺麗にしよう。少しだけ、…可愛らしく工夫するのも良いかも知れない。アスカに相談してみようか。

十一階へ到着した。
このフロアだけで七室も空き部屋があったそうなので、隣同士では無いが全員がこの階に居を構える事となった。
シンジも、ミサトも、アスカも、辛い事や苦しい事をたくさん経験したこの場所。
だが、皆がここへ帰ってくる事を自ら望んだ。それは、とても崇高な意思だ。
「こっちがシンちゃんの部屋で、こっちがアスカとレイの部屋ね。明日は早いんだから、夜這いなんてかけちゃダメよ~♪」
「しませんよ!」
今度は私もその中に居て、色々な想いを共有していくのだ。
戦いはどんどん厳しくなって行くだろう。だが、きっと楽しいと思える事もいっぱいある。全力で、生きれば。

「じゃね~、お休み」
「お休み!シンジ、アンタは転校初日から遅刻すんじゃないわよ」
「お休みなさい、ミサトさん、アスカ、綾波」

「ええ、お休みなさい」
笑顔でその言葉を口にしたのは。
初めてだった。





ただ一つの扉から堂々と姿を現した侵入者に、一斉に視線が注がれる。
リーダー格と思われるサングラスの男が、流れるような動作で懐から取り出した銃を向けた。
「見ない顔だな。名前は?」

「七分儀ネブカドネザル」
適当に思いついた名前を言ってみる。どうせ自分の風貌などから照会されれば、素性はすぐに知られるのだ。
「怪しいぜ。本名かよ」
今度は柄の悪そうな大男が、そう言いながら席を立って近付いてくる。不愉快なイントネーションだ。
こんな名前が本名のわけが無かろう。ゼーレと言えども末端はこの程度か。
「身分証を見せてもらおうか?」
背後に回った巨体の男が耳の近くで小さくそう言う。耳障りだ。だから、

裏拳を顔面に一閃。

それだけで、碇ゲンドウの倍はあろうかという大男は鼻血を噴き出しもんどりうって倒れた。
「男に耳元で囁かれて喜ぶ趣味は無いのでな」
ガタッと、一斉に部屋中の男たちが立ち上がった。
「貴様!」
ほぼ全員が、一度に飛び掛かってきた。その数およそ十人。
そのうちの二人が構えるナイフが、ゲンドウの目前に迫った。

───酔って喧嘩とは、意外と安っぽい男だな。
かつて冬月コウゾウはゲンドウの事をこう評した。
事実、その時の喧嘩の理由は下らないものであったから、安っぽいとの誹りはあながち的外れでは無いだろう。
だが、二十人近い相手をただ一人で相手にしたその戦いぶりを見ていれば、冬月の評価はまた違ったものになっていたかも知れない。
そしてそのゲンドウの力は、これだけの齢を重ねてなおいっこうに衰えてはいなかった。

実際、ゲンドウには全ての攻撃を捌きながらも全く別の事を考える余裕があったほどだ。
(赤飯か…京都と言えば大納言小豆が有名だった筈だが…)
手刀でナイフを叩き落し、そのまま鳩尾に拳を入れる。
体勢を低くして不用意なパンチをかわすと、最低限の動きで下段の回し蹴りを放つ。
ついでに横にいた一人に肘を喰らわせると、それが最後の一人だった。実に呆気ない。

「ほう、かなりできるな」
銃を構えていたサングラスの男が立ち上がり、安全装置を外す。
「だが、この銃からは逃れられまい」
ゲンドウと男の距離はおよそ3メートル。明らかに飛び道具の方が有利な距離だ。
懐に銃はある。だがシンジがそれを望まない以上、無闇に殺すつもりはない。そして例え素手であっても負けない確信が、ゲンドウにはあった。
距離を保ったまま、弧を描くように両者がゆっくりと動く。

「死ねぇっ!」
引き金が引かれようとしたまさにその瞬間、ゲンドウは足元のナイフを靴の爪先で勢いよく跳ね上げると、空中で握ってそのまま投げつけた。
「うがぁぁぁっ!」
ナイフは銃口に命中し、銃が暴発する。余りの衝撃に男は右腕を抑えて床に転がった。
サングラスが落ちる。
明るくなった視界の先で男が最後に見たのは、ゲンドウの歪んだ笑いだった。

「貴様にこれは似合わん」

ぐしゃっとサングラスが踏み潰されると同時に首筋に一撃を叩き込まれ………男は気を失った。





深遠の闇に靴音だけが響く。
巧妙に隠された施設の、更に隠された地下通路をゲンドウは歩いていた。
あの加持リョウジでさえ見つけられなかったこの施設には何かがあると、ゲンドウは確信していた。
薬品の臭いがする部屋、血で床が染まった部屋、扉が何重にも封印された部屋。
どれもこれもまともな部屋では無い。一時はゼーレ以上の狂気に身を晒したゲンドウが怖れるものでは無かったが。

通路が突き当たり、左へと折れていた。
いっそう薄暗いその先には、幾つかの鉄格子が見える。地下の牢獄といったところか。数えると、全部で四つの牢があった。
一つ目…何も居ない。埃が溜まっているだけ。
二つ目…何も居ない。大きな虫が動いただけ。
三つ目…何も居ない。腐臭が漂っているだけ。
四つ目…

「まさか、お前が日本ににいるとは思わなかったぞ」
まさに、灯台下暗しというやつだろう。





限りなく陰気な地下牢には不似合いな笑顔で、銀髪に真紅の瞳の少年が振り向いた。





~つづく~





シンジが料理上手という設定は二次創作において誇張される事が多いですが、この作品中でも積極的に強調していこうかと考えています。
また、今回のアスカの台詞を考えるにあたり、[9]に書いて頂いた感想の一部を参考にさせて頂きました。ありがとうございます。



[21803] 11.決断の夜
Name: ふたば草明◆c7ec2017 ID:79d97c37
Date: 2010/09/28 02:47
「何…これ…」
リツコから渡されたディスク内にあったファイルの全てを確認し終わって、呆然と呟く。
見ながら食べようと思って気合を入れて作ったパスタは、一口も食べないままPCの横で伸び切っていた。
二日続けて酷使されたマヤの思考回路は、もはや限界寸前だった。





とにかくリツコに会って話を聞きたい。朦朧とした足取りでリニアトレインに乗り込む。
こんな夜中に本部へ行ってもリツコがいる筈が無いという事にマヤが気付いたのは、車輌の扉が閉まっただいぶ後の事だった。
地上・ジオフロント間を二十四時間運行しているリニアトレインだが、こんな時間には滅多に利用者もいない。
マヤの乗った車輌はもちろん、前の車輌にも後ろの車輌にもまるで人影は見えず、列車の駆動音だけが微かに響く。
薄暗い車内を月光が静かに照らしており、マヤは少しだけ気分を落ち着ける事が出来た。

リツコは、自分の知るほぼ全てをディスクの中に記していた。
未来の事についても逆行という言葉こそ使わなかったものの、ゼーレのシナリオ通りに全てが進んだ場合の予測として仔細漏らさず触れた。
ゲンドウと冬月の罪をややぼかした以外は、全ての情報がそこにあったと言って良い。
それを見たマヤやマコト、シゲルの動揺が予想できないリツコでは無かろう。
それでもなおこれを自分達に託した、その意味を考えなくてはならない。マヤにもそれだけは分かった。

『裏死海文書によれば使徒は全部で18存在し、第18使徒リリンこそが群体としての我々人類を指す』
これなどは比較的冷静に受け止められた部類に入る事柄だ。
サキエルと言葉を交わす前であればまたその感じ方は違ったかも知れないが、今ではヒトと使徒がそう遠くない存在であると感じられる。
預言書などというものに信頼性があるとは思わないが、使徒の数が分かっているという事は戦いの日々に終わりがあるという事だ。

『使徒が第3新東京市に現れるのは、ターミナルドグマに保管されたアダムと接触しサードインパクトを起こす為である』
看過できない事実ではある。だがその先には、意思の疎通さえ出来れば使徒はその本能を抑えられる、とも記されていた。
使徒に対抗できるのがエヴァンゲリオンだけである以上、使徒がここを狙ってくるのは却って好都合とも考えられるだろう。

『エヴァのコアにはチルドレンの母親の魂が封じられており、パイロットが限定されるのはその為である』
つまり、マルドゥック機関による選出などというのは全て偽装であり、エヴァが建造された時点でその乗り手は決まっていたという事。
それはそれで驚愕すべき事だが、寧ろマヤが衝撃を受けたのはシンジとアスカの母にまつわる一連の実験データ、そして、

『碇ゲンドウと冬月コウゾウはシンジの母であるユイに強い執着を抱いており、かつては個人的な目的からネルフを動かそうとしていた』
という一文であった。ネルフを動かす事がどうユイに繋がるのか、どうしてそれを思いとどまったのかは書かれていなかったが、
あの強面の前司令にも亡き妻への深い愛があった事が分かり、同時に突然の司令交代の裏にあったものも薄々と理解できた。

『綾波レイはその目的の為に、アダムと同じくターミナルドグマに幽閉されたリリスの魂から作られた存在であった』
ここまで話が荒唐無稽になって来ると流石にどう反応して良いか分からない。少なくとも遺伝子的には普通の人間と何も変わらないそうだ。
レイの寡黙さ故にこれまで言葉を交わしたのは数える程だったが、もう少しこちらから声を掛けてあげた方が良かったのだろうか。

そこまで思い返して、マヤはふうっと息をついた。
自分が所属していた組織の内部だけでも、これだけの秘密が隠されていたのだ。
マヤの階級を考えれば全てが知らされているとはもちろん思っていなかったが、それでも全てが予想の範疇を大きく越えている。
そして───本当の忌むべき秘密は、その他にある。
列車はいつの間にか、地上と地下を繋ぐ長いトンネルに入っていた。

『委員会の背後にはゼーレと呼ばれる秘密結社が存在し、その真の目的とは人類補完計画の発動である』
昼間見た委員会の面々が思い出される。悪の組織みたいと思った?というリツコの言葉。

『人類補完計画とは、全ての使徒を殲滅した後にサードインパクトを人為的に引き起こし、人類を個としての存在へと進化させる計画である』
そしてここに至り、マヤのこれまでの価値観は完全に覆されてしまう。
進化などと言われて納得出来る話では無い。敢えて稚拙な言い方をすれば、やはり彼らは良い人たちでは無かったのだ。

『その具体的な方法とは、チルドレンのデストルドーを外的な圧力で増幅させた上で、特殊な道具によって依代として捧げるというもの』
ロンギヌスの槍と呼ばれるらしいその道具についてはよく分からなかったが、それでもまともな人間の考える事では無い。
まるで中世の邪教の儀式だ。こんな事を目的とする者たちがネルフの上部組織を動かしているというのか。

『これらの真実についてはゲンドウ、冬月、リツコ、ミサト、特殊監査部の加持の他に三人のチルドレンにも既に知らされている』
確かに、エヴァの成り立ちやゼーレとやらの目的を考慮すれば最も渦中にあると言える子供達に知る権利はあろう。
だが、彼らはこれだけの真実をどういった思いで咀嚼したのか?少なくともマヤには、三人が思い悩んでいるようには見えなかった。

『ネルフ本部は近日中に正式に委員会との決別を宣言し、使徒との共存及びゼーレの計画阻止を最優先として活動を継続していく』
委員会との決別とは、即ち国連との決別という事を意味する。
ファイルに添付されていた人類補完計画の真相についてのデータが公開されれば、国連加盟国の全てがゼーレに追従する事は無いだろうが、
それでも下手をすれば世界の大半を敵に回す事になりかねない。
セカンドインパクト以降溜まりに溜まった各国の軍事的フラストレーションを刺激せずにゼーレのみを倒す事など、可能なのだろうか。

───次は、地下ネルフ本部前。地下ネルフ本部前でございます。お降りのお客様は忘れ物の無いよう…

車内アナウンスに、現実に引き戻される。
ゆっくりと考えに浸れたお陰で少しは気分が落ち着いた。
今になって考えれば、よくあの精神状態で見終わったディスクをすぐさま焼却処分し、その内容をここまで正確に記憶できたものだ。
普段から情報に接する仕事に携わっていなければこうはいかなかったろう。

列車の走り去る音を背中で聞きながら、改札を抜ける。
駅名の示すとおりネルフ本部は目の前だが、マヤは本部周辺を少しだけ散歩する事にした。
早く本部へ行ったからといってリツコがいるわけでは無いし、もう少し一人で頭を冷やしたかったのだ。





ジオフロントの地底湖は、光を水面に反射させつつただ静かに朝を待つ。
夜の地下空洞に灯る明かりは人工的なものであったが、その抑えた光量はどことなく安心感を与えてくれた。

(やっぱり、覚悟の問題だ)
昨日も夜道を歩きながら、似たような事を考えた。だが、自分に求められているのは昨日想像したよりも遥かに重いものだった。

ディスク内のデータには、推測や推論はあってもリツコの主観的な意見というものは一切書かれていなかった。
ゼーレと言う組織がこんな事を企んでいるからそれを止めるのを手伝って頂戴、などと書かれていれば、
マヤは迷う事無くそれに従ったであろう。だが、リツコはそうはしなかった。
もちろん、科学者として個人的な感情をデータに混ぜないというのは当然の事だ。
だが、そこにリツコからのメッセージが込められていると、マヤにはそう思える。

それは即ち、自分の意思で決めなさい、とそういう事だ。

あのディスクについては処分方法を指示された訳でもない。口止めのような事も記されてはいなかった。
そして…発令所の通信記録を辿れば、委員会に個人的に連絡を取ることも出来るだろう。
盲従する。黙殺する。直接導きを乞う。委員会にリークする。
自らの味方になろうが敵に回ろうが、リツコはその全ての選択肢の中からマヤに選ばせようとしているのだ。
そこにあるのは師弟の甘い信頼などでは無い。

(センパイは、私を対等に見ているんだ…)
嬉しさと怖ろしさに、思わず身震いをした。

身震いしたのは、もしかしたら夜の寒さの所為もあったかも知れない。
そう思ったマヤは、踵を返すと本部の建物の方へ歩いていく。
結局、今日は夕食を食べ損ねたままだ。夜間も営業している本部内食堂なら何か食べられるだろう。
基本的に手製の弁当を持参しているマヤにとって、食堂を利用するのは久し振りの事だった。

(………?)
ふと、人の気配を感じた気がして周囲を見渡す。
眼前にそびえるネルフ本部の三階、その一室のバルコニーに一人の少女がいた。
(使徒、サキエル…)

昨晩地上の公園で出遭い、僅かな会話をした少女。今日も何度か本部内で見掛けたが、言葉を交わす事はしなかった。
ミサトが専用の個室を与えたと聞いていたが、それがあそこだったのか。
ぼんやりとした明かりの中で湖を見下ろすその表情はここからではよくは見えなかったが…少なくとも今、マヤに恐怖感は無かった。

少し、手を振ってみる。
それでサキエルはようやくマヤに気付いたようで、丁寧に頭を下げるとゆっくりと部屋の中へ戻った。
初対面において少し可哀想な対応をしてしまったのは事実だが、避けられた訳ではない、と思う。
頭を上げた時一瞬見えた表情からすると、恥ずかしかったのかも知れない。

『人類補完計画とは、全ての使徒を殲滅した後にサードインパクトを人為的に引き起こし───
データ中の文章が、突如頭の中にフラッシュバックした。

…殲滅。

もし委員会の予定とやらに逐一従っていたら、あの健気な少女を何の躊躇いも無く殺していたと?
これから現れる使徒達も、それが人に擬えればどのような存在なのか確かめることも無く殺せと言うのか?
再び重くなりかけた足を引きずって、マヤは食堂に向かった。





食券販売機の前まで来て、マヤは少しだけ後悔していた。
しばらく利用していなかったので忘れていたのだが、ここの料理はあまり美味とは言えないのだ。
だがこの時間では外の店も概ね閉まっているし、他にいいアイディアがあるとも思えない。
仕方なく、食券のボタンを眺めていたマヤの眼に、妙な名前が飛び込んで来た。

(司令の…気紛れサンド?)
他の印刷された文字とは違い、乱暴な手書きで書かれた札。
とにかくサンドウィッチの類であるという事だけは分かったので、珍しい物見たさも手伝ってマヤはその食券を買った。

「はいはーい、司令の気紛れサンド一つっすね」
カウンター担当の若い青年がオーダーを厨房に通す。奥のほうから「よしっ!」と何やら気合いを入れる声が聞こえた。

「ねぇ、このメニューってどういうものなの?」
他に客も無く、カウンターの青年は暇そうだったので尋ねてみる。
「ああ、それはですね、あの新司令クンが使徒の女の子の為に考えたものなんですよ」
「シンジ君が?」
確かに今日の夕刻頃、食堂の近くでシンジ君たちと擦れ違った。あの時にはサキエルはいただろうか。
「何でもあの子は人間の食べ物ってまともに食べた事が無かったらしくて、それで自分が作ってあげたいから厨房を貸してくれ、ってね。
 最初はウチのコック長も気が乗らなかったみたいっすけど、これが予想に反して大した腕前でしてね…」
少なくとも最初にデータを見た印象では、碇シンジという少年は内向的に見受けられた。
スポーツなどよりは料理の方が合っているのかも知れない。
「ほら、ネルフって忙しいしみんな仕事の合間に義務的に食事とりに来るでしょう?だからここの皆もいつからか手抜き気味だったんですけどね。
 一口食べて笑ったあの女の子の顔を見てコック長が感動しちゃいましてね」
…そう言えば。自分はまだあの子の明るい笑顔は、見ていない。
「料理は使徒と人の壁も越えるんだ!自分達が間違っていた!って具合でね。
 …まあその場にいた皆、多かれ少なかれ同じように思ったもんですが。それで新司令からレシピをもらって再現したのが…これなんです」

丁度いいタイミングで、そのサンドウィッチが目の前に置かれる。
「ま、食べてみれば分かりますよ。…おっと、いらっしゃーい」
新しい客の方へと歩いていく青年。
そしてマヤは何気無くサンドウィッチを手に取り、口に運ぶ。

(ああ…そうか…)
確かに、マヤには分かった。
この一品に込められたシンジの思い。それは、サキエルに笑顔になって欲しいという、純粋な願い。

戦う覚悟。立ち向かう覚悟。それらは確かに必要かも知れない。
だが、それ以上に必要な事がある。
それは、笑顔を、平和を、幸せを願う心だ。

リツコは『共存』という言葉を使っていた。
さっき自分はサキエルを死なせなくて良かったと、そう思った。他の使徒も死なせたくないと、そう思う。
その願いは、巨大な敵と戦っていくに十分な理由たりえる。

…先の事はいい。まずは使徒との共存を考えよう。その為に必要であれば、ゼーレの計画を阻止する。

最後の一口を食べて。
マヤの心は、決まった。





ネルフという組織はそれなりの軍事力を持つものの、軍隊ではない。
諜報部は存在するが、そちらに特化した諜報組織というわけでも無い。
エヴァンゲリオンの運用というただ一点を除いては所詮人材の寄せ集めに過ぎず、思わぬ形でその弱点が露呈する事がある。
保安部の一員である相田という男の情報管理意識の低さも、その一つであった。

(おいおい、マジかよ…)
相田ケンスケは、PCに表示されたその記録に思わず目を疑った。

国連軍に軽傷者18名、重傷者0名、死者0名。
ネルフに軽傷者2名、重傷者0名、死者0名。
民間人に軽傷者1名、重傷者0名、死者0名。

先日の戦闘の記録である。
父のPC内にはネルフ集計のデータと国連側からもたらされたデータが綺麗に一致しており、改竄されたとは考えにくかった。
既にテレビ等ではこの事件における死者無しとの報道がなされており、その真偽を確かめるべくネルフ職員である父のPCを開いたのだが。

(この化け物の進路と、避難勧告の出された時間からすると…)
本当に、死者は無かったと。ケンスケもそう結論付ける他無かった。
改めて、数字を眺めてみる。ネルフの軽傷者というのは、トウジの言っていた二機のロボットのパイロットの事だろうか。
民間人の1名は、恐らくトウジの妹ナツミの事だろう。尤も、傷は膝を擦り剥いた程度だったらしい。
(そう言えば、司令が変わったとパパが言ってたっけ…)
その新しい司令が、相当に有能な人物なのだろうか。ケンスケはリストから新司令を探す。

「あったあった、碇シンジ、これか…えっ!?」

───14歳?パイロットと兼任?

自分と同い年だと言うのか?その上、前線でまで戦っていると?
ケンスケが固まっていると、廊下から父が顔を覗かせた。
「俺はもう寝るぞ…って、また見てるのか。程々にしとかんと捕まっても知らんぞ?」
そこまで言って、ケンスケが表示しているデータに気付く。
「ああ、新司令な。…そう言えばお前、クラスはA組だったか?」
「え?そうだけど」
振り向いたケンスケに告げられたのは、

「その新司令、多分明日転校して来るぞ?」

ネルフの機密以前の、個人情報だ。

(…多分、捕まる時は一緒だよ)
父の言葉に一通り驚いた後で、ケンスケは嘆息しつつそう考えるのだった。





~つづく~





[5]での御指摘を踏まえて、一応原作未見の方向けに幾つか物語のポイントとなる事柄の解説を入れてみました。



[21803] 12.学校を楽しむには
Name: ふたば草明◆c7ec2017 ID:79d97c37
Date: 2010/09/29 07:07
トウジの拳が、シンジの頬にめり込む。
脳が思い切り揺さぶられ、堪らずその場に倒れ伏す。
「済まんな、転校生」
謝らなければならないのはこちらの方だ。ネルフの失態の所為で、トウジは妹を喪いかけた。
「ワイはお前を殴らなあかん。殴っとかな気が済まへんのや」
殴られる理由は有る。今回は、乗りたくて乗った。それなのに以前と同じか、或いはそれ以上の悲劇を招きかけた。
トウジの拳は全て受けよう。その上で、その痛みを忘れずに戦っていくんだ。シンジはそう思っていた。だから、

「あのドデカイ奴はなあ、ナツミを守ってくれたんや。それを跡形も無く消し去りよって…お前には人の心は無いんかい!」

そう言われた時には思わずぽかんと口を開け、「え、そっち?」と口走ってしまった。
トウジの拳が、シンジの頬を抉り抜く。
一発目はともかく、二発目は少し自業自得。物陰から見ていたレイは、そう思った。





朝、担任に呼ばれて教室に入ったシンジが真っ先に思ったのは、前の時よりも生徒の数が多いという事だった。
第3使徒戦において被害が少なかった事から、疎開した家庭が少なかったのだろう。初めて見る顔も幾つかあった。
無難な自己紹介を済ませ、ざっと教室を見渡してみる。
相田ケンスケ。洞木ヒカリ。使徒戦の翌々日にも関わらず登校している鈴原トウジ。包帯をしていない綾波レイ。
他にも見知った顔が多くあった。
四月の中旬という半端な時期の転校生が珍しいのか、多くの生徒が興味津々といった面持ちでシンジの方を見ている。
その中でも、異常な程に強い視線を投げかけて来たのがケンスケ。
(これは、訊かれるかな…)
せめて授業中はやめて欲しいと思う。騒ぎの元になるのはあまり好まない。

ネルフは近いうちに情報公開の必要に迫られる。これはシンジだけでなく冬月やミサト、リツコにも共通の見解だった。
ゼーレを、引いては国連を敵に回す以上、最低限国内だけは敵のいない状態を保たなければならない。
その対策の一つがゲンドウや加持がこれから行う説得工作なのだが、それだけでは不十分と言えた。もう一つの鍵は、世論にある。

これまで秘密主義を徹底して来たネルフは、国民にあまり快く思われていない。
説得工作が功を奏して内閣がネルフ支持に回ったとしても、国民の多くがそれを認めなければ意味が無い。
セカンドインパクト以降政治家の求心力が低下している現状においては、
最悪、国内で大規模な暴動が起こり、ゼーレや使徒との戦いどころでは無くなる可能性もあった。
世論を味方につける為にも、ネルフはこれまでの秘密主義を撤回する必要がある。そして、それはそう遠い日の事では無いだろう。

だから、というわけでも無いが。

「碇君があのロボットのパイロットというのは本当?」
シンジの懸念も空しく授業中にモニターに表示されたその質問には正直に答えておく。
案の定クラス中が蜂の巣をつついたような大騒ぎになったが、ヒカリが何とかそれを沈めた。後でお礼を言った方が良いかも知れない。

「じゃあ、碇君がネルフの新しい司令というのは?」
…流石に、ケンスケの父に軽い注意くらいはした方がいいのかも知れない。
そう思いながら肯定の返事を返した所で授業終了の鐘が鳴り、更なる喧騒の中トウジに連れ出され、二発殴られた…というわけだ。





「ま、待ってよ。あの使徒はちゃんと無事だよ」
「使徒?それがそのでっかいヤツの名前なのか?」
シンジの弁解を聞きとがめたケンスケが素早く反応する。
エヴァと使徒についてはネルフの最高機密の一つであり、そこまではケンスケも知らなかったようだ。
尤も例えその言葉を知っていたとしても、人類の敵として襲来する異形の怪物というイメージとは直結しなかったかも知れない。

「適当な事抜かすなや!ワイはこの目で見たんやで。二機のロボットに挟まれたあいつが悲しそォな顔して消えていくのを!」
確かに第3使徒の巨体が忽然と消え失せたのは、トウジと保安部員がナツミに付き添ってその場を離れていく最中だった。
エヴァが二機掛かりで使徒を倒したと誤解してもおかしくは無い。
あの仮面の表情がトウジに読み取れたというのは疑わしいが、人情に篤いトウジなりのフィルターで見れば、という事なのだろう。

どこまで話すべきかシンジは一瞬迷ったが、
「あの使徒は人間と共存する事を選んでくれたんだ。今は人の姿を取っていて、ネルフの本部にいるよ」
結局、全てを話した。
2年A組の意味からすれば、ここ第壱中学校はネルフ本部に次ぐ重要な施設だ。冬月の指揮の下、既にゼーレの目と耳は取り除かれている。
「そんなんで誤魔化されるか!転校生、お前どこまで…」
「待てよトウジ、こいつ…碇は一応ネルフの司令なんだぜ。全くの出まかせ言ってるってわけじゃ無いんじゃないか?」
意外にも、助け舟はケンスケから出された。
「む…」
再度振り上げようとした拳を停止させるトウジ。
冷静に考えれば、ケンスケにとってもトウジにとっても父親の上司にあたる人物だという事に思い至ったのかも知れない。
シンジとしては、そんな事で二人が遠慮したり距離を置くのは望まない事であったが。

「むむむ…」
しばらく唸りながら空を見上げ、何かを考えていたトウジだが、
「よし、決めたで!」
人差し指をシンジに突きつけると、とんでもない事を言い出した。
「ワイを、その使徒っちゅうのに会わせェ。それでお前の言った事がホンマやったら、ワイは潔う謝る」
トウジをサキエルに会わせる?勿論サキエルがトウジに何かをする筈はない。だが、いいのだろうか。
「そやけど、もしもええ加減な嘘やった場合は…もう一発、覚悟しとけや!」
やはりまだ怒りが収まらないのか、トウジは鼻息も荒く大股で去って行く。
「こ、こりゃすごい事だぞ。俺も同行させてもらうからな、頼んだぞ、碇!」
ケンスケはケンスケで勝手な事を言い、トウジの後を追う。返事をする間も無かった。

「…はい。これ」
濡らしたハンカチが差し出される。飾り気の無い、白いハンカチ。
「ありがとう…非常召集とかじゃ、ないよね?」
受け取ったそれを頬に当てつつ、レイに尋ねる。
「ええ。でも、次の授業が始まるわ」
やれやれ、と思いシンジは体を起こす。サキエルの件については後でミサトにでも相談する必要があるだろう。

ハンカチに、微かに血が滲む。トウジの容赦の無さは知っていたが、使徒戦よりも大きな怪我をするとは思わなかった。
「汚しちゃったか…ごめん」
「気にしなくていいわ。アスカと、新しいのを買いに行くつもりだから」
へえ、とシンジは少し驚いた。どういったものを買うのかは分からないが、レイが買い物に行くのを楽しみにしているように聞こえたからだ。
人と触れ合う温かさというような、漠然とした喜びは既に感覚として理解しているレイだが、
それこそ買い物といったようなもっと日々の生活に密着した楽しみは、レイ自身が自ら見出していかなければならない。
レイの中にその萌芽が生まれつつあるのは、非常に望ましい事だと思えた。

「それは、あげる」
そう言って教室へ向かうレイ。いつの間にかハンカチは真っ赤に染まっていた。
もしトウジが殴ってくれと言って来たら、今度も一発だけは遠慮するまい。そう考えながら、シンジもその場を後にした。





新年度が始まってから約二週間。
クラス替えが無かった為に新しい顔を覚える必要は無かったが、それは同時に前年度の問題をそのまま引き摺るという事でもある。
綾波レイと鈴原トウジ。
その二人が、一年の時から引き続き学級委員長となった洞木ヒカリの悩みの種だった。

無口で何とも無愛想なレイ。その態度は、このクラスが編成された当初幾つかの問題を引き起こした。
最低限の事しか喋らず、たまに誰かが気を使って食事や遊びに誘っても決して付き合わず、その理由すら述べない。
そんなレイが多くの敵を作ったのは仕方の無い事だ。或いは、その日本人離れした美しい容姿に対する同性からのやっかみもあったかも知れない。
更には、怪しい髭面の中年とデートしていたなどと胡散臭い噂まで流れ、クラス内におけるレイの立場は一時最悪なものとなった。
ヒカリが目を光らせていた以上、イジメという程の事は起きなかったが、彼女が孤立していったのは当然と言えた。

状況が変わったのは、二学期からである。
二週間程の欠席を経て登校してきたレイは、全身に包帯や眼帯、絆創膏などをこれでもかというくらい付けていた。
ヒカリやクラスの皆は初号機や零号機の実験など露ほども知らなかったが、ぎょっとしたのは言うまでも無い。
ただのパフォーマンスだと疑う者もいたが、歩くのも辛そうなその様子が演技では事は誰の目にも明らかだった。
…そして。それと同じような事が二学期にもう一回、三学期にも一回起こる。
次第に、噂が流れ始めた。今度の噂は下世話なものでは無く、レイがネルフで危険な任務に従事しているというもの。
このクラスの生徒の親は多くがネルフの関係者であり、どこから出た噂かは分からずとも妙に信憑性があった。
ネルフの事情に何故か詳しい相田ケンスケにヒカリが尋ねたところ、
「綾波自身の事は分からないけど…前に噂になった髭面、ありゃネルフの司令なんじゃないかな?」
などと言われ、何だか聞いてはいけない事を聞いてしまったような恐ろしさにとらわれたものだ。

どちらにせよ、この頃からレイを見る皆の目は憎悪や嫌悪では無く、疑念か畏怖か、人によっては同情といったものに変わっていった。
レイが孤立している現状はまるで変わらなかったが、ある種の風当たりが柔らかくなったのは事実だろう。
実際、学年が変わっていきなり欠席していたレイがようやく登校してきた今朝、
彼女に怪我などが見られなかった事にクラスメイトの何人かは明らかに安堵していた。
それは、欠席していた間レイの事を心配していた者が少なからずいたという事である。
レイにはもう少しクラスにとけ込んで欲しいと思っていたヒカリにとって、それは喜ばしい事であった。

(綾波さんの事、聞いてみようかしら…)
そう思って、自らネルフの新司令である事をカミングアウトした転校生を探して教室を見渡したヒカリの目に入ったのは…
顔を無残に腫らしたシンジの姿であった。
休み時間に入ってすぐシンジを連れ出した人物を思い出し、ヒカリは複雑な思いをおぼえた。
(鈴原…)

平均的な美男子の基準からは明らかに外れるし、勉強も運動も標準程度。それなりに下品な事も口にするし、かっとなると手が出る事も少なくない。
そんな鈴原トウジは、何故かヒカリにとって気になる存在だった。
恋愛感情かと言われると断言はできない。だが、異性として意識しているとは思う。

一見粗野に見えるトウジの優しさ。それにヒカリが気付けたのは、委員長として問題を起こしがちな彼を見ている機会が多かったからだろう。
トウジが何か問題を起こすたびに注意をする。それを繰り返す中で、トウジの本質というものにヒカリは惹かれていった。
人情家だとか、義侠の徒とでも言えばいいのだろうか。
理不尽だと思えば教師や上級生にでも歯向かい、どれだけ罵られても女子や子供には決して手を出さない。
納得できなければ決して妥協する事は無いが、自分に非があると認めれば頭を下げることも厭わない。
そういう清々しさは、とても尊いものに思えた。

だが、学級委員長という立場で客観視すればトウジがいわゆる不良とまでは言わないものの、問題児である事は明らかだ。
注意という名目にかこつけてトウジと接する機会を多く持てる事を喜ぶのは、不謹慎だと分かっているけど。
席を立って、トウジの元へ向かう。

「ちょっと、鈴原!一体何をしたの!」
「…何や、委員長には関係あらへん。放っといてくれんか」
トウジがシンジを引っ張るようにして教室から出て行き、一足遅れて帰ってきたシンジがあの有様なのだ。弁解の余地はなかろう。
まあ、トウジがその場凌ぎの嘘をつくような男ではないと、とうの昔にヒカリには分かっているのだが。

「その言い方は無いでしょう。私は委員長として───」
そこで、ケンスケが割り込んできた。
「まあまあ、トウジが間違ってたってハッキリ分かったらちゃんと謝るって事で双方話はついたんだ、だから、なっ?」
「そんな事言っても…」
ふとシンジの方を見ると、酷い顔にハンカチを当てながらヒカリの方を見て笑って頷いていた。トウジがフンと鼻を鳴らす。
どうやら当事者同士で話がついたというのは本当らしかった。

「ようし、始めるぞ~」
教師が教室へと入って来た。ヒカリは仕方なく、
「あまり乱暴な事はしないでよ」
それだけ言うと、自分の席へと戻っていった。
委員長としてはもう少し強く言い聞かせるべきだっただろうか。トウジに関するヒカリの悩みは、公私が入り混じって難題と化していた。

それでも。
この時点でヒカリの気持ちに薄々気付いていたのはケンスケ一人だったのだから、ヒカリの委員長としての仕事振りは賞賛されるべきだろう。





シンジには、補完委員会と相対する度胸はあってもレイに一緒に下校しようなどと持ちかける度胸は無い。
だから、レイと同じマンションに住み、登下校が同じ方向となったのは嬉しかった。
これまで孤独だったレイと一緒にいてあげようなどという傲慢な考えでは無い。
もっと純粋に、シンジはレイと共に過ごす事を心地よいと感じていた。
ある意味全てを分かり合った間柄だからという事や、或いは母のユイに似た雰囲気にもそう感じる一因はあるかも知れない。
だが最も大きい理由は、他の誰でもない綾波レイという少女が持つその魅力を感じられるからだろう、とシンジは思う。
同じく心地よさを感じるアスカとはまるで正反対。だが、どちらと過ごす時間も本当に掛け替えの無いものである。

「碇君、学校は…楽しい?」
それまで無言で歩いていたレイが前を向いたまま口を開いた。
「えっと、どうかな。今日はいきなりあんな事があってびっくりしたけど」
前の時は、エヴァのパイロットであるか訊かれたのも、トウジに殴られたのも転校からしばらく経っての事。
これだけの事が一日で起こるとは、朝登校した時は思いもしなかった。
「でも、やっぱりみんなに会えて楽しかったよ」
ネルフの司令である事を告白した時点で周りから避けられる事も覚悟していたのだが、そうはならなかった。
家族がネルフに関わる者の多いA組においては、世間一般での認識ほどネルフが嫌われてはいなかったという事だ。
尤も、あのケンスケをも含めて誰もネルフの事を尋ねて来なかったのは、やはり多少の距離感を感じているという事なのかも知れない。
…或いは一時限目のすぐ後で、話しかけるのも躊躇われるほど顔を腫らして戻ってきた所為もあるかもしれないけれど。

シンジはふと、どうしてレイがそんな事を訊いてきたのか気になった。
「綾波は、楽しくない?」
少しだけ考える素振りを見せた後、レイは一言ひと言自分にも言い聞かせるかのように言葉を発した。
「いいえ、楽しいと感じたわ。でも、みんなと話せれば…もっと楽しいかもしれない」

そこで初めて、シンジはレイの言わんとする事に気付いた。
レイは、今までただの義務でしかなかった学校生活を、自ら進んでより楽しいものに変えようとしているのだ。
トウジやケンスケの事にかまけて学校でのレイの様子をよく見なかったのは迂闊だった。
もしかしたら、レイは早速今日からその努力をしていたのかも知れない。

自分に出来る事はなんだろうか、とシンジは考える。
レイの過去を多少なりとも話せば、周囲の同情は誘えるだろう。だが、それは信頼や友情に繋がるものでは無い。
司令の立場を利用するなどというのは更にもってのほか。ならば、自分に出来る事は。

「最初は難しいかも知れないよ。綾波が悪いわけじゃ無いけど、綾波の態度で傷ついた人もいると思う…」
あえて、辛い事を伝える。レイも自覚しているのか、反論はしなかった。
「でも、僕達が戻って来たのと同じように、これだってやり直せるんだ。きっと綾波は、みんなと仲良くなれるよ」
そこで初めて、レイは立ち止まってシンジの方を見た。シンジもレイを見る。
「ごめん、キツイ事言って」
「ううん、いいのよ。碇君が本当に私の事を考えてくれてるって、分かったから…」
いつになく饒舌なレイ。

そのまま、見詰め合う。





「アンタら、こんな所で何してんのよ…」

「うわぁぁっ、アスカ!?」
突然後ろから掛けられた声に、シンジは驚いて飛び上がった。
「アスカ、何処かへ行っていたの?」
対照的に至って冷静なレイ。自分と違ってレイはドキドキなどしていなかったのだろうか、と少しシンジは落ち込んでしまう。
「市役所に行って、それからネルフに顔出してその帰りよ」
そう言えばアスカは一昨日シンクロテストで400%を出すと意気込んでいた。
もしかしたらリツコに頼み込んでテストを行ったのかも知れない。食事の時にでも訊いてみようか。それはそうと。
「市役所…?」
「ミサトも忙しいみたいだしね、自分で手続き済ませてきたのよ。これで明日にはアタシも学校に行けるわ」
確かにミサトが言っていたのよりも一日早い。
「学校、楽しみなの?」
シンジが尋ねる。先程の話題が思い返される。レイもアスカの答えに興味があるようだった。

「楽しみなんじゃなくって、楽しむのよ。一日の半分は居る所なんだから、楽しまないと損でしょ!」
アスカの性格をそのまま表したかのような明快な答えが、帰って来た。
楽しもうという意思を持つ事。かつてはレイにもシンジにも欠けていたものだ。だが、今は違う。

「ええ、そうね…」
自宅で、ネルフで、学校で、レイもこれから何気ない楽しみを見つけ出していく事が出来る。そう思えた。

「さあ、アタシ達の家に帰るわよっ!」

夕日が眩しい。
そして明日の学校は、もっと楽しいに違いない。





~つづく~





原作中のどの出来事が何月何日かという事についてはどうも諸説あるようでしたので、ゲーム「綾波育成計画」と同じ四月スタートとしました。



[21803] 13.少女の一日
Name: ふたば草明◆c7ec2017 ID:79d97c37
Date: 2010/09/30 23:45
使徒であるサキエルにも、睡眠は必要だ。
身体の傷や疲れならある程度自己修復が可能だが、睡眠には脳内の記憶や情報を整理するという役割もある。
脳という器官を得て更にシンジから莫大な情報を受け継いだサキエルは、二晩続けて昼近くまで眠った。
昨晩は一人きりで過ごす最初の夜という事で、最初は眠れずにバルコニーから夜のジオフロントを眺めていたが、
布団へ戻った後すぐに眠気に襲われ、その後は全く目が覚める事は無かった。

立ち上がって、パジャマ姿のまま大きく背伸びを一つ。
カーテンを開けると朝の爽やかな光が室内に飛び込んで来た。
ふと思い立って、着替える前に室内のシャワールームで軽く寝汗を流す。肌を滑っていく水の冷たさが心地良かった。
バスタオルで身体をさっと拭くと、クローゼットからいつものワンピースを取り出して着替える。

初めて一人で迎えた朝にしては、スマートにこなせたと言うべきだろう。カーテンを開けるタイミングだけはもう少し考えた方が良いかもしれない。

扉を開けようとして、新聞が放り込まれているのに気付く。
人の中で生きていく為に知識を身につけろという事なのかも知れない、と真面目に受け止め、少し目を通してみる。

───京都府丹波で銃刀法違反の男十一人が逮捕。
───五月の選挙に向けて政局が活発化。
───日本重化学工業共同体の関連株価が上昇。

小さく腹の虫が鳴いた。朝食というよりも、既に昼食に近い時間だ。
サキエルは新聞を読むのをそこまでで諦め、リツコからもらった食堂のカードを手に部屋を後にした。
現金の代わりに食券販売機に差し込んで使うそのカードは、一枚で一万円分食堂が利用できるという便利なものだ。
昨日と違い、部屋の前に監視する者の姿は無かった。
使徒として自分が暴れた事を思えば文句など言える筈も無かったし、そもそも本部に置いてもらえるだけでも有難いと思っていたが、
やはり皆が快適に過ごせるように気を使ってくれているというのは嬉しい事だった。
「あっ、おはようサキエルちゃん」
「おはようございます」
まだまだサキエルを見て怯える者も多いが、こうして声を掛けてくれる者もいる。自分は幸せだ、とサキエルは思った。





だが、幸せを実感したその五分後には、サキエルは新たな難題に直面していた。
食券販売機最上段のボタンに、手が届かないのである。

元々ネルフ本部の各施設は子供が利用する事など全く考えられていなかった為、それは当然とも言えよう。
サキエルの割り当てられた部屋にあったメロン味の歯磨き粉やシャンプーハットは、ミサトがマコトに買いに走らせたものである。
大海を悠々と泳ぐサキエルにシャンプーハットが本当に必要なのか疑問に思いつつも、マコトは愚直に任務を果たした。
やはりというか、サキエルがそれを使う事は無かったのだが。

サキエルが爪先立ちで懸命に指先を伸ばしていると、後ろからすっと手が伸びてきて、ボタンを押してくれた。
後ろを見ると、そこには長髪の青年が。ああ、公園でシュークリームを持ってきてくれた人だ、とサキエルはすぐに思い出した。
記憶の中から情報部の青葉シゲル、という名前を引っ張り出す。
「あ、有難うございます」
「いや、大した事じゃないさ」
そう言うとシゲルは自分の分の食券を買い、カウンターへと歩いていった。

…『お子様ランチ』。本当はその隣の『アジの開き定食』を押そうとしていたのだけれど。まあ、いいか。

奇しくもこのお子様ランチはシンジに触発されたコック長が夜を徹して開発した新メニューであり、
店員達はサキエルがこれを注文するのを手ぐすね引いて待っていたわけだが…そんな事は知る由も無い。

取り敢えずは食券を手に入れ、何処へ座ろうかと思案していたサキエルにシゲルから声が掛けられる。
「ここ、良かったらどうだ?」
特に断る理由も無かったのでシゲルの向かいに座る。水を運んできた店員に食券を渡すと、店員が何故か嬉しそうな顔をした。

水を一口飲み、そう言えばシゲルは一昨日の夜自分を随分と怖れている様子だった、と思い出した。
しかし今はどうも様子が違う。何か話があるのかも知れない、とサキエルは辛抱強く待った。
やがて、シゲルは周りを気にしながら小声でこう尋ねて来た。
「君はゼーレの事、知ってるんだろ?」
それで先程までの態度に合点がいった。確かに場所を選ぶ話題だ。丁度昼時を迎え俄かに騒がしくなってきたここはある意味最適かも知れない。

「はい」
簡潔に答える。
シンジの心において、ゼーレこそは最大の敵として位置づけられていた。
彼らの為すがままに任せておけばどのような事が起こるか。その未来は、サキエルにとっても決して望むものでは無い。
サキエルがそれを知った時点では、シゲルはゼーレの事は知らされていなかった筈だ。ならばその後で伝えられたのだろう。
不意に、昨夜見た記憶が甦る。深夜と言ってもいい時間に湖畔を一人歩いていた伊吹マヤ。
目が合って恥ずかしさからすぐに部屋へ戻ってしまったが、あの時彼女は何かを思い悩んでいた気がする。それもこの事ではなかっただろうか。
改めて目の前のシゲルを見てみる。何かに迷っているような様子は…既に無い。

では、どう話が続くのか?こちらから訊いてみようかと思ったその時、シゲルが再び口を開いた。
「心配、いらないからな」
「え?」
思わず問い返す。
「俺もマコトもマヤちゃんも、使徒を殺すのは間違いだと思ってる。多分、ここの皆も殆どがそう思ってくれる」

励ましてくれているのだ、と理解するまでには少々時間が掛かった。自分がそのような言葉を掛けてもらうとは、想像だにしなかった。
それは多分、エヴァという例外を除いて他の使徒と戦う術を持たぬリリンを弱者と思う思考が、まだ自分の無意識下に残っているからだ。
だが現実には。
現実には、エヴァになど乗れないシゲルのこの心の強さは、どうだろう。

姿だけ模しても駄目なのだ。
群体であるリリンならではの、自分以外の何かを守ろうという強い心を自分も持ちたい。サキエルはそう願いつつ、
「…はい。ありがとう…」
丁寧に礼を述べたのだった。

それから間も無くして、運ばれて来た料理を食べた。予想外の美味しさに、シゲルの早合点に感謝する。
シゲルとは少しだけ雑談をした。途中で好きな色を聞かれたのは何だったのだろう。緑、と正直に答えておいたが。
食後、テーブルの上にアンケート用紙があるのに気付いた。少し迷ってからやっぱり書いておく方が良いかと思い、鉛筆を取る。

『とっても美味しかったです。ただ、お子様ランチのボタンはもう少し下の方が良いのではないでしょうか…?』





中央作戦室の扉をくぐり、中へ入る。
「あら、いらっしゃい」
赤木リツコがサキエルに気付き、そう声を掛けた。
軽く挨拶し、室内の様子を見渡す。数人のオペレーターが、それぞれの指定位置でコンソールに向かっていた。
その中にはマヤとマコトの姿も見える。サキエルと共に入って来たシゲルも顔を掌で軽く叩いて気合いを入れると、自分の席に着いた。
有事でなくとも、実戦データの解析、新装備の設計開発、機体の点検や修理など彼らにはここですべき多くの仕事がある。
その仕事の多くは自分が増やしてしまったものである事を思うと少し気が滅入ったが、ある程度割り切らねばなるまい。
自分に手伝える事があったら、その時は全力で頑張ろう。サキエルはそう思った。

「そこに座って」
リツコに促され、その横にある椅子に腰を下ろす。
今日ここへ来たのは、渡したいものがあるから午後に顔を出してくれ、と言われていたからだ。
「ごめんなさいね、本当はもう少し落ち着いた所でゆっくり話がしたかったのだけれど」
かなり忙しいのだろう。そう言う間にもオペレーターの一人が書類を手にリツコの元にやって来た。
「外装は後回しで良いわ。神経系統の修復が最優先よ」
手早く指示を出すリツコ。恐らくは初号機の修理の件だろう、と想像がついた。

しばらくは周囲に任せても大丈夫だと思ったのか、リツコも席に座ると、引き出しから何やら重厚なケースを取り出した。
「あなたに渡そうと思っていたのは、これよ」
パチン、という音と共にケースが開かれる。
中に入っていたのは、銀色の腕時計だった。

「…腕時計、ですか?」
見れば分かる事を尋ねてしまう。だが、返ってきた答えは意外なものだった。
「見た目は、ね。実際は、昨日話した装置…あなたがその姿を保てるようにしてくれる機能が内蔵されてるわ」
「あ…!」
まさか、昨日の今日で出来ているとは思わなかった。そうサキエルが言うと、
「構造自体は、微弱な電磁波によって脳内物質の過剰な分泌を抑えるという簡単なものだしね。
 既存技術の組み合わせでそう大変な事では無かったわ。それに…」
リツコがマヤの方を見る。つられてそちらを見ると、サキエルの方を気にしていたマヤと目が合った。
「マヤが意気込んで、一晩で設計図を上げてくれたのよ。お陰で後の作業は楽なものだったわ」

昨夜の様子とシゲルの話からすると、ゼーレの件で発奮したという事なのかも知れない。
あの湖畔で見掛けた時間から本部に居て、サキエルが熟睡していた間もほぼ徹夜で取り組んでくれたという事か。
マヤに感謝の意を込めて頭を下げる。マヤはにっこりと笑って自分のコンソールの方へ向き直った。

「身に付けておくだけだから説明は要らないわね。あと、緊急時にはこの発令所と双方向通信もできるわ」
よく見ると文字盤の下部に小型マイク、上部にスピーカーのようなものが見える。ベースは市販の腕時計のようだが、仕事が細かい。
「もう一つ機能があるのだけれど、まあ今はいいわ。つけてみてくれるかしら」
ケースに手を伸ばし、そっとそれを手に取る。軽い素材で出来ているらしく、サキエルの小さな手にも重さを感じさせなかった。
左腕に巻き、ベルトを固定してみる。

「あら、似合うわね」
そうだろうか。似合っているなら嬉しい、と思う。
「特に変化は自覚出来ないと思うわ。厳密にはこれはまだ試作品なのだけれど、効果は確実よ。安心して」
そこまで言ったところでシゲルが近付いてきたので、リツコはそちらを向く。

「彼女の…サキエルの反応を、パターン緑で登録しました。以降は他の使徒と区別が可能です」
「そう。では今後も対話に成功した使徒を緑、それ以外を青で表せるよう全てのプログラムを修正しておいて」
「了解です!」
去り際にシゲルがウインクをする。先程訊かれた好きな色とは、この事だったのか。
今度はマヤの方へ行き、指示を出すリツコ。
手持ち無沙汰になったサキエルは腕時計を外し、色々な角度から眺めてみた。

…文字盤の裏に、ネコの彫り物がしてある。元々あったものでは無いだろう。ここの人達は忙しいのかそうでないのか、よく分からない。





リツコに別れを告げ作戦室を出て自室の方へと向かっていたサキエルは、エレベーター前の休憩所で缶コーヒーを飲んでいるミサトを見掛けた。
「こんにちは、葛城一尉」
「あ~、元気そうね~」
そういうミサトはどうにも覇気が無い。
「お疲れですか?」
少しばかり気になったので、遠慮がちにそう尋ねてみる。
「朝から部屋で書類片付けてたんだけどね。これがやってもやっても終わらないのよね~」
ぐいっとコーヒーをあおって大きく息をつくミサト。まるで酒でも飲んでいるかのようだ。

ミサトの役職を考えると、書類とは先日の戦いの兵装ビルや街の被害に関するものだろう。
「まったく、どうしてこんなに書類が多いんだか…」
サキエルが書類の内容を察しているとは思わないミサトがそんな事を言った。やはり、責任を感じてしまう。

「なぁに子供イジメてんのよっ!」
突然、ミサトの頭が後ろから小突かれる。赤いプラグスーツ。アスカだった。
「何よ、イジメって何が…」
そこまで言い掛けてミサトがはっと気付く。先程の言葉の不用意さに思い当たったようだった。
「ゴ、ゴメン…あなたを責めてたワケじゃ無いのよ?」
ミサトがそう言ってくれたが、責められて当然なだけに、逆に居心地の悪さを感じてしまう。

そんな様子を見かねたアスカがポンッとサキエルの肩に手を置き、優しく諭すように告げる。
「いい?アンタもね、気にするなって言っても無理でしょうけどね。でも、少なくともあの戦いで死んだ人は居ない。
 取り返しの付かない事は起こらなかったのよ。それはアンタが望んだから。そうでしょう?」
戦闘映像の解析が進めば進むほど、国連軍に対しては使徒が手加減していたという事実が明らかになっていった。
アスカが言っているのは、その事だろう。

「人間の中で生きていくっていうならね、きっとアンタにしか守れない人、アンタにしか助けられない人に出会う日がいつか必ずやってくる。
 何年後になるか分からないけど、その時こそ守りたい人を守って、助けたい人を助ける。それがアンタのすべき事よ」
アスカの言葉にミサトも無言で頷く。

今日だけでも様々な人の想いに触れ、サキエルには人として生きていくという事の意味がおぼろげながら見えてきた気がしていた。

「そう言えば何でアスカがココに居んのよ?本部待機とかじゃ無いでしょ」
今更ながらに疑問を口に出すミサト。アスカは例によって腰に手を当てると、
「シンクロテストよ。昨日はうやむやになっちゃったけど、今日こそリツコに直談判してテストしてもらうわ!」
と自信満々に言った。リツコもそれなりに忙しそうだったが、独断で着替えまでしてしまって良いのだろうか。
「と言う事で、ミサトは安心して書類整理してるといいわ。
 初号機が直る前に次のが来ても、このアタシと弐号機がバッチリ400%叩き出してみせるんだから」
自信が結果に繋がるという事も往々にしてある。その言葉はサキエルにも何となく頼もしく聞こえた。

「そうそう、どうせミサトがカンヅメになってるんじゃないかと思って、市役所の手続き自分でして来たわよ。
 アタシも明日から学校、行くからね」
去り際にひらひらと手を振りながら、アスカはそんな事を言った。

学校、か。実は少しだけ興味がある。私が行くことは無いかも知れないけど。

アスカが立ち去ったのをきっかけに自分もこの場を去ろうと思ったところで、
「そう言えばリツコのレポート読んだんだけど…戦いの中で零号機から呼び掛けられるのを感じたって、ホント?」
そんな事を訊かれた。昨日リツコに話した時は特に引っかかりは感じなかったのだが。
「はい。途中からですが、はっきりと感じました」

───私達は…じゃない。お願い。分かって。

零号機から感じた、思念のようなもの。あれはレイの心の声だったのだろう。何故それを感じられたのかは分からない。

「そっか、ありがと。ちょっち確かめておきたかったのよね」
そこでミサトの視線が、サキエルの左腕に向けられた。
「おっ、洒落てる~。それ、リツコの言ってたヤツでしょ?」
「はい。さっき、博士に頂きました」
興味深げにそれを見るミサト。何だかちょっとくすぐったいような気分だ。

「よっし、仕事再開といきますか!」
勢いをつけて、ミサトが立ち上がる。空になった缶を無造作に屑籠に捨てると、サキエルの髪をしゃくしゃっと撫でた。
一通り疲れは取れたようで、顔には生気が戻っている。
「今日は何が何でも定刻に帰るわよ~!」
その張り切り方が少し可笑しくて、サキエルも思わず口を綻ばせるのだった。





「はあ、しっかし保安部から報告は聞いてたけど、こりゃまた派手にやられたもんねぇ」
ビール片手に、シンジの顔を見てしみじみ言うミサト。
部屋に入った瞬間は大爆笑で迎えたじゃないか、とシンジはやや恨みがましく思う。

シンジ達は、ミサトの部屋で食卓を囲んでいた。もちろん食卓に並ぶのはシンジの作った品々だ。
食事の場としてミサトの部屋が選ばれたのは、シンジもアスカも未だ荷解きを終えていないから。
シンジ不在のミサトの部屋の様子を想像した三人は踏み込むことを躊躇ったのだが、中は意外にもすっきりとしていた。
「へぇー、ミサトもやればできるじゃない!」
「まぁね~」
そんな会話を聞きながらもシンジとレイは、急いで廊下と食堂にあったあらゆるものを押し込んだらしい押入れが気になっていた。
(ほんの少しはみ出しているアレ、まさかペンペンの羽じゃないよな…)
まあ、ここは見てみぬ振りをするのが人情というものだろう。

「それで鈴原君がサキエルに会わせろって、そう言ったのね?」
主な話題は、やはりこの事だった。数本のビールで潰れるミサトでは無いだろうが、早めに話すに越したことは無い。
保安部から報告を受けていた、という事はやはりシンジの近くには警護が付いていたのだろう。
介入が無かったのは、司令という立場を学校で振りかざしたくないシンジの意図を汲んでくれた為かも知れない。
もしあの場で保安部が姿を見せていれば、トウジやケンスケと友人になれる可能性は消えていただろうから。
3号機にまつわる罪悪感などは別にしても、あの二人と過ごした学校生活はかつてのシンジにとって数少ない安らぎの一つだった。
殴られた件だけでなく第4使徒戦のあの行動など困ったところも多々有るが、やはりそれでも接点が絶たれなくて良かった。

「どうにも勝手なもんよねー。やっぱりヒカリの好みって分からないわ」
まだ出会っていない親友の顔を思い浮かべつつアスカが言う。
食事の支度をしながら聞いた話では、弐号機本体を使ったシンクロテストでいきなり330%超を出したらしい。
十分に凄い記録なのだが、アスカは明日こそ400%よ!と更に意気込んでいた。
そしてシンクロ率に強い執着を持ちつつも、それのみに囚われていた過去の自分から脱却したアスカの変化は誰の目にも明らかだった。

うーん、と唸りながらもう一口飲み、ミサトは言う。
「別に構わないんじゃ無いかしら」
意外な返答だった。サキエルがネルフ本部に居る以上、会わせるという事は本部内に彼らを入れるという事だ。
いくらネルフが情報公開路線を目指していると言っても、使徒戦のような緊急時ならともかく、今の段階でそこまでするのは問題だろう。
シンジの考えに気付き、ミサトは言葉を付け足した。
「リツコの言ってたアレがね、完成したのよ。まだ基本は本部内で生活してもらうけど、少し外出する程度なら構わないんじゃない?」

元の姿に戻る事を無くす装置、とそう言っていた。確かにその心配さえ無ければサキエルはどこにでも居る普通の少女と変わらない。
「良い経験になるかも、知れない…」
レイが、シンジの方を見てそう言った。
以前はついぞ誰とも打ち解ける事の無かったレイだが、トウジ達と接する機会は何度かあった。
ネルフの閉じられた人間関係ではない、その関わりの中でレイはレイなりに何かを感じ取っていたという事だろう。

シンジとて、いつまでもサキエルを本部に閉じ込めておくつもりなど無かった。
使徒の存在を世間から隠し、ごく一部で密かに行われる交流など、真の共存とは言えないからだ。
いずれ来る、世界中が真実を知る日。トウジを殴り返すのはその後でも良いと、そう思っていたのだが。

「トウジに、電話してみようかな…」
昼の光の下で楽しげに笑うサキエルを思い描き、少しばかり勇み足も悪くないかも知れない、とそう思った。

食事が終わり、シンジ達が葛城宅を後にするまで、ついにペンペンは姿を見せなかった。





一つだけ。
一つだけ、気付かぬ振りをしている事がある。

ネルフの皆は、持てる力を最大限に発揮してそれぞれの責務を全うしている。
作戦部、情報部、保安部、技術部、諜報部、その他にも多くの人間が力を合わせ、エヴァという戦う力を作り上げているのだ。

「心配、いらないからな」
シゲルはそう言った。
確かに、心配はいらないだろう。本部が吹き飛んでも、コアが無事なら自分だけは生き残る。

「きっとアンタにしか守れない人、アンタにしか助けられない人に出会う日がいつか必ずやってくる」
アスカはそう言った。
確かに、そんな日は来るだろう。座して待たずとも、その日が近付いているのが分かる。

バルコニーには、昨日と同じく気持ちの良い夜風。
月光を模した人工光に照らされて腕時計が鈍く光る。





───元の姿に戻ることは、有り得る。

リツコはそう言った。

それは。

エヴァの他に唯一、私にも戦う力があると。

そういう事では無いのか?





今夜は誰の姿も見えない。サキエルは初めて、眠れない夜を過ごす事となった。





~つづく~





[26]の感想を拝見し、「シンジに護衛を付けないネルフ」という点について後付けですがフォローしておきました。
組織に整合性を持たせる事の難しさを痛感しつつ、その他の御指摘についても鋭意検討中です。
もうすぐサキエルの最初の見せ場を書けると思いますので、今しばらく見守って頂ければ幸いです。



[21803] 14.運命の再会
Name: ふたば草明◆c7ec2017 ID:79d97c37
Date: 2010/10/03 03:13
「はじめまして、惣流・アスカ・ラングレーです」

ケンスケのようなごく一部の例外を除き、やはり街中で戦闘があったという事実は生徒達の心に暗い影を落としていたのだろう。
自己紹介をしつつ、アスカは敏感にそれを感じ取っていた。
それは多分噂だけが先行する得体の知れない人類の敵の事だけでは無く、ネルフという組織の不気味さも関係している筈だ。
シンジが司令でもあり、パイロットである事を告白したと言うが、残念ながらそれらの感情に対する緩衝材とは成り得ないと思う。
寧ろクラスメイトの目には、子供を司令に祭り上げ、パイロットに仕立て上げる非道な組織と映ったかも知れない。
本来ならシンジの長所である優しく控えめな姿勢も、それらの境遇に対する一種の諦観と見られている気がする。

このクラスには新しい風が必要だ。瞬間、そう思ったアスカはインパクト勝負に出ることにした。

「このクラスのシンジやレイと同じ、
 ネルフの誇る汎用人型決戦兵器・人造人間エヴァンゲリオンのパイロットでもあるわ。よろしくねっ!」





「じゃあ、惣流さんってドイツでもネルフにいたの?」
「パイロットって大変なんでしょう?」
「日本を守る為に来てくれたんだ、凄いね~」

早速、アスカは自習となった一時間目からクラスメイトに囲まれ、質問攻めにあった。
その一つひとつに、差し障りの無い範囲で答えていく。
実際、未来の記憶に関わる事以外ネルフの情報は全てゼーレに知られているわけで、機密性についてはさほどナーバスになる必要は無い。
シンジの方針に従って近日中に国民に情報を公開するのであれば尚更だろう。

「まさか、綾波さんもパイロットだったなんて」
「言ってくれればよかったのにぃ」
アスカの周囲程では無いにせよ、レイのところにも数人の女子が集まっていた。
「綾波さんの乗っているロボットって、どんなの?」
「…山吹色と言うか、それで目が一つで…」
積極的に話し掛けられる事に慣れていないレイは受け答えで精一杯のようだが、
「エーッ、一つ目?何か綾波さんのイメージと違う~」
「そう…?」
心なしか嬉しそうに見える。
誰に何を話し、どう付き合っていくかはレイ自身の問題。だが、その端緒となるきっかけを作ってあげられた事に、アスカはほっとしていた。

シンジの席に目をやると、
「って事は標準のB型装備、耐熱のD型装備、狙撃のG型装備があるんだな!?海戦装備は無いのか?」
昨日はシンジとトウジの一件があったせいで大人しくしていたケンスケが、水を得た魚の如くシンジを問い詰めていた。
「う、うん。今の所特に無いね」
「かーっ、だめだなぁ!そんなんでいざって時、どうするんだよ」
調子に乗り過ぎなのは明らかだが、第6使徒戦を思い出せば言っている事は一理あるかも知れない。リツコは何か考えているだろうか。

クラス全体の空気が良い方に変わった、と思う。
(さっすが、アタシね!)
久々にちょっとだけ増長するアスカ。だが、生徒達の心の機微を見て取って瞬く間に行動に出たその手腕に、それくらいは許されるだろう。





昼休み、アスカがヒカリと共に昼食を取っていると、シンジの所にトウジが来ているのが見えた。
「お前との電話の事をナツミに話したら、どうしても直接お礼が言いたい言うてのォ…」
目下シンジには厳しい態度を取っている…筈のトウジだったが、妹の事となるとどうにも歯切れが悪い。
トウジは妹に頭が上がらない、というような事をケンスケがシンジに言っていた事があったのを、アスカは思い出した。
「ちゅう事やから、バス停でナツミと合流するんや。それだけ、言うとこ思てな」
言い捨てるとトウジはさっさと歩き去る。命の恩人とは言えナツミがサキエルに会いたがるとは、少し意外だった。

「惣流さん、あれ何の話?」
ヒカリがアスカに尋ねる。
当初何故自分が食事に誘われたのか分からない様子のヒカリだったが、委員長として色々話を聞きたい、というアスカの言葉に納得したようだ。
別にアスカが意識しなくとも、二人が打ち解けるのには十分も要しなかった。これこそ、相性というものだろう。
「んー、鈴原…君や相田君を連れて、放課後ある人に会いに行くんだけど…」
流石にまともに話したことも無いのに呼び捨てはどうかと思い、呼び慣れない言い方をしてみる。すぐに戻すつもりだが。
「洞木さんも行く?」
「えっ…」
とっさに思いついて誘ってみる。逆行の果てに失われた思い出は戻らなくとも、ヒカリとはまた楽しい時をたくさん過ごしたいと思ったからだ。
迷うヒカリ。トウジの名につられているのは明白だったが、その様子は初々しくかえって好感が持てた。
「行ってもいいかな?」
「もっちろん!きっと楽しいわよ」
冷静に考えればまだ誰と会うのかも話していないが。一種のサプライズとしてこれはこれで良い、とアスカは思った。

「あと、アタシの事はアスカで良いわ。アタシもヒカリって呼ばせてもらえれば嬉しいんだけど?」
「ええ、よろしくね。アスカ」
ヒカリの笑顔が眩しい。かつて自棄になったアスカに嫌味の一つも言わず付き合ってくれた彼女に報いる為にも、
彼女の一番大事なものが失われるかも知れない未来にはさせない、とアスカは思う。

シンジは今日はレイと昼食を食べているようだった。なかなか絵になっているのが何だか悔しい気もしたが、
(こうして一喜一憂できるのが幸せだなんて、思った事も無かったわね…)
そんな風に思って、取り敢えずは目の前のヒカリとの話に花を咲かせるのだった。





「はじめまして、鈴原ナツミです。この間はあたしの勘違いで迷惑を掛けちゃって、ごめんなさい!」
ナツミがシンジに頭を下げる。あの時の事はともかく、使徒とやらについてはまだ本当か分からないのだし頭なんて下げなくても…
と思ってむくれていたら、シンジの顔の怪我を見たナツミにきっと睨まれた。
「お兄ちゃんでしょ?」
「う…」
流石に鋭い、とトウジは思った。嘘をついて誤魔化す気は無かったが、その視線に少したじろいでしまう。
「あたしを助けてくれたあの大きい人が倒された、って聞いてあたしちょっと泣いちゃったから…」
シンジ達に向かって、申し訳無さそうに言うナツミ。実際、シンジを殴った時トウジの頭をよぎったのはその涙だった。
「だからって、こんな事するなんて!」
再びこちらを睨むナツミ。
「お兄ちゃんが間違ってたって分かったら、ぶった分はちゃんと碇さんにぶたれなさい!」
「お、おお、もちろんそのつもりやで!」
筋はきちんと通すつもりだったから、そこはハッキリと答える。

「やっぱり鈴原の妹ね…」
アスカが何やら呟き、レイが納得したように頷いた。どういう意味だろうか。ナツミとはそれ程似ているとは言われないのだが。
「当事者同士で話がついたってそういう事だったの…」
道すがらアスカから事情を聞いていたらしいヒカリが複雑な表情を見せる。
委員長として言いたい事があるのだろうが、ここには口を出して欲しくない。男には男のけじめのつけ方があるのだ。

(それにしても、何で委員長が来とんのや…)
気の所為かも知れないが、この所ヒカリと話す機会が多い気がする。口煩い注意の他にも、何かと声を掛けられる事が多くなった。
加えて、今日の同行。そこまで自分はマークされているのだろうか。何となく腑に落ちないものを感じた。

「それで、使徒とはどこで会うんだ?」
そわそわした様子でケンスケがシンジに尋ねる。
「その先の喫茶店だよ。ネルフの人が送ってきてくれてる筈だ」
「わぁ、もしかしてあのケーキ屋さん?」
そんな店は逆に落ち着かないと思ったが、ナツミが喜んでいるようなので何も言えなかった。

ナツミが遊ぶ時間も削って家事を手伝っているのはよく分かっている。
自分の不甲斐無さに腹は立つが、客観的に見れば父が生活費を稼ぎ、家の事は兄妹二人でこなさなければならないのが鈴原家の現状だ。
トウジが中学を出れば状況も変わるだろうが、それまでは今の要領でベストを尽くすしか無い。
それだけに、ナツミから言い出したこの久々の外出が楽しいものになれば良いと心から思っていた。
その為なら、締め括りにシンジに思いっきり殴られる道化を演じるくらいの覚悟はある。

「でも、何だか想像がつかないわ。その、サキエルちゃん…だっけ?
 人類の敵でロボットと戦うくらい大きかったのに、ナツミちゃんを助けてくれて今は人間みたいになってるって…」
ヒカリがそう言う。トウジにとっては妹の恩人の安否こそが重要だったのだが、確かに言われてみればその通りだ。
そんな都合の良い話が果たしてあるのだろうか?
「ま、会えば分かるって!」
最も高いテンションでいつの間にか一行を先導していたケンスケが指差す先に、甘ったるそうなピンクの看板が見えてきた。





入り口の扉に飾られた鈴が涼しげな音を奏でる。入って来た数人の中にシンジ、レイ、アスカと見知った顔を見つけ…

…もう一人、見覚えのある少女に気が付いた。間違い無い。あの夜、シェルターから飛び出して来た少女だ。
(どうして、あの子が…?)

サキエルがリツコから、今日の事を聞いたのは朝早くだった。
結局一睡も出来ないまま朝を迎え、今日はどうやって過ごすかと思案していたサキエルの元にリツコが現われ、
「今日のお昼過ぎ、地上に出てみる気は無いかしら」
そう告げたのだ。何でも、シンジ達がサキエルを誰かに紹介したいという事。
サキエルとしても本部内は昨日あらかた見てしまったので、それは嬉しい提案だった。

午後になり保安部の運転する車に乗り込むと、何故かケーキ屋の前で降ろされ、入るように促された。
店内にはモンブランを食べる黒服やミルクレープを食べる黒服がいたので一応安心した。恐らく貸切なのだろう。
ケーキにも少し興味はあったが、どうせならシンジ達が来てから食べようと待つこと十数分、そこで彼らが姿を現したのだ。

「あ、来てたわね」
アスカがそう言い、皆がこちらを向く。慌てて立ち上がって挨拶をした。
「こんにちは、サキエルです」

「こ、この子が…?」
何だか驚いた様子のそばかすの女の人。
「ホンマかいな…」
妙な言葉を話すジャージの男の人。
「す、凄いや!まさに俺の思い描いていた通りの…!」
カメラを構えようとしてアスカに取り上げられるメガネの男の人。

そして。

「何でだろう…あ、あたし分かる気がする…」
恍惚とした表情で近付いてくる、あの時の女の子。
「あたしを助けてくれた、あのおっきい人…なんだよね?」

そう、言われた。

理論的な事を考えるのならば。
あの時サキエルはATフィールドを中和し尽くされ、心の形を完全にさらけ出していた。
もしもこの少女に心のかたちを視る素養があったとすれば、サキエルのそれをうっすらと覚えていたとしても不思議では無いかも知れない。
だがこの再会はもっとフィーリングで捉えるべきものだ、とサキエルは思う。
ヒトの中で生きていくことを決意して、最初に触れた少女。最初にその瞳を見た少女。
その存在は…

「あの、鈴原ナツミです。あの時は助けてくれて本当にありがとう!」
「い、いえ、そんな…」
急に手を握られ、焦ってしまう。

「こういう事よ、鈴原君…」
レイがぼそっと言う。鈴原、という事はこの二人は兄妹なのだろうか。
「んあ…」
その返事は、何とも言えないような煮え切らないものだった。





全員が自己紹介を済ませ、ケーキや飲み物が運ばれて来る。
暴走しそうだったケンスケも、少し怯えていたヒカリも、すっかり落ち着いた。
ナツミの態度に納得が行かない様子だったトウジも、
アスカの提案でサキエルがATフィールド…ミサトが言うところのATシールドを見せた事で、完全に納得したようだった。
流石にもう一発殴られる気は無かったので、良かったと胸を撫で下ろす。

「理解してもらうのは無理かと思って、こんなに絆創膏を持って来たのに」
冗談か本気かよく分からない事を言うレイ。その鞄から除く絆創膏の量に思わず顔が引き攣った。

「ナツミちゃんとサキエルちゃんって、同じ歳なのかな?」
ヒカリがそんな事を言い出した。サキエルには明確な年齢は存在しないが、確かに見た目は丁度同じくらいに見える。
「そっかぁ。ね、サキエルちゃん、あたしのお友達になってくれる?」
期待に目を輝かせて返事を待つナツミ。
「は、はい。私でよければ、喜んで…」
「やったぁ!これからよろしくね!」
サキエルの返事に、ナツミは躍り上がらんばかりに喜ぶ。
シンジはトウジの家の事情はよく知らなかったが、もしかしたらナツミには友人が少なかったのかも知れないという印象を抱いた。

心の内面的な問題からシンジは交友関係がうまく構築できなかったが、それは見る人が見れば贅沢な悩みだろう。
中には先天的、物理的、時間的な理由から友人を作りたくても作れない人間もいるのだ。
ナツミがそこまで切羽詰まっているとは思わないが、それでもサキエルとナツミが良い友人になれれば良いと思った。

「すみません、少し…」
話が一段落したところで、サキエルが手洗いに立つ。

「ナツミ、良かったやないか」
「うん!」
こうして見れば、本当に良い兄妹だ。ナツミの満面の笑みを見ていると、殴られた頬の痛みも忘れられる。
…と思っていたら。
「碇、二発もどついたりして悪かった。ワイの事もどついてくれ!」
少なくとも、喫茶店でやる事では無い。例え貸切であったとしても、だ。
「ささっ、碇さん、遠慮無くどうぞ!」
調子に乗ってけしかけるナツミ。何故かレイやアスカまで期待の目で見ている。ケンスケは…こっそりアスカの手からカメラを取り返していた。
このままでは収まらない場の雰囲気を感じ、
「じゃ、一発だけ…」
シンジが拳を構えたその時。





ドォン───!

遠くで、轟音が響いた。
「な、何だ?」
ちゃっかりカメラは回収しつつ、ケンスケが外の様子を窺う。
だがシンジは、それより早く振動の意味を察知していた。

この街を、突如襲う異変。

───使徒。

それしか、考えられない。

瞬間的に、状況を頭の中で整理する。
零号機は出せない。サキエルは化粧室。シェルターはすぐ近く。トウジとケンスケは…ナツミとヒカリが止めてくれる筈。
「車は、出せますか!」
店内の黒服に声を掛ける。保安部の車なら本部まで数分と掛からないだろう。
「はい、すぐに!」
口の周りに生クリームをつけたまま、保安部員が転げるように店を飛び出していく。
「綾波、サキエルとみんなを頼む!」
「ええ」
それだけ言うとアスカに目配せし、保安部員の後を追う。
レイ以外は状況が呑み込めていないだろうが、きっとレイが的確にシェルターへ誘導してくれるだろう。
自分達は、作戦に専念すれば良い。

保安部員の運転する黒いスポーツカーに乗り込む。
「思ったより早かったわね。まあ三週間も待ってくれるとは思ってなかったけど」
アスカの冷静な口調。だが、その中に僅かな緊張をシンジは感じ取った。

初号機の修理は最低でもあと二日かかると、リツコから聞いている。
第4使徒は強敵だが、アスカと弐号機なら歯が立たない相手ではないだろう。
問題は、アスカがまだ一度も400%のシンクロ率を出していない事だ。
ミサイルとはわけが違う。ただ倒すというのでは、駄目なのだ。

アスカはそれっきり、何も言わない。
シンジは黙って、アスカの手を握った。少し驚くが、されるがままに手を預けるアスカ。
僅かな震えが、止まる。

惣流・アスカ・ラングレーの、日本での二度目のデビュー戦。
図らずもそれはかつてのアスカの希望通り、アスカ一人に委ねられる事となった。





~つづく~





今後考えていた展開において、どうしても辻褄が合わない箇所が出てきてしまいました。
一度構成を見直しますので、次の更新まである程度時間を頂く事となりそうです。申し訳ありません。



[21803] 15.シャムシエル(前編)
Name: ふたば草明◆c7ec2017 ID:c1630d8c
Date: 2010/11/04 03:06
戦術論における要点というのは、ネルフでも戦自でも国連軍でも大きな違いは無い。
即ち、最小限の犠牲で最大限の戦果を挙げる、という事だ。
実際、ネルフ作戦部長である葛城ミサトもそういった思想の元にかつての使徒戦を指揮してきた。
だが昨日のアスカ、サキエルとの会話を経て、ミサトはこれからの戦いでその考えが通用しないという確信を得ていた。
使徒と人間の共存。それを目指す上で、例え最小限であっても犠牲を出す事は許されないのだ。

シンジは、使徒の存在と共存理念について近々公表する事を視野に入れている。
それが国民に受け入れられる為の最低条件は、「使徒戦で死者が一人も出ていない事」だ。
もし一人でも死者を出してしまえば、人の姿をとってもその使徒は殺人者と呼ばれ、他の使徒を受け入れようという者もいなくなる。
一度そのような状況に陥れば、シンジの望む世界への道筋は実質的に絶たれてしまうだろう。

幸いにして、第3使徒戦では死者も重傷者も出なかった。
だがそれは以前の経験から使徒出現のタイミングを計り、フライング気味に特別非常事態宣言を出したから。言わば反則勝ちである。
当然、この先いつもこうは行かないだろう。
シンジやリツコは第3使徒戦の結果を変えた事によって今後の使徒出現スケジュールが狂ってくる事を懸念しており、
その場合、二度とこのような裏技は使えないのだ。

だが、ミサトには勝算があった。
使徒に対する優先攻撃権は既にネルフに譲渡されている為、国連軍や戦自はこちらから要請しない限り使徒には手を出さない。
彼らが無謀な攻撃によって命を落とすような事は起きないだろう。
また、鈴原ナツミの一件での反省を踏まえ、市内の全シェルターの強度を飛躍的に高める計画も水面下で進めている。
着工はゲンドウが新たなスポンサーを見つけてからになるだろうが、実現すればヤシマ作戦で用いた盾と同程度の強度を持たせる事が出来る。
それに加えて、これまでの経験とサキエルの証言から使徒の行動の指針が見えてきたというのもある。
使徒はアダムへの道を阻むものと自らを攻撃しようとするもののみを敵と見なし、無差別な破壊や殺戮を好む事は無い。
それを裏付けるかのように、これまでミサトが見てきた使徒戦における死者は無茶な戦闘を仕掛けた国連空軍や太平洋艦隊などの軍人か、
自爆の余波や建築物崩壊の巻き添えなど、使徒の意思に関わらないものに限られるのだ。

死者を出さず、相手も殺さない為の戦術。
そんな、他組織の作戦担当が聞けば嗤うようなことを、ミサトは本気で考えていた。

そして。
丁度今この時も、それを実践している。

「兵装ビル40番から48番、起動と同時に一斉射!東だけ道を開けて追い込むのよ!」
オペレーター達に、次々と指示を出していく。
第4使徒の襲来は時期こそ早まったものの、かつてと同じ真昼間であった。
その為外出していた市民も多く、特に繁華街のある西地区の一部で避難が完了していないとの報告を受けている。
そこでミサトが取った作戦は、通常兵器によって使徒の進路を制限し、東側の郊外に誘導するというものだった。
或いは他の使徒であれば、攻撃を仕掛けてくる兵装ビルを敵と見なし逆にそちらへ向かっていったかも知れない。
だが低空を浮遊するという特徴を持つこの使徒は、爆風に流されるようにして思惑通り西地区から遠ざかって行った。
空中での方向転換があまり器用では無い事から、わざわざビルを破壊しには行かないのではないか、というミサトの読みが的中したのだ。

「容赦無いわね…またカンヅメになるわよ?」
エヴァが出るまでは仕事の無いリツコが、そんな事を言ってくる。
第三新東京市の兵装ビルについては、逐一その使用した状況、消費した弾薬、損害の程度などを書類にまとめて委員会に提出する義務がある。
当然、多用すれば多用するほどミサトの書類仕事が増えるわけだが。
「へーきへーき、どうせこの戦いが終われば委員会とは決別でしょ。もうあんな紙っ切れに悩まされる事も無いのよん。
 前回の分は昨日提出してもう修繕費ふんだくってるしね~。…72番、全弾ハデにやっちゃって!」
ロケットランチャーの集中砲火に、堪らず郊外へ押し出される第4使徒。
「どこの組織がバックに付いてくれるにしても、書類くらいは出させられると思うけど」
リツコの小さい声は、あえて聞こえない振りをする。

その時作戦室の扉が開き、シンジが肩で息をしながら入って来た。
「お待たせしました!じょ、状況は?」
「大丈夫だ。葛城一尉が的確にやってくれている」
これまで口を開かずに見ていた冬月が、司令塔からそう告げた。
「シンジ君、レイ達は?」
リツコが尋ねた。アスカやレイ、サキエルの姿が見えない事が気になったのはミサトも同じだった。
「アスカは直接ケイジに。綾波には、サキエルが少し手間取っていたので他のみんなと最寄りのシェルターに連れて行ってもらってます」
レイは今回出撃出来ないし、アスカが最速で本部に戻る必要があった以上妥当な判断だと言えるだろう。
奇しくも第4使徒が追い立てられた東側はシンジ達が利用していた喫茶店のある辺りで、その近辺のシェルターに彼らもいるのだろうが、
洞木ヒカリやナツミがついているのならシェルターを抜け出すような真似はすまい。

「ここからエヴァの戦闘を見るのは初めてだろう?」
司令塔へと上がったシンジに、冬月が椅子を勧めつつ話し掛ける。
常に自らが前線に立って戦い続けてきたシンジ。そのシンジが、今はこの中央作戦室にいる。
「司令となった以上、これからもこうして戦場全体を見渡せる場所で指揮を執らなければいけない事はある筈だ」
現在のネルフ戦力において初号機の占めるウェイトはとても大きい。
だがゼーレとの抗争が長期化すれば、シンジにチルドレンとしてでなく司令としての役割が求められる局面も出てくる。
その事はミサトにも予測できた。
「見ているだけというのは、歯痒かろう。時には飛び出して行きたくなる事もあるかも知れん。だが…」
再び市街地へ戻ろうとする使徒を抑えるべく、攻撃指示を出す。飛び交うオペレーターの声で、上の会話はほぼ聞こえなくなった。

「お待たせっ!アスカ、行けるわよ!」
モニターが開き、弐号機エントリープラグ内の様子が映し出された。
「シンクロ率、72%前後で安定しています」
マヤの答えに、アスカもまずは満足そうな表情を浮かべる。
未だ400%を出していないとは言え、通常時に安定して保てるシンクロ率ではアスカがシンジを大きく上回っている。
初号機の特殊性に頼らないのであれば、純粋な戦闘能力は恐らくアスカの駆る弐号機の方が上だろう。
だが。

「アスカ、あんまり後ろ向きな事は考えて欲しく無いんだけど…」
少し躊躇ったが、意を決して告げようとする。だが、それはアスカによって遮られた。
「分かってるわよ。400%が出せなかったら、自己再生に二日かかるくらいボッコボコにして時間稼げってんでしょ?」
…流石に、その鋭さと変わりように驚きを禁じえない。
初号機が動けるようになるまでの時間稼ぎなど本来なら最もアスカが嫌う役回りだろうに、さらりと言ってのけた。
「ま、そんな心配は要らないわよ。見てなさいって!」
「弐号機、発進準備よし!」
アスカがそこまで腹を括っているのなら、ミサトもアスカを信じるだけだ。

「頼んだわよ…弐号機、発進!」

「大丈夫です。僕は、父さんの息子ですから」
シンジの声が聞こえた。それで、続いていた冬月との話は終わったようだった。

ふと、シンジとアスカが一言も言葉を交わさなかった事に思い至る。もちろん、喧嘩しているわけではあるまい。
シンジの方は冬月と話していたから仕方ないにしても、アスカもシンジに話しかける事は無かった。
プラグ内からは司令塔の様子が窺えないというのもあるが、アスカがシンジの司令としての立場を慮ったのだろう。
本当に、戻ってきてからのアスカの成長には驚かされてばかりだった。だから、

「アスカのシンクロ率が400%に達する確率は、極めて低いわ」

リツコが突然発したその台詞が逆に信じられなかった。
昨日のシンクロテストにはリツコが付き添ったと聞く。そのリツコがそう言うのだから、データ的な根拠はあるに違いない。
だが、その詳細を今ミサトが聞いたところでどうしようもない。だから、その代わりに別の事を聞く。
「じゃあ、アスカが400%出せるか出せないか、リツコはどっちに賭ける?」

「当然、出せる方ね」

不謹慎ですよ、というマコトの言葉を意にも介せず放たれたリツコの涼しげな返答を聞き、ミサトは満足して再び目前の戦闘に意識を集中させていった。





避難用のシェルターの中には、一般人が待機するホールの他に幾つかの設備がある。
怪我人に簡単な治療を施す為の処置室や、保存食の置かれた食糧備蓄庫。
そして今レイとサキエルが居るのが、シェルターの外の様子を確認する為のモニタリングルームだった。
トウジら四人を無事にシェルター内へと避難させたレイは、サキエルを伴ってこの部屋を訪れていた。
一つには、振動からしてすぐ近くで戦い始めたと思われる弐号機の安否を確認する為。
もう一つは、未だ公式に存在を明かせないサキエルを必要以上に衆目に晒さぬ為であった。

基本的には立ち入りに許可の要る部屋なのだが、喫茶店にも居た黒服の一人に理由を告げた所、その執り成しで許可は簡単に降りた。
現時点でサキエルの正体を知らされているのは、各部署でもそれなりの階級を持った者たちだ。
モニタリングルームの出入りを監視する警備部員などよりもその権限は遥かに大きい。
チルドレンとは言えレイ一人では許可は降りなかったであろう事を考えると、これは幸運と言えた。

「あっ、アスカさん…」
周辺の景色を映した数個のサブモニターのうち一つに弐号機の姿を見つけ、サキエルが小さな声を上げる。
他に見るべきものも無いので、設定を弄って中央のメインモニターにその映像が来るようにする。
一回り大きな画面の中では、赤紫色の使徒と弐号機が一進一退の攻防を繰り広げていた。
一見したところでは、ほぼ互角。だがレイは、久々に見るアスカの戦闘の、その技量に息を呑んでいた。

(凄い…)

基本的にはサキエルの時と同じ作戦なのだろう。様々な攻撃を仕掛けて、使徒の反応を見る。使徒の手の内を、見極める。
だがあの時は二人がかりであちこち軽傷を受けながら行ったそれを、アスカは一人で余裕を持ってこなしている。
しかも、攻撃から次の攻撃に移るタイムラグを殆ど感じさせないその動きから察するに、どうやら逐一ミサトの指示を仰いでいるわけでは無さそうだ。
恐らくは「様々な攻撃を仕掛けて、使徒の反応を見る」という作戦の骨子だけを伝えられ、アスカ自身が的確な判断をしているのだろう。
とても自分には真似の出来ない芸当だ、とレイは内心嘆息する。

ある意味特殊なケースのシンジとは違い、レイもアスカもこれまでの人生の殆どをチルドレンとして過ごしている。
だが、二人の間には決定的な差があった。
それは、レイがゲンドウの策謀に付き合って───この際はっきり言ってしまうなら無駄に過ごした分の時間を、
アスカは生身での戦闘訓練や戦史、兵法の学習に充てていたという事だ。
コアとシンクロについてはかなり早い段階で一応の完成を遂げていたエヴァだが、それが兵器と呼べる形にまで辿り着いたのはごく最近の事。
当然、アスカが四歳でチルドレンに選出された頃には操縦シミュレータすら存在していなかった。
だが、精神の平衡を欠いたままチルドレンという座の上に取り残されたアスカは、ただがむしゃらに戦いに関する知識を求めた。
その姿勢を大人たちが歓迎する。
エヴァでの戦い方など当時は誰一人教える事は出来なかったから、代わりに生身での戦いを、他の兵器での戦いを、古今東西の軍略家の戦いを教える。
それはレイと同じで哀し過ぎる少女時代であったが、今では確かにアスカの糧となり、力となっているのだ。
ミサト程ではないにしろ、作戦の立案も出来る。リツコ程ではないにしろ、兵装の構造も理解している。
いや、今の年齢でそれなら、いずれは彼女たちとも肩を並べるかも知れない。

…使徒の鞭をかわした弐号機が大きく後ろに跳んで、丘の中腹に陣取る。
「あの鞭、凄いですね」
サキエルの言うとおり、使徒の持つ二本の鞭は強力だった。
無造作に薙ぎ払えば兵装ビルを切り裂き、真っ直ぐ突き立てれば大地をも穿つ。もちろん、エヴァの手足を絡め取る事も出来るだろう。
一度弐号機が掴んで受け止めたが、かなりの衝撃があったようだ。プログナイフと同じく、高周波の振動を纏っているのかも知れない。
だが、この使徒の能力全般は既にアスカの巧みな戦闘によって白日の下に晒されつつあった。
鞭の射程には限界がある。他の武器は十中八九所有していない。そして何より…本体の動きが鈍い。
明らかに脅威の爆発力で使徒を圧倒するシンジではなく、敵の動きを読んで動けるアスカ向きの相手だ。
もしも単純にこの使徒を殲滅すればいいのであれば、アスカは傷一つ負わずものの一分でケリをつけられるだろう。
サキエルの声にあまり不安の色が見えないのも、それが分かっているからだと思う。

考えてみれば、これまでアスカは少なくとも使徒戦において滑稽な程その技量を発揮する場に恵まれなかった。
水中で、火口で、縦穴で。落ちて来るから受け止めるだけ。酷い時には射程外だから出撃してみるだけ。
まともな戦闘をさせてもらえたのは油断のあった第7使徒戦と追い詰められていた第14使徒戦くらいのものだ。
だから、レイには今のアスカと自分との間にこれ程の力の差がある事を目の当たりにして、大きな衝撃を受けていた。
生きる意味を、戦う目的を見出して精神的に強くなったのは二人とも同じ。つまり、これは実力の差なのだ。

アスカの強さを分析してみれば、それはこれまでに培われた知識とセンスに基づく器用さ、という事に集約されるであろう。
シンジが近距離での格闘戦、レイが遠距離からの射撃戦を得意とするのに比べ、アスカはそのどちらもこなす。
ヤシマ作戦等の特殊な指示が無ければ零号機も初号機もほぼナイフとパレットガン程度で戦うが、
弐号機はソニックグレイブ、スマッシュホーク、バズーカとクセのある武器を幾つも使い分ける。
こういったタイプは多くの場合器用貧乏と揶揄されるものだが、アスカにそれは当て嵌まらない。
全ての能力が高いレベルを示す、言ってみればどのポジションでも一流の動きが出来るオールラウンダー。それが今のアスカだ。

(それに、碇君も…)

傍目にはかなり危なっかしいシンジの戦い方。だが、いざという時はアスカすら及ばない力を発揮する。
第14使徒戦での常軌を逸した動きを思えば、その戦闘力には上限というものが無いのかも知れないとすら思わせる。
先のサキエルとの戦いでも、やはりその傾向はあった。
初号機の脚で敢えて“レーザーパイル”を受け、想いを爆発させてそのまま一気に抑え込んだ、あれだ。
レイ個人としてはあのようなハラハラさせる戦いはやめて欲しいとも思うが、それがシンジの力である事もまた事実。

レイにはアスカ程の器用さも無ければ、シンジのように感情を力に変えて戦う事もまだ出来ない。
(それでも…)
かつてのアスカのように、二人を追い抜いて見返してやろうなどとは思わない。
かつてのシンジのように、必要以上の無力感に苛まれる事も無い。
だが二人と共にこれから戦っていく上で、このままではいけないという思いが湧き上がるのはどうしようもない事だった。

「あっ!」
サキエルの声で我に返ると、ちょうど弐号機が低空に浮いた使徒の鞭をかわし、その死角に回り込んだところだった。
いや、サキエルとは違ってどこに目があるのか判然としない以上、死角と呼ぶのは相応しく無いかも知れない。
だがこれまでの戦いで、少なくとも使徒のどちら側が背中かははっきりとしている。
熱帯魚などにも見られる、大きな目に見える相手を混乱させる為の模様のある方。そちらからの攻撃にはこの使徒は対応できないのだ!

「チャンスです!」
あたかもサキエルの声が聞こえたかのようなタイミングで、弐号機が使徒に組み付いた。
ほんの一瞬の間があったのは、ミサトに確認を取ったのだろう。独りで先走らず、かといって相手にも隙を与えない。
まさに必勝を期して、ATフィールドが中和されていく。

アスカが400%を出せば、勝負はつく。

それは、最早明らかだった。





「間も無くフィールドを完全に中和…行けますっ!」
マコトがそう言い終わったと同時に、アスカは自らの心の鍵を開く。

「行っけえぇぇぇっ!」
「シンクロ率上昇!200、300、330、340、350…」

いける、と思ったその時。

(アスカちゃん…)

弐号機に。ママに呼ばれた気がした。

「駄目です!382%から下降っ!」
マヤの声に、ふっと気が抜ける。
左脚と右手の力が緩み…

「ママ…っ」
使徒が振り向きざまに繰り出した激しい二連撃を胴に喰らって、弐号機は大地に倒れた。





シェルター出口のすぐ傍で倒れ伏した弐号機を見て、
「アスカっ!」
レイが珍しく取り乱す。当然、サキエルだって心配で堪らない。
だが今、サキエルの双眸は弐号機に迫る使徒を映したメインモニターではなく、サブモニターの一つを捉えていた。

メインモニターでは映らない位置。
地についた弐号機の右手の、指と指の間と言ってもいいほどの位置。

───洞木さん。
───相田さん。
───トウジさん。

───そして、ナツミさん。

…何故?

…何故、そんな所に居るの?





シンジから受け取った記憶の一場面が連続写真のように再生されて。

次の瞬間、サキエルはモニタリングルームの外に駆け出していた。





~つづく~





少し考えが纏まりつつあるので、再開させて頂きます。間が空いてしまって申し訳ありません。



[21803] 16.シャムシエル(中編)
Name: ふたば草明◆c7ec2017 ID:2c221ae6
Date: 2010/11/05 00:07
銀髪をさらりと片手で撫で上げ、渚カヲルは草原を吹き渡る風に身を任せた。
春の、草のにおいが心地良い。歌の一つも歌いたい気分だが。

「そうだ、3号機を本部に。なに、そちらにとって悪いようにはせん」

すぐ隣に電話で話し中のゲンドウが居るので、遠慮して歌は止めておく。
代わりに、空を見上げた。すうっと、滑空するように一羽の鳥が空を舞っていった。
生命の実も、知恵の実も持たぬが故に使徒に数えられなかったか弱き存在。
この一面を覆う草も、その中に居るであろう虫たちだってそうだ。
彼らは何と戦うこともなく、あの最期を唐突に迎えた。

生と死が等価値である、というのは今でもカヲルの信念だ。唯一の絶対的自由が侵される事ほど嫌な事は無い。
だがあの時、鳥に、草に、虫に、その自由があっただろうか?
…結局審判の刻に生か死かを選択できたのは、自らの自由の為に友の手を汚したカヲルと、ゼーレの老人達だけだったのだ。
彼らはそれを死ではなく、進化だと言い張るかも知れない。
しかしそれは、事象の中核に置かれた碇シンジこそが判断する事だ。
そして彼は全てが一つとなった世界を死の世界と断じ、生を選んで戻ってきた。

「何とでも理由は付けられる。最悪、委員会が手を出すとすれば、それは貴国ではなくこちらだ」

視界の端に、一人の男が映った。かつての時も含めて完全に初対面だが、その名も知っている。
襟元を開いたシャツと後ろで無造作に束ねた髪がトレードマークの、加持リョウジ。

「ああ。数日後には輸送機が着く。後はこちらに任せてもらおう。…では」

軽く片手を上げて近付いてきた加持の姿を認めたゲンドウはそこで話を切り上げ、電話を下ろしてそちらへ向き直った。
「今の電話…アメリカの3号機ですか?」
「ああ、そうだ」
京都以来殆どゲンドウと話らしい話もしていないカヲルにははっきりとした事は分からなかったが、
先程の電話から察するにエヴァンゲリオン3号機を本部へ移管する為の交渉だったようだ。
恐らくは、頭の切れる赤木リツコ博士あたりの発案だろう。

「それにしても驚きましたよ。まさか彼と一緒とは」
そう言ってこちらを見遣る加持に始めまして、と挨拶する。
カヲルが加持を知っているように、加持もまたカヲルを知っている。
それは、生と死を超越して触れ合った記憶を保持したままの帰還を、シンジが望んだからだ。
「シャノンバイオのすぐ裏手だった。君もまだまだだな?」
カヲルの事を驚いた、と言いつつも一向に驚いていない様子だった加持も、その一言には虚を衝かれたようだった。
「ははぁ、どうにも鈍りましたかね」
「まだ始まったばかりだろう。鈍ってもらっては困る」
有無を言わせぬその一言に、加持はただ苦笑するばかりだった。

「それで、そちらの首尾は?」
ゲンドウが問う。
「ええ、予定通りです。シンジ君が使徒の事を公表したら、すぐにでも首相とサシで話せますよ」
今度はカヲルが驚かされる番だった。
ゲンドウから聞いていた数少ない情報の一つが、シンジがネルフの司令として全使徒との共存に乗り出したという事だったが、
まさかそこまで早いスピードで事態が動いているとは思わなかった。
誰がこの世界に戻ってきたのか大体は理解しているが、目の前の二人も含めて全員がシンジと同じ道を選んだのは間違い無さそうだ。

…自分は、どうする?
まだ、ゲンドウからも何も聞かれてはいない。

カヲルの一瞬の逡巡を読み取ったのか、加持が声を掛けてきた。
「君は、どうするんだ?」
ゲンドウも表情こそ変えないものの、返答を待っている様子が伝わってくる。
これまで聞かれなかったのは興味が無かったからでは無いのだろう。どちらかと言えば生来の口下手さに依るものかも知れない。

…自分は、どうしたい?
いきなり押しかけて、シンジに再びその手を汚させようとは流石に思わない。

だが、同じリリンである彼らがシンジに協力するのと、タブリスである自分がそれを表明するのでは大きく意味が異なる。
綾波レイとは違い、カヲルは人の手を経たとは言え純粋な使徒なのだ。それ故に、安易な返答はしたくなかった。
だから。
「もう少し、あなた方に同行させてもらっても構いませんか?」
取り敢えず、答えを保留とする。第三新東京市と遠く離れたこの地にいる以上、彼らはしばらくシンジらと別行動を取るのだろう。
それなら、彼らの目の届く範囲にこの身を置きつつ、ゆっくりと道を模索するのも悪くない。
「別に構わん」
それだけを短く答えると、ゲンドウは一人で歩き出す。加持とカヲルもそれを追う。
どこに行くのかもまだ聞いていないが、それもまた一興というものだ。死ならばいつでも選べる。

「シンジ君たちは、どうしてます?」
漠然と、加持に尋ねてみる。
「一応、順調だな」
当然の事ながら、帰ってきた答えも漠然としたものだった。
「今頃は弐号機と第4使徒が交戦の真っ最中か」

弐号機に乗るのは加持と同じく未だ会った事の無い、しかしよく知る少女。
カヲルがどういう答えを出すにしろ、彼女にも、レイにも、シンジにも今は無事で居て欲しい。

そう、思った。





それは、本当に色々な要因が重なった上での帰結だったであろうが。
それらの要因の中で一つ根本的なものを挙げるとするならば、それは共存を願うシンジの優しさが、
彼らに使徒について語った際、その脅威や危険性という面を極めて甘いオブラートに包ませてしまった事では無いだろうか。
皮肉な事に、最初にそれを口にしたのは相田ケンスケでは無く、使徒との共存をある意味最も身近ものとして捉えつつある鈴原ナツミだった。

「ねぇ、ちょっとだけ外の様子見に行ってみようよ!」





最初ヒカリは、反対した。委員長として当然の事だ。そもそも何故ナツミがそんな事を言い出したのか、ヒカリには分からなかった。
興味本位で規則を無視するような子には見えなかったのだが。
「今来てる使徒の子とも、お友達になりたいの!」
サキエルと友達になれた事が余程嬉しかったのだろう。でも使徒っていうのは、皆そのくらいの年齢なのだろうか?
「そォは言うても、ドデカイ図体じゃ話もできへんやろが」
体に感じるこの揺れは、外で戦闘が続いている証拠だ。即ち、使徒はまだ人の姿を取っていないという事。
「アイツらの邪魔したらあかん」
理不尽に殴ったことをやはり後悔しているのだろう。珍しく理論的に説得しようとするトウジ。だが、

「でも人間になった時、あたしが側にいてあげたい!」

その一言がトウジの理論を崩してしまった。
ナツミにしたたかな計算があったわけでは無いだろう。しかし、その手の情熱的な優しさは最もトウジの琴線に触れるものだ。
そしてヒカリ自身も、その想いを叶えてあげたいと、そう思ってしまった。
折りしも振動がいったん収まった事も手伝って、その場の空気がナツミの意思を尊重する方へと動いたのが分かった。

「よっし、じゃあ行ってみるか」
ケンスケの一言が決め手となり、ナツミは生き生きと、ヒカリ達はまだ若干迷いながらゆっくりと、動き始める。

(委員長の私がちゃんと付き添っていれば、大丈夫だよね)

この時点で既に委員長としての倫理を踏み外している事には、目を向けないようにする。
ナツミの考えは、シンジの言う共存の理念を支える尊いものだと思う。

使徒の事を悪く言うまいというシンジの気遣いが、この場で最大の抑止力となる筈だったヒカリに、
シェルター内での規則という倫理を破るに足る大義名分を与えてしまっていた。





そこから先は、恐ろしい程に順調だった。
多くの人がごった返すホール。
逃げ込む際に転んだ児童が泣き喚き、危機感の無い若者が大声で談笑するその場から四人の少年少女が消えたとて、誰も気にも留めない。
ヒカリが緊急開放用のレバーに気付いた為、力任せにロックを開く必要も無かった。

「どうやら戦いは終わっとるようやな」

それは違う。振動が止んでいるのは、弐号機が使徒に飛び付いてATフィールドを中和しているからだ。
低空を浮遊する使徒に弐号機が取り付いていれば、振動が無いのは当たり前。

嬉々としてレバーを操作するナツミ。

そうして四人は、日の光が降り注ぐ地獄への扉を開けてしまった。





外見年齢からすれば考えられないようなスピードで猛然とモニタリングルームを飛び出していったサキエルを追いつつ、
レイはサブモニターに映っていた四人の恐怖に歪んだ表情を思い返していた。

どうしてあんな事になったのか?委員長としての責務を重視するヒカリは、兄を萎縮させる程の迫力を持つナツミは彼らを止められなかったのか?
以前とは違い、今回は四人が揃ってシェルター内に避難してきた。シェルター内でわざわざ別行動を取った等とは考えづらい。
周囲に第壱中学の制服は見当たらなかった。ヒカリが他の友人と話している間に、という事でも無いだろう。
手洗いなどと陳腐な嘘で抜け出したとしても、ロックを開くのに手間取る内にどちらかが探しに来る筈。
そもそもあの場にヒカリとナツミが居る以上、どの仮説も当て嵌まるわけが無い。何か、予想外の事が起こったのだ。

人付き合いというものを考え始めたレイは、変に見透かした様に思われるのを怖れて直接的な忠告はしなかった。その罰か?
或いはその逆に、かつてまるで気にも留めなかった人の心というものを斟酌し過ぎた、その罰だとでも言うのか?

初めて出来た友人を想って走っているであろうサキエルの脚力は、驚嘆に値するものだった。
レイが突然のサキエルの行動に驚いて扉を振り返ってしばし呆然として、
再びモニターに目を戻してその理由に気付いた時には、既に地上を映すサブモニターの一つにその姿が見えていた。
測定時の結果など、軽く上回っている。
想いを力に変えてスペックを突破するという意味で、シンジの戦いと同じ理屈だ。

だが、サキエルが一人で駆けつけて一体何が出来るというのだろう。
いくら何でも使徒の攻撃を掻い潜り、四人も抱えてシェルターまで戻れる筈も無い。
あくまで、彼女の能力限界は幼い少女としてのそれなのだ。

アスカがプラグ内に四人を乗せるというのも不可能だ。
400%に届かずとも、あそこまでの過剰シンクロを行えば一分以上は体が動かない。

全てが最悪の方向へ向かうのを認識しながら、レイは必死で狭い通路を走り続けた。





開放されたままになっていた出口から素早く躍り出て、地を踏みしめる。そこは、太陽の光も眩しい丘の上だった。
倒れたまま身動きの取れない弐号機に向かって、使徒が何度も鞭を振るっているのが見える。
方向を確認し、サキエルは滑るようにして丘の斜面を駆け下りていった。
最も身体に馴染む、お気に入りの服に土が撥ねる。今の姿になったまさにその時から身に着けていた、濃緑色のワンピースだ。

使徒が、鞭を突き刺す使い方をしていないのが不幸中の幸い。高振動で打ち据えられる程度なら弐号機はまだ耐えられる。
だがそれはあくまで現時点の話だ。使徒がいつ攻撃パターンを変えてくるか分からない。
過剰シンクロの反動は予想以上に重いのだろう。あの四人だけでなく、アスカの命さえも風前の灯と思われた。

「ナツミさん!」
脚を止めぬまま、声を限りに叫ぶ。
その声に、尻餅をついたままナツミが首だけで振り返った。ナツミだけでは無い。四人とも、明らかに腰を抜かしている。
立ち上がって弐号機から離れ、シェルターまで走ることは不可能だろう。
エヴァを一方的に嬲る使徒の姿と、嬲られるエヴァの中にクラスメイトが乗っているという事実が彼らから一切の理性を奪ってしまっていた。

「どうしてこんな所にっ!」
詮無き事であっても、一言言わずにはいられなかった。
抜け出したのは二人ではなく四人。シンジが体験した以前より、明らかに状況は悪い。
そもそも、彼らはサキエルに会いにあの場へ来ていた。
それはつまり、この戦いの時には既に消滅していた筈の自分が生存した事で、何かが変わってしまったという事なのか?
焦りと、絶望に心が覆い尽くされていく。

恐怖の余りガチガチと噛み合わぬ歯の奥で、ナツミが何かを告げた。
「………だよ」
ようやくその場へ辿り着き、サキエルは立ち止まってナツミの手を引く。
「早く!立って下さい!」
皆、立ち上がろうとはしているのだと思う。だが、身体は1ミリたりとも動いてはいない。
引き攣った笑顔を浮かべながら、再度ナツミが何かを言おうとする。仕方なく、その口元に耳を寄せる。

「…大丈夫、だよ?…あたしが、…守ったげるから…」

───シンジはあの喫茶店で、サキエルの事を人間社会は初めてで不安がっていると思う、というような紹介をしていた。
だから、そんな事を言っているのか。
そもそも今の状況はナツミ達の無謀が招いたものであり、そのナツミに言えた言葉では無い。
あまりにも稚拙だ。

だがサキエルは、心配いらないと言ってくれた青葉シゲルの言葉を思い出していた。
シゲル然りナツミ然り、サキエルよりも遥かに小さくて儚い者達が、皆サキエルを励まし、守ると言ってくれる。

いつの間にか焦りも、絶望も心から消え、代わりに温かなぬくもりと強い意思が満ちていた。

───きっとアンタにしか守れない人、アンタにしか助けられない人に出会う日がいつか必ずやってくる。
───そっかぁ。ね、サキエルちゃん、あたしのお友達になってくれる? 
───その時こそ守りたい人を守って、助けたい人を助ける。それがアンタのすべき事よ。





ナツミの手を離し、ゆっくりと歩みを進める。
「攻撃が止んだら、ナツミさんを抱えてシェルターまで走って下さい。相田さんと洞木さんも」
トウジの横を通る時、はっきりとした声でそう伝えた。
弐号機の手を避けて、ナツミたちを庇う様な位置に立つ。
腕時計の双方向通信を使い、発令所へ向かって静かに語りかける。

「赤木博士、これの『もう一つの機能』を教えて下さい」

戸惑ったような、一瞬の間の後に。
「あまり鋭すぎるというのも考えものよ?」
苦笑したようなニュアンスでそんな答えが返って来た。

「覚悟は、いいのね?」

はい、と短く答える。
弐号機を攻め続ける使徒の鞭が、片方だけ止まった。妙な位置で一人佇むサキエルに気付いたのだろう。だが、遅い。

「分かったわ。それの使い方はね───





昨晩の葛藤に、ようやく答えが出せた。
私には戦う力がある。だから今、守りたい人を守れる。
人の姿だから人なのではない。人の心があるから人なのだ。
ならば私は、人の心と使徒の力を二つの轍として生きていこう。

戦っていこう。

拳をぎゅっと握り、銀色の腕時計を巻いた左手を胸の前に構える。深呼吸を一つ。
正面を強く見据えて腕時計を頭上高く掲げ、その言葉を口にする!

「エンジェライズ・GO!…サキエル!」

活性化したS2機関から溢れるエネルギーの余波を受けて、身に付けているもの全てが量子化していく。
コアから放たれる赤い光の粒が雪の様な裸身に降り注ぎ、一際眩しい光を放った次の瞬間。





第3使徒サキエルが、

その巨躯を再び顕現させた。





~つづく~



[21803] 17.シャムシエル(後編)
Name: ふたば草明◆c7ec2017 ID:2c221ae6
Date: 2010/11/05 07:38
エンジェライザー。

それこそが、リツコとマヤが心血を注いで開発した腕時計型使徒支援装置の正式名称である。
電磁波を利用して脳内物質を調整し、使徒自身が意図しない形態変化を防ぐのがその主目的だ。
だが、それだけでは無い。
一度共存の道を選んだ使徒が再び戦う力を欲した時、特定のキーワードを音声入力する事により、本来の姿へと変身する事が出来る。

生と死。平穏と闘争。ヒトと使徒。渚カヲルが言う所の絶対的自由。

それを自ら選択する為の、禁断のツールである。





サキエルと発令所との通信は、弐号機のプラグ内で使徒の鞭に耐え続けるアスカの耳にも届いていた。
最初は何の事を話しているのか分からなかったが、サキエルが変身を遂げた瞬間に全てが理解できた。
サキエルが再びこの姿になる可能性を、確かにリツコは示唆していた。
それを抑制する装置を作れるという事は、その逆もまた可能だったという事だ。
人の中で生きる事を望む彼女を戦わせる事に疑問を覚えないわけではないが、先程サキエルは自らそれを望んでいた。
それに、リツコの許可が下りたという事はシンジもそれを認めたという事。
アスカが不利にしてしまった戦局だけでなく、サキエルの心情も全て踏まえた上での結論なのだろう。
シンジは、司令として一つの決断を下した。自分も、いつまでもこうしている訳にはいかない。

大きな爆発音と共に、使徒の攻撃が止まった。
変身と同時にサキエルの繰り出した右腕の“レーザーパイル”が直撃したのだ。
下半身にあたるであろう部分をいきなり貫通された使徒が、身をよじってサキエルから距離を取る。
それによって、倒れたままの弐号機はようやく鞭の射程内から外れたのだった。

ナツミを担いだトウジとケンスケ、ヒカリが必死に丘を駆けていく。シェルターの入り口ではレイが彼らを収容すべく待機しているのが見えた。
あちらは取り敢えず安心という事か。後できつく叱ってやる為にも、アスカ自身がこの場を切り抜けなければならない。

「アスカさん!動けますか?」
突如、サキエルの声が響いた。
「サキエル?アンタ、どうやって喋ってるのよ?」
どうでもいい事を思わず訊いてしまう。エントリープラグがあるわけでも無いし、あの仮面の口で話しているわけでも無い。正直、驚いた。
「え?ええと、自分でもよく分からないんですけれど…」
今の姿のサキエルの腕に、腕時計は巻かれていない。ベルトの面積には限界があるのだから、当然だ。
きっと、変身時に体内の何処かに収納される仕組みなのだろう。
恐らくはそれがエヴァや発令所との通信回線を開いたままにしており、この会話を可能としているのだとアスカは推測した。

ともあれ。
「ええ、大丈夫よ。感覚が戻ってきたわ」
地についていた右手をゆっくりと握っては開く。
使徒はと言うと、突然現れたサキエルに対し、対応を決めかねているようだった。今が立て直す好機だ。

「ミサト!」
…返事は無い。
「ちょっと、ミサト!?」
「あっ、ゴ、ゴメンね!」
全く、作戦部長が戦闘中に何をしていたのだろうか。
「いや、あんな隠し玉があるなら最初から言ってよって、リツコにね…」
ああ、サキエルの変身の事か。確かに気持ちは分からなくもないが。
「私だって、この戦いでいきなり使う事になるとは思わなかったわよ」
アレはまだ試作品なんだから、というリツコの声がミサトの後ろの方から聞こえた。

「ミサト、もう一度だけアタシにやらせて」
緩みかけた気分を引き締め、当初の目的を告げる。
「次に駄目だったら、打ち合わせ通りにするわ」
初号機の修理が終わるまで動けない程のダメージを与える。要は、ユニゾン特訓の時間を稼いだ第7使徒戦でのN2爆雷攻撃と同じ事だ。
だがサキエルの例を見るまでも無く、使徒に自己修復の為の時間を与え過ぎる事は、予想外の進化を促す呼び水となる事も考えられる。
可能なら、この場でケリをつけたい。ミサトもそう考えたのか、
「分かったわ」
そう、ミサトにしては神妙な声で答えた。

「ともかく、こうなった以上は二対一でガンッガン攻めるからね。サキちゃんも、頼りにさせて貰うわよ!」
「はい、任せて下さい!」
ミサトの激励に奮起するサキエルの言葉を聞き、弐号機の上体を起こしながらアスカはそっと目を閉じる。

(アスカちゃん…)

弐号機は、暴走などしていない。キョウコの魂が眠ったままである以上、あれは克服しきれなかったアスカの心の弱さが呼んだ幻聴だ。
次が最後のチャンス。ここで400%を出せないようなら、恐らくこの先アスカはその限界を超えることはできないだろう。
本当はどうすればいいのか、アスカにはもう分かっている。

「アスカ、気負わないで」

シンジも、それを分かっていた。自分の深い所を見てくれているのが、嬉しい。

「んっ、任せときなさい」

アスカの中で、最後の迷いが消えた。





司令塔から降りてきたシンジが、MAGIの防壁と加持リョウジからの連絡についてそれぞれリツコとミサトに尋ねる。
全く、イレギュラーな要素の多過ぎる戦いだ。
民間人の戦闘区域への侵入、サキエルの変身に続いて、
今度は司令が全く関係の無いような事を言い出した事で、オペレーターの何人かはかなりの混乱状態に陥っている。
だが、日向マコトはシンジの意図をほぼ正しく読み取ることが出来た。

委員会に対して、倒したと報告した第3使徒の再度の出現。更にその第3使徒が弐号機と共闘していれば、最早どんな言い逃れも効かない。
サキエルがあの姿を現した時点で、ゼーレが動き出す為の条件は揃ってしまった事になる。
リツコのディスクによれば、ゼーレがネルフ本部に攻撃を仕掛けて来る際、真っ先に考えられるのがMAGIへの侵入と戦自の突入だった。
すぐ近くであれだけの規模の戦闘が行われているこの状況で戦自が動く事は流石に無いだろうが、かといって油断は出来ない。

自らの仕事をこなしつつ、背後で交わされる会話に聞き耳を立てる。
MAGIの防御には問題無し。戦自も、現段階では動かないとの報告が加持から入っているようだ。
ディスクには4号機以降のエヴァによる襲撃の可能性についても言及されていたが、それらは未だ完成に程遠い。
シンジらが先手を打ったのが功を奏して、ゼーレは何も出来ない状態にあると考えていいのだろうか?

「…一番近いビルから、ホーク出しておいて。さて、それじゃ行くわよ!サキちゃん、前衛よろしく」
ミサトの指示でサキエルが一歩進み出る。その動きに反応した使徒が鞭を振るうが、サキエルはそれを左手でしっかりと受け止めた。
サキエルの弱点は足元。それはかつての戦いでミサト自身が見出した事だ。
だが今、使徒はサキエルの足元を狙うことが出来ない。
傾斜のある地形のせいで空中から攻撃せざるを得ない使徒の位置からは、どうしても鞭が上半身を捉えてしまうのだ。
続いて放たれるもう一本の鞭を、右手で受ける。互いに両手が塞がれる形になるが…サキエルには攻撃手段がある。
一瞬の予備動作の後、“レーザービーム”が放たれる。ATフィールドに阻まれて直撃こそしなかったものの、明らかに使徒は怯んだ。

「今よっ!アスカ、可哀想だけど腕一本!」
「でぇええいっ!」

兵装ビルから受け取ったスマッシュホークを大上段に振りかぶり、サキエルの影から唐突に加えられる弐号機の一撃。
厚みのある刃が使徒の右肩に大きく食い込む。見る間に、そちら側の鞭から力が抜ける。一時的に、使い物にならなくなったのだ。

「サキちゃん!フィールド中和、イケるわね?」
「はいっ!」

ミサトのてきぱきとした采配の下、展開されるのは史上初の使徒とヒトとの共同戦線。
だが、マコトの目にはミサトやアスカとサキエルが十年来の戦友であるかのようにすら感じられた。
不意に、初対面の時にシンジが言った台詞を思い出した。命を預けてもいいと思えるような関係になりたい、というあれだ。

「ATフィールド、中和されていきます!」

その為だろうか。
そう報告しながら、必死でフィールドを中和するサキエルの後ろで呆けたように突然動きを止めた弐号機を見ても、特に驚きは無かった。
モニターに映る、戦闘中とは思えない程穏やかなアスカの顔。

その顔には一片の険しさも無いにも関わらず、アスカが皆の命を背負って戦っているのがマコトには分かった。

───頑張れ。頑張れよ。





前司令が妻の死を現実のものとして受け入れたと聞いたとき、自分は母の死をどう捉えているのだろう、とアスカは改めて考えた。
碇ユイと惣流・キョウコ・ツェッペリンは今でこそ同じ場所に居るが、そのプロセスは大きく異なる。
不幸自慢をするつもりなど無いが、母との別れという一点においてはシンジの経験したそれよりもアスカのケースの方がずっと残酷だ。
だから一瞬キョウコの呼ぶ幻聴を聞いた時には、自分はやはり母の死を割り切れていないのか、と思いかけた。

だが、そうでは無い事にすぐに気付いた。

自我境界というのは、生まれてから今までに自らが人付き合いの中で構築してきたものだ。
リリンとして群の中に生を受けた以上誰もが持つものだが、その性質は個人ごとに大きく異なる。
自らが傷つく事を怖れたシンジが十四年間で築き上げたのは、柔軟で内向きな自我。
そして、同じように傷つく事を怖れていたにも関わらず、アスカが纏ったのはとても硬質で外向きの自我だった。

───僕の心を、見ろぉおおっ!

シンクロテストの合間に本部で見た映像で、シンジは絶叫と共に自我境界を開放していた。
先程、アスカが試みたのも同じ方法だ。
それが間違いだった。

その人物の本質とも言える自我境界を解き放つには、恐らくそれと正反対のものをぶつけなければならないのだ。
シンジは、硬く練った感情を外向きに暴発させ、自らの境界を打ち破った。

それならば、アスカはどうすればいいのか。
簡単だ。心を柔らかくして、内向きに自分を見つめればいい。

あれは、きっと幻聴だったと思う。だが、もしかするとキョウコがそれを伝えようとしてくれていたのかも知れない。

(ありがとう、ママ)

アスカは全身の筋肉をやや弛緩させ、ゆっくりと心を落ちつけていった。





「シ、シンクロ率上昇!300%を越えます…」
上擦ったマヤの声。無理も無いだろう。これまでのアスカの様子と違い過ぎる。
昨日のテストでも先程の戦闘中でも、アスカは最高の気合いで以て高シンクロ率を叩き出していた。
だが、今のアスカの穏やかな顔はどうだろう。見ているリツコでさえ心が安らいでいくような、そんな錯覚を覚えた。

(それに歌、か…)

エントリープラグの中で、アスカが口ずさんでいる歌。俗にハレルヤコーラスと呼ばれる曲だ。
本来なら優しく、甘く歌い上げる曲では無い。だが、その柔らかな声は違和感無く、聞くものに戦闘を忘れさせた。

「400%…です」

その数値が示されたときも、歌は続いていた。
弐号機の腕が、ゆっくりと上がっていく。サキエルによってATフィールドを中和された使徒の、身体にその手がそっと触れ…

ほんの少しの後、使徒は、赤い光と共にその姿を消した。





アスカがもたらした、あまりにも静かな勝利。誰もがいつしか浸っていたその余韻を切り裂いたのは、シゲルの声だった。

「これは!西地区にパターンオレンジです!」
オレンジ?リツコは最速で記憶を探る。第12使徒か第16使徒でも現れたと言うのか?
「映像、来ます!」

モニターに目を遣る。そこに映ったのは、全身に鋭く赤い棘を持った、宙に浮く巨大な球体。
真紅のウニ、とでも言えばいいだろうか。よく見ると、左右に一本ずつ長い棘が突き出している。

「な、何よ…あんなの知らないわよ?」
流石のミサトも狼狽したような声を上げる。
使徒の数は、決まっていた筈だ。だが、あのような使徒に見覚えは無い。パターンがオレンジである以上、使徒ではなくどこぞの兵器の可能性もある。
だが、あの物体は突如西地区に現れた。海岸線から上陸してきたわけでも、上空から降下してきたわけでも無い。
そんな芸当が、使徒以外に可能だろうか。

頭の隅に、引っかかっている事がある。
次の使徒戦まで猶予を与えると言った、キールの言葉。ゼーレが直接仕掛けてきてもおかしくないこのタイミングで、あれは現れた。
加持が耳にしたという、A計画というコード。A───Angel───使徒。

まさか。ゼーレは、使徒を、造った?

「あ…委員会から、通信が入っています」
絶妙とも言えるタイミングで、マヤがそう告げる。全ての状況証拠が指し示す真実は、一つしかないだろう。
「繋いでください」
そう答えるシンジの声は、落ち着いていた。





「私が何を言いたいか、判る筈だ」
前回の通信とは違い、映像を伴わない声だけの通信。この期に及んで顔を隠している訳でも無いだろう。
つまり、今声を発しているのは『人類補完委員会のキール・ローレンツ』ではなく、『ゼーレのキール・ローレンツ』だという事だ。
もしも映像をつけるとするならば、五色の机ではなく立ち並ぶモノリスこそが相応しい。
「君の叛意。それは、碇ゲンドウの意思でもあると考えて構わないな?」
賽は投げられたという事だ。決別の時が来た。

「いいえ。少なくとも、十二人の共通の意思です」
マコト、シゲル、マヤも。
サキエルもだ。

「そうか」

沈黙。前線のアスカとサキエルも、事情を知らぬその他のオペレーター達も、何も語らない。

やがて、リツコの疑問に答えが示される。

「ならば、強襲使徒型蹂躙兵器、人造第3使徒アザゼル」

「その力の前に、消え去るがいい」





~つづく~





サキちゃんと呼んで下さる方が多いようですので、ミサトからの呼称に使わせて頂きました。いつも感想ありがとうございます。



[21803] 18.アザゼル(前編)
Name: ふたば草明◆c7ec2017 ID:2c221ae6
Date: 2010/11/06 12:09
「あれは使徒を装った、敵性組織の兵器です。迎撃をお願いします」

事態の推移に騒然となりかけた発令所に、シンジの凛とした声が響く。それが、多くの者に幾らかの平常心を取り戻させたようだった。
(やはり血は争えんという事か)
副司令として、戦闘前に一通りの心構えを説いた冬月もこれには素直に感心していた。

碇ゲンドウは第13使徒戦でのダミープラグ強行使用を契機に徐々に部下達の信頼を失っていったが、それ以前は寧ろ多くの尊敬を集めていた。
それは、ゲンドウが動と静の見せ所を弁えていたからだ。
零号機の起動実験では自らの危険も顧みずレイを助け出し、停電時には率先してケイジでの作業に加わる。
それでいて戦闘時にはどれ程敗色が濃厚となろうが決して動じない。
もちろんレイの件は素だろうし、停電時についてはある種のパフォーマンスでもあり、
戦況で一々動揺しなかったのはエヴァの秘密と秘められたポテンシャルを誰よりもよく理解していたからであろう。
だが、使徒戦という先の見えない不安の中でそんなゲンドウの態度が多くの職員の心の支えとなっていた事は事実だ。

そして今まさにシンジが見せている司令としての姿勢は、かつてのゲンドウを思わせるものだった。
サキエルとの戦いでは最前線であれだけの大役をこなしたシンジが、今は冷静に司令塔から指示を出している。
その事が皆に安心感を与え、それぞれの為すべき事を思い出させていた。

「ふん、落ち着いたものだな」
声が変わった。冬月にもどことなく聞き覚えのある声。少なくとも、委員会に籍を置く各国代表の誰かでは無い。
映像が無い以上何番かは分からないが、ゼーレの十二人のモノリスの内の一人なのだろう。

「我々は、君達が既に不要だと言っているのだぞ」
どうやらシンジが泰然自若としているのが気に食わないらしい。進化の導き手を気取る割にはつまらない男だ。声を立てずに鼻で笑った。
「ここにはエヴァがあり、サキエルも居ますから」
「強がりだな。どうやって使徒を手なづけたかは知らんが、零号機と初号機がまだ一週間は戦えん事は分かっている」

その言葉に、思わずシンジと顔を見合わせた。
通常の修理プランに基づけば、サキエル戦で二機が受けた損傷を直すにはその程度の時間を要したであろう。
だが、実際には修理はリツコの監督の下急ピッチで進められており、初号機はあと二日、零号機も一週間を待たずに戦列に復帰できる。
それらの情報が、ゼーレには伝わっていない。
シンジと相談の上で冬月はここ数日ゼーレの目と耳を排除する事に集中していたが、その成果は確実に出ているようだ。
エヴァの修理の進捗状況すら知られていないという事は、本部内の間諜はひとまず一掃できたと考えてもいいだろう。

ふと見ると、技術部の職員が一人駆け寄ってきてリツコに何か囁いている。
一言か二言程度の短い報告を聞くと、リツコは満足そうな笑みを浮かべた。
MAGIに対して電子攻撃が仕掛けられたのか、と当たりをつける。それもリツコの表情からするに心配は要らないようだ。
冬月は、自分達が予想以上に優位に立っているのを感じていた。

(まあ、あれを何とか出来なければそこまでなのだがな)

モニターに映し出される人造使徒。流石にあんなものが作られているとは思いもよらなかった。
現時点で零号機と初号機が出せないのは紛れも無い事実。加えて、二度の過剰シンクロを試みたアスカの弐号機も、限界に近い事だろう。
実質的にはサキエル頼りとすら言ってもいいかも知れない。

「しかし、碇ゲンドウはともかく冬月先生までこのような事をなさるとは…」
今度は少しだけ若い男の声。確かにこれまで、モノリスの内の二、三人は冬月に対して一定の敬意を示していた。
口には出さずとも表情に野望を隠そうともしないゲンドウの反逆よりも、冬月のそれの方が彼らに与えた衝撃は大きかったかも知れない。

「シナリオを書き直す手間をかけさせてしまいますかな」
「書き直しなどするものか。エヴァとアダムを他所の支部に移し、使徒の迎撃はそこで行うだけの話だよ」
上手く口車に乗ってきたのはまた別の男。あくまでも裏死海文書に沿った計画を続けるつもりか。
「尤も、聞き分けの無い子供たちと本来の使命を忘れた使徒には退場願わなければならんがね」
チルドレンを消すという事は、その代わりに当てがあるという事。
それは恐らく、渚カヲルをベースとしたダミープラグであろう。既に実用段階にあると考えて間違い有るまい。
「そうですか」
幾つかの有益な情報を引き出した事に満足する。伊達に齢を重ねてきたわけではない。老獪さにはそれなりの自信があった。

「余計な話はここまでだ」
冬月のペースに乗せられた事に気付いたのか、珍しく憮然とした様子でキールが告げた。
そこへ追い討ちをかけたのは誰あろうシンジであった。

「僕達は、信念を持ち、胸を張って戦っています。貴方達は違うのですか?」
彼らには彼らの信念があろう。だがそれは、我々とは相容れぬものだ。
「僕はまだ、皆さんが何者なのかも聞いていません」

人造使徒とやらが活動を開始したようだった。すぐには動けない弐号機を残し、サキエルが一足先に西地区を目指す。
再び加熱しようとする戦場とは対照的に、中央作戦室は水を打ったように静まり返っていた。

「…そうだな。群体としてのリリンの歴史は最早最終章に移った。我々が表舞台に立つ日が来たのかも知れん」

モニターに、徐々にそれが浮かび上がる。吸い込まれそうな暗闇の中に聳え立つ、十二の巨大なモノリス。
そして。

「我らはゼーレ。人類の魂に、新たな福音をもたらすものだ」

人類が長い歴史の中で育んできた暗部の中枢が、そう名乗りを上げた。





シンジと冬月がゼーレとの舌戦を展開していた間、リツコはただぼうっとしていたわけでは無い。
MAGIに関する報告を受けつつ、矢継ぎ早に指示を出して敵の正体を把握する事に全力を尽くしていた。
ゼーレからの通信が途絶えてすぐに、その一部が判明した。
「やはり微弱なATフィールドが感知されています。エヴァや使徒のものと比べると若干展開が荒いですが」
「生命反応は無し。有人兵器で無いのは確かです」
パイロットが乗っていないにも関わらずATフィールドが形成されているという事は…ダミープラグか。
形状こそああだが、基本的には量産機と同じ構造なのだろう。
フィールドの展開が荒いという事と時期的な問題を考えると、試作段階のものを投入したのかも知れない。

「ガイガーカウンターは?」
「放射能検出されず。核動力ではありません」
横で聞いていたミサトの眉がぴくりと動く。
「まさか、S2機関?」
「ええ、その可能性は高いわね」
アスカを迎えに空港へと走る車内で、第4使徒のサンプル無しにゼーレがS2機関を完成させる可能性について話した事を思い出す。

「ATフィールドに、S2機関か…人造とは言え使徒というだけの事はあるってコトね」
確かにそうだ。これであの棘に覆われた体内にコアがあれば、機能的には本物の使徒とほぼ変わらない事になる。
サードインパクトを起こす力が無い事だけが、唯一の違いだろう。
だが、もっと本質的な所に大きな違いが有る。
それは、あの身体を動かしているのが生命としての心などでは無く、
カヲルの精神から戦闘に必要なところだけを抜き出した、意思とも呼べないような悪質なものである、という事。
共存を望める相手などではなく、心を持たない凶悪な殺戮兵器。それが、人造使徒の正体だ。

先程シンジから下された命令は、迎撃だった。
だがその真の姿が見えた以上、遠慮は不要だ。

「撃墜、でよろしいですね?」
司令塔を仰ぎ、そう尋ねる。リツコの意図はシンジにもすぐに伝わったようだった。
改めて命令が下される。初めて相対する「倒すべき敵」に、発令所は一気に沸き立った。





「さって、じゃあちゃきちゃき倒しちゃうわよ!あのア…ア…」
「アザゼル、ね」
いきなり出鼻を挫かれ、ミサトは頬を軽く膨らませた。
「全く、一丁前に気取った名前なんか付けちゃって」

例えばサキエルという名は、裏死海文書に記された正式なものである。
単一の個として存在していた彼女にわざわざ個体を表す名前などこれまでは必要無かっただろうが、シンジの記憶を通してその名を知ったのだろう。
勿論それを自分の名と認めるかどうかは彼女の自由なのだが、取り敢えずはそれなりに気に入っているようだ。
アザゼルという名にもきちんとした由来があるのだとは推測できたが、
使徒を模しただけのモノにそれらしい名を付ける彼らのその自意識が、ミサトには不快に感じられた。
「あんなトゲトゲなのはウニエルで十分だっつーの」

そのウニエル…では無くアザゼルは、市街地を駆けて目の前に現れたサキエルに寸分の迷いも無く体当たりを仕掛けた。
サキエルを目前にした第4使徒がかなりの逡巡を見せたのとはまるで正反対。こんな所にも、使徒と人造使徒の違いは如実に現れていた。

「最大の武器はやっぱりあの棘か…。まるで捻りが無いわね~」
第4使徒と同程度の低空に浮いて、様々な角度から体当たりを繰り返す。
だが、アザゼルのものよりも遥かに強いATフィールドに阻まれ、その先端はサキエルには届かない。

「行きますっ!」
二本の“レーザーパイル”が同時に突き出される。それは易々とアザゼルのフィールドを突き破ったが、
「っ!?」
ガンッ、と硬い外殻に阻まれる。

「フィールドが弱い分は装甲でカバー。実に理に適ってるわ」
「んなのは見りゃ分かるわよ」
少なくとも現時点では国連で正式に認められた予算の枠でしか動けないネルフとは違い、彼らの保有する財力は計り知れない。
あの外殻もどうやらとんでもない強度の合金で作られていると見える。

市内東側を映したモニターの中で、弐号機がのろのろとその体を起こすのが見えた。
プラグ内の表情には、再びアスカらしい覇気が戻っている。
…と同時に、若干の疲労の色も見て取れた。
「アスカ、どう?まだ動けそう?」
「任せて。西地区に向かえばいいのね」
そっと、リツコの方を見た。シンクログラフに目を向けるその表情は厳しい。あまり無理はさせられないだろう。
「そうね…まずは西の22番ビルにケーブルを繋いで。ゆっくりでいいわ」
わざと、最前線から少し離れた位置を指定する。支援砲撃だけでもサキエルの助けになる筈だ。
「了解よ」
そう答えると、アスカは落ちていたスマッシュホークを肩に担いでから弐号機をゆっくりと移動させ始めた。

「敵側面に高エネルギー反応!」
瞬時に、サキエルの方へ意識を切り替える。
側面?左右一対の、他とは明らかに違う長い棘か!
「飛び道具よ!避けて!」
左右の棘から、二本の青白い電撃が発せられる。
「くぅううっ!」
エヴァと同様、使徒のATフィールドも常時展開し続けるわけにはいかない。
突然の予期せぬ攻撃にサキエルは良く反応したが、二本の電撃のうち一本がその右肩を軽く射抜いた。

間髪入れず、今度はその長い棘がサキエルの方へ向けられる。
「今度は何!」
ミサトが分析する間も無く、その棘が勢い良く射出される。
「こ…これで!」
左手で右肩を抑えつつ、サキエルは仮面の目から“レーザービーム”を放つ。光線が空中で棘を捉え、小さな爆発を引き起こした。
バックステップで距離を取る。敵も、爆煙の中を無理に仕掛けてくる気配は無い。
「あれだけ勢いをつけて打ち込まれたら、ATフィールドでも危ないわね」
煙が収まると、そこには射出した筈の棘を再生させたアザゼルの姿が映る。
リツコの声を聞きながら、ミサトも目の前の人造使徒を強敵であると認めざるを得なかった。





機密保持の名目からトウジ、ヒカリ、ケンスケと共にシェルター内のモニタリングルームに隔離された鈴原ナツミは、
珍しくも感情を露わにしたレイに四人まとめて叱責を受けた後、メインモニターを食い入るように見詰めていた。

元々ここのモニターは近辺の様子を確かめる為のもので、現在西地区で行われている戦闘は遠目にしか見られない。
片方はサキエル。ナツミよりも遥かにおとなしそうだった少女が、ナツミ達を守る為にあの姿へと変じるのを確かにこの目で見た。
そのサキエルが場所を移し、相手を変え、今なお戦い続けている。
もう片方は赤い棘々の球体。恐る恐るレイに尋ねたところ、
「…敵よ」
簡潔な答えが返ってきた。レイ達の仲間であるサキエルを攻撃しているのだから、それはナツミにも実感として分かった。

そもそもナツミは、父親の働くネルフの存在意義について熟考した事は無かった。
様々な噂が飛び交い、学校で避難訓練の頻度が増えてきた事に漠然とした不安を抱きこそしたが、それでもその不安はリアルさを伴わないものだった。
使徒とネルフについて喫茶店でシンジがトウジらにある程度の解説をしていたのだが、ナツミには理解できない言葉が多かったのもあって、
お話の中に出てくる友好的な宇宙人とそれを受け入れる研究所、というような楽観的な認識を持ってしまった。

だが、今モニターに写し出されているのは間切れも無い命のやり取りである。
ナツミの横でモニターを見詰めるレイの真剣な横顔が、その危うさを何よりも物語っていた。

つくづく、自らの浅慮を恥じる。
ネルフに迷惑を掛けたのはこれで二度目。サキエルに命を救われたのも二度目。
こんな自分を、サキエルはもう友達とは思っていないかも知れない。
だが、もしもう一度会えたらその時は謝ろう。そして、あれ程の戦いの中に身を置く彼女の力になれる事はないか、訊いてみよう。





───サキエルの力になる。

その事をナツミが考えたのは、この時が最初だった。





~つづく~



[21803] 19.アザゼル(後編)
Name: ふたば草明◆c7ec2017 ID:2c221ae6
Date: 2010/11/07 02:48
体内に格納されたエンジェライザーを通して伝えられるミサトの指示に従い、アザゼルの放つ電撃をフィールドで防ぐ。
続けて、片側の棘がこちらに狙いを定めた。
しかし、このワンセットとなった一連の攻撃は既に何度も見ている。
「当たりません!」
素早く状態を捻って、放たれたそれをかわす。
兵装ビルではない、何かの施設に直撃した。
街に被害は出したくなかったが、決定的な打開策が見出せない今、唯一の主力たり得る自分が消耗させられるわけにはいかない。
背に腹は替えられない、というやつだ。
後方から、弐号機がバズーカで牽制砲撃を行ってくれた。爆煙が巻き起こり、ほんの数秒だが再び自己修復の機会が出来る。
元々大した傷ではなかった右肩は、一応戦闘に支障が無いレベルまで回復していた。

先程から、隙を見ては“レーザービーム”を何発か当てている。
アザゼルの外殻そのものは依然として貫けないものの、体表面の棘はかなり損傷が増えてきたように見受けられる。
修復が追いついていないその様子を見る限りこちらが押しているとは思うのだが、確証は持てない。
(せめて、顔があれば表情が読み取れるのに)
そう愚痴っぽい事を考えるが、顔があっても表情が分からない、他ならぬ自分の事を思い出して思考を撤回する。
どのみち心理戦で戦うような相手では無いのだ。

サキエルの実戦経験は、僅か二回に過ぎない。
シンジやレイと夜の市街地で繰り広げた戦いと、つい先刻の第4使徒戦だ。
たったそれだけの経験しか無いにも関わらず、サキエルの戦闘技能や状況判断力は以前より明らかに増していた。
その理由は、サキエルがこれまで「戦って勝つ」事を主眼において進化を続けてきたから。
恐らくは第14使徒などと同じく、使徒の中でもとりわけアダムの男としての好戦的な一面を色濃く受け継いだ為であろう。
尤もそれは遺伝子情報レベルでの話であり、サキエル自身の性格は好戦的とは真逆だったのだが。
ともあれ、サキエルは生まれながらにして戦いというものを知っている。
そして、シンジの心に出会うその日まで個として存在してきたサキエルの戦闘スタイルは、当然のように一人で全てをこなすものだった。

だが今、ミサトの助言を聞き、アスカの援護を受けながら戦うというその事が、サキエルにはとても自然な事のように思える。
例え戦いに勝ったとして、その結果を心から分かち合う仲間がいなければ空しいだけではないか。
果たして父なるアダムは、その事を理解していたのだろうか?
もしもそうでなかったのならば…アダムは、哀しい存在だ。

相変わらずの低空飛行で仕掛けられる体当たりを、咄嗟に膝蹴りで返してみる。

グサリ。

「あいたたっ…」
思わず情けない声が出てしまった。余計な事を考えていたせいで判断を誤ったようだ。
「全く何やってるのよ!アンタ脚はあんまり強くないんだから…!」
そう言いつつ地味な支援役に耐え切れなくなったのか、前列に躍り出た弐号機がスマッシュホークを繰り出す。
「す、済みません」

あの日、共闘する零号機と初号機を見たサキエルは、
───私にも、一緒に戦ってくれる存在がいたら…
そう考えた。
そしてその願いは今、確かに現実となっている。

「あと、嬉しかったです。心配してくれて」
自然にそんな言葉が出て、アスカの顔が弐号機よりも赤く染まったのが見えたような気がした。

「べっ、別に心配で言ったわけじゃないわよっ!」





「よくもまああそこまで典型的にツンデレできるもんだわ…。ひょっとしてまだまだ余裕あるんじゃないの?アスカ」
「シンクロ率は66.3%。波形の乱れは許容範囲ですが…」
ミサトの問い掛けに、マヤが僅かに心配そうな色を覗かせながら答えた。
マヤとアスカにまだ接点はあまり無いが、リツコのディスクでその境遇と強さを知り、思う所があったのかも知れない。
そのアスカはと言えばシンクロ率は出撃時より落ちているものの、それでも通常時のシンジよりまだ高いくらいだ。
精神的な疲労も大きいだろうが、延々長期戦を続けるのもそれはそれで良い事では無い。
(取り敢えずは二人がかりでの近接戦に持ち込んで流れを変えるしかないか…)

そう思った時、アザゼルの動きを長いこと見詰めていたリツコが言葉を発した。
「一つ分かった事があるわ」
「何よ?」
作戦部長たるミサトが既に相手の能力を知っていたこれまでの戦いより順調に行かないのは当たり前。
だが、アスカとサキエルにこれ以上の負担を掛けたくないミサトは藁にも縋る思いでリツコの言葉を待った。

「さっきの使徒にしてもアザゼルにしても、どうやって浮いているのかというのを考えていたのだけれど」
確かに言われてみればそれは不思議だ。
本物の使徒については、この後もっと奇想天外な能力を持つ個体が現れるのが分かっている為疑問にも思わなかったが。
「第4使徒は軽い重力制御で浮いているというのが私の仮説だけれど、まあ今はそれはいいわね。いずれ本人から聞けるかも知れないし」
そこで一端言葉を区切ると、リツコは再びモニターの方に目を向けた。

「そしてアザゼル。こちらは、磁力を利用して浮遊している。まず間違いないわ」
何か、撃退する為のヒントは無いか。そう考えつつ黙って続きを促す。
「あれだけの電撃を続けて撃っているのだから、あの内部には相当量の電磁力が存在する。
 その指向性の強い磁力と空気中のイオンを反発させる事で、低空を自由に動ける。そういうカラクリよ」

アイディアが一つ、閃いた。
「じゃあ、一時的に強力な電圧を外部から加えれば…」
ミサトの素早い反応に意外そうな顔をしている事は横に置いておいて。
「磁力の指向性を乱して、浮遊能力を奪う事も出来るでしょうね」

───これだ。
ミサトの脳内で勝利に繋がる為のピースが次々と組み上げられていく。

人造第3使徒アザゼルの外見上の最大の特徴は、全身を覆う無数の鋭い棘だ。
体当たりそのものにATフィールドを破る程の力は無いが、外殻の硬さと相まって中々決定打を与えられない。
だがその特異な形状が我々にとって脅威となっているのは、あれだけの機動力に支えられての事だという事実も忘れてはならない。
もしも低空での活動を阻止し地上に叩き落す事が出来れば、アザゼルはただの地表を転がる巨大なウニと成り果てる。
電撃や棘の射出による攻撃が再開される前に、大きく跳躍して高さを加えた斬撃が入ればそれで勝負は決するだろう。

外部から加える電圧についても、当てがある。
それは、第8使徒の捕獲を試みた際に使用された電磁柵だ。
電磁柵の発生装置は他のエヴァンゲリオン用の武装同様、兵装ビルの一つに収納されている。
本来はビルから直接の起動を想定してはいないが、理論上は可能な筈だ。
該当する兵装ビルは…幸運にも現在の戦場からそう離れてはいなかった。

「アスカ、サキちゃん!アイツを14番ビルの横まで誘導して!」
早口で、電磁柵を使った作戦について説明をする。アスカは一度使用したことがある為、細部を告げずともその概要は伝わった。
「でも、誘導ったって!」
体当たりを捌きながら、アスカが苛立った口調でそう返す。あの奔放な動きが相手では無理も無い。
「いい?アイツは視界が遮られた後は必ず動きを止めるわ。そいつを利用しておびき寄せるの!」





そこからは、概ねミサトの筋書き通りに進んだ。
弐号機はパレットガンをわざと地表に撃って土煙を巻き起こし、兵装ビルからは間断無く小型ミサイルを浴びせる。
その隙にサキエルが付かず離れずの巧みな位置取りでアザゼルの注意を引き付ける。
結果、ものの五分後にはアザゼルは14番ビルまであと数歩の位置まで誘い込まれていた。
牽制の為に“レーザーパイル”で軽く一撃を加えてから、サキエルは大きく後ろに飛び退く。
(…ここだ)
ビルの真横に立つ。ここにアザゼルが到達すれば、電磁柵が発動される段取りになっている。
追撃として放たれた電撃が14番ビルを掠めて一瞬ヒヤッとするが…特に問題は無いようだ。

斜め後ろで、弐号機がスマッシュホークを握り直したのが分かった。

次の瞬間!アザゼルが猛然と、サキエルに向かって体当たりを仕掛けてきた!
(かかった!)
これで、決まった。





…その筈だったのに。

「駄目です!電磁柵、起動しません!」
シゲルの悲痛な声が発令所にこだまする。
「そんな…何でッ!?」
やはりビルからの直接起動には無理があったのか、それとも先の電撃の当たり所が悪かったのか?
とにかく、作戦は失敗だった。
アザゼルはサキエルがATフィールドで辛うじて押し返しているが、最早敵をその場に足止めする意味も無い。
別の策を講じるか、人を遣ってビルの不調の原因を探るか。
どちらにせよ、思考を停滞させる事は敗北にしか繋がらない。
仕方なく、一旦距離を取って、とミサトが告げようとしたその時、再度予想外の事態が訪れた。

「…待って下さい!電磁柵、起動!ビル内部からの直接操作によるものです!」

凄まじい電圧が放たれる。堪らず地へと墜ちるアザゼル。
非常事態宣言真っ只中のビル内部に一体誰が、等と考える暇は無い。
「アスカ!」

ケーブルを外して身軽になった弐号機が、大きく跳躍。夕日を背負う形で振り上げたスマッシュホークを、
「食っらえぇぇぇっ!」
裂帛の気合いと共に振り下ろす。

内部に隠されていた赤いコアごとウニが真っ二つに裂け、

それで戦いは終わりを告げたのだった。





考えてみれば、ネルフ本部が祝勝の喜びに包まれるのはこれが初めてだ。
サキエルの時は、突如使徒が姿を消した事を誰もがどう受け止めて良いか分からなかったし、先頃の使徒戦では直後にゼーレの横槍が入れられた。
弐号機の回収、初めて変身したサキエルの診断、ゼーレの動向の調査、人造使徒の残骸の分析など仕事は山のようにあったが、
今はハイタッチしあう男性オペレーター達や抱き合ってはしゃぐ女性オペレーターを、好きにさせておこうと思った。

かく言うミサトの気分も、まるで極上の美酒を飲んだかのように高揚していた。
ゼーレは間接的に父の仇でこの勝利は本懐への一歩だったかも知れないが、そんな事はもうどうでも良かった。
皆が無事で、この戦いを終えられた。その事実だけで、ミサトの心は計り知れないほどの晴れやかさを湛えていた。

なればこそ、軽口も出ようというものだ。
「しっかし、人造使徒とか大層な事言って出してきた割に、ま~るで大した事無かったわね」
実際には辛勝と言ってもいい戦いだったのだが、なに、気分の問題だ。
「てっきりホントの使徒みたく非科学的な能力でも持ってるかと思ったら、磁力~?理科の実験じゃあるまいし、所詮はただの紛い物ね♪」

リツコがわざとらしく溜息をつき、こんな事を言うまでは最高の気分だったのだが。
「あなたは、レールの無いリニアモーターカーに乗ったことがあるのかしら?」
「………え?」
「第3人造使徒というからには、最低でもあと二体はいるんでしょう。どんな非科学的能力を持っていても驚きはしないけれど」

発令所を後にするリツコの背中を、呆然と見送る。
S2機関。ダミープラグ。赤いコア。それらの他に、通常の兵器技術では実現出来ないような能力を付与する何かが、あるというのか?

極上の酩酊感は、瞬く間に醒めていた。
葛城ミサトには安酒の方が合っているのかも知れない。





強く、念じる。
ただそれだけでサキエルの体は赤い光に包まれ、次の瞬間には再び少女の姿へと戻っていた。
変身時の事を思い出し、慌てて全身を確認する。
ちゃんと、服は着ていた。

やや遠くに弐号機が見える。自力で戻れる所まで戻ろうとして、内部電源が切れたのだろう。
エントリープラグがイジェクトされた様子も無い。結局アスカは最初から最後まで戦い続けたのだ。すぐにどうこうする気力は無いと思う。
すぐに回収作業が始まるだろうし、心配する事も無い筈だ。

戦いの直後とは思えない静かな夕暮れの中に、一つの足音が響いた。
14番兵装ビルの入り口。
そのドアが静かに開き、赤紫色のライダースーツに身を包んだ女性が姿を現した。
レイやアスカよりも四つか五つほど年上に見える。すらりと長い手足が精悍な印象を与えていた。

そちらを見て、軽く会釈。
気にも留めずに歩いてくるその女性に、サキエルはゆっくりと声を掛けた。
「助けて頂いて、ありがとうございます」
その表情をまるで変えず、擦れ違いざまに返事が返される。
「私がしたくてした事だ。礼を言われる様な事ではないよ」
やはり目も合わせず歩き去ろうとする。

「皆さんに、会わないんですか?」
背中にそう声を掛けられ、女性はようやく歩みを止めた。
「別に会いたくないわけでは無いさ。ただ、今はこの街の外へ出てしたい事があってな」

「止めて、みるか?」
振り返った彼女から、今度はサキエルに質問が返された。
「いいえ、それはあなたの選ぶ事ですから。…ただ」
「ただ?」

似合うわね、と言ってくれたリツコの言葉を思い出す。
(名残惜しいけれど…)
エンジェライザーを外し、それを差し出した。
「これを、持っていって下さい」
女性は少しだけ怪訝な顔をしていたが、やがてそれが何であるのか判ったらしく、
「…そうだな、預からせてもらおうか」
それだけを言うと、そっとポケットに仕舞いこんだ。

冷たくなってきた風が、サキエルの黒髪とその女性の菫色の長い髪を揺らしていった。

「それでは、一つだけ伝言を頼む」

弐号機を一瞥し、再びサキエルから遠ざかって行く影。

「惣流・アスカ・ラングレーに、貴女の心を確かに受け取った、と」

「シャムシエルが感謝していたと、そう伝えて欲しい」





その影が地平線に消えたのを見届けて、サキエルはようやくその場を後にする。

サキエルの、ネルフ本部に住み始めてから初めての外出は、こうしてその幕を閉じたのだった。





~つづく~



[21803] 20.裏死海文書の謎
Name: ふたば草明◆c7ec2017 ID:2c221ae6
Date: 2010/11/08 02:04
「…そう、か」
シャムシエルの残した言葉をサキエルから聞いたアスカは、短くそれだけを言った。
言葉数が少ないのはらしくないが、今日一日の激務を考えれば無理も無かろう。
こうして話している間にもS2機関によってどんどんエネルギーを体内生成できるサキエルとはわけが違う。

ここは本部内のメディカルルーム。プラグスーツから着替えたアスカは、サキエルと共に簡単な検査を済ませたところだ。
シンジのすぐ後から、リツコも姿を見せた。ミサトは間も無く始まる大仕事に向けて今頃は作戦課と広報課の間を走り回っている事だろう。
司令たるシンジも、すぐにここを離れなければならない。だがその前に、どうしてもアスカに一声掛けておきたかった。
そうしてこの場へやって来て、サキエルの報告を耳にしたのだ。

「伝言、ありがとね」
笑顔は出ないが、ホッとしたような響き。400%を達成した実感が今更ながらに湧いてきたのかも知れない。
(やっぱりアスカは強いや)
かつてシンジ自身が始めて自我境界を喪失した時の事を思う。
シンジの体が人のかたちを失ったのは初号機暴走の影響もあったが、
再びこの世界に戻るまでにかかった一ヶ月という時間は、そのままシンジが自己を取り戻すまでに必要とした時間だ。
二度目以降はともかく、初めて体験する自我の開放というのはそれ程までに大きな影響をもたらすもの。
だがアスカはその後も戦闘を継続し、今もこうして気を確かに保っている。それは並大抵の事ではない。

アザゼル出現の直後、シンジは思わずアスカだけでもすぐに呼び戻したい衝動にかられた。
司令としてどうあるべきかという冬月の言葉とサキエルの安全を思ってそれを口に出す事は思い留まったが、
戦いの間中不安に苛まれ、結局ゼーレとの通信が切れた後はほぼ一言も発する事が出来なかったのである。
人造使徒の出現によりますます状況が激化していくであろう今後を思い、自分も強くあらねば、とシンジは密かに思う。

「やっぱり、引き止めるべきだったでしょうか」
恐る恐る尋ねてくるサキエル。
「いや、それで良かったと思うよ。束縛みたいな事はしたくないし。サキエルも含めてね」
普通の組織であれば越権行為の誹りを免れないであろうが、シンジ達のネルフは既にその普通の組織の域を脱し始めている。
サキエルにはこの三日間少し不自由な生活を強いてしまったが、それも今晩で大きく変わるだろう。

リツコも同じ思いだったのか隣で頷き、こんな事を言った。
「エンジェライザーについても良い判断だったわ。少なくとも彼女が自身の意に反して姿を変え、余計な混乱を呼ぶ可能性は抑えられる」
「済みません、折角用意して頂いたのに」
皮肉を言われたと思ったわけでは無いだろうが、少し項垂れるサキエル。
「気にしないでいいのよ。あなたの新しい分も、急いで用意させるから。
 念の為に今回の変身プロセスデータを解析して反映させるから、前と違って何日かはかかると思うけれど」
それを聞いてサキエルの表情がぱっと明るくなる。
シンジは、サキエルがエンジェライザーを戦う為のアイテムとしてだけでは無く装身具として気に入っていたのだという事に気付く。
使徒の精神年齢を推し測る術は無かったが、可愛らしい一面を見たと思う。
エンジェライザーの隠し機能やシャムシエルへの対応に関する大人顔負けの判断力を見せた後だけに、それはより一層際立って感じられた。

トントン、と控えめに扉がノックされ、
「…失礼します」
レイが顔を覗かせた。非常事態宣言が解除されてから三十分程。やや上気した頬からも急いでここへ戻って来た事が推察された。
冬月も言った様に出撃出来なかったシンジの歯痒さも相当なものであったが、本部にすら居られなかったレイのそれは如何ばかりであったろう。
「よくここが分かったわね」
「日向二尉から教えて貰いました」
リツコの問いに答え、長椅子で身体を休めるアスカ達の方へ歩み寄る。

「お疲れ様」
ぶっきらぼうにも聞こえるが、その言葉が優しい気遣いを伴っている事はここにいる誰もが分かっている。
「…まーね、流石にちょっと疲れたかな」
弱々しくだが、ようやくアスカが笑みを見せた。虚勢を張る必要が無いという事。それはアスカにとって掛け替えの無い幸せなのだ。
「ヒカリ達は?」
「直接、家に帰したわ。殆ど怪我も無かったみたい」
シェルターに再収容された所までしか確認はしていない。
保安部から連絡はあったのかも知れないが、次々と混迷の度合を深めていく事態の所為でシンジの元までは届いていなかった。
シンジもアスカも、そしてサキエルもレイの言葉にほっと胸を撫で下ろす。

「碇君、ごめんなさい…」
シンジの方へ向き直るレイ。謝罪の言葉がその唇から紡ぎ出される。
あの喫茶店でシンジからみんなを頼むと言われたにも関わらず、彼らから目を離して前回以上の危機を招いた事を言っているのだろう。
実際今回はギリギリの線だった。エンジェライザーがサキエルの手に渡っていなければ、どうなっていた事か。
第13使徒戦を待たずして、トウジか或いはその他の誰かが一生消えない傷を負っていたかも知れない。それ以上の悲劇も、あり得た。

だが、レイに責任が無いとは言わないがそれはごくごく微々たるものだ。寧ろ。
「いや、僕が使徒の事をきちんと伝えなかったのがいけないんだ」
今になって、その事のまずさがまざまざと感じられる。
共存とは、良しも悪しきも含めて互いの全てを受け入れること。だがシンジは、彼らに使徒という存在の一面しか伝えなかった。
その事がナツミ達に歪んだ楽観視を許してしまった。規則を逸脱した彼らの次に責められるべきは、自分だろう。
「まあ、特に相田には良い薬になったでしょ」
長年の癖で内罰思考に囚われそうになったシンジに気付いたのか、アスカが軽い調子で口を挟む。
「先は長いんだから、早目に現実を知ったのは良い事ってね」
「二度としない、と誓わせたわ」
その言葉に思わずレイの方を見てしまう。そんな場面は想像出来ない、と思いかけたが…
(そういや、前はこの戦いから少しして綾波に叩かれたっけ)
シェルターの中で何があったのかは聞かないでおこう、と思った。アスカの言うように、これが彼らに良い教訓となったのは間違い無い。

その後、レイはアスカやサキエルと共に雑談を始めた。
アスカも自分の武勇伝を語れる程には回復してきた様だ。
その様子を見て安心したシンジは、ふと疑問に思った事をリツコに尋ねる。
「あのエンジェライザーって、通信機能有りましたよね?シャムシエル…さんとも、話せるんですか?」
サキエルの話によれば大学生くらいかと思われるシャムシエル。どう呼んだらいいものか少し戸惑う。
「エンジェライザーでの通信は、傍受される危険性を減らす為に通信可能域を第3新東京市内に限ってあるの。
さっき確認してみたけれど彼女、もう市外に出てしまったようね」

今はこの街の外へ出てしたい事がある、とシャムシエルはそう言ったらしい。
地下に眠るアダムの誘惑を振り切ってまで彼女が求める事とは何なのか。それがシンジは気になった。

「司令!準備が全て整いました。赤木博士も御一緒に!」
肩で息をしながら飛び込んで来た職員が、そう告げる。
「一体ナニが始まるのよ?」

「大した事じゃないさ。あれでも見ながら待っててよ。終わったら一緒に帰ろう」
アスカの問いに答えつつ、部屋の端に置かれたテレビを指差す。
もうアスカ達は十分に戦った。ここからは司令の仕事だ。

事態が呑み込めていない三人に微笑みかけると、シンジはリツコと共にメディカルルームを後にした。





端的に答えを言ってしまうならば。
シャムシエルが求めたのは、自らと言う存在のルーツであった。

使徒とは何か。何故生まれたのか。何故今目覚めて、何故アダムを目指すのか。
人の心に触れて真っ先にサキエルが感じたのは堪らない孤独感であったが、シャムシエルが強く感じたのはそうした疑問の数々であった。
人の中で生きるのも良い。シンジやアスカに協力するのもやぶさかでは無い。
だがどうしてもその前に、シャムシエルは自分についてもっとよく知りたかった。
知的な欲求に忠実という意味では、彼女は加持リョウジと似たようなタイプと言えるかも知れない。
そんなシャムシエルがアスカから譲渡された記憶の中で目を付けたのが、裏死海文書と呼ばれる文献であった。

死海文書は、「正典」「外典」「偽典」の三つからなり、更にそのそれぞれに『表』と『裏』が存在する。
単に死海文書と言った場合には「正典」の『表』を指し、使徒について書かれていると言われる裏死海文書とは「正典」の『裏』を指す。

そもそもこの因果な文献は、1950年頃にイスラエルの死海に面した洞窟から発見された。
無数の巻物の最初の一本を見つけたのは、近辺の村の若者であったという。
その存在と資料的価値は瞬く間に秘密結社ゼーレの知るところとなり、その意向を受けた者達によって全資料の回収が行われた。
ところが、その作業中の事故によって「外典」はその全てが失われ、ゼーレの元にもたらされたのは「正典」と「偽典」のみ。
その内、宗教的に第一級資料と認められた「正典」の『表』は一般に広く公開され、
使徒についての預言書である「正典」の『裏』はその後のゼーレの計画の指針になるものとして厳重に隠匿された。
「偽典」についてはゼーレが保管しているものの『表』『裏』共に一切の解読が不能で、今ではその存在すら忘れられようとしている。

碇ゲンドウですら全貌を知らされていない裏死海文書。
当然保管場所はゼーレの本拠地であると思われ、その所在地を知る術はシャムシエルには無い。
だが、文書が発見された現地にはその内容について何らかの手掛かりが残されているのではないか?
そう考えたシャムシエルは、弐号機に両断されるアザゼルをビルの中から眺めながら単身イスラエルへと渡る決意をしていたのだった。

端的に問題を言ってしまうのならば。
それはパスポートの事をシャムシエルが失念していた事だ。





葛城ミサト宅の現在唯一の同居人。それが、温泉ペンギンのペンペンである。

絶滅が危惧される程の希少種でありながら極めて高い知能を持つ為、BX293Aのコードで実験動物として研究所で日々を過ごしていたが、
偶然その事を知ったミサトによって引き取られ、ペットとして共に生活をしている。
本来ならば温泉ペンギンのような希少種をペットとして飼うなど法律に抵触する行為だが、
セカンドインパクトによって数え切れない動植物が絶滅した為にそれらの法律は完全に形骸と化しており、誰も気に留める者はいない。
仕事に忙殺されがちなのに加えて自らの身の回りすら整頓出来ないミサトでは、他の動物を世話する事など不可能であっただろう。
だが言葉こそ話さないものの新聞も読みテレビも視るペンペンは、家の中に何らかの食べ物さえあれば適当に自分で食べ繋ぐ事ができる。
ペンペンがミサトの何処を気に入ったのかはともかく、この奇妙な共同生活は既に一年近くを迎えようとしていた。

そしてそのペンペンは、テレビのチャンネルを回しながらその短い首をおやっ?と捻っていた。
…どの局でも、同じようなニュース速報をやっている。
金曜夜の楽しみである歌番組が見られない事にがっかりしつつ、表示される字幕を目で追っていく。

───特務機関ネルフ遂に情報公開・間も無く本部より司令の記者会見───

なるほど、これは確かに重大なニュースだ。
ミサトの勤務先であるネルフについてはペンペンもよく知っている。
ミサトはよく機密書類を無造作に放り出しているし、何よりも以前ペンペンが実験動物として扱われていたのが、ネルフのドイツ支部なのだ。
上層部には何やら色々と思惑がありそうだが、まあ基本的には人類の平和の為の組織である。
にも関わらず徹底した秘密主義なのはやはりその上層部の方針なのだろう、とペンペンは考えていた。
だがつい昨日見掛けた書類には、本部の司令が交代したと記されていた。してみると今回の情報公開は、その新司令の意向なのだろうか。
どの程度の情報が出されるか、興味がある。ペンペンは再びチャンネルを回し、一番童顔な女性レポーターの局に合わせて画面に見入った。

しばらくして画面が切り替わり、新司令と思しき少年が姿を現した。両横には、葛城ミサトと赤木リツコ。
何度かこの部屋を訪れた事もあるリツコの顔は、ペンペンもよく記憶していた。
一礼して、少年が口を開く。ああ、昨日聞いた声だ、と思い当たる。
洗濯物の間でうとうとしていた所を突然押入れに放り込まれたのは、司令を家に招待したからだったのか。

「本日は皆さんに、三つの事についてお話しなければなりません」

緊張はしているようだが、若いのにしっかりしているという印象を受けた。ペンペンとて、人間に換算すれば十歳以下なのだが。

「一つ目は我々ネルフ本部の仕事について。二つ目は人類の新たな友となってくれるかも知れない隣人について。
 そして三つ目は全ての生命を脅かす、とある組織についてです」

どうやら長い話になりそうだ。何かつまむものは無かったかと、台所を漁りに行く。

思えばここ三日程のミサトは、それ以前と明らかに様子が違った。
ここコンフォート17の一室から出ることは滅多に無いペンペンには外で何があったのかは分からないが、
過去の呪縛を振り切ったか或いは男でも出来たか、とにかくそれは良い方への変化であると感じられた。
そして、このタイミングでの唐突なネルフの動き。ミサトの戦いが新たなステップに入ったであろう事は想像に難くない。
ドイツ支部での日々は過酷なものだった。そこから連れ出してくれたミサトには感謝している。
放送を見ながら、彼女の為に出来る事は無いか、考えてみよう。

ビーフジャーキーの袋を片手に、ペンペンはテレビの前へと戻った。





…そして、ペンペンは自分の戦いも未だ終わっていない事を知っている。

唯一の肉親である妹のBX294C。
親友でもあり良きライバルでもあったBX04N。

一足早くドイツ支部から姿を消した二人は、今頃どうしているのだろうか。





~つづく~





死海文書についての設定はフィクションです。実際の死海文書とは関係ありません。
ペンペンについてはコミック版の設定を参考にしています。
[19]の御期待には沿えず、申し訳ありません。逆行者ではありませんが、ペンペンも出来るだけ魅力的に書けるよう努力します。



[21803] 21.極秘映像流出
Name: ふたば草明◆c7ec2017 ID:2c221ae6
Date: 2010/11/09 04:25
その日は土曜日で、学校は休み。
アスカと一緒に身の回りのものを買いに行く約束をしていたのに、止むを得ない事情で中止せざるを得なくなった。
ベッドから降りてカーテンに手を伸ばしかけ、アスカがまだすうすうと寝息を立てているのに気付き手を引っ込める。
引っ越してきたその日から、人の温もりを求めるレイの為にわざわざアスカは同じベッドで寝てくれている。
「…アタシも、そうしたいのよ」
アスカが言ったそれもまた本心であったろうが、レイはアスカの心配りが嬉しかった。
事実、レイはあの部屋で一人夜を過ごしていた頃とは段違いに心地良い眠りを味わい、一昨日も昨日も遅刻寸前にアスカに起こされていた。
これまでのレイなら学校に遅刻しそうになるまで寝続けるなど、まるで考えられなかったのだが。
ともあれ、幸いな事に今日アスカは早起きする必要も無い。ミサトの部屋で一緒に、とシンジに誘われていた昼食までまだ時間はある。
初めてアスカの寝顔を見れた事にささやかな感動を覚えつつ、レイは忍び足で寝室を後にした。

昨晩の記者会見は、五時間にも及んだ。
ネルフ、使徒、ゼーレについて懇切丁寧に説明した後、記者からの質問が尽きるまで辛抱強くシンジがその一つひとつに答えていったからだ。
その様子は、レイ達もメディカルルームのテレビで見ていた。

「何故エヴァンゲリオンのパイロットは全て子供なのでしょう。テレビゲームか何かと勘違いしているのでは?」
「対話に成功したというそのサキエルという少女が我々を欺いているのではないと、どうして断言できるんですかね?」

アスカが聞いていたら烈火の如く怒り出しそうな質問が延々と続けられた。
サキエルともども戦闘の疲れから質疑応答に移ったあたりで眠ってしまったのは、本人達の為にも良かったと思う。
「前司令の碇ゲンドウ氏は、未成年のパイロットに手を出した責任を取って辞任したとの噂もありますが」
レイですら根も葉もない言いがかりに怒りを覚えたほどだ。

記者達がどのように受け止めたかはともかく、可能な限りの情報を公開するというシンジの挑戦はひとまずの終わりを告げた。
外部はもちろん、ネルフの一般職員に与えた影響も計り知れないだろう。
「土日は、あまり外を出歩かないほうが良いわね」
帰り際に、リツコがそう告げた。
会見に同席したのはミサトとリツコのみだったが、レイとアスカの写真もその場で公開されたからだ。
これは冬月の入れ知恵で、ゼーレによる暗殺を防ぐという狙いがある。国の誰もが知る有名人であれば、そう易々と手は下せない。
そんなわけで、レイの初めての必需品以外の買い物は止む無く延期となったのだ。

そっと、冷蔵庫を開く。買い置きのシリアル程度ならあるが…シンジの作ってくれる昼食まで腹を空かしておくのも悪くない。
少し迷ってから、牛乳では無くペットボトルの紅茶を手に取る。
牛乳が苦手というわけではないが、選べる時には動物性の食品を避けてしまうのは一種の癖だろう。
朝の乾いた喉に、冷たさが気持ち良い。笑い話にしかならないようなきっかけで引いた風邪も、どうやら完治したようだった。

視界の隅に真新しいテレビが見える。アスカは家具の類を一切持たずに来日したし、レイの以前の部屋にもテレビは無かった。
これは、新しい生活の為にとミサトが用意してくれたものの一つだ。まだ箱から出しただけで、接続はしていない。
(あれから、どうなったの…?)
きっと今朝のニュースは、ネルフの話題で持ちきりの筈だ。もしかしたら夜を徹して特集が組まれたかもしれない。

シンジが公開したデータの中には、第3人造使徒アザゼルの名を厳かに告げるキールの音声とアザゼルが縦横無尽に暴れまわる映像もあった。
ゼーレとシンジらの内部事情はともかく、あれだけの凶悪な兵器を平然と投入してくる組織の存在は、現実的な恐怖として認識されただろう。
敵の敵は味方というわけでは無いが、シンジの理念が人々に理解されたと思いたいが。
世間の反応が気になったレイは、自分でテレビを繋げてみようと思い立つ。

(これを、差し込むのね)
手近なコンセントにプラグを差し込み、電源を入れる。
…映らない。
どうしてだろう、と不思議に思ったレイは、ずっと前に聞いたリツコの言葉を唐突に思い出した。

───使徒との戦いでケーブルを繋いでいるビルが損傷した場合、電力の供給が止まる可能性があるわ。速やかに他に接続しなさい。

(ここのコンセント、壊れているんだわ)
廊下のコンセントに繋ごうとするが、届かない。運良く延長コードがあったのでそれを使ってみる。
…映らない。
それなら台所。届かないのでもう一つ延長コード。
…映らない。
それなら玄関。もう一つ延長コード。
…映らない。
それなら───

しばらく経ってようやく起きてきたアスカが目にしたのは、無数のコードでぐるぐる巻きになったレイの姿だった。
助けて、と目で訴えてくるレイを見て溜息を一つ。

「テレビってのは、アンテナに繋がなきゃ映らないのよ…」

また一つ、レイは賢くなった。





「どうせならミサトんとこで見せてもらいましょ」
と提案し、着替えて髪を整えるとアスカはレイを伴って玄関を出た。
別にレイには虚勢を張らなくても良いのだが、取り扱い説明書の漢字が読めないから、とストレートに言うのは憚られた。
十一階の通路から地上を見下ろしてみる。…別にマスコミが押し寄せているような様子は無い。
恐らくは出された情報量が多すぎて、関係者一人ひとりにまで記者を張り付かせる余裕が無いのだろう。
芸能人の如くちやほやされたいとは思わないが、これはこれで何だか面白くないような気もする。

約束の時間まではまだかなりあったが、ミサトの部屋には既にシンジも訪れていた。
一昨日来た時には何故か見掛けなかったペンペンの相手をしつつ、料理の下ごしらえをしている。
「私も手伝うわ」
レイがそう言ったがシンジは休んでてよ、とやんわりそれを断った。
少し残念そうな顔をしていたレイだったが、早目にここへ来た理由を思い出したのか、リビングへと戻って来た。

「それで、どんな感じなの?」
テレビはちょうどコマーシャルを放送していたので、ミサトに尋ねてみる。
「今朝早く、国連から予算の配分を完全に停止し所属団体としての権利を全て剥奪する、ってきつ~い通告が副司令の所にあったわ。
 ま、国際公務員としてはクビね。仕事の割に給料は最後まで安かったけど」
ゼーレの意向である事は間違い無い。極秘情報を独断で公開したのだから、理由付けも十分だろう。
「ドイツと中国の支部が、どちらが本部に格上げされるかで早くもバチバチやってるっぽいしね。
 委員会の機嫌を取ろうと先を争ってコッチを非難する声明を出したりして、見苦しいったらありゃしないっての」
中国の第4支部も、北京を第3新東京市以上の要塞化する計画を発表したりと最近その存在感を増しているが、新たな本部はドイツで決まりだろう。
そもそもゼーレという組織名が独語という事からして、本拠地では無いにしろゼーレの重要な活動拠点がドイツに存在する事は容易に想像がつく。
お膝元とも言えるドイツ支部を本部とする事で、ゼーレは本格的にその影響力を全世界に対して行使してくるに違いない。

「でもね~、良いニュースもあるのよ?聞きたい?」
聞きたいに決まっている。というか、そんなところで焦らさないで欲しい。
わざと意地悪く視線を外し、持参したノートを開く。起きた事件や用語の意味などを書き留める、最近のアスカの必携品だ。
聞きたい?などと尋ねはしたものの言いたくて堪らなかったのか、結局焦れたミサトはすぐに話を続ける。

「ゼーレに宣戦布告した私達の援助をしたい、って早速幾つかの組織から申し入れがあったのよ。新しいスポンサーね」
「それって、前司令が…」
黙って話を聞いていたレイが短く口を挟む。
「そ。色々裏で手を回してくれてたみたいね~。申し出の有った金額を計算すると、活動資金はなんとこれまでの1.5倍!1.5倍よ!」
確かに、戦闘時の判断ミス一つで国が一つ傾くレベルの損害を出しかねないミサトの立場を考慮すれば気持ちは分からなくも無いが、
大の大人が金の事でそんなにあからさまに興奮するのはどうかと思う。
まあ間接的にアスカたちの生活費や小遣いもそこから出る事を考えると、潤沢なのに越したことは無い。
「でもその組織って、信用できるわけ?」
「…んー、まあどれもこれも言ってみれば秘密結社だから真っ白ってわけには行かないわね。
 実際経済界や宗教界の裏で色々してるんだろうけど、少なくともサードインパクト目指してたり戦争を煽ったりする手合いじゃないわ。
 リツコもMAGIで丁寧に調べたって言うし、信用して大丈夫っていうのが一応の結論」
ゼーレもただ補完の日だけを目指しているわけでは無い。当然経済や宗教においても少なくない力を持っている事だろう。
とすれば、ゼーレが潰れるのは彼らにとっても都合が良いというわけか。
どうにもドロドロしたものを感じるが、ネルフの活動が善意のボランティアなどで立ち行く筈も無い事くらいは分かる。
国連よりも秘密結社の方が多くの資金を捻出できて結果それが平和と未来の為に使われるとは、何とも皮肉なものだ。
取り敢えずそれらの聞き慣れない組織名を、ノートにメモしておく。

「駐屯していた国連軍が日本国内からの撤退を始めた事や、アメリカが沈黙を保っているのも予想通りね」
ネルフが委員会に反旗を翻した以上、在日国連軍はそのままでは危険と判断されたのだろう。
エヴァンゲリオンで厚木や入間の基地を襲撃するとでも思ったのだろうか。全く以て心外だ。
アメリカの二つの支部については本部との間に太いパイプがあるというが、差し当たっては中立を決め込むつもりらしい。
「それよりも問題は…」
そこまで言うと、ミサトはテレビの方に視線を向ける。アスカとレイもつられてそちらを見た。

「だからね…その、使徒ですか?公開された映像を見れば、言い方は悪いですけど化け物ですよ、化け物。
 その次々と襲ってくる化け物と仲良くする為に、国連を敵に回す?冗談じゃないですよ、全く!」

いつの間にかコマーシャルは終わり、コメンテーターが好き勝手な事を並べ立てていた。
どこの大学教授だか知らないが、男のくせにいやに甲高い声が耳障りだ。
「…問題は、予想以上に世論が厳しいって事ね」
そう言いながらチャンネルを切り替えるミサト。どこの局でも似たような論調だった。
ゼーレという組織の危険性やエヴァの運用については一定の理解を示す声もあったものの、使徒との共存という一点においては賛同者は皆無と言える。
マヤ達の時のようにすんなりとはいかないと分かっていたが、これは相当に厳しい情勢のようだ。

各局を一周して、結局元の特番に戻って来た。
昨晩からぶっ通しで放送されているらしいその番組の特徴は、画面左側に表示されているグラフ。
呈示された質問に対して視聴者が携帯電話などでリアルタイムに投票できる、というシステムだ。
そこには、このように字幕が出されていた。

───あなたは、人間と共存したいという使徒の言葉を信じますか?
───信じる……4.2%
───信じない…86.5%
───どちらとも言えない…9.3%

「こればっかりは地道に説明を続けていくしかないかなぁ、ってね…」
台所から良い匂いが漂って来た。シンジにもこちらの話はちゃんと聞こえていた事だろう。まあペンペンにも。

シンジは、何を思うのか。ここからではその表情は窺えない。一人で料理をしたかった気持ちが、少し分かった気がした。





昼食を終え、どうせ外に出られないのなら今日は一日みんなミサトの部屋で過ごそうかという話になり、
それならチェロでも取って来ようと通路に出たシンジは、思い掛けない来訪者に遭遇した。
鈴原トウジ、相田ケンスケ、洞木ヒカリの三人である。
そう言えば昨日、サキエルと会うまでの道すがらコンフォート17に住んでいるという話をケンスケにした気がする。
先の約束通りにトウジを二発殴ってから、謝罪したいという三人をミサトの部屋に招き入れた。
司令は自分だが、釘を刺しておいてもらうなら大人であるミサトの方が適任だろう。

「ホンマに、えらいスンマセンでした!」
トウジの声に合わせて、一斉に頭を下げる三人。
「そーね、昨日はマジでヤバかったからね…」
そう前置きすると、ミサトはあの時の状況が如何に危ういものであったかを語り始める。
三人とも、本当に神妙にその一言ひとことを噛み締めていた。
…その後ろで何に興味を引かれたのか、ペンペンがケンスケのバッグに首を突っ込んでいる。

昨日のレイの報告を聞く限り、三人は出来るだけ庇おうとしていたようだが発案者はナツミであったらしい。
だが今日この場に彼女を連れて来なかったのは、昨日受けたであろう衝撃を考えれば正解だったと思う。
ナツミはまだ幼い。先のサキエル戦もそうだが、あれ程の体験をすれば一生残る心の傷となるおそれもある。
叱るのはいつでも出来る。ならば今はまずゆっくり心と体を休めて欲しい。
バッグの中から勝手に何かのメモリーカードを持ち出すペンペンを見ながらそう思った。

アスカもヒカリとの関係をギクシャクしたものにしたくなかったのだろう。
ミサトの説教が一段落した所で自分の部屋から幾つかの菓子を持って来て、そこで真面目な話は終わりとなった。
その後も三人はしばらく表情が固かったものの、やがていつもの雰囲気を取り戻していった。
他愛も無い雑談の中、どうしても話に上るのは昨日の会見の事。
帰宅してすぐは皆テレビどころでは無かったろうが、深夜も今朝も引っ切り無しに放送が続いているのだ。

「まず、エヴァの見せ方が良くないって」
そう言うのはケンスケ。公開された、エヴァンゲリオンのショートフィルムについてだ。
「いいか、ロボットってのはカッコ良いかどうかが重要なんだ。あれじゃあ強さは伝わるけど、威圧的過ぎて逆効果だって!」
アングルがどうの、背景がどうのと持論を展開するケンスケ。意外と、筋が通っている。

「ワイは、パイロットの選出基準いうんか?その辺がよォ分からへんかったな」
鋭い指摘にドキッとさせられる。確かにコアの事についてまでは流石に公開していない。
「センセらにも事情っちゅうんはあるやろがな。疑問に思うた奴らも多いんとちゃうやろか」
いつの間にか呼称が変わっている事はともかく、これまた傾聴に値する意見だ。

最後に口を開いたのは、ヒカリ。
「私は、良い記者会見だったと思うな」
どの辺が?とアスカが尋ねる。ヒカリは少しだけ考えてから、
「碇君の人柄っていうのかな。温かさみたいなものが伝わってきた気がするの」
と、そう言った。
クラスメイトという若干の身内びいきを除いても、そのように受け止めてくれた者が居たという事実はシンジに希望を与えてくれた。

やがて空が赤く染まる頃、三人は家に帰っていった。
いつの間にかメモリーカードをバッグに戻していたペンペンも、満足そうな表情で自分の寝床である冷蔵庫へ戻る。

トウジを全力で殴った右拳がズキズキと痛む。
(やっぱり一発にしておくべきだったかな…)

それとも。もう少し身体を鍛えるべきだろうか。





トウジと別れて自宅へと戻るケンスケはの足取りは、重かった。
その原因は、自らが犯したもう一つの罪について謝罪を出来なかった事にある。

背中のバッグに入っている一枚のメモリーカード。

それは、サキエルが人から使徒へと姿を変えるその一部始終を収めたものである。

あの時ナツミの誘いに応じたケンスケには、ナツミの願いとは別に叶えたい目的があった。
それは、あの時点ではまだ公開されていなかったエヴァンゲリオンの映像を撮る事。
兵器と美少女の撮影を使命とするケンスケにとって、それはまたと無いチャンスであった。
だが結果はあの有様。ろくに弐号機の撮影もしないまま、他の三人と共にビデオカメラを持ったまま腰を抜かしてしまう。
一瞬とも永遠ともとれる恐怖を味わって、そして。

気付けば、目の前にその光景があった。

眼差しに決意を湛え、強大な存在に立ち向かう少女。
掛け声と共に無数の光を放ち、一糸纏わぬその姿はさながら天使のようで。

いつレンズに彼女を捉えたのかは覚えていない。
その神聖さに圧倒されながらも隠すべき所は隠し、撮るべき所は撮ったその腕前だけは賞賛されるべきだろう。

今日ケンスケは、これをシンジに渡して素直に謝るつもりであった。
だがどうにもそのタイミングが掴めず、結局こうして帰って来てしまったのだ。

(学校で、話すか)
カードを慎重に処分してしまえばそれで問題は起こらないだろうが、やはり一言謝っておきたかった。

罪と、責任。
今回の事件をきっかけに、ケンスケはその事を少しづつ考え始めていた。





夜も九時を回りそろそろそれぞれの部屋に引き揚げようかという時になって、電話がけたたましい音を立てた。
折りしもミサトは出られなかったので、一番近くに居たレイが受話器を取る。
「…もしもし」
「あ、その声はレイね。ミサトは?」
電話は、リツコからだった。珍しく慌てたような様子。入浴中であるとの旨を伝える。
「…そう。じゃ、テレビを視るように伝えておいて頂戴。こっちは対処で忙しいから、悪いけどこれで切るわね」
対処?何の事だろう。受話器を置きながらそう考え、それから先の言葉を思い出してテレビを点けてみる。

───衝撃!使徒変身動画、ネット上の投稿サイトに流出!───

帰り支度を始めていたシンジとアスカも、何気なくそちらを見て唖然とする。
画面には、サキエルの変身シーンがいっぱいに映し出されていた。
未だ羞恥心の欠如したレイは気に留めなかったが、実際にはかなり際どい映像だ。

やがて映像が終わり、スタジオの様子が映し出される。

「いやあ、全部が全部鵜呑みには出来ないとしても、まずは話を聞かなきゃ始まらんでしょう。
 まあ個人的には、嘘をつくような少女には見えませんがね!」

この甲高い声は昼間も聞いた。言っている事がまるで変わっているような気がするけど。
ふと見ると、画面左側のグラフの数値が恐ろしいスピードで変動していた。

───あなたは、人間と共存したいという使徒の言葉を信じますか?
───信じる……48.5%
───信じない…23.0%
───どちらとも言えない…28.5%

こうして見ている間にも、「信じる」側の数字が上がり続けている。

「日本の男って…」
アスカが頭を抱えた理由はよく分からなかったが、これは喜ぶべき事の筈だ。

(こういう時は、笑えばいいのに)

目を不自然にテレビからそらすシンジを見ながら、レイはそんな事を考えたのだった。





~つづく~



[21803] 22.ネオネルフ誕生
Name: ふたば草明◆c7ec2017 ID:2c221ae6
Date: 2010/11/10 06:43
壇上に立つシンジは、いつになく饒舌だった。
少し減ったとは言え、ネルフ全職員の前で演説などという普段なら思い切り萎縮してしまいそうな場面でも、淀み無く言葉が続く。
「…それなのに、ゼーレは自分達の歪んだ目的を『進化』という聞こえの良い言葉で誤魔化し、全人類に押し付けようとしています。
 彼らが人類の種としての概念をどのように捉えていようが、それは殆どの人々にとって謂れのない虐殺にほかなりません!」
そうだ!と威勢の良い声が眼下の職員達から上がる。本部内のボルテージは今や最高潮に達していた。





シンジのこの張り切りようには理由がある。
父ゲンドウが渚カヲルを京都の研究所で無事保護したとの加持の報告を、先程ミサトから聞いたからだ。

昨日と同じく一日家の中でゆっくりしようと考えていたシンジに冬月からの電話があったのは、まだ朝も早い時間だった。
「嬉しい誤算と言うべきだろうな。君の力が必要になった」
電話を聞き、シンジはミサトの車で急ぎ本部へ向かった。
既に一日を室内で過ごし退屈していたアスカも一緒に行きたがったが、敢えてレイと共に残す。
世論がこちらに傾きかけているとは言え、昨日の今日でチルドレンが三人一緒に行動するのは目立ち過ぎるだろう。
そんな考えも空しく、決して一般的とは言えないミサトの車種と運転の所為で出発早々あちこちから指をさされる事になったわけだが。

あの記者会見の後、シンジはネルフの全ての所属職員に対して通達を出した。
曰く、新たな体制の下でゼーレとの戦いに参加を希望する者は週明けまでに人事課にて署名すべし、と。
「半分は残ると良いけどね…」
そう言ったミサトの表情は少し憂鬱げだった。気持ちは分かる。もしも残留者が半数を切れば、戦いどころでは無くなる。
逆に依願退職者側に申し出るよう告げていれば、僅かなりとも惰性で残ろうという者が居たかも知れない。
だが、そうはしなかった。確固たる意思を持たずにこの戦いに身を置くことは、本人の為にも良い事では無いのだ。
簡単に受け入れられる話ではないのは承知の上。即刻クーデターが起きなかっただけでもありがたい事だと思っている。

だから、冬月から全体の八割の職員が署名を提出した、と聞いた時俄かには信じられなかった。
「多くの者があれから一度も家に帰らず、侃々諤々議論を交わしていた。私も久々に熱くなってしまったよ」
そんな事は想像もしなかった。重い選択を投げかけるだけ投げかけて一日くつろいでいた自分を恥じる。
「特に食堂の連中など署名に血判を押し始めてね。自分達も料理で世界を救う!とそれはもう凄い意気込みだったぞ」
(料理人が指を傷つけていいのかな)
そう思わなくも無かったが、そこまで賛同してくれるというのは素直に嬉しい。
「そんな訳で、特に若い職員達は司令からの檄でも無いと収まらんような状態だ。悪いが頼まれてくれないか」

そして、どんな話をすればいいんだろうと悩んでいたシンジは、車上でミサトからその報告を聞く事になる。
「!今何て?」
「だからね、前司令が京都のゼーレ関連施設を一つ潰したんだけど、その時に監禁されていた渚君を見つけたらしいのよ。
 今は前司令や加持と一緒にいるんだってさ」
その言葉は、周囲の視線も気にならない程の衝撃をシンジに与えた。

碇シンジ。綾波レイ。惣流・アスカ・ラングレー。碇ゲンドウ。冬月コウゾウ。葛城ミサト。赤木リツコ。加持リョウジ。
そして彼らに続く最後の帰還者が、渚カヲルである。
かつてはシンジの最後の友であり、最後のシ者でもあった少年だ。
その正体は、計画完遂の為ゼーレより送り込まれた第17使徒タブリス。
アダムの魂を有すると言われており、完全な被造物である人造使徒などとは一線を画す存在である。
その彼が、見つかった。

「いずれコッチに送り込むつもりで、日本の風土や季候に合わせて調整してたんでしょうけど、
 対立が明らかになった今なら間違い無く海外に送還されてたでしょうね。お父さんに感謝しないと」
ゼーレの研究所内で唐突に覚醒した後も、そんな事はおくびにも出さず過ごしていたのだろう。
初号機に握り潰されるその瞬間まで飄々としていたその振る舞いが思い出される。

シンジが何も言わない事に気を使ったのか、少し優しい声色でミサトが尋ねた。
「シンちゃん、会いたい?」

…会う勇気が無い、というのが最も正確なところだろう。
カヲルをその手に掛けたシンジ。シンジにその業を負わせたカヲル。どちらも過ちであり、そしてどちらもそれを赦している。
だがシンジの目指す新たな世界を、カヲルはどのような目で見ているのだろうか。
もし彼がそれを否定し、再び死を望んだ時…今の自分にそれを止めるだけの強さは果たしてあるか。

「…今はまだ、カヲル君も迷っているのかも知れないし」
好きって事さ、と言ってくれた彼が会いに来ない理由。シンジにも何となくその意味が分かった。
「次に会うとき、胸を張って話せればいいかなって。そう思います」
その日が来るまで、絶対に負けられない。シンジは、静かなる闘志が自分の中で渦巻くのを感じ取っていた。





「…ここは既に国連より追放され、いずれ他の支部が新たにネルフ本部の名を継ぐ事となるでしょう。
 ですが、例えその敵が変わっても僕達の仕事が人類を守る大切な仕事である事に変わりはありません!」

基本的に争いを好まず、人当たりの柔らかいシンジ。
だが第12使徒戦のように、意外と調子に乗りやすいところもある。

「よって、ここにゼーレとその手先であるまやかしのネルフを打ち砕く新たなるネルフ、その名も『ネオネルフ』の設立を宣言します!」

うぉおおっ、と建物を揺るがす程の喚声がその場を埋め尽くす。

感情に任せて口を滑らせたせいで、制服からIDカードに至るまでその全てを新調する必要に迫られ、
その予算をリツコから聞いたシンジが顔を真っ青にしたのはそのすぐ後の事であった。





かつて無いほどにネルフ改めネオネルフの心を一つに纏めたシンジの演説から一時間の後、リツコは自室に戻っていた。
室内にはリツコが呼んだサキエルと、例によってふらりと姿を現したミサト。
未だどこもかしこも熱気の冷めない本部だが、ここだけは静かに時間が流れていた。

「じゃ、苦しいだとか痛いとか、そういうのは全く無かったのね?」
「はい。寧ろ…」
サキエルが答える。先日の、エンジェライザーによる変身の時の事だ。
「寧ろ?」
「…その、気持ちいい感じ、でした」
恥ずかしげな答えが返ってくる。流出してしまったあの映像の、妙に色気のある表情の理由が分かってしまった。

エンジェライザーの変身機能は、そのテストすらまだ行っていなかった。
その構造は極めて精密であり、本来ならばぶつけ本番で使用して良いものでは無い。
あの時はサキエル自身の願いとその切羽詰まった状況から使用を許可したが、サキエルの身体に負担が無かったかリツコは気にしていた。
戦闘直後の検診で体調の異常が無い事が分かり、そしてこの聞き取りを終えてようやく安堵する事が出来たのだ。

ペンを置き、机からサキエルの方へと向き直る。丁度そのタイミングを見計らってミサトが口を開いた。
「この間はサキちゃんのお陰で助かったわ。アスカも、シンジ君のクラスメイト達も皆無事だった。本当にありがとう」
「いえ、そんな…」
謙遜しかけたサキエルが口を噤む。ミサトの話が終わりでは無い事に気付いたから。
ミサトが言わなければリツコが言おうと思っていた。いずれは告げておかねばならない事だ。
「あなたがみんなを守ってくれようとしたその気持ちは、とても嬉しいわ。ただ…」
そこで一旦言葉が区切られる。
「原則として発令所の許可無しに、エンジェライザーを使用しないで欲しいの。理由は…あなたなら分かるわよね?」

使徒が単純に戦力として数えられるのなら、戦いが進めば進む程苦戦を強いられる事はなくなる。
最強と言われる第14使徒であっても、それまでに対話に成功した全使徒とエヴァ三機を一斉に投入すれば抵抗する術を持たないであろう。
だが、そうは出来ない事情がある。それは、建造物や生態系に与える被害の問題だ。
例えば戦いで街に同じだけの被害が出たとして、それが初めから人類の守護者として造られたエヴァンゲリオンによってもたらされたか
それともただ一度とはいえ敵であった使徒によってもたらされたか。その違いは国民の印象を大きく左右する。
エヴァだけで勝てるかも知れない戦いに不用意に使徒を出すわけにはいかないのだ。
サキエルもその事実に気付いたのだろう、静かに頷いた。

「逆に、どうしようもなくなりそうな時に───もちろんサキちゃんが同意してくれればだけど───お手伝いをお願いする事も、
 あるかも知れないわ。身勝手なのは分かってるけど、私達は絶対に負けられないのよ」
それもまた事実。現に当のサキエルとの戦いで、三機のうち二機のエヴァが数日とは言え出撃不能となった。
今後サキエルの力に頼らざるを得ない状況が訪れる可能性は、決して低いものでは無いだろう。
「…はい。その時は是非、お手伝いさせて下さい」
気分を害した様子も無く、サキエルは微笑んでそう言った。

「その代わりって言っちゃ何だけど、何か欲しい物とか、言ってみたい所とかなぁい?おねーさんが出来るだけ叶えたげるわよ?」
急におどけた口調になるミサト。
「もうサキちゃんの存在は秘密じゃ無いから、外を出歩いても問題無いしね~♪」
変質者の類に狙われそうな気はするが…“レーザーパイル”とATシールドを生身で使えるサキエルなら、並の保安部員以上に強い。
そんな、別に…と言いかけたサキエルだったが、何かを思い出したように言葉が止まる。
「おっ、何かあるのね?ほら、遠慮せずに言っちゃいなさいよ」
暫く躊躇っていたサキエルだが、やがて意を決したのか、口を開いた。

「学校に、行ってみたいです。すぐじゃなくていいし、一日だけでもいいんですけど…」





サキエルがリツコの部屋を去ってから、話題は今後現れる使徒の事に移った。
「使徒の現れるスケジュールは、大きく前倒しになると見て間違いないようね。どのくらいかは分からないけれど」
ミサトの読みも同じであった。以前に第3使徒を倒した時、次の第4使徒襲来までは三週間の余裕があった。
だがサキエルが共存を選んだ後、シャムシエルは僅か三日で姿を現したのだ。
当然シャムシエルが共存思想に賛同した以上、次の使徒も数日中に現れる公算が高い。
このペースならば、恐らく全ての使徒が目覚めるまで一年どころか半年もかからないかも知れない。

「一方で、使徒の現れる順番については従来通りになると予想されるわ」
サキエルとの戦いがその結果を変えた事で使徒の出現順序に影響があったとすれば、次の使徒がシャムシエルとなる可能性は1/14。
にもかかわらず現れた使徒がシャムシエルだったという事が、高い信憑性でリツコの予想を裏付けている。
ゼーレの管理下に置かれていた渚カヲルは、例外と見ていいだろう。

「って事は次が荷粒子砲で、それからオサカナか…」
次々と、かつて相対した強敵の姿が目に浮かぶ。だが、今回それらは倒すべき敵では無い。
「ヤシマ作戦は使えないわよ。ちゃんと考えてるの?」
「わ、わーってるわよ。何とかするって」
初号機にしろ弐号機にしろ、使徒に心を伝えるにはATフィールドを中和した後シンクロ率400%の状態で相手の体に触れなくてはならない。
その事を考えれば、一定範囲内に踏み込んだ相手を自動的に狙い撃つ第5使徒の特性は非常に厄介であると言えた。

「でも、水中戦はそっちの仕事だかんね?ろくに身動きも出来ないんじゃ、作戦も何もあったもんじゃないわよ」
現時点で、まともに水中戦がこなせる装備は存在しない。さりとて、前回の様に火力任せで撃破するわけにもいかない。
「もう設計に入っているわよ?言ってなかったかしら」
「聞いてないわよ…」
ガックリと肩を落とす。どう考えてもミサトの方が不利だった。

そう言えば、とリツコが再び話を切り替える。
「ゼーレの方はどうなの?リョウちゃんから電話があったんでしょう」
ああ、とミサトは今朝方聞いたその声を思い返していた。
強引にドイツ支部を発った時点で、既に加持はゼーレと切れている。
だが、これまでの人脈を活用することで、ゼーレに関するいくらかの情報が加持のもとへと届けられていた。
「ゼーレの【12】がコッチへの対応を一任された、って噂があるらしいわ。近々日本入りするかも知れん、ってさ」
モノリスによって隠された十二人の素顔は【01】のキールを除けば互いにすら知らされていないという。
男か女か、若者か老人かすら分からないのでは手の打ちようがない。
「他には?」
「例のA計画、やっぱり人造使徒のコトだったみたい。今言われても、ちょっち遅いのよね~」
加持から聞いた話はそんな所。
ミサトにとっては最後に囁かれた愛の一言が最も大切だったのだが、それを惚気てゲンドウから電話の無いリツコを煽る程趣味が悪くは無い。
一通りの話が終わった所で、席を立つ。そろそろアスカの不機嫌がピークに達しているかも知れない。

「学校の件、どうするつもりなの?」
背中に、リツコの声が投げかけられた。
サキエルの初めての、具体的な願い。

「何とかするわよ。…何とか、してあげたいじゃない?」
後ろを振り返らずにそう言うと、ミサトはその部屋を後にした。





西暦2000年のセカンドインパクト以降、日本の政治家の質は大きく様変わりした。
その理由は大きく分けて二つある。
一つは、公共事業などにまつわる利権が一気に消滅し、誰も私腹を肥やせなくなった事。
そしてもう一つは、復興支援の為に給料を大幅に削減しなければならなくなった事だ。
金銭的、権力的な野望を持ってその地位にしがみ付いていた者たちも一人また一人とその地位を退き、
ついには私財をなげうってでも国を良くしようという清廉の志士だけが残った。

だが皮肉な事に、彼らの思いは殆どその頃の国民に伝わる事は無かった。
どこの国も自国の事に手一杯で外交は最早用を為さず、市場そのものが崩壊した為に貨幣価値は制御不能となり、
雇用も、保障も、医療も、何もかもが政府の手を離れてしまったのだ。
五年、十年と立つ内に人々は生活を立て直し、政府はその機能を取り戻していったが、一度低下した求心力はなかなか元には戻らない。
それでも今なお、国を憂う者たちは日々国民の為に出来ることを模索し続けていた。

長野県第2新東京市の小さな料亭の一室。碇ゲンドウと向かい合って座る老人も、その一人であると言われる。
日本国第92代総理大臣。戦略自衛隊を組織した先代のような目立った業績は無いものの、既に在任期間は八年になる。
尤も政治が混乱し与野党共に相手を攻撃するような余裕を失ったことで、2000年以降首相交代がめっきり無くなったという事情もあるが。

「会見は、拝見しましたよ。随分と優秀なご子息のようですなあ」
好々爺然とした風貌。ゲンドウも直接会うのは初めてだった。
「幾つになっても道の定まらない、うちの倅とは大違いだ…おっと、話が逸れてしまいましたな」
若い頃は敏腕で鳴らしたと聞く。だが年下の自分にも丁寧にゆったりと話すその様子からは、そんな気配は読み取れなかった。

「碇さん、あなたの要望は分かります。
 国連を脱退し、戦略自衛隊にネルフ…今日からはネオネルフでしたかな、とにかくそちらと協力体制を取って欲しい、という事でしょう?」
やはり侮れない。ネオネルフの名はゲンドウですらつい先ほど知ったばかりだ。それをもう、この老人は知っている。
頭が切れるのは間違いない。問題は彼が詭計や謀略を好む類の人間かどうかだ。かつての、自分のように。
「御理解が早くて、助かります」
座ったまま、小さく頭を下げた。

「こんな老いぼれでも内閣府の長ですから、ある程度の情報は入ってきます。ゼーレの野望は、残念ながら事実のようですね。
 国連を敵に回すのは辛いですが、殆どの国では委員会の徹底した情報統制が敷かれているようですので、避けられないかも知れません。ただ…」
そこで区切り、猪口で酒を一口。ゲンドウは辛抱強く、言葉を待つ。

「若い者は、いいですなあ。色々な事に夢を持つ事が出来る」
ほんの一瞬遅れて、それが共存について言っているのだと気付いた。昨夜から、若い男性を中心に使徒との共存を望む声が強くなっている。
「私も、いつまでも若くありたいものです」

───そうか。自らの眼で使徒を見極めたいと。そういう事か。

ゲンドウは、ようやくこの人物の本質を垣間見た気がした。
相手が信じられるかどうか分からないのなら、会ってみれば良い。当たり前の事だが、それが出来る政治家は少ないだろう。
地位を得たものはとかく損得に踊らされ易く、それ故に相手の心を尊重する事を怠っていくのだ。
多忙であるとかは言い訳にすらならない。それこそ、国民の存亡に関わる大事だ。
近年、第3新東京市の建設をはじめとする様々な利権が復活し、再び政治の分野に俗人が集いつつあると言われている。
だが、この老人なら。
この老人なら、本当に日本を変えられるかも知れない。

「それならば」
長い長い沈黙の後、ゲンドウが口を開いた。

「彼を、秘書に雇われては如何ですか?」

老人の細い目は、その時初めてゲンドウの隣で珍しげに日本料理を食べ続けていた銀髪の少年に注がれたのだった。





~つづく~



[21803] 23.教室の風景
Name: ふたば草明◆c7ec2017 ID:2c221ae6
Date: 2010/11/13 00:57
昨日は一日、レイと共に家の片付けをして過ごした。
片付けといってもまだ私物は少ないので、本部より支給された基本的な家具、家電の配置を決めた程度だ。
コンフォート17には他にも幾つかネルフの関係者が住んでいる部屋もあり、男手が必要な時は呼んで下さいと言われていたのだが、
結局本棚やベッドの移動まで全て自分達の手で行った。
これからの生活を想像して、ああでもないこうでもないと言い合いながら試行錯誤を重ねるのは楽しかった。
別にこれくらいで筋肉痛になったりはしない。チルドレンは鍛え方が違うのだ。

やがて、疲れた顔をして帰ってきたシンジやミサトと共に夜の食卓を囲む。
テーブルの上に並ぶのは、ミサトが買ってきた弁当。
四人も居てまともな食事を作れるのがシンジだけというのは…ちょっと何とかした方がいいのかも知れない。
シンジは演説の場で暴走をやらかした後、更に火がついてしまった各部署で引っ張りだこだったらしい。
本部内で人と擦れ違うたびに抱負や意気込みを延々聞かされて、それが原因で疲労困憊しているのだとか。
朝は文句を言ったものだが、そう聞くと行かなくて正解だったと思う。
それにしても…ネオネルフ、ねぇ。

まだ殺風景な部屋に戻って、レイと一緒に眠りに就く。
400%を出したあの日は久し振りに亡き母の夢を見たが、それはとても穏やかなものだった。
依存するつもりは無くとも、夜の暗がりに寂しさを感じずに済むのはありがたい事だった。
そして同時に、自分もレイに僅かばかりの安らぎを与えてやれていられればいいな、と思う。

そして今日、アスカにとっては二日目となる登校の朝。
例の会見以来マンションの外に出るのは初めてだったので、三人揃っての登校はある程度の騒ぎになるかも知れないとの覚悟はしていたが。

「あっ、お兄ちゃん達テレビに出てた人でしょ?すっごい、本物だ~」
無邪気にはしゃぐ小学生の女の子や、
「応援してるからね、次の戦いも負けるんじゃないよ。これ持ってお行き!」
三人分のベーグルを持たせてくれるパン屋の女主人などどちらかと言えば『ご町内の有名人』扱いで、逆に拍子抜けしてしまった。
考えてみれば、ここ第3新東京市が戦場になると発表された時点でネルフに反感を持つ者の殆どは街を出ただろうし、
そのある意味危険な場所に、わざわざ野次馬根性だけで乗り込んでくる輩がそうそういるとも思えない。
唯一校門前にはテレビカメラとレポーターが待機していて、
「いつ戦いになるか分からないのに、学校なんかに来ていていいんですか?」
などと訊いてきたが、どんな事でもいいから批判したいという魂胆が見え見えだったので、
「学校なんかって事は無いでしょ。楽しいわよ?テレビの前のみんなも、ちゃんと学校行きなさいよね!」
ビシッとカメラを指差してそう言い放ち、唖然とするレポーターを尻目に校門をくぐった。
昇降口の辺りでは今のやり取りを聞いていたのか、ヒカリがやれやれといった笑いを浮かべてこちらを見ていた。





一時間目は、理科。

ドイツにて、アスカがまだ幼い内から大学へと進学したのはアスカ自身の希望によるものでは無かった。
キョウコを実験によって間接的に死に至らしめた事に対する外部の追及をかわす為に、
周囲に分かりやすい形で遺されたアスカの生活面や学業面を支援したかったドイツ支部の大人たちと、
将来人類を救うかも知れない逸材を輩出しておきたい大学側の利害が一致した事による、どちらかと言えば強制的なものだった。

だから今考えればアスカが例え全く勉強をしなかったとしても、適当な理由をつけて大卒の称号は与えられていたとも思える。
事実アスカはチルドレンとしての訓練に多くの時間を割いていたし、もしかすると出席日数は本当に足りていなかったかも知れない。
だがアスカは、完璧なチルドレンたらんとして学業にも手を抜くことをしなかった。
幸いにもと言うのは躊躇われるが、新しい母親と過ごすのは気持ちの良いものではなかったので家族の団欒に時間を使うことも無く、
同世代の友人にもまるで恵まれず、アスカはただひたすら訓練以外はほぼ勉強のみの日々を過ごした。

その中でもアスカが特に力を入れたのが、エヴァやその兵装の構造を把握する事に繋がる物理や科学であった。
理科という幅広いジャンルの中でもそちら方面だけに限定すれば、アスカの知識は並の大卒レベルを遥かに超えているだろう。
リツコやマヤは別格にしても、一般技術部員とならエヴァについて対等な会話が出来るのだ。

ただアスカは、これまでの自分の知識はただ本に書いてある事を詰め込んだだけであり、柔軟さに欠けていたと思っている。
アスカとほぼ同時に熱膨張による使徒撃退を思いついたシンジは、本当に中学理科の内容のみからそのアイディアを捻り出したのだ。
教科書通りの知識は実戦では役に立たない。そういう意味では、あのミサイル迎撃法は我ながらよく考えついたと思う。

二時間目は、体育。

これまた、アスカの得意科目である。
三人のチルドレンの中で敵を倒すとまでは言わないものの、自分の身を守ることが出来るだけの白兵戦能力を持つのはアスカだけだった。
シンジはかつての時を含めてもネルフに来て僅か一年程度だったし、レイは…必要以上にゲンドウに大切にされていたのだろう。
余計な筋肉が付いていないので誤解されやすいが、アスカの肉体はしなやかに鍛え上げられ、高い運動能力を発揮できるのである。

チームワークを必要とする球技等でも、アスカはいつも目立っていた。
身体能力の高さから攻撃の要となるポジションを任される事が多く、そうでない時も口では文句を言いながら役割をきっちりこなした。
そこにはもしかしたら、人と共に何かを成し遂げる達成感への無意識の渇望があったのかも知れない。

折りしも今日の種目はサッカーで、アスカは後方の担当。
先日のサキエルとの共闘では仲間を後ろから支えるのも悪くないと思っていたアスカだったが、

「…ボール、来ないわね…」

やはり自分には最前線が性に合っている、と再認識するのだった。
ちなみにシンジとレイだが、今でもトレーニングルームを使ったり護身術の訓練をしたりしている姿は滅多に見かけない。
もしもの時の事を考えると、少しだけ不安に思えた。

三時間目は、国語。

いや、アスカにとっては日本語と言うべきか。
日本語を一通り流暢に話せても漢字、文法、慣用句などが極めて苦手なアスカにとって最大の鬼門。
だが、漢字が読めない事を理由に国語そのものを避けていた以前と違い、アスカは真剣にその授業に耳を傾けていた。

長い間アスカの目標は、最高のシンクロ率を出し最高の戦果を上げる、最高のチルドレンであり続ける事だった。
抱えたトラウマからか近視眼的な視点しか持てなかったが故に、戦いが終わった後の事など考えもしなかった。
しかし、今のアスカには漠然と考えている事がある。それは、

(全部が終わったら、シンジやレイと日本で生きていきたいな…)

という事。使徒と戦わなくてもいい、ゼーレの存在しない未来にこの国で生を営むという事。それはとても魅力的に思えた。
両親との事はこのままではいけないだろう。
ドイツ支部を離れる時、二人を国外へ逃がしてくれた加持に伝言は無いか聞かれた時も、首を横に振っただけだった。
国連軍がそのまま敵に回ろうとしている今の状況が、ゆっくりと将来を考えていられる程楽観的でないのも分かっている。

でも、もしも夢が叶った時の為に日本語の勉強を頑張るくらいの事はできる。
その努力はドイツ時代とは違い、とても楽しいものだった。

四時間目は、英語。

独語、日本語程では無いにしろ一応普通に読む事も書く事も出来る。
問題文が読めずともある程度出題が想像できる為、日本に来てから主要五科目の中では尤も良い成績を取れた科目だ。

(それにしても…)

───私は惣流・アスカ・ラングレーですか?
───いいえ、違います。

この例文は一体何なのだろう。こんなものに自分の名前を当て嵌めて十回も書く課題なんて、教師の手抜きではないだろうか。
一年の復習だか何だか知らないが、大体シチュエーションが分からない。記憶喪失?
ただ学習用PCに入力し続けるのに飽きてしまって、ラクガキで一文を付け足してみる。

───いいえ、違います。あなたは碇アスカです。

途端に体温が上がった気がした。何を書いているんだろう、アタシは。
それともこれってやっぱり…願望、とか?

(きっと空腹過ぎて、思考が極端になってるのよ)
そう考えたところで終業のチャイムが鳴った。
今朝もレイがギリギリまで寝ていた所為で、朝食らしい朝食は食べていない。午前の授業がとても長く感じた。
(…そう言えば)
金曜日、レイがシンジと一緒に昼食をとっていた事を思い出す。

レイがシンジに好意を持っているのは分かる。
…それはアスカの胸の奥にあるこの想いと、同じものなのだろうか。





シンジが預かっていたベーグルを受け取ったアスカ達がさてどこで食べようかと相談していたら、神妙な顔をしてケンスケが近付いてきた。
「えっと…話があってさ」
それなら一緒に食べながら聞こうと言うと、なし崩し的にトウジとヒカリも寄って来て、結局六人で机を合わせて昼食をとる事となった。
考えてみれば、いつもチルドレン三人のみで固まっているという印象は閉鎖的であまり良いものでは無いだろう。
登下校が三人一緒になるのは仕方ないにしても、それ以外の時はこういうのも良いと思う。

トウジは購買の弁当、ケンスケはパン。ヒカリは可愛らしい袋に入った手作りの弁当だった。そしてアスカ達はというと、
「やっぱ足りないわね」
期せずして貰った物だけに頼らず、購買に行くべきだったと思った時には後の祭り。
昼休みも半分近くが過ぎたこの時間から行ってみたところで、碌なものは残っていまい。
「私のお弁当、少しいる?」
「ん、ありがと、でもいいわ」
ヒカリがいくら少食でも、弁当箱の小ささを見るとそれは気が引けた。

「部屋も片付いたし、明日くらいから僕もお弁当作ろうかと思ってるけど…」
そう言いながら、アスカとレイの顔を見るシンジ。三人分作ろうか、という提案だ。
「へぇ、碇君って料理出来るんだ?」
ヒカリが意外そうな声を上げる。まあ、使徒との交流の一助となる程のものを作るとは思わないだろう。
「碇君の料理は美味しいわ」
それまで黙々とベーグルを食べていたレイがそう言った。…まだ食べていたのか。両手でベーグルを持って少しずつ食べる姿が小動物みたいだ。
「せっかく新生活始めたんだし自分たちで作ってみるのもいいかな、なーんて思ってもいるんだけどね」
何とはなしに、そんな事を言ってみる。昨日夕食の後にレイと話した事。
「ええっ、アスカが!?」
「何よ、悪い?」
確かに以前の自分と比べれば意外な発言だろうという自覚はあるが、そうあからさまに驚かれると少しショックだ。
「アタシだって料理くらい出来るようになりたいって思うわよ。将来アタシが…」
四時間目の妄想が頭の片隅に残っていたのか、余計な事を言いかけて慌てて口を噤む。
「将来?コックにでもなるの?」
「ならないわよっ!」
絶妙なタイミングで入るシンジの鈍感な発言。話題が逸れて助かったと喜んでいいのだろうか。

「ま、確かに今まで殆どやったことないからすぐにってわけにも行かないだろうし?
 アンタが自分の作る日だけでいいから、しばらくはアタシとレイの分も作ってよね」
分かったよ、と頷くシンジ。色々言っても人の為に料理する事が好きなのだろう。その顔はどこか嬉しそうだった。
アスカの料理が食べたい、と言われたらと考えると少し分かる気がした。
「何や、結局頼むんかいな…」
そんな声が聞こえたので鋭く一睨みすると、トウジは肩を竦めて弁当の白飯をかき込んだ。
ヒカリの視線がトウジではなく、その手に持つ購買の弁当に注がれているのに気付く。
今のアスカとシンジの会話を聞いて何を思ったのか、大体の想像がついた。
(ヒカリの恋は応援したいけど…)
未来の可能性を知るからといって、ここでアスカが求められもしないのに手を貸すのは良い事とは思えない。
時間がヒカリの想いと勇気を育て、やがて彼女は自分で一歩を踏み出せるだろう。その一歩は、とても尊いものとなる筈だ。
「…ご馳走様」
レイが最後に手を合わせ、それで全員の食事が終わった。

ちなみにケンスケの話とは、案の定例の流出映像についてだった。
あの日、風呂から上がってテレビの映像を見た途端、ミサトはこんな事を言ったものだ。
「うっわ~、大迫力ね…。よくもまあここまで至近距離で」
それまで映像の内容に衝撃を受けていたアスカやシンジも、その一言でようやく誰の手によって撮影されたものかという事に思い当たった。
この位置に居て、これだけ無遠慮な角度から、これ程の技術で撮れる者。相田ケンスケ以外に考えられない。
とは言ってもミサトの説教を真摯に受け止めていた態度からしてもケンスケ本人が流したとは考え難かったし、
何よりもその映像の存在が予想もしなかったメリットを生み出してしまった為、流出させたのが誰かという議論は今日までうやむやとなっていた。

「もうやめた方がいいよ。第4使徒のシャムシエルさんは怖そうな人みたいだし」
シンジもそれ以上は責めなかった。
シャムシエルについては、サキエルの話からさばさばとした人物だろうと推測出来たが、それ程怖そうな印象は受けなかった。
だからこれは、シンジの意図的な誇張だろう。ケンスケの表情を見る限り、なかなかの効果があったようだ。
何よりも彼は間近であの鞭が振るわれる姿を見ているのだ。実感もひとしおだろう。





昼休みを挟んで、五時間目は学級活動。ロングホームルームというやつだ。

来週の遠足や五月に行われる生徒会役員選挙について、学級委員長のヒカリがプリントを配りながら説明をしている。
例によって男子生徒の大半は話を聞いていないようだが、アスカはプリントの文字を目で追いながら心が浮き立つのを感じていた。
前にオーバー・ザ・レインボーで来日したのは六月だった為、書かれているのはアスカにとって初めてのイベントばかりだ。
泊りがけとなる修学旅行は無理でも、日帰りの遠足くらいは当然許されるだろう。
行き先は、二子山という所らしい。ニコヤマと読むのだろうか。何だか楽しげな地名だ。

プリントの漢字と格闘していると、いつの間にかヒカリの話は次の内容へと移っていた。
「…というわけで、綾波さん達にも何かの委員を担当してもらえると助かるんだけど、どう?」
ヒカリの話によれば、一学期のスタートと同時に慣例に従ってそれぞれの委員が決められたのだが、
このクラスはともかく学校全体で見れば二回の戦いで疎開していった者もかなり多く、どこも人手不足に喘いでいるらしい。
そんな時期に転校してきたシンジとアスカ、長期欠席から復帰したレイに早速白羽の矢が立ったという事だ。
「お仕事が忙しくない時だけ手伝ってくれればいいから」
そう言うと黒板に、美化委員、図書委員、風紀委員、企画委員と委員の名前を書き出していく。

レイは、すぐに図書委員に立候補した。
こういった事にはまず関わろうとしなかったかつてのレイしか知らないクラスの面々にどよめきが起こる。
自分を変えていこうと志すレイだが、途端に雄弁になれるものでは無いだろう。
そう考えると図書室の管理など人と話す機会が多すぎないこの役どころは、ネルフ以外で自ら参加する最初のコミュニティとして相応しいように思えた。
読書はこれまででは唯一といっていい趣味でもあったわけだし。

「手伝うのは良いけど、今日明日で決めなくてもいいでしょ。転校したてじゃどの係が何するのかよく判らないのよね」
アスカは取り敢えず適当な言い訳でその場を逃れた。本当の理由は、黒板に列挙された委員の名前が読めなかったからだ。
流石にそこまで正直に言うのはプライドが許さない。どうせ国語を頑張ってすぐに皆に追いつくのだ。ここで恥を晒す必要は無い。
ヒカリも納得したのか、転校してきたばかりのシンジとアスカについては後日改めて、という事で話が纏まった。
ほっとしていた所で、学習用PCにシンジから非公開で通信が入る。

───びかいいん。としょいいん。ふうきいいん。きかくいいん。
シンジだけはお見通しだったようだ。

最後となる六時間目は、歴史。

社会科教師がぼそぼそと語る世界史の授業を聞きながら、アスカはゼーレの事に思いを馳せていた。
秘密結社ゼーレの起源は、一説では紀元前とすら言われている。
人類補完計画が最大の目標として掲げられたのは死海文書が発見された以降、つまりその長い歴史の中でばごく最近であろうが、
組織としてのバックボーンはそれまでの膨大な年月をかけて積み重ねられてきたという事になる。

歴史は勝者が作るとの言葉もある通り、これまでゼーレが歴史の裏での幾度もの戦いに勝ち続けてきたのであれば、
その存在がこれまで公とならなかったのも頷ける。そしてそれは、多くの者がゼーレに挑み、敗れていったとの事実をも示唆している。
ちょうど今教師が語っている、政争の末に処刑された欧州の貴族。彼も実は、ゼーレにとって邪魔だった為に消されたのかも知れないのだ。

倒すべき敵の強大さを、改めて実感。それでもアスカは恐れおののく事は無かった。もう、心が孤独では無いから。





やがて清掃も終わり、下校時間となる。

「碇たちはやっぱり本部に行くのか?」
「うん。毎日ってわけじゃ無いけど、司令だしね。出来るだけ居ないと」
シンジとケンスケがそんな話をしている。司令でこそないものの、アスカも同じように考えていた。
朝のレポーターなどに言われるまでも無く、用も無いのにふらふらして有事に出遅れるわけにはいかない。
正直に言えば部活動などというものにも若干の興味はあったのだが、それは戦いを終わらせてから高校ででも満喫すればいいことだ。

歩いて帰宅するヒカリとバス停前で別れ、三人でバスを待つ。
その間に、すぐ横の露天商で売られていたハンカチにレイが興味を持ったようだった。丁度二枚売られていたので、レイを促して一枚ずつ購入する。
「…毎度あり」
店主は無愛想な老婆だったが、良い買い物をしたと思う。恐らくは大手メーカー品では無く、直輸入の品だろう。
どこか外国の海辺に建つ、白亜の小さな教会が描かれている。見る者が見なければ分からないかも知れないが、レイは嬉しそうな表情を浮かべていた。

やがて到着したバスに乗り込み、本部へと向かう。
その振動に身を任せながら、アスカは今日一日の事を思い返していた。
ドイツでの学校生活は、楽しさとは無縁の毎日だった。いや、楽しもうと思った事すら無かった。
記憶の中にだけ存在する第壱中学での半年には楽しいと思える事もあったが、チルドレンという枷を捨てられず最後には全てを駄目にしてしまった。

だが、これからは違う。
弱冠十四歳にして二度も失われたアスカの青春。
それは、今度こそ限りない希望を伴ってアスカの往く道を彩ってくれる事だろう。





~つづく~



[21803] 24.震える心
Name: ふたば草明◆c7ec2017 ID:fff33e76
Date: 2010/11/15 03:14
一度はネオネルフ本部前までやって来たレイだったが、メインゲート前の守衛にある事を尋ねると、
降りたばかりのバスに再び乗って市街西地区を目指す事にした。
ミサトとリツコが、その場所で人造使徒の解体・分析作業に加わっていると聞いたからだ。
シンジは司令室へと向かい、アスカはやはり昼食が足りなかったのか食堂へ。街中で一人になるのは久し振りだった。

人造使徒アザゼルの残骸が今日まで放置されたのには理由がある。
シンジの会見を取材する為に第3新東京市を訪れたマスコミに、ゼーレの力と生々しい戦闘の跡を見せる為だ。
その兵器の恐ろしさは公開された戦闘映像からでも十分に伝わっただろうが、中継という形で放送されたその圧巻の巨体は
更なる説得力を持って視聴者に訴えかけ、結果的にネオネルフを支持する世論を間接的にではあるが後押ししていた。
あらかたのマスコミ関係者が市内を去った今日になって、ようやく作業が開始されたというわけだ。

バスの窓から、視界を遮るビニールシートや研究用の仮設テントが見えてきた。
隔離されたそのすぐ外では、市民が気にも留めずにいつも通りの生活を営んでいる。
三日間で慣れてしまったのだろうか、それともこの辺りにはもともと豪胆な人々が住んでいたのだろうか。
バスを降りて、一番大きなテントの方へ歩いていく。
戦いの傷跡が残る砂利道が、アスカとは違って鍛錬不足で筋肉痛の脚に少し響いた。





テントの入り口をくぐると、丁度ミサトとリツコがPCのモニターを見ながら何やら話をしていた。
「で、どうなの?」
「どうもこうも無いわ。機械部分にしろ生体部分にしろ、八割までは既存の技術の継ぎはぎよ。取り出してリサイクルだって可能なくらいね」
「ふ~ん、環境問題対策はバッチリってとこね」
少しだけ考えて、レイはそれが皮肉という事に気付く。
「んで、残りの二割は?」
「使徒の細胞の、コピー。やはり元になっているのは彼でしょうね。…あら、レイ?」
そこでリツコがこちらに気付き、続いてミサトもこちらを見た。軽く頭を下げる。
「おおっ?もしかしたらシンちゃんは来るかもって思ってたけど…」
レイの姿が意外だったらしく、ミサトが目を丸くする。
そう言えば、第4使徒の解体作業にはシンジが姿を見せていた筈。もちろん、この時に戻ってくる前の話だ。
「コーヒー、飲むかしら?」
「頂きます」
リツコの手から紙コップを受け取り、手近なパイプ椅子に腰掛ける。
その仕草でレイに急ぎの用があるわけでは無いとわかったのだろう、二人は再び話を再開した。

「そして中枢部にはS2機関とコア、それにダミープラグね」
「プラグ?これが?」
画面には、何やら人の脳を模したようなコードまみれの機械が映し出されている。
「エヴァではないのだから、エントリープラグと同じ形状を取る必要は無いわ。
 コアと連動する、擬似的な戦う意思としての機能さえ発揮できればそれで事足りるという事よ」
今のネオネルフでは当然、レイをベースにしたダミーの研究は行われていない。
だが、ゼーレではゲンドウよりも遥かに先んじてその開発が進められていた。
ふと、渚カヲルの顔を思い浮かべる。シンジと出会う前の彼は、その研究に協力しながら何を思っていたのだろうか。

「さっき、リサイクルって言ったわよね。もしかしてS2機関も使えたりする?」
エヴァにとってアキレス腱とも言える稼動電力の問題。それを無くしたいのは作戦部長たるミサトなら当然だろう。だが、
「無理ね」
にべもない答えが返ってくる。
「第14使徒戦での事は、本当に良い方向に偶然が重なっただけ。人の手であれをエヴァに載せようとすれば…」
「…第2支部の、二の舞?」
リツコが無言で頷き、ミサトも黙ってしまった。
「松代に移して、慎重に処分するわ。まあサキエルから採らせてもらったデータの解析が進めば、いつかは夢じゃなくなるかもね」
珍しく、希望的観測のような言葉がリツコの口から出た。
ミサトの父親ならずとも、無限の動力というのは全ての科学者にとって一つの到達点なのかも知れない、と思った。

リツコがキーボードを操作し、画面が再び切り替わる。
「そして、最後にコアか…」
赤い球体。レイの目には本物の使徒のそれと変わらないように見えた。それを裏付ける、リツコの言葉。
「これもエヴァのものとは違って、人が乗れるようにしてあるわけじゃないわ。寧ろこれは使徒のコアそのものと言える」
リツコは言葉を濁したが、それはつまりコアに誰の魂も込められてはいない、という事だろう。
「だとすると問題は、どーやってそれを見つけてきたかって事ね…」
ただ一つ人工物では無いと思われるコアの出所。また一つ、新たな謎が浮上した。





分析が一区切りした所で、ミサトがレイの方に話しかけてきた。
「ところで、レイは何か用事があったんじゃないの?」
今日のホームルームで配られたプリント。それを、少し迷ってからミサトとリツコ双方から見える机の上に置いた。
「これを…」
そう言いながら、項目の一つを指差す。
「進路相談?あ~、そんなのもあったわね。JA騒ぎの頃だっけ?」
その言葉を聞いて露骨に目を逸らすリツコ。ミサトは他意があって言ったわけではないようだが、流石にばつが悪いと見える。
かつての進路相談では、シンジの保護者として学校へやって来たミサトが、レイの時にも立ち会ったと記憶している。
レイは自分の戸籍がどういう扱いになっているか気にした事は無かったが、
少なくとも保護者という立場についてはチルドレン三人を一括してミサトが受け持っていたのだろう。
「でも、だいぶ先の話じゃない。これを見せにここまで?」

ミサトの言うとおりだ。面談があるのは六月。一学期の予定の中でも最後の方に記されている。
それをどうしてこうも急いで告げたかったのか。自分の心が分からないレイには、答えられない。

その時、
「私が行ってみようかしら…」
リツコが、呟くようにそう言った。驚いてそちらを見る。
「大事な、レイの将来の事だものね」

リツコの事を母のようだと感じた時の事を思い出す。
その優しげな瞳と、目が合った。
やはり自分の心は分からなかったが、心が温もりに触れたような気がして。
レイは、ああやはり来て良かったとそう思った。
「そっか」
それだけを言ったミサトの声も、とても柔らかいものだった。

───大事な、レイの将来だものね。

───大事な、私の将来。





各部署の責任者が有能ならば、組織のトップがこなさなければならない仕事は自ずと限られてくる。
例えば最終的には司令の承認が必要な案件であっても、考えられる問題点や幾つかの代替案が示されていれば、それが判断の手助けをしてくれる。
多岐に亘る組織の業務のうち、トップが知るべき現状が的確なタイミングにピンポイントで報告されれば、いちいち足を運ぶ必要も無くなる。
卓上に揃えられた書類の中身を確認しながら、シンジは改めてミサトやリツコの優秀さを実感していた。

司令に就任してすぐに、その仕事内容について冬月に尋ねた事がある。
「なに、そう大変な事でも無いよ。上がってくる書類に目を通し、大事な実験や戦闘には立ち会う。基本はこれだけだ」
冬月の答えは至極簡潔なものだった。
「時には対外的な折衝もあるがね。司令自らが赴かなければならん程のものは、そうそう無いだろう」
大抵は自分に任せてくれて大丈夫だ、と。事実、交渉事の経験などまるで無い自分には荷が重いであろう事は、シンジにも分かっていた。
以来、支援を申し出てきた秘密結社との会談から人造使徒の残骸処分に関する市役所との談判まで、全て冬月が一手に引き受けている。

「まあ、確かに忙しくはあるがね。秘書でも居てくれればと思わないでもないよ」
司令室のソファに腰掛け茶を啜りながら冬月はそんな事を言った。今も出先から戻ったばかりだ。
「それでも君の父親の時より遥かにマシというものだ。あいつは書類仕事まで私に押し付けて自分の計画にかかりきりだったからな」
確かに。ゲンドウが黙々と報告書にサインしていく所は想像がつかなかった。

実際のところ、ゲンドウの行動を思い返せばその職務放棄っぷりは徹底していたのだと気付かされる。
初号機かレイがキーとなりそうな戦闘だけは立ち会うが、基本的に実務は現場任せ。
委員会とゼーレに最低限の報告だけ済ませたら、後はひたすら自らの策謀の為だけに時を費やす。
もしもネルフが人材に恵まれていなければ、ゲンドウにはそれ程自由な時間は無かっただろう。
そう考えると、ミサトやリツコの優秀さが却って間接的に彼女たちを不幸に追い込んだとも言え、
既に水に流された事ではあるがどうにも遣りきれなさを覚えてしまうシンジである。

「父さん自身がどう考えていたかはともかく、父さんが頼りにされていたというのは分かります」
それは昨日一日、本部内の各部署を巡るうちに実感したこと。
過去二回の戦闘や演説を讃えられる中で、「流石は前司令の息子」「度胸がある所がそっくりだ」というような事を幾度と無く言われた。
シンジとしては七光りを疎ましく思うどころか、今まで希薄にしか感じられなかった父子の繋がりを他人の口から聞けてどことなく嬉しかったが、
ともかく彼らの言葉は、組織内においてゲンドウという人物がどのように見られていたのかという事をシンジに再認識させてくれた。
計画が大詰めに入り、ダミーの使用を強行したり、動かない弐号機を囮にしたり、リツコをゼーレに差し出した時とは違う。
少なくともこの時点では、職員達にとってゲンドウは「何を考えているかはよく判らないが、いざという時には頼れる上司」だったのだ。
ゲンドウに一定以上の信頼が寄せられていればこそ、突如の司令交代もあの程度の混乱で済んだのだと言えよう。

「でもやっぱり、僕は父さんとは違った司令を目指そうと思うんです」
ゲンドウに出来てシンジに出来ない事などは、それこそ山のようにある。
単に人生経験の差というだけではない。あのカリスマ性とも思えるようなアクの強さは、シンジが一生かかっても身に付ける事は出来ないと思う。
だが、ゲンドウは司令職をシンジに託した。
使徒との共存とインパクトの阻止という息子の望みを叶えるだけなら、自らが先頭に立ったままでも良かったにもかかわらず、である。
それは、司令としてシンジにしか出来ない事がある、というゲンドウのメッセージだったのでは無いだろうか?

目を瞑ってシンジの独白を聞いていた冬月だが、
「そうだな」
湯飲みを置き、ソファの背にゆったりと背中を預けると、
「それがいい」
やはり目を閉じたまま、短くそう答えた。
副司令には副司令の執務室があるが、冬月が司令室に入り浸り気味なのはゲンドウ体制下の名残というだけではあるまい。
まだ経験の浅いシンジが仕事で行き詰ったとき、助言できるようにとの配慮だ。
それに気付いたシンジは心の中で謝辞を述べつつ、再び目の前の書類に目を落とした。

技術部からの報告。
初号機の修理は予定通り昨日には完了したようだ。弐号機も外装の破損は僅かで、出撃には影響の無いレベルらしい。
激しい二連戦を乗り切ってこの程度で済んだというのは、ひとえにアスカの実力の賜物だろう。
零号機は未だサキエル戦での傷が癒えていないが、近々実施される再塗装に合わせて新装備を付加する計画のようだ。
(二者間の意識の同調・共鳴によるヘイフリックの限界への干渉…?)
技術的な事はさっぱり分からないが、予算に見合っただけの効果が期待できる、とのリツコの添え書きを見る限り勝算のあるプロジェクトなのだろう。
更に第6使徒戦に向けた水中戦用装備も開発中のようだが、こちらは難航している様子が窺える。
───人員を増員しても構いません。開発完了後は速やかに何れかの実機にて装着試験をお願いします。
そのように書き加える。それが技術部から報告の最後の一枚だった。

「えっと、次は…あ!」
隣の書類の束に手を伸ばしたシンジは、小さく声を漏らした。その声に冬月がぴくりと眉を上げる。
「どうかしたかね」
「あ、いえ…」
シンジが手にした次なる書類には、
───組織名の変更に伴う新規ロゴのデザイン委託に関する申請。
そう書かれていた。

シンジには、自分が増長して改名などした所為で各所に面倒を掛けているとの負い目がある。
「ネルフ本部の名を使えない以上、新たな名はどのみち必要だったろう」
そうは言っても、リツコから聞いた必要経費の件もある。
「それだって初号機の角一本作り直すのと同じ程度だがね。まあこの単位の経済感はすぐには実感しづらいか」
実際には冬月の言う通りなのだろうが、それでも出費を抑えられないかと考えてしまうのが庶民派司令というものだ。

その時、シンジの脳に天啓のようにとあるアイディアが閃いた。
「そうだ!市内の小中学生から新ロゴのデザイン画を募集し、コンテストを行うんです。
 その大賞作品を採用すれば専門のデザイナーに依頼する費用も不要ですし、開かれたネオネルフもアピール出来ますよね!」
半ば呆然とシンジの提案を聞いていた冬月だが、
「ふぅ…」
ソファから立ち上がって服を整えると、
「確かに、市長も出来るだけ市民と交流を持って欲しいと言っていたな。悪くない考えだよ」
そう言い、シンジに背を向けて部屋の出口へと歩いていく。ありがとうございます、と言おうとするシンジに、更に言葉が投げかけられた。

「やはり、君にも策略家の素質があるのかも知れんな。皮肉ではなく、そのスケールが大きくなり過ぎない事を祈るよ」

…やはり自分が気付かないだけで、自分はゲンドウと似ているのだろうか。
父とは違う道を行きたいと宣言したばかりにもかかわらず冬月に言われた事を思い、扉が閉まった後もシンジは複雑な顔にならざるを得なかった。





この日、久々にレイは地下へと降りた。

特に目的があったわけでは無い。
ミサトの車に同乗して本部へと戻ったものの、シンジは司令の仕事、アスカはトレーニングルームで共に過ごす相手がいなかったからだ。
ならば目標をセンターに入れてスイッチを押す訓練でもしようかと思ったが、今は丁度調整中だとマヤに言われた。
「あの人造使徒をターゲットとして行動パターンを入力してるの。明日には使えるかな」
なるほど、かつてのようにサキエルをターゲットに使うわけにはいかないだろう。レイとて良い気分はしない。
たまにならアスカのように直接自分の体を鍛える事もあるが、少なくとも筋肉痛気味の今日それをやろうとは思わなかった。

カードをリーダに通す。かつてとは機密レベルの設定が変更してある為、レイのカードでも問題無く扉は開いた。
エレベーターが下降していく振動を身体に感じながら、ふと思うのは先日の戦いの事。
今だけではない。あの日以来、一人になると思い出すのはシェルターの中で感じた焦燥感だった。

───このままではいけない。

下層へと辿り着いたレイは、少しだけ考えてから自らの肉体に縁のある部屋では無く、魂の在った場所へと足を向けた。

第2使徒、リリス。
仮面を被せられ、その身を十字架に磔にされた、上半身だけの白き巨人。
一度は全てをその存在に委ねシンジの願いに応えて力を発現させたレイだが、こうして見るとこの巨人がかつての自分であるとは信じられなかった。
リリスの魂を持つとは言え、綾波レイとして生まれる以前の記憶があるわけでも無い。
加えて、シンジの想いも手伝ってレイは自らの肉体を完全なるヒトへと変えた。
今の自分とリリスとの間に、果たしてどれ程の接点があるのだろうか。

(もし、ヒトとなる道を選んでいなかったら…?)
そう考えることはあった。その答えは、渚カヲルの例を鑑みれば容易に想像がつく。
全てのエヴァはレイを拒絶しないだろう。シンクロ率も思いのまま。もしかすると、エンジェライザーで白い巨人へと変わる事すら出来たかも知れない。
戦況を一変させる程の力をあっさりと手放したレイを誰も責めない。レイ自身も後悔しているわけではない。
それでも…それでも、400%も出せず、技量でもシンジやアスカに後れを取るレイは、今の自分が歯痒くてならなかった。

(リリス…あなたが私だというのなら…)
詮無き事を。
(私に、力を…)
願う。
答えなどある筈も無い。その魂は、他ならぬ自分の内にあるのだ。
一粒。
自分でも気付かないうちに、涙が、零れていた。

…その時。

コトリ、と小さな音が聞こえた。
そちらへ、視線を向ける。
レイから数メートル程離れた場所の床に、地下には不釣合いな輝きを放つ珠が、一つ転がっていた。
歩み寄り、手に取る。テニスボールくらいの大きさのそれは、やがて零号機が纏うであろう色と同じ、水色の光をうっすらと放っていた。

反射的に、リリスを見上げる。
(あなたなの…?)
やはりそこにあるのは、どこまでも、静寂。





やがてレイは買ったばかりのハンカチで涙を拭うと、水色の珠を手に静かにその場を後にしたのだった。





~つづく~





いつも読んで下さっている方、感想書いて下さっている方、本当に有難うございます。



[21803] 25.キャラメル(前編)
Name: ふたば草明◆c7ec2017 ID:fff33e76
Date: 2010/11/16 00:47
「何か、キャラメルみたいですね」
「キャラメルか…なるほど」
伊吹マヤのその何気無い一言を、どうして葛城ミサトが気に入ったのかは分からない。ともあれ、

「よし、エヴァンゲリオン初号機及び弐号機、発進準備!人造第4使徒キャラメルを叩くわよ!」

いともあっさり、その侵入者の名前は決められてしまったのだった。





「何がキャラメルよ!マジメにやんなさいよ!」
寝起きを起こされて機嫌の悪いプラグ内のアスカの怒声を聞きながら、日向マコトは冷静にデータをまとめていく。
新たな人造使徒の出現が確認されたのは、ほぼ夜明けと同時だった。
新たなパターンはまだ入力できていなかったが、オレンジと聞いた瞬間に誰もがその正体について同じ想像を巡らせたものだ。
「朝っぱらから敵の親玉に電話して、おたくの新兵器の名前は?って聞けっての?ジョーダンでしょ」
まさに冗談、だ。ネルフには元々ゼーレはおろか委員会にすら自由に連絡する権限を与えられていなかった。
それは、自分達が彼らにとって道具でしかなかったという事でもある。単純に、不愉快だと感じた。

「それに、『キャ』にアクセントつけて言ってみ?ちゃ~んと使徒の名前っぽく聞こえるから♪
 神話由来だか何だか知らないけど、変に仰々しい名前よりよっぽど良いってモンよ」
ミサトの意図は何となく読めた。宗教や信仰に関わる名前を見ると想像を逞しくしてしまう人というのは決して少なくない。
あくまでもただの兵器である筈の人造使徒に対して、部下に余計な先入観を抱かせないようにとの配慮なのだろう。
それと同時に、国連の枠を外れてから初めての戦闘となるこの場に充満した緊張を解く意味合いもあると思われる。
事実、敵発見の一報から固くなっていたオペレーターの一部は、ミサトとアスカの言い合いを聞きながら表情が柔らいでいるように見受けられた。
軽い風を装ってその行動は深い洞察に裏打ちされているのが、ミサトという人物なのだ。
「私の名前って、変に仰々しいでしょうか…」
いつの間にか作戦室へと来ていたサキエルの落ち込んだ言葉に、ミサトの表情がしまった!とばかりに凍りつく。
まあ期待を裏切らずにオチを付けてくれるのも、ミサトならではだろう。

発進準備が続けられる中、サキエルに必死のフォローをするミサトを憐みの目で見ていたリツコに、マヤがふと尋ねた。
「名前はともかく、第4でいいんですか?第1か第2って事も考えられますよね?」
それはマコトも疑問に感じた事だ。作業を続けつつ、背中で会話を聞く。
「確証は無いけれど。ゼーレの儀式めいた事を好む体質から考えれば、本物の使徒と同じく第1、第2は別格としている可能性は高いわね」
それはそうかも知れない。最初の侵攻にいきなり人造第3使徒を投入して来たのが良い証拠だ。
アダムとリリスに近いものを彼らが作ったとは思えないが、それでも戦力的な意味での別格である事は十分考えられた。

「しかし、使徒も人造使徒も唐突に出るよな…」
隣席のシゲルが、ぼそっと呟く。
本能で動く使徒はともかく、明確にこちらを攻撃する意思のある人造使徒がいつ、どこから出現するか分からないというのは不気味だ。
アザゼル然り、キャラメル然り、どこかから上陸した形跡も降下して来た形跡も無い。
センサーがパターンオレンジを捉えたと思ったら次の瞬間にはそこに居た、というのが実態だ。
「だけど、本部内や本部前にいきなりは現れない。きっとそう出来ない理由があるんだ」
マコトの言葉にシゲルが考え込む。使徒や人造使徒の出現を妨げるようなものがこの本部にあるとすればそれは、
「リリス…」
と、言う事になる。
使徒や人造使徒が直接現れることが無い範囲の中心にリリスが居る事を考えると、
リリスから発せられる何か不可視の力がジオフロント全域とその周辺数キロを守っていると考えるのは、別に飛躍した論理ではあるまい。
もちろん、そのようなものがデータ的に実証されているわけでは無いのだが。

「人造使徒、再度侵攻を開始!第7地区に侵入します!」
兵装ビルの攻撃を受けて、一時動きを止めていたキャラメルが再び動き始めた。手早く報告。
「エヴァは!?」
「あと180秒で出せます!」

改めて、モニターに映る人造使徒を見る。
薄茶色の、巨大な直方体。それが今度の人造使徒だ。
飛行能力は持たないらしく、地面を滑るようにして移動している。
高さと奥行きはあるものの幅が狭く、器用に一般道を利用して本部を目指していた。
あの巨体であれば兵装ビルを押し潰して進む事も出来ようが、スピード効率を重視しているのかもしれない。それでもそう速い動きでは無いが。

ATフィールドはアザゼルよりも更に微弱。火力を集中させれば、通常兵器でも突破可能ではないかと思わせるほどだ。
だが、この人造使徒にはそれを補って余りある一つの特長があった。

「ミサイル!もう一度撃って!」
ミサトの号令一下、兵装ビルからミサイルが放たれる。しかし。
「駄目です、人造使徒、衝撃を吸収!ダメージ与えられません!」
シゲルの声が上がる。先程と同じだ。
「やっぱダメか。これじゃエヴァの近接武装でも効果があるかどうか…」

この人造使徒の特長。それは、あらゆる攻撃を無効化する柔軟性だ。
ミサイルの斉射を受けると体が変形する。
攻撃が命中した辺りはぐにゃりとへこむのだが、衝撃が吸収される為にダメージは一切無く、数秒後には元に戻ってしまうのだ。
プログナイフで刺してもソニックグレイブで斬りつけても同じ様な反応である事は想像に難くない。

「これは…?体表面に変化が!」
突如、シゲルの声が響く。
皆が見守る中、キャラメルののっぺりとした表面のあちこちに蓮根のような穴が開き、
「ガトリング砲とでもいうの!?」
いち早くその正体に気付いたリツコの声とほぼ同時に、四方に向けて凄まじい数の連続射撃が行われた。
三つのビルが、一瞬で稼動不能となる。
素早く、その弾速と威力の想定値を読み上げる。金属の砲身を持たないガトリング砲程度では最早驚いていられない。
とにかく、これであのキャラメルの攻撃能力と防御能力は判明したわけだ。

自分ならどういう作戦を立案出来るだろうか、と考えてみる。
事実上作戦部のナンバー2にあたるマコトだが、任されている役割は基本的にデータ収集と通信であり、作戦について意見を求められる事は無い。
だがそれはたまたま機会が訪れないだけで、自分の能力に問題があるからでは無い…と、信じたいのだが。

(火には、弱そうだな…)
キャラメルという言葉から連想するわけでは無いが、熱によって溶かせそうな気はする。
もしもエヴァ用の火炎放射器のようなものがあれば、効き目は有りそうだ。しかし、無い物ねだりなどは出来ない。
(じゃあ、エヴァ二機による集中波状攻撃か?)
攻撃を受けた箇所が変形するという事は、衝撃を吸収するためにそれだけの構造的なあそびが必要という事。
それならば変形した部位が元に戻る前に次の一撃を、更に次の一撃をと加えていけば、いずれ衝撃を吸収しきれなくなる筈だ。
エヴァンゲリオンの性能とあの二人の技量ならば、それだけの息をつかせぬ連繋も可能だろう。
だが、そこまで考えた所でこの作戦の問題点に気付いてしまう。それは、攻撃を加えている間エヴァが射撃に晒され続けるという事だ。
敵の復元力を上回るスピードで絶えず攻撃を続けなければならない以上、遮蔽物を利用して弾を避けるような時間は無い。
それだけの連繋を維持しながらATフィールドを展開し続けるのも可能とは思えなかった。

「はぁ、もう名前はどうでもいいわ。それより、作戦はちゃんと立ってるんでしょうね?」
「モチ、完っ璧よ」
半ば自分の考えに没頭していたマコトは、アスカの問いに対して返されたミサトの明快な答えに一瞬耳を疑った。
「やっぱダメか。これじゃエヴァの近接武装でも効果があるかどうか…」
そう言っていたのは僅かに十数秒前の事では無かったか?一体いつの間に?

「いい?あのグンニャリした外側をいくら狙ってもしょうがないわ。だから、コアだけをピンポイントで破壊するのよ」
エヴァの起動シークエンスが読み上げられる中、ミサトの説明が始まる。
「さてそのコアだけど、あたしのカンだとおそらく体内をある程度移動していると思うのよね。
 攻撃を受けたときグンニャリするのは、きっと中でコアを逃がしてるからなのよ。左から撃たれたら右側に、右から撃たれたら左側にってね」

目から鱗が落ちる思いだった。自分には思いもよらなかった解釈。だが聞けばなるほどと唸らずにはいられない。

「え~?ミサトのカンって当たらないんじゃなかったっけ…」
「まあ、今回は勘というより適切な観察ね。十分なデータでの判断では無いけれど、MAGIも同意したわ」
リツコの言葉を聞き、ますますミサトが得意げな顔になる。
「さて、そこで問題。あのキャラメルの下半分に散発的に左側面と右側面から攻撃を加えれば、コアは体内のどこに逃げていくでしょうか?」
高さと奥行きはあるものの、幅は狭い直方体。となると当然、答えは一つ。
「そっか、上ね!」
アスカの回答に我が意を得たりとばかりに頷くミサト。
「あとは、ギリギリまで浮かび上がったコアにプログナイフで一突き。ミッションコンプリート!ってコトよ」

「1番から15番までの安全装置を解除。内部電源、充電完了です」

ミサトと自分の間には、雲泥の差がある。マコトは、そう思わずにはいられなかった。
軍事組織に所属していた経験があるわけでもないマコトには、確かに実戦経験が不足している。だが、問題はそれだけではあるまい。
使徒も人造使徒も、個体ごとにあそこまで性質が異なるのだ。言ってみれば、一戦一戦が未知の敵との対峙。
にも関わらず、ミサトは限られた情報と手持ちの戦力のみで最大の効果を出せる作戦を、的確に導き出せる。
発想の柔軟さ、洞察の深さ、計算の正確さ、そして勘の鋭さ。どれもが、今のマコトには無いものだ。
未だ、マコトは作戦について意見を求められた事は無い。
しかし万が一ミサトの不在中に敵が現れ、司令から特別な命令が下されない限り…作戦部長代理は、日向マコトなのだ。

「進路クリア。オールグリーン!」
発進準備完了を告げる、マヤの声。
「いい?二人とも、ビルを上手く使って敵のガトリング砲を避けてね。いくら何でも引っ切り無しに連射は出来ない筈だから。
 隙を見つつ下半分に攻撃を加えて、コアを上部に追い込むのよ」
「了解よっ!…ちょっと、シンジ?寝てんじゃないでしょうね?」
返事が無いシンジを訝しんで、アスカが声を掛ける。そう言えば、シンジはこれまで一言も喋っていなかった気がする。
「…あ、ごめんアスカ、大丈夫」
「まぁったく、しゃきっとしなさいよね!」

初号機と弐号機の発進を告げるミサトの号令に、ほんの一瞬モニターから目を離してその横顔を見る。
加持リョウジという人物とはまだ直接話した事は無いが、来日したその日に公園で見ただけで、ミサトとの仲睦まじさは分かってしまった。
既に、自分はどうこう言う立場ではない。

…ならば、せめて彼女と並び立てる程の軍略家になろう。そしてその智略を、ミサトも加持も含めたここの皆の為に使おう。

そう、思った。





二機のエヴァンゲリオンが、並び立つ。
「お弁当、作りかけだったんだけどな…」
シンジのぼやきも空しく、朝焼けの下戦いの火蓋が切って落とされようとしていた。





二度あった事が、三度あってはならない。
鈴原ナツミは、今度こそシェルターの中で大人しくしていた。
朝のまどろみを警報で叩き起こされたわけだが、不快な目覚めでは無かった。もう頭はハッキリしている。
トウジと共に手早く荷物を纏めて、余裕を持って避難する事が出来た。
そのトウジも最初はナツミを見張っていたが、やはり早起きが堪えたのか座ったままうつらうつらと舟を漕いでいる。

ナツミが膝の上で一枚の紙を広げていると、同じクラスの少女が近付いてきた。自宅が近所なので、避難先のシェルターが共通だったのだ。
「鈴原さん、何だか落ち着いてるね~」
そうかな、と答えつつ内心で苦笑する。これまでの二回の避難で、落ち着きの無さから大勢に迷惑を掛けた自分だ。
もちろん、彼女はそんな事はまるで知らない。

「それ、今日の宿題だよね?」
そう言って彼女が指差すのはナツミの手にある紙。今時珍しい、手書きによる作文形式の宿題だ。
「実は私まだやってなかったりして…。あー、国語の授業も潰れないかなぁ!」
こんな朝早くから非常事態宣言が出されたのだ。最初の方の授業は休みとなる筈だ。国語がある四時間目は…どうだろう。
「どっちにしろ、もう少しかかりそうだよね。私、もう一眠りしてくるね」
そう言うと、彼女は手を振って走り去っていった。周囲を見ると、トウジの他にも眠っている人は多い。
振動も轟音も、今回はほぼ感じられなかった。戦場となっているのは市内でもここから離れた場所なのかも知れない。

…サキエルも、戦っているのだろうか?
あの日以来、サキエルとは会っていない。謝りたいとは思っていたが、住んでいるのがネルフ本部ではどうしようも無かった。

もし、戦っているなら。
今は、祈ることしか出来ないけれど。

───いつかは。

はらりと、ナツミの手を離れて紙が床に落ちた。





『私の夢 2年1組 鈴原ナツミ

 私は、大きくなったらエヴァンゲリオンのパイロットになりたいです───





~つづく~





最初に明記しておくべきだったかも知れませんが、このSSではミサトは加持と交際しているのでマコトが少し不憫な立場です。
その分、恋愛面以外で活躍させられればいいなと思っています。



[21803] 26.キャラメル(後編)
Name: ふたば草明◆c7ec2017 ID:fff33e76
Date: 2010/11/17 00:00
人造使徒キャラメルの右側面に向けて、初号機がパレットガンを乱射。同時に左側面を弐号機がソニックグレイブで斬りつける。
直方体の下半分が大きく歪み、次の瞬間無数のガトリング砲が火を噴く。
初号機は素早くビルの裏に隠れ、弐号機はATフィールドで防ぎつつグレイブを引き抜いて数歩後退。
射撃が止むと同時に建物の影から躍り出た初号機の回し蹴りが再び右側をへこませ、
その隙に弐号機が直近のビルから取り出した二丁のバズーカを同時に発射。狙いを付ける必要も無い、実に当てやすい的だ。

ミサトの作戦は、順調に進んでいた。
大きな壁を隔てて両側から下半分を攻撃すればいいだけ。爆風も貫通も気にしなくて良い。
全ての攻撃はキャラメルの体に吸収され、反対側に居る僚機には届かないのだ。
コアも、もう随分と上の方へ移動している事だろう。心を持たない人造使徒は、それこそが罠だという事にも気付かない。

(勝てる、わね)
油断ではなく、リツコは冷静にそう思った。最後の一撃のタイミングをミサトが指示して、それで終わり。
機体にも何の不安も無い。少なくとも自分の出番は、もう無いだろう。
これまでリツコがいつも戦闘時に発令所に居たのは、E計画責任者としてエヴァやパイロットの異常事態に備える為だ。
エヴァについてはオペレーターにも作戦部にも明らかに出来ない事が多すぎて、リツコ自らが立ち会う必要があったのだ。
だが、サードインパクトを経て他ならぬ当事者であるシンジ達が誰よりもその本質に触れた事で、戦闘時エヴァに不測の事態が起こる可能性は激減した。
今後リツコが戦闘中に果たすべき役割は、どちらかと言えばE計画責任者としてでは無く一科学者としてのウエイトが増してくるだろう。
例えば、アザゼルの時がそうであったように、敵の構造や特徴を分析してミサトに伝える。
専門分野に限定されず幅広い知識を持つリツコならではの仕事だ。これまでとは違った意味で戦局を左右する、やり甲斐のある仕事。

だが、誰もがリツコの如く自らの置かれた環境の変化にすんなりと順応できるわけでは無い。

それとなく、室内を見回す。
今、中央作戦室に綾波レイの姿は無かった。





昨日の夕方、リツコの個室をレイがふらりと訪れた。
何か話があるのだろうとは思ったが、アザゼル解体現場での時と同じくなかなか自分から切り出そうとはしない。
焦って聞き出しても良い結果にはなるまいと踏んだリツコは、学校での事などを聞きながら、ゆっくりとレイの心をほぐしていった。

レイが悩んでいるという事は、リツコにも薄々察しがついていた。そしてそれは、成長の過程で必要な事であるとも。
普通の人間が十四年かけて育んでいく筈の心や感情といったものを、今レイは急速なスピードで育てつつある。
生活の中で遭遇する様々な場面で感情が知能に追いつかず、苦しい思いをする事もあるだろう。
だがそれは、リツコ自身やゲンドウが課した枷を離れてレイが羽ばたいているという、その何よりの証拠なのだ。
ただの一度であっても罪深い自分の事を母のようだと言ってくれたレイの為に、リツコはどんな相談にも乗るつもりであった。
やがて、学校生活の話題が一段落した所でレイが唐突にこんな事を言った。
「…博士。私には、400%は出せないのでしょうか?」
予想とはまるで違う質問。リツコは完全に意表を衝かれた。

現実的に言えば。理論上ほぼ不可能、というのが正直な見解であった。
自我境界の開放というのは、心の在りようについて悩んで悩んで悩みぬいた果ての、一種の悟りの境地である。
そしてそこに至る為にはエヴァを知り、己を知り、母を知る必要があるのだ。
恐らく誰よりもエヴァを理解しているであろうレイだが、零号機のコアに込められているのは彼女の母の魂では無い。
ある意味レイと母娘と言えなくも無いユイの初号機なら或いは可能かも知れないが…それも極めて低い確率での話だ。
そして何より、レイには己の心について知るという事が決定的に不足している。こればかりは一昼一夕にどうにかなる事では無いだろう。
リツコには、おぼろげながらレイの悩みが見えてきた。それは、自らの意志で戦おうと決めたことで初めて気付かされた、力不足。

尤もそれは、断じてレイの責任などでは無い。
そもそも零号機は開発された当初、実戦に出す予定すら無かったのだ。
制式機の弐号機以降はもちろん、ゲンドウによって偏執的に手が掛けられた初号機にもスペックで大きく劣るのだ。
必然的に、戦闘ではヤシマ作戦の盾担当やロンギヌスの槍投擲など特殊な任務を担当する事が多く、
自爆などという論外の方法を除けば、実は零号機だけは単独で使徒を倒せた事が一度も無い。

400%が出せないという事は、少なくとも使徒戦においては主力たり得ないという事であり、
更に機体スペック、操縦技能、通常シンクロ率の各面から見て人造使徒戦であっても同様の事が言えると思われた。
サキエル戦でレイが瞬間的に記録した最高シンクロ率は43.8%。決して低い数値では無い。
だが現在、シンジは55%前後、アスカに至っては70%前後を保ったまま戦うことが出来る。
通常シンクロにおいて最も重要なのは心だが、そこには自らの肉体とエヴァの躯体を同調させるという意味合いも多分にある。
今の身体が構成されて間もないレイの場合、まだ精神と肉体の乖離が大きすぎるのだ。

現在のレイと零号機に求められるのは、牽制役や誘導役。敢えて悪く言えば、前座だ。
かつてのアスカのようにレイがそのような事に気を悪くするとは思わないが、しかし口惜しさはあるだろう。
ようやく自らの意思で道を歩き始め、力になりたい人、守りたい人がすぐ近くで戦っているのに、自らを苛む無力感。
レイの悩みはいかほどであったろうか。

リツコが目まぐるしい思考に囚われて即答出来ないでいると、レイはこんな事を言った。
「さっき、ターミナルドグマへ降りた時の事ですが…」
学校の鞄を開き、ハンカチで包んだ何かを取り出す。
「リリスの下で、こんな物を拾いました」
それは、美しい水色の光を放つ光球だった。オーブとでも言えばいいのだろうか。
一見ガラスのようにも見えるが、触ってみるとそうでは無い事が分かる。
「リリスの、身体の一部…?」
粒子と波双方の性質を持った、光の如きもの。そう考えるのが自然のように思われた。

「笑われるかも知れませんが」
レイの口調が、変わった。
「これは、リリスが私に託してくれたものだと思うんです。力が欲しいと願った、私に」
いつになくはっきりと紡がれる言葉。そこには、強い決意が見て取れた。
リリスの意思を確かめる術は無い。だが、その半身たるレイがそう言うのだ。調べてみる価値はあるだろう。
「分かったわ」
まだ少し先になるだろうが、零号機に新たな装備を付加する計画は既に一つある。書類にて既にシンジにも報告済みだ。
だがもしもこれがレイの言う通りのものであったなら、更に一歩、零号機は高みへと登ることが出来るだろう。

「これ、預からせてもらっても良いかしら」
「はい…宜しく、お願いします」
レイを見送ると、リツコは再び光球を見詰めて考えを巡らせるのだった。





誰もがその話題を避けるように、決して口には出さないが。
零号機のコアには、いつの頃からか誰かが棲みついている。
ゲンドウや冬月、リツコ、それにレイも知らない何者かが。

最初の起動実験や機体交換テストの事を鑑みれば、不安は少なくない。
だが、逆行してすぐに行われた二度目の起動実験で、零号機は今のレイを受け入れた。

もし、リリスだけでなくその何者かがレイに力を貸してくれれば、零号機は全てのエヴァンゲリオンを越えられるかも知れない。

そんな予感が、リツコにはあった。





「む~、意外としぶといわね」
ミサトが腕を組んで唸る。初号機と弐号機は作戦通り、キャラメルの下半分に地道な攻撃を加え続けている。
先程、ほんの一瞬だが直方体上面の薄茶色をした体組織の中に赤い色が透けて見えた。
その時はすぐに沈下してしまったようだが、それでも人造使徒のコアは、確実に体内で上方へと追い詰められている。
だが、一歩決め手が足りなかった。痺れを切らした弐号機が加えようとした渾身の一撃も、ガトリング砲によって遮られてしまう。
「弾切れは期待しない方がいいのよね…」
誰にとも無く、ミサトが呟く。自己修復が可能な以上、弾丸も内部で自動生成されているだろう。
「流れはこちらに傾いてるわ!攻撃の手を緩めないで!」
「了解です!」
すかさず返されるシンジの答えにも、力強さがある。
相手に一発逆転の手が無い以上、あとは持久力の勝負だ。

戦況が膠着状態にある為、オペレーターの中には差し当たっての仕事が無くなってしまった者も居る。
リツコはその内の一人に歩み寄り、そっと尋ねた。
「今、レイがどこにいるか判るかしら?」
「え…あ、少し待って下さい」
朝一番で呼び出され、ミサトやシンジらと共に車で本部へやって来たのは知っている。
初号機と弐号機が発進した時まではこの部屋にいた。サキエルと並んで座っているのを見た記憶がある。

「あ、さっきまで購買に居たようですね。今は食堂…というか、厨房にいるようですが」
「厨房?」
リツコは首を捻った。シンジとアスカの奮戦を見てまたもや落ち込んでいるかとも思ったが、どうやらそうでは無いらしい。
確かにレイに戦いを見守る義務は無いが、一体何をしているのだろう?

「アスカ!タイミングを合わせて左右から一気に決めよう!コアを押し上げるんだ!」
そろそろ頃合と思ったのか、シンジが呼び掛ける。
「オーケー、ユニゾンの要領ね!ミサト、いいでしょ?」
一応、ミサトに確認を取るアスカ。それに対するミサトの判断も迅速だった。
「よっし、三つカウントしたらユニゾンキック、今回は厳密に合わせる必要は無いからとにかく全力よ!
 そしたら間を置かずにアスカはプログナイフを真上に投げる。シンジ君は空中でそれをキャッチしたらそのままコアに突き刺して!」
初号機が最初からナイフを持って動き始めれば、キックの際の衝撃で手から離れる恐れがある。
かと言ってキックを決め、ナイフを取り出して、それからジャンプではまたしてもコアの沈下を許してしまう。
タイムロスを極限まで減らした上策と言えよう。

「それじゃ行くわよ、3!」
「2!」
「1!」
シンジとアスカが交互にカウント。それぞれの踵にぐっと力が込められる。
「…0!」
最後のカウントはミサト。飛び出した二機のキックは、

───轟音。

一瞬のズレも無く綺麗に叩き込まれた。

「これでっ!」
流れるような動作でウェポンラックから取り出したナイフを、弐号機は上空に放り上げる。
「コアの浮上を確認!上部中央です!」
早口でシゲルがそう告げる。
僅かに膝を曲げてから、ダンッと地面を蹴って高く跳躍する初号機。
右手が、ナイフの柄を捉えた。

「うわぁあああああ!」

エヴァの全体重をかけて突き立てられたその切っ先は、狙い違わずコアの中心を突いた。
ナイフを突き立てられたまま再び体内に沈下していくコア。だが、そこに赤い輝きは既に無い。
尻餅をついた初号機と弐号機の間で、薄茶色の直方体がぐずぐずと崩れ始める。
(どうせ、分析しても同じでしょうね…)
その姿はまるでアザゼルと違うものの、リツコにはそのように思えた。
前回の襲撃から今回まで、その間僅か四日。今後もこのペースであるなら、全てを調べている暇は無くなる。
零号機の件をはじめ、技術部にはやらなければならない事が山のようにあるのだから。

「目標、完全に沈黙です」
人造第4使徒キャラメルは、その真の名をネオネルフの誰にも知られる事無く、活動を停止したのだった。





前回同様歓声に包まれた発令所を抜け出したリツコは、二つの目的の為にケイジへとその足を向けていた。
シンジとアスカに労いの言葉を掛けるのが一つ。
そしてリツコと同じくケイジに姿を現すであろうレイに、今の戦闘中何をしていたのか聞いてみたかったのが一つだ。

LCLが排出され、エントリープラグの蓋が開かれる。
考えてみれば、大した損傷も無しにエヴァが自力で帰還まで出来たのは新たな戦いが始まってからこれが初めてだ。
(毎回、こうだと良いのだけれど)
かつての戦いで、エヴァは幾度も中破を繰り返した。それはそのまま、子供達の経験した戦いの過酷を表している。

「まあ、ざっとこんなものねっ!」
ぶるぶるっと水滴を振るって立ち上がったアスカの表情は、余裕に溢れていた。
戦いを楽しんで欲しいとは思わない。それでも、せめて心をすり減らさない戦いであって欲しいと、そう思う。
「さ、とっとと着替えて学校よ…って、レイ、アンタ何持ってんの?」

ふと気付くと、リツコの横にレイが立っていた。何やら半透明のケースのようなものを三つ、抱えている。
アスカの問いに、レイが答えた。

「お弁当、作ってみたの。…結局、殆ど手伝って貰ったけれど」

…タッパーの中に見えているのは、サンドウィッチだろうか。
購買で具材を買い、厨房を借りて作ったのだろう。危なっかしい手つきでパンを切ろうとしてコック長に止められる姿が、目に浮かぶ。

(………レイ)

内心の焦燥感は昨日と変わらないであろうに、自棄にもならず、自らを卑下する事も無く、レイはただ二人の為に今出来る事をしていた。
そこにあるのは、確かな心の強さ。自らの不安と戦いながら、レイは今この時もその心を成長させ続けているのだ。

エヴァは、もうレイの全てでは無い。レイが戦いの場に己の存在意義を求める事があってはならない。
だがレイが今の絆を守る為に心から力を欲するというのなら、それに全力で答えよう。

私も。
リリスも。
零号機も。

驚きの言葉を口にするシンジとアスカに向けられたレイのはにかんだ笑顔は、どこまでも美しかった。





~つづく~





[25][34][37][38][48]と、タイトルに関して多くの御意見を有難うございます。
自分なりに色々と考えてはみたのですが、作品の根幹に関わる事でもあるので、取り敢えずは現状維持とさせて頂きます。
今後もこのSSをどうぞ宜しくお願い致します。



[21803] 27.密航者
Name: ふたば草明◆c7ec2017 ID:fff33e76
Date: 2010/11/19 07:47
海鳥たちが、飛んでいる。

立ち込める朝靄の中、海流に乗って太平洋を東へと進む一隻の船があった。
一見巨大な貨物船のように見えるが、よくよく見ればそうでは無い事が分かる。
山と詰まれた積荷の隙間から僅かに見えるのは、黒く鈍い光を湛えた砲身。…そう、これは戦艦だ。
碇ゲンドウが独自のルートにて引き取った、旧海上自衛隊の老朽艦である。

やはり流石はゲンドウと言うべきか。
第2新東京市での現総理との非公式会談のすぐ後、加持は唐突にこんな事を告げられた。
「明日の夜中、横浜港から一隻の戦艦を出す。君にはそれに乗艦し、ハワイへ行ってもらおう」
「ハワイ、ですか?」
出航が夜中という事や、設備の整った新横須賀ではなく今ではあまり使われていない横浜を使うという事などから極秘の任務である事は分かる。
だが、何故ハワイなのか。あそこにはアメリカ第2支部管轄下の小さな研究施設があっただけの筈だが。
疑問に思う加持に、ゲンドウが表情を変えずに答える。
「3号機だ。今頃は既に運び込まれているだろう」
予想外の言葉。だが、加持の研ぎ澄まされた頭脳は瞬時にゲンドウの真意を探り当てる。
「…成程。大型輸送機は囮で?」
「ああ。そういう事だ」

つまりは、陽動作戦だ。
まだ互いの対立が表面化していなかったにも関わらず、弐号機を載せた輸送機はイラン上空で激しい攻撃を受けた。
当然、今回も同様の事態に陥ることは十二分に考えられるだろう。
こちらの動きにまつわる情報を死守できればいいが、そもそもアメリカは現在あくまでも中立で、明確な味方というわけでは無い。
3号機の移管は親ゲンドウ派が中心となって推進しているものの、ゼーレの意を受けた者は常に目を光らせている筈だ。
そこで、第2支部に輸送機を向かわせてエヴァンゲリオン3号機を受領するという情報を故意に漏らし、そちらにゼーレの注意を引き付ける。
その一方で、実際には極秘裏にハワイへ移させておいた3号機を海路にて日本へ持ち帰る。
そういう寸法だ。

カヲルを首相秘書官に推挙したと後から聞いたときも相当に驚かされたものだが、やはりゲンドウという人物は一味違う。
事象の裏側から策を弄し、情勢を望む形に誘導するという事にかけては彼の右に出るものはいないだろう。
ネルフ司令という立場を捨て表舞台から姿を消した事で、ゲンドウは逆にその才を遺憾無く発揮している。
シンジ達の進まんとする道が如何に光に満ちたものであっても、それを誰かが影で支えねばならない。
そういった意味で、碇ゲンドウの存在感未だ健在、という事を改めて加持は実感したのだった。

「分かりました」
内閣との連絡口という役割を終えたら一度本部へ戻れるかとも思っていたが、そういう事なら仕方が無い。
ミサトに早く会いたいという気持ちが無いと言えば嘘になるが、思春期でもあるまいし数日が我慢出来ないなどという事も無い。
盗聴等にはいつも細心の注意を払っているが、ゲンドウがそこまで用心しているのならば、
3号機を無事本部に届けるまでは連絡も絶った方が良いだろう。これが終われば、少しは落ち着けるかも知れない。
「ところで、前司令はこれからどちらに?」
振り向いたその口元に、いつもの歪んだ笑い。正直悪役にしか見えないのだが。
「…南極だ」

全く、精力的な御方だ。これが終われば落ち着けるかなどと考えている自分の方が、年寄りくさく思えてしまう。
命を粗末にしないという事と、安易に守りに入る事は同義では無いだろう。

自分も、見習わなければ。そう思いながら、加持は料亭前から走り去るゲンドウの車を見送ったものだ。





その加持は今、ポケットに手を突っ込んで後部甲板を一人歩いていた。
まだ薄暗い空に立ち昇って行く煙草の煙を眺めながら物思いに耽る。

(内務省からはお咎め無し、か…)
ドイツ支部を離れると決めた瞬間からゼーレとは完全に決別した加持だが、
その時点ではもう一つのアルバイト先である日本政府に対してどういう態度を取るか、安易に答えを出す事は躊躇われた。
ミサトやシンジの事を思えばネルフよりも日本政府を優先する事は有り得なかったが、だからといって黙殺するのはまずい。
いずれ訪れるネルフが日本政府と腹を割って話そうと言う時に、加持の不義理が綻びの元となりかねないからだ。
そこで加持はこの一週間弱の間、当たり障りの無い情報だけを政府に伝えていた。ゼーレとの確執や使徒との共存といった部分を避けてである。
その甲斐有って調査部上層に疑われる事も無く、無事先日の会談をセッティングする事に成功した。

だがその会談は同時に自らが裁かれる場であるという事も、加持にはよく分かっていた。
ゲンドウの話を聞けば、加持が知りえた情報を意図的に選別して上げていたというのは明白だ。
事が上手く運び例えネルフと政府が手を取り合う事になったとしても、加持個人は背任の咎で拘束されるかも知れない、と。
それは覚悟していた。
今の自分に出来る最大の仕事はひとまずやり遂げたのだ。命さえあればまたミサトに会える日も来よう。

だから、料亭から出てきたゲンドウから総理の言った言葉を聞いた時には内心驚いた。
「いやあ、有意義な時間が持てました。加持リョウジ君でしたかな、彼に感謝しないといけませんな。内閣にも色々な人間がおりまして、
 すぐに方針を纏めることは難しいですが、彼には我々とあなた方の架け橋としてこれからも頑張って欲しいものです」
全ての話を終えた後で、総理はにこやかにそう言ったそうだ。
それは即ち加持を内務省調査部に留任させ、なおかつネオネルフ一員としての立場を優先する事をある程度容認する、という事。
加持にとっては願ったり叶ったりだ。
あまりの都合の良さに、裏があるのではないかと疑ってみる。スパイ稼業の悪い癖だ。
だが、このような措置が政府全体にとって何らかのメリットをもたらすとは考えられなかった。

(そうか、或いは)
総理自身がいみじくも述べたように、政府としての意思決定までにはまだ日数を要する事だろう。
その議論の過程において、ネオネルフに与すべし、討つべしという両論が出るのも予想できる話だ。
更に言うならば、最も意見の多数を占めるのはその中間であろう。国の行く末を決める問題だ。即決出来なくて、当然というもの。
そんな時、送り込んである間諜からネオネルフの気高い理想や少年少女の健気な努力が伝えられればどうだろう。
議員たちの激しく揺れる心に一石を投じる事が出来る。

恐らく総理は、カヲルを傍に置いて使徒というものを見極めつつ、いずれはゲンドウに力を貸したいと思っている。
そして、その時に必要となる説得工作の手伝いを、加持にさせようというのだ。『ネオネルフ寄りの情報』を送らせる事で。

(やれやれ、とんだキューピッドだ)
内閣とネオネルフの架け橋。その役目はこれからこそが本番、という事か。
遥か彼方の水平線を見詰めながら、加持は決断力の不足気味な重鎮の顔とその心を動かせそうな文言を早くも考え始めていた。





直後。

普通なら波音に紛れて聞き逃してしまうであろう極めて小さな物音を、加持の耳が捉えた。
素早く周囲を見回す。人影は、無い。
後部甲板上の船倉の一つが、目に止まった。間違いない、音が聞こえたのはあそこからだ。

足音を立てずに俊敏な動作でその入り口へと近寄り、扉の横の壁に背を付けて中の気配を窺う。
灯りが付いていない事は窓から確認できる。クルーが何か作業をしているのなら、灯りを付けないという事は無いだろう。
不埒な輩の逢引きとも考えられなくは無いが…この船には男しか乗っていなかった筈だ。

(さて、鬼が出るか蛇が出るか…?)
油断無く神経を張り巡らせ───次の瞬間、勢い良く扉を開け放った!

…反応は無い。だが扉が開かれた瞬間、不自然な空気の流れを感じた。
やはり、ここにいる。
荷物のどれかの物陰で息を潜めているであろう曲者からは、差し込んでくる朝日の眩しさでこちらの顔は見えまい。
どこから襲い掛かられても良いように警戒を途切れさせずに、それでいて気楽な口調で声を掛けた。
「そこに居るんだろう?出て来たらどうだい」

ほんの少しの間躊躇うような気配を見せたが、結局その何者かはゆっくりと両手を上げて姿を現した。
「分かった、だから撃たないでくれないか」

「ほぅ…」
女。それもかなりの美女であった。腰にまで達しようかという艶やかなロングヘアに思わず溜息が漏れる。
そんな加持の様子を黙って見ていた女だったが、やがて朝日に目が慣れてきたのか、こちらの顔へと視線を運び、
「!…加持リョウジ監査官、か?」
驚いたような表情でそう言った。

驚いたのはこちらも同じだ。かくのごとく印象的な女性、一度見れば忘れる筈は無い。ならば一方的に面が割れているという事か。
訝しみつつ誰何しようとする加持を遮るように、女性は僅かに口元を緩めて己の名を告げた。

「…シャムシエル。使徒の、シャムシエルだ。赤木博士か葛城一尉から聞いていないか?」





強い潮の香りを含んだ海風が、菫色の髪を揺らす。黒と鉛色の無粋な艦上で、シャムシエルが纏う赤紫のスーツだけが異彩を放っていた。
場所は再び、後部甲板。互いに警戒を解いた二人は薄暗い船倉を出て、ゆっくりと言葉を交わしていた。
「しかし、密航者が使徒とはな。俺以外に見つかったらどうするつもりだったんだ?」

第4使徒シャムシエルについて加持がミサトから聞いていたのは、アスカが対話に成功したという事、
そして独自の目的があると言い残して第3新東京市を去ったという事の二点だけだ。風貌などは聞かされていない。
まさか、こんな洋上で出会うなどとは思いもしない事だった。
「それは…考えていなかったな」
その軽い返事に少し呆れてしまう。
「じゃあ、どうしてこの艦に?ハワイに行きたかったのか?」
観光という事も無いだろうとは思うが、断定は出来ない。対話に成功した使徒は、実質的には彼女がまだ三人目なのだ。
サキエルとカヲルがあれ程違う事からも分かるように、彼らを使徒という一括りで見てはならないだろう。
シャムシエルもまた、他とは違う個性を持っていると考えるべきだ。その言に耳を傾けてみよう、と考える加持だったが。

「ハワイ?この艦はハワイへ行くのか?」
「ああ、そうだ。用があるのはハワイじゃないのか?」
「…中東の方、なんだが」
「………」

どうにも、要領を得ない。もやもやとしたものを抱えつつ、取り敢えずは話を先に進めてみる。

「それなら、どうしてこの艦を選んだ?」
「選んだも何も、私が見つけた港にはこれしか停泊していなかったからな。パスポートがあれば客船が来るまで待ったんだが」
「行き先は、気にしなかったのか?」
「…確認するのを、忘れていた。まあこれがネルフの艦で良かったよ」

そう言って涼しげに笑う、その表情は知的に見えるのだが。
(天然、というヤツか?)
レイの戸籍の事を考えれば、パスポートくらいそれこそミサトかリツコにでも頼めば一日でどうにかなっただろう。
それを、有名な港の中で一番近い横浜目指してひたすら歩き、辿り着いた時にたまたま停泊していた艦に乗り込んだというのか。
考えるよりは行動、という信条なのだろうか。
少なくとも悪意のある密航では無かったと分かった加持は、少し話題を変える事にする。

「中東、と言ったな。何をしに行こうと言うんだ?」
シャムシエルの目指すそこは、決して安心して歩ける地域ではない。
かねてより進められているネルフのイラン支部建設計画に加え、凍結されていたエジプト支部の建設も再検討が決まったらしい。
恐らくは中東東西の要所を押さえることで資源を確保し、ネオネルフとの戦いを優位に運ぼうというのだろう。
今はまだ態度をはっきりさせていない国が多いとはいえ、その地ではゼーレの輩が既に跳梁跋扈しているに違いない。
そういった事態をシャムシエルが把握出来ているかどうかはともかく、そんな場所へ何の目的があって行くのか。
隠そうとするかとも思ったが、彼女はあっさりと答えた。
「死海文書について、知りたくてな」

死海文書発見の地であるイスラエルを調べれば、分かる事があるかも知れない。それは、加持も一度は考えた事だった。
にも関わらず実行に移さなかったのは、加持の興味が使徒よりも人間にあったからである。
セカンドインパクトで誰が何をしたのか、ゲンドウはネルフで何をしようとしているのか。加持の最も知りたかったのはそこだった。
未知の敵である使徒が何をしようが、それは未知の敵だからという一言で諦めがつく。
だが、人がした事、しようとしている事を知らずにおくのは許せなかった。
だからこそ危険な三重スパイをこなしながらも、アダムもリリスも自ら詳しく調べる事はしなかった。死海文書についても同様である。

「自分について分からないままには、しておけない」
波間を舞う海鳥を目で追いながらシャムシエルは小さな声で、しかしはっきりとそう言った。
それを聞き、加持は目の前の使徒がどういう個性を持つのか、ようやく合点がいった。
思慮が足りないわけでは無いだろう。ただ、真実を求める気持ちが強すぎるのだ。
(まるで、どこかで聞いた話だ)
内心で苦笑する。そして、こう告げた。
「何にせよ、無茶はするなよ。シンジ君もそんな事は望まない」
自分に言えた事では無いが。それを教えてくれたアスカの為にも言わずにおくわけには行かない。
その言葉にシャムシエルは意味ありげな視線をこちらへ向けると、
「…ああ。丁度良い反面教師が居るからな」

…そう言えば、シャムシエルはアスカの記憶を継承したんだったか。
何だか最近、年下の女性に頭が上がらない思いをしてばかりな気もする。以前はこんな事は滅多に無かったものだが。
実年齢はともかく、自分よりも十ほど年下と思われるシャムシエルの横顔をそれとなく見つつ、そんな事を考えた。

「ところで、朝食なんかは用意して貰えないんだろうか?いや、確かに所持金はないのだが…」

金云々以前に密航者という立場が分かっているのだろうか。やはり天然気味なところも個性の一部であるらしかった。
仕方ない、何とかしてやるかと思ったその時。

突如艦内にけたたましい警報音が鳴り響いた。
「何だ!?」
冷静に、シャムシエルが辺りの様子を窺う。だがしかし使徒の視力と言えども、肉眼では何も捉えられなかったようだ。
これだけ波の穏やかな海域で事故という事も無いだろう。
───ゼーレに気付かれたか。
「全く俺が運が悪いのか、それともエヴァが人気者過ぎるのかね…!」
まだ往路のこの艦にはエヴァは積まれていないが、状況は以前とそう変わりは無い。
そんな軽口を叩きながら、ブリッジへと足を向ける。
「シャムシエル!君も来い!」
「いいのか?私は密航者だぞ?」

自覚はあったのか。だが今はそんな事を言っている場合では無い。

「ああ、構わんさ。朝食は後回しになりそうだがな!」

南の海は、俄かに風雲急を告げようとしている。
いつの間にか、海鳥たちはその姿を消していた。





~つづく~





[49]の感想拝見致しました。逆行者については以前にも御意見を頂いた事がありますので、答えさせて頂きます。
原則的にプロローグで語られた九人のみ、というのが現在の構想であり、トウジ、マナ、ペンペンなどは含まれません。
第13使徒戦も、少なくとも悲劇的な形にはしないつもりですが…妹の方に活躍して貰おうかとフラグを立てたりしている所です。

タイトルの支持、及びサキエルの応援も有難うございます。
使徒たちは出来るだけ均等に扱いたいと考えていますが、感想を参考に見せ場の量を調整する事もあるかも知れません。


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